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デニム
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デニム(denim)またはデニム生地(デニムきじ)は、10番手以上のタテ糸をインディゴによって染色し、ヨコ糸を未晒し糸(染色加工をしていない糸)で綾織りにした、素材が綿の厚地織布。生地の裏側に白いヨコ糸が多く出るのが特徴。ジーンズに使用されることが多いが、鞄などにも使用される。または、デニムを用いられるジーンズの通称。正式な表現では無いが若者やメディアで使われている。
近年の紡績技術の向上により、さまざまなデニム生地が生まれている。フランス語の「セルジュ・ドゥ・ニーム(serge de Nîmes)」(ニーム産のサージ生地)が語源とされている。
(ちなみにシャンブレーはタテ糸に染め糸、ヨコ糸に未晒し糸を用いた平織物の事。シャンブレーは、ヨコ糸にタテ糸と色の違う染色糸を使う場合もある。)
ヨコ糸に綿以外の素材を用いたデニム生地も多く、麻(リネン、ラミー、ヘンプ)、ウール、シルク等の天然素材は勿論、レーヨン、ポリエステル、ラメ糸、更には金糸、銀糸、プラチナ糸等の衣料ではあまり使用されない糸を用いる場合もある。
紡績技術や染色技術の向上により、タテ糸・ヨコ糸共に麻100%やレーヨン100%、シルク100%のデニムも存在する。
「オンス (OZ) 」という単位で表され、1平方ヤードの生地の重さを表したもの。一般には「オンス=生地の厚さ」だと思われているが、それは誤りである。
1オンス = 28.3g弱。1平方ヤード = 0.84m。
ジーンズ(ボトム)には、一般的に14oz前後のデニムが使用されている。 10oz(タテ糸・ヨコ糸10番手)未満のデニムを「ライトオンスデニム」と呼ぶ場合がある。
生地の右上から左下に、もしくは左上から右下に流れている線を斜紋線(綾目)という。 タテ糸がヨコ糸の上を2本、ヨコ糸の下を1本、交差させて織る場合を「三つ綾(2/1綾)」といい、 タテ糸がヨコ糸の上を3本、ヨコ糸の下を1本、交差させて織る場合を「四つ綾(3/1綾・カツラギ綾)」という。
2/1綾と3/1綾とでは斜紋線の角度はもちろん、生地の表面に現れるヨコ糸の比率も異なるので、見た目の風合いが全く異なってくる。2/1綾の方がヨコ糸の見える比率が大きい。
タテ糸、ヨコ糸の漢字表記はそれぞれ「経糸(warp)」「緯糸(weft)」である。
一般的には3/1綾のデニムが主流となっている。
一般的にデニムは右綾だが、逆の左綾も有る。右綾の代表格がリーバイスなら、左綾の代表格はリーである。 糸の撚り方向には、左撚り(Z撚り)と右撚り(S撚り)があり、単糸の撚りは特殊用途のものを除き、通常は左撚り(Z撚り)である。 糸の撚り方向と織物の綾目方向の相性により、左撚り(Z撚り)の糸を逆方向の右綾で織ると緩みが生じるが、糸の撚り方向と同じ方向の左綾で織り上げると、糸の撚りが締まって畝(綾目)が立つ。 よって、右綾デニムのざっくり感に対して左綾デニムは表面がフラットになり、光沢感やソフト感が生まれる。 また、アタリが強くなりハッキリとしたタテ落ちになる。
ちなみに、ブロークンツイルデニムを最初に取り入れたメーカーはラングラーである。 綾織物に発生しがちな「ねじれ」を解消するために1971年に開発された。
以下は、日本国内においての主要生産地及び製造業者である。国産デニム発祥の地である岡山県倉敷市の児島地区をはじめとした岡山県から福山市など広島県東部に多くの製造拠点、メーカーがある。
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デニム(denim)またはデニム生地(デニムきじ)は、10番手以上のタテ糸をインディゴによって染色し、ヨコ糸を未晒し糸(染色加工をしていない糸)で綾織りにした、素材が綿の厚地織布。生地の裏側に白いヨコ糸が多く出るのが特徴。ジーンズに使用されることが多いが、鞄などにも使用される。または、デニムを用いられるジーンズの通称。正式な表現では無いが若者やメディアで使われている。 近年の紡績技術の向上により、さまざまなデニム生地が生まれている。フランス語の「セルジュ・ドゥ・ニーム」(ニーム産のサージ生地)が語源とされている。
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{{otheruses}}
[[image:Denim-sample.jpg|thumb|デニム生地(左綾)]]
[[image:Jeansstoff.JPG|thumb|デニム生地の拡大]]
'''デニム'''(denim)または'''デニム生地'''(デニムきじ)は、10番手以上のタテ糸を[[インディゴ]]によって染色し、ヨコ糸を未晒し糸(染色加工をしていない糸)で[[綾織り]]にした、素材が[[綿]]の厚地織布。生地の裏側に白いヨコ糸が多く出るのが特徴。[[ジーンズ]]に使用されることが多いが、[[鞄]]などにも使用される。または、デニムを用いられる[[ジーンズ]]の[[通称]]。正式な表現では無いが若者やメディアで使われている。
近年の紡績技術の向上により、さまざまなデニム生地が生まれている。フランス語の「セルジュ・ドゥ・ニーム(serge de Nîmes)」([[ニーム (フランス)|ニーム]]産のサージ生地)が語源とされている。
== 主なデニム生地 ==
* ライトハンドツイル(右綾) - 通常のデニム生地。右上から左下に向かっての畝(綾目)が流れているのが特徴。
* レフトハンドツイル(左綾) - 右綾とは逆の綾目が流れているデニム生地。右綾との違いは後述を参照。
* ブロークンツイル - 右綾もしくは左綾の綾目をある糸数ずつ反対の方向にし、綾目につながらないようにしたデニム生地。綾を崩す事で織物の構造が堅牢になるので、「ねじれ」が出ないのが特徴。(通常、織物は綾目の方向にねじれていく)
* [[ダンガリー]] - タテ糸に未晒し糸、ヨコ糸に染め糸を使った綾織物。語源は産地の[[ムンバイ]]([[インド]])のダングリという地名。最近では通常のデニム生地より薄手のタイプの生地を指す場合もある。
(ちなみにシャンブレーはタテ糸に染め糸、ヨコ糸に未晒し糸を用いた[[平織]]物の事。シャンブレーは、ヨコ糸にタテ糸と色の違う染色糸を使う場合もある。)
* カラーデニム - タテ糸を[[インディゴ]]以外の染料で染色したデニム。硫化染料を用いたものが多い。
* コーティングデニム - デニム生地に[[コーティング]]を施した生地。[[顔料]]、[[樹脂]]([[アクリル樹脂|アクリル]]とか)等、様々な種類がある。
* ストレッチデニム - ヨコ糸に伸縮性のある糸([[ポリウレタン]]等)を用いたデニム。他の糸に対し5~6%の混用によって大きな伸縮性が得られる。主にレディス物で使用されることが多かったが、最近メンズ物で細身の形が定着してきたため、メンズでも用いられることが増えてきている。
ヨコ糸に[[綿]]以外の素材を用いたデニム生地も多く、[[麻 (繊維)|麻]]([[リネン]]、[[カラムシ|ラミー]]、[[ヘンプ]])、[[ウール]]、[[絹|シルク]]等の天然素材は勿論、[[レーヨン]]、[[ポリエステル]]、[[ラメ]]糸、更には[[金]]糸、[[銀]]糸、[[プラチナ]]糸等の衣料ではあまり使用されない糸を用いる場合もある。
紡績技術や染色技術の向上により、タテ糸・ヨコ糸共に麻100%やレーヨン100%、シルク100%のデニムも存在する。
== 生地の厚み ==
「オンス (OZ) 」という単位で表され、1[[平方ヤード]]の生地の重さを表したもの。一般には「オンス=生地の厚さ」だと思われているが、それは誤りである。
1オンス = 28.3g弱。1平方ヤード = 0.84[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]。
ジーンズ(ボトム)には、一般的に14oz前後のデニムが使用されている。
10oz(タテ糸・ヨコ糸10番手)未満のデニムを「ライトオンスデニム」と呼ぶ場合がある。
==綾目==
[[ファイル:ayaori2.jpg|thumb|3/1右綾]]
生地の右上から左下に、もしくは左上から右下に流れている線を'''斜紋線'''('''綾目''')という。
タテ糸がヨコ糸の上を2本、ヨコ糸の下を1本、交差させて織る場合を「'''三つ綾(2/1綾)'''」といい、
タテ糸がヨコ糸の上を3本、ヨコ糸の下を1本、交差させて織る場合を「'''四つ綾(3/1綾・カツラギ綾)'''」という。
2/1綾と3/1綾とでは斜紋線の角度はもちろん、生地の表面に現れるヨコ糸の比率も異なるので、見た目の風合いが全く異なってくる。2/1綾の方がヨコ糸の見える比率が大きい。
タテ糸、ヨコ糸の漢字表記はそれぞれ「'''経糸'''(warp)」「'''緯糸'''(weft)」である。
一般的には3/1綾のデニムが主流となっている。
== 右綾と左綾の違い ==
[[ファイル:S-Z.jpg|thumb|左がZ撚り(左撚り)、右がS撚り(右撚り)]]
一般的にデニムは右綾だが、逆の左綾も有る。右綾の代表格が[[リーバイス]]なら、左綾の代表格は[[リー (ジーンズ)|リー]]である。
糸の撚り方向には、左撚り(Z撚り)と右撚り(S撚り)があり、単糸の撚りは特殊用途のものを除き、通常は'''左撚り'''(Z撚り)である。
糸の撚り方向と織物の綾目方向の相性により、左撚り(Z撚り)の糸を逆方向の'''右綾'''で織ると緩みが生じるが、糸の撚り方向と同じ方向の'''左綾'''で織り上げると、糸の撚りが締まって畝(綾目)が立つ。
よって、右綾デニムのざっくり感に対して左綾デニムは表面がフラットになり、光沢感やソフト感が生まれる。
また、アタリが強くなりハッキリとしたタテ落ちになる。
ちなみに、ブロークンツイルデニムを最初に取り入れたメーカーは[[ラングラー (ジーンズ)|ラングラー]]である。
綾織物に発生しがちな「ねじれ」を解消するために1971年に開発された。
==日本国内主要産地==
以下は、日本国内においての主要生産地及び製造業者である。国産デニム[[発祥]]の地<ref>[https://www.kurashiki-tabi.jp/kojima-h1/ 倉敷観光WEB]</ref>である[[岡山県]][[倉敷市]]の[[児島]]地区をはじめとした岡山県から[[福山市]]など[[広島県]]東部に多くの製造拠点、メーカーがある。
* 岡山県倉敷市
** [[ビッグジョン]]<ref>[https://bigjohn.co.jp/ ビッグジョン公式HP]</ref> - 国産第1号のジーンズを完成させる。
** [[藍布屋|ジャパンブルー]]<ref>[http://www.japanblue.co.jp/ ジャパンブルー公式HP]</ref> - 世界初の高級綿([[ジンバブエ]]綿)を使用したデニムを発売。
** [[ショーワ]]<ref>[http://www.showatex.co.jp/ ショーワ公式HP]</ref> - 世界初のナイロンインディゴ染めデニムを開発。
** ナッシュ<ref>[https://inblue.jp/]</ref> - 世界初のデニムスーツ専門ブランド inBlue を展開。
** ベティスミス<ref>[https://betty.co.jp/ ベティスミス公式HP]</ref> - 国内初のレディースジーンズメーカーとして創業。
** [[ピュアブルージャパン]]<ref>[https://www.purebluejapan.jp/ ピュアブルージャパン公式HP]</ref>- 国産ジーンズの先駆けメーカー。
** [[6DIRECTIONS]]<ref>[https://k-fc.com/denim/?cat=3 岡山ジーンズ関連企業情報]</ref>
* 岡山県[[井原市]]
** [[日本綿布]]<ref>[http://www.nihonmenpu.co.jp/index.html 日本綿布公式HP]</ref> - 当社の反物が大正天皇の皇太子(昭和天皇)へ献上される。
* [[広島県]][[福山市]]
** [[カイハラ (企業)|カイハラ]]<ref>[http://www.kaihara-denim.com/ カイハラ株式会社公式HP]</ref> - 日本三大デニム紡績の一つ。残る2社は[[クラボウ]](倉敷市)と[[日清紡ホールディングス|日清紡]]を指す。
** [[ダックテキスタイル]]<ref>[http://www.ducktex.co.jp/ ダックテキスタイル公式HP]</ref>
** [[篠原テキスタイル]]<ref>[http://www.shinotex.jp/ 篠原テキスタイル株式会社公式HP]</ref> - テンセル素材を中心としたデニム生地メーカー
== 関連項目 ==
*[[w:Selvedge|Selvedge]] (英:[[セルヴェッジ]]/米:[[セルヴェイジ]]/セルベッジ/セルベイジ/セルビッジ)
== 脚注 ==
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[[Category:ジーンズ]]
[[Category:フランス語由来の外来語]]
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16,336 |
近鉄難波線
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難波線(なんばせん)は、大阪府大阪市天王寺区の大阪上本町駅から同市中央区の大阪難波駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。駅ナンバリング等で使われる路線記号はA。阪神電気鉄道の阪神なんば線とは違い、なんばの表記が漢字になっている。
全区間が千日前通の地下にあるとともに、Osaka Metro千日前線と並行している。既存の地下鉄などの下をくぐるように造られたため、駅はやや深い場所にあり、駅間のトンネルにもシールド工法が用いられている。各駅とも相対式ホーム(大阪難波駅のみ島式ホームと相対式ホームの併用)だが、上下線の間に柱がない構造になっている。また、近鉄日本橋駅から大阪上本町駅にかけては上町台地を登るため、大阪上本町駅に向かって上り急勾配が存在する。
なお、正式な起点は大阪上本町駅だが、列車運行上は大阪難波駅から大阪上本町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
大阪線の複々線区間(大阪上本町駅 - 布施駅)における奈良線列車専用線が単独で延伸した形、即ち実質的には「奈良線」の延伸線であり、運行上も奈良線と一体である。線内完結運転はなく、大阪線の名古屋・伊勢志摩方面の特急を除き、奈良線(近鉄奈良方面)へ直通する。大阪上本町駅では近鉄奈良方面について「奈良線のりば」と表記されているほか、駅番号や主要駅に設置されている運行情報モニタ、駅探などの乗換案内サイトでは、大阪線複々線区間を含む大阪難波駅 - 布施駅間は奈良線の一部として扱われている。当路線の開業により、大阪上本町駅のターミナル駅としての機能が弱まった。
PiTaPaを始めICOCA・Suicaなど全国相互利用サービスに対応したICカードが利用可能である。磁気カードであるJスルーカードとスルッとKANSAI対応カードについては、自動改札機での対応は終了したが、当面は自動券売機でのきっぷ購入ないし乗り越し精算機での使用が可能である。
2009年3月20日に阪神電気鉄道西大阪線が大阪難波駅まで延伸して阪神なんば線として開業した(既設区間も阪神なんば線に改称)ことで、大阪難波駅を介して(阪神)神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で相互直通運転を行っている。合わせて、阪神なんば線開業と同時に近鉄難波駅が大阪難波駅に、上本町駅が大阪上本町駅に改称された。
近鉄難波線の各駅はホームの柱がそれぞれ違う色で塗り分けられている。大阪難波駅が青、近鉄日本橋駅が橙、大阪上本町駅が小豆色である。
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)管轄である。
阪神なんば線直通列車を含む奈良線の全列車と大阪線の名古屋・賢島方面との特急列車が直通しており、難波線内のみを走る列車はない。特急列車は近鉄日本橋駅を通過するが、快速急行以下の列車は各駅に停車する。
全線が地下区間となる関係上、特急車両の喫煙室は難波線内では使用禁止となる。
日本万国博覧会の開幕日(一般公開開始日)である1970年(昭和45年)3月15日に開業した。当時の開業記念乗車券には「EXPO'70」のシンボルマークもあしらわれていた
近鉄による(奈良方面からの)難波乗り入れ計画自体は古くから存在した。大阪府に対して初めて難波乗り入れを出願したのは前身の大軌時代である1922年 - 23年頃であったが、この時は大阪市の異論によって実現しなかった。次に、1932年 - 33年頃にも再度申請を行ったものの、これも大阪市の反対により実現しなかった。しかし、近鉄奈良線の発展、沿線人口の増大、沿線各地と大阪市内間の交通量の激増に伴い、ターミナルを大阪都心の難波へ推進する必要は一段と強くなった。
そこで、近鉄は1946年に阪神電気鉄道と共同で新たに大阪高速鉄道株式会社(旧社名が大阪高速鉄道である大阪モノレールとは無関係)の設立を企図し、大阪市内の東西貫通高速鉄道線として軌道法により鶴橋 - 難波 - 野田間の軌道敷設特許を申請した。これは、当時戦災によって廃墟となった大阪市内にその瓦礫を使って築堤し、市内を貫通する高架高速鉄道を建設しようとするユニークな構想に基づくものであったが、大阪市は市域交通は市営によるべきと反対の意見を表明した(市営モンロー主義)。
しかし延長線建設の必要性はますます強くなり、阪神及び近鉄は1946年以降に相互乗り入れのため上本町 - 難波 - 千鳥橋間の新線を計画した。その後、近鉄難波線敷設免許の申請は数次にわたる変更があり、路線も当初大部分が高架式であったものが全線地下鉄へと変わった。この計画が、都市交通審議会答申3号で盛り込まれ、1959年に運輸省から敷設免許を受け、近鉄創業以来のターミナルである大阪上本町駅から、大阪・ミナミの中心部である難波まで建設された。
2023年(令和5年)9月に「近鉄難波線 大断面シールドトンネル」として土木学会選奨土木遺産に認定された。
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"tag": "p",
"text": "しかし延長線建設の必要性はますます強くなり、阪神及び近鉄は1946年以降に相互乗り入れのため上本町 - 難波 - 千鳥橋間の新線を計画した。その後、近鉄難波線敷設免許の申請は数次にわたる変更があり、路線も当初大部分が高架式であったものが全線地下鉄へと変わった。この計画が、都市交通審議会答申3号で盛り込まれ、1959年に運輸省から敷設免許を受け、近鉄創業以来のターミナルである大阪上本町駅から、大阪・ミナミの中心部である難波まで建設された。",
"title": "歴史"
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"text": "2023年(令和5年)9月に「近鉄難波線 大断面シールドトンネル」として土木学会選奨土木遺産に認定された。",
"title": "歴史"
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難波線(なんばせん)は、大阪府大阪市天王寺区の大阪上本町駅から同市中央区の大阪難波駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。駅ナンバリング等で使われる路線記号はA。阪神電気鉄道の阪神なんば線とは違い、なんばの表記が漢字になっている。
|
{{Redirect|難波線|阪神電気鉄道の路線|阪神なんば線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 難波線
|路線色 = #d21644
|ロゴ = [[File:KT number-A.svg|40px|A]]
|画像 = 2016-4-9-kimtetsu22000-al12.JPG
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 大阪難波駅に停車中の特急[[近鉄22000系電車]]
|通称 = [[近鉄奈良線|奈良線]]
|現況 =
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]
|起点 = [[大阪上本町駅]]
|終点 = [[大阪難波駅]]
|路線記号 = [[File:KT number-A.svg|20px|A]]
|駅数 = 3駅
|開業 = [[1970年]][[3月15日]]
|廃止 =
|所有者 = [[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[東花園検車区]]、[[西大寺検車区]]ほか<!-- 大阪線方面の特急車両の基地を含めると煩雑になるため省略 -->
|使用車両 = [[近鉄奈良線#車両]]を参照
|路線距離 = 2.0 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]
|最高速度 = 80 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>
|路線図 =
}}
'''難波線'''(なんばせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]の[[大阪上本町駅]]から同市[[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[大阪難波駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''A'''<ref>{{Cite web |url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf |title=駅ナンバリングを全線で実施します 〜あわせて案内サインや放送での多言語対応を拡充します〜 |date=2015-08-19 |access-date=2023-10-02 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。[[阪神電気鉄道]]の[[阪神なんば線]]とは違い、なんばの表記が漢字になっている。
== 概要 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#d21644
|title-color=white
|map=
{{BS2||tSTR||||}}
{{BS2||tPSLa||近鉄用[[引き上げ線]]||}}
{{BS2||tHST|||[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]|}}
{{BS2||tSTR|||↑[[阪神電気鉄道|阪神]]:{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}}
{{BS2||tSTR|||←JR西:[[関西本線]]({{rint|ja|wkq}} [[大和路線]])|}}
{{BS2|xtBHFq|O1=HUBa|etKRZto|||[[JR難波駅]] [[なにわ筋線]](JRルート)→|}}
{{BS2|extBHFq|O1=HUB|etKRZto|||''南海新難波駅'' なにわ筋線(南海ルート)|}}
{{BS2|HUB|tPSLa||近鉄用引き上げ線||}}
{{BS2|HUBtl|tBHF+GRZq|O2=HUBeq|0.0|A01 [[大阪難波駅]]||}}
{{BS2|HUB|tSTR||↓{{rint|osaka|ktam}} '''難波線'''|{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|y}} {{rint|osaka|s}}([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])|}}
{{BS2|KBHFeq|O1=HUBe|tSTR||| [[難波駅 (南海)|難波駅]] [[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]・{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]|}}
{{BS2||tBHF|0.8|A02 [[近鉄日本橋駅]]|{{rint|osaka|k}} {{rint|osaka|s}}([[日本橋駅 (大阪府)|日本橋駅]])|}}
{{BS2||tSTR||↑{{rint|osaka|ktam}} '''難波線'''||}}
{{BS2|KBHFa|O1=HUBaq|tBHF+GRZq|O2=HUBeq|2.0|A03 [[大阪上本町駅]]|{{rint|osaka|t}} {{rint|osaka|s}}([[谷町九丁目駅]])|}}
{{BS2|STR|tSTRe|||↓{{rint|osaka|ktd}} [[近鉄大阪線|大阪線]]|}}
{{BS2|KRWgl+l|KRWgr+r||||}}
{{BS2|STR|STR|||↓{{rint|osaka|ktd}} 大阪線系統/{{rint|osaka|ktan}} [[近鉄奈良線|奈良線]]系統↓|}}
}}
全区間が[[千日前通]]の[[地下]]にあるとともに、[[Osaka Metro千日前線]]と並行している。既存の[[地下鉄]]などの下をくぐるように造られたため、駅はやや深い場所にあり、駅間の[[トンネル]]にも[[シールドトンネル|シールド工法]]が用いられている。各駅とも[[相対式ホーム]](大阪難波駅のみ[[島式ホーム]]と相対式ホームの併用)だが、上下線の間に柱がない構造になっている。また、近鉄日本橋駅から大阪上本町駅にかけては[[上町台地]]を登るため、大阪上本町駅に向かって上り急勾配<ref group="注釈">車両故障による登坂性能低下で脱出不能となる事態を避けるため、「[[近鉄21020系電車|アーバンライナー]]」や「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」などの高出力主電動機を搭載した一部の形式を除き、奈良線所属車との[[総括制御|総括制御運転]]が不可能な車両は入線することができない。また、同様な理由で難波線では車両の向きが逆方向となっている編成(=逆編成)についての入線も禁止されている。</ref>が存在する。
なお、正式な起点は[[大阪上本町駅]]だが、列車運行上は[[大阪難波駅]]から大阪上本町駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
[[近鉄大阪線|大阪線]]の[[複々線]]区間(大阪上本町駅 - 布施駅)における奈良線列車専用線が単独で延伸した形、即ち実質的には「[[近鉄奈良線|奈良線]]」の延伸線であり、運行上も奈良線と一体である。線内完結運転はなく、大阪線の名古屋・伊勢志摩方面の[[近鉄特急|特急]]を除き、奈良線([[近鉄奈良駅|近鉄奈良]]方面)へ直通する。大阪上本町駅では近鉄奈良方面について「奈良線のりば」と表記されているほか、[[駅ナンバリング|駅番号]]や主要駅に設置されている運行情報モニタ、[[駅探]]などの乗換案内サイトでは、大阪線複々線区間を含む大阪難波駅 - [[布施駅]]間は奈良線の一部として扱われている。当路線の開業により、大阪上本町駅の[[ターミナル駅]]としての機能が弱まった。
[[PiTaPa]]を始め[[ICOCA]]・[[Suica]]など[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]に対応した[[ICカード]]が利用可能である。磁気カードである[[Jスルーカード]]と[[スルッとKANSAI]]対応カードについては、自動改札機での対応は終了したが、当面は自動券売機でのきっぷ購入ないし乗り越し精算機での使用が可能である。
[[2009年]][[3月20日]]に阪神電気鉄道西大阪線が大阪難波駅まで延伸して[[阪神なんば線]]として開業した(既設区間も阪神なんば線に改称)ことで、大阪難波駅を介して(阪神)[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]] - [[近鉄奈良駅]]間で相互直通運転を行っている。合わせて、阪神なんば線開業と同時に近鉄難波駅が'''大阪難波駅'''に、上本町駅が'''大阪上本町駅'''に改称された<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.jp/news/files/ekimeihenkou%2020080331.pdf 阪神なんば線開業に合わせ、「近鉄難波駅」を「大阪難波駅」に、「上本町駅」を「大阪上本町駅」に駅名変更します。]}} - 近畿日本鉄道 2008年3月31日</ref>。
近鉄難波線の各駅はホームの柱がそれぞれ違う色で塗り分けられている。大阪難波駅が青、近鉄日本橋駅が橙、大阪上本町駅が小豆色である。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):2.0 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最急勾配:32‰
* 最高速度:80 km/h<ref name="terada" />
全線、大阪統括部(旧上本町営業局)管轄である。
== 運行形態 ==
{{Main2|特急|近鉄特急|一般列車|近鉄奈良線#運行形態}}
阪神なんば線直通列車を含む奈良線の全列車と大阪線の[[近鉄名古屋駅|名古屋]]・[[賢島駅|賢島]]方面との[[近鉄特急|特急列車]]が直通しており、難波線内のみを走る列車はない。特急列車は[[近鉄日本橋駅]]を通過するが、快速急行以下の列車は各駅に停車する。
全線が地下区間となる関係上、特急車両の喫煙室は難波線内では使用禁止となる。
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
|+平日日中の運行パターン(1時間あたり)
|-
!colspan="2"|種別\駅名
!阪神電鉄方面<br>直通先
!style="width:1em;"|{{縦書き|大阪難波}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|大阪上本町}}
!布施以東の<br>運行路線
!大阪線・<br>奈良線方面<br>直通先
|- style="text-align:center;"
!rowspan="8" style="width:1em;"|{{縦書き|運行本数}}
|rowspan="2" style="background:#fcc;"|特急
|style="text-align:right"|
|colspan="3" style="background:#fcc;"|2本
|大阪線
|style="text-align:left"|→近鉄名古屋
|- style="text-align:center;"
|style="text-align:right"|
|colspan="3" style="background:#fcc;"|1本
|大阪線
|style="text-align:left"|→賢島
|- style="text-align:center;"
|style="background:#f96; white-space:nowrap;" rowspan="2"|快速急行
|style="text-align:right; white-space:nowrap;"|神戸三宮←
|colspan="3" style="background:#f96;"|2本
|奈良線
|style="text-align:left"|→近鉄奈良
|- style="text-align:center;"
|style="text-align:right"|
|colspan="3" style="background:#f96;"|2本
|奈良線
|style="text-align:left"|→近鉄奈良
|- style="text-align:center;"
|style="background:#fc9;"|急行
|style="text-align:right"|
|colspan="3" style="background:#fc9;"|2本
|奈良線
|style="text-align:left"|→近鉄奈良
|- style="text-align:center;"
|style="background:#cfc;"|区間準急
|style="text-align:right"|
|colspan="3" style="background:#cfc;"|2本
|奈良線
|style="text-align:left"|→大和西大寺<br>(一部近鉄奈良)
|- style="text-align:center;"
|style="background:#ccc;" rowspan="2"|普通
|style="text-align:right"|尼崎←
|colspan="3" style="background:#ccc;"|4本
|奈良線
|style="text-align:left"|→大和西大寺<br>(一部近鉄奈良)
|- style="text-align:center;"
|style="text-align:right"|尼崎←
|colspan="3" style="background:#ccc"|2本
|奈良線
|style="text-align:left"|→東花園
|}
== 歴史 ==
[[日本万国博覧会]]の開幕日(一般公開開始日)である[[1970年]]([[昭和]]45年)[[3月15日]]に開業した<ref name="100nenayumi-p302">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.302</ref>。当時の開業記念乗車券には<!-- 万博の開幕も兼ねる形で -->「EXPO'70」のシンボルマークもあしらわれていた<ref>『近鉄80年のあゆみ』p.172</ref>
近鉄による([[奈良県|奈良]]方面からの)[[難波]]乗り入れ計画自体は古くから存在した。大阪府に対して初めて難波乗り入れを出願したのは前身の[[大阪電気軌道]]の時代である[[1922年]] - [[1923年|23年]]頃であったが、この時は大阪市の異論によって実現しなかった。次に、[[1932年]] - [[1933年|33年]]頃にも再度申請を行ったものの、これも大阪市の反対により実現しなかった<ref group="注釈">この後、1944年6月1日の大阪電気軌道の後身の関西急行鉄道と難波駅をターミナル駅とする旧[[南海電気鉄道|南海鉄道]]の合併による近鉄成立から1947年5月31日の南海分離前日までの3年間ではあるが、旧南海鉄道の路線が近鉄の路線となったことで近鉄線の難波駅乗り入れが実現したことがある。</ref>。しかし、近鉄奈良線の発展、沿線人口の増大、沿線各地と大阪市内間の交通量の激増に伴い、ターミナルを大阪都心の難波へ推進する必要は一段と強くなった<ref name="kensetsu">近畿日本鉄道株式会社『近鉄難波線 建設工事報告書』、1972年9月発行</ref>。
そこで、近鉄は[[1946年]]に阪神電気鉄道と共同で新たに大阪高速鉄道株式会社(旧社名が大阪高速鉄道である[[大阪モノレール]]とは無関係)の設立を企図し、大阪市内の東西貫通高速鉄道線として軌道法により[[鶴橋駅|鶴橋]] - [[大阪難波駅|難波]] - [[野田駅 (阪神)|野田]]間の軌道敷設特許を申請した。これは、当時戦災によって廃墟となった大阪市内にその瓦礫を使って築堤し、市内を貫通する高架高速鉄道を建設しようとするユニークな構想に基づくものであったが、大阪市は市域交通は市営によるべきと反対の意見を表明した([[市営モンロー主義]])<ref name="kensetsu" />。
しかし延長線建設の必要性はますます強くなり、阪神及び近鉄は1946年以降に[[直通運転|相互乗り入れ]]のため[[大阪上本町駅|上本町]] - [[大阪難波駅|難波]] - [[千鳥橋駅|千鳥橋]]間の新線を計画した。その後、近鉄難波線敷設免許の申請は数次にわたる変更があり、路線も当初大部分が高架式であったものが全線地下鉄へと変わった<ref name="kensetsu" />。この計画が、都市交通審議会答申3号で盛り込まれ、[[1959年]]に[[運輸省]]から敷設免許を受け、近鉄創業以来の[[ターミナル駅|ターミナル]]である大阪上本町駅から、大阪・[[ミナミ]]の中心部である難波まで建設された。
[[2023年]]([[令和]]5年)9月に「近鉄難波線 大断面シールドトンネル」として[[土木学会選奨土木遺産]]に認定された<ref>{{Cite web |title=土木学会 令和5年度度選奨土木遺産 近鉄難波線 大断面シールドトンネル|url=https://www.jsce.or.jp/contents/isan/files/2023_15.shtml |website=www.jsce.or.jp |publisher=土木学会 |access-date=2023-09-25 }}</ref>。
*[[1959年]](昭和34年)[[2月23日]]:鶴橋駅 - 難波駅間の敷設免許取得<ref>『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.299</ref>。
*[[1965年]](昭和40年)
**[[3月1日]]:建設工事局設置<ref name="100nenayumi-p301">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.301</ref>。
**[[9月9日]]:上本町駅地下駅建設工事着手<ref name="100nenayumi-p301" />。
**[[10月9日]]:起工式<ref name="100nenayumi-p301" />。
*[[1966年]](昭和41年)[[11月25日]]:日本橋駅建設工事着手<ref name="100nenayumi-p301" />。
*[[1967年]](昭和42年)[[4月25日]]:難波駅建設工事着手<ref name="100nenayumi-p301" />。
*[[1970年]](昭和45年)
**[[1月25日]]:線路敷設工事着手<ref name="100nenayumi-p302" />。
**[[2月24日]]:試運転<ref name="100nenayumi-p302" />。
**[[3月1日]]:奈良線の全列車を上本町駅地下ホームでの発着に変更<ref name="100nenayumi-p302" />。
**[[3月15日]]:近鉄難波駅 - 上本町駅間が開業<ref name="100nenayumi-p868">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.868</ref>。
**[[3月21日]]:大阪線の特急の一部の乗り入れが開始される<ref name="100nenayumi-p302" />。
*[[1979年]](昭和54年)[[1月8日]]:建設費回収のための加算運賃を設定<ref name="100nenayumi-p695">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.695</ref><ref>奈良線などより初乗り運賃が割高になった。奈良線などが大人70円の当時、難波線は50円が加算され、120円であった。</ref>。
*[[1991年]]([[平成]]3年)[[11月20日]]:建設費の回収が終わったため、難波線での加算運賃の制度を廃止<ref name="100nenayumi-p695" />。<!--ノート参照-->
*[[2008年]](平成20年)[[6月14日]]:車上速度パターン照査式[[自動列車停止装置]] (ATS-SP) 使用開始。
*[[2009年]](平成21年)[[3月20日]]:阪神なんば線と相互直通運転開始。近鉄難波駅を大阪難波駅に、上本町駅を大阪上本町駅に改称<ref name="100nenayumi-p540">『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.540</ref>。
== 駅一覧 ==
; 凡例
: ●:停車、|:通過
* 全駅[[大阪府]][[大阪市]]内に所在。
* 特急は近鉄日本橋駅を通過、特急以外は難波線内の全ての駅に停車(表中省略)。
* 運行系統上の下り<!--大阪難波駅より大阪上本町駅-->方向に記述。『[[鉄道要覧]]』では起点を大阪上本町駅としている。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d21644;"|営業キロ
!style="width:1em; line-height:1.1em; border-bottom:solid 3px #d21644; background:#fcc;"|{{縦書き|特急}}
!style="border-bottom:solid 3px #d21644;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #d21644;"|所在地
|-
!A01
|[[大阪難波駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M20)・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y15)・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] (S16)…[[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]]<br>南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] [[南海本線]]・[[File:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] [[南海高野線|高野線]]<ref name="linename" group="*">運転系統としての「高野線」。同線の正式な起点は[[汐見橋駅]]。</ref> (NK01)…[[難波駅 (南海)|難波駅]]<br />阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神なんば線]] (HS 41)(直通あり)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]]: JR-Q17)…[[JR難波駅]]
|rowspan="2"|[[中央区 (大阪市)|中央区]]
|-
!A02
|[[近鉄日本橋駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] (K17)・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S17)…[[日本橋駅 (大阪府)|日本橋駅]]
|-
!A03
|[[大阪上本町駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|2.0
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D03)({{近鉄駅番号|A}} [[近鉄奈良線|奈良線]][[近鉄奈良駅]]まで直通運転。特急のみ{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]][[近鉄名古屋駅]]及び{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]まで直通運転)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T25)・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] 千日前線 (S18)…[[谷町九丁目駅]]
|style="white-space:nowrap;"|[[天王寺区]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
* [[Osaka Metro中央線]]と[[近鉄けいはんな線]]の[[連絡乗車券]]を購入した場合はすべて[[長田駅 (大阪府)|長田駅]]経由と指定されているため、上記各駅ではOsaka Metroの地下鉄各線との連絡はできない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790026-5 | ref = imao }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kintetsu Namba Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
*[[市営モンロー主義]]
== 外部リンク ==
*[https://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40027.html 難波線]
{{近畿日本鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:きんてつなんはせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|なんはせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|なんは]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:土木学会選奨土木遺産]]
|
2003-09-12T02:14:52Z
|
2023-11-27T17:38:47Z
| false | false | false |
[
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"Template:近畿日本鉄道の路線",
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"Template:脚注ヘルプ",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E7%B7%9A
|
16,337 |
大手私鉄
|
大手私鉄(おおてしてつ)は、日本の民営鉄道事業者(私鉄)の分類の一つで、特に経営規模の大きなものの会社を指す。大手民鉄ともいう。 英語では「Major Railway Companies」と呼称する。国土交通省鉄道局などでも統計資料でこの区分を用いており、他の私鉄(準大手私鉄・中小私鉄)とは区別される。
大手私鉄各社は、経営規模(資本金、営業キロ、輸送人員など)が大きく、三大都市圏および福岡都市圏(四大都市圏)における基幹的な公共交通機関として旅客輸送を担っている。
大手私鉄ではいずれも鉄道事業を中核として、鉄道も含めたバスやタクシーなどの運輸事業、沿線を中心とした不動産事業(マンションや商業施設の開発といったデベロッパー)や流通事業(百貨店やスーパーマーケット)、レジャー事業(旅行代理店やプロ野球)などを展開する多角化経営を行っており、大手私鉄グループは沿線住民のライフスタイルを担う重要な存在でもある。日本の私鉄における経営多角化は阪急電鉄の創業者である小林一三が考案したとされ、この鉄道会社の多角経営は世界的には日本特有の経営モデルである。非鉄道事業については、不動産事業などを中心に沿線以外の地域や国内外に及ぶ場合もある。
この「鉄道・不動産・流通」を3本柱とした私鉄経営モデルを、国鉄から民営化したJR各社も採用して非鉄道事業の成長を目指している。JRも不動産事業を中心に自社エリア外での事業展開を行なっている。
また、かつては多くの大手私鉄が直営の自動車事業部としてバス事業(乗合バス・貸切バス)を運営していたが、モータリゼーションによる需要衰退を受け、1990年代以降は経営合理化のためバス事業を分社化する大手私鉄が増加した。
私鉄における「大手・中小」の区分は、日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)における賃上げ交渉の過程で生まれた。
まず1951年(昭和26年)の中央労働委員会による調停により、会社規模・立地条件・労働生産性・人件費率などを考慮して個別に賃金を決める方法が提示された。さらに翌1952年(昭和27年)の調停案ではより具体的に、関東私鉄5社(東武鉄道・東京急行電鉄・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄・京成電鉄)、関西5社(阪急電鉄・京阪電気鉄道・近畿日本鉄道・阪神電気鉄道・南海電気鉄道)の計10社の賃金増額率を他と区別した(10社は24 - 26%、他は20%増)。なお、西武鉄道と小田急電鉄はこの年の春闘に参加していなかった。そして1953年(昭和28年)の調停案では、10社に名古屋鉄道と西日本鉄道を加えて「大手12社」と明示した。
私鉄の春闘を報じた新聞各社でも、1952年頃より「大手筋十社」(朝日新聞)、「十大私鉄」(読売新聞)などと表現されるようになり、1954年の春闘報道では「大手十三社」(朝日新聞)、「東京の大手私鉄」(読売新聞)と、「大手」「大手私鉄」といった表現が登場している。
このように、当初は労使交渉における基準でしかなかった「大手・中小」の区分が、のちに他の場面でも用いられるようになり、「大手私鉄」の語が次第に一般化していった。
労使交渉で「大手私鉄」とされた12社に西武・小田急を加えた14社の形成は、昭和初期に成立した陸上交通事業調整法などによって私鉄各社の統合が図られたことに端を発する。これにより1945年(昭和20年)の終戦時点では東武・西武・京成・東急(大東急)・名鉄・近鉄(大近鉄)・京阪神急行・阪神・西鉄の9社となっていたが、1947年(昭和22年)に近鉄から南海が、1948年(昭和23年)に東急から京王・小田急・京急の3社が、1949年(昭和24年)に京阪神から京阪が独立し、京阪独立の時点で14社となった。
14社は先述した経緯によって大手私鉄とされるようになったが、以後の認定は業界団体である日本民営鉄道協会(民鉄協)が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄と認定される。この手続きにより1990年(平成2年)5月31日には相模鉄道が大手私鉄に昇格し、2004年(平成16年)4月1日には特殊法人帝都高速度交通営団から事業を継承した東京地下鉄株式会社(東京メトロ)が大手私鉄に加わり、現在の16社体制に至っている。
現在では民鉄協による審査が大手私鉄の認定要件となっているため、事業規模の大小にかかわらず、民鉄協非加盟の鉄道事業者は大手私鉄とはみなされない。例えば2018年(平成30年)4月1日に大阪市交通局の鉄道・軌道事業を継承した大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は民鉄協に加盟しておらず、大手私鉄とは見做されていないため、同社の中期経営計画では大手私鉄の語を用いず、自社を「大手鉄道事業者」と表現している。一方、国土交通省はOsaka Metroを大手私鉄に含めるか否かについては「特に何も決まっていない」(2018年当時)としており、2021年(令和3年)4月時点では同社を中小私鉄(中小民鉄)に区分している。
このうち、近畿日本鉄道は、中京圏においても路線網を持つが、本社所在地の扱い上、関西私鉄として計算する。
|
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"text": "大手私鉄(おおてしてつ)は、日本の民営鉄道事業者(私鉄)の分類の一つで、特に経営規模の大きなものの会社を指す。大手民鉄ともいう。 英語では「Major Railway Companies」と呼称する。国土交通省鉄道局などでも統計資料でこの区分を用いており、他の私鉄(準大手私鉄・中小私鉄)とは区別される。",
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"text": "大手私鉄ではいずれも鉄道事業を中核として、鉄道も含めたバスやタクシーなどの運輸事業、沿線を中心とした不動産事業(マンションや商業施設の開発といったデベロッパー)や流通事業(百貨店やスーパーマーケット)、レジャー事業(旅行代理店やプロ野球)などを展開する多角化経営を行っており、大手私鉄グループは沿線住民のライフスタイルを担う重要な存在でもある。日本の私鉄における経営多角化は阪急電鉄の創業者である小林一三が考案したとされ、この鉄道会社の多角経営は世界的には日本特有の経営モデルである。非鉄道事業については、不動産事業などを中心に沿線以外の地域や国内外に及ぶ場合もある。",
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"text": "この「鉄道・不動産・流通」を3本柱とした私鉄経営モデルを、国鉄から民営化したJR各社も採用して非鉄道事業の成長を目指している。JRも不動産事業を中心に自社エリア外での事業展開を行なっている。",
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"text": "また、かつては多くの大手私鉄が直営の自動車事業部としてバス事業(乗合バス・貸切バス)を運営していたが、モータリゼーションによる需要衰退を受け、1990年代以降は経営合理化のためバス事業を分社化する大手私鉄が増加した。",
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"text": "私鉄における「大手・中小」の区分は、日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)における賃上げ交渉の過程で生まれた。",
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"text": "まず1951年(昭和26年)の中央労働委員会による調停により、会社規模・立地条件・労働生産性・人件費率などを考慮して個別に賃金を決める方法が提示された。さらに翌1952年(昭和27年)の調停案ではより具体的に、関東私鉄5社(東武鉄道・東京急行電鉄・京浜急行電鉄・京王帝都電鉄・京成電鉄)、関西5社(阪急電鉄・京阪電気鉄道・近畿日本鉄道・阪神電気鉄道・南海電気鉄道)の計10社の賃金増額率を他と区別した(10社は24 - 26%、他は20%増)。なお、西武鉄道と小田急電鉄はこの年の春闘に参加していなかった。そして1953年(昭和28年)の調停案では、10社に名古屋鉄道と西日本鉄道を加えて「大手12社」と明示した。",
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"text": "私鉄の春闘を報じた新聞各社でも、1952年頃より「大手筋十社」(朝日新聞)、「十大私鉄」(読売新聞)などと表現されるようになり、1954年の春闘報道では「大手十三社」(朝日新聞)、「東京の大手私鉄」(読売新聞)と、「大手」「大手私鉄」といった表現が登場している。",
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"text": "このように、当初は労使交渉における基準でしかなかった「大手・中小」の区分が、のちに他の場面でも用いられるようになり、「大手私鉄」の語が次第に一般化していった。",
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"text": "労使交渉で「大手私鉄」とされた12社に西武・小田急を加えた14社の形成は、昭和初期に成立した陸上交通事業調整法などによって私鉄各社の統合が図られたことに端を発する。これにより1945年(昭和20年)の終戦時点では東武・西武・京成・東急(大東急)・名鉄・近鉄(大近鉄)・京阪神急行・阪神・西鉄の9社となっていたが、1947年(昭和22年)に近鉄から南海が、1948年(昭和23年)に東急から京王・小田急・京急の3社が、1949年(昭和24年)に京阪神から京阪が独立し、京阪独立の時点で14社となった。",
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"text": "14社は先述した経緯によって大手私鉄とされるようになったが、以後の認定は業界団体である日本民営鉄道協会(民鉄協)が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄と認定される。この手続きにより1990年(平成2年)5月31日には相模鉄道が大手私鉄に昇格し、2004年(平成16年)4月1日には特殊法人帝都高速度交通営団から事業を継承した東京地下鉄株式会社(東京メトロ)が大手私鉄に加わり、現在の16社体制に至っている。",
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"text": "現在では民鉄協による審査が大手私鉄の認定要件となっているため、事業規模の大小にかかわらず、民鉄協非加盟の鉄道事業者は大手私鉄とはみなされない。例えば2018年(平成30年)4月1日に大阪市交通局の鉄道・軌道事業を継承した大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は民鉄協に加盟しておらず、大手私鉄とは見做されていないため、同社の中期経営計画では大手私鉄の語を用いず、自社を「大手鉄道事業者」と表現している。一方、国土交通省はOsaka Metroを大手私鉄に含めるか否かについては「特に何も決まっていない」(2018年当時)としており、2021年(令和3年)4月時点では同社を中小私鉄(中小民鉄)に区分している。",
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大手私鉄(おおてしてつ)は、日本の民営鉄道事業者(私鉄)の分類の一つで、特に経営規模の大きなものの会社を指す。大手民鉄ともいう。
英語では「Major Railway Companies」と呼称する。国土交通省鉄道局などでも統計資料でこの区分を用いており、他の私鉄(準大手私鉄・中小私鉄)とは区別される。 大手私鉄各社は、経営規模(資本金、営業キロ、輸送人員など)が大きく、三大都市圏および福岡都市圏(四大都市圏)における基幹的な公共交通機関として旅客輸送を担っている。
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'''大手私鉄'''(おおてしてつ)は、[[日本]]の民営[[鉄道事業者]]([[私鉄]])の分類の一つで、特に経営規模の大きなものの会社を指す。'''大手民鉄'''ともいう。
[[英語]]では「Major Railway Companies<ref>[http://www.mintetsu.or.jp/en/index.html Introduction of private railway companies] - 日本民営鉄道協会 英語版サイト</ref>」と呼称する。[[国土交通省]][[鉄道局]]などでも[[統計]]資料でこの区分を用いており、他の私鉄([[準大手私鉄]]・[[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分|中小私鉄]])とは区別される。
大手私鉄各社は、経営規模([[資本金]]、[[営業キロ]]、輸送人員など)が大きく<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/20databook_p02-05.pdf 1.大手民鉄の現況(2019年度)] 大手民鉄データブック「大手民鉄の素顔」2020、p.2-5、日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref><ref>[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/20databook_p06-07.pdf 輸送状況(2019年度)] 大手民鉄データブック「大手民鉄の素顔」2020、p.6-7、日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref>、[[三大都市圏]]{{efn|[[首都圏 (日本)|首都圏]]、[[中京圏]]、[[京阪神]]。}}および[[北九州・福岡大都市圏|福岡都市圏]]<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/20databook_p00.pdf はじめに] 大手民鉄データブック「大手民鉄の素顔」2020、p.1、日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref>([[五大都市圏|四大都市圏]])における基幹的な[[公共交通機関]]として旅客輸送を担っている<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/20databook_p08-09.pdf 3. 公共交通として民鉄が担う役割] 大手民鉄データブック「大手民鉄の素顔」2020、p.8-9、日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref>。
== 概要 ==
大手私鉄ではいずれも鉄道事業を中核として、鉄道も含めた[[バス (交通機関)|バス]]や[[タクシー]]などの運輸事業、沿線を中心とした[[不動産業|不動産事業]]([[マンション]]や[[店|商業施設]]の開発といった[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]])や[[小売|流通事業]]([[百貨店]]や[[スーパーマーケット]])、レジャー事業([[旅行会社|旅行代理店]]や[[プロ野球]])などを展開する[[多角化]]経営を行っており、大手私鉄グループは沿線住民のライフスタイルを担う重要な存在でもある。日本の私鉄における経営多角化は[[阪急電鉄]]の創業者である[[小林一三]]が考案したとされ、この鉄道会社の多角経営は世界的には日本特有の経営モデルである。非鉄道事業については、不動産事業などを中心に沿線以外の地域や国内外に及ぶ場合もある。
この「鉄道・不動産・流通」を3本柱とした私鉄経営モデルを、[[日本国有鉄道|国鉄]]から[[民営化]]した[[JR]]各社も採用して非鉄道事業の成長を目指している<ref>{{Cite web|和書|title=JR西日本、長谷川新社長を発表 非鉄道事業に力|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51493410Y9A021C1TJ1000/|website=日本経済新聞|date=2019-10-28|accessdate=2020-10-17|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.nishinippon.co.jp/item/o/524895.amp%3Fusqp%3Dmq331AQQKAGYAbj2-L60yrr8RrABIA%253D%253D|title=JR九州が「非鉄道」事業を強化|accessdate=2020/10/18|publisher=西日本新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.sankeibiz.jp/business/amp/200124/bsm2001240500005-a.htm%3Fusqp%3Dmq331AQQKAGYAZOpyunwruLTdbABIA%253D%253D|title=【2020 成長への展望】非鉄道事業は駅ナカから“街ナカ”へ JR西日本社長・長谷川一明さん|accessdate=2020/10/18|publisher=産経新聞}}</ref>。JRも不動産事業を中心に自社エリア外での事業展開を行なっている。
また、かつては多くの大手私鉄が直営の自動車事業部として[[バス (交通機関)|バス]]事業([[乗合バス]]・[[貸切バス]])を運営していたが、[[モータリゼーション]]による需要衰退を受け、[[1990年代]]以降は経営[[リストラ|合理化]]のためバス事業を[[会社分割|分社化]]する大手私鉄が増加した。
== 歴史 ==
=== 「大手」という区分の誕生 ===
私鉄における「大手・中小」の区分は、[[日本私鉄労働組合総連合会]](私鉄総連)における賃上げ交渉の過程で生まれた<ref name="Meitetsu1994_p236">{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=236}}</ref>。
まず[[1951年]](昭和26年)の[[中央労働委員会]]による調停により、会社規模・立地条件・[[労働生産性]]・[[人件費]]率などを考慮して個別に[[賃金]]を決める方法が提示された<ref name="Meitetsu1994_p236"/>。さらに翌[[1952年]](昭和27年)の調停案ではより具体的に、[[関東地方|関東]]私鉄5社([[東武鉄道]]・[[東急電鉄|東京急行電鉄]]・[[京浜急行電鉄]]・[[京王電鉄|京王帝都電鉄]]・[[京成電鉄]])、[[関西地方|関西]]5社([[阪急電鉄]]・[[京阪電気鉄道]]・[[近畿日本鉄道]]・[[阪神電気鉄道]]・[[南海電気鉄道]])の計10社の賃金増額率を他と区別した(10社は24 - 26%、他は20%増)<ref name="Meitetsu1994_p236"/>。なお、[[西武鉄道]]と[[小田急電鉄]]はこの年の[[春闘]]に参加していなかった<ref>『朝日新聞』1952年3月22日、朝刊3頁</ref>。そして[[1953年]](昭和28年)の調停案では、10社に[[名古屋鉄道]]と[[西日本鉄道]]を加えて「'''大手12社'''」と明示した<ref name="Meitetsu1994_p236"/>。
私鉄の春闘を報じた[[新聞]]各社でも、1952年頃より「大手筋十社<ref>『朝日新聞』、1952年4月18日、朝刊1頁</ref>」([[朝日新聞]])、「十大私鉄<ref>『読売新聞』1952年4月17日、朝刊</ref>」([[読売新聞]])などと表現されるようになり、[[1954年]]の春闘報道では「大手十三社<ref>朝日新聞、1954年4月10日朝刊</ref>{{efn|「大手13社」とは、1953年調停案の12社に[[帝都高速度交通営団]]を加えた数で、西武鉄道と小田急電鉄は引き続き[[ストライキ]]を行わなかったため除外されている。}}」(朝日新聞)、「東京の大手私鉄<ref>読売新聞、1954年5月2日朝刊</ref>」(読売新聞)と、「大手」「大手私鉄」といった表現が登場している。
このように、当初は労使交渉における基準でしかなかった「大手・中小」の区分が、のちに他の場面でも用いられるようになり、「大手私鉄」の語が次第に一般化していった<ref name="Meitetsu1994_p236"/>。
=== 企業数の変遷 ===
労使交渉で「大手私鉄」とされた12社に西武・小田急を加えた14社の形成は、昭和初期に成立した[[陸上交通事業調整法]]などによって私鉄各社の統合が図られたことに端を発する。これにより[[1945年]](昭和20年)の[[日本の敗戦|終戦]]時点では東武・西武・京成・東急([[大東急]])・名鉄・近鉄(大近鉄)・[[阪神急行電鉄#京阪電気鉄道の統合と分離|京阪神急行]]・阪神・西鉄の9社となっていたが、[[1947年]](昭和22年)に近鉄から南海が、[[1948年]](昭和23年)に東急から京王・小田急・京急の3社が、[[1949年]](昭和24年)に京阪神から京阪が独立し、京阪独立の時点で14社となった。
14社は先述した経緯によって大手私鉄とされるようになったが、以後の認定は[[業界団体]]である[[日本民営鉄道協会]](民鉄協)が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄と認定される<ref name="diamond">[https://diamond.jp/articles/-/238755 相鉄が大手となって30年、かたや大阪メトロが中小を抜け出せない理由] [[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]]、[[ダイヤモンド社]]、2020年6月1日、2021年9月9日閲覧。</ref>。この手続きにより[[1990年]](平成2年)[[5月31日]]には[[相模鉄道]]が大手私鉄に昇格し<ref>[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_018.pdf 相鉄グループ100年史 年表] p.388(年表15頁)、[[相鉄グループ]]、2021年9月9日閲覧。</ref>、[[2004年]](平成16年)[[4月1日]]には[[特殊法人]][[帝都高速度交通営団]]から事業を継承した[[東京地下鉄]]株式会社(東京メトロ){{efn|東京地下鉄は完全に公的資本会社であるが、民営化前の営団時代から日本民営鉄道協会に加盟し、営団労働組合も日本私鉄労働組合総連合会に加盟していた経緯から、民営化後は16社目の大手私鉄とみなされている。}}が大手私鉄に加わり、現在の16社体制に至っている。
現在では民鉄協による審査が大手私鉄の認定要件となっているため、事業規模の大小にかかわらず、民鉄協非加盟の鉄道事業者は大手私鉄とはみなされない<ref name="diamond" />{{efn|中小私鉄の中でも特に規模の大きい事業者を指す「[[準大手私鉄]]」には民鉄協非加盟の鉄道事業者も含まれている。また、大手私鉄に認定されてから一旦は民鉄協を脱退した事例は西鉄・名鉄・京成にある(後に3社とも民鉄協に再加盟)。}}。例えば[[2018年]](平成30年)[[4月1日]]に[[大阪市交通局]]の鉄道・軌道事業を継承した[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) は民鉄協に加盟しておらず、大手私鉄とは見做されていない<ref name="diamond" />ため、同社の中期経営計画では大手私鉄の語を用いず、自社を「大手鉄道事業者」と表現している<ref>[http://www.osakametro.co.jp/library/ct/20180709_cyuki_keieikeikaku/2018_2024_ckk.pdf Osaka Metro Group 2018~2024年度 中期経営計画] p.16、Osaka Metro。2018年7月9日発信、同年同月10日閲覧。</ref>。一方、国土交通省はOsaka Metroを大手私鉄に含めるか否かについては「特に何も決まっていない」(2018年当時)としており<ref>[https://trafficnews.jp/post/80164 関西大手をごぼう抜き! 数字で見えた大阪メトロの実力] 乗りものニュース、2018年4月12日</ref>、2021年(令和3年)4月時点では同社を[[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分|中小私鉄(中小民鉄)]]に区分している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001407145.pdf |format=PDF |title=鉄軌道事業者一覧 |work=統計情報 |publisher=国土交通省 |accessdate=2021年9月10日}}</ref>。
このうち、近畿日本鉄道は、[[中京圏]]においても路線網を持つが、本社所在地の扱い上、[[関西私鉄]]として計算する。
== 大手私鉄の一覧 ==
* [[本社]]所在地、設立年および掲載順序は『令和4年度 [[鉄道要覧]]』による(複数の本店所在地を持つ企業の場合は鉄道要覧掲載の所在地に絞る)<ref>{{Cite book|和書|author=国土交通省鉄道局(監)|year=2022|title=令和4年 鉄道要覧|publisher=電気車研究会|ISBN=978-4885481352}}</ref>。
* [[資本金]]、鉄軌道営業収益、旅客[[営業キロ]]程、旅客車両数、[[鉄道駅|駅]]数、旅客輸送人員は特記を除き、日本民営鉄道協会『大手民鉄データブック 2023』による([[2023年]]3月31日現在)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/22databook_p02-05.pdf |title=大手民鉄の現況(2021年度)|format=PDF |publisher=日本民営鉄道協会 |accessdate=2023-09-10}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/23databook_p02-05.pdf |title=大手民鉄の現況(2022年度) |access-date=2023-12-30 |publisher=日本民営鉄道協会 |format=PDF}}</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:90%"
|-
! No.
! style="white-space:nowrap" | 会社名<br>(略称)
! style="white-space:nowrap" | 本社所在地
! style="white-space:nowrap" | 設立
! style="white-space:nowrap" | 資本金<br>(百万円)
! style="white-space:nowrap" | 鉄軌道<br>営業収益<br>(百万円)
! style="white-space:nowrap" | 旅客営業<br>キロ程<br>(km)
! style="white-space:nowrap" | 旅客<br>車両数<br>(両)
! style="white-space:nowrap" | 駅数<br>(駅)
! style="white-space:nowrap" | 旅客<br>輸送人員<br>(千人)
! style="width:40em" class="unsortable" | 備考
|-
| style="text-align:right" | 1
| data-sort-value="とうふ" | [[東武鉄道]]<br>(東武)
| data-sort-value="131075" | [[東京都]]<br>[[墨田区]]
| [[1897年]]([[明治]]30年)<br>[[11月1日]]
| style="text-align:right" | 102,135
| style="text-align:right" | 139,940
| style="text-align:right" | 463.3
| style="text-align:right" | 1,817
| style="text-align:right" | 205
| style="text-align:right" | 798,420
|
|-
| style="text-align:right" | 2
| data-sort-value="せいふ" | [[西武鉄道]]<br>(西武)
| data-sort-value="112089" | 埼玉県<br>[[所沢市]]
| [[1912年]](明治45年)<br>[[5月7日]]
| style="text-align:right" | 21,665
| style="text-align:right" | 88,956
| style="text-align:right" | 176.6
| style="text-align:right" | 1,227
| style="text-align:right" | 92
| style="text-align:right" | 559,061
|
|-
| style="text-align:right" | 3
| data-sort-value="けいせい" | [[京成電鉄]]<br>(京成)
| data-sort-value="122033" | [[千葉県]]<br>[[市川市]]
| [[1909年]](明治42年)<br>[[6月30日]]
| style="text-align:right" | 36,803
| style="text-align:right" | 54,003
| style="text-align:right" | 152.3
| style="text-align:right" | 606
| style="text-align:right" | 69
| style="text-align:right" | 251,208
|[[2025年]](令和7年)4月に[[新京成電鉄]]を吸収合併予定。これにより[[関東私鉄]]内での路線総延長距離は西武を抜くこととなり、所有車両数も700両を突破する。
|-
| style="text-align:right" | 4
| data-sort-value="けいおう" | [[京王電鉄]]<br>(京王)
| data-sort-value="132241" | 東京都<br>[[多摩市]]
| [[1948年]]([[昭和]]23年)<br>[[6月1日]]
| style="text-align:right" | 59,023
| style="text-align:right" | 71,096
| style="text-align:right" | 84.7
| style="text-align:right" | 877
| style="text-align:right" | 69
| style="text-align:right" | 553,889
|
|-
| style="text-align:right" | 5
| data-sort-value="とうきゆう" | [[東急電鉄]]<br>(東急)
| data-sort-value="131130" | 東京都<br>[[渋谷区]]
|[[2019年]]([[平成]]31年)<br>[[4月25日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 135,397
| style="text-align:right" | 110.7
| style="text-align:right" | 1304
| style="text-align:right" | 99
| style="text-align:right" | 988,883
| 鉄[[軌道]]事業兼営(鉄道99.9 km、軌道5.0 km)。<br />純粋持株会社移行に伴う会社分割。旧法人の設立年月日は[[1922年]](大正11年)[[9月2日]]。
|-
| style="text-align:right" | 6
| data-sort-value="けいひんきゆうこう" style="white-space:nowrap" | [[京浜急行電鉄]]<br>(京急)
| data-sort-value="131032" | [[神奈川県]]<br>[[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]
| [[1948年]](昭和23年)<br>[[6月1日]]
| style="text-align:right" | 43,738
| style="text-align:right" | 68,718
| style="text-align:right" | 87.0
| style="text-align:right" | 790
| style="text-align:right" | 73
| style="text-align:right" | 404,440
|
|-
| style="text-align:right" | 7
| data-sort-value="とうきようちかてつ" | [[東京地下鉄]]<br>(東京メトロ)
| data-sort-value="131067" | 東京都<br>[[台東区]]
| [[2004年]]([[平成]]16年)<br>[[4月1日]]
| style="text-align:right" | 58,100
| style="text-align:right" | 308,778
| style="text-align:right" | 195.0
| style="text-align:right" | 2,722
| style="text-align:right" | 180
| style="text-align:right" | 2,171,910
| [[2004年]](平成16年)4月1日より大手私鉄となる。<br />公的資本会社では唯一の大手私鉄(他は全て純民間[[企業]])。
|-
| style="text-align:right" | 8
| data-sort-value="おたきゆう" | [[小田急電鉄]]<br>(小田急)
| data-sort-value="131041" | 東京都<br>[[新宿区]]
| [[1948年]](昭和23年)<br>6月1日
| style="text-align:right" | 60,359
| style="text-align:right" | 104,038
| style="text-align:right" | 120.5
| style="text-align:right" | 1,062
| style="text-align:right" | 70
| style="text-align:right" | 648,656
|
|-
| style="text-align:right" | 9
| data-sort-value="さかみ" | [[相模鉄道]]<br>(相鉄)
| data-sort-value="141038" | 神奈川県<br>横浜市西区
| style="white-space:nowrap" |[[1964年]](昭和39年)<br>[[11月24日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 29,828
| style="text-align:right" | 42.2
| style="text-align:right" | 426
| style="text-align:right" | 27
| style="text-align:right" | 199,091
| [[1990年]](平成2年)[[5月31日]]より大手私鉄となる。<br />設立年月日は旧法人の純粋持ち株会社移行に伴い商号変更した株式会社大関のもの。旧法人の設立年月日は[[1917年]](大正6年)[[12月18日]]。
|-
| style="text-align:right" | 10
| data-sort-value="なこや" | [[名古屋鉄道]]<br>(名鉄)
| data-sort-value="231053" | [[愛知県]]<br>[[名古屋市]][[中村区]]
| [[1921年]](大正10年)<br>[[6月13日]]
| style="text-align:right" | 101,158
| style="text-align:right" | 79,330
| style="text-align:right" | 444.2
| style="text-align:right" | 1,076
| style="text-align:right" | 275
| style="text-align:right" | 341,058
| 鉄軌道事業兼営(鉄道437.0 km、軌道7.2 km)。
|-
| style="text-align:right" | 11
| data-sort-value="きんきにつほん" | [[近畿日本鉄道]]<br>(近鉄)
| data-sort-value="271098" style="white-space:nowrap" | [[大阪府]]<br>[[大阪市]][[天王寺区]]
| [[2014年]](平成26年)<br>[[4月30日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 128,564
| style="text-align:right" | 501.1
| style="text-align:right" | 1,885
| style="text-align:right" | 286
| style="text-align:right" | 501,393
| 鉄軌道事業兼営(鉄道496.0 km、軌道5.1 km)。<br />純粋持株会社移行に伴う会社分割。旧法人の設立年月日は[[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]。
|-
| style="text-align:right" | 12
| data-sort-value="なんかい" | [[南海電気鉄道]]<br>(南海)
| data-sort-value="271110" | 大阪府<br>大阪市[[浪速区]]
| [[1925年]](大正14年)<br>[[3月28日]]
| style="text-align:right" | 72,983
| style="text-align:right" | 49,487
| style="text-align:right" | 153.5
| style="text-align:right" | 696
| style="text-align:right" | 98
| style="text-align:right" | 203,712
| 2025年(令和7年)に[[泉北高速鉄道]]を吸収合併予定。
[[南海高師浜線|高師浜線]](1.4 km、分岐駅を除く2駅)が営業休止中。[[2024年]](令和6年)4月上旬に営業再開予定。
|-
| style="text-align:right" | 13
| data-sort-value="けいはん" | [[京阪電気鉄道]]<br>(京阪)
| data-sort-value="271284" | 大阪府<br>大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]{{efn|2024年より本社を大阪市より[[枚方市]]に移転予定。}}
| [[2015年]](平成27年)<br>[[4月1日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 46,266
| style="text-align:right" | 91.1
| style="text-align:right" | 696
| style="text-align:right" | 89
| style="text-align:right" | 243,608
| 鉄軌道事業兼営(鉄道69.5 km、軌道 21.6km)。<br />純粋持株会社移行に伴う会社分割。旧法人の設立年月日は[[1949年]](昭和24年)[[12月1日]]。
|-
| style="text-align:right" | 14
| data-sort-value="はんしん" | [[阪神電気鉄道]]<br>(阪神)
| data-sort-value="271039" | 大阪府<br>大阪市[[福島区]]
| [[1899年]](明治32年)<br>[[6月12日]]
| style="text-align:right" | 29,384
| style="text-align:right" | 32,988
| style="text-align:right" | 48.9
| style="text-align:right" | 358
| style="text-align:right" | 51
| style="text-align:right" | 218,671
|
|-
| style="text-align:right" | 15
| data-sort-value="はんきゆう" | [[阪急電鉄]]<br>(阪急)
| data-sort-value="271276" | 大阪府<br>大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]
|[[2005年]](平成17年)<br>[[4月1日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 89,688
| style="text-align:right" | 143.6
| style="text-align:right" | 1,291
| style="text-align:right" | 90
| style="text-align:right" | 571,636
| 純粋持株会社移行に伴う会社分割。旧法人の設立年月日は[[1907年]](明治40年)[[10月19日]]。
|-
| style="text-align:right" | 16
| data-sort-value="にしにつほん" | [[西日本鉄道]]<br>(西鉄)
| data-sort-value="401331" | [[福岡県]]<br>[[福岡市]][[博多区]]
| [[1908年]](明治41年)<br>[[12月17日]]
| style="text-align:right" | 26,157
| style="text-align:right" | 18,620
| style="text-align:right" | 106.1
| style="text-align:right" | 297
| style="text-align:right" | 72
| style="text-align:right" | 92,504
|
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[準大手私鉄]]
* [[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分|中小私鉄]]
* [[日本民営鉄道協会]] - 大手私鉄各社が加盟する[[業界団体]]。
* [[日本私鉄労働組合総連合会]](私鉄総連) - 大手私鉄各社の[[労働組合]]の連合体。
* [[関西私鉄]]
* [[関東私鉄]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mintetsu.or.jp/ 日本民営鉄道協会]
* [https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/ 大手民鉄データブック] 日本民営鉄道協会
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[[Category:日本の鉄道事業者|*1おおてしてつ]]
[[Category:大手私鉄・準大手私鉄|*]]
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%89%8B%E7%A7%81%E9%89%84
|
16,338 |
準大手私鉄
|
準大手私鉄(じゅんおおてしてつ)とは、日本の民営鉄道事業者(私鉄)の分類の一つで、中小私鉄の一種。準大手民鉄とも呼ばれる。大手私鉄に対する語で、中小私鉄でありながら沿線地域の発展に伴って企業が成長し、鉄道事業が大手私鉄に準ずる規模まで増大した鉄道事業者が「準大手私鉄」と呼ばれる。
準大手私鉄・準大手民鉄の語は、公的機関や報道・出版においても用いられており、国土交通省も「準大手民鉄」の呼称を用いて分類している。しかし、大手私鉄、準大手私鉄および中小私鉄の明確な定義はない。業界団体である日本民営鉄道協会は、協会に加盟している72社のうち、「大手民鉄」(大手私鉄)16社以外の56社を総称して「地方民鉄」(中小私鉄)と呼んでいる。日本民営鉄道協会は、2000年代の中頃までは「準大手」の呼称も用いていたが、その基準が曖昧なため、現在では使っていない。
大手私鉄の承認は国土交通省などの公的機関ではなく、日本民営鉄道協会が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄とされる。そのため、日本民営鉄道協会に加盟していない鉄道事業者は事業規模にかかわらず大手私鉄とはみなされず、既に同協会に加盟していた東京地下鉄(東京メトロ)は民営化に伴い大手私鉄入りしたが、大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は民営化後も同協会非加盟のため大手私鉄とはみなされない。一方で、準大手私鉄の中には同協会に加盟していない鉄道事業者もある。
また大手私鉄・準大手私鉄という場合、鉄道会社や企業グループの規模だけでなく、鉄道事業の規模が占める割合が重視される。一例として、遠州鉄道グループや静岡鉄道グループは連結売上高は高いものの、グループ全体の利益に占める鉄道事業の割合は低い。また富士急行グループは売上高の多くを富士急ハイランドなどのレジャー産業などが占めている。こうした鉄道事業者は準大手私鉄とはみなされていない。
2023年度現在、準大手私鉄とされているのは以下の5社である。5社の掲載順序は『鉄道要覧』に準ずる。日本民営鉄道協会は、非加盟の神戸高速鉄道以外の4社を全て地方民鉄に分類している。
|
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"text": "大手私鉄の承認は国土交通省などの公的機関ではなく、日本民営鉄道協会が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄とされる。そのため、日本民営鉄道協会に加盟していない鉄道事業者は事業規模にかかわらず大手私鉄とはみなされず、既に同協会に加盟していた東京地下鉄(東京メトロ)は民営化に伴い大手私鉄入りしたが、大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) は民営化後も同協会非加盟のため大手私鉄とはみなされない。一方で、準大手私鉄の中には同協会に加盟していない鉄道事業者もある。",
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"text": "2023年度現在、準大手私鉄とされているのは以下の5社である。5社の掲載順序は『鉄道要覧』に準ずる。日本民営鉄道協会は、非加盟の神戸高速鉄道以外の4社を全て地方民鉄に分類している。",
"title": "準大手私鉄の一覧"
}
] |
準大手私鉄(じゅんおおてしてつ)とは、日本の民営鉄道事業者(私鉄)の分類の一つで、中小私鉄の一種。準大手民鉄とも呼ばれる。大手私鉄に対する語で、中小私鉄でありながら沿線地域の発展に伴って企業が成長し、鉄道事業が大手私鉄に準ずる規模まで増大した鉄道事業者が「準大手私鉄」と呼ばれる。 準大手私鉄・準大手民鉄の語は、公的機関や報道・出版においても用いられており、国土交通省も「準大手民鉄」の呼称を用いて分類している。しかし、大手私鉄、準大手私鉄および中小私鉄の明確な定義はない。業界団体である日本民営鉄道協会は、協会に加盟している72社のうち、「大手民鉄」(大手私鉄)16社以外の56社を総称して「地方民鉄」(中小私鉄)と呼んでいる。日本民営鉄道協会は、2000年代の中頃までは「準大手」の呼称も用いていたが、その基準が曖昧なため、現在では使っていない。
|
'''準大手私鉄'''(じゅんおおてしてつ)とは、[[日本]]の民営[[鉄道事業者]]([[私鉄]])の分類の一つで、[[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分|中小私鉄]]の一種。'''準大手民鉄'''とも呼ばれる。'''[[大手私鉄]]'''に対する語で、中小私鉄でありながら沿線地域の発展に伴って[[企業]]が成長し、鉄道事業が大手私鉄に準ずる規模まで増大した鉄道事業者が「準大手私鉄」と呼ばれる。
準大手私鉄・準大手民鉄の語は、公的機関や[[報道]]・[[出版]]においても用いられており、[[国土交通省]]も「準大手民鉄」の呼称を用いて分類している<ref name="nandemo">[https://www.mlit.go.jp/tetudo/nandemo/13_04a.html 鉄道いろいろ 鉄道フォトギャラリー] 鉄道 - 国土交通省、2021年9月9日閲覧。</ref>。しかし、大手私鉄、準大手私鉄および中小私鉄の明確な定義はない<ref name="diamond" /><ref name=":0">{{Cite web |title=大手民鉄 {{!}} 鉄道用語事典 {{!}} 日本民営鉄道協会 |url=https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16342.html |website=www.mintetsu.or.jp |access-date=2023-12-09}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=地方民鉄 {{!}} 鉄道用語事典 {{!}} 日本民営鉄道協会 |url=https://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/16416.html |website=www.mintetsu.or.jp |access-date=2023-12-09}}</ref>。[[業界団体]]である[[日本民営鉄道協会]]は、協会に加盟している72社のうち、「大手民鉄」(大手私鉄)16社以外の56社を総称して「地方民鉄」(中小私鉄)と呼んでいる<ref name=":1" />。日本民営鉄道協会は、2000年代の中頃までは「準大手」の呼称も用いていたが、その基準が曖昧なため、現在では使っていない<ref name=":0" />。
== 概要 ==
大手私鉄の承認は国土交通省などの公的機関ではなく、日本民営鉄道協会が行っており、鉄道事業者からの要望を受けて同協会理事会で審議の上、承認を受ければ大手私鉄とされる<ref name="diamond" />。そのため、日本民営鉄道協会に加盟していない鉄道事業者は事業規模にかかわらず大手私鉄とはみなされず、既に同協会に加盟していた[[東京地下鉄]](東京メトロ)は[[民営化]]に伴い大手私鉄入りしたが、[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) は民営化後も同協会非加盟のため大手私鉄とはみなされない<ref name="diamond">{{Cite web |title=相鉄が大手となって30年、かたや大阪メトロが中小を抜け出せない理由 |url=https://diamond.jp/articles/-/238755 |website=[[週刊ダイヤモンド|ダイヤモンド・オンライン]] |date=2020-06-01 |access-date=2021-09-09 |language=ja |publisher=[[ダイヤモンド社]] |author=枝久保達也}}</ref>。一方で、準大手私鉄の中には同協会に加盟していない鉄道事業者もある。
{{See also|大手私鉄}}
また大手私鉄・準大手私鉄という場合、鉄道会社や企業グループの規模だけでなく、鉄道事業の規模が占める割合が重視される<ref name="diamond" />。一例として、[[遠州鉄道]]グループや[[静岡鉄道]]グループ<ref name="diamond2">{{Cite web |title=「鉄道以外」で99%を稼ぐユニーク私鉄、遠州鉄道と静岡鉄道を大解剖! |url=https://diamond.jp/articles/-/204992 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2019-06-10 |access-date=2021-09-09 |language=ja |publisher=ダイヤモンド社 |author=枝久保達也}}</ref>は[[連結財務諸表|連結]][[売上高]]は高い{{Efn|2020年度での中小私鉄全体の売上高の順位は遠州鉄道(遠鉄)が1位で静岡鉄道(静鉄)は3位である。なお、2位は大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)であり、遠鉄・Osaka Metro・静鉄の3社を「中小3強」と称している事例もある。}}ものの、グループ全体の[[利益]]に占める鉄道事業の割合は低い<ref name="diamond" /><ref name="diamond2" />。また[[富士急行]]グループは売上高の多くを[[富士急ハイランド]]などの[[レジャー]]産業などが占めている。こうした鉄道事業者は準大手私鉄とはみなされていない。
{{See also|鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分}}
== 準大手私鉄の一覧 ==
=== 現在の準大手私鉄 ===
[[2023年]]度現在、準大手私鉄とされているのは以下の5社である。5社の掲載順序は『[[鉄道要覧]]』に準ずる。日本民営鉄道協会は、非加盟の[[神戸高速鉄道]]以外の4社を全て地方民鉄に分類している<ref>{{Cite web |title=地方民鉄 旅ガイド {{!}} 日本民営鉄道協会 |url=https://www.mintetsu.or.jp/activity/travel_guide/index.html |website=www.mintetsu.or.jp |access-date=2023-12-09}}</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="font-size:85%"
|-
! No.
! style="width:16em" | 会社名<br />(略称)
! style="width:6em" | 本社所在地
! style="width:10em" | 設立
! style="white-space:nowrap" | 資本金<br />(百万円)<!--端数切捨て-->
! style="white-space:nowrap" | 旅客営業<br />粁程 (km)
! style="white-space:nowrap" | 駅数<br />(駅)
! class="unsortable" | 備考
! class="unsortable" | 出典
|-
| style="text-align:right" | 1
| data-sort-value="し" | [[新京成電鉄]]<br />(新京成)
| data-sort-value="122246" | [[千葉県]]<br />[[鎌ケ谷市]]
| style="white-space:nowrap" | [[1946年]]([[昭和]]21年)<br />[[10月23日]]
| style="text-align:right" | 5,935
| style="text-align:right" | 26.5
| style="text-align:right" | 24
|2022年まで[[東京証券取引所|東証スタンダード]]に上場<br />[[京成グループ]]・新京成電鉄グループ<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei">[https://www.mintetsu.or.jp/corporates/ 民鉄各社紹介 加盟会社のご紹介] 日本民営鉄道協会、2021年9月9日閲覧。</ref><br />2025年4月1日に親会社で大手私鉄の[[京成電鉄]]に吸収合併される予定<ref>{{Cite press release |和書|url=https://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS01810/c42c9a09/9d88/4561/b70d/344102d6f272/140120231030573888.pdf |title=完全子会社(新京成電鉄株式会社)の吸収合併(簡易合併・略式合併)に関するお知らせ |format= PDF |access-date=2023-11-01 |publisher=京成電鉄 |date=2023-10-31}} </ref>。これにより、今後中小私鉄の事業者が新たに準大手私鉄に昇格が行われない限り、東日本より準大手私鉄が消滅する。
|<ref>[https://www.shinkeisei.co.jp/corporate/ 会社概要] - 新京成電鉄</ref>
|-
| style="text-align:right" | 2
| data-sort-value="せ" | [[泉北高速鉄道]]<br />(泉北高速、泉北、泉鉄{{Efn|グループ企業に「泉鉄産業株式会社」がある。}})
| data-sort-value="272191" | [[大阪府]]<br />[[和泉市]]
| style="white-space:nowrap" | [[1965年]](昭和40年)<br />[[12月24日]]
| style="text-align:right" | 4,000
| style="text-align:right" | 14.3
| style="text-align:right" | 6
| [[南海グループ]]・[[泉北高速鉄道#グループ会社|泉北高速鉄道グループ]](旧・OTKグループ)<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei" /><br />[[2014年]][[6月30日]]までは[[大阪府]]などが出資する[[第三セクター鉄道|第三セクター]]で、社名は「大阪府都市開発<ref name="nandemo" />」であった。<br />2025年度の早期に親会社で大手私鉄の[[南海電気鉄道]]に吸収合併される予定<ref>{{cite press release |和書|url=https://www.nikkei.com/nkd/disclosure/tdnr/20231220505776/?fbclid=PAAaYd0o7dXdXLrxrkPgZGca9D0mGbiToiQAeOIMVnXggqP16ayEgvmVGTwIg_aem_Ad7ny0Q_VoDmKZy_FJ_Q9dJNDVSOO3BYnb3e79qkTQTDNJXAJX7OKMWW1ZlSEi1i6FU|title=連結子会社である泉北高速鉄道株式会社との経営統合に関する基本合意のお知らせ|publisher=南海電気鉄道|date=2023-12-20|access-date=2023-12-20}}</ref>。
|<ref>[http://www.semboku.jp/company/company/outline/ 会社概要] 、[http://www.semboku.jp/station/ 路線図] - 泉北高速鉄道</ref>
|-
| style="text-align:right" | 3
| data-sort-value="き" | [[北大阪急行電鉄]]<br />(北大阪急行、北急)
| data-sort-value="272035" | 大阪府<br />[[豊中市]]
| style="white-space:nowrap" | [[1967年]](昭和42年)<br />[[12月11日]]
| style="text-align:right" | 1,500
| style="text-align:right" | 5.9
| style="text-align:right" | 4
|[[第三セクター鉄道|第三セクター]]<br />[[阪急阪神東宝グループ]]<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei" />
|<ref>[https://www.kita-kyu.co.jp/company/profile.html 会社概要]、[https://www.kita-kyu.co.jp/traffic/index.html 路線図・各駅情報] - 北大阪急行電鉄</ref>
|-
| style="text-align:right" | 4
| data-sort-value="さ" | [[山陽電気鉄道]]<br />(山陽電鉄、山陽、山電)
| data-sort-value="281069" | 兵庫県<br />神戸市[[長田区]]
| style="white-space:nowrap" | [[1933年]](昭和8年)<br />[[6月6日]]
| style="text-align:right" | 10,090
| style="text-align:right" | 63.2
| style="text-align:right" | 46
|東証プライム上場{{Efn|name="大証"|2013年7月12日までは[[大阪証券取引所|大証]]一部に上場していたが、東証との合併による大証の現物株式取引終了に伴い、東証一部上場となった。}}<br />[[山陽電気鉄道#関連会社|山陽電鉄グループ]]<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei" />
|<ref>[http://www.sanyo-railway.co.jp/company/outline.html 会社概要]、[http://www.sanyo-railway.co.jp/railway/station/index.html 路線図・駅情報] - 山陽電車</ref>
|-
| style="text-align:right" | 5
| data-sort-value="こ" | [[神戸高速鉄道]]<br />(神戸高速)
| data-sort-value="281107" | [[兵庫県]]<br />[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]
| style="white-space:nowrap" | [[1958年]](昭和33年)<br />[[10月2日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 7.6
| style="text-align:right" | 6
|[[第三セクター鉄道|第三セクター]]<br />[[阪急阪神東宝グループ]]<br />日本民営鉄道協会'''非加盟'''<ref name="kamei" />
|<ref>[http://www.kobe-kousoku.jp/company.html 会社概要]、[http://www.kobe-kousoku.jp/business.html 事業概要] - 神戸高速鉄道</ref>
|-
|}
=== 過去の準大手私鉄 ===
{| class="wikitable" style="font-size:85%"
|-
! style="width:3em" | 現行<br />区分
! style="width:6em" | 会社名<br />(略称)
! style="width:6em" | 本社所在地
! style="width:10em" | 設立
! style="white-space:nowrap" | 資本金<br />(百万円)<!--端数切捨て-->
! style="white-space:nowrap" | 旅客営業<br />粁程 (km)
! style="white-space:nowrap" | 駅数<br />(駅)
! 備考
! 出典
|-
| style="text-align:right" | 大手
|[[相模鉄道]]<br />(相鉄)
|[[神奈川県]]<br />[[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]
|[[1964年]](昭和39年)<br />[[11月24日]]
| style="text-align:right" | 100
| style="text-align:right" | 35.9
| style="text-align:right" | 25
|東証一部上場<br />[[相鉄ホールディングス#相鉄グループ|相鉄グループ]]・[[相鉄ホールディングス|相鉄HD]]完全子会社<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei" /><br />[[1990年]][[5月31日]]、日本民営鉄道協会より大手私鉄への昇格が承認された<ref>[https://www.sotetsu.co.jp/media/2019/trans/group/history/pdf/100years_018.pdf 相鉄グループ100年史 年表] p.388(年表15頁)、相鉄グループ、2021年9月9日閲覧。</ref>。
|<ref>[https://www.mintetsu.or.jp/activity/databook/pdf/23databook_p02-05.pdf 大手民鉄の現況(単体)] - 大手民鉄データブック、日本民営鉄道協会</ref>
|-
| style="text-align:right" | 中小
|[[神戸電鉄]]<br />(神鉄)
|兵庫県<br />神戸市[[兵庫区]]
|[[1926年]]([[大正]]15年)<br />[[3月27日]]
| style="text-align:right" | 11,710
| style="text-align:right" | 69.6
| style="text-align:right" | 47
|東証一部上場{{Efn|name="大証"}}<br />[[阪急阪神東宝グループ]]・[[神戸電鉄グループ]]<br />日本民営鉄道協会加盟<ref name="kamei" /><br />国土交通省監修・財団法人運輸政策研究機構発行の『数字でみる鉄道』では、[[2004年]]版までは準大手民鉄に分類されていたが、[[2005年]]版以降では中小民鉄に分類されている。つまり2005年[[4月1日]]付で中小私鉄に降格した。<!-- さらに有力な資料求む-->
|<ref>[https://www.shintetsu.co.jp/company/guidance/index.html 会社案内]、[https://www.shintetsu.co.jp/railway/station/index.html 駅・電車の情報] - 神戸電鉄</ref>
|-
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[大手私鉄]]
* [[鉄道事業者#大手私鉄・準大手私鉄・中小私鉄の区分]]
* [[日本民営鉄道協会]]
== 外部リンク ==
* [https://www.mintetsu.or.jp/ 日本民営鉄道協会]
{{大手私鉄}}
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[[Category:日本の鉄道事業者|*2しゆんおおてしてつ]]
[[Category:大手私鉄・準大手私鉄|*]]
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16,339 |
京成押上線
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押上線(おしあげせん)は、東京都墨田区の押上駅と葛飾区の青砥駅を結ぶ京成電鉄の鉄道路線。都営地下鉄浅草線と京成電鉄本線をつないでいる。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。
営業キロ5.7 kmの短い路線で、沿線は密集した住宅地・町工場に囲まれている。起点の押上駅を介して都営地下鉄浅草線、京急線との直通運転を行っており、浅草・日本橋・銀座(東銀座駅)・新橋といった東京の商業・業務中心地と直結し、東京国際空港(羽田空港)方面にもアクセスする。
また、本線および成田スカイアクセス線直通により成田国際空港(成田空港)を結んでおり、短距離ながらも京成の主要幹線であると同時に東京の2つの国際空港を都心経由でつなぐ大動脈の一翼を成す。一方、京成の看板列車といえるスカイライナーは押上線に入らず本線京成上野駅を発着する。
都営地下鉄浅草線との直通運転によって、早朝・深夜を除き事実上浅草線と一体化した運転系統となっている。さらに泉岳寺・京急本線品川を経由して京急本線・久里浜線(横浜・三崎口方面)・空港線(羽田空港方面)と直通運転を行っている。終点の青砥駅においても、隣駅の京成高砂駅経由で本線(京成船橋方面)・北総鉄道北総線(千葉ニュータウン方面)・成田スカイアクセス線(成田湯川経由成田空港方面)に乗り入れる列車が多い。さらには東成田線東成田駅を経由して芝山鉄道線(芝山千代田方面)に直通する列車もある。また直接ではないが、青砥駅で本線の京成上野方面列車に乗り換えて、日暮里・京成上野方面に向かう乗客も多い。
多岐にわたる直通運転が行われているため、自社のほかに東京都交通局・京浜急行電鉄・北総鉄道の合計4事業者の車両が走行している。
京成電鉄(当時は京成電気軌道)の最初の開業区間は、1912年に開業した現在の当路線と本線の一部にあたる押上 - 江戸川間と、金町線の一部の京成高砂 - 柴又間である。京成におけるターミナルは押上駅が最初であり、押上 - 青砥間は本線の一部であった。当初は押上駅から浅草方面への延伸を目指していたが、計画を変更して上野公園駅(現:京成上野駅)から日暮里駅を経て青砥駅までを結ぶ路線が開業してからは本線の地位をそちらに譲り、押上 - 青砥間は押上線となった。
1960年に都営1号線(現在の浅草線)と直通運転が開始され、押上線は京成電鉄における都心直結路線としての機能が確立し、本線のターミナルである京成上野駅・日暮里駅よりも多くの乗客数を輸送する路線となる。なお、私鉄路線 - 地下鉄との直通運転は、日本初であった。
1991年に北総線が京成高砂駅まで延伸すると、北総線 - 都心間のルートの一部を担うこととなった。さらにエアポート快特の運行開始後は、成田空港 - 羽田空港の両空港間を1本の列車で結ぶルートの一部となった。京成線内快速運転開始後は一時両空港を結ぶ列車は大幅に減便されたものの、成田スカイアクセス線の開業後に新しく列車種別に空港アクセスを目的としたアクセス特急が設定され、このアクセス特急による両駅を結ぶ列車が再び増えた。このように、京成本線と都心を直結する連絡線としての機能のほかに、両空港のアクセスを受け持つ中継線としての機能を持つ路線ともなった。
前述のとおり、京成本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)・芝山鉄道線・北総鉄道北総線・都営浅草線・京急線と直通運転を行っており、行き先・列車種別・運行系統は多岐にわたる。
快速以上の列車種別の押上線内停車駅はいずれも押上駅と青砥駅の2駅のみで、線内の途中駅はすべて通過する。一方で浅草線内では同線内「エアポート快特」となる列車以外は各駅に停車する。このため、押上線内普通以外の種別は(押上駅で種別変更する列車など一部を除く)、京急線・北総線・京成本線京成高砂駅以東・成田スカイアクセスでの種別に合わせた案内をしている。ただし、京成では「快速特急」と呼称するが、京急では「快特」と呼称されるほか、京成では「エアポート快特」の呼称は用いない。他方では京成における「急行」の呼称は廃止された。そのため、たとえば浅草線内「エアポート快特」で運転される青砥駅・京成高砂駅発着列車は当線内は「快速特急」として案内される。また、浅草線内「急行」・京急線内「エアポート急行」で運転される青砥駅発着列車は当線内は「快速」として案内される。
押上駅 - 青砥駅間のみを運行する列車は上り2本・下り5本(土休日は上り2本のみ)の普通列車のみで、それ以外の列車は他の路線に乗り入れている。押上線内では速達列車・普通での運用であっても、都営浅草線・京急線では列車種別が異なる運用が多く、上り方面(押上線から都心・京急線方面)においては押上駅で、下り方面(京急線から押上線方面)においては京急線の品川駅あるいは押上駅で、それぞれ列車種別の変更をしている。ただし都営浅草線内は、エアポート快特以外、すべての列車種別が各駅停車である。
日中の運転本数は1時間あたり各駅に停車する普通(全列車京急線直通、京急線内快特)と、快速・アクセス特急・快速特急などの優等列車がそれぞれ6本ずつ設定されており、40分周期での運転パターンを構成している。朝ラッシュ時は最ピーク1時間に23本の設定があり、京成本線 - 押上線 - 都営浅草線の速達列車が多く設定されるが、都営浅草線は前述の通り、エアポート快特以外は各駅停車で、ラッシュ時は待避設備のある駅がないため、エアポート快特は上りの1本のみとなっている。
線内で通過列車の待避が可能な駅である2面3線の八広駅は、待避線を上下線で共有使用しているために上下列車が同時に列車通過待ちをすることができない。朝ラッシュ時は上り方面に5分に1本程度、速達列車が設定されており、八広駅で通過待ちを行う普通列車が多く、待避設備を上りに占有されているため、この時間帯の下りの速達列車は約15 - 45分間隔で運転されるアクセス特急のみである。
なお、朝の京成高砂行き普通列車の中には京成高砂駅で京成佐倉・京成成田方面への快速となる列車があるほか、平日夕夜間の普通京成高砂行き1本は京成高砂から成田スカイアクセス線経由のアクセス特急成田空港行きとなる。
逆に夜は下り方面に速達列車が設定されるが、1時間あたり最大6本と朝のラッシュ時よりは少なく、八広駅で待避を行う普通列車も少ない。しかしこの時間帯の上りの速達列車は、やはり30分に1本程度である。
夜には京成成田方面からの京成高砂行き快速が、京成高砂駅で押上線普通になる列車がある。
車両編成はほとんどが8両での運行だが、平日深夜に6両の普通列車が押上駅 - 京成高砂駅間に1往復設定されている。都営浅草線に直通する6両編成の運転は2014年11月8日のダイヤ改正で全廃された。2010年7月2日までは深夜と早朝に各1本押上駅発着の4両編成の金町線直通列車があった。1985年10月のダイヤ改正までは、4両の都営線直通も設定されていた。
「快速特急」「特急」「通勤特急」「快速」は京成本線・芝山鉄道線と直通する種別であり、「アクセス特急」「普通」は北総線・成田スカイアクセス線と直通する種別である。「特急」は双方とも存在する。なお例外として、押上線内発着の「快速特急」「快速」「普通」や、京成本線内のみを快速運転する「普通」も存在する。
京成電鉄では2006年12月に登場した列車種別である。朝夕は京成本線 - 都営浅草線を結ぶ通勤・通学向けの速達列車で、朝は上り方面、夜は下り方面がそれぞれ運行される。平日の夜間に一部、芝山鉄道線の芝山千代田行きの列車がある。 2014年11月の一斉ダイヤ改正からはアクセス特急と交互に40分に1本の間隔で日中にも青砥駅・京成高砂駅発着で設定されている。当初は、羽田空港 - 青砥駅・京成高砂駅間で京急線内快特(京急蒲田駅に停車)・浅草線内エアポート快特として運転し、青砥駅で京成本線経由特急もしくは普通列車と、押上駅で横浜方面快特に接続していたが、2022年2月26日ダイヤ改正により、三崎口駅 - 京成高砂駅間の全線を快特(快速特急)として運転する列車が設定されたものの、同年11月26日のダイヤ改正で、京急線内の種別が特急に変更されたことに伴い、京成線内の種別も特急に変更された。現在は、平日の青砥始発三崎口行き1本のみ快速特急(押上から快特)として運行されている。
成田空港線(成田スカイアクセス線)を経由する列車。ほぼ終日運行される。
日中の大半の列車が羽田空港第1・第2ターミナル発着で都営浅草線内・京急線内をエアポート快特として運行する。この場合は北行・南行とも押上駅で種別変更を行う。日中は青砥駅で京成本線経由快速特急または普通列車と、押上駅で横浜方面特急に接続する。
日中以外の時間帯など、浅草線内各駅に停車する列車も存在する。この場合、成田空港行きは品川駅からアクセス特急(京成線内の種別)と、羽田空港行きは押上駅から急行・快特(京急線内の種別)と案内される。
2022年2月26日ダイヤ改正により、それまで京成上野発着で運転されていた夕方・夜間も押上線直通に変更された。
平日朝夕は北総線・京成本線 - 都営浅草線を結ぶ通勤・通学向けの速達列車として運行される。平日上り北総線からの特急は、京成高砂駅と青砥駅において京成本線の通勤特急京成上野行きと接続する。また、日中は平日・土休日とも京急線横浜方面の直通列車のうち半数を特急として運転しているほか、平日上り深夜に1本、青砥発神奈川新町行き、土休日下りに1本、京急久里浜発京成高砂行きを運行している。
現行のものは2002年10月に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、快特と同じく通勤・通学向けの速達列車である。
2002年10月12日に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、日中の運行を主体とするが朝夜に運行される列車もある。土休日夕方に関しては、平日の快速特急・特急・通勤特急に代わる京成本線方面直通速達列車として機能している。 日中は西馬込駅発着で、途中の泉岳寺駅で泉岳寺折り返し横浜方面快特に接続する。京成車を中心に一部列車は都営車・京急車で運転される。
押上線の「普通」(各駅停車)は都営浅草線と直通する列車を主体とし、北総線・都営浅草線(西馬込駅発着)・京急線(羽田空港・横浜方面発着)と運用範囲が多方面に及ぶ。ただし、西馬込駅や押上駅を発着とする列車は少なく、大多数が京急線直通であり、日中は4本に1本が三崎口駅発着となるほかはすべて羽田空港発着である。また、押上線 - 京成本線(京成船橋方面)とを直通する普通の設定はないが、朝下りに京成高砂駅で列車番号を変更して京成本線の快速となる列車(押上線内は普通京成高砂行きと表示される)が、夜間上りに同駅で京成本線の快速から種別・列車番号を変更して普通となる列車が、それぞれ設定されている。なお、京急線直通列車は品川発着の列車を除いて南行きは押上駅で、北行きは品川駅で種別が変わる(羽田空港方面は京急線内快特・特急・エアポート急行、横浜方面は京急線内快特もしくは特急。特に日中時間帯は羽田空港方面の列車は快特または特急、横浜方面の列車は全列車特急となる)。運行形態については「都営地下鉄浅草線」を参照のこと。
1970年5月3日より5月休日に運行された。京急と京成の車両を2本ずつ使用した上で2往復ずつ運行し、京成成田行は「成田山号」、三浦海岸行は「城ヶ島マリンパーク号」と愛称を変えていた。停車駅は京急は快速特急、都営線内は各駅、京成線内は特急停車駅で運行されていた。同年7・8月の休日には逗子海岸駅発着を主に京成成田行は「パシフック号」、逗子海岸行は「逗子号」として3往復運行。この時の停車駅は京成・京急共に特急停車駅と同じとした。
その後1975年までは毎年1月、3月下旬、4月末 - 5月末、9月 - 11月に運行されたが1976年以降は1月のみの運行となった。1978年1月末まで運行。
2018年7月7日・8日と8月18日・19日には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された。
車両は初日の「成田山号」は京急1500形1707編成が、「城ケ島・マリンパーク号」は京成3000形3038編成が用いられ、2日目はその逆とし、京急久里浜線早朝ローカル運用2本も京成車が代走している。
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は京成曳舟駅 → 押上駅間であり、ピーク時(7:40 - 8:40)の混雑率は128%である。
押上駅で都営地下鉄浅草線に直通するため、同駅は京成電鉄で最も乗降人員が多い駅となっている。押上駅で東京メトロ半蔵門線に接続しているため、直通先の都営地下鉄浅草線よりも混雑率が高い。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "日中の大半の列車が羽田空港第1・第2ターミナル発着で都営浅草線内・京急線内をエアポート快特として運行する。この場合は北行・南行とも押上駅で種別変更を行う。日中は青砥駅で京成本線経由快速特急または普通列車と、押上駅で横浜方面特急に接続する。",
"title": "運転"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "日中以外の時間帯など、浅草線内各駅に停車する列車も存在する。この場合、成田空港行きは品川駅からアクセス特急(京成線内の種別)と、羽田空港行きは押上駅から急行・快特(京急線内の種別)と案内される。",
"title": "運転"
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"text": "2022年2月26日ダイヤ改正により、それまで京成上野発着で運転されていた夕方・夜間も押上線直通に変更された。",
"title": "運転"
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"text": "平日朝夕は北総線・京成本線 - 都営浅草線を結ぶ通勤・通学向けの速達列車として運行される。平日上り北総線からの特急は、京成高砂駅と青砥駅において京成本線の通勤特急京成上野行きと接続する。また、日中は平日・土休日とも京急線横浜方面の直通列車のうち半数を特急として運転しているほか、平日上り深夜に1本、青砥発神奈川新町行き、土休日下りに1本、京急久里浜発京成高砂行きを運行している。",
"title": "運転"
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"text": "現行のものは2002年10月に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、快特と同じく通勤・通学向けの速達列車である。",
"title": "運転"
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"text": "2002年10月12日に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、日中の運行を主体とするが朝夜に運行される列車もある。土休日夕方に関しては、平日の快速特急・特急・通勤特急に代わる京成本線方面直通速達列車として機能している。 日中は西馬込駅発着で、途中の泉岳寺駅で泉岳寺折り返し横浜方面快特に接続する。京成車を中心に一部列車は都営車・京急車で運転される。",
"title": "運転"
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"text": "押上線の「普通」(各駅停車)は都営浅草線と直通する列車を主体とし、北総線・都営浅草線(西馬込駅発着)・京急線(羽田空港・横浜方面発着)と運用範囲が多方面に及ぶ。ただし、西馬込駅や押上駅を発着とする列車は少なく、大多数が京急線直通であり、日中は4本に1本が三崎口駅発着となるほかはすべて羽田空港発着である。また、押上線 - 京成本線(京成船橋方面)とを直通する普通の設定はないが、朝下りに京成高砂駅で列車番号を変更して京成本線の快速となる列車(押上線内は普通京成高砂行きと表示される)が、夜間上りに同駅で京成本線の快速から種別・列車番号を変更して普通となる列車が、それぞれ設定されている。なお、京急線直通列車は品川発着の列車を除いて南行きは押上駅で、北行きは品川駅で種別が変わる(羽田空港方面は京急線内快特・特急・エアポート急行、横浜方面は京急線内快特もしくは特急。特に日中時間帯は羽田空港方面の列車は快特または特急、横浜方面の列車は全列車特急となる)。運行形態については「都営地下鉄浅草線」を参照のこと。",
"title": "運転"
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{
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"text": "1970年5月3日より5月休日に運行された。京急と京成の車両を2本ずつ使用した上で2往復ずつ運行し、京成成田行は「成田山号」、三浦海岸行は「城ヶ島マリンパーク号」と愛称を変えていた。停車駅は京急は快速特急、都営線内は各駅、京成線内は特急停車駅で運行されていた。同年7・8月の休日には逗子海岸駅発着を主に京成成田行は「パシフック号」、逗子海岸行は「逗子号」として3往復運行。この時の停車駅は京成・京急共に特急停車駅と同じとした。",
"title": "運転"
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"text": "その後1975年までは毎年1月、3月下旬、4月末 - 5月末、9月 - 11月に運行されたが1976年以降は1月のみの運行となった。1978年1月末まで運行。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2018年7月7日・8日と8月18日・19日には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "車両は初日の「成田山号」は京急1500形1707編成が、「城ケ島・マリンパーク号」は京成3000形3038編成が用いられ、2日目はその逆とし、京急久里浜線早朝ローカル運用2本も京成車が代走している。",
"title": "運転"
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{
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"text": "2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は京成曳舟駅 → 押上駅間であり、ピーク時(7:40 - 8:40)の混雑率は128%である。",
"title": "利用状況"
},
{
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"tag": "p",
"text": "押上駅で都営地下鉄浅草線に直通するため、同駅は京成電鉄で最も乗降人員が多い駅となっている。押上駅で東京メトロ半蔵門線に接続しているため、直通先の都営地下鉄浅草線よりも混雑率が高い。",
"title": "利用状況"
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"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、1928年 - 1936年には1947年に廃駅となった向島駅から白鬚線が分岐していた。",
"title": "歴史"
}
] |
押上線(おしあげせん)は、東京都墨田区の押上駅と葛飾区の青砥駅を結ぶ京成電鉄の鉄道路線。都営地下鉄浅草線と京成電鉄本線をつないでいる。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。
|
{{Redirect|押上線|ハンプヤードの配線における押上線|操車場 (鉄道)}}
<!--検証可能性を満たさない部分があれば、該当箇所にテンプレートを貼付した上でノートで具体的に指摘してください-->
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keisei Logo.svg|45px|link=京成電鉄]] 押上線
|路線色=#005aaa
|ロゴ=File:Number prefix Keisei.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像=Keisei-Oshiage-line Series3700 3848.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=[[京成3700形電車|3700形]]による快速電車<br>(2021年7月17日 [[四ツ木駅]])
|国={{JPN}}
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|路線図=File:Keisei Electric Railway Linemap.svg
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#005aaa|#fff}}
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{{BS5|||||||'''押上駅以遠の直通区間'''|}}
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|}
|}
[[File:Keisei-aoto-platform-2nd-floor.jpg|thumb|240px|本線上野方面(左)と押上線が分かれる[[青砥駅]](上野・押上方面のりば)]]
'''押上線'''(おしあげせん)は、[[東京都]][[墨田区]]の[[押上駅]]と[[葛飾区]]の[[青砥駅]]を結ぶ[[京成電鉄]]の[[鉄道路線]]。[[都営地下鉄浅草線]]と京成電鉄[[京成本線|本線]]をつないでいる。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KS'''。
== 概要 ==
営業キロ5.7 kmの短い路線で、沿線は密集した住宅地・町工場に囲まれている。起点の[[押上駅]]を介して[[都営地下鉄浅草線]]、[[京浜急行電鉄|京急]]線との[[直通運転]]を行っており、[[浅草]]・[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]・[[銀座]]([[東銀座駅]])・[[新橋 (東京都港区)|新橋]]といった東京の商業・業務中心地と直結し、[[東京国際空港]](羽田空港)方面にもアクセスする。
また、本線および[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]直通により[[成田国際空港]](成田空港)を結んでおり、短距離ながらも京成の主要幹線であると同時に東京の2つの国際空港を都心経由でつなぐ大動脈の一翼を成す。一方、京成の看板列車といえる[[スカイライナー]]は押上線に入らず本線京成上野駅を発着する。
都営地下鉄浅草線との直通運転によって、早朝・深夜を除き事実上浅草線と一体化した運転系統となっている。さらに[[泉岳寺駅|泉岳寺]]・[[京急本線]][[品川駅|品川]]を経由して京急本線・[[京急久里浜線|久里浜線]](横浜・三崎口方面)・[[京急空港線|空港線]]([[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面)と直通運転を行っている。終点の[[青砥駅]]においても、隣駅の[[京成高砂駅]]経由で[[京成本線|本線]](京成船橋方面)・[[北総鉄道北総線]](千葉ニュータウン方面)・成田スカイアクセス線(成田湯川経由成田空港方面)に乗り入れる列車が多い。さらには[[京成東成田線|東成田線]][[東成田駅]]を経由して[[芝山鉄道線]](芝山千代田方面)に直通する列車もある。また直接ではないが、青砥駅で本線の京成上野方面列車に乗り換えて、日暮里・京成上野方面に向かう乗客も多い。
多岐にわたる直通運転が行われているため、自社のほかに[[東京都交通局]]・[[京浜急行電鉄]]・[[北総鉄道]]の合計4事業者の車両が走行している。
京成電鉄(当時は京成電気軌道)の最初の開業区間は、1912年に開業した現在の当路線と本線の一部にあたる押上 - 江戸川間と、[[京成金町線|金町線]]の一部の京成高砂 - 柴又間である。京成におけるターミナルは押上駅が最初であり、押上 - 青砥間は本線の一部であった。当初は押上駅から浅草方面への延伸を目指していたが、計画を変更して上野公園駅(現:[[京成上野駅]])から[[日暮里駅]]を経て青砥駅までを結ぶ路線が開業してからは本線の地位をそちらに譲り、押上 - 青砥間は押上線となった。
1960年に都営1号線(現在の浅草線)と直通運転が開始され、押上線は京成電鉄における都心直結路線としての機能が確立し、本線のターミナルである京成上野駅・日暮里駅よりも多くの乗客数を輸送する路線となる。なお、私鉄路線 - 地下鉄との直通運転は、日本初であった。
1991年に北総線が京成高砂駅まで延伸すると、北総線 - 都心間のルートの一部を担うこととなった。さらに[[エアポート快特]]の運行開始後は、成田空港 - 羽田空港の両空港間を1本の列車で結ぶルートの一部となった。京成線内快速運転開始後は一時両空港を結ぶ列車は大幅に減便されたものの、成田スカイアクセス線の開業後に新しく列車種別に空港アクセスを目的としたアクセス特急が設定され、このアクセス特急による両駅を結ぶ列車が再び増えた。このように、京成本線と都心を直結する連絡線としての機能のほかに、両空港のアクセスを受け持つ中継線としての機能を持つ路線ともなった。
=== 路線データ ===
* 路線距離:5.7 km
* [[軌間]]:1435 mm
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]
* 最高速度:105 km/h<ref name="terada" />
== 運転 ==
前述のとおり、[[京成本線]]・[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)・[[芝山鉄道線]]・[[北総鉄道北総線]]・都営浅草線・[[京急本線|京急線]]と直通運転を行っており、行き先・[[列車種別]]・運行系統は多岐にわたる。
快速以上の列車種別の押上線内停車駅はいずれも押上駅と青砥駅の2駅のみで、線内の途中駅はすべて通過する。一方で浅草線内では同線内「[[エアポート快特]]」となる列車以外は各駅に停車する。このため、押上線内普通以外の種別は(押上駅で種別変更する列車など一部を除く)、京急線・北総線・京成本線京成高砂駅以東・成田スカイアクセスでの種別に合わせた案内をしている。ただし、京成では「快速特急」と呼称するが、京急では「快特」と呼称されるほか、京成では「エアポート快特」の呼称は用いない。他方では京成における「急行」の呼称は廃止された。そのため、たとえば浅草線内「エアポート快特」で運転される青砥駅・京成高砂駅発着列車は当線内は「快速特急」として案内される。また、浅草線内「急行」・京急線内「エアポート急行」で運転される青砥駅発着列車は当線内は「快速」として案内される。
押上駅 - 青砥駅間のみを運行する列車は上り2本・下り5本(土休日は上り2本のみ)の普通列車のみで、それ以外の列車は他の路線に乗り入れている。押上線内では速達列車・普通での運用であっても、都営浅草線・京急線では列車種別が異なる運用が多く、上り方面(押上線から都心・京急線方面)においては押上駅で、下り方面(京急線から押上線方面)においては京急線の[[品川駅]]あるいは押上駅で、それぞれ列車種別の変更をしている。ただし都営浅草線内は、エアポート快特以外、すべての列車種別が各駅停車である。
日中の運転本数は1時間あたり各駅に停車する普通(全列車京急線直通、京急線内快特)と、快速・アクセス特急・快速特急などの優等列車がそれぞれ6本ずつ設定されており、40分周期での運転パターンを構成している。朝ラッシュ時は最ピーク1時間に23本の設定があり、京成本線 - 押上線 - 都営浅草線の速達列車が多く設定されるが、都営浅草線は前述の通り、エアポート快特以外は各駅停車で、ラッシュ時は待避設備のある駅がないため、エアポート快特は上りの1本のみとなっている。
線内で通過列車の待避が可能な駅である2面3線の八広駅は、待避線を上下線で共有使用しているために上下列車が同時に列車通過待ちをすることができない。朝ラッシュ時は上り方面に5分に1本程度、速達列車が設定されており、八広駅で通過待ちを行う普通列車が多く、待避設備を上りに占有されているため、この時間帯の下りの速達列車は約15 - 45分間隔で運転されるアクセス特急のみである。
なお、朝の京成高砂行き普通列車の中には京成高砂駅で京成佐倉・京成成田方面への快速となる列車があるほか、平日夕夜間の普通京成高砂行き1本は京成高砂から成田スカイアクセス線経由のアクセス特急成田空港行きとなる。
逆に夜は下り方面に速達列車が設定されるが、1時間あたり最大6本と朝のラッシュ時よりは少なく、八広駅で待避を行う普通列車も少ない。しかしこの時間帯の上りの速達列車は、やはり30分に1本程度である。
夜には京成成田方面からの京成高砂行き快速が、京成高砂駅で押上線普通になる列車がある。
車両編成はほとんどが8両での運行だが、平日深夜に6両の普通列車が押上駅 - 京成高砂駅間に1往復設定されている。都営浅草線に直通する6両編成の運転は2014年11月8日のダイヤ改正で全廃された。2010年7月2日までは深夜と早朝に各1本押上駅発着の4両編成の[[京成金町線|金町線]]直通列車があった。1985年10月のダイヤ改正までは、4両の都営線直通も設定されていた。
=== 列車種別 ===
「快速特急」「特急」「通勤特急」「快速」は京成本線・芝山鉄道線と直通する種別であり、「アクセス特急」「普通」は北総線・成田スカイアクセス線と直通する種別である。「特急」は双方とも存在する。なお例外として、押上線内発着の「快速特急」「快速」「普通」や、京成本線内のみを快速運転する「普通」も存在する。
==== 快速特急 ====
{{See also|京成本線#快速特急}}
京成電鉄では[[2006年]]12月に登場した列車種別である<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061208024317if_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/18-047.pdf 12月10日 京成線ダイヤ改正実施 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)</ref>。朝夕は京成本線 - 都営浅草線を結ぶ通勤・通学向けの速達列車で、朝は上り方面、夜は下り方面がそれぞれ運行される。平日の夜間に一部、芝山鉄道線の[[芝山千代田駅|芝山千代田]]行きの列車がある。
2014年11月の一斉ダイヤ改正からはアクセス特急と交互に40分に1本の間隔で日中にも青砥駅・京成高砂駅発着で設定されている。当初は、羽田空港 - 青砥駅・京成高砂駅間で京急線内快特(京急蒲田駅に停車)・浅草線内エアポート快特として運転し、青砥駅で京成本線経由特急もしくは普通列車と、[[押上駅]]で[[横浜駅|横浜]]方面[[快速特急#京浜急行電鉄|快特]]に接続していたが、2022年2月26日ダイヤ改正により、三崎口駅 - 京成高砂駅間の全線を快特(快速特急)として運転する列車が設定されたものの、同年11月26日のダイヤ改正で、京急線内の種別が特急に変更されたことに伴い、京成線内の種別も特急に変更された。現在は、平日の青砥始発三崎口行き1本のみ快速特急(押上から快特)として運行されている。
==== アクセス特急 ====
{{See also|京成成田空港線#アクセス特急}}
[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)を経由する列車<ref name = 2010-7>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20131109110321fw_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)</ref>。ほぼ終日運行される。
日中の大半の列車が羽田空港第1・第2ターミナル発着で都営浅草線内・京急線内をエアポート快特として運行する。この場合は北行・南行とも押上駅で種別変更を行う。日中は青砥駅で京成本線経由快速特急または普通列車と、押上駅で横浜方面特急に接続する。
日中以外の時間帯など、浅草線内各駅に停車する列車も存在する。この場合、成田空港行きは品川駅からアクセス特急(京成線内の種別)と、羽田空港行きは押上駅から急行<ref>本来はエアポート急行であるが、「エアポート」は浅草線内では略される。</ref>・快特<ref>浅草線内各駅停車、京急線内のみエアポート快特となる列車を含む。</ref>(京急線内の種別)と案内される。
2022年2月26日ダイヤ改正により、それまで京成上野発着で運転されていた夕方・夜間も押上線直通に変更された。
<gallery widths="180px">
Keikyu-Type1000-169.jpg|押上線内のアクセス特急。浅草線以南では表記と種別が変わる。
</gallery>
==== 特急 ====
平日朝夕は北総線・京成本線 - 都営浅草線を結ぶ通勤・通学向けの速達列車として運行される。平日上り北総線からの特急は、[[京成高砂駅]]と[[青砥駅]]において京成本線の通勤特急京成上野行きと接続する。また、日中は平日・土休日とも京急線横浜方面の直通列車のうち半数を特急として運転しているほか、平日上り深夜に1本、青砥発神奈川新町行き、土休日下りに1本、京急久里浜発京成高砂行きを運行している。
==== 通勤特急 ====
{{See also|京成本線#通勤特急}}
現行のものは[[2002年]]10月に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、快特と同じく通勤・通学向けの速達列車である。
==== 快速 ====
{{See also|京成本線#快速}}
2002年10月12日に登場した。京成本線 - 都営浅草線を結ぶ列車で、日中の運行を主体とするが朝夜に運行される列車もある。土休日夕方に関しては、平日の快速特急・特急・通勤特急に代わる京成本線方面直通速達列車として機能している。
日中は西馬込駅発着で、途中の[[泉岳寺駅]]で泉岳寺折り返し横浜方面快特に接続する。京成車を中心に一部列車は都営車・京急車で運転される。
==== 普通 ====
押上線の「普通」([[各駅停車]])は都営浅草線と直通する列車を主体とし、北総線・都営浅草線(西馬込駅発着)・京急線(羽田空港・横浜方面発着)と運用範囲が多方面に及ぶ。ただし、西馬込駅や押上駅を発着とする列車は少なく、大多数が京急線直通であり、日中は4本に1本が[[三崎口駅]]発着となるほかはすべて羽田空港発着である。また、押上線 - 京成本線([[京成船橋駅|京成船橋]]方面)とを直通する普通の設定はないが、朝下りに京成高砂駅で列車番号を変更して京成本線の快速となる列車(押上線内は普通京成高砂行きと表示される)が、夜間上りに同駅で京成本線の快速から種別・列車番号を変更して普通となる列車が、それぞれ設定されている。なお、京急線直通列車は品川発着の列車を除いて南行きは押上駅で、北行きは品川駅で種別が変わる(羽田空港方面は京急線内快特・特急・エアポート急行、横浜方面は京急線内快特もしくは特急。特に日中時間帯は羽田空港方面の列車は快特または特急、横浜方面の列車は全列車特急となる)。運行形態については「[[都営地下鉄浅草線]]」を参照のこと。
{{-}}
{{-}}
=== 過去の列車種別 ===
; [[急行列車|急行]]
: 日中は西馬込 - [[青砥駅|青砥]]・[[京成高砂駅|京成高砂]]間の設定([[泉岳寺駅|泉岳寺]]で[[京急本線|京急線]]始発[[快速特急|快特]]に接続)、夜下りは西馬込 - 北総線の設定となっていた(上りは1本だけ[[三崎口駅|三崎口]]発・京急線内快特)。北総線直通列車は、北総線内でも通過駅の設定がある。2010年5月の改正までの日中の青砥行き・京成高砂行きは、京急線からの直通快特が40分に1本の割合で押上線内を急行運転していた。また、夜下り1本に北総線 - 京急線の品川行きの列車があったが、ダイヤ改正で羽田空港行(京急線内エアポート急行)に延長された。品川以遠を行く京急線直通列車は押上で種別が変わっていた。2010年7月17日の成田スカイアクセス開業に伴うダイヤ改正で廃止された<ref name = 2010-7/>。
: 停車駅:(京急線・都営浅草線直通)- 押上 - 京成曳舟 - 京成立石 - 青砥 - 京成高砂
=== 過去の臨時列車 ===
==== 「成田山号」・「城ヶ島マリンパーク号」 ====
[[1970年]][[5月3日]]より5月休日に運行された。京急と京成の車両を2本ずつ使用した上で2往復ずつ運行し、京成成田行は「成田山号」、三浦海岸行は「城ヶ島マリンパーク号」と愛称を変えていた。停車駅は京急は[[快速特急]]、都営線内は各駅、京成線内は特急停車駅で運行されていた。同年7・8月の休日には逗子海岸駅発着を主に京成成田行は「パシフック号」、逗子海岸行は「逗子号」として3往復運行。この時の停車駅は京成・京急共に特急停車駅と同じとした。
その後[[1975年]]までは毎年[[1月]]、[[3月]]下旬、[[4月]]末 - [[5月]]末、[[9月]] - [[11月]]に運行されたが[[1976年]]以降は1月のみの運行となった。[[1978年]]1月末まで運行<ref>鉄道ピクトリアル 1997年1月臨時増刊号「京成電鉄」</ref>。
[[2018年]][[7月7日]]・[[7月8日|8日]]と[[8月18日]]・[[8月19日|19日]]には、3社局直通運転開始50周年を記念して復活運転が実施された<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180618HP_18064EW.html 6月21日で、神奈川県~東京都~千葉県が結ばれて50年 京急×都営交通×京成「相互直通50周年記念」キャンペーン実施 「成田山号」「城ヶ島・マリンパーク号」復刻運行や記念乗車券の発売!] - 京浜急行電鉄 2018年6月18日</ref><ref>[http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20180618_174518664514.pdf ≪京急電鉄・都営交通・京成電鉄≫相互直通50周年記念キャンペーンを実施] - 京成電鉄 2018年6月18日</ref>。
* 「成田山号」(三崎口発京成成田行)は三崎口発[[京成高砂駅|京成高砂]]行き定期特急からの延長運転(都営浅草線・京成押上線内普通、本来は京成高砂到着後、三崎口行快特として折り返し)、京成高砂からは特急停車駅に[[京成小岩駅|京成小岩]](定期快速を待避するための[[臨時停車]])を追加。
* 「城ケ島・マリンパーク号」(京成成田発三浦海岸行)は全区間[[臨時列車]]で、京成線内[[押上駅|押上]]までは特急、押上から都営浅草線・京急線内は[[快速特急|快特]]で運転(青砥発三崎口行定期快特の[[続行便]])。
車両は初日の「成田山号」は[[京急1500形電車|京急1500形1707編成]]が、「城ケ島・マリンパーク号」は[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形3038編成]]が用いられ、2日目はその逆とし<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/07/08/201000.html |title="成田山号"・"城ケ島マリンパーク号"運転 |date=2018-07-08 |website=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp |work=鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018-08-30}}</ref>、[[京急久里浜線]]早朝ローカル運用2本も京成車が代走している<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2018/07/09/150000.html |title=京成3000形が久里浜線の特急に使用される|date=2018-07-09 |website=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]・railf.jp |work=鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |accessdate=2018-08-30}}</ref>。
{{-}}
== 利用状況 ==
2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は京成曳舟駅 → 押上駅間であり、ピーク時(7:40 - 8:40)の[[混雑率]]は'''128%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
押上駅で都営地下鉄浅草線に直通するため、同駅は京成電鉄で最も乗降人員が多い駅となっている。押上駅で東京メトロ半蔵門線に接続しているため、直通先の都営地下鉄浅草線よりも混雑率が高い。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|最混雑区間(京成曳舟駅 → 押上駅間)輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送人員:人 !! 混雑率:%
|-
|1965年(昭和40年)
| 20 || 10,160 || 20,743 || style="background-color: #ffcccc;"|'''204'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間は青砥駅 → 京成立石駅間
|-
|1975年(昭和50年)
| 18 || 13,716 || 23,570 || '''172'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間は四ツ木駅 → 荒川駅間
|-
|1980年(昭和55年)
| 18 || 14,478 || 22,030 || '''152'''
|
|-
|1981年(昭和56年)
| 18 || 14,478 || 22,220 || '''153'''
|
|-
|1982年(昭和57年)
| 18 || 14,478 || 22,060 || '''152'''
|
|-
|1983年(昭和58年)
| 18 || 14,986 || 22,210 || '''148'''
|
|-
|1984年(昭和59年)
| 18 || 14,986 || 22,580 || '''151'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 19 || 15,748 || 23,960 || '''152'''
|
|-
|1986年(昭和61年)
| 19 || 15,748 || 24,750 || '''157'''
|
|-
|1987年(昭和62年)
| 19 || 15,748 || 25,270 || '''160'''
|
|-
|1988年(昭和63年)
| 19 || 16,002 || 25,610 || '''160'''
|
|-
|1989年(平成元年)
| 19 || 16,002 || 25,920 || '''162'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 19 || 16,002 || 26,210 || '''164'''
|style="text-align:left;"|1991年3月31日、北総鉄道北総線京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間開業
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| 19 || 19,304 || 31,240 || '''162'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| 19 || 19,304 || 32,520 || '''168'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| 19 || 19,304 || 32,880 || '''170'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| 19 || 19,304 || 32,790 || '''170'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 19 || 19,304 || 33,120 || '''172'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| 19 || 19,304 || 32,610 || '''169'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| 19 || 19,304 || 32,425 || '''168'''
|
|-
|1998年(平成10年)
| 19 || 19,304 || 32,416 || '''168'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 19 || 19,304 || 32,104 || '''166'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 19 || 19,304 || 31,996 || '''166'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 22 || 21,296 || || '''150'''
|style="text-align:left;"|最混雑区間を京成曳舟駅 → 押上駅間に変更
|-
|2002年(平成14年)
| 22 || 21,296 || 33,009 || '''155'''
|style="text-align:left;"|2003年3月19日、営団地下鉄半蔵門線水天宮前駅 - 押上駅間開業
|-
|2003年(平成15年)
| 22 || 21,296 || 33,650 || '''158'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| 22 || 21,296 || || '''159'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 22 || 21,296 || || '''159'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| 22 || 21,296 || 33,925 || '''159'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| 22 || 21,296 || 34,020 || '''160'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| 22 || 21,296 || 34,040 || '''160'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| 22 || 21,296 || 33,990 || '''160'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 24 || 23,232 || style="background-color: #ffcccc;"|37,070 || '''160'''
|style="text-align:left;"|2010年7月17日、京成成田空港線開業
|-
|2011年(平成23年)
| 24 || 23,232 || 35,948 || '''155'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 24 || 23,232 || 35,745 || '''154'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 24 || 23,232 || 35,655 || '''153'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 24 || 23,232 || 35,298 || '''152'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 24 || 23,232 || 35,338 || '''152'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 24 || 23,232 || 34,759 || '''150'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 24 || 23,232 || 33,230 || '''143'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 24 || 23,232 || 34,660 || '''149'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 24 || 23,232 || 34,411 || '''148'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
| 23 || 22,264 || style="background-color: #ccffff;"|20,327 || style="background-color: #ccffff;"|'''91'''
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
| 23 || 22,264 || 20,660 || '''93'''
|
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
| 23 || 22,264 || 28,465 || '''128'''
|
|}
== 歴史 ==
* [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]] 押上 - 曲金(現・京成高砂) - 伊予田(現・江戸川)間が開業。軌間1372mm。
* [[1913年]](大正2年)[[6月26日]] 曲金駅を高砂駅に改称。
* [[1914年]](大正3年)[[6月20日]] 曳舟(現・京成曳舟) - 四ツ木間に[[向島駅 (東京都)|向島駅]]開業。
* [[1922年]](大正11年)[[6月5日]] [[荒川放水路]]開削のため現在の八広付近 - 立石付近間を[[併用軌道]]から専用軌道の新線に切替え(京成全線から併用軌道が消滅)。
* [[1923年]](大正12年)[[7月11日]] 荒川駅(現・八広駅)開業。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[11月1日]] 青砥駅開業。
* [[1931年]](昭和6年)[[11月18日]] 曳舟駅・立石駅をそれぞれ京成曳舟駅・京成立石駅に改称。
* [[1932年]](昭和7年)[[9月1日]] 押上 - 京成曳舟間に[[京成請地駅]]開業。
* [[1943年]](昭和18年)10月 京成請地駅、向島駅休止。
* [[1944年]](昭和19年) 上野公園(現・京成上野) - 京成成田間を本線、押上 - 青砥間を押上線とする。
* [[1945年]](昭和20年)[[2月20日]] 全線を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。
* [[1947年]](昭和22年)[[3月1日]] 休止していた京成請地駅、向島駅を廃止。
* [[1959年]](昭和34年)[[11月11日]] 全線を[[標準軌]](1435mm軌間)に改軌。
* [[1960年]](昭和35年)[[12月4日]] 都営地下鉄1号線(現・浅草線)と相互直通運転開始<ref>[https://project-toei.jp/asakusa60th 都営浅草線開業60周年] 東京都交通局</ref>。都営地下鉄1号線向島検修場への分岐点として京成曳舟 - 荒川(現・八広)間に向島信号場開設。
* [[1968年]](昭和43年)[[11月15日]] 向島検修場廃止に伴い、向島信号場廃止。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月5日]] 旧荒川橋梁に[[タンカー]]が激しく衝突する事故が発生。上下線ともレールがくの字に曲がるほどの損傷を被る。荒川を跨ぐ荒川 - 四ツ木間が数日間運休になり、両駅でそれぞれ折り返し運転となる。<!---仮復旧後も新荒川橋梁が供用開始されるまでは、最徐行運転--->
** 架け替え前の荒川橋梁は水面からの高さが低く、大きな船の通過は難しかった。また、船が橋梁に衝突することが何度もあり押上線が不通になったこともあった。加えて、橋梁が八広側・四つ木側ともに[[堤防]]の高さを下回るように架けられていたため、せっかく嵩上げした堤防が旧荒川橋梁部分で低くなり水防上全く嵩上げの意味をなさない状態だった。
* [[1992年]](平成4年) 1991年の事故を契機に、協定・調査段階であった荒川橋梁の架け替えと荒川 - 四ツ木間の高架化工事および荒川駅と四ツ木駅の高架化工事が開始。
* [[1994年]](平成6年)[[4月1日]] 荒川駅を八広駅に改称。
* [[1997年]](平成9年)[[12月13日]] 八広 - 四ツ木間で架け替えを行っていた荒川橋梁および両駅高架の供用開始(上り線のみ)<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1998-4 |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 48 |issue = 4 |page = 83 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[9月4日]] 八広 - 四ツ木間で新下り線の供用開始。
* [[2001年]](平成13年)
** [[9月15日]] 八広駅新駅舎の供用開始により、同駅の営業キロ程を0.1km押上方に改キロ。
** [[9月17日]] 八広駅3番線の供用開始により、優等列車の追い抜きが開始される。
* [[2010年]](平成22年)
** [[5月16日]] [[京急蒲田駅]]付近高架化によるダイヤ改正に伴い、下り急行を横浜方面発着から西馬込発着に変更。
** [[7月7日]] [[京成高砂駅]]金町線ホーム高架化によるダイヤ修正に伴い、金町線との直通運転を廃止。
** [[7月17日]] 成田空港線(成田スカイアクセス線)開業によるダイヤ改正に伴い、アクセス特急が新設され、急行を廃止<ref name = 2010-7/>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生したため、都営地下鉄浅草線・京急線・北総鉄道北総線・芝山鉄道線との相互直通運転が休止される。
** [[3月12日]] 京急線以外の各線との相互直通運転再開(京急線泉岳寺 - 品川間封鎖のため。翌日再開)。
** [[3月14日]] [[東日本大震災による電力危機|震災による電力供給逼迫]]のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から都営地下鉄浅草線・京急線・北総鉄道北総線・芝山鉄道線との相互直通運転が休止。
** 3月 各線との相互直通運転を再開。ただし電力不足のため、9月頃まで節電ダイヤを実施。
* [[2012年]](平成24年)[[5月22日]] 押上駅に「スカイツリー前」の副駅名を付与。
* [[2013年]](平成25年)[[8月24日]] 押上 - 八広間で新上り線が供用開始、途中にある京成曳舟駅の上り線が高架化<ref>{{Cite press release |和書 |title=京成押上線の上り線高架化による効果 |url=http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2014/02/20o24300.htm |publisher=東京都 |date=2014-02-04 |accessdate=2015-09-25}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[8月22日]] 押上 - 八広間で新下り線が供用開始、途中にある京成曳舟駅の下り線が高架化<ref>{{Cite press release |和書 |title=京成押上線(押上駅 - 八広駅間)連続立体交差事業による効果 |url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/INET/OSHIRASE/2016/05/20q5b200.htm |publisher=東京都 |date=2016-05-11 |accessdate=2016-05-11}}</ref>。上下線高架化完成。同時に全線の保安装置をC-ATSに切り替え。
* [[2028年]]([[令和]]10年)4月 四ツ木駅 - 青砥駅間の上り線を高架に切り替える予定<ref name="立石連立">{{PDFlink|1=[https://assess-toshokohyo.metro.tokyo.lg.jp/uploads/web_public/191_keiseioshiage/41202219121.pdf#page=2 「京成電鉄押上線(四ツ木駅 - 青砥駅間)連続立体交差事業」変更届]}} - 東京都環境局総務部 環境政策課 p.2、2022年9月28日閲覧。</ref>。計画変更前は、2020年4月の予定だった<ref name="立石連立" />。
* [[2030年]](令和12年)3月 四ツ木駅 - 青砥駅間の下り線を高架に切り替える予定<ref name="立石連立" />。計画変更前は、2022年3月の予定だった<ref name="立石連立" />。
なお、1928年 - 1936年には1947年に[[廃駅]]となった向島駅から[[京成白鬚線|白鬚線]]が分岐していた。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 停車駅…●:停車、|:通過。普通電車は全駅に停車する(表では省略)。
* 列車待避 … ◇:上下とも待避可能
* 線路 … 全線複線(表では省略)。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅番号
!style="width:9.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|累計<br />キロ
!style="width:1em; line-height:1.1em; background:#fdf; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|快速}}
!style="width:1em; line-height:1.1em; background:#cff; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|通勤特急}}
!style="width:1em; line-height:1.1em;background:#faa; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|特急}}
!style="width:1em; line-height:1.1em; background:#fdb; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|アクセス特急}}
!style="width:1em; line-height:1.1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|快速特急}}
!style="border-bottom:solid 3px #005aaa;"|接続路線
!style="width:1em; line-height:1.1em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|列車待避}}
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|所在地
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="8"|[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] 都営浅草線[[西馬込駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] [[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]][[浦賀駅]]から(北行のみ)<br />[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] 京浜急行電鉄本線経由[[京急空港線|空港線]][[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] 京浜急行電鉄本線経由[[京急久里浜線|久里浜線]][[三崎口駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|18px|KK]] 京浜急行電鉄本線経由[[京急逗子線|逗子線]][[逗子・葉山駅]]まで
|-
!KS45
|[[押上駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#fdf; text-align:center;"|●
|style="text-align:center; background:#cff;"|●
|style="background:#faa; text-align:center;"|●
|style="text-align:center; background:#fdb;"|●
|style="background:#9db; text-align:center;"|●
|[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-20) (直通運転:上記参照)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-14)<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]] (TS-03)
|style="text-align:center;"|◇
|rowspan="3"|[[墨田区]]
|-
!KS46
|[[京成曳舟駅]]
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|
|-
!KS47
|[[八広駅]]
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|style="text-align:center;"|◇
|-
!KS48
|[[四ツ木駅]]
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|
|
|rowspan="3"|[[葛飾区]]
|-
!KS49
|[[京成立石駅]]
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|
|
|-
!KS09
|[[青砥駅]]
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|style="background:#9db; text-align:center;"|●
|[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]](直通運転:下記参照)
|
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="8"|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] 京成本線[[成田空港駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|18px|HS]] [[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]][[印旛日本医大駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Shibayama.svg|18px|SR]] [[京成東成田線|東成田線]]経由[[芝山鉄道]][[芝山鉄道線]][[芝山千代田駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)経由成田空港駅まで
|}
=== 廃駅 ===
* [[京成請地駅]] (押上 - 京成曳舟間、1943年10月休止、1947年3月1日廃止)
* [[向島駅 (東京都)|向島駅]] (京成曳舟 - 八広間、1943年10月休止、1947年3月1日廃止)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Keisei Oshiage Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://zaisen.tid-keisei.jp/html/zaisen.html?line=4 押上線] - 列車走行位置
{{京成電鉄の路線}}
{{DEFAULTSORT:けいせいおしあけせん}}
[[Category:関東地方の鉄道路線|おしあけせん]]
[[Category:京成電鉄の鉄道路線|おしあけ]]
[[Category:東京都の交通]]
|
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16,340 |
京成金町線
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金町線(かなまちせん)は、京成高砂駅と京成金町駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。全線が東京都葛飾区内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。
営業キロ2.5kmの路線で密集した住宅街に囲まれている。東京23区内の旅客営業路線では東武大師線・西武豊島線と同様、数少ない全線単線の路線である。柴又駅 - 京成金町駅間の柴又街道と併走する区間は直線であり、線形が良い。駅数は起終点を含めてわずか3駅で、唯一の中間駅である柴又駅は、「柴又帝釈天」「葛飾柴又寅さん記念館」「矢切の渡し」などの最寄駅であることから、地元住民の利用に加えて柴又帝釈天への参拝客や、映画『男はつらいよ』関係地を巡る観光客の利用も多い。短距離ながら本線・成田空港線(成田スカイアクセス線)・北総鉄道北総線と東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線を結び、両端の駅で都心方面と接続することから朝夕は上下方向共に通勤利用が多く混雑する。
映画『男はつらいよ』でも、映画シーンの中でこの路線が多く登場した。主演の渥美清死去後の1996年8月には「ありがとう寅さん」、1998年8月には「おかえり寅さん」のヘッドマーク付き電車が、2008年には映画『男はつらいよ』公開40周年を記念したラッピング電車が運行された。2010年7月5日より、葛飾区のPRとして『男はつらいよ』および『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のラッピング電車が運行されていたが、ともに運行を終了している。
京成高砂駅付近の金町線高架化が完成した2010年7月5日に行われたダイヤ改正より、金町線は全列車が京成高砂駅 - 京成金町駅間の折り返し運行となり、京成高砂駅では他の路線と改札も分離した高架専用単式1面1線ホーム(5番線)を発着に使用し、平日朝夕は10分間隔、日中は15分間隔で運転されている。早朝・深夜をのぞいて、柴又駅で列車交換を行うダイヤとなっている。2012年10月21日のダイヤ改正時点では、平日ダイヤで89往復、土休日ダイヤで75往復が設定されている。高砂車庫への入出庫列車は京成金町駅発着となり、同駅 - 京成高砂駅(地上ホーム) - 高砂車庫の間を回送列車として運行する。
すべての列車が普通列車で、4両編成で運行される。
京成高砂駅の金町線高架化前は、日中は線内折り返しの普通列車が京成高砂駅の地上4番線ホーム(金町線専用ホームではなく、京成本線や北総線も使用)を利用して20分間隔、通勤・通学時間帯のラッシュ時は10分間隔で運行されていた。また、京成本線と直通し京成上野駅を発着する列車が設定されていた。そのほかに、少数ながら押上線と直通し押上駅を発着する列車の設定もあった。本線・押上線に直通する列車は、全区間にわたって各駅に停車する普通列車として運転された。
柴又帝釈天へのアクセス路線となっていることから、大晦日の終夜運転及び正月三が日の臨時列車運行が例年行われている。
現在他社線乗り入れはないが、1987年から1998年までの大晦日の終夜運転時に限り、京急線横浜駅(1998年のみ新逗子駅)からの普通列車が都営浅草線・押上線を経由して京成金町駅まで4両編成で直通運転をしていた。長期にわたり運転をしていながら「金町」の方向幕を用意せず、サボを吸盤で先頭車に貼り付けていた。運行車両は京急旧1000形、1500形であった。また、1999年元旦には京急600形も充当され、京成金町駅からの折返しは羽田空港行の「エアポート初日号」(京急線内は快特)として運転された。
2009年の6月30日には青電塗装の3300形リバイバルカラー車両を用いた「京成創立100周年記念列車」が運行された。このときの種別は「特急」であったが金町線内は各駅に停車している。京成金町駅到着後は回送電車となり高砂検車区まで回送された。
2021年大晦日の終夜運転では押上駅 - 京成金町駅間を結ぶ普通列車が設定され、11年ぶりに本線・押上線への直通列車が運行された。2022年大晦日の終夜運転でも運行されている。この直通列車は京成高砂駅の地平ホーム(2・3番線)で乗降扱いを行い、柴又駅までは出入庫線を経由している。
金町線では、毎年1月の正月三が日と、7月の「葛飾納涼花火大会」で臨時列車を運転し、前者は日中10分間隔(2010年までは通常20分間隔、2011年は通常15分間隔)、後者は夜間10分間隔(通常は10 - 20分間隔)に増発される。
京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。
1909年(明治42年)、成田山や柴又帝釈天の参詣客輸送を目的に、京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立された。京成電気軌道は、帝釈天を通り金町への路線を計画していたが、ルートの重なる帝釈人車軌道は、1912年(明治45年)に軌道特許を京成電気軌道へ譲渡した。
同年、京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して電車の運行を開始した。
2006年(平成18年)12月、京成電鉄は2010年(平成22年)7月の成田空港線開業に伴う踏切遮断時間増加防止策として、本線高架化を待たずに金町線のみ京成高砂駅付近を高架化する計画を発表した。高架化工事は2010年7月5日に完成した。
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金町線(かなまちせん)は、京成高砂駅と京成金町駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。全線が東京都葛飾区内を走行する。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:Keisei Logo.svg|45px|link=京成電鉄]] 金町線
|路線色=#005aaa
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|ロゴサイズ=40px
|画像= Keisei-Type3500-3600-Kanamchi-Line.jpg
|画像サイズ=300px
|画像説明=金町線で運用される[[京成3500形電車|3500形更新車]]と[[京成3600形電車|3600形]](2020年10月 柴又駅)
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]][[葛飾区]]
|起点=[[京成高砂駅]]
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|駅数=3駅
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|休止=
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|使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照
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|電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]]
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|路線図=
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#005aaa|#fff}}
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|}
[[File:Keisei-kanamachi-line-1989.jpg|thumb|240px|京成金町線の衛星写真画像。画像上が京成金町駅で、下が京成高砂駅となる。<br />{{国土航空写真}}]]
'''金町線'''(かなまちせん)は、[[京成高砂駅]]と[[京成金町駅]]を結ぶ、[[京成電鉄]]の[[鉄道路線]]。全線が[[東京都]][[葛飾区]]内を走行する。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KS'''。
== 概要 ==
営業キロ2.5kmの路線で密集した住宅街に囲まれている。[[東京都区部|東京23区]]内の旅客営業路線では[[東武大師線]]・[[西武豊島線]]と同様、数少ない全線単線の路線である<ref group="注" name="fukusen" /><ref group="注">東武大師線および西武豊島線は2駅だけの路線であり、3駅以上を結ぶ路線に限ると、東京23区内の旅客営業路線で全線単線は当路線が唯一となる。</ref>。柴又駅 - 京成金町駅間の柴又街道と併走する区間は直線であり、線形が良い。駅数は起終点を含めてわずか3駅で、唯一の中間駅である[[柴又駅]]は、「[[柴又帝釈天]]」「[[葛飾柴又寅さん記念館]]」「[[矢切#矢切の渡し|矢切の渡し]]」などの最寄駅であることから、地元住民の利用に加えて柴又帝釈天への参拝客や、映画『[[男はつらいよ]]』関係地を巡る観光客の利用も多い。短距離ながら[[京成本線|本線]]・[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)・[[北総鉄道北総線]]と[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[常磐線]]を結び、両端の駅で都心方面と接続することから朝夕は上下方向共に通勤利用が多く混雑する。
映画『[[男はつらいよ]]』でも、映画シーンの中でこの路線が多く登場した。主演の[[渥美清]]死去後の[[1996年]]8月には「ありがとう寅さん」、[[1998年]]8月には「おかえり寅さん」のヘッドマーク付き電車が、[[2008年]]には映画『男はつらいよ』公開40周年を記念した[[ラッピング車両|ラッピング電車]]が運行された。[[2010年]][[7月5日]]より、葛飾区のPRとして『男はつらいよ』および『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』のラッピング電車が運行されていたが<ref name=railf100707>[http://railf.jp/news/2010/07/07/101700.html 京成電鉄に葛飾区観光PRラッピング電車登場] - railf.jp(交友社『鉄道ファン』)、2010年7月7日</ref>、ともに運行を終了している。
=== 路線データ ===
* 路線距離:2.5km
* [[軌間]]:[[標準軌|1435mm]]
* 駅数:3駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:なし(全線[[単線]])<ref group="注" name="fukusen">『[[鉄道要覧]]』上は京成高砂 - 柴又間が[[複線]]となっているが、2010年7月5日以降、運用上は旧下り線が現在の京成高砂駅高架ホームへ繋がる本線、旧上り線が京成高砂駅地上ホームを経由(折り返し)しての出入庫線となっている([[単線並列]])。</ref>
* 電化区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]](2010年7月3日に[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]から変更)
* 最小曲線半径:160m
* 最高速度:75km/h<ref name="terada" />
* [[車両基地]]:[[高砂検車区]]
== 運行形態 ==
京成高砂駅付近の金町線[[高架橋|高架化]]が完成した2010年7月5日に行われたダイヤ改正より、金町線は全列車が京成高砂駅 - 京成金町駅間の折り返し運行となり<ref>{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正]}} - 京成電鉄、2010年5月28日。</ref>、京成高砂駅では他の路線と改札も分離した高架専用単式1面1線ホーム(5番線)を発着に使用し、平日朝夕は10分間隔、日中は15分間隔で運転されている。早朝・深夜をのぞいて、柴又駅で[[列車交換]]を行うダイヤとなっている。[[2012年]][[10月21日]]のダイヤ改正時点では、平日ダイヤで89往復、土休日ダイヤで75往復が設定されている。高砂車庫への入出庫列車は京成金町駅発着となり、同駅 - 京成高砂駅(地上ホーム) - 高砂車庫の間を[[回送]]列車として運行する。
すべての列車が普通列車で、4両編成で運行される。
京成高砂駅の金町線高架化前は、日中は線内折り返しの普通列車が京成高砂駅の地上4番線ホーム(金町線専用ホームではなく、京成本線や北総線も使用)を利用して20分間隔、通勤・通学時間帯のラッシュ時は10分間隔で運行されていた。また、京成本線と直通し[[京成上野駅]]を発着する列車が設定されていた。そのほかに、少数ながら[[京成押上線|押上線]]と直通し[[押上駅]]を発着する列車の設定もあった。本線・押上線に直通する列車は、全区間にわたって各駅に停車する普通列車として運転された。
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|京成高砂駅金町線専用ホームから下る京成3500形。左側の線路は入出庫線
</gallery>
=== 臨時列車 ===
柴又帝釈天へのアクセス路線となっていることから、[[大晦日]]の[[終夜運転]]及び[[正月三が日]]の臨時列車運行が例年行われている。
現在他社線乗り入れはないが、[[1987年]]から[[1998年]]までの大晦日の終夜運転時に限り、[[京浜急行電鉄|京急線]][[横浜駅]](1998年のみ[[逗子・葉山駅|新逗子駅]])からの普通列車が[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・押上線を経由して京成金町駅まで4両編成で直通運転をしていた。長期にわたり運転をしていながら「金町」の[[方向幕]]を用意せず、[[行先標|サボ]]を吸盤で先頭車に貼り付けていた。運行車両は京急旧[[京急1000形電車 (初代)|1000形]]、[[京急1500形電車|1500形]]であった。また、[[1999年]]元旦には京急[[京急600形電車 (3代)|600形]]も充当され、京成金町駅からの折返しは[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]行の「エアポート初日号」(京急線内は[[快速特急|快特]])として運転された。
[[2009年]]の[[6月30日]]には[[青電 (京成)|青電]]塗装の3300形リバイバルカラー車両を用いた「京成創立100周年記念列車」が運行された。このときの種別は「特急」であったが金町線内は各駅に停車している。京成金町駅到着後は回送電車となり高砂検車区まで回送された。
[[2021年]]大晦日の終夜運転では押上駅 - 京成金町駅間を結ぶ普通列車が設定され、11年ぶりに本線・押上線への直通列車が運行された。[[2022年]]大晦日の終夜運転でも運行されている。この直通列車は京成高砂駅の地平ホーム(2・3番線)で乗降扱いを行い、柴又駅までは出入庫線を経由している。
金町線では、毎年1月の正月三が日と、7月の「[[葛飾納涼花火大会]]」で臨時列車を運転し、前者は日中10分間隔(2010年までは通常20分間隔、2011年は通常15分間隔)、後者は夜間10分間隔(通常は10 - 20分間隔)に増発される。
== 使用車両 ==
* [[京成3500形電車|3500形]]
*: 京成車のほか、2013年5月より[[芝山鉄道]]所属の3500形も金町線で運行されている<ref>{{Cite web|和書|date=2013年5月13日|url=https://news.mynavi.jp/article/20130513-a040/|title=千葉県の芝山鉄道3500形を使用、成田空港35周年ラッピング電車を運行開始|publisher=マイナビニュース|accessdate=2014-11-05}}</ref>。
* [[京成3600形電車|3600形]]
*: 4両化された3668編成が使用されている。なお1999年2月から5月頃にかけて、6月に6両化されるまで暫定的に入線していたことがある。
== 歴史 ==
京成金町線の起源は、柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす[[人車軌道]]を運行していた'''帝釈人車鉄道'''である。[[1897年]](明治30年)に[[日本鉄道]]により[[金町駅]]が開業し[[柴又帝釈天]]への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと[[1899年]](明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部は[[ループ線]]になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。[[1907年]](明治40年)には'''帝釈人車軌道'''と社名を改めた。
[[1909年]](明治42年)、[[成田山新勝寺|成田山]]や柴又帝釈天の参詣客輸送を目的に、京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立された。京成電気軌道は、帝釈天を通り金町への路線を計画していたが、ルートの重なる帝釈人車軌道は、[[1912年]](明治45年)に軌道特許を京成電気軌道へ譲渡した。
同年、京成電気軌道は後に押上線・本線の一部となる押上 - 市川(現在の江戸川)間と、支線として曲金(現在の京成高砂) - 柴又間を開業させた。翌1913年(大正2年)には柴又 - 金町間の人車の運行を終了し、単線電化で柴又 - 金町間を延伸して[[電車]]の運行を開始した。
[[2006年]](平成18年)12月、京成電鉄は[[2010年]](平成22年)7月の[[京成成田空港線|成田空港線]]開業に伴う踏切遮断時間増加防止策として<ref name="keisei20061205" />、本線高架化を待たずに金町線のみ京成高砂駅付近を高架化する計画を発表した<ref name="keisei20061205">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070128223708/www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/18-052.pdf 京成金町線(京成高砂駅付近)高架化工事を実施します。]}} - 京成電鉄、2006年12月5日。 (Internet Archive)</ref>。高架化工事は2010年7月5日に完成した。
=== 年表 ===
* [[1899年]]([[明治]]32年)[[12月17日]] - 帝釈人車鉄道(1907年(明治40年)から帝釈人車軌道)柴又 - 金町間開業。軌間610mm。
* [[1912年]](明治45年/[[大正]]元年)
** [[4月27日]] - 帝釈人車軌道が京成電気軌道(1945年(昭和20年)から京成電鉄)に柴又 - 金町間の軌道特許を譲渡。
** [[11月3日]] - 曲金 - 柴又間開業。当初より電化、軌間1372mm。
* [[1913年]](大正2年)
** [[6月26日]] - 曲金駅を高砂駅に改称。
** [[10月21日]] - 元・帝釈人車軌道の軌道が改築され、柴又 - 金町間開業。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - 高砂駅を京成高砂駅、金町駅を京成金町駅に改称。
* [[1945年]](昭和20年)[[2月20日]] - 全線を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。
* [[1959年]](昭和34年)[[11月17日]] - 全線を軌間1435mmに改軌。
* [[2009年]]([[平成]]21年)[[6月30日]] - 京成創立100周年記念列車として3300形リバイバルカラー車による京成金町行臨時特急を運行。
* [[2010年]](平成22年)
** [[7月3日]] - [[7月4日|4日]] - 京成高砂駅付近高架化工事のため、京成高砂 - 柴又間を単線使用とする臨時ダイヤで運行。
** [[7月5日]] 京成高砂駅の金町線単式1面1線の高架ホーム(5番線)が供用開始され、列車運行上、全線単線化。同駅の金町線専用の改札も運用開始され、他の線と改札が分離。同時にダイヤ改正が行われ、全列車が線内折り返し運転となった。また、これまで朝夕ラッシュ時を除き金町線内は3駅間で1本の列車しか走行していなかったが、早朝深夜以外は2本の列車が走行するようになり、柴又駅ですれ違うようになった。
* [[2022年]]([[令和]]4年)[[11月26日]] - 日中時間帯の列車にて[[ワンマン運転]]を開始<ref>{{Cite press release|和書|title=2022年11月26日(土)京成線ダイヤ改正を実施します|url=https://www.keisei.co.jp/cms/files/keisei/MASTER/0110/Aq5eJLly.pdf|format=PDF|date=2022-10-24|accessdate=2022-10-24|publisher=京成電鉄株式会社}}</ref>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[東京都]][[葛飾区]]内に所在。
* 全列車全駅に停車する。
* 線路(京成金町線内は全線単線) … ◇:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
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!style="border-bottom:solid 3px #005aaa; width:1em;"|{{縦書き|線路}}
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|[[京成高砂駅]]
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|[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]]・[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]<br />[[北総鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|18px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]]
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|}
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 白土貞夫「帝釈人車軌道 客車に関するノート」
** 電気車研究会『[[鉄道ピクトリアル]]』2004年12月号 No.755 p74 - p79、p104
* 池口英司「大手私鉄のローカル線めぐり2 京成電鉄金町線 京成高砂 - 京成金町」
** 交友社『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2005年5月号 No.529 p135 - 139
== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
*[https://zaisen.tid-keisei.jp/html/zaisen.html?line=5 金町線] - 列車走行位置
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安土桃山時代
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安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
織田信長の居城が安土城(滋賀県近江八幡市安土町)で、豊臣秀吉の居城伏見城が桃山丘陵(京都市伏見区桃山町)にあったことから、このように歴史学者から呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。ただし、桃山の名称は江戸時代になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。
安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。
始期は、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した永禄11年(1568年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が事実上の滅亡に追い込まれた元亀4年(1573年)、安土城の建設が始まった天正4年(1576年)とする考えもある。
終期は、豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した慶長5年(1600年)、家康が伏見城で征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた慶長8年(1603年)などがある。
「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、室町時代、戦国時代と重複することがその定義を難しくしている。
美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。
それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。
当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。
だが豊臣家が滅亡した元和偃武以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し桂離宮などの瀟洒な数寄屋建築を生みだしたし、他方では日光東照宮や武家の御殿など豪華さを競うバロック的傾向を強めていった。
織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が天皇や室町幕府の将軍の権威を利用して畿内および東海地方を支配した。兵農分離や主力武器を弓矢から鉄砲に変える軍事改革を実施した。楽市・楽座、関所の廃止、堺など自治都市の支配や撰銭令などの経済政策が実施された。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。天正7年(1579年)に信長の目前で浄土宗と日蓮宗の仏教宗派の正義論を討論させる安土宗論を実施して敗北した日蓮宗を弾圧するなどの仏教政策があった。天正4年(1576年)に安土城を築城して自由商業都市とした。安土を拠点に畿内を中心に東海地方・北陸地方などを支配した。信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな南蛮文化が花開いた。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧して天下統一は目前と思われたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で自害した。
本能寺の変を知った羽柴秀吉は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である明智光秀を破った(山崎の戦い)。これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。織田秀信や織田信雄の後見人として織田家臣団の領地を再編成した秀吉は清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て信長の後継者として地位を固めた。天正11年(1583年)には大坂城の築城を開始する。天正14年(1586年)には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り、天正18年(1590年)に日本国内の統一を達成した。農民一揆を防止するため刀狩令を出した。京都方広寺の大仏作りを口実とした。全国各地で太閤検地を行い石高制度を導入し、度量衝が統一された。1594年には文禄検地が実施され、検地帳が作成され、記載された高持百姓に耕作権を認めた。郷村の境界線を決める村割が実施された。百姓身分の農民を武士身分の役人が支配する郷村制度が確立した。荘園制は完全に解体し在地土豪の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量された。秀吉は1592年(文禄元年)に人掃令を出して全国的な戸口調査を実施した。1591年(天正19年)に身分統制令を出して兵農分離が推進された。城割りを実施して商人の城下町集住を推進して商農分離が進行した。地方の小城を破壊し、論功行賞の名目で転封を実施した。また、文禄元年(1592年)には、宣教師追放令や海賊禁止令などを発令した。キリスト教を禁教とする殉教者26人の処刑処分や朱印船制度を創設した。明への使者が殺害されたのをきっかけに文禄・慶長の役を起こした。大阪城に朝鮮の王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得たが、朝鮮王は同時に明へも援軍を要請していた。当初は有利に戦を進めたが、進軍先は領地としては魅力が薄く、厭戦気分が遠征軍に蔓延し、明への進軍は行われなかった。工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、各大名の所領に帰化した者もあった。遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力を拡大した。
一方、国内は広域商業が発達し、堺・博多・長崎など主要商業都市を豊臣家の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人との交流が開始された。キリスト教のカトリック教会文化と西洋世界の奴隷の存在を日本人が知った。また、カステラなど南蛮料理が食べられるようにになり、タバコが南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。文禄・慶長の役により明は衰退し、従来の輸入品渡来銭(銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨や銀貨が製造されて広く流通した。文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工などが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。
豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の5人による五奉行制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正・福島正則などの武断派に分裂して五大老の筆頭である徳川家康が伏見城で実力者としての頭角を現した。朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代が始まった。
織田信長時代と豊臣秀吉時代の文化を秀吉の最後の居城だった伏見城の地名をとって、桃山文化と呼んでいる。新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興大名や豪商が中心だったとされる。新興の武士勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、仏教色の少ない現世的な南蛮文化の影響を受けた文化である。都市部において、堺の今井宗久や博多の島井宗室ら豪商と呼ばれる新興商人が成長した時代であった。
茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重された一方で、それへの反抗としてのわび茶も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、茶会が武将と豪商を結ぶなど行事になるなど千利休の存在が政治にも影響した。
特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。
狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
主な絵師と代表作
戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い山城から平山城へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や商人への経済支配を重視する平城へ移行した。織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。
倭城:文禄・慶長の役で朝鮮半島に築かれた城
茶室
書院・庭園
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"text": "一方、国内は広域商業が発達し、堺・博多・長崎など主要商業都市を豊臣家の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、鉄砲が西洋から伝来し、南蛮人との交流が開始された。キリスト教のカトリック教会文化と西洋世界の奴隷の存在を日本人が知った。また、カステラなど南蛮料理が食べられるようにになり、タバコが南蛮人の影響で伝来、喫煙文化が誕生した。文禄・慶長の役により明は衰退し、従来の輸入品渡来銭(銅銭)に代わり、天正大判など国内独自の金貨や銀貨が製造されて広く流通した。文禄・慶長の役の後、陶法・毛皮加工などが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。",
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"text": "豊臣政権末期に秀吉遺書体制として浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の5人による五奉行制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、豊臣家は石田三成を中心とする文治派と加藤清正・福島正則などの武断派に分裂して五大老の筆頭である徳川家康が伏見城で実力者としての頭角を現した。朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し石田三成を中心とした反家康勢力が慶長5年(1600年)に全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年(1603年)征夷大将軍に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり、江戸時代が始まった。",
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"text": "織田信長時代と豊臣秀吉時代の文化を秀吉の最後の居城だった伏見城の地名をとって、桃山文化と呼んでいる。新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興大名や豪商が中心だったとされる。新興の武士勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、仏教色の少ない現世的な南蛮文化の影響を受けた文化である。都市部において、堺の今井宗久や博多の島井宗室ら豪商と呼ばれる新興商人が成長した時代であった。",
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"text": "特筆すべき点としては、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来の南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて西洋文化と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。",
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"text": "狩野派の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。",
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"text": "戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い山城から平山城へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や商人への経済支配を重視する平城へ移行した。織豊系城郭と呼ばれ、野面積み石垣が用いられるようになり、天守を持つ城郭建築が主流となる。",
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安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。
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{{日本の歴史|Odanobunaga.jpg|180px|画像説明=織田信長}}
[[ファイル:安土城.jpg|thumb|right|200px|[[安土城]]]]
[[ファイル:Toyotomi_Hideyoshi_c1598_Kodai-ji_Temple.png|thumb|right|200px|[[豊臣秀吉]]]]
[[ファイル:Fushimi momoyaja jyou 40.jpg|thumb|right|200px|[[伏見城]]([[洛中洛外図屏風]]の中の伏見城の部分)]]
[[ファイル:Jurakudai-Palace-Kyoto-Folding-Screen.jpg|thumb|right|200px|[[聚楽第]]を描いている聚樂第屏風圖(三井文庫蔵)]]
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年 p.95</ref>。]]
'''安土桃山時代'''(あづちももやまじだい)は、[[日本の歴史]]において、[[織田信長]]と[[豊臣秀吉]]が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、'''織豊時代'''(しょくほうじだい)ともいう。
== 概要 ==
===由来===
[[織田信長]]の居城が[[安土城]]([[滋賀県]][[近江八幡市]]'''[[安土町]]''')で、[[豊臣秀吉]]の居城[[伏見城]]が[[桃山丘陵]]([[京都市]][[伏見区]]'''[[京都市伏見区の町名#旧堀内村|桃山町]]''')にあったことから、このように歴史学者から呼ばれる。特に、[[豊臣氏|豊臣家]]が全国支配を担った後半を'''桃山時代'''といい、この時代を中心に栄えた文化を'''[[桃山文化]]'''と呼ぶ。ただし、桃山の名称は[[江戸時代]]になって廃城された伏見城の跡地に桃の木が植えられ、[[安永 (元号)|安永]]9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったことから名付けられたもので<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-19 |url=http://fushimi.keizai.biz/headline/171/ |title=伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表 |work=[みんなの経済新聞ネットワーク|伏見経済新聞] |accessdate=2017-12-16}}</ref>、桃山城と呼ばれる城が存在したわけではない。
===始期と終期===
安土桃山時代の始期と終期には複数の見解が存在する。
始期は、織田信長が[[足利義昭]]を奉じて[[京都]]に上洛した[[永禄]]11年([[1568年]])、義昭が京都から放逐されて[[室町幕府]]が事実上の滅亡に追い込まれた[[元亀]]4年([[1573年]])、安土城の建設が始まった[[天正]]4年([[1576年]])とする考えもある。
終期は、豊臣秀吉が死去した[[慶長]]3年([[1598年]])、[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]が勝利した慶長5年([[1600年]])、家康が伏見城で[[征夷大将軍]]に任じられ[[江戸幕府]]を開いた慶長8年([[1603年]])などがある。
「織田・豊臣の時代」という概念をどこで区分するかの違いではあるが、[[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と重複することがその定義を難しくしている。
===美術史===
美術史では、慶長20年(1615年)の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分とする。
それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。
当時の文化的中心であった京都および周辺地域では、秀吉を継いだ秀頼によりなおも活発な社寺建設が行われていたし、それに倣って各地でも作事が活発であり、関ヶ原の戦いによる政権交代によって文化的断絶までが生まれたわけではなかった。
だが豊臣家が滅亡した[[元和偃武]]以後、世相の安定を背景に、桃山文化は変質していき、一方では洗練の度合いを増し[[桂離宮]]などの瀟洒な[[数寄屋造り|数寄屋]]建築を生みだしたし、他方では[[日光東照宮]]や武家の御殿など豪華さを競う[[バロック]]的傾向を強めていった。
==沿革==
=== 織田信長による政権の確立 ===
{{see|織田政権}}
織田信長の勢力が次第に強大になり、足利義昭を奉じて京都に上洛したことで、信長が[[天皇]]や室町幕府の将軍の権威を利用して[[畿内]]および[[東海地方]]を支配した。[[兵農分離]]や主力[[武器]]を[[弓矢]]から[[鉄砲]]に変える軍事改革を実施した。[[楽市・楽座]]、[[関所]]の廃止、[[堺]]など[[自治都市]]の支配や[[撰銭令]]などの[[経済政策]]が実施された。元亀4年(1573年)に信長が足利義昭を京から放逐すると{{Sfn|永原|1987|p=36}}、室町幕府は事実上崩壊し、織田政権が確立する。天正7年([[1579年]])に信長の目前で[[浄土宗]]と[[日蓮宗]]の仏教宗派の正義論を討論させる[[安土宗論]]を実施して敗北した日蓮宗を弾圧するなどの仏教政策があった。天正4年(1576年)に安土城を築城して自由商業都市とした。[[安土城|安土]]を拠点に[[畿内]]を中心に[[東海地方]]・[[北陸地方]]などを支配した。信長の支配により平和を取り戻した京・堺と安土及び長崎を中心に新たな[[南蛮文化]]が花開いた。信長はその後も勢力を拡大し日本中央部を制圧して[[天下統一]]は目前と思われたが、天正10年(1582年)の[[本能寺の変]]で自害した。
===豊臣秀吉による天下統一===
[[Image:Hideyoshi battlefield vest.jpg|thumb|right|200px|鳥獣文様陣羽織 伝秀吉着用]]{{see|豊臣政権}}
本能寺の変を知った羽柴秀吉は、いち早く京に駆け付け謀反の首謀者である[[明智光秀]]を破った([[山崎の戦い]])。これにより信長の葬儀を実施するなど織田政権内での主導権を掌握した。[[織田秀信]]や[[織田信雄]]の後見人として織田家臣団の領地を再編成した秀吉は[[清洲会議]]や[[賤ヶ岳の戦い]]を経て信長の後継者として地位を固めた。天正11年([[1583年]])には大坂城の築城を開始する。天正14年([[1586年]])には関白・太政大臣に任ぜられ豊臣姓を賜り{{Sfn|永原|1987|p=48}}、天正18年([[1590年]])に日本国内の統一を達成した。農民一揆を防止するため[[刀狩|刀狩令]]を出した。[[京都]][[方広寺]]の大仏作りを口実とした。全国各地で[[太閤検地]]を行い[[石高]]制度を導入し、度量衝が統一された。[[1594年]]には文禄検地が実施され、[[検地帳]]が作成され、記載された高持[[百姓]]に耕作権を認めた。郷村の境界線を決める村割が実施された。百姓身分の農民を武士身分の役人が支配する[[郷村]]制度が確立した。[[荘園 (日本)|荘園制]]は完全に解体し在地[[土豪]]の支配は否定され、一地一作人の原則が確立した。田畑以外の農民の屋敷など村の規模が石高で測量された。秀吉は[[1592年]](文禄元年)に[[人掃令]]を出して全国的な戸口調査を実施した。[[1591年]](天正19年)に[[身分統制令]]を出して[[兵農分離]]が推進された。城割りを実施して商人の城下町集住を推進して商農分離が進行した。地方の小城を破壊し、[[論功行賞]]の名目で[[転封]]を実施した。また、[[文禄]]元年([[1592年]])には、[[宣教師追放令]]や[[海賊禁止令]]などを発令した。キリスト教を禁教とする[[殉教]]者26人の処刑処分や[[朱印船]]制度を創設した。明への使者が殺害されたのをきっかけに[[文禄・慶長の役]]を起こした。大阪城に朝鮮の王子を人質として迎え、朝鮮半島の無害通行権を得たが、朝鮮王は同時に明へも援軍を要請していた。当初は有利に戦を進めたが、進軍先は領地としては魅力が薄く、厭戦気分が遠征軍に蔓延し、明への進軍は行われなかった。工芸品などの技術者達を見いだし、西国大名達は駐屯地で彼らを厚遇したため、役後、各大名の所領に帰化した者もあった。遠征軍に参加しなかった東国大名は勢力を拡大した。
一方、国内は広域商業が発達し、[[堺]]・[[博多]]・[[長崎市|長崎]]など主要商業都市を[[豊臣家]]の直轄地とした。諸大名は領国の経営に力を注ぎ、各地で特産物都市が興隆していった。また、秀吉自身は京を活動の拠点とし茶の湯を始めとする文化活動を自らも積極的に行った。また、[[鉄砲]]が[[西洋]]から伝来し、[[南蛮人]]との交流が開始された。キリスト教の[[カトリック]][[教会]][[文化]]と[[西洋]]世界の[[奴隷]]の存在を[[日本人]]が知った。また、[[カステラ]]など南蛮料理が食べられるようにになり、[[タバコ]]が南蛮人の影響で伝来、[[喫煙]]文化が誕生した。[[文禄・慶長の役]]により明は衰退し、従来の輸入品[[永楽通宝|渡来銭]]([[銅銭]])に代わり、[[天正大判]]など国内独自の[[金貨]]や[[銀貨]]が製造されて広く流通した。[[文禄・慶長の役]]の後、陶法・毛皮加工などが帰化した技術者達により発展し、文化は新たな時代を迎えた(桃山文化)。
=== 豊臣時代の終結 ===
{{see|江戸幕府}}
豊臣政権末期に秀吉遺書体制として[[浅野長政]]・[[前田玄以]]・[[石田三成]]・[[増田長盛]]・[[長束正家]]の5人による[[五奉行]]制度(司法担当・宗教担当・行政担当・土木担当・財政担当)を創設した。[[慶長]]3年([[1598年]])、秀吉が死去すると、[[豊臣家]]は石田三成を中心とする[[文治派]]と[[加藤清正]]・[[福島正則]]などの[[武断派]]に分裂して[[五大老]]の筆頭である[[徳川家康]]が[[伏見城]]で実力者としての頭角を現した。朝鮮遠征軍撤退の和平交渉でも主導権を握り実質的な政権運営者へとのし上がっていった。これに対し[[石田三成]]を中心とした反家康勢力が[[慶長]]5年(1600年)に全国を二分する[[関ヶ原の戦い]]が勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、慶長8年([[1603年]])[[征夷大将軍]]に任じられる。これにより安土桃山時代は終わり{{Sfn|永原|1987|p=95}}、[[江戸時代]]が始まった。
== 年表 ==
* [[元亀]]4年([[1573年]]) - [[足利義昭]]が京都から追放されて、[[室町幕府]]が事実上滅びる。
* [[天正]]3年([[1575年]]) - [[長篠の戦い]]→武田勝頼が敗走する。
* 天正4年([[1576年]]) - 織田信長、[[安土城]]を築く。
* 天正8年([[1580年]]) - 織田信長、[[顕如]]を降伏させて、[[石山本願寺]]との対決を終わらせる。
* 天正9年(1582年) - [[本能寺の変]]→[[山崎の戦い]]:[[明智光秀]]の謀反も俗に言う三日天下で終わる。
* 天正9年(1582年) - [[清洲会議]]→[[賤ヶ岳の戦い]]:織田信長の後継争いで、織田家重臣であった[[柴田勝家]]と羽柴秀吉が反目。羽柴秀吉が勝ち、敗れた柴田勝家が自害する。
* 天正10年(1583年) - 羽柴秀吉が石山本願寺跡地に[[大坂城]]を築城する。
* 天正11年(1584年) - [[小牧・長久手の戦い]]:羽柴秀吉と[[織田信雄]]、徳川家康との戦い→和睦。
* 天正13年([[1585年]]) - 羽柴秀吉、[[藤原氏]]を称し[[関白]]に就任する。同年[[四国攻め|四国平定]]。
* 天正14年([[1586年]]) - 羽柴秀吉、[[太政大臣]]となり、豊臣姓を賜る。同年京都に[[聚楽第]]を建てて政治的な拠点とする。
* 天正15年([[1587年]]) - [[九州征伐]]。
**九州征伐後、[[博多]]で[[バテレン追放令|伴天連追放令]]を発布する。
* 天正18年([[1590年]]) - [[小田原征伐]]、[[後北条氏|北条氏]]が豊臣秀吉に降伏、[[天下統一]]。[[天正の地割]]
* [[1592年|文禄元年(1592年)]] - 豊臣秀吉の[[文禄・慶長の役|唐入り]] 。
* [[文禄]]元年([[1592年]]) - 豊臣秀吉が[[伏見]]の[[指月 (山城国)|指月]]に隠居のための屋敷構を築く。
* 文禄3年([[1594年]]) - 指月の隠居屋敷を改修し[[伏見城]]の築城が本格化。
* 文禄5年([[1596年]]) - 指月伏見城が完成するが直後の[[慶長伏見地震]]で天主が倒壊。[[桃山丘陵|木幡山]]にて新たな築城に着手。
* [[慶長]]2年([[1597年]]) - 木幡山伏見城が完成する。また、[[京都新城|京都にも新たな邸宅]]の建設を行う。
* 慶長3年([[1598年]]) - 豊臣秀吉が[[伏見城]]で死去する。明征伐が終わり、駐屯軍撤退。
* 慶長5年([[1600年]]) - [[関ヶ原の戦い]]。前哨戦の[[伏見城の戦い]]で伏見城落城。
* 慶長7年([[1602年]]) - [[徳川家康]]が伏見城を再建。
* 慶長8年([[1603年]]) - 徳川家康が伏見城で[[将軍宣下]]を受け[[征夷大将軍]]に就任する。
*慶長19年([[1614年]])- [[大坂の陣#大坂冬の陣|大坂冬の陣]]。
*慶長20年([[1615年]])- [[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]。:豊臣氏の滅亡。[[元和偃武]]。
== 桃山文化 ==
{{See also|桃山文化}}
[[織田信長]]時代と[[豊臣秀吉]][[時代]]の[[文化_(代表的なトピック)|文化]]を秀吉の最後の居城だった[[伏見城]]の[[地名]]をとって、桃山文化と呼んでいる。新鮮味あふれる豪華で壮大な派手な文化であり、新興[[大名]]や[[豪商]]が中心だったとされる。<ref>『日本史図録』141頁</ref>新興の[[武士]]勢力や豪商の気風や商人の経済力を反映して、[[仏教]]色の少ない[[現世]]的な[[南蛮文化]]の影響を受けた文化である{{Sfn|永原|1987|p=81}}。都市部において、[[堺]]の[[今井宗久]]や[[博多]]の[[島井宗室]]ら[[豪商]]と呼ばれる新興商人が成長した時代であった{{Sfn|永原|1987|p=68}}。
茶の湯が流行し、[[唐物]]の[[名物 (茶道具)|名物]][[茶道具]]が珍重された一方で、それへの反抗としての[[わび茶]]も発達した。茶器が大名から家臣への報奨とされたり、[[茶会]]が武将と[[豪商]]を結ぶなど行事になるなど[[千利休]]の存在が政治にも影響した。
特筆すべき点としては、[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])の[[フランシスコ・ザビエル]]来日以来の[[南蛮貿易]]によってもたらされた[[南蛮文化]]の影響が挙げられる。まだ小規模ではあったが、日本が初めて[[西洋文化]]と直接(中国などを介さずに、正式な形で)触れ合ったという点で重要である。
=== 絵画 ===
[[Image:Kano Eitoku - Cypress Trees.jpg|300px|right|thumb|濃絵の特徴を良く示す『[[檜図屏風]]』狩野永徳]]
[[File:NanbanGroup.JPG|thumbnail|200px|日本に到来した南蛮人たち]]
[[狩野派]]の絵師が織田信長、豊臣秀吉などその時々の権力者と結び付いて画壇の中心を占めた。
* 障壁画:城郭、寺院などの襖、壁、床(とこ)や屏風などに描かれた{{Sfn|永原|1987|p=83}}。
* 濃絵:金箔地に青・緑を彩色。豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図が特徴。
* [[水墨画]]
* [[風俗画]]
'''主な絵師と代表作'''
* 濃絵
** [[狩野永徳]]:[[唐獅子図屏風]]
** [[狩野山楽]]:[[牡丹図]]、[[松鷹図]]
** [[長谷川等伯]]:[[智積院]]襖絵楓図
** [[長谷川久蔵]]:智積院襖絵桜図
* 水墨画
** [[長谷川等伯]]:[[松林図屏風]]
** [[海北友松]]:[[山水図屏風]]
* 風俗画
** 狩野永徳:上杉本[[洛中洛外図屏風]]
** 狩野内膳:豊国大例祭図屏風
** 南蛮屏風
=== 工芸 ===
==== 漆器 ====
* [[高台寺]][[蒔絵]]
==== 陶器 ====
* [[楽焼]]
* [[織部焼]]
* 朝鮮の影響を受けた陶磁器・皮革武具:[[文禄・慶長の役|唐入り(文禄・慶長の役)]]した主力の大名が進軍先駐屯中に、朝鮮の工芸品を見い出し物資調達で厚遇した。陶工など技能集団は日本への帰化を希望し、各大名が所領内での帰化と居住を許し、一部は重臣に取り立てられ、各大名は工芸品を特産物として保護した。有名なものは、
**[[伊万里焼]]:[[佐賀県]][[有田町|有田]]、[[長崎県]][[波佐見町|波佐見]]、[[三川内]]などで焼かれた肥前磁器の総称。[[鍋島直茂]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[萩焼]]:[[山口県]][[萩市]]周辺で焼かれる。[[毛利輝元]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[薩摩焼]]:[[鹿児島県]]一帯で焼かれる。[[島津義弘]]が帰化を許可した陶工を発祥とする。
** [[上野焼]](あがのやき):[[福岡県]][[田川郡]][[福智町]]で焼かれる。[[細川忠興]]が[[小倉藩]]主となった際に、家臣にまで取り立てられ帰化陶工が発祥とする。
** [[高取焼]]:[[福岡県]][[直方市]]や[[福岡市]]で焼かれる。
==== 皮革武具 ====
*印伝、上州印伝:軽くて丈夫でしなやかな特徴を持っている大陸産鹿革は、 秀吉の唐入り後流行し、日本刀の柄、鎧兜などに利用されてトンボ柄が有名である
==== 活字印刷 ====
* 朝鮮人技術者の技術を移植した木版による活字印刷と、[[イエズス会]]の[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]が伝えた西洋の活字印刷によるものがある。
** [[慶長勅版]]:[[後陽成天皇]]の勅命で印刷
** [[キリシタン版]](天草版):「天草版平家物語」、「天草版伊曽保物語」、「ぎゃ・ど・ぺかとる」、「[[日葡辞書]]」
=== 茶道 ===
* [[わび茶]]
** [[千利休]]
* 大名茶
=== 芸能 ===
==== 踊り ====
* [[幸若舞]]
* 阿国歌舞伎(歌舞伎踊り):[[出雲阿国]]による。[[歌舞伎]]の発祥。
==== 語り物 ====
* [[浄瑠璃]]
* [[隆達節]]
=== 建築 ===
==== 城郭 ====
[[Image:Keep of Matsumoto Castle.JPG|thumb|right|200px|松本城]]
{{see also|城#日本}}
戦国時代から安土桃山時代にかけて鉱山技術・建築技術・築城技術・造船技術などが進歩して、軍事色が強い[[山城]]から[[平山城]]へ移行した。城下町の発展の商業化で城主の政治統治や[[商人]]への経済支配を重視する[[平城]]へ移行した。[[織豊系城郭]]と呼ばれ、[[野面積み]][[石垣]]が用いられるようになり、[[天守]]を持つ城郭建築が主流となる。
* [[犬山城]]:現存([[国宝]])
* [[安土城]]:[[本能寺の変]]後に焼失
* [[松本城]]:現存(国宝)
* [[大坂城]]:[[大坂の陣]]で焼失、現在の遺構は江戸時代に造られたもの
* [[丸岡城]]:現存(国の[[重要文化財]])
* [[伏見城]]:江戸時代初期に廃城。[[御香宮神社]]表門が遺構として伝えられている。
* [[聚楽第]]:[[豊臣秀次]]失脚時に破棄。[[大徳寺]][[唐門]]、[[西本願寺]][[飛雲閣]]が遺構として伝えられる。
* [[佐和山城]]
* [[竹田城]]
* [[名護屋城]]
* [[姫路城]]:現存(国宝・[[世界遺産]])
'''[[倭城]]''':[[文禄・慶長の役]]で[[朝鮮半島]]に築かれた城
* [[蔚山倭城|蔚山城]]
* [[西生浦倭城|西生浦城]]
* [[順天倭城|順天城]]
==== その他 ====
'''茶室'''
* [[妙喜庵]]待庵
'''書院・庭園'''
* [[醍醐寺]][[三宝院]]表書院・庭園
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書|author1=永原慶二|author2=青木和夫|author3=佐々木潤之介|date=1987-05|title=百姓・町人と大名|series=日本の歴史 ジュニア版 第3巻|publisher=読売新聞社|ref = {{SfnRef|永原|1987}}}}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|日本の戦国時代|Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg}}
{{Commons|Category:Azuchi-Momoyama_period}}
{{Wiktionary}}
* [[日本の歴史]]
* [[日本史時代区分表]]
* [[安土桃山時代の人物一覧]]
* [[安土町]]
* [[京都]]・[[伏見区|伏見]]・[[桃山丘陵|桃山]]
* [[桃山文化]]
* [[滋賀県#歴史]]
* [[尾張国#歴史]](愛知県西部の歴史)
* [[上洛]]
* [[脇田修]](「大坂時代」を主張)
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{Kotobank|安土桃山時代(年表)}}
{{日本の歴史一覧|1573年-1603年}}
{{豊臣政権}}
{{Japanese-history-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あつちももやましたい}}
[[Category:日本の歴史 (時代別)]]
[[Category:安土桃山時代|*]]
[[Category:桃山]]
|
2003-09-12T03:19:33Z
|
2023-12-01T05:51:23Z
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"Template:豊臣政権",
"Template:Sfn",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:ウィキプロジェクトリンク",
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"Template:日本の歴史",
"Template:Kotobank",
"Template:See",
"Template:Citation",
"Template:日本の歴史一覧"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3
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16,343 |
東京六大学野球連盟
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一般財団法人東京六大学野球連盟(とうきょうろくだいがくやきゅうれんめい、英: TOKYO BIG6 BASEBALL LEAGUE)は、東京を所在地とした6校の大学の硬式野球部で構成された大学野球リーグである。全日本大学野球連盟傘下。
現存している大学野球リーグでは最も長い歴史がある。
1903年に開始された早稲田大学と慶應義塾大学の対抗戦(早慶戦)を発祥とする。1906年、応援の過熱などから早慶戦は中断されたが、明治大学(1914年)、法政大学(1917年)、立教大学(1921年)、東京帝国大学(現在の東京大学、1925年春)が参加。1925年秋季リーグから他校の説得により早慶戦が再開され、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足した。この1925年秋季リーグ戦の開幕試合(9月20日開催)は、明治大学と立教大学の対戦(紫合戦)であり、東京六大学の歴史は、この一戦から幕が開かれた。翌年の1926年10月には神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、実質的には連盟専用球場として運用されることになる。
プロ野球人気が高まりを見せるまで長く日本の野球人気の中心的存在であり、土日に神宮球場で開催されることもあって大学野球連盟の中では平均入場者数が最も多い。プロ・アマチュア球界へも多数の人材を送り出してきた。また、アマチュアのリーグでありながら、硬式野球を代表して天皇杯が下賜されている。
各校からOB1名ずつが先輩理事として出されるほか、各校の部長・監督・主将・マネージャーらが理事として連盟の運営に当たる。他に事務局長を筆頭とする事務局員が連盟運営の実務を担当する。代表者は理事長で、いろは順による各校部長による持ち回り、1年任期である。
部長・監督・助監督・コーチ・マネージャー(記録員)以外に1試合にベンチ入りできる選手は25人。ベンチ入り選手は1試合毎に変更可能。監督以外の3人の指導者がベンチ入りできる。その他に、1980年から2008年まで特別要員(コーチ扱い)1名がベンチ入りできた(役割は主に一塁ないしは三塁ベースコーチであり、特別要員として登録された選手は試合に出場できなかった)。2008年春季リーグ戦より、試合開始前と試合中に各1回、監督名とベンチ入り全25選手(苗字と背番号を表示)がスコアボードに表示されるようになった。
1年2シーズン制(春季:4月から5月末/秋季:9月から10月末)をとっており、それぞれのシーズンで6チーム総当たりの15カードを戦う。通常、開幕試合は前シーズンの優勝チームと最下位チームが、14カード目は前シーズンの優勝チームと2位のチームがそれぞれ対戦する。最終15カード目には早慶戦が組まれる。
毎週末の土曜・日曜に1カードずつ開催しており、1週目から7週目は2カードずつ開催、8週目は最終早慶戦のみを開催する。リーグ優勝校の発議などで9週間の変則日程で行われることがあり、この場合、早慶戦は最終第9週に行われ、第7週、第8週も第13カード、第14カードがそれぞれ単独で開催される。
秋季大会の後半、概ね10月中‐下旬(年度により11月初旬)に、日本プロ野球の日本シリーズが行われており、神宮球場を専用球場とするプロ野球球団が進出する可能性がある場合には、大会日程を調整する必要がある。
対戦カードの勝敗の決め方として、単純な1試合制ではなく、2戦先勝方式の総当たりによる勝ち点制を採用している。同一カードで試合を連日の日程で行い、先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了、勝利チームは勝ち点1を獲得する(1勝1敗の場合は第3戦を行う)。引き分けの場合も再試合を行い、対戦校のいずれかが2勝するまで、対戦は完結しない。
早慶戦については、大会最終週の単独開催で固定されており(9週シーズンの場合はその前のカードを含む)は、1日1試合を行う。
試合開始時刻は1日2試合の場合は第1試合11時00分より・第2試合13時30分より、1日1試合の場合は13時00分。2009年春季リーグ戦より、併用日における第1試合の開始を10時30分に早めた。現在、1日2試合における併用日は、10時開始となっている。かつては第1試合を12時00分より開始していたため、特に秋のシーズンにおいて、第2試合の途中からナイトゲームとなることが多かった。週末で決着がつかない場合は週明けの平日に再試合が行われるが、月火水曜の3日間でも決着がつかない場合は、翌週以降の平日に(ただし、翌週の予定カードの決着を優先して)対戦が繰り越される。
試合日程がプロ野球の試合と重なる場合は併用日と称しており、試合開始時間を早めるほか延長戦は行わず引き分けとしている。プロ野球の開始時刻に配慮してのものだが、こうした規定があっても六大学の試合が長引いてプロの試合開始が遅れることがごく稀にある。
引き分けはプロ併用日は9回終了時、大学単独開催における2試合日は、12回終了時となる。1試合日は、15回終了時同点であれば引き分けとしている(この場合でプロ野球ナイター併用日は15回を満たしていなくてもJST17時を過ぎた時点で次のイニングスに入らない)。7回終了(後攻チームがリードの場合は7回表終了時)をもって試合成立とし、それ以前の試合中止はノーゲームとなる。得点差によるコールドゲームの成立は採用していない。
なお、2011年東日本大震災が発生したのに伴う節電対策の一環として、同年春季リーグにおいては「日没で試合続行が不可能となった場合はコールドゲーム」とするなど特別ルールが制定された。 2020年は新型コロナウイルスの影響による開催方式で9回終了で同点引き分けとした。その他は次に示す。
※ 以上は基本的に東京六大学野球連盟として独自のもの。他のリーグで採用しているものもあるが、大学野球では基本的にはリーグ細則は独自のものとして運用される。
なお、新型コロナウィルス対策による、2020年秋季大会以後の1試合ごとのポイント制が採用されて以後は、原則として同じ勝ち点で1位が2チーム並んだ場合は1ゲームプレーオフで優勝を決める。3チーム以上が並んだ場合は優勝預かり(優勝校なし)とする。2位以下の場合は記録上は同順位となるが、次回シーズンの組み合わせ決定などの都合上、前シーズン(2021年春季大会の場合は2020年秋季大会)の上位チームを上の扱いとする。
審判員・公式記録員とも、各校が各々選任したOBが務める。審判員は各校から3名ずつ選出され、球審及び塁審3名の4名(照明点灯時は線審2名が加わる)で審判を行う。また、試合判定に関わる規則委員も各校から1名ずつ、選任されたOBが務める。各試合の審判員・記録員とも、対戦当該校以外の者が務める(例:早慶戦では明・法・立・東の4校のOBが審判員及び記録員を務める)。また、球場スタンド内のボール係は、各校のベンチ入り以外の部員が務めている。
各校に共通して、背番号は監督が30、助監督・学生コーチが40・50・51、主将が10と決められている。プロ野球にある「0」「00」番は存在しない。
各校とも、背番号に一定の原則を有している。例えば早稲田なら、投手は10番台、内野手は一桁、正捕手は6番、外野手は20番台、第二捕手は26番(詳細は早稲田大学野球部を参照)、明治ならレギュラーは守備位置に応じて背番号が振り分けられる(捕手なら2番、遊撃手なら6番)、立教なら31番以上の番号を選手は付けない、などである。新人やシーズン途中からベンチ入りした選手などはその時点の空き番号や30番台をつけることが多い(年度により使用しない大学もある)。背番号はカードごとに変更可能であり、開幕当初とシーズン後半で背番号が違う選手も見られる。
早稲田のみ、9番を欠番としている。これは1972年の第1回日米大学野球選手権の試合中に頭部に送球を受けて死去した東門明が、大学では9番を使用していたためである。
ユニフォームは早慶以外の4校は先攻用・後攻用(グレーを基調とする)の2種類を一時期使用していた(長嶋茂雄の立教時代の写真で二種類のユニフォーム姿を確認できるのはそのため)が、現在は1種類のみ。特に早・慶・明は帽子やユニフォームのカラー・ロゴなどを戦前からほとんど変えていない。早・明は襟付きのユニフォームを使用しているが、これは日本野球の草創期の名残(その当時はもっと大きな襟であったが)をとどめているものである。
1975年や76年に行われたプロ野球OBによる試合では、各選手の出身大学のユニフォームを着用したが、背番号がない時代の選手はプロ野球での背番号(選手・指導者とも。長嶋茂雄の3番など)を着用していた。それ以外にもプロ野球での背番号を着用した選手がいたため、各大学の法則に当てはまらない守備位置での着用や、通常の着用がほとんどない60番台以上の背番号を着用した人(西本幸雄の68番など)もいた。
個人タイトルは首位打者(毎日新聞社制定)と最優秀防御率(読売新聞社制定)の2つ。それぞれにトロフィーが与えられる。規定打席・投球回数は時期により差異があったが、現在は打席はプロ野球同様試合数×3.1を規定打席数とし、投球回数は試合数×2を規定回数としている。
アマチュア野球担当記者たちの投票によりベストナインを選出している(1954年秋季から)。ベストナイン選外の選手でめざましい活躍をした選手には特別賞が与えられる。過去には本塁打記録を大幅更新した法政田淵幸一、史上2人目の完全試合を達成した立教上重聡の2名。
2003年春季リーグ戦より、連盟ホームページにおいてファン投票によるMVPを選出している。斎藤佑樹が入学して以降は成績にかかわらず斎藤が大量得票でMVPに選出されるようになり、2010年秋季には投票ページに良識ある投票を呼びかける注意書きが設けられた。
リーグ戦第1週の試合前に開幕式を、早慶最終戦終了後に閉幕式を行う(優勝決定戦が行われるときには決定戦の終了後)。開幕式では連盟理事長の挨拶、前シーズン優勝チームからの天皇杯返納と選手宣誓(前シーズン優勝チームの主将が行う)が行われる。閉幕式では各杯の授与と連盟理事長の挨拶が行われる。なお個人表彰・ベストナイン表彰は閉幕式中には行われず、終了後に表彰と写真撮影が行われる。
いずれも、東京六大学応援団連盟が協力している。入場行進曲は各校の第一応援曲のメドレーがリーグ戦の順位の順番で吹奏され、曲が代わるのに合わせて一塁側ファウルグラウンドに控えている各校の第一応援旗が掲揚される。
2010年の結成85周年記念として、優勝校には優勝旗(天皇杯トロフィー共々持ち回り)が贈呈される。
2000年より稼働し、全試合の速報・結果、個人成績や過去の成績、連盟役員や各校の部員名簿などを掲載。試合速報はほぼリアルタイムに近い速さで配信している。試合速報・結果の画面は、神宮球場のスコアボードを模している。ファン投票によるMVP選出も行っている。携帯版でも試合速報をほぼリアルタイムで配信している。以前は神宮球場テレフォンサービスもあり、プロ野球を含めて試合予定、経過、結果を確認することができた。
2016年度秋季まで、新人戦として春秋リーグ戦の最終日(原則として早慶戦)の翌日から行われた。出場は1・2年生が対象で(他校より部員数が少ない東大は3・4年生も参加可能)、原則として神宮球場で行うが、プロ野球の試合スケジュールの都合で、加盟各大学のグラウンドを借りて開催する場合もあった。
大会は特別ルールが適用され、延長戦はタイブレークを採用。「ノーアウト1・2塁」という設定とし、9回終了時の次の打者から攻撃を開始。9回終了時の最後の2人の打者がそれぞれ1・2塁にたつ。また試合成立後天災により同点で途中打ち切りとなった場合はサスペンデッドゲームとする。2016年まで新人戦トーナメントだった時期は決勝戦と3位決定戦はタイブレークは適用せず。神宮でプロ野球開催がある場合の午後4時以後を超えた場合は次のイニングに入らない。また日没・および神宮の規定時間を越えて同点である場合、決勝戦は優勝預かりとみなす。3位決定戦は9回終了で次のイニングに入らない。(但し加盟校のグラウンドで行う場合3位決定戦を実施しない)審判は球審と塁審(内野全てを兼ねる)の2人。
2017年度春季からは、フレッシュリーグの名称でリーグ戦の前座として、開幕日、リーグ戦中のプロ野球併用日を除く毎日1試合及びリーグ戦最終日の翌日から3日間は各2試合、6チーム総当たりリーグを行う。リーグ戦と同時開催日は9回以前でも1時間50分を超えて新たなイニングに入らない。同年秋季は従来通りトーナメントを行う。2018年度春季からは指名打者制度導入。
東京六大学野球連盟が結成された当時は娯楽文化が現在とはだいぶ異なる様相を呈しており、当該野球対抗戦はスポーツ競技娯楽として絶大な人気を集めていた(詳細は前述の特徴の章を参照)。このため、六大学野球連盟成立前の加盟候補に挙がったチームや、成立後に至ってもこの連盟に加盟を希望するチームは枚挙にいとまなかった。また、東都大学野球連盟との関係に関してもさまざまな異説が流布されている(詳細は東都大学野球連盟参照)。
以下にそれらにまつわる事例を紹介する。(下記の大学以外にも伝承・伝聞が諸説存在するが、検証可能なものについてのみ記述した。)
※連盟結成以降を記述。
早慶戦を起源とすることから、最終戦の対戦カードは必ず早慶戦となっている。早慶戦は日本の野球の発展に大きな影響を及ぼし、長く国民的な注目を集め、現在も両校の学生や卒業生が応援しており、他のカードをより多い観客数となっている。早慶戦が必ず最終節に組まれているため、早慶両校は全5カードを戦うのに最大8週間かけることが出来、かつ3週連続で試合を行うことは絶対ないのに対し、他校で第1週(第1・2カード)に出場しない学校は6週間で5カードをこなさなければならないので、選手の疲労度を考慮すると、日程面では早慶両校が他校と比較して有利である。また早慶戦は1日1試合のみであり、原則プロ併用はなしで試合前の球場練習時間も確保されている。他リーグでは通常、前シーズン1、2位校のカードが最終週に組まれる。
成立以来全国から有力な球児たちが集まり、テレビ普及によるプロ野球の人気上昇前においては、日本の野球において高校野球と人気を二分してきた。1980年代以降は以前ほどの人気を集めなくなったが、東京六大学野球連盟の発表する観客動員数によると早慶戦を含まなくとも大学野球では全国随一の動員力を維持している。
六大学野球が成立する以前から加盟を求める大学が相次いだが、連盟はそれを拒否してきた(詳細については後述章の連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説を参照)。
リーグ戦で指名打者制を採用していない。
試合開始・終了時には両校応援席とも校旗を掲揚して校歌斉唱と「フレー・フレー」のかけ声(母校と対戦校のそれぞれに対して)からなるエール交換(応援席以外の観客は静粛する)を行い、相手への敬意を表する。エール交換中、応援席に座る学生たちには相手校への敬意から起立・脱帽が義務づけられている。コンバットマーチ(早稲田)ダッシュケイオウ(慶應)狙いうち(明治)チャンス法政(法政)セントポール(立教)鉄腕アトム(東大)など、現在高校野球やプロ野球で使われる応援曲の多くが東京六大学から生まれており、東京六大学の応援が高校野球やプロ野球へ、そして全国へ伝播したものである。また、野球応援にチアリーダーが登場したのは、東京六大学が最初とされている(早慶六連戦を参照)。
創成期のプロ野球の運営方法にも影響を与えたものもある(1936年度のプロ野球は勝ち点制を採用など)。
週末を中心に、すべて神宮球場のみで行なわれる。全国の大学野球リーグで独立した球場のみですべての試合を行うのは本連盟と東都大学野球のみ(大学所有球場のケースはあり、また東都大学は場合によって他球場使用の実績がある)。
東京六大学野球連盟は神宮球場の建設時に協力をし、また1931年の神宮球場の拡張の際に工費を負担した経緯から、球場の使用割り当てを決定する上で最優先の配慮を受けており、リーグ戦開催時期はリーグ戦終了後に行なわれる新人戦まで含めて東京六大学野球連盟が優先的に神宮球場を使用して試合を開催する。
ベンチの配置は原則として対戦組み合わせスケジュール表(公式サイト参照)の左のチームが3塁側、右のチームが1塁側(先攻は3塁側)となるが、早慶戦は全試合共通で早稲田が1塁側、慶應が3塁側と固定されている(1933年に起こった応援過熱による騒動(リンゴ事件)を背景とする。ただし先攻は他の組み合わせと同様に組み合わせ表の左側のチームとなる)。なお、土曜日に開催される1回戦が雨天などの理由で2試合とも(第8週は早慶戦1試合)中止となった場合、試合順及びベンチの配置・攻撃順は翌日にスライドさせず、月曜日以降に開催される2回戦に引き継がれる。一旦販売された入場券の扱いも同様である。
リーグ戦期間中に各校応援団が利用する応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の共有所有物であるが、その応援リーダー台の設置の為に、球場設備の一部であるフェンス支柱に応援リーダー台固定用の突起金具が溶接されている。こうした他では考えられない(プロでも)便宜を提供するほど球場と大学野球連盟の関係が深いのは、全国でも唯一といっていい。前述のように東京六大学連盟が神宮球場の設立期に協力したことに由来するものと考えられる。
スコアボードの校名表記は原則としてアルファベット表記であり、たとえば早稲田ならば得点欄は「W」、選手名の一番上には「WASEDA」と表記される。スコアボードが改修された2008年春季以降は選手名上部はユニフォームと同じ書体、2008年秋季からは得点欄も帽子のマークと同じ表記となった。このため立教の得点欄の表記は「R」ではなくシンボルマークのユリ(フルール・ド・リス)となっている。
球場内の座席は、以前は学生席(500円)・外野席(700円)・内野席(1,100円)・特別指定席(1,300円)に分けられていたが、低下している観客動員数の改善の為、2010年春季リーグから学生席は応援席に変わり学生以外も入場できるようになり、また学生は内野席(学生内野席)に800円で入場できるようになった。神宮球場でのアマチュア野球の試合で外野席を常時開放するのは原則として東京六大学野球のみ(高校野球決勝戦等で多客時を除き)。2020年は観客数制限もあり内野席券(1,500円)と前記の学生内野席券のみ。
主な記録は連盟ホームページ、ベースボール・マガジン社発行の雑誌「大学野球(各季展望、決算号)」等でも確認できる。
連盟ホームページを参照のこと。リーグの各記録に、5大学リーグ以前(=1925年春季以前)の記録は含まれていない。
2023年秋季リーグ戦終了時点
※1940年春季は慶大・明大・立大の3校が7勝3敗でならび、優勝預かりとなった。
平成以降の優勝校のみ
1927年秋のリーグ戦からラジオ中継され、テレビでも草創期から中継を行うなど、マスコミは人気コンテンツとして六大学の試合を中継してきた。
1960年の早慶六連戦当時は、NHKだけでなく東京キーの民放全局がこれを中継するなどしていたが、その後民放は順次撤退、NHKも放映数を減少させていった。
テレビ神奈川や東京メトロポリタンテレビ(東京MXTV)でも開局直後から数年にわたり試合中継を行っていた(テレビ神奈川は80年代中頃に中継を中止したが、90年代に入り土日の深夜にダイジェストを放送した)。
1974年秋季、東大が法大の江川卓から勝ち星を挙げた試合ではテレビ神奈川が異例の中継延長に踏切った。それを知ってか試合終了後に東大ナインがテレビカメラに向かって一礼する一幕もあった。
1981年5月には東大が早慶から勝ち点を挙げ「赤門旋風」を巻き起こしたことから、TBSが急遽東大-立教4回戦を中継した。
ただ80年代に入り、唯一試合中継を継続していたNHKが、早慶戦を含む数カード(第3週、第6週、第7週、早慶戦の各1試合)に中継を絞り、その後ラジオ中継を廃し、1997年春季には早慶戦のテレビ中継も中止した。しかしそのシーズンに慶大の高橋由伸がリーグタイ記録の22号本塁打を早慶戦(それもNHKがそれまで放映していた日曜日の試合)で放ったため、視聴者から中継中止に対する抗議が多数寄せられる事態が起きた(試合は東京MXTVが中継)。歴史的瞬間を逃した失態と感じたかNHKはその年の秋季から早慶戦の中継を再開した(なおNHKはそれまで優勝校へ授与していたNHK杯も同時期に一時撤廃している)。
2006年11月の東京六大学対東京ヤクルトスワローズ戦は、東京MXTVが生中継した。
2007年春季、前年夏の甲子園優勝投手で話題の斎藤佑樹が早大に入学したことにより試合中継数が一気に増加。民放放送各局が連盟と放映権獲得を巡り交渉した末、日本テレビが獲得し六大学の試合中継を再開することとなった。BS日テレでは早稲田戦の10試合を、CS放送の日テレG+では全試合を中継し(なお9月24日、25日は神宮球場内でのテレビ中継をしたが、CS・BS・地上波では未放送に終わった)、地上波では斎藤佑樹が1年生開幕投手を務めた4月14日の東大 - 早稲田戦を中継した(1回表裏のみ)。また5月12日には2007年春季リーグの模様を中心に六大学野球の歴史を紹介した2時間の特別番組を放送した。ちなみにラジオ中継はニッポン放送が放送権を獲得。
2007年5月20日には、NHKが早稲田 - 明治戦を緊急生中継を実施し、6月2日・3日の早慶戦ではNHKが中継したほか、日本テレビも6月3日に特別番組を編成して地上波中継を実施。この日の早慶戦はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録した。
CSでは日テレG+の放送開始以前はパワーチャンネル(現・MTVジャパン。当時は週末はスポーツ中心の編成で行っていた)→GAORA→スカイ・A (現:スカイ・A sports+)で放送を行っていた。また、東京MXTVでの中継録画をスポーツアイESPNでも放送していた時期もある。なお、スカイ・Aでは2009年春季リーグからテレビ朝日協力(スコアフォントは千代田ビデオ・東京メトロポリタンテレビジョン製作のものを流用。実況アナウンサーもABC、EXのそれぞれから派遣して担当する。毎節の放送ではなく、随時好カードを抜粋して放映)により中継を再開し、現在も放送しているが録画放送のみとなり、生中継は2015年春季リーグまでテレ朝チャンネル2、2015年秋季リーグはBS朝日で放送している。
現在、地上波ではNHK教育テレビが早慶戦の日曜の試合のみをテレビ中継している。
2006年春季、連盟はリーグ戦全試合のインターネット中継の実験をiiVChannelで開始、同年秋季には日本テレビと提携して第2日本テレビにおいてインターネット中継が実施された。
2009年よりインターネットテレビ局ノーネスチャンネルが運営する東京六大学野球オフィシャルTVにおいて春季・秋季リーグの全試合が配信されている。また、2014年からはノーネスチャンネルによる東京六大学野球オフィシャルTVライブにおいていくつかの試合が神宮球場よりネットで生中継されている。
2017年からは運動通信社が運営するSPORTSBULLにて、不動産会社オープンハウスがタイトルパートナーとなって、BIG6.TVというサービスが誕生。全試合生配信と題し、ライブ中継および3分間のハイライト映像の配信を行っている。また、SNSのTwitterとFacebookにて、BIG6.TVアカウントとして試合映像の切り出し投稿を行っている。
2018年春季からはAbemaTVが中継に参入。SPORTSチャンネルにて全試合の生中継及び見逃し配信を実施している。
新聞・雑誌でも、戦前は大手各紙がスポーツ記事では最も大きい取り上げ方をしていた。試合の詳細まで掲載していたため、戦前のリーグ記録は、新聞報道に頼る部分が少なからずある。戦後もテレビ・ラジオ同様重要コンテンツとして取り上げてきたが、やはり同様に扱いが少なくなり、江川卓卒業後はさらに記事が減少していった。中には取材不徹底のまま早慶戦の人気低迷を取り上げる新聞も出た。
ただ2007年の斎藤佑樹の入学に伴い、東京六大学の新聞・雑誌でもその扱いが一気に増え、斎藤が登板した翌日は1面に取り上げるスポーツ紙も多かった。
雑誌としてはベースボール・マガジン社が年3回「週刊ベースボール」の増刊として「大学野球」を刊行している。もとは「東京六大学野球特集号」としていたものが大学球界の全国各地での発展に伴い名称を変えたものである。とはいえ東京六大学野球に割かれる誌面は今も最も大きく、巻頭を含めて注目選手へのインタビューのほか、選手名鑑、歴代の記録、前シーズンの試合結果や記録などを網羅している。同誌2007年春季リーグ戦展望号では表紙を斎藤が飾った。同誌の刊行史において、入学したばかりの選手が表紙を飾るのは極めて稀なことである。
神宮球場では「神宮球場ガイドブック」(ベースボール・マガジン社制作)を春・秋の2回刊行していた(1986年より)。東京ヤクルトスワローズ関連の記事とともに、東京六大学・東都大学の選手名鑑や記録が掲載され、さらに各連盟OBのインタビューや過去の東京六大学リーグ戦の記事などが誌面を飾り、六大学野球ファン必携の一冊となっていた。2007年春号は同ガイドブック史上初めて、斎藤を含む各校の注目新入生を紹介する頁が設けられた。東大は発行の時点で入部選手が確定しておらず(これは例年のことである)、新人選手の紹介はなかった。ガイドブックは第4週終了時点で同誌史上初めて第1刷を完売した。尚、2017年からは同誌に代わって連盟公認のオフィシャルガイドブックが発刊された。
また、日刊スポーツ出版社は「カレッジベースヒーローズ」を2007年から毎リーグ戦前に刊行していたが、現在は休刊となっている。
このほか、連盟発行のポケットサイズ選手名簿(シーズン開幕時登録ベンチ入り選手、日程、各校歌等の文字のみ)が、神宮球場内で発売されている。
リーグ戦の優勝校は、全日程の終了後に優勝パレードを行うのが恒例となっている。パレードの参列者は紅白のちょうちんを携えて行進することから、パレードには「ちょうちん行列」「ちょうちんパレード」の別名がある。 概ね神宮外苑内の絵画館前を起点とし、大学本部のある地点までを行進ルートにしている。選手たちはオープンカーに乗って行進に参加する(早稲田を除く)。
なお近年では、渋滞への配慮等から神宮外苑を起点としたパレードを実施しない場合もある。
1933年10月1日の早稲田-立教3回戦は、立教が11-4と大量リードのまま9回表を迎えた。ここで早稲田が反撃に出て大量5点を奪い2点差に迫り、なお2死満塁と詰め寄った。ここで打者長野を迎えたところで日没のためグラウンドが暗くなり、試合続行不可能と判断した審判団は両校監督・主将と協議の上、同じ状況のまま翌日に試合を延期すること(いわゆるサスペンデッドゲーム)とした。翌10月2日、9回表早稲田の攻撃、2死満塁の局面から試合は再開された。早稲田の打者長野は立教の投手塩田の3球目に投ゴロに倒れ、試合はあっさり11-9で立教の勝利に終わった。以後、連盟規定改定などの関係で、同様のサスペンデッドゲームは実施されていない。
2007年の春季リーグは同年に早稲田大学に入学した斎藤佑樹の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めてチケットぴあでの入場券前売りが実施された。新入生が開幕投手を務めるのは実に77年ぶり史上2人目であった。 4月14日の開幕戦は前年春の4倍となる18,000人が詰めかけ、法政との対戦となった同じ4月28日は20,000人、斎藤が先発した4月29日は28,000人を記録し、従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。この観客数は早慶戦以外では1992年春季第7週、法政-明治戦(勝った方が優勝。法明戦で勝った方が優勝となるのは久しぶりだった)以来の20,000人越えとなった。両日夜に同じ神宮で行われた東京ヤクルトスワローズ - 読売ジャイアンツ戦の観客動員は28日20,106人、29日29,654人であった。斎藤佑樹の人気がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。さらに5月20日の早明戦では、30,000人が神宮に詰めかけ、6月2日からの早慶戦では2日34,000人、3日36,000人の観衆が集まった。6月3日の観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、北海道日本ハムファイターズ対阪神タイガース(札幌ドーム)に次ぐ動員数となった。
入場券を求める行列は4月28日には400人以上に上り、その後シーズンの経過につれその列が増えてきた。そのための混乱を少しでも回避しようとしてか、連盟ホームページでは1日2試合の場合の開場時間が9:35であることを記載し始めた。連盟では混雑による事故を回避するため、従来の倍以上の警備員を配置して観客整理と警戒にあたっている。早慶戦では1994年の天覧試合並みの200人態勢をとった。
早稲田野球部を乗せたバスは斎藤見たさに詰めかけるファンとの衝突・事故を避けるために、球場正面玄関に横付けされ、選手たちは厳重な警備の下で入退場をしている。他校の場合は球場前の駐車場に停める(早稲田も2006年秋季までは同様だった)。
ただし早稲田の出ない週の観客数は概ね例年並みとなっており、六大学の人気復活とは言い切れない状況であった。
1年生の斎藤が2007年春季リーグの開幕投手で勝利をおさめたが、これは1927年春季の慶應宮武三郎以来80年ぶり(先発投手としては1930年の東大・高橋一以来)。斎藤はこのリーグ戦で通算4勝を挙げ、1年生投手の春季リーグ戦での4勝以上は1927年宮武、1929年早稲田小川正太郎、1991年早稲田織田淳哉についで4人目となった。斎藤はベストナインにも選出され、1年生投手が春のベストナインに選出されたのは1954年秋季の制度制定後初めてである。
2007年9月6日の連盟理事会で、東京六大学野球の2008年版カレンダーを発行することを決定した。連盟によれば「ファンサービスの一環」とのことだが、カレンダーの発行は同連盟史上初めてのことである。また2008年春季リーグ戦の開幕と同時にベースボールカードも発売された。連盟によれば、過去にブロマイドが発行されたことはあるが、カードの発売は初めてだとしている。
斎藤が卒業後は再び下降し、ここ数年は平均8千人程度の観客動員数となっている。
1930年(昭和5年)に、森永製菓から発売された東京六大学を象徴する6つのチョコレート。外装紙には、各大学の名称の入ったペナントがデザインされているのに加え、リーグ戦での応援のために各大学の校歌も印刷された。価格は1個10銭。
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"text": "現存している大学野球リーグでは最も長い歴史がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1903年に開始された早稲田大学と慶應義塾大学の対抗戦(早慶戦)を発祥とする。1906年、応援の過熱などから早慶戦は中断されたが、明治大学(1914年)、法政大学(1917年)、立教大学(1921年)、東京帝国大学(現在の東京大学、1925年春)が参加。1925年秋季リーグから他校の説得により早慶戦が再開され、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足した。この1925年秋季リーグ戦の開幕試合(9月20日開催)は、明治大学と立教大学の対戦(紫合戦)であり、東京六大学の歴史は、この一戦から幕が開かれた。翌年の1926年10月には神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、実質的には連盟専用球場として運用されることになる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "プロ野球人気が高まりを見せるまで長く日本の野球人気の中心的存在であり、土日に神宮球場で開催されることもあって大学野球連盟の中では平均入場者数が最も多い。プロ・アマチュア球界へも多数の人材を送り出してきた。また、アマチュアのリーグでありながら、硬式野球を代表して天皇杯が下賜されている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "各校からOB1名ずつが先輩理事として出されるほか、各校の部長・監督・主将・マネージャーらが理事として連盟の運営に当たる。他に事務局長を筆頭とする事務局員が連盟運営の実務を担当する。代表者は理事長で、いろは順による各校部長による持ち回り、1年任期である。",
"title": "加盟大学"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "部長・監督・助監督・コーチ・マネージャー(記録員)以外に1試合にベンチ入りできる選手は25人。ベンチ入り選手は1試合毎に変更可能。監督以外の3人の指導者がベンチ入りできる。その他に、1980年から2008年まで特別要員(コーチ扱い)1名がベンチ入りできた(役割は主に一塁ないしは三塁ベースコーチであり、特別要員として登録された選手は試合に出場できなかった)。2008年春季リーグ戦より、試合開始前と試合中に各1回、監督名とベンチ入り全25選手(苗字と背番号を表示)がスコアボードに表示されるようになった。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1年2シーズン制(春季:4月から5月末/秋季:9月から10月末)をとっており、それぞれのシーズンで6チーム総当たりの15カードを戦う。通常、開幕試合は前シーズンの優勝チームと最下位チームが、14カード目は前シーズンの優勝チームと2位のチームがそれぞれ対戦する。最終15カード目には早慶戦が組まれる。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "毎週末の土曜・日曜に1カードずつ開催しており、1週目から7週目は2カードずつ開催、8週目は最終早慶戦のみを開催する。リーグ優勝校の発議などで9週間の変則日程で行われることがあり、この場合、早慶戦は最終第9週に行われ、第7週、第8週も第13カード、第14カードがそれぞれ単独で開催される。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "秋季大会の後半、概ね10月中‐下旬(年度により11月初旬)に、日本プロ野球の日本シリーズが行われており、神宮球場を専用球場とするプロ野球球団が進出する可能性がある場合には、大会日程を調整する必要がある。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "対戦カードの勝敗の決め方として、単純な1試合制ではなく、2戦先勝方式の総当たりによる勝ち点制を採用している。同一カードで試合を連日の日程で行い、先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了、勝利チームは勝ち点1を獲得する(1勝1敗の場合は第3戦を行う)。引き分けの場合も再試合を行い、対戦校のいずれかが2勝するまで、対戦は完結しない。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "早慶戦については、大会最終週の単独開催で固定されており(9週シーズンの場合はその前のカードを含む)は、1日1試合を行う。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "試合開始時刻は1日2試合の場合は第1試合11時00分より・第2試合13時30分より、1日1試合の場合は13時00分。2009年春季リーグ戦より、併用日における第1試合の開始を10時30分に早めた。現在、1日2試合における併用日は、10時開始となっている。かつては第1試合を12時00分より開始していたため、特に秋のシーズンにおいて、第2試合の途中からナイトゲームとなることが多かった。週末で決着がつかない場合は週明けの平日に再試合が行われるが、月火水曜の3日間でも決着がつかない場合は、翌週以降の平日に(ただし、翌週の予定カードの決着を優先して)対戦が繰り越される。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "試合日程がプロ野球の試合と重なる場合は併用日と称しており、試合開始時間を早めるほか延長戦は行わず引き分けとしている。プロ野球の開始時刻に配慮してのものだが、こうした規定があっても六大学の試合が長引いてプロの試合開始が遅れることがごく稀にある。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "引き分けはプロ併用日は9回終了時、大学単独開催における2試合日は、12回終了時となる。1試合日は、15回終了時同点であれば引き分けとしている(この場合でプロ野球ナイター併用日は15回を満たしていなくてもJST17時を過ぎた時点で次のイニングスに入らない)。7回終了(後攻チームがリードの場合は7回表終了時)をもって試合成立とし、それ以前の試合中止はノーゲームとなる。得点差によるコールドゲームの成立は採用していない。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "なお、2011年東日本大震災が発生したのに伴う節電対策の一環として、同年春季リーグにおいては「日没で試合続行が不可能となった場合はコールドゲーム」とするなど特別ルールが制定された。 2020年は新型コロナウイルスの影響による開催方式で9回終了で同点引き分けとした。その他は次に示す。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "※ 以上は基本的に東京六大学野球連盟として独自のもの。他のリーグで採用しているものもあるが、大学野球では基本的にはリーグ細則は独自のものとして運用される。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "なお、新型コロナウィルス対策による、2020年秋季大会以後の1試合ごとのポイント制が採用されて以後は、原則として同じ勝ち点で1位が2チーム並んだ場合は1ゲームプレーオフで優勝を決める。3チーム以上が並んだ場合は優勝預かり(優勝校なし)とする。2位以下の場合は記録上は同順位となるが、次回シーズンの組み合わせ決定などの都合上、前シーズン(2021年春季大会の場合は2020年秋季大会)の上位チームを上の扱いとする。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "審判員・公式記録員とも、各校が各々選任したOBが務める。審判員は各校から3名ずつ選出され、球審及び塁審3名の4名(照明点灯時は線審2名が加わる)で審判を行う。また、試合判定に関わる規則委員も各校から1名ずつ、選任されたOBが務める。各試合の審判員・記録員とも、対戦当該校以外の者が務める(例:早慶戦では明・法・立・東の4校のOBが審判員及び記録員を務める)。また、球場スタンド内のボール係は、各校のベンチ入り以外の部員が務めている。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "各校に共通して、背番号は監督が30、助監督・学生コーチが40・50・51、主将が10と決められている。プロ野球にある「0」「00」番は存在しない。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "各校とも、背番号に一定の原則を有している。例えば早稲田なら、投手は10番台、内野手は一桁、正捕手は6番、外野手は20番台、第二捕手は26番(詳細は早稲田大学野球部を参照)、明治ならレギュラーは守備位置に応じて背番号が振り分けられる(捕手なら2番、遊撃手なら6番)、立教なら31番以上の番号を選手は付けない、などである。新人やシーズン途中からベンチ入りした選手などはその時点の空き番号や30番台をつけることが多い(年度により使用しない大学もある)。背番号はカードごとに変更可能であり、開幕当初とシーズン後半で背番号が違う選手も見られる。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "早稲田のみ、9番を欠番としている。これは1972年の第1回日米大学野球選手権の試合中に頭部に送球を受けて死去した東門明が、大学では9番を使用していたためである。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ユニフォームは早慶以外の4校は先攻用・後攻用(グレーを基調とする)の2種類を一時期使用していた(長嶋茂雄の立教時代の写真で二種類のユニフォーム姿を確認できるのはそのため)が、現在は1種類のみ。特に早・慶・明は帽子やユニフォームのカラー・ロゴなどを戦前からほとんど変えていない。早・明は襟付きのユニフォームを使用しているが、これは日本野球の草創期の名残(その当時はもっと大きな襟であったが)をとどめているものである。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1975年や76年に行われたプロ野球OBによる試合では、各選手の出身大学のユニフォームを着用したが、背番号がない時代の選手はプロ野球での背番号(選手・指導者とも。長嶋茂雄の3番など)を着用していた。それ以外にもプロ野球での背番号を着用した選手がいたため、各大学の法則に当てはまらない守備位置での着用や、通常の着用がほとんどない60番台以上の背番号を着用した人(西本幸雄の68番など)もいた。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "個人タイトルは首位打者(毎日新聞社制定)と最優秀防御率(読売新聞社制定)の2つ。それぞれにトロフィーが与えられる。規定打席・投球回数は時期により差異があったが、現在は打席はプロ野球同様試合数×3.1を規定打席数とし、投球回数は試合数×2を規定回数としている。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アマチュア野球担当記者たちの投票によりベストナインを選出している(1954年秋季から)。ベストナイン選外の選手でめざましい活躍をした選手には特別賞が与えられる。過去には本塁打記録を大幅更新した法政田淵幸一、史上2人目の完全試合を達成した立教上重聡の2名。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2003年春季リーグ戦より、連盟ホームページにおいてファン投票によるMVPを選出している。斎藤佑樹が入学して以降は成績にかかわらず斎藤が大量得票でMVPに選出されるようになり、2010年秋季には投票ページに良識ある投票を呼びかける注意書きが設けられた。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦第1週の試合前に開幕式を、早慶最終戦終了後に閉幕式を行う(優勝決定戦が行われるときには決定戦の終了後)。開幕式では連盟理事長の挨拶、前シーズン優勝チームからの天皇杯返納と選手宣誓(前シーズン優勝チームの主将が行う)が行われる。閉幕式では各杯の授与と連盟理事長の挨拶が行われる。なお個人表彰・ベストナイン表彰は閉幕式中には行われず、終了後に表彰と写真撮影が行われる。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "いずれも、東京六大学応援団連盟が協力している。入場行進曲は各校の第一応援曲のメドレーがリーグ戦の順位の順番で吹奏され、曲が代わるのに合わせて一塁側ファウルグラウンドに控えている各校の第一応援旗が掲揚される。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2010年の結成85周年記念として、優勝校には優勝旗(天皇杯トロフィー共々持ち回り)が贈呈される。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2000年より稼働し、全試合の速報・結果、個人成績や過去の成績、連盟役員や各校の部員名簿などを掲載。試合速報はほぼリアルタイムに近い速さで配信している。試合速報・結果の画面は、神宮球場のスコアボードを模している。ファン投票によるMVP選出も行っている。携帯版でも試合速報をほぼリアルタイムで配信している。以前は神宮球場テレフォンサービスもあり、プロ野球を含めて試合予定、経過、結果を確認することができた。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2016年度秋季まで、新人戦として春秋リーグ戦の最終日(原則として早慶戦)の翌日から行われた。出場は1・2年生が対象で(他校より部員数が少ない東大は3・4年生も参加可能)、原則として神宮球場で行うが、プロ野球の試合スケジュールの都合で、加盟各大学のグラウンドを借りて開催する場合もあった。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "大会は特別ルールが適用され、延長戦はタイブレークを採用。「ノーアウト1・2塁」という設定とし、9回終了時の次の打者から攻撃を開始。9回終了時の最後の2人の打者がそれぞれ1・2塁にたつ。また試合成立後天災により同点で途中打ち切りとなった場合はサスペンデッドゲームとする。2016年まで新人戦トーナメントだった時期は決勝戦と3位決定戦はタイブレークは適用せず。神宮でプロ野球開催がある場合の午後4時以後を超えた場合は次のイニングに入らない。また日没・および神宮の規定時間を越えて同点である場合、決勝戦は優勝預かりとみなす。3位決定戦は9回終了で次のイニングに入らない。(但し加盟校のグラウンドで行う場合3位決定戦を実施しない)審判は球審と塁審(内野全てを兼ねる)の2人。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2017年度春季からは、フレッシュリーグの名称でリーグ戦の前座として、開幕日、リーグ戦中のプロ野球併用日を除く毎日1試合及びリーグ戦最終日の翌日から3日間は各2試合、6チーム総当たりリーグを行う。リーグ戦と同時開催日は9回以前でも1時間50分を超えて新たなイニングに入らない。同年秋季は従来通りトーナメントを行う。2018年度春季からは指名打者制度導入。",
"title": "運営概要"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "東京六大学野球連盟が結成された当時は娯楽文化が現在とはだいぶ異なる様相を呈しており、当該野球対抗戦はスポーツ競技娯楽として絶大な人気を集めていた(詳細は前述の特徴の章を参照)。このため、六大学野球連盟成立前の加盟候補に挙がったチームや、成立後に至ってもこの連盟に加盟を希望するチームは枚挙にいとまなかった。また、東都大学野球連盟との関係に関してもさまざまな異説が流布されている(詳細は東都大学野球連盟参照)。",
"title": "連盟結成までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "以下にそれらにまつわる事例を紹介する。(下記の大学以外にも伝承・伝聞が諸説存在するが、検証可能なものについてのみ記述した。)",
"title": "連盟結成までの経緯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "※連盟結成以降を記述。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "早慶戦を起源とすることから、最終戦の対戦カードは必ず早慶戦となっている。早慶戦は日本の野球の発展に大きな影響を及ぼし、長く国民的な注目を集め、現在も両校の学生や卒業生が応援しており、他のカードをより多い観客数となっている。早慶戦が必ず最終節に組まれているため、早慶両校は全5カードを戦うのに最大8週間かけることが出来、かつ3週連続で試合を行うことは絶対ないのに対し、他校で第1週(第1・2カード)に出場しない学校は6週間で5カードをこなさなければならないので、選手の疲労度を考慮すると、日程面では早慶両校が他校と比較して有利である。また早慶戦は1日1試合のみであり、原則プロ併用はなしで試合前の球場練習時間も確保されている。他リーグでは通常、前シーズン1、2位校のカードが最終週に組まれる。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "成立以来全国から有力な球児たちが集まり、テレビ普及によるプロ野球の人気上昇前においては、日本の野球において高校野球と人気を二分してきた。1980年代以降は以前ほどの人気を集めなくなったが、東京六大学野球連盟の発表する観客動員数によると早慶戦を含まなくとも大学野球では全国随一の動員力を維持している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "六大学野球が成立する以前から加盟を求める大学が相次いだが、連盟はそれを拒否してきた(詳細については後述章の連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説を参照)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦で指名打者制を採用していない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "試合開始・終了時には両校応援席とも校旗を掲揚して校歌斉唱と「フレー・フレー」のかけ声(母校と対戦校のそれぞれに対して)からなるエール交換(応援席以外の観客は静粛する)を行い、相手への敬意を表する。エール交換中、応援席に座る学生たちには相手校への敬意から起立・脱帽が義務づけられている。コンバットマーチ(早稲田)ダッシュケイオウ(慶應)狙いうち(明治)チャンス法政(法政)セントポール(立教)鉄腕アトム(東大)など、現在高校野球やプロ野球で使われる応援曲の多くが東京六大学から生まれており、東京六大学の応援が高校野球やプロ野球へ、そして全国へ伝播したものである。また、野球応援にチアリーダーが登場したのは、東京六大学が最初とされている(早慶六連戦を参照)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "創成期のプロ野球の運営方法にも影響を与えたものもある(1936年度のプロ野球は勝ち点制を採用など)。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "週末を中心に、すべて神宮球場のみで行なわれる。全国の大学野球リーグで独立した球場のみですべての試合を行うのは本連盟と東都大学野球のみ(大学所有球場のケースはあり、また東都大学は場合によって他球場使用の実績がある)。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "東京六大学野球連盟は神宮球場の建設時に協力をし、また1931年の神宮球場の拡張の際に工費を負担した経緯から、球場の使用割り当てを決定する上で最優先の配慮を受けており、リーグ戦開催時期はリーグ戦終了後に行なわれる新人戦まで含めて東京六大学野球連盟が優先的に神宮球場を使用して試合を開催する。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ベンチの配置は原則として対戦組み合わせスケジュール表(公式サイト参照)の左のチームが3塁側、右のチームが1塁側(先攻は3塁側)となるが、早慶戦は全試合共通で早稲田が1塁側、慶應が3塁側と固定されている(1933年に起こった応援過熱による騒動(リンゴ事件)を背景とする。ただし先攻は他の組み合わせと同様に組み合わせ表の左側のチームとなる)。なお、土曜日に開催される1回戦が雨天などの理由で2試合とも(第8週は早慶戦1試合)中止となった場合、試合順及びベンチの配置・攻撃順は翌日にスライドさせず、月曜日以降に開催される2回戦に引き継がれる。一旦販売された入場券の扱いも同様である。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "リーグ戦期間中に各校応援団が利用する応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の共有所有物であるが、その応援リーダー台の設置の為に、球場設備の一部であるフェンス支柱に応援リーダー台固定用の突起金具が溶接されている。こうした他では考えられない(プロでも)便宜を提供するほど球場と大学野球連盟の関係が深いのは、全国でも唯一といっていい。前述のように東京六大学連盟が神宮球場の設立期に協力したことに由来するものと考えられる。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "スコアボードの校名表記は原則としてアルファベット表記であり、たとえば早稲田ならば得点欄は「W」、選手名の一番上には「WASEDA」と表記される。スコアボードが改修された2008年春季以降は選手名上部はユニフォームと同じ書体、2008年秋季からは得点欄も帽子のマークと同じ表記となった。このため立教の得点欄の表記は「R」ではなくシンボルマークのユリ(フルール・ド・リス)となっている。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "球場内の座席は、以前は学生席(500円)・外野席(700円)・内野席(1,100円)・特別指定席(1,300円)に分けられていたが、低下している観客動員数の改善の為、2010年春季リーグから学生席は応援席に変わり学生以外も入場できるようになり、また学生は内野席(学生内野席)に800円で入場できるようになった。神宮球場でのアマチュア野球の試合で外野席を常時開放するのは原則として東京六大学野球のみ(高校野球決勝戦等で多客時を除き)。2020年は観客数制限もあり内野席券(1,500円)と前記の学生内野席券のみ。",
"title": "試合会場"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "主な記録は連盟ホームページ、ベースボール・マガジン社発行の雑誌「大学野球(各季展望、決算号)」等でも確認できる。",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "連盟ホームページを参照のこと。リーグの各記録に、5大学リーグ以前(=1925年春季以前)の記録は含まれていない。",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2023年秋季リーグ戦終了時点",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "※1940年春季は慶大・明大・立大の3校が7勝3敗でならび、優勝預かりとなった。",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "平成以降の優勝校のみ",
"title": "記録"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1927年秋のリーグ戦からラジオ中継され、テレビでも草創期から中継を行うなど、マスコミは人気コンテンツとして六大学の試合を中継してきた。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1960年の早慶六連戦当時は、NHKだけでなく東京キーの民放全局がこれを中継するなどしていたが、その後民放は順次撤退、NHKも放映数を減少させていった。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "テレビ神奈川や東京メトロポリタンテレビ(東京MXTV)でも開局直後から数年にわたり試合中継を行っていた(テレビ神奈川は80年代中頃に中継を中止したが、90年代に入り土日の深夜にダイジェストを放送した)。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1974年秋季、東大が法大の江川卓から勝ち星を挙げた試合ではテレビ神奈川が異例の中継延長に踏切った。それを知ってか試合終了後に東大ナインがテレビカメラに向かって一礼する一幕もあった。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1981年5月には東大が早慶から勝ち点を挙げ「赤門旋風」を巻き起こしたことから、TBSが急遽東大-立教4回戦を中継した。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ただ80年代に入り、唯一試合中継を継続していたNHKが、早慶戦を含む数カード(第3週、第6週、第7週、早慶戦の各1試合)に中継を絞り、その後ラジオ中継を廃し、1997年春季には早慶戦のテレビ中継も中止した。しかしそのシーズンに慶大の高橋由伸がリーグタイ記録の22号本塁打を早慶戦(それもNHKがそれまで放映していた日曜日の試合)で放ったため、視聴者から中継中止に対する抗議が多数寄せられる事態が起きた(試合は東京MXTVが中継)。歴史的瞬間を逃した失態と感じたかNHKはその年の秋季から早慶戦の中継を再開した(なおNHKはそれまで優勝校へ授与していたNHK杯も同時期に一時撤廃している)。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2006年11月の東京六大学対東京ヤクルトスワローズ戦は、東京MXTVが生中継した。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2007年春季、前年夏の甲子園優勝投手で話題の斎藤佑樹が早大に入学したことにより試合中継数が一気に増加。民放放送各局が連盟と放映権獲得を巡り交渉した末、日本テレビが獲得し六大学の試合中継を再開することとなった。BS日テレでは早稲田戦の10試合を、CS放送の日テレG+では全試合を中継し(なお9月24日、25日は神宮球場内でのテレビ中継をしたが、CS・BS・地上波では未放送に終わった)、地上波では斎藤佑樹が1年生開幕投手を務めた4月14日の東大 - 早稲田戦を中継した(1回表裏のみ)。また5月12日には2007年春季リーグの模様を中心に六大学野球の歴史を紹介した2時間の特別番組を放送した。ちなみにラジオ中継はニッポン放送が放送権を獲得。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2007年5月20日には、NHKが早稲田 - 明治戦を緊急生中継を実施し、6月2日・3日の早慶戦ではNHKが中継したほか、日本テレビも6月3日に特別番組を編成して地上波中継を実施。この日の早慶戦はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録した。",
"title": "試合中継・マスコミ"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "CSでは日テレG+の放送開始以前はパワーチャンネル(現・MTVジャパン。当時は週末はスポーツ中心の編成で行っていた)→GAORA→スカイ・A (現:スカイ・A sports+)で放送を行っていた。また、東京MXTVでの中継録画をスポーツアイESPNでも放送していた時期もある。なお、スカイ・Aでは2009年春季リーグからテレビ朝日協力(スコアフォントは千代田ビデオ・東京メトロポリタンテレビジョン製作のものを流用。実況アナウンサーもABC、EXのそれぞれから派遣して担当する。毎節の放送ではなく、随時好カードを抜粋して放映)により中継を再開し、現在も放送しているが録画放送のみとなり、生中継は2015年春季リーグまでテレ朝チャンネル2、2015年秋季リーグはBS朝日で放送している。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"paragraph_id": 63,
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"text": "現在、地上波ではNHK教育テレビが早慶戦の日曜の試合のみをテレビ中継している。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "2006年春季、連盟はリーグ戦全試合のインターネット中継の実験をiiVChannelで開始、同年秋季には日本テレビと提携して第2日本テレビにおいてインターネット中継が実施された。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2009年よりインターネットテレビ局ノーネスチャンネルが運営する東京六大学野球オフィシャルTVにおいて春季・秋季リーグの全試合が配信されている。また、2014年からはノーネスチャンネルによる東京六大学野球オフィシャルTVライブにおいていくつかの試合が神宮球場よりネットで生中継されている。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "2017年からは運動通信社が運営するSPORTSBULLにて、不動産会社オープンハウスがタイトルパートナーとなって、BIG6.TVというサービスが誕生。全試合生配信と題し、ライブ中継および3分間のハイライト映像の配信を行っている。また、SNSのTwitterとFacebookにて、BIG6.TVアカウントとして試合映像の切り出し投稿を行っている。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "2018年春季からはAbemaTVが中継に参入。SPORTSチャンネルにて全試合の生中継及び見逃し配信を実施している。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "新聞・雑誌でも、戦前は大手各紙がスポーツ記事では最も大きい取り上げ方をしていた。試合の詳細まで掲載していたため、戦前のリーグ記録は、新聞報道に頼る部分が少なからずある。戦後もテレビ・ラジオ同様重要コンテンツとして取り上げてきたが、やはり同様に扱いが少なくなり、江川卓卒業後はさらに記事が減少していった。中には取材不徹底のまま早慶戦の人気低迷を取り上げる新聞も出た。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "ただ2007年の斎藤佑樹の入学に伴い、東京六大学の新聞・雑誌でもその扱いが一気に増え、斎藤が登板した翌日は1面に取り上げるスポーツ紙も多かった。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "雑誌としてはベースボール・マガジン社が年3回「週刊ベースボール」の増刊として「大学野球」を刊行している。もとは「東京六大学野球特集号」としていたものが大学球界の全国各地での発展に伴い名称を変えたものである。とはいえ東京六大学野球に割かれる誌面は今も最も大きく、巻頭を含めて注目選手へのインタビューのほか、選手名鑑、歴代の記録、前シーズンの試合結果や記録などを網羅している。同誌2007年春季リーグ戦展望号では表紙を斎藤が飾った。同誌の刊行史において、入学したばかりの選手が表紙を飾るのは極めて稀なことである。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "神宮球場では「神宮球場ガイドブック」(ベースボール・マガジン社制作)を春・秋の2回刊行していた(1986年より)。東京ヤクルトスワローズ関連の記事とともに、東京六大学・東都大学の選手名鑑や記録が掲載され、さらに各連盟OBのインタビューや過去の東京六大学リーグ戦の記事などが誌面を飾り、六大学野球ファン必携の一冊となっていた。2007年春号は同ガイドブック史上初めて、斎藤を含む各校の注目新入生を紹介する頁が設けられた。東大は発行の時点で入部選手が確定しておらず(これは例年のことである)、新人選手の紹介はなかった。ガイドブックは第4週終了時点で同誌史上初めて第1刷を完売した。尚、2017年からは同誌に代わって連盟公認のオフィシャルガイドブックが発刊された。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "また、日刊スポーツ出版社は「カレッジベースヒーローズ」を2007年から毎リーグ戦前に刊行していたが、現在は休刊となっている。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"text": "このほか、連盟発行のポケットサイズ選手名簿(シーズン開幕時登録ベンチ入り選手、日程、各校歌等の文字のみ)が、神宮球場内で発売されている。",
"title": "試合中継・マスコミ"
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"paragraph_id": 74,
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"text": "リーグ戦の優勝校は、全日程の終了後に優勝パレードを行うのが恒例となっている。パレードの参列者は紅白のちょうちんを携えて行進することから、パレードには「ちょうちん行列」「ちょうちんパレード」の別名がある。 概ね神宮外苑内の絵画館前を起点とし、大学本部のある地点までを行進ルートにしている。選手たちはオープンカーに乗って行進に参加する(早稲田を除く)。",
"title": "その他"
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"text": "なお近年では、渋滞への配慮等から神宮外苑を起点としたパレードを実施しない場合もある。",
"title": "その他"
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"text": "1933年10月1日の早稲田-立教3回戦は、立教が11-4と大量リードのまま9回表を迎えた。ここで早稲田が反撃に出て大量5点を奪い2点差に迫り、なお2死満塁と詰め寄った。ここで打者長野を迎えたところで日没のためグラウンドが暗くなり、試合続行不可能と判断した審判団は両校監督・主将と協議の上、同じ状況のまま翌日に試合を延期すること(いわゆるサスペンデッドゲーム)とした。翌10月2日、9回表早稲田の攻撃、2死満塁の局面から試合は再開された。早稲田の打者長野は立教の投手塩田の3球目に投ゴロに倒れ、試合はあっさり11-9で立教の勝利に終わった。以後、連盟規定改定などの関係で、同様のサスペンデッドゲームは実施されていない。",
"title": "その他"
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{
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"tag": "p",
"text": "2007年の春季リーグは同年に早稲田大学に入学した斎藤佑樹の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めてチケットぴあでの入場券前売りが実施された。新入生が開幕投手を務めるのは実に77年ぶり史上2人目であった。 4月14日の開幕戦は前年春の4倍となる18,000人が詰めかけ、法政との対戦となった同じ4月28日は20,000人、斎藤が先発した4月29日は28,000人を記録し、従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。この観客数は早慶戦以外では1992年春季第7週、法政-明治戦(勝った方が優勝。法明戦で勝った方が優勝となるのは久しぶりだった)以来の20,000人越えとなった。両日夜に同じ神宮で行われた東京ヤクルトスワローズ - 読売ジャイアンツ戦の観客動員は28日20,106人、29日29,654人であった。斎藤佑樹の人気がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。さらに5月20日の早明戦では、30,000人が神宮に詰めかけ、6月2日からの早慶戦では2日34,000人、3日36,000人の観衆が集まった。6月3日の観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、北海道日本ハムファイターズ対阪神タイガース(札幌ドーム)に次ぐ動員数となった。",
"title": "その他"
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"text": "入場券を求める行列は4月28日には400人以上に上り、その後シーズンの経過につれその列が増えてきた。そのための混乱を少しでも回避しようとしてか、連盟ホームページでは1日2試合の場合の開場時間が9:35であることを記載し始めた。連盟では混雑による事故を回避するため、従来の倍以上の警備員を配置して観客整理と警戒にあたっている。早慶戦では1994年の天覧試合並みの200人態勢をとった。",
"title": "その他"
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{
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"text": "早稲田野球部を乗せたバスは斎藤見たさに詰めかけるファンとの衝突・事故を避けるために、球場正面玄関に横付けされ、選手たちは厳重な警備の下で入退場をしている。他校の場合は球場前の駐車場に停める(早稲田も2006年秋季までは同様だった)。",
"title": "その他"
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"text": "ただし早稲田の出ない週の観客数は概ね例年並みとなっており、六大学の人気復活とは言い切れない状況であった。",
"title": "その他"
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"text": "1年生の斎藤が2007年春季リーグの開幕投手で勝利をおさめたが、これは1927年春季の慶應宮武三郎以来80年ぶり(先発投手としては1930年の東大・高橋一以来)。斎藤はこのリーグ戦で通算4勝を挙げ、1年生投手の春季リーグ戦での4勝以上は1927年宮武、1929年早稲田小川正太郎、1991年早稲田織田淳哉についで4人目となった。斎藤はベストナインにも選出され、1年生投手が春のベストナインに選出されたのは1954年秋季の制度制定後初めてである。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "2007年9月6日の連盟理事会で、東京六大学野球の2008年版カレンダーを発行することを決定した。連盟によれば「ファンサービスの一環」とのことだが、カレンダーの発行は同連盟史上初めてのことである。また2008年春季リーグ戦の開幕と同時にベースボールカードも発売された。連盟によれば、過去にブロマイドが発行されたことはあるが、カードの発売は初めてだとしている。",
"title": "その他"
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"paragraph_id": 83,
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"text": "斎藤が卒業後は再び下降し、ここ数年は平均8千人程度の観客動員数となっている。",
"title": "その他"
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"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "1930年(昭和5年)に、森永製菓から発売された東京六大学を象徴する6つのチョコレート。外装紙には、各大学の名称の入ったペナントがデザインされているのに加え、リーグ戦での応援のために各大学の校歌も印刷された。価格は1個10銭。",
"title": "関連商品"
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一般財団法人東京六大学野球連盟は、東京を所在地とした6校の大学の硬式野球部で構成された大学野球リーグである。全日本大学野球連盟傘下。
|
{{出典の明記|date=2021年11月}}
{{Redirect|六大学野球|他の六大学野球リーグ|六大学 (曖昧さ回避)}}
{{スポーツリーグ
| current_season =
| 画像 = Rikkyo University-2.jpg
| 画像説明 = 2017年春の閉幕式
| 種類 = [[日本の大学野球|大学野球]]
| 開始年= [[1925年]]
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| サイト = [https://www.big6.gr.jp/index.php 東京六大学野球連盟]
}}
'''一般財団法人東京六大学野球連盟'''(とうきょうろくだいがくやきゅうれんめい、{{lang-en-short|TOKYO BIG6 BASEBALL LEAGUE}})は、東京を所在地とした6校の[[大学]]の[[ボール (野球)#硬式球|硬式野球]]部で構成された[[日本の大学野球|大学野球]]リーグである。[[全日本大学野球連盟]]傘下。
== 概要 ==
[[ファイル:神宮球場玄関前での六大学投手陣(1926年).jpg|thumb|250px|right|神宮球場玄関前での六大学投手陣(1926年)]]
現存している大学野球リーグでは最も長い歴史がある。
[[1903年]]に開始された[[早稲田大学]]と[[慶應義塾大学]]の対抗戦([[早慶戦]]<ref>慶応側は「慶早戦」と呼んでいるが、一般的に両大学を総称するときには「早慶」と併称されており、本記事も従う。</ref>)を発祥とする。[[1906年]]、応援の過熱などから早慶戦は中断されたが、[[明治大学]](1914年)、[[法政大学]](1917年)、[[立教大学]](1921年)、[[東京大学|東京帝国大学]](現在の東京大学、1925年春)が参加。1925年秋季リーグから他校の説得により早慶戦が再開され、ここに'''東京六大学野球連盟'''として正式に発足した<ref>{{Kotobank|東京六大学野球}}</ref>。<br />この1925年秋季リーグ戦の開幕試合(9月20日開催)は、明治大学と立教大学の対戦([[明立戦|紫合戦]]<ref>明立戦、立明戦とも言われる。</ref>)であり、東京六大学の歴史は、この一戦から幕が開かれた<ref>一般財団法人 東京六大学野球連盟 [https://www.big6.gr.jp/big6 『東京六大学野球連盟について』]</ref>。翌年の[[1926年]]10月には神宮球場が東京六大学野球連盟の協力の下で完成、実質的には連盟専用球場として運用されることになる。
[[日本プロ野球|プロ野球]]人気が高まりを見せるまで長く日本の野球人気の中心的存在であり、土日に[[明治神宮野球場|神宮球場]]で開催されることもあって大学野球連盟の中では平均入場者数が最も多い。プロ・アマチュア球界へも多数の人材を送り出してきた。また、アマチュアのリーグでありながら、硬式野球を代表して[[天皇杯]]が下賜されている<ref>摂政時代の昭和天皇から下賜された「摂政杯」を受け継いだもの。天皇杯は原則として一競技につき一つしか下賜されないため、[[日本プロ野球]]の[[日本選手権シリーズ]]優勝チーム(一般的に「日本一」とされるチーム)ではなく東京六大学リーグ優勝チームが天皇杯受賞チームとなる。</ref>。
== 加盟大学 ==
* [[法政大学野球部]]
* [[東京大学運動会硬式野球部]]
* [[立教大学硬式野球部]]
* [[早稲田大学野球部]]
* [[慶應義塾体育会野球部]]
* [[明治大学硬式野球部]]
:特記:記順は1年ごとに交代する連盟当番校の順番による([[いろは順]]で決められたもの)
各校からOB1名ずつが先輩理事として出されるほか、各校の部長・監督・主将・マネージャーらが理事として連盟の運営に当たる。他に事務局長を筆頭とする事務局員が連盟運営の実務を担当する。代表者は理事長で、いろは順による各校部長による持ち回り、1年任期である。
== 運営概要 ==
=== 登録選手 ===
部長・監督・助監督・コーチ・マネージャー(記録員)以外に1試合にベンチ入りできる選手は25人。ベンチ入り選手は1試合毎に変更可能。監督以外の3人の指導者がベンチ入りできる。その他に、[[1980年]]から[[2008年]]まで特別要員(コーチ扱い)1名がベンチ入りできた(役割は主に一塁ないしは三塁ベースコーチであり、特別要員として登録された選手は試合に出場できなかった)。2008年春季リーグ戦より、試合開始前と試合中に各1回、監督名とベンチ入り全25選手(苗字と背番号を表示)がスコアボードに表示されるようになった。
=== 対戦方法 ===
1年2シーズン制(春季:4月から5月末/秋季:9月から10月末)をとっており、それぞれのシーズンで6チーム総当たりの15カードを戦う。通常、開幕試合は前シーズンの優勝チームと最下位チームが、14カード目は前シーズンの優勝チームと2位のチームがそれぞれ対戦する。最終15カード目には早慶戦が組まれる<ref>[[1957年]]秋には春優勝の立教と2位の慶應(この試合で[[長嶋茂雄]]がリーグ新の8本塁打を達成)、[[1993年]]秋には春優勝の明治と2位の早稲田が対戦した。</ref>。
毎週末の土曜・日曜に1カードずつ開催しており、1週目から7週目は2カードずつ開催、8週目は最終早慶戦のみを開催する。リーグ優勝校の発議などで9週間の変則日程で行われることがあり、この場合、早慶戦は最終第9週に行われ、第7週、第8週も第13カード、第14カードがそれぞれ単独で開催される。
====秋季大会と日本シリーズの兼ね合い====
秋季大会の後半、概ね10月中‐下旬(年度により11月初旬)<ref>[[1964年の日本シリーズ|1964年]]は、[[1964年東京オリンピック]]のため10月初旬に前倒し。[[2020年の日本シリーズ|2020年]]・[[2021年の日本シリーズ|2021年]]は[[2020年東京オリンピック]](2020年は[[新型コロナウィルス]]のため開催されず1年順延)などの関係で11月下旬に繰り下げ</ref>に、[[日本プロ野球]]の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]が行われており、神宮球場を[[専用球場]]とするプロ野球球団が進出する可能性がある場合には、大会日程を調整する必要がある。
:※日本シリーズは、[[1952年の日本シリーズ|1952年]]以後、原則として西暦の偶数年は第1・2・6・7戦、奇数年は第3・4・5戦がセ・リーグ側の主管、パ・リーグ側の主管はその逆パターンである。
*[[1962年の日本シリーズ]]「[[北海道日本ハムファイターズ|東映]]対[[阪神タイガース|阪神]]」は第3・4戦は東映主管で神宮で行われたものの、第5戦は学生野球優先の当時の取り決め上、[[後楽園スタジアム]]<ref>1964年-1987年に国鉄スワローズと入れ替わる形で後楽園を本拠地化(ただし、1962年・1963年も上記の取り決め上、春と秋の学生野球開催日を中心に後楽園を一部併用していた)</ref>で行い、神宮球場では東京六大学秋季リーグ(以下当大会)が行われた。
*[[1978年の日本シリーズ]]「[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]」は、第1・2・6・7戦がヤクルト主管となっていたが、日本シリーズの会期中、当大会との日程調整の折り合いが合わず、ヤクルト主管の4試合は後楽園スタジアム<ref>1952-63年までは前身の国鉄スワローズが本拠としていた。</ref>で開催され、神宮球場で当大会が行われた。
*[[1992年の日本シリーズ|1992年]]・[[1993年の日本シリーズ]](いづれも「ヤクルト対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]」)は、当連盟・東都大学野球連盟との折り合いが付き、本来13時開始とすべき試合を12:30開始に前倒しにする形でヤクルト主管試合を神宮球場で開催できるようになり<ref>1992年は1978年同様1・2・6・7戦、1993年は3・4・5戦</ref>、学生野球が日本シリーズ後にナイトゲームで行われた。
*[[1995年の日本シリーズ]]「ヤクルト対オリックス」<ref>この年は3・4・5戦</ref>以後は、原則として日本シリーズは全試合ナイターで開催できるようになったため、[[明治神宮野球大会]]との兼ね合いで[[東京ドーム]]で代替された[[2021年の日本シリーズ|2021年]](組み合わせ同上)を除き、ヤクルト主管試合も神宮で開催できるようになった。<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/asasatoshi/20211005-00261589 日本シリーズが神戸に戻ってくる?:コロナ禍の後ろ倒し日程での日本シリーズ開催球場について考える 阿佐智]</ref>
**ただし、2022年の秋季大会は8月のリーグ戦日程決定の際、[[2022年の日本シリーズ]](組み合わせ同上)が行われる可能性を想定し、当大会はヤクルトの進出の可否を問わず、前もってシリーズ会期中の10月22・23(・24)日の第7週と、10月29・30(・31)日の第8週を1試合日<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202208010000370.html 東京6大学野球秋季リーグ9・10開幕 例年より1週多い9週制 明大と東大、早大と法大が対戦](日刊スポーツ)</ref>・<ref>[https://archive.ph/b6zlK 東京六大学野球 秋季リーグは9週制で実施 日本シリーズ開催を想定](デイリースポーツ)</ref>で行うこととし、実際ヤクルトが[[2022年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ・セ・リーグ]]で優勝したことにより、本来1試合日は13時開始とすべきを10時開始に繰り上げた(または繰り上げる予定)<ref>[https://archive.ph/2Q528 東京6大学野球、神宮が日本シリーズとの併用で試合開始を午前10時に変更]</ref>
=== 試合方式 ===
対戦カードの勝敗の決め方として、単純な1試合制ではなく、'''2戦先勝方式'''の[[総当たり戦|総当たり]]による'''勝ち点制'''を採用している。同一カードで試合を連日の日程で行い、先に2勝したチームがその相手校との対戦に勝利したとして対戦を終了、勝利チームは勝ち点1を獲得する(1勝1敗の場合は第3戦を行う)。引き分けの場合も再試合を行い、対戦校のいずれかが2勝するまで、対戦は完結しない<ref>ただし2020年は春季は1回戦総当たり。秋季リーグ戦は2回総当たり戦で9回終了時点で同点の場合は引き分け。勝ち点も試合毎に異なり、勝利1、引き分け0.5、負け0として実施した</ref>。
早慶戦については、大会最終週の単独開催で固定されており(9週シーズンの場合はその前のカードを含む)は、1日1試合を行う。
試合開始時刻は1日2試合の場合は第1試合11時00分より・第2試合13時30分より、1日1試合の場合は13時00分。2009年春季リーグ戦より、併用日における第1試合の開始を10時30分に早めた。現在、1日2試合における併用日は、10時開始となっている。かつては第1試合を12時00分より開始していたため、特に秋のシーズンにおいて、第2試合の途中からナイトゲームとなることが多かった。週末で決着がつかない場合は週明けの平日に再試合が行われるが、月火水曜の3日間でも決着がつかない場合は、翌週以降の平日に(ただし、翌週の予定カードの決着を優先して)対戦が繰り越される。
試合日程がプロ野球の試合と重なる場合は併用日と称しており、試合開始時間を早めるほか延長戦は行わず引き分けとしている。プロ野球の開始時刻に配慮してのものだが、こうした規定があっても六大学の試合が長引いてプロの試合開始が遅れることがごく稀にある。
=== 引き分け ===
引き分けはプロ併用日は9回終了時、大学単独開催における2試合日は、12回終了時となる。1試合日は、15回終了時同点であれば引き分けとしている(この場合でプロ野球ナイター併用日は15回を満たしていなくても[[日本標準時|JST]]17時を過ぎた時点で次のイニングスに入らない)。7回終了(後攻チームがリードの場合は7回表終了時)をもって試合成立とし、それ以前の試合中止は[[ノーゲーム]]となる。得点差による[[コールドゲーム]]の成立は採用していない。
なお、[[2011年]][[東日本大震災]]が発生したのに伴う節電対策の一環として、同年春季リーグにおいては「日没で試合続行が不可能となった場合はコールドゲーム」とするなど特別ルールが制定された。<br/>
2020年は[[コロナ禍|新型コロナウイルスの影響]]による開催方式で9回終了で同点引き分けとした。その他は次に示す。
* 大学野球単独で行う場合の2試合日 全試合とも延長は12回終了時まで。なおかつ3時間を過ぎて次のイニングに入らない
* 大学野球単独で行う場合の1試合日 全試合とも延長は15回終了時まで。時間制限なし
* プロ野球と併用する場合(2試合・1試合とも) 全試合とも延長12回まで、なおかつ2時間半を過ぎて次のイニングに入らない
=== 順位決定方法 ===
* 勝ち点が多い方が上位。勝ち点が同じ場合は全体の'''勝率'''比較によって順位を決定。
* 勝ち点も勝率も同じ場合は、優劣の決定が必要な場合=優勝校の決定に限り決定戦(プレイオフ)を行なう。2校で実施の場合は1回戦制で勝者を決める。3校で実施の場合は各校1回戦総当たりで試合を行い、3校とも1勝1敗の場合は優勝は預かりとし全国大会への出場は抽選により決定する。
** 同点決勝の場合、延長戦は回数無制限(原則引き分けなし)とする。但しやむをえない理由(日没、雨天他)で[[コールドゲーム]]になった場合の引き分けは後日の[[再試合]]とする。
** 決定戦は[[2010年]]秋季の早稲田-慶應まで12回、16試合実施。
** 決定戦の成績は選手個人の成績を含めリーグ戦の成績累計には含めない。
* 対戦する5校全てから勝ち点を挙げて優勝することを「完全優勝」、10戦全勝の場合を「全勝優勝」と呼ぶ。10勝無敗でも引き分けを含む場合は全勝優勝とは別扱いとしている。
※ 以上は基本的に東京六大学野球連盟として独自のもの。他のリーグで採用しているものもあるが、大学野球では基本的にはリーグ細則は独自のものとして運用される。
なお、新型コロナウィルス対策による、[[2020年]]秋季大会以後の1試合ごとのポイント制が採用されて以後は、原則として同じ勝ち点で1位が2チーム並んだ場合は1ゲームプレーオフで優勝を決める。3チーム以上が並んだ場合は優勝預かり(優勝校なし)とする。2位以下の場合は記録上は同順位となるが、次回シーズンの組み合わせ決定などの都合上、前シーズン(2021年春季大会の場合は2020年秋季大会)の上位チームを上の扱いとする。
=== 審判・公式記録員 ===
審判員・公式記録員とも、各校が各々選任したOBが務める。審判員は各校から3名ずつ選出され、球審及び塁審3名の4名(照明点灯時は線審2名が加わる)で審判を行う。また、試合判定に関わる規則委員も各校から1名ずつ、選任されたOBが務める。各試合の審判員・記録員とも、対戦当該校以外の者が務める(例:早慶戦では明・法・立・東の4校のOBが審判員及び記録員を務める)。また、球場スタンド内のボール係は、各校のベンチ入り以外の部員が務めている。
=== 背番号・ユニフォーム ===
各校に共通して、[[背番号 (曖昧さ回避)|背番号]]は監督が30、助監督・学生コーチが40・50・51<ref>助監督を置く明治・法政・立教・東大は40、OBコーチを置く慶應は50をそれぞれ使用。OB指導者が監督のみの早稲田は学生コーチ3人が40・50・51を使用している。</ref>、主将が10と決められている。プロ野球にある「0」「00」番は存在しない。
各校とも、背番号に一定の原則を有している。例えば早稲田なら、投手は10番台、内野手は一桁、正捕手は6番、外野手は20番台、第二捕手は26番(詳細は[[早稲田大学野球部]]を参照)、明治ならレギュラーは守備位置に応じて背番号が振り分けられる(捕手なら2番、遊撃手なら6番)、立教なら31番以上の番号を選手は付けない、などである。新人やシーズン途中からベンチ入りした選手などはその時点の空き番号や30番台をつけることが多い(年度により使用しない大学もある)。背番号はカードごとに変更可能であり、開幕当初とシーズン後半で背番号が違う選手も見られる。
早稲田のみ、9番を欠番としている。これは[[1972年]]の第1回[[日米大学野球選手権]]の試合中に頭部に送球を受けて死去した[[東門明]]が、大学では9番を使用していたためである。
ユニフォームは早慶以外の4校は先攻用・後攻用(グレーを基調とする)の2種類を一時期使用していた(長嶋茂雄の立教時代の写真で二種類のユニフォーム姿を確認できるのはそのため)が、現在は1種類のみ。特に早・慶・明は帽子やユニフォームのカラー・ロゴなどを戦前からほとんど変えていない。早・明は襟付きのユニフォームを使用しているが、これは日本野球の草創期の名残(その当時はもっと大きな襟であったが)をとどめているものである。
1975年や76年に行われたプロ野球OBによる試合では、各選手の出身大学のユニフォームを着用したが、背番号がない時代の選手はプロ野球での背番号(選手・指導者とも。[[長嶋茂雄]]の3番など)を着用していた。それ以外にもプロ野球での背番号を着用した選手がいたため、各大学の法則に当てはまらない守備位置での着用や、通常の着用がほとんどない60番台以上の背番号を着用した人([[西本幸雄]]の68番など)もいた。
=== 選手表彰 ===
個人タイトルは首位打者([[毎日新聞社]]制定)と最優秀防御率([[読売新聞社]]制定)の2つ。それぞれにトロフィーが与えられる。規定打席・投球回数は時期により差異があったが、現在は打席はプロ野球同様試合数×3.1を規定打席数とし、投球回数は試合数×2を規定回数としている。
アマチュア野球担当記者たちの投票によりベストナインを選出している([[1954年]]秋季から)。ベストナイン選外の選手でめざましい活躍をした選手には特別賞が与えられる。過去には本塁打記録を大幅更新した法政[[田淵幸一]]、史上2人目の[[完全試合]]を達成した立教[[上重聡]]の2名。
2003年春季リーグ戦より、連盟ホームページにおいてファン投票によるMVPを選出している。斎藤佑樹が入学して以降は成績にかかわらず斎藤が大量得票でMVPに選出されるようになり、2010年秋季には投票ページに良識ある投票を呼びかける注意書きが設けられた。
=== 開・閉幕式 ===
[[ファイル:東京六大学野球リーグ戦入場式(1937年秋).jpg|thumb|220px|1937年秋の開幕式]]
リーグ戦第1週の試合前に開幕式を、早慶最終戦終了後に閉幕式を行う(優勝決定戦が行われるときには決定戦の終了後)。開幕式では連盟理事長の挨拶、前シーズン優勝チームからの天皇杯返納と選手宣誓(前シーズン優勝チームの主将が行う)が行われる。閉幕式では各杯の授与と連盟理事長の挨拶が行われる。なお個人表彰・ベストナイン表彰は閉幕式中には行われず、終了後に表彰と写真撮影が行われる。
いずれも、[[東京六大学応援団連盟]]が協力している。入場行進曲は各校の第一応援曲のメドレーがリーグ戦の順位の順番で吹奏され、曲が代わるのに合わせて一塁側ファウルグラウンドに控えている各校の第一応援旗が掲揚される。
[[2010年]]の結成85周年記念として、優勝校には[[優勝旗]](天皇杯トロフィー共々持ち回り)が贈呈される<ref name="優勝旗">出典・[[スカイ・エー]]「アッピィーチャンネル」(2010年4月第2週放送回)・枝松順一アナのコメント</ref>。
=== 連盟ホームページ(下記「外部リンク」参照) ===
[[2000年]]より稼働し、全試合の速報・結果、個人成績や過去の成績、連盟役員や各校の部員名簿などを掲載。試合速報はほぼリアルタイムに近い速さで配信している。試合速報・結果の画面は、神宮球場のスコアボードを模している。ファン投票によるMVP選出も行っている。携帯版でも試合速報をほぼリアルタイムで配信している。以前は神宮球場テレフォンサービスもあり、プロ野球を含めて試合予定、経過、結果を確認することができた。
===フレッシュリーグ(新人戦)===
2016年度秋季まで、新人戦として春秋リーグ戦の最終日(原則として早慶戦)の翌日から行われた。出場は1・2年生が対象で(他校より部員数が少ない東大は3・4年生も参加可能)、原則として神宮球場で行うが、[[日本プロ野球|プロ野球]]の試合スケジュールの都合で、加盟各大学のグラウンドを借りて開催する場合もあった。
大会は特別ルールが適用され、延長戦は[[タイブレーク]]を採用。「ノーアウト1・2塁」という設定とし、9回終了時の次の打者から攻撃を開始。9回終了時の最後の2人の打者がそれぞれ1・2塁にたつ。また試合成立後天災により同点で途中打ち切りとなった場合は[[サスペンデッドゲーム]]とする。2016年まで新人戦トーナメントだった時期は決勝戦と3位決定戦はタイブレークは適用せず。神宮でプロ野球開催がある場合の午後4時以後を超えた場合は次のイニングに入らない。また日没・および神宮の規定時間を越えて同点である場合、決勝戦は優勝預かりとみなす。3位決定戦は9回終了で次のイニングに入らない。(但し加盟校のグラウンドで行う場合3位決定戦を実施しない)審判は球審と塁審(内野全てを兼ねる)の2人。
2017年度春季からは、フレッシュリーグの名称でリーグ戦の前座として、開幕日、リーグ戦中のプロ野球併用日を除く毎日1試合及びリーグ戦最終日の翌日から3日間は各2試合、6チーム総当たりリーグを行う。リーグ戦と同時開催日は9回以前でも1時間50分を超えて新たなイニングに入らない。同年秋季は従来通りトーナメントを行う。2018年度春季からは[[指名打者]]制度導入。
=== その他 ===
* スタンドインしたホームランボール・ファウルボールを拾得した観客は前記のボール係に渡さなければならないが、その代わりに連盟オリジナルのピンバッジがプレゼントされる。
* 例年、春季リーグ戦開幕の前週には、日本野球関東地区連盟との共催で「東京六大学・社会人野球対抗戦」を実施している(加盟校各1試合、9回打ち切り、雨天は延期なし中止)。社会人も指名打者は使わず、金属バット時代も木製であった。
* リーグ戦以外には夏季などに地方球場で選抜チーム等による試合を開催している。応援団も招待されるなど盛り上がりを見せている。
== 連盟結成までの経緯 ==
=== 連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説 ===
{{出典の明記|date=2019年10月|section=1}}
東京六大学野球連盟が結成された当時は娯楽文化が現在とはだいぶ異なる様相を呈しており、当該野球対抗戦はスポーツ競技娯楽として絶大な人気を集めていた(詳細は前述の[[#特徴|特徴の章を参照]])。このため、六大学野球連盟成立前の加盟候補に挙がったチームや、成立後に至ってもこの連盟に加盟を希望するチームは枚挙にいとまなかった。また、東都大学野球連盟との関係に関してもさまざまな異説が流布されている(詳細は[[東都大学野球連盟#連盟創設に関する諸説|東都大学野球連盟]]参照)。
以下にそれらにまつわる事例を紹介する。(下記の大学以外にも伝承・伝聞が諸説存在するが、検証可能なものについてのみ記述した。)
[[ファイル:第1回早慶戦の両校選手(1903年11月21日).jpg|210px|thumb|第1回早慶戦の両校選手<br><small>(1903年11月21日。前列右から吉川清、小原益遠、[[宮原清]]、[[河野安通志]]、青木泰一、[[橋戸信]]、時任彦一、森本繁雄、林田峯次、後列右から宮本熊三郎、猪瀬順、[[桜井弥一郎]]、[[泉谷祐勝]]、高浜徳一、[[押川清]]、柳弥五郎、[[獅子内謹一郎]]、[[鈴木豊]])</small>]]
[[ファイル:早慶1回戦(1906年10月28日、戸塚球場).jpg|210px|thumb|1906年10月28日の早慶1回戦]]
[[ファイル:三大学リーグ開幕(『東京朝日新聞』 1914年11月3日付5面).jpg|210px|thumb|三大学リーグ開幕(『東京朝日新聞』 1914年11月3日付5面)]]
*1884年 - 米国人教師ストーマーが[[慶應義塾]]で初めて野球指導を行う<ref>[https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/1996/200.html ステンドグラス:慶早戦の歴史]</ref>。
*1888年 - [[慶應義塾体育会野球部|三田ベースボール倶楽部]](慶大野球部の前身)発足<ref>[https://baseball.sfc.keio.ac.jp/team/history/ 慶應義塾体育会野球部 » 戦歴]</ref>。
*1892年 - [[慶應義塾大学#部活動・クラブ活動・サークル活動|慶應義塾体育会]]創設、ベースボール倶楽部もその一部となる<ref>[http://koara-a.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=P20070501-11100659 慶應義塾三田ベースボール倶楽部員]</ref>。
*1901年 - [[早稲田大学野球部|早大野球部]]発足<ref>日清戦争頃の校内文献には「ベース、ボール」という文字が散見されるが、どんな選手がどこで試合をしたのかは全く不明である(早稲田大学大学史編集所 『早稲田大学百年史』 第二巻、1981年、564-565頁)。</ref>。
*1902年 - [[戸塚球場]]開設。
*1903年 - [[慶應義塾中等部#綱町グラウンド|綱町球場]]開設<ref>[https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s1101_1.html#story 慶應義塾機関誌|三田評論 2011年1月号 綱町グラウンド(上)]</ref>。早稲田大学からの挑戦状に慶應義塾が応じ<ref>当初慶應はこれを偽チームではないかと疑ったが、「部長は[[安部磯雄]]で、横浜の外国人チームにも勝っている」との説明を受けてようやく納得したという(『早稲田大学百年史』 第二巻 568頁)。</ref>、初めての[[早慶戦]]を実施。
**11月21日 - 慶11 - 9早(綱町)<ref>[https://www.waseda.jp/inst/athletic/wasedasports/soukei/ 早慶戦 – 早稲田大学 競技スポーツセンター]</ref><ref>[http://www.uaa.keio.ac.jp/competition/index.html 早慶戦勝敗一覧|慶應義塾体育会]</ref>
*1904年 - 早慶両校、[[第一高等学校 (旧制)|一高]]に勝利(一高時代の終焉)。
*1905年 - 早大野球部、[[安部磯雄]]部長引率のもと日本の野球チームとして初のアメリカ遠征を行い、米国野球の最新知識を得て帰国<ref>[[飛田穂洲]] 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/43 早稲田大学野球部史]』 明善社、1925年、47-60頁</ref>。早慶戦が定期戦となる(それまでは任意試合)<ref>[[森茂雄]]ほか [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2480266 『六大学野球部物語』] [[ベースボール・マガジン社]]、1956年、21頁</ref>。
*1906年 - 早慶戦中止(1925年まで復活せず)。
**10月28日 - 早慶1回戦 早1 - 2慶(戸塚) 慶應応援団、大隈邸の前で万歳を叫ぶ<ref>[[横田順彌]] 『早慶戦の謎 空白の19年』 ベースボール・マガジン社、1991年、93-96頁</ref>。
**11月{{0}}3日 - 早慶2回戦 早3 - 0慶(綱町) 早大応援団、故福沢邸の前で万歳を叫ぶ<ref>『早慶戦の謎 空白の19年』 130頁</ref>。
**11月10日 - 翌日に予定されていた早慶3回戦中止(「学生があまりに昂奮して事件でも起すやうな事があってはお互ひに困る」<ref>[[飛田穂洲]] 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2459062 球道半世記]』 [[博文館|博友社]]、1951年、203頁</ref>との理由による)。
*1907年 - 横浜外人アマチュア倶楽部の主唱で、横浜商業・学習院・早稲田大学の4チームで、京浜野球リーグを結成<ref>日本球界初のリーグ戦で、早稲田大学が制したが、この年限りで解散(『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/97 早稲田大学野球部史]』 86-87頁)。</ref>。
*1909年 - [[立教大学硬式野球部|立大野球部]]発足<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1909.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>。
*1910年
**[[中央大学]]の有志チームと明治大学の有志チームが三菱ケ原で対戦(1勝1敗)<ref>明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、[[学校法人明治大学]]、1992年、565頁</ref><ref>野球評論家の[[大和球士]]は明大有志チームと対戦した後の中央大学について「その後に、正式な野球部を発足させないまま、校内の野球熱が冷却してしまったことは惜しい」と述べている(大和球士 『真説 日本野球史 《昭和篇 その1》』 [[ベースボール・マガジン社]]、1977年、297頁)。</ref>。
**[[明治大学硬式野球部|明大野球部]]発足<ref>1906年、[[伴清吉]]なる人物が同志を集めて野球チームを結成したが、[[学校法人明治大学|明治大学]]ではそれを正式な野球部とは認めなかった([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2480266 『六大学野球部物語』] 87頁)。</ref>。[[東中野 (中野区)|柏木]]にグラウンドを開き、慶大野球部の指導を仰ぐ<ref>横井春野 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964788/78 日本野球発達史]』 [[ミズノ|美津濃]]、1922年、116-117頁</ref>。
*1911年
**早大野球部、早慶戦復活に応じない慶應に絶縁状を発する<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/91 早稲田大学野球部史]』 142-143頁</ref>。
**[[早明戦]]始まる<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/97 早稲田大学野球部史]』 155-156頁</ref>。
*1913年 - 明大野球部が[[第1回極東選手権競技大会|第1回東洋オリンピック大会]]に出場して全勝<ref>[https://www.joc.or.jp/about/history/1909.html JOC - JOCについて|JOC年表 1909 - 1920]</ref>。
[[ファイル:Suishu Tobita.jpg|thumb|140px|right|[[飛田穂洲]](三大学リーグ結成時は東京運動記者倶楽部の委員<ref>横井春野 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213344/153 日本野球戦史]』 日東書院、1932年、212頁</ref>、1919年に早大野球部監督となり、「本邦の[[ジョン・マグロー|マグロー]]氏」<ref>『東京朝日新聞』 1925年3月7日</ref>と称された)]]
*1914年 - 明大野球部の主唱により早慶明の三大学リーグを結成<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/111 早稲田大学野球部史]』 183-184頁</ref>。
**各野球部の完成を期するため有料試合とする。
**早大野球部は慶應への絶縁状を取り消す。
**この時点では早慶戦は復活しなかったため、明治が早慶と戦うだけの変則リーグとなった。
**開幕戦は11月2日に行われた[[慶明戦]]である(綱町球場)<ref>『東京朝日新聞』 1914年11月3日付5面</ref>。
*1915年
** [[法政大学野球部|法大野球部]]が正式に発足<ref>「はじめは、校内でキャッチボールをしていたのを、学校当局と交渉して用具をそろえ、放課後[[靖国神社]]の広場で練習していた。その後[[野方町|中野]]にグラウンドができてから、早大野球部の八幡恭助をコーチとして本格的練習にはいることになったという。」(法政大学 『法政大学八十年史』 1961年、716頁)</ref>。
** [[早法戦]]始まる<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/119 早稲田大学野球部史]』 198-199頁</ref>。
*1916年
**明大[[駒沢町|駒沢]]グラウンド開設<ref>明治大学学報発行所 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452678/32 明治大学五十年史]』 1931年、30頁</ref>。
**法政大学が客員格で三大学リーグに加わる<ref>[[大和球士]] 『真説 日本野球史《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、87-88頁</ref>。
*1917年
** [[嘉納治五郎]]、[[第3回極東選手権競技大会]]を機に早慶の仲介を試みるも失敗<ref>[[広瀬謙三]] 『日本の野球史』 日本野球史刊行会、1964年、21頁</ref>。
**法政大学が三大学リーグに正式加盟、四大学リーグとなる。
**法大神田橋グラウンドを開設<ref>「法政は新しいグラウンドを[[野方町|中野]]の[[梅照院|新井薬師]]近くに作ったものの、工事はかどらずとあって、[[神田橋 (日本橋川)|神田橋]]にほど近い[[気象庁#沿革|中央気象台]]の敷地予定地を一時借りて仮グラウンドとしたのであった。神田橋グラウンドは法政の中野球場が完成するまでのあくまで仮のグラウンドであった。」(『真説 日本野球史《大正篇》』 100頁)</ref>。
** [[東京大学運動会硬式野球部|東京帝大野球部]]、[[中野武二]]により創設<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2480266 『六大学野球部物語』] 106頁</ref>。
*1918年 - 立大野球部、[[明石町 (東京都中央区)|築地]]から[[西巣鴨町|池袋]]に移転<ref>[http://rikkio-bbc.com/team/home/1918.php 野球部紹介|立教大学野球部]</ref>。
[[ファイル:東大いよいよ野球リーグ加盟(『東京朝日新聞』 1925年3月4日付夕刊2面).jpg|210px|thumb|東大いよいよ野球リーグ加盟(『東京朝日新聞』 1925年3月4日付夕刊2面)]]
[[ファイル:板倉卓造(左)と高田早苗(右).jpg|thumb|210px|right|板倉卓造<small>(左)</small>と高田早苗<small>(右)</small>]]
*1919年
**東京帝大野球部が正式に発足<ref>[[朝日新聞社]] 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955127/78 運動年鑑 大正九年度]』 1920年、105-106頁</ref>。
**法大[[野方町|中野]]グラウンド開設<ref name="asahi_19360909">「法政の球場──実は試合のための借球場は一時[[一ツ橋|一ッ橋]]内にあつたが大正八九年頃となつて球場はまだ麦畑に包まれてゐた[[野方町|中野]]の[[梅照院|新井薬師]]裏に移つた、移つたといふより戻つて来たといふ方が適切であるかも知れない、なぜなら、このグラウンドは大正四年に野球部の創立と共に誕生してゐたからである」(『東京朝日新聞』 1936年9月9日)</ref>。
*1921年 - 立教大学、[[飛田穂洲]]の後押しにより<ref>「立教ティームが池袋に呱々の声を挙げた時、私は懇望されて同ティームをコーチし、その後立教が整頓してからでも、常に相談に預り、立教がリーグに加盟する場合にも尽力するなど、私と立教ティームとはかなり古い関係があつた。」(飛田穂洲 『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1235494/205 熱球三十年]』 中央公論社、1934年、376頁)</ref>四大学リーグに加盟、五大学リーグとなる。
*1923年 - [[関東大震災]]により秋のリーグ戦開幕が11月1日に延期される<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/238 早稲田大学野球部史]』 434-437頁</ref>。
*1924年 - 東京帝大が早稲田と対戦し、敗れたとはいえ7-9と善戦<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1017549/259 早稲田大学野球部史]』 479頁</ref>。
** 春の連盟会議で早慶戦を復活すべきとの要望がなされる<ref>「その頃の五大学リーグ会議といふものは、シーズンの初めに一回だけ明治大学で開かれたのであるが、試合組合せの抽籤になると、早慶戦はざる片輪リーグの不便さは、いつも苦情の種となった。協議事項などは殆んどないのであるから、組合せが主なるもので、各ティムの代表者はこれが為に夜の十二時までも引張られる。なぜ早慶戦をやらないのかと、明治、法政、立教がぶつぶついふ。たうとう[大正]十三年の春になって、此の不平が爆発した。」(『球道半世記』 210頁)</ref>。慶應からは今秋まで待ってほしいと回答<ref>『球道半世記』 211頁</ref>。
** 秋の連盟会議で慶應から早慶戦は来春まで待ってほしいと回答<ref>『球道半世記』 213頁</ref>。
* 1925年 - 東京帝大が五大学リーグに参加。春は早慶明立と試験的に1試合ずつ対戦し、秋に至って正式加盟が認められた<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955133/28 運動年鑑 大正十五年度]』 1926年、11頁</ref>。
** 春の連盟会議で慶應から早慶戦は今秋まで待ってほしいと回答<ref>『球道半世記』 213-214頁</ref>。それに対して[[内海弘蔵]](明大野球部長)と[[武満国雄]](法大監督)が中心となり「早稲田との試合を拒む慶應を除外して、新リーグを組織する」と通告<ref>『球道半世記』 214-216頁</ref>。窮地に追い込まれた慶大野球部は選手・OBが一丸となって関係者の説得に奔走した<ref>早慶戦復活に最後まで反対したのは[[三井財閥]]の[[池田成彬]]であったという(『球道半世記』 215頁)。</ref>。
** 5月29日 - 慶應義塾体育会で早慶戦復活を決議<ref name="asahi">『東京朝日新聞』 1925年6月20日</ref>。
** 6月16日 - [[慶應義塾評議員会]]でも復活の意見がまとまる<ref name="asahi" />。
** 6月19日 - [[高田早苗]](早大)と[[板倉卓造]](慶大)の会談により早慶両校の和解成立<ref name="asahi" />。
** 9月11日 - 秋の連盟会議で早慶戦復活が正式決定<ref>『真説 日本野球史《大正篇》』 278頁</ref>。
* [[太平洋戦争]]終戦後のリーグ戦再開時に、同じく東京都内の[[全日本大学野球連盟|大学野球]]有力校が多く所属している東都大学野球連盟などからの合併打診等があったが、そのまま変わらぬ加盟校構成を堅持したまま今に至っている。当時の東都合併拒否は、その直後の三大学野球王座決定戦の開催と[[全国大学野球連盟]]の結成の遠因にもなった。
== 沿革 ==
※連盟結成以降を記述。
=== 戦前 ===
[[ファイル:早慶戦再開に先立ち2塁上で演説を行う安部磯雄.jpg|thumb|140px|right|早慶戦再開に先立ち2塁上で演説を行う[[安部磯雄]]]]
[[ファイル:宮武三郎(左)と小川正太郎(右).png|thumb|140px|right|[[宮武三郎]](左)と[[小川正太郎]](右)]]
* [[1925年]]
** 9月20日 - 東京六大学野球連盟発足。開幕試合は明治 - 立教1回戦(駒沢球場)。
** 9月22日 - [[東武雄]]が帝法1回戦で六大学最初の本塁打を放つ(中野球場)。
** 10月19・20日 - [[早慶戦]]再開([[戸塚球場]])。
** 11月27日 - [[早稲田大学野球部|早稲田大学]]が10勝1敗で六大学最初の優勝校となる。
* [[1926年]]
** 5月27日 - 春季リーグ戦で[[慶應義塾体育会野球部|慶應義塾大学]]が初優勝。
** 10月23日 - [[明治神宮野球場|神宮球場]]落成。奉献式に摂政宮(のちの[[昭和天皇]])台臨し、六大学選抜紅白戦を観戦。[[天皇杯#概要|摂政杯]]下賜。
** 10月24日 - 明治-法政戦で神宮初の公式戦を開催。
** 11月18日 - 優勝校(早大)に摂政杯が授与される。
** 11月19日 - 優勝校に[[駐日アメリカ合衆国大使|アメリカ大使]]杯が授与される。
* [[1927年]]
** 4月{{0}}2日 - 早大野球部渡米(7月21日帰国)。
** 10月15日 - [[東京六大学野球中継]]開始(早稲田-明治2回戦)。
** 11月{{0}}9日 - 秋季リーグ戦で[[明治大学硬式野球部|明治大学]]が初優勝。
* [[1928年]]
** 3月29日 - 慶大野球部渡米(8月3日帰国)。
** 4月22日 - [[若林忠志]]投手(日系2世)の出場資格問題起こる<ref>「若林投手除名につき リーグから声明 情義においてしのびぬが 将来の弊を考へて」(『東京朝日新聞』 1928年4月23日)。なお、若林は日本の[[旧制中学校|中学校]]卒業後、法政大学への入学とリーグ戦出場が認められた。</ref>。
** 5月29日 - 最高委員会を設置。
** 9月 - 専属審判制度導入決定。
** 11月4日 - 秋季リーグ戦で慶應が10戦全勝。
[[ファイル:Hoseibaseballwinner2.jpg|200px|thumb|東京六大学野球の一場面(1930年秋の法立戦)]]
[[ファイル:昭和7年春六大学リーグ戦入場式.png|thumb|200px|right|1932年春六大学リーグ戦入場式]]
[[ファイル:慶應応援席の人文字(1933年).png|thumb|right|200px|慶應応援席の[[人文字]](1933年)]]
* [[1929年]]
** 3月15日 - 明大野球部渡米(7月25日帰国)。
** 4月21日 - 神宮球場で初の入場式を行う。
** 11月1日 - 明治神宮体育大会での早慶戦に昭和天皇が行幸。最初の[[天覧試合]]。
* [[1930年]]10月29日 - 秋季リーグ戦で[[法政大学野球部|法政大学]]が初優勝。
* [[1931年]]
** 4月{{0}}4日 - 法大野球部渡米(7月28日帰国)。
** 5月{{0}}9日 - 神宮球場拡張工事竣功、春季リーグより全試合の試合会場を神宮球場とする。
** 5月18日 - 慶應-明治2回戦で「[[八十川ボーク事件]]」(専属審判制度廃止)。
** 10月27日 - 秋季リーグ戦で[[立教大学硬式野球部|立教大学]]が初優勝。
* [[1932年]]
** 4月{{0}}1日 - [[野球ノ統制並施行ニ関スル件]](いわゆる野球統制令)発効。
** 4月{{0}}7日 - 立大野球部渡米(7月2日帰国)。
** 4月28日 - 東京六大学野球連盟が[[野球ノ統制並施行ニ関スル件|文部省訓令第四号]]により常置団体として公認される<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958067 官報]』 1932年4月28日</ref>。
** 5月10日 - 早稲田がリーグを脱退。
** 5月14日 - 東京六大学野球連盟を「東京大学野球連盟」と改称(戦後旧称に戻す)。
** 9月{{0}}7日 - [[太田四州]]ら東京運動記者倶楽部の斡旋により、早大がリーグ復帰。
* [[1933年]]
** 4月16日 - 年間1シーズン制を採用(春1試合、秋2試合総当り制)。
** 10月1日 - 早立3回戦で「[[#1933年の「宵越試合」|宵越試合]]」。
** 10月7日 - 慶立2回戦の判定をめぐって「審判忌避事件」起こる<ref>「『悪例を残す』とて 審判は変更せず リーグ理事会で決定」(『東京朝日新聞』 1933年10月21日)</ref>。
** 10月22日 - 早慶3回戦で「[[リンゴ事件]]」。
* [[1935年]]
** 4月{{0}}5日 - 各校の配分金を6万円に制限、入場料を1円、50銭、30銭、学生10銭に減額<ref>山室寛之 『野球と戦争』 中央公論新社、2010年、47頁</ref>。
** 4月20日 - 春・秋各2試合総当り制に変更。
** 春季から早慶戦が最終戦に固定される。
* [[1936年]]
** 5月{{0}}1日 - 早大野球部渡米(7月15日帰国)。
** 10月5日 - 日程の関係で慶立2回戦のみ[[戸塚球場]]で開催<ref>『東京朝日新聞』 1936年10月6日</ref>。
** [[日本野球連盟 (プロ野球)|職業野球]]の台頭により六大学選手([[景浦将]]、[[野口明]]など)の引き抜きが相次ぐ。
* [[1937年]] - 開会式と閉会式で全校選手の参加、グラウンド往復の自動車利用禁止、試合前に両チーム本塁側に集まっての挨拶などを規定<ref>赤尾好夫 『野球大観』 [[旺文社]]、1949年、60頁</ref>。
* [[1938年]]10月31日 - 明治が4連覇を達成。
* [[1939年]]8月16日 - [[文部省]]の干渉により平日の試合が禁止、1日3ゲームの短縮日程となる。
[[ファイル:戦前最後の六大学野球入場式(1942年10月3日).jpg|thumb|200px|right|戦前最後の六大学野球入場式<br/ >(1942年10月3日)]]
[[ファイル:出陣学徒壮行早慶戦1.jpg|thumb|200px|right|出陣学徒壮行早慶戦<br/ >(1943年10月16日)]]
* [[1940年]]
** 3月27日 - 春2試合総当り、秋一本勝負に変更。
** 6月{{0}}8日 - [[東亜競技大会]]で連盟選抜が優勝。
** 6月22日 - 春季リーグ戦で慶・明・立が7勝3敗(同率首位)、優勝預かりとなる。
** 9月14日 - 文部省の圧力により秋季リーグ戦が1回戦総当たりに短縮。
* [[1941年]]9月11日 - 文部省の意向により土曜日の試合も禁止、1日3試合の変則日程を採用。
* [[1942年]]
** 4月18日 - 春季リーグ戦開幕日に空襲警報発令([[ドーリットル空襲]])。開幕を1週間延期。
** 10月3日 - 1回戦総当たり、1日3試合の変則日程で秋季リーグ戦開幕、同月25日の試合が結果的に戦前最後の六大学公式戦となった。
* [[1943年]]
** 4月6日 - 文部省が3月29日に制定した戦時学徒体育訓練実施要綱に沿って、重点をおかざる野球の大会とみなした大学リーグ戦の解散を要求<ref>戦時学徒体育訓練実施要項を制定(昭和18年3月30日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p45 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
** 4月28日 - 東京大学野球連盟解散、摂政杯を[[宮内省]]に返還。
** 10月16日 - [[出陣学徒壮行早慶戦]]を開催([[戸塚球場]])。
* [[1944年]] - 合同練習の名目で立教と早稲田が対戦(戸塚球場)<ref>「立教がマネーヂャーを加へて七人、早稲田はそれでも十三人を残してゐた。立教の七人に早稲田の二人を加へ、これを一ティムに編成し、早稲田と練習試合を行ったが、これこそ早立両大学が[[戸塚球場|戸塚]]に集まってなした練習最後のものであり、その後いくばくもなく、立教の全員は動員され、早稲田も遂に六人となってしまった。」(『球道半世記』 172頁)</ref>。
=== 戦後(20世紀) ===
* [[1945年]]
** 9月18日 - 神宮外苑、占領軍に接収される。
** 10月28日 - 六大学OB紅白戦を開催(神宮球場)。
** 11月18日 - 全早慶戦を開催(神宮球場)。
[[ファイル:戦後最初の六大学野球開幕式(1946年5月19日、上井草球場)1.jpg|thumb|200px|right|戦後最初の六大学野球開幕式<br/ >(1946年5月19日、上井草球場)]]
* [[1946年]]
** 3月11日 - 東京六大学野球復活決定。
** 5月19日 - 春季リーグ戦開幕。前半戦は[[上井草球場]]、後半戦は[[後楽園球場]]使用での1回戦制。
** 6月16日 - 慶大が戦後最初の優勝校となる。東大も健闘して2位(歴代最高順位)。
** 9月14日 - 秋季リーグ戦開幕(3回戦制)。神宮球場使用許可。
** 11月1日 - 東京六大学野球連盟に[[天皇杯]]を下賜<ref>『朝日新聞』 1946年11月2日</ref>。
* [[1947年]]
** 大学野球王座決定戦開催のため、[[東都大学野球連盟]]、[[関西大学野球連合|関西六大学野球連盟]](旧関西六大学)とともに[[全国大学野球連盟]]を結成。
** 春季は後楽園・[[東京大学運動会硬式野球部#本拠地|東大]]・[[明治大学和泉キャンパス#和泉球場|和泉]]の各球場を使用。東大に初めて[[東京大学運動会応援部|応援部]]が登場<ref>[https://www.todai-ouen.com/about/history01.html 歴史 | 東京大学運動会応援部]</ref>。
** 秋季は神宮・後楽園・[[戸塚球場|戸塚]]・東大の各球場を使用。
* [[1948年]]
** 勝ち点制を採用し、首位同勝ち点の場合は勝率関係なしで[[優勝決定戦]]を行う方式になる。
** 春季は神宮・後楽園・東大・戸塚・和泉の各球場を使用。
** 秋季は神宮・東大・和泉の各球場を使用。
* [[1949年]]
** 春季は神宮・後楽園・上井草の各球場を使用。
** 6月13日 - 早慶戦に先立ち、[[ダグラス・マッカーサー]]元帥が早慶両校に激励のメッセージを寄せた<ref>[[伊丹安広]] 『学生野球』 旺文社、1950年、14-15頁</ref>。
** 秋季も神宮・後楽園・上井草の各球場を使用。
[[ファイル:グリーンパーク野球場で行われた東立決勝戦.jpg|thumb|right|200px|1951年春の東立決勝戦<br>(武蔵野グリーンパーク)]]
[[ファイル:三塁から生還する長嶋茂雄(1955年秋の早立1回戦).jpg|thumb|right|200px|三塁から生還する[[長嶋茂雄]](1955年秋の早立1回戦)]]
* [[1950年]]
** 春季は神宮と上井草を使用。
** 秋季は全試合が神宮開催となる。
** 11月6日 - 昭和天皇天覧早慶戦開催。
* [[1951年]]
** 春季は神宮・上井草・[[武蔵野グリーンパーク野球場|武蔵野グリーンパーク]]の各球場を使用。
** 秋季は全試合が神宮開催となる。
* [[1952年]]
** 1月{{0}}1日 - 全日本大学野球連盟結成。東京六大学野球連盟も同連盟傘下となる。
** 3月31日 - 神宮球場返還。同年春季より、同勝ち点の場合は勝率で優勝を決めることに規約を改正。
**4月16日 - 法東決勝戦を上井草球場で開催<ref>『朝日新聞』 1952年4月17日付朝刊4面</ref>。
* [[1953年]]4月12日 - 春季リーグ戦の入場式と開幕戦を[[日本放送協会|NHK]]が[[スポーツ中継|テレビ中継]](日本初のテレビスポーツ中継)<ref>『21世紀スポーツ大事典』 [[大修館書店]]、2015年、764頁</ref>。
* [[1955年]] - 春季から優勝校にNHK杯を授与。
* [[1957年]]11月3日 - [[長嶋茂雄]](立大)が六大学本塁打通算記録を更新(8本)。
* [[1958年]] - 立教が4連覇を達成。
* [[1959年]] - 春季から背番号制を導入。
* [[1960年]]11月6~12日 - [[早慶六連戦]](早大優勝)。
* [[1964年]]5月17日 - [[渡辺泰輔]](慶大)が六大学最初の完全試合を達成。
* [[1965年]]
** 1月26日 - [[飛田穂洲]]死去。初の学生野球葬を挙行(31日)<ref>『朝日新聞』 1965年1月31日夕刊</ref>。
** 4月30日 - 春季からプロだけで使用していた神宮球場左右両翼の[[ラッキーゾーン]]を固定して使用することに変更。
[[ファイル:法政三羽ガラス1.jpg|200px|thumb|法政三羽ガラス(1968年)]]
* [[1968年]] - 春季から[[明治維新]]百年を記念して優勝校に明治神宮杯が贈られることになる。
* [[1969年]] - [[山中正竹]](法大)が六大学通算最多勝利(48勝)を達成。
* [[1970年]]1月28日 - [[大学紛争]]の影響で部員不足に陥った東大に対して留年生の出場を認める特例措置を承認。
* [[1971年]]
** 第1試合開始を午後2時、第2試合開始を午後4時半に変更(この年のみ)。
** 春季リーグ戦で法政が4連覇を達成。
* [[1974年]] - 江川ブーム到来(~77年)。
* [[1975年]]11月8日 - 連盟結成50周年記念試合として六大学OBのプロ野球選手による紅白試合実施。
* [[1976年]]
** 11月{{0}}3日 - 神宮球場竣工50周年記念試合として東都大学野球連盟との対抗試合を開催。
** 11月13日 - 東京六大学・東都大学のプロ選手OB戦を開催。
* [[1977年]] - 秋季リーグ戦で法政が4連覇を達成。
* [[1979年]] - 連盟100シーズンを迎え、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現[[東京地下鉄|東京メトロ]])から記念切符が発行される。
* [[1981年]]
** 同年よりチェコスロバキア杯が贈られる。
** 春季リーグ戦で東大が早慶両校から勝ち点を挙げる(赤門旋風)。
* [[1982年]] - 神宮球場に人工芝敷設。
* [[1987年]]11月22日 - 「サヨナラ[[安部球場]]」全早慶戦を開催。
* [[1988年]] - 昭和天皇ご不例のため、試合中の太鼓応援が自粛される。その後、周辺住民の感情に配慮し、太鼓応援の一部制限を行う。
* [[1989年]] - 春季リーグ戦で法政が4連覇を達成。
* [[1992年]]10月17・18日 - [[日本プロ野球|プロ野球]][[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]開催に配慮し、初のナイター試合を実施(慶應-法政、早稲田-明治)。
* [[1994年]]5月29日 - [[明仁|明仁天皇]]天覧早慶戦開催。
* [[1995年]]
** 9月19日 - [[ジョディ・ハーラー]]投手(明大)が女性部員として初出場。
** 11月4日 - 連盟結成70周年記念試合として六大学現役選抜対六大学OBとの試合実施。
* [[1996年]]11月9日 - 明治神宮外苑創建70周年記念試合として東都大学野球連盟との対抗試合実施。また岐阜県長良川球場にて東京六大学野球トーナメントを実施(1999年まで毎年開催)。
* [[1997年]]
** 9月28日 - [[高橋由伸]](慶大)が六大学通算最多本塁打を更新(23本)。
** 10月14日 - 明治-立教4回戦の9回表、一塁ゴロのタッチプレーを巡り、両軍乱闘となり、立教の投手が負傷<ref>朝日新聞、1997年10月15日朝刊35面</ref>。
** 10月15日 - 理事会で明治の総監督と部長の辞任が了承され、明治の監督、選手5人のリーグ戦終了までの謹慎が了承された<ref>朝日新聞、1997年10月16日朝刊29面</ref>。
* [[2000年]]8月19・20日 - [[関ヶ原の戦い|関ヶ原合戦]]400年を記念し、[[関西学生野球連盟]]と協力し両連盟によるオールスター東西対抗学生野球大会を実施(岐阜県[[長良川球場]]および[[大垣北公園野球場]]で各1試合ずつ)。
=== 戦後(21世紀) ===
* [[2001年]]5月28日 - 明東2回戦で女性投手同士の投げ合いが実現。
* [[2003年]]11月26日 - 早慶戦100周年記念行事。両校シニアOBによる親善試合と、全早慶戦を実施。
* [[2006年]]11月{{0}}4日 - 明治神宮外苑創建80周年記念試合として[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]と試合を行う。
* [[2007年]]
** [[#ハンカチ王子フィーバー|ハンカチ王子フィーバー]](~10年)。
**11月17日 - 2007日中文化・スポーツ交流年記念日中大学野球交流戦として東京六大学選抜対中国大学選抜の試合を実施。
* [[2010年]]
**春季リーグ戦に初めて[[朝日新聞社]]寄贈の優勝旗が、優勝チームに贈られた。
**8月19日 - 愛媛県松山市・[[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]開場10周年を記念した東京六大学野球オールスターゲームを実施<ref>六大学各校応援団員(男子リーダーやチア)の合同選抜メンバーによる応援に合わせた地元高校の吹奏楽部による六大学各校応援歌・マーチの演奏も華を添えた。</ref>。
[[ファイル:Tokyo University-4.jpg|200px|thumb|2017年の東京六大学野球]]
* [[2011年]]8月30日 - 六大学合同の少年野球教室を初開催<ref>[https://www.big6.gr.jp/news/20110830_baseballclass 東京六大学野球少年野球教室開催のご報告]</ref>。
* [[2012年]]8月18・19日 - [[クリネックススタジアム宮城]]で東日本大震災復興親善試合を開催<ref>[http://www.big6.gr.jp/game/specialgame/2012sendai/2012sendai.html 東日本大震災復興親善試合]</ref>。
* [[2013年]]4月{{0}}1日 - 一般財団法人に移行。
* [[2014年]]8月23日 - 東京六大学野球オールスターゲーム in 南魚沼を開催<ref>[https://www.big6.gr.jp/game/specialgame/2014minamiuonuma/2014minamiuonuma.html オールスターゲーム in 南魚沼]</ref>。
* [[2016年]]11月5日 - 明治神宮外苑創建90周年記念奉納試合として東京ヤクルトスワローズとの試合を実施。
* [[2020年]]4月5日 - 新型コロナウイルス感染拡大をうけ、臨時理事会において開幕日を5月下旬に延期、1試合総当たり方式の開催とする。また、感染拡大の情勢次第で、無観客試合や中止を視野にいれる<ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-14|url=http://big6.gr.jp/index.php|title=東京六大学野球春季リーグ戦日程変更による開催について|publisher=東京六大学野球連盟|accessdate=2020-04-14}}</ref>。その後、感染拡大が収まらないことから8月に開幕を延期することになった。7月10日、理事会を開催し、春季リーグ戦の開催を8月10日に決定<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-10|url=http://big6.gr.jp/index.php|title=東京六大学野球春季リーグ戦開催について|publisher=東京六大学野球連盟|accessdate=2020-07-11}}</ref>。秋季リーグ戦は2回戦総当たり。
== 特徴 ==
[[File:早慶戦の日・神宮野球戦 一部.jpg|thumb|180px|昭和初期の早慶戦]]
早慶戦を起源とすることから、最終戦の対戦カードは必ず早慶戦となっている。早慶戦は日本の野球の発展に大きな影響を及ぼし、長く国民的な注目を集め、現在も両校の学生や卒業生が応援しており、他のカードをより多い観客数となっている。早慶戦が必ず最終節に組まれているため、早慶両校は全5カードを戦うのに最大8週間かけることが出来、かつ3週連続で試合を行うことは絶対ないのに対し、他校で第1週(第1・2カード)に出場しない学校は6週間で5カードをこなさなければならないので、選手の疲労度を考慮すると、日程面では早慶両校が他校と比較して有利である。また早慶戦は1日1試合のみであり、原則プロ併用はなしで試合前の球場練習時間も確保されている。他リーグでは通常、前シーズン1、2位校のカードが最終週に組まれる。
成立以来全国から有力な球児たちが集まり、テレビ普及によるプロ野球の人気上昇前においては、日本の野球において高校野球と人気を二分してきた。1980年代以降は以前ほどの人気を集めなくなったが、東京六大学野球連盟の発表する観客動員数によると早慶戦を含まなくとも大学野球では全国随一の動員力を維持している。
六大学野球が成立する以前から加盟を求める大学が相次いだが、連盟はそれを拒否してきた(詳細については後述章の[[#連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説|連盟成立・結成にまつわる経緯と諸説]]を参照)。
リーグ戦で指名打者制を採用していない。
[[File:神宮球場における立教応援団(昭和初期).jpg|thumb|昭和初期の立教応援団]]
試合開始・終了時には両校応援席とも校旗を掲揚して校歌斉唱と「フレー・フレー」のかけ声(母校と対戦校のそれぞれに対して)からなる[[エール (応援)#エール交換|エール交換]](応援席以外の観客は静粛する)を行い、相手への敬意を表する。エール交換中、応援席に座る学生たちには相手校への敬意から起立・脱帽が義務づけられている<ref>「[http://www.w-ouen.com/league/event.php 早稲田大学応援部HP 東京六大学野球 早慶戦]」{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。[[コンバットマーチ]](早稲田)[[ダッシュケイオウ]](慶應)[[狙いうち]](明治)[[チャンス法政]](法政)[[セントポール]](立教)[[鉄腕アトム]]<ref>東大応援部では「イントロビクトリー」という名称で使用されている。</ref>(東大)など、現在高校野球やプロ野球で使われる応援曲の多くが東京六大学から生まれており、東京六大学の応援が高校野球やプロ野球へ、そして全国へ伝播したものである。また、野球応援に[[チアリーダー]]が登場したのは、東京六大学が最初とされている([[早慶六連戦]]を参照)。
創成期のプロ野球の運営方法にも影響を与えたものもある(1936年度のプロ野球は勝ち点制を採用など)。
== 試合会場 ==
[[ファイル:六大学野球 リーグ日割決定(『東京朝日新聞』 1929年4月3日付朝刊3面).jpg|thumb|250px|六大学野球 リーグ日割決定(『東京朝日新聞』 1929年4月3日付朝刊3面):1931年の神宮球場拡張工事完成までは[[戸塚球場]]などの各大学グラウンドも併用されていた。]]
週末を中心に、すべて[[明治神宮野球場|神宮球場]]のみで行なわれる。全国の大学野球リーグで独立した球場のみですべての試合を行うのは本連盟と東都大学野球のみ(大学所有球場のケースはあり、また東都大学は場合によって他球場使用の実績がある)。
東京六大学野球連盟は神宮球場の建設時に協力をし、また[[1931年]]の神宮球場の拡張の際に工費を負担した経緯から、球場の使用割り当てを決定する上で最優先の配慮を受けており、リーグ戦開催時期はリーグ戦終了後に行なわれる新人戦まで含めて東京六大学野球連盟が優先的に神宮球場を使用して試合を開催する<ref>球場の優先使用に関しては[[明治神宮野球場#優先使用権|明治神宮野球場]]にも詳細を記述。</ref>。
ベンチの配置は原則として対戦組み合わせスケジュール表(公式サイト参照)の左のチームが3塁側、右のチームが1塁側(先攻は3塁側)となるが、早慶戦は全試合共通で早稲田が1塁側、慶應が3塁側と固定されている(1933年に起こった応援過熱による騒動(リンゴ事件)を背景とする。ただし先攻は他の組み合わせと同様に組み合わせ表の左側のチームとなる)。なお、土曜日に開催される1回戦が雨天などの理由で2試合とも(第8週は早慶戦1試合)中止となった場合、試合順及びベンチの配置・攻撃順は翌日にスライドさせず、月曜日以降に開催される2回戦に引き継がれる。一旦販売された入場券の扱いも同様である。
リーグ戦期間中に各校応援団が利用する応援リーダー台は、東京六大学応援団連盟の共有所有物であるが、その応援リーダー台の設置の為に、球場設備の一部であるフェンス支柱に応援リーダー台固定用の突起金具が溶接されている。こうした他では考えられない(プロでも)便宜を提供するほど球場と大学野球連盟の関係が深いのは、全国でも唯一といっていい。前述のように東京六大学連盟が神宮球場の設立期に協力したことに由来するものと考えられる。
スコアボードの校名表記は原則としてアルファベット表記であり、たとえば早稲田ならば得点欄は「W」、選手名の一番上には「WASEDA」と表記される。スコアボードが改修された2008年春季以降は選手名上部はユニフォームと同じ書体、2008年秋季からは得点欄も帽子のマークと同じ表記となった。このため立教の得点欄の表記は「R」ではなくシンボルマークの[[ユリ]]([[フルール・ド・リス]])となっている。
球場内の座席は、以前は学生席(500円)・外野席(700円)<ref>65歳以上(証明書提示)、また同伴の女性、小学生以下は1名まで無料</ref>・内野席(1,100円)・特別指定席(1,300円)に分けられていたが、低下している観客動員数の改善の為、2010年春季リーグから学生席は応援席に変わり学生以外も入場できるようになり、また学生は内野席(学生内野席)に800円で入場できるようになった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/03/09/30.html 東京六大学 一般ファンも学生席で観戦できる]</ref>。神宮球場でのアマチュア野球の試合で外野席を常時開放するのは原則として東京六大学野球のみ(高校野球決勝戦等で多客時を除き)。2020年は観客数制限もあり内野席券(1,500円)と前記の学生内野席券のみ。
== 記録 ==
主な記録は連盟ホームページ、[[ベースボール・マガジン社]]発行の雑誌「大学野球(各季展望、決算号)」等でも確認できる。
=== 優勝回数 ===
連盟ホームページを参照のこと。リーグの各記録に、5大学リーグ以前(=1925年春季以前)の記録は含まれていない。
2023年秋季リーグ戦終了時点
{| class="wikitable"
|- style="text-align:center"
!大学名||優勝回数||最近の優勝
|- style="text-align:center"
|法政大学||46回||2020年春季
|- style="text-align:center"
|早稲田大学||46回||2020年秋季
|- style="text-align:center"
|明治大学||43回||2023年春季
|- style="text-align:center"
|慶應義塾大学||40回||2023年秋季
|- style="text-align:center"
|立教大学||13回||2017年春季
|- style="text-align:center"
|東京大学||{{0}}0回|| -
|}
※1940年春季は慶大・明大・立大の3校が7勝3敗でならび、優勝預かりとなった。
=== 歴代優勝大学 ===
平成以降の優勝校のみ<ref>それ以前の優勝大学は下記を参照。<br />[http://univbbl.web.fc2.com/kanto/tokyo6/history.html 東京六大学野球連盟 歴代優勝校(全国大学野球総合情報サイト大学野球~神宮への道~)]</ref>
*☆:全国大会優勝
{|class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
!開催年
!春季
!秋季
|-
|1989年||法政大学||立教大学
|-
|1990年||早稲田大学||立教大学
|-
|1991年||慶應義塾大学||慶應義塾大学
|-
|1992年||明治大学||慶應義塾大学☆
|-
|1993年||明治大学||早稲田大学
|-
|1994年||明治大学||法政大学
|-
|1995年||法政大学☆||明治大学☆
|-
|1996年||法政大学||明治大学☆
|-
|1997年||慶應義塾大学||法政大学
|-
|1998年||明治大学||法政大学
|-
|1999年||早稲田大学||立教大学
|-
|2000年||法政大学||慶應義塾大学☆
|-
|2001年||法政大学||慶應義塾大学
|-
|2002年||早稲田大学||早稲田大学
|-
|2003年||早稲田大学||早稲田大学
|-
|2004年||明治大学||慶應義塾大学
|-
|2005年||早稲田大学||法政大学
|-
|2006年||法政大学||早稲田大学
|-
|2007年||早稲田大学☆||早稲田大学
|-
|2008年||明治大学||早稲田大学
|-
|2009年||法政大学☆||明治大学
|-
|2010年||慶應義塾大学||早稲田大学☆
|-
|2011年||慶應義塾大学||明治大学☆
|-
|2012年||早稲田大学☆||法政大学
|-
|2013年||明治大学||明治大学
|-
|2014年||慶應義塾大学||明治大学
|-
|2015年||早稲田大学☆||早稲田大学
|-
|2016年||明治大学||明治大学☆
|-
|2017年||立教大学☆||慶應義塾大学
|-
|2018年||慶應義塾大学||法政大学
|-
|2019年||明治大学☆||慶應義塾大学☆
|-
|2020年||法政大学||早稲田大学
|-
|2021年||慶應義塾大学☆||慶應義塾大学
|-
|2022年||明治大学||明治大学☆
|-
|2023年||明治大学||慶應義塾大学☆
|}
== 試合中継・マスコミ ==
{{see also|東京六大学野球中継}}
[[ファイル:1936年頃の東京六大学野球中継.jpg|thumb|220px|right|1936年頃の東京六大学野球中継]]
[[1927年]]秋のリーグ戦から[[ラジオ]]中継され、[[テレビ]]でも草創期から中継を行うなど、マスコミは人気コンテンツとして六大学の試合を中継してきた。
=== テレビ ===
[[1960年]]の[[早慶六連戦]]当時は、[[日本放送協会|NHK]]だけでなく東京キーの民放全局がこれを中継するなどしていたが、その後民放は順次撤退、NHKも放映数を減少させていった。
[[テレビ神奈川]]や[[東京メトロポリタンテレビジョン|東京メトロポリタンテレビ]](東京MXTV)でも開局直後から数年にわたり試合中継を行っていた(テレビ神奈川は80年代中頃に中継を中止したが、90年代に入り土日の深夜にダイジェストを放送した)。
1974年秋季、東大が法大の[[江川卓 (野球)|江川卓]]から勝ち星を挙げた試合ではテレビ神奈川が異例の中継延長に踏切った。それを知ってか試合終了後に東大ナインがテレビカメラに向かって一礼する一幕もあった。
1981年5月には東大が早慶から勝ち点を挙げ「赤門旋風」を巻き起こしたことから、[[TBSテレビ|TBS]]が急遽東大-立教4回戦を中継した。
ただ80年代に入り、唯一試合中継を継続していたNHKが、早慶戦を含む数カード(第3週、第6週、第7週、早慶戦の各1試合)に中継を絞り、その後ラジオ中継を廃し、[[1997年]]春季には早慶戦のテレビ中継も中止した。しかしそのシーズンに慶大の[[高橋由伸]]がリーグタイ記録の22号本塁打を早慶戦(それもNHKがそれまで放映していた日曜日の試合)で放ったため、視聴者から中継中止に対する抗議が多数寄せられる事態が起きた(試合は東京MXTVが中継)。歴史的瞬間を逃した失態と感じたかNHKはその年の秋季から早慶戦の中継を再開した(なおNHKはそれまで優勝校へ授与していたNHK杯も同時期に一時撤廃している)。
2006年11月の東京六大学対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦は、東京MXTVが生中継した。
2007年春季、前年夏の甲子園優勝投手で話題の[[斎藤佑樹]]が早大に入学したことにより試合中継数が一気に増加。民放放送各局が連盟と放映権獲得を巡り交渉した末、日本テレビが獲得し六大学の試合中継を再開することとなった。[[BS日本|BS日テレ]]では早稲田戦の10試合を、CS放送の[[日テレG+]]では全試合を中継し(なお9月24日、25日は神宮球場内でのテレビ中継をしたが、CS・BS・地上波では未放送に終わった)、地上波では斎藤佑樹が1年生開幕投手を務めた[[4月14日]]の[[東京大学|東大]] - [[早稲田大学|早稲田]]戦を中継した(1回表裏のみ)。また[[5月12日]]には2007年春季リーグの模様を中心に六大学野球の歴史を紹介した2時間の特別番組を放送した。ちなみにラジオ中継は[[ニッポン放送]]が放送権を獲得。
2007年[[5月20日]]には、NHKが[[早稲田大学|早稲田]] - [[明治大学|明治]]戦を緊急生中継を実施し、6月2日・3日の早慶戦ではNHKが中継したほか、日本テレビも6月3日に特別番組を編成して地上波中継を実施。この日の早慶戦はNHKと日本テレビ合わせて14.3%を記録した。
CSでは日テレG+の放送開始以前はパワーチャンネル(現・[[MTVジャパン]]。当時は週末はスポーツ中心の編成で行っていた)→[[GAORA]]→[[スカイ・エー|スカイ・A (現:スカイ・A sports+)]]で放送を行っていた。また、東京MXTVでの中継録画を[[スポーツアイESPN]]でも放送していた時期もある。なお、スカイ・Aでは2009年春季リーグから[[テレビ朝日]]協力(スコアフォントは[[千代田ビデオ]]・[[東京メトロポリタンテレビジョン]]製作のものを流用。実況アナウンサーもABC、EXのそれぞれから派遣して担当する。毎節の放送ではなく、随時好カードを抜粋して放映)により中継を再開し、現在も放送しているが録画放送のみとなり、生中継は2015年春季リーグまで[[テレ朝チャンネル2]]、2015年秋季リーグは[[ビーエス朝日|BS朝日]]で放送している。
現在、地上波では[[NHK教育テレビ]]が早慶戦の日曜の試合のみをテレビ中継している。
=== ネット配信 ===
2006年春季、連盟はリーグ戦全試合のインターネット中継の実験をiiVChannelで開始、同年秋季には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]と提携して[[第2日本テレビ]]においてインターネット中継が実施された。
2009年よりインターネットテレビ局[[ノーネスチャンネル]]が運営する東京六大学野球オフィシャルTVにおいて春季・秋季リーグの全試合が配信されている。また、2014年からはノーネスチャンネルによる東京六大学野球オフィシャルTVライブにおいていくつかの試合が神宮球場よりネットで生中継されている。
2017年からは運動通信社が運営する[https://sportsbull.jp/ SPORTSBULL]にて、不動産会社[[オープンハウスグループ|オープンハウス]]がタイトルパートナーとなって、[https://sportsbull.jp/category/big6tv/ BIG6.TV]というサービスが誕生。全試合生配信と題し、ライブ中継および3分間のハイライト映像の配信を行っている。また、SNSのTwitterとFacebookにて、BIG6.TVアカウントとして試合映像の切り出し投稿を行っている。
2018年春季からは[[ABEMA|AbemaTV]]が中継に参入。SPORTSチャンネルにて全試合の生中継及び見逃し配信を実施している<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804090000559.html 東京6大学リーグ中継で元阪神スカウト菊地氏ら解説] - 日刊スポーツ・2018年4月9日</ref>。
=== 紙媒体等 ===
新聞・雑誌でも、戦前は大手各紙がスポーツ記事では最も大きい取り上げ方をしていた。試合の詳細まで掲載していたため、戦前のリーグ記録は、新聞報道に頼る部分が少なからずある。戦後もテレビ・ラジオ同様重要コンテンツとして取り上げてきたが、やはり同様に扱いが少なくなり、[[江川卓 (野球)|江川卓]]卒業後はさらに記事が減少していった。中には取材不徹底のまま早慶戦の人気低迷を取り上げる新聞も出た。
ただ2007年の斎藤佑樹の入学に伴い、東京六大学の新聞・雑誌でもその扱いが一気に増え、斎藤が登板した翌日は1面に取り上げるスポーツ紙も多かった。
雑誌としてはベースボール・マガジン社が年3回「[[週刊ベースボール]]」の増刊として「大学野球」を刊行している。もとは「東京六大学野球特集号」としていたものが大学球界の全国各地での発展に伴い名称を変えたものである。とはいえ東京六大学野球に割かれる誌面は今も最も大きく、巻頭を含めて注目選手へのインタビューのほか、選手名鑑、歴代の記録、前シーズンの試合結果や記録などを網羅している。同誌2007年春季リーグ戦展望号では表紙を斎藤が飾った。同誌の刊行史において、入学したばかりの選手が表紙を飾るのは極めて稀なことである。
神宮球場では「神宮球場ガイドブック」(ベースボール・マガジン社制作)を春・秋の2回刊行していた(1986年より)。[[東京ヤクルトスワローズ]]関連の記事とともに、東京六大学・東都大学の選手名鑑や記録が掲載され、さらに各連盟OBのインタビューや過去の東京六大学リーグ戦の記事などが誌面を飾り、六大学野球ファン必携の一冊となっていた。2007年春号は同ガイドブック史上初めて、斎藤を含む各校の注目新入生を紹介する頁が設けられた。東大は発行の時点で入部選手が確定しておらず(これは例年のことである)、新人選手の紹介はなかった。ガイドブックは第4週終了時点で同誌史上初めて第1刷を完売した。尚、2017年からは同誌に代わって連盟公認のオフィシャルガイドブックが発刊された。
また、[[日刊スポーツ出版社]]は「カレッジベースヒーローズ」を2007年から毎リーグ戦前に刊行していたが、現在は休刊となっている。
このほか、連盟発行のポケットサイズ選手名簿(シーズン開幕時登録ベンチ入り選手、日程、各校歌等の文字のみ)が、神宮球場内で発売されている。
== その他 ==
* 優勝カップ:天皇杯(戦前は摂政杯)、連盟杯(1925年から)、明治神宮杯(1968年から)、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大使杯(1926年から)、NHK杯(1955年から。かつては[[チェコ]]国友好杯、[[ハワイ]]リーグ杯、日本テレビ杯などがあった)表彰式では主将ほか4年生の主要選手が拝戴する。天皇杯のみ、翌シーズンの開幕式において連盟へ返納する。
* 高校野球や[[都市対抗野球]]のような優勝旗は存在しなかったが、2010年春季リーグ戦からは朝日新聞社から寄贈した優勝旗<ref name="優勝旗"/> が授与されるようになった。
* ラッキーゾーン使用前は、ワンバウンドして外野スタンドに入った打球を三塁打(エンタイトル)として扱った。
* 年一回、リーグ戦の全記録や試合解説、選手名簿、卒業生の進路などを掲載した「野球年鑑」を発行している(関係者のみに配布。関係者以外は[[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館]]や[[国立国会図書館]]などで閲覧が可能(ただし借り出しはできない)。伝統的にマスコミに多数のOBを送り出していることもあり、記録の充実度・整備度は大学球界では群を抜き、プロ野球並みである。また東京六大学野球に関連する資料は[[吉澤野球史料保存館]]でも展示されている。
[[ファイル:Hosei University Tokyo big6 baseball league championship parade2.jpg|thumb|upright|優勝パレードの様子。写真は法大のもの(2009年春)]]
=== 優勝パレード ===
リーグ戦の優勝校は、全日程の終了後に優勝パレードを行うのが恒例となっている<ref>但し、2001年秋季リーグ戦に優勝した慶應のパレードが社会情勢の不安から中止になった(「野球部 優勝パレードは中止に」『慶應塾生新聞』2001年10月号 [http://www.jukushin.com/article.cgi?h-20011034])</ref>。パレードの参列者は紅白のちょうちんを携えて行進することから、パレードには「ちょうちん行列」「ちょうちんパレード」の別名がある。<br/>
概ね神宮外苑内の絵画館前を起点とし、大学本部のある地点までを行進ルートにしている。選手たちはオープンカーに乗って行進に参加する(早稲田を除く)。
なお近年では、渋滞への配慮等から神宮外苑を起点としたパレードを実施しない場合もある<ref>2004年春季リーグ戦に優勝した明治は駿河台キャンパス周辺のみ [http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/jimbocho/20040607/0607.htm] で、2006年春季リーグ戦・2009年春季リーグ戦に優勝した法政は市ヶ谷キャンパス周辺のみ [http://www.hosei.ac.jp/news/shosai/news_268.html] で優勝パレードを実施した。</ref>。
=== 1933年の「宵越試合」 ===
[[ファイル:早立戦中断の協議.jpg|thumb|left|早立戦中断の協議]]
1933年10月1日の早稲田-立教3回戦は、立教が11-4と大量リードのまま9回表を迎えた。ここで早稲田が反撃に出て大量5点を奪い2点差に迫り、なお2死満塁と詰め寄った。ここで打者長野を迎えたところで日没のためグラウンドが暗くなり、試合続行不可能と判断した審判団は両校監督・主将と協議の上、同じ状況のまま翌日に試合を延期すること(いわゆる[[サスペンデッドゲーム]])とした。翌10月2日、9回表早稲田の攻撃、2死満塁の局面から試合は再開された。早稲田の打者長野は立教の投手塩田の3球目に投ゴロに倒れ、試合はあっさり11-9で立教の勝利に終わった。以後、連盟規定改定などの関係で、同様のサスペンデッドゲームは実施されていない。{{clear}}
=== ハンカチ王子フィーバー ===
2007年の春季リーグは同年に早稲田大学に入学した[[斎藤佑樹]]の開幕登板が予想されたことからチケットを求める問い合わせが殺到し、史上初めて[[チケットぴあ]]での入場券前売りが実施された。新入生が開幕投手を務めるのは実に77年ぶり史上2人目であった。
[[4月14日]]の開幕戦は前年春の4倍となる18,000人が詰めかけ、法政との対戦となった同じ[[4月28日]]は20,000人、斎藤が先発した[[4月29日]]は28,000人を記録し、従来早慶戦以外では開放されない通称「三角内野」(第2内野席)が開放された。この観客数は早慶戦以外では[[1992年]]春季第7週、法政-明治戦(勝った方が優勝。法明戦で勝った方が優勝となるのは久しぶりだった)以来の20,000人越えとなった。両日夜に同じ神宮で行われた[[東京ヤクルトスワローズ]] - [[読売ジャイアンツ]]戦の観客動員は28日20,106人、29日29,654人であった。斎藤佑樹の人気がプロ野球、それも従来首都圏で最大の動員力を持っていたとされる巨人戦に肉迫する結果となった。さらに[[5月20日]]の[[早明戦]]では、30,000人が神宮に詰めかけ、[[6月2日]]からの早慶戦では2日34,000人、3日36,000人の観衆が集まった。[[6月3日]]の観客数は当日行われたプロ野球交流戦の6試合中5試合を上回り、[[北海道日本ハムファイターズ]]対[[阪神タイガース]]([[札幌ドーム]])に次ぐ動員数となった。
入場券を求める行列は4月28日には400人以上に上り、その後シーズンの経過につれその列が増えてきた。そのための混乱を少しでも回避しようとしてか、連盟ホームページでは1日2試合の場合の開場時間が9:35であることを記載し始めた。連盟では混雑による事故を回避するため、従来の倍以上の警備員を配置して観客整理と警戒にあたっている。早慶戦では1994年の天覧試合並みの200人態勢をとった。
早稲田野球部を乗せたバスは斎藤見たさに詰めかけるファンとの衝突・事故を避けるために、球場正面玄関に横付けされ、選手たちは厳重な警備の下で入退場をしている。他校の場合は球場前の駐車場に停める(早稲田も2006年秋季までは同様だった)。
ただし早稲田の出ない週の観客数は概ね例年並みとなっており、六大学の人気復活とは言い切れない状況であった。
1年生の斎藤が2007年春季リーグの開幕投手で勝利をおさめたが、これは1927年春季の慶應[[宮武三郎]]以来80年ぶり(先発投手としては1930年の東大・高橋一以来)。斎藤はこのリーグ戦で通算4勝を挙げ、1年生投手の春季リーグ戦での4勝以上は1927年宮武、1929年早稲田[[小川正太郎]]、1991年早稲田[[織田淳哉]]についで4人目となった。斎藤はベストナインにも選出され、1年生投手が春のベストナインに選出されたのは1954年秋季の制度制定後初めてである。
2007年[[9月6日]]の連盟理事会で、東京六大学野球の2008年版カレンダーを発行することを決定した。連盟によれば「ファンサービスの一環」とのことだが、カレンダーの発行は同連盟史上初めてのことである。また2008年春季リーグ戦の開幕と同時に[[ベースボールカード]]も発売された。連盟によれば、過去に[[ブロマイド]]が発行されたことはあるが、カードの発売は初めてだとしている。
斎藤が卒業後は再び下降し、ここ数年は平均8千人程度の観客動員数となっている<ref>[http://www.big6.gr.jp/game/index.html 試合結果] 六大学野球連盟</ref>。
== 関連商品 ==
[[ファイル:Morinaga college chocolate.jpg|120px|thumb|upright|森永カレッヂ・チヨコレートの新聞広告(立教大学新聞 1930年)]]
=== 森永カレッヂ・チヨコレート ===
1930年(昭和5年)に、[[森永製菓]]から発売された東京六大学を象徴する6つのチョコレート。外装紙には、各大学の名称の入った[[ペナント]]がデザインされているのに加え、リーグ戦での応援のために各大学の校歌も印刷された。価格は1個10銭<ref>[https://library.rikkyo.ac.jp/digitallibrary/rikkyonews/pdf/30(S05)0925_091.pdf 『立教大学新聞 第91号』] 1930年(昭和5年)9月25日</ref>。{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Tokyo Big6 Baseball League}}
* [[東京六大学応援団連盟]]
* [[東京六大学野球中継]]
* [[東京六大学]] / [[東京六大学リーグ]]
* [[早慶戦]]([[早慶]])/ [[早明戦]] / [[慶明戦]] / [[明立戦]]
== 外部リンク ==
* {{Official website|https://www.big6.gr.jp/index.php}}
* {{Twitter|big6_official}}
* {{Facebook|tokyo.big6.official}}
* {{Instagram|tokyo.big6_official}}
* [https://big6scorebook.jp/ BIG6 Scorebook - 東京六大学野球公式記録室]
* [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0050003 東京六大学野球特設ページ|時代|NHKアーカイブス]
* [http://tokyorocks2015.wondernotes.jp/ TOKYOROCKS!][http://tokyorocks2010.wondernotes.jp/][http://tokyorocks2011.wondernotes.jp/][http://tokyorocks2012.wondernotes.jp/][http://tokyorocks2013.wondernotes.jp/][http://tokyorocks2014.wondernotes.jp/] - 東京六大学野球を応援する公式Webコンテンツ
* [https://web.archive.org/web/20010802025155/http://www.fin.ne.jp/~rumi/big6/index.html 六大学野球のこべや] - 1997年から1999年までのリーグ戦の詳細を確認可能
* [https://web.archive.org/web/19980610174403/http://sbp.fp.a.u-tokyo.ac.jp/staff/Shibazaki/hobby/6daigaku.html 東京六大学野球のページ] - 1997年春季の成績データ
* [https://web.archive.org/web/19980120104033/http://www.race.u-tokyo.ac.jp/~atsushi/baseball/6daigaku-j.html 過去の記録] - 1995年の成績データ
* [https://web.archive.org/web/19991001204236/http://www.tky.3web.ne.jp/~chikuwa/satoshi/ Satoshi's Cafe] - 1999年のリーグ戦出場選手の詳細を掲載
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<!--上記「ハンカチ王子フィーバー」節では、斎藤佑樹のことが書かれている。-->
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名鉄名古屋本線
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名古屋本線(なごやほんせん)は、愛知県豊橋市の豊橋駅から岐阜県岐阜市の名鉄岐阜駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。
名古屋本線は豊橋市 - 名古屋市 - 岐阜市の各都市を結んでいる名鉄の基幹路線であり、唯一「本線」を名乗り、通称「名鉄本線」と称される。全区間で東海旅客鉄道(JR東海)の東海道線と競合しており、特に名古屋(名鉄神宮前駅・JR熱田駅)以北は全て並行している。豊橋駅 - 神宮前駅間では国道1号、神宮前駅 - 名鉄岐阜駅間では国道22号にそれぞれほぼ並行している。
営業距離の99.8kmは、JR・三セクを除く日本の私鉄の路線では東武伊勢崎線、近鉄大阪線に次ぐ第3位、全線が複線以上の路線としてはJR・三セクを除く日本の私鉄では近鉄大阪線に次ぐ第2位の長さである。
名古屋本線は名鉄最大のターミナル駅である名鉄名古屋駅を通る。同駅は私鉄では珍しい通過型ターミナル駅であり、当路線を介して犬山線や常滑線・空港線(中部国際空港方面)など多方面の名鉄の列車が直通運転を行なっている。
運賃計算区分はA(運賃計算は営業キロをそのまま用いる)。すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。
線内運転列車のほか、国府駅で豊川線、新安城駅で西尾線、神宮前駅で常滑線(空港線中部国際空港駅・河和線河和駅・知多新線内海駅方面にも直通あり。線路は金山駅で合流・分岐)、庄内川鉄橋の北側の枇杷島分岐点で犬山線(広見線新可児駅方面にも直通あり)、須ヶ口駅で津島線(尾西線佐屋駅方面にも直通あり)が分岐・合流しており、多くの列車が直通する。これらの列車のほとんどが名鉄名古屋駅・金山駅方面に向けて運転され、枇杷島分岐点(庄内川鉄橋) - 神宮前駅間では、早朝・深夜を除き平均2 - 3分間隔(日中でも1時間に26本)の高頻度で列車が走る状態となっている。このため事故や災害による運行の乱れが複数の路線(名鉄名古屋駅に乗り入れることのない三河線・小牧線などを除く)に及ぶことが多い。またミュースカイ・特急・快速特急を除いた多くの列車が途中駅で種別変更を行っている。
日中の運行パターンは以下のとおりである。各節において運行本数は特記なければ1時間当たりのもの。
豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間では、下りは一部特別車の特急が、上りは一部特別車の快速特急が、それぞれ2本ずつ運行されている。そのほかに区間列車として、須ヶ口止まり(平日に豊橋発が2本と吉良吉田発が1本運転)、上りは国府止まり(深夜に名古屋発(休日は岐阜発の1本のみ。)や伊奈止まり(平日深夜に1本のみで美合駅にも停車)や東岡崎止まりがある。
基本停車駅での全区間標準所要時分は、名鉄名古屋駅を1分停車として、快速特急が79分(名岐間29分・名豊間49分)、特急が82分(名岐間29分・名豊間52分)である。
快速特急・特急とも、朝や深夜は豊橋駅口で急行を補完するため、標準停車駅の他に伊奈駅や国府駅に停車する場合がある。
平日朝の岐阜発特急豊橋行きの2本は、鳴海駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正で平日のみ豊橋駅8時32分発岐阜行き特急は、改正以前は本線特急は通過だが、津島・佐屋方面特急の停車駅である須ヶ口駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正では名鉄名古屋駅23時52分発東岡崎行き全車一般車特急が設定されている。最終の岐阜発快速特急豊橋行き(2021年5月22日のダイヤ改正で特急国府行きから変更)と平日朝の豊橋駅6時51分発快速特急岐阜行きは、新安城駅にも停車する。
2023年3月18日のダイヤ改正では急行が基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮されたため、日中に名古屋本線を通しで走る列車はこの節に記した快速特急および特急の毎時2本のみとなった。
犬山線へ直通する特急として、豊橋駅 - 新鵜沼駅間に下りは一部特別車の快速特急で、上りは一部特別車の特急で、それぞれ2本ずつ運行している。この運行系統は1996年より豊橋方面から名古屋空港へのアクセスを目的として平日の朝に1本だけ走っており(このために名古屋空港行きバスへの乗り換え駅である西春駅にも特別停車していた)、豊橋方面から犬山線へ唯一直通する一部特別車特急として知られていた。2005年1月の改正で一旦廃止となったが、2007年6月の改正で時刻を多少変更して復活し、2008年12月の改正で大幅に増加している。平日朝には犬山止まりが1本のみ設定されている。使用車両は上記豊橋 - 岐阜の系統と同じ。
中部国際空港への連絡特急として、中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅間に全車特別車のミュースカイを1本(日中以外)、一部特別車の特急を2本運行している。2008年12月のダイヤ改正以前は昼間にも豊橋駅発着の列車が1時間あたり1本運行されていたが、中部国際空港方面より名古屋方面への利用者が圧倒的に多く、乗り換えの不便が目立ったためこれを廃止し、代わりに名鉄岐阜駅発着の列車を増発した(夕方以降にも設定)。中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅間の列車と豊橋駅 - 新鵜沼駅間の列車は、金山駅または神宮前駅で、ともに同じホームにて乗り換えが可能。ただし名古屋本線内のみを通しで乗車する場合以外は、以前のような短時間での接続は考慮されなくなった。総合すれば名古屋本線の一般車(自由席)を連結した快速特急・特急は15分間隔で運行されている。
2011年3月26日のダイヤ改正より、従来運行されていた豊橋発中部国際空港行き一部特別車特急(2005年1月の改正で設定。駅配線の都合上金山駅で折り返していた)と名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間の昼間のミュースカイが廃止され、この時間帯のミュースカイは中部国際空港駅 - 名鉄名古屋駅間の折り返し運転となった。また、深夜には常滑・空港線の上り名古屋方面と名古屋本線の下り一宮方面への最終列車を兼ねた中部国際空港発岐阜行きの全車一般車特急が設定されている。
現在、名岐線 - 常滑線の一部特別車特急は2200系で運転されている。廃車以前の1700系も充当されていた。なお、豊橋発着の列車は登場時が1200系、廃止時点では2200系で運転されていた。
西尾線系統として、吉良吉田駅から須ヶ口駅までの全車一般車の特急を平日朝1本のみ運行している。かつてこの系統は全車特別車で佐屋駅または吉良吉田駅まで運行されており、1600系や1000系4両編成(以上は2008年まで)や8800系(2005年まで)や7000系(1999年まで)で運転されていた。2008年6月29日のダイヤ改正で、朝の西尾発名古屋行きと夜間の名古屋発西尾行きの各1本が一部特別車化されたほかはすべて、快速急行(現在は急行)に格下げされた(後述)。2023年3月18日のダイヤ改正で、一部特別車の特急が廃止され、全車一般車特急での運用になり、始発駅も西尾駅から吉良吉田駅へ延長された。
平日の朝には、豊川稲荷発岐阜行き快速特急・特急(2200系6両、各1本のみ。本宿駅と美合駅に特別停車)や、河和発岐阜行き(平日は1200系8両、休日は2200系6両)などの列車もある。いずれも一部特別車で運転される。
金山駅 - 東岡崎駅では昼間でも混雑が激しいことがある。これは知立駅以東での最先着列車であることと知立駅での利用客が多いこと(実際三河線からの乗り継ぎ客も相当多い)が大きく影響している。名岐間では快速特急・特急は全列車とも快速急行停車駅の新木曽川駅と笠松駅にも停車し(朝の特別通過は2023年3月の改正で廃止された)、所要時間が29分 - 31分となっている。唯一両駅通過となるミュースカイも、名岐間は遅延余裕を加味し27 - 28分かけて走る。
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内でミュースカイ・快速特急・特急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。ミュースカイのみ全車特別車で他は一部特別車。この記事に記載していない犬山線・常滑線直通列車を含む)。
2008年12月27日のダイヤ改正より、名古屋本線神宮前駅以東で快速急行は設定されなくなった。
豊橋駅 - 名鉄一宮駅間、時間帯によってはこれに加えて豊川稲荷駅 - 名鉄一宮駅間の急行が交互に設定され、合わせて毎時2 - 4本運行される。平日夕方以降の豊川稲荷駅発着列車は、大里駅に特別停車、東岡崎駅 - 豊川稲荷駅間は準急に種別変更され、藤川駅と男川駅にも停車する。平日の朝には、犬山線から豊橋行きや豊川稲荷行きも運転される。また、朝ラッシュ時や夜間には国府行き・伊奈行きも設定されている。
1994年から2000年3月には平日、休日ともに、夕方に豊橋駅 - 新可児駅・御嵩駅間および常滑駅 - 新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)間の急行が設定されていた。2003年までは朝と夕方以降に、矢作橋駅に特別停車していた。2008年12月のダイヤ改正以降、前後駅(1988年より急行の特別停車を開始。2003年に急行停車駅に昇格)・栄生駅(2005年に急行停車駅に昇格)・大里駅への特別停車はほぼ行われなくなったが、2011年3月ダイヤ改正では、後述の準急削減により、平日の日中に豊川稲荷発着系統で、二ツ杁と有松の両駅で準急削減を補う特別停車が実施された。
2021年5月ダイヤ改正より、平日日中の豊川稲荷発着系統の運行がなくなった。また土休日は後述の準急がほとんど運行されなくなったため、2011年3月ダイヤの平日日中に行われていた二ツ杁と有松の両駅への特別停車が土休日に変更となった。また、東岡崎駅以東での準急への種別変更と大里駅への特別停車は平日夕方以降を除いてほぼ消滅した。
2021年10月ダイヤ改正より、日中は豊川線の本数が普通のみ毎時2本に減便となるため土休日日中の一部急行が豊川線へは入らなくなり国府駅折り返しとなっている。
2023年3月ダイヤ改正より、土休日日中の豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行は豊明駅 - 須ケ口駅(下り列車は津島線に直通)間に運行区間の短縮および種別格下げが行われた。豊橋駅発着の急行も基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮され、日中以降基本的に急行は名鉄岐阜駅には行かなくなった。
日中の豊橋駅・豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄岐阜駅・名鉄一宮駅間の急行はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
朝ラッシュなどは特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅で全く抜かれないこともある。急行の運転時分は、待避時間を除くと豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間が60分 - 64分、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は最速31分だが、大半は余裕時分が加わり35分前後かかるため、名岐間の表定速度はさほど高くない(このためJR東海道本線の普通列車より遅い。1990年代の最短記録でも現在の特急とほぼ同じ29分)。名鉄名古屋駅以東では必ず快速特急・特急待避を行うため、前後駅以東では夕ラッシュでも混雑することは少ない。
6両編成での運行が多かったが、近年は平日、休日とも4両での運転が増えている。また、朝と深夜には8両編成での運転もある。さらに、待避駅で増結または切り離しを行う列車もある。豊橋駅発着の列車は特急の間合い運用を除いて120km/h運転可能な3100・3150・3300・3500・3700・9100・9500系が充当される(2023年3月改正からは5000系もごく僅かに運用に入る)。土休日の豊川稲荷(国府)発はこれら7系列に加え6000・6500・6800系(豊川線・尾西線ワンマン車両を含む)の4両編成または6両編成での運転となる。朝は特急への送り込み、深夜は特急からの折り返しのため、1200系や2200系での運転も行われている(この場合、特別車は朝の豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間の1往復を除いて締め切り)。かつて主流であった2扉SR車(最晩年は少数派である5700系・5300系のみ)による本線急行は、2010年時点では早朝の国府発岐阜行き、深夜の岐阜発伊奈行きなど数本程度残っていたが、2011年3月ダイヤ改正でほとんど消滅し、本線上で見られる急行運用は早朝の名鉄一宮発中部国際空港行き快速急行、深夜に名鉄岐阜発着のごく一部の列車と、後述する西尾線 - 津島線系統一部列車の本線走行区間のみとなった(その後、SR車は2019年に引退した)。
快速急行は朝の数本(神宮前行きと常滑・空港線に直通する一部の列車を除いて名鉄名古屋駅で急行などに種別変更する)のみ走っている。また準急は国府や豊川稲荷発着のほかは、平日朝の伊奈行き1本のみで、他は東岡崎駅 - 豊橋駅間は急行に種別変更して運行している。現在は豊橋駅を発着する快速急行や準急は設定されていない。なお、豊橋駅を23時台に発車する2本の急行(名古屋行き(東岡崎駅から準急)と鳴海行き)は、ともに同駅停車の東海道新幹線下り「ひかり」の接続を取る時刻設定である。2本とも特急の折り返しで、名古屋行きが1200系、鳴海行きが2200系などの共に8両編成(特別車締め切り)を使用する。
吉良吉田駅 - 佐屋駅または弥富駅間に2本運行している。平日夕方以降における列車種別は、下りでは吉良吉田駅 → (急行) → 神宮前駅 → (準急) → 須ヶ口駅 → (普通) → 佐屋駅、上りでは佐屋駅 → (吉良吉田行きのみ準急) → 須ヶ口駅 → (準急) → 名鉄名古屋駅 → (急行) → 吉良吉田駅となる。須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間は日中準急の設定がない。原則として上下とも豊明駅に特別停車する。夜の上り2本は西尾線に入らず新安城駅止まり(土休日の1本は豊明駅止まり)となる(22時台に新安城駅に到着する列車のみ終点で西尾線の普通吉良吉田行きへ接続)。日中は後述の準急が種別変更せず、土休日夕方以降は運転されないため、本系統は神宮前駅以西は普通列車となり(上りは名鉄名古屋駅で種別変更)、弥富駅まで直通している(ただし上りは佐屋駅始発)。
1998年までは蒲郡駅まで直通しており(末期は西尾駅 - 蒲郡駅間は普通列車)、現在はその名残で終点の吉良吉田駅で蒲郡線方面発着の普通ワンマン列車に接続する。また、2003年3月ダイヤ改正で前後駅が標準停車駅に加わる(1990年代初期に前後駅に特別停車していたこともある)。これ以前のダイヤでは夜間の西尾行きの一部は有松駅にも特別停車していた(佐屋行きは通過)。呼続駅・桜駅・本笠寺駅・本星崎駅・左京山駅・有松駅・中京競馬場前駅の利用者を考慮して、昔から上下線とも鳴海駅で普通に接続し(上りは2003年3月改正時にも一部が前後駅で別の普通へ接続していた)、さらに知立駅で岡崎・豊橋方面発の特急から乗り換えでき、知立駅で岡崎・豊橋方面行きの特急へ乗り換えることができる。現在のダイヤでは豊明駅でも普通に接続する。
主に3000系列・6000系列によって運転されている。3000系列は2008年6月29日より入線し、12月27日よりごくわずかだが1380系や5000系も入線している。新安城駅2番線のホーム有効長の関係から全列車4両編成となっており、上下線とも基本的に新安城駅から須ヶ口駅まで快速特急を待避しない(ただし平日の昼間は二ツ杁駅で快速特急を待避する。また平日夕方は須ヶ口駅で快速特急とミュースカイの通過を待って発車。土休日は須ヶ口駅で急行の発車と快速特急の通過を待って発車)ので、豊明駅 - 名鉄名古屋駅間では混雑することが多い。またこの系統は余裕時分が全体的に少なめであり遅れも発生しやすい。
1992年までは西尾線内は普通列車で、1999年までは下りの一部は堀田駅で特急(現在の快速特急に当たる系統で、当時は知立駅も通過していた)を待避していたり金山行きや須ヶ口行き、津島行きなどになっていたこともあった。2008年6月のダイヤ改正以前に多数存在した西尾行きも夜間に1本だけ存在する。休日には一部の列車は佐屋発着となっている。2005年までこの系統は6000・6500系または5300・5700系で運転されていた。平日の朝には、犬山経由岐阜発普通吉良吉田行き(名鉄岐阜駅 - 名鉄名古屋駅間と鳴海駅 - 吉良吉田駅間は急行。豊明駅と北安城駅にも停車)と犬山経由岐阜発急行吉良吉田行き(新鵜沼駅までと新安城駅から普通)が各1本(列車種別は名鉄名古屋駅を発車時点。2023年3月ダイヤ改正より新鵜沼駅発に変更された)運行されている。
2021年5月ダイヤ改正より、土休日は後述の準急がほとんど運転されなくなり、平日夕方以降を除いて2011年3月ダイヤの平日日中とほぼ同様の運行形態となる。
土休日夕方以外の時間帯に豊明駅 - (準急) - 神宮前・名鉄名古屋・須ヶ口駅 - (普通) - 佐屋駅・弥富駅間(ただし、日中の上り列車は津島・尾西線に直通しない)に2本運行しており、東岡崎駅 - 豊明駅間は、朝ラッシュと深夜を除いて準急の設定はない。
かつてこの系統は三河線の猿投・碧南方面の直通列車であった(運転区間は主に碧南駅 - 弥富駅間。三河線内は普通に種別変更し各駅に停車)。三河線に直通していたころは、三河線内の刈谷駅 - 名鉄名古屋駅間で競合するJR東海道本線への対抗策として、特急増結用の1800系や7700系などのSR車による運行が主体で、碧南駅 - 名鉄名古屋駅間で先着するダイヤが組まれていた時期もある。
この系統は昔から二ツ杁駅・栄生駅・有松駅に特別停車しており、2003年より標準停車駅に前後駅、特別停車駅に中京競馬場前駅が追加され、2005年1月のダイヤ改正時より準急と改称されて現在の停車駅となっている。2005年1月ダイヤ改正以前は名古屋方面から前後駅や豊明駅などへの利用者を考慮して、鳴海駅で普通東岡崎行きに接続していた。一時期鳴海駅で普通へは接続しなくなり、その代わりに前後駅で普通東岡崎行きに接続している(終点の豊明駅では同一ホームでの乗り換えができないため)。下りは起点の豊明駅で普通を待たせてから発車するほかはほとんど普通へは接続しない。
下りは二ツ杁駅で特急を待避する(2008年12月ダイヤ改正から2019年3月ダイヤ改正までは一部の列車が二ツ杁駅ではなく西枇杷島駅で待避していた)が、上りは終点の豊明駅まで待避しない(ただし須ヶ口駅で急行の発車と特急の通過を待った後発車)。このためこの列車も前後駅 - 名古屋駅間で混雑することが多い。2005年1月ダイヤ改正から2006年4月ダイヤ改正のころは上りはほとんど知立行きで知立駅到着後前後駅まで回送されていた。そのため、このころは豊明駅から準急は上りしか利用できず、下りは1時間あたり4本の普通しか利用できなかった。2006年4月ダイヤ改正から2008年12月ダイヤ改正のころは東岡崎駅まで直通しており(さらに列車番号を変えて伊奈駅まで)、前後駅以東は普通列車になっていた。2003年ダイヤ改正以前は知立駅で特急が発車した後に発車しており、一宮方面と分かれる須ヶ口駅まで待避しなかった。昼間を中心に一部の列車が鳴海駅で折り返していた時期もある。西枇杷島駅のホーム有効長の関係から、主に3500系・5000系・6000系などの4両で運転されている。
2011年3月ダイヤ改正からは、平日日中の準急運行が削減された。この時間帯は代わりに前述の豊川稲荷発着の急行が有松駅と二ツ杁駅に特別停車し、西尾線直通の急行が神宮前駅(上りは名鉄名古屋駅)以西で普通に種別変更している。
2021年5月ダイヤ改正からは、土休日の運行がほとんど消滅し(2011年3月ダイヤ改正の平日日中と同様になる)、本系統はほとんど平日夕方以降のみの運行となっていた。
2023年3月ダイヤ改正からは、平日日中の名古屋近郊の速達輸送と土休日日中に設定されていた国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行の区間短縮・種別格下げにより、日中に準急が豊明駅 - 須ヶ口駅(下りは須ヶ口駅から普通に変更し津島線へ直通。上りは名鉄岐阜駅または弥富駅から来た須ヶ口止まりの普通が種別と行先を変更して運行を継続。列車によって普通列車の発駅は異なる)間に毎時2本設定された。当該準急は途中で種別を変更しない。急行のダイヤを概ね踏襲するために上下線とも鳴海駅で普通と緩急接続し、下りは堀田駅、上りは二ツ杁駅でそれぞれ特急を通過待ちしている。起点の豊明駅では普通が到着する直前に発車し、須ヶ口駅まで逃げ切るため普通から乗り換えることはできない。
早朝(ただし土休日の岐阜行きはない)に新羽島駅 - (普通) - 笠松駅 - (急行) - 名鉄岐阜駅間に2本運行している。2001年までは竹鼻線でも急行運転する列車も存在していた。2両または4両で運転。1800系も特急の間合い運用として使用される。本線・豊川線急行と同じく笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は全列車途中無停車で、岐南駅・茶所駅・加納駅には1本も特別停車しない。早朝や深夜には急行のほか、名鉄岐阜駅から竹鼻線に直通する普通列車も数本運転される。
2021年5月ダイヤ改正より竹鼻線の列車はごく少数を除いて笠松駅で折り返しとなって、名古屋本線へは直通しなくなり、本系統も改正により消滅した。
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内で急行、準急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。この記事に記載されていない犬山線、常滑線直通列車を含む)。
全列車各駅に停車し、豊橋駅には乗り入れない。2両・4両が多いが、朝ラッシュ時などには6両や8両(後者は平日上り1本のみ)での運転も見られる。6両以上の場合、ホームが4両分しかない駅ではドアカットが行われる。豊橋駅を発着する列車は線路容量の関係で快速特急・特急・急行のみとなっており、普通列車は伊奈駅までの運行となる。(準急も同じく)待避可能な駅の多くで優等列車と接続または追い越されるため、主要駅間を普通のみで乗り通すとかなり時間がかかる(特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅間を例にすると、快速特急・特急15分程度、急行20分程度に対し普通45 - 50分程度。朝ラッシュ時などは追い越されないこともある)。
伊奈駅 - 東岡崎駅間は毎時2本の運行。ほとんどの列車が東岡崎駅到着後、行き先を犬山線の岩倉駅に変更して名古屋方面へ運行を継続する。平日朝の豊橋方面では、1本のみ豊川線への直通列車がある。また、平日8時台と最終列車は国府駅止まり(土休日の最終は伊奈行き)である。この区間の普通列車のみ停車する駅の利用者は名鉄全体で比較してもかなり少ないが、朝ラッシュ時は夜間滞泊駅の伊奈駅から名古屋方面への送り込みを兼ねて3 - 4本運行されている。
伊奈駅 - 東岡崎駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
東岡崎駅では同駅で終点となった普通列車(日中は犬山発、夕方以降は岩倉発)が折り返さずにそのまま列車番号と行き先を変更して同駅発の列車となり、日中は特急、夕方以降は快速特急から接続を受けた後に発車する。
豊橋駅を発着する列車の設定がないために伊奈駅で豊橋発着の急行に接続している。
2021年5月22日改正後は平日日中の上り列車の待避駅が美合駅から本宿駅に変更となっている(2023年3月18日改正後は土休日日中も)。
日中は東岡崎駅 - 岩倉駅間、東岡崎駅 - 犬山駅間の列車が交互に設定され、東岡崎駅 - 神宮前駅間は毎時4本の運行となる。このほか名古屋方向では朝ラッシュ時と夜間には名鉄岐阜(名古屋本線経由)・弥富・金山・須ヶ口行きが少数設定され、豊橋方向では朝7・8時台と夜間に豊明行き、夜間には新安城行きが設定されている。東岡崎駅では岩倉発着の列車はそのまま名古屋方面へは折り返さず、列車番号と行き先を変えて伊奈駅まで延長運転される(昼間は犬山発)。大半が4両で運行されるが、一部2両、6両の運用がある(一部列車は新安城駅、豊明駅、鳴海駅などで増解結をすることがある)。特急連結用車両である1800系の運用も豊明駅以西で存在している。
東岡崎駅 - 豊明駅間の日中の普通列車は2003年ダイヤ改正以前は基本岩倉発着の毎時2本のみの運行であり、犬山発着の列車は豊明駅発着であった(時間帯により発着駅に変更あり)。2023年3月18日改正後は夜間に豊明行きが増えている。
東岡崎駅 - 神宮前駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。豊川急行は昼間は運行されず、代わりに準急が運行される。
上記の他に矢作橋駅では名古屋方面のみ待避が可能で、平日朝のごく一部の列車が実施している。急行停車駅の堀田駅では通過待避しかできないため普通列車はほとんど待避しない。
神宮前駅 - 金山駅間は常滑線へ直通する列車(金山駅 - 内海駅・河和駅・知多半田駅・常滑駅・中部国際空港駅)も日中毎時4本運行されているため、下り10本、上り8本になっている。2005年1月のダイヤ改正までの常滑線直通列車の運行系統は上りは岐阜方面から知多半田方面への運転で、下りは常滑方面から津島線(主に佐屋行き)方面だった。構造上、金山駅でも待避が可能であるが、本数が非常に多く、常滑線直通列車は金山駅が起終点であるため名古屋本線豊橋方面を発着する普通列車はごく一部を除いて金山駅では待避しない。
枇杷島分岐点 - 須ヶ口駅間は名古屋市近郊にもかかわらず普通列車の本数が日中毎時2本と少ない。これはこの区間の駅間距離が短く、普通のみの停車駅(西枇杷島駅・新川橋駅)よりも隣接する優等列車停車駅(二ツ杁駅・須ヶ口駅)や、名鉄名古屋方面への有効本数が多い東枇杷島駅に利用客が流れていることによるものであり、また運行形態からこのような現象が起きているととらえることもできる。この区間は前述の豊明駅 - 佐屋駅間の準急(平日日中と土休日は吉良吉田駅 - 弥富駅間の急行)が、下りは神宮前駅以西、上りは名鉄名古屋駅以西でそれぞれ普通列車に種別変更して走っているのみであり、日中に豊橋方面から普通のまま直通する列車や岐阜方面または常滑線から直通する列車は設定されていない。また種別変更する駅の関係上、山王駅では上下線で停車する本数が下り6本、上り4本と異なる。
2021年5月22日のダイヤ改正より平日日中に豊川急行が削減されたため、補完のために常滑線からの普通列車が金山駅から須ヶ口駅・津島線方面へ毎時2本区間延長されており(下りは知多半田発佐屋行き、上りは須ヶ口発河和・内海行き)、山王駅・東枇杷島駅・西枇杷島駅・新川橋駅における普通列車の停車本数が増加している。上りに関しては名鉄岐阜駅から来た須ヶ口止まりの列車が終点到着後に列車番号と行き先を変えて運行を継続しているもので、急行を補完するため津島線列車からの接続を受けて発車し、常滑線大江駅まで先着(但し二ツ杁駅で特急を通過待ちする)するダイヤが組まれている。
2023年3月18日の改正で平日日中に前述の準急が設定されたために金山駅 - 須ヶ口駅での普通列車の区間延長はなくなり、当該時間帯の常滑線からの普通列車は金山駅折り返しに戻された。
神宮前駅 - 須ヶ口駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
平日14時台まで、土休日(金山発の常滑線直通列車は除く)
平日15時台から
この区間では須ヶ口発着列車が名鉄岐阜駅との間で毎時4本運行される。区間列車として須ヶ口駅 - 名鉄一宮駅間および名鉄一宮駅 - 名鉄岐阜駅間のみの列車が少数設定されている。また、平日早朝と夜間には竹鼻線・羽島線直通列車も運行される。この区間は基本的に2両または4両での運転。普通列車のみ停車する駅では利用者がそれほど多くないが、特急の間合い運行の1800系による2両または4両での運転が他の区間に比べてやや多くなっている。2200系が運転を開始した2005年以降は、3100・3150・9100系による2両単独運行も多い。2021年5月22日のダイヤ改正より、平日日中に限り2本目と4本目の上り列車は終点の須ヶ口駅で行き先を河和線の河和駅または知多新線の内海駅に変更して運行を継続している(前述の列車。2005年1月ダイヤ改正以前の運行形態に近い)。2023年3月のダイヤ改正で前述の通り須ヶ口駅から先へ運行を継続する場合の行き先は河和線方面から豊明駅に、種別も準急へと変更されている。この区間の列車も2021年10月30日のダイヤ改正で21時台以降は一部削減されており、毎時2本程度の運行となっている。
須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
1本目と3本目
2本目と4本目
このほかに一部の列車は岐南駅でも優等列車の通過待ちをしている(ただし日中は通過待ちがない)。
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内では以下の本数の普通が運行されている。
歴史で後述するとおり、名古屋本線では成立時より東海道本線という競合線が存在し、優等列車主体の都市間連絡ダイヤを構成するため、伝統的に高速運転が行われてきた。
戦後では認可速度95km/hから始まり、1953年に100km/h、1959年には105km/h、1961年からは特急で110km/h運転が認可された。1990年以降は線形の良い一部区間で120km/h(増圧ブレーキ・ABS装備車両のみ)となり、軌間が1067mmである在来私鉄の路線としては高速の部類に入る。なお120km/h運転開始に当たっては、車両以外の面でも下記のような改良、準備が行われている。
優等列車(豊橋発着の急行を含む)の最高速度120km/h運転は、伊奈駅 - 名電長沢駅(上りは実質名電赤坂以東)、矢作橋駅 - 知立駅(実質は牛田以東)、新清洲駅 - 木曽川堤駅(妙興寺 - 名鉄一宮のみ実質115km/h)の各区間で、対応車種により実施されている。なお豊橋発着の急行については、ダイヤは7000系の走行性能を基準とする最高速度110km/hで組まれている。一方で、すべての普通列車(駅間距離がおおむね2.5km以上で速度制限の緩い箇所のみ)と豊川線を含む支線直通の急行は、6000系に合わせて最高速度100km/hのダイヤとなっている。準急については、早朝・深夜の運行距離が長い列車は「豊橋発着の急行」に、その他大部分の区間列車は「支線直通急行」や普通に準じている。
100系、300系、4000系以外の各車両が2-8両の編成を組んで使われる。2000系は神宮前駅以東への定期運用がない。また、一時期5000系の豊橋駅への乗り入れが消滅していたが2023年3月改正で復活した。6000系列は豊橋駅への定期運用はない。一部特別車特急用の2200系と1200系は朝や深夜の間合い運用として急行・準急・普通に使用されることもあるが、平日朝の急行数本を除いて豊橋寄り2両(特別車)は締切扱い(ドアカット)となる。
名古屋本線の特徴の一つは、運行面においてボトルネックとなっている区間がいくつか存在している点である。代表例として、名鉄岐阜駅構内にある単線区間、枇杷島分岐点、名鉄名古屋駅、豊橋駅から平井信号場までの区間である。
豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間は愛知電気鉄道により都市間をほぼ一直線に結ぶ高速鉄道として建設され、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は名古屋鉄道が合併した会社の路線が繋がり成立した。
現在の枇杷島分岐点 - 丸ノ内駅間は名古屋電気鉄道、丸ノ内駅 - 国府宮駅間は名古屋鉄道(初代)、国府宮駅 - 名鉄一宮駅間は尾西鉄道、名鉄一宮駅 - 笠松駅間は名岐鉄道、笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は美濃電気軌道により開業した。
最初の開通区間は枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点) - 須ヶ口駅間で、1914年(大正3年)に開業した。名岐線で最後に開通したのは新一宮駅(現在の名鉄一宮駅) - 新笠松駅(現在の笠松駅)間で、1935年(昭和10年)のことである。それまでの名岐間の連絡は木曽川線(尾西線新一宮駅 - 玉ノ井方面の旧名称)の木曽川橋駅(廃止:玉ノ井駅の北にあった)と笠松線の笠松駅(3代目。現在の西笠松駅)の間を木曽川を介して行われていたが、名岐線全通により、当時の名古屋側のターミナルで今の名古屋駅の北東にあった一宮線押切町駅から新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)まで直通の特急が運転された。
建設の経緯については「名古屋鉄道#名古屋電気鉄道」も参照。
豊橋側は常滑線を営業していた愛知電気鉄道により開業。神宮前駅を起点に有松線、岡崎線、豊橋線と名を変えながら豊橋へ向け1917年(大正6年)から1927年(昭和2年)にかけて順次延伸された。
沿線は東海道の宿場町として栄えていたが、官設鉄道の東海道線は豊橋駅を出ると、東海道から外れ、蒲郡駅を経由する海岸沿いのルートを取った。このため、東海道線が開通すると、東海道沿いの宿場町は一気に廃れてしまい、鉄道の力を思い知らされることとなった。愛知電気鉄道が同線を開通するに当たり、地元は積極的に鉄道誘致に動いたため、土地買収などがうまくいき、並行して走る東海道線とは違い比較的直進するような路線になっている。
名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して名古屋鉄道が発足した後、新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅) - 枇杷島橋駅間が開業した。さらに神宮前駅 - 新名古屋駅間の東西連絡線が1944年(昭和19年)に開業し名岐線と豊橋線が結ばれるが、名岐線は600V電化、豊橋線は1500V電化であったため、直通運転ができず金山橋駅で乗り換えが必要だった。名岐線が1500Vに昇圧され豊橋駅 - 新岐阜駅間が名古屋本線となり、直通運転が始まったのは戦後の1948年(昭和23年)のことである。現在も社内では「東西直通線」と呼ばれている。1990年(平成2年)、神宮前駅 - 金山駅間が複々線化された。ただし、この複々線は1駅間2.2kmのみで、神宮前駅では複々線間相互の転線も不可能になっており、列車の運用を見ても事実上常滑線を金山駅まで延伸したという性格の方が強いことが分かる。複々線化の用地は、金山総合駅と同様に以前から確保されていて、複々線化前の2線を下り線とし東側に貼り付け増設した2線を上り線とする形で行われた。現在の下り内線(常滑線列車用)は複々線化前の上り線を転用したものである。
1972年(昭和47年)3月に都市交通審議会名古屋圏部会は神宮前駅 - 須ヶ口駅間の複々線化を答申したが、新名古屋駅付近の複々線化は困難な(東側に名古屋市営地下鉄東山線の名古屋駅が、西側に近鉄名古屋駅と国鉄(現在のJR東海)の名古屋駅があるので、現地下ホームの真下にもう一つ複線を敷設するしかない)ことと、名古屋本線金山以北の混雑緩和は犬山線と名古屋市営地下鉄鶴舞線の相互直通運転開始により目途がついたことから、金山駅 - 須ヶ口駅間の複々線化については運輸政策審議会における1992年(平成4年)1月10日答申第12号名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画についてには答申されず、事実上中止された。
最も乗降人員が多い駅は名鉄名古屋駅であり、終日にわたって各路線に直通する列車が高頻度で発車する。下り方にある枇杷島分岐点は名古屋本線の上り列車が犬山線の下り列車と平面交差するため、ダイヤ上の大きなネックとなっている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
名称は廃止時のもの
前述のような歴史的経緯から、名古屋本線では距離を示すキロポストが4つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)
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"text": "名古屋本線(なごやほんせん)は、愛知県豊橋市の豊橋駅から岐阜県岐阜市の名鉄岐阜駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。",
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"text": "線内運転列車のほか、国府駅で豊川線、新安城駅で西尾線、神宮前駅で常滑線(空港線中部国際空港駅・河和線河和駅・知多新線内海駅方面にも直通あり。線路は金山駅で合流・分岐)、庄内川鉄橋の北側の枇杷島分岐点で犬山線(広見線新可児駅方面にも直通あり)、須ヶ口駅で津島線(尾西線佐屋駅方面にも直通あり)が分岐・合流しており、多くの列車が直通する。これらの列車のほとんどが名鉄名古屋駅・金山駅方面に向けて運転され、枇杷島分岐点(庄内川鉄橋) - 神宮前駅間では、早朝・深夜を除き平均2 - 3分間隔(日中でも1時間に26本)の高頻度で列車が走る状態となっている。このため事故や災害による運行の乱れが複数の路線(名鉄名古屋駅に乗り入れることのない三河線・小牧線などを除く)に及ぶことが多い。またミュースカイ・特急・快速特急を除いた多くの列車が途中駅で種別変更を行っている。",
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"text": "日中の運行パターンは以下のとおりである。各節において運行本数は特記なければ1時間当たりのもの。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間では、下りは一部特別車の特急が、上りは一部特別車の快速特急が、それぞれ2本ずつ運行されている。そのほかに区間列車として、須ヶ口止まり(平日に豊橋発が2本と吉良吉田発が1本運転)、上りは国府止まり(深夜に名古屋発(休日は岐阜発の1本のみ。)や伊奈止まり(平日深夜に1本のみで美合駅にも停車)や東岡崎止まりがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "基本停車駅での全区間標準所要時分は、名鉄名古屋駅を1分停車として、快速特急が79分(名岐間29分・名豊間49分)、特急が82分(名岐間29分・名豊間52分)である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "快速特急・特急とも、朝や深夜は豊橋駅口で急行を補完するため、標準停車駅の他に伊奈駅や国府駅に停車する場合がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "平日朝の岐阜発特急豊橋行きの2本は、鳴海駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正で平日のみ豊橋駅8時32分発岐阜行き特急は、改正以前は本線特急は通過だが、津島・佐屋方面特急の停車駅である須ヶ口駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正では名鉄名古屋駅23時52分発東岡崎行き全車一般車特急が設定されている。最終の岐阜発快速特急豊橋行き(2021年5月22日のダイヤ改正で特急国府行きから変更)と平日朝の豊橋駅6時51分発快速特急岐阜行きは、新安城駅にも停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日のダイヤ改正では急行が基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮されたため、日中に名古屋本線を通しで走る列車はこの節に記した快速特急および特急の毎時2本のみとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "犬山線へ直通する特急として、豊橋駅 - 新鵜沼駅間に下りは一部特別車の快速特急で、上りは一部特別車の特急で、それぞれ2本ずつ運行している。この運行系統は1996年より豊橋方面から名古屋空港へのアクセスを目的として平日の朝に1本だけ走っており(このために名古屋空港行きバスへの乗り換え駅である西春駅にも特別停車していた)、豊橋方面から犬山線へ唯一直通する一部特別車特急として知られていた。2005年1月の改正で一旦廃止となったが、2007年6月の改正で時刻を多少変更して復活し、2008年12月の改正で大幅に増加している。平日朝には犬山止まりが1本のみ設定されている。使用車両は上記豊橋 - 岐阜の系統と同じ。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "中部国際空港への連絡特急として、中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅間に全車特別車のミュースカイを1本(日中以外)、一部特別車の特急を2本運行している。2008年12月のダイヤ改正以前は昼間にも豊橋駅発着の列車が1時間あたり1本運行されていたが、中部国際空港方面より名古屋方面への利用者が圧倒的に多く、乗り換えの不便が目立ったためこれを廃止し、代わりに名鉄岐阜駅発着の列車を増発した(夕方以降にも設定)。中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅間の列車と豊橋駅 - 新鵜沼駅間の列車は、金山駅または神宮前駅で、ともに同じホームにて乗り換えが可能。ただし名古屋本線内のみを通しで乗車する場合以外は、以前のような短時間での接続は考慮されなくなった。総合すれば名古屋本線の一般車(自由席)を連結した快速特急・特急は15分間隔で運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2011年3月26日のダイヤ改正より、従来運行されていた豊橋発中部国際空港行き一部特別車特急(2005年1月の改正で設定。駅配線の都合上金山駅で折り返していた)と名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間の昼間のミュースカイが廃止され、この時間帯のミュースカイは中部国際空港駅 - 名鉄名古屋駅間の折り返し運転となった。また、深夜には常滑・空港線の上り名古屋方面と名古屋本線の下り一宮方面への最終列車を兼ねた中部国際空港発岐阜行きの全車一般車特急が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "現在、名岐線 - 常滑線の一部特別車特急は2200系で運転されている。廃車以前の1700系も充当されていた。なお、豊橋発着の列車は登場時が1200系、廃止時点では2200系で運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "西尾線系統として、吉良吉田駅から須ヶ口駅までの全車一般車の特急を平日朝1本のみ運行している。かつてこの系統は全車特別車で佐屋駅または吉良吉田駅まで運行されており、1600系や1000系4両編成(以上は2008年まで)や8800系(2005年まで)や7000系(1999年まで)で運転されていた。2008年6月29日のダイヤ改正で、朝の西尾発名古屋行きと夜間の名古屋発西尾行きの各1本が一部特別車化されたほかはすべて、快速急行(現在は急行)に格下げされた(後述)。2023年3月18日のダイヤ改正で、一部特別車の特急が廃止され、全車一般車特急での運用になり、始発駅も西尾駅から吉良吉田駅へ延長された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "平日の朝には、豊川稲荷発岐阜行き快速特急・特急(2200系6両、各1本のみ。本宿駅と美合駅に特別停車)や、河和発岐阜行き(平日は1200系8両、休日は2200系6両)などの列車もある。いずれも一部特別車で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "金山駅 - 東岡崎駅では昼間でも混雑が激しいことがある。これは知立駅以東での最先着列車であることと知立駅での利用客が多いこと(実際三河線からの乗り継ぎ客も相当多い)が大きく影響している。名岐間では快速特急・特急は全列車とも快速急行停車駅の新木曽川駅と笠松駅にも停車し(朝の特別通過は2023年3月の改正で廃止された)、所要時間が29分 - 31分となっている。唯一両駅通過となるミュースカイも、名岐間は遅延余裕を加味し27 - 28分かけて走る。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内でミュースカイ・快速特急・特急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。ミュースカイのみ全車特別車で他は一部特別車。この記事に記載していない犬山線・常滑線直通列車を含む)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2008年12月27日のダイヤ改正より、名古屋本線神宮前駅以東で快速急行は設定されなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "豊橋駅 - 名鉄一宮駅間、時間帯によってはこれに加えて豊川稲荷駅 - 名鉄一宮駅間の急行が交互に設定され、合わせて毎時2 - 4本運行される。平日夕方以降の豊川稲荷駅発着列車は、大里駅に特別停車、東岡崎駅 - 豊川稲荷駅間は準急に種別変更され、藤川駅と男川駅にも停車する。平日の朝には、犬山線から豊橋行きや豊川稲荷行きも運転される。また、朝ラッシュ時や夜間には国府行き・伊奈行きも設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1994年から2000年3月には平日、休日ともに、夕方に豊橋駅 - 新可児駅・御嵩駅間および常滑駅 - 新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)間の急行が設定されていた。2003年までは朝と夕方以降に、矢作橋駅に特別停車していた。2008年12月のダイヤ改正以降、前後駅(1988年より急行の特別停車を開始。2003年に急行停車駅に昇格)・栄生駅(2005年に急行停車駅に昇格)・大里駅への特別停車はほぼ行われなくなったが、2011年3月ダイヤ改正では、後述の準急削減により、平日の日中に豊川稲荷発着系統で、二ツ杁と有松の両駅で準急削減を補う特別停車が実施された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2021年5月ダイヤ改正より、平日日中の豊川稲荷発着系統の運行がなくなった。また土休日は後述の準急がほとんど運行されなくなったため、2011年3月ダイヤの平日日中に行われていた二ツ杁と有松の両駅への特別停車が土休日に変更となった。また、東岡崎駅以東での準急への種別変更と大里駅への特別停車は平日夕方以降を除いてほぼ消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2021年10月ダイヤ改正より、日中は豊川線の本数が普通のみ毎時2本に減便となるため土休日日中の一部急行が豊川線へは入らなくなり国府駅折り返しとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2023年3月ダイヤ改正より、土休日日中の豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行は豊明駅 - 須ケ口駅(下り列車は津島線に直通)間に運行区間の短縮および種別格下げが行われた。豊橋駅発着の急行も基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮され、日中以降基本的に急行は名鉄岐阜駅には行かなくなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "日中の豊橋駅・豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄岐阜駅・名鉄一宮駅間の急行はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "朝ラッシュなどは特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅で全く抜かれないこともある。急行の運転時分は、待避時間を除くと豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間が60分 - 64分、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は最速31分だが、大半は余裕時分が加わり35分前後かかるため、名岐間の表定速度はさほど高くない(このためJR東海道本線の普通列車より遅い。1990年代の最短記録でも現在の特急とほぼ同じ29分)。名鉄名古屋駅以東では必ず快速特急・特急待避を行うため、前後駅以東では夕ラッシュでも混雑することは少ない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "6両編成での運行が多かったが、近年は平日、休日とも4両での運転が増えている。また、朝と深夜には8両編成での運転もある。さらに、待避駅で増結または切り離しを行う列車もある。豊橋駅発着の列車は特急の間合い運用を除いて120km/h運転可能な3100・3150・3300・3500・3700・9100・9500系が充当される(2023年3月改正からは5000系もごく僅かに運用に入る)。土休日の豊川稲荷(国府)発はこれら7系列に加え6000・6500・6800系(豊川線・尾西線ワンマン車両を含む)の4両編成または6両編成での運転となる。朝は特急への送り込み、深夜は特急からの折り返しのため、1200系や2200系での運転も行われている(この場合、特別車は朝の豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間の1往復を除いて締め切り)。かつて主流であった2扉SR車(最晩年は少数派である5700系・5300系のみ)による本線急行は、2010年時点では早朝の国府発岐阜行き、深夜の岐阜発伊奈行きなど数本程度残っていたが、2011年3月ダイヤ改正でほとんど消滅し、本線上で見られる急行運用は早朝の名鉄一宮発中部国際空港行き快速急行、深夜に名鉄岐阜発着のごく一部の列車と、後述する西尾線 - 津島線系統一部列車の本線走行区間のみとなった(その後、SR車は2019年に引退した)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "快速急行は朝の数本(神宮前行きと常滑・空港線に直通する一部の列車を除いて名鉄名古屋駅で急行などに種別変更する)のみ走っている。また準急は国府や豊川稲荷発着のほかは、平日朝の伊奈行き1本のみで、他は東岡崎駅 - 豊橋駅間は急行に種別変更して運行している。現在は豊橋駅を発着する快速急行や準急は設定されていない。なお、豊橋駅を23時台に発車する2本の急行(名古屋行き(東岡崎駅から準急)と鳴海行き)は、ともに同駅停車の東海道新幹線下り「ひかり」の接続を取る時刻設定である。2本とも特急の折り返しで、名古屋行きが1200系、鳴海行きが2200系などの共に8両編成(特別車締め切り)を使用する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "吉良吉田駅 - 佐屋駅または弥富駅間に2本運行している。平日夕方以降における列車種別は、下りでは吉良吉田駅 → (急行) → 神宮前駅 → (準急) → 須ヶ口駅 → (普通) → 佐屋駅、上りでは佐屋駅 → (吉良吉田行きのみ準急) → 須ヶ口駅 → (準急) → 名鉄名古屋駅 → (急行) → 吉良吉田駅となる。須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間は日中準急の設定がない。原則として上下とも豊明駅に特別停車する。夜の上り2本は西尾線に入らず新安城駅止まり(土休日の1本は豊明駅止まり)となる(22時台に新安城駅に到着する列車のみ終点で西尾線の普通吉良吉田行きへ接続)。日中は後述の準急が種別変更せず、土休日夕方以降は運転されないため、本系統は神宮前駅以西は普通列車となり(上りは名鉄名古屋駅で種別変更)、弥富駅まで直通している(ただし上りは佐屋駅始発)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1998年までは蒲郡駅まで直通しており(末期は西尾駅 - 蒲郡駅間は普通列車)、現在はその名残で終点の吉良吉田駅で蒲郡線方面発着の普通ワンマン列車に接続する。また、2003年3月ダイヤ改正で前後駅が標準停車駅に加わる(1990年代初期に前後駅に特別停車していたこともある)。これ以前のダイヤでは夜間の西尾行きの一部は有松駅にも特別停車していた(佐屋行きは通過)。呼続駅・桜駅・本笠寺駅・本星崎駅・左京山駅・有松駅・中京競馬場前駅の利用者を考慮して、昔から上下線とも鳴海駅で普通に接続し(上りは2003年3月改正時にも一部が前後駅で別の普通へ接続していた)、さらに知立駅で岡崎・豊橋方面発の特急から乗り換えでき、知立駅で岡崎・豊橋方面行きの特急へ乗り換えることができる。現在のダイヤでは豊明駅でも普通に接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "主に3000系列・6000系列によって運転されている。3000系列は2008年6月29日より入線し、12月27日よりごくわずかだが1380系や5000系も入線している。新安城駅2番線のホーム有効長の関係から全列車4両編成となっており、上下線とも基本的に新安城駅から須ヶ口駅まで快速特急を待避しない(ただし平日の昼間は二ツ杁駅で快速特急を待避する。また平日夕方は須ヶ口駅で快速特急とミュースカイの通過を待って発車。土休日は須ヶ口駅で急行の発車と快速特急の通過を待って発車)ので、豊明駅 - 名鉄名古屋駅間では混雑することが多い。またこの系統は余裕時分が全体的に少なめであり遅れも発生しやすい。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1992年までは西尾線内は普通列車で、1999年までは下りの一部は堀田駅で特急(現在の快速特急に当たる系統で、当時は知立駅も通過していた)を待避していたり金山行きや須ヶ口行き、津島行きなどになっていたこともあった。2008年6月のダイヤ改正以前に多数存在した西尾行きも夜間に1本だけ存在する。休日には一部の列車は佐屋発着となっている。2005年までこの系統は6000・6500系または5300・5700系で運転されていた。平日の朝には、犬山経由岐阜発普通吉良吉田行き(名鉄岐阜駅 - 名鉄名古屋駅間と鳴海駅 - 吉良吉田駅間は急行。豊明駅と北安城駅にも停車)と犬山経由岐阜発急行吉良吉田行き(新鵜沼駅までと新安城駅から普通)が各1本(列車種別は名鉄名古屋駅を発車時点。2023年3月ダイヤ改正より新鵜沼駅発に変更された)運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2021年5月ダイヤ改正より、土休日は後述の準急がほとんど運転されなくなり、平日夕方以降を除いて2011年3月ダイヤの平日日中とほぼ同様の運行形態となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "土休日夕方以外の時間帯に豊明駅 - (準急) - 神宮前・名鉄名古屋・須ヶ口駅 - (普通) - 佐屋駅・弥富駅間(ただし、日中の上り列車は津島・尾西線に直通しない)に2本運行しており、東岡崎駅 - 豊明駅間は、朝ラッシュと深夜を除いて準急の設定はない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "かつてこの系統は三河線の猿投・碧南方面の直通列車であった(運転区間は主に碧南駅 - 弥富駅間。三河線内は普通に種別変更し各駅に停車)。三河線に直通していたころは、三河線内の刈谷駅 - 名鉄名古屋駅間で競合するJR東海道本線への対抗策として、特急増結用の1800系や7700系などのSR車による運行が主体で、碧南駅 - 名鉄名古屋駅間で先着するダイヤが組まれていた時期もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "この系統は昔から二ツ杁駅・栄生駅・有松駅に特別停車しており、2003年より標準停車駅に前後駅、特別停車駅に中京競馬場前駅が追加され、2005年1月のダイヤ改正時より準急と改称されて現在の停車駅となっている。2005年1月ダイヤ改正以前は名古屋方面から前後駅や豊明駅などへの利用者を考慮して、鳴海駅で普通東岡崎行きに接続していた。一時期鳴海駅で普通へは接続しなくなり、その代わりに前後駅で普通東岡崎行きに接続している(終点の豊明駅では同一ホームでの乗り換えができないため)。下りは起点の豊明駅で普通を待たせてから発車するほかはほとんど普通へは接続しない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "下りは二ツ杁駅で特急を待避する(2008年12月ダイヤ改正から2019年3月ダイヤ改正までは一部の列車が二ツ杁駅ではなく西枇杷島駅で待避していた)が、上りは終点の豊明駅まで待避しない(ただし須ヶ口駅で急行の発車と特急の通過を待った後発車)。このためこの列車も前後駅 - 名古屋駅間で混雑することが多い。2005年1月ダイヤ改正から2006年4月ダイヤ改正のころは上りはほとんど知立行きで知立駅到着後前後駅まで回送されていた。そのため、このころは豊明駅から準急は上りしか利用できず、下りは1時間あたり4本の普通しか利用できなかった。2006年4月ダイヤ改正から2008年12月ダイヤ改正のころは東岡崎駅まで直通しており(さらに列車番号を変えて伊奈駅まで)、前後駅以東は普通列車になっていた。2003年ダイヤ改正以前は知立駅で特急が発車した後に発車しており、一宮方面と分かれる須ヶ口駅まで待避しなかった。昼間を中心に一部の列車が鳴海駅で折り返していた時期もある。西枇杷島駅のホーム有効長の関係から、主に3500系・5000系・6000系などの4両で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2011年3月ダイヤ改正からは、平日日中の準急運行が削減された。この時間帯は代わりに前述の豊川稲荷発着の急行が有松駅と二ツ杁駅に特別停車し、西尾線直通の急行が神宮前駅(上りは名鉄名古屋駅)以西で普通に種別変更している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2021年5月ダイヤ改正からは、土休日の運行がほとんど消滅し(2011年3月ダイヤ改正の平日日中と同様になる)、本系統はほとんど平日夕方以降のみの運行となっていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2023年3月ダイヤ改正からは、平日日中の名古屋近郊の速達輸送と土休日日中に設定されていた国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行の区間短縮・種別格下げにより、日中に準急が豊明駅 - 須ヶ口駅(下りは須ヶ口駅から普通に変更し津島線へ直通。上りは名鉄岐阜駅または弥富駅から来た須ヶ口止まりの普通が種別と行先を変更して運行を継続。列車によって普通列車の発駅は異なる)間に毎時2本設定された。当該準急は途中で種別を変更しない。急行のダイヤを概ね踏襲するために上下線とも鳴海駅で普通と緩急接続し、下りは堀田駅、上りは二ツ杁駅でそれぞれ特急を通過待ちしている。起点の豊明駅では普通が到着する直前に発車し、須ヶ口駅まで逃げ切るため普通から乗り換えることはできない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "早朝(ただし土休日の岐阜行きはない)に新羽島駅 - (普通) - 笠松駅 - (急行) - 名鉄岐阜駅間に2本運行している。2001年までは竹鼻線でも急行運転する列車も存在していた。2両または4両で運転。1800系も特急の間合い運用として使用される。本線・豊川線急行と同じく笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は全列車途中無停車で、岐南駅・茶所駅・加納駅には1本も特別停車しない。早朝や深夜には急行のほか、名鉄岐阜駅から竹鼻線に直通する普通列車も数本運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2021年5月ダイヤ改正より竹鼻線の列車はごく少数を除いて笠松駅で折り返しとなって、名古屋本線へは直通しなくなり、本系統も改正により消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内で急行、準急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。この記事に記載されていない犬山線、常滑線直通列車を含む)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "全列車各駅に停車し、豊橋駅には乗り入れない。2両・4両が多いが、朝ラッシュ時などには6両や8両(後者は平日上り1本のみ)での運転も見られる。6両以上の場合、ホームが4両分しかない駅ではドアカットが行われる。豊橋駅を発着する列車は線路容量の関係で快速特急・特急・急行のみとなっており、普通列車は伊奈駅までの運行となる。(準急も同じく)待避可能な駅の多くで優等列車と接続または追い越されるため、主要駅間を普通のみで乗り通すとかなり時間がかかる(特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅間を例にすると、快速特急・特急15分程度、急行20分程度に対し普通45 - 50分程度。朝ラッシュ時などは追い越されないこともある)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "伊奈駅 - 東岡崎駅間は毎時2本の運行。ほとんどの列車が東岡崎駅到着後、行き先を犬山線の岩倉駅に変更して名古屋方面へ運行を継続する。平日朝の豊橋方面では、1本のみ豊川線への直通列車がある。また、平日8時台と最終列車は国府駅止まり(土休日の最終は伊奈行き)である。この区間の普通列車のみ停車する駅の利用者は名鉄全体で比較してもかなり少ないが、朝ラッシュ時は夜間滞泊駅の伊奈駅から名古屋方面への送り込みを兼ねて3 - 4本運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "伊奈駅 - 東岡崎駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "東岡崎駅では同駅で終点となった普通列車(日中は犬山発、夕方以降は岩倉発)が折り返さずにそのまま列車番号と行き先を変更して同駅発の列車となり、日中は特急、夕方以降は快速特急から接続を受けた後に発車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "豊橋駅を発着する列車の設定がないために伊奈駅で豊橋発着の急行に接続している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "2021年5月22日改正後は平日日中の上り列車の待避駅が美合駅から本宿駅に変更となっている(2023年3月18日改正後は土休日日中も)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "日中は東岡崎駅 - 岩倉駅間、東岡崎駅 - 犬山駅間の列車が交互に設定され、東岡崎駅 - 神宮前駅間は毎時4本の運行となる。このほか名古屋方向では朝ラッシュ時と夜間には名鉄岐阜(名古屋本線経由)・弥富・金山・須ヶ口行きが少数設定され、豊橋方向では朝7・8時台と夜間に豊明行き、夜間には新安城行きが設定されている。東岡崎駅では岩倉発着の列車はそのまま名古屋方面へは折り返さず、列車番号と行き先を変えて伊奈駅まで延長運転される(昼間は犬山発)。大半が4両で運行されるが、一部2両、6両の運用がある(一部列車は新安城駅、豊明駅、鳴海駅などで増解結をすることがある)。特急連結用車両である1800系の運用も豊明駅以西で存在している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "東岡崎駅 - 豊明駅間の日中の普通列車は2003年ダイヤ改正以前は基本岩倉発着の毎時2本のみの運行であり、犬山発着の列車は豊明駅発着であった(時間帯により発着駅に変更あり)。2023年3月18日改正後は夜間に豊明行きが増えている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "東岡崎駅 - 神宮前駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。豊川急行は昼間は運行されず、代わりに準急が運行される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "上記の他に矢作橋駅では名古屋方面のみ待避が可能で、平日朝のごく一部の列車が実施している。急行停車駅の堀田駅では通過待避しかできないため普通列車はほとんど待避しない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "神宮前駅 - 金山駅間は常滑線へ直通する列車(金山駅 - 内海駅・河和駅・知多半田駅・常滑駅・中部国際空港駅)も日中毎時4本運行されているため、下り10本、上り8本になっている。2005年1月のダイヤ改正までの常滑線直通列車の運行系統は上りは岐阜方面から知多半田方面への運転で、下りは常滑方面から津島線(主に佐屋行き)方面だった。構造上、金山駅でも待避が可能であるが、本数が非常に多く、常滑線直通列車は金山駅が起終点であるため名古屋本線豊橋方面を発着する普通列車はごく一部を除いて金山駅では待避しない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "枇杷島分岐点 - 須ヶ口駅間は名古屋市近郊にもかかわらず普通列車の本数が日中毎時2本と少ない。これはこの区間の駅間距離が短く、普通のみの停車駅(西枇杷島駅・新川橋駅)よりも隣接する優等列車停車駅(二ツ杁駅・須ヶ口駅)や、名鉄名古屋方面への有効本数が多い東枇杷島駅に利用客が流れていることによるものであり、また運行形態からこのような現象が起きているととらえることもできる。この区間は前述の豊明駅 - 佐屋駅間の準急(平日日中と土休日は吉良吉田駅 - 弥富駅間の急行)が、下りは神宮前駅以西、上りは名鉄名古屋駅以西でそれぞれ普通列車に種別変更して走っているのみであり、日中に豊橋方面から普通のまま直通する列車や岐阜方面または常滑線から直通する列車は設定されていない。また種別変更する駅の関係上、山王駅では上下線で停車する本数が下り6本、上り4本と異なる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2021年5月22日のダイヤ改正より平日日中に豊川急行が削減されたため、補完のために常滑線からの普通列車が金山駅から須ヶ口駅・津島線方面へ毎時2本区間延長されており(下りは知多半田発佐屋行き、上りは須ヶ口発河和・内海行き)、山王駅・東枇杷島駅・西枇杷島駅・新川橋駅における普通列車の停車本数が増加している。上りに関しては名鉄岐阜駅から来た須ヶ口止まりの列車が終点到着後に列車番号と行き先を変えて運行を継続しているもので、急行を補完するため津島線列車からの接続を受けて発車し、常滑線大江駅まで先着(但し二ツ杁駅で特急を通過待ちする)するダイヤが組まれている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2023年3月18日の改正で平日日中に前述の準急が設定されたために金山駅 - 須ヶ口駅での普通列車の区間延長はなくなり、当該時間帯の常滑線からの普通列車は金山駅折り返しに戻された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "神宮前駅 - 須ヶ口駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "平日14時台まで、土休日(金山発の常滑線直通列車は除く)",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "平日15時台から",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この区間では須ヶ口発着列車が名鉄岐阜駅との間で毎時4本運行される。区間列車として須ヶ口駅 - 名鉄一宮駅間および名鉄一宮駅 - 名鉄岐阜駅間のみの列車が少数設定されている。また、平日早朝と夜間には竹鼻線・羽島線直通列車も運行される。この区間は基本的に2両または4両での運転。普通列車のみ停車する駅では利用者がそれほど多くないが、特急の間合い運行の1800系による2両または4両での運転が他の区間に比べてやや多くなっている。2200系が運転を開始した2005年以降は、3100・3150・9100系による2両単独運行も多い。2021年5月22日のダイヤ改正より、平日日中に限り2本目と4本目の上り列車は終点の須ヶ口駅で行き先を河和線の河和駅または知多新線の内海駅に変更して運行を継続している(前述の列車。2005年1月ダイヤ改正以前の運行形態に近い)。2023年3月のダイヤ改正で前述の通り須ヶ口駅から先へ運行を継続する場合の行き先は河和線方面から豊明駅に、種別も準急へと変更されている。この区間の列車も2021年10月30日のダイヤ改正で21時台以降は一部削減されており、毎時2本程度の運行となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1本目と3本目",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2本目と4本目",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "このほかに一部の列車は岐南駅でも優等列車の通過待ちをしている(ただし日中は通過待ちがない)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内では以下の本数の普通が運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "歴史で後述するとおり、名古屋本線では成立時より東海道本線という競合線が存在し、優等列車主体の都市間連絡ダイヤを構成するため、伝統的に高速運転が行われてきた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "戦後では認可速度95km/hから始まり、1953年に100km/h、1959年には105km/h、1961年からは特急で110km/h運転が認可された。1990年以降は線形の良い一部区間で120km/h(増圧ブレーキ・ABS装備車両のみ)となり、軌間が1067mmである在来私鉄の路線としては高速の部類に入る。なお120km/h運転開始に当たっては、車両以外の面でも下記のような改良、準備が行われている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "優等列車(豊橋発着の急行を含む)の最高速度120km/h運転は、伊奈駅 - 名電長沢駅(上りは実質名電赤坂以東)、矢作橋駅 - 知立駅(実質は牛田以東)、新清洲駅 - 木曽川堤駅(妙興寺 - 名鉄一宮のみ実質115km/h)の各区間で、対応車種により実施されている。なお豊橋発着の急行については、ダイヤは7000系の走行性能を基準とする最高速度110km/hで組まれている。一方で、すべての普通列車(駅間距離がおおむね2.5km以上で速度制限の緩い箇所のみ)と豊川線を含む支線直通の急行は、6000系に合わせて最高速度100km/hのダイヤとなっている。準急については、早朝・深夜の運行距離が長い列車は「豊橋発着の急行」に、その他大部分の区間列車は「支線直通急行」や普通に準じている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "100系、300系、4000系以外の各車両が2-8両の編成を組んで使われる。2000系は神宮前駅以東への定期運用がない。また、一時期5000系の豊橋駅への乗り入れが消滅していたが2023年3月改正で復活した。6000系列は豊橋駅への定期運用はない。一部特別車特急用の2200系と1200系は朝や深夜の間合い運用として急行・準急・普通に使用されることもあるが、平日朝の急行数本を除いて豊橋寄り2両(特別車)は締切扱い(ドアカット)となる。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "名古屋本線の特徴の一つは、運行面においてボトルネックとなっている区間がいくつか存在している点である。代表例として、名鉄岐阜駅構内にある単線区間、枇杷島分岐点、名鉄名古屋駅、豊橋駅から平井信号場までの区間である。",
"title": "ボトルネックとなっている区間"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間は愛知電気鉄道により都市間をほぼ一直線に結ぶ高速鉄道として建設され、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は名古屋鉄道が合併した会社の路線が繋がり成立した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "現在の枇杷島分岐点 - 丸ノ内駅間は名古屋電気鉄道、丸ノ内駅 - 国府宮駅間は名古屋鉄道(初代)、国府宮駅 - 名鉄一宮駅間は尾西鉄道、名鉄一宮駅 - 笠松駅間は名岐鉄道、笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は美濃電気軌道により開業した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "最初の開通区間は枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点) - 須ヶ口駅間で、1914年(大正3年)に開業した。名岐線で最後に開通したのは新一宮駅(現在の名鉄一宮駅) - 新笠松駅(現在の笠松駅)間で、1935年(昭和10年)のことである。それまでの名岐間の連絡は木曽川線(尾西線新一宮駅 - 玉ノ井方面の旧名称)の木曽川橋駅(廃止:玉ノ井駅の北にあった)と笠松線の笠松駅(3代目。現在の西笠松駅)の間を木曽川を介して行われていたが、名岐線全通により、当時の名古屋側のターミナルで今の名古屋駅の北東にあった一宮線押切町駅から新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)まで直通の特急が運転された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "建設の経緯については「名古屋鉄道#名古屋電気鉄道」も参照。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "豊橋側は常滑線を営業していた愛知電気鉄道により開業。神宮前駅を起点に有松線、岡崎線、豊橋線と名を変えながら豊橋へ向け1917年(大正6年)から1927年(昭和2年)にかけて順次延伸された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "沿線は東海道の宿場町として栄えていたが、官設鉄道の東海道線は豊橋駅を出ると、東海道から外れ、蒲郡駅を経由する海岸沿いのルートを取った。このため、東海道線が開通すると、東海道沿いの宿場町は一気に廃れてしまい、鉄道の力を思い知らされることとなった。愛知電気鉄道が同線を開通するに当たり、地元は積極的に鉄道誘致に動いたため、土地買収などがうまくいき、並行して走る東海道線とは違い比較的直進するような路線になっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して名古屋鉄道が発足した後、新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅) - 枇杷島橋駅間が開業した。さらに神宮前駅 - 新名古屋駅間の東西連絡線が1944年(昭和19年)に開業し名岐線と豊橋線が結ばれるが、名岐線は600V電化、豊橋線は1500V電化であったため、直通運転ができず金山橋駅で乗り換えが必要だった。名岐線が1500Vに昇圧され豊橋駅 - 新岐阜駅間が名古屋本線となり、直通運転が始まったのは戦後の1948年(昭和23年)のことである。現在も社内では「東西直通線」と呼ばれている。1990年(平成2年)、神宮前駅 - 金山駅間が複々線化された。ただし、この複々線は1駅間2.2kmのみで、神宮前駅では複々線間相互の転線も不可能になっており、列車の運用を見ても事実上常滑線を金山駅まで延伸したという性格の方が強いことが分かる。複々線化の用地は、金山総合駅と同様に以前から確保されていて、複々線化前の2線を下り線とし東側に貼り付け増設した2線を上り線とする形で行われた。現在の下り内線(常滑線列車用)は複々線化前の上り線を転用したものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)3月に都市交通審議会名古屋圏部会は神宮前駅 - 須ヶ口駅間の複々線化を答申したが、新名古屋駅付近の複々線化は困難な(東側に名古屋市営地下鉄東山線の名古屋駅が、西側に近鉄名古屋駅と国鉄(現在のJR東海)の名古屋駅があるので、現地下ホームの真下にもう一つ複線を敷設するしかない)ことと、名古屋本線金山以北の混雑緩和は犬山線と名古屋市営地下鉄鶴舞線の相互直通運転開始により目途がついたことから、金山駅 - 須ヶ口駅間の複々線化については運輸政策審議会における1992年(平成4年)1月10日答申第12号名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画についてには答申されず、事実上中止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "最も乗降人員が多い駅は名鉄名古屋駅であり、終日にわたって各路線に直通する列車が高頻度で発車する。下り方にある枇杷島分岐点は名古屋本線の上り列車が犬山線の下り列車と平面交差するため、ダイヤ上の大きなネックとなっている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "名称は廃止時のもの",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "前述のような歴史的経緯から、名古屋本線では距離を示すキロポストが4つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)",
"title": "キロポストについて"
}
] |
名古屋本線(なごやほんせん)は、愛知県豊橋市の豊橋駅から岐阜県岐阜市の名鉄岐阜駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox rail line
| box_width = 300px
| name = [[File:Meitetsu logomark 2.svg|20px|名古屋鉄道|link=名古屋鉄道]] 名古屋本線
| color = d12027
| logo = NP-NH.svg
| image = Meitetsu 2000 Series and R1200 Series-FC.jpg
| image_width = 300px
| image_alt = 神宮前 - 金山間の複々線区間
| caption = 神宮前 - 金山間の複々線区間
| system = {{Color|#d12027|■}}岐阜方面 / {{Color|#d12027|■}}名古屋方面 / {{Color|#d12027|■}}豊橋方面
| start = 起点:[[豊橋駅]]
| end = 終点:[[名鉄岐阜駅]]
| stations = 60駅
| linenumber = {{名鉄駅番号|NH}}
| event1label = 西部線開業
| event1 = [[1914年]][[1月23日]]
| event2label = 東部線開業
| event2 = [[1917年]][[3月7日]]
| event3label = 東西連絡線開業
| event3 = [[1944年]][[9月1日]]
| lastextension = [[1948年]][[4月18日]]<!--名鉄岐阜駅が現在地に移転した日付-->
| owner = [[名古屋電気鉄道]]+<br />[[美濃電気軌道]](美濃電)+<br />[[愛知電気鉄道]](愛電)<br />↓<br />(旧)名古屋鉄道+尾西鉄道+美濃電+愛電<br />↓<br />名岐鉄道+愛電<br />↓<br />[[名古屋鉄道]]
| linelength_km = 99.8
| gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}
| el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], <br> [[架空電車線方式]]
| speed = 最高120[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=Data-TK>{{Cite book|和書|author=徳田耕一|title=名古屋鉄道 今昔<small>―不死鳥「パノラマカー」の功績</small>|date=2017-08 |series =交通新聞社新書 |publisher=交通新聞社 |isbn=978-4330819174|page=22}}</ref>
| website = [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line01/index.html 名古屋鉄道 名古屋本線]
| map = [[File:Nagoya Railroad Linemap.svg|300px]]
}}
'''名古屋本線'''(なごやほんせん)は、[[愛知県]][[豊橋市]]の[[豊橋駅]]から[[岐阜県]][[岐阜市]]の[[名鉄岐阜駅]]までを結ぶ[[名古屋鉄道]](名鉄)の[[鉄道路線]]。
== 概要 ==
名古屋本線は[[豊橋市]] - [[名古屋市]] - [[岐阜市]]の各都市を結んでいる名鉄の基幹路線であり、唯一「本線」を名乗り、通称「名鉄本線」と称される。全区間で[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[東海道線 (名古屋地区)|東海道線]]と競合しており、特に名古屋(名鉄[[神宮前駅]]・JR[[熱田駅]])以北は全て並行している。豊橋駅 - 神宮前駅間では[[国道1号]]、神宮前駅 - 名鉄岐阜駅間では[[国道22号]]にそれぞれほぼ並行している。
営業距離の99.8kmは、JR・[[第三セクター鉄道|三セク]]を除く日本の私鉄の路線では[[東武伊勢崎線]]、[[近鉄大阪線]]に次ぐ第3位、全線が複線以上の路線としてはJR・三セクを除く日本の私鉄では近鉄大阪線に次ぐ第2位の長さである。
名古屋本線は名鉄最大の[[ターミナル駅]]である[[名鉄名古屋駅]]を通る。同駅は[[私鉄]]では珍しい通過型ターミナル駅であり<ref>{{Cite web|和書|title=「迷駅」名鉄名古屋駅のカオス ゆえの工夫が面白い! 行先編成種別バラバラ列車たち |url=https://trafficnews.jp/post/90467 |website=乗りものニュース |access-date=2023-01-12 |language=ja}}</ref>、当路線を介して[[名鉄犬山線|犬山線]]や[[名鉄常滑線|常滑線]]・[[名鉄空港線|空港線]]([[中部国際空港]]方面)など多方面の名鉄の列車が[[直通運転]]を行なっている<ref>{{Cite web|和書|title=名鉄名古屋(NH36) 路線一覧|url=https://trainbus.meitetsu.co.jp/meitetsu-transfer/smart/diagram/DiagramMultiRailRoadSearch?orvCode=0.0.00004372. |work=乗換案内・時刻表検索 |publisher=名古屋鉄道 |access-date=2023-01-12}}</ref>。
[[名古屋鉄道#運賃|運賃計算区分]]はA(運賃計算は営業キロをそのまま用いる)。すべての駅で[[manaca]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]対応カードが使用できる。
=== 路線データ ===
*路線距離([[営業キロ]]):99.8[[キロメートル|km]] (複々線2.2km、複線92.6km、単線5.0km<ref name="meitetsu2014_p159">{{Cite book|和書|author=名鉄120年史編纂委員会事務局(編)|year=2014|title=名鉄120年:近20年のあゆみ|publisher=名古屋鉄道|page=159}}</ref>)
*[[軌間]]:1067[[ミリメートル|mm]]
*駅数:60駅(起終点駅を含む)<ref name="meitetsu2014_p159"/>
*[[複線]]区間:下記の区間を除く全線
**[[複々線]]:神宮前駅 - 金山駅間(名古屋本線・[[名鉄常滑線|常滑線]]列車が各2線を別々に使用する[[複々線|方向別複々線]])
**[[単線]]:豊橋駅 - 伊奈駅間(JR東海と単線ずつを所有し複線としてJR[[飯田線]]と共用)、名鉄岐阜駅構内(加納陸橋下部<ref>{{Cite journal |和書|author=渡利正彦|title =岐阜駅から見た名鉄の印象|date=2009-03|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|volume=816|page=166}}</ref>)、詳細は「[[#ボトルネックとなっている区間]]」の節を参照)<ref name=Data-TK/>
*[[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500V)
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
*[[自動列車保安装置|保安装置]]:[[M式ATS]](豊橋駅 - [[平井信号場]]間は[[自動列車停止装置#ATS-PT形 (JR東海ATS-P)|ATS-PT]]を併設)<ref name=Data-TK/>
*最高速度:120[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name=Data-TK/>(豊橋駅 - 平井信号場間は85km/h<ref name=Data-TK/>。詳細は「[[#最高速度|最高速度]]」の節を参照)
*最急勾配:35[[パーミル|‰]](山王駅 - 名鉄名古屋駅間)
*最小曲線半径:160m(東枇杷島駅 - 枇杷島分岐点間、加納駅 - 名鉄岐阜駅間、上り線のみ東枇杷島駅 - 栄生駅間)
*最長直線区間:上り線名電赤坂駅東方 - 平井信号場南方(豊川放水路橋梁)約8.8km、下り線平井信号場北方 - 名電赤坂駅東方 約7.8km
== 運行形態 ==
線内運転列車のほか、国府駅で[[名鉄豊川線|豊川線]]、新安城駅で[[名鉄西尾線|西尾線]]、神宮前駅で[[名鉄常滑線|常滑線]]([[名鉄空港線|空港線]][[中部国際空港駅]]・[[名鉄河和線|河和線]][[河和駅]]・[[名鉄知多新線|知多新線]][[内海駅 (愛知県)|内海駅]]方面にも直通あり。線路は金山駅で合流・分岐)、庄内川鉄橋の北側の枇杷島分岐点で[[名鉄犬山線|犬山線]]([[名鉄広見線|広見線]][[新可児駅]]方面にも直通あり)、須ヶ口駅で[[名鉄津島線|津島線]]([[名鉄尾西線|尾西線]][[佐屋駅]]方面にも直通あり<ref group="注釈">但し駅の構造上津島駅折り返し列車は少なく、佐屋駅も「津島線」の駅として扱われることも多い。</ref>)が分岐・合流しており、多くの列車が直通する。これらの列車のほとんどが名鉄名古屋駅・金山駅方面に向けて運転され、枇杷島分岐点(庄内川鉄橋) - 神宮前駅間では、早朝・深夜を除き平均2 - 3分間隔(日中でも1時間に26本)の高頻度で列車が走る状態となっている。このため事故や災害による運行の乱れが複数の路線(名鉄名古屋駅に乗り入れることのない三河線・小牧線などを除く)に及ぶことが多い<ref group="注釈">例:本線豊橋駅の事故の影響で津島線が遅れる、など。</ref>。またミュースカイ・特急・快速特急を除いた多くの列車が途中駅で種別変更を行っている。
日中の運行パターンは以下のとおりである。各節において運行本数は特記なければ1時間当たりのもの。
{{wide image|Meitetsu Line Timetable Diagram 20230318.svg|1000px|5=none|alt=日中の運行パターン(2023年3月18日改正)|3=日中の運行パターン([[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2023年3月18日改正|2023年3月18日改正]])}}
{{名鉄名古屋本線路線図}}
=== ミュースカイ・快速特急・特急 ===
{{Main|名鉄特急}}
==== 豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間 ====
豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間では、下りは'''一部特別車'''の特急が、上りは'''一部特別車'''の快速特急が、それぞれ2本ずつ運行されている。そのほかに区間列車として、須ヶ口止まり(平日に豊橋発が2本と吉良吉田発が1本運転)、上りは国府止まり(深夜に名古屋発(休日は岐阜発の1本のみ。)や伊奈止まり(平日深夜に1本のみで美合駅にも停車)や東岡崎止まりがある。
基本停車駅での全区間標準所要時分は、名鉄名古屋駅を1分停車として、快速特急が79分(名岐間29分・名豊間49分)、特急が82分(名岐間29分・名豊間52分)である。<!--いずれも1998年ごろにおける最短時分に比べて3分程度の[[余裕時分]]が加えてあり、新木曽川と笠松が基本停車駅となったことでさらに3分延びている。:要出典-->
快速特急・特急とも、朝や深夜は豊橋駅口で急行を補完するため、標準停車駅の他に伊奈駅や国府駅に停車する場合がある。
平日朝の岐阜発特急豊橋行きの2本は、鳴海駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正で平日のみ豊橋駅8時32分発岐阜行き特急は、改正以前は本線特急は通過だが、津島・佐屋方面特急の停車駅である須ヶ口駅にも停車する。2011年3月26日のダイヤ改正では名鉄名古屋駅23時52分発東岡崎行き全車一般車特急が設定されている。最終の岐阜発快速特急豊橋行き(2021年5月22日のダイヤ改正で特急国府行きから変更)と平日朝の豊橋駅6時51分発快速特急岐阜行きは、新安城駅にも停車する。
2023年3月18日のダイヤ改正では急行が基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮されたため、日中に名古屋本線を通しで走る列車はこの節に記した快速特急および特急の毎時2本のみとなった。
==== 豊橋駅 - 犬山線・広見線直通系統 ====
犬山線へ直通する特急として、豊橋駅 - 新鵜沼駅間に下りは'''一部特別車'''の快速特急で、上りは'''一部特別車'''の特急で、それぞれ2本ずつ運行している。この運行系統は1996年より豊橋方面から名古屋空港へのアクセスを目的として平日の朝に1本だけ走っており(このために名古屋空港行きバスへの乗り換え駅である西春駅にも特別停車していた)、豊橋方面から犬山線へ唯一直通する一部特別車特急として知られていた。2005年1月の改正で一旦廃止となったが、2007年6月の改正で時刻を多少変更して復活し、2008年12月の改正で大幅に増加している。平日朝には犬山止まりが1本のみ設定されている。使用車両は上記豊橋 - 岐阜の系統と同じ。
==== 名鉄岐阜駅 - 中部国際空港駅間 ====
[[中部国際空港]]への連絡特急として、[[中部国際空港駅]] - [[名鉄岐阜駅]]間に'''全車特別車'''のミュースカイを1本(日中以外)、'''一部特別車'''の特急を2本運行している。2008年12月のダイヤ改正以前は昼間にも豊橋駅発着の列車が1時間あたり1本運行されていたが、中部国際空港方面より名古屋方面への利用者が圧倒的に多く、乗り換えの不便が目立ったためこれを廃止し、代わりに名鉄岐阜駅発着の列車を増発した(夕方以降にも設定)。中部国際空港駅 - 名鉄岐阜駅間の列車と豊橋駅 - 新鵜沼駅間の列車は、金山駅または神宮前駅で、ともに同じホームにて乗り換えが可能。ただし名古屋本線内のみを通しで乗車する場合以外は、以前のような短時間での接続は考慮されなくなった。総合すれば名古屋本線の一般車(自由席)を連結した快速特急・特急は15分間隔で運行されている。
2011年3月26日のダイヤ改正より、従来運行されていた豊橋発中部国際空港行き一部特別車特急(2005年1月の改正で設定。駅配線の都合上金山駅で折り返していた)と[[名鉄名古屋駅]] - 名鉄岐阜駅間の昼間のミュースカイが廃止され、この時間帯のミュースカイは中部国際空港駅 - 名鉄名古屋駅間の折り返し運転となった。また、深夜には常滑・空港線の上り名古屋方面と名古屋本線の下り一宮方面への最終列車を兼ねた中部国際空港発岐阜行きの全車一般車特急が設定されている。
現在、名岐線 - 常滑線の一部特別車特急は[[名鉄2200系電車|2200系]]で運転されている。廃車以前の[[名鉄2200系電車#1700系|1700系]]も充当されていた。なお、豊橋発着の列車は登場時が[[名鉄1000系電車|1200系]]、廃止時点では2200系で運転されていた。
==== 西尾線系統 ====
[[名鉄西尾線|西尾線]]系統として、[[吉良吉田駅]]から[[須ヶ口駅]]までの'''全車一般車'''の特急を平日朝1本のみ運行している。かつてこの系統は全車特別車で佐屋駅または吉良吉田駅まで運行されており、1600系や1000系4両編成(以上は2008年まで)や8800系(2005年まで)や7000系(1999年まで)で運転されていた。2008年6月29日のダイヤ改正で、朝の西尾発名古屋行きと夜間の名古屋発西尾行きの各1本が一部特別車化されたほかはすべて、快速急行(現在は急行)に格下げされた(後述)。2023年3月18日のダイヤ改正で、一部特別車の特急が廃止され、全車一般車特急での運用になり、始発駅も西尾駅から吉良吉田駅へ延長された。
==== その他の系統など ====
平日の朝には、豊川稲荷発岐阜行き快速特急・特急(2200系6両、各1本のみ。本宿駅と美合駅に特別停車)や、[[河和駅|河和]]発岐阜行き(平日は1200系8両、休日は2200系6両)などの列車もある。いずれも一部特別車で運転される。
金山駅 - [[東岡崎駅]]では昼間でも混雑が激しいことがある。これは[[知立駅]]以東での最先着列車であることと知立駅での利用客が多いこと(実際[[名鉄三河線|三河線]]からの乗り継ぎ客も相当多い)が大きく影響している。名岐間では快速特急・特急は全列車とも快速急行停車駅の新木曽川駅と笠松駅にも停車し(朝の特別通過は2023年3月の改正で廃止された)、所要時間が29分 - 31分となっている。唯一両駅通過となるミュースカイも、名岐間は遅延余裕を加味し27 - 28分かけて走る。
==== ミュースカイ・快速特急・特急の運行本数 ====
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内でミュースカイ・快速特急・特急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。ミュースカイのみ全車特別車で他は一部特別車。この記事に記載していない[[名鉄犬山線|犬山線]]・[[名鉄常滑線|常滑線]]直通列車を含む)。
*豊橋駅 - 神宮前駅間:快速特急2本、特急2本
*神宮前駅 - 名鉄名古屋駅間:ミュースカイ2本、快速特急2本、特急6本(このうち常滑線直通:ミュースカイ2本、特急4本)
*名鉄名古屋駅 - 枇杷島分岐点間:ミュースカイ0本(朝夕は2本)、快速特急2本、特急4本(このうち犬山線直通:下りは快速特急2本、上りは特急2本)
*枇杷島分岐点 - 名鉄岐阜駅間:下りは特急4本(日中以外はミュースカイ1本が追加)、上りは快速特急2本、特急2本(日中以外はミュースカイ1本が追加)
=== 快速急行・急行・準急 ===
2008年12月27日のダイヤ改正より、名古屋本線神宮前駅以東で快速急行は設定されなくなった。
==== 豊橋駅・豊川稲荷駅 - 名鉄一宮駅・名鉄岐阜駅間 ====
豊橋駅 - 名鉄一宮駅間、時間帯によってはこれに加えて豊川稲荷駅 - 名鉄一宮駅間の急行が交互に設定され、合わせて毎時2 - 4本運行される。平日夕方以降の豊川稲荷駅発着列車は、大里駅に特別停車、東岡崎駅 - 豊川稲荷駅間は準急に種別変更され、藤川駅と男川駅にも停車する。平日の朝には、犬山線から豊橋行きや豊川稲荷行きも運転される。また、朝ラッシュ時や夜間には国府行き・伊奈行きも設定されている。
1994年から2000年3月には平日、休日ともに、夕方に豊橋駅 - [[新可児駅]]・[[御嵩駅]]間および[[常滑駅]] - 新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)間の急行が設定されていた。2003年までは朝と夕方以降に、[[矢作橋駅]]に特別停車していた。2008年12月のダイヤ改正以降、前後駅(1988年より急行の特別停車を開始。2003年に急行停車駅に昇格)・栄生駅(2005年に急行停車駅に昇格)・大里駅への特別停車はほぼ行われなくなったが、2011年3月ダイヤ改正では、後述の準急削減により、平日の日中に豊川稲荷発着系統で、二ツ杁と有松の両駅で準急削減を補う特別停車が実施された。
2021年5月ダイヤ改正より、平日日中の豊川稲荷発着系統の運行がなくなった。また土休日は後述の準急がほとんど運行されなくなったため、2011年3月ダイヤの平日日中に行われていた二ツ杁と有松の両駅への特別停車が土休日に変更となった。また、東岡崎駅以東での準急への種別変更と大里駅への特別停車は平日夕方以降を除いてほぼ消滅した。
2021年10月ダイヤ改正より、日中は豊川線の本数が普通のみ毎時2本に減便となるため土休日日中の一部急行が豊川線へは入らなくなり国府駅折り返しとなっている。
2023年3月ダイヤ改正より、土休日日中の豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行は豊明駅 - 須ケ口駅(下り列車は津島線に直通)間に運行区間の短縮および種別格下げが行われた。豊橋駅発着の急行も基本的に名鉄一宮駅での折り返しに短縮され、日中以降基本的に急行は名鉄岐阜駅には行かなくなった。
日中の豊橋駅・豊川稲荷駅・国府駅 - 名鉄岐阜駅・名鉄一宮駅間の急行はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
*豊橋発一宮行き:前後駅(快速特急)
*豊川稲荷発一宮行き:国府駅(快速特急)、堀田駅(特急)
*一宮発豊川稲荷行き:鳴海駅(特急)
*一宮発豊橋行き:鳴海駅(快速特急)
朝ラッシュなどは特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅で全く抜かれないこともある。急行の運転時分は、待避時間を除くと豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間が60分 - 64分、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は最速31分だが、大半は余裕時分が加わり35分前後かかるため、名岐間の表定速度はさほど高くない(このためJR東海道本線の普通列車より遅い。1990年代の最短記録でも現在の特急とほぼ同じ29分)。名鉄名古屋駅以東では必ず快速特急・特急待避を行うため、前後駅以東では夕ラッシュでも混雑することは少ない。
6両編成での運行が多かったが、近年は平日、休日とも4両での運転が増えている。また、朝と深夜には8両編成での運転もある。さらに、待避駅で増結または切り離しを行う列車もある。豊橋駅発着の列車は特急の間合い運用を除いて120km/h運転可能な3100・3150・3300・3500・3700・9100・9500系が充当される(2023年3月改正からは5000系もごく僅かに運用に入る)。土休日の豊川稲荷(国府)発はこれら7系列に加え6000・6500・6800系(豊川線・尾西線ワンマン車両を含む)の4両編成または6両編成での運転となる。朝は特急への送り込み、深夜は特急からの折り返しのため、1200系や2200系での運転も行われている(この場合、特別車は朝の豊橋駅 - 名鉄岐阜駅間の1往復を除いて締め切り)。かつて主流であった2扉SR車(最晩年は少数派である5700系・5300系のみ)による本線急行は、2010年時点では早朝の国府発岐阜行き、深夜の岐阜発伊奈行きなど数本程度残っていたが、2011年3月ダイヤ改正でほとんど消滅し、本線上で見られる急行運用は早朝の名鉄一宮発中部国際空港行き快速急行、深夜に名鉄岐阜発着のごく一部の列車と、後述する西尾線 - 津島線系統一部列車の本線走行区間のみとなった(その後、SR車は2019年に引退した)。
快速急行は朝の数本(神宮前行きと常滑・空港線に直通する一部の列車を除いて名鉄名古屋駅で急行などに種別変更する)のみ走っている。また準急は国府や豊川稲荷発着のほかは、平日朝の伊奈行き1本のみで、他は東岡崎駅 - 豊橋駅間は急行に種別変更して運行している。現在は豊橋駅を発着する快速急行や準急は設定されていない。なお、豊橋駅を23時台に発車する2本の急行(名古屋行き(東岡崎駅から準急)と鳴海行き)は、ともに同駅停車の[[東海道新幹線]]下り「[[ひかり (列車)|ひかり]]」の接続を取る時刻設定である。2本とも特急の折り返しで、名古屋行きが1200系、鳴海行きが2200系などの共に8両編成(特別車締め切り)を使用する。
==== 西尾線 - 津島・尾西線直通系統 ====
吉良吉田駅 - 佐屋駅または弥富駅間に2本運行している。平日夕方以降における列車種別は、下りでは吉良吉田駅 → '''(急行)''' → 神宮前駅 → '''(準急)''' → 須ヶ口駅 → (普通) → 佐屋駅、上りでは佐屋駅 → (吉良吉田行きのみ準急) → 須ヶ口駅 → (準急) → 名鉄名古屋駅 → '''(急行)''' → 吉良吉田駅となる。須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間は日中準急の設定がない。原則として上下とも[[豊明駅]]に特別停車する。夜の上り2本は西尾線に入らず[[新安城駅]]止まり(土休日の1本は豊明駅止まり)となる(22時台に新安城駅に到着する列車のみ終点で西尾線の普通吉良吉田行きへ接続)。日中は後述の準急が種別変更せず、土休日夕方以降は運転されないため、本系統は神宮前駅以西は普通列車となり(上りは名鉄名古屋駅で種別変更)、弥富駅まで直通している(ただし上りは佐屋駅始発)。
1998年までは[[蒲郡駅]]まで直通しており(末期は西尾駅 - 蒲郡駅間は普通列車)、現在はその名残で終点の吉良吉田駅で蒲郡線方面発着の普通ワンマン列車に接続する。また、2003年3月ダイヤ改正で前後駅が標準停車駅に加わる(1990年代初期に前後駅に特別停車していたこともある)。これ以前のダイヤでは夜間の西尾行きの一部は[[有松駅]]にも特別停車していた(佐屋行きは通過)。呼続駅・桜駅・本笠寺駅・本星崎駅・左京山駅・有松駅・中京競馬場前駅の利用者を考慮して、昔から上下線とも鳴海駅で普通に接続し(上りは2003年3月改正時にも一部が前後駅で別の普通へ接続していた)、さらに知立駅で岡崎・豊橋方面発の特急から乗り換えでき、知立駅で岡崎・豊橋方面行きの特急へ乗り換えることができる。現在のダイヤでは豊明駅でも普通に接続する。
主に3000系列・6000系列によって運転されている。3000系列は2008年6月29日より入線し、12月27日よりごくわずかだが1380系や5000系も入線している。新安城駅2番線のホーム有効長の関係から全列車4両編成となっており、上下線とも基本的に新安城駅から須ヶ口駅まで快速特急を待避しない(ただし平日の昼間は二ツ杁駅で快速特急を待避する。また平日夕方は須ヶ口駅で快速特急とミュースカイの通過を待って発車。土休日は須ヶ口駅で急行の発車と快速特急の通過を待って発車)ので、豊明駅 - 名鉄名古屋駅間では混雑することが多い。またこの系統は余裕時分が全体的に少なめであり遅れも発生しやすい。
1992年までは西尾線内は普通列車で、1999年までは下りの一部は堀田駅で特急(現在の快速特急に当たる系統で、当時は知立駅も通過していた)を待避していたり金山行きや須ヶ口行き、津島行きなどになっていたこともあった。2008年6月のダイヤ改正以前に多数存在した西尾行きも夜間に1本だけ存在する。休日には一部の列車は佐屋発着となっている。2005年までこの系統は6000・6500系または5300・5700系で運転されていた。平日の朝には、犬山経由岐阜発普通吉良吉田行き(名鉄岐阜駅 - 名鉄名古屋駅間と鳴海駅 - 吉良吉田駅間は急行。豊明駅と北安城駅にも停車)と犬山経由岐阜発急行吉良吉田行き(新鵜沼駅までと新安城駅から普通)が各1本(列車種別は名鉄名古屋駅を発車時点。2023年3月ダイヤ改正より新鵜沼駅発に変更された)運行されている。
2021年5月ダイヤ改正より、土休日は後述の準急がほとんど運転されなくなり、平日夕方以降を除いて2011年3月ダイヤの平日日中とほぼ同様の運行形態となる。
==== 名古屋本線 - 津島・尾西線直通系統 ====
土休日夕方以外の時間帯に豊明駅 - '''(準急)''' - 神宮前・名鉄名古屋・須ヶ口駅 - (普通) - [[佐屋駅]]・[[弥富駅]]間(ただし、日中の上り列車は津島・尾西線に直通しない)に2本運行しており、東岡崎駅 - 豊明駅間は、朝ラッシュと深夜を除いて準急の設定はない。
かつてこの系統は[[名鉄三河線|三河線]]の[[猿投駅|猿投]]・[[碧南駅|碧南]]方面の直通列車であった(運転区間は主に碧南駅 - 弥富駅間。三河線内は普通に種別変更し各駅に停車)。三河線に直通していたころは、三河線内の[[刈谷駅]] - 名鉄名古屋駅間で競合するJR[[東海道本線]]への対抗策として、特急増結用の[[名鉄1000系電車#1800系・1850系|1800系]]や[[名鉄7000系電車#7700系|7700系]]などのSR車による運行が主体で、碧南駅 - 名鉄名古屋駅間で先着するダイヤが組まれていた時期もある。
この系統は昔から[[二ツ杁駅]]・[[栄生駅]]・[[有松駅]]に特別停車しており、2003年より標準停車駅に前後駅、特別停車駅に中京競馬場前駅が追加され、2005年1月のダイヤ改正時より準急と改称されて現在の停車駅となっている。2005年1月ダイヤ改正以前は名古屋方面から前後駅や豊明駅などへの利用者を考慮して、鳴海駅で普通東岡崎行きに接続していた。一時期鳴海駅で普通へは接続しなくなり、その代わりに前後駅で普通東岡崎行きに接続している(終点の豊明駅では同一ホームでの乗り換えができないため)。下りは起点の豊明駅で普通を待たせてから発車するほかはほとんど普通へは接続しない。
下りは二ツ杁駅で特急を待避する(2008年12月ダイヤ改正から2019年3月ダイヤ改正までは一部の列車が二ツ杁駅ではなく西枇杷島駅で待避していた)が、上りは終点の豊明駅まで待避しない(ただし須ヶ口駅で急行の発車と特急の通過を待った後発車)。このためこの列車も前後駅 - 名古屋駅間で混雑することが多い。2005年1月ダイヤ改正から2006年4月ダイヤ改正のころは上りはほとんど知立行きで知立駅到着後前後駅まで回送されていた。そのため、このころは豊明駅から準急は上りしか利用できず、下りは1時間あたり4本の普通しか利用できなかった。2006年4月ダイヤ改正から2008年12月ダイヤ改正のころは東岡崎駅まで直通しており(さらに列車番号を変えて伊奈駅まで)、前後駅以東は普通列車になっていた。2003年ダイヤ改正以前は知立駅で特急が発車した後に発車しており、一宮方面と分かれる須ヶ口駅まで待避しなかった。昼間を中心に一部の列車が鳴海駅で折り返していた時期もある。西枇杷島駅のホーム有効長の関係から、主に3500系・5000系・6000系などの4両で運転されている。
2011年3月ダイヤ改正からは、平日日中の準急運行が削減された。この時間帯は代わりに前述の豊川稲荷発着の急行が有松駅と二ツ杁駅に特別停車し、西尾線直通の急行が神宮前駅(上りは名鉄名古屋駅)以西で普通に種別変更している。
2021年5月ダイヤ改正からは、土休日の運行がほとんど消滅し(2011年3月ダイヤ改正の平日日中と同様になる)、本系統はほとんど平日夕方以降のみの運行となっていた。
2023年3月ダイヤ改正からは、平日日中の名古屋近郊の速達輸送と土休日日中に設定されていた国府駅 - 名鉄一宮駅間の急行の区間短縮・種別格下げにより、日中に準急が豊明駅 - 須ヶ口駅(下りは須ヶ口駅から普通に変更し津島線へ直通。上りは名鉄岐阜駅または弥富駅から来た須ヶ口止まりの普通が種別と行先を変更して運行を継続。列車によって普通列車の発駅は異なる)間に毎時2本設定された。当該準急は途中で種別を変更しない。急行のダイヤを概ね踏襲するために上下線とも鳴海駅で普通と緩急接続し、下りは堀田駅、上りは二ツ杁駅でそれぞれ特急を通過待ちしている。起点の豊明駅では普通が到着する直前に発車し、須ヶ口駅まで逃げ切るため普通から乗り換えることはできない。
==== 竹鼻・羽島線直通系統 ====
早朝(ただし土休日の岐阜行きはない)に[[新羽島駅]] - (普通) - 笠松駅 - '''(急行)''' - 名鉄岐阜駅間に2本運行している。2001年までは[[名鉄竹鼻線|竹鼻線]]でも急行運転する列車も存在していた。2両または4両で運転。1800系も特急の[[間合い運用]]として使用される。本線・豊川線急行と同じく笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は全列車途中無停車で、岐南駅・茶所駅・加納駅には1本も特別停車しない。早朝や深夜には急行のほか、名鉄岐阜駅から竹鼻線に直通する普通列車も数本運転される。
2021年5月ダイヤ改正より竹鼻線の列車はごく少数を除いて笠松駅で折り返しとなって、名古屋本線へは直通しなくなり、本系統も改正により消滅した。
==== 快速急行・急行・準急の運行本数 ====
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内で急行、準急は以下の本数が運行されている(2023年3月18日改正時。この記事に記載されていない犬山線、常滑線直通列車を含む)。
*豊橋駅 - 国府駅間:急行2本
*国府駅 - 新安城駅間:急行4本(土休日の朝と、平日の夕方以降の国府駅 - 東岡崎駅間は急行2本と準急2本・豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、急行2本)
*新安城駅 - 豊明駅間:急行6本(豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、急行4本)
*豊明駅 - 神宮前駅間:急行6本、準急2本(準急が運転されない時間帯は急行6本、豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、急行4本、準急2本)
*神宮前駅 - 名鉄名古屋駅間:下りでは急行6本、準急4本、上りでは急行8本、準急4本(豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、下りでは急行4本、準急4本、上りでは急行6本、準急4本)(うち常滑線直通:急行2本、準急2本)
*名鉄名古屋駅 - 枇杷島分岐点間:急行6本、準急4本(準急が運転されない時間帯は、急行4本、準急4本)(うち犬山線直通:急行2本、準急2本)
*枇杷島分岐点 - 須ヶ口駅間:急行4本、準急2本(豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、急行2本、準急2本)
*須ヶ口駅 - 名鉄一宮駅間:急行4本(豊川稲荷発着の急行が運転されない時間帯は、急行2本)
*名鉄一宮駅 - 名鉄岐阜駅間:運転なし
=== 普通 ===
全列車各駅に停車し、豊橋駅には乗り入れない。2両・4両が多いが、朝ラッシュ時などには6両や8両(後者は平日上り1本のみ)での運転も見られる。6両以上の場合、[[プラットホーム|ホーム]]が4両分しかない駅では[[ドアカット]]が行われる。豊橋駅を発着する列車は線路容量の関係で快速特急・特急・急行のみとなっており、普通列車は伊奈駅までの運行となる。(準急も同じく)待避可能な駅の多くで優等列車と接続または追い越されるため、主要駅間を普通のみで乗り通すとかなり時間がかかる(特急停車駅間の知立駅 - 神宮前駅間を例にすると、快速特急・特急15分程度、急行20分程度に対し普通45 - 50分程度。朝ラッシュ時などは追い越されないこともある)。
==== 伊奈駅 - 東岡崎駅間 ====
伊奈駅 - 東岡崎駅間は毎時2本の運行。ほとんどの列車が東岡崎駅到着後、行き先を犬山線の[[岩倉駅 (愛知県)|岩倉駅]]に変更して名古屋方面へ運行を継続する。平日朝の豊橋方面では、1本のみ豊川線への直通列車がある。また、平日8時台と最終列車は国府駅止まり(土休日の最終は伊奈行き)である。この区間の普通列車のみ停車する駅の利用者は名鉄全体で比較してもかなり少ないが、朝ラッシュ時は夜間滞泊駅の伊奈駅から名古屋方面への送り込みを兼ねて3 - 4本運行されている。
伊奈駅 - 東岡崎駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
*伊奈発東岡崎行き:国府駅(特急)、本宿駅(本線急行、快速特急、豊川急行または準急ただし昼間は豊川急行での連絡なし)、美合駅(特急、ただし準急が運行される時間帯のみ)
*東岡崎発伊奈行き:美合駅(快速特急、本線急行ただし昼間を除く)、本宿駅(快速特急、本線急行ただし昼間のみ)、国府駅(特急)
東岡崎駅では同駅で終点となった普通列車(日中は犬山発、夕方以降は岩倉発)が折り返さずにそのまま列車番号と行き先を変更して同駅発の列車となり、日中は特急、夕方以降は快速特急から接続を受けた後に発車する。
豊橋駅を発着する列車の設定がないために伊奈駅で豊橋発着の急行に接続している。
2021年5月22日改正後は平日日中の上り列車の待避駅が美合駅から本宿駅に変更となっている(2023年3月18日改正後は土休日日中も)。
==== 東岡崎駅 - 須ヶ口駅間 ====
日中は東岡崎駅 - 岩倉駅間、東岡崎駅 - 犬山駅間の列車が交互に設定され、東岡崎駅 - 神宮前駅間は毎時4本の運行となる。このほか名古屋方向では朝ラッシュ時と夜間には名鉄岐阜(名古屋本線経由)・弥富・金山・須ヶ口行きが少数設定され、豊橋方向では朝7・8時台と夜間に豊明行き、夜間には新安城行きが設定されている。東岡崎駅では岩倉発着の列車はそのまま名古屋方面へは折り返さず、列車番号と行き先を変えて伊奈駅まで延長運転される(昼間は犬山発)。大半が4両で運行されるが、一部2両、6両の運用がある(一部列車は新安城駅、豊明駅、鳴海駅などで増解結をすることがある)。特急連結用車両である[[名鉄1000系電車#1800系・1850系|1800系]]の運用も豊明駅以西で存在している。
東岡崎駅 - 豊明駅間の日中の普通列車は2003年ダイヤ改正以前は基本岩倉発着の毎時2本のみの運行であり、犬山発着の列車は豊明駅発着であった(時間帯により発着駅に変更あり)。2023年3月18日改正後は夜間に豊明行きが増えている。
東岡崎駅 - 神宮前駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。豊川急行は昼間は運行されず、代わりに準急が運行される。
*東岡崎発犬山行き:新安城駅(豊川急行・特急)、豊明駅(西尾急行・本線急行・快速特急・準急(始発、平日夕方のみ))、鳴海駅(豊川急行または準急・特急)
*東岡崎発岩倉行き:新安城駅(本線急行・快速特急)、前後駅(豊川急行・特急)、鳴海駅(西尾急行)、本笠寺駅(快速特急・本線急行)
*岩倉発東岡崎行き:本笠寺駅(豊川急行・特急)、鳴海駅(準急(日中のみ))、前後駅(準急(平日夕方のみ)・快速特急・本線急行)、豊明駅(西尾急行)、新安城駅(特急・豊川急行)
*犬山発東岡崎行き:本笠寺駅(本線急行・快速特急)、鳴海駅(西尾急行)、前後駅(特急・豊川急行)、新安城駅(快速特急・本線急行)
上記の他に矢作橋駅では名古屋方面のみ待避が可能で、平日朝のごく一部の列車が実施している。急行停車駅の堀田駅では通過待避しかできないため普通列車はほとんど待避しない。
神宮前駅 - 金山駅間は常滑線へ直通する列車(金山駅 - 内海駅・河和駅・知多半田駅・常滑駅・中部国際空港駅)も日中毎時4本運行されているため、下り10本、上り8本になっている。2005年1月のダイヤ改正までの常滑線直通列車の運行系統は上りは岐阜方面から知多半田方面への運転で、下りは常滑方面から津島線(主に[[佐屋駅|佐屋]]行き)方面だった。構造上、金山駅でも待避が可能であるが、本数が非常に多く、常滑線直通列車は金山駅が起終点であるため名古屋本線豊橋方面を発着する普通列車はごく一部を除いて金山駅では待避しない。
枇杷島分岐点 - 須ヶ口駅間は名古屋市近郊にもかかわらず普通列車の本数が日中毎時2本と少ない。これはこの区間の駅間距離が短く、普通のみの停車駅(西枇杷島駅・新川橋駅)よりも隣接する優等列車停車駅([[二ツ杁駅]]・[[須ヶ口駅]])や、名鉄名古屋方面への有効本数が多い東枇杷島駅に利用客が流れていることによるものであり、また運行形態からこのような現象が起きているととらえることもできる。この区間は前述の豊明駅 - 佐屋駅間の準急(平日日中と土休日は吉良吉田駅 - 弥富駅間の急行)が、下りは神宮前駅以西、上りは名鉄名古屋駅以西でそれぞれ普通列車に種別変更して走っているのみであり、日中に豊橋方面から普通のまま直通する列車や岐阜方面または常滑線から直通する列車は設定されていない。また種別変更する駅の関係上、山王駅では上下線で停車する本数が下り6本、上り4本と異なる。
2021年5月22日のダイヤ改正より平日日中に豊川急行が削減されたため、補完のために常滑線からの普通列車が金山駅から須ヶ口駅・津島線方面へ毎時2本区間延長されており(下りは知多半田発佐屋行き、上りは須ヶ口発河和・内海行き)、山王駅・東枇杷島駅・西枇杷島駅・新川橋駅における普通列車の停車本数が増加している。上りに関しては名鉄岐阜駅から来た須ヶ口止まりの列車が終点到着後に列車番号と行き先を変えて運行を継続しているもので、急行を補完するため津島線列車からの接続を受けて発車し、常滑線大江駅まで先着(但し二ツ杁駅で特急を通過待ちする)するダイヤが組まれている。
2023年3月18日の改正で平日日中に前述の準急が設定されたために金山駅 - 須ヶ口駅での普通列車の区間延長はなくなり、当該時間帯の常滑線からの普通列車は金山駅折り返しに戻された。
神宮前駅 - 須ヶ口駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
平日14時台まで、土休日(金山発の常滑線直通列車は除く)
*佐屋発吉良吉田行き:須ヶ口駅(本線急行)、二ツ杁駅(快速特急)
*吉良吉田発弥富行き:二ツ杁駅(空港特急)、須ケ口駅(本線急行)
平日15時台から
*弥富発豊明行き:須ヶ口駅(豊川急行・空港特急)
*豊明発佐屋行き:二ツ杁駅(本線特急、夕方以降1時間に1本ミュースカイ)
==== 須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間 ====
この区間では須ヶ口発着列車が名鉄岐阜駅との間で毎時4本運行される。区間列車として須ヶ口駅 - 名鉄一宮駅間および名鉄一宮駅 - 名鉄岐阜駅間のみの列車が少数設定されている。また、平日早朝と夜間には竹鼻線・羽島線直通列車も運行される。この区間は基本的に2両または4両での運転。普通列車のみ停車する駅では利用者がそれほど多くないが、特急の間合い運行の1800系による2両または4両での運転が他の区間に比べてやや多くなっている。2200系が運転を開始した2005年以降は、3100・3150・9100系による2両単独運行も多い。2021年5月22日のダイヤ改正より、平日日中に限り2本目と4本目の上り列車は終点の須ヶ口駅で行き先を河和線の河和駅または知多新線の内海駅に変更して運行を継続している(前述の列車。2005年1月ダイヤ改正以前の運行形態に近い)。2023年3月のダイヤ改正で前述の通り須ヶ口駅から先へ運行を継続する場合の行き先は河和線方面から豊明駅に、種別も準急へと変更されている。この区間の列車も2021年10月30日のダイヤ改正で21時台以降は一部削減されており、毎時2本程度の運行となっている。
須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間では日中はそれぞれ以下の駅で優等列車に接続または通過待ちを行う(括弧内は追い越される優等種別の順番)。
1本目と3本目
*須ヶ口発岐阜行き:新清洲駅(本線急行、ただし平日夕方以降のほかは須ヶ口駅で連絡するため新清洲での待避なし)、国府宮駅(1時間に1本ミュースカイ、本線特急)、新木曽川駅(空港特急)
*岐阜発須ヶ口行き:新木曽川駅(快速特急、1時間に1本ミュースカイ)、名鉄一宮駅(豊川急行)、国府宮駅(空港特急)、新清洲駅(本線急行)
2本目と4本目
*須ヶ口発岐阜行き:国府宮駅(空港特急)、新木曽川駅(本線急行、1時間に1本ミュースカイ、本線特急)
*岐阜発須ヶ口行き:新木曽川駅(空港特急、本線急行)、国府宮駅(快速特急、1時間に1本ミュースカイ)
このほかに一部の列車は[[岐南駅]]でも優等列車の通過待ちをしている(ただし日中は通過待ちがない)。
==== 普通列車の運行本数 ====
以上をまとめると、昼間時間帯に名古屋本線内では以下の本数の普通が運行されている。
*豊橋駅 - 伊奈駅間:運転なし
*伊奈駅 - 東岡崎駅間:2本
*東岡崎駅 - 神宮前駅間:4本
*神宮前駅 - 金山駅間:下りは10本、上りは8本(このうち常滑線直通:4本)
*金山駅 - 名鉄名古屋駅間:下りは6本、上りは4本(このうち犬山線直通:4本)
*名鉄名古屋駅 - 東枇杷島駅間:6本(このうち犬山線直通:4本)
*東枇杷島駅 - 須ヶ口駅間:2本(基本的に津島線直通)
**時刻表上では金山駅 - 須ヶ口駅間の普通列車が名古屋本線の普通列車として扱われず、津島線もしくは犬山線の普通列車として扱われることがある(大部分が須ヶ口駅から国府宮・一宮方面へ行かないため)。
*須ヶ口駅 - 名鉄岐阜駅間:4本
=== 最高速度 ===
[[#歴史|歴史]]で後述するとおり、名古屋本線では成立時より東海道本線という競合線が存在し、優等列車主体の都市間連絡ダイヤを構成するため、伝統的に高速運転が行われてきた。
戦後では[[鉄道の最高速度|認可速度]]95km/hから始まり、1953年に100km/h、1959年には105km/h、1961年からは特急で110km/h運転が認可された。1990年以降は線形の良い一部区間で120km/h(増圧ブレーキ・ABS装備車両のみ)となり、軌間が1067mmである在来私鉄の路線としては高速の部類に入る。なお120km/h運転開始に当たっては、車両以外の面でも下記のような改良、準備が行われている。
優等列車(豊橋発着の急行を含む)の最高速度120km/h運転は、伊奈駅 - 名電長沢駅(上りは実質名電赤坂以東)、矢作橋駅 - 知立駅(実質は牛田以東)、新清洲駅 - 木曽川堤駅(妙興寺 - 名鉄一宮のみ実質115km/h)の各区間で、対応車種により実施されている。なお豊橋発着の急行については、ダイヤは[[名鉄7000系電車|7000系]]の走行性能を基準とする最高速度110km/hで組まれている<ref group="注釈">2009年度末に7000番台車両の運転は終了したが、ほぼ同性能で最高速度110km/hの[[名鉄5700系電車|5700系・5300系]]が2019年度まで残存していたためである(ただし、晩年には本線急行の定期運用からは離脱していた)。またダイヤ面では、豊橋発着の急行について近年3000番台車両の限定運用を前提に、本線東部の一部区間で余裕時分を削減している。</ref>。一方で、すべての普通列車(駅間距離がおおむね2.5km以上で速度制限の緩い箇所のみ)と豊川線を含む支線直通の急行は、[[名鉄6000系電車|6000系]]に合わせて最高速度100km/hのダイヤとなっている。準急については、早朝・深夜の運行距離が長い列車は「豊橋発着の急行」に、その他大部分の区間列車は「支線直通急行」や普通に準じている。
*快速急行、急行、準急については、使用車両(・編成)の最高速度が上記ダイヤ作成上の最高速度よりも高い場合、特に復旧運転などで車両の最高速度にて走行することが多い。これは犬山線や常滑線・空港線でも同様である(ただし、両線では110km/hまで。常滑線・空港線は特急以上が120km/h)。以前は逆に車両(6000系)の最高速度の方が低いというケースがあったが、現在は解消している。
*1990年、最初に120km/h運転が開始されたのは、先行的に[[軌条|60kgレール]]の敷設が完了していた国府駅 - 名電長沢駅間と新一宮駅(現在の名鉄一宮駅) - 新木曽川駅間であった。以来、徐々に120km/h区間を拡大してきたわけだが、その中には現在も50kgNレールのままの区間がある(特に下り線に多い)。50kgNレールの区間については当初110km/hに留めていたところを115km/h、そして120km/hへと段階的に引き上げている。なお他社に比べ遅れていた[[枕木|PCマクラギ]]化も、1990年ごろには本線のほぼ全区間で完工した。
*停車駅間でみた最高[[表定速度|平均速度]]は、下り快速特急の東岡崎駅 - 知立駅間で94.8km/hを記録する(13.3kmを8分25秒で走破する)。次いで特急の国府駅 - 東岡崎駅間が94.4km/h、以下快速特急の豊橋駅 - 東岡崎駅間が90.5km/h、特急の東岡崎駅 - 新安城駅間が90.0km/hと、線形が良好で停車駅間が長い東部方面の速さが際立つ<ref group="注釈">両駅とも通過の場合を含めると、ダイヤ(列車運行図表)から読み取れる範囲では、1997年当時下りの現在の快速特急に当たる特急が矢作橋駅 - 新安城駅間を3分0秒、伊奈駅 - 国府駅間を2分25秒で走破しており、平均速度はそれぞれ116.0km/h、114.2km/hとなる。2010年現在は前者が3分05秒となり112.9km/h、後者は不変である。</ref>。
*特にスピードアップ・所要時分短縮に積極的であった1990年代は、フルノッチで区間最高速度まで加速した後、並列全界磁ノッチ(VVVF車は5ノッチあるうちの3 - 4ノッチ)に入れ直して最高速度を維持するという、現有車両では実際に搭載されていない[[定速運転|定速度制御]]機能に近づける運転操作が標準であった。運転時分に余裕が出てきた近年でも、常滑線内におけるミュースカイや、運転状況あるいは運転士によっては本線において現在も行われている。
*120km/h化区間以外でも2006年に高架化された[[鳴海駅]]付近など、全般的に線形改良、軌道強化などによって区間最高速度、カープやポイントの通過制限速度が引き上げられた箇所は多い。[[分岐器]](ポイント)の直線側通過速度はかつての95 - 100km/h(ごく一部の駅にはノーズ可動式を設置し制限なし)から、弾性ポイントの導入によって多くが速度制限なしとなっている。また、以前に比べて[[日本の鉄道信号|中継信号機]]や[[日本の鉄道信号|減速信号]]が現示可能な信号機が増えたのも目立つ点である。ちなみに注意信号の制限速度は65km/h、減速信号は85km/hで、名鉄の本線系路線においては注意・減速ともに制限速度がJRよりも10 - 20km/h高い(本線でも豊橋駅 - 平井信号場間はJRの規則に従うので例外。また、場内信号機から分岐器までの距離が短い場合の分岐側に関しては、同じ注意信号でもATS照査により制限45 - 50km/hとなっている)。
*各線からの列車が集中する神宮前駅 - 枇杷島分岐点間は[[ダイヤグラム|平行ダイヤ]]となるため、駅間ごとの最高速度はおおむね列車種別に関わらず同じか、差があっても最大10km/h程度である(神宮前駅 - 金山駅95km/h、名鉄名古屋駅 - 栄生駅75km/hなどはすべての列車種別で同じ。名鉄名古屋駅→山王駅のみは準急以上100km/h・普通85km/h)。
*優等列車の[[表定速度]]に関しては、最高速度110km/hの時代では定速度制御機能を備えた[[名鉄7500系電車|7500系]]により1969年に豊橋駅 - 新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)間を76分運転、また120km/hとなってからは編成出力の高い[[名鉄1000系電車#1200系|1200系]]などにより1997年に同区間71分運転を実現しピークを迎えたが、いずれもその後は停車駅や[[停車 (鉄道)#列車の停車時間|停車時分]]・[[余裕時分]]を増やしたことにより、徐々に遅くなる(所要時間が延びる)傾向にある。2008年12月のダイヤ改正により日中以降の快速特急・特急が笠松駅と新木曽川駅に停車するようになってからは、名鉄名古屋駅 - 豊橋駅間は停車駅を最小限に抑えてJRとのスピード競争でしのぎを削り、名鉄岐阜駅 - 名鉄名古屋駅間は速達性をJRに譲って地域間輸送に重点を置くといった東西間で対照的な図式が色濃く出ている。
=== 列車種別・停車駅の変遷 ===
; 1936年8月改正 (名岐線・豊橋線時代)
:*神宮前駅 - 吉田駅間で特急運転開始(1927年6月1日改正、愛知電気鉄道)。
:*押切町駅 - 新岐阜駅間全通。特急運転開始(1935年4月29日改正、名岐鉄道)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1936).svg|801px|停車駅]]
:
; 1948年5月16日改正
:*名古屋本線が成立し、東西直通運転を開始。特急、急行、準急を設定。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1948).svg|801px|停車駅]]
:
; 1969年7月6日改正
:*急行列車を廃止し、特急・準急・普通の3種別体制とする(1967年8月22日改正)。
:*知立駅通過の特急を(旧)快速特急とする(1969年7月6日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1969).svg|801px|停車駅]]
:
; 1979年7月29日改正
:*(旧)快速特急を廃止し、急行を復活(1970年12月25日改正)。
:*座席指定でない特急を「高速」とし、特急・高速・急行・準急・普通の5種別体制とする(1977年3月20日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1979).svg|801px|停車駅]]
:
; 1985年3月14日改正
:
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1985).svg|801px|停車駅]]
:
; 1997年4月5日改正
:*高速を特急に、準急を急行に統合し、特急・急行・普通の3種別体制とする(1990年10月29日改正)。
:*(旧)快速急行を設定(1995年4月5日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (1997).svg|801px|停車駅]]
:
; 2005年1月29日改正
:*(旧)快速急行廃止(2003年3月27日改正)。
:*(現)快速特急、(現)快速急行を設定し、準急を復活。快速特急・特急・快速急行・急行・準急・普通の6種別体制とする(2005年1月29日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (2005).svg|801px|停車駅]]
:
; 2023年3月18日改正 (現行ダイヤ)
:*ミュースカイを設定。神宮前駅 - 豊橋駅間の快速急行廃止(2008年12月27日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Nagoya Main Line (2023).svg|801px|停車駅]]
== 使用車両 ==
100系、300系、4000系以外の各車両が2-8両の編成を組んで使われる。2000系は神宮前駅以東への定期運用がない。また、一時期5000系の豊橋駅への乗り入れが消滅していたが2023年3月改正で復活した。6000系列は豊橋駅への定期運用はない。一部特別車特急用の2200系と1200系は朝や深夜の間合い運用として急行・準急・普通に使用されることもあるが、平日朝の急行数本を除いて豊橋寄り2両(特別車)は締切扱い(ドアカット)となる。
{{節スタブ}}
== ボトルネックとなっている区間 ==
名古屋本線の特徴の一つは、運行面において[[ボトルネック]]となっている区間がいくつか存在している点である。代表例として、[[名鉄岐阜駅]]構内にある単線区間、[[枇杷島分岐点]]、[[名鉄名古屋駅]]、豊橋駅から[[平井信号場]]までの区間である。
; 名鉄岐阜駅構内にある単線区間
: 名鉄岐阜駅には構内に[[単線]]区間があり、名鉄岐阜駅を発着する列車の同時発着ができない。また、[[岐阜駅]]の高架駅化の際に単線区間の上に東海道本線の高架橋を架けたため、複線化が困難になっている。
; 枇杷島分岐点
: [[平面交差]]となっており、名古屋本線の上り列車と犬山線の下り列車が同時通過できない。但し、名古屋本線の下り列車と犬山線上り列車の同時通過は可能である。
; 名鉄名古屋駅
: 名鉄の各路線から名鉄名古屋駅方面へ向かう列車は非常に多く、枇杷島分岐点 - 金山駅間の区間は複線のため、この区間には大量の列車が集中する。名鉄名古屋駅では大量の列車本数を捌く必要性があるが3面2線のみのホームとなっている。
: 名鉄名古屋駅では、上り下りとも大量の列車が発着するため、乗降をスムーズするための工夫がされている。中央の1面は降車専用ホーム、他の2面は上り下りの乗車専用ホームとなっている。乗車専用ホームでは、乗客が並べるように各方面ごとに乗車位置が分けられているという特徴がある。
: しかし、この旅客案内自体が不慣れな者には難解であり、一宮経由・犬山経由の2通りの経路を走行する列車が組まれていた岐阜行きの列車、途中駅での種別変更や特別停車を行う列車などの存在も相まって、乗車時に混乱を招き旅客の乗降車の遅延に繋がりやすい<ref group="注釈">岐阜行きの列車については2023年3月のダイヤ改正で一宮経由に統一されている。</ref>。また、名鉄線内での遅延は名古屋本線から直通先の末端支線まで広く影響することが多く、ひとたび大規模なダイヤ乱れが発生すると発車順序の突発的な入れ替わり、到着列車の種別・系統の偏りなどが混雑に与える影響も他の鉄道会社のターミナル駅より多大なものになりやすい。
<gallery widths="170px">
MT-Meitetsu Gifu Station-Single-tracked sections.JPG|名鉄岐阜駅構内にある単線区間
Meitetsu Biwajima Junction 003.JPG|枇杷島分岐点
MT-Meitetsu Nagoya Station-Platform Track No.2 and 3.jpg|名鉄名古屋駅ホーム
</gallery>
; {{Anchors|JR東海との共用区間}}JR東海との共用区間
: 豊橋駅から[[平井信号場]]の区間は、名鉄とJR東海がそれぞれ単線を所有し、同一線路を複線として共用することで名古屋本線とJR[[飯田線]]の列車が運行されている。名鉄は豊橋方面への単線を、JR東海は名鉄岐阜方面および飯田線の[[中部天竜駅|中部天竜]]方面への単線を所有している。
: 両社の単線を共用する形となるため、当路線の豊橋駅への運行本数は<!--毎時6本の-->上限があり、最高速度は飯田線と同じ85km/hに制限されている。この区間にある[[船町駅]]・[[下地駅]]はJR東海の専用駅で、名鉄の列車は停車しない。
: 飯田線内で遅延が発生した時の復旧は飯田線を優先とするため、名鉄の列車が[[伊奈駅]]で運転を打ち切らざるを得ない場合もある。また、お盆や年末年始など名鉄が土休日ダイヤ、JRが平日ダイヤと異なる場合は名鉄が時刻変更する措置が取られる。
: なお、この区間では特急列車に搭載されている[[警笛#名古屋鉄道|ミュージックホーン]]はJR東海の規則により使用されない。
<gallery widths="170px">
Iida Hirai 001.JPG|平井信号場
JR-Shimoji-station-with-Meitetsu-train.jpg|下地駅を通過する名鉄列車
MT-Toyohashi Station-Running in board.JPG|JR東海形式の豊橋駅 駅名標
</gallery>
== 歴史 ==
豊橋駅 - 名鉄名古屋駅間は[[愛知電気鉄道]]により都市間をほぼ一直線に結ぶ高速鉄道として建設され、名鉄名古屋駅 - 名鉄岐阜駅間は名古屋鉄道が合併した会社の路線が繋がり成立した。
[[File:Histroy of Nagoya Main Line.svg|none|600px]]
=== 名岐線 ===
現在の枇杷島分岐点 - 丸ノ内駅間は[[名古屋電気鉄道]]、丸ノ内駅 - 国府宮駅間は名古屋鉄道(初代)、国府宮駅 - 名鉄一宮駅間は尾西鉄道、名鉄一宮駅 - 笠松駅間は名岐鉄道、笠松駅 - 名鉄岐阜駅間は[[美濃電気軌道]]により開業した。
最初の開通区間は枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点) - 須ヶ口駅間で、1914年(大正3年)に開業した。名岐線で最後に開通したのは新一宮駅(現在の名鉄一宮駅) - 新笠松駅(現在の笠松駅)間で、1935年(昭和10年)のことである。それまでの名岐間の連絡は木曽川線([[名鉄尾西線|尾西線]]新一宮駅 - 玉ノ井方面の旧名称)の[[木曽川橋駅]](廃止:玉ノ井駅の北にあった)と笠松線の笠松駅(3代目。現在の[[西笠松駅]])の間を[[木曽川]]を介して行われていたが、名岐線全通により、当時の名古屋側のターミナルで今の名古屋駅の北東にあった一宮線[[押切町駅]]から新岐阜駅(現在の名鉄岐阜駅)まで直通の特急が運転された。
建設の経緯については「[[名古屋鉄道#名古屋電気鉄道]]」も参照。
* [[1914年]](大正3年)
**[[1月23日]]:名古屋電気鉄道が津島線として枇杷島橋駅 - 須ヶ口駅 - 新津島駅(現在の津島)間を開業。
**[[6月2日]]:美濃電気軌道が笠松線として笠松口駅(初代) - 広江駅(後に廃止)間を開業。
**[[9月22日]]:名古屋電気鉄道が清洲線として須ヶ口駅 - 丸ノ内駅 - 清洲駅(後の清洲町駅)間を開業。
**[[12月14日]]:上川手駅を茶所駅へ改称届出<ref name="chizucho_teiho">[http://www.railforum.jp/ftrain/public/dl/chizucho/tokai_40-43.html 日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補 7号 東海] - 鉄道フォーラム</ref>。
**[[12月26日]]:美濃電気軌道笠松線 広江駅 - 新岐阜駅間が開業。
* [[1916年]](大正5年)
**[[2月1日]] - 笠松口駅(初代)を笠松駅 (初代)に改称<ref>[{{NDLDC|2953161/7}} 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1916年2月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[10月1日]] - 笠松駅 (初代)を笠松駅 (2代)へ移転<ref name="M01889100_52">[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]監督局『鉄道免許・名古屋鉄道(元美濃電気軌道)1・明治45年~大正5年』 「52. 笠松停車場新駅使用開始届」</ref>。
* [[1917年]](大正6年)
** 2月1日:八剣 - 境川間の印食駅廃止<ref name="chizucho_teiho"/>。
** [[5月1日]]:笠松(初代) - 八剣間の下徳田駅廃止<ref name="chizucho_teiho"/>。
* [[1921年]](大正10年)
**[[7月1日]]:名古屋電気鉄道が津島線・清洲線などを名古屋鉄道へ譲渡。
**[[9月21日]] - 竹鼻鉄道との接続のため、笠松駅 (2代)を笠松駅 (3代)へ移転し、笠松駅 (2代)および旧線区間廃止<ref name="T01635100_14">[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]監督局・[[鉄道省]]監督局『鉄道免許・竹鼻鉄道(名古屋鉄道)2・大正10年~昭和4年』 「14. 共同使用停車場竣功の件」</ref>。
* [[1924年]](大正13年)[[2月15日]]:尾西鉄道が中村線として国府宮駅 - 新一宮駅間を開業。
* [[1925年]](大正14年)[[8月1日]]:名古屋鉄道が尾西鉄道の路線を譲り受け、国府宮駅 - 新一宮駅間を国府宮支線とする。
* [[1928年]](昭和3年)
**[[1月24日]]:大和駅(現在の島氏永駅)開業。島駅・氏永駅廃止。
**[[2月3日]]:西清洲駅(現在の新清洲駅) - 国府宮駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2956794/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年2月9日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。国府宮駅 - 新一宮駅間が複線化。国府宮支線を名岐線と改称。
**[[4月10日]]:丸ノ内駅 - 西清洲駅間が開業(この日までに丸之内駅を丸ノ内駅に改称<ref name="chizucho_teiho"/>)。須ヶ口駅 - 丸ノ内駅間が複線化。須ヶ口駅 - 新一宮駅間を名岐線、丸ノ内駅 - 清洲駅間を清洲線とする。
* [[1930年]](昭和5年)
**この年までに妙興寺駅 - 新一宮駅間の花池駅廃止。
**[[8月20日]]:名古屋鉄道が美濃電気軌道を合併<ref name="ndl2957630">[{{NDLDC|2957630/23}} 『官報』1930年11月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[9月1日]]:大和駅を島氏永駅に改称。
**[[9月5日]]:名古屋鉄道が名岐鉄道に社名変更<ref name="ndl2957630" />。
* [[1935年]](昭和10年)
**[[4月29日]]:新一宮駅 - 新笠松駅(2代)間が開業。笠松口駅 - 八剣駅間に新笠松駅 (2代)開業。新笠松駅 (2代) - 広江駅間が複線化。名岐線を須ヶ口駅 - 新岐阜駅間とする。
**8月1日:名岐鉄道が愛知電気鉄道を合併、名古屋鉄道に社名変更。
* [[1936年]](昭和11年)
**5月:新笠松駅 (2代)を笠松駅 (4代)に改称<ref name="PIC816-168">渡利正彦「岐阜駅から見た名鉄の印象」、『[[鉄道ピクトリアル]]』第816巻、電気車研究会、2009年3月、 168頁。</ref>。
**[[9月15日]]:黒田駅開業。
* [[1939年]](昭和14年)[[3月1日]]:木曽川堤駅開業。
* [[1941年]](昭和16年)
**[[2月10日]]:馬寄駅を石刀駅に改称。
**[[8月12日]]:[[新名古屋地下トンネル]]が竣工し、新名古屋駅 - 枇杷島橋駅(現在の枇杷島分岐点)間が開業。枇杷島橋駅 - 須ヶ口駅間を津島線から編入し、名岐線を新名古屋駅 - 新岐阜駅間とする<ref name="MT1994-743">『名古屋鉄道百年史』 pp.743-744</ref>。
* [[1942年]](昭和17年)
**[[2月1日]]:二ツ杁駅開業。
**[[4月1日]]:この日までに名岐線境川駅(現在の岐南駅) - 茶所駅間の下川手駅、広江駅 - 新岐阜駅間の加納駅(初代)廃止。
* [[1943年]](昭和18年)[[11月1日]]:大佐土駅を大里駅に改称<ref name="chizucho_teiho"/>。
* [[1944年]](昭和19年):西枇杷島駅・増田口駅・石刀駅・八剣駅・安良田町駅(現在の加納駅)休止。
=== 豊橋線 ===
{{See also|愛知電気鉄道#豊橋線の建設から開通まで}}
豊橋側は常滑線を営業していた愛知電気鉄道により開業。神宮前駅を起点に有松線、岡崎線、豊橋線と名を変えながら豊橋へ向け1917年(大正6年)から1927年(昭和2年)にかけて順次延伸された。
沿線は[[東海道]]の宿場町として栄えていたが、[[鉄道省|官設鉄道]]の[[東海道本線|東海道線]]は豊橋駅を出ると、東海道から外れ、[[蒲郡駅]]を経由する海岸沿いのルートを取った<ref group="注釈">東海道線が東海道からはずれたルートを採用したことについては、「宿場町が反対した」という説明がしばしばなされるが、実際には裏付ける根拠に乏しく、むしろ当時の技術的制約が理由である可能性が高い。当時蒸気機関車牽引列車のみであった東海道本線の最急勾配が10‰に抑制されたのに対し、当線の名電赤坂駅 - 東岡崎駅間では16.7‰ (1/60) とされた。なお、開業時期の早い知立以西では20‰である。[[御油宿]]・[[岡崎駅]]・[[鉄道と政治#鉄道忌避伝説]]の項目も参照のこと。</ref>。このため、東海道線が開通すると、東海道沿いの宿場町は一気に廃れてしまい、鉄道の力を思い知らされることとなった。愛知電気鉄道が同線を開通するに当たり、地元は積極的に鉄道誘致に動いたため、土地買収などがうまくいき、並行して走る東海道線とは違い比較的直進するような路線になっている。
* [[1917年]](大正6年)
**[[3月7日]]:愛知電気鉄道が有松線として神宮前駅 - 笠寺駅(現在の本笠寺駅)間開業<ref>[{{NDLDC|2953498/8}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1917年3月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
**[[5月8日]]:笠寺駅 - 有松裏駅(現在の有松)間が開業<ref name="ndl2953547">[{{NDLDC|2953547/5}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1917年5月15日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1923年]](大正12年)
**[[4月1日]]:岡崎線 有松裏駅 - 新知立仮駅間が開業<ref name="ndl2955325">[{{NDLDC|2955325/9}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年4月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。有松線を岡崎線に改称。
**[[6月1日]]:南井戸田駅廃止<ref name="chizucho_teiho"/>。新知立仮駅 - 西岡崎駅(現在の岡崎公園前)間が開業<ref name="ndl2955376">[{{NDLDC|2955376/8}} 「地方鉄道運輸開始並営業哩程変更」『官報』1923年6月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。新知立駅(後の東知立駅)開業、新知立仮駅廃止。
**[[8月8日]]:西岡崎駅 - 東岡崎駅間が開業<ref name="ndl2955433">[{{NDLDC|2955433/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1923年8月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1924年]](大正13年)
**[[4月13日]]:有松裏駅 - 矢作橋駅間が複線化。
**[[10月26日]]:鳴海駅 - 有松裏駅間が複線化。
* [[1925年]](大正14年)
**[[6月5日]]:西岡崎駅を移転<ref name="Pic816">{{Cite journal|和書|author = 藤井建|title = 岡崎を中心とした名鉄電車こぼれ話|date = 2009-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 816|page=162}}</ref>。
**[[6月15日]]:岡崎線の架線電圧を1500Vに昇圧。
* [[1926年]](大正15年)4月1日:豊橋線 矢作橋駅 - 東岡崎駅間が複線化、東岡崎駅 - 小坂井駅間が複線で開業<ref name="meitetsu1994_p944">『名古屋鉄道百年史』 p.944</ref>。岡崎線を豊橋線に改称。豊川鉄道豊川駅まで乗り入れ開始。
* [[1927年]](昭和2年)
**6月1日:この日までに伊奈駅開業<ref name="chizucho_teiho"/><ref group="注釈">[{{NDLDC|1207554/204}} 鉄道省編『鉄道停車場一覧』](昭和12年10月1日現在、国立国会図書館デジタルコレクション)では9月1日開業とされているが、[{{NDLDC|2956594/5}} 『官報』](1927年6月11日、同上)には6月1日の伊奈 - 吉田間営業開始の項目にて「伊奈(旣設驛)」と記され、開業時点で既に存在したことになっている。</ref>。豊橋線 伊奈駅 - 吉田駅(現在の豊橋駅)間が開業。神宮前駅 - 吉田駅間が全通<ref name="meitetsu1994_p946">『名古屋鉄道百年史』 p.946</ref>。伊奈駅 - 小坂井駅間は小坂井支線となる。
**[[12月23日]]:東笠寺駅開業届出。
**[[12月28日]]:東笠寺駅 - 鳴海駅間が複線化。
* [[1928年]](昭和3年)[[4月15日]]:堀田駅開業。
* [[1930年]](昭和5年)
**[[4月5日]]:呼続駅 - 笠寺駅間が複線化。
**[[7月11日]]:堀田駅 - 呼続駅間が経路変更・複線化。
**[[9月20日]]:神宮前駅 - 豊橋駅間に[[超特急]]「[[愛知電気鉄道デハ3300形電車|あさひ]]」を運転開始(1938年廃止)。
* [[1931年]](昭和6年):桶狭間駅開業。
* [[1932年]](昭和7年)10月:笠寺駅 - 東笠寺駅間が複線化。
* [[1934年]](昭和9年)
**[[1月14日]]:小田渕駅開業。
**[[12月25日]]:この日までに有松裏駅 - 前後駅間の桶狭間駅廃止。
* [[1935年]](昭和10年)8月1日:名岐鉄道が愛知電気鉄道を合併、名古屋鉄道に社名変更。
* [[1936年]](昭和11年)4月1日:西岡崎駅を岡崎公園前駅に改称。
* [[1938年]](昭和13年)[[12月1日]]:愛電山中駅を名電山中駅、愛電長沢駅を名電長沢駅、愛電赤坂駅を名電赤坂駅に改称<ref>{{Cite book|和書|author =今尾恵介(監修)|year =2008|title = 日本鉄道旅行地図帳|volume=7号|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900258|page=42}}</ref>。
* [[1941年]](昭和16年)[[8月1日]]:豊橋線新知立駅と三河線知立駅(現在の三河知立駅)を統合し、知立駅に改称。
* [[1942年]](昭和17年)
**[[1月31日]]:神宮前駅 - 堀田駅間が複線化。
**[[6月10日]]:左京山駅開業。
* [[1943年]](昭和18年)
**6月1日:笠寺駅を本笠寺駅に改称。国鉄笠寺駅開業による。
**8月1日:吉田駅を豊橋駅に改称。
**[[11月1日]]:有松裏駅を有松駅に改称。
* [[1944年]](昭和19年):東笠寺駅・井戸田駅休止。
=== 名古屋本線成立 ===
名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併して名古屋鉄道が発足した後、新名古屋駅(現在の名鉄名古屋駅) - 枇杷島橋駅間が開業した。さらに神宮前駅 - 新名古屋駅間の東西連絡線が1944年(昭和19年)に開業し名岐線と豊橋線が結ばれるが、名岐線は600V電化、豊橋線は1500V電化であったため、直通運転ができず金山橋駅で乗り換えが必要だった。名岐線が1500Vに昇圧され豊橋駅 - 新岐阜駅間が名古屋本線となり、直通運転が始まったのは戦後の1948年(昭和23年)のことである。現在も社内では「東西直通線」と呼ばれている<ref group="注釈">神宮前駅 - 新名古屋駅間の閉塞信号機の呼称は東西「連絡線」を表す「連xx」となっている(複々線区間は外線が「連豊xx」・内線が「連常xx」)。ちなみに平井信号場 - 神宮前駅間は豊橋線に由来する「豊xx」、名古屋駅 - 岐阜駅間は名岐線の「名xx」である。</ref>。1990年(平成2年)、神宮前駅 - 金山駅間が複々線化された。ただし、この複々線は1駅間2.2kmのみで、神宮前駅では複々線間相互の転線も不可能になっており、列車の運用を見ても事実上[[名鉄常滑線|常滑線]]を金山駅まで延伸したという性格の方が強いことが分かる。複々線化の用地は、金山総合駅と同様に以前から確保されていて<ref group="注釈">この区間には戦前から[[日本車輌製造]]本社工場(1983年閉鎖)や熱田兵器廠(戦後は中京倉庫が進出)があり、神宮前駅との間に貨物専用線が存在した。</ref>、複々線化前の2線を下り線とし東側に貼り付け増設した2線を上り線とする形で行われた。現在の下り内線(常滑線列車用)は複々線化前の上り線を転用したものである。
[[1972年]](昭和47年)[[3月]]に[[都市交通審議会]]名古屋圏部会は神宮前駅 - [[須ヶ口駅]]間の複々線化を答申したが、新名古屋駅付近の複々線化は困難な(東側に[[名古屋市営地下鉄東山線]]の[[名古屋駅]]が、西側に[[近鉄名古屋駅]]と[[日本国有鉄道|国鉄]](現在のJR東海)の名古屋駅があるので、現地下ホームの真下にもう一つ複線を敷設するしかない)ことと、名古屋本線金山以北の混雑緩和は[[名鉄犬山線|犬山線]]と[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]の[[直通運転|相互直通運転]]開始により目途がついたことから、金山駅 - 須ヶ口駅間の複々線化については[[運輸政策審議会]]における[[1992年]](平成4年)[[1月10日]]答申第12号[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]]には答申されず、事実上中止された<ref>[[川島令三]]「<図解>日本三大都市 未完の鉄道路線 - 昭和から平成へ、東京・大阪・名古屋の未来を変える計画の真実」 - [[講談社+α文庫]]、[[2008年]](平成20年)[[10月20日]]第1刷発行 (ISBN 406281238X / ISBN 978-4062812382)</ref>。
* [[1944年]](昭和19年)
**[[9月1日]]:東西連絡線 神宮前駅 - 新名古屋駅間が開業。
**[[12月21日]]:豊橋線を金山駅 - 豊橋駅間に、名岐線を金山駅 - 新岐阜駅間に変更。
* [[1945年]](昭和20年)[[7月1日]]:金山駅を金山橋駅に改称。
* [[1948年]](昭和23年)
**[[4月18日]]:名岐線の新岐阜駅を移転し各務原線の長住町駅と統合。
**[[5月12日]]:名岐線の架線電圧を1500Vに昇圧。
**[[5月16日]]:西清洲駅を新清洲駅に改称。豊橋駅 - 新岐阜駅間を名古屋本線とし豊橋駅 - 新岐阜駅間直通運転開始。
* [[1949年]](昭和24年)
**[[3月1日]]:本御油駅を御油駅に改称。
**[[8月1日]]:休止していた西枇杷島駅営業再開。枇杷島橋駅を廃止し、枇杷島分岐点とする(信号扱い上は西枇杷島駅構内扱い)。
**[[8月27日]]:木曽川信号場廃止<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=982}}</ref>。
*[[1950年]](昭和25年)9月8日:東岡崎 - 男川間にあった万灯山側線を撤去<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=984}}</ref>。
* [[1952年]](昭和27年)3月1日:今川駅を富士松駅に改称。
* [[1953年]](昭和28年)[[7月15日]]:中京競馬場前駅開業。
* [[1956年]](昭和31年)
**9月1日:阿野駅を豊明駅に改称。
**[[9月12日]]:山王駅を中日球場前駅に改称。
**[[9月23日]]:休止していた石刀駅営業再開。
* [[1957年]](昭和32年)[[9月13日]]:広江駅 - 新岐阜駅間を新岐阜駅構内の一部を除き複線化、急曲線緩和。
* [[1958年]](昭和33年)
**[[1月10日]]:休止していた安良田町駅を加納駅として営業再開。
**[[3月16日]]:[[庄内川橋梁 (名鉄名古屋本線)|庄内川橋梁]]架替え、東枇杷島駅 - 西枇杷島駅間の急曲線緩和。
**[[11月24日]]:一ツ木駅構内の踏切にてオート三輪が特急列車と衝突、列車全焼([[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#名鉄名古屋本線一ツ木駅衝突火災事故|一ツ木駅衝突火災事故]])。
* [[1959年]](昭和34年)
**[[4月1日]]:知立駅を築堤上から地平に移転新設。旧・知立駅を名古屋本線は東知立駅(後に廃止)に、三河線は三河知立駅に分離・改称。
**[[10月11日]]:大里駅南側の踏切にてオート三輪が特急列車と衝突、脱線([[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#名鉄名古屋本線大里駅踏切衝突事故|大里駅踏切衝突事故]])。
* [[1961年]](昭和36年)[[6月12日]]:パノラマカーこと7000系電車が登場し、特急のうち毎時1本に投入される。高性能車で運転される特急の最高速度を110km/hに向上。
* [[1964年]](昭和39年)[[3月29日]]:新名古屋駅構内に停車中の急行列車に特急列車が追突([[日本の鉄道事故_(1950年から1999年)#名古屋鉄道新名古屋駅列車追突事故|新名古屋駅列車追突事故]])。
*[[1965年]](昭和40年)
**1月1日:今村駅の愛知紡績専用線(0.4 km)廃止<ref name=KList/>。
**9月1日:伊奈駅の日本ゼニスパイプ専用線(0.2 km)、堀田駅の興服産業専用線(0.2 km)廃止<ref name=KList>{{Cite book|和書|author1=清水武|author2=田中義人|author3=澤内一晃|year =2021|title = 名古屋鉄道の貨物輸送|publisher =フォト・パブリッシング|isbn=978-4802132701|page=268}}</ref>。
*[[1966年]](昭和41年)
**2月10日:須ヶ口駅の豊和工業専用線(0.1 km)廃止<ref name=KList/>。
**7月1日:美合駅の日清紡績専用線廃止<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=1018}}</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)[[4月15日]]:休止していた本星崎駅 - 本笠寺駅間の東笠寺駅廃止。
* [[1968年]](昭和43年)[[1月7日]]:牛田駅 - 知立駅間の東知立駅、加納駅 - 新岐阜駅間の広江駅廃止。
* [[1969年]](昭和44年)
**[[2月23日]]:呼続駅 - 堀田駅 - 神宮前駅間が高架橋方式により連続立体化。
**[[4月5日]]:井戸田駅・増田口駅・八剣駅廃止。
* [[1970年]](昭和45年)[[5月1日]]:今村駅を新安城駅に改称。
* [[1972年]](昭和47年)5月10日:矢作橋駅の東洋レーヨン専用線(2.8 km)廃止<ref name=KList/>。
* 昭和50年代:日本車輌専用線、中京倉庫専用線廃止(所管は国鉄[[熱田駅]]、入換業務を名鉄が担当{{refnest|group="注釈"|神宮前駅南方に国鉄・名鉄貨物授受側線があり、そこより神宮前駅構内を経由し各社専用線へ繋がっていた<ref>{{Cite book|和書|author1=清水武|author2=田中義人|author3=澤内一晃|year =2021|title = 名古屋鉄道の貨物輸送|publisher =フォト・パブリッシング|isbn=978-4802132701|page=93}}</ref>。}})<ref name=KList/>。
* [[1976年]](昭和51年)
**[[1月1日]]:中日球場前駅をナゴヤ球場前駅に改称。
**[[4月1日]]:新清洲駅に上下待避線新設<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=1038}}</ref>。
**[[12月1日]]:岡崎公園前駅を移転<ref name="Pic816"/>。
* [[1980年]](昭和55年)[[9月20日]]:境川駅を移転し岐南駅に改称。
* [[1984年]](昭和59年)8月:神宮前駅を常滑線との路線別配線から方向別配線に変更。
* [[1985年]](昭和60年):東岡崎駅に上り待避線新設。
* [[1987年]](昭和62年)11月:二ツ杁駅に上下待避線新設。
* [[1988年]](昭和63年)
**4月1日:須ヶ口駅を津島線との路線別配線から方向別配線に変更。
**4月8日:前後駅に上り待避線新設。
* [[1989年]](平成元年)[[7月9日]]:金山橋駅を移転し金山駅に改称。
* [[1990年]](平成2年)
**4月1日:金山駅 - 神宮前駅間が複々線化<ref>{{Cite news |title=名古屋本線 神宮前-金山間 複々線化工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-04-07 |page=1 }}</ref>。
**[[10月29日]]:1000系で運転される全車指定席特急の最高速度を一部区間で120km/hに向上。
* [[1992年]](平成4年)10月24日:名電長沢駅 - 本宿駅 - 名電山中駅間高架化。
* [[1993年]](平成5年)
**[[2月21日]]:島氏永駅 - 新一宮駅 - 今伊勢駅間高架化。
**[[4月]]:3500系の就役により、同系列使用の急行についても最高速度120km/h運転を開始。
* [[2002年]](平成14年)[[9月26日]]:奥田駅 - 大里駅間の大里8号踏切付近にて特急列車が普通乗用車と衝突([[日本の鉄道事故_(2000年以降)#名鉄名古屋本線衝突脱線事故|名古屋本線衝突脱線事故]])。
* [[2003年]](平成15年)
**3月27日:前後駅に下り待避線新設。
**[[10月18日]]:新岐阜駅に進入した急行列車がオーバーラン([[日本の鉄道事故_(2000年以降)#名鉄新岐阜駅電車衝突事故|新岐阜駅電車衝突事故]])。
* [[2005年]](平成17年)[[1月29日]]:新名古屋駅を名鉄名古屋駅、新一宮駅を名鉄一宮駅、新岐阜駅を名鉄岐阜駅、ナゴヤ球場前駅を山王駅に改称。木曽川堤駅 - 笠松駅間の東笠松駅廃止。
* [[2006年]](平成18年)[[11月25日]]:左京山駅 - 鳴海駅 - 本星崎間高架化。
* [[2007年]](平成19年)[[3月14日]]:全駅にトランパス導入完了(最終導入駅は木曽川堤駅)。
* [[2019年]](令和元年)11月下旬:西枇杷島駅の待避線を撤去<ref>[https://railf.jp/news/2019/12/02/182000.html 名鉄西枇杷島駅の待避線が撤去される] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年12月2日</ref>。
== 利用状況 ==
* 上り:朝ラッシュ時の最混雑区間は[[栄生駅]] → [[名鉄名古屋駅]]間で、最混雑時間帯の平均混雑率は2020年度で'''109%'''である<ref name="混雑率">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-24|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。
* 下り:朝ラッシュ時の最混雑区間は[[神宮前駅]] → [[金山駅 (愛知県)|金山駅]]間で、最混雑時間帯の平均混雑率は2020年度で'''108%'''である<ref name="混雑率" />。
最も乗降人員が多い駅は名鉄名古屋駅であり、終日にわたって各路線に直通する列車が高頻度で発車する。下り方にある[[枇杷島分岐点]]は名古屋本線の上り列車が犬山線の下り列車と平面交差するため、ダイヤ上の大きなネックとなっている。
近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{|class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center"
|-
!rowspan="3"|年度
!colspan="8"|最混雑区間輸送実績<ref name="混雑率" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/content/001365148.pdf |title=混雑率データ(令和元年度) |publisher=国土交通省 |page=4 |format=PDF |date=2020-11-01|accessdate=2020-11-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001299797.pdf|title=混雑率データ(平成30年度) |publisher=国土交通省 |page=4 |format=PDF |date=2019-07-18|accessdate=2019-07-20}}</ref><ref>「都市交通年報」各年度版</ref>
!rowspan="3"|特記事項
|-
!colspan="4"|上り:栄生 → 名鉄名古屋間!!colspan="4"|下り:神宮前 → 金山間
|-
!運転本数:本!!輸送力:人!!輸送量:人!!混雑率:%
!運転本数:本!!輸送力:人!!輸送量:人!!混雑率:%
|-
|1965年(昭和40年)
| 24 || 13,208 || style="background-color: #ccffcc;"|31,467 || style="background-color: #ffcccc;"|'''238'''
| 17 || 9,975 || style="background-color: #ccffcc;"|20,143 || style="background-color: #ffcccc;"|'''202'''
|style="text-align:left;"|下りの最混雑区間は呼続 → 堀田間
|-
|1975年(昭和50年)
| 25 || 16,680 || 35,445 || '''213'''
| 19 || 10,920 || 19,641 || '''180'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 25 || 18,696 || 36,606 || '''196'''
| 19 || 12,008 || 18,903 || '''157'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 26 || 20,020 || 36,773 || '''184'''
| 18 || 11,152 || 18,396 || '''165'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 26 || 21,922 || style="background-color: #ffcccc;"|36,970 || '''169'''
| || 19,228 || 31,075 || '''162'''
|style="text-align:left;"|下りの最混雑区間を神宮前 → 金山間に変更
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 27 || 22,284 || 35,176 || '''158'''
| || 21,446 || 32,360 || '''151'''
|
|-
|1999年(平成11年)
| 28 || 23,068 || 32,724 || '''142'''
| 35 || 23,876 || 32,105 || '''134'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 28 || 22,990 || 32,509 || '''141'''
| 36 || 24,214 || 32,280 || '''133'''
|
|-
|2001年(平成13年)
| 28 || 23,082 || 32,106 || '''139'''
| 36 || 24,426 || 32,046 || '''131'''
|
|-
|2002年(平成14年)
| 28 || 23,082 || 31,735 || '''137'''
| 36 || 24,426 || 31,717 || '''130'''
|
|-
|2003年(平成15年)
| 28 || 23,072 || 31,247 || '''135'''
| 34 || 23,684 || 31,952 || '''135'''
|
|-
|2004年(平成16年)
| || 22,718 || 31,190 || '''137'''
| || 22,538 || 31,193 || '''138'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| || 22,718 || 31,442 || '''138'''
| || 22,104 || 31,025 || '''140'''
|
|-
|2006年(平成18年)
| || 22,718 || 31,157 || '''137'''
| || 22,178 || 30,927 || '''139'''
|
|-
|2007年(平成19年)
| || 21,900 || 30,092 || '''137'''
| || 21,680 || 30,421 || '''140'''
|
|-
|2008年(平成20年)
| || 21,664 || 29,752 || '''137'''
| || 22,342 || 30,508 || '''137'''
|
|-
|2009年(平成21年)
| || 21,664 || 29,485 || '''136'''
| || 22,474 || 30,374 || '''135'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| || 21,664 || 29,506 || '''136'''
| || 22,474 || 30,597 || '''136'''
|
|-
|2011年(平成23年)
| 28 || 21,978 || 30,209 || '''137'''
| 35 || 21,858 || 29,964 || '''137'''
|
|-
|2012年(平成24年)
| 28 || 21,978 || 30,136 || '''137'''
| 35 || 21,858 || 30,084 || '''138'''
|
|-
|2013年(平成25年)
| 28 || 21,978 || 30,312 || '''138'''
| 35 || 21,858 || 30,270 || '''138'''
|
|-
|2014年(平成26年)
| 28 || 21,978 || 30,583 || '''139'''
| 35 || 21,858 || 30,442 || '''139'''
|
|-
|2015年(平成27年)
| 28 || 22,056 || 30,962 || '''140'''
| 35 || 21,936 || 30,802 || '''140'''
|
|-
|2016年(平成28年)
| 28 || 22,134 || 31,365 || '''142'''
| 35 || 21,936 || 31,059 || '''142'''
|
|-
|2017年(平成29年)
| 28 || 22,164 || 31,702 || '''143'''
| 35 || 21,936 || 31,400 || '''143'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 28 || 22,164 || 31,904 || '''144'''
| 35 || 21,936 || 31,454 || '''143'''
|
|-
|2019年(令和元年)
| 28 || 22,164 || 32,642 || '''147'''
| 35 || 21,996 || style="background-color: #ffcccc;"|32,678 || '''149'''
|
|-
|2020年(令和2年)
| 28 || 22,164 || style="background-color: #ccffff;"|24,071 || style="background-color: #ccffff;"|'''109'''
| 35 || 21,996 || style="background-color: #ccffff;"|23,788 || style="background-color: #ccffff;"|'''108'''
|
|}
== 駅一覧 ==
*停車駅は2023年3月18日からのもの。
*普通列車は各駅に停車する(表中省略)。
*JR飯田線と線路及び駅施設を共用する平井信号場 - 豊橋駅間を含む伊奈駅 - 豊橋駅間には優等列車のみが乗り入れ、普通列車は乗り入れない。
*接続路線のうち特記なき路線は名古屋鉄道の路線。一部を除き直通運転あり(詳細は[[#運行形態]]を参照)。
*ミュースカイと快速急行は神宮前駅から常滑線に直通する。
*途中駅で種別が変わる列車あり。
*臨時停車の詳細は駅記事を参照のこと。
; 凡例
: 停車駅
:: ●:標準停車駅、▼:標準停車駅(津島方面のみ)および岐阜方面・当駅終着の特別停車駅
:: △:特別停車駅、▽:特別停車駅(豊川線豊川稲荷始発列車のみ)、◇:特別停車駅(当駅発中部国際空港方面のみ)、|・↑:通過(↑:矢印の方向のみ運転)
: 待避
::|:待避不可、 ◆:上下列車とも接続追越可能、 ◇:上下列車とも通過追越のみ可能、 ▼:下りのみ接続追越可能
{| class="wikitable" style="text-align: center; font-size:90%;" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #d12027;"|駅番号
!style="width:7.5em; border-bottom:solid 3px #d12027;"|駅名
!style="text-align:center; width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d12027;"|駅間<br />キロ
!style="text-align:center; width:2.5em; border-bottom:solid 3px #d12027;"|累計<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#cdf;"|{{縦書き|急行}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#9cf;"|{{縦書き|快速急行}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#f96;"|{{縦書き|特急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#ff8080"|{{縦書き|快速特急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027; background:#fcc;"|{{縦書き|ミュースカイ}}
!style="border-bottom:solid 3px #d12027;"|接続路線・備考
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #d12027;"|{{縦書き|待避}}
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #d12027;"|所在地
|-
!NH01
|style="text-align:left;"|[[豊橋駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
||
|style="text-align:left;"|[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]・{{JR海駅番号|CA}} [[東海道本線]]〈[[東海道線 (静岡地区)|浜松方面]]・[[東海道線 (名古屋地区)|名古屋方面]]〉(CA42)・{{JR海駅番号|CD}} [[飯田線]] (CD00)<br />[[豊橋鉄道]]:{{Color|#006666|■}} [[豊橋鉄道渥美線|渥美線]]([[新豊橋駅]]: 1)・{{Color|#006666|■}} [[豊橋鉄道東田本線|東田本線]]([[駅前停留場]]: 1)
|style="text-align:center;"||
|rowspan="58" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;text-align:center;"|{{縦書き|[[愛知県]]|height=6em}}
|style="text-align:left;" colspan="2"|[[豊橋市]]
|-
!
|style="text-align:left;"|[[平井信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|(3.8)
|
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|style="text-align:left;"|JR飯田線との施設上の分岐点
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left; white-space:nowrap;" rowspan="7" colspan="2"|[[豊川市]]
|-
!NH02
|style="text-align:left;"|[[伊奈駅]]
|style="text-align:right;"|5.0
|style="text-align:right;"|5.0
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|△
|style="background:#ff8080"|△
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH03
|style="text-align:left;"|[[小田渕駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|6.6
|style="background:#cf9;"|↑
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH04
|style="text-align:left;"|[[国府駅 (愛知県)|国府駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|9.6
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|△
||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|TK}} [[名鉄豊川線|豊川線]](名鉄名古屋方面と直通あり)
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH05
|style="text-align:left;"|[[御油駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.7
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH06
|style="text-align:left;"|[[名電赤坂駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|12.5
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH07
|style="text-align:left;"|[[名電長沢駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|15.0
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH08
|style="text-align:left;"|[[本宿駅 (愛知県)|本宿駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|18.7
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|▽
|style="background:#ff8080"|▽
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|style="text-align:left;" rowspan="10" colspan="2"|[[岡崎市]]
|-
!NH09
|style="text-align:left;"|[[名電山中駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|20.4
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!
|style="text-align:left;"|[[舞木信号場]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|(21.0)
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH10
|style="text-align:left;"|[[藤川駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|23.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH11
|style="text-align:left;"|[[美合駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|25.6
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|△
|style="background:#ff8080"|▽
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH12
|style="text-align:left;"|[[男川駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|27.6
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|▽
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH13
|style="text-align:left;"|[[東岡崎駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|29.8
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH14
|style="text-align:left;"|[[岡崎公園前駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|31.1
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|style="text-align:left;"|[[愛知環状鉄道]]:{{Color|#2536a1|■}} [[愛知環状鉄道線]]([[中岡崎駅]]: 03)
|style="text-align:center;"||
|-
!NH15
|style="text-align:left;"|[[矢作橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|32.5
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|△
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"|▼
|-
!NH16
|style="text-align:left;"|[[宇頭駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|34.8
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH17
|style="text-align:left;"|[[新安城駅]]
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|38.3
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|△
||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|GN}} [[名鉄西尾線|西尾線]](名鉄名古屋方面と直通あり)
|style="text-align:center;"|◆
|style="text-align:left;" colspan="2"|[[安城市]]
|-
!NH18
|style="text-align:left;"|[[牛田駅 (愛知県)|牛田駅]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|40.9
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="2" colspan="2"|[[知立市]]
|-
!NH19
|style="text-align:left;"|[[知立駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|43.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|MU}} {{名鉄駅番号|MY}} [[名鉄三河線|三河線]]
|style="text-align:center;"||
|-
!NH20
|style="text-align:left;"|[[一ツ木駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|44.6
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="2" colspan="2"|[[刈谷市]]
|-
!NH21
|style="text-align:left;"|[[富士松駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|46.6
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH22
|style="text-align:left;"|[[豊明駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|48.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|△
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|style="text-align:left;" rowspan="2" colspan="2"|[[豊明市]]
|-
!NH23
|style="text-align:left;"|[[前後駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|49.8
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH24
|style="text-align:left;"|[[中京競馬場前駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|51.4
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|△
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|rowspan="15" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;text-align:center;"|{{縦書き|[[名古屋市]]|height=8em}}
|style="text-align:left;" rowspan="4"|[[緑区 (名古屋市)|緑区]]
|-
!NH25
|style="text-align:left;"|[[有松駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|52.7
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|△
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH26
|style="text-align:left;"|[[左京山駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|53.8
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH27
|style="text-align:left;"|[[鳴海駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|55.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|
|style="background:#f96;"|△
|style="background:#ff8080"||
||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH28
|style="text-align:left;"|[[本星崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|56.7
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="4"|[[南区 (名古屋市)|南区]]
|-
!NH29
|style="text-align:left;"|[[本笠寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|58.2
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;"|{{縦書き|常滑線直通}}
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;"|{{縦書き|常滑線直通}}
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH30
|style="text-align:left;"|[[桜駅 (愛知県)|桜駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|58.9
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH31
|style="text-align:left;"|[[呼続駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|59.9
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH32
|style="text-align:left;"|[[堀田駅 (名鉄)|堀田駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|61.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|style="text-align:left; white-space:nowrap;"|[[瑞穂区]]
|-
!NH33
|style="text-align:left;"|[[神宮前駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|62.2
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"|●
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|TA}} [[名鉄常滑線|常滑線]](名鉄名古屋方面に全列車直通)
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;"|[[熱田区]]
|-
!NH34
|style="text-align:left;"|[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|64.4
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"|●
|style="text-align:left;"|東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 (CA66)・{{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] (CF01)<br />[[名古屋市営地下鉄]]:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]] (M01)・[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]] (E01)
|style="text-align:center;"|◆
|style="text-align:left;"|[[中区 (名古屋市)|中区]]
|-
!NH35
|style="text-align:left;"|[[山王駅 (愛知県)|山王駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|66.0
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"|△
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;"|[[中川区]]
|-
!NH36
|style="text-align:left;"|[[名鉄名古屋駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|68.0
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"|●
|style="text-align:left;"|東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線・{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 (CA68)・{{JR海駅番号|CF}} 中央本線 (CF00)・{{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]] (CJ00)([[名古屋駅]])<br />[[名古屋臨海高速鉄道]]:{{Color|#334fa0|●AN}} [[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]](名古屋駅:AN01)<br />名古屋市営地下鉄:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]](名古屋駅:H08)・[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]](名古屋駅:S02)<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]]([[近鉄名古屋駅]]:E01)
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;"|[[中村区]]
|-
!NH37
|style="text-align:left;"|[[栄生駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|69.9
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|◇
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="2"|[[西区 (名古屋市)|西区]]
|-
!NH38
|style="text-align:left;"|[[東枇杷島駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|70.7
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|IY}} [[名鉄犬山線|犬山線]](名鉄名古屋方面に全列車直通)
|style="text-align:center;"||
|-
!
|style="text-align:left;"|[[枇杷島分岐点]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|(71.3)
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|style="text-align:left;"|犬山線との実際の分岐点
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="7" colspan="2"|[[清須市]]
|-
!NH39
|style="text-align:left;"|[[西枇杷島駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|71.6
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|style="text-align:left;"|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH40
|style="text-align:left;"|[[二ツ杁駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|72.2
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|△
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
!NH41
|style="text-align:left;"|[[新川橋駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|72.8
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH42
|style="text-align:left;"|[[須ヶ口駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|73.5
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|▼
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|TB}} [[名鉄津島線|津島線]](名鉄名古屋方面と直通あり)
|style="text-align:center;"||
|-
!NH43
|style="text-align:left;"|[[丸ノ内駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|74.3
|style="background:#cf9;"||
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH44
|style="text-align:left;"|[[新清洲駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|75.2
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH45
|style="text-align:left;"|[[大里駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|77.5
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|style="background:#cdf;"|△
|style="background:#9cf;"|△
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="4" colspan="2"|[[稲沢市]]
|-
!NH46
|style="text-align:left;"|[[奥田駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|78.8
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|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
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|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH47
|style="text-align:left;"|[[国府宮駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|80.9
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|style="background:#cdf;"|●
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|style="background:#fcc;"|●
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH48
|style="text-align:left;"|[[島氏永駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|82.9
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|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH49
|style="text-align:left;"|[[妙興寺駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|84.7
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|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="7" colspan="2"|[[一宮市]]
|-
!NH50
|style="text-align:left;"|[[名鉄一宮駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|86.4
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|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"|●
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|BS}} [[名鉄尾西線|尾西線]]<br />東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線([[尾張一宮駅]]: CA72)
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH51
|style="text-align:left;"|[[今伊勢駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|88.3
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|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
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|style="background:#ff8080"||
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|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH52
|style="text-align:left;"|[[石刀駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|89.2
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|style="background:#ff8080"||
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|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH53
|style="text-align:left;"|[[新木曽川駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|91.2
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|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|◆
|-
!NH54
|style="text-align:left;"|[[黒田駅 (愛知県)|黒田駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|92.1
|style="background:#cf9;"|↑
|style="background:#cdf;"||
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|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
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|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH55
|style="text-align:left;"|[[木曽川堤駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|93.9
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|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH56
|style="text-align:left;"|[[笠松駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|95.1
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"||
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|TH}} [[名鉄竹鼻線|竹鼻線]](名鉄岐阜方面と直通あり)
|style="text-align:center;"||
|rowspan="5" style="width:1em; letter-spacing:0.5em;text-align:center;"|{{縦書き|[[岐阜県]]|height=6em}}
|rowspan="2" style="width:1em; text-align:center; text-align:center;"|{{縦書き|[[羽島郡]]|height=3.5em}}
|colspan="2"|[[笠松町]]
|-
!NH57
|style="text-align:left;"|[[岐南駅]]
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|96.9
|style="background:#cf9;"|↑
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|style="text-align:left;" colspan="2"|[[岐南町]]
|-
!NH58
|style="text-align:left;"|[[茶所駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|98.3
|style="background:#cf9;"|↑
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|style="text-align:left;" rowspan="3" colspan="2"|[[岐阜市]]
|-
!NH59
|style="text-align:left;"|[[加納駅 (岐阜県)|加納駅]]
|style="text-align:right;"|0.4
|style="text-align:right;"|98.7
|style="background:#cf9;"|↑
|style="background:#cdf;"||
|style="background:#9cf;"|↑
|style="background:#f96;"||
|style="background:#ff8080"||
|style="background:#fcc;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
!NH60
|style="text-align:left;"|[[名鉄岐阜駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|99.8
|style="background:#cf9;"|●
|style="background:#cdf;"|●
|style="background:#9cf;"|●
|style="background:#f96;"|●
|style="background:#ff8080"|●
|style="background:#fcc;"|●
|style="text-align:left;"|{{名鉄駅番号|KG}} [[名鉄各務原線|各務原線]]<br />東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CA}} 東海道本線 (CA74)・{{JR海駅番号|CG}} [[高山本線]] (CG00)([[岐阜駅]])
|style="text-align:center;"|▲
|}
; 臨時停車
:* [[岡崎城下家康公夏まつり花火大会]]
:** [[国府駅 (愛知県)|国府駅]](快特)
:** [[岡崎公園前駅]](快特・特急・急行)
:** [[新安城駅]](快特)
:* [[愛知産業大学三河中学校・高等学校|愛知産業大学三河高等学校]]の試験期間日等
:** [[藤川駅]](急行)
:* [[刈谷わんさか祭り]]・花火大会
:** [[一ツ木駅]](急行)
:** [[富士松駅]](急行)
:* [[中京競馬場]]での[[中央競馬]]のレース開催日等
:** [[中京競馬場前駅]](快特・特急・急行)
:* 有松絞りまつり
:** [[有松駅]](急行)
:* [[笠覆寺|笠寺観音]]の節分会
:** [[本笠寺駅]](急行・準急)
:* 尾張西枇杷島まつり花火大会
:** [[二ツ杁駅]](急行)
:* [[尾張津島天王祭]]
:** [[須ヶ口駅]](特急)
=== 廃駅・廃止信号場 ===
名称は廃止時のもの
*[[知立信号所]](牛田駅 - 知立駅間) - 1984年4月1日頃廃止
*[[東知立駅]](牛田駅 - 知立駅間) - 1968年1月7日廃止
*桶狭間駅(中京競馬場前駅 - 有松駅間) - 1934年12月25日以前に廃止
*[[東笠寺駅]](本星崎駅 - 本笠寺駅間) - 1944年休止 1967年4月15日廃止
*南井戸田駅(呼続駅 - 堀田駅間) - 1923年6月1日廃止
*[[井戸田駅]](呼続駅 - 堀田駅間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止
*[[東枇杷島信号所]](東枇杷島駅 - 西枇杷島駅間) - 1941年8月12日廃止
*[[枇杷島橋駅]](東枇杷島駅 - 西枇杷島駅間) - 1949年8月1日廃止
*[[増田口駅]](新清洲駅 - 大里駅間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止
*[[島氏永駅|島駅]](国府宮駅 - 妙興寺駅間) - 1928年1月24日廃止、氏永駅と統合し[[島氏永駅]]に
*[[島氏永駅|氏永駅]](国府宮駅 - 妙興寺駅間) - 1928年1月24日廃止、島駅と統合し島氏永駅に
*花池駅(妙興寺駅 - 名鉄一宮駅間) - 1927-30年ごろ廃止
*木曽川信号場(位置不詳) - 1949年8月27日廃止
*[[東笠松駅]](木曽川堤駅 - 笠松駅間) - 2005年1月29日廃止
*下徳田駅(笠松駅 - 岐南駅間) - 1917年5月1日廃止
*[[八剣駅]](笠松駅 - 岐南駅間) - 1944年休止、1969年4月5日廃止
*印食駅(笠松駅 - 岐南駅間) - 1917年2月1日廃止
*[[下川手駅]](岐南駅 - 茶所駅間) - 1942年4月1日以前に廃止
*[[広江駅]](加納駅 - 名鉄岐阜駅間) - 1968年1月7日廃止
*(初代)加納駅(加納駅 - 名鉄岐阜駅間) - 1942年4月1日以前に廃止
=== 過去の接続路線 ===
*伊奈駅:[[名鉄小坂井支線]] - 1954年12月25日廃止
*東岡崎駅:[[名鉄岡崎市内線]](東岡崎駅前電停) - 1962年6月17日廃止
*本笠寺駅:[[名古屋市電]][[名古屋市電笠寺線|笠寺線]](笠寺西門前電停) - 1974年3月31日廃止
*桜駅:名古屋市電笠寺線(桜本町一丁目電停) - 1974年3月31日廃止
*堀田駅:名古屋市電[[名古屋市電東郊線|東郊線]](堀田駅前電停) - 1972年3月1日廃止
*神宮前駅:名古屋市電[[名古屋市電熱田線|熱田線]](熱田神宮前電停) - 1974年2月16日廃止
*金山駅(当時は金山橋駅):名古屋市電熱田線(金山橋電停) - 1974年3月31日廃止
*名鉄名古屋駅(当時は新名古屋駅):名古屋市電[[名古屋市電笹島線|広井町線]](名古屋駅前電停) - 1972年3月1日廃止
*丸ノ内駅:[[名鉄清洲線]] - 1948年8月3日廃止
*名鉄一宮駅(当時は新一宮駅):[[名鉄起線]] - 1952年12月24日廃止(新一宮駅乗り入れ廃止日)
*名鉄岐阜駅:[[名鉄岐阜市内線]]([[新岐阜駅前駅|新岐阜駅前]]) - 2005年4月1日廃止
== キロポストについて ==
前述のような歴史的経緯から、名古屋本線では距離を示す[[距離標|キロポスト]]が4つに分かれている。(矢印の方向にキロ数が増える)
#豊橋駅→平井信号場
#:飯田線のキロポストのみで名鉄のキロポストは存在しない。
#平井信号場←神宮前駅
#:旧愛知電気鉄道豊橋線として開通した区間を神宮前起点でキロポストを打っているため。
#神宮前駅→名鉄名古屋駅
#:東西連絡線として開通した区間を神宮前起点でキロポストを打っているため。
#名鉄名古屋駅→名鉄岐阜駅
#:旧名岐鉄道名岐線として開通した区間を名鉄名古屋起点でキロポストを打っているため。
== 立体交差化計画 ==
; 知立駅付近
: 事業主体は愛知県で、2028年度に事業完了予定<ref>{{PDFlink|[https://www.city.chiryu.aichi.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/21/renritsuminaoshi2021.pdf 事業計画の見直しについて]}} - 知立市都市開発課 鉄道高架係、2021年11月27日閲覧。</ref>。事業計画変更前は、2023年度の予定だった<ref>{{Cite web|和書|title=知立駅付近連続立体交差事業 |url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/320749_1248796_misc.pdf |publisher=愛知県 |format=PDF |accessdate=2021-11-27}}</ref>。
; 本星崎駅付近 - 呼続駅付近
: 事業主体は名古屋市。2018年12月に提示された計画段階環境配慮書においてはこの区間を一つの事業として扱っていた<ref>[https://www.city.nagoya.jp/kankyo/page/0000112176.html (仮称)都市高速鉄道名古屋鉄道名古屋本線(山崎川から天白川間連続立体交差)計画段階環境配慮書] - 名古屋市</ref>が、呼続駅付近については山崎川広域河川改修事業の一環として鉄道橋改築の都市計画決定がなされ、現在本星崎駅付近 - 桜駅付近の連続立体交差化事業について環境アセスメント手続きが進められている<ref>[https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-5-22-14-4-20-0-0-0-0.html 都市高速鉄道名古屋鉄道名古屋本線(桜駅から本星崎駅間連続立体交差)] - 名古屋市</ref>。
; 丸ノ内駅の北 - 大里駅の南間
: 2023年度に工事を着工し、2040年度に工事を完了する予定<ref>{{Cite web|和書|title=事前評価調書(案) |url=https://www.pref.aichi.jp/kensetsu-kikaku/hyoka/H29/3rd/29_3_1_jizen_doro_nagoyasobuesen.pdf |publisher=愛知県 |format=PDF |accessdate=2018-09-11}}</ref>。
; 境川 - 名鉄岐阜駅間
: 事業主体は岐阜県で、2022年2月28日に国土交通省中部地方整備局から都市計画事業の認可を取得した<ref name="岐阜県連立">{{Cite press release |和書 |title=名鉄高架化事業の都市計画事業認可取得について |url=https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/288474.pdf |publisher=岐阜県都市整備課 鉄道高架推進係 |format=PDF |date=2022-3-1 |accessdate=2022-3-5}}</ref>。2036年度事業完了予定<ref name="岐阜県連立" />。
; 新安城駅周辺
: 安城市は、連続立体交差事業に向けた調査を実施する<ref>{{Cite report |和書 |title=第9次安城市総合計画 実施計画 |url=https://www.city.anjo.aichi.jp/shisei/joreikeikaku/sogokeikaku/documents/r5jisshikeikakusyo.pdf#page=44 |publisher=安城市 |page=37 |format=PDF |accessdate=2023-12-26}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references/>
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Meitetsu Nagoya Main Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[名鉄特急]]
* [[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]・[[押切町駅]](当初のターミナル駅)
* [[名古屋地下鉄道]]([[未成線]])
* [[名岐鉄道デボ800形電車]](名岐線開業時の特急車)
* [[愛知電気鉄道電7形電車]](愛電豊橋線全通時の特急車)
* [[愛知電気鉄道デハ3300形電車]](愛電[[超特急]]「あさひ」用の特急車)
* [[名鉄3400系電車]](名鉄豊橋線用の流線型特急車)
* [[伊那路 (列車)#天龍号|天龍号]](神宮前駅 - [[豊川駅 (愛知県)|豊川駅]] - [[中部天竜駅]]間直通列車)
* [[東海道線 (名古屋地区)]] - 並行路線
== 外部リンク ==
* [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line01/index.html 名古屋本線] - 名古屋鉄道
{{名古屋鉄道路線}}
{{DEFAULTSORT:めいてつなこやほんせん}}
[[Category:中部地方の鉄道路線|なこやほんせん]]
[[Category:名古屋鉄道の鉄道路線|なこやほん]]
[[Category:愛知電気鉄道|路なこやほんせん]]
[[Category:名古屋電気鉄道|路なこやほんせん]]
[[Category:名古屋鉄道 (初代)|路なこやほんせん]]
[[Category:尾西鉄道|路なこやほんせん]]
[[Category:名岐鉄道|路なこやほんせん]]
[[Category:美濃電気軌道|路なこやほんせん]]
[[Category:愛知県の交通]]
[[Category:岐阜県の交通]]
|
2003-09-12T03:28:36Z
|
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[
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16,345 |
近鉄山田線
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山田線(やまだせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から同県伊勢市の宇治山田駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は京都線・橿原線・大阪線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
大阪線や名古屋線などを経由して、大阪・京都・名古屋方面から伊勢志摩方面への多数の特急列車が通る観光路線である。宇治山田駅から先は特急を中心に鳥羽線・志摩線に直通する列車も多数設定されている。路線名および終点の宇治山田駅の駅名は伊勢市の旧市名が宇治山田市であったことに由来する。宇治山田駅は伊勢神宮の玄関口で、その駅舎は国の登録有形文化財に登録されている。また、宇治山田駅の隣の伊勢市駅は伊勢神宮外宮の最寄駅である。2013年からは観光特急「しまかぜ」が運行されている。
松阪駅 - 伊勢市駅間で東海旅客鉄道(JR東海)の紀勢本線・参宮線と競合しているが、旧参宮街道に沿っており、ルートは並行していない。名古屋線津駅 - 松阪間も伊勢中川駅を迂回しているため並行はしていないものの、紀勢本線と競合する。しかし、JRは単線・非電化であるのに対して、近鉄は全線が複線・電化で運転本数が多い。
全線でスルッとKANSAIカードおよびJスルーカードは利用できないが、PiTaPaやICOCAのほか、TOICAやmanacaなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用が可能で、自動改札機設置が設置されている伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅・宇治山田駅を除いた各駅に簡易改札機を設置して対応している。
キロポストは大阪線からの数字を受け継いでおり、大阪上本町駅からの距離の表示となっている。ただし、山田線内の実キロ数は旧青山トンネル経由の距離が記されている。
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
特急列車のほか、松阪駅・宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅と大阪・名古屋方面とを結ぶ急行と、朝と夜に大阪方面との快速急行が運行されている。
おおむね平坦線で、松阪駅付近と宮町駅 - 宇治山田駅間を除いて急カーブがないため線形は良好であるが、速達列車の本数が多く日中を中心にそれらが2・3本続いて走る時間帯もあるため、ダイヤに余裕が盛り込まれており、さほどの全力疾走は行われない。それでも停車駅が少ないこともあって、伊勢中川駅 - 宇治山田駅間の所要時間は最短で特急が21分(表定速度81km/h)、快速急行・急行でも23分(同74km/h)となり、表定速度が高い。
日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。
終日運転されている。山田線内での停車駅は阪伊・名伊甲特急および「しまかぜ」が伊勢市駅、宇治山田駅で、それ以外の特急が伊勢中川駅、松阪駅、伊勢市駅、宇治山田駅である。多くの列車が鳥羽線五十鈴川駅・鳥羽駅・志摩線賢島駅まで直通している。
日中は大阪難波駅・大阪上本町駅発着の阪伊乙特急が各1本ずつ、近鉄名古屋駅発着の名伊乙特急が2本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には京都駅発着の京伊特急、「しまかぜ」(大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転される。また、ラッシュ時には松阪駅発着の乙特急・京伊特急も運転されており、伊勢中川駅 - 松阪駅間では最大4本 - 6本運転、松阪駅 - 宇治山田駅間でも2 - 4本の運転が確保されている。
編成両数は4 - 8両であるが、多客時の阪伊特急の増結を考慮して伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅・宇治山田駅のホーム長は最大10両まで対応可能である。山田線の特急停車駅では伊勢中川駅が増結・切り離し可能であるが定期列車は山田線内での増結・切り離しを行わない。
編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する名阪特急の編成に合わせているためである。
急行系の列車は終日運転されている。山田線内での基本停車駅は乙特急と同じであるが、朝の近鉄名古屋駅発着の一部列車は宮町駅にも停車する。
日中は近鉄名古屋駅発着の列車が1本、約1時間間隔で鳥羽線五十鈴川駅(一部は宇治山田駅まで)まで運転されており、伊勢中川駅 - 松阪駅間では近鉄名古屋駅発着の急行が2本追加されて合計3本運転されている。日中以外は大阪線から直通し鳥羽線五十鈴川駅(一部は宇治山田駅まで)まで運転される列車が追加されるほか、近鉄名古屋駅発着列車を中心とした一部の列車が鳥羽線鳥羽駅まで運転される。大阪上本町駅発着の列車のうち、松阪駅・五十鈴川駅 発着の一部列車は快速急行として運転されるが、大阪線榊原温泉口駅から鳥羽線五十鈴川駅までは停車駅や所要時間に急行との違いはない。
編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両編成が基本で、日中以外の一部列車は4両編成で運転されている。ほとんどの列車が長距離を走破するため、異常時の突発的な運用変更がない限りは必ず2610系・5200系・5820系などのトイレ付きの車両が充当されている。
山田線内では特急を待避しない。
急行通過駅の一部および鳥羽線朝熊駅・池の浦駅は終日無人駅であることや、急行停車駅間の距離が長いこともあって、不定期で車内検札が実施される場合がある。
2016年3月19日のダイヤ変更で快速急行の運転時間帯が大きく変更され、朝は6時台上り始発と平日10時台下り五十鈴川駅終着、夕刻は19時から21時台 (平日は22時台) 下り到着列車のみとなり、2018年3月17日のダイヤ変更で平日10時台下りの五十鈴川行きが消滅した。また、2016年3月18日までは朝に名張発五十鈴川行き急行が、2018年3月16日までは平日朝に1本のみ名張発松阪行き急行 が設定されていた。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。
普通列車は多くが伊勢中川駅 - 志摩線賢島駅間の運転で、ラッシュ時に伊勢中川駅 - 宇治山田駅・鳥羽線五十鈴川駅・鳥羽駅間の列車、早朝と夜間に明星駅 - 宇治山田駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、朝と夜間に名古屋線白塚駅 - 賢島駅間直通の列車がある。早朝と夜間の一部列車を除いてワンマン運転を行っている。
日中と深夜は毎時2本30分間隔での運転が基本で、朝夕のラッシュ時には毎時3本 - 最大5本の運転となる。
朝夕の一部列車を除いて2両編成で運転されているが、急行停車駅以外の各駅のホーム有効長は1992年より4両に変更されている。一部、名古屋線からの伊勢中川行きが伊勢中川駅で系統変更し宇治山田駅まで運転する(その逆もある)列車や、早朝に1本のみ明星駅始発の列車が大阪線名張駅まで直通運転されている。
特急・快速急行・急行との緩急接続はおおむね伊勢中川駅か松阪駅(松阪駅では一部列車のみ)、伊勢市駅または宇治山田駅で行われており、日中は松阪駅または櫛田駅、明星駅または明野駅のいずれか2か所で特急・急行の待避を2回以上行う。直通列車を中心に運転距離は長いものの、トイレは設置されていない。
2004年までは宮町駅にて折り返す志摩線直通列車(ワンマン運転)や大阪線名張駅・東青山駅 - 宇治山田駅間の大阪線直通列車、2009年までは下りにも1本大阪線名張発明星行きの直通列車(現在は名張発伊勢中川行きと伊勢中川発明星行きに系統分割)があった。2012年3月19日までは下りは基本的に白塚発の時点から賢島行きとして運転されるのに対し、上り列車については賢島発伊勢中川行きとして運転され、伊勢中川駅到着後に列車番号を変更し、改めて白塚行きとして継続運転するのが基本であった。
2012年3月19日まで、大阪上本町駅 - 松阪駅間に区間快速急行が運転されていた。山田線内の停車駅は乙特急や快速急行・急行と同じである。同年3月20日のダイヤ変更からは快速急行に種別を改めた。廃止前の最後期であった2011年度は、松阪駅始発の大阪上本町行き区間快速急行は平日1本、休日は2本運転(すべて早朝に運転)され、松阪駅終着の区間快速急行は平日は4本(うち1本は朝に運転)、休日は2本運転されていた。終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着も運転されていた。
上記区間快速急行の前身として、上本町駅(現在の大阪上本町駅) - 松阪駅間(1976 - 1978年は平日1本のみ名張発宇治山田行きも運行)に区間急行が運転されていた。設定時期は1964年10月1日から1970年3月21日変更前までと1976年3月18日から1978年3月18日変更前までであった。中間の1970年から1976年までは、区間急行は山田線内では運行されず、松阪駅発着列車も急行として運行されていた。
上記区間急行のさらなる前身として、上本町駅 - 松阪駅間に通勤急行が運行されていた。設定時期は1961年3月頃から1964年10月1日変更前までであった。
1983年3月18日のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間に準急が運転されていた。山田線内の停車駅は急行の全列車停車駅と同じで、一部の急行が停車する宮町駅は通過していた。また、1959年の名古屋線改軌前による1960年1月20日変更前までは、大阪線名張駅から宇治山田駅間にも準急が運転されていた。
1964年3月23日のダイヤ変更まで、近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅) - 宇治山田駅間に直行が運転されていた。山田線内は各駅停車で、通過駅は名古屋線内の米野駅 - 戸田駅間の各駅と佐古木駅のみであった(富吉駅は当時未開業)。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が運転されているほか、伊勢中川駅 - 五十鈴川駅で普通が約30分間隔で運転される形態となっている。
2019年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が各々約20 - 120分間隔、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が各々約60分間隔で運転されていたほか、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が宇治山田駅始発に変更されていた。
2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で終夜運転は行われなかった。
2021年度以降は大阪難波行きと京都行きの特急の併結特急と急行の運転が取りやめられている。
毎年7月中旬の伊勢神宮奉納全国花火大会の時には、宇治山田発伊勢中川行き急行が運転される。
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から伊勢市駅 - 志摩線賢島駅にて運転されていた観光列車。土休日の日中2往復のみ運転されており、山田線内では伊勢市駅と宇治山田駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。伊勢市駅では折り返しができないため、明星駅まで回送してから折り返していた。
大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されている。また、ワンマン列車には名古屋線所属の1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。
参宮急行電鉄により大阪から伊勢神宮への速達ルートを開く目的で建設が行われた。
開通と同じ1930年には、地元企業の伊勢電気鉄道が桑名駅 - 伊勢電津駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅間と松阪と伊勢の間で参宮急行電鉄と競合する路線を開業させている。これは、参宮急行電鉄とその親会社である大阪電気軌道が関西系の企業であり、地元企業としての意地からほぼ同時期に建設されたものである。伊勢電気鉄道は結局この無理な伊勢進出が祟って経営に行き詰ってしまい、参宮急行電鉄に買収され、同社自設の路線を参急本線としたのに対し、名古屋伊勢本線と呼ばれるようになった。
参宮急行電鉄は、子会社の関西急行電鉄によって伊勢電気鉄道が計画しつつも果たせなかった名古屋進出を1938年に達成し、後にその関西急行電鉄を買収、さらに1941年に大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となるが、この際に参急本線のうち津線(参急中川駅 - 江戸橋駅間)と接する伊勢中川駅より西の区間をそれまでの大阪電気軌道桜井線と併せて大阪線、東の区間を山田線とした(名古屋伊勢本線も名古屋線と伊勢線に分割され、津線は名古屋線に編入された)。伊勢線のうち山田線と並行する新松阪駅 - 大神宮前駅間は1942年に廃止され、江戸橋駅 - 部田駅(かつての伊勢電津駅) - 新松阪間も近畿日本鉄道発足後の1961年に廃線となった。
2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。
|
[
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"text": "山田線(やまだせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から同県伊勢市の宇治山田駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。",
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"text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は京都線・橿原線・大阪線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。",
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},
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"text": "大阪線や名古屋線などを経由して、大阪・京都・名古屋方面から伊勢志摩方面への多数の特急列車が通る観光路線である。宇治山田駅から先は特急を中心に鳥羽線・志摩線に直通する列車も多数設定されている。路線名および終点の宇治山田駅の駅名は伊勢市の旧市名が宇治山田市であったことに由来する。宇治山田駅は伊勢神宮の玄関口で、その駅舎は国の登録有形文化財に登録されている。また、宇治山田駅の隣の伊勢市駅は伊勢神宮外宮の最寄駅である。2013年からは観光特急「しまかぜ」が運行されている。",
"title": "概要"
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{
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"text": "松阪駅 - 伊勢市駅間で東海旅客鉄道(JR東海)の紀勢本線・参宮線と競合しているが、旧参宮街道に沿っており、ルートは並行していない。名古屋線津駅 - 松阪間も伊勢中川駅を迂回しているため並行はしていないものの、紀勢本線と競合する。しかし、JRは単線・非電化であるのに対して、近鉄は全線が複線・電化で運転本数が多い。",
"title": "概要"
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"text": "全線でスルッとKANSAIカードおよびJスルーカードは利用できないが、PiTaPaやICOCAのほか、TOICAやmanacaなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用が可能で、自動改札機設置が設置されている伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅・宇治山田駅を除いた各駅に簡易改札機を設置して対応している。",
"title": "概要"
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{
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"text": "キロポストは大阪線からの数字を受け継いでおり、大阪上本町駅からの距離の表示となっている。ただし、山田線内の実キロ数は旧青山トンネル経由の距離が記されている。",
"title": "概要"
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"text": "全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。",
"title": "概要"
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"text": "特急列車のほか、松阪駅・宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅と大阪・名古屋方面とを結ぶ急行と、朝と夜に大阪方面との快速急行が運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "おおむね平坦線で、松阪駅付近と宮町駅 - 宇治山田駅間を除いて急カーブがないため線形は良好であるが、速達列車の本数が多く日中を中心にそれらが2・3本続いて走る時間帯もあるため、ダイヤに余裕が盛り込まれており、さほどの全力疾走は行われない。それでも停車駅が少ないこともあって、伊勢中川駅 - 宇治山田駅間の所要時間は最短で特急が21分(表定速度81km/h)、快速急行・急行でも23分(同74km/h)となり、表定速度が高い。",
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"text": "日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。",
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"text": "終日運転されている。山田線内での停車駅は阪伊・名伊甲特急および「しまかぜ」が伊勢市駅、宇治山田駅で、それ以外の特急が伊勢中川駅、松阪駅、伊勢市駅、宇治山田駅である。多くの列車が鳥羽線五十鈴川駅・鳥羽駅・志摩線賢島駅まで直通している。",
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"text": "日中は大阪難波駅・大阪上本町駅発着の阪伊乙特急が各1本ずつ、近鉄名古屋駅発着の名伊乙特急が2本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には京都駅発着の京伊特急、「しまかぜ」(大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転される。また、ラッシュ時には松阪駅発着の乙特急・京伊特急も運転されており、伊勢中川駅 - 松阪駅間では最大4本 - 6本運転、松阪駅 - 宇治山田駅間でも2 - 4本の運転が確保されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "編成両数は4 - 8両であるが、多客時の阪伊特急の増結を考慮して伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅・宇治山田駅のホーム長は最大10両まで対応可能である。山田線の特急停車駅では伊勢中川駅が増結・切り離し可能であるが定期列車は山田線内での増結・切り離しを行わない。",
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},
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"text": "編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する名阪特急の編成に合わせているためである。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "急行系の列車は終日運転されている。山田線内での基本停車駅は乙特急と同じであるが、朝の近鉄名古屋駅発着の一部列車は宮町駅にも停車する。",
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},
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"text": "日中は近鉄名古屋駅発着の列車が1本、約1時間間隔で鳥羽線五十鈴川駅(一部は宇治山田駅まで)まで運転されており、伊勢中川駅 - 松阪駅間では近鉄名古屋駅発着の急行が2本追加されて合計3本運転されている。日中以外は大阪線から直通し鳥羽線五十鈴川駅(一部は宇治山田駅まで)まで運転される列車が追加されるほか、近鉄名古屋駅発着列車を中心とした一部の列車が鳥羽線鳥羽駅まで運転される。大阪上本町駅発着の列車のうち、松阪駅・五十鈴川駅 発着の一部列車は快速急行として運転されるが、大阪線榊原温泉口駅から鳥羽線五十鈴川駅までは停車駅や所要時間に急行との違いはない。",
"title": "運行形態"
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"text": "編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両編成が基本で、日中以外の一部列車は4両編成で運転されている。ほとんどの列車が長距離を走破するため、異常時の突発的な運用変更がない限りは必ず2610系・5200系・5820系などのトイレ付きの車両が充当されている。",
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"text": "山田線内では特急を待避しない。",
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"text": "急行通過駅の一部および鳥羽線朝熊駅・池の浦駅は終日無人駅であることや、急行停車駅間の距離が長いこともあって、不定期で車内検札が実施される場合がある。",
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},
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"text": "2016年3月19日のダイヤ変更で快速急行の運転時間帯が大きく変更され、朝は6時台上り始発と平日10時台下り五十鈴川駅終着、夕刻は19時から21時台 (平日は22時台) 下り到着列車のみとなり、2018年3月17日のダイヤ変更で平日10時台下りの五十鈴川行きが消滅した。また、2016年3月18日までは朝に名張発五十鈴川行き急行が、2018年3月16日までは平日朝に1本のみ名張発松阪行き急行 が設定されていた。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。",
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"text": "普通列車は多くが伊勢中川駅 - 志摩線賢島駅間の運転で、ラッシュ時に伊勢中川駅 - 宇治山田駅・鳥羽線五十鈴川駅・鳥羽駅間の列車、早朝と夜間に明星駅 - 宇治山田駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、朝と夜間に名古屋線白塚駅 - 賢島駅間直通の列車がある。早朝と夜間の一部列車を除いてワンマン運転を行っている。",
"title": "運行形態"
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"text": "日中と深夜は毎時2本30分間隔での運転が基本で、朝夕のラッシュ時には毎時3本 - 最大5本の運転となる。",
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"text": "朝夕の一部列車を除いて2両編成で運転されているが、急行停車駅以外の各駅のホーム有効長は1992年より4両に変更されている。一部、名古屋線からの伊勢中川行きが伊勢中川駅で系統変更し宇治山田駅まで運転する(その逆もある)列車や、早朝に1本のみ明星駅始発の列車が大阪線名張駅まで直通運転されている。",
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"text": "特急・快速急行・急行との緩急接続はおおむね伊勢中川駅か松阪駅(松阪駅では一部列車のみ)、伊勢市駅または宇治山田駅で行われており、日中は松阪駅または櫛田駅、明星駅または明野駅のいずれか2か所で特急・急行の待避を2回以上行う。直通列車を中心に運転距離は長いものの、トイレは設置されていない。",
"title": "運行形態"
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"text": "2004年までは宮町駅にて折り返す志摩線直通列車(ワンマン運転)や大阪線名張駅・東青山駅 - 宇治山田駅間の大阪線直通列車、2009年までは下りにも1本大阪線名張発明星行きの直通列車(現在は名張発伊勢中川行きと伊勢中川発明星行きに系統分割)があった。2012年3月19日までは下りは基本的に白塚発の時点から賢島行きとして運転されるのに対し、上り列車については賢島発伊勢中川行きとして運転され、伊勢中川駅到着後に列車番号を変更し、改めて白塚行きとして継続運転するのが基本であった。",
"title": "運行形態"
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"text": "2012年3月19日まで、大阪上本町駅 - 松阪駅間に区間快速急行が運転されていた。山田線内の停車駅は乙特急や快速急行・急行と同じである。同年3月20日のダイヤ変更からは快速急行に種別を改めた。廃止前の最後期であった2011年度は、松阪駅始発の大阪上本町行き区間快速急行は平日1本、休日は2本運転(すべて早朝に運転)され、松阪駅終着の区間快速急行は平日は4本(うち1本は朝に運転)、休日は2本運転されていた。終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着も運転されていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "上記区間快速急行の前身として、上本町駅(現在の大阪上本町駅) - 松阪駅間(1976 - 1978年は平日1本のみ名張発宇治山田行きも運行)に区間急行が運転されていた。設定時期は1964年10月1日から1970年3月21日変更前までと1976年3月18日から1978年3月18日変更前までであった。中間の1970年から1976年までは、区間急行は山田線内では運行されず、松阪駅発着列車も急行として運行されていた。",
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"text": "上記区間急行のさらなる前身として、上本町駅 - 松阪駅間に通勤急行が運行されていた。設定時期は1961年3月頃から1964年10月1日変更前までであった。",
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"text": "1983年3月18日のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間に準急が運転されていた。山田線内の停車駅は急行の全列車停車駅と同じで、一部の急行が停車する宮町駅は通過していた。また、1959年の名古屋線改軌前による1960年1月20日変更前までは、大阪線名張駅から宇治山田駅間にも準急が運転されていた。",
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"text": "1964年3月23日のダイヤ変更まで、近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅) - 宇治山田駅間に直行が運転されていた。山田線内は各駅停車で、通過駅は名古屋線内の米野駅 - 戸田駅間の各駅と佐古木駅のみであった(富吉駅は当時未開業)。",
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"text": "2019年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が各々約20 - 120分間隔、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が各々約60分間隔で運転されていたほか、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が宇治山田駅始発に変更されていた。",
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"text": "2021年度以降は大阪難波行きと京都行きの特急の併結特急と急行の運転が取りやめられている。",
"title": "運行形態"
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"text": "2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から伊勢市駅 - 志摩線賢島駅にて運転されていた観光列車。土休日の日中2往復のみ運転されており、山田線内では伊勢市駅と宇治山田駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。伊勢市駅では折り返しができないため、明星駅まで回送してから折り返していた。",
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"text": "大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されている。また、ワンマン列車には名古屋線所属の1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。",
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"text": "参宮急行電鉄により大阪から伊勢神宮への速達ルートを開く目的で建設が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "開通と同じ1930年には、地元企業の伊勢電気鉄道が桑名駅 - 伊勢電津駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅間と松阪と伊勢の間で参宮急行電鉄と競合する路線を開業させている。これは、参宮急行電鉄とその親会社である大阪電気軌道が関西系の企業であり、地元企業としての意地からほぼ同時期に建設されたものである。伊勢電気鉄道は結局この無理な伊勢進出が祟って経営に行き詰ってしまい、参宮急行電鉄に買収され、同社自設の路線を参急本線としたのに対し、名古屋伊勢本線と呼ばれるようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "参宮急行電鉄は、子会社の関西急行電鉄によって伊勢電気鉄道が計画しつつも果たせなかった名古屋進出を1938年に達成し、後にその関西急行電鉄を買収、さらに1941年に大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となるが、この際に参急本線のうち津線(参急中川駅 - 江戸橋駅間)と接する伊勢中川駅より西の区間をそれまでの大阪電気軌道桜井線と併せて大阪線、東の区間を山田線とした(名古屋伊勢本線も名古屋線と伊勢線に分割され、津線は名古屋線に編入された)。伊勢線のうち山田線と並行する新松阪駅 - 大神宮前駅間は1942年に廃止され、江戸橋駅 - 部田駅(かつての伊勢電津駅) - 新松阪間も近畿日本鉄道発足後の1961年に廃線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。",
"title": "駅一覧"
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山田線(やまだせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から同県伊勢市の宇治山田駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は京都線・橿原線・大阪線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 山田線
|路線色 = #00b3c1
|ロゴ = [[File:KT number-M.svg|40px|M]]
|画像 = KINTETSU50000 20140121A.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 斎宮駅 - 漕代駅間を走行する<br>[[近鉄50000系電車|50000系「しまかぜ」]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[三重県]][[松阪市]]、[[多気郡]][[明和町 (三重県)|明和町]]、[[伊勢市]]
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|所有者 = <!-- [[大阪電気軌道|参宮急行電鉄→関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
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|title=停車場・施設・接続路線
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|map=<!-- 経路図の横幅を狭く保つため、一行を全角9文字(キロ程除く)以下に押さえています。加筆の際にはご配慮下さい。煩雑になるため高架解消、乗り入れ線区省略(乗り入れ廃止もあるため)しています。-->
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{{BS4|exKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||8.4|M64 [[松阪駅]]||}}
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{{BS6|exKHSTe|STRc1|STR+4|STR|||||''[[大神宮前駅]]''|}}
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{{BS6|uexKRWgl|uexKRW+r|STRl|KRZo|STRq|uxmKRZu|||JR東海:参宮線|}}
{{BS6|uexLSTR|uexLSTR||STR||uexSTR||||}}
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{{BS6|uexSTRl|uexSTRfq|uexBHFq|O3=HUBe|emKRZo|uexSTRfq|uexSTRr||||}}
{{BS2||STR|||[[近鉄鳥羽線|{{近鉄駅番号|M}} 鳥羽線]]|}}
}}
[[ファイル:Kintetsu Yamada line Kushida-gawa Railway bridge 20120808.jpg|thumb|櫛田川橋梁]]
'''山田線'''(やまだせん)は、[[三重県]][[松阪市]]の[[伊勢中川駅]]から同県[[伊勢市]]の[[宇治山田駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''M'''。番号部分は[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]から続く番号([[京都駅]]を01とみなす)になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf |title=駅ナンバリングを全線で実施します 〜あわせて案内サインや放送での多言語対応を拡充します〜 |date=2015-08-19 |access-date=2023-10-02 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。
== 概要 ==
大阪線や[[近鉄名古屋線|名古屋線]]などを経由して、[[大阪難波駅|大阪]]・[[京都駅|京都]]・[[近鉄名古屋駅|名古屋]]方面から[[伊勢志摩]]方面への多数の[[近鉄特急|特急列車]]が通る観光路線である。宇治山田駅から先は特急を中心に[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]・[[近鉄志摩線|志摩線]]に直通する列車も多数設定されている。路線名および終点の宇治山田駅の駅名は[[伊勢市]]の旧市名が宇治山田市であったことに由来する<ref>{{Cite web|和書|title=宇治山田駅 |url=https://ise-kanko.jp/purpose/ujiyamadastaition/ |website=公益社団法人 伊勢市観光協会 |access-date=2023-02-10 |language=ja}}</ref>。宇治山田駅は[[伊勢神宮]]の玄関口で、その駅舎は国の[[登録有形文化財]]に登録されている。また、宇治山田駅の隣の[[伊勢市駅]]は[[豊受大神宮|伊勢神宮外宮]]の最寄駅である。[[2013年]]からは観光特急「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」が運行されている。
[[松阪駅]] - 伊勢市駅間で[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[紀勢本線]]・[[参宮線]]と競合しているが、旧[[参宮街道]]に沿っており、ルートは並行していない。名古屋線[[津駅]] - 松阪間も伊勢中川駅を迂回しているため並行はしていないものの、紀勢本線と競合する。しかし、JRは[[単線]]・[[非電化]]であるのに対して、近鉄は全線が[[複線]]・[[鉄道の電化|電化]]で運転本数が多い。
全線で[[スルッとKANSAI]]カードおよび[[Jスルーカード]]は利用できないが、[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]のほか、[[TOICA]]や[[manaca]]などの[[ICカード]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用が可能で、[[自動改札機]]設置が設置されている伊勢中川駅・松阪駅・伊勢市駅・宇治山田駅を除いた各駅に簡易改札機を設置して対応している。
[[距離標|キロポスト]]は大阪線からの数字を受け継いでおり、[[大阪上本町駅]]からの距離の表示となっている。ただし、山田線内の実キロ数は旧[[新青山トンネル|青山トンネル]]経由の距離が記されている。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):28.3 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:14駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:130 km/h<ref name="terada" />
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
== 運行形態 ==
{{See also|近鉄大阪線#運行形態|近鉄名古屋線#運行形態|近鉄鳥羽線#運行形態|近鉄志摩線#運行形態}}
[[近鉄特急|特急列車]]のほか、[[松阪駅]]・[[宇治山田駅]]・[[五十鈴川駅]]・[[鳥羽駅]]と[[大阪上本町駅|大阪]]・[[近鉄名古屋駅|名古屋]]方面とを結ぶ[[急行列車|急行]]と、朝と夜に大阪方面との[[快速急行]]が運行されている。
おおむね平坦線で、松阪駅付近と宮町駅 - 宇治山田駅間を除いて急カーブがないため線形は良好であるが、速達列車の本数が多く日中を中心にそれらが2・3本続いて走る時間帯もあるため、ダイヤに余裕が盛り込まれており、さほどの全力疾走は行われない。それでも停車駅が少ないこともあって、伊勢中川駅 - 宇治山田駅間の所要時間は最短で特急が21分(表定速度81km/h)、快速急行・急行でも23分(同74km/h)となり、表定速度が高い。
=== 運行本数 ===
日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
|-
|+日中の運行パターン
!駅名<br />\<br />種別
!直通先
!style="width:1em;"|{{縦書き|伊勢中川|height=5em}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|松阪|height=5em}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|宇治山田|height=5em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|鳥羽線直通|height=5em}}
|- style="text-align:center;"
|style="background:#ff8080;" rowspan="2"|特急 ||colspan="1" style="text-align:right"|←[[近鉄名古屋線|名古屋線]] [[近鉄名古屋駅]]||colspan="6" style="background:#ff8080;"|2本
|- style="text-align:center;"
|colspan="1" style="text-align:right"|←[[近鉄大阪線|大阪線]]経由[[近鉄難波線|難波線]] [[大阪難波駅]]||colspan="6" style="background:#ff8080;"|1本
|- style="text-align:center;"
|style="background:#f96;" rowspan="2"|急行 ||colspan="1" style="text-align:right"|←近鉄名古屋駅||colspan="6" style="background:#f96;"|1本
|- style="text-align:center;"
|colspan="1" style="text-align:right"|←近鉄名古屋駅||colspan="3" style="background:#f96;"|2本 ||colspan="3"|
|- style="text-align:center;"
|style="background:#ccc;" rowspan="1" |普通 || style="text-align:right"| ||colspan="6" style="background:#ccc;"|2本
|}
=== 特急 ===
[[ファイル:KINTETSU22600 20141120B.JPG|thumb|right|250px|[[櫛田駅]] - [[東松阪駅]]間を走行する[[近鉄22600系電車|22600系Ace]]の阪伊特急(上)と名伊特急(下)]]
{{Main|近鉄特急}}
終日運転されている。山田線内での停車駅は阪伊・名伊甲特急および[[近鉄特急#観光特急「しまかぜ」(大阪・京都・名古屋 - 伊勢志摩間)|「しまかぜ」]]が[[伊勢市駅]]、宇治山田駅で、それ以外の特急が伊勢中川駅、松阪駅、伊勢市駅、宇治山田駅である。多くの列車が鳥羽線五十鈴川駅・[[鳥羽駅]]・志摩線[[賢島駅]]まで直通している。
日中は[[大阪難波駅]]・[[大阪上本町駅]]発着の[[近鉄特急#阪伊特急(大阪 - 伊勢志摩間)|阪伊乙特急]]が各1本ずつ、[[近鉄名古屋駅]]発着の[[近鉄特急#名伊特急(名古屋 - 伊勢志摩間)|名伊乙特急]]が2本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には[[京都駅]]発着の[[近鉄特急#京伊特急(京都 - 伊勢志摩間)|京伊特急]]、[[近鉄特急#観光特急「しまかぜ」(大阪・京都・名古屋 - 伊勢志摩間)|「しまかぜ」]](大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転される。また、ラッシュ時には松阪駅発着の乙特急・京伊特急も運転されており、[[伊勢中川駅]] - 松阪駅間では最大4本 - 6本運転、松阪駅 - 宇治山田駅間でも2 - 4本の運転が確保されている。
編成両数は4 - 8両であるが、多客時の阪伊特急の増結を考慮して伊勢中川駅・松阪駅・[[伊勢市駅]]・宇治山田駅のホーム長は最大10両まで対応可能である<ref group="*">但し、宇治山田駅の1・2番線の行き止まりホームの有効長は6両。</ref>。山田線の特急停車駅では伊勢中川駅が増結・切り離し可能であるが定期列車は山田線内での増結・切り離しを行わない<ref group="*">定期特急列車は主に大阪上本町駅・大和八木駅・名張駅・鳥羽駅・賢島駅で連結・切り離しを行っている。</ref>。
編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する[[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|名阪特急]]の編成に合わせているためである<ref group="*">名阪特急運用の設定が存在しない[[近鉄50000系電車|50000系「しまかぜ」]]、[[近鉄23000系電車|23000系「伊勢志摩ライナー」]]は除く。</ref>。
=== 快速急行・急行 ===
急行系の列車は終日運転されている。山田線内での基本停車駅は乙特急と同じであるが、朝の近鉄名古屋駅発着の一部列車は[[宮町駅]]にも停車する。
日中は近鉄名古屋駅発着の列車が1本、約1時間間隔で[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]][[五十鈴川駅]](一部は[[宇治山田駅]]まで)まで運転されており、伊勢中川駅 - 松阪駅間では近鉄名古屋駅発着の急行が2本追加されて合計3本運転されている<ref group="*">1本は快速「みえ」の対抗上1989年3月変更より伊勢中川発着の急行の半数以上を松阪駅まで延長したもの。もう1本は2012年3月変更より日中の伊勢中川駅折り返しを松阪駅まで延長したものである。</ref>。日中以外は大阪線から直通し鳥羽線五十鈴川駅(一部は宇治山田駅まで)まで運転される列車が追加されるほか、近鉄名古屋駅発着列車を中心とした一部の列車が鳥羽線鳥羽駅まで運転される。[[大阪上本町駅]]発着の列車のうち、松阪駅・五十鈴川駅<ref group="*">2012年3月変更までは五十鈴川駅発着の定期快速急行は上りの大阪上本町行きのみで、下りの五十鈴川行きは年末年始やイベント開催などの臨時列車としての運転であった。このダイヤ変更で休日下りのみ新設され、2014年9月21日のダイヤ変更でさらに増便された。</ref> 発着の一部列車は快速急行として運転されるが、大阪線[[榊原温泉口駅]]から鳥羽線五十鈴川駅までは停車駅や所要時間に急行との違いはない。
編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両編成が基本で、日中以外の一部列車は4両編成で運転されている。ほとんどの列車が長距離を走破するため、異常時の突発的な運用変更がない限りは必ず[[近鉄2600系電車#2610系|2610系]]・[[近鉄5200系電車|5200系]]・[[近鉄5820系電車|5820系]]などの[[列車便所|トイレ]]付きの車両が充当されている。
山田線内では特急を待避しない。
急行通過駅の一部および鳥羽線朝熊駅・池の浦駅は終日無人駅であることや、急行停車駅間の距離が長いこともあって、不定期で車内検札が実施される場合がある。
2016年3月19日のダイヤ変更で快速急行の運転時間帯が大きく変更され、朝は6時台上り始発と平日10時台下り五十鈴川駅終着、夕刻は19時から21時台 (平日は22時台) 下り到着列車のみとなり、2018年3月17日のダイヤ変更で平日10時台下りの五十鈴川行きが消滅した。また、2016年3月18日までは朝に名張発五十鈴川行き急行が、2018年3月16日までは平日朝に1本のみ名張発松阪行き急行<ref group="*">名張行き急行として運転したものが名張駅で松阪行き急行に系統変更して延長運転したもの。2012年3月20日のダイヤ変更まではほぼ同時刻を区間快速急行として設定されていたものである。</ref> が設定されていた。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。
=== 普通 ===
普通列車は多くが伊勢中川駅 - [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]間の運転で、ラッシュ時に伊勢中川駅 - 宇治山田駅・鳥羽線五十鈴川駅・[[鳥羽駅]]間の列車、早朝と夜間に[[明星駅]] - 宇治山田駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、朝と夜間に名古屋線[[白塚駅]] - 賢島駅間直通の列車がある。早朝と夜間の一部列車を除いて[[ワンマン運転]]を行っている。
日中と深夜は毎時2本30分間隔での運転が基本で、朝夕のラッシュ時には毎時3本 - 最大5本の運転となる。
朝夕の一部列車を除いて2両編成で運転されているが、急行停車駅以外の各駅のホーム[[有効長]]は[[1992年]]より4両に変更されている。一部、名古屋線からの伊勢中川行きが伊勢中川駅で系統変更し宇治山田駅まで運転する(その逆もある)列車や、早朝に1本のみ明星駅始発の列車が大阪線名張駅まで直通運転されている。
特急・快速急行・急行との緩急接続はおおむね伊勢中川駅か松阪駅(松阪駅では一部列車のみ)、伊勢市駅または宇治山田駅で行われており、日中は松阪駅または[[櫛田駅]]、明星駅または[[明野駅]]のいずれか2か所で特急・急行の待避を2回以上行う。直通列車を中心に運転距離は長いものの、トイレは設置されていない<ref group="*">ただし、宇治山田7時00分発名古屋線白塚行き普通がL/Cカーもしくはトイレ付きの4両編成で運転されており、稀に転換クロスシート車の5200系も充当されるため、名古屋線系統ではクロスシート車両が充当される唯一の普通列車である。</ref>。
[[2004年]]までは宮町駅にて折り返す志摩線直通列車(ワンマン運転)や大阪線名張駅・[[東青山駅]] - 宇治山田駅間の大阪線直通列車、[[2009年]]までは下りにも1本大阪線名張発明星行きの直通列車(現在は名張発伊勢中川行きと伊勢中川発明星行きに系統分割)があった。2012年3月19日までは下りは基本的に白塚発の時点から賢島行きとして運転されるのに対し、上り列車については賢島発伊勢中川行きとして運転され、伊勢中川駅到着後に列車番号を変更し、改めて白塚行きとして継続運転するのが基本であった。
=== 過去にあった種別 ===
==== 区間快速急行 ====
[[2012年]][[3月19日]]まで、大阪上本町駅 - 松阪駅間に[[快速急行|区間快速急行]]が運転されていた。山田線内の停車駅は乙特急や快速急行・急行と同じである。同年3月20日のダイヤ変更からは快速急行に種別を改めた。廃止前の最後期であった2011年度は、松阪駅始発の大阪上本町行き区間快速急行は平日1本、休日は2本運転(すべて早朝に運転)され、松阪駅終着の区間快速急行は平日は4本(うち1本は朝に運転)、休日は2本運転されていた。終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着も運転されていた。
==== 区間急行 ====
上記区間快速急行の前身として、上本町駅(現在の大阪上本町駅) - 松阪駅間(1976 - 1978年は平日1本のみ名張発宇治山田行きも運行<ref>『近鉄時刻表』、近畿日本鉄道発行、1977年号</ref>)に区間急行が運転されていた。設定時期は[[1964年]][[10月1日]]から[[1970年]][[3月21日]]変更前までと[[1976年]][[3月18日]]から[[1978年]]3月18日変更前までであった。中間の1970年から1976年までは、区間急行は山田線内では運行されず、松阪駅発着列車も急行として運行されていた。
==== 通勤急行 ====
上記区間急行のさらなる前身として、上本町駅 - 松阪駅間に通勤急行が運行されていた。設定時期は[[1961年]]3月頃から1964年10月1日変更前までであった。
==== 準急 ====
[[1983年]][[3月18日]]のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間に[[準急列車|準急]]が運転されていた。山田線内の停車駅は急行の全列車停車駅と同じで、一部の急行が停車する宮町駅は通過していた。また、[[1959年]]の名古屋線改軌前による[[1960年]][[1月20日]]変更前までは、大阪線[[名張駅]]から宇治山田駅間にも準急が運転されていた。
==== 直行 ====
[[1964年]][[3月23日]]のダイヤ変更まで、近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅) - 宇治山田駅間に[[直行 (列車)|直行]]が運転されていた。山田線内は各駅停車で、通過駅は名古屋線内の[[米野駅]] - [[戸田駅 (愛知県)|戸田駅]]間の各駅と[[佐古木駅]]のみであった([[富吉駅]]は当時未開業)。
=== 大晦日終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が運転されているほか、伊勢中川駅 - 五十鈴川駅で普通が約30分間隔で運転される形態となっている。
2019年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が各々約20 - 120分間隔、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が各々約60分間隔で運転されていたほか、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が宇治山田駅始発に変更されていた。
2020年度は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で終夜運転は行われなかった。
2021年度以降は大阪難波行きと京都行きの特急の併結特急と急行の運転が取りやめられている。
=== 臨時列車 ===
{{see also|近鉄大阪線#臨時列車・臨時停車|近鉄名古屋線#臨時列車・臨時停車}}
毎年7月中旬の[[伊勢神宮奉納全国花火大会]]の時には、宇治山田発伊勢中川行き急行が運転される。
=== 観光列車「つどい」 ===
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から伊勢市駅 - 志摩線賢島駅にて運転されていた観光列車<ref name="つどい">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2014年1月号 {第633号} p.56 - p61</ref>。土休日の日中2往復のみ運転されており、山田線内では伊勢市駅と宇治山田駅に停車していた<ref name="つどい" />。車両は専用形式の[[近鉄2000系電車|2013系]]が充当された<ref name="つどい" />。伊勢市駅では折り返しができないため、明星駅まで回送してから折り返していた。
== 車両 ==
{{Main2|詳細は「[[近鉄大阪線#車両]]」・「[[近鉄名古屋線#車両]]」を、特急については「[[近鉄特急]]」を}}
大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されている。また、ワンマン列車には名古屋線所属の1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。
== 歴史 ==
[[参宮急行電鉄]]により大阪から[[伊勢神宮]]への速達ルートを開く目的で建設が行われた。
開通と同じ1930年には、地元企業の[[伊勢電気鉄道]]が[[桑名駅]] - [[部田駅|伊勢電津駅]] - [[新松阪駅]] - [[大神宮前駅]]間と[[松阪市|松阪]]と[[伊勢市|伊勢]]の間で参宮急行電鉄と競合する路線を開業させている。これは、参宮急行電鉄とその親会社である[[大阪電気軌道]]が関西系の企業であり、地元企業としての意地からほぼ同時期に建設されたものである。伊勢電気鉄道は結局この無理な伊勢進出が祟って経営に行き詰ってしまい、参宮急行電鉄に買収され、同社自設の路線を'''参急本線'''としたのに対し、'''名古屋伊勢本線'''と呼ばれるようになった<ref name="100ayumi_p156">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.156</ref>。
参宮急行電鉄は、子会社の関西急行電鉄によって伊勢電気鉄道が計画しつつも果たせなかった名古屋進出を1938年に達成し、後にその関西急行電鉄を買収、さらに1941年に大阪電気軌道と合併して関西急行鉄道となるが、この際に参急本線のうち津線(参急中川駅 - 江戸橋駅間)と接する伊勢中川駅より西の区間をそれまでの大阪電気軌道桜井線と併せて'''[[近鉄大阪線|大阪線]]'''、東の区間を'''山田線'''とした(名古屋伊勢本線も[[近鉄名古屋線|名古屋線]]と[[近鉄伊勢線|伊勢線]]に分割され、津線は名古屋線に編入された)<ref name="100ayumi_p156" />。伊勢線のうち山田線と並行する新松阪駅 - 大神宮前駅間は1942年に廃止され、江戸橋駅 - 部田駅(かつての伊勢電津駅) - 新松阪間も近畿日本鉄道発足後の1961年に廃線となった。
=== 年表 ===
* [[1930年]]([[昭和]]5年)
** [[3月27日]]:参宮急行電鉄により松阪駅 - 外宮前駅(現在の宮町駅)が開業。
** [[5月18日]]:参急中川駅(現在の伊勢中川駅) - 松阪駅間が開業。
** [[9月21日]]:外宮前駅 - 山田駅(現在の伊勢市駅)間が開業。
** [[12月20日]]:現在の大阪線全通により上本町駅(現在の大阪上本町駅) - 山田駅間直通運転開始。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[3月17日]]:山田駅 - 宇治山田駅間が開業し全通。
** [[7月4日]]:小俣駅開業。
* [[1933年]](昭和8年)[[3月20日]]:外宮前駅を宮町駅に改称<ref>鉄道省監督局「[{{NDLDC|2363895/92}} 地方鉄道、軌道事業の現況並に異動]」『電気協会雑誌』第196号、日本電気協会、1938年4月、附録4頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1937年]](昭和12年)[[11月3日]]:参急松江駅を廃止し、名古屋伊勢本線との乗り換え駅として松ヶ崎駅開業。
* [[1941年]](昭和16年)[[3月15日]]:[[大阪電気軌道]]が参宮急行電鉄を合併、関西急行鉄道となる。伊勢中川駅 - 宇治山田駅間を山田線とする。参急中川駅を伊勢中川駅に、参急中原駅を伊勢中原駅に改称。
* [[1943年]](昭和18年)[[10月23日]]:漕代駅開業。
* [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:関西急行鉄道が[[南海電気鉄道|南海鉄道]]と合併、近畿日本鉄道設立。
* [[1945年]](昭和20年)6月1日:東松阪駅休止。
* [[1946年]](昭和21年)3月15日:東松阪駅営業再開。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[7月15日]]:山田駅を伊勢市駅に改称。
** [[12月12日]]:近畿日本名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅) - 宇治山田駅間直通運転開始。
* [[1968年]](昭和43年)[[3月1日]]:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=主要線区 ATS取付完成 近鉄、三月一日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-27 |page=1 }}</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月18日]]:特急の120km/h運転開始。
** この年:3扉転換クロスシート車両[[近鉄5200系電車|5200系]]の営業運転開始。
* [[1992年]]([[平成]]4年)3月:櫛田駅・明野駅に通過線が設置され、輸送力が増強される。
* [[1994年]](平成6年)3月15日:[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)の営業運転開始<!--(当初は阪伊甲特急・名伊甲特急に限定運用)-->。特急の130km/h運転開始。
* [[1996年]](平成8年)
** 2月:2610系2621Fを改造したL/Cカー試作編成の試験運用開始。
** 3月15日:<!--23000系を京伊特急(・京奈特急)にも運用開始。-->阪伊特急・名伊特の運行体制見直し(一部列車の臨時列車格下げなど)が始まる。
* [[1997年]](平成9年)8月:新造L/Cカー(5800系:大阪・名古屋線用は5810番台)の営業運転開始。(※1997年から1998年にかけて、2610系2626F・2627Fおよび2800系2811F・2813F・2815Fの各編成もL/Cカーに改造。)
* [[1998年]](平成10年)[[3月17日]]:23000系を阪伊乙特急・名伊乙特急にも運用開始。
* [[2001年]](平成13年)
** [[3月22日]]:日中の伊勢中川駅 - 宇治山田駅間普通の本数を毎時3本から毎時2本に削減<ref>{{Cite journal ja-jp |year=2001 |month=04 |title=RAILWAY TOPICS - 近鉄がUSJ開業にあわせてダイヤ改正 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻414号 |page= 94 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[5月30日]]:宮町駅 - 宇治山田駅間においてワンマン運転開始。
* [[2002年]](平成14年):シリーズ21(5820系:大阪線用は5850番台)の営業運転開始。
* [[2003年]](平成15年)[[3月6日]]:京伊特急の一部が大和八木 - 賢島間で阪伊乙特急と併結運転。京伊特急の全列車が伊勢中川駅にも停車。
* [[2004年]](平成16年)3月18日:全区間でワンマン運転開始。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]]:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2010年]](平成22年)4月1日:伊勢中川駅 - 宇治山田駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)の運用開始<ref name="knnews100330">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100330KRONOS.pdf 名古屋列車運行管理システム「KRONOS」が運用開始します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年3月30日</ref>
* [[2013年]](平成25年)[[3月21日]]:観光特急[[近鉄50000系電車|50000系]](しまかぜ)の営業運転開始。
* [[2014年]](平成26年)3月25日 - 28日:天皇・皇后の三重訪問に伴う[[お召し列車]]が、近鉄名古屋駅 - 宇治山田駅間に運転される(往路:25日、復路:28日)。50000系を充当。<ref>[http://iseshima.keizai.biz/headline/1992/ 両陛下、式年遷宮後の伊勢神宮へ-近鉄「しまかぜ」に乗って] - [[伊勢志摩経済新聞]]([[みんなの経済新聞ネットワーク]])、2014年3月25日</ref>
== 駅一覧 ==
* 全駅[[三重県]]内に所在。
* ●:停車、▲:一部の列車が停車、|↓:通過(↓:宇治山田方面のみ運転)
* 普通列車は省略:各駅に停車。快速急行は下りのみ運転。
* 特急列車は[[近鉄特急]]を参照。
* <nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅。明星駅には車庫が所在。
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!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|駅番号
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|[[伊勢中川駅]]#
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D61)(普通が[[名張駅]]、急行・快速急行が[[大阪上本町駅]]、特急が{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]][[大阪難波駅]]及び {{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]][[京都駅]]まで直通運転)・{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]] (E61)([[近鉄名古屋駅]]まで直通運転)
|rowspan="7"|[[松阪市]]
|-
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|[[伊勢中原駅]]
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|東海旅客鉄道:{{Color|#f77321|■}}[[紀勢本線]]・{{Color|#f77321|■}}[[名松線]]
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|rowspan="5"|[[伊勢市]]
|-
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|[[小俣駅 (三重県)|小俣駅]]
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|-
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|[[伊勢市駅]]
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|[[宇治山田駅]]#
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄鳥羽線|鳥羽線]](急行・快速急行が[[鳥羽駅]]まで、他は{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]まで直通運転)
|-
|}
=== 主要駅の乗降客数 ===
[[2018年]][[11月13日]]調査による主要駅の乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/b.html 駅別乗降人員 山田線 鳥羽線 志摩線] - 近畿日本鉄道</ref>。
* 伊勢中川 7,264人
* 松阪 12,876人
* 斎宮 1,372人
* 明星 1,310人
* 明野 2,061人
* 宮町 1,227人
* 伊勢市 7,727人
* 宇治山田 8,650人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*「まるごと近鉄ぶらり沿線の旅」(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 河出書房新社 2005年) ISBN 4309224393
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄1」(著者・編者 諸河久・杉谷広規、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 458650904X
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄2」(著者・編者 諸河久・山辺誠、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 4586509058
*「近鉄時刻表」各号 (著者・編者 [[近畿日本鉄道]]、出版・発行 同左)
*「鉄道ピクトリアル'03年1月号増刊 特集:近畿日本鉄道」(著者・編者 電気車研究会 出版・発行 同左)
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
*[[みえ (列車)]]
*[[鮮魚列車]]
*[[近江鉄道宇治山田延伸構想]]
{{近畿日本鉄道の路線}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|やまたせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|やまた]]
[[Category:関西急行鉄道|路]]
[[Category:参宮急行電鉄|路]]
[[Category:三重県の交通|きんてつやまたせん]]
|
2003-09-12T03:52:12Z
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2023-12-31T00:03:45Z
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16,348 |
山田線
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山田線(やまだせん)は、岩手県盛岡市にある盛岡駅から同県宮古市の宮古駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。
下閉伊郡山田町を目指して建設されたことから「山田線」と名付けられた。岩手県の県庁所在地である盛岡市と沿岸地域の拠点都市である宮古市を結ぶ路線で、全線で閉伊街道(国道106号)に沿って山間部を横断する。
盛岡市と宮古市を結ぶ路線ではあるが、マイカーの普及が進んでいることに加えて、並行する国道106号を運行する106急行バスの影響により、当路線による都市間移動の需要は少なく、沿線地域の通学、通勤など生活需要を中心に担うローカル線となっている。
盛岡から順に延伸を繰り返しながら、1939年(昭和14年)に釜石駅までの全線が開通した。
もともとは盛岡駅から宮古駅・陸中山田駅を通り沿岸南部の釜石駅までの路線だったが、宮古 - 釜石間は2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災により大きな被害を受けて不通となり、2019年(平成31年)3月23日に三陸鉄道リアス線として復旧の上で経営移管された。これにより、山田線は山田町を通らなくなり、路線名だけに「山田」の名前が残ることになった。
宮古 - 釜石間がJRで運行されていた当時から全線を直通する定期列車は設定されておらず、盛岡 - 宮古間と宮古 - 釜石間で運行系統が分断されていた。後者の区間は三陸海岸沿いを走り、気仙沼線・大船渡線・三陸鉄道・八戸線とともに「三陸縦貫鉄道」を構成していた。
2010年までの夏季(7月 - 8月)には気仙沼線、大船渡線、三陸鉄道南リアス線、当時は山田線の一部だった宮古 - 釜石間、三陸鉄道北リアス線および八戸線を経由して仙台 - 八戸間を走破する臨時快速列車「リアス・シーライナー」も運行されていたが(後節および列車記事も参照)、東日本大震災後は経由路線が被災し一部区間は鉄道としては復旧されず廃止となったため運行されなくなった。
盛岡 - 陸中山田間は、盛岡と三陸地方を結ぶ鉄道として、1892年公布の鉄道敷設法にすでに規定されていた区間である。測量調査が行われたものの、盛岡 - 宮古間で標高 1,000 m を超す北上山地(区界峠、標高 751 m)を越えるため、予定線の検討は行われたが、建設は具体化しないままとなっていた。地元岩手県出身の原敬が首相となった1920年に至って漸く建設が決定され、1923年から1935年にかけて開業した。
陸中山田以南の区間は、改正鉄道敷設法別表第7号に規定する「岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」の一部で、三陸縦貫鉄道を構成する予定線であったが、釜石までの区間は、前述の区間に引き続いて戦前の1939年までに開業したものの、釜石以南については戦後の建設、開業となり、後の三陸鉄道南リアス線となっている。
盛岡 - 宮古間は大部分の区間が人口希薄な山岳地帯である。俗説では、この路線を敷設するかどうかを帝国議会で審議した際、野党憲政会は猛烈に反対し、同党議員は「こんな所に鉄道を敷いて、首相は山猿でも乗せるつもりか」と首相の原敬を非難した。これに対し原は「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と、平然と答弁した、と伝えられている。ただし、質疑のあったとされる第43回帝国議会の速記録に記録は残されていない。
この猿に関する話は、山田線の予算通過の翌月に原と共に盛岡を訪れて講演した元鉄道大臣の元田肇が、予算審議の際強硬に反対した貴族院の中村是公をやり玉に挙げて『貴族院の中村是公のごときは、「盛岡より山田に至る間はボウボウたる原野にして猿住める国なり、国家は巨費を投じて猿を乗せんとするや」と極端な反対をなせり、余はこれに答えて大森林や鉱山の天与の宝庫である、なんの不利なるや、と反論したのである。』と語った内容に尾ひれが付いて広まったものと考えられる。また、1920年(大正9年)7月21日の貴族院鉄道敷設法中改正法律案特別委員会に際して、公正会所属の辻太郎が山田線の着工に反対する意見を繰り返した後、北海道の上川駅 - 北見滝ノ上駅間の鉄道(改正鉄道敷設法別表第139号「石狩国「ルベシベ」ヨリ北見国滝ノ上ニ至ル鉄道」。未成線となった)の建設に関する質疑で、「北海道の中央のこれこそ熊のほかにいない所であると私は思うておる。がここに大都市でもございますのですか。私が今まで想像しておるところでは、この地方は熊の巣だと思うておりますが、この図ではわかりませぬが、大都市がこの中に二つか三つかございますのか、あるいは大鉱山とかいうて、こういう貨物のトン数がどっさり出るところがあるのですか」と質問し、鉄道省建設局長の大村鋿太郎が「これは森林が北海道一といわれるくらいな森林のあるところです。この国境付近は...それでございますから、この材木の欠乏の時期にこういう線を造りますれば非常な材木が出るまた薪炭も非常に出る、そのうえに国境の前後には、原野がありまして開墾に適した地が多くあります。(中略)よほど有望な線だと思っております。熊の巣は熊の巣ですが、熊の巣を開いたならば大変な財源になるのではないかと思っております」と答弁しており、路線を取り違えて、熊と猿が入れ替わって伝えられた可能性がある、という意見もある。
だが実際には開業後、盛岡 - 宮古間は満員で座ることができず、立ち通しのことも少なくなかったという。もともと、この区間には1906年から乗合馬車の運行が行われ、1913年には盛宮自動車により岩手県では初となる路線バスの運行も開始されており、鉄道開業前から一定の流動は存在した。1950年の釜石線全通以前、山田線は岩手県北部における唯一の海岸部と内陸の直通路線であり、特に1939年の全通後は戦時体制を背景に、釜石製鐵所や釜石鉱山を擁した釜石と東北線とを直接連絡する鉄道ルートとして、日夜を通しての貨物輸送に貢献した。
太平洋戦争後の1946年11月、山田線は風水害により平津戸 - 蟇目間が長期運休となった。全線復旧に1954年までの8年間を要した大災害であり、その代替として GHQ の指示により釜石線の改築・全通が促進された。釜石線全通に伴い、釜石から内陸への貨物輸送メインルートは同線に移り、山田線の相対的地位は低下することになった。なお、この災害に際し沿岸側に取り残された機関車を搬出するため、青函連絡船「十勝丸」を宮古港に回漕して船積みすることで対処したエピソードがある。
その後も、1980年に集中豪雨、2008年に岩手県沿岸北部地震、2011年には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2015年には土砂崩れ(山田線列車脱線事故)の影響で、一部または全線で不通となっている(詳しくは下述の年表を参照)。
1987年7月から、廃線となっていた宮古 - 宮古港間の貨物線を利用して、蒸気機関車の復活運転が実施された。これは、地元の「甦れSL C10-8運営協議会」が宮古市のラサ工業株式会社の専用線で使用されていたC10 8に貨車改造の客車2両を連結し、SLリアス線「しおかぜ号」として1989年までの夏休み期間および9 - 10月の休日に運行したものである。鉄道事業ではなく遊戯施設扱いであったが、宮古市役所前のはまぎく駅からうみねこ駅までの1.4kmで、途中にミニ浄土ヶ浜公園前駅が設けられていた。
また、1992年にも「三陸・海の博覧会」に協賛して、市役所前 - 白浜丸発着所間の約 0.5 km で機関車のみの展示運転を実施している。この展示運転に使用されたC10 8は、1994年4月に大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡され、2023年現在も動態保存機として本線上で列車を牽引している。
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、宮古 - 釜石間 (55.4km) では、21.7kmが浸水、13駅中4駅や線路の1割、鉄橋など6か所、盛土10か所が破壊された。この区間の復旧について、JR東日本は、2012年6月25日の公共交通確保会議(沿線4市町や岩手県などで構成。震災で被災したJR山田線の鉄道復旧までの公共交通確保策について協議する)において、本復旧は安全の確保、まちづくりとの整合性など、各地で課題が多く、資金調整も含め相当時間がかかるとし、気仙沼線、大船渡線と同様に山田線についても、BRTにより仮復旧する案を正式提案した。(BRT(バスによる高速輸送)は一般車両の立ち入れないバス専用道路にて運行することにより鉄道並みの定時性を確保するとともに停車駅や運行本数を増やすことができる。また鉄道よりはるかに低コストで運行できる。)鉄道用地を舗装して専用道にする、費用はJR東日本が負担する、ただし山田線は被災した鉄橋が多いため、鉄路が山側に迂回している部分などは並行して走る国道45号を使い、専用道は約10kmほどとする、JR東日本が運行主体になり、車両もJRが購入する、運賃は鉄道と同程度とし、増便や駅の増設も進める、というものである。
この山田線BRT構想に対して、沿線4市町は、
などを理由に拒否、7月9日にJR東日本に通告し、同時に鉄道での復旧を求めたため、山田線BRT化の話はいったん消えることとなった。
2013年9月25日に盛岡市で開かれた第6回山田線復興調整会議において、JR東日本は山田線にBRTを導入することを再提案。従前のBRT案では専用道区間が短いという批判に対し、再提案では津波で流出した宮古市の閉伊川橋、山田町の第一織笠川橋、大槌町の大槌川橋、小槌川橋の4橋を復旧させるなどし、専用道の総延長を従来提案より約16km増やした25.3km(宮古 - 釜石間の46%)とすることで、鉄道では約70分の宮古 - 釜石間をBRTで最短で約80分とする(代替バスの約100分に比べかなり鉄道レベルに近づく)。しかし、この案に対して、地元4市町は再び拒否した。
2014年1月31日の第7回山田線復興調整会議においてJR東日本は、210億円と試算された復旧費用のうち線路や設備などの原状回復に伴う140億円を自社で負担すると明言した上で(復興まちづくりに伴うかさ上げや移転費の残り70億円は公的資金を活用して自治体などが負担)、被災した線路や駅舎を復旧させ、10年間の赤字補填分などとして5億円を負担し、当区間の運行事業を三陸鉄道に、線路などの鉄道施設を三陸鉄道と沿線4市町にそれぞれ無償で譲渡、経営移管する(運営形態は三陸鉄道の南北各リアス線と同様、運行と施設保有を分ける「上下分離方式」となる)案を示した。JR東日本によると、南北で分断されている三陸鉄道の2路線がつながり一体運営することで、地域密着型でコンパクトな経営を行い、持続可能性の高い運営形態を実現できるとしている。一方、この案に対して、赤字路線を引き継ぐことで新たな財政負担を抱えることになる山田町と大槌町は慎重な態度をとった。
また、岩手県とJR東日本は7月に同区間の現地調査を実施。JRは現状復旧費140億円の負担方針は既に示していたが、被災を免れた区間(全体の約8割の46キロ)についても、全線の9割強を三陸鉄道と同等の太くて高規格の新しいレールに交換し、木製枕木をコンクリート製に交換、さびた橋の塗装、トンネルの修繕などを実施する方針を示した(費用は非公表)。
同年8月7日の山田線復興調整会議において、岩手県と三陸12市町村は、
という2点を確認。岩手県はその後、JR東日本に、
の4点を要請、同時に、国にも一定の支援を求めることとなった。
同年11月25日、JR東日本と交渉してきた県は、盛岡市で開いた首長会議において沿岸12市町村長らに、JR東日本から、
などの提案があったことを報告。12市町村は議会や住民に説明し、県と市町村は12月議会などを経て年内に改めて会議を開き、受け入れるかどうかを最終決定することとなった。山本正徳宮古市長、野田武則釜石市長、またこれまで負担額を懸念していた佐藤信逸山田町長、碇川豊大槌町長も、12月上旬に相次いで、移管案を受け入れる旨、前向きな見解を表明。12月24日、達増拓也岩手県知事、沿岸12市町村長、望月正彦三陸鉄道社長らが盛岡市で開かれた会議にて、移管受け入れについては合意(JR東日本からの移管協力金30億円の使途については継続協議)、2015年の年明けにも基本合意を結ぶこととなった。これを受けて、12月26日、達増拓也岩手県知事と山本正徳宮古市市長が東京都内で冨田哲郎JR東日本社長と会談し、三陸鉄道への移管を受け入れる方針を伝えた。
不通区間の復旧工事は2015年3月7日に着工した。復旧費用210億円のうちJR東日本が140億円を負担し、残りの70億円を復興交付金から支出、全線復旧は2018年度の見込みになることが発表された。当初計画では2016年開催の希望郷いわて国体までに宮古駅 - 豊間根駅間および鵜住居駅 - 釜石駅間を先行して復旧させて三陸鉄道の路線として開業する予定であったが、岩手県や沿線自治体は、部分復旧した場合CTC未整備などにより安全上に問題があるとして、全線一括での復旧を要請することとし、2015年7月31日には全線一括復旧を基本方針とする協定書が締結された。
三陸鉄道への移管区間の路線名については「三陸鉄道リアス線」とする計画であるが、現在の北リアス線と南リアス線の区間についても移管区間と同じく「リアス線」と路線名を改称して統一することを検討、2017年12月25日の同社取締役会で正式に「リアス線」に統一することが決定した。また、山田線の釜石-宮古間については、新設予定の「宮古短大」「払川」を除き、現在の駅名を使用することとした。その一方でJR東日本の路線としては陸中山田駅などがある山田町を通らなくなることとなるが、山田線として残存する区間の正式路線名の改称については、2017年11月9日現在「名称は白紙」(=未定)と同社より公式に発表されている。
2018年7月18日までに同区間の復旧工事のうち、建築工事が全て完了し、同区間のレールが全線で締結され、宮古 - 釜石間のレールが全線で繋がった。これを受けて、建築物の強度確認のために、同年8月21日からディーゼル機関車による試運転が順次実施された。その後、11月には完成した駅舎の見学会を実施した。
2019年に入ってからは移管に向けた準備が本格化し、同年1月28日から三陸鉄道の車両と乗務員による試運転、訓練運転が開始された。1月31日には移管区間の事業の実施主体(第一種鉄道事業者)のJR東日本から三陸鉄道への変更などを定めた鉄道事業再構築実施計画が地域公共交通活性化再生法に基づき認定された。
三陸鉄道は、宮古 - 釜石間の運行を2019年3月23日に開始した。
線路名称上の起点は盛岡駅であるが、2018年3月17日のダイヤ改正までは釜石駅で接続する釜石線などとあわせて盛岡駅に向かう列車が下り扱い(列車番号が奇数)となっていた。
運行本数は少なく、特に、全区間を直通する列車は1日に4往復のみとなる。そのうち1往復半(下り2本、上り1本)は、主要駅停車の快速「リアス」である。ワンマン運転は行われていない。
また、盛岡駅 - 上米内駅間、川内駅 - 宮古駅間、茂市駅 - 宮古駅間の区間列車の設定がある。このうち盛岡駅 - 上米内駅間は、通勤輸送として朝に2往復(うち1往復は休日運休)の設定があり、200人程度の利用を支えている。年によっては上米内駅近くにある浄水場内の「しだれ桜」の開花時期に臨時列車を設定している。なお、上米内駅より見える高台にある「桜台団地」から朝夕の列車に片接続するバスが走っている。
この盛岡駅 - 宮古駅間に人的輸送需要が無いわけではなく、山田線にほぼ並行している国道106号には盛岡駅前 - 宮古駅前間直通の「106急行バス」が頻繁に(ほぼ1時間に1本)運行されており、山田線は極めて不利である。この状況に対して、JR東日本盛岡支社は、車両の置き換えによる車内居住性向上や新幹線との接続強化による首都圏との到達時間短縮などを行っており、2007年にキハ52・58系気動車からキハ110系気動車(キハE130系が投入された水郡線からの転属車両)に置き換えられ、非冷房車は姿を消した。
最近は、車両の変更のほか、部分的ではあるが改修工事が進んでいる。特に無人駅の駅舎建て替え、レールの重量化や長大トンネル内のロングレール化、枕木のPC化などである。2008年3月15日のダイヤ改正では速度査定をキハ110系に変更して計算上のスピードアップを行っている(盛岡 - 宮古間2分弱のスピードアップ)。無人駅の駅舎建て替えについて、盛岡支社管内では、旧国鉄時代に建築され現在不使用となっている駅舎(駅務室スペースや物置など)の建物面積に対する固定資産税が多いためコスト削減の目的で省スペースな待合室のみの駅舎へ建て替えられているケースが多い。
2011年には東日本大震災の影響で、茂市駅 - 宮古駅間の閉塞方式をスタフ閉塞式に変更し臨時ダイヤで運行していた期間があった。
2018年4月22日からCTC化された(先行して同年3月25日より閉塞方式を連査閉塞式から特殊自動閉塞式へ変更し、区界駅を棒線化)。CTC化に伴い運転扱いを行っていた上米内・区界・川内・茂市の各駅と、簡易委託駅であった陸中川井駅の5駅は無人化された。その結果、駅員配置駅が盛岡駅と宮古駅のみとなり、途中駅がすべて無人駅となった。
2013年9月30日から2016年3月末までの約2年半、盛岡市とJR東日本盛岡支社が連携し、盛岡市の都市交通における公共交通機関の利用促進の一環として、盛岡駅 - 上米内駅間の利便性向上を図ることを目的に、最終列車の延長等の社会実験を行っていた。その後、さらに1年間社会実験を延長し、2017年3月まで実施した。しかし、乗車人員数が目標値に達せず、増便は終了となった。
臨時列車としては、ハイブリッド気動車HB-E300系「リゾートあすなろ」編成を使って、主に土休日に運転される「さんりくトレイン宮古」や年末年始の「ふるさと宮古」、冬に開催される宮古真鱈まつりに合わせて運転される「宮古真鱈号」などがある。
以前は、一般形車両を使用した臨時快速「三陸」・「みやこ」も運転されていた。
前述のとおり、この区間は東日本大震災のため運休していたが、復旧後の2019年3月に三陸鉄道へ移管された。下記は震災前の運行形態を示している。
車両は釜石線と共通運用のキハ100形(「快速はまゆり」と間合い運用される列車はキハ110系)気動車と、三陸鉄道南リアス線・北リアス線から乗り入れてくる36-100形気動車を使用していた。なお、三陸鉄道移管後の当区間ではワンマン運転を行っているが、JR運行当時はJR車両による列車、三陸鉄道直通列車の両方とも、ワンマン運転を行っていなかった。
盛岡駅 - 宮古駅間より本数が多く、1時間から2時間に1本程度の運行になっていた。宮古駅 → 盛岡駅間には釜石線経由で快速「はまゆり」1本が運転されていた。また、三陸鉄道南リアス線・北リアス線と相互直通運転を行っており、震災前の時点では1往復が三陸鉄道の車両で運行されていた。イベント列車として仙台駅 - 八戸駅間に三陸縦貫列車「リアス・シーライナー」が夏季に運転されていた。
かつては、山田線 - 釜石線 - 東北本線を回る盛岡発盛岡行きの循環急行「そとやま」・「五葉」が設定されていた。 また、釜石製鉄所が高炉を24時間体制で操業していた時代には、釜石線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を午前1時25分に発車し、終着の陸中山田には午前2時22分に到着していた。
2007年11月24日をもって盛岡 - 宮古間におけるキハ52形、キハ58形気動車の運用は終了し、非冷房車は姿を消した(キハ110系は2007年10月21日から一部運用開始)。なお、キハ58系気動車は機関1台あたりの出力が小さく、山田線のような急勾配線区においては全車2台機関搭載車とせざるを得なかったとこと、キハ65のような冷房電源の付いた高出力気動車は配属されなかったこと、さらに山田線沿線はやませの影響を受けやすい事情もあり、最後まで冷房装置の取り付けは行なわれなかった。
全線盛岡支社の管轄である。
区間ごとの平均通過人員は以下のとおりである。国鉄時代から特定地方交通線なみの数値であったが、1987年(昭和62年)時点で代替輸送道路が未整備であったため、第3次廃止対象特定地方交通線から除外された。なお、東日本大震災以前は、現在もJR東日本が運営する盛岡 - 宮古間よりも、三陸鉄道に移管された宮古 - 釜石間のほうが平均通過人員が多かった。
廃止区間の駅は前節を参照。
盛岡 - 上米内間を(盛岡市内を走るLRTの一路線としての)都市路線として利用すべく提言を行っている団体がある。
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"text": "山田線(やまだせん)は、岩手県盛岡市にある盛岡駅から同県宮古市の宮古駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。",
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"text": "下閉伊郡山田町を目指して建設されたことから「山田線」と名付けられた。岩手県の県庁所在地である盛岡市と沿岸地域の拠点都市である宮古市を結ぶ路線で、全線で閉伊街道(国道106号)に沿って山間部を横断する。",
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"text": "盛岡市と宮古市を結ぶ路線ではあるが、マイカーの普及が進んでいることに加えて、並行する国道106号を運行する106急行バスの影響により、当路線による都市間移動の需要は少なく、沿線地域の通学、通勤など生活需要を中心に担うローカル線となっている。",
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"text": "盛岡から順に延伸を繰り返しながら、1939年(昭和14年)に釜石駅までの全線が開通した。",
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"text": "もともとは盛岡駅から宮古駅・陸中山田駅を通り沿岸南部の釜石駅までの路線だったが、宮古 - 釜石間は2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災により大きな被害を受けて不通となり、2019年(平成31年)3月23日に三陸鉄道リアス線として復旧の上で経営移管された。これにより、山田線は山田町を通らなくなり、路線名だけに「山田」の名前が残ることになった。",
"title": "概要"
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"text": "宮古 - 釜石間がJRで運行されていた当時から全線を直通する定期列車は設定されておらず、盛岡 - 宮古間と宮古 - 釜石間で運行系統が分断されていた。後者の区間は三陸海岸沿いを走り、気仙沼線・大船渡線・三陸鉄道・八戸線とともに「三陸縦貫鉄道」を構成していた。",
"title": "概要"
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"text": "2010年までの夏季(7月 - 8月)には気仙沼線、大船渡線、三陸鉄道南リアス線、当時は山田線の一部だった宮古 - 釜石間、三陸鉄道北リアス線および八戸線を経由して仙台 - 八戸間を走破する臨時快速列車「リアス・シーライナー」も運行されていたが(後節および列車記事も参照)、東日本大震災後は経由路線が被災し一部区間は鉄道としては復旧されず廃止となったため運行されなくなった。",
"title": "概要"
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"text": "盛岡 - 陸中山田間は、盛岡と三陸地方を結ぶ鉄道として、1892年公布の鉄道敷設法にすでに規定されていた区間である。測量調査が行われたものの、盛岡 - 宮古間で標高 1,000 m を超す北上山地(区界峠、標高 751 m)を越えるため、予定線の検討は行われたが、建設は具体化しないままとなっていた。地元岩手県出身の原敬が首相となった1920年に至って漸く建設が決定され、1923年から1935年にかけて開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "陸中山田以南の区間は、改正鉄道敷設法別表第7号に規定する「岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」の一部で、三陸縦貫鉄道を構成する予定線であったが、釜石までの区間は、前述の区間に引き続いて戦前の1939年までに開業したものの、釜石以南については戦後の建設、開業となり、後の三陸鉄道南リアス線となっている。",
"title": "歴史"
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"text": "盛岡 - 宮古間は大部分の区間が人口希薄な山岳地帯である。俗説では、この路線を敷設するかどうかを帝国議会で審議した際、野党憲政会は猛烈に反対し、同党議員は「こんな所に鉄道を敷いて、首相は山猿でも乗せるつもりか」と首相の原敬を非難した。これに対し原は「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と、平然と答弁した、と伝えられている。ただし、質疑のあったとされる第43回帝国議会の速記録に記録は残されていない。",
"title": "歴史"
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"text": "この猿に関する話は、山田線の予算通過の翌月に原と共に盛岡を訪れて講演した元鉄道大臣の元田肇が、予算審議の際強硬に反対した貴族院の中村是公をやり玉に挙げて『貴族院の中村是公のごときは、「盛岡より山田に至る間はボウボウたる原野にして猿住める国なり、国家は巨費を投じて猿を乗せんとするや」と極端な反対をなせり、余はこれに答えて大森林や鉱山の天与の宝庫である、なんの不利なるや、と反論したのである。』と語った内容に尾ひれが付いて広まったものと考えられる。また、1920年(大正9年)7月21日の貴族院鉄道敷設法中改正法律案特別委員会に際して、公正会所属の辻太郎が山田線の着工に反対する意見を繰り返した後、北海道の上川駅 - 北見滝ノ上駅間の鉄道(改正鉄道敷設法別表第139号「石狩国「ルベシベ」ヨリ北見国滝ノ上ニ至ル鉄道」。未成線となった)の建設に関する質疑で、「北海道の中央のこれこそ熊のほかにいない所であると私は思うておる。がここに大都市でもございますのですか。私が今まで想像しておるところでは、この地方は熊の巣だと思うておりますが、この図ではわかりませぬが、大都市がこの中に二つか三つかございますのか、あるいは大鉱山とかいうて、こういう貨物のトン数がどっさり出るところがあるのですか」と質問し、鉄道省建設局長の大村鋿太郎が「これは森林が北海道一といわれるくらいな森林のあるところです。この国境付近は...それでございますから、この材木の欠乏の時期にこういう線を造りますれば非常な材木が出るまた薪炭も非常に出る、そのうえに国境の前後には、原野がありまして開墾に適した地が多くあります。(中略)よほど有望な線だと思っております。熊の巣は熊の巣ですが、熊の巣を開いたならば大変な財源になるのではないかと思っております」と答弁しており、路線を取り違えて、熊と猿が入れ替わって伝えられた可能性がある、という意見もある。",
"title": "歴史"
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"text": "だが実際には開業後、盛岡 - 宮古間は満員で座ることができず、立ち通しのことも少なくなかったという。もともと、この区間には1906年から乗合馬車の運行が行われ、1913年には盛宮自動車により岩手県では初となる路線バスの運行も開始されており、鉄道開業前から一定の流動は存在した。1950年の釜石線全通以前、山田線は岩手県北部における唯一の海岸部と内陸の直通路線であり、特に1939年の全通後は戦時体制を背景に、釜石製鐵所や釜石鉱山を擁した釜石と東北線とを直接連絡する鉄道ルートとして、日夜を通しての貨物輸送に貢献した。",
"title": "歴史"
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"text": "太平洋戦争後の1946年11月、山田線は風水害により平津戸 - 蟇目間が長期運休となった。全線復旧に1954年までの8年間を要した大災害であり、その代替として GHQ の指示により釜石線の改築・全通が促進された。釜石線全通に伴い、釜石から内陸への貨物輸送メインルートは同線に移り、山田線の相対的地位は低下することになった。なお、この災害に際し沿岸側に取り残された機関車を搬出するため、青函連絡船「十勝丸」を宮古港に回漕して船積みすることで対処したエピソードがある。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "その後も、1980年に集中豪雨、2008年に岩手県沿岸北部地震、2011年には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2015年には土砂崩れ(山田線列車脱線事故)の影響で、一部または全線で不通となっている(詳しくは下述の年表を参照)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 14,
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"text": "1987年7月から、廃線となっていた宮古 - 宮古港間の貨物線を利用して、蒸気機関車の復活運転が実施された。これは、地元の「甦れSL C10-8運営協議会」が宮古市のラサ工業株式会社の専用線で使用されていたC10 8に貨車改造の客車2両を連結し、SLリアス線「しおかぜ号」として1989年までの夏休み期間および9 - 10月の休日に運行したものである。鉄道事業ではなく遊戯施設扱いであったが、宮古市役所前のはまぎく駅からうみねこ駅までの1.4kmで、途中にミニ浄土ヶ浜公園前駅が設けられていた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "また、1992年にも「三陸・海の博覧会」に協賛して、市役所前 - 白浜丸発着所間の約 0.5 km で機関車のみの展示運転を実施している。この展示運転に使用されたC10 8は、1994年4月に大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡され、2023年現在も動態保存機として本線上で列車を牽引している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災により、宮古 - 釜石間 (55.4km) では、21.7kmが浸水、13駅中4駅や線路の1割、鉄橋など6か所、盛土10か所が破壊された。この区間の復旧について、JR東日本は、2012年6月25日の公共交通確保会議(沿線4市町や岩手県などで構成。震災で被災したJR山田線の鉄道復旧までの公共交通確保策について協議する)において、本復旧は安全の確保、まちづくりとの整合性など、各地で課題が多く、資金調整も含め相当時間がかかるとし、気仙沼線、大船渡線と同様に山田線についても、BRTにより仮復旧する案を正式提案した。(BRT(バスによる高速輸送)は一般車両の立ち入れないバス専用道路にて運行することにより鉄道並みの定時性を確保するとともに停車駅や運行本数を増やすことができる。また鉄道よりはるかに低コストで運行できる。)鉄道用地を舗装して専用道にする、費用はJR東日本が負担する、ただし山田線は被災した鉄橋が多いため、鉄路が山側に迂回している部分などは並行して走る国道45号を使い、専用道は約10kmほどとする、JR東日本が運行主体になり、車両もJRが購入する、運賃は鉄道と同程度とし、増便や駅の増設も進める、というものである。",
"title": "歴史"
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"text": "この山田線BRT構想に対して、沿線4市町は、",
"title": "歴史"
},
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"text": "などを理由に拒否、7月9日にJR東日本に通告し、同時に鉄道での復旧を求めたため、山田線BRT化の話はいったん消えることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "2013年9月25日に盛岡市で開かれた第6回山田線復興調整会議において、JR東日本は山田線にBRTを導入することを再提案。従前のBRT案では専用道区間が短いという批判に対し、再提案では津波で流出した宮古市の閉伊川橋、山田町の第一織笠川橋、大槌町の大槌川橋、小槌川橋の4橋を復旧させるなどし、専用道の総延長を従来提案より約16km増やした25.3km(宮古 - 釜石間の46%)とすることで、鉄道では約70分の宮古 - 釜石間をBRTで最短で約80分とする(代替バスの約100分に比べかなり鉄道レベルに近づく)。しかし、この案に対して、地元4市町は再び拒否した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "2014年1月31日の第7回山田線復興調整会議においてJR東日本は、210億円と試算された復旧費用のうち線路や設備などの原状回復に伴う140億円を自社で負担すると明言した上で(復興まちづくりに伴うかさ上げや移転費の残り70億円は公的資金を活用して自治体などが負担)、被災した線路や駅舎を復旧させ、10年間の赤字補填分などとして5億円を負担し、当区間の運行事業を三陸鉄道に、線路などの鉄道施設を三陸鉄道と沿線4市町にそれぞれ無償で譲渡、経営移管する(運営形態は三陸鉄道の南北各リアス線と同様、運行と施設保有を分ける「上下分離方式」となる)案を示した。JR東日本によると、南北で分断されている三陸鉄道の2路線がつながり一体運営することで、地域密着型でコンパクトな経営を行い、持続可能性の高い運営形態を実現できるとしている。一方、この案に対して、赤字路線を引き継ぐことで新たな財政負担を抱えることになる山田町と大槌町は慎重な態度をとった。",
"title": "歴史"
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"text": "また、岩手県とJR東日本は7月に同区間の現地調査を実施。JRは現状復旧費140億円の負担方針は既に示していたが、被災を免れた区間(全体の約8割の46キロ)についても、全線の9割強を三陸鉄道と同等の太くて高規格の新しいレールに交換し、木製枕木をコンクリート製に交換、さびた橋の塗装、トンネルの修繕などを実施する方針を示した(費用は非公表)。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "同年8月7日の山田線復興調整会議において、岩手県と三陸12市町村は、",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "という2点を確認。岩手県はその後、JR東日本に、",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "の4点を要請、同時に、国にも一定の支援を求めることとなった。",
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"text": "同年11月25日、JR東日本と交渉してきた県は、盛岡市で開いた首長会議において沿岸12市町村長らに、JR東日本から、",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "などの提案があったことを報告。12市町村は議会や住民に説明し、県と市町村は12月議会などを経て年内に改めて会議を開き、受け入れるかどうかを最終決定することとなった。山本正徳宮古市長、野田武則釜石市長、またこれまで負担額を懸念していた佐藤信逸山田町長、碇川豊大槌町長も、12月上旬に相次いで、移管案を受け入れる旨、前向きな見解を表明。12月24日、達増拓也岩手県知事、沿岸12市町村長、望月正彦三陸鉄道社長らが盛岡市で開かれた会議にて、移管受け入れについては合意(JR東日本からの移管協力金30億円の使途については継続協議)、2015年の年明けにも基本合意を結ぶこととなった。これを受けて、12月26日、達増拓也岩手県知事と山本正徳宮古市市長が東京都内で冨田哲郎JR東日本社長と会談し、三陸鉄道への移管を受け入れる方針を伝えた。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "不通区間の復旧工事は2015年3月7日に着工した。復旧費用210億円のうちJR東日本が140億円を負担し、残りの70億円を復興交付金から支出、全線復旧は2018年度の見込みになることが発表された。当初計画では2016年開催の希望郷いわて国体までに宮古駅 - 豊間根駅間および鵜住居駅 - 釜石駅間を先行して復旧させて三陸鉄道の路線として開業する予定であったが、岩手県や沿線自治体は、部分復旧した場合CTC未整備などにより安全上に問題があるとして、全線一括での復旧を要請することとし、2015年7月31日には全線一括復旧を基本方針とする協定書が締結された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "三陸鉄道への移管区間の路線名については「三陸鉄道リアス線」とする計画であるが、現在の北リアス線と南リアス線の区間についても移管区間と同じく「リアス線」と路線名を改称して統一することを検討、2017年12月25日の同社取締役会で正式に「リアス線」に統一することが決定した。また、山田線の釜石-宮古間については、新設予定の「宮古短大」「払川」を除き、現在の駅名を使用することとした。その一方でJR東日本の路線としては陸中山田駅などがある山田町を通らなくなることとなるが、山田線として残存する区間の正式路線名の改称については、2017年11月9日現在「名称は白紙」(=未定)と同社より公式に発表されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2018年7月18日までに同区間の復旧工事のうち、建築工事が全て完了し、同区間のレールが全線で締結され、宮古 - 釜石間のレールが全線で繋がった。これを受けて、建築物の強度確認のために、同年8月21日からディーゼル機関車による試運転が順次実施された。その後、11月には完成した駅舎の見学会を実施した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2019年に入ってからは移管に向けた準備が本格化し、同年1月28日から三陸鉄道の車両と乗務員による試運転、訓練運転が開始された。1月31日には移管区間の事業の実施主体(第一種鉄道事業者)のJR東日本から三陸鉄道への変更などを定めた鉄道事業再構築実施計画が地域公共交通活性化再生法に基づき認定された。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "三陸鉄道は、宮古 - 釜石間の運行を2019年3月23日に開始した。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "線路名称上の起点は盛岡駅であるが、2018年3月17日のダイヤ改正までは釜石駅で接続する釜石線などとあわせて盛岡駅に向かう列車が下り扱い(列車番号が奇数)となっていた。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 33,
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"text": "運行本数は少なく、特に、全区間を直通する列車は1日に4往復のみとなる。そのうち1往復半(下り2本、上り1本)は、主要駅停車の快速「リアス」である。ワンマン運転は行われていない。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "また、盛岡駅 - 上米内駅間、川内駅 - 宮古駅間、茂市駅 - 宮古駅間の区間列車の設定がある。このうち盛岡駅 - 上米内駅間は、通勤輸送として朝に2往復(うち1往復は休日運休)の設定があり、200人程度の利用を支えている。年によっては上米内駅近くにある浄水場内の「しだれ桜」の開花時期に臨時列車を設定している。なお、上米内駅より見える高台にある「桜台団地」から朝夕の列車に片接続するバスが走っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "この盛岡駅 - 宮古駅間に人的輸送需要が無いわけではなく、山田線にほぼ並行している国道106号には盛岡駅前 - 宮古駅前間直通の「106急行バス」が頻繁に(ほぼ1時間に1本)運行されており、山田線は極めて不利である。この状況に対して、JR東日本盛岡支社は、車両の置き換えによる車内居住性向上や新幹線との接続強化による首都圏との到達時間短縮などを行っており、2007年にキハ52・58系気動車からキハ110系気動車(キハE130系が投入された水郡線からの転属車両)に置き換えられ、非冷房車は姿を消した。",
"title": "運行形態"
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{
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"text": "最近は、車両の変更のほか、部分的ではあるが改修工事が進んでいる。特に無人駅の駅舎建て替え、レールの重量化や長大トンネル内のロングレール化、枕木のPC化などである。2008年3月15日のダイヤ改正では速度査定をキハ110系に変更して計算上のスピードアップを行っている(盛岡 - 宮古間2分弱のスピードアップ)。無人駅の駅舎建て替えについて、盛岡支社管内では、旧国鉄時代に建築され現在不使用となっている駅舎(駅務室スペースや物置など)の建物面積に対する固定資産税が多いためコスト削減の目的で省スペースな待合室のみの駅舎へ建て替えられているケースが多い。",
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"text": "2011年には東日本大震災の影響で、茂市駅 - 宮古駅間の閉塞方式をスタフ閉塞式に変更し臨時ダイヤで運行していた期間があった。",
"title": "運行形態"
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"text": "2018年4月22日からCTC化された(先行して同年3月25日より閉塞方式を連査閉塞式から特殊自動閉塞式へ変更し、区界駅を棒線化)。CTC化に伴い運転扱いを行っていた上米内・区界・川内・茂市の各駅と、簡易委託駅であった陸中川井駅の5駅は無人化された。その結果、駅員配置駅が盛岡駅と宮古駅のみとなり、途中駅がすべて無人駅となった。",
"title": "運行形態"
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"text": "2013年9月30日から2016年3月末までの約2年半、盛岡市とJR東日本盛岡支社が連携し、盛岡市の都市交通における公共交通機関の利用促進の一環として、盛岡駅 - 上米内駅間の利便性向上を図ることを目的に、最終列車の延長等の社会実験を行っていた。その後、さらに1年間社会実験を延長し、2017年3月まで実施した。しかし、乗車人員数が目標値に達せず、増便は終了となった。",
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"text": "臨時列車としては、ハイブリッド気動車HB-E300系「リゾートあすなろ」編成を使って、主に土休日に運転される「さんりくトレイン宮古」や年末年始の「ふるさと宮古」、冬に開催される宮古真鱈まつりに合わせて運転される「宮古真鱈号」などがある。",
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"text": "以前は、一般形車両を使用した臨時快速「三陸」・「みやこ」も運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "前述のとおり、この区間は東日本大震災のため運休していたが、復旧後の2019年3月に三陸鉄道へ移管された。下記は震災前の運行形態を示している。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "車両は釜石線と共通運用のキハ100形(「快速はまゆり」と間合い運用される列車はキハ110系)気動車と、三陸鉄道南リアス線・北リアス線から乗り入れてくる36-100形気動車を使用していた。なお、三陸鉄道移管後の当区間ではワンマン運転を行っているが、JR運行当時はJR車両による列車、三陸鉄道直通列車の両方とも、ワンマン運転を行っていなかった。",
"title": "運行形態"
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"tag": "p",
"text": "盛岡駅 - 宮古駅間より本数が多く、1時間から2時間に1本程度の運行になっていた。宮古駅 → 盛岡駅間には釜石線経由で快速「はまゆり」1本が運転されていた。また、三陸鉄道南リアス線・北リアス線と相互直通運転を行っており、震災前の時点では1往復が三陸鉄道の車両で運行されていた。イベント列車として仙台駅 - 八戸駅間に三陸縦貫列車「リアス・シーライナー」が夏季に運転されていた。",
"title": "運行形態"
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"text": "かつては、山田線 - 釜石線 - 東北本線を回る盛岡発盛岡行きの循環急行「そとやま」・「五葉」が設定されていた。 また、釜石製鉄所が高炉を24時間体制で操業していた時代には、釜石線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を午前1時25分に発車し、終着の陸中山田には午前2時22分に到着していた。",
"title": "運行形態"
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"text": "2007年11月24日をもって盛岡 - 宮古間におけるキハ52形、キハ58形気動車の運用は終了し、非冷房車は姿を消した(キハ110系は2007年10月21日から一部運用開始)。なお、キハ58系気動車は機関1台あたりの出力が小さく、山田線のような急勾配線区においては全車2台機関搭載車とせざるを得なかったとこと、キハ65のような冷房電源の付いた高出力気動車は配属されなかったこと、さらに山田線沿線はやませの影響を受けやすい事情もあり、最後まで冷房装置の取り付けは行なわれなかった。",
"title": "使用車両"
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"text": "全線盛岡支社の管轄である。",
"title": "データ"
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"text": "区間ごとの平均通過人員は以下のとおりである。国鉄時代から特定地方交通線なみの数値であったが、1987年(昭和62年)時点で代替輸送道路が未整備であったため、第3次廃止対象特定地方交通線から除外された。なお、東日本大震災以前は、現在もJR東日本が運営する盛岡 - 宮古間よりも、三陸鉄道に移管された宮古 - 釜石間のほうが平均通過人員が多かった。",
"title": "データ"
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"text": "廃止区間の駅は前節を参照。",
"title": "駅一覧"
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"text": "盛岡 - 上米内間を(盛岡市内を走るLRTの一路線としての)都市路線として利用すべく提言を行っている団体がある。",
"title": "その他"
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] |
山田線(やまだせん)は、岩手県盛岡市にある盛岡駅から同県宮古市の宮古駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。
|
{{Otheruses|東日本旅客鉄道(JR東日本)の山田線|近畿日本鉄道(近鉄)の山田線|近鉄山田線}}
{{混同|上山田線}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 山田線
|路線色=#cd7a1e
|画像=JR East Kiha 110-128 at Kuzakai Station.jpg
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|画像説明=区界駅に停車中のキハ110形
|国={{JPN}}
|所在地=[[岩手県]]
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|駅数=15駅<ref name="ekisuu" group="注" />
|電報略号 = ヤタセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref>
|開業=[[1923年]][[10月10日]]
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|休止=
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|使用車両=[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]
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|路線図=File:JR East Yamada LIne linemap.svg
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{| {{Railway line header|collapse=yes}}
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|}
'''山田線'''(やまだせん)は、[[岩手県]][[盛岡市]]にある[[盛岡駅]]から同県[[宮古市]]の[[宮古駅]]までを結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])である。
== 概要 ==
[[下閉伊郡]][[山田町]]を目指して建設されたことから「山田線」と名付けられた。岩手県の県庁所在地である盛岡市と沿岸地域の拠点都市である宮古市を結ぶ路線で、全線で閉伊街道([[国道106号]])に沿って山間部を横断する。
盛岡市と宮古市を結ぶ路線ではあるが、マイカーの普及が進んでいることに加えて、並行する国道106号を運行する[[106急行バス]]の影響により、当路線による都市間移動の需要は少なく、沿線地域の通学、通勤など生活需要を中心に担う[[ローカル線]]となっている。
盛岡から順に延伸を繰り返しながら、[[1939年]](昭和14年)に釜石駅までの全線が開通した。
もともとは[[盛岡駅]]から[[宮古駅]]・[[陸中山田駅]]を通り沿岸南部の[[釜石駅]]までの路線だったが、宮古 - 釜石間は[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]の[[東日本大震災]]により大きな被害を受けて不通となり、[[2019年]](平成31年)[[3月23日]]に[[三陸鉄道]][[三陸鉄道リアス線|リアス線]]として復旧の上で経営移管された<ref group="新聞" name="iwatenippou20190321">{{Cite web|和書|date=2019-3-21 |url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2019/3/21/50131 |title=三陸鉄道リアス線、23日に開通 震災被害のJR山田線移管 |publisher=岩手日報 |accessdate=2019-3-23}}</ref><ref group="新聞" name="nikkei20190323">{{Cite news |title=三陸鉄道リアス線が開通 震災不通区間、8年ぶり解消 |newspaper=日本経済新聞 |date=2019-03-23 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO42824210T20C19A3CR0000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2019-03-24}}</ref>。これにより、山田線は山田町を通らなくなり、路線名だけに「山田」の名前が残ることになった。
宮古 - 釜石間がJRで運行されていた当時から全線を直通する定期列車は設定されておらず、盛岡 - 宮古間と宮古 - 釜石間で運行系統が分断されていた。後者の区間は[[三陸海岸]]沿いを走り、[[気仙沼線]]・[[大船渡線]]・[[三陸鉄道]]・[[八戸線]]とともに「三陸縦貫鉄道」を構成していた。
2010年までの夏季(7月 - 8月)には気仙沼線、大船渡線、[[三陸鉄道リアス線|三陸鉄道南リアス線]]、当時は山田線の一部だった宮古 - 釜石間、[[三陸鉄道リアス線|三陸鉄道北リアス線]]および八戸線を経由して仙台 - 八戸間を走破する臨時快速列車「[[リアス・シーライナー]]」も運行されていたが([[#宮古駅 - 釜石駅間(JR運行当時)|後節]]および列車記事も参照)、東日本大震災後は経由路線が被災し一部区間は鉄道としては復旧されず廃止となったため運行されなくなった。
== 歴史 ==
=== 開業に至る経緯 ===
盛岡 - 陸中山田間は、盛岡と[[三陸]]地方を結ぶ鉄道として、1892年公布の[[鉄道敷設法]]にすでに規定されていた区間である<ref group="注">この区間の登録の背景には地元出身の[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]議員、伊東圭介の党幹部への働きかけがあった。</ref>。測量調査が行われたものの、盛岡 - 宮古間で標高 1,000 [[メートル|m]] を超す[[北上山地]]([[区界峠]]、標高 751 m)を越えるため、予定線の検討は行われたが、建設は具体化しないままとなっていた<ref name="sone 18">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線 18頁]]</ref>。地元岩手県出身の[[原敬]]が[[内閣総理大臣|首相]]となった1920年に至って漸く建設が決定され、1923年から1935年にかけて開業した<ref name="sone 18"/>。
陸中山田以南の区間は、[[鉄道敷設法|改正鉄道敷設法]]別表第7号に規定する「岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」の一部で<ref name="RJ241">{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |pages = 111-112 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>、三陸縦貫鉄道を構成する予定線であったが、釜石までの区間は、前述の区間に引き続いて戦前の1939年までに開業したものの、釜石以南については戦後の建設、開業となり、後の三陸鉄道南リアス線となっている。
盛岡 - 宮古間は大部分の区間が人口希薄な山岳地帯である<ref name="sone 18"/>。俗説では、この路線を敷設するかどうかを[[帝国議会]]で審議した際、野党[[憲政会]]は猛烈に反対し、同党議員は「こんな所に鉄道を敷いて、首相は[[サル|山猿]]でも乗せるつもりか」と首相の原敬を非難した<ref name="sone 18"/>。これに対し原は「鉄道規則を読んでいただければわかりますが、猿は乗せないことになっております」と、平然と答弁した、と伝えられている<ref name="sone 18"/>。ただし、質疑のあったとされる第43回帝国議会の速記録に記録は残されていない<ref name="pic914">{{Cite journal | 和書 | author = 白土貞夫 | title = 絵葉書のなかの国鉄ローカル線 第12回 山田線 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | pages = 124 - 125 | year = 2016 | month = 2 | issue = 914 | publisher = 電気車研究会}}</ref>。
この猿に関する話は、山田線の予算通過の翌月に原と共に盛岡を訪れて講演した元[[鉄道大臣]]の[[元田肇]]が、予算審議の際強硬に反対した[[貴族院 (日本)|貴族院]]の[[中村是公]]をやり玉に挙げて『貴族院の中村是公のごときは、「盛岡より山田に至る間はボウボウたる原野にして猿住める国なり、国家は巨費を投じて猿を乗せんとするや」と極端な反対をなせり、余はこれに答えて大森林や鉱山の天与の宝庫である、なんの不利なるや、と反論したのである。』<ref group="新聞">岩手日報大正9年8月26日付</ref>と語った内容に尾ひれが付いて広まったものと考えられる。また、1920年(大正9年)7月21日の貴族院鉄道敷設法中改正法律案特別委員会に際して、[[公正会]]所属の[[辻太郎]]が山田線の着工に反対する意見を繰り返した後、北海道の[[上川駅]] - [[北見滝ノ上駅]]間の鉄道([[鉄道敷設法別表一覧#第139号|改正鉄道敷設法別表第139号]]「石狩国「ルベシベ」ヨリ北見国滝ノ上ニ至ル鉄道」。[[未成線]]となった)の建設に関する質疑で、「北海道の中央のこれこそ熊のほかにいない所であると私は思うておる。がここに大都市でもございますのですか。私が今まで想像しておるところでは、この地方は熊の巣だと思うておりますが、この図ではわかりませぬが、大都市がこの中に二つか三つかございますのか、あるいは大鉱山とかいうて、こういう貨物のトン数がどっさり出るところがあるのですか」と質問し<ref name="teikoku">[https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=004302620X00319200721 第43回帝国議会 貴族院鉄道敷設法中改正法律案特別委員会] - 帝国議会会議録検索システム(国会図書館。大正9年7月21日の会議録を参照)</ref>、鉄道省建設局長の大村鋿太郎が「これは森林が北海道一といわれるくらいな森林のあるところです。この国境付近は…それでございますから、この材木の欠乏の時期にこういう線を造りますれば非常な材木が出るまた薪炭も非常に出る、そのうえに国境の前後には、原野がありまして開墾に適した地が多くあります。(中略)よほど有望な線だと思っております。熊の巣は熊の巣ですが、熊の巣を開いたならば大変な財源になるのではないかと思っております」と答弁しており<ref name="teikoku"/>、路線を取り違えて、熊と猿が入れ替わって伝えられた可能性がある、という意見もある<ref name="pic914" />。
だが実際には開業後、盛岡 - 宮古間は満員で座ることができず、立ち通しのことも少なくなかったという。もともと、この区間には1906年から乗合馬車の運行が行われ、1913年には[[盛宮自動車]]により岩手県では初となる路線バスの運行も開始されており<ref name="imamu12">鈴木文彦「岩手のバス いまむかし」p12</ref>、鉄道開業前から一定の流動は存在した。1950年の[[釜石線]]全通以前、山田線は岩手県北部における唯一の海岸部と内陸の直通路線であり、特に1939年の全通後は戦時体制を背景に、[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鐵所]]や[[釜石鉱山]]を擁した釜石と東北線とを直接連絡する鉄道ルートとして、日夜を通しての貨物輸送に貢献した。
[[太平洋戦争]]後の1946年11月、山田線は風水害により平津戸 - 蟇目間が長期運休となった。全線復旧に1954年までの8年間を要した大災害であり、その代替として [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]] の指示により釜石線の改築・全通が促進された<ref name="RJ241"/>。釜石線全通に伴い、釜石から内陸への貨物輸送メインルートは同線に移り、山田線の相対的地位は低下することになった。なお、この災害に際し沿岸側に取り残された機関車を搬出するため、[[青函連絡船]]「[[十勝丸 (初代)|十勝丸]]」を宮古港に回漕して船積みすることで対処したエピソードがある。
その後も、[[1980年]]に[[集中豪雨]]、[[2008年]]に[[岩手県沿岸北部地震]]、[[2011年]]には[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])、[[2015年]]には土砂崩れ([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#山田線列車脱線事故|山田線列車脱線事故]])の影響で、一部または全線で不通となっている(詳しくは下述の年表を参照)。
=== 蒸気機関車の復活運転 ===
[[1987年]]7月から、廃線となっていた宮古 - 宮古港間の貨物線を利用して、[[蒸気機関車]]の復活運転が実施された<ref name="sone 19"/>。これは、地元の「甦れSL C10-8運営協議会」が宮古市の[[ラサ工業]]株式会社の専用線で使用されていた[[国鉄C10形蒸気機関車#保存機|C10 8]]に貨車改造の客車2両を連結し、SLリアス線「しおかぜ号」として[[1989年]]までの夏休み期間および9 - 10月の休日に運行したものである<ref name="sone 19"/>。鉄道事業ではなく遊戯施設扱いであったが、宮古市役所前のはまぎく駅からうみねこ駅までの1.4kmで、途中にミニ浄土ヶ浜公園前駅が設けられていた。
また、[[1992年]]にも「[[三陸・海の博覧会]]」に協賛して、市役所前 - 白浜丸発着所間の約 0.5 km で機関車のみの展示運転を実施している。この展示運転に使用されたC10 8は、[[1994年]]4月に大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])に譲渡され、2023年現在も[[動態保存]]機として本線上で列車を牽引している。
=== 宮古 - 釜石間の復旧 ===
==== BRTによる仮復旧案(第一次) ====
2011年3月11日に発生した東日本大震災により、宮古 - 釜石間 (55.4km) では、21.7kmが浸水、13駅中4駅や線路の1割、鉄橋など6か所、盛土10か所が破壊された。この区間の復旧について、JR東日本は、2012年6月25日の公共交通確保会議(沿線4市町や岩手県などで構成。震災で被災したJR山田線の鉄道復旧までの公共交通確保策について協議する)において、本復旧は安全の確保、まちづくりとの整合性など、各地で課題が多く、資金調整も含め相当時間がかかるとし、気仙沼線、大船渡線と同様に山田線についても、[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]により仮復旧する案を正式提案した<ref group="新聞">[http://www.asahi.com/travel/aviation/TKY201206250516.html 山田線「BRTで」 仮復旧、JRが提案 岩手] - 朝日新聞、2012年6月26日。</ref>。(BRT(バスによる高速輸送)は一般車両の立ち入れないバス専用道路にて運行することにより鉄道並みの定時性を確保するとともに停車駅や運行本数を増やすことができる。また鉄道よりはるかに低コストで運行できる。)鉄道用地を舗装して専用道にする、費用はJR東日本が負担する、ただし山田線は被災した鉄橋が多いため、鉄路が山側に迂回している部分などは並行して走る[[国道45号]]を使い、専用道は約10kmほどとする、JR東日本が運行主体になり、車両もJRが購入する、運賃は鉄道と同程度とし、増便や駅の増設も進める、というものである。
この山田線BRT構想に対して、沿線4市町は、
* 専用道の割合が低く、現状のバスと定時性やスピードは変わらない
* 震災前からの民間のバスと競合する(「宮古─釜石間は路線バスが1日11往復走っている。BRTにかけるおカネも時間ももったいない」(宮古市役所))
* そもそもまちづくりは鉄路復旧を前提としている
などを理由に拒否、7月9日にJR東日本に通告し、同時に鉄道での復旧を求めたため、山田線BRT化の話はいったん消えることとなった。
==== BRTによる仮復旧案(第二次) ====
2013年9月25日に盛岡市で開かれた第6回山田線復興調整会議において、JR東日本は山田線にBRTを導入することを再提案。従前のBRT案では専用道区間が短いという批判に対し、再提案では津波で流出した宮古市の閉伊川橋、山田町の第一織笠川橋、大槌町の大槌川橋、小槌川橋の4橋を復旧させるなどし、専用道の総延長を従来提案より約16km増やした25.3km(宮古 - 釜石間の46%)とすることで、鉄道では約70分の宮古 - 釜石間をBRTで最短で約80分とする(代替バスの約100分に比べかなり鉄道レベルに近づく)。しかし、この案に対して、地元4市町は再び拒否した。
==== 三陸鉄道への経営移管 ====
[[File:JR Yamada Line linemap.svg|thumb|right|250px|青線の区間は[[三陸鉄道]]に経営移管された区間]]
2014年1月31日の第7回山田線復興調整会議においてJR東日本は、210億円と試算された復旧費用のうち線路や設備などの原状回復に伴う140億円を自社で負担すると明言した上で(復興まちづくりに伴うかさ上げや移転費の残り70億円は公的資金を活用して自治体などが負担)、被災した線路や駅舎を復旧させ、10年間の赤字補填分などとして5億円を負担し、当区間の運行事業を三陸鉄道に、線路などの鉄道施設を三陸鉄道と沿線4市町にそれぞれ無償で譲渡、経営移管する(運営形態は三陸鉄道の南北各リアス線と同様、運行と施設保有を分ける「[[上下分離方式]]」となる)案を示した<ref group="新聞">[http://www.kahoku.co.jp/special/spe1062/20140130_07.html 山田線の無償譲渡検討 JR東日本、あす地元提案] - [[河北新報]]、2014年1月30日。</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=山田線の被災不通区間、三陸鉄道への運行移管を提案 JR東が岩手県などに |newspaper=MSN産経ニュース |date=2014-01-31 |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140131/dst14013120230009-n1.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141017161058/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140131/dst14013120230009-n1.htm |archivedate=2014-10-17}}</ref><ref group="新聞" name="iwate-np20140205">[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20140205_6 移管前の山田線復旧明言 JR東社長「140億円負担」 ] - [[岩手日報]]、2014年2月5日。</ref><ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/31272 被災路線を突然移管、JR東が変心した理由 山田線を三陸鉄道に移管する方針転換] - 東洋経済オンライン 2014年3月2日、2015年12月15日閲覧</ref>。JR東日本によると、南北で分断されている三陸鉄道の2路線がつながり一体運営することで、地域密着型でコンパクトな経営を行い、持続可能性の高い運営形態を実現できるとしている<ref group="新聞" name="iwate-np20140205" />。一方、この案に対して、赤字路線を引き継ぐことで新たな財政負担を抱えることになる山田町と大槌町は慎重な態度をとった。
* 鉄路での復旧が明言されたことにより、[[宮古市]]は八木沢地区([[磯鶏駅]] - [[津軽石駅]]間)への新駅([[八木沢・宮古短大駅]])設置案を示した。ただし、あくまでも経営分離案とは切り離して可能性を模索するとしている<ref group="新聞">[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20140205_3 宮古市が八木沢地区に新駅 JR山田線の運休区間] - 岩手日報、2014年2月5日。</ref>。
* 2014年7月には[[岩手県]]が、高台などを通過しているため震災による被害が比較的軽微であった宮古駅 - [[豊間根駅]]間および[[鵜住居駅]] - 釜石駅間を優先して復旧させるようJR東日本と協議をすすめる方針であると明らかになった<ref group="新聞">{{Cite news|date=2014-07-25|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140725_31008.html|title=JR山田線、一部区間を優先復旧 岩手県方針|publisher=河北新報|accessdate=2014-08-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140811000448/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140725_31008.html|archivedate=2014年8月11日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
また、岩手県とJR東日本は7月に同区間の現地調査を実施。JRは現状復旧費140億円の負担方針は既に示していたが、被災を免れた区間(全体の約8割の46キロ)についても、全線の9割強を三陸鉄道と同等の太くて高規格の新しいレールに交換し、木製枕木をコンクリート製に交換、さびた橋の塗装、トンネルの修繕などを実施する方針を示した(費用は非公表)。<ref group="新聞">[http://www.iwate-np.co.jp/311shinsai/y2014/m07/sh1407291.html レール9割以上を三鉄規格に 山田線移管へ現地調査] - 岩手日報、2014年7月29日。</ref><ref group="新聞">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201407/20140729_33019.html JR東が修繕費負担を表明 山田線] - 河北新報、2014年7月29日。</ref>
同年8月7日の山田線復興調整会議において、岩手県と三陸12市町村は、
* 関係自治体の負担を避けつつ早期鉄道復旧を目指す
* 三陸鉄道による山田線の運営を「有力な選択肢」として、JRとの詰めの協議を急ぐ
という2点を確認。岩手県はその後、JR東日本に、
* 設備更新時などの費用補填
* 三陸鉄道が求める水準への鉄道施設の強化
* 復旧後の経営を安定させるのに十分な赤字補填
* 復旧後一定期間の運賃をJR運賃と同額にする差額負担
の4点を要請、同時に、国にも一定の支援を求めることとなった。
同年11月25日、JR東日本と交渉してきた県は、盛岡市で開いた首長会議において沿岸12市町村長らに、JR東日本から、
* 一時金として当初の5億円から大きく上積みした30億円を負担する(30億円は運賃の上昇を抑える原資や今後の災害時に生じる施設更新費用などにも充てることを想定し、活用法は市町村で検討)
* 車両を無償譲渡する
* 軌道を強化する
* 検修庫・施設管理拠点を整備する
* 人的にも支援する
* 観光客誘致などで協力する、
などの提案があったことを報告。12市町村は議会や住民に説明し、県と市町村は12月議会などを経て年内に改めて会議を開き、受け入れるかどうかを最終決定することとなった。[[山本正徳]]宮古市長、[[野田武則]]釜石市長、またこれまで負担額を懸念していた佐藤信逸山田町長、碇川豊大槌町長も、12月上旬に相次いで、移管案を受け入れる旨、前向きな見解を表明<ref group="新聞">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141220_32018.html <山田線>三鉄移管 24日合意へ] - 河北新報(2014年12月20日版)</ref>。12月24日、達増拓也岩手県知事、沿岸12市町村長、望月正彦三陸鉄道社長らが盛岡市で開かれた会議にて、移管受け入れについては合意(JR東日本からの移管協力金30億円の使途については継続協議)、2015年の年明けにも基本合意を結ぶこととなった<ref group="新聞">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141225_32009.html <山田線>三鉄移管合意 16年一部復旧か] - 河北新報、2014年12月25日。</ref><ref group="新聞">[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20141224_7 JR山田線の三鉄移管に合意 沿線自治体と県] - 岩手日報、2014年12月24日。</ref><ref group="新聞">[http://mainichi.jp/select/news/20141224k0000e040156000c.html JR山田線:つながれ被災地の足…宮古−釜石間「三鉄」に] - [[毎日新聞]]、2014年12月24日。</ref><ref group="新聞">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24H44_U4A221C1CC0000/ JR山田線被災区間、三陸鉄道に移管 岩手県と地元市町村合意] - [[日本経済新聞]]、2014年12月24日。</ref><ref group="新聞">[http://www.nikkei.com/article/DGXZZO81259810U4A221C1000000/ 三陸鉄道、山田線の被災区間移管 一貫路線へ] - 日本経済新聞、2014年12月24日。</ref><ref group="新聞">[http://www.asahi.com/articles/ASGDS4RW8GDSUJUB00N.html JR山田線の運休区間、三陸鉄道に移管 赤字に懸念も] - 朝日新聞、2014年12月24日。</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=山田線、「あまちゃん」で人気集めた三陸鉄道に移管 地元が受け入れ合意 |newspaper=産経新聞 |date=2014-12-24 |url=http://www.sankei.com/affairs/news/141224/afr1412240015-n1.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141225020949/http://www.sankei.com/affairs/news/141224/afr1412240015-n1.html |archivedate=2014-12-25}}</ref><ref group="新聞">[http://www.yomiuri.co.jp/local/iwate/news/20141224-OYTNT50232.html 国体までに部分再開…山田線移管] - 読売新聞、2014年12月25日。</ref>。これを受けて、12月26日、達増拓也岩手県知事と山本正徳宮古市市長が東京都内で冨田哲郎JR東日本社長と会談し、三陸鉄道への移管を受け入れる方針を伝えた<ref group="新聞">[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141226-00000025-jij-pol 山田線受け入れ伝える=JR東日本社長に―岩手知事ら] - [[時事通信]]、2014年12月26日</ref><ref group="新聞">[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014122601001492.html 三陸鉄道に移管案受け入れ伝達 山田線復旧で沿線自治体] - [[東京新聞]]、2014年12月26日</ref><ref group="新聞">[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141226-00000019-jijp-soci.view-000 三陸鉄道の移管受け入れ] - [[時事通信]]、2014年12月26日</ref>。
不通区間の復旧工事は2015年3月7日に着工した<ref group="新聞">[http://www.yomiuri.co.jp/national/20150307-OYT1T50115.html?from=ytop_main5 山田線の復旧工事始まる…宮古―釜石、三鉄に] - [[YOMIURI ONLINE]] - 2015年3月7日</ref>。復旧費用210億円のうちJR東日本が140億円を負担し、残りの70億円を復興交付金から支出、全線復旧は2018年度の見込みになることが発表された<ref group="新聞" name="kahoku20150124">{{Cite news |url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201501/20150124_35023.html |title=<JR山田線>復旧工事3月7日着工へ |newspaper=河北新報オンラインニュース |publisher=河北新報社 |date=2015-01-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150124045247/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201501/20150124_35023.html |archivedate=2015年1月24日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref group="新聞" name="iwate-np20150123">{{Cite news |url=http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20150123_3 |title=山田線、3月7日着工へ JR復旧工事後に三鉄移管 |newspaper=岩手日報WebNews |publisher=岩手日報社 |date=2015-01-23 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150123043109/http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20150123_3 |archivedate=2015年1月23日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref><ref group="新聞" name="yomiuri20150221">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20150220-OYT1T50145.html?from=ytop_main5 |title=震災で不通のJR山田線、18年度中に復旧へ |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2015-02-21 |archiveurl=https://archive.is/20150221065429/http://www.yomiuri.co.jp/national/20150220-OYT1T50145.html?from=ytop_main5 |archivedate=2015年2月21日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。当初計画では2016年開催の[[第71回国民体育大会|希望郷いわて国体]]までに宮古駅 - 豊間根駅間および鵜住居駅 - 釜石駅間を先行して復旧させて三陸鉄道の路線として開業する予定であったが<ref group="新聞" name="kahoku20150124" />、岩手県や沿線自治体は、部分復旧した場合[[列車集中制御装置|CTC]]未整備などにより安全上に問題があるとして、全線一括での復旧を要請することとし<ref group="新聞">{{Cite news|title=山田線の一括開業要請を決定 JRに県と4市町|date=2015-06-13|url=http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/news.cgi?sh=20150613_2|accessdate=2016-08-10|publisher=岩手日報}}</ref>、2015年7月31日には全線一括復旧を基本方針とする協定書が締結された<ref group="新聞">{{Cite news|title=<山田線>宮古-釜石間の一括復旧へ協定書|date=2015-07-30|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201507/20150730_32004.html|accessdate=2016-08-10|publisher=河北新報|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150729232531/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201507/20150730_32004.html |archivedate=2015-07-29}}</ref>。
三陸鉄道への移管区間の路線名については「三陸鉄道リアス線」とする計画であるが、現在の北リアス線と南リアス線の区間についても移管区間と同じく「リアス線」と路線名を改称して統一することを検討、2017年12月25日の同社取締役会で正式に「リアス線」に統一することが決定した。また、山田線の釜石-宮古間については、新設予定の「宮古短大<ref group="注">新駅設置の申請認可での仮称は「八木沢」。最終的には「[[八木沢・宮古短大駅|八木沢・宮古短大]]」となった。</ref>」「払川」を除き、現在の駅名を使用することとした<ref group="新聞">[https://mainichi.jp/articles/20171226/k00/00m/040/024000c 三陸鉄道:「リアス線」に統一] - 毎日新聞 2017年12月25日</ref>。その一方でJR東日本の路線としては[[陸中山田駅]]などがある[[山田町]]を通らなくなることとなる<ref group="注">路線名の由来となる駅や地域へ至らなくなる事例は他にも複数ある。山田線と同様に一部区間が他路線へ編入されたものが[[水戸線]]や[[奈良線]]など(それぞれ[[常磐線]]で[[水戸駅]]へ、[[関西本線]]で[[奈良駅]]へ直通可能)。一部区間廃止により鉄路が断たれたれたものが[[日高本線]]や[[信越本線]]など。[[横浜駅]]の1つ手前の[[東神奈川駅]]を開業当初から起点とする[[横浜線]]の場合は、単に横浜市内を通るのが由来。</ref>が、山田線として残存する区間の正式路線名の改称については、2017年11月9日現在「名称は白紙」(=未定)と同社より公式に発表されている<ref group="新聞">[http://www.asahi.com/articles/ASKC81VSPKC8UJUB001.html 三陸鉄道、新路線名は「リアス線」に] - 朝日新聞デジタル 2017年11月9日発信・閲覧。</ref>。
2018年7月18日までに同区間の復旧工事のうち、建築工事が全て完了し、同区間のレールが全線で締結され、宮古 - 釜石間のレールが全線で繋がった。これを受けて、建築物の強度確認のために、同年8月21日からディーゼル機関車による試運転が順次実施された<ref group="新聞" name="kotsu20180824"/>。その後、11月には完成した駅舎の見学会を実施した。
2019年に入ってからは移管に向けた準備が本格化し、同年1月28日から三陸鉄道の車両と乗務員による試運転、訓練運転が開始された<ref group="新聞" name="nikkei20190128"/><ref group="新聞" name="kotsu20190130"/>。1月31日には移管区間の事業の実施主体(第一種鉄道事業者)のJR東日本から三陸鉄道への変更などを定めた鉄道事業再構築実施計画が地域公共交通活性化再生法に基づき認定された<ref group="報道" name="mlit2019-01-30" />。
三陸鉄道は、宮古 - 釜石間の運行を2019年3月23日に開始した<ref group="新聞" name="nikkei20190323" /><ref group="新聞" name="iwate-np20180328" /><ref group="新聞" name="mainichi20180329">{{Cite news |title=三陸鉄道:宮古-釜石、来年3月23日運行開始 各駅愛称も決まる /岩手 |newspaper=毎日新聞 |date=2018-03-29 |url=https://mainichi.jp/articles/20180329/ddl/k03/020/265000c |publisher=毎日新聞社 |accessdate=2018-03-30}}</ref>。
=== 年表 ===
==== 国有鉄道時代 ====
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[10月10日]] 【開業】'''山田線''' 盛岡 - 上米内 (9.9 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】上盛岡、上米内<ref name="sone 18"/>
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[9月25日]] 【延伸開業】上米内 - 区界 (25.7 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】大志田、浅岸、区界<ref name="sone 18"/>
* [[1930年]](昭和5年)[[10月31日]] 【延伸開業】区界 - 松草 (8.0 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】松草<ref name="sone 18"/>
* [[1931年]](昭和6年)10月31日 【延伸開業】松草 - 平津戸 (8.6 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】平津戸<ref name="sone 18"/>
* [[1933年]](昭和8年)[[11月30日]] 【延伸開業】平津戸 - 陸中川井 (21.3 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】川内、箱石、陸中川井<ref name="sone 18"/>
* [[1934年]](昭和9年)[[11月6日]] 【延伸開業】陸中川井 - 宮古 (28.6 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】腹帯、茂市、蟇目、千徳、宮古<ref name="sone 18"/>
* [[1935年]](昭和10年)[[11月17日]] 【延伸開業】宮古 - 陸中山田 (26.5 km)<ref>記念スタンプ[{{NDLDC|2959139/3}} 「逓信省告示第2943号」『官報』1935年11月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> 【駅新設】磯鶏、津軽石、豊間根、陸中山田<ref name="sone 18"/>
* [[1936年]](昭和11年)[[11月10日]] 【延伸開業】陸中山田 - 岩手船越 (5.0 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】織笠、岩手船越<ref name="sone 18"/>
* [[1937年]](昭和12年)2月 - 豪雪のため運転休止。平津戸駅 - 浅岸駅間では800人の人夫を動員して除雪作業が行われた<ref>数年来の大雪で各地に被害『岩手日報』(昭和12年2月16日夕刊)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p14 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
* [[1938年]](昭和13年)[[4月5日]] 【延伸開業】岩手船越 - 大槌 (11.6 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】吉里吉里、大槌<ref name="sone 18"/>
* [[1939年]](昭和14年)[[9月17日]] 【延伸開業・全通】大槌 - 釜石 (12.3 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】鵜住居、釜石<ref name="sone 18"/>
* [[1943年]](昭和18年)[[11月22日]] 【貨物線開業】宮古 - 宮古港 (2.0 km)<ref name="RJ241"/>【駅新設】(貨)宮古港<ref name="sone 18"/>
* [[1944年]](昭和19年)[[3月12日]] 平津戸 - 川内間で雪崩により鉄橋が流されたため下り貨物列車が転落<ref name="sone 18"/>。[[動力車操縦者|機関士]]死亡。[[火夫|機関助士]]負傷。([[日本の鉄道事故 (1949年以前)#1940年代|山田線列車転落事故]])<ref group="注">[[久保田博]]『鉄道重大事故の歴史』([[グランプリ出版]]、2000年)には「雪崩により鉄橋が流されていたため」とある。</ref>
* [[1946年]](昭和21年)[[11月26日]] 【災害不通】平津戸 - 蟇目(風水害による)
* [[1947年]](昭和22年)[[9月15日]] 【災害不通】浅岸 - 千徳([[カスリーン台風]]による[[土砂災害]])<ref name="sone 18"/>。翌年3月5日に全線運転再開となる<ref name="sone 18"/>。
* [[1948年]](昭和23年)
** [[9月16日]] 【災害不通】松草 - 宮古([[アイオン台風]]による土砂災害)<ref name="sone 18"/>
** [[10月9日]] 【営業再開】千徳 - 宮古<ref name="sone 18"/>
** [[11月20日]] 【営業再開】松草 - 平津戸<ref name="sone 18"/>
** [[11月30日]] 【営業再開】蟇目 - 千徳<ref name="sone 18"/>
* [[1949年]](昭和24年)[[3月5日]] 【営業再開】蟇目 - 茂市<ref name="sone 19">[[#sone21|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線 19頁]]</ref>
* [[1951年]](昭和26年)
** [[1月10日]] 【仮停車場新設】山岸<ref name="sone 19"/>
** [[7月23日]] 【仮停車場新設】両石<ref name="sone 19"/>
* [[1952年]](昭和27年)[[2月10日]] 【仮停車場 → 駅】山岸
* [[1953年]](昭和28年)[[3月25日]] 【営業再開】腹帯 - 茂市<ref name="sone 19"/>
* [[1954年]](昭和29年)
** [[9月1日]] 【仮停車場 → 駅】両石
** [[11月21日]] 【営業再開】平津戸 - 腹帯<ref name="RJ241"/>(1946年風水害から1948年9月のアイオン台風にかけての被害復旧完了<ref name="RJ241"/>。全線開通<ref name="RJ241"/><ref name="sone 19"/>)
* [[1961年]](昭和36年)[[12月20日]] 【駅新設】花原市、浪板<ref name="sone 19"/>
* [[1966年]](昭和41年)[[2月4日]] 全線で[[鉄道信号機#機械式信号機|腕木式信号機]]から[[鉄道信号機#色灯式信号機|色灯式信号機]]に変更される<ref name=交通1966>{{Cite news |title=信号設備を近代化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1966-02-08 |page=2 }}</ref>。
* [[1970年]](昭和45年)[[2月28日]] [[蒸気機関車]] (C58) 運行終了。3月1日から無煙化<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-01 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 1 |page = 113 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref><ref name="sone 19"/>
* [[1980年]](昭和55年)[[9月2日]] 【災害不通】宮古 - 津軽石(集中豪雨による土砂災害)
* [[1981年]](昭和56年)[[1月30日]] 【営業再開】宮古 - 津軽石(全線復旧)
* [[1984年]](昭和59年)[[2月1日]] 【貨物線廃止】宮古 - 宮古港 (-2.0 km)<ref name="RJ241"/>【駅廃止】(貨)宮古港
* [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]] 【貨物営業廃止】盛岡 - 釜石<ref name="sone 19"/>
==== 民営化以降 ====
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] 【承継】東日本旅客鉄道<ref name="sone 19"/>
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[7月7日]] [[JR東日本キハ100系気動車|キハ100系気動車]]が運用を開始<ref group="新聞" name="交通910709">{{Cite news |title=高性能気動車を投入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-07-09 |page=2 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)[[12月3日]] 【駅名改称】浪板→浪板海岸
* [[1997年]](平成9年)[[10月4日]] 天皇・皇后の岩手訪問([[全国豊かな海づくり大会]]への臨席など)に伴い、[[皇室用客車|1号御料車]]編成による[[お召し列車]]を盛岡から山田線経由で宮古へ運転(片道のみ。同月6日には釜石から釜石線経由で花巻へ運転)。[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51]] 842牽引(予備機:DD51 895)<ref name="RF440">{{Cite journal|和書 |date = 1997-12 |journal = [[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |volume = 37 |issue = 12 |pages = 54-57 |publisher = [[交友社]] }}</ref>
* [[2008年]](平成20年)
** [[7月24日]] 【災害不通】全線(岩手県沿岸北部地震により、落石で線路が塞がれたため)
** [[7月25日]] 【営業再開】全線(復旧)
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] 【災害不通】全線(東北地方太平洋沖地震とこれにより発生した大津波による) 津波で織笠、大槌、鵜住居の各駅が流失、陸中山田が津波による大規模火災で焼失
** [[3月18日]] 【営業再開】盛岡 - 上米内(朝・夕のみ)
** [[3月26日]] 【営業再開】上米内 - 宮古(盛岡 - 宮古 復旧)
** [[4月8日]] 【災害不通】全線(4月7日に発生した東北地方太平洋沖地震の余震による)
** [[4月10日]] 【営業再開】盛岡 - 上米内
** [[4月13日]] 【営業再開】上米内 - 宮古(盛岡 - 宮古 復旧)
** [[4月20日]] 【振替輸送】宮古 - 釜石 (バスによる振替輸送開始、[[岩手県北自動車]]・[[岩手県交通]])当初は、岩手船越 - 釜石については、岩手県交通が無料バスを運転していた。
* [[2013年]](平成25年)[[1月1日]] 大志田・浅岸両駅が冬季全列車通過となる(2012年度は1月1日 - 3月15日、2013年度は12月15日 - 3月15日、2014年度以降は12月1日 - 3月31日)<ref group="新聞">[http://response.jp/article/2014/11/15/237410.html 山田線の「秘境駅」2駅、冬季の全列車通過期間を延長] - レスポンス、2014年11月15日<!-- 期間の変遷にも言及あり --></ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[12月11日]]
*** JR東日本盛岡支社が大志田・浅岸の両駅の廃止について発表<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1449814403_1.pdf |title=山田線 大志田駅・浅岸駅廃止について |publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社 |format=PDF|accessdate=2015-12-11}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news |title=秘境駅トップテンの2駅が廃止に 乗車人員1人以下 山田線 大志田・浅岸駅 |newspaper=乗りものニュース |date=2015-12-11 |author=[[恵知仁]] |url=http://trafficnews.jp/post/46771/ |accessdate=2015-12-12}}</ref>。
*** 【災害不通】盛岡 - 宮古(松草 - 平津戸間で土砂流入、[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#山田線列車脱線事故|上り普通列車が土砂に乗り上げ脱線]])<ref group="新聞">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201512/20151212_33021.html 山田線が土砂崩れで脱線、10人けが] - 河北新報 2015年11月11日</ref><ref group="新聞">[https://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20151212_2 「ドン」悲鳴、傾く車両 山田線脱線、闇の中の避難] - [[岩手日報]]WebNews 2015年12月12日配信、同日閲覧</ref><ref group="新聞">[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151211/k10010338331000.html JR山田線 列車が土砂に乗り上げ 10人けが] - NHK NEWSWEB 2015年12月12日0時17分配信、同日閲覧</ref><ref group="報道">[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail2.php?id=1881 鉄道事故の概要] - [[運輸安全委員会]] 2015年12月14日、同日閲覧</ref>
** [[12月12日]] 【営業再開】盛岡 - 上米内<ref group="新聞">[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151212/k10010339021000.html JR山田線 少なくとも6つの車輪が脱線] - NHK NEWSWEB 201年12月12日12時06分配信、同日閲覧</ref>
** [[12月13日]] 【営業再開】川内 - 宮古<ref group="報道">[https://archive.is/20151213111630/http://traininfo.jreast.co.jp/train_info/tohoku.aspx 東北地方の運行状況] - JR東日本公式サイト 2015年12月13日4時1分配信、同日閲覧分アーカイブ</ref><ref group="新聞">[http://response.jp/article/2015/12/13/266095.html JR東日本、山田線の運休区間を上米内〜川内間に縮小] - レスポンス、2015年12月13日</ref>
* [[2016年]](平成28年)
**[[3月26日]] 【駅廃止】大志田、浅岸<ref>『JTB時刻表』2016年4月号、JTBパブリッシング、ニュース1頁</ref>
**[[8月30日]] 【災害不通】盛岡 - 上米内、川内 - 宮古([[平成28年台風第10号|台風10号]]による臨時運休、一部区間で土砂崩れが発生)
**[[9月1日]] 【営業再開】盛岡 - 上米内
**[[9月3日]] 【営業再開】茂市 - 宮古
**[[12月9日]] 【営業再開】川内 - 茂市<ref group="報道" name="jr-morioka20161128">{{Cite press release |和書 |title=山田線「川内駅~茂市駅間」運転再開について|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2016年11月28日 |url=http://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1480323425_1.pdf |format=PDF |language=日本語 |accessdate=2016年11月28日}}</ref>
* [[2017年]](平成29年)
**[[11月5日]]【営業再開】上米内 - 川内<ref group="報道" name="jr-morioka20170922">{{Cite web|和書|title=山田線(盛岡〜宮古間)運転再開について |url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1506065210_2.pdf |publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|format=PDF|date=2017-09-22|accessdate=2017-09-22}}</ref>
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月25日]] 盛岡 - 宮古間の閉塞方式が連査閉塞式から特殊自動閉塞式に変更。区界駅の交換設備を撤去。
** [[4月22日]] 盛岡 - 宮古間がCTC化。同時に上米内・川内・茂市の各駅の運転扱いを終了<ref group="報道" name="yamadactc" /><ref group="新聞" name="mainichi20180422">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180422/k00/00e/040/159000c|title=最終列車見送る駅長 きょうから5駅で無人化|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2018-04-22|accessdate=2018-04-22|archiveurl=https://archive.li/mXSru|archivedate=2018-04-22}}</ref>。
** [[7月18日]] 宮古 - 釜石間の復旧工事が完了し、同区間のレールが全線で繋がった。
** [[8月21日]] 宮古 - 釜石間のディーゼル機関車による試運転を、釜石 - 大槌間を皮切りに開始<ref group="新聞" name="kotsu20180824">{{Cite news |title=山田線 宮古-釜石間 試験走行を開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2018-08-24 |page=1 }}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)
** [[1月28日]] 三陸鉄道所属の気動車、乗務員による試運転を宮古 - 釜石間で開始<ref group="新聞" name="nikkei20190128">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40549220Y9A120C1000000/ 山田線宮古〜釜石間で試運転 震災以来8年ぶり] - 日本経済新聞、2019年1月28日</ref><ref group="新聞" name="kotsu20190130">{{Cite news |title=営業用気動車で試運転開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2019-01-30 |page=1 }}</ref>。
** [[1月31日]] 三陸鉄道移管区間に対する[[地域公共交通の活性化及び再生に関する法律|地域公共交通活性化再生法]]に基づく鉄道事業再構築実施計画が認定<ref group="報道" name="mlit2019-01-30">{{Cite press release|和書|title = 三陸鉄道 北リアス線・リアス線・南リアス線の鉄道事業再構築実施計画の認定について〜安全で安定した運行が維持されます〜|publisher = 国土交通省|url = https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo05_hh_000088.html|date = 2019-01-30|accessdate = 2019-01-31}}</ref>。
** 2月11日 報道関係者向けの試乗会を宮古 - 釜石間で実施<ref group="新聞">{{Cite news | 和書 = | title = 宮古-釜石間で報道試乗会 | newspaper = [[交通新聞]] | date = 2019-02-13 | publisher = 交通新聞社 | page = 1 }}</ref>。
** [[3月23日]] 【営業再開・移管】宮古 - 釜石(三陸鉄道へ移管、リアス線に線名変更)<ref group="新聞" name="kahoku20150124" /><ref group="新聞" name="iwate-np20150123" /><ref group="新聞" name="yomiuri20150221" /><ref>[https://twitter.com/pref_iwate/status/978874410877767681?s=21 「【三陸鉄道速報!】JR山田線(宮古・釜石間)の経営移管に伴い、三陸鉄道「リアス線」が誕生します。 同区間のうち、宮古・釜石間の運行開始予定は、平成31年3月23日(土)です。 現在の南北リアス線と統合し、総営業キロ163㎞を一貫運行。日本で最長の三セク鉄道となります。」]- 岩手県広聴広報課(Twitter)</ref><ref group="新聞" name="iwate-np20180328">{{Cite news |title=19年3月23日運行開始 三陸鉄道、移管の宮古-釜石間 |newspaper=岩手日報 |date=2018-03-28 |url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2018/3/28/10862 |publisher=岩手日報社 |accessdate=2018-03-29}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[11月4日]] - [[11月6日]] 線路整備や近接雑木の枝払い、浮き石整理の実施に伴い、一部列車が運休<ref group="報道" name="press/20200924">{{Cite press release|和書|url=https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1600914320_1.pdf|title=山田線 昼間集中工事の実施に伴う列車の運休について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2020-09-24|accessdate=2020-09-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200924143719/https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1600914320_1.pdf|archivedate=2020-09-24}}</ref>{{Refnest|group="注"|下り2本・上り1本の快速「リアス」が運休<ref group="報道" name="press/20200924" />。下りには臨時快速が1本運転された<ref group="報道" name="press/20200924" />。}}。
* [[2022年]](令和4年)[[3月12日]]:平津戸駅が全列車通過となる<ref group="報道" name="2022-02-09">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/morioka/20220209_mr02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220209055201/https://www.jreast.co.jp/press/2021/morioka/20220209_mr02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=山田線「平津戸駅」の全列車通過について|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2022-02-09|accessdate=2022-02-09|archivedate=2022-02-09}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)[[3月18日]]【駅廃止】平津戸<ref group="報道" name="press20221216_daiya">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221216_mr01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216110415/https://www.jreast.co.jp/press/2022/morioka/20221216_mr01.pdf|page=4|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月ダイヤ改正|publisher=東日本旅客鉄道盛岡支社|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>
== 運行形態 ==
線路名称上の起点は盛岡駅であるが、2018年3月17日のダイヤ改正までは釜石駅で接続する釜石線などとあわせて盛岡駅に向かう列車が下り扱い([[列車番号]]が奇数)となっていた。
=== 定期列車 ===
<!-- ハイブリッド車の件は、この後の臨時列車の節に移動しました。-->
運行本数は少なく、特に、全区間を直通する列車は1日に4往復のみとなる。そのうち1往復半(下り2本、上り1本)<!--宮古行は下り、盛岡行は上りです-->は、主要駅停車の[[快速列車|快速]]「[[リアス (列車)|リアス]]」である。[[ワンマン運転]]は行われていない。
また、盛岡駅 - 上米内駅間、川内駅 - 宮古駅間、茂市駅 - 宮古駅間の区間列車の設定がある。このうち盛岡駅 - 上米内駅間は、通勤輸送として朝に2往復(うち1往復は休日運休)の設定があり、200人程度の利用を支えている。年によっては上米内駅近くにある浄水場内の「しだれ桜」の開花時期に臨時列車を設定している。なお、上米内駅より見える高台にある「桜台団地」から朝夕の列車に片接続するバスが走っている。
[[ファイル:Train on Yamada Line view from 106Express.jpg|thumb|240px|none|106急行バスと併走する山田線列車(2000年7月24日 106急行バス車内より)]]<!-- 経路図を展開すると行が開くのでnone指定 -->
この盛岡駅 - 宮古駅間に人的輸送需要が無いわけではなく、山田線にほぼ並行している[[国道106号]]には盛岡駅前 - 宮古駅前間直通の「[[106急行バス]]」が頻繁に(ほぼ1時間に1本)運行されており、山田線は極めて不利である。この状況に対して、JR東日本[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]は、車両の置き換えによる車内居住性向上や新幹線との接続強化による首都圏との到達時間短縮などを行っており、2007年に[[国鉄キハ20系気動車|キハ52]]・[[国鉄キハ58系気動車|58系]]気動車から[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]気動車([[JR東日本キハE130系気動車|キハE130系]]が投入された[[水郡線]]からの転属車両)に置き換えられ、非冷房車は姿を消した。
最近は、車両の変更のほか、部分的ではあるが改修工事が進んでいる。特に無人駅の駅舎建て替え、レールの重量化や長大トンネル内のロングレール化、枕木のPC化などである。2008年3月15日のダイヤ改正では速度査定をキハ110系に変更して計算上のスピードアップを行っている(盛岡 - 宮古間2分弱のスピードアップ)。無人駅の駅舎建て替えについて、盛岡支社管内では、旧国鉄時代に建築され現在不使用となっている駅舎(駅務室スペースや物置など)の建物面積に対する固定資産税が多いためコスト削減の目的で省スペースな待合室のみの駅舎へ建て替えられているケースが多い。
2011年には[[東日本大震災]]の影響で、茂市駅 - 宮古駅間の閉塞方式を[[閉塞 (鉄道)#スタフ閉塞式|スタフ閉塞式]]に変更し臨時ダイヤで運行していた期間があった。
2018年4月22日から[[列車集中制御装置|CTC]]化された<ref group="報道" name="yamadactc">{{PDFlink|[https://www.jr-morioka.com/cgi-bin/pdf/press/pdf_1519261819_1.pdf 山田線における安全安定輸送に向けた取り組みについて]}} - 東日本旅客鉄道盛岡支社 2018年2月22日</ref>(先行して同年3月25日より[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]を[[閉塞 (鉄道)#連査閉塞式|連査閉塞式]]から[[閉塞 (鉄道)#特殊自動閉塞式|特殊自動閉塞式]]へ変更し、区界駅を[[列車交換#交換駅の棒線化|棒線化]])。CTC化に伴い運転扱いを行っていた上米内・区界・川内・茂市の各駅と、簡易委託駅であった陸中川井駅の5駅は無人化された<ref group="新聞">[http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/news.cgi?ec=20180223_1 JR山田線4駅、無人化検討 運行管理効率化へ]岩手日報 2018年2月23日</ref><ref group="新聞" name="mainichi20180422" />。その結果、駅員配置駅が盛岡駅と宮古駅のみとなり、途中駅がすべて無人駅となった。
2013年9月30日から2016年3月末までの約2年半、盛岡市とJR東日本盛岡支社が連携し、盛岡市の都市交通における公共交通機関の利用促進の一環として、盛岡駅 - 上米内駅間の利便性向上を図ることを目的に、最終列車の延長等の[[社会実験]]を行っていた<ref>{{Cite web|和書|date=2013-09-09 |url=http://www.city.morioka.iwate.jp/douro_kotsu/23580/023582.html |title=JR山田線「盛岡〜上米内間」の社会実験 |publisher=盛岡市 |accessdate=2019-03-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131013113318/http://www.city.morioka.iwate.jp/douro_kotsu/23580/023582.html |archivedate=2013-10-13}}</ref>。その後、さらに1年間社会実験を延長し、2017年3月まで実施した<ref group="新聞">{{Cite news |title=JR盛岡支社 社会実験を1年間延長 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2016-03-22 }}</ref>。しかし、乗車人員数が目標値に達せず、増便は終了となった<ref>{{Cite web|和書|date=2019-09-11 |url=http://www.city.morioka.iwate.jp/kurashi/douro_kotsu/kokyokotsu/1001836.html |title=JR山田線「盛岡〜上米内間」の社会実験 |publisher=盛岡市 |accessdate=2019-03-25}}</ref>。
=== 臨時列車 ===
[[File:JR-East-HB-E300-Resort-Asunaro.jpg|thumb|山田線の臨時列車に使用される車両と同じ八戸運輸区所属のHB-E300系気動車(青森駅)]]
[[臨時列車]]としては、[[鉄道車両におけるハイブリッド|ハイブリッド気動車]][[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]]「[[リゾートあすなろ]]」編成を使って、主に土休日に運転される「さんりくトレイン宮古」や[[年末年始]]の「ふるさと宮古」、冬に開催される宮古真鱈まつりに合わせて運転される「宮古真鱈号」などがある。
以前は、一般形車両を使用した臨時快速「三陸」・「みやこ」も運転されていた。
=== 宮古駅 - 釜石駅間(JR運行当時) ===
前述のとおり、この区間は東日本大震災のため運休していたが、復旧後の2019年3月に[[三陸鉄道]]へ移管された。下記は震災前の運行形態を示している。
車両は[[釜石線]]と共通運用の[[JR東日本キハ100系気動車|キハ100形]](「快速はまゆり」と間合い運用される列車はキハ110系)気動車{{R|交通910709|group="新聞"}}と、三陸鉄道南リアス線・北リアス線から乗り入れてくる[[三陸鉄道36-100形気動車|36-100形]]気動車を使用していた。なお、三陸鉄道移管後の当区間ではワンマン運転を行っているが、JR運行当時はJR車両による列車、三陸鉄道直通列車の両方とも、ワンマン運転を行っていなかった。
盛岡駅 - 宮古駅間より本数が多く、1時間から2時間に1本程度の運行になっていた。宮古駅 → 盛岡駅間には釜石線経由で快速「[[はまゆり (列車)|はまゆり]]」1本が運転されていた。また、三陸鉄道[[三陸鉄道リアス線|南リアス線]]・[[三陸鉄道リアス線|北リアス線]]と相互直通運転を行っており、震災前の時点では1往復が三陸鉄道の車両で運行されていた。イベント列車として仙台駅 - 八戸駅間に三陸縦貫列車「[[リアス・シーライナー]]」が夏季に運転されていた。
かつては、山田線 - 釜石線 - 東北本線を回る盛岡発盛岡行きの[[循環列車|循環急行]][[はまゆり (列車)|「そとやま」・「五葉」]]が設定されていた。
また、[[新日鐵住金釜石製鐵所|釜石製鉄所]]が高炉を24時間体制で操業していた時代には、釜石線とともに夜勤者用に時刻表非掲載の深夜列車が運行されていた。1979年当時のダイヤでは、釜石を午前1時25分に発車し、終着の陸中山田には午前2時22分に到着していた<ref>石野哲『時刻表名探偵』日本交通公社、1979年、pp.77、79。このダイヤは盛岡鉄道管理局の運転時刻表が出典と記されている。</ref>。
== 使用車両 ==
<!-- 「系」は(国鉄・JRの場合)複数の形式をまとめて呼ぶ場合に使います。-->
=== 現在の使用車両 ===
* [[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]気動車 - [[盛岡車両センター]]所属
* [[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]]気動車「[[リゾートあすなろ]]」- [[八戸運輸区]]所属(土休日を中心に臨時列車として使用)
=== 過去の使用車両 ===
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]] - 2台機関搭載車だったことが重宝されたが、国鉄時代にキハ58に置き替えられた。
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
* [[国鉄キハ20系気動車|キハ52形]]
* [[JR東日本キハ100系気動車|キハ100形]] - 釜石線と共通運用で、東日本大震災まで宮古 - 釜石間で運用されていた。
* [[三陸鉄道36-100形気動車|36-100形]] - 東日本大震災まで三陸鉄道直通列車で運用された。
2007年11月24日をもって盛岡 - 宮古間における[[国鉄キハ20系気動車|キハ52形]]、[[国鉄キハ58系気動車|キハ58形]]気動車の運用は終了し、非冷房車は姿を消した(キハ110系は2007年10月21日から一部運用開始)。なお、キハ58系気動車は機関1台あたりの出力が小さく、山田線のような急勾配線区においては全車2台機関搭載車とせざるを得なかったとこと、[[国鉄キハ65形気動車|キハ65]]のような冷房電源の付いた高出力気動車は配属されなかったこと、さらに山田線沿線は[[やませ]]の影響を受けやすい事情もあり、最後まで冷房装置の取り付けは行なわれなかった。
== データ ==
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道([[鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 区間([[営業キロ]]):盛岡 - 宮古 102.1 [[キロメートル|km]]
* [[軌間]]:1,067 [[ミリメートル|mm]]
* 駅数:15駅(起終点駅含む){{Refnest|name="ekisuu"|group="注"|2009年時点の30駅<ref name="sone 13"/>から、2016年に廃止された2駅、2023年に廃止された1駅および2019年3月23日に三陸鉄道リアス線として移管された宮古-釜石間のうち宮古駅を除く12駅を減じた数。}}
** 山田線所属駅に限定した場合、起点の盛岡駅(東北本線所属<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>)が除外され、15駅となる。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:特殊自動閉塞式(軌道回路検知式)
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S{{smaller|N}}]]<ref name="ats" />
* 最高速度:85 [[キロメートル毎時|km/h]]
* [[運転指令所]]:盛岡総合指令室([[列車集中制御装置|CTC]]・[[自動進路制御装置|PRC]])
全線[[東日本旅客鉄道盛岡支社|盛岡支社]]の管轄である。
=== 利用状況 ===
区間ごとの平均通過人員は以下のとおりである。国鉄時代から[[特定地方交通線]]なみの数値であったが、1987年(昭和62年)時点で代替輸送道路が未整備であったため<ref name="rj213">[[鉄道ジャーナル]]1984年11月号NO.213の131ページ</ref>、第3次廃止対象特定地方交通線から除外された。なお、東日本大震災以前は、現在もJR東日本が運営する盛岡 - 宮古間よりも、三陸鉄道に移管された宮古 - 釜石間のほうが平均通過人員が多かった。
==== 1987年度 - 2010年度 ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|+
!rowspan="3"|年度
!colspan="4"|平均通過人員(人/日)
!rowspan="3"|出典
|-
!rowspan="2"|全区間
!colspan="2"|盛岡 - 宮古
!rowspan="2"|宮古 - 釜石
|-
!盛岡 - 上米内
!上米内 - 宮古
|-
!rowspan="2"|1987年度
|rowspan="2"|1,119
|colspan="2" style="text-align:center;"|732
|rowspan="2"|1,719
|rowspan="8" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast1987-2007">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/1987_2007.html |title=路線別ご利用状況(1987年度〜2007年度(5年毎)) |accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120820062422/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/1987_2007.html |archivedate=2012-08-20}}</ref><ref group="利用状況" name="jreast2007-2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2012.pdf |title=路線別ご利用状況(1987〜2012年度(5年毎)) |accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181019164202/http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf |archivedate=2018-10-19}}</ref>
|-
|844
|720
|-
!rowspan="2"|1992年度
|rowspan="2"|958
|colspan="2" style="text-align:center;"|607
|rowspan="2"|1,605
|-
|771
|589
|-
!rowspan="2"|1997年度
|rowspan="2"|661
|colspan="2" style="text-align:center;"|420
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|-
|637
|397
|-
!rowspan="2"|2002年度
|rowspan="2"|510
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|rowspan="2"|881
|-
|616
|276
|-
!2003年度
|496
|colspan="2" style="text-align:center;"|312
|774
|rowspan="4" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast2002-2006">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/2002_2006.html |title=路線別ご利用状況(2002年度〜2006年度)|accessdate=2021-01-23 |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120820062426/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/2002_2006.html |archivedate=2012-08-20}}</ref>
|-
!2004年度
|484
|colspan="2"style="text-align:center;" |296
|831
|-
!2005年度
|455
|colspan="2" style="text-align:center;"|266
|804
|-
!2006年度
|435
|colspan="2" style="text-align:center;"|251
|774
|-
!rowspan="2"|2007年度
|rowspan="2"|419
|colspan="2" style="text-align:center;"|247
|rowspan="2"|735
|rowspan="8" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast2006-2010">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2006-2010.pdf |title=路線別ご利用状況(2006〜2010年度)|accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160717143453/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2006-2010.pdf |archivedate=2016-07-17}}</ref><ref group="利用状況" name="jreast2007-2011">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2007-2011.pdf |title=路線別ご利用状況(2007〜2011年度)|accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200115160852/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2007-2011.pdf |archivedate=2020-01-15}}</ref>
|-
|500
|220
|-
!rowspan="2"|2008年度
|rowspan="2"|404
|colspan="2" style="text-align:center;"|228
|rowspan="2"|728
|-
|457
|203
|-
!rowspan="2"|2009年度
|rowspan="2"|392
|colspan="2" style="text-align:center;"|218
|rowspan="2"|713
|-
|435
|194
|-
!rowspan="2"|2010年度
|rowspan="2"|377
|colspan="2" style="text-align:center;"|205
|rowspan="2"|693
|-
|403
|184
|}
==== 2011年度 - 2018年度 ====
* 宮古 - 釜石間はバス代行輸送のため定期券および回数券の利用客のみ計上
* 宮古 - 釜石間の2018年度は3月22日までの値(以降は三陸鉄道に移管)
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|+
!rowspan="2"|年度
!colspan="4"|平均通過人員(人/日)
!rowspan="2"|出典
|-
!全区間
!盛岡 - 上米内
!上米内 - 宮古
!宮古 - 釜石
|-
!2011年度
|217
|386
|169
|285
|rowspan="3" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast2009-2013">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf |title=路線別ご利用状況(2009〜2013年度)|accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004015258/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf |archivedate=2020-01-15}}</ref>
|-
!2012年度
|257
|417
|209
|307
|-
!2013年度
|274
|482
|220
|323
|-
!2014年度
|279
|500
|241
|305
|rowspan="5" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf |title=路線別ご利用状況(2014〜2018年度)|accessdate=2021-01-23 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20190707014015/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf |archivedate=2019-07-07}}</ref>
|-
!2015年度
|248
|459
|190
|307
|-
!2016年度
|186
|379
|112
|275
|-
!2017年度
|195
|375
|124
|281
|-
!2018年度
|199
|380
|148
|257
|}
==== 2019年度以降 ====
{| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;"
|+
!rowspan="2"|年度
!colspan="3"|平均通過人員(人/日)
!rowspan="2"|出典
|-
!全区間
!盛岡 - 上米内
!上米内 - 宮古
|-
!2019年度
|174
|358
|154
|rowspan="3" style="text-align:center;"|<ref group="利用状況" name="jreast2017-2021">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |title=路線別ご利用状況(2017〜2021年度)|accessdate=2022-12-18 |format=PDF |publisher=東日本旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220801113624/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf |archivedate=2022-08-01 }}</ref>
|-
!2020年度
|95
|238
|80
|-
!2021年度
|76
|219
|61
|}
== 駅一覧 ==
* 停車駅
** 普通列車はすべての駅に停車
** 快速=快速「[[リアス (列車)|リアス]]」…●:全列車停車、|:全列車通過
* 線路(全線単線)… ◇・∨・∧:[[列車交換]]可、|:列車交換不可
* 全駅[[岩手県]]内に所在
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cd7a1e;"|駅名
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cd7a1e; line-height:1.2em;"|{{縦書き|快速}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cd7a1e;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #cd7a1e;"|{{縦書き|線路}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #cd7a1e;white-space:nowrap;"|所在地
|-
!style="border-bottom:3px solid #cd7a1e;"|駅間
!style="border-bottom:3px solid #cd7a1e;"|累計
|-
|[[盛岡駅]]
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center;"|●
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] [[東北新幹線]]・{{Color|#ed4399|■}}[[秋田新幹線]]・{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]・{{Color|#9d72b0|■}}[[田沢湖線]]・{{Color|#aa1e30|■}}[[花輪線]]<ref group="注">路線の正式な起点は[[好摩駅]]であるが、全列車がいわて銀河鉄道線を経由して盛岡駅まで乗り入れる。</ref><br />[[IGRいわて銀河鉄道]]:{{Color|#03459a|■}}[[いわて銀河鉄道線]]
|style="text-align:center;"|∨
|rowspan="4"|[[盛岡市]]
|-
|[[上盛岡駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[山岸駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[上米内駅]]
|style="text-align:right;"|5.0
|style="text-align:right;"|9.9
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[区界駅]]
|style="text-align:right;"|*25.7
|style="text-align:right;"|35.6
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|rowspan="11"|[[宮古市]]
|-
|[[松草駅]]
|style="text-align:right;"|8.0
|style="text-align:right;"|43.6
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[川内駅 (岩手県)|川内駅]]
|style="text-align:right;"|17.9
|style="text-align:right;"|61.5
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[箱石駅]]
|style="text-align:right;"|4.2
|style="text-align:right;"|65.7
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[陸中川井駅]]
|style="text-align:right;"|7.8
|style="text-align:right;"|73.5
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[腹帯駅]]
|style="text-align:right;"|9.1
|style="text-align:right;"|82.6
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[茂市駅]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|87.0
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[蟇目駅]]
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|91.5
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[花原市駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
|style="text-align:right;"|94.2
|style="text-align:center;"||
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[千徳駅]]
|style="text-align:right;"|4.6
|style="text-align:right;"|98.8
|style="text-align:center;"|●
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[宮古駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|102.1
|style="text-align:center;"|●
|[[三陸鉄道]]:{{Color|red|■}}[[三陸鉄道リアス線|リアス線]]
|style="text-align:center;"|∧
|}
*上米内駅 - 区界駅間の距離は、JR東日本管内の在来線では最長の駅間距離となっている<ref group="注">大志田駅と浅岸駅の廃止前は[[只見線]]・[[只見駅]] - [[大白川駅]]間の20.8 kmが最長であった。</ref>。
*盛岡駅はJR東日本の[[直営駅]]、宮古駅は三陸鉄道の管轄駅で、中間駅はすべて盛岡駅管理の無人駅である。
*2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の対象駅は、盛岡駅と宮古駅のみである。
=== 廃止区間 ===
; 2019年(平成31年)経営移管区間
:* 設置駅・駅名は移管前日時点のもの
:* この区間の現状の詳細については「[[三陸鉄道リアス線]]」を参照
: 宮古駅 - [[磯鶏駅]] - [[津軽石駅]] - [[豊間根駅]] - [[陸中山田駅]] - [[織笠駅]] - [[岩手船越駅]] - [[浪板海岸駅]] - [[吉里吉里駅]] - [[大槌駅]] - [[鵜住居駅]] - [[両石駅]] - [[釜石駅]]
; 1984年(昭和59年)廃止区間(宮古臨港線)
: 宮古駅 - [[宮古港駅]]
=== 廃止駅 ===
廃止区間の駅は前節を参照。
* [[大志田駅]] - 2016年(平成28年)3月26日廃止。上米内駅 - 浅岸駅間。
* [[浅岸駅]] - 2016年(平成28年)3月26日廃止。大志田駅 - 区界駅間。
* [[平津戸駅]] - 2022年(令和4年)3月12日全列車通過、2023年(令和5年)3月18日廃止。松草駅 - 川内駅間。
=== 過去の接続路線 ===
* 茂市駅:[[岩泉線]] - 2014年(平成26年)4月1日廃止。
* 宮古駅:貨物支線(宮古臨港線) - 1984年(昭和59年)2月1日廃止。
== 山田線が登場する作品 ==
* 映画
** 『[[大いなる旅路]]』 - 1944年3月12日に平津戸 - 川内間で起きた[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#山田線列車転落事故|列車転落事故]]をモデルとした作品。事故シーンの撮影は当時の[[日本国有鉄道|国鉄]]の協力で1960年に浅岸駅付近で実際に機関車を転落させて行われた。
* 漫画
** [[秋本治]]『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』(単行本第8巻)
** [[こしたてつひろ]]『拝啓サラダボーイ』(作者は山田線沿線の大槌町出身 最終話に吉里吉里駅が登場する)
== その他 ==
盛岡 - 上米内間を(盛岡市内を走る[[ライトレール|LRT]]の一路線としての)都市路線として利用すべく提言を行っている団体がある<ref>[http://www5.plala.or.jp/morioka_lrt/sub_benkyokai.html 盛岡にLRTを走らせ隊]</ref><!--が、市民を挙げての気運の高まりには至っていない-->。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 報道発表資料 ====
{{Reflist|group="報道"|2}}
==== 利用状況 ====
{{Reflist|group="利用状況"}}
==== 新聞記事・ニュース ====
{{Reflist|group="新聞"|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線|pages=13-19|date=2009-12-06|ref=sone21}}
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Yamada Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[国道106号]]
* [[106急行バス]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=65=1=%8eR%93c%90%fc 検索結果(山田線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東日本旅客鉄道盛岡支社}}
{{デフォルトソート:やまた}}
[[Category:山田線|*]]
[[Category:東北地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:部分廃止路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:岩手県の交通]]
|
2003-09-12T04:05:13Z
|
2023-11-20T07:35:28Z
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[
"Template:Cite press release",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E7%B7%9A
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16,350 |
近鉄鳥羽線
|
鳥羽線(とばせん)は、三重県伊勢市の宇治山田駅から同県鳥羽市の鳥羽駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は、京都線・橿原線・大阪線・山田線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
山田線と志摩線との間を結ぶ路線である。伊勢中川駅から賢島駅までの路線は、歴史的経緯により山田線、鳥羽線、志摩線の3つの路線に分かれているが、列車運行上は一体の路線として運用されている。1970年に当路線が全通したことにより、山田線(1931年全通)と志摩線(1929年全通、1970年に狭軌から標準軌に改軌)とが結ばれ、大阪や名古屋などから賢島駅までの直通運転が可能となった。なお、山田線に跨って乗車する場合は、建設費回収のための加算運賃が適用される。宇治山田駅の隣駅である五十鈴川駅は伊勢神宮の内宮の最寄駅である。
路線は山沿いに展開されているが、池の浦駅 - 鳥羽駅間は、東海旅客鉄道(JR東海)の参宮線とほぼ並行している。宮町駅 - 伊勢市駅 - 鳥羽駅間では競合するJR参宮線より運賃が高いが、近鉄の方が運転本数が多く、終電時刻も遅くなっている。また、比較的新しい路線のため、踏切がなく道路とは完全に立体交差化されているが、全線開通時には鳥羽駅から約250m西、現在国道42号との立体交差あたりに、参宮線と共同の小浜踏切が存在していた。
鳥羽線ではスルッとKANSAIカード及びJスルーカードは利用できないが、2007年4月1日からPiTaPaが導入され、同時にICOCAとも相互利用が可能となった。2015年9月現在、宇治山田駅と五十鈴川駅、鳥羽駅には自動改札機を、朝熊駅と池の浦駅には簡易改札機を設置して対応している。また2013年3月23日よりTOICA・manacaなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用可能である。
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
大阪・京都・名古屋方面からの多数の特急列車が通る。急行系の列車は、大阪方面からの快速急行、大阪・名古屋方面からの急行が五十鈴川駅まで、朝夕は鳥羽駅まで直通する。
昼間時間帯は快速急行が運転されず、五十鈴川駅以南は急行も運転されないため特急・普通列車のみが運転される。特急を除き線内の各駅に停車する。
当線は急勾配が多いが、宇治山田駅 - 池の浦駅間には半径600m未満の急曲線がなく、平面線形が良好で高速運転に適しているため、下り列車の一部は最高速度130km/hで走行している。全線所要時間はノンストップ特急で9分(表定速度88km/h)、五十鈴川停車の場合は11分(表定速度72km/h)、快速急行以下(各駅停車)でも14分(表定速度56km/h)となり、短距離路線ながら表定速度は高い。
日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。
鳥羽線内での停車駅は宇治山田駅、五十鈴川駅(阪伊・名伊甲特急および「しまかぜ」は通過)、鳥羽駅である。おおむね半数以上の列車が志摩線賢島駅まで直通している。
日中は1時間あたり大阪難波駅発着の阪伊乙特急と近鉄名古屋駅発着の名伊乙特急が1本ずつ、五十鈴川駅発着の名伊乙特急が1本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には京都駅発着の京伊特急、「しまかぜ」(大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転され、最も運転本数の多い土休日15時台(鳥羽駅基準)の上りには、阪伊甲特急1本、阪伊乙特急2本(うち1本五十鈴川駅始発)、京伊特急1本、「しまかぜ」京都駅発着1本、名伊甲特急1本、名伊乙特急2本の8本が運転される。
編成両数は4両 - 8両で運転されているが、年始時期など多客時の増結を考慮して宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅のホーム長は10両分を確保している。
編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する名阪特急の編成に合わせているためである。
2009年3月20日時点では日中の特急は鳥羽駅折り返しを含めて鳥羽線内で1時間あたり4 - 5本が運転されていたが、2010年のダイヤ変更で日中の鳥羽駅折り返し列車が山田線宇治山田駅折り返しに短縮された。なお、日中の乙特急は年末年始などの多客期は鳥羽駅まで延長されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で取りやめられている。2014年9月21日のダイヤ変更では宇治山田駅を始発駅とする列車のうち、早朝の阪伊・名伊乙特急の一部、日中の名伊乙特急が五十鈴川発に変更された。2022年12月17日のダイヤ変更で宇治山田行きの列車のうち、阪伊特急の一部と名伊特急の大半が五十鈴川行きに延長された。
快速急行は、下りのみ大阪上本町駅発鳥羽駅行きが平日・土休日とも夜間に1本が運転されている。急行は、宇治山田駅 - 五十鈴川駅間では近鉄名古屋駅発着列車が約1時間間隔で運転されており、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間では上りは鳥羽駅発近鉄名古屋駅行きが平日朝に3本、土休日朝に2本、鳥羽駅発大阪上本町駅行きが土休日のみ朝に1本、鳥羽駅発名張駅行きが平日のみ朝に1本、下りは近鉄名古屋駅発鳥羽駅行きが平日朝に3本・夜に1本、土休日朝に2本・夜に1本、白子駅発鳥羽駅行きが平日のみ朝に1本運転されている。朝夕の急行停車を考慮して、特急が通過する朝熊駅と池の浦駅のホーム長は6両分を確保している。早朝の一部列車に五十鈴川駅で乙特急と緩急接続する急行がある。
編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両が基本で、早朝と夜間、日中の大阪線直通の一部列車は4両で運転されている。異常時の突発的な運用変更がない限りは原則として2610系や5200系などのトイレ付きの車両が充当されている。急行、快速急行とも車掌も乗務しているため無人駅の朝熊駅、池の浦駅でも全てのドアが開く。
快速急行はダイヤ変更毎に設定本数や運転区間の変動が大きくなっており、2012年3月20日のダイヤ変更以降は鳥羽駅に直通する快速急行の本数の削減と運転区間短縮が進み、2016年3月19日のダイヤ変更まで土休日夜間の下り1本のみ設定されていた快速急行は一旦廃止されたものの、2018年3月17日のダイヤ変更で鳥羽駅発着の快速急行が再び設定された。しかし、2020年3月14日のダイヤ変更で鳥羽線内の快速急行は下りのみとなり、上りは青山町駅で同駅始発の快速急行に接続する名張行き急行に変わった。なお、五十鈴川駅発着の快速急行は定期列車として設定されていなかったが、2012年3月20日のダイヤ変更で土休日夜間の下り最終のみ新設され、2014年9月21日のダイヤ変更で平日10時台と夕方に五十鈴川行き快速急行が設定されたが、2018年3月17日のダイヤ変更で休日20時台の五十鈴川駅到着列車を除いて全て廃止された。
2004年3月17日までは日中の鳥羽駅発着も設定されていたが、2004年3月18日のダイヤ変更で快速急行・急行は宇治山田駅・五十鈴川駅での折り返しが増え、鳥羽駅を始発駅とする上り列車は朝方のみになった。一方、五十鈴川駅発着列車は朝上りと夕刻の少数のみであったが、2014年9月21日のダイヤ変更で上記の快速急行も含めて宇治山田駅始発・終着で五十鈴川駅まで回送されていた列車が営業運転されるようになったため、日中に当線内での急行の設定が1駅のみ復活した。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。
終日運転され、ほぼ1時間あたり2本の約30分間隔で運転されている。多くが山田線伊勢中川駅 - 志摩線賢島駅間の運転で、ラッシュ時と夜間に伊勢中川駅・明星駅 - 宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、平日早朝と夜間に名古屋線白塚駅 - 賢島駅間を直通する列車がある。その他にも、早朝に鳥羽線内の区間運転や伊勢中川駅 - 鳥羽駅間を運転した列車が伊勢中川駅で系統変更を行い、名古屋線近鉄名古屋駅まで直通する列車がある。
3両・4両・6両編成で運転されている一部時間帯の列車を除き、大多数の列車が2両編成によるワンマン運転を実施している。山田線・志摩線直通列車を中心に運転距離は比較的長いが、4両・6両編成で運転される列車を除いてトイレは設置されていない。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が運転されているほか、伊勢中川駅 - 五十鈴川駅で普通が約30分間隔で運転される形態となっている。なお、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間での終夜運転は行われていない。
2010年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が運転されていたほか(伊勢神宮の参拝順序の関係からか、賢島直通の特急以外では下りは宇治山田行き、上りは五十鈴川始発が多い)、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が鳥羽駅始発に変更されていた。時刻については近鉄の公式サイトでも掲載されている。
2011年度は志摩スペイン村のカウントダウンイベントが中止されたために特急の賢島駅直通列車が無くなって五十鈴川駅始発か鳥羽駅折り返しとなり、賢島駅へは普通列車2往復の運転にとどまった。
2012年度は、前年まで運転されていた志摩線直通の特急および普通列車が無くなったため、特急はすべて五十鈴川駅および鳥羽駅折り返しとし、名古屋線直通急行は鳥羽駅発着の列車が毎時1本運転され、大阪線直通の急行・快速急行は23時以降6時台までの全列車が宇治山田駅終着・五十鈴川駅始発(1時台のみ鳥羽駅始発急行)として運転された。快速急行・急行が鳥羽線普通列車の役割となったため、23時以降は4時台まで普通列車は運転されなかった。また、これまで鳥羽駅始発として運転されていた大阪線名張駅直通の普通列車は宇治山田駅始発に短縮して運転された。
2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で終夜運転は行われなかった。2021年度以降は急行の運転がなくなり、2022年度は五十鈴川駅 - 鳥羽駅間の終夜運転が取りやめられた。
三重県営サンアリーナにて大規模なコンサートが開催される際は、来場者の利便性を図るため、会場最寄駅の五十鈴川駅を発着する近鉄名古屋・伊勢中川方面への臨時急行および普通列車が数本設定されており、宇治山田駅発着の定期急行が五十鈴川駅発着に変更される。
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで運転されていた観光列車。土休日の日中に2往復のみ山田線伊勢市駅から志摩線賢島駅にて運転されており、鳥羽線内では宇治山田駅と五十鈴川駅、鳥羽駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。
伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された。
2012年3月19日まで、大阪上本町駅から山田線松阪駅間に区間快速急行が運転されていたが、年末年始の終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着が運転されていた。
1983年3月18日のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅から鳥羽駅間に準急が運転されていた。鳥羽線内は各駅に停車していた。
鳥羽線の列車は、大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されているが、朝と夜間の名古屋線直通列車は一部に大阪線所属の車両が使用されている。
また、ワンマン列車にはいずれも名古屋線所属車両である1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。
現在の志摩線は参宮線を延長するような形で沿線住民の交通手段のほか奥志摩への観光客の誘致を目的として1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(志摩電鉄)が開業した路線で、軌間は鳥羽駅で接続する参宮線に合わせて1067mmの狭軌とされた。志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指しており、1928年(昭和3年)6月に鳥羽 - 二見間の延長工事許可を取得し、その一環として佐田浜(鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画した。二見で三重交通神都線に連絡して、宇治山田へ至る予定であった。しかし延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した。1935年(昭和10年)8月、三重県知事の富田愛次郎は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した。その後陸運統制令による戦時統制の勧奨の流れを受けて、1944年(昭和19年)に三重県内の中小私鉄統合で設立された三重交通の路線となる。
その一方で、山田線は参宮急行電鉄(参急)の手により、現在の大阪線と合わせて大阪から伊勢神宮への参詣鉄道とするために建設が行われ、1931年に宇治山田駅までの全線が開業した。
戦後の高度成長期に入り、近鉄は伊勢志摩方面の観光事業を推し進め、当時の近鉄線の終点であった宇治山田駅の1番線ホームをバスが横付けして停車できるよう改造し、1961年(昭和36年)4月から近鉄特急の到着に合わせて、三重交通と近鉄が共同出資した三重急行の賢島行きの特急バスが接続するといったようなことも行い、客誘致に努めていた。しかし、本格的に事業を進めるには、やはり大阪・名古屋方面から直接アクセスできるほうがよく、三重交通志摩線は三重交通の鉄道事業の三重電気鉄道への分離の後に、1965年に近鉄へ合併し、同社の志摩線となった。その上で、山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線を建設し、志摩線も軌間1435mmの標準軌に改めて、賢島駅まで特急を直通させることにした。
全線が開業したのは日本万国博覧会開催直前の1970年3月1日だが、当初は需要・工期の面から単線だった。ただし、用地は複線分確保しており、一部のトンネルや橋梁は複線幅で構築していた。この開業は、当時まだ京都方面から直通急行列車が乗り入れており、ある程度の活況を見せていた国鉄参宮線に打撃を与え、完全なローカル線へ転落させる要因となった。開通から5年後の1975年に全線複線化を達成している。
2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。
|
[
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"text": "鳥羽線(とばせん)は、三重県伊勢市の宇治山田駅から同県鳥羽市の鳥羽駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。",
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"text": "駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は、京都線・橿原線・大阪線・山田線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。",
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"text": "山田線と志摩線との間を結ぶ路線である。伊勢中川駅から賢島駅までの路線は、歴史的経緯により山田線、鳥羽線、志摩線の3つの路線に分かれているが、列車運行上は一体の路線として運用されている。1970年に当路線が全通したことにより、山田線(1931年全通)と志摩線(1929年全通、1970年に狭軌から標準軌に改軌)とが結ばれ、大阪や名古屋などから賢島駅までの直通運転が可能となった。なお、山田線に跨って乗車する場合は、建設費回収のための加算運賃が適用される。宇治山田駅の隣駅である五十鈴川駅は伊勢神宮の内宮の最寄駅である。",
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"text": "路線は山沿いに展開されているが、池の浦駅 - 鳥羽駅間は、東海旅客鉄道(JR東海)の参宮線とほぼ並行している。宮町駅 - 伊勢市駅 - 鳥羽駅間では競合するJR参宮線より運賃が高いが、近鉄の方が運転本数が多く、終電時刻も遅くなっている。また、比較的新しい路線のため、踏切がなく道路とは完全に立体交差化されているが、全線開通時には鳥羽駅から約250m西、現在国道42号との立体交差あたりに、参宮線と共同の小浜踏切が存在していた。",
"title": "概要"
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"text": "鳥羽線ではスルッとKANSAIカード及びJスルーカードは利用できないが、2007年4月1日からPiTaPaが導入され、同時にICOCAとも相互利用が可能となった。2015年9月現在、宇治山田駅と五十鈴川駅、鳥羽駅には自動改札機を、朝熊駅と池の浦駅には簡易改札機を設置して対応している。また2013年3月23日よりTOICA・manacaなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用可能である。",
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"text": "全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。",
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"text": "大阪・京都・名古屋方面からの多数の特急列車が通る。急行系の列車は、大阪方面からの快速急行、大阪・名古屋方面からの急行が五十鈴川駅まで、朝夕は鳥羽駅まで直通する。",
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},
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"text": "昼間時間帯は快速急行が運転されず、五十鈴川駅以南は急行も運転されないため特急・普通列車のみが運転される。特急を除き線内の各駅に停車する。",
"title": "運行形態"
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"text": "当線は急勾配が多いが、宇治山田駅 - 池の浦駅間には半径600m未満の急曲線がなく、平面線形が良好で高速運転に適しているため、下り列車の一部は最高速度130km/hで走行している。全線所要時間はノンストップ特急で9分(表定速度88km/h)、五十鈴川停車の場合は11分(表定速度72km/h)、快速急行以下(各駅停車)でも14分(表定速度56km/h)となり、短距離路線ながら表定速度は高い。",
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"text": "日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。",
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"text": "鳥羽線内での停車駅は宇治山田駅、五十鈴川駅(阪伊・名伊甲特急および「しまかぜ」は通過)、鳥羽駅である。おおむね半数以上の列車が志摩線賢島駅まで直通している。",
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"text": "日中は1時間あたり大阪難波駅発着の阪伊乙特急と近鉄名古屋駅発着の名伊乙特急が1本ずつ、五十鈴川駅発着の名伊乙特急が1本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には京都駅発着の京伊特急、「しまかぜ」(大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転され、最も運転本数の多い土休日15時台(鳥羽駅基準)の上りには、阪伊甲特急1本、阪伊乙特急2本(うち1本五十鈴川駅始発)、京伊特急1本、「しまかぜ」京都駅発着1本、名伊甲特急1本、名伊乙特急2本の8本が運転される。",
"title": "運行形態"
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"text": "編成両数は4両 - 8両で運転されているが、年始時期など多客時の増結を考慮して宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅のホーム長は10両分を確保している。",
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"text": "編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する名阪特急の編成に合わせているためである。",
"title": "運行形態"
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"text": "2009年3月20日時点では日中の特急は鳥羽駅折り返しを含めて鳥羽線内で1時間あたり4 - 5本が運転されていたが、2010年のダイヤ変更で日中の鳥羽駅折り返し列車が山田線宇治山田駅折り返しに短縮された。なお、日中の乙特急は年末年始などの多客期は鳥羽駅まで延長されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で取りやめられている。2014年9月21日のダイヤ変更では宇治山田駅を始発駅とする列車のうち、早朝の阪伊・名伊乙特急の一部、日中の名伊乙特急が五十鈴川発に変更された。2022年12月17日のダイヤ変更で宇治山田行きの列車のうち、阪伊特急の一部と名伊特急の大半が五十鈴川行きに延長された。",
"title": "運行形態"
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"text": "快速急行は、下りのみ大阪上本町駅発鳥羽駅行きが平日・土休日とも夜間に1本が運転されている。急行は、宇治山田駅 - 五十鈴川駅間では近鉄名古屋駅発着列車が約1時間間隔で運転されており、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間では上りは鳥羽駅発近鉄名古屋駅行きが平日朝に3本、土休日朝に2本、鳥羽駅発大阪上本町駅行きが土休日のみ朝に1本、鳥羽駅発名張駅行きが平日のみ朝に1本、下りは近鉄名古屋駅発鳥羽駅行きが平日朝に3本・夜に1本、土休日朝に2本・夜に1本、白子駅発鳥羽駅行きが平日のみ朝に1本運転されている。朝夕の急行停車を考慮して、特急が通過する朝熊駅と池の浦駅のホーム長は6両分を確保している。早朝の一部列車に五十鈴川駅で乙特急と緩急接続する急行がある。",
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"text": "編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両が基本で、早朝と夜間、日中の大阪線直通の一部列車は4両で運転されている。異常時の突発的な運用変更がない限りは原則として2610系や5200系などのトイレ付きの車両が充当されている。急行、快速急行とも車掌も乗務しているため無人駅の朝熊駅、池の浦駅でも全てのドアが開く。",
"title": "運行形態"
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"text": "快速急行はダイヤ変更毎に設定本数や運転区間の変動が大きくなっており、2012年3月20日のダイヤ変更以降は鳥羽駅に直通する快速急行の本数の削減と運転区間短縮が進み、2016年3月19日のダイヤ変更まで土休日夜間の下り1本のみ設定されていた快速急行は一旦廃止されたものの、2018年3月17日のダイヤ変更で鳥羽駅発着の快速急行が再び設定された。しかし、2020年3月14日のダイヤ変更で鳥羽線内の快速急行は下りのみとなり、上りは青山町駅で同駅始発の快速急行に接続する名張行き急行に変わった。なお、五十鈴川駅発着の快速急行は定期列車として設定されていなかったが、2012年3月20日のダイヤ変更で土休日夜間の下り最終のみ新設され、2014年9月21日のダイヤ変更で平日10時台と夕方に五十鈴川行き快速急行が設定されたが、2018年3月17日のダイヤ変更で休日20時台の五十鈴川駅到着列車を除いて全て廃止された。",
"title": "運行形態"
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"text": "2004年3月17日までは日中の鳥羽駅発着も設定されていたが、2004年3月18日のダイヤ変更で快速急行・急行は宇治山田駅・五十鈴川駅での折り返しが増え、鳥羽駅を始発駅とする上り列車は朝方のみになった。一方、五十鈴川駅発着列車は朝上りと夕刻の少数のみであったが、2014年9月21日のダイヤ変更で上記の快速急行も含めて宇治山田駅始発・終着で五十鈴川駅まで回送されていた列車が営業運転されるようになったため、日中に当線内での急行の設定が1駅のみ復活した。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。",
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"text": "終日運転され、ほぼ1時間あたり2本の約30分間隔で運転されている。多くが山田線伊勢中川駅 - 志摩線賢島駅間の運転で、ラッシュ時と夜間に伊勢中川駅・明星駅 - 宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、平日早朝と夜間に名古屋線白塚駅 - 賢島駅間を直通する列車がある。その他にも、早朝に鳥羽線内の区間運転や伊勢中川駅 - 鳥羽駅間を運転した列車が伊勢中川駅で系統変更を行い、名古屋線近鉄名古屋駅まで直通する列車がある。",
"title": "運行形態"
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"text": "3両・4両・6両編成で運転されている一部時間帯の列車を除き、大多数の列車が2両編成によるワンマン運転を実施している。山田線・志摩線直通列車を中心に運転距離は比較的長いが、4両・6両編成で運転される列車を除いてトイレは設置されていない。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は、大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が運転されているほか、伊勢中川駅 - 五十鈴川駅で普通が約30分間隔で運転される形態となっている。なお、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間での終夜運転は行われていない。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "2010年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が運転されていたほか(伊勢神宮の参拝順序の関係からか、賢島直通の特急以外では下りは宇治山田行き、上りは五十鈴川始発が多い)、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が鳥羽駅始発に変更されていた。時刻については近鉄の公式サイトでも掲載されている。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "2011年度は志摩スペイン村のカウントダウンイベントが中止されたために特急の賢島駅直通列車が無くなって五十鈴川駅始発か鳥羽駅折り返しとなり、賢島駅へは普通列車2往復の運転にとどまった。",
"title": "運行形態"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2012年度は、前年まで運転されていた志摩線直通の特急および普通列車が無くなったため、特急はすべて五十鈴川駅および鳥羽駅折り返しとし、名古屋線直通急行は鳥羽駅発着の列車が毎時1本運転され、大阪線直通の急行・快速急行は23時以降6時台までの全列車が宇治山田駅終着・五十鈴川駅始発(1時台のみ鳥羽駅始発急行)として運転された。快速急行・急行が鳥羽線普通列車の役割となったため、23時以降は4時台まで普通列車は運転されなかった。また、これまで鳥羽駅始発として運転されていた大阪線名張駅直通の普通列車は宇治山田駅始発に短縮して運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
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"text": "2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で終夜運転は行われなかった。2021年度以降は急行の運転がなくなり、2022年度は五十鈴川駅 - 鳥羽駅間の終夜運転が取りやめられた。",
"title": "運行形態"
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"text": "三重県営サンアリーナにて大規模なコンサートが開催される際は、来場者の利便性を図るため、会場最寄駅の五十鈴川駅を発着する近鉄名古屋・伊勢中川方面への臨時急行および普通列車が数本設定されており、宇治山田駅発着の定期急行が五十鈴川駅発着に変更される。",
"title": "運行形態"
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"text": "2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで運転されていた観光列車。土休日の日中に2往復のみ山田線伊勢市駅から志摩線賢島駅にて運転されており、鳥羽線内では宇治山田駅と五十鈴川駅、鳥羽駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。",
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"text": "伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された。",
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"text": "2012年3月19日まで、大阪上本町駅から山田線松阪駅間に区間快速急行が運転されていたが、年末年始の終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着が運転されていた。",
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"text": "1983年3月18日のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅から鳥羽駅間に準急が運転されていた。鳥羽線内は各駅に停車していた。",
"title": "運行形態"
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"text": "鳥羽線の列車は、大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されているが、朝と夜間の名古屋線直通列車は一部に大阪線所属の車両が使用されている。",
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"text": "また、ワンマン列車にはいずれも名古屋線所属車両である1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。",
"title": "車両"
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"text": "現在の志摩線は参宮線を延長するような形で沿線住民の交通手段のほか奥志摩への観光客の誘致を目的として1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(志摩電鉄)が開業した路線で、軌間は鳥羽駅で接続する参宮線に合わせて1067mmの狭軌とされた。志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指しており、1928年(昭和3年)6月に鳥羽 - 二見間の延長工事許可を取得し、その一環として佐田浜(鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画した。二見で三重交通神都線に連絡して、宇治山田へ至る予定であった。しかし延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した。1935年(昭和10年)8月、三重県知事の富田愛次郎は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した。その後陸運統制令による戦時統制の勧奨の流れを受けて、1944年(昭和19年)に三重県内の中小私鉄統合で設立された三重交通の路線となる。",
"title": "歴史"
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"text": "その一方で、山田線は参宮急行電鉄(参急)の手により、現在の大阪線と合わせて大阪から伊勢神宮への参詣鉄道とするために建設が行われ、1931年に宇治山田駅までの全線が開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "戦後の高度成長期に入り、近鉄は伊勢志摩方面の観光事業を推し進め、当時の近鉄線の終点であった宇治山田駅の1番線ホームをバスが横付けして停車できるよう改造し、1961年(昭和36年)4月から近鉄特急の到着に合わせて、三重交通と近鉄が共同出資した三重急行の賢島行きの特急バスが接続するといったようなことも行い、客誘致に努めていた。しかし、本格的に事業を進めるには、やはり大阪・名古屋方面から直接アクセスできるほうがよく、三重交通志摩線は三重交通の鉄道事業の三重電気鉄道への分離の後に、1965年に近鉄へ合併し、同社の志摩線となった。その上で、山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線を建設し、志摩線も軌間1435mmの標準軌に改めて、賢島駅まで特急を直通させることにした。",
"title": "歴史"
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"text": "全線が開業したのは日本万国博覧会開催直前の1970年3月1日だが、当初は需要・工期の面から単線だった。ただし、用地は複線分確保しており、一部のトンネルや橋梁は複線幅で構築していた。この開業は、当時まだ京都方面から直通急行列車が乗り入れており、ある程度の活況を見せていた国鉄参宮線に打撃を与え、完全なローカル線へ転落させる要因となった。開通から5年後の1975年に全線複線化を達成している。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。",
"title": "駅一覧"
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鳥羽線(とばせん)は、三重県伊勢市の宇治山田駅から同県鳥羽市の鳥羽駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は、京都線・橿原線・大阪線・山田線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 鳥羽線
|路線色 = #00b3c1
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|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 池の浦 - 鳥羽間を走る「しまかぜ」。
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[三重県]][[伊勢市]]、[[鳥羽市]]
|起点 = [[宇治山田駅]]
|終点 = [[鳥羽駅]]
|路線記号 = [[File:KT number-M.svg|20px|M]]
|駅数 = 5駅
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|所有者 = [[近畿日本鉄道]]
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{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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{{BS|SKRZ-Au|||[[伊勢自動車道]]|}}
{{BS|BHF|1.9|M75 [[五十鈴川駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[五十鈴川]]|}}
{{BS|BHF|4.9|M76 [[朝熊駅]]||}}
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{{BS|BHF|10.6|M77 [[池の浦駅]]||}}
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{{BS|STR|||[[近鉄志摩線|{{近鉄駅番号|M}} 志摩線]]|}}
}}
'''鳥羽線'''(とばせん)は、[[三重県]][[伊勢市]]の[[宇治山田駅]]から同県[[鳥羽市]]の[[鳥羽駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''M'''。番号部分は、[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄山田線|山田線]]から続く番号([[京都駅]]を01とみなす)になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf |title=駅ナンバリングを全線で実施します 〜あわせて案内サインや放送での多言語対応を拡充します〜 |date=2015-08-19 |access-date=2023-10-02 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。
== 概要 ==
山田線と[[近鉄志摩線|志摩線]]との間を結ぶ路線である。[[伊勢中川駅]]から[[賢島駅]]までの路線は、歴史的経緯により山田線、鳥羽線、志摩線の3つの路線に分かれているが、列車運行上は一体の路線として運用されている。[[1970年]]に当路線が全通したことにより、山田線([[1931年]]全通)と志摩線([[1929年]]全通、1970年に[[狭軌]]から[[標準軌]]に改軌)とが結ばれ、[[大阪市|大阪]]や[[名古屋市|名古屋]]などから賢島駅までの[[直通運転]]が可能となった。なお、山田線に跨って乗車する場合は、建設費回収のための加算運賃が適用される。宇治山田駅の隣駅である[[五十鈴川駅]]は[[伊勢神宮]]の[[皇大神宮|内宮]]の最寄駅である<ref>{{Cite web|和書|title=交通アクセス |url=https://www.isejingu.or.jp/access/ |website=伊勢神宮 |access-date=2023-02-10 |language=ja}}</ref>。
路線は山沿いに展開されているが、[[池の浦駅]] - 鳥羽駅間は、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[参宮線]]とほぼ並行している<ref group="*">この区間で特急が海岸線沿いを走る風景が、近鉄のCMでしばしば使用される。</ref>。[[宮町駅]] - [[伊勢市駅]] - 鳥羽駅間では競合するJR参宮線より運賃が高いが、近鉄の方が運転本数が多く、終電時刻も遅くなっている<ref group="*">ただし対名古屋では近鉄の方が割安になり、伊勢市 - 鳥羽間などでも通学定期運賃は近鉄の方が安い。</ref>。また、比較的新しい路線のため、踏切がなく道路とは完全に立体交差化されているが、全線開通時には鳥羽駅から約250m西、現在[[国道42号]]との立体交差あたりに、参宮線と共同の小浜踏切が存在していた<ref>「近鉄鳥羽線で初事故 トラック 一方通行の踏切へ進入」中日新聞 1970年(昭和45年)3月9日付 10版 15面、「近鉄鳥羽線で初の事故 トラックと衝突」伊勢新聞 1970年(昭和45年)3月9日付 7面</ref>。
鳥羽線では[[スルッとKANSAI]]カード及び[[Jスルーカード]]は利用できないが、[[2007年]][[4月1日]]から[[PiTaPa]]が導入され、同時に[[ICOCA]]とも相互利用が可能となった。2015年9月現在、[[宇治山田駅]]と[[五十鈴川駅]]、[[鳥羽駅]]には[[自動改札機]]を、朝熊駅と池の浦駅には簡易改札機を設置して対応している。また[[2013年]][[3月23日]]より[[TOICA]]・[[manaca]]などの[[ICカード]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用可能である。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):13.2 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:5駅(起終点駅含む)
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:130 km/h<ref name="terada" />
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
== 運行形態 ==
{{See also|近鉄大阪線#運行形態|近鉄名古屋線#運行形態|近鉄山田線#運行形態|近鉄志摩線#運行形態}}
大阪・京都・名古屋方面からの多数の[[近鉄特急|特急列車]]が通る。急行系の列車は、大阪方面からの[[快速急行]]、大阪・名古屋方面からの[[急行列車|急行]]が五十鈴川駅まで、朝夕は[[鳥羽駅]]まで直通する。
昼間時間帯は快速急行が運転されず、五十鈴川駅以南は急行も運転されないため特急・[[普通列車]]のみが運転される。特急を除き線内の各駅に停車する。
当線は急勾配が多いが、宇治山田駅 - 池の浦駅間には半径600m未満の急曲線がなく、平面線形が良好で高速運転に適しているため、下り列車の一部は最高速度130km/hで走行している。全線所要時間はノンストップ特急で9分(表定速度88km/h)、五十鈴川停車の場合は11分(表定速度72km/h)、快速急行以下(各駅停車)でも14分(表定速度56km/h)となり、短距離路線ながら表定速度は高い。
=== 運行本数 ===
日中1時間あたりの運行本数は以下のようになっている。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
|+日中の運行パターン
!駅名<br />\<br />種別
!山田線方面<br />直通先
!style="width:1em;"|{{縦書き|宇治山田|height=5em}}
!style="width:1em;"|{{縦書き|五十鈴川|height=5em}}
!…
!style="width:1em;"|{{縦書き|鳥羽|height=5em}}
!志摩線<br />直通先
|- style="text-align:center;"
|style="background:#ff8080;" rowspan="3"|特急 ||colspan="1" style="text-align:right"|←[[近鉄名古屋線|名古屋線]][[近鉄名古屋駅|名古屋駅]]||colspan="4" style="background:#ff8080;"|1本||colspan="1" style="text-align:left"|[[賢島駅]]→
|- style="text-align:center;"
|colspan="1" style="text-align:right"|←[[近鉄大阪線|大阪線]][[大阪難波駅]]||colspan="4" style="background:#ff8080;"|1本||colspan="1" style="text-align:left"|賢島駅→
|- style="text-align:center;"
|colspan="1" style="text-align:right"|←名古屋線名古屋駅||colspan="2" style="background:#ff8080;"|1本 ||colspan="3"|
|- style="text-align:center;"
|style="background:#f96;" rowspan="1"|急行 ||colspan="1" style="text-align:right"|←名古屋線名古屋駅||colspan="2" style="background:#f96;"|1本 ||colspan="3"|
|- style="text-align:center;"
|style="background:#cccccc;" rowspan="2"|普通 ||colspan="1" style="text-align:right"|←山田線[[伊勢中川駅]]||colspan="4" style="background:#cccccc;"|1本||colspan="1" style="text-align:left"|賢島駅→
|- style="text-align:center;"
|colspan="1" style="text-align:right"|←山田線伊勢中川駅||colspan="4" style="background:#cccccc;"|1本 ||colspan="1"|
|}
=== 特急 ===
{{Main|近鉄特急}}
鳥羽線内での停車駅は宇治山田駅、五十鈴川駅(阪伊・名伊甲特急および[[近鉄特急#観光特急「しまかぜ」(大阪・京都・名古屋 - 伊勢志摩間)|「しまかぜ」]]は通過<ref group="*">2012年3月20日ダイヤ変更までは[[近鉄特急#京伊特急(京都 - 伊勢志摩間)|京伊特急]]のうち、阪伊乙特急に連結しない単独運転のものも五十鈴川駅を通過していた。</ref>)、鳥羽駅である。おおむね半数以上の列車が志摩線[[賢島駅]]まで直通している。
日中は1時間あたり[[大阪難波駅]]発着の[[近鉄特急#阪伊特急(大阪 - 伊勢志摩間)|阪伊乙特急]]と[[近鉄名古屋駅]]発着の[[近鉄特急#名伊特急(名古屋 - 伊勢志摩間)|名伊乙特急]]が1本ずつ、五十鈴川駅発着の名伊乙特急が1本で合計3本が運転されている。朝夕時間帯には[[京都駅]]発着の[[近鉄特急#京伊特急(京都 - 伊勢志摩間)|京伊特急]]、[[近鉄特急#観光特急「しまかぜ」(大阪・京都・名古屋 - 伊勢志摩間)|「しまかぜ」]](大阪難波駅発着、京都駅発着、近鉄名古屋駅発着が運休日を除き1日1往復ずつ)、さらに土休日には甲特急(停車駅の少ない特急)も運転され、最も運転本数の多い土休日15時台(鳥羽駅基準)の上りには、阪伊甲特急1本、阪伊乙特急2本(うち1本五十鈴川駅始発)、京伊特急1本、「しまかぜ」京都駅発着1本、名伊甲特急1本、名伊乙特急2本の8本が運転される。
編成両数は4両 - 8両で運転されているが、年始時期など多客時の増結を考慮して宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅のホーム長は10両分を確保している。
編成の向きが阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する[[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|名阪特急]]の編成に合わせているためである<ref group="*">名阪特急運用の設定が存在しない[[近鉄50000系電車|50000系「しまかぜ」]]、[[近鉄23000系電車|23000系「伊勢志摩ライナー」]]は除く。</ref>。
2009年3月20日時点では日中の特急は鳥羽駅折り返しを含めて鳥羽線内で1時間あたり4 - 5本が運転されていたが、2010年のダイヤ変更で日中の鳥羽駅折り返し列車が山田線宇治山田駅折り返しに短縮された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.jp/news/files/20100210daiyahenko.pdf |format=pdf |title=ダイヤ変更についてのお知らせ |publisher=近畿日本鉄道 |date=2010年2月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210703134109/http://www.kintetsu.jp/news/files/20100210daiyahenko.pdf |archivedate=2021-07-03 |accessdate=2021-09-21}}</ref>。なお、日中の乙特急は年末年始などの多客期は鳥羽駅まで延長されていたが、2021年7月3日のダイヤ変更で取りやめられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20201013220155/https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/Exp200314.html |title=近畿日本鉄道|特急列車の時刻表(2020年3月14日変更) |access-date=2023-3-23 |archive-date=2020-10-13 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201013220155/https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/Exp200314.html}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/Exp200314.html |title=近畿日本鉄道|特急列車の時刻表 |access-date=2023-3-23 |archive-date=2021-10-24 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211024183243/https://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/Exp200314.html}}</ref>。2014年9月21日のダイヤ変更では宇治山田駅を始発駅とする列車のうち、早朝の阪伊・名伊乙特急の一部、日中の名伊乙特急が五十鈴川発に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou2.pdf |format=pdf |title=平成26年のダイヤ変更について |publisher=近畿日本鉄道プレスリリース |date=2014年7月23日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210407155633/https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou2.pdf |archivedate=2021-04-07 |accessdate=2021-09-21}}</ref>。2022年12月17日のダイヤ変更で宇治山田行きの列車のうち、阪伊特急の一部と名伊特急の大半が五十鈴川行きに延長された<ref>{{PDFlink|[https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20221217daiyahenkou.pdf 2022年12月17日(土)ダイヤ変更について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2022年10月12日</ref>。
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Kintetsu Toba Line 23000 series 20100104.jpg|池の浦 - 鳥羽間を走る「[[近鉄23000系電車|伊勢志摩ライナー]]」
</gallery>
=== 快速急行・急行 ===
快速急行は、下りのみ大阪上本町駅発鳥羽駅行きが平日・土休日とも夜間に1本が運転されている。急行は、宇治山田駅 - 五十鈴川駅間では近鉄名古屋駅発着列車が約1時間間隔で運転されており、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間では上りは鳥羽駅発近鉄名古屋駅行きが平日朝に3本、土休日朝に2本、鳥羽駅発大阪上本町駅行きが土休日のみ朝に1本、鳥羽駅発名張駅行きが平日のみ朝に1本、下りは近鉄名古屋駅発鳥羽駅行きが平日朝に3本・夜に1本、土休日朝に2本・夜に1本、白子駅発鳥羽駅行きが平日のみ朝に1本運転されている。朝夕の急行停車を考慮して、特急が通過する[[朝熊駅]]と[[池の浦駅]]のホーム長は6両分を確保している。早朝の一部列車に五十鈴川駅で乙特急と緩急接続する急行がある。
編成両数は大阪線直通・名古屋線直通列車ともに種別・行先を問わず6両が基本で、早朝と夜間、日中の大阪線直通の一部列車は4両で運転されている。異常時の突発的な運用変更がない限りは原則として[[近鉄2600系電車#2610系|2610系]]や[[近鉄5200系電車|5200系]]などのトイレ付きの車両が充当されている。急行、快速急行とも車掌も乗務しているため無人駅の朝熊駅、池の浦駅でも全てのドアが開く。
快速急行はダイヤ変更毎に設定本数や運転区間の変動が大きくなっており、2012年3月20日のダイヤ変更以降は鳥羽駅に直通する快速急行の本数の削減と運転区間短縮が進み、2016年3月19日のダイヤ変更まで土休日夜間の下り1本のみ設定されていた快速急行は一旦廃止されたものの、2018年3月17日のダイヤ変更で鳥羽駅発着の快速急行が再び設定された。しかし、2020年3月14日のダイヤ変更で鳥羽線内の快速急行は下りのみとなり、上りは青山町駅で同駅始発の快速急行に接続する名張行き急行に変わった。なお、五十鈴川駅発着の快速急行は定期列車として設定されていなかったが、2012年3月20日のダイヤ変更で土休日夜間の下り最終のみ新設され、2014年9月21日のダイヤ変更で平日10時台と夕方に五十鈴川行き快速急行が設定されたが、2018年3月17日のダイヤ変更で休日20時台の五十鈴川駅到着列車を除いて全て廃止された。
2004年3月17日までは日中の鳥羽駅発着も設定されていたが、2004年3月18日のダイヤ変更で快速急行・急行は宇治山田駅・五十鈴川駅での折り返しが増え、鳥羽駅を始発駅とする上り列車は朝方のみになった。一方、五十鈴川駅発着列車は朝上りと夕刻の少数のみであったが、2014年9月21日のダイヤ変更で上記の快速急行も含めて宇治山田駅始発・終着で五十鈴川駅まで回送されていた列車が営業運転されるようになったため、日中に当線内での急行の設定が1駅のみ復活した。2021年7月3日のダイヤ変更で日中の大阪上本町駅発着の急行が運転を取りやめ、同時間帯は近鉄名古屋駅発着の急行のみの運転となった。
=== 普通 ===
終日運転され、ほぼ1時間あたり2本の約30分間隔で運転されている。多くが山田線[[伊勢中川駅]] - 志摩線賢島駅間の運転で、ラッシュ時と夜間に伊勢中川駅・[[明星駅]] - 宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅間の列車、日中に伊勢中川駅 - 鳥羽駅間の列車、平日早朝と夜間に名古屋線[[白塚駅]] - 賢島駅間を直通する列車がある。その他にも、早朝に鳥羽線内の区間運転や伊勢中川駅 - 鳥羽駅間を運転した列車が伊勢中川駅で系統変更を行い、名古屋線近鉄名古屋駅まで直通する列車がある。
3両・4両・6両編成で運転されている一部時間帯の列車を除き、大多数の列車が2両編成による[[ワンマン運転]]を実施している。山田線・志摩線直通列車を中心に運転距離は比較的長いが、4両・6両編成で運転される列車を除いてトイレは設置されていない。
=== 臨時列車 ===
==== 終夜運転 ====
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急が運転されているほか、伊勢中川駅 - 五十鈴川駅で普通が約30分間隔で運転される形態となっている。なお、五十鈴川駅 - 鳥羽駅間での終夜運転は行われていない。
2010年度以前は大阪・京都・名古屋から伊勢方面への特急、大阪・名古屋方面から伊勢方面への急行が運転されていたほか(伊勢神宮の参拝順序の関係からか、賢島直通の特急以外では下りは宇治山田行き、上りは五十鈴川始発が多い)、普通が30 - 60分間隔で運転される形態となっていた。また、山田線明星駅始発の大阪線名張駅直通の普通列車が鳥羽駅始発に変更されていた。時刻については近鉄の公式サイトでも掲載されている。
2011年度は志摩スペイン村のカウントダウンイベントが中止されたために特急の賢島駅直通列車が無くなって五十鈴川駅始発か鳥羽駅折り返しとなり、賢島駅へは普通列車2往復の運転にとどまった。
2012年度は、前年まで運転されていた志摩線直通の特急および普通列車が無くなったため、特急はすべて五十鈴川駅および鳥羽駅折り返しとし、名古屋線直通急行は鳥羽駅発着の列車が毎時1本運転され、大阪線直通の急行・快速急行は23時以降6時台までの全列車が宇治山田駅終着・五十鈴川駅始発(1時台のみ鳥羽駅始発急行)として運転された。快速急行・急行が鳥羽線普通列車の役割となったため、23時以降は4時台まで普通列車は運転されなかった。また、これまで鳥羽駅始発として運転されていた大阪線名張駅直通の普通列車は宇治山田駅始発に短縮して運転された。
2020年度は[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で終夜運転は行われなかった。2021年度以降は急行の運転がなくなり、2022年度は五十鈴川駅 - 鳥羽駅間の終夜運転が取りやめられた。
==== イベント関係 ====
[[三重県営サンアリーナ]]にて大規模なコンサートが開催される際は、来場者の利便性を図るため、会場最寄駅の五十鈴川駅を発着する近鉄名古屋・伊勢中川方面への臨時急行および普通列車が数本設定されており、宇治山田駅発着の定期急行が五十鈴川駅発着に変更される。
==== 観光列車「つどい」 ====
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで運転されていた観光列車<ref name="つどい">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2014年1月号 {第633号} p.56 - p61</ref><ref>{{Cite press release|title=伊勢市駅~賢島駅間に新しい観光列車「つどい」を導入|publisher=近畿日本鉄道|date=2013-05-27|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/kankouressyatsudoi130527.pdf|format=PDF|access-date=2023-03-23}}</ref><ref name="kintetsu20220719">{{Cite press release|title=~観光列車「つどい」が賢島駅~伊勢市駅間で復活~ 観光列車つどい「海女さん列車」を運行します|publisher=近畿日本鉄道|date=2022-07-19|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/amasanressha.pdf|format=PDF|access-date=2023-03-23}}</ref>。土休日の日中に2往復のみ山田線伊勢市駅から志摩線賢島駅にて運転されており、鳥羽線内では宇治山田駅と五十鈴川駅、鳥羽駅に停車していた<ref name="つどい" />。車両は専用形式の[[近鉄2000系電車#2013系|2013系]]が充当された<ref name="つどい" />。
伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された<ref name="kintetsu20220719" />。
=== 過去にあった種別 ===
==== 区間快速急行 ====
[[2012年]][[3月19日]]まで、大阪上本町駅から山田線松阪駅間に[[快速急行|区間快速急行]]が運転されていたが、年末年始の終夜運転では青山町駅・松阪駅発着を延長運転する形式で、宇治山田駅・五十鈴川駅発着が運転されていた。
==== 準急 ====
[[1983年]][[3月18日]]のダイヤ変更まで、近鉄名古屋駅から鳥羽駅間に[[準急列車|準急]]が運転されていた。鳥羽線内は各駅に停車していた。
== 車両 ==
{{Main2|詳細は「[[近鉄大阪線#車両]]」・「[[近鉄名古屋線#車両]]」を、特急については「[[近鉄特急]]」を}}
鳥羽線の列車は、大阪線との直通列車は基本的に大阪線所属の車両が使用され、それ以外の列車は基本的に名古屋線所属の車両が使用されているが、朝と夜間の名古屋線直通列車は一部に大阪線所属の車両が使用されている。
また、ワンマン列車にはいずれも名古屋線所属車両である1201系・1230系・1240系・1259系・1440系・9000系(ワンマン対応車のみ)が使用されている。
== 歴史 ==
現在の志摩線は[[参宮線]]を延長するような形で沿線住民の交通手段のほか奥志摩への観光客の誘致を目的として[[1929年]](昭和4年)に'''志摩電気鉄道'''(志摩電鉄)が開業した路線で、[[軌間]]は鳥羽駅で接続する参宮線に合わせて1067mmの[[狭軌]]とされた。志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指しており、[[1928年]](昭和3年)6月に鳥羽 - [[二見町 (三重県)|二見]]間の延長工事許可を取得し、その一環として[[佐田浜]](鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=246}}。二見で[[三重交通神都線]]に連絡して、宇治山田へ至る予定であった<ref>[[三木理史]]『近鉄沿線の近現代史』クロスカルチャー出版、2022年、p.169</ref><ref>近畿日本鉄道『100年のあゆみ』2010年、p.360</ref>。しかし延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=247}}。[[1935年]](昭和10年)8月、[[三重県知事]]の[[富田愛次郎]]は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=248}}。その後[[陸運統制令]]による[[戦時統制]]の勧奨の流れを受けて、1944年(昭和19年)に三重県内の中小私鉄統合で設立された[[三重交通]]の路線となる。
その一方で、山田線は[[参宮急行電鉄]](参急)の手により、現在の[[近鉄大阪線|大阪線]]と合わせて大阪から[[伊勢神宮]]への参詣鉄道とするために建設が行われ、[[1931年]]に宇治山田駅までの全線が開業した。
戦後の高度成長期に入り、近鉄は[[伊勢志摩国立公園|伊勢志摩]]方面の観光事業を推し進め、当時の近鉄線の終点であった宇治山田駅の1番線ホームをバスが横付けして停車できるよう改造し、1961年(昭和36年)4月から近鉄特急の到着に合わせて、三重交通と近鉄が共同出資した[[三重急行自動車|三重急行]]の賢島行きの特急バスが接続するといったようなことも行い、客誘致に努めていた。しかし、本格的に事業を進めるには、やはり大阪・名古屋方面から直接アクセスできるほうがよく、三重交通志摩線は三重交通の鉄道事業の三重電気鉄道への分離の後に、[[1965年]]に近鉄へ合併し、同社の志摩線となった。その上で、山田線と志摩線をつなぐ'''鳥羽線'''を建設し、志摩線も軌間1435mmの[[標準軌]]に改めて、賢島駅まで特急を直通させることにした。
全線が開業したのは[[日本万国博覧会]]開催直前<ref group="*">その当時、<!--開幕当日に開業した難波線(日本橋で堺筋線・難波で御堂筋線と接続)と合わせて、-->万博来場客を伊勢志摩へ誘致する狙いもあった。</ref>の[[1970年]]3月1日だが、当初は需要・工期の面から[[単線]]だった。ただし、用地は複線分確保しており、一部のトンネルや橋梁は複線幅で構築していた<ref name="kintetu1980-48">{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=48}}</ref>。この開業は、当時まだ[[京都駅|京都]]方面から直通[[急行列車]]が乗り入れており、ある程度の活況を見せていた[[日本国有鉄道|国鉄]]参宮線に打撃を与え、完全な[[ローカル線]]へ転落させる要因となった。開通から5年後の[[1975年]]に全線[[複線]]化を達成している。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[7月12日]]:近鉄が山田線を賢島まで延長する計画を公表。計画当初は「宇治山田 - 鳥羽間の路線を新設し志摩線を改良する」案と「宇治山田から山越えして賢島へ直行する」案の2案があった<ref>「近鉄、賢島まで乗り入れ 45年完成めざす 鳥羽経て志摩線を活用か」伊勢新聞 1967年(昭和42年)7月14日付 1面</ref>。
** [[8月9日]]:山田線の賢島までの延長に関して、「鳥羽が観光の拠点となっている」ことや「志摩線を活用することで建設費を節約できること」などを理由に宇治山田駅 - 鳥羽駅間の路線を新設することを表明<ref>「鳥羽経由ルートに決まる 近鉄志摩乗り入れ 用地買収、協力求む 泉副社長、地元で表明」- 伊勢新聞 1967年(昭和42年)8月10日付 1面</ref>。
** [[8月11日]]:標準軌で複線を目標とするなど、計画の具体的内容を発表。但し、完成当初の全線複線化は困難としている<ref>「来年2月から着工 近鉄山田線延長 広軌で複線を目標 鳥羽駅舎 地元の声聞いて」- 伊勢新聞 1967年(昭和42年)8月13日付 1面</ref>。
** [[9月11日]]:伊勢市岩渕 - 鳥羽市鳥羽間 鉄道敷設免許申請<ref>「三重県史 資料編 現代2 産業・経済」p894-896</ref>。
** [[12月23日]]:伊勢市岩渕 - 鳥羽市鳥羽間 鉄道敷設免許認可<ref>{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=401}}</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)[[5月20日]]:鳥羽線建設工事に着手<ref>{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=402}}</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[12月15日]]:宇治山田駅 - 五十鈴川駅間が開業<ref>{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=405}}</ref>。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月1日]]:五十鈴川駅 - 鳥羽駅間が開業し全通。志摩線との直通運転開始<ref>{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=406}}</ref>。
* [[1971年]](昭和46年)[[12月25日]]:宇治山田駅 - 五十鈴川駅間複線化<ref name="fukusenka">{{Cite|和書|author=近畿日本鉄道|title=最近20年のあゆみ|date=1980|page=99}}</ref>。
* [[1973年]](昭和48年)10月:複線化工事着手<ref name="100ayumi_p294">『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、p.378</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)
** [[4月11日]]:五十鈴川駅 - 朝熊駅間複線化<ref name="fukusenka" />。
** [[12月20日]]:朝熊駅 - 鳥羽駅間複線化<ref name="fukusenka" />。同区間にあった四郷信号所廃止。
* [[2007年]](平成19年)[[4月1日]]:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2010年]](平成22年)4月1日:宇治山田駅 - 鳥羽駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)の運用開始<ref name="knnews100330">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100330KRONOS.pdf 名古屋列車運行管理システム「KRONOS」が運用開始します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年3月30日</ref>
== 駅一覧 ==
* 全駅[[三重県]]内に所在。
* 快速急行・急行ともに鳥羽線内は各駅に停車。快速急行は下りのみ運転。
* 特急列車は[[近鉄特急]]の記事を参照のこと。
* <nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅。
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!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|駅番号
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|[[宇治山田駅]]
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄山田線|山田線]](普通が{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]][[白塚駅]]、急行が{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]][[大阪上本町駅]]、特急が{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]][[大阪難波駅]]、{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]][[京都駅]]及び {{近鉄駅番号|E}} 名古屋線[[近鉄名古屋駅]]まで直通運転)
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|[[五十鈴川駅]]#<br/><small>(内宮前)</small>
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]](特急と普通が[[賢島駅]]まで直通運転)<br />東海旅客鉄道:{{Color|#f77321|■}}[[参宮線]]
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* 単線時代は朝熊駅 - 池の浦駅間の四郷トンネル宇治山田寄りに列車行き違いのための四郷信号所があった<ref name="kintetu1980-48" />。<!--国土交通省ウェブマッピングシステムの空中写真で確認できます-->
=== 主要駅の乗降客数 ===
[[2018年]][[11月13日]]調査による主要駅の乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/b.html 駅別乗降人員 山田線 鳥羽線 志摩線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*宇治山田 8,650人
*五十鈴川 2,603人
*鳥羽 3,741人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 「まるごと近鉄ぶらり沿線の旅」(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 河出書房新社 2005年) ISBN 4309224393
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄1」(著者・編者 諸河久・杉谷広規、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 458650904X
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄2」(著者・編者 諸河久・山辺誠、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 4586509058
* 「近鉄時刻表 各号」(著者・編者 [[近畿日本鉄道]]、出版・発行 同左)
* 「鉄道ピクトリアル'03年1月号増刊 特集:近畿日本鉄道」(著者・編者 電気車研究会 出版・発行 同左)
* 「近畿日本鉄道 最近20年のあゆみ」1980年(昭和55年)10月1日発行、発行者:近畿日本鉄道株式会社
* 「三重県史 資料編 現代2 産業・経済」1992年(平成4年)3月31日発行、編集・発行:三重県
* {{cite book|和書|author=鳥羽市史編さん室|title=鳥羽市史 下巻|publisher=鳥羽市役所|date=1991年3月25|page=1347|ref={{sfnref|鳥羽市史編さん室|1991}}}}{{全国書誌番号|92001549}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[近鉄特急史]]
* [[みえ (列車)]]
* [[参宮線]]
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|とはせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|とは]]
[[Category:三重県の交通]]
[[Category:1970年竣工の日本の建築物]]
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近鉄志摩線
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志摩線(しません)は、三重県鳥羽市の鳥羽駅から同県志摩市阿児町の賢島駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は、京都線・橿原線・大阪線・山田線・鳥羽線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
志摩半島を走る観光路線で、沿線には志摩スペイン村といった近鉄グループの行楽地や、志摩観光ホテル(都ホテル)などのリゾートホテルがある。伊勢市以北の各方面から鳥羽駅までは東海旅客鉄道(JR東海)の参宮線でもアクセス可能であるが、鳥羽駅より先(志摩市方面)は近鉄でしか行くことができない。観光特急「しまかぜ」や「伊勢志摩ライナー」などの近鉄特急が、大阪・京都・名古屋などから賢島駅まで乗り入れている。
元々志摩電気鉄道というローカル私鉄として開業し(詳細後述)、標準軌への改軌によって近鉄鳥羽線との直通運転が行われるようになった当初は路線のほとんどが単線で線路容量が小さく、これを解消するために線形改良やルートの付け替えで路線の大半部分の複線化を実施して1994年に完了した。しかしその後も一部に急勾配や急カーブが点在しており、白木駅 - 五知駅間の青峰トンネル下り線で特急の130km/h運転が行われている以外は、特急といえども高速走行の可能な区間は非常に限られている。また海の見える区間は鳥羽駅や賢島駅付近のごくわずかであり、大半は志摩半島の山間を走るため眺望はあまり利かない。
ローカル線の加算運賃が適用されている。志摩線ではスルッとKANSAIカードおよびJスルーカードは利用できないが、全駅にてPiTaPaやICOCAのほかTOICAやmanacaなどのICカードが全国相互利用サービスにより利用可能となっている。志摩線内では鳥羽駅・鵜方駅・賢島駅に自動改札機が設置されており、その他の駅には簡易改札機を設置して対応している。
近鉄では2012年12月1日より「ICOCA定期券」を導入しており、志摩線では志摩赤崎駅以北の区間でICOCA定期券を購入できるようになった。2015年8月1日からは志摩線すべての駅を発駅または着駅とするICOCA定期券が購入可能になっている。
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
特急列車と普通列車のみ運転されている。志摩線の駅の反転フラップ式案内表示機(ソラリー)には特急と普通のほかに急行が存在するが、方向幕に「急行 賢島」の表示は用意されておらず、臨時列車であっても急行の種別は使用されていない。臨時列車で3両以上の編成が使用される場合は、ホーム有効長の関係から特急停車駅にのみ停車する(賢島駅では特急用ホームを使用)。志摩スペイン村開園直後、1990年代半ばの最盛期には定期列車だけで最大片道9本(阪伊甲特急2本、阪伊乙・名伊甲・名伊乙・京伊特急各1本、普通3本)運行されていた。2013年の観光特急「しまかぜ」運行開始後は、1時間あたり特急・普通合わせて、10時 - 12時台に賢島方面が6 - 7本、14時 - 16時台に鳥羽方面が5 - 6本、早朝・深夜をのぞいた他の時間帯は鳥羽・賢島方面共に4本程度(特急は阪伊乙・名伊乙が各1本)運行されている。普通列車は朝夕は1時間あたり2本、日中時間帯は1本の運行となる。
特急列車は大阪難波・京都・名古屋方面から賢島駅まで直通している。日中は大阪・名古屋発着が1時間あたり1本ずつの合計2本が運行されている。朝と夕方時間帯は京都発着や甲特急(停車駅の少ない特急)が加わり、最大片道あたり4本が運行されている。志摩線では観光特急「しまかぜ」のほか、阪伊特急と名伊特急で甲特急(土休日のみ)と乙特急のそれぞれと京伊特急の合計5系統の一般特急列車が運転されている。
志摩線内は8両編成まで入線が可能である。一部の列車は鳥羽駅、賢島駅(折り返し時)で車両の増結・解放が行われている。
編成の向きが伊勢中川から賢島までは阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する名阪特急の編成に合わせているためである。
志摩線内では1994年3月15日ダイヤ変更以降、すべての特急が志摩磯部駅と鵜方駅に停車していたが、志摩スペイン村への連絡バスの接続駅が志摩磯部駅から鵜方駅に変更されたこともあり、2013年3月のダイヤ変更より営業運転を開始した観光特急「しまかぜ」は志摩磯部駅を通過扱いとした。
普通列車は運賃車内収受式ワンマン運転で1時間あたり1 - 2本ほど運転されており、大部分が山田線伊勢中川駅まで直通する。ラッシュ時の一部と夜間には山田線明星駅・鳥羽駅 - 賢島駅間の列車も存在する。全列車が2両編成で運転され、原則として増結運転は行われない。
同線を運行する車両の運転室後方には収納式運賃箱・運賃表示器が装備され、無人駅では先頭車後部ドアから乗って先頭車前部ドアから降りる方式(後部車両のドアは締め切り)を採用していたが、2015年11月1日からは無人駅を含む全ての駅で全部の扉を開けるようになり、事実上の信用乗車方式の採用となった。
志摩線の複線化工事が本格化するまでは中型車の車両が運用の主体で、基本的には鳥羽駅で折り返し運転となっていた。1994年3月15日のダイヤ変更以降は大部分が伊勢中川駅まで直通するようになり、1999年3月16日のダイヤ変更で山田線宮町駅発着が増加した後、2001年5月30日にワンマン運転が開始された際は宮町駅折り返し列車が主体となった。2004年3月18日のダイヤ変更でワンマン運転区間の拡大に伴って白塚駅まで直通するようになったが、2016年3月19日のダイヤ変更で日中時間帯のおよそ半数の列車が伊勢中川駅発着に短縮され、2018年3月17日のダイヤ変更で大部分を伊勢中川駅発着に変更し、白塚駅直通列車は早朝の下り1本と平日夜間の上り1本に削減された。2021年7月3日のダイヤ変更で日中時間帯の列車が毎時2本から1本へ削減された。
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで山田線伊勢市駅 - 賢島駅にて運転されていた観光列車。土休日の日中に2往復のみ運転されており、志摩線内では鳥羽駅と鵜方駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。
伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された。
大晦日から元旦にかけての終夜運転は、2010年の大晦日までは大阪・名古屋方面からの特急のほか、普通をおおむね60分間隔で運転される形態となっており、大晦日から元旦にかけて特別営業が行われる志摩スペイン村へのアクセスなどに利用されていた。ただし、2011年の大晦日は志摩スペイン村の終夜営業が中止されたため普通列車2往復の運転に留まり(志摩スペイン村では、今後もカウントダウンイベントは行わないとしている)、2012年以降は、賢島発の最終電車後及び賢島行の初発電車前に1本ずつ増発するのみとなっている。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。
普通列車は全列車が2両編成・ワンマン運転であるため、前述の収納式運賃箱・運賃表示器を装備する改造を施した以下の形式が使用されている。車両面では、臨時列車や観光列車つどいを除けばすべて抑速回生ブレーキを装備した界磁チョッパ制御車かVVVFインバータ車であることが特徴で、大半の車両に車椅子スペースが設けられ、一部のVVVFインバータ車にはバリアフリー改造も行われた車両で運用されている。
改軌後は名古屋線と車両が共通化された。改軌後も末端区間にあたるため、ワンマン化されるまでは名古屋線所属車両が多く使用され、モ1450形・1460系・680系といった黎明期の高性能車も志摩線で終焉を迎えた。
近鉄合併直後は、三重交通から引き継いだ路線の中では唯一の軌間1067mmの狭軌(ほかは762mmの「特殊狭軌」)であった。当時の近鉄では狭軌線区全体で大型車に6000番台(現在は南大阪線用に限定)、中型車に5000番台を割り当てており、近鉄合併後の志摩線所属車は全車5900番台となった。
狭軌時代の全車における共通点として、パンタグラフは賢島駅側、三重交通時代から設置した行先方向板は進行方向左(運転席の前)、電動車は両運転台で制御車は片運転台などの点が挙げられる。標準軌に改軌されるまで、近鉄志摩線としての運用期間は5年弱であり、増備車や廃車も存在しなかった。当時の所属総数は10両のみであった。
改軌後状態のよい車両は、座席についてはクロスシートのままモーターと運転台を撤去して付随車化され、養老線(現在の養老鉄道)に転属して1983年まで使用された。養老線未転属車・転属車ともすべて廃車・解体され、現存しない。
明治時代中頃まで、奥志摩(現・志摩市)から北方への陸路は徒歩での逢阪峠(現・三重県道32号伊勢磯部線)越えが利用されていたが、1911年(明治44年)に参宮線が鳥羽駅まで延伸されてからは、五知峠を越え鳥羽から鉄道が利用されるようになった。鳥羽から奥志摩への鉄道敷設は当時より複数の事業者によって計画されていたが、関東大震災ののちの経済不況などで実現しなかった。
1923年(大正12年)8月、鵜方村の森本確也が中心となり電気鉄道敷設を出願。1924年(大正13年)に敷設許可を取得したことを受け、1926年(大正15年)に志摩電気鉄道(志摩電鉄、免許時は志州電気鉄道)を設立、社長には四日市出身の実業家伊藤伝七 (11代目)が就任した。当初の計画では起点を鳥羽駅とし、鵜方浜(現・鵜方駅)を終点とする路線とされたが、着工前に目黒蒲田電鉄の幹部に視察を依頼した結果、風光明媚な英虞湾岸のかしこ島(賢島)までの路線として参宮客(伊勢神宮の参拝客)を誘致しなければ利益が見込めないと指摘され、重役会議の結果、英虞湾岸のかしこ島に設置する真珠港駅を終点とする計画に変更された。
この計画変更に対し、終点になることを期待していた鵜方の住民は、4年間に及ぶ鵜方以降の用地不売などの反対運動を起こした。1928年(昭和3年)2月に線路変更願いが認可され、志摩電鉄が鵜方村に補償金1万円を支払うことで和解し、1929年(昭和4年)7月23日に全線開業を迎えた。鉄道開通を記念し、当時無人島であった賢島の土地が志摩電鉄に寄付され、駅前周辺および賢島駅と奥志摩の各地を結ぶ航路の基地となる賢島港が整備された。
開通後も志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指し、1928年(昭和3年)6月に鳥羽 - 二見間の延長工事許可を取得。その一環として、佐田浜(鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画したが、延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した。1935年(昭和10年)8月、三重県知事の富田愛次郎は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した。
その後、戦中の交通統制方針で三重県下の中小私鉄・バス会社6社が合併して発足した三重交通の保有路線となり、さらに同社から一時的に鉄道部門を分離させた三重電気鉄道時代を経て、1965年(昭和40年)の三重電気鉄道の近畿日本鉄道への合併により近鉄志摩線となった。
鳥羽駅で接続する国鉄参宮線と貨車の直通運輸を行うため、狭軌(1067mm軌間)・750V電化を採用し、鳥羽駅では国鉄駅の東片端から発着していた。また、急行列車や準急列車も運行され、途中停車駅は急行が中之郷駅・志摩赤崎駅・志摩磯部駅(現・上之郷駅)・迫間駅(現・志摩磯部駅)・穴川駅・鵜方駅で、準急は鳥羽駅 - 船津駅間および志摩磯部駅 - 賢島駅間の各駅に停車していた。
近鉄合併後、すでに近鉄の路線となっていた田原本線と同じく近鉄の他の路線と接続しない孤立線となっていたが、大阪・名古屋方面からの利便性の向上を目的として、宇治山田駅まで通じていた山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線が建設される事となり、1969年(昭和44年)より標準軌(1435mm軌間)への改軌(同時に軌道強化もあわせて施工)と架線電圧1500Vへの昇圧工事を開始した。工事中は列車を運休した上でバスによる代行輸送が行われ、同時に半ば貨物専用となっていた賢島駅 - 真珠港駅間は廃止された。1970年に鳥羽線が開業し、大阪・名古屋方面との旅客列車の直通運転を開始した。また、改軌前に運行されていた線内運転の急行列車と準急列車については、改軌・昇圧・軌道強化や車両の性能向上に伴う普通列車の速度向上もあり、改軌後は廃止された。
2009年(平成21年)3月20日の阪神なんば線の開業により、志摩線から鳥羽線・山田線・大阪線・難波線・阪神なんば線・同本線・同神戸高速線・山陽電気鉄道本線・同網干線を介して、山陽姫路駅もしくは山陽網干駅まで標準軌の線路が繋がった。しかし、志摩線は阪神電鉄や山陽電鉄との相互乗り入れ区間には含まれておらず、また大阪難波駅以遠の阪神電鉄線あるいは神戸高速線経由山陽電鉄線方面への連絡乗車券も発売されていない。
2016年(平成28年)には、第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)開催に伴うテロ対策のため賢島が封鎖されることになり、日本国政府の協力要請により、5月21日から同28日までの8日間、鵜方駅 - 賢島駅間を運休することとなった。しかし鵜方駅には折り返し設備がないため、鵜方駅 - 賢島駅間は通常ダイヤのまま全列車回送扱いで運転された。運休区間は外務省が運用する(業務は名鉄観光サービスに委託)無料のサミットシャトルバスでの代行輸送が行われた。志摩神明駅は駅から300m離れた位置に臨時バス停留所を開設。志摩神明臨時停留所 - 賢島駅間に保安検査場兼ジャンボハイヤー乗換場(下りのみ、上りは通過)を設置。鵜方駅 - 志摩神明駅間は誰でも乗車できるが、志摩神明駅 - 賢島駅間は外務省発行の識別IDカードを必要とした。
駅名に旧国名の「志摩」を冠した駅が存在するのは本路線のみで、JR線の駅には一切存在しない。
2022年11月8日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。
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"text": "志摩線内では1994年3月15日ダイヤ変更以降、すべての特急が志摩磯部駅と鵜方駅に停車していたが、志摩スペイン村への連絡バスの接続駅が志摩磯部駅から鵜方駅に変更されたこともあり、2013年3月のダイヤ変更より営業運転を開始した観光特急「しまかぜ」は志摩磯部駅を通過扱いとした。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "普通列車は運賃車内収受式ワンマン運転で1時間あたり1 - 2本ほど運転されており、大部分が山田線伊勢中川駅まで直通する。ラッシュ時の一部と夜間には山田線明星駅・鳥羽駅 - 賢島駅間の列車も存在する。全列車が2両編成で運転され、原則として増結運転は行われない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "同線を運行する車両の運転室後方には収納式運賃箱・運賃表示器が装備され、無人駅では先頭車後部ドアから乗って先頭車前部ドアから降りる方式(後部車両のドアは締め切り)を採用していたが、2015年11月1日からは無人駅を含む全ての駅で全部の扉を開けるようになり、事実上の信用乗車方式の採用となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "志摩線の複線化工事が本格化するまでは中型車の車両が運用の主体で、基本的には鳥羽駅で折り返し運転となっていた。1994年3月15日のダイヤ変更以降は大部分が伊勢中川駅まで直通するようになり、1999年3月16日のダイヤ変更で山田線宮町駅発着が増加した後、2001年5月30日にワンマン運転が開始された際は宮町駅折り返し列車が主体となった。2004年3月18日のダイヤ変更でワンマン運転区間の拡大に伴って白塚駅まで直通するようになったが、2016年3月19日のダイヤ変更で日中時間帯のおよそ半数の列車が伊勢中川駅発着に短縮され、2018年3月17日のダイヤ変更で大部分を伊勢中川駅発着に変更し、白塚駅直通列車は早朝の下り1本と平日夜間の上り1本に削減された。2021年7月3日のダイヤ変更で日中時間帯の列車が毎時2本から1本へ削減された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで山田線伊勢市駅 - 賢島駅にて運転されていた観光列車。土休日の日中に2往復のみ運転されており、志摩線内では鳥羽駅と鵜方駅に停車していた。車両は専用形式の2013系が充当された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "大晦日から元旦にかけての終夜運転は、2010年の大晦日までは大阪・名古屋方面からの特急のほか、普通をおおむね60分間隔で運転される形態となっており、大晦日から元旦にかけて特別営業が行われる志摩スペイン村へのアクセスなどに利用されていた。ただし、2011年の大晦日は志摩スペイン村の終夜営業が中止されたため普通列車2往復の運転に留まり(志摩スペイン村では、今後もカウントダウンイベントは行わないとしている)、2012年以降は、賢島発の最終電車後及び賢島行の初発電車前に1本ずつ増発するのみとなっている。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "普通列車は全列車が2両編成・ワンマン運転であるため、前述の収納式運賃箱・運賃表示器を装備する改造を施した以下の形式が使用されている。車両面では、臨時列車や観光列車つどいを除けばすべて抑速回生ブレーキを装備した界磁チョッパ制御車かVVVFインバータ車であることが特徴で、大半の車両に車椅子スペースが設けられ、一部のVVVFインバータ車にはバリアフリー改造も行われた車両で運用されている。",
"title": "車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "改軌後は名古屋線と車両が共通化された。改軌後も末端区間にあたるため、ワンマン化されるまでは名古屋線所属車両が多く使用され、モ1450形・1460系・680系といった黎明期の高性能車も志摩線で終焉を迎えた。",
"title": "車両"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "近鉄合併直後は、三重交通から引き継いだ路線の中では唯一の軌間1067mmの狭軌(ほかは762mmの「特殊狭軌」)であった。当時の近鉄では狭軌線区全体で大型車に6000番台(現在は南大阪線用に限定)、中型車に5000番台を割り当てており、近鉄合併後の志摩線所属車は全車5900番台となった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "狭軌時代の全車における共通点として、パンタグラフは賢島駅側、三重交通時代から設置した行先方向板は進行方向左(運転席の前)、電動車は両運転台で制御車は片運転台などの点が挙げられる。標準軌に改軌されるまで、近鉄志摩線としての運用期間は5年弱であり、増備車や廃車も存在しなかった。当時の所属総数は10両のみであった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "改軌後状態のよい車両は、座席についてはクロスシートのままモーターと運転台を撤去して付随車化され、養老線(現在の養老鉄道)に転属して1983年まで使用された。養老線未転属車・転属車ともすべて廃車・解体され、現存しない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "明治時代中頃まで、奥志摩(現・志摩市)から北方への陸路は徒歩での逢阪峠(現・三重県道32号伊勢磯部線)越えが利用されていたが、1911年(明治44年)に参宮線が鳥羽駅まで延伸されてからは、五知峠を越え鳥羽から鉄道が利用されるようになった。鳥羽から奥志摩への鉄道敷設は当時より複数の事業者によって計画されていたが、関東大震災ののちの経済不況などで実現しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "1923年(大正12年)8月、鵜方村の森本確也が中心となり電気鉄道敷設を出願。1924年(大正13年)に敷設許可を取得したことを受け、1926年(大正15年)に志摩電気鉄道(志摩電鉄、免許時は志州電気鉄道)を設立、社長には四日市出身の実業家伊藤伝七 (11代目)が就任した。当初の計画では起点を鳥羽駅とし、鵜方浜(現・鵜方駅)を終点とする路線とされたが、着工前に目黒蒲田電鉄の幹部に視察を依頼した結果、風光明媚な英虞湾岸のかしこ島(賢島)までの路線として参宮客(伊勢神宮の参拝客)を誘致しなければ利益が見込めないと指摘され、重役会議の結果、英虞湾岸のかしこ島に設置する真珠港駅を終点とする計画に変更された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "この計画変更に対し、終点になることを期待していた鵜方の住民は、4年間に及ぶ鵜方以降の用地不売などの反対運動を起こした。1928年(昭和3年)2月に線路変更願いが認可され、志摩電鉄が鵜方村に補償金1万円を支払うことで和解し、1929年(昭和4年)7月23日に全線開業を迎えた。鉄道開通を記念し、当時無人島であった賢島の土地が志摩電鉄に寄付され、駅前周辺および賢島駅と奥志摩の各地を結ぶ航路の基地となる賢島港が整備された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "開通後も志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指し、1928年(昭和3年)6月に鳥羽 - 二見間の延長工事許可を取得。その一環として、佐田浜(鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画したが、延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した。1935年(昭和10年)8月、三重県知事の富田愛次郎は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "その後、戦中の交通統制方針で三重県下の中小私鉄・バス会社6社が合併して発足した三重交通の保有路線となり、さらに同社から一時的に鉄道部門を分離させた三重電気鉄道時代を経て、1965年(昭和40年)の三重電気鉄道の近畿日本鉄道への合併により近鉄志摩線となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "鳥羽駅で接続する国鉄参宮線と貨車の直通運輸を行うため、狭軌(1067mm軌間)・750V電化を採用し、鳥羽駅では国鉄駅の東片端から発着していた。また、急行列車や準急列車も運行され、途中停車駅は急行が中之郷駅・志摩赤崎駅・志摩磯部駅(現・上之郷駅)・迫間駅(現・志摩磯部駅)・穴川駅・鵜方駅で、準急は鳥羽駅 - 船津駅間および志摩磯部駅 - 賢島駅間の各駅に停車していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "近鉄合併後、すでに近鉄の路線となっていた田原本線と同じく近鉄の他の路線と接続しない孤立線となっていたが、大阪・名古屋方面からの利便性の向上を目的として、宇治山田駅まで通じていた山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線が建設される事となり、1969年(昭和44年)より標準軌(1435mm軌間)への改軌(同時に軌道強化もあわせて施工)と架線電圧1500Vへの昇圧工事を開始した。工事中は列車を運休した上でバスによる代行輸送が行われ、同時に半ば貨物専用となっていた賢島駅 - 真珠港駅間は廃止された。1970年に鳥羽線が開業し、大阪・名古屋方面との旅客列車の直通運転を開始した。また、改軌前に運行されていた線内運転の急行列車と準急列車については、改軌・昇圧・軌道強化や車両の性能向上に伴う普通列車の速度向上もあり、改軌後は廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2009年(平成21年)3月20日の阪神なんば線の開業により、志摩線から鳥羽線・山田線・大阪線・難波線・阪神なんば線・同本線・同神戸高速線・山陽電気鉄道本線・同網干線を介して、山陽姫路駅もしくは山陽網干駅まで標準軌の線路が繋がった。しかし、志摩線は阪神電鉄や山陽電鉄との相互乗り入れ区間には含まれておらず、また大阪難波駅以遠の阪神電鉄線あるいは神戸高速線経由山陽電鉄線方面への連絡乗車券も発売されていない。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2016年(平成28年)には、第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)開催に伴うテロ対策のため賢島が封鎖されることになり、日本国政府の協力要請により、5月21日から同28日までの8日間、鵜方駅 - 賢島駅間を運休することとなった。しかし鵜方駅には折り返し設備がないため、鵜方駅 - 賢島駅間は通常ダイヤのまま全列車回送扱いで運転された。運休区間は外務省が運用する(業務は名鉄観光サービスに委託)無料のサミットシャトルバスでの代行輸送が行われた。志摩神明駅は駅から300m離れた位置に臨時バス停留所を開設。志摩神明臨時停留所 - 賢島駅間に保安検査場兼ジャンボハイヤー乗換場(下りのみ、上りは通過)を設置。鵜方駅 - 志摩神明駅間は誰でも乗車できるが、志摩神明駅 - 賢島駅間は外務省発行の識別IDカードを必要とした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "駅名に旧国名の「志摩」を冠した駅が存在するのは本路線のみで、JR線の駅には一切存在しない。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2022年11月8日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。",
"title": "駅一覧"
}
] |
志摩線(しません)は、三重県鳥羽市の鳥羽駅から同県志摩市阿児町の賢島駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。 駅ナンバリング等で使われる路線記号はM。番号部分は、京都線・橿原線・大阪線・山田線・鳥羽線から続く番号(京都駅を01とみなす)になっている。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 志摩線
|路線色 = #00B3C1
|ロゴ = [[File:KT number-M.svg|40px|M]]
|画像 = KINTETSU50000 20131208A.JPG
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 鳥羽 - 中之郷間を走行する[[近鉄50000系電車|50000系]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[三重県]][[鳥羽市]]、[[志摩市]]
|起点 = [[鳥羽駅]]
|終点 = [[賢島駅]]
|路線記号 = [[File:KT number-M.svg|20px|M]]
|駅数 = 16駅
|開業 = [[1929年]][[7月23日]]
|項目1 = [[改軌]]
|日付1 = [[1970年]][[3月1日]]([[改軌#軌間1067mmから軌間1435mmに改軌した例|概要]])
|廃止 =
|所有者 = <!-- 志摩電気鉄道→[[三重交通|三重交通→三重電気鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[明星検車区]]
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 24.5 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]](鳥羽 - 中之郷間、船津 - 上之郷間、志摩磯部 - 賢島間)<br />[[単線]](上記以外の区間)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
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|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]<!--、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]-->
|最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref>(特急)<br />90km/h(普通)
|路線図 =
}}
'''志摩線'''(しません)は、[[三重県]][[鳥羽市]]の[[鳥羽駅]]から同県[[志摩市]]阿児町の[[賢島駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]。
[[駅ナンバリング]]等で使われる路線記号は'''M'''。番号部分は、[[近鉄京都線|京都線]]・[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄山田線|山田線]]・[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]から続く番号([[京都駅]]を01とみなす)になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hpyouu.pdf |title=駅ナンバリングを全線で実施します 〜あわせて案内サインや放送での多言語対応を拡充します〜 |date=2015-08-19 |access-date=2023-10-02 |publisher=近畿日本鉄道}}</ref>。
== 概要 ==
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#00b3c1
|title-color=white
|map=
{{BS2||STR|||[[近鉄鳥羽線|{{近鉄駅番号|M}} 鳥羽線]]|}}
{{BS2|STR+l|KRZo|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[参宮線]]|}}
{{BS4|HUBrg|KBHFxe|O2=HUBq|BHF+GRZq|O3=HUBeq||0.0|M78 [[鳥羽駅]]|1970-|}}
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{{BS2||TUNNEL2||赤崎トンネル||}}
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{{BS2||BHF|12.7|M86 [[沓掛駅]]||}}
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{{BS4|||BHF|exSTR|17.6|M89 [[穴川駅 (三重県)|穴川駅]]||}}
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{{BS4|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|WDOCKSm|||[[英虞湾]]|}}
}}
[[志摩半島]]を走る観光路線で、沿線には[[志摩スペイン村]]といった[[近鉄グループホールディングス|近鉄グループ]]の行楽地や、[[志摩観光ホテル]]([[都ホテルズ&リゾーツ|都ホテル]])などの[[リゾートホテル]]がある。[[伊勢市]]以北の各方面から鳥羽駅までは[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[参宮線]]でもアクセス可能であるが、鳥羽駅より先(志摩市方面)は近鉄でしか行くことができない。観光特急「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」や「[[近鉄23000系電車|伊勢志摩ライナー]]」などの[[近鉄特急]]が、[[大阪市|大阪]]・[[京都市|京都]]・[[名古屋市|名古屋]]などから[[賢島駅]]まで乗り入れている。
元々[[#歴史|志摩電気鉄道]]というローカル私鉄として開業し(詳細後述)、[[標準軌]]への[[改軌]]によって近鉄鳥羽線との直通運転が行われるようになった当初は路線のほとんどが[[単線]]で[[線路容量]]が小さく、これを解消するために線形改良やルートの付け替えで路線の大半部分の[[複線]]化を実施して[[1994年]]に完了した。しかしその後も一部に急勾配や急カーブが点在しており、[[白木駅]] - [[五知駅]]間の青峰トンネル下り線で特急の130km/h運転が行われている以外は、特急といえども高速走行の可能な区間は非常に限られている。また海の見える区間は鳥羽駅や賢島駅付近のごくわずかであり、大半は志摩半島の山間を走るため眺望はあまり利かない。
ローカル線の加算運賃が適用されている。志摩線では[[スルッとKANSAI]]カードおよび[[Jスルーカード]]は利用できないが、全駅にて[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]のほか[[TOICA]]や[[manaca]]などの[[ICカード]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用可能となっている<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/kippu/jousyaken/jousyaken.html#ic 乗車券のご案内(乗車券・乗車カード・回数券・定期券)] - 近畿日本鉄道、2015年8月1日現在(2015年8月2日閲覧)</ref><ref name="kintetsu20150603">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/ICpuresu.pdf 新たに志摩線10駅および西信貴ケーブル高安山駅でICカードサービスを導入!]}} - 近畿日本鉄道、2015年6月3日</ref>。志摩線内では鳥羽駅・鵜方駅・賢島駅に自動改札機が設置されており、その他の駅には簡易改札機を設置して対応している。
近鉄では[[2012年]]12月1日より「ICOCA定期券」を導入しており、志摩線では志摩赤崎駅以北の区間でICOCA定期券を購入できるようになった<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/ic/pamph/no01_05.html ICOCA乗車券取扱規程] - 近畿日本鉄道株式会社、別表1(ICOCA定期券の発売範囲(第5条))</ref>。2015年8月1日からは志摩線すべての駅を発駅または着駅とするICOCA定期券が購入可能になっている<ref name="kintetsu20150603" />。
[[ファイル:KINTETSU SHIMA-LINE.JPG|thumb|none|単線区間が残存する中之郷駅付近]]
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):24.5 km
* [[軌間]]:1435mm
* 駅数:16駅(起終点駅含む)
* 複線区間:鳥羽駅 - 中之郷駅間・船津駅 - 上之郷駅間・志摩磯部駅 - 賢島駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
** [[列車交換|交換駅]]([[単線]]区間):[[志摩赤崎駅]]
* 最高速度:130km/h<ref name="terada" />
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
== 運行形態 ==
[[近鉄特急|特急列車]]と[[普通列車]]のみ運転されている。志摩線の駅の[[反転フラップ式案内表示機]](ソラリー)には特急と普通のほかに急行が存在するが、[[方向幕]]に「急行 賢島」の表示は用意されておらず、臨時列車であっても急行の種別は使用されていない。臨時列車で3両以上の編成が使用される場合は、ホーム有効長の関係から特急停車駅にのみ停車する(賢島駅では特急用ホームを使用)。志摩スペイン村開園直後、[[1990年代]]半ばの最盛期には定期列車だけで最大片道9本(阪伊甲特急2本、阪伊乙・名伊甲・名伊乙・京伊特急各1本、普通3本)運行されていた。[[2013年]]の観光特急「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」運行開始後は、1時間あたり特急・普通合わせて、10時 - 12時台に賢島方面が6 - 7本、14時 - 16時台に鳥羽方面が5 - 6本、早朝・深夜をのぞいた他の時間帯は鳥羽・賢島方面共に4本程度(特急は阪伊乙・名伊乙が各1本)運行されている。普通列車は朝夕は1時間あたり2本、日中時間帯は1本の運行となる。
=== 特急 ===
{{Main|近鉄特急}}
特急列車は[[大阪難波駅|大阪難波]]・[[京都駅|京都]]・[[近鉄名古屋駅|名古屋]]方面から賢島駅まで直通している。日中は大阪・名古屋発着が1時間あたり1本ずつの合計2本が運行されている。朝と夕方時間帯は京都発着や甲特急(停車駅の少ない特急)が加わり、最大片道あたり4本が運行されている。志摩線では観光特急「しまかぜ」のほか、[[近鉄特急#阪伊特急(大阪 - 伊勢志摩間)|阪伊特急]]と[[近鉄特急#名伊特急(名古屋 - 伊勢志摩間)|名伊特急]]で[[近鉄特急#特急列車の系統・運行概況|甲特急]](土休日のみ)と[[近鉄特急#特急列車の系統・運行概況|乙特急]]のそれぞれと[[近鉄特急#京伊特急(京都 - 伊勢志摩間)|京伊特急]]の合計5系統の一般特急列車が運転されている。
志摩線内は8両編成まで入線が可能である。一部の列車は鳥羽駅、賢島駅(折り返し時)で車両の増結・解放が行われている。
編成の向きが伊勢中川から賢島までは阪伊・京伊特急と名伊特急では異なっており、前者は賢島寄り、後者は名古屋寄りが1号車になっている。これらは中川短絡線を経由する[[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|名阪特急]]の編成に合わせているためである<ref group="注釈">50000系「しまかぜ」、23000系「伊勢志摩ライナー」は編成の向きを伊勢中川駅 - 賢島駅間で合わせているが、号車の並び順のみ逆となる。</ref>。
志摩線内では[[1994年]][[3月15日]]ダイヤ変更以降、すべての特急が[[志摩磯部駅]]と[[鵜方駅]]に停車していたが<ref group="注釈">それまでは一部が志摩磯部駅を通過していた。</ref>、志摩スペイン村への連絡バスの接続駅が志摩磯部駅から鵜方駅に変更されたこともあり、2013年3月のダイヤ変更より営業運転を開始した観光特急「しまかぜ」は志摩磯部駅を通過扱いとした。
=== 普通 ===
普通列車は運賃車内収受式[[ワンマン運転]]で1時間あたり1 - 2本ほど運転されており、大部分が[[近鉄山田線|山田線]][[伊勢中川駅]]まで直通する。ラッシュ時の一部と夜間には山田線[[明星駅]]・鳥羽駅 - 賢島駅間の列車も存在する。全列車が2両編成で運転され、原則として増結運転は行われない。
同線を運行する車両の運転室後方には収納式運賃箱・運賃表示器が装備され、[[無人駅]]では先頭車後部ドアから乗って先頭車前部ドアから降りる方式(後部車両のドアは締め切り)を採用していたが、2015年11月1日からは無人駅を含む全ての駅で全部の扉を開けるようになり、事実上の[[信用乗車方式]]の採用となった。
志摩線の複線化工事が本格化するまでは中型車の車両が運用の主体で、基本的には鳥羽駅で折り返し運転となっていた。1994年3月15日のダイヤ変更以降は大部分が伊勢中川駅まで直通するようになり、[[1999年]][[3月16日]]のダイヤ変更で山田線[[宮町駅]]発着が増加した後、[[2001年]][[5月30日]]にワンマン運転が開始された際は宮町駅折り返し列車が主体となった。[[2004年]][[3月18日]]のダイヤ変更でワンマン運転区間の拡大に伴って白塚駅まで直通するようになったが、[[2016年]][[3月19日]]のダイヤ変更で日中時間帯のおよそ半数の列車が伊勢中川駅発着に短縮され、[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ変更で大部分を伊勢中川駅発着に変更し、白塚駅直通列車は早朝の下り1本と平日夜間の上り1本に削減された。[[2021年]][[7月3日]]のダイヤ変更で日中時間帯の列車が毎時2本から1本へ削減された<ref name="2021release">{{Cite press release|和書|title=2021年7月3日(土)ダイヤ変更について|publisher=近畿日本鉄道|date=2020-05-12|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou.pdf|format=pdf|accessdate=2020-05-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210514075203/https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou.pdf|archivedate=2020-05-14}}</ref>。
=== 観光列車「つどい」 ===
2013年10月に開催される第62回伊勢神宮式年遷宮に合わせ、2013年10月5日から2017年8月27日まで山田線伊勢市駅 - 賢島駅にて運転されていた観光列車<ref name="つどい">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2014年1月号 {第633号} p.56 - p61</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=伊勢市駅~賢島駅間に新しい観光列車「つどい」を導入|publisher=近畿日本鉄道|date=2013-05-27|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/kankouressyatsudoi130527.pdf|format=PDF|access-date=2023-03-23}}</ref><ref name="kintetsu20220719">{{Cite press release|和書|title=~観光列車「つどい」が賢島駅~伊勢市駅間で復活~ 観光列車つどい「海女さん列車」を運行します|publisher=近畿日本鉄道|date=2022-07-19|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/amasanressha.pdf|format=PDF|access-date=2023-03-23}}</ref>。土休日の日中に2往復のみ運転されており、志摩線内では鳥羽駅と鵜方駅に停車していた<ref name="つどい" />。車両は専用形式の[[近鉄2000系電車#2013系|2013系]]が充当された<ref name="つどい" />。
伊勢市駅 - 賢島駅間では2022年8月から9月にも「海女さん列車」として観光列車「つどい」が運行された<ref name="kintetsu20220719" />。
=== 終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日|元旦]]にかけての[[終夜運転]]は、[[2010年]]の大晦日までは大阪・名古屋方面からの特急のほか、普通をおおむね60分間隔で運転される形態となっており、大晦日から元旦にかけて特別営業が行われる志摩スペイン村へのアクセスなどに利用されていた。ただし、[[2011年]]の大晦日は志摩スペイン村の終夜営業が中止されたため普通列車2往復の運転に留まり(志摩スペイン村では、今後もカウントダウンイベントは行わないとしている<ref>[http://www.parque-net.com/news/11092977/11092977.html 年末年始の営業について] 志摩スペイン村公式ウェブサイト、2012年1月2日閲覧</ref>)、[[2012年]]以降は、賢島発の最終電車後及び賢島行の初発電車前に1本ずつ増発するのみとなっている<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/newyear2014/nenshi_daiya.html おおみそか - 元旦 終夜運転時刻表] - 近畿日本鉄道公式ウェブサイト、2013年12月22日閲覧</ref>。時刻については近鉄の公式ホームページでも紹介されている。
== 車両 ==
=== 現在の使用車両===
{{Main2|特急|近鉄特急#特急に使用される車両}}
普通列車は全列車が2両編成・ワンマン運転であるため、前述の収納式運賃箱・運賃表示器を装備する改造を施した以下の形式が使用されている<ref group="注釈">1201系・9000系は運転席後部の座席の撤去改造も併せて行われている。</ref>。車両面では、臨時列車や[[近鉄2000系電車#2013系|観光列車つどい]]を除けばすべて[[回生ブレーキ|抑速回生ブレーキ]]を装備した[[界磁チョッパ制御]]車か[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ]]車であることが特徴で、大半の車両に車椅子スペースが設けられ、一部のVVVFインバータ車には[[バリアフリー]]改造も行われた車両で運用されている。
*[[近鉄1400系電車|1201系]]:1200系のワンマン改造車。
*[[近鉄1220系電車|1230系]]
*[[近鉄1220系電車|1240系]]:1233系のワンマン改造車。[[2018年]]4月現在、1240Fの1本のみ。
*[[近鉄1220系電車|1259系]]:1253系のワンマン改造車。
*[[近鉄1422系電車|1440系]]:1437系のワンマン改造車。
*[[近鉄8810系電車|9000系]]:元奈良・京都線所属車両。ワンマン対応編成のみ
=== 過去の使用車両 ===
==== 標準軌改軌後 ====
{{Main2|改軌直後の使用車両|近鉄名古屋線#車両}}
[[改軌]]後は名古屋線と車両が共通化された。改軌後も末端区間にあたるため、ワンマン化されるまでは名古屋線所属車両が多く使用され、[[近鉄モ1450形電車|モ1450形]]・[[近鉄1460系電車|1460系]]・[[近鉄680系電車|680系]]といった黎明期の高性能車も志摩線で終焉を迎えた。
==== 狭軌時代 ====
近鉄合併直後は、[[三重交通]]から引き継いだ路線の中では唯一の軌間1067mmの[[狭軌]](ほかは762mmの「特殊狭軌」)であった。当時の近鉄では狭軌線区全体で大型車に6000番台(現在は[[近鉄南大阪線|南大阪線]]用に限定)、中型車に5000番台を割り当てており、近鉄合併後の志摩線所属車は全車5900番台となった。
狭軌時代の全車における共通点として、[[集電装置|パンタグラフ]]は賢島駅側、三重交通時代から設置した行先方向板は進行方向左(運転席の前)、[[動力車|電動車]]は両運転台で制御車は片運転台などの点が挙げられる。[[標準軌]]に改軌されるまで、近鉄志摩線としての運用期間は5年弱であり、増備車や廃車も存在しなかった。当時の所属総数は10両のみであった。
*[[志摩電気鉄道モニ10形電車|モ5920形・モ5925形←三重交通モニ550形←志摩電気鉄道モニ10形]]
*[[三重交通ク600形電車|ク5910形・ク5930形←三重交通ク600形]]
*[[三重交通モ5400形電車|モ5960形←三重交通モ5400形]]
*[[志摩電気鉄道モニ10形電車|モ5940形・モ5945形←三重交通モ5210形]]
改軌後状態のよい車両は、座席については[[鉄道車両の座席#クロスシート(横座席)|クロスシート]]のまま[[主電動機|モーター]]と[[運転台撤去車|運転台を撤去]]して[[付随車]]化され、[[養老鉄道養老線|養老線]](現在の[[養老鉄道]])に転属して1983年まで使用された。養老線未転属車・転属車ともすべて廃車・解体され、現存しない。
== 歴史 ==
{{基礎情報 会社
|社名 = 志摩電気鉄道
|ロゴ = [[File:Shima Electric Railway Logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|国籍 = {{JPN}}
|本社所在地 = [[三重県]][[志摩郡]][[鳥羽町]]大字鳥羽353ノ1<ref name="NDLDC1184231"/>
|設立 = [[1923年]](大正12年)8月21日<ref name="NDLDC1184231"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 旅客鉄道事業<ref name="NDLDC1184231"/>
|代表者 = 社長 [[井内彦四郎]]<ref name="NDLDC1184231"/>
|資本金 = 1,350,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184231"/>
|特記事項 = 上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在<ref name="NDLDC1184231">[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1184231/48}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
[[ファイル:Kashikojima Station opening.jpg|thumb|開業直前の[[賢島駅]](1929年)、駅舎は現存する]]
[[ファイル:Mie-Kotsu Shima Line.JPG|thumb|三重交通志摩線時代(1948年)]]
[[明治]]時代中頃まで、奥志摩(現・志摩市)から北方への陸路は徒歩での逢阪峠(現・[[三重県道32号伊勢磯部線]])越えが利用されていたが、[[1911年]](明治44年)に[[参宮線]]が鳥羽駅まで延伸されてからは、五知峠を越え鳥羽から鉄道が利用されるようになった。鳥羽から奥志摩への鉄道敷設は当時より複数の事業者によって計画されていたが、[[関東大震災]]ののちの経済不況などで実現しなかった。
[[1923年]]([[大正]]12年)8月、鵜方村の[[森本確也]]が中心となり電気鉄道敷設を出願。[[1924年]](大正13年)に敷設許可を取得した<ref name="kanp24610"/>ことを受け、[[1926年]](大正15年)に'''志摩電気鉄道'''(志摩電鉄、免許時は志州電気鉄道)を設立、社長には四日市出身の実業家[[伊藤伝七 (11代目)]]が就任した<ref name="camp35"/>。当初の計画では起点を鳥羽駅とし、鵜方浜(現・[[鵜方駅]])を終点とする路線とされたが<ref name="kanp24610"/>、着工前に[[目黒蒲田電鉄]]の幹部に視察を依頼した結果、風光明媚な[[英虞湾]]岸のかしこ島([[賢島]])までの路線として参宮客([[伊勢神宮]]の参拝客)を誘致しなければ利益が見込めないと指摘され、重役会議の結果、英虞湾岸のかしこ島に設置する[[真珠港駅]]を終点とする計画に変更された<ref>『図説伊勢・志摩の歴史 下巻』(伊勢・志摩の歴史刊行会編、[[1992年]]8月15日郷土出版社発行、ISBN 4-87670-028-1)86頁</ref>。
この計画変更に対し、終点になることを期待していた鵜方の住民は、4年間に及ぶ鵜方以降の用地不売などの反対運動を起こした<ref>『阿児町史』(阿児町史編纂委員会、[[2000年]]3月15日発行)285頁</ref>。[[1928年]]([[昭和]]3年)2月に線路変更願いが認可され、志摩電鉄が鵜方村に補償金1万円を支払うことで和解し<ref>武知京三『日本の地方鉄道網形成史』柏書房、1990年、62-69頁</ref>、[[1929年]](昭和4年)7月23日に全線開業を迎えた<ref name="kanp29731"/>。鉄道開通を記念し、当時無人島であった賢島の土地が志摩電鉄に寄付され、駅前周辺および[[賢島駅]]と奥志摩の各地を結ぶ航路の基地となる賢島港が整備された。
開通後も志摩電鉄は宇治山田市(現・伊勢市)への延伸を目指し、1928年(昭和3年)6月に鳥羽 - [[二見町 (三重県)|二見]]間の延長工事許可を取得。その一環として、[[佐田浜]](鳥羽駅前)や小浜海岸の埋め立てを計画した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=246}}が、延伸先の二見で県道と鉄道の立体交差を巡り折り合いがつかなかったことに加え、鳥羽駅で参宮線に乗り入れる立体交差計画がうまくいかなかったことが重なり、志摩電鉄は毎年のように計画変更や期限の延長申請を繰り返した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=247}}。[[1935年]](昭和10年)8月、[[三重県知事]]の[[富田愛次郎]]は鉄道免許の失効を理由に工事延長を不許可とし、延伸計画は頓挫した{{sfn|鳥羽市史編さん室|1991|p=248}}。
その後、戦中の交通統制方針で[[三重県]]下の中小私鉄・バス会社6社が合併して発足した[[三重交通]]の保有路線となり、さらに同社から一時的に鉄道部門を分離させた三重電気鉄道時代を経て、[[1965年]](昭和40年)の三重電気鉄道の近畿日本鉄道への合併により近鉄志摩線となった。
鳥羽駅で接続する[[日本国有鉄道|国鉄]]参宮線と貨車の直通運輸を行うため、[[狭軌]](1067mm軌間)・750V電化を採用し、鳥羽駅では国鉄駅の東片端から発着していた。また、[[急行列車]]や[[準急列車]]も運行され、途中停車駅は急行が[[中之郷駅]]・[[志摩赤崎駅]]・志摩磯部駅(現・[[上之郷駅]])・迫間駅(現・[[志摩磯部駅]])・[[穴川駅 (三重県)|穴川駅]]・鵜方駅で<ref>『まるごと名古屋の電車昭和ロマン』([[徳田耕一]]著、河出書房新社、2008年、ISBN 978-4-309-22493-0)187頁</ref>、準急は鳥羽駅 - [[船津駅 (三重県鳥羽市)|船津駅]]間および志摩磯部駅 - 賢島駅間の各駅に停車していた<ref>「志摩線列車運行図表」、近畿日本鉄道作成、1965年10月改正</ref>。
近鉄合併後、すでに近鉄の路線となっていた[[近鉄田原本線|田原本線]]と同じく近鉄の他の路線と接続しない孤立線となっていたが<ref group="注釈">ただし、田原本線は他の近鉄線と徒歩連絡で乗り換えでき、線路も連絡線で直接つながっている。</ref>、大阪・名古屋方面からの利便性の向上を目的として、[[宇治山田駅]]まで通じていた山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線が建設される事となり、[[1969年]](昭和44年)より[[標準軌]](1435mm軌間)への[[改軌]](同時に軌道強化もあわせて施工)と架線電圧1500Vへの昇圧工事を開始した。工事中は列車を運休した上でバスによる代行輸送が行われ、同時に半ば貨物専用となっていた賢島駅 - 真珠港駅間は廃止された。[[1970年]]に鳥羽線が開業し、大阪・名古屋方面との旅客列車の直通運転を開始した。また、改軌前に運行されていた線内運転の急行列車と準急列車については、改軌・昇圧・軌道強化や車両の性能向上に伴う普通列車の速度向上もあり、改軌後は廃止された。
[[2009年]]([[平成]]21年)[[3月20日]]の[[阪神なんば線]]の開業により、志摩線から[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]・[[近鉄山田線|山田線]]・[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄難波線|難波線]]・阪神なんば線・同[[阪神本線|本線]]・同[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]・[[山陽電気鉄道本線]]・同[[山陽電気鉄道網干線|網干線]]を介して、[[山陽姫路駅]]もしくは[[山陽網干駅]]まで標準軌の線路が繋がった。しかし、志摩線は[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]や[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]との相互乗り入れ区間には含まれておらず、また大阪難波駅以遠の阪神電鉄線あるいは神戸高速線経由山陽電鉄線方面への連絡乗車券も発売されていない。
[[File:Kashikojima Bridge Checkpoint for the G7 Ise-Shima Summit.jpg|thumb|[[賢島橋と賢島大橋|賢島橋]]付近に存在した保安検査場(2016年5月5日=運用開始前)]]
[[2016年]](平成28年)には、[[第42回先進国首脳会議]](伊勢志摩サミット)開催に伴う[[テロリズム|テロ]]対策のため賢島が封鎖されることになり、[[日本国政府]]の協力要請により<ref>{{Cite news |title=伊勢志摩サミット警備、近鉄が一部運休へ 代替バス運行 |newspaper=朝日新聞 |date=2016-02-01 |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ1Y55TGJ1YOIPE019.html |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2016-06-06 |quote=政府は、列車や定期船などを運行する近鉄グループに協力を要請し、警備体制を整えていく方針という。}}</ref>、[[5月21日]]から[[5月28日|同28日]]までの8日間、鵜方駅 - 賢島駅間を運休することとなった<ref name="kintetsu20160415">{{Cite web|和書|date=2016-04-15 |url=http://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/summit.html |title=伊勢志摩サミット開催に伴う運転休止について |publisher=近畿日本鉄道 |accessdate=2016-06-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160523143703/http://www.kintetsu.co.jp/railway/Dia/summit.html |archivedate=2016-05-23}}</ref><ref name="cn">「賢島の規制開始5月21日で調整」中日新聞2016年3月29日付朝刊、10版1ページ</ref><ref name="railfjp20160522" />{{Refnest|group="注釈"|当初は1か月間の運休という案もあったが<ref>[http://b.hatena.ne.jp/entry/www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2015082602000255.html 賢島駅、サミットで封鎖へ 近鉄、最大1カ月前から] - 中日新聞 2015年8月26日</ref>、最終的には8日間の運休で合意している<ref name="cn"/>。}}。しかし鵜方駅には折り返し設備がないため、鵜方駅 - 賢島駅間は通常ダイヤのまま全列車回送扱いで運転された<ref name="railfjp20160522">[http://railf.jp/news/2016/05/22/201500.html 『伊勢志摩サミット』開催にともない近鉄で鵜方行き列車運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2016年5月22日</ref>。運休区間は[[外務省]]が運用する(業務は[[名鉄観光サービス]]に委託<ref>{{Cite press release|和書|title=平成28年04月26日 伊勢志摩サミットプレス用シャトルバス運行業務委託に係る一般競争入札の結果をお知らせします |publisher=三重県 |date=2016-04-26 |url=http://www.pref.mie.lg.jp/NYUSATSU/m0032700005.htm |accessdate=2016-05-26}}</ref>)無料のサミットシャトルバスでの[[バス代行|代行輸送]]が行われた。[[志摩神明駅]]は駅から300m離れた位置に臨時バス停留所を開設。志摩神明臨時停留所 - 賢島駅間に保安検査場兼ジャンボハイヤー乗換場(下りのみ、上りは通過)を設置。鵜方駅 - 志摩神明駅間は誰でも乗車できるが、志摩神明駅 - 賢島駅間は外務省発行の識別IDカードを必要とした<ref>{{Cite press release|和書|title=シャトルバス(外務省運用) |publisher=近畿日本鉄道 |date= |url=http://www.kintetsu.co.jp/railway/shuttlebus.pdf |format=pdf |accessdate=2016-05-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://iseshima.keizai.biz/headline/2582/|title=「伊勢志摩サミット」賢島への出入り規制 島民は厳重な手荷物検査受ける 2016年05月21日|publisher=[[伊勢志摩経済新聞]]|date=2016-05-21|accessdate=2016-05-23}}</ref>。
=== 年表 ===
* [[1924年]]([[大正]]13年)6月7日:志州電気鉄道に対し鉄道免許状下付(志摩郡鳥羽町-同郡鵜方村間)<ref name="kanp24610">[{{NDLDC|2955686/5}} 「鉄道免許状下付」『官報』1924年6月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1926年]](大正15年)6月2日:志摩電気鉄道<ref name="camp35">[{{NDLDC|1077355/509}} 『日本全国諸会社役員録. 第35回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> に名称変更(届出)<ref>[{{NDLDC|1022003/12}} 『鉄道統計資料. 昭和元年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1928年]]([[昭和]]3年)6月8日:鉄道免許状下付(志摩郡鳥羽町-度会郡二見町間)<ref>[{{NDLDC|2956897/7}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年6月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1929年]](昭和4年)[[7月23日]]:志摩電気鉄道が鳥羽駅 - 賢島駅 - 真珠港駅間を開業<ref name="kanp29731">[{{NDLDC|2957242/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* 1935年(昭和10年)7月5日:鉄道免許失効(1928年6月8日免許志摩郡鳥羽町-度会郡二見町間 指定ノ期限マテニ工事ニ着手セサルタメ)<ref name="kanp3575">[{{NDLDC|2959030/10}} 「鉄道免許失効」『官報』1935年7月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>
* [[1944年]](昭和19年)[[2月11日]]:志摩電気鉄道ほか6社が合併、三重交通が発足。
* [[1946年]](昭和21年)12月:鵜方口駅を志摩横山駅に改称。
* [[1949年]](昭和24年)[[7月25日]]:志摩赤崎駅開業。
* [[1964年]](昭和39年)[[2月1日]]:三重交通の鉄道事業を三重電気鉄道に分離譲渡。
* [[1965年]](昭和40年)[[4月1日]]:近畿日本鉄道が三重電気鉄道を合併。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[7月1日]]:賢島駅 - 真珠港駅間が廃止。鳥羽駅 - 賢島駅間の貨物営業も廃止。
** [[12月10日]]:鳥羽駅 - 賢島駅間が改良工事のため営業休止。
* [[1970年]](昭和45年)[[3月1日]]:標準軌化と架線電圧の1500V昇圧が完成。鳥羽線と直通運転を開始。ATS使用開始。鳥羽駅舎を国鉄駅北側に新築し移転。志摩磯部駅を上之郷駅に、迫間駅を志摩磯部駅に改称。
* [[1975年]](昭和50年)12月:大阪線・鳥羽線複線化に呼応し、白木駅の通過線設置、上之郷駅・志摩神明駅の交換駅化等の輸送力増強工事完成。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月6日]]:鵜方駅 - 志摩神明駅間複線化。
** [[3月18日]]:志摩線内で特急停車3駅のホーム延伸が完成し、8両運転を開始。
* [[1990年]]([[平成]]2年)
** 3月15日:志摩線で[[近鉄21000系電車|21000系]](アーバンライナー)の運用開始。
** [[12月8日]]:志摩神明駅 - 賢島駅間複線化。
* [[1992年]](平成4年)
** [[11月6日]]:鳥羽駅 - 中之郷駅間複線化<ref>{{Cite news |title=近鉄志摩線 鳥羽-中之郷間来月6日複線化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-29 |page=1 }}</ref>。
** [[12月22日]]:船津駅 - 加茂駅間複線化<ref>{{Cite news |title=近鉄志摩線 船津-加茂間複線運転開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-12-25 |page=1 }}</ref>。同時に平日14本、休日12本の運転時刻を変更。最大6分繰り上げ。
* [[1993年]](平成5年)
** [[4月28日]]:五知駅 - 上之郷駅間複線化<ref>“28日にダイヤ改正 近鉄志摩線、複線化が発生” [[交通新聞]] (交通新聞社): p1. (1993年4月24日)</ref>。同時に普通列車16本の運転時刻を変更。
** [[6月1日]]:志摩磯部駅 - 鵜方駅間複線化<ref>“志摩磯部-鵜方間来月から複線運転” [[交通新聞]] (交通新聞社): p2. (1993年5月25日)</ref>。同時に運転時刻の変更も実施。
** [[9月11日]]:加茂駅 - 五知駅間複線化、青峰トンネル完成<ref name="kotsu19930821">{{Cite news |title=志摩線加茂-五知間の複線化 来月11日から使用開始/11線でダイヤ改正/近鉄宮津駅同日に開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-08-21 |page=1 }}</ref>。
** [[9月21日]]:営業キロ改定実施。全線で0.7km短縮。複線化進捗(および京都線近鉄宮津駅開業)によるダイヤ変更が行われ、同年10月の伊勢神宮式年遷宮による志摩方面への観光客増加を見込んで阪伊乙特急・名伊乙特急の一部列車を賢島発着に変更{{R|kotsu19930821}}。線内の最高速度を90km/hから120km/hに引き上げ{{R|kotsu19930821}}。
* [[1994年]](平成6年)
** [[3月15日]]:[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)の営業運転開始。賢島駅を3線から5線に拡大。白木駅に通過線を設置して待避可能駅に。同年[[4月22日]]に開業する[[志摩スペイン村]](最寄駅:志摩磯部駅)への輸送対応のため阪伊特急・名伊特急の賢島乗り入れを拡大。日中の鳥羽駅 - 賢島駅間の普通を毎時3本に増発(原則として伊勢中川駅 - 賢島駅間を直通)。特急の130km/h運転開始。
** [[12月31日]]:特急の越年終夜運転を開始。<!--普通列車の終夜運転は、これ以前に行われていたのでしょうか?資料がないので分かったらお願いします-->
* [[1999年]](平成11年)[[3月16日]]:普通の運転系統を伊勢中川駅 - 宇治山田駅間と宮町駅 - 賢島駅間に分割し、毎時2本に削減。
* [[2001年]](平成13年)[[5月30日]]:普通のワンマン運転開始。
* [[2003年]](平成15年)3月6日:京伊特急の一部が大和八木駅 - 賢島駅間で阪伊乙特急と併結運転。
* [[2004年]](平成16年)12月31日:志摩スペイン村の[[志摩スペイン村#カウントダウンイベント|カウントダウンイベント]]中止のため、この年のみ特急・普通とも終夜運転を中止。
* [[2007年]](平成19年)
** 3月1日:志摩スペイン村への最寄駅を志摩磯部駅から鵜方駅に変更。
** 4月1日:鳥羽駅・中之郷駅・志摩磯部駅・鵜方駅・賢島駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱い開始。
* [[2010年]](平成22年)4月1日:鳥羽駅 - 賢島駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)の運用開始<ref name="knnews100330">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100330KRONOS.pdf 名古屋列車運行管理システム「KRONOS」が運用開始します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年3月30日</ref>
* [[2011年]](平成23年)
** [[11月1日]]:中之郷駅および志摩赤崎駅を終日無人駅化。特急停車駅以外はすべて無人駅となる。
** 12月31日:志摩スペイン村のカウントダウンイベント中止のため、特急の終夜運転を中止。
* [[2013年]](平成25年)3月21日:[[近鉄50000系電車|50000系]](しまかぜ)の営業運転開始。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:志摩赤崎駅でPiTaPa・ICOCAはじめ[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス対応ICカード]]の取り扱い開始。
* [[2015年]](平成27年)
** 6月24日:上之郷駅 - 賢島駅間の全駅でPiTaPa・ICOCAなど全国相互利用サービス対応ICカードの取り扱い開始<ref name="kintetsu20150603" />。
** 8月1日:志摩赤崎駅 - 上之郷駅間の全駅で全国相互利用サービス対応ICカードの取り扱いが開始<ref name="kintetsu20150603" />。これに伴い[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]を除く近鉄全線全駅でICカードが利用可能になった。
* [[2016年]](平成28年)[[5月21日]] - [[5月28日]]:[[第42回先進国首脳会議]](伊勢志摩サミット)開催に伴うテロ対策に伴い、鵜方駅 - 賢島駅間の営業運転休止<ref name="kintetsu20160415" /><ref name="railfjp20160522" />。<!-- 詳細は前節に記述 -->
* [[2019年]](平成31年)[[3月9日]]:鳥羽駅 - 中之郷駅間で緊急停車した列車からの[[津波]]避難訓練を実施<ref name="mn1903">林一茂「津波避難訓練 近鉄志摩線で初 200人、列車降り公園へ」毎日新聞2019年3月10日付朝刊、三重版23ページ</ref>。近鉄が本線上で避難訓練を行ったのは初めて<ref name="mn1903"/>。
== 駅一覧 ==
* 全駅[[三重県]]内に所在。
* 普通列車は各駅に停車<!--(表中省略)-->。
* 特急列車は[[近鉄特急]]の記事を参照のこと。
* <nowiki>*</nowiki>印の付いた駅は有人駅。全駅PiTaPa、ICOCA対応。
* 線路 … ∥:複線区間、<nowiki>#</nowiki>:複線区間([[待避駅|列車待避]]可能駅)、◇:単線区間([[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線、∧:ここより下は複線
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #00b3c1;"|{{縦書き|線路}}
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|[[鳥羽駅]]*
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|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄鳥羽線|鳥羽線]](普通が{{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]][[白塚駅]]まで、特急が{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]][[大阪難波駅]]、{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]][[京都駅]]、{{近鉄駅番号|E}} 名古屋線[[近鉄名古屋駅]]まで直通運転)<br />東海旅客鉄道:{{Color|#f77321|■}}[[参宮線]]
|style="text-align:center;"|#
|rowspan="7" style="white-space:nowrap;"|[[鳥羽市]]
|-
!M79
|[[中之郷駅]]<br /><small>([[鳥羽水族館]]前)</small>
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|
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|-
!M80
|[[志摩赤崎駅]]
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|
|style="text-align:center;"|◇
|-
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|[[船津駅 (三重県鳥羽市)|船津駅]]
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|
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|-
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|[[加茂駅 (三重県)|加茂駅]]
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|style="text-align:right;"|5.5
|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!M83
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|style="text-align:center;"|∥
|-
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|
|style="text-align:center;"|#
|-
!M85
|[[五知駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|11.0
|
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="9"|[[志摩市]]
|-
!M86
|[[沓掛駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
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|
|style="text-align:center;"|∥
|-
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|[[上之郷駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
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|
|style="text-align:center;"|∨
|-
!M88
|[[志摩磯部駅]]*
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|
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!M89
|[[穴川駅 (三重県)|穴川駅]]
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|
|style="text-align:center;"|∥
|-
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|[[志摩横山駅]]
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|
|style="text-align:center;"|∥
|-
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|[[鵜方駅]]*
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|
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|-
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|
|style="text-align:center;"|∥
|-
!M93
|[[賢島駅]]*
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|24.5
|
|style="text-align:center;"|#
|}
駅名に旧国名の「[[志摩国|志摩]]」を冠した駅が存在するのは本路線のみで、JR線の駅には一切存在しない。
=== 主要駅の乗降客数 ===
[[2022年]][[11月8日]]調査による主要駅の乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/b.html 駅別乗降人員 山田線 鳥羽線 志摩線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*鳥羽 3,233人
*中之郷 180人
*志摩赤崎 223人
*志摩磯部 609人
*鵜方 1,624人
*賢島 1,010人
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*「まるごと近鉄ぶらり沿線の旅」(著者・編者 徳田耕一、出版・発行 河出書房新社 2005年) ISBN 4309224393
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄1」(著者・編者 諸河久・杉谷広規、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 458650904X
* カラーブックス「日本の私鉄 近鉄2」(著者・編者 諸河久・山辺誠、出版・発行 保育社 1998年) ISBN 4586509058
*「近鉄時刻表」各号 (著者・編者 [[近畿日本鉄道]]、出版・発行 同左)
*「京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表」(著者・編者 日本交通公社、出版・発行 同左)1987年頃に廃刊
*「鉄道ピクトリアル'03年1月号増刊 特集:近畿日本鉄道」(著者・編者 電気車研究会 出版・発行 同左)
* 『近畿日本鉄道100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、360頁
* {{cite book|和書|author=鳥羽市史編さん室|title=鳥羽市史 下巻|publisher=鳥羽市役所|date=1991年3月25|page=1347|ref={{sfnref|鳥羽市史編さん室|1991}}}}{{全国書誌番号|92001549}}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急史]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kintetsu.jp/kouhou/Rireki/A40026.html 志摩線]
* [https://tid.kintetsu.co.jp/LocationWeb/trainlocationinfoweb15.html 志摩線] - 近鉄列車走行位置
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日本選手権シリーズ
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日本選手権シリーズ(にほんせんしゅけんシリーズ、にっぽんせんしゅけんシリーズ、通称:日本シリーズ(Nippon Series))は、日本プロ野球のペナントレース終了後、クライマックスシリーズ優勝チームによって行われる、その年のプロ野球チーム日本一を決める試合である。正式名称はプロ野球日本選手権シリーズ。
アジアシリーズ(日韓クラブチャンピオンシップ)の開催年には、日本選手権シリーズの優勝チームに出場権が与えられる。
1949年のプロ野球のリーグ分裂を受けて、翌1950年にセントラル・リーグとパシフィック・リーグのそれぞれの当年の優勝者が野球界の日本一の座をかけて対戦するシリーズとして創設された。1953年までは日本ワールドシリーズと呼称されていたが、翌1954年から現在の日本シリーズに改めた。2007年にクライマックスシリーズ制度が導入され、リーグ戦の結果とは無関係に同シリーズの優勝チーム同士によって行われるようになった。戦後に始まったこともあり、初年度以降中止になった年はない。
2005年 - 2013年の間は、本シリーズの優勝者がさらに『アジアシリーズ』『日韓クラブチャンピオンシップ』に日本代表として参加した。
なお、1リーグ時代に春季優勝チームと秋季優勝チームが対戦して年間チャンピオンを決める試合もあったが、一般にはこの1950年に始まる日本シリーズが一般的であるため、本項においても1950年以降の試合について述べる。
2007年以降は、両リーグともに、ペナントレース後に行われるクライマックスシリーズの優勝チームが出場している(2020年のみ、セ・リーグはクライマックスシリーズがなかったため、当年のペナントレースの優勝チームが出場)。
賞金・賞品は2020年のもの。
出典:
第1回(1950年)から第4回(1953年)については、メジャーリーグベースボールを参考にした『日本ワールドシリーズ』という名称だった。
「日本シリーズ」の”日本”の読み方について、以前は「にほん-」と読ませるのが主流だったが、2000年代からは「にっぽん-」と読ませるように変更され、2003年に「Nippon Series」の公式ロゴが選手ヘルメットに貼り付けられた。日本一に輝いたチームに授与するチャンピオンフラッグの旗面に「NIPPON」が縫い込まれているためとされている。なお、このチャンピオンフラッグは縦1.4メートル、横3メートルの三角形のペナントとなっており、製作に100万円近くを費やしているといわれている。
従来、興行に於ける協賛スポンサーとなる企業・団体は存在しなかったが、2011年から2013年まで、ゲームソフト大手のコナミ株式会社(後のコナミホールディングス株式会社)が特別協賛となり、大会名も『KONAMI日本シリーズ』として開催された。なお、コナミは過去に2005年から2007年に開催されていた『アジアシリーズ』に特別協賛しており、冠スポンサーとして「KONAMI CUP」の名称が付けられていた。
2014年からは三井住友銀行が冠スポンサーとなり、「SMBC日本シリーズ」として開催されている。なお、同社は日本シリーズの特別協賛を機に、2014年10月1日、日本野球機構の協賛スポンサー「NPBパートナー」契約を締結した。
例年日本シリーズが開催される10月下旬から11月は、特に夜間は秋が深まるに連れて気候的に寒くなることから、かつては平日であってもデーゲームで試合が行われていた。
日本シリーズが史上初めてナイトゲームで開かれたのは1964年(第15回)の阪神タイガース対南海ホークスだった。これは東京オリンピックの開催の妨げにならないようにとの配慮で、開会式が予定された10月10日までに全ての日程を消化させることにしていた。本来は第1戦が9月29日、第7戦は10月7日であったが、セントラル・リーグの優勝決定がずれ込んだ上に雨天順延が入り、10月10日に最終戦を開催せざるを得なかった。これが影響してか、シリーズの平均観客動員は歴代最低を記録したため、翌1965年からは元のデーゲーム開催に戻した。
平日のデーゲーム開催では会社や学校を休まない限り試合の観戦が困難となったり、テレビの視聴率やNPBの収益の問題にも関わることから、1994年(第45回、読売ジャイアンツ対西武ライオンズ)では試験的に平日開催の第3・4・5戦(西武ライオンズ球場)に限りナイトゲームで実施。以降、1995年(第46回、オリックス・ブルーウェーブ対ヤクルトスワローズ)より全試合に拡大した。
2011年の第1戦は17年ぶりにデーゲームで行われた。これは中継権を獲得したフジテレビが、同日のゴールデンタイムに『ワールドカップバレー2011』を放送したためである。
2005年(第56回/千葉ロッテマリーンズ対阪神タイガース第1戦・10月22日 千葉マリンスタジアム)では、7回裏1アウト時点で濃霧のため試合が中断。その後天気が回復しなかったため、そのままコールドゲームとなった。天候起因でのコールドゲームは1953年(第4回/読売ジャイアンツ対南海ホークス)第3戦に於いて、8回終了時点で降雨コールドゲームになって以来52年ぶりであるが、濃霧による中断からそのまま試合打ち切りとなったのは初のことであった。
なお、コールドゲームで優勝決定となった試合はこれまで一度もない。
サヨナラゲームで日本一が決まったケースは4例ある(2023年シーズン終了時点)。
開催日程および開催会場が変則的な形となった例は以下の通り。
1970年の開催は両リーグの出場チームが、文京区の後楽園球場が本拠地の巨人と、荒川区の東京スタジアムが本拠地のロッテであり、全試合が東京都での開催となったため、史上初めて同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズまたはGOシリーズ)。同一都道府県での日本シリーズはこの1970年と上述の1981年(後楽園シリーズ)の2例のみ。
2019年現在は、2008年にオリックスが大阪府をフランチャイズとし、セ・パ両リーグの球団がともに本拠地を置く都道府県がないため、通常のフランチャイズ制度下では同一都道府県で開催されることはない。
2004年に1度も日本一になれないまま合併消滅した近鉄に代わって、2005年に新規加入した楽天が2013年のシリーズで日本一になったことにより、NPB設立以来史上初となるNPBに加盟している全12球団が全て日本一を経験ということになった。なお、パ・リーグに関しては、元号が令和になる前年の2018年時点でNPB設立以来史上初となる同一年号中にパ・リーグに加盟する全6球団が日本一を経験したことにもなった(セ・リーグは、阪神と広島が平成30年間で一度も日本一になれなかった)。
日本以外では、2021年時点で、台湾の中華職業棒球大聯盟が現存する全5球団に台湾シリーズの優勝経験があり、ドミニカ共和国のウィンターリーグであるリーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナが全6球団に優勝経験があるが、メジャーリーグでは、全30球団中5球団(ミルウォーキー・ブルワーズ、サンディエゴ・パドレス、シアトル・マリナーズ、コロラド・ロッキーズ、タンパベイ・レイズ)がワールドシリーズ優勝を経験しておらず、その中でもマリナーズはシリーズ自体への出場経験がない。
2010年までは基本的にホームゲームの球団が推薦した放送局と直接交渉し、その放送局の属するネットワークにより試合開始から終了まで全国生中継された。しかし2010年の日本シリーズで地上波全国中継が実施されない試合が3試合あったことを受けて、2011年からは進出球団が放送局を推薦したうえで、テレビ中継協賛スポンサーの広告代理店にその放送局への中継交渉を行う方式を採用した(それでも、通常レギュラーシーズンの放送を頻繁に行う局が優先的に推薦されることに変わりはない)。これ以降は番組編成の都合から、試合開始時間が繰り上がる事例が発生している(2011年の第1戦、2016年の第5戦)。
中継には通常の野球解説者のほか、出場しないチームの現役選手や監督(引退あるいは退任が決まった者も含む)がゲスト解説として登場する。
視聴率(関東地区)は1990年代までは平均30%前後を獲得するなど高い人気を得ていたが、2000年代以降は徐々に低下し、2010年代以降カードによっては一桁を取ることも珍しくなくなっており、2019年以降は視聴率二桁を獲得した試合は年数試合のみという状態が続いている。その一方、レギュラーシーズン同様、関東地区以外の出場チームの本拠地がある地域では高視聴率を獲得することが多い。
系列局ごとによって対応が異なる。プロ野球中継放送実績の無い放送局は原則として省略する。
その他 BS11・TwellV・FOXスポーツ&エンターテイメント・J SPORTSなど、2007年以降に開局した放送局での放送実績なし。
その他 2010年は地上波全国放送が行われない試合があったため、J SPORTSで第1・2・5戦を自主制作(うち、第1戦はテレビ愛知の映像提供を受けて)で放送した。なお、FOX SPORTS ジャパン・スポーツライブ+は放送実績なし。
日本シリーズはNPB主催のため、レギュラーシーズンの放送権の有無に関わらず平等に中継することができる。レギュラーシーズン及びクライマックスシリーズは放送不可のJRN系列における東京ヤクルトスワローズのホームゲームも日本シリーズでは中継できる。放送権は原則としてシリーズ全試合が対象となる。
2023年現在、カードに関わらず毎年生中継する放送局は、NHKラジオ第1放送と文化放送、ニッポン放送、MBSラジオ(2020年度までは毎日放送のラジオ部門)の4局となった。又、東海ラジオは以前は中日が出場時のみ放送していたが、中日が日本シリーズ不出場となった2012年以降も2020年以外カードに関係なくNRNネットで中継している。ABCラジオは2019年以降「阪神が出場しない日本シリーズは中継しない」という局の方針により中継を見送っていたが、2023年は阪神の日本シリーズ出場が決定し、2018年以来の日本シリーズ中継が行われる。
なお、シリーズ期間中はナイターオフ編成のため、レギュラーシーズンとネットワーク編成が異なる上、ネット受けの放送を行わない局も出てくる。また、地元球団がある局では当該球団が出場した場合のみ放送する局もある。
ラジオ大阪は2006年以降、TBSラジオとCBCラジオは2018年以降放送は行っていない。ラジオ日本は2013年以降、読売ジャイアンツホームゲームのみ放送している。
FMについては、埼玉西武ライオンズが進出した場合のみ、NACK5で放送する。
日本シリーズのインターネット配信の導入は、2016年に開局したAbemaTV(現:ABEMA)が最初となる。この年は出資元のテレビ朝日が中継する試合において独自の実況・解説を付ける形で同時配信を行った。そのほかのキー局が出資元となっているインターネット配信業者においても2018年から、Hulu(日本テレビ)、Paravi(TBS・テレビ東京)、フジテレビONEsmart(フジテレビ)にて同時配信を行うようになり、2018年は全試合インターネット配信される初の事例となった。TVer(在京民放テレビ局5社共同出資)では2022年開催から本シリーズを同時配信している。なお、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズとは主催が違うため、DAZN、パ・リーグTVなどでの中継は行われない。
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"text": "2005年(第56回/千葉ロッテマリーンズ対阪神タイガース第1戦・10月22日 千葉マリンスタジアム)では、7回裏1アウト時点で濃霧のため試合が中断。その後天気が回復しなかったため、そのままコールドゲームとなった。天候起因でのコールドゲームは1953年(第4回/読売ジャイアンツ対南海ホークス)第3戦に於いて、8回終了時点で降雨コールドゲームになって以来52年ぶりであるが、濃霧による中断からそのまま試合打ち切りとなったのは初のことであった。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "なお、コールドゲームで優勝決定となった試合はこれまで一度もない。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "サヨナラゲームで日本一が決まったケースは4例ある(2023年シーズン終了時点)。",
"title": "エピソード"
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{
"paragraph_id": 19,
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"text": "開催日程および開催会場が変則的な形となった例は以下の通り。",
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{
"paragraph_id": 20,
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"text": "1970年の開催は両リーグの出場チームが、文京区の後楽園球場が本拠地の巨人と、荒川区の東京スタジアムが本拠地のロッテであり、全試合が東京都での開催となったため、史上初めて同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズまたはGOシリーズ)。同一都道府県での日本シリーズはこの1970年と上述の1981年(後楽園シリーズ)の2例のみ。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "2019年現在は、2008年にオリックスが大阪府をフランチャイズとし、セ・パ両リーグの球団がともに本拠地を置く都道府県がないため、通常のフランチャイズ制度下では同一都道府県で開催されることはない。",
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"text": "2004年に1度も日本一になれないまま合併消滅した近鉄に代わって、2005年に新規加入した楽天が2013年のシリーズで日本一になったことにより、NPB設立以来史上初となるNPBに加盟している全12球団が全て日本一を経験ということになった。なお、パ・リーグに関しては、元号が令和になる前年の2018年時点でNPB設立以来史上初となる同一年号中にパ・リーグに加盟する全6球団が日本一を経験したことにもなった(セ・リーグは、阪神と広島が平成30年間で一度も日本一になれなかった)。",
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"text": "日本以外では、2021年時点で、台湾の中華職業棒球大聯盟が現存する全5球団に台湾シリーズの優勝経験があり、ドミニカ共和国のウィンターリーグであるリーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナが全6球団に優勝経験があるが、メジャーリーグでは、全30球団中5球団(ミルウォーキー・ブルワーズ、サンディエゴ・パドレス、シアトル・マリナーズ、コロラド・ロッキーズ、タンパベイ・レイズ)がワールドシリーズ優勝を経験しておらず、その中でもマリナーズはシリーズ自体への出場経験がない。",
"title": "エピソード"
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"text": "2010年までは基本的にホームゲームの球団が推薦した放送局と直接交渉し、その放送局の属するネットワークにより試合開始から終了まで全国生中継された。しかし2010年の日本シリーズで地上波全国中継が実施されない試合が3試合あったことを受けて、2011年からは進出球団が放送局を推薦したうえで、テレビ中継協賛スポンサーの広告代理店にその放送局への中継交渉を行う方式を採用した(それでも、通常レギュラーシーズンの放送を頻繁に行う局が優先的に推薦されることに変わりはない)。これ以降は番組編成の都合から、試合開始時間が繰り上がる事例が発生している(2011年の第1戦、2016年の第5戦)。",
"title": "テレビ放送"
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"text": "中継には通常の野球解説者のほか、出場しないチームの現役選手や監督(引退あるいは退任が決まった者も含む)がゲスト解説として登場する。",
"title": "テレビ放送"
},
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"text": "視聴率(関東地区)は1990年代までは平均30%前後を獲得するなど高い人気を得ていたが、2000年代以降は徐々に低下し、2010年代以降カードによっては一桁を取ることも珍しくなくなっており、2019年以降は視聴率二桁を獲得した試合は年数試合のみという状態が続いている。その一方、レギュラーシーズン同様、関東地区以外の出場チームの本拠地がある地域では高視聴率を獲得することが多い。",
"title": "テレビ放送"
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"text": "系列局ごとによって対応が異なる。プロ野球中継放送実績の無い放送局は原則として省略する。",
"title": "テレビ放送"
},
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"text": "その他 BS11・TwellV・FOXスポーツ&エンターテイメント・J SPORTSなど、2007年以降に開局した放送局での放送実績なし。",
"title": "テレビ放送"
},
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"text": "その他 2010年は地上波全国放送が行われない試合があったため、J SPORTSで第1・2・5戦を自主制作(うち、第1戦はテレビ愛知の映像提供を受けて)で放送した。なお、FOX SPORTS ジャパン・スポーツライブ+は放送実績なし。",
"title": "テレビ放送"
},
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"text": "日本シリーズはNPB主催のため、レギュラーシーズンの放送権の有無に関わらず平等に中継することができる。レギュラーシーズン及びクライマックスシリーズは放送不可のJRN系列における東京ヤクルトスワローズのホームゲームも日本シリーズでは中継できる。放送権は原則としてシリーズ全試合が対象となる。",
"title": "ラジオ放送"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2023年現在、カードに関わらず毎年生中継する放送局は、NHKラジオ第1放送と文化放送、ニッポン放送、MBSラジオ(2020年度までは毎日放送のラジオ部門)の4局となった。又、東海ラジオは以前は中日が出場時のみ放送していたが、中日が日本シリーズ不出場となった2012年以降も2020年以外カードに関係なくNRNネットで中継している。ABCラジオは2019年以降「阪神が出場しない日本シリーズは中継しない」という局の方針により中継を見送っていたが、2023年は阪神の日本シリーズ出場が決定し、2018年以来の日本シリーズ中継が行われる。",
"title": "ラジオ放送"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "なお、シリーズ期間中はナイターオフ編成のため、レギュラーシーズンとネットワーク編成が異なる上、ネット受けの放送を行わない局も出てくる。また、地元球団がある局では当該球団が出場した場合のみ放送する局もある。",
"title": "ラジオ放送"
},
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"paragraph_id": 33,
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"text": "ラジオ大阪は2006年以降、TBSラジオとCBCラジオは2018年以降放送は行っていない。ラジオ日本は2013年以降、読売ジャイアンツホームゲームのみ放送している。",
"title": "ラジオ放送"
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"text": "FMについては、埼玉西武ライオンズが進出した場合のみ、NACK5で放送する。",
"title": "ラジオ放送"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "日本シリーズのインターネット配信の導入は、2016年に開局したAbemaTV(現:ABEMA)が最初となる。この年は出資元のテレビ朝日が中継する試合において独自の実況・解説を付ける形で同時配信を行った。そのほかのキー局が出資元となっているインターネット配信業者においても2018年から、Hulu(日本テレビ)、Paravi(TBS・テレビ東京)、フジテレビONEsmart(フジテレビ)にて同時配信を行うようになり、2018年は全試合インターネット配信される初の事例となった。TVer(在京民放テレビ局5社共同出資)では2022年開催から本シリーズを同時配信している。なお、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズとは主催が違うため、DAZN、パ・リーグTVなどでの中継は行われない。",
"title": "インターネット配信"
}
] |
日本選手権シリーズは、日本プロ野球のペナントレース終了後、クライマックスシリーズ優勝チームによって行われる、その年のプロ野球チーム日本一を決める試合である。正式名称はプロ野球日本選手権シリーズ。 アジアシリーズ(日韓クラブチャンピオンシップ)の開催年には、日本選手権シリーズの優勝チームに出場権が与えられる。
|
{{redirect3|日本シリーズ|プロ野球}}
{{otheruses||その他|日本選手権大会}}
{{Otheruses|日本プロ野球の2リーグ制(1950年)以後の年間王者決定制度|1リーグ時代の制度|プロ野球1リーグ時代の優勝チーム・試合方式一覧}}
{{スポーツ大会シリーズ
| current_season = [[2023年の日本シリーズ]]
| 大会名 = 日本選手権シリーズ<br />(SMBC日本シリーズ)
| 画像 = Korakuen Stadium-1.jpg
| 画像サイズ = 300
| 画像説明 = [[2008年の日本シリーズ|2008年の日本選手権シリーズ]]が行われた[[東京ドーム]]<br />(2008年11月9日撮影)
| 競技 = 野球
| 開始年 = 1950年
| 会場 = [[ホーム・アンド・アウェー|ホーム]]アンド[[ビジターゲーム (日本プロ野球)|ビジター]]
| 開催時期 = 10月から11月頃
| スポンサー = [[コナミグループ|コナミ]](2011年 - 2013年)<br />[[三井住友銀行]](2014年 - )
| 終了年 =
| 主催 = [[日本野球機構|日本野球機構(NPB)]]
| 参加チーム数 = 2
| 加盟国 = {{JPN}}
| 前回優勝 = [[阪神タイガース]](38年ぶり2回目)
| 最多優勝 = [[読売ジャイアンツ]](22回)
| サイト = [http://npb.jp/nippons/ 公式サイト]
| 備考 =
}}
'''日本選手権シリーズ'''(にほんせんしゅけんシリーズ、にっぽんせんしゅけんシリーズ、通称:'''日本シリーズ'''(''Nippon Series''))は、[[日本野球機構|日本プロ野球]]の[[ペナント|ペナントレース]]終了後、[[クライマックスシリーズ]]優勝チームによって行われる、その年のプロ野球チーム日本一を決める試合である。正式名称は'''プロ野球日本選手権シリーズ'''<ref name="sponichi141101">{{Cite news |title=日本シリーズ チャンピオンフラッグのお値段は? |newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチ(Sponichi Annex)]] |date=2014-11-01 |author=[[野球太郎|週刊野球太郎編集部]] |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/01/kiji/K20141101009208620.html |accessdate=2018-10-24}}</ref>。
[[アジアシリーズ]]([[日韓クラブチャンピオンシップ]])の開催年には、日本選手権シリーズの優勝チームに出場権が与えられる。
== 概要 ==
[[プロ野球再編問題 (1949年)|1949年のプロ野球のリーグ分裂]]を受けて、翌1950年に[[セントラル・リーグ]]と[[パシフィック・リーグ]]のそれぞれの当年の優勝者が野球界の'''[[日本一]]'''の座をかけて対戦するシリーズとして創設された。[[1953年]]までは'''日本ワールドシリーズ'''と呼称されていたが、翌1954年から現在の日本シリーズに改めた。[[2007年]]にクライマックスシリーズ制度が導入され、リーグ戦の結果とは無関係に同シリーズの優勝チーム同士によって行われるようになった。戦後に始まったこともあり、初年度以降中止になった年はない。
[[2005年の日本プロ野球|2005年]] - [[2013年の日本プロ野球|2013年]]の間は、本シリーズの優勝者がさらに『'''[[アジアシリーズ]]'''』『'''[[日韓クラブチャンピオンシップ]]'''』に日本代表として参加した。
なお、1リーグ時代に春季優勝チームと秋季優勝チームが対戦して年間チャンピオンを決める試合もあったが、一般にはこの1950年に始まる日本シリーズが一般的であるため、本項においても1950年以降の試合について述べる。
== 大会運営 ==
=== 主催 ===
* レギュラーシーズンや[[クライマックスシリーズ]]と異なり、全試合[[日本野球機構]](NPB)主催である。入場料収入の一部は球団に分配され、さらに選手らにも第4戦までのものを基準に分配される<ref>[http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009111101000806.html 巨人過去最高1億円余り 日本シリーズ分配金](47NEWS、2009年11月11日) {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20111219220426/http://www.47news.jp/CN/200911/CN2009111101000806.html |date=2011年12月19日 }}</ref>。
=== 日程 ===
* 両リーグのチャンピオンが決定した後、毎年10月から11月ごろに行われる。
* ゲームは7戦4勝制。先に4勝したチームが日本一となり、敗者のチームは日本シリーズ敗退となる。日本一が決定した時点で終了となり、試合が残っている場合は以降の試合は行われない。{{See|番勝負}}
* [[西暦]]の奇数年はパ・リーグの出場チーム、西暦の偶数年はセ・リーグの出場チームが第1・2戦と6・7戦をホームで開催、相手方のチームが第3・4・5戦をホームで開催する。第2・3戦の間と第5・6戦の間は、移動日として空白日が挟まれる(奇数年ならパパ・セセセ・パパ、偶数年ならセセ・パパパ・セセ)。原則として出場チームの[[専用球場]]での開催とするが、規定収容人員(3万人以上)や設備の都合上のほか、専用球場における他のイベントとの兼ね合いなどで、専用球場以外の球場で開催された例もある([[#変則的な開催日程|後述]])。なお、出場チームには予め使用する球場の日程確保が義務付けられており、[[2000年の日本シリーズ|怠ると制裁金が課される]]。
** 雨天等で中止になった場合は、[[2006年の日本プロ野球|2006年]]までは移動日を含め全ての日程が順延となっていたが、[[2007年の日本プロ野球|2007年]]からは第5戦までに雨天中止が入った時には、第5戦と第6戦の間の移動日・休養日は原則として設けないことに変更された{{refnest|group="注"|変更当初は、[[アジアシリーズ]]の日程が迫っていたことが移動日を省く理由とされていたが、アジアシリーズ(代替大会含む)が開催休止となった2014年以降の年も、引き続き踏襲・継続されている。なお、第2戦と第3戦の間の移動日・休養日は従来通り継続となる。}}。ただし、出場2チームの本拠地が離れており、当日移動が難しいと判断された場合は移動日を設ける場合がある。
*** 具体例として、[[2016年の日本シリーズ|2016年]]では広島対日本ハムとなり、広島・札幌間では当日移動が不可能であるため、移動日を含めすべて1日順延とする、とした<ref>[http://npb.jp/nippons/2016/information.html SMBC日本シリーズ2016・NPB公式サイトの開催概要]より</ref>(結果的に同年の日本シリーズは中止・順延がなかったため、そのような事態は発生しなかった)。
* 引き分けなどがあり、第7戦を終えてもどちらのチームも4勝に満たない場合は、その翌日に第7戦と同じ球場で第8戦を行う(過去は[[1986年の日本プロ野球|1986年]]の1回のみ)。それでもどちらのチームも4勝に満たない場合は、移動日を1日挟んで、第3戦 - 第5戦で使用された球場で第9戦を行う(実施例なし)。[[#試合方式|後述]]のように第7戦までは引き分けの可能性があり、第8戦以降は必ず勝敗が決定するため(コールドゲームで引き分けの場合は除く)、理論上は第14戦までもつれこむ可能性があるが(第8戦以降コールドゲームでの引き分け試合があった場合は第15戦以降までもつれこむ可能性もある)、第10戦以降を行うことや行う場合の使用球場などは開催要項に記載されておらず不明である。
** [[2021年の日本シリーズ|2021年]]のみ、第9戦は第8戦の翌日に第8戦と同じ球場で、第8戦とはホーム・ビジターを入れ替えて開催することになっていたが、第6戦で決着したため行われなかった。
* [[2021年の日本シリーズ|2021年]]は第7戦が[[11月28日]]に予定されていたことから<ref group="注">[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]が開催されるため、[[7月16日|7月16]]、[[7月17日|17日]]の[[オールスターゲーム]]から[[8月13日]]の後半戦開幕まで約1ヶ月レギュラーシーズンを中断。さらにシーズン中にクライマックスシリーズ、日本シリーズの日程が当初の予定から1週間後ろ倒しになった。</ref>、[[11月30日]]までの[[支配下選手]]への参稼報酬期間内で決着させるために、引き分けや雨天中止などによって11月30日時点での両チームの勝利数が同じだった場合に状況次第では試合終了後に[[タイブレーク#野球|タイブレーク]]で優勝チームを決することになっていた。一軍ではレギュラーシーズン、ポストシーズンを通じてプロ野球史上初のタイブレーク採用で<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/09/06/kiji/20210906s00001173617000c.html 日本シリーズ 史上初延長タイブレーク検討 自治体の時短要請考慮 ギリギリ日程で“第8戦”の余裕なし](スポニチAnnex)</ref><ref group="注">[[ファーム日本選手権]]では前年2020年からの2年間採用されていたが、採用後はいずれも9回までで決着がついているため実際にタイブレーク実施には至らなかった。</ref>、アマチュアや国際大会などでの継続試合としてのタイブレークとは異なり、「[[優勝決定戦]]」のような性質のタイブレークとなる<ref>[https://www.sanspo.com/article/20211102-N3BW6E6SOZIUPNWD4BJ7T3NLSI/ 日本シリーズ、第3戦終了後「タイブレーク」 3勝3敗3分の場合…超異例決着に]</ref>。タイブレークでの成績は[[#表彰|表彰選手]]選考の対象となるが、個人通算成績などには加算されず参考記録となる<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/11/09/kiji/20211108s00001173621000c.html 日本シリーズ タイブレークの成績は参考記録に NPB実行委]</ref>。想定としては[[11月29日]]時点でどちらのチームも4勝に満たないかつ両チームの勝利数の差が1の状況から、30日の試合(延長12回終了)で勝利数が並んだ場合のみの実施で<ref group="注">29日時点で勝ち数が同数の場合は、30日の試合を延長無制限で行って決着をつけるためタイブレークを行う想定にはなっていなかった。</ref>、以下のルールで30日の試合終了後に20分のインターバルを挟んで行うことになっていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202111040000607.html |title=日本シリーズ史上初タイブレーク採用、試合終了後「仕切り直し」新オーダー |publisher=日刊スポーツ |date=2021-11-04 |accessdate=2022-01-10}}</ref><ref>[https://npb.jp/nippons/2021/information.html 開催要項](日本野球機構)</ref><ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013334991000.html 日本シリーズ 延長12回までに 決着つかなければタイブレークも]</ref>。なお、実際には[[11月27日|27日]]の第6戦で決着がついたためタイブレークの実施はされていない。
** 新たに出場選手登録、打順表を提出する。
** 先攻・後攻は直前に行っていた11月30日の試合と同じ。
** DHルールを採用。
** 無死1、2塁からスタート。
** 回数無制限、勝負が決した時点で終了。
* [[2020年の日本シリーズ|2020年]]・[[2021年の日本シリーズ|2021年]]については、シリーズ期間中に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行]]の影響で続行不可能となった場合は打ち切りとし、その時点で終了時点までの試合を対象に、[[世界野球ソフトボール連盟]]が規定するTQB(1イニング平均の得失点率)の高いチームを優勝チームに認定する。
=== 出場チーム ===
2007年以降は、両リーグともに、ペナントレース後に行われる[[クライマックスシリーズ]]の優勝チームが出場している(2020年のみ、セ・リーグはクライマックスシリーズがなかったため、当年のペナントレースの優勝チームが出場)。
; クライマックスシリーズから日本シリーズ進出までの道のり(2007年以後)
{{Round8 seed|W1=15em
|RD1=CS1st
|RD2=CSファイナル
|RD3=日本選手権シリーズ
| | | | |
|(3戦2勝制)|{{Bgcolor|#8b8|セ・リーグ第2位チーム}}|H|{{Bgcolor|#8b8|セ・リーグ第3位チーム}}|
| | | | |
|(3戦2勝制)|{{Bgcolor|#8ce|パ・リーグ第2位チーム}}|H|{{Bgcolor|#8ce|パ・リーグ第3位チーム}}|
|(6戦4勝制<含・Hの[[アドバンテージ]]1勝>)|{{Bgcolor|#8b8|セ・リーグ優勝チーム}}|H|{{Bgcolor|#8b8|CS1st勝利チーム}}|
|(6戦4勝制<含・Hのアドバンテージ1勝>)|{{Bgcolor|#8ce|パ・リーグ優勝チーム}}|H|{{Bgcolor|#8ce|CS1st勝利チーム}}|
|(7戦4勝制)|{{Bgcolor|#8b8|セ・リーグCS優勝チーム}}|☆|{{Bgcolor|#8ce|パ・リーグCS優勝チーム}}|☆
}}
: (H) - そのステージのホームチーム
: (☆) - 隔年でホーム4:ビジター3の配分が異なる(基本的に第1戦主管球団がホーム4、第3戦主管球団がホーム3の割合)。
; 2006年以前の出場チーム
* {{Bgcolor|#8b8|セ・リーグ}} - 当年のペナントレースの優勝チームが出場。
* {{Bgcolor|#8ce|パ・リーグ}} - 当年のペナントレースの優勝チームが出場。ただし、ペナントレースの優勝決定方式が以下の通りだった年度がある。
** 1973年-1982年 - [[2シーズン制]]を取っており、両シーズンの優勝チーム同士のプレーオフにより決定。
** 2004年-2006年 - 上位3チームの[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)|プレーオフ]]により決定。
=== 試合方式 ===
* [[延長戦]]は、第7戦までは延長12回、第8戦以降は回数無制限(試合時間は一律無制限)が現行のルールである([[2018年の日本プロ野球|2018年]]から)。過去の変遷は以下。
** [[1966年の日本プロ野球|1966年]]まで - 日没まで(当時は全試合デーゲーム)。
*** [[1964年の日本プロ野球|1964年]] - 22時30分以降新しいイニングに入らない(この年は昭和時代では唯一の全試合ナイトゲーム)。
** [[1967年の日本プロ野球|1967年]]-[[1981年の日本プロ野球|1981年]] - 17時30分以降新しいイニングに入らない。
** [[1982年の日本プロ野球|1982年]]-[[1986年の日本プロ野球|1986年]] - 試合開始から4時間半を経過した時点で新しいイニングに入らない。
** [[1987年の日本プロ野球|1987年]]-[[1993年の日本プロ野球|1993年]] - 第7戦までは18回、第8戦以降は回数無制限(1986年のシリーズが第1戦を延長14回で引き分け、第8戦まで行われたことをきっかけに改定)。
** [[1994年の日本プロ野球|1994年]]-[[2017年の日本プロ野球|2017年]] - 第7戦までは延長15回へ短縮。
*** 1994年 - デーゲーム・ナイトゲーム併用の為、デーゲームの場合は18回まで。
*** [[2011年の日本プロ野球|2011年]] - レギュラーシーズンで用いられた節電・省エネの為の「3時間30分打ち切りルール」は使用しない。2011年の第1戦はデーゲームだが、延長は従来通り15回までの打ち切りとする。
** [[2018年の日本プロ野球|2018年]] - 第7戦までは延長12回へ短縮。
*** [[2021年の日本プロ野球|2021年]] - レギュラーシーズン・クライマックスシリーズで用いられた新型コロナウイルス感染拡大防止の為の「9回打ち切りルール」は使用しない。
* [[サスペンデッドゲーム]]は適用しない。
* 両チームはシリーズ開始日の前々日までに「出場有資格者選手」(最大40人)の名簿を提出する。公示後はこれを変更することはできない。ベンチ入り選手の人数は公式戦と同じく最大25人で、試合ごとに有資格者の中から選ぶ。
* [[指名打者]]制度は[[1984年の日本プロ野球|1984年]]までは採用せず、[[1985年の日本プロ野球|1985年]]から隔年(1985年は全試合採用、1986年は全試合採用せず)、1987年からはパ・リーグの出場チームの本拠地球場でのみ採用されている。なお[[2020年の日本プロ野球|2020年]]は新型コロナウイルスの感染拡大に伴う特例措置として、1985年以来35年ぶりに全試合で採用される。
* 審判は6人制が採用される。審判員は[[日本野球機構]](NPB)審判部から選ばれた合計8人の審判員で運営されていたが、2015年から合計7人の審判員で運営される。
=== 表彰 ===
賞金・賞品は2020年のもの<ref>[https://npb.jp/nippons/2020/award.html 表彰選手|SMBC日本シリーズ2020]</ref>。
; 優勝チーム賞
* [[日本野球機構]]より[[優勝ペナント|ペナント]]、チャンピオンフラッグ、優勝記念品代、[[内閣総理大臣杯]]
* 在京民放各テレビ局より賞金、計250万円([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[テレビ朝日]]・[[TBSテレビ]]・[[テレビ東京]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]から各50万円)と共に日本テレビ・テレビ朝日・TBSテレビ・テレビ東京から[[トロフィー]]、フジテレビより[[盾#記念・賞としての楯|優勝盾]]
; 最高殊勲選手賞(MVP)
* [[日本野球機構]]よりトロフィー
* [[日本野球機構#NPBパートナー企業・団体(企業・団体五十音順)|NPBパートナー7社]]([[三井住友銀行|SMBC]]・[[カルビー]]・[[コナミデジタルエンタテインメント]](コナミ)・[[大正製薬]]・[[日本生命保険|日本生命]]・[[マイナビ]]・[[ローソン]])より賞金各100万円(計700万円)
** かつては乗用車が贈呈されたことがあり、[[1954年の日本シリーズ|1954年]]から[[2006年の日本シリーズ|2006年]]まで行われていた。贈呈される乗用車は原則として[[トヨタ自動車]]からだが、[[マツダ]]が筆頭株主となっている[[広島東洋カープ]]が日本一になった時([[1979年の日本シリーズ|1979年]]・[[1980年の日本シリーズ|1980年]]・[[1984年の日本シリーズ|1984年]]が該当)は、マツダから贈呈された。
; 優秀選手賞(3人{{refnest|group="注"|基本的に4勝3敗決着であれば勝利球団から2人と敗戦球団から1人、4勝0敗決着であれば勝利球団からのみ3人選出されるが、4勝2敗および4勝1敗決着の場合は各試合の展開によって配分が変わる。}})
* 日本野球機構よりトロフィー、および賞金100万円
; 敢闘選手賞{{refnest|group="注"|NPB公式での序列は優秀選手賞より下位だが、敗戦球団にとっては自軍の優秀選手賞より格上。}}
* 日本野球機構よりトロフィー、および賞金100万円
; ホームラン賞
* 各試合の[[本塁打|ホームラン]]を打った選手に対して『SMBCミドすけホームラン賞』として、SMBCから賞金3万円とSMBCのマスコットキャラクターである「ミドすけ」のぬいぐるみが贈呈される。
** なお2016年 - 2019年は『SMBCデビッドホームラン賞』として賞金3万円が、2014年はSMBC(2011年から2013年まではコナミ)から賞金(5万円)が贈呈された。
; 特別協賛賞
: 2011年から2013年までは[[#スポンサー|特別協賛(冠スポンサー)]]の[[コナミホールディングス|コナミ]]より、上記賞とは別に以下の賞が追加された。
:* 「みんなで選ぶコナミ賞」(賞金400万円・2011年は賞金300万円)
:* 「ドリームナイン賞」(賞金100万円・2011年は賞金200万円)
:* 「[[BASEBALL HEROES]]賞」(賞金100万円・2011年は賞金200万円)
:* 「[[実況パワフルプロ野球|パワフルプロ野球]]賞」(賞金100万円・2012年より)
:* 「[[プロ野球スピリッツ]]賞」(賞金100万円・2012年より)
: 「みんなで選ぶコナミ賞」は大会期間中に、コナミの大会特別公式サイト・コナミが携帯電話サイトで展開するソーシャルネットワークゲームサイト『プロ野球ドリームナイン』・アーケードゲーム『BASEBALL HEROES』の成績閲覧ページやゲーム機からのファン投票によって行い、大会終了時の表彰式で表彰選手を発表するものである(2011年は各ゲームからの投票で「ドリームナイン賞」・「BASEBALL HEROES」賞を選んだ)。
: 2022年は[[#スポンサー|特別協賛(冠スポンサー)]]のSMBCより、上記賞とは別に以下の賞が追加された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=日本シリーズに「SMBCみんなの声援賞」新設 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/10/11/kiji/20221011s00001173337000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2022-10-30 |language=ja}}</ref>。
:* SMBCみんなの声援賞
:: この賞は日本シリーズ開催期間中に、特別協賛社の三井住友銀行のキャラクター「ミドすけ」にちなんでTwitter上に「#みどほー」のキーワードとともに「#(応援したい選手名)」を投稿。最も多く声援された選手1人が選出されるもので、日本シリーズ表彰式内で表彰され、賞金100万円が贈られるというものである<ref name=":0" />。
=== 出場資格者 ===
* 出場有資格者は、原則として8月31日までに出場球団(すなわち、両リーグクライマックスシリーズ優勝球団)の支配下登録されている選手のうち、その中から40人までを選ぶ。
* ベンチ入りメンバーは以下を原則とする。
** 監督1名
** 監督以外のコーチ8名以内
** 選手26名以内(2019年から<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/nippons/2020/information.html |title=2020 SMBC日本シリーズ開催要項|publisher=日本野球機構(NPB)|accessdate=2022年10月26日}}</ref>、2020年までは25名<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/nippons/2019/information.html |title=2019 SMBC日本シリーズ開催要項|publisher=日本野球機構(NPB)|accessdate=2022年10月26日}}</ref>)
** マネジャー、トレーナー、スコアラー、通訳、広報、用具担当者各1名
*: 以上の名簿を第1戦開催前々日正午までに主催団体の[[日本野球機構]][[コミッショナー]]に書類を提出しなければならない。この提出した名簿をコミッショナーが公示した後は原則として変更することができないものとする。
*: ただし、監督・コーチと選手兼任である人については、選手の数に含まれるものとみなす。
*: また[[通訳]]が2か国語以上必要な場合、通訳を2名登録することができる。
*: 2017年より導入された引退試合特例制度を用いて出場選手登録し、抹消された選手も登録可能となる。
* [[ブルペン捕手]]の登録は1試合2名までとして、各試合ごとの出場選手名簿に記載する。ただしベンチ入りは不可。
出典:<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/nippons/2022/information.html |title=2022 SMBC日本シリーズ開催要項|publisher=日本野球機構(NPB)|accessdate=2022年10月26日}}</ref>
== 結果 ==
* 通算成績(2023年まで):パ・リーグの37回優勝(218勝)、セ・リーグの37回優勝(212勝)(9引分)。
* 原則として最高殊勲選手(MVP)は優勝球団から、敢闘賞は敗戦球団<ref group="注">一方的な展開になっても、1956年の巨人(2勝4敗ながら表彰選手なし)を除き敗戦球団で最も活躍した選手が表彰され、「該当者なし」は例がない。</ref>から表彰するが、例外として[[1956年の日本プロ野球|1956年]]の敢闘賞は優勝した西鉄から選出された。
{{See also|[[日本シリーズにおける各種記録]]}}
{| class="wikitable" style="font-size:small; white-space:nowrap"
|style="background-color:#bfe0bf"|'''[[セントラル・リーグ]]所属チーム'''
|style="background-color:#B7D0FF"|'''[[パシフィック・リーグ]]所属チーム'''
|}
{| class="sortable wikitable" style="text-align:center; font-size:small; white-space:nowrap; line-height:1.25em; margin-right:0px"
|-style="vertical-align:bottom; line-height:1em; white-space:nowrap"
!!!!!!!colspan="2"| !!colspan="3" style="padding-top:5px"|成績!!colspan="8"|[[星取]]表!!!!!!!!!!
|-style="vertical-align:bottom; line-height:1em; white-space:nowrap"
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|回
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|開催年
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|勝利チーム
!colspan="2" style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|優勝回数
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|勝!!style="border:hidden"|分!!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|負
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|1!!style="border:hidden"|2!!style="border:hidden"|3!!style="border:hidden"|4!!style="border:hidden"|5!!style="border:hidden"|6!!style="border:hidden"|7!!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|8
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|相手チーム
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|勝利監督
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|最高殊勲選手
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden"|敢闘賞
!style="border-top:hidden; border-bottom:hidden; padding-right:1.1em; padding-left:1.1em"|決定球場
|-style="line-height:1.15em"
!style="padding:0px"| !!!!!!!!style="border-left:hidden"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px; border-left:hidden; border-right:hidden"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px; border-left:hidden; border-right:hidden"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px; border-left:hidden; border-right:hidden"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px; border-left:hidden; border-right:hidden"| !!style="padding:0px"| !!style="padding:0px; border-left:hidden"| !!style="padding:0px"| !!!!style="padding:0px"|(MVP)!!!!
|-
|[[1950年の日本シリーズ|1]]||[[1950年の日本プロ野球|1950年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ロ/}}[[1950年の毎日オリオンズ|毎日]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||●||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-横/}}[[1950年の松竹ロビンス|松竹]]||{{Display none|ゆあさ/}}[[湯浅禎夫]]||{{Display none|へつとう/}}[[別当薫]]||-||[[大阪スタヂアム|大阪球場]]
|-
|[[1951年の日本シリーズ|2]]||[[1951年の日本プロ野球|1951年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1951年の読売ジャイアンツ|巨人]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||○||●||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1951年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|みすはら/}}[[水原茂]]||{{Display none|みなみむら/}}[[南村侑広|南村不可止]]||-||[[後楽園球場]]
|-
|[[1952年の日本シリーズ|3]]||[[1952年の日本プロ野球|1952年]]||bgcolor="#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1952年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||●||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1952年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|みすはら/}}水原茂||{{Display none|へつしよ/}}[[別所毅彦]]||-||後楽園球場
|-
|[[1953年の日本シリーズ|4]]||[[1953年の日本プロ野球|1953年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1953年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||1||2
|●||○||△||○||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1953年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|みすはら/}}水原茂||{{Display none|かわかみ/}}[[川上哲治]]||{{Display none|みのはら/}}[[簑原宏]]||大阪球場
|-
|[[1954年の日本シリーズ|5]]||[[1954年の日本プロ野球|1954年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1954年の中日ドラゴンズ|中日]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||○||●||●||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-西/}}[[1954年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||{{Display none|あまち/}}[[天知俊一]]||{{Display none|すきした/}}[[杉下茂]]||{{Display none|おおした/}}[[大下弘]]||[[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]]
|-
|[[1955年の日本シリーズ|6]]||[[1955年の日本プロ野球|1955年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1955年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||●||●||○||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1955年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|みすはら/}}水原円裕||{{Display none|へつしよ/}}別所毅彦||{{Display none|とかわ/}}[[戸川一郎]]||大阪球場
|-
|[[1956年の日本シリーズ|7]]||[[1956年の日本プロ野球|1956年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-西/}}[[1956年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1956年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|みはら/}}[[三原脩]]||{{Display none|とよた/}}[[豊田泰光]]||{{Display none|いなお/}}[[稲尾和久]]||後楽園球場
|-
|[[1957年の日本シリーズ|8]]||[[1957年の日本プロ野球|1957年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-西/}}[[1957年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||1||0
|○||○||○||△||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1957年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|みはら/}}三原脩||{{Display none|おおした/}}[[大下弘]]||{{Display none|みやもと/}}[[宮本敏雄]]||後楽園球場
|-
|[[1958年の日本シリーズ|9]]||[[1958年の日本プロ野球|1958年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-西/}}[[1958年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||●||●||○||○||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1958年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|みはら/}}三原脩||{{Display none|いなお/}}[[稲尾和久]]||{{Display none|ふした/}}[[藤田元司]]||後楽園球場
|-
|[[1959年の日本シリーズ|10]]||[[1959年の日本プロ野球|1959年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1959年の南海ホークス|南海]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||0
|○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1959年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|つるおか/}}[[鶴岡一人]]||{{Display none|すきうら/}}[[杉浦忠]]||{{Display none|つちや/}}[[土屋正孝]]||後楽園球場
|-
|[[1960年の日本シリーズ|11]]||[[1960年の日本プロ野球|1960年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-横/}}[[1960年の大洋ホエールズ|大洋]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||0
|○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ロッ/}}[[1960年の毎日大映オリオンズ|大毎]]||{{Display none|みはら/}}三原脩||{{Display none|こんとう/}}[[近藤昭仁]]||{{Display none|たみや/}}[[田宮謙次郎]]||後楽園球場
|-
|[[1961年の日本シリーズ|12]]||[[1961年の日本プロ野球|1961年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1961年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}6年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}5回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1961年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|かわかみ/}}[[川上哲治]]||{{Display none|みやもと/}}[[宮本敏雄]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|スタンカ/}}[[ジョー・スタンカ|J・スタンカ]]||大阪球場
|-
|[[1962年の日本シリーズ|13]]||[[1962年の日本プロ野球|1962年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-日本ハ/}}[[1962年の東映フライヤーズ|東映]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||1||2
|●||●||△||○||○||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1962年の阪神タイガース|阪神]]||{{Display none|みすはら/}}水原茂||style="line-height:1.25em"|{{Display none|とはし/}}[[土橋正幸]]<br />[[種茂雅之]]||{{Display none|よした/}}[[吉田義男]]||[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]
|-
|[[1963年の日本シリーズ|14]]||[[1963年の日本プロ野球|1963年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1963年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}6回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||○||○||●||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-西/}}[[1963年の西鉄ライオンズ|西鉄]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|なかしま/}}[[長嶋茂雄|長島茂雄]]||{{Display none|いなお/}}稲尾和久||[[平和台球場]]
|-
|[[1964年の日本シリーズ|15]]||[[1964年の日本プロ野球|1964年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1964年の南海ホークス|南海]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}5年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||●||○||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1964年の阪神タイガース|阪神]]||{{Display none|つるおか/}}鶴岡一人||{{Display none|スタンカ/}}[[ジョー・スタンカ|J・スタンカ]]||{{Display none|やまうち/}}[[山内一弘]]||甲子園球場
|-
|[[1965年の日本シリーズ|16]]||[[1965年の日本プロ野球|1965年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1965年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}7回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||○||●||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1965年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|なかしま/}}長島茂雄||{{Display none|もりした/}}[[森下整鎮]]||後楽園球場
|-
|[[1966年の日本シリーズ|17]]||[[1966年の日本プロ野球|1966年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1966年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}8回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||●||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1966年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|しはた/}}[[柴田勲]]||{{Display none|わたなへ/}}[[渡辺泰輔]]||後楽園球場
|-
|[[1967年の日本シリーズ|18]]||[[1967年の日本プロ野球|1967年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1967年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}9回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||○||●||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1967年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|もり/}}[[森祇晶|森昌彦]]||{{Display none|あたち/}}[[足立光宏]]||[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]
|-
|[[1968年の日本シリーズ|19]]||[[1968年の日本プロ野球|1968年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1968年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}4年連続||style="text-align:left"|10回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1968年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|たかた/}}[[高田繁]]||{{Display none|なかいけ/}}[[長池徳士|長池徳二]]||後楽園球場
|-
|[[1969年の日本シリーズ|20]]||[[1969年の日本プロ野球|1969年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1969年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}5年連続||style="text-align:left"|11回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||●||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1969年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|なかしま/}}長島茂雄||{{Display none|なかいけ/}}長池徳二||西宮球場
|-
|[[1970年の日本シリーズ|21]]||[[1970年の日本プロ野球|1970年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1970年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}6年連続||style="text-align:left"|12回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||○||●||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1970年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|なかしま/}}長島茂雄||{{Display none|いいし/}}[[井石礼司]]||[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]
|-
|[[1971年の日本シリーズ|22]]||[[1971年の日本プロ野球|1971年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1971年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}7年連続||style="text-align:left"|13回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||●||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1971年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|すえつく/}}[[末次利光|末次民夫]]||{{Display none|やまた/}}[[山田久志]]||後楽園球場
|-
|[[1972年の日本シリーズ|23]]||[[1972年の日本プロ野球|1972年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1972年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}8年連続||style="text-align:left"|14回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||●||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1972年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|ほりうち/}}[[堀内恒夫]]||{{Display none|あたち/}}足立光宏||西宮球場
|-
|[[1973年の日本シリーズ|24]]||[[1973年の日本プロ野球|1973年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1973年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}9年連続||style="text-align:left"|15回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|●||○||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバ/}}[[1973年の南海ホークス|南海]]||{{Display none|かわかみ/}}川上哲治||{{Display none|ほりうち/}}堀内恒夫||{{Display none|のむら/}}[[野村克也]]||後楽園球場
|-
|[[1974年の日本シリーズ|25]]||[[1974年の日本プロ野球|1974年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1974年のロッテオリオンズ|ロッテ]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}24年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||●||○||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1974年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|かねた/}}[[金田正一]]||{{Display none|ひろた/}}[[弘田澄男]]||{{Display none|たかき/}}[[高木守道]]||中日スタヂアム
|-
|[[1975年の日本シリーズ|26]]||[[1975年の日本プロ野球|1975年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1975年の阪急ブレーブス|阪急]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||2||0
|△||○||○||△||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1975年の広島東洋カープ|広島]]||{{Display none|うえた/}}[[上田利治]]||{{Display none|やまくち/}}[[山口高志]]||{{Display none|やまもと/}}[[山本浩二]]||西宮球場
|-
|[[1976年の日本シリーズ|27]]||[[1976年の日本プロ野球|1976年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1976年の阪急ブレーブス|阪急]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||○||○||●||●||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1976年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|うえた/}}上田利治||{{Display none|ふくもと/}}[[福本豊]]||{{Display none|しはた/}}[[柴田勲]]||後楽園球場
|-
|[[1977年の日本シリーズ|28]]||[[1977年の日本プロ野球|1977年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1977年の阪急ブレーブス|阪急]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||●||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1977年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|うえた/}}上田利治||{{Display none|やまた/}}[[山田久志]]||{{Display none|こうの/}}[[河埜和正]]||後楽園球場
|-
|[[1978年の日本シリーズ|29]]||[[1978年の日本プロ野球|1978年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1978年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||○||●||○||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1978年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|ひろおか/}}[[広岡達朗]]||{{Display none|おおすき/}}[[大杉勝男]]||{{Display none|あたち/}}足立光宏||後楽園球場
|-
|[[1979年の日本シリーズ|30]]||[[1979年の日本プロ野球|1979年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1979年の広島東洋カープ|広島]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||●||○||○||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリッ/}}[[1979年の近鉄バファローズ|近鉄]]||{{Display none|こは/}}[[古葉竹識]]||{{Display none|たかはし/}}[[高橋慶彦]]||{{Display none|いもと/}}[[井本隆]]||大阪球場
|-
|[[1980年の日本シリーズ|31]]||[[1980年の日本プロ野球|1980年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1980年の広島東洋カープ|広島]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||●||○||○||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリッ/}}[[1980年の近鉄バファローズ|近鉄]]||{{Display none|こは/}}古葉竹識||{{Display none|ライトル/}}[[ジム・ライトル|J・ライトル]]||{{Display none|おかわ/}}[[小川亨]]||[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]
|-
|[[1981年の日本シリーズ|32]]||[[1981年の日本プロ野球|1981年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1981年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}8年ぶり||style="text-align:left"|16回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||●||○||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1981年の日本ハムファイターズ|日本ハム]]||{{Display none|ふした/}}[[藤田元司]]||{{Display none|にしもと/}}[[西本聖]]||{{Display none|いのうえ/}}[[井上弘昭]]||後楽園球場
|-
|[[1982年の日本シリーズ|33]]||[[1982年の日本プロ野球|1982年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1982年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}24年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||●||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1982年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|ひろおか/}}広岡達朗||{{Display none|ひかしお/}}[[東尾修]]||{{Display none|かみかわ/}}[[上川誠二]]||ナゴヤ球場
|-
|[[1983年の日本シリーズ|34]]||[[1983年の日本プロ野球|1983年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1983年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}5回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||●||○||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1983年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|ひろおか/}}広岡達朗||{{Display none|おおた/}}[[大田卓司]]||{{Display none|にしもと/}}[[西本聖]]||[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]
|-
|[[1984年の日本シリーズ|35]]||[[1984年の日本プロ野球|1984年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1984年の広島東洋カープ|広島]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}4年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||○||○||●||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリック/}}[[1984年の阪急ブレーブス|阪急]]||{{Display none|こは/}}古葉竹識||{{Display none|なかしま きよゆき/}}[[長嶋清幸]]||{{Display none|やまおき/}}[[山沖之彦]]||広島市民球場
|-
|[[1985年の日本シリーズ|36]]||[[1985年の日本プロ野球|1985年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1985年の阪神タイガース|阪神]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||●||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1985年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|よした/}}[[吉田義男]]||{{Display none|ハアス/}}[[ランディ・バース|R・バース]]||{{Display none|いしけ/}}[[石毛宏典]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1986年の日本シリーズ|37]]||[[1986年の日本プロ野球|1986年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1986年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}3年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}6回目||4||1||3
|△||●||●||●||○||○||○||○||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1986年の広島東洋カープ|広島]]||{{Display none|もり/}}[[森祇晶]]||{{Display none|くとう/}}[[工藤公康]]||{{Display none|たつかわ/}}[[達川光男]]||広島市民球場
|-
|[[1987年の日本シリーズ|38]]||[[1987年の日本プロ野球|1987年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1987年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}7回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||○||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1987年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|もり/}}森祇晶||{{Display none|くとう/}}工藤公康||{{Display none|しのつか/}}[[篠塚和典|篠塚利夫]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1988年の日本シリーズ|39]]||[[1988年の日本プロ野球|1988年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1988年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}8回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||●||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1988年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|もり/}}森祇晶||{{Display none|いしけ/}}[[石毛宏典]]||{{Display none|うの/}}[[宇野勝]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1989年の日本シリーズ|40]]||[[1989年の日本プロ野球|1989年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1989年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}8年ぶり||style="text-align:left"|17回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||●||●||○||○||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリッ/}}[[1989年の近鉄バファローズ|近鉄]]||{{Display none|ふした/}}藤田元司||{{Display none|こまた/}}[[駒田徳広]]||{{Display none|あらい/}}[[新井宏昌]]||[[藤井寺球場]]
|-
|[[1990年の日本シリーズ|41]]||[[1990年の日本プロ野球|1990年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1990年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}9回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||0
|○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1990年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|もり/}}森祇晶||{{Display none|テストラアテ/}}{{Small|[[オレステス・デストラーデ|O・デストラーデ]]}}||{{Display none|おかさき/}}[[岡崎郁]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1991年の日本シリーズ|42]]||[[1991年の日本プロ野球|1991年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1991年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|10回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||○||●||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1991年の広島東洋カープ|広島]]||{{Display none|もり/}}森祇晶||{{Display none|あきやま/}}[[秋山幸二]]||{{Display none|かわくち/}}[[川口和久]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1992年の日本シリーズ|43]]||[[1992年の日本プロ野球|1992年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1992年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|11回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||○||○||○||●||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1992年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||{{Display none|もり/}}森祇晶||{{Display none|いしい/}}[[石井丈裕]]||{{Display none|おかはやし/}}[[岡林洋一]]||[[明治神宮野球場]]
|-
|[[1993年の日本シリーズ|44]]||[[1993年の日本プロ野球|1993年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1993年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}15年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||○||●||○||●||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1993年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|のむら/}}[[野村克也]]||{{Display none|かわさき/}}[[川崎憲次郎]]||{{Display none|きよはら/}}[[清原和博]]||西武ライオンズ球場
|-
|[[1994年の日本シリーズ|45]]||[[1994年の日本プロ野球|1994年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1994年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}5年ぶり||style="text-align:left"|18回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||○||○||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1994年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|なかしま/}}[[長嶋茂雄]]||{{Display none|まきはら/}}[[槙原寛己]]||{{Display none|きよはら/}}清原和博||[[東京ドーム]]
|-
|[[1995年の日本シリーズ|46]]||[[1995年の日本プロ野球|1995年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1995年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||○||●||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1995年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||{{Display none|のむら/}}野村克也||{{Display none|オマリイ/}}[[トーマス・オマリー|T・オマリー]]||{{Display none|こはやし/}}[[小林宏 (野球)|小林宏]]||明治神宮野球場
|-
|[[1996年の日本シリーズ|47]]||[[1996年の日本プロ野球|1996年]]||bgcolor="#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1996年のオリックス・ブルーウェーブ|オリックス]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}19年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||○||○||●||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1996年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|おおき/}}[[仰木彬]]||{{Display none|ニイル/}}[[トロイ・ニール|T・ニール]]||{{Display none|にし/}}[[仁志敏久]]|||[[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]]
|-
|[[1997年の日本シリーズ|48]]||[[1997年の日本プロ野球|1997年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1997年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||●||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1997年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|のむら/}}野村克也||{{Display none|ふるた/}}[[古田敦也]]||{{Display none|まつい かすお/}}[[松井稼頭央]]||明治神宮野球場
|-
|[[1998年の日本シリーズ|49]]||[[1998年の日本プロ野球|1998年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1998年の横浜ベイスターズ|横浜]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}38年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|○||○||●||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[1998年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|こんとう/}}[[権藤博]]||{{Display none|すすき/}}[[鈴木尚典]]||{{Display none|おおつか/}}[[大塚光二]]||[[横浜スタジアム]]
|-
|[[1999年の日本シリーズ|50]]||[[1999年の日本プロ野球|1999年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバン/}}[[1999年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}35年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||●||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[1999年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|おう/}}[[王貞治]]||{{Display none|あきやま/}}秋山幸二||{{Display none|かわかみ/}}[[川上憲伸]]||[[ナゴヤドーム]]
|-
|[[2000年の日本シリーズ|51]]||[[2000年の日本プロ野球|2000年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2000年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}6年ぶり||style="text-align:left"|19回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2
|●||●||○||○||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバン/}}[[2000年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||{{Display none|なかしま/}}長嶋茂雄||{{Display none|まつい/}}[[松井秀喜]]||{{Display none|しようしま/}}[[城島健司]]||東京ドーム
|-
|[[2001年の日本シリーズ|52]]||[[2001年の日本プロ野球|2001年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2001年のヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}4年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}5回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|○||●||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-オリッ/}}[[2001年の大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||{{Display none|わかまつ/}}[[若松勉]]||{{Display none|ふるた/}}古田敦也||{{Display none|ロオス/}}[[タフィ・ローズ|T・ローズ]]||明治神宮野球場
|-
|[[2002年の日本シリーズ|53]]||[[2002年の日本プロ野球|2002年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2002年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}2年ぶり||style="text-align:left"|20回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||0
|○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2002年の西武ライオンズ|西武]]||{{Display none|はら/}}[[原辰徳]]||{{Display none|におか/}}[[二岡智宏]]||{{Display none|カフレラ/}}[[アレックス・カブレラ|A・カブレラ]]||西武ドーム
|-
|[[2003年の日本シリーズ|54]]||[[2003年の日本プロ野球|2003年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-ソフトバン/}}[[2003年の福岡ダイエーホークス|ダイエー]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}4年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||○||●||●||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2003年の阪神タイガース|阪神]]||{{Display none|おう/}}王貞治||{{Display none|すきうち/}}[[杉内俊哉]]||{{Display none|かねもと/}}[[金本知憲]]||[[福岡ドーム]]
|-
|[[2004年の日本シリーズ|55]]||[[2004年の日本プロ野球|2004年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2004年の西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}12年ぶり||style="text-align:left"|12回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||○||●||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2004年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|いとう/}}[[伊東勤]]||{{Display none|いしい/}}[[石井貴]]||{{Display none|いのうえ/}}[[井上一樹]]||ナゴヤドーム
|-
|[[2005年の日本シリーズ|56]]||[[2005年の日本プロ野球|2005年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2005年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}31年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||0
|○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2005年の阪神タイガース|阪神]]||{{Display none|ハレンタイン/}}{{Small|[[ボビー・バレンタイン|B・バレンタイン]]}}||{{Display none|いまえ/}}[[今江敏晃]]||{{Display none|やの/}}[[矢野燿大|矢野輝弘]]||阪神甲子園球場
|-
|[[2006年の日本シリーズ|57]]||[[2006年の日本プロ野球|2006年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2006年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}44年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|●||○||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2006年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|ヒルマン/}}[[トレイ・ヒルマン|T・ヒルマン]]||{{Display none|いなは/}}[[稲葉篤紀]]||{{Display none|かわかみ/}}川上憲伸||[[札幌ドーム]]
|-
|[[2007年の日本シリーズ|58]]||[[2007年の日本プロ野球|2007年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2007年の中日ドラゴンズ|中日]]||style="text-align:right; border-right:hidden; white-space:nowrap"|{{Display none|ぶり/}}53年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1
|●||○||○||○||○||||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2007年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||{{Display none|おちあい/}}[[落合博満]]||{{Display none|なかむら/}}[[中村紀洋]]||{{Display none|たるひつしゆ/}}[[ダルビッシュ有]]||ナゴヤドーム
|-
|[[2008年の日本シリーズ|59]]||[[2008年の日本プロ野球|2008年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2008年の埼玉西武ライオンズ|西武]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}4年ぶり||style="text-align:left"|13回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|○||●||●||○||●||○||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2008年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|わたなへ/}}[[渡辺久信]]||{{Display none|きし/}}[[岸孝之]]||{{Display none|ラミレス/}}[[アレックス・ラミレス|A・ラミレス]]||東京ドーム
|-
|[[2009年の日本シリーズ|60]]||style="white-space:nowrap"|[[2009年の日本プロ野球|2009年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2009年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}7年ぶり||style="text-align:left; white-space:nowrap"|21回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2||○||●||○||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2009年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||{{Display none|はら/}}原辰徳||{{Display none|あへ/}}[[阿部慎之助]]||{{Display none|たかはし/}}[[髙橋信二]]||札幌ドーム
|-
|[[2010年の日本シリーズ|61]]||[[2010年の日本プロ野球|2010年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2010年の千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}5年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}4回目||4||1||2||○||●||○||●||○||△||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2010年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|にしむら/}}[[西村徳文]]||{{Display none|いまえ/}}今江敏晃||{{Display none|わた/}}[[和田一浩]]||ナゴヤドーム
|-
|[[2011年の日本シリーズ|62]]||[[2011年の日本プロ野球|2011年]]||style="white-space:nowrap; background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2011年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}8年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}5回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3
|●||●||○||○||○||●||○||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2011年の中日ドラゴンズ|中日]]||{{Display none|あきやま/}}[[秋山幸二]]||{{Display none|こくほ/}}[[小久保裕紀]]||{{Display none|よしみ/}}[[吉見一起]]||福岡Yahoo!ドーム
|-
|[[2012年の日本シリーズ|63]]||[[2012年の日本プロ野球|2012年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2012年の読売ジャイアンツ|巨人]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}3年ぶり||style="text-align:left"|22回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2||○||○||●||●||○||○||||style="background-color:#cccccc"|
|style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2012年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||{{Display none|はら/}}原辰徳||{{Display none|うつみ/}}[[内海哲也]]||{{Display none|いなは/}}[[稲葉篤紀]]||東京ドーム
|-
|[[2013年の日本シリーズ|64]]||[[2013年の日本プロ野球|2013年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2013年の東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||||{{Display none|01/}}初優勝||4||style="background-color:#cccccc"| ||3||●||○||○||●||○||●||○||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2013年の読売ジャイアンツ|巨人]]||{{Display none|ほしの/}}[[星野仙一 ]]||{{Display none|みま/}}[[美馬学]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|ちようの/}}[[長野久義]]||[[宮城球場|Kスタ宮城]]
|-
|[[2014年の日本シリーズ|65]]||[[2014年の日本プロ野球|2014年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2014年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/0}}3年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}6回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1||●||○||○||○||○|| || ||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2014年の阪神タイガース|阪神]]||{{Display none|あきやま/}}秋山幸二||{{Display none|/うちかわ}}[[内川聖一]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|/メツセンシヤア}}{{Small|[[ランディ・メッセンジャー|R・メッセンジャー]]}}||福岡 ヤフオク!ドーム
|-
|[[2015年の日本シリーズ|66]]||[[2015年の日本プロ野球|2015年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2015年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}7回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||1||○||○||●||○||○|||| ||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2015年の東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||{{Display none|くどう/}}[[工藤公康]]||{{Display none|/イ}}[[李大浩]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|/やまだ}}[[山田哲人]]||明治神宮野球場
|-
|[[2016年の日本シリーズ|67]]||[[2016年の日本プロ野球|2016年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2016年の北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}10年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}3回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2||●||●||○||○||○||○|| ||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2016年の広島東洋カープ|広島]]||{{Display none|くりやま/}}[[栗山英樹]]||{{Display none|レアアト/}}[[ブランドン・レアード|B・レアード]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|エルトレツト/}}{{Small|[[ブラッド・エルドレッド|B・エルドレッド]]}}||[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]
|-
|[[2017年の日本シリーズ|68]]||[[2017年の日本プロ野球|2017年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2017年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}2年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}8回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2||○||○||○||●||●||○||||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2017年の横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]||{{Display none|くどう/}}工藤公康|||{{Display none|サフアテ/}}[[デニス・サファテ|D・サファテ]]||style="white-space:nowrap"|{{Display none|みやざき/}}[[宮﨑敏郎]]||福岡 ヤフオク!ドーム
|-
|[[2018年の日本シリーズ|69]]||[[2018年の日本プロ野球|2018年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2018年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}2年連続||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}9回目||4||1||1||△||●||○||○||○||○||||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2018年の広島東洋カープ|広島]]||工藤公康||[[甲斐拓也]]||[[鈴木誠也]]||マツダスタジアム
|-
|[[2019年の日本シリーズ|70]]||[[2019年の日本プロ野球|2019年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2019年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}3年連続||style="text-align:left"|10回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||0||○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2019年の読売ジャイアンツ|巨人]]||工藤公康||{{Small|[[ジュリスベル・グラシアル|Y・グラシアル]]}}||[[亀井善行]]||東京ドーム
|-
|[[2020年の日本シリーズ|71]]||[[2020年の日本プロ野球|2020年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2020年の福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|連続/0}}4年連続||style="text-align:left"|11回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||0||○||○||○||○||||||||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2020年の読売ジャイアンツ|巨人]]||工藤公康||[[栗原陵矢]]||[[戸郷翔征]]||福岡PayPayドーム
|-
|[[2021年の日本シリーズ|72]]||[[2021年の日本プロ野球|2021年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2021年の東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}20年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}6回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||2||●||○||○||○||●||○||||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2021年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||[[高津臣吾]]||[[中村悠平]]||[[山本由伸]]||ほっともっとフィールド神戸
|-
|[[2022年の日本シリーズ|73]]||[[2022年の日本プロ野球|2022年]]||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2022年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}26年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}5回目||4||1||2||●||△||●||○||○||○||○||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2022年の東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||[[中嶋聡]]||[[杉本裕太郎]]||[[ホセ・オスナ|J・オスナ]]||明治神宮野球場
|-
|[[2023年の日本シリーズ|74]]||[[2023年の日本プロ野球|2023年]]||style="background-color:#bfe0bf"|{{Display none|セ-}}[[2023年の阪神タイガース|阪神]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/}}38年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}{{0}}2回目||4||style="background-color:#cccccc"| ||3||○||●||●||○||○||●||○||style="background-color:#cccccc"| ||style="background-color:#B7D0FF"|{{Display none|パ-}}[[2023年のオリックス・バファローズ|オリックス]]||[[岡田彰布]]||[[近本光司]]||[[紅林弘太郎]]||[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]
|}
<!--
追加用テンプレート
【】が要記述項目です
|-
|[[【201X】年の日本シリーズ|【第何回か】]]||[[【201X】年の日本プロ野球|年]]||style="background-color:【背景色:セリーグのチームの場合、「#bfe0bf」 / パリーグのチームの場合、「#B7D0FF」】"|{{Display none|【セ / パ】-}}[[【勝利チーム:正式なチーム名、つまり記事名】|【チーム名略称】]]||style="text-align:right; border-right:hidden"|{{Display none|ぶり/連続【0 ←後述の「※ソートキーの説明※」を参照して下さい】}}【】年ぶり||style="text-align:left"|{{Display none|0}}【】回目※2桁の場合は{{Display none|0}}は消して下さい。初優勝の場合は「{{Display none|01/}}初優勝」と記入して下さい||4||【引き分け数】||【負け数】
|【1戦目○/●/△】||【2戦目○/●/△】||【3戦目○/●/△】||【4戦目○/●/△】||【5戦目○/●/△/空白】||【6戦目○/●/△/空白】||【7戦目○/●/△/空白】||【8戦目○/●/△/空白】
|style="background-color:【背景色:セリーグのチームの場合「#bfe0bf」 / パリーグのチームの場合「#B7D0FF」】"|{{Display none|【セ / パ】-}}[[【相手チーム:正式なチーム名、つまり記事名】|【チーム名略称】]]||{{Display none|【姓のよみがな】/}}[[【勝利監督】]]||{{Display none|【姓のよみがな】/}}[[【MVP】]]||{{Display none|【姓のよみがな】/}}[[【敢闘賞】]]
|-
※※※【XX年ぶり/XX年連続】に付与するソートキーについて※※※
「○年ぶり」「○年連続」の○に入る数値が1桁の場合、ソートキーの内部に0が必要になります。○に入る数値が2桁の場合はこの0は必要ありませんので、0を消して「{{Display none|ぶり/}}XX年ぶり」「{{Display none|連続/}}XX年連続」と記入して下さい。つまりこの欄は、
{{Display none|ぶり/0}}{{0}}X年ぶり
{{Display none|ぶり/}}XX年ぶり
{{Display none|連続/0}}X年連続
{{Display none|連続/}}XX年連続
この4つのいずれかで記入して下さい。
※※※【姓のよみがな】について※※※
* 濁点は取り、「ゃ」「ゅ」「ょ」「っ」など小文字は大文字に直して下さい。
(例){{Display none|しようしま/}}[[城島健司]]
* 外国人選手の場合、ソートキーもカタカナで記入します。長音「ー」は「アイウエオ」いずれかに直します。
(例){{Display none|ハアフイイルト/}}[[ジェシー・バーフィールド|J・バーフィールド]]
※※※そのほか※※※
* 左3列および右4列は[[内部リンク]]を掛けます。
* ソータブルテーブルにつき、重複リンクを回避する必要はありません。
-->
== チーム別記録 ==
* '''太字'''の項目は最多数を表す。'''球団'''の列のソートボタンで元の順序に戻る。
* 松竹は大洋(現・DeNA)に、近鉄はオリックスにそれぞれ吸収合併されたため記録としては'''特記事項'''となる。
{| class="wikitable sortable" style="line-height:1.4em; font-size:85%; white-space:nowrap; text-align: right"
|-style="vertical-align:bottom; line-height:1.1em; white-space:nowrap"
!style="padding-top:5px"|球団!!出場!!優勝!!敗退!!優勝率!!試合!!勝利!!敗戦!!引分!!勝率!!最新出場年度!!最新優勝年度!!style="padding-right:2.75em; padding-left:2.75em"|決定球場
|-style="line-height:1em; white-space:nowrap"
!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="border-top:hidden"| !!style="padding-right:0px; border-top:hidden"|(対戦相手) !!style="padding-right:0px; border-top:hidden"|(対戦相手) !!style="padding-right:0px; border-top:hidden"|※球場名は当時
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|01/}}[[読売ジャイアンツ|巨人]]||'''36'''||'''22'''||'''14'''
|.611||'''206'''||'''109'''||'''95'''||2||.534||align="left" style="white-space:nowrap"|[[2020年の日本シリーズ|2020年]](ソフトバンク)||align="left" style="white-space:nowrap"|[[2012年の日本シリーズ|2012年]](日本ハム)||style="text-align:left"|[[東京ドーム]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|02/}}[[埼玉西武ライオンズ|西武(西鉄)]]||21||13||8
|.619||130||68||60||2||.531||style="text-align:left"|[[2008年の日本シリーズ|2008年]](巨人)||style="text-align:left"|[[2008年の日本シリーズ|2008年]](巨人)||style="text-align:left"|東京ドーム
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|03/}}[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク{{Nowrap|(南海・ダイエー)}}]]||20||11||9
|.550||113||60||51||2||.541|| style="text-align:left"|[[2020年の日本シリーズ|2020年]](巨人)||style="text-align:left"|[[2020年の日本シリーズ|2020年]](巨人)||style="text-align:left"|[[福岡ドーム|福岡PayPayドーム]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|04/}}[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||9||6||3
|.667||54||30||23||1||.566||style="text-align:left"|[[2022年の日本シリーズ|2022年]](オリックス)||style="text-align:left"|[[2021年の日本シリーズ|2021年]](オリックス)||style="text-align:left"|[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|05/}}[[オリックス・バファローズ|オリックス{{Nowrap|(阪急)}}]]||15||5||10
|.333||83||40||47||3||.460||style="text-align:left"|[[2023年の日本シリーズ|2023年]](阪神)||style="text-align:left"|[[2022年の日本シリーズ|2022年]](ヤクルト)||style="text-align:left"|[[明治神宮野球場]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|06/}}[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ{{Nowrap|(毎日・大毎)}}]]||6||4||2
|.667||32||17||14||1||.548||style="text-align:left"|[[2010年の日本シリーズ|2010年]](中日)||style="text-align:left"|[[2010年の日本シリーズ|2010年]](中日)||style="text-align:left"|[[ナゴヤドーム]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|07/}}[[広島東洋カープ|広島]]||8||3||5
|.375||54||21||29||'''4'''||.426||style="text-align:left"|[[2018年の日本シリーズ|2018年]](ソフトバンク)||style="text-align:left"|[[1984年の日本シリーズ|1984年]](阪急)||style="text-align:left"|[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|08/}}[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム(東映)]]||7||3||4
|.429||41||19||21||1||.475||style="text-align:left"|[[2016年の日本シリーズ|2016年]](広島)||style="text-align:left"|[[2016年の日本シリーズ|2016年]](広島)||style="text-align:left"|[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|09/}}[[中日ドラゴンズ|中日]]||10||2||8
|.200||60||23||36||1||.390||style="text-align:left"|[[2011年の日本シリーズ|2011年]](ソフトバンク)||style="text-align:left"|[[2007年の日本シリーズ|2007年]](日本ハム)||style="text-align:left"|ナゴヤドーム
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|11}}[[阪神タイガース|阪神]]||7||2||5
|.286||43||17||25||1||.405||style="text-align:left"|[[2023年の日本シリーズ|2023年]](オリックス)||style="text-align:left"|[[2023年の日本シリーズ|2023年]](オリックス)||style="text-align:left"|[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|10/}}[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA{{Nowrap|(大洋・横浜)}}]]||3||2||1
|.667||16||10||6||0||'''.625'''||style="text-align:left"|[[2017年の日本シリーズ|2017年]](ソフトバンク)||style="text-align:left"|[[1998年の日本シリーズ|1998年]](西武)||style="text-align:left"|[[横浜スタジアム]]
|-
|style="text-align:left"|{{Display none|12}}[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]||1||1||0
|1.000||7||4||3||0||.571||style="text-align:left"|[[2013年の日本シリーズ|2013年]](巨人)||style="text-align:left"|[[2013年の日本シリーズ|2013年]](巨人)||style="text-align:left"|[[宮城球場|日本製紙クリネックススタジアム宮城]]
|- style="background-color:#e6e6e6"
|style="text-align:left"|{{Display none|13/}}[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]||4||0||4
|.000||26||10||16||0||.385||style="text-align:left"|[[2001年の日本シリーズ|2001年]](ヤクルト)
|colspan="2" style="text-align:center"|{{Display none|02/}}日本一経験なし / 現存しない球団
|- style="background-color:#e6e6e6"
|style="text-align:left"|{{Display none|14/}}[[松竹ロビンス|松竹]]||1||0||1
|.000||6||2||4||0||.333||style="text-align:left"|[[1950年の日本シリーズ|1950年]](毎日)
|colspan="2" style="text-align:center"|{{Display none|01/}}日本一経験なし / 現存しない球団
|}
== ギャラリー ==
{{Gallery
|align=center
|width=160
|height=120
|File:Korakuen Stadium-2.jpg|2008年日本選手権シリーズ第7戦、西武vs巨人 東京ドーム一塁側内野席(2008年11月9日撮影)
|File:Korakuen Stadium-3.jpg|同左 西武vs巨人 東京ドーム一塁側内野席(2008年11月9日撮影)
|File:Korakuen Stadium-4.jpg|同左 西武vs巨人 東京ドームスコアボード(2008年11月9日撮影)
|File:Korakuen Stadium-5.jpg|同左 西武vs巨人 表彰式(2008年11月9日撮影)
}}
== エピソード ==
=== 名称 ===
第1回([[1950年の日本シリーズ|1950年]])から第4回([[1953年の日本シリーズ|1953年]])については、[[メジャーリーグベースボール]]を参考にした『'''日本ワールドシリーズ'''』という名称だった<ref name="sponichi141101" />。
「[[日本]]シリーズ」の”日本”の読み方について、以前は「にほん-」と読ませるのが主流だったが、[[2000年代]]からは「にっぽん-」と読ませるように変更され、[[2003年の日本シリーズ|2003年]]に「Nippon Series」の公式ロゴが選手ヘルメットに貼り付けられた。日本一に輝いたチームに授与するチャンピオンフラッグの旗面に「'''NIPPON'''」が縫い込まれているためとされている。なお、このチャンピオンフラッグは縦1.4メートル、横3メートルの三角形の[[ペナント]]となっており、製作に100万円近くを費やしているといわれている<ref name="sponichi141101" />。
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従来、興行に於ける協賛スポンサーとなる企業・団体は存在しなかったが、[[2011年の日本シリーズ|2011年]]から[[2013年の日本シリーズ|2013年]]まで、[[ゲームソフト]]大手のコナミ株式会社(後の[[コナミホールディングス]]株式会社)<ref group="注">同グループでは[[コナミデジタルエンタテインメント]]がNPBパートナー(オフィシャルスポンサー)を務めている。</ref>が特別協賛となり、大会名も『'''KONAMI日本シリーズ'''』として開催された。なお、コナミは過去に[[2005年の日本プロ野球|2005年]]から[[2007年の日本プロ野球|2007年]]に開催されていた『[[アジアシリーズ]]』に特別協賛しており、冠スポンサーとして「KONAMI CUP」の名称が付けられていた。
[[2014年の日本シリーズ|2014年]]からは[[三井住友銀行]]が冠スポンサーとなり、「'''SMBC日本シリーズ'''」として開催されている<ref>{{Cite news |title=今年は「SMBC日本シリーズ2014」に、10・25開幕 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/01/kiji/K20140901008855310.html |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-09-01 |accessdate=2014-09-02 }}</ref><ref name="smbc">[http://www.npb.or.jp/nippons/2014news01.html 「日本シリーズ2014」特別協賛社に三井住友銀行](日本野球機構リリース 2014年10月3日閲覧)</ref>。なお、同社は日本シリーズの特別協賛を機に、[[2014年]][[10月1日]]、日本野球機構の協賛スポンサー「NPBパートナー」契約を締結した<ref>[http://www.npb.or.jp/news/20141001.html NPBパートナーに「三井住友銀行」](日本野球機構NPBニュース 2014年10月1日 10月3日閲覧)</ref>。
=== 試合開始時刻 ===
例年日本シリーズが開催される10月下旬から11月は、特に夜間は秋が深まるに連れて気候的に寒くなることから<ref>[https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202111/sp/0014875936.shtml 極寒の日本S、選手もファンも「過酷」 気温7度台でも、熱戦に満足顔のオリファン]</ref>、かつては平日であってもデーゲームで試合が行われていた<ref group="注">[[1988年]]に[[東京ドーム]]が開場するまでは12球団の本拠地が全て屋外球場で、現在も[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]は[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]、[[阪神タイガース|阪神]]、[[広島東洋カープ|広島]]の4球団が、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]は[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]、[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の2球団が屋外球場、またパ・リーグの[[埼玉西武ライオンズ|西武]]が、他の空調設備のある全天候型のドーム球場とは異なりドーム屋根とスタンドの隙間に壁が無く、空調設備もほとんど取り付けていない自然の空気を取り込める[[西武ドーム|ベルーナドーム]]を本拠地としている。</ref>。
日本シリーズが史上初めてナイトゲームで開かれたのは[[1964年の日本シリーズ|1964年]](第15回)の[[阪神タイガース]]対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]だった。これは[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の開催の妨げにならないようにとの配慮で、開会式が予定された[[10月10日]]までに全ての日程を消化させることにしていた。本来は第1戦が[[9月29日]]、第7戦は[[10月7日]]であったが、[[セントラル・リーグ]]の優勝決定がずれ込んだ上に雨天順延が入り、10月10日に最終戦を開催せざるを得なかった。これが影響してか、シリーズの平均観客動員は歴代最低を記録したため、翌[[1965年の日本シリーズ|1965年]]からは元のデーゲーム開催に戻した。
平日のデーゲーム開催では会社や学校を休まない限り試合の観戦が困難となったり、テレビの[[視聴率]]やNPBの収益の問題にも関わることから、[[1994年の日本シリーズ|1994年]](第45回、読売ジャイアンツ対西武ライオンズ)では試験的に平日開催の第3・4・5戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])に限りナイトゲームで実施。以降、[[1995年の日本シリーズ|1995年]](第46回、[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]])より全試合に拡大した。
2011年の第1戦は17年ぶりにデーゲームで行われた。これは中継権を獲得した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が、同日のゴールデンタイムに『[[2011年ワールドカップバレーボール|ワールドカップバレー2011]]』を放送したためである。
=== コールドゲーム ===
[[2005年の日本シリーズ|2005年]](第56回/千葉ロッテマリーンズ対阪神タイガース第1戦・[[10月22日]] [[千葉マリンスタジアム]])では、7回裏1アウト時点で[[霧|濃霧]]のため試合が中断。その後天気が回復しなかったため、そのまま[[コールドゲーム]]となった。天候起因でのコールドゲームは[[1953年の日本シリーズ|1953年]](第4回/読売ジャイアンツ対南海ホークス)第3戦に於いて、8回終了時点で降雨コールドゲームになって以来52年ぶりであるが、濃霧による中断からそのまま試合打ち切りとなったのは初のことであった。
なお、コールドゲームで優勝決定となった試合はこれまで一度もない。
=== サヨナラ日本一 ===
[[サヨナラゲーム]]で日本一が決まったケースは4例ある(2023年シーズン終了時点)。
{{Main|サヨナラゲーム#サヨナラ日本一}}
=== 変則的な開催日程 ===
開催日程および開催会場が変則的な形となった例は以下の通り。
* {{Jsy|1950}}は開催会場を試合ごとに変えて行った。第1戦から[[明治神宮野球場]]、[[後楽園球場]]、[[阪神甲子園球場]]、[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]、[[ナゴヤ球場|中日球場]]、[[大阪スタヂアム]]の各球場である。この年は4勝2敗で[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]が初代王者に輝いたが、第6戦で[[松竹ロビンス]]が勝って3勝3敗になった時は第7戦は後楽園球場で行われる予定だった(連戦か、移動日を挟むかの詳細不明)。
* {{Jsy|1953}}は第4戦までは通常通りだったが第5戦から第7戦は大阪スタヂアム、阪神甲子園球場<ref group="注">本来の[[プロ野球地域保護権|保護地域]]以外での越県開催の初の事例となった。</ref>、後楽園球場の順で開かれた。これは当時の規定に「第1、第3、第5、第7試合と第2、第4、第6試合の使用球場は毎年両リーグが交互にこれを指定する。ただし、第1、第2試合と第3、第4試合と第5、第6試合の使用球場はそれぞれ連続して同一地域にある球場を指定する」とあったため。この年の偶数試合の球場指定権はセ・リーグにあり「大阪よりも収容能力の大きい甲子園ならば収益力が高い」との思惑を持っていたが、その思惑は外れ、入場者数は6346人であった。なおこの年は[[日米野球]]が2大会組まれた<ref group="注">[[読売新聞社]]が招待した[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク(現サンフランシスコ)・ジャイアンツ]]の単独チームと、[[毎日新聞社]]が招待した[[メジャーリーグベースボール|アメリカ大リーグ]]選抜チームによる大会。</ref>影響もあり、本来設けられるべき移動・休養日がなく、2試合ごとに試合当日移動をこなすという強行軍だった。
* {{Jsy|1962}}の東映主催による第5戦と、{{Jsy|1978}}のヤクルト主催の4試合全ては、神宮球場の学生野球開催の都合で、後楽園球場で代替開催した。
* {{Jsy|1974}}のロッテ主催の第3戦から第5戦は、本拠地登録していた[[宮城球場|県営宮城球場]]の収容人数が3万人未満であり、施設が未整備であることから同球場ではなく、後楽園球場を使用した<ref group="注">1953年第6戦以来の[[プロ野球地域保護権|保護地域]]以外での越県開催となった。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=仙台育英初優勝、東北108年目の悲願「白河越え」達成/東北の野球史 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202208230000092.html |website=日刊スポーツ |access-date=2022-08-28 |date=2022-08-23 |page=1}}</ref>。
* {{Jsy|1979}}、{{Jsy|1980}}の近鉄主催全ゲームは、本拠地だった[[日本生命球場]]の収容人数が日本シリーズ開催基準の3万人に満たなかったこと<ref group="注">{{Jsy|1975}}では広島の本拠地・[[広島市民球場 (初代)|旧広島市民球場]]は当時実勢収容人員が24,500人、{{Jsy|2013}}では楽天の本拠地・Kスタ宮城も28,120人(常設23,451人)で、規定の3万人を下回っていたが、いずれも開催されている。</ref>、同じく近鉄の保有する[[藤井寺球場]]もナイター用の照明設備が設置されていなかったことにより、南海ホークスの本拠地である大阪スタヂアムで代替開催した。
* {{Jsy|1981}}は両リーグの出場チームが、本拠地がともに後楽園球場である巨人と日本ハムだったため、全6戦が同球場で開催され、「後楽園シリーズ」と呼ばれた。
* {{Jsy|1986}}は第1戦は引き分けで始まり広島が3連勝したが、西武も3連勝し第7戦終了時点で3勝3敗1分になり、急遽第7戦で使用した旧広島市民球場で初の第8戦以降を行って勝敗を決することとなった。第8戦で西武が勝利し決着がついたが、当時のルールでは第8戦以降も回数無制限ではなく、仮に引き分けならば1日の移動日を設けて西武ライオンズ球場で第9戦以降も行うことになっていた。
* {{Jsy|2000}}は巨人とダイエーの対戦となったが、3年前の[[1997年]]に、大規模な国際学術集会の会場を探していた[[日本脳神経外科学会]]から貸し出し依頼を受けた福岡ドーム側が、日本シリーズの日程と重なる2000年[[10月24日]]から[[10月27日|27日]]までを球団の許可なく既に貸し出していた。これは1997年当時ホークスは南海時代から続く20年連続のBクラスであったため、リーグ優勝の可能性が低いと見越してのものである。ところが翌1998年に福岡移転後初のAクラス入りを果たし、日本シリーズの開催可能性が高まったため球団が日本脳神経外科学会に日程変更を求めたが、各国から2万人以上の人員が集結する大規模な総会であり、すでに様々な関連の手配が終わっていることもあり断られた。そこでダイエー球団の[[中内正]]オーナー代行(当時)がNPB側に「シリーズ開催地のセ・パ入れ替え」、「シリーズ日程そのものの変更」、「他のパ・リーグチームの本拠地球場での開催」、「[[北九州市民球場]]や[[長崎県営野球場|長崎ビッグNスタジアム]]など九州内の他球場での開催」などを申し入れたが、いずれも却下となった。脳科学会側から、一部日程を短縮して時間帯を空けるなどの協力を得られたこともあり、'''「東京ド・東京ド・福岡ド・休み・休み・福岡ド・福岡ド・東京ド・東京ド」'''と言う移動日なしの9日間変則日程で行うことが[[8月21日]]に発表された。なおシリーズ終了後、ダイエー球団は開催日程確保を怠ったとして、NPBから制裁金3,000万円(球団または個人への制裁金として最高額)を科された。
* {{Jsy|2010}}は[[平成22年台風第14号|台風14号]]の接近懸念が指摘されており、[[10月30日]]・[[10月31日]]のナゴヤドームでの試合が中止となった場合は、本来なら第2・3戦の間の移動日はそのままとし、第5・6戦の移動日を割愛して実質最大5連戦とする日程になるところを、テレビの全国中継が4試合しかない(第1・2・5戦は[[衛星放送]]のみ。地上波は[[県域放送]]だけ)ことに配慮する形で、第2・3戦の移動日を割愛して最大5連戦として、第5・6戦の移動日はそのままとする日程が設定された。台風による影響は無く、開催日程変更は行われなかった。
* {{Jsy|2020}}は、巨人の本拠地・[[東京ドーム]]が他大会開催のため使用できず、巨人のホームゲームは[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]で開催することとなった。この年は元々[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]に対応する日程のため11月7日から開催される予定だったが、世界的な[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス感染症]]流行のため公式戦開幕が大幅に遅れ、日本シリーズも予定より2週間遅れの11月21日に開幕する予定となった。しかし東京ドームでは11月22日より[[都市対抗野球大会]]を開催する予定となっていたため使用できず、京セラドーム大阪を使用することとなった<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/84346 『日本シリーズ』巨人進出なら東京Dではなく…首都圏の他球場で開催 11月下旬から都市対抗で使用不可 (2020年7月6日 中日スポーツ)]・[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202007060000869.html ヤクルト江幡専務「首都圏の球場探す」日本S進出時(2020年7月7日 日刊スポーツ)]</ref><ref group="注">1974年第3戦 - 第5戦以来の[[プロ野球地域保護権|保護地域]]以外での越県開催となった。</ref><ref>[https://www.msn.com/ja-jp/sports/npb/e5-b7-a8-e4-ba-ba-e3-82-bb-ef-bd-96-e3-81-aa-e3-82-89-e4-ba-ac-e3-82-bb-e3-83-a9-e3-83-89-e3-83-bc-e3-83-a0-e3-81-a7-e6-97-a5-e6-9c-ac-e3-82-b7-e3-83-aa-e3-83-bc-e3-82-ba-e2-80-a6-e6-9d-b1-e4-ba-ac-e3-83-89-e3-83-bc-e3-83-a0-e4-bd-bf-e3-81-88-e3-81-9a/ar-BB19HXRY 巨人セVなら京セラドームで日本シリーズ…東京ドーム使えず](読売新聞)</ref>。なおこの例と同様に[[明治神宮野球場]](ヤクルト)、[[ナゴヤドーム]](中日)も他大会・イベント開催のため日本シリーズの開催ができない状況に置かれていたが、明治神宮野球場での[[明治神宮野球大会]](11月20日 - 11月25日予定)は感染症防止のため中止となり、またナゴヤドームでの[[AAA (音楽グループ)|AAA]]のコンサート(11月28・29日予定)も2021年度以後に公演日を延期しため、最終的には使用可能となった。
* {{Jsy|2021}}は、当初は[[11月13日]]開始予定だったが、一部球団の新型コロナウィルス感染、並びに雨天中止が相次いだことを踏まえ、[[11月20日]]に開始を変更(これにより、[[クライマックスシリーズ]]も[[10月30日]]開始を[[11月6日]]に順延)。11月中に決着が付くようにするため、[[11月29日]]までに決着が付かなかった場合、[[11月30日]]の試合前に勝ち星が同じ場合は延長無制限、勝ち星1つの差で迎える場合は12回打ち切りとしつつ、そこで勝ち星が同じとなった場合は、正規の試合終了後、[[タイブレーク]]方式の優勝決定戦を行う(11月30日の試合が雨天中止となった場合であっても、[[12月1日]]以後への順延はしない)。また状況によっては11月28日までで打ち切って、どちらかが4勝して日本一を決めきれない場合、打ち切り時点での勝ち星の多いチーム、それでも同じ場合は得失点率を参考として優勝を決める可能性があるほか、ヤクルトの神宮は明治神宮野球大会(11月20-25日予定)のため使用できず、セ・リーグ主管の第3-5戦が予定される11月23-25日の3試合は東京ドームで、オリックスの京セラドーム大阪もパ・リーグ主管の第6・7戦が予定される11月27・28日にAAAのコンサートがあり使用できないため、ほっともっとフィールド神戸でそれぞれ主催した。また所定の日程通りに開催し、第7戦までで引き分けなどがあった場合で決着が付かなかった場合、第8戦は本来のオリックス主管試合で京セラドームを使用するが、上記の通り12月1日以後は順延しない取り決めとしているため、第9戦はヤクルト主管試合の扱いとするも、移動日・休養日を挟まず、第8戦の翌日に引き続き京セラドームを試合会場として開催する計画であった<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202111190000177.html 日本シリーズ第8戦、第9戦あれば京セラドーム大阪](日刊スポーツ)</ref>。
=== ビデオ判定 ===
* [[2015年の日本シリーズ|2015年]]の第5戦に於いて、ソフトバンク・[[李大浩]]の打球は左翼ポールの上を通過し、左翼線審はポールを巻いたとして本塁打と判定したが、ヤクルトの[[真中満]]監督から「ファウルではないのか」と抗議があり、審判団による7分にも及ぶ[[野球のビデオ判定#日本プロ野球|ビデオ判定]]を経て、判定は覆らず本塁打となった。なお、NPBにおいて2010年にホームランを巡るビデオ判定が導入されて以来、シリーズでのビデオ判定は史上初<ref group="注">同年9月12日の広島-阪神戦(甲子園)において、広島・[[田中広輔]]の打球をビデオ判定でボールインプレー(三塁打)としたが、後にNPBがホームランだったと誤審を認めて謝罪した経緯があり、CSならびに日本シリーズではセ・パ両リーグの統括が映像の検証に加わることとなった。</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASHBY6JR1HBYUTQP026.html 李大浩の2ラン、ビデオ判定 日本シリーズで初]</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1559300.html 日本シリーズで初ビデオ判定 協議7分も判定覆らず]</ref>。
* [[2016年の日本シリーズ|2016年]]の第2戦では、同年より導入された本塁クロスプレーでのビデオ判定が行われた。6回裏、無死二塁の場面で広島・[[菊池涼介]]が[[バスター]]に切り替えて打った打球はレフト前へ抜け、これを見た二塁走者の[[田中広輔]]は本塁へ向かったが、日本ハム左翼手・[[西川遥輝]]から捕手・[[大野奨太]]へ際どいタイミングで返球され、球審の[[白井一行]]はアウトと宣告した。これに広島の[[緒方孝市]]監督がビデオ判定を要求、審判団の協議によりビデオ判定が行われた。その結果、「大野のタッチより先に田中の手が本塁に触れていた」として、判定を覆して田中の生還を認めた<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20161023-OHT1T50262.html 【日本シリーズ】広島が連勝、勝負を分けたシリーズ史上初リプレー検証…ハムは4安打] スポーツ報知、2016年10月25日閲覧。</ref>。
** 同2016年の第5戦にも、2回表、無死一塁の場面で広島の[[下水流昂]]が[[札幌ドーム]]フェンス上で跳ね上がる打球を放ち、審判はインプレーと判定。一塁走者[[小窪哲也]]・打者下水流はそれぞれ三塁・二塁上で止まったが、緒方監督が本塁打ではないかとビデオ判定を要求した。審判団はビデオ判定の結果、打球はフェンストップで跳ね返ったものと判断し、判定は覆らず、無死二三塁で試合は再開された。
=== 全試合同一都道府県内での開催 ===
{{Jsy|1970}}の開催は両リーグの出場チームが、[[文京区]]の後楽園球場が本拠地の巨人と、[[荒川区]]の[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]が本拠地のロッテであり、全試合が[[東京都]]での開催となったため、史上初めて同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズまたはGOシリーズ<ref>2019年5月29日にベースボール・マガジン社より発売された「ロッテ70年史 1950-2019」掲載の記事「SPECIAL CROSS TALK 有藤通世×山崎裕之『24年ぶり日本一の記憶』内pp.19で[[山崎裕之]]が「東京シリーズと呼ばれた」とコメントしている。</ref>)。同一都道府県での日本シリーズはこの1970年と上述の{{Jsy|1981}}(後楽園シリーズ)の2例のみ。
2019年現在は、2008年にオリックスが大阪府を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]<ref group="注">近鉄との合併から3年間(2005年 - 2007年)は特例措置として阪神(フランチャイズ制度導入後はこの3年間を除き兵庫県のみ)とオリックスが大阪府・兵庫県をダブルフランチャイズとしていた。</ref>とし、セ・パ両リーグの球団がともに本拠地を置く都道府県がないため、通常のフランチャイズ制度下では同一都道府県で開催されることはない。
=== 全球団が1度以上日本一を経験 ===
2004年に1度も日本一になれないまま合併消滅した近鉄に代わって、2005年に新規加入した楽天が2013年のシリーズで日本一になったことにより、'''NPB設立以来史上初となるNPBに加盟している全12球団が全て日本一を経験'''ということになった。なお、パ・リーグに関しては、元号が令和になる前年の2018年時点でNPB設立以来史上初となる同一年号中にパ・リーグに加盟する全6球団が日本一を経験したことにもなった(セ・リーグは、阪神と広島が平成30年間で一度も日本一になれなかった)。
日本以外では、2021年時点で、[[台湾]]の[[中華職業棒球大聯盟]]が現存する全5球団に[[台湾シリーズ]]の優勝経験があり、[[ドミニカ共和国]]の[[ウィンターリーグ]]である[[リーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナ]]が全6球団に優勝経験があるが、[[メジャーリーグ]]では、全30球団中5球団([[ミルウォーキー・ブルワーズ]]、[[サンディエゴ・パドレス]]、[[シアトル・マリナーズ]]、[[コロラド・ロッキーズ]]、[[タンパベイ・レイズ]])が[[ワールドシリーズ]]優勝を経験しておらず、その中でもマリナーズはシリーズ自体への出場経験がない。
== テレビ放送 ==
=== 地上波系列全国放送 ===
2010年までは基本的にホームゲームの球団が推薦した放送局と直接交渉し、その放送局の属するネットワークにより試合開始から終了まで全国生中継された。しかし[[2010年の日本シリーズ]]で地上波全国中継が実施されない試合が3試合あったことを受けて、2011年からは進出球団が放送局を推薦したうえで、テレビ中継協賛スポンサーの[[広告代理店]]にその放送局への中継交渉を行う方式を採用した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/111109/bbl11110915210003-n1.htm 日本シリーズ、今年は全試合を地上波で全国中継] 産経新聞(2011年11月9日、2011年11月14日閲覧)</ref>(それでも、通常レギュラーシーズンの放送を頻繁に行う局が優先的に推薦されることに変わりはない)。これ以降は番組編成の都合から、試合開始時間が繰り上がる事例が発生している(2011年の第1戦、2016年の第5戦)。
中継には通常の野球解説者のほか、出場しないチームの現役選手や監督(引退あるいは退任が決まった者も含む)がゲスト解説として登場する。
視聴率(関東地区)は1990年代までは平均30%前後を獲得するなど高い人気を得ていたが、2000年代以降は徐々に低下し、2010年代以降カードによっては一桁を取ることも珍しくなくなっており、2019年以降は視聴率二桁を獲得した試合は年数試合のみという状態が続いている<ref>{{Cite web|和書|title=崩れた神話──なぜ日本シリーズの視聴率は低迷したのか|url=https://www.news-postseven.com/archives/20191024_1474316.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン|accessdate=2019-10-26}}</ref>。その一方、レギュラーシーズン同様、関東地区以外の出場チームの本拠地がある地域では高視聴率を獲得することが多い<ref>{{Cite web|和書|title=ソフトバンクV4の日本S第4戦、北部九州で平均27・8%、瞬間最高38・2%の高視聴率|url=https://hochi.news/articles/20201126-OHT1T50084.html?page=1|website=スポーツ報知|accessdate=2020-11-26}}</ref>。
* [[セントラル・リーグ]]の球団では、[[読売ジャイアンツ]](日本テレビ)、[[中日ドラゴンズ]](CBCテレビ、東海テレビ、テレビ愛知)、[[東京ヤクルトスワローズ]](フジテレビ、テレビ朝日)、[[横浜DeNAベイスターズ]](TBSテレビ)といったように特定の放送局に本拠地主催試合の放映権が与えられている。これらの球団が日本シリーズに出場した場合、レギュラーシーズン同様に放映権もこれらの放送局の属するネットワークの系列局が必ず推薦される。
* [[阪神タイガース]]と[[広島東洋カープ]]については各局に放映権が均等に分配されているが、阪神タイガースの場合は[[朝日放送テレビ]]が水曜日と日曜日の試合の放映権を優先させており、阪神タイガースが日本シリーズに出場した場合の放映権もそれを踏襲している<ref group="注">デーゲーム開催時代は、他系列局が水曜日と日曜日に、朝日放送テレビが他の曜日に中継することもあった。また朝日放送テレビと他局の並列中継となることもあった。</ref>。従って、セ・リーグ球団の開催試合においては、テレビ朝日系列局が推薦されるのは、阪神タイガースが日本シリーズに出場した場合の原則として水曜日と日曜日の試合<ref group="注">但し、水曜日の中継についてはテレビ朝日がレギュラー番組の放送を優先させる意向から、主管球団に関わらず2003年を最後に途絶えている(阪神タイガースが出場した2005年は火曜日、2014年は土曜日、2023年は木曜日の中継を担当)。</ref>、広島東洋カープが出場した場合や、東京ヤクルトスワローズが出場し、フジテレビが編成上の都合で独占しなかった場合の本拠地開催の一部試合にほぼ限定される。
* [[パシフィック・リーグ]]の球団で特定の放送局に本拠地主催試合の放映権が与えられているのは[[オリックス・バファローズ]](関西テレビ)、[[埼玉西武ライオンズ]](テレビ朝日、1988年以前はTBSテレビ)、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]](東日本放送)がある。一方、[[北海道日本ハムファイターズ]]、[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]は比較的均等に放映権が与えられており、[[福岡ソフトバンクホークス]]はダイエー時代の1999年にテレビ西日本が2試合獲得した以外は1つの局に複数試合放映権獲得した例はない。
* デーゲームで行われていた1994年までは、テレビ東京系列以外の各系列が放映権を獲得した場合は獲得した系列以外の局でも放送されていたが、全日程がナイター開催となった1995年以降は放映権を獲得した系列の局のみの放送となっている。そのため、県によっては全試合未放送となる年もある。
** 1995年以降におけるクロスネット局の扱いは以下の通り。
*** [[福井放送]] - 日本テレビ系列制作のみ放送(テレビ朝日系列制作の放送はなし)
*** [[テレビ大分]] - 火・木曜はフジテレビ系列制作のみ、水・土・日曜は日本テレビ系列制作のみをそれぞれ放送
*** [[テレビ宮崎]] - 火・水・木・土曜はフジテレビ系列制作のみ、日曜は日本テレビ系列制作のみをそれぞれ放送(テレビ朝日系列制作の放送はなし)
** 以下の県は、完全ナイター開催となった1995年以降は系列局が所在しない系列が中継を行う場合は放送しない(テレビ東京制作の場合を除く)。
*** 日本テレビ系列制作 - [[大分県]](火・木曜の場合のみ)・[[宮崎県]](火・水・木・土曜の場合のみ)・[[沖縄県]]
*** テレビ朝日系列制作 - [[山梨県]]・[[富山県]]・[[福井県]]・[[鳥取県]]・[[島根県]]・[[徳島県]]・[[高知県]]・宮崎県
*** TBS系列制作 - [[秋田県]]・福井県・徳島県
*** フジテレビ系列制作 - [[青森県]]・山梨県・[[山口県]]・徳島県・大分県(水・土・日曜の場合のみ)・宮崎県(日曜の場合のみ)
*** 現在テレビ朝日系列局やフジテレビ系列局がある地域の内、1994年は第3戦~5戦がナイターで行われたが、テレビ朝日系列の放送となったため[[岩手県]]・[[愛媛県]]・沖縄県は未放送となった他、1995年・1996年のフジテレビ系列中継試合は[[山形県]]と高知県で、1995年の第3戦はテレビ朝日系列の放送となったため岩手県でそれぞれ未放送となった<ref group="注">[[愛媛朝日テレビ]]は1995年4月に、[[琉球朝日放送]]は1995年10月に、[[岩手朝日テレビ]]は1996年10月に、[[さくらんぼテレビジョン]]と[[高知さんさんテレビ]]は1997年4月にそれぞれ開局。</ref>。
* [[パシフィック・リーグ]]の球団は、[[テレビ東京]]・[[TXNネットワーク|テレビ東京系列局]]が推薦される場合があり、[[福岡ソフトバンクホークス]]、[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ]]、[[オリックス・バファローズ]]で推薦実績がある。その場合は系列局が少ない<ref group="注">他の4系列が北海道から沖縄まで、概ね25社前後の放送局を擁するのに対し、同系列は2021年4月現在でも6社しかなく、球団の保護地域でも[[宮城県]]・[[兵庫県]]・[[広島県]]に本来の放送対象地域上のテレビ東京系列局がない状態であるが、このうちテレビ東京への推薦が行われないのは、宮城県が球団の保護地域の楽天イーグルスが進出した場合ならびに広島県が球団の保護地域の広島東洋カープが進出した場合に限られ、逆に兵庫県が球団の保護地域の阪神タイガースが進出した場合は、テレビ東京への推薦が行われることがある。そのためか、日本シリーズの放映権が決定するのはギリギリにならないと決まらないケースも度々発生している。</ref>ため地上波で生中継を見られる地域は他系列に比べ大幅に少なくなる(セ・リーグ側はこれまで[[中日ドラゴンズ]]が進出した場合のみに放送権を得ている)ため、[[衛星放送]]の[[NHK BS1]](以前は[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]]も)での放送で補完することになる(テレビ東京系列の[[BSテレビ東京|BSテレ東]]での放送は現状未実施)。
** 過去にテレビ東京は次の試合を放送している。
*** [[1970年の日本シリーズ|1970年・ロッテ対巨人]](第3・4試合。第4試合は[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]並列)
*** [[1974年の日本シリーズ|1974年・ロッテ対中日]](第5試合)
*** [[2003年の日本シリーズ|2003年・ダイエー対阪神]](第7試合。[[TVQ九州放送]]制作)
*** [[2005年の日本シリーズ|2005年・ロッテ対阪神]](第2試合)
*** [[2006年の日本シリーズ|2006年・日本ハム対中日]](第4試合。[[テレビ北海道]]制作協力)
*** [[2007年の日本シリーズ|2007年・日本ハム対中日]](第2・5試合。第2試合はテレビ北海道制作協力 第5試合はセ・リーグ側のホームゲーム・[[テレビ愛知]]制作協力)
*** [[2010年の日本シリーズ|2010年・ロッテ対中日]](第4試合 第1試合=セ・リーグ側ホームゲームもテレビ愛知が放送権を得たが、全国中継せず)
*** [[2011年の日本シリーズ|2011年・ソフトバンク対中日]](第2・5試合。第2試合はTVQ九州放送制作協力、第5試合はセ・リーグ側のホームゲーム・テレビ愛知制作協力)
*** [[2015年の日本シリーズ|2015年・ソフトバンク対ヤクルト]](第2試合。TVQ九州放送制作協力)
*** [[2021年の日本シリーズ|2021年・オリックス対ヤクルト]](第2試合。[[テレビ大阪]]制作協力)
*** [[2023年の日本シリーズ|2023年・オリックス対阪神]](第2試合)
** なお、放映権を獲得しながら優勝決定による未開催で放送なしになったのは以下の通り。
*** [[2005年の日本シリーズ|2005年・ロッテ対阪神]](第7試合)
*** [[2009年の日本シリーズ|2009年・日本ハム対巨人]](第7試合。テレビ北海道制作協力)
*** [[2010年の日本シリーズ|2010年・ロッテ対中日]](第8試合。テレビ愛知制作協力による全国放送となる予定であった)
*** [[2019年の日本シリーズ|2019年・ソフトバンク対巨人]](第7試合。TVQ九州放送制作協力)
* 1970年と1974年は日中の開催で、一部の局ではローカルセールスの時間帯であったことから、特に東京12チャンネルとの結びつきが強い地方局への[[番組販売]](中京圏は本来なら日経資本の[[中京テレビ放送|中京テレビ]]で中継されるものだったが、UHFの視聴世帯がまだ少なかったため、[[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]で中継。近畿地方は1970年の第3戦と1974年の第5戦は当時[[クロスネット局]]の関係にあった[[毎日放送]]で、1970年の第4戦は当時から東京12チャンネルの準キー局扱いであった[[京都放送|近畿放送]]・[[サンテレビジョン|サンテレビ]]で中継)にて同時放送が行われた。
* しかし、ナイトゲーム開催以後の6回(試合自体がなかった回は除く 以下同文)の中継は系列局の編成の都合から生放送はテレビ東京系列5局と中京・近畿の独立県域局を視聴できる地域に限られており、2003年は地方局には90分に編集した録画中継版を販売して当日深夜(翌日未明)に放送した局もあったが、2005年以降はそれも行われず、系列のない大多数の県ではテレビ東京の実況を見られない状態となっている(BSジャパン→BSテレビ東京・TX系列のCS([[アニメシアターX|AT-X]]や[[日経CNBC]])でも中継されていないため)。
* [[1999年の日本シリーズ|1999年・ダイエー対中日]]も一度第7試合をテレビ東京系列(制作・[[TVQ九州放送|TXN九州]](当時))で放送することが決まっていたが、系列局が少ないのと、衛星放送の普及が進んでいない(当時のBS民放は有料放送のWOWOWのみだった。民放キー局系の無料放送を含めデジタル放送の開局は[[2000年の日本プロ野球|2000年]][[12月1日]])という理由で[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]([[九州朝日放送]])に移譲したことがあった。しかし、ダイエーが4勝1敗で優勝し、第7戦そのものが開催されなかった。
* また、[[1998年の日本シリーズ|1998年]]に日本ハム<ref group="注">日本ハムについてはこれまでテレビ朝日系列がほぼ独占的に放送([[1981年の日本シリーズ|1981年]]の日本ハム主管3試合はテレ朝独占)していたが、[[1990年代]]中盤以後は主に週末のデーゲームを中心にした試合放送が強化されたことを受けて推薦されることが検討されたためである。</ref>、[[2001年の日本シリーズ|2001年]]にダイエーがそれぞれ進出した場合、1998年は第4戦、2001年は第7戦の放送が検討されていたが、優勝を逃したため実現には至らなかった。
* 2023年はパリーグのクライマックスシリーズにオリックス、ロッテがそれぞれ進出した場合、第2戦の放送が検討されていた。しかし、この時点でセ・リーグのクライマックスシリーズが阪神、広島が残っていたが、最終的に阪神が進出したため第2戦の放送に至った。
* なおテレビ朝日系列は[[1970年代]]後半のUHF局開局以後[[1990年代]]の[[平成新局]]の開局ラッシュ時まで、基幹都市から段階を追い、最終的に基幹都市以外の地方系列を増やしているが、系列局が少なかった時代はその推薦をなかなか受けられなかったため中継ができた試合は限られ、中継ができた場合も、デーゲーム開催時代は大半の地域が系列外ネットとなった。特に南海ホークスと結びつきの強い毎日放送が[[1975年の日本プロ野球|1975年]][[3月30日]]の[[ネットチェンジ|腸捻転ネットチェンジ]]が解消するまではNET(当時)系列だったことから毎日放送発の南海戦の日本シリーズの放送は[[1959年の日本シリーズ|1959年の対巨人戦]]の第1・2戦<ref group="注">読売テレビ、日本テレビ、NETテレビとの4社共同制作・同時放送。そのうち第1戦が毎日放送主導、第2戦は[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]主導での制作だった。なお後楽園に移ってからの第3・4戦もこの形態だったが、日本テレビ主導での放送であった。</ref>、南海戦以外では[[1962年の日本シリーズ|1962年・阪神対東映]]の第1・6・7試合の3試合のみで、合計5試合に留まった<ref group="注">また毎日放送は先に述べた1970年・ロッテ対巨人第3戦と1974年・ロッテ対中日第5戦の2試合において、東京12チャンネルとのネット受けによる中継を行った。</ref>。
* [[日本放送協会|NHK]]でも[[1991年の日本プロ野球|1991年]]までは主に最速で優勝が決まる第4試合を中心に(例外あり)[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で生中継されていたが、衛星放送の普及による番組編成の見直しから地上波での放送は1991年以降行われていない。独占放送は前述1974年の中日対ロッテ第6戦(ロッテが優勝を決めた試合)を最後に途絶えている。
* 2023年は、史上初の民放5局[[ネットワーク (放送)|ネットワーク]]が第5戦まで最低1試合ずつ中継を実施している<ref group="注">そのうち、フジテレビ系列はオリックス主管の試合を2試合(第1戦・第7戦)、TBS系列はオリックス主管・阪神主管を1試合ずつ放送。テレビ東京系列はオリックス主管を1試合。日本テレビ系列・テレビ朝日系列は阪神主管の試合1試合である。</ref>。当初、2019年も第1戦・第2戦・第6戦・第7戦が日本テレビ系列を除き放映権を取得していたが、第4戦で決着したため実現しなかった<ref group="注">2019年の場合は第1戦はフジテレビ系列、第2戦はTBS系列。第3戦~第5戦まで日本テレビ系列。第6戦はテレビ朝日系列。第7戦はテレビ東京系列の予定だったが、第4戦で決着したため。実現しなかった。</ref>。
=== 県域独立局 ===
* [[1985年の日本シリーズ|1985年・阪神対西武]]の第3・5試合が兵庫県域局の[[サンテレビジョン|サンテレビ]]([[兵庫県]]ローカル)で放送された。独立県域局ではネット受け以外で史上初の放送権となったが、この時は第3戦が朝日放送、第5戦はよみうりテレビとの並列放送だったので独占放送ではなかった。なおこの後[[2003年の日本シリーズ|2003年・阪神対ダイエー]]、[[2005年の日本シリーズ|2005年・阪神対ロッテ]]の2回はサンテレビが主管試合の放映権を得ることはなかったが、兵庫県内では隣府県のテレビ東京系列県域局のテレビ大阪・[[テレビせとうち]]<ref group="注">いずれも兵庫県を放送対象地域とはしておらず、兵庫県内に中継局が設置できないため([[ケーブルテレビ局]]の区域外再配信実施地域はある)。</ref>が受信できない地域への配慮としてテレビ東京製作のそれぞれパ・リーグ側主管試合(2003年第7試合、2005年第2試合)をネットしている。しかし、[[2023年の日本シリーズ|2023年・阪神対オリックス]]については放送は見送られたことで、テレビ東京系列で中継された第2戦が阪神の保護地域である兵庫県内のうち、テレビ大阪<ref group="注">本来の放送対象地域は大阪府</ref>やテレビせとうち<ref group="注">本来の放送対象地域は岡山県と香川県</ref>のいずれかの受信もできない世帯では、地上波で中継を味わえない事態が発生した。
* [[2010年の日本シリーズ|2010年]]は第1戦・第2戦・第5戦は地上波全国中継が行われなかった。[[CBCテレビ|中部日本放送]]の系列局である[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]に優先権があったが、時間帯が『[[2010年バレーボール女子世界選手権|世界バレー]]』中継と重なったことからTBS系列は放送権を獲得しなかった。第1戦は[[ナゴヤドーム]]がある[[愛知県]]ローカル局の[[テレビ愛知]]<ref group="注">放送時間は18:30 - 20:56。ただし、最大21:00まで延長あり。同じテレビ東京系列局の[[テレビ大阪]]にもネットされた(19:00 - 20:54。「[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]」を差し替えて放送。延長なし)。なおテレビ愛知では、「[[出没!アド街ック天国]]」放送中も、試合終了まで2画面放送を行っていた。</ref>、第2戦は中京広域圏の[[東海テレビ放送|東海テレビ]]で、第5戦は[[千葉マリンスタジアム]]がある[[千葉県]]の県域独立局の[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]]では千葉県ローカルで放送された。前述・阪神対西武の試合が広域放送(準キー局)との並列だったが、この試合の地上波放送は千葉テレビだけであるため、当初は史上初の「県域独立局独占中継」となる可能性があった。その後、第5戦の中継に関しては、11月3日に中部日本放送が急遽自社制作を実施し東海3県ローカルでの放送を受け持つことになり、千葉テレビ制作の中継が[[三重テレビ放送|三重テレビ]]にも同時ネットされることとなった<ref>「日本S第五戦をCBCが中継へ」(小見出しで「三重テレビも」と記載あり) 2010年11月3日付[[中日新聞]]朝刊。</ref>が、それでも関東地方では千葉テレビだけでの放送であり、キー局を含め「関東地方テレビ局独占中継」の形となった。
=== 衛星放送 ===
系列局ごとによって対応が異なる。プロ野球中継放送実績の無い放送局は原則として省略する。
==== BS放送 ====
; NHK
* NHK-BSでは1998年・2002年を除いて放送実績がある。特に地上波でテレビ東京系の中継を行う場合は未放送地域へのカバーとして必ず行われる。2009年以降、BSではNHK BS1のみでの放送となり、他BS局では2012年のBS日テレでの録画ダイジェストを除いて放送されなくなった<ref group="注">一部試合は[[NHKワールド・プレミアム]]でも海外向けに同時放送された実績もある。</ref>。
** [[NHK BS1|BS1]] 1988年 - 1991年(全試合中継録画)、1992年 - 1997年(第4戦のみ生中継、他は中継録画<ref group="注">1991年限りで総合テレビの第4戦の生中継が終了し、1992年から第4戦の生中継がBSでの放送となった。</ref>、1999年(第2・3戦)、2000年(第4・5戦)、2007年(第2・5戦)、2009年(第1・2・3・6戦)、2010年(第1・2・3・4・5戦)<ref group="注">第1・2戦は東海地区、第5戦は東海地区と千葉県以外は地上波のテレビ中継は行われなかった。</ref>、2011年(第2・5・6・7戦)、2012年(第2・3・4戦)、2013年(第2・3・6・7戦)、2014年(第2・3・4・5戦)、2015年(第1・2・3戦)、2016年(第4・5戦)、2017年(第1・2・4・6戦)、2018年(第3・4・5戦)、2019年(第1・2・3戦)、2020年(第2・3・4戦)、2021年(第1・2・3・4・5・6戦)<ref group="注">未開催の第7戦も含め、1シリーズで全試合の放映権を獲得したのは史上初めてである。</ref>、2022年(第2・3・5・6戦)、2023年(第1・2・3・5戦)
** [[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]] 2008年(第1・6・7戦)
** BS1・BShi同時放送 2001年(第2戦)、2003年(第1・2・4・5・7戦)、2004年(第2・7戦)、2005年(第2戦)、2006年(第2・4戦)
; 日本テレビ系列
* [[BS日本|BS日テレ]]での放送実績なし(ただし2003年(第2戦、第5戦)、2012年(第1戦、第6戦)、2013年(第4戦、第5戦)は1時間のダイジェスト版として放送)。
; テレビ朝日系列
* [[BS朝日]]で2001年(第1・4戦。後者録画)、2002年(第3戦)、2003年(第3・6戦。後者録画)は完全中継で、また2006年(第3・5戦)、2007年(第1戦)、2008年(第2-5戦)はそれぞれ1時間のダイジェスト版を放送した。
; TBS系列
* [[BS-TBS]]でBS-i時代の2002年(第4戦)、2004年(第5戦)に放送実績がある。
; テレビ東京系列
* [[BSテレビ東京|BSテレ東]]ではBSジャパン時代から放送実績なし。
; フジテレビ系列
* [[BSフジ]]で2001年(第3・5戦)、2004年(第6戦)の放送実績がある。
その他 [[日本BS放送|BS11]]・[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]・[[ビーエスFOX|FOXスポーツ&エンターテイメント]]・J SPORTS<ref group="注">2010年にJ SPORTSで放送した当時BS放送は開始されていなかった。</ref>など、2007年以降に開局した放送局での放送実績なし。
==== CS放送 ====
; [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
* [[読売ジャイアンツ]](巨人主催全試合)または巨人以外の他球団が出場する試合を系列局<ref group="注">広島東洋カープが出場した2016年10月29日の第6戦(マツダスタジアム)を[[広島テレビ放送|広島テレビ]]が、福岡ソフトバンクホークスが出場した2018年10月31日の第4戦(福岡ヤフオク!ドーム)を[[福岡放送]]が何れも日本テレビと共同で放映権を獲得したことによる。</ref>が放映権を獲得した場合、[[日テレジータス]]を通して完全生中継および深夜に録画中継(地上波同内容)。[[日テレNEWS24]]・[[日テレプラス ドラマ・アニメ・スポーツ]]は放送なし<ref group="注">2014年は第7戦に持ち越された場合に、地上波で放送されることになっていたが、日テレジータス・日テレプラスでの放送については未定となっていた(第5戦で終了したため放送もなし)。なお日テレプラスは2014年をもって野球中継が終了の為、放送終了となった。日テレNEWS24は2018年シーズンよりプロ野球中継を開始している。</ref>。
; [[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
* [[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル2]]([[2012年の日本プロ野球|2012年]]は[[朝日ニュースター]])で地上波と同じ内容で完全生中継。なお同じテレビ朝日直轄の[[テレ朝チャンネル|テレ朝ch1]]は編成の特殊性の関係で放送実績なし。更に2011年まではテレビ朝日系列制作試合は、同系列の朝日放送(現:[[朝日放送グループホールディングス]]。認定放送持株会社移行並びに分社化のため、テレビ事業自体はその子会社の[[朝日放送テレビ]]に継承)傘下の[[スカイ・エー]]で放送された<ref group="注">なお、2014年第1回戦はスカイ・エーにて放送。</ref>。
; [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
* [[TBSチャンネル|TBSチャンネル2]]で地上波と同じ内容で完全録画中継。[[2013年の日本プロ野球|2013年]]までは編成の特殊性の関係で放送実績がなかった(なお、2013年までは[[TBSニュースバード]]で同趣旨を行っていた<ref group="注">過去中日・ソフトバンク主催試合で実績あり。但し[[2011年の日本プロ野球|2011年]]の一部の試合は地上波での放送は実況を差し替えてあった。</ref>が、ニュースバードでの放送は同年度<ref group="注">実際は2014年5月までTBSチャンネル・ニュースバード並列で放送</ref>をもって終了となっている)。なお、同じJNN系列の[[毎日放送]]の親会社(認定放送持株会社)である[[MBSメディアホールディングス]]傘下の[[GAORA]]では放送実績なし。
; [[TXNネットワーク|テレビ東京系列]]
* CSでの放送実績なし(直轄の[[日経CNBC]]と[[アニメシアターX|AT-X]]はそれぞれ編成の特殊性の関係上、放送できない)。
; [[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
* [[フジテレビONE]](739)または[[フジテレビTWO]](721)で地上波と別実況で完全生中継(都合により録画中継した試合あり)。
その他 2010年は地上波全国放送が行われない試合があったため、[[J SPORTS]]で第1・2・5戦を自主制作(うち、第1戦はテレビ愛知の映像提供を受けて)で放送した。なお、[[FOX SPORTS ジャパン]]・[[スポーツライブ+]]は放送実績なし。
== ラジオ放送 ==
日本シリーズはNPB主催のため、レギュラーシーズンの放送権の有無に関わらず平等に中継することができる。レギュラーシーズン及びクライマックスシリーズは放送不可の[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN系列]]における[[東京ヤクルトスワローズ]]のホームゲームも日本シリーズでは中継できる。放送権は原則としてシリーズ全試合が対象となる。
2023年現在、カードに関わらず毎年生中継する放送局は、[[NHKラジオ第1放送]]<ref group="注">1963年放送開始。1950年から1962年は[[NHKラジオ第2放送]]で放送された。</ref><ref group="注">開催期間中の日曜日に[[選挙|国政選挙]]の投開票が行われる場合は、開票速報を優先するため放送されない場合がある。</ref>と[[文化放送]]、[[ニッポン放送]]、[[MBSラジオ]](2020年度までは毎日放送のラジオ部門)の4局となった。<ref group="注">以上4局は2023シリーズも放送。</ref>又、[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]は以前は中日が出場時のみ放送していたが、中日が日本シリーズ不出場となった2012年以降も2020年以外カードに関係なくNRNネットで中継している。<ref group="注">2023シリーズも放送。</ref><ref group="注">プロ野球中継における文化放送との相互ネット関係はペナントレースにおいては2018年を最後に途絶えたが、日本シリーズにおいては[[千葉ロッテマリーンズ]]出場時の[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]開催分に限り継続される(但し2021年まで実例なし)。</ref>ABCラジオは2019年以降「阪神が出場しない日本シリーズは中継しない」という局の方針により中継を見送っていたが、2023年は阪神の日本シリーズ出場が決定し、2018年以来の日本シリーズ中継が行われる。<ref group="注">オリックスが出場した2021年はNRNネットでの裏送り制作、2022年はニッポン放送中継の技術協力のみだった。</ref>
なお、シリーズ期間中は[[ナイターオフ]]編成のため、レギュラーシーズンとネットワーク編成が異なる上、ネット受けの放送を行わない局も出てくる。また、地元球団がある局では当該球団が出場した場合のみ放送する局<ref group="注">日本ハムが出場した場合のHBCラジオ、STVラジオ、楽天が出場した場合のTBCラジオ、広島が出場した場合のRCCラジオ、ソフトバンクが出場した場合のRKBラジオ、KBCラジオが該当。</ref>もある。
[[大阪放送|ラジオ大阪]]は2006年以降<ref group="注">2008年以降、プロ野球レギュラーシーズンの放送も行われていない。</ref>、[[TBSラジオ]]<ref group="注">2017年をもってプロ野球中継から撤退。2018年以降のレギュラーシーズンにおけるJRN系列局の中継では2022シーズンまでDeNA主催試合のみ裏送りを行っていた。それ以外の試合は文化放送・ニッポン放送(以上西武主催・RCCラジオ向け土曜・日曜デーゲーム以外のロッテ主催・巨人主催の土曜・日曜ナイター)・RFラジオ日本(巨人主催のデーゲームと平日ナイター・RCCラジオ向けの土曜・日曜デーゲームのロッテ主催)が実施している。</ref>とCBCラジオ<ref group="注" name ="jimoto">地元球団の不出場並びに2017シーズン限りでJRN主幹局のTBSラジオがプロ野球中継から撤退した影響による</ref>は2018年以降放送は行っていない。[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]は2013年以降、[[読売ジャイアンツ]]ホームゲームのみ放送している<ref group="注">2012年・2020年も出場したが放送はなかった。</ref>。
FMについては、[[埼玉西武ライオンズ]]が進出した場合のみ、[[エフエムナックファイブ|NACK5]]<ref group="注">1990年から2008年まで出場した年度全試合放送。</ref>で放送する。
== インターネット配信 ==
日本シリーズのインターネット配信の導入は、2016年に開局したAbemaTV(現:[[ABEMA]])が最初となる。この年は出資元のテレビ朝日が中継する試合において独自の実況・解説を付ける形で同時配信を行った。そのほかのキー局が出資元となっているインターネット配信業者においても2018年から、[[Hulu]](日本テレビ)、[[Paravi]](TBS・テレビ東京)<ref group="注">2023年にParaviを統合した[[U-NEXT]]においては同年の配信は行われてない。</ref>、[[フジテレビONE|フジテレビONEsmart]](フジテレビ)にて同時配信を行うようになり、2018年は全試合インターネット配信される初の事例となった。[[TVer]]([[在京テレビジョン放送局|在京民放テレビ局5社]]共同出資)では2022年開催から本シリーズを同時配信している<ref>{{Cite web|和書|title=TVerでプロ野球「日本シリーズ」全試合をリアルタイム配信、日本初 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2210/20/news110.html |website=ITmedia NEWS |access-date=2022-10-20 |date=2022-10-20}}</ref>。なお、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズとは主催が違うため、[[DAZN]]、[[パ・リーグTV]]などでの中継は行われない。
== その他 ==
=== 日本シリーズの対戦組み合せ ===
*現存しない球団も含めて[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]7球団と[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]7球団の対戦組合せのうち、存在する組合せについては対戦結果を全て記し、存在しない組合せは「×」を記す。
**日本シリーズ出場経験のある球団のみ記す。
**対戦成績について日本一になった球団は'''太字'''で表記する{{#tag:ref|例として「[[1967年の日本シリーズ|1967]]('''巨''' - 急)」という表記は[[1967年の日本シリーズ]]で[[読売ジャイアンツ|巨人]]が日本一になったことを意味する。|group="注"}}。
**対戦組合せは前身球団を含む{{#tag:ref|例として、阪急は[[オリックス・バファローズ|オリックス]]の前身球団なので、阪急との対戦成績はオリックスとの対戦成績として取り扱う。|group="注"}}。
**対戦結果の数字は、シリーズでの「'''セ・リーグ球団の優勝回数''' - パ・リーグ球団の優勝回数」を示す。
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!rowspan="2" colspan="2"|球団!! colspan="7" |[[パシフィック・リーグ|パ]]
|-
![[オリックス・バファローズ|オ]]!![[福岡ソフトバンクホークス|ソ]]!![[埼玉西武ライオンズ|西]]!![[北海道日本ハムファイターズ|日]]!![[千葉ロッテマリーンズ|ロ]]!![[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽]]!![[大阪近鉄バファローズ|近]]
|-
! rowspan="7" |[[セントラル・リーグ|セ]]
![[読売ジャイアンツ|巨]]
|{{#tag:ref|[[1967年の日本シリーズ|1967]]('''巨''' - 急)、[[1968年の日本シリーズ|1968]]('''巨''' - 急)、[[1969年の日本シリーズ|1969]]('''巨''' - 急)、[[1971年の日本シリーズ|1971]]('''巨''' - 急)、[[1972年の日本シリーズ|1972]]('''巨''' - 急)、[[1976年の日本シリーズ|1976]](巨 - '''急''')、[[1977年の日本シリーズ|1977]](巨 - '''急''')、、[[1996年の日本シリーズ|1996]](巨 - '''オ''')|group="注"}}'''5''' - 3
|{{#tag:ref|[[1951年の日本シリーズ|1951]]('''巨''' - 南)、[[1952年の日本シリーズ|1952]]('''巨''' - 南)、[[1953年の日本シリーズ|1953]]('''巨''' - 南)、[[1955年の日本シリーズ|1955]]('''巨''' - 南)、[[1959年の日本シリーズ|1959]](巨 - '''南''')、[[1961年の日本シリーズ|1961]]('''巨''' - 南)、[[1965年の日本シリーズ|1965]]('''巨''' - 南)、[[1966年の日本シリーズ|1966]]('''巨''' - 南)、[[1973年の日本シリーズ|1973]]('''巨''' - 南)、[[2000年の日本シリーズ|2000]]('''巨''' - ダ)、[[2019年の日本シリーズ|2019]](巨 - '''ソ''')、[[2020年の日本シリーズ|2020]](巨 - '''ソ''')|group="注"}}'''9''' - 3
|{{#tag:ref|[[1956年の日本シリーズ|1956]](巨 - '''西''')、[[1957年の日本シリーズ|1957]](巨 - '''西''')、[[1958年の日本シリーズ|1958]](巨 - '''西''')、[[1963年の日本シリーズ|1963]]('''巨''' - 西)、[[1983年の日本シリーズ|1983]](巨 - '''西''')、[[1987年の日本シリーズ|1987]](巨 - '''西''')、[[1990年の日本シリーズ|1990]](巨 - '''西''')、[[1994年の日本シリーズ|1994]]('''巨''' - 西)、[[2002年の日本シリーズ|2002]]('''巨''' - 西)、[[2008年の日本シリーズ|2008]](巨 - '''西''')|group="注"}}'''3''' - 7
|{{#tag:ref|[[1981年の日本シリーズ|1981]]('''巨''' - 日)、[[2009年の日本シリーズ|2009]]('''巨''' - 日)、[[2012年の日本シリーズ|2012]]('''巨''' - 日)|group="注"}}'''3''' - 0
|{{#tag:ref|[[1970年の日本シリーズ|1970]]('''巨''' - ロ)|group="注"}}'''1''' - 0
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|{{#tag:ref|[[1989年の日本シリーズ|1989]]('''巨''' - 近)|group="注"}}'''1''' - 0
|-
![[阪神タイガース|神]]
|{{#tag:ref|[[2023年の日本シリーズ|2023]]('''神''' - オ)|group="注"}}'''1''' - 0
|{{#tag:ref|[[1964年の日本シリーズ|1964]](神 - '''南''')、[[2003年の日本シリーズ|2003]](神 - '''ダ''')、[[2014年の日本シリーズ|2014]](神 - '''ソ''')|group="注"}}'''0''' - 3
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|{{#tag:ref|[[1962年の日本シリーズ|1962]](神 - '''映''')|group="注"}}'''0''' - 1
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|×
|×
|-
![[中日ドラゴンズ|中]]
|×
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|{{#tag:ref|[[2006年の日本シリーズ|2006]](中 - '''日''')、[[2007年の日本シリーズ|2007]]('''中''' - 日)|group="注"}}'''1''' - 1
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|×
|-
![[東京ヤクルトスワローズ|ヤ]]
|{{#tag:ref|[[1978年の日本シリーズ|1978]]('''ヤ''' - 急)、[[1995年の日本シリーズ|1995]]('''ヤ''' - オ)、[[2021年の日本シリーズ|2021]]('''ヤ''' - オ)、[[2022年の日本シリーズ|2022]](ヤ - '''オ''')|group="注"}}'''3''' - 1
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|{{#tag:ref|[[1992年の日本シリーズ|1992]](ヤ - '''西''')、[[1993年の日本シリーズ|1993]]('''ヤ''' - 西)、[[1997年の日本シリーズ|1997]]('''ヤ''' - 西)|group="注"}}'''2''' - 1
|×
|×
|×
|{{#tag:ref|[[2001年の日本シリーズ|2001]]('''ヤ''' - 近)|group="注"}}'''1''' - 0
|-
![[横浜DeNAベイスターズ|横]]
|×
|{{#tag:ref|[[2017年の日本シリーズ|2017]](横 - '''ソ''')|group="注"}}'''0''' - 1
|{{#tag:ref|[[1998年の日本シリーズ|1998]]('''横''' - 西)、|group="注"}}'''1''' - 0
|×
|{{#tag:ref|[[1960年の日本シリーズ|1960]]('''洋''' - 毎)|group="注"}}'''1''' - 0
|×
|×
|-
![[広島東洋カープ|広]]
|{{#tag:ref|[[1975年の日本シリーズ|1975]](広 - '''急''')、[[1984年の日本シリーズ|1984]]('''広''' - 急)|group="注"}}'''1''' - 1
|{{#tag:ref|[[2018年の日本シリーズ|2018]](広 - '''ソ''')|group="注"}}'''0''' - 1
|{{#tag:ref|[[1986年の日本シリーズ|1986]](広 - '''西''')、[[1991年の日本シリーズ|1991]](広 - '''西''')|group="注"}}'''0''' - 2
|{{#tag:ref|[[2016年の日本シリーズ|2016]](広 - '''日''')|group="注"}}'''0''' - 1
|×
|×
|{{#tag:ref|[[1979年の日本シリーズ|1979]]('''広''' - 近)、[[1980年の日本シリーズ|1980]]('''広''' - 近)|group="注"}}'''2''' - 0
|-
![[松竹ロビンス|松]]
|×
|×
|×
|×
|{{#tag:ref|[[1950年の日本シリーズ|1950]](松 - '''毎''')|group="注"}}'''0''' - 1
|×
|×
|}
* 各球団の略称については以下の通りである。
** 巨=巨人(読売)、神=阪神、中=中日、横=横浜・DeNA、ヤ=(東京)ヤクルト、広=広島東洋、オ=オリックス、ソ=福岡ソフトバンク、西=(埼玉)西武(1979年から)・西鉄(1972年まで)、日=(北海道)日本ハム、ロ=(千葉)ロッテ、楽=東北楽天、松=松竹、洋=(横浜)大洋、急=阪急、近=(大阪)近鉄、南=南海、ダ=福岡ダイエー、映=東映、毎=毎日・大毎
=== 戦力外通告について ===
* 第2次[[戦力外通告]]は原則クライマックスシリーズ終了の翌日から日本シリーズ終了の翌日までだが、日本シリーズ出場チームは期限が4日間延長される。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[セントラル・リーグ]]
* [[パシフィック・リーグ]]
* [[セ・パ交流戦]]
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)]]
* [[クライマックスシリーズ]]
* [[日本シリーズにおける各種記録]]
* [[ワールドシリーズ]]
* [[連合国軍最高司令官総司令部]] - 2リーグ制分裂の際に、あっせん案として日本シリーズの開催を提案した。
== 外部リンク ==
* [http://npb.jp/nippons/ 日本シリーズ] - NPB.jp 日本野球機構
* [https://www.videor.co.jp/tvrating/past_tvrating/baseball/02/index.html 日本シリーズ 視聴率]([https://www.videor.co.jp/ 株式会社ビデオリサーチ]より)
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回族
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回族(かいぞく、ホウェイ族あるいはフェイ族、拼音: Huí zú、حواري)は、中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団である。回族とされる人々は、言語・形質等は漢民族(漢族)と同じだが、イスラム教(イスラーム)を信仰する。中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。
回族のコミュニティには普通、モスク(中国語では「清真寺」と表記)があり、聖者廟を有する場合もある。
言語は中国語を用いるが、イスラームに関わる用語にアラビア語・ペルシア語・テュルク語に由来する語彙を持つ。
姓名は漢族とほぼ同じであるが、預言者ムハンマドにちなむ「馬」姓が多く見られる。明代にアフリカまで航海したことでしられる鄭和もムスリムであり、本姓を馬といった。他には元の詩人・魯至道に由来する「白」姓、元の政治家・納速剌丁に由来する「丁」姓も多い。特有な姓としては「哈」「海」「撒」などが挙げられる。
回族は漢族などと雑居しながらもイスラムにのっとった生活を行い、漢族とは食習慣や冠婚葬祭などの習俗を大きく異にしており、この違いが回族の民族としてのアイデンティティの拠り所となっている。
回族の起源は、対外交易が盛んであった唐から元の時代に、中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシア系の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。
モンゴル帝国時代のムスリムの色目人官僚サイイド・アジャッル(賽典赤)は雲南省を統治したため、雲南省にはイスラム教が普及し、言語的・形質的に漢民族と同化した回族が現在も数多く住んでおり、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称する。明代の大航海者鄭和(馬三保)、およびその父馬哈只もその後裔と称した。
清の時代には彼ら漢族化したムスリムは漠然と「回民」あるいは「漢回」などと呼ばれていた。清の末期には回民蜂起が各地で発生した。1855年から1873年にかけては雲南省でパンゼーの乱が発生。1862年からは陝西省・甘粛省で回民のドンガン人の蜂起が発生している。こうした回民蜂起を契機に、1860年代には、新疆でヤクブ・ベクの乱が発生、ヤクブ・ベクは一時的に政権を樹立した。
清に鎮圧されたのち回民の一部はロシア帝国領に渡って中央アジアに定住した。彼らの子孫はドンガン人(東干人)と呼ばれる民族集団となって現在もカザフスタンやキルギスに居住している。
中華人民共和国は民族識別工作において、彼らムスリムを少数民族「回族」として認定した。「回族」は当初は独立民族としての認定を目指す回民の側の要求により設定された、特異な民族枠(信仰宗教に基づく回民の民族意識や清代・中華民国時代からの歴史的・政治的・経済的経緯だけでなく、同国政府の民族自決のイデオロギーや、漢人からの差別意識もこの要因である。)であったが、民族政策の都合上、血統による民族集団へと転化し、回族の血は引いていてもイスラム教の信仰を失っている者が回族を名乗る例も珍しくない。これは、回族であれば少数民族として優遇措置を受けることができるためでもある。イスラム教に改宗した漢族も回族と呼ぶのか、信仰を捨てた回族を回族と呼べるのかという問題も起きている。また、信仰を保持する回族の間でも最も古くから存在するカディーム派(英語版)、西道堂派、スーフィズム各派(門宦(中国語版))、馬歩芳時代から優遇されてきたイフワーン派、中国共産党政府により信仰が公認されたサラフィー主義系のサラフィーヤ派(英語版)で基本的に教派が分かれている。教派の異なる回族同士の交流には消極的で宗派は民族意識より重視されている。
回族の大多数は漢語を母語としている。
ただし、青海省、雲南省、海南省には漢語以外の言語を母語とする回族の集団が散見される。
これらの集団は単に周辺の該当する民族の言語を話すのみならず、宗教や飲食方面を除いた、習俗面でも周辺の諸民族と共通している。これらの集団は外来の回族が現地の民族に同化したものであるとも言えるし、逆に周辺の民族の一部の集団が回族と出会い、イスラム化したものであるとも言える。また回族という民族籍自体がイスラム教を信仰しているという共通点の元、大まかに諸民族をひとまとめにした概念であり、当然様々な背景を持つムスリムが包括されている。
イスラム教徒である以上、回族の話す漢語において若干のアラビア語などからの外来語が存在する。一例を挙げれば、阿米乃、安拉、古蘭、穆罕黙徳、色俩目、爾咱布などである。それらの中には漢語としての同化度の高い語彙もあれば、依然、外来語だという意識の方が強い語彙もある。同化度の高い語彙はそれを表記する漢字もおおよそ固定され、使用されている漢字通りに発音される傾向が強い。その一方で、あまり同化が進んでいない語彙に関しては、それを表記する漢字もまちまちで、発音も固定されていない。声調も不明瞭で、漢語には存在しない(元となったアラビア語などの原音に近い)音節で発音されることもある。
回族の話す漢語がアラビア語からの外来語を取り入れる際には一定の法則のもとに取り入れられている。アラビア語には母音に長短の区別が存在する。i,uにおいては、長短の区別を考慮せずに取り入れられているが、aに関しては、長短区別されて取り入れられている例が多い。アラビア語の長母音a:は母音aを含む漢字で取り入れられ、(اخرةaakhirah>阿黑热提aheireti,كافرkaafir>卡非日kafeiri)短母音aに関しては、ai,eの母音を含む漢字で取り入れられている例が多い。(احمدahmad>艾哈默德aihamode,كلمةkalimah>克立麦kelimai)
アラビア語は日本語の促音のように同じ子音を二回繰り返す発音が存在するが、漢語にはそのような発音が存在しないため、これを取り入れる場合は、直前の母音を鼻音尾を含む漢字を使用して取り入れる例が多い。(اللّهAllah>安拉Anla,حجhajj>罕志hanzhi)
アラビア語にはlとrの区別が存在する。古中国語や、南方の多くの方言にはこの区別が存在しないため、古い時代に取り入れられた語はアラビア語のlとrを区別せず、lで発音する漢字で取り入れられている。(قرآنqur`aan>古兰gulan,رمضانramadaan>莱麦丹laimaidan)現代漢語の北方方言は、lとrを区別するため、アラビア語のrを、rを含む漢字で取り入れる例が多くなっている。(رزقةrizqah>瑞孜给ruizigei,رجیمrajiim>热支目rezhimu)
そのほか、アラビア語にはt,s,zなどに強調子音が存在する。これらの発音を含む語を取り入れる場合、介母音uを含む漢字で取り入れる例が多い。(شیطانshaitaan>筛团尼shaituanni,صلاةsalaah>索俩提suoliati,ضلالdalaal>醉俩里zuiliali)ペルシア語、ウルドゥー語、トルコ語などがこの強調子音を区別せずに取り入れているのに対し、回族の言語にはこの区別が存在している点は特徴的である。同様にペルシア語などで区別されずに取り入れられている有声咽頭摩擦音も、回族の言語ではerの漢字で取り入れられており、声門音と区別されて取り入れられている点も特徴の一つである。(عزابazaab>尔咱布erzabu,عیسی'Iisaa>尔萨ersa)
アラビア語のghの発音を含む語はeの漢字で取り入れている例が多い。(مغفرةmaghfirah>麦呃非热提maiefeireti,مغربmaghrib>麦俄力布maielibu)
qの発音を含む語はgの漢字で取り入れられている。現代の北方の中国語にはgi,ki,hi,fiといった音節の組み合わせは存在しない。そのため、そのような発音を含む語を取り入れる場合、gei,kei,hei,feiなどの漢字で取り入れるか、もしくは、ji,qi,xiなどの漢字で取り入れられるか場合によって異なる。また子音を単独で取り入れる場合、i,u,eなどの口の開きの小さい母音を含む漢字で取り入れることが多いが、nやmに関しては直前の漢字を鼻音尾を含む漢字にして取り入れる例も多い。その他、アラビア語のlaの長音が、漢語ではliaの漢字で取り入れられている点も特徴的である。(سلامsalaam>色俩目seliamu, صلاةsalaah>索俩提suoliati)
漢語は大変音節上の制約が多い言語であるため、多数の例外が存在する。
回族はハプログループO2 (Y染色体)が高頻度であることは漢族と共通するが、他に漢族では殆ど見られない西ユーラシア由来のハプログループR1a (Y染色体)(11.1%)、ハプログループJ (Y染色体)(9.3%)、ハプログループR1b (Y染色体)(3.7%)などが見られる。回族が漢族と西アジアのムスリムの混合体であることが遺伝子からも読み取れる。
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"title": "遺伝子"
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] |
回族は、中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団である。回族とされる人々は、言語・形質等は漢民族(漢族)と同じだが、イスラム教(イスラーム)を信仰する。中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。
|
{{出典の明記|date=2019年8月}}
{{Infobox 民族
|民族 =
|民族語名称 =
|画像 = [[ファイル:HuiChineseMuslim2.jpg|250px]]
|画像の説明 = モスクで祈りを捧げる回族
|人口 = 981.6万人<ref>[http://www.china.org.cn/english/features/EthnicGroups/136917.htm China - The Hui Ethnic Group]</ref>
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|言語 = [[中国語]]
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|註 =
|footnotes = {{notelist}}
}}
{{islam}}
[[ファイル:HuiChineseMuslim3.jpg|サムネイル|道を行く回族の男女]]
[[ファイル:Shanghai-Lanzhou-Zhengzong-Niurou-Lamian-2782.jpg|thumb|回族御用達の店。[[ハラール]]([[:zh:清真|清真]])に従った食品を出すと書かれている。左上にはモスクの絵がある。]]
[[ファイル:Hui man.jpg|thumb|right|回族の老人]]
[[ファイル:Prayers at Dongguan mosque.jpg|thumb|right|祈りを捧げる人々([[寧夏回族自治区]])]]
[[ファイル:Hui family eid.jpg|thumb|right|回族の一家。新年を祝っている([[寧夏回族自治区]])。]]
'''回族'''(かいぞく、ホウェイ族あるいはフェイ族、{{ピン音|Huí zú}}、حواري)は、[[中華人民共和国|中国]]の[[少数民族]]の一つで、中国最大の[[ムスリム]](イスラム教徒)民族集団である。回族とされる人々は、[[言語]]・[[形質]]等は[[漢民族|漢民族(漢族)]]と同じだが、[[イスラム教]](イスラーム)を[[信仰]]する。中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は約1000万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。
==概要==
回族のコミュニティには普通、[[モスク]](中国語では「[[清真寺]]」と表記)があり、聖者廟を有する場合もある。
言語は[[中国語]]を用いるが、イスラームに関わる用語に[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]・[[テュルク諸語|テュルク語]]に由来する語彙を持つ。
[[姓名]]は漢族とほぼ同じであるが、[[預言者]][[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]にちなむ「[[馬 (姓)|馬]]」姓が多く見られる。明代にアフリカまで航海したことでしられる[[鄭和]]もムスリムであり、本姓を馬といった。他には[[元 (王朝)|元]]の詩人・[[魯至道]]に由来する「[[白 (姓)|白]]」姓、元の政治家・[[:en:Nasr al-Din (Yunnan)|納速剌丁]]に由来する「[[丁 (姓)|丁]]」姓も多い。特有な姓としては「[[哈 (姓)|哈]]」「[[海 (姓)|海]]」「[[撒 (姓)|撒]]」などが挙げられる<ref>{{Cite web |title=第十二章 回族的姓氏习俗 |url=http://www.nx.xinhuanet.com/tsnx/wzw/12.htm |website=www.nx.xinhuanet.com |accessdate=2019-10-15 |publisher=新华网宁夏频道 |language=zh |archive-url=https://web.archive.org/web/20191015223601/http://www.nx.xinhuanet.com/tsnx/wzw/12.htm |archive-date=2019-10-15 |deadlinkdate=2023年2月11日}}</ref>。
回族は漢族などと雑居しながらもイスラムにのっとった生活を行い、漢族とは食習慣や[[冠婚葬祭]]などの習俗を大きく異にしており、この違いが回族の民族としてのアイデンティティの拠り所となっている。
== 歴史 ==
===古代・中世===
回族の起源は、対外交易が盛んであった[[唐]]から[[元 (王朝)|元]]の時代に、[[中央アジア]]や[[インド洋]]を経由して渡ってきた[[アラブ人|アラブ系]]・[[ペルシア人|ペルシア系]]の外来ムスリムと、彼らと通婚し改宗した在来の中国人(主に漢族)にあると言われている。
[[モンゴル帝国]]時代のムスリムの[[色目人]]官僚[[サイイド・アジャッル]](賽典赤)は雲南省を統治したため、雲南省には[[イスラム教]]が普及し、言語的・形質的に漢民族と同化した回族が現在も数多く住んでおり、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称する。明代の大航海者[[鄭和]](馬三保)、およびその父[[馬哈只]]もその後裔と称した。
===清朝期===
[[清]]の時代には彼ら漢族化したムスリムは漠然と「回民」あるいは「漢回」などと呼ばれていた。清の末期には[[回民蜂起]]が各地で発生した。[[1855年]]から[[1873年]]にかけては[[雲南省]]で[[パンゼーの乱]]が発生。[[1862年]]からは[[陝西省]]・[[甘粛省]]で回民の[[ドンガン人]]の蜂起が発生している。こうした回民蜂起を契機に、1860年代には、[[新疆]]で[[ヤクブ・ベクの乱]]が発生、[[ヤクブ・ベク]]は一時的に政権を樹立した。
清に鎮圧されたのち回民の一部は[[ロシア帝国]]領に渡って中央アジアに定住した。彼らの子孫は[[ドンガン人]](東干人)と呼ばれる民族集団となって現在も[[カザフスタン]]や[[キルギス]]に居住している。
===中華人民共和国時代===
[[中華人民共和国]]は[[民族識別工作]]において、彼らムスリムを少数民族「回族」として認定した。「回族」は当初は独立民族としての認定を目指す回民の側の要求により設定された、特異な民族枠(信仰宗教に基づく回民の民族意識や清代・中華民国時代からの歴史的・政治的・経済的経緯だけでなく、同国政府の民族自決のイデオロギーや、漢人からの差別意識もこの要因である。)であったが、民族政策の都合上、血統による民族集団へと転化し、回族の血は引いていてもイスラム教の信仰を失っている者が回族を名乗る例も珍しくない。これは、回族であれば少数民族として優遇措置を受けることができるためでもある。イスラム教に改宗した漢族も回族と呼ぶのか、信仰を捨てた回族を回族と呼べるのかという問題も起きている。また、信仰を保持する回族の間でも最も古くから存在する{{仮リンク|カディーム派|en|Gedimu}}、西道堂派、[[スーフィズム]]各派({{仮リンク|門宦|zh|门宦}})、[[馬歩芳]]時代から優遇されてきた[[イフワーン派]]、[[中国共産党]]政府により信仰が公認<ref>Rubin, Barry M. (2000). Guide to Islamist Movements. M.E. Sharpe. p. 79. ISBN 0-7656-1747-1. Retrieved 2010-06-28.</ref>された[[サラフィー主義]]系の{{仮リンク|サラフィーヤ派|en|Sailaifengye}}で基本的に[[教派]]が分かれている。教派の異なる回族同士の交流には消極的で[[宗派]]は民族意識より重視されている<ref>al-Sudairi, Mohammed (October 23, 2014). "Chinese Salafism and the Saudi Connection". The Diplomat.</ref>。
== 民族と言語 ==
回族の大多数は[[漢語]]を母語としている。
===非漢語を母語とする回族===
ただし、[[青海省]]、[[雲南省]]、[[海南省]]には漢語以外の言語を母語とする回族の集団が散見される。
*青海省の[[黄南蔵族自治州]][[尖扎県]]には、[[モンゴル語族]]に属する康家語を母語とする回族が存在する。同じく青海省[[化隆回族自治県]]阿什努郷には[[チベット語]]を母語とする回族が存在する。
*雲南省[[迪慶蔵族自治州]][[シャングリラ市]]にもチベット語を母語とする回族の集団が、同じく雲南省[[大理白族自治州]][[洱源県]]には[[ペー語]]を母語とする回族がいる。
*[[シーサンパンナ・タイ族自治州]][[勐海県]]には[[タイ語]]を母語とする回族がいる。
*[[麗江市]][[寧蒗イ族自治県|寧蒗彝族自治県]]には[[彝語]]を母語とする回族が存在する。
*海南省[[三亜市]]回輝村には[[オーストロネシア語族]]に属する[[回輝語]]を母語とする回族が存在する。
これらの集団は単に周辺の該当する民族の言語を話すのみならず、宗教や飲食方面を除いた、習俗面でも周辺の諸民族と共通している。これらの集団は外来の回族が現地の民族に同化したものであるとも言えるし、逆に周辺の民族の一部の集団が回族と出会い、イスラム化したものであるとも言える。また回族という民族籍自体が[[イスラム教]]を信仰しているという共通点の元、大まかに諸民族をひとまとめにした概念であり、当然様々な背景を持つ[[ムスリム]]が包括されている。
=== アラビア語などからの外来語 ===
イスラム教徒である以上、回族の話す漢語において若干のアラビア語などからの外来語が存在する。一例を挙げれば、阿米乃、安拉、古蘭、穆罕黙徳、色俩目、爾咱布などである。それらの中には漢語としての同化度の高い語彙もあれば、依然、外来語だという意識の方が強い語彙もある。同化度の高い語彙はそれを表記する[[漢字]]もおおよそ固定され、使用されている漢字通りに発音される傾向が強い。その一方で、あまり同化が進んでいない語彙に関しては、それを表記する漢字もまちまちで、発音も固定されていない。[[声調]]も不明瞭で、漢語には存在しない(元となったアラビア語などの原音に近い)[[音節]]で発音されることもある。
回族の話す漢語がアラビア語からの外来語を取り入れる際には一定の法則のもとに取り入れられている。アラビア語には母音に長短の区別が存在する。i,uにおいては、長短の区別を考慮せずに取り入れられているが、aに関しては、長短区別されて取り入れられている例が多い。アラビア語の[[長母音]]a:は母音aを含む漢字で取り入れられ、(اخرةaakhirah>阿黑热提aheireti,كافرkaafir>卡非日kafeiri)短母音aに関しては、ai,eの母音を含む漢字で取り入れられている例が多い。(احمدahmad>艾哈默德aihamode,كلمةkalimah>克立麦kelimai)
アラビア語は日本語の[[促音]]のように同じ子音を二回繰り返す発音が存在するが、漢語にはそのような発音が存在しないため、これを取り入れる場合は、直前の母音を鼻音尾を含む漢字を使用して取り入れる例が多い。(اللّهAllah>安拉Anla,حجhajj>罕志hanzhi)
アラビア語にはlとrの区別が存在する。古中国語や、南方の多くの方言にはこの区別が存在しないため、古い時代に取り入れられた語はアラビア語のlとrを区別せず、lで発音する漢字で取り入れられている。(قرآنqur`aan>古兰gulan,رمضانramadaan>莱麦丹laimaidan)現代漢語の北方方言は、lとrを区別するため、アラビア語のrを、rを含む漢字で取り入れる例が多くなっている。(رزقةrizqah>瑞孜给ruizigei,رجیمrajiim>热支目rezhimu)
そのほか、アラビア語にはt,s,zなどに[[強調子音]]が存在する。これらの発音を含む語を取り入れる場合、介母音uを含む漢字で取り入れる例が多い。(شیطانshaitaan>筛团尼shaituanni,صلاةsalaah>索俩提suoliati,ضلالdalaal>醉俩里zuiliali)[[ペルシア語]]、[[ウルドゥー語]]、[[トルコ語]]などがこの強調子音を区別せずに取り入れているのに対し、回族の言語にはこの区別が存在している点は特徴的である。同様にペルシア語などで区別されずに取り入れられている有声咽頭摩擦音も、回族の言語ではerの漢字で取り入れられており、声門音と区別されて取り入れられている点も特徴の一つである。(عزابazaab>尔咱布erzabu,عیسی'Iisaa>尔萨ersa)
アラビア語のghの発音を含む語はeの漢字で取り入れている例が多い。(مغفرةmaghfirah>麦呃非热提maiefeireti,مغربmaghrib>麦俄力布maielibu)
qの発音を含む語はgの漢字で取り入れられている。現代の北方の中国語にはgi,ki,hi,fiといった音節の組み合わせは存在しない。そのため、そのような発音を含む語を取り入れる場合、gei,kei,hei,feiなどの漢字で取り入れるか、もしくは、ji,qi,xiなどの漢字で取り入れられるか場合によって異なる。また子音を単独で取り入れる場合、i,u,eなどの口の開きの小さい母音を含む漢字で取り入れることが多いが、nやmに関しては直前の漢字を鼻音尾を含む漢字にして取り入れる例も多い。その他、アラビア語のlaの長音が、漢語ではliaの漢字で取り入れられている点も特徴的である。(سلامsalaam>色俩目seliamu, صلاةsalaah>索俩提suoliati)
漢語は大変音節上の制約が多い言語であるため、多数の例外が存在する。
==遺伝子==
回族は[[ハプログループO2 (Y染色体)]]が高頻度であることは[[漢族]]と共通するが、他に漢族では殆ど見られない[[コーカソイド|西ユーラシア]]由来の[[ハプログループR1a (Y染色体)]](11.1%)、[[ハプログループJ (Y染色体)]](9.3%)、[[ハプログループR1b (Y染色体)]](3.7%)などが見られる<ref name="Karafet2001">Karafet, Tatiana; Xu, Liping; Du, Ruofu; Wang, William; Feng, Shi; Wells, R.S.; Redd, Alan J.; Zegura, Stephen L.; Hammer, Michael F. (2001). [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1235490/ Paternal Population History of East Asia: Sources, Patterns, and Microevolutionary Processes]". ''The American Journal of Human Genetics'' 69 (3): 615–28. doi:10.1086/323299. PMC 1235490. {{PMID|11481588}}.</ref>。回族が漢族と西アジアのムスリムの混合体であることが遺伝子からも読み取れる。
== 自治地方と民族区 ==
=== 自治区 ===
* [[寧夏回族自治区]]
=== 自治州 ===
* [[甘粛省]]
** [[臨夏回族自治州]]
* [[新疆ウイグル自治区]]
** [[昌吉回族自治州]]
=== 自治県 ===
* [[河北省]]
** [[孟村回族自治県]]
** [[大廠回族自治県]]
* [[貴州省]]
** [[威寧イ族回族ミャオ族自治県]]
* [[雲南省]]
** [[巍山イ族回族自治県]]
** [[尋甸回族イ族自治県]]
* [[甘粛省]]
** [[張家川回族自治県]]
* [[青海省]]
** [[門源回族自治県]]
** [[化隆回族自治県]]
** [[民和回族トゥ族自治県]]
** [[大通回族トゥ族自治県]]
* [[新疆ウイグル自治区]]
** [[焉耆回族自治県]]
=== 民族区 ===
* [[河南省]]
** [[順河回族区]]
** [[管城回族区]]
** [[瀍河回族区]]
* [[内モンゴル自治区]]
** [[回民区]]
=== 民族鎮 ===
* [[禹城市]]
** 十里望回族鎮
* [[曹県]]
** 侯集回族鎮
* [[洛寧県]]
** 王范回族鎮
* [[襄城県]]
** 潁橋回族鎮
* [[寧陵県]]
** 城関回族鎮
* [[周口市]][[淮陽区]]
** 城関回族鎮
* [[沈丘県]]
** 槐店回族鎮
* [[太康県]]
** 城関回族鎮
* [[新蔡県]]
** 李橋回族鎮
* [[仙桃市]]
** 沔城回族鎮
* [[鎮安県]]
** 茅坪回族鎮
** 西口回族鎮
=== 民族郷 ===
* [[北京市]][[朝陽区 (北京市)|朝陽区]]
** 常営回族郷(常営地区)
* 北京市[[通州区 (北京市)|通州区]]
** 于家務回族郷
* [[石家荘市]][[藁城区]]
** 九門回族郷
* [[新楽市]]
** 彭家荘回族郷
* [[無極県]]
** 高頭回族郷
* [[邱県]]
** 陳村回族郷
* [[大名県]]
** 営鎮回族郷
* [[定州市 (河北省)|定州市]]
** 号頭荘回族郷
* [[沽源県]]
** 大二号回族郷
* [[懐来県]]
** 王家楼回族郷
* [[黄驊市]]
** 羊三木回族郷
* [[河間市]]
** 果子窪回族郷
* [[滄県]]
** 捷地回族郷
** 杜林回族郷
** 大褚村回族郷
* [[献県]]
** 本斎回族郷
* [[永清県]]
** 管家務回族郷
* [[文安県]]
** 大囲河回族満族郷
* [[アルグン市]]
** 三河回族郷
* [[長春市]][[双陽区]]
** 双営子回族郷
* 長春市[[九台区]]
** 胡家回族郷
* [[高郵市]]
** 菱塘回族郷
* [[肥東県]]
** 牌坊回族満族郷
* [[五河県]]
** 臨北回族郷
* [[淮南市]][[謝家集区]]
** 孤堆回族郷
* 淮南市[[潘集区]]
** 古溝回族郷
* [[鳳台県]]
** 李沖回族郷
* [[寿県]]
** 陶店回族郷
* [[定遠県]]
** 二龍回族郷
* [[潁上県]]
** 賽澗回族郷
* [[恵安県]]
** 百崎回族郷
* [[滎陽市]]
** 金寨回族郷
* [[洛陽市]][[瀍河回族区]]
** 瀍河回族郷
* [[葉県]]
** 馬荘回族郷
* [[郟県]]
** 姚荘回族郷
* [[許昌市]][[建安区]]
** 艾荘回族郷
* [[禹州市]]
** 山貨回族郷
* [[鎮平県]]
** 郭荘回族郷
* [[方城県]]
** 袁店回族郷
* [[西平県]]
** 蔡寨回族郷
* [[鄖西県]]
** 湖北口回族郷
* [[隆回県]]
** 山界回族郷
* [[常徳市]][[鼎城区]]
** 許家橋回族ウイグル族郷
* [[桃源県]]
** 青林回族ウイグル族郷
** 楓樹ウイグル族回族郷
* [[漢寿県]]
** 毛家灘回族ウイグル族郷
* [[桃江県]]
** 鮓埠回族郷
* [[桂林市]][[雁山区]]
** 草坪回族郷
* [[塩亭県]]
** 大興回族郷
* [[青川県]]
** 蒿渓回族郷
** 大院回族郷
* [[閬中市]]
** 博樹回族郷
* [[西昌市]]
** 裕隆回族郷
** 高草回族郷
* [[松潘県]]
** 十里回族郷
* 六盤水市[[水城区]]
** 楊梅イ族ミャオ族回族郷
* [[六枝特区]]
** 梭戛ミャオ族イ族回族郷
* [[盤州市]]
** 普田回族郷
* [[安順市]][[平壩区]]
** 十字回族ミャオ族郷
* [[赫章県]]
** 興発ミャオ族イ族回族郷
* [[興仁市]]
** 魯礎営回族郷
* [[宜良県]]
** 九郷イ族回族郷
* [[会沢県]]
** 新街回族郷
* [[昭通市]][[昭陽区]]
** 布嘎回族郷
** 守望回族郷
** 小竜洞回族イ族郷
** 青崗嶺回族イ族郷
* [[魯甸県]]
** 桃源回族郷
** 茨院回族郷
* [[大関県]]
** 上高橋回族イ族ミャオ族郷
* [[開遠市]]
** 大荘回族郷
* [[文山市]]
** 紅甸回族郷
* [[会寧県]]
** 新添堡回族郷
* [[瓜州県]]
** 七墩回族ドンシャン族郷
** 沙河回族郷
* [[正寧県]]
** 五頃原回族郷
* [[西寧市]][[湟中区]]
** 漢東回族郷
** 大才回族郷
* [[貴徳県]]
** 新街回族郷
* [[ピチャン県]]
** 東巴扎回族郷
* [[ホショード県]]
** 烏什塔拉回族民族郷
* [[グルジャ県]]
** 愉群翁回族郷
* [[チャプチャル・シベ自治県]]
** 米糧泉回族郷
==著名な出身者==
=== 政治・行政 ===
*[[回良玉]] - [[中華人民共和国国務院]]副総理(2003年)
*楊静仁 - [[中国共産党中央統一戦線工作部]]部長(1982年)
*白立忱 - [[中国人民政治協商会議]]副主席(1998年)主任
*王正偉 - [[国家民族事務委員会|中華人民共和国国家民族事務委員会]]主任(2013年)
*李成玉 - 中華全国供銷合作総社理事会主任(2008年)
*石宗源 - 中華人民共和国新聞出版総署署長(2000年)
*馬慶生 - [[広西チワン族自治区|中華人民共和国広西チワン族自治区]]政治協商会議主席(2003年)
*郭廷標 - [[遼寧省|中華人民共和国遼寧省]]政治協商会議主席(2004年)
=== 軍人・警察 ===
*[[左宝貴]] - 民族英雄、清の将軍(奉天軍総兵)1894年9月15日に日本陸軍と交戦中に戦死。
*[[劉世昌]] - [[中華人民共和国]]開国少将、[[中国人民解放軍空軍]]副政治委員(1970年)
* [[劉瑞方]] - [[中華人民共和国]]開国少将、[[中国人民解放軍]][[蘭州軍区]]政治部主任(1965年)
* [[白崇禧]] - 陸軍一級上将、[[中華民国国防部]]部長(1946年)「小[[諸葛亮]]」と呼ばれた。
*[[馬鴻逵]] - 陸軍二級上将、[[国民政府|中華民国]]寧夏省主席(1932年)馬鴻逵、馬鴻賓、馬歩芳らを併せて「西北三馬」と呼ばれた。
*[[馬歩芳]] - 陸軍二級上将、[[国民政府|中華民国]]青海省主席(1938年)馬鴻逵、馬鴻賓、馬歩芳らを併せて「西北三馬」と呼ばれた。
* [[馬鴻賓]] - 陸軍中将、[[国民政府|中華民国]]甘粛省主席(1930年)馬鴻逵、馬鴻賓、馬歩芳らを併せて「西北三馬」と呼ばれた。
* [[馬本齋]] - 民族英雄、冀中回民支隊司令員(1938年)
*[[馬国超]] - 海軍少将、[[中国人民解放軍海軍]][[海軍航空隊|航空隊]]副政治委員(1995年)[[馬本齋]]の息子
=== 経済・経営 ===
* [[王志飛]] - 『[[大秦帝国]]』[[商鞅]]役など
* [[洪宇宙]] - 『[[三国志演義_(テレビドラマ)|三国志演義]]』[[周瑜]]役など
* [[蔡国慶]] - 著名な歌手・俳優、[[中国人民解放軍]]総政治部歌舞団所属の軍人でもある
=== 教育・研究 ===
* {{仮リンク|馬堅|en|Muhammad Ma Jian}} - 作家、[[クルアーン]]翻訳者、[[周恩来]]のアラビア語通訳、中国人民政治協商会議委員(1949年)
* [[張承志]] - 作家、歴史学者、イスラーム研究者、[[紅衛兵]]の命名者
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[回教]]
* [[回族の中国武術]]
* [[清真料理]]
* [[小児経]]
* [[中国の少数民族]]
* [[回民蜂起]]
* [[パンゼーの乱]]
* [[馬家軍]]
* [[馬本齋]]
* [[牛街礼拝寺]]
* [[回輝語]]
* [[チャム語]] - [[チャム族]]
* [[アチェ語]]
* [[回教圏研究所]] - [[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]の時期の日本におけるイスラーム研究の機関。機関誌『回教圏』で中国ムスリムに関する話題を扱った。
* [[野原四郎]]
* [[竹内好]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Hui people}}
* [https://www.recordchina.co.jp/b420-s0-c70-d0000.html 回族(写真と概要)] - [https://www.recordchina.co.jp/ Record China]
* [http://www.allchinainfo.com/ethnic/hui.html 回族] - 中国丸ごと百科事典
* [http://japanese.china.org.cn/ri-shaoshu/20.htm 回族 (hui zhu hui ethnic minority group)]
{{中華民族}}
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[[Category:回族|*]]
[[Category:中国の民族]]
[[Category:中国のイスラム教]]
[[Category:中国のムスリム]]
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近鉄名古屋線
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名古屋線(なごやせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から愛知県名古屋市中村区の近鉄名古屋駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。
近鉄の路線で唯一、近畿地方を越えて愛知県に敷設されている。伊勢中川駅から近鉄大阪線や近鉄山田線に直通して名古屋と大阪や三重県の伊勢志摩を結ぶ特急列車が多数運行されている。また、名古屋市と三重県北中部の沿線都市(桑名・四日市・鈴鹿・津など)を中心とした地域輸送も担っており、名古屋への通勤・通学路線となっている。東海旅客鉄道(JR東海)の関西線(関西本線)と競合関係にあるが、競合区間において単線部分が多く存在するJR関西本線に対して線路設備・運行本数・利便性などで当路線が優位に立っている。
中京大都市圏内の地域輸送を担うほか、近鉄大阪線・難波線を経由して大阪難波駅まで特急列車(名阪特急)が直通運転しており、名古屋都市圏と大阪都市圏とを結ぶ名阪の幹線鉄道として東海道新幹線に次ぐ存在となっている。
なお、『鉄道要覧』や近鉄グループホールディングスの『有価証券報告書』においては伊勢中川駅を起点として記載しているが、列車運行上は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りである。以下、運行形態や図表は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅への下り方向に記述する。
2010年4月1日には、近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)が導入された。
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
名古屋線は伊勢平野の伊勢湾沿岸部に敷設され、比較的平坦な路線となっている。それでも、内陸部を走行する津新町駅 - 伊勢中川駅間では22.7‰ - 33.3‰の勾配区間が数か所存在しており、桃園駅 - 伊勢中川駅間には最も急な33.5‰の勾配がある。
また、名古屋線は路線距離の長い本線ながらもトンネルがほとんど無いことも特徴である。例外として、近鉄名古屋駅 - 米野駅間に地下線トンネルが、霞ヶ浦駅 - 阿倉川駅間の旧羽津駅跡にある2箇所のコンクリートトンネルが存在するのみである。
近鉄名古屋線は、複数会社が建設した路線をつなぎ合わせる形で成立した。
桑名駅 - 江戸橋駅間は、伊勢鉄道(後の伊勢電気鉄道、伊勢電。現在の第三セクター鉄道の伊勢鉄道とは無関係)によって建設された。
元々、同地域には国鉄関西本線と参宮線(現在の紀勢本線の亀山駅 - 多気駅間を含む)が、明治期に私設鉄道の関西鉄道と参宮鉄道によってそれぞれ敷設されていた。両線は大阪方面からの輸送を主眼に置いた線形となっており、愛知県や三重県北部から三重県中南部に向かうには、亀山駅でスイッチバックを必要とした。
伊勢鉄道(初代)はそれを短絡する目的から設立され、三重県の二大都市である四日市と津を結ぶ路線を1915年 - 1924年に順次開業させた(桑名駅 - 江戸橋駅 - 津駅(部田駅)間。なお両都市間には1973年に同じ理由で国鉄→伊勢鉄道(2代目、前述)伊勢線が開業した)。軌間は国鉄との貨車直通を考慮し、1067mmの狭軌とした。また、軽便鉄道であり路線規格は低く、沿線諸集落を縫うために、曲線を多用した線形が採用された。
この段階では一地方のローカル私鉄であったが、1926年に社名を伊勢電気鉄道に改め、同年中に直流電化を完成させた頃から、「東海の飛将軍」と呼ばれた有力実業家の熊沢一衛が社長に就任したこともあって拡大策をとるようになり、北は名古屋への進出、南は伊勢神宮がある宇治山田への進出を目論むようになった。
当時、関西系の企業である大阪電気軌道(大軌、現在の近畿日本鉄道の直系母体)と、その子会社で参宮急行電鉄(参急)が大阪から伊勢への進出を目論んでいた。伊勢電は北への路線は1929年に桑名駅までを開通させ、養老電気鉄道(現在の養老鉄道養老線)を買収した時点でそこから先の延伸を後回しとし、地元企業としての対抗心から参急が建設中の路線と並行する伊勢への路線を優先して建設した。参急線の全通5日後には部田駅 - 津新地駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅(豊受大神宮、外宮前)間の路線を全通させ、桑名駅 - 大神宮前駅間に新製車のモハニ231形を用いた急行電車を走らせた。
新規開業区間の多くが複線電化の高規格路線であったが、前述したように元々は四日市駅 - 津駅間は低規格の路線であったため、四日市と津の両市内では市街地をクランク状に縫う形で線路を敷かざるを得ず、急カーブ区間が生じた。特に四日市駅のすぐ北は、三重鉄道や四日市鉄道から譲り受けた路盤を用いて線路を敷いたことから、半径100mで南方向から西方向へほぼ直角に曲がる通称「善光寺カーブ」ができ、後々までスピードアップや車両大型化の障害となった。
江戸橋駅以南は、参宮急行電鉄(参急)が建設した。同社は現在の近鉄大阪線桜井駅以東と山田線を建設し、親会社である大阪電気軌道(大軌)の路線と接続して、大阪から片道2時間余りで行ける伊勢神宮への参拝ルートを作り上げていたが、それが実現する前に既に名古屋方面への進出を計画し、桑名までの免許を取得した。
この免許収得に関しては、岩田橋駅 - 伊勢川口駅間で営業を行っていた軽便鉄道会社の中勢鉄道(1942年全廃)を傘下に置き、同社の支線として中川 - 久居間の免許を申請し、その後、免許を参急に譲渡させ、譲り受けた参急が区間延長申請するという方法が採られた。だが、国鉄の運営と私鉄の監督を当時行っていた鉄道省では、このまま行けば伊勢電線・国鉄線と合わせて三つ巴の競争になり、共倒れになることを危惧していた。そのため当初参急が申請した免許は名古屋までであったが、政策上、桑名までとして交付された。
参急は伊勢進出後しばらく世界恐慌の影響もあって赤字に苦しんでいた。とりあえず国鉄線や伊勢電線と連絡して、桑名・四日市から大阪方面へ向かう客を運ぶことで増収につなげようとした。1930年 - 1932年に免許線の工事を行い、そして中川駅から国鉄津駅までを津(支)線として開業させ、津駅から徒歩5分程度の伊勢電津駅(部田駅を改称したもので、参急買収後再び部田駅に戻る)との連絡も図られた。
これにより津 - 伊勢間で参急と伊勢電の路線が競合することとなったが、まもなく伊勢電は伊勢進出に多額な資金を使ったことや、名古屋進出が達成できずに乗客が伸びなかったこと、熊沢が頭取を兼任していた融資元の四日市銀行(現在の三十三銀行)が取付騒ぎにあって休業したため資金繰りが悪化したことなどから経営に行き詰まり、銀行管理会社になった。そのため参急が伊勢電を1936年に吸収合併し、旧伊勢電本線を参急名古屋伊勢本線とした。
その上で、合併直前に両社の共同出資で設立されていた関西急行電鉄(関急電)によって、伊勢電・参急いずれにとっても悲願であった名古屋進出に取り掛かることとなった。
この区間は、前述した関西急行電鉄(関急電)によって建設されることになった。
同区間は、木曽三川と総称される揖斐川・長良川・木曽川を越える必要があり、その橋脚建設の資金が必要であった。伊勢電の計画では、並行する関西本線の橋脚が架け替えられたため、不要となる旧橋脚を購入して敷設することにしていた(詳しくは「関西急行電鉄」を参照)。関急電もさほど資金的な余裕がなかったため、伊勢電の計画をそのまま引き継いだ。この橋脚に関しては、戦後新たに架け替えられている。
建設は日中戦争の最中に行われたため、軍事上必要な鉄の調達は難航したという。
名古屋のターミナル駅(関急名古屋駅→近鉄名古屋駅)は、伊勢電は方向転換不要なようにループ状にする計画であったが、関急電は一般的な3面3線の頭端式ホームにした。
これによって、1938年6月26日に現在の名古屋線となる区間が完成した(それに先立つ6月20日に津線と伊勢線の接続を図るため津線の江戸橋 - 津間が延伸されている)。
前述のような建設経緯から、名古屋駅 - 江戸橋駅間は狭軌 (1067mm)、江戸橋駅 - 参急中川駅(現在の伊勢中川駅)間の津線は標準軌 (1435mm)となり、名古屋 - 大阪間直通の利用客は参急中川駅でのスイッチバック(上本町駅 - 江戸橋駅間の直通列車は2往復のみで、多くの場合は乗り換え)と江戸橋駅での乗り換えを強いられた。そのため、名古屋延伸の半年後に江戸橋駅 - 参急中川駅間を狭軌化し、名阪間の移動に際しては参急中川(伊勢中川)駅での乗り換えとした。
1940年に関急電は参急に合併され、関急名古屋駅(参急名古屋駅に改称) - 桑名駅間は名古屋伊勢本線に編入された。さらに1941年には参急と大軌が合併して、現在の近鉄の原型となる関西急行鉄道(関急)が発足、関急発足時の路線名整理により津線および名古屋伊勢本線参急名古屋駅(再度関急名古屋駅に改称) - 江戸橋駅間が名古屋線、江戸橋駅 - 大神宮駅前間が伊勢線になった。
山田線と重複するため、1942年に伊勢線の新松阪駅 - 大神宮前駅間を廃止した後(残存区間である江戸橋駅 - 新松阪駅間も単線化し、資材は名古屋線単線区間の主に伊勢鉄道時代に敷設された区間の複線化などに充当)は、名古屋 - 伊勢間直通の利用客も伊勢中川駅で乗り換えが必要になった。伊勢中川駅での乗り換えは最短時間になるよう配慮され、時刻表でも名古屋駅時点で「大阪行」「宇治山田行」と案内された。
悲願の名古屋線の標準軌への改軌は1960年2月の実施に向けて1957年頃から準備工事が行われた。この一環として並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えの際に不要となった橋脚を譲り受け、単線で輸送力増強の障害となっていた揖斐・長良川橋梁と木曽川橋梁についても、改軌に対応できる複線のトラス橋に架け替えることになった。後に名古屋線は1959年9月の伊勢湾台風によって特に愛知県内において線路水没・流失などの被害を受けたが、揖斐・長良川橋梁は台風襲来の7日前、木曽川橋梁については台風襲来の当日に完成したため、幸い深刻な被害はなかった。
これを当時社長の佐伯勇による「禍(=災い)転じて福となす」との判断で、台風による水害からの復旧を機に改軌工事を同年11月に前倒しして実施した。工事は名古屋線全線と神戸線(現在の鈴鹿線)を全体で9区画(=工区)に分け、1日につき1区画ずつ(日によって2区画)昼間の6時間(概ね9時30分-15時30分)をバス代行とし、千数百人に及ぶ作業員らによって午前からレールの移設を始め昼過ぎには完了、夕方には改軌の済んだ線路上で定期列車の運行が行われた。同年11月27日には全ての区間での工事が完了し、その後線路の道床改良を経て、同年12月12日より名古屋駅 - 上本町駅間と名古屋駅 - 宇治山田駅間の直通運転が開始された。また、前述のような事情で随所に存在した急カーブも改軌に先駆ける形で複線化を兼ねた線形改良がなされ、多くが解消されている。
なお、伊勢線は狭軌のまま水害から復旧したが、伊勢湾台風襲来から1年4か月後の1961年1月に全線廃止された。
近鉄名古屋発は日中おおむね1時間あたり特急4本(0分:大阪難波駅行き甲特急、10分:賢島駅行き、30分:大阪難波駅行き乙特急、50分:鳥羽駅または宇治山田駅行き)、急行3本、準急2本、普通3本の運転。夕ラッシュ時の下りは特急は5本、急行・普通は各4本、準急は1 - 3本の運転である。朝の名古屋方面は各種別が増発され、特に急行は津新町・白子・近鉄四日市各駅発なども加わる。定期列車の車両増結・切り離しは近鉄四日市駅・塩浜駅・伊勢中川駅で行われている。
大阪線・奈良線と並ぶ近鉄の主要幹線であるが、両線にはある快速急行の設定が当線にはない。
特急には停車駅の少ない甲特急と多い乙特急があり、名古屋線内では大阪方面との名阪甲特急は津駅のみ、名阪乙特急はそれに加えて桑名駅・近鉄四日市駅・白子駅に停車し、伊勢志摩方面との名伊甲特急は津駅に、名伊乙特急は名阪乙特急の停車駅と伊勢中川駅に加え朝夕の一部列車が久居駅に、2013年運行開始の観光特急「しまかぜ」は近鉄四日市駅のみ停車する。なお、大阪方面と直通する名阪特急は中川短絡線を通行するため、全列車伊勢中川駅のホームに停車しない(ただし料金・運賃は、伊勢中川駅を折り返しての計算となる)。最大8両編成まで運転される。
日中時間帯は名阪甲特急・乙特急が1時間あたり各1本、名伊乙特急が1時間あたり2本運転されている。18時台 - 19時台のラッシュ時は名阪甲特急・乙特急が1時間に1本ずつ運転、名伊乙特急が1時間に3本(3本とも久居駅に停車)運転されている。
名古屋線内では特急列車の向きは大阪方面への列車に合わせているため「しまかぜ」と「伊勢志摩ライナー」(これらの車両は中川短絡線を通らないため、名古屋方面⇔大阪・伊勢志摩方面を基本としたとき、名古屋方面先頭車両が他の車両の大阪・伊勢志摩方面先頭車両となる)を除いて同じである(号車番号の振り方はどの列車も同じで、名古屋方面先頭車両が1号車となる)。
名古屋線で終日運転されている。2018年3月17日のダイヤ変更時点における名古屋線の途中停車駅は、乙特急の基本停車駅に加えて近鉄蟹江駅、近鉄弥富駅、近鉄富田駅、塩浜駅、伊勢若松駅、江戸橋駅、津新町駅、南が丘駅、久居駅、桃園駅である。特急を除く三重県内における長距離速達種別であり、普通列車の本数が減少する津新町駅 - 伊勢中川駅間を各駅に停車することで同区間における普通列車を補完する役割を担う。準急や普通とは異なり、愛知県内で完結する列車は存在しない。
8時から17時台までは、近鉄名古屋駅 - 山田線松阪駅間で1時間あたり3本設定されており、このうち1本が山田線宇治山田駅もしくは鳥羽線五十鈴川駅に直通している。朝と夕方以降には、津新町駅や伊勢中川駅発着のほか、一部の列車が鳥羽線鳥羽駅発着で運転されている。朝は津新町駅・白子駅・近鉄四日市駅発の列車も設定され、平日朝7時台に近鉄四日市駅を発車する名古屋方面の急行は8本となっている。夕方(近鉄名古屋駅発平日17 - 20時台、土休日18時台)の下り列車は1時間に4本、夜間(近鉄名古屋駅発平日22時台、土休日21 - 22時台)の下り列車は1時間2本が運転されている。
途中駅における他種別との連絡は夕ラッシュ時を除き近鉄蟹江駅・近鉄四日市駅・白子駅で普通に、朝 - 日中は近鉄四日市駅で準急に連絡する。夕ラッシュ時は近鉄蟹江駅で富吉駅発着の普通(一部列車のみ)、近鉄弥富駅で準急、近鉄四日市駅と白子駅で普通に連絡する。夜間の津新町行きの一部は江戸橋駅で伊勢中川行き普通に連絡する。なお、伊勢中川駅以南に直通する列車は伊勢中川駅で大阪線一般列車や賢島方面発着の普通列車および阪伊乙特急との連絡が考慮されている。
特急列車の待避は主に塩浜駅・伊勢若松駅・江戸橋駅で行われている。
編成は近鉄名古屋側から2両+4両の6両編成を基本とするが、平日早朝の伊勢中川駅5:49発の名古屋行きと平日夜の近鉄名古屋駅20:49発松阪行きの塩浜駅以南は4両編成、平日朝の近鉄四日市駅7:54発の平田町行きは3両編成で運転されている。近鉄四日市駅以南を発着する列車では全列車にトイレが付いている。
2000年までは津新町駅折り返しの急行が日中に1時間あたり1本設定され、津新町駅 - 伊勢中川駅間は1時間あたり2本の運転であったが、2001年に伊勢中川駅折り返し、2012年に松阪駅折り返しに変更され、全区間1時間あたり3本運転となった。この間2002年のダイヤ変更で近鉄蟹江駅が停車駅に追加されている。また、2003年までは日中にも鳥羽駅発着の列車が多数設定されていたが、2004年のダイヤ変更で鳥羽駅発着の大多数が宇治山田駅・五十鈴川駅折り返しに変更となり、それ以降、鳥羽駅発着は朝と夕方 - 夜間(鳥羽駅行きのみ)に設定されるのみとなった。
2012年3月20日のダイヤ変更では日中時間帯の近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の列車が増発され(平日・休日ともに12本増、いずれも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の準急の一部を格上げ)、同区間では1時間に4本の急行が運行された。しかし、2016年3月19日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発と近鉄名古屋駅15時台発の1往復を除いて全て準急に格下げされた。残る1往復も、2020年3月14日のダイヤ変更で近鉄名古屋駅15時台発の1本が、2021年7月3日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発の1本が準急に格下げされ、日中の近鉄四日市駅発着急行は消滅した。
2018年3月17日のダイヤ変更では南が丘駅、桃園駅が停車駅に追加され、江戸橋駅 - 伊勢中川駅間で各駅に停車するようになった。
2021年7月3日のダイヤ変更時点では急行以下の列車で名古屋線と大阪線の間で直通運転を行う列車は存在しない。
2018年3月16日までは早朝に1本のみ名張駅発近鉄名古屋駅行き急行が設定されており、この列車は中川短絡線を経由せず、伊勢中川駅で方向転換(スイッチバック)して名古屋線へ直通運転し、大阪線内では新青山トンネルを通過するため後述の大阪線所属編成が充当されていた。なお、近鉄名古屋駅 - 名張駅間の距離は120.6kmで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間の距離120.4kmより0.2kmだけ長く、ダイヤ上は近鉄名古屋駅発着の最長運転距離の急行であった。
2020年3月13日までは、早朝の近鉄名古屋始発の急行の一部の列車は伊勢中川到着後、そのまま列車番号と行先を変更し、そのまま大阪線へ入る運用が存在していた。これらの運用には、大阪線の車両が当てられていた。
2021年7月3日のダイヤ変更時点で、鈴鹿線と直通する列車は、平日朝に近鉄四日市駅発平田町駅行きの急行が1本のみ運転されている。平田町駅発や土曜・休日は運転されていない。
2012年3月18日までは土曜・休日も平田町駅行きと平田町駅発近鉄四日市駅行きが各1本運転されていたが、同年3月20日のダイヤ変更で廃止されている。1987年以前は平田町駅折り返し列車が終日設定されていた。
編成両数は鈴鹿線のホーム有効長の関係から、3両編成で運転されている。
1983年のダイヤ変更で設定された2代目の準急である。
終日運転され、日中は近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間で1時間あたり2本、日中以外は近鉄名古屋駅 - 富吉駅・近鉄四日市駅間で運転される。近鉄名古屋駅 - 近鉄蟹江駅間はノンストップで、近鉄蟹江駅以南は各駅に停車する。愛知県内での短距離速達種別である一方で三重県内における普通列車の補完という位置付けになっている。なお、近鉄四日市駅に到着する列車の大半は、列車種別を「普通」に変更して塩浜駅・津新町駅・伊勢中川駅まで運転を継続する。
日中の準急は始発駅を急行の続行で発車するため、近鉄四日市駅まで後の急行より先着する。待避回数によって所要時間に差があるものの、近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の標準所要時間は50分強。そのうち、急行との相互接続や通過待ちを行わない列車の最短所要時間は45分であり、同一区間を最短時分で運転する急行と比較しても10分弱の時間差しかない。
途中駅での他種別との連絡については、ほぼ終日にわたって近鉄蟹江駅か富吉駅と近鉄四日市駅で乙特急と、近鉄四日市駅で急行と、近鉄蟹江駅か富吉駅で普通列車と接続する。ラッシュ時の一部は近鉄蟹江駅・近鉄弥富駅・桑名駅(上り列車のみ)・近鉄富田駅(川越富洲原駅で待避する列車のみ)で急行と接続する列車があり、夜間の富吉駅発着の一部に近鉄蟹江駅または富吉駅で、四日市方面発着の普通列車に接続する列車が存在する。一方で列車待避については上記の接続駅以外に益生駅や川越富洲原駅でも行われ、ラッシュ時には近鉄八田駅で普通列車を追い抜く列車も存在する。
2002年ダイヤ変更までは、終日にわたり近鉄蟹江駅または富吉駅で普通と準急の、近鉄弥富駅で準急と急行の接続をとっていたが、同ダイヤ変更で近鉄蟹江駅が急行停車駅に追加されたことにより、ラッシュ時のみ接続するようになった。名古屋市内の急行通過駅から四日市方面へは近鉄蟹江駅で急行に乗り換えられるようになり、日中において準急の必要性が減少したため、同ダイヤ変更から2012年ダイヤ変更までは日中の富吉駅 - 近鉄四日市駅間は準急が運転されていなかった。
編成両数は基本的に3両編成で、ラッシュ時は4両(2両+2両)か5両(3両+2両)編成で運転され、4両(2両+2両)で運転される平日朝の1本と平日・土休日夜の1本については近鉄四日市駅で普通に種別変更する際に、後部編成を切り離す。また、土休日の近鉄四日市駅8:17発近鉄名古屋駅行きは急行の編成を単独で使う運用で、5200系を除く名古屋線所属の4両編成のいずれかが充当される。富吉駅での増結や車両切り離しは設定されていない。富吉行きの一部の列車は富吉車庫への入出庫回送兼用で急行の車両を使用した6両で走るが、この場合は近鉄名古屋駅の3番線から発車する。
各駅に停車する。日中は1時間あたり近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の系統が2本、近鉄名古屋駅 - 津新町駅(一部時間帯は伊勢中川駅)、近鉄四日市駅 - 塩浜駅、近鉄四日市駅 - 津新町駅間の系統が1本ずつ運転されており、富吉駅 - 近鉄四日市駅間で各駅停車になる毎時2本の準急を含めて、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間では1時間あたり3本の本数が確保される。近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の列車は伊勢中川駅で賢島方面からの列車と相互接続するようになっている。
ラッシュ時については全線通しで運転されるのは一部のみであり、近鉄名古屋駅 - 富吉駅間および近鉄四日市駅 - 津新町駅・伊勢中川駅間の区間運転が主である。後者は大多数の列車が近鉄四日市駅で準急に種別変更して近鉄名古屋駅まで運行を継続している。その他、早朝・夜間とラッシュ時の前後時間帯に桑名駅・塩浜駅・白子駅・白塚駅を発着とする列車や、近鉄名古屋駅・富吉駅 - 近鉄四日市駅間を普通列車として運行する列車、編成送り込み・入庫回送兼用として近鉄名古屋駅・近鉄四日市駅 - 塩浜駅間および白塚駅 - 伊勢中川駅間の区間運転列車もあり、白塚駅 - 志摩線賢島駅間で運転される列車が早朝下り(平日・土休日とも)と夜上り(平日のみ)に各1本設定されている。
編成両数は原則として2両か3両編成で運転されており、急行・準急通過駅の多くはホームが最大3両または4両までしか対応しておらず、近鉄の非ワンマン車にはドアカット機能がないため、臨時列車を除けば途中駅での増結・解放も行われないが、早朝の白子駅・塩浜駅の下り始発列車は白塚駅で車両交換を実施して白塚駅 - 伊勢中川駅間を4両編成で運転される。また、平日のみ上りにおいて白塚駅ゆきの列車2本(朝・深夜に各1本)が4両編成で運転される。
2012年3月20日のダイヤ変更より全線通しで運転される列車は従来より削減され、日中にも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の列車が毎時1本運転されるようになったが、2016年3月19日のダイヤ変更で全線通し運転の列車が毎時1本設定されるようになり、志摩線直通列車は毎時1本に削減された。2018年3月17日のダイヤ変更より、普通列車は昼間の時間帯の列車が津新町駅までの運転となったため、白塚駅 - 伊勢中川駅間で実施していたワンマン運転が見直された。2021年7月3日のダイヤ変更より、従来近鉄四日市駅から津新町駅までの運転だった昼間の毎時2本の列車のうち1本が塩浜駅止まりとなり、塩浜駅 - 津新町駅は毎時3本から毎時2本に減便となった。
2018年3月16日まで志摩線直通の列車がワンマン運転で運行されており、日中から夕方にかけて白塚駅 - 志摩線賢島駅間で運転されていた。ワンマン列車は全列車2両編成で運転されたが、平日朝の山田線宇治山田7:01発白塚行きに限り後述の急行用車両を用いた4両編成で運転されていた。名古屋線所属の2両編成ワンマン車両には、支線用ワンマン車両にはないドアカット機能があり、無人駅では1両目後乗り・前降りとして運転士が運賃精算を行う形となっており、白塚駅以南のワンマン列車はこのシステムを採用していた。
1983年3月18日のダイヤ変更前まで設定されていた。1950年9月時点の停車駅は近畿日本名古屋駅・近畿日本弥富駅・桑名駅・益生駅・富洲原駅・近畿日本富田駅・阿倉川駅・諏訪駅・四日市駅・塩浜駅・伊勢若松駅・白子駅・江戸橋駅・津駅・津新町駅・久居駅・伊勢中川駅の系統と、前述のほか近畿日本蟹江駅にも停車し、塩浜駅以南は各駅停車となる系統があった。
停車駅の変遷は以下の通り。
この後、1983年の廃止まで近鉄蟹江駅 - 近鉄四日市駅間では佐古木駅・霞ヶ浦駅・川原町駅の3駅を通過した。
1963年頃には毎時2本ほどの準急が設定され、そのほとんどは鈴鹿線直通の近畿日本名古屋駅 - 平田町駅間の運用だったが、早朝と夕方に各1往復ずつ、伊勢中川駅発着と山田線宇治山田駅発着の列車が存在した。平田町駅発着の準急は2両編成、伊勢中川駅および宇治山田駅発着の準急はクロスシート車の5両編成が充当されていた。このうち宇治山田駅発着列車は鳥羽線全通に伴う1970年3月21日ダイヤ変更で鳥羽駅発着に延長されている。
1964年3月23日のダイヤ変更まで、現在の準急に近い列車として直行が運転されていた。近畿日本名古屋駅 - 伊勢中川駅(1959年の改軌後は宇治山田駅)間に運転され、停車駅は近畿日本蟹江駅と近畿日本弥富駅以南の各駅であった。近畿日本名古屋駅 - 近畿日本弥富駅間の各駅は同区間折り返しの普通列車が停車していた。
大晦日から元日にかけての終夜運転は、近年は近鉄名古屋駅 - 伊勢方面間に乙特急・急行が30 - 60分間隔(一部時間帯を除く)で運転されるほか、名古屋線の全区間で普通(一部準急)が30 - 60分間隔で運転される。なお、2022年元旦以降は急行は運転されなくなった。また、湯の山線・鈴鹿線では近年実施されておらず、列車の運転区間は時間帯によって一定していない。
沿線の神社や仏閣への年越し参り向けの運行であるため、ビジネス向けである名阪特急は終夜運転を行わない。従って、名古屋 - 大阪方面間へは伊勢中川駅で乗り換えが必要である。また、乙特急は一部列車停車駅の久居駅を含めた基本停車駅の全てに停車するが(2020年元旦までは久居駅は通過していた)、阪伊特急やかつての吉野特急のように通常ダイヤでは停車しない駅への特別停車は実施されず、急行の特別停車も行われない。
名古屋線沿線でイベントや大学入学試験などが行われる際は、臨時列車の運転や、臨時停車が実施される。臨時急行の多くは定期急行同様に4両編成か6両編成で運転され、普通列車も一部区間では最大5両編成まで増結が行われる。このうち、桑名駅と津駅を終着とする臨時急行が運転される際は、「急行 桑名」および「急行 津」の方向幕表示が用意されていないため、簡易方向板を掲出して運転される。
2020年4月1日時点。名古屋線で使用される車両の配置検車区については、記述の無いものについては富吉検車区の配置である。
4両編成は配置されている全編成がトイレ装備車を連結する。新製導入は1998年の5800系5812Fが最後であり、2000年以降に登場したいわゆるシリーズ21は配置されておらず、定期列車に使用されることもない。
標準軌線区の各線で運用されている。「大阪線」の項も参照。
名古屋線の一般車両については、一部例外はあるものの編成両数と列車種別で車両運用が概ね区分されている。3両編成については準急・普通列車、2両編成については準急・普通列車の他に急行の増結車、4両編成については急行の運用が中心となっている。
過去の車両では、名古屋線には奈良線や大阪線のような連続急勾配がないことから抑速ブレーキが省略されており、これらの車両が大阪線の運用に入らないように配慮されていたほか、五位堂検修車庫の完成後も、上記の理由で大阪線の連続急勾配を通行できない車両が多く存在したことから塩浜検修車庫に工場機能が残された。
廃止区間の駅は次節を参照。
海山道駅 - 四日市駅 - 諏訪駅 - 西町駅 - 川原町駅
2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。
全線でPiTaPaやICOCAのほか、TOICAやmanacaなどの交通系ICカードが全国相互利用サービスにより利用できる。
2007年4月1日のPiTaPa導入までの間に、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間の全駅と急行停車駅に自動改札機が設置された。また、近鉄線の大半でICOCA定期券の供用を開始することに伴い2014年末までに桃園駅を除く全駅に自動改札機が設置された。
交通系ICカードでは、連絡運輸のない阪神電気鉄道線(神戸三宮方面)・神戸高速線・山陽電気鉄道線(山陽姫路・山陽網干方面)間を連続して乗車することが可能である。
1992年(平成4年)運輸政策審議会答申第12号によると、戸田駅で名古屋市営地下鉄の金山線との相互直通運転を検討するとしている。しかし、2020年時点においても金山線自体に事業化の動きはない。
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"text": "名古屋線(なごやせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から愛知県名古屋市中村区の近鉄名古屋駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。",
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"text": "近鉄の路線で唯一、近畿地方を越えて愛知県に敷設されている。伊勢中川駅から近鉄大阪線や近鉄山田線に直通して名古屋と大阪や三重県の伊勢志摩を結ぶ特急列車が多数運行されている。また、名古屋市と三重県北中部の沿線都市(桑名・四日市・鈴鹿・津など)を中心とした地域輸送も担っており、名古屋への通勤・通学路線となっている。東海旅客鉄道(JR東海)の関西線(関西本線)と競合関係にあるが、競合区間において単線部分が多く存在するJR関西本線に対して線路設備・運行本数・利便性などで当路線が優位に立っている。",
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"text": "中京大都市圏内の地域輸送を担うほか、近鉄大阪線・難波線を経由して大阪難波駅まで特急列車(名阪特急)が直通運転しており、名古屋都市圏と大阪都市圏とを結ぶ名阪の幹線鉄道として東海道新幹線に次ぐ存在となっている。",
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"text": "なお、『鉄道要覧』や近鉄グループホールディングスの『有価証券報告書』においては伊勢中川駅を起点として記載しているが、列車運行上は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りである。以下、運行形態や図表は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅への下り方向に記述する。",
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"text": "2010年4月1日には、近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)が導入された。",
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"text": "名古屋線は伊勢平野の伊勢湾沿岸部に敷設され、比較的平坦な路線となっている。それでも、内陸部を走行する津新町駅 - 伊勢中川駅間では22.7‰ - 33.3‰の勾配区間が数か所存在しており、桃園駅 - 伊勢中川駅間には最も急な33.5‰の勾配がある。",
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"text": "また、名古屋線は路線距離の長い本線ながらもトンネルがほとんど無いことも特徴である。例外として、近鉄名古屋駅 - 米野駅間に地下線トンネルが、霞ヶ浦駅 - 阿倉川駅間の旧羽津駅跡にある2箇所のコンクリートトンネルが存在するのみである。",
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"text": "近鉄名古屋線は、複数会社が建設した路線をつなぎ合わせる形で成立した。",
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"text": "桑名駅 - 江戸橋駅間は、伊勢鉄道(後の伊勢電気鉄道、伊勢電。現在の第三セクター鉄道の伊勢鉄道とは無関係)によって建設された。",
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"text": "元々、同地域には国鉄関西本線と参宮線(現在の紀勢本線の亀山駅 - 多気駅間を含む)が、明治期に私設鉄道の関西鉄道と参宮鉄道によってそれぞれ敷設されていた。両線は大阪方面からの輸送を主眼に置いた線形となっており、愛知県や三重県北部から三重県中南部に向かうには、亀山駅でスイッチバックを必要とした。",
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"text": "伊勢鉄道(初代)はそれを短絡する目的から設立され、三重県の二大都市である四日市と津を結ぶ路線を1915年 - 1924年に順次開業させた(桑名駅 - 江戸橋駅 - 津駅(部田駅)間。なお両都市間には1973年に同じ理由で国鉄→伊勢鉄道(2代目、前述)伊勢線が開業した)。軌間は国鉄との貨車直通を考慮し、1067mmの狭軌とした。また、軽便鉄道であり路線規格は低く、沿線諸集落を縫うために、曲線を多用した線形が採用された。",
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"text": "この段階では一地方のローカル私鉄であったが、1926年に社名を伊勢電気鉄道に改め、同年中に直流電化を完成させた頃から、「東海の飛将軍」と呼ばれた有力実業家の熊沢一衛が社長に就任したこともあって拡大策をとるようになり、北は名古屋への進出、南は伊勢神宮がある宇治山田への進出を目論むようになった。",
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"text": "当時、関西系の企業である大阪電気軌道(大軌、現在の近畿日本鉄道の直系母体)と、その子会社で参宮急行電鉄(参急)が大阪から伊勢への進出を目論んでいた。伊勢電は北への路線は1929年に桑名駅までを開通させ、養老電気鉄道(現在の養老鉄道養老線)を買収した時点でそこから先の延伸を後回しとし、地元企業としての対抗心から参急が建設中の路線と並行する伊勢への路線を優先して建設した。参急線の全通5日後には部田駅 - 津新地駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅(豊受大神宮、外宮前)間の路線を全通させ、桑名駅 - 大神宮前駅間に新製車のモハニ231形を用いた急行電車を走らせた。",
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"text": "新規開業区間の多くが複線電化の高規格路線であったが、前述したように元々は四日市駅 - 津駅間は低規格の路線であったため、四日市と津の両市内では市街地をクランク状に縫う形で線路を敷かざるを得ず、急カーブ区間が生じた。特に四日市駅のすぐ北は、三重鉄道や四日市鉄道から譲り受けた路盤を用いて線路を敷いたことから、半径100mで南方向から西方向へほぼ直角に曲がる通称「善光寺カーブ」ができ、後々までスピードアップや車両大型化の障害となった。",
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"paragraph_id": 15,
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"text": "江戸橋駅以南は、参宮急行電鉄(参急)が建設した。同社は現在の近鉄大阪線桜井駅以東と山田線を建設し、親会社である大阪電気軌道(大軌)の路線と接続して、大阪から片道2時間余りで行ける伊勢神宮への参拝ルートを作り上げていたが、それが実現する前に既に名古屋方面への進出を計画し、桑名までの免許を取得した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "この免許収得に関しては、岩田橋駅 - 伊勢川口駅間で営業を行っていた軽便鉄道会社の中勢鉄道(1942年全廃)を傘下に置き、同社の支線として中川 - 久居間の免許を申請し、その後、免許を参急に譲渡させ、譲り受けた参急が区間延長申請するという方法が採られた。だが、国鉄の運営と私鉄の監督を当時行っていた鉄道省では、このまま行けば伊勢電線・国鉄線と合わせて三つ巴の競争になり、共倒れになることを危惧していた。そのため当初参急が申請した免許は名古屋までであったが、政策上、桑名までとして交付された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "参急は伊勢進出後しばらく世界恐慌の影響もあって赤字に苦しんでいた。とりあえず国鉄線や伊勢電線と連絡して、桑名・四日市から大阪方面へ向かう客を運ぶことで増収につなげようとした。1930年 - 1932年に免許線の工事を行い、そして中川駅から国鉄津駅までを津(支)線として開業させ、津駅から徒歩5分程度の伊勢電津駅(部田駅を改称したもので、参急買収後再び部田駅に戻る)との連絡も図られた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これにより津 - 伊勢間で参急と伊勢電の路線が競合することとなったが、まもなく伊勢電は伊勢進出に多額な資金を使ったことや、名古屋進出が達成できずに乗客が伸びなかったこと、熊沢が頭取を兼任していた融資元の四日市銀行(現在の三十三銀行)が取付騒ぎにあって休業したため資金繰りが悪化したことなどから経営に行き詰まり、銀行管理会社になった。そのため参急が伊勢電を1936年に吸収合併し、旧伊勢電本線を参急名古屋伊勢本線とした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "その上で、合併直前に両社の共同出資で設立されていた関西急行電鉄(関急電)によって、伊勢電・参急いずれにとっても悲願であった名古屋進出に取り掛かることとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "この区間は、前述した関西急行電鉄(関急電)によって建設されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "同区間は、木曽三川と総称される揖斐川・長良川・木曽川を越える必要があり、その橋脚建設の資金が必要であった。伊勢電の計画では、並行する関西本線の橋脚が架け替えられたため、不要となる旧橋脚を購入して敷設することにしていた(詳しくは「関西急行電鉄」を参照)。関急電もさほど資金的な余裕がなかったため、伊勢電の計画をそのまま引き継いだ。この橋脚に関しては、戦後新たに架け替えられている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "建設は日中戦争の最中に行われたため、軍事上必要な鉄の調達は難航したという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "名古屋のターミナル駅(関急名古屋駅→近鉄名古屋駅)は、伊勢電は方向転換不要なようにループ状にする計画であったが、関急電は一般的な3面3線の頭端式ホームにした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "これによって、1938年6月26日に現在の名古屋線となる区間が完成した(それに先立つ6月20日に津線と伊勢線の接続を図るため津線の江戸橋 - 津間が延伸されている)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "前述のような建設経緯から、名古屋駅 - 江戸橋駅間は狭軌 (1067mm)、江戸橋駅 - 参急中川駅(現在の伊勢中川駅)間の津線は標準軌 (1435mm)となり、名古屋 - 大阪間直通の利用客は参急中川駅でのスイッチバック(上本町駅 - 江戸橋駅間の直通列車は2往復のみで、多くの場合は乗り換え)と江戸橋駅での乗り換えを強いられた。そのため、名古屋延伸の半年後に江戸橋駅 - 参急中川駅間を狭軌化し、名阪間の移動に際しては参急中川(伊勢中川)駅での乗り換えとした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1940年に関急電は参急に合併され、関急名古屋駅(参急名古屋駅に改称) - 桑名駅間は名古屋伊勢本線に編入された。さらに1941年には参急と大軌が合併して、現在の近鉄の原型となる関西急行鉄道(関急)が発足、関急発足時の路線名整理により津線および名古屋伊勢本線参急名古屋駅(再度関急名古屋駅に改称) - 江戸橋駅間が名古屋線、江戸橋駅 - 大神宮駅前間が伊勢線になった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "山田線と重複するため、1942年に伊勢線の新松阪駅 - 大神宮前駅間を廃止した後(残存区間である江戸橋駅 - 新松阪駅間も単線化し、資材は名古屋線単線区間の主に伊勢鉄道時代に敷設された区間の複線化などに充当)は、名古屋 - 伊勢間直通の利用客も伊勢中川駅で乗り換えが必要になった。伊勢中川駅での乗り換えは最短時間になるよう配慮され、時刻表でも名古屋駅時点で「大阪行」「宇治山田行」と案内された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "悲願の名古屋線の標準軌への改軌は1960年2月の実施に向けて1957年頃から準備工事が行われた。この一環として並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えの際に不要となった橋脚を譲り受け、単線で輸送力増強の障害となっていた揖斐・長良川橋梁と木曽川橋梁についても、改軌に対応できる複線のトラス橋に架け替えることになった。後に名古屋線は1959年9月の伊勢湾台風によって特に愛知県内において線路水没・流失などの被害を受けたが、揖斐・長良川橋梁は台風襲来の7日前、木曽川橋梁については台風襲来の当日に完成したため、幸い深刻な被害はなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "これを当時社長の佐伯勇による「禍(=災い)転じて福となす」との判断で、台風による水害からの復旧を機に改軌工事を同年11月に前倒しして実施した。工事は名古屋線全線と神戸線(現在の鈴鹿線)を全体で9区画(=工区)に分け、1日につき1区画ずつ(日によって2区画)昼間の6時間(概ね9時30分-15時30分)をバス代行とし、千数百人に及ぶ作業員らによって午前からレールの移設を始め昼過ぎには完了、夕方には改軌の済んだ線路上で定期列車の運行が行われた。同年11月27日には全ての区間での工事が完了し、その後線路の道床改良を経て、同年12月12日より名古屋駅 - 上本町駅間と名古屋駅 - 宇治山田駅間の直通運転が開始された。また、前述のような事情で随所に存在した急カーブも改軌に先駆ける形で複線化を兼ねた線形改良がなされ、多くが解消されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、伊勢線は狭軌のまま水害から復旧したが、伊勢湾台風襲来から1年4か月後の1961年1月に全線廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "近鉄名古屋発は日中おおむね1時間あたり特急4本(0分:大阪難波駅行き甲特急、10分:賢島駅行き、30分:大阪難波駅行き乙特急、50分:鳥羽駅または宇治山田駅行き)、急行3本、準急2本、普通3本の運転。夕ラッシュ時の下りは特急は5本、急行・普通は各4本、準急は1 - 3本の運転である。朝の名古屋方面は各種別が増発され、特に急行は津新町・白子・近鉄四日市各駅発なども加わる。定期列車の車両増結・切り離しは近鉄四日市駅・塩浜駅・伊勢中川駅で行われている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "大阪線・奈良線と並ぶ近鉄の主要幹線であるが、両線にはある快速急行の設定が当線にはない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "特急には停車駅の少ない甲特急と多い乙特急があり、名古屋線内では大阪方面との名阪甲特急は津駅のみ、名阪乙特急はそれに加えて桑名駅・近鉄四日市駅・白子駅に停車し、伊勢志摩方面との名伊甲特急は津駅に、名伊乙特急は名阪乙特急の停車駅と伊勢中川駅に加え朝夕の一部列車が久居駅に、2013年運行開始の観光特急「しまかぜ」は近鉄四日市駅のみ停車する。なお、大阪方面と直通する名阪特急は中川短絡線を通行するため、全列車伊勢中川駅のホームに停車しない(ただし料金・運賃は、伊勢中川駅を折り返しての計算となる)。最大8両編成まで運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は名阪甲特急・乙特急が1時間あたり各1本、名伊乙特急が1時間あたり2本運転されている。18時台 - 19時台のラッシュ時は名阪甲特急・乙特急が1時間に1本ずつ運転、名伊乙特急が1時間に3本(3本とも久居駅に停車)運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "名古屋線内では特急列車の向きは大阪方面への列車に合わせているため「しまかぜ」と「伊勢志摩ライナー」(これらの車両は中川短絡線を通らないため、名古屋方面⇔大阪・伊勢志摩方面を基本としたとき、名古屋方面先頭車両が他の車両の大阪・伊勢志摩方面先頭車両となる)を除いて同じである(号車番号の振り方はどの列車も同じで、名古屋方面先頭車両が1号車となる)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "名古屋線で終日運転されている。2018年3月17日のダイヤ変更時点における名古屋線の途中停車駅は、乙特急の基本停車駅に加えて近鉄蟹江駅、近鉄弥富駅、近鉄富田駅、塩浜駅、伊勢若松駅、江戸橋駅、津新町駅、南が丘駅、久居駅、桃園駅である。特急を除く三重県内における長距離速達種別であり、普通列車の本数が減少する津新町駅 - 伊勢中川駅間を各駅に停車することで同区間における普通列車を補完する役割を担う。準急や普通とは異なり、愛知県内で完結する列車は存在しない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "8時から17時台までは、近鉄名古屋駅 - 山田線松阪駅間で1時間あたり3本設定されており、このうち1本が山田線宇治山田駅もしくは鳥羽線五十鈴川駅に直通している。朝と夕方以降には、津新町駅や伊勢中川駅発着のほか、一部の列車が鳥羽線鳥羽駅発着で運転されている。朝は津新町駅・白子駅・近鉄四日市駅発の列車も設定され、平日朝7時台に近鉄四日市駅を発車する名古屋方面の急行は8本となっている。夕方(近鉄名古屋駅発平日17 - 20時台、土休日18時台)の下り列車は1時間に4本、夜間(近鉄名古屋駅発平日22時台、土休日21 - 22時台)の下り列車は1時間2本が運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "途中駅における他種別との連絡は夕ラッシュ時を除き近鉄蟹江駅・近鉄四日市駅・白子駅で普通に、朝 - 日中は近鉄四日市駅で準急に連絡する。夕ラッシュ時は近鉄蟹江駅で富吉駅発着の普通(一部列車のみ)、近鉄弥富駅で準急、近鉄四日市駅と白子駅で普通に連絡する。夜間の津新町行きの一部は江戸橋駅で伊勢中川行き普通に連絡する。なお、伊勢中川駅以南に直通する列車は伊勢中川駅で大阪線一般列車や賢島方面発着の普通列車および阪伊乙特急との連絡が考慮されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "特急列車の待避は主に塩浜駅・伊勢若松駅・江戸橋駅で行われている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "編成は近鉄名古屋側から2両+4両の6両編成を基本とするが、平日早朝の伊勢中川駅5:49発の名古屋行きと平日夜の近鉄名古屋駅20:49発松阪行きの塩浜駅以南は4両編成、平日朝の近鉄四日市駅7:54発の平田町行きは3両編成で運転されている。近鉄四日市駅以南を発着する列車では全列車にトイレが付いている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2000年までは津新町駅折り返しの急行が日中に1時間あたり1本設定され、津新町駅 - 伊勢中川駅間は1時間あたり2本の運転であったが、2001年に伊勢中川駅折り返し、2012年に松阪駅折り返しに変更され、全区間1時間あたり3本運転となった。この間2002年のダイヤ変更で近鉄蟹江駅が停車駅に追加されている。また、2003年までは日中にも鳥羽駅発着の列車が多数設定されていたが、2004年のダイヤ変更で鳥羽駅発着の大多数が宇治山田駅・五十鈴川駅折り返しに変更となり、それ以降、鳥羽駅発着は朝と夕方 - 夜間(鳥羽駅行きのみ)に設定されるのみとなった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日のダイヤ変更では日中時間帯の近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の列車が増発され(平日・休日ともに12本増、いずれも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の準急の一部を格上げ)、同区間では1時間に4本の急行が運行された。しかし、2016年3月19日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発と近鉄名古屋駅15時台発の1往復を除いて全て準急に格下げされた。残る1往復も、2020年3月14日のダイヤ変更で近鉄名古屋駅15時台発の1本が、2021年7月3日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発の1本が準急に格下げされ、日中の近鉄四日市駅発着急行は消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2018年3月17日のダイヤ変更では南が丘駅、桃園駅が停車駅に追加され、江戸橋駅 - 伊勢中川駅間で各駅に停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2021年7月3日のダイヤ変更時点では急行以下の列車で名古屋線と大阪線の間で直通運転を行う列車は存在しない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日までは早朝に1本のみ名張駅発近鉄名古屋駅行き急行が設定されており、この列車は中川短絡線を経由せず、伊勢中川駅で方向転換(スイッチバック)して名古屋線へ直通運転し、大阪線内では新青山トンネルを通過するため後述の大阪線所属編成が充当されていた。なお、近鉄名古屋駅 - 名張駅間の距離は120.6kmで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間の距離120.4kmより0.2kmだけ長く、ダイヤ上は近鉄名古屋駅発着の最長運転距離の急行であった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2020年3月13日までは、早朝の近鉄名古屋始発の急行の一部の列車は伊勢中川到着後、そのまま列車番号と行先を変更し、そのまま大阪線へ入る運用が存在していた。これらの運用には、大阪線の車両が当てられていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2021年7月3日のダイヤ変更時点で、鈴鹿線と直通する列車は、平日朝に近鉄四日市駅発平田町駅行きの急行が1本のみ運転されている。平田町駅発や土曜・休日は運転されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2012年3月18日までは土曜・休日も平田町駅行きと平田町駅発近鉄四日市駅行きが各1本運転されていたが、同年3月20日のダイヤ変更で廃止されている。1987年以前は平田町駅折り返し列車が終日設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "編成両数は鈴鹿線のホーム有効長の関係から、3両編成で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1983年のダイヤ変更で設定された2代目の準急である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "終日運転され、日中は近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間で1時間あたり2本、日中以外は近鉄名古屋駅 - 富吉駅・近鉄四日市駅間で運転される。近鉄名古屋駅 - 近鉄蟹江駅間はノンストップで、近鉄蟹江駅以南は各駅に停車する。愛知県内での短距離速達種別である一方で三重県内における普通列車の補完という位置付けになっている。なお、近鉄四日市駅に到着する列車の大半は、列車種別を「普通」に変更して塩浜駅・津新町駅・伊勢中川駅まで運転を継続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "日中の準急は始発駅を急行の続行で発車するため、近鉄四日市駅まで後の急行より先着する。待避回数によって所要時間に差があるものの、近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の標準所要時間は50分強。そのうち、急行との相互接続や通過待ちを行わない列車の最短所要時間は45分であり、同一区間を最短時分で運転する急行と比較しても10分弱の時間差しかない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "途中駅での他種別との連絡については、ほぼ終日にわたって近鉄蟹江駅か富吉駅と近鉄四日市駅で乙特急と、近鉄四日市駅で急行と、近鉄蟹江駅か富吉駅で普通列車と接続する。ラッシュ時の一部は近鉄蟹江駅・近鉄弥富駅・桑名駅(上り列車のみ)・近鉄富田駅(川越富洲原駅で待避する列車のみ)で急行と接続する列車があり、夜間の富吉駅発着の一部に近鉄蟹江駅または富吉駅で、四日市方面発着の普通列車に接続する列車が存在する。一方で列車待避については上記の接続駅以外に益生駅や川越富洲原駅でも行われ、ラッシュ時には近鉄八田駅で普通列車を追い抜く列車も存在する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2002年ダイヤ変更までは、終日にわたり近鉄蟹江駅または富吉駅で普通と準急の、近鉄弥富駅で準急と急行の接続をとっていたが、同ダイヤ変更で近鉄蟹江駅が急行停車駅に追加されたことにより、ラッシュ時のみ接続するようになった。名古屋市内の急行通過駅から四日市方面へは近鉄蟹江駅で急行に乗り換えられるようになり、日中において準急の必要性が減少したため、同ダイヤ変更から2012年ダイヤ変更までは日中の富吉駅 - 近鉄四日市駅間は準急が運転されていなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "編成両数は基本的に3両編成で、ラッシュ時は4両(2両+2両)か5両(3両+2両)編成で運転され、4両(2両+2両)で運転される平日朝の1本と平日・土休日夜の1本については近鉄四日市駅で普通に種別変更する際に、後部編成を切り離す。また、土休日の近鉄四日市駅8:17発近鉄名古屋駅行きは急行の編成を単独で使う運用で、5200系を除く名古屋線所属の4両編成のいずれかが充当される。富吉駅での増結や車両切り離しは設定されていない。富吉行きの一部の列車は富吉車庫への入出庫回送兼用で急行の車両を使用した6両で走るが、この場合は近鉄名古屋駅の3番線から発車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "各駅に停車する。日中は1時間あたり近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の系統が2本、近鉄名古屋駅 - 津新町駅(一部時間帯は伊勢中川駅)、近鉄四日市駅 - 塩浜駅、近鉄四日市駅 - 津新町駅間の系統が1本ずつ運転されており、富吉駅 - 近鉄四日市駅間で各駅停車になる毎時2本の準急を含めて、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間では1時間あたり3本の本数が確保される。近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の列車は伊勢中川駅で賢島方面からの列車と相互接続するようになっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ラッシュ時については全線通しで運転されるのは一部のみであり、近鉄名古屋駅 - 富吉駅間および近鉄四日市駅 - 津新町駅・伊勢中川駅間の区間運転が主である。後者は大多数の列車が近鉄四日市駅で準急に種別変更して近鉄名古屋駅まで運行を継続している。その他、早朝・夜間とラッシュ時の前後時間帯に桑名駅・塩浜駅・白子駅・白塚駅を発着とする列車や、近鉄名古屋駅・富吉駅 - 近鉄四日市駅間を普通列車として運行する列車、編成送り込み・入庫回送兼用として近鉄名古屋駅・近鉄四日市駅 - 塩浜駅間および白塚駅 - 伊勢中川駅間の区間運転列車もあり、白塚駅 - 志摩線賢島駅間で運転される列車が早朝下り(平日・土休日とも)と夜上り(平日のみ)に各1本設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "編成両数は原則として2両か3両編成で運転されており、急行・準急通過駅の多くはホームが最大3両または4両までしか対応しておらず、近鉄の非ワンマン車にはドアカット機能がないため、臨時列車を除けば途中駅での増結・解放も行われないが、早朝の白子駅・塩浜駅の下り始発列車は白塚駅で車両交換を実施して白塚駅 - 伊勢中川駅間を4両編成で運転される。また、平日のみ上りにおいて白塚駅ゆきの列車2本(朝・深夜に各1本)が4両編成で運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日のダイヤ変更より全線通しで運転される列車は従来より削減され、日中にも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の列車が毎時1本運転されるようになったが、2016年3月19日のダイヤ変更で全線通し運転の列車が毎時1本設定されるようになり、志摩線直通列車は毎時1本に削減された。2018年3月17日のダイヤ変更より、普通列車は昼間の時間帯の列車が津新町駅までの運転となったため、白塚駅 - 伊勢中川駅間で実施していたワンマン運転が見直された。2021年7月3日のダイヤ変更より、従来近鉄四日市駅から津新町駅までの運転だった昼間の毎時2本の列車のうち1本が塩浜駅止まりとなり、塩浜駅 - 津新町駅は毎時3本から毎時2本に減便となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2018年3月16日まで志摩線直通の列車がワンマン運転で運行されており、日中から夕方にかけて白塚駅 - 志摩線賢島駅間で運転されていた。ワンマン列車は全列車2両編成で運転されたが、平日朝の山田線宇治山田7:01発白塚行きに限り後述の急行用車両を用いた4両編成で運転されていた。名古屋線所属の2両編成ワンマン車両には、支線用ワンマン車両にはないドアカット機能があり、無人駅では1両目後乗り・前降りとして運転士が運賃精算を行う形となっており、白塚駅以南のワンマン列車はこのシステムを採用していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1983年3月18日のダイヤ変更前まで設定されていた。1950年9月時点の停車駅は近畿日本名古屋駅・近畿日本弥富駅・桑名駅・益生駅・富洲原駅・近畿日本富田駅・阿倉川駅・諏訪駅・四日市駅・塩浜駅・伊勢若松駅・白子駅・江戸橋駅・津駅・津新町駅・久居駅・伊勢中川駅の系統と、前述のほか近畿日本蟹江駅にも停車し、塩浜駅以南は各駅停車となる系統があった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "停車駅の変遷は以下の通り。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "この後、1983年の廃止まで近鉄蟹江駅 - 近鉄四日市駅間では佐古木駅・霞ヶ浦駅・川原町駅の3駅を通過した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1963年頃には毎時2本ほどの準急が設定され、そのほとんどは鈴鹿線直通の近畿日本名古屋駅 - 平田町駅間の運用だったが、早朝と夕方に各1往復ずつ、伊勢中川駅発着と山田線宇治山田駅発着の列車が存在した。平田町駅発着の準急は2両編成、伊勢中川駅および宇治山田駅発着の準急はクロスシート車の5両編成が充当されていた。このうち宇治山田駅発着列車は鳥羽線全通に伴う1970年3月21日ダイヤ変更で鳥羽駅発着に延長されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "1964年3月23日のダイヤ変更まで、現在の準急に近い列車として直行が運転されていた。近畿日本名古屋駅 - 伊勢中川駅(1959年の改軌後は宇治山田駅)間に運転され、停車駅は近畿日本蟹江駅と近畿日本弥富駅以南の各駅であった。近畿日本名古屋駅 - 近畿日本弥富駅間の各駅は同区間折り返しの普通列車が停車していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "大晦日から元日にかけての終夜運転は、近年は近鉄名古屋駅 - 伊勢方面間に乙特急・急行が30 - 60分間隔(一部時間帯を除く)で運転されるほか、名古屋線の全区間で普通(一部準急)が30 - 60分間隔で運転される。なお、2022年元旦以降は急行は運転されなくなった。また、湯の山線・鈴鹿線では近年実施されておらず、列車の運転区間は時間帯によって一定していない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "沿線の神社や仏閣への年越し参り向けの運行であるため、ビジネス向けである名阪特急は終夜運転を行わない。従って、名古屋 - 大阪方面間へは伊勢中川駅で乗り換えが必要である。また、乙特急は一部列車停車駅の久居駅を含めた基本停車駅の全てに停車するが(2020年元旦までは久居駅は通過していた)、阪伊特急やかつての吉野特急のように通常ダイヤでは停車しない駅への特別停車は実施されず、急行の特別停車も行われない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "名古屋線沿線でイベントや大学入学試験などが行われる際は、臨時列車の運転や、臨時停車が実施される。臨時急行の多くは定期急行同様に4両編成か6両編成で運転され、普通列車も一部区間では最大5両編成まで増結が行われる。このうち、桑名駅と津駅を終着とする臨時急行が運転される際は、「急行 桑名」および「急行 津」の方向幕表示が用意されていないため、簡易方向板を掲出して運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2020年4月1日時点。名古屋線で使用される車両の配置検車区については、記述の無いものについては富吉検車区の配置である。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "4両編成は配置されている全編成がトイレ装備車を連結する。新製導入は1998年の5800系5812Fが最後であり、2000年以降に登場したいわゆるシリーズ21は配置されておらず、定期列車に使用されることもない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "標準軌線区の各線で運用されている。「大阪線」の項も参照。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "名古屋線の一般車両については、一部例外はあるものの編成両数と列車種別で車両運用が概ね区分されている。3両編成については準急・普通列車、2両編成については準急・普通列車の他に急行の増結車、4両編成については急行の運用が中心となっている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "過去の車両では、名古屋線には奈良線や大阪線のような連続急勾配がないことから抑速ブレーキが省略されており、これらの車両が大阪線の運用に入らないように配慮されていたほか、五位堂検修車庫の完成後も、上記の理由で大阪線の連続急勾配を通行できない車両が多く存在したことから塩浜検修車庫に工場機能が残された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "廃止区間の駅は次節を参照。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "海山道駅 - 四日市駅 - 諏訪駅 - 西町駅 - 川原町駅",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "2018年11月13日調査による主要駅の乗降客数は次の通り。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "全線でPiTaPaやICOCAのほか、TOICAやmanacaなどの交通系ICカードが全国相互利用サービスにより利用できる。",
"title": "ICカードの利用"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2007年4月1日のPiTaPa導入までの間に、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間の全駅と急行停車駅に自動改札機が設置された。また、近鉄線の大半でICOCA定期券の供用を開始することに伴い2014年末までに桃園駅を除く全駅に自動改札機が設置された。",
"title": "ICカードの利用"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "交通系ICカードでは、連絡運輸のない阪神電気鉄道線(神戸三宮方面)・神戸高速線・山陽電気鉄道線(山陽姫路・山陽網干方面)間を連続して乗車することが可能である。",
"title": "ICカードの利用"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "1992年(平成4年)運輸政策審議会答申第12号によると、戸田駅で名古屋市営地下鉄の金山線との相互直通運転を検討するとしている。しかし、2020年時点においても金山線自体に事業化の動きはない。",
"title": "構想・計画"
}
] |
名古屋線(なごやせん)は、三重県松阪市の伊勢中川駅から愛知県名古屋市中村区の近鉄名古屋駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線である。
|
{{混同|名古屋本線|redirect=名古屋線|link1=名鉄名古屋本線|x1=名古屋鉄道の}}
{{出典の明記|date=2016年8月}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:KintetsuLogo.svg|19px|近畿日本鉄道|link=近畿日本鉄道]] 名古屋線
|路線色 = #153F97
|ロゴ = [[file:KT number-E.svg|40px|E]]
|画像 = Kintetsu 80000 Series between Kasumigaura and Kintetsu-Tomida.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = [[霞ヶ浦駅]] - [[近鉄富田駅]]間を走行する<br />名阪特急[[近鉄80000系電車|ひのとり]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[三重県]]、[[愛知県]]
|起点 = [[伊勢中川駅]]
|終点 = [[近鉄名古屋駅]]
|路線記号 = [[file:KT number-E.svg|20px|E]] <ref group="*">中京圏では[[名古屋市営地下鉄名港線]]も同じ「E」の路線記号を使用するが、本路線と関連はない。</ref>
|駅数 = 44駅
|開業 = [[1915年]][[9月10日]]
|項目1 = 全通
|日付1 = [[1938年]][[6月26日]]
|項目2 = [[改軌]]
|日付2 = [[1938年]][[12月7日]]([[江戸橋駅]]以南、[[改軌#軌間1435mmから軌間1067mmに改軌した例|概要]])<br />[[1959年]][[11月19日]] - [[11月27日|27日]](全線、[[改軌#軌間1067mmから軌間1435mmに改軌した例|概要]])
|廃止 =
|所有者 = <!-- [[大阪電気軌道|参宮急行電鉄]]+[[伊勢電気鉄道|(伊勢鉄道→)伊勢電気鉄道]]→参宮急行電鉄+[[大阪電気軌道|関西急行電鉄]]→参宮急行電鉄→[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]→ -->[[近畿日本鉄道]]
|運営者 = 近畿日本鉄道
|車両基地 = [[白塚検車区|明星検車区白塚車庫]]、[[富吉検車区]]、同区米野車庫
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線距離 = 78.8 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
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|最大勾配 = 33.5 [[パーミル|‰]]
|保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|近鉄型ATS]]、[[自動列車停止装置#ATS-SP|ATS-SP]]
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』([[ネコ・パブリッシング]])</ref>
|路線図 = [[File:Kintetsu Corporation Linemap.svg|300px]]
}}
<!-- 煩雑になるため高架・直通先・高速道路は省略。凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#153f97
|title-color=white
|collapse=yes
|map=
{{BS||||1: [[東海旅客鉄道|JR東海]]:{{rint|ja|新幹線|東海道}} [[東海道新幹線]]}}
{{BS6text|1|2|3|||||2: [[稲沢線]] 3: JR東海:{{rint|ja|ccan}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道線]]|}}
{{BS6|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|HUB+r|||||[[名古屋駅]]|}}
{{BS6|STR|STR|STR|HUBtl|tBHF|O5=HUBeq||||[[名鉄名古屋駅]]|}}
{{BS6|STR|STR|STR|tKBHFa|O4=HUBe|tSTR||78.8|E01 [[近鉄名古屋駅]]|{{rint|nagoya|h}} {{rint|nagoya|s}}|}}
{{BS6|STR|STR|STR|etKRWg+l|etKRWgr|||''名鉄連絡線''| -1954|}}
{{BS6|STR|STR|STR2|tSTR3|O4=STRc3|tSTRl|tSTRq|||[[名古屋鉄道|名鉄]]:{{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]|}}
{{BS6|STR|STR|tSTR+1|O3=STRc1|ABZ4+fl|STRq|STRq|||JR東海:{{rint|ja|ccan}} 東海道線・{{rint|ja|ccf}} [[中央線 (名古屋地区)|中央線]]|}}
{{BS6|STRl|KRZu|tKRZ|KRZu|STRq|STRq|||JR東海:{{rint|ja|新幹線|東海道}} 東海道新幹線|}}
{{BS6||STRl|tKRZ|KRZu|STR+r|exKBSTa|||''[[笹島駅]]''|}}
{{BS6||KDSTa|tSTRe|STR|STR|exSTR||富吉検車区米野車庫||}}
{{BS6||KRWl|KRWg+r|STR|HST|exSTR|||[[ささしまライブ駅]]|}}
{{BS6|||SBRÜCKEa|SBRÜCKEm|SBRÜCKEe|exSTR|||[[ささしま米野歩道橋]]|}}
{{BS6|||BHF|KRWgl|KRWl+r|xKRWg+r|77.7|E02 [[米野駅]]||}}
{{BS6|||STR|BST|STR|STR|||JR東海:[[名古屋車両区]]}}
{{BS6|||STR2|KRWl|O4=STRc3|KRWg+lr|KRWgr|||}}
{{BS6|||STRc1|STR+4|BST|STR|||JR東海・名臨高:[[笹島信号場]]|}}
{{BS6||||BHF|STR|STR|76.7|E03 [[黄金駅 (愛知県)|黄金駅]]||}}
{{BS6||||STR|STR|KBSTe|||[[東海旅客鉄道名古屋工場|名古屋工場・名古屋車両所]]|}}
{{BS4|||BHF|STR|76.0|E04 [[烏森駅]]||}}
{{BS6||||STR|ABZgl+xl|STRq|||[[名古屋臨海高速鉄道|名臨高]]:[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]|}}<!--未成線は南方貨物線関連の連絡線-->
{{BS4|||BHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq|75.0|E05 [[近鉄八田駅]]| (2)/[[八田駅]] {{rint|nagoya|h}}|}}
{{BS4|||eBHF|STR|74.8|''近鉄八田駅 (1)''| -2005|}}
{{BS4|STR+l|STRq|KRZo|STRr|||JR東海:[[関西線 (名古屋地区)|関西線]]|}}
{{BS4|LSTR||hKRZWae|||[[庄内川橋梁 (近鉄名古屋線)|庄内川橋梁]]|[[庄内川]]|}}
{{BS2||BHF|72.4|E06 [[伏屋駅]]||}}
{{BS2||hKRZWae|||[[新川 (庄内川水系)|新川]]|}}
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{{BS2||BHF|69.1|E08 [[近鉄蟹江駅]]||}}
{{BS2|KDSTa|BHF|66.7|E09 [[富吉駅]]||}}
{{BS2|KRWg+l|KRWgr||[[富吉検車区]]富吉車庫||}}
{{BS4|LSTR|ENDEe|STR|||||}}
{{BS4|STR2|STRc3|BHF||65.1|E10 [[佐古木駅]]||}}
{{BS4|STRc1|STR+4|BHF||62.7|E11 [[近鉄弥富駅]]||}}
{{BS4|KXBHFa-L|XBHF-R|STR||||[[弥富駅]]|}}
{{BS4|STRr|STR|STR||||名鉄:{{名鉄駅番号|TB}} [[名鉄尾西線|尾西線]]|}}
{{BS2|STR|eDST|61.5|''木曽川分岐信号場''| -1959|}}
{{BS4|exSTR+l|eKRZu|eABZgr|||''弥富跨線橋''| -1959|}}
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{{BS4|exSTRl|eKRZu|eABZg+r|||''長島跨線橋''| -1959|}}
{{BS2|BHF|BHF|59.3|E12 [[近鉄長島駅]]|/左:[[長島駅]]|}}
{{BS4||eKRWg+l|eKRWglr|exKRW+r||||}}
{{BS4||hKRZWae|hKRZWae|exhKRZWae||[[揖斐・長良川橋梁 (近鉄名古屋線)|揖斐・長良川橋梁]]||}}
{{BS4||STR|eKRWg+l|exKRWr|||[[揖斐川|揖斐]]・[[長良川]]|}}
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{{BS2|eKRWgl|eKRWg+r||||}}
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{{BS2|STR2u|STR3||||}}
{{BS4||STR+1|STR2+4|O3=ÜWu4|STRc3|O4=POINTER3|||JR東海:{{rint|ja|ccj}} 関西線|}}
{{BS6|DSTq|kABZq2|KRZo+k3|STR+r|O4=STRc1|STR+4||||{{BSsplit|[[養老鉄道]]:[[養老鉄道養老線|養老線]]|桑名台車交換所([[東方駅|東方信号場]])}}|}}
{{BS6|||kABZg+4|eKRWg+l|eKRWgr|uexKBHFaq|O6=HUBa|||''[[桑名電軌]] 桑名駅前駅''|}}
{{BS6|||XBHF-L|O3=HUBaq|KXBHFe-R|O4=HUBq|BHF|O5=HUBq|exSTR+l|O6=HUBtr|55.1|E13 [[桑名駅]]|[[三重交通]]:''北勢線''|}}
{{BS6|||KRWl|KRW+r|STR|KBHFxa|O6=HUBe|||[[西桑名駅]]|}}
{{BS6||||KRZu|KRZu|STRr|||[[三岐鉄道|三岐]]:[[三岐鉄道北勢線|北勢線]]|}}
{{BS4|||BHF|eHST|54.0|E14 [[益生駅]]|/右:''桑名仮駅''|}}
{{BS4|||STR|BST|||[[朝明信号場]] (2)|}}
{{BS4|||hKRZWae|hKRZWae|||[[員弁川]]|}}
{{BS4|||eBHF|STR||''[[町屋駅 (三重県)|町屋駅]]''| -1952以前|}}
{{BS4|STR+l|eBSTq|KRZo|STRr|||''朝明信号場 (1)''|}}
{{BS4|LSTR||BHF||51.4|E15 [[伊勢朝日駅]]||}}
{{BS2||hKRZWae|||朝明川|}}
{{BS2||eBHF||''[[川越駅 (三重県)|川越駅]]''| -1945|}}
{{BS2||BHF|48.8|E16 [[川越富洲原駅]]||}}
{{BS4|LSTR||eBHF|||''富洲原駅''| -1945|}}
{{BS6|STR2+4|O1=lBST|STR3u||STR|||||三岐:[[三岐鉄道三岐線|三岐線]] [[三岐朝明信号場]]|}}
{{BS6|STR+1u|ABZ4+2f|STRc3|STR||||||}}
{{BS6|STR2u|STR3|O2=STRc1|eHSTl+4|O3=STRc2|P3=HUBa|KRZq3u|STRq|STR+r|||''富田西口駅'' -1985|}}
{{BS6|STR+1|STRl+4u|O2=STRc2|KRZq3+1u|O3=HUB|STRq|O4=STRc4|HST2+r|BST|O6=STRc3|||[[富田駅 (三重県)|富田駅]]|}}
{{BS6|STR|O1=POINTERg@fq|STR+1|STRc4|O3=HUB||STRc1|ABZg+4|||三岐:近鉄連絡線|}}
{{BS6|KXBHFe-L|O1=HUBaq|XBHF-R|O2=HUBq|HUBrf|||LSTR|47.2|E17 [[近鉄富田駅]]||}}
{{BS4|eBHF|||||''霞ヶ浦駅 (1)''| -1943|}}
{{BS4|BHF||||45.3|E18 [[霞ヶ浦駅]] (2)||}}
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{{BS4|TUNNEL2|||||羽津城跡|}}
{{BS4|TUNNEL2||||||}}
{{BS4|BHF||||44.2|E19 [[阿倉川駅]]||}}
{{BS4|hKRZWae||||||[[海蔵川]]|}}
{{BS4|BHF||||43.1|E20 [[川原町駅]]||}}
{{BS4|hKRZWae||||||[[三滝川]]|}}
{{BS4|eBHF|||||''西町駅''||}}
{{BS6||eABZg2|exSTRc3|O3=POINTER3|||LSTR||''[[善光寺カーブ|天理教カーブ]]''|}}
{{BS6|exABZq+r|O1=kSTR2+r|eKRZo+k3|O2=exSTRc1|exSTRl+4|O3=exABZq+l|exBHFq|exSTR+r|STR|42.0|''[[近鉄四日市駅#諏訪駅|諏訪駅]]''| -1956 ←{{rint|osaka|ktk}} [[近鉄湯の山線|湯の山線]]|}}
{{BS6|exSTR|kABZg+4|exSTR||exSTR|O5=POINTERg@fq|STR||''[[善光寺カーブ]]''||}}
{{BS6|exSTR|STR|exSTR||exBHF|O5=HUBaq|STR|O6=HUBlg||''四日市駅''| -1956|}}
{{BS6|exSTR|O1=HUBrg|BHF|O2=HUBeq|exSTR||exSTR|BHF|O6=HUBe|41.9|E21 [[近鉄四日市駅]]|/[[四日市駅]]|}}
{{BS6|KBHFxa|O1=HUBe|STR2|xSTR3u||exSTR|STR|||[[近鉄四日市駅|あすなろう四日市駅]]|}}
{{BS6|xABZqr|exSTRr+1|O2=ÜWu1|STR2+4|STRc3|exSTR|STR|||[[四日市あすなろう鉄道]]:[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]]|}}
{{BS6|||STRc1|BHF+4|O4=exSTRc2|exSTR3|STR|40.7|E22 [[新正駅]]||}}
{{BS6||||eABZg+1|exSTRc4|STR||||}}
{{BS6||||eDST|STRc2|STR3|40.1|''鹿化川分岐信号場''| -1956|}}
{{BS6|||STRq|KRZo|ABZ1+fr|STRc4|||JR東海:{{rint|ja|ccj}} 関西線|}}
{{BS4|||STR|STR|||JR貨物:関西線貨物支線|}}
{{BS4|||BHF|STR|39.2|E23 [[海山道駅]]||}}
{{BS4||KDSTa|BHF|DST|38.0|E24 [[塩浜駅]]||}}
{{BS4||KRWgl+l|KRWgr+r|STRl||[[塩浜検修車庫]]||}}
{{BS2|ENDEe|STR||||}}
{{BS2||hKRZWae|||[[鈴鹿川]]|}}
{{BS2||BHF|36.2|E25 [[北楠駅]]||}}
{{BS2||hKRZWae|||鈴鹿派川|}}
{{BS2||BHF|34.6|E26 [[楠駅]]||}}
{{BS2||BHF|33.2|E27 [[長太ノ浦駅]]||}}
{{BS2||eDST|32.9|''楠箕分岐信号場''| -1943|}}
{{BS2||BHF|31.8|E28 [[箕田駅]]||}}
{{BS2||BHF|30.5|E29 [[伊勢若松駅]]||}}
{{BS2||ABZgr|||{{rint|osaka|ktl}} [[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]|}}
{{BS2||BHF|28.7|E30 [[千代崎駅]]||}}
{{BS2||eDST|27.4|''白崎分岐信号場''| -1943|}}
{{BS2||eBHF|26.9|''玉垣口駅''|-1926|}}
{{BS2||BHF|25.9|E31 [[白子駅]]||}}
{{BS2||BHF|24.7|E32 [[鼓ヶ浦駅]]||}}
{{BS2||BHF|22.8|E33 [[磯山駅]]||}}
{{BS2||BHF|20.9|E34 [[千里駅 (三重県)|千里駅]]||}}
{{BS2||eDST|20.7|''上磯分岐信号場''| -1944|}}
{{BS2||eBHF|19.9|''伊勢上野駅''| -1943|}}
{{BS2||BHF|19.0|E35 [[豊津上野駅]]||}}
{{BS2||eBHF|18.2|''豊津浦駅''| -1943|}}
{{BS4|||BHF|KDSTa|17.1|E36 [[白塚駅]]||}}
{{BS4|||KRWgl|KRWg+r||[[明星検車区]][[白塚検車区|白塚車庫]]||}}
{{BS4|||STR|ENDEe||||}}
{{BS2||eBHF|15.9|''[[白塚駅|逆川駅]]''| -1944|}}
{{BS2||eDST|15.6|''逆川分岐信号場''| -1955|}}
{{BS6|STR+r|exSTR+l|exSTRq|eABZgr|||||[[伊勢鉄道]]:[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]|}}
{{BS6|HST|exSTR||STR|||||[[東一身田駅]]|}}
{{BS6|STR|exBHF||STR|||15.1|''高田本山駅 (1)''| -1955|}}
{{BS6|STR|exSTR||BHF|||14.7|E37 [[高田本山駅]] (2)||}}
{{BS6|LSTR|exSTRl|exBHFq|eABZg+r|||14.1|''三軒家駅''|-1921|}}
{{BS2||eDST||''三軒家分岐信号場''|1967-1973|}}
{{BS2||BHF|13.5|E38 [[江戸橋駅]] (2)||}}
{{BS2||eBHF|13.3|''江戸橋駅 (1)''| -1959|}}
{{BS6|LSTR|||eABZgl|exSTRq||||''[[近鉄伊勢線|伊勢線]]''|}}
{{BS6|STRl|STRq|STRq|KRZo|STRq|STR+r||||}}
{{BS6|STRq|STRq|STRq|KRZo|STR+r|STR|||JR東海:[[紀勢本線]]|}}
{{BS6||||STR|KRWg+l|KRWgr||||}}
{{BS6||||BHF|O4=HUBaq|XBHF-L|O5=HUBq|KXBHFe-R|O6=HUBeq|12.3|E39 [[津駅]]||}}
{{BS4|||hKRZWae|hKRZWae|||[[安濃川]]|}}
{{BS4|||BHF|STR|10.0|E40 [[津新町駅]]||}}
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{{BS2|uexLSTR|eDST|7.2|''二重池信号場''| -1953|}}
{{BS2|exmBHFa|BHF|4.8|E42 [[久居駅]]||}}
{{BS2|exSTR|STR|||''中勢鉄道:鉄道線''|}}
{{BS2|exSTRr|BHF|3.3|E43 [[桃園駅]]||}}
{{BS2||eDST|1.9|''雲出川分岐信号場''| -1972|}}
{{BS2||hKRZWae|||[[雲出川]]|}}
{{BS2|WASSER+l|hKRZWae|||[[中村川 (三重県)|中村川]]|}}
{{BS2|WASSER|DST||53号ポイント(黒田分岐)||}}
{{BS4|SHI4+rq|hKRZWaeq|ABZgr||||[[伊勢中川駅#中川短絡線|中川短絡線]]|}}
{{BS4|SHI4glq|hKRZWaeq|ABZg+r||||{{rint|osaka|ktd}} [[近鉄大阪線|大阪線]]|}}
{{BS2||BHF|0.0|E61 [[伊勢中川駅]]||}}
{{BS2||STR|||{{rint|osaka|ktmy}} [[近鉄山田線|山田線]]|}}
}}
'''名古屋線'''(なごやせん)は、[[三重県]][[松阪市]]の[[伊勢中川駅]]から[[愛知県]][[名古屋市]][[中村区]]の[[近鉄名古屋駅]]までを結ぶ[[近畿日本鉄道]](近鉄)の[[鉄道路線]]である。
== 概要 ==
近鉄の路線で唯一、[[近畿地方]]を越えて愛知県に敷設されている。[[伊勢中川駅]]から[[近鉄大阪線]]や[[近鉄山田線]]に直通して名古屋と[[大阪]]や[[三重県]]の[[伊勢志摩]]を結ぶ[[近鉄特急|特急列車]]が多数運行されている。また、名古屋市と三重県北中部の沿線都市([[桑名市|桑名]]・[[四日市市|四日市]]・[[鈴鹿市|鈴鹿]]・[[津市|津]]など)を中心とした地域輸送も担っており、名古屋への通勤・通学路線となっている。[[東海旅客鉄道]](JR東海)の[[関西線 (名古屋地区)|関西線]]([[関西本線]])と競合関係にあるが、競合区間において単線部分が多く存在するJR関西本線に対して線路設備・運行本数・利便性などで当路線が優位に立っている。
[[中京圏|中京大都市圏]]内の地域輸送を担うほか、[[近鉄大阪線]]・[[近鉄難波線|難波線]]を経由して[[大阪難波駅]]まで特急列車([[近鉄特急|名阪特急]])が[[直通運転]]しており、[[名古屋都市圏]]と[[大阪都市圏]]とを結ぶ名阪の[[幹線]]鉄道として[[東海道新幹線]]に次ぐ存在となっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN254RS0N25OIPE00F.html 近鉄の新型特急「ひのとり」試乗 快適さで新幹線に対抗] - [[朝日新聞デジタル]](2020年2月5日)2020年2月11日閲覧</ref>。
なお、『[[鉄道要覧]]』や[[近鉄グループホールディングス]]の『[[有価証券報告書]]』においては伊勢中川駅を起点として記載しているが、列車運行上は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りである。以下、運行形態や図表は近鉄名古屋駅から伊勢中川駅への下り方向に記述する。
[[2010年]]4月1日には、近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)が導入された<ref name="knnews100330">{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/100330KRONOS.pdf 名古屋列車運行管理システム「KRONOS」が運用開始します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2010年3月30日</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):78.8 km
* [[軌間]]:1,435 mm
* 駅数:44駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* [[運転指令所]]:名古屋統括部・運転指令(近鉄名古屋指令)
* 最高速度:120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada" />
全線、名古屋統括部(旧名古屋営業局)の管轄である。
== 路線の特徴 ==
名古屋線は[[伊勢平野]]の[[伊勢湾]]沿岸部に敷設され、比較的平坦な路線となっている。それでも、内陸部を走行する[[津新町駅]] - 伊勢中川駅間では22.7[[パーミル|‰]] - 33.3‰の勾配区間が数か所存在しており、[[桃園駅]] - 伊勢中川駅間には最も急な33.5‰の勾配がある。
また、名古屋線は路線距離の長い本線ながらも[[トンネル]]がほとんど無いことも特徴である。例外として、近鉄名古屋駅 - [[米野駅]]間に地下線トンネルが、[[霞ヶ浦駅]] - [[阿倉川駅]]間の旧羽津駅跡にある2箇所のコンクリートトンネルが存在するのみである。
== 歴史 ==
{{出典の明記| date = 2010年12月| section = 1}}
近鉄名古屋線は、複数会社が建設した路線をつなぎ合わせる形で成立した。
=== 桑名駅 - 江戸橋駅間 ===
[[桑名駅]] - [[江戸橋駅]]間は、'''伊勢鉄道'''(後の'''[[伊勢電気鉄道]]'''、伊勢電。現在の[[第三セクター鉄道]]の[[伊勢鉄道]]とは無関係)によって建設された。
元々、同地域には[[日本国有鉄道|国鉄]][[関西本線]]と[[参宮線]](現在の[[紀勢本線]]の[[亀山駅 (三重県)|亀山駅]] - [[多気駅]]間を含む)が、[[明治]]期に[[私設鉄道]]の[[関西鉄道]]と[[参宮鉄道]]によってそれぞれ敷設されていた。両線は大阪方面からの輸送を主眼に置いた[[線形 (路線)|線形]]となっており、[[愛知県]]や[[三重県]]北部から三重県中南部に向かうには、亀山駅で[[スイッチバック]]を必要とした。
伊勢鉄道(初代)はそれを短絡する目的から設立され、三重県の二大都市である[[四日市市|四日市]]と[[津市|津]]を結ぶ路線を[[1915年]] - [[1924年]]に順次開業させた(桑名駅 - 江戸橋駅 - [[部田駅|津駅(部田駅)]]間。なお両都市間には[[1973年]]に同じ理由で国鉄→伊勢鉄道(2代目、前述)[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]]が開業した)。[[軌間]]は国鉄との貨車直通を考慮し、1067mmの[[狭軌]]とした。また、[[軽便鉄道]]であり路線規格は低く、沿線諸[[集落]]を縫うために、曲線を多用した線形が採用された。
この段階では一地方のローカル私鉄であったが、1926年に社名を伊勢電気鉄道に改め、同年中に[[直流電化]]を完成させた頃から、「東海の飛将軍」と呼ばれた有力実業家の[[熊澤一衛|熊沢一衛]]が社長に就任したこともあって拡大策をとるようになり、北は[[名古屋市|名古屋]]への進出、南は[[伊勢神宮]]がある[[伊勢市|宇治山田]]への進出を目論むようになった。
当時、[[関西]]系の企業である'''[[大阪電気軌道]]'''(大軌、現在の[[近畿日本鉄道]]の直系母体)と、その子会社で'''[[参宮急行電鉄]]'''(参急)が大阪から伊勢への進出を目論んでいた<ref name="nikkei20191224">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53703460T21C19A2AA1P00/ 【とことん調査隊】京阪電鉄、戦前に「大阪-名古屋」幻の新線計画] 日本経済新聞/関西タイムライン(2019年12月24日)2020年2月11日閲覧</ref>。伊勢電は北への路線は[[1929年]]に桑名駅までを開通させ、[[イビデン|養老電気鉄道]](現在の[[養老鉄道養老線]])を買収した時点でそこから先の延伸を後回しとし、地元企業としての対抗心から参急が建設中の路線と並行する伊勢への路線を優先して建設した。参急線の全通5日後には部田駅 - [[津新地駅]] - [[新松阪駅]] - [[大神宮前駅]]([[豊受大神宮]]、外宮前)間の路線を全通させ、桑名駅 - 大神宮前駅間に新製車の[[伊勢電気鉄道デハニ231形電車|モハニ231形]]を用いた[[急行列車|急行]]電車を走らせた。
新規開業区間の多くが[[複線]]電化の高規格路線であったが、前述したように元々は[[四日市駅]] - 津駅間は低規格の路線であったため、四日市と津の両市内では市街地を[[クランク (道路)|クランク]]状に縫う形で線路を敷かざるを得ず、急カーブ区間が生じた。特に四日市駅のすぐ北は、[[四日市あすなろう鉄道内部線|三重鉄道]]や[[近鉄湯の山線|四日市鉄道]]から譲り受けた路盤を用いて線路を敷いたことから、半径100mで南方向から西方向へほぼ直角に曲がる通称「[[善光寺カーブ]]」ができ、後々までスピードアップや車両大型化の障害となった。
=== 江戸橋駅 - 伊勢中川駅間 ===
[[江戸橋駅]]以南は、'''参宮急行電鉄'''(参急)が建設した。同社は現在の[[近鉄大阪線]][[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]以東と[[近鉄山田線|山田線]]を建設し、親会社である大阪電気軌道(大軌)の路線と接続して、大阪から片道2時間余りで行ける[[伊勢神宮]]への参拝ルートを作り上げていたが、それが実現する前に既に名古屋方面への進出を計画し、桑名までの免許を取得した。
この免許収得に関しては、岩田橋駅 - [[伊勢川口駅]]間で営業を行っていた[[軽便鉄道]]会社の[[中勢鉄道]](1942年全廃)を傘下に置き、同社の支線として中川 - 久居間の免許を申請し、その後、免許を参急に譲渡させ、譲り受けた参急が区間延長申請するという方法が採られた。だが、国鉄の運営と私鉄の監督を当時行っていた[[鉄道省]]では、このまま行けば伊勢電線・国鉄線と合わせて三つ巴の競争になり、共倒れになることを危惧していた。そのため当初参急が申請した免許は名古屋までであったが、政策上、桑名までとして交付された。
参急は伊勢進出後しばらく[[世界恐慌]]の影響もあって赤字に苦しんでいた。とりあえず国鉄線や伊勢電線と連絡して、桑名・四日市から大阪方面へ向かう客を運ぶことで増収につなげようとした。[[1930年]] - [[1932年]]に免許線の工事を行い、そして中川駅から国鉄[[津駅]]までを'''津(支)線'''として開業させ、津駅から徒歩5分程度の伊勢電津駅(部田駅を改称したもので、参急買収後再び部田駅に戻る)との連絡も図られた。
これにより津 - 伊勢間で参急と伊勢電の路線が競合することとなったが、まもなく伊勢電は伊勢進出に多額な資金を使ったことや、名古屋進出が達成できずに乗客が伸びなかったこと、熊沢が[[頭取]]を兼任していた融資元の[[三重銀行|四日市銀行]](現在の[[三十三銀行]])が取付騒ぎにあって休業したため資金繰りが悪化したことなどから経営に行き詰まり、銀行管理会社になった。そのため参急が伊勢電を[[1936年]]に吸収合併し、旧伊勢電本線を参急'''名古屋伊勢本線'''とした<ref name="100ayumi_p156">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.156</ref>。
その上で、合併直前に両社の共同出資で設立されていた'''[[関西急行電鉄]]'''(関急電)によって、伊勢電・参急いずれにとっても悲願であった名古屋進出に取り掛かることとなった。
=== 近鉄名古屋駅 - 桑名駅間 ===
この区間は、前述した'''関西急行電鉄'''(関急電)によって建設されることになった。
同区間は、[[木曽三川]]と総称される[[揖斐川]]・[[長良川]]・[[木曽川]]を越える必要があり、その橋脚建設の資金が必要であった。伊勢電の計画では、並行する関西本線の橋脚が架け替えられたため、不要となる旧橋脚を購入して敷設することにしていた(詳しくは「[[大阪電気軌道#関西急行電鉄|関西急行電鉄]]」を参照)。関急電もさほど資金的な余裕がなかったため、伊勢電の計画をそのまま引き継いだ。この橋脚に関しては、戦後新たに架け替えられている。
建設は[[日中戦争]]の最中に行われたため、軍事上必要な[[鉄]]の調達は難航したという。
名古屋の[[ターミナル駅]](関急名古屋駅→[[近鉄名古屋駅]])は、伊勢電は方向転換不要なようにループ状にする計画であったが、関急電は一般的な3面3線の[[頭端式ホーム]]にした。
これによって、[[1938年]][[6月26日]]に現在の名古屋線となる区間が完成した(それに先立つ[[6月20日]]に津線と伊勢線の接続を図るため津線の江戸橋 - 津間が延伸されている)。
=== 軌間統一への流れ ===
前述のような建設経緯から、名古屋駅 - 江戸橋駅間は[[狭軌]] (1067mm)、江戸橋駅 - 参急中川駅(現在の伊勢中川駅)間の津線は[[標準軌]] (1435mm)となり、名古屋 - 大阪間直通の利用客は参急中川駅でのスイッチバック([[大阪上本町駅|上本町駅]] - 江戸橋駅間の直通列車は2往復のみで、多くの場合は乗り換え)と江戸橋駅での乗り換えを強いられた。そのため、名古屋延伸の半年後に江戸橋駅 - 参急中川駅間を狭軌化し、名阪間の移動に際しては参急中川(伊勢中川)駅での乗り換えとした。
[[1940年]]に関急電は参急に合併され、関急名古屋駅(参急名古屋駅に改称) - 桑名駅間は名古屋伊勢本線に編入された。さらに[[1941年]]には参急と大軌が合併して、現在の近鉄の原型となる'''[[関西急行鉄道]]'''(関急)が発足、関急発足時の路線名整理により津線および名古屋伊勢本線参急名古屋駅(再度関急名古屋駅に改称) - 江戸橋駅間が'''名古屋線'''、江戸橋駅 - 大神宮駅前間が'''[[近鉄伊勢線|伊勢線]]'''になった<ref name="100ayumi_p156" />。
山田線と重複するため、[[1942年]]に伊勢線の[[新松阪駅]] - 大神宮前駅間を廃止した後(残存区間である江戸橋駅 - 新松阪駅間も単線化し、資材は名古屋線単線区間の主に伊勢鉄道時代に敷設された区間の複線化などに充当)は、名古屋 - 伊勢間直通の利用客も伊勢中川駅で乗り換えが必要になった。伊勢中川駅での乗り換えは最短時間になるよう配慮され、時刻表でも名古屋駅時点で「大阪行」「宇治山田行」と案内された。
悲願の名古屋線の標準軌への改軌は[[1960年]]2月の実施に向けて[[1957年]]頃から準備工事が行われた。この一環として並行する国鉄関西本線の橋梁架け替えの際に不要となった橋脚を譲り受け、単線で輸送力増強の障害となっていた[[揖斐・長良川橋梁 (近鉄名古屋線)|揖斐・長良川橋梁]]と[[木曽川橋梁 (近鉄名古屋線)|木曽川橋梁]]についても、改軌に対応できる複線の[[トラス橋]]に架け替えることになった。後に名古屋線は[[1959年]]9月の[[伊勢湾台風]]によって特に愛知県内において線路水没・流失などの被害を受けたが、揖斐・長良川橋梁は台風襲来の7日前、木曽川橋梁については台風襲来の当日に完成したため、幸い深刻な被害はなかった。
これを当時社長の[[佐伯勇]]による「禍(=災い)転じて福となす」との判断で、台風による水害からの復旧を機に改軌工事を同年11月に前倒しして実施した。工事は名古屋線全線と[[近鉄鈴鹿線|神戸線]](現在の鈴鹿線)を全体で9区画(=工区)に分け、1日につき1区画ずつ(日によって2区画)昼間の6時間(概ね9時30分-15時30分)を[[バス代行]]とし、千数百人に及ぶ作業員らによって午前からレールの移設を始め昼過ぎには完了、夕方には改軌の済んだ線路上で定期列車の運行が行われた<ref>田淵仁『近鉄特急(上)』JTBパブリッシング</ref>。同年[[11月27日]]には全ての区間での工事が完了し、その後線路の道床改良を経て、同年[[12月12日]]より名古屋駅 - 上本町駅間と名古屋駅 - 宇治山田駅間の直通運転が開始された。また、前述のような事情で随所に存在した急カーブも改軌に先駆ける形で複線化を兼ねた[[線形 (路線)|線形]]改良がなされ、多くが解消されている。
なお、伊勢線は狭軌のまま水害から復旧したが、伊勢湾台風襲来から1年4か月後の[[1961年]]1月に全線廃止された。
=== 年表 ===
==== 近畿日本鉄道発足まで ====
*[[1915年]]([[大正]]4年)[[9月10日]]:伊勢鉄道が[[白子駅]] - 一身田町駅(現在の[[高田本山駅]])間を狭軌で開業。
*[[1916年]](大正5年)[[1月9日]]:伊勢鉄道 [[千代崎駅]] - 白子駅間が開業。
*[[1917年]](大正6年)
**[[1月1日]]:伊勢鉄道 一身田町駅 - 江戸橋駅 - 津市駅(後の部田駅)間が開業。玉垣口駅・千里駅開業。
**[[12月22日]]:伊勢鉄道 楠駅 - 千代崎駅間が開業。
*[[1918年]](大正7年)[[11月1日]]:伊勢鉄道 一身田町駅を高田本山駅に改称。
*[[1919年]](大正8年)[[10月25日]]:伊勢鉄道 [[海山道駅]] - [[楠駅]]間が開業。
*[[1920年]](大正9年)[[4月1日]]:伊勢鉄道 [[北楠駅]]開業。
*[[1921年]](大正10年)
**10月:伊勢鉄道 千里駅廃止。
**[[11月8日]]:高田本山駅 - 江戸橋駅間の三軒家駅廃止認可。
*[[1922年]](大正11年)
**[[3月1日]]:伊勢鉄道 新四日市駅 - 海山道駅間が開業。
**[[10月1日]]:伊勢鉄道 新四日市駅を[[四日市駅]]に、子安観音駅を[[鼓ヶ浦駅]]に改称。
*[[1924年]](大正13年)[[4月3日]]:伊勢鉄道 (旧)津市駅を部田駅に改称。部田駅 - 津市駅(後の[[津新地駅]])間が開業。
*[[1925年]](大正14年)[[12月16日]]:伊勢鉄道 津市駅を津新地駅に改称。
*[[1926年]](大正15年)
**[[9月12日]]:伊勢鉄道が伊勢電気鉄道に社名変更。
**12月16日:伊勢電気鉄道 千代崎駅 - 白子駅間の玉垣口駅、[[塩浜駅]] - 楠駅間の北楠駅廃止認可。
*1926年([[昭和]]元年)[[12月26日]]:伊勢電気鉄道 四日市駅 - 津新地駅間が電化、電車運転開始。以後の開業区間は開業当初から電化路線。
*[[1928年]](昭和3年)[[10月21日]]:伊勢電気鉄道 楠駅 - [[箕田駅]]間の長太駅廃止認可。
*[[1929年]](昭和4年)
**[[1月30日]]:伊勢電気鉄道 桑名駅 - 四日市駅間が開業([[近鉄四日市駅#諏訪駅|諏訪駅]] - 四日市駅間を除き複線)。
**[[7月5日]]:伊勢電気鉄道 (臨)霞ヶ浦駅開業。
**[[10月28日]]:伊勢電気鉄道 羽津駅開業。
*[[1930年]](昭和5年)
**月日不明:伊勢電気鉄道 西桑名駅を[[益生駅]]に改称。
**[[5月18日]]:参宮急行電鉄津線 参急中川駅(現在の伊勢中川駅) - [[久居駅]]間が開業。
**[[12月25日]]:伊勢電気鉄道 桑名駅 - 江戸橋駅 - [[大神宮前駅]]間が全通。
*[[1931年]](昭和6年)
**月日不明:伊勢電気鉄道 霞ヶ浦駅が常設駅となる。
**[[7月4日]]:参宮急行電鉄津線 久居駅 - 津新町駅間が開業。
**[[8月19日]]:伊勢電気鉄道 塩浜駅 - 楠駅間複線化<ref name="100ayumi_p677">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.677</ref>。
*[[1932年]](昭和7年)4月3日:参宮急行電鉄'''津線''' 津新町駅 - 津駅間が開業。
*[[1934年]](昭和9年)[[6月30日]]:北楠駅再開業。
*[[1936年]](昭和11年)[[9月15日]]:参宮急行電鉄が伊勢電気鉄道を合併。桑名駅 - 江戸橋駅 - 大神宮前駅間が'''名古屋伊勢本線'''となる。
*[[1937年]](昭和12年)[[12月20日]]:白崎分岐([[信号場]]、新設) - 白子駅 - 鼓ヶ浦駅間、上磯分岐(信号場、新設) - [[伊勢上野駅]]間、豊津浦駅 - 逆川分岐(信号場、新設)間を複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
*[[1938年]](昭和13年)
**[[4月13日]]:諏訪駅 - 四日市駅間および楠駅 - 楠箕分岐(信号場、新設)間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
**[[6月20日]]:参宮急行電鉄津線 津駅 - 江戸橋駅間が開業。伊勢線に江戸橋駅で接続。
**[[6月26日]]:関西急行電鉄が関急名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅) - 桑名駅間を開業。関西本線の旧橋梁を流用したことから、木曽川分岐(信号場)間 - 桑名駅間は単線、他は複線となる。
**[[12月7日]]:参宮急行電鉄 江戸橋駅 - 参急中川駅間を標準軌から狭軌に改軌。
*[[1940年]](昭和15年)1月1日:参宮急行電鉄が関西急行電鉄を合併。関急名古屋駅を参急名古屋駅に、関急八田駅を参急八田駅に、関急蟹江駅を参急蟹江駅に、関急弥富駅を参急弥富駅に、関急長島駅を参急長島駅に改称。
*[[1941年]](昭和16年)
**[[3月15日]]:大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併、関西急行鉄道に改称。
***名古屋伊勢本線関急名古屋駅 - 江戸橋駅間、津線江戸橋駅 - 関急中川駅間が'''名古屋線'''、名古屋伊勢本線江戸橋駅 - 新松阪駅 - 大神宮前駅間が[[近鉄伊勢線|伊勢線]]となる<ref name="100ayumi_p156" />。
***参急名古屋駅を関急名古屋駅に、参急八田駅を関急八田駅に、参急蟹江駅を関急蟹江駅に、参急弥富駅を関急弥富駅に、参急長島駅を関急長島駅に、西富田駅を関急富田駅に、参急中川駅を伊勢中川駅に改称<ref>近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.687</ref><ref>今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』[[新潮社]]、2008年、pp.29-30</ref>。
**[[8月18日]]:海山道駅 - 塩浜駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
*[[1943年]](昭和18年)
**[[3月24日]]:伊勢上野駅 - 豊津浦駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
**[[7月1日]]:[[長太ノ浦駅]]開業、千里駅再開業、千里駅 - 逆川駅間の豊津浦駅・伊勢上野駅を統合し[[豊津上野駅]]開業。
**[[8月21日]]:楠箕分岐 - 箕田駅 - [[伊勢若松駅]]間、久居駅 - 雲出川分岐間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。楠箕分岐信号場廃止、雲出川分岐信号場開設。
**[[10月22日]]:霞ヶ浦駅廃止。羽津駅移転。
**[[11月25日]]:伊勢若松駅 - 白崎分岐間複線化<ref name="100ayumi_p677" />、白崎分岐信号場廃止。
*[[1944年]](昭和19年)
**[[3月13日]]:鼓ヶ浦駅 - 上磯分岐間複線化<ref name="100ayumi_p677" />、上磯分岐信号場廃止。
**[[5月8日]]:豊津上野駅 - 高田本山駅間の逆川駅廃止、同駅間に[[白塚駅]]開業。
==== 近畿日本鉄道の発足後 ====
*1944年(昭和19年)[[6月1日]]:関西急行鉄道が[[南海電気鉄道|南海鉄道]]と合併、近畿日本鉄道設立。
**関急名古屋駅を近畿日本名古屋駅に、関急八田駅を近畿日本八田駅に、関急蟹江駅を近畿日本蟹江駅に、関急弥富駅を近畿日本弥富駅に、関急長島駅を近畿日本長島駅に、関急富田駅を近畿日本富田駅に改称。
*[[1945年]](昭和20年)
**6月1日:黄金駅・町屋駅・西町駅休止<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=近畿日本鉄道50年のあゆみ|date=1960-09-16|year=|publisher=近畿日本鉄道|page=337}}</ref>。
**[[7月24日]]:[[太平洋戦争]]下の[[日本本土空襲|空襲]]により、揖斐・長良川橋梁が爆撃され不通に。[[関西本線]]を代替線として用いるため、[[連絡線]]を設けた上で同線を一時的に電化。
**11月25日:揖斐・長良川橋梁の不通のため、一時関西本線に乗り入れ運転開始<ref name=":0" />。
*[[1946年]](昭和21年)
**[[5月1日]]:揖斐・長良川橋梁復旧(関西本線に乗り入れ運転廃止)<ref name=":0" />。
**[[6月17日]]:津新町駅 - 久居駅間に二重池信号場開設。
**[[6月27日]]:二重池信号場 - 久居駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
**[[7月13日]]:富洲原駅(現在の[[川越富洲原駅]]) - [[伊勢朝日駅]]間の川越駅廃止<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=近畿日本鉄道50年のあゆみ|date=1960-09-16|publisher=近畿日本鉄道|page=339}}</ref>。富洲原駅移転。
*[[1947年]](昭和22年)
**[[3月1日]]:休止していた[[黄金駅 (愛知県)|黄金駅]]営業再開<ref name=":1" />。
**[[3月14日]]:休止していた町屋駅(益生駅 - 伊勢朝日駅間)、西町駅(川原町駅 - 諏訪駅間)を廃止<ref name=":1" />。
**[[10月8日]]:大阪 - 名古屋間特急運転開始。
*[[1948年]](昭和23年)
**[[7月21日]]:揖斐川分岐 - 播磨川分岐間を複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
**[[9月1日]]:近畿日本長島駅 - 桑名駅間の揖斐川駅休止<ref>{{Cite book|和書|title=近畿日本鉄道50年のあゆみ|date=1960-09-16|publisher=近畿日本鉄道|page=342}}</ref>。
*[[1950年]](昭和25年)。
**[[6月5日]]:羽津駅を霞ヶ浦駅に改称。
**[[8月4日]]:[[名古屋鉄道]]との団体臨時列車相互直通運転実施([[1952年]][[9月30日]]まで)。
*[[1952年]](昭和27年)
**[[10月31日]]:[[鹿化川]]分岐(信号場、新設) - 海山道駅間0.1km短絡工事完成、同区間を複線化<ref name="100ayumi_p677" /><ref name="100ayumi_p248">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.248-249</ref>。
*[[1953年]](昭和28年)[[9月15日]]:津新町駅 - 二重池信号場間複線化<ref name="100ayumi_p677" />、二重池信号場廃止。
*[[1955年]](昭和30年)[[7月15日]]:逆川分岐 - 高田本山駅 - 江戸橋駅間の経路変更・複線化<ref name="100ayumi_p677" /><ref name="100ayumi_p248" />。0.5km短縮。逆川分岐信号場廃止。
*[[1956年]](昭和31年)[[9月23日]]:川原町駅 - 諏訪駅 - 四日市駅(国鉄四日市駅の前) - 鹿化川分岐間を、川原町駅 - 近畿日本四日市駅 - 鹿化川分岐間の新線に切り替え<ref name="100ayumi_p677" /><ref name="100ayumi_p248" />。1.1km短縮。鹿化川分岐信号場廃止。
*[[1959年]](昭和34年)
**[[9月19日]]:揖斐・長良川橋梁架け替え<ref name="100ayumi_p248" />。近畿日本長島駅 - 揖斐川分岐間を複線化<ref name="100ayumi_p677" />し、揖斐川分岐信号場を廃止。
**[[9月26日]]:木曽川橋梁架け替え<ref name="100ayumi_p248" />。木曽川分岐 - 近畿日本長島駅間を複線化<ref name="100ayumi_p677" />し、木曽川分岐信号場廃止。同日、伊勢湾台風により全線が被災し、不通に。
**[[9月28日]]:近畿日本四日市駅 - 津新町駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.251</ref>。
**[[9月29日]]:近畿日本名古屋駅 - 近畿日本八田駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251" />。
**9月30日:近畿日本八田駅 - 伏屋駅間、富洲原駅 - 近畿日本四日市駅間、津新町駅 - 伊勢中川駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251" />。
**[[10月1日]]:桑名駅 - 富洲原駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251" />。
**[[10月15日]]:伏屋駅 - 近畿日本蟹江駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251" />。
**[[11月8日]]:近畿日本長島駅 - 桑名駅間が復旧<ref name="100ayumi_p251" />。
**[[11月19日]]:[[標準軌]]化本工事開始<ref name="100ayumi_p251" />。久居駅 - 伊勢中川駅間を標準軌に[[改軌]]<ref name="100ayumi_p252">近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、pp.252</ref>。なお、これに先立つ改軌準備工事の際に、重量級の大阪線車両が入線可能となるように、路盤の強化も実施された。
**[[11月20日]]:江戸橋駅 - 久居駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月21日]]:豊津上野駅 - 江戸橋駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月22日]]:白子駅 - 豊津上野駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月23日]]:塩浜駅 - 白子駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月24日]]:近畿日本四日市駅 - 塩浜駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月25日]]:富洲原駅 - 近畿日本四日市駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />。
**[[11月26日]]:近畿日本長島駅 - 富洲原駅間を標準軌に改軌<ref name="100ayumi_p252" />、播磨川分岐 - 桑名駅間を複線化<ref name="100ayumi_p677" />、播磨川分岐信号所廃止。
**[[11月27日]]:近畿日本名古屋駅 - 近畿日本蟹江駅間が標準軌に改軌されると同時に、近畿日本蟹江駅 - 近畿日本長島駅間が標準軌で開通、全線復旧・標準軌化が完成<ref name="100ayumi_p252" />。
==== 名阪直通運転開始後 ====
*1959年(昭和34年)
**[[12月12日]]:名阪特急が直通運転開始。[[近鉄大阪線|大阪線]]のほか、[[近鉄山田線|山田線]]とも直通を開始し、[[養老鉄道養老線|養老線]]と[[近鉄伊勢線|伊勢線]]との直通を廃止。
**月日不明:名古屋線初の片側4扉固定高性能車[[近鉄1600系電車|1600系]]の運用開始
*[[1960年]](昭和35年)[[1月20日]]:近畿日本名古屋駅 - 上本町駅(現在の[[大阪上本町駅]])間の直通急行を伊勢中川駅経由で運転開始。
*[[1961年]](昭和36年)
**[[3月29日]]:中川短絡線が開通。名古屋線・大阪線直通特急列車の伊勢中川駅での[[スイッチバック]]運転解消。
*[[8月8日]]:津駅 - 津新町駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
*[[1964年]](昭和39年)
**[[3月10日]]:江戸橋駅 - 津駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />。
**[[3月23日]]:同年[[3月1日]]に[[改軌]]された[[近鉄湯の山線|湯の山線]](当時は三重電気鉄道の路線)と直通運転開始(当初は[[準急列車|準急]]が直通<ref>{{Cite journal |和書|title=3月のメモ帳|date=1964-05|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|number=157|page=78}}</ref>、[[1965年]][[7月15日]]より特急も直通)。
**[[12月10日]]:富吉駅開業。
*[[1966年]](昭和41年)月日不明:1600系の改良増備車である[[近鉄1600系電車|1800系]]の運用開始。
*[[1967年]](昭和42年)月日不明:1800系の改良増備車である[[近鉄1600系電車|1810系]]の運用開始。
*[[1968年]](昭和43年)3月1日:[[自動列車停止装置]] (ATS) 使用開始<ref>{{Cite news |和書|title=主要線区 ATS取付完成 近鉄、三月一日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-27 |page=1 }}</ref>。
*[[1969年]](昭和44年)[[5月15日]]:休止していた近畿日本長島駅 - 桑名駅間の[[揖斐川駅]]廃止。
*[[1970年]](昭和45年)
**3月1日:近畿日本名古屋駅を[[近鉄名古屋駅]]に、近畿日本八田駅を[[近鉄八田駅]]に、近畿日本蟹江駅を[[近鉄蟹江駅]]に、近畿日本弥富駅を[[近鉄弥富駅]]に、近畿日本長島駅を[[近鉄長島駅]]に、近畿日本富田駅を[[近鉄富田駅]]に、近畿日本四日市駅を[[近鉄四日市駅]]に改称。
**月日不明:片側4扉固定クロスシート車[[近鉄2600系電車|2600系]]の運用開始。
*[[1972年]](昭和47年)7月16日:雲出川分岐 - 伊勢中川駅間複線化<ref name="100ayumi_p677" />、全線複線化完成。雲出川分岐信号場廃止(伊勢中川駅構内扱いに変更)。
**月日不明:新製冷房車の片側4扉固定クロスシート車[[近鉄2600系電車|2610系]]および片側4扉ロングシート車[[近鉄1000系電車|初代1200系1201F(後の1000系1002F)]]、旧型機器流用でラインデリア搭載の片側4扉ロングシート車[[近鉄1000系電車|1000系]]の運用開始
*[[1973年]](昭和48年)[[10月11日]]:近鉄四日市駅付近1.7km高架化。
*[[1975年]](昭和50年)[[7月20日]]:[[新正駅]]開業。
*[[1976年]](昭和51年)
**[[3月18日]]:急行の停車駅に近鉄弥富駅を追加。朝・夜間に1往復運転されていた近鉄名古屋駅 - 上本町駅間の直通急行廃止。
**[[3月22日]]:伏屋駅 - 戸田駅間で何者かが[[軌条|レール]]と[[枕木]]を固定する[[ボルト (部品)|ボルト]]など46本を外す事件が発生<ref>線路のボルト外す 46本、電車20本通る『朝日新聞』1976年(昭和51年)3月28日朝刊、13版、23面</ref>。
*[[1978年]](昭和53年)月日不明:片側4扉ロングシートの新製冷房車[[近鉄2600系電車|2000系]]の運用開始
*[[1979年]](昭和54年)[[3月15日]]:名伊乙特急の一部停車駅に久居駅を追加(朝間は名古屋方面、夜間は伊勢・[[賢島駅|賢島]]方面のみ)。
*[[1982年]](昭和57年)月日不明:界磁チョッパ制御車両[[近鉄1400系電車|1200系(現・1201系)]]の運用開始
*[[1983年]](昭和58年)3月18日:準急の運転体系を見直し、通過駅の多い準急を廃止し、新たな準急を近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間に設定。近鉄名古屋駅 - [[宇治山田駅]]間直通の普通列車を(時刻表上)廃止(伊勢中川駅で列車番号変更の上で継続運転する列車は存続)。
*[[1984年]](昭和59年)[[11月28日]]:旧型車全廃により通勤車の最高速度を110km/hに向上<ref group="*">ただし、それ以前も遅延復旧などの際には急行・準急の一部区間で高性能車、2200系、2250系、6421系、6431系、1000系(・初代1200系)に限り110km/h運転が認可されていた。6000番台の形式を持つ名古屋線旧来の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動車]]の最高速度が6421系と6431系を除き100km/hのため、同年以前は急行・準急もダイヤ編成上の最高速度が100km/hであった。</ref>。
*[[1988年]](昭和63年)
**1月:伏屋駅 - 戸田駅間立体交差化事業着工<ref>近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.437</ref>。
**3月18日:[[近鉄21000系電車|21000系]](アーバンライナー)の営業運転開始、特急の120km/h運転開始。
*[[1989年]]([[平成]]元年)[[4月28日]]:[[南が丘駅]]開業。
*[[1990年]](平成2年)
**2月14日:伏屋駅 - 戸田駅間(新川橋梁 - 戸田川橋梁間)下り線高架化<ref name="交通新聞1990-2_p1">{{Cite news |和書|title=近鉄新川-戸田川間 下り高架化完成|newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-2-16 |page=1 }}</ref>。
**3月7日:伏屋駅 - 戸田駅間上り線高架化。同区間の高架化完成<ref name="交通新聞1990-2_p1"/>。
**3月15日:名阪甲特急の一部列車の停車駅に津駅を追加。
*[[1992年]](平成4年)[[3月19日]]:[[近鉄22000系電車|22000系]] (ACE) の営業運転開始。
*[[1994年]](平成6年)3月15日:[[近鉄23000系電車|23000系]](伊勢志摩ライナー)の営業運転開始。
*[[1995年]](平成7年)1月:黄金駅 - 伏屋駅間立体交差化事業着工<ref>近畿日本鉄道『近畿日本鉄道100年のあゆみ』2010年、p.496</ref>。
*[[1996年]](平成8年)
**2月:2610系2621Fを改造したL/Cカー試作編成の試験運用開始。
**3月15日:名伊特急の運行体制見直し(一部列車の臨時列車格下げなど)が始まる。
*[[1998年]](平成10年)
**月日不明:新造L/Cカー([[近鉄5800系電車|5800系]])の営業運転開始(1997年から1998年にかけて2610系2626F・2627Fおよび2800系2811F・2813F・2815Fの各編成もL/Cカーに改造)。
**3月17日:湯の山線直通特急の廃止(近鉄四日市駅 - 湯の山温泉駅間の単独運行に)。
*[[2000年]](平成12年)3月15日:近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の準急・近鉄名古屋駅 - [[富吉駅]]間の普通を毎時各4本から3本に削減。
*[[2001年]](平成13年)
**2月1日:伊勢中川駅・近鉄四日市駅・桑名駅における「[[途中下車]]指定駅」の制度が廃止。
**[[3月22日]]:日中の津新町駅折り返しの急行を伊勢中川駅まで延長。名古屋線全線で急行が毎時3本となる<ref name=":2">{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010331102653/http://www.kintetsu.co.jp/senden/Topic/W20114.html |archivedate=2001-03-31 |accessdate=2021-02-20 |title=新ダイヤのごあんない(2001年3月22日変更) |publisher=近畿日本鉄道 |url=http://www.kintetsu.co.jp/senden/Topic/W20114.html |deadlinkdate=2021-02-20 |date=2001-03}}</ref>。
*[[2002年]](平成14年)[[3月20日]]:急行の停車駅に近鉄蟹江駅を追加。これに伴って準急の本数を削減。
*[[2003年]](平成15年)3月6日:名伊甲特急の停車駅に津駅を追加。
*[[2004年]](平成16年)3月18日:白塚駅 - 伊勢中川駅間の一部の普通で[[ワンマン運転]]を開始。
*[[2005年]](平成17年)[[5月21日]]:黄金駅 - 伏屋駅間高架化完成。
*[[2007年]](平成19年)[[4月1日]]:各駅で[[PiTaPa]]・[[ICOCA]]の取り扱いを開始。
*[[2008年]](平成20年)[[6月14日]]:近鉄名古屋駅 - 近鉄八田駅間で[[速度照査|車上速度パターン照査式]][[自動列車停止装置|ATS]] (ATS-SP) 使用開始。
*[[2009年]](平成21年)3月20日:富洲原駅を川越富洲原駅に改称<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/20081121tomisuhara.pdf 来春、名古屋線の「富洲原駅」を「川越富洲原駅」に駅名変更します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2008年11月21日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/daiyakaisei20090116.pdf ダイヤ改正についてのお知らせ]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2009年1月16日</ref>。
*[[2010年]](平成22年)4月1日:近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の全線で名古屋列車運行管理システム「KRONOS」(クロノス)の運用開始<ref name="knnews100330" />。
*[[2012年]](平成24年)3月20日:名阪甲特急の全列車の停車駅に津駅を追加<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=平成24年のダイヤ変更について |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120302145327/http://www.kintetsu.jp/news/files/daiyahenkoH24.pdf |format=pdf |url=http://www.kintetsu.jp/news/files/daiyahenkoH24.pdf |date=2012-01-20 |archivedate=2012-03-02 |accessdate=2021-09-21 |deadlinkdate=2021-09-23}}</ref>。
*[[2013年]](平成25年)
**[[3月21日]]:観光特急[[近鉄50000系電車|50000系]](しまかぜ)の営業運転開始。
**3月23日:各駅で[[TOICA]]・[[manaca]]などの取り扱いを開始。
*[[2014年]](平成26年)
**3月25日 - 28日:[[明仁|天皇]]・[[上皇后美智子|皇后]]の三重訪問に伴う[[お召し列車]]が、近鉄名古屋駅 - 宇治山田駅間に運転される(往路:25日、復路:28日)。50000系を充当<ref>[http://iseshima.keizai.biz/headline/1992/ 両陛下、式年遷宮後の伊勢神宮へ-近鉄「しまかぜ」に乗って] - [[伊勢志摩経済新聞]]([[みんなの経済新聞ネットワーク]])、2014年3月25日</ref>。
**[[7月26日]]:[[2014年の鉄道#災害・不通・事故・事件など|近鉄名古屋線踏切内不審物設置事件]]発生。
*[[2015年]](平成27年)11月7日:伏屋駅付近の下り線高架切り替え<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/husiyaeki.pdf|format=PDF|title=近鉄伏屋駅付近立体交差化事業に伴う下り線(四日市方面行)の高架化について|publisher=名古屋市緑政土木局・近畿日本鉄道|date=2015-10-22|accessdate=2015-10-22}}</ref>。
*[[2016年]](平成28年)5月8日:川原町駅の高架化が完成<ref>{{Cite web|和書|title=川原町駅高架化記念パネル展を開催します |url=http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/000180837.htm |publisher=三重県 |date=2016-05-10 |accessdate=2016-07-19}}</ref>。
*[[2017年]](平成29年)9月23日:伏屋駅付近の上り線高架切り替え<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hushiyaekikouka.pdf|format=PDF|title=近鉄伏屋駅付近立体交差化事業に伴う上り線(名古屋方面行)の高架化について|publisher=名古屋市緑政土木局・近畿日本鉄道|date=2017-08-28|accessdate=2017-12-06}}</ref>。
*[[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:急行の停車駅に南が丘駅・桃園駅を追加<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2018daiyahenkouv3.pdf |title=2018年のダイヤ変更について |access-date=2023-3-23 |publisher=近畿日本鉄道 |format=pdf |archive-url=https://web.archive.org/web/20210630070045/https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/2018daiyahenkouv3.pdf |archive-date=2021-06-30}}</ref>。
*[[2020年]](令和2年)3月14日:名阪特急で[[近鉄80000系電車|80000系]](ひのとり)が営業運転を開始<ref>[https://railf.jp/news/2020/03/14/203500.html 近鉄80000系「ひのとり」が営業運転を開始] - 鉄道ファン(交友社)「railf.jp」鉄道ニュース、2020年3月14日</ref>。
== 運行形態 ==
{{出典の明記| date = 2016年8月| section = 1}}
=== 運行本数 ===
近鉄名古屋発は日中おおむね1時間あたり特急4本(0分:[[大阪難波駅]]行き甲特急、10分:[[賢島駅]]行き、30分:大阪難波駅行き乙特急、50分:[[鳥羽駅]]または[[宇治山田駅]]行き)、急行3本、準急2本、普通3本の運転。夕[[ラッシュ時]]の下りは特急は5本、急行・普通は各4本、準急は1 - 3本の運転である。朝の名古屋方面は各種別が増発され、特に急行は[[津新町駅|津新町]]・[[白子駅|白子]]・[[近鉄四日市駅|近鉄四日市]]各駅発なども加わる。定期列車の車両[[増解結|増結・切り離し]]は[[近鉄四日市駅]]・[[塩浜駅]]・[[伊勢中川駅]]で行われている。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
|-
|+日中の運行パターン
! colspan="2" |駅名<br />\<br />種別
! style="width:1em;" |近鉄名古屋
!…
! colspan="1" style="width:1em;" |近鉄蟹江
! colspan="2" style="width:1em;" |富吉
!…
! colspan="2" style="width:1em;" |近鉄四日市
!…
! colspan="2" style="width:1em;" |塩浜
!…
! colspan="1" style="width:1em;" |江戸橋
!…
! colspan="2" style="width:1em;" |津新町
!…
! colspan="2" style="width:1em;" |伊勢中川
!…
|- style="text-align:center;"
! rowspan="8" style="width:1em;" |{{縦書き|運行本数}}
| rowspan="2" style="background:#ff8080;" |特急 || colspan="19" style="background:#ff8080;" |2本|| colspan="1" style="text-align:left" |[[近鉄大阪線|大阪線]]直通→
|- style="text-align:center;"
| colspan="19" style="background:#ff8080;" |2本|| colspan="1" style="text-align:left" |[[近鉄山田線|山田線]]直通→
|- style="text-align:center;"
| rowspan="1" style="background:#fc9;" |急行<ref group="*">江戸橋 - 伊勢中川は各駅に停車</ref> || colspan="19" style="background:#fc9;" |3本 || colspan="1" style="text-align:left" |山田線直通→
|- style="text-align:center;"
| style="background:#cf9;" |準急<ref group="*">近鉄蟹江 - 近鉄四日市は各駅に停車</ref> || colspan="7" style="background:#cf9;" |2本|| colspan="12" | || colspan="1" style="text-align:left" |
|- style="text-align:center;"
| rowspan="4" style="background:#cccccc;" |普通 || colspan="15" style="background:#cccccc;" |1本 || colspan="4" | || style="text-align:left" |
|- style="text-align:center;"
| colspan="4" style="background:#cccccc;" |2本|| colspan="15" | || colspan="1" style="text-align:left" |
|- style="text-align:center;"
| colspan="7" | || colspan="8" style="background:#cccccc;" |1本 || colspan="4" | || colspan="1" style="text-align:left" |
|- style="text-align:center;"
| colspan="7" | || colspan="3" style="background:#cccccc;" |1本 || colspan="9" | || colspan="1" style="text-align:left" |
|- style="text-align:center;"
|}
=== 列車種別 ===
[[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]と並ぶ近鉄の主要幹線であるが、両線にはある[[快速急行]]の設定が当線にはない。
==== 特急 ====
{{Main|近鉄特急}}
特急には停車駅の少ない[[近鉄特急#特急列車の系統・運行概況|甲特急]]と多い[[近鉄特急#特急列車の系統・運行概況|乙特急]]があり、名古屋線内では大阪方面との[[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|名阪]]甲特急は[[津駅]]のみ、名阪乙特急はそれに加えて[[桑名駅]]・[[近鉄四日市駅]]・[[白子駅]]に停車し、伊勢志摩方面との[[近鉄特急#名伊特急(名古屋 - 伊勢志摩間)|名伊]]甲特急は津駅に、名伊乙特急は名阪乙特急の停車駅と[[伊勢中川駅]]に加え朝夕の一部列車が[[久居駅]]に、2013年運行開始の観光特急「[[近鉄50000系電車|しまかぜ]]」は近鉄四日市駅のみ停車する。なお、大阪方面と直通する名阪特急は[[伊勢中川駅#中川短絡線|中川短絡線]]を通行するため、全列車伊勢中川駅のホームに停車しない(ただし料金・運賃は、伊勢中川駅を折り返しての計算となる)。最大8両編成まで運転される。
日中時間帯は名阪甲特急・乙特急が1時間あたり各1本、名伊乙特急が1時間あたり2本運転されている。18時台 - 19時台のラッシュ時は名阪甲特急・乙特急が1時間に1本ずつ運転、名伊乙特急が1時間に3本(3本とも久居駅に停車)運転されている。
名古屋線内では特急列車の向きは大阪方面への列車に合わせているため「しまかぜ」と「[[近鉄23000系電車|伊勢志摩ライナー]]」(これらの車両は中川短絡線を通らないため、名古屋方面⇔大阪・伊勢志摩方面を基本としたとき、名古屋方面先頭車両が他の車両の大阪・伊勢志摩方面先頭車両となる)を除いて同じである(号車番号の振り方はどの列車も同じで、名古屋方面先頭車両が1号車となる)。
==== 急行 ====
名古屋線で終日運転されている。2018年3月17日のダイヤ変更時点における名古屋線の途中停車駅は、乙特急の基本停車駅に加えて[[近鉄蟹江駅]]、[[近鉄弥富駅]]、[[近鉄富田駅]]、塩浜駅、[[伊勢若松駅]]、[[江戸橋駅]]、[[津新町駅]]、[[南が丘駅]]、久居駅、[[桃園駅]]である。特急を除く三重県内における長距離速達種別であり、普通列車の本数が減少する津新町駅 - 伊勢中川駅間を各駅に停車することで同区間における普通列車を補完する役割を担う。準急や普通とは異なり、愛知県内で完結する列車は存在しない。
8時から17時台までは、[[近鉄名古屋駅]] - [[近鉄山田線|山田線]][[松阪駅]]間で1時間あたり3本設定されており、このうち1本が山田線[[宇治山田駅]]もしくは[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]][[五十鈴川駅]]に直通している。朝と夕方以降には、津新町駅や伊勢中川駅発着のほか、一部の列車が鳥羽線[[鳥羽駅]]発着で運転されている。朝は津新町駅・白子駅・近鉄四日市駅発の列車も設定され、平日朝7時台に近鉄四日市駅を発車する名古屋方面の急行は8本となっている。夕方(近鉄名古屋駅発平日17 - 20時台、土休日18時台)の下り列車は1時間に4本、夜間(近鉄名古屋駅発平日22時台、土休日21 - 22時台)の下り列車は1時間2本が運転されている。
途中駅における他種別との連絡は夕ラッシュ時を除き近鉄蟹江駅・近鉄四日市駅・白子駅で普通に、朝 - 日中は近鉄四日市駅で準急に連絡する。夕ラッシュ時は近鉄蟹江駅で富吉駅発着の普通(一部列車のみ)、近鉄弥富駅で準急、近鉄四日市駅と白子駅で普通に連絡する。夜間の津新町行きの一部は江戸橋駅で伊勢中川行き普通に連絡する。なお、伊勢中川駅以南に直通する列車は伊勢中川駅で大阪線一般列車や[[賢島駅|賢島]]方面発着の[[普通列車]]および阪伊乙特急との連絡が考慮されている。
特急列車の待避は主に塩浜駅・伊勢若松駅・江戸橋駅で行われている。
編成は近鉄名古屋側から2両+4両の6両編成を基本とするが、平日早朝の伊勢中川駅5:49発の名古屋行きと平日夜の近鉄名古屋駅20:49発松阪行きの塩浜駅以南は4両編成、平日朝の近鉄四日市駅7:54発の平田町行きは3両編成で運転されている。近鉄四日市駅以南を発着する列車では全列車に[[列車便所|トイレ]]が付いている。
===== 運行の変遷 =====
2000年までは津新町駅折り返しの急行が日中に1時間あたり1本設定され、津新町駅 - 伊勢中川駅間は1時間あたり2本の運転であったが、2001年に伊勢中川駅折り返し<ref name=":2" />、2012年に松阪駅折り返しに変更され<ref name=":3" />、全区間1時間あたり3本運転となった。この間2002年のダイヤ変更で近鉄蟹江駅が停車駅に追加されている。また、2003年までは日中にも鳥羽駅発着の列車が多数設定されていたが、2004年のダイヤ変更で鳥羽駅発着の大多数が宇治山田駅・五十鈴川駅折り返しに変更となり、それ以降、鳥羽駅発着は朝と夕方 - 夜間(鳥羽駅行きのみ)に設定されるのみとなった。
2012年3月20日のダイヤ変更では日中時間帯の近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の列車が増発され(平日・休日ともに12本増、いずれも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の準急の一部を格上げ)、同区間では1時間に4本の急行が運行された<ref name=":3" />。しかし、2016年3月19日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発と近鉄名古屋駅15時台発の1往復を除いて全て準急に格下げされた<ref name="近鉄ダイヤ変更_201603">{{Cite web|和書|url=http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hdaiyahennkou.pdf |format=pdf |title=平成28年のダイヤ変更について |publisher=近畿日本鉄道 |date=2016年1月20日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20201022092551/https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/hdaiyahennkou.pdf |archivedate=2020-10-22 |accessdate=2021-09-21}}</ref>。残る1往復も、2020年3月14日のダイヤ変更で近鉄名古屋駅15時台発の1本が、2021年7月3日のダイヤ変更で近鉄四日市駅9時台発の1本が準急に格下げされ、日中の近鉄四日市駅発着急行は消滅した。
2018年3月17日のダイヤ変更では南が丘駅、桃園駅が停車駅に追加され、江戸橋駅 - 伊勢中川駅間で各駅に停車するようになった<ref name=":4" />。
===== 大阪線との直通運転 =====
2021年7月3日のダイヤ変更時点では急行以下の列車で名古屋線と大阪線の間で直通運転を行う列車は存在しない。
2018年3月16日までは早朝に1本のみ[[名張駅]]発近鉄名古屋駅行き急行が設定されており、この列車は中川短絡線を経由せず、伊勢中川駅で方向転換([[スイッチバック]])して名古屋線へ直通運転し、大阪線内では[[新青山トンネル]]を通過するため後述の大阪線所属編成が充当されていた。なお、近鉄名古屋駅 - 名張駅間の距離は120.6kmで、近鉄名古屋駅 - 鳥羽駅間の距離120.4kmより0.2kmだけ長く、ダイヤ上は近鉄名古屋駅発着の最長運転距離の急行であった<ref group="*">近鉄全体では、2018年3月17日現在のダイヤ上における最長運転距離の特別料金不要一般列車は、大阪線大阪上本町駅 - 鳥羽線鳥羽駅間の快速急行・急行(土休日に上り鳥羽駅始発2本のみ)で、運転距離は150.4kmである。
</ref>。
2020年3月13日までは、早朝の近鉄名古屋始発の急行の一部の列車は伊勢中川到着後、そのまま列車番号と行先を変更し、そのまま大阪線へ入る運用が存在していた。これらの運用には、大阪線の車両が当てられていた。
===== 鈴鹿線との直通運転 =====
2021年7月3日のダイヤ変更時点で、[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]と直通する列車は、平日朝に近鉄四日市駅発[[平田町駅]]行きの急行が1本のみ運転されている。平田町駅発や土曜・休日は運転されていない。
2012年3月18日までは土曜・休日も平田町駅行きと平田町駅発近鉄四日市駅行きが各1本運転されていたが、同年3月20日のダイヤ変更で廃止されている。1987年以前は平田町駅折り返し列車が終日設定されていた。
編成両数は鈴鹿線のホーム[[有効長]]の関係から、3両編成で運転されている。
==== 準急 ====
1983年のダイヤ変更で設定された2代目の準急である。
終日運転され、日中は近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間で1時間あたり2本、日中以外は近鉄名古屋駅 - [[富吉駅]]・近鉄四日市駅間で運転される。近鉄名古屋駅 - 近鉄蟹江駅間はノンストップで、近鉄蟹江駅以南は各駅に停車する。愛知県内での短距離速達種別である一方で三重県内における普通列車の補完という位置付けになっている。なお、近鉄四日市駅に到着する列車の大半は、列車種別を「普通」に変更して塩浜駅・津新町駅・伊勢中川駅まで運転を継続する。
日中の準急は始発駅を急行の続行で発車するため、近鉄四日市駅まで後の急行より先着する。待避回数によって所要時間に差があるものの、近鉄名古屋駅 - 近鉄四日市駅間の標準所要時間は50分強。そのうち、急行との相互接続や通過待ちを行わない列車の最短所要時間は45分であり、同一区間を最短時分で運転する急行と比較しても10分弱の時間差しかない。
途中駅での他種別との連絡については、ほぼ終日にわたって近鉄蟹江駅か富吉駅と近鉄四日市駅で乙特急と、近鉄四日市駅で急行と、近鉄蟹江駅か富吉駅で普通列車と接続する。ラッシュ時の一部は近鉄蟹江駅・近鉄弥富駅・桑名駅(上り列車のみ)・近鉄富田駅(川越富洲原駅で待避する列車のみ)で急行と接続する列車があり、夜間の富吉駅発着の一部に近鉄蟹江駅または富吉駅で、四日市方面発着の普通列車に接続する列車が存在する。一方で列車待避については上記の接続駅以外に[[益生駅]]や[[川越富洲原駅]]でも行われ、ラッシュ時には[[近鉄八田駅]]で普通列車を追い抜く列車も存在する。
2002年ダイヤ変更までは、終日にわたり近鉄蟹江駅または富吉駅で普通と準急の、近鉄弥富駅で準急と急行の接続をとっていたが、同ダイヤ変更で近鉄蟹江駅が急行停車駅に追加されたことにより、ラッシュ時のみ接続するようになった。名古屋市内の急行通過駅から四日市方面へは近鉄蟹江駅で急行に乗り換えられるようになり、日中において準急の必要性が減少したため、同ダイヤ変更から2012年ダイヤ変更までは日中の富吉駅 - 近鉄四日市駅間は準急が運転されていなかった。
編成両数は基本的に3両編成で、ラッシュ時は4両(2両+2両)か5両(3両+2両)編成で運転され、4両(2両+2両)で運転される平日朝の1本と平日・土休日夜の1本については<ref group="*">富吉駅 - 近鉄四日市駅間を6両編成で運転されないのは、[[佐古木駅]]、[[伊勢朝日駅]]、川越富洲原駅、[[川原町駅]]のプラットホームが5両編成までしか対応しないため。</ref>近鉄四日市駅で普通に種別変更する際に、後部編成を切り離す<ref group="*">近鉄四日市駅 - 白塚駅間の急行通過駅が一部の駅を除いて3両編成分のホーム有効長しかないため。</ref>。また、土休日の近鉄四日市駅8:17発近鉄名古屋駅行きは急行の編成を単独で使う運用で、5200系を除く名古屋線所属の4両編成のいずれかが充当される。富吉駅での増結や車両切り離しは設定されていない。富吉行きの一部の列車は富吉車庫への入出庫回送兼用で急行の車両を使用した6両で走るが、この場合は近鉄名古屋駅の3番線から発車する<ref group="*">近鉄名古屋駅で通常準急が発車する2番線は5両編成分のホーム有効長しかないため。</ref>。
==== 普通 ====
各駅に停車する。日中は1時間あたり近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の系統が2本、近鉄名古屋駅 - 津新町駅(一部時間帯は伊勢中川駅)、近鉄四日市駅 - 塩浜駅、近鉄四日市駅 - 津新町駅間の系統が1本ずつ運転されており、富吉駅 - 近鉄四日市駅間で各駅停車になる毎時2本の準急を含めて、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間では1時間あたり3本の本数が確保される。近鉄名古屋駅 - 伊勢中川駅間の列車は伊勢中川駅で賢島方面からの列車と相互接続するようになっている。
ラッシュ時については全線通しで運転されるのは一部のみであり、近鉄名古屋駅 - 富吉駅間および近鉄四日市駅 - 津新町駅・伊勢中川駅間の区間運転が主である。後者は大多数の列車が近鉄四日市駅で準急に種別変更して近鉄名古屋駅まで運行を継続している。その他、早朝・夜間とラッシュ時の前後時間帯に桑名駅・塩浜駅・白子駅・白塚駅を発着とする列車や、近鉄名古屋駅・富吉駅 - 近鉄四日市駅間を普通列車として運行する列車、編成送り込み・入庫[[回送]]兼用として近鉄名古屋駅・近鉄四日市駅 - 塩浜駅間および白塚駅 - 伊勢中川駅間の区間運転列車もあり、白塚駅 - [[近鉄志摩線|志摩線]]賢島駅間で運転される列車が早朝下り(平日・土休日とも)と夜上り(平日のみ)に各1本設定されている。
編成両数は原則として2両か3両編成で運転されており、急行・準急通過駅の多くはホームが最大3両または4両<ref group="*">近鉄名古屋駅、烏森駅、および伏屋駅と白塚駅以南。近鉄八田駅、富吉駅、近鉄長島駅、益生駅、霞ヶ浦駅、阿倉川駅、鼓ヶ浦駅、千代崎駅は6両編成まで対応</ref>までしか対応しておらず、近鉄の非ワンマン車には[[ドアカット]]機能がないため、臨時列車を除けば途中駅での増結・解放も行われないが、早朝の白子駅・塩浜駅の下り始発列車は白塚駅で車両交換を実施して白塚駅 - 伊勢中川駅間を4両編成で運転される。また、平日のみ上りにおいて白塚駅ゆきの列車2本(朝・深夜に各1本)が4両編成で運転される。
2012年3月20日のダイヤ変更より全線通しで運転される列車は従来より削減され、日中にも近鉄名古屋駅 - 富吉駅間の列車が毎時1本運転されるようになったが<ref group="*">代わりに日中の準急を近鉄四日市駅まで区間延長。近鉄四日市駅以南は津新町駅発着または伊勢中川駅発着の普通に種別・行先を変更して引き続き運転する。</ref>、2016年3月19日のダイヤ変更で全線通し運転の列車が毎時1本設定されるようになり、志摩線直通列車は毎時1本に削減された。2018年3月17日のダイヤ変更より、普通列車は昼間の時間帯の列車が津新町駅までの運転となったため、白塚駅 - 伊勢中川駅間で実施していたワンマン運転が見直された。2021年7月3日のダイヤ変更より、従来近鉄四日市駅から津新町駅までの運転だった昼間の毎時2本の列車のうち1本が塩浜駅止まりとなり、塩浜駅 - 津新町駅は毎時3本から毎時2本に減便となった<ref>{{Cite press release|和書|title=2021年7月 3 日(土)ダイヤ変更について|publisher=近畿日本鉄道|date=2021-05-12|url=https://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou.pdf|format=PDF|accessdate=2021-08-18}}</ref>。
2018年3月16日まで志摩線直通の列車が[[ワンマン運転]]で運行されており、日中から夕方にかけて白塚駅 - 志摩線賢島駅間で運転されていた。ワンマン列車は全列車2両編成で運転されたが、平日朝の山田線宇治山田7:01発白塚行きに限り[[#運用|後述]]の急行用車両を用いた4両編成で運転されていた。名古屋線所属の2両編成ワンマン車両には、支線用ワンマン車両にはないドアカット機能があり、[[無人駅]]では1両目後乗り・前降りとして[[運転士]]が[[運賃]]精算を行う形となっており、白塚駅以南のワンマン列車はこのシステムを採用していた。
=== 過去にあった種別 ===
==== 旧・準急 ====
[[1983年]][[3月18日]]のダイヤ変更前まで設定されていた。[[1950年]]9月時点の停車駅は近畿日本名古屋駅・[[近鉄弥富駅|近畿日本弥富駅]]・桑名駅・益生駅・[[川越富洲原駅|富洲原駅]]・[[近鉄富田駅|近畿日本富田駅]]・阿倉川駅・諏訪駅・[[四日市駅]]・塩浜駅・伊勢若松駅・白子駅・江戸橋駅・津駅・津新町駅・久居駅・伊勢中川駅の系統と、前述のほか[[近鉄蟹江駅|近畿日本蟹江駅]]にも停車し、塩浜駅以南は各駅停車となる系統があった<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2011|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 10号 関西私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900449|page=40}}</ref>。
停車駅の変遷は以下の通り。
* 1956年[[9月23日]]:近畿日本四日市駅移転(諏訪駅から駅名変更)に伴い、諏訪駅・四日市駅の2駅停車が近畿日本四日市駅の1駅停車となる。
* [[1964年]][[3月23日]]:[[直行 (列車)|直行列車]]廃止に伴い、近畿日本蟹江駅・[[近鉄長島駅|近畿日本長島駅]]が停車駅となる。
* [[1967年]][[12月20日]]:伊勢朝日駅が停車駅となる。
* [[1972年]][[11月7日]]:富吉駅が停車駅となる。
この後、1983年の廃止まで近鉄蟹江駅 - 近鉄四日市駅間では[[佐古木駅]]・[[霞ヶ浦駅]]・川原町駅の3駅を通過した。
1963年頃には毎時2本ほどの準急が設定され、そのほとんどは[[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]]直通の近畿日本名古屋駅 - [[平田町駅]]間の運用だったが、早朝と夕方に各1往復ずつ、伊勢中川駅発着と[[近鉄山田線|山田線]][[宇治山田駅]]発着の列車が存在した。平田町駅発着の準急は2両編成、伊勢中川駅および宇治山田駅発着の準急はクロスシート車の5両編成が充当されていた。このうち宇治山田駅発着列車は[[近鉄鳥羽線|鳥羽線]]全通に伴う[[1970年]][[3月21日]]ダイヤ変更で[[鳥羽駅]]発着に延長されている<ref name="アラカルト">{{Cite_journal|和書||title=近鉄の列車運転アラカルト|author=寺本光照|date=2018-12|publisher=電気車研究会|journal=鉄道ピクトリアル|number=954|pages=139-140}}</ref>。
==== 直行 ====
1964年3月23日のダイヤ変更まで、現在の準急に近い列車として[[直行 (列車)|直行]]が運転されていた。近畿日本名古屋駅 - 伊勢中川駅(1959年の改軌後は宇治山田駅)間に運転され、停車駅は近畿日本蟹江駅と近畿日本弥富駅以南の各駅であった<ref name="アラカルト"/>。近畿日本名古屋駅 - 近畿日本弥富駅間の各駅は同区間折り返しの普通列車が停車していた。
=== 大晦日終夜運転 ===
[[大晦日]]から[[元日]]にかけての[[終夜運転]]は、近年は近鉄名古屋駅 - 伊勢方面間に乙特急・急行が30 - 60分間隔(一部時間帯を除く)で運転されるほか、名古屋線の全区間で普通(一部準急)が30 - 60分間隔で運転される。なお、2022年元旦以降は急行は運転されなくなった。また、湯の山線・鈴鹿線では近年実施されておらず、列車の運転区間は時間帯によって一定していない。
沿線の神社や仏閣への年越し参り向けの運行であるため、ビジネス向けである名阪特急は終夜運転を行わない。従って、名古屋 - 大阪方面間へは伊勢中川駅で乗り換えが必要である。また、乙特急は一部列車停車駅の久居駅を含めた基本停車駅の全てに停車するが(2020年元旦までは久居駅は通過していた)、阪伊特急やかつての[[近鉄特急#吉野特急(大阪 - 吉野間)|吉野特急]]のように通常ダイヤでは停車しない駅への特別停車は実施されず、急行の特別停車も行われない。
=== 臨時列車・臨時停車 ===
名古屋線沿線でイベントや大学入学試験などが行われる際は、[[臨時列車]]の運転や、臨時停車が実施される。臨時急行の多くは定期急行同様に4両編成か6両編成で運転され、普通列車も一部区間では最大5両編成まで増結が行われる。このうち、桑名駅と津駅を終着とする臨時急行が運転される際は、「急行 桑名」および「急行 津」の[[方向幕]]表示が用意されていないため、簡易方向板を掲出して運転される。
;イベント関係
:*[[鈴鹿サーキット]]で[[フォーミュラ1|F1]][[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]が開催される際には、近鉄名古屋駅 - 白子駅・鈴鹿線平田町駅間(平田町駅発着は近年運行されていない)で臨時急行が運転される<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/110819f1rinnjirextusha.pdf 「F1日本グランプリレース」開催に伴う臨時列車などの運転について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2011年8月19日</ref>。
;大学受験関係
:*[[大学入試センター試験|大学入学共通テスト]]の際は、受験生の便宜を図るため、試験終了時刻に合わせて桑名駅 - 江戸橋駅間の臨時急行が運転される。時期によっては[[鈴鹿医療科学大学]]最寄りの[[千代崎駅]]に停車するものがある。
;スポーツ関係
:*毎年5月末から6月初めに三重県各地で行われる三重県高校総体の開催時には桑名駅 - 五十鈴川駅間に下りのみ臨時急行が数本運転されるほか、一部の宇治山田駅発着の急行が五十鈴川駅発着に変更される。
:*2008年2月までは、[[四日市競輪場|四日市競輪]]開催日に、最寄り駅の霞ヶ浦駅に一部の定期急行が臨時停車したが、現在は行われていない。
:*2006年から2008年まで、全米女子プロゴルフ協会公式戦「ミズノクラシック」(現在の[[TOTOジャパンクラシック]])が賢島カンツリー倶楽部で開催される際は、近鉄四日市駅 - 賢島駅間に臨時列車が設定された。この列車は種別のない臨時列車で、停車駅は鳥羽駅までは定期急行と同じで、鳥羽駅以南は乙特急と同じ停車駅であった。2009年以降は名古屋線からの臨時列車は設定されていないが、同年以降は定期列車の近鉄名古屋5:30発鳥羽行き急行を鳥羽駅で賢島駅行き臨時に系統変更して延長運転することで対処したため、近鉄名古屋駅から乗り換え無しで賢島駅まで直通する列車は会場が変更される直前の2015年まで事実上存続していた。
;花火大会関係
:*2016年以降の毎年9月上旬に鈴鹿市の[[白子港]]緑地で行われる「鈴鹿げんき花火大会」では花火大会終了後に白塚駅始発塩浜駅行き普通列車が1本運転される。なお、2016年の開催時には白子駅開業101周年記念行事も同時開催されたため、開始時間の前後に花火大会最寄駅の白子駅に発着する定期急行列車の上下各1本と前述の臨時普通列車に、三尺玉を模したヘッドマークが掲出された<ref name="rf_20160911">[https://railf.jp/news/2016/09/11/203000.html 近鉄で「鈴鹿げんき花火大会2016 三尺玉号」のヘッドマーク] [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 2016年9月11日掲載</ref>。
:*毎年8月に津市で行われる「[[久居花火大会]](旧・サマーフェスタ イン ひさい)」では、花火大会開始時間に合わせて、定期急行列車の津新町行きを伊勢中川行きに延長して運転され、花火大会終了後に白子駅・白塚駅 - 伊勢中川駅間の臨時普通が数本運転される。
:*揖斐川河畔で開催される「[[桑名水郷花火大会]]」では、花火大会終了後に合わせて桑名駅 - 近鉄四日市駅間、桑名駅 - 富吉駅間に臨時普通が運転される。
:*伊勢神宮奉納全国花火大会の際には、定期急行列車の延長運転のほかに宇治山田駅 - 伊勢中川駅間の上りのみ臨時急行が数本運転される。また、鳥羽みなとまつりの際にも定期急行列車の一部が鳥羽駅まで延長運転される。
;伊勢神宮関係
:*年始には、日中の近鉄名古屋駅 - 宇治山田駅間の定期急行列車が[[五十鈴川駅]]発着に変更される<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/111110nennmatunennsinagoya.pdf 年末から年始にかけて列車の増発および延長運転を実施します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2011年11月10日</ref>。
:*2009年11月3日に[[伊勢神宮]][[皇大神宮|内宮]]の[[宇治橋 (伊勢市)|宇治橋]]渡始式が執り行われた際にも同様の延長運転が行われた。
;レジャー関係
:*[[1980年代]]まで、夏期に近鉄名古屋駅 - [[鼓ヶ浦駅]]間に臨時急行(および同駅への一部急行の臨時停車。なお同駅は本来の急行停車駅ではない)が、[[1990年代]]まで、春秋の行楽期に近鉄名古屋駅 - [[大和八木駅]]間および近鉄名古屋駅 - [[東青山駅]]間に臨時急行が運転され、現在も車両の方向幕や駅の発車標にその名残が見られることがあるが、近年は運転されていない。
:*[[2001年]]から1年間程度[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の客向けに、近鉄名古屋駅 - [[大阪上本町駅|上本町駅]]間直通の臨時急行が運転されていた。
:*2011年11月3日から2012年4月1日まで、[[長島観光開発|ナガシマリゾート]]の[[なばなの里]]の最寄り駅である近鉄長島駅に、土曜・休日の夕方 - 夜間時間帯の一部の急行が臨時停車していた<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/nabananosato110930.pdf 近鉄長島駅から「なばなの里」へ新たなアクセスを整備します]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2011年9月30日。なお、その後、ウインター[[イルミネーション]]が4月1日までに延長されたため臨時停車も延長された。</ref>。2012年度以降も時期や本数の変動はあるが同様に臨時停車が行われている。
== 車両 ==
{{Main2|特急車両|近鉄特急}}
[[ファイル:Trains of Kintetsu Nagoya Line and Global Gate (Montage).jpg|none|thumb|600px|近鉄名古屋線([[向野橋]]付近)を走行中の主な車両(2016年7月)]]
=== 現用車両 ===
2020年4月1日時点。名古屋線で使用される車両の配置検車区については、記述の無いものについては[[富吉検車区]]の配置である<ref name="rf_201808">『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2018年8月号 [[交友社]] 「大手私鉄車両ファイル2018 車両配置表」(当文献にページ番号の記載無し)</ref>。
==== 一般車両 ====
4両編成は配置されている全編成が[[列車便所|トイレ]]装備車を連結する。新製導入は1998年の[[近鉄5800系電車|5800系]]5812Fが最後であり、2000年以降に登場したいわゆる[[シリーズ21]]は配置されておらず、定期列車に使用されることもない。
; 普通・準急運用中心
:*[[近鉄1000系電車|1000系]]:3両編成車。[[明星検車区]]の配置。
:*[[近鉄1010系電車|1010系]]:旧[[近鉄京都線|京都線]]用920系。明星検車区の配置、1011F以外はワンマン対応仕様。
:*[[近鉄1400系電車|1201系]]:ワンマン対応仕様、明星検車区の配置。
:*[[近鉄1220系電車|1230系・1233系・1240系・1253系・1259系]]:ワンマン対応仕様の1230系・1240系・1259系はすべて明星検車区所属。
:*[[近鉄1422系電車|1430系・1440系]]:ワンマン対応の1440系は明星検車区の配属。
:*[[近鉄8810系電車|9000系]]:元[[近鉄奈良線|奈良]]・京都線所属
:
; 急行運用中心
:*[[近鉄1600系電車|1810系]]
:*[[近鉄1400系電車|1400系]]:1407Fのみの配置。
:*[[近鉄1400系電車|1200系]]:2410系ク2590形・2430系中間車混結の4両編成。
:*[[近鉄2000系電車|2000系]]:11編成中9編成はワンマン対応仕様。
:*[[近鉄1400系電車|2050系]]:明星検車区の配置。
:*[[近鉄2400系電車|2410系]]:ク2590形
:*[[近鉄2400系電車|2430系・2444系]]:3両編成及び中間車2両。2444系はワンマン対応仕様。2446Fと2444系は明星検車区の配置。
:*[[近鉄2600系電車|2610系]]:L/Cカー仕様
:*[[近鉄2600系電車|2800系]]:4両編成は2817編成を除きL/Cカー仕様、3両編成は明星検車区の配置。
:*[[近鉄5200系電車|5200系・5209系・5211系]]:3扉転換クロスシート車
:*[[近鉄5800系電車|5800系]]:名古屋線用は5810番台の4両編成
:*[[近鉄2600系電車|2610系]]:ロングシート仕様、検査による急行用車両不足の際に入線することがある。明星検車区の配置。
==== 団体用車両 ====
標準軌線区の各線で運用されている。「[[近鉄大阪線#団体用車両|大阪線]]」の項も参照。
*[[近鉄12000系電車|15200系]]「あおぞらII(2代目)」:特急車12200系の一部から改造。2018年4月1日時点では、15206F(4両編成)と15204F(2両編成)が名古屋線の所属(明星検車区の配属)となっている。
*[[近鉄12000系電車|15400系]]「かぎろひ」:特急車12200系の一部から改造。2018年4月1日時点では、名古屋線の所属(富吉検車区の配置)となっている。
==== 事業用車両 ====
* [[近鉄モト90形電車|モト90形]](モト94・96):軌間が異なる[[養老鉄道養老線]](2007年9月30日までは近鉄養老線)の車両を要部検査・全般検査で塩浜検修車庫へ回送する際の牽引車として使用。富吉検車区所属。
* [[近鉄2400系電車#モワ24系|24系]]:2410系2411Fを改造した電気検測車で、愛称は「はかるくん」。2018年4月時点では、明星検車区の配属となっている。
=== 過去の車両 ===
==== 一般車両 ====
*[[近鉄1000系電車|1000系]]:4両編成車。トイレ装備車両。
*[[近鉄1600系電車|1600系]]:名古屋線初の高性能通勤車。一部にトイレ装備車。
*[[近鉄1600系電車|1800系]]
*[[近鉄1600系電車|1810系]]:サ1960形およびサ1970形
*[[近鉄2600系電車|2600系]]:4扉対面式クロスシート車
*[[近鉄2600系電車|2680系]]:トイレ装備のロングシート車、後に1編成が鮮魚専用車両として大阪線に配置された。
*[[近鉄1480系電車|1480系・2470系]]
*[[近鉄6441系電車|6441系]]:3扉・吊り掛け駆動ながらも名古屋線初の全金属車体通勤車。
==== 団体用車両 ====
*[[近鉄20100系電車|20100系]]「あおぞら」
*[[近鉄18200系電車|18200系]]「あおぞらII(初代)」:元京都・[[近鉄橿原線|橿原線]]用特急車。18202F(4連)が名古屋線の所属(明星検車区の配属)となっていた。
*[[近鉄18200系電車|18400系]]:元京都・橿原線用特急車。1997年に18409Fを「あおぞら2」の増結用に格下げ(18409F以外の編成はすべて廃車)。名古屋線の所属(明星検車区の配属)となっていた。
==== 事業用車両 ====
*[[近鉄モト51形電車|モト75形]](モト75・76):1991年廃車。
*[[近鉄1600系電車#モワ50形|モワ50形]](モワ51・52):1600系モ1650形を改造した救援用車両。2000年廃車。
=== 運用 ===
名古屋線の一般車両については、一部例外はあるものの編成両数と列車種別で車両運用が概ね区分されている。3両編成については準急・普通列車、2両編成については準急・普通列車の他に急行の増結車、4両編成については急行の運用が中心となっている。
過去の車両では、名古屋線には奈良線や大阪線のような連続急勾配がないことから[[抑速ブレーキ]]が省略されており、これらの車両が大阪線の運用に入らないように配慮されていたほか、[[五位堂検修車庫]]の完成後も、上記の理由で大阪線の連続急勾配を通行できない車両が多く存在したことから[[塩浜検修車庫]]に工場機能が残された。
== 駅一覧 ==
; 凡例
: ●:全列車停車、|:全列車通過
: 普通は各駅に停車(表中省略)。
: 特急列車については「[[近鉄特急]]」を参照のこと。
: <nowiki>#</nowiki>印の駅は[[待避駅|列車待避]]可能駅(桑名駅は名古屋方面のみ、益生駅は津方面のみ可能)。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅番号
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #153f97;"|営業<br />キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #153f97; background:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #153f97; background:#fc9;"|{{縦書き|急行}}
!style="border-bottom:solid 3px #153f97;"|接続路線
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #153f97;"|所在地
|-
!E61
|[[伊勢中川駅]]#
| style="text-align:center;" | -
| style="text-align:right;" |0.0
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|D}} [[近鉄大阪線|大阪線]] (D61)・{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄山田線|山田線]] (M61)(急行が{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄鳥羽線|鳥羽線]][[鳥羽駅]]まで、他は{{近鉄駅番号|M}} [[近鉄志摩線|志摩線]][[賢島駅]]まで直通運転)
| rowspan="33" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em" |{{縦書き|[[三重県]]|height=6em}}
| colspan="2" |[[松阪市]]
|-
!E43
|[[桃園駅]]
| style="text-align:right;" |3.3
| style="text-align:right;" |3.3
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
| colspan="2" rowspan="10" |[[津市]]
|-
!E42
|[[久居駅]]
| style="text-align:right;" |1.5
| style="text-align:right;" |4.8
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E41
|[[南が丘駅]]
| style="text-align:right;" |2.5
| style="text-align:right;" |7.3
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E40
|[[津新町駅]]
| style="text-align:right;" |2.7
| style="text-align:right;" |10.0
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E39
|[[津駅]]
| style="text-align:right;" |2.3
| style="text-align:right;" |12.3
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|[[東海旅客鉄道]]:{{Color|#f77321|■}}[[紀勢本線]]<br />[[伊勢鉄道]]:{{Color|blue|■}}[[伊勢鉄道伊勢線|伊勢線]] (12)
|-
!E38
|[[江戸橋駅]]#<br /><small>([[三重大学]]前)</small>
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |13.5
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E37
|[[高田本山駅]]
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |14.7
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E36
|[[白塚駅]]#
| style="text-align:right;" |2.4
| style="text-align:right;" |17.1
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E35
|[[豊津上野駅]]#
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |19.0
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E34
|[[千里駅 (三重県)|千里駅]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |20.9
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E33
|[[磯山駅]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |22.8
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="7" |[[鈴鹿市]]
|-
!E32
|[[鼓ヶ浦駅]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |24.7
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E31
|[[白子駅]]#
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |25.9
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E30
|[[千代崎駅]]
| style="text-align:right;" |2.8
| style="text-align:right;" |28.7
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E29
|[[伊勢若松駅]]#
| style="text-align:right;" |1.8
| style="text-align:right;" |30.5
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|L}} [[近鉄鈴鹿線|鈴鹿線]] (L29)(近鉄四日市方面から[[平田町駅]]まで直通運転)
|-
!E28
|[[箕田駅]]
| style="text-align:right;" |1.3
| style="text-align:right;" |31.8
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E27
|[[長太ノ浦駅]]
| style="text-align:right;" |1.4
| style="text-align:right;" |33.2
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E26
|[[楠駅]]#
| style="text-align:right;" |1.4
| style="text-align:right;" |34.6
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="10" |[[四日市市]]
|-
!E25
|[[北楠駅]]
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |36.2
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E24
|[[塩浜駅]]#
| style="text-align:right;" |1.8
| style="text-align:right;" |38.0
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E23
|[[海山道駅]]
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |39.2
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E22
|[[新正駅]]
| style="text-align:right;" |1.5
| style="text-align:right;" |40.7
| style="text-align:center;" |
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E21
|[[近鉄四日市駅]]#
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |41.9
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|K}} [[近鉄湯の山線|湯の山線]] (K21)<br />[[四日市あすなろう鉄道]]:{{Color|#00a0e8|■}}[[四日市あすなろう鉄道内部線|内部線]] ⇒ [[近鉄四日市駅|あすなろう四日市駅]]
|-
!E20
|[[川原町駅]]<br /><small>([[萬古焼]]の郷)</small>
| style="text-align:right;" |1.2
| style="text-align:right;" |43.1
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E19
|[[阿倉川駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |44.2
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E18
|[[霞ヶ浦駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |45.3
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E17
|[[近鉄富田駅]]
| style="text-align:right;" |1.9
| style="text-align:right;" |47.2
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|[[三岐鉄道]]:{{Color|#ffd400|■}}[[三岐鉄道三岐線|三岐線]]
|-
!E16
|[[川越富洲原駅]]#
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |48.8
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| rowspan="2" |{{縦書き|[[三重郡]]|height=3.5em}}
|[[川越町]]
|-
!E15
|[[伊勢朝日駅]]
| style="text-align:right;" |2.6
| style="text-align:right;" |51.4
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|[[朝日町 (三重県)|朝日町]]
|-
!E14
|[[益生駅]]#
| style="text-align:right;" |2.6
| style="text-align:right;" |54.0
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="3" |[[桑名市]]
|-
!E13
|[[桑名駅]]#
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |55.1
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|[[養老鉄道]]:{{Color|forestgreen|■}}[[養老鉄道養老線|養老線]]<br />東海旅客鉄道:{{JR海駅番号|CJ}} [[関西本線]] (CJ07)<br />三岐鉄道:{{Color|#ffd400|■}}[[三岐鉄道北勢線|北勢線]] ⇒ [[西桑名駅]]
|-
!E12
|[[近鉄長島駅]]
| style="text-align:right;" |4.2
| style="text-align:right;" |59.3
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E11
|[[近鉄弥富駅]]#
| style="text-align:right;" |3.4
| style="text-align:right;" |62.7
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
| rowspan="11" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em" |{{縦書き|[[愛知県]]|height=6em}}
| colspan="2" rowspan="2" |[[弥富市]]
|-
!E10
|[[佐古木駅]]
| style="text-align:right;" |2.4
| style="text-align:right;" |65.1
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E09
|[[富吉駅]]#
| style="text-align:right;" |1.6
| style="text-align:right;" |66.7
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| colspan="2" rowspan="2" |[[海部郡 (愛知県)|海部郡]]<br />[[蟹江町]]
|-
!E08
|[[近鉄蟹江駅]]#
| style="text-align:right;" |2.4
| style="text-align:right;" |69.1
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|
|-
!E07
|[[戸田駅 (愛知県)|戸田駅]]
| style="text-align:right;" |1.3
| style="text-align:right;" |70.4
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
| rowspan="7" style="width:1em; text-align:center;" |{{縦書き|[[名古屋市]]|height=4em}}
| rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap;" |[[中川区]]
|-
!E06
|[[伏屋駅]]
| style="text-align:right;" |2.0
| style="text-align:right;" |72.4
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E05
|[[近鉄八田駅]]#
| style="text-align:right;" |2.6
| style="text-align:right;" |75.0
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|[[名古屋市営地下鉄]]:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]] (H02) ⇒ [[八田駅]]
| rowspan="5" |[[中村区]]
|-
!E04
|[[烏森駅]]
| style="text-align:right;" |1.0
| style="text-align:right;" |76.0
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E03
|[[黄金駅 (愛知県)|黄金駅]]
| style="text-align:right;" |0.7
| style="text-align:right;" |76.7
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E02
|[[米野駅]]
| style="text-align:right;" |1.0
| style="text-align:right;" |77.7
| style="text-align:center; background:#cf9;" ||
| style="text-align:center; background:#fc9;" ||
|
|-
!E01
|[[近鉄名古屋駅]]
| style="text-align:right;" |1.1
| style="text-align:right;" |78.8
| style="text-align:center; background:#cf9;" |●
| style="text-align:center; background:#fc9;" |●
|東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]・{{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]] (CA68)・{{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] (CF00)・{{JR海駅番号|CJ}} 関西本線 (CJ00) ⇒ [[名古屋駅]]<br />[[名古屋臨海高速鉄道]]:{{Color|#334fa0|●AN}} [[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]] (AN01) ⇒ 名古屋駅<br />名古屋市営地下鉄:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|20px]] 東山線 (H08)・[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]] (S02) ⇒ 名古屋駅<br />[[名古屋鉄道]]:{{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]] (NH36) ⇒ [[名鉄名古屋駅]]
|}
* その他、富吉駅 - 佐古木駅間で愛知県[[愛西市]](善太新田町)を通過しているほか、富吉車庫の一部が愛西市(大野町)にかかっている。
=== 廃駅 ===
廃止区間の駅は次節を参照。
*[[三軒家駅]](江戸橋駅 - 高田本山駅間) - 1921年廃止。
*[[白塚駅|逆川駅]](高田本山駅 - 豊津上野駅間) - 1944年廃止。同時に、白塚駅が開業。
*[[豊津上野駅|伊勢上野駅]](逆川駅〈現・白塚駅〉- 千里駅間) - 1943年廃止。豊津浦駅と統合され、豊津上野駅となる。
*[[豊津上野駅|豊津浦駅]](逆川駅〈現・白塚駅〉- 千里駅間) - 1943年廃止。伊勢上野駅と統合され、豊津上野駅となる。
*[[玉垣口駅]](白子駅 - 千代崎駅間) - 1926年廃止。
*(旧)[[霞ヶ浦駅]](羽津駅〈現・霞ヶ浦駅〉- 近鉄富田駅間) - 1943年廃止。
*[[川越駅 (三重県)|川越駅]](富洲原駅〈現・川越富洲原駅〉- 伊勢朝日駅間) - 1946年廃止。
*[[町屋駅 (三重県)|町屋駅]](伊勢朝日駅 - 益生駅間) - 1945年休止、1947年廃止。
*[[揖斐川駅]](桑名駅 - 近鉄長島駅間) - 1948年休止、1969年廃止。
=== 廃止区間 ===
[[海山道駅]] - [[四日市駅]] - [[近鉄四日市駅#諏訪駅|諏訪駅]] - [[西町駅 (三重県)|西町駅]] - [[川原町駅]]
*1956年経路変更に伴い廃止。
=== 主要駅の乗降客数 ===
[[2018年]][[11月13日]]調査による主要駅の乗降客数は次の通り<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/tetsudo/g.html 駅別乗降人員 名古屋線 鈴鹿線] - 近畿日本鉄道</ref>。
*近鉄名古屋 106,217人
*近鉄蟹江 11,424人
*近鉄弥富 11,423人
*桑名 19,621人
*近鉄富田 15,050人
*近鉄四日市 45,116人
*塩浜 7,371人
*伊勢若松 1,924人
*白子 14,563人
*江戸橋 7,923人
*津 27,268人
*津新町 12,063人
*南が丘 3,265人
*久居 9,581人
*桃園 503人
*伊勢中川 7,264人
== ICカードの利用 ==
{{出典の明記| date = 2016年7月| section = 1}}
全線で[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]のほか、[[TOICA]]や[[manaca]]などの交通系[[ICカード]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]により利用できる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.kintetsu.co.jp/gyoumu/ic/k_area.html |title=近鉄電車のICカードご利用可能エリア|publisher=近畿日本鉄道|accessdate=2020-8-1}}</ref>。
[[2007年]][[4月1日]]のPiTaPa導入までの間に、近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間の全駅と急行停車駅に[[自動改札機]]が設置された。また、近鉄線の大半でICOCA定期券の供用を開始することに伴い2014年末までに[[桃園駅]]を除く全駅に自動改札機が設置された。
交通系ICカードでは、連絡運輸のない[[阪神電気鉄道]]線(神戸三宮方面)・[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]・[[山陽電気鉄道]]線(山陽姫路・山陽網干方面)間を連続して乗車することが可能である。
== 構想・計画 ==
=== 金山線乗り入れ計画 ===
[[1992年]](平成4年)[[運輸政策審議会]][[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|答申第12号]]によると、戸田駅で[[名古屋市営地下鉄]]の[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について#市交金山線の新設|金山線]]との相互直通運転を検討するとしている<ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/tetudo/toshitetu/pdf/03_11_02.pdf 運輸政策審議会答申第12号]}} - [[国土交通省]]</ref>。しかし、2020年時点においても金山線自体に事業化の動きはない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*『まるごと近鉄ぶらり沿線の旅』(著者・編者:徳田耕一、出版・発行:[[河出書房新社]] 2005年) {{ISBN2|4309224393}}
* [[カラーブックス]]『日本の私鉄 近鉄1』(著者・編者:諸河久・杉谷広規、出版・発行:[[保育社]] 1998年) {{ISBN2|458650904X}}
* カラーブックス『日本の私鉄 近鉄2』(著者・編者:諸河久・山辺誠、出版・発行:保育社 1998年) {{ISBN2|4586509058}}
*『近鉄時刻表』各号 (著者・編者:[[近畿日本鉄道]]、出版・発行:同左)
*『[[鉄道ピクトリアル]]』'03年1月号増刊「特集:近畿日本鉄道」(著者・編者:電気車研究会、出版・発行:同左)
* 今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』[[新潮社]]、2008年、{{ISBN2|978-4-10-790026-5}}
*『鉄道ファン』各号(交友社)
*『鉄道ダイヤ情報』各号([[交通新聞社]])
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[近鉄特急]]
*[[近鉄特急史]]
*[[名古屋急行電鉄]]
*[[関西線 (名古屋地区)]]、[[伊勢鉄道伊勢線]] - 並行路線
== 外部リンク ==
* [https://www.kintetsu.co.jp/railway/rosen/A50006.html#nagoya 近畿日本鉄道|路線図]
{{近畿日本鉄道の路線}}
{{DEFAULTSORT:きんてつなこやせん}}
[[Category:中部地方の鉄道路線|なこやせん]]
[[Category:近畿地方の鉄道路線|なこやせん]]
[[Category:近畿日本鉄道の鉄道路線|なこや]]
[[Category:関西急行鉄道|路]]
[[Category:参宮急行電鉄|路]]
[[Category:伊勢電気鉄道|路]]
[[Category:関西急行電鉄|路]]
[[Category:愛知県の交通]]
[[Category:三重県の交通]]
[[Category:部分廃止路線]]
|
2003-09-12T05:35:04Z
|
2023-12-30T14:24:54Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E9%89%84%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E7%B7%9A
|
16,361 |
北総鉄道
|
北総鉄道株式会社(ほくそうてつどう、英: Hokuso-Railway Co.,Ltd.)は、東京都東部から千葉県北西部において北総線を運営する日本の鉄道会社である。 京成グループの企業で、京成電鉄が筆頭株主であるほか、千葉県や松戸市など沿線地方公共団体・都市再生機構(UR)が出資する。本社は千葉県鎌ケ谷市新鎌ケ谷四丁目に所在する。
千葉ニュータウンの建設開始に伴い、1972年3月の都市交通審議会(現在の運輸政策審議会)答申第15号が示した2本の東京都心直結ルートの一つを運営するために、同年京成グループ主体により設立されたものである。なお、もう一つについては「千葉県営鉄道#計画路線(北千葉線)」(現在は計画撤回)を参照。
設立当初は第1期新線を1974年度(昭和49年度)、第2期新線を1978年度(昭和53年度)までに開業させる計画であった。1979年に第1期の北初富駅 - 小室駅間、1984年に小室駅 - 千葉ニュータウン中央駅間、1991年に第2期の京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間を開業した。千葉ニュータウン中央駅から1995年に印西牧の原駅まで、2000年に印旛日本医大駅まで延長した。2010年には北総線と施設を共用する京成電鉄の成田スカイアクセス線が開業した。
その後、京成電鉄の経営悪化に伴い、千葉ニュータウン建設の事業主体である千葉県、1973年に事業に参加した宅地開発公団(後に住宅・都市整備公団、都市基盤整備公団を経て現在は都市再生機構)および沿線の地方公共団体や金融機関が出資者として加わり、第三セクター会社となった。現在では京成電鉄の経営は当時に比べて改善しているが出資比率等は変わっていない。ただ北総鉄道は第三セクター会社ではあるが、京成グループとして、グループ統一ロゴ等を車両等に掲示している。
京成カード加盟店であり、鉄道定期券のみ利用できる。
営業収益は毎年100億円以上(2019年度は約177億円)あり、2000年度から20期連続黒字である。しかし、建設関連に伴う借入金の額が多く、2022年3月末の時点で固定負債が約609億円残っている。2006年3月末時点では債務超過額が日本全国の第三セクター鉄道の中で第3位だった が、2012年度の中間決算にて開業以来の債務超過を解消し、その後も黒字経営が継続している状態である。
2023年7月、2022年度の決算を発表し、累積損失を解消したことを発表した。
北総鉄道は、その設立の経緯から千葉ニュータウンの建設と密接なつながりを持ち、その社史は千葉ニュータウン建設の歴史の一部でもある。また成田空港と都心部のアクセス手段は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の成田エクスプレスおよび、それまで京成本線を経由していた京成電鉄のスカイライナーが担ってきたが、北総鉄道の保有する北総線が、成田スカイアクセスの一部区間を担うことになったことも、千葉ニュータウン建設の歴史と共に重要な要素となっており、千葉ニュータウン開発が収縮した後は、沿線開発と空港連絡鉄道としての役割が同社の歴史となっている。
千葉ニュータウンの建設は1966年に千葉県が構想を発表し、1969年に都市計画を決定した。1970年に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。そのような動きにより、2004年7月に、行政改革の一環として行われた特殊法人の見直しに合わせ、住宅・都市整備公団が鉄道事業から撤退することになったのに伴い、「開発」の名を社名から外して北総鉄道株式会社とし、「北総・公団線」と呼ばれた路線名も「公団」を外して「北総線」とした。
2010年7月17日から、北総線を経由して都心と成田空港を結ぶ成田スカイアクセスの開通により、第二種鉄道事業者として京成電鉄が運行するスカイライナーやアクセス特急が北総鉄道の線路を利用することになり、京成電鉄から得られる路線・施設使用料収入が収益改善に貢献し、2012年に債務超過状態を会社設立から40年かけて解消した。
北総鉄道は32.3kmの路線を有するが、小室駅 - 印旛日本医大駅間は、第三種鉄道事業者の千葉ニュータウン鉄道が線路などの施設を保有し、北総鉄道は第二種鉄道事業者として運行を行っている。なお小室駅自体は北総鉄道が所有している。また京成電鉄が第二種鉄道事業者として成田空港へのアクセス列車を運行している成田空港線(成田スカイアクセス)は、北総線と線路などの施設を共用しており、2010年7月17日の成田スカイアクセス開業後は、京成高砂駅に加え、アクセス特急停車駅の東松戸駅・新鎌ヶ谷駅・千葉ニュータウン中央駅・印旛日本医大駅の各駅が共同使用駅となっている(京成高砂駅以外の管理は北総鉄道が行う)。
2019年12月現在、8両編成8本(64両)が在籍するが、自社所有の車両は5本(40両)で、残りの3本(24両)は京成電鉄からのリース車である。そのほか、千葉ニュータウン鉄道所有の8両編成5本(40両)も管理している。便宜上、同社所有車についてもここに記す。千葉ニュータウン鉄道所有車・京成電鉄からのリース車両を含むすべての現有車両が京浜急行電鉄乗り入れ対策のため、先頭車を電動車としている。整備は全て京成電鉄に委託しているが、当初9000形については新京成電鉄に委託して整備されていた。
当時京成車や北総車で千葉ニュータウン中央行の場合、行先表示の「ニュータウン」を大きく表示して千葉中央行と区別していた。
このほか、京成電鉄から一時的に3400形が帯色を変更せずに貸し出されたことがある。
北総線全線共通・大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符利用の場合は10円未満切り上げ)。2022年10月1日改定。
切符運賃の10枚分の金額で発売。連絡回数券や阪急電鉄のような綴り枚数が半分のハーフ回数券の発売はなく、北総内完結のみの発売なので乗継割引はない。他社連絡の場合は自動改札機や自動精算機の受付は2枚までなので3枚以上や他社の福祉乗車証や株主優待券併用は窓口対応になる。
以下の範囲などにおいて連絡定期券の発売が可能である。
経路や駅によっては発売できない場合がある。グリーン定期やモーニングパスも購入出来ない。
北総鉄道は、東葉高速鉄道などと並び、首都圏の通勤路線の中でも運賃が際立って高い。これは、元々の建設費用が高く付いたことと、千葉ニュータウン事業計画の未達(当初の計画人口34万人に対して2021年12月末時点の人口は計画人口の3分の1の105,175人)による利用の少なさに由来する。中距離の運賃設定は、周辺他社と比較して特に高額となっており(距離に対する運賃額は「運賃」の節を参照)、路線バスの運賃を上回るケースもある。
東京都心や、羽田空港方面など京急線との間を利用する場合は、乗継割引が若干あるものの直通先に京成電鉄・東京都交通局(都営地下鉄)・京浜急行電鉄と事業者が連続することから、事業者ごとにそれぞれの運賃が加算され、トータルで更に高額となる。
北総鉄道の定期券の割引率について、通勤定期1か月の割引率は月31日換算で30%、月28日換算で25%である(都営線まで乗り継ぐ場合は3社線割引で京成・北総線分は5%引きとなり割引率は33.5%となる)。6か月有効の定期券で割引率40.15%となり、月21日(2022年10月の値下げ前は22日)以上利用しない場合は、回数券の単価の方が安価となる。特に日中・土休日回数券は10枚分の金額で15枚綴なので(割引率33.3%)勤務形態によってはこちらのが安くなる。
クレジットカードでの購入は京成カードに限られていたが、2020年4月1日から他ブランドでも購入可能になっている。高額なため「利用可能枠を確認下さい」という旨の掲示がある。PASMO定期券で発行した場合、所定の手数料がかかるものの紛失しても再発行が可能である。デビットカードは使えない場合がある。
なお、沿線の印西市・白井市では過去に「北総線通学定期券助成」制度を設けていた(有効期間が2010年7月16日を超えない通学定期券のみ有効だった)が、後述の値下げ実施に併せて定期券の割引率も引き上げられたため終了した。
成田スカイアクセス開通後は、北総線の線路で京成電鉄が空港アクセス列車を運用しているため、北総鉄道に線路・施設使用料収入が見込まれることから、沿線市町村・一部県議会の議員は、北総線の運賃を引き下げるよう関係機関などに求めている。
北総線沿線自治体の市民有志は「財布落としても定期落とすな」と言われると国会でも指摘された北総線の高額な運賃の現状、および成田スカイアクセスの運賃が、北総線沿線利用者の高負担で支えられている現状を改善する事を目的として、有志グループ「北総線の運賃値下げを実現する会」を結成し、北総線の運賃値下げを求める住民運動を起こした。
2010年5月、沿線住民ら5人は国を相手に、京成への運賃認可取り消しを求め提訴した。2013年3月26日「運賃設定に問題は認められない」として東京地方裁判所は原告敗訴の判決を下した。原告は控訴したが、2014年2月19日に東京高等裁判所は控訴棄却、2015年4月21日に最高裁判所も同じく上告棄却としたため、原告敗訴が確定判決となった。
2013年10月には沿線有志自ら、印西市高花地区(千葉ニュータウン中央駅から3kmほど)から新鎌ヶ谷駅に至る路線バスを走らせる実証実験を始め、2014年6月から「生活バスちばにう」として本格運行することとなった。路線バス運行は、鎌ヶ谷観光バスに委託し、30 - 60分間隔(24往復)・大人片道300円(IC乗車カードは使用不可)・所要20 - 30分で、月 - 金曜日(祝日含む)のみ運行を開始した。
印西市は北総鉄道の株主であり、同市の板倉正直市長は千葉ニュータウン鉄道が京成電鉄と北総鉄道から徴収する線路利用料の格差に着目して、株主として運賃引き下げを求めている。
2009年の第171通常国会・衆議院総務委員会(2009年3月13日)では、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)の改正案の審議の中で、民主党の田嶋要がこの問題を取り上げた。国土交通省鉄道局次長は「千葉県と関係市町村で構成される北総鉄道利用促進協議会に参画し意見を言って行きたい」とこれまで通りの答弁をし、成田財特法によるインフラ整備や運賃を下げるための資金援助といった北総鉄道への支援については消極的な姿勢を示した。
2009年11月の北総鉄道・京成電鉄と千葉県及び沿線8自治体(市川市・松戸市・鎌ケ谷市・白井市・船橋市・印西市・本埜村・印旛村。2村は2010年3月に印西市に編入し、現在は沿線6市)との合意に基づき、2010年2月19日、成田スカイアクセスの開業日(同年7月17日)決定と同時に運賃の認可も行われ、北総鉄道も運賃改定の認可を行い、成田スカイアクセスの開業日から運賃値下げを行うことになった。初乗り運賃は200円から190円になるなど普通旅客運賃は平均4.9%、通勤定期は1.1%、通学定期は平均25%の値下げとなった。
しかし、この問題をめぐっては白井市議会が補助金支出を否決。最終的に横山久雅子市長の専決処分により拠出されたものの、2011年の市議選・市長選まで混乱が続いた。
北総鉄道は、2012年度に債務超過が解消し、これを受けて白井・印西両市が、現行の補助金支出の期限である2015年3月を以って、補助金拠出を打ち切ることを表明した。これにより、現状のスキームの維持は困難となり、2014年4月、沿線6市は補助金拠出終了を正式に表明した。これを受けて、北総鉄道は通学定期券を除いて運賃の値下げ幅の縮小(値上げ)を表明した。
2014年12月19日、北総鉄道は、2015年2月10日から運賃を変更する旨、国土交通省に届出を行った。なお、千葉県及び関係市町村の補助金拠出が2015年4月で終わるのに対し、運賃の値上げは2月からとなった。これは、PASMOシステムの更新時期と合わせる必要があったためである。
2021年6月23日の千葉県議会代表質問において、熊谷俊人知事は「(北総鉄道の)室谷正裕社長に高運賃問題を検討するよう要請したところ『値下げの可能性の検討に着手したい』との話があった」と明かした。
その後、北総鉄道は2021年11月19日、沿線人口の増加や2022年度中に累積赤字が解消できる見込みが立ったことなどを背景として、2022年10月1日から普通運賃で最大100円、通学定期(1か月分)で最大1万円以上の値下げを行う旨の運賃変更届け出を国土交通省に対して行ったと発表した。これにより、現行の運賃と比較した値下げ率では普通運賃で11.6%、通勤定期で13.8%、通学定期で64.7%となり、大手私鉄とほぼ同水準になるとしている。ただし、通勤の割引率は殆ど変わらずIC運賃43回分(端数切上げ)が切符運賃42回分になった程度である(例:改定前は380円区間で通勤定期16150円のところ、改定後の新たな380円区間では15960円と200円しか下がっていない)。それでも千葉都市モノレールと同程度の運賃設定になる。沿線自治体からは地域の更なる活性化や利便性の向上に繋がるとして歓迎のコメントを出している。
なお、運賃値下げ後の北総最高額の820円(通勤定期34440円)と普通運賃が同額の区間は、東武鉄道では61 - 70kmの区間で通勤定期19000円前後、通学定期5700円前後となっているほか、北総通勤定期と同程度の運賃区間は120km(34240円)と約4倍の移動距離になる。首都圏のJR(電車特定区間)では46 - 50kmの区間の普通運賃が北総最高額と同額で通勤定期22000円前後、大学通学11000円前後。関西大手では南海電気鉄道の50 - 54kmの区間が普通運賃810円で通勤定期25000円前後、通学定期6500円前後である。北総線と同程度の距離の路線を持つ上信電鉄・長野電鉄・野岩鉄道では全線の普通運賃がそれぞれ1130円・1190円・1090円と北総よりも350円以上も高額だが、通勤定期はそれぞれ30000円前後・33750円・42300円と北総より安価に設定されている。通学定期はいずれも20000円前後なので北総の約5000円の4倍程度になっている。値下げ前の北総最高額の840円と普通運賃が同額の区間は、野岩では20kmで通勤定期32350円、通学定期17460円なので、通勤は北総、通学は野岩の方が1割ほど高かった。真岡鐵道との比較では30 - 31km区間(2019年9月まで普通820円・通勤32820円→同年10月から普通840円・通勤33430円)が同額だが、通勤定期は32 - 33km区間(2019年9月まで普通860円・通勤34870円→同年10月から普通890円・通勤35520円)がほぼ同額となっている。
開業当初、駅務業務に関して徹底した合理化が図られており、昭和50年代当時としては画期的であった。
全駅に自動券売機・自動改集札機・自動精算機が設置され、各駅には出改札要員を一切配置せず、集約化された定期券の発売業務を除き、出改札業務の総てが機械化・無人化されていた。昭和50年代半ばにも拘わらず、開業当初は有人による出改札口を備えた駅が存在しなかった。非磁気化券を所持している旅客が出場する場合、たとえ運賃精算が不要であっても、各駅に設置された自動精算機で磁気化された出場券に交換のうえ自動改集札機で出場する駅務システムで、非磁気化券所持者が出場するためには、自動精算機による切符交換が常に必要であった。
しかし、当時は直通運転先の終点である新京成電鉄松戸駅が、国鉄との共同使用駅であり改札口が分離されていなかったこと、また国鉄や新京成電鉄などが自動改集札機に対応していなかったことから、非磁気化券を所持する旅客がそのまま到着するケースが想定外に多く発生した。結果として各駅からの精算・切符交換要求が集中すると、精算機による処理に非常に長い時間を要する事態となり(特に常磐緩行線の乗り入れ先である営団地下鉄や、その先の乗り入れ各社線からの乗車券の精算に時間を要した)、当該旅客から大きな不評を買う結果となった。
自動精算機とはいえ、実際には、指令センターの係員が小型カメラで券面を読み取り、コンピュータを操作して精算するという半自動方式の駅集中管理システムで、新鎌ヶ谷駅(開業当初は信号所)から遠隔操作で行なっていた。読取面に収まれば、例え国鉄の周遊券(非磁気化券)でも精算可能な便利なシステムであったが、センターの機器数やそれを操作する要員数が少なかったことから前述のような結果となり、このシステムが長続きすることはなかった。
その最大理由は、精算に要する時間と切符交換を必要とする旅客数との見込み違いによる誤算であった。1本の列車は次々と各駅に到着してゆくが、最初の停車駅に到着した旅客の精算業務が終わらないうちに、当該列車は次駅に到着してしまい、新たにそこからの精算要求が加わり、その後、当該列車が次々駅に到着すると、更に精算要求が加わるという「雪だるま式」の状態が多発し、捌ききれない旅客が、日々長時間待たされるという結果が生じることとなった。特に、前述の松戸駅方面からの、非磁気化券を所持する旅客が多く到着する、小室駅方面行きの下り列車において、これが顕著であった。
このため1982年頃に、自動精算機による精算・交換を諦めて精算機の使用を停止、各駅に有人窓口を設置して精算等の業務に対応するようになった。また精算機の使用停止前から、小室行き列車到着時に係員が精算機の前に立ち、精算不要の非磁気化券を持つ旅客に対して、手渡しで出場券に交換することも常態化していた。
機械化・自動化による駅務業務の合理化という、当時としては時代を先取りした、画期的な計画は実用化に至らず、その後の都心直通運転を開始した1991年に、このシステムは正式に廃止された(自動券売機、自動改集札機はその後も継続使用)。
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"text": "北総鉄道株式会社(ほくそうてつどう、英: Hokuso-Railway Co.,Ltd.)は、東京都東部から千葉県北西部において北総線を運営する日本の鉄道会社である。 京成グループの企業で、京成電鉄が筆頭株主であるほか、千葉県や松戸市など沿線地方公共団体・都市再生機構(UR)が出資する。本社は千葉県鎌ケ谷市新鎌ケ谷四丁目に所在する。",
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"text": "千葉ニュータウンの建設開始に伴い、1972年3月の都市交通審議会(現在の運輸政策審議会)答申第15号が示した2本の東京都心直結ルートの一つを運営するために、同年京成グループ主体により設立されたものである。なお、もう一つについては「千葉県営鉄道#計画路線(北千葉線)」(現在は計画撤回)を参照。",
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"text": "設立当初は第1期新線を1974年度(昭和49年度)、第2期新線を1978年度(昭和53年度)までに開業させる計画であった。1979年に第1期の北初富駅 - 小室駅間、1984年に小室駅 - 千葉ニュータウン中央駅間、1991年に第2期の京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間を開業した。千葉ニュータウン中央駅から1995年に印西牧の原駅まで、2000年に印旛日本医大駅まで延長した。2010年には北総線と施設を共用する京成電鉄の成田スカイアクセス線が開業した。",
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"text": "その後、京成電鉄の経営悪化に伴い、千葉ニュータウン建設の事業主体である千葉県、1973年に事業に参加した宅地開発公団(後に住宅・都市整備公団、都市基盤整備公団を経て現在は都市再生機構)および沿線の地方公共団体や金融機関が出資者として加わり、第三セクター会社となった。現在では京成電鉄の経営は当時に比べて改善しているが出資比率等は変わっていない。ただ北総鉄道は第三セクター会社ではあるが、京成グループとして、グループ統一ロゴ等を車両等に掲示している。",
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"text": "京成カード加盟店であり、鉄道定期券のみ利用できる。",
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"text": "営業収益は毎年100億円以上(2019年度は約177億円)あり、2000年度から20期連続黒字である。しかし、建設関連に伴う借入金の額が多く、2022年3月末の時点で固定負債が約609億円残っている。2006年3月末時点では債務超過額が日本全国の第三セクター鉄道の中で第3位だった が、2012年度の中間決算にて開業以来の債務超過を解消し、その後も黒字経営が継続している状態である。",
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"text": "北総鉄道は、その設立の経緯から千葉ニュータウンの建設と密接なつながりを持ち、その社史は千葉ニュータウン建設の歴史の一部でもある。また成田空港と都心部のアクセス手段は、東日本旅客鉄道(JR東日本)の成田エクスプレスおよび、それまで京成本線を経由していた京成電鉄のスカイライナーが担ってきたが、北総鉄道の保有する北総線が、成田スカイアクセスの一部区間を担うことになったことも、千葉ニュータウン建設の歴史と共に重要な要素となっており、千葉ニュータウン開発が収縮した後は、沿線開発と空港連絡鉄道としての役割が同社の歴史となっている。",
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"text": "2009年の第171通常国会・衆議院総務委員会(2009年3月13日)では、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)の改正案の審議の中で、民主党の田嶋要がこの問題を取り上げた。国土交通省鉄道局次長は「千葉県と関係市町村で構成される北総鉄道利用促進協議会に参画し意見を言って行きたい」とこれまで通りの答弁をし、成田財特法によるインフラ整備や運賃を下げるための資金援助といった北総鉄道への支援については消極的な姿勢を示した。",
"title": "運賃問題"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2009年11月の北総鉄道・京成電鉄と千葉県及び沿線8自治体(市川市・松戸市・鎌ケ谷市・白井市・船橋市・印西市・本埜村・印旛村。2村は2010年3月に印西市に編入し、現在は沿線6市)との合意に基づき、2010年2月19日、成田スカイアクセスの開業日(同年7月17日)決定と同時に運賃の認可も行われ、北総鉄道も運賃改定の認可を行い、成田スカイアクセスの開業日から運賃値下げを行うことになった。初乗り運賃は200円から190円になるなど普通旅客運賃は平均4.9%、通勤定期は1.1%、通学定期は平均25%の値下げとなった。",
"title": "運賃問題"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかし、この問題をめぐっては白井市議会が補助金支出を否決。最終的に横山久雅子市長の専決処分により拠出されたものの、2011年の市議選・市長選まで混乱が続いた。",
"title": "運賃問題"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "北総鉄道は、2012年度に債務超過が解消し、これを受けて白井・印西両市が、現行の補助金支出の期限である2015年3月を以って、補助金拠出を打ち切ることを表明した。これにより、現状のスキームの維持は困難となり、2014年4月、沿線6市は補助金拠出終了を正式に表明した。これを受けて、北総鉄道は通学定期券を除いて運賃の値下げ幅の縮小(値上げ)を表明した。",
"title": "運賃問題"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2014年12月19日、北総鉄道は、2015年2月10日から運賃を変更する旨、国土交通省に届出を行った。なお、千葉県及び関係市町村の補助金拠出が2015年4月で終わるのに対し、運賃の値上げは2月からとなった。これは、PASMOシステムの更新時期と合わせる必要があったためである。",
"title": "運賃問題"
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{
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"text": "2021年6月23日の千葉県議会代表質問において、熊谷俊人知事は「(北総鉄道の)室谷正裕社長に高運賃問題を検討するよう要請したところ『値下げの可能性の検討に着手したい』との話があった」と明かした。",
"title": "運賃問題"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後、北総鉄道は2021年11月19日、沿線人口の増加や2022年度中に累積赤字が解消できる見込みが立ったことなどを背景として、2022年10月1日から普通運賃で最大100円、通学定期(1か月分)で最大1万円以上の値下げを行う旨の運賃変更届け出を国土交通省に対して行ったと発表した。これにより、現行の運賃と比較した値下げ率では普通運賃で11.6%、通勤定期で13.8%、通学定期で64.7%となり、大手私鉄とほぼ同水準になるとしている。ただし、通勤の割引率は殆ど変わらずIC運賃43回分(端数切上げ)が切符運賃42回分になった程度である(例:改定前は380円区間で通勤定期16150円のところ、改定後の新たな380円区間では15960円と200円しか下がっていない)。それでも千葉都市モノレールと同程度の運賃設定になる。沿線自治体からは地域の更なる活性化や利便性の向上に繋がるとして歓迎のコメントを出している。",
"title": "運賃問題"
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"text": "なお、運賃値下げ後の北総最高額の820円(通勤定期34440円)と普通運賃が同額の区間は、東武鉄道では61 - 70kmの区間で通勤定期19000円前後、通学定期5700円前後となっているほか、北総通勤定期と同程度の運賃区間は120km(34240円)と約4倍の移動距離になる。首都圏のJR(電車特定区間)では46 - 50kmの区間の普通運賃が北総最高額と同額で通勤定期22000円前後、大学通学11000円前後。関西大手では南海電気鉄道の50 - 54kmの区間が普通運賃810円で通勤定期25000円前後、通学定期6500円前後である。北総線と同程度の距離の路線を持つ上信電鉄・長野電鉄・野岩鉄道では全線の普通運賃がそれぞれ1130円・1190円・1090円と北総よりも350円以上も高額だが、通勤定期はそれぞれ30000円前後・33750円・42300円と北総より安価に設定されている。通学定期はいずれも20000円前後なので北総の約5000円の4倍程度になっている。値下げ前の北総最高額の840円と普通運賃が同額の区間は、野岩では20kmで通勤定期32350円、通学定期17460円なので、通勤は北総、通学は野岩の方が1割ほど高かった。真岡鐵道との比較では30 - 31km区間(2019年9月まで普通820円・通勤32820円→同年10月から普通840円・通勤33430円)が同額だが、通勤定期は32 - 33km区間(2019年9月まで普通860円・通勤34870円→同年10月から普通890円・通勤35520円)がほぼ同額となっている。",
"title": "運賃問題"
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"tag": "p",
"text": "開業当初、駅務業務に関して徹底した合理化が図られており、昭和50年代当時としては画期的であった。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
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{
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"tag": "p",
"text": "全駅に自動券売機・自動改集札機・自動精算機が設置され、各駅には出改札要員を一切配置せず、集約化された定期券の発売業務を除き、出改札業務の総てが機械化・無人化されていた。昭和50年代半ばにも拘わらず、開業当初は有人による出改札口を備えた駅が存在しなかった。非磁気化券を所持している旅客が出場する場合、たとえ運賃精算が不要であっても、各駅に設置された自動精算機で磁気化された出場券に交換のうえ自動改集札機で出場する駅務システムで、非磁気化券所持者が出場するためには、自動精算機による切符交換が常に必要であった。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
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{
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"text": "しかし、当時は直通運転先の終点である新京成電鉄松戸駅が、国鉄との共同使用駅であり改札口が分離されていなかったこと、また国鉄や新京成電鉄などが自動改集札機に対応していなかったことから、非磁気化券を所持する旅客がそのまま到着するケースが想定外に多く発生した。結果として各駅からの精算・切符交換要求が集中すると、精算機による処理に非常に長い時間を要する事態となり(特に常磐緩行線の乗り入れ先である営団地下鉄や、その先の乗り入れ各社線からの乗車券の精算に時間を要した)、当該旅客から大きな不評を買う結果となった。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
},
{
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"text": "自動精算機とはいえ、実際には、指令センターの係員が小型カメラで券面を読み取り、コンピュータを操作して精算するという半自動方式の駅集中管理システムで、新鎌ヶ谷駅(開業当初は信号所)から遠隔操作で行なっていた。読取面に収まれば、例え国鉄の周遊券(非磁気化券)でも精算可能な便利なシステムであったが、センターの機器数やそれを操作する要員数が少なかったことから前述のような結果となり、このシステムが長続きすることはなかった。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
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"text": "その最大理由は、精算に要する時間と切符交換を必要とする旅客数との見込み違いによる誤算であった。1本の列車は次々と各駅に到着してゆくが、最初の停車駅に到着した旅客の精算業務が終わらないうちに、当該列車は次駅に到着してしまい、新たにそこからの精算要求が加わり、その後、当該列車が次々駅に到着すると、更に精算要求が加わるという「雪だるま式」の状態が多発し、捌ききれない旅客が、日々長時間待たされるという結果が生じることとなった。特に、前述の松戸駅方面からの、非磁気化券を所持する旅客が多く到着する、小室駅方面行きの下り列車において、これが顕著であった。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
},
{
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"text": "このため1982年頃に、自動精算機による精算・交換を諦めて精算機の使用を停止、各駅に有人窓口を設置して精算等の業務に対応するようになった。また精算機の使用停止前から、小室行き列車到着時に係員が精算機の前に立ち、精算不要の非磁気化券を持つ旅客に対して、手渡しで出場券に交換することも常態化していた。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "機械化・自動化による駅務業務の合理化という、当時としては時代を先取りした、画期的な計画は実用化に至らず、その後の都心直通運転を開始した1991年に、このシステムは正式に廃止された(自動券売機、自動改集札機はその後も継続使用)。",
"title": "合理化に関する取組みとその後の展開"
}
] |
北総鉄道株式会社は、東京都東部から千葉県北西部において北総線を運営する日本の鉄道会社である。 京成グループの企業で、京成電鉄が筆頭株主であるほか、千葉県や松戸市など沿線地方公共団体・都市再生機構(UR)が出資する。本社は千葉県鎌ケ谷市新鎌ケ谷四丁目に所在する。
|
{{Otheruseslist|東京都東部から千葉県北西部に路線を有する鉄道会社|この会社が運営する鉄道路線|北総鉄道北総線|かつて現在の東武野田線にあたる路線を運営していた同名の別会社|東武野田線}}
{{Pathnav|京成電鉄|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 北総鉄道株式会社
| 英文社名 = Hokuso-Railway Co.,Ltd.
| ロゴ = [[File:Hokuso Logo full.svg|300px]]
| 画像 = [[ファイル:hokusotetsudohonsha.jpg|300px]]
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = 北総
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 273-0107
| 本社所在地 = [[千葉県]][[鎌ケ谷市]][[新鎌ケ谷]]四丁目2番3号<ref group="注釈">住居表示実施に伴う町名変更前は千葉県鎌ケ谷市[[初富]]928番地929</ref>
| 設立 = [[1972年]]([[昭和]]47年)[[5月10日]]<br />(北総開発鉄道株式会社)
| 業種 = 陸運業
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 鉄道による一般運輸事業、その他これに関連する事業
| 代表者 = 代表取締役社長 [[室谷正裕|室谷 正裕]]
| 資本金 = 249億円
|売上高 = 141億2300万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/4268d/258813 北総鉄道株式会社 第50期決算公告]</ref>
|営業利益 = 29億3500万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy" />
|経常利益 = 25億8300万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy" />
|純利益 = 17億7000万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy" />
|純資産 = 234億3000万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy" />
|総資産 = 947億7800万円<br>(2022年03月31日時点)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 314人(2021年11月5日現在)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[京成電鉄]] 50.84%<br />[[千葉県]] 22.29%<br />[[都市再生機構]] 17.27%<br />[[松戸市]] 1.37%<br />[[市川市]] 1.02%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.hokuso-railway.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''北総鉄道株式会社'''(ほくそうてつどう、{{Lang-en-short|Hokuso-Railway Co.,Ltd.}})は、[[東京都]]東部から[[千葉県]]北西部において[[北総鉄道北総線|北総線]]を運営する日本の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。 [[京成グループ]]の企業で、[[京成電鉄]]が[[株主|筆頭株主]]であるほか、[[千葉県]]や[[松戸市]]など沿線[[地方公共団体]]・[[都市再生機構]](UR)が出資する。本社は千葉県[[鎌ケ谷市]][[新鎌ケ谷]]四丁目に所在する。
== 概要 ==
[[千葉ニュータウン]]の建設開始に伴い、[[1972年]][[3月]]の都市交通審議会(現在の[[運輸政策審議会]])答申第15号が示した2本の東京都心直結ルートの一つを運営するために、同年[[京成グループ]]主体により設立されたものである<ref name="koutsu330">[{{NDLDC|2248550/1}} 交通技術 第27巻第8号 北総開発鉄道の事業計画、1972年8月1日発行、30ページ~33ページ、交通協力会]</ref>。なお、もう一つについては「[[千葉県営鉄道#計画路線(北千葉線)]]」(現在は計画撤回)を参照。
設立当初は第1期新線を1974年度(昭和49年度)、第2期新線を1978年度(昭和53年度)までに開業させる計画であった<ref name="koutsu330" />。[[1979年]]に第1期の北初富駅 - 小室駅間、[[1984年]]に小室駅 - [[千葉ニュータウン中央駅]]間、[[1991年]]に第2期の[[京成高砂駅]] - [[新鎌ヶ谷駅]]間を開業した。千葉ニュータウン中央駅から1995年に[[印西牧の原駅]]まで、2000年に[[印旛日本医大駅]]まで延長した。[[2010年]]には北総線と施設を共用する京成電鉄の[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]が開業した。
その後、京成電鉄の経営悪化に伴い、千葉ニュータウン建設の事業主体である千葉県、[[1973年]]に事業に参加した[[宅地開発公団]](後に住宅・都市整備公団、都市基盤整備公団を経て現在は[[都市再生機構]])および沿線の地方公共団体や[[金融機関]]が出資者として加わり、[[第三セクター]]会社となった。現在では京成電鉄の経営は当時に比べて改善しているが出資比率等は変わっていない。ただ北総鉄道は第三セクター会社ではあるが、京成グループとして、グループ統一ロゴ等を車両等に掲示している。
[[京成カード]]加盟店であり、鉄道定期券のみ利用できる。
営業収益は毎年100億円以上(2019年度は約177億円)あり、[[2000年]]度から20期連続黒字である。しかし、建設関連に伴う借入金の額が多く、[[2022年]]3月末の時点で固定負債が約609億円<ref>https://www.hokuso-railway.co.jp/docs/hokuso/gaiyo/kessan2021.pdf</ref>残っている。2006年3月末時点では[[債務超過]]額が日本全国の第三セクター鉄道の中で第3位だった<ref>『[[週刊ダイヤモンド]]』2007年12月15日号</ref> が、2012年度の中間決算にて開業以来の債務超過を解消し<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/c/news/economics/115120 千葉日報web 2012年12月18日発表]</ref>、その後も黒字経営が継続している状態である。
2023年7月、2022年度の決算を発表し、累積損失を解消したことを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokuso-railway.co.jp/docs/hokuso/gaiyo/kessan2022.pdf |title=2022年度(第51期)決算について |access-date=2023-08-04 |date=2023-07-01 |website=北総鉄道株式会社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=北総鉄道、前年の“大幅値下げ”後に「赤字447億円」を完済 実現できた理由は? |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2307/14/news046.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2023-08-04 |author=宮武和多哉 |date=2023-07-14}}</ref>。
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:right;"
|+経営状況
! !!営業収益!!営業利益!!経常利益!!純利益!!利益剰余金!!固定負債!!純資産
|-
!2006年度
|||||22億2900万円||11億1300万円||△365億800万円||||
|-
!2007年度
|||||24億5300万円||13億3300万円||△351億7400万円||||
|-
!2008年度
|||||30億6700万円||15億4000万円||△336億3400万円||||
|-
!2009年度
|||||33億100万円||18億3400万円||△301億3000万円||||
|-
!2010年度
|||||35億8500万円||21億6200万円||△279億6700万円||||
|-
!2011年度
|154億2600万円||48億4800万円||37億1600万円||21億7300万円||△257億9400万円||||
|-
!2012年度
|159億2200万円||54億1200万円||43億9200万円||26億6800万円||△231億2500万円||884億1600万円||17億7400万円
|-
!2013年度
|164億700万円||55億5800万円||46億4700万円||28億9100万円||△202億3400万円||858億1800万円||46億6500万円
|-
!2014年度
|162億6400万円||48億100万円||39億6300万円||25億2700万円||△177億700万円||830億6500万円||71億9200万円
|-
!2015年度
|164億8000万円||49億7400万円||41億7100万円||27億6100万円||△149億4600万円||801億200万円||99億5300万円
|-
!2016年度
|168億1600万円||47億1800万円||40億6900万円||28億1100万円||△121億3400万円||769億4300万円||127億6500万円
|-
!2017年度
|175億2300万円||41億2600万円||35億9100万円||24億4900万円||△96億8500万円||743億1300万円||152億1400万円
|-
!2018年度
|177億3900万円||42億8600万円||38億3200万円||26億5200万円||△70億3200万円||709億4400万円||178億6700万円
|-
!2019年度
|177億4800万円||41億6000万円||37億3900万円||26億1800万円||△44億1400万円||677億2700万円||204億8500万円
|-
!2020年度
|134億4700万円||22億1000万円||18億300万円||12億6100万円||△31億5200万円||643億5400万円||217億4700万円
|-
!2021年度
|141億2300万円||29億3500万円||25億8300万円||17億7000万円||△14億6900万円||608億9300万円||234億3000万円
|-
!2022年度
|139億3500万円||28億3900万円||25億2800万円||17億5800万円||2億8800万円||567億2600万円||251億8800万円
|}
== 歴史 ==
北総鉄道は、その設立の経緯から[[千葉ニュータウン]]の建設と密接なつながりを持ち、その社史は千葉ニュータウン建設の歴史の一部でもある。また[[成田国際空港|成田空港]]と都心部のアクセス手段は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[成田エクスプレス]]および、それまで[[京成本線]]を経由していた京成電鉄の[[スカイライナー]]が担ってきたが、北総鉄道の保有する北総線が、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]の一部区間を担うことになったことも、千葉ニュータウン建設の歴史と共に重要な要素となっており、千葉ニュータウン開発が収縮した後は、沿線開発と[[空港連絡鉄道]]としての役割が同社の歴史となっている<ref>[http://www.nikkenren.com/archives/doboku/archive/tekkenkyo/kaihou/245/11.html 成田新高速鉄道建設事業の概要 社団法人日本鉄道建設業協会会報 第245号]</ref><ref>[http://www.hokuso-railway.co.jp/gaiyo/index.htm 北総鉄道会社概要 1982年(昭和57年)5月に空港アクセス鉄道として計画が開始された]</ref>。
千葉ニュータウンの建設は[[1966年]]に千葉県が構想を発表し、[[1969年]]に[[都市計画]]を決定した。[[1970年]]に小室地区から事業が着手されたものの、用地買収が計画通りに進まず、その間に東京圏への人口集中が鈍化し、住宅確保の緊急性が薄れたこともあって、当初の計画から大幅な変更・縮小を余儀なくされていた。これにより、当時都心への唯一の鉄道アクセス手段であった北総開発鉄道の旅客数低迷にも直結し、同社の経営が悪化する主因となった。そのような動きにより、[[2004年]]7月に、行政改革の一環として行われた特殊法人の見直しに合わせ、住宅・都市整備公団が鉄道事業から撤退することになったのに伴い、「開発」の名を社名から外して北総鉄道株式会社とし、「北総・公団線」と呼ばれた路線名も「公団」を外して「北総線」とした<ref name="Hokuso200402">[https://web.archive.org/web/20040803154818/http://www.hokuso-railway.co.jp/topics/2004/020/index.htm 7月1日、当社は社名を「北総開発鉄道」から「北総鉄道」へ路線名を「北総・公団線」から、「北総線」に変更します。](北総鉄道トピックス・インターネットアーカイブ・2004年時点の版)。</ref><ref name="JRC624">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal = RAIL FAN |date = 2004年10月号 |issue = 10 |volume = 51 |publisher = 鉄道友の会 |page = 26 }}</ref>。
[[2010年]]7月17日から、北総線を経由して都心と成田空港を結ぶ成田スカイアクセスの開通により、[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]として京成電鉄が運行するスカイライナーや[[京成成田空港線#アクセス特急|アクセス特急]]が北総鉄道の線路を利用することになり、京成電鉄から得られる路線・施設使用料収入が収益改善に貢献し、2012年に債務超過状態を会社設立から40年かけて解消した。
* [[1972年]]([[昭和]]47年)[[5月10日]]:'''北総開発鉄道株式会社'''設立。
* [[1979年]](昭和54年)[[3月9日]]:北総線(第1期)[[北初富駅]] - [[小室駅]]間開業。当初は[[新京成電鉄]][[松戸駅]]まで乗り入れ。
* [[1982年]](昭和57年)5月:[[成田国際空港|新東京国際空港]]アクセス鉄道として位置付け。
* [[1984年]](昭和59年)[[3月19日]]:住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線小室駅 - [[千葉ニュータウン中央駅]]間が開業し、運営を受託。
* [[1988年]](昭和63年)[[4月1日]]:住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線の[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]となる。同時に[[鉄道事業者|第一種鉄道事業]]区間を含めて「北総・公団線」と改称する。<!-- 鉄道事業法附則第3条第6 - 10項により、1987年の同法施行後から免許種別決定まで1年間の移行期間が設けられていたため。参考:https://www.ne.jp/asahi/wc6y-nmk/komatetsu/kanjo/hensen/hen1988.htm -->
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月31日]]:北総・公団線(第2期)[[京成高砂駅]] - [[新鎌ヶ谷駅]]間(第1種鉄道事業)開業<ref>{{Cite news |title=北総開発鉄道あす全通 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1991-03-30 |page=2 }}</ref>。
* [[1992年]](平成4年)[[7月8日]]:[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]北初富駅 - 新鎌ヶ谷駅間の連絡線廃止。新京成電鉄新鎌ヶ谷駅の開業に伴う直通運転終了による。
* [[1995年]](平成7年)4月1日:千葉ニュータウン中央駅 - [[印西牧の原駅]]間(第2種鉄道事業)開業。
* [[2000年]](平成12年)
** [[7月22日]]:印西牧の原駅 - [[印旛日本医大駅]]間(第二種鉄道事業)開業。[[印旛車両基地]]供用開始。
** [[10月14日]]:共通乗車カード[[パスネット]]対応カードとして、「[[ほくそうパッスルカード]]」発売・運用開始。
* [[2004年]](平成16年)[[7月1日]]:商号を'''北総鉄道株式会社'''に変更、同時に北総・公団線を「北総線」と改称<ref name="Hokuso200402"/><ref name="JRC624"/>。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:[[PASMO]]を導入。同時に[[Suica]]と相互利用開始。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月10日]]:共通乗車カードパスネットの発売終了。
** [[3月14日]]:共通乗車カードパスネットの自動改札機での使用を終了。
* [[2010年]](平成22年)[[7月17日]]:北総線全線が[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス)の一部となり、スカイライナーおよびアクセス特急が運行を開始<ref>[https://web.archive.org/web/20101125003230/http://hokuso-railway.co.jp/topics/2010/025/index.htm 7月17日(土)成田スカイアクセス開業に伴うダイヤ改正を実施します](北総鉄道トピックス・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref>。<!-- 「成田スカイアクセス」は京成高砂-成田空港間に対する愛称なので「広義」と断らなくとも北総線はその一部。列車運行は北総線部分について述べればよし。 -->運賃低減の補助金投入による旅客運賃改定を実施し、初乗旅客運賃を大人200円から190円に値下げ<ref name="Hokuso201007">[https://web.archive.org/web/20101125003459/http://hokuso-railway.co.jp/topics/2010/031/index.htm 北総線運賃値下げ・成田スカイアクセス開業に伴う乗車券取り扱いのご案内](北総鉄道トピックス・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref><ref name="Hokuso201002">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20101125003753/http://hokuso-railway.co.jp/topics/2010/003/003.pdf 千葉県及び沿線市村との合意に基づく運賃値下げの実施について]}}(北総鉄道報道発表資料・インターネットアーカイブ・2010年時点の版)。</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月23日]]
*** [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により[[TOICA]]、[[ICOCA]]なども利用可能となる。
*** 北総線内の[[東松戸駅]]・新鎌ヶ谷駅・千葉ニュータウン中央駅で[[NTTドコモ]]の[[公衆無線LAN]]サービス「[[docomo Wi-Fi]]」が利用可能になる。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:消費税率引き上げに伴う旅客運賃改定を実施し、切符購入時の初乗旅客運賃を大人200円、ICカード利用時の初乗旅客運賃を大人195円とする。
* [[2015年]](平成27年)[[2月10日]]:運賃低減の補助金打ち切りに伴う旅客運賃改定を実施し、ICカード利用時の初乗旅客運賃を大人199円とする。通学定期は据え置き。
* [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月1日]]:消費税率引き上げに伴う旅客運賃改定を実施し、切符購入時の初乗旅客運賃を大人210円、ICカード利用時の初乗旅客運賃を大人203円とする<ref name="fare_kaitei20190905">{{PDFlink|[https://www.hokuso-railway.co.jp/hokuso-railwaycms/wp-content/uploads/2019/09/f7c1e5587586c92be7bc98380ce60b56.pdf 鉄道運賃の改定について]}} - 北総鉄道、2019年9月5日</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[4月17日]]:空間波式デジタル[[列車無線]]の使用を開始<ref group="注釈">京成電鉄でも同日から使用開始。従来の[[誘導無線]]式アナログ列車無線との併用。</ref><ref>[https://www.hokuso-railway.co.jp/topics/detail/10008 デジタル方式の列車無線の使用を開始します] - 北総鉄道、2021年4月16日</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 10月1日:旅客運賃改定を実施し、運賃値下げ<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=北総鉄道が来年10月値下げへ 通学定期は3分の1に|url=https://www.sankei.com/article/20211119-GW7ZUET4IJOC7LU47VOBX6WS6A/|website=産経新聞|date=2021-11-19|accessdate=2021-11-20}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=もう高くない!北総鉄道が運賃大幅値下げ 沿線人口増加で赤字解消へ|url=https://www.asahi.com/articles/ASPCM73QSPCMUDCB01B.html|website=朝日新聞|accessdate=2021-11-20|date=2021-11-20}}</ref>。
** [[10月2日]]:会社設立50周年。それを記念した[[ほくそう春まつり|ほくそう秋まつり]]が4年ぶりに[[イオンモール千葉ニュータウン]]の[[駐車場]]で開催<ref>[https://railf.jp/event/2022/09/21/191000.html 北総鉄道,会社創立50周年記念「ほくそう秋まつり2022」開催] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道イベント、2022年9月21日</ref>
* [[2023年]](令和5年)[[4月22日]]:列車無線を空間波式デジタルに移行完了<ref>{{PDFlink|[https://www.hokuso-railway.co.jp/hokuso-railwaycms/wp-content/uploads/2023/04/20230424_pressrelease.pdf デジタル方式の列車無線工事が完了しました]}} - 北総鉄道、2023年4月24日</ref>。
== 路線 ==
[[ファイル:Hokusō Railway Linemap.svg|500px|right|thumb|路線図(クリックで拡大)]]
北総鉄道は32.3kmの路線を有するが、[[小室駅]] - [[印旛日本医大駅]]間は、[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]の[[千葉ニュータウン鉄道]]が線路などの施設を保有し、北総鉄道は[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]として運行を行っている。なお小室駅自体は北総鉄道が所有している。また京成電鉄が第二種鉄道事業者として成田空港へのアクセス列車を運行している[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス)は、北総線と線路などの施設を共用しており、2010年7月17日の成田スカイアクセス開業後は、京成高砂駅に加え、アクセス特急停車駅の東松戸駅・新鎌ヶ谷駅・千葉ニュータウン中央駅・印旛日本医大駅の各駅が共同使用駅となっている(京成高砂駅以外の管理は北総鉄道が行う)。
* [[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|20px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]](第一種鉄道事業):京成高砂駅 - 小室駅 19.8 km 12駅
* [[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|20px|HS]] 北総線(第二種鉄道事業。第三種鉄道事業者は千葉ニュータウン鉄道):小室駅 - 印旛日本医大駅 12.5 km 3駅
* 【廃止】北初富駅 - 新鎌ヶ谷駅 0.8 km(新京成線との連絡線)
[[ファイル:Keisei map.svg|thumb|700px|none|京成電鉄を含めた停車駅表。北総線全線は京成成田空港線と設備を共用する。北総線単独駅は青色で表記。]]{{clear}}
== 車両 ==
2019年12月現在、8両編成8本(64両)が在籍するが、自社所有の車両は5本(40両)で、残りの3本(24両)は京成電鉄からの[[リース]]車である。そのほか、千葉ニュータウン鉄道所有の8両編成5本(40両)も管理している。便宜上、同社所有車についてもここに記す。千葉ニュータウン鉄道所有車・京成電鉄からのリース車両を含むすべての現有車両が[[京浜急行電鉄]]乗り入れ対策のため、先頭車を[[動力車|電動車]]としている。整備は全て京成電鉄に委託しているが、当初9000形については新京成電鉄に委託して整備されていた。
=== 自社車両 ===
==== 現有車両 ====
* [[北総鉄道7500形電車|7500形]]:自社所有車。車体構造やスペックは[[京成3000形電車 (2代)|京成3000形]]や[[新京成電鉄N800形電車|新京成N800形]]と同一設計である。2006年2月20日から営業運転を開始。
* [[北総開発鉄道7300形電車|7300形・7800形]]:元新京成乗り入れ対応車の自社所有車2本(16両)および[[京成3700形電車|京成3700形]]のリース車両3本(24両)。自社所有車は第2期区間開業時から営業運転を開始。
<gallery widths="200">
Hokuso-Series7501.jpg|7500形(2021年7月 四ツ木駅)
Hokuso-Series7828.jpg|7300形・7800形(2021年7月 四ツ木駅)
</gallery>
==== 過去の車両 ====
* [[新京成電鉄800形電車|800形]]:新京成から購入した車両。塗装は変更されなかったが、車両番号左の新京成の社紋が撤去され、連結面に「北総開発鉄道」のステッカーが貼られていた。新京成への返却(売却)後に車体の[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記がプレート式へ変更された。新京成線以外の他社線や営業運転での第2期線(京成高砂駅 - 新鎌ヶ谷駅間)への入線<ref group="注釈">試運転は矢切駅まで入線したことがある。方向幕には「新鎌ヶ谷」「矢切」が追加されていた。</ref> は行われなかった。
* [[京成3150形電車|7050形]]:[[京成3150形電車|京成3150形]]のリース車両。このうち7064編成と7068編成の4連2本は前面帯が標準のものより薄い色だった。
* [[北総開発鉄道7250形電車|7250形]]:[[京成3200形電車|京成3200形]]のリース車両。2005年度に[[廃車 (鉄道)|廃車]]回送された。
* [[北総鉄道7260形電車|7260形]]:[[京成3300形電車|京成3300形]]のリース車両。2015年3月22日を持って運用終了<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-22 |url=http://www.hokuso-railway.co.jp/pc/topics.php?catid=1&infoid=147 |title=7260形さよなら運転を実施しました |publisher=北総鉄道公式サイト |accessdate=2015-04-09}}</ref>。
* [[京急1000形電車 (初代)#北総開発鉄道(当時・7150形)|7150形]]:[[京急1000形電車 (初代)|京急旧1000形]]を譲受の上運用した。このうち4両は末期にカラードア試験を実施した。ただし、新京成電鉄用の[[列車無線|SR無線]]を装備しなかったので、7000形や7300形と違って新京成には入線できなかった。
* [[北総開発鉄道7000形電車|7000形]]:自社所有車。元新京成乗り入れ対応車。つり革を廃した室内や、固定窓+空調方式の採用、熱線吸収ガラス採用による日除けの廃止、ステンレス車体へのラッピングの採用など、後に設置されたつり革以外は後の多くの車両に引き継がれている斬新なコンセプトにより、1980年[[ローレル賞]]を受賞。車体前面がギリシャ文字の“[[Σ]]”に似た凹凸がある独特のデザインをしており、ゲンコツ電車と呼ばれる。7300形7808編成・7260形への置き換えで[[2007年]][[3月25日]]の[[さよなら運転]]を最後に運転を終了し、全車が廃車された。
<gallery widths="200">
Hokuso-7250.jpg|7250形電車(2006年2月)
Model 7250-7268F of Hokuso Railway.jpg|7260形(2007年8月 印旛車両基地)
Hokuso7150shmbamba.JPG|7150形(1995年7月 新馬場駅)
Model 7000 of Hokuso Railway.jpg|7000形(2007年3月 印旛車両基地)
</gallery>
=== 千葉ニュータウン鉄道所有車 ===
==== 現有車両 ====
* [[住宅・都市整備公団9100形電車|9100形]]:愛称はC-flyer(シー・フライヤー)。斬新なデザインに加えて車端部クロスシートを装備するが、スペック的には7300形と同じである。印西牧の原延伸と同時に営業運転を開始した。
* [[北総鉄道7500形電車#千葉ニュータウン鉄道9200形|9200形]]:2013年2月に製造された新型車両で、北総7500形同様、京成グループ標準車体を採用した車両。ラインカラーは水色と黄色である。2013年3月1日営業運転開始<ref>ネコ・パブリッシング『レイルマガジン』2013年5月号「千葉ニュータウン鉄道9200形」記事。</ref>。
* [[北総開発鉄道7300形電車#千葉ニュータウン鉄道9800形|9800形]]:9000形の置き換えのため、京成3700形のリースを受けた車両。北総7300形とはラインカラーが9200形同様の水色と黄色になっている点で異なる。2017年3月21日営業運転開始<ref>[http://railf.jp/news/2017/03/22/180000.html 千葉ニュータウン鉄道9800形が営業運転を開始] 鉄道ファン(交友社)railf.jp 2017年3月22日</ref>。
当時京成車や北総車で千葉ニュータウン中央行の場合、行先表示の「ニュータウン」を大きく表示して千葉中央行と区別していた。
このほか、京成電鉄から一時的に[[京成3400形電車|3400形]]が帯色を変更せずに貸し出されたことがある。
<gallery widths="200">
Hokuso-9118 Oshiage-Line.jpg|9100形(2021年7月 四ツ木駅)
Chiba-New-Town-Railway Series9200-9201.jpg|9200形(2023年2月 新馬場駅)
Chiba-New-Town Series9800.jpg|9800形(2021年7月 八広駅)
</gallery>
==== 過去の車両 ====
* [[住宅・都市整備公団2000形電車|9000形]]:当初は2000形と名乗っていたが、京急線への乗り入れに際して京急にも[[京急2000形電車|2000形]]があるため、地下鉄1号線乗り入れ協定に準拠して改番された。当時の住宅・都市整備公団千葉ニュータウン線開業と同時に営業運転を開始した。2017年3月20日をもって運用終了。
<gallery widths="200">
Hokuso-Type9000.jpg|9000形(2017年3月 立会川駅)
</gallery>
== 運賃 ==
北総線全線共通・大人普通旅客[[運賃]](小児半額・[[乗車カード|ICカード]]の場合は1円未満切り捨て、[[乗車券#鉄道|切符]]利用の場合は10円未満切り上げ)。2022年10月1日改定<ref name="hokuso20211119">{{PDFlink|[https://www.hokuso-railway.co.jp/hokuso-railwaycms/wp-content/uploads/2021/11/20211119_pressrelease.pdf 北総線の運賃値下げを実施いたします 2022年10月1日(土)実施予定]}} - 北総鉄道、2021年11月19日<!--距離に対する運賃額--></ref><ref>{{PDFlink|[https://www.hokuso-railway.co.jp/hokuso-railwaycms/wp-content/uploads/2021/11/20221001_fare_table.pdf 2022年10月1日実施予定改定後の運賃]}} - 北総鉄道、2021年11月19日<!--駅間の運賃額--></ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!距離<br />(km)!!IC!!切符
|-
| 1 - 3 ||188||190
|-
| 4 - 5 ||279||280
|-
| 6 - 7 ||330||330
|-
| 8 - 9 ||379||380
|-
| 10 - 11 ||427||430
|-
| 12 - 14 ||475||480
|-
| 15 - 17 ||547||550
|-
| 18 - 20 ||617||620
|-
| 21 - 23 ||667||670
|-
| 24 - 26 ||720||720
|-
| 27 - 29 ||768||770
|-
| 30 - 33 ||811||820
|}
* 北総鉄道の乗車券で、券面の区間において[[京成成田空港線]](成田スカイアクセス線)の電車にも乗車可能である。
=== 回数券 ===
発売額はきっぷ運賃の10枚分。いずれも北総線内完結のみの発売で乗継割引はない。
* 普通[[回数乗車券]]は11枚綴り。使用制限はない。障害者半額。
* 昼間割引回数乗車券は15枚綴りで日中10 - 16時の間のみ使える。他社と異なり土休日も日中のみの利用に限られる。大人のみ発売で障害者割引適用外。割引率は約33%。
* 土休日割引回数乗車券も15枚綴りで終日使えるが土休日と年末年始のみの利用になる。大人のみ発売。障害者割引適用外。割引率は約33%。
=== 乗継割引 ===
==== 普通乗車券・IC利用 ====
* [[新柴又駅]]と[[京成高砂駅]]経由で[[京成電鉄]]初乗り区間との間を乗車する場合は、大人運賃で20円の割引。
* 北総線内各駅と京成線経由で[[都営地下鉄]]各駅との間を乗車する場合は、大人運賃で30円の割引。ただし、[[大町駅 (千葉県)|大町駅]] - [[印旛日本医大駅]]の各駅発着である場合は、40円の割引(北総線内各駅と京成・都営線を経由して東京メトロ線各駅との間で利用する場合は100円(新柴又駅 - 松飛台駅は90円)割引となるが未発売。押上駅や上野駅からメトロ線利用は割引なし)。新京成を介した場合は乗継割引にならない。
* 北総線内各駅と印旛日本医大駅以東の京成成田空港線([[成田湯川駅]]・[[空港第2ビル駅]]・[[成田空港駅]])との間を利用する場合は、北総線印旛日本医大接続京成成田空港線の駅との連絡乗車券となる。運賃は印旛日本医大までの北総線の運賃と印旛日本医大駅から京成成田空港線の運賃を合計した後、両社の営業キロを合計し京成成田空港線の運賃となるよう乗継割引を適用した金額となる。
==== 定期券 ====
* 北総-京成押上線-都営地下鉄は各社5%ずつの割引。都バス・都電については地下鉄連絡割引にならない。
* 北総-京成押上線-都営地下鉄-京急・東急・京王については北総・京成・都営の5%引のみ適用。
* 北総-京成押上線-都営地下鉄-東京メトロは北総・京成が5%、都営・メトロが15%引。
* 北総-京成押上線-東京メトロは北総・京成のみ5%引。
** 3・4社連絡で発売出来ない区間の場合は先に地下鉄などの他社で購入した定期券を提示する事で北総・京成の割引が受けられる。
** 通学学期定期は北総内のみの発売なので乗継割引対象外。[[東京都シルバーパス]]や都営交通無料パスとの併用も割引対象外。
=== 連絡乗車券の発売 ===
==== 普通片道乗車券 ====
* 各駅の券売機(連絡接続駅を除く)における連絡普通乗車券では印旛日本医大経由京成成田空港線各駅、京成高砂経由[[京成千原線|千原線]]を除く京成線各駅、押上経由都営地下鉄線各駅、押上・泉岳寺経由京急線各駅および新鎌ヶ谷経由新京成線各駅である。
* 連絡普通乗車券において、新鎌ヶ谷・新京成線京成津田沼経由京成線各駅および印旛日本医大・京成成田空港線空港第2ビル駅経由京成線各駅への乗車券は発売していない。
==== 定期券 ====
以下の範囲などにおいて連絡定期券の発売が可能である。
* 印旛日本医大経由京成成田空港線各駅
* 京成高砂経由京成線
* (京成線押上経由)都営地下鉄線各駅
* (都営地下鉄線泉岳寺経由)京急線各駅
* (都営地下鉄線目黒経由)東急線
* (印旛日本医大・京成成田空港線・空港第2ビル経由)京成線
* (京成線日暮里経由)JR東日本線
* 新鎌ヶ谷経由新京成線各駅
* 東松戸経由JR東日本線
* 新鎌ヶ谷経由東武線
* (新鎌ヶ谷・東武線・柏又は船橋経由) JR東日本線
* (新鎌ヶ谷・新京成線・新津田沼/津田沼経由) JR東日本線
* (新鎌ヶ谷・新京成線・松戸経由) JR東日本線
* (京成線押上経由)東京メトロ線・東武線
* (京成線京成関屋・牛田経由)東武線
経路や駅によっては発売できない場合がある。グリーン定期やモーニングパスも購入出来ない。
== 運賃問題 ==
=== 背景 ===
北総鉄道は、[[東葉高速鉄道]]<!--出典で言及されているもののみ。-->などと並び、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の通勤路線の中でも運賃が際立って高い<ref name="ITmedia_20210806">{{Cite web|和書|author=[[杉山淳一]] |date=2021-08-06 |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2108/06/news046.html |title=“日本一高い”北総鉄道は値下げできるのか 「やはり難しい」これだけの理由 |website=杉山淳一の「週刊鉄道経済」 |publisher=[[ITmedia|ITmedia ビジネス ONLINE]] |accessdate=2021-09-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=運賃値下げ検討で注目の北総線 どれほど高いの? 東京~品川380円・蒲田650円!?|url=https://trafficnews.jp/post/108359|website=乗りものニュース|date=2021-06-24|accessdate=2021-08-10|language=ja}}</ref>。これは、元々の建設費用が高く付いたことと、[[千葉ニュータウン]]事業計画の未達(当初の計画人口34万人に対して2021年12月末時点の人口は計画人口の3分の1の105,175人)による利用の少なさに由来する。中距離の運賃設定は、周辺他社と比較して特に高額となっており(距離に対する運賃額は「[[#運賃|運賃]]」の節を参照)、路線バスの運賃を上回るケースもある。
東京都心や、羽田空港方面など京急線との間を利用する場合は、乗継割引が若干あるものの直通先に[[京成電鉄]]・[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])・[[京浜急行電鉄]]と事業者が連続することから、事業者ごとにそれぞれの運賃が加算され、トータルで更に高額となる。
=== 定期券割引 ===
北総鉄道の[[定期乗車券|定期券]]の割引率について、通勤定期1か月の割引率は月31日換算で30%、月28日換算で25%である(都営線まで乗り継ぐ場合は3社線割引で京成・北総線分は5%引きとなり割引率は33.5%となる)。6か月有効の定期券で割引率40.15%となり、月21日(2022年10月の値下げ前は22日)以上利用しない場合は、回数券の単価の方が安価となる。特に日中・土休日回数券は10枚分の金額で15枚綴なので(割引率33.3%)勤務形態によってはこちらのが安くなる。
[[クレジットカード]]での購入は[[京成カード]]に限られていたが、2020年4月1日から他ブランドでも購入可能になっている。高額なため「利用可能枠を確認下さい」という旨の掲示がある。[[PASMO]]定期券で発行した場合、所定の手数料がかかるものの紛失しても再発行が可能である。[[デビットカード]]は使えない場合がある。
なお、沿線の[[印西市]]・[[白井市]]では過去に「北総線通学定期券助成」制度を設けていた(有効期間が2010年7月16日を超えない通学定期券のみ有効だった)が、後述の値下げ実施に併せて定期券の割引率も引き上げられたため終了した。
=== 沿線住民・自治体の動き ===
[[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]開通後は、北総線の線路で京成電鉄が[[空港連絡鉄道|空港アクセス列車]]を運用しているため、北総鉄道に[[線路使用料|線路・施設使用料]]収入が見込まれることから、沿線市町村・一部県議会の議員は、北総線の運賃を引き下げるよう関係機関などに求めている<ref name="hokuso_nesage"/>。
北総線沿線自治体の市民有志は「財布落としても定期落とすな」と言われると国会でも指摘された<ref name="hokuso_saifu">衆議院建設委員会 - 12号(平成11年5月14日)にて、[[斉藤鉄夫]]が運輸省(当時)鉄道局長に対する質問で言及している。[[日本共産党]]のウェブサイトにも言及がある([http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-08-27/2008082704_01_0.html 北総線 高運賃是正を要請 国交相に市民団体])。ちなみに、この問題は前述のPASMO定期券が再発行できる様になってからは解消した。</ref>北総線の高額な運賃の現状、および成田スカイアクセスの運賃が、北総線沿線利用者の高負担で支えられている現状を改善する事を目的として、有志グループ「北総線の運賃値下げを実現する会」を結成し<ref name="hokuso_nesage">{{Cite web|和書|url=http://hokujitsukai.org/|title=北総線の運賃値下げを実現する会|accessdate=2021-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190103015224/http://hokujitsukai.org/|archivedate=2019-01-03}}</ref>、北総線の運賃値下げを求める住民運動を起こした<ref name="diamond.jp-01">{{cite news | author = 相川俊英 | url = http://diamond.jp/articles/-/42705?page=2 | title = 鉄道運賃の値下げをめぐって敵と味方が大混戦に 専決処分を行った前白井市長に2363万円の賠償命令。 | newspaper = [[週刊ダイヤモンド]] | publisher = [[ダイヤモンド社]] | date = 2013-10-08 | accessdate = 2016-12-08 }}</ref>。
2010年5月、沿線住民ら5人は[[日本国政府|国]]を相手に、京成への運賃認可取り消しを求め提訴した<ref name="沿線住民の敗訴確定 北総鉄道運賃値下げ訴訟">{{Cite news |title=沿線住民の敗訴確定 北総鉄道運賃値下げ訴訟 |newspaper=千葉日報 |date=2015-04-23 |url=http://www.chibanippo.co.jp/news/national/252753 |accessdate=2015-11-20}}</ref>。2013年3月26日「運賃設定に問題は認められない」として東京地方裁判所は原告敗訴の判決を下した<ref>{{Cite news |title=北総線の運賃設定は問題なし 値下げ訴訟で東京地裁判決 |newspaper=朝日新聞 |date=2013-03-26|url=http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201303260150.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130326205027/http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201303260150.html#Contents |archivedate=2013-03-26|accessdate=2015-11-20}}</ref>。原告は控訴したが、2014年2月19日に[[東京高等裁判所]]は控訴棄却<ref>{{Cite news |title=「値下げ」 二審も認めず 北総鉄道運賃訴訟 |newspaper=千葉日報 |date=2014-02-20 |url=http://www.chibanippo.co.jp/news/national/180271 |accessdate=2015-11-20}}</ref>、2015年4月21日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]も同じく上告棄却としたため、原告敗訴が[[確定判決]]となった<ref name="沿線住民の敗訴確定 北総鉄道運賃値下げ訴訟"/>。
2013年10月には沿線有志自ら、印西市高花地区(千葉ニュータウン中央駅から3kmほど)から[[新鎌ヶ谷駅]]に至る[[路線バス]]を走らせる実証実験を始め<ref>{{cite news | author = 相川俊英 | url = http://diamond.jp/articles/-/50277/?page=3 | title = 高運賃の北総鉄道に代わる別の選択肢を!新しい生活バスを自力で運行する住民の気骨 | newspaper = [[週刊ダイヤモンド]] | publisher = [[ダイヤモンド社]] | date = 2014-03-18 | accessdate = 2016-12-08 }}</ref>、2014年6月から「[[鎌ヶ谷観光バス#生活バスちばにう|生活バスちばにう]]」として本格運行することとなった<ref>{{cite news | author = 相川俊英 | url = http://diamond.jp/articles/-/54168 | title = 住民自らが開設した「生活バス」がついに運行開始 行政や補助金に頼らない地域活性化のあり方とは? | newspaper = [[週刊ダイヤモンド]] | publisher = [[ダイヤモンド社]] | date = 2014-06-06 | accessdate = 2016-12-08 }}</ref><ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/local/197026 “北総線代替バス”本格運行 千葉NT中央-新鎌ケ谷駅直行 「ちばにう」9日発車式] - 千葉日報ウェブ、2014年6月6日。<!--2014年6月運行開始の出典。--></ref>。路線バス運行は、[[鎌ヶ谷観光バス]]に委託し、30 - 60分間隔(24往復)・大人片道300円(IC[[乗車カード]]は使用不可)・所要20 - 30分で、月 - 金曜日(祝日含む)のみ運行を開始した<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/local/160323 格安直行バス運行開始 「北総鉄道は割高」と社会実験 印西・高花地区住民グループ] - 千葉日報ウェブ、2013年10月8日</ref><ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/local/183218 「生活バス」来月運行へ 印西でシンポ 公共交通の在り方議論 北総線 高運賃問題] - 千葉日報ウェブ、2014年3月10日。</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNZO68180980S4A310C1L71000/ 千葉ニュータウン中央―新鎌ケ谷、直行バス運行へ] - 日本経済新聞、2014年3月13日。</ref><ref>「千葉県印西市・白井市 高い北総鉄道に乗らない選択」 - 鉄道ファン2014年5月号、P156「RAILNEWS」</ref>。
印西市は北総鉄道の株主であり、同市の[[板倉正直]]市長は千葉ニュータウン鉄道が京成電鉄と北総鉄道から徴収する[[線路利用料]]の格差に着目して、株主として運賃引き下げを求めている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/210496 「運賃高すぎ」北総線、印西市長が値下げ要求〜京成より7倍高い線路使用料が問題に] - 東洋経済オンライン、2018年3月2日</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/228183 「運賃高すぎ」北総線、ついに株主代表訴訟か〜業を煮やした印西市長「運賃値下げへ」の秘策]- 東洋経済オンライン、2018年7月12日</ref>。
=== 国会における議論 ===
2009年の[[第171回国会|第171通常国会]]・[[衆議院]][[総務委員会]]([[2009年]][[3月13日]])では、[[成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律]](成田財特法)の改正案の審議の中で、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[田嶋要]]がこの問題を取り上げた。[[国土交通省]][[鉄道局]]次長は「千葉県と関係市町村で構成される北総鉄道利用促進協議会に参画し意見を言って行きたい」とこれまで通りの答弁をし、成田財特法によるインフラ整備や運賃を下げるための資金援助といった北総鉄道への支援については消極的な姿勢を示した。
=== 周辺自治体からの補助金 ===
2009年11月の北総鉄道・京成電鉄と千葉県及び沿線8自治体(市川市・松戸市・鎌ケ谷市・白井市・船橋市・印西市・[[本埜村]]・[[印旛村]]。2村は2010年3月に印西市に編入し、現在は沿線6市)との合意に基づき<ref>[https://city.shiroi.chiba.jp/detail/004-006052.html 北総鉄道の運賃値下げに関して] - 2009年11月27日 白井市。文中に合意書案</ref>、2010年2月19日、成田スカイアクセスの開業日(同年7月17日)決定と同時に運賃の認可も行われ、北総鉄道も運賃改定の認可を行い、成田スカイアクセスの開業日から運賃値下げを行うことになった<ref name="Hokuso201002"/>。初乗り運賃は200円から190円になるなど普通旅客運賃は平均4.9%、通勤定期は1.1%、通学定期は平均25%の値下げとなった<ref name="Hokuso201002"/><ref name="Hokuso201007"/>。
しかし、この問題をめぐっては[[白井市]]議会が補助金支出を否決。最終的に横山久雅子市長の[[専決処分]]により拠出されたものの<ref>[http://city.shiroi.chiba.jp/detail/3196235793.html 「北総鉄道運賃値下げ支援補助金」について専決処分しました] - 2010年10月13日 白井市。一連の経緯も</ref>、2011年の市議選・市長選まで混乱が続いた<ref name="diamond.jp-01"/>。
北総鉄道は、2012年度に債務超過が解消し、これを受けて白井・印西両市が、現行の補助金支出の期限である2015年3月を以って、補助金拠出を打ち切ることを表明した<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20140405/CK2014040502000153.html 【千葉】<消費税8% 変わるくらし>北総線の運賃問題 再び値上げの可能性も] - 2014年4月5日 東京新聞</ref>。これにより、現状のスキームの維持は困難となり、2014年4月、沿線6市は補助金拠出終了を正式に表明した<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/politics/188184/ 北総線運賃値上げ 補助金終了で「結論」] - 2014年4月11日 千葉日報</ref>。これを受けて、北総鉄道は通学定期券を除いて運賃の値下げ幅の縮小(値上げ)を表明した<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuso-railway.co.jp/data/topics/83/20140417125320.pdf 北総線現行値下げ運賃における通学定期の据置きについて]}} - 2014年4月17日 北総鉄道</ref>。
2014年12月19日、北総鉄道は、2015年2月10日から運賃を変更する旨、国土交通省に届出を行った<ref name="fare_kaitei20141219">{{PDFlink|[http://www.hokuso-railway.co.jp/data/topics/126/20141219161208.pdf 鉄道旅客運賃の一部改定について]}} - 2014年12月19日、北総鉄道株式会社、2014年12月21日閲覧</ref>。なお、千葉県及び関係市町村の補助金拠出が2015年4月で終わるのに対し、運賃の値上げは2月からとなった。これは、PASMOシステムの更新時期と合わせる必要があったためである<ref>[http://www.chibanippo.co.jp/news/economics/231207 北総線、2月に値上げ 千葉県など補助金終了で]、2014年12月20日、千葉日報、2014年12月21日閲覧</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASGDM62S4GDMUDCB01V.html 千葉)北総鉄道、来年2月値上げへ 切符で最大20円]、2014年12月20日、朝日新聞、2014年12月21日閲覧</ref>。
=== 運賃値下げ ===
2021年6月23日の千葉県議会代表質問において、[[熊谷俊人]]知事は「(北総鉄道の)[[室谷正裕]]社長に高運賃問題を検討するよう要請したところ『値下げの可能性の検討に着手したい』との話があった」と明かした<ref>{{Citenews|title=北総鉄道、値下げ検討へ 県議会で熊谷知事明かす 高運賃解消へ「働きかける」と答弁|url=https://www.chibanippo.co.jp/news/politics/804349|newspaper=千葉日報|date=2021-06-23|accessdate=2021-06-24}}</ref><ref>{{Citenews|title=北総鉄道が値下げ検討へ 千葉・印西市長「歴史的」|url=https://www.sankei.com/article/20210623-JA5YLFJMTBNA7A4GLZGPLEZLXI/|newspaper=産經新聞|date=2021-06-23|accessdate=2021-06-24}}</ref>。
その後、北総鉄道は2021年11月19日、沿線人口の増加や2022年度中に累積赤字が解消できる見込みが立ったことなどを背景として、2022年10月1日から普通運賃で最大100円、通学定期(1か月分)で最大1万円以上の値下げを行う旨の運賃変更届け出を国土交通省に対して行ったと発表した<ref name="hokuso20211119" />。これにより、現行の運賃と比較した値下げ率では普通運賃で11.6%、通勤定期で13.8%、通学定期で64.7%となり<ref name="hokuso20211119" />、[[大手私鉄]]とほぼ同水準になるとしている<ref name=":1" /><ref group="注釈">通学定期は[[近畿日本鉄道]](1か月3 - 4往復で元が取れる金額)とほぼ同水準になる。周辺私鉄との比較では、新京成よりも安くなる。</ref>。ただし、通勤の割引率は殆ど変わらずIC運賃43回分(端数切上げ)が切符運賃42回分になった程度である(例:改定前は380円区間で通勤定期16150円のところ、改定後の新たな380円区間では15960円と200円しか下がっていない)。それでも[[千葉都市モノレール]]と同程度の運賃設定になる。沿線自治体からは地域の更なる活性化や利便性の向上に繋がるとして歓迎のコメントを出している<ref name=":0" /><ref name=":1" />。
なお、運賃値下げ後の北総最高額の820円(通勤定期34440円)と普通運賃が同額の区間は、[[東武鉄道]]では61 - 70kmの区間で通勤定期19000円前後、通学定期5700円前後となっているほか、北総通勤定期と同程度の運賃区間は120km(34240円)と約4倍の移動距離になる。首都圏のJR(電車特定区間)では46 - 50kmの区間の普通運賃が北総最高額と同額で通勤定期22000円前後、大学通学11000円前後。関西大手では[[南海電気鉄道]]の50 - 54kmの区間が普通運賃810円で通勤定期25000円前後、通学定期6500円前後である。北総線と同程度の距離の路線を持つ[[上信電鉄]]・[[長野電鉄]]・[[野岩鉄道]]では全線の普通運賃がそれぞれ1130円・1190円・1090円と北総よりも350円以上も高額だが、通勤定期はそれぞれ30000円前後・33750円・42300円と北総より安価に設定されている。通学定期はいずれも20000円前後なので北総の約5000円の4倍程度になっている。値下げ前の北総最高額の840円と普通運賃が同額の区間は、野岩では20kmで通勤定期32350円、通学定期17460円なので、通勤は北総、通学は野岩の方が1割ほど高かった。真岡鐵道との比較では30 - 31km区間(2019年9月まで普通820円・通勤32820円→同年10月から普通840円・通勤33430円)が同額だが、通勤定期は32 - 33km区間(2019年9月まで普通860円・通勤34870円→同年10月から普通890円・通勤35520円)がほぼ同額となっている。
== 合理化に関する取組みとその後の展開 ==
{{独自研究|section=1|date=2019年4月19日 (金) 07:20 (UTC)}}
開業当初、駅務業務に関して徹底した合理化が図られており、昭和50年代当時としては画期的であった。
全駅に自動券売機・自動改集札機・自動精算機が設置され、各駅には出改札要員を一切配置せず、集約化された定期券の発売業務を除き、出改札業務の総てが機械化・無人化されていた。昭和50年代半ばにも拘わらず、開業当初は有人による出改札口を備えた駅が存在しなかった。非磁気化券を所持している旅客が出場する場合、たとえ運賃精算が不要であっても、各駅に設置された自動精算機で磁気化された出場券に交換のうえ自動改集札機で出場する駅務システムで、非磁気化券所持者が出場するためには、自動精算機による切符交換が常に必要であった。
しかし、当時は直通運転先の終点である[[新京成電鉄]][[松戸駅]]が、[[日本国有鉄道|国鉄]]との共同使用駅であり改札口が分離されていなかったこと、また国鉄や新京成電鉄などが自動改集札機に対応していなかったことから、非磁気化券を所持する旅客がそのまま到着するケースが想定外に多く発生した。結果として各駅からの精算・切符交換要求が集中すると、精算機による処理に非常に長い時間を要する事態となり(特に常磐緩行線の乗り入れ先である[[営団地下鉄]]や、その先の乗り入れ各社線からの乗車券の精算に時間を要した)、当該旅客から大きな不評を買う結果となった。
自動精算機とはいえ、実際には、指令センターの係員が小型カメラで券面を読み取り、コンピュータを操作して精算するという半自動方式の[[駅集中管理システム]]で、[[新鎌ヶ谷駅]](開業当初は信号所)から遠隔操作で行なっていた。読取面に収まれば、例え国鉄の[[周遊券]](非磁気化券)でも精算可能な便利なシステムであったが、センターの機器数やそれを操作する要員数が少なかったことから前述のような結果となり、このシステムが長続きすることはなかった。
その最大理由は、精算に要する時間と切符交換を必要とする旅客数との見込み違いによる誤算であった。1本の列車は次々と各駅に到着してゆくが、最初の停車駅に到着した旅客の精算業務が終わらないうちに、当該列車は次駅に到着してしまい、新たにそこからの精算要求が加わり、その後、当該列車が次々駅に到着すると、更に精算要求が加わるという「雪だるま式」の状態が多発し、捌ききれない旅客が、日々長時間待たされるという結果が生じることとなった。特に、前述の松戸駅方面からの、非磁気化券を所持する旅客が多く到着する、小室駅方面行きの下り列車において、これが顕著であった。
このため[[1982年]]頃に、自動精算機による精算・交換を諦めて精算機の使用を停止、各駅に有人窓口を設置して精算等の業務に対応するようになった。また精算機の使用停止前から、小室行き列車到着時に係員が精算機の前に立ち、精算不要の非磁気化券を持つ旅客に対して、手渡しで出場券に交換することも常態化していた。
機械化・自動化による駅務業務の合理化という、当時としては時代を先取りした、画期的な計画は実用化に至らず、その後の都心直通運転を開始した1991年に、このシステムは正式に廃止された(自動券売機、自動改集札機はその後も継続使用)。
== その他 ==
* 千葉ニュータウンの新設鉄道であり、第1期線開業前には総合的なデザインポリシー委員会を設置し、部内外の専門家によって約半年間に渡って車両デザイン等の検討が重ねられた。主だったところでは車両内外のデザイン・配色やつり革の撤廃、案内表示類に全面的に写植対応可能な[[ナール]]・[[Helvetica|ヘルベチカ]]の採用などがある。
* 第1期線開業直前まで、ホーム上の[[駅名標]]を電車に対してどちらに向けるかで揉めて結論が出ず、結果電車に対して平行・直角の4面に設置することとなった(現在は交換され、電車に対して平行の通常タイプのみとなっている)。なお、第2期線では最初から電車に対して平行の通常タイプのみを設置している。
* 鉄道施設を[[テレビ]]や[[映画]]の撮影用などに積極的に提供し、その使用料を収入とする営業活動が早くから行われている<ref name="交通20001004">{{Cite news |title=北総開発 テレビCMやドラマ 各駅で撮影相次ぐ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2000-10-04 |page=4 }}</ref><ref>[https://www.hokuso-railway.co.jp/contact/#location 北総鉄道公式サイト 映画・TVドラマ・CM等撮影のご案内]</ref>。これは知名度向上のためにも受け入れているものである<ref name="交通20001004"/>。
* かつては、2007年限りで廃止された「[[サントリーオープンゴルフトーナメント]]」の前売り券を北総線の駅売店で販売していたことがあった。これは、会場の習志野カントリークラブや総武カントリークラブが沿線にあるためである。
* 現在、北総鉄道の[[踏切]]は京成高砂駅構内にある高砂1号踏切及び2号踏切(京成と共用)のみである。なお、かつて新京成線との直通を行っていた時代は、[[北初富駅]]東側の新京成線との分岐点付近に踏切が存在した。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[京成グループ]]
* [[BMK推進運動]]
* [[上下分離方式]]
* [[ニュータウン鉄道]]
* [[京成成田空港線]]
* [[成田新幹線]]
== 外部リンク ==
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* [https://www.hokuso-railway.co.jp/ 北総鉄道]
* {{Twitter|hokusorailway}}
* {{Facebook|hokuso.railway}}
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[[Category:北総鉄道|*]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
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[[Category:鎌ケ谷市の企業]]
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[[Category:千葉県の交通|ほくそうてつとう]]
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距離
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距離(きょり、distance)とは、ある2点間に対して測定した長さの量をいう。本項では日常生活および高校数学の範囲内で使われている距離について触れる。大学以上で扱うより専門的・抽象的な距離については距離空間を参照。
時間、質量とともに最も基本的な計量単位の一つであるが、計量法や国際単位系(SI)第9版(2019年)においては、「距離」(distance)の語は用いられず、「長さ」(length)(国際単位系における公式言語であるフランス語では longueur)の語が用いられる。天文単位と海里は、国際単位系第8版(2006年)では、「距離(distance)の単位」とされていた。しかし、2019年国際単位系文書では、天文単位は「長さ(length)の単位」とされている。なお、海里については2019年国際単位系文書では定義その他の記述そのものが削除された。
計量法では従来から、物象の状態の量(物理量とほぼ同義)としては「距離」の語を用いず、「長さ」のみを用いている。
日常的な使い方としては、家から駅までの距離、東京と大阪との距離など、比較的長い「長さ」を表現するときに用いられ、「長さ」は、鉛筆の長さ、廊下の長さのように比較的短いものに使われることが多い。
具体的な距離の定義は1つでなく、直線距離を指して距離ということもあれば、高速道路のインターチェンジ間の距離や陸上競技のトラック競技において用いられる距離のように、特定の経路に沿って測った長さを指すこともある。前者について特に距離と呼び、後者については道程(みちのり)と、使い分けることもある。後者の例において、とりうる経路が複数ある時に、その中で距離の最小(あるいは下限)値を最短距離といい、最短距離を実現する経路を最短路という。
本節は高校数学で習うユークリッド距離での距離について触れる。
1次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
⇔ ( x 1 − x 2 ) 2 {\displaystyle {\sqrt {(x_{1}-x_{2})^{2}}}}
2次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
3次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
ある2点間を(道路状態や地形、建築物等を一切無視し)直線状に測ったときの長さを直線距離という。このとき直線距離は2点間における最短の長さ、即ち最短距離であり、これ以外の方法を用いて2点間の長さを測定しても、直線距離より短くなることはない。
3次元空間において、球面上の異なる2点を結ぶ直線は必ず球体の内部を通る。実際は地球は球体ではないが球体であるとすると、地球上の2点を結ぶ直線も地球内部を通る。通常は地球上の距離は大圏コースによって地表を通る曲線の長さを距離とする。
点から直線までの距離、あるいは点と直線との間の距離とは、その点から直線へ下した垂線の長さを指す。これは、その点と直線上にとった点との距離の中で最短の距離であり、点を中心として描いた直線の接円の半径に等しい。三角形の場合、頂点から対辺を含む直線までの距離を高さと呼ぶ。また同様に、点から平面までの距離、あるいは点と平面の間の距離を、点から平面へ下した垂線の長さで定義する。これは、点と平面上の点との距離の中で最短の距離であり、点を中心とした球のうち、平面に接するものの半径に等しい。4次元以上のユークリッド空間内での3次元以上の超平面と点との距離も同様である。2本の平行線のうち一方の直線上の点と他方の直線との距離(垂線の長さ)は全て等しく、この長さを2本の平行線の間の距離という。平行な2平面の間の距離も同様に定義できる。一般に2つの図形の間の距離を、各図形から1点ずつ取ってきたときの2点間の距離の下限として定義できる。
高等学校までの数学では、特に断りがなければ、距離と言えば前述したユークリッド距離をさした。一方、現代数学ではさらに一般化された距離の定義として、空間上の任意の2点 x , y {\displaystyle x,y} に対し、負でない実数を対応させる関数 d ( x , y ) {\displaystyle d(x,y)} を定義したとき、任意の点 x , y , z {\displaystyle x,y,z} について
という性質が満たされたとき、 d ( x , y ) {\displaystyle d(x,y)} を距離関数といい、この関数の値を x , y , z {\displaystyle x,y,z} の距離と呼ぶ。
たとえば、平面上の2点 P ( x 1 , y 1 ) , Q ( x 2 , y 2 ) {\displaystyle P(x_{1},y_{1}),Q(x_{2},y_{2})} に対し、
d ( P , Q ) = | x 1 − x 2 | + | y 1 − y 2 | {\displaystyle d(P,Q)=|x_{1}-x_{2}|+|y_{1}-y_{2}|} と定めると、これはユークリッド距離とは一致しないが、上記の性質を満たしているので距離とみなすことが出来る(マンハッタン距離)。
詳細については距離空間の頁を参照されたい。
時間距離(time distance)とは、ある地点から別の地点へ移動するのに要する時間を距離に見立てていうもの。経路と交通手段によって異なる。(詳しくは徒歩所要時間を参照)。また、「東京・大阪間の時間距離は新幹線の開通によって在来線の約半分になった」というようにも使う。
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"text": "日常的な使い方としては、家から駅までの距離、東京と大阪との距離など、比較的長い「長さ」を表現するときに用いられ、「長さ」は、鉛筆の長さ、廊下の長さのように比較的短いものに使われることが多い。",
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"text": "点から直線までの距離、あるいは点と直線との間の距離とは、その点から直線へ下した垂線の長さを指す。これは、その点と直線上にとった点との距離の中で最短の距離であり、点を中心として描いた直線の接円の半径に等しい。三角形の場合、頂点から対辺を含む直線までの距離を高さと呼ぶ。また同様に、点から平面までの距離、あるいは点と平面の間の距離を、点から平面へ下した垂線の長さで定義する。これは、点と平面上の点との距離の中で最短の距離であり、点を中心とした球のうち、平面に接するものの半径に等しい。4次元以上のユークリッド空間内での3次元以上の超平面と点との距離も同様である。2本の平行線のうち一方の直線上の点と他方の直線との距離(垂線の長さ)は全て等しく、この長さを2本の平行線の間の距離という。平行な2平面の間の距離も同様に定義できる。一般に2つの図形の間の距離を、各図形から1点ずつ取ってきたときの2点間の距離の下限として定義できる。",
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"text": "高等学校までの数学では、特に断りがなければ、距離と言えば前述したユークリッド距離をさした。一方、現代数学ではさらに一般化された距離の定義として、空間上の任意の2点 x , y {\\displaystyle x,y} に対し、負でない実数を対応させる関数 d ( x , y ) {\\displaystyle d(x,y)} を定義したとき、任意の点 x , y , z {\\displaystyle x,y,z} について",
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"text": "たとえば、平面上の2点 P ( x 1 , y 1 ) , Q ( x 2 , y 2 ) {\\displaystyle P(x_{1},y_{1}),Q(x_{2},y_{2})} に対し、",
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"text": "d ( P , Q ) = | x 1 − x 2 | + | y 1 − y 2 | {\\displaystyle d(P,Q)=|x_{1}-x_{2}|+|y_{1}-y_{2}|} と定めると、これはユークリッド距離とは一致しないが、上記の性質を満たしているので距離とみなすことが出来る(マンハッタン距離)。",
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"text": "詳細については距離空間の頁を参照されたい。",
"title": "より抽象的な距離の定義"
},
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"text": "時間距離(time distance)とは、ある地点から別の地点へ移動するのに要する時間を距離に見立てていうもの。経路と交通手段によって異なる。(詳しくは徒歩所要時間を参照)。また、「東京・大阪間の時間距離は新幹線の開通によって在来線の約半分になった」というようにも使う。",
"title": "時間距離"
}
] |
距離(きょり、distance)とは、ある2点間に対して測定した長さの量をいう。本項では日常生活および高校数学の範囲内で使われている距離について触れる。大学以上で扱うより専門的・抽象的な距離については距離空間を参照。
|
{{出典の明記|date=2014-4}}
{{Otheruseslist|主として[[ユークリッド幾何学]]における距離|一般化した距離|距離空間|競馬での距離の説明|距離 (競馬)|スキー競技|クロスカントリースキー}}
'''距離'''(きょり、distance)とは、ある2点間に対して測定した[[長さ]]の量をいう。本項では日常生活および高校数学の範囲内で使われている距離について触れる。大学以上で扱うより専門的・抽象的な距離については[[距離空間]]を参照。
== 距離と長さ ==
[[時間]]、[[質量]]とともに最も基本的な[[計量単位]]の一つであるが、[[計量法]]や[[国際単位系|国際単位系(SI)]]第9版(2019年)においては、「距離」(distance)の語は用いられず、「長さ」(length)(国際単位系における公式言語であるフランス語では longueur)の語が用いられる。[[天文単位]]と[[海里]]は、[[国際単位系]]第8版(2006年)では、「距離(distance)の単位」とされていた<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系(SI) 第8版 (2006)]、日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター] p.40 表8、距離 海里 となっている。</ref><ref>英語版では [https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si_brochure_8.pdf The International System of Units,8th editon, 2006] p.127 Table 8, distance, nautical mile </ref>。しかし、2019年[[国際単位系]]文書では、天文単位は「長さ(length)の単位」とされている<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI) 第9版 (2019)日本語版、訳・監修 (独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター] p.114 表8 量:長さ、単位の名称:天文単位</ref><ref>英語版では、[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9.pdf The International System of Units,9th editon, 2019] p.145 Table 8,length, astronomical unit</ref>。なお、海里については2019年[[国際単位系]]文書では定義その他の記述そのものが削除された。
計量法では従来から、[[法定計量単位#物象の状態の量|物象の状態の量]]([[物理量]]とほぼ同義)としては「距離」の語を用いず、「長さ」のみを用いている<ref>海里の定義[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357_20190520_501CO0000000006&keyword=%E8%A8%88%E9%87%8F%E5%8D%98%E4%BD%8D%E4%BB%A4 計量単位令] 別表第6、海面又は空中における'''長さ'''の計量、海里</ref>。
== 日常生活における用法 ==
日常的な使い方としては、家から駅までの距離、東京と大阪との距離など、比較的長い「[[長さ]]」を表現するときに用いられ、「長さ」は、鉛筆の長さ、廊下の長さのように比較的短いものに使われることが多い。
具体的な距離の定義は1つでなく、直線距離を指して距離ということもあれば、[[高速道路]]の[[インターチェンジ]]間の距離や[[陸上競技]]のトラック競技において用いられる距離のように、特定の経路に沿って測った長さを指すこともある。前者について特に距離と呼び、後者については'''道程'''(みちのり)と、使い分けることもある。後者の例において、とりうる経路が複数ある時に、その中で距離の[[最小]](あるいは[[下限]])値を最短距離といい、最短距離を実現する経路を最短路という。
<!--
=== 物事のつながりにおける距離 ===
物事が順につながっているとき、そのつながりの個数(=間に入る物事の個数-1)をもって'''距離'''とみなすことがある。この学問的な表現が[[グラフ理論]]における距離([[道 (グラフ理論)|道]]の長さ)である。
-->
== ユークリッド幾何学の距離 ==
本節は高校数学で習う[[ユークリッド距離]]での距離について触れる。
=== 2点間の距離 ===
1次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
:<math>|x_1-x_2|</math>
⇔<math>\sqrt{(x_1-x_2)^2}</math>
2次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
:<math>\sqrt{(x_1-x_2)^2+(y_1-y_2)^2}</math>
3次元空間の2点間の直線距離は以下の通り。
:<math>\sqrt{(x_1-x_2)^2+(y_1-y_2)^2+(z_1-z_2)^2}</math>
ある2点間を(道路状態や地形、建築物等を一切無視し)直線状に測ったときの長さを'''直線距離'''という。このとき直線距離は2点間における最短の長さ、即ち'''最短距離'''であり、これ以外の方法を用いて2点間の長さを測定しても、直線距離より短くなることはない。
3次元空間において、[[球面]]上の異なる2点を結ぶ[[直線]]は必ず[[球体]]の内部を通る。実際は[[地球]]は球体ではないが球体であるとすると、地球上の2点を結ぶ直線も地球内部を通る<ref>具体的には、どれくらい細かく見るかによる。地球の場合、数百メートル離れると、ミリメートル単位では地下を通る。</ref>。通常は地球上の距離は[[大圏コース]]によって地表を通る曲線の長さを距離とする。
=== 2点間以外の距離 ===
[[点と直線の距離|点から直線までの距離]]、あるいは点と[[直線]]との間の距離とは、その点から直線へ下した[[垂線]]の長さを指す。これは、その点と直線上にとった点との距離の中で最短の距離であり、点を中心として描いた直線の接円の半径に等しい。三角形の場合、頂点から対辺を含む直線までの距離を高さと呼ぶ。また同様に、点から[[平面]]までの距離、あるいは点と平面の間の距離を、点から平面へ下した垂線の長さで定義する。これは、点と平面上の点との距離の中で最短の距離であり、点を中心とした球のうち、平面に接するものの半径に等しい。4次元以上の[[ユークリッド空間]]内での3次元以上の[[超平面]]と点との距離も同様である。2本の[[平行線]]のうち一方の直線上の点と他方の直線との距離(垂線の長さ)は全て等しく、この長さを2本の平行線の間の距離という。平行な2平面の間の距離も同様に定義できる。一般に2つの図形の間の距離を、各図形から1点ずつ取ってきたときの2点間の距離の[[下限]]として定義できる。
== より抽象的な距離の定義 ==
高等学校までの数学では、特に断りがなければ、距離と言えば前述したユークリッド距離をさした。一方、現代数学ではさらに一般化された距離の定義として、空間上の任意の2点<math>x,y</math>に対し、負でない実数を対応させる関数<math>d(x,y)</math>を定義したとき、任意の点<math>x,y,z</math>について
*<math>d(x,y)=0</math> ⇔ <math>x=y</math>
*<math>d(x,y)=d(y,x)</math>
*<math>d(x,y)+d(y,z)</math>≥<math>d(x,z)</math>
という性質が満たされたとき、<math>d(x,y)</math>を距離関数といい、この関数の値を<math>x,y,z</math>の距離と呼ぶ。
たとえば、平面上の2点<math>P(x_1,y_1),Q(x_2,y_2)</math>に対し、
<math>d(P,Q)=|x_1-x_2|+|y_1-y_2|</math>と定めると、これはユークリッド距離とは一致しないが、上記の性質を満たしているので距離とみなすことが出来る([[マンハッタン距離]])。
詳細については[[距離空間]]の頁を参照されたい。
== 時間距離 ==
'''時間距離'''(time distance)とは、ある地点から別の地点へ移動するのに要する時間を距離に見立てていうもの。経路と交通手段によって異なる。(詳しくは[[徒歩所要時間]]を参照)。また、「東京・大阪間の時間距離は新幹線の開通によって在来線の約半分になった」というようにも使う。
== 参考文献 ==
{{節スタブ}}
*{{Cite book ja-jp
|author=シンキロウ
|title=距離のノート
|year=2011
|edition=初版
|publisher=[[暗黒通信団]]
|isbn =978-4-87310-158-3
|ref ={{Sfnref|シンキロウ|2011}}
}}
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|距離}}
{{Commonscat|Distance}}
* [[長さ]]
* [[長さの単位]]
* [[長さの比較]]
* [[最短経路問題]]
* [[速度]]
* [[距離計]]
* [[大圏コース]]
* [[測地線]]
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[[Category:距離|*]]
[[Category:計量幾何学|*]]
[[Category:長さ]]
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2023-04-07T07:25:31Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%9D%E9%9B%A2
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孔門十哲
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孔門十哲(こうもんじってつ)は、「孔門の十哲」「四科十哲」ともいわれ、孔子の弟子の中でも最も優れた10人の弟子を指す。
より、4つの科目(徳行・言語・政事・文学)の計10人。
ただし、曾参(曾子)や子張といった面々が入っていないため、あくまで陳や蔡に孔子と一緒についていった者たちから選んだのだとする説もある。また、挙げられた名前が諱ではなく字(あざな)である点から、孔子自身が選んだ人選ではなく、第三者による撰であるとするのが定説である(孔子ならば弟子に対しては字ではなく諱で呼ぶため)。
唐の開元8年(720年)以降、孔門十哲と曽子を特別に重要な弟子として孔子とともに廟で祀るようになった。南宋の咸淳3年(1267年)には、顔回、曾子、子思、孟子の四聖を特別扱いし、顔回にかえて子張を十哲に加えた。清朝では、十哲に朱子・有若を加えて十二哲とした。
小説
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"title": "孔門十哲の弟子を題材にした作品"
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孔門十哲(こうもんじってつ)は、「孔門の十哲」「四科十哲」ともいわれ、孔子の弟子の中でも最も優れた10人の弟子を指す。
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'''孔門十哲'''(こうもんじってつ)は、「'''孔門の十哲'''」「'''四科十哲'''」ともいわれ、[[孔子]]の弟子の中でも最も優れた10人の弟子を指す。
==一覧==
{{quotation|子曰、從我於陳・蔡者、皆不及門也。徳行、顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語、宰我・子貢。政事、冉有・季路。文學、子游・子夏。|『[[論語]]』先進篇}}
より、4つの科目(徳行・言語・政事・文学)の計10人。
ただし、曾参([[曾子]])や[[子張]]といった面々が入っていないため、あくまで[[陳 (春秋)|陳]]や[[蔡]]に孔子と一緒についていった者たちから選んだのだとする説もある。また、挙げられた名前が[[諱]]ではなく[[字]](あざな)である点から、孔子自身が選んだ人選ではなく、第三者による撰であるとするのが定説である(孔子ならば弟子に対しては字ではなく諱で呼ぶため)。
===徳行===
*顔淵(がんえん)([[顔回]](がんかい))
*[[閔子騫]](びんしけん)
*[[冉伯牛]](ぜんはくぎゅう)
*[[仲弓]](ちゅうきゅう)
===言語(弁舌の才)===
*[[宰我]](さいが)
*[[子貢]](しこう)
===政事===
*[[冉有]](ぜんゆう)
*季路(きろ)([[子路]](しろ))
===文学(学問の才)===
*[[子游]](しゆう)
*[[子夏]](しか)
== 孔門十二哲 ==
[[唐]]の[[開元]]8年(720年)以降、孔門十哲と曽子を特別に重要な弟子として孔子とともに廟で祀るようになった<ref>{{cite book|和書|title=唐会要|volume=巻三十五・褒崇先聖|url=https://archive.org/stream/06049316.cn#page/n110/mode/2up}}</ref>。[[南宋]]の[[咸淳]]3年(1267年)には、[[顔回]]、[[曾子]]、[[子思]]、[[孟子]]の'''四聖'''を特別扱いし、顔回にかえて[[子張]]を十哲に加えた<ref>{{cite book|和書|title=大学衍義補|author=邱濬|year=1487|volume=巻66|url=https://archive.org/stream/06071484.cn#page/n148/mode/2up|quote=[[度宗]]咸淳三年、以[[顔回]]・[[曾参]]・[[孔伋]]・[[孟軻]]並祀孔子、升[[子張|顓孫師]]於十哲、列[[邵雍]]・[[司馬光]]於従祀。}}</ref>。[[清]]朝では、十哲に[[朱子]]・[[有若]]を加えて'''十二哲'''とした<ref>{{cite book|和書|title=大清会典事例|volume=巻四百三十六・先師廟制|url=https://archive.org/stream/02088531.cn#page/n38/mode/2up}}</ref>。
== 孔門十哲の弟子を題材にした作品 ==
'''小説'''
* [[古林青史]] 『[[宰我|宰予]] 一 孔子から不仁な者と呼ばれた弟子の物語』 [[埼玉新聞社]]、2021年、ISBN 978-4-87889-528-9
== 関連項目 ==
*[[七十子]]
== 脚注 ==
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{{孔門十哲}}
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[[Category:中国の儒学者]]
[[Category:中国の名数10|こ]]
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|
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ファッションショー
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ファッションショー(英: fashion show)とは、服飾の作品発表、あるいは、流行創出や販売促進などを企図し、モデルに服を着せて観衆に提示すること。イベントとして大きくなると、日本ではコレクションと呼ばれることが多いが、英語では数日に渡る所に着目して「ファッション・ウィーク」(fashion week) と呼ぶ。
服飾は立体的であり、光の加減や着る者のプロポーション、あるいは着て動いた場合に見え方が異なるため、陳列棚に並べるよりはマネキン人形に着せた方が、さらに、マネキン人形に着せるよりは人のモデルに着せた方が、顧客にとって自分が着た場合をよりイメージし易い。そのため、ターゲット顧客層を集めて、売り手側が売りたい服を着せたモデルを次々提示するファッションショーが開かれる。
国際的ファッションショーたるファッション・ウィーク (fashion week) に出演するスーパーモデルと呼ばれるファッションモデルは高身長であることが求められ、人種構成は白人が圧倒的多数を占めている。
ファッションショーでは、予め選ばれたモデルが売り手側が用意した服を着て、観客席に挟まれた細長い舞台(ランウェイまたはキャットウォークと呼ばれる)を音楽に合わせて歩いたりポージングしたりして服を表現する。観客の注意を服に向けるためモデルは無表情を貫くのが普通だが、その不文律は山本耀司や川久保玲などの日本人デザイナーが台頭した1980年代初頭からのことと言われている。
ファッションショーは、エンゲル係数が小さく、可処分所得が多い上流階級に向けて行われていたためオートクチュールから始まるが、戦後は先進国において新たに生まれた富裕層に向けてプレタポルテのファッションショーも開かれるようになった。
その後、先進国において増大した中産階級に向けて服飾市場が拡大するが、その需要には大量生産により供給されるため、ファッションショーは卸売や小売業者に対する「新作発表会」などの形で行われ、末端の消費者には、ファッション雑誌においてファッションモデルに、あるいは、テレビ・映画などにおいて俳優やタレントに、売り手側が売りたい服を着せて提示する手法が主流になった。一方、オートクチュールやプレタポルテのファッションショーは、中産階級にとっては実際に購買する対象ではなく、すなわちそれらの売り手側にとっては顧客ではないこともあって、ファッションデザイナー及びファッションブランドの(芸術)作品発表の場、あるいは、中産階級の服の流行の発信源などと見られるようになる。
2000年代に入ると日本では、中産階級の若者向けの服(リアル・クローズ)を対象としたファッションショーが、有料の興行として成立し始めた。
オートクチュールはパリとローマで開催される。プレタポルテは、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリの順で続けて開催され、これらは「世界四大コレクション」とも呼ばれている。
オートクチュールとプレタポルテを購買出来る層にとっては、そのファッションショーは展示即売会と同じである。そのため、実際に購買出来るであろう世界的なセレブリティや、各界の著名人などが多く招待される。他方、中産階級から見ると、ファッションデザイナー及びファッションブランドが、自らの服飾作品を発表するイベントである。その情報を伝え、流行創出に関係する各国のファッションジャーナリストやフォトグラファーなどがマスメディアとして招待される。
近年では、日本でも「ジャパン ファッション ウィーク(JFW in Tokyo)」が開催されており、特に日本人デザイナー、ブランドを意識したコレクションが開催されている。2011年 S/Sで13回目となるが、この回からは冠スポンサーに「メルセデス ベンツ」を迎え、「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO」とし、新たなスタートを切る。
これらのショーが一段落すると、今度は、春夏物の場合は夏まで、秋冬物の場合は冬までの数ヶ月間に、世界各国において、ファッションブランド、デパート、ブティックなどが主宰して、上顧客やバイヤー向けのファッションショーが幾度となく開催される。開催場所はホテルや専用ミュージアムが見られる。開催形式は、モデルのウォーキングがある場合にもステージ上ではなくフロア上の場合もあり、モデルのウォーキングは無しで着て見せるだけの展示会形式で執り行われる場合もある。
近年の日本では、リアル・クローズと呼ばれる中産階級の若者向けの服を対象としたファッションショーが成立している。買い手側にとっては、憧れのファッションモデルが見られるイベントであり、売り手側にとっては、消費の低迷や少子化によるパイの減少の打開策としての囲い込みの面がある。
ファッションブランドが単独で主催して開催する例、あるいは、ファッション雑誌が主催し、同誌に掲載されている複数のファッションブランドが参加して専属モデルや読者モデルが出演し、読者を観客として招待する例は、かねてから販売促進の方法として存在した。
近年の傾向として、テレビ局や流通企業(ファッションビル等)が主催あるいは実行委員会の一角を担い、多数のファッションブランドが参加して、多くの観客を集める大規模イベントが見られるようになった。この新しい型の中でも大規模なものは公演時間が昼から夜まで6時間以上に及び、プロのファッションモデルや読者モデルの他に、地元芸能事務所所属者や一般参加者もモデルとしてステージに上がれるオーディションが存在し、参加型のファッションショーとなっている。この型では流行のポピュラー音楽のアーティストやお笑いタレントのライブが加わることが通例で、興行の面も強い。また、規模は小さくなるが、クラブで開催し、音楽の比重を高めたファッションイベントも見られるようになった。
プロのファッションモデルはほとんど参加しないが、地域の祭りや商店街イベントの中の1つの出し物としての開催例や、ファッション専門学校などによる開催例もあり、ファッションショーは多様化が進んでいる。
屋内施設において観覧有料で開催する方式では、2002年(平成14年)から開催されている神戸コレクションが初めて興行として充分な集客・収入を達成してS/SとA/Wの年2回継続開催するのに成功した。神戸コレクションを嚆矢として、東京ランウェイ(旧・神戸コレクション東京公演)、東京ガールズコレクション、ガールズアワード、関西コレクションが年2回(S/SとA/W)の継続開催を実現している。また、札幌コレクション、福岡アジアコレクション、東北ドリームコレクションは年1回(S/SまたはA/W)の継続開催を実現し、日本カワイイ博 IN 新潟は不定期ながら年1回の開催を維持している。東京で開催されているイベントの中には、日本のリアル・クローズを海外に情報発信する目的で外務省が、イベント観覧のため来日する外国人の増加を目的に観光庁(国土交通省の外局)が後援している例がみられる。また、福岡アジアコレクションでは、地場産業振興とアジアへの情報発信を目的に産学官連携の「福岡アジアファッション拠点推進会議」が組織され、同イベントを主催している。いずれのイベントでも、東京のプロのファッションモデルが多数参加している。
屋外あるいは半屋外で観覧無料で開催する方式もあり、2008年(平成20年)から開催されている仙台コレクション(アーケード街のぶらんどーむ一番町で開催)が初めて充分な集客を達成して継続開催に成功した。観覧無料の仙台コレクションは商店街で開催される都市イベントとみなされ、中小企業庁(経済産業省の外局)の商店街活性化の補助金も得ている。同様な方式を採っているものには、三宮コレクション(アーケード街の三宮センター街等で開催)、栄ランウェイ(大津通を歩行者天国にして開催、TBS系列:CBCと総務省東海総合通信局が主催)、総曲輪コレクション(グランドプラザのアトリウムで開催、フジ系列:BBTが関与)、静岡コレクション(静岡まつりの一部として御幸通りを歩行者天国にして開催、TBS系列:SBSが関与)などがある。東京のプロのファッションモデルが複数参加している仙台と静岡以外は、いずれもプロモデルがゲスト出演することなどはあるが、ほとんどが地元モデルによるファッションショーである。
TGCは、同イベントのブランド力を生かして「東京ガールズコレクション in ○○」等と題し、これまで沖縄県・愛知県・福島県などで地方開催を実施している。一方、神戸コレクションは、同イベントの名称を使用せずに地方開催あるいは各地のファッションイベントへの協力をするようになり、東京での開催は「神戸コレクション 東京公演」から2012年に「東京ランウェイ」に改称し、地方では2010年から福岡アジアコレクション、2011年から名古屋コレクション(栄ランウェイ)、2013年から東北ドリームコレクション、2014年から静岡コレクションに協力している。
この手のショーの場合、観客席の後ろ側や出品者の実店舗などでモデルが着た服の展示即売が行われ、携帯電話やインターネットのウェブサイトでも販売する例も見られる。また、コレクションが終わった後の深夜に、場所を替えるなどして「Official After Party」などと称した公式クラブイベントが付随して開催される例も見られる。
ファッションショーが一部行われる、ライブやDJプレイを中心としたクラブイベントも行われている。この場合、ライブハウスやホテルのコンベンションルームなどを使用して、飲酒も可能なパーティ形式で行われる。場合によっては、深夜に始まり、夜通し行われる例もある。以下に主な例を列挙する。
|
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"text": "ファッションショー(英: fashion show)とは、服飾の作品発表、あるいは、流行創出や販売促進などを企図し、モデルに服を着せて観衆に提示すること。イベントとして大きくなると、日本ではコレクションと呼ばれることが多いが、英語では数日に渡る所に着目して「ファッション・ウィーク」(fashion week) と呼ぶ。",
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"text": "服飾は立体的であり、光の加減や着る者のプロポーション、あるいは着て動いた場合に見え方が異なるため、陳列棚に並べるよりはマネキン人形に着せた方が、さらに、マネキン人形に着せるよりは人のモデルに着せた方が、顧客にとって自分が着た場合をよりイメージし易い。そのため、ターゲット顧客層を集めて、売り手側が売りたい服を着せたモデルを次々提示するファッションショーが開かれる。",
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"text": "国際的ファッションショーたるファッション・ウィーク (fashion week) に出演するスーパーモデルと呼ばれるファッションモデルは高身長であることが求められ、人種構成は白人が圧倒的多数を占めている。",
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"text": "ファッションショーでは、予め選ばれたモデルが売り手側が用意した服を着て、観客席に挟まれた細長い舞台(ランウェイまたはキャットウォークと呼ばれる)を音楽に合わせて歩いたりポージングしたりして服を表現する。観客の注意を服に向けるためモデルは無表情を貫くのが普通だが、その不文律は山本耀司や川久保玲などの日本人デザイナーが台頭した1980年代初頭からのことと言われている。",
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"text": "その後、先進国において増大した中産階級に向けて服飾市場が拡大するが、その需要には大量生産により供給されるため、ファッションショーは卸売や小売業者に対する「新作発表会」などの形で行われ、末端の消費者には、ファッション雑誌においてファッションモデルに、あるいは、テレビ・映画などにおいて俳優やタレントに、売り手側が売りたい服を着せて提示する手法が主流になった。一方、オートクチュールやプレタポルテのファッションショーは、中産階級にとっては実際に購買する対象ではなく、すなわちそれらの売り手側にとっては顧客ではないこともあって、ファッションデザイナー及びファッションブランドの(芸術)作品発表の場、あるいは、中産階級の服の流行の発信源などと見られるようになる。",
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"text": "オートクチュールとプレタポルテを購買出来る層にとっては、そのファッションショーは展示即売会と同じである。そのため、実際に購買出来るであろう世界的なセレブリティや、各界の著名人などが多く招待される。他方、中産階級から見ると、ファッションデザイナー及びファッションブランドが、自らの服飾作品を発表するイベントである。その情報を伝え、流行創出に関係する各国のファッションジャーナリストやフォトグラファーなどがマスメディアとして招待される。",
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"text": "近年では、日本でも「ジャパン ファッション ウィーク(JFW in Tokyo)」が開催されており、特に日本人デザイナー、ブランドを意識したコレクションが開催されている。2011年 S/Sで13回目となるが、この回からは冠スポンサーに「メルセデス ベンツ」を迎え、「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO」とし、新たなスタートを切る。",
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"text": "これらのショーが一段落すると、今度は、春夏物の場合は夏まで、秋冬物の場合は冬までの数ヶ月間に、世界各国において、ファッションブランド、デパート、ブティックなどが主宰して、上顧客やバイヤー向けのファッションショーが幾度となく開催される。開催場所はホテルや専用ミュージアムが見られる。開催形式は、モデルのウォーキングがある場合にもステージ上ではなくフロア上の場合もあり、モデルのウォーキングは無しで着て見せるだけの展示会形式で執り行われる場合もある。",
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"text": "近年の日本では、リアル・クローズと呼ばれる中産階級の若者向けの服を対象としたファッションショーが成立している。買い手側にとっては、憧れのファッションモデルが見られるイベントであり、売り手側にとっては、消費の低迷や少子化によるパイの減少の打開策としての囲い込みの面がある。",
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"text": "ファッションブランドが単独で主催して開催する例、あるいは、ファッション雑誌が主催し、同誌に掲載されている複数のファッションブランドが参加して専属モデルや読者モデルが出演し、読者を観客として招待する例は、かねてから販売促進の方法として存在した。",
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"text": "近年の傾向として、テレビ局や流通企業(ファッションビル等)が主催あるいは実行委員会の一角を担い、多数のファッションブランドが参加して、多くの観客を集める大規模イベントが見られるようになった。この新しい型の中でも大規模なものは公演時間が昼から夜まで6時間以上に及び、プロのファッションモデルや読者モデルの他に、地元芸能事務所所属者や一般参加者もモデルとしてステージに上がれるオーディションが存在し、参加型のファッションショーとなっている。この型では流行のポピュラー音楽のアーティストやお笑いタレントのライブが加わることが通例で、興行の面も強い。また、規模は小さくなるが、クラブで開催し、音楽の比重を高めたファッションイベントも見られるようになった。",
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"text": "プロのファッションモデルはほとんど参加しないが、地域の祭りや商店街イベントの中の1つの出し物としての開催例や、ファッション専門学校などによる開催例もあり、ファッションショーは多様化が進んでいる。",
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"text": "屋内施設において観覧有料で開催する方式では、2002年(平成14年)から開催されている神戸コレクションが初めて興行として充分な集客・収入を達成してS/SとA/Wの年2回継続開催するのに成功した。神戸コレクションを嚆矢として、東京ランウェイ(旧・神戸コレクション東京公演)、東京ガールズコレクション、ガールズアワード、関西コレクションが年2回(S/SとA/W)の継続開催を実現している。また、札幌コレクション、福岡アジアコレクション、東北ドリームコレクションは年1回(S/SまたはA/W)の継続開催を実現し、日本カワイイ博 IN 新潟は不定期ながら年1回の開催を維持している。東京で開催されているイベントの中には、日本のリアル・クローズを海外に情報発信する目的で外務省が、イベント観覧のため来日する外国人の増加を目的に観光庁(国土交通省の外局)が後援している例がみられる。また、福岡アジアコレクションでは、地場産業振興とアジアへの情報発信を目的に産学官連携の「福岡アジアファッション拠点推進会議」が組織され、同イベントを主催している。いずれのイベントでも、東京のプロのファッションモデルが多数参加している。",
"title": "リアル・クローズ"
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"text": "屋外あるいは半屋外で観覧無料で開催する方式もあり、2008年(平成20年)から開催されている仙台コレクション(アーケード街のぶらんどーむ一番町で開催)が初めて充分な集客を達成して継続開催に成功した。観覧無料の仙台コレクションは商店街で開催される都市イベントとみなされ、中小企業庁(経済産業省の外局)の商店街活性化の補助金も得ている。同様な方式を採っているものには、三宮コレクション(アーケード街の三宮センター街等で開催)、栄ランウェイ(大津通を歩行者天国にして開催、TBS系列:CBCと総務省東海総合通信局が主催)、総曲輪コレクション(グランドプラザのアトリウムで開催、フジ系列:BBTが関与)、静岡コレクション(静岡まつりの一部として御幸通りを歩行者天国にして開催、TBS系列:SBSが関与)などがある。東京のプロのファッションモデルが複数参加している仙台と静岡以外は、いずれもプロモデルがゲスト出演することなどはあるが、ほとんどが地元モデルによるファッションショーである。",
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ファッションショーとは、服飾の作品発表、あるいは、流行創出や販売促進などを企図し、モデルに服を着せて観衆に提示すること。イベントとして大きくなると、日本ではコレクションと呼ばれることが多いが、英語では数日に渡る所に着目して「ファッション・ウィーク」(fashion week) と呼ぶ。
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[[File:Tokyo Fashion Week 2010.jpg|thumb|right|300px|ファッションショーで[[ランウェイ]]を歩く[[ファッションモデル|モデル]]]]
'''ファッションショー'''({{lang-en-short|fashion show}})とは、[[服飾]]の作品発表、あるいは、[[流行]]創出や販売促進などを企図し、[[モデル (職業)|モデル]]に服を着せて観衆に提示すること。[[イベント]]として大きくなると、[[日本]]では'''[[コレクション]]'''と呼ばれることが多いが、[[英語]]では数日に渡る所に着目して「'''[[ファッション・ウィーク]]'''」([[:en:fashion week|fashion week]]) と呼ぶ。
== 概要 ==
服飾は立体的であり、光の加減や着る者の[[プロポーション]]、あるいは着て動いた場合に見え方が異なるため、陳列棚に並べるよりは[[マネキン人形]]に着せた方が、さらに、マネキン人形に着せるよりは人の[[モデル (職業)|モデル]]に着せた方が、顧客にとって自分が着た場合をよりイメージし易い。そのため、ターゲット顧客層を集めて、売り手側が売りたい服を着せたモデルを次々提示するファッションショーが開かれる。
国際的ファッションショーたる[[ファッション・ウィーク]] ([[:en:fashion week|fashion week]]) に出演する[[スーパーモデル]]と呼ばれるファッションモデルは高身長であることが求められ、人種構成は[[白人]]が圧倒的多数を占めている。<ref>[http://jezebel.com/tag/models-of-color/ World's Top Fashion Weeks Nearly 90% White.]</ref>
ファッションショーでは、予め選ばれたモデルが売り手側が用意した服を着て、観客席に挟まれた細長い[[舞台]]([[ランウェイ]]またはキャットウォークと呼ばれる)を音楽に合わせて歩いたりポージングしたりして[[服]]を表現する。観客の注意を服に向けるためモデルは無表情を貫くのが普通だが、その不文律は[[山本耀司]]や[[川久保玲]]などの日本人デザイナーが台頭した1980年代初頭からのことと言われている<ref>{{Cite web|和書|date=2016-10-28 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3105512 |title=笑顔はご法度? トップモデルが無表情を貫く理由 |work=AFPBB |accessdate=2016-10-29}}</ref>。
ファッションショーは、[[エンゲル係数]]が小さく、[[可処分所得]]が多い[[上流階級]]に向けて行われていたため[[オートクチュール]]から始まるが、戦後は[[先進国]]において新たに生まれた[[富裕層]]に向けて[[プレタポルテ]]のファッションショーも開かれるようになった。
その後、先進国において増大した[[中産階級]]に向けて服飾市場が拡大するが、その[[需要]]には[[大量生産]]により[[供給]]されるため、ファッションショーは[[卸売]]や[[小売]]業者に対する「新作発表会」などの形で行われ、末端の[[消費者]]には、[[ファッション雑誌]]において[[ファッションモデル]]に、あるいは、[[テレビ]]・[[映画]]などにおいて[[俳優]]や[[タレント]]に、売り手側が売りたい服を着せて提示する手法が主流になった。一方、オートクチュールやプレタポルテのファッションショーは、中産階級にとっては実際に購買する対象ではなく、すなわちそれらの売り手側にとっては顧客ではないこともあって、[[ファッションデザイナー]]及び[[ブランド|ファッションブランド]]の(芸術)作品発表の場、あるいは、中産階級の服の流行の発信源などと見られるようになる。
2000年代に入ると[[日本]]では、中産階級の若者向けの服([[リアル・クローズ]])を対象としたファッションショーが、有料の[[興行]]として成立し始めた。
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
== コレクションとファッションウィーク ==
日本では、「コレクション」と「ファッションウィーク」との違いがあいまいになっている。日本以外で「コレクション」は、各ファッションウィークの「公式スケジュール」として認められたブランドのショーやプレゼンテーションをさす。「公式」に認められるには主催者による厳しい審査がある。日本でも日本以外でも、各ブランドの新作群は「コレクション」と呼ばれるが、海外ではそれが「ファッションウィーク」全体をさすことはない<ref>{{Cite web|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15824371.html|title=「○○コレ」、呼び名「区別を」 日本独特の表現、正式には「ファッションウィーク」:朝日新聞デジタル|accessdate=2023-12-28|publisher=朝日新聞}}</ref>。
== オートクチュールとプレタポルテ ==
* [[オートクチュール]]のファッションショー
** [[パリ]]
** [[ローマ]](フランス語のオートクチュールはイタリア語ではアルタモーダ alta moda)
* [[プレタポルテ]]のファッションショー
** [[パリ・コレクション]]
** [[ミラノ・コレクション]]
** [[ニューヨーク・コレクション]]
** [[ロンドン・コレクション]]
[[オートクチュール]]は[[パリ]]と[[ローマ]]で開催される。[[プレタポルテ]]は、[[ニューヨーク]]、[[ロンドン]]、[[ミラノ]]、[[パリ]]の順で続けて開催され、これらは「世界四大コレクション」とも呼ばれている。
オートクチュールとプレタポルテを購買出来る層にとっては、そのファッションショーは[[展示即売会]]と同じである。そのため、実際に購買出来るであろう世界的な[[セレブリティ]]や、各界の著名人などが多く招待される。他方、中産階級から見ると、[[ファッションデザイナー]]及び[[ブランド|ファッションブランド]]が、自らの[[服飾]]作品を発表する[[イベント]]である。その情報を伝え、流行創出に関係する各国のファッション[[ジャーナリスト]]や[[フォトグラファー]]などが[[マスメディア]]として招待される。
近年では、日本でも「ジャパン ファッション ウィーク(JFW in Tokyo)」が開催されており、特に日本人デザイナー、ブランドを意識したコレクションが開催されている。2011年 S/Sで13回目となるが、この回からは冠スポンサーに「メルセデス ベンツ」を迎え、「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO」とし、新たなスタートを切る。
これらのショーが一段落すると、今度は、春夏物の場合は夏まで、秋冬物の場合は冬までの数ヶ月間に、世界各国において、ファッションブランド、[[デパート]]、[[ブティック]]などが主宰して、上顧客や[[バイヤー]]向けのファッションショーが幾度となく開催される。開催場所は[[ホテル]]や専用[[ミュージアム]]が見られる。開催形式は、モデルのウォーキングがある場合にもステージ上ではなくフロア上の場合もあり、モデルのウォーキングは無しで着て見せるだけの展示会形式で執り行われる場合もある。
== リアル・クローズ ==
近年の日本では、[[リアル・クローズ]]と呼ばれる中産階級の若者向けの服を対象としたファッションショーが成立している。買い手側にとっては、憧れの[[ファッションモデル]]が見られるイベントであり、売り手側にとっては、消費の低迷や[[少子化]]によるパイの減少の打開策としての囲い込みの面がある。
ファッションブランドが単独で主催して開催する例、あるいは、[[ファッション雑誌]]が主催し、同誌に掲載されている複数のファッションブランドが参加して[[専属モデル]]や[[読者モデル]]が出演し、読者を観客として招待する例は、かねてから販売促進の方法として存在した。
近年の傾向として、[[テレビ局]]や流通企業([[ファッションビル]]等)が主催あるいは実行委員会の一角を担い、多数のファッションブランドが参加して、多くの観客を集める大規模イベントが見られるようになった。この新しい型の中でも大規模なものは公演時間が昼から夜まで6時間以上に及び、プロのファッションモデルや読者モデルの他に、地元[[芸能事務所]]所属者や一般参加者もモデルとしてステージに上がれる[[オーディション]]が存在し、参加型のファッションショーとなっている。この型では流行の[[ポピュラー音楽]]のアーティストや[[お笑いタレント]]の[[公演|ライブ]]が加わることが通例で、[[興行]]の面も強い。また、規模は小さくなるが、[[クラブ]]で開催し、音楽の比重を高めたファッションイベントも見られるようになった。
プロのファッションモデルはほとんど参加しないが、地域の祭りや[[商店街]]イベントの中の1つの出し物としての開催例や、ファッション専門学校などによる開催例もあり、ファッションショーは多様化が進んでいる。
=== 大規模興行形式 ===
屋内施設において観覧有料で開催する方式では、[[2002年]](平成14年)から開催されている[[神戸コレクション]]が初めて興行として充分な集客・収入を達成してS/SとA/Wの年2回継続開催するのに成功した。神戸コレクションを嚆矢として、東京ランウェイ(旧・神戸コレクション東京公演)、[[東京ガールズコレクション]]、[[ガールズアワード]]、[[関西コレクション]]が年2回(S/SとA/W)の継続開催を実現している。また、札幌コレクション、福岡アジアコレクション、東北ドリームコレクションは年1回(S/SまたはA/W)の継続開催を実現し、日本カワイイ博 IN 新潟は不定期ながら年1回の開催を維持している。東京で開催されているイベントの中には、日本のリアル・クローズを海外に情報発信する目的で[[外務省]]が、イベント観覧のため来日する外国人の増加を目的に[[観光庁]]([[国土交通省]]の外局)が後援している例がみられる。また、福岡アジアコレクションでは、地場産業振興と[[アジア]]への情報発信を目的に[[産学官連携]]の「福岡アジアファッション拠点推進会議<ref>[http://www.fa-fashion.jp/ 福岡アジアファッション拠点推進会議]</ref>」が組織され、同イベントを主催している<ref>[http://www.pref.fukuoka.lg.jp/f17/fukuokaajiacollectionrelease2.html 「福岡アジアコレクション」を開催します](福岡県)</ref>。いずれのイベントでも、東京のプロのファッションモデルが多数参加している。
屋外あるいは半屋外で観覧無料で開催する方式もあり、[[2008年]]([[平成]]20年)から開催されている[[仙台コレクション]](アーケード街の[[一番町 (仙台市)|ぶらんどーむ一番町]]で開催)が初めて充分な集客を達成して継続開催に成功した。観覧無料の仙台コレクションは[[商店街]]で開催される都市イベントとみなされ、[[中小企業庁]]([[経済産業省]]の[[外局]])の商店街活性化の[[補助金]]も得ている<ref>[https://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/2008/080825shougyoukatsuryoku_kekka.htm 平成20年度中小商業活力向上事業の第二次公募結果について](中小企業庁 2008年8月25日)</ref><ref>[https://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/2009/090605ShougyouKatsuryoku1thKekka.htm 平成21年度中小商業活力向上事業の第1次公募結果について](中小企業庁 2009年6月5日)</ref><ref>[https://www.chusho.meti.go.jp/shogyo/shogyo/2014/140808tiikikassei.htm 地域商店街活性化事業(平成26年6月27日締切分)の助成事業者を採択しました](中小企業庁 2014年8月8日)</ref>。同様な方式を採っているものには、三宮コレクション(アーケード街の[[三宮センター街]]等で開催)<ref>[http://3colle.net/ 三宮コレクション]</ref>、栄ランウェイ([[大津通]]を[[歩行者天国]]にして開催、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]:[[CBCテレビ|CBC]]と[[総務省]][[東海総合通信局]]が主催<ref>[http://www.soumu.go.jp/soutsu/tokai/topics/event/26-0401.html SAKAE RUNWAY 2014 A/Wの開催](総務省東海総合通信局 2014年10月17日)</ref>)<ref>[http://nagoya-collection.com/sakae_runway/index.html 栄ランウェイ](名古屋コレクション)</ref>、[[総曲輪]]コレクション([[グランドプラザ]]の[[アトリウム]]で開催、[[フジネットワーク|フジ系列]]:[[富山テレビ放送|BBT]]が関与<!--2013年よりで開催。観客数2,200人-->)<ref>[http://www.sougawa-collection.com/ 総曲輪コレクション]</ref>、静岡コレクション([[静岡まつり]]の一部として[[静岡県道27号井川湖御幸線|御幸通り]]を歩行者天国にして開催、TBS系列:[[静岡放送|SBS]]が関与)<ref>[http://www.at-s.com/girls/shizucolle/index.html 静岡コレクション]</ref><ref>[http://www.shizuokamatsuri.com/blog/category/midokoro 今年の見どころ](第58回静岡まつり)</ref>などがある。東京のプロのファッションモデルが複数参加している仙台と静岡以外は、いずれもプロモデルがゲスト出演することなどはあるが、ほとんどが地元モデルによるファッションショーである。
TGCは、同イベントのブランド力を生かして「東京ガールズコレクション in ○○」等と題し、これまで沖縄県・愛知県・福島県などで地方開催を実施している。一方、神戸コレクションは、同イベントの名称を使用せずに地方開催あるいは各地のファッションイベントへの協力をするようになり、東京での開催は「神戸コレクション 東京公演」から2012年に「東京ランウェイ」に改称し<ref>[https://www.fashion-press.net/news/3181 神戸コレクション東京公演が「東京ランウェイ」に進化! 第1回開催は3月20日に決定](ファッションプレス 2012年1月30日)</ref>、地方では2010年から福岡アジアコレクション、2011年から名古屋コレクション(栄ランウェイ)、2013年から東北ドリームコレクション、2014年から静岡コレクションに協力している<ref>[http://www.kobe-collection.com/press/25.html 【25th Anniversary】 ~We believe in FASHION~ 「神戸コレクション 2014 AUTUMN/WINTER」開催決定!](2014年6月2日)</ref>。
この手のショーの場合、観客席の後ろ側や出品者の実店舗などでモデルが着た服の展示即売が行われ、[[携帯電話]]や[[インターネット]]の[[ウェブサイト]]でも販売する例も見られる。また、コレクションが終わった後の深夜に、場所を替えるなどして「Official After Party」などと称した公式クラブイベントが付随して開催される例も見られる。
=== 日本のファッションショー ===
{| class="sortable wikitable" style="font-size:80%;"
|+プロのモデルが参加する主な大規模ファッションショー
!rowspan="2"|名称
!rowspan="2"|略<br />称
!colspan="2"|対象
!rowspan="2"|会場
!rowspan="2"|来場者数<br />(人)
!rowspan="2"|開始年
!rowspan="2"|A<br />P
!colspan="2"|運営に関与
|-
!春<br />夏
!秋<br />冬
![[テレビ局]]<br />[[流通]]
!関連[[省庁]]
|-
![[札幌コレクション]]<ref>[http://www.sapporo-collection.jp/ SAPPORO COLLECTION]</ref>
|nowrap style="text-align:center" |サツコレ
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |-
|[[北海道立総合体育センター|北海きたえーる]]
|{{0}}9,500<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASG4V3FTJG4VIIPE005.html 北海道)オシャレ! 北海道発! 札幌コレクション]([[朝日新聞]] 2014年5月27日) … 第8回(2014年)S/Sの値。</ref>
|[[2007年]]
|style="text-align:center" |○
|[[フジネットワーク|フジ系列]]:[[北海道文化放送|UHB]]
|
|-
![[仙台コレクション]]
|style="text-align:center" |仙コレ
|style="text-align:center" |-
|style="text-align:center" |○
|[[一番町 (仙台市)|一番町]][[アーケード (建築物)|アーケード]]
|60,000<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/210017.pdf 地域貢献活動計画書]}}([[イオンリテール]] 2013年4月26日)</ref>
|[[2008年]]
|style="text-align:center" |○
|[[イオングループ|イオン系]]:[[仙台フォーラス]]
|[[中小企業庁]]
|-
!nowrap|[[東北ドリームコレクション]]<ref>[http://ftg-dream.jp/ 東北ドリームコレクション]</ref>
|style="text-align:center" |ドリコレ
|style="text-align:center" |-
|style="text-align:center" |○
|[[仙台サンプラザ]]
|{{0}}4,712<ref group="†">第3回(2014年)A/Wの値。ドリコレ(仙台サンプラザホール):4,712人、GIRLS LABO(仙台サンプラザホテル):6,000人以上。典拠:[https://mdpr.jp/fashion/detail/1430174 蛯原友里、トリンドル玲奈、玉城ティナら豪華モデルが集結 仙台で華やかファッションショー](モデルプレス 2014年10月7日)</ref>
|[[2012年]]
|style="text-align:center" |-
|フジ系列:[[仙台放送|OX]]
|
|-
![[東京ガールズコレクション]]
|style="text-align:center" |TGC
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|(S/S) [[国立代々木第一体育館]]<br />(A/W) [[さいたまスーパーアリーナ]]
|33,200<ref>[https://mdpr.jp/news/detail/1414477 10周年「東京ガールズコレクション」来場者数発表]([[モデルプレス]] 2014年9月6日) … 第19回(2014年)A/Wの値。</ref>
|[[2005年]]
|style="text-align:center" |○
|
|[[外務省]]、[[観光庁]]
|-
![[Girls Award|ガールズアワード]]
|style="text-align:center" |GA
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|[[幕張メッセ]]
|34,000<ref>[https://www.fashionsnap.com/article/2014-10-01/ga10-closing/ テラハ歴代メンバー20人が集結 第10回「ガールズアワード」に3万4千人来場]([[Fashionsnap.com]]ニュース 2014年10月1日) … 第10回(2014年)A/Wの値。</ref>
|[[2010年]]
|style="text-align:center" |-
|フジ系列:[[フジテレビジョン|CX]]
|外務省
|-
![[東京ランウェイ]]
|style="text-align:center" |<br />
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|[[幕張メッセ]]
|16,016<ref>[https://www.fashionsnap.com/article/2014-09-07/tokyorunway-14aw/ 幕張メッセで初開催「第6回東京ランウェイ」N°21着た紗栄子で開幕](Fashionsnap.comニュース 2014年9月7日) … 第6回(2014年)A/Wの値。</ref>
|2005年
|style="text-align:center" |-
|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]:[[TBSテレビ|TBS]]、MBS
|観光庁
|-style="background-color: #808080;"
|[[渋谷ガールズコレクション]]
|style="text-align:center" |SGC
|
|
|国立代々木第一体育館
|19,800<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20090325/1024937/ 最新ガールズコレクション事情(モデル分布図付き)]([[日経トレンディ]] 2009年3月26日) … 第3回(2009年)S/Sの値。</ref>
|[[2006年]]<ref group="†">2006年10月9日、2007年9月17日、2009年3月8日の計3回コレクションを開催した。</ref>
|style="text-align:center" |-
|[[東急モールズデベロップメント|東急系]]:[[109 (商業施設)|109]]
|外務省、[[日本政府観光局]]、[[環境省]]<ref>[http://sgc.tw/about/index.html SGCとは?](渋谷ガールズコレクション '09S/S)</ref>
|-style="background-color: #808080;"
|原宿スタイルコレクション<ref>[http://www.haracolle.jp/ 原宿スタイルコレクション]</ref>
|style="text-align:center" |原コレ
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|[[有明コロシアム]]
|12,600<ref>[http://www.harajukushinbun.jp/headline/1753/ 第3回原コレに1万2600人、上海万博の余勢を駆って](原宿新聞 2010年9月12日) … 第3回(2010年)A/Wの値。</ref>
|style="text-align:left" |2009年<ref group="†">2009年9月12日(来場者数:6400人)、2010年3月21日(来場者数:8600人)、2010年9月12日(来場者数:1万2600人)の計3回のコレクションと、2010年6月の[[上海国際博覧会|上海万博]]での特別ステージ(来場者数:2万人)を開催した。典拠:[http://www.japan-au.jp/test2/japan-au/event/event_hc.html 原宿スタイルコレクション2010autumn](日本アーティストユニオン 2011年5月25日)</ref>
|style="text-align:center" |-
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|-
![[日本カワイイ博 IN 新潟]]<ref>[https://web.archive.org/web/20120318043526/http://kawahaku.jp/ 日本カワイイ博 IN NIIGATA]</ref>
|style="text-align:center" |JKE
|
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|[[朱鷺メッセ]]
|{{0}}7,600<ref group="†">第2回(2013年)S/Sの値。第1回(2012年)S/Sの来場者数は、3/30:2028名(マスコミ、取引業者関係者)、3/31:3972名(一般)、4/1:5075名(一般)だった。典拠:[http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20130401034647.html ショ―華やか、「日本カワイイ博」]([[新潟日報]] 2013年4月1日)</ref>
|2012年
|style="text-align:center" |-
|フジ系列:[[NST新潟総合テレビ|NST]]
|
|-
![[静岡コレクション]]
|style="text-align:center" |静コレ
|
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|[[静岡県コンベンションアーツセンター|グランシップ]]
|
|2014年
|style="text-align:center" |-
|TBS系列:[[静岡放送|SBS]]
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|-style="background-color: #808080;"
|ナゴヤコレクション<ref>[http://www.nagoyacollection.com/index.html NAGOYA COLLECTION]</ref>
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|[[栄 (名古屋市)|栄]]の複数会場<ref>[http://sakae.keizai.biz/headline/637/ 名古屋・栄のファッションスポット3カ所で時間差ファッションショー](サカエ経済新聞 2007年11月22日)</ref>
|
|2006年<ref group="†">2006年A/W、2007年S/S、2007年A/Wの計3回のコレクションを開催した。</ref>
|style="text-align:center" |○
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|-style="background-color: #808080;"
|nowrap|大阪インポートコレクション<ref>[http://beautystyle.jp.msn.com/oic/show/default.htm 大阪インポートコレクション]</ref>
|style="text-align:center" |OIC
|
|
|[[ザ・リッツ・カールトン大阪]]
|{{0}}3,800<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/59761/full/ 羞恥心・野久保が "ピースサイン" でショーモデル初挑戦]([[オリコン#ポータルサイト|ORICON STYLE]] 2008年11月6日) … 第3回(2008年)A/Wの値。</ref>
|2007年<ref group="†">2007年10月5日(堂島ホテル)、2008年4月18日、2008年10月31日の計3回のコレクションを開催した。</ref>
|style="text-align:center" |○
|
|
|-
![[関西コレクション]]
|style="text-align:center" |関コレ
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|[[京セラドーム大阪]]
|30,000<ref>[http://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1411721086120/ 藤井リナ、ダレノガレ明美、ざわちんなど豪華ゲストが集結! 3万人が熱狂した2014 A/W 関西コレクション]([[エキサイト|ウーマンエキサイト]] 2014年9月30日) … 第8回(2014年)A/Wの値。</ref>
|[[2011年]]
|style="text-align:center" |-
|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレ朝系列]]:[[朝日放送グループホールディングス|ABC]]
|
|-
![[神戸コレクション]]
|style="text-align:center" |神コレ
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |○
|[[ワールド記念ホール]]
|13,024<ref>[http://portal.kiss-fm.co.jp/amusement/article/2612/ 25th Anniversaryも大盛況 神戸コレクション2014 AUTUMN/WINTER]([[兵庫エフエム放送|Kiss PRESS]] 2014年10月29日) … 第25回(2014年)A/Wの値。</ref>
|[[2002年]]
|style="text-align:center" |○
|TBS系列:[[毎日放送|MBS]]
|
|-
![[福岡アジアコレクション]]<ref>[http://www.fukuoka-asia-collection.com/ FUKUOKA ASIA COLLECTION]</ref>
|style="text-align:center" |FACo
|style="text-align:center" |○
|style="text-align:center" |-
|[[福岡国際センター]]
|{{0}}7,524<ref>[https://web.archive.org/web/20140831065411/http://asianbeat.com/ja/feature/daily_topics/734.html カワイイ大使がFACoに出演し、小川知事と面会しました!]([[アジアユースカルチャーセンター|asianbeat]] 2014年3月24日) … 第6回(2014年)S/Sの値。</ref>
|[[2009年]]
|style="text-align:center" |-
|TBS系列:[[RKB毎日放送|RKB]]
|
|}
:※「S/S」は春夏コレクション、「A/W」は秋冬コレクション。定期的に開催している場合は「○」、不定期開催の場合は空欄、開催していない場合は「-」とした。
:※仙台コレクションは、アーケード(歩行者専用道路)で観覧無料で開催されるため、屋内で入場有料で開催される他のファッションショーとは観客数の算出方法が異なる。
:※AP:アフターパーティ。一般入場可のものを「○」、一般入場不可あるいは実施していないものは「-」とした。
=== パーティ形式 ===
ファッションショーが一部行われる、[[演奏会|ライブ]]や[[ディスクジョッキー|DJ]]プレイを中心としたクラブイベントも行われている。この場合、[[ライブハウス]]や[[ホテル]]のコンベンションルームなどを使用して、飲酒も可能な[[パーティー|パーティ]]形式で行われる。場合によっては、深夜に始まり、夜通し行われる例もある。以下に主な例を列挙する。
* [[渋谷コレクション]](渋コレ):[[渋谷]]や[[六本木]]のライブハウスで開催。1000人規模の集客。2006年〜
* SWEETsociety:[[ハイアットリージェンシー大阪]]と[[新木場]][[ageHa]]で開催。2007年〜
* 福岡ラブ&コレクション(ラブコレ)<ref>[http://www.nag.co.jp/lovecollection/2009/ 福岡ラブ&コレクション]</ref>:2008年には[[福岡ドーム|福岡Yahoo!JAPANドーム]]で開催し、20,000人を集めたとされる<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/20080928-OYS1T00318.htm ヤフードームでファッションショー、モデル77人が美競う]([[読売新聞]] 2008年9月28日)</ref>が、2009年および2010年には[[西鉄シティホテル|ソラリア西鉄ホテル]]での開催となり規模も2,000人程度の集客に縮小された。それ以降の開催は現在まで行われていない。
* 沖縄×渋谷エッジコレクション (ecolle) <ref>[http://www.ecolle.jp/index.html 沖縄×渋谷エッジコレクション]</ref>:[[沖縄市]]のライブハウスで開催。[[環境省]]協力。2009年〜
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
<!--
=== 参考文献 ===
-->
== 関連項目 ==
* [[ファッションモデル]]
* [[スーパーモデル]]
* [[ファッションデザイナー]]
* [[服装]]
* [[ファッション甲子園]]([[文部科学省]]後援)
* [[Real Clothes]]
* [[長沢節]]
* [[東京コレクション]]
* [[神戸コレクション]]
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{{Normdaten}}
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[[Category:ファッション]]
[[Category:文化イベント]]
[[Category:コレクション (ファッション)|*]]
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2003-09-12T06:48:02Z
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2023-12-27T23:24:10Z
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16,368 |
毛沢東
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毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、簡体字: 毛泽东、英語: Mao Zedong/Mao Tse-Tung、1893年12月26日〈光緒19年11月19日〉 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、思想家。1921年7月に創立された中国共産党の創立党員の1人で、長征と日中戦争を経て党内の指導権を獲得した、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蔣介石率いる中華民国政府を台湾に追放し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。1949年10月から1976年9月まで同国の最高指導者であった。
1893年12月26日(光緒19年11月19日)、清の湖南省湘潭県韶山沖(毛沢東故居参照)にて、父の毛貽昌と母の文素勤の間に5人兄弟の三男として誕生する。ただし長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で地主まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学にも励んだ。1907年には4歳年上の羅一秀と最初の結婚をする。しかし親に押し付けられた結婚であったため激しく反発し、結局一度も羅一秀とは同居することなく1910年2月に妻は赤痢のためにわずか20歳で死去した。
従兄から贈られた中国の近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学した。この学校では康有為や梁啓超らの思想を学び、影響を受けた。1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。同年10月に辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧である月性の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。
男兒立志出郷關 學不成名死不還 埋骨何須桑梓地 人間無處不靑山
男兒立志出郷關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到處有靑山 (男児 志を立てて 郷関を出づ 学 もし成るなくんば 復還らず 骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや 人間 到るところ青山あり)
1913年春に湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋には湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東はアダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れた。
1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東はアメリカの記者であるエドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している。
同じ年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に最初の論文となる「体育の研究」を発表している。師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちと共に新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。
1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業した。1919年5月の5・4運動期に、教授で恩師の楊昌済(後の義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊昌済の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
翌1919年には帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年には楊昌済の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお、第一次国共合作が破れ、共産党と国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月に蔣介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後息子たちは親類に送り返されている。
1921年7月23日、毛は中国共産党の第1回党大会に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下で「国共合作」の方針が決議された。9月に毛は共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。
1924年1月の第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年に毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月に毛は国民党中央宣伝部長代行となった。
1926年12月、長沙で開催された労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛は、翌年1月から2月にかけて湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている。
毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊した。その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。8月7日に漢口において開催された党中央緊急会議(「八七会議」)において、毛は「武力で政権を打ち立てる」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日に湖南省で武装蜂起するも失敗し(秋収起義)、配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。なお、この根拠地に潜伏中、江西省出身の女性の賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
1937年7月7日に始まった日中戦争(当時の日本側呼称:支那事変)では抗日戦線を展開し、国民党軍と共に、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。毛沢東思想に基づいて農村などの地域共同体と一体化していた八路軍は兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没のゲリラ戦を得意とした。これに対抗するべく日本と同盟する汪兆銘政権は、地域組織「新民会」等を組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。蒋介石が指導する国民革命軍は米英の援助により装備は優れていたものの、兵力温存を理由に日本軍との正面決戦を避ける傾向があったので中国民衆の支持を失っていた。蒋介石が兵力温存に執心したのは抗日戦後の中国共産党との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て国共内戦での劣勢を招くことになった。中国国民党を支援していたアメリカも蒋介石に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化した軍事顧問スティルウェルは解任されている。抗日戦での活躍を中国民衆に大きく印象付ける事に成功した八路軍は、その後の国共内戦においても大衆の支持を集めて戦況を有利なものにしている。 日本降伏と日本軍武装解除後に開始された国共内戦時には、中国大陸に残留して八路軍への入隊を希望する日本軍人も少なくなかった。当時の八路軍はその軍紀(三大紀律八項注意)遵守が評判になっており、また日本人捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、八路軍に好意的な感情を持つ日本軍将兵も少なからずいた。支那派遣軍勤務だった昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されていた。これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者もいた(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また、聶栄臻のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。 また、対日爆撃を行っていたアメリカのカーチス・ルメイとも連絡を取り、中国北部から気象観測情報を提供する代わりに物資を支援されていた。中国南部にある蔣介石の実効支配地域と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた。
1938年には長征時代の妻の賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。1940年には『新民主主義論』を著して新たな中国の国家・社会論を示し、中国共産党を中心とする未来の政権構想・社会建設構想を表明した。
遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動(延安整風)によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党首)に就任して党の最終決定権を獲得した。1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。
1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。終戦直前の8月13日に毛沢東は蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、8月15日に終戦を迎えた(日本の降伏)。8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのジョージ・マーシャル将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)も成立した。
しかし、「双十協定」が調印されたその日に山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦して共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。
1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割り当てられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。
国共内戦が起きると、毛沢東は地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。
国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日に毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」 において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。
1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。
1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。
中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が「人民民主主義国家」であるとした。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいなかった。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかった。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。
とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「向ソ一辺倒」を宣言し、建国まもない1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させていたスターリンの意向を受けて台湾侵攻を後回しにして中国人民志願軍を北朝鮮に派遣。この戦争で、毛はソ連で実戦やロシア語を学んで軍司令官の彭徳懐の通訳になっていた長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。
朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた。その後インドシナ戦争でベトナムを支援した。
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や劉少奇など多くの指導者を困惑させた。しかし、毛は1953年1月よりソ連型社会主義の計画経済をモデルとした第一次五カ年計画を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し、当時の中国のGDPは同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。
毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国から社会主義国に変貌させるため、国家機構の改造にも着手した。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定された。この憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ、国家の目標として社会主義社会の実現が明記された。9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。
国家主席に就任した毛沢東は、労働改造所を設置して自己に対する反対勢力を粛清していく。1956年2月にソ連の指導者であるフルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開した。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した(中華人民共和国大飢饉)。
このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる
スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していった。1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、1962年のキューバ危機では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに1963年からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して自力更生を掲げるようになった。理論面でも3つの世界論を唱えてソ連や米国と一線を画す第三世界に中華人民共和国を分類した。また、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀を思想改造して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した。
1964年から1965年にかけてはアメリカで弾道ミサイルを開発していた銭学森をはじめとする海外から帰国した科学者の協力で両弾一星を推し進めて中国初の核実験を実施し、中華人民共和国をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の公式核保有国にさせ、原子爆弾の開発からわずか2年と8ヶ月で水素爆弾を開発した。これは五大国の中でも最速だった。さらに核弾頭搭載可能な東風2号ミサイル発射試験に成功して核爆弾搭載可能な戦略爆撃機など戦略兵器を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には中ソ国境紛争が発生、両国は交戦するに至り、核戦争の可能性も起きた。また、自らを称賛する東方紅を宇宙から流す人工衛星の東方紅1号を打ち上げ、曙光1号による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して中国の宇宙開発も推し進めた。
大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。
同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られた。毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清した。
廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していき、ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。
1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。
過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。8月5日に毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇国家主席打倒を示唆した。8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動して「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。
彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化浄化を行うなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。
紅衛兵は中南海、紫禁城、核兵器に関わる軍事施設への侵入を試みて毛沢東の護衛を担当する8341部隊と武力衝突も起こしており、毛沢東は中央軍事委員会主席として人民解放軍に紅衛兵の弾圧を命じ、さらに学生たちの農村への下放を指示した。
文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは毛の妻で党中央政治局委員の江青と党副主席兼国防部長の林彪らであった。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡した(林彪事件)。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
毛沢東は中国を訪問した外国の指導者を迎え入れることはあったものの、2度のソ連訪問を除いて自らの外遊は避けたことで当時の国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象を与えていたが、巧みな周恩来の外交手腕もあって1971年に国際連合でアルバニア決議が可決され、中華民国を国連とその関連機関から追放させ、経済的には発展途上国でありながら軍事的には核保有国だけでなく、外交的には国連安保理常任理事国の地位も手に入れたことで加盟当初から事務総長の選出で意にそぐわない候補に対して拒否権を行使するなど列強と並ぶ強い影響力を国際社会で誇示するようになって中華人民共和国は世界にとって無視できない存在となった。
毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東は西側諸国のリーダーだったアメリカのニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。ニクソンを通訳から紹介された毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。ニクソンの後を継いで米大統領に就任したジェラルド・フォードとも会見した。ただし、米中が国交を正式に樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。
なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。1973年に毛沢東はアメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーにアメリカ・日本・中華人民共和国・パキスタン・イラン・トルコ・ヨーロッパによるソ連に対する合従連衡を提案していた。
その後、1972年に高度経済成長を遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力を有する国になっていた日本の首相田中角栄もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。中華人民共和国・中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国を訪問しただけで無く、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。
ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。1975年には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。
毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。さらに、鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させた。
周恩来・朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。北京電視台で午後7時からの放送開始時に葬送曲とインターナショナルを流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した。1976年9月18日には天安門広場で国葬が実施された。なお毛沢東の死の直後に腹心の江青・張春橋・姚文元・王洪文の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存・一般公開されている。
タイム誌の20世紀の重要人物の1人に選出された。毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、文化・社会・経済・外交に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する。そして、マルクス・レーニン主義を中国社会に導入しようと自らが確立した毛沢東思想に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる。 なお、当時識字率の低かった中国の識字率を急速的に上昇させ、統一国家である中華人民共和国を建国したのは評価される点であり、良くも悪くもと言った人物であるとして扱われる。
毛沢東の死去後、江青ら4人組を逮捕・失脚させて党主席・最高指導者に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。
鄧小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また、党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、先進国・発展途上国問わず世界に影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させた。一方で「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。文化大革命で失脚したうえに迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。
毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。例えば1989年の第二次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。
一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
毛沢東の死後の中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った。
1988年に発行された中華人民共和国の紙幣である中国人民銀行券の第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に毛沢東の横顔が描かれていたが、1999年から発行が始まった現行の第5版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。
また、毛沢東の肖像や語録がプリントされた1967年や1968年の切手は、文化大革命中の切手購入が実用目的のみに制限されていた事から希少性があり、コレクターの間では非常な高額で売買されるプレミアム切手となっている。
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"text": "毛 沢東(もう たくとう、マオ・ツォートン、簡体字: 毛泽东、英語: Mao Zedong/Mao Tse-Tung、1893年12月26日〈光緒19年11月19日〉 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、思想家。1921年7月に創立された中国共産党の創立党員の1人で、長征と日中戦争を経て党内の指導権を獲得した、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蔣介石率いる中華民国政府を台湾に追放し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。1949年10月から1976年9月まで同国の最高指導者であった。",
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"text": "1893年12月26日(光緒19年11月19日)、清の湖南省湘潭県韶山沖(毛沢東故居参照)にて、父の毛貽昌と母の文素勤の間に5人兄弟の三男として誕生する。ただし長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で地主まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学にも励んだ。1907年には4歳年上の羅一秀と最初の結婚をする。しかし親に押し付けられた結婚であったため激しく反発し、結局一度も羅一秀とは同居することなく1910年2月に妻は赤痢のためにわずか20歳で死去した。",
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"text": "従兄から贈られた中国の近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学した。この学校では康有為や梁啓超らの思想を学び、影響を受けた。1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。同年10月に辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。半年後、清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧である月性の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した。",
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"text": "男兒立志出郷關 學不成名死不還 埋骨何須桑梓地 人間無處不靑山",
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"text": "男兒立志出郷關 學若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到處有靑山 (男児 志を立てて 郷関を出づ 学 もし成るなくんば 復還らず 骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや 人間 到るところ青山あり)",
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"text": "1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東はアメリカの記者であるエドガー・スノーに日露戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している。",
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"text": "同じ年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に最初の論文となる「体育の研究」を発表している。師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちと共に新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業した。1919年5月の5・4運動期に、教授で恩師の楊昌済(後の義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊昌済の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。",
"title": "生涯"
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"text": "翌1919年には帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年には楊昌済の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお、第一次国共合作が破れ、共産党と国民党の戦いが激しさを増していた1930年10月に蔣介石率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後息子たちは親類に送り返されている。",
"title": "生涯"
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"text": "1921年7月23日、毛は中国共産党の第1回党大会に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下で「国共合作」の方針が決議された。9月に毛は共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。",
"title": "生涯"
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"text": "1924年1月の第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年に毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月に毛は国民党中央宣伝部長代行となった。",
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"paragraph_id": 12,
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"text": "1926年12月、長沙で開催された労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛は、翌年1月から2月にかけて湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている。",
"title": "生涯"
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"text": "毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、1927年4月12日の上海クーデターで国共合作は崩壊した。その直後の4月27日から5月10日にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。8月7日に漢口において開催された党中央緊急会議(「八七会議」)において、毛は「武力で政権を打ち立てる」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日に湖南省で武装蜂起するも失敗し(秋収起義)、配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。なお、この根拠地に潜伏中、江西省出身の女性の賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。1928年7月、第6回党大会において中央委員に選出。",
"title": "生涯"
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"text": "井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。",
"title": "生涯"
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"text": "国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "1937年7月7日に始まった日中戦争(当時の日本側呼称:支那事変)では抗日戦線を展開し、国民党軍と共に、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。毛沢東思想に基づいて農村などの地域共同体と一体化していた八路軍は兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没のゲリラ戦を得意とした。これに対抗するべく日本と同盟する汪兆銘政権は、地域組織「新民会」等を組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。蒋介石が指導する国民革命軍は米英の援助により装備は優れていたものの、兵力温存を理由に日本軍との正面決戦を避ける傾向があったので中国民衆の支持を失っていた。蒋介石が兵力温存に執心したのは抗日戦後の中国共産党との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て国共内戦での劣勢を招くことになった。中国国民党を支援していたアメリカも蒋介石に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化した軍事顧問スティルウェルは解任されている。抗日戦での活躍を中国民衆に大きく印象付ける事に成功した八路軍は、その後の国共内戦においても大衆の支持を集めて戦況を有利なものにしている。 日本降伏と日本軍武装解除後に開始された国共内戦時には、中国大陸に残留して八路軍への入隊を希望する日本軍人も少なくなかった。当時の八路軍はその軍紀(三大紀律八項注意)遵守が評判になっており、また日本人捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、八路軍に好意的な感情を持つ日本軍将兵も少なからずいた。支那派遣軍勤務だった昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されていた。これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者もいた(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また、聶栄臻のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。 また、対日爆撃を行っていたアメリカのカーチス・ルメイとも連絡を取り、中国北部から気象観測情報を提供する代わりに物資を支援されていた。中国南部にある蔣介石の実効支配地域と同じようなB-29の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた。",
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"text": "1938年には長征時代の妻の賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。1940年には『新民主主義論』を著して新たな中国の国家・社会論を示し、中国共産党を中心とする未来の政権構想・社会建設構想を表明した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 18,
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"text": "遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動(延安整風)によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党首)に就任して党の最終決定権を獲得した。1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。",
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"text": "1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の国民大会によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北(満洲)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。終戦直前の8月13日に毛沢東は蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。",
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"paragraph_id": 20,
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"text": "1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告し、8月15日に終戦を迎えた(日本の降伏)。8月30日、蔣介石と毛沢東は重慶で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、10月10日に「双十協定」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の民主化」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の張群、共産党の周恩来、アメリカのジョージ・マーシャル将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)も成立した。",
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"paragraph_id": 21,
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"text": "しかし、「双十協定」が調印されたその日に山西省南部で上党戦役が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦して共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も林彪率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "1946年1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割り当てられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月26日、蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、国共内戦が始まった。中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国におけるアメリカ軍の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "国共内戦が起きると、毛沢東は地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。1947年3月28日に毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。1948年9月から1949年1月にかけて展開された「三大戦役」 において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、9月21日から9月30日にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、中国人民政治協商会議が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が中央人民政府主席に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」は、中華人民共和国が「人民民主主義国家」であるとした。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいなかった。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかった。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「向ソ一辺倒」を宣言し、建国まもない1949年12月から1950年2月にかけてソ連を訪問してヨシフ・スターリンの70歳の誕生日を祝い、中ソ友好同盟相互援助条約を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させていたスターリンの意向を受けて台湾侵攻を後回しにして中国人民志願軍を北朝鮮に派遣。この戦争で、毛はソ連で実戦やロシア語を学んで軍司令官の彭徳懐の通訳になっていた長男の岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、1951年末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「三反運動」を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「五反運動」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた。その後インドシナ戦争でベトナムを支援した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や劉少奇など多くの指導者を困惑させた。しかし、毛は1953年1月よりソ連型社会主義の計画経済をモデルとした第一次五カ年計画を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し、当時の中国のGDPは同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国から社会主義国に変貌させるため、国家機構の改造にも着手した。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日に全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定された。この憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ、国家の目標として社会主義社会の実現が明記された。9月27日、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された国家主席に就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、国家副主席には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や国務院の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "国家主席に就任した毛沢東は、労働改造所を設置して自己に対する反対勢力を粛清していく。1956年2月にソ連の指導者であるフルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開した。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標として、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した(中華人民共和国大飢饉)。",
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"text": "このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる",
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"paragraph_id": 35,
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"text": "スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していった。1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、1962年のキューバ危機では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに1963年からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して自力更生を掲げるようになった。理論面でも3つの世界論を唱えてソ連や米国と一線を画す第三世界に中華人民共和国を分類した。また、ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀を思想改造して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した。",
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"paragraph_id": 36,
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"text": "1964年から1965年にかけてはアメリカで弾道ミサイルを開発していた銭学森をはじめとする海外から帰国した科学者の協力で両弾一星を推し進めて中国初の核実験を実施し、中華人民共和国をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の公式核保有国にさせ、原子爆弾の開発からわずか2年と8ヶ月で水素爆弾を開発した。これは五大国の中でも最速だった。さらに核弾頭搭載可能な東風2号ミサイル発射試験に成功して核爆弾搭載可能な戦略爆撃機など戦略兵器を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には中ソ国境紛争が発生、両国は交戦するに至り、核戦争の可能性も起きた。また、自らを称賛する東方紅を宇宙から流す人工衛星の東方紅1号を打ち上げ、曙光1号による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して中国の宇宙開発も推し進めた。",
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。",
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"paragraph_id": 38,
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"text": "同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)では、毛と同郷であった国防部長(大臣)の彭徳懐から大躍進政策の見直しを迫られた。毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清した。",
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していき、ついに毛は1962年1月に開催された「七千人大会」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって1964年に『毛沢東語録』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。",
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{
"paragraph_id": 40,
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"text": "1965年11月、歴史学者で北京市副市長でもあった呉晗が執筆した京劇戯曲『海瑞罷官』を批判した姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月、北京大学に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。",
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"text": "過激派となった青少年は「紅衛兵」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持した。8月5日に毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇国家主席打倒を示唆した。8月18日には、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動して「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。",
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"text": "このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。",
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"text": "文化大革命では紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席(1968年に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。",
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"text": "彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は文化浄化を行うなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。",
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"text": "紅衛兵は中南海、紫禁城、核兵器に関わる軍事施設への侵入を試みて毛沢東の護衛を担当する8341部隊と武力衝突も起こしており、毛沢東は中央軍事委員会主席として人民解放軍に紅衛兵の弾圧を命じ、さらに学生たちの農村への下放を指示した。",
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"text": "文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは毛の妻で党中央政治局委員の江青と党副主席兼国防部長の林彪らであった。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされたが、その後毛と対立し、1971年にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機がモンゴル領内で墜落し、死亡した(林彪事件)。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。",
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"text": "毛沢東は中国を訪問した外国の指導者を迎え入れることはあったものの、2度のソ連訪問を除いて自らの外遊は避けたことで当時の国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象を与えていたが、巧みな周恩来の外交手腕もあって1971年に国際連合でアルバニア決議が可決され、中華民国を国連とその関連機関から追放させ、経済的には発展途上国でありながら軍事的には核保有国だけでなく、外交的には国連安保理常任理事国の地位も手に入れたことで加盟当初から事務総長の選出で意にそぐわない候補に対して拒否権を行使するなど列強と並ぶ強い影響力を国際社会で誇示するようになって中華人民共和国は世界にとって無視できない存在となった。",
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"text": "毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京において行われたアメリカ合衆国大統領ニクソンとの会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東は西側諸国のリーダーだったアメリカのニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。ニクソンを通訳から紹介された毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれた。ニクソンの後を継いで米大統領に就任したジェラルド・フォードとも会見した。ただし、米中が国交を正式に樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。",
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"text": "なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。1973年に毛沢東はアメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャーにアメリカ・日本・中華人民共和国・パキスタン・イラン・トルコ・ヨーロッパによるソ連に対する合従連衡を提案していた。",
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"text": "その後、1972年に高度経済成長を遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力を有する国になっていた日本の首相田中角栄もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。中華人民共和国・中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国を訪問しただけで無く、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。",
"title": "生涯"
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"text": "ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。1975年には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。",
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"text": "毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、1973年に鄧小平を復活させ、1974年には鄧を国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。さらに、鄧小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛は鄧小平を再度失脚させた。",
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"text": "周恩来・朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。北京電視台で午後7時からの放送開始時に葬送曲とインターナショナルを流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した。1976年9月18日には天安門広場で国葬が実施された。なお毛沢東の死の直後に腹心の江青・張春橋・姚文元・王洪文の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存・一般公開されている。",
"title": "生涯"
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"text": "タイム誌の20世紀の重要人物の1人に選出された。毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、文化・社会・経済・外交に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する。そして、マルクス・レーニン主義を中国社会に導入しようと自らが確立した毛沢東思想に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる。 なお、当時識字率の低かった中国の識字率を急速的に上昇させ、統一国家である中華人民共和国を建国したのは評価される点であり、良くも悪くもと言った人物であるとして扱われる。",
"title": "死後の評価"
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"text": "毛沢東の死去後、江青ら4人組を逮捕・失脚させて党主席・最高指導者に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。",
"title": "死後の評価"
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"text": "鄧小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また、党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。",
"title": "死後の評価"
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"text": "毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、先進国・発展途上国問わず世界に影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させた。一方で「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。文化大革命で失脚したうえに迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。",
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"text": "毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。例えば1989年の第二次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。",
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"text": "一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。",
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"text": "毛沢東の死後の中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った。",
"title": "死後の評価"
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"text": "1988年に発行された中華人民共和国の紙幣である中国人民銀行券の第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に毛沢東の横顔が描かれていたが、1999年から発行が始まった現行の第5版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。",
"title": "毛沢東の肖像と中華人民共和国の紙幣"
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"text": "また、毛沢東の肖像や語録がプリントされた1967年や1968年の切手は、文化大革命中の切手購入が実用目的のみに制限されていた事から希少性があり、コレクターの間では非常な高額で売買されるプレミアム切手となっている。",
"title": "毛沢東の肖像と中華人民共和国の紙幣"
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] |
毛 沢東は、中華人民共和国の政治家、思想家。1921年7月に創立された中国共産党の創立党員の1人で、長征と日中戦争を経て党内の指導権を獲得した、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蔣介石率いる中華民国政府を台湾に追放し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。1949年10月から1976年9月まで同国の最高指導者であった。
|
{{大統領
| 人名 = {{big|{{ruby|毛|もう}} {{ruby|沢東|たくとう}}}}
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| native_name_lang=zh
| 画像サイズ = 202px
| 画像 = Mao Zedong in 1959 (cropped).jpg
| キャプション = 毛沢東(1959年)
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1893|12|26|no}}([[光緒]]19年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])
| 生地 = {{QIN1890}} [[湖南省]][[湘潭県]][[韶山市|韶山沖]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1893|12|26|1976|9|9}}
| 没地 = {{PRC}} [[北京市]] [[中南海]]<br/>(廟:[[毛主席紀念堂]])
| 配偶者 = [[:zh:羅一秀|羅一秀]]<br/>(1907年{{ndash}}1910年)<br/>[[楊開慧]]<br/>(1920年1月{{ndash}}1927年8月)<br/>[[賀子珍]]<br/>(1928年6月{{ndash}}1937年10月)<br/>[[江青]]<br/>(1938年11月{{ndash}}1976年9月)
| 子女 = 10人
| サイン = Mao_Zedong_signature.svg
| 出身校 = [[湖南第一師範学院]]
| 宗教 = 無神論
| 政党 = [[File:Naval_Jack_of_the_Republic_of_China.svg|border|25x20px]] [[中国国民党]]<br/>(1923年6月 - 1927年4月)<br>[[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]<br/>(1921年7月 - 1976年9月)
| 国名2 = [[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]
| 職名2 = 初代[[中国共産党中央委員会主席|中央委員会主席]]
| 就任日2 = [[1945年]][[6月19日]]
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| 副大統領職2 = [[中国共産党中央委員会副主席|筆頭副主席]]
| 国名3 = [[ファイル:Flag of the Chinese Communist Party (Pre-1996).svg|25px|border]] [[中国共産党]]
| 職名3 = 初代[[中国共産党中央軍事委員会主席|中央軍事委員会主席]]
| 就任日3 = [[1945年]][[8月23日]]
| 退任日3 = [[1949年]][[10月1日]]<ref group="注釈">1949年10月1日の中華人民共和国の建国により、反共産の国民を数十万人虐殺した。中国共産党中央軍事委員会は、国家機関である中央人民政府人民革命軍事委員会に接収された。なお、毛沢東は中央人民政府人民革命軍事委員会主席に就任している。</ref><br />[[1954年]][[9月28日]]<ref group="注釈">中華人民共和国憲法制定による国家機構の再編で中央人民政府人民革命軍事委員会が廃止されたため、中国共産党中央軍事委員会が再設置された。</ref> – [[1976年]][[9月9日]]
| 副大統領3 =[[朱徳]]<br/>[[林彪]]<br/>[[葉剣英]]
| 副大統領職3 = 筆頭副主席
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| 職名5 = [[中華人民共和国主席|中央人民政府主席]]
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| 副大統領職5 = [[国務院総理|政務院総理]]<br/>[[中華人民共和国副主席|副主席]]
| 副大統領6 =
| 副大統領職6 =
| 国名7 = {{Flagicon|PRC}} [[中国人民政治協商会議]]
| 職名7 = 初代[[%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E6%B0%91%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%8D%94%E5%95%86%E4%BC%9A%E8%AD%B0#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E5%B8%AD|主席]]
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{{中華人民共和国}}
{{毛沢東思想のサイドバー}}
'''毛 沢東'''<ref group="注釈">字は詠芝、潤芝、潤之で、筆名は子任である。</ref>(もう たくとう、マオ・ツォートン<ref name="yomi">{{Cite Kotobank|word=毛沢東|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2022-11-23}}</ref>、{{簡体字|毛泽东}}、{{lang-en|Mao Zedong/Mao Tse-Tung}}、[[1893年]][[12月26日]]〈光緒19年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]〉 - [[1976年]][[9月9日]])は、[[中華人民共和国]]の[[政治家]]、[[思想家]]<ref>{{Cite Kotobank|word=毛沢東|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典|accessdate=2021-12-14}} "中国の政治家,思想家。"</ref>。[[1921年]]7月に創立された[[中国共産党]]の創立党員の1人で、[[長征]]と[[日中戦争]]を経て党内の指導権を獲得した、[[1945年]]より[[中国共産党中央委員会主席]]を務めた。日中戦争後の[[国共内戦]]では[[蔣介石]]率いる[[中華民国]]政府を[[台湾]]に追放し、1949年10月1日に'''[[中華人民共和国]]の建国'''を宣言した。1949年10月から1976年9月まで同国の[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]]であった。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
1893年12月26日([[光緒]]19年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]])、[[清]]の[[湖南省]][[湘潭県]][[韶山市|韶山沖]]([[毛沢東故居]]参照)にて、父の[[毛貽昌]]と母の文素勤の間に5人兄弟の三男として誕生する。ただし長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で[[地主]]まで成り上がった厳格な父によって、子供のうちから労働に従事させられつつ勉学にも励んだ。[[1907年]]には4歳年上の[[羅一秀]]と最初の[[結婚]]をする。しかし親に押し付けられた結婚であったため激しく反発し、結局一度も羅一秀とは同居することなく[[1910年]]2月に妻は[[赤痢]]のためにわずか20歳で死去した。
従兄から贈られた中国の近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学した。この学校では[[康有為]]や[[梁啓超]]らの思想を学び、影響を受けた。[[1911年]]春に毛は[[長沙]]に赴き、[[湘郷駐省]]中学への入学を希望した。同年10月に[[辛亥革命]]が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した[[湖南]]駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する<ref>{{cite web|url= http://dangshi.people.com.cn/GB/17725643.html |title= 毛泽东:从新军列兵到共和国最高军事统帅 |newspaper= 人民网|date=2012-04-23|accessdate=2019-02-26}}</ref>。半年後、[[清|清朝]]が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った<ref>{{cite book |last=Feigon |first=Lee |title=Mao: A Reinterpretation |year=2002 |publisher=Ivan R. Dee |location=Chicago |isbn=1566635225 |pages=17 }}</ref>。1912年、長沙の湖南全省公立高等中学校(現在の長沙市第一中学)に入学し、中学への入学の際に[[明治維新]]に関心を持っていた毛は、父に[[幕末]]の僧である[[月性]]の詩の「将東遊題壁」を贈り、意気込みを示した{{efn|{{quotation|<poem>
{{Lang|zh-tw|男兒立志出郷關}}
{{Lang|zh-tw|學若無成不復還}}
{{Lang|zh-tw|埋骨何期墳墓地}}
{{Lang|zh-tw|人間到處有靑山}}
(男児 志を立てて 郷関を出づ
学 もし成るなくんば 復還らず
骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや
[[wikt:人間到る処青山あり|人間 到るところ青山あり]])</poem>
|釈月性 将東遊題壁<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn30.htm
|title=釈月性 将東遊題壁
|work=碇豊長の詩詞 詩詞世界
|accessdate=2010-08-01
}}</ref> 「碇豊長の詩詞 詩詞世界<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/
|title=碇豊長の詩詞 詩詞世界
|accessdate=2010-08-01
}}</ref>」日本漢詩選}}}}。
{{quotation|<poem>
{{Lang|zh-tw|男兒立志出郷關}}
{{Lang|zh-tw|學不成名死不還}}
{{Lang|zh-tw|埋骨何須桑梓地}}
{{Lang|zh-tw|人間無處不靑山}}
</poem>
|毛沢東年譜<ref>{{Cite web |title=伟人之初:孩儿立志出乡关--党史频道-中国共产党新闻网 |url=http://dangshi.people.com.cn/n1/2021/0125/c85037-32011120.html |website=dangshi.people.com.cn |access-date=2022-06-19}}</ref>}}
[[1913年]]春に湖南省立第四師範学校に入学し、さらに翌年秋には湖南省立第一師範学校に編入した。いくつかの学校を転々とする間、毛沢東は[[アダム・スミス]]や[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]などの[[社会科学]]系の書物に触れた。
[[1917年]]、[[孫文]]の同志だった[[アジア主義|アジア主義者]]の[[宮崎滔天]]が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、[[日本]]が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。後に毛沢東は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の記者である[[エドガー・スノー]]に[[日露戦争]]当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している<ref group="注釈">なお下記に紹介する詩が、日露戦争時のものであるかについては諸説ある。</ref>。
{{quotation|「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる」<br />当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです<ref>『中国の赤い星』(松岡洋子訳、筑摩書房)。</ref>。}}同じ年、[[陳独秀]]が主宰する雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』に最初の論文となる「[[体育の研究]]」を発表している。師範学校在学中、[[新文化運動]]に影響を受けた毛は、[[1918年]]4月、学友たちと共に新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。
=== 教師時代 ===
1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業した。[[1919年]]5月の[[五・四運動|5・4運動]]期に、教授で恩師の[[楊昌済]](後の義理の父親となる)とともに[[中華民国]][[北京政府]]の首都である[[北京市|北京]]へ上京する。楊昌済の推薦により、[[北京大学]]の[[図書館]]にて館長の[[李大釗]]とともに司書補として勤めるかたわら、『[[新青年 (中国)|新青年]]』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、[[陳独秀]]・[[胡適]]、そして[[銭玄同]]のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。[[上海市|上海]]に滞在中の毛は、[[共産主義]]理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
翌[[1919年]]には帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、[[1920年]]には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年には楊昌済の娘で学友の[[楊開慧]]と結婚し、[[毛岸英|岸英]]・[[毛岸青|岸青]]・岸龍の男子3人をもうけた。なお、[[第一次国共合作]]が破れ、共産党と[[中国国民党|国民党]]の戦いが激しさを増していた[[1930年]]10月に[[蔣介石]]率いる国民党軍は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後息子たちは親類に送り返されている。
=== 中国共産党と中国国民党への参加 ===
[[1921年]]7月23日、毛は[[中国共産党第一次全国代表大会|中国共産党の第1回党大会]]に出席する。[[1923年]]6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の[[中国共産党中央委員会|中央委員会]])の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、[[コミンテルン]]の指導の下で「[[国共合作]]」の方針が決議された。9月に毛は共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した<ref name="chronology">[http://news.163.com/05/0908/11/1T4IGSAR00011246_2.html 毛泽东生平大事(1893-1976)] (Major event chronology of Mao Zedong (1893-1976), People's Daily.</ref>。
[[1924年]]1月の第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年に毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして[[労働組合]]の[[オルグ (社会運動)|オルグ]]に力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の[[1925年]]に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。[[1925年]]10月に毛は国民党中央宣伝部長代行となった。
[[1926年]]12月、長沙で開催された労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛は、翌年1月から2月にかけて湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている<ref name="peasant">{{cite web|url=http://www.etext.org/Politics/MIM/classics/mao/sw1/mswv1_2.html|title='Report on an investigation of the peasant movement in Hunan' Mao Zedong 1927|accessdate=2009-11-14}}</ref>。
=== 第一次国共内戦 ===
毛は国共合作において重要な役割を果たしていたが、[[1927年]][[4月12日]]の[[上海クーデター]]で国共合作は崩壊した。その直後の[[4月27日]]から[[5月10日]]にかけて開催された第5回党大会で毛は中央委員会候補委員に選出された。[[8月7日]]に[[漢口]]において開催された党中央緊急会議(「[[八七会議]]」)において、毛は「[[:zh:枪杆子里面出政权|武力で政権を打ち立てる]]」方針を提案し、国民党との武装闘争が党の方針として決議された。さらに毛は臨時中央政治局候補委員に選出された。「八七会議」の決議を受けた毛は、9月9日に湖南省で武装蜂起するも失敗し([[秋収起義]])、配下の農民兵と共に孤立して家族とも離れて湖南省と江西省の境にある[[井崗山]]に立てこもることになった。なお、この根拠地に潜伏中、[[江西省]]出身の女性の[[賀子珍]]と暮らすようになり<ref>{{Cite book |author=Hollingworth, Clare |year=1985 |url=https://lccn.loc.gov/85175644 |title=Mao and the men against him |publisher=Jonathan Cape, London |ISBN=0224017608 |crid=1130000797105864576 |page=45}}</ref>、[[1929年]]には長女が誕生している。1927年11月、上海の党臨時中央政治局は拡大会議を開き、毛は会議に欠席のまま政治局候補委員から解任された。[[1928年]]7月、第6回党大会において中央委員に選出。
井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から[[1931年]]にかけて湖南省・江西省・[[福建省]]・[[浙江省]]の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。毛沢東は江西省[[瑞金]]に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「[[中華ソビエト共和国|中華ソビエト共和国臨時中央政府]]」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や[[朱徳]]など前線司令部は「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」という[[ゲリラ]]作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた<ref>高文謙『周恩来秘録 党機密文書は語る』上(上村幸治訳、文藝春秋、2007年)、48ページ。</ref>。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、[[1932年]]10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに[[1933年]]1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は[[1934年]]1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。
国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった[[紅軍]]は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「[[長征]]」を開始する。この最中の[[1935年]][[1月15日]]に、[[貴州省]]遵義で開かれた[[中国共産党中央政治局]]拡大会議([[遵義会議]])で、[[博古]]らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに[[周恩来]]を最高軍事指導者、[[:zh:张闻天|張聞天]]を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の[[中国共産党中央政治局常務委員会|中央政治局常務委員]])に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、[[8月19日]]、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。[[1936年]]秋には[[陝西省]][[延安]]に根拠地を定め、以後[[自給自足]]のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年[[12月7日]]に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。5日後の[[12月12日]]に西安で起きた[[張学良]]・[[楊虎城]]らによる蔣介石監禁事件([[西安事件]])で、コミンテルンの仲介により宿敵である蔣介石と手を結び、[[国共合作|第二次国共合作]]を構築。翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍([[八路軍]])」に改組された。中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の[[中国共産党中央軍事委員会]])に改組され、毛沢東は改めてその主席に就任した。
=== 日中戦争 ===
[[1937年]][[7月7日]]に始まった[[日中戦争]](当時の日本側呼称:[[支那事変]])では抗日戦線を展開し、国民党軍と共に、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[ソビエト連邦]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]から得た軍事援助を元に[[日本軍]]と対峙する。[[毛沢東思想]]に基づいて[[農村]]などの地域共同体と一体化していた[[八路軍]]は兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没の[[ゲリラ戦]]を得意とした。これに対抗するべく日本と同盟する[[汪兆銘政権]]は、地域組織「新民会」等を組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。[[蒋介石]]が指導する[[国民革命軍]]は米英の援助により装備は優れていたものの、兵力温存を理由に[[日本軍]]との正面決戦を避ける傾向があったので中国民衆の支持を失っていた。[[蒋介石]]が兵力温存に執心したのは抗日戦後の[[中国共産党]]との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て[[国共内戦]]での劣勢を招くことになった。[[中国国民党]]を支援していたアメリカも[[蒋介石]]に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化した軍事顧問[[ジョセフ・スティルウェル|スティルウェル]]は解任されている。抗日戦での活躍を中国民衆に大きく印象付ける事に成功した八路軍は、その後の[[国共内戦]]においても大衆の支持を集めて戦況を有利なものにしている。
日本降伏と日本軍武装解除後に開始された国共内戦時には、中国大陸に残留して八路軍への入隊を希望する日本軍人も少なくなかった。当時の八路軍はその軍紀(三大紀律八項注意)遵守が評判になっており、また[[日本人]]捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、八路軍に好意的な感情を持つ日本軍将兵も少なからずいた。支那派遣軍勤務だった[[昭和天皇]]の弟[[三笠宮崇仁親王]]も八路軍の軍紀に魅了されていた。これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者もいた(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また、[[聶栄臻]]のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。
また、対日爆撃を行っていたアメリカの[[カーチス・ルメイ]]とも連絡を取り、中国北部から気象観測情報を提供する代わりに物資を支援されていた<ref>ゴードン・トマス, マックス・モーガン・ウイッツ 『エノラ・ゲイ―ドキュメント・原爆投下』 TBSブリタニカ124頁</ref>。中国南部にある蔣介石の実効支配地域と同じような[[B-29 (航空機)|B-29]]の飛行場の建設も毛沢東はルメイに提案していた<ref>Haulman, Chapter Over the Hump to Matterhorn p.5</ref>。
[[1938年]]には長征時代の妻の賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・[[江青]]と結婚した。[[1940年]]には『[[新民主主義論]]』を著して新たな中国の国家・社会論を示し、中国共産党を中心とする未来の政権構想・社会建設構想を表明した。
遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、[[1942年]]からの[[整風運動]](延安整風)によって党内の反毛沢東派を[[粛清]]していき、党内の支配権を確実なものとした。[[1943年]]にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年[[3月20日]]、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党首)に就任して党の最終決定権を獲得した。[[1945年]]、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、[[6月19日]]の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である[[中国共産党中央委員会主席|中央委員会主席]]に就任した。
=== 第二次国共内戦 ===
1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、[[孫文]]が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。そして、「憲政」が国民党主導の[[国民大会]]によって実施されるという構想を明らかにした。一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蔣介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蔣介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻化していった。また、毛は第7回党大会で「たとえ、我々がすべての根拠地を喪失したとしても、東北([[満洲]])さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。終戦直前の[[8月13日]]に毛沢東は蔣介石との武力闘争を内部指示として発した。
[[ファイル:1945 Mao and Chiang.jpg|250px|thumb|right|1945年、祝杯をあげる毛沢東(左)と蔣介石(右)]]
1945年8月14日、日本は[[ポツダム宣言]]受諾を連合国側に通告し、[[8月15日]]に終戦を迎えた([[日本の降伏]])。[[8月30日]]、蔣介石と毛沢東は[[重慶市|重慶]]で会談し、国共和平・統一について議論を重ねた。議論は長引き、[[10月10日]]に「[[双十協定]]」としてまとめられた。「双十協定」では、国民党が「政治の[[民主化]]」「各党派間の平等性や合法性」などを約し、共産党も「蔣介石の指導」「国民党の指導下での統一国家の建設」を承認するなど、内戦回避と統一政権樹立について両党が努力することが確認された。さらに国民党の[[張群]]、共産党の[[周恩来]]、アメリカの[[ジョージ・マーシャル]]将軍は三者会談を行い、停戦協定を発表して{{仮リンク|軍事調処執行部|zh|军事调处执行部}}(三人委員会)も成立した。
しかし、「双十協定」が調印されたその日に山西省南部で[[上党戦役]]が勃発し、共産党軍と国民党軍が交戦して共産党軍が国民党軍に大きな打撃を加えた。また、この年末には、降伏した日本軍の接収・管理のために国民党軍が東北地方に派遣されると、共産党も[[林彪]]率いる東北民主連合軍を派遣し、緊張関係が生じた。
[[1946年]]1月、「双十協定」に基づき、政治協商会議(党派間の協議機関)が重慶で開催された。各党派の代表構成は国民党が8、共産党が7、その他の政党・無党派が23であった。この会議では憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などが採択され、国民政府委員会(政府最高機関)の委員の半数が国民党以外に割り当てられるなど、国民党は共産党を初めとする諸党派に対して一定の譲歩を示した。しかし、3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。[[6月26日]]、蔣介石は[[国民革命軍]](中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令、[[国共内戦]]が始まった。中国共産党はこれに対して6月22日に「アメリカの蔣介石に対する軍事援助に反対する声明」を提出し、アメリカの援助はいまや明らかに中国内政への武装干渉であり、中国を引き続き内戦・分裂・混乱・恐怖・貧困に陥れていると指摘し、アメリカに対して「一切の軍事援助の即時停止、中国における[[アメリカ軍]]の即時撤退」を要求した。マーシャル将軍は、中国への武器弾薬の輸出禁止措置をとった。8月10日にはトルーマンが蔣介石にその行動を非難し、同年12月18日にトルーマンは「対中政策」を発表し、アメリカは「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとしてマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明する。
国共内戦が起きると、毛沢東は地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった<ref group="注釈">1932年、毛沢東は党中央と軍事路線と「土地改革」をめぐって対立し、党中央から軍の指導権を剥奪され、「土地革命」も中止された。その後、毛沢東は指導権を回復して「土地革命」が再開されたが、日中戦争が始まると、毛は「土地革命」を停止して「減租減息」(小作料・利息の軽減)を実施し、支配地域の農民の負担の軽減を図っていた。</ref>。
国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開した。[[1947年]][[3月28日]]に毛は党中央の所在地である延安の放棄を決定、国民党軍を山岳地帯に誘い込み、国民党の戦力消耗を図った。内戦当初優勢だった国民党軍はこの頃より勢いに陰りを見せ始めた。毛沢東率いる[[中国人民解放軍]](1947年9月、八路軍から改称)は[[ソビエト連邦]]からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。[[1948年]]9月から[[1949年]]1月にかけて展開された「三大戦役」<ref group="注釈">1948年9月から11月にかけて東北で展開された「[[遼瀋戦役]]」、1948年11月から同年1月にかけて[[徐州市|徐州]]を中心に展開された「[[淮海戦役]]」、1948年12月から1949年3月にかけて華北で展開された「[[平津戦役]]」。なかでも、[[劉伯承]]・[[鄧小平]]が指揮した淮海戦役は、中国史上まれにみる大規模な戦いであり、いわば「関ヶ原の戦い」であった。天児(2004年)、92-93ページ。</ref> において人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与えた。1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、[[4月23日]]には[[国民政府]]の根拠地・首都[[南京市|南京]]を制圧した。
1949年3月の第7期2中全会において、新政治協商会議の開催と民主連合政府の樹立を各界によびかけた。かくして、[[9月21日]]から[[9月30日]]にかけて北京に全国の著名な有識者や諸党派の代表が集まり、[[中国人民政治協商会議]]が開催された。この会議では新国家の臨時憲法となる「中国人民政治協商会議共同綱領」が採択され、新国家の国号を「中華人民共和国」とし、毛沢東が[[中華人民共和国主席|中央人民政府主席]]に就任することが決議された。また、北平を北京に再び改称し、国民政府の象徴である南京から遷都することも決定した。
=== 中華人民共和国の建国 ===
[[ファイル:Mao Proclaiming New China.JPG|250px|thumb|right|建国宣言を朗読する毛沢東]]
[[File:Mao, Bulganin, Stalin, Ulbricht Tsedenbal.jpeg|thumb|250px|[[スターリン]](右から3番目)の70歳の誕生日を祝う毛沢東(左)、[[ニコライ・ブルガーニン|ブルガーニン]]、[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]])、[[ユムジャーギィン・ツェデンバル|ツェデンバル]]([[モンゴル人民共和国|モンゴル]])、1949年12月。]]
1949年10月1日、毛沢東は北京の[[天安門]]の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、[[11月30日]]に重慶を陥落させて蔣介石率いる国民党政府を[[中華民国|台湾島]]に追いやったものの、[[1950年]]6月まで小規模な戦いが継続した。
中華人民共和国の臨時憲法である「[[中国人民政治協商会議]]共同綱領」は、中華人民共和国が「[[人民民主主義]]国家」であるとした。そして、政治と経済の体制には「[[新民主主義]]」(綱領第1条)と「[[国家資本主義]]」(綱領第31条)を掲げ、「[[党の指導性|共産党の指導]]」や「[[社会主義]]」といった文言は一切盛り込んでいなかった<ref>天児(2004年)、96-98ページ。</ref>。つまり、建国の段階では中華人民共和国は中国共産党がめざす「[[社会主義国|社会主義国家]]」ではなかった。事実、[[国家元首]]である中央人民政府主席には毛沢東が、[[首相]]である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めた。
とはいえ、毛沢東は社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っている。建国直前の1949年7月には「[[向ソ一辺倒]]」を宣言し、建国まもない1949年12月から[[1950年]]2月にかけてソ連を訪問して[[ヨシフ・スターリン]]の70歳の誕生日を祝い、[[中ソ友好同盟相互援助条約]]を締結するなどして、ソ連の援助を引き出した。その後に勃発した[[朝鮮戦争]]では、ソ連軍を朝鮮半島から撤退させていたスターリンの意向を受けて台湾侵攻を後回しにして[[中国人民志願軍]]を[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に派遣。この戦争で、毛はソ連で実戦やロシア語を学んで軍司令官の[[彭徳懐]]の通訳になっていた長男の岸英を[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]の一国である[[アメリカ空軍]]の爆撃で失った。
朝鮮戦争勃発直前の1950年6月20日、毛沢東は「中華人民共和国土地改革法」を公布した。これは、かつて中国共産党が支配地域で実施していた「土地革命」を、全国の未実施地域で行おうとするものであった。ただし、この法律は従来の「土地革命」とは異なり、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざすものであった<ref group="注釈">改革は3つの段階をふまえて実施された。第1段階は匪賊の粛清と小作料・不当税・権利金などを地主から取りもどすこと、第2段階は農村の階級区分・土地の分配、第3段階は農村の整頓(地主たちの処遇・土地証書の発行など)と生産活動の準備である。</ref>。この改革によって、各種の農業生産高は一気に増大した<ref>天児(2004年)、109-112ページ。</ref>。なお、同時期の工業は、農業以上に生産の伸長が著しかった。毛はまた、[[1951年]]末から汚職・浪費・官僚主義に反対する「[[三反五反運動|三反運動]]」を、[[1952年]]初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対する「[[三反五反運動|五反運動]]」を展開した。「三反運動」は行政組織のスリム化と透明化をめざすものであったが、「五反運動」は事実上民族資本家や金融関係者が対象となり、商工業者に深刻な打撃を与えた<ref>天児(2004年)、99-100ページ。</ref>。その後インドシナ戦争でベトナムを支援した。
=== 過激化 ===
[[ファイル:Mao Zedong sitting.jpg|200px|thumb|right|[[毛主席語録]]に掲載された毛沢東の[[ポートレイト]]、1955年]]
建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年[[9月24日]]、突如として社会主義への移行を表明した。1950年の全国政治協商会議第2回会議で社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義を導入しようと方針転換したことは、周恩来や[[劉少奇]]など多くの指導者を困惑させた。しかし、毛は[[1953年]]1月より[[ソ連型社会主義]]の[[計画経済]]をモデルとした第一次[[五カ年計画]]を開始させ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していった。第一次五カ年計画は重化学工業への投資で高い経済成長を達成し<ref group="注釈">国家統計局国民経済綜合統計司編 (2009) p.12 表1-9 国内生産総値指数によると、1952年の実質GDPを100とすると1957年の実質GDPは155.6となり、平均すると年率<math>9.2\%( =(\sqrt[5]{\frac{155.6}{100}}-1)*100 )</math>成長している。</ref>、当時の中国の[[国内総生産|GDP]]は同様に戦後復興を進めていた日本より上回っていた。
毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国から社会主義国に変貌させるため、国家機構の改造にも着手した。[[1954年]]9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として[[全国人民代表大会]]が設置され、[[9月20日]]に全人代第1回会議において[[中華人民共和国憲法]]が正式に制定された。この憲法では、毛沢東が提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ、国家の目標として社会主義社会の実現が明記された。[[9月27日]]、毛沢東は憲法に基づいて新たに設置された[[中華人民共和国主席|国家主席]]に就任した。なお、首相である[[国務院総理]]には周恩来が改めて就任し、全人代常務委員長に劉少奇、[[中華人民共和国副主席|国家副主席]]には朱徳が任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長や[[中華人民共和国国務院|国務院]]の閣僚クラスにおける非共産党員の割合が大幅に減少するなど、国家の要職は中国共産党が独占した。
国家主席に就任した毛沢東は、[[労働改造所]]を設置して自己に対する反対勢力を粛清していく。[[1956年]]2月に[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連の指導者]]である[[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]が行った[[スターリン批判]]に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「[[百花斉放百家争鳴]]」運動を展開した。しかし、多くの[[知識人]]から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために[[1957年]]6月に[[反右派闘争]]を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
反右派闘争によって共産党に批判的な知識人層の排除に成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線の完成をめざした。毛は「[[イギリス]]を15年以内に追い越す」ことを目標として、[[1958年]]に[[大躍進政策]]を発動。大量の鉄増産のため、農村での[[人海戦術]]に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「[[人民公社]]」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策は失敗し、続いて「3ケ年自然災害」が発生。大躍進政策発動から数年間で推定2000万人から5500万人の餓死者を出した<ref>https://thediplomat.com/2023/01/xi-jinpings-great-leap/</ref><ref>https://www.theguardian.com/world/2015/oct/23/chairman-mao-must-be-smiling-in-heaven</ref>([[中華人民共和国大飢饉]])。
このことで「世界三大[[ジェノサイド|大量殺戮]]者」として、[[ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]やソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていき、後の文化大革命につながる
=== 中ソ対立 ===
[[File:Mao Tsé-toung, portrait en buste, assis, faisant face à Nikita Khrouchtchev, pendant la visite du chef russe 1958 à Pékin.jpg|thumb|フルシチョフと毛沢東(1958年・北京にて)]]
スターリン批判や対アメリカ政策をめぐって毛沢東はソ連の指導者フルシチョフと不仲となり、[[1950年代]]後半から[[中ソ対立]]が深刻化していった。[[1960年]]には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、[[1962年]]の[[キューバ危機]]では、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難した。さらに[[1963年]]からは中国共産党とソ連共産党の公開論争が開始されてイデオロギー面の対立も深まるなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなり、毛沢東はかつて自ら掲げた「向ソ一辺倒」と決別して[[自力更生]]を掲げるようになった。理論面でも[[3つの世界論]]を唱えてソ連や米国と一線を画す[[第三世界]]に中華人民共和国を分類した。また、[[ロシア帝国]]最後の皇帝[[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]とその一家を虐殺したソ連に対する中華人民共和国の優越性を示すとして清朝最後の皇帝で日本の傀儡国家[[満州国]]の皇帝でもあった[[愛新覚羅溥儀]]を[[洗脳|思想改造]]して今度は共産党の傀儡にすることで政治的に利用した<ref>{{cite book |author= Edward Behr|date=1987 |title=The Last Emperor |publisher=Futura |pages=283-285 |isbn=9780773680258}}</ref>。
[[1964年]]から[[1965年]]にかけてはアメリカで[[弾道ミサイル]]を開発していた[[銭学森]]をはじめとする海外から帰国した科学者の協力で[[両弾一星]]を推し進めて[[596 (核実験)|中国初の核実験]]を実施し、中華人民共和国をアメリカ合衆国・ソビエト連邦・イギリス・フランスに続くアジア初の[[核保有国の一覧|公式核保有国]]にさせ、[[原子爆弾]]の開発からわずか2年と8ヶ月で[[水素爆弾]]を開発した。これは[[五大国]]の中でも最速だった<ref>"China's Nuclear Weapon Development, Modernization and Testing". Nuclear Threat Initiative. September 26, 2003. </ref>。さらに核弾頭搭載可能な[[DF-2 (ミサイル)|東風2号]]ミサイル発射試験に成功して核爆弾搭載可能な[[戦略爆撃機]]など[[戦略兵器]]を次々に開発して軍事的にもソ連から自立するようになった。1969年3月には[[中ソ国境紛争]]が発生、両国は交戦するに至り、[[核戦争]]の可能性も起きた。また、自らを称賛する[[東方紅]]を宇宙から流す[[人工衛星]]の[[東方紅1号]]を打ち上げ、[[曙光1号]]による有人宇宙飛行も計画するなどソ連に対抗して[[中国の宇宙開発]]も推し進めた。
=== 文化大革命 ===
[[ファイル:MaoZedong19660818.jpg|200px|thumb|right|紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東、1966年8月]]
[[ファイル:Mao Zedong with a family.jpg|サムネイル|故郷の[[韶山市|韶山]]で農民たちと談笑する毛沢東]]
大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけた。[[1959年]][[4月27日]]、毛沢東は大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。
同年7月から8月にかけて江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議([[廬山会議]])では、毛と同郷であった[[中華人民共和国国防部|国防部長]](大臣)の[[彭徳懐]]から大躍進政策の見直しを迫られた。毛は彭徳懐とその支持者を「右翼日和見主義反党軍事集団」というレッテルを貼って粛清した。
廬山会議以降、毛はさらに強硬的になって大躍進政策を推進しようとしたが、飢餓が全土に拡大して餓死者がますます増加していき、ついに毛は[[1962年]][[1月]]に開催された「[[七千人大会]]」において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-[[鄧小平]]ラインに移ることとなり、毛沢東の権力は大きく低下した。劉少奇や鄧小平が経済調整に乗り出し、農業集団化を見直した結果、農村の飢餓状態が改善されると、党・国家機構における毛沢東の威信はますます減退していった。しかし、彭徳懐に代わって国防部長となった林彪によって[[1964年]]に『[[毛沢東語録]]』が出版されるなど、大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。
[[1965年]]11月、歴史学者で北京市副市長でもあった[[呉晗]]が執筆した[[京劇]]戯曲『[[海瑞罷官]]』を批判した[[姚文元]]の「[[新編歴史劇『海瑞罷官』を評す]]」の論文が上海の新聞『[[文匯報 (上海)|文匯報]](ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、[[1966年]][[5月]]、[[北京大学]]に反革命批判の大字報(壁新聞)が貼り出され、大学などの教育機関や文化機関を中心に、党・国家機関に対する「造反」が起こった。
過激派となった青少年は「[[紅衛兵]]」と称して、各地で暴動を引き起こした。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「[[造反有理]](謀反には理由がある)」として積極的に支持した。[[8月5日]]に毛は「司令部を砲撃せよ ― 私の大字報」と題する指示を『光明日報』に発表し、劉少奇国家主席打倒を示唆した。[[8月18日]]には、自ら[[天安門広場]]に赴き、100万名の紅衛兵を謁見して彼らを煽動して「四旧打破」のスローガンを打ち立てた。紅衛兵運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
このようにして、劉少奇・鄧小平らを実権派(経済政策の調整・柔軟化を唱える党員は、「走資派」というレッテルを貼られた)・[[修正主義]]者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東に対する個人崇拝の見直しと、代替権力として党官僚の強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動、すなわち「[[プロレタリアート|プロレタリア]][[文化大革命]](文革)」への流れが決定付けられた。この頃[[個人崇拝]]の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。
文化大革命では[[紅衛兵]]による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席([[1968年]]に失脚)ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及んだ。
彼らの家族までも紅衛兵によって徹底的に迫害された。また、紅衛兵運動は[[文化浄化]]を行うなどの極端な「左」傾偏向主義運動に発展した。文化大革命による犠牲者の合計数は数百万から数千万とも言われている。文革の被害者数については諸説あるが、死亡数は2000万人に上るという政府高官の見解が中国国民に共有されている<ref>https://www.bbc.com/zhongwen/simp/china/2016/02/160222_cr_culture_revolution_sign</ref>。この流れのなか、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。
紅衛兵は[[中南海]]、[[紫禁城]]、[[核兵器]]に関わる軍事施設への侵入を試みて毛沢東の護衛を担当する[[中国共産党中央弁公庁警衛局中央警衛団|8341部隊]]と武力衝突も起こしており、毛沢東は中央軍事委員会主席として人民解放軍に紅衛兵の弾圧を命じ<ref>Meisner, M; 'Mao's China and After: A History of the People's Republic Since 1949'; Free Press (1986) p. 339-357</ref>、さらに学生たちの農村への[[上山下郷運動|下放]]を指示した<ref>Shu Jiang Lu, When Huai Flowers Bloom, p 115 ISBN 978-0-7914-7231-6</ref><ref>Bramall, Chris. Industrialization of Rural China, p. 148. Oxford University Press (Oxford), 2007. ISBN 0199275939.</ref><ref>Riskin, Carl; United Nations Development Programme (2000), China human development report 1999: transition and the state, Oxford University Press, p. 37, ISBN 978-0-19-592586-9</ref>。
文化大革命が発動されて以来、毛沢東の下で実権を掌握したのは毛の妻で党中央政治局委員の江青と党副主席兼国防部長の林彪らであった。とりわけ林彪は毛沢東の後継者とされたが、その後毛と対立し、[[1971年]]にクーデターを計画したが失敗。林彪は亡命しようとしたが、搭乗した空軍機が[[モンゴル]]領内で墜落し、死亡した([[林彪事件]])。林彪失脚後、毛は人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。
=== 米中接近と日中国交締結 ===
毛沢東は中国を訪問した外国の指導者を迎え入れることはあったものの、2度のソ連訪問を除いて自らの外遊は避けたことで当時の国際社会では神秘的かつ閉鎖的な国家指導者の印象を与えていたが<ref>He Di『The Most Respected Enemy: Mao Zedong's Perception of the United States』The China Quarterly No. 137 (Mar., 1994), pp. 144-158</ref>、巧みな周恩来の外交手腕もあって[[1971年]]に[[国際連合]]で[[アルバニア決議]]が可決され、中華民国を国連とその関連機関から追放させ、経済的には[[発展途上国]]でありながら軍事的には核保有国だけでなく、外交的には[[国際連合安全保障理事会常任理事国|国連安保理常任理事国]]の地位も手に入れたことで加盟当初から[[国際連合事務総長の選出|事務総長の選出]]で意にそぐわない候補に対して[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使<ref>FRUS 1969–1976 V, Document 247: Telegram From the Mission to the United Nations to the Department of State, December 22, 1971, 0356Z.</ref>するなど[[列強]]と並ぶ強い影響力を国際社会で誇示するようになって中華人民共和国は世界にとって無視できない存在となった。
毛沢東が世界に注目された最後の事件は[[1972年]][[2月18日]]、北京において行われた[[アメリカ合衆国大統領]][[リチャード・ニクソン|ニクソン]]との会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東は[[西側諸国]]のリーダーだったアメリカのニクソンと握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。ニクソンを通訳から紹介された毛沢東は「我々の共通の旧友、蔣介石大元帥はこれを認めたがらないでしょう」と歓迎した<ref>William Burr, The Kissinger Transcripts: The Top Secret Talks withBeijing and Moscow (New York: The New Press, 1999), 59-65.</ref>。これに先立つ[[ニクソン大統領の中国訪問|ニクソンの訪中]]予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともに[[ニクソン・ショック]]とも呼ばれた。ニクソンの後を継いで米大統領に就任した[[ジェラルド・フォード]]とも会見した<ref>[https://www.upi.com/Archives/Audio/Events-of-1975/Ford-Visits-China/ Ford Visits China - 1975 Year in Review - Audio - UPI.com]</ref>。ただし、米中が国交を正式に樹立するのは毛沢東の死後、[[1979年]]になってからである。
なお、この米中接近は[[冷戦]]下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく[[珍宝島事件]](ダマンスキー島事件)などでソ連との関係が悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。[[1973年]]に毛沢東はアメリカの[[国家安全保障問題担当大統領補佐官]][[ヘンリー・キッシンジャー|キッシンジャー]]にアメリカ・日本・中華人民共和国・[[パキスタン]]・[[イラン]]・[[トルコ]]・[[ヨーロッパ]]によるソ連に対する[[合従連衡]]を提案していた<ref>{{cite web |title=毛泽东主席关于三个世界的理论和“一条线”战略 |url=https://www.mfa.gov.cn/mfa_chn//ziliao_611306/wjs_611318/2159_611322/t8972.shtml |website=中华人民共和国外交部 |accessdate=2019-07-16}}</ref>。
その後、[[1972年]]に[[高度経済成長]]を遂げて西側諸国ではアメリカに次ぐ経済力を有する国になっていた日本の首相[[田中角栄]]もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、[[日中国交正常化]]を果たす。中華人民共和国・中華民国も[[国家の承認|二重承認]]を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に中国を訪問しただけで無く、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。
=== 死去 ===
[[ファイル:Muldoon with Mao.jpg|250px|thumb|right|[[ニュージーランド]]の[[ロバート・マルドゥーン]]首相と会談する毛沢東(1976年4月30日)]]
ニクソンとの会見後に毛沢東が[[筋萎縮性側索硬化症]]に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。[[1975年]]には白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。毛が最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の[[毛遠新]]を連絡員として病床から指示を発するのみとなった。
毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。毛は周恩来の補佐として、[[1973年]]に鄧小平を復活させ、[[1974年]]には鄧を[[国務院副総理|国務院常務副総理]](第一副首相)に任命した。さらに、[[鄧小平]]は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。鄧小平は文革路線からの脱却を図ろうとしたが、文革を推進してきた江青ら[[四人組]]は反発し、周恩来・鄧小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対して鄧小平批判を伝えていた。毛沢東も文革を否定する鄧小平を批判するようになった。[[1976年]][[1月8日]]の周恩来死去をきっかけに、同年[[4月5日]]、[[四五天安門事件|第一次天安門事件]]が発生すると、毛は[[鄧小平]]を再度失脚させた。
周恩来・朱徳(1976年[[7月6日]]没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の[[中南海]]にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001361/le-journal-a2-20h-emission-du-9-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 9 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|oN8XwSwE36Q|20h Antenne 2 du 09 septembre 1976 - Mao Zedong est mort}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=毛沢東主席死去|journal=アジア時報|volume=7|issue=10|publisher=アジア調査会|date=1976-10-01|pages=2 - 6|id={{NDLJP|7976280/3}}}}</ref>。[[中国中央電視台|北京電視台]]で午後7時からの放送開始時に葬送曲と[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]を流した後に、中国共産党中央委員会からの訃告を読み上げた<ref>{{Cite journal|和書|title=放送デスクメモ(76・九~十) / N|journal=マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌|issue=111|publisher=日本マスコミ市民会議|date=1977-02-01|pages=52 - 57|id={{NDLJP|3463773/28}}}}</ref>。日本ではNHKが午後5時10分に「毛主席死去」と速報を表示した<ref>{{NHKアーカイブス|A197609099999991300100|ニュース速報・字幕スーパー}}</ref>。1976年9月18日には[[天安門広場]]で国葬が実施された<ref>[https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cab04001941/le-journal-a2-20h-emission-du-18-septembre-1976 Le Journal A2 20H : émission du 18 septembre 1976] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}}</ref><ref>{{YouTube|yGm19bP9NG4|JA2 20H : EMISSION DU 18 SEPTEMBRE 1976}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}}</ref>。なお毛沢東の死の直後に腹心の江青・[[張春橋]]・姚文元・[[王洪文]]の4人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在[[北京市]]内の[[天安門広場]]にある[[毛主席紀念堂]]内に安置され、永久保存・一般公開されている。
== 死後の評価 ==
[[ファイル:Mao Zedong Porträt am Eingang zur Verbotenen Stadt.jpg|right|150px|thumb|天安門広場に飾られる毛沢東の肖像画]]
[[ファイル:HXD3D 1893 and T1@BJI (20141228153112).JPG|right|200px|thumb|中国国鉄“毛沢東号”機関車(6代目,[[中国国鉄HXD3D型電気機関車|HXD3D]]-1893)]]
[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の[[タイム100: 今世紀最も重要な人物|20世紀の重要人物]]の1人に選出された<ref>[http://www.time.com/time/time100/leaders/profile/mao.html Time 100: Mao Zedong] By Jonathan D. Spence, 13 April 1998.</ref>。毛沢東の政策については、現在でも議論の対象となっている。研究者は毛沢東の引き起こした[[大躍進政策]]と[[文化大革命]]のような、[[中華文化|文化]]・社会・[[中華人民共和国の経済|経済]]・[[中華人民共和国の国際関係|外交]]に重大な損害をもたらした問題について非難すると共に、彼の政策による犠牲者を数千万と推定する<ref name="deathtoll">{{cite book |last=Short |first=Philip |title=Mao: A Life |url=https://books.google.co.jp/books?id=4y6mACbLWGsC&pg=PA631&dq=mao+a+life+all+the+dead+of+the+second+world+war&ei=V8N5SaWvCIuYMrK0-KwL&redir_esc=y&hl=ja |year=2001 |publisher=Owl Books |isbn=0805066381 |page=631}}; [[Jung Chang|Chang, Jung]] and [[Jon Halliday|Halliday, Jon]]. ''[[Mao: The Unknown Story]].'' [[Jonathan Cape]], London, 2005. ISBN 0-224-07126-2 p. 3; [[R. J. Rummel|Rummel, R. J.]] ''[http://www.hawaii.edu/powerkills/NOTE2.HTM China’s Bloody Century: Genocide and Mass Murder Since 1900]'' [[Transaction Publishers]], 1991. ISBN 0-88738-417-X p. 205: In light of recent evidence, Rummel has increased Mao's [[democide]] toll to [http://hawaiireporter.com/story.aspx?1c1d76bb-290c-447b-82dd-e295ff0d3d59 77 million]. See also: {{cite web |url=http://users.erols.com/mwhite28/warstat1.htm#Mao |title=Source List and Detailed Death Tolls for the Twentieth Century Hemoclysm |accessdate=2008-08-23 |publisher=Historical Atlas of the Twentieth Century}}</ref>。そして、[[マルクス・レーニン主義]]を中国社会に導入しようと自らが確立した[[毛沢東思想]]に基づく毛の政策は、産業の面において結局失敗に終わったと論じる<ref name="deathtoll"/>。
なお、当時識字率の低かった中国の識字率を急速的に上昇させ、統一国家である中華人民共和国を建国したのは評価される点であり、良くも悪くもと言った人物であるとして扱われる。
=== 文化大革命の清算 ===
毛沢東の死去後、江青ら4人組を逮捕・失脚させて[[中国共産党中央委員会主席|党主席]]・[[中華人民共和国の最高指導者一覧|最高指導者]]に就任した[[華国鋒]]は「[[二つのすべて]]」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。
鄧小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また、党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた<ref group="注釈">例えば、毛沢東死後の[[1978年]]に国歌「[[義勇軍進行曲]]」の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変されていたが、文革処理がほぼ終わった[[1982年]]には元々の歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。</ref>。
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、[[先進国]]・発展途上国問わず世界に影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させた。一方で「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。文化大革命で失脚したうえに迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。
=== 現代中国社会と毛沢東 ===
毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。例えば[[1989年]]の[[六四天安門事件|第二次天安門事件]]直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。
一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。第二次天安門事件の後、生誕100周年に当たる[[1993年]]前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
毛沢東の死後の中国は[[改革開放]]によって経済が発展する一方、所得格差の拡大・党幹部と官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。そのような状況の下で困窮に苦しむ人々が貧しい農業国でも平等だった毛沢東時代の中国を懐かしみ、毛の肖像・『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。毛の117回目の誕生日に当たる[[2010年]][[12月26日]]には、北京で陳情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った<ref>{{cite news |title= 格差社会の中国に「毛沢東ブーム」 生誕の日、陳情者ら1000人 |author= 矢板明夫 |url= http://sankei.jp.msn.com/world/china/101229/chn1012290019001-n1.htm |newspaper= MSN産経ニュース |publisher= [[産経新聞]] |date= 2010-12-29 |accessdate= 2011-01-12}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。
== 毛沢東の言葉・思想 ==
{{main|毛沢東思想|毛主席語録}}
; 日中戦争時代の毛沢東の言葉
: 「[[戦争]]という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」
:「日本はいま世界有数の強い[[帝国主義]]国である、一方で我が国は依然として弱国であり、軍事力・経済力・政治組織力などの面で敵に劣っている。だが日本は国土が比較的小さく、人力・軍事力・財力・物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争には耐えられない。一方で中国はさしのぼる朝日のような国で、[[日本帝国主義]]の没落状態とは全く対照的である。中国の戦争は進歩的であり、この進歩性から中国の戦争の正義性が生まれている。この戦争は正義の戦争であるために全国的な団結呼び起こし、敵国人民の共鳴を促し、世界の多数の国々の援助を勝ち取ることができる。中国はまた大きな国で土地が広く、物産は豊かで、人口が多く、兵力も多いので長期の戦争を支えることができ、この点もまた日本と対照的である。」<ref>{{cite news|url =http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/tyugoku/kenkokukinoshidosyaco/motakutoronco/tyosakusyu/jikyusenron.html| title =「【毛沢東、「持久戦論」(1938.5)】}}</ref>。
; 天皇制に対する毛沢東の言葉
: 戦争末期の1945年5月28日に[[日本共産党]]の代表だった[[野坂参三]]の演説原稿を読み、以下のような書簡を送っている。野坂は「人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対して我々は譲歩しなければならぬ。[[天皇制]]の問題は、戦後儘速(迅速)に人民投票によって決定される」という投票による天皇制容認の草稿を用意していたが、毛沢東はそれに対して「『儘速』の二文字は削除できると思われます」「私は日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期の内に出来るものではないと推測しています」とさらに慎重な態度を取っている。なお毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無く、[[戦争犯罪|戦犯]]問題についても野坂が広範な[[ファシズム|ファシスト]]分子摘発を訴えたことに毛沢東は反対し、[[特別高等警察|特高警察]]や思想警察でさえ「一部の積極分子のみ」に限定するのが良いと寛容な態度を取った<ref>{{cite news |title= Japan won't end emperor system, Mao wrote in '45 |url= http://search.japantimes.co.jp/member/member.html?nn20040218c1.htm |newspaper= The Japan Times |publisher= The Japan Times |date= 2004-02-18 |accessdate= 2011-02-01}}</ref>。
;「東風は西風を圧倒する」
: 1957年11月に[[モスクワ]]を訪問した毛沢東は、「この世界には二つの風が吹いている。東風と西風だ。中国には、東風が西風を圧倒しなければ西風が東風を圧倒するという格言があるが、今日の世界情勢はまさに東風が西風を圧倒している({{Lang-zh|东风压倒西风}})、つまり、資本主義勢力に対して社会主義勢力は圧倒的有利に立っているということだ」と演説し、さらに「戦争が始まればどれだけの人が死ぬか考えてみよう。地球上には二十七億の人間が暮らしており、その三分の一、いや多ければ半分が失われる可能性がある……私が言いたいのは、たとえ最悪のケースで半分死んだとしても、半分は生き残るということだ。しかし、帝国主義は抹殺され、この正解はすべて社会主義になるだろう。数年も経てば、人口は再び二十七億に達するはずだ」と述べた<ref>{{Citation|和書|title=毛沢東の大飢饉 {{small|史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962}}|url=https://www.worldcat.org/oclc/1183082785|publisher=草思社|isbn=978-4-7942-1840-7|oclc=1183082785|year=2011|pages=|last=フランク|first=ディケーター|translator=中川治子|page=46}}</ref><ref>{{Cite web|title=毛泽东是否说过“死3亿人没关系”|url=http://www.dswxyjy.org.cn/n1/2019/0228/c423725-30920896.html|website=www.dswxyjy.org.cn|accessdate=2021-02-05|publisher=中共中央党史和文献研究院|author=谢加书|date=2014-08-27|language=zh}}</ref>。
; 日本社会党訪中団との会見における毛沢東の発言
: [[1964年]]7月に[[日本社会党]]の[[佐々木更三]]率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。元[[大日本帝国陸軍]][[中将]]の[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]と毛沢東の会見<ref>毛沢東著、[[太田勝洪]]訳『外交路線を語る』1974年、現代評論社</ref>、元[[A級戦犯]]の[[久原房之助]]と毛沢東の会見でも毛沢東から似た発言がなされた<ref>『久原房之助と毛沢東』[[月刊日本]]2000年12月号</ref>。この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという<ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由 誰も言わない「反日」利権の真相』(青春出版社、2004年)、127 - 128ページ。</ref>。[[沖縄返還]]を要求する日本人民の愛国闘争を支持するとも[[人民日報]]で述べていた<ref>1964年1月22日付中国人民日報</ref>。
; 「道は自分で切り開くもの」
: 毛沢東は、「道は自分で切り開くもの」と、過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。
; 『実践論』の言葉
: 「ある事物を理解するためには、それを変革する戦いに参加しなくてはならない」
; 国務院副総理陳永貴に対する毛沢東の発言
: [[1970年代]]に[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理[[陳永貴]]が日中戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。
;毛沢東選集の言葉
:「革命とは、客を招いてごちそうすることでも無ければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなお上品でおっとりとした雅やかなものではない。革命とは暴力である。一つの階級が他の階級をうち倒す、激烈な行動なのである。」<ref group="注釈">出典は1927年の「湖南省農民運動の視察報告」</ref>
;「和尚打傘」
:アメリカ人ジャーナリストの[[エドガー・スノー]]との対談で"和尚打傘"({{Lang-zh|和尚打伞}})と述べた。これは「(傘をさした和尚は)髪もなければ、天も見えない({{Lang-zh|无发无天}})」と「やりたい放題({{Lang-zh|无法无天}})」をかけた{{仮リンク|歇後語|zh|歇後語}}([[言葉遊び]])であったが、通訳の[[唐聞生]]がアメリカ育ちであったために意味を汲み取れず、「和尚が傘をさす」と直訳した。このためスノーは、毛主席の言葉を「自らを、傘を手に歩む孤独な行脚僧とイメージしている」などと紹介し、「なにものにも束縛されず、自分の道を歩んできた」という毛沢東の本来の意図とはむしろ逆のメッセージが全世界に発信された<ref>{{Cite web|和書|title=毛沢東主席とは正反対?…温首相がキッシンジャー氏に「傘」 (2009年10月13日)|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20091013050/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-02-05|publisher=|author=如月隼人|date=2009-10-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=最近の≪ことば≫に見る中国事情|url=http://koyukai.boo.jp/2017/08/26/jiangyan-jiu/|accessdate=2021-02-05|publisher=日中学院校友会|date=2014-4-20|author=丹藤佳紀|authorlink=丹藤佳紀}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=お言葉ですが・・・7 漢字語源の筋ちがい|url=https://www.worldcat.org/oclc/169957192|publisher=文藝春秋|location=東京|isbn=4-16-759808-6|oclc=169957192|year=2006|pages=53-54|first=俊男|author-link=高島俊男}}</ref>。
== 著作・講話 ==
* 「[[体育の研究]]」(1917年)
* 『[[:en:Changsha (poem)|長沙]]』(1925年)
* 『[[湖南省農民運動視察報告]]』(1927年7月)
* 『[[実践論]]』(1937年7月)
* 『[[矛盾論]]』(1937年8月)
* 『[[遊撃戦論]]』(1938年)
* 『[[:en:On Protracted War|持久戦論]]』(1938年)
* 『[[新民主主義論]]』(1940年)
* 『[[文芸講話]]』(1942年)
* 『[[愚公山を移す]]』(1945年)
* 『[[人民内部の矛盾を正しく処理する問題について]]』(1957年)
== 逸話 ==
{{未検証|date=2016年9月|section=1}}
* 毛沢東は大の読書好きで、中南海の邸宅には約70万冊の本が収集されており、とくにお気に入りの本は寝室に置かれていた。主に歴史関係の本を好み、特に中国史(歴代王朝二十四史や[[三国志]])を愛読していた<ref>秘書による回想『毛沢東の読書生活』(竹内実・浅野純一訳、サイマル出版会、1995年)に詳しい</ref>。
* 毛をはじめとする共産党幹部は昼間眠って真夜中に仕事をするという、いわゆる夜型の習慣を革命当時に身につけた。北京入城後、劉少奇、朱徳、周恩来など他の古参幹部らは生活を昼型に戻したのだが、毛だけはそうせず、逆に終生これを変える事はなかった。幹部党員との会議や、時には外国首脳との接見も毛の執務習慣に合わせ深夜に行われた{{信頼性要検証|date=2016-09}}<ref name="hok2005">[[#北海(2005)|北海(2005)]]</ref>。
* こうした毛の執務習慣に合わせ、昼間鳴き騒いで毛の睡眠の邪魔をするという理由で、中南海で雀退治が行なわれた。幹部職員には1日何羽というノルマが課せられた。それでも北京市内の雀が入ってくるので、市内全部の小中学校の児童・生徒に雀捕りの号令が掛けられた。或る幹部は[[孟浩然]]の詩を読み替えて詠んだ。
<center>「春眠暁を覚えず いたるところ 雀啼く 日夜パチンコの声死雀幾羽か知らん」<ref name="hok2005"/></center>
* [[1956年]]に毛は「雀は年間30kgの米を食う」と言いだし、絶滅を命じた。毛の雀狩りは5年間続けられた。記録では北京で年間11億羽を処分とある<ref>高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう 変見自在』(新潮社、2011年)</ref>。しかし当然の報いとして害虫による作物の被害が蔓延し凶作に陥ったため、ようやく雀狩りは取止められた('''[[四害駆除運動]]''')。
* 天安門広場に掲げられた肖像から[[人民服]]を愛用していたように思われがちだが、正装として着用しているだけであり、実際にはあまり着用しなかった。体を締め付けないゆったりとした[[ガウン]]のような服が好みで、私生活では寝ているときも起きているときもそれを着用し、深夜の会議や党幹部の報告もベッドの上でその服装で聞き流していた。また、幼児じみたところがあり、そのガウンが破けたたりほつれたりしても新しいものとは交換せず、同じガウンを繕いなおさせてそれを着用した。それゆえ上海に毛専用の縫製ラインが設けられ、傷んだガウンはそこへ送られ一流の縫製職人がこれを修復した。しばらくするとガウンは[[パッチワーク]]の様相を呈したが、毛本人はなんら気にとめることはなく、来客があるとそのパッチワークのガウンを自慢げに見せびらかしていた{{信頼性要検証|date=2016-09}}<ref name="hok2005"/>。
* 味覚の嗜好は終生変わることがなかった。専ら故郷の油っこい味付けの料理を食し、[[ロシア]]訪問時もわざわざ彼専用の料理人を連れて行き、現地の味には一切眼をくれないほどであった。このとき、ソ連政府はわざわざ[[クレムリン]]の一室をさいて毛に供したのだが、毛が用いたのはその空間だけであって、お気に入りのベッドは無論のこと[[ポータブルトイレ#おまる|御虎子]]に至るまで持ち込んで、滞在中ずっと使用していた。
* 食器は、[[景徳鎮]]に毛沢東専用のそれを焼くための窯が存在した{{信頼性要検証|date=2016-09}}<ref name="hok2005"/>。そこで生産された毛専用のそれら食器は、毛の没後の1982年に保管されていた予備品が市中に出回り、やがて[[香港]]を経由して西側にも知られるようになった。2015年現在、それらの食器はその極秘生産指令のコードを付した [[7501工程]]、毛瓷の名称で呼ばれ、中国の経済成長ともあいまって驚くほど高額の骨董的価値を付与されている。これらの食器は陶磁器の専門家や蒐集家から半ば皮肉を込め「最後の[[官窯]]」とも呼ばれている。
* スポーツは水泳を好んだ。中国全土に建設された毛専用の別荘には、かならずプールが備えつけられていた。[[ニキータ・フルシチョフ|フルチショフ]]が訪中した際は、プール際にまで彼を呼びつけ、金槌である彼をからかうようなそぶりでプールを自由に泳ぎまわる際どい外交戦術を展開したこともある。さらに黄河などで自らの水泳する姿を写真に撮らせて新聞に載せ、意気盛んな様子をアピールしたことも良く知られている。また、最晩年に中南海の菊香書屋を出て、移り住んだ終の棲家は中南海のプールの更衣室(脱衣場)であった<ref name="Yun2005">[[毛沢東#ユン(2005)|ユン(2005)]]</ref>。
* [[麻雀]]の名手であった。自身、「麻雀は[[漢方]]、『[[紅楼夢]]』とともに世界に三大貢献した。」と評価し、高度な戦略を磨き確率性と確実性の関連を学ぶことができるとして楽しんでいた。
* 歯磨き粉をめぐる毛沢東の噂話は幾つかのバージョンがある。いずれもオチつきである。一つは、昔は缶入りの粉歯磨きばかりであったが、やがてチューブ入りの練り歯磨きが出て来たときに、毛沢東は我が国は未だ貧しい、その間は自分は最新のチューブ式歯磨きでなく、昔ながらの缶入りの歯磨き粉でいいと言って、従来通りの粉歯磨き粉を愛用していたが、お茶好きの毛沢東は歯に茶渋がつくため、すぐに歯が黒くなり、そのため、ヘビースモーカーが歯のヤニを落すために使うような極めて研磨力の強い[[歯磨剤|歯磨き粉]]を愛用していた、そのため、歯のエナメル質が削れて、結局かえって多くの歯を失うことになったというものである。別の話では、市中に練り歯磨きが普及してからも、やはりそれを使おうとしなかった、やがて歯磨き粉の生産中止が決定し、部下が次第を報告すると「オレは生まれてこの方、歯磨き粉しか知らないからこれしか使わない。お前たちが練り歯磨きを使うのは勝手だが、オレに練り歯磨きを強制するのは止めろ」と命じたので、生産中止は撤回され、上海の国営工場で、毛沢東一人のためだけに細々と歯磨き粉の生産が継続された、ともあり<ref name="hok2005" />、湖南省韶山市の毛沢東同志記念館には曰くつきのその歯磨き粉が展示されているという。別の話では、毛沢東はお茶を飲んでいれば、虫歯をふせげると信じ、歯磨きをしなかった、そのために、彼の歯は茶渋で真っ黒だったという。これらの話では、歯とくに前歯が黒ずんだか、あるいは歯を失ったかで、それを見られるのを気にして、毛沢東は人前ではあまり口を開けなかったとされる。中には、伝えられるうちに緑茶を良く知らない西洋人によって変形したものと思われるが、緑茶という言葉からか、茶渋で黒ずんでいたではなく、「まるで口内に緑色のペンキが塗ってあるよう」だったとなっている話もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/56409 |title=毛沢東が人生で一度も歯を磨かなかった呆れた理由 |access-date=2022-06-17 |website=週刊現代}}</ref>。
* 毛は共産党の正統性を宣伝するため[[魯迅]]を利用したことで中国での名声が高まった。本人は特に[[阿Q正伝]]を気に入っており、談話でしばしば「阿Q精神」を引き合いに出した<ref>{{Cite journal|和書|author=小山三郎 |date=1989-03 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-00540001-0194 |title=毛沢東の魯迅評価について |journal=藝文研究 |ISSN=0435-1630 |publisher=慶應義塾大学藝文学会 |volume=54 |pages=194-216 |CRID=1050001338948820864}}</ref>。
* 毛沢東は[[呂蒙]]に感銘を受けた人物の一人であり、部下への訓告に際しては度々呂蒙の生きざまを引き合いに出している。彼自身、幾度も『呂蒙伝』を読み込んでおり、特に[[孫権]]が呂蒙の事を論じた『学門開益、籌略奇至(学問に懸命に取り組み、ずば抜けた策略を得るに至った)』という言葉を大いに気に入っていた。また、[[陳寿]]が評した『呂蒙勇而有謀』の六字を部屋中にびっしりと書き加えていたという逸話もある。1958年に安徽省へ視察へ出向いた際には、同行していた[[羅瑞卿]]や[[張治中]]へ「呂蒙は一兵卒として従軍し、驍勇にして胆略を有していたが、教養を持っていなかった。将軍となってからもそれは変わらず、軍事上の報告をする際には口述して書き写させていた。甚だ不便といえる。孫権が彼に書を読むよう勧めると、彼は軍務が多忙で時間が無いと言ったが、孫権は自らを引き合いに出し、ただやると決心する事が重要であり、時間など大した問題ではないと説いた。呂蒙は孫権の忠告を聞き入れ、刻苦しながらも自ら勉学に励み、数年の後には別人のようになった。そして後に東呉の将帥となり、数多の戦を勝利に導き、関羽を麦城へ敗走させたのだ。我が軍の高級官僚も十中八九が行伍(一兵卒)の出身であり、今になって教養を学んでいる。彼らは『呂蒙伝』を読まないわけにはいかぬ」と語った。また、その後もある時には「呂蒙は用兵を巧みにしてよく敵の心を攻めたが、もし節を曲げて書を読む事が無ければ、どうして東呉の将帥足りたただろうか。我ら解放軍には行伍が多い。『呂蒙伝』を読まねばならない」とも周囲に語っていたという。1972年には『呂蒙伝』の注釈書の作成を監修し、幾度も自ら指摘を行って修正させている。そしてこの際にも、呂蒙が出世してから本を読むようになった事を引き合いに出し、高級官僚に対して学問を学ぶ事の重要性を説いている。
== 家族 ==
* 父 [[毛貽昌]]
* 母 [[文素勤]]
** 弟 [[毛沢民]]
*** 甥 [[毛遠新]]
** 弟 [[毛沢覃]]
* 妻 [[羅一秀]]
* 妻 [[楊開慧]]
** 長男 [[毛岸英]] -(1922年10月-1950年11月)
** 次男 [[毛岸青]] -(1923年11月-2007年3月)
*** 孫 [[毛新宇]] -(1970年1月-)
** 三男 [[毛岸竜]] - 夭折
* 妻 [[賀子珍]]
** 長女 [[楊月花]] -(1929年3月-)
** 四男 - 夭折
** 五男 [[毛岸紅]] -(1932年11月-1971年12月)
** 次女 [[熊化芝]] -(1935年2月-)
** 三女 [[李敏]] -(1936年-)
** 六男 - 夭折
* 妻 [[江青]]
** 四女 [[李訥]] -(1936年-)
== 毛沢東の肖像 ==
=== 中華人民共和国の紙幣において ===
[[1988年]]に発行された中華人民共和国の紙幣である[[人民元|中国人民銀行券]]の第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に毛沢東の横顔が描かれていたが、[[1999年]]から発行が始まった現行の第5版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。
また、毛沢東の肖像や語録がプリントされた1967年や1968年の切手は、文化大革命中の切手購入が実用目的のみに制限されていた事から希少性があり、コレクターの間では非常な高額で売買されるプレミアム切手となっている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『[[毛沢東選集]]』全5巻(中華人民共和国、[[人民出版社]]、1951年 - 1977年)
* [[エドガー・スノー]]『[[中国の赤い星]]』([[松岡洋子 (評論家)|松岡洋子]]訳、筑摩書房、1975年)
* {{Cite book|和書|author=李志綏|authorlink=李志綏|others=[[新庄哲夫]]訳|title=[[毛沢東の私生活]]|publisher=[[文藝春秋]](上・下)|date=1994|ref=李(1994)}}
* 師哲・李海文『毛沢東側近回想録』(劉俊南・横沢泰夫訳、新潮社、1995年)
* [[産経新聞]]「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』([[産経新聞社]](上・下)、1999年)
* ジャスパー・ベッカー『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』(川勝貴美訳、中央公論新社、1999年)
* フィリップ・ショート『毛沢東 ある人生』([[山形浩生]]・守岡桜訳、[[白水社]](上・下)、2010年)
*:フィリップ・ショート(Philip Short)『Mao A Life』(2001年)の日本語訳。
* [[天児慧]]『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平 [[中国の歴史 (講談社)|中国の歴史11]]』([[講談社]]、2004年)
* {{Cite book|和書|author=北海閑人|others=廖建龍訳|date=2005-10|title=中国がひた隠す毛沢東の真実|publisher=[[草思社]]|url=http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_1443.html|ref=北海(2005)}}
* {{Cite book|和書||author1=ユン・チアン|authorlink1=ユン・チアン|author2=ジョン・ハリデイ|authorlink2=ジョン・ハリデイ|others=[[土屋京子]]訳|date=2005-11|title=[[マオ 誰も知らなかった毛沢東|マオ――誰も知らなかった毛沢東]]|publisher=講談社(上・下)|ref=ユン(2005)}}
* [[野中郁次郎]]・ [[戸部良一]]他『知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利』[[日本経済新聞出版社]]、2019年、ISBN 978-4532176761
== 関連項目 ==
* [[毛沢東思想]]
* [[マオカラースーツ]]
* [[エドガー・スノー]] - 毛沢東の伝記『中国の赤い星』の著者
* 『[[劇画 毛沢東伝]]』 - [[藤子不二雄A]]の伝記[[漫画]]。
* [[金日成と金正日の肖像画]]
*[[富田事变]]([[:zh:富田事变]])
*[[悪攻罪]]
*[[資治通鑑]] - 毛沢東の生涯を通じての愛読書として知られる<ref>[https://www.kadokawa.co.jp/product/301407000529/ 「本当に残酷な中国史 大著「資治通鑑」を読み解く」麻生川静男 [角川新書] - KADOKAWA]</ref><ref>[https://president.jp/articles/-/16710?page=1 マイケル・ピルズベリー「中国は2049年の覇権国家を目指す」は本当か? | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)]</ref>。
*[[覚醒年代]]
== 外部リンク ==
{{Wikisource author||毛沢東}}
{{Wikiquote|zh:毛泽东|毛沢東{{zh icon}}}}
{{Commons&cat|毛泽东|Mao Zedong}}
* [http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/index.html 毛沢東記念館](中国共産党党史人物記念館)
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ドンガン人
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ドンガン人(ドンガン語: Хуэйзў (回族)、ロシア語: Дунган (東干))は、主に中央アジアのカザフスタン、キルギス領内のフェルガナ盆地に居住する中国系ムスリム(イスラム教徒)の民族。トゥンガンとも。
19世紀(清代)の1862年に中国西部の現陝西省地区から興った回民の反乱が鎮圧された後、ロシア帝国領であった中央アジアに逃げ込んだ人々の子孫を主体とする民族である。ほかに新天地を求めて移住した現甘粛省周辺の回民の子孫もいる。回民は、清代までに漢族(漢民族)との混血が進んでいたため、形質的には漢族とほとんど異ならず、言語も中国語官話方言西北方言の変種を使用しているが、ドンガン人も同様である。中央アジアのキルギス人など、テュルク系民族との混血は進んでいない。
主にキルギスのビシケクとカザフスタンのアルマトイの間の農村地帯に集中して居住している。他にも地方都市の郊外に集団で住み、野菜作り、果樹園経営などの農業、魚の養殖などに従事する人が多い。
言語は、アラビア語やペルシア語、ロシア語の語彙を多く含み、声調記号のないキリル文字で表記する特異な中国語の一方言、ドンガン語を使用している。
「ドンガン」の民族名の由来については諸説あるが、中央アジアのテュルク諸語(現代ウイグル語等)で「(正しい信仰に)立ち戻った(者たち)」を意味する“donghan”の語に由来するという説が有力である。なお、自称は“Хуэйзў”(回族)である。
イスラームの教えに則った生活を基本としているが、服装や料理などに、漢民族との共通点も見られる。
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'''ドンガン人'''([[ドンガン語]]: {{lang|dng|Хуэйзў}} ({{lang|zh-hant|回族}})、{{Lang-ru|Дунган}} ({{lang|zh-hant|東干}}))は、主に[[中央アジア]]の[[カザフスタン]]、[[キルギス]]領内の[[フェルガナ盆地]]に居住する[[中国]]系[[ムスリム]](イスラム教徒)の[[民族]]。'''トゥンガン'''とも<ref>[http://www.uighur.jp/myworks/articles/07book_review/2004.htm 菅原純による「中国の聖戦」書評] - Kim Hodong(キム・ホドン)著「Holy War in China: The Muslim Rebellion and State in Chinese Central Asia, 1864-1877(中国の聖戦―中国領中央アジアにおけるムスリム反乱と国家)」Stanford University Press, 2004年,についての菅原純による書評。『東洋学報』第86巻第2号(2004年9月).
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== 概要 ==
[[19世紀]]([[清]]代)の[[1862年]]に中国西部の現[[陝西省]]地区から興った[[回民]]の反乱が鎮圧された後、[[ロシア帝国]]領であった中央アジアに逃げ込んだ人々の子孫を主体とする民族である。ほかに新天地を求めて移住した現[[甘粛省]]周辺の回民の子孫もいる。回民は、清代までに[[漢族]]([[漢民族]])との混血が進んでいたため、形質的には漢族とほとんど異ならず、言語も中国語官話方言西北方言の変種を使用しているが、ドンガン人も同様である。中央アジアの[[キルギス人]]など、[[テュルク系]]民族との混血は進んでいない。
主にキルギスの[[ビシケク]]とカザフスタンの[[アルマトイ]]の間の農村地帯に集中して居住している。他にも地方都市の郊外に集団で住み、野菜作り、果樹園経営などの農業、魚の養殖などに従事する人が多い。
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「ドンガン」の民族名の由来については諸説あるが、中央アジアの[[テュルク諸語]]([[現代ウイグル語]]等)で「(正しい信仰に)立ち戻った(者たち)」を意味する“donghan”の語に由来するという説が有力である。なお、自称は{{lang|dng|“Хуэйзў”}}([[回族]])である。
== 文化 ==
[[イスラーム]]の教えに則った生活を基本としているが、服装や料理などに、漢民族との共通点も見られる。
==脚注==
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==関連項目==
* [[回族]]
* [[回民蜂起]]
* [[馬仲英]]
* [[東トルキスタン共和国]]
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ドンガン語
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ドンガン語(ドゥンガン語、中: 東干語、ドンガン語: Хуэйзў йүян Huejzw jyian〈回族語言〉、 ロシア語: дунганский язык)は、中央アジアのキルギスなどでドンガン人と呼ばれる民族が使用する言語であり、中国語官話方言に含まれる西北方言の地域変種のひとつ。ただし漢字でなくキリル文字で表記し、声調記号をつけない。
ドンガン人は、19世紀、清国で民族蜂起に失敗し、ロシア帝国領に逃れ住んだ中国系ムスリムである回民(現在の回族)や、新天地を求めて移住した回民の子孫である。名称の由来にはいくつか説があるが、ドンガン人が話す言葉をドンガン語と呼ぶ。20世紀前半の自称のひとつにジュンヤン(中原)があり、 ジュンヤン語(җунян хуа、中原話)という言い方も用いられた。
回民(回族)は中国語の方言を母語としており、隔絶された環境下でドンガン語は清代の中国語の語彙を今も保っている。このためドンガン語を官話方言(特に西北方言)に属する中国語の方言とする学者も多い。
方言は、もともとの居住地域である甘粛方言と陝西方言に分けられる。
しかしイスラームに関わる用語を中心にアラビア語・ペルシア語のほか、キルギス語などのテュルク諸語に由来する語彙を含んでいるほか、移住先の言語であるロシア語の語彙も政治用語、科学用語を中心に数多く取り入れられている。大きな特徴として、表記は漢字ではなく、キリル文字で行っているため、中国語から派生した別の言語という見方もある。
現在の正書法はソビエト連邦領内の少数民族が使う言語は基本的にはキリル文字を応用して書き表すという1950年代のソビエト連邦の方針に沿ったものである。キリル文字化以前には、漢字や「小児経」と呼ばれる漢語の口語をアラビア文字で音写したものも表記が用いられていた。1928年にはラテン文字の使用が開始され、その後1932年に修正したラテン文字による正書法が採用された。その後1953年に現在のキリル文字による正書法が制定された。
ドンガン語は中国語と同じく声調の違いによって語の意味を区別する。声調は原調で4種をもつ方言もあるが、甘粛系の標準的なものは平声、上声、去声の3種である。しかし甘粛系の方言でも、声調変化のパターンでは4種が認められ、平声が2種に分かれる。キリル文字による正書法は声調を反映していないため、同じ綴りで異なった発音、異なった意味になる語が多い。単語を見ただけではどういう声調で発音すべきか不明な場合があるため、辞書によってはI、II、IIIとローマ数字を書き加えて区別しているが、多音節語では4種を区別して記さないと正しい声調は分からない。
ドンガン語の出版物としては、ソビエト時代に当時のキルギス・ソビエト社会主義共和国で“Шийуәдичи”『十月の旗』(Shiyuedi chi)という新聞が1957年から1992年まで週刊で発行された。1993年からは『十月の旗』など4紙が統合され『回民報』(Hueimin Bo)になった。
カザフスタンでは『回族報』(Hueizu Bo)が発行されていた。『回族報』は2002年3月ごろに復刊された半年刊の新聞でドンガン語のほか中国語、ロシア語が用いられていたもよう。
ドンガン語による書籍は多くないが、詩集や民話集などの文学作品がキルギスを中心に発行されている。
1932年から1953年の間は、ローマ字を拡張した下記の文字が使用された。
1953年にキリル文字を利用した下記に移行した。
現行表記、旧表記、漢語拼音、IPAの対応は下記の通り。 「漢語拼音」は相同する普通話の音韻を示したもの。ほかはドンガン語の表記および音声記号である。
漢語系音節に関する韻母の現行表記、旧表記、漢語拼音、IPAの対応は下記の通り。
現在のドンガン語表記単独で音節をも構成しうるものについては、対応する漢語拼音の表記、発音を括弧内に示した。 上記表の韻母以外に、児化音(母音+р [ɻ])とロシア語、キルギス語、アラビア語などからの借用語にのみ見られる音節がある。
ドンガン語では、ロシア語からの借用語や、アラビア語由来の人名などに、強勢(ストレス)の違いで意味を区別する語が存在する。
基本語彙は中国語の官話方言と共通しているものが多い。特に、出身地の甘粛省や陝西省の方言と近い語彙が基本となっており、北京語とは異なる語彙の場合もある。
中国では口語で使用しなくなった元代や清代の語彙が残っているものもある。
イスラームに関わる用語を中心にアラビア語・ペルシア語のほかテュルク諸語からの借用語を含んでいる。これは、中国の回族の中国語と共通している特徴である。移住先で優勢な言語であるロシア語の語彙も取り入れられている。
清代に移住してきた際の出身地によって、大きく甘粛系と陝西系の2大方言に分かれる。甘粛系方言が標準的なドンガン語とされ、主にキルギスのビシュケク郊外を中心とするチュイ峡谷地域やカザフスタンのジャンブール周辺で話されている。甘粛系方言を話すグループをビシュケクグループと呼ぶ学者もいる。このグループには寧夏出身の人たちも含まれる。陝西系方言は、主にキルギスのトクマク周辺とカザフスタン、ウズベキスタンに分布しており、トクマクグループと呼ばれる。
両方言の違いは、主に発音面と語彙面にある。甘粛系方言は、声調において、平声の陰陽の区別がなくなり、3種となっているのに対して、陝西系方言は4種を維持していることが多い。声母に関しては甘粛系方言で、「書」「説」「猪」など、北京音の [ʂ] [tʂ] [tʂh] に [u] がつくと [f] [pf] [pfh] に変化しているのに対して、陝西系方言は [ʂ] [tʂ] [tʂh] を保っている場合がある。甘粛系方言の歯茎破裂音 [t] [th] が陝西系方言では [i] の前で口蓋化して [tɕ] [tɕh] となるほか、甘粛系方言の [ɕ] が [tɕ] となる例がある。韻母については、北京音の [ou] が甘粛系方言で [u] となっているが、陝西系方言では北京音と同じである。
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'''ドンガン語'''('''ドゥンガン語'''、{{lang-zh-short|東干語}}、ドンガン語: {{Lang|dng|Хуэйзў йүян}} ''{{Lang|dng|Huejzw jyian}}''〈回族語言〉、 {{lang-ru|дунганский язык}})は、[[中央アジア]]の[[キルギス]]などで[[ドンガン人]]と呼ばれる民族が使用する[[言語]]であり、[[中国語]][[官話]]方言に含まれる西北方言の地域変種のひとつ。ただし漢字でなく[[キリル文字]]で表記し、[[声調]]記号をつけない。
== 概要 ==
ドンガン人は、19世紀、[[清]]国で民族蜂起に失敗し、[[ロシア帝国]]領に逃れ住んだ[[中国]]系[[ムスリム]]である回民(現在の[[回族]])や、新天地を求めて移住した回民の子孫である。名称の由来にはいくつか説があるが、ドンガン人が話す言葉をドンガン語と呼ぶ。20世紀前半の自称のひとつにジュンヤン(中原)があり、 '''ジュンヤン語'''({{Lang|dng|җунян хуа}}、中原話)という言い方も用いられた。
回民(回族)は[[中国語]]の方言を[[母語]]としており、隔絶された環境下でドンガン語は[[清]]代の中国語の語彙を今も保っている。このためドンガン語を[[官話]]方言(特に西北方言)に属する中国語の方言とする学者も多い。
方言は、元来の居住地域である[[甘粛省|甘粛]]方言と[[陝西省|陝西]]方言に分けられている。
しかし、[[イスラーム]]に関わる用語を中心に、[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]を始め、移住先の言語である[[キルギス語]]などの[[テュルク諸語]]や[[ロシア語]]の語彙も、政治や科学用語を中心に数多く取り入れられている。大きな特徴として、表記は[[漢字]]ではなく[[キリル文字]]で行っているため、中国語から派生した別の言語という見方もある。<!--この点では、[[アラビア語]]の方言ともそれから派生した別言語とも考えられ、表記も[[アラビア文字]]でなく[[ラテン文字]]による[[マルタ語]]や、[[ドイツ語]]の方言とも派生言語ともとれ、[[ラテン文字]]でなく[[ヘブライ文字]]を用いる[[イディッシュ語]]などと同様の状況といえる。-->
現在の[[正書法]]は[[ソビエト連邦]]領内の少数民族が使う言語は基本的にはキリル文字を応用して書き表すという[[1950年代]]のソビエト連邦の方針に沿ったものである。キリル文字化以前には、漢字や「[[小児経]]」と呼ばれる漢語の口語を[[アラビア文字]]で音写したものも表記が用いられていた。[[1928年]]には[[ラテン文字]]の使用が開始され、その後[[1932年]]に修正したラテン文字による正書法が採用された。現在の[[キリル文字]]による正書法は[[1953年]]に制定されている。
ドンガン語は中国語と同じく[[声調]]の違いによって語の意味を区別する。声調は原調で4種をもつ方言もあるが、甘粛系の標準的なものは[[平声]]、[[上声]]、[[去声]]の3種である。しかし甘粛系の方言でも、[[連続変調|声調変化]]のパターンでは4種が認められ、平声が2種に分かれる<ref>{{lang|zh|海峰《中亚东干语言研究》新疆大学出版社、2003年、}}36ページ</ref>。キリル文字による[[正書法]]は声調を反映していないため、同じ綴りで異なった発音、異なった意味になる語が多い。単語を見ただけではどういう声調で発音すべきか不明な場合があるため、辞書によってはI、II、IIIと[[ローマ数字]]を書き加えて区別しているが、多音節語では4種を区別して記さないと正しい声調は分からない。
<!--[[ファイル:Dungan-books-2450.jpg|thumb|right|ドンガン語関連の書籍]]-->
ドンガン語の出版物としては、ソビエト時代に当時の[[キルギス・ソビエト社会主義共和国]]で“{{Lang|dng|Шийуәдичи}}”『十月の旗』({{Lang|dng|Shiyuedi chi}})という[[新聞]]が1957年から1992年まで週刊で発行された。1993年からは『十月の旗』など4紙が統合され『回民報』({{Lang|dng|Hueimin Bo}})になった。
カザフスタンでは『回族報』({{Lang|dng|Hueizu Bo}})が発行されていた。『回族報』は[[2002年]]3月ごろに復刊された半年刊の新聞で、ドンガン語のほか中国語、ロシア語が用いられていた模様である。
ドンガン語による書籍は多くないが、詩集や民話集などの文学作品がキルギスを中心に発行されている。
== 文字 ==
[[1932年]]から[[1953年]]の間は、[[ローマ字]]を拡張した下記の文字が使用された。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1.2em; border-color:#000000; border-width:1px; border-style:solid; border-collapse:collapse; background-color:#F8F8EF"
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|A a}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|В в}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|C c}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ç]] ç}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|D d}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|E e}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ə]] ə}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|F f}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|G g}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ƣ]] ƣ}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|I i}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|J j}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|K k}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|L l}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|M m}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|N n}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ņ]] ņ}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|O o}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|P p}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|R r}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|S s}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ş]] ş}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|T t}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|U u}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|V v}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|W w}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|X x}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|Y y}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|Z z}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ƶ]] ƶ}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Z̧]] z̧}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[ƅ]]}}
|}
[[1953年]]に[[キリル文字]]を利用した下記に移行した。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1.2em; border-color:#000000; border-width:1px; border-style:solid; border-collapse:collapse; background-color:#F8F8EF"
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[А]] а}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Б]] б}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[В]] в}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Г]] г}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Д]] д}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Е]] е}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ё]] ё}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ә]] ә}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ж]] ж}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Җ]] җ}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[З]] з}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[И]] и}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Й]] й}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[К]] к}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Л]] л}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[М]] м}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Н]] н}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ң]] ң}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[О]] о}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[П]] п}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Р]] р}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[С]] с}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Т]] т}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[У]] у}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ў]] ў}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ү]] ү}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ф]] ф}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Х]] х}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ц]] ц}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ч]] ч}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ш]] ш}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Щ]] щ}}
|-
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ъ]] ъ}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ы]] ы}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ь]] ь}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Э]] э}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Ю]] ю}}
| style="width:3em; text-align:center; padding: 3px;" | {{Lang|dng|[[Я]] я}}
|
|
|}
== 発音 ==
=== 声母 ===
現行表記、旧表記、[[ピン音|漢語拼音]]、[[国際音声記号|IPA]]の対応は下記の通り。
「漢語拼音」は相同する[[普通話]]の音韻を示したもの。ほかはドンガン語の表記および音声記号である。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1em" class="wikitable"
|+ '''ドンガン語の声母表'''
|-
!colspan=4 align="center" |[[無気音]]
|
!colspan=4 align="center" |[[有気音]]
|
!colspan=4 align="center" |[[鼻音]]
|
!colspan=4 align="center" |[[摩擦音]]
|
!colspan=4 align="center" |[[有声音]]等
|-
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|-
!{{Lang|dng|б}}
|{{Lang|dng|в}}
|b
|{{IPA|p}}
|
!{{Lang|dng|п}}
|{{Lang|dng|p}}
|p
|{{IPA|pʰ}}
|
!{{Lang|dng|м}}
|{{Lang|dng|m}}
|m
|{{IPA|m}}
|
!{{Lang|dng|ф}}
|{{Lang|dng|f}}
|f
|[[無声唇歯摩擦音|{{IPA|f}}]]
|
!{{Lang|dng|в}}
|{{Lang|dng|v}}
|w
|{{IPA|w}}
|-
!{{Lang|dng|д}}
|{{Lang|dng|d}}
|d
|[[無声歯茎破裂音|{{IPA|t}}]]
|
!{{Lang|dng|т}}
|{{Lang|dng|t}}
|t
|{{IPA|tʰ}}
|
!{{Lang|dng|н}}
|{{Lang|dng|n}}
|n
|{{IPA|n}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|л}}
|{{Lang|dng|l}}
|l
|{{IPA|l}}
|-
!{{Lang|dng|з}}
|{{Lang|dng|z}}
|z
|{{IPA|ts}}
|
!{{Lang|dng|ц}}
|{{Lang|dng|c}}
|c
|{{IPA|tsʰ}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|с}}
|{{Lang|dng|s}}
|s
|{{IPA|s}}
|
!{{Lang|dng|р}}
|{{Lang|dng|r}}
|-
|[[歯茎ふるえ音|{{IPA|r}}]]
|-
!rowspan=2 align="center" |{{Lang|dng|җ}}
|rowspan=2 align="center" |{{Lang|dng|z̧}}
|zh
|{{IPA|tʂ}}
|
!rowspan=2 align="center" |{{Lang|dng|ч}}
|rowspan=2 align="center" |{{Lang|dng|ç}}
|ch
|{{IPA|tʂʰ}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|ш}}
|rowspan=2 align="center" |{{Lang|dng|ş}}
|sh
|[[無声そり舌摩擦音|{{IPA|ʂ}}]]
|
!{{Lang|dng|ж}}
|{{Lang|dng|ƶ}}
|r
|[[有声そり舌摩擦音|{{IPA|ʐ}}]]
|-
|j
|{{IPA|tɕ}}
|
|q
|{{IPA|tɕʰ}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|щ}}
|x
|[[無声硬口蓋摩擦音|{{IPA|ɕ}}]]
|
!{{Lang|dng|й}}
|{{Lang|dng|j}}
|y
|{{IPA|j}}
|-
!{{Lang|dng|г}}
|{{Lang|dng|g}}
|g
|{{IPA|k}}
|
!{{Lang|dng|к}}
|{{Lang|dng|k}}
|k
|{{IPA|kʰ}}
|
!{{Lang|dng|ң}}
|{{Lang|dng|ņ}}
|-
|[[軟口蓋鼻音|{{IPA|ŋ}}]]
|
!{{Lang|dng|х}}
|{{Lang|dng|x}}
|h
|[[無声軟口蓋摩擦音|{{IPA|x}}]]
|
!
|
|
|
|-
|}
=== 韻母 ===
漢語系音節に関する[[韻母]]の現行表記、旧表記、[[ピン音|漢語拼音]]、[[国際音声記号|IPA]]の対応は下記の通り。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1em" class="wikitable"
|+ '''ドンガン語の韻母表'''
|-
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|
!現行
!旧
!漢語拼音
!IPA
|-
!{{Lang|dng|ы}}
|{{Lang|dng|ƅ}}
|i
|{{IPA|ɨː}}
|
!{{Lang|dng|и}}
|{{Lang|dng|i}}
|i
|{{IPA|iː}}
|
!{{Lang|dng|ў}}
|{{Lang|dng|w}}
|u
|{{IPA|uː}}
|
!{{Lang|dng|ү}}
|{{Lang|dng|y}}
|ü, u
|{{IPA|yː}}
|-
!{{Lang|dng|а}}
|{{Lang|dng|a}}
|a
|{{IPA|aː}}
|
!{{Lang|dng|я}}
|{{Lang|dng|ja}}
|ia (ya)
|{{IPA|ia}}({{IPA|jaː}})
|
!{{Lang|dng|уа}}
|{{Lang|dng|ua}}
|ua
|{{IPA|ua}}
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|ә}}
|{{Lang|dng|ə}}
|e
|{{IPA|әː}}
|
!{{Lang|dng|е}}
|{{Lang|dng|je}}
|ie (ye)
|{{IPA|iә}}({{IPA|jәː}})
|
!{{Lang|dng|уә}}
|{{Lang|dng|uә}}
|uo
|{{IPA|uә}}
|
!{{Lang|dng|үә}}
|{{Lang|dng|yә}}
|üe, ue
|{{IPA|yә}}
|-
!{{Lang|dng|э}}
|{{Lang|dng|e}}
|ê, ai
|{{IPA|ɛː}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|уэ}}
|{{Lang|dng|ue}}
|ue, uai
|{{IPA|uɛ}}
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|о}}
|{{Lang|dng|o}}
|o, ao
|{{IPA|ɔː}}
|
!{{Lang|dng|ё}}
|{{Lang|dng|jo}}
|iao (yao)
|{{IPA|iɔː}}({{IPA|jiɔː}})
|
!{{Lang|dng|уэй}}
|{{Lang|dng|wj}}
|ui
|{{IPA|uɛi}}
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|ый}}
|{{Lang|dng|ƅj}}
|ei
|{{IPA|ei}}
|
!
|
|
|
|
!{{Lang|dng|уй}}
|{{Lang|dng|vi}}
|wei
|{{IPA|uei}}
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|у}}
|{{Lang|dng|u}}
|ou
|{{IPA|ou}}
|
!{{Lang|dng|ю}}
|{{Lang|dng|ju, jy}}
|iu (you)
|{{IPA|iou}}({{IPA|jou}})
|
!
|
|
|
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|ан}}
|{{Lang|dng|an}}
|an
|{{IPA|æ̃}}
|
!{{Lang|dng|ян}}
|{{Lang|dng|jan}}
|ian (yan)
|{{IPA|iæ̃}}({{IPA|jæ̃}})
|
!{{Lang|dng|уан}}
|{{Lang|dng|uan}}
|uan
|{{IPA|uæ̃}}
|
!{{Lang|dng|үан}}
|{{Lang|dng|yan}}
|uan
|{{IPA|yæ̃}}
|-
!{{Lang|dng|он}}
|{{Lang|dng|on}}
|ang
|{{IPA|aŋ}}
|
!{{Lang|dng|ён}}
|{{Lang|dng|jon}}
|iang (yang)
|{{IPA|iaŋ}}({{IPA|jaŋ}})
|
!{{Lang|dng|уон}}
|{{Lang|dng|uon}}
|uang
|{{IPA|uaŋ}}
|
!
|
|
|
|-
!{{Lang|dng|ын}}
|{{Lang|dng|ƅn}}
|eng, en
|{{IPA|әŋ}}
|
!{{Lang|dng|ин}}
|{{Lang|dng|in}}
|ing, in
|{{IPA|iŋ}}
|
!{{Lang|dng|ун}}
|{{Lang|dng|wn}}
|ong
|{{IPA|ʊŋ}}
|
!{{Lang|dng|үн}}
|{{Lang|dng|yn}}
|iong, un
|{{IPA|yŋ}}
|-
!{{Lang|dng|эр}}
|{{Lang|dng|әƣ}}
|er
|{{IPA|әɻ}}
|
!
|
|
|
|
!
|
|
|
|
!
|
|
|
|}
現在のドンガン語表記単独で音節をも構成しうるものについては、対応する[[ピン音|漢語拼音]]の表記、発音を括弧内に示した。
上記表の[[韻母]]以外に、[[児化]]音(母音+р [[そり舌接近音|{{IPA|ɻ}}]])とロシア語、キルギス語、アラビア語などからの[[借用語]]にのみ見られる音節がある。
=== 声調 ===
{| class="wikitable"
|+ '''ドンガン語と中国語([[北京語|北京音]])の[[声調]]表'''
|-
!rowspan=2 align="center" |声調番号
!rowspan=2 align="center" | 声調名
!rowspan=2 align="center" |例
!rowspan=2 align="center" |[[漢字]]
!colspan=2 align="center" |甘粛系
!colspan=2 align="center" |陝西系
!colspan=2 align="center" |[[中国語]]
!rowspan=2 align="center" |備考
|-
!align="center" |声調パターン
!align="center" |調値
!align="center" |声調パターン
!align="center" |調値
!align="center" |声調パターン
!align="center" |調値
|-
|align="center" |第1声
|align="center" |陰平声
|align="center" |{{Lang|dng|хуа}}
|align="center" |花
|rowspan=2 align="center" |中昇調
|rowspan=2 align="center" |24
|align="center" |低降調
|align="center" |21
|align="center" |高平調
|align="center" |55
|rowspan=2 |甘粛系ドンガン語の原調には陰陽の区別がなく、これを I と注記する辞書あり。
|-
|align="center" |第2声
|align="center" |陽平声
|align="center" |{{Lang|dng|хуа}}
|align="center" |華
|align="center" |中昇調
|align="center" |24
|align="center" |中昇調
|align="center" |35
|-
|align="center" |第3声
|align="center" |上声
|align="center" |{{Lang|dng|во}}
|align="center" |我
|align="center" |高降調
|align="center" |51
|align="center" |高降調
|align="center" |53
|align="center" |低降昇調
|align="center" |214
||II と注記する辞書あり。
|-
|align="center" |第4声
|align="center" |去声
|align="center" |{{Lang|dng|чў}}
|align="center" |去
|align="center" |高平調
|align="center" |44
|align="center" |高平調
|align="center" |44
|align="center" |高降調
|align="center" |52
||III と注記する辞書あり。<BR>一部は中国語では陰平声。
|-
|align="center" |なし
|align="center" |軽声
|align="center" |{{Lang|dng|зы}}
|align="center" |子
|align="center" |短音
|align="center" |不定
|align="center" |短音
|align="center" |不定
|align="center" |短音
|align="center" |不定
||前の声調により高さは異なる。
|}
=== 強勢 ===
ドンガン語では、ロシア語からの借用語や、アラビア語由来の人名などに、[[強勢]](ストレス)の違いで意味を区別する語が存在する。
:例: {{Lang|dng|'''йи'''сар}} ≠ {{Lang|dng|йи'''са'''р}} (男の名前)
== 語彙 ==
基本語彙は[[中国語]]の[[官話]]方言と共通しているものが多い。特に、出身地の甘粛省や陝西省の方言と近い語彙が基本となっており、[[北京語]]とは異なる語彙の場合もある。
中国では口語で使用しなくなった[[元 (王朝)|元]]代や[[清]]代の語彙が残っているものもある。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1em" class="wikitable"
|-
!ドンガン語(対応漢字)
!標準中国語
!意味
|-
|{{Lang|dng|ямын}}(衙門)
|政府
|役所
|-
|{{Lang|dng|хуанди}}(皇帝)
|總統
|[[大統領]]
|-
|{{Lang|dng|кувэ}}(口外)
|塞外
|[[万里の長城]]の北側
|}
[[イスラーム]]に関わる用語を中心に[[アラビア語]]・[[ペルシア語]]のほか[[テュルク諸語]]からの[[借用語]]を含んでいる。これは、中国の[[回族]]の中国語と共通している特徴である。移住先で優勢な言語である[[ロシア語]]の語彙も取り入れられている。
== 方言 ==
清代に移住してきた際の出身地によって、大きく甘粛系と陝西系の2大方言に分かれる。甘粛系方言が標準的なドンガン語とされ、主にキルギスの[[ビシュケク]]郊外を中心とするチュイ峡谷地域や[[カザフスタン]]の[[ジャンブール]]周辺で話されている。甘粛系方言を話すグループをビシュケクグループと呼ぶ学者もいる。このグループには[[寧夏回族自治区|寧夏]]出身の人たちも含まれる。陝西系方言は、主にキルギスの[[トクマク]]周辺とカザフスタン、[[ウズベキスタン]]に分布しており、トクマクグループと呼ばれる。
両方言の違いは、主に発音面と語彙面にある。甘粛系方言は、声調において、平声の陰陽の区別がなくなり、3種となっているのに対して、陝西系方言は4種を維持していることが多い。声母に関しては甘粛系方言で、「書」「説」「猪」など、北京音の {{IPA|ʂ}} {{IPA|tʂ}} {{IPA|tʂʰ}} に {{IPA|u}} がつくと {{IPA|f}} {{IPA|pf}} {{IPA|pfʰ}} に変化しているのに対して、陝西系方言は {{IPA|ʂ}} {{IPA|tʂ}} {{IPA|tʂʰ}} を保っている場合がある。甘粛系方言の[[歯茎音|歯茎]][[破裂音]] {{IPA|t}} {{IPA|tʰ}} が陝西系方言では {{IPA|i}} の前で[[口蓋化]]して {{IPA|tɕ}} {{IPA|tɕʰ}} となるほか、甘粛系方言の {{IPA|ɕ}} が {{IPA|tɕ}} となる例がある。韻母については、北京音の {{IPA|ou}} が甘粛系方言で {{IPA|u}} となっているが、陝西系方言では北京音と同じである。
このほか異なる形態素を用いて表す語彙もある。以下に、発音または形態素が異なる語彙の例を示す。
{| style="font-family:'Lucida Grande', ’Lucida Sans Unicode’; font-size:1em" class="wikitable"
|-
!甘粛系方言
!陝西系方言
![[普通話|標準中国語]]
!意味
|-
|{{Lang|dng|вә}} (我)
|{{Lang|dng|ңә}} (我)
|{{Lang|zh|wǒ}} (我)
|私、僕
|-
|{{Lang|dng|нагә}} (那個)
|{{Lang|dng|вугә}} (兀個)
|{{Lang|zh|nàge, nèige}} (那個)
|それ
|-
|{{Lang|dng|дунбонгә}} (東傍個)
|{{Lang|dng|дунңар}} (東岸兒)
|{{Lang|zh|dōngbianr}} (東邊兒)
|[[東]]
|-
|{{Lang|dng|жәту}} (日頭)
|{{Lang|dng|эрту}} (日頭)
|{{Lang|zh|tàiyang}} (太陽)
|[[太陽|お日様]]
|-
|{{Lang|dng|щичё}} (喜鵲)
|{{Lang|dng|җичё}} (喜鵲)
|{{Lang|zh|xǐquè}} (喜鵲)
|[[カササギ]]
|-
|{{Lang|dng|гә}} (角)
|{{Lang|dng|җүә}} (角)
|{{Lang|zh|jiǎo}} (角)
|[[角|つの]]
|-
|{{Lang|dng|бынлу}} (奔棱)
|{{Lang|dng|ңыйлу}} (額樓)
|{{Lang|zh|qián'é}} (前額)
|[[額|ひたい]]
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大韓航空機爆破事件
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大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。
日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。
※韓国及び北朝鮮の国内外情勢で、本事件に関連するものを含む。
事件の被害に遭ったのは大韓航空に所属する大韓航空858便(使用機体:ボーイング707-320B、登録記号:HL7406)であった。なお、当時の時刻表によればこの便は本来、マクドネル・ダグラスDC-10-30型機で運航されていたが、当日は機材変更によりボーイング707-320B型機で運航されていたという。
フライトプランとしては現地時間午後11時30分(UTC午後8時30分)にイラク・バグダードのサダム国際空港を出発し、アラブ首長国連邦・アブダビのアブダビ国際空港、タイ・バンコクのバンコク国際空港を経由し、韓国・ソウルの金浦国際空港に向かう予定であった。つまり、イラク発UAE、タイ経由韓国行きである。なお、この便はバンコクへの寄港をテクニカルランディング扱いにしていたため、アブダビ〜バンコク間、バンコク〜ソウル間のみの利用は不可能であった。
乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが中近東への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。そして、その内9名は「デッドヘッド」と呼ばれる業務に就いていない操縦乗務員(機長、副操縦士、航空機関士各3人ずつ)で、中東へのフライトから帰国する途中であった。
大韓航空858便は、アブダビを協定世界時日曜日の午前0時01分に離陸、インド上空を横断し、ボンベイからアンダマン海へ抜けて上空の航空路R468を飛行し、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(UTC4時31分)にビルマの航空管制空域に差し掛かった。
インドとビルマの国境である"TOLIS"ポイントからラングーンの航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解し墜落した。
機長は、遭難信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死した と見られる。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。
定時報告交信が途絶え、レーダーサイトのモニターに機影は無く、タイの領空に入ると予想された時刻に、航空管制当局とのコンタクトが無い事態から、858便の異常発生が発覚し、韓国標準時午後2時05分(タイ標準時午後12時05分/UTC午前5時05分)大韓航空の社内無線交信(カンパニーラジオ)に応答が無いことで、858便の遭難が確定した。
大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たる事となった。タイ軍は捜索隊を組織し、858便が消息を絶つ迄の気象状況や経過から「泰緬国境付近のジャングルに墜落」と推定しその一帯に派遣されたが、実際にはアンダマン海上に墜落していた。
衛星測位システムや当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず(2014年のマレーシア航空370便墜落事故で再び問題となった)、さらに墜落地点と推定されたビルマ側は、ビルマ政府と対立しているカレン族が支配する紛争地帯であるため政府による捜索は不可能、またカレン族が国境を越えて武装闘争を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。
12月10日になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は外交関係から1990年まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。
改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、ブラックボックスは発見できず、事件から3年後の1990年3月10日に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていたソウルオリンピックのエンブレムが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまで長時間を要した。
また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成、火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。
当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2か月前の9月2日にはソウルの金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には爆破テロであったことが後に判明することになる。
一方で、ソウルの韓国放送公社(KBS)によれば、事件発生後に大韓航空幹部が「ハイジャックされた可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで、風船が破裂する様に機体が空中分解した例が多数ある(例:コメット連続墜落事故)。
事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に東アジア系の男女が1人ずついた。この2名は、日本のパスポートを持っており、11月30日午後にバーレーンのバーレーン国際空港にガルフ航空機で移動し、同国の首都マナーマのホテルに宿泊していた。旅券名義は「蜂谷真一(はちや しんいち)」と「蜂谷真由美(はちや まゆみ)」であった。2人は「父親」と「娘」の関係だとされた。韓国側も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触していた。
一方、事件直前の1987年11月21日、偽造パスポートを所持していた罪により東京で逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年にせまったソウルオリンピックを妨害するためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため韓国国家安全企画部は、早い時点で2人をマークしていた。日本政府は「左翼日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。だが、在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていたため違和感を覚え、女の旅券番号を日本の外務省に照会したところ、徳島市在住の男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した。
「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」の2名は、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていたため、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、口の中に忍ばせていた青酸カリ入りのカプセルを噛み砕いて服毒自殺した。現場に居た日本人外交官、砂川昌順によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを警察官から奪い取り自殺を図ったが、すぐに警察官が飛びかかり直ちに吐き出させたため、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まり、意識不明ではあるが一命はとりとめたとされている。しかしながら、現地警察の調査や救急救命士の証言では、実際には女のカプセルは噛み砕かれておらず傷はほとんどない状態で、女は搬送される救急車内で逃げ出そうと激しく抵抗するなど意識ははっきりとしていたが、病院に到着すると一転して意識不明であるかのように装っていたとされている。
「蜂谷真由美」名義の女は一命を取りとめた。一方、自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であった。彼は「宮本明(みやもと あきら)」を名乗る男の全額費用持ちでフィリピンのマニラとタイのバンコクに1983年(昭和58年)秋に旅行したが、その翌年、「宮本」にパスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。「宮本」を名乗った男性は、西新井事件(日本人2名の戸籍を乗っ取り、拉致事件などにも利用した北朝鮮工作員・チェ・スンチョルを日本警察が摘発した事件)にも関係していた在日朝鮮人の補助工作員、李京雨であった。パスポートが偽造されたものであることが明確になるにつれ、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに賞味期限も過ぎていたため、李京雨が逮捕前に作った「小道具」の可能性が高いと判断された。
当初、偽造パスポートが日本人名義であり、日本政府もバーレーン側に捜査協力を求めていたが、パスポート偽造は日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」には該当するが、韓国側が被った航空機爆破という大量殺人テロの重大性と比較して、身柄引き渡しを受けるほどの強い法的根拠がないと判断され、身柄引き渡し請求権を放棄した。韓国への引き渡しを認めるこの判断は、当時の内閣安全保障室長である佐々淳行によれば、在バーレーン日本大使館員の判断ではなく、佐々の意見具申に基づいた「総理大臣官邸判断」であった。なおモントリオール条約では、航空機上で発生した事件の裁判権は、旗国主義により、航空機が登録されていた国家(この事件の場合は韓国)にある。
バーレーン警察による取り調べが行われた後、国籍も姓名も割り出せないまま「蜂谷真由美」名義の女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。その時彼女は、自殺防止用のマウスピースをくわえさせられ、口元を大きな粘着テープで覆われ、両脇をかかえられて移動した。当初、彼女は日本人になりすましていたが、ソウルに移送されることだけは避けたいと考えて中国人になりすまそうとし、中国の黒竜江省出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。ソウルの国家安全企画部で行なわれた尋問でも、最初は中国出身であるように装っていた。しかし、取調官からの連日の事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、北朝鮮ブランドの「チンダルレ」と答えて捜査員にも笑われる事態となり、また捜査員に夜のソウル市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる繁栄ぶりに驚愕し、ついに自分が朝鮮労働党中央委員会調査部所属の特殊工作員、金賢姫であると自白し、航空機爆破の犯行を自供した。服毒自殺した「蜂谷真一」名義の男は、同じく北朝鮮の工作員、金勝一であることが判明した。なお、金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7Aと7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバッグの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。
2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時の全斗煥政権が大統領選挙を前に、金賢姫を韓国に移送しようとしていたことが明らかになった。
実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為におよんだもので、父娘であると偽り、テロ実行のために旅行していた。
韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都モスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時社会主義国だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビアのベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる。
11月28日にベオグラードからバグダードへイラク航空226便で移動し、その日のうちにバグダードで大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った液体爆弾(「PLX」と推測される)と、豆腐大の「コンポジション4」というプラスチック爆弾と時限爆破装置を仕込んだ日本製トランジスターラジオ(パナソニック製AM/FMラジオRF-082型を改造したもので、実際にラジオとして動作する)であった(トランジスターラジオの時限爆破装置は電池がなければ作動できない構造)。
ベオグラードでイラク航空に搭乗した際には、当時イラン・イラク戦争の最中でありイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議し、電池は返却されたという。しかし、「当時戦時中であり、厳戒態勢が敷かれていたイラクの空港職員が、乗客の抗議によって規則を曲げるなどありえないことである」との意見を元に、この証言は金賢姫の捏造との指摘がある。なお、イラクはイランへの支援を理由に1980年から北朝鮮と国交断絶状態にあった。
2人がアブダビで降機した後に、機内のハットラックに(手荷物に隠された)爆発物が残されていたのを客室乗務員が発見出来なかった事を疑問視する声もあり、「忘れ物の確認作業を怠った可能性がある」ともいわれる が、この便の様に複数の経由地を経由し、各経由地で乗客が乗降しつつ最終目的地に向かう便の場合は、経由地で機内に手荷物を残したままトランジットエリアに行く乗客は珍しくない。経由地でハットラックなどに手荷物が残っていてもそれが忘れ物であるとは認識しない可能性が高い。また忘れ物として手荷物を発見していても、それが爆発物である事には気付かない可能性もあるが、いずれにしても、この事件で客室乗務員も全員殉職しているため真相は不明である。
金賢姫の回顧録によれば、大韓航空機でアブダビに到着した乗客は一旦全員機外に出されている。この時2人はローマまでの航空券を所持しており、脱出用にアブダビから直接ローマに向う航空券と撹乱用にバーレーンに向ったと見せかけるための実際に使用した航空券も持っていた。2人は二つの航空券を使用することで「足がつかないように」するつもりであった。しかしアブダビのトランジットエリアで航空券のチェックが行われた。このチェックは事前に北朝鮮当局が知らなかったことであった。そのため撹乱用の航空券を使わざるを得なくなり、2人はやむなくバーレーンに向い、次のローマ行きの便まで滞在する破目になったという。そのためバーレーンで足止めされていなければ北朝鮮に逃亡していた可能性が高い。
金賢姫は「外交官の父を持ち、北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」とされており、ザイール駐在大使館員高英煥(後に亡命)は、駐アンゴラ水産代表部にいた金賢姫の父親は事件直後に本国に急遽呼び戻されたと語っている。平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員として召喚され、金星政治軍事大学に入学させられて日本人になりすまして謀略活動をおこなうための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオに同僚の金淑姫とともに何度も滞在していた。「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に、日本語教育や日本文化の教育を受け、「蜂谷真由美」という日本人名を使用し、日本語を巧みに使って日本人になりすましていた。
北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成主席の後継者に指名されていた金正日がとったものと考えられている。このテロの目的は、
であったといわれる。すなわち、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年に行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであり、具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった。
ただし、西岡力によれば、この事件は単にソウルオリンピックを潰すためにその場で思いついたテロではなく、10年がかりの陰謀であるという。たとえば、もし、金賢姫が自殺に成功していた場合、東洋人の死体2つと偽造パスポートがそこに残るだけとなり、当時は中東で重信房子の日本赤軍が活動していたのだから、彼らが115人の乗った飛行機を爆破した可能性が高いとされたであろうし、逆に金勝一と金賢姫が逃亡に成功したら、搭乗者リストには蜂谷真一・蜂谷真由美という身元不明の日本人の名だけが残ることになる。いずれにしても、多数の韓国人乗客を爆殺させたのは日本人ということになる。
北朝鮮による偽装日本人テロは、これが初めてではなく、1974年には在日本朝鮮人総連合会が在日韓国人文世光を洗脳し、朴正煕大統領の暗殺を指示した文世光事件(陸英修狙撃事件)があった。このとき、日本のメディアは朝鮮総連による情報操作などもあって韓国側の自作自演という説をまことしやかに報道した。それに対し、韓国側は「日本もかかわっていながら謝罪どころか自作自演などという妄言を続けている」「韓国へのテロを平然と見逃し、しかも弁護すらしている」と言う認識に基づく反日感情から大デモ行進が起こり、大使館の窓が全部割られ、日本国旗が引きずりおろされて大使館員が殴打されるという事態に発展した。在日韓国人のテロというだけでこれほどの反日運動が生起しており、もし、左翼日本人によるテロと言うことになった場合、日韓関係が修復できないほどに悪化しただろうと考えられている。
しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮のパスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていたソ連と中国は正式に参加を表明し、他の東欧諸国も追随して参加を表明した。金賢姫が偶然自殺に失敗し、韓国当局にすべて自身の犯罪を自供することによって、日本も予定どおり参加することができた。北朝鮮の目論見は、完全に裏目に出たのであった。
その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し、有事の際の支援を要請したが、中ソ両国からは逆に反感を買っている。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという。
ソ連のタス通信は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道しはしたが、北朝鮮の主張を擁護するものではなかった。以上のことから、事件に対して直接的な批判こそされなかったものの、事実上、北朝鮮は同盟国である他の社会主義国陣営からも見捨てられたといえる。なお、ソ連は事件及びソウルオリンピック後の1990年に、中国は1992年に、北朝鮮の激しい抗議を無視し、それぞれ韓国との国交を樹立した。
事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には殆どの東側諸国や非同盟中立諸国も参加するかたちでソウルオリンピックが開催された。また、テロ事件は、他国への主権侵害である日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件などのテロ事件と並んで、北朝鮮による国家犯罪の典型として周知され、北朝鮮は世界中から非難を招いて国際的に孤立した。
北朝鮮当局は現在に至るまで事件への関与を否定しているため、事件の謝罪を行っていない。ただし日本では、服毒死した金勝一の偽造日本国旅券作成の過程で、日本在住の北朝鮮工作員が背乗りに関与したほか、日本人拉致被害者の田口八重子に関する金賢姫の話を「信憑性があるもの」と受け取られている。
金日成の母方の従兄弟で、北朝鮮の姜成山前首相の娘婿である康明道(亡命者)の著書『北朝鮮の最高機密』によれば、事件後の1988年当時、平壌では金賢姫の話題で持ちきりであった。「労働新聞」は連日、韓国の国家安全企画部が金賢姫をでっちあげ、事件を捏造していると報道した。しかし、康明道は平壌外国語大学日本語科出身の張チョルホの話として、「金賢姫が平壌外国語大学日本語科に在籍していたが、調査部が連れて行った」と記しており、金賢姫の証言とも一致している。また、北朝鮮の元工作員・安明進によれば、北朝鮮当局は金賢姫が「北朝鮮の工作員ではない」と最後まで否定したが、工作員養成学校である金正日政治軍事大学では、金賢姫が対外情報調査部に所属する工作員であることを教官も生徒も誰もが知っていたとのことである。
その後、北朝鮮での南北赤十字会談(1972年)のとき、張基栄に金賢姫が花束をささげたのは捏造で、本当は私がささげた、と主張する女性(鄭姫善)が平壌に現れ、朝鮮総連を経由して録画ビデオがマスコミに配られる事件が起きた(もっともその映像で骨格などの照合により、名乗り出た女性こそ捏造であったことが即座に解明された)。この事件は、自殺に失敗はしたが青酸ガスのため3日間意識不明になるなど命をかけて任務を遂行した金賢姫に、北朝鮮が利用するだけ利用して容赦なく捨てたことを認識させ、完全に転向するきっかけとなった。彼女は、このとき初めて祖国に裏切られたと感じたという。
安明進によれば、金正日は金賢姫が大韓航空機爆破には成功したものの自殺に失敗し、韓国に連行され北朝鮮の工作員であることや破壊工作の詳細を自白したことを知ると激怒した。まず、対外調査部長は解任され、前モスクワ駐在大使であった権煕京が後任になった。また、金正日が「いつでも女性が問題を起すのだ。女性工作員の数を大幅に削減しろ!」と命令し、女性工作員の訓練地区であった10号棟双鷹地区を完全に閉鎖した。一時期は北朝鮮のスパイ組織である3号庁舎で女性工作員をまったく採用しなくなった。
さらに、大韓航空機爆破事件から3年後の1991年6月、金賢姫の手記『金賢姫全告白 いま、女として』が発行されるや、日本語版が北朝鮮に輸入された後朝鮮語に再翻訳され、教官や安明進を含む大学関係者が読んだとされる。金正日も同書を読み、金賢姫の転向は大学の教育が間違っているせいだ、と指摘した。金賢姫は「韓国は乞食と娼婦があふれていると教育されてきたが、実際の韓国の豊かさや自由を見て北朝鮮政府に騙されていたことを悟り転向した」と綴っている。
その結果、金正日政治軍事大学では、韓国の実情を具体的に生徒に知らせる教育が始まった。一方で、安明進のように、北朝鮮の現状に疑問を持つ工作員を生むことになった。また金賢姫が死刑判決後特赦を受けたことも、亡命への希望を持たせることとなった。
金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスタラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。
しかし、盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、同年4月12日に特赦した。また5月16日にはソウルの教会で取材が行われ、キリスト教への入信と北朝鮮の体制批判をした。6月20日に行われた会見で飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。
1991年には自伝的手記『金賢姫全告白 いま、女として』も出版し、1997年に韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かった。なお金に対し日本では「元死刑囚」ないし「元工作員」という呼称が付けられて報道されている。
1997年以降は、公式の場から姿を消していたが、これは盧武鉉など革新政権が、北朝鮮に融和的な太陽政策を採っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘 もある。2004年12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち、個人情報関係を除く全てについて情報公開を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにと、当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している。
2008年には、金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して、知人宛の手紙を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関や、マスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか、非公開のはずの自宅にマスコミが押しかける嫌がらせを受けたと主張している。
2009年3月11日に、釜山で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして、捏造であったことを認めるように、政府から迫られたと主張している。
なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをした。
事件当時、アンゴラ駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、強制収容所にいるという説があったが、2012年1月にアジアプレス・ネットワークが伝えるところでは、一家と親しかった脱北者の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に日本海側にある咸鏡北道・清津市に、一家は強制移住させられ、現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという。
文在寅政権発足後は、韓国国内で従北勢力が活発化したことに伴い、司法もその影響を強く受けることとなり、2018年7月26日には、本事件が全斗煥による自作自演の反共テロであると唱える家族会への批判が「名誉毀損である」として、刑事事件化されたことが報じられた。
事件直後から、北朝鮮当局により「韓国情報機関による謀略」であるとの説がさかんに喧伝された。韓国人労働者の乗った飛行機を爆破して、北朝鮮にいったい何の得があるのかと考える人びとは、謀略説を支持した。
事件は北朝鮮工作員による犯行という韓国政府の発表に対し、左翼系諸団体などにより陰謀ないし捏造であるとする説が唱えられた。一部ではあったが、北朝鮮ないし朝鮮総連による当初の主張を受けて、日本社会党や日韓の一部マスコミなどが「本当に北朝鮮の工作員による犯行だったのか」として、「大統領選挙で与党候補を当選させるために韓国国家安全企画部(現・大韓民国国家情報院)が仕組んだ謀略ではないか」という「自作自演」であるとする陰謀論が主張されたことがある。
日本社会党は長年にわたり北朝鮮の指導政党である朝鮮労働党と友好関係にあったため(その上韓国政府を国家として公認していなかった)、北朝鮮当局の主張をそのまま受けて「北朝鮮は同事件に関与していない」として擁護していた。そのため、同党の井上一成国際局長が北朝鮮当局の事件への関与を認める発言を「問題発言」として撤回させる事態も発生した。一方で北朝鮮と対立関係にあった日本共産党は社会党の一連の北朝鮮擁護の姿勢に対し事件への北朝鮮の関与は明らかであるとして厳しく批判していた。そうしたなか、日本社会党の機関紙「社会新報」の1988年5月24日付けの紙面は「大韓航空機爆破事件は日米韓とバーレーンの関係国による国際的詐欺である」とすることを韓国の金貞烈前首相が認める「良心宣言」をしたとする報道をした。この記事については裏付け取材を全くしていない虚偽報道であったとして、記事の全面取消しと編集長の更迭がなされた。この報道のニュースソースは韓国政府から反国家団体認定を受けている「韓国民主回復統一促進国民会議」(韓民統)日本支部の機関紙「民族時報」1988年5月21日付けの紙面であったが、さらにソースを辿ると朝鮮中央通信が2月に配信した捏造によるプロパガンダニュースであり、朝日新聞が「韓国の前首相がこのような発言をする可能性はありえない」とするなど、日韓の報道機関も無視していた記事であった。この「社会新報」の記事をタイプしたものを、北朝鮮の記者が板門店で「こういう情報もある」と配っていたともいわれる。北朝鮮側は、事件に関与していない事を主張するため、虚偽の情報を発信していた。
なお、ジャーナリストを名乗る野田峯雄が1990年に発表した『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイたちの肖像』では、野田は、バーレーンの病院で「担当医師」から「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常もみられなかった」との証言を得たとして、金賢姫は本当に北朝鮮の工作員なのかと疑問を呈した。2003年には、韓国の作家が事件は韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略だとする小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。しかし、韓国の国家安全企画部が韓国人乗客を殺害して何のメリットがあるのかは不明であり、これは、大きな事件が起きたときに見られる特徴的な陰謀論だという。2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件が「アメリカ合衆国連邦政府の自作自演である」という主張に酷似しているといわれる。
2005年、韓国政府は捏造説の真偽を調査し「政治的に利用されたのは事実であるが、事件自体は真実である」という調査結果を公表している。2020年には、韓国文化放送が、大韓航空858便と推定される航空機の胴体がミャンマーの海底で発見されたと報道し、遺族らは胴体の引き揚げと真相究明を求め、韓国政府も調査に乗り出すことになった。
なお、北朝鮮国内では、李英和が平壌に留学していた1991年、李が知人から「あの娘はどうなったか。死刑になったか」と金賢姫の安否を聞かれたことがあったという。「死刑判決が下りたが、恩赦で釈放された」と李が答えると、彼は安心して「小さな頃から気立てが良くて、器量良しな娘だった。せっかくうまく任務をやり遂げたのに、捕まってかわいそうに」と語ったという。金賢姫を実際に知る人からすれば、謀略説はありえないということになる。
RCサクセション『シークレット・エージェント・マン』(ジョニー・リヴァースが歌った「秘密諜報員ジョン・ドレイク(英語版)」のテーマソングのカバー)は、当事件を題材にして歌った。1988年(昭和63年)発表のアルバム「COVERS」に収録。冒頭、金賢姫の記者会見の音声の一部が収録されている。
韓国では申相玉監督により、『政治犯・金賢姫/真由美』という題で映画化され、1990年に公開された。
日本では、2002年(平成14年)前後に北朝鮮による日本人拉致問題に対するマスコミ報道が過熱し、ほぼ同時期に日本テレビ系列でこの事件が『完全再現!真実の物語 金賢姫 大韓航空爆破事件〜北朝鮮のシナリオ』というタイトルで2時間のテレビドラマ化され、大きな反響を呼んだ。このドラマは、金ら実行犯側から見た事件の流れを追ったものであった。
2007年(平成19年)12月15日、フジテレビ系の土曜プレミアム特別企画として『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち 〜封印された3日間〜』という題でドラマ化された。原作は事件に関わった外交官の一人であった砂川昌順の『極秘指令 金賢姫拘束の真相』であり、バーレーンやアブダビに駐在した日本人外交官からの視点で描かれていたものである。
2010年(平成22年)12月13日、TBS系の月曜ゴールデン特別企画『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった...』が放送された。当初11月29日に放送される予定であったが、北朝鮮による11月23日の延坪島砲撃事件および緊迫した朝鮮半島情勢を勘案し、放送を延期した。
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"text": "大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。",
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"text": "日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。",
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"text": "※韓国及び北朝鮮の国内外情勢で、本事件に関連するものを含む。",
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"text": "事件の被害に遭ったのは大韓航空に所属する大韓航空858便(使用機体:ボーイング707-320B、登録記号:HL7406)であった。なお、当時の時刻表によればこの便は本来、マクドネル・ダグラスDC-10-30型機で運航されていたが、当日は機材変更によりボーイング707-320B型機で運航されていたという。",
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"text": "フライトプランとしては現地時間午後11時30分(UTC午後8時30分)にイラク・バグダードのサダム国際空港を出発し、アラブ首長国連邦・アブダビのアブダビ国際空港、タイ・バンコクのバンコク国際空港を経由し、韓国・ソウルの金浦国際空港に向かう予定であった。つまり、イラク発UAE、タイ経由韓国行きである。なお、この便はバンコクへの寄港をテクニカルランディング扱いにしていたため、アブダビ〜バンコク間、バンコク〜ソウル間のみの利用は不可能であった。",
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"text": "乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが中近東への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。そして、その内9名は「デッドヘッド」と呼ばれる業務に就いていない操縦乗務員(機長、副操縦士、航空機関士各3人ずつ)で、中東へのフライトから帰国する途中であった。",
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"text": "大韓航空858便は、アブダビを協定世界時日曜日の午前0時01分に離陸、インド上空を横断し、ボンベイからアンダマン海へ抜けて上空の航空路R468を飛行し、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(UTC4時31分)にビルマの航空管制空域に差し掛かった。",
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"text": "インドとビルマの国境である\"TOLIS\"ポイントからラングーンの航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。次の\"VRDIS\"には午前11時01分、\"TAVOR\"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解し墜落した。",
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"text": "機長は、遭難信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死した と見られる。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。",
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"text": "定時報告交信が途絶え、レーダーサイトのモニターに機影は無く、タイの領空に入ると予想された時刻に、航空管制当局とのコンタクトが無い事態から、858便の異常発生が発覚し、韓国標準時午後2時05分(タイ標準時午後12時05分/UTC午前5時05分)大韓航空の社内無線交信(カンパニーラジオ)に応答が無いことで、858便の遭難が確定した。",
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"text": "大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たる事となった。タイ軍は捜索隊を組織し、858便が消息を絶つ迄の気象状況や経過から「泰緬国境付近のジャングルに墜落」と推定しその一帯に派遣されたが、実際にはアンダマン海上に墜落していた。",
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"text": "衛星測位システムや当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず(2014年のマレーシア航空370便墜落事故で再び問題となった)、さらに墜落地点と推定されたビルマ側は、ビルマ政府と対立しているカレン族が支配する紛争地帯であるため政府による捜索は不可能、またカレン族が国境を越えて武装闘争を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。",
"title": "事件概要"
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"text": "12月10日になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は外交関係から1990年まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。",
"title": "事件概要"
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"text": "改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、ブラックボックスは発見できず、事件から3年後の1990年3月10日に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていたソウルオリンピックのエンブレムが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまで長時間を要した。",
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"text": "また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部がDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成、火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。",
"title": "事件概要"
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"text": "当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機(1971年製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は大統領外遊時の特別機として韓国政府が使用していたが、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の1977年9月に釜山で胴体着陸事故を起こし、事件の2か月前の9月2日にはソウルの金浦国際空港でランディングギアが出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には爆破テロであったことが後に判明することになる。",
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"text": "一方で、ソウルの韓国放送公社(KBS)によれば、事件発生後に大韓航空幹部が「ハイジャックされた可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで、風船が破裂する様に機体が空中分解した例が多数ある(例:コメット連続墜落事故)。",
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"text": "事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に東アジア系の男女が1人ずついた。この2名は、日本のパスポートを持っており、11月30日午後にバーレーンのバーレーン国際空港にガルフ航空機で移動し、同国の首都マナーマのホテルに宿泊していた。旅券名義は「蜂谷真一(はちや しんいち)」と「蜂谷真由美(はちや まゆみ)」であった。2人は「父親」と「娘」の関係だとされた。韓国側も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触していた。",
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"text": "一方、事件直前の1987年11月21日、偽造パスポートを所持していた罪により東京で逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年にせまったソウルオリンピックを妨害するためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため韓国国家安全企画部は、早い時点で2人をマークしていた。日本政府は「左翼日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。だが、在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていたため違和感を覚え、女の旅券番号を日本の外務省に照会したところ、徳島市在住の男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した。",
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"text": "「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」の2名は、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていたため、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、口の中に忍ばせていた青酸カリ入りのカプセルを噛み砕いて服毒自殺した。現場に居た日本人外交官、砂川昌順によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを警察官から奪い取り自殺を図ったが、すぐに警察官が飛びかかり直ちに吐き出させたため、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まり、意識不明ではあるが一命はとりとめたとされている。しかしながら、現地警察の調査や救急救命士の証言では、実際には女のカプセルは噛み砕かれておらず傷はほとんどない状態で、女は搬送される救急車内で逃げ出そうと激しく抵抗するなど意識ははっきりとしていたが、病院に到着すると一転して意識不明であるかのように装っていたとされている。",
"title": "事件概要"
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"text": "「蜂谷真由美」名義の女は一命を取りとめた。一方、自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であった。彼は「宮本明(みやもと あきら)」を名乗る男の全額費用持ちでフィリピンのマニラとタイのバンコクに1983年(昭和58年)秋に旅行したが、その翌年、「宮本」にパスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。「宮本」を名乗った男性は、西新井事件(日本人2名の戸籍を乗っ取り、拉致事件などにも利用した北朝鮮工作員・チェ・スンチョルを日本警察が摘発した事件)にも関係していた在日朝鮮人の補助工作員、李京雨であった。パスポートが偽造されたものであることが明確になるにつれ、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに賞味期限も過ぎていたため、李京雨が逮捕前に作った「小道具」の可能性が高いと判断された。",
"title": "事件概要"
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"text": "当初、偽造パスポートが日本人名義であり、日本政府もバーレーン側に捜査協力を求めていたが、パスポート偽造は日本国内法の「旅券法違反ないし偽造公文書行使」には該当するが、韓国側が被った航空機爆破という大量殺人テロの重大性と比較して、身柄引き渡しを受けるほどの強い法的根拠がないと判断され、身柄引き渡し請求権を放棄した。韓国への引き渡しを認めるこの判断は、当時の内閣安全保障室長である佐々淳行によれば、在バーレーン日本大使館員の判断ではなく、佐々の意見具申に基づいた「総理大臣官邸判断」であった。なおモントリオール条約では、航空機上で発生した事件の裁判権は、旗国主義により、航空機が登録されていた国家(この事件の場合は韓国)にある。",
"title": "事件概要"
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"text": "バーレーン警察による取り調べが行われた後、国籍も姓名も割り出せないまま「蜂谷真由美」名義の女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。その時彼女は、自殺防止用のマウスピースをくわえさせられ、口元を大きな粘着テープで覆われ、両脇をかかえられて移動した。当初、彼女は日本人になりすましていたが、ソウルに移送されることだけは避けたいと考えて中国人になりすまそうとし、中国の黒竜江省出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。ソウルの国家安全企画部で行なわれた尋問でも、最初は中国出身であるように装っていた。しかし、取調官からの連日の事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、北朝鮮ブランドの「チンダルレ」と答えて捜査員にも笑われる事態となり、また捜査員に夜のソウル市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる繁栄ぶりに驚愕し、ついに自分が朝鮮労働党中央委員会調査部所属の特殊工作員、金賢姫であると自白し、航空機爆破の犯行を自供した。服毒自殺した「蜂谷真一」名義の男は、同じく北朝鮮の工作員、金勝一であることが判明した。なお、金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7Aと7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバッグの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。",
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"text": "2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時の全斗煥政権が大統領選挙を前に、金賢姫を韓国に移送しようとしていたことが明らかになった。",
"title": "事件概要"
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"text": "実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為におよんだもので、父娘であると偽り、テロ実行のために旅行していた。",
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"text": "韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都モスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時社会主義国だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビアのベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる。",
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"text": "11月28日にベオグラードからバグダードへイラク航空226便で移動し、その日のうちにバグダードで大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った液体爆弾(「PLX」と推測される)と、豆腐大の「コンポジション4」というプラスチック爆弾と時限爆破装置を仕込んだ日本製トランジスターラジオ(パナソニック製AM/FMラジオRF-082型を改造したもので、実際にラジオとして動作する)であった(トランジスターラジオの時限爆破装置は電池がなければ作動できない構造)。",
"title": "実行犯"
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"text": "ベオグラードでイラク航空に搭乗した際には、当時イラン・イラク戦争の最中でありイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議し、電池は返却されたという。しかし、「当時戦時中であり、厳戒態勢が敷かれていたイラクの空港職員が、乗客の抗議によって規則を曲げるなどありえないことである」との意見を元に、この証言は金賢姫の捏造との指摘がある。なお、イラクはイランへの支援を理由に1980年から北朝鮮と国交断絶状態にあった。",
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"text": "2人がアブダビで降機した後に、機内のハットラックに(手荷物に隠された)爆発物が残されていたのを客室乗務員が発見出来なかった事を疑問視する声もあり、「忘れ物の確認作業を怠った可能性がある」ともいわれる が、この便の様に複数の経由地を経由し、各経由地で乗客が乗降しつつ最終目的地に向かう便の場合は、経由地で機内に手荷物を残したままトランジットエリアに行く乗客は珍しくない。経由地でハットラックなどに手荷物が残っていてもそれが忘れ物であるとは認識しない可能性が高い。また忘れ物として手荷物を発見していても、それが爆発物である事には気付かない可能性もあるが、いずれにしても、この事件で客室乗務員も全員殉職しているため真相は不明である。",
"title": "実行犯"
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"text": "金賢姫の回顧録によれば、大韓航空機でアブダビに到着した乗客は一旦全員機外に出されている。この時2人はローマまでの航空券を所持しており、脱出用にアブダビから直接ローマに向う航空券と撹乱用にバーレーンに向ったと見せかけるための実際に使用した航空券も持っていた。2人は二つの航空券を使用することで「足がつかないように」するつもりであった。しかしアブダビのトランジットエリアで航空券のチェックが行われた。このチェックは事前に北朝鮮当局が知らなかったことであった。そのため撹乱用の航空券を使わざるを得なくなり、2人はやむなくバーレーンに向い、次のローマ行きの便まで滞在する破目になったという。そのためバーレーンで足止めされていなければ北朝鮮に逃亡していた可能性が高い。",
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"paragraph_id": 30,
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"text": "金賢姫は「外交官の父を持ち、北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」とされており、ザイール駐在大使館員高英煥(後に亡命)は、駐アンゴラ水産代表部にいた金賢姫の父親は事件直後に本国に急遽呼び戻されたと語っている。平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員として召喚され、金星政治軍事大学に入学させられて日本人になりすまして謀略活動をおこなうための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオに同僚の金淑姫とともに何度も滞在していた。「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に、日本語教育や日本文化の教育を受け、「蜂谷真由美」という日本人名を使用し、日本語を巧みに使って日本人になりすましていた。",
"title": "実行犯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成主席の後継者に指名されていた金正日がとったものと考えられている。このテロの目的は、",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "であったといわれる。すなわち、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年に行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであり、具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ただし、西岡力によれば、この事件は単にソウルオリンピックを潰すためにその場で思いついたテロではなく、10年がかりの陰謀であるという。たとえば、もし、金賢姫が自殺に成功していた場合、東洋人の死体2つと偽造パスポートがそこに残るだけとなり、当時は中東で重信房子の日本赤軍が活動していたのだから、彼らが115人の乗った飛行機を爆破した可能性が高いとされたであろうし、逆に金勝一と金賢姫が逃亡に成功したら、搭乗者リストには蜂谷真一・蜂谷真由美という身元不明の日本人の名だけが残ることになる。いずれにしても、多数の韓国人乗客を爆殺させたのは日本人ということになる。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "北朝鮮による偽装日本人テロは、これが初めてではなく、1974年には在日本朝鮮人総連合会が在日韓国人文世光を洗脳し、朴正煕大統領の暗殺を指示した文世光事件(陸英修狙撃事件)があった。このとき、日本のメディアは朝鮮総連による情報操作などもあって韓国側の自作自演という説をまことしやかに報道した。それに対し、韓国側は「日本もかかわっていながら謝罪どころか自作自演などという妄言を続けている」「韓国へのテロを平然と見逃し、しかも弁護すらしている」と言う認識に基づく反日感情から大デモ行進が起こり、大使館の窓が全部割られ、日本国旗が引きずりおろされて大使館員が殴打されるという事態に発展した。在日韓国人のテロというだけでこれほどの反日運動が生起しており、もし、左翼日本人によるテロと言うことになった場合、日韓関係が修復できないほどに悪化しただろうと考えられている。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮のパスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていたソ連と中国は正式に参加を表明し、他の東欧諸国も追随して参加を表明した。金賢姫が偶然自殺に失敗し、韓国当局にすべて自身の犯罪を自供することによって、日本も予定どおり参加することができた。北朝鮮の目論見は、完全に裏目に出たのであった。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し、有事の際の支援を要請したが、中ソ両国からは逆に反感を買っている。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ソ連のタス通信は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道しはしたが、北朝鮮の主張を擁護するものではなかった。以上のことから、事件に対して直接的な批判こそされなかったものの、事実上、北朝鮮は同盟国である他の社会主義国陣営からも見捨てられたといえる。なお、ソ連は事件及びソウルオリンピック後の1990年に、中国は1992年に、北朝鮮の激しい抗議を無視し、それぞれ韓国との国交を樹立した。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には殆どの東側諸国や非同盟中立諸国も参加するかたちでソウルオリンピックが開催された。また、テロ事件は、他国への主権侵害である日本人や韓国人、レバノン人などに対する拉致問題やラングーン事件などのテロ事件と並んで、北朝鮮による国家犯罪の典型として周知され、北朝鮮は世界中から非難を招いて国際的に孤立した。",
"title": "事件の動機"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "北朝鮮当局は現在に至るまで事件への関与を否定しているため、事件の謝罪を行っていない。ただし日本では、服毒死した金勝一の偽造日本国旅券作成の過程で、日本在住の北朝鮮工作員が背乗りに関与したほか、日本人拉致被害者の田口八重子に関する金賢姫の話を「信憑性があるもの」と受け取られている。",
"title": "事件のその後"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "金日成の母方の従兄弟で、北朝鮮の姜成山前首相の娘婿である康明道(亡命者)の著書『北朝鮮の最高機密』によれば、事件後の1988年当時、平壌では金賢姫の話題で持ちきりであった。「労働新聞」は連日、韓国の国家安全企画部が金賢姫をでっちあげ、事件を捏造していると報道した。しかし、康明道は平壌外国語大学日本語科出身の張チョルホの話として、「金賢姫が平壌外国語大学日本語科に在籍していたが、調査部が連れて行った」と記しており、金賢姫の証言とも一致している。また、北朝鮮の元工作員・安明進によれば、北朝鮮当局は金賢姫が「北朝鮮の工作員ではない」と最後まで否定したが、工作員養成学校である金正日政治軍事大学では、金賢姫が対外情報調査部に所属する工作員であることを教官も生徒も誰もが知っていたとのことである。",
"title": "事件のその後"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その後、北朝鮮での南北赤十字会談(1972年)のとき、張基栄に金賢姫が花束をささげたのは捏造で、本当は私がささげた、と主張する女性(鄭姫善)が平壌に現れ、朝鮮総連を経由して録画ビデオがマスコミに配られる事件が起きた(もっともその映像で骨格などの照合により、名乗り出た女性こそ捏造であったことが即座に解明された)。この事件は、自殺に失敗はしたが青酸ガスのため3日間意識不明になるなど命をかけて任務を遂行した金賢姫に、北朝鮮が利用するだけ利用して容赦なく捨てたことを認識させ、完全に転向するきっかけとなった。彼女は、このとき初めて祖国に裏切られたと感じたという。",
"title": "事件のその後"
},
{
"paragraph_id": 42,
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"text": "安明進によれば、金正日は金賢姫が大韓航空機爆破には成功したものの自殺に失敗し、韓国に連行され北朝鮮の工作員であることや破壊工作の詳細を自白したことを知ると激怒した。まず、対外調査部長は解任され、前モスクワ駐在大使であった権煕京が後任になった。また、金正日が「いつでも女性が問題を起すのだ。女性工作員の数を大幅に削減しろ!」と命令し、女性工作員の訓練地区であった10号棟双鷹地区を完全に閉鎖した。一時期は北朝鮮のスパイ組織である3号庁舎で女性工作員をまったく採用しなくなった。",
"title": "事件のその後"
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"paragraph_id": 43,
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"text": "さらに、大韓航空機爆破事件から3年後の1991年6月、金賢姫の手記『金賢姫全告白 いま、女として』が発行されるや、日本語版が北朝鮮に輸入された後朝鮮語に再翻訳され、教官や安明進を含む大学関係者が読んだとされる。金正日も同書を読み、金賢姫の転向は大学の教育が間違っているせいだ、と指摘した。金賢姫は「韓国は乞食と娼婦があふれていると教育されてきたが、実際の韓国の豊かさや自由を見て北朝鮮政府に騙されていたことを悟り転向した」と綴っている。",
"title": "事件のその後"
},
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"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "その結果、金正日政治軍事大学では、韓国の実情を具体的に生徒に知らせる教育が始まった。一方で、安明進のように、北朝鮮の現状に疑問を持つ工作員を生むことになった。また金賢姫が死刑判決後特赦を受けたことも、亡命への希望を持たせることとなった。",
"title": "事件のその後"
},
{
"paragraph_id": 45,
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"text": "金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「トランジスタラジオにセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で1989年2月3日に起訴された。韓国の裁判所は一・二審とも死刑判決を下し、1990年3月27日に確定した。",
"title": "事件のその後"
},
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"text": "しかし、盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、同年4月12日に特赦した。また5月16日にはソウルの教会で取材が行われ、キリスト教への入信と北朝鮮の体制批判をした。6月20日に行われた会見で飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった。",
"title": "事件のその後"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "1991年には自伝的手記『金賢姫全告白 いま、女として』も出版し、1997年に韓国国家安全企画部(現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かった。なお金に対し日本では「元死刑囚」ないし「元工作員」という呼称が付けられて報道されている。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1997年以降は、公式の場から姿を消していたが、これは盧武鉉など革新政権が、北朝鮮に融和的な太陽政策を採っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘 もある。2004年12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち、個人情報関係を除く全てについて情報公開を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにと、当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2008年には、金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して、知人宛の手紙を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関や、マスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか、非公開のはずの自宅にマスコミが押しかける嫌がらせを受けたと主張している。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "2009年3月11日に、釜山で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして、捏造であったことを認めるように、政府から迫られたと主張している。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをした。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "事件当時、アンゴラ駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、強制収容所にいるという説があったが、2012年1月にアジアプレス・ネットワークが伝えるところでは、一家と親しかった脱北者の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に日本海側にある咸鏡北道・清津市に、一家は強制移住させられ、現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "文在寅政権発足後は、韓国国内で従北勢力が活発化したことに伴い、司法もその影響を強く受けることとなり、2018年7月26日には、本事件が全斗煥による自作自演の反共テロであると唱える家族会への批判が「名誉毀損である」として、刑事事件化されたことが報じられた。",
"title": "金賢姫のその後"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "事件直後から、北朝鮮当局により「韓国情報機関による謀略」であるとの説がさかんに喧伝された。韓国人労働者の乗った飛行機を爆破して、北朝鮮にいったい何の得があるのかと考える人びとは、謀略説を支持した。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "事件は北朝鮮工作員による犯行という韓国政府の発表に対し、左翼系諸団体などにより陰謀ないし捏造であるとする説が唱えられた。一部ではあったが、北朝鮮ないし朝鮮総連による当初の主張を受けて、日本社会党や日韓の一部マスコミなどが「本当に北朝鮮の工作員による犯行だったのか」として、「大統領選挙で与党候補を当選させるために韓国国家安全企画部(現・大韓民国国家情報院)が仕組んだ謀略ではないか」という「自作自演」であるとする陰謀論が主張されたことがある。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "日本社会党は長年にわたり北朝鮮の指導政党である朝鮮労働党と友好関係にあったため(その上韓国政府を国家として公認していなかった)、北朝鮮当局の主張をそのまま受けて「北朝鮮は同事件に関与していない」として擁護していた。そのため、同党の井上一成国際局長が北朝鮮当局の事件への関与を認める発言を「問題発言」として撤回させる事態も発生した。一方で北朝鮮と対立関係にあった日本共産党は社会党の一連の北朝鮮擁護の姿勢に対し事件への北朝鮮の関与は明らかであるとして厳しく批判していた。そうしたなか、日本社会党の機関紙「社会新報」の1988年5月24日付けの紙面は「大韓航空機爆破事件は日米韓とバーレーンの関係国による国際的詐欺である」とすることを韓国の金貞烈前首相が認める「良心宣言」をしたとする報道をした。この記事については裏付け取材を全くしていない虚偽報道であったとして、記事の全面取消しと編集長の更迭がなされた。この報道のニュースソースは韓国政府から反国家団体認定を受けている「韓国民主回復統一促進国民会議」(韓民統)日本支部の機関紙「民族時報」1988年5月21日付けの紙面であったが、さらにソースを辿ると朝鮮中央通信が2月に配信した捏造によるプロパガンダニュースであり、朝日新聞が「韓国の前首相がこのような発言をする可能性はありえない」とするなど、日韓の報道機関も無視していた記事であった。この「社会新報」の記事をタイプしたものを、北朝鮮の記者が板門店で「こういう情報もある」と配っていたともいわれる。北朝鮮側は、事件に関与していない事を主張するため、虚偽の情報を発信していた。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお、ジャーナリストを名乗る野田峯雄が1990年に発表した『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイたちの肖像』では、野田は、バーレーンの病院で「担当医師」から「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常もみられなかった」との証言を得たとして、金賢姫は本当に北朝鮮の工作員なのかと疑問を呈した。2003年には、韓国の作家が事件は韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略だとする小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。しかし、韓国の国家安全企画部が韓国人乗客を殺害して何のメリットがあるのかは不明であり、これは、大きな事件が起きたときに見られる特徴的な陰謀論だという。2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件が「アメリカ合衆国連邦政府の自作自演である」という主張に酷似しているといわれる。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2005年、韓国政府は捏造説の真偽を調査し「政治的に利用されたのは事実であるが、事件自体は真実である」という調査結果を公表している。2020年には、韓国文化放送が、大韓航空858便と推定される航空機の胴体がミャンマーの海底で発見されたと報道し、遺族らは胴体の引き揚げと真相究明を求め、韓国政府も調査に乗り出すことになった。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "なお、北朝鮮国内では、李英和が平壌に留学していた1991年、李が知人から「あの娘はどうなったか。死刑になったか」と金賢姫の安否を聞かれたことがあったという。「死刑判決が下りたが、恩赦で釈放された」と李が答えると、彼は安心して「小さな頃から気立てが良くて、器量良しな娘だった。せっかくうまく任務をやり遂げたのに、捕まってかわいそうに」と語ったという。金賢姫を実際に知る人からすれば、謀略説はありえないということになる。",
"title": "陰謀説・捏造説"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "RCサクセション『シークレット・エージェント・マン』(ジョニー・リヴァースが歌った「秘密諜報員ジョン・ドレイク(英語版)」のテーマソングのカバー)は、当事件を題材にして歌った。1988年(昭和63年)発表のアルバム「COVERS」に収録。冒頭、金賢姫の記者会見の音声の一部が収録されている。",
"title": "事件関連の作品"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "韓国では申相玉監督により、『政治犯・金賢姫/真由美』という題で映画化され、1990年に公開された。",
"title": "事件関連の作品"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "日本では、2002年(平成14年)前後に北朝鮮による日本人拉致問題に対するマスコミ報道が過熱し、ほぼ同時期に日本テレビ系列でこの事件が『完全再現!真実の物語 金賢姫 大韓航空爆破事件〜北朝鮮のシナリオ』というタイトルで2時間のテレビドラマ化され、大きな反響を呼んだ。このドラマは、金ら実行犯側から見た事件の流れを追ったものであった。",
"title": "事件関連の作品"
},
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"paragraph_id": 63,
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"text": "2007年(平成19年)12月15日、フジテレビ系の土曜プレミアム特別企画として『大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち 〜封印された3日間〜』という題でドラマ化された。原作は事件に関わった外交官の一人であった砂川昌順の『極秘指令 金賢姫拘束の真相』であり、バーレーンやアブダビに駐在した日本人外交官からの視点で描かれていたものである。",
"title": "事件関連の作品"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2010年(平成22年)12月13日、TBS系の月曜ゴールデン特別企画『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった...』が放送された。当初11月29日に放送される予定であったが、北朝鮮による11月23日の延坪島砲撃事件および緊迫した朝鮮半島情勢を勘案し、放送を延期した。",
"title": "事件関連の作品"
}
] |
大韓航空機爆破事件(だいかんこうくうきばくはじけん)は、1987年11月29日に韓国・大韓航空所属の旅客機が、北朝鮮の工作員によって飛行中に爆破されたテロ事件である。 日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。
|
{{混同|大韓航空機銃撃事件|x1=1978年の|大韓航空機撃墜事件|x2=1983年の}}
{{Infobox aircraft occurrence
|name=大韓航空858便
|Crash image = Korean Air Lines Boeing 707 Fitzgerald.jpg
|Image caption = 大韓航空のボーイング707(同型機/<br>画像は旧塗装)
|Date=[[1987年]][[11月29日]]
|Type = [[爆弾]][[テロリズム|テロ]]
|summary = [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[スパイ|工作員]]による[[爆弾]][[テロリズム|テロ]]
|Site=[[インド洋]]・[[アンダマン海]]上空
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|Aircraft Type=[[ボーイング707]]
|Operator=[[File:Flag of South Korea (1984–1997).svg|25x20px|border]] [[大韓航空]](KAL)
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|origin={{Flagicon|IRQ1963}} [[バグダード国際空港|サダム国際空港]]
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|Last stopover={{Flagicon|THA}} [[ドンムアン空港|バンコク国際空港]]
|destination=[[File:Flag of South Korea (1984–1997).svg|25x20px|border]] [[金浦国際空港]]
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| missing =
| survivors = 0
}}
'''大韓航空機爆破事件'''(だいかんこうくうきばくはじけん)は、[[1987年]][[11月29日]]に[[第五共和国 (大韓民国)|韓国]]・[[大韓航空]]所属の[[旅客機]]が、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[北朝鮮工作員|工作員]]によって飛行中に爆破された[[テロリズム|テロ事件]]である。
日本で'''[[大韓航空機の事件一覧|大韓航空機事件]]'''と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、[[1983年]][[9月1日]]の[[大韓航空機撃墜事件]]のことを指す場合に分かれる。
== 経過 ==
※韓国及び北朝鮮の国内外情勢で、本事件に関連するものを含む。
;[[1985年]]~[[1986年]]
*[[1988年ソウルオリンピック|第24回夏季オリンピック]]開催を巡り、南北共催について[[国際オリンピック委員会]](IOC)を仲介とした様々な協議が行われる。
;[[1987年]]
*[[6月29日]] - 韓国で[[6月民主抗争]]の結果、政権与党・[[民主正義党]]が[[民主化宣言]]を発表。
*[[9月17日]] - IOCが、[[ソウル特別市|ソウル]]単一開催として、各国に招請状を送る。
*[[10月7日]] - [[金正日]]による[[テロリズム|テロ]]行為の親筆指令が下る。
*[[11月12日]] - '''[[金賢姫]]'''(当時25歳)と'''[[金勝一]]'''(当時59歳)が任務遂行を宣誓し、[[ソビエト連邦|ソ連]]へ渡航。
*[[11月13日]] - 金賢姫と金勝一がソ連経由で[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]に入国。
*[[11月18日]] - 陸路で[[オーストリア]]に入国。
**オーストリア滞在中、同国内で[[日本]]の偽造[[パスポート|旅券]]を使用し始める。
*[[11月23日]] - [[オーストリア航空]]621便で出国し、[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]の首都[[ベオグラード]]へ向かう。
**ユーゴスラビア滞在中、爆発物を受け取る。
*[[11月28日]] - [[イラク航空]]226便で出国し、[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]の首都[[バグダード]]へ向かう。
** バグダードで'''大韓航空858便に乗り継ぎ、金賢姫と金勝一は機内に爆発物を持ち込む。'''
**同日:現地時間午後11時30分([[協定世界時|UTC]]午後8時30分) - 大韓航空858便が[[バグダード]]発。
*[[11月29日]]
**現地時間午前4時01分(UTC午前0時01分) - 大韓航空858便が[[アブダビ]]発。
***金賢姫と金勝一はアブダビで降機し、戻らなかった。
**現地時間午前10時31分(UTC午前4時31分) - [[ビルマ連邦社会主義共和国|ビルマ]]の航空管制空域に到達。
**'''[[インド洋]]・[[アンダマン海]]上空にて機内の爆弾が炸裂。'''
**[[韓国標準時]]午後2時05分(UTC午前5時05分) - 大韓航空858便の遭難が確定。
*[[11月30日]] - 金賢姫と金勝一が[[バーレーン]]に入国。
*[[12月1日]] - 金賢姫(自称:蜂谷真由美)と金勝一(自称:蜂谷真一)の出国直前、偽造された[[日本国旅券]]の保持により、バーレーン当局が拘束。
**取り調べ中、金賢姫は自殺に失敗し一命をとりとめ、金勝一は服毒自殺を図って即死した。
*[[12月5日]] - [[日本国政府|日本政府]]は[[旅券法]]違反による身柄引き渡し請求権を放棄。
*[[12月10日]] - 大韓航空858便の残骸等が発見され始める。
*[[12月15日]] - 金賢姫が韓国の[[大韓民国国家情報院|国家安全企画部]]に引き渡される。
**金賢姫は取り調べ中に転向し、自ら北朝鮮の工作員であること及び犯行を自白する。
*[[12月16日]] - 韓国[[1987年大韓民国大統領選挙|第13代大統領選挙]]投票日、[[盧泰愚]]が当選。
*[[12月19日]] - 乗客・乗員計115名全員の死亡が確定する。
;[[1988年]]
*[[2月25日]] - 韓国で第六共和国憲法施行、[[第六共和国 (大韓民国)|第六共和国]]成立。
*9月17日~[[10月2日]] - 韓国にて[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]]開催。
;[[1989年]]
*[[2月3日]] - (韓国の)[[国家保安法 (大韓民国)|国家保安法]]、航空法、航空機運航安全法違反で金賢姫が[[起訴]]される。
*[[7月1日]]~[[7月8日]] - 北朝鮮にて[[第13回世界青年学生祭典]]開催。
;[[1990年]]
*[[3月27日]] - 金賢姫への[[死刑]]判決が確定。
*[[4月12日]] - 盧泰愚[[大統領 (大韓民国)|大統領]]が金賢姫を[[恩赦#朝鮮・韓国|特赦]]する。
;[[1991年]]
*[[6月]] - 金賢姫が手記を出版。
== 事件概要 ==
=== 事件当日 ===
事件の被害に遭ったのは大韓航空に所属する'''大韓航空858便'''(使用機体:[[ボーイング707|ボーイング707-320B]]、[[登録記号]]:HL7406)であった。なお、当時の時刻表によればこの便は本来、[[マクドネル・ダグラス]][[マクドネル・ダグラス DC-10|DC-10-30]]型機で運航されていたが、当日は機材変更によりボーイング707-320B型機で運航されていたという。
[[飛行計画|フライトプラン]]としては現地時間午後11時30分([[協定世界時|UTC]]午後8時30分)にイラク・[[バグダード]]の[[バグダード国際空港|サダム国際空港]]を出発し、[[アラブ首長国連邦]]・[[アブダビ]]の[[アブダビ国際空港]]、[[タイ王国|タイ]]・[[バンコク]]の[[ドンムアン空港|バンコク国際空港]]を経由し、韓国・ソウルの[[金浦国際空港]]に向かう予定であった。つまり、イラク発UAE、タイ経由韓国行きである。なお、この便はバンコクへの寄港を[[テクニカルランディング]]扱いにしていたため、アブダビ〜バンコク間、バンコク〜ソウル間のみの利用は不可能であった。
乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが[[中近東]]への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。そして、その内9名は「[[デッドヘッド]]」と呼ばれる業務に就いていない操縦乗務員(機長、副操縦士、航空機関士各3人ずつ)で、[[中東]]へのフライトから帰国する途中であった。
=== 事件発生 ===
[[ファイル:KAL_858_EXPLODES.tif|サムネイル|250px|事件発生時の機体(再現図)]]
大韓航空858便は、アブダビを[[協定世界時]]日曜日の午前0時01分に離陸、[[インド]]上空を横断し、[[ムンバイ|ボンベイ]]からアンダマン海へ抜けて上空の航空路R468を飛行し、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(UTC4時31分)にビルマの航空管制空域に差し掛かった。
インドとビルマの国境である"TOLIS"ポイントから[[ヤンゴン|ラングーン]]の航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった<ref name="asahi19871203">朝日新聞 1987年(昭和62年)12月3日</ref>。ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、'''午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂'''し、機体は空中分解し墜落した。
[[機長]]は、[[遭難信号]]や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死した<ref>朝日新聞 1987年(昭和62年)12月4日</ref> と見られる。乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。
=== 捜索 ===
定時報告交信が途絶え、[[レーダーサイト]]のモニターに機影は無く、タイの領空に入ると予想された時刻に、航空管制当局とのコンタクトが無い事態から、858便の異常発生が発覚し、韓国標準時午後2時05分(タイ標準時午後12時05分/UTC午前5時05分)大韓航空の社内無線交信(カンパニーラジオ)に応答が無いことで、858便の遭難が確定した。
大韓航空機の捜索には、ビルマとタイの両政府当局が当たる事となった。[[タイ王国軍|タイ軍]]は捜索隊を組織し、858便が消息を絶つ迄の気象状況や経過から「泰緬国境付近のジャングルに墜落」と推定しその一帯に派遣されたが、実際には[[アンダマン海]]上に墜落していた。
[[衛星測位システム]]や当時のアンダマン海近辺の航空レーダーサイトの整備が貧弱であったことで、迅速に事故発生地点を把握することが出来ず([[2014年]]の[[マレーシア航空370便墜落事故]]で再び問題となった)、さらに墜落地点と推定されたビルマ側は、ビルマ政府と対立している[[カレン族]]が支配する[[ミャンマー内戦|紛争]]地帯であるため政府による捜索は不可能、またカレン族が[[国境]]を越えて[[武装闘争]]を繰り広げていたため、捜索隊を編成指揮したタイ側も十分な捜索活動は尽せなかった。
[[12月10日]]になってアンダマン海から事故機の機体と思われる残骸が、海上や海岸の漂着物などで次々発見、洋上の遭難が確実視されたが、墜落地点の特定は外交関係から[[1990年]]まで持ち越された。後述「被疑者の拘束」で、実行犯が確保される一方で、機体が確認されていないにもかかわらず『爆破』と断定したことは、捏造・陰謀説が一部から指摘される一因になった。
改めて推定された遭難地について、ビルマ国内紛争地帯沿岸に近い海域で、外交関係事情から捜索は限定的なものに留まり確定されないまま長期化し、漂着や現地の漁船により、858便の遺留品は救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部が偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる構造原形をとどめたものは数多く、機体の残骸が大韓航空858便であることは明らかであったが、[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]は発見できず、事件から3年後の[[1990年]][[3月10日]]に海底から回収した胴体上部外板一部に、大韓航空がオフィシャルエアラインとなっていた[[1988年ソウルオリンピック|ソウルオリンピック]]のエンブレムが記され、これがHL7406号機特有のもので858便の残骸と断定されるまで長時間を要した{{refnest|group="注釈"|[[2006年]]に金属探知機による海底の再調査が行われ水中の残骸位置が特定された。}}。
また搭乗者の完全な形での遺体は捜索が後手に回ったことや、[[インド航空182便爆破事件]]など他の多くの空中分解事故のケースと同様に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部が[[デオキシリボ核酸|DNA]]解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体が損壊中何らかの引火から機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。韓国政府の管轄部所では爆弾の位置から機体が空中分解し水上に墜落するまでの過程について、メーカー協力のもと分析を行い報告書を作成、火災の発生と続いて起こった損壊は仮定範囲の記載に留めた。
当初、空中分解の原因は事故機となったボーイング707-320BのHL7406号機([[1971年]]製造、製造番号:20522/855)固有の欠陥が原因と見られていた。このHL7406機は当初は[[大統領 (大韓民国)|大統領]]外遊時の特別機として韓国政府が使用していた{{refnest|group="注釈"|発注・受領が大韓航空経由で行われたため、モデルネームは-3B5Cとなっている。なお、大韓航空のほかの707は中古機のため、同機がこのモデルネームを持つ唯一の707でもあった。}}が、大韓航空に移管され主に国内線で運航されていた。だが事件の10年前の[[1977年]][[9月]]に[[釜山広域市|釜山]]で[[胴体着陸]]事故を起こし、事件の2か月前の[[9月2日]]にはソウルの金浦国際空港で[[降着装置|ランディングギア]]が出ずにまたしても胴体着陸する事故を起こしており、修理を終えて運航復帰した直後に発生したためであった。しかし実際には爆破テロであったことが後に判明することになる。
一方で、ソウルの[[韓国放送公社]](KBS)によれば、事件発生後に大韓航空幹部が「[[ハイジャック]]された可能性がある」と語ったという。だが、それを裏付ける証拠はなく、大韓航空はビルマ政府に情報収集を依頼した。後に爆破したと断定されたあとで「携帯できるような爆発物では航空機の壁に1mの穴を空けることしか出来ず空中爆破は出来ない」という、旅客機の航空事故に関する知識の乏しい軍事評論家の指摘<ref>朝日新聞 1988年(昭和63年)1月19日</ref>もあったが、これは与圧されていない地上で爆発した場合であり、過去の与圧されている航空機の爆破事件{{refnest|group="注釈"|[[エア・インディア182便爆破事件]]など}}において、1万メートル程度の巡航高度を飛行中の旅客機に亀裂や穴が空くと、そこから与圧された空気が噴出することで、[[風船]]が破裂する様に機体が空中分解した例が多数ある(例:[[コメット連続墜落事故]])。
=== 実行犯の拘束 ===
[[ファイル:KAL DC-10-30 HL7316 at BAH (15957236597).jpg|thumb|250px|right|バーレーン国際空港(1980年代)]]
事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に[[東アジア]]系の男女が1人ずついた。この2名は、日本のパスポートを持っており、11月30日午後にバーレーンの[[バーレーン国際空港]]に[[ガルフ・エア|ガルフ航空]]機で移動し、同国の首都[[マナーマ]]の[[ホテル]]に宿泊していた。旅券名義は「'''蜂谷真一'''(はちや しんいち)」と「'''蜂谷真由美'''(はちや まゆみ)」であった<ref name="kazoku246">[[#家族|『家族』(2003)pp.246-247]]</ref>。2人は「父親」と「娘」の関係だとされた<ref name="kazoku246" />{{refnest|group="注釈"|事件の3年前の[[1984年]]8月、金勝一と金賢姫は一度ペアを組まされ<ref name="zenkokuhaku199">[[#金賢姫|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.199-200]]</ref>、金賢姫が勝一を「おとうさん」と呼んで親子を偽装し、すべての会話を[[日本語]]で話すことを原則として、「蜂谷真一」「蜂谷真由美」名義の[[偽造]]の日本旅券でソ連<ref name="zenkokuhaku207">[[#金賢姫|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.207-208]]</ref>、[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]、[[オーストリア]]、[[デンマーク]]<ref name="zenkokuhaku213">[[#金賢姫|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.213-214]]</ref>、[[西ドイツ]]、[[スイス]]、[[フランス]]を周遊する日本人観光客の父娘として行動している<ref name="zenkokuhaku217">[[#金賢姫|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.217-218]]</ref>。賢姫は9月には金勝一と[[パリ]]で別れて、その後、[[イギリス領香港|香港]]から[[ポルトガル領マカオ|マカオ]]、[[広州市|広州]]、[[北京市|北京]]を経て10月に[[平壌直轄市|平壌]]にもどった<ref name="zenkokuhaku218">[[#金賢姫|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.218-224]]</ref>。}}。韓国側も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触していた。
一方、事件直前の1987年[[11月21日]]、[[偽造パスポート]]を所持していた罪により[[東京都|東京]]で逮捕された[[日本赤軍]]の[[丸岡修]]は、翌年にせまったソウルオリンピックを妨害するためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため韓国国家安全企画部は、早い時点で2人をマークしていた。日本政府は「[[左翼]][[日本人]]による[[反韓]]テロ事件」を懸念していた。だが、在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていたため違和感を覚え、女の旅券番号を日本の[[外務省]]に照会したところ、[[徳島市]]在住の男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した<ref>朝日新聞 1987年(昭和62年)12月6日朝刊</ref>。
「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」の2名は、バーレーンの空港で[[ローマ]]行きの飛行機に乗り換えようとしていたため、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた<ref name="kazoku246" />。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は[[タバコ|煙草]]を吸うふりをして、口の中に忍ばせていた[[シアン化カリウム|青酸カリ]]入りの[[カプセル]]を噛み砕いて[[服毒自殺]]した<ref name="kazoku246" />。現場に居た日本人外交官、砂川昌順によれば、女は[[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]に隠された青酸系毒薬のアンプルを警察官から奪い取り自殺を図ったが、すぐに警察官が飛びかかり直ちに吐き出させたため、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まり、意識不明ではあるが一命はとりとめたとされている<ref name="kazoku246" /><ref name="sunagawa" >[[#砂川|砂川(2003)]]</ref>。しかしながら、現地警察の調査や救急救命士の証言では、実際には女のカプセルは噛み砕かれておらず傷はほとんどない状態で、女は搬送される救急車内で逃げ出そうと激しく抵抗するなど意識ははっきりとしていたが、病院に到着すると一転して意識不明であるかのように装っていたとされている。<ref>{{Cite web|和書|title=金賢姫キム・ヒョンヒ大韓航空機爆破事件-北朝鮮のシナリオ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-36583|website=テレビドラマデータベース|accessdate=2021-11-16|language=ja}}</ref>
「蜂谷真由美」名義の女は一命を取りとめた。一方、自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であった。彼は「宮本明(みやもと あきら)」を名乗る男の全額費用持ちで[[フィリピン]]の[[マニラ]]とタイのバンコクに[[1983年]]([[昭和]]58年)秋に旅行したが、その翌年、「宮本」にパスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。「宮本」を名乗った男性は、[[西新井事件]](日本人2名の戸籍を乗っ取り、拉致事件などにも利用した北朝鮮工作員・[[チェ・スンチョル]]を[[日本の警察|日本警察]]が摘発した事件)にも関係していた[[在日韓国・朝鮮人|在日朝鮮人]]の補助工作員、李京雨であった。パスポートが偽造されたものであることが明確になるにつれ、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった<ref name="kazoku246" />。また、自殺した男が所持していた日本製の煙草の製造年月は4年前の「(昭和)58年4月」となっており、既に3年前には全品売り切れであったうえに[[賞味期限]]も過ぎていたため、李京雨が逮捕前に作った「小道具」の可能性が高いと判断された<ref>朝日新聞 1987年(昭和62年)12月15日</ref>。
当初、偽造パスポートが日本人名義であり、日本政府もバーレーン側に捜査協力を求めていたが、パスポート偽造は日本国内法の「[[旅券法]]違反ないし偽造公文書行使」には該当するが、韓国側が被った航空機爆破という大量殺人テロの重大性と比較して、身柄引き渡しを受けるほどの強い法的根拠がないと判断され<ref>朝日新聞 1987年(昭和62年)12月5日</ref>、身柄引き渡し請求権を放棄した<ref>[[#村野『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(2002)p.431]]</ref>。韓国への引き渡しを認めるこの判断は、当時の[[内閣安全保障室]]長である[[佐々淳行]]によれば、在バーレーン日本大使館員の判断ではなく、佐々の意見具申に基づいた「[[総理大臣官邸]]判断」であった<ref>[[#佐々|佐々(1999)]]</ref>。なお[[ワルソー条約|モントリオール条約]]では、航空機上で発生した事件の裁判権は、[[旗国主義]]により、航空機が登録されていた[[国家]](この事件の場合は韓国)にある。
=== 韓国への引き渡し ===
バーレーン警察による取り調べが行われた後、国籍も姓名も割り出せないまま「蜂谷真由美」名義の女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された<ref name="kazoku246" />。その時彼女は、自殺防止用のマウスピースをくわえさせられ、口元を大きな粘着テープで覆われ、両脇をかかえられて移動した<ref name="kazoku246" />。当初、彼女は日本人になりすましていたが<ref name="kokuhaku24">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.24-26]]</ref>、ソウルに移送されることだけは避けたいと考えて[[中国人]]になりすまそうとし、[[中華人民共和国|中国]]の[[黒竜江省]]出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた<ref name="kokuhaku35">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.35-36]]</ref>。ソウルの国家安全企画部で行なわれた尋問でも、最初は中国出身であるように装っていた<ref name="kokuhaku35" />{{refnest|group="注釈"|尋問に対し「不知道!(知らない!)」と中国語で返答するなどしており、これは当時の日本のニュースでも報じられた。}}。しかし、取調官からの連日の事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする説明の数々の矛盾点を指摘された上{{refnest|group="注釈"|取調官に出身地を聞かれた金賢姫は黒竜江省「[[五常市]]」と繰り返し答えたが、当時は五常'''市'''ではなく五常'''県'''であったため、嘘が見破られることとなった<ref name="kokuhaku122">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.122-123]]</ref>。ちなみに五常県が五常市に移行したのは事件から6年後の[[1993年]]の事である。また、金賢姫の話す[[中国語]]が[[広東省]]訛りであったことも、「黒竜江省(同地は[[北京語]]圏)出身」が嘘であることが見破られるきっかけになった<ref name="kokuhaku122" />。2010年(平成22年)放映の『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』では、金賢姫の証言にもとづいて、このシーンが描かれていた。}}、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、北朝鮮ブランドの「チンダルレ」と答えて捜査員にも笑われる事態となり<ref name="kokuhaku124">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)p.124]]</ref>、また捜査員に夜のソウル市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる繁栄ぶりに驚愕し<ref name="kokuhaku132">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.132-146]]</ref>、ついに自分が[[朝鮮労働党中央委員会]]調査部所属の特殊工作員、金賢姫であると自白し、航空機爆破の犯行を自供した<ref name="kazoku246" />。服毒自殺した「蜂谷真一」名義の男は、同じく北朝鮮の工作員、金勝一であることが判明した。なお、金賢姫の供述によれば、爆発物は時限装置付きの[[プラスチック爆弾]]が入った携帯[[ラジオ]]と液体爆弾が入った酒ビンであるとされた。爆弾は2人の座っていた機体前方の7Aと7B近くのラックの中に入れており、爆発物は彼女がバッグの中に入れて機内に持ち込んだと供述した。
[[2019年]][[3月31日]]、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時の[[全斗煥]]政権が大統領選挙を前に、金賢姫を韓国に移送しようとしていたことが明らかになった<ref>{{Cite news|title=大韓航空機爆破やソウル五輪で新事実 韓国が外交文書公開|date=2019-03-31|url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190331000200882?section=politics/index|accessdate=2019-03-31|language=ja-JP|work=聯合ニュース}}</ref>。
== 実行犯 ==
実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった<ref name="shimizu138" />。2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為におよんだもので、父娘であると偽り、テロ実行のために旅行していた。
韓国当局の取調べによれば、2人は[[11月12日]]に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都[[モスクワ]]へ[[高麗航空|朝鮮民航]](現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこで[[アエロフロート]]便に乗り換え当時[[社会主義国]]だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている<ref>朝日新聞 1988年(昭和63年)2月19日朝刊</ref>。この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。6日間滞在したあとウィーンから11月23日発の[[オーストリア航空]]621便でユーゴスラビアのベオグラードに移動して5日間滞在した。2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる<ref name="asahi19871203" />。
11月28日にベオグラードからバグダードへイラク航空226便で移動し、その日のうちにバグダードで大韓航空858便に搭乗していた。なお、2人が機内に持ち込んだのは酒瓶に入った[[液体爆弾]](「[[PLX]]」と推測される)と、[[豆腐]]大の「[[C-4 (爆薬)|コンポジション4]]」という[[プラスチック爆薬|プラスチック爆弾]]と時限爆破装置を仕込んだ日本製[[トランジスターラジオ]]([[パナソニック]]製AM/FMラジオRF-082型を改造したもので、実際にラジオとして動作する)であった(トランジスターラジオの時限爆破装置は電池がなければ作動できない構造)。
ベオグラードでイラク航空に搭乗した際には、当時[[イラン・イラク戦争]]の最中でありイラクが戦時体制にあることから電池を取り上げられていた。そのため大韓航空機に搭乗する際にはイラクの空港職員に対して「個人の持ち物まで没収するのか」と金勝一が抗議し、電池は返却されたという。しかし、「当時戦時中であり、厳戒態勢が敷かれていたイラクの空港職員が、乗客の抗議によって規則を曲げるなどありえないことである」との意見を元に、この証言は金賢姫の捏造との指摘がある。なお、イラクはイランへの支援を理由に[[1980年]]から北朝鮮と国交断絶状態にあった<ref>{{cite journal|和書|author=小牧輝夫 |year=1981 |url=https://doi.org/10.20561/00039211 |title=労働党第6回大会の年 : 1980年の朝鮮民主主義人民共和国 |journal=アジア動向年報1981年版 |publisher=アジア経済研究所 |doi=10.20561/00039211 |pages=67,77 |quote=Ja/3/Aj4/81ZAD198100_004}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.ncnk.org/resources/briefing-papers/all-briefing-papers/dprk-diplomatic-relations|title=DPRK Diplomatic Relations|publisher=National Committee on North Korea|accessdate=2016-08-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.erina.or.jp/columns-opinion/5613/|title=イラン・イラク戦争における北朝鮮のイラン派兵|author=宮本悟|publisher=環日本経済研究所|date=2007-08-01|accessdate=2016-08-29}}</ref>。
2人がアブダビで降機した後に、機内のハットラックに(手荷物に隠された)爆発物が残されていたのを[[客室乗務員]]が発見出来なかった事を疑問視する声もあり、「忘れ物の確認作業を怠った可能性がある」ともいわれる<ref>[[#稲垣|稲垣(1994)p.210]]</ref> が、この便の様に複数の経由地を経由し、各経由地で乗客が乗降しつつ最終目的地に向かう便の場合は、経由地で機内に手荷物を残したままトランジットエリアに行く乗客は珍しくない。経由地でハットラックなどに手荷物が残っていてもそれが忘れ物であるとは認識しない可能性が高い。また忘れ物として手荷物を発見していても、それが爆発物である事には気付かない可能性もあるが、いずれにしても、この事件で客室乗務員も全員殉職しているため真相は不明である。
金賢姫の回顧録によれば、大韓航空機でアブダビに到着した乗客は一旦全員機外に出されている<ref name="kokuhaku226">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.226-229]]</ref>。この時2人はローマまでの航空券を所持しており、脱出用にアブダビから直接ローマに向う航空券と撹乱用にバーレーンに向ったと見せかけるための実際に使用した航空券も持っていた<ref name="kokuhaku226" />。2人は二つの航空券を使用することで「足がつかないように」するつもりであった<ref name="kokuhaku226" />。しかしアブダビのトランジットエリアで航空券のチェックが行われた<ref name="kokuhaku226" />。このチェックは事前に北朝鮮当局が知らなかったことであった<ref name="kokuhaku226" />。そのため撹乱用の航空券を使わざるを得なくなり、2人はやむなくバーレーンに向い、次のローマ行きの便まで滞在する破目になったという<ref name="kokuhaku226" />。そのためバーレーンで足止めされていなければ北朝鮮に逃亡していた可能性が高い。
金賢姫は「[[外交官]]の父を持ち、北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」とされており、[[ザイール]]駐在大使館員[[高英煥]](後に亡命)は、駐[[アンゴラ人民共和国|アンゴラ]]水産代表部にいた金賢姫の父親は事件直後に本国に急遽呼び戻されたと語っている。[[平壌外国語大学]][[日本語学科|日本語科]]に在籍中に北朝鮮の工作員として召喚され<ref name="zenkokuhaku141" />、[[金正日政治軍事大学|金星政治軍事大学]]に入学させられて日本人になりすまして謀略活動をおこなうための訓練をされており<ref name="zenkokuhaku159">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.159-164]]</ref>、北朝鮮工作員の海外拠点であった[[ポルトガル領マカオ|マカオ]]に同僚の[[金淑姫]]とともに何度も滞在していた<ref name="zenkokuhaku241">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.241-244]]</ref><ref name="zenkokuhaku255">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.255-257]]</ref>。「[[李恩恵]]」と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致]]されたとされる[[田口八重子]]とみられている)に、[[日本語教育]]や[[日本の文化|日本文化]]の教育を受け<ref name="zenkokuhaku170">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.170-189]]</ref>、「蜂谷真由美」という日本人名を使用し、[[日本語]]を巧みに使って日本人に[[なりすまし]]ていた<ref name="zenkokuhaku211">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.211-220]]</ref>。
== 事件の動機 ==
{{seealso|1988年ソウルオリンピック#北朝鮮との共同開催案}}
北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による[[自作自演]]を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に[[金日成]][[朝鮮民主主義人民共和国主席|主席]]の後継者に指名されていた金正日がとったものと考えられている<ref name="nishioka162">[[#西岡|西岡(2002)pp.162-165]]</ref>。このテロの目的は、
# 韓国大統領選挙直前に与党候補に打撃を与えるとともに韓国社会を混乱に陥れるため
# ソウルオリンピックへの参加申請を50日後にひかえ、ソ連や中国などの社会主義国([[東側諸国]])が参加する可能性が高まり、孤立感を強めた北朝鮮が、韓国のオリンピック単独開催、または開催そのものを阻止するため
であったといわれる<ref name="shimizu138">[[#清水|清水(2004)p.138]]</ref>。すなわち、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年に行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであり、具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックを[[ボイコット]]させる動機のひとつにしようというものであった。
ただし、[[西岡力]]によれば、この事件は単にソウルオリンピックを潰すためにその場で思いついたテロではなく、10年がかりの陰謀であるという<ref name="nishioka162" />。たとえば、もし、金賢姫が自殺に成功していた場合、東洋人の死体2つと偽造パスポートがそこに残るだけとなり、当時は中東で[[重信房子]]の日本赤軍が活動していたのだから、彼らが115人の乗った飛行機を爆破した可能性が高いとされたであろうし、逆に金勝一と金賢姫が逃亡に成功したら、搭乗者リストには蜂谷真一・蜂谷真由美という身元不明の日本人の名だけが残ることになる<ref name="nishioka162" />。いずれにしても、多数の韓国人乗客を爆殺させたのは日本人ということになる<ref name="nishioka162" />。
北朝鮮による偽装日本人テロは、これが初めてではなく、[[1974年]]には[[在日本朝鮮人総聯合会|在日本朝鮮人総連合会]]が在日韓国人[[文世光]]を洗脳し、[[朴正煕]]大統領の暗殺を指示した[[文世光事件]]([[陸英修]]狙撃事件)があった<ref name="nishioka158">[[#西岡|西岡(2002)pp.158-161]]</ref>。このとき、日本のメディアは朝鮮総連による情報操作などもあって韓国側の自作自演という説をまことしやかに報道した<ref name="nishioka158" />。それに対し、韓国側は「日本もかかわっていながら謝罪どころか自作自演などという妄言を続けている」「韓国へのテロを平然と見逃し、しかも弁護すらしている」と言う認識に基づく[[反日感情]]から大デモ行進が起こり、大使館の窓が全部割られ、[[日本の国旗|日本国旗]]が引きずりおろされて大使館員が殴打されるという事態に発展した<ref name="nishioka158" />。在日韓国人のテロというだけでこれほどの反日運動が生起しており、もし、左翼日本人によるテロと言うことになった場合、[[日韓関係]]が修復できないほどに悪化しただろうと考えられている<ref name="nishioka162" />。
しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮のパスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていたソ連と中国は正式に参加を表明し、他の東欧諸国も追随して参加を表明した。金賢姫が偶然自殺に失敗し、韓国当局にすべて自身の犯罪を自供することによって、日本も予定どおり参加することができた<ref name="nishioka162" />。北朝鮮の目論見は、完全に裏目に出たのであった。
その後、北朝鮮は米韓合同軍事演習を「戦争の瀬戸際だ」と喧伝し、有事の際の支援を要請したが、中ソ両国からは逆に反感を買っている<ref name="naitoh218">[[#内藤|内藤(2001)pp.218-219]]</ref>。翌年の6月には金日成が中ソ両国を訪問したが、その場で「これ以上オリンピックの妨害工作をするのであれば、北朝鮮が1989年に開催する第13回世界青年学生祭典には参加しない」と、圧力をかけられたという<ref name="naitoh218" />。
[[ファイル:Korean Air Flight 858 Memorial.jpg|thumb|250px|事件の慰霊碑]]
ソ連の[[タス通信]]は当時「事件は事実である」と伝えたうえで、「実行犯の自白のみが証拠であり、韓国当局による捏造説とする見方もある」と報道しはしたが<ref>朝日新聞 1988年(昭和63年)1月16日</ref>、北朝鮮の主張を擁護するものではなかった。以上のことから、事件に対して直接的な批判こそされなかったものの、事実上、北朝鮮は同盟国である他の社会主義国陣営からも見捨てられたといえる。なお、ソ連は事件及びソウルオリンピック後の[[1990年]]に、中国は[[1992年]]に、北朝鮮の激しい抗議を無視し、それぞれ韓国との国交を樹立した。
事件後に当事国のみならず世界各国により北朝鮮への非難が巻き起こったものの、北朝鮮が意図した「韓国の信頼低下」という現象は起こらず、翌1988年には殆どの東側諸国や非同盟中立諸国も参加するかたちでソウルオリンピックが開催された。また、テロ事件は、他国への主権侵害である日本人や[[北朝鮮による韓国人拉致問題|韓国人]]、[[レバノン|レバノン人]]などに対する拉致問題や[[ラングーン事件]]などのテロ事件と並んで、北朝鮮による国家犯罪の典型として周知され、北朝鮮は世界中から非難を招いて国際的に孤立した。
== 事件のその後 ==
=== 事件後の北朝鮮 ===
北朝鮮当局は現在に至るまで事件への関与を否定しているため、事件の謝罪を行っていない。ただし日本では、服毒死した金勝一の偽造日本国旅券作成の過程で、日本在住の北朝鮮工作員が[[背乗り]]に関与したほか、日本人拉致被害者の田口八重子に関する金賢姫の話を「信憑性があるもの」と受け取られている。
金日成の母方の従兄弟で、北朝鮮の[[姜成山]]前[[朝鮮民主主義人民共和国の首相|首相]]の娘婿である[[康明道]](亡命者)の著書『北朝鮮の最高機密』によれば、事件後の1988年当時、[[平壌直轄市|平壌]]では金賢姫の話題で持ちきりであった<ref name="kang" >[[#康|康(1998)]]</ref>。「[[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]」は連日、韓国の国家安全企画部が金賢姫をでっちあげ、事件を捏造していると報道した<ref name="kang" />。しかし、康明道は平壌外国語大学日本語科出身の張チョルホの話として、「金賢姫が平壌外国語大学日本語科に在籍していたが、調査部が連れて行った」と記しており、金賢姫の証言とも一致している<ref name="kang" /><ref name="zenkokuhaku141">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.141-149]]</ref>{{refnest|group="注釈"|金賢姫は、「金玉花」の名をあたえられ、金淑姫と何度もペアを組まされ、彼女と同居しながらの工作員教育を受けた<ref name="zenkokuhaku150">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.150-159]]</ref>。}}。また、北朝鮮の元工作員・[[安明進]]によれば、北朝鮮当局は金賢姫が「北朝鮮の工作員ではない」と最後まで否定したが、工作員養成学校である[[金正日政治軍事大学]]では、金賢姫が対外情報調査部に所属する[[スパイ|工作員]]であることを教官も生徒も誰もが知っていたとのことである<ref name="1ahn41">[[#安1|安明進(2000)pp.41-44]]</ref>。
その後、北朝鮮での南北赤十字会談([[1972年]])のとき、張基栄に金賢姫が花束をささげたのは捏造で、本当は私がささげた、と主張する女性(鄭姫善)が[[平壌直轄市|平壌]]に現れ、朝鮮総連を経由して録画ビデオがマスコミに配られる事件が起きた(もっともその映像で骨格などの照合により、名乗り出た女性こそ捏造であったことが即座に解明された)<ref name="kokuhaku288">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.288-290]]</ref><ref name="zenkokuhaku48">[[#金賢姫2|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(下)』(1991)pp.48-52]]</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1988/nwdesk/article/1807961_29513.html 일 과학경찰연구소, 사진잡지 꽃다발 든 소녀 김현희 확실]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1988年3月28日)</ref>。この事件は、自殺に失敗はしたが青酸ガスのため3日間意識不明になるなど命をかけて任務を遂行した金賢姫に、北朝鮮が利用するだけ利用して容赦なく捨てたことを認識させ、完全に転向するきっかけとなった<ref name="kokuhaku288" />。彼女は、このとき初めて祖国に裏切られたと感じたという<ref name="kokuhaku288" />。
安明進によれば、金正日は金賢姫が大韓航空機爆破には成功したものの自殺に失敗し、韓国に連行され北朝鮮の工作員であることや破壊工作の詳細を自白したことを知ると激怒した<ref name="1ahn44">[[#安1|安明進(2000)pp.44-47]]</ref>。まず、対外調査部長は解任され、前モスクワ駐在大使であった[[権煕京]]が後任になった<ref name="1ahn44" />。また、金正日が「いつでも女性が問題を起すのだ。女性工作員の数を大幅に削減しろ!」と命令し、女性工作員の訓練地区であった10号棟双鷹地区を完全に閉鎖した<ref name="1ahn44" />。一時期は北朝鮮のスパイ組織である[[朝鮮労働党#情報・諜報機関|3号庁舎]]で女性工作員をまったく採用しなくなった<ref name="1ahn44" />。
さらに、大韓航空機爆破事件から3年後の[[1991年]]6月、金賢姫の手記『金賢姫全告白 いま、女として』が発行されるや、日本語版が北朝鮮に輸入された後[[朝鮮語]]に再翻訳され、教官や安明進を含む大学関係者が読んだとされる<ref name="1ahn41" />。金正日も同書を読み、金賢姫の転向は大学の教育が間違っているせいだ、と指摘した<ref name="1ahn44" />。金賢姫は「韓国は乞食と娼婦があふれていると教育されてきたが、実際の韓国の豊かさや自由を見て北朝鮮政府に騙されていたことを悟り転向した」と綴っている<ref name="1ahn44" />。
その結果、金正日政治軍事大学では、韓国の実情を具体的に生徒に知らせる教育が始まった<ref name="1ahn44" />。一方で、安明進のように、北朝鮮の現状に疑問を持つ工作員を生むことになった。また金賢姫が死刑判決後特赦を受けたことも、[[亡命]]への希望を持たせることとなった。
=== 裁判 ===
金賢姫は韓国における1年間の取調べの後、「[[トランジスタラジオ]]にセットした時限爆弾で858便を爆破した」と認定され、韓国の国家保安法、航空法、航空機運航安全法違反で[[1989年]][[2月3日]]に[[起訴]]された<ref>{{KBS NEWS|3685195|대한항공기 폭파범 김현희 불구속 기소}}(KBS9時ニュース、1989年2月3日)</ref>。韓国の[[裁判所]]は一・二審とも[[死刑]]判決を下し、[[1990年]][[3月27日]]に確定した<ref>{{KBS NEWS|3694049|김현희 KAL 858편기 폭파범 사형 여부}}(KBS9時ニュース、1990年3月27日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1990/nwdesk/article/1832316_30435.html KAL기 폭파범 김현희, 사형 확정]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1990年3月27日)</ref>{{refnest|group="注釈"|泣き叫ぶ遺族を前にして、彼女は「ただ、自分が死ぬことだけが、彼らの恨(ハン)をはらしてあげる唯一の道だ」と考えたという<ref name="kokuhaku11">[[#金賢姫1|金賢姫『金賢姫全告白 いま、女として(上)』(1991)pp.11-16]]</ref>。北朝鮮に残した家族の顔が走馬灯のように流れ、涙がとめどなく流れたが、その後はかえってさっぱりした心境になったという<ref name="kokuhaku11" />。}}。
しかし、盧泰愚大統領は「事件の生き証人」という政治的な配慮から、事件遺族の抗議の中、同年[[4月12日]]に[[恩赦#朝鮮・韓国|特赦]]した<ref>{{KBS NEWS|3694049|대한항공 여객기 폭파범 김현희 특별 사면}}(KBS9時ニュース、1990年4月12日)</ref><ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1990/nwdesk/article/1832859_30435.html 대법원, 김현희 특별사면 조치]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1990年4月12日)</ref>。また[[5月16日]]にはソウルの教会で取材が行われ、キリスト教への入信と北朝鮮の体制批判をした<ref>[https://imnews.imbc.com/replay/1990/nwdesk/article/1834019_30435.html 특별사면된 김현희 신앙간증]{{ko icon|kr=1}}(MBCニュースデスク、1990年5月16日)</ref>。6月20日に行われた会見で飛び出した話の一つが前述の「李恩恵」の話であった<ref>{{KBS NEWS|3695619|북한 테러 재현 가능성}}(KBS9時ニュース、1990年6月20日)</ref>。
== 金賢姫のその後 ==
{{Main|金賢姫}}
1991年には自伝的手記『金賢姫全告白 いま、女として』も出版し、1997年に[[大韓民国国家情報院|韓国国家安全企画部]](現・国家情報院)部員と結婚し子供も授かった。なお金に対し日本では「元[[死刑囚]]」ないし「元工作員」という呼称が付けられて報道されている。
[[1997年]]以降は、公式の場から姿を消していたが、これは[[盧武鉉]]など革新政権が、北朝鮮に融和的な[[太陽政策]]を採っており、金の存在を目立たなくするための措置との指摘<ref name="asahi20090312">朝日新聞 2009年(平成21年)3月12日</ref> もある。[[2004年]]12月、ソウルの検察当局は訴訟を受けて、事件関連記録のうち、[[個人情報]]関係を除く全てについて[[情報公開]]を決定した。これについて金は、北朝鮮の工作員として関与した事件を否定するようにと、当時の韓国政府からの圧力だったと後に主張している<ref>中央日報 2009年3月11日社説</ref>。
[[2008年]]には、金が当時の政権によって捏造されたとする説に対して、知人宛の[[手紙]]を通じて反論している。この手紙は北韓民主化フォーラムの李東馥代表の手に渡り、11月25日に自身のホームページで内容を公開した。それによれば、金は2003年にある報道番組への出演を要請されたが、当時は盧武鉉政権下で国家情報院といった政府機関や、マスコミが事件捏造説を盛り上げていたこと、前述の番組を放送するテレビ局が政権寄りだったことから、出演すれば事件に関して偽証していると仕立て上げられることを警戒し、出演を拒否したこと、さらに番組への出演を断ったためか、非公開のはずの自宅にマスコミが押しかける[[嫌がらせ]]を受けたと主張している<ref>{{Cite news|title=金賢姫元死刑囚、大韓機爆破事件の捏造説に手紙で反論|newspaper=読売新聞|date=|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081126-OYT1T00754.htm|accessdate=2008-11-26}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。
[[2009年]][[3月11日]]に、[[釜山広域市|釜山]]で田口八重子の兄および実子と会談したが、この場において金は「大韓航空機爆破事件は私がやったことだ。北朝鮮によるテロに間違いない」とした後に、一部から出ている捏造説を「残念だ」と一蹴した。また「盧武鉉政権時代に、情報機関の国家情報院に、捏造説を認めるよう強いられていた」という趣旨の発言をして<ref name="japanesejoins">{{Cite news|title=【社説】国情院「大韓航空機爆破ねつ造説」に介入したか |newspaper=中央日報 |date=2009-03-12 |url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=112514&servcode=100§code=110 |accessdate=2009-03-13}}</ref>、捏造であったことを認めるように、政府から迫られたと主張している。
なお、金は現在に至るまで事件の犠牲者遺族と対面や対話などをしていない。そのため、日本人拉致被害者と会談するにあたり、遺族会が韓国政府に金が事件の遺族に会わないことを非難する申し入れをした<ref name="asahi20090312" />。
事件当時、[[アンゴラ人民共和国|アンゴラ]]駐在の北朝鮮貿易代表部の水産代表だったとされる金の父一家の消息は事件後不明となっており、[[朝鮮民主主義人民共和国の強制収容所|強制収容所]]にいるという説があったが、[[2012年]]1月に[[アジアプレス・インターナショナル|アジアプレス・ネットワーク]]が伝えるところでは、一家と親しかった[[脱北者]]の話として支配階層が居住する平壌から、1988年に[[日本海]]側にある[[咸鏡北道]]・[[清津市]]に、一家は強制移住させられ、現在も厳しい監視下におかれているという。それによれば父と姉は死亡、母は高齢であるが生存しており、大学を中退させられた弟一家が生活を支えているという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asiapress.org/apn/archives/2012/01/30140535.php|title=金賢姫の家族が清津にいる|publisher=アジアプレス・ネットワーク|accessdate=2012-02-08}}</ref>。
[[文在寅]][[政権]]発足後は、韓国国内で従北勢力が活発化したことに伴い、司法もその影響を強く受けることとなり、[[2018年]][[7月26日]]には、本事件が[[全斗煥]]による自作自演の反共テロであると唱える家族会への批判が「[[名誉毀損]]である」として、刑事事件化されたことが報じられた<ref>{{Cite news|title=韓国警察 金賢姫元死刑囚への捜査に着手=遺族の名誉毀損容疑|date=2018-07-26|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/07/26/0200000000AJP20180726000200882.HTML |accessdate=2018-08-28|language=ja-JP|work=聯合ニュース}}</ref><ref>{{Cite news|title=「大韓航空機爆破事件」遺族ら、金賢姫を告訴…「私たちを北朝鮮追従者と罵倒」| author =한겨레 |url=http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31192.html |accessdate=2018-08-28}}</ref>。
== 陰謀説・捏造説 ==
事件直後から、北朝鮮当局により「韓国情報機関による謀略」であるとの説がさかんに喧伝された<ref name="lee200">[[#李|李(1999)pp.200-201]]</ref>。韓国人労働者の乗った飛行機を爆破して、北朝鮮にいったい何の得があるのかと考える人びとは、謀略説を支持した<ref name="lee200" />。
事件は北朝鮮工作員による犯行という韓国政府の発表に対し、左翼系諸団体などにより[[陰謀]]ないし[[捏造]]であるとする説が唱えられた。一部ではあったが、北朝鮮ないし[[在日本朝鮮人総聯合会|朝鮮総連]]による当初の主張を受けて、[[日本社会党]]や日韓の一部マスコミなどが「本当に北朝鮮の工作員による犯行だったのか」として、「大統領選挙で与党候補を当選させるために韓国国家安全企画部(現・[[大韓民国国家情報院]])が仕組んだ謀略ではないか」という「自作自演」であるとする[[陰謀論]]が主張されたことがある。
日本社会党は長年にわたり北朝鮮の指導政党である[[朝鮮労働党]]と友好関係にあったため(その上韓国政府を国家として公認していなかった)、北朝鮮当局の主張をそのまま受けて「北朝鮮は同事件に関与していない」として擁護していた。そのため、同党の[[井上一成]]国際局長が北朝鮮当局の事件への関与を認める発言を「問題発言」として撤回させる事態も発生した<ref name="asahi19880318">朝日新聞 1988年3月18日</ref>。一方で北朝鮮と対立関係にあった[[日本共産党]]は社会党の一連の北朝鮮擁護の姿勢に対し事件への北朝鮮の関与は明らかであるとして厳しく批判していた<ref name="asahi19880318" />。そうしたなか、日本社会党の機関紙「[[社会新報]]」の1988年5月24日付けの紙面は「大韓航空機爆破事件は日米韓とバーレーンの関係国による国際的詐欺である」とすることを韓国の[[金貞烈]]前首相が認める「良心宣言」をしたとする報道をした<ref>朝日新聞 1988年(昭和63年)5月28日</ref>。この記事については裏付け取材を全くしていない虚偽報道であったとして、記事の全面取消しと編集長の更迭がなされた。この報道のニュースソースは韓国政府から[[反国家団体]]認定を受けている「[[在日韓国民主統一連合|韓国民主回復統一促進国民会議]]」(韓民統)日本支部の機関紙「民族時報」1988年5月21日付けの紙面であったが、さらにソースを辿ると[[朝鮮中央通信]]が2月に配信した捏造による[[プロパガンダ]]ニュースであり、朝日新聞が「韓国の前首相がこのような発言をする可能性はありえない」とするなど、日韓の報道機関も無視していた記事であった。この「社会新報」の記事をタイプしたものを、北朝鮮の記者が[[板門店]]で「こういう情報もある」と配っていたともいわれる<ref>朝日新聞 1988年(昭和63年)5月29日</ref>。北朝鮮側は、事件に関与していない事を主張するため、虚偽の情報を発信していた。
なお、ジャーナリストを名乗る[[野田峯雄]]が1990年に発表した『破壊工作―大韓航空機爆破事件、葬られたスパイたちの肖像』では、野田は、バーレーンの病院で「担当医師」から「金勝一は瀕死の状態だったが、金賢姫には何の異常もみられなかった」との証言を得たとして、金賢姫は本当に北朝鮮の工作員なのかと疑問を呈した。[[2003年]]には、韓国の作家が事件は韓国の国家安全企画部(現・国家情報院)が仕組んだ謀略だとする小説『背後』を発表、韓国でベストセラーとなった。しかし、韓国の国家安全企画部が韓国人乗客を殺害して何のメリットがあるのかは不明であり、これは、大きな事件が起きたときに見られる特徴的な陰謀論だという。[[2001年]]に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]が「[[アメリカ合衆国連邦政府]]の自作自演である」という主張に酷似しているといわれる。
[[2005年]]、韓国政府は捏造説の真偽を調査し「政治的に利用されたのは事実であるが、事件自体は真実である」という調査結果を公表している{{refnest|group="注釈"|1987年当時の「韓国政府の自作自演」による捏造説であるが、韓国の[[中央日報]]は、政府から圧力を受けたとする金の主張が真実であれば、前政権の誰かがあおった疑いがある<ref name="japanesejoins" /> と主張している。なお、韓国では「北朝鮮寄りの理念を拡散させた」場合には、国家保安法によって処罰される可能性がある。しかしながら[[文在寅]]政権下では、従北勢力が何らかの批判にさらされる状況下にはなく、却って金が「本事件を韓国当局の陰謀である」と唱える従北勢力を批判したことが、名誉毀損として刑事事件化する事態に陥っている。}}。2020年には、[[文化放送 (韓国)|韓国文化放送]]が、大韓航空858便と推定される航空機の胴体がミャンマーの海底で発見されたと報道し、遺族らは胴体の引き揚げと真相究明を求め、韓国政府も調査に乗り出すことになった<ref>{{Cite news|title=韓国政府、33年前の「金賢姫大韓航空機テロ」も再調査か|date=2020-05-22|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/22/2020052280085.html|accessdate=2020-05-23|language=ja-JP|work=朝鮮日報}}</ref>。
なお、北朝鮮国内では、[[李英和]]が平壌に[[留学]]していた[[1991年]]、李が知人から「あの娘はどうなったか。[[死刑]]になったか」と金賢姫の安否を聞かれたことがあったという<ref name="lee200" />。「死刑判決が下りたが、恩赦で釈放された」と李が答えると、彼は安心して「小さな頃から気立てが良くて、器量良しな娘だった。せっかくうまく任務をやり遂げたのに、捕まってかわいそうに」と語ったという<ref name="lee200" />。金賢姫を実際に知る人からすれば、謀略説はありえないということになる<ref name="lee200" />。
== 事件関連の作品 ==
=== 音楽 ===
[[RCサクセション]]『[[秘密諜報員|シークレット・エージェント・マン]]』([[ジョニー・リヴァース]]が歌った「{{仮リンク|秘密諜報員ジョン・ドレイク|en|Danger Man}}」のテーマソングのカバー)は、当事件を題材にして歌った。[[1988年]]([[昭和]]63年)発表のアルバム「[[COVERS (RCサクセションのアルバム)|COVERS]]」に収録。冒頭、[[金賢姫]]の[[記者会見]]の音声の一部が収録されている。
=== 映画 ===
韓国では[[申相玉]]監督により、『[[政治犯・金賢姫/真由美]]』という題で映画化され、[[1990年]]に公開された。
=== テレビドラマ ===
日本では、2002年(平成14年)前後に[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に対する[[マスメディア|マスコミ]]報道が過熱し、ほぼ同時期に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列でこの事件が『完全再現!真実の物語 金賢姫 大韓航空爆破事件〜北朝鮮のシナリオ』というタイトルで2時間の[[テレビドラマ]]化され、大きな反響を呼んだ。このドラマは、金ら実行犯側から見た事件の流れを追ったものであった<ref>{{Tvdrama-db|36583|金賢姫キム・ヒョンヒ大韓航空機爆破事件-北朝鮮のシナリオ}}</ref>。
[[2007年]]([[平成]]19年)[[12月15日]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系の[[土曜プレミアム]]特別企画として『[[大韓航空機爆破事件から20年 金賢姫を捕らえた男たち 〜封印された3日間〜]]』という題でドラマ化された。原作は事件に関わった外交官の一人であった砂川昌順の『極秘指令 金賢姫拘束の真相』であり、バーレーンやアブダビに駐在した日本人[[外交官]]からの視点で描かれていたものである<ref>{{Tvdrama-db|40331|金賢姫を捕らえた男たち}}</ref>。
[[2010年]](平成22年)[[12月13日]]、[[TBSテレビ|TBS]]系の[[月曜ゴールデン]]特別企画『大韓航空機爆破23年目の真実〜独占金賢姫11時間の告白&完全再現ドラマ・私はこうして女テロリストになった…』が放送された。当初[[11月29日]]に放送される予定であったが、北朝鮮による[[11月23日]]の[[延坪島砲撃事件]]および緊迫した朝鮮半島情勢を勘案し、放送を延期した<ref>{{Tvdrama-db|44231|大韓航空機爆破23年目の真実}}</ref>。
== 大韓航空機爆破事件に関連する作品 ==
* 『[[ザ!世界仰天ニュース]]』・「元北朝鮮スパイ!金賢姫の真実の2時間SP」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])2023年3月21日放送・この放送では、金賢姫への単独取材が行われた<ref>[https://www.ntv.co.jp/gyoten/ 番組ホームページ]</ref>。
* 『[[ワールド極限ミステリー]]』・「大韓航空機爆破事件 金賢姫が独占告白」 ([[TBSテレビ|TBS]])2023年11月15日放送<ref>{{Cite news2|title=ワールド極限ミステリー★北朝鮮スパイ金賢姫告白…大韓航空機爆破&愛した人は韓国人|url=https://datazoo.jp/tv/%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E6%A5%B5%E9%99%90%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC/1679031|newspaper=TVでた蔵|publisher=[[ワイヤーアクション (企業)|ワイヤーアクション]]|accessdate=2023-11-19|df=ja}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=安明進|authorlink=安明進|translator=[[金燦]]|year=2000|month=3|title=北朝鮮拉致工作員|publisher=[[徳間書店]]|series=[[徳間文庫]]|isbn=978-4198912857|ref=安1}}
* {{Cite book|和書|author=安明進|translator=太刀川正樹|year=2005|month=4|title=新証言・拉致|publisher=[[廣済堂出版]]|isbn=4-331-51088-3|ref=安2}}
* {{Cite book|和書|author=稲垣武|authorlink=稲垣武|year=1994|month=8|title=「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任|publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]|isbn=978-4163491707|ref=稲垣}}
* {{Cite book|和書|author=康明道|authorlink=康明道|translator=[[尹学準]]|year=1998|month=11|title=北朝鮮の最高機密|series=文藝春秋|publisher=文春文庫|isbn=4-09-403431-5|ref=李}}
* {{Cite book|和書|author=北朝鮮による拉致被害者家族連絡会|authorlink=北朝鮮による拉致被害者家族連絡会|editor=米澤仁次・近江裕嗣|year=2003|month=7|chapter=第5章 「子供を守りきる」戦い:原敕晁・田口八重子|title=家族|publisher=[[光文社]]|isbn=4-334-90110-7|ref=家族}}
* {{Cite book|和書|author=金賢姫|authorlink=金賢姫|translator=[[池田菊敏]]|year=1991|month=10|title=金賢姫全告白 いま、女として(上)|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-345640-6|ref=金賢姫1}}
* {{Cite book|和書|author=金賢姫|translator=池田菊敏|year=1991|month=9|title=金賢姫全告白 いま、女として(下)|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-345650-3|ref=金賢姫2}}
* {{Cite book|和書|author=佐々淳行|authorlink=佐々淳行|year=1999|month=2|title=謎の独裁者 金正日|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=978-4167560041|ref=佐々}}
* {{Cite book|和書|author=清水惇|authorlink=清水惇|year=2004|month=5|title=北朝鮮情報機関の全貌―独裁政権を支える巨大組織の実態|publisher=[[光人社]]|isbn=4-76-981196-9|ref=清水}}
* {{Cite book|和書|author=砂川昌順|authorlink=砂川昌順|year=2003|month=9|title=極秘指令〜金賢姫拘束の真相|publisher=NHK出版|isbn=978-4140808153|ref=砂川}}
* {{Cite book|和書|author=内藤陽介|authorlink=内藤陽介|year=2001|month=1|title=北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国|publisher=竹内書店新社|isbn=4-8035-0316-8|ref=内藤}}
* {{Cite book|和書|author=西岡力|authorlink=西岡力|year=2002|month=10|title=金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実|publisher=徳間書店|isbn=4-09-403431-5|ref=西岡}}
* {{Cite book|和書|author1=西岡力|author2=趙甲濟|authorlink2=趙甲濟|year=2009|month=5|title=金賢姫からの手紙|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4-7942-1709-7|ref=手紙}}
* {{Cite book|和書|editor1=村野薫|editor1-link=村野薫|editor2=事件犯罪研究会|year=2002|month=7|title=明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典|publisher=[[東京法経学院出版]]|isbn=978-4808940034|ref=村野}}
* {{Cite book|和書|author=李英和|authorlink=李英和|year=1999|month=9|title=朝鮮総連と収容所共和国|series=[[小学館文庫]]|publisher=[[小学館]]|isbn=4-09-403431-5|ref=李}}
* 徐鉉佑 金載協『背後―金賢姫の真実』幻冬舎、2004年。ISBN 4344006267。
* 中川信夫『疑惑の真由美事件―あの大韓機はどこへ行ったか』柘植書房新社、1988年(昭和63年)。ISBN 4806802557。
* 野田峯雄『破壊工作―大韓航空機「爆破」事件の真相!』宝島社、2004年(平成16年)。ISBN 4796641009。
* 文光佑 朴明淳 朝鮮総聯・KAL機失踪事件特別取材班 『謀略は暴かれた―KAL機失踪と「真由美」の謎』1988年。ISBN 4900350125。
== 関連項目 ==
* [[金賢姫]]
* [[対南工作]]
* [[ラングーン事件]]
* [[西新井事件]]
* [[朝鮮民主主義人民共和国関係記事の一覧]]
* [[パンアメリカン航空103便爆破事件]] - 本件の翌年に発生、同じく国家が関与した航空機テロ。
* [[南アフリカ航空295便墜落事故]] - 本件の前日に発生した事故。直接的な関連はないが、本件により影が隠れた形となった。
== 外部リンク ==
* {{NHK放送史|D0009030210_00000|大韓航空機爆破 北朝鮮の女逮捕}}
* {{コトバンク|大韓航空機爆破事件}}
* [https://www.sankei.com/article/20171129-4YH4UBAIO5OBTBJ24OOKQK55EA/ 実行犯の金賢姫元工作員インタビュー「めぐみさんは金正日一家の秘密を知ってしまった」] - [[産経デジタル|産経ニュース]]
* 大韓航空機爆破事件関連の韓国のテレビニュース
** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19871130 KBS9時ニュース]{{ko icon|kr=1}}(1987年11月30日)
** [https://imnews.imbc.com/replay/1987/nwdesk/2246081_29503.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1987年11月29日)
** [https://imnews.imbc.com/replay/1987/nwdesk/2246342_29503.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1987年11月30日)
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** [https://imnews.imbc.com/replay/1987/nwdesk/2253231_29503.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1987年12月15日)
** [https://news.kbs.co.kr/vod/program.do?bcd=0001&ref=pMenu#19880115 KBS9時ニュース]{{ko icon|kr=1}}(1988年1月15日)
** [https://imnews.imbc.com/replay/1988/nwdesk/2115588_29512.html MBCニュースデスク]{{ko icon|kr=1}}(1988年1月15日)
* {{YouTube|rrJ7mhnhU24|대한뉴스 제 1680호-KAL 기 폭파 사건 규탄대회}} - [[大韓ニュース|KTV 대한늬우스]]{{ko icon|kr=1}}
* {{YouTube|WVy_tGWZK|대한뉴스 제 1681호-대한항공 폭파 궐기대회}} - [[大韓ニュース|KTV 대한늬우스]]{{ko icon|kr=1}}
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16,373 |
インフレータブル
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インフレータブル(英語: Inflatable)は、空気などを注入することにより膨らませて、膜の内圧により構造を支持して使う膜構造物の総称である。
インフレータブル型の製品は中空構造の場合が多く、軽量化しやすく、空気を抜いてたたんで小さくして運ぶことができる利点を持つことが多い。
日本ではインフレータブルという言葉は、ボートやカヌー、カヤックなどの空気注入式の小型舟艇の形式で「インフレータブル・カヌー」という呼び方をするほか、携帯用のライフジャケット、枕や浮き輪などアウトドアグッズの類で多く用いられる。
また、イベント用品で空気やヘリウムガスなどを注入したり、送風したりして用いられるインフレータブルバルーンもあるが、この記事ではアウトドアグッズについて述べる。
カヌーの構造には折りたためない通常のリジッドタイプカヌーと、骨組に外皮を組み合わせる構造で、運搬時に折りたためるフォールディングカヌー、そして空気注入式のインフレータブルがある。
フォールディング及びインフレータブルは、乗員数にもよるが2人用程度であれば乗用車のトランクにも入る程度の大きさに収納できるものが多い。ただし、骨組自体もそれなりにかさばり重量もあるフォールディングと比べ、多くの場合インフレータブルは軽量で場所をとらないという特長を持ち、構造がシンプルなため安価で、電動ポンプ等を使用すれば組み立ても極めて短時間にできるという利点がある。ただし、浮力特性はフォールディングの方が通常型のカヌーに近い。
インフレータブル・カヤックの類に「ダッキー」と呼ばれる渓流下り用のものがある。
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インフレータブルは、空気などを注入することにより膨らませて、膜の内圧により構造を支持して使う膜構造物の総称である。 インフレータブル型の製品は中空構造の場合が多く、軽量化しやすく、空気を抜いてたたんで小さくして運ぶことができる利点を持つことが多い。 日本ではインフレータブルという言葉は、ボートやカヌー、カヤックなどの空気注入式の小型舟艇の形式で「インフレータブル・カヌー」という呼び方をするほか、携帯用のライフジャケット、枕や浮き輪などアウトドアグッズの類で多く用いられる。 また、イベント用品で空気やヘリウムガスなどを注入したり、送風したりして用いられるインフレータブルバルーンもあるが、この記事ではアウトドアグッズについて述べる。
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'''インフレータブル'''({{lang-en|Inflatable}})は、[[空気]]などを注入することにより膨らませて、膜の内圧により構造を支持して使う膜構造物の総称である。
インフレータブル型の製品は中空構造の場合が多く、軽量化しやすく、空気を抜いてたたんで小さくして運ぶことができる利点を持つことが多い。
日本ではインフレータブルという言葉は、ボートやカヌー、カヤックなどの空気注入式の小型舟艇の形式で「インフレータブル・カヌー」という呼び方をするほか、携帯用の[[ライフジャケット]]、[[枕]]や[[浮き輪]]などアウトドアグッズの類で多く用いられる。
また、イベント用品で空気や[[ヘリウム]]ガスなどを注入したり、送風したりして用いられる[[インフレータブルバルーン]]もあるが、この記事ではアウトドアグッズについて述べる。
==インフレータブル・カヌーの類==
[[画像:インフレータブル・タイプのカヌー 川旅(リバーツーリング)加古川編 インフレータブル・タイプP9170080.jpg|thumbnail|260px|インフレータブル・タイプの[[カヌー]]による[[川旅]](リバーツーリング)[[加古川]] ]]
カヌーの構造には折りたためない通常の[[カナディアンカヌー#リジッドタイプカヌー|リジッドタイプカヌー]]と、骨組に外皮を組み合わせる構造で、運搬時に折りたためる[[カナディアンカヌー#フォールディングタイプカヌー|フォールディングカヌー]]、そして空気注入式のインフレータブルがある。
フォールディング及びインフレータブルは、乗員数にもよるが2人用程度であれば[[乗用車]]の[[トランク (自動車)|トランク]]にも入る程度の大きさに収納できるものが多い。ただし、骨組自体もそれなりにかさばり重量もあるフォールディングと比べ、多くの場合インフレータブルは軽量で場所をとらないという特長を持ち、構造がシンプルなため安価で、電動ポンプ等を使用すれば組み立ても極めて短時間にできるという利点がある。ただし、浮力特性はフォールディングの方が通常型のカヌーに近い。
インフレータブル・[[カヤック]]の類に「[[ダッキー]]」と呼ばれる渓流下り用のものがある。
== 関連項目 ==
* [[ラフト]]
* [[ダッキー]]
* [[インフレータブルボート]]
* [[インフレータブルバルーン]]
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16,380 |
行列の基本変形
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行列の基本変形(ぎょうれつのきほんへんけい)とは、行列の変形のうち下の六つである。
以下の六つの変形を、行列の基本変形という。
(例: [ 2 3 4 5 6 7 8 1 9 ] → [ 3 2 4 6 5 7 1 8 9 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}2&3&4\\5&6&7\\8&1&9\end{bmatrix}}\to {\begin{bmatrix}3&2&4\\6&5&7\\1&8&9\end{bmatrix}}} )
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(例: [ 2 3 4 5 6 7 8 1 9 ] → [ 2 3 4 5 6 7 6 − 2 5 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}2&3&4\\5&6&7\\8&1&9\end{bmatrix}}\to {\begin{bmatrix}2&3&4\\5&6&7\\6&-2&5\end{bmatrix}}} )
行に関する変形三つをまとめて行に関する基本変形、列に関する変形三つをまとめて列に関する基本変形という。
以下のような (n, n) 型行列を基本行列という。
P i , j = [ 1 ⋱ 0 1 ⋱ 1 0 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≠ j ≤ n ) {\displaystyle P_{i,j}={\begin{bmatrix}1&&&&&&\\&\ddots &&&&&\\&&0&&1&&\\&&&\ddots &&&\\&&1&&0&&\\&&&&&\ddots &\\&&&&&&1\\\end{bmatrix}}(1\leq i\neq j\leq n)}
Q i , c = [ 1 ⋱ 1 c 1 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≤ n , c ≠ 0 ) {\displaystyle Q_{i,c}={\begin{bmatrix}1&&&&&&\\&\ddots &&&&&\\&&1&&&&\\&&&c&&&\\&&&&1&&\\&&&&&\ddots &\\&&&&&&1\\\end{bmatrix}}(1\leq i\leq n,c\neq 0)}
R i , j , c = [ 1 ⋱ 1 c ⋱ 1 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≠ j ≤ n , c ≠ 0 ) {\displaystyle R_{i,j,c}={\begin{bmatrix}1&&&&&&\\&\ddots &&&&&\\&&1&&c&&\\&&&\ddots &&&\\&&&&1&&\\&&&&&\ddots &\\&&&&&&1\\\end{bmatrix}}(1\leq i\neq j\leq n,c\neq 0)}
つまり、
である。
ある行列に基本変形を適用することは、基本行列を掛けることと同値である。
ある(m, n) 型行列 Aに、
つまり、ある行列を、基本変形を繰り返して変形することは、基本行列を繰り返し掛けることと同値である。左からかける基本行列は (m, m) 型, 右からかける基本行列は (n, n) 型の基本行列である。
このことから、行に関する基本変形を左基本変形、列に関する基本変形を右基本変形とも呼ぶ。
基本行列は正則行列であり、その単純な形から簡単に行列式や逆行列を求めることができる。 また、任意の(m, n)型行列は基本変形を繰り返し適用することによって、以下のような単純な形の(m, n)型行列(以下、標準形 (*) と呼ぶ)に変形することができることが知られている。さらに、このような変形を得るための決定的な手続きも知られている。
[ 1 1 ⋱ 1 0 0 ⋱ ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&&&&&&&\\&1&&&&&&\\&&\ddots &&&&&\\&&&1&&&&\\&&&&0&&&\\&&&&&0&&\\&&&&&&\ddots &\\&&&&&&&\\\end{bmatrix}}}
今、(m, n) 型行列 Aに関して基本変形を繰り返し適用することによって上のような標準形 F に変形できたとする。 このとき、基本変形と基本行列の同値性から、p 個の (m, m)型基本行列 M1, ... Mp と q 個の (n, n)型基本行列 N1, ... Nq とを用いて下のように表せる。
このとき、A についてのさまざまな量を計算することができる。
rank A = rank Fである。
m = n のとき、A には行列式 det A が存在する。
であるので、
である。
m = n で、 A が正則行列であるとき、逆行列 Aが存在する。 A が正則であるとき、 F が単位行列であることに注意すれば、
より、
である。
さらに、A が正則であるとき、p と q どちらかを 0 にできる、つまり、左か右のどちらかのみの基本変形を繰り返し適用することによって、単位行列に変形できることが知られている。今、q = 0であるとすると、
である。つまり、A を単位行列に変形するのと同じ変形を単位行列に適用することによって A が得られる。
例として、
A = [ 2 6 1 4 ] {\displaystyle A={\begin{bmatrix}2&6\\1&4\\\end{bmatrix}}}
の逆行列を計算する。
A の、左基本変形による単位行列への変形を試みる。
よって、この三つの変形を単位行列に適用すれば、逆行列が求まる。
線型方程式系 Ax = b においても、基本変形により解を求めることができる。 A に左基本変形を繰り返し施すことによって単純な形に変形できれば、同じ変形を b にも施すことによって、同値な方程式系
を解くことに帰着できる。左基本変形のみでは、一般には上の標準形 (*) まで変形することはできないが、線型方程式系を解くのには十分簡単な形まで変形することができる。詳しくは、これを実現するアルゴリズムであるガウスの消去法に譲る。
A = [ 2 2 1 − 3 1 2 5 4 − 1 − 4 − 14 − 15 ] , b = [ 4 3 − 5 ] {\displaystyle A={\begin{bmatrix}2&2&1&-3\\1&2&5&4\\-1&-4&-14&-15\\\end{bmatrix}},b={\begin{bmatrix}4\\3\\-5\\\end{bmatrix}}}
のとき、Ax = b を解くことを考える。
A, b に同じ左基本変形を加え、A を解きやすい形に変形する。
これにより、Ax = b を同値な方程式系
[ 1 0 − 4 − 7 0 1 9 2 11 2 0 0 0 0 ] , b = [ 1 1 0 ] {\displaystyle {\begin{bmatrix}1&0&-4&-7\\0&1&{\frac {9}{2}}&{\frac {11}{2}}\\0&0&0&0\\\end{bmatrix}},b={\begin{bmatrix}1\\1\\0\\\end{bmatrix}}}
に変形できた。
これを解くのは簡単で、x3, x4は自由であるので、x3 = 2α, x4 = 2β とおくと、
x 2 + 9 2 x 3 + 11 2 x 4 = 1 {\displaystyle x_{2}+{\frac {9}{2}}x_{3}+{\frac {11}{2}}x_{4}=1}
より、
x 2 = 1 − 9 α − 11 β {\displaystyle x_{2}=1-9\alpha -11\beta }
であり、
x 1 − 4 x 3 − 7 x 4 = 1 {\displaystyle x_{1}-4x_{3}-7x_{4}=1}
より
x 1 = 1 + 8 α + 14 β {\displaystyle x_{1}=1+8\alpha +14\beta }
である。よって、
と、解を得ることが出来た。
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"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "以下のような (n, n) 型行列を基本行列という。",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "P i , j = [ 1 ⋱ 0 1 ⋱ 1 0 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≠ j ≤ n ) {\\displaystyle P_{i,j}={\\begin{bmatrix}1&&&&&&\\\\&\\ddots &&&&&\\\\&&0&&1&&\\\\&&&\\ddots &&&\\\\&&1&&0&&\\\\&&&&&\\ddots &\\\\&&&&&&1\\\\\\end{bmatrix}}(1\\leq i\\neq j\\leq n)}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "Q i , c = [ 1 ⋱ 1 c 1 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≤ n , c ≠ 0 ) {\\displaystyle Q_{i,c}={\\begin{bmatrix}1&&&&&&\\\\&\\ddots &&&&&\\\\&&1&&&&\\\\&&&c&&&\\\\&&&&1&&\\\\&&&&&\\ddots &\\\\&&&&&&1\\\\\\end{bmatrix}}(1\\leq i\\leq n,c\\neq 0)}",
"title": "定義"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "R i , j , c = [ 1 ⋱ 1 c ⋱ 1 ⋱ 1 ] ( 1 ≤ i ≠ j ≤ n , c ≠ 0 ) {\\displaystyle R_{i,j,c}={\\begin{bmatrix}1&&&&&&\\\\&\\ddots &&&&&\\\\&&1&&c&&\\\\&&&\\ddots &&&\\\\&&&&1&&\\\\&&&&&\\ddots &\\\\&&&&&&1\\\\\\end{bmatrix}}(1\\leq i\\neq j\\leq n,c\\neq 0)}",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "つまり、",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "定義"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ある行列に基本変形を適用することは、基本行列を掛けることと同値である。",
"title": "基本変形と基本行列の関係"
},
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"tag": "p",
"text": "ある(m, n) 型行列 Aに、",
"title": "基本変形と基本行列の関係"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "つまり、ある行列を、基本変形を繰り返して変形することは、基本行列を繰り返し掛けることと同値である。左からかける基本行列は (m, m) 型, 右からかける基本行列は (n, n) 型の基本行列である。",
"title": "基本変形と基本行列の関係"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "このことから、行に関する基本変形を左基本変形、列に関する基本変形を右基本変形とも呼ぶ。",
"title": "基本変形と基本行列の関係"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "基本行列は正則行列であり、その単純な形から簡単に行列式や逆行列を求めることができる。 また、任意の(m, n)型行列は基本変形を繰り返し適用することによって、以下のような単純な形の(m, n)型行列(以下、標準形 (*) と呼ぶ)に変形することができることが知られている。さらに、このような変形を得るための決定的な手続きも知られている。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "[ 1 1 ⋱ 1 0 0 ⋱ ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&&&&&&&\\\\&1&&&&&&\\\\&&\\ddots &&&&&\\\\&&&1&&&&\\\\&&&&0&&&\\\\&&&&&0&&\\\\&&&&&&\\ddots &\\\\&&&&&&&\\\\\\end{bmatrix}}}",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "今、(m, n) 型行列 Aに関して基本変形を繰り返し適用することによって上のような標準形 F に変形できたとする。 このとき、基本変形と基本行列の同値性から、p 個の (m, m)型基本行列 M1, ... Mp と q 個の (n, n)型基本行列 N1, ... Nq とを用いて下のように表せる。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "このとき、A についてのさまざまな量を計算することができる。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "rank A = rank Fである。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "m = n のとき、A には行列式 det A が存在する。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "であるので、",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "m = n で、 A が正則行列であるとき、逆行列 Aが存在する。 A が正則であるとき、 F が単位行列であることに注意すれば、",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "より、",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "である。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "さらに、A が正則であるとき、p と q どちらかを 0 にできる、つまり、左か右のどちらかのみの基本変形を繰り返し適用することによって、単位行列に変形できることが知られている。今、q = 0であるとすると、",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "である。つまり、A を単位行列に変形するのと同じ変形を単位行列に適用することによって A が得られる。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "例として、",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "A = [ 2 6 1 4 ] {\\displaystyle A={\\begin{bmatrix}2&6\\\\1&4\\\\\\end{bmatrix}}}",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "の逆行列を計算する。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "A の、左基本変形による単位行列への変形を試みる。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "よって、この三つの変形を単位行列に適用すれば、逆行列が求まる。",
"title": "基本変形、基本行列の性質"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "線型方程式系 Ax = b においても、基本変形により解を求めることができる。 A に左基本変形を繰り返し施すことによって単純な形に変形できれば、同じ変形を b にも施すことによって、同値な方程式系",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "を解くことに帰着できる。左基本変形のみでは、一般には上の標準形 (*) まで変形することはできないが、線型方程式系を解くのには十分簡単な形まで変形することができる。詳しくは、これを実現するアルゴリズムであるガウスの消去法に譲る。",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "A = [ 2 2 1 − 3 1 2 5 4 − 1 − 4 − 14 − 15 ] , b = [ 4 3 − 5 ] {\\displaystyle A={\\begin{bmatrix}2&2&1&-3\\\\1&2&5&4\\\\-1&-4&-14&-15\\\\\\end{bmatrix}},b={\\begin{bmatrix}4\\\\3\\\\-5\\\\\\end{bmatrix}}}",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "のとき、Ax = b を解くことを考える。",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "A, b に同じ左基本変形を加え、A を解きやすい形に変形する。",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "これにより、Ax = b を同値な方程式系",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "[ 1 0 − 4 − 7 0 1 9 2 11 2 0 0 0 0 ] , b = [ 1 1 0 ] {\\displaystyle {\\begin{bmatrix}1&0&-4&-7\\\\0&1&{\\frac {9}{2}}&{\\frac {11}{2}}\\\\0&0&0&0\\\\\\end{bmatrix}},b={\\begin{bmatrix}1\\\\1\\\\0\\\\\\end{bmatrix}}}",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "に変形できた。",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "これを解くのは簡単で、x3, x4は自由であるので、x3 = 2α, x4 = 2β とおくと、",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "x 2 + 9 2 x 3 + 11 2 x 4 = 1 {\\displaystyle x_{2}+{\\frac {9}{2}}x_{3}+{\\frac {11}{2}}x_{4}=1}",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "より、",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "x 2 = 1 − 9 α − 11 β {\\displaystyle x_{2}=1-9\\alpha -11\\beta }",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "であり、",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "x 1 − 4 x 3 − 7 x 4 = 1 {\\displaystyle x_{1}-4x_{3}-7x_{4}=1}",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "より",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "x 1 = 1 + 8 α + 14 β {\\displaystyle x_{1}=1+8\\alpha +14\\beta }",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "である。よって、",
"title": "線型方程式系"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "と、解を得ることが出来た。",
"title": "線型方程式系"
}
] |
行列の基本変形(ぎょうれつのきほんへんけい)とは、行列の変形のうち下の六つである。
|
{{出典の明記|date=2023年9月}}
'''行列の基本変形'''(ぎょうれつのきほんへんけい)とは、[[行列 (数学)|行列]]の変形のうち下の六つである。
== 定義 ==
=== 基本変形 ===
以下の六つの変形を、行列の基本変形という。
* 二つの列を入れ替える
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
3 & 2 & 4 \\
6 & 5 & 7 \\
1 & 8 & 9
\end{bmatrix}
</math>)
* ある列を0でない定数倍する
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
2 & 12 & 4 \\
5 & 24 & 7 \\
8 & 4 & 9
\end{bmatrix}
</math>)
* ある列に、他のある列の定数倍を加える
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
5 & 3 & 4 \\
11 & 6 & 7 \\
9 & 1 & 9
\end{bmatrix}
</math>)
* 二つの行を入れ替える
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
5 & 6 & 7 \\
2 & 3 & 4 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
</math>)
* ある行を 0 でない定数倍する
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
16 & 2 & 18
\end{bmatrix}
</math>)
* ある行に、他のある行の定数倍を加える
(例:<math>
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
8 & 1 & 9
\end{bmatrix}
\to
\begin{bmatrix}
2 & 3 & 4 \\
5 & 6 & 7 \\
6 & -2 & 5
\end{bmatrix}
</math>)
行に関する変形三つをまとめて'''行に関する基本変形'''、列に関する変形三つをまとめて'''列に関する基本変形'''という。
=== 基本行列 ===
以下のような ''(n, n)'' 型行列を基本行列という。
{{Indent|
<math>
P_{i,j} =
\begin{bmatrix}
1 & & & & & &\\
& \ddots & & & & &\\
& & 0 & & 1 & & \\
& & & \ddots & & &\\
& & 1 & & 0 & &\\
& & & & & \ddots & \\
& & & & & & 1\\
\end{bmatrix}
(1 \leq i \neq j \leq n)
</math>
<math>
Q_{i, c} =
\begin{bmatrix}
1 & & & & & & \\
& \ddots & & & & & \\
& & 1 & & & & \\
& & & c & & & \\
& & & & 1 & & \\
& & & & & \ddots &\\
& & & & & & 1 \\
\end{bmatrix}
(1 \leq i \leq n, c \neq 0)
</math>
<math>
R_{i, j, c} =
\begin{bmatrix}
1 & & & & & &\\
& \ddots & & & & &\\
& & 1 & & c & &\\
& & & \ddots & & &\\
& & & & 1 & &\\
& & & & & \ddots &\\
& & & & & & 1 \\
\end{bmatrix}
(1 \leq i \neq j \leq n, c \neq 0)
</math>
}}
つまり、
* ''P<sub>i, j</sub>'' は、単位行列の ''i'' 行目と ''j'' 行目を取り換えた行列
* ''Q<sub>i, c</sub>'' は、単位行列の ''(i, i)'' 成分を ''c'' にした行列
* ''R<sub>i, j, c</sub>'' は、単位行列の ''(i, j)'' 成分を ''c'' にした行列
である。
== 基本変形と基本行列の関係 ==
ある行列に基本変形を適用することは、基本行列を掛けることと同値である。
ある(''m, n'') 型行列 ''A''に、
* ''P<sub>i, j</sub>'' を左からかけると、''i'' 行と ''j'' 行が交換される。
* ''P<sub>i, j</sub>'' を右からかけると、''i'' 列と ''j'' 列が交換される。
* ''Q<sub>i, c</sub>'' を左からかけると、''i'' 行が ''c'' 倍される。
* ''Q<sub>i, c</sub>'' を右からかけると、''i'' 列が ''c'' 倍される。
* ''R<sub>i, j, c</sub>'' を左からかけると、 ''i'' 行に ''j'' 行の ''c'' 倍が加わる。
* ''R<sub>i, j, c</sub>'' を右からかけると、 ''j'' 列に ''i'' 列の ''c'' 倍が加わる。
つまり、ある行列を、基本変形を繰り返して変形することは、基本行列を繰り返し掛けることと同値である。左からかける基本行列は (''m, m'') 型, 右からかける基本行列は (''n, n'') 型の基本行列である。
このことから、行に関する基本変形を'''左基本変形'''、列に関する基本変形を'''右基本変形'''とも呼ぶ。
== 基本変形、基本行列の性質 ==
基本行列は[[正則行列]]であり、その単純な形から簡単に[[行列式]]や[[正則行列|逆行列]]を求めることができる。
また、任意の(''m, n'')型行列は基本変形を繰り返し適用することによって、以下のような単純な形の(''m, n'')型行列(以下、標準形 (*) と呼ぶ)に変形することができることが知られている。さらに、このような変形を得るための[[アルゴリズム|決定的な手続き]]も知られている。
{{Indent|
<math>
\begin{bmatrix}
1 & & & & & & &\\
& 1 & & & & & &\\
& & \ddots & & & & &\\
& & & 1 & & & &\\
& & & & 0 & & &\\
& & & & & 0 & &\\
& & & & & & \ddots &\\
& & & & & & &\\
\end{bmatrix}
</math>
}}
今、(''m, n'') 型行列 ''A''に関して基本変形を繰り返し適用することによって上のような標準形 ''F'' に変形できたとする。
このとき、基本変形と基本行列の同値性から、''p'' 個の (''m, m'')型基本行列 ''M''<sub>1</sub>, ... ''M<sub>p</sub>'' と ''q'' 個の (''n, n'')型基本行列 ''N''<sub>1</sub>, ... ''N<sub>q</sub>'' とを用いて下のように表せる。
:<math>
F = M_1M_2 \cdots M_pAN_1N_2 \cdots N_q
</math>
このとき、''A'' についてのさまざまな量を計算することができる。
=== 階数 ===
[[行列の階数|rank]] ''A'' = rank ''F''である。
=== 行列式 ===
''m'' = ''n'' のとき、''A'' には[[行列式]] det ''A'' が存在する。
:<math>
A = (M_1M_2 \cdots M_p) ^ {-1}F(N_1N_2 \cdots N_q) ^ {-1}
</math>
であるので、
:<math>
\begin{align}
\det A &= \det ((M_1M_2 \cdots M_p) ^ {-1}F(N_1N_2 \cdots N_q) ^ {-1}) \\
&= \det F/\left(\det M_p \cdot \det M_{p - 1} \cdot \dotsm \cdot \det M_1 \cdot \det N_q \cdot \dotsm \cdot \det N_1\right)
\end{align}
</math>
である。
=== 逆行列 ===
''m'' = ''n'' で、 ''A'' が[[正則行列]]であるとき、逆行列 ''A''<sup>-1</sup>が存在する。
''A'' が正則であるとき、 ''F'' が単位行列であることに注意すれば、
:<math>
A = (M_1M_2 \cdots M_p) ^ {-1}F(N_1N_2 \cdots N_q) ^ {-1} = (M_1M_2 \cdots M_p) ^ {-1}(N_1N_2 \cdots N_q) ^ {-1}
</math>
より、
:<math>
A^{-1} = N_1N_2 \cdots N_qM_1M_2 \cdots M_p
</math>
である。
さらに、''A'' が正則であるとき、''p'' と ''q'' どちらかを 0 にできる、つまり、左か右のどちらかのみの基本変形を繰り返し適用することによって、単位行列に変形できることが知られている。今、''q'' = 0であるとすると、
:<math>
A ^ {-1} = M_1M_2 \cdots M_p
</math>
である。つまり、''A'' を単位行列に変形するのと同じ変形を単位行列に適用することによって ''A''<sup>-1</sup> が得られる。
==== 逆行列の計算例 ====
例として、
{{Indent|
<math>
A =
\begin{bmatrix}
2 & 6\\
1 & 4\\
\end{bmatrix}
</math>
}}
の逆行列を計算する。
''A'' の、左基本変形による単位行列への変形を試みる。
;1行目を1/2倍する。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 3\\
1 & 4\\
\end{bmatrix}
</math>
;2行目に1行目の-1倍を加える。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 3 \\
0 & 1 \\
\end{bmatrix}
</math>
;1行目に2行目の-3倍を加える。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 0 \\
0 & 1 \\
\end{bmatrix}
</math>
よって、この三つの変形を単位行列に適用すれば、逆行列が求まる。
;1行目を1/2倍する。
:<math>
\begin{bmatrix}
1/2 & 0 \\
0 & 1 \\
\end{bmatrix}
</math>
;2行目に1行目の-1倍を加える。
:<math>
\begin{bmatrix}
1/2 & 0 \\
-1/2 & 1 \\
\end{bmatrix}
</math>
;1行目に2行目の-3倍を加える。
:<math>
\begin{bmatrix}
2 & -3 \\
-1/2 & 1\\
\end{bmatrix}
</math>
== 線型方程式系 ==
線型方程式系 ''Ax'' = ''b'' においても、基本変形により解を求めることができる。
''A'' に左基本変形を繰り返し施すことによって単純な形に変形できれば、同じ変形を ''b'' にも施すことによって、同値な方程式系
:<math>
(M_1M_2 \cdots M_p A) x = M_1M_2 \cdots M_p b
</math>
を解くことに帰着できる。左基本変形のみでは、一般には上の標準形 (*) まで変形することはできないが、線型方程式系を解くのには十分簡単な形まで変形することができる。詳しくは、これを実現するアルゴリズムである[[ガウスの消去法]]に譲る。
=== 線形方程式系の解の計算例 ===
{{Indent|<math>
A =
\begin{bmatrix}
2 & 2 & 1 & -3 \\
1 & 2 & 5 & 4 \\
-1 & -4 & -14 & -15 \\
\end{bmatrix}
, b = \begin{bmatrix}
4 \\
3 \\
-5 \\
\end{bmatrix}
</math>}}
のとき、''Ax'' = ''b'' を解くことを考える。
''A'', ''b'' に同じ左基本変形を加え、''A'' を解きやすい形に変形する。
; 1行目と2行目を入れ替える。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 2 & 5 & 4 \\
2 & 2 & 1 & -3 \\
-1 & -4 & -14 & -15 \\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
3 \\
4 \\
-5\\
\end{bmatrix}
</math>
; 2行目に1行目の (-2) 倍 を足す。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 2 & 5 & 4 \\
0 & -2 & -9 & -11\\
-1 & -4 & -14 & -15\\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
3 \\
-2\\
-5\\
\end{bmatrix}
</math>
; 3行目に1行目を足す。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 2 & 5 & 4 \\
0 & -2 & -9 & -11\\
0 & -2 & -9 & -11\\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
3 \\
-2\\
-2\\
\end{bmatrix}
</math>
; 3行目に2行目の(-1)倍を足す。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 2 & 5 & 4 \\
0 & -2 & -9 & -11\\
0 & 0 & 0 & 0 \\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
3 \\
-2 \\
0\\
\end{bmatrix}
</math>
; 1行目に2行目を足す。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 0 & -4 & -7 \\
0 & -2 & -9 & -11\\
0 & 0 & 0 & 0 \\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
1 \\
-2 \\
0\\
\end{bmatrix}
</math>
; 2行目を-1/2倍する。
:<math>
\begin{bmatrix}
1 & 0 & -4 & -7 \\
0 & 1 & \frac{9}{2} & \frac{11}{2}\\
0 & 0 & 0 & 0 \\
\end{bmatrix}
,
\begin{bmatrix}
1 \\
1 \\
0\\
\end{bmatrix}
</math>
これにより、''Ax = b'' を同値な方程式系
{{Indent|<math>
\begin{bmatrix}
1 & 0 & -4 & -7 \\
0 & 1 & \frac 9 2 & \frac {11} 2 \\
0 & 0 & 0 & 0 \\
\end{bmatrix}
,b
=
\begin{bmatrix}
1 \\
1 \\
0\\
\end{bmatrix}
</math>}}
に変形できた。
これを解くのは簡単で、''x''<sub>3</sub>, ''x''<sub>4</sub>は自由であるので、''x''<sub>3</sub> = 2α, ''x''<sub>4</sub> = 2β とおくと、
{{Indent|<math>
x_2 + \frac 9 2 x_3 + \frac {11} 2 x_4 = 1
</math>}}
より、
{{Indent|<math>
x_2 = 1 - 9 \alpha - 11 \beta
</math>}}
であり、
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</math>}}
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1 - 9 \alpha - 11 \beta \\
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2\beta \\
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16,381 |
ルネサンス
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ルネサンス(仏: Renaissance 伊:Rinascimento)は、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
ルネサンス Renaissance という語は「再生」(re- 再び + naissance 誕生)を意味するフランス語で、19世紀のフランスの歴史家ミシュレが『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。続くスイスのヤーコプ・ブルクハルトによる『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった概念である。
「ルネサンスの用語例は8,9世紀にすでに見られ、その時期に残存する古典古代文化の復興の努力をさしたと言われる」。その後、ルネサンスに相当する言葉は16世紀から用いられており、ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』に現れた rinascita(再生)の語に直接的な起源があると思われるが、「再生」という意識そのものは、はやくも14世紀の最大の詩人ダンテやペトラルカの著作に見られ、文化的に大きな影響を与えた。
ところで、論者によってルネサンスの定義は、しばしば大きく異なる。文化運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる(例えばルネサンス音楽の項目を参照)。ブルクハルトの時代には、ルネサンスは極めて明瞭に区分できると思われていたが、その後、特にゲルマン系学者による中世の再評価が行われた結果、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象(古典古代の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになった(カロリング朝ルネサンス、12世紀ルネサンスなど)。 また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など甚だ非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかにされた。 これらによって、中世とルネサンスを明確に峻別することは困難になったのである。ルネサンスが近代の始まりなのか、それとも中世の範囲になるのか、という点についても論議が続いている。他にヨーロッパ中心の西洋史の歴史観であることを批判する論者もいる。ルネサンス(再生、復興)はヨーロッパをローマ帝国の後継者とみなす西洋を中心とするローマ帝国の後継史観に基づくものだが、ローマ帝国はオリエントの一部であり、当時ヨーロッパと呼ぶべき世界はまだ成立していない(ヨーロッパ世界の始まりはカール大帝がローマ教皇から帝冠を授かる800年)とする見方である。
ただし、14世紀から15世紀のイタリア半島でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいない。本項では、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えておく。
イタリア・ルネサンスの時期としてはおおむね14世紀中頃のペスト流行以降、宗教改革後のトリエント公会議(1545年-1563年)までが想定される。
従来の一般的な見方は次のようなものである。およそ1000年間にかけてローマ帝国の国教になり、西洋人の宗教信仰となった純粋なキリスト教支配のもと、西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシア文化の破壊が行われ、世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。こうした見方はルネサンス以前の中世を停滞した時代、暗黒時代とみなすものである。
現在では古典的な古代文化の復興はイタリア・ルネサンス以前にも見られる現象であることが明らかにされている。9世紀のフランク王国の「カロリング朝ルネサンス」や、10世紀東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の「マケドニア朝ルネサンス」および帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、西ヨーロッパにおける「12世紀ルネサンス」などがあり、これら(複数のルネサンスとも呼ばれる)についてはそれぞれの項目で述べる。
ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、そのほとんどが8世紀から9世紀にかけてアラビア語に次々と翻訳され、初期のイスラム文化の発達に多大なる貢献をもたらした。とくに830年にアッバース朝の第7代カリフ・マームーンによってバグダードに設立された「知恵の館」において膨大な翻訳作業が行われ、知識の継承が急速に進んだ。
古典文献とイスラムの哲学者や科学者たちの思索は、今度は次々とラテン語に翻訳された。西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した古典をラテン語で読むことができるようになった。翻訳作業の大半は、イスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていた、イスラム支配下のスペインにおいて行われ、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。
社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ、医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた『霊魂論』(これにはイスラムの哲学者イブン・ルシュドが注釈をつけている)、イブン・スィーナーが著した『医学典範』、哲学者であるとともに医師であったアル・ラーズィーが著した『アル・マンスールの書』は、いずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳された。これらの作品は、西欧の学生たちにとって必読書であり、そうした事情は500年という長い歳月にわたって変わらなかった。
ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書のようなギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。
文芸復興初期においてはギリシアとイタリア等西欧諸国との関係は薄く、上述のようにアラビア語を介しての文化伝達に過ぎなかった。しかし、1397年に東ローマ帝国からギリシア語学者のマヌエル・クリュソロラスがフィレンツェに招聘されてギリシア語学校を開いてから、イタリアにおいてギリシア語学習が行われるようになった。東ローマ帝国に保管・継承されていたギリシア語の古典文献の読解が可能となり、ルネサンスの一助となった。
とくに1453年のコンスタンティノープル陥落による東ローマ帝国の滅亡によって、東ローマ帝国から優れた学者がイタリア半島に相次いで移住し、古典文献の研究は大きく進んだ。
ルネサンスは、西欧世界の進行方向を決定付けるような、文化史・精神史の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。
シチリア王・神聖ローマ帝国皇帝のフェデリコ2世(1194年 - 1250年)はイタリアで生まれ、イタリアで生涯の多くを過ごした。ローマ帝国の復興を志し、シチリア王国に古代ローマ法を範とした法律を定め、ナポリ大学を開いた。しかしローマ教皇や諸都市と敵対し、結局、フェデリコの死後、南イタリアはフランス・アンジュー家の支配下に入った。
14世紀以降、ルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)の中心地となったのは、地中海貿易で繁栄した北イタリア、トスカーナ地方の諸都市である。特にフィレンツェは、毛織物業と銀行業が盛んになり、大きな経済力を持っていた。
フィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265年 - 1321年)が政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作「神曲」を完成させた。古代ローマの詩人・ウェルギリウスが地獄・煉獄巡りの案内人として登場し、主人公が地獄・煉獄から魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いてペトラルカ(1304年 - 1374年)は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代)を暗黒時代と考えた。ペトラルカは修道院に保管されていた古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(Umanista ウマニスタ)と呼ぶようになった。また、1453年のコンスタンティノープルの陥落(東ローマ帝国滅亡)の前後には、東ローマから多数のギリシア人の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシア文化の研究が盛んになっており(パレオロゴス朝ルネサンス)、彼等が携えてきた古代ギリシア・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、フィチーノ(1433年 - 1499年)はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。
イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキがルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ建築家の誕生である。「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いた人文主義者アルベルティは建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされる。また、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロはそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。
音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父)、ピエトロ・ストロッツィである。彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』といった傑作が生まれた。
イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、フェッラーラなどの都市である(すべての都市ではない)。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フェッラーラのエステ家などが知られている。15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、このころには教皇の中にもルネサンス教皇と呼ばれる文芸保護に力を尽くした教皇が出現し、ローマではサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。
ローマ略奪(1527年)によりローマは一時荒廃したが、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国(フィレンツェ)で美術の隆盛が見られた。
宗教改革により打撃を受けたローマ教会も、トリエント公会議により体制を立て直し、新大陸からもたらされる莫大な富を背景に、16世紀から17世紀にかけてバロック美術の時代に入る。しかし、文化の中心地は次第にフランスをはじめ北方の国へ移っていった。
ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。 1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう(ガリレオ・ガリレイの項目も参照)。
ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキャヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。
一般に、15世紀末から16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、絶対王政が確立しつつあった西欧諸国にルネサンスを認めないとする立場もある。
また、ルネサンスと宗教改革の関連についても議論がある。特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である人文主義の研究は、宗教上のものと結びつきやすかった。とくにネーデルラントにおけるエラスムスの研究は、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなど多くの宗教改革者に影響を与え、宗教改革の発端を作ったと考えられている。しかし一方で、宗教改革者と人文主義者との関係は必ずしも良好ではなく、ルターとエラスムスもお互いを敬して遠ざけた後、1524年から1525年にかけての自由意思をめぐる一連の論争で完全に袂を分かった。
以下に、一般に「ルネサンス」と評される各国の文化を挙げる。必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したものや、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。
俗語で書かれた文芸作品も多く(「神曲」、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「ガルガンチュワ物語」、シェイクスピアの戯曲、「ドン・キホーテ」など)、各国の国語が形成されていった時期に重なっている。一方、各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えば、ネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。
なお、建築の分野では、イタリアで生まれたルネサンス建築が規範となり、他の国にも普及していった。古典様式をいかに理解し消化するかが課題となり、それぞれの国で特色ある様式が生まれた(北方ルネサンス建築の項を参照)。ルネサンス以降、古代ギリシア・ローマを範とする古典主義建築が正統的な建築様式と見なされるようになり、20世紀に至るまで権威を保った。
ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドルが中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。
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"text": "音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半のフィレンツェで、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父)、ピエトロ・ストロッツィである。彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』といった傑作が生まれた。",
"title": "歴史"
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"text": "イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、フェッラーラなどの都市である(すべての都市ではない)。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家、フェッラーラのエステ家などが知られている。15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、このころには教皇の中にもルネサンス教皇と呼ばれる文芸保護に力を尽くした教皇が出現し、ローマではサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。",
"title": "歴史"
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"text": "ローマ略奪(1527年)によりローマは一時荒廃したが、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国(フィレンツェ)で美術の隆盛が見られた。",
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"text": "宗教改革により打撃を受けたローマ教会も、トリエント公会議により体制を立て直し、新大陸からもたらされる莫大な富を背景に、16世紀から17世紀にかけてバロック美術の時代に入る。しかし、文化の中心地は次第にフランスをはじめ北方の国へ移っていった。",
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"text": "ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。 1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう(ガリレオ・ガリレイの項目も参照)。",
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"text": "ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキャヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。",
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"text": "一般に、15世紀末から16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、絶対王政が確立しつつあった西欧諸国にルネサンスを認めないとする立場もある。",
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"text": "また、ルネサンスと宗教改革の関連についても議論がある。特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である人文主義の研究は、宗教上のものと結びつきやすかった。とくにネーデルラントにおけるエラスムスの研究は、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなど多くの宗教改革者に影響を与え、宗教改革の発端を作ったと考えられている。しかし一方で、宗教改革者と人文主義者との関係は必ずしも良好ではなく、ルターとエラスムスもお互いを敬して遠ざけた後、1524年から1525年にかけての自由意思をめぐる一連の論争で完全に袂を分かった。",
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"text": "以下に、一般に「ルネサンス」と評される各国の文化を挙げる。必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したものや、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。",
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"text": "俗語で書かれた文芸作品も多く(「神曲」、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「ガルガンチュワ物語」、シェイクスピアの戯曲、「ドン・キホーテ」など)、各国の国語が形成されていった時期に重なっている。一方、各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えば、ネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。",
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"text": "なお、建築の分野では、イタリアで生まれたルネサンス建築が規範となり、他の国にも普及していった。古典様式をいかに理解し消化するかが課題となり、それぞれの国で特色ある様式が生まれた(北方ルネサンス建築の項を参照)。ルネサンス以降、古代ギリシア・ローマを範とする古典主義建築が正統的な建築様式と見なされるようになり、20世紀に至るまで権威を保った。",
"title": "歴史"
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"text": "ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、フランドルが中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。",
"title": "活躍した人物"
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ルネサンスは、「再生」「復活」などを意味するフランス語であり、一義的には古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 日本では長らく文芸復興と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。ルネッサンスとも表記されるが、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
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{{otheruses|西洋史における文化復興運動}}
[[画像:Da Vinci Vitruve Luc Viatour.jpg|right|thumb|180px|[[ウィトルウィウス的人体図|人体図]]、科学と芸術の統合]]
{{ルネサンス}}
{{参照方法|date=2012年12月}}
'''ルネサンス'''({{lang-fr-short|Renaissance}}<ref group="†">{{IPA-fr|ʁənɛsɑ̃ːs}} ルネサーンス</ref><ref group="†"><small>[[イギリス英語]]発音:</small>{{IPA-en|rɪˈneɪsns|}} リ'''ネ'''イスンス、か<small>[[アメリカ英語]]発音:</small>{{IPA-en|ˈrenəsɑːns|}} '''レ'''ナサーンス</ref> [[イタリア語|伊]]:Rinascimento)は、「再生」「復活」などを意味する[[フランス語]]であり、一義的には'''[[古典古代]]'''([[古代ギリシア|ギリシア]]、[[古代ローマ|ローマ]])の文化を[[復興]]しようとする文化運動。[[14世紀]]に[[イタリア]]で始まり、やがて[[西ヨーロッパ|西欧]]各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。<!---文化革命とは言わない。--->また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
日本では長らく'''文芸復興'''と訳されており、ルネサンスの時代を「復興期」と呼ぶこともあったが<ref>[[林達夫]]「文芸復興」、[[花田清輝]]「復興期の精神」など。</ref>、文芸に限らず広義に使われるため、現在では訳語として文芸復興という言葉はあまり使われない。'''ルネッサンス'''とも表記されるが<ref>通俗的に<!--商業主義の中で-->「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えば[[ノエビア|コスメティック・ルネッサンス]]、あるいは[[カルロス・ゴーン]]著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。</ref>、現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。
== 定義 ==
ルネサンス Renaissance という語は「再生」(re- 再び + naissance 誕生)を意味するフランス語で、19世紀のフランスの歴史家[[ジュール・ミシュレ|ミシュレ]]が『フランス史』第7巻(1855年)に‘Renaissance’という標題を付け、初めて学問的に使用した。続くスイスの[[ヤーコプ・ブルクハルト]]による『イタリア・ルネサンスの文化』Die Kultur der Renaissance in Italien(1860年)によって、決定的に認知されるようになった概念である。
「ルネサンスの用語例は8,9世紀にすでに見られ、その時期に残存する古典古代文化の復興の努力をさしたと言われる」<ref> [[柴田治三郎]]責任編集『世界の名著 45 [[ブルクハルト]]』 [[中央公論社]]1966、37頁上。- ''Lexikon des Mittelalters''. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 718-720 (Beitrag zu „Renaissance, Karolingische“), besonders S. 718.</ref>。その後、ルネサンスに相当する言葉は16世紀から用いられており、[[ジョルジョ・ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』に現れた rinascita(再生)の語に直接的な起源があると思われるが、「再生」という意識そのものは、はやくも14世紀の最大の詩人[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]や[[ペトラルカ]]の著作に見られ、文化的に大きな影響を与えた。
ところで、論者によってルネサンスの定義は、しばしば大きく異なる。文化運動を指す場合と時代区分を指す場合でしばしば混乱が生じる(例えば[[ルネサンス音楽]]の項目を参照)。ブルクハルトの時代には、ルネサンスは極めて明瞭に区分できると思われていたが、その後、特にゲルマン系学者による中世の再評価が行われた結果、ルネサンスを特徴づけると考えられていた事象([[古典古代]]の文化の復興)の多くが、中世にも存在していたことが明らかになった([[カロリング朝ルネサンス]]、[[12世紀ルネサンス]]など)。<br>
また、ルネサンスの時代にも、占星術や魔術など甚だ非理性的・非科学的な思考が多く残存していることも明らかにされた。<br>
これらによって、中世とルネサンスを明確に峻別することは困難になったのである。ルネサンスが[[近代]]の始まりなのか、それとも[[中世]]の範囲になるのか、という点についても論議が続いている。他にヨーロッパ中心の西洋史の歴史観であることを批判する論者もいる。ルネサンス(再生、復興)は[[ヨーロッパ]]を[[ローマ帝国]]の後継者とみなす西洋を中心とするローマ帝国の後継史観に基づくものだが、ローマ帝国は[[オリエント]]の一部であり、当時ヨーロッパと呼ぶべき世界はまだ成立していない(ヨーロッパ世界の始まりは[[カール大帝]]がローマ教皇から帝冠を授かる[[800年]])とする見方である<ref>『世界史序説 アジア史から一望する』[[岡本隆司]]、ちくま新書、2018年、p191</ref>。
ただし、[[14世紀]]から[[15世紀]]の[[イタリア半島]]でイタリアの諸都市で大きな文化の変革運動が起こり、ヨーロッパ各国に大きな影響力を及ぼしたこと自体を否定する論者はいない。本項では、古代ギリシア・ローマの学問・知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、やがてヨーロッパ各国に波及したと捉えておく。
[[イタリアの歴史#ルネサンス期|イタリア・ルネサンス]]の時期としてはおおむね14世紀中頃の[[ペスト]]流行以降、宗教改革後の[[トリエント公会議]]([[1545年]]-[[1563年]])<!---1600年、宇宙の無限性を唱えた[[ジョルダーノ・ブルーノ|ブルーノ]]火刑のあたり--->までが想定される<ref>樺山紘一「ルネサンス」講談社学術文庫P51-52、P121-122</ref>。
==他文化との関係==
===中世=暗黒時代観===
従来の一般的な見方は次のようなものである。およそ1000年間にかけて[[ローマ帝国]]の国教になり、[[西洋人]]の宗教信仰となった純粋なキリスト教支配のもと、西ヨーロッパ圏では古代ローマ・ギリシア文化の破壊が行われ、世界に貢献するような文化的展開をすることはできなかった。こうした見方はルネサンス以前の中世を停滞した時代、[[暗黒時代]]とみなすものである。
現在では古典的な古代文化の復興はイタリア・ルネサンス以前にも見られる現象であることが明らかにされている。[[9世紀]]の[[フランク王国]]の「[[カロリング朝ルネサンス]]」や、10世紀[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)の「[[マケドニア朝ルネサンス]]」および帝国末期の「[[パレオロゴス朝ルネサンス]]」、[[西ヨーロッパ]]における「[[12世紀ルネサンス]]」などがあり、これら(複数のルネサンスとも呼ばれる)についてはそれぞれの項目で述べる。
===イスラム文化との関係===
ギリシアをはじめとする古典的な知の遺産は、そのほとんどが8世紀から9世紀にかけて[[アラビア語]]に次々と翻訳され、初期の[[イスラーム文化|イスラム文化]]の発達に多大なる貢献をもたらした。とくに[[830年]]にアッバース朝の第7代[[カリフ]]・[[マームーン]]によって[[バグダード]]に設立された「[[知恵の館]]」において膨大な翻訳作業が行われ、知識の継承が急速に進んだ<ref>「医学の歴史」pp139 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷</ref>。
古典文献とイスラムの哲学者や科学者たちの思索は、今度は断続的に、9(カロリング朝ルネサンス)、10(マケドニア朝ルネサンス)、12(12世紀ルネサンス)、13から15世紀(パレオロゴス朝ルネサンス)と、次々と[[ラテン語]]に翻訳された。西ヨーロッパの人たちはイスラムが継承、拡充した古典をラテン語で読むことができるようになった。翻訳作業の大半は、イスラム圏とヨーロッパ大陸を繋ぐ中継基地としての役割を担っていた、イスラム支配下のスペインにおいて行われ、この作業には、それぞれ出身地を異にするイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒など、数多くの翻訳者集団が参加した。
社会と経済の発達の重要性を痛感していた西洋の社会は初期のイスラム社会と同じように、とりわけ、医学をはじめとする科学的な知識を必要としていた。アリストテレスが魂について哲学的考察を加えた『霊魂論』(これにはイスラムの哲学者[[イブン・ルシュド]]が注釈をつけている)、[[イブン・スィーナー]]が著した『医学典範』、哲学者であるとともに医師であった[[アル・ラーズィー]]が著した『アル・マンスールの書』は、いずれも15世紀から16世紀にかけて翻訳された。これらの作品は、西欧の学生たちにとって必読書であり、そうした事情は500年という長い歳月にわたって変わらなかった<!---19世紀まで、ということ?--->。
ルネサンス期のヨーロッパの学者たちは、膨大な百科全書のようなギリシア-イスラム文献に取り組み、こうした文献は、最終的には、多くのヨーロッパの言語に翻訳され、印刷技術の飛躍的な革新によってヨーロッパ全土に普及した。イスラム文化が衰退の一途をたどりはじめた時代と相前後してギリシア-イスラムの知の遺産を継承した西洋がルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、イスラム文化にとって代わって世界史の表舞台に登場したことは歴史の皮肉にほかならない。<ref>ハワード・R・ターナー、久保儀明訳「図説科学で読むイスラム文化」青土社、2001年</ref>
===ギリシア文化との関係===
文芸復興初期においてはギリシアとイタリア等西欧諸国との関係は薄く、上述のように[[アラビア語]]を介しての文化伝達に過ぎなかった。しかし、[[1397年]]に[[東ローマ帝国]]から[[ギリシア語]]学者のマヌエル・クリュソロラスがフィレンツェに招聘されて[[ギリシア語]]学校を開いてから、イタリアにおいてギリシア語学習が行われるようになった。東ローマ帝国に保管・継承されていたギリシア語の古典文献の読解が可能となり、ルネサンスの一助となった。
とくに[[1453年]]の[[コンスタンティノープル陥落]]による東ローマ帝国の滅亡によって、東ローマ帝国から優れた学者が[[イタリア半島]]に相次いで移住し、古典文献の研究は大きく進んだ<ref>澤井繁男「イタリア・ルネサンス」講談社現代新書p152-164</ref>。
== 歴史 ==
ルネサンスは、西欧世界の進行方向を決定付けるような、文化史・[[精神史]]の上での一大事件であった。まず、イタリア・ルネサンスと呼ばれる事象の興り・発展・終焉、次に、イタリア以外での西欧諸国のルネサンスの受容と発展の様相を見る。
=== イタリア ===
[[File:Firenze Palazzo della Signoria, better known as the Palazzo Vecchio.jpg|thumb|200px|ルネサンスの中心都市であった[[フィレンツェ]]]]
シチリア王・神聖ローマ帝国皇帝の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フェデリコ2世]]([[1194年]] - [[1250年]])はイタリアで生まれ、イタリアで生涯の多くを過ごした。ローマ帝国の復興を志し、シチリア王国に古代ローマ法を範とした法律を定め、ナポリ大学を開いた。しかしローマ教皇や諸都市と敵対し、結局、フェデリコの死後、南イタリアはフランス・アンジュー家の支配下に入った。
14世紀以降、ルネサンス(イタリア語で'''リナシメント''' ''rinascimento'')の中心地となったのは、[[地中海]]貿易で繁栄した[[北イタリア]]、[[トスカーナ]]地方の諸都市である。特に[[フィレンツェ]]は、毛織物業と銀行業が盛んになり、大きな経済力を持っていた。<!---教会や[[イスラム]]世界、[[東ローマ帝国]]の保存していた古典文化の影響を受けて[[14世紀]]---~[[15世紀]]---頃にはじまった、というのが一般的な理解である。--->
フィレンツェ出身の詩人[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]([[1265年]] - [[1321年]])が政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作「[[神曲]]」を完成させた。古代ローマの詩人・[[ウェルギリウス]]が地獄・[[煉獄]]巡りの案内人として登場し、主人公が地獄・煉獄から魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いて[[ペトラルカ]]([[1304年]] - [[1374年]])は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降の[[ローマ帝国]]が衰退した時代)を[[暗黒時代]]と考えた。ペトラルカは修道院に保管されていた古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を[[人文主義者]](Umanista ウマニスタ<!---=Humanist 注:「人道主義者」にあらず--->)と呼ぶようになった。また、[[1453年]]の[[コンスタンティノープルの陥落]]([[東ローマ帝国]]滅亡)の前後には、東ローマから多数の[[ギリシア人]]の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシア文化の研究が盛んになっており([[パレオロゴス朝ルネサンス]])、彼等が携えてきた古代ギリシア・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、[[マルシリオ・フィチーノ|フィチーノ]](1433年 - 1499年)は[[メディチ家]]の[[プラトン・アカデミー]]の中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。
イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野では[[フィリッポ・ブルネレスキ|ブルネレスキ]]がルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ[[建築家]]の誕生である。「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いた人文主義者[[レオーネ・バッティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]は建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされる。また、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]はそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。
[[画像:Lorenzo de' Medici-ritratto.jpg|thumb|200px|right|フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ]]
==== 音楽分野 ====
音楽の分野での「[[ルネサンス音楽]]」という用語は、ルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半の[[フィレンツェ]]で、[[ジョヴァンニ・デ・バルディ]]伯をパトロンとして、[[カメラータ]]と呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、[[ジュリオ・カッチーニ]]、[[リュート]]奏者[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]](科学者[[ガリレオ・ガリレイ]]の父)、[[ピエトロ・ストロッツィ]]である。彼らは従来の[[ポリフォニー]]音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できる[[モノディ]]様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果は[[バロック音楽]]への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範として[[オペラ]]を創出し、[[ヤコポ・ペーリ]]の『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]の『[[ポッペーアの戴冠]]』といった傑作が生まれた。<!---この部分だけむやみに詳しくバランスが悪い--->
==== ルネサンスが起こった都市 ====
イタリアでルネサンス文化が開花したのは、[[フィレンツェ]]、[[ミラノ]]、[[ローマ]]、[[ヴェネツィア]]、[[ナポリ]]、[[フェッラーラ]]などの都市である(すべての都市ではない)。学芸を愛好し、芸術家たちを育てた[[パトロン]]として、フィレンツェの[[メディチ家]]、ミラノの[[スフォルツァ家]]、フェッラーラの[[エステ家]]などが知られている。15世紀末には[[ジロラモ・サヴォナローラ|サヴォナローラ]]の改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、このころには[[ローマ教皇|教皇]]の中にも[[ルネサンス教皇]]と呼ばれる文芸保護に力を尽くした教皇が出現し、ローマでは[[サン・ピエトロ大聖堂]]などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった<ref>「キリスト教の歴史」p129 小田垣雅也 講談社学術文庫 1995年5月10日第1刷</ref>。
[[ローマ略奪]](1527年)によりローマは一時荒廃したが、[[ヴェネツィア共和国]]や[[トスカーナ大公国]](フィレンツェ)で美術の隆盛が見られた。
[[宗教改革]]により打撃を受けた[[カトリック教会|ローマ教会]]も、[[トリエント公会議]]により体制を立て直し、新大陸からもたらされる莫大な富を背景に、16世紀から17世紀にかけて[[バロック]]美術の時代に入る。しかし、文化の中心地は次第にフランスをはじめ北方の国へ移っていった。
ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、また[[イタリア戦争]]後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。
1600年には宇宙の無限性を唱えた[[ジョルダーノ・ブルーノ|ブルーノ]]が異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう([[ガリレオ・ガリレイ]]の項目も参照)。
ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や([[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]が『[[君主論]]』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。<!--(?出典はどこですか?→ルネサンスが頂点となった[[15世紀]]の文化人たちは、自らをクワトロチェント([[1400年代]]人)と呼び、イタリアの栄光の時代を生きていると強く認識していた) クワトロチェントは「400年代」の意味-->
=== その他の西欧諸国のルネサンス ===
[[ファイル:Van Eyck - Arnolfini Portrait.jpg|thumb|[[アルノルフィーニ夫妻像|アルノルフィニ夫妻の肖像]]、ヤン・ファン・エイク、1434年]]
一般に、[[15世紀]]末から[[16世紀]]には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている([[北方ルネサンス]])。しかし、ルネサンスを社会形態まで含めた総体的運動として捉えた場合、ルネサンスは本質的にイタリア固有の現象であって、{{誰2範囲|date=2013年3月|[[絶対王政]]が確立しつつあった西欧諸国にルネサンスを認めないとする立場もある。}}
また、ルネサンスと[[宗教改革]]の関連についても議論がある。特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である[[人文主義]]の研究は、宗教上のものと結びつきやすかった<ref>{{Cite book |和書 |author=ピーター・バーク |title=ルネサンス(ヨーロッパ史入門) |date=2005年11月25日 |publisher=岩波書店 |isbn=9784000270960 |page=62 |translator=亀長洋子}}</ref>。とくにネーデルラントにおけるエラスムスの研究は、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなど多くの宗教改革者に影響を与え、宗教改革の発端を作ったと考えられている。しかし一方で、宗教改革者と人文主義者との関係は必ずしも良好ではなく、ルターとエラスムスもお互いを敬して遠ざけた後、1524年から1525年にかけての自由意思をめぐる一連の論争で完全に袂を分かった。<ref>{{Cite book |和書 |author=徳善義和 |title=マルティン・ルター ことばに生きた改革者 |series=岩波新書 |year=2012 |publisher=岩波書店 |isbn=9784004313724 |pages=155–159}}</ref>
以下に、一般に「ルネサンス」と評される各国の文化を挙げる。必ずしも古典の復興を目指したものとは限らないが、イタリア・ルネサンスに触発され発達したものや、明らかに中世文化とは異なる特徴を持つものなどが含まれる。これらは一時的な流行、単なる模倣に留まらず、各国の国民文化の核にもなっていったものである。
; [[ネーデルラント]]
: 1384年から1477年まで[[ブルゴーニュ領ネーデルラント|ブルゴーニュ公国]]の支配下にあった[[フランドル]]では、毛織物工業と貿易が活発であり、豊かな文化が花開いた。
:; 絵画 : 15世紀の[[フーベルト・ファン・エイク|フーベルト]]、[[ヤン・ファン・エイク|ヤン]]のファン・エイク兄弟が油絵の技法を完成させた。このころの[[初期フランドル派|ネーデルラント絵画]]はイタリアと並び立つ水準にあり、むしろイタリア絵画に大きな影響を与えるほどであった(ただし、初期フランドルの絵画には古典の復興という要素がないため、中世末期の美術と見なす説もある)。それが16世紀頃には逆転し、イタリア・ルネサンスを手本とするようになった。[[ピーテル・ブリューゲル|ブリューゲル]](1525年?–1569年)もイタリア旅行をした後、独自の農村風景画を描くようになった。
:; 思想 : 新約聖書をギリシア語から翻訳した[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]](1466年–1536年)が[[人文主義者]]として著名である。古代ギリシア語研究は、キリスト教を原点に遡って再検討することにつながり、次第に中世カトリックの権威を揺るがすものとなった。エラスムスは『[[痴愚神礼賛]]』でカトリックの堕落を風刺したが、[[宗教改革]]運動を起こした[[マルティン・ルター]]とは袂を分かった<ref>{{Cite book |和書 |author=モーリス・ブロール |title=オランダ史 |date=1994年3月30日 |publisher=白水社 |pages=25–26 |translator=西村六郎}}</ref>。
:; 音楽 : ネーデルラントの顕著な文化活動に、音楽の勃興と隆盛があった。ルネサンス音楽に関しては、初期から中期にかけてはイタリアよりもネーデルラント、とくにフランドル地域が重要であり、イタリアよりはるかに先行していた。フランドルのルネサンスは音楽から始まったといわれる<ref>{{Cite book |和書 |author=河原温 |title=ブリュージュ: フランドルの輝ける宝石 |year=2006 |publisher=中公新書 |isbn=4-12-101848-6 |page=170 |oclc=674930479}}</ref>。[[ギヨーム・デュファイ]]によって[[中世西洋音楽]]から[[ルネサンス音楽]]への転換がなされ、[[ジル・バンショワ]]、[[アントワーヌ・ビュノワ]]と続く[[ブルゴーニュ楽派]]、さらにその後の[[ヨハネス・オケゲム]]、[[ヤーコプ・オブレヒト]]、[[ジョスカン・デ・プレ]]と続く[[フランドル楽派]](この2楽派を総称してネーデルラント楽派ともいう)が隆盛した。{{See|ルネサンス音楽}}
; [[フランス王国|フランス]]
: イタリアの先進文化が伝えられ、国王の文芸保護政策もあって文化活動が活発になった16世紀は、フランス・ルネサンスの時代といわれる<ref>{{Cite book |和書 |author=ジュール・ミシュレ |author-link=ジュール・ミシュレ |editor=大野 一道 |title=フランス史 |year=2010 |publisher=藤原書店 |isbn=9784894347571 |volume=Ⅲ}}</ref>。
:; 絵画 : イタリアに侵攻した[[フランソワ1世_(フランス王)|フランソワ1世]]の時代([[イタリア戦争]]の項を参照)にレオナルド・ダ・ヴィンチなどが宮廷に招かれ、イタリアのルネサンス美術が伝えられた<ref>{{Cite book |和書 |author=上垣豊 |title=はじめて学ぶフランスの歴史と文化 |edition=初版 |date=2020年3月31日 |publisher=ミネルヴァ書房 |isbn=9784623087785 |page=55}}</ref>。その後も[[ロッソ・フィオレンティーノ]]らがイタリアから宮廷に招かれ、[[マニエリスム]]の影響を受けた[[フォンテーヌブロー派]]が活躍した。
:; 文学 : 古代ギリシアの医学を研究した[[フランソワ・ラブレー|ラブレー]](1483年–1553年)は『[[ガルガンチュワとパンタグリュエル|ガルガンチュワ物語]]』を著した。荒唐無稽な巨人の物語であるが、既成の権威を風刺した内容で、[[活版印刷]]で刊行され、禁書処分を受けながらも広く読まれた。このほか、16世紀中頃には[[ピエール・ド・ロンサール|ロンサール]]など古典文学を学んだ若い詩人ら([[プレイヤード派]])が文学運動を起こした。またアリストテレスの演劇論などが影響を与えた。これらの動向は、17世紀のフランス古典主義文学([[ピエール・コルネイユ|コルネイユ]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]など)に継承されていった。{{See|フランス・ルネサンスの文学}}
:; 思想 : [[ユグノー戦争]]期に生きた[[ミシェル・ド・モンテーニュ|モンテーニュ]](1533年–1592年)は、フランスのルネサンス期を代表する思想家といわれ、[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]らの引用と自己の考察を綴った『[[エセー]]』(随想録)で知られる。
; ドイツ
:; 絵画 : [[アルブレヒト・デューラー|デューラー]](1471年–1528年)が有名である。イタリア旅行を経て、ルネサンス絵画に学び、思想的にも深みのある表現に達した。銅版画の「[[メランコリア I]]」や油彩の「四人の使徒」などの宗教画がよく知られている。
:; 思想 : ルターの[[宗教改革]]はルネサンスの[[人文主義者]]による聖書の原典研究が進んだことが背景にある(前述)。<!--宗教改革とルネサンスの位置づけについては様々な議論がある。--->
; [[イングランド]]
: 一般にイングランドにおけるルネサンスの最盛期は16世紀の[[エリザベス朝]]で、[[清教徒革命|ピューリタン革命]](1642年–1649年)によって幕を下ろしたとされる。{{See|イギリス・ルネサンス演劇}}
:; 文学 : [[ジェフリー・チョーサー]](1340年–1400年)が[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ|ボッカッチョ]]の影響を受け『[[カンタベリー物語]]』を著している。その後、[[エリザベス朝]]期には古代ギリシア以来とも言われるほど演劇が盛んになり、古代ローマの思想家でもある[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]の書いた『オイディプス』等の悲劇が英語に翻訳され、大きな影響を与えた。イングランドの後期ルネサンスを代表する劇作家[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]](1564年–1616年)の存在もこの流れの中にある。<!---あるいは最後のルネサンス人といわれる。--->ただし、シェイクスピア自身はラテン語・ギリシア語についての知識はあまりなく、イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、実際に訪れたことはない。
:; 思想 : 『[[ユートピア]]』で知られる[[トマス・モア]](1478年–1535年)は、イングランドの代表的な人文主義者であり、フィチーノの著作に影響を受け、エラスムスと交友を持った。また、[[フランシス・ベーコン_(哲学者)|フランシス・ベーコン]](1561年–1626年)は、セネカの思想の影響を受け、『随想録』を執筆した。
; スペイン
:; 絵画 : [[エル・グレコ]](1541年–1614年)が知られる。[[クレタ島]]出身のギリシア人でヴェネツィア・ローマを経てトレドに移り住む。[[マニエリスム]]の影響を受けながらも、独自の神秘的な画風を築いた。
:; 文学 : 小説家[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]](1547年–1616年)は、スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子であり、20代初めにローマで[[枢機卿]]に仕え、イタリアの先進文化にふれた。1605年に出版された「[[ドン・キホーテ]]」は、当時ベストセラーになり、現在では「近代小説の始まり」と評価されている。
俗語で書かれた文芸作品も多く(「神曲」、「デカメロン」、「カンタベリー物語」、「ガルガンチュワ物語」、シェイクスピアの戯曲、「ドン・キホーテ」など)、各国の国語が形成されていった時期に重なっている。一方、各国の知識人が交流する上で、中世以来の国際語であったラテン語の役割も見逃せない。例えば、ネーデルラントのエラスムスとイングランドのトマス・モアはラテン語という共通語があったことで、思想的な交友を持つことができた。
なお、建築の分野では、イタリアで生まれた[[ルネサンス建築]]が規範となり、他の国にも普及していった。古典様式をいかに理解し消化するかが課題となり、それぞれの国で特色ある様式が生まれた([[北方ルネサンス建築]]の項を参照)。ルネサンス以降、古代ギリシア・ローマを範とする古典主義建築が正統的な建築様式と見なされるようになり、20世紀に至るまで権威を保った。
==ギャラリー==
<center><gallery widths="180" heights="180">
ファイル:Botticelli-primavera.jpg|『[[プリマヴェーラ]]』 [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]<br />(1477-8年頃、[[ウフィツィ美術館]])
ファイル:Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpg|『[[ヴィーナスの誕生]]』 [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]<br />(1483年頃、[[ウフィツィ美術館]])
ファイル:Leonardo da Vinci (1452-1519) - The Last Supper (1495-1498).jpg|『[[最後の晩餐 (レオナルド)|最後の晩餐]]』 [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]<br />(1495-8年、[[サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 (ミラノ)|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会]])
ファイル:Mona Lisa, by Leonardo da Vinci, from C2RMF retouched.jpg|『[[モナ・リザ]]』 [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]<br />(1503-6年、[[ルーヴル美術館]])
ファイル:David von Michelangelo.jpg|『[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダビデ像]]』 [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェンロ]]<br />(1501-4年、[[アカデミア美術館 (フィレンツェ)|アカデミア美術館]])
ファイル:God2-Sistine Chapel.png|『[[システィーナ礼拝堂天井画]]』 [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェンロ]]<br />(1508-12年、[[バチカン宮殿]])
ファイル:Madona del gran duque, por Rafael.jpg|『[[大公の聖母]]』 [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]<br />(1504年、[[ピッティ宮殿#ピッティ美術館|ピッティ美術館]])
ファイル:Raffael 058.jpg|『[[アテナイの学堂]]』 [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]<br />(1509-10年、[[バチカン宮殿]])
ファイル:Titian Bacchus and Ariadne.jpg|『[[バッカスとアリアドネ]]』 [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]<br />(1520-3年、[[ナショナル・ギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]])
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 014.jpg|『農民の踊り』 [[ピーテル・ブリューゲル|ブリューゲル]]<br />(1568年、美術史美術館)
ファイル:Giuseppe Arcimboldo - Summer, 1573.jpg|『夏』 [[ジュゼッペ・アルチンボルド|アルチンボルド]]<br />(1573年、[[ルーヴル美術館]])
ファイル:El GRECO (Domenikos Theotokopoulos) - Annunciation - Google Art Project.jpg|『[[受胎告知]]』 [[エル・グレコ]]<br />(1590-1603年、[[大原美術館]])
ファイル:65429 Szczecin zamek ksiazat pomorskich 18.JPG|[[:en:Ducal Castle, Szczecin|シチェチンの城]], ポーランド
</gallery></center>
== 活躍した人物 ==
[[画像:Giovanni Boccaccio 1449.jpg|thumb|150px|right|ボッカチオ(1449年の絵画)]]
[[画像:Possible Self-Portrait of Leonardo da Vinci.jpg|thumb|150px|right|万能人と呼ばれているレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像]]
<!---今のところイタリアのみ--->
=== 商業・経済 ===
* [[メディチ家]]
* [[ロレンツォ・デ・メディチ]]
=== 思想 ===
{{See|ルネサンス哲学}}
* [[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキアベリ]] 『[[君主論]]』
* [[人文主義者]]の項も参照
=== 文学 ===
{{See|ルネサンス文学}}
* [[ダンテ・アリギエーリ]] トスカナ地方の俗語で『[[神曲]]』を著し、標準イタリア語の基礎を築いた
* [[ペトラルカ]] 古典文学の研究、[[マルクス・トゥリウス・キケロ|キケロ]]を賛美した
* [[ボッカチオ]] 『[[デカメロン]]』
* [[アリオスト]] 『[[狂えるオルランド]]』
=== 美術 ===
{{See|ルネサンス美術}}
{{See|ルネサンス期のイタリア絵画}}
* [[ジョット・ディ・ボンドーネ|ジオット]]
* [[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェリ]]
* [[ドナテッロ|ドナテルロ]]
* [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]
* [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]
* [[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]
* [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]
* [[ジュゼッペ・アルチンボルド|アルチンボルド]]
=== 音楽 ===
{{See|ルネサンス音楽}}
ルネサンス期の器楽曲・声楽曲は、イタリアよりブルゴーニュ、[[フランドル]]が中心であった。イタリアではルネサンス後期に至ってようやくパレストリーナが登場した。
* [[ギヨーム・デュファイ]] フランドルのカンブレ出身で、20代・30代の大半をイタリアで過ごす。のちカンブレに戻り、ブルゴーニュ楽派の中心になる。
* [[ジョスカン・デ・プレ]]
* [[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]
* [[カメラータ]] - 16世紀後半に[[フィレンツェ]]で結成されたグループで、「古代ギリシア音楽の復興」を目的とした。主要メンバーは、[[ジュリオ・カッチーニ]]と[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]。
* [[ヤコポ・ペーリ]] - 古代[[ギリシア悲劇]]を範に取り、[[オペラ]]を創出。
* [[クラウディオ・モンテヴェルディ]] - ルネサンス後期〜バロック初期の最も重要な作曲家の一人。『[[ポッペーアの戴冠]]』は初期[[オペラ]]の最高傑作の一つとされる。
=== 建築 ===
{{See|ルネサンス建築}}
* [[フィリッポ・ブルネレスキ|ブルネレスキ]]
* [[レオン・バティスタ・アルベルティ|アルベルティ]]
* [[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]
* [[ミケランジェロ]]
* [[アンドレア・パラーディオ|パラディオ]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite |和書
| author = ヤーコプ・ブルクハルト
| authorlink = ヤーコプ・ブルクハルト
| title = [[イタリア・ルネサンスの文化]]
| translator = [[柴田治三郎]]
| date = 2002
| publisher = [[中央公論新社]]
| series = [[中公クラシックス]] I・II
| isbn =
| ref = harv }}
**新訳{{Cite |和書
| author =
| title = [[イタリア・ルネサンスの文化]]
| others = 新井靖一訳
| date = 2019
| publisher = [[筑摩書房]]
| series = [[ちくま学芸文庫]] 上・下
| edition=
| isbn =
| ref = harv }}
*{{Cite |和書
| author1 = インドロ・モンタネッリ
| authorlink1 = インドロ・モンタネッリ
| author2 = ロベルト・ジェルヴァーゾ
| title = [[ルネサンスの歴史 (モンタネッリら)|ルネサンスの歴史]]
| translator = [[藤沢道郎]]
| date = 改版2016年
| publisher = [[中央公論新社]]
| series = [[中公文庫]] 上・下
| edition=
| isbn =
| ref = harv }}
*{{Cite |和書
| author = 樺山紘一
| authorlink = 樺山紘一
| title = 世界の歴史 16 ルネサンスと地中海
| date = 2008
| publisher = [[中央公論新社]]
| series = [[中公文庫]]
| isbn =
| ref = harv }}
*{{Cite |和書
| author = ピーター・バーク
| authorlink = ピーター・バーク
| title = ルネサンス
| translator = 亀長洋子
| date = 2005
| publisher = [[岩波書店]]
| series = ヨーロッパ史入門
| isbn =
| ref = harv }}
*{{Cite |和書
| author = [[池上俊一]]監修
| title = 原典 イタリア・ルネサンス人文主義
| date = 2010
| publisher = [[名古屋大学出版会]]
| isbn =
| ref = harv }}
*{{Cite |和書
| author = [[ヒロ・ヒライ]]監修
| title = ルネサンス・バロックのブックガイド 印刷革命から魔術・錬金術までの知のコスモス
| date = 2019
| publisher = [[工作舎]]
| isbn =
| ref = harv }}
== 関連項目 ==
* [[ルネサンス美術]]
** [[ルネサンス期のイタリア絵画]]
* [[ルネサンス音楽]]
* [[ルネサンス建築]]
* [[ルネサンス哲学]]
* [[ルネサンス文学]]
** [[フランス・ルネサンスの文学]]
* [[北方ルネサンス]]
** [[北方ルネサンス建築]]
* [[盛期ルネサンス]]
* [[イタリア・ルネサンス年表]]
* [[ビザンティン文化]]
* [[イスラム文化]]
** [[イスラム科学]]
* [[12世紀ルネサンス]]
* [[ゴシック]]
** [[国際ゴシック]]
* [[初期フランドル派]]
* [[メディチ家]]
* [[マニエリスム]]
** [[マニエリスムの芸術家]]
** [[フォンテーヌブロー派]]
* [[ユートピア]]
== 外部リンク ==
{{Commons&cat|Renaissance|Renaissance}}
* [http://www.rensoc.org.uk/ Society for Renaissance Studies]
* [http://www.italyguides.it/us/florence/florence_italy.htm Virtual travel of Florence Italy]
* [http://www.all-art.org/history214_contents_Renaissance.html History of Art:Renaissance Art Map]
* [http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/british_galleries/bg_styles/Style01a/index.html Renaissance Style Guide]
* [http://www.museobagattivalsecchi.org/defaultall.htm The Bagatti Valsecchi Museum]
* {{Kotobank}}
{{Periods of the History of Europe}}
{{西洋の芸術運動}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:るねさんす}}
[[Category:ルネサンス|*]]
[[Category:イタリアの歴史]]
[[Category:フランスの歴史]]
[[Category:オランダの歴史]]
[[Category:イギリスの歴史]]
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[[Category:近世]]
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府中競馬正門前駅
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府中競馬正門前駅(ふちゅうけいばせいもんまええき)は、東京都府中市八幡町一丁目にある京王電鉄競馬場線の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO46。
東京競馬場の最寄り駅であるが、同競馬場の通称である「府中競馬場」に因み、「府中競馬正門前」と名付けられている。正式名称の「東京競馬場」でないのは、かつて日本国有鉄道(国鉄)中央本線下河原支線に東京競馬場前駅が存在したためである。
競馬場線の終着駅で頭端式ホーム1面2線を有する地上駅である。かつて南側の線路(1番線)には降車専用のホームもあり、列車到着時には両方のドアを開けて乗降に対応することができた。頭端部に改札口があり、改札口を出るとそのまま東京競馬場への横断歩道橋につながる。
平日は2両編成のワンマン列車、土曜・休日は中央競馬非開催日を含めて8両編成が中心に運転され、競馬開催時を除きほとんどの列車は1番線を使用する。なお、一時期、平日朝ラッシュ時に新宿行各駅停車が設定されており、この列車は特定都市鉄道整備促進特別措置法(特特事業。朝ラッシュピーク時に新宿に到着する全電車を10両編成にする)の対象となったことから、2番線は10両編成分の有効長を持つ。
競馬開催時は京王線新宿行き臨時特急2本が運行される。この臨時特急は10両編成であるため、すべて2番線からの発車である。
2010年(平成22年)頃に発車標が新設された。
2022年(令和4年)度の1日平均乗降人員は1,794人である。京王電鉄全線で最も利用客が少ない駅である。
近年の1日平均乗降人員及び乗車人員の推移は下表の通りである。特に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによる全公営競技無観客開催措置の影響から、2019年から2020年にかけての減少幅が非常に大きく、2021年も入場制限の影響で大幅な回復には至っていない。
当駅は東京競馬場の最寄り駅であり、競馬開催日には多くの人で混雑するが、非開催日は閑散としている。競馬場以外には主に住宅地が広がり、周辺道路も幅員の狭い生活道路が中心である(「八幡町」も参照)。また、東京競馬場への陸橋の入口付近には黄金馬像「アハルテケ像」がある。
徒歩圏内に府中駅(当駅から約850 m)・東府中駅(同約1 km)がある。当駅は始発が遅く終電が早いため、早朝・深夜はこれらの駅が事実上の代替となる。
平日は乗降客が少ないため、広告やテレビCMなどのロケーション撮影が頻繁に行われている。過去には当駅のホーム構造を利用し、電車の中を通り抜け、反対側のホームに出てしまうといったアイデアが使用されたこともある。当駅でロケを行った作品の例は下記のとおり。
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府中競馬正門前駅(ふちゅうけいばせいもんまええき)は、東京都府中市八幡町一丁目にある京王電鉄競馬場線の駅である。京王中央管区所属。駅番号はKO46。
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{{混同|東京競馬場前駅|x1=国鉄中央本線[[下河原線|下河原支線]]にかつて存在した}}
{{駅情報
|社色 = #dd0077
|文字色 =
|駅名 = 府中競馬正門前駅
|画像 = Fuchu-Keiba-Seimon-mae-Station 20120506.jpg
|pxl = 300
|画像説明 = 駅舎(2012年5月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=14|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
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|coord={{coord|35|40|5.41|N|139|29|4.84|E}}|marker-color=dd0077|title=府中競馬正門前駅
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|frame-latitude=35.667726|frame-longitude=139.484676}}東京競馬場は南、府中駅は北西、東府中駅は東<br />(かつては南西側に東京競馬場前駅があった)
|よみがな = ふちゅうけいばせいもんまえ
|ローマ字 = Fuchūkeiba-seimommae<!--公式サイト内の表記に準拠(以前は「seimonmae」だったが、八幡山駅とおそらく同時に修正)。-->
|副駅名 = 東京競馬場前
|隣の駅 =
|前の駅 = KO23 [[東府中駅|東府中]]
|駅間A = 0.9
|駅間B =
|次の駅 =
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KO|46|#dd0077|5}}
|所属事業者 = [[京王電鉄]]
|所属路線 = {{color|#dd0077|■}}[[京王競馬場線|競馬場線]]
|キロ程 = 0.9 km([[東府中駅|東府中]]起点)<br />[[新宿駅|新宿]]から21.3
|起点駅 =
|所在地 = [[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[八幡町 (東京都府中市)|八幡町]]一丁目18
|座標 = {{coord|35|40|5.41|N|139|29|4.84|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]<ref name="RP893_155-156" />
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1955年]]([[昭和]]30年)[[4月29日]]
|廃止年月日 =
|乗降人員 = 693
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
'''府中競馬正門前駅'''(ふちゅうけいばせいもんまええき)は、[[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]][[八幡町 (東京都府中市)|八幡町]]一丁目にある[[京王電鉄]][[京王競馬場線|競馬場線]]の[[鉄道駅|駅]]である。京王中央管区所属<ref name="RP893_43">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部管理課|title=駅管区・乗務区のあらまし|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=43|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO46'''。
<!--1路線しか無い場合は概要に路線名を入れ、「利用可能な鉄道路線」の章は作らない-->
== 歴史 ==
=== 年表 ===
* [[1955年]]([[昭和]]30年)[[4月29日]]:京王帝都電鉄(現・京王電鉄)競馬場線開通と同時に開業<ref name="RP893_155-156">{{Cite journal|和書|author=大沼一英|title=京王電鉄 静寂を求めて巡る4駅|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|pages=155 - 156|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
=== 駅名の由来 ===
[[東京競馬場]]の最寄り駅であるが、同競馬場の通称である「府中競馬場」に因み、「'''府中競馬正門前'''」と名付けられている。正式名称の「東京競馬場」でないのは、かつて[[日本国有鉄道]](国鉄)[[下河原線|中央本線下河原支線]]に[[東京競馬場前駅]]が存在したためである<ref name="RP893_156">{{Cite journal|和書|author=根本幸男|title=京王電車全線歩き乗り記|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=164|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>。
== 駅構造 ==
競馬場線の[[終着駅]]で[[頭端式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]である。かつて南側の線路(1番線)には降車専用の[[プラットホーム|ホーム]]もあり、列車到着時には両方のドアを開けて乗降に対応することができた。頭端部に[[改札|改札口]]があり、改札口を出るとそのまま東京競馬場への[[横断歩道橋]]につながる。
平日は2両編成の[[ワンマン運転|ワンマン]]列車、土曜・休日は中央競馬非開催日を含めて8両編成が中心に運転され、[[競馬の開催|競馬開催]]時を除きほとんどの列車は1番線を使用する。なお、一時期、平日朝[[ラッシュ時]]に新宿行各駅停車が設定されており、この列車は[[特定都市鉄道整備促進特別措置法]](特特事業。朝ラッシュピーク時に新宿に到着する全電車を10両編成にする)の対象となったことから、2番線は10両編成分の[[有効長]]を持つ。
競馬開催時は京王線新宿行き臨時特急2本が運行される。この臨時特急は10両編成であるため、すべて2番線からの発車である。
[[2010年]]([[平成]]22年)頃に[[発車標]]が新設された。
=== のりば ===
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
|-
!1・2
|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 競馬場線
|[[東府中駅|東府中]]・[[新宿駅|新宿]]・ [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|{{small|都営}}新宿線]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]方面
|}<!-- (注:駅公式サイト(京王電鉄)は「新宿・都営線本八幡方面」と記載) -->
; 付記事項
* 1番線には降車専用ホームがあったが、近年は使用していなかった<ref name="RP893_155-156" />。なお、同ホームは[[2022年]]([[令和]]4年)に撤去作業が行われた<ref name="降車ホーム撤去">{{Cite web|和書|url=https://tokyofuchu.goguynet.jp/2022/02/23/fuchukeibaseimommaekouji/ |title=【府中市】現在、府中競馬正門前駅では、旧降車ホームの撤去工事が行われています!({{~}}令和4年9月30日) |access-date=2023-12-25 |publisher=本氣(マジ)メディア |archive-url=https://web.archive.org/web/20220222213138/https://tokyofuchu.goguynet.jp/2022/02/23/fuchukeibaseimommaekouji/ |archive-date=2022-02-22 |date=2022-02-23 |author=Minomu |website=号外NET 東京都府中市}}</ref>。
<gallery widths="180" style="font-size:90%;">
Fuchu-Keiba-Seimon-mae Station-wicket.jpg|改札口(2012年5月)
Fuchu-Keiba-Seimon-mae-Station Platform 20120506.jpg|構内(2012年5月。左端は降車専用ホーム)
Fuchū-Keiba-Seimon-mae Station4東京都府中市 京王競馬場線ワンマン.jpg|1番線に停車中の列車(2016年11月。左は降車専用ホーム)
Fuchū-Keiba-Seimon-mae Station8東京都府中市 京王競馬場線ワンマン.jpg|ホーム(2016年11月。奥に降車専用ホームがあった)
Fuchu-keiba-seimon-mae-eki.2train keio.keibajyo.line.jpg|列車発着の様子(2016年12月。左は1番線、右は2番線)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''1,794人'''である<ref>[https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html 1日の駅別乗降人員] - 京王電鉄</ref>。京王電鉄全線で最も利用客が少ない駅である。
近年の1日平均'''乗降'''人員及び'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。特に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]の[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|パンデミック]]による[[無観客試合|全公営競技無観客開催措置]]の影響から、2019年から2020年にかけての減少幅が非常に大きく、2021年も入場制限の影響で大幅な回復には至っていない。
<!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります-->
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/toke/tokeisyo/index.html 府中市統計書] - 府中市</ref>
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref>
!出典
|-
|1955年(昭和30年)
|<ref group="注釈">競馬場線開業年度</ref>926
|
|
|-
|1960年(昭和35年)
|1,830
|
|
|-
|1965年(昭和40年)
|3,275
|
|
|-
|1970年(昭和45年)
|7,159
|
|
|-
|1974年(昭和49年)
|<ref group="注釈">当駅の乗降人員最高値年度</ref>8,841
|
|
|-
|1975年(昭和50年)
|8,405
|
|
|-
|1980年(昭和55年)
|6,058
|
|
|-
|1985年(昭和60年)
|3,769
|
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
|5,756
|2,663
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
|2,932
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
|3,047
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
|3,175
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
|3,523
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
|7,480
|3,555
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
|3,304
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
|3,118
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|3,167
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1999年(平成11年)
|
|3,120
|<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|2000年(平成12年)
|7,225
|3,022
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref>
|-
|2001年(平成13年)
|<ref name="RP893_27">{{Cite journal|和書|author=京王電鉄鉄道営業部運転課|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2014-08-10|volume=64|issue=第8号(通巻893号)|page=27|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>6,605
|2,682
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref>
|-
|2002年(平成14年)
|4,562
|1,885
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|4,705
|2,142
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|4,417
|1,986
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|3,877
|1,910
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|3,396
|1,795
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|3,619
|1,937
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|3,479
|1,841
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|3,379
|1,756
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|3,163
|1,630
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|2,944
|1,511
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|3,088
|1,581
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|<ref name="RP893_27" />3,115
|1,581
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|3,160
|1,592
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|3,190
|1,601
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|3,209
|1,600
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|3,175
|1,586
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|3,229
|1,600
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|2,922
|1,434
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|400
|184
|<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref>
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|693
|329
|<ref group="*>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2021/tn21q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和3年)]</ref>
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|1,794
|
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:東京競馬場 - panoramio (4).jpg|thumb|東京競馬場 スタンド]]
当駅は東京競馬場の最寄り駅であり、競馬開催日には多くの人で混雑するが、非開催日は閑散としている<ref name="RP893_155-156" />。競馬場以外には主に住宅地が広がり、周辺道路も幅員の狭い生活道路が中心である(「[[八幡町 (東京都府中市)|八幡町]]」も参照)。また、東京競馬場への陸橋の入口付近には[[金|黄金]]馬像「[[アハルテケ]]像」がある<ref name="RP893_155-156" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://goldnews.jp/photo/kanto/entry-3237.html |title=黄金の馬アハルテケ像で必勝祈願!?府中・東京競馬場 |access-date=2023-12-24 |publisher=キャピタル・エフ |date=2015-02-25 |website=GOLD NEWS(ゴールドニュース) |work=ゴールドフォト |archive-url=https://web.archive.org/web/20230208015334/https://goldnews.jp/photo/kanto/entry-3237.html |archive-date=2023-02-08}}</ref>。
徒歩圏内に[[府中駅 (東京都)|府中駅]](当駅から約850 m)・[[東府中駅]](同約1 km)がある。当駅は[[始発列車|始発]]が遅く[[終電車|終電]]が早いため、早朝・深夜はこれらの駅が事実上の代替となる。
{{columns-list|2|
* [[東京競馬場]] - [[松任谷由実|荒井由実]]の[[楽曲]]『中央フリーウェイ』に登場する競馬場のこと<ref group="注釈">楽曲解説は[[アルバム]]『[[14番目の月]]』の「[[14番目の月#楽曲解説|中央フリーウェイ]]」を参照。</ref><ref name="中央フリーウェイ">{{Cite web|和書|url=https://www.uta-net.com/song/3068/ |title=松任谷由実 中央フリーウェイ 歌詞 |access-date=2023-12-25 |publisher=ページワン |website=歌ネット |archive-url=https://web.archive.org/web/20230929185133/https://www.uta-net.com/song/3068/ |archive-date=2023-09-29}}</ref><ref name="競馬とビール3R">{{Cite web|和書|url=https://www.jbja.jp/archives/45907 |title=【競馬とビール3R】右に見える東京競馬場左はビール工場 |access-date=2023-12-25 |publisher=日本ビアジャーナリスト協会 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230528022834/https://www.jbja.jp/archives/45907 |archive-date=2023-05-28 |date=2023-05-27}}</ref>。
** [[JRA競馬博物館]]
* [[武蔵国府八幡宮]]
* 普門寺
* 馬霊塔<ref name="馬霊塔">{{Cite web|和書|url=https://www.kankou-fuchu.com/?p=we-page-entry&spot=40305 |title=馬霊塔 |access-date=2023-12-24 |publisher=府中観光協会}}</ref> - [[トキノミノル]]ら[[競走馬]]の[[墓石]]が並ぶ<ref name="馬霊塔" />。[[馬頭観音|馬頭観世音]][[菩薩]]に隣接。
* 京王電鉄[[京王線]] 府中駅
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[南武線]]・[[武蔵野線]] [[府中本町駅]]
* [[大國魂神社]]
* 府中八幡宿郵便局
* 競馬場通り
* 競馬場正門通り
* 京所通
* 普門寺坂
* [[ちゅうバス]]「競馬場正門通り」停留所 - [[ちゅうバス#是政循環|是政循環]]、[[ちゅうバス#押立町・朝日町循環|押立町・朝日町循環]]
}}
== 作品の舞台 ==
[[ファイル:Fuchu.keiba.seimon.mae.eki.home.keio.jpg|thumb|撮影が度々行われる広いホーム。右手前が1番線、奥が2番線(2017年1月(※1番線降車ホームは2022年に撤去<ref name="降車ホーム撤去" />))]]
平日は乗降客が少ないため、[[広告]]や[[コマーシャルメッセージ|テレビCM]]などの[[ロケーション撮影]]が頻繁に行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.happy-town.net/special0704/keio.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150311023135/http://www.happy-town.net/special0704/keio.html |title=街はぴ特集 あの名場面を探せ! ロケ天国 京王沿線 |archivedate=2015-03-11 |accessdate=2021-05-04 |publisher=京王電鉄 |deadlinkdate=2023-12-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keio.co.jp/train/other/advertisement/location_navi/performance/ |title=LOCATION 主なロケーション紹介 |publisher=京王グループ |accessdate=2023-12-25 |work=京王ロケーションサービス |archive-date=2023-06-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230622170840/https://www.keio.co.jp/train/other/location-service/index.html}}</ref>。過去には当駅のホーム構造を利用し、電車の中を通り抜け、反対側のホームに出てしまうといったアイデアが使用されたこともある。当駅でロケを行った作品の例は下記のとおり。
<!-- ロケ撮影数が非常に多いので記述は最小限に留めています。なお、個人が運営するサイト・ブログ・SNSは出典無効となります -->
; 映画
* [[喜劇 駅前競馬]]
:: [[1966年]][[10月29日]]公開、[[駅前シリーズ]]第17作。電車が到着するシーンと駅から飛び出す坂井次郎(演 - [[フランキー堺]])のロケ地として登場。なお、競馬場のロケは東京競馬場ではなく[[大井競馬場]]で行われた<ref group="注釈">東京競馬場の後方を走る[[東京モノレール羽田空港線]]の車両が映るシーンがある。</ref>。
* [[それでもボクはやってない]]
:: [[2007年]][[1月20日]]公開、[[痴漢冤罪]]を扱った作品<ref>{{Cite web|和書|url=https://www-video-lp.unext.jp/title/SID0013164 |title=それでもボクはやってない |access-date=2023-12-26 |publisher=U-NEXT |quote=(作品画像は当駅のホームで撮影したもの。「痴漢容疑で駅長室へ連行される前のシーン」より) |archive-date=2023-12-26 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231226044336/https://www-video-lp.unext.jp/title/SID0013164}}</ref>。当駅が城北急行電鉄の「岸川駅」として登場する。金子徹平(演 - [[加瀬亮]])が[[痴漢]]容疑で[[逮捕]]され、岸川警察署(ロケ地は秦野市役所)に連行されるシーンの撮影が行われた。
; テレビドラマ
* [[すてきな片想い (テレビドラマ)|すてきな片想い]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系列]]、[[月9]]枠)
:: [[1990年]]10月 - 同年12月放送。与田圭子(演 - [[中山美穂]])と野茂俊平(演 - [[柳葉敏郎]])の自宅最寄り駅として登場。
; 教育番組
* [[ピタゴラスイッチ]]([[NHK教育テレビジョン]])
:: [[2010年]]頃放送。「[[ピタゴラスイッチ#アルゴリズムこうしん|アルゴリズムこうしん]](鉄道会社のみなさんといっしょ編)」に登場。[[京王8000系電車|8000系]]{{Refnest|group="注釈"|[[日本放送協会|NHK]]は[[公共放送]]という立場上、営業広告(企業名および商品名を出すこと)ができないため<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20160406_399590.html?DETAIL |title=NHK 企業名、商品名を「出す/出さない」の境界線は |access-date=2023-12-25 |publisher=小学館 ポスト・セブン局 |website=NEWSポストセブン |archive-date=2022-05-12 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220512080206/https://www.news-postseven.com/archives/20160406_399590.html?DETAIL |quote=[[週刊ポスト]]2016年4月15日号より}}</ref>鉄道事業者名(京王電鉄)は出ず、京王電鉄の[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]に[[ガウシアンぼかし|ぼかし]]が入っていた。}}を背に[[お笑いコンビ]]の[[いつもここから]]と京王電鉄社員(同社の[[乗務員]]と[[整備士]])が踊るシーンの撮影が行われた。
; テレビCM
* [[日本中央競馬会]] (JRA)
:: [[自動改札機]]を[[競馬場#発馬機|発馬機ゲート]]に見立てたCMを過去{{いつ|date=2023年12月}}に放送した。<!-- (詳細情報不明のため「いつ」を設置。「要出典」及び「要検証」の設置は保留) -->
; ミュージック・ビデオ
* [[ズルいよ ズルいね]]
:: [[=LOVE]]の[[楽曲]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=J5eTB_0SEeg |title==LOVE(イコールラブ)/ 6th Single『ズルいよ ズルいね』【MV full】 |access-date=2023-12-25 |publisher=YouTube |author==LOVE(イコールラブ)公式チャンネル |archive-date=2023-05-11 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230511124603/https://www.youtube.com/watch?v=J5eTB_0SEeg |date=2019-10-04}}</ref>。ホームのベンチで[[スマートフォン]]を眺めるシーン(※回想シーンを含む)や1番線側のホームを歩くシーンに[[齊藤なぎさ]]が出演した。
== その他 ==
* かつて在籍していた[[京王5000系電車 (初代)|初代5000系]]や[[グリーン車 (京王)|グリーン車]]の先頭車前面[[方向幕|行先表示器]]の当駅の表示コマには、東京競馬場に因み[[ウマ|馬]]の[[蹄鉄]]がバックにデザインされていた。この幕は後に方向幕梱包テープとして商品化され、京王電鉄線の他駅の行き先幕(※一部の始終着駅を除く)も同品に収録された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ef5861.stores.jp/items/616f87964e80826569f5f538 |title=京王電鉄旧5000系方向幕梱包テープ |access-date=2023-12-25 |publisher=STORES 株式会社 |archive-date=2023-12-25 |archive-url=https://web.archive.org/web/20231225122106/https://ef5861.stores.jp/items/616f87964e80826569f5f538 |work=TRAIN_ART TAPE STORE}}</ref>。
* 当駅が開業する前にも、東府中駅は「臨時競馬場前駅」と称したことがあった。過去の歴史については「[[東府中駅]]」を参照。
* 京王電鉄は[[2021年]]([[令和]]3年)[[8月5日]]に「京王線 de フォトウエディング」を[[京王自動車]]および[[京王百貨店]]との共同企画として販売を開始した<ref name="京王グループ-20210727">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210727_photowedding.pdf |title=電車好き必見! 京王グループ共同企画 京王百貨店×京王電鉄×京王自動車「京王線 de フォトウエディング」 |access-date=2023-12-25 |publisher=京王電鉄 |archive-date=2022-04-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220406040923/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20210727_photowedding.pdf |date=2021-07-27 |format=PDF |work=KEIO NEWS RELEAS}}</ref><ref name="調布経済新聞-3541">{{Cite news|和書 |title=府中競馬正門前駅でウエディングフォトの撮影プラン 車両との撮影も |newspaper=調布経済新聞 |date=2021-08-11 |url=https://chofu.keizai.biz/headline/3541/ |access-date=2023-12-25 |archive-date=2021-08-14 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210814115131/https://chofu.keizai.biz/headline/3541/}}</ref>。同プランは[[京王百貨店新宿店]]で[[化粧|メイク]]・[[着付け]]をした後、当駅構内で記念写真の撮影を行うものとなっている<ref name="京王グループ-20210727" /><ref name="調布経済新聞-3541" /><ref name="京王百貨店衣裳室">{{Cite web|和書|url=https://www.keio-photo.jp/news/news392.html |title=電車好きのカップルに好評!「京王線deフォトウェディング」 |access-date=2023-12-25 |publisher=京王百貨店衣裳室 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230608150918/https://www.keio-photo.jp/news/news392.html |archive-date=2023-06-08 |date=2021-12-02}}</ref>。なお、[[新宿]] - 当駅間は[[ハイヤー]]による送迎である<ref name="調布経済新聞-3541" /><ref name="京王百貨店衣裳室" />。
== 隣の駅 ==
; 京王電鉄
: [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 競馬場線
:: {{Color|#ff1493|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行(いずれも競馬開催時の上りのみ運転)・{{Color|gray|■}}各駅停車
::: [[東府中駅]] (KO23) - '''府中競馬正門前駅 (KO46)'''
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
; 東京都統計年鑑
{{Reflist|group="*"|22em}}
== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keio.co.jp/train/station/ko46_fuchukeiba-seimommae/ 京王電鉄 府中競馬正門前駅]
* [https://www.tv-asahi.co.jp/ekimae/backnumber/0029/ あなたの駅前物語 府中競馬正門前駅] - テレビ朝日
{{京王線}}
{{DEFAULTSORT:ふちゆうけいはせいもんまえ}}
[[Category:東京都府中市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 ふ|ちゆうけいはせいもんまえ]]
[[Category:京王電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1955年開業の鉄道駅]]
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70
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70(七十、ななじゅう、しちじゅう、ひちじゅう、ななそ、ななそじ)は自然数、また整数において、69の次で71の前の数である。
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70(七十、ななじゅう、しちじゅう、ひちじゅう、ななそ、ななそじ)は自然数、また整数において、69の次で71の前の数である。
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'''70'''('''七十'''、ななじゅう、しちじゅう、ひちじゅう、ななそ、ななそじ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[69]]の次で[[71]]の前の数である。
== 性質 ==
*70は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[2]], [[5]], [[7]], [[10]], [[14]], [[35]], 70 である。
**[[約数]]の和は[[144]]。
***70を除く約数の和は74で14番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[66]]、次は[[72]]。
***[[約数]]の和が[[平方数]]になる5番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[81]]。
**約数を8個もつ8番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[78]]。
***約数を ''n'' 個もつ ''n'' 番目の数である。1つ前は24137569。次は[[1089]]。({{OEIS|A073916}})
*最小の[[不思議数]]である。次は[[836]]。
*7番目の[[五角数]]である。1つ前は[[51]]、次は[[92]]。
** 70 = 7 + 8 + 9 + 10 + 11 + 12 + 13
**[[五角数]]が[[楔数]]になる最小の数である。次は[[590]]。
**[[五角数]]が[[ハーシャッド数]]になる4番目の数である。1つ前は[[12]]、次は[[117]]。
*5番目の[[五胞体数]]である。1つ前は[[35]]、次は[[126]]。
**70 = {{sfrac|5 × 6 × 7 × 8|1 × 2 × 3 × 4}}
*4番目の[[多角数|十三角数]]である。1つ前は[[36]]、次は[[115]]。
*6番目の[[ペル数]]である。1つ前は[[29]]、次は[[169]]。
*4番目の[[楔数]]である。1つ前は[[66]]、次は[[78]]。
**[[楔数]]が[[ハーシャッド数]]になる3番目の数である。1つ前は[[42]]、次は[[102]]。
*27番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[63]]、次は[[72]]。
**7を基としたとき2番目の[[ハーシャッド数]]である。1つ前は[[7]]、次は[[133]] 。
*{{sfrac|1|70}} = 0.0{{underline|142857}}… (下線部は循環節で長さは6)
**[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる14番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[77]]。
*70[[階乗|!]] は1[[グーゴル]]に比較的近い。
:70! = 11, 978, 571, 669, 969, 891, 796, 072, 783, 721, 689, 098, 736, 458, 938, 142, 546, 425, 857, 555, 362, 864, 628, 009, 582, 789, 845, 319, 680, 000, 000, 000, 000, 000 ≒ 1.1978571669969891796 × 10{{sup|100}}
*[[パスカルの三角形]]の9段目の中央の数は70である。1つ前は[[20]]、次は[[252]]。
**<math>70 = \frac{8!}{(4!)^2} = \frac{5\times6\times7\times8}{1\times2\times3\times4}</math>
*各位の和が7になる8番目の数である。1つ前は[[61]]、次は[[106]]。
*各位の[[平方和]]が[[平方数]]になる19番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[80]]。({{OEIS|A175396}})
*70 = 3{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}}
** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる33番目の数である。1つ前は[[68]]、次は[[72]]。({{OEIS|A025321}})
** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる21番目の数である。1つ前は[[66]]、次は[[75]]。({{OEIS|A025339}})
** ''n'' = 2 のときの 3{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[14]]、次は[[368]]。({{OEIS|A001579}})
** 70 = ({{sfrac|7−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11−1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|13−1|2}}){{sup|2}}
* 70 = 2{{sup|6}} + 6
** ''n'' = 6 のときの 2{{sup|''n''}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[37]]、次は[[135]]。({{OEIS|A006127}})
* ''n'' = 70 のとき ''n'' と ''n'' − 1 を並べた数を作ると[[素数]]になる。''n'' と ''n'' − 1 を並べた数が素数になる8番目の数である。1つ前は[[58]]、次は[[78]]。({{OEIS|A054211}})
* 70 = {{sfrac|5 × 6 × 7|3}}
** ''n'' = 5 のときの {{sfrac|''n''(''n'' + 1)(''n'' + 2)|3}} の値とみたとき1つ前は[[40]]、次は[[112]]。({{OEIS|A007290}})
*** <math>70=\sum^5_{k=1}k(k+1)</math>
== その他 70 に関連すること ==
*[[3月11日]]は年始から数えて70日目である。( ただし閏年は[[3月10日]] )
*70 の[[接頭辞]]:septuaginti([[ラテン語|拉]])、heptaconta([[ギリシャ語|希]])
*[[ラテン語]]では septuaginta(セプトゥアーギンター)。
*[[原子番号]] 70 の[[元素]]は[[イッテルビウム]] (Yb)。
*70歳の別名:七十路(ななそじ)、[[古希]](古稀。[[杜甫]]の詩から)。
*第70代[[天皇]]は[[後冷泉天皇]]である。
*[[大相撲]]の第70代[[横綱]]は、[[日馬富士公平]]である。
*[[日本]]の第70代[[内閣総理大臣]]は[[鈴木善幸]]である。
*第70代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ホノリウス1世 (ローマ教皇)|ホノリウス1世]](在位:[[625年]][[10月27日]]~[[638年]][[10月12日]])である。
*[[横浜ランドマークタワー]]は、地上70階建て。
*[[水滸伝]]の70回本([[金聖嘆]]が元の物語の後半を切り捨てて編集したもの。71回本とも)
*[[日本万国博覧会|EXPO'70]] は[[1970年]]に開催された[[日本万国博覧会]]のことである。
*[[70系]]は70系・70形と呼ばれる(鉄道車両の)体系の一覧。
*[[クルアーン]]における第70番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[階段 (クルアーン)|階段]]である。
*[[日本野球機構]]に所属するプロ野球球団において、[[支配下選手登録]]できる人数の上限は70人である。
== 関連項目 ==
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名古屋飛行場
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名古屋飛行場(なごやひこうじょう、英: Nagoya Airfield)は、愛知県にある飛行場である。名古屋飛行場は航空法上の正式名称であり、空港施設の通称は県営名古屋空港(けんえいなごやくうこう、英: Prefectural Nagoya Airport)。航空自衛隊とも共用しているため小牧空港(こまきくうこう)とも呼ばれる。
名古屋市の中心から北へおよそ15 kmの濃尾平野北東部に位置しており、行政区分上では名古屋市(北区)、小牧市、西春日井郡豊山町、春日井市の3市1町にまたがっている。航空自衛隊小牧基地に隣接しており、滑走路を共有しているが、防衛省設置管理の共用飛行場ではなく愛知県が管理する。管制業務は、飛行場管制業務と着陸誘導管制業務を航空自衛隊小牧管制隊が実施しており、進入管制業務とターミナルレーダー管制業務については、中部国際空港(常滑市)にある国土交通省大阪航空局中部空港事務所が広域管制によって実施している。
かつては国内線・国際線共に数多く発着していたが、中部国際空港開港と同時に大部分の路線が中部に移転するとともに、第二種空港からその他の飛行場に指定変更され、正式名称はそれまでの「名古屋空港」から「名古屋飛行場」となった。なお、IATA空港コードの「NGO」を中部へ譲り、新たに「NKM」で登録された。
2019年5月現在、旅客定期便はフジドリームエアラインズによる1社8路線のみである。近年はビジネスジェットの運航などゼネラル・アビエーションに力を入れており、ビジネス機専用ターミナルが国内線ターミナルとは別の出入り口に設置されている。トヨタ自動車のような地元企業などを中心にビジネスの拠点として多くのビジネスジェットに利用されているほか、F1の日本グランプリが鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開催される時にはドライバーの中継地になっている。
年間旅客数は、国内:748,389人、国際:919人(2015年度)で、2015年度(平成27年度)空港別乗降客数順位は、全国34位。
1934年10月に名古屋港埋立地10号地に名古屋国際仮飛行場が開港、1940年に名古屋飛行場となる。同時期に同じく11号地の埋め立てが許可され、1941年に名古屋国際飛行場が開港。拡張のため一時閉鎖(1944年)するが、終戦後は放置される。同地は後に東邦ガス空見環境センターとなった。
1952年から2005年にかけては、愛知県の玄関口としての機能を持ち、日本国内の主要空港の一つであった。しかし、中部国際空港の開港により、ほとんどの旅客定期便が同空港に移転した。
2005年2月16日には、この日の出発最終便である20:45発 サイパン行きチャーター機、日本航空 JL8839便を航空会社・空港両関係者がペンライトを持って見送り、第二種空港としての幕を閉じた。なお、この飛行機は折り返し中部国際空港到着の1番機(日本航空 JL8830便)でもあった。
中部国際空港開港以降、設置管理を国土交通省から愛知県へ移管、設置区分も「第二種(A)空港」から「その他公共用飛行場」に変更され、「名古屋飛行場(県営名古屋空港)」となった。IATA空港コード(3レターコード)は旧名古屋空港のNGOは中部国際空港へ移管され、NKMとなり、ICAO空港コード(4レターコード)は旧名古屋空港のRJNNからRJNAへ変更された(中部国際空港のコードはRJGGとなった)。また、前述のように一部管制業務を国土交通省大阪航空局名古屋空港事務所から航空自衛隊小牧管制隊に移管した。なお、定期便や国内・海外飛来機等の旅客は全て従来の国内線旅客ターミナルビルにて取り扱い、税関・出入国審査・検疫は1つの部屋にまとまった小規模なものとなり、日本初となる本格的な小型機専用コンコース「フィンガーコンコース」が新設された。
2005年2月、日本航空グループのジェイエアが中部国際空港の開港を機に広島西飛行場から本社・ベースを移転し、ジェイエアの拠点飛行場となったが、2011年3月にジェイエアは当空港から全面撤退し大阪国際空港(伊丹空港)近隣ビルに移転した。ジェイエアの撤退後は、静岡空港よりフジドリームエアラインズがベースを移転し、同社の拠点飛行場となっている。
2010年1月に経営破綻した日本航空の再建を巡り、同社の子会社であるジェイエアは当初、小型機中心の運航により採算を取ることが可能と考えられたことから、中部国際空港から当空港への路線移管によって、名古屋地区の路線を維持することで検討が進められた。
しかし、以下の理由から2011年春までに当空港からの全面撤退が発表された。これに対し地元自治体は強い反発を示していた。
一方、静岡県の地域航空会社であるフジドリームエアラインズ(以下、FDA)が県営名古屋空港への定期便の就航に意欲的な姿勢を見せており、日本航空の一部路線引き継ぎも視野に入れて愛知県と交渉中であることが発表され、この交渉の結果、2010年冬ダイヤからの福岡空港便のFDAへの運航移管およびJALとのコードシェアが決定した。さらに、ジェイエアが完全撤退する2011年夏ダイヤからは阿蘇くまもと空港便をFDAに運航移管し、この路線もJALとコードシェアになった。
これにより、ジェイエアは予定通り2011年3月26日をもって当空港から撤退し、JALグループの名古屋空港カウンターも同日をもって業務を終了したが、ジェイエア撤退後に定期便が1つも無い空港になることは回避できた。その後2010年代に入ると、FDAは静岡空港から実質的な拠点機能を移転させ、ジェイエア運航の路線を中心に名古屋空港からの路線を徐々に拡大させた。2015年春の時点で名古屋空港発着国内線9路線まで展開していたが、2019年に北九州線が利用客の低迷で運休、2023年に丘珠線を就航させたため、2023年3月現在では、夏ダイヤ9路線・冬ダイヤ8路線となっている。
日本航空は、不採算路線の一つであり2010年5月をもって運休した中部国際空港 - いわて花巻空港と青森空港は中部国際空港から当空港発着に変更され、JALからFDAへ移管された。当初はこの路線はJALとのコードシェアは行っておらず、FDAの単独での運航となっていたが、2022年3月27日より当路線においても、JALとコードシェアとなった。
東日本大震災の復興支援の一環として、上記の路線にFDAが就航した。
リージョナルジェットの運航に特化しており、小型機用のフィンガー・コンコースを設置している。
2015年1月にはMRJを製造する三菱航空機が本社を移転していたが、事業縮小の為に2021年3月末を以って空港に隣接する三菱重工の工場内に移転を発表した。その跡地を利用して、新型コロナウイルス感染症対策のワクチン大規模集団接種会場として度々使用されている。
名古屋空港時代の国際線旅客ターミナルビルは、わずか6年しか使用されなかった。しかし、旧国際線旅客ターミナルの処理能力が限界に達していたのも事実であり、ボーディングブリッジは旧国際線ターミナルのものをそのまま使用するなど、最低限の投資で建設された。中部国際空港への移管時に閉館し、周辺敷地と共に空港から切り離された。2008年10月には、国際線ターミナルビルを活用し、名古屋空港ビルディングが設置主体、ユニー株式会社が開発主体となってショッピングセンター「エアポートウォーク名古屋」がオープンした。
国内線ターミナル内の「名古屋空港航空宇宙館」は2004年10月31日に閉館となり、そこにあった航空機の一部(MU-2など)は、2005年4月1日に豊山町の神明公園内に愛知県が建設した「航空館boon」に移され、引き続き展示されている。「名古屋空港航空宇宙館」は、現在でもイベント時などに公開されている。
愛知県は2015年5月15日、「県営名古屋空港見学者受入拠点施設整備事業」として「航空のフィールドミュージアム」を構築することを発表した。エアポートウォーク名古屋隣接地に航空機をテーマとした展示施設「あいち航空ミュージアム」を整備、周辺に点在する集積された航空機産業・観光資源と連携、地域全体をフィールドミュージアムとして、学校教育・人材育成・産業観光に活用する計画である。2017年11月30日に「あいち航空ミュージアム」は開館した。
当空港を拠点空港にしている航空会社は1社。焦点空港に設定している航空会社はない。
元のウィキデータクエリを参照してください.
☆は中部国際空港便もあり。 全ての路線が当空港発着で、JALもしくはジェイエアによりかつて運航されていた路線である。 このうち、花巻線と青森線は2005年から2010年まで中部国際空港発着となっていた。
現在のところ計画は無い。
グアムやサイパンへのチャーター便を運航したこともある。
「日本の空港シリーズ(2)セントレア centrair中部国際空港&名古屋空港」イカロス出版の名古屋空港の歴史より。
中部国際空港開港前は中部地区を代表する国際空港として、現在では存在しない航空会社(中華人民共和国の中国民航やヴァリグ・ブラジル航空)なども就航していた。タイ国際航空やチャイナエアラインなどは名古屋市に多くの在住人口(東南アジア系ASEAN諸国や中華民国籍)を持つ事から、1980年代初頭より定期路線を運航し続けている。
以下、名称は就航当時のものである。10年以上前の航空事情の為、2015年現在では合併などにより現存していなかったり、運航停止している航空会社もある。
※ 航空連合は右記の通りである。OW:ワンワールド、SA:スターアライアンス
過去には、高麗航空が平壌国際空港からチャーター便で飛来していた。同航空会社では数少ない日本路線(他は新潟空港)であった。
県営名古屋空港は、アメリカ合衆国ワシントン州のモーゼスレイク市にあるグラント郡国際空港と姉妹空港提携をおこなっている。
利用する企業・団体は中部国際空港開港後増加し、それに伴い急速にターミナルや貨物地区の跡地に格納庫が建設された。このうち中日本航空、セントラルヘリコプターサービス、セコ・インターナショナルは全国の防災ヘリコプターや個人・企業所有のヘリコプターなどの整備も当空港で行っている。
また、ダイヤモンドエアサービスは三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所を利用している。
航空自衛隊小牧基地は滑走路を共用している。また、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所は工場と隣接しており、新規製造機や定期整備のための戦闘機やヘリコプターは名古屋飛行場の施設を利用している。
旅客ターミナル前を発着し、名古屋都心並びに周辺鉄道駅を結ぶ。
立体駐車場が1,350台分設置されている。名古屋市街までは、約10 km(自動車で約20分)である。
名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画についてにおいて、味美駅より分岐して名古屋空港に至る鉄道路線名鉄名古屋空港線が2008年までに整備すべき路線として提示されたが、今日に至るまで具体化はしていない。
小牧基地航空祭ではブルーインパルスの展示飛行は2014年まで実施されていない。
岐阜放送でテレビCMを放送している。
名古屋VORTACの管理官所は、大阪航空局中部空港事務所システム運航管理センター、名古屋ILS/DMEの保守官所は、愛知県航空対策課である。
また、給油目的で個人所有機や防災ヘリ等の中継地として利用されている他、ゼネラル・アビエーションが利用する空港の中では比較的大きな施設を持つということもあり、近年では朝日航空等、訓練事業を行う航空会社の計器飛行訓練の場所としても利用されている。
近隣の自衛隊基地である岐阜基地、浜松基地はILS計器進入装置を持たないため、自衛隊機の訓練や岐阜基地に隣接する川崎重工のテストフライト項目の一部に当空港が使用される。
一方ゼネラルアビエーションの耐空証明が切れた航空機がエプロンに留め置かれた状態で放置される飛行場が日本で数多く存在する中、当空港では、168時間を超える駐機料金を5割増しにする処置を行っている。
県営となった2005年以降は、都道府県が管理する飛行場を自衛隊が共同使用する唯一の例となっている。中部国際空港の開港による名古屋空港の県営移管の際は、旧運輸省、旧防衛庁、県との協議の結果、県が国から235億円で購入し、防衛庁側の希望で自衛隊機は着陸料を支払うことに決まった。2005年度から2021年度までに自衛隊が支払った着陸料は総額140億円となり、同期間の維持管理料202億円に充てられている。これについて産経新聞は2022年10月、「管制業務や消防業務を航空自衛隊に委ねているにもかかわらず、離着陸料を徴収している」などと愛知県を批判する記事を掲載。愛知県知事の大村秀章は記事の内容が事実に反するとして産経新聞社に抗議した。産経新聞の記事を元に、抗議と称して飛行場に爆破予告をする者も現れ混乱を招いた。なお、自衛隊が着陸料を支払わない場合は、国が負担すべき使用料を県に支払わせることになり、地方財政法違反となる。
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"text": "名古屋市の中心から北へおよそ15 kmの濃尾平野北東部に位置しており、行政区分上では名古屋市(北区)、小牧市、西春日井郡豊山町、春日井市の3市1町にまたがっている。航空自衛隊小牧基地に隣接しており、滑走路を共有しているが、防衛省設置管理の共用飛行場ではなく愛知県が管理する。管制業務は、飛行場管制業務と着陸誘導管制業務を航空自衛隊小牧管制隊が実施しており、進入管制業務とターミナルレーダー管制業務については、中部国際空港(常滑市)にある国土交通省大阪航空局中部空港事務所が広域管制によって実施している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "かつては国内線・国際線共に数多く発着していたが、中部国際空港開港と同時に大部分の路線が中部に移転するとともに、第二種空港からその他の飛行場に指定変更され、正式名称はそれまでの「名古屋空港」から「名古屋飛行場」となった。なお、IATA空港コードの「NGO」を中部へ譲り、新たに「NKM」で登録された。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "2019年5月現在、旅客定期便はフジドリームエアラインズによる1社8路線のみである。近年はビジネスジェットの運航などゼネラル・アビエーションに力を入れており、ビジネス機専用ターミナルが国内線ターミナルとは別の出入り口に設置されている。トヨタ自動車のような地元企業などを中心にビジネスの拠点として多くのビジネスジェットに利用されているほか、F1の日本グランプリが鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開催される時にはドライバーの中継地になっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "年間旅客数は、国内:748,389人、国際:919人(2015年度)で、2015年度(平成27年度)空港別乗降客数順位は、全国34位。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "1934年10月に名古屋港埋立地10号地に名古屋国際仮飛行場が開港、1940年に名古屋飛行場となる。同時期に同じく11号地の埋め立てが許可され、1941年に名古屋国際飛行場が開港。拡張のため一時閉鎖(1944年)するが、終戦後は放置される。同地は後に東邦ガス空見環境センターとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "1952年から2005年にかけては、愛知県の玄関口としての機能を持ち、日本国内の主要空港の一つであった。しかし、中部国際空港の開港により、ほとんどの旅客定期便が同空港に移転した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "2005年2月16日には、この日の出発最終便である20:45発 サイパン行きチャーター機、日本航空 JL8839便を航空会社・空港両関係者がペンライトを持って見送り、第二種空港としての幕を閉じた。なお、この飛行機は折り返し中部国際空港到着の1番機(日本航空 JL8830便)でもあった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "中部国際空港開港以降、設置管理を国土交通省から愛知県へ移管、設置区分も「第二種(A)空港」から「その他公共用飛行場」に変更され、「名古屋飛行場(県営名古屋空港)」となった。IATA空港コード(3レターコード)は旧名古屋空港のNGOは中部国際空港へ移管され、NKMとなり、ICAO空港コード(4レターコード)は旧名古屋空港のRJNNからRJNAへ変更された(中部国際空港のコードはRJGGとなった)。また、前述のように一部管制業務を国土交通省大阪航空局名古屋空港事務所から航空自衛隊小牧管制隊に移管した。なお、定期便や国内・海外飛来機等の旅客は全て従来の国内線旅客ターミナルビルにて取り扱い、税関・出入国審査・検疫は1つの部屋にまとまった小規模なものとなり、日本初となる本格的な小型機専用コンコース「フィンガーコンコース」が新設された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "2005年2月、日本航空グループのジェイエアが中部国際空港の開港を機に広島西飛行場から本社・ベースを移転し、ジェイエアの拠点飛行場となったが、2011年3月にジェイエアは当空港から全面撤退し大阪国際空港(伊丹空港)近隣ビルに移転した。ジェイエアの撤退後は、静岡空港よりフジドリームエアラインズがベースを移転し、同社の拠点飛行場となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2010年1月に経営破綻した日本航空の再建を巡り、同社の子会社であるジェイエアは当初、小型機中心の運航により採算を取ることが可能と考えられたことから、中部国際空港から当空港への路線移管によって、名古屋地区の路線を維持することで検討が進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "しかし、以下の理由から2011年春までに当空港からの全面撤退が発表された。これに対し地元自治体は強い反発を示していた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "一方、静岡県の地域航空会社であるフジドリームエアラインズ(以下、FDA)が県営名古屋空港への定期便の就航に意欲的な姿勢を見せており、日本航空の一部路線引き継ぎも視野に入れて愛知県と交渉中であることが発表され、この交渉の結果、2010年冬ダイヤからの福岡空港便のFDAへの運航移管およびJALとのコードシェアが決定した。さらに、ジェイエアが完全撤退する2011年夏ダイヤからは阿蘇くまもと空港便をFDAに運航移管し、この路線もJALとコードシェアになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "これにより、ジェイエアは予定通り2011年3月26日をもって当空港から撤退し、JALグループの名古屋空港カウンターも同日をもって業務を終了したが、ジェイエア撤退後に定期便が1つも無い空港になることは回避できた。その後2010年代に入ると、FDAは静岡空港から実質的な拠点機能を移転させ、ジェイエア運航の路線を中心に名古屋空港からの路線を徐々に拡大させた。2015年春の時点で名古屋空港発着国内線9路線まで展開していたが、2019年に北九州線が利用客の低迷で運休、2023年に丘珠線を就航させたため、2023年3月現在では、夏ダイヤ9路線・冬ダイヤ8路線となっている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "日本航空は、不採算路線の一つであり2010年5月をもって運休した中部国際空港 - いわて花巻空港と青森空港は中部国際空港から当空港発着に変更され、JALからFDAへ移管された。当初はこの路線はJALとのコードシェアは行っておらず、FDAの単独での運航となっていたが、2022年3月27日より当路線においても、JALとコードシェアとなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "東日本大震災の復興支援の一環として、上記の路線にFDAが就航した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "リージョナルジェットの運航に特化しており、小型機用のフィンガー・コンコースを設置している。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "2015年1月にはMRJを製造する三菱航空機が本社を移転していたが、事業縮小の為に2021年3月末を以って空港に隣接する三菱重工の工場内に移転を発表した。その跡地を利用して、新型コロナウイルス感染症対策のワクチン大規模集団接種会場として度々使用されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "名古屋空港時代の国際線旅客ターミナルビルは、わずか6年しか使用されなかった。しかし、旧国際線旅客ターミナルの処理能力が限界に達していたのも事実であり、ボーディングブリッジは旧国際線ターミナルのものをそのまま使用するなど、最低限の投資で建設された。中部国際空港への移管時に閉館し、周辺敷地と共に空港から切り離された。2008年10月には、国際線ターミナルビルを活用し、名古屋空港ビルディングが設置主体、ユニー株式会社が開発主体となってショッピングセンター「エアポートウォーク名古屋」がオープンした。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "国内線ターミナル内の「名古屋空港航空宇宙館」は2004年10月31日に閉館となり、そこにあった航空機の一部(MU-2など)は、2005年4月1日に豊山町の神明公園内に愛知県が建設した「航空館boon」に移され、引き続き展示されている。「名古屋空港航空宇宙館」は、現在でもイベント時などに公開されている。",
"title": "施設"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "愛知県は2015年5月15日、「県営名古屋空港見学者受入拠点施設整備事業」として「航空のフィールドミュージアム」を構築することを発表した。エアポートウォーク名古屋隣接地に航空機をテーマとした展示施設「あいち航空ミュージアム」を整備、周辺に点在する集積された航空機産業・観光資源と連携、地域全体をフィールドミュージアムとして、学校教育・人材育成・産業観光に活用する計画である。2017年11月30日に「あいち航空ミュージアム」は開館した。",
"title": "施設"
},
{
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"text": "当空港を拠点空港にしている航空会社は1社。焦点空港に設定している航空会社はない。",
"title": "拠点・焦点都市としている航空会社"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "元のウィキデータクエリを参照してください.",
"title": "統計"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "☆は中部国際空港便もあり。 全ての路線が当空港発着で、JALもしくはジェイエアによりかつて運航されていた路線である。 このうち、花巻線と青森線は2005年から2010年まで中部国際空港発着となっていた。",
"title": "就航路線"
},
{
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"tag": "p",
"text": "現在のところ計画は無い。",
"title": "就航路線"
},
{
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"tag": "p",
"text": "グアムやサイパンへのチャーター便を運航したこともある。",
"title": "就航路線"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "「日本の空港シリーズ(2)セントレア centrair中部国際空港&名古屋空港」イカロス出版の名古屋空港の歴史より。",
"title": "就航路線"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "中部国際空港開港前は中部地区を代表する国際空港として、現在では存在しない航空会社(中華人民共和国の中国民航やヴァリグ・ブラジル航空)なども就航していた。タイ国際航空やチャイナエアラインなどは名古屋市に多くの在住人口(東南アジア系ASEAN諸国や中華民国籍)を持つ事から、1980年代初頭より定期路線を運航し続けている。",
"title": "就航路線"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "以下、名称は就航当時のものである。10年以上前の航空事情の為、2015年現在では合併などにより現存していなかったり、運航停止している航空会社もある。",
"title": "就航路線"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "※ 航空連合は右記の通りである。OW:ワンワールド、SA:スターアライアンス",
"title": "就航路線"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "過去には、高麗航空が平壌国際空港からチャーター便で飛来していた。同航空会社では数少ない日本路線(他は新潟空港)であった。",
"title": "就航路線"
},
{
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"tag": "p",
"text": "県営名古屋空港は、アメリカ合衆国ワシントン州のモーゼスレイク市にあるグラント郡国際空港と姉妹空港提携をおこなっている。",
"title": "姉妹空港・提携空港"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "利用する企業・団体は中部国際空港開港後増加し、それに伴い急速にターミナルや貨物地区の跡地に格納庫が建設された。このうち中日本航空、セントラルヘリコプターサービス、セコ・インターナショナルは全国の防災ヘリコプターや個人・企業所有のヘリコプターなどの整備も当空港で行っている。",
"title": "利用する機関・事業者"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "また、ダイヤモンドエアサービスは三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所を利用している。",
"title": "利用する機関・事業者"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "航空自衛隊小牧基地は滑走路を共用している。また、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所は工場と隣接しており、新規製造機や定期整備のための戦闘機やヘリコプターは名古屋飛行場の施設を利用している。",
"title": "周辺"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "旅客ターミナル前を発着し、名古屋都心並びに周辺鉄道駅を結ぶ。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "立体駐車場が1,350台分設置されている。名古屋市街までは、約10 km(自動車で約20分)である。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画についてにおいて、味美駅より分岐して名古屋空港に至る鉄道路線名鉄名古屋空港線が2008年までに整備すべき路線として提示されたが、今日に至るまで具体化はしていない。",
"title": "交通"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "小牧基地航空祭ではブルーインパルスの展示飛行は2014年まで実施されていない。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "岐阜放送でテレビCMを放送している。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "名古屋VORTACの管理官所は、大阪航空局中部空港事務所システム運航管理センター、名古屋ILS/DMEの保守官所は、愛知県航空対策課である。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "また、給油目的で個人所有機や防災ヘリ等の中継地として利用されている他、ゼネラル・アビエーションが利用する空港の中では比較的大きな施設を持つということもあり、近年では朝日航空等、訓練事業を行う航空会社の計器飛行訓練の場所としても利用されている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "近隣の自衛隊基地である岐阜基地、浜松基地はILS計器進入装置を持たないため、自衛隊機の訓練や岐阜基地に隣接する川崎重工のテストフライト項目の一部に当空港が使用される。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "一方ゼネラルアビエーションの耐空証明が切れた航空機がエプロンに留め置かれた状態で放置される飛行場が日本で数多く存在する中、当空港では、168時間を超える駐機料金を5割増しにする処置を行っている。",
"title": "その他"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "県営となった2005年以降は、都道府県が管理する飛行場を自衛隊が共同使用する唯一の例となっている。中部国際空港の開港による名古屋空港の県営移管の際は、旧運輸省、旧防衛庁、県との協議の結果、県が国から235億円で購入し、防衛庁側の希望で自衛隊機は着陸料を支払うことに決まった。2005年度から2021年度までに自衛隊が支払った着陸料は総額140億円となり、同期間の維持管理料202億円に充てられている。これについて産経新聞は2022年10月、「管制業務や消防業務を航空自衛隊に委ねているにもかかわらず、離着陸料を徴収している」などと愛知県を批判する記事を掲載。愛知県知事の大村秀章は記事の内容が事実に反するとして産経新聞社に抗議した。産経新聞の記事を元に、抗議と称して飛行場に爆破予告をする者も現れ混乱を招いた。なお、自衛隊が着陸料を支払わない場合は、国が負担すべき使用料を県に支払わせることになり、地方財政法違反となる。",
"title": "その他"
}
] |
名古屋飛行場は、愛知県にある飛行場である。名古屋飛行場は航空法上の正式名称であり、空港施設の通称は県営名古屋空港。航空自衛隊とも共用しているため小牧空港(こまきくうこう)とも呼ばれる。
|
{{Redirect|名古屋空港|[[空港コード#IATA空港コード(3レターコード)|空港コード]]「NGO(名古屋)」を使用する空港|中部国際空港}}
{{Otheruses|滑走路の西側・旅客ターミナル|滑走路の東側・航空自衛隊基地|小牧基地}}
{{出典の明記|date=2015年3月}}
{{画像提供依頼|2005年以前の国内線デッキから見た旅客機の風景、リニューアルされたデッキ|date=2013年1月|cat=西春日井郡}}
{{Infobox 空港
| 空港名 = 名古屋飛行場
| 英語名 = Nagoya Airfield
| 画像 = Nagoya airfiled201304.JPG
| 画像サイズ = 250px
| IATA = NKM
| ICAO = RJNA
| 国 = {{JPN}}
| 所在地 =[[名古屋市]]、[[小牧市]]、[[西春日井郡]][[豊山町]]、[[春日井市]]
| 母都市 = [[名古屋市]]
| 種類 = 公共
| 運営者 = [[愛知県]]
| 運用時間 = 7:00 - 22:00
| 標高 m = 14<ref name="ocab">{{Cite web|和書|url =http://ocab.mlit.go.jp/about/jurisdiction/nagoya/ |title = 大阪航空局_大阪航空局のご案内_管内空港の現況と出先機関_名古屋飛行場 |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2016-08-28 }}</ref>
| 標高 ft = 45.9
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 15 | 緯度秒 = 18 | 緯度NS = N
| 経度度 = 136 | 経度分 = 55 | 経度秒 = 28 | 経度EW = E
| ウェブサイト = [https://nagoya-airport.jp/ 県営名古屋空港]
| 座標地域 = JP
| 地図名 = Nagoya#Japan Aichi#Japan
| 地図説明 = 名古屋飛行場の位置
| 滑走路1方向 = 16/34
| 滑走路1ILS = 有
| 滑走路1長さ m = 2,740
| 滑走路1幅 m = 45
| 滑走路1表面 = アスファルト
| 統計年 = 2022年度
| 旅客数 = 842,785人
| 貨物取扱量 = [[トン|t]]
| 脚注 = [https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html 航空:空港管理状況] 国土交通省
}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 名古屋空港ビルディング株式会社
|英文社名 = Nagoya Airport Terminal Building Co., Ltd.
|ロゴ =
|画像 =
|画像説明 =
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|機関設計 =
|市場情報 =
|略称 =
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 480-0202
|本社所在地 = [[愛知県]][[西春日井郡]][[豊山町]]<br/>名古屋空港内<ref name="会社概要">[https://nagoya-airport.jp/company.html 名古屋空港ビルディング株式会社について] 県営名古屋空港、2022年9月1日閲覧。</ref>
|本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) =
|本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) =
|座標右上表示 = Yes
|本社地図国コード =
|本店郵便番号 =
|本店所在地 =
|本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) =
|本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) =
|本店地図国コード =
|設立 = [[1957年]][[4月22日]]<ref name="会社概要"/>
|業種 =
|法人番号 = 6180001031780
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = 名古屋空港の管理運営業務<br/>不動産賃貸業<br/>飲食物及び物品販売業<ref name="会社概要"/>
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|発行済株式総数 =
|売上高 =
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|従業員数 = 58名(2022年4月1日現在)<ref name="会社概要"/>
|支店舗数 =
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|主要部門 =
|主要子会社 = 名古屋空港事業株式会社<ref name="会社概要"/>
|関係する人物 = 利光克仁(元社長)
|外部リンク = https://nagoya-airport.jp/company.html
|特記事項 =
}}
[[ファイル:20140513名古屋飛行場.jpg|thumb|250px|名古屋飛行場空撮(2014年5月)]]
'''名古屋飛行場'''(なごやひこうじょう、{{lang-en-short|Nagoya Airfield}})は、[[愛知県]]にある[[飛行場]]である。名古屋飛行場は[[航空法]]上の正式名称であり<ref name="ocab" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=327CO0000000421 |title=航空法施行令 |accessdate=2011-10-25 |work=e-Gov法令検索 |publisher=総務省行政管理局}}</ref><ref group=広報>{{Cite press release |和書 |title=名古屋飛行場の設置許可について|publisher=国土交通省 |date=2004-08-31|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha04/12/120831_2_.html |accessdate=2016-08-28 }}</ref>、空港施設の通称は'''県営名古屋空港'''(けんえいなごやくうこう、{{lang-en-short|Prefectural Nagoya Airport}})。航空自衛隊とも共用しているため小牧空港(こまきくうこう)とも呼ばれる。
== 概要 ==
[[名古屋市]]の中心から北へおよそ15 kmの[[濃尾平野]]北東部に位置しており、行政区分上では[[名古屋市]]([[北区 (名古屋市)|北区]])、[[小牧市]]、[[西春日井郡]][[豊山町]]、[[春日井市]]の3市1町にまたがっている。[[航空自衛隊]][[小牧基地]]に隣接しており、滑走路を共有しているが、防衛省設置管理の共用飛行場ではなく[[愛知県]]が管理する。[[航空交通管制|管制]]業務は、[[飛行場管制]]業務と[[着陸誘導管制]]業務を[[航空自衛隊]]小牧管制隊が実施しており、[[進入・ターミナルレーダー管制|進入管制業務とターミナルレーダー管制業務]]については、[[中部国際空港]]([[常滑市]])にある[[国土交通省]][[地方航空局|大阪航空局]]中部空港事務所が広域管制によって実施している。
かつては国内線・国際線共に数多く発着していたが、中部国際空港開港と同時に大部分の路線が中部に移転するとともに、[[第二種空港]]からその他の飛行場に指定変更され、正式名称はそれまでの「名古屋空港」から「名古屋飛行場」となった<ref>{{Cite news|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO89435170X10C15A7000000/|title=「空港」と「飛行場」、何がどう違う?|newspaper=[[日本経済新聞社|NIKKEI STYLE]]|date=2015-07-22|accessdate=2023-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160217195126/https://style.nikkei.com/article/DGXMZO89435170X10C15A7000000/|archivedate=2016-02-17}}</ref>。なお、[[IATA空港コード]]の「NGO」を中部へ譲り、新たに「NKM」で登録された。
2019年5月現在、[[旅客]]定期便は[[フジドリームエアラインズ]]による1社8路線のみである。近年は[[ビジネスジェット]]の運航など[[ゼネラル・アビエーション]]に力を入れており、ビジネス機専用ターミナルが国内線[[ターミナル]]とは別の出入り口に設置されている。[[トヨタ自動車]]のような地元企業などを中心にビジネスの拠点として多くのビジネスジェットに利用されているほか、[[フォーミュラ1|F1]]の[[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]が[[鈴鹿サーキット]]([[三重県]][[鈴鹿市]])で開催される時にはドライバーの中継地になっている。
年間旅客数は、国内:748,389人、国際:919人(2015年度)で、2015年度(平成27年度)空港別乗降客数順位は、全国34位<ref>{{Cite press release |和書 |title=航空:空港管理状況 - 国土交通省 |publisher=国土交通省大阪航空局 |date= |url=https://www.mlit.go.jp/koku/15_bf_000185.html |format= |accessdate=2016-08-28 }}</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Nagoya Airport Aerial Photograph 1987.jpg|thumb|220px|名古屋飛行場付近の空中写真。<small>(1987年撮影)</small><br />{{国土航空写真}}]]
=== 前史 ===
1934年10月に[[名古屋港]]埋立地10号地に名古屋国際仮飛行場が開港<ref>{{Cite news |和書|title=名古屋国際飛行場 愈よ晴れの開場 |newspaper=大阪朝日新聞 名古屋版 |date=1934-09-30 |page=13}}</ref>、1940年に名古屋飛行場となる。同時期に同じく11号地の埋め立てが許可され、1941年に名古屋国際飛行場が開港。拡張のため一時閉鎖(1944年)するが、終戦後は放置される。同地は後に[[東邦ガス]]空見環境センターとなった。
=== 小牧飛行場時代 ===
* [[1942年]]([[昭和]]17年)[[5月]] - 中部地区防空のため、[[大日本帝国陸軍]]が飛行場を建設開始。
* [[1944年]](昭和19年)[[2月1日]] - [[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]]の「'''小牧陸軍飛行場'''」として運用開始(滑走路1,500 m)。
* [[1945年]](昭和20年) - [[日本の敗戦]]により[[アメリカ軍]]が接収。
* [[1947年]](昭和22年)5月 - アメリカ軍が使用開始。
* [[1952年]](昭和27年)[[3月20日]] 羽田 - 名古屋 - 伊丹の定期路線開設。
* [[1957年]](昭和32年)
** [[4月22日]] - '''名古屋空港ビルディング株式会社'''を設立<ref name="会社概要"/>。
** [[9月15日]] - 新ターミナルビル完工。
* [[1958年]](昭和33年)5月 - [[航空自衛隊]][[第3航空団]]が移駐。
** [[6月]] - 飛行場拡張工事完了(滑走路2740 m、1983年12月22日まで2361 mで運用)
** [[9月15日]] - 米軍より管理権返還。
* [[1960年]](昭和35年)[[3月16日]] - [[全日本空輸|全日空]][[ダグラス DC-3|DC-3]]型機と空自[[F-86 (戦闘機)|F-86]][[戦闘機]]が[[全日空小牧空港衝突事故|滑走路上で衝突]]、両機とも大破。3人死亡。
=== 名古屋空港時代 ===
[[File:Control tower at Nagoya Airport 1979.jpg|thumb|名古屋空港の管制塔と[[ロッキード L-1011 トライスター|トライスター]](1979年)]]
[[ファイル:Airfrontoasis-kasugai.jpg|thumb|right|多くの外国航空会社が発着していた名古屋空港時代]]
1952年から2005年にかけては、愛知県の玄関口としての機能を持ち、日本国内の主要[[空港]]の一つであった。しかし、中部国際空港の開港により、ほとんどの旅客定期便が同空港に移転した。
* [[1960年]](昭和35年)[[4月1日]] - 第二種空港に指定され、名称が「'''名古屋空港'''」となった。
* [[1962年]](昭和37年)[[8月30日]] - [[日本航空機製造]][[YS-11]]が初飛行に成功。
* [[1964年]](昭和39年)[[4月10日]] - 新ターミナルビル供用開始。
* [[1966年]](昭和41年)[[3月11日]] - 国際定期便開設(小牧 - 伊丹 - 台北 - 香港)。
* [[1986年]](昭和61年)[[7月20日]] - 国内線新ターミナル完成、旧ターミナルを国際線専用とする。
* [[1994年]]([[平成]]6年)[[4月26日]] - [[チャイナエアライン|中華航空]]の[[エアバスA300-600R]]型機が着陸に失敗、墜落。死者264名([[中華航空140便墜落事故]])。犠牲者数は[[日本航空123便墜落事故|1985年(昭和60年)の日航ジャンボ機墜落事故]]に次ぐ、日本史上ワースト2位であり、国内の空港で起きた事故の犠牲者数では日本史上最悪である。
* [[1999年]](平成11年)[[4月9日]] - 国際線旅客ターミナル完成。
* [[2004年]](平成16年)[[10月31日]] - 併設されていた航空宇宙館が閉館。
* [[2005年]](平成17年)[[2月16日]] - 日本航空系の一部を除く大部分の国内線と、全ての国際線の旅客定期便の運航を終了。国際線旅客ターミナル閉館。[[国土交通省]]大阪航空局名古屋空港事務所による管制業務を終了。
2005年2月16日には、この日の出発最終便である20:45発 [[サイパン国際空港|サイパン]]行きチャーター機、日本航空 JL8839便を航空会社・空港両関係者が[[ペンライト]]を持って見送り、第二種空港としての幕を閉じた。なお、この飛行機は折り返し中部国際空港到着の1番機(日本航空 JL8830便)でもあった。
=== 県営名古屋空港時代 ===
[[ファイル:Leave in Nagoya Airfield Aichi, JAPAN.jpg|thumb|right|CRJ200からの降機風景]]
[[中部国際空港]]開港以降、設置管理を[[国土交通省]]から愛知県へ移管、設置区分も「第二種(A)空港」から「その他公共用飛行場」に変更され、「名古屋飛行場(県営名古屋空港)」となった。[[空港コード#IATA空港コード(3レターコード)|IATA空港コード(3レターコード)]]は旧名古屋空港のNGOは中部国際空港へ移管され、NKMとなり、[[空港コード#ICAO空港コード(4レターコード)|ICAO空港コード(4レターコード)]]は旧名古屋空港のRJNNからRJNAへ変更された(中部国際空港のコードはRJGGとなった)。また、前述のように一部管制業務を国土交通省大阪航空局名古屋空港事務所から航空自衛隊小牧管制隊に移管した。なお、定期便や国内・海外飛来機等の旅客は全て従来の国内線旅客ターミナルビルにて取り扱い、[[税関]]・[[出入国審査]]・[[検疫]]は1つの部屋にまとまった小規模なものとなり、日本初となる本格的な小型機専用コンコース「フィンガーコンコース」が新設された。
[[2005年]][[2月]]、[[日本航空]]グループの[[ジェイエア]]が中部国際空港の開港を機に[[広島西飛行場]]から本社・ベースを移転し、ジェイエアの拠点飛行場となったが、[[2011年]][[3月]]にジェイエアは当空港から全面撤退し[[大阪国際空港]](伊丹空港)近隣ビルに移転した<ref group=広報>{{Cite press release |和書 |title=名古屋から大阪への本社移転を決定 |publisher=ジェイエア |date=2011-1-28|url=http://www.jair.co.jp/about/news/bn/news110128.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110618092615/http://www.jair.co.jp/about/news/bn/news110128.html |archivedate= 2011-06-18}}</ref>。ジェイエアの撤退後は、[[静岡空港]]より[[フジドリームエアラインズ]]がベースを移転し、同社の拠点飛行場となっている。
* [[2005年]](平成17年)
** [[2月17日]] - 「名古屋空港」から「'''名古屋飛行場'''」に名称変更。設置者を[[愛知県]]に移管。「その他飛行場」へ指定変更。航空自衛隊小牧管制隊による飛行場管制業務及び着陸誘導管制業務を開始。進入管制及びターミナルレーダー管制業務は国土交通省大阪航空局中部空港事務所が担当<!--(航空自衛隊岐阜飛行場も含まれる)-->。
** [[11月24日]] - ターミナルビルフィンガーコンコースの利用を開始<ref name="zenchiko">{{Cite web|和書|title=わが国初!小型機用「フィンガーコンコース」が県営名古屋空港に完成 |url=http://www.zenchiko.jp/news/ |publisher=全国地域航空システム推進協議会 |accessdate=2015-05-25 |archiveurl=https://archive.fo/1bAQH |archivedate=2015-05-25 |deadlinkdate=2018-11-22}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[愛知県警察]]航空隊新格納庫完成・運用開始。
* [[2007年]](平成19年)[[10月31日]] - 三菱重工のテストパイロットが操縦する、航空自衛隊所有の[[F-2 (航空機)|F-2B]]戦闘機が離陸に失敗し炎上。乗員2名は脱出したものの重軽傷を負った。
* [[2009年]](平成21年)[[2月24日]] - [[フジドリームエアラインズ]](FDA)1号機が到着、名古屋飛行場をベースに路線訓練を開始。
* [[2010年]](平成22年)
** [[2月17日]] - 一般公募で決まったマスコットキャラクター「'''なごぴょん'''」(飛行機と鳥がモチーフ)が、開港5周年記念式典にてお披露目された。
** [[4月22日]] - 日本航空グループのジェイエアが2011年春までに全面撤退することを表明<ref>{{cite news|title=日航 名古屋(小牧)から全面撤退へ|author=|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100422/biz1004222002040-n1.htm|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|publisher=|date=2010-4-22|page=|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100429190330/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100422/biz1004222002040-n1.htm|archivedate=2010年4月29日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
** [[10月31日]] - フジドリームエアラインズの[[福岡空港|福岡]]線が就航(JALとコードシェア)<ref group=広報>{{Cite press release|和書 |title=フジドリームエアラインズと日本航空インターナショナル 2010年10月31日からの国内線共同運航(コードシェア)路線を決定 |publisher=フジドリームエアラインズ、日本航空インターナショナル |date=2010-09-06|url=http://www.fujidream.co.jp/company/press/doc/100906.pdf |format=PDF |accessdate=2015-05-25 }}</ref>。
** [[11月20日]] - 県営化後、初のチャーター便([[奄美空港|奄美大島]]線)
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月26日]] - ジェイエアが当空港発着全路線を廃止。最終日まで運航したのは、[[新潟空港|新潟]]線、[[高知空港|高知]]線、[[熊本空港|阿蘇くまもと]]線だった。
** [[3月27日]] - フジドリームエアラインズの[[熊本空港|阿蘇くまもと]]線が就航(JALとコードシェア)。
** [[5月21日]] - フジドリームエアラインズの[[花巻空港|いわて花巻]]線が就航<ref name="press20110801">{{Cite press release |和書 |title=名古屋小牧=青森線、名古屋小牧=いわて花巻線、毎日運航開始 |publisher=フジドリームエアラインズ |date=2011-08-01 |url=http://www.fujidream.co.jp/company/press/doc/110801_1.pdf |format=PDF |accessdate=2015-05-25 }}</ref>。
** [[7月2日]] - フジドリームエアラインズの[[青森空港|青森]]線が就航<ref name="press20110801" />。
** [[7月2日]] - フジドリームエアラインズの青森線といわて花巻線がデイリー運航開始<ref name="press20110801" />。
** [[9月5日]] - 小牧基地内に建設した新管制塔の運用を開始し、管制業務が西の旅客ターミナル側から東の小牧基地側に異動。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月25日]] - フジドリームエアラインズの[[新潟空港|新潟]]線が就航(JALとコードシェア)。
** [[7月19日]] - 展望デッキを再開設。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月31日]] - フジドリームエアラインズの[[高知空港|高知]]線が就航(JALとコードシェア)<ref name="press20130122">{{Cite press release |和書 |title=2013年3月31日〜2013年10月26日の路線便数計画を決定 |publisher=フジドリームエアラインズ |date=2013-01-22 |format=PDF|url=http://www.fujidream.co.jp/company/press/doc/130122.pdf |accessdate=2013-03-26}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月30日]] - フジドリームエアラインズの[[山形空港|山形]]線が就航(JALとコードシェア)<ref name="mainichi-np-2014-3-31">{{Cite news |author=山中宏之 |title=山形空港:羽田2便化、名古屋便スタート−−記念式典 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2014-03-31 |publisher=毎日新聞社}}</ref>。
** [[12月20日]] - 平面だった第1[[駐車場]] が、地上5階建ての立体駐車場(合計1350台、A棟575台・B棟680台・平面95台)として供用開始<ref group=広報>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kouku/0000078614.html|title=[お知らせ]県営名古屋空港立体駐車場の供用開始について|accessdate=2020-12-06|publisher=愛知県}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月15日]] - 滑走路を共有する[[小牧基地]]で毎年恒例の航空祭が開催され、44年ぶりに[[ブルーインパルス]]が展示飛行を行った。約7万3000人が訪れた。
** [[3月17日]] - [[フジドリームエアラインズ|FDA]]は3月29日に開設する小牧 - 北九州線において福岡空港と北九州空港のマルチエアポート対応を行うと発表した。
** [[3月29日]] - フジドリームエアラインズの[[出雲空港|出雲]]線、[[北九州空港|北九州]]線が就航<ref name="mainichi-np-2015-3-30">{{Cite news |author=浅野翔太郎 |title=FDA:名古屋定期便、金色の一番機到着 北九州空港 |newspaper=[[毎日新聞]]|date=2015-03-30 |publisher=毎日新聞社}}</ref><ref name="mainichi-np-2015-3-30-2">{{Cite news|author=早川健人|title=成田空港:年間発着、30万回時代 夏ダイヤ、時間値は最大68回に |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2015-03-30 |publisher=毎日新聞社}}</ref>。
** [[6月1日]] - 世界一周飛行に挑戦中だった太陽電池飛行機「[[ソーラー・インパルス]]2」が[[南京]]から[[ハワイ]]に向かう途中、太平洋上の天候悪化のため当空港に着陸<ref>{{Cite news |title=世界一周めざすソーラー機、名古屋に 悪天候で予定変更 |newspaper=朝日新聞|date=2015-06-02|url=http://www.asahi.com/articles/ASH615GF3H61UHBI01H.html |publisher=朝日新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602193151/http://www.asahi.com/articles/ASH615GF3H61UHBI01H.html |archivedate=2015-06-02}}</ref>。太陽電池動力機での飛行時間・飛行距離最長記録を更新<ref>{{Cite news |title=ソーラー・インパルス2、南京/名古屋で太陽電池機の飛行記録を破る |newspaper=FlyTeamニュース |date=2015-06-03|url=http://flyteam.jp/news/article/50749 |publisher=クロゴ}}</ref>。
** [[6月29日]] - 「ソーラー・インパルス2」が当空港を離陸。その後ハワイ・[[ホノルル]]のカラエロア空港に着陸し太陽電池動力機での飛行時間・飛行距離最長記録を更新<ref>{{Cite news |author=Munenori Taniguchi |title=太陽光で飛ぶソーラー・インパルス2が名古屋〜ハワイを飛行、118時間の最長飛行記録 |newspaper=Engadget日本版 |date=2015-07-06|url=http://japanese.engadget.com/2015/07/05/2-118/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181123065635/https://japanese.engadget.com/2015/07/05/2-118/|archivedate=2018-11-23|deadlinkdate=2022-05-01|publisher=AOL Online Japan}}</ref>。
** [[11月11日]] - 国産初のジェット旅客機[[Mitsubishi SpaceJet]](当時の名称はMRJ)が当空港にて初飛行。
* [[2016年]](平成28年)
** [[4月22日]] - 国産のステルス実証機[[X-2 (航空機・日本)|X-2]]が当空港にて初飛行。
*[[2019年]] (平成31年)
**[[3月30日]] - フジドリームエアラインズの北九州線が運休。
* [[2023年]](令和5年)
** 3月26日 - フジドリームエアラインズの[[札幌飛行場|札幌/丘珠]]線が1日2往復の定期便として夏ダイヤ期間就航<ref>{{Cite web|和書|date=2023-03-03|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/810720|title=FDA丘珠―名古屋小牧線就航へ 23日から秋まで毎日2往復 初の中京路線 |publisher=北海道新聞||accessdate = 2023-03-05}}</ref>。
==== ジェイエア撤退とFDAによる路線開拓 ====
[[2010年]][[1月]]に経営破綻した[[日本航空]]の再建を巡り、同社の子会社である[[ジェイエア]]は当初、小型機中心の運航により採算を取ることが可能と考えられたことから、中部国際空港から当空港への路線移管によって、名古屋地区の路線を維持することで検討が進められた<ref name="nikkei100422">{{cite news |title=日航、小牧空港から撤退検討 地元自治体は反発 |author= |newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2010-4-22|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD220CQ_S0A420C1000000/|accessdate=2012-12-04}}</ref>。
しかし、以下の理由から2011年春までに当空港からの全面撤退が発表された<ref group=広報>{{Cite press release|和書 |title=JALグループ、再生に向けた2010年度路線便数計画を策定|publisher=日本航空 |date=2010-4-28 |url=https://www.jal.co.jp/other/press2010_0428ja.pdf|format=PDF|accessdate=2015-05-25 }}</ref>。これに対し地元自治体は強い反発を示していた<ref name="nikkei100422" />。
# 競合他社である[[全日本空輸]]は名古屋地区では中部国際空港においてのみ路線展開をしており、旅客分散による中部国際・県営名古屋の両空港及び全日本空輸・日本航空の両社の“共倒れ”を[[国土交通省]]が懸念した。
# [[2007年]]における中部国際空港との合意(当空港における新規路線開拓などの停止)。
# 債権者である銀行団からの反発。
# 定期便を中部国際空港に一元化させたい愛知県航空対策課や地元経済界の意向。
一方、[[静岡県]]の[[コミューター航空会社|地域航空会社]]である[[フジドリームエアラインズ]](以下、FDA)が県営名古屋空港への定期便の就航に意欲的な姿勢を見せており、日本航空の一部路線引き継ぎも視野に入れて愛知県と交渉中であることが発表され<ref>{{cite news|title=FDA 名古屋空港就航を打診 日航との関係活用可で利点多く|author=|url=http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20100709ddlk22020155000c.html|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=|date=2010-7-9|page=|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100731164324/http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20100709ddlk22020155000c.html|archivedate=2010年7月31日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、この交渉の結果、2010年冬ダイヤからの[[福岡空港]]便のFDAへの運航移管およびJALとのコードシェアが決定した。さらに、ジェイエアが完全撤退する2011年夏ダイヤからは[[熊本空港|阿蘇くまもと空港]]便をFDAに運航移管し<ref group=広報>{{Cite press release |和書 |title=2011年3月27日路線便数計画を決定 |publisher=フジドリームエアラインズ |date=2011-1-26 |url=http://www.info.fujidreamairlines.com/company/press/doc/110126.pdf |format=PDF |accessdate= }}</ref>、この路線もJALとコードシェアになった<ref group=広報>{{Cite press release |和書 |title=フジドリームエアラインズと日本航空インターナショナル、2011年3月27日からの国内線共同運航(コードシェア)路線を決定 |publisher=日本航空インターナショナル |date=2011-02-18 |url=http://press.jal.co.jp/ja/release/201102/001754.html |accessdate=2015-05-25 }}</ref>。
これにより、ジェイエアは予定通り2011年3月26日をもって当空港から撤退し、JALグループの名古屋空港カウンターも同日をもって業務を終了した<ref group=広報>{{Cite web|和書|url=http://www.jal.co.jp/other/info2011_0201.html |title=JAL名古屋(小牧)空港カウンター業務の終了について|accessdate=2015-05-25 |author=日本航空 |date=2011-02-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150702035536/http://www.jal.co.jp/other/info2011_0201.html|archivedate=2015-07-02 |deadlinkdate=2018-11-22}}</ref>が、ジェイエア撤退後に定期便が1つも無い空港になることは回避できた。その後[[2010年代]]に入ると、FDAは静岡空港から実質的な拠点機能を移転させ、ジェイエア運航の路線を中心に名古屋空港からの路線を徐々に拡大させた。2015年春の時点で名古屋空港発着国内線9路線まで展開していたが、2019年に北九州線が利用客の低迷で運休、2023年に丘珠線を就航させたため、2023年3月現在では、夏ダイヤ9路線・冬ダイヤ8路線となっている。
日本航空は、不採算路線の一つであり[[2010年]]5月をもって運休した中部国際空港 - [[花巻空港|いわて花巻空港]]と[[青森空港]]は中部国際空港から当空港発着に変更され、JALからFDAへ移管された。当初はこの路線はJALとのコードシェアは行っておらず、FDAの単独での運航となっていたが、2022年3月27日より当路線においても、JALとコードシェアとなった。
[[東日本大震災]]の復興支援の一環として、上記の路線にFDAが就航した<ref name="press20110801" />。
== 施設 ==
[[File:6 COLORS Fuji Dream Airlines Embraer 170、175 NKM (16651148451).jpg|thumb|right|手前:フィンガーコンコース<br />中央左からFDAの機体<br />奥:管制塔と小牧基地]]
[[File:Finger concourse.jpg|thumb|フィンガー・コンコース内部]]
=== 旅客ターミナル(旧国内線ターミナル) ===
リージョナルジェットの運航に特化しており、小型機用のフィンガー・コンコースを設置している<ref name="zenchiko" />。
2015年1月にはMRJを製造する[[三菱航空機]]が本社を移転していたが、事業縮小の為に2021年3月末を以って空港に隣接する三菱重工の工場内に移転を発表した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFD260QN0W1A320C2000000/ 三菱航空機、事業化凍結で本社退去へ 名古屋空港から] 日本経済新聞、2021年3月26日</ref>。その跡地を利用して、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策の[[COVID-19ワクチン|ワクチン]]大規模集団接種会場として度々使用されている<ref group=広報>[https://www.pref.aichi.jp/site/covid19-aichi/wakuchin-daikibokaijou.html#kuukou ワクチン大規模集団接種会場について] 愛知県</ref>。
=== ビジネス機ターミナル(国内用と国際用) ===
名古屋空港時代の国際線旅客ターミナルビルは、わずか6年しか使用されなかった。しかし、旧国際線旅客ターミナルの処理能力が限界に達していたのも事実であり、ボーディングブリッジは旧国際線ターミナルのものをそのまま使用するなど、最低限の投資で建設された。中部国際空港への移管時に閉館し、周辺敷地と共に空港から切り離された。2008年10月には、国際線ターミナルビルを活用し、名古屋空港ビルディングが設置主体、[[ユニー|ユニー株式会社]]が開発主体となって[[ショッピングセンター]]「[[エアポートウォーク名古屋]]」がオープンした<!-- 日本国内において閉鎖された空港ターミナルビルが商業施設に転用された事例は、旧千歳空港ターミナルの例に引き続いてである。--><ref>{{Cite web|和書|title=空港まるごとショッピングモールに! 航空好き必見の「エアポートウォーク名古屋」 |author= |date=2008-12-25 |url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20081215/1021901/ |work=[[日経トレンディ]] |publisher=[[日経BP社]] |accessdate=2012-12-04}}</ref>。
国内線ターミナル内の「名古屋空港航空宇宙館」は2004年10月31日に閉館となり、そこにあった航空機の一部([[MU-2]]など)は、2005年4月1日に豊山町の神明公園内に愛知県が建設した「[[航空館boon]]」に移され、引き続き展示されている。「名古屋空港航空宇宙館」は、現在でもイベント時などに公開されている。
愛知県は[[2015年]][[5月15日]]、「県営名古屋空港見学者受入拠点施設整備事業」として「航空のフィールドミュージアム」を構築することを発表した。[[エアポートウォーク名古屋]]隣接地に航空機をテーマとした展示施設「[[あいち航空ミュージアム]]」を整備、周辺に点在する集積された航空機産業・観光資源と連携、地域全体をフィールドミュージアムとして、学校教育・人材育成・産業観光に活用する計画である<ref name="Mynavi_20150518">{{Cite news |author = |title = MRJやYS-11も展示!愛知に航空産業観光拠点"航空のフィールドミュージアム" |newspaper = マイナビニュース |publisher = [[マイナビ]] |date = 2015-05-18 |url =https://news.mynavi.jp/article/20150518-a211/ |accessdate = 2017-06-05}}</ref>。[[2017年]][[11月30日]]に「あいち航空ミュージアム」は開館した。
== 拠点・焦点都市としている航空会社 ==
当空港を[[ハブ空港|拠点空港]]にしている航空会社は1社。[[焦点都市|焦点空港]]に設定している航空会社はない。
* [[フジドリームエアラインズ]](拠点)
==統計==
{{空港-統計|iata=NKM NGO}}
== 就航路線 ==
[[File:JA06FJ RJNA 1.jpg|thumb|名古屋空港を離陸するFDAのE175]]
{{空港就航地
|'''[[フジドリームエアラインズ]](FDA)'''<ref>[[日本航空]](JAL)とのコードシェア便</ref>|[[札幌飛行場|札幌/丘珠]](季節運航)、[[青森空港|青森]]、[[いわて花巻空港|花巻]]、[[山形空港|山形]]、[[新潟空港|新潟]]、[[出雲空港|出雲]]、[[高知空港|高知]]、[[福岡空港|福岡]]、[[熊本空港|熊本]]
}}
=== 就航都市 ===
* [[北海道]] : [[札幌飛行場|札幌/丘珠]](季節運航)
* [[東北地方|東北]] : [[青森空港|青森]]、[[花巻空港|花巻]]、[[山形空港|山形]]
* [[中部地方|中部]] : [[新潟空港|新潟]]
* [[中国地方|中国]] : [[出雲空港|出雲]]
* [[四国]] : [[高知空港|高知]]☆
* [[九州]] : [[福岡空港|福岡]]☆、[[熊本空港|熊本]]☆
☆は[[中部国際空港]]便もあり。
全ての路線が当空港発着で、JALもしくはジェイエアによりかつて運航されていた路線である。
このうち、花巻線と青森線は2005年から2010年まで中部国際空港発着となっていた。
=== 就航計画 ===
現在のところ計画は無い。
=== 県営空港化後に運休・撤退した航空会社路線 ===
{{空港就航地
|'''[[ジェイエア]](J-AIR)'''|(多くの路線をFDAが引き継いで定期運航中、このうち帯広線は季節便として中部国際空港発着に変更され、JALに移管された。)[[帯広空港]]、[[秋田空港]]、[[山形空港]]、[[新潟空港]]、[[松山空港]]、[[高知空港]]、[[長崎空港]]、[[北九州空港]]、[[福岡空港]]、[[熊本空港]]
|'''[[フジドリームエアラインズ]](FDA) '''|北九州空港
}}
=== チャーター実績 ===
{{空港就航地
|'''[[フジドリームエアラインズ]](FDA)'''|[[札幌飛行場|丘珠空港]](2013/11/16)、[[稚内空港]](2013/7/12 - 2013/8/22)、[[釧路空港]](2013/7/13 - 2013/8/19)、[[山形空港]](2013/10/27 - 2013/11/27)、[[八丈島空港]](2012/8/22 - 2012/8/26)、[[隠岐空港]](2012/7/10)、[[出雲空港]](2014/1/24 - 2014/1/28)、[[奄美空港]](2013/9/28 - 2013/10/13)}}
[[グアム国際空港|グアム]]や[[サイパン国際空港|サイパン]]へのチャーター便を運航したこともある。
=== 中部国際空港開港以前の定期就航路線 ===
「日本の空港シリーズ(2)セントレア centrair中部国際空港&名古屋空港」イカロス出版の名古屋空港の歴史より。
[[中部国際空港]]開港前は中部地区を代表する国際空港として、現在では存在しない航空会社(中華人民共和国の[[中国民航]]やヴァリグ・ブラジル航空)なども就航していた。[[タイ国際航空]]や[[チャイナエアライン]]などは名古屋市に多くの在住人口([[東南アジア]]系[[ASEAN]]諸国や[[中華民国]]籍)を持つ事から、1980年代初頭より定期路線を運航し続けている。
以下、名称は就航当時のものである。10年以上前の航空事情の為、2015年現在では合併などにより現存していなかったり、運航停止している航空会社もある。
==== 国内線 ====
※ [[航空連合]]は右記の通りである。OW:[[ワンワールド]]、SA:[[スターアライアンス]]
{|class="wikitable sortable" style="font-size:90%;width:100%"
|-bgcolor=lightgrey
!width="40%"|航空会社
!width="60%", class="unsortable"|目的地
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本航空]](JAL)(OW)'''
| [[帯広空港|帯広]]、[[花巻空港|花巻]]、[[山形空港|山形]]、[[福岡空港|福岡]]、[[宮崎空港|宮崎]]、[[鹿児島空港|鹿児島]]、[[那覇空港|那覇]] ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本トランスオーシャン航空]](JTA)(OW)'''
| 山形、那覇 ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[JALエクスプレス]](JEX)(OW)'''
|(日本航空との合併により現存しない)鹿児島 ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[ジェイエア]](J-AIR)(OW)'''
| [[秋田空港|秋田]]、[[新潟空港|新潟]]、[[出雲空港|出雲]]、[[高知空港|高知]] ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本エアシステム]](JAS)'''
|(日本航空との合併により現存しない)[[新千歳空港|札幌/新千歳]]、[[釧路空港|釧路]]、[[青森空港|青森]]、福岡 ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本エアコミューター]] (JAC)'''
| 高知 ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[全日本空輸]](ANA)(SA)'''
|
; 【北海道地方】
:札幌/新千歳、[[函館空港|函館]]、[[旭川空港|旭川]]、[[女満別空港|女満別]]
; 【東北地方】
:青森、秋田、[[仙台空港|仙台]]
; 【関東地方】
:[[成田国際空港|東京/成田]]、[[八丈島空港|八丈島]]
; 【中部地方】
:新潟、[[小松飛行場|小松]]、[[富山空港|富山]]
; 【近畿地方】
:[[南紀白浜空港|南紀白浜]]
; 【中国・四国地方】
:[[徳島飛行場|徳島]]、[[松山空港|松山]]
; 【九州・沖縄地方】
:福岡、[[長崎空港|長崎]]、[[大分空港|大分]]、[[熊本空港|熊本]]、那覇 ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[エアーニッポン]](ANK)(SA)'''
|(全日本空輸との合併により現存しない)福岡、[[佐賀空港|佐賀]]、[[石垣空港|石垣]] ほか
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[エアーセントラル|中日本エアラインサービス]](NAL)'''
|(エアーニッポンネットワークとの合併により現存しない)東京/成田、富山、[[鳥取空港|鳥取]]、[[美保飛行場|米子]]、松山 ほか
|}
{| class="mw-collapsible mw-collapsed" style="border:1px #aaa solid; width:50em; margin:0.2em auto"
|-
! 国内線就航都市
|-
|{{Location map+ |Japan |width=700 |float=center
|caption=名古屋飛行場からの国内線就航都市。<br /> [[File:Blue pog.svg|8px]] 過去に就航していた都市。
|places=
{{Location map~ | Japan |lat=35.255 |long=136.924444|position=left |"label=<div style="position:relative; top:-5px;"><small>'''名古屋/小牧'''</small></div>"|caption=|mark=Airplane_silhouette.svg|marksize=15 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=42.77500000 |long=141.69222222 |position=left |label='''<small>[[新千歳空港|札幌/新千歳]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=43.1175 |long=141.381389 |position=right |label='''<small>[[札幌飛行場|札幌/丘珠]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=43.880556 |long=144.164167 |position=right |label='''<small>[[女満別空港|女満別]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=43.670833 |long=142.4475 |position=right |label='''<small>[[旭川空港|旭川]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=41.77 |long=140.821944 |position=left |label='''<small>[[函館空港|函館]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=43.040833 |long=144.192778 |position=right |label='''<small>[[釧路空港|釧路]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=42.733333 |long=143.217222 |position=right |label='''<small>[[帯広空港|帯広]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=40.733333 |long=140.688611 |position=right |label='''<small>[[青森空港|青森]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=39.615556 |long=140.218611 |position=right |label='''<small>[[秋田空港|秋田]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=39.428611 |long=141.135278 |position=right |label='''<small>[[花巻空港|花巻]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=38.136944 |long=140.9225 |position=right |label='''<small>[[仙台空港|仙台]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=38.411667 |long=140.371111 |position=right |label='''<small>[[山形空港|山形]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=35.765278 |long=140.385556 |position=right |label='''<small>[[成田国際空港|東京/成田]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=33.115 |long=139.785833 |position=right |label='''<small>[[八丈島空港|八丈島]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=37.955833 |long=139.120556 |position=right |label='''<small>[[新潟空港|新潟]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=36.648333 |long=137.1875 |position=right |label='''<small>[[富山空港|富山]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=36.393889 |long=136.4075 |position=right |label='''<small>[[小松飛行場|小松]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=33.662222 |long=135.364444 |position=right |label='''<small>[[南紀白浜空港|南紀白浜]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=35.414722 |long=132.886111 |position=left |label='''<small>[[出雲空港|出雲]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=35.53 |long=134.166389 |position=right |label='''<small>[[鳥取空港|鳥取]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=35.492222 |long=133.236389 |position=right |label='''<small>[[美保飛行場|米子]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ |mark = Blue pog.svg | Japan |lat=34.132778 |long=134.606389 |position=right |label='''<small>[[徳島飛行場|徳島]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=33.546111 |long=133.669444 |position=right |label='''<small>[[高知空港|高知]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=33.827222 |long=132.699722 |position=right |label='''<small>[[松山空港|松山]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=33.584444 |long=130.451667 |position=right |label='''<small>[[福岡空港|福岡]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=32.916944 |long=129.913611 |position=left |label='''<small>[[長崎空港|長崎]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=33.149722 |long=130.302222 |position=right |label='''<small>[[佐賀空港|佐賀]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=33.476111 |long=131.739722 |position=right |label='''<small>[[大分空港|大分]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Japan |lat=32.837222 |long=130.855 |position=right |label='''<small>[[熊本空港|熊本]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=31.877222 |long=131.448611 |position=right |label='''<small>[[宮崎空港|宮崎]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=31.8 |long=130.721667 |position=left |label='''<small>[[鹿児島空港|鹿児島]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=26.205556 |long=127.650833 |position=right |label='''<small>[[那覇空港|沖縄/那覇]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | mark = Blue pog.svg | Japan |lat=24.396389 |long=124.245 |position=right |label='''<small>[[石垣空港|石垣]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
}}
|}
==== 国際線 ====
* ( )内の記号は、最初が[[航空会社コード|航空会社の2レターコード]](国際線)、2つ目が[[航空連合]](アライアンス)
** 2つ目の( )がない航空会社はアライアンスに加盟していない航空会社となっている
* 航空連合は右記の通りである。OW : [[ワンワールド]]、ST : [[スカイチーム]]、SA : [[スターアライアンス]]
{|class="wikitable sortable" style="font-size:90%;width:100%"
|-bgcolor=lightgrey
!width="40%"|航空会社
!width="60%", class="unsortable"|目的地
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} 日本航空(JL)(OW) '''
|
;【東アジア】
:[[北京首都国際空港|北京/首都]]、[[上海浦東国際空港|上海/浦東]]、[[天津浜海国際空港|天津]]、[[香港国際空港|香港]]、[[仁川国際空港|ソウル/仁川]]、[[金海国際空港|釜山]]、東京/成田(国際線乗り継ぎ連絡便)
;【東南アジア】
:[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]、[[ニノイ・アキノ国際空港|マニラ]]
;【北米】
:[[ジョン・F・ケネディ国際空港|ニューヨーク/JFK]]、[[ロサンゼルス国際空港|ロサンゼルス]]
;【南米】
:[[グアルーリョス国際空港|サンパウロ/グアルーリョス]](ニューヨーク/JFK経由)
;【ヨーロッパ】
:[[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン/ヒースロー]]、[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港|パリ/シャルル・ド・ゴール]]
;【太平洋】
:[[グアム国際空港|グアム]]、[[サイパン国際空港|サイパン]]、[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[JALウェイズ]](JO)(OW) '''
|(日本航空との合併により現存しない)[[グアム国際空港|グアム]]、[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]、[[コナ国際空港|コナ]](東京/成田経由)、[[ドンムアン空港|バンコク/ドンムアン]]
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本アジア航空]](EG)(OW) '''
|(日本航空との合併により現存しない)[[台湾桃園国際空港|台北/桃園]]、[[グアム国際空港|グアム]]
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[日本エアシステム]](JD) '''
|(日本航空との合併により現存しない)上海/浦東
|-
|''' {{Flagicon|JPN}} [[全日本空輸]](NH)(SA) '''
| [[サイパン国際空港|サイパン]]、[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]
|-
|''' {{Flagicon|HKG}} [[キャセイパシフィック航空]](CX)(OW) '''
| [[台湾桃園国際空港|台北/桃園]]、[[香港国際空港|香港]]
|-
|''' {{Flagicon|KOR}} [[大韓航空]](KE)(ST) '''
| ソウル/仁川、釜山、[[済州国際空港|済州]]
|-
|''' {{Flagicon|KOR}} [[アシアナ航空]](OZ)(SA) '''
| ソウル/仁川
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国国際航空]](CA)(SA) '''
| 北京/首都、[[重慶江北国際空港|重慶]](北京/首都経由)
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国東方航空]](MU)(ST) '''
| 上海/浦東、[[西安咸陽国際空港|西安]](上海/浦東経由)
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国西北航空]](WH) '''
| (中国東方航空との合併により現存しない)[[上海虹橋国際空港|上海/虹橋]]、西安(上海/虹橋経由)
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国北方航空]](CJ) '''
| (中国南方航空との合併により現存しない)[[大連周水子国際空港|大連]]
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国南方航空]](CZ)(ST) '''
| 大連
|-
|''' {{Flagicon|CHN}} [[中国西南航空]](SZ) '''
| (中国国際航空との合併により現存しない)重慶
|-
|''' {{Flagicon|TWN}} [[チャイナエアライン]](CI)(ST) '''
| [[台湾桃園国際空港|台北/桃園]]
|-
|''' {{Flagicon|SIN}} [[シンガポール航空]](SQ)(SA) '''
| [[シンガポール・チャンギ国際空港]]
|-
|''' {{Flagicon|MAS}} [[マレーシア航空]](MH)(OW) '''
| [[クアラルンプール国際空港|クアラルンプール]]
|-
|''' {{Flagicon|THA}} [[タイ国際航空]](TG)(SA) '''
| [[ドンムアン空港|バンコク/ドンムアン]]
|-
|''' {{Flagicon|INA}} [[ガルーダ・インドネシア航空]](GA)(ST) '''
| [[スカルノ・ハッタ国際空港|ジャカルタ]]、[[ングラ・ライ国際空港|デンパサール]]
|-
|''' {{Flagicon|BAN}}[[ビーマン・バングラデシュ航空]](BG) '''
| [[シャージャラル国際空港|ダッカ]]
|-
|''' {{Flagicon|USA}} [[デルタ航空]](DL)(ST) '''
| [[ポートランド国際空港|ポートランド]]、[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]
|-
|''' {{Flagicon|USA}} [[アメリカウエスト航空]](HP)(SA) '''
| ([[USエアウェイズ]]との合併により現存しない<ref>後の[[2015年]][[10月17日]]に[[アメリカン航空]]と合併</ref>)[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]
|-
|''' {{Flagicon|USA}} [[コンチネンタル航空]](CO)(ST) ''' <ref>[[2009年]][[10月24日]]に[[スカイチーム]]を脱退し、2009年[[10月27日]]に[[スターアライアンス]]に加盟した</ref>
|([[ユナイテッド航空]]との合併により現存しない)[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]、[[グアム国際空港|グアム]]、[[サイパン国際空港|サイパン]]
|-
|''' {{Flagicon|USA}} [[ノースウエスト航空]](NW)(ST) '''
|(デルタ航空との合併により現存しない)[[サイパン国際空港|サイパン]]、[[デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港|デトロイト]]、[[グアム国際空港|グアム]]、[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]、[[ニノイ・アキノ国際空港|マニラ]]
|-
|''' {{Flagicon|USA}} [[ハワイアン航空]] (HA)'''
|[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]、[[アンカレッジ国際空港|アンカレッジ]]
|-
|''' {{Flagicon|CAN}} [[カナディアン航空]](CP)(OW) '''
|([[エア・カナダ]]との合併により現存しない)[[バンクーバー国際空港|バンクーバー]]
|-
|''' {{Flagicon|CAN}} [[エア・カナダ]](AC)(SA) '''
| [[バンクーバー国際空港|バンクーバー]]
|-
|''' {{Flagicon|FRA}} [[エールフランス]](AF)(ST) '''
|[[パリ=シャルル・ド・ゴール空港|パリ/シャルル・ド・ゴール]]、[[シェレメーチエヴォ国際空港|モスクワ/シェレメーチエヴォ]]
|-
|''' {{Flagicon|NLD}} [[KLMオランダ航空]](KL)(ST) '''
| [[アムステルダム・スキポール空港|アムステルダム]]
|-
|''' {{Flagicon|GER}} [[ルフトハンザドイツ航空]](LH)(SA) '''
| [[フランクフルト空港|フランクフルト]]
|-
|''' {{Flagicon|GBR}} [[ブリティッシュ・エアウェイズ]](BA)(OW) '''
| [[ロンドン・ヒースロー空港|ロンドン/ヒースロー]]
|-
|''' {{Flagicon|RUS}} [[アエロフロート・ロシア航空]](SU)(ST) '''
| [[シェレメーチエヴォ国際空港|モスクワ/シェレメーチエヴォ]]
|-
|''' {{Flagicon|HUN}} [[マレーヴ・ハンガリー航空]](MA)(OW) '''
|'''チャーター便:''' [[リスト・フェレンツ国際空港|ブダペスト]]
|-
|''' {{Flagicon|PYF}} [[エア タヒチ ヌイ]](TN) '''
|'''チャーター便:''' [[ファアア国際空港|パペーテ]]
|-
|''' {{Flagicon|AUS}} [[カンタス航空]](QF)(OW) '''
| [[シドニー国際空港|シドニー]]、[[ブリスベン空港|ブリスベン]]
|-
|''' {{Flagicon|AUS}} [[オーストラリア航空]](AO) '''
|(カンタス航空との合併により現存しない)シドニー、[[ケアンズ国際空港|ケアンズ]](シドニー経由)
|-
|''' {{Flagicon|NZL}} [[ニュージーランド航空]](NZ)(SA) '''
| [[オークランド国際空港 (ニュージーランド)|オークランド]]
|-
|''' {{Flagicon|BRA}} [[ヴァリグ・ブラジル航空]](RG)(SA) '''
|(運航停止し、会社清算により現存しない)サンパウロ/グアルーリョス、[[アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港|リオデジャネイロ/アントニオ・カルロス・ジョビン]]
|}
過去には、[[高麗航空]]が[[平壌国際空港]]からチャーター便で飛来していた。同航空会社では数少ない日本路線(他は[[新潟空港]])であった。
{| class="mw-collapsible mw-collapsed" style="border:1px #aaa solid; width:50em; margin:0.2em auto"
|-
! 国際線就航都市(中国、香港、台湾)
|-
|{{Location map+ | China |width=1000 |float=center
|caption=名古屋空港時代の国際線就航都市(中国、香港、台湾)。
|places=
{{Location map~ | China |lat=35.255 |long=136.924444|position=left |"label=<div style="position:relative; top:-5px;"><small>'''名古屋/小牧'''</small></div>"|caption=|mark=Airplane_silhouette.svg|marksize=15 }}
{{Location map~ | China |lat=25.0775 |long=121.232778 |position=right |label='''<small>[[台湾桃園国際空港|台北/桃園]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=40.073333 |long=116.598333 |position=top |label='''<small>[[北京首都国際空港|北京/首都]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=31.145 |long=121.793333 |position=right |label='''<small>[[上海浦東国際空港|上海/浦東]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=31.196667 |long=121.335 |position=left |label='''<small>[[上海虹橋国際空港|上海/虹橋]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=38.965556 |long=121.538333 |position=top |label='''<small>[[大連周水子国際空港|大連]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=39.124167 |long=117.346111 |position=bottom |label='''<small>[[天津浜海国際空港|天津]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=29.719167 |long=106.641667 |position=top |label='''<small>[[重慶江北国際空港|重慶]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=34.447222 |long=108.751667 |position=top |label='''<small>[[西安咸陽国際空港|西安]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | China |lat=22.308889 |long=113.914444 |position=bottom |label='''<small>[[香港国際空港|香港]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
}}
|}
{| class="mw-collapsible mw-collapsed" style="border:1px #aaa solid; width:50em; margin:0.2em auto"
|-
! 国際線就航都市(中国、香港、台湾を除く)
|-
|{{Location map+ | World |width=1000 |float=center
|caption=名古屋空港時代の国際線就航都市(中国、香港、台湾を除く)。
|places=
{{Location map~ | Earth |lat=35.255 |long=136.924444|position=left |"label=<div style="position:relative; top:-5px;"><small>'''名古屋/小牧'''</small></div>"|caption=|mark=Airplane_silhouette.svg|marksize=15 }}
{{Location map~ | Earth |lat=37.463333 |long=126.44 |position=left |label='''<small>[[仁川国際空港|ソウル/仁川]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=35.179528 |long=128.938222 |position=right |label='''<small>[[金海国際空港|釜山]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=33.511389 |long=126.493056 |position=left |label='''<small>[[済州国際空港|済州]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=39.223889 |long=125.67 |position=top |label='''<small>[[平壌国際空港|平壌]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=14.508611 |long=121.019444 |position=right |label='''<small>[[ニノイ・アキノ国際空港|マニラ]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=19.738889 |long=-156.045556 |position=right |label='''<small>[[コナ国際空港|コナ]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=-8.748056 |long=115.1675 |position=right |label='''<small>[[ングラ・ライ国際空港|デンパサール]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=23.842778 |long=90.400556 |position=top |label='''<small>[[シャージャラル国際空港|ダッカ]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=2.743333 |long=101.698056 |position=left |label='''<small>[[クアラルンプール国際空港|クアラルンプール]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=13.9125 |long=100.606667 |position=left |label='''<small>[[ドンムアン空港|バンコク/ドンムアン]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=1.359167 |long=103.989444 |position=right |label='''<small>[[シンガポール・チャンギ国際空港|シンガポール]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=-6.123611 |long=106.661111 |position=left |label='''<small>[[スカルノ・ハッタ国際空港|ジャカルタ]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=45.588611 |long=-122.5975 |position=left |label='''<small>[[ポートランド国際空港|ポートランド]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=42.2125 |long=-83.353333 |position=left |label='''<small>[[デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港|デトロイト]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=50.033333 |long=8.570556 |position=right |label='''<small>[[フランクフルト空港|フランクフルト]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=51.4775 |long=-0.461389 |position=top |label='''<small>[[ロンドン・ヒースロー国際空港|ロンドン/ヒースロー]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=13.483889 |long=144.797222 |position=bottom |label='''<small>[[グアム国際空港|グアム]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=21.318611 |long=-157.922222 |position=left |label='''<small>[[ダニエル・K・イノウエ国際空港|ホノルル]]</small>''' |label_size=80 |marksize=7 }}
{{Location map~ | Earth |lat=55.972778 |long=37.414722 |position=right |label='''<small>[[シェレメーチエヴォ国際空港|モスクワ/シェレメーチエヴォ]]</small>'''|label_size=80 |marksize=7}}
{{Location map~ | Earth |lat=49.193889 |long=-123.184444 |position=right |label='''<small>[[バンクーバー国際空港|バンクーバー]]</small>'''|label_size=80 |marksize=7}}
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|}
== 姉妹空港・提携空港 ==
[[県営名古屋空港]]は、[[アメリカ合衆国]][[ワシントン州]]の[[モーゼスレイク (ワシントン州)|モーゼスレイク市]]にある[[グラント郡国際空港]]と姉妹空港提携をおこなっている<ref group=広報>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.aichi.jp/soshiki/ricchitsusho/20161011washington.html |title=米国・ワシントン州との友好交流及び相互協力に関する覚書並びにグラント・カウンティ国際空港との姉妹空港提携の締結について|accessdate=2016-11-07 |date=2016-10-11 |publisher=愛知県|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161107231712/http://www.pref.aichi.jp/soshiki/ricchitsusho/20161011washington.html |archivedate=2016-11-07 |deadlinkdate=2018-11-22}}</ref>。
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! 空港名
! 国名・地域名
! 提携年月日
|-
|[[グラント郡国際空港]]
|{{Flagicon|USA}}[[アメリカ合衆国]][[ワシントン州]]
|[[2016年]](平成28年)[[10月18日]] '''[[グラント郡国際空港]]'''と姉妹提携調印
|}
== 利用する機関・事業者 ==
[[ファイル:View form Airport Walk NAGOYA.JPG|thumb|right|左:[[フジドリームエアラインズ|FDA]]の[[エンブラエル170|E170]]、中央奥:[[小牧山]]、右:航空自衛隊[[KC-767]]、下:愛知県警察BK-117、セコ・インターナショナルR44、中日本航空の報道ヘリコプター・ビジネス機と定期整備を行う青森県防災航空隊のベル412]]
利用する企業・団体は中部国際空港開港後増加し、それに伴い急速にターミナルや貨物地区の跡地に格納庫が建設された。このうち中日本航空、セントラルヘリコプターサービス、セコ・インターナショナルは全国の防災ヘリコプターや個人・企業所有のヘリコプターなどの整備も当空港で行っている。
また、ダイヤモンドエアサービスは三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所を利用している。
<!--事業者については公平を期すため便宜上、50音順。-->
* [[愛知県警察]]航空隊
* 愛知県[[防災航空隊]]
* [[朝日航洋]]・[[セントラルヘリコプターサービス]]
* [[宇宙航空研究開発機構]]
* [[オールニッポンヘリコプター]]
* [[共立航空撮影]]
* [[公共施設地図航空]]
* [[新日本ヘリコプター]]
* [[セコ・インターナショナル]]
* [[ダイヤモンドエアサービス]]
* [[中日新聞社]]管理局航空部 : 空からの取材における活動拠点である。
* [[中日本航空]]
* [[名古屋市消防局]][[消防航空隊]]
* [[ファーストエアートランスポート]]
== 周辺 ==
[[File:Airport Walk NAGOYA 01.JPG|thumb|[[エアポートウォーク名古屋]]]]
[[File:MRJ FINAL ASSEMBRY HANGER.JPG|thumb|隣接する[[Mitsubishi SpaceJet]]の最終組み立て工場]]
航空自衛隊小牧基地は滑走路を共用している。また、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所は工場と隣接しており、新規製造機や定期整備のための戦闘機やヘリコプターは名古屋飛行場の施設を利用している。
* [[航空自衛隊]] [[小牧基地]]
* [[愛知県庁|愛知県]][[消防防災ヘリコプター|防災航空隊]]
* [[名古屋市消防局#消防航空隊|名古屋市消防航空隊]]
* [[愛知県警察]][[警察航空隊|航空隊]]
* [[中日本航空|中日本航空株式会社]]本社、航空事業本部
* [[朝日航洋|朝日航洋株式会社]]名古屋オペレーションセンター
* [[三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所]](小牧南工場)
* [[名古屋空港飛行研究拠点]](JAXA)
* [[あいち航空ミュージアム]]
* [[エアポートウォーク名古屋]] (旧国際線ターミナル)
* [[エアフロントオアシス (春日井市)|エアフロントオアシス(春日井市側)]]
* [[エアフロントオアシス (小牧市)|エアフロントオアシス(小牧市側)]]
* [[神明公園]]
** [[航空館boon]]
* [[イチロー]]記念館「[[アイ・ファイン]]」<!--県道62号線名古屋空港南口交差点近く-->
* [[溝口城]]跡
== 交通 ==
[[file:Parkade in NKM.JPG|thumb|right|左:B棟、右:A棟の立体駐車場]]
=== 路線バス ===
旅客ターミナル前を発着し、名古屋都心並びに周辺鉄道駅を結ぶ。
; [[あおい交通]]([[名古屋空港直行バス]])
:* [[名古屋駅]] - ([[栄 (名古屋市)|栄]]) - '''空港''' - [[味美駅 (名鉄)|味美]]([[名鉄小牧線]]) - [[勝川駅]]([[中央線 (名古屋地区)|JR中央本線]])
; [[名鉄バス]]
:* [[西春駅]]([[名鉄犬山線]]) - '''空港'''
:* [[名鉄バスセンター]] - 栄 - 空港
; [[名古屋市営バス]](期間限定)
:* [[2017年]][[3月1日]]から1か月間、[[名古屋市営バス]]黒川11号系統を乗り入れる社会実験を実施。
=== 道路 ===
立体駐車場が1,350台分設置されている。名古屋市街までは、約10 km(自動車で約20分)である。
; [[国道41号線]]
; [[名古屋高速11号小牧線]]
:* [[小牧インターチェンジ]]方面からは[[豊山北出入口]]利用。
:* [[名古屋高速都心環状線|名古屋都心]]方面・[[名古屋第二環状自動車道]]からは[[豊山南出入口]]利用。
=== 鉄道 ===
[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]]において、[[味美駅 (名鉄)|味美駅]]より分岐して名古屋空港に至る鉄道路線'''名鉄名古屋空港線'''が2008年までに整備すべき路線として提示されたが、今日に至るまで具体化はしていない。
== その他 ==
{{出典の明記|section=1|date=2017年8月}}
小牧基地[[航空ショー|航空祭]]では[[ブルーインパルス]]の展示飛行は2014年まで実施されていない。
[[岐阜放送]]でテレビCMを放送している。
名古屋VORTACの管理官所は、大阪航空局中部空港事務所システム運航管理センター、名古屋ILS/DMEの保守官所は、愛知県航空対策課である。
{{要出典範囲|date=2019年6月29日 (土) 16:57 (UTC)|また、給油目的で個人所有機や防災ヘリ等の中継地として利用されている他、[[ゼネラル・アビエーション]]が利用する空港の中では比較的大きな施設を持つということもあり、近年では[[朝日航空]]等、訓練事業を行う航空会社の計器飛行訓練の場所としても利用されている。}}
{{要出典範囲|date=2019年6月29日 (土) 16:57 (UTC)|近隣の[[自衛隊]]基地である[[岐阜基地]]、[[浜松基地]]は[[ILS]]計器進入装置を持たないため、[[自衛隊]]機の訓練や[[岐阜基地]]に隣接する[[川崎重工]]のテストフライト項目の一部に当空港が使用される。}}
{{要出典範囲|date=2019年6月29日 (土) 16:57 (UTC)|一方ゼネラルアビエーションの耐空証明が切れた航空機がエプロンに留め置かれた状態で放置される飛行場が日本で数多く存在する中}}、当空港では、168時間を超える駐機料金を5割増しにする<ref>[https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/372367.pdf 愛知県名古屋飛行場条例(平成十六年七月二日愛知県条例第四十四号)] 別表第一第三号停留料</ref>処置を行っている。
県営となった[[2005年]]以降は、都道府県が管理する飛行場を自衛隊が共同使用する唯一の例となっている。中部国際空港の開港による名古屋空港の県営移管の際は、旧運輸省、旧防衛庁、県との協議の結果、県が国から235億円で購入し、防衛庁側の希望で自衛隊機は着陸料を支払うことに決まった。2005年度から2021年度までに自衛隊が支払った着陸料は総額140億円となり、同期間の維持管理料202億円に充てられている<ref name=aichipref221018>{{Cite press release |和書 |title=県営名古屋空港に関する2022年10月8日(土)付けインターネット配信記事及び2022年10月9日(日)産経新聞朝刊記事について |publisher=愛知県 |date=2022-10-11 |url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/425386_1907381_misc.pdf |accessdate=2022-10-18}}</ref>。これについて産経新聞は2022年10月、「[[航空交通管制|管制業務]]や[[消防]]業務を航空自衛隊に委ねているにもかかわらず、離着陸料を徴収している」などと[[愛知県庁|愛知県]]を批判する記事を掲載<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20221008-TJLSYH5R7BPMNGBLN3774TDIRI/|title= 空自機の離着陸料徴収 名古屋空港 県営化後に140億円|accessdate=2022年10月15日|publisher=産経新聞 2022年10月08日 19:18}}</ref>。愛知県知事の[[大村秀章]]は記事の内容が事実に反するとして産経新聞社に抗議した<ref name=aichipref221018/>。産経新聞の記事を元に、抗議と称して飛行場に爆破予告をする者も現れ混乱を招いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/561449 |title=名古屋空港に爆破予告 産経新聞の「空自着陸料」記事を基に批判 |publisher=中日新聞社 |date=2022-10-15 |accessdate=2022-10-18}}</ref>。なお、自衛隊が着陸料を支払わない場合は、国が負担すべき使用料を県に支払わせることになり、[[地方財政法]]違反となる<ref name=aichipref221018/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
==== 広報資料など ====
{{Reflist|group="広報"}}
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2014年7月|section=1}}
* {{Cite book |和書 |author=Airline(編) |title=セントレア 空のテーマパークを大解剖! 中部国際空港&名古屋空港 |year=2005 |date=2005-05-28 |publisher=イカロス出版 |series=イカロスmook 日本の空港シリーズ2 |ISBN=4-8714-9677-5 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author= |title=東海3空港 中部×名古屋×静岡 東海道エアポートストーリー |year=2011 |date=2011-10-06 |publisher=イカロス出版 |series=イカロスmook 日本のエアポート04 |ISBN=978-4-86320-513-0 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Nagoya Airport}}
* [[エアポートウォーク名古屋]] - 名古屋空港ビルディングが所有・設置主体
* [[あいち航空ミュージアム]] - 名古屋空港ビルディングが[[指定管理者]]
* [[飛翔 (航空機)]]
* [[大府飛行場]]
* [[中部国際空港]]
* [[愛知県道447号名古屋空港線]]
* [[愛知県道448号名古屋空港中央線]]
== 外部リンク ==
* [https://nagoya-airport.jp/ 県営名古屋空港公式サイト] - 名古屋空港ビルディング
* [https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kouku/nagoyaairport.html 県営名古屋空港] - 愛知県建設局航空対策課
* [https://www.aichi-now.jp/spots/detail/106/ 県営名古屋空港] - 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW
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太陽電池
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太陽電池(たいようでんち、英: solar cell)は、光起電力効果を利用して、光エネルギーを電気エネルギー(電力)に変換する電力機器である。主に、太陽光から電力を得る目的で使用される。"電池"と表現されるが、電力を蓄える蓄電機能は持っていない。タイプは大きく分けてシリコン系、化合物系、有機系がある。
太陽電池の用途と、採用されている理由を以下に挙げる(太陽光発電の項も参照のこと)。
光吸収層の材料、および素子の形態などにより、多くの種類に分類される。それぞれ異なる特徴を持ち、用途に応じて使い分けられている。
シリコンを用いる太陽電池は、a.材料の性質の観点からは、大きく結晶シリコンとアモルファスシリコンに分類することができる。またそのb.形態の観点から、薄膜型や多接合型などを分別することができる。その形式や性能は非常に多様であり、近年は複数の型を複合させたものも実用化されている。このため、ここに挙げた分類法も絶対のものではないことを付記しておく。太陽電池に用いられるシリコンの純度、格子欠陥は集積回路用に比べて基準がゆるく、これまでは集積回路用のシリコンが用いられてきたが、太陽電池の生産量が増加するに従い、ソーラーグレードのシリコン材料の供給が望まれてきた。シリコンの高純度化には従来、水素とシリコンを反応させて蒸留して純度を高める化学的な手法が使用されていたが、近年は冶金的な手法により、真空中で電子ビームを照射する事によってシリコン中の不純物の気化精製、凝固精製を行い不純物を除去する事により、純度を高めるプロセスも開発されている。
結晶シリコンの禁制帯幅は 1.12 eV であり、太陽電池に用いた場合、近紫外域から 1.2 μm 程度までの光を吸収して発電できる。間接遷移型の半導体であるため光吸収係数が低く、実用的な吸収量を得るには最低200μm程度のシリコン層が必要とされてきた。しかし表面テクスチャなどを用いた光閉じ込め技術が発達してきており、近年は結晶シリコンであってもシリコン層が数 μm~50 μmなどと非常に薄く、薄膜太陽電池に分類できるものも開発されている。c-Siなどと略記される。
上記のシリコンや無機化合物材料を用いた太陽電池に対し、光吸収層(光電変換層)に有機化合物を用いた太陽電池も開発されている。製法が簡便で生産コストが低くでき、着色性や柔軟性などを持たせられるなどの特長を有する。変換効率や寿命に課題があるが、実用化されれば将来の市場で大きなインパクトが期待されるため、開発が競われている。
ペロブスカイト結晶を用いた太陽電池。2009年に桐蔭横浜大学の宮坂力教授の研究室によってハロゲン化鉛系ペロブスカイトを利用した太陽電池が開発された。エネルギー変換効率は2009年当時のCH3NH3PbI3を用いた3.9%から2016年には最大21.0%に達するという著しい性能向上を示し、次世代の太陽電池として期待される。
使用する材料がまだ特定されていない太陽電池として、量子効果を用いた太陽電池が検討されている。第三世代型太陽電池とも呼ばれる。例えばp-i-n構造を有する太陽電池のi層中に大きさが数nm~数10nm程度の量子ドット構造を規則的に並べた構造などが提案されている。この量子ドットの間隔を調整することで、基の半導体(シリコンやGaAsなど)の禁制帯中に複数のミニバンドを形成できる。これにより、単接合の太陽電池であっても、異なる波長の光をそれぞれ効率よく電力に変換することが可能になり、変換効率の理論限界は60%以上に拡大する。現在の一般的な半導体プロセスよりもさらに微細な加工プロセスの開発が必要である。2012年6月、東北大学がシリコンを使用した量子ドット型太陽電池で12.6%の変換効率を達成している。
1839年、太陽電池の基本原理が発見される(フランスの物理学者アレクサンドル・エドモン・ベクレル)。
1884年、最初の発電に成功する(アメリカの発明家チャールズ・フリッツ)。構造は半導体性のセレンと極めて薄い金の膜とを接合したものである。これにより得られた変換効率はわずか1%ほどであった。この発明は後にセレン光電池として1960年代までカメラの露出計などに広く応用されていたが、シリコン型の普及とともに市場から去っていった(光起電力効果#歴史、露出計も参照)。
1954年、結晶シリコン太陽電池が発明される(ベル研究所のダリル・チャピン、カルビン・フラー、ジェラルド・ピアソン)。電力機器としての太陽電池の先駆けとなった。通信機器に用いる電池が熱帯地方での使用に耐えなかったため、その代わりの電源として開発された。当時は 英: Bell Solar Battery と呼ばれ、太陽光のエネルギーを電力に変換する効率は6%だった。当初は通信用・宇宙用等が主な用途で、一次電池を用いた世界最初の人工衛星スプートニク1号が21日の寿命しかなかったのに対し、太陽電池を用いた最初の人工衛星ヴァンガード1号は6年以上動作し、その有用性を示している。その後無人灯台など徐々に用途を拡大し、日本でも1960年代に量産が開始された。
1974年、石油ショック以降、電源としての本格的な開発が始まる。開発当初は数W分に過ぎなかった生産量は、2010年時点でその数十億倍(23GWp/年)に増えている(太陽光発電の市場動向を参照)。変換効率の向上と太陽電池の多様化も進み、現在では変換効率40%を超える化合物多接合型太陽電池も開発されている(右図)。
概要 太陽電池に入射した光のエネルギーは、電子によって吸収され、電力として太陽電池の外部へ出力される。詳しくは光起電力効果の項を参照のこと。
pn接合型の場合
現在一般的な太陽電池は、p型とn型の半導体を接合した構造を持つpn接合型ダイオード(フォトダイオード)である。シリコン系、化合物系の太陽電池がこれに該当する。電子に光のエネルギーを吸収させ(光励起)、電力として取り出す。これは、発光ダイオードと逆の過程である。
色素増感太陽電池の場合
色素増感太陽電池では、入射光によって、二酸化チタンに吸着された色素中の電子が励起される。この励起された電子を二酸化チタンを介して電極(陰極)へと導き、電流として取り出す。送り出された電子は外部回路を経由して対向電極(陽極)に戻り、電極間に挟まれた電解質中のイオンを介して再び色素吸着部へと戻る。
回路部品としての動作
太陽電池の等価回路は右図のようになる。最も単純なモデルでは抵抗成分を無視して、電流源 I p h {\displaystyle I_{ph}} と(理想ダイオードではない)ダイオードのみで表される。抵抗成分を無視した太陽電池の暗電流は、 I o {\displaystyle I_{o}} を逆方向飽和電流、qを電気素量、Vを電圧、nを理想ダイオード因子、kをボルツマン定数、Tを温度として
のように表される。ここで n=1 としたものがpn接合の理想I-V特性である。
実際の素子を近似するには、直列抵抗(series resistance) R s {\displaystyle R_{s}} と並列抵抗(shunt resistance) R s h {\displaystyle R_{sh}} 成分も考慮する。直列抵抗成分は素子各部を電流が流れる時の抵抗成分であり、これが低いほど性能が良くなる。並列抵抗はpn接合周辺における漏れ(リーク)電流などによって生じ、これが高いほど性能が良い。抵抗成分を含めた太陽電池の光照射時の電流-電圧特性は次のように表される。
太陽電池の電圧-電流特性は右図のようになる。光照射時に於いて、端子を開放した時の出力電圧を開放電圧(open circuit voltage V o c {\displaystyle V_{oc}} )、短絡した時の電流を短絡電流(short-circuit current, I s c {\displaystyle I_{sc}} )と呼ぶ。また I s c {\displaystyle I_{sc}} を有効受光面積 S {\displaystyle S} で割ったものを短絡電流密度( J s c {\displaystyle J_{sc}} )と呼ぶ。最大の出力電力を与える動作点Pmaxを最大出力点(maximum power point, 最適動作点、最適負荷点)と呼ぶ。また F F = V m a x ⋅ I m a x V o c ⋅ I s c {\displaystyle FF={\frac {V_{\rm {max}}\cdot I_{\rm {max}}}{V_{oc}\cdot I_{sc}}}} を曲線因子(fill factor)と呼ぶ。照射光による入力エネルギーを 100mW/cm(または1000W/m)で規格化した測定では、公称変換効率は
で与えられる。
太陽電池から効率よく電力を得るには、太陽電池を最大出力点付近で動作させる必要がある。このため大電力用のシステムでは通常、最大電力点追従装置(Maximum Power Point Tracker, MPPT)を用いて、日射量や負荷にかかわらず、太陽電池側からみた負荷を常に最適に保つように運転が行われる。
影の影響
一般に太陽電池は十分な電圧を確保するため直列接続されるが、直列接続される一部の太陽電池において影などにより出力が低下すると、そこで電流量が制限され、全体の発電量が低下することがある。対策としては、バイパスダイオードを搭載し当該太陽電池を電気的に迂回する方法が挙げられる。また、電圧-電流特性にも変化が現れ、ピークが複数現れることによって、山登り法アルゴリズムを利用する多くのMPPTでは最大出力点に到達できないことがある。これを回避するためには、より複雑な電圧-電流特性に適するアルゴリズムを使用する必要がある。また、MPPTを一括で行わずに複数の単位に区切って個別にMPPT制御を行うのも手である。影の影響は太陽電池の種類によっても異なり、アモルファスシリコンがベストで、次点でCdTe型、その次にバイパスダイオード付き単結晶シリコン型、CIGS型と続きバイパスダイオードのないシリコン型太陽電池が最も悪い。一般に薄膜のものほど影に対する耐性に優れる。
多接合型太陽電池
多接合型(スタック型、積層型、タンデム型などとも呼ばれる)太陽電池とは、利用波長の異なる太陽電池を複数積み重ねた太陽電池である。
特徴
原理
応用
温度の影響
太陽電池モジュールは条件によっては日光によって温度が60~80°Cにも達することがあるが、太陽電池では温度が上昇することで出力が低下する現象が見られることがある。これは高温において禁制帯幅(シリコンでは1.2eV)が減少することで出力電圧が低下するためである。エネルギーギャップの大きいアモルファスシリコンや一部化合物系の太陽電池では電圧低下の影響が少ないため、モジュールが高温になる地域では有利になる。一方、高温になると光吸収係数が大きくなることで電流が増加する効果も発生するが、結晶シリコンでは通常この効果は小さい。このほか、上部に2枚以上の偏光板を回転させて日光量を調節し温度抑制あるいは出力調整をする方法がある。
アモルファスシリコンの光劣化
アモルファスシリコンは強い光の照射によってシリコンのダングリングボンドが増加し、導電率が劣化する性質を持つ。これはステブラー・ロンスキー(Staebler-Wronski)効果と呼ばれ、欠陥密度の増加によって素子内でのキャリアの移動を阻害し、太陽電池の性能の劣化を招く。これに対しては、下記のような対策が取られる。
こうした対策技術の開発により、現在は屋外用にも長寿命のものが実用化されている。
なお、光照射によって増加した欠陥密度は、光照射が続くと飽和する。また、熱が加わることで時間と共に減少する。一般に屋外用の製品においては、使用開始時に性能が数% - 10数%程度低下する現象(初期劣化)が見られるが、その後は安定する。カタログ性能値には初期劣化後の値が用いられる。
薄膜太陽電池
従来の太陽電池が単結晶、多結晶、あるいはシリコンや化合物系半導体を問わずインゴットからワイヤソー等で切り出していたため、材料の無駄が少なくなかった。そのため、毛細管現象を利用して坩堝から帯状のシリコンを引き上げたりアモルファス半導体やCIS系半導体等の薄膜太陽電池の開発が行われてきた。近年では基板上に結晶を成長させて剥がす方法も実用化の域に達しつつある。従来は変換効率において従来の製法による物と比較して劣るものが少なくなかったが、近年はプロセスの改良により改善されつつある。
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"text": "太陽電池の用途と、採用されている理由を以下に挙げる(太陽光発電の項も参照のこと)。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "光吸収層の材料、および素子の形態などにより、多くの種類に分類される。それぞれ異なる特徴を持ち、用途に応じて使い分けられている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "シリコンを用いる太陽電池は、a.材料の性質の観点からは、大きく結晶シリコンとアモルファスシリコンに分類することができる。またそのb.形態の観点から、薄膜型や多接合型などを分別することができる。その形式や性能は非常に多様であり、近年は複数の型を複合させたものも実用化されている。このため、ここに挙げた分類法も絶対のものではないことを付記しておく。太陽電池に用いられるシリコンの純度、格子欠陥は集積回路用に比べて基準がゆるく、これまでは集積回路用のシリコンが用いられてきたが、太陽電池の生産量が増加するに従い、ソーラーグレードのシリコン材料の供給が望まれてきた。シリコンの高純度化には従来、水素とシリコンを反応させて蒸留して純度を高める化学的な手法が使用されていたが、近年は冶金的な手法により、真空中で電子ビームを照射する事によってシリコン中の不純物の気化精製、凝固精製を行い不純物を除去する事により、純度を高めるプロセスも開発されている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "結晶シリコンの禁制帯幅は 1.12 eV であり、太陽電池に用いた場合、近紫外域から 1.2 μm 程度までの光を吸収して発電できる。間接遷移型の半導体であるため光吸収係数が低く、実用的な吸収量を得るには最低200μm程度のシリコン層が必要とされてきた。しかし表面テクスチャなどを用いた光閉じ込め技術が発達してきており、近年は結晶シリコンであってもシリコン層が数 μm~50 μmなどと非常に薄く、薄膜太陽電池に分類できるものも開発されている。c-Siなどと略記される。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "上記のシリコンや無機化合物材料を用いた太陽電池に対し、光吸収層(光電変換層)に有機化合物を用いた太陽電池も開発されている。製法が簡便で生産コストが低くでき、着色性や柔軟性などを持たせられるなどの特長を有する。変換効率や寿命に課題があるが、実用化されれば将来の市場で大きなインパクトが期待されるため、開発が競われている。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ペロブスカイト結晶を用いた太陽電池。2009年に桐蔭横浜大学の宮坂力教授の研究室によってハロゲン化鉛系ペロブスカイトを利用した太陽電池が開発された。エネルギー変換効率は2009年当時のCH3NH3PbI3を用いた3.9%から2016年には最大21.0%に達するという著しい性能向上を示し、次世代の太陽電池として期待される。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "使用する材料がまだ特定されていない太陽電池として、量子効果を用いた太陽電池が検討されている。第三世代型太陽電池とも呼ばれる。例えばp-i-n構造を有する太陽電池のi層中に大きさが数nm~数10nm程度の量子ドット構造を規則的に並べた構造などが提案されている。この量子ドットの間隔を調整することで、基の半導体(シリコンやGaAsなど)の禁制帯中に複数のミニバンドを形成できる。これにより、単接合の太陽電池であっても、異なる波長の光をそれぞれ効率よく電力に変換することが可能になり、変換効率の理論限界は60%以上に拡大する。現在の一般的な半導体プロセスよりもさらに微細な加工プロセスの開発が必要である。2012年6月、東北大学がシリコンを使用した量子ドット型太陽電池で12.6%の変換効率を達成している。",
"title": "種類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "1839年、太陽電池の基本原理が発見される(フランスの物理学者アレクサンドル・エドモン・ベクレル)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "1884年、最初の発電に成功する(アメリカの発明家チャールズ・フリッツ)。構造は半導体性のセレンと極めて薄い金の膜とを接合したものである。これにより得られた変換効率はわずか1%ほどであった。この発明は後にセレン光電池として1960年代までカメラの露出計などに広く応用されていたが、シリコン型の普及とともに市場から去っていった(光起電力効果#歴史、露出計も参照)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "1954年、結晶シリコン太陽電池が発明される(ベル研究所のダリル・チャピン、カルビン・フラー、ジェラルド・ピアソン)。電力機器としての太陽電池の先駆けとなった。通信機器に用いる電池が熱帯地方での使用に耐えなかったため、その代わりの電源として開発された。当時は 英: Bell Solar Battery と呼ばれ、太陽光のエネルギーを電力に変換する効率は6%だった。当初は通信用・宇宙用等が主な用途で、一次電池を用いた世界最初の人工衛星スプートニク1号が21日の寿命しかなかったのに対し、太陽電池を用いた最初の人工衛星ヴァンガード1号は6年以上動作し、その有用性を示している。その後無人灯台など徐々に用途を拡大し、日本でも1960年代に量産が開始された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1974年、石油ショック以降、電源としての本格的な開発が始まる。開発当初は数W分に過ぎなかった生産量は、2010年時点でその数十億倍(23GWp/年)に増えている(太陽光発電の市場動向を参照)。変換効率の向上と太陽電池の多様化も進み、現在では変換効率40%を超える化合物多接合型太陽電池も開発されている(右図)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "概要 太陽電池に入射した光のエネルギーは、電子によって吸収され、電力として太陽電池の外部へ出力される。詳しくは光起電力効果の項を参照のこと。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "pn接合型の場合",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "現在一般的な太陽電池は、p型とn型の半導体を接合した構造を持つpn接合型ダイオード(フォトダイオード)である。シリコン系、化合物系の太陽電池がこれに該当する。電子に光のエネルギーを吸収させ(光励起)、電力として取り出す。これは、発光ダイオードと逆の過程である。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "色素増感太陽電池の場合",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "色素増感太陽電池では、入射光によって、二酸化チタンに吸着された色素中の電子が励起される。この励起された電子を二酸化チタンを介して電極(陰極)へと導き、電流として取り出す。送り出された電子は外部回路を経由して対向電極(陽極)に戻り、電極間に挟まれた電解質中のイオンを介して再び色素吸着部へと戻る。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "回路部品としての動作",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "太陽電池の等価回路は右図のようになる。最も単純なモデルでは抵抗成分を無視して、電流源 I p h {\\displaystyle I_{ph}} と(理想ダイオードではない)ダイオードのみで表される。抵抗成分を無視した太陽電池の暗電流は、 I o {\\displaystyle I_{o}} を逆方向飽和電流、qを電気素量、Vを電圧、nを理想ダイオード因子、kをボルツマン定数、Tを温度として",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "のように表される。ここで n=1 としたものがpn接合の理想I-V特性である。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "実際の素子を近似するには、直列抵抗(series resistance) R s {\\displaystyle R_{s}} と並列抵抗(shunt resistance) R s h {\\displaystyle R_{sh}} 成分も考慮する。直列抵抗成分は素子各部を電流が流れる時の抵抗成分であり、これが低いほど性能が良くなる。並列抵抗はpn接合周辺における漏れ(リーク)電流などによって生じ、これが高いほど性能が良い。抵抗成分を含めた太陽電池の光照射時の電流-電圧特性は次のように表される。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "太陽電池の電圧-電流特性は右図のようになる。光照射時に於いて、端子を開放した時の出力電圧を開放電圧(open circuit voltage V o c {\\displaystyle V_{oc}} )、短絡した時の電流を短絡電流(short-circuit current, I s c {\\displaystyle I_{sc}} )と呼ぶ。また I s c {\\displaystyle I_{sc}} を有効受光面積 S {\\displaystyle S} で割ったものを短絡電流密度( J s c {\\displaystyle J_{sc}} )と呼ぶ。最大の出力電力を与える動作点Pmaxを最大出力点(maximum power point, 最適動作点、最適負荷点)と呼ぶ。また F F = V m a x ⋅ I m a x V o c ⋅ I s c {\\displaystyle FF={\\frac {V_{\\rm {max}}\\cdot I_{\\rm {max}}}{V_{oc}\\cdot I_{sc}}}} を曲線因子(fill factor)と呼ぶ。照射光による入力エネルギーを 100mW/cm(または1000W/m)で規格化した測定では、公称変換効率は",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "で与えられる。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "太陽電池から効率よく電力を得るには、太陽電池を最大出力点付近で動作させる必要がある。このため大電力用のシステムでは通常、最大電力点追従装置(Maximum Power Point Tracker, MPPT)を用いて、日射量や負荷にかかわらず、太陽電池側からみた負荷を常に最適に保つように運転が行われる。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "影の影響",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "一般に太陽電池は十分な電圧を確保するため直列接続されるが、直列接続される一部の太陽電池において影などにより出力が低下すると、そこで電流量が制限され、全体の発電量が低下することがある。対策としては、バイパスダイオードを搭載し当該太陽電池を電気的に迂回する方法が挙げられる。また、電圧-電流特性にも変化が現れ、ピークが複数現れることによって、山登り法アルゴリズムを利用する多くのMPPTでは最大出力点に到達できないことがある。これを回避するためには、より複雑な電圧-電流特性に適するアルゴリズムを使用する必要がある。また、MPPTを一括で行わずに複数の単位に区切って個別にMPPT制御を行うのも手である。影の影響は太陽電池の種類によっても異なり、アモルファスシリコンがベストで、次点でCdTe型、その次にバイパスダイオード付き単結晶シリコン型、CIGS型と続きバイパスダイオードのないシリコン型太陽電池が最も悪い。一般に薄膜のものほど影に対する耐性に優れる。",
"title": "原理"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "多接合型太陽電池",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "多接合型(スタック型、積層型、タンデム型などとも呼ばれる)太陽電池とは、利用波長の異なる太陽電池を複数積み重ねた太陽電池である。",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "特徴",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "原理",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "応用",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "温度の影響",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "太陽電池モジュールは条件によっては日光によって温度が60~80°Cにも達することがあるが、太陽電池では温度が上昇することで出力が低下する現象が見られることがある。これは高温において禁制帯幅(シリコンでは1.2eV)が減少することで出力電圧が低下するためである。エネルギーギャップの大きいアモルファスシリコンや一部化合物系の太陽電池では電圧低下の影響が少ないため、モジュールが高温になる地域では有利になる。一方、高温になると光吸収係数が大きくなることで電流が増加する効果も発生するが、結晶シリコンでは通常この効果は小さい。このほか、上部に2枚以上の偏光板を回転させて日光量を調節し温度抑制あるいは出力調整をする方法がある。",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アモルファスシリコンの光劣化",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "アモルファスシリコンは強い光の照射によってシリコンのダングリングボンドが増加し、導電率が劣化する性質を持つ。これはステブラー・ロンスキー(Staebler-Wronski)効果と呼ばれ、欠陥密度の増加によって素子内でのキャリアの移動を阻害し、太陽電池の性能の劣化を招く。これに対しては、下記のような対策が取られる。",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "こうした対策技術の開発により、現在は屋外用にも長寿命のものが実用化されている。",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "なお、光照射によって増加した欠陥密度は、光照射が続くと飽和する。また、熱が加わることで時間と共に減少する。一般に屋外用の製品においては、使用開始時に性能が数% - 10数%程度低下する現象(初期劣化)が見られるが、その後は安定する。カタログ性能値には初期劣化後の値が用いられる。",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "薄膜太陽電池",
"title": "その他参考資料"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "従来の太陽電池が単結晶、多結晶、あるいはシリコンや化合物系半導体を問わずインゴットからワイヤソー等で切り出していたため、材料の無駄が少なくなかった。そのため、毛細管現象を利用して坩堝から帯状のシリコンを引き上げたりアモルファス半導体やCIS系半導体等の薄膜太陽電池の開発が行われてきた。近年では基板上に結晶を成長させて剥がす方法も実用化の域に達しつつある。従来は変換効率において従来の製法による物と比較して劣るものが少なくなかったが、近年はプロセスの改良により改善されつつある。",
"title": "その他参考資料"
}
] |
太陽電池は、光起電力効果を利用して、光エネルギーを電気エネルギー(電力)に変換する電力機器である。主に、太陽光から電力を得る目的で使用される。"電池"と表現されるが、電力を蓄える蓄電機能は持っていない。タイプは大きく分けてシリコン系、化合物系、有機系がある。
|
{{Otheruseslist|狭義の太陽電池、つまり太陽電池のひとつのセル|太陽電池を複数集めて枠に入れパネル状にしたもの|ソーラーパネル|発電方式|太陽光発電}}
[[image:solar_cell.png|thumb|250px|単結晶シリコン型太陽電池]]
[[Image:Dye.sensitized.solar.cells.jpg|thumb|250px|色素増感太陽電池]]
'''太陽電池'''(たいようでんち、{{lang-en-short|solar cell}})は、[[光起電力効果]]を利用して、[[光エネルギー]]を[[電気エネルギー]]([[電力]])に変換する<ref>{{Cite web|和書|title=太陽電池とは|url=https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%9B%BB%E6%B1%A0-92163|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),化学辞典 第2版,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典|last=第2版,知恵蔵,世界大百科事典内言及}}</ref>[[電力機器]]である。主に、[[太陽光]]から電力を得る目的で使用される。"電池"と表現されるが、電力を蓄える蓄電機能は持っていない。タイプは大きく分けてシリコン系、化合物系、有機系がある。
== 用途 ==
[[image:CellStructure-SiCrystal.PNG|thumb|200px|結晶シリコン型太陽電池の代表的構造]]
太陽電池の用途と、採用されている理由を以下に挙げる([[太陽光発電]]の項も参照のこと)。
* 電池の交換が不要となる ⇒[[電卓]]、[[腕時計]]、[[携帯電話]]の充電器、[[懐中電灯]]、[[ラジオ]]
* 給電線(外部商用電源との接続)の配線工事が不要となる ⇒[[道路標識]]、庭園灯、[[街路灯]]、駐車券発行機、[[自動販売機]]、[[太陽熱温水器]]、カーバッテリーの充電器
* 系統連系不要で発電できる ⇒海洋や山岳地帯の観測機器、[[人工衛星]]、[[宇宙ステーション]]、離島、非常用電源など
* 化石燃料の消費による環境負荷を低減できる ⇒家庭用太陽光発電設備、産業用太陽光発電所、[[ソーラーカー]]、[[ソーラープレーン]]、太陽熱温水器
* 長期間使用する場合に電気料金上のメリットが出る ⇒家庭用太陽光発電設備、産業用太陽光発電所
== 種類 ==
光吸収層の材料、および素子の形態などにより、多くの種類に分類される。それぞれ異なる特徴を持ち、用途に応じて使い分けられている。
===シリコン系===
[[シリコン]]を用いる太陽電池は、<u>a.材料の性質の観点</u>からは、大きく結晶シリコンと[[アモルファスシリコン]]に分類することができる。またその<u>b.形態の観点</u>から、薄膜型や多接合型などを分別することができる。その形式や性能は非常に多様であり、近年は複数の型を複合させたものも実用化されている。このため、ここに挙げた分類法も絶対のものではないことを付記しておく。太陽電池に用いられるシリコンの純度、格子欠陥は集積回路用に比べて基準がゆるく、これまでは集積回路用のシリコンが用いられてきたが、太陽電池の生産量が増加するに従い、[[ソーラーグレードシリコン|ソーラーグレードのシリコン材料]]の供給が望まれてきた。シリコンの高純度化には従来、水素とシリコンを反応させて蒸留して純度を高める化学的な手法が使用されていたが、近年は冶金的な手法により、真空中で電子ビームを照射する事によってシリコン中の不純物の気化精製、凝固精製を行い不純物を除去する事により、純度を高めるプロセスも開発されている<ref>[https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/publications/leaflet/970602/289.html 太陽電池用シリコン素材の製造プロセス] (生研リーフレット No.289)</ref>。
====材質の観点による分類====
''結晶シリコン''の禁制帯幅は 1.12 [[電子ボルト|eV]] であり、太陽電池に用いた場合、近紫外域から 1.2 [[マイクロメートル|μm]] 程度までの[[光]]を吸収して発電できる。間接遷移型の半導体であるため光吸収係数が低く、実用的な吸収量を得るには最低200µm程度のシリコン層が必要とされてきた。しかし表面テクスチャなどを用いた光閉じ込め技術が発達してきており、近年は結晶シリコンであってもシリコン層が数 μm~50 μmなどと非常に薄く、薄膜太陽電池に分類できるものも開発されている。c-Siなどと略記される。
;単結晶シリコン型
:高純度[[シリコン]]単結晶ウエハを半導体基板として利用するもので、最も古くから使われている。変換効率は高いが高純度シリコンの利用量が多く、生産に必要なエネルギーやコストが高くなる。そのため近年は下記の多結晶シリコンや薄膜シリコン太陽電池に移行が進んでいる。
;多結晶シリコン型
:結晶の粒径が数mm程度の[[多結晶シリコン]]を利用した太陽電池。他のシリコン半導体素子の製造過程で生じた端材やオフグレード品のシリコン原料を利用して製造できる。単結晶シリコンに比べると面積あたりの出力(変換効率)は落ちるが、生産に必要なエネルギーは少なく、エネルギー収支やEPT、GEG排出量の面では単結晶シリコンより優れる。コストと性能のバランスの良さから、現在の主流となっている。近年はウエハを薄型化するコスト削減技術の競争が進んでおり、2004年の300µm厚から、2010年には150µm厚に半減すると予想されている<ref name="SolarGeneration2007p43">[http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/publications/epia/EPIA_SG_IV_final.pdf EPIA, Solar Generation IV - 2007], P.43 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080511201154/http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/publications/epia/EPIA_SG_IV_final.pdf|date=2008年5月11日}}</ref>。また、ガラス上に非常に薄い多結晶シリコン太陽電池を形成する、CSG(またはSOG)技術の普及も有望視されている<ref name="SolarGeneration2007p17">[http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/publications/epia/EPIA_SG_IV_final.pdf EPIA, Solar Generation IV - 2007], P.17 {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080511201154/http://www.epia.org/fileadmin/EPIA_docs/publications/epia/EPIA_SG_IV_final.pdf|date=2008年5月11日}}</ref>。[[化学気相成長]]により成膜するため生産過程でSiH<sub>4</sub>、NH<sub>3</sub>、H<sub>2</sub>などのガスを使用する。
;微結晶シリコン型
:微細な結晶で構成された薄膜をCVD法などにて製膜するものである。多結晶型の1種と見なせるが、製膜条件によっては[[アモルファス半導体|アモルファス]]的な性質も併せ持つ。μc-Si などと略記される。比較的新しい技術で、インゴットを切断する手間が省け、資源の使用量も削減できるほか、製法によっては200℃程度の低温での製膜が可能で基板を選ばない、などの特長がある。今後、広範囲な応用が期待されている<ref>参照:[http://www.mhi.co.jp/tech/pdf/421/421004.pdf 開発例1]・[http://www.sharp.co.jp/corporate/rd/28/pdf/93_07.pdf 開発例2]</ref>。[[化学気相成長]]により成膜するため生産過程でSiH<sub>4</sub>、PH<sub>3</sub>、B<sub>2</sub>H<sub>6</sub>,GeH<sub>4</sub>、H<sub>2</sub>などの気体を使用する。
;アモルファスシリコン型
:[[シラン (化合物)|シランガス]]から[[化学気相成長]] (CVD) させてできる[[アモルファスシリコン]]を利用した太陽電池で、a-Si などと略記される。形態的には薄膜シリコン太陽電池にも分類できる。アモルファスシリコンは、タウツギャップと呼ばれる通常 1.75~1.8 eV 程度の[[エネルギーギャップ]]と、それより小さな裾準位を介したエネルギーギャップを持つ。結晶シリコンに比べて[[エネルギーギャップ]]が大きいため、高温時も出力が落ちにくい特性を持つ。太陽電池にそのまま用いた場合は主に 700 nm 以下の短波長の光が利用され、見た目には赤っぽく見える。結晶構造の乱れにより、光学遷移に[[フォノン]]の介在を必要とせず、光吸収係数が高い。このため 0.5 μm 程度の厚さでも実用になり、使用するシリコン原料が少なく、エネルギーやコスト的にも有利である。極端な低照度下での効率が高いことや、蛍光灯の短波長光に感度があることから、主に電卓など室内用途に使われてきた。太陽光で劣化しやすいのが欠点だったが、技術の進歩により長寿命化され([[太陽電池#その他参考資料|アモルファスシリコンの光劣化]]参照)、近年は屋外用にも市販されている。エネルギー変換効率が10%以下と低い(設置面積が大きくなる)のも欠点だったが、多結晶シリコン等と積層した多接合型とすることで高性能化されている。また、タウツギャップの大きさはドーピングによって1~2eV程度の範囲で可変であり、これを利用してアモルファス層のみで構成された[[太陽電池#種類|多接合型太陽電池]]も実用化されている。近年は下記の薄膜太陽電池の一種として論じられることも多い。[[化学気相成長]]により成膜するため生産過程でSiH<sub>4</sub>、PH<sub>3</sub>、B<sub>2</sub>H<sub>6</sub>、GeH<sub>4</sub>、H<sub>2</sub>などの気体を使用する。また、アモルファスシリコン太陽電池の開発過程で培われた大面積ガラス基板上での半導体製膜技術はTFT液晶ディスプレイパネルの生産技術にも役立った。
====形態の観点による分類====
;薄膜シリコン型
:シリコン層の厚みを薄くすることで、使用原料、生産に要するエネルギー、コストなどの削減をはかったもの。比較的新しい技術で、様々な形態が存在するためひとくくりにするのは難しい。広義には省資源化の意味で、従来の数百μmよりも薄いもの全般(例えば 100 μm 以下)を指す。狭義には柔軟性なども充分に得られる厚みの意味で、例えば 10 μm 以下のものを指す。シリコン融液から表面張力でリボン状に引き出すストリングリボン法<ref>参照:[http://www.khi.co.jp/pv/a41.html 解説1]・[http://www.evergreensolar.com/egsolar1/eg_technology.htm 解説2]</ref>を用いた型や、[[化学気相成長|CVD]]法などを用いる微結晶型などが代表的である。厚みは生産方法の選択によって100nm(0.1μm)単位から数百µm以上まで連続的にカバーでき、目的に応じて使い分けられる。インゴットから切断したウエハを用いて製造する場合は通常数百 μm 単位になるのに対し、融液から直接薄膜の形にするリボン法などでは100 μm 以下、[[化学気相成長|CVD]]法などを用いた場合(アモルファス型や微結晶型など)では0.5~数μmまで薄くなる。薄膜のままでは充分に入射光を吸収できないため、表面テクスチャや中間層を用いて光学的特性を制御し、入射光の利用率を高める工夫が施される(ライトトラッピング)。効率の低下分よりも生産時の使用エネルギーやコストが多く削減できるため、環境負荷の観点から優秀なものが多い
;ハイブリッド型(HIT型)
:結晶シリコンとアモルファスシリコンを積層した太陽電池である。通常の結晶シリコンに比して変換効率が高く、温度特性も良いなどの特長を有する<ref>[http://www.nef.or.jp/award/kako/h09/98syo3.htm HIT太陽電池モジュール](財団法人新エネルギー財団)</ref><ref>[http://jp.sanyo.com/solar/feature/index.html HIT太陽電池の特徴](三洋電機)</ref>。シリコンの使用量が減らせる他、両面受光型にも出来る。日本の[[三洋電機]]が主な製造者である。なお、吸収波長域の異なる材料同士を積層するという点では下記の多接合型太陽電池に似るが、[[pn接合]]は1つ(単接合)である。
;多接合型(タンデム型)
:吸収波長域の異なるシリコン層を積層したもの。[[アモルファスシリコン]]と各種の結晶[[シリコン]]を積層したものの他、通常のa-Siに吸収波長域の異なるa-SiCやa-SiGeを積層したものなどが開発・実用化されている。高効率で温度特性などに優れるものが多い。''[[太陽電池#種類|多接合型太陽電池]]の項を参照。''
;球状シリコン型
:球状シリコン型太陽電池とは、無数の球状シリコン粒子(直径1mm程度)と、集光能力を上げる直径2~3mmの[[凹面鏡]](電極を兼ねる)を組み合わせた太陽電池のことである<ref>[http://www.kyosemi.co.jp/product/pro_ene_sun_j.html 球状太陽電池](京セミ株式会社)</ref>。一般的な結晶シリコン型の1/5程度のシリコン使用量で、アモルファスシリコンよりも高い変換効率が期待できる方式である。2007年初めの時点で10%を超える発電効率が報告されている。球状シリコンの生産方法は、[[プラズマ]]で溶かしたシリコン液滴を1~2秒程度[[自由落下]]で滴下させ、表面張力でシリコン液滴を球状とし、落下中に[[レーザー]]照射により結晶化させることにより生産される。個々のシリコン粒子は単結晶である。高純度シリコン原料の供給が追いつかない状況が続く中、シリコンの供給状況に影響されにくく、生産工程も簡易なことから、コストを下げやすい方式として普及が期待されている。また、基板が板状ではないため、曲面にも設置可能でかつ軽量であるメリットがある<ref>[https://xtech.nikkei.com/dm/article/WORD/20060303/113976/ 球状半導体](日経BP社)</ref>。2007年秋から日本企業にて量産開始、2008年より一般販売されている<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/pba/20081212/180082/?P=1 球状シリコン太陽電池の開発・製造] (日経ビジネス)日経ビジネスが描いた日本経済の40年</ref>。
;電界効果型
:従来のpin接合構造を持つアモルファスシリコン型のp型窓層の役割を、絶縁された透明電極から[[電界効果]]によって誘起される[[反転層]]に置き換えた構造を持つ。p型窓層内で[[再結合]]により失われていた[[電荷担体|キャリア]]を[[電界]]によって速やかに分離する効果等により、変換効率を飛躍的に改善するものと期待される。研究が行われていた1996年当時の従来型に比べ最大50%の効率改善がシミュレーションより得られたが、製造プロセス等の課題により実験レベルでの大幅な効率改善には至っていない<ref>[http://www.nedo.go.jp/content/100084691.pdf 電界効果を用いる新型高効率アモルファス太陽電池の開発](独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)</ref><ref>[https://www.jst.go.jp/kisoken/crest/eval/jigo/20030401/tanitsu/tanitsu_02.html 低次元超構造のコンビナトリアル分子層エピタキシー](独立行政法人科学技術振興機構)</ref>。
===化合物系===
;InGaAs太陽電池
:[[シャープ]]が開発した。[[ヒ化インジウムガリウム|InGaAs]]([[インジウム]][[ガリウム]][[ヒ素]])を用い、3層の結晶構造がほぼ一致するように原材料の元素を掛け合わせ、さらに層の間に緩衝材を入れて、層のひずみを解消した。[[2009年]]10月現在、世界最高の変換効率(35.8%)である。毒性のあるヒ素を使い、コストが高いので、用途は宇宙用に限られる<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/091022-a.html 太陽電池セルで世界最高変換効率35.8%を達成 ニュースリリース(2009年10月22日)]</ref>。
;GaAs系太陽電池
:単結晶の[[ヒ化ガリウム|GaAs]]を用いるもので、禁制帯幅 1.4 eV で太陽光のスペクトルに良くマッチし、単接合セルでは最も高い変換効率を出せる(2005年末の世界記録は25.1%;Kopinら)。宇宙用など、特に高い変換効率が必要な用途に用いられている。
;CIS系(カルコパイライト系)太陽電池
:新型の薄膜多結晶太陽電池。光吸収層の材料として、シリコンの代わりに、[[銅|Cu]]、[[インジウム|In]]、[[ガリウム|Ga]]、[[アルミニウム|Al]]、[[セレン|Se]]、[[硫黄|S]]などから成る[[黄銅鉱|カルコパイライト]]系と呼ばれるI-III-VI族化合物を用いる。代表的なものはCu(In,Ga)Se<sub>2</sub> やCu(In,Ga)(Se,S)<sub>2</sub>, CuInS<sub>2</sub> などで、それぞれ[[セレン化銅インジウムガリウム|CIGS]], CIGSS, CIS などと略称される。製造法や材料のバリエーションが豊富で、低コスト品から高性能品まで対応できるのが特長。また、多結晶であるため、大面積化や量産化に向く。[[:wikt:フレキシブル|フレキシブル]]なものや[[:wikt:カスタマイズ|カスタマイズ]]品も作りやすい。シリコン太陽電池が苦手とする分野から実用化が始まっているほか、禁制帯幅が材料次第で自由に変えられることから将来の多接合型太陽電池への応用も期待されている。日本でも量産化が始まっている<ref>[http://www.honda.co.jp/news/2007/c070612.html 例1][http://www.solar-frontier.com/jp/family/lineup/module/index.html 例2]</ref>
;CIGS系太陽電池
:CIGS太陽電池はCu(In、Ga)Se<sub>2</sub>という化合物からなる太陽電池である。携帯電話で搭載できる程度に面積が小さくて軽くとも、大量の電力を生み出す高効率の太陽電池として注目され、利点として次が挙げられる<ref name="名前なし-1">http://www.aist.go.jp/aist_j/aistinfo/aist_today/vol07_07/p14.html</ref>。
#光電変換効率が高い。
#数µmの薄さでも十分に機能する。
#経年劣化が少ない。
#黒一色で色合いが落ち着いている。
:特に1.に関しては、2010年に[[産業技術総合研究所]]が開発したCIGS薄膜型太陽電池は19.4%の光電変換効率を実現したという、キャリアがある<ref>https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2008/pr20080716/pr20080716.html</ref>。この技術の応用により、[[セラミックス]]、[[金属箔]]、[[ポリマー]]など様々な[[フレキシブル基板]]を用いた高性能な太陽電池の作製に成功した<ref name="名前なし-1"/>。
;CZTS(Cu<sub>2</sub>ZnSnS<sub>4</sub>)太陽電池
:[[めっき]]プロセスを用いた[[:en:CZTS|CZTS]]([[銅|copper]] [[亜鉛|zinc]] [[スズ|tin]] [[硫化物|sulfide]])薄膜は近年開発が始まった材料系。上記のCIS系に形態が似るが、利用する材料がより豊富かつ安価なのが特長。日本の[[長岡工業高等専門学校]]などで研究が行われている<ref>[http://www.nagaoka-ct.ac.jp/kigyou/chiiki/4641.html 長岡高専]</ref>。[[2012年]]9月[[ソーラーフロンティア]]社が[[IBM]]コーポレーション、[[東京応化工業]]、{{仮リンク|DelSolar|en|DelSolar}}社との共同研究において11.1%のエネルギー変換効率を達成した<ref>[http://www.kankyo-business.jp/news/003179.php ソーラーフロンティア、CZTS太陽電池の変換効率で世界記録、IBMなどと共同研究]</ref>。
;CdTe/[[硫化カドミウム|CdS]]系太陽電池
:[[テルル化カドミウム|テルル化カドミウム(cadmium telluride, CdTe)]]薄膜を用いた太陽電池で、2枚のガラスに太陽電池を挟み込んだ形態のモジュールが代表的である。毒物である[[カドミウム]]を用いるが、少量でしかも安定した化合物がモジュールに閉じこめられているため、実は環境負荷の低い太陽電池とされている<ref>{{cite web|url=http://www.nrel.gov/pv/cdte/citizen.html|title=Cadmium Use in Photovoltaics - Concerned Citizen|publisher=[[国立再生可能エネルギー研究所|NREL]]|accessdate=2007-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110315001011/http://www.nrel.gov/pv/cdte/citizen.html|archivedate=2011-03-15}}</ref>。日本では販売されていないが、性能が良くかつ安価であるため、[[米国]]や[[欧州]]で実用化されている<ref>[[:en:Cadmium telluride photovoltaics]]参照</ref><ref>例:{{cite web|url=http://www.juwi.de/international/information/press/PR_solarpowerplant_RoteJahne.pdf|title=PR_solarpowerplant_RoteJahne.pdf|publisher=www.juwi.de|accessdate=2007-06-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070929122619/http://www.juwi.de/international/information/press/PR_solarpowerplant_RoteJahne.pdf|archivedate=2007-09-29}}</ref>。
;その他
: [[リン化インジウム|InP]]系太陽電池、[[シリコン|Si]][[ゲルマニウム|Ge]]系太陽電池、Ge太陽電池、[[酸化亜鉛|ZnO(酸化亜鉛)]]/CuAlO<sub>2</sub>(銅アルミ酸化物)太陽電池(透明な太陽電池<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2003/pr20030625/pr20030625.html|title=透明な太陽電池の試作に成功|date=2003-06-25|publisher=[[産総研]]|accessdate=2015-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aist.go.jp/science_town/living/living_02/living_02_02.html|title=透明なのに発電できる?|publisher=産総研|accessdate=2015-04}}</ref>)などがある。
===有機系===
上記のシリコンや無機化合物材料を用いた太陽電池に対し、光吸収層(光電変換層)に有機化合物を用いた太陽電池も開発されている。製法が簡便で生産コストが低くでき、着色性や柔軟性などを持たせられるなどの特長を有する。変換効率や寿命に課題があるが、実用化されれば将来の市場で大きなインパクトが期待されるため、開発が競われている。
;色素増感太陽電池
{{See also|色素増感太陽電池}}
:有機色素を用いて光起電力を得る太陽電池。代表的なものはグレッツエル型(または湿式太陽電池)と呼ばれる型式のもので、2枚の透明電極の間に微量の[[ルテニウム]]錯体などの色素を吸着させた二酸化チタン層と電解質を挟み込んだ単純な構造を有している。製造が簡単で材料も安価なことから大幅な低コスト化が見込まれ、最終的には現在主流の多結晶シリコン太陽電池の1~数割程度のコストで製造できると言われている。また、軽量で着色も可能などの特長を持つ。現在の課題はルテニウムや[[白金]]のような高価な金属が使用されている事と効率と寿命であり、技術的改良が進められている。電解液の蒸発を如何に防ぐかが重要であり、固体化などの技術開発が進められている。2016年2月の時点で、[[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]]のチームが15%のエネルギー変換効率を達成している<ref>[http://sustainablejapan.net/?p=4311 EPFL、色素増感太陽電池で変換効率15%を達成。二段階蒸着法で実現]</ref>。
;有機薄膜太陽電池
{{See also|有機薄膜太陽電池}}
:導電性ポリマーや[[フラーレン]]などを組み合わせた有機薄膜半導体を用いる太陽電池。次世代照明/TVの有機ELの逆反応として研究が進展した。ロールツーロールで印刷による製造が可能になるため、上記の色素増感太陽電池よりもさらに構造や製法が簡便になると言われており、また電解液を用いないために(色素増感と比べると)柔軟性や寿命向上の上でも有利なのが特長である。21世紀に入ってから盛んに開発が行われるようになっている。課題は変換効率と寿命であり、2016年2月現在の記録はドイツのヘリアテック(Heliatek)が開発した多接合型セルによる13.2%が世界記録である<ref>[https://kyodonewsprwire.jp/release/201602087684 ヘリアテック社が有機太陽電池においてセル効率13.2%の世界新記録を更新]</ref>。
===ペロブスカイト型===
{{See also|ペロブスカイト太陽電池}}
[[ペロブスカイト構造|ペロブスカイト結晶]]を用いた太陽電池。[[2009年]]に[[桐蔭横浜大学]]の[[宮坂力]]教授の研究室によってハロゲン化鉛系ペロブスカイトを利用した太陽電池が開発された。[[エネルギー効率|エネルギー変換効率]]は2009年当時のCH3NH3PbI3を用いた3.9%から[[2016年]]には最大21.0%<ref name="EPFL">[https://xtech.nikkei.com/dm/atcl/news/16/011800201/ 高効率ペロブスカイト型太陽電池の製造コストが大幅低減]</ref>に達するという著しい性能向上を示し、次世代の太陽電池として期待される。<ref>[https://www.jst.go.jp/seika/bt107-108.html ペロブスカイト型太陽電池の開発(科学技術振興機構(JST))]</ref><ref>[https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/2109/14/news038.html ペロブスカイト太陽電池で変換効率15.1%を実現(EETimes Japan 2021年09月14日)]</ref><ref>[https://eetimes.itmedia.co.jp/ee/articles/2111/12/news062.html 積水化学、ペロブスカイト太陽電池を2025年事業化へ (EETimes 2021年11月12日)]</ref>
===量子ドット型===
使用する材料がまだ特定されていない太陽電池として、量子効果を用いた太陽電池が検討されている。第三世代型太陽電池とも呼ばれる。例えばp-i-n構造を有する太陽電池のi層中に大きさが数nm~数10nm程度の[[量子ドット]]構造を規則的に並べた構造などが提案されている<ref>R・Turton著、川村 清監訳など『量子ドットへの誘い マイクロエレクトロニクスへの未来へ』1998年、シュプリンガー・フェアラーク東京、p47、ISBN 4-431-70780-8</ref>。この量子ドットの間隔を調整することで、基の半導体(シリコンやGaAsなど)の禁制帯中に複数のミニバンドを形成できる。これにより、単接合の太陽電池であっても、異なる波長の光をそれぞれ効率よく電力に変換することが可能になり、変換効率の理論限界は60%以上に拡大する<ref name="tokoton-p78">産業技術総合研究所太陽光発電研究センター「トコトンやさしい太陽電池の本」、日刊工業新聞社、ISBN 978-4-526-05795-3 P.78</ref>。現在の一般的な半導体プロセスよりもさらに微細な加工プロセスの開発が必要である。2012年6月、東北大学がシリコンを使用した量子ドット型太陽電池で12.6%の変換効率を達成している<ref>[http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0320120604eaaa.html 東北大、量子ドット太陽電池で世界最高効率-12.6%]</ref>。
== 歴史 ==
[[File:Best Research-Cell Efficiencies.png|thumb|right|300px|各種太陽電池の変換効率の向上の歴史(研究レベルの世界記録)]]
[[1839年]]、太陽電池の基本原理が発見される([[フランス]]の物理学者[[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]])<ref>
{{cite journal|author=E. Becquerel|year=1839|title=Mémoire sur les effets électriques produits sous l'influence des rayons solaires|url=http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k2968p/f561.chemindefer|journal=[[Comptes Rendus]]|volume=9|issue=|pages=561–567}}</ref><ref name="Williams">
{{cite journal|author=R. Williams|year=1960|title=Becquerel Photovoltaic Effect in Binary Compounds|journal=The Journal of Chemical Physics|volume=32|issue=5|pages=1505–1514|bibcode=1960JChPh..32.1505W|doi=10.1063/1.1730950}}</ref><ref name="KuwanoHistoryBook">太陽電池はどのように発明され、成長したのか、[[桑野幸徳]]、オーム社、平成23年8月、ISBN 978-4-274-50348-1</ref>。
[[1884年]]、最初の発電に成功する([[アメリカ合衆国|アメリカ]]の発明家[[チャールズ・フリッツ]])。構造は[[半導体]]性の[[セレン]]と極めて薄い[[金]]の膜とを接合したものである<ref name="Khan">{{PDFlink|[http://www.ieeeghn.org/wiki/images/0/09/Khan.pdf Pre-1900 Semiconductor Research and Semiconductor Device Applications, AI Khan, IEEE Conference on the History of Electronics, 2004]}}</ref>。これにより得られた変換効率はわずか1[[パーセント|%]]ほどであった<ref name="Khan" />。この発明は後にセレン光電池として[[1960年代]]まで[[カメラ]]の[[露出計]]などに広く応用されていたが、[[シリコン]]型の普及とともに市場から去っていった([[光起電力効果#歴史]]、[[露出計]]も参照)。
[[1954年]]、結晶シリコン太陽電池が発明される([[ベル研究所]]の[[ダリル・シャピン|ダリル・チャピン]]、[[カルビン・フラー]]、[[ジェラルド・ピアソン]])<ref name="NREL_SiCellHistory">{{PDFlink|[http://www.nrel.gov/docs/fy04osti/33947.pdf John Perlin, The Silicon Solar Cell Turns 50]}}</ref>。電力機器としての太陽電池の先駆けとなった。通信機器に用いる電池が[[熱帯地方]]での使用に耐えなかったため、その代わりの電源として開発された<ref name="NREL_SiCellHistory" />。当時は {{lang-en-short|Bell Solar Battery}} と呼ばれ<ref name="KuwanoHistoryBook" />、[[太陽光]]の[[エネルギー]]を[[電力]]に変換する効率は6%だった<ref name="Prince">{{cite journal|author=M.B.Prince|date=May 1955|title=Silicon Solar Energy Converters|journal=Journal of Applied Physics|volume=26|number=5|page=534|doi=10.1063/1.1722034}}</ref>。当初は通信用・宇宙用等が主な用途で、一次電池を用いた世界最初の[[人工衛星]][[スプートニク1号]]が21日の寿命しかなかったのに対し、太陽電池を用いた最初の人工衛星[[ヴァンガード1号]]<ref>[http://www.nrl.navy.mil/content.php?P=VANGUARD Vanguard Project]</ref>は6年以上動作し、その有用性を示している。その後無人[[灯台]]など徐々に用途を拡大し、日本でも1960年代に量産が開始された。
[[1974年]]、[[オイルショック|石油ショック]]以降、電源としての本格的な開発が始まる。開発当初は数W分に過ぎなかった<ref name="NREL_SiCellHistory" />生産量は、[[2010年]]時点でその数十億倍(23GWp/年)に増えている([[太陽光発電の市場動向]]を参照)。変換効率の向上と太陽電池の多様化も進み、現在では変換効率40%を超える化合物多接合型太陽電池も開発されている(右図)。
== 原理 ==
概要
太陽電池に入射した光のエネルギーは、[[電子]]によって吸収され、電力として太陽電池の外部へ出力される。詳しくは[[光起電力効果]]の項を参照のこと。
'''{{fontsize|large|pn接合型の場合}}'''
[[image:PnJunction-PV-J.PNG|thumb|200px|pn接合における[[光起電力効果]]]]
現在一般的な太陽電池は、p型とn型の[[半導体]]を接合した構造を持つ[[pn接合]]型[[ダイオード]]([[フォトダイオード]])である。[[太陽電池#種類|シリコン系]]、[[太陽電池#種類|化合物系]]の太陽電池がこれに該当する。[[電子]]に光のエネルギーを吸収させ(光励起)、電力として取り出す。これは、[[発光ダイオード]]と逆の過程である。
'''{{fontsize|large|色素増感太陽電池の場合}}'''
[[色素増感太陽電池]]では、入射光によって、二酸化チタンに吸着された色素中の電子が励起される。この励起された電子を二酸化チタンを介して電極(陰極)へと導き、電流として取り出す。送り出された電子は外部回路を経由して対向電極(陽極)に戻り、電極間に挟まれた電解質中のイオンを介して再び色素吸着部へと戻る<ref name="ArakawaDSC">荒川裕則、「色素増感太陽電池」、シーエムシー出版、2001年、ISBN 978-4-88231-933-7</ref><ref name="DSC_JPO">[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10342974/www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/hyoujun_gijutsu/solar_cell/01_mokuji.htm 特許庁によるまとめ]</ref>。
'''{{fontsize|large|回路部品としての動作}}'''
[[Image:SolarCell-EquivalentCircuit3.PNG|thumb|180px|太陽電池の等価回路]]
太陽電池の[[等価回路]]は右図のようになる。最も単純なモデルでは抵抗成分を無視して、[[電流源]]<math>I_{ph}</math> と([[理想ダイオード]]ではない)[[ダイオード]]のみで表される。抵抗成分を無視した太陽電池の暗電流は、<math>I_o</math> を[[逆方向飽和電流]]、qを[[電気素量]]、Vを[[電圧]]、nを[[理想ダイオード因子]]、kを[[ボルツマン定数]]、Tを[[温度]]として
:<math>I = - I_o \Big\{ \exp \Big( \frac{qV}{nkT} \Big) - 1 \Big\}</math>
のように表される。ここで n=1 としたものがpn接合の理想I-V特性である。
実際の素子を近似するには、直列抵抗(series resistance)<math>R_s</math> と並列抵抗(shunt resistance)<math>R_{sh}</math> 成分も考慮する。直列抵抗成分は素子各部を電流が流れる時の抵抗成分であり、これが低いほど性能が良くなる。並列抵抗はpn接合周辺における漏れ(リーク)電流などによって生じ、これが高いほど性能が良い。抵抗成分を含めた太陽電池の光照射時の電流-電圧特性は次のように表される。
:<math>I = I_{ph} - I_o \Bigg[ \exp \Bigg\{ \frac{q(V+R_sI)}{nkT} \Bigg\} -1 \Bigg] - \frac{V+R_sI}{R_{sh}}</math>
[[Image:SolarCell-IVgraph3-J.PNG|frame|太陽電池の電圧-電流特性]]
太陽電池の[[電圧]]-[[電流]]特性は右図のようになる。光照射時に於いて、端子を開放した時の出力電圧を'''[[開放電圧]]'''(open circuit voltage <math>V_{oc}</math>)、短絡した時の電流を'''短絡電流'''(short-circuit current, <math>I_{sc}</math>)と呼ぶ。また<math>I_{sc}</math> を有効受光面積<math>S</math> で割ったものを'''短絡電流密度'''(<math>J_{sc}</math>)と呼ぶ。最大の出力電力を与える動作点P<sub>max</sub>を'''最大出力点'''(maximum power point, '''最適動作点'''、'''最適負荷点''')と呼ぶ。また <math> FF = \frac{V_{\rm max}\cdot I_{\rm max}}{V_{oc}\cdot I_{sc}}</math> を'''曲線因子'''(fill factor)と呼ぶ。照射光による入力エネルギーを 100mW/cm<sup>2</sup>(または1000W/m<sup>2</sup>)で規格化した測定では、公称変換効率は
:<math>\eta _n = V_{oc} \cdot J_{sc} \cdot FF</math>
で与えられる。
太陽電池から効率よく電力を得るには、太陽電池を最大出力点付近で動作させる必要がある。このため大電力用のシステムでは通常、[[最大電力点追従制御|最大電力点追従装置]](Maximum Power Point Tracker, MPPT)を用いて、日射量や負荷にかかわらず、太陽電池側からみた負荷を常に最適に保つように運転が行われる。
'''{{fontsize|large|影の影響}}'''
一般に太陽電池は十分な電圧を確保するため直列接続されるが、[[直列回路と並列回路|直列接続]]される一部の太陽電池において[[影]]などにより出力が低下すると、そこで電流量が制限され、全体の発電量が低下することがある。対策としては、[[ダイオード|バイパスダイオード]]を搭載し当該太陽電池を電気的に迂回する方法が挙げられる。また、電圧-電流特性にも変化が現れ、ピークが複数現れることによって、[[山登り法]]アルゴリズムを利用する多くのMPPTでは最大出力点に到達できないことがある。これを回避するためには、より複雑な電圧-電流特性に適するアルゴリズムを使用する必要がある。<ref>{{Cite web|和書|url=http://windofweef.jp/library/pattent_room/306_02.html|title=特集|浮体型閉鎖水域浄化システム|accessdate=2019.3.3|publisher=特許研究室}}</ref>また、MPPTを一括で行わずに複数の単位に区切って個別にMPPT制御を行うのも手である。影の影響は太陽電池の種類によっても異なり、アモルファスシリコンがベストで、次点でCdTe型、その次にバイパスダイオード付き単結晶シリコン型、CIGS型と続きバイパスダイオードのないシリコン型太陽電池が最も悪い。<ref>{{Cite journal|author=Hla Hla Khaing, Yit Jian Liang, Nant Nyein Moe Htay, Jiang Fan|year=2014|title=Characteristics of Different Solar PV Modules under Partial Shading|url=https://waset.org/publications/9999229/characteristics-of-different-solar-pv-modules-under-partial-shading|journal=Open Science Index, Energy and Power Engineering|volume=vol.8|issue=no.9|pages=1418-1422}}</ref>一般に薄膜のものほど影に対する耐性に優れる。<ref>{{Cite web|title=Which Solar Panel Type is Best? Mono-, Polycrystalline or Thin Film?|url=https://energyinformative.org/best-solar-panel-monocrystalline-polycrystalline-thin-film/|website=Energy Informative|accessdate=2019-03-14|language=en-US}}</ref>
==その他参考資料==
'''{{fontsize|large|多接合型太陽電池}}'''
多接合型('''スタック型'''、'''積層型'''、'''タンデム型'''などとも呼ばれる)太陽電池とは、利用波長の異なる太陽電池を複数積み重ねた太陽電池である。
<u>'''特徴'''</u>
* [[太陽光]]のエネルギーをより無駄なく利用することで変換効率の向上が図れる。
* 材料の組み合わせによっては、温度特性や必要な資源量を削減するなどの効果も得られる。
<u>'''原理'''</u>
[[Image:StackCell-J.PNG|frame|多接合型太陽電池の概念図:各波長の光子のエネルギーを効率良く利用する。]]
* [[太陽光]]の[[スペクトル]]は紫外線から赤外線まで幅広く分布するが、短波長(紫外、紫、青)の光になるほど[[光子]]は大きな[[エネルギー]]を持ち、より大きな[[禁制帯幅]]を超えてキャリアを励起できる。この短波長側の光に対応した禁制帯幅を持つ単接合太陽電池を用いれば、より大きな[[電圧]]を得ることが出来、短波長域の光のエネルギーをより効率良く利用できる。しかし禁制帯幅を拡げすぎれば、より長波長の光は素通りして利用されず、出力[[電流]]が減少する。
* 即ち[[pn接合]]が1つだけの単接合太陽電池においては、禁制帯幅より大きなエネルギーの光子のエネルギーの一部が無駄になり、禁制帯幅より小さなエネルギーの光子のエネルギーは利用できない。このような兼ね合いから、単接合の太陽電池では禁制帯幅 1.3~1.4 eV付近が最も高い変換効率が得られる。単接合の場合、変換効率の限界は約30%とされる。2005年現在の記録はAM1.5G,1sunにおいて25.1%、AM1.5、255suns(集光セル)において27.6%である。
* ここで、禁制帯幅の異なる複数の[[pn接合]]素子を積層し、光の入射側の素子から順に短波長の光を利用して発電し、より長波長の光はより下層の素子で利用する。こうすれば各波長域の光子のエネルギーをより無駄なく取り出すことが出来(より高い電圧が得られる)、かつより長波長まで含めたより多くの光子を利用できる(より多くの電流が得られる)。変換効率は最終的に取り出せる電力(電圧×電流)で決まるため、単接合の場合に比べてより高い効率が得られる。
* 理論的には無限に接合を増やせば約86%の変換効率になると計算されるが、実際には上層の素子を通過する際の光の損失や素子間の電流の整合の問題で、それより低くなる。2012年現在の記録は3接合セルで得られている(下記)。4接合、5接合のセルも研究されている。
'''<u>応用</u>'''
* GaInP/GaAs/Geの3接合セルで30%を超える効率が得られ、主に宇宙用に用いられている。2012年5月の時点で、シャープがInGaP、GaAs、InGaAsの集光型化合物3接合セルで43.5%を達成している<ref>[http://www.sharp.co.jp/corporate/news/120531-a.html 集光型太陽電池セルで世界最高変換効率43.5%を達成]</ref>。
* 民生品では、微結晶[[シリコン]]とアモルファスシリコンを積層したものや、通常のa-Siと[[禁制帯幅]]の異なるa-SiCやa-SiGeを積層したものなどが開発・実用化されている<ref>[http://www.fesys.co.jp/sougou/seihin/fwave/kouzou.html 例1] [http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/eco/421288 例2]</ref>。アモルファスシリコンは禁制帯幅が広く、利用波長域が結晶シリコンと異なるため、同一元素同士でも多接合太陽電池を形成できる。このようにすることで効率だけでなく、温度・光強度に対する特性や最終的な資源の消費量の面でも優れた製品が市販されている([[太陽電池#種類|温度の影響]]も参照)。
'''{{fontsize|large|温度の影響}}'''
太陽電池モジュールは条件によっては日光によって温度が60~80℃にも達することがあるが、太陽電池では温度が上昇することで出力が低下する現象が見られることがある。これは高温において[[禁制帯幅]](シリコンでは1.2eV)が減少することで出力電圧が低下するためである。[[エネルギーギャップ]]の大きい[[アモルファスシリコン]]や一部化合物系の太陽電池では電圧低下の影響が少ないため、モジュールが高温になる地域では有利になる。一方、高温になると光吸収係数が大きくなることで電流が増加する効果も発生するが、結晶シリコンでは通常この効果は小さい。このほか、上部に2枚以上の偏光板を回転させて日光量を調節し温度抑制あるいは出力調整をする方法がある。
* 温度係数は結晶シリコンにおいては通常-0.45%/℃前後であり、これは70℃において基準温度(25℃)に対して約2割の出力低下になる。
* アモルファスシリコンにおいては禁制帯幅が1.75eVと大きいため、温度による効率低下は少ない。アモルファスシリコンを結晶シリコン等と積層することで、変換効率を単結晶シリコン並の20%前後にしつつ、温度係数を-0.2~-0.3%/℃程度(70℃においても1割程度の出力低下)に抑えることが出来、内外の企業によって実用化されている。
* [[ヒ化ガリウム|GaAs]](禁制帯幅1.4eV)では温度係数は-0.2~-0.3%/℃である。
* CIS系など一部の太陽電池では、ある程度温度が上がることで光や放射線による劣化がアニーリング効果によって回復する性質がある。
* [[人工衛星]]用など宇宙用の太陽電池モジュールでは、使用時の温度が-100℃~+120℃程度の範囲で軌道周回に伴って頻繁に変化するのに対応して、熱サイクルによる疲労などに配慮した製品が用いられる。
'''{{fontsize|large|アモルファスシリコンの光劣化}}'''
[[アモルファスシリコン]]は強い[[光]]の照射によって[[シリコン]]の[[ダングリングボンド]]が増加し、[[導電率]]が劣化する性質を持つ。これはステブラー・ロンスキー(Staebler-Wronski)効果と呼ばれ、欠陥密度の増加によって素子内での[[電荷担体|キャリア]]の移動を阻害し、太陽電池の性能の劣化を招く。これに対しては、下記のような対策が取られる。
* アモルファスシリコンの製膜工程を改良し、関連する不純物(水素、窒素など)の含有量を最適化する
* 光閉じ込めを利用して膜厚を薄くする。これによって空乏層内の電場が大きくなり、キャリアの移動が阻害されにくくなる。
* 多接合化して光の利用効率を高めると共に、個々の空乏層を薄くする。
* 紫外線が特に問題になる場合は、モジュールの保護層(ガラスやEVA樹脂)で遮断する。
こうした対策技術の開発により、現在は屋外用にも長寿命のものが実用化されている。
なお、光照射によって増加した欠陥密度は、光照射が続くと飽和する。また、熱が加わることで時間と共に減少する<ref>例えば{{harv|浜川||桑野|1994|p=167}}</ref>。一般に屋外用の製品においては、使用開始時に性能が数% - 10数%程度低下する現象(初期劣化)が見られるが、その後は安定する。カタログ性能値には初期劣化後の値が用いられる。
'''{{fontsize|large|薄膜太陽電池}}'''
従来の太陽電池が単結晶、多結晶、あるいはシリコンや化合物系半導体を問わずインゴットからワイヤソー等で切り出していたため、材料の無駄が少なくなかった。そのため、毛細管現象を利用して坩堝から帯状のシリコンを引き上げたりアモルファス半導体やCIS系半導体等の薄膜太陽電池の開発が行われてきた。近年では基板上に結晶を成長させて剥がす方法も実用化の域に達しつつある。従来は変換効率において従来の製法による物と比較して劣るものが少なくなかったが、近年はプロセスの改良により改善されつつある。
== ギャラリー ==
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Swansons-law ja.png
Photovoltaics cell production.svg
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== 関連項目 ==
* [[新エネルギー]]
* [[再生可能エネルギー]]
* [[太陽光]]
* [[太陽光発電]]
* [[太陽熱発電]]
* [[太陽熱温水器]]
* [[エネルギー変換効率]]
* [[電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法]] - '''RPS制度'''について
* [[ソーラーカー]]
* [[ソーラープレーン]]
* [[ソーラーアーク]] - [[パナソニック]](旧・[[三洋電機]])の太陽光発電施設。
* [[IEEEマイルストーン]]
* [[光触媒]]、[[本多-藤嶋効果]]
* [[酸化インジウムスズ#概要|透明導電膜]]
* [[反射防止膜]]
* [[プラズモニック太陽電池]]
* [[人工光合成]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[小長井誠]]「薄膜太陽電池の基礎と応用」ISBN 4-274-94263-5
* [[山田興一]]・[[小宮山宏]]「太陽光発電工学」ISBN 4-8222-8148-5
* [[浜川圭弘]]・[[桑野幸徳]]「太陽エネルギー工学」ISBN 4-563-03603-X
* {{Cite journal |和書 |author=[[小林正次]] |author2= |author3= |authorlink= |coauthors= |year=|date=1975年1月号 |month= |title=太陽エネルギー利用の新システム |journal=[[日経サイエンス|サイエンス]] |publisher=日経サイエンス社 |volume= |issue= |pages=18 |id= |url= |accessdate= |quote= }}
* エイモリー・B・ロビンス「スモール・イズ・プロフィタブル (Small is profitable) 」ISBN 4-87973-294-X
* 太陽電池に関する入門書 [[太和田喜久]]「太陽光が育くむ地球のエネルギー」ISBN 4872593030
* 太陽電池に関する専門書 [[岡本 博明]]・[[太和田 善久]]「薄膜シリコン系太陽電池の最新技術」ISBN 4781301347
{{Refbegin}}
*{{Cite book|和書|title=太陽エネルギー工学 : 太陽電池
|last=浜川 |first=圭弘 |last2=桑野|first2=幸徳 |editor=菅野卓雄 [ほか] 監修
|series=アドバンストエレクトロニクスシリーズ 1. エレクトロニクス材料・物性・デバイス 3 |publisher=培風館 |date=1994-05 |isbn=456303603X |ref=harv}}
{{refend}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Solar cells}}
; 解説サイト
* [https://unit.aist.go.jp/rpd-envene/PV/ja/about_pv/principle/index.html 太陽電池の原理] [[産業技術総合研究所]]太陽光発電研究センター
* [https://unit.aist.go.jp/rpd-envene/PV/ja/about_pv/types/groups2.html 太陽電池の分類] 産業技術総合研究所太陽光発電研究センター
* [http://www.kyocera.co.jp/solarexpo/ ソーラー・パワー・エキスポ](太陽電池を説明する京セラのパビリオンサイト)
* [http://kccn.konan-u.ac.jp/physics/semiconductor/top_frame.html 半導体 / 電子デバイス物理](甲南大学による半導体物性からの解説)
* {{PDFlink|[http://www.jsap.or.jp/apsp/oralhistory/QOBU090212.pdf]}} (太陽電池開発の歴史の回顧録)
; 関連団体
* [http://www.nedo.go.jp/ 新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)]
* [http://www.pvtec.or.jp 太陽光発電技術組合]
* [http://www.nrel.gov/ 米国エネルギー省再生可能エネルギー研究所 (National Renewable Energy Laboratory,NREL)]
* [http://www.solarbuzz.com/ Solarbuzz]
* [http://www.meetingassistant.com/PVSC/ Photovoltaic Specialists Conference (PVSC)]
* [http://www3.interscience.wiley.com/cgi-bin/jhome/5860 Progress in Photovoltaics: Research and Applications]
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紀元前509年
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紀元前509年(きげんぜんごひゃくきゅうねん)は、西暦(ローマ暦)による年。
当時、古代ローマにおいては、「ブルトゥスとコッラティヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降においてはローマ建国紀元245年とされた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前509年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前509年(きげんぜんごひゃくきゅうねん)は、西暦(ローマ暦)による年。 当時、古代ローマにおいては、「ブルトゥスとコッラティヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降においてはローマ建国紀元245年とされた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前509年と表記されるのが一般的となった。
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{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|7}} | 世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|5}} |
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'''紀元前509年'''(きげんぜんごひゃくきゅうねん)は、[[西暦]]([[ローマ暦]])による年。
当時、[[古代ローマ]]においては、「[[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]と[[ルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス|コッラティヌス]]が[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた。[[紀元前1世紀]]の[[共和政ローマ]]末期以降においては[[ローマ建国紀元]]245年とされた。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前509年と表記されるのが一般的となった。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[壬辰]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]152年
** [[懿徳天皇]]2年
* [[中国]]
** [[周]] - [[敬王]]11年
** [[魯]] - [[定公 (魯)|定公]]元年
** [[斉 (春秋)|斉]] - [[景公 (斉)|景公]]39年
** [[晋 (春秋)|晋]] - [[定公 (晋)|定公]]3年
** [[秦]] - [[哀公 (秦)|哀公]]28年
** [[楚 (春秋)|楚]] - [[昭王 (楚)|昭王]]7年
** [[宋 (春秋)|宋]] - [[景公 (宋)|景公]]8年
** [[衛]] - [[霊公 (衛)|霊公]]26年
** [[陳 (春秋)|陳]] - [[恵公 (陳)|恵公]]25年
** [[蔡]] - [[昭侯 (蔡)|昭侯]]10年
** [[曹 (春秋)|曹]] - [[隠公 (曹)|隠公]]元年
** [[鄭]] - [[献公 (鄭)|献公]]5年
** [[燕 (春秋)|燕]] - [[平公 (燕)|平公]]15年
** [[呉 (春秋)|呉]] - [[闔閭]]6年
* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]1825年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 36年
* [[ユダヤ暦]] : 3252年 - 3253年
{{Clear}}
== できごと ==
=== 共和政ローマ ===
* [[王政ローマ]]が打倒され、[[共和政ローマ|共和政]]が始まる。
* [[執政官]]の最初のふたりが選出される。
* 王位を追われた[[タルクィニウス・スペルブス|タルクィニウス]]の復位を画策した陰謀が発覚し、加担した者が処刑される。
* [[タルクィニウス・スペルブス|タルクィニウス]]が率いた[[ウェイイ]]や[[タルクイーニア|タルクイニイ]]の軍勢は、[[シルウァ・アルシアの戦い]] ([[:en:Battle of Silva Arsia|Battle of Silva Arsia]]) でローマ軍に敗れた。[[執政官]][[プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ]]は、共和政最初の大勝利を[[3月1日]]に祝った。
* [[9月13日]] - [[ローマ]]の[[カンピドリオ]]の丘の上に建設された[[ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿]]の奉献式が、満月の日に行なわれた。
* [[カルタゴ]]がローマとの相互不可侵条約に調印した<ref>{{Cite web|url=http://cnx.org/content/m17738/latest/|title=Africa: 600 to 501 B.C.|publisher=Rice University|accessdate=2014-04-25}}</ref>。
=== 中国 ===
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[魏舒]]が諸侯の大夫を狄泉に召集して、[[洛陽市|成周]]の城壁を修築させた。
* [[晋 (春秋)|晋]]の[[士弥牟]](士景伯)が[[宋 (春秋)|宋]]の仲幾を捕らえて京師に送った。
* [[魯]]の[[定公 (魯)|定公]]が即位。先王[[昭公 (魯)|昭公]]は、[[紀元前510年]]に[[斉 (春秋)|斉]]で没しており、[[紀元前517年]]に昭公が斉に逃れて以来の空位時代が終わった。
== 誕生 ==
{{see also|Category:紀元前509年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 死去 ==
{{see also|Category:紀元前509年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]] - [[共和政ローマ]][[執政官]]、共和政ローマの創設者
* [[ティトゥス・ユニウス・ブルトゥス]]、ティベリウス・ユニウス・ブルトゥス - [[ルキウス・ユニウス・ブルトゥス]]の息子たちであったが、彼らのおじにあたるウィテッリ家 (Vitellii) のふたりや、アクィリ家 (Aquillii) の3兄弟らとともに[[タルクィニウス・スペルブス|タルクィニウス]]の陰謀に加担したとして処刑された。
* [[アルンス・タルクィニウス (ローマ王タルクィニウスの子)|アルンス・タルクィニウス]] - 王政ローマ最後の王[[タルクィニウス・スペルブス|タルクィニウス]]の次男
* [[スプリウス・ルクレティウス・トリキピティヌス]] ([[:en:Spurius Lucretius Tricipitinus|Spurius Lucretius Tricipitinus]]) - [[共和政ローマ]]の予備執政官 (Consul suffectus)
* [[魏舒]] - [[晋 (春秋)|晋]]の[[武将]]、[[政治家]]。(生年不明)
== 脚注 ==
'''出典'''
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
{{Commonscat|509 BC}}
* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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備中国
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備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
飛鳥池遺跡木簡に「吉備道中国」、飛鳥藤原宮の木簡に「吉備中国」と表記されている。
明治維新の直前の領域は、岡山県井原市、総社市、高梁市、新見市、浅口市、都窪郡(早島町)、浅口郡(里庄町)、小田郡(矢掛町)の全域および岡山市の一部(北区のうち概ね納所、川入、東花尻、西花尻、平野、延友より南西および真星、上高田、山上、石妻、杉谷、日近、足守、下足守、高松稲荷、平山、立田、加茂より南西、南区大福・古新田・妹尾崎・山田・妹尾・箕島)、倉敷市の大部分(水島福崎町、水島東千鳥町、水島東常盤町、水島東栄町、水島東弥生町、水島東寿町、水島相生町、福田町浦田、浦田、黒石、粒浦、有城、藤戸町天城、藤戸町藤戸より南東を除く)、笠岡市の大部分(用之江の一部を除く)、真庭市の一部(阿口、五名、山田、宮地以南)、加賀郡吉備中央町の一部(豊野、田土、湯山、吉川、上野、竹部以西)にあたる。
北長瀬駅と庭瀬駅の間に、備前・備中の国境線が引かれていた。
7世紀後半に、吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。また平安時代の『和名類聚抄』でも、備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。
古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。律令制では上国とされた。 管下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡がおかれた。後に鎌倉時代のころ、賀陽郡の一部を割いて上房郡、下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。
備中国には山陽道の駅家は、津峴(つさか)、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれた(『延喜式』兵部)。
平安時代末には、妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代、備中国は細川氏が代々守護であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、1560年頃には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を本拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。しかし、その三村氏も1575年に織田信長の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年(1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。
倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。
幕府調査による人口は、文政5年(1822年)が33万7155人であった。明治政府の明治5年(1872年)の調査による人口は、39万6880人であった。
備中国府は、文献によると賀夜郡の所在と見える。総社市金井戸付近に国府・北国府・南国府・国府西などの字名が残ることから同地に推定されるが、具体的な所在地は不詳。伝承地は「伝備中国府跡」として総社市指定史跡に指定されている(北緯34度40分58.49秒 東経133度46分29.98秒 / 北緯34.6829139度 東経133.7749944度 / 34.6829139; 133.7749944 (伝備中国府跡))。
延喜式内社
総社・一宮以下
二宮以下はなし。ただし、皷神社(岡山市上高田)の社伝では同社を二宮とする。
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"text": "江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。元和3年(1617年)まで、幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。その後の江戸時代初期には隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、他の備中国の小藩には、備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。",
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"text": "倉敷は、城下町ではなかったが、徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。現在の倉敷市西部にあたる玉島は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。",
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"text": "備中国府は、文献によると賀夜郡の所在と見える。総社市金井戸付近に国府・北国府・南国府・国府西などの字名が残ることから同地に推定されるが、具体的な所在地は不詳。伝承地は「伝備中国府跡」として総社市指定史跡に指定されている(北緯34度40分58.49秒 東経133度46分29.98秒 / 北緯34.6829139度 東経133.7749944度 / 34.6829139; 133.7749944 (伝備中国府跡))。",
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備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 備中国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|備中国}}
|別称 = 備州(びしゅう)<ref group="注釈">別称「備州」は備前国・備中国・備後国の総称としての呼称。</ref>
|所属 = [[山陽道]]
|領域 = [[岡山県]]の西部
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[中国 (令制国)|中国]]
|郡 = 9郡72郷
|国府 = 岡山県[[総社市]]
|国分寺 = 岡山県総社市([[備中国分寺|備中国分寺跡]])
|国分尼寺 = 岡山県総社市([[備中国分尼寺跡]])
|一宮 = [[吉備津神社]](岡山県[[岡山市]])
}}
'''備中国'''(びっちゅうのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。
== 「備中」の名称 ==
飛鳥池遺跡木簡に「吉備道中国」、飛鳥藤原宮の木簡に「吉備中国」と表記されている。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は、[[岡山県]][[井原市]]、[[総社市]]、[[高梁市]]、[[新見市]]、[[浅口市]]、[[都窪郡]](早島町)、[[浅口郡]](里庄町)、[[小田郡]](矢掛町)の全域および[[岡山市]]の一部([[北区 (岡山市)|北区]]のうち概ね納所、川入、東花尻、西花尻、平野、延友より南西<ref group="注釈">[[吉備 (岡山市)|吉備地域]]。[[住居表示]]実施地区の境界については未詳。</ref>および真星、上高田、山上、石妻、杉谷、日近、足守、下足守、高松稲荷、平山、立田、加茂より南西<ref group="注釈">[[足守地域]]・[[高松地域 (岡山市)|高松地域]]。</ref>、[[南区 (岡山市)|南区]]大福・古新田・妹尾崎・山田・妹尾・箕島)、[[倉敷市]]の大部分(水島福崎町、水島東千鳥町、水島東常盤町、水島東栄町、水島東弥生町、水島東寿町、水島相生町、福田町浦田、浦田、黒石、粒浦、有城、藤戸町天城、藤戸町藤戸より南東を除く)、[[笠岡市]]の大部分(用之江の一部を除く)、[[真庭市]]の一部(阿口、五名、山田、宮地以南<ref group="注釈">旧・[[上房郡]][[北房町]]。</ref>)、[[加賀郡]][[吉備中央町]]の一部(豊野、田土、湯山、吉川、上野、竹部以西)にあたる。
[[北長瀬駅]]と[[庭瀬駅]]の間に、備前・備中の国境線が引かれていた。
== 沿革 ==
7世紀後半に、[[吉備国]]を[[備前国]]、備中国、[[備後国]]に三分して設けられた。はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、'''吉備道中国'''(きびのみちのなかつくに)と書いた[[木簡]]が見つかっている。また[[平安時代]]の『[[和名類聚抄]]』でも、備中国の和訓を「'''きびのみちのなかつくに'''」としている。
[[古代]]から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。[[造山古墳]]と[[作山古墳]]があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。その後も[[瀬戸内海]]に面した交通の要を占め、[[天智天皇]]の時代に[[鬼ノ城]]が築かれた。律令制では上国とされた。
管下に[[都宇郡|都宇]]、[[窪屋郡|窪屋]]、[[浅口郡|浅口]]、[[小田郡|小田]]、[[後月郡|後月]]、[[下道郡|下道]]、[[賀夜郡|賀夜]]、[[英賀郡|英賀]]、[[哲多郡|哲多]]の9郡がおかれた。後に鎌倉時代のころ、賀陽郡の一部を割いて[[上房郡|上房]]郡、下道郡の一部を割いて[[川上郡 (岡山県)|川上]]郡が置かれ11郡となった。
備中国には山陽道の[[駅家]]は、津峴(つさか)、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれた(『延喜式』兵部)。
平安時代末には、[[妹尾兼康]]という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。兼康は中央の政治では[[平家]]に忠実な家人として活躍し、最後は備中国板倉で[[源義仲]]に敗れて死んだ。
[[室町時代]]、備中国は[[細川氏]]が代々[[守護大名|守護]]であったが、その影響力は早くから絶対的とは言い難く、[[守護代]]、[[庄氏]]・[[石川氏]]・[[上野氏]]や[[三村氏]]を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]中期には、[[尼子氏]]・[[大内氏]]の係争地となっていたが、1560年頃には[[毛利氏]]と同盟した[[三村氏]]([[備中松山城]]を本拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。しかし、その三村氏も1575年に[[織田信長]]の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、毛利氏によって滅ぼされた([[備中兵乱]])。さらに[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]を先鋒に織田信長が進出してくると、備中国[[高松城 (備中国)|高松城]]が織田・毛利両軍の対峙の場になった。織田信長の死による講和で、[[毛利輝元]]は備中の三郡を譲り、残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、数多い知行地に分割領有された。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])まで、幕府は備中[[国奉行]]を派遣して広域統治にあたらせた。その後の江戸時代初期には隣接の[[備後福山藩]][[水野氏]]の領として現在の[[笠岡市]]や[[井原市]]の大半が領地であったりし、他の備中国の小[[藩]]には、[[備中松山藩]](池田氏、[[水谷氏]]を経て板倉氏)、[[成羽藩]](山崎氏)、[[岡田藩]](伊東氏)、[[足守藩]](木下氏)、[[庭瀬藩]](戸川氏、後に板倉氏)、[[浅尾藩]](蒔田氏)があった。以上は断絶や転封で様々に変遷した。現在の[[高梁市]]にある[[松山城 (備中国)|松山城]]が備中国唯一の城で、残りは[[陣屋]]を構えた。松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口規模を抱えた。
[[倉敷市|倉敷]]は、城下町ではなかったが、[[徳川氏]]政権の直轄地として代官所が置かれ、幕府によって[[備前国]]から[[讃岐国]]に移管された[[小豆島]]なども統治した。江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、松山と肩を並べ、やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。現在の倉敷市西部にあたる[[玉島地域|玉島]]は、瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。また、製鉄もなお重要であり続けた。
[[徳川幕府|幕府]]調査による人口は、[[文政]]5年([[1822年]])が33万7155人であった。明治政府の[[壬申戸籍|明治5年(1872年)の調査]]による人口は、39万6880人であった。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(584村・384,279石)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。特記以外の幕府領は[[倉敷代官所]]が管轄。
** [[都宇郡]](52村・35,935石余) - [[天領|幕府領]]、[[地方知行|旗本領]]、岡山新田藩(生坂)、庭瀬藩
** [[窪屋郡]](60村・44,857石余) - 幕府領、旗本領、'''[[生坂藩|岡山新田藩]]'''(生坂)、岡山新田藩(鴨方)、浅尾藩、[[備前国|備前]][[岡山藩]]
** [[小田郡]](78村・37,687石余) - 幕府領、旗本領、[[一橋徳川家]]領、庭瀬藩、新見藩、岡山新田藩(鴨方)、[[摂津国|摂津]][[麻田藩]]
** [[阿賀郡]](48村・33,232石余) - 幕府領、旗本領、'''[[新見藩]]'''、松山藩、[[伊勢亀山藩]]
** [[後月郡]](39村・18,432石余) - 幕府領(一部は[[大森代官所]]が管轄)、旗本領、一橋徳川家領、摂津麻田藩
** [[浅口郡]](63村・58,447石余) - 幕府領、旗本領、'''[[鴨方藩|岡山新田藩]]'''(鴨方)、浅尾藩、新見藩、松山藩、[[丹波亀山藩]]、摂津麻田藩、備前岡山藩
** [[賀陽郡]](82村・50,551石余) - 幕府領、旗本領、'''[[足守藩]]'''、'''[[庭瀬藩]]'''、'''[[浅尾藩]]'''、松山藩、備前岡山藩
** [[下道郡]](29村・26,253石余) - '''[[岡田藩]]'''、松山藩、備前岡山藩
** [[上房郡]](32村・24,735石余) - 一橋徳川家領、'''[[備中松山藩|松山藩]]'''、伊勢亀山藩
** [[哲多郡]](34村・22,949石余) - 幕府領、松山藩、新見藩
** [[川上郡 (岡山県)|川上郡]](67村・31,196石余) - 幕府領(一部は大森代官所が管轄)、旗本領、松山藩、[[備後福山藩]]
* [[慶応]]4年
** [[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1868年]][[7月5日]]) - 幕府領が'''[[倉敷県]]'''の管轄となる。
** [[6月20日 (旧暦)|6月20日]](1868年[[8月8日]]) - 川上郡・浅口郡の[[交代寄合]]山崎氏が立藩して'''[[成羽藩]]'''となる。
* 明治元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1869年]][[1月19日]]) - 松山藩が[[戊辰戦争]]後の処分により[[減封]]。浅口郡・哲多郡・阿賀郡の全領地、賀陽郡・上房郡・川上郡の一部の領地が倉敷県の管轄となる。
* 明治2年
** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1869年]][[7月27日]]) - 丹波亀山藩が改称して'''[[亀岡藩]]'''となる。
** [[6月25日 (旧暦)|6月25日]](1869年[[8月2日]]) - 岡山新田藩(鴨方)が改称して'''[[鴨方藩]]'''となる。
** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1869年[[12月4日]]) - 松山藩が改称して'''[[高梁藩]]'''となる。
* 明治3年
** [[1月12日 (旧暦)|1月12日]]([[1870年]][[2月12日]]) - 岡山新田藩(生坂)が改称して'''[[生坂藩]]'''となる。
** 領地替えにより、都宇郡・賀陽郡の幕府領・旗本領、窪屋郡の旗本領の各一部が足守藩領となる。
** この年までに旗本領・一橋徳川家領が倉敷県の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[生坂県]]'''、'''[[鴨方県]]'''、'''[[浅尾県]]'''、'''[[足守県]]'''、'''[[庭瀬県]]'''、'''[[浅尾県]]'''、'''[[高梁県]]'''、'''[[成羽県]]'''、'''[[新見県]]'''および[[岡山県]]、[[亀山県]]、[[備後福山藩|福山県]]、[[亀岡県]]、[[麻田県]]の飛地となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''[[深津県]]'''の管轄となる。
* 明治5年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1872年]][[7月10日]]) - '''[[小田県]]'''の管轄となる。
* 明治8年([[1875年]])[[12月20日]] - 第2次府県統合により'''[[岡山県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
[[File:Bitchu Kokufu-ato, sekihi.jpg|thumb|220px|right|{{center|伝備中国府跡([[岡山県]][[総社市]])}}]]
備中[[国府]]は、文献によると[[賀夜郡]]の所在と見える。[[総社市]]金井戸付近に国府・北国府・南国府・国府西などの字名が残ることから同地に推定されるが、具体的な所在地は不詳<ref name="一宮制" />。伝承地は「伝備中国府跡」として総社市指定史跡に指定されている({{Coord|34|40|58.49|N|133|46|29.98|E|region:JP-33_type:landmark|name=伝備中国府跡}})。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[File:Bitchu Kokubunji, zenkei.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[備中国分寺]](岡山県総社市)}}]]
* [[備中国分寺|備中国分寺跡]](総社市上林、{{Coord|34|39|59.08|N|133|46|55.77|E|region:JP-33_type:landmark|name=備中国分寺}})
*: 国の史跡。国府推定地の南方2キロメートルに位置する。寺域は東西160メートル・南北180メートルで、金堂・塔・講堂・中門・南門といった主要伽藍の遺構が見つかっている。中世に廃寺になったが、[[江戸時代]]に古代国分寺跡に重複して[[備中国分寺|日照山總持院国分寺]]が再建され、法燈を伝承する。
* [[備中国分尼寺跡]](総社市上林字皇塚、{{Coord|34|40|2.15|N|133|47|18.1|E|region:JP-33_type:landmark|name=備中国分尼寺跡}})
*: 国の史跡。僧寺の東方に位置する。寺域は東西108メートル・南北216メートルで、金堂・講堂・中門・南門といった主要伽藍の遺構が見つかっている。僧寺より早く廃絶したと見られる。
=== 神社 ===
'''[[延喜式内社]]'''
: 『[[延喜式神名帳]]』には、大社1座1社・小社17座17社の計18座18社が記載されている(「[[備中国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すもので、[[名神大社]]である。
* [[賀夜郡]] 吉備津神社
** 比定社:[[吉備津神社]]([[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]][[吉備津]])
[[File:Kibitsu Jinja 10 cropped.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[吉備津神社]](岡山県[[岡山市]])}}]]
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 472-474。</ref>。
* 総社:[[備中国総社宮]](総社市総社2丁目、{{Coord|34|40|34.2|N|133|45|16.3|E|region:JP-33_type:landmark|name=備中国総社:備中国総社宮}})
* 一宮:[[吉備津神社]](岡山市北区吉備津、{{Coord|34|40|14.4|N|133|51|02.2|E|region:JP-33_type:landmark|name=備中国一宮、名神大社:吉備津神社}})
二宮以下はなし<ref name="一宮制" />。ただし、[[皷神社]](岡山市上高田)の社伝では同社を二宮とする<ref>[https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/18517/ 皷神社](岡山県神社庁)。</ref>。
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[都宇郡]](津宇郡)
*[[窪屋郡]]
*[[賀陽郡]](賀夜郡)
**[[上房郡]] - 上記より分立
*[[下道郡]]
**[[川上郡 (岡山県)|川上郡]] - 上記より分立
*[[浅口郡]]
*[[小田郡]](小多郡)
*[[後月郡]]
*[[哲多郡]]
*[[阿賀郡]](英賀郡)
=== 江戸時代の藩 ===
* [[新見藩]]、[[関氏#美濃関氏|関家]](1.8万石)
* [[備中松山藩]]、[[池田氏#美濃池田家|池田家]](6.5万石)→[[水谷氏|水谷家]](5万石)→[[三河安藤氏#重信系|安藤家]](6.5万石)→[[石川氏#三河石川氏|石川家]](6万石)→[[板倉氏|板倉家]](5万石→2万石)
* [[成羽藩]]、[[山崎家治|山崎家]](3万石)→[[水谷氏|水谷家]](5万石)→旗本山崎家(5千石)
* [[浅尾藩]]、蒔田家(1万石→8,310石→7,700石→1万石)
* [[足守藩]]、[[木下氏#足守木下家|木下家]](2.5万石)→[[浅野氏|浅野家]](2.4万石)→木下家(2.5万石)
* [[岡田藩]]、[[河津氏#尾張伊東氏(備中岡田藩主家)|伊東家]](10,343石)
* [[庭瀬藩]]、[[戸川氏|戸川家]](2.9万石→2.25万石→2.1万石→2万石)→[[久世氏|久世家]](5万石)→[[藤井松平家]](3万石)→[[板倉氏|板倉家]](2万石)
* [[岡山藩#生坂藩領|生坂藩]](岡山藩支藩、1.5万石)
* [[岡山藩#鴨方藩領|鴨方藩]](岡山藩支藩、2.5万石)
* [[赤穂藩#西江原藩|西江原藩]]、[[森氏#豊臣氏 - 江戸幕府にかけての美濃森氏|森家]](2万石)→[[赤穂藩]]へ転封
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 備中守 ====
*[[市原王]]
*[[藤原魚名]]:[[天平宝字]]2年([[758年]])任官
*[[藤原縄麻呂]]:天平宝字3年([[759年]])任官
*[[道守王]]:天平宝字7年([[763年]])任官
*[[日置道形]]:780年頃任官
*[[藤原園人]]:[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])任官
*[[紀深江]]:835年頃
*[[春澄善縄]]:[[承和 (日本)|承和]]15年([[848年]])任官
*[[源多]]:[[仁寿]]3年([[853年]])頃任官
*[[源融]]:[[斉衡]]4年([[857年]])任官
*[[源舒]]:[[貞観 (日本)|貞観]]6年([[864年]])任官(権守)
*[[藤原保則]]:[[貞観 (日本)|貞観]]8年([[866年]])任官(権守)、後に守
*[[源直]]:貞観19年正月15日([[877年]][[2月1日]])任官
*[[藤原有実]]:[[昌泰]]2年([[899年]])任官
*[[在原友子]]:[[延喜]]元年([[901年]])任官
*[[三善清行]]:延喜6年([[906年]])任官
*[[藤原在衡]]:[[天慶]]5年([[942年]])任官
*[[藤原朝忠]]:[[天徳 (日本)|天徳]]2年([[958年]])任官
*[[小野好古]]:天徳4年([[960年]])任官
*[[源重信]]:[[応和]]元年([[961年]])任官
*[[藤原伊尹]]:応和3年([[963年]])任官
*[[藤原陳政]]:[[正暦]]3年([[992年]])任官
*[[源経房]]:[[長徳]]3年([[997年]])任官
*[[源成信]]:[[長保]]3年([[1001年]])任官
*[[藤原忠輔]]:長保4年([[1002年]])任官
*[[藤原兼隆]]:[[寛弘]]6年([[1009年]])任官
*[[橘儀懐]]:寛弘8年([[1011年]])任官
*[[藤原頼宗]]:[[長和]]3年([[1014年]])任官
*[[藤原知光]]:長和4年([[1015年]])任官
*[[藤原済家]]:[[治安 (元号)|治安]]元年([[1021年]])任官
*[[源行任]]:治安3年([[1023年]])任官
*[[藤原邦恒]]:[[万寿]]4年([[1027年]])任官
*[[源資綱]]:[[長元]]7年([[1034年]])任官
*[[藤原兼房 (中宮亮)|藤原兼房]]:長元8年([[1035年]])任官
*[[藤原師成]]:[[寛徳]]2年([[1045年]])任官
**[[藤原経家 (権中納言)|藤原経家]]:[[天喜]]2年([[1054年]])任官(権守)
*[[藤原憲輔]]:[[康平]]2年([[1059年]])任官
*[[藤原実政]]:[[延久]]元年([[1069年]])任官
*[[藤原仲実]]:[[永保]]元年([[1081年]])任官
**[[源雅俊]]:[[寛治]]6年([[1092年]])任官(権守)
**[[源師頼]]:[[長治]]元年([[1104年]])任官(権守)
*[[藤原重通 (大納言)|藤原重通]]:[[永久 (元号)|永久]]2年([[1114年]])任官
**[[源師時]]:[[保安 (元号)|保安]]4年([[1123年]])任官(権守)
*[[藤原親信]]:1150年頃
*[[平師盛]]:[[治承]]3年([[1179年]])任官
**[[平経盛]]:[[養和]]2年([[1182年]])任官(権守)
*陶山清直 : [[正慶]]2年 任官<ref group="注釈">反幕府の赤松勢を撃破した戦功。光厳天皇による臨時宣下で河野九郎通治が対馬守に任ぜられたのと同時任官。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>
*秋庭氏 : [[観応]]3年(1352年)頃<ref group="注釈">重明か。守護・国司兼帯。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>
*多治部師景 : [[貞治]]3年(1364年)~[[永和 (日本)|永和]]元年(1374年)頃<ref group="注釈">南朝による任官と推定されている。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>
*陶山氏 : 嘉慶元年(1387~88)頃<ref>田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>
*楢崎氏 : 文明11年(1479年)頃<ref group="注釈">室町幕府御教書。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>
*新見氏 : 明応2年(1493年)、大永7年(1527年)
==== 備中介 ====
*[[百済河成]]:[[承和 (日本)|承和]]年間任官
*[[藤原長房]]:[[康平]]3年2月21日([[1060年]][[3月25日]])任官
**源雅俊:[[承暦]]3年([[1079年]])任官(権介)
**源師頼:[[応徳]]4年([[1087年]])任官(権介)、[[嘉保]]2年([[1095年]])任官。
**源師時:[[康和]]5年([[1103年]])任官(権介)
*[[源雅定]]:[[永久 (元号)|永久]]4年([[1116年]]任官)
*[[藤原為通]]:[[保延]]3年([[1137年]])任官
==== 備中掾 ====
*[[平致頼]]
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1184年~? - [[土肥実平]]
*1276年~1279年 - 北条氏
==== 室町幕府 ====
*1343年~1351年 - [[南宗継]]
*1352年~1355年 - 秋庭氏
*1356年~1362年 - [[細川頼之]]
*1362年~? - [[高師秀]]
*1364年~1365年 - [[宮兼信]](備後国吉備津神社社家)
*1365年~1375年 - [[渋川義行]]
*1375年~1393年 - [[渋川満頼]]
*?~1381年 - 石堂氏
*1390年~1392年 - 細川頼之
*1392年~1405年 - [[細川満之]]
*1405年~1430年 - [[細川頼重]]
*1430年~1460年 - [[細川氏久]]
*1460年~1493年 - [[細川勝久]]
*1511年~1512年 - [[細川之持]]
*1515年~1518年 - [[細川政春]]
*1552年~1561年 - [[尼子晴久]]
*1562年~1563年 - [[毛利隆元]]
=== 国人 ===
;英賀郡
* [[多治部氏]] - 多治部郷。備中守。[[山名氏]]・[[尼子氏]]ら山陰の勢力と協力。
* [[楢崎氏]] - 備中守。鳶巣山城主。備後楢崎氏はこの氏族の派生と見られる。<ref>[https://matinoneko.hatenadiary.org/entries/2011/06/27 田口義之『備後の武将と山城(WEB版)』 - 戦国山城の典型、備後楢崎氏の居城「朝山二子城」]</ref>
* [[伊達氏]] - 甲籠城主。
;哲多郡
* [[新見氏]] - [[新見荘]]の地頭。備中守。
* [[石蟹氏]] - 石蟹郷の国人。備中三村氏の庶流と言われる。
;上房郡
* [[秋庭氏]] - 有漢郷。守護・備中守を務め、細川京兆家内衆へ。
;川上郡
* [[三村氏]] - 常陸国から信濃を経て備中に来た西遷御家人。家親の代に戦国大名化。
* [[赤木氏]] - 新補地頭。三村氏同様に信濃から移住。
;賀夜郡
* [[野山氏]] - 本姓伊達氏。
;小田郡
* [[庄氏]] - 備中細川氏守護代。強大な勢力を誇り守護細川氏に反乱。
* [[小田氏]] - 小田郷
;都宇郡
* [[石川氏]] - 庄氏と並んで備中細川氏守護代。
* [[清水氏]] - [[清水宗治]]が著名。
;後月郡
* [[伊勢氏]] - 荏原荘。伊勢盛時([[北条早雲]])がこの氏族から誕生。
* [[那須氏]] - 荏原荘。那須与一の後裔。供養墓ながら墓も存在。<ref>[http://www.ibarakankou.jp/data/DB022/DB022.html 那須与一の墓:歴史・文化:史跡・名勝:観光情報:「井原市観光協会」公式サイト]</ref>
;下道郡
* [[上野氏#備中上野氏|上野氏]] - 足利氏族で幕臣。十代将軍[[足利義稙|義稙]]の命で下向。下道郡下原郷鬼邑山城と松山城を支配した。
;浅口郡
* [[中島氏]] - 片島。幕臣二階堂氏族。十代将軍義稙の命で下向。
* [[陶山氏]] - 備中守。室町幕府奉公衆。
=== 戦国大名 ===
* [[三村氏]] - 家親が備中を制覇し、備前・美作にも進出したが暗殺され、子元親は織田政権と結んで毛利氏に反し、滅ぼされた。
* [[宇喜多氏]] - 三村氏と抗争しつつ備前から進出。
* [[尼子氏]] - 庄氏と結び備中を支配下においたが、三村氏に追われた。
* [[毛利氏]] - [[備中兵乱]]で三村氏を滅ぼし直接支配下に置いた。
=== 織豊大名 ===
* 毛利輝元 - [[中国国分]]により、高梁川以西を領知。
* 宇喜多秀家 - 中国国分により、高梁川以東を領知。
* [[伊東長実]] - 小田原征伐の功により天正19年(1591年)に川辺1万300石を与えられる。子孫は同地にて岡田藩主として続く。
=== 武家官位としての備中守 ===
==== 江戸時代以前 ====
*[[熊谷直国]]:[[鎌倉幕府]]御家人。[[平家物語]]で有名な[[熊谷直実]]の孫
*[[佐々木頼綱]](六角頼綱):鎌倉幕府御家人、[[近江国|近江]]守護
*[[六角満高]]:南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。近江守護
*陶山氏 : 任官の後、世襲官途。陶山備中入道(『文安年中御番帳』)など。
*多治部氏 : 南朝による任官の後、世襲官途
*楢崎氏 : 任官の後、世襲官途。任官直前まで備前守を世襲官途としていた<ref>田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年 84頁</ref>。
*石川通経 : 享禄3年(1530年)
*庄為資 : 天文2年(1533年)
*庄高資 : 元亀元年(1570年)
*三村家親 : 元亀2年(1571年)
*[[伊勢氏]] : 惣領家と備中伊勢氏双方。貞國が初例。盛貞・貞藤・貞達・貞陸など。世襲官途<ref group="注釈">「其はじめ一たび此國に任ぜられしより、遂に空名ながら代々の通称」として世襲した。田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年</ref>。
*[[伊勢盛定]]:[[室町幕府]]将軍申次。[[北条早雲]]の父
*[[太田資清]]:[[相模国|相模]]守護代、太田道灌の父
*[[太田道灌]]:扇谷上杉家の家宰。[[江戸城]]を築城
*[[小山田虎満]](小山田備中守):甲斐武田家の家臣
*[[塙直政]]:天正3年([[1575年]])任官。織田氏の家臣
*[[片倉景綱]](片倉小十郎):[[伊達政宗]]の軍師
*安芸毛利氏当主
**[[毛利親衡]]:南北朝時代の武将
**[[毛利元春]]:親衡の子
**[[毛利煕元]]:室町時代の武将
**[[毛利隆元]]:[[毛利元就]]の長男
==== 江戸時代 ====
*[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]]宗家
**[[阿部正次]]:宗家初代。[[武蔵国|武蔵]][[鳩ヶ谷藩]]、[[上総国|上総]][[大多喜藩]]、相模[[小田原藩]]、武蔵[[岩槻藩]]初代藩主
**[[阿部定高]]:宗家3代。岩槻藩第3代藩主
**[[阿部正邦]]:宗家5代。岩槻藩5代藩主、[[丹後国|丹後]][[宮津藩]]、[[下野国|下野]][[宇都宮藩]]、[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]初代藩主
**[[阿部正倫]]:宗家8代。福山藩第4代藩主
**[[阿部正精]]:宗家9代。福山藩第5代藩主・老中
*[[遠江国|遠江]][[掛川藩]][[太田氏|太田家]]
**[[太田資宗]]:太田家初代。[[下野国|下野]][[下野山川藩|山川藩]]、[[三河国|三河]][[西尾藩]]、遠江[[浜松藩]]初代藩主。太田道灌の子孫
**[[太田資直]]:太田家3代。[[駿河国|駿河]][[田中藩]]初代藩主
**[[太田資晴]]:太田家4代。田中藩第2代藩主、[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]、[[上野国|上野]][[館林藩]]主
**[[太田資愛]]:太田家6代。遠江掛川藩第2代藩主・老中
**[[太田資始]]:太田家9代。掛川藩第5代藩主・老中
**[[太田資功]]:太田家10代。掛川藩第6代藩主
**[[太田資美]]:太田家11代。掛川藩第7代藩主、上総[[松尾藩]]主
*上総[[一宮藩]][[加納氏|加納家]]
**[[加納久周]]:加納家3代。[[伊勢国|伊勢]][[八田藩]]第3代藩主
**[[加納久儔]]:加納家5代。八田藩第5代藩主、上総[[一宮藩]]初代藩主
**[[加納久徴]]:加納家6代。一宮藩の第2代藩主
*[[近江小室藩]][[小堀氏|小堀家]]
**[[小堀正之]]:第2代藩主。茶人[[小堀政一|小堀遠州]]の子
**[[小堀政峯]]:第5代藩主
**[[小堀政方]]:第6代藩主
*伊勢[[菰野藩]][[土方氏|土方家]]
**[[土方雄豊]]:第3代藩主
**[[土方雄端]]:第6代藩主
**[[土方雄嘉]]:第11代藩主
*上総[[大多喜藩]][[大河内氏|大河内松平家]]本家
**[[松平正貞]]:本家4代。第2代藩主
**[[松平正路]]:本家7代。第5代藩主
**[[松平正義]]:本家9代。第7代藩主
**[[松平正和]]:本家10代。の第8代藩主
*[[和泉国|和泉]][[伯太藩]][[渡辺氏|渡辺家]]
**[[渡辺基綱]]:渡辺家3代。武蔵[[野本藩]]第3代藩主、和泉[[大庭寺藩]]主、和泉[[伯太藩]]初代藩主
**[[渡辺潔綱]]:渡辺家10代。伯太藩第8代藩主。
**[[渡辺章綱]]:渡辺家11代。伯太藩第9代藩主。
*その他
**[[井伊直禔]]:近江[[彦根藩]]第10代藩主
**[[池田長吉]]:[[因幡国|因幡]][[鳥取藩]]初代藩主
**[[池田長幸]]:鳥取藩第2代藩主、備中[[備中松山藩|松山藩]]初代藩主
**[[板倉勝行]]:陸奥[[福島藩]]第6代藩主
**[[京極高富]]:丹後[[峰山藩]]第11代藩主
**[[京極高陳]]:峰山藩第12代藩主
**[[酒井忠解]]:[[出羽国|出羽]][[庄内藩#大山藩|大山藩]]初代藩主
**[[佐久間勝豊]]:[[信濃国|信濃]][[長沼藩]]3代藩主
**[[堀田正俊]]:正俊系堀田家初代。上野[[安中藩]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]初代藩主・老中・大老
**[[堀田正睦]]:正俊系堀田家9代。下総[[佐倉藩]]第5代藩主・老中首座
**[[牧野貞長]]:成貞系牧野家5代。[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]第2代藩主・老中
**[[牧野貞喜]]:成貞系牧野家6代。笠間藩第3代藩主
**[[増山正同]]:伊勢[[長島藩]]第8代藩主
**[[松平定静]]:[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]8代藩主
**[[松平直堅]]:[[越後国|越後]][[糸魚川藩]]祖
**[[松平康員]]:[[石見国|石見]][[浜田藩]]第3代藩主
**[[三宅康和]]:三河[[田原藩]]第9代藩主
== 備中国の合戦 ==
*[[1183年]]:[[水島の戦い]]、[[源義仲]]軍([[源義清 (矢田判官代)|源義清]]) x [[平家]]軍([[平重衡]]・[[平通盛]])
*[[1574年]] - [[1575年]]:[[備中兵乱]]、毛利・宇喜多軍([[小早川隆景]]、[[宇喜多直家]]) x [[三村元親]]
*[[1582年]]:[[備中高松城の戦い]]、織田軍([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]) x 毛利軍([[清水宗治]])
== 産物 ==
* [[弁柄]] - 宝永4年(1707年)、全国ではじめて[[吹屋]]で生産され、大正時代まで繁栄。
* [[備中石]] - 古名である[[岡山県]]で発見された[[鉱物]]。
== 脚注 ==
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===注釈===
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===出典===
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== 参考文献 ==
* [[藤井学]]・[[狩野久]]・竹林榮一・倉知克直・前田昌義『岡山県の歴史』、(県史33)[[山川出版社]]、2000年。
* [[田中修實]] 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』法制史研究 (39), p61-89 1989年
*『国税調査以前日本人口統計集成』第1巻および別巻1、[[内務省 (日本)|内務省]]編纂、速水融復刻解題、[[東洋書林]]、1992年
* [[角川日本地名大辞典]] 34 [[広島県]]
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
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* [[令制国一覧]]
* [[備州]]
* [[備中地域]]
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駆逐戦車
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駆逐戦車(くちくせんしゃ)は、戦車および対戦車車両の一種であり、敵戦車の撃破を目的とした装甲戦闘車両である。発祥地のドイツ語からJagdpanzerヤークトパンツァーと呼ばれ、英語圏でも呼称として定着した。
駆逐戦車は、一般的に防衛戦に投入されることが多く、機動性を生かして攻撃的に運用する戦車とはその役割が異なる。類似の存在に突撃砲、砲戦車、対戦車自走砲、などがあるが、特に戦車部隊が運用する対戦車車両の場合にそう呼称される。
駆逐戦車の車体は、多くが既存戦車の流用である。戦車から砲塔を撤去し、代わりに固定式戦闘室に変更されている。無砲塔構造は砲塔内容量、旋廻リング荷重制限などを受けないので、流用元の戦車に比べ、より重くてかさばる、つまり大型・大口径・長砲身で威力の高い砲が搭載可能である。
反面、射線を変えるためには車輌自体を旋回させねばならず、状況に即応した行動をとることが難しい。このような性質から、駆逐戦車は攻勢戦闘よりも、あらかじめ射界を計算した陣地防御や、待ち伏せ戦闘に適している。
通常、駆逐戦車の備砲は、高初速で装甲貫徹力の高い対戦車砲あるいは高射砲である。しかし、大口径榴弾砲類を搭載した自走榴弾砲も、駆逐戦車と同様に対戦車戦闘に使用される場合がある。
榴弾砲は装甲貫通力は低いが、着弾時の衝撃により敵戦車の装甲を引き裂いたり、装甲内壁を剥離させ、破片により搭乗員を死傷させることで、敵戦車の戦闘能力を奪うことができた。これは現代のHESH(HEP)弾と同じような効果である。そのため、自走榴弾砲が対戦車兵力の一翼を担うことは少なくなかった。通常は間接砲撃任務ながらも、不意の対戦車戦闘に備え、HEAT弾を搭載していた物もあった。また、特にソ連軍の場合、重砲であっても直接照準器が備えられていた。
対戦車車両と駆逐戦車の両者はしばしば混同されるが、対戦車車両は戦車に対抗するための車両全般を表す言葉であるのに対して、駆逐戦車は一般に、固定式戦闘室に対戦車砲を装備した重装甲の対戦車自走砲を表す。そのため、軽装甲あるいは非装甲の対戦車ミサイル車両などは駆逐戦車に分類されることはない。ただし例外として、RJPz.2やヤグアルなど、駆逐戦車のミサイル搭載型として開発・改装されたミサイル式対戦車車両の一部が駆逐戦車に分類された例がある。
駆逐戦車は、対戦車自走砲の一種に含めることもできるが、一般的な対戦車自走砲と駆逐戦車の顕著な違いは防御力にある。通常の対戦車自走砲は多くは開放天蓋式の戦闘室で軽装甲であり、きわめて限定的な防御力しか持たない。対して駆逐戦車は重装甲を施され、敵戦車の砲撃にも対抗可能な防御力を有しているのが違いである。
砲兵科に類似した形態を有する車両があるが、これは突撃砲と呼ばれるものである。これは歩兵に対する火力支援を本来の任務とした車両であったが、第二次世界大戦の始まる前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から任務の一つに対戦車戦闘が付与されており、駆逐戦車との差は明確ではない。
駆逐戦車と突撃砲の区別については多分に兵科間の縄張り争いの一面を持ち、実態としては両者の相違は曖昧なものであった。事実、エレファントやヤークトパンターなどの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。もっとも突撃砲の照準器は野戦砲に準じた物であり、駆逐戦車の照準器は戦車用の移動目標に対する狙いが付けやすい物を装備している。ドイツ軍は慢性的な戦車不足だったため、しばしば駆逐戦車・突撃砲とも戦車の代用として部隊に配属された。
ドイツでは第一次世界大戦における苦い経験から早くから対戦車部隊の必要性が論じられていた。1935年にヴェルサイユ条約軍備制限条項を廃棄した後、Panzerjägertruppe(戦車猟兵科)を独立兵科として設け、対戦車砲部隊(Panzerabwehrkanonen-Einheiten)、戦車猟兵部隊(Panzerjäger-Einheiten)、戦車駆逐部隊(Panzerzerstörer-Einheiten)とその名称は変遷した。戦車猟兵部隊の戦闘車両は逐語訳で「戦車を狩する車輌」を意味する Panzerjäger、あるいは後に Jagdpanzer と呼ばれるようになった。
ソ連赤軍においては駆逐戦車や突撃砲に相当する分類はなく、"旋回する砲塔を持たない戦闘車輌"は、主任務が対戦車戦闘であれ、歩兵近接支援であれ単に"SU"(自走砲を意味する略語)と呼ばれ、自走砲部隊に配属された。
ソ連軍のSUはドイツ軍の突撃砲に影響を受けた、重防御で最前線に火砲を持ち込むことを目的とした車両群があり、以下のような車両が対戦車砲を搭載して、駆逐戦車的に運用された。
ソ連軍は歩兵支援に大口径砲を使うことが多く、ドイツ軍の突撃砲の用法を真似つつ、突撃砲よりも大口径の砲を搭載した以下のような車両を作り出し、その大口径の威力で、対戦車戦闘でも活躍することがあった。
アメリカ軍は、戦前に行われた演習によって「敵戦車集団の攻撃を司令部直轄の対戦車部隊による機動的な側面攻撃によって阻止する」という騎兵隊の流れを汲むドクトリンを採用し、専門の独立部隊として戦車駆逐大隊(Tank Destroyer Battalion)を編成した。同隊に配備された車両はGMC(Gun Motor Carriage)と呼ばれ、直訳では「エンジンつき砲運搬車」である。文字どおり砲を車両に搭載したもので、一種の自走砲であった。
砲搭載自動貨車・砲搭載半装軌車・砲塔を装備し戦車型の車体を使用する全装軌車・砲室と装甲を有する全装軌車(この型は外見から「駆逐戦車」と呼ばれることが多い。戦車と異なり、砲塔には天蓋部分がなかった)がここに含まれる。
ドクトリンに従えば戦車駆逐大隊は戦略予備兵力として戦線後方で待機し、敵機甲集団の出現に応じて前線に急行することとなっていた。機甲部隊の高度な運動に追随し、待ち伏せに適した地形に占位するためにも戦車駆逐車の設計においては機動力が優先されており、また、待ち伏せにおける観測や操砲などの点で有利となるように上部が開放されていた。火力について1944年末に90mm砲を装備したM36 GMCが前線に到着し、ドイツ軍の装甲車両のうち特に重装甲の車両についても一応は対応可能になった。
しかし結局、戦車と大差ない装軌車両に戦車と大差ない砲を装備した戦車駆逐車は、機動力・火力・射程のすべてにおいて、ドクトリンが必要としていた敵戦車に対する圧倒的優位を得られなかった。
実戦において戦車駆逐大隊は当初のドクトリンと異なった配備・運用がなされるようになり、戦車駆逐車部隊を戦車師団に分散配置する事がなかば正規の編成となった。また、歩兵支援部隊として通常の戦車同様に最前線に出ることを命じられるようにもなり、このような運用下においては機動性重視で防御力が不足していた戦車駆逐車の特徴はマイナスに働いた。
戦争末期には高い対戦車能力を持つ戦車が出現したことで専門の対戦車部隊を持つ意義は薄れつつあり、戦後の急速な軍の規模縮小もあって戦車駆逐大隊は短期間で姿を消すこととなった。そして同時に戦車駆逐車の系譜も途絶えることとなった。
今日、戦車駆逐車のドクトリンは、戦車より圧倒的に優速・高機動で、戦車砲を越える長射程の対戦車ミサイルを装備し、そして軽装甲車両に準じる防御を施した攻撃ヘリコプターに引き継がれている。
以下にアメリカ軍が運用した戦車駆逐車を挙げる。
イギリス軍において当項目で解説している“駆逐戦車(Tank destroyer)”の範疇に入る車輌には「戦車(Tank)」「自走砲架(SPM. Self-Propelled Mount)」「砲運搬車(Gun Carrier)」「重突撃戦車(heavy assault tank)」「(戦車の)重対戦車砲型(**-Heavy Anti-tank)」といった多種の名称が与えられており、公式に"Tank destroyer"とされていたものは、後述のチャリオティアが短い期間そのように呼称されていたのみである。
イギリス軍では対戦車砲は砲兵部隊の管轄であって機甲部隊の管轄ではなかったため、対戦車戦闘はまずは砲兵科に所属する対戦車部隊によって牽引式の火砲、もしくは4輪のトラックに火砲を搭載した急造の自走砲で行われたが、迅速な展開ができないことや防御力に劣るといった点が問題となり、本格的な自走対戦車砲の開発が急務となった。まず開発されたものとして、チャーチル歩兵戦車の車体に箱型の戦闘室を設けて3インチ高射砲を搭載したチャーチル 3インチ ガンキャリアがあるが、これは実戦では用いられなかった。
イギリスにはアメリカより対戦車車輌としてM10 戦車駆逐車が供与されたが、国産品としてドイツ戦車に十分に対抗可能なオードナンス QF 17ポンド砲が開発されると、この砲は長大で大重量であったこともあり、これを搭載した自走砲の開発が急ピッチで進められた。一連の17ポンド砲搭載対戦車自走砲のうち“駆逐戦車”に分類できるものは、アキリーズ(M10戦車駆逐車の長砲身3インチ砲を17ポンド砲に換装)、アヴェンジャー(後述のチャレンジャー巡航戦車に17ポンド砲装備のオープントップ式の砲塔を搭載)がある。
こういった砲兵部隊管轄の“自走砲”とは異なり、機甲部隊の装備する“戦車”として、密閉式の回転砲塔に17ポンド砲を搭載した車輌もあり、チャレンジャー巡航戦車(クロムウェル巡航戦車を拡大した車体に17ポンド砲装備の大型砲塔を搭載)、シャーマン ファイアフライ(供与されたM4シャーマン戦車の75mm砲塔型に17ポンド砲を搭載)がある。ファイヤフライはイギリス軍の装備した17ポンド砲搭載車輌では最も多く製造/配備され、イギリス軍の主力駆逐戦車であった。
これらの他、重武装、重装甲を追求した固定戦闘室式のトータス重突撃戦車といった車両も開発され、第二次世界大戦後においても余剰のクロムウェル巡航戦車の車体に20ポンド砲装備の新型砲塔を搭載したFV4101 チャリオティアが開発され、イギリス国防義勇軍の他にも輸出されていくつかの国で用いられた。
旧日本陸軍においては、1939年(昭和14年)頃より対戦車自走砲の構想をしており、最初の案は九七式中戦車程度の車体に九五式野砲を搭載した車両を挙げられた。この案は1940年(昭和15年)には、九七式中戦車の車体に固定砲塔式に九〇式野砲を搭載した案に発展し、その性能所元はのちの三式砲戦車に類似している。さらに、1941(昭和16年)ごろには一式砲戦車(二式砲戦車)や一式七糎半自走砲の砲身を長砲身57mm砲に換装した2種の駆逐戦車が計画され、特に後者は五式中戦車の原型案であった新中戦車(乙)に発展したといわれる。その後、駆逐戦車の任務は昭和18年6月に設計変更された新中戦車乙や新たに計画された試製新砲戦車(甲)に受け継がれたといわれる。
これらの駆逐戦車案の他に、五式軽戦車 ケホの車体上に九九式七糎半戦車砲を限定旋回方式に搭載した駆逐戦車(甲)、同車の車体に墳進爆雷を搭載した(乙)が計画されていたが研究は中止になった。
1950年代の終わりから1960年代初頭にかけて対戦車ミサイルが開発され、軽快な装甲車や偵察車にも搭載され始めると、明確な兵器区分としての駆逐戦車は消えていった。第二次世界大戦においては、アメリカ軍の駆逐戦車が一撃離脱を狙ったのに対し、ドイツ軍やソビエト軍の駆逐戦車はそこそこの装甲を持ち、待ち伏せ攻撃を行う設計になっていた。戦後、前者の発展系として最初に登場したのは無反動砲や有線誘導の対戦車ミサイルであった。
しかしこれらは装甲防御力を欠いたため、装甲車に対戦車ミサイルを搭載した自走対戦車ミサイルが開発された。また、対戦車ヘリコプター、多連装ロケットシステムなども登場した。
一方、後者の系統は充分な能力を持つ主力戦車が充分な数揃えられたことや、歩兵でも扱える携行型対戦車ミサイルの発達・普及により、存在価値を失ってしまった。とりわけ空対地ミサイルの信頼性が向上すると、地上部隊による対戦車攻撃の意義は薄らいだ。しかし高価な航空兵器に頼れない状況やスウェーデンなど独自の軍事構想を持つ国では、依然として駆逐戦車に類する車両が有用な場合もある。
西ドイツは、戦後も駆逐戦車を重視しており、当初は第二次世界大戦型の大口径対戦車砲を搭載したカノーネンヤークトパンツァーを開発した。やがて対戦車ミサイルの性能が向上すると、対戦車ミサイルを装備したラケーテンヤークトパンツァー2(Raketenjagdpanzer 2)へ改造された。その後更に、HOT対戦車ミサイル20発を装備したヤグアル1、BGM-71 TOW対戦車ミサイル14発を装備したヤグアル2に発展した。
アメリカは、戦後も戦車駆逐車の伝統を受け継ぐ軽量の対戦車車両を作り続け、空挺部隊用の自走砲 M56スコーピオンや海兵隊のM50オントス自走無反動砲などをベトナム戦争などに投入した。
それらが旧式化すると、多連装ロケットシステムやM2ブラッドレー歩兵戦闘車、M113装甲兵員輸送車にBGM-71 TOW対戦車ミサイルを搭載したM901 ITVなどが同様の役割を担うようになった。
また、AH-1 コブラやAH-64 アパッチなど、戦車駆逐車のドクトリンをさらに先鋭化させた高速・高機動の対戦車ヘリコプターも実戦に投入され、湾岸戦争やイラク戦争では大きな戦果を挙げた。
ソビエト連邦軍は、ドイツ同様、当初は第二次世界大戦型の駆逐戦車をいくつか試作、T-54戦車をベースとしたSU-122-54 自走砲を1954年から比較的少数生産した他、空挺部隊用に軽量のASU-57、ASU-85空挺自走砲を量産し配備した。しかし次第に自走対戦車ミサイルや自走ロケット砲などへ切り替えられていった。
T-62戦車をベースにしたミサイル駆逐戦車IT-1が1968年から生産されたものの短期の使用に終わり、BRDM-1やBRDM-2など軽装甲車輌のミサイル搭載型が主体となっていった。
陸上自衛隊は、近接対戦車戦闘を想定し、106ミリ無反動砲を2門搭載した60式自走106mm無反動砲を開発したが、主力戦車の発達とともに重要性も低下していった。
現在では対戦車ミサイルの96式多目的誘導弾システムなどが対戦車戦闘の主役になっている。
国土の大半を森林や湖沼が占める国情を反映し、水陸両用戦車であるIkv 91を配備した。90mm戦車砲を装備し、ある程度の打撃力を有する。このほか、駆逐戦車ではなく主力戦車に分類されているが、低車高の高速戦車としてStrv.103(Sタンク)がある。地形を生かした防御戦闘に特化し、無砲塔で完全固定式の主砲を備えている。
Strv.103は外形、性能、運用の全てにおいて第二次世界大戦中の駆逐戦車を後継しているといえる。
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "駆逐戦車の車体は、多くが既存戦車の流用である。戦車から砲塔を撤去し、代わりに固定式戦闘室に変更されている。無砲塔構造は砲塔内容量、旋廻リング荷重制限などを受けないので、流用元の戦車に比べ、より重くてかさばる、つまり大型・大口径・長砲身で威力の高い砲が搭載可能である。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 3,
"tag": "p",
"text": "反面、射線を変えるためには車輌自体を旋回させねばならず、状況に即応した行動をとることが難しい。このような性質から、駆逐戦車は攻勢戦闘よりも、あらかじめ射界を計算した陣地防御や、待ち伏せ戦闘に適している。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "通常、駆逐戦車の備砲は、高初速で装甲貫徹力の高い対戦車砲あるいは高射砲である。しかし、大口径榴弾砲類を搭載した自走榴弾砲も、駆逐戦車と同様に対戦車戦闘に使用される場合がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "榴弾砲は装甲貫通力は低いが、着弾時の衝撃により敵戦車の装甲を引き裂いたり、装甲内壁を剥離させ、破片により搭乗員を死傷させることで、敵戦車の戦闘能力を奪うことができた。これは現代のHESH(HEP)弾と同じような効果である。そのため、自走榴弾砲が対戦車兵力の一翼を担うことは少なくなかった。通常は間接砲撃任務ながらも、不意の対戦車戦闘に備え、HEAT弾を搭載していた物もあった。また、特にソ連軍の場合、重砲であっても直接照準器が備えられていた。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "対戦車車両と駆逐戦車の両者はしばしば混同されるが、対戦車車両は戦車に対抗するための車両全般を表す言葉であるのに対して、駆逐戦車は一般に、固定式戦闘室に対戦車砲を装備した重装甲の対戦車自走砲を表す。そのため、軽装甲あるいは非装甲の対戦車ミサイル車両などは駆逐戦車に分類されることはない。ただし例外として、RJPz.2やヤグアルなど、駆逐戦車のミサイル搭載型として開発・改装されたミサイル式対戦車車両の一部が駆逐戦車に分類された例がある。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "駆逐戦車は、対戦車自走砲の一種に含めることもできるが、一般的な対戦車自走砲と駆逐戦車の顕著な違いは防御力にある。通常の対戦車自走砲は多くは開放天蓋式の戦闘室で軽装甲であり、きわめて限定的な防御力しか持たない。対して駆逐戦車は重装甲を施され、敵戦車の砲撃にも対抗可能な防御力を有しているのが違いである。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "砲兵科に類似した形態を有する車両があるが、これは突撃砲と呼ばれるものである。これは歩兵に対する火力支援を本来の任務とした車両であったが、第二次世界大戦の始まる前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から任務の一つに対戦車戦闘が付与されており、駆逐戦車との差は明確ではない。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "駆逐戦車と突撃砲の区別については多分に兵科間の縄張り争いの一面を持ち、実態としては両者の相違は曖昧なものであった。事実、エレファントやヤークトパンターなどの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。もっとも突撃砲の照準器は野戦砲に準じた物であり、駆逐戦車の照準器は戦車用の移動目標に対する狙いが付けやすい物を装備している。ドイツ軍は慢性的な戦車不足だったため、しばしば駆逐戦車・突撃砲とも戦車の代用として部隊に配属された。",
"title": "特徴"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ドイツでは第一次世界大戦における苦い経験から早くから対戦車部隊の必要性が論じられていた。1935年にヴェルサイユ条約軍備制限条項を廃棄した後、Panzerjägertruppe(戦車猟兵科)を独立兵科として設け、対戦車砲部隊(Panzerabwehrkanonen-Einheiten)、戦車猟兵部隊(Panzerjäger-Einheiten)、戦車駆逐部隊(Panzerzerstörer-Einheiten)とその名称は変遷した。戦車猟兵部隊の戦闘車両は逐語訳で「戦車を狩する車輌」を意味する Panzerjäger、あるいは後に Jagdpanzer と呼ばれるようになった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "ソ連赤軍においては駆逐戦車や突撃砲に相当する分類はなく、\"旋回する砲塔を持たない戦闘車輌\"は、主任務が対戦車戦闘であれ、歩兵近接支援であれ単に\"SU\"(自走砲を意味する略語)と呼ばれ、自走砲部隊に配属された。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "ソ連軍のSUはドイツ軍の突撃砲に影響を受けた、重防御で最前線に火砲を持ち込むことを目的とした車両群があり、以下のような車両が対戦車砲を搭載して、駆逐戦車的に運用された。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ソ連軍は歩兵支援に大口径砲を使うことが多く、ドイツ軍の突撃砲の用法を真似つつ、突撃砲よりも大口径の砲を搭載した以下のような車両を作り出し、その大口径の威力で、対戦車戦闘でも活躍することがあった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "アメリカ軍は、戦前に行われた演習によって「敵戦車集団の攻撃を司令部直轄の対戦車部隊による機動的な側面攻撃によって阻止する」という騎兵隊の流れを汲むドクトリンを採用し、専門の独立部隊として戦車駆逐大隊(Tank Destroyer Battalion)を編成した。同隊に配備された車両はGMC(Gun Motor Carriage)と呼ばれ、直訳では「エンジンつき砲運搬車」である。文字どおり砲を車両に搭載したもので、一種の自走砲であった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "砲搭載自動貨車・砲搭載半装軌車・砲塔を装備し戦車型の車体を使用する全装軌車・砲室と装甲を有する全装軌車(この型は外見から「駆逐戦車」と呼ばれることが多い。戦車と異なり、砲塔には天蓋部分がなかった)がここに含まれる。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "ドクトリンに従えば戦車駆逐大隊は戦略予備兵力として戦線後方で待機し、敵機甲集団の出現に応じて前線に急行することとなっていた。機甲部隊の高度な運動に追随し、待ち伏せに適した地形に占位するためにも戦車駆逐車の設計においては機動力が優先されており、また、待ち伏せにおける観測や操砲などの点で有利となるように上部が開放されていた。火力について1944年末に90mm砲を装備したM36 GMCが前線に到着し、ドイツ軍の装甲車両のうち特に重装甲の車両についても一応は対応可能になった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "しかし結局、戦車と大差ない装軌車両に戦車と大差ない砲を装備した戦車駆逐車は、機動力・火力・射程のすべてにおいて、ドクトリンが必要としていた敵戦車に対する圧倒的優位を得られなかった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "実戦において戦車駆逐大隊は当初のドクトリンと異なった配備・運用がなされるようになり、戦車駆逐車部隊を戦車師団に分散配置する事がなかば正規の編成となった。また、歩兵支援部隊として通常の戦車同様に最前線に出ることを命じられるようにもなり、このような運用下においては機動性重視で防御力が不足していた戦車駆逐車の特徴はマイナスに働いた。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "戦争末期には高い対戦車能力を持つ戦車が出現したことで専門の対戦車部隊を持つ意義は薄れつつあり、戦後の急速な軍の規模縮小もあって戦車駆逐大隊は短期間で姿を消すこととなった。そして同時に戦車駆逐車の系譜も途絶えることとなった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "今日、戦車駆逐車のドクトリンは、戦車より圧倒的に優速・高機動で、戦車砲を越える長射程の対戦車ミサイルを装備し、そして軽装甲車両に準じる防御を施した攻撃ヘリコプターに引き継がれている。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "以下にアメリカ軍が運用した戦車駆逐車を挙げる。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "イギリス軍において当項目で解説している“駆逐戦車(Tank destroyer)”の範疇に入る車輌には「戦車(Tank)」「自走砲架(SPM. Self-Propelled Mount)」「砲運搬車(Gun Carrier)」「重突撃戦車(heavy assault tank)」「(戦車の)重対戦車砲型(**-Heavy Anti-tank)」といった多種の名称が与えられており、公式に\"Tank destroyer\"とされていたものは、後述のチャリオティアが短い期間そのように呼称されていたのみである。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "イギリス軍では対戦車砲は砲兵部隊の管轄であって機甲部隊の管轄ではなかったため、対戦車戦闘はまずは砲兵科に所属する対戦車部隊によって牽引式の火砲、もしくは4輪のトラックに火砲を搭載した急造の自走砲で行われたが、迅速な展開ができないことや防御力に劣るといった点が問題となり、本格的な自走対戦車砲の開発が急務となった。まず開発されたものとして、チャーチル歩兵戦車の車体に箱型の戦闘室を設けて3インチ高射砲を搭載したチャーチル 3インチ ガンキャリアがあるが、これは実戦では用いられなかった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "イギリスにはアメリカより対戦車車輌としてM10 戦車駆逐車が供与されたが、国産品としてドイツ戦車に十分に対抗可能なオードナンス QF 17ポンド砲が開発されると、この砲は長大で大重量であったこともあり、これを搭載した自走砲の開発が急ピッチで進められた。一連の17ポンド砲搭載対戦車自走砲のうち“駆逐戦車”に分類できるものは、アキリーズ(M10戦車駆逐車の長砲身3インチ砲を17ポンド砲に換装)、アヴェンジャー(後述のチャレンジャー巡航戦車に17ポンド砲装備のオープントップ式の砲塔を搭載)がある。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "こういった砲兵部隊管轄の“自走砲”とは異なり、機甲部隊の装備する“戦車”として、密閉式の回転砲塔に17ポンド砲を搭載した車輌もあり、チャレンジャー巡航戦車(クロムウェル巡航戦車を拡大した車体に17ポンド砲装備の大型砲塔を搭載)、シャーマン ファイアフライ(供与されたM4シャーマン戦車の75mm砲塔型に17ポンド砲を搭載)がある。ファイヤフライはイギリス軍の装備した17ポンド砲搭載車輌では最も多く製造/配備され、イギリス軍の主力駆逐戦車であった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "これらの他、重武装、重装甲を追求した固定戦闘室式のトータス重突撃戦車といった車両も開発され、第二次世界大戦後においても余剰のクロムウェル巡航戦車の車体に20ポンド砲装備の新型砲塔を搭載したFV4101 チャリオティアが開発され、イギリス国防義勇軍の他にも輸出されていくつかの国で用いられた。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "旧日本陸軍においては、1939年(昭和14年)頃より対戦車自走砲の構想をしており、最初の案は九七式中戦車程度の車体に九五式野砲を搭載した車両を挙げられた。この案は1940年(昭和15年)には、九七式中戦車の車体に固定砲塔式に九〇式野砲を搭載した案に発展し、その性能所元はのちの三式砲戦車に類似している。さらに、1941(昭和16年)ごろには一式砲戦車(二式砲戦車)や一式七糎半自走砲の砲身を長砲身57mm砲に換装した2種の駆逐戦車が計画され、特に後者は五式中戦車の原型案であった新中戦車(乙)に発展したといわれる。その後、駆逐戦車の任務は昭和18年6月に設計変更された新中戦車乙や新たに計画された試製新砲戦車(甲)に受け継がれたといわれる。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "これらの駆逐戦車案の他に、五式軽戦車 ケホの車体上に九九式七糎半戦車砲を限定旋回方式に搭載した駆逐戦車(甲)、同車の車体に墳進爆雷を搭載した(乙)が計画されていたが研究は中止になった。",
"title": "第二次世界大戦期の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1950年代の終わりから1960年代初頭にかけて対戦車ミサイルが開発され、軽快な装甲車や偵察車にも搭載され始めると、明確な兵器区分としての駆逐戦車は消えていった。第二次世界大戦においては、アメリカ軍の駆逐戦車が一撃離脱を狙ったのに対し、ドイツ軍やソビエト軍の駆逐戦車はそこそこの装甲を持ち、待ち伏せ攻撃を行う設計になっていた。戦後、前者の発展系として最初に登場したのは無反動砲や有線誘導の対戦車ミサイルであった。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "しかしこれらは装甲防御力を欠いたため、装甲車に対戦車ミサイルを搭載した自走対戦車ミサイルが開発された。また、対戦車ヘリコプター、多連装ロケットシステムなども登場した。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "一方、後者の系統は充分な能力を持つ主力戦車が充分な数揃えられたことや、歩兵でも扱える携行型対戦車ミサイルの発達・普及により、存在価値を失ってしまった。とりわけ空対地ミサイルの信頼性が向上すると、地上部隊による対戦車攻撃の意義は薄らいだ。しかし高価な航空兵器に頼れない状況やスウェーデンなど独自の軍事構想を持つ国では、依然として駆逐戦車に類する車両が有用な場合もある。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "西ドイツは、戦後も駆逐戦車を重視しており、当初は第二次世界大戦型の大口径対戦車砲を搭載したカノーネンヤークトパンツァーを開発した。やがて対戦車ミサイルの性能が向上すると、対戦車ミサイルを装備したラケーテンヤークトパンツァー2(Raketenjagdpanzer 2)へ改造された。その後更に、HOT対戦車ミサイル20発を装備したヤグアル1、BGM-71 TOW対戦車ミサイル14発を装備したヤグアル2に発展した。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "アメリカは、戦後も戦車駆逐車の伝統を受け継ぐ軽量の対戦車車両を作り続け、空挺部隊用の自走砲 M56スコーピオンや海兵隊のM50オントス自走無反動砲などをベトナム戦争などに投入した。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "それらが旧式化すると、多連装ロケットシステムやM2ブラッドレー歩兵戦闘車、M113装甲兵員輸送車にBGM-71 TOW対戦車ミサイルを搭載したM901 ITVなどが同様の役割を担うようになった。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "また、AH-1 コブラやAH-64 アパッチなど、戦車駆逐車のドクトリンをさらに先鋭化させた高速・高機動の対戦車ヘリコプターも実戦に投入され、湾岸戦争やイラク戦争では大きな戦果を挙げた。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ソビエト連邦軍は、ドイツ同様、当初は第二次世界大戦型の駆逐戦車をいくつか試作、T-54戦車をベースとしたSU-122-54 自走砲を1954年から比較的少数生産した他、空挺部隊用に軽量のASU-57、ASU-85空挺自走砲を量産し配備した。しかし次第に自走対戦車ミサイルや自走ロケット砲などへ切り替えられていった。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "T-62戦車をベースにしたミサイル駆逐戦車IT-1が1968年から生産されたものの短期の使用に終わり、BRDM-1やBRDM-2など軽装甲車輌のミサイル搭載型が主体となっていった。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "陸上自衛隊は、近接対戦車戦闘を想定し、106ミリ無反動砲を2門搭載した60式自走106mm無反動砲を開発したが、主力戦車の発達とともに重要性も低下していった。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現在では対戦車ミサイルの96式多目的誘導弾システムなどが対戦車戦闘の主役になっている。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "国土の大半を森林や湖沼が占める国情を反映し、水陸両用戦車であるIkv 91を配備した。90mm戦車砲を装備し、ある程度の打撃力を有する。このほか、駆逐戦車ではなく主力戦車に分類されているが、低車高の高速戦車としてStrv.103(Sタンク)がある。地形を生かした防御戦闘に特化し、無砲塔で完全固定式の主砲を備えている。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "Strv.103は外形、性能、運用の全てにおいて第二次世界大戦中の駆逐戦車を後継しているといえる。",
"title": "第二次世界大戦後の駆逐戦車"
}
] |
駆逐戦車(くちくせんしゃ)は、戦車および対戦車車両の一種であり、敵戦車の撃破を目的とした装甲戦闘車両である。発祥地のドイツ語からJagdpanzerヤークトパンツァーと呼ばれ、英語圏でも呼称として定着した。
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{{複数の問題|出典の明記=2008-10|独自研究=2021-10}}
[[画像:Kanonenjagdpanzer Prototype.jpg|thumb|300px|[[カノーネンヤークトパンツァー]]<br/>ドイツやソ連は戦後もケースメート式戦闘室に砲を搭載した駆逐戦車を開発した。画像はドイツのKJPz.4-5カノーネ試作型で、量産型より転輪が一組多い]]
'''駆逐戦車'''(くちくせんしゃ)は、[[戦車]]および[[対戦車車両]]の一種であり、敵戦車の撃破を目的とした[[装甲戦闘車両]]である。発祥地の[[ドイツ語]]から '''Jagdpanzer ('''ヤークトパンツァー) と呼ばれ、英語圏でも呼称として定着した。
== 概要 ==
駆逐戦車は、一般的に防衛戦に投入されることが多く、機動性を生かして攻撃的に運用する戦車とはその役割が異なる。類似の存在に[[突撃砲]]、[[砲戦車]]、[[自走砲|対戦車自走砲]]、などがあるが、特に戦車部隊が運用する対戦車車両の場合にそう呼称される。
== 特徴 ==
=== 車体 ===
駆逐戦車の車体は、多くが既存戦車の流用である。戦車から[[砲塔]]を撤去し、代わりに固定式戦闘室に変更されている。無砲塔構造は砲塔内容量、旋廻リング荷重制限などを受けないので、流用元の戦車に比べ、より重くてかさばる、つまり大型・[[口径|大口径]]・長砲身で威力の高い砲が搭載可能である。
反面、射線を変えるためには車輌自体を旋回させねばならず、状況に即応した行動をとることが難しい。このような性質から、駆逐戦車は攻勢戦闘よりも、あらかじめ射界を計算した陣地防御や、待ち伏せ戦闘に適している。
=== 備砲 ===
通常、駆逐戦車の備砲は、高初速で装甲[[貫徹力]]の高い[[対戦車砲]]あるいは[[高射砲]]である。しかし、大口径[[榴弾砲]]類を搭載した[[自走砲|自走榴弾砲]]も、駆逐戦車と同様に対戦車戦闘に使用される場合がある。
榴弾砲は装甲貫通力は低いが、着弾時の衝撃により敵戦車の装甲を引き裂いたり、装甲内壁を剥離させ、破片により搭乗員を死傷させることで、敵戦車の戦闘能力を奪うことができた。これは現代の[[粘着榴弾|HESH]](HEP)弾と同じような効果である。そのため、自走榴弾砲が対戦車兵力の一翼を担うことは少なくなかった。通常は間接砲撃任務ながらも、不意の対戦車戦闘に備え、[[成形炸薬弾|HEAT]]弾を搭載していた物もあった。また、特にソ連軍の場合、重砲であっても直接照準器が備えられていた。
=== 対戦車車両との違い ===
[[対戦車車両]]と駆逐戦車の両者はしばしば混同されるが、対戦車車両は[[戦車]]に対抗するための車両全般を表す言葉であるのに対して、駆逐戦車は一般に、固定式戦闘室に[[対戦車砲]]を装備した[[装甲|重装甲]]の対戦車[[自走砲]]を表す。そのため、軽装甲あるいは非装甲の[[対戦車ミサイル]]車両などは駆逐戦車に分類されることはない。ただし例外として、RJPz.2やヤグアルなど、駆逐戦車のミサイル搭載型として開発・改装されたミサイル式対戦車車両の一部が駆逐戦車に分類された例がある。
=== 対戦車自走砲との違い ===
駆逐戦車は、[[対戦車砲|対戦車自走砲]]の一種に含めることもできるが、一般的な対戦車自走砲と駆逐戦車の顕著な違いは防御力にある。通常の対戦車自走砲は多くは開放天蓋式の戦闘室で[[装甲|軽装甲]]であり、きわめて限定的な防御力しか持たない。対して駆逐戦車は重装甲を施され、敵[[戦車]]の[[砲撃]]にも対抗可能な防御力を有しているのが違いである。
=== 突撃砲との違い ===
[[砲兵|砲兵科]]に類似した形態を有する車両があるが、これは[[突撃砲]]と呼ばれるものである。これは[[歩兵]]に対する[[火力支援]]を本来の任務とした車両であったが、[[第二次世界大戦]]の始まる前に対戦車威力を強化した長砲身砲搭載の計画が立ち上がっていたことからもわかるように、開発当初から任務の一つに対戦車戦闘が付与されており、駆逐戦車との差は明確ではない。
駆逐戦車と突撃砲の区別については多分に[[兵科]]間の縄張り争いの一面を持ち、実態としては両者の相違は曖昧なものであった。事実、[[エレファント重駆逐戦車|エレファント]]や[[ヤークトパンター]]などの重駆逐戦車は、当初は重突撃砲に分類されていた。もっとも突撃砲の[[照準器]]は[[野戦砲]]に準じた物であり、駆逐戦車の照準器は戦車用の移動目標に対する狙いが付けやすい物を装備している。[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]は慢性的な戦車不足だったため、しばしば駆逐戦車・突撃砲とも戦車の代用として部隊に配属された。
== 第二次世界大戦期の駆逐戦車 ==
=== ドイツ ===
[[Image:Jagdpanzer38.jpg|thumb|250px|軽駆逐戦車ヘッツァー]]
[[Image:SdKfz173.jpg|thumb|250px|ヤークトパンター]]
[[ドイツ]]では[[第一次世界大戦]]における苦い経験から早くから対戦車部隊の必要性が論じられていた。[[1935年]]に[[ヴェルサイユ条約]]軍備制限条項を廃棄した後、'''Panzerjägertruppe'''(戦車猟兵科)を独立兵科として設け、対戦車砲部隊(Panzerabwehrkanonen-Einheiten)、戦車猟兵部隊(Panzerjäger-Einheiten)、戦車駆逐部隊(Panzerzerstörer-Einheiten)とその名称は変遷した。戦車猟兵部隊の戦闘車両は逐語訳で「戦車を狩する車輌」を意味する '''Panzerjäger'''、あるいは後に '''Jagdpanzer''' と呼ばれるようになった。
* [[IV号駆逐戦車]]
* [[ヤークトパンター]]
* [[軽駆逐戦車ヘッツァー]]
* [[エレファント重駆逐戦車|エレファント/フェルディナント重駆逐戦車]]
* [[ヤークトティーガー]]
* [[E-10 (戦車)]]
* [[E-25 (戦車)]]
{{-}}
=== ソビエト連邦 ===
[[Image:ISU-122 skos RB.jpg|thumb|250px|ISU-122]]
[[赤軍|ソ連赤軍]]においては駆逐戦車や[[突撃砲]]に相当する分類はなく、"旋回する[[砲塔]]を持たない戦闘車輌"は、主任務が対戦車戦闘であれ、[[歩兵]]近接支援であれ単に"SU"([[自走砲]]を意味する略語)と呼ばれ、自走砲部隊に配属された。
ソ連軍のSUは[[ドイツ軍]]の突撃砲に影響を受けた、重防御で最前線に火砲を持ち込むことを目的とした車両群があり、以下のような車両が[[対戦車砲]]を搭載して、駆逐戦車的に運用された。
* [[SU-85 (自走砲)|SU-85]]
* [[SU-100 (自走砲)|SU-100]]
ソ連軍は[[火力支援|歩兵支援]]に[[口径|大口径]]砲を使うことが多く、ドイツ軍の突撃砲の用法を真似つつ、突撃砲よりも大口径の砲を搭載した以下のような車両を作り出し、その大口径の威力で、対戦車戦闘でも活躍することがあった。
* [[SU-122 (自走砲)|SU-122]]
* [[SU-152 (自走砲)|SU-152]]
* [[ISU-122 (自走砲)|ISU-122]]
* [[ISU-152 (自走砲)|ISU-152]]
=== アメリカ ===
[[File:M3 GMC.jpg|thumb|250px|M3 GMC]]
[[File:M10 Tank Destroyer.JPG|thumb|250px|M10 GMC。この角度ではわからないが、戦車と違って砲塔には屋根がない]]
{{main|戦車駆逐大隊 (アメリカ軍)}}
[[アメリカ軍]]は、戦前に行われた演習によって「敵戦車集団の攻撃を司令部直轄の対戦車部隊による機動的な側面攻撃によって阻止する」という騎兵隊の流れを汲むドクトリンを採用し、専門の独立部隊として'''戦車駆逐大隊'''(Tank Destroyer Battalion)を編成した。同隊に配備された車両は'''GMC'''(Gun Motor Carriage)と呼ばれ、直訳では「エンジンつき砲運搬車」である。文字どおり砲を車両に搭載したもので、一種の[[自走砲]]であった。
砲搭載自動貨車・砲搭載半装軌車・[[砲塔]]を装備し戦車型の車体を使用する全装軌車・砲室と[[装甲]]を有する全装軌車(この型は外見から「駆逐戦車」と呼ばれることが多い。戦車と異なり、砲塔には天蓋部分がなかった)がここに含まれる。
[[ドクトリン]]に従えば戦車駆逐大隊は戦略予備兵力として戦線後方で待機し、敵機甲集団の出現に応じて前線に急行することとなっていた。機甲部隊の高度な運動に追随し、待ち伏せに適した地形に占位するためにも戦車駆逐車の設計においては機動力が優先されており、また、待ち伏せにおける観測や操砲などの点で有利となるように上部が開放されていた。[[火力 (軍事)|火力]]について[[1944年]]末に90mm砲を装備した[[M36ジャクソン|M36 GMC]]が前線に到着し、[[ドイツ軍]]の装甲車両のうち特に重装甲の車両についても一応は対応可能になった。
しかし結局、戦車と大差ない装軌車両に戦車と大差ない砲を装備した戦車駆逐車は、機動力・火力・射程のすべてにおいて、ドクトリンが必要としていた敵戦車に対する圧倒的優位を得られなかった。
実戦において戦車駆逐大隊は当初のドクトリンと異なった配備・運用がなされるようになり、戦車駆逐車部隊を戦車師団に分散配置する事がなかば正規の編成となった。また、歩兵支援部隊として通常の戦車同様に最前線に出ることを命じられるようにもなり、このような運用下においては機動性重視で防御力が不足していた戦車駆逐車の特徴はマイナスに働いた。
戦争末期には高い対戦車能力を持つ戦車が出現したことで専門の対戦車部隊を持つ意義は薄れつつあり、戦後の急速な軍の規模縮小もあって戦車駆逐大隊は短期間で姿を消すこととなった。そして同時に戦車駆逐車の系譜も途絶えることとなった。
今日、戦車駆逐車のドクトリンは、戦車より圧倒的に優速・高機動で、[[戦車砲]]を越える長射程の[[対戦車ミサイル]]を装備し、そして軽装甲車両に準じる防御を施した[[攻撃ヘリコプター]]に引き継がれている。
以下にアメリカ軍が運用した戦車駆逐車を挙げる。
* [[:en:M3 GMC|M3 GMC]]
* [[M6ファーゴ|M6 GMC]]
* [[M10 (駆逐戦車)|M10 GMC]]
* [[M18 (駆逐戦車)|M18 GMC]]
* [[M36ジャクソン|M36 GMC]]
* [[T28重戦車|T95駆逐戦車]]
=== イギリス ===
[[File:IWM-MH-3620-Tortoise.jpg|thumb|250px|[[トータス重突撃戦車]]]]
[[イギリス軍]]において当項目で解説している“駆逐戦車(Tank destroyer)”の範疇に入る車輌には「戦車(Tank)」「自走砲架(SPM. Self-Propelled Mount)」「砲運搬車(Gun Carrier)」「重突撃戦車(heavy assault tank)」「(戦車の)重対戦車砲型(**-Heavy Anti-tank)」といった多種の名称が与えられており{{efn|イギリス軍においては、備砲の種類や搭載形式に関わらず自走砲は"Self-propelled gun"(直訳すると「自己推進手段を持つ火砲」だが、通常は日本では単に「自走砲」と訳される)と総称され、対戦車用途の車輌であっても特に名称は区別されていない。}}、公式に"Tank destroyer"とされていたものは、後述のチャリオティアが短い期間そのように呼称されていたのみである。
[[イギリス軍]]では[[対戦車砲]]は[[砲兵]]部隊の管轄であって[[機甲部隊]]の管轄ではなかったため、対戦車戦闘はまずは[[砲兵|砲兵科]]に所属する対戦車部隊によって牽引式の火砲、もしくは4輪のトラックに火砲を搭載した急造の自走砲で行われたが、迅速な展開ができないことや防御力に劣るといった点が問題となり、本格的な[[自走砲|自走対戦車砲]]の開発が急務となった。まず開発されたものとして、[[チャーチル歩兵戦車]]の車体に箱型の戦闘室を設けて3インチ高射砲を搭載した[[チャーチル歩兵戦車#派生型|チャーチル 3インチ ガンキャリア]]があるが、これは実戦では用いられなかった。
イギリスにはアメリカより対戦車車輌として[[M10 (駆逐戦車)|M10]] 戦車駆逐車が供与されたが、国産品としてドイツ戦車に十分に対抗可能な[[オードナンス QF 17ポンド砲]]が開発されると、この砲は長大で大重量であったこともあり、これを搭載した自走砲の開発が急ピッチで進められた。一連の17ポンド砲搭載対戦車自走砲のうち“駆逐戦車”に分類できるものは、[[アキリーズ_(駆逐戦車)|アキリーズ]](M10戦車駆逐車の長砲身3インチ砲を17ポンド砲に換装)、[[チャレンジャー巡航戦車#A30_アヴェンジャー|アヴェンジャー]](後述の[[チャレンジャー巡航戦車]]に17ポンド砲装備のオープントップ式の砲塔を搭載)がある。
こういった砲兵部隊管轄の“自走砲”とは異なり、機甲部隊の装備する“戦車”として、密閉式の回転砲塔に17ポンド砲を搭載した車輌もあり、[[チャレンジャー巡航戦車]]([[クロムウェル巡航戦車]]を拡大した車体に17ポンド砲装備の大型砲塔を搭載)、[[シャーマン ファイアフライ]](供与された[[M4シャーマン]]戦車の75mm砲塔型に17ポンド砲を搭載)がある。ファイヤフライはイギリス軍の装備した17ポンド砲搭載車輌では最も多く製造/配備され、イギリス軍の主力駆逐戦車であった。
これらの他、重武装、重装甲を追求した固定戦闘室式の[[トータス重突撃戦車]]といった車両も開発され、第二次世界大戦後においても余剰のクロムウェル巡航戦車の車体に20ポンド砲装備の新型砲塔を搭載した[[FV4101 チャリオティア]]が開発され、イギリス[[国防義勇軍]]の他にも輸出されていくつかの国で用いられた。
* [[チャーチル歩兵戦車#派生型|A22D チャーチルMk.I 3インチ砲運搬車]] (Gun Carrier, 3-inch, Mk I, Churchill(A22D)
* [[M10 (駆逐戦車)|3インチ自走砲架 M10]] (3in SPM M10)
** [[アキリーズ_(駆逐戦車)|17ポンド自走砲 M10C アキリーズ]] (17pdr SP M10C Achilles)
* [[チャレンジャー巡航戦車|A30巡航戦車 Mk.VIII チャレンジャー]] (Tank, Cruiser, Mk.VIII, Challenger(A30))
** [[チャレンジャー巡航戦車#A30_アヴェンジャー|17ポンド自走砲型A30 アヴェンジャー]] (SP 17pdr, A30(Avenger)
* [[シャーマン_ファイアフライ|シャーマン IC/VC “ファイヤフライ”]] (Sherman IC/VC "Firefly")
* [[トータス重突撃戦車|A39 重突撃戦車 トータス]] (Tank, Heavy Assault, Tortoise (A39)
* [[FV4101 チャリオティア|FV4101 クロムウェル重対戦車砲(チャリオティア)]] (Fighting Vehicle 4101 Cromwell Heavy Anti-tank gun(Charioteer)
: ※チャリオティア駆逐戦車(Charioteer tank destroyer)もしくは中型戦車チャリオティア(Tank Medium, Charioteer)とも呼ばれる
{{-}}
===日本===
[[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]においては、1939年(昭和14年)頃より対戦車自走砲の構想をしており、最初の案は九七式中戦車程度の車体に九五式野砲を搭載した車両を挙げられた<ref>{{アジア歴史資料センター|A03032092400|対戦車戦闘ニ関スル意見}}</ref>。この案は1940年(昭和15年)には、九七式中戦車の車体に固定砲塔式に九〇式野砲を搭載した案<ref>{{アジア歴史資料センター|C14010882700|対戦車火器ニ関スル意見(一瀬大佐 昭和15年6月)}}</ref>に発展し、その性能所元はのちの[[三式砲戦車]]に類似している。さらに、1941(昭和16年)ごろには一式砲戦車(二式砲戦車)や[[一式七糎半自走砲]]の砲身を長砲身57㎜砲に換装した2種の駆逐戦車が計画され、特に後者は[[五式中戦車]]の原型案であった新中戦車(乙)に発展したといわれる。その後、駆逐戦車の任務は昭和18年6月に設計変更された新中戦車乙や新たに計画された[[試製新砲戦車(甲)]]に受け継がれたといわれる。
これらの駆逐戦車案の他に、五式軽戦車 ケホの車体上に九九式七糎半戦車砲を限定旋回方式に搭載した駆逐戦車(甲)<ref name=":0">佐山二郎『日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他』320頁、328頁。</ref>、同車の車体に墳進爆雷を搭載した(乙)<ref name=":0" />が計画されていたが研究は中止になった。
* [[三式砲戦車]]
* [[試製五式砲戦車]](正式名称は試製新砲戦車(甲)である)
* [[ジロ車]]
===イタリア===
* [[セモヴェンテ da 75/46]]
===ルーマニア===
[[File:Mareșal tank destroyer M-05 prototype.jpg|thumb|250px|マレシャル駆逐戦車]]
* [[マレシャル駆逐戦車]]
* [[TACAM R-2]]
* [[TACAM T-60]]
{{-}}
== 第二次世界大戦後の駆逐戦車 ==
[[1950年代]]の終わりから[[1960年代]]初頭にかけて[[対戦車ミサイル]]が開発され、軽快な[[装甲車]]や[[偵察戦闘車|偵察車]]にも搭載され始めると、明確な兵器区分としての駆逐戦車は消えていった。[[第二次世界大戦]]においては、[[アメリカ軍]]の駆逐戦車が一撃離脱を狙ったのに対し、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]や[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]の駆逐戦車はそこそこの[[装甲]]を持ち、待ち伏せ攻撃を行う設計になっていた。戦後、前者の発展系として最初に登場したのは[[無反動砲]]や[[半自動指令照準線一致誘導方式|有線誘導]]の対戦車ミサイルであった。
しかしこれらは装甲防御力を欠いたため、装甲車に対戦車ミサイルを搭載した自走対戦車ミサイルが開発された。また、[[攻撃ヘリコプター|対戦車ヘリコプター]]、[[MLRS|多連装ロケットシステム]]なども登場した。
一方、後者の系統は充分な能力を持つ[[主力戦車]]が充分な数揃えられたことや、[[歩兵]]でも扱える携行型対戦車ミサイルの発達・普及により、存在価値を失ってしまった。とりわけ[[空対地ミサイル]]の信頼性が向上すると、地上部隊による対戦車攻撃の意義は薄らいだ。しかし高価な航空兵器に頼れない状況や[[スウェーデン]]など独自の軍事構想を持つ国では、依然として駆逐戦車に類する車両が有用な場合もある。
=== 西ドイツ ===
[[西ドイツ]]は、戦後も駆逐戦車を重視しており、当初は[[第二次世界大戦]]型の大口径[[対戦車砲]]を搭載した[[カノーネンヤークトパンツァー]]を開発した。やがて[[対戦車ミサイル]]の性能が向上すると、対戦車ミサイルを装備した[[ラケーテンヤークトパンツァー2]]([[:de:Raketenjagdpanzer 2|Raketenjagdpanzer 2]])へ改造された。その後更に、HOT対戦車ミサイル20発を装備した[[ヤグアル1]]、[[BGM-71 TOW]]対戦車ミサイル14発を装備した[[ヤグアル2]]に発展した。
=== アメリカ ===
[[Image:Ontos.jpg|thumb|250px|M50 オントス]]
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は、戦後も戦車駆逐車の伝統を受け継ぐ軽量の対戦車車両を作り続け、[[エアボーン|空挺部隊]]用の自走砲 [[M56スコーピオン]]や[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]の[[M50オントス自走無反動砲]]などを[[ベトナム戦争]]などに投入した。
それらが旧式化すると、[[MLRS|多連装ロケットシステム]]や[[M2ブラッドレー歩兵戦闘車]]、[[M113装甲兵員輸送車]]に[[BGM-71 TOW]]対戦車ミサイルを搭載した[[M901 ITV]]などが同様の役割を担うようになった。
また、[[AH-1 コブラ]]や[[AH-64 アパッチ]]など、戦車駆逐車のドクトリンをさらに先鋭化させた高速・高機動の[[攻撃ヘリコプター|対戦車ヘリコプター]]も実戦に投入され、[[湾岸戦争]]や[[イラク戦争]]では大きな戦果を挙げた。
{{-}}
=== ソビエト連邦 ===
[[ソビエト連邦軍]]は、[[ドイツ]]同様、当初は[[第二次世界大戦]]型の駆逐戦車をいくつか試作、[[T-54]]戦車をベースとした[[SU-122-54 (自走砲)|SU-122-54 自走砲]]を[[1954年]]から比較的少数生産した他、[[エアボーン|空挺部隊]]用に軽量の[[ASU-57]]、[[ASU-85]]空挺自走砲を量産し配備した。しかし次第に自走[[対戦車ミサイル]]や自走[[ロケット砲]]などへ切り替えられていった。
[[T-62]]戦車をベースにしたミサイル駆逐戦車[[IT-1]]が[[1968年]]から生産されたものの短期の使用に終わり、[[BRDM-1]]や[[BRDM-2]]など軽装甲車輌のミサイル搭載型が主体となっていった。
=== 日本 ===
[[Image:JGSDF Type60 RR(SP).jpg|thumb|250px|60式自走106mm無反動砲]]
[[陸上自衛隊]]は、近接対戦車戦闘を想定し、106ミリ[[無反動砲]]を2門搭載した[[60式自走106mm無反動砲]]を開発したが、[[主力戦車]]の発達とともに重要性も低下していった。
現在では[[対戦車ミサイル]]の[[96式多目的誘導弾システム]]などが対戦車戦闘の主役になっている。
{{-}}
=== スウェーデン ===
[[Image:Swedish S-Tank.jpg|thumb|250px|Strv.103]]
国土の大半を森林や湖沼が占める国情を反映し、[[水陸両用戦車]]である[[Ikv 91]]を配備した。90mm[[戦車砲]]を装備し、ある程度の打撃力を有する。このほか、駆逐戦車ではなく[[主力戦車]]に分類されているが、低車高の高速戦車として[[Strv.103]](Sタンク)がある。地形を生かした防御戦闘に特化し、無[[砲塔]]で完全固定式の[[主砲]]を備えている。
Strv.103は外形、性能、運用の全てにおいて[[第二次世界大戦]]中の駆逐戦車を後継しているといえる。
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
* [[戦車]]
* [[対戦車車両]]
* [[装甲戦闘車両]]
* [[自走砲]]
{{装甲戦闘車両の分類}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:くちくせんしや}}
[[Category:装甲戦闘車両]]
[[Category:戦車の種類]]
[[Category:対戦車自走砲|*]]
[[en:Jagdpanzer]]
[[es:Jagdpanzer]]
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重陽
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重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、旧暦の9月9日のこと。中国、香港、マカオ、台湾、ベトナムにおいて伝統的な祝日であり、後漢(西暦25年)以前の文献で確認されている。日本では旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
中国では祖先の墓を訪れて敬意を払う日である。香港とマカオでは、一族全員が先祖代々の墓を訪れ、墓を綺麗にして捧げものをする。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
中国では、『芸文類聚』に魏の文帝が鍾繇へ菊花を贈った記事が見える。 上記の菊を使った習慣の他に、茱萸(グミ)ではなく呉茱萸(ゴシュユ)の実を入れた袋を肘に下げたり、郊外の丘など高い場所へピクニックに出掛け遠くを見ること(登高)が行われた。
中国で重陽が正式な節句として認められたのは漢代である。劉歆による『西京雑記』に、高祖の愛妾であった戚夫人が殺害された後、宮廷より放逐された侍女の賈佩蘭(ウィキデータ)が、9月9日は宮廷では茱萸を肘に下げ、菊酒を飲み長寿を祈る習慣があったと人に話したことにより、民間でも祝われるようになったとある。
唐代の重陽は2日あるいは3日間にわたって祝われていた。これは李白の『九月十日即事』からもうかがい知ることができる。
瞿祐(ウィキデータ)(ク ユウ 1341年-1427年)は明代の人で、撰者となった『居家必備』掲載の「四時宜忌」に菊酒が描かれた。
2012年6月26日、十一回全国人民代表大会常委会第二十七次回ではじめて中華人民共和国老年人権益保障法の修訂草案が審議された。その結果、2013年7月1日施行の同法第9条で重陽(旧暦9月9日)を「高齢者の日」(中国語: 老年节)と定めた。
平安時代から菊花酒(菊の酒)を飲む風習があり、菅原道真の著書『菅家後集』に見られる。江戸時代に広まっていくが、松尾芭蕉の二句が知られる(17世紀)。
享保から宝暦の和歌をおさめた俳諧集に、春に飾った雛人形をもう一度、この日に飾る「秋の雛」という風習が映しとられた(18世紀初頭から半ば)。
祭りの「くんち」には、呼称が重陽の節句に由来するとの説がある。
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重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、旧暦の9月9日のこと。中国、香港、マカオ、台湾、ベトナムにおいて伝統的な祝日であり、後漢(西暦25年)以前の文献で確認されている。日本では旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。 陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。 中国では祖先の墓を訪れて敬意を払う日である。香港とマカオでは、一族全員が先祖代々の墓を訪れ、墓を綺麗にして捧げものをする。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
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{{Infobox holiday
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|caption = 香港の墓参り
|official_name = 重陽節 {{lang|zh| (重阳节)}}<ref name="Zhao">{{cite book | title=A History of Food Culture in China| publisher=SCPG Publishing Corporation | first=Rongguang |last=Zhao | year=2015 | pages=14 |isbn= 978-1938368165}}</ref>
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{{節句}}
{{Infobox Chinese
|t=重陽節
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}}
'''重陽'''(ちょうよう)は、五[[節句]]の一つで、[[旧暦]]の[[9月9日]]のこと。[[中国]]、[[香港]]、[[マカオ]]、[[台湾]]、[[ベトナム]]において伝統的な[[祝日]]であり、[[後漢]](西暦[[25年]])以前の文献で確認されている<ref name="Roy"/>。日本では[[旧暦]]では[[キク|菊]]が咲く季節であることから'''菊の節句'''とも呼ばれる。
[[陰陽思想]]では[[奇数]]は陽の数であり、陽数の極である[[9]]が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
中国では祖先の墓を訪れて敬意を払う日である。香港とマカオでは、一族全員が先祖代々の墓を訪れ、墓を綺麗にして捧げものをする。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の[[花冠|花びら]]を浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた<ref group="注釈">[[花びら]]やそれに付着した[[花粉]]に含まれる[[ビタミンC]]や[[ビタミンE]]の効果が有ると考えられる</ref>{{要出典|date=2022年9月}}。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない<ref>{{harvnb|加藤、千田ほか|2010|page=146}}</ref><ref>{{harvnb|石井、宮澤|2011|page=122}}</ref>。
== 中国の重陽 ==
[[中国]]では、『[[芸文類聚]]』に[[魏 (三国)|魏]]の[[曹丕|文帝]]が[[鍾繇]]へ菊花を贈った記事が見える<!--ref group="注釈"-->{{efn|「歳往月来、忽復九月九日。九為陽数而日月並応。俗嘉其名、以為宜於長久、故以享宴高会。……思食秋菊之落英、輔体延年。莫斯之貴。謹奉一束、以助彭祖之術」<ref>『芸文類聚』巻四</ref>}}。
上記の菊を使った習慣の他に、茱萸(グミ){{efn|[[グミ]]について「二五 重陽の酒」<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=720-|loc=「7 茱萸(しゅゆ)酒の初見」「8 茱萸酒」「9 茱萸を酒に浮かべる所以」「10 白楽天の茱萸酒」「11 契丹(遼国)の茱萸酒」}}</ref>あるいは「二九 茱萸(しゅゆ)」<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=740-|loc=「1 茱萸」「2 呉茱萸」「3 食茱萸」「4 山茱萸」}}</ref>で触れる。また契丹(遼国)の重陽の記述<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=754|loc=「三二 九日、契丹(遼国)の重陽」}}</ref>にも「3 茱萸(しゅゆ)酒で辟悪す」<ref>{{harvnb|中村|2010|page=755}}</ref>、塩酒のほかに「茱萸酒を飲む」<ref>{{harvnb|中村|2010|page=756}}</ref>と記録した。}}ではなく呉茱萸([[ゴシュユ]])の実を入れた袋を肘に下げたり{{efn|「2 茱萸嚢(しゅゆじょう)」については「二三 重陽の節物」に詳しく<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=713-|loc=「二三 重陽の節物」}}</ref>、装身具として「1 菊花の簪(かんざし)」「3 茱萸の簪」もあがっている。}}、郊外の丘など高い場所へ[[ピクニック]]に出掛け遠くを見ること('''登高'''{{efn|登高を九日の行事とした節<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=699-|loc=「一九 九日の登高」}}</ref>には『続斉諧記』に記録されたことや、唐代<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=699-703}}</ref>から登高を詠んだ詩人として張諤(ちょうがく)、[[王維]]、[[崔国輔]]、[[杜甫]]、[[白居易|白楽天]]<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=703-707}}</ref>の名を連ね、禁令が出たと示し<ref>{{harvnb|中村|2010|page=708}}</ref>、[[契丹]]でも重陽に登高をしたとある<ref>{{harvnb|中村|2010|pages=754|loc=「2 登高・宴会」}}</ref>。}})が行われた<ref>{{harvnb|阿部|1998||pages=24-27}}</ref><ref>{{harvnb|許|2005|pages=1-28 (176-149)}}</ref><ref>{{harvnb|西脇|2015|pages=1-9}}</ref>。
中国で重陽が正式な節句として認められたのは[[前漢|漢代]]である。[[劉歆]]による『[[西京雑記]]』に、[[劉邦|高祖]]の愛妾であった[[戚夫人]]が殺害された後、宮廷より放逐された侍女の[[d:Q65856429|賈佩蘭]]<small>(ウィキデータ)</small>が、9月9日は宮廷では茱萸を肘に下げ、[[菊酒]]を飲み長寿を祈る習慣があったと人に話したことにより、民間でも祝われるようになったとある。
[[唐|唐代]]の重陽は2日あるいは3日間にわたって祝われていた。これは[[李白]]の『九月十日即事』からもうかがい知ることができる。
[[d:Q45417396|瞿祐]]<small>(ウィキデータ)</small>(ク ユウ 1341年-1427年)は[[明代]]の人で、撰者となった『居家必備』掲載の「[http://nrs.harvard.edu/urn-3:FHCL:26673422 四時宜忌]」に菊酒が描かれた<ref>{{harvnb|石橋|1976|pages=236|loc=「四時宜忌」『居家必備』}}</ref>。
[[2012年]][[6月26日]]、十一回[[全国人民代表大会]]常委会第二十七次回ではじめて[[中華人民共和国老年人権益保障法]]の修訂草案が審議された<ref>{{cite web|title=立法聚焦:老年人权益保障法修订草案六大看点|url=http://www.gov.cn/jrzg/2012-06/26/content_2170322.htm|publisher=中央政府门户网站|accessdate=2012-11-10|language=zh-cn}}</ref>。その結果、[[2013年]][[7月1日]]施行の同法第9条で重陽(旧暦9月9日)を「高齢者の日」({{lang-zh|老年节}})と定めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2013_7/china_05.html|title=「高齢者権益保障法」が7月に施行―「喜憂半々」の受け止め、期待と不安と|date=2013-07|publisher=[[労働政策研究・研修機構]]|accessdate=2016-01-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160117131729/http://www.jil.go.jp/foreign/jihou/2013_7/china_05.html|archivedate=2016-01-17}}</ref>。
== 日本における重陽 ==
[[Image:Stone statue of kikujido.png|thumb|250px|[[惣宗寺]](佐野厄除け大師)境内にある菊慈童像、菊水を飲み不老長寿であったと伝えられる。]]
[[平安時代]]から菊花酒([[菊酒|菊の酒]])を飲む風習があり<ref>{{harvnb|石橋|1976|pages=226|loc=『延喜式、中宮式』}}</ref>、[[菅原道真]]の著書『[[菅家文草|菅家後集]]』<ref>{{harvnb|石橋|1976|pages=236|loc=『菅家後集、羣書類從』}}</ref>に見られる。江戸時代に広まっていくが<ref>{{harvnb|石橋|1976|pages=225-227}}、{{doi|10.11501/12155814}}。国立国会図書館内限定、遠隔複写可。</ref>、[[松尾芭蕉]]の二[[俳句|句]]が知られる(17世紀)。
* 草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒
* 山中や 菊はたおらぬ 湯の匂 (『[[奥の細道]]』、[[山中温泉]]の湯を賞賛して)
[[享保]]から[[宝暦]]の和歌をおさめた俳諧集に、春に飾った雛人形をもう一度、この日に飾る「秋の雛」という風習が映しとられた(18世紀初頭から半ば<ref>{{cite book|和書||author=雲英 末雄|title=享保宝暦俳諧集|publisher=[[早稲田大学出版部]]|year=1995|series=早稲田大学蔵資料[[影印本|影印]]叢書 国書篇|volume=41|NCID=BN13120306}}{{ISBN2|4657959034}}</ref>)。
祭りの「[[くんち]]」には、{{要説明範囲|呼称が重陽の節句に由来する|date=2022年9月}}{{要出典|date=2022年9月}}との説がある。
== 参考文献 ==
本文の出典。主な執筆者、編者の50音順。
* {{cite journal|和書|author=阿部 兼也|title=新歳時記 秋の巻--重陽登高|journal=季刊中国 : 研究誌|issn=0915-5341|publisher=「季刊中国」刊行委員会|date=1998-09|volume=54|ref={{harvid|阿部|1998}}||pages=24-27|ncid=1522543655084255232}}
* {{cite journal|和書|author1=石井 貴子|author2=宮澤 節子|title=本学学生の行事食・儀礼食に関する調査|journal=日本調理科学会大会研究発表要旨集|number=23|publisher=日本調理科学会、|year=2011|ref={{harvid|石井、宮澤|2011}}|page=122|NCID=1390282680669723904|DOI=10.11402/ajscs.23.0.122.0}}。
**報告者の調査によると、重陽の節句に菊酒を飲んだ経験者は1名のみ([[名古屋文理大学短期大学部|名古屋文理短期大学]])。
* {{cite book|和書|editor=|title=和漢酒文献類聚|publisher=[[第一書房]]|year=1976|ref={{harvid|石橋|1976}}|pages=225-227|editor-last=石橋|editor-first=四郎}}酉文社1936年(昭和11年)刊の複製。{{全国書誌番号|77018446}}、{{DOI|10.11501/12155814}}。[[国立国会図書館]]内限定、遠隔複写可。
** 重陽之日賜菊酒、p.225『類聚名物考』
** 五重陽宴、p.226『類聚名物考』『庖丁書録』林羅山撰
** 菊酒、p.226『[[延喜式]]、中宮式』、p.236『菅家後集、羣書類從』『居家必備、四時宜忌』
** 明星酒、p.236『事類統編』
** 重陽の菊酒、p.236『年中行事秘抄』(〈[[群書類従|群書類從]]530巻〉 『目録』より第86巻)
** 菊花酒、p.226『[[東都歳時記|歳時記]]』『續[[江戸砂子]]』、p.227『古今夷曲集』『巴人集』『狂歌鳩杖集』『五元集拾遺』『太祇句選』『白雄句集』『半化坊發句集』
* {{cite journal|和書|author1=加藤 和子|author2=千田 真規子|author4=松本 睦子|author5=土屋 京子|author6=成田 亮子|author7=宇和川 小百合|author8=色川 木綿子|title=本学学生の家庭における世代間にみた行事食の現状について|others=赤石 記子、佐藤 久美、長尾 慶子|journal=日本調理科学会大会研究発表要旨集|publisher=日本調理科学会|year=2010|number=22|ref={{harvid|加藤、千田ほか|2010}}|pages=146|NCID=1390001205691156736|DOI=10.11402/ajscs.22.0.146.0}}。
**重陽の節句に菊酒やご飯を食した経験のある人は、学生も親世代も1%程度([[東京家政大学]]家政学部)。
* {{cite journal|和書|author=許, 曼麗|title=重陽の詩歌 : 詩語、歌語と行事をめぐって|journal=慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション|issn=0911-7229|publisher=慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会|date=2005|volume=35|ref{{harvid|許|2005}}|pages=1-28 (176-149)|ncid=1050282812370609920}}
* {{cite book|和書|title=中国古代の年中行事|volume=3冊(秋)|author=中村裕一|author-link=中村裕一|location=東京 |publisher= 汲古書院|year=2010|ref={{harvid|中村|2010}}|pages=682-754}}
* {{cite journal|和書|author=西脇 隆夫|title=重陽節の「登高」について|journal=比較民俗学会報|issn=1343-5965|publisher=比較民俗学会|date=2015-07|volume=35|number=4|ref={{harvid|西脇|2015}}|pages=1-9|ncid=1523388080504856704}}掲載誌別題『Journal of comparative folklore』。
=== 関連資料 ===
発行年順。<!-- 脚注に使う場合は、{{tl:Harvid|[執筆者名]|[発行年]}}|page=[掲載ページ]を{{tl:Harv'''nb'''|[執筆者名]|[発行年]|[掲載ページ]}}に書き換え、refタグで挟んでお使いください。 -->
* 陶野文明「北京歳時記 重陽の季節、菊酒を酌み 詩人たちを想う」『Decide = 決断』第21巻第6号、サバイバル出版、2003年10月、p.58-62。{{OCLC|1101649573}}、{{ISSN|0911-291X}}。掲載誌副題『business world & Chinese survey : magazine for decisionmakers』
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}<!-- 画面幅に合わせ30em単位で段組み。 -->
== 関連項目 ==
* [[敬老の日]]
* [[塙保己一|塙 保己一]]『群書類從』編者
* [[林羅山|林 羅山]]『庖丁書録』撰者
*
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
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[[Category:節句]]
[[Category:9月]]
[[Category:旧暦9月]]
[[Category:花に関する催事]]
[[Category:秋の季語]]
[[Category:中国の年中行事]]
[[Category:祖先崇拝]]
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紀元前287年
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'''紀元前287年'''(きげんぜん287ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[甲戌]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]374年
** [[孝霊天皇]]4年
* [[中国]]
** [[周]] - [[赧王]]28年
** [[秦]] - [[昭襄王 (秦)|昭襄王]]20年
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** [[趙 (戦国)|趙]] - [[恵文王 (趙)|恵文王]]12年
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* [[朝鮮]]
** [[檀君紀元|檀紀]]2047年
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 258年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== 共和政ローマ ===
* [[共和政ローマ]]において、[[独裁官]]クィントゥス・ホルテンシウスによって[[ホルテンシウス法]]が制定され、[[平民会]]の決議は[[元老院 (ローマ)|元老院]]の承認がなくとも法となり、全市民を拘束することが定められた。これによって、100年以上続いてきたローマ国内における貴族([[パトリキ]])と平民([[プレブス]])との身分闘争には終止符が打たれた<ref>「カラー世界史百科」p79 平凡社 1978年4月26日初版第1刷</ref>。
=== 中国 ===
* [[秦]]が[[魏 (戦国)|魏]]を攻撃し、新垣と曲陽を陥落させた。
== 誕生 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アルキメデス]]、[[古代ギリシア]]の[[数学者]]、[[物理学者]]、[[技術者]]、[[発明家]]、[[天文学者]](+ [[紀元前212年]])
== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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紀元前212年
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紀元前212年(きげんぜん212ねん)
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[[紀元前]]'''212年'''(きげんぜん212ねん)
== 他の紀年法 ==
* [[干支]] : [[己丑]]
* [[日本]]
** [[皇紀]]449年
** [[孝元天皇]]3年
* [[中国]] : [[秦朝|秦]] - [[始皇帝|始皇]]35年
* [[朝鮮]] :
* [[ベトナム]] :
* [[仏滅紀元]] : 333年
* [[ユダヤ暦]] :
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== できごと ==
=== 中国 ===
* [[秦朝|秦]]の[[始皇帝]]が[[蒙恬]]に命じて九原から雲陽宮まで山を切り崩し谷を埋めさせ1800里の直道を建設させた。
* 始皇帝は[[渭水]]の南の[[上林苑]]の中に朝宮を建造する計画を建て、その前殿として[[阿房宮]]を建設させた。阿房宮や[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|驪山陵]]の建造のために囚人70万人が動員された。
* 不老不死の仙薬を作るよう命じられていた侯生と盧生が逃亡し、激怒した始皇帝により[[坑儒]]が行われた。
* 始皇帝の長男の[[扶蘇]]が坑儒を諫めたところ、始皇帝は怒って蒙恬の軍を監督させるべく北方の[[上郡]]に送った。
== 誕生 ==
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== 死去 ==
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<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官)|アッピウス・クラウディウス・プルケル]]、[[第二次ポエニ戦争]]期の[[共和政ローマ]]の[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員
* [[アルキメデス]]、[[古代ギリシア]]の[[数学者]]、[[物理学者]]、[[技術者]]、[[発明家]]、[[天文学者]](* [[紀元前287年]])
== 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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<!-- == 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
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プリント基板
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プリント基板(プリントきばん、短縮形PWB, PCB)とは、基板の一種で、以下のふたつをまとめて指す総称。プリント基板は、電子部品の支持体であり、電子部品が電気的に相互に接続されている担体である。印刷を用いて作られるため、「印刷」回路基板と呼ばれている。
オーストリア人の発明家パウル・アイスラー(Paul Eisler)が考案した配線手法である。日本においては1936年(昭和11年)に成立した日本初のプリント配線板の特許が起源となる。集積回路、抵抗器、コンデンサー等の多数の電子部品を表面に固定し、その部品間を配線で接続することで電子回路を構成する板状またはフィルム状の部品。狭義には部品を含まない基板だけを指すが、広義には基板に電子部品を実装した状態も含む。主に、基材に対して絶縁性のある樹脂を含浸した基板上に、銅箔など導電体で回路(パターン)配線を構成する。いわゆるプリンテッドエレクトロニクスの一種であり、スクリーン印刷、フレキソ印刷、グラビア印刷、インクジェット、オフセット印刷など様々な印刷技術が駆使されている。
用語はJIS規格のJIS C 5603で以下のように定義されている。また、その参照元であるIECが制定したIEC 60194でも同様である。
これによるとプリント配線板(もしくはプリント板)が「電子部品がはんだ付けされておらず、配線だけの状態のもの」(ベアボード)、プリント回路基板(もしくはプリント回路実装品)が「電子部品がはんだ付けされて、電子回路として動作するようになったもの」と定義されることになる。実際にはプリント配線板のことをプリント基板、または単に基板と呼ぶ。生板(なまいた)、生基板(なまきばん)などの呼称もあるがこれは俗称である。プリント回路板のことはユニット、ボード、モジュール、パッケージ、アッシーなどの別名をあてることも多い。また、JISでの用語が示すとおり日本語における漢字表記は基板であり、基盤は誤りである。
同様に英文でも頭文字をとってPWBが基板単体、PCBが基板に部品を実装した物を指すことになるが、明確に使い分けをする場合も有る一方、混同して使用される、もしくは部品の実装の有無に関わらず一方のみを使用する例も有る。PCBは有害物質「ポリ塩化ビフェニル」の略語PCBとの混同を受けることが有る。
またプリント基板に関する標準規格は、IPC(Association Connecting Electronics Industries)、JPCA(日本電子回路工業会)、KPCA(韓国電子回路産業協会)、TPCA(台湾)、CPCA(中国)などがある。
世界全体のプリント基板メーカーは2014年時点で約2500社あり、このうち中国メーカーは1200社以上、次いで韓国・台湾・日本メーカーでほとんどのシェアを占めている。中国は世界最大のプリント基板生産地となっている。2012年のプリント基板の世界市場は約4兆円、プリント基板材料は約2兆円、およびその実装関連製品・装置は約2兆円規模となっている。
プリント基板は次のように3つに分類される
フレキシブル基板は薄くて柔軟性があることから、機器に組み込む際に自由度が高く、小型の電子機器などに使われている。コネクタ間を配線するためのフィルム状配線材も機能的にはケーブルであるがフレキシブル基板と呼ばれることがある。単にプリント基板と呼ぶ場合にはリジッド基板を指すことがほとんどである。
リジッド基板は曲げ変形しにくい板を指し、一般的には外力によって材料が変形しない能力を指す。次にリジッド基板のより詳細な分類を記す。
正式には「フレキシブル配線基板」(Flexible PWB) と呼ばれ、薄いポリイミドやポリエステルなどのフィルムで出来た基材の上に、薄い銅箔の配線パターンを持ち、表面を保護のための絶縁フィルムなどで被覆された配線基板。(業界俗別名「セミの羽」)
自由に折り曲げることが出来るほど薄くて柔軟であり、外形や中抜きも自由な形に比較的容易に加工できる。このため小型で外形が複雑なわりに多くの部品を詰め込む必要がある製品への使用が多い。また、複数のリジット基板間を接続する「ハーネス・ケーブル」の代わりに使われることもある。
最後の2点によってそのままではヒートシンクが使えずに発熱の大きな部品は実装が困難となる場合があるが、基板の柔軟性を利用して筐体などを放熱器代わりにする方法がある。 これらの問題点を解決して、硬い基板と柔らかい基板の両方の長所を得られる、リジッドフレキシブル混成基板がある。
プリント基板設計は、他の回路との相互接続、部品配置、機能、電気ノイズ、完成品の大まかな寸法などを考慮して誤差・公差解析を行い、これら要件に従って回路図・ネットリスト(Netlist)を作成する。
次に使用する材料・部品を記したBOM (部品表)を作る。材料の選択は、動作環境、耐用年数を考慮し、インピーダンス整合を考慮する。実装する電子部品の選択は、スペック・入手性・予算・サイズなどを考慮する。
このほかドリルファイルなど製造するためのデータを盛り込まれ、基板の設計者と製造業者との間でやりとりされるデータは、ガーバーデータと呼ばれる。ガーバーファイルの出力には「Quadcept」、「EAGLE」などのCAD・EDAツールが用いられる。市販のCADツールは、設計データがデザインルール(設計規則)に違反していないかを検証するためデザインルールチェック(DRC, Design rule checking)などの機能を有する(en:Comparison of EDA software参照)。
製造性考慮設計(いわゆるDFM=Design for manufacturability)や動作温度範囲における熱解析においては、CAE・有限要素解析(FEM)などのシミュレーションが活用される(ダッソー・システムズ社のAbaqusなど)。
このようなプロセスで設計された試作の検証を繰り返し、最適化を図る。
フローはんだは端子が狭ピッチ化したICの実装が困難であるなどの欠点があるが、リード部品を同時にはんだ付けできるため、リフロー・フロー工程を適宜組合わせて用いたり、工程に適した基板設計が行なわれる。1990年代以降の高密度実装の技術では主流である。表面実装用部品を (Surface Mounting Device、SMD) と呼ぶ。代表的なSMDとしてチップ部品、IC、LSIのSOP、QFP、BGAなどのパッケージがある。
全面に銅箔を張られた基板から、不要な部分を取り除いて回路を残す方法。
絶縁体基板に回路パターンを後から付け加える方法。銅パターンを形成したくない部分にレジスト(めっきレジスト)を形成し、レジストのない部分に電解または無電解めっきを施すことでパターンを形成する。アディティブ法にはフルアディティブ法、パートリーアディティブ法、セミアディティブ法などがある。日立化成、日立化成エレクトロニクス、イビデンなどはフルアディティブ法を採用している(なお、これらの企業はサブトラクティブ法による製造も行っている)。
プリント基板は、生産性を考慮して1m四方や1.2m四方程度の1枚の大きさの基板に複数の基板をまとめて面付けして製造されることが多い。あらかじめ基板には、各基板間にNCドリルやVカットで切れ目を入れておき、完成後に折ってそれぞれを分離する。切断時には部品の実装箇所や半田の状態によっては切断時のストレスによってクラックが発生し電気的接続が切れてしまう場合や部品の破損、高周波回路ではインピーダンスの変化にもつながるため、ストレスを極力与えずに切断する際には専用の基板分割機を用いることが望ましい。
デジタル回路でも低速の動作であればプリント基板の特性はあまり配慮の必要がいらないが、高速の動作が必要な高速デジタル回路ではプリント配線のパターンが理想的な銅線ではないことを理解して、銅配線パターンが作るインピーダンスへの配慮が必要となる。(シグナル・インテグリティ) 具体的には信号の立ち上がりや立ち下りが1ns以下で配線長が5cm以上の場合に交流的な影響が出る可能性を考慮する必要がある(分布定数回路)。
回路欠陥のほかはんだ、レジストなどの欠陥によって様々な導通・絶縁の不具合をもたらす。この分野の詳細は電子回路工学、集積回路工学、Failure modes of electronicsを参照。
|
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"text": "プリント基板(プリントきばん、短縮形PWB, PCB)とは、基板の一種で、以下のふたつをまとめて指す総称。プリント基板は、電子部品の支持体であり、電子部品が電気的に相互に接続されている担体である。印刷を用いて作られるため、「印刷」回路基板と呼ばれている。",
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"text": "オーストリア人の発明家パウル・アイスラー(Paul Eisler)が考案した配線手法である。日本においては1936年(昭和11年)に成立した日本初のプリント配線板の特許が起源となる。集積回路、抵抗器、コンデンサー等の多数の電子部品を表面に固定し、その部品間を配線で接続することで電子回路を構成する板状またはフィルム状の部品。狭義には部品を含まない基板だけを指すが、広義には基板に電子部品を実装した状態も含む。主に、基材に対して絶縁性のある樹脂を含浸した基板上に、銅箔など導電体で回路(パターン)配線を構成する。いわゆるプリンテッドエレクトロニクスの一種であり、スクリーン印刷、フレキソ印刷、グラビア印刷、インクジェット、オフセット印刷など様々な印刷技術が駆使されている。",
"title": "概要"
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"text": "用語はJIS規格のJIS C 5603で以下のように定義されている。また、その参照元であるIECが制定したIEC 60194でも同様である。",
"title": "概要"
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"text": "これによるとプリント配線板(もしくはプリント板)が「電子部品がはんだ付けされておらず、配線だけの状態のもの」(ベアボード)、プリント回路基板(もしくはプリント回路実装品)が「電子部品がはんだ付けされて、電子回路として動作するようになったもの」と定義されることになる。実際にはプリント配線板のことをプリント基板、または単に基板と呼ぶ。生板(なまいた)、生基板(なまきばん)などの呼称もあるがこれは俗称である。プリント回路板のことはユニット、ボード、モジュール、パッケージ、アッシーなどの別名をあてることも多い。また、JISでの用語が示すとおり日本語における漢字表記は基板であり、基盤は誤りである。",
"title": "概要"
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"text": "同様に英文でも頭文字をとってPWBが基板単体、PCBが基板に部品を実装した物を指すことになるが、明確に使い分けをする場合も有る一方、混同して使用される、もしくは部品の実装の有無に関わらず一方のみを使用する例も有る。PCBは有害物質「ポリ塩化ビフェニル」の略語PCBとの混同を受けることが有る。",
"title": "概要"
},
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"text": "またプリント基板に関する標準規格は、IPC(Association Connecting Electronics Industries)、JPCA(日本電子回路工業会)、KPCA(韓国電子回路産業協会)、TPCA(台湾)、CPCA(中国)などがある。",
"title": "概要"
},
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"text": "世界全体のプリント基板メーカーは2014年時点で約2500社あり、このうち中国メーカーは1200社以上、次いで韓国・台湾・日本メーカーでほとんどのシェアを占めている。中国は世界最大のプリント基板生産地となっている。2012年のプリント基板の世界市場は約4兆円、プリント基板材料は約2兆円、およびその実装関連製品・装置は約2兆円規模となっている。",
"title": "グローバル市場の状況"
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"text": "プリント基板は次のように3つに分類される",
"title": "分類"
},
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"text": "フレキシブル基板は薄くて柔軟性があることから、機器に組み込む際に自由度が高く、小型の電子機器などに使われている。コネクタ間を配線するためのフィルム状配線材も機能的にはケーブルであるがフレキシブル基板と呼ばれることがある。単にプリント基板と呼ぶ場合にはリジッド基板を指すことがほとんどである。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "リジッド基板は曲げ変形しにくい板を指し、一般的には外力によって材料が変形しない能力を指す。次にリジッド基板のより詳細な分類を記す。",
"title": "リジッド基板"
},
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"text": "正式には「フレキシブル配線基板」(Flexible PWB) と呼ばれ、薄いポリイミドやポリエステルなどのフィルムで出来た基材の上に、薄い銅箔の配線パターンを持ち、表面を保護のための絶縁フィルムなどで被覆された配線基板。(業界俗別名「セミの羽」)",
"title": "フレキシブル基板"
},
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"text": "自由に折り曲げることが出来るほど薄くて柔軟であり、外形や中抜きも自由な形に比較的容易に加工できる。このため小型で外形が複雑なわりに多くの部品を詰め込む必要がある製品への使用が多い。また、複数のリジット基板間を接続する「ハーネス・ケーブル」の代わりに使われることもある。",
"title": "フレキシブル基板"
},
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"text": "最後の2点によってそのままではヒートシンクが使えずに発熱の大きな部品は実装が困難となる場合があるが、基板の柔軟性を利用して筐体などを放熱器代わりにする方法がある。 これらの問題点を解決して、硬い基板と柔らかい基板の両方の長所を得られる、リジッドフレキシブル混成基板がある。",
"title": "フレキシブル基板"
},
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"text": "プリント基板設計は、他の回路との相互接続、部品配置、機能、電気ノイズ、完成品の大まかな寸法などを考慮して誤差・公差解析を行い、これら要件に従って回路図・ネットリスト(Netlist)を作成する。",
"title": "設計に関する技術"
},
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"text": "次に使用する材料・部品を記したBOM (部品表)を作る。材料の選択は、動作環境、耐用年数を考慮し、インピーダンス整合を考慮する。実装する電子部品の選択は、スペック・入手性・予算・サイズなどを考慮する。",
"title": "設計に関する技術"
},
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"text": "このほかドリルファイルなど製造するためのデータを盛り込まれ、基板の設計者と製造業者との間でやりとりされるデータは、ガーバーデータと呼ばれる。ガーバーファイルの出力には「Quadcept」、「EAGLE」などのCAD・EDAツールが用いられる。市販のCADツールは、設計データがデザインルール(設計規則)に違反していないかを検証するためデザインルールチェック(DRC, Design rule checking)などの機能を有する(en:Comparison of EDA software参照)。",
"title": "設計に関する技術"
},
{
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"text": "製造性考慮設計(いわゆるDFM=Design for manufacturability)や動作温度範囲における熱解析においては、CAE・有限要素解析(FEM)などのシミュレーションが活用される(ダッソー・システムズ社のAbaqusなど)。",
"title": "設計に関する技術"
},
{
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"text": "このようなプロセスで設計された試作の検証を繰り返し、最適化を図る。",
"title": "設計に関する技術"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "フローはんだは端子が狭ピッチ化したICの実装が困難であるなどの欠点があるが、リード部品を同時にはんだ付けできるため、リフロー・フロー工程を適宜組合わせて用いたり、工程に適した基板設計が行なわれる。1990年代以降の高密度実装の技術では主流である。表面実装用部品を (Surface Mounting Device、SMD) と呼ぶ。代表的なSMDとしてチップ部品、IC、LSIのSOP、QFP、BGAなどのパッケージがある。",
"title": "基板実装に関する技術"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "全面に銅箔を張られた基板から、不要な部分を取り除いて回路を残す方法。",
"title": "回路パターンの作成法"
},
{
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"text": "絶縁体基板に回路パターンを後から付け加える方法。銅パターンを形成したくない部分にレジスト(めっきレジスト)を形成し、レジストのない部分に電解または無電解めっきを施すことでパターンを形成する。アディティブ法にはフルアディティブ法、パートリーアディティブ法、セミアディティブ法などがある。日立化成、日立化成エレクトロニクス、イビデンなどはフルアディティブ法を採用している(なお、これらの企業はサブトラクティブ法による製造も行っている)。",
"title": "回路パターンの作成法"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "プリント基板は、生産性を考慮して1m四方や1.2m四方程度の1枚の大きさの基板に複数の基板をまとめて面付けして製造されることが多い。あらかじめ基板には、各基板間にNCドリルやVカットで切れ目を入れておき、完成後に折ってそれぞれを分離する。切断時には部品の実装箇所や半田の状態によっては切断時のストレスによってクラックが発生し電気的接続が切れてしまう場合や部品の破損、高周波回路ではインピーダンスの変化にもつながるため、ストレスを極力与えずに切断する際には専用の基板分割機を用いることが望ましい。",
"title": "回路パターンの作成法"
},
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"text": "",
"title": "電気的特性"
},
{
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"text": "デジタル回路でも低速の動作であればプリント基板の特性はあまり配慮の必要がいらないが、高速の動作が必要な高速デジタル回路ではプリント配線のパターンが理想的な銅線ではないことを理解して、銅配線パターンが作るインピーダンスへの配慮が必要となる。(シグナル・インテグリティ) 具体的には信号の立ち上がりや立ち下りが1ns以下で配線長が5cm以上の場合に交流的な影響が出る可能性を考慮する必要がある(分布定数回路)。",
"title": "電気的特性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "回路欠陥のほかはんだ、レジストなどの欠陥によって様々な導通・絶縁の不具合をもたらす。この分野の詳細は電子回路工学、集積回路工学、Failure modes of electronicsを参照。",
"title": "主な欠陥(不良モード)"
}
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プリント基板とは、基板の一種で、以下のふたつをまとめて指す総称。プリント基板は、電子部品の支持体であり、電子部品が電気的に相互に接続されている担体である。印刷を用いて作られるため、「印刷」回路基板と呼ばれている。 絶縁体でできた板の上や内部に、導体の配線が施された(だけの)もの。電子部品が取り付けられる前の状態。プリント配線板と呼ばれる。
(上記の板に)電子部品がはんだ付けされ、電子回路として動作するようになったもの。プリント回路板と呼ばれる。電気製品の主要な部品の1つである。
|
[[ファイル:SEG DVD 430 - Printed circuit board-4276.jpg|代替文=|サムネイル|240x240ピクセル|[[DVDプレーヤー]]内のプリント基板。緑色のプリント基板が多用されるのは製造、検品時の目の疲れを軽減できるためであると言われる。]]
'''プリント基板'''(プリントきばん、短縮形'''[[:en:Printed circuit board|PWB, PCB]]''')とは、[[基板]]の一種で、以下のふたつをまとめて指す総称。プリント基板は、電子部品の支持体であり、電子部品が電気的に相互に接続されている担体である。印刷を用いて作られるため、「印刷」回路基板と呼ばれている。
* [[絶縁体]]でできた[[wikt:板|板]]の上や内部に、[[電気伝導体|導体]]の配線が施された(だけの)もの。電子部品が取り付けられる前の状態。'''プリント配線板'''('''PWB''' = printed wiring board)と呼ばれる。
*(上記の板に)[[電子部品]]が[[はんだ付け]]され、[[電子回路]]として動作するようになったもの。'''プリント回路板'''('''PCB''' = printed circuit board)と呼ばれる。電気製品の主要な部品の1つである。
== 概要 ==
[[オーストリア人]]の発明家[[:en:Paul Eisler|パウル・アイスラー(Paul Eisler)]]が考案した配線手法である。[[日本]]においては[[1936年]](昭和11年)に成立した日本初のプリント配線板の特許が起源となる<ref>[http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=104510511002&c=&y1=&y2=&id=&pref=&city=&org=&word=%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E6%B3%95%E5%90%B9%E7%9D%80%E9%85%8D%E7%B7%9A%E6%96%B9%E6%B3%95&p=2 特許第119384号「メタリコン法吹着配線方法」、産業技術史データベース、産業技術史資料情報センター]</ref><ref>[http://www.muse.or.jp/uec_muse7/dawn/dawn01.html 世界最初のプリント配線の回路]</ref>。[[集積回路]]、[[抵抗器]]、[[コンデンサー]]等の多数の電子部品を表面に固定し、その部品間を配線で接続することで[[電子回路]]を構成する板状またはフィルム状の部品。狭義には部品を含まない基板だけを指すが、広義には基板に電子部品を実装した状態も含む。主に、基材に対して絶縁性のある樹脂を含浸した基板上に、銅箔など導電体で回路(パターン)配線を構成する。いわゆる'''[[プリンテッドエレクトロニクス]]'''の一種であり、[[シルクスクリーン|スクリーン印刷]]、[[フレキソ|フレキソ印刷]]、[[グラビア印刷]]、[[インクジェットプリンター|インクジェット]]、[[オフセット印刷]]など様々な[[印刷|印刷技術]]が駆使されている。
用語は[[日本工業規格|JIS規格]]のJIS C 5603で以下のように定義されている。また、その参照元である[[国際電気標準会議|IEC]]が制定したIEC 60194でも同様である。
; プリント回路 (printed circuits)
: プリント配線と、プリント部品及び(又は)搭載部品とから構成される回路。
; プリント配線 (printed wiring)
: [[回路設計]]に基づいて、部品間を接続するために導体パターンを絶縁基板の表面又は表面とその内部に、プリントによって形成する配線又はその技術。
; プリント回路基板 (printed circuit board)
: プリント回路を形成した板。プリント回路実装品 (printed circuit assembly) ともいう。
; プリント配線基板 (printed wiring board)
: プリント配線を形成した板。
; プリント板 (printed board)
: プリント配線板の略称。
これによるとプリント配線板(もしくはプリント板)が「電子部品が[[はんだ]]付けされておらず、配線だけの状態のもの」(ベアボード)、プリント回路基板(もしくはプリント回路実装品)が「電子部品がはんだ付けされて、電子回路として動作するようになったもの」と定義されることになる。実際にはプリント配線板のことをプリント基板、または単に基板と呼ぶ。生板(なまいた)、生基板(なまきばん)などの呼称もあるがこれは俗称である。プリント回路板のことはユニット、ボード、モジュール、パッケージ、[[ASSY|アッシー]]などの別名をあてることも多い。また、JISでの用語が示すとおり日本語における漢字表記は基'''板'''であり、基'''盤'''は誤りである。
同様に英文でも頭文字をとってPWBが基板単体、PCBが基板に部品を実装した物を指すことになるが、明確に使い分けをする場合も有る一方、混同して使用される、もしくは部品の実装の有無に関わらず一方のみを使用する例も有る。PCBは有害物質「[[ポリ塩化ビフェニル]]」の略語PCBとの混同を受けることが有る<ref>{{Cite web|url=http://www.ami.ac.uk/courses/topics/0100_gls/|title=Circuit board or wiring board?|publisher=[[:en:University of Bolton|University of Bolton]]|language=英語|accessdate=2008-11-16}}</ref>。
またプリント基板に関する標準規格は、'''[[IPC (エレクトロニクス)|IPC]]([[:en:IPC (electronics)|Association Connecting Electronics Industries]])'''、'''JPCA(日本電子回路工業会)'''、'''KPCA(韓国電子回路産業協会)'''、'''TPCA(台湾)、CPCA(中国)'''などがある。
== グローバル市場の状況 ==
世界全体のプリント基板メーカーは2014年時点で約2500社あり、このうち中国メーカーは1200社以上、次いで韓国・台湾・日本メーカーでほとんどのシェアを占めている。中国は世界最大のプリント基板生産地となっている。2012年のプリント基板の世界市場は約4兆円、プリント基板材料は約2兆円、およびその実装関連製品・装置は約2兆円規模となっている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.group.fuji-keizai.co.jp/press/pdf/131023_13078.pdf|title=世界の半導体実装関連市場(富士キメラ総研)|accessdate=2014-03-14}}</ref>。
== 分類 ==
プリント基板は次のように3つに分類される
; リジッド基板
: 柔軟性のない絶縁体基材を用いたもの(固いを表す:Rigidから)
; [[フレキシブルプリント基板|フレキシブル基板]](FPC)
: 絶縁体基材に薄く柔軟性のある材料を用いたもの
; [[リジッドフレキシブル基板]](Flex-Rigid/フレックスリジッド)
: 硬質な材料と薄く柔軟性のある材料とを複合したもの
フレキシブル基板は薄くて柔軟性があることから、機器に組み込む際に自由度が高く、小型の電子機器などに使われている。コネクタ間を配線するためのフィルム状配線材も機能的には[[ケーブル]]であるがフレキシブル基板と呼ばれることがある。単にプリント基板と呼ぶ場合にはリジッド基板を指すことがほとんどである。
== リジッド基板 ==
'''[https://www.ipcb.jp/pcb-tech/412.html リジッド基板]'''は曲げ変形しにくい板を指し、一般的には外力によって材料が変形しない能力を指す。次にリジッド基板のより詳細な分類を記す。
=== 組成による分類 ===
; 紙フェノール基板
: [[紙]]に[[フェノール樹脂]]を含浸したもの。別名[[ベークライト]]基板(ベーク基板)。安価で加工性が良いので、プレスによる打ち抜きで民生機器用基板を大量生産する際に使われる。反面、機械的強度が低く、反りも生じやすい。通常片面基板として利用される。
; 紙エポキシ基板
: 紙に[[エポキシ樹脂]]を含浸したもの。紙フェノールとガラスエポキシの中間的な特徴を持つ。通常片面基板として利用される。
; ガラスコンポジット基板
: 切り揃えた[[ガラス繊維]]を重ねて、[[エポキシ樹脂]]を含浸したもの。安価な両面基板として利用される。
; [[FR4|ガラスエポキシ基板]]
: [[ガラス繊維]]製の布(クロス)を重ねたものに、エポキシ樹脂を含浸したもの。電気的特性・機械的特性ともに優れている。上記の基板と比較して高価ではあるが、近年の需要増加により、価格は下がる傾向にある。
: [[表面実装]]用基板として最も一般的に使われている。両面基板以上の多層基板に利用される。
; テフロン基板
: 絶縁材に[[テフロン]]を用いたもの。高周波特性が良好なため[[極超短波|UHF]]、[[マイクロ波|SHF]]帯の回路に用いられるが、非常に高価である。近年、半導体の性能向上によりガラスエポキシ基板でも所望の性能を得る事が可能となったため、民生品で使われる事は少なくなっている。
; アルミナ(セラミックス)基板
: グリーンシートと呼ばれる[[アルミナ]](酸化アルミニウム)に[[タングステン]]などでパターンを形成/積層したものを焼成して製造する[[ファインセラミックス]]の一種。色は白や灰色などがある。高周波特性や[[熱伝導率]]に優れるため、主に[[極超短波|UHF]]、[[マイクロ波|SHF]]帯のパワー回路で使用される事が多い。高価である。
; [[低温同時焼成セラミックス]] (LTCC) 基板
: アルミナ基板の高価格、高温で焼結させるために配線に銅が使用できないといった問題を解決した基板。ガラスにセラミックを混合して800℃の低温で焼成する。そのため配線に銅が使用可能となった。熱膨張率が小さい、絶縁特性がよいという特性を生かして基板内部にコイル、コンデンサ等の受動部品を製作する事も可能。高周波回路のサブストレート、高周波モジュールの基板としてアルミナ基板に置き換わっている。熱伝導率はアルミナ基板より劣る。
; コンポジット基板
:ガラスエポキシ基板を中心として両面には紙エポキシ基板を形成したもの。ガラスエポキシ基板のみに比べて加工しやすく、価格が安い。また近年では両面にテフロンを使用したコンポジット基板が高周波回路用に作られている。テフロン基板より安価で、ガラスエポキシ基板より周波数特性が優れている。
; ハロゲンフリー基板
: ガラスエポキシ基板と構造は同じだが[[フッ素]]、[[塩素]]、[[臭素]]、ヨウ素などのハロゲン系[[難燃剤]]を含まない多層基板。[[リサイクル]]焼却時に発生する有毒物質を抑えることができる。また、同時にハロゲンフリーのレジストを使用した場合、基板は青っぽくなる。ただし、緑色のハロゲンフリーのレジストも存在する。
=== 構造による分類 ===
; 片面基板
: 片面のみにパターンがあるもの。1層基板。
; 両面基板
: 両面にパターンがあるもの。2層基板。
; 多層基板
:[[ファイル:Bga und via IMGP4531 wp.jpg|サムネイル|236x236ピクセル|多層基板の断面図]]ウエハース状に絶縁体とパターンを積み重ねたもの。部品の実装密度が上がり、回路結線が複雑になると両面では回路配線を収容しきれないため[[多層性|層]]を増やすことで対応する。表面以外の層は直視できないため保守性は劣る。このため4層基板の場合、目視しやすくするため、内側の2層(内層)を電源層およびグラウンド層として用い、信号線は表面の2層(外層)に配置する場合が多い。高密度実装が要求される機器では6層や8層の基板もしばしば採用されるが、各層を平等に扱う場合と4層で収容し切れなかった信号配線を追加層に順次収容するように使う場合とがある。内層のある層を電源層やグラウンド層として使うことが多い。高性能コンピュータなどでは数十層におよぶ場合もある。
: 多層板の種類は大きく分類すると、[[:en:Through-hole technology|スルーホール]]で層間の回路を接続する貫通多層板、[[:en:Via (electronics)|Interstitial Via Hole (IVH)]] で層間を接続するIVH多層基板、[[ビルドアップ工法]]により作製されるビルドアップ基板に分けられる。貫通多層板は[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]用[[マザーボード]]などに使用される。多層基板は[[ビルドアップ工法]]など、特別な装置や工程を必要とするため、専門メーカーによって製造される。片面基板・両面基板は特別な工程は必要としないため、電子工作愛好家が自家製作するための材料も市販されている。
; ビルドアップ基板
: {{main|ビルドアップ基板}}
: 逐次積層法により一層ずつ層を積み上げ、[[レーザー]]加工などにより直径100μm程度の微細な層間接続[[:en:Via (electronics)|ビア(Via)]]を形成した、配線密度の高い多層配線板。日本[[IBM]]が開発した、感光性樹脂に[[フォトリソグラフィ]]で穴あけを行うSLC (Surface Laminar Circuit) 基板が先鞭をつけたとされる(現在は[[京セラサーキットソリューションズ]]に移管)。海外ではhigh density interconnect (HDI)、層間接続ビアはMICROVIA(マイクロビア、マイクロバイア)と呼ばれることが多い。[[携帯電話]]や[[デジタルカメラ]]など実装密度が高く、薄型化が要求される携帯機器への採用が進んでいる。代表的な製品としては[[パナソニックエレクトロニックデバイス]]のALIVHや[[イビデン]]のFVSS、[[日本シイエムケイ]]のPPBU、[[東芝]]が開発したB2it(後に[[大日本印刷]]と合弁会社を設立、現在は大日本印刷に移管)など多くの企業で様々な方式がある。ビルドアップ基板は基本的に一層ずつ積層を行い、その都度ビア形成、回路形成を行う必要があるため層数が増えれば増えるほどリードタイムが伸び製造コストがかかる欠点がある。この問題を克服するために全層を一度に積層してしまう一括積層法の開発が進んでいる。一括積層法の代表的なものとしては[[デンソー]]のPALAPや[[住友ベークライト]]のS-Bicなどがある。
== フレキシブル基板 ==
正式には「[[フレキシブルプリント基板|フレキシブル配線基板]]」(Flexible PWB) と呼ばれ、薄い[[ポリイミド]]や[[ポリエステル]]などのフィルムで出来た基材の上に、薄い銅箔の配線パターンを持ち、表面を保護のための絶縁フィルムなどで被覆された配線基板。(業界俗別名「セミの羽」)
=== 特長 ===
自由に折り曲げることが出来るほど薄くて柔軟であり、外形や中抜きも自由な形に比較的容易に加工できる。このため小型で外形が複雑なわりに多くの部品を詰め込む必要がある製品への使用が多い。また、複数のリジット基板間を接続する「ハーネス・ケーブル」の代わりに使われることもある。
=== 問題点と不適な用途 ===
* 絶縁層と銅箔との接着性が比較的弱いため、シールド層が作りにくい
* 曲げるためには、多層化は向いていない
* 機械的強度が弱いため、重い部品には別に支えが必要になる
* 熱特性が悪い
最後の2点によってそのままでは[[ヒートシンク]]が使えずに発熱の大きな部品は実装が困難となる場合があるが、基板の柔軟性を利用して筐体などを放熱器代わりにする方法がある。
これらの問題点を解決して、硬い基板と柔らかい基板の両方の長所を得られる、リジッドフレキシブル混成基板がある<ref name="見てわかる高密度実装技術"/>。
== 設計に関する技術 ==
[[ファイル:PCB screenshot wiki.png|thumb|240px|[[CAD]]を用いたプリント基板設計の様子]]
プリント基板設計は、他の回路との相互接続、部品配置、機能、電気ノイズ、完成品の大まかな寸法などを考慮して[[誤差]]・[[公差|公差解析]]を行い、これら要件に従って回路図・[[ハードウェア記述言語|ネットリスト]]([[:en:Netlist|Netlist]])を作成する。
次に使用する材料・部品を記した[[BOM (部品表)]]を作る。材料の選択は、動作環境、耐用年数を考慮し、[[インピーダンス整合]]を考慮する。実装する電子部品の選択は、スペック・入手性・予算・サイズなどを考慮する。
このほかドリルファイルなど製造するためのデータを盛り込まれ、基板の設計者と製造業者との間でやりとりされるデータは、[[ガーバーフォーマット|ガーバーデータ]]と呼ばれる。ガーバーファイルの出力には「[[Quadcept]]」、「[[:en:EAGLE (program)|EAGLE]]」などの[[CAD]]・[[EDA (半導体)|EDA]]ツールが用いられる。市販のCADツールは、設計データがデザインルール(設計規則)に違反していないかを検証するため[[デザインルールチェック]](DRC, [[:en:Design rule checking|Design rule checking]])などの機能を有する([[:en:Comparison of EDA software]]参照)。
製造性考慮設計(いわゆる[[:en:Design for manufacturability|DFM=Design for manufacturability]])や動作温度範囲における[[:en:Thermal_analysis#Printed_circuit_boards|熱解析]]においては、[[CAE]]・[[有限要素法|有限要素解析(FEM)]]などの[[シミュレーション]]が活用される([[ダッソー・システムズ]]社の[[Abaqus]]など)。
このようなプロセスで設計された試作の検証を繰り返し、最適化を図る。
== 基板実装に関する技術 ==
; (エッチング)レジスト
: プリント基板の製造工程において、基板を覆うように塗布あるいは貼付される物質、またはそうして形成された層のこと。役割としては、[[エッチング]]工程において、配線として残したい部分の銅に薬剤が接触しないようにする。かつてはポリアミドフィルムを貼付した後[[ドリル (工具)|ドリル]]で穴を開けるなどしていたが、最近では感光性の組成物([[フォトレジスト]])を塗布して、パターン露光、現像(→[[フォトリソグラフィ]])により、必要な部分のみを残す方法が主流である。エッチング工程の前に穴あけおよびスルーホールめっきを施している場合は、パターンを形成する部分とスルーホールめっきを保護するために両者をレジストで覆う必要があり、これをテンティング法と呼ぶ。
: またパターンやスルーホールとなる部分に、はんだ(スズ-鉛めっき)を施してこれをエッチングレジストに使用するはんだ剥離法(パターンめっき法の工程の一部)という工法もある。この工法では、最終的にはんだを剥離しないでスルーホール部のみはんだを取り除いてPWBとして使用したり、パターン上のはんだの上に直接ソルダーレジストを塗布することではんだ剥離工程を省き多少コストを低くすることも行われていたが、ソルダーレジストに凹凸が発生することや応力などによりソルダーレジストが剥がれやすいため現在は一般的ではなく、代わって全面のはんだを剥離した後にテンティング法と同様にソルダーレジストを塗布する方法が一般的となっている。
[[ファイル:OLD_SOLDER_RESIST.jpg|thumb|240px|はんだ剥離法でパターン形成後、パターン上のはんだを剥離しないでソルダーレジストを形成した例]]
; [[レジスト|ソルダーレジスト]]([[:en:Solder mask|Solder mask]])
: はんだ付けが必要な部分だけを銅箔として露出し、はんだ付けが不要な部分にはんだが付かないようにプリント板上に形成する熱硬化性エポキシ樹脂皮膜のこと。プリント板製造工程の最終段階で施工される。日本では主に緑色もしくは黄緑色のものが使われるが、海外生産品では青色や赤色その他の色も使われている。従来は緑色の顔料に塩素や臭素などの難燃性材料が含まれていたが、環境への対応としてこれらが不要な青色のレジストを用いた環境調和型([[第17族元素|ハロゲンフリー]]またはハロゲン/アンチモンフリー)のレジストが開発された。プリント配線板を焼却した際にダイオキシンなどが発生しにくいため、環境調和型プリント配線板基材と共に採用例が増えている。現在では緑色レジストでも塩素、臭素を含まないものが開発されている。なお、青色のレジストを使っていても環境調和型(ハロゲンフリーまたはハロゲン/アンチモンフリー)とは限らないので注意が必要である。
; 永久レジスト
: フルアディティブ、パートリーアディティブ工法などでは、銅パターンを形成したくない部分にレジストを形成し、電解めっきまたは無電解めっきでレジストのない部分にのみめっきを析出させる。このときのレジストはめっきレジストとして機能すると共にそれ以降は剥離せずにそのままソルダーレジストとして使用するため永久レジストと呼ぶことがある。
; エッチング
: {{main|エッチング}}
; 層間接続
[[Image:スルーホールビア ブラインドビア ベリッドビア.PNG|thumb|350px|ビアの種類 (基板の断面を横から見た図)]]
:; 貫通ビア(Through Hole Via、スルーホール・ビア)
:: プリント板の各層を接続するため、基板の全層を貫通する垂直に穿った穴の内側に導体を[[めっき]]により形成したもの。部品実装用の穴は通常、層間の接続を兼ねるが、それ以外の場所でも必要なら貫通ビアを設けて接続する。部品実装に使わずに層間接続だけの貫通ビアは、占有面積を小さくするために出来るだけ小さな穴径が要求される。めっきによる貫通ビア作成技術が確立する以前は、[[リベット|はとめ]](鳩目)を用いていた。
:; IVH (Interstitial Via Hole)
:: 通常のビアは基板を貫通するが、IVHは特定の層間のみを接続するビアである。それ以外の層にはビアが現れないため、集積度を向上させることができる。BVH(Blind via hole、ブラインド・ビア・ホール)またはBH(Buried hole、ベリッド・ホール)などと呼ぶこともある。IVHの形成方法はドリルによる穴開け、[[レーザー]]加工、[[エッチング]]加工が代表的。基板業界ではIVH多層基板といえばドリルによる穴開けタイプのことを指すことが多く、ビルドアップ基板とは区別される場合が多い。
:; アスペクト比
:: ビア・ホールの板厚()/穴径の値。めっき処理などの制約で細く長い穴は製造が困難になる。多層基板で板厚が厚い場合は、アスペクト比の制約から穴径が大きくなる。
:; マイクロ・ビア
:: 穴径の小さなビアのこと。通常のビア・ホールに比べて穴径が小さいビアを指すが、明確な定義はない。レーザーによる穴あけであるレーザー・ビアがマイクロ・ビアの加工に向いている。
:; レーザー・ビア
:: レーザーによる穴あけ。波長によって、銅に反射されるため導体層までしか穴があかないものや、全てを貫くものがある。低出力レーザーで大きく深い穴あけでは長時間の加熱で基板の信頼性が損なわれる。順次穴あけなので穴数に比例して時間がかかる。
:; フォト・ビア
:: 穴あけ以外の場所をマスクして露光、現像によって絶縁層を溶かし穴を形成するにより。その後、マスクを洗浄除去する。一括穴あけなので穴数が多くても加工時間は同じだが深い穴あけには向かない。銅を溶かさないので導体層で止まるため多層に穴あけを行なうには工夫が必要となる。
:; [[:en:Punching|パンチング]]
:: プレス機などで全てのビア・ホールを一括穴あけする。やわらかい基板に向く<ref name="見てわかる高密度実装技術">見てわかる高密度実装技術 前田真一 工業調査会。</ref>
:; [[ファインブランキングプレス]]
:: {{節スタブ}}
:; [[タレットパンチプレス]]
:: {{節スタブ}}
:; [[シェービングプレス]]
:: {{節スタブ}}
:
; [[スルーホール実装]](穴挿入部品実装)
: [[Image:アキシャル部品 ラジアル部品.PNG|thumb|120px|[[アキシャル]]部品と[[ラジアル]]部品 こういった形態の部品はリード部品と呼ばれる。]]
: スルーホールに部品リード(足)を通して部品を実装する方式。[[ラジアル]]部品、[[アキシャル]]部品、DIP、PGA、ZIPなどの[[パッケージ (電子部品)|パッケージ]]はこの方式で実装するための形態である。
; 表面実装
: 表面実装技術 (Surface Mounting Technology、'''SMT''') はプリント板に実装用の穴を設けるのではなく、基板上に部品を載せて部品実装面の表面だけのはんだ付けで部品を固定・接続する技術。
:; リフローはんだ
:: パッドの上にクリーム状のはんだを塗布し、部品を載せた後、温風や[[フロリナート]][[蒸気]]、赤外線で基板全体を加熱してはんだ付けする方法
:; フローはんだ
:: 接着剤で基板に部品を貼りつけ、加熱して溶かしたはんだの槽に基板を浸してはんだ付けする方法
フローはんだは端子が狭ピッチ化したICの実装が困難であるなどの欠点があるが、リード部品を同時にはんだ付けできるため、リフロー・フロー工程を適宜組合わせて用いたり、工程に適した基板設計が行なわれる。1990年代以降の高密度実装の技術では主流である。表面実装用部品を (Surface Mounting Device、'''SMD''') と呼ぶ。代表的なSMDとしてチップ部品、[[集積回路|IC、LSI]]のSOP、QFP、BGAなどのパッケージがある。
:
; ランド
: 元々、スルーホール実装用部品を挿入する穴の表面周囲に設けた円形や四角形のはんだ付け用の銅箔の呼称であったが、表面実装部品を実装するためのはんだ付け用銅箔もランドと呼ばれることが多くなっている。
; パッド(フットプリント)
: 表面実装部品を実装するための、はんだ付け用銅箔。銅箔をそのまま空気にさらすと酸化されてしまい、部品実装時にはんだ不良が発生する恐れがある。これを防ぐため、基板製造後に表面処理を施してパッドを保護することが多い。一般的な表面処理として、はんだレベラー、金フラッシュなどがある。前者は安価、後者はパッド高さのバラツキが少ないためピン数の多い部品や、大電流を流す箇所に適している。
; [[:en:Conformal coating|コンフォーマルコーティング(Conformal coating)]]
: {{節スタブ}}
; [[ドライフィルム]]([[:en:Photoresist|Dry film]])
: {{節スタブ}}
== 回路パターンの作成法 ==
=== サブトラクティブ法 ===
全面に銅箔を張られた基板から、不要な部分を取り除いて回路を残す方法。
* 配線として残したい部分に、[[シルクスクリーン|シルクスクリーン印刷]]などで防蝕膜となるインクや塗料を塗布して覆い(マスキング)、金属腐食性のある薬品(銅箔の場合、一般的に[[塩化鉄|塩化第二鉄]]溶液を用いる)で腐食([[エッチング]])させて必要な回路を残す方式。'''プリント基板'''という名称の語源はここから来ている。
* 印刷によるマスキングに換えて、[[フォトレジスト]]を塗布した基板を用いる。配線パターン形状を撮影したマスクフィルムで覆って感光させてから溶剤で溶かし、配線パターン部分を残してエッチングする方式。([[フォトリソグラフィ]])[[フォトレジスト]]の特性により、感光した部分が耐溶解性となる(ネガ型)のものと初期状態では耐溶解性で感光した部分が溶解性となる(ポジ型)のものがあり、それに応じてマスクフィルムはネガ/ポジを使い分ける必要がある。この技術は、半導体の製造にも応用されている。
* 腐食液を適切に処理しないと環境破壊につながるという点や、マスク作成の工程が複雑などの短所がある。
* 全面が銅箔の基板から、不要な部分を機械的に切削、取り除いて回路を残す方式は、薬品やマスクが不要である。試作などの少量製作の場合に、簡便に回路基板を製作できる。これは手作業でも行えるが、専用の機械を使うほうが便利である。
; サブトラクティブ法による製造法の一例
: 光硬化樹脂を塗布した銅箔面に紫外線でパターンを露光する。現像後、加熱する('''ベーキング''')。その後、塩化鉄(III) 水溶液で不要な銅箔をエッチングする。
: 銅箔のエッチング時の化学反応は以下のとおりである。
: [[塩化鉄(III)]] の3価の鉄イオンが銅に電子を与えて2価になり、[[銅]]は銅イオンになる。塩化鉄(III) は[[塩化鉄(II)]] になる。
:: <math>\rm FeCl_3 + Cu \longrightarrow FeCl_2 + CuCl</math>
:: <math>\rm FeCl_3 + CuCl \longrightarrow FeCl_2 + CuCl_2</math>
: エッチング終了後水洗、乾燥してからはんだ付けしない部分をコーティングする。穴を開けてから多層基板の場合は重ねてスルーホールを通す。その後所定の形状に切り抜く。
=== アディティブ法 ===
絶縁体基板に回路パターンを後から付け加える方法。銅パターンを形成したくない部分にレジスト(めっきレジスト)を形成し、レジストのない部分に電解または無電解めっきを施すことでパターンを形成する。アディティブ法にはフルアディティブ法、パートリーアディティブ法、セミアディティブ法などがある。日立化成、日立化成エレクトロニクス、イビデンなどはフルアディティブ法を採用している(なお、これらの企業はサブトラクティブ法による製造も行っている)。
* [[メッキ]]・[[電鋳]]の技術を応用して、回路パターンを析出させて構成するもの。
* 導電性ポリマーを絶縁基板上に線状に絞り出して塗布し回路を構成するもの。銅箔よりは配線抵抗が大きいため、主にディジタル回路基板の試作に用いられる。
* [[マルチワイヤー]]
** [[ポリイミド]]で絶縁被覆した銅線を自動布線機で縦横自由に配線して絶縁多層配線構造を形成するプリント配線板。デジタル回路のバス配線長を等しくしやすいなどの特徴がある。日立化成が採用している。
=== 切断 ===
プリント基板は、生産性を考慮して1m四方や1.2m四方程度の1枚の大きさの基板に複数の基板をまとめて面付けして製造されることが多い。あらかじめ基板には、各基板間にNCドリルやVカットで切れ目を入れておき、完成後に折ってそれぞれを分離する<ref name="見てわかる高密度実装技術"/>。切断時には部品の実装箇所や半田の状態によっては切断時のストレスによってクラックが発生し電気的接続が切れてしまう場合や部品の破損、高周波回路ではインピーダンスの変化にもつながるため、ストレスを極力与えずに切断する際には専用の[[基板分割機]]を用いることが望ましい。
== 電気的特性 ==
[[Image:プリント基板配線の等価回路.PNG|tnumb|200px]]
=== 高速デジタル回路 ===
デジタル回路でも低速の動作であればプリント基板の特性はあまり配慮の必要がいらないが、高速の動作が必要な高速デジタル回路ではプリント配線のパターンが理想的な銅線ではないことを理解して、銅配線パターンが作るインピーダンスへの配慮が必要となる。('''[[:en:Signal integrity|シグナル・インテグリティ]]''') 具体的には信号の立ち上がりや立ち下りが1ns以下で配線長が5cm以上の場合に交流的な影響が出る可能性を考慮する必要がある([[分布定数回路]])。
{{節スタブ}}
== 自動実装 ==
; 自動実装機
: プリント配線板に部品を取り付ける自動機械で、部品リールなどから部品を取り出し、部品を搭載し、穴挿入部品の場合はリードの切断、曲げ加工なども同時に行うのが一般的である。挿入部品用の自動実装機は「インサータ」、表面実装用の自動実装機は「マウンタ」と呼ばれる。はんだ付けなど一連の工程を受け持つ多数の機械を直列に配列した実装ラインに配置されている。現在、殆どの電子部品は自動実装に対応した仕様で作られ、リール供給または表面実装部品ではトレイ供給、バルク供給などで行われている。
: 挿入部品を基板に挿入後に余分なリードを切断したり、部品が簡単には抜けないようにピンやリードの端を少し曲げたりする。部分はんだ付けまでを行うものもある。光学センサーで位置を正確に読み取って実装位置を微調整したり、クリームはんだや部品ピンの検査を行なうものもある。
: 供給テープの無駄を省くために、バルク供給にシフトするケースもある。供給テープの交換時にも自動実装機を止めなくて良いようにもなっている<ref name="見てわかる高密度実装技術"/>。
== 検査 ==
{{節スタブ}}
* [[官能検査]] - 目視による検査のこと。
* 自動検査機による検査:[[自動光学検査]]([[:en:Automated optical inspection|AOI]])
* 電気検査 - [[回路計|テスタ]]を使って断線していないかなどを検査する。
* [[:en:Boundary scan|バウンダリスキャン]]、[[JTAG]]
* [[:en:In-circuit test|インサーキットテスト(ICT)]]
* {{仮リンク|ファンクションテスト_(工学)|en|Functional Testing (manufacturing)}} (FCT、Functional testing)
* [[ソフトウェアテスト#ホワイトボックステストとブラックボックステスト|"ホワイトボックステスト"と"ブラックボックステスト"]]
== 主な欠陥(不良モード) ==
[[回路欠陥]]のほか[[はんだ]]、[[レジスト]]などの欠陥によって様々な[[電気伝導|導通]]・[[絶縁 (電気)|絶縁]]の不具合をもたらす。この分野の詳細は[[電子回路|電子回路工学]]、[[集積回路|集積回路工学]]、'''[[:en:Failure modes of electronics|Failure modes of electronics]]'''を参照。
* 回路パターン、スルホール欠損([[断線]])
* スルーホール断線(スルーホールめっきの断線、スルーホールめっきと内層接続部間の断線)
* ショート([[短絡]])
* [[リーク電流]]、{{仮リンク|電気スパーク|en|Electric spark|label=スパーク}}
* [[エレクトロマイグレーション]]
* 基板の欠け、割れ、打痕傷
* シルク印刷 印字のずれ
* ボイド - 気泡による空洞状の層間剥離のこと。
* クラック - メッキ層の割れのこと。
* スミア - 穴内壁導体部に基板樹脂の付着のこと。
* デラミネーション - 多層板内部の層間のはがれのこと。デラミと略すこともある。
* ランド切れ - 穴位置がずれている状態。
* クレイジング、ミーズリング - ガラス繊維の剥離が起こった状態。
* ハローイング、ピンクリング - 基板端面の加工時の白化のこと。
* バレルクラック(スルーホール内の円周状のクラック)
* レジストインク現像印刷ずれ
* [[:en:Head in pillow (metallurgy)|Head in pillow]] - BGA実装時のはんだ枕不良のこと。
== 主なプリント基板メーカー ==
=== 日本国内の主なメーカー ===
* [[アイカ工業]]
* [[イビデン]]
* [[エルナー]]
* [[沖電線]]
* [http://www.orion-science.co.jp/index.html オリオン科学]
* [[協栄産業]]
* [[京写]]
* [[京セラ]](旧・[[日本アイ・ビー・エム]]野洲事業所→[[京セラサーキットソリューションズ]])
* [[キョウデン]]
* [[キヤノン・コンポーネンツ]]
* [[SIMMTECH GRAPHICS]](旧・イ-スタン)
* [[シャープ]]
* [[信越化学工業]]
* [[住友電気工業|住友電工]]
* [[住友ベークライト]]
* [[双信電機]]
* [[大日本印刷]](旧・[[大日本印刷]]と東芝サーキットテクノロジーの合弁会社 (DTCT) を吸収)
* [[大陽工業]]
* [[デクセリアルズ]]
* [[東芝ホクト電子]]
* [[日東電工]]
* [[日本アビオニクス]]
* [[日本シイエムケイ]]
* [[日本特殊陶業]]
* [[日本メクトロン]]
* [[パナソニックエレクトロニックデバイス]](松下電子部品の社名変更および旧・山梨松下電工の合併)
* [[日立化成]]
* [[日立化成エレクトロニクス]](旧・日立エーアイシー)
* [[フジクラ]]
* [[富士電機システムズ]]
* [[古河電気工業|古河電工]]
* [[メイコー]] 専業最大手
=== アメリカの主なメーカー ===
* [[プレクサス]] ([[:en:Plexus Corp.|Plexus]])
* [[フレクストロニクス]] ([[:en:Flextronics|Flextronics]])
* [[シグマトロン]] (SigmaTron International Inc.)
* [[キンボール]] ([[:en:Kimball International|Kimball International]])
=== 中国の主なメーカー ===
* [[Seeed studio]]社(深圳矽递科技股份有限公司)
* Founder PCB社(珠海方正)
* Shantou ultrasound PCB社(汕頭超声)
* Zhuhai Motomori Electronic社(珠海元盛電子)
* Zhuhai Quanbao Electronic社(全宝)
* Bomin Electronics社(博敏電子)
* Shenzhen Shennan Circuits社(深南電路)
* Shenzhen Fastprint Circuit社(興森快捷)
* Zhuhai Motomori Electronic社(珠海元盛電子)
* Guangdong Shengyi Group社(広東生益集団)
* Shenzhen PCBWay社(捷多邦電子)
* Xiamen Yuanqian社(源乾電子)
* Zhen Ding Technology (ZDT) 社(臻鼎科技)※フォックスコングループ
=== 台湾の主なメーカー ===
* コンペック・マニュファクチャリング(華通電脳/Compeq Manufacturing)
* [[南亜|南亜PCB]](ナンヤ、 Nanya/[[台湾プラスチックグループ]])
* ユニマイクロン・テクノロジー社([[:zh:欣興電子|欣興電子 (Unimicron)]] )
* HannStar Board社([[:zh:瀚宇博德國際|瀚宇博德國際]])
* Tripod Technology社(健鼎科技股份)
* Zhichao Technology社(志超)
* Huatong社(華通)
* Flexium Interconnect社(台郡科技)
* キンサス/KINSUS/景碩科技([[:zh:和碩聯合科技|和碩聯合科技]]/[[:en:Pegatron|ペガトロン]]傘下)
* [[フォックスコン|フォックスコン・インターコネクト・テクノロジー]](FIT/Foxconn Interconnect Technology)
* ゴールド・サーキット・エレクトロニクス(金像電子)
* チップボンド・テクノロジー(頎邦科技/Chipbond)
* チンプーン・インダストリアル(敬鵬工業/CHIN-POON Industrial)
=== 韓国の主なメーカー ===
* [[LGエレクトロニクス|LGイノテック]]
* イスペタシス(ISU Petasys, [[:en:ISU Group|ISU Group/이수그룹]])
* インターフレックス (Interflex)
* エスアイフレックス(위키백과, 우리 모두의 백과사전/SI FLEX Co.,Ltd.)
* コリアサーキット(주식회사 코리아써키트/Korea Circuit Co., Ltd.)
* [[サムスン電機]]
* シムテック (SIMM TECH Co.Ltd)
* 大徳GDS(대덕GDS/DaeDuck GDS)
* 大徳電子(대덕전자 주식회사/DaeDuck Electronics)
* ビーエイチ/BHflex(비에이치)
* NewFlex(뉴프렉스)
* ヨンプン電子(주식회사 영풍/Young Poong Electronics)※FPC
=== タイ王国の主なメーカー ===
* KCE Electronics Public Company Limited
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [http://www.jpca.org/ JPCA(日本電子回路工業会)]
* [http://www.e-jisso.jp/ エレクトロニクス実装学会]
{{コンピュータ科学}}
{{Normdaten}}
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[[Category:電子部品]]
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対空戦車
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対空戦車(たいくうせんしゃ)は、対空機関銃/機関砲(対空砲)などを戦車用車台に搭載した対空兵器の装甲車輌である。自走式対空砲のカテゴリーに含まれる兵器であるが、自走砲との区別は時代や国、編成により異なり、明確ではない。
戦車の車体を利用した機動性により、前線の戦車部隊に追随し、前線部隊を航空機などの脅威から防御することを目的としている。ただし通常の戦車と比べ、多くの場合装甲は薄くなっており、また、武装も対空兵器中心であるため、敵の戦闘車輌や対戦車兵器との直接戦闘は不得手である。
また、対空戦車が必要とされる状態とは航空優勢を失った戦局が不利な状態であり、その場合航空機や戦車、そして安価で数をそろえやすい通常の対空兵器の生産配備が優先される。逆に対空戦車を量産できるほどの余力が生じている状態とは、普通戦局が有利で航空優勢を得ている状態であり、わざわざ対空戦車を量産する必要がない状態である。どちらにしても、対空戦車の量産配備は後回しで、十分な数がそろわない傾向にある。
このような機関砲装備の対空戦車の存在意義を疑問視する意見もある。これは車輌にとって最大の敵である攻撃ヘリコプターからの、対戦車ミサイルの射程が延長され、機関砲の射程外から一方的に攻撃される事態が想定されるということである。加えて高価な火器管制装置の搭載は対空戦車の単価向上に繋がり、中小諸国がこうした兵器を持つのを難しくするだけではなく、先進諸国が十分な配備数を調達することも難しくしている。
対抗手段としてツングースカのように小型ミサイルを装備したハイブリッド化や、あるいは機関砲弾自体の射程延長化が進められている。ただ、小型ミサイルさえ搭載できればいいなら高価な対空戦車は不要だという意見もある。現代で対空戦車とはやや異なる、安価な軽車両に対空ミサイルを装備したものが増加してきているのは、こうしたためである。ただし、ミサイルでは敵が有効なECMを使用した場合無力化されてしまう上に、誘導装置や弾頭などが対航空機に特化した設計となっているため非装甲車両や軽装甲車両などの地上目標には殆ど役に立たないので、そうした電子妨害が効かない点と地上の敵に対する掃射にも使用可能であるという点で機関砲は有効である。また、ミサイルには安全装置解除やロックオンのために必要な最小射程があるが、機関砲はそれより至近に入り込んだ敵に反撃することもできる。
保有装備運用は、特にドイツや日本等の限られた国のみとなっている。
第二次世界大戦期、制空権を連合軍に奪われたドイツ国防軍は、I号戦車の車体を利用したI号対空戦車、IV号戦車の車体を利用した、メーベルワーゲン、ヴィルベルヴィント、オストヴィント、クーゲルブリッツなどが作られた。これらは全て戦車用車台を用いているが、制式名称に対空戦車(Flakpanzer)の名を持つのはヴィルベルヴィント以降で、それ以前の物は名称上自走式対空砲扱いとなっている。
イギリス陸軍は、Mk.VI軽戦車改造の軽対空戦車Mk.I、クルセーダー巡航戦車改造のクルセーダーAAを実戦投入していた。
アメリカ陸軍は、装甲ハーフトラック改造の自走式対空砲を実戦投入していたが、戦車車台利用の物はほとんど試作止まりに終わり、大戦末期にM24軽戦車改造のM19対空自走砲がようやく配備されている。もっとも連合国側の航空優勢もあってか、これらは本来の任務ではあまり日の目を見ることはなく、敵歩兵に対する水平射撃などに多く用いられ、M19の本格的な実戦投入も朝鮮戦争からであった。
ドイツ連邦軍は、レオパルト1戦車改造のゲパルト自走対空砲を開発し保有している。
陸上自衛隊は、74式戦車改造の87式自走高射機関砲を保有している。ゲパルト自走対空砲・87式自走高射機関砲は砲塔に2門の機関砲を装備し、高度な追尾技術を有している点で酷似している。前者の追尾機器配置の意匠には特許があり、後者が同一の配置にできなかった経緯を持つ。ただし、機器やソフトウェアの点では後者の方が後発であるためより新しい技術が導入されている。
フランス陸軍は、戦車車台を用いたAMX-13DCAを配備、その後継としてAMX-30DCAも作られたが、こちらはサウジアラビアへの輸出分のみに止まった。これらは警戒レーダーを搭載しているが、照準は光学式であった。
アメリカ陸軍は、M19対空自走砲の後継として、M42ダスター自走高射機関砲が作られ、ベトナム戦争にも派遣された。さらに高度な追尾技術を有する新型対空戦車M247サージェント・ヨークも開発されたが、このようなシステムの高価格、さらに「アメリカ軍は常に味方の航空優勢下で戦う」というドクトリンもあり、以降はM113装甲兵員輸送車改造のM163対空自走砲を保有するのみであるが、これさえもアメリカ軍では現役装備から外れている。
ソビエト連邦がZSU-57-2、続いてZSU-23-4 シルカを開発した。特に後者は世界で初めて追尾レーダーを備えた対空戦車であった。第四次中東戦争で自走対空ミサイル2K12 クープとともにエジプト軍に配備され、開戦初日に40機(諸説あり)とも言われる膨大な数のイスラエル機の撃墜に一役買った。また、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻では輸送車列の護衛、チェチェン紛争では建物の上層階から攻撃してくるゲリラに対抗するという別の目的に使われた。
ロシア連邦軍では2S6 ツングースカが主力である。これは2門の機関砲に加え、8基の小型対空ミサイルを備えていて、より広範囲の敵航空機に対応できる。
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"text": "アメリカ陸軍は、M19対空自走砲の後継として、M42ダスター自走高射機関砲が作られ、ベトナム戦争にも派遣された。さらに高度な追尾技術を有する新型対空戦車M247サージェント・ヨークも開発されたが、このようなシステムの高価格、さらに「アメリカ軍は常に味方の航空優勢下で戦う」というドクトリンもあり、以降はM113装甲兵員輸送車改造のM163対空自走砲を保有するのみであるが、これさえもアメリカ軍では現役装備から外れている。",
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対空戦車(たいくうせんしゃ)は、対空機関銃/機関砲(対空砲)などを戦車用車台に搭載した対空兵器の装甲車輌である。自走式対空砲のカテゴリーに含まれる兵器であるが、自走砲との区別は時代や国、編成により異なり、明確ではない。
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[[File:Kalustoesittely_itsenäisyyspäivä_2015_17_Leopard_2_Marksman.JPG|thumb|250px|[[ITPSV 90 Marksman|レオパルト2 マークスマン]]]]
{{出典の明記|date=2010年3月}}
'''対空戦車'''(たいくうせんしゃ)は、[[対空砲|対空機関銃/機関砲]](対空砲)などを[[戦車]]用車台に搭載した[[対空兵器]]の[[装甲戦闘車両|装甲車輌]]である。[[自走式対空砲]]のカテゴリーに含まれる兵器であるが、[[自走砲]]との区別は時代や国、編成により異なり、明確ではない。
== 概要 ==
戦車の車体を利用した機動性により、前線の戦車部隊に追随し、前線部隊を[[航空機]]などの脅威から防御することを目的としている。ただし通常の戦車と比べ、多くの場合装甲は薄くなっており、また、武装も対空兵器中心であるため、敵の戦闘車輌や[[対戦車兵器]]との直接戦闘は不得手である。
また、対空戦車が必要とされる状態とは[[制空権|航空優勢]]を失った戦局が不利な状態であり、その場合航空機や戦車、そして安価で数をそろえやすい通常の対空兵器<ref>牽引対空砲や非装甲[[貨物自動車|トラック]]に車載した対空機関砲など</ref>の生産配備が優先される。逆に対空戦車を量産できるほどの余力が生じている状態とは、普通戦局が有利で航空優勢を得ている状態であり、わざわざ対空戦車を量産する必要がない状態である。どちらにしても、対空戦車の量産配備は後回しで、十分な数がそろわない傾向にある。
このような機関砲装備の対空戦車の存在意義を疑問視する意見もある。これは車輌にとって最大の敵である[[攻撃ヘリコプター]]からの、[[対戦車ミサイル]]の射程が延長され、機関砲の射程外から一方的に攻撃される事態が想定されるということである。加えて高価な[[射撃統制システム|火器管制装置]]の搭載は対空戦車の単価向上に繋がり、中小諸国がこうした兵器を持つのを難しくするだけではなく、先進諸国が十分な配備数を調達することも難しくしている。
対抗手段として[[2K22|ツングースカ]]のように小型ミサイルを装備したハイブリッド化や、あるいは機関砲弾自体の射程延長化が進められている。ただ、小型ミサイルさえ搭載できればいいなら高価な対空戦車は不要だという意見もある。現代で対空戦車とはやや異なる、安価な軽車両に対空ミサイルを装備したもの<ref>[[ハンヴィー|HMMWV]]ベースのアメリカ軍の[[アベンジャーシステム]]や[[高機動車]]ベースの[[陸上自衛隊]]の[[93式近距離地対空誘導弾]]など。</ref>が増加してきているのは、こうしたためである。ただし、[[ミサイル]]では敵が有効な[[電子攻撃|ECM]]を使用した場合無力化されてしまう上に、誘導装置や弾頭などが対航空機に特化した設計となっているため非装甲車両や軽装甲車両などの地上目標には殆ど役に立たないので、そうした電子妨害が効かない点と地上の敵に対する掃射にも使用可能であるという点で機関砲は有効である。また、ミサイルには安全装置解除やロックオンのために必要な最小射程があるが、機関砲はそれより至近に入り込んだ敵に反撃することもできる。
== 種類 ==
保有装備運用は、特に[[ドイツ]]や[[日本]]等の限られた国のみとなっている。
=== 第二次大戦 ===
*[[ドイツ国防軍]]
[[第二次世界大戦|第二次世界大戦期]]、[[制空権]]を[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]に奪われた[[ドイツ国防軍]]は、[[I号戦車]]の車体を利用した[[I号戦車#派生型|I号対空戦車]]、[[IV号戦車]]の車体を利用した、[[メーベルワーゲン]]、[[ヴィルベルヴィント]]、[[オストヴィント]]、[[クーゲルブリッツ]]などが作られた。これらは全て戦車用車台を用いているが、制式名称に対空戦車(Flakpanzer)の名を持つのはヴィルベルヴィント以降で、それ以前の物は名称上自走式対空砲扱いとなっている。
*[[イギリス軍]]
[[イギリス陸軍]]は、[[Mk.VI軽戦車]]改造の軽対空戦車Mk.I、[[クルセーダー巡航戦車]]改造の[[クルセーダー巡航戦車|クルセーダーAA]]を実戦投入していた。
*[[アメリカ軍]]
[[アメリカ陸軍]]は、[[装甲]][[半装軌車|ハーフトラック]]改造の自走式対空砲を実戦投入していたが、戦車車台利用の物はほとんど試作止まりに終わり、大戦末期に[[M24軽戦車]]改造の[[M19対空自走砲]]がようやく配備されている。もっとも連合国側の航空優勢もあってか、これらは本来の任務ではあまり日の目を見ることはなく、敵[[歩兵]]に対する水平射撃などに多く用いられ、M19の本格的な実戦投入も[[朝鮮戦争]]からであった。
=== 戦後 ===
*[[ドイツ]]
[[ドイツ連邦軍]]は、[[レオパルト1|レオパルト1戦車]]改造の[[ゲパルト自走対空砲]]を開発し保有している。
*[[日本]]
[[陸上自衛隊]]は、[[74式戦車]]改造の[[87式自走高射機関砲]]を保有している。[[ゲパルト自走対空砲]]・[[87式自走高射機関砲]]は砲塔に2門の機関砲を装備し、高度な追尾技術を有している点で酷似している。前者の追尾機器配置の意匠には特許があり、後者が同一の配置にできなかった経緯を持つ。ただし、機器やソフトウェアの点では後者の方が後発であるためより新しい技術が導入されている。
*[[フランス]]
[[フランス陸軍]]は、戦車車台を用いたAMX-13DCAを配備、その後継としてAMX-30DCAも作られたが、こちらは[[サウジアラビア]]への輸出分のみに止まった。これらは[[レーダー|警戒レーダー]]を搭載しているが、照準は光学式であった。
*[[アメリカ]]
[[アメリカ陸軍]]は、[[M19対空自走砲]]の後継として、[[M42ダスター自走高射機関砲]]が作られ、[[ベトナム戦争]]にも派遣された。さらに高度な追尾技術を有する新型対空戦車[[M247サージェント・ヨーク]]も開発されたが、このようなシステムの高価格、さらに「アメリカ軍は常に味方の航空優勢下で戦う」というドクトリンもあり、以降は[[M113装甲兵員輸送車]]改造の[[M163対空自走砲]]を保有するのみであるが、これさえもアメリカ軍では現役装備から外れている。
*[[ロシア]]
[[ソビエト連邦]]が[[ZSU-57-2]]、続いて[[ZSU-23-4|ZSU-23-4 シルカ]]を開発した。特に後者は世界で初めて追尾レーダーを備えた対空戦車であった。[[第四次中東戦争]]で自走対空ミサイル[[2K12|2K12 クープ]]とともに[[エジプト軍]]に配備され、開戦初日に40機(諸説あり)とも言われる膨大な数の[[イスラエル]]機の撃墜に一役買った。また、[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻]]では輸送車列の護衛、[[チェチェン紛争]]では建物の上層階から攻撃してくるゲリラに対抗するという別の目的に使われた。
[[ロシア連邦軍]]では[[2K22|2S6 ツングースカ]]が主力である。これは2門の機関砲に加え、8基の小型[[対空ミサイル]]を備えていて、より広範囲の敵航空機に対応できる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[高射砲]]
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16,406 |
テングワール
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テングワール(Tengwar)とはJ・R・R・トールキンの創作した架空文字。テングワールという言葉はクウェンヤで文字を意味する名詞の複数形である。(単数形はTengwa、テングワ)
フェアノール (Fëanor) がルーミルのサラティを改良して作ったため、フェアノール文字とも呼ばれる。この文字が中つ国で使用されている。初期は子音文字の上に母音の符号(tehta、テヒタ。 複数形はtehtar、テヒタール)を記していたが、後に母音も文字として表記されるようにもなった(完書体 full mode)。また文字にはその音で始まる単語の名が付けられていたが、後に単純な名で呼ばれるようになったとされる。
子音は「基本文字」(1-24) と「追加文字」(25-36) とがある。各文字には名前と番号が振られている。
基本文字の子音は軸線(テルコ telco)と弓形線(ルーヴァ lúva)とから構成されており、調音点[t, p, k, kw]を表す系列(テマール temar)と調音形式(破裂音か摩擦音か、など)を表す階梯(ティエルレア tyeller)とがあった。表においては、上の六段が基本文字で、縦列が系列、横列が階梯になっている。
クウェンヤの子音は、音韻的に、t-系列、p-系列、k-系列、kw-系列に分類することができた。同じ系列に属する音は、軸線(テルコ)に対して弓形線(ルーヴァ)が同じ側につくという体系に定められた。
※指輪の銘にあるような上下に軸線が延びたものは通常上に伸びたもの即ち階梯3と4のものとして読む。古くは[t+h], [p+h], [k+h]のような気息音として読むことがあった。
追加文字は多くがもともと基本文字の変形であった。
以上の規則を表に表すと、次のようになる。(図表と一致している)これが基本の読み方である。
もともと、文字の上に「テヒタ」という小さな記号を置くことで母音を表した。テヒタを使う場合は、クウェンヤ・ラテン語のように母音で終わることが多い言語では、母音を直前の子音の上に置く「クウェンヤ式」の読み方をし、子音で終わることが多いシンダール語・英語のような言語では、母音の次の子音字の上にテヒタを置く「シンダール式」の読み方をする。すなわちbatと書くのにクウェンヤ式ではaのテヒタをbの字の上に乗せ、シンダール式ではtの上に乗せた。乗せるべき子音が存在しない場合は短い軸線を書いて乗せる。長音は長い軸線の上にテヒタを書くか、又はテヒタを二重に書いて表現する。のちに母音も子音と同格の文字で表す完書体も成立した。
上に示した音価はあくまで理論に沿った基本のものであり、中つ国に存在した多様な言語の中には、この基本の読み方では不適当なものが存在した。その場合、この基本形に基づいて、各言語の話者が自分の言語に適した音の当て方に変えられる自由が、ある程度許されたのである。
当時の中つ国の共通語だった西方語には、唇音化した軟口蓋音(クヮ kw、グヮ gw など)がなく、代わりに後部歯茎音(チャ行 ch、ヂャ行 j、シャ行 sh、ジャ行 zh など)が多く使われた。そのため、西方語を書くためには、系列IIIが後部歯茎音のch-系列に当てられ、系列IVが普通の軟口蓋音のk-系列に用いられた。モルドールの黒の言葉をテングワールで書くことはほとんどなかったが、書くとすれば、この方式を使ったのである。それは一つの指輪の銘文に例が示されている。
※系列I、系列IIおよび追加文字は基本と同じ。
テングワールがもともとクウェンヤを書くための文字として作られたとはいえ、クウェンヤであっても「基本の読み方」でない独特の読み方を作った方が書きやすくなる言葉の例外ではなかった。むしろ語中の子音の並びが制限されたこの言語では、よく使われる二重子音を一字で表す方が都合が良かったのである。各文字は、(クウェンヤを書くときに)その文字が表す音価を実際に含むクウェンヤの単語を名前として持ち、クウェンヤ使用者以外にも文字の名前として一般的に通用した。以下にクウェンヤにおける音価と、各文字の名前を示す。
文字名や音価で、/で区切られているものは、前者が古いもの、後者が新しいものである。
*のついた二つの文字は、クウェンヤを書くときには使われなかった。
シンダール語を書き表すとき、しばしば階梯6を単鼻音(n, mなど)に当て、階梯5を二重鼻音(nn, mmなど)に当てた。
トールキンは英語を西方語と同じ方式で書いたが、特定の英単語を表記するための略記法もある。これは「指輪物語」中表紙の下部に見られるものでof、the、of theがある。これは上下にテルコを伸ばしたもので表されそれぞれ[v]、有声の[th]そしてofの下に波線を置いたものである。
母音も独立した文字で表す完書体のもっとも有名なものは、モリアの西門の銘にも使われたベレリアンドモードと呼ばれるものである。ベレリアンドのエルフがシンダール語を書くために用いたのでこの名がある。
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テングワール(Tengwar)とはJ・R・R・トールキンの創作した架空文字。テングワールという言葉はクウェンヤで文字を意味する名詞の複数形である。(単数形はTengwa、テングワ) フェアノール (Fëanor) がルーミルのサラティを改良して作ったため、フェアノール文字とも呼ばれる。この文字が中つ国で使用されている。初期は子音文字の上に母音の符号を記していたが、後に母音も文字として表記されるようにもなった。また文字にはその音で始まる単語の名が付けられていたが、後に単純な名で呼ばれるようになったとされる。
|
{{物語世界内の観点|date=2022年9月}}
{{出典の明記|date=2018年8月}}
{{Infobox WS
|name=テングワール
|type=[[アブジャド]]
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| unicode = 割り当てなし([http://std.dkuug.dk/JTC1/SC2/WG2/docs/n1641/n1641.htm 提案中])
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|caption = テングワールによる[[世界人権宣言]]第1条(言語は[[英語]])
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'''テングワール'''(Tengwar)とは[[J・R・R・トールキン]]の創作した[[架空文字]]。テングワールという言葉は[[クウェンヤ]]で[[文字]]を意味する名詞の複数形である。(単数形はTengwa、テングワ)
[[フェアノール]] (Fëanor) が[[ルーミル]]の[[サラティ]]を改良して作ったため、'''フェアノール文字'''とも呼ばれる。この文字が中つ国で使用されている。初期は子音文字の上に母音の符号(tehta、テヒタ。 複数形はtehtar、テヒタール)を記していたが、後に母音も文字として表記されるようにもなった(完書体 full mode)。また文字にはその音で始まる単語の名が付けられていたが、後に単純な名で呼ばれるようになったとされる。
== 構成と基本の読み方 ==
子音は「基本文字」(1-24) と「追加文字」(25-36) とがある。各文字には名前と番号が振られている。
[[画像:Tengwar alphabet.png|thumb|right|300px|基本文字・追加文字の表]]
=== 基本文字 ===
基本文字の子音は軸線(テルコ telco)と弓形線(ルーヴァ lúva)とから構成されており、調音点[t, p, k, kw]を表す系列(テマール temar)と調音形式(破裂音か摩擦音か、など)を表す階梯(ティエルレア tyeller)とがあった。表においては、上の六段が基本文字で、縦列が系列、横列が階梯になっている。
==== 系列 ====
[[クウェンヤ]]の子音は、音韻的に、t-系列、p-系列、k-系列、kw-系列に分類することができた。同じ系列に属する音は、軸線(テルコ)に対して弓形線(ルーヴァ)が同じ側につくという体系に定められた。
;系列I(t-系列):右に付いた開いた弓形線は、[[歯茎音]]または[[歯音]]である。[t, d, θ(th), ð(dh), n, r]
;系列II(p-系列):右に付いた閉じた弓形線は、[[唇音]]または[[唇歯音]]である。[p, b, f, v, m, w]
;系列III(k-系列):左に付いた開いた弓形線は、[[軟口蓋音]]である。[k, g, kh, gh, ŋ(ng), h]
;系列IV(kw-系列):左に付いた閉じた弓形線は、唇音化した軟口蓋音である。[kw, gw, khw/hw, ghw/w, ŋw(ngw), w]
==== 階梯 ====
;階梯1:無声破裂音。下に伸びたテルコと1つのルーヴァをもつ。[t, p, k, kw]
;階梯2:有声音破裂音。下に伸びたテルコと2つのルーヴァをもつ。[d, b, g, gw]
;階梯3:無声摩擦音。上に伸びたテルコと1つのルーヴァをもつ。[θ(th), f, kh, khw/hw]
;階梯4:有声摩擦音。上に伸びたテルコと2つのルーヴァをもつ。[ð(dh), v, gh, ghw/w]
;階梯5:鼻音。短いテルコと2つのルーヴァをもつ。[n, m, ŋ(ng), ŋw(ngw)]
;階梯6:弱い音。短いテルコと1つのルーヴァをもつ。[r, w, h, w]
※[[指輪の銘]]にあるような上下に軸線が延びたものは通常上に伸びたもの即ち階梯3と4のものとして読む。古くは[t+h], [p+h], [k+h]のような気息音として読むことがあった。
=== 追加文字 ===
追加文字は多くがもともと基本文字の変形であった。
* 21[震えないr]が変形して25[震えるr]になり、さらに変形して26[無声のr]になった。
* 27[l]は独立した文字で、変形して28[無声のl]になった。
* 29[s]は独立した文字で、30[s]は単にそれをひっくり返したものである。また、29, 30をそれぞれ二重にしたものが、30, 32(いずれも[z])になった。
* 33[h], 34[hw(無声のw)], 35[j(y)], 36[w]
=== 基本の読み方 ===
以上の規則を表に表すと、次のようになる。(図表と一致している)これが基本の読み方である。
{| class="wikitable"
|-
!階梯/系列
!系列I
!系列II
!系列III
!系列IV
|-
!階梯1
|1 t
|2 p
|3 k
|4 kw
|-
!階梯2
|5 d
|6 b
|7 g
|8 gw
|-
!階梯3
|9 th[θ]
|10 f
|11 kh[x]
|12 khw[xw]/hw(無声のw)
|-
!階梯4
|13 dh[ð]
|14 v
|15 gh[ɣ]
|16 ghw[ɣw]/w
|-
!階梯5
|17 n
|18 m
|19 ng[ŋ]
|20 ngw[ŋw]
|-
!階梯6
|21 r(震えない)
|22 w
|23 h
|24 w
|-
!
|25 r(震える)
|26 rh(無声のr)
|27 l
|28 lh(無声のl)
|-
!
|29 s
|30 s
|31 z
|32 z
|-
!
|33 h
|34 hw(無声のw)
|35 y[j]
|36 w
|}
=== 母音(テヒタール) ===
もともと、文字の上に「[[ダイアクリティカルマーク|テヒタ]]」という小さな記号を置くことで母音を表した。テヒタを使う場合は、[[クウェンヤ]]・ラテン語のように母音で終わることが多い言語では、母音を直前の子音の上に置く「クウェンヤ式」の読み方をし、子音で終わることが多い[[シンダール語]]・[[英語]]のような言語では、母音の次の子音字の上にテヒタを置く「シンダール式」の読み方をする。すなわちbatと書くのにクウェンヤ式ではaのテヒタをbの字の上に乗せ、シンダール式ではtの上に乗せた。乗せるべき子音が存在しない場合は短い軸線を書いて乗せる。長音は長い軸線の上にテヒタを書くか、又はテヒタを二重に書いて表現する。のちに母音も子音と同格の文字で表す完書体も成立した。
== 各言語における読み方 ==
上に示した音価はあくまで理論に沿った基本のものであり、中つ国に存在した多様な言語の中には、この基本の読み方では不適当なものが存在した。その場合、この基本形に基づいて、各言語の話者が自分の言語に適した音の当て方に変えられる自由が、ある程度許されたのである。
=== 西方語 ===
当時の中つ国の共通語だった[[西方語]]には、唇音化した軟口蓋音(クヮ kw、グヮ gw など)がなく、代わりに後部歯茎音(チャ行 ch、ヂャ行 j、シャ行 sh、ジャ行 zh など)が多く使われた。そのため、西方語を書くためには、系列IIIが後部歯茎音のch-系列に当てられ、系列IVが普通の軟口蓋音のk-系列に用いられた。[[モルドール]]の黒の言葉をテングワールで書くことはほとんどなかったが、書くとすれば、この方式を使ったのである。それは[[一つの指輪]]の銘文に例が示されている。
{| class="wikitable"
|-
!階梯/系列
!系列I
!系列II
!系列III
!系列IV
|-
!階梯1
|1 t
|2 p
|3 ch[ʧ]
|4 k
|-
!階梯2
|5 d
|6 b
|7 j[ʤ]
|8 g
|-
!階梯3
|9 th[θ]
|10 f
|11 sh[ʃ]
|12 kh[x]
|-
!階梯4
|13 dh[ð]
|14 v
|15 zh[ʒ]
|16 gh[ɣ]
|-
!階梯5
|17 n
|18 m
|19 -
|20 ng[ŋ]
|-
!階梯6
|21 r
|22 w
|23 y[j]
|24 h
|}
※系列I、系列IIおよび追加文字は基本と同じ。
=== クウェンヤ ===
テングワールがもともとクウェンヤを書くための文字として作られたとはいえ、クウェンヤであっても「基本の読み方」でない独特の読み方を作った方が書きやすくなる言葉の例外ではなかった。むしろ語中の子音の並びが制限されたこの言語では、よく使われる二重子音を一字で表す方が都合が良かったのである。各文字は、(クウェンヤを書くときに)その文字が表す音価を実際に含むクウェンヤの単語を名前として持ち、クウェンヤ使用者以外にも文字の名前として一般的に通用した。以下にクウェンヤにおける音価と、各文字の名前を示す。
{| class="wikitable"
|-
!階梯/系列
!系列I
!系列II
!系列III
!系列IV
|-
!階梯1
|1 tinco [t]
|2 palma [p]
|3 calma [k]
|4 quesse [kw]
|-
!階梯2
|5 ando [nd]
|6 unbar [mb]
|7 anga [ng]
|8 ungwe [ngw]
|-
!階梯3
|9 thule/sule [θ(th)/s]
|10 formen [f]
|11 harma/aha [x(kh)/h]
|12 hwesta [hw]
|-
!階梯4
|13 anto [nt]
|14 ampa [mp]
|15 anca [nk]
|16 unque [nkw]
|-
!階梯5
|17 numen [n]
|18 malta [m]
|19 ngoldo/noldo [ng]
|20 ngwalme/nwalme [ngw]
|-
!階梯6
|21 ore [r(震えない)]
|22 vala [v]
|23 anna [-]*
|24 wilya/vilya [w]
|-
!
|25 romen [r(震える)]
|26 arda [rd]
|27 lambe [l]
|28 alda [ld]
|-
!
|29 silme [s]
|30 silme nuquerna [s]
|31 are/esse [z/ss]
|32 are/esse nuquerna [z/ss]
|-
!
|33 hyarmen [hj(hy)/h]
|34 hwesta sindarinwa [hw]*
|35 yanta [j(y)]
|36 ure [w]
|}
文字名や音価で、/で区切られているものは、前者が古いもの、後者が新しいものである。
*のついた二つの文字は、クウェンヤを書くときには使われなかった。
=== シンダール語 ===
シンダール語を書き表すとき、しばしば階梯6を単鼻音(n, mなど)に当て、階梯5を二重鼻音(nn, mmなど)に当てた。
=== 英語 ===
トールキンは英語を西方語と同じ方式で書いたが、特定の英単語を表記するための略記法もある。これは「指輪物語」中表紙の下部に見られるものでof、the、of theがある。これは上下にテルコを伸ばしたもので表されそれぞれ[v]、有声の[th]そしてofの下に波線を置いたものである。
== 完書体 ==
=== ベレリアンドモード ===
母音も独立した文字で表す完書体のもっとも有名なものは、モリアの西門の銘にも使われたベレリアンドモードと呼ばれるものである。[[ベレリアンド]]のエルフが[[シンダール語]]を書くために用いたのでこの名がある。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[キアス]]
*[[サラティ]]
*[[アルダの言語]]
== 外部リンク ==
* [https://www.omniglot.com/conscripts/sarati.htm ルーミルのテングワール]{{en icon}}
* [https://www.omniglot.com/conscripts/tengwar.htm フェアノールのテングワール]{{en icon}}
* [https://panglott.blogspot.com/2009/06/tengwar-in-english-and-japanese.html The Tengwar in English and Japanese(日本語のテングゥアのモード)]
{{文字}}
{{DEFAULTSORT:てんくわる}}
[[Category:アブジャド]]
[[Category:アブギダ]]
[[Category:アルファベット]]
[[Category:Unicodeに存在しない文字]]
[[Category:中つ国の言語]]
[[Category:架空の文字]]
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|
16,407 |
キアス
|
キアス(Cirth)はJ・R・R・トールキンの創作した架空文字。エルフの伶人ダイロンが創作したという設定。この文字は主にドワーフが使用した。ルーン文字に非常に形が似ている。
この文字もテングワール同様、文字の形状と発音に法則性があり、比較的修得は容易である。
※古代シンダール語では、摩擦音の[m]があるため、反転させることが出来ない""[hw]でなく、""[m]を用いた。
挿絵の音価を示すと下図のようになる。「-」で分かれている所は、左は古いもの、右は新しい音価を示す。また、39番の文字をyとして使ったのはエルフであり、「*」がついた文字はドワーフのみに用いられた。
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キアス(Cirth)はJ・R・R・トールキンの創作した架空文字。エルフの伶人ダイロンが創作したという設定。この文字は主にドワーフが使用した。ルーン文字に非常に形が似ている。
|
{{Infobox WS
| name=キアス
| type=[[アルファベット]]
| languages=[[クズドゥル]]、[[シンダール語]]、[[クウェンヤ]]
| creator=[[ダイロン]]
| unicode = 割り当てなし([http://std.dkuug.dk/JTC1/SC2/WG2/docs/n1642/n1642.htm 提案中])
| iso15924=Cirt
| sample=Cirth.png
}}
'''キアス'''({{ラテン翻字|sjn|'''Cirth'''}})は[[J・R・R・トールキン]]の創作した[[架空文字]]。[[エルフ (トールキン)|エルフ]]の伶人ダイロンが創作したという設定。この[[文字]]は主に[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]が使用した。[[ルーン文字]]に非常に形が似ている。
== 読み方 ==
この文字も[[テングワール]]同様、文字の形状と発音に法則性があり、比較的修得は容易である。
# 軸線にストロークをくわえることで有声音になる。("[[File:Certh_1.svg|15px]]"[p]', "[[File:Certh_2.svg|15px]]"[b])
# 枝を左におくと摩擦音になる。("[[File:Certh 4.svg|15px]]"[v])
# 枝を両側に置くと声と鼻音が加わる。("[[File:Certh_8.svg|15px]]"[t], "[[File:Certh_12.svg|15px]]"[n(のちにrと発音)])
※古代シンダール語では、摩擦音の[m]があるため、反転させることが出来ない"[[File:Certh_5.svg|15px]]"[hw]でなく、"[[File:Certh_6.svg|15px]]"[m]を用いた。
挿絵の音価を示すと下図のようになる。「-」で分かれている所は、左は古いもの、右は新しい音価を示す。また、39番の文字をyとして使ったのは[[エルフ (トールキン)|エルフ]]であり、「*」がついた文字は[[ドワーフ (トールキン)|ドワーフ]]のみに用いられた。
{| class="wikitable"
| 1 p
| 16 zh
| 31 l
| 46 e
|-
| 2 b
| 17 nj-z
| 32 lh
| 47 e(長音)
|-
| 3 f
| 18 k
| 33 ng-nd
| 48 a
|-
| 4 v
| 19 g
| 34 s-h
| 49 a(長音)
|-
| 5 hw
| 20 kh
| 35 s-’
| 50 o
|-
| 6 m
| 21 gh
| 36 z-ng(鼻音)
| 51 o(長音)
|-
| 7 (mh)mb
| 22 ng(鼻音)-n
| 37 ng*
| 52 ö
|-
| 8 t
| 23 kw
| 38 nd-nj
| 53 n*
|-
| 9 d
| 24 gw
| 39 i(y)
| 54 h-s
|-
| 10 th
| 25 khw
| 40 y*
| 55 曖昧な母音*
|-
| 11 dh
| 26 ghe, w
| 41 hy*
| 56 曖昧な母音*
|-
| 12 n-r
| 27 ngw
| 42 u
| 57 ps*
|-
| 13 ch
| 28 nw
| 43 u(長音)
| 58 ts*
|-
| 14 j
| 29 r-j
| 44 w
| 59 +h
|-
| 15 sh
| 30 rh-zh
| 45 ü
| 60 &
|}
== 参照 ==
* [[テングワール]]({{ラテン翻字|qya|Tengwar}})
* [[サラティ]]({{ラテン翻字|qya|Sarati}})
* [[アルダの言語]]
== 外部リンク ==
* [https://www.omniglot.com/conscripts/cirth.htm キアス]{{en icon}}
{{DEFAULTSORT:きあす}}
[[Category:中つ国の言語]]
[[Category:架空の文字]]
[[Category:Unicodeに存在しない文字]]
{{tolkienstub}}
[[de:Sprachen und Schriften in Tolkiens Welt#Cirth]]
[[fi:Luettelo Taru sormusten herrasta -kirjasarjan käsitteistä#Cirth]]
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"Template:Infobox WS",
"Template:ラテン翻字",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%82%B9
|
16,408 |
自走砲
|
自走砲(じそうほう、Self-propelled artillery, SPA, Self-propelled gun, SPG)は、大砲を自走可能な車体に射撃可能な状態で搭載した兵器。
装備する大砲の種類によって自走榴弾砲(自走カノン砲)、自走迫撃砲、自走無反動砲、自走対空砲などがある。過去には自走臼砲、自走対戦車砲、自走歩兵砲なども存在し、小型トラックに砲を載せただけの物から、重さ120トンを超えるカール自走臼砲まで、多種多様な自走砲が開発された。運用する軍組織によっては突撃砲や砲戦車などとも呼ばれた。21世紀の現在では、単に自走砲と言えば対地目標を砲撃する自走榴弾砲を指すことが多い。
レール上を移動する列車砲は自力では移動できないので自走砲ではない。また、近年では牽引式榴弾砲の中には、陣地展開時や陣地変換のために補助エンジンによって短距離を自走できるもの(FH70やTRF1、SD-44など)もあるが、これも自走砲には含まれない。
野戦で砲兵が扱う大砲は、人間あるいは牛馬による牽引で移動するが、射撃陣地到着後に牽引状態から射撃状態に移行し、射撃後は移動するために牽引状態に戻す時間が生じるため迅速な陣地変換はできなかった。また、大砲は生物による牽引が困難なほど大型化していったため自動車によって牽引されるようになった。弾道を電波で探知・計測する対砲兵レーダーが発達すると発射位置が特定されるようになり、射撃後は速やかにその場を離れなければ砲やミサイル、空爆による反撃を受ける危険性が高くなった。これを避けるために数発砲撃した後に素早く移動するための機動性として自走能力が必要となっている。このため、陣地展開から射撃、再移動へのプロセスの時間短縮が重視されており、ドイツのPzH2000を例に挙げると、8発を発射する砲撃任務を、射撃準備に30秒、射撃に1分、撤収に30秒と、わずか2分間で完了できる。
152mmから155mmの榴弾砲が搭載され、口径については大口径化する傾向がありフランスのカエサル、スウェーデンのアーチャー、セルビアのB-52など一見すると反動が少ない小口径砲が適正に思われる装輪式自走砲においても大口径化の傾向が当てはまる。射程は通常の榴弾で約15kmから約30kmだが、ロケット推進弾などを使用することで射程が50kmに達するものもある。また、誘導砲弾を用いることで移動する物体を砲撃することができる。通常の榴弾砲と同様に放物線を描いて曲射するため仰角が大きく取れるようになっており、逆に直接射撃能力は自衛戦闘時には必要になるが比較的安全な後方から間接攻撃によって交戦する前提の自走砲ではあまり重視されていない。装甲も重機関銃弾の直撃や周囲へ弾着する榴弾から飛散する破片や爆風に耐えられる程度の場合が多い。
また、長距離の目標へ向けてどれだけ多くの砲弾を短時間で投射できるかも重要で、射撃管制装置の進化により短時間に大量の連続射撃を行うバースト射撃能力が求められている。バースト射撃能力の例として、ロシアの2S19では、持続射撃時には毎分2発の砲撃を行うが、バースト射撃の際には毎分8発の砲撃を行うことが出来る。このほか、最新型の自走榴弾砲では単一の砲から発射された複数発の砲弾が同一目標にほぼ同時に着弾するように高仰角から少しずつ仰角と装薬量を小さくしながら連射するMRSI(Multiple Rounds Simultaneous Impact:多数砲弾同時着弾)砲撃を可能としている。MRSI射撃が可能な自走榴弾砲としては、南アフリカのG6-52やドイツのPzH2000、スロバキアのズザナ、スウェーデンのアーチャーなどが挙げられる。
ただし、上記のようなバースト射撃能力やMRSI射撃能力などを持つ自走榴弾砲は高価な上に重量も大きくなるため、調達数が制限されたり輸送機による空輸に支障が出たりするようになった。このため近年では自走砲の原点に立ち返って迅速な移動に焦点を絞りチェコのダナやイスラエルのATMOS 2000のようにトラックの荷台部分に榴弾砲を搭載する自走榴弾砲も登場するようになった。トラック利用型の自走榴弾砲は装輪式故に自走速度は速いが不整地踏破能力が低く、軽量故に射撃の反動で車体が激しく揺れ連射性能が低く、支えられる重量は装軌式より軽いため防御力が低いが、低コストなのが利点である。機能面では、砲塔は360度全周旋回が可能なのが殆どな装軌式に対して、装輪式は車体後部に車体の動揺を抑制する駐鋤(スペード)を備え、車体の横転防止のため限定旋回がほとんどで、また完全自動装填装置の搭載が多い装軌式に対して装輪式は半自動装填装置の搭載が多い。
自走ロケット砲は第二次世界大戦時にソ連のカチューシャが多大な成功を収めたことで、ソ連以外でも同種兵器が評価された実用化が推し進められた。口径は122mmから300mmと種類は多く、弾頭は榴弾が基本となる。また、ロケット砲の反動の少なさなどから装輪式が基本である。
構造的にはほぼ同じ兵器であっても、国や時代が異なれば違う分類になることもある。運用する兵科や元となった開発目的がそのような兵器の分類を規定することがあるが、それも変化しやすく明確な分類法とはならない。第二次大戦中には視界内の目標を直接射撃する「対戦車自走砲」なども多く用いられていたが、広義に戦車であっても狭義では自走砲の任務も果たす場合があり、その逆もある。
例えば第二次世界大戦のドイツ国防軍では、無砲塔の戦闘車両が戦車部隊に配備されれば駆逐戦車、砲兵部隊に配備されれば突撃砲、密閉装甲を持たないと自走砲と呼ばれた。日本の場合、戦車部隊では砲戦車、砲兵部隊では自走砲と呼ばれた他、しばしば前線の戦車部隊が独自に自走砲を砲戦車と呼称したケースもあった。一方、イタリア軍やソビエト連邦軍では、配備先や防御方式(密閉式か否か)による分類はされず、全て自走砲と呼ばれていた。
日本語では戦車の数詞は「両」で数えるのと同様に自走砲は「両」である。なお、列車砲も同様に「両」で数えられるが、これは鉄道車両としての分類からである。一方、自らで機動力を持たない牽引砲は「門」で数えられる。
|
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自走砲は、大砲を自走可能な車体に射撃可能な状態で搭載した兵器。
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'''自走砲'''(じそうほう、Self-propelled artillery, SPA, Self-propelled gun, SPG)は、[[大砲]]を自走可能な車体に射撃可能な状態で搭載した兵器。
== 概要 ==
装備する[[大砲]]の種類によって'''自走[[榴弾砲]](自走[[カノン砲]])'''、'''自走[[迫撃砲]]'''、'''自走[[無反動砲]]'''、'''[[自走式対空砲|自走対空砲]]'''などがある。過去には自走[[臼砲]]、自走[[対戦車砲]]、自走[[歩兵砲]]なども存在し、小型[[貨物自動車|トラック]]に砲を載せただけの物から、重さ120[[トン]]を超える[[カール自走臼砲]]まで、多種多様な自走砲が開発された。運用する軍組織によっては[[突撃砲]]や[[砲戦車]]などとも呼ばれた。[[21世紀]]の現在では、単に自走砲と言えば対地目標を砲撃する自走榴弾砲を指すことが多い。
[[レール]]上を移動する[[列車砲]]は自力では移動できないので自走砲ではない。また、近年では牽引式榴弾砲の中には、[[陣地]]展開時や陣地変換のために補助エンジンによって短距離を自走できるもの([[FH70]]や[[TRF1 155mm榴弾砲|TRF1]]、SD-44など)もあるが、これも自走砲には含まれない。
== 自走の必要性 ==
[[野戦]]で[[砲兵]]が扱う[[大砲]]は、人間あるいは牛馬による牽引で移動するが、射撃陣地到着後に牽引状態から射撃状態に移行し、射撃後は移動するために牽引状態に戻す時間が生じるため迅速な陣地変換はできなかった。また、大砲は生物による牽引が困難なほど大型化していったため自動車によって牽引されるようになった。弾道を電波で探知・計測する[[対砲兵レーダー]]が発達すると発射位置が特定されるようになり、射撃後は速やかにその場を離れなければ[[砲]]や[[ミサイル]]、[[空爆]]による反撃を受ける危険性が高くなった。これを避けるために数発[[砲撃]]した後に素早く移動するための機動性として自走能力が必要となっている。このため、陣地展開から射撃、再移動へのプロセスの時間短縮が重視されており、ドイツのPzH2000を例に挙げると、8発を発射する砲撃任務を、射撃準備に30秒、射撃に1分、撤収に30秒と、わずか2分間で完了できる。
152mmから155mmの榴弾砲が搭載され、口径については大口径化する傾向があり[[フランス]]の[[カエサル 155mm自走榴弾砲|カエサル]]、[[スウェーデン]]の[[アーチャー自走榴弾砲|アーチャー]]、[[セルビア]]のB-52など一見すると反動が少ない小口径砲が適正に思われる装輪式自走砲においても大口径化の傾向が当てはまる。射程は通常の[[榴弾]]で約15kmから約30kmだが、ロケット推進弾などを使用することで射程が50kmに達するものもある。また、誘導砲弾を用いることで移動する物体を[[砲撃]]することができる。通常の榴弾砲と同様に放物線を描いて曲射するため仰角が大きく取れるようになっており、逆に直接射撃能力は自衛戦闘時には必要になるが比較的安全な後方から間接攻撃によって交戦する前提の自走砲ではあまり重視されていない。[[装甲]]も[[重機関銃]]弾の直撃や周囲へ弾着する榴弾から飛散する破片や爆風に耐えられる程度の場合が多い。
また、長距離の目標へ向けてどれだけ多くの砲弾を短時間で投射できるかも重要で、[[射撃管制装置]]の進化により短時間に大量の連続射撃を行うバースト射撃能力が求められている。バースト射撃能力の例として、[[ロシア]]の[[2S19ムスタ-S_152mm自走榴弾砲|2S19]]では、持続射撃時には毎分2発の砲撃を行うが、バースト射撃の際には毎分8発の砲撃を行うことが出来る。このほか、最新型の自走[[榴弾砲]]では単一の砲から発射された複数発の砲弾が同一目標にほぼ同時に着弾するように高仰角から少しずつ仰角と装薬量を小さくしながら連射する'''MRSI'''([[:en:Artillery#MRSI|Multiple Rounds Simultaneous Impact]]:多数砲弾同時着弾)砲撃を可能としている。MRSI射撃が可能な自走榴弾砲としては、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の[[G6 155mm自走榴弾砲|G6-52]]や[[ドイツ]]の[[PzH2000自走榴弾砲|PzH2000]]、[[スロバキア]]の[[ズザナ 155mm自走榴弾砲|ズザナ]]、[[スウェーデン]]の[[アーチャー自走榴弾砲|アーチャー]]などが挙げられる。
ただし、上記のようなバースト射撃能力やMRSI射撃能力などを持つ自走榴弾砲は高価な上に重量も大きくなるため、調達数が制限されたり[[輸送機]]による空輸に支障が出たりするようになった。このため近年では自走砲の原点に立ち返って迅速な移動に焦点を絞り[[チェコ]]の[[ダナ 152mm自走榴弾砲|ダナ]]や[[イスラエル]]の[[ATMOS 2000]]のようにトラックの荷台部分に榴弾砲を搭載する自走榴弾砲も登場するようになった。トラック利用型の自走榴弾砲は装輪式故に自走速度は速いが不整地踏破能力が低く、軽量故に射撃の反動で車体が激しく揺れ連射性能が低く、支えられる重量は装軌式より軽いため防御力が低いが、低コストなのが利点である。機能面では、[[砲塔]]は360度全周旋回が可能なのが殆どな装軌式に対して、装輪式は車体後部に車体の動揺を抑制する駐鋤(スペード)を備え、車体の横転防止のため限定旋回がほとんどで、また完全自動装填装置の搭載が多い装軌式に対して装輪式は半[[自動装填装置]]の搭載が多い。
== 自走ロケット砲 ==
自走ロケット砲は[[第二次世界大戦]]時に[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[カチューシャ (兵器)|カチューシャ]]が多大な成功を収めたことで、ソ連以外でも同種兵器が評価された実用化が推し進められた。口径は122mmから300mmと種類は多く、弾頭は榴弾が基本となる。また、ロケット砲の反動の少なさなどから装輪式が基本である。
== 自走砲の分類==
[[ファイル:M56 at AAF Tank Museum.JPG|左|サムネイル|250x250ピクセル|自走[[対戦車砲]]([[M56スコーピオン|M56]])]]
構造的にはほぼ同じ[[兵器]]であっても、国や時代が異なれば違う分類になることもある。運用する兵科や元となった開発目的がそのような兵器の分類を規定することがあるが、それも変化しやすく明確な分類法とはならない。第二次大戦中には視界内の目標を直接射撃する「対戦車自走砲」なども多く用いられていたが、広義に戦車であっても狭義では自走砲の任務も果たす場合があり、その逆もある。
例えば[[第二次世界大戦]]の[[ドイツ国防軍]]では、無[[砲塔]]の戦闘車両が[[戦車]]部隊に配備されれば[[駆逐戦車]]、[[砲兵]]部隊に配備されれば[[突撃砲]]、密閉装甲を持たないと自走砲と呼ばれた。日本の場合、戦車部隊では[[砲戦車]]、砲兵部隊では自走砲と呼ばれた他、しばしば前線の戦車部隊が独自に自走砲を砲戦車と呼称したケースもあった。一方、[[イタリア軍]]や[[ソビエト連邦軍]]では、配備先や防御方式(密閉式か否か)による分類はされず、全て自走砲と呼ばれていた。
[[日本語]]では戦車の[[数詞]]は「両」で数えるのと同様に自走砲は「両」である。なお、[[列車砲]]も同様に「両」で数えられるが、これは鉄道車両としての分類からである。一方、自らで機動力を持たない牽引砲は「門」で数えられる。
== 自走砲の一覧 ==
{{main|自走砲一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Self-propelled artillery}}
* [[ザンブーラキ]] - [[ラクダ]]の背に[[旋回砲]]などを乗せた一種の移動砲台。
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[[Category:自走砲|*]]
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烏山線
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烏山線(からすやません)は、栃木県塩谷郡高根沢町の宝積寺駅と栃木県那須烏山市の烏山駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。
沿線に「宝積寺(ほうしゃくじ)」「大金(おおがね)」という縁起の良いとされる名前の駅があり、駅が8駅であることから、七福神をキャラクターとして、宝積寺駅を除く各駅に各尊を割り当てて各駅の看板などを整備している。なお、宝積寺駅の看板には全尊が当線で使用されていたキハ40形車両に乗る姿が描かれている。
2009年3月14日から、旅客営業規則の定める「東京近郊区間」に指定された。ただし、当線区内の7駅はIC乗車カード「Suica」の利用対象外となっている。自動改札機は宇都宮線との接続駅である宝積寺駅を含め設置されていない。
全線が大宮支社の管轄である。
現在の烏山線の路線敷設計画に至る以前の1894年(明治27年)、烏山町の島崎善平等は多雨期の鬼怒川をリスクと考え、これを渡る日本鉄道奥州線の長久保駅に接続するルートではなく、現在の水戸線川島駅に至る「常野鉄道」の開設を当時の栃木県知事佐藤暢に願い出た。これは実現せず、その後奥州線が東に移設され宝積寺駅が開業したため、烏山の小林初太郎と宝積寺の矢口縫太郎が中心となって「烏山人車鉄道会社」を設立し、烏山と宝積寺を結ぶ人車鉄道開設を求めることとなった。資金も集めて準備も進められたが、この計画も実現しなかった。
1911年(明治44年)3月15日、烏山町の島崎善平らは「烏山宝積寺間軽便鉄道敷設請願書」を鉄道院総裁の後藤新平に提出、同年8月21日には「軽便鉄道敷設に付き請願」が鉄道院の新総裁となった原敬に提出されるなど、烏山と宝積寺を結ぶ軽便鉄道の敷設願いが再三政府に提出された。この「軽便鉄道敷設に付き請願」は単に烏山と宝積寺を結ぶ支線としての計画ではなく常野を横断し常磐線と東北本線を結ぶ路線計画であったことから、衆議院議員の江原節らが議会で審議し遂に1912年(明治45年)2月28日、宝積寺駅から烏山に至る軽便鉄道が議会で可決された。地元では烏宝軽便鉄道の期成同盟会が立ち上げられたが、日露戦争以来の政府の資金不足から国の建設認可が下りず、第一次世界大戦にともなう景気亢進で国の手でようやく建設されることになり、1921年(大正10年)1月10日に工事を落札した坂本佐吉によって宝積寺 - 文狭間で建設工事が着手された。烏山側では依然として工事が始まらなかったため地元住民が再三懇願に上京しようとしていた矢先に鉄道省技師等が烏山を訪れ、ようやく工事が開始されることとなった。こうした紆余曲折を経て、1923年(大正12年)にようやく開通。地元では新聞、銀行、旅館などが烏宝線(うほうせん)と表示する時刻表を作り報道したが、鉄道省関係の資料では建設時から「烏山線」とされ、営業開始時の正式路線名も「烏山線」とされて現在に至っている。開通日は鉄道省告示により1923年(大正12年)4月15日とされたが、実際には北白川宮成久王が薨去したため開通式は5月1日に変更された。開通式には各界の名士が参列したほか、地元住民も大勢が参加してたいへん賑わい、当日の烏山駅利用者は午後3時までに乗降者2千7百人を超えた。
JRの前身である日本国有鉄道が運営していた1968年(昭和43年)には「赤字83線」に選定され廃止対象とされた。その後、1970年(昭和45年)の日本国有鉄道諮問委員会報告書で報告された全国鉄路線各線の収支係数が公表され、近隣他路線との比較で烏山線は、日光線、両毛線、水戸線よりは悪いが、水郡線、鹿島線、相模線、鶴見線より良く、吾妻線、川越線、東金線とほぼ同等であることが判明し、烏山線は存続となり、以後は特定地方交通線にも選定されず現在に至っている。なお、同じく赤字83線に選定された県内他路線の真岡線と、赤字83線には選定されなかった足尾線は、収支係数および損益状況上では相模線と同等か良好、かつ、鹿島線より遥かに良かったが、沿線に主要都市が無く、また県都と県内地域を結ぶ路線ではなかったことなど、存続するための路線評価が得られず第三セクター鉄道化されている。
2019年3月16日改正ダイヤでは、途中駅発着の区間列車の設定はなく、下り14本・上り13本の全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を運行する。うち3往復が烏山線内完結列車となっているほかは、宇都宮線(東北本線)宇都宮駅を始発・終点とする直通列車となっている。運転間隔は終日1 - 2時間に1本。
2014年3月15日の改正から宇都宮駅直通列車2往復と線内運転1往復が蓄電池駆動電車(EV-E301系「ACCUM」)で運行されるようになり、2017年3月4日からは全列車がEV-E301系での運行に統一された。
戦後の高度経済成長期以来、一部列車を除いて宇都宮駅を始発・終着として運行されてきたが、国鉄末期の1986年11月1日に線内折り返しを主とする1日18往復へ増便し、東北本線宇都宮駅 - 黒磯駅間の普通列車の増発に伴って宇都宮駅を始発・終着とする烏山線直通列車は下り2本にまで削減された。1996年3月16日には、利用客の流動状況に鑑み、宇都宮駅始発・終着列車の本数を朝夕の通勤・通学時間帯を中心に5往復まで戻している。2010年(平成22年)3月13日の時点では、毎日18往復ある全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を走り、うち毎日5往復が宇都宮線(東北本線)宇都宮駅を始発・終着とする直通列車で、運転間隔は約1時間間隔、烏山線内では朝の一部を除く上下各16本の列車、宇都宮線区間では朝の上りと夕方の下りを除く下り4本、上り2本の列車でワンマン運転が実施されていた。12月4日のダイヤ改正で毎日1日16往復運転となり、うち10往復が宇都宮駅直通となった。EV-E301系が投入された2014年3月15日改正時点では1日14往復運転、うち9往復が宇都宮駅直通となった。
国鉄時代には宇都宮駅 - 烏山駅間に快速列車が運転された時期もあったほか、早朝上り烏山発の1本は東北本線の宇都宮駅以南に直通し、小山駅で両毛線始発の快速「おおとね」に併結して上野駅まで運転していた。また、「おおとね」との併結を黒磯発の普通列車に譲った後も、石橋駅まで乗り入れて直ぐに折り返し烏山行きとなる運用が行われていた。
昭和30年代後半、宇都宮駅 - 烏山駅間には快速列車が毎日1往復だけ運行されていた時期があった。すでに当線に客車列車の設定はなく、全列車が宇都宮運転所所属の気動車で運行されるようになってしばらく経ってからのことである。
途中の停車駅は宝積寺駅・仁井田駅・大金駅で、上りは9時頃に烏山駅を出て宇都宮駅に9時40分頃到着、下りは17時過ぎに宇都宮駅を出て烏山駅に17時40分頃到着、というダイヤであった。当時の当線の運行本数は優等列車なしの12往復で、全列車が宇都宮駅 - 烏山駅間の運行であった。普通列車(11往復)の所要時間は50分程度で、快速列車(1往復)はそれより10分程度短かった。
朝の上り列車は線内での上下列車の行き違いはなく、下り列車は大金駅での上り列車との待ち合わせがあったものの、上下列車ともに途中駅での追い越しはなかった。この快速列車は5年間程度運行されたが、その後廃止され、以後、当線に定期の速達列車が設定されたことはない。
開業後しばらくの間は蒸気機関車による客貨混合列車で運行された。太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)、歯車式変速器のディーゼル気動車が一部便に投入され、その後1957年(昭和32年)に液体式の車両に置き換えられた。
戦前はガソリンカー、戦中はタンク式蒸気機関車が使われた。
便宜上、大半の列車が乗り入れる、東北本線(宇都宮線)宇都宮駅 - 宝積寺駅間も併せて記載する。同区間については、烏山線乗り入れ列車についてのみ述べる。
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"text": "開業後しばらくの間は蒸気機関車による客貨混合列車で運行された。太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)、歯車式変速器のディーゼル気動車が一部便に投入され、その後1957年(昭和32年)に液体式の車両に置き換えられた。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "戦前はガソリンカー、戦中はタンク式蒸気機関車が使われた。",
"title": "使用車両"
},
{
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"tag": "p",
"text": "便宜上、大半の列車が乗り入れる、東北本線(宇都宮線)宇都宮駅 - 宝積寺駅間も併せて記載する。同区間については、烏山線乗り入れ列車についてのみ述べる。",
"title": "駅一覧"
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"text": "各年度の平均通過人員(人/日)は以下の通り。",
"title": "平均通過人員"
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] |
烏山線(からすやません)は、栃木県塩谷郡高根沢町の宝積寺駅と栃木県那須烏山市の烏山駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)。 沿線に「宝積寺(ほうしゃくじ)」「大金(おおがね)」という縁起の良いとされる名前の駅があり、駅が8駅であることから、七福神をキャラクターとして、宝積寺駅を除く各駅に各尊を割り当てて各駅の看板などを整備している。なお、宝積寺駅の看板には全尊が当線で使用されていたキハ40形車両に乗る姿が描かれている。 2009年3月14日から、旅客営業規則の定める「東京近郊区間」に指定された。ただし、当線区内の7駅はIC乗車カード「Suica」の利用対象外となっている。自動改札機は宇都宮線との接続駅である宝積寺駅を含め設置されていない。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 烏山線
|路線色=#339966
|画像=JR East EV-E301 Series BEMU 103.JPG
|画像サイズ=300px
|画像説明=鴻野山駅 - 大金駅間を走行する<br />EV-E301系電車(2015年3月14日)
|国={{JPN}}
|所在地=[[栃木県]][[塩谷郡]][[高根沢町]]、[[那須烏山市]]
|種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[地方交通線]])
|起点=[[宝積寺駅]]
|終点=[[烏山駅]]
|駅数=8駅
|電報略号 = カヤセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|開業={{start date and age|1923|4|15}}
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
|運営者=東日本旅客鉄道(JR東日本)
|使用車両=[[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]
|路線距離=20.4 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数=[[単線]]
|電化方式=全線[[非電化]](烏山駅構内のみ[[直流電化]])
|最大勾配=
|最小曲線半径=
|閉塞方式=自動閉塞式(特殊)(宝積寺駅 - 大金駅間)<br />特殊自動閉塞(軌道回路検知式)(大金駅 - 烏山駅間)
|保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
|最高速度=65 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="LRT" />
|路線図=[[File:JR Karasuyama Line Map.svg|200px|赤線が烏山線、青線が東北本線乗り入れ区間]]<br>赤線が烏山線、青線が宇都宮線(東北本線)乗り入れ区間
}}
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#339966}}
{{BS-table}}
{{BS|HST|||[[宇都宮駅]]||}}
{{BS|STR|||[[東北本線]]([[宇都宮線]])||}}
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{{BS|WBRÜCKE1||人巻橋梁||}}
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{{BS|KBHFe|20.4|[[烏山駅]]||}}
|}
|}
'''烏山線'''(からすやません)は、[[栃木県]][[塩谷郡]][[高根沢町]]の[[宝積寺駅]]と栃木県[[那須烏山市]]の[[烏山駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[地方交通線]])。
沿線に「宝積寺(ほうしゃくじ)」「大金(おおがね)」という縁起の良いとされる名前の駅があり、駅が8駅であることから、[[七福神]]をキャラクターとして、宝積寺駅を除く各駅に各尊を割り当てて各駅の看板<!--駅名標ではない-->などを整備している。なお、宝積寺駅の看板には全尊が当線で使用されていた[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]車両に乗る姿が描かれている。
[[2009年]]3月14日から、[[旅客営業規則]]の定める「[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]」に指定された<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2008/20081218.pdf Suicaをご利用いただけるエリアが広がります]}} - 東日本旅客鉄道、2008年12月22日。</ref>。ただし、当線区内の7駅は[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の利用対象外となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/kippu/1103.html|title=運賃計算の特例|publisher=JR東日本|accessdate=2011-10-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/area/tokyo/index.html|title=首都圏エリア|work=Suica|publisher=JR東日本|accessdate=2011-10-17}}</ref>。[[自動改札機]]は[[宇都宮線]]との接続駅である宝積寺駅を含め設置されていない。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):20.4 km<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』</ref>
* 管轄(事業種別):東日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
* [[軌間]]:1,067 mm<ref name="youran" />
* 駅数:8(起終点駅含む)
** 烏山線所属駅に限定する場合、東北本線所属の宝積寺駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]] 1998年 ISBN 978-4533029806</ref>が除外され、7駅となる。
* 複線区間:なし(全線[[単線]])<ref name="youran" />
* 電化区間:なし(全線[[非電化]])<ref name="youran" />。
** ただし烏山駅構内は、蓄電池駆動電車の充電用に[[直流]]1,500 Vで電化。
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]
** 自動閉塞式(特殊):宝積寺駅 - 大金駅間
** 特殊自動閉塞式(軌道回路検知式):大金駅 - 烏山駅間
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]
* 最高速度:65 km/h<ref name="LRT">{{Cite web |和書|url=https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/006/078/150824shiryou4.pdf |title=芳賀・宇都宮LRTの車両について |website=宇都宮市 |format=PDF |page=5 |accessdate=2023-12-10 }}</ref>
* [[運転指令所]]:宇都宮[[列車集中制御装置|CTC]]センター
** 運転取扱駅(駅が信号を制御):宝積寺駅
* [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:全線(東京近郊区間)
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:なし
全線が[[東日本旅客鉄道大宮支社|大宮支社]]の管轄である<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/recruit/pdf/tokyo_areamap.pdf 東京エリアの各支社] - 東日本旅客鉄道}}</ref>。
== 歴史 ==
=== 前史(常野鉄道と烏山人車鉄道) ===
現在の烏山線の路線敷設計画に至る以前の[[1894年]]([[明治]]27年)、[[烏山町]]の島崎善平等は多雨期の[[鬼怒川]]をリスクと考え、これを渡る[[日本鉄道]][[東北本線|奥州線]]の[[長久保駅]]に接続するルートではなく、現在の[[水戸線]][[川島駅]]に至る「常野鉄道」の開設を当時の[[栃木県]]知事[[佐藤暢 (栃木県知事)|佐藤暢]]に願い出た。これは実現せず、その後奥州線が東に移設され[[宝積寺駅]]が開業したため、烏山の小林初太郎と宝積寺の矢口縫太郎が中心となって「烏山人車鉄道会社」を設立し、烏山と宝積寺を結ぶ[[人車軌道|人車鉄道]]開設を求めることとなった。資金も集めて準備も進められたが、この計画も実現しなかった<ref name=" yashu-tetsudo">大町雅美著『郷愁の野州鉄道』随想舎</ref>。
=== 烏宝軽便鉄道 ===
[[1911年]](明治44年)[[3月15日]]、烏山町の島崎善平らは「烏山宝積寺間軽便鉄道敷設請願書」を[[鉄道院]]総裁の[[後藤新平]]に提出、同年[[8月21日]]には「軽便鉄道敷設に付き請願」が鉄道院の新総裁となった[[原敬]]に提出されるなど、烏山と宝積寺を結ぶ[[軽便鉄道]]の敷設願いが再三政府に提出された。この「軽便鉄道敷設に付き請願」は単に烏山と宝積寺を結ぶ支線としての計画ではなく常野を横断し[[常磐線]]と[[東北本線]]を結ぶ路線計画であったことから、[[衆議院]]議員の[[江原節]]らが議会で審議し遂に[[1912年]](明治45年)[[2月28日]]、宝積寺駅から烏山に至る軽便鉄道が議会で可決された。地元では'''烏宝軽便鉄道'''の期成同盟会が立ち上げられたが、[[日露戦争]]以来の政府の資金不足から国の建設認可が下りず、[[第一次世界大戦]]にともなう景気亢進で国の手でようやく建設されることになり、[[1921年]]([[大正]]10年)[[1月10日]]に工事を落札した坂本佐吉によって宝積寺 - 文狭間で建設工事が着手された。烏山側では依然として工事が始まらなかったため地元住民が再三懇願に上京しようとしていた矢先に[[鉄道省]]技師等が烏山を訪れ、ようやく工事が開始されることとなった。こうした紆余曲折を経て、[[1923年]](大正12年)にようやく開通。地元では新聞、銀行、旅館などが'''烏宝線'''(うほうせん)と表示する時刻表を作り報道したが、鉄道省関係の資料では建設時から「烏山線」とされ、営業開始時の正式路線名も「烏山線」とされて現在に至っている<ref name="yashu-tetsudo" /><ref>『[{{NDLDC|974231/73}} 大正十一年度 鉄道省年報]』『[{{NDLDC|974232/83}} 大正十二年度 鉄道省年報]』『[{{NDLDC|974248/349}} 大正十二年度 鉄道省鉄道統計資料]』『[{{NDLDC|947296/6}} 大正十三年三月末日現在 日本全国鉄道線路哩程]』(いずれも国立国会図書館デジタルコレクションより)によると建設時より「烏山線」となっているが、地元新聞などでは計画時からの「烏宝線」の名もしばらく使われた。</ref>。開通日は鉄道省[[告示]]により1923年(大正12年)[[4月15日]]とされたが、実際には[[北白川宮成久王]]が薨去したため開通式は[[5月1日]]に変更された。開通式には各界の名士が参列したほか、地元住民も大勢が参加してたいへん賑わい、当日の烏山駅利用者は午後3時までに乗降者2千7百人を超えた<ref name="yashu-tetsudo" />。
=== 廃止の回避 ===
JRの前身である[[日本国有鉄道]]が運営していた[[1968年]](昭和43年)には「[[赤字83線]]」に選定され廃止対象とされた。その後、[[1970年]](昭和45年)の日本国有鉄道諮問委員会報告書で報告された全国鉄路線各線の[[収支係数]]が公表され、近隣他路線との比較で烏山線は、[[日光線]]、[[両毛線]]、水戸線よりは悪いが、[[水郡線]]、[[鹿島線]]、[[相模線]]、[[鶴見線]]より良く、[[吾妻線]]、[[川越線]]、[[東金線]]とほぼ同等であることが判明し、烏山線は存続となり、以後は[[特定地方交通線]]にも選定されず現在に至っている。なお、同じく赤字83線に選定された県内他路線の[[真岡鐵道真岡線|真岡線]]と、赤字83線には選定されなかった[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾線]]は、収支係数および損益状況上では相模線と同等か良好、かつ、鹿島線より遥かに良かったが、沿線に主要都市が無く、また[[都道府県庁所在地|県都]]と県内地域を結ぶ路線ではなかったことなど、存続するための路線評価が得られず[[第三セクター鉄道]]化されている<ref name="tetsudo-pictrial-1972-02" /><ref>守屋八郎 著「赤字線問題 国有鉄道の場合」『鉄道ピクトリアル』1968年12月号 通巻218号 電気車研究会</ref><ref>福田行高・山田俊明 共著「ローカル線を探る 真岡線」『鉄道ピクトリアル』1971年11月号 通巻257号 電気車研究会</ref><ref>福田行高・山田俊明 共著「ローカル線を探る 足尾線」『鉄道ピクトリアル』1973年6月号 通巻279号 電気車研究会</ref><ref>「1971(昭和46)年度 国鉄線区別収支係数」『鉄道ピクトリアル』1972年11月号 通巻271号 電気車研究会</ref>。
=== 年表 ===
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=Karasuyamaline-80th-anniversary.jpg
| 2=キハ40 1004<br />(全線開業80周年記念の国鉄気動車首都圏色)
| 3=Kiha401003jnrcolor.jpg
| 4=キハ40 1003<br />(開業88周年記念の国鉄気動車一般色)
}}
* [[1923年]](大正12年)[[4月15日]]<ref name="yashu-tetsudo" /><ref>『[{{NDLDC|974232/83}} 大正十二年度 鉄道省年報]』では4月1日となっているが、『[{{NDLDC|974248/349}} 大正十二年度 鉄道省鉄道統計資料]』の「本年度中線路増減表」、後年の運輸省鉄道局監修『平成九年度 鉄道要覧』(電気車研究会)、国土交通省鉄道局監修『平成十八年度 鉄道要覧』(同)では4月15日となっている。なお、[{{NDLDC|2955331/2}} 鉄道省告示 (1923年4月13日官報掲載)]では4月15日開通とされ、開通式は5月1日に行われた。</ref>:宝積寺駅 - 烏山駅間 (20.4 km) が開業。これにともない、熟田(にいた)駅・大金駅・烏山駅が開業<ref name="chizucho">今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』[[新潮社]] 2008年 p.27</ref><ref name="yashu-tetsudo" />。
* [[1925年]](大正14年)[[4月1日]]:熟田駅が仁井田駅に改称<ref name="chizucho" /><ref name="yashu-tetsudo" />。
* [[1934年]](昭和9年)[[8月15日]]:気動車運行開始(宝積寺-烏山間)<ref>[{{NDLDC|1114638/97}} 『鉄道省年報. 昭和9年度』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。下野花岡駅・鴻野山駅・小塙駅が開業<ref name="chizucho" />。
* この頃、宇都宮直通列車の運転が定着(同年12月1日改定の時刻表では上り10本中、7本が宇都宮行きとなった)<ref name="yashu-tetsudo" />。
* [[1941年]](昭和16年)[[8月10日]]:下野花岡駅・鴻野山駅・小塙駅に停車する列車が、朝夕の通勤時間帯のみとなる<ref name="yashu-tetsudo" />。
* [[1954年]](昭和29年)[[6月1日]]:滝駅が開業<ref name="chizucho" />。
* [[1960年]](昭和35年)7月:蒸気機関車での運用が廃止<ref>{{Cite journal|author=山崎正夫・浪岡真弘・菊田紘・坂井重夫・細井敏弘|year=1976|title=すすむ輸送方式の近代化|journal=交通技術|volume=第31巻|issue=第3号|page=20}}</ref>。
* [[1979年]](昭和54年)
** 6月1日:全線の貨物営業が廃止<ref name="sougou-nenpyou" />。
** [[6月2日]]:[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]気動車が運行開始<ref name="sougou-nenpyou" /><ref name="pr-nasu-karasuyama201703" />。
** [[7月1日]]:宝積寺 - 仁井田間 (5.9 km) の貨物営業を開始<ref name="sougou-nenpyou" />。
** [[7月22日]]・[[7月23日|23日]]:ミステリー列車として「銀河鉄道999号」が上野駅 - 烏山駅間で運行<ref name="sougou-nenpyou" />。
* [[1984年]](昭和59年)[[3月14日]]:宝積寺 - 仁井田間の貨物営業が廃止。
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]にともない、東日本旅客鉄道に承継。
* [[1990年]](平成2年)
** [[12月1日]]:下野花岡駅の読みを「しも'''ず'''けはなおか」から「しも'''つ'''けはなおか」に変更<ref name="chizucho" />。
** [[3月10日]]:全線でワンマン運転を開始<ref name="henseihyo-2010" /><ref>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=170 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)7月24日:「七福神列車」として各駅と車両を七福神と結び付けて装飾<ref name="pr-nasu-karasuyama201703">{{Cite journal |和書 |title=ありがとう 烏山線 気動車 キハ40形 |journal=広報なすからすやま |issue=138 |publisher=那須烏山市 |date=2017-03 |pages=4-5 |url=https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1615704223_doc_3_0.pdf |format=PDF |access-date=2023-07-16 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)12月1日:乗り入れ先の[[宇都宮線]]([[東北本線]])宇都宮駅 - 宝積寺駅間でもワンマン運転を開始<ref name="henseihyo-2010" />。
* [[2003年]](平成15年):開業80周年記念としてキハ40形1両(キハ40 1004)の塗装を原色の[[朱色5号]](首都圏色)に変更して運行(4月から11月まで)<ref>『鉄道ファン』2003年7月号 p.218「JR東日本大宮支社 烏山線開業80周年イベント」旧国鉄色(朱色)気動車の運転</ref>。
* [[2006年]](平成18年)7月22日・23日:臨時快速列車「烏山山あげ祭り号」が、上野 - 烏山間を各日1往復運転される(翌年の同月28日・29日も運行)。
* [[2010年]](平成22年)[[12月24日]]:開業88周年記念としてキハ40形2両を[[クリーム4号]]と[[朱色4号]]によるツートンカラー(国鉄時代の「一般色」)に変更して運行(2両目は2011年4月から)<ref name="hobidas">[http://rail.hobidas.com/news/info/article/124913.html 烏山線に国鉄色塗装をイメージした車輌が登場] - 鉄道ホビダス [[ネコ・パブリッシング]] RMニュース 2010年11月12日 2010年12月20日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)3月11日:[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により、16日始発まで全線で運転を中止<ref>今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 東日本大震災の記録』新潮社、2011年、p.7</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://www.mlit.go.jp/common/000139083.pdf#page=56 東日本大震災 災害情報(第112報) 平成24年8月6日(月)10:00作成]}} - 国土交通省</ref>。
* [[2012年]](平成24年)5月26日:大金駅 - 烏山駅間のスタフ閉塞式が同日最終列車後に廃止され、特殊自動閉塞式に移行。合わせて全線で[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]運用開始。<ref>『鉄道と電気技術』2013年7月号 p.30「烏山線自動閉そく化・ATS-P化工事の概要」</ref>
* [[2013年]](平成25年)8月1日:大金駅の運転取り扱い終了に伴い同駅を無人化、また烏山駅を業務委託駅に変更。
* [[2014年]](平成26年)3月15日:蓄電池駆動電車[[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]「ACCUM」が運行開始<ref name="shimotuke-np-2014-3-16" /><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/otona/railwaynews/03/tochigi/20140316-OYT8T00220.htm 蓄電池電車 快走スタート] - 読売新聞、2014年3月16日</ref>。また、烏山駅・大金駅・仁井田駅の新駅舎が使用開始される。
* [[2017年]](平成29年)3月4日:当線において運用される全車両がEV-E301系で統一<ref name ="jreast20161216"/>。
* [[2019年]](平成31年)3月16日:下り始発列車及び最終列車、上り最終列車が宝積寺駅発着から宇都宮駅発着となった。
== 運行形態 ==
2019年3月16日改正ダイヤでは、途中駅発着の区間列車の設定はなく、下り14本・上り13本の全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を運行する。うち3往復が烏山線内完結列車となっているほかは、[[宇都宮線]]([[東北本線]])宇都宮駅を始発・終点とする直通列車となっている<ref name="JTB-jikokuhyo-201903">[[JTBパブリッシング]]『JTB時刻表』2019年3月号</ref>。運転間隔は終日1 - 2時間に1本。
2014年3月15日の改正から宇都宮駅直通列車2往復と線内運転1往復が蓄電池駆動電車([[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]「ACCUM」)で運行されるようになり<ref name="shimotuke-np-2014-3-16">“国内初の蓄電池電車アキュム、JR烏山線でGO”.[[下野新聞]](下野新聞社). (2014年3月16日)</ref>、2017年3月4日からは全列車がEV-E301系での運行に統一された。
戦後の[[高度経済成長期]]以来、一部列車を除いて宇都宮駅を始発・終着として運行されてきたが、[[日本国有鉄道|国鉄]]末期の[[1986年]][[11月1日]]に線内折り返しを主とする1日18往復へ増便し、東北本線宇都宮駅 - [[黒磯駅]]間の[[普通列車]]の増発に伴って宇都宮駅を始発・終着とする烏山線直通列車は下り2本にまで削減された<ref>日本国有鉄道監修『時刻表』 1986年12月号 日本交通公社</ref>。[[1996年]][[3月16日]]には、利用客の流動状況に鑑み、宇都宮駅始発・終着列車の本数を朝夕の通勤・通学時間帯を中心に5往復まで戻している<ref name="JTB-jikokuhyo-199603">『JTB時刻表』1996年3月号 [[JTB]]</ref>。[[2010年]]([[平成]]22年)[[3月13日]]の時点では、毎日18往復ある全列車が宝積寺駅 - 烏山駅全区間を走り、うち毎日5往復が宇都宮線(東北本線)宇都宮駅を始発・終着とする直通列車で、運転間隔は約1時間間隔、烏山線内では朝の一部を除く上下各16本の列車、宇都宮線区間では朝の上りと夕方の下りを除く下り4本、上り2本の列車で[[ワンマン運転]]が実施されていた<ref name="JTB-jikokuhyo-201003">『JTB時刻表』2010年3月号 JTBパブリッシング</ref><ref name="JR-jikokuhyo-201003">『JR時刻表』2010年3月号 交通新聞社</ref><ref name="henseihyo-2010">『JR気動車客車編成表』2010 交通新聞社 ISBN 978-4-330-14710-9</ref>。12月4日のダイヤ改正で毎日1日16往復運転となり、うち10往復が宇都宮駅直通となった<ref name="JTB-jikokuhyo-201012">『JTB時刻表』2010年12月号 JTBパブリッシング</ref><ref name="JR-jikokuhyo-201012">『JR時刻表』2010年12月号 交通新聞社</ref>。EV-E301系が投入された2014年3月15日改正時点では1日14往復運転、うち9往復が宇都宮駅直通となった<ref>『JTB時刻表』2014年4月号 JTBパブリッシング</ref>。
国鉄時代には宇都宮駅 - 烏山駅間に[[快速列車]]が運転された時期もあった<ref name="kotsukosha-jikokuhyo-196109">日本国有鉄道監修『時刻表』1961年9月号 日本交通公社</ref><ref name="kotsukosha-jikokuhyo-196409">日本国有鉄道監修『時刻表』1964年9月号 日本交通公社</ref>ほか、早朝上り烏山発の1本は東北本線の宇都宮駅以南<!-- 「先」だと時間的・順序的に「先」に読める。どちら方面かは文の最後まで読めばわかる。-->に直通し、[[小山駅]]で[[両毛線]]始発の快速「[[おはようとちぎ・ホームタウンとちぎ#宇都宮線優等列車沿革|おおとね]]」に併結して[[上野駅]]まで運転していた<ref name="kotsukosha-jikokuhyo-195611">日本国有鉄道監修『時刻表』1956年11月号 日本交通公社</ref>。また、「おおとね」との併結を[[黒磯駅|黒磯]]発の普通列車に譲った後も、[[石橋駅 (栃木県)|石橋駅]]まで乗り入れて直ぐに折り返し烏山行きとなる運用が行われていた<ref name="kotsukosha-jikokuhyo-195811">日本国有鉄道監修『時刻表』1958年11月号 日本交通公社</ref><ref name="kotsukosha-jikokuhyo-195907">日本国有鉄道監修『時刻表』1959年7月号 日本交通公社</ref>。
=== 過去に設定されていた快速列車 ===
昭和30年代後半、宇都宮駅 - 烏山駅間には[[快速列車]]が毎日1往復だけ運行されていた時期があった。すでに当線に[[客車]]列車の設定はなく、全列車が[[宇都宮運転所]]所属の[[気動車]]で運行されるようになってしばらく経ってからのことである。
途中の停車駅は宝積寺駅・[[仁井田駅 (栃木県)|仁井田駅]]・[[大金駅]]で、上りは9時頃に烏山駅を出て宇都宮駅に9時40分頃到着、下りは17時過ぎに宇都宮駅を出て烏山駅に17時40分頃到着、という[[ダイヤグラム|ダイヤ]]であった。当時の当線の運行本数は[[優等列車]]なしの12往復で、全列車が宇都宮駅 - 烏山駅間の運行であった。普通列車(11往復)の所要時間は50分程度で、快速列車(1往復)はそれより10分程度短かった。
朝の上り列車は線内での上下列車の[[列車交換|行き違い]]はなく、下り列車は大金駅での上り列車との待ち合わせがあったものの、上下列車ともに途中駅での[[待避駅#待避の種類|追い越し]]はなかった。この快速列車は5年間程度運行されたが、その後廃止され、以後、当線に[[定期列車|定期]]の速達列車が設定されたことはない<ref name="kotsukosha-jikokuhyo-196109" /><ref name="kotsukosha-jikokuhyo-196409" />。
== 使用車両 ==
=== 現行の使用車両 ===
==== 定期列車 ====
[[ファイル:JR East EV-E301 Series BEMU 101.JPG|200 px|thumb|right|EV-E301系「ACCUM」]]
; [[JR東日本EV-E301系電車|EV-E301系]]電車
: 当路線の主力車両。[[JR東日本E995系電車|E995系]]「NE Train スマート電池くん」を用いて開発が進められた[[蓄電池]]駆動電車システムを採用した電車<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2012/20121104.pdf 「スマート電池くん」を実用化し、烏山線に導入します。]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2012年11月6日</ref>。愛称は「ACCUM」(アキュム)<ref name="shimotuke-np-2014-3-16" /><ref>[http://www.asahi.com/articles/TKY201311270520.html 愛称は「ACCUM」 JR烏山線の蓄電池電車] - 朝日新聞、2013年11月30日</ref>。[[小山車両センター]]所属。[[2014年]][[3月15日]]のダイヤ改正で2両編成1本が運行開始した<ref name="shimotuke-np-2014-3-16" />。2017年3月4日のダイヤ改正で3編成増備され、烏山線において運用される全車両4編成がEV-E301系で統一された<ref name ="jreast20161216">{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20161219.pdf 2017年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2016年12月16日</ref>。
==== 臨時列車 ====
; キハ48系気動車「[[びゅうコースター風っこ]]」
: [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ48形]]を改造した[[トロッコ車両|トロッコ気動車]]。烏山線では2003年・2011年・2012年と2014年-2016年の8月<ref>[http://railf.jp/news/2011/08/29/225600.html 烏山線で“風っこ烏山”号運転] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2011年8月29日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2012/08/26/195200.html “風っこ烏山号”運転] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2012年8月26日</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://www.jreast.co.jp/press/2014/20140512.pdf#page=11 夏の増発列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2014年5月23日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2015/08/30/204000.html “風っこ烏山”運転] - 『鉄道ファン』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2015年8月30日</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160514.pdf#page=15 夏の増発列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2016年5月20日</ref>、2004年-2006年の10月、2013年9月<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2013/09/jr90_3.html 【JR東】〈烏山線90周年風っこ号〉運転] - 鉄道ホビダス RMニュース、2013年9月17日</ref>、2017年1月<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/01/jr_3077.html 【JR東】〈風っこストーブ烏山号〉 運転] - 鉄道ホビダス RMニュース、2017年1月10日</ref>に運転。定期列車の[[ダイヤグラム#ダイヤ図|スジ]]を利用して(定期列車を運休して、その列車の代わりに)設定され、かつ保安設備の関係からキハ40形(自由席車)を両端に連結して運転された。
; [[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]]
: 2019年4月6日「本物の出会い 栃木アフター[[デスティネーションキャンペーン]]」の一環として、HB-E300系4両「リゾートしらかみ『橅』」編成が、快速「リゾートぶなからすやま」として初入線。往路が浦和発烏山行き、復路が烏山発大宮行きとして運行された。
=== 過去の使用車両 ===
開業後しばらくの間は[[蒸気機関車]]による[[貨物列車#混合列車|客貨混合列車]]で運行された。[[太平洋戦争]]終結後の[[1951年]](昭和26年)、[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#機械式|歯車式変速器]]のディーゼル気動車が一部便に投入され、その後[[1957年]](昭和32年)に[[気動車・ディーゼル機関車の動力伝達方式#液体式(流体式)|液体式]]の車両に置き換えられた<ref name="tetsudo-pictrial-1972-02">福田行高、山田俊明 共著「ローカル線を探る 烏山線」『[[鉄道ピクトリアル]]』1972年2月号 通巻261号 [[電気車研究会]]</ref>。
戦前は[[気動車|ガソリンカー]]、戦中は[[タンク式蒸気機関車]]が使われた<ref>{{Cite journal|author=西村孔佑|year=1986|title=鉄道紀行(その33)烏山線の今昔ものがたり 国鉄・烏山線|journal=運転協会誌|volume=第28巻|issue=第7号|page=348}}</ref>。
==== 定期列車 ====
{{Vertical_images_list
|幅= 200px
|枠幅= 200px
| 1=JR East Kiha 40 Karasuyama Line 20170303.jpg
| 2=キハ40形1000番台(3両編成)
| 3=KarasuyamaLineSabo.JPG
| 4=[[七福神]]をあしらったサボ
}}
* [[国鉄6200形蒸気機関車#1070形|1070形]]蒸気機関車 - 1931年時点で宇都宮機関庫烏山分庫に4両が配置<ref>{{Cite book|和書 |title=世界の鉄道 昭和42年版 |year=1966 |publisher=朝日新聞社 |page=168}}</ref>。1935年ごろまで使用された。
* [[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]蒸気機関車 - 1934年に宇都宮機関庫に2両が配置され、1960年の無煙化まで使用された。
* [[国鉄3170形蒸気機関車|3170形]]蒸気機関車 - 1943年の宇都宮機関区烏山支区廃止以降C12形と共通で使用された。
* [[国鉄キハ40000形気動車|キハ40000形]]気動車 - 1934年から使用開始。太平洋戦争の影響で使用中止。
* [[国鉄キハ04形気動車#DMF13への換装車(キハ41300形)|キハ41300形]]気動車 - 1951年から1957年ごろまで使用された。
* [[国鉄キハ10系気動車|キハ10形・キハ11形]]気動車 - 1957年に宇都宮運転所に10両が配置され、1979年まで使用された。
* [[国鉄キハ20系気動車|キハ20形]]気動車 - キハ40形の配置直前に、[[京都総合運転所|向日町運転所]]と水戸機関区から各1両のキハ20形初期車が転入して使用された。1両はキハ40形投入後も予備車として残存した。
* [[国鉄キハ40系気動車 (2代)#キハ40形1000番台|キハ40形1000番台]]気動車
*: 当線に導入された[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40形]]は全車両が富士重工宇都宮製作所製の2000番台(10両、2011 - 2020)で、[[1979年]]6月<ref name="sougou-nenpyou">池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院 1993年 p.61</ref>から使用開始された。輸送量確保のため1986年 - 1987年に[[大宮総合車両センター|大宮工場]]にてトイレ撤去やロングシート化の改造を受け1000番台に改番。1006号と改造されなかった2018号 - 2020号の計4両は1986年から1990年にかけて他路線に転出した。1990年に東北地区に転出した1006号は東北地方の路線で使われた後、2021年に[[小湊鉄道]]に譲渡された。
*: 1993年から「七福神列車」として、各車両に七福神が描かれたイラストマークや[[行先標|サボ]]が装着された<ref name="pr-nasu-karasuyama201703" />。
*: [[2011年]]に開業88周年を迎えたことから、その記念事業として、1003号と1007号の2両を、かつて使用されていた[[国鉄キハ10系気動車|キハ10形]]を模した[[朱色4号]]と[[クリーム4号]]の旧国鉄一般色に変更して運転していた<ref name="hobidas" />。ただし、キハ40系<!--派生形式含むので「系」-->は、優先して製造された北海道向け仕様が1977年初頭に落成しているが、翌1978年10月の「車両塗色および表記基準規定」の改正を間近に控えていたことから、全車が[[朱色5号]]1色の、通称「首都圏色」で登場しており、旧来の2色塗りは存在しなかった。
*: [[2013年]]に開業90周年を迎えたことから、その記念事業として、1004号と1005号の2両を、キハ40形導入当初塗色の旧国鉄首都圏色に変更して運転していた<ref>鉄道ダイヤ情報2013年10月号、通巻第377号(交通新聞社)</ref>。
*: [[2017年]]3月3日をもって運用を終了<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2016/20170209_o05.pdf 烏山線気動車「キハ40形」の引退イベントを実施します]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース、2017年2月9日</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFB03HBF_T00C17A3L60000/ さよならキハ40形、JR烏山線の気動車引退] - 日本経済新聞、2017年3月4日</ref>。全車両廃車となり、1002号・1005号・1007号は那珂川清流鉄道に譲渡され[[動態保存]]されている。1009号は[[錦川鉄道]]に譲渡された<ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2017年4月18日 |url=http://railf.jp/news/2017/04/18/143000.html |title=キハ40 1009が陸送される |publisher=[[交友社]] |accessdate=2017年4月18日}}</ref><ref name="1009asahi">{{Cite web|和書|work=[[朝日新聞デジタル]]|url=http://www.asahi.com/articles/ASK524KG8K52TZNB00Y.html |title=山口)「キハ40形」錦川鉄道に到着 9月以降に運行 |accessdate=2017年5月5日}}</ref>。<!--を除き、全車両廃車された。 →1009号もJR東日本で廃車手続き(=車籍抹消)をしたうえで譲渡したのでは? -->
<gallery>
Kiha40-1003.JPG|キハ40烏山線カラー
Kiha40-1003 20110102.jpg|キハ40一般色
JRE-Kiha40-1005.jpg|キハ40首都圏色
Nishikigawa Railway DMU Kiha40-1009 20171104.jpg|錦川鉄道に譲渡後の1009号
</gallery>
==== 臨時列車 ====
* [[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形]]ディーゼル機関車
* [[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]ディーゼル機関車
* [[国鉄12系客車|12系]]客車
** [[1979年]][[7月22日]]の[[ミステリー列車]]「[[銀河鉄道999]]号」では、DE10 100号機に牽引され、9両編成で入線している。
** [[2006年]]7月22日・[[7月23日]]および[[2007年]][[7月28日]]・[[7月29日]]に、臨時快速「烏山 山あげまつり号」が[[上野駅]] - 烏山駅間で運転。上野駅からDD51で牽引された。また、間合い運用で定期列車として烏山駅 - 宇都宮駅間に運転された。
* [[グラシア (鉄道車両)|キロ59系気動車「グラシア」]]
* [[漫遊 (鉄道車両)|キロ40系気動車「漫遊」]]
== 駅一覧 ==
便宜上、大半の列車が乗り入れる、東北本線(宇都宮線)宇都宮駅 - 宝積寺駅間も併せて記載する。同区間については、烏山線乗り入れ列車についてのみ述べる。
* 全列車普通列車(全駅に停車)
* 累計営業キロは宝積寺駅からのもの
* 接続路線の括弧内の番号は[[駅ナンバリング|停留場番号]]
* 線路…∥:複線区間、∨:これより下は単線、◇・|:単線(◇は[[列車交換]]可能)
* 全駅[[栃木県]]内に所在。
* 烏山駅の電化設備は駅構内のみで蓄電池駆動電車の充電用。(直流1,500 V)
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #339966; width:1em;"|{{縦書き|路線名|height=4em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #339966; width:1em;"|{{縦書き|電化状況|height=5em}}
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:3px solid #339966;"|駅名
!rowspan="2" style="width:5em; border-bottom:3px solid #339966;"|対応する<br />七福神
!colspan="2"|営業キロ
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #339966;"|接続路線
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #339966;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #339966;"|所在地
|-
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #339966;"|駅間
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #339966;"|累計
|-
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東北本線|height=5em}}
!rowspan="4" style="width:1em; background:#9cf;"|{{縦書き|直流電化|height=5em}}
|[[宇都宮駅]]
|
|style="text-align:center;"| -
|style="text-align:right;"|11.7
|[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen-E.svg|17px|■]][[東北新幹線]]・[[山形新幹線]]・{{Color|#F68B1E|■}}[[東北本線]]([[宇都宮線]] [[上野駅|上野]]、[[東京駅|東京]]方面〈[[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]]を含む〉)・{{Color|#880022|■}}[[日光線]]<br />[[宇都宮ライトレール]]:{{Color|#ffd700|■}}[[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]([[宇都宮駅#宇都宮ライトレール|宇都宮駅東口停留場]]: 01)
|style="text-align:center;"|∥
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[宇都宮市]]
|-
|[[岡本駅 (栃木県)|岡本駅]]
|
|style="text-align:right;"|6.2
|style="text-align:right;"|5.5
|
|style="text-align:center;"|∥
|-style="height:1em;"
|rowspan="2"|[[宝積寺駅]]
|rowspan="2"|[[七福神]]
|rowspan="2" style="text-align:right;"|5.5
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2"|[[東日本旅客鉄道]]:{{Color|#F68B1E|■}}東北本線(宇都宮線 [[黒磯駅|黒磯]]方面)
|rowspan="2" style="text-align:center;"|∨
|rowspan="4"|[[塩谷郡]]<br />[[高根沢町]]
|-
|rowspan="8" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|'''烏山線'''|height=4em}}
|-
!rowspan="6" style="width:1em; background:#fff;"|{{縦書き|非電化|height=4em}}
|[[下野花岡駅]]
|[[寿老人]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|3.9
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[仁井田駅 (栃木県)|仁井田駅]]
|[[布袋尊]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|5.9
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[鴻野山駅]]
|[[福禄寿]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|8.3
|
|style="text-align:center;"||
|rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[那須烏山市]]
|-
|[[大金駅]]
|[[大黒天]]
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:right;"|12.7
|
|style="text-align:center;"|◇
|-
|[[小塙駅]]
|[[えびす|恵比寿神]]
|style="text-align:right;"|2.6
|style="text-align:right;"|15.3
|
|style="text-align:center;"||
|-
|[[滝駅 (栃木県)|滝駅]]
|[[弁才天|弁財天]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|17.5
|
|style="text-align:center;"||
|-
!style="width:1em; background:#9cf; font-size:small;"|{{縦書き|電化|height=2.5em}}
|[[烏山駅]]
|[[毘沙門天]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|20.4
|
|style="text-align:center;"||
|}
* 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の対象駅は、宝積寺駅・烏山駅(ならびに宇都宮線区間の宇都宮駅・岡本駅)である。途中駅はいずれも完全な無人駅のため集計対象から外されている。
* [[発車メロディ]]は導入されてはいるが、車掌乗務時以外は使用せず、現在ではほとんど使われない。また、烏山駅で流れる発車予告メロディは発車メロディではなく、あくまで予告メロディ扱いである(詳細は「[[烏山駅]]」参照)。
== 平均通過人員 ==
各年度の[[輸送密度|平均通過人員]](人/日)は以下の通り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(2009〜2013年度)|accessdate=2019-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004015258/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2009-2013.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(2014〜2018年度)|accessdate=2019-11-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190707014015/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf|archivedate=2019-07-07}}</ref>。
* 宝積寺駅 - 烏山駅間
** 1987年度:2,559人/日
** 2011年度:1,493人/日
** 2012年度:1,453人/日
** 2013年度:1,486人/日
** 2014年度:1,445人/日
** 2015年度:1,462人/日
** 2016年度:1,488人/日
** 2017年度:1,459人/日
** 2018年度:1,457人/日
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[男鹿線]]、[[若松線]]、[[香椎線]] - 当線と同様、非電化路線で蓄電池電車が運用されている。ただし、各線とも充電設備設置駅や直通先の電化区間は交流20000 V電化。
== 外部リンク ==
* [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=20=1=%89G%8eR%90%fc 検索結果(烏山線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}}
{{Commonscat|Karasuyama Line}}
{{東日本旅客鉄道の鉄道路線}}
{{東京近郊区間}}
{{東日本旅客鉄道大宮支社}}
{{赤字83線}}
{{デフォルトソート:からすやま}}
[[Category:烏山線|*]]
[[Category:関東地方の鉄道路線]]
[[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]]
[[Category:赤字83線]]
[[Category:栃木県の交通]]
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2003-09-12T14:00:04Z
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備後国
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備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
吉備国を備前国(後に美作国も再分割)、備中国、備後国に三分して設けられ、藤原宮からでた木簡に「吉備後」と表記したものがある。平安時代の『和名類聚抄』は、備後国を「きびのみちのしりのくに」と読む。
明治維新の直前の領域は、広島県府中市、庄原市、世羅郡、神石郡の全域および福山市の大部分(大門町の一部を除く)、尾道市の大部分(瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町を除く)、三次市の大部分(秋町・粟屋町を除く)、三原市の一部(大和町萩原・大和町福田・大和町蔵宗・大和町篠・大和町上徳良・大和町下徳良および概ね円一町、宮沖、皆実、宮浦、頼兼、大畑町、八幡町垣内、久井町坂井原、久井町羽倉、久井町泉以東)、東広島市の一部(豊栄町飯田・豊栄町吉原)、岡山県笠岡市の一部(用之江の一部)、島根県仁多郡奥出雲町の一部(八川字三井野)にあたる。
7世紀後半に、吉備国を備前国(後に美作国も再分割)、備中国、備後国に三分して設けられた。
三次市の市街地の南丘陵に立地する下本谷遺跡は、三次郡の郡家遺跡であり、広島県で唯一発掘調査によって確認されたものである。奈良時代後半から平安時代初期までに4回の改作が行われている。東西54メートル、南北114メートルの柵内に庁屋(ちょうのや)・副屋(そうのや)・向屋(むかいや)が設けられ、その南に倉庫群が建てられていた。遺跡の大部分が破壊されてしまっているが、他の郡家遺跡と共通するところが多い。
海岸部は瀬戸内海の中間点に位置し、鞆の浦(福山市)や尾道(尾道市)は重要な港として古代より栄え続けた。 神護景雲2年(768年)に全国から9人の善行の者が選ばれ終身の田租が免ぜられる表彰を得た中に備後国葦田郡の人で網引公金村の名が見られる。8歳で父に代わって公務に就き父母に孝養を尽くして爵二級に叙されたとある。
江戸時代には、有力外様大名がひしめく山陽道に睨みをきかす意味で備後国南東部と備中国南西部の一部に備後福山藩が置かれ、初代の水野勝成をはじめとする有力譜代大名や徳川一門が藩主を務めた。尾道は安芸広島藩領の港町として栄えた。三原には広島藩の支城が設けられ代々広島藩筆頭家老の浅野家が城主を務めた。三次にも当初、広島藩の支藩があったが取り潰された。後に一部は豊前中津藩領となる。
水野福山藩が断絶後は現在の府中市北部や甲奴郡は幕府天領、神石郡などの一部は豊前国中津藩領になった。
明治維新後の廃藩置県に伴って、備後国東南部に現在の福山市を県庁とする福山県が設立され、続いて隣接の倉敷県と統合されて現在の福山市を県庁とする深津県が設立されたが、短期間で県庁が現在の笠岡市に変更となり小田県へと改称した。1875年(明治8年)には小田県が岡山市に県庁を置く岡山県へ編入された。1876年(明治9年)に再び備後地方のみ分割され、広島県へと編入されたまま今日に至る。
備後国府は芦田郡、現在の広島県府中市元町付近に所在したとされ、現在まで数度にわたる発掘調査の結果、2016年6月に国の史跡指定が内定した。また、府中市では備後国府まつりを開催している。
国分尼寺跡は国分寺と共通の瓦が出土し、近隣でもある神辺町西中条の小山池廃寺跡にあったとされる。
一宮である吉備津神社、三宮である府中市栗柄町の南宮神社と共に備後崇敬三社として信仰を集めた。
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備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
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{{基礎情報 令制国
|国名 = 備後国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|備後国}}
|別称 = 備州(びしゅう)<ref group="注">別称「備州」は備前国・備中国・備後国の総称としての呼称。</ref>
|所属 = [[山陽道]]
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|国府 = 広島県[[府中市 (広島県)|府中市]]
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}}
'''備後国'''(びんごのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。
== 「備後」の名称と由来 ==
[[吉備国]]を[[備前国]](後に[[美作国]]も再分割)、[[備中国]]、備後国に三分して設けられ、[[藤原宮]]からでた[[木簡]]に「吉備後」と表記したものがある。平安時代の『[[和名類聚抄]]』は、備後国を「'''きびのみちのしりのくに'''」と読む。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は、[[広島県]][[府中市 (広島県)|府中市]]、[[庄原市]]、[[世羅郡]]、[[神石郡]]の全域および[[福山市]]の大部分([[深安町|大門町]]の一部を除く)、[[尾道市]]の大部分([[瀬戸田町]]各町・[[因島市#町名|因島洲江町]]・因島原町を除く)、[[三次市]]の大部分(秋町・粟屋町を除く)、[[三原市]]の一部([[大和町 (広島県)|大和町]]萩原・大和町福田・大和町蔵宗・大和町篠・大和町上徳良・大和町下徳良および概ね円一町、宮沖、皆実、宮浦、頼兼、大畑町、八幡町垣内、[[久井町]]坂井原、久井町羽倉、久井町泉以東)、[[東広島市]]の一部([[豊栄町]]飯田・豊栄町吉原)、{{要出典|[[岡山県]][[笠岡市]]の一部(用之江の一部)|date=2020-09-13}}、[[島根県]][[仁多郡]][[奥出雲町]]の一部(八川字[[三井野原|三井野]])にあたる。
== 沿革 ==
[[7世紀]]後半に、[[吉備国]]を[[備前国]](後に[[美作国]]も再分割)、[[備中国]]、備後国に三分して設けられた。
[[三次市]]の市街地の南丘陵に立地する下本谷遺跡は、[[三次郡]]の[[郡家]]遺跡であり、広島県で唯一発掘調査によって確認されたものである。奈良時代後半から平安時代初期までに4回の改作が行われている。東西54メートル、南北114メートルの柵内に庁屋(ちょうのや)・副屋(そうのや)・向屋(むかいや)が設けられ、その南に倉庫群が建てられていた。遺跡の大部分が破壊されてしまっているが、他の郡家遺跡と共通するところが多い。
海岸部は[[瀬戸内海]]の中間点に位置し、[[鞆の浦]]([[福山市]])や[[尾道]]([[尾道市]])は重要な港として古代より栄え続けた。
[[神護景雲]]2年(768年)に全国から9人の善行の者が選ばれ終身の田租が免ぜられる表彰を得た中に備後国[[葦田郡]]の人で[[網引公金村]]の名が見られる。8歳で父に代わって公務に就き父母に孝養を尽くして爵二級に叙されたとある。
[[江戸時代]]には、有力[[外様大名]]がひしめく[[山陽道]]に睨みをきかす意味で備後国南東部と[[備中国]]南西部の一部に[[備後福山藩]]が置かれ、初代の[[水野勝成]]をはじめとする有力[[譜代大名]]や徳川一門が藩主を務めた。尾道は[[安芸国|安芸]][[広島藩]]領の港町として栄えた。[[三原市|三原]]には広島藩の支城が設けられ代々広島藩筆頭家老の浅野家が城主を務めた。[[三次市|三次]]にも当初、広島藩の支藩があったが取り潰された。後に一部は[[豊前国|豊前]][[中津藩]]領となる。
水野福山藩が断絶後は現在の府中市北部や[[甲奴郡]]は幕府[[天領]]、[[神石郡]]などの一部は豊前国中津藩領になった。
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=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(563村・315,090石余)。[[天領|幕府領]]は[[倉敷代官所]]が管轄。'''太字'''は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
** [[御調郡]](100村・39,680石余) - [[安芸国|安芸]][[広島藩]]
** [[甲奴郡]](32村・15,576石余) - 幕府領、安芸広島藩、[[豊前国|豊前]][[中津藩]]
** [[世羅郡]](50村・33,650石余) - 安芸広島藩
** [[三谿郡]](38村・19,342石余) - 安芸広島藩
** [[奴可郡]](40村・19,707石余) - 安芸広島藩
** [[三上郡]](18村・13,637石余) - 安芸広島藩
** [[三次郡]](52村・21,470石余) - 安芸広島藩
** [[恵蘇郡]](45村・22,398石余) - 安芸広島藩
** [[深津郡]](29村・26,851石余) - '''[[備後福山藩|福山藩]]'''
** [[沼隈郡]](43村・26,425石余) - 福山藩
** [[芦田郡]](28村・17,567石余) - 福山藩
** [[品治郡]](21村・11,709石余) - 福山藩
** [[安那郡]](29村・24,734石余) - 福山藩、豊前中津藩
** [[神石郡]](38村・22,338石余) - 幕府領、福山藩、豊前中津藩
* [[慶応]]4年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]([[1868年]][[7月5日]]) - 幕府領が'''[[倉敷県]]'''の管轄となる。
* 明治4年
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[備後福山藩|福山県]]'''および[[広島県]]、[[中津県]]の飛地となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、沼隈郡・深津郡・安那郡・品治郡・芦田郡・神石郡が'''[[深津県]]'''、御調郡・世羅郡・三谿郡・三上郡・奴可郡・甲奴郡・三次郡・恵蘇郡が'''広島県'''の管轄となる。
* 明治5年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]([[1872年]][[7月10日]]) - 深津県が改称して'''[[小田県]]'''となる。
* 明治8年([[1875年]])[[12月20日]] - 小田県の管轄区域が'''[[岡山県]]'''の管轄となる。
* 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 全域が'''広島県'''の管轄となる。
* [[昭和]]28年([[1953年]])[[12月1日]] - [[比婆郡]](旧・奴可郡)[[八鉾村]]の一部(油木字[[三井野原|三井野]]の一部)が[[島根県]][[仁多郡]][[八川村]]に編入([[越境合併]])。
* 昭和41年([[1966年]])[[11月1日]] - 岡山県笠岡市茂平字堂面及び坂里の区域の各一部を編入 大門町野々浜字カチヤ坂の一部)が[[岡山県]][[笠岡市]]に編入。
== 国内の施設 ==
{{座標一覧}}
=== 国府 ===
{{main|備後国府}}
[[備後国府]]は[[芦田郡]]、現在の広島県[[府中市 (広島県)|府中市]]元町付近に所在したとされ、現在まで数度にわたる発掘調査の結果、2016年6月に国の史跡指定が内定した<ref>[https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/211375.pdf 府中市「備後国府跡」の国史跡への指定の答申について - 広島県教育委員会]</ref>。また、府中市では備後国府まつりを開催している<ref>[http://www.bingokokufufes.com/ 備後国府まつり公式WEBサイト]</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
[[File:Bingo Kokubunji, hondou.jpg|thumb|right|200px|備後国分寺]]
* [[備後国分寺]] ([[福山市]][[神辺町]]下御領、{{Coord|34|33|47.28|N|133|23|37.90|E|region:JP-33_type:landmark|name=備後国分寺跡}})
*: 昔の国分寺は江戸時代に[[土石流]]で流されて壊滅したが、伽藍を移し再建した(現 唐尾山医王院国分寺)。
国分尼寺跡は国分寺と共通の瓦が出土し、近隣でもある神辺町西中条の[[小山池廃寺跡]]にあったとされる。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、小社17座17社が記載されている([[備後国の式内社一覧]]参照)。大社はない。
[[File:Ono-jinja (Fuchu city, Hiroshima), Soja-jinja.jpg|thumb|right|200px|総社神社(小野神社境内社)]]
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社:総社神社 (府中市元町、{{Coord|34|34|37.42|N|133|14|28.05|E|region:JP-33_type:landmark|name=備後国総社:総社神社}})
:: 小野神社境内社。元々別の場所にあったが、衰退して小野神社境内に遷座されたとされる。元の場所は不明。
* 一宮
** '''[[吉備津神社 (福山市)|吉備津神社]]''' (福山市[[新市町]]宮内、{{Coord|34|34|09.61|N|133|16|15.85|E|region:JP-33_type:landmark|name=備後国一宮:吉備津神社}})
**: 社伝では平安時代に[[備中国]]の[[吉備津神社]](岡山県岡山市)から分立したというが、実際には12世紀ごろに創建されたものとみられ、一宮と称されるのは中世以降。
** '''[[素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)|素盞嗚神社]]''' (福山市新市町戸手、{{Coord|34|33|09.66|N|133|16|45.67|E|region:JP-33_type:landmark|name=備後国一宮か:素盞嗚神社}})
**: 上記の吉備津神社とともに一宮に数えられる場合がある。
* 二宮:真宮神社(福山市新市町常)
一宮である吉備津神社、三宮である府中市栗柄町の南宮神社と共に備後崇敬三社として信仰を集めた。
* 二宮:二宮神社 (福山市神辺町八尋、{{Coord|34|33|49.72|N|133|24|54.94|E|region:JP-33_type:landmark|name=備後国二宮:二宮神社}})
* 三宮:南宮神社
=== 安国寺利生塔 ===
* [[安国寺 (福山市)|備後安国寺]] (福山市[[鞆町]]後地)
=== その他 ===
*[[備後護国神社]] (福山市丸之内一丁目) - [[戊辰戦争]]以来の旧備後国内出身者の戦歿者と[[備後福山藩|福山藩]]主[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]]歴代を祭神としている。
*[[国司神社]](くにしじんじゃ) (広島県福山市芦田町上有地423) - [[吉備国]]の国司として、吉備[[太宰|大宰]]を務めた[[石川王 (吉備大宰)|石川王]]を祭神としている。
== 地域 ==
===郡===
==== 郡一覧 ====
*[[安那郡]]
*:#全6郷。「やすな」という。『[[和名類聚抄]]』は「夜須奈」と訓ずる。また「あな」ともいう。字体は「婀娜」と書くこともある。(『[[日本書紀]]』[[安閑天皇|広国押武金日天皇]]2年5月9日(535年6月24日)条には「婀娜国」とある。)
*:#1898年(明治31年)10月1日に深津郡と統合し、[[深安郡]]の一部となる。
*[[深津郡]]
*:#全3郷。養老5年4月20日(721年5月20日)、安那郡の一部を割いて成立。
*:#1898年(明治31年)10月1日に安那郡と統合され、深安郡の一部となる。
*[[神石郡]]
*:#全4郷。「かめし」という。「かみし」・「じんせき」とも呼ばれる。字体は「亀石」とも表記される。
*:#『日本書紀』[[天武天皇|天渟中原瀛真人天皇]]2年3月17日(673年4月8日)条に「亀石郡」とある。
*[[奴可郡]]
*:全4郷。1898年(明治31年)10月1日に三上郡・恵蘇郡と統合され、比婆郡の一部となる。
*[[沼隈郡]]
*:全4郷。
*[[品治郡]]
*:#全7郷。「ほんぢ」という。また、「ほんち」とも。字体は「品遅」とも表記される。
*:#1898年(明治31年)10月1日に芦田郡と統合され廃止。蘆品郡の一部となる。
*[[芦田郡|葦田郡]]
*:#全6郷。「芦田」・「蘆田」とも表記される。
*:#和銅2年10月8日(709年11月13日)、品遅(品治)郡から3里を編入する。
*:#1898年(明治31年)10月1日に品治郡と統合し、蘆品郡の一部となる。
*[[甲奴郡]]
*:全3郷。「甲努」とも表記される。芦田郡より分離し成立。和銅2年10月8日(709年11月13日)、甲努郡甲努村に郡を建てる。
*[[三上郡]]
*:全5郷。1898年(明治31年)10月1日に廃止され比婆郡の一部となる。
*[[恵蘇郡]]
*:全3郷。1898年(明治31年)10月1日に三上郡・奴可郡と統合し比婆郡の一部となる。
*[[御調郡]]
*:全7郷。「みつき」という。「みつぎ」とも呼ばれる。また、「御月」・「三月」とも表記される。
*:1898年(明治31年)4月1日、尾道町が尾道市となる。
*[[世羅郡]]・・・全4郷。
*[[三谿郡]]
*:全5郷。1898年(明治31年)10月1日に廃止され、双三郡の一部となる。
*[[三次郡]]
*:全4郷。1898年(明治31年)10月1日、三谿郡と統合し、双三郡の一部となる。
*[[吉刀郡]]
*:『拾芥抄』に記載されるが仔細不明。
==== 郡の変遷史 ====
#律書残篇・[[延喜式]]はともに14郡とする。奈良時代に甲奴郡が葦田郡から、深津郡が安那郡から分かれているので、備後国の成立当初は12郡であると思われる。
#鎌倉時代中期成立とみられる『[[拾芥抄]]』は吉刀郡を加え15郡を載せる。
#[[1898年]]([[明治]]31年)[[4月1日]]、御調郡尾道町に市制を施行する。御調郡から離れて尾道市となる。14郡1市となる。
#1898年(明治31年)[[10月1日]]、郡制施行のため9郡を廃し、4郡を置く。9郡1市となる。
=== 江戸時代の藩 ===
* [[安芸国|安芸]][[広島藩]]、[[福島氏]] (49万8000石)、[[浅野氏]](42万6000石)
* [[備後福山藩]]、[[水野氏#忠重-勝成流 水野家|水野家]](10.1万石)→天領→[[松平忠雅|奥平松平家]](10万石)→[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]](10万石)
* [[三次藩]](広島藩支藩、5万石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== [[備後守]] ====
*[[波多氏 (古代)|波多朝臣足人]]:[[天平勝宝]]6年([[754年]])任官<ref>続日本紀 巻第十一 秋七月丙午 従五位上波多朝臣足人為備後守</ref>
*[[上道正道]]:[[天平宝字]]8年正月([[764年]])任官
*[[藤原園人]]:[[延暦]]8年([[789年]])任官
*[[藤原氏助]]:[[寛平]]元年([[889年]])任官
*[[藤原忠平]]:寛平9年([[897年]])任官(権守)
*[[橘惟風]]:[[延長 (元号)|延長]]元年([[923年]])任官
*[[藤原元名]]:延長5年([[927年]])任官
*[[源信明]]:[[天暦]]元年([[947年]])任官
*[[藤原朝成]]:天暦3年([[949年]])任官(権守)
*[[藤原致忠]]:[[天徳 (日本)|天徳]]3年([[959年]])任官
*[[藤原行成]]:[[長保]]元年([[999年]])任官
*[[藤原祐家]]:[[康平]]2年([[1059年]])任官(権守)
*[[源資賢]]:[[久安]]2年([[1146年]])任官
*[[源行家]]:[[寿永]]2年([[1183年]])任官
*[[源家長]]:1210年頃
==== 備後介 ====
*[[山口佐美麻呂]]:[[宝亀]]3年([[772年]])任官
*[[石川諸足]]:宝亀5年([[774年]])任官
*[[市往福貞]]
*[[大江維時]]
*[[藤原道隆]]:[[貞元 (日本)|貞元]]元年([[976年]])任官(権介)
*藤原行成: [[正暦]]元年([[990年]])任官(権介)
*[[藤原為通]]:[[永治]]2年([[1142年]])任官(権介)
*[[藤原実宗]]:[[保元]]4年([[1159年]])任官
*[[丹波雅忠]]
*[[今出川公直]]
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
*1184年~? - [[土肥実平]]
*1223年~? - [[長井時広]]
*1264年~? - [[長井泰重]]
*1286年~? - [[長井頼重]]
*1320年~? - [[長井貞重]]
==== 室町幕府 ====
*1335年~1338年 - [[朝山景連]]
*1338年~1339年 - [[仁木義長]]
*1339年~1340年 - [[石橋和義]]
*1340年~1342年 - [[細川頼春]]
*1342年~1349年 - [[高師泰]]
*1349年~1351年 - 細川頼春
*1351年 - [[上杉重季]]
*1351年~1356年 - [[岩松頼宥]]
*1356年~1365年 - [[細川頼有]]
*1365年~1371年 - [[渋川義行]]
*1371年~1379年 - [[今川貞世]]
*1379年~1389年 - [[山名時義]]
*1389年~1390年 - [[山名義熙]]
*1390年~1392年 - [[細川頼之]]
*1392年~1400年 - [[細川頼長]]・[[細川基之]]
*1401年~1433年 - [[山名時熙]]
*1433年~1454年 - [[山名宗全|山名持豊]]
*1454年~1462年 - [[山名教豊]]
*1462年~1476年 - [[山名是豊]]
*1476年~1487年 - [[山名政豊]]
*1489年~1497年 - [[山名俊豊]]
*1499年~1512年 - [[山名致豊]]
*1512年~1528年 - [[山名誠豊]]
*1552年~1561年 - [[尼子晴久]]
*1562年~1563年 - [[毛利隆元]]
=== 国人 ===
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{{refnest|group="注"|※地図<ref name="kokujinseisui"/>、郡内の村名、他諸情報を対照して存在した郡を配置していますが、全くの正確を期せている訳ではないので注意。校正求む。}}
;安那郡
;深津郡
*[[杉原氏]]
*[[有地氏]]
*[[古志氏]]
*[[渡辺氏]]
;神石郡
*[[馬屋原氏]]
*宮氏 - 五郎左ェ門家
;奴可郡
*[[久代氏]] - 宮氏の派生氏族。
*[[奴可氏]] - 平家方に付き没落。宮氏の祖との説もある<ref name="kokujinseisui">[http://bingo-history.net/uploads/2012/09/bd1ab1f3a917e77fe5a52813515d4b19.pdf 備後の中世武士団―備後国人衆の盛衰― 備陽史探訪の会会長 田口義之]</ref>。
;沼隈郡
*[[遠部氏]] - 沼隈山王山城主 南北朝時代に南朝方として活躍した遠部山城守。 古くは、那須与一宗隆を輩出した那須氏が祖。品治郡永谷城桑原伊賀守重信と共に楠木正成へ身終わるまで忠志を尽くしたという。
;品治郡
*[[宮氏]] - 新市。亀寿山城主。室町幕府奉公衆であるだけでなく、政盛は御供衆として守護並の格式を誇った。名族として知られ備後国人でも最大の勢力であり、久代氏・有地氏など多くの派生氏族を生んでそれらも備後の有力国人となっている。南北朝時代には備中守護にも就任。
*[[桑原氏]] - 品治郡永谷城主 桑原伊賀守重信
;芦田郡
;甲奴郡
*[[新見氏]] - 甲奴郡[[小堀村]]。備中新見氏の派生で、「毛利元就他十七名連署契状」に署名している<ref>[http://bingo-history.net/uploads/2012/06/cd492cab040cd509b4afdb4a0c7c3224.pdf 『毛利家文書』に見る毛利元就と備後 | 備後国・福山市の歴史を研究する|備陽史探訪の会]</ref>。
*[[田総氏]]
;三上郡
;恵蘇郡
*[[多賀山氏]] - 地毗庄。蔀山城主。本来山内氏はこの場所の地頭として基盤を築いたが、本家は南隣に進出し、兄弟が多賀山氏となってこの地に残った。
*[[山内氏#山内首藤氏|山内首藤氏]] - 山内。甲山城主。相模国山内庄が名字の地だが、1316年(正和5年)に総領家が備後に移った。山名氏の下で守護代を務め、大きな勢力を持つ国人であった。
;御調郡
;世羅郡
*[[湯浅氏]]
*[[上原氏]]
*[[楢崎氏]] - 備中楢崎氏の派生と見られる。「毛利元就他十七名連署契状」に署名。芦田郡にも一族有り。
;三谿郡
*[[和智氏]] - 本姓広沢氏。初期は[[二ッ山城]]、後に[[南天山城]]に移った。
*[[江田氏]] - 江田。本姓広沢氏。旗返山城主。和智氏と同族で時に両広沢とも呼ばれる協力関係にあった。<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/rokutopuu19551219/archive/2012/10/12 備陽史探訪の会 備後の武将 - 備後山城風土記 - 江田玄蕃助隆連]</ref>
;三次郡
*[[三吉氏]] - 三吉郷。比叡尾山城主。
=== 戦国大名 ===
* [[山内氏#備後山内氏|備後山内氏]]
* [[小早川氏]]
* [[尼子氏]]
=== 織豊大名 ===
* [[毛利氏]] - 毛利輝元が[[備中高松城の戦い]]で秀吉と和議を結んで以来豊臣氏に従属し、[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]・[[安芸国|安芸]]・[[石見国|石見]]・[[出雲国|出雲]]・備後と合わせて[[伯耆国|伯耆]]と[[備中国|備中]]の過半をそのまま支配した。
=== 武家官位としての備後守 ===
====江戸時代以前====
*[[小早川氏]]
**[[小早川宣平]] [[鎌倉時代]]末期 - [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の武将。
**[[小早川貞平]](宣平の子) 南北朝時代の武将。
**[[小早川熈平]](貞平の曾孫) [[室町時代]]中期の武将。
**[[小早川正平]](熈平の玄孫) [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。
*[[織田氏]]
**[[織田良信]]
**織田信房
**[[織田敏信]] [[尾張国]][[守護代]]
**[[織田信秀]]([[織田信長]]の父)
*その他
**[[赤座直保]]
**[[和田家勝]]
**[[和田家弘]]
**[[和田範長]](和田備後二郎範長):[[元弘]]2年([[1332年]])<ref>[[五弓久文]](雪窓)『[[三備史略]]』巻之二 十九頁 香文舎蔵版 明治27年 「[[備前国|備前]][[児島郡]]林邑ノ人児嶋範長高徳親子 範長備後守ニ任ス」</ref>
**[[児島高徳]](児島備後三郎高徳)
**[[石川貞通]]
====江戸時代====
*[[上総国|上総]][[五井藩]]有馬家
**[[有馬氏保]]:第2代藩主
**[[有馬久保]]:第3代藩主
**[[有馬氏郁]]:第5代藩主
*[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]太田家
**[[太田資直]]:太田家3代。駿河[[田中藩]]初代藩主
**[[太田資言]]:太田家8代。遠江[[掛川藩]]第4代藩主
**[[太田資始]]:太田家9代。遠江掛川藩第5代藩主
*[[日向国|日向]][[延岡藩]]内藤家
**[[内藤政樹]]:初代藩主
**[[内藤政脩]]:第3代藩主
**[[内藤政和]]:第5代藩主
**[[内藤政順]]:第6代藩主
**[[内藤政挙]]:第8代藩主
*[[美作国|美作]][[美作勝山藩|勝山藩]]三浦家
**[[三浦明次]]:初代藩主
**[[三浦矩次]]:第2代藩主
**[[三浦前次]]:第3代藩主
**[[三浦毗次]]:第4代藩主
**[[三浦誠次]]:第5代藩主
**[[三浦義次]]:第7代藩主
**[[三浦弘次]]:第9代藩主
**[[三浦顕次]]:第10代藩主
*その他
**[[有馬氏久]]:伊勢[[西条藩]]第2代藩主
**[[稲垣重定]]:近江[[山上藩]]初代藩主
**[[稲葉正善]]:安房[[館山藩]]第5代藩主
**[[岡部長泰]]:和泉[[岸和田藩]]第3代藩主
**[[京極高明]]:丹後[[峰山藩]]第3代藩主
**[[京極高長]]:丹後峰山藩第5代藩主
**[[酒井忠利]]:駿河田中藩初代藩主・武蔵[[川越藩]]初代藩主・老中
**[[酒井忠胤]]:[[安房勝山藩]]の第2代藩主。
**[[戸田忠綱]]:下野[[高徳藩]]第2代藩主・下総[[曾我野藩]]初代藩主
**[[永井直英]]:摂津[[高槻藩]]第5代藩主
**[[南部信恩]]:陸奥[[盛岡藩]]第5代藩主
**[[福島忠勝]]:信濃[[高井野藩]]第2代藩主。[[福島正則]]の次男
**[[牧野貞通]]:常陸[[笠間藩]]初代藩主
**[[牧野貞長]]:常陸笠間藩第2代藩主・老中
**[[牧野成貞]]:下総[[関宿藩]]初代藩主(再封)
**[[牧野成央]]:[[三河吉田藩]]第2代藩主・日向[[延岡藩]]初代藩主
**[[三浦明喬]]:三河[[刈谷藩]]第2代藩主
**[[水野勝貞]]:[[備後福山藩]]第3代藩主
**[[水野元綱]]:三河[[新城藩]]第2代藩主・上野[[安中藩]]初代藩主
**[[三宅康之]]:三河[[田原藩]]第5代藩主
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Bingo Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[吉備国#備州|備州]]
* [[備後国府]]
* [[備後山内氏]]
== 外部リンク ==
* [https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館 デジタルアーカイブ] - [https://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000237 天保国絵図 備後国]
* [http://komatsu0513.heteml.jp/index.html 国府物語] - [http://komatsu0513.heteml.jp/bingo.html 備後国府]
{{令制国一覧}}
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[[Category:日本の旧国名]]
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ゲートボール
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ゲートボールは、5人1組の2チーム対抗で行われる、日本発祥のスポーツ。漢字では門球と表記される。
1947年、鈴木栄治(のちに改名して和伸となる。秋田市太平出身)が北海道芽室町において、クロッケーをヒントに考案した。元々は太平洋戦争後の物資不足で遊び道具のない子供のため、また子供の不良化防止のために作られた遊びだったが、高度経済成長期に高齢者向けスポーツとして爆発的に流行、現在では日本だけでなくアジア各国にも普及している。
近年では、「ゲートボール」という名称が「老人のスポーツ」の代名詞的な存在になるまで社会に浸透してしまい、それが若者への普及を妨げているという指摘から、高齢者のスポーツというイメージを払拭するため、2人制と3人制の競技に限り「リレーション」と改名されているが、定着はしていない。
1984年に日本ゲートボール連合が発足し、1985年に東京で第1回全日本ゲートボール選手権大会が開催された。毎年開催され、優勝チームには文部科学大臣杯が授与される。
1986年に札幌市円山競技場で第1回世界ゲートボール選手権大会が開催された。当初は毎年開催されていたが現在は4年に一度開催されている。
なお、スティックは選手1人1人が用意するが、その他は主催者が用意するのが普通(ただしゼッケンや腕章類はチームで用意)。また、ここに挙げたのはゲートボールをする上で最低限必要なもので、この他にユニフォーム、帽子、シューズなども用意することがある。
試合が始まると「1番」→「2番」→...→「10番」→「1番」→...の順番に自分の持ち玉を打つ。試合の目的は、30分の競技時間内に相手チームよりも多くの得点を獲得することである。打った持ち玉に3つのゲートを「通過」させたり、ゴールポールに当てて「あがり」にしたりすることで得点でき、ゲート通過の場合は各1点、あがりの場合は2点が加点される。ただし、単純にゲートをくぐらせたりゴールポールに当てるだけでは「通過」や「あがり」にはならない。以下には「通過」や「あがり」になる条件を書く。
なお、ゲートを通過できなかったからといってペナルティがあるというわけではないので、物理的に無理だったり作戦上ゲート通過よりも大事なことがあるという場合はゲートを狙う必要はない。
自分のボールを敵味方問わず他のボールにぶつけると「タッチ」となる(ただし1度タッチしたことのある相手には、1度打権を失って再び打順が回ってくるまでタッチできない)。「タッチ」をして、自分のボールとタッチされたボールが両方ともコート内に留まった場合、「スパーク」という特殊な打ち方でタッチしたボールを動かすことができる。「スパーク」は以下の手順で行う。
なお、スパークによって起きたことはすべて試合に反映される。つまり、たとえばスパークによって当てられて移動した相手のボールが第2ゲートを通過した場合は、そのボールの持ち主は第1ゲートしか通過させていなくても第2ゲート通過が記録される。
勢い余ってボールをコートの外に出してしまったり、スパークなどによってコートの外に出されたボールは「アウトボール」という扱いになる。アウトボールになったボールは次に打順が回ってくるのを待って、コートの10cm外からコートの中に打ち込む。ただしコートにボールを打ち込む際、他のボールにタッチしてしまった場合は再びアウトボールとなる。また、ゲート通過や「あがり」は無効となる(ゲート通過しても得点にならない。同様に、「あがり」にもならない。アウトボールになるわけではない)。
ボールを打つ権利は次のように発生する。
打権は加算方式なので、たとえば1打でゲート通過とタッチを同時に行う(通過タッチ 又は タッチ通過)と2打分の打権が発生し、これを「2打権」と呼ぶ(ただし、第1ゲートに関しては通過タッチは認められない)。一度の打撃で複数のボールにタッチした場合には、得られる打権は加算されず、一律で1打分の打権が与えられる。また、現在のルールでは「打権放棄」は認められておらず、必ず打撃を完了する必要がある。
次に掲げる行為は故意・過失を問わず反則となる。反則に対するペナルティは反則を犯した選手の持ち玉をアウトボールにする、または反則前の状態に戻すというものである。また、反則によって動いたボールはアウトボールになるボールを除き審判の手によってもとの位置に戻される。アウトボールは反則が発生した場所から最も近いコート外の位置(直近外)へ移動させられる。
ゲートボールの試合終了は次のようになっている。
引き分けの場合は、引き分けとして終わる場合とサッカーのPK戦の要領で決着を着ける場合がある。同点決勝のやり方は次の通り。
主審、副審、記録員の合計3名の審判員が試合を担当する。大規模な全国大会ではこれに2名の線審が加わることもある。主審が主となって試合を仕切り、副審と役割を共有しながらプレーに対しての判定を下す。記録員はボールの得点を記録表と呼ばれる紙に記録してゆく。
審判員資格は各都道府県の協会が実施する筆記および実技試験を受けることにより取得することができる。等級は3つに分かれ、3級審判員、2級審判員、1級審判員の順にランクアップしてゆく。この他に1級審判員資格を持った上で取得できる、国際審判員という資格もある。
ゲートボールでは「いかに得点するか」よりも「いかに相手を邪魔するか」に重点がおかれる。なぜなら、「あがり」になった選手は2度と試合に参加できないため、例えば先に2人があがったとすると、それ以降は相手5人に対し自分たちは3人で戦うことを余儀なくされるからである。これは数の上で不利なだけでなくあがった選手の順番が飛ばされるので、相手に2人連続でのプレイを許すという意味でも非常に不利となる。そこで、定石とされているのは次のような試合運びである。
ただしこれは理想的な展開であり、実際は第1ゲートを通過できない仲間をいつまで待つかとか、相手に先に第2ゲートや第3ゲートを占領された場合はどうするかというところでチームの戦術が問われる。
なお、自己の技術の研鑽より相手の妨害に重きを置いたルールとなっているのを忌避する者も少なくはなく、近年では高齢者スポーツの主流をグランドゴルフに奪われつつある。
近年は4年に1回開催されており、前回は2018年にブラジル、サンパウロ市において行われた。第11回大会には日本をはじめとするオーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、香港、インドネシア、韓国、マカオ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、台湾、アメリカ、インド、ロシア、スイス、タイ、ウルグアイ、ヨーロッパの20国・地域から計90チームが出場した。(表記はIOCコード順。ヨーロッパは1つの地域として出場した)
4年に一度開催されており、2012年のマカオ大会では鹿児島県のフレンドスポーツが三連覇を達成した。2020年の開催地は中国だが、詳細は決まっていない。
基本的には各都道府県一代表の大会がほとんどで、毎年開催される。
毎年一度、年齢、性別無制限で開催される国内大会で最も権威のある大会。47都道府県の代表+前回優勝の1チームを加えた48チームで頂上を争う。48チームを4チームずつの一次リーグに分け、各コートの上位2チームが二次リーグに進出。その上位2チーム、合計12チームによってトーナメントを戦い、優勝チームは文部科学大臣杯を手にする。多くの国際大会の日本代表選考も兼ねている。
2015年から公開競技として追加された。毎年一度行われている。地域ブロック大会の優勝チーム、男子クラス、女子クラスの各16チームで戦う。4チームずつのリーグに分けた後、上位2チームによる決勝トーナメントを行う。
以前は男 or 女、65歳以上 or 以下で区分される4クラスで競技していたが、現在は男女別の2クラスで、65歳以上を基本とし、チームに2人まで65歳未満の選手を登録することができる制度を採用している。毎年開催。
65歳以上(シニア)、15-65歳(ミドル)、15歳未満(ジュニア)の三世代が同じチームに入って競技を行うことが義務付けられた大会である。名簿上の登録だけでなく、競技時間中は常にその三世代が同時に出場することが必要である。優勝チームには内閣総理大臣杯が与えられる。
ジュニア層のための全国大会で、毎年夏に埼玉県のくまがやドームで開催されている。6歳以上15歳未満の部(2部クラス)および15歳以上の部(1部男子クラス、1部女子クラス)の3クラスで競技を行う。(第1, 2回は1部2部の区別なく単一クラス。第3, 4回は男女の区別なく2クラス)
同じ職場で働いている人たちで結成したチームが参加できる大会。
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"text": "なお、自己の技術の研鑽より相手の妨害に重きを置いたルールとなっているのを忌避する者も少なくはなく、近年では高齢者スポーツの主流をグランドゴルフに奪われつつある。",
"title": "戦術"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "近年は4年に1回開催されており、前回は2018年にブラジル、サンパウロ市において行われた。第11回大会には日本をはじめとするオーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、香港、インドネシア、韓国、マカオ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、台湾、アメリカ、インド、ロシア、スイス、タイ、ウルグアイ、ヨーロッパの20国・地域から計90チームが出場した。(表記はIOCコード順。ヨーロッパは1つの地域として出場した)",
"title": "世界ゲートボール選手権大会"
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"text": "4年に一度開催されており、2012年のマカオ大会では鹿児島県のフレンドスポーツが三連覇を達成した。2020年の開催地は中国だが、詳細は決まっていない。",
"title": "アジアゲートボール選手権大会"
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"title": "アジアゲートボール選手権大会"
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"text": "基本的には各都道府県一代表の大会がほとんどで、毎年開催される。",
"title": "国内大会の成績"
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"text": "毎年一度、年齢、性別無制限で開催される国内大会で最も権威のある大会。47都道府県の代表+前回優勝の1チームを加えた48チームで頂上を争う。48チームを4チームずつの一次リーグに分け、各コートの上位2チームが二次リーグに進出。その上位2チーム、合計12チームによってトーナメントを戦い、優勝チームは文部科学大臣杯を手にする。多くの国際大会の日本代表選考も兼ねている。",
"title": "国内大会の成績"
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"title": "国内大会の成績"
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"text": "2015年から公開競技として追加された。毎年一度行われている。地域ブロック大会の優勝チーム、男子クラス、女子クラスの各16チームで戦う。4チームずつのリーグに分けた後、上位2チームによる決勝トーナメントを行う。",
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"text": "以前は男 or 女、65歳以上 or 以下で区分される4クラスで競技していたが、現在は男女別の2クラスで、65歳以上を基本とし、チームに2人まで65歳未満の選手を登録することができる制度を採用している。毎年開催。",
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"text": "65歳以上(シニア)、15-65歳(ミドル)、15歳未満(ジュニア)の三世代が同じチームに入って競技を行うことが義務付けられた大会である。名簿上の登録だけでなく、競技時間中は常にその三世代が同時に出場することが必要である。優勝チームには内閣総理大臣杯が与えられる。",
"title": "国内大会の成績"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ジュニア層のための全国大会で、毎年夏に埼玉県のくまがやドームで開催されている。6歳以上15歳未満の部(2部クラス)および15歳以上の部(1部男子クラス、1部女子クラス)の3クラスで競技を行う。(第1, 2回は1部2部の区別なく単一クラス。第3, 4回は男女の区別なく2クラス)",
"title": "国内大会の成績"
},
{
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"text": "同じ職場で働いている人たちで結成したチームが参加できる大会。",
"title": "国内大会の成績"
}
] |
ゲートボールは、5人1組の2チーム対抗で行われる、日本発祥のスポーツ。漢字では門球と表記される。
|
{{Otheruses|球技|ロックバンド|ゲートボール (バンド)}}
{{出典の明記|date=2018年12月}}
{{スポーツ
| 画像 = [[ファイル:GBTOP.jpg|280px]]
| 見出し = ゲートボール
| 競技統括団体 = 世界ゲートボール連合
| 通称 =
| 起源 = [[1947年]]<br>{{JPN}}
| 競技登録者 =
| クラブ =
| 身体接触 = 無
| 選手 = 5人
| 男女 = 有
| カテゴリ = 屋外競技
| ボール = 専用ボール
| オリンピック =
}}
'''ゲートボール'''は、5人1組の2チーム対抗で行われる、[[日本]]発祥の[[スポーツ]]。漢字では'''門球'''と表記される。
== 概要 ==
[[1947年]]、'''鈴木栄治'''(のちに改名して'''和伸'''となる。[[秋田市]][[太平 (秋田市)|太平]]出身<ref>https://www.city.akita.lg.jp/shisei/akitashishi/1001707.html</ref>)が[[北海道]][[芽室町]]において、[[クロッケー]]をヒントに考案した。元々は[[太平洋戦争]]後の物資不足で遊び道具のない子供のため、また子供の不良化防止のために作られた遊びだったが、[[高度経済成長]]期に[[高齢者]]向けスポーツとして爆発的に流行、現在では日本だけでなくアジア各国にも普及している。
近年では、「'''ゲートボール'''」という名称が「'''老人のスポーツ'''」の代名詞的な存在になるまで社会に浸透してしまい、それが若者への普及を妨げているという指摘から、高齢者のスポーツというイメージを払拭するため、2人制と3人制の競技に限り「'''リレーション'''」と改名されているが、定着はしていない。
[[1984年]]に[[日本ゲートボール連合]]が発足し、[[1985年]]に東京で第1回全日本ゲートボール選手権大会が開催された。毎年開催され、優勝チームには文部科学大臣杯が授与される。
[[1986年]]に[[札幌市円山競技場]]で第1回世界ゲートボール選手権大会が開催された。当初は毎年開催されていたが現在は4年に一度開催されている。
== 用具 ==
[[ファイル:0 Tools.jpg|代替文=|サムネイル|300x300px]]
; スティック
: 木製またはプラスチック、金属製の用具。[[かなづち]]の柄を長くしたような形をしている。ヘッドと呼ばれる部分でボールを打撃する。英語圏ではマレットと呼ばれる。
; ボール
: 合成樹脂でできている。1番ボールから10番ボールまで各1個ずつ、合計10個ある。奇数番号のボールは赤地に白い数字、偶数番号のボールは白地に赤の数字が書いてある。
; ゲート
: カタカナの「コ」の形をした金具。3本使用する。これを規定の位置にさしこんで、この下を定められた方向にくぐらせることを通過と呼び、通過すると得点(1点)を得られる。
; ゴールポール
: 杭のような形をした金具。これをコートの中央に刺してここにボールを当てる。当てると「あがり」になり、得点(2点)を得られる。
; ゼッケン
: 1番から10番まで各1枚ずつ、合計10枚使用する。
; カウンター
: 「カウンター」と呼ばれる道具を使う。15分経過の時(15分前)、20分経過の時(10分前)、25分経過の時(5分前)、30分経過の時(競技時間終了)の合計4回音が鳴るようになっていて、全てのボールの得点を記録できる。
; 腕章
: 監督は監督[[腕章]]を、主将は主将腕章を使用する。
なお、スティックは選手1人1人が用意するが、その他は主催者が用意するのが普通(ただしゼッケンや腕章類はチームで用意)。また、ここに挙げたのはゲートボールをする上で最低限必要なもので、この他にユニフォーム、帽子、シューズなども用意することがある。
== ルール ==
=== チーム編成 ===
* 1チームは5人。
* 公式ルールでは、この他に控え選手として3人まで登録することができる。
* さらに専任監督をつけることができる。専任監督として登録された人は選手を兼任することはできない。
* 控え選手を含む選手の中から主将を1人選出する。
* 5人より少ない人数でプレーする時は、1人が複数個のボールを持つ。
=== 試合前の準備 ===
* まず、チーム内での打順を決めておく。
* 次にチームの代表者(主将か監督)同士がじゃんけん、コイントス、くじなどの方法によって先攻か後攻かを決める。このとき先攻になったチームを「紅(あか)」、後攻になったチームを「白(しろ)」と呼ぶことが多いので、以降これに合わせる。
* 上記2つの組み合わせによって各選手の持ち玉が以下の表の通りに決定する。
:{| class="wikitable"
|rowspan="2" colspan="2"|
!colspan="5" style="text-align:center"|チーム内の打順
|-
!1!!2!!3!!4!!5
|-
!rowspan="2" style="text-align:center"|チーム
!style="text-align:center"|<span style="color:red">●</span>紅(先攻)
|style="text-align:center; color:red"|1||style="text-align:center; color:red"|3||style="text-align:center; color:red"|5||style="text-align:center; color:red"|7||style="text-align:center; color:red"|9
|-
!style="text-align:center"|○白(後攻)
|style="text-align:center; background-color:white"|2||style="text-align:center; background-color:white"|4||style="text-align:center; background-color:white"|6||style="text-align:center; background-color:white"|8||style="text-align:center; background-color:white"|10
|}
* 持ち玉が決まったら、持ち玉と同じ番号のゼッケンを着用する。また、監督は監督腕章を、主将は主将腕章を着用する。なお、「1番ボールを持ち玉とする選手」を「1番」、「2番ボールを持ち玉とする選手」を「2番」、以下同様に「3番」、「4番」、…、「10番」と呼ぶことが多いので、以降それに合わせる。
=== 試合 ===
==== 試合の目的 ====
試合が始まると「1番」→「2番」→…→「10番」→「1番」→…の順番に自分の持ち玉を打つ。試合の目的は、30分の競技時間内に相手チームよりも多くの得点を獲得することである。打った持ち玉に3つのゲートを「通過」させたり、ゴールポールに当てて「あがり」にしたりすることで得点でき、ゲート通過の場合は各1点、あがりの場合は2点が加点される。ただし、単純にゲートをくぐらせたりゴールポールに当てるだけでは「通過」や「あがり」にはならない。以下には「通過」や「あがり」になる条件を書く。
*第1ゲート
**第1ゲートはスタートエリアにボールを置き、ここから狙う。
**ボールが第1ゲートをくぐった場合に「通過」となる。ボールがゲート線(ゲート脚の「後方」を結んだ線)にかかっておらず完全にくぐっている状態が通過と見なされる。
**第1ゲートをくぐれなかったボールはコートから取り除かれ、再び打順が回ってくるのを待ってスタートエリアから打ち直しとなる。
**第1ゲートを通過したボールはそれ以降「あがり」になるまでコートから取り除かれることはなく、ボールが静止している位置から打つことができる。
*第2ゲート
**第2ゲート通過は第1ゲートを通過していることが前提条件となる。
**第2ゲートは今ボールが静止している位置から狙う。
**第2ゲートの足同士を結んだ直線でコートを切った時、第1ゲートのある方からない方に向かってくぐらせると「通過」となる。このとき、通過したボールが必ずしもコートの中に静止している必要はない。
*第3ゲート
**第3ゲート通過は第1ゲートと第2ゲートを通過していることが前提条件となる。
**第3ゲートは今ボールが静止している位置から狙う。
**第3ゲートの足同士を結んだ直線でコートを切った時、第1ゲートのない方からある方に向かってくぐらせると「通過」となる。このとき、通過したボールが必ずしもコートの中に静止している必要はない。
*ゴールポール
**「あがり」は既に3つのゲート全てを通過していることが前提条件となる。
**ゴールポールは今ボールが静止している位置から狙う。
**ゴールポールには方向の制約は無く、ゴールポールにボールをぶつければ「あがり」となる。
**1度「あがり」になったボールはその試合には2度と参加できない。また「あがり」になった選手の打順は、次から飛ばされる(たとえば「4番」があがったら、…→「2番」→「3番」→「5番」→「6番」→…となる)。
なお、ゲートを通過できなかったからといってペナルティがあるというわけではないので、物理的に無理だったり作戦上ゲート通過よりも大事なことがあるという場合はゲートを狙う必要はない。
==== タッチ ====
[[ファイル:0 SPARK.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|スパーク打撃の様子]]
自分のボールを敵味方問わず他のボールにぶつけると「タッチ」となる(ただし1度タッチしたことのある相手には、1度打権を失って再び打順が回ってくるまでタッチできない)。「タッチ」をして、自分のボールとタッチされたボールが両方ともコート内に留まった場合、「スパーク」という特殊な打ち方でタッチしたボールを動かすことができる。「スパーク」は以下の手順で行う。
* まず、すべてのボールが静止するのを待ち、タッチした相手のボールを拾い、自分のボールが静止したところに持ってくる。
* 自分のボールを足でしっかりと踏む。
* 自分のボールに隣接するようにタッチした相手のボールを置き、自分のボールを踏んでいるのと同じ足で相手ボールも軽く踏む。
* 自分のボールをスティックでたたいて、その衝撃で間接的に相手のボールを飛ばす。
* 1度に複数個のボールにタッチした場合はタッチしたボール全てに対しこれを行う。この時、スパークを行う順番は自由であるが、複数のタッチボールを同時に持ち上げてはならず、1個ずつスパークを行う必要がある。
なお、スパークによって起きたことはすべて試合に反映される。つまり、たとえばスパークによって当てられて移動した相手のボールが第2ゲートを通過した場合は、そのボールの持ち主は第1ゲートしか通過させていなくても第2ゲート通過が記録される。
==== アウトボール ====
勢い余ってボールをコートの外に出してしまったり、スパークなどによってコートの外に出されたボールは「アウトボール」という扱いになる。アウトボールになったボールは次に打順が回ってくるのを待って、コートの10cm外からコートの中に打ち込む。ただしコートにボールを打ち込む際、他のボールにタッチしてしまった場合は再びアウトボールとなる。また、ゲート通過や「あがり」は無効となる(ゲート通過しても得点にならない。同様に、「あがり」にもならない。アウトボールになるわけではない)。
==== 打権 ====
ボールを打つ権利は次のように発生する。
* 打順が回ってくると無条件で1打分の打権が発生する。
* 自分の持ち玉がゲートを通過し、得点をすると1打分の打権が発生する(得点が発生したときに限る)。
* タッチをし、スパーク打撃が完了すると、1打分の打権が発生する。
* 自分のボールをアウトボールにしたり、反則をした場合は打権をすべて失う(スパークでアウトボールにするのはよい)。
* あがりになった時点で打権はすべて失う。
打権は加算方式なので、たとえば1打でゲート通過とタッチを同時に行う(通過タッチ 又は タッチ通過)と2打分の打権が発生し、これを「2打権」と呼ぶ(ただし、第1ゲートに関しては通過タッチは認められない)。一度の打撃で複数のボールにタッチした場合には、得られる打権は加算されず、一律で1打分の打権が与えられる。また、現在のルールでは「打権放棄」は認められておらず、必ず打撃を完了する必要がある。
==== 反則 ====
次に掲げる行為は故意・過失を問わず反則となる。反則に対するペナルティは反則を犯した選手の持ち玉をアウトボールにする、または反則前の状態に戻すというものである。また、反則によって動いたボールはアウトボールになるボールを除き審判の手によってもとの位置に戻される。アウトボールは反則が発生した場所から最も近いコート外の位置(直近外)へ移動させられる。
* 審判に打権発生を宣言されてから10秒以内にボールを打たなかった場合(第1ゲートを通過していない場合は打権を失うのみ)
* スパークした時、相手のボールが10cm以上動かなかった場合
* スパークした時、自分のボールが動いてしまった場合(スパークの衝撃でボールが踏んでいる足から外れた時など)
* 一度タッチしたことのある相手に再びタッチした場合(一度打権を失って、再び打順が回ってきた時にタッチするのはよい)
* アウトボールをコートに打ち込む際、他のボールにタッチした場合
* 他人のボールを、スパークなどの正規の方法以外で動かしてしまった場合(プレイのために移動していて、思わずボールを蹴るというケースが多い)、または自分のボールをスティックで打つ以外の方法で動かしてしまった場合(アウトボールでも触れてはいけない)
==== 試合終了 ====
ゲートボールの試合終了は次のようになっている。
* 5人全員が「あがり」となったチームが現れた場合、その時点で試合は終了となる(これを「パーフェクトゲーム」という)。ただし、パーフェクトゲームを達成したのが紅の場合は次の処置をとって試合終了となる。
**最後にあがった選手の直後を打つ白の選手(1番が最後にあがった場合は2番、3番が最後にあがった場合は4番、以下同様に5番なら6番、7番なら8番、9番なら10番)が既にあがっている、もしくはアウトボールになっている場合はそのまま試合終了。
**それ以外の場合は最後にあがった選手の直後を打つ白の選手に1打分の打権を与え、その選手の打権が無くなった時点で試合終了となる。
* (ほとんどの試合がそうであるが)30分経過のシグナルが鳴った時点でパーフェクトゲームを達成したチームが現れなかった場合は、その時点でプレイ中の選手の打権が無くなった時点で試合終了となる。ただし、その選手が紅の選手だった場合は次の処置をとって試合終了となる。
**30分経過時点でプレイ中だった選手の直後を打つ白の選手(1番の場合は2番、3番の場合は4番、以下同様に5番なら6番、7番なら8番、9番なら10番)が既にあがっている、もしくはアウトボールになっている場合はそのまま試合終了。
**それ以外の場合は30分経過時点でプレイ中だった選手の直後を打つ白の選手に1打分の打権を与え、その選手の打権が無くなった時点で試合終了となる。
=== 勝敗の決定 ===
*試合終了時の得点を比較し、合計得点の多いチームを勝ちとする。得点の換算方法は次の通り。
:{| class="wikitable" style="text-align:center"
!ボールの進行具合!!得点
|-
|あがりまで到達||5点
|-
|第3ゲートまで通過||3点
|-
|第2ゲートまで通過||2点
|-
|第1ゲートまで通過||1点
|-
|第1ゲート通過ならず||0点
|}
* 同点の場合はあがりまで到達したボールの多いチームを勝ちとする。それも同数の場合は第3ゲートまで通過したボールの多い方を勝ちとする。それも同数の場合は、第2ゲートまで通過したボールの多い方を勝ちとする。それも同数の場合は引き分けとする。
=== 同点決勝 ===
引き分けの場合は、引き分けとして終わる場合とサッカーのPK戦の要領で決着を着ける場合がある。同点決勝のやり方は次の通り。
* まず1番の選手がスタートエリアにボールを置き、第1ゲートを狙って打つ。
* 続いて2番の選手がスタートエリアにボールを置き、第1ゲートを狙って打つ。
* これを10番まで繰り返す。ただし途中で勝敗が決した場合はその打順で終了する(例:紅4-2白で8番が通過できなかった場合)。
* ただし、第1ゲートを通過してもそのままアウトボールとなった場合は通過は認められない。
* 10番が終了して同点の場合は、1番と2番に戻り[[サドンデス]]方式で行う。
* 以降3番と4番、5番と6番、7番と8番、9番と10番、さらに元に返って1番と2番…と決着が着くまで繰り返す。
=== 審判 ===
主審、副審、記録員の合計3名の審判員が試合を担当する。大規模な全国大会ではこれに2名の線審が加わることもある。主審が主となって試合を仕切り、副審と役割を共有しながらプレーに対しての判定を下す。記録員はボールの得点を記録表と呼ばれる紙に記録してゆく。
審判員資格は各都道府県の協会が実施する筆記および実技試験を受けることにより取得することができる。等級は3つに分かれ、3級審判員、2級審判員、1級審判員の順にランクアップしてゆく。この他に1級審判員資格を持った上で取得できる、国際審判員という資格もある。
== 戦術 ==
=== 試合運び ===
ゲートボールでは「いかに得点するか」よりも「いかに相手を邪魔するか」に重点がおかれる。なぜなら、「あがり」になった選手は2度と試合に参加できないため、例えば先に2人があがったとすると、それ以降は相手5人に対し自分たちは3人で戦うことを余儀なくされるからである。これは数の上で不利なだけでなくあがった選手の順番が飛ばされるので、相手に2人連続でのプレイを許すという意味でも非常に不利となる。そこで、定石とされているのは次のような試合運びである。
* まず、第1ゲートを通過した後は第2ゲートの周辺に集まる。
* 全員が第2ゲートを通過した、もしくは近いうちに確実に第2ゲートを通過しそうになったら第3ゲートへと向かう。それまでは第2ゲート付近で相手の邪魔をする。
* 第3ゲートを通過したら、25分経過のシグナルが鳴るまで第3ゲートの周辺で相手を邪魔しながら待つ。
* 残りが5分になったらあがりを狙う。
ただしこれは理想的な展開であり、実際は第1ゲートを通過できない仲間をいつまで待つかとか、相手に先に第2ゲートや第3ゲートを占領された場合はどうするかというところでチームの戦術が問われる。
なお、自己の技術の研鑽より相手の妨害に重きを置いたルールとなっているのを忌避する者も少なくはなく、近年では高齢者スポーツの主流を[[グラウンド・ゴルフ|グランドゴルフ]]に奪われつつある。
== 世界ゲートボール選手権大会 ==
近年は4年に1回開催されており、前回は2018年にブラジル、サンパウロ市において行われた。第11回大会には日本をはじめとするオーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、香港、インドネシア、韓国、マカオ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、台湾、アメリカ、インド、ロシア、スイス、タイ、ウルグアイ、ヨーロッパの20国・地域から計90チームが出場した。(表記はIOCコード順。ヨーロッパは1つの地域として出場した)
[[ファイル:Sekai 1.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|2018年の第12回世界ゲートボール選手権大会優勝「ニッポン カントリー クラブ(ブラジル)」 ]]
{| class=wikitable border="1"
|-
!回||年||開催地||優勝チーム
|-
|1||[[1986年]]||{{flagicon|JPN}} [[札幌市|札幌]]|||{{flagicon|JPN}} 群馬・高崎下佐野第一
|-
|2||[[1987年]]||{{flagicon|JPN}} [[横浜市|横浜]]|||{{flagicon|JPN}} 栃木・大田原さつき
|-
|3||[[1988年]]||{{flagicon|BRA}} [[サンパウロ]]||{{flagicon|BRA}} ドラセーナ
|-
|4||[[1989年]]||{{flagicon|JPN}} [[名古屋市|名古屋]]||{{flagicon|JPN}} 茨城・竜ヶ崎ドラゴンズ
|-
|5||[[1990年]]||{{flagicon|KOR}} [[ソウル特別市|ソウル]]||{{flagicon|TWN}} 宜蘭中興
|-
|6||[[1994年]]||{{flagicon|JPN}} [[鹿児島市|鹿児島]]||{{flagicon|JPN}} 岩手・グリーンピア友の会
|-
|7||[[1998年]]||{{flagicon|USA}} [[ホノルル]]||{{flagicon|JPN}} 岩手・グリーンピア友の会
|-
|8||[[2002年]]||{{flagicon|JPN}} [[富山市|富山]]||{{flagicon|JPN}} 岩手・グリーンピア友の会
|-
|9||[[2006年]]||{{flagicon|KOR}} [[西帰浦市|西帰浦]]||{{flagicon|JPN}} 大阪・大阪みどり
|-
|10||[[2010年]]||{{flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]||{{flagicon|CHN}} 福建省队
|-
|11||[[2014年]]||{{flagicon|JPN}} 新潟||{{flagicon|CHN}} 山西臨汾代表隊
|-
|12||[[2018年]]||{{flagicon|BRA}} サンパウロ||{{Flagicon|BRA}} ニッポン・カントリー・クラブ
|}
== アジアゲートボール選手権大会 ==
4年に一度開催されており、2012年のマカオ大会では鹿児島県のフレンドスポーツが三連覇を達成した。2020年の開催地は中国だが、詳細は決まっていない。
[[ファイル:Asia 1.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|2016年の第7回アジアゲートボール選手権大会優勝「山東(中国)」]]
<br />
{| class="wikitable"
|+
!回
!年
!開催地
!優勝チーム
|-
|1
|[[1992年]]
|{{flagicon|JPN}} [[石川県|金沢]]
|{{Flagicon|JPN}}福祉会A
|-
|2
|[[1996年]]
|{{flagicon|JPN}} [[北海道|釧路]]
|{{flagicon|TWN}}台湾新竹縣東正區A
|-
|3
|[[2000年]]
|{{flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]
|{{flagicon|CHN}} 福建省
|-
|4
|[[2004年]]
|{{flagicon|JPN}} [[鹿児島県|鹿児島]]
|{{flagicon|JPN}}フレンドスポーツB
|-
|5
|[[2008年]]
|{{flagicon|TWN}} [[彰化縣|彰化]]
|{{flagicon|JPN}}フレンドスポーツクラブ
|-
|6
|[[2012年]]
|{{Flagicon|MAC}} [[マカオ]]
|{{Flagicon|JPN}} フレンドスポーツ
|-
|7
|[[2016年]]
|{{Flagicon|KOR}} [[南原市|南原]]
|{{Flagicon|CHN}} 山東
|-
|8
|[[2020年]]
|{{Flagicon|CHN}} 未定
|
|}
== 国内大会の成績 ==
基本的には各都道府県一代表の大会がほとんどで、毎年開催される。
=== 全日本ゲートボール選手権大会 ===
毎年一度、年齢、性別無制限で開催される国内大会で最も権威のある大会。47都道府県の代表+前回優勝の1チームを加えた48チームで頂上を争う。48チームを4チームずつの一次リーグに分け、各コートの上位2チームが二次リーグに進出。その上位2チーム、合計12チームによってトーナメントを戦い、優勝チームは文部科学大臣杯を手にする。多くの国際大会の日本代表選考も兼ねている。
[[ファイル:Zennihon 1.jpg|代替文=|サムネイル|355x355ピクセル|全日本ゲートボール選手権大会2連覇中の作新学院(栃木)]]
[[ファイル:Zennihon 2.jpg|代替文=|サムネイル|355x355ピクセル|若きチャンピオン・作新学院(栃木)のプレー]]
<br />
{| class="wikitable"
|+
!回
!年
!開催地
!競技場
!優勝チーム<ref>{{Cite web|和書|title=大会みどころ|文部科学大臣杯 全日本ゲートボール選手権大会|JGU {{!}} 公益財団法人日本ゲートボール連合 Official Web Site|url=http://gateball.or.jp/game/monbukagaku/notable/|website=JGU {{!}} 公益財団法人日本ゲートボール連合 Official Web Site|accessdate=2019-08-16}}</ref>
|-
|1
|[[1985年]]
|[[東京都]][[世田谷区]]
|[[駒沢オリンピック公園]]
|前橋MGBC(群馬県)
|-
|2
|[[1986年]]
|[[石川県]][[金沢市]]
|[[石川県西部緑地公園陸上競技場|石川県西部緑地公園]]
|高崎下佐野第一(群馬県)
|-
|3
|[[1987年]]
|[[鹿児島県]][[鹿児島市]]
|[[鹿児島県立鴨池陸上競技場|鴨池陸上競技場]]
|星塚大朋(鹿児島県)
|-
|4
|[[1988年ソウルオリンピック|1988年]]
|[[北海道]][[旭川市]]
|旭川市民ゲートボール場
|大峯(大分県)
|-
|5
|[[1989年]]
|[[山梨県]][[甲府市]]
|[[山梨県小瀬スポーツ公園|小瀬スポーツ公園]]
|よさこい(高知県)
|-
|6
|[[1990年]]
|[[山口県]][[山口市]]
|[[維新百年記念公園|山口県維新百年記念公園]]
|日本海かすみ(兵庫県)
|-
|7
|[[1991年]]
|[[青森県]][[弘前市]]
|[[弘前市運動公園]]
|日本海かすみ(兵庫県・'''2連覇''')
|-
|8
|[[1992年]]
|[[静岡県]][[浜松市]]
|[[遠州灘海浜公園球技場|遠州灘海浜公園]]
|台之郷五区GBC(群馬県)
|-
|9
|[[1993年]]
|[[新潟県]][[新潟市]]
|[[新潟市陸上競技場]]
|貴志(和歌山県)
|-
|10
|[[1994年]]
|[[東京都]][[文京区]]
|'''[[東京ドーム]]'''
|高崎下佐野(群馬県・'''2度目''')
|-
|11
|[[1995年]]
|東京都[[大田区]]
|[[大田スタジアム]]
|渡辺クラブ(神奈川県)
|-
|12
|[[1996年]]
|[[愛媛県]][[松山市]]
|[[愛媛県総合運動公園陸上競技場]]
|岩手盛岡(岩手県)
|-
|13
|[[1997年]]
|[[静岡県]][[田方郡]]
|天城湯ヶ島町ふるさと広場 [[天城ドーム|新天城ドーム]]
|マルコ会(佐賀県)
|-
|14
|[[1998年]]
|[[秋田県]][[秋田市]]
|[[秋田市八橋運動公園陸上競技場|秋田市八橋陸上競技場]]
|梅津(京都府)
|-
|15
|[[1999年]]
|[[愛知県]][[名古屋市]]
|[[名古屋市瑞穂公園陸上競技場|名古屋市瑞穂公園]]
|黒田庄(兵庫県)
|-
|16
|[[2000年]]
|[[京都府]][[京都市]]
|[[宝が池公園球技場]]
|黒田庄(兵庫県・'''2連覇''')
|-
|17
|[[2001年]]
|[[福岡県]][[北九州市]]
|桃園運動場
|黒田庄B(兵庫県・'''3連覇''')
|-
|18
|[[2002年]]
|[[神奈川県]][[藤沢市]]
|[[神奈川県立体育センター陸上競技場]]
|さつま(鹿児島県)
|-
|19
|[[2003年]]
|[[滋賀県]][[長浜市]]
|[[滋賀県立長浜ドーム]]
|大阪みどり(大阪府)
|-
|20
|[[2004年]]
|[[長崎県]][[長崎市]]
|[[長崎市総合運動公園]]
|もりおか桂(岩手県)
|-
|21
|[[2005年]]
|[[福島県]][[福島市]]
|[[福島県あづま総合運動公園|あづま総合運動公園]]陸上競技場
|フレンドスポーツクラブ(鹿児島県)
|-
|22
|[[2006年]]
|[[山梨県]][[笛吹市]]
|花鳥の里スポーツ広場
|TKE(新潟県)
|-
|23
|[[2007年]]
|[[島根県]][[出雲市]]
|[[出雲ドーム|出雲健康公園 出雲ドーム]]・天然芝生多目的広場
|[[健祥会]](徳島県)
|-
|24
|[[2008年]]
|[[佐賀県]][[佐賀市]]
|[[SAGAサンライズパーク陸上競技場|佐賀県総合運動場陸上競技場]]
|フレンドスポーツクラブ(鹿児島県・'''2度目''')
|-
|25
|[[2009年]]
|[[富山県]][[砺波市]]
|砺波総合運動公園 砺波市多目的競技場
|フレンドスポーツクラブA(鹿児島県・'''2連覇・3度目''')
|-
|26
|[[2010年]]
|[[群馬県]][[太田市]]
|[[太田市運動公園陸上競技場]]・サッカー ラグビー場
|きらり三日月(兵庫県)
|-
|27
|[[2011年]]
|[[京都府]][[京都市]]
|[[宝が池公園球技場]]
|小豆島豊栄(香川県)
|-
|28
|[[2012年]]
|[[福岡県]][[福岡市]]
|[[東平尾公園博多の森陸上競技場]]
|ブラジルクラブ(愛知県)
|-
|29
|[[2013年]]
|[[山形県]][[天童市]]
|[[山形県総合運動公園陸上競技場|山形県総合運動公園 NDソフトスタジアム山形]]
|佐多キング(鹿児島県)
|-
|30
|[[2014年]]
|[[三重県]][[四日市市]]
|[[四日市ドーム]]
|佐多キング(鹿児島県・'''2連覇''')
|-
|31
|[[2015年]]
|[[広島県]][[広島市]]
|[[広島広域公園第一球技場|広島広域公園 第一球技場]]
|萬燈組(愛知県)
|-
|32
|[[2016年]]
|[[愛媛県]][[松山市]]
|[[愛媛県総合運動公園陸上競技場]]
|フェニックス京都(京都府)
|-
|33
|[[2017年]]
|[[北海道]][[芽室町]]
|芽室南運動公園広場
|萬燈組(愛知県・'''2度目''')
|-
|34
|[[2018年]]
|[[千葉県]][[浦安市]]
|[[浦安市運動公園陸上競技場|浦安市運動公園 陸上競技場]]
|[[作新学院高等学校|作新学院]](栃木県)
|-
|35
|[[2019年]]
|[[滋賀県]][[長浜市]]
|[[滋賀県立長浜ドーム]](長浜バイオ大学ドーム)
|作新学院(栃木県・'''2連覇''')
|}
=== 国民体育大会<ref>{{Cite web|和書|title=国民体育大会[公開競技]ゲートボール競技会|JGU {{!}} 公益財団法人日本ゲートボール連合 Official Web Site|url=http://gateball.or.jp/game/kokutai/|website=JGU {{!}} 公益財団法人日本ゲートボール連合 Official Web Site|accessdate=2019-08-16}}</ref>===
2015年から公開競技として追加された。毎年一度行われている。地域ブロック大会の優勝チーム、男子クラス、女子クラスの各16チームで戦う。4チームずつのリーグに分けた後、上位2チームによる決勝トーナメントを行う。
{| class="wikitable"
|+
!回
!年
!開催地
!男子優勝
!女子優勝
|-
|1
|[[2015年]]
|[[和歌山県]][[高野町]]
|岐阜県
|大阪府
|-
|2
|[[2016年]]
|[[岩手県]][[花巻市]]
|青森県
|岩手県
|-
|3
|[[2017年]]
|[[愛媛県]][[松山市]]
|岐阜県('''2度目''')
|埼玉県
|-
|4
|[[2018年]]
|[[福井県]][[若狭町]]
|岐阜県('''3度目・2連覇''')
|岩手県('''2度目''')
|-
|5
|[[2019年]]
|[[茨城県]][[行方市]]
|岩手県
|栃木県
|}
=== 全国選抜ゲートボール大会 ===
以前は男 or 女、65歳以上 or 以下で区分される4クラスで競技していたが、現在は男女別の2クラスで、65歳以上を基本とし、チームに2人まで65歳未満の選手を登録することができる制度を採用している。毎年開催。
=== 全日本世代交流ゲートボール大会 ===
65歳以上(シニア)、15-65歳(ミドル)、15歳未満(ジュニア)の三世代が同じチームに入って競技を行うことが義務付けられた大会である。名簿上の登録だけでなく、競技時間中は常にその三世代が同時に出場することが必要である。優勝チームには内閣総理大臣杯が与えられる。
{| class="wikitable"
|+
!回
!年
!開催地
!優勝チーム
|-
|1
|1984年
|[[東京都]][[世田谷区]]
|八代(熊本県)
|-
|2
|1985年
|東京都世田谷区
|大黒会A(鹿児島県)
|-
|3
|1986年
|東京都世田谷区
|大分市春日(大分県)
|-
|4
|1987年
|東京都世田谷区
|焼津(静岡県)
|-
|5
|1988年
|東京都世田谷区
|泗水真栄平(熊本県)
|-
|6
|1989年
|東京都世田谷区
|唐環ファミリー(佐賀県)
|-
|7
|1990年
|東京都[[稲城市]]
|鶴亀新生(福井県)
|-
|8
|1991年
|東京都稲城市
|多伎(島根県)
|-
|9
|1992年
|[[福岡県]][[福岡市]]
|小松島(徳島県)
|-
|10
|1993年
|[[宮城県]][[仙台市]]
|払川(宮崎県)
|-
|11
|1994年
|[[岐阜県]][[岐阜市]]
|グリーンピア友の会(岩手県)
|-
|12
|1995年
|[[山形県]][[天童市]]
|小豆島島の光(香川県)
|-
|13
|1996年
|[[北海道]][[芽室町]]
|東京ニコニコクラブA(東京都)
|-
|14
|1997年
|[[山口県]][[山口市]]
|雄大(鹿児島県)
|-
|15
|1998年
|[[岡山県]][[岡山市]]
|梅北(宮崎県)
|-
|16
|1999年
|[[東京都]][[江東区]]
|築城・安武(福岡県)
|-
|17
|2000年
|東京都江東区
|小豆島A(香川県・'''2度目''')
|-
|18
|2001年
|[[宮崎県]][[都城市]]
|小倉サンデーズA(福岡県)
|-
|19
|2002年
|東京都江東区
|小松島B(徳島県・'''2度目''')
|-
|20
|2003年
|東京都江東区
|冠峠super(福井県)
|-
|21
|2004年
|東京都江東区
|加賀GBC(石川県)
|-
|22
|2005年
|[[埼玉県]][[熊谷市]]
|健祥会25(徳島県)
|-
|23
|2006年
|埼玉県熊谷市
|黒田庄(兵庫県)
|-
|24
|2007年
|埼玉県熊谷市
|岩手矢巾(岩手県)
|-
|25
|2008年
|埼玉県熊谷市
|まくわ(岐阜県)
|-
|26
|2009年
|埼玉県熊谷市
|フレンドスポーツクラブB(鹿児島県)
|-
|27
|2010年
|埼玉県熊谷市
|TKE(新潟県)
|-
|28
|2011年
|埼玉県熊谷市
|黒田庄(兵庫県・'''2度目''')
|-
|29
|2012年
|埼玉県熊谷市
|小松島B(徳島県・'''3度目''')
|-
|30
|2013年
|埼玉県熊谷市
|フレンドスポーツクラブB(鹿児島県・'''2度目''')
|-
|31
|2014年
|埼玉県熊谷市
|佐多キング(鹿児島県)
|-
|32
|2015年
|埼玉県熊谷市
|フレンドスポーツクラブA(鹿児島県・'''3度目''')
|-
|33
|2016年
|[[京都府]][[京丹波町]]
|TKE(新潟県・'''2度目''')
|-
|34
|2017年
|[[大分県]][[大分市]]
|霧島クラブB(鹿児島県)
|-
|35
|2018年
|[[岩手県]][[盛岡市]]
|岐阜羽島(岐阜県)
|-
|36
|2019年
|[[三重県]][[四日市市]]
|萬燈組(愛知県)
|}
=== 全国ジュニアゲートボール大会 ===
ジュニア層のための全国大会で、毎年夏に埼玉県のくまがやドームで開催されている。6歳以上15歳未満の部(2部クラス)および15歳以上の部(1部男子クラス、1部女子クラス)の3クラスで競技を行う。(第1, 2回は1部2部の区別なく単一クラス。第3, 4回は男女の区別なく2クラス)
{| class="wikitable"
|+
!回
!年
!開催地
!競技場
!1部男子クラス優勝
!1部女子クラス優勝
!2部クラス優勝
|-
|1
|[[1996年]]
|[[東京都]][[世田谷区]]
|[[駒沢オリンピック公園|駒沢オリンピック公園第二球技場]]
|
|
|岩手矢巾(岩手県)
|-
|2
|[[1997年]]
|東京都[[江東区]]
|[[江東区夢の島陸上競技場|江東区夢の島競技場]]
|
|
|岩手矢巾(岩手県・'''2連覇''')
|-
|3
|[[1998年]]
|東京都江東区
|[[江東区夢の島陸上競技場|江東区夢の島競技場]]
|滑川フレンドスクール(富山県)
|
|黒田庄グリーンエンジェルズ(兵庫県)
|-
|4
|[[1999年]]
|[[熊本県]][[熊本市]]
|[[熊本県民総合運動公園屋内運動広場|熊本県民総合運動公園 パークドーム熊本]]
|岩手矢巾(岩手県・'''3度目''')
|
|小豆島池田(香川県)
|-
|5
|[[2000年]]
|[[富山県]][[富山市]]
|[[富山県五福公園陸上競技場|富山県五福公園 五福陸上競技場]]
|鳥取若鳥(鳥取県)
|京都ジュニアB(京都府)
|甲西ネコバス(山梨県)
|-
|6
|[[2001年]]
|東京都江東区
|[[江東区夢の島陸上競技場|江東区夢の島競技場]]
|フレンドスポーツクラブ(鹿児島県)
|尾上総合高校(青森県)
|桜ヶ丘小学校(茨城県)
|-
|7
|[[2002年]]
|[[高知県]][[春野町 (高知県)|春野町]]
|[[高知県立春野総合運動公園|高知県立春野総合運動公園球技場]]
|ベストフレンズ(長崎県)
|京都ジュニアB(京都府・'''2度目''')
|モンキューズ(岩手県)
|-
|8
|[[2003年]]
|[[静岡県]][[静岡市]]
|草薙総合運動場
|黒田庄ジュニア(兵庫県)
|築城サンフラワー(福岡県)
|モンキューズ(岩手県・'''2連覇''')
|-
|9
|[[2004年]]
|[[埼玉県]][[熊谷市]]
|[[熊谷スポーツ文化公園|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム]]
|岐阜Jr.(岐阜県)
|KJ2(新潟県)
|モンキューズ(岩手県・'''3連覇''')
|-
|10
|[[2005年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|黒田庄ジュニアA(兵庫県・'''2度目''')
|KJⅡ(新潟県・'''2連覇''')
|フレンドスポーツクラブジュニア(鹿児島県)
|-
|11
|[[2006年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|大垣Jr.(岐阜県・'''2度目''')
|大成女子高校(茨城県)
|黒田庄エンジェルズ(兵庫県・'''2度目''')
|-
|12
|[[2007年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|フェニックス京都(京都府)
|黒田庄ハニーズ(兵庫県)
|大垣ジュニアB(岐阜県)
|-
|13
|[[2008年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|MANABU会(福岡県)
|作新クラブA(栃木県)
|MANABU会ジュニア(福岡県)
|-
|14
|[[2009年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|南大隅高校(鹿児島県)
|作新クラブ(栃木県・'''2連覇''')
|MANABU会Jr.(福岡県・'''2連覇''')
|-
|15
|[[2010年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|大垣ジュニアA(岐阜県・'''3度目''')
|作新クラブ(栃木県・'''3連覇''')
|MANABU会Jr(福岡県・'''3連覇''')
|-
|16
|[[2011年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|島根(島根県)
|出雲西高校(島根県)
|MANABU会Jr(福岡県・'''4連覇''')
|-
|17
|[[2012年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|福智高校GB男子(福岡県)
|作新クラブ(栃木県・'''4度目''')
|大泊ドラえもん(鹿児島県)
|-
|18
|[[2013年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|島根(島根県・'''2度目''')
|福智高校(福岡県)
|久慈来内ジュニア(岩手県)
|-
|19
|[[2014年]]
|埼玉県熊谷市
|[[熊谷スポーツ文化公園陸上競技場]]
|出雲西高校(島根県)
|出雲西高校(島根県・'''2度目''')
|黒田庄エンジェルズ(兵庫県・'''3度目''')
|-
|20
|[[2015年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園陸上競技場
|出雲西高校A(島根県・'''2連覇''')
|作新クラブ(栃木県・5度目)
|大垣ジュニア(岐阜県・'''2度目''')
|-
|21
|[[2016年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|もんちゃんず(岩手県)
|作新クラブ(栃木県・'''2連覇・6度目''')
|大垣ジュニア(岐阜県・'''2連覇・3度目''')
|-
|22
|[[2017年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|もんちゃんず(岩手県・'''2連覇''')
|CLARK広島楓(広島県)
|大潟(新潟県)
|-
|23
|[[2018年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|小松島ネクサス(徳島県)
|作新クラブ(栃木県・'''7度目''')
|山科中学フェニックス(京都府)
|-
|24
|[[2019年]]
|埼玉県熊谷市
|熊谷スポーツ文化公園くまがやドーム
|小松島ネクサス(徳島県・'''2連覇''')
|作新クラブ(栃木県・'''2連覇・8度目''')
|さがみっ子(神奈川県)
|}
=== 全国社会人ゲートボール大会 ===
同じ職場で働いている人たちで結成したチームが参加できる大会。
== ゲートボールを題材にした作品 ==
; 映画
*『[[勝利者たち]]』[[円谷プロダクション]]([[東宝]]、[[1992年]])
** 「日本初のゲートボール映画」という触れ込み。[[ハナ肇]]の最後の出演作品。
*『[[それいけ!ゲートボールさくら組]]』([[2023年]])
; 小説
* 『[[ひらけ!勝鬨橋]]』[[島田荘司]]([[角川書店|角川文庫]])
* [[定吉七番]]シリーズ『ゴールドういろう』[[東郷隆]](角川文庫)
; 漫画
* 『[[ちょっとヨロシク!]]』[[吉田聡]]([[小学館]])
** コミックス第7巻末 - 第8巻末まで
* 『[[GBボンバー]]』[[いのまたむつみ]](コミック MOTION BOOKS 2)
* 『[[ゲートボール殺人事件]]』[[川原泉]]([[花とゆめ]]コミックス)
* 『[[ゲートガール]]』[[ひのき一志]]([[日本文芸社]])
; コンピュータゲーム
* [[アーケードゲーム]]『ハローゲートボール』([[データイースト]]、[[1984年]])
* [[PCエンジン]]『[[あっぱれ!ゲートボール]]』([[ハドソン]]、[[1988年]])
** [[2007年]]7月より[[Wii]][[バーチャルコンソール]]にて配信されていた(現在は終了)。
** [[2020年]]3月19日発売の復刻型ゲーム機「[[PCエンジン mini]]」に収録。
* [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]『[[THEゲートボール]]』([[ディースリー・パブリッシャー]]、[[1999年]])
** [[SIMPLE1500]]シリーズの一作。
; ボードゲーム
* 『[[GATEBALL?]]』([[グラパックジャパン]])
** ボールを移動させるルール以外は基本的にゲートボールのルールに準じており、付録としてゲートボールの公式ルールブックが付属している
; 音楽
* 『ゲートボール音頭』(歌:[[山田太郎 (歌手)|山田太郎]]、[[美樹克彦]]、[[中山大三郎]]、[[大木凡人]]、作詞・作曲:中山大三郎。[[TBSテレビ]]『[[街かどテレビ11:00]]』テーマ曲)
; TV番組
* 『[[おはよう!ゲートボール]]』([[テレビ朝日]]、[[1983年]]4月 - [[1986年]]3月)
* 『[[実践!ゲートボール]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、放送終了)
* 『[[スーパーゲートボール]]』([[日本レジャーチャンネル|JLC]]、[[1993年]]4月 - [[2020年]]12月)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
*[[球技一覧]]
*[[三遊亭円楽 (6代目)]] - (審判員の資格を持っていた)
*[[毬杖]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Gateball}}
{{Wiktionary|ゲートボール|門球}}
*[http://gateball.or.jp/wgu/ 世界ゲートボール連合] {{en icon}}
*[http://gateball.or.jp/ 公益財団法人日本ゲートボール連合]
{{スポーツ一覧}}
{{チームスポーツ}}
{{球技}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けえとほおる}}
[[Category:球技]]
[[Category:日本のスポーツ]]
[[Category:ゲートボール|*]]
|
2003-09-12T14:25:20Z
|
2023-10-18T03:23:00Z
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[
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"Template:チームスポーツ",
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
|
16,413 |
安芸国
|
安芸国(あきのくに、安藝國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。芸州(げいしゅう)とも。
安芸(安藝)は古くは「阿岐」と書いた。『古事記』には「阿岐国」と記載されている。スサノオノミコトの拠点は出雲国、安来(現;山陰、島根県)の地であり歴史的に混同されることが多かった。
明治維新の直前の領域は、広島県広島市、呉市、竹原市、大竹市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、安芸郡、豊田郡の全域および三原市の一部(概ね和田浜町、和田、宗郷、新倉、新倉町、沼田町、高坂町許山、久井町土取、久井町山中野、久井町小林、大和町大草、大和町大具、大和町椋梨、大和町下草井以西)、尾道市の一部(瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町)、三次市の一部(秋町・粟屋町)、東広島市の大部分(豊栄町飯田・豊栄町吉原を除く)、山県郡の大部分(北広島町西八幡原の一部を除く)にあたる。
7世紀に阿岐国造の領域に安芸国が設置された。
平安時代編纂の倭名類聚抄によれば国府は安芸郡にあった。遺跡は見つかっておらず、正確な位置は不明である。現在の安芸郡府中町と推定される。また、国分寺が作られた東広島市西条に求める説もある。
|
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"text": "安芸(安藝)は古くは「阿岐」と書いた。『古事記』には「阿岐国」と記載されている。スサノオノミコトの拠点は出雲国、安来(現;山陰、島根県)の地であり歴史的に混同されることが多かった。",
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"text": "明治維新の直前の領域は、広島県広島市、呉市、竹原市、大竹市、廿日市市、安芸高田市、江田島市、安芸郡、豊田郡の全域および三原市の一部(概ね和田浜町、和田、宗郷、新倉、新倉町、沼田町、高坂町許山、久井町土取、久井町山中野、久井町小林、大和町大草、大和町大具、大和町椋梨、大和町下草井以西)、尾道市の一部(瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町)、三次市の一部(秋町・粟屋町)、東広島市の大部分(豊栄町飯田・豊栄町吉原を除く)、山県郡の大部分(北広島町西八幡原の一部を除く)にあたる。",
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"text": "7世紀に阿岐国造の領域に安芸国が設置された。",
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"text": "平安時代編纂の倭名類聚抄によれば国府は安芸郡にあった。遺跡は見つかっておらず、正確な位置は不明である。現在の安芸郡府中町と推定される。また、国分寺が作られた東広島市西条に求める説もある。",
"title": "国内の施設"
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] |
安芸国(あきのくに、安藝國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。芸州(げいしゅう)とも。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 安芸国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|安芸国}}
|別称 = 芸州(げいしゅう)
|所属 = [[山陽道]]
|領域 = [[広島県]]西部
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 8郡63郷
|国府 = 広島県[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]
|国分寺 = 広島県[[東広島市]]([[安芸国分寺|安芸国分寺跡]])
|国分尼寺 = (推定)広島県東広島市
|一宮 = [[厳島神社]](広島県[[廿日市市]])
}}
'''安芸国'''(あきのくに、'''安藝國''')は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。'''芸州'''(げいしゅう)とも。
== 「安芸」の名称 ==
安芸(安藝)は古くは「阿岐」と書いた。『[[古事記]]』には「阿岐国」と記載されている。[[スサノオノミコト]]の拠点は[[出雲国]]、安来(現;山陰、島根県)の地であり歴史的に混同されることが多かった。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は、[[広島県]][[広島市]]、[[呉市]]、[[竹原市]]、[[大竹市]]、[[廿日市市]]、[[安芸高田市]]、[[江田島市]]、[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]、[[豊田郡]]の全域および[[三原市]]の一部(概ね和田浜町、和田、宗郷、新倉、新倉町、沼田町、高坂町許山、[[久井町]]土取、久井町山中野、久井町小林、[[大和町 (広島県)|大和町]]大草、大和町大具、大和町椋梨、大和町下草井以西)、[[尾道市]]の一部([[瀬戸田町]]各町・[[因島市#町名|因島洲江町]]・因島原町)、[[三次市]]の一部(秋町・粟屋町)、[[東広島市]]の大部分([[豊栄町]]飯田・豊栄町吉原を除く)、[[山県郡]]の大部分([[北広島町]]西八幡原の一部を除く)にあたる。
== 沿革 ==
[[7世紀]]に阿岐国造の領域に安芸国が設置された。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では全域が安芸'''[[広島藩]]'''領であった(522村・313,164石余)。蔵米3万石を安芸'''[[広島新田藩]]'''に分知していたが、封地は定めず。
** [[沼田郡]](42村・25,941石余)、[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]](48村・38,327石余)、[[佐伯郡]](85村・39,307石余)、[[山県郡]](74村・31,639石余)、[[高田郡]](59村・43,836石余)、[[高宮郡]](36村・17,923石余)、[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]](90村・57,557石余)、[[豊田郡]](88村・58,630石余)
* 明治2年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1870年]][[1月27日]]) - 広島新田藩が広島藩に編入。
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[広島県]]'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[File:Tadokoromyojin-sha, shaden-2.jpg|thumb|220px|right|{{center|伝安芸国庁跡の田所明神社<br/>(広島県府中町)}}]]
平安時代編纂の[[倭名類聚抄]]によれば[[国府]]は安芸郡にあった。遺跡は見つかっておらず、正確な位置は不明である。現在の[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]と推定される。また、国分寺が作られた東広島市[[西条町 (広島県)|西条]]に求める説もある<ref>岸田裕広・編『広島県の歴史』(山川出版社、1999年)33-34頁。</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
; [[安芸国分寺]]
: 広島県東広島市西条町吉行。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社3座3社が記載されている。小社はない。大社3社は、全て[[名神大社]]である。
* [[佐伯郡]] [[速谷神社]]([[廿日市市]])
* 佐伯郡 伊都伎島神社(現 [[厳島神社]]、廿日市市[[宮島町]])
* [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]] [[多家神社]](安芸郡府中町)
; [[総社]]・[[一宮]]以下
* 総社:多家神社に合祀。
* 一宮:[[厳島神社]]
* 二宮:[[速谷神社]]
== 地域 ==
=== 郡 ===
* [[沼田郡]] - 「ぬたぐん」と読む。[[鎌倉期]]までに豊田郡に編入され消滅した。[[寛文]]4年([[1664年]])に佐東郡を改称した[[近世]]沼田郡(こちらは「ぬまたぐん」と読む)とは領域が異なり、現在の東広島市東部や三原市西部などが該当。全7郷。
* [[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]] - 現在の東広島市中部など。[[1956年]]([[昭和]]31年)に豊田郡と所属市町村を調整。全9郷。
* [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]] - 現在の安芸郡や呉市西部など。鎌倉期までに安北郡と安南郡に分割され、[[江戸期]]に安南郡を再改称した。全11郷。
* [[佐伯郡]] - 現在の広島市南西部や廿日市市など。鎌倉期までに佐東郡と佐西郡に分割され、[[寛文]]4年(1664年)に佐西郡を再改称。全12郷。
* [[山県郡]] - 現在の山県郡とほぼ同じ。全8郷。
* [[高宮郡]] - 鎌倉期までに高田郡に編入。江戸期に安北郡を改称した近世の高宮郡とは領域が異なる。現在の安芸高田市[[高宮町]]・[[甲田町]]・[[美土里町]]などは古代高宮郡の領域であったとされる。全6郷。
* [[高田郡]] - 現在の安芸高田市西部など。後に高宮郡と統合・再編される。全7郷。
* [[豊田郡]] - はじめは「'''沙田郡'''」(ますたぐん)と表記。中世までに改称された。[[芸予諸島]]のうち広島県に属する部分の多くは豊田郡。全6郷。
=== 江戸時代の藩 ===
* [[広島藩]]、[[福島氏#福島氏(尾張国)|福島家]](49.8万石)→[[浅野氏|浅野家]](42.6万石)
* [[広島新田藩]](広島藩支藩、3万石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 安芸守 ====
* [[忍海人成]]:[[養老]]4年([[720年]])任官
* [[坂上苅田麻呂]]:[[宝亀]]2年([[771年]])任官
* [[藤原園人]]:[[延暦]]4年([[785年]])任官
* [[藤原伊勢人]]:[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])任官
* [[豊前王]]:[[承和 (日本)|承和]]14年([[847年]])任官
* [[紀綱雄]]:[[嘉祥]]元年([[848年]])任官
* [[橘真直]]:嘉祥2年([[849年]])任官
* [[橘貞根]]:嘉祥3年([[850年]])任官
* [[清原瀧雄]]:[[斉衡]]3年([[856年]])任官
* [[百済安宗]]:[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])任官
* [[大和吉直]]:天安2年([[858年]])任官
* [[藤原関主]]:[[貞観 (日本)|貞観]]3年([[861年]])任官
* [[基兄王]]:貞観7年([[865年]])任官
* [[藤原興世]]:貞観11年([[869年]])任官
* [[橘岑守]]:貞観11年(869年)任官
* [[安倍肱主]]:[[仁和]]2年([[886年]])任官
* 伴忠行:昌泰2年(899年)任官
* 紀宣明
* [[源頼清]]:長元4年(1031年)任官
* [[源有光]]:[[康平]]5年([[1062年]])頃
* [[平清盛]]:[[久安]]2年([[1146年]])任官
* [[平経盛]]:[[保元]]元年([[1156年]])任官
* [[平頼盛]]:保元元年(1156年)任官
* [[源季遠]]
* [[佐伯景弘]]:[[寿永]]元年([[1182年]])任官
==== 安芸介 ====
* [[百済河成]]:[[承和 (日本)|承和]]13年([[846年]])任官
=== 守護 ===
==== 鎌倉幕府 ====
* 1189年 - ? : [[武田信光]]{{Sfn|広島県|1984|p=23}}
* 1196年{{Sfn|広島県|1984|p=23}} - 1221年 : [[宗孝親]]
* 1231年 - ? : 武田信光
* 1235年{{Sfn|広島県|1984|pp=23-24}} - ? : [[藤原親実]]
* 1270年 - 1276年 : [[武田信時]]
* 1293年 - ? : [[名越宗長]]
==== 室町幕府 ====
* 1335年 - 1345年 : [[武田信武]]
* 1345年 - 1368年 : [[武田氏信]]
* 1371年 - 1390年 : [[今川貞世]]
* 1392年 - 1394年 : [[細川頼元]]
* 1394年 - 1400年 : [[渋川満頼]]
* 1404年 - 1406年 : [[山名満氏]]
* 1406年 - 1411年 : [[山名熙重]]
* 1418年 - 1419年 : [[山名教孝]]
* 1429年 - 1433年 : [[山名時熙]]
* 1433年 - 1454年 : [[山名宗全|山名持豊]]
* 1454年 - ? : [[山名教豊]]
* 1462年 - 1475年 : [[山名是豊]]
* 1475年 - ? : [[山名政豊]]
=== 戦国大名 ===
* [[武田氏#安芸武田氏|安芸武田氏]]
* [[毛利氏]]
* [[吉川氏]]
* [[小早川氏]]
=== 武家官位としての安芸守 ===
==== 江戸時代以前 ====
* [[足利安芸守]]
* [[石川盛義]]
* [[加地春綱]]
* [[北条高広]]
* [[黒川晴氏]]
* [[小早川弘景 (初代)|小早川弘景]]
* [[小早川弘平]]
* [[小早川盛景]]
* [[宍戸隆家]]
* [[諏訪頼満 (安芸守)|諏訪頼満]]
* [[諏訪時継]]
* [[武田信賢]]:安芸分群守護
* [[武田光和]]:安芸武田家当主
* [[仁科盛能]]
* [[毛利季光]](安芸介)
==== 江戸時代 ====
* 安芸[[広島藩]]主
** [[浅野光晟]]:第2代藩主
** [[浅野綱長]]:第4代藩主
** [[浅野吉長]]:第5代藩主
** [[浅野宗恒]]:第6代藩主
** [[浅野重晟]]:第7代藩主
** [[浅野斉賢]]:第8代藩主
** [[浅野斉粛]]:第9代藩主
** [[浅野慶熾]]:第10代藩主
** [[浅野長訓]]:第11代藩主
** [[浅野長勲]]:第12代藩主
* その他
** [[大久保忠増]]:[[相模国|相模]][[小田原藩]]第2代藩主・老中
** [[大久保忠真]]:小田原藩第7代藩主・老中
** [[酒井忠一 (安房勝山藩主)|酒井忠一]]:[[安房国|安房]][[安房勝山藩|勝山藩]]第8代藩主
** [[諏訪忠虎]]:[[信濃国|信濃]][[諏訪藩]]第4代藩主
** [[諏訪忠厚]]:諏訪藩第6代藩主
** [[本庄道貫]]:[[美濃国|美濃]][[高富藩]]第9代藩主
** [[松平資俊]]:[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]第2代藩主、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]]初代藩主
** [[森長記]]:[[播磨国|播磨]][[三日月藩]]第2代藩主
** [[栗本鋤雲]]:外国奉行
== 安芸国の合戦 ==
* [[1517年]] : [[有田中井手の戦い]]、[[毛利元就]] × [[武田元繁]]
* [[1523年]] : [[鏡山城の戦い]]、[[尼子経久]]・毛利元就 × [[大内氏]]
* [[1540年]] - [[1541年]] : [[吉田郡山城の戦い]]、毛利・大内連合軍(毛利元就、[[陶晴賢]]) × [[尼子晴久|尼子詮久]]
* [[1554年]] : [[折敷畑の戦い]]、毛利元就 × 陶晴賢([[宮川房長]])
* [[1555年]] : [[厳島の戦い]]、毛利元就 × 陶晴賢
* [[1866年]] : 芸州口の戦い([[長州征討#第二次長州征討|長州征討]])、長州藩 × 江戸幕府
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|date=1984-03-28|title=広島県史|volume-title=中世 通史Ⅱ|editor=[[広島県]]|publisher=広島県|id={{NDLJP|9575528}}|ref={{SfnRef|広島県|1984}}}}{{要登録}}
* 岸田裕広・編『広島県の歴史』、[[山川出版社]]、1999年。
* [[角川日本地名大辞典]] 34 広島県
* [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Aki Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[安芸 (曖昧さ回避)]]
* [[安芸 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。[[薩摩型戦艦]]の2番艦。艦名は安芸国に因む。
{{令制国一覧}}
{{安芸国の郡}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:あきのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:山陽道|国あき]]
[[Category:広島県の歴史]]
[[Category:安芸国|*]]
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2003-09-12T14:35:44Z
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16,415 |
周防国
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周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。
7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。『日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述が有るのでどちらも使われていたと思われる。
読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきた。「周芳」を「すは」と読むか、「すはう」と読むのか定説はない(日本歴史地名体系)。古代の日本語では母音が連続することはないため/supau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すは」と読まれていたと考えられている。
明治維新の直前の領域は、防府市、下松市、岩国市、光市、柳井市、周南市、大島郡、玖珂郡、熊毛郡および山口市の大部分(旧阿東町を除く)、宇部市の一部(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波)にあたる。
古代には大島国造(大島郡)、周防国造(熊毛郡、玖珂郡)、波久岐国造(吉敷郡)、都怒国造(都濃郡)、佐波県主(佐波郡)が設置された。しかし、波久岐国造は設置時期の伝承や近隣の佐波県主との関係に疑問があり、伯耆国造の重複記事と見る説もある。
その後、これら国造国と県が合併されて律令国として成立し、大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡、吉敷郡の五郡からなったが、養老5年(721年)に熊毛郡から玖珂郡が分けられ、六郡となった。
7世紀代と考えられているが光市大和町と田布施町の境にある標高約360メートルの石城山(いわきさん)に山城が築かれた。これが学術用語でいう神籠石(こうごいし)という遺跡である。石城山には延喜式内社である石城神社が山頂に鎮座しその本殿は国の重要文化財に指定されている。
周防国は中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権北条氏一族の支配から幕府滅亡によって大内氏の支配が続き、中世末に入って毛利氏の領国となって明治維新を迎えた。
国府は佐波郡にあった。現在の防府市土居八町と推定され、関連遺跡の発掘が進んでいる。
合計45郷(『和名抄』)
|
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"title": "沿革"
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"title": "沿革"
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"text": "周防国は中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権北条氏一族の支配から幕府滅亡によって大内氏の支配が続き、中世末に入って毛利氏の領国となって明治維新を迎えた。",
"title": "沿革"
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"text": "国府は佐波郡にあった。現在の防府市土居八町と推定され、関連遺跡の発掘が進んでいる。",
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] |
周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
|
{{基礎情報 令制国
|国名 = 周防国
|画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|周防国}}
|別称 = 防州(ぼうしゅう)<ref group="注釈">稀に「周州」の表記が用いられる。また、国内の地域区分に関しては「周東」・「周南」と、「防」ではなく「周」を用いることが多い。</ref>・周州(しゅうしゅう)
|所属 = [[山陽道]]
|領域 = [[山口県]]東南半分
|国力 = [[上国]]
|距離 = [[遠国]]
|郡 = 6郡45郷
|国府 = 山口県[[防府市]]([[周防国衙跡]])
|国分寺 = 山口県防府市(周防国分寺跡)
|国分尼寺 = 山口県防府市
|一宮 = [[玉祖神社]](山口県防府市)
}}
'''周防国'''(すおうのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。
== 「周防」の名称 ==
藤原宮([[藤原京]])木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮([[平城京]])木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。
[[7世紀]]に'''周芳'''国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。『[[日本書紀]]』では、[[天武天皇|天武]]10年([[681年]])の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では[[文武天皇]]元年([[697年]])に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。しかし文武天皇4年([[700年]])には周防総領任官の記述<ref name="名前なし-1">続日本紀 巻第一 文武天皇四年 冬十月己未 直広参波多朝臣牟後閉為周防総領</ref>が有るのでどちらも使われていたと思われる<!--ので、周防に変更されたのは[[8世紀]]初頭と推定される-->。
読みは長く「すおう」、[[ハ行転呼]]が起きる前は「すはう」と言われてきた。「周芳」を「すは」と読むか、「すはう」と読むのか定説はない(日本歴史地名体系)。{{要出典|古代の日本語では母音が連続することはないため/sup'''au'''/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すは」と読まれていたと考えられている|date=2018年3月9日 (金) 03:40 (UTC)}}。
== 領域 ==
[[明治維新]]の直前の領域は、[[防府市]]、[[下松市]]、[[岩国市]]、[[光市]]、[[柳井市]]、[[周南市]]、[[大島郡 (山口県)|大島郡]]、[[玖珂郡]]、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]および[[山口市]]の大部分(旧[[阿東町]]を除く)、[[宇部市]]の一部(あすとぴあ・今村北・今村南・亀浦三丁目・亀浦四丁目・床波・西岐波・東岐波)にあたる。
== 沿革 ==
{{multiple image
| direction = vertical
| image1 = Keichō Kuniezu - Suō Province (Ube Bunka Kaikan).jpg
| image2 = Shōhō Kuniezu - Suō Province (Yamaguchi Prefectural Archives).jpg
| image3 = Genroku Kuniezu - Suō Province (Yamaguchi Prefectural Archives).jpg
| image4 = Tenpō Kuniezu - Suō Province (National Archives of Japan).jpg
| caption4 = [[国絵図]] 慶長・正保・元禄・天保
}}
古代には[[大島国造]]([[大島郡 (山口県)|大島郡]])、[[周防国造]]([[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]、[[玖珂郡]])、[[波久岐国造]]([[吉敷郡]])、[[都怒国造]]([[都濃郡]])、[[佐波県主]]([[佐波郡 (山口県)|佐波郡]])が設置された。しかし、波久岐国造は設置時期の伝承や近隣の佐波県主との関係に疑問があり、[[伯耆国造]]の重複記事と見る説もある<ref>[[宝賀寿男]]「三 大和王権の出雲侵攻と吉備氏」『古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族』青垣出版、2016年、77、78頁。</ref>。
その後、これら[[国造]]国と[[県主|県]]が合併されて[[律令国]]として成立し、大島郡、熊毛郡、都濃郡、佐波郡、吉敷郡の五郡からなったが、[[養老 (元号)|養老]]5年([[721年]])に熊毛郡から玖珂郡が分けられ、六郡となった。
7世紀代と考えられているが[[光市]]大和町と田布施町の境にある標高約360メートルの石城山(いわきさん)に山城が築かれた。これが学術用語でいう[[神籠石]](こうごいし)という遺跡である。石城山には[[延喜式]]内社である石城神社が山頂に鎮座しその本殿は国の重要文化財に指定されている。
周防国は中世に入っても勢力の変遷は少なく、執権[[北条氏]]一族の支配から幕府滅亡によって[[大内氏]]の支配が続き、中世末に入って[[毛利氏]]の領国となって[[明治維新]]を迎えた。
=== 近世以降の沿革 ===
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(295村・548,861石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]](本拠地)が所在。
** [[大島郡 (山口県)|大島郡]](21村・35,446石余) - 山口藩、岩国領(山口藩[[陪臣]][[吉川氏]])
** [[玖珂郡]](112村・119,966石余) - 山口藩、'''[[岩国藩|岩国領]]'''
** [[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]](39村・87,846石余) - 山口藩、徳山藩
** [[都濃郡]](47村・103,817石余) - 山口藩、'''[[徳山藩]]'''
** [[佐波郡 (山口県)|佐波郡]](41村・90,192石余) - 山口藩、徳山藩
** [[吉敷郡]](35村・111,591石余) - '''[[長州藩|山口藩]]'''
* [[慶応]]4年[[3月13日]]([[1868年]][[4月5日]]) - 岩国領が立藩して'''[[岩国藩]]'''となる。
* 明治4年
** [[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[1871年]][[8月5日]]) - 徳山藩が廃藩。領地が山口藩の管轄となる。
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[山口県]]'''、'''[[岩国県]]'''の管轄となる。
** [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1871年[[12月26日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''山口県'''の管轄となる。
== 国内の施設 ==
=== 国府 ===
[[ファイル:Suo kokufu.jpg|thumb|250px|周防国府跡(山口県防府市)]]
; [[周防国衙跡]]
[[国府]]は[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]にあった。現在の[[防府市]]土居八町と推定され、関連遺跡の発掘が進んでいる<ref group="注釈">国府は北に多々良山を背に、南は勝間浦にのぞむところで、東西約868メートル、南北約850メートルの区域である。その中央北よりの東西215メートル、南北216メートルの国庁が置かれ、内部には政庁を始め各種の建物が配置されていたと推定される。国衙から、都の朱雀大路のような路が南北に走り、朱雀という小字名も残っており、国府に由来する地名も少なくなく、昔の国府の姿を残し、[[1937年]]([[昭和]]12年)に史跡に指定された。</ref>。
=== 国分寺・国分尼寺 ===
; [[周防国分寺]]
: 防府市国分寺町。
=== 神社 ===
; [[延喜式内社]]
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社10座8社が記載されている。大社はない。[[周防国の式内社一覧]]を参照。
* [[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]] 熊毛神社 - [[熊毛神社]]([[周南市]]呼坂)、[[賀茂神社 (柳井市)|賀茂神社]]([[柳井市]]伊保庄近長)、[[大歳神社 (周南市)|大歳神社]](周南市大字樋ノ口)、[[岩隈八幡宮]]([[岩国市]]周東町祖生)に比定。
* 熊毛郡 [[石城神社]] ([[光市]]塩田石城)
* [[佐波郡 (山口県)|佐波郡]] [[玉祖神社]]二座 (防府市大崎)
* 佐波郡 [[出雲神社 (山口市)|出雲神社]]二座 ([[山口市]][[徳地町|徳地]]堀)
* 佐波郡 御坂神社 - [[三坂神社]](山口市徳地岸見)または[[船路八幡宮]](山口市徳地船路)に比定。
* 佐波郡 [[剣神社 (防府市)|剣神社]] (防府市高井)
* [[吉敷郡]] [[仁壁神社]] (山口市三ノ宮)
* [[都濃郡]] 二俣神社 - [[二俣神社]](周南市大向)、[[周方神社]](周南市長穂)、[[二所山田神社]](周南市鹿野上)に比定。
; [[総社]]・[[一宮]]以下
: 一宮以下五宮が定められ、戦国時代に守護の[[大内氏]]によって保護された。
* 総社 金切神社 - 明治時代に[[佐波神社 (防府市)|佐波神社]]と改称して防府市惣社町に現存している。
* 一宮 '''[[玉祖神社]]'''
* 二宮 [[出雲神社 (山口市)|出雲神社]]
* 三宮 [[仁壁神社]]
* 四宮 [[赤田神社 (山口市)|赤田神社]] (山口市吉敷赤田)
* 五宮 [[朝田神社]] (山口市矢原)
== 地域 ==
=== 郡 ===
*[[大島郡 (山口県)|大島郡]](3郷)
*[[玖珂郡]](10郷)(721年[養老5年]熊毛郡から分立した。)
*[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]](7郷)
*[[都濃郡]](7郷)
*[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]](8郷)
*[[吉敷郡]](10郷)
合計45郷(『[[和名抄]]』)
=== 江戸時代の藩 ===
* [[長州藩]](萩藩、毛利藩)、[[毛利氏|毛利家]](36.9万石、本城は[[長門国]][[萩市|萩]])
* [[岩国藩]](長州藩支藩、3万石→6万石)
* [[下松藩]]→[[徳山藩]](長州藩支藩、4.5万石→3万石→4万石)
== 人物 ==
=== 国司 ===
{{節スタブ}}
==== 周防守 ====
*[[波多氏 (古代)|波多朝臣牟後閉]]:[[文武天皇]]4年([[700年]])任官 <ref name="名前なし-1"/>
*[[穂積小東人]]:[[天平宝字]]3年([[759年]])任官
*[[石川氏人]]:天平宝字8年([[764年]])任官
*[[藤原真野麻呂]]:[[延暦]]18年([[799年]])任官
*[[文室長谷]]:延暦24年([[805年]])任官
*[[石川道成]]:[[弘仁]]元年([[810年]])任官
*[[安倍真直]]:弘仁2年([[811年]])任官
*[[文室正嗣]]:弘仁2年(811年)任官
*[[石上美奈麻呂]]:弘仁3年([[812年]])任官
*[[菅野高世]]:弘仁11年([[820年]])任官
*[[都努福人]]:[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])任官
**[[春澄善縄]]:承和9年([[842年]])任官(権守)
*[[安倍甥麻呂]]:承和14年([[847年]])任官
*[[三統真浄]]:[[仁寿]]3年([[853年]])任官
*[[伴河男]]:[[斉衡]]元年([[854年]])任官
*[[藤原直道]]:[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])任官
*[[多治弟梶]]:貞観3年([[862年]])任官
*[[紀安雄]]:[[元慶]]6年([[882年]])任官
*[[小野当岑]]:[[仁和]]2年([[886年]])任官
*[[清原元輔]]:[[天延]]2年([[974年]])任官
*[[藤原重通 (周防守)|藤原重通]]
*[[源頼親]]
**[[源隆俊]]:[[天喜]]5年([[1057年]])任官(権守)
**[[藤原長房]]:[[治暦]]2年2月8日([[1066年]][[3月6日]])任官(権守)
**藤原長房:[[永保]]4年正月29日([[1084年]][[3月8日]])還任(権守)
==== 周防介 ====
*[[藤原長房]]:[[天喜]]2年2月3日([[1054年]][[3月14日]])任官
**[[源隆俊]]:天喜4年([[1056年]])任官(権介)
===守護===
====鎌倉幕府====
*?〜[[1235年]]([[文暦]]2年)~[[1245年]]([[寛元]]3年)頃 - [[藤原親実]]{{Sfn|今井尭他|1984|loc=§鎌倉幕府守護一覧|p=284}}
*1252年~? - [[長井泰重]]
*1276年~1279年 - [[北条宗頼]]
*1279年~1280年 - [[北条兼時]]
*1281年~? - [[北条師時]]
*1282年~? - [[北条忠時]]
*1284年~1296年 - [[北条実政]]
*1298年~1299年 - [[北条時仲]]
*1300年~1305年 - [[北条時村 (政村流)|北条時村]]
*1305年~? - [[北条熙時]]
*1307年~1319年 - 北条時仲
*1323年~1333年 - [[北条時直]]
==== 室町幕府 ====
*1334年~1351年頃 - [[大内長弘]]
*1351年頃~? - [[大内弘直]]
*1358年~1378年 - [[大内弘世]]
*1378年~1399年 - [[大内義弘]]
*1400年~1401年 - [[大内弘茂]]
*1402年~1431年 - [[大内盛見]]
*?~1433年 - [[大内持盛]]
*1431年~1441年 - [[大内持世]]
*1441年~1465年 - [[大内教弘]]
*1465年~1495年 - [[大内政弘]]
*1495年~1528年 - [[大内義興]]
*1528年~1551年 - [[大内義隆]]
=== 戦国大名 ===
*[[大内氏]]
**[[陶氏]]
*[[毛利氏]]
=== 武家官位としての周防守 ===
*江戸時代以前
**[[塩谷親朝]]
**[[塩谷朝業]]
**[[塩谷盛朝]]
**[[塩谷泰朝]]
**[[島津忠綱]]:[[越前国|越前]][[守護代]]。[[越前島津氏]]祖。
**[[島津忠兼 (播磨家)|島津忠兼]]
**[[島津忠行]]
**[[津田正信]]
**[[仁木頼章]]
**[[松平康親]]
**[[村上義清]]
**[[大内義隆]](周防介):周防・[[長門国|長門]]・[[石見国|石見]]・[[豊前国|豊前]]・[[筑前国|筑前]][[守護]]
*江戸時代[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]主
**[[板倉勝澄]]:初代藩主
**[[板倉勝政]]:第4代藩主
**[[板倉勝晙]]:第5代藩主
**[[板倉勝職]]:第6代藩主
**[[板倉勝静]]:第7代藩主・老中
*江戸時代[[信濃国|信濃]][[小諸藩]]主
**[[牧野康重]]:初代藩主
**[[牧野康陛]]:第4代藩主
**[[牧野康明]]:第7代藩主
**[[牧野康済]]:第10代藩主
*江戸時代[[石見国|石見]][[浜田藩]]主
**[[松平康映]]:初代藩主
**[[松平康宦]]:第2代藩主
**[[松平康員]]:第3代藩主
**[[松平康豊]]:第4代藩主
**[[松平康福]]:第5代藩主、再封初代藩主・老中
**[[松平康定]]:第2代藩主
**[[松平康任]]:第3代藩主・老中
*江戸時代[[常陸国|常陸]][[牛久藩]]主
**[[山口弘豊]]:第4代藩主
**[[山口弘致]]:第8代藩主
**[[山口弘穀]]:第10代藩主
**[[山口弘達]]:第12代藩主
*江戸時代その他
**[[有馬清純]]:[[日向国|日向]][[延岡藩]]主
**[[板倉重冬]]:[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]]主
**[[板倉重宗]]:[[下総国|下総]][[関宿藩]]主
**[[京極高備]]:[[丹後国|丹後]][[峰山藩]]主
**[[土井利益]]:下総[[古河藩]]・[[志摩国|志摩]][[鳥羽藩]]・[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]主
**[[堀親貞]]:信濃[[信濃飯田藩|飯田藩]]主
**[[堀親常]]:飯田藩主
**[[松平康重]]:[[武蔵国|武蔵]][[騎西藩]]・常陸[[笠間藩]]・[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]・[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]主
**[[松平康英]]:[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]・武蔵[[川越藩]]主・老中
**[[水野忠順]]:[[上総国|上総]][[鶴牧藩]]主
**[[村上忠勝]]:[[越後国|越後]][[村上藩]]主
**[[毛利高慶]]:[[豊後国|豊後]][[佐伯藩]]主第6代藩主
**[[毛利高丘]]:佐伯藩主第7代藩主
==周防国の合戦==
* [[1551年]]:[[大寧寺の変]]、[[陶晴賢]] x [[大内義隆]]
* [[1555年]] - [[1557年]] : [[防長経略]]、毛利(毛利元就、[[毛利隆元]]、[[吉川元春]]、[[小早川隆景]]) x 大内([[大内義長]]、[[内藤隆世]]、[[杉隆泰]]、[[山崎興盛]])
* [[1569年]] : [[大内輝弘の乱]]、毛利([[市川経好]]、吉川元春、[[福原貞俊]]他) x [[大内輝弘]]
* [[1864年]] - [[1866年]] : [[長州征討]]、長州藩 x 江戸幕府
== 脚注 ==
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist}}
==参考文献==
*{{Cite book|和書|author=今井尭他|authorlink=今井尭|year=1984|title=日本史総覧|publisher=[[新人物往来社]]|volume=2(古代2/中世 1)|isbn=440401175X|ncid=BN00172373|id={{全国書誌番号|84015835}}|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=「角川日本地名大辞典」編纂委員会編|date=1988.12|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=35 (山口県) |isbn=4040013506|ncid=BN00094881|id={{全国書誌番号|89005550}}|ref=harv}}
*{{Cite web|和書|url=https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param|title=旧高旧領取調帳データベースの検索|publisher = [[国立歴史民俗博物館|大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館]]|accessdate = 2017-01-28 }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Suo Province}}
* [[令制国一覧]]
* [[防府市]]
* [[周防 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。元は[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の戦艦ポベーダ。艦名は周防国に因む。
{{令制国一覧}}
{{周防国の郡}}
{{デフォルトソート:すおうのくに}}
[[Category:日本の旧国名]]
[[Category:山陽道|国すおう]]
[[Category:山口県の歴史]]
[[Category:周防国|*]]
|
2003-09-12T14:43:36Z
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2023-11-16T09:19:52Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E9%98%B2%E5%9B%BD
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16,417 |
千曲市
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千曲市(ちくまし)は、長野県の北部、北信地方の千曲川中流域に位置する人口約6万人の市。
旧・埴科郡戸倉町と更級郡上山田町は全国的に戸倉上山田温泉として知られ、善光寺詣りの精進落としの湯として明治期の開湯から100年余りの歴史を有する名湯の地。
旧・更埴市は、古墳時代には科野国造が置かれた地域と推定され、科野国の豪族の墳墓とされる東日本最大級の前方後円墳である森将軍塚古墳(有明山)を含む埴科古墳群を有する。また、江戸期の善光寺街道最大の宿場町として、また明治期に北信地方随一の商都として栄えた稲荷山宿があり、事実上の北国街道と北国西街道の合流点である。さらに善光寺街道から谷街道(北国街道の脇道松代道)が分岐する交通の要衝であった。現在も長野自動車道と上信越自動車道の合流点である更埴ジャンクションが置かれている。他に江戸期の松代藩により植えられた杏林がある森地区は「あんずの里」として知られ、南の冠着山(別名「姨捨山」)は、古今和歌集(905年序)の和歌にも登場する平安時代からの名勝地で、深沢七郎が楢山節考(1956年)の基とした姨捨伝説の地と伝えられる。
2003年の合併の際、合併特例法の在任特例を使い、合併前市町の議員56名がそのまま残った。この状態に対し、住民グループが疑問を抱き「議会解散の直接請求」を行うための住民投票を行うべく活動を行い、翌2004年5月28日までに有権者の3分の1を上回る19,738人の署名を集め、7月11日に住民投票が行われることが決定したが、6月15日に47名の全議員が辞職して市議会は自主解散、住民投票は中止になった。定数24の出直し市議選は7月18日告示、投票25日で実施された。この事象は後の全国の合併事例に大きな影響を与えた。
市の中央をしなの鉄道線(旧・信越本線)が縦断し、北西部をJR篠ノ井線が通る。
中心となる駅:屋代駅
かつて信越本線の特急「あさま」が戸倉駅にほぼ全列車、屋代駅に約半数停車していたが、1997年の北陸新幹線長野先行開業(長野新幹線)に伴い廃止となり、以後東京から乗り換えなしで市に至る公共交通機関は高速バスのみとなっている。
その他、北陸新幹線が上田駅 - 長野駅間で当市を通過している。旧更埴市当時より同市・戸倉町・上山田町他により新幹線駅「更埴駅」(仮称)を誘致する運動が行われており、2009年から千曲市は同新幹線五里ヶ峰トンネル長野駅方出口より長野自動車道更埴IC付近までの区間内に「新千曲駅」(仮称)を請願駅として建設する計画を構想していた。2017年10月、JR東日本側から「技術的に設置困難」との回答があり、費用も当初予測より高額となることが明らかとなったことから、同年12月、岡田市長は新駅誘致を断念する考えを示した。長野県も了承し、2018年3月をもって各団体も誘致活動を終了する。
(五十音順)
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千曲市(ちくまし)は、長野県の北部、北信地方の千曲川中流域に位置する人口約6万人の市。
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{{日本の市
| 画像 = Togura-Kamiyamada Onsen survey.jpg
| 画像の説明 = [[千曲川]]沿いの[[戸倉上山田温泉]]街<br />{{Maplink2|zoom=9|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=250|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2}}
| 市旗 = [[ファイル:Flag of Chikuma, Nagano.svg|100px|千曲市旗]]
| 市旗の説明 = 千曲[[市町村旗|市旗]]<br />[[2004年]][[2月6日]]制定
| 市章 = [[ファイル:Emblem of Chikuma, Nagano.svg|75px|千曲市章]]
| 市章の説明 = 千曲[[市町村章|市章]]<br />[[2004年]][[2月6日]]制定
| 自治体名 = 千曲市
| 都道府県 = 長野県
| コード = 20218-5
| 隣接自治体 = [[長野市]]、[[上田市]]、[[東筑摩郡]][[麻績村]]、[[筑北村]]、[[埴科郡]][[坂城町]]
| 木 = [[アンズ]]
| 花 = アンズ、[[セツブンソウ]]
| シンボル名 = 他のシンボル
| 鳥など =
| 郵便番号 = 387-0011
| 所在地 = 千曲市大字杭瀬下2丁目1番地<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-20|display=inline,title}}<br />[[File:Chikuma City Office 2020-09 1.jpg|250px]]<br />千曲市役所
| 外部リンク = {{Official website}}
| 位置画像 = {{基礎自治体位置図|20|218|image=基礎自治体位置図 20218.svg|村の色分け=yes}}
| 特記事項 =
}}
'''千曲市'''(ちくまし)は、[[長野県]]の北部、[[北信地方]]の[[信濃川|千曲川]]中流域に位置する人口約6万人の[[市]]。
== 概要 ==
旧・[[埴科郡]][[戸倉町]]と[[更級郡]][[上山田町]]は全国的に[[戸倉上山田温泉]]として知られ、[[善光寺]]詣りの精進落としの湯として[[明治]]期の開湯から100年余りの歴史を有する名湯の地。
旧・[[更埴市]]は、[[古墳時代]]には[[科野国造]]が置かれた地域と推定され、[[信濃国|科野国]]の[[豪族]]の[[墓|墳墓]]とされる[[東日本]]最大級の[[前方後円墳]]である[[埴科古墳群#森将軍塚古墳|森将軍塚古墳]]([[有明山 (千曲市)|有明山]])を含む[[埴科古墳群]]を有する。また、[[江戸時代|江戸期]]の[[善光寺街道]]最大の[[宿場|宿場町]]として、また明治期に[[北信地方]]随一の商都として栄えた[[稲荷山宿]]があり、事実上の[[北国街道 (信越)|北国街道]]と[[北国西街道]]の合流点である。さらに善光寺街道から[[谷街道]](北国街道の脇道松代道)が分岐する交通の要衝であった。現在も[[長野自動車道]]と[[上信越自動車道]]の合流点である[[更埴ジャンクション]]が置かれている。他に江戸期の[[松代藩]]により植えられた[[アンズ|杏]]林がある森地区は「[[あんずの里]]」として知られ、南の[[冠着山]](別名「姨捨山」)は、[[古今和歌集]](905年序)の和歌にも登場する[[平安時代]]からの名勝地で、[[深沢七郎]]が[[楢山節考]](1956年)の基とした[[うばすてやま|姨捨伝説]]の地と伝えられる。
[[2003年]]の合併の際、合併特例法の[[在任特例]]を使い、合併前市町の議員56名がそのまま残った。この状態に対し、住民グループが疑問を抱き「議会解散の直接請求」を行うための住民投票を行うべく活動を行い、翌[[2004年]][[5月28日]]までに有権者の3分の1を上回る19,738人の署名を集め、[[7月11日]]に住民投票が行われることが決定したが、[[6月15日]]に47名の全議員が辞職して市議会は自主解散、住民投票は中止になった。定数24の出直し市議選は7月18日告示、投票25日で実施された。この事象は後の全国の合併事例に大きな影響を与えた。
== 地理 ==
=== 隣接する自治体 ===
* [[長野市]]
* [[上田市]]
* [[東筑摩郡]]:[[麻績村]]、[[筑北村]]
* [[埴科郡]]:[[坂城町]]
== 人口 ==
* [[人口集中地区|DID]]人口比は32.2%(2015年国勢調査)。
{{人口統計|code=20218|name=千曲市|image=Population distribution of Chikuma, Nagano, Japan.svg}}
== 行政 ==
=== 市長 ===
* [[小川修一]]([[2020年]][[11月11日]]就任、1期目)
{| class="wikitable"
!代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考
|-
| 初代 || [[宮坂博敏]] || 2003年10月5日 || 2007年10月4日 || 旧更埴市長
|-
| 2-3代 || [[近藤清一郎]] || 2007年10月5日 || 2012年10月17日 || 病気療養のため任期途中で辞任<ref>[http://www.city.chikuma.nagano.jp/app/b-soumu/k-hisyokouhou/tainin.html 近藤市長が退任]千曲市</ref>
|-
| 4-5代 || [[岡田昭雄]] || 2012年11月11日 || 2020年11月10日 ||
|-
| 6代 || [[小川修一]] || 2020年11月11日 || 現職 ||
|}
=== 警察 ===
;警察署
* [[千曲警察署|長野県千曲警察署]]
;交番
*千曲市屋代駅前交番(千曲市小島)
*千曲市戸倉・上山田交番(千曲市磯部)
;警察官駐在所
*千曲市森・倉科警察官駐在所(千曲市倉科)
*千曲市西部け駐在所(千曲市稲荷山)
=== 消防 ===
;本部
*[[長野地域|千曲坂城消防本部]]
;消防署
*千曲坂城消防本部戸倉上山田消防署
*千曲坂城消防本部更埴消防署
== 議会 ==
=== 千曲市議会 ===
* 定数:20人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/db/reiki/reiki_honbun/r021RG00000008.html|title=○千曲市議会議員定数条例|accessdate=2020年12月1日|publisher=千曲市}}</ref>
* 任期:2020年7月12日 - 2024年7月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2018082800010/|title=選挙の執行状況|publisher=千曲市|accessdate=2021年8月16日}}</ref>
* 議長:和田英幸(2020年8月5日就任)
* 副議長:栁澤眞由美(2020年8月5日就任)
=== 長野県議会 ===
{{Main|2019年長野県議会議員選挙}}
* 選挙区:千曲市・埴科郡選挙区
* 定数:2人
* 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
* 投票日:2019年4月7日
* 当日有権者数:62,854人(千曲市50,464人、[[坂城町]]12,390人)<ref>{{Cite web|和書|date=2019-4-9 |url=https://www.pref.nagano.lg.jp/senkan/kengi2019/documents/toukekka.pdf |title=平成31年4月7日執行長野県議会議員一般選挙 市町村別投票結果確定速報 |publisher=長野県庁 |format=PDF |accessdate=2019-10-20 }}</ref>
* 投票率:47.79%(千曲市46.15%、坂城町54.46%)
{| class="wikitable"
! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数
|-
| 竹内正美 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 52 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 11,381票
|-
| 荒井武志 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 67 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || 10,324票
|-
| [[小川修一]] || style="text-align:center;" | 落 || style="text-align:center" | 51 || 無所属 || style="text-align:center" | 現 || style="text-align:right" | 8,015票
|}
=== 衆議院 ===
* 選挙区:[[長野県第3区|長野3区]]([[上田市]]、[[小諸市]]、[[佐久市]]、千曲市、[[東御市]]、[[南佐久郡]]、[[北佐久郡]]、[[小県郡]]、[[埴科郡]])
* 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
* 投票日:2021年10月31日
* 当日有権者数:399,168人
* 投票率:59.32%
{| class="wikitable"
! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複
|- style="background-color:#ffc0cb"
| align="center" | 当 || [[井出庸生]] || align="center" | 43 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 120,023票 || align="center" | ○
|- style="background-color:#ffdddd;"
| 比当 || [[神津健]] || align="center" | 44 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 新 || 109,179票 || align="center" | ○
|-
| || 池高生 || align="center" | 53 || <small>[[NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で]]</small> || align="center" | 新 || align="right" | 3,722票 || align="center" | ○
|}
== 歴史 ==
<!-- {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2014年9月}}
* [[森将軍塚古墳]]など長野県最古に属し、東日本最大級と言われる[[前方後円墳]]群が築造された。[[4世紀]]後半頃と見られる。
* 市域は古代[[信濃国]]の[[埴科郡]]と[[更級郡]]にまたがり、この両郡分離以前が『シナノのクニ』の原形であったとする説がある。
* [[万葉集]]に市域の[[千曲川]]周辺の歌数首が詠われる。
* [[仁和]][[大水]]において屋代[[条里田]]などが洪水砂層に埋まる。
* [[古今和歌集]]の歌に[[更級]]と[[姨捨山]]、[[月]]が詠み込まれて都人の憧れの地となる。
* 当時[[官社]]とされていた神社名を所載した[[延喜式神名帳]]に波閇科(はべしな)、佐良志奈(さらしな)、治田(はるた)、武水別(たけみずわけ)、粟佐(あわさ)、祝(ほおり)の市内各古社が名を連ねる。
* [[大和物語]]、[[今昔物語集]]に[[棄老伝説]]が紹介され姨捨の地名が全国に広がる。
* [[治承・寿永の乱]](源平合戦)の[[横田河原の戦い]]において[[越後国|越後]]から大軍を率いて進駐した[[城氏 (平氏)|城氏]]を撃退した[[源義仲|木曾義仲]]の出撃地となった。
* [[中先代の乱]]において[[北条氏]]の残党に与する近隣の[[国人領主]]らが[[守護所]]を襲撃した[[青沼合戦]]の戦場となり、八幡河原や磯部河原など市内や近隣各所を戦場にした。
* [[観応の擾乱]]に続く[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の争いが国人領主達を二分し、[[守護]]や[[関東管領]]方とそれに反抗する勢力とが[[生仁城]]など市内や近隣各所を戦場とした。
* [[室町幕府]]から任命された守護が敗れて都へ逃げ帰ることとなった[[大塔合戦]]において[[大文字一揆]]勢の拠点の一角となった。
* [[1543年]]([[天文 (日本)|天文]]12年)千曲川大洪水で船山郷が流失するなど市域や近隣に被害が及んだ。
* 12年にわたる[[川中島]]の戦いにおいて[[武田信玄]]と[[上杉謙信]]が市内や近隣各所をたびたび戦場とした。
* [[1602年]]([[慶長]]7年)千曲川大洪水で黒彦郷が流消分散するなど市域や近隣に被害が広く及んだ。
* [[1614年]]([[慶長]]19年)[[松平忠輝]]配下の海津城主の[[花井吉成]]に宛がい与力分として6千石が与えられた中に桑原村、若宮村、内川村の名が見られる。他に[[更級郡]]の四ツ屋村、二柳村、とふくじ(東福寺)村、今井村、[[水内郡]]のなかごい(中越)村、[[高井郡]]の沼目村が列記されている(花井家文書)
* [[1742年]][[戌の満水]]・寛保の大水とも言われる大洪水で市域や近隣に広く被害が及んだ。
* [[1847年]][[善光寺地震]]で市域を含む北信地域に広く被害が及び[[冠着山]]などでも崩落が多数発生。[[御開帳]]に連れ立って詣でていた若宮の12名が被災全滅した。この八年後に通過した[[清川八郎]]は復旧が進んでいない[[稲荷山宿]]等周辺の様子を「未ださみしき有様」と記録している。
* [[1878年]]長野県内初の銀行が稲荷山町で営業を開始。-->
=== 沿革 ===
[[ファイル:Chikuma city Koshoku branch office.jpg|thumb|千曲市役所更埴庁舎(旧・更埴市役所)]]
* [[2003年]]([[平成]]15年)[[9月1日]] - [[更埴市]]・[[更級郡]][[上山田町]]・[[埴科郡]][[戸倉町]]が合併して発足。市役所は更埴庁舎、戸倉庁舎、上山田庁舎で機能を分散する。
* [[2004年]](平成16年)[[6月15日]] - 合併特例法による在任特例の議会が自主解散。
* 2004年(平成16年)[[7月25日]] - 新定数の議員選出。
* 2019年(令和元年)10月 - [[令和元年東日本台風]](台風19号)の影響で千曲川の水位が過去最高を記録(杭瀬下水位観測所)。[[千曲橋]] - [[平和橋 (長野県)|平和橋]]間の[[霞堤]]から水があふれ、市役所新庁舎を含む<ref>{{Cite news |url=https://www.shinmai.co.jp/feature/typhoon19/article/201910/30024841.html |title=千曲市庁舎の一帯冠水 「霞堤から水が流入」 市長見解 |newspaper=[[信濃毎日新聞]] |publisher=信濃毎日新聞社 |date=2019-10-30 |accessdate=2020-10-26 }}</ref>埴生地区・屋代地区の広範囲にわたって浸水した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2019101700106/ |title=台風19号による水害の状況(埴生・屋代地区) |publisher=千曲市 |date=2019-10-17 |accessdate=2020-10-26 }}</ref>。
== 姉妹都市・提携都市 ==
=== 国内 ===
* [[宇和島市]]([[愛媛県]])
*: 1973年9月更埴市が姉妹都市提携、千曲市の発足に伴い2004年[[4月29日]]、宇和島市の合併に伴い2005年12月5日に改めて提携。
* [[射水市]]([[富山県]])
*: 更埴市が[[新湊市]]と姉妹都市提携、千曲市の発足に伴い2004年4月29日、新湊市の合併による射水市の発足に伴い[[2006年]][[5月23日]]改めて提携。
* [[横芝光町]]([[千葉県]][[山武郡]])
*: [[1996年]]上山田町が[[匝瑳郡]][[光町 (千葉県)|光町]]と姉妹都市提携、千曲市の発足に伴い2004年4月29日、光町の合併による横芝光町の発足に伴い2006年[[11月8日]]改めて提携。
== 産業 ==
=== 千曲市に本社機能を置く主な企業 ===
* [[アピックヤマダ]]
* [[エムケー精工]]
* [[サクラ精機]]
* [[信濃陸送]]
* [[信州観光バス]]
* [[信州ケーブルテレビジョン]]
* [[シンリク観光]]
* [[滝沢食品]]
* [[チヨダエレクトリック(旧 千代田電機工業)]]
* [[長野工業]]
* [[長野電子工業]]
* [[アストロ電気]]
* [[日本ステンレス精工]]
* [[八光]]
* [[ザ・フラットヘッド|フラットヘッド]]
* [[フレックスジャパン]]
* [[丸善食品工業]]
* [[森川産業]]
*メディカルケア
=== 千曲市に主力工場・事業所を置く主な企業 ===
* [[飯島建設]] 千曲支社
* [[オリオン機械]] 更埴工場
* [[花王|花王ロジスティクス]] 更埴ロジスティクスセンター
* [[協和ダンボール]] 長野工場
* [[デイリーはやしや]] 千曲事業所
* [[日酸TANAKA]] 長野工場
* [[日本梱包運輸倉庫]] 長野営業所
* [[日本通運]] 長野支店
* [[日本デルモンテ]] 長野工場
* [[北陸コカ・コーラボトリング]] 更埴ロジスティクスセンター
* [[モリカワ]] 長野事業所
* [[山崎製パン]] 長野営業所
=== かつて存在したホテル ===
* [[信州観光ホテル]]
== 学校 ==
=== 特別支援学校 ===
* [[長野県稲荷山養護学校]]
=== 小学校 ===
* [[千曲市立屋代小学校]]
* [[千曲市立東小学校]]
* [[千曲市立埴生小学校]]
* [[千曲市立治田小学校]]
* [[千曲市立八幡小学校]]
* [[千曲市立戸倉小学校]]
* [[千曲市立更級小学校]]
* [[千曲市立五加小学校]]
* [[千曲市立上山田小学校]]
=== 中学校 ===
* [[千曲市立屋代中学校]]
* [[千曲市立更埴西中学校]]
* [[千曲市立埴生中学校]]
* [[千曲市立戸倉上山田中学校]]
* [[長野県屋代高等学校・附属中学校|長野県屋代高等学校附属中学校]]※中高併設
=== 高等学校 ===
* [[長野県屋代高等学校・附属中学校|長野県屋代高等学校]]※中高併設
* [[長野県屋代南高等学校]]
== 社会教育 ==
=== ホール・集会場 ===
* 千曲市[[更埴文化会館]] [[あんずホール]]
* 千曲市[[上山田文化会館]]
* 千曲市[[戸倉創造館]]
=== 図書館 ===
{{Main|千曲市立図書館}}
* 千曲市立更埴図書館
* 千曲市立戸倉図書館
* 千曲市立更埴西図書館(田毎ふれあい図書館)
* 上山田公民館図書室
* [[屋代駅]]市民ギャラリー図書コーナー(しなの鉄道屋代駅内)
=== 学習施設 ===
* [[千曲市ふれあい情報館]]
=== 博物館・美術館・アートギャラリー ===
* [[長野県立歴史館]]
* [[森将軍塚古墳館]]
* [[アートまちかど]]
* [[更埴文化会館|千曲市更埴文化会館]] 小ホール
* [[千曲市さらしなの里歴史資料館]]
* [[千曲市稲荷山宿・蔵し館]]
* [[千曲市ふる里漫画館]]
* [[屋代駅市民ギャラリー]]
* [[あんずの里板画館]]
* [[にしざわ貯金箱館]]
* [[坂井銘醸ギャラリー昭和蔵]]
* [[ギャラリー ラ・フォレ]]
* [[やじろべえギャラリー]]
* [[アートサロン千曲]]
* [[ギャラリー千曲]]
* [[ギャラリー都ャ]]
* [[山口洋子]][[千曲川展示館]] ‐ 千曲市上山田温泉1-28-2
=== 公民館・観光会館 ===
* [[埴生公民館]]
* 屋代公民館
* 稲荷山公民館
* 八幡公民館
* 戸倉公民館([[戸倉創造館]])
* 上山田公民館
* [[千曲市総合観光会館]]
* [[あんずの里観光会館]]
* [[千曲市日本遺産センター]]([[姨捨観光会館]])
=== 体育施設 ===
;千曲市体育施設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/db/reiki/reiki_honbun/r021RG00000206.html |title=千曲市体育施設条例 |publisher=千曲市 |date=2019-10-01 |accessdate=2020-10-15 }}</ref>
{{Div col}}
* [[千曲市更埴体育館|更埴体育館]](ことぶきアリーナ千曲、杭瀬下二丁目4番地)
* 勤労者体育センター(大字稲荷山2086番地2)
* 東部体育館(大字生萱120番地)
* 桑原体育館(大字桑原1340番地)
* [[千曲市戸倉体育館|戸倉体育館]](大字磯部1406番地1)
* 更埴テニスコート(大字稲荷山2131番地2)
* 東部テニスコート(大字森86番地)
* 千曲市弓道場(大字稲荷山2086番地9)
* 更埴ゲートボール場(大字杭瀬下1255番地3)
* 八幡屋内ゲートボール場(大字八幡3311番地)
* 上山田ゲートボール場(大字新山631番地4)
* 大田原マレットパーク(大字桑原877番地2)
* 戸倉体育館マレットゴルフ場(大字磯部1406番地1)
* さらしなの里マレットパーク(大字羽尾2734番地)
* 萬葉の里スポーツエリアマレットゴルフ場(大字上山田3813番地27先)
* 土口運動広場(大字土口143番地)
* 倉科運動広場(大字倉科1043番地)
* 森運動広場(大字森1348番地1)
* 桑原運動広場(大字桑原16番地)
* 大田原運動広場(大字桑原3458番地1)
* 戸倉体育館Aグラウンド(大字磯部1406番地3)
* 戸倉体育館Bグラウンド(大字磯部1406番地3)
* 千本柳運動場(大字千本柳1417番地1先)
* 萬葉の里スポーツエリア野球場A(大字上山田3813番地27先)
* 萬葉の里スポーツエリア野球場B(大字上山田3813番地27先)
* 萬葉の里スポーツエリア少年野球場(大字上山田3813番地27先)
* 萬葉の里スポーツエリア陸上競技場(大字上山田3813番地27先)
* 萬葉の里スポーツエリアサッカー場(大字上山田3813番地27先)
* 上山田多目的運動場(大字上山田3633番地)
* 戸倉レストハウス(大字磯部1406番地1)
* 千曲市サッカー場(大字磯部1406番地12)
{{Div col end}}
;千曲市都市公園 有料公園施設<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/db/reiki/reiki_honbun/r021RG00000372.html |title=千曲市都市公園条例 |publisher=千曲市 |date=2019-10-01 |accessdate=2020-10-15 }}</ref>
{{Div col}}
* 更埴中央公園市民プール
* 千曲橋緑地グラウンド
* 更埴中央公園グラウンド
* 平和橋緑地グラウンド
* 雨宮緑地グラウンド
* 平和橋緑地ゲートボール場
* 千曲橋緑地マレットゴルフ場
* 平和橋緑地マレットゴルフ場
* 雨宮緑地マレットゴルフ場
* 大西緑地公園野球場
* 大西緑地公園運動場
* 大西緑地公園マレットゴルフ場
* 戸倉千曲川緑地公園マレットゴルフ場
{{Div col end}}
;その他
* 千曲市戸倉上山田つばさ体育館(大字戸倉1948番地)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/db/reiki/reiki_honbun/r021RG00000208.html |title=千曲市戸倉上山田つばさ体育館条例 |publisher=千曲市 |date=2003-09-01 |accessdate=2020-10-15 }}</ref>
* 千曲市科野の里ゲートボール場(大字屋代260番地3)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.chikuma.lg.jp/db/reiki/reiki_honbun/r021RG00000210.html |title=千曲市科野の里ゲートボール場条例 |publisher=千曲市 |date=2019-10-01 |accessdate=2020-10-15 }}</ref>
<gallery>
Chikuma City Office 2020-09 2.jpg|市役所(左)と更埴体育館(ことぶきアリーナ千曲、右)
</gallery>
== 交通 ==
[[ファイル:Yashiro-eki01.JPG|thumb|屋代駅]]
[[ファイル:KoshokuIC.JPG|thumb|更埴IC]]
=== 鉄道 ===
市の中央を[[しなの鉄道線]](旧・[[信越本線]])が縦断し、北西部を[[東日本旅客鉄道|JR]][[篠ノ井線]]が通る。
; 東日本旅客鉄道・篠ノ井線
: [[姨捨駅]] - ([[桑ノ原信号場]])
; しなの鉄道・しなの鉄道線
: [[戸倉駅]] - [[千曲駅]] - [[屋代駅]] - [[屋代高校前駅]]
中心となる駅:屋代駅
かつて[[信越本線]]の特急「[[あさま]]」が戸倉駅にほぼ全列車、屋代駅に約半数停車していたが、[[1997年]]の[[北陸新幹線]]長野先行開業([[長野新幹線]])に伴い廃止となり、以後[[東京]]から乗り換えなしで市に至る[[公共交通機関]]は[[高速バス]]のみとなっている。
その他、[[北陸新幹線]]が[[上田駅]] - [[長野駅]]間で当市を通過している。旧更埴市当時より同市・戸倉町・上山田町他により新幹線駅「更埴駅」(仮称)を誘致する運動が行われており、[[2009年]]から千曲市は同新幹線[[五里ヶ峰トンネル]][[長野駅]]方出口より[[長野自動車道]][[更埴インターチェンジ|更埴IC]]付近までの区間内に「'''新千曲駅'''」(仮称)を[[請願駅]]として建設する計画を構想していた<ref>[http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2014070800024/ 千曲市に新幹線新駅設置の実現を目指して]千曲市</ref><ref>[http://www.city.chikuma.lg.jp/soshiki/sinkansen/other/ 新幹線対策室]千曲市</ref><ref> [https://mainichi.jp/articles/20161101/ddl/k20/010/063000c 選挙 千曲市長選 250票差で岡田氏再選 新幹線新駅誘致を推進 /長野]『毎日新聞』2016年11月1日 長野版</ref>。[[2017年]]10月、JR東日本側から「技術的に設置困難」との回答があり、費用も当初予測より高額となることが明らかとなったことから、同年12月、岡田市長は新駅誘致を断念する考えを示した。長野県も了承し、[[2018年]]3月をもって各団体も誘致活動を終了する。{{Main|北陸新幹線#新駅誘致運動}}
; 過去の鉄道路線
: [[長野電鉄屋代線]](2012年廃止)
: 市内には[[東屋代駅]]と[[雨宮駅]]があった。
=== 路線バス ===
* [[千曲市循環バス]]
* [[千曲市乗合タクシー]]
=== 道路 ===
* [[長野自動車道]]
: [[姨捨サービスエリア|姨捨SA]] - [[更埴インターチェンジ|更埴IC]] - [[更埴ジャンクション|更埴JCT]]
* [[上信越自動車道]]
: [[屋代バスストップ|屋代BS]] - 更埴JCT
* [[国道18号]]
* [[国道403号]]
* [[長野県道55号大町麻績インター千曲線|県道55号大町麻績インター千曲線]]
* [[長野県道77号長野上田線|県道77号長野上田線]]
=== 橋 ===
* [[笄橋]]
* [[万葉橋]]
* [[大正橋 (千曲市)|大正橋]]
* [[冠着橋]]
* [[平和橋 (長野県)|平和橋]]
* [[千曲橋]]
* [[粟佐橋]]
* [[篠ノ井橋]]
== 郵便 ==
{| class="wikitable"
|-
|[[集配郵便局]]|||[[千曲郵便局]]、戸倉郵便局
|-
|無集配郵便局||雨宮郵便局、稲荷山郵便局、上山田温泉郵便局、五加郵便局、更級郵便局、力石郵便局、森郵便局、屋代駅前郵便局、八幡郵便局
|-
|[[簡易郵便局]]||上山田南簡易郵便局、杭瀬下簡易郵便局、倉科簡易郵便局、黒彦団地簡易郵便局、新戸倉温泉簡易郵便局、寂蒔簡易郵便局
|}
== 名所・旧跡・観光スポット ==
[[ファイル:Aratojyo.jpg|thumb|荒砥城]]
[[ファイル:ManyouKouen.jpg|thumb|万葉橋西側の袂にある万葉公園]]
* [[戸倉上山田温泉]]
* [[笹屋ホテル]]
* [[笹屋ホテル|豊年虫]](笹屋ホテル別館、国の[[登録有形文化財]])
* [[坂井銘醸]][[酒蔵コレクション]](主屋と蔵は国の[[登録有形文化財]])[[坂井銘醸ギャラリー昭和蔵]] · 坂井銘醸大正蔵 · 坂井銘醸明治蔵 · 坂井銘醸慶応蔵 · 坂井銘醸寛政蔵 · 坂井銘醸宝暦蔵
* [[智識寺 (千曲市)|智識寺]](十一面観音像は国の[[重要文化財]])
* 見性寺庭園
* [[荒砥城]] ([[城山史跡公園]])
* [[善光寺大本願別院]]
* [[聖山高原県立公園]]
* [[千曲高原]]・[[大池自然の家]]
* [[千曲高原]]・[[大池キャンプ場]]
* 姨捨の景観 (全国お月見ポイント第1位、国の[[名勝]])
** [[冠着山]]
** [[千曲川展望公園]]
** [[姨捨孝子観音]]
*** さらしなの里展望館(孝子観音隣接の見晴らしの良い蕎麦屋さん)
** [[姨捨山|姨捨の]][[棚田]] (国の[[重要文化的景観]](「姨捨の棚田」)、国の[[名勝]](姨捨([[田毎の月]]))、[[棚田百選]]、[[日本三大名月]])
** [[姨捨駅]] ([[日本三大車窓]]、訪れて見たい駅全国第2位)
** [[姨捨サービスエリア]] ([[夜景百選]])
** [[長楽寺 (千曲市)|長楽寺]]
* [[武水別神社]]
** [[松田神官邸]]跡
* [[佐良志奈神社]]
* 岩船地蔵尊
* [[水上布奈山神社]]
* [[戸倉宿キティパーク]]
* [[長泉寺]] (本尊は[[文部省重要美術品]]指定)。[[元亀]]3年[[1572年]]作成と伝わる絵図には「長泉堂」として所載。
* 蛍橋跡 (元蛍の長野県天然記念物指定跡)
* [[稲荷山宿]] (善光寺街道最大の宿場町、「蔵の街」、[[重要伝統的建造物群保存地区]])
* [[桑原宿]]
* [[長雲寺]] ([[愛染明王]]像は国の[[重要文化財]])
* [[雨宮の渡し]]跡
* [[生仁城]]跡
* [[鷲尾城]]跡 ([[倉科将軍塚古墳]])
* [[屋代城]]跡
* 樽岩
* 曽根堂不動滝
* [[霊諍山]](郷土環境保全区域)
* 大雲寺
* [[龍洞院]]庭園
* 山崎氏庭園
* [[あんずの里]] (森地区)
** [[あんずの里アグリパーク]]
** [[あんずの里スケッチパーク]]
** [[あんずの里物産館]]
** [[あんずの里板画館]]
** [[大宮神社]]
** 観龍寺
* [[埴科古墳群]](国の[[史跡]]、科野の里歴史公園)
** [[長野県立歴史館]]
** [[森将軍塚古墳館]]
** [[埴科古墳群#森将軍塚古墳|森将軍塚古墳]](国の史跡「埴科古墳群」に包括)
* [[更埴文化会館]](あんずホール)
== 祭事・催事 ==
* あんずまつり – 森地区を中心に4月初旬の花見、6月下旬から7月上旬の果実の収穫時期に開催。
* 森将軍塚まつり - 1991年の第1回開催より毎年開催。
* 信州千曲市 千曲川納涼煙火大会
* 戸倉上山田温泉夏祭りと大煙火大会
* 信州さらしな おばすて観月祭
* 千曲どんしゃんまつり - (旧[[更埴市]]どんしゃんまつり)1979年の第1回市民祭開催より2010年まで毎年開催、以後休止中。
* 千曲夏祭り - 2011年、千曲どんしゃんまつりの休止を受け第1回開催。屋代駅前通り商店街で開催される夏祭り。
* 千曲市ふれあい広場 - 1984年の第1回[[更埴市]]ふれあい広場(教育問題研究会)開催より毎年開催。
* [[荒砥城]]まつり - 1996年の第1回開催より毎年開催。
* 科野のムラお田植えまつり-森将軍塚古墳館の復元住居群周辺での田植え行事。
* [[牛に引かれて善光寺参り]] ‐ 伝説上の出発地は小諸と長野市内からの2話があるが上山田温泉を宿泊・出発地として善光寺を目指すウオーキングイベントが毎年5月に開催されている。
* 大池の百八灯 - (市の[[無形民俗文化財]])徳川家天領だった大池地区([[大英寺]]領)に伝わる送り盆の行事。初代真田藩主に嫁いだ徳川家康の養女[[小松姫]]を偲ぶ。[[信州新町]]竹房地区にも百八灯の盆行事が伝わるが疫病除けと言われる。
* [[武水別神社|武水別神社の]][[大頭祭]](国の[[選択無形民俗文化財]])
* [[雨宮の御神事]] – 国の[[重要無形民俗文化財]]。3年に1度(4月29日)の[[雨宮坐日吉神社]]の奇祭。橋から万作川に逆さに人を吊るして[[怨霊]]を鎮める。<ref>[http://www.82bunka.or.jp/bunkazai/legend/detail/04/post-11.php 雨宮の神事芸能]八十二文化財団</ref>
* 八幡とんとん - 毎年、八幡の武水別神社で行われる歴史ある仕掛け花火の大祭。
* 屋代ヨイヨイ(お花市)
* 稲荷山祇園祭
* [[森村 (長野県)|森の]][[御柱祭]]([[大宮神社]]春季大祭)
* [[粟狭神社]]の御柱祭
* [[水上布奈山神社]]の御柱祭
* [[古大穴神社]]の御柱祭
* [[智識寺 (千曲市)|智識寺]]春季例大祭
* [[一重山不動尊]]縁日
* [[須須岐水神社 (千曲市)|須須岐水神社]][[茅の輪くぐり]]
* [[佐良志奈神社]]かたくりまつり
* ジャーマンアイリスまつり
* 情報館ふれあいフェスタ
* 千曲川地域ブランドフェア(千曲川マルシェ)
* さらしなの里縄文まつり-[[千曲市さらしなの里歴史資料館]]の復元住居群での古代体験イベント。
== スポーツイベント ==
* おばすてマラソン大会 - 1972年、第1回大会開催(旧[[更埴市]])より毎年開催。
* 千曲川駅伝競争大会 - 2001年、第1回大会開催より毎年開催。
* 千曲川ハーフマラソン - 2015年、第1回大会開催。
* 千曲川ロードレース大会 - 1980年、第1回大会開催(旧[[戸倉町]])より毎年開催。
* ちびっこ選抜ハンドボール大会 - 2009年、第1回大会開催より毎年開催。
* 寿野球全国大会 - 1976年、第1回大会開催(旧[[上山田町]])より毎年開催。
== スポーツチーム ==
* [[信州ブレイブウォリアーズ]]([[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ]])
* [[AC長野パルセイロ]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]])
* [[リベルタス千曲FC]]([[長野県フットボールリーグ]])
== 著名出身者 ==
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* [[海野紀恵]] - [[フリーアナウンサー]]、[[愛媛朝日テレビ]]・[[山梨放送]]の元[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ybs.jp/ana/female/unno/|title=YBSアナウンサー>海野紀恵|author=|publisher=山梨放送|accessdate=2023-01-06}}</ref>
* [[太田信吾]] - [[映画監督]]、[[俳優]]、[[演出家]]
* [[柿崎順一]] - [[芸術家]]、[[現代美術家]]、[[フラワーアーティスト]]、[[俳優]]<ref> {{Cite web|和書|url=http://www.kyuryudo.co.jp/shopdetail/054002000010/|title=書籍情報 柿崎順一作品集 あたらしい生命━揺りかごからの胎動 |author=求龍堂|publisher=足立欣也|accessdate=2018-03-16}}</ref>
* [[近藤日出造]] - [[漫画家]]
* [[酒井麻衣]] - 映画監督、演出家、[[脚本家]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.umic.jp/eigasai/guest.html |title=第21回 うえだ城下町映画祭 |author=|publisher=ゲスト紹介|accessdate=2017-11-18}}</ref>
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* [[南澤道人]] - [[曹洞宗]]大本山[[永平寺]]第80世貫首
* [[山中麗央]] - [[サッカー選手]]<ref>{{Cite press release|和書|url=https://parceiro.co.jp/info/detail/fBLRsOS5vABUPQbMLe2f4HJMYWlQOTB2cnNBS19hYU1lQ00yVllGOFNyN2NvN2ppUnpydUpJM0xvbEk|title=拓殖大学 山中麗央選手 来季加入内定のお知らせ|publisher=AC長野パルセイロ|date=2021.11.13|accessdate=2022-1-13}}</ref>
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== 参考画像 ==
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Mori-shogunzuka2006 1110.JPG|[[埴科古墳群|森将軍塚古墳]]
Zenko-ji Daihongan-betsuin.jpg|善光寺大本願別院
Takemizuwake-jinja.JPG|武水別神社
Sarashina-jinja 1.jpg|佐良志奈神社
Chikuma anzu01.JPG|あんずの里
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長崎駅
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長崎駅(ながさきえき)は、長崎県長崎市尾上町にある九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。
本項では長崎電気軌道(長崎電鉄)の長崎駅前停留場と、近接する日本貨物鉄道(JR貨物)の長崎オフレールステーションについても記述する。
長崎県の県庁所在地長崎市の中心駅であり、西九州新幹線および長崎本線の終着駅である。長崎県内で最も利用者が多い。新幹線「かもめ」や長崎都市圏及び佐世保市など県北地域を結ぶ快速「シーサイドライナー」、普通列車が発着する。当駅の所属は長崎本線であるが、大村線の大半の列車が当駅まで乗り入れを行っている。 かつては本州方面への優等列車が多数運転されていたが、2008年に寝台特急「あかつき」が廃止されて以降は、発着する全ての列車が九州内のみの運転となっている。2013年10月15日より、JR九州のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」が当駅へ乗り入れるようになった。しかし、西九州新幹線が開業してからは乗り入れ先を佐世保駅に変更した。駅前の長崎電鉄の停留所からは路面電車が浜町・銅座などの中心市街地や市内の観光地などを結んでいる。
当駅は長崎県主体のJR長崎本線連続立体交差及び西九州新幹線建設事業を経て、2020年3月28日より新駅舎へ移転・高架化された。
2022年9月23日に西九州新幹線が開業し、日本最西端の新幹線停車駅となった。
1897年(明治30年)、九州鉄道が長崎市内への路線を開通させた際に、「長崎駅」として開設されたのは現在の在来線の隣駅である浦上駅であった。その後、より市街地に近い大黒町への新駅設置と路線延伸が検討され、1905年に路線が市中心部側へ延伸されて現長崎駅が開業し、それまでの長崎駅は浦上駅へと改称された。
大正時代に2代目の駅舎としてドイツ風建築の木造駅舎が建てられた。1915年には長崎電気軌道の開業に伴い、長崎駅前停留場が開設される。 1945年8月の原爆投下により駅舎は焼失し、1949年にステンドグラスを備えた三角屋根が特徴の3代目駅舎が建てられた。1988年には大規模な改装工事が行われたが、老朽化と新駅舎建設のため1999年に取り壊された。
4代目駅舎は2000年に建てられたもので、旧駅舎の三角屋根に代わりドーム状の屋根と多目的広場「かもめ広場」が設けられ、それに併設する形で複合商業ビル「アミュプラザ長崎」「JR九州ホテル長崎」が開業した。高架化前の長い間旅客ホームの線路はすべて車止めが設けられ行き止まりとなっていたが、1930年から1982年までは、当駅から南へ約1.1kmの地点に長崎港駅(ながさきみなとえき)が存在した(通称臨港線)。戦前・戦時中は長崎港へ寄港する日華連絡船へ接続する旅客列車(ボート・トレイン)が乗り入れ、戦後の航路廃止後は貨物列車のみが運行されていたが、1982年に廃止された。
2020年3月27日をもって駅全体が高架化され4代目駅舎は供用を終了し、5代目駅舎の併用を開始した。
長崎市内の踏切による慢性的な渋滞や東西市街地の分断を解消するため、長崎本線の松山町付近から長崎駅までの約2.4 kmの区間の線路を高架化する事業である。幸町・宝町・梁川橋・竹岩橋の4箇所に設置されている踏切が撤去される。
2001年に着工準備が決定したが、新駅舎予定地に存在した長崎車両センターの移転協議が難航した。2007年8月に同センターを早岐駅に隣接するかつての早岐客貨車区の敷地内へ移転させることで決着し、2008年12月に都市計画決定、2010年2月に国の事業認可を受けた。2014年3月15日より車両センターが移転し、車両基地設備や転車台などは2016年までに撤去され、転車台の部品は天竜浜名湖鉄道に譲渡された。長崎本線の線路は2016年3月までに事業区間の全線が仮線路へ切り替えが実施されている。
2020年3月28日に在来線の高架化が行われ、駅は旧駅舎より西側へ150メートル程移転した。新駅舎は1階にコンコース、2階に2面5線のホームをもつ高架駅となった。今後は、2022年度に西九州新幹線の長崎駅舎(2面4線)が併設される。また、現在の幸町踏切付近には10線程度の高架留置線が整備される。事業全体での概算事業費は約430億円。
JR長崎本線連続立体交差事業や西九州新幹線の整備計画に伴い、2008年度に事業認可された長崎駅周辺約19ヘクタールの再開発事業である。
新駅舎の東側・西側にそれぞれ交通広場や多目的広場を整備し、新駅舎の周囲を囲む道路として長崎駅中央通り線・長崎駅西通り線・長崎駅東通り線・尾上町1号線などの道路を整備する。新駅舎周辺では長崎県庁舎・長崎県警察本部庁舎(2018年)、長崎警察署・運転免許センター(2020年)、MICE施設出島メッセ・ヒルトン・長崎放送新社屋(2021年)、長崎県営バスターミナル(2022年)、新駅ビル(2022年 - 2025年)などの開発が予定されており高度に都市化が進む。
また、当駅から1キロメートル程の三菱重工幸町工場跡地ではジャパネットホールディングスによる球技専用スタジアム・アリーナ・商業・ホテルなどの複合施設(「スタジアムシティ」)が、2023年度に開業予定である。
新駅舎と現駅ビルの間のJR敷地内に地上13階建て(高さ60メートル)の商業・オフィス・駐車場・ホテルを含む新駅ビルが建設される。現駅ビルは存続され、新駅舎の高架下部分にも商業施設が整備される。
新駅ビルに併設するホテルはマリオット・インターナショナルのブランドの一つであるマリオットを冠した「長崎マリオットホテル」で、JR九州グループとしては初のインターナショナルブランドのホテル運営となる。 現駅ビル以上の開発となり国際観光都市長崎の新しいランドマークとして博多駅に次ぐ規模となる。
2022年度の新幹線開業と同時に高架下商業施設を開業し、2023年春に新駅ビルの部分開業(商業の一部・駐車場の一部・オフィス)を目指している。2025年度に全体のグランドオープンを予定する。
新幹線は島式ホーム2面4線、在来線は島式ホーム2面5線を有する高架駅。車止め側から見て左側が1番のりばである。4番のりばは5番のりばの浦上寄りを切り欠いた先にあり、他のホームより短い。
在来線ホームの有効長は1,2番線は4両、3番線は6両、4番線は2両、5番線は8両以上である。新幹線ホームの有効長は6両で、可動式安全柵が設置されている。
直営駅でみどりの窓口が設置されており、SUGOCAにも対応している。新幹線、在来線とも終着駅ではあるが、浦上駅などからの新幹線利用客を考慮して、乗換改札口が設置されている。有効な特急券などを所持していれば当駅を経由しない乗車券であっても乗換改札口を通過して新幹線諫早駅方面へ向かうことができる。
地上駅時代のプラットホームは、頭端式ホーム3面5線で跨線橋や構内踏切等の設備はなく、改札口から全てのホームへ平面移動が可能であった。
平成に入り設置された0番のりばを除き有効長が長く取られていたが、これはかつて当駅から本州方面への長距離優等列車(寝台特急「さくら」・「みずほ」・「あかつき」など)が走っていた名残である。2番のりばと3番のりばとの間に中線が1本あり、1982年(昭和57年)頃まで長崎港駅へと通じていた。1・2番のりばの上屋は木製であり、このホームの端(浦上方)に運転取り扱いの建物があった。0番のりばが設置される前は、当駅は島式ホーム2面4線で、1・2番のりばは駅舎と直結し、長崎港駅(1982年廃止)につながる線路に面した3・4番のりばと駅舎は跨線橋で接続されていた。1993年(平成5年)頃にホームを頭端式に変更し、ほどなく跨線橋が廃止され、同時期に0番のりばが増設された。従来線路が延びていた敷地は屋外駐車場へと転用され、のち2000年(平成12年)にアミュプラザ長崎が建設された。
高架化前のホーム西側には複数の側線が引かれ、旅客列車の留置線として使用されていた。2014年(平成26年)3月までは隣接地に長崎車両センターが存在していた。
アミュプラザ前の広場(かもめ広場)はオープンスペースとなっており、各種イベントが行われていた。また長崎ランタンフェスティバル期間中は天井に竜のオブジェ「アミュゴン」が飾られており、さまざまな装飾が施されていた。広場の天井近くには三菱電機製の大型モニター(オーロラビジョン)も設置されていて、JR九州関連のPR映像などが流れていた。
(出典:)
長崎駅前に広がる高架広場の先に停留場がある。停留場は併用軌道区間にあり、ホームは道路上に置かれ、2面のホームが長崎駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う(相対式ホーム)。駅側にあるのが赤迫方面行きのホーム、反対側にあるのが崇福寺・蛍茶屋方面行きのホーム。ホーム長は40メートル余りで、2015年に赤迫停留場のホームが延長されるまでは長崎電鉄で一番長いホームだった。
利用者が多いため、崇福寺・蛍茶屋方面行きのホームは乗車位置が分かれていて、ホーム先端寄りの停止線に3号系統蛍茶屋行き、ホーム中央の停止線に1号系統崇福寺行きが停車する。同ホームでは日本語と英語の自動放送が流れ、この自動放送では長崎西洋館や平和公園など、反対方向の赤迫方面の案内も放送されている。ホームの両端には横断歩道橋が接続し、出入りにはこれを使用する。もともと停留場につながるのはこの歩道橋のみであり、高齢者や大きな荷物を抱える旅行者にとっては使いにくいとされていたが、電停赤迫方面側に新たにバリアフリー対応のエレベーターが建設され、2022年9月20日より使用が開始された。
ホーム中央付近に上り線から下り線への片渡り線があり、市中心部でのイベント開催時など、当停留場始発の臨時便が運転される際に使われる。本線と桜町支線の分岐部は停留場の南にあり、大波止方面に向かう本線が右へ、桜町支線が左へ分岐する2方分岐。戦前は桜町支線と本線大波止方面の間も結ばれ、3方分岐のデルタ線を形成していた。これを利用して1934年から1937年(昭和9年から昭和12年)までは市中心部を環状運転する循環系統が設定されたこともある。循環系統については2000年10月にも試験的に運行され、この時はデルタ線がない代わりに当停留場の片渡り線を使用したが、利用者がそれほど多くなかったため、定着には至っていない。
4号系統の大幅減便による利便性低下を緩和させる事を目的として、2022年9月1日からICカード利用者のみ本停留場での乗り換えが可能となっている。
駅高架下の商業施設の総称であり、54店舗が営業している。全ての店舗でSUGOCAが使用可能である。2022年3月18日にオープンした。延床面積は4,400平方メートル、売場面積は2,200平方メートル。
長崎オフレールステーション(略称:長崎ORS・北緯32度45分20.3秒 東経129度52分4.5秒)は、駅西側(旧長崎車両センターの西隣)にあるJR貨物のコンテナ集配基地である。コンテナ貨物(12フィートコンテナのみ)を取り扱っており、トラック便が当駅と鍋島駅の間で1日に14往復運行されている。
1999年(平成11年)まで、JR貨物長崎駅は貨物列車の発着があったが、定期列車の設定が廃止され自動車代行駅となり、2006年(平成18年)4月より名称をオフレールステーションに変更している。2022年(令和4年)9月23日にはJR貨物の長崎本線鍋島駅 - 長崎駅間における第二種鉄道事業が廃止されたため、鉄道駅における貨物取扱は名実ともに終了し、オフレールステーションのみが存続することとなった。
列車廃止以前は、駅構内に2面のコンテナホームや複数の荷役線を有し、駅南側の埠頭にあった魚市場への線路も存在していた。魚市場から鮮魚を輸送するため、鮮魚貨物列車「ぎんりん」(大阪市場駅行き。同駅廃止後は梅田駅行き)や「とびうお」(東京市場駅行き)なども運行されていた。
魚市場の移転に伴い埠頭の線路はすべて撤去され、コンテナ基地として使用されていないホームは駐車場に転用されていたが、新駅舎建設及び再整備事業により、2016年現在更地となっている。
2023年5月時点で、『長崎街道かもめ市場』内にあるファミリーマートJR長崎駅店、チャイデリカ長崎駅店、いろり家で販売されている。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には長崎駅の駅弁の掲載は無い。
販売されている駅弁は下記の通り。
2017年当時の主な駅弁は下記の通り。
長崎駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。
長崎駅の前を並行して通っている国道202号の長崎駅前交差点は、長崎県で一番の交通量である。長崎駅前交差点には歩道橋が3つ架設されており、これらは駅前駐車場上の高架広場に接続されている。
国道をはさんで、長崎県営バス・九州急行バスなどの始発地点、および主要路線経由地点となる長崎駅前交通会館(長崎県営バスターミナル)がある(歩道橋から直接2階へ入れる)。また、駅前高架広場下には長崎バス・長崎県営バスの長崎駅前バス停がある。ロータリー内にもバス停が設置されている。
高架橋広場は、一部が周辺施設2階入り口(交通会館、アミュプラザ長崎など)へと繋がっている。また、車椅子利用者が横断できるよう、エレベーターが設置されている。
2021年11月1日に開業した施設
2022年3月18日に長崎駅内に開業した施設
駅前の国道向かい側にある長崎県交通産業会館(通称・交通会館)の1階に長崎県交通局(長崎県営バス)の高速バスターミナルがあり、長崎発の高速バス路線の大半はここを始発とする。長崎空港行きリムジンバス浦上・住吉/長大東門前経由(全便当ターミナル始発)・ながさき出島道路経由長崎空港行き(長崎県交通局・長崎自動車(長崎バス)共同運行・全便ココウォーク茂里町バスセンター始発)も当ターミナルへ乗り入れる。
長崎バス関連の夜行高速バスはココウォーク茂里町が始発となっており、当ターミナルには乗り入れず長崎駅前南口バス停での乗車となる。九州号は「出島道路経由」の長崎到着便は降車場所がターミナル内ではなく、国道沿いの長崎駅前高架下である。
経由地等については各系統の記事を参照のこと。
一般路線バス(長崎県交通局・長崎自動車)は駅前高架広場下の長崎駅前バス停、駅東口交通広場ロータリー内の長崎駅前(交通広場)バス停、駅西口広場の長崎駅西口バス停、ホテルニュー長崎前の長崎駅前南口バス停(大波止方面)、ローソン前の長崎駅前東口バス停(市役所前方面)と複数が存在する。北部・西部方面は高架広場下長崎駅前バス停に停車する。なお、大波止方面からの便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎側)にも停車する。中心部・南部・東部方面行きの大波止経由便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎向かい側)、市役所前経由便は長崎駅前東口バス停に停車する。行き先によって停車する場所が異なる。ながさき出島道路・長崎自動車道を経由して大村や諫早へ向かう高速シャトルバス(長崎県交通局)は、交通会館ではなく、長崎駅前東口バス停始発である。
高架広場の工事により現在は北部側へ仮移設されている。
長崎駅東口(かもめ口)の駅前広場に設置。
降車専用のバス停のため、乗車はできない。
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"text": "2022年度の新幹線開業と同時に高架下商業施設を開業し、2023年春に新駅ビルの部分開業(商業の一部・駐車場の一部・オフィス)を目指している。2025年度に全体のグランドオープンを予定する。",
"title": "駅舎移転高架化と再開発"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "新幹線は島式ホーム2面4線、在来線は島式ホーム2面5線を有する高架駅。車止め側から見て左側が1番のりばである。4番のりばは5番のりばの浦上寄りを切り欠いた先にあり、他のホームより短い。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "在来線ホームの有効長は1,2番線は4両、3番線は6両、4番線は2両、5番線は8両以上である。新幹線ホームの有効長は6両で、可動式安全柵が設置されている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "直営駅でみどりの窓口が設置されており、SUGOCAにも対応している。新幹線、在来線とも終着駅ではあるが、浦上駅などからの新幹線利用客を考慮して、乗換改札口が設置されている。有効な特急券などを所持していれば当駅を経由しない乗車券であっても乗換改札口を通過して新幹線諫早駅方面へ向かうことができる。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "地上駅時代のプラットホームは、頭端式ホーム3面5線で跨線橋や構内踏切等の設備はなく、改札口から全てのホームへ平面移動が可能であった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "平成に入り設置された0番のりばを除き有効長が長く取られていたが、これはかつて当駅から本州方面への長距離優等列車(寝台特急「さくら」・「みずほ」・「あかつき」など)が走っていた名残である。2番のりばと3番のりばとの間に中線が1本あり、1982年(昭和57年)頃まで長崎港駅へと通じていた。1・2番のりばの上屋は木製であり、このホームの端(浦上方)に運転取り扱いの建物があった。0番のりばが設置される前は、当駅は島式ホーム2面4線で、1・2番のりばは駅舎と直結し、長崎港駅(1982年廃止)につながる線路に面した3・4番のりばと駅舎は跨線橋で接続されていた。1993年(平成5年)頃にホームを頭端式に変更し、ほどなく跨線橋が廃止され、同時期に0番のりばが増設された。従来線路が延びていた敷地は屋外駐車場へと転用され、のち2000年(平成12年)にアミュプラザ長崎が建設された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "高架化前のホーム西側には複数の側線が引かれ、旅客列車の留置線として使用されていた。2014年(平成26年)3月までは隣接地に長崎車両センターが存在していた。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アミュプラザ前の広場(かもめ広場)はオープンスペースとなっており、各種イベントが行われていた。また長崎ランタンフェスティバル期間中は天井に竜のオブジェ「アミュゴン」が飾られており、さまざまな装飾が施されていた。広場の天井近くには三菱電機製の大型モニター(オーロラビジョン)も設置されていて、JR九州関連のPR映像などが流れていた。",
"title": "駅構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "(出典:)",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "長崎駅前に広がる高架広場の先に停留場がある。停留場は併用軌道区間にあり、ホームは道路上に置かれ、2面のホームが長崎駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う(相対式ホーム)。駅側にあるのが赤迫方面行きのホーム、反対側にあるのが崇福寺・蛍茶屋方面行きのホーム。ホーム長は40メートル余りで、2015年に赤迫停留場のホームが延長されるまでは長崎電鉄で一番長いホームだった。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "利用者が多いため、崇福寺・蛍茶屋方面行きのホームは乗車位置が分かれていて、ホーム先端寄りの停止線に3号系統蛍茶屋行き、ホーム中央の停止線に1号系統崇福寺行きが停車する。同ホームでは日本語と英語の自動放送が流れ、この自動放送では長崎西洋館や平和公園など、反対方向の赤迫方面の案内も放送されている。ホームの両端には横断歩道橋が接続し、出入りにはこれを使用する。もともと停留場につながるのはこの歩道橋のみであり、高齢者や大きな荷物を抱える旅行者にとっては使いにくいとされていたが、電停赤迫方面側に新たにバリアフリー対応のエレベーターが建設され、2022年9月20日より使用が開始された。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ホーム中央付近に上り線から下り線への片渡り線があり、市中心部でのイベント開催時など、当停留場始発の臨時便が運転される際に使われる。本線と桜町支線の分岐部は停留場の南にあり、大波止方面に向かう本線が右へ、桜町支線が左へ分岐する2方分岐。戦前は桜町支線と本線大波止方面の間も結ばれ、3方分岐のデルタ線を形成していた。これを利用して1934年から1937年(昭和9年から昭和12年)までは市中心部を環状運転する循環系統が設定されたこともある。循環系統については2000年10月にも試験的に運行され、この時はデルタ線がない代わりに当停留場の片渡り線を使用したが、利用者がそれほど多くなかったため、定着には至っていない。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "4号系統の大幅減便による利便性低下を緩和させる事を目的として、2022年9月1日からICカード利用者のみ本停留場での乗り換えが可能となっている。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "駅高架下の商業施設の総称であり、54店舗が営業している。全ての店舗でSUGOCAが使用可能である。2022年3月18日にオープンした。延床面積は4,400平方メートル、売場面積は2,200平方メートル。",
"title": "駅構造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "長崎オフレールステーション(略称:長崎ORS・北緯32度45分20.3秒 東経129度52分4.5秒)は、駅西側(旧長崎車両センターの西隣)にあるJR貨物のコンテナ集配基地である。コンテナ貨物(12フィートコンテナのみ)を取り扱っており、トラック便が当駅と鍋島駅の間で1日に14往復運行されている。",
"title": "長崎オフレールステーション"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1999年(平成11年)まで、JR貨物長崎駅は貨物列車の発着があったが、定期列車の設定が廃止され自動車代行駅となり、2006年(平成18年)4月より名称をオフレールステーションに変更している。2022年(令和4年)9月23日にはJR貨物の長崎本線鍋島駅 - 長崎駅間における第二種鉄道事業が廃止されたため、鉄道駅における貨物取扱は名実ともに終了し、オフレールステーションのみが存続することとなった。",
"title": "長崎オフレールステーション"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "列車廃止以前は、駅構内に2面のコンテナホームや複数の荷役線を有し、駅南側の埠頭にあった魚市場への線路も存在していた。魚市場から鮮魚を輸送するため、鮮魚貨物列車「ぎんりん」(大阪市場駅行き。同駅廃止後は梅田駅行き)や「とびうお」(東京市場駅行き)なども運行されていた。",
"title": "長崎オフレールステーション"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "魚市場の移転に伴い埠頭の線路はすべて撤去され、コンテナ基地として使用されていないホームは駐車場に転用されていたが、新駅舎建設及び再整備事業により、2016年現在更地となっている。",
"title": "長崎オフレールステーション"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2023年5月時点で、『長崎街道かもめ市場』内にあるファミリーマートJR長崎駅店、チャイデリカ長崎駅店、いろり家で販売されている。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には長崎駅の駅弁の掲載は無い。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "販売されている駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2017年当時の主な駅弁は下記の通り。",
"title": "駅弁"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "長崎駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "長崎駅の前を並行して通っている国道202号の長崎駅前交差点は、長崎県で一番の交通量である。長崎駅前交差点には歩道橋が3つ架設されており、これらは駅前駐車場上の高架広場に接続されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "国道をはさんで、長崎県営バス・九州急行バスなどの始発地点、および主要路線経由地点となる長崎駅前交通会館(長崎県営バスターミナル)がある(歩道橋から直接2階へ入れる)。また、駅前高架広場下には長崎バス・長崎県営バスの長崎駅前バス停がある。ロータリー内にもバス停が設置されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "高架橋広場は、一部が周辺施設2階入り口(交通会館、アミュプラザ長崎など)へと繋がっている。また、車椅子利用者が横断できるよう、エレベーターが設置されている。",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2021年11月1日に開業した施設",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2022年3月18日に長崎駅内に開業した施設",
"title": "駅周辺"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "駅前の国道向かい側にある長崎県交通産業会館(通称・交通会館)の1階に長崎県交通局(長崎県営バス)の高速バスターミナルがあり、長崎発の高速バス路線の大半はここを始発とする。長崎空港行きリムジンバス浦上・住吉/長大東門前経由(全便当ターミナル始発)・ながさき出島道路経由長崎空港行き(長崎県交通局・長崎自動車(長崎バス)共同運行・全便ココウォーク茂里町バスセンター始発)も当ターミナルへ乗り入れる。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "長崎バス関連の夜行高速バスはココウォーク茂里町が始発となっており、当ターミナルには乗り入れず長崎駅前南口バス停での乗車となる。九州号は「出島道路経由」の長崎到着便は降車場所がターミナル内ではなく、国道沿いの長崎駅前高架下である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "経由地等については各系統の記事を参照のこと。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "一般路線バス(長崎県交通局・長崎自動車)は駅前高架広場下の長崎駅前バス停、駅東口交通広場ロータリー内の長崎駅前(交通広場)バス停、駅西口広場の長崎駅西口バス停、ホテルニュー長崎前の長崎駅前南口バス停(大波止方面)、ローソン前の長崎駅前東口バス停(市役所前方面)と複数が存在する。北部・西部方面は高架広場下長崎駅前バス停に停車する。なお、大波止方面からの便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎側)にも停車する。中心部・南部・東部方面行きの大波止経由便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎向かい側)、市役所前経由便は長崎駅前東口バス停に停車する。行き先によって停車する場所が異なる。ながさき出島道路・長崎自動車道を経由して大村や諫早へ向かう高速シャトルバス(長崎県交通局)は、交通会館ではなく、長崎駅前東口バス停始発である。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "高架広場の工事により現在は北部側へ仮移設されている。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "長崎駅東口(かもめ口)の駅前広場に設置。",
"title": "バス路線"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "降車専用のバス停のため、乗車はできない。",
"title": "バス路線"
}
] |
長崎駅(ながさきえき)は、長崎県長崎市尾上町にある九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。 本項では長崎電気軌道(長崎電鉄)の長崎駅前停留場と、近接する日本貨物鉄道(JR貨物)の長崎オフレールステーションについても記述する。
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{{Otheruses|1905年に開業した2代目の長崎駅|同年まで長崎駅を名乗っていた初代の駅|浦上駅|[[高知県]][[高知市]]にあるとさでん交通の停留場|長崎停留場|その他の長崎駅・長崎停留場|長崎駅 (曖昧さ回避)}}
{{駅情報
|社色 =
|文字色 =
|駅名 = 長崎駅
|画像 = Nagasaki Station 20200407 03.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 5代目駅舎(2020年4月)
|地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center
|type=point|type2=point|type3=point|marker=rail|marker2=rail-light|marker3=rail|coord={{coord|32|45|9.9|N|129|52|8.6|E}}|marker-color=ff0000|title=JR 長崎駅
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|frame-latitude=32.753811|frame-longitude=129.869708}}
|よみがな = ながさき
|ローマ字 = Nagasaki
|所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州・[[#JR九州|駅詳細]])<br />[[長崎電気軌道]](長崎電鉄・[[#長崎電気軌道|駅詳細]])
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]尾上町
}}
{{座標一覧}}
'''長崎駅'''(ながさきえき)は、[[長崎県]][[長崎市]]尾上町にある[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[鉄道駅|駅]]である。
本項では[[長崎電気軌道]](長崎電鉄)の'''長崎駅前停留場'''と、近接する[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の'''[[#長崎オフレールステーション|長崎オフレールステーション]]'''についても記述する。
== 概要 ==
長崎県の県庁所在地[[長崎市]]の中心駅であり、[[西九州新幹線]]および[[長崎本線]]の[[終着駅]]である。長崎県内で最も利用者が多い。[[新幹線]]「[[かもめ (列車)|かもめ]]」や[[長崎都市圏]]及び[[佐世保市]]など県北地域を結ぶ[[快速列車|快速]]「シーサイドライナー」、[[普通列車]]が発着する。当駅の所属は[[長崎本線]]であるが、[[大村線]]の大半の列車が当駅まで乗り入れを行っている。
かつては[[本州]]方面への[[優等列車]]が多数運転されていたが、[[2008年]]に[[寝台列車|寝台特急]]「[[あかつき (列車)|あかつき]]」が廃止されて以降は、発着する全ての列車が九州内のみの運転となっている。[[2013年]][[10月15日]]より、JR九州の[[寝台列車|クルーズトレイン]]「[[ななつ星 in 九州]]」が当駅へ乗り入れるようになった。しかし、西九州新幹線が開業してからは乗り入れ先を佐世保駅に変更した。駅前の長崎電鉄の停留所からは[[路面電車]]が[[浜町 (長崎市)|浜町]]・[[銅座]]などの[[中心市街地]]や市内の観光地などを結んでいる。
当駅は[[長崎県]]主体のJR長崎本線連続立体交差及び西九州新幹線建設事業を経て、[[2020年]][[3月28日]]より新駅舎へ移転・高架化された<ref name="JR九州ダイヤ改正2020">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|title=新型車両を投入し、通勤・通学をより快適にします ダイヤをよりわかりやすく利用しやすくします|date=2019-12-13|accessdate=2020-02-06|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|page=4<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191224235633/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|archivedate=2019-12-24 -->}}</ref><ref name="長崎県連立">{{Cite press release|和書|title=JR長崎本線(長崎駅から浦上駅間)の高架化について |url=https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/418010/ |publisher=長崎県都市政策課 |date=2019-12-13 |accessdate=2019-12-13}}</ref><ref name="nagasaki20200328">{{Cite news|和書|url=https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200329024212/https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844|archivedate=2020-03-29 -->|title=JR 新「長崎駅」開業 高架化、踏切4カ所廃止 長崎-浦上両駅 新型コロナで式典で中止|agency=[[長崎新聞社]]|newspaper=[[nordot]]|date=2020-03-29|accessdate=2020-03-29}}</ref>。
[[2022年]][[9月23日]]に[[西九州新幹線]]が開業し、日本最西端の新幹線停車駅となった<ref>{{Cite news |和書|title=市民も無意識だったけど…JR「最西端の新幹線駅」川内→長崎に 西九州新幹線開業で明け渡す |url=https://373news.com/_news/storyid/163362/ |newspaper=南日本新聞 |access-date=2022-09-26 |date=2022-09-26}}</ref>。
== 歴史 ==
[[1897年]](明治30年)、[[九州鉄道]]が長崎市内への路線を開通させた際に、「長崎駅」として開設されたのは現在の[[在来線]]の隣駅である[[浦上駅]]であった<ref name="mainichi-np-2015-4-6">{{Cite news |和書|title=JR長崎駅:開業110年記念 「485系かもめ」限定運行 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2015年4月6日 |author=竹内麻子 |publisher=[[毎日新聞社]]}}</ref>。その後、より市街地に近い大黒町への新駅設置と路線延伸が検討され、[[1905年]]に路線が市中心部側へ延伸されて現長崎駅が開業し、それまでの長崎駅は浦上駅へと改称された{{Sfn|長崎文化|p=57}}。
[[大正時代]]に2代目の駅舎として[[ドイツ]]風建築の木造駅舎が建てられた。[[1915年]]には長崎電気軌道の開業に伴い、長崎駅前停留場が開設される。
[[1945年]]8月の[[長崎市への原子爆弾投下|原爆投下]]により駅舎は焼失し、[[1949年]]に[[ステンドグラス]]を備えた三角屋根が特徴の3代目駅舎が建てられた。1988年には大規模な改装工事が行われたが{{Sfn|鉄道ジャーナル|1989|p=55}}、老朽化と新駅舎建設のため[[1999年]]に取り壊された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nagasakicitylegacy.info/heritage/1822/ |title=長崎駅2代目駅舎 |accessdate=2017-08-07 |publisher=長崎都市遺産研究会}}</ref>。
4代目[[駅舎]]は[[2000年]]に建てられたもので、旧駅舎の三角屋根に代わりドーム状の屋根と多目的広場「かもめ広場」が設けられ、それに併設する形で[[複合商業施設|複合商業ビル]]「[[アミュプラザ長崎]]」「[[JR九州ホテルズ|JR九州ホテル長崎]]」が開業した{{Sfn|鉄道ジャーナル|2000|p=95}}。高架化前の長い間旅客ホームの線路はすべて[[車止め]]が設けられ行き止まりとなっていたが、[[1930年]]から[[1982年]]までは、当駅から南へ約1.1kmの地点に[[長崎港駅]](ながさきみなとえき)が存在した(通称臨港線)。戦前・戦時中は[[長崎港]]へ寄港する[[日華連絡船]]へ接続する旅客列車([[ボート・トレイン]])が乗り入れ、戦後の航路廃止後は貨物列車のみが運行されていたが、1982年に廃止された{{Sfn|新市史四巻|p=422}}{{Sfn|鉄輪|p=226}}。
[[2020年]][[3月27日]]をもって駅全体が高架化され4代目駅舎は供用を終了し<ref name="JR九州ダイヤ改正2020" /><ref name="長崎県連立" />、5代目駅舎の併用を開始した。
=== 明治・大正時代 ===
[[ファイル:Nagasaki_Station.jpg|thumb|明治{{~}}大正時代の長崎駅前(手彩色絵葉書)]]
[[ファイル:Nagasaki Station photo.jpg|thumb|2代目駅舎(大正時代)]]
[[ファイル:Nagasaki Station in Taisho and Pre-war Showa eras.JPG|thumb|大正{{~}}昭和初期の駅構内]]
* [[1904年]]([[明治]]37年)[[11月16日]]:[[長崎港]]の埋め立て工事(第2期港湾改良工事)が完成し、台場町など24町が新設される。
* [[1905年]](明治38年)
** 2月:浦上から台場町まで1[[マイル]]の臨港路線が延長され、その終点に仮駅舎が設置される。
*** 埋め立て工事の完成と[[日露戦争]]勃発による軍事物資の輸送の必要性が生じたため。
** [[4月5日]]:[[九州鉄道]]の駅として開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|editor=石野哲|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-09-19|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=716}}</ref>。台場町の仮駅舎が「'''長崎駅'''」となり、浦上にあった従来の長崎駅が[[浦上駅]]に改称{{R|停車場}}。
* [[1907年]](明治40年)[[7月1日]]:九州鉄道の国有化により[[帝国鉄道庁]](九州帝国鉄道)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1911年]]([[大正]]元年)[[10月21日]]:2代目の駅舎が完成。駅舎は[[コテージ]]式2階建てで、2階は[[貴賓室]]にあてられた。
* [[1915年]](大正4年)[[11月16日]]:長崎電気軌道が[[大学病院停留場|病院下]] - [[新地中華街停留場|築町]]間で開通{{Sfn|100年史|p=129}}{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=87}}、長崎駅前停留場開業{{Sfn|今尾|2009|p=57}}。
* [[1919年]](大正8年)[[12月25日]]:当停留場から[[桜町停留場|桜町]]までの区間が開通{{Sfn|100年史|p=129}}。
* [[1922年]](大正11年)[[11月1日]]:一等駅に昇格。
=== 昭和時代 ===
[[ファイル:Nagasaki Station.1975.3.jpg|thumb|長崎駅周辺の空中写真(1975年3月撮影)<br />{{国土航空写真}}]]
* [[1930年]]([[昭和]]5年)
** [[3月19日]]:長崎駅 - 長崎港駅間が開通。
** [[10月1日]]:長崎線に準特急が導入され、東京・長崎間が21時間に短縮される。
* [[1931年]](昭和6年):駅舎2階の貴賓室を廃止し、食堂を開業。
* [[1942年]](昭和17年)
** [[9月12日]]:鉄道局長崎管理部が発足。
** [[11月15日]]:[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]が開通し、特急「[[富士 (列車)|富士]]」が長崎に乗り入れる(長崎 - 東京間の直通列車)。
* [[1945年]](昭和20年)
** [[4月26日]]:午前11時、空襲により長崎駅2番ホームに停車中の列車に直撃弾命中、死者90名。駅本屋半壊被災。
** [[8月9日]]:[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]により、駅本屋残部分全焼。爆心地に近い大橋鉄橋から長崎駅の間の路線が不通となる。
** [[8月10日]]:復旧工事を開始。
** [[8月11日]]:復旧工事が完成。午後10時15分長崎駅発の終列車から運行を再開。
* [[1949年]](昭和24年)[[5月25日]]:3代目駅舎完成{{Sfn|原爆遺構|p=152}}。
* [[1950年]](昭和25年)
** 6月:駅前広場の拡張により、長崎駅前停留場が東へ36メートル移設{{Sfn|田栗|2005|p=35}}{{Sfn|100年史|p=128}}。
** [[7月31日]]:機構改革により、国鉄長崎管理部が廃止される。
* [[1958年]](昭和33年)[[8月1日]]:長崎 - [[博多駅|博多]]間日帰り[[気動車|ディーゼル・カー]]の運転が開始される。
* [[1959年]](昭和34年)
** [[7月21日]]:特急「[[さくら (列車)|さくら]]」が長崎に乗り入れを開始し、長崎 - 東京間を20時間で結ぶ。
** 8月:2階建ての団体待合室(500名収容可能)が完成。
* [[1960年]](昭和35年)[[8月1日]]:国鉄西部支社長崎出張所が設置される。
* [[1961年]](昭和36年)[[10月1日]]:長崎 - [[京都駅|京都]]間に特急「[[かもめ (列車)|かもめ]]」、長崎 - [[熊本駅|熊本]]間に準急「ちくご」が乗り入れを開始。
* [[1963年]](昭和38年)[[12月22日]]:長崎駅前に[[長崎県交通局]]本局庁舎及びバスターミナル(長崎交通産業会館ビル)が完成。
* [[1966年]](昭和41年)[[2月7日]]:交通ラッシュ解決のため、県下で初めての[[横断歩道橋]]が長崎駅前に完成。
* [[1967年]](昭和42年)[[12月19日]]:長崎駅前に2つ目の横断歩道橋が完成。
* [[1969年]](昭和44年)
** 4月:長崎駅前停留場を再度移設{{Sfn|100年史|p=128}}{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=56}}。
** 6月:全国で初めて駅前高架広場が完成。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[7月23日]]から[[7月24日|24日]]:[[長崎大水害]]で駅舎が浸水する。
** [[11月14日]]:長崎駅 - 長崎港駅間がこの日限りで廃止{{Sfn|新市史四巻|p=422}}{{Sfn|鉄輪|p=226}}。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:[[鮮魚貨物列車]]「ぎんりん」、[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]化。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、九州旅客鉄道(JR九州)と日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1988年]](昭和63年)11月:駅新装開業。
=== 平成・令和時代 ===
[[ファイル:JRKyushu NagasakiStation 199208.jpg|thumb|3代目駅舎(1992年8月)]]
[[ファイル:Nagasaki Station Nagasaki Japan01n.jpg|thumb|4代目駅舎(2011年12月)]]
* [[1998年]]([[平成]]10年)
** 4月1日:鮮魚コンテナ貨物列車廃止{{Sfn|鉄道ジャーナル|1998|p=107}}。
** [[5月15日]]:駅舎改築のため、仮駅舎に移転<ref>{{Cite news |和書|title=長崎駅を建て替え JR九州 15日から仮駅舎で営業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-05-06 |page=1 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** [[3月30日]]:長崎駅前停留場を改築{{Sfn|田栗|2005|p=156}}。
** 7月1日:貨物列車発着廃止、トラック便運転開始。
* [[2000年]](平成12年)[[9月21日]]:4代目駅舎完成。
* [[2001年]](平成13年)[[9月1日]]:長崎駅前停留場に行先案内放送装置を設置{{Sfn|田栗|2005|p=156}}。
* [[2002年]](平成14年)10月:JR九州が長崎県内の駅で初となる[[自動改札機]]を導入。
* [[2006年]](平成18年)4月1日:長崎オフレールステーション開設。
* [[2012年]](平成24年)[[12月1日]]:当駅を含む[[SUGOCA#利用可能エリア(JR九州)|長崎地区]]19駅にSUGOCAを導入<ref>{{Cite news |和書|newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1 |date=2012-12-04 }}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)[[10月15日]]:豪華寝台特急列車「ななつ星 in 九州」乗り入れ開始。
* [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:当駅西側の長崎車両センター([[車両基地]])が、在来線高架化及び新幹線用地のため[[佐世保線]][[早岐駅]]構内へ移転。
* [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:当駅構内幸町踏切から浦上駅間の上下線が、連続立体交差事業により仮線路へ切り替え。
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月28日]]:JRの駅が高架化される<ref name="JR九州ダイヤ改正2020" /><ref name="長崎県連立" /><ref name="nagasaki20200328"/>。
* [[2022年]](令和4年)
** [[3月18日]]:高架下商業施設「長崎街道かもめ市場」が開業<ref>{{Cite press release|和書|url=https://amu-n.co.jp/nagasakikaidokamomeichiba/assets/pdf/220215newsrelease.pdf<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220227112816/https://amu-n.co.jp/nagasakikaidokamomeichiba/assets/pdf/220215newsrelease.pdf|archivedate=2022-02-27 -->|format=PDF|language=日本語|title=長崎駅改札前 「長崎街道かもめ市場」 商業施設として “長崎初” となる本格横丁 『かもめ横丁』|publisher=JR長崎シティ|date=2022-02-15|accessdate=2022-02-27}}</ref><ref>{{Cite news|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20220318-OYTNT50073/<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220321032632/https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20220318-OYTNT50073/|archivedate=2022-03-21 -->|title=長崎自慢の味集結「かもめ市場」開業…長崎駅|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2022-03-18|accessdate=2022-03-21}}</ref>。
** [[9月20日]]:長崎駅前停留場に[[エレベーター]]を設置<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/574166/index.html<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220920204738/https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/574166/index.html|archivedate=2022-09-20 -->|language=日本語|title=一般国道202号歩道橋(長崎駅前)エレベーターの供用開始について|publisher=長崎県|date=2022-09-13|accessdate=2022-09-20}}</ref>。
** [[9月23日]]:[[西九州新幹線]]が開業<ref name="press20220222">{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220222054752/https://www.jrkyushu.co.jp/news/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf|archivedate=2022-02-22 -->|format=PDF|language=日本語|title=西九州新幹線の開業日について|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-02-22|accessdate=2022-02-22}}</ref><ref name="yomiuri20220923">{{Cite news|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220923-OYT1T50120/<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220923003230/https://www.yomiuri.co.jp/national/20220923-OYT1T50120/|archivedate=2022-09-23 -->|title=西九州新幹線が開業、「かもめ」が出発…博多―長崎間は最速1時間20分に|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2022-09-23|accessdate=2022-09-23}}</ref>し、[[長濱ねる]]が一日駅長に就任<ref>{{Cite web|和書|title=長濱ねる、長崎駅一日駅長就任で駅員制服姿に 西九州新幹線開通に喜び|url=https://realsound.jp/2022/09/post-1137802.html|website=リアルサウンド|publisher=realsound.jp|date=2022-09-24|accessdate=2022-09-26}}</ref>。JR貨物の駅が廃止され、鉄道駅での貨物取扱が終了(オフレールステーションは存続)。
{{-}}
== 駅舎移転高架化と再開発 ==
{{複数の問題|section=1|出典の明記=2017年12月|参照方法=2017年12月}}
{{更新|date=2023年8月|section=1}}
=== 長崎本線連続立体交差事業===
長崎市内の[[踏切]]による慢性的な[[渋滞]]や東西市街地の分断を解消するため、長崎本線の松山町付近から長崎駅までの約2.4 kmの区間の線路を[[高架]]化する事業である。幸町・宝町・梁川橋・竹岩橋の4箇所に設置されている踏切が撤去される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/machidukuri/toshikeikaku-kokudoriyo/renritsu/renritsu2/ |title=事業紹介 {{!}} 長崎県 |publisher =長崎県 |accessdate=2020-03-05}}</ref>。
2001年に着工準備が決定したが、新駅舎予定地に存在した[[長崎鉄道事業部|長崎車両センター]]の移転協議が難航した。2007年8月に同センターを[[早岐駅]]に隣接するかつての[[早岐客貨車区]]の敷地内へ移転させることで決着し、2008年12月に[[都市計画]]決定、2010年2月に国の事業認可を受けた。2014年3月15日より車両センターが移転し、車両基地設備や[[転車台]]などは2016年までに撤去され、転車台の部品は[[天竜浜名湖鉄道]]に譲渡された<ref>{{Cite news |和書|title=静岡)長崎の転車台「第二の人生」 天竜浜名湖鉄道へ |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]]|date=2015-05-28 |author=山本知弘 |url=https://www.asahi.com/articles/ASH5T672HH5TUTPB01K.html |accessdate=2020-03-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150615144402/https://www.asahi.com/articles/ASH5T672HH5TUTPB01K.html|archivedate=2015-06-15}}</ref>。長崎本線の線路は2016年3月までに事業区間の全線が仮線路へ切り替えが実施されている。
2020年3月28日に在来線の高架化が行われ<ref name="JR九州ダイヤ改正2020" /><ref name="長崎県連立" /><ref name="nagasaki20200328"/>、駅は旧駅舎より西側へ150メートル程移転した。新駅舎は1階にコンコース、2階に2面5線のホームをもつ高架駅となった。今後は、2022年度に西九州新幹線の長崎駅舎(2面4線)が併設される。また、現在の幸町踏切付近には10線程度の高架留置線が整備される。事業全体での概算事業費は約430億円。
=== 長崎駅周辺再整備事業 ===
[[ファイル:ShinnagasakiSTA..JPG|thumb|新駅建設予定地(2012年)]]
JR長崎本線連続立体交差事業や西九州新幹線の整備計画に伴い、2008年度に事業認可された長崎駅周辺約19ヘクタールの[[都市再開発|再開発]]事業である。
新駅舎の東側・西側にそれぞれ交通広場や多目的広場を整備し、新駅舎の周囲を囲む道路として長崎駅中央通り線・長崎駅西通り線・長崎駅東通り線・尾上町1号線などの道路を整備する。新駅舎周辺では長崎県庁舎・長崎県警察本部庁舎(2018年)、長崎警察署・運転免許センター(2020年)、MICE施設出島メッセ・ヒルトン・[[長崎放送]]新社屋(2021年)、長崎県営バスターミナル(2022年)、新駅ビル(2022年 - 2025年)などの開発が予定されており高度に都市化が進む。
また、当駅から1キロメートル程の三菱重工幸町工場跡地では[[ジャパネットホールディングス]]による球技専用スタジアム・アリーナ・商業・ホテルなどの複合施設(「スタジアムシティ」)が、2023年度に開業予定である。
=== 新駅ビルについて ===
新駅舎と現駅ビルの間のJR敷地内に地上13階建て(高さ60メートル)の商業・オフィス・駐車場・ホテルを含む新駅ビルが建設される。現駅ビルは存続され、新駅舎の高架下部分にも商業施設が整備される。
新駅ビルに併設するホテルは[[マリオット・インターナショナル]]のブランドの一つであるマリオットを冠した「長崎マリオットホテル」で、JR九州グループとしては初のインターナショナルブランドのホテル運営となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000898.000011305.html|title=九州初となる「マリオットホテル」の契約を締結「長崎マリオットホテル」誕生|publisher=マリオット・インターナショナル|date=2021年12月3日|accessdate=2021年12月4日}}</ref>。
現駅ビル以上の開発となり国際観光都市長崎の新しいランドマークとして博多駅に次ぐ規模となる。
2022年度の新幹線開業と同時に高架下商業施設を開業し、2023年春に新駅ビルの部分開業(商業の一部・駐車場の一部・オフィス)を目指している。2025年度に全体のグランドオープンを予定する。
== 駅構造 ==
=== JR九州 ===
{{駅情報
|社色 = #ff0000
|駅名 = JR 長崎駅
|画像 = JRK Nagasaki-STA Concourse.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎内観(2023年1月)
|よみがな = ながさき
|ローマ字 = Nagasaki
|電報略号 = サキ
|所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州)
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{Color|#ff0000|■}}[[西九州新幹線]]
|前の駅1 = [[諫早駅|諫早]]
|駅間A1 = 24.9
|キロ程1 = 69.6
|起点駅1 = [[武雄温泉駅|武雄温泉]]
|ホーム = 2面4線(新幹線)<br />2面5線(在来線)
|所属路線2 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]]{{Refnest|group="注"|{{color|#0095d9|■}}[[大村線]]直通列車の設定もある<ref name="jrweb_nagasakista" />。}}
|キロ程2 = 125.3
|起点駅2 = [[鳥栖駅|鳥栖]]
|前の駅2 = [[浦上駅|浦上]]
|駅間A2 = 1.6
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]尾上町1-89
|座標 = {{coord|32|45|9.9|N|129|52|8.6|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR長崎駅}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|乗車人員 = 7,853
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|開業年月日 = [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月5日]]<ref name="mainichi-np-2015-4-6" />
|廃止年月日 =
|備考 = [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]<br/>[[みどりの窓口]] 有<ref name="MADO">[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191726_1601.html 駅情報] - JR九州.2021年12月6日閲覧</ref>
|備考全幅 =
}}
{{駅情報
|社色 = #ccc
|文字色 = #000
|駅名 = 国鉄 長崎駅
|画像 =
|pxl = 300px
|画像説明 =
|よみがな = ながさき
|ローマ字 = Nagasaki
|駅間B = 1.1
|次の駅 = [[長崎港駅|長崎港]]
|所属事業者 = [[日本国有鉄道]](国鉄)
|所属路線 = 長崎本線
|駅構造 = [[地上駅]]
|廃止年月日 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月31日]]
}}
新幹線は島式ホーム2面4線、在来線は島式ホーム2面5線を有する[[高架駅]]<ref name="railf20200330">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2020/03/30/200000.html|title=長崎駅が高架化される|website=鉄道ファンrailf.jp|date=2020年3月30日|accessdate=2020年4月16日}}</ref>。車止め側から見て左側が1番のりばである。4番のりばは5番のりばの浦上寄りを切り欠いた先にあり、他のホームより短い。
在来線ホームの有効長は1,2番線は4両、3番線は6両、4番線は2両、5番線は8両以上である。新幹線ホームの有効長は6両で、可動式安全柵が設置されている。
[[直営駅]]で[[みどりの窓口]]が設置されており<ref name="MADO" />、[[SUGOCA]]にも対応している。新幹線、在来線とも終着駅ではあるが、浦上駅などからの新幹線利用客を考慮して、乗換改札口が設置されている。有効な特急券などを所持していれば当駅を経由しない乗車券であっても乗換改札口を通過して新幹線[[諫早駅]]方面へ向かうことができる{{Refnest|group="注"|新幹線開業と同時に分岐駅通過の特例が適用されているため。ただし当駅での途中下車は不可。}}。
地上駅時代の[[プラットホーム]]は、[[頭端式ホーム]]3面5線で[[跨線橋]]や[[構内踏切]]等の設備はなく、改札口から全てのホームへ平面移動が可能であった。
平成に入り設置された0番のりばを除き有効長が長く取られていたが、これはかつて当駅から本州方面への長距離優等列車(寝台特急「さくら」・「[[はやぶさ (列車)|みずほ]]」・「あかつき」など)が走っていた名残である。2番のりばと3番のりばとの間に中線が1本あり、1982年(昭和57年)頃まで[[長崎港駅]]へと通じていた{{Sfn|国鉄全線各駅停車|p=135}}。1・2番のりばの上屋は木製であり、このホームの端(浦上方)に運転取り扱いの建物があった。0番のりばが設置される前は、当駅は島式ホーム2面4線で、1・2番のりばは駅舎と直結し、長崎港駅(1982年廃止)につながる線路に面した3・4番のりばと駅舎は[[跨線橋]]で接続されていた。1993年(平成5年)頃にホームを頭端式に変更し、ほどなく跨線橋が廃止され、同時期に0番のりばが増設された。従来線路が延びていた敷地は屋外[[駐車場]]へと転用され、のち2000年(平成12年)に[[アミュプラザ長崎]]が建設された。
高架化前のホーム西側には複数の[[停車場#側線|側線]]が引かれ、旅客列車の[[留置線]]として使用されていた。2014年(平成26年)3月までは隣接地に長崎車両センターが存在していた<ref>{{Cite news |和書|title=長崎車両センター移転へ 23日にお別れイベント |newspaper=朝日新聞 |date=2014年2月21日 |author= |url=http://www.asahi.com/articles/ASG2564R3G25TOLB01S.html |accessdate=2014年5月28日 |publisher=朝日新聞社 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20140221011756/http://www.asahi.com/articles/ASG2564R3G25TOLB01S.html |archivedate = 2014-02-21}}</ref>。
アミュプラザ前の広場(かもめ広場)はオープンスペースとなっており、各種イベントが行われていた。また[[長崎ランタンフェスティバル]]期間中は天井に竜のオブジェ「アミュゴン」が飾られており、さまざまな装飾が施されていた。広場の天井近くには[[三菱電機]]製の[[オーロラビジョン|大型モニター(オーロラビジョン)]]も設置されていて、JR九州関連のPR映像などが流れていた。
<gallery>
JRK Nagasaki-STA Local-Line-Gate.jpg|在来線改札口(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Shinkansen-Gate.jpg|西九州新幹線改札口(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Transfer-Gate.jpg|乗り換え改札口(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA JR-ticket-office.jpg|乗車券売り場(2023年1月)
</gallery>
==== のりば ====
(出典:<ref name="jrweb_nagasakista">{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191726_1601.html|title=<nowiki>長崎駅 | 駅情報一覧</nowiki>|publisher=九州旅客鉄道|accessdate=2023-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jorudan.co.jp/eki/eki_%E9%95%B7%E5%B4%8E%EF%BC%88%E9%95%B7%E5%B4%8E%EF%BC%89_kounaizu.html|publisher=ジョルダン|title=長崎(長崎)駅の構内図|accessdate=2023-05-22}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=JTB時刻表|publisher=[[JTBパブリッシング]]|volume=2023年1月号}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=JR時刻表|publisher=[[交通新聞社]]|volume=2023年1月号}}</ref>)
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先
!備考
|-
! rowspan="2" | 1 - 5
| nowrap="nowrap" | {{Color|#faaf18|■}}長崎本線
| [[諫早駅|諫早]]・[[湯江駅|湯江]]・[[肥前浜駅|肥前浜]]方面
|rowspan="2"|{{color|#0095d9|■}}大村線直通列車の設定あり<!--※出典内にある「駅別時刻表」には大村線方面への方面表記が記載されていないが、当駅を始終着とする大村線直通列車があるため、ここでは備考欄にその案内を行いました。-->
|-
| {{color|#0095d9|■}}[[大村線]]
| [[大村駅 (長崎県)|大村]]・[[ハウステンボス駅|ハウステンボス]]・[[佐世保駅|佐世保]]方面
|-
!11 - 14
|{{Color|#ff0000|■}}西九州新幹線
|[[佐賀駅|佐賀]]・[[新鳥栖駅|新鳥栖]]・[[博多駅|博多]]方面
|[[武雄温泉駅]]で博多行き特急と接続
|}
<!--※方面案内は出典内にある「駅別時刻表」を基にしております。-->
<gallery>
JRK Nagasaki-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Platform3-5.jpg|3・5番線ホーム(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Platform4-5.jpg|4・5番線ホーム(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Platform11-12.jpg|新幹線11・12番線ホーム(2023年1月)
JRK Nagasaki-STA Platform13-14.jpg|新幹線13・14番線ホーム(2023年1月)
</gallery>
==== ギャラリー ====
<gallery>
Nagasaki Station Nagasaki Japan03n.jpg|地上駅時代の改札口(2011年12月)
Nagasaki-Station-platform.jpg|地上駅時代の構内(2008年1月)
Nagasaki Station (JR Kyushu) 2010-03-08.jpg|地上駅時代の構内配置と側線(2010年3月)
NagasakiSTA-kamome.JPG|地上駅時代のかもめ広場とアミュゴン(2013年3月)
</gallery>
=== 長崎電気軌道 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 長崎電気軌道 長崎駅前停留場
|画像 = Nagasaki Electric Tramway Nagasaki Station Station.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 長崎駅前停留場(2021年7月)
|よみがな = ながさきえきまえ
|ローマ字 = Nagasaki Station
|電報略号 =
|駅番号 = '''27'''
|所属事業者 = [[長崎電気軌道]]
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]大黒町7番1号先
|座標 = {{Coord|32|45|8.41|N|129|52|19.07|E|region:JP_type:railwaystation|name=長崎駅前停留場}}
|開業年月日 = [[1915年]]([[大正]]4年)[[11月16日]]
|廃止年月日 =
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線
|乗車人員 =
|乗降人員 = 7,160
|統計年度 = 2019年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = 本線({{Color|blue|■}}[[長崎電気軌道1号系統|1号系統]]・{{Color|black|□}}[[長崎電気軌道2号系統|2号系統]])
|前の駅1 = 26 [[八千代町停留場|八千代町]]
|駅間A1 = 0.4
|駅間B1 = 0.4
|次の駅1 = [[五島町停留場|五島町]] 28
|駅番号1 =
|キロ程1 = 4.9 km([[住吉停留場 (長崎県)|住吉]]起点)<br />[[赤迫停留場|赤迫]]から5.1
|起点駅1 =
|所属路線2 = 桜町支線({{Color|red|■}}[[長崎電気軌道3号系統|3号系統]])
|前の駅2 = 26 八千代町
|駅間A2 = -
|駅間B2 = 0.5
|次の駅2 = [[桜町停留場|桜町]] 44
|駅番号2 =
|キロ程2 = 0.0
|起点駅2 = 長崎駅前
|乗換 =
|備考 =
|}}
長崎駅前に広がる高架広場の先に停留場がある{{Sfn|田栗|2005|p=35}}。停留場は[[併用軌道]]区間にあり、[[プラットホーム|ホーム]]は道路上に置かれ、2面のホームが長崎駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う([[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]]){{Sfn|100年史|p=130}}{{Sfn|川島|2013|p=46}}。駅側にあるのが[[赤迫停留場|赤迫]]方面行きのホーム、反対側にあるのが[[崇福寺停留場|崇福寺]]・[[蛍茶屋停留場|蛍茶屋]]方面行きのホーム{{Sfn|川島|2013|p=46}}。ホーム長は40メートル余りで{{Sfn|100年史|p=124}}、2015年に[[赤迫停留場]]のホームが延長されるまでは長崎電鉄で一番長いホームだった{{Sfn|100年史|p=113}}。
利用者が多いため、崇福寺・蛍茶屋方面行きのホームは乗車位置が分かれていて、ホーム先端寄りの停止線に3号系統蛍茶屋行き、ホーム中央の停止線に1号系統崇福寺行きが停車する。同ホームでは日本語と英語の自動放送が流れ、この自動放送では[[長崎西洋館]]や[[平和公園]]など、反対方向の赤迫方面の案内も放送されている。ホームの両端には[[横断歩道橋]]が接続し、出入りにはこれを使用する{{Sfn|田栗|2005|p=35}}{{Sfn|川島|2007|p=119}}。もともと停留場につながるのはこの歩道橋のみであり、高齢者や大きな荷物を抱える旅行者にとっては使いにくい{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=56}}とされていたが、電停赤迫方面側に新たにバリアフリー対応のエレベーターが建設され、2022年9月20日より使用が開始された。<ref>{{Cite web|和書|title=路面電車のバリアフリー |url=https://www.naga-den.com/pages/46/ |website=長崎電気軌道株式会社 |access-date=2023-09-08 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=エレベーター設置で”長崎駅前電停” がようやくバリアフリー化 高架広場は撤去へ |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/158795?display=1 |access-date=2023-09-08 |date=2022-09-20}}</ref>
ホーム中央付近に上り線から下り線への片渡り線があり{{Sfn|川島|2013|p=46}}、市中心部でのイベント開催時など、当停留場始発の臨時便が運転される際に使われる。本線と桜町支線の[[分岐器|分岐部]]は停留場の南にあり{{Sfn|川島|2013|p=53}}、[[大波止停留場|大波止]]方面に向かう本線が右へ、桜町支線が左へ分岐する2方分岐{{Sfn|100年史|p=130}}{{Sfn|川島|2013|p=46}}{{Sfn|田栗|2005|p=73}}。戦前は桜町支線と本線大波止方面の間も結ばれ、3方分岐の[[デルタ線]]を形成していた{{Sfn|田栗|2005|p=35}}。これを利用して1934年から1937年(昭和9年から昭和12年)までは市中心部を[[環状運転]]する循環系統が設定されたこともある{{Sfn|田栗|2005|p=35}}{{Sfn|100年史|pp=62–63}}。循環系統については2000年10月にも試験的に運行され<ref>{{Cite news |和書|title=路面電車の「環状運行試験」、混雑緩和なるか――16日から長崎市中心部で /長崎 |newspaper=毎日新聞 |date=2000-10-14 |publisher=毎日新聞社}}</ref>、この時はデルタ線がない代わりに当停留場の片渡り線を使用したが、利用者がそれほど多くなかったため、定着には至っていない。
4号系統の大幅減便による利便性低下を緩和させる事を目的として、2022年9月1日からICカード利用者のみ本停留場での乗り換えが可能となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.naga-den.com/pages/1079/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220704141610/https://www.naga-den.com/pages/1079/|title=【重要なお知らせ】令和4年9月1日から変わります|archivedate=2022-07-04|accessdate=2022-09-04|publisher=長崎電気軌道|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
==== のりば ====
{| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" style="margin-top:.4em;"
|-
!rowspan="2"|上り
|{{Color|blue|■}}1号系統
|(上り)
|rowspan="2" |[[住吉停留場 (長崎県)|住吉]]・[[赤迫停留場|赤迫]]方面
|-
|{{Color|red|■}}3号系統
|
|-
!下り前
|{{Color|red|■}}3号系統
|(下り)
|[[市民会館停留場|市民会館]]・[[蛍茶屋停留場|蛍茶屋]]方面
|-
!下り後
|{{Color|blue|■}}1号系統
|(下り)
|[[大波止停留場|大波止]]・[[新地中華街停留場|新地中華街]]方面
|}
<gallery>
Nagasakidenntei.JPG|構内に設けられている片渡り線(2013年3月)
Nagasakiekimaedenntei-hyou.JPG|駅名標(2013年3月)
</gallery>
=== 長崎街道かもめ市場 ===
駅高架下の商業施設の総称であり、54店舗が営業している。全ての店舗で[[SUGOCA]]が使用可能である。2022年3月18日にオープンした。延床面積は4,400平方メートル、売場面積は2,200平方メートル。
== 長崎オフレールステーション ==
'''長崎[[オフレールステーション]]'''(略称:長崎ORS・{{ウィキ座標|32|45|20.3|N|129|52|4.5|E|region:JP_type:landmark|地図|name=長崎オフレールステーション}})は、駅西側(旧長崎車両センターの西隣)にある[[日本貨物鉄道|JR貨物]]の[[日本のコンテナ輸送#鉄道コンテナ|コンテナ]]集配基地である。コンテナ貨物(12[[フィート]]コンテナのみ)を取り扱っており、[[貨物自動車|トラック便]]が当駅と[[鍋島駅]]の間で1日に14往復運行されている。
[[1999年]](平成11年)まで、JR貨物長崎駅は貨物列車の発着があったが、定期列車の設定が廃止され自動車代行駅となり、2006年(平成18年)4月より名称をオフレールステーションに変更している。[[2022年]](令和4年)9月23日にはJR貨物の長崎本線鍋島駅 - 長崎駅間における[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]が廃止されたため、鉄道駅における貨物取扱は名実ともに終了し、オフレールステーションのみが存続することとなった。
列車廃止以前は、駅構内に2面のコンテナホームや複数の荷役線を有し、駅南側の埠頭にあった[[魚市場]]への線路も存在していた。魚市場から[[鮮魚]]を輸送するため、[[鮮魚貨物列車]]「ぎんりん」([[大阪市場駅]]行き。同駅廃止後は[[梅田信号場|梅田駅]]行き)や「とびうお」([[東京市場駅]]行き)なども運行されていた。
魚市場の移転に伴い埠頭の線路はすべて撤去され、コンテナ基地として使用されていないホームは[[駐車場]]に転用されていたが、新駅舎建設及び再整備事業により、2016年現在更地となっている。
== 駅弁 ==
2023年5月時点で、『長崎街道かもめ市場』内にある[[ファミリーマート]]JR長崎駅店、チャイデリカ長崎駅店、いろり家で販売されている。ただし、JTB時刻表 2023年3月号には長崎駅の駅弁の掲載は無い。
販売されている駅弁は下記の通り<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben_hp_1.pdf|title=\9月23日 西九州新幹線開業!/長崎の駅弁、絶賛発売中!!|date=2022-09-01|accessdate=2022-09-17|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220917033715/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben_hp_1.pdf|archivedate=2022-09-17 -->}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben2_hp.pdf|title=\もうすぐ西九州新幹線開業!/長崎の駅弁、増えています!!|date=2022-09-09|accessdate=2022-09-17|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF<!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220917033959/https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/09/14/nagasaki_ekiben2_hp.pdf|archivedate=2022-09-17 -->}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=JR長崎駅で「戸石ゆうこう真鯛(まだい)」使った駅弁 ブランド魚のおいしさ知ってほしい |url=https://nagasaki.keizai.biz/headline/1891/ |newspaper=長崎経済新聞 |date=2022-10-27 |accessdate=2023-05-12}}</ref>。
* ファミリーマートJR長崎駅店
** ながさき鯨カツ弁当
** 角煮めし弁当
** 新幹線かもめ弁当
** 鉄道開業150周年記念九州巡り旅弁当
** [[ミッキーマウス]] GO!GO!ランチ BOX
* チャイデリカ長崎駅店
** 長崎中華弁当 阿茶さん
** 長崎中華弁当 つばき
** 長崎中華弁当 紫陽花
* いろり家
** ゆうこう真鯛の鯛めし弁当
2017年当時の主な駅弁は下記の通り<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title= |date=2017-03 |publisher=交通新聞社 |journal=JR時刻表 |issue=2017年3月号 |number= |page=432}}</ref>。
* ちらしずし
* 角煮めし弁当 - [[2015年]](平成27年)[[3月6日]]の「第11回九州駅弁グランプリ決勝大会」で第3位になった<ref name="mainichi-np-2015-3-7">{{Cite news |和書|title=九州駅弁グランプリ:九州一うまい駅弁は? 大分の「山海三昧」に 地産地消、評価され |newspaper=毎日新聞 |date=2015年3月7日 |author=遠山和宏 |publisher=毎日新聞社}}</ref>。
* トルコライス
* 四季彩弁当
* 角寿し弁当
* 長崎 軍艦島
* ながさき鯨カツ弁当
* ながさき鯨すき弁当
* 長崎和牛網焼き弁当
== 利用状況 ==
* JR九州 - 2022年度の1日平均[[乗車人員]]は'''7,853人'''である。JR九州の駅としては第20位で、長崎県内の駅としては最多<ref name="2021ekibetsu">{{Cite report|和書 |title=駅別乗車人員上位300駅(2021年度)|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2021ekibetsu.pdf|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|accessdate=2023-05-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/station.html |title=駅別乗車人員 {{!}} 交通・営業データ {{!}} 企業情報 {{!}} 企業・IR・採用 {{!}} JR九州 |access-date=2023-11-26}}</ref>。また、長崎本線の駅では[[佐賀駅]]に次いで2番目に多い。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度
!1日平均<br/>乗車人員
|-
|2000年
|10,716
|-
|2001年
|10,862
|-
|2002年
|11,099
|-
|2003年
|11,218
|-
|2004年
|11,231
|-
|2005年
|11,258
|-
|2006年
|11,314
|-
|2007年
|11,329
|-
|2008年
|11,248
|-
|2009年
|10,972
|-
|2010年
|11,099
|-
|2011年
|10,744
|-
|2012年
|10,724
|-
|2013年
|10,905
|-
|2014年
|10,706
|-
|2015年
|11,080
|-
|2016年
|10,650
|-
|2017年
|10,473
|-
|2018年
|10,125
|-
|2019年
|10,144
|-
|2020年
|10,084
|-
|2022年
|7,853
|}
* 長崎電気軌道 - 2019年の1日の乗降客数は'''7,160人'''である。
長崎駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
!年度
!1日平均<br />乗車人員
!1日平均<br />乗降人員<ref name="statistics">{{Cite report|和書|url=https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-S12-v2_7.html|title=国土数値情報(駅別乗降客数データ)|publisher=国土交通省|accessdate=2021年9月7日}}</ref>
|-
|2011年
|3,700<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h24_survey.pdf|title=九州運輸要覧 平成24年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=84|accessdate=2023-05-22}}</ref>
|10,788
|-
|2012年
|3,700<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h25_survey.pdf|title=九州運輸要覧 平成25年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=84|accessdate=2023-05-22}}</ref>
|7,385
|-
|2013年
|3,504<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h26_survey.pdf|title=九州運輸要覧 平成26年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=86|accessdate=2018年3月26日}}</ref>
|7,000
|-
|2014年
|3,554<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h27_survey.pdf]|title=九州運輸要覧 平成27年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=86|accessdate=2018年3月26日}}</ref>
|7,100
|-
|2015年
|3,662<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h28_survey.pdf|title=九州運輸要覧 平成28年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=87|accessdate=2018年3月26日}}</ref>
|7,300
|-
|2016年
|3,349<ref>{{Cite report|和書|url=http://kyushu-transport.or.jp/transport/h29_survey.pdf|title=九州運輸要覧 平成29年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=87|accessdate=2020年9月5日}}</ref>
|6,700
|-
|2017年
|3,392<ref>{{Cite report|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000100486.pdf|title=九州運輸要覧 平成30年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=54|accessdate=2020年9月5日}}</ref>
|6,800
|-
|2018年
|
|7,436<ref>{{Cite report|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000162675.pdf|title=九州運輸要覧 令和元年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=57|accessdate=2020年9月5日}}</ref>
|-
|2019年
|
|7,160<ref>{{Cite report|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000236495.pdf|title=九州運輸要覧 令和2年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=57|accessdate=2021年9月7日}}</ref>
|-
|2020年
|
|4,909<ref>{{Cite report|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000236495.pdf|title=九州運輸要覧 令和3年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=57|accessdate=2023-05-22}}</ref>
|-
|2021年
|
|5,163<ref>{{Cite report|和書|url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/content/000292553.pdf|title=九州運輸要覧 令和4年度版|format=PDF|publisher=九州運輸局|page=58|accessdate=2023-05-22}}</ref>
|}
== 駅周辺 ==
長崎駅の前を並行して通っている[[国道202号]]の長崎駅前交差点は、長崎県で一番の交通量である。長崎駅前交差点には歩道橋が3つ架設されており、これらは駅前駐車場上の高架広場に接続されている。
国道をはさんで、[[長崎県交通局|長崎県営バス]]・[[九州急行バス]]などの始発地点、および主要路線経由地点となる長崎駅前交通会館(長崎県営バスターミナル)がある(歩道橋から直接2階へ入れる)。また、駅前高架広場下には[[長崎自動車|長崎バス]]・長崎県営バスの長崎駅前バス停がある。ロータリー内にもバス停が設置されている。
高架橋広場は、一部が周辺施設2階入り口(交通会館、アミュプラザ長崎など)へと繋がっている。また、[[車椅子]]利用者が横断できるよう、[[エレベーター]]が設置されている。
* [[アミュプラザ長崎]](駅に隣接)
* 長崎街道かもめ市場(駅に隣接)
* [[JR九州グループホテル|JR九州ホテル]]長崎(駅に隣接、アミュプラザ長崎上階)
* ホテルニュー長崎(アミュプラザに隣接、長崎駅前南口バス停前)
* [[本蓮寺 (長崎市)]]
* [[福済寺]]
* [[日本二十六聖人記念館|日本二十六聖人殉教の地(西坂公園)・記念館]]
* [[カトリック中町教会|中町教会]]
* [[NHK長崎放送局]]
* [[長崎中央郵便局]]
* [https://www.google.co.jp/maps?q=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%97%AD%E7%94%BA8-1&hl=ja&ie=UTF8&sll=32.831216,130.018011&sspn=0.003056,0.00412&brcurrent=3,0x351553224554f2bd:0xb99352d31e875dbd,0,0x351553224183495f:0x50733b54a8297438&hnear=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%9C%8C%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%97%AD%E7%94%BA%EF%BC%98%E2%88%92%EF%BC%91&t=m&z=16 セイノースーパーエクスプレス長崎航空営業所]
<gallery>
Nagasaki Station Nagasaki Japan09n.jpg|高架広場
Ngasaki station front2010.jpg|駅前と高架広場
Nagasakiekimaekousaten.JPG|長崎駅前交差点
</gallery>
=== 長崎駅改装後の周辺施設 ===
* [[長崎警察署]]
2021年11月1日に開業した施設
* [[出島メッセ長崎]] - [[MICE]]施設。
* [[ヒルトン長崎]] - [[ヒルトン]]グループのホテル。ヒルトンホテルを多数確保している[[沖縄県]]を除く九州地方で[[福岡県]]に次いで2軒目。
* [[長崎放送|NBC長崎放送]] - 旧社屋から移転後の改装した新ビル社屋。
2022年3月18日に長崎駅内に開業した施設
* [[長崎街道かもめ市場]] - 長崎県初上陸の初出店やグルメ、銀行、コンビニ、アミュプラザ長崎のほぼ多数のお土産品店が移転オープン。
== バス路線 ==
[[ファイル:Nagasaki station kotsu kaikan.jpg|thumb|長崎県交通産業会館]]
=== 高速バス ===
駅前の国道向かい側にある'''長崎県交通産業会館'''(通称・交通会館)の1階に[[長崎県交通局]](長崎県営バス)の高速バスターミナルがあり、長崎発の高速バス路線の大半はここを始発とする。[[長崎空港]]行き[[長崎県交通局#リムジンバス|リムジンバス]]浦上・住吉/長大東門前経由(全便当ターミナル始発)・[[ながさき出島道路]]経由長崎空港行き([[長崎県交通局]]・[[長崎自動車]](長崎バス)共同運行・全便[[みらい長崎ココウォーク|ココウォーク茂里町バスセンター]]始発)も当ターミナルへ乗り入れる。
長崎バス関連の夜行高速バスはココウォーク茂里町が始発となっており、当ターミナルには乗り入れず'''長崎駅前南口'''バス停での乗車となる。[[九州号]]は「出島道路経由」の長崎到着便は降車場所がターミナル内ではなく、国道沿いの長崎駅前高架下である。
経由地等については各系統の記事を参照のこと。
* 県営バスターミナルから発車する高速バス
** [[大分市|大分]]行き「[[サンライト号]]」(長崎県交通局・長崎自動車・[[大分交通]]・[[大分バス]]4社共同運行)
** [[北九州市|北九州・小倉]]行き「[[出島号 (高速バス)|出島号]]」(長崎県交通局)
** [[福岡市|福岡]]行き「[[九州号]]」([[九州急行バス]])
** [[熊本市|熊本]]行き「[[りんどう号]]」(長崎県交通局・[[九州産交バス]])
** [[宮崎市|宮崎]]行き「[[ブルーロマン号]]」(長崎県交通局・[[宮崎交通]])
** [[長崎 - 佐世保線|佐世保・佐々行き]](長崎県交通局・[[西肥自動車]])
** [[長崎 - 佐世保線#長崎 - ハウステンボス・ウインズ佐世保線|ハウステンボス行き]](長崎県交通局)
** [[長崎県交通局#リムジンバス|長崎空港行きリムジンバス]](長崎県交通局・長崎自動車)
* 長崎駅前南口から発車する高速バス
** 大阪・[[京都市|京都]]行き「[[オランダ号]]」([[近鉄バス]])
* 長崎駅北側から発車する高速バス
** 神戸・大阪行き「ユタカライナー」([[ユタカ交通]])
=== 路線バス ===
一般路線バス([[長崎県交通局]]・[[長崎自動車]])は駅前高架広場下の'''長崎駅前'''バス停、駅東口交通広場ロータリー内の'''長崎駅前(交通広場)'''バス停、駅西口広場の'''長崎駅西口'''バス停、ホテルニュー長崎前の'''長崎駅前南口'''バス停(大波止方面)、[[ローソン]]前の'''長崎駅前東口'''バス停(市役所前方面)と複数が存在する。北部・西部方面は高架広場下長崎駅前バス停に停車する。なお、大波止方面からの便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎側)にも停車する。中心部・南部・東部方面行きの大波止経由便は長崎駅前南口バス停(ホテルニュー長崎向かい側)、市役所前経由便は長崎駅前東口バス停に停車する。行き先によって停車する場所が異なる。ながさき出島道路・[[長崎自動車道]]を経由して[[大村市|大村]]や[[諫早市|諫早]]へ向かう高速シャトルバス(長崎県交通局)は、交通会館ではなく、長崎駅前東口バス停始発である。
==== 長崎駅前(高架下)【北部・西部方面】 ====
高架広場の工事により現在は北部側へ仮移設されている。
* 長崎バス([[長崎自動車]])
** (1番系統)三川町・西山台線、恵の丘線、女の都団地線、長与NT線、緑ヶ丘団地線、本川内・琴の尾登口線、満永線、上横尾線、上床・光風台・豊洋台線、溝川線、時津北部TM・琴海NT・大串線、石原・樫山・桜の里線、大瀬戸・板の浦線(住吉経由)
** (2番系統)虹が丘線(西町経由)
** (3番系統)下大橋線、小江原NT・相川線(城栄町経由)
** (4番系統)下大橋線(西城山経由)
** (5番系統)稲佐山公園線、シンフォニー稲佐の森線、悟真寺前線
** (6番系統)立神・神の島・みなと坂線、福田・柿泊線
** (7番系統)稲佐橋
** (8番系統)江平経由下大橋線、本原経由三川町線(医学部前経由)
** (9番系統)三川町・西山台線、恵の丘線、長与NT線(純心校前経由)
** (100番系統)ココウォーク茂里町
** (系統番号無し)下大橋線(ハートセンター経由・城山住宅前経由)、小江原NT・相川線(春木町経由)、立山線(目覚町経由)
* 県営バス([[長崎県交通局]])
** 6循環・12循環(三原・西山台経由)、女の都団地線、西崎団地線、サニータウン線、立山線(目覚町経由)、立神線
==== 長崎駅前(交通広場)【東部・南部方面】 ====
長崎駅東口(かもめ口)の駅前広場に設置。
* 長崎バス(長崎自動車)
** (10番系統)茂木線
** (40番系統)ダイヤランド線
** (60番系統)南高裏門前(大浦経由)
** (系統番号無し)南高前(市民会館・矢の平経由)、鶴洋高校前、ながさき観光ルートバス、まちなか周遊バス
* 県営バス(長崎県交通局)
** 網場・春日車庫線【ペンギン水族館】、水源池跡線、夢彩都線、風頭町線、まちなか周遊バス
==== 長崎駅前(交通会館前)【東部・南部方面】 ====
降車専用のバス停のため、乗車はできない。
==== 長崎駅前南口 ====
* 【北部・西部方面】(大波止経由便)
** 長崎バス(長崎自動車)
*** (1番系統)三川町・西山台線、恵の丘線、女の都団地線、長与NT線、本川内・琴の尾登口線、満永線、上横尾線、上床・光風台線、溝川線、時津北部TM・琴海NT・大串線、石原・樫山・桜の里線、大瀬戸・板の浦線(住吉経由)
*** (3番系統)小江原NT・相川線(城栄町経由)
*** (4番系統)下大橋線(西城山経由)
*** (5番系統)稲佐山公園線、シンフォニー稲佐の森線、悟真寺前線
*** (6番系統)立神・神の島・みなと坂線、福田・柿泊線
*** (7番系統)長崎駅前(交通広場)、稲佐橋
*** (8番系統)本原経由三川町線(医学部前経由)
*** (9番系統)恵の丘線、長与NT線(純心校前経由)
*** (100番系統)ココウォーク茂里町
*** (系統番号無し)小江原NT・相川線(春木町経由)
** 県営バス(長崎県交通局)
*** 12循環線(三原・西山台経由)、女の都団地線、西崎団地線、サニータウン線、立神線
* 【東部・南部方面】(大波止経由)
** 長崎バス(長崎自動車)
*** (10番系統)田上・茂木・千々・北浦線、唐八景線(愛宕町経由)
*** (20番系統)中央橋・新地中華街・メディカルセンター
*** (30番系統)小ヶ倉・毛井首線、深堀・香焼・伊王島線、晴海台団地線、川原線、野母崎・樺島・岬木場線
*** (40番系統)ダイヤランド線
*** (50番系統)早坂(長崎女子短大)線、飯香の浦線
*** (60番系統)上戸町線(八景町経由)
*** (70番系統)田上・風頭山線(中川町・矢の平経由)
*** (系統番号無し)鶴洋高校前
** 県営バス(長崎県交通局)
*** 11循環線(大波止・三原・西山台経由)、立山・浜平線(大波止経由)、江の浦線(大波止経由)、網場・春日車庫線、矢上団地・ガーデンシティ線(大波止経由)、水源池跡線、夢彩都線
==== 長崎駅前東口【東部・南部方面】(市役所前経由) ====
* 長崎バス(長崎自動車)
** (10番系統)三景台団地線
** (20番系統)中央橋・新地中華街・メディカルセンター
** (30番系統)小ヶ倉団地線、平山台団地線
** (40番系統)ダイヤランド線、柳営業所入口線
** (50番系統)風頭山線、早坂(長崎女子短大)線(愛宕町経由)
** (60番系統)田上線(大浦経由)、上戸町線(八景町経由)
** (系統番号無し)南高前、早坂(長崎女子短大)(市民会館・矢の平経由)
* 県営バス(長崎県交通局)
** 高速シャトルバス(諫早・大村)線、5循環線(市役所・三原・西山台経由)、立山・浜平線(市役所経由)、矢上団地・ガーデンシティ線(市役所経由)、江の浦線(市役所経由)、高城台・現川駅前線、つつじが丘・諫早駅前線、風頭町線
==== 長崎駅西口 ====
* 出島メッセ前(MICE前)【北部方面】
** 長崎バス(長崎自動車)
*** (ミニバス)ココウォーク茂里町、住吉
*** (系統番号無し)まちなか周遊バス
** 県営バス(長崎県交通局)
*** 立神線、まちなか周遊バス
* 運転免許センター前【南部方面】
** 長崎バス(長崎自動車)
*** (ミニバス)二本松団地、長崎県庁前
*** (系統番号無し)ながさき観光ルートバス、まちなか周遊バス
** 県営バス(長崎県交通局)
*** まちなか周遊バス
* 駅舎前【南部方面】
** 長崎バス(長崎自動車)
*** (6番系統)神の島工業団地
*** (ミニバス)二本松団地、長崎県庁前
*** (系統番号無し)ながさき観光ルートバス
== その他 ==
* [[キヨスク]]、[[アミュプラザ長崎]]の店舗(一部除く)で、SUGOCAやSUGOCAと[[交通系ICカード全国相互利用サービス|相互利用]]できる[[乗車カード|IC乗車券]]の電子マネーが利用可能である。
== 隣の駅 ==
; 九州旅客鉄道(JR九州)
: {{Color|#ff0000|■}}西九州新幹線
::: [[諫早駅]] - '''長崎駅'''
: {{Color|#faaf18|■}}長崎本線
::*特急「[[ふたつ星4047]]」発着駅
:: {{Color|#216daf|■}}快速「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」・{{Color|#e78137|■}}区間快速「シーサイドライナー」・{{Color|#666568|■}}普通
::: [[浦上駅]] - '''長崎駅'''
; 長崎電気軌道
: 本線({{Color|blue|■}}1号系統・{{Color|black|□}}2号系統)
::: [[八千代町停留場]] (26) - '''長崎駅前停留場 (27)''' - [[五島町停留場]] (28)
: 桜町支線({{Color|red|■}}3号系統)
::: 八千代町停留場 (26) - '''長崎駅前停留場 (27)''' - [[桜町停留場]] (44)
::* 括弧内の数字は駅番号。桜町支線の桜町停留場との間には、1944年(昭和19年)まで恵美須町停留場が存在した{{Sfn|今尾|2009|p=57}}{{Sfn|田栗|2005|p=74}}。
=== かつて存在した路線 ===
; 日本国有鉄道
: 長崎本線
:: '''長崎駅''' - [[長崎港駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author1=宮脇俊三|authorlink1=宮脇俊三 |author2=原田勝正|authorlink2=原田勝正 |title=国鉄全線各駅停車 |year=1983 |publisher=[[小学館]] |isbn=4-093-95110-1 |volume=10(九州720駅) |ref={{Harvid|国鉄全線各駅停車}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=川崎孝夫 |year=1989.10 |title=鉄輪の轟き 九州の鉄道100年記念誌 |publisher=九州旅客鉄道 |ref={{Harvid|鉄輪}} }}
* {{Cite journal|和書|author=栗原隆司 |authorlink=栗原隆司 |year=1989 |month=12 |title=特集 九州の鉄道 新時代 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=第23巻 |issue=第12号 |publisher=鉄道ジャーナル社 |issn=02882337 |ref={{Harvid|鉄道ジャーナル|1989}} }}
* {{Cite journal|和書|author= |authorlink= |year=1998 |month=7 |title= |journal=鉄道ジャーナル |volume=第32巻 |issue=第7号 |publisher=鉄道ジャーナル社 |issn=02882337 |ref={{Harvid|鉄道ジャーナル|1998}} }}
* {{Cite journal|和書|author= |authorlink= |year=2000 |month=12 |title= |journal=鉄道ジャーナル |volume=第34巻 |issue=第12号 |publisher=鉄道ジャーナル社 |issn=02882337 |ref={{Harvid|鉄道ジャーナル|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author=長崎電気軌道株式会社 |title=長崎電気軌道100年史 |year=2016 |ref={{Harvid|100年史}} }}
* {{Cite book|和書|author=田栗優一 |title=長崎「電車」が走る街今昔 |year=2005 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |series=JTBキャンブックス |isbn=4-533-05987-2 |ref={{Harvid|田栗|2005}} }}
* {{Cite book|和書|author1=田栗優一 |author2=宮川浩一 |title=長崎のチンチン電車 |year=2000 |publisher=[[葦書房]] |isbn=4-7512-0764-4 |ref={{Harvid|田栗|宮川|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=12 九州沖縄 |year=2009 |isbn=978-4-10-790030-2 |ref={{Harvid|今尾|2009}} }}
* {{Cite book|和書|author=川島令三 |authorlink=川島令三 |title=[[全国鉄道事情大研究]] |date=2007-03-02 |publisher=[[草思社]] |isbn=978-4-7942-1562-8 |volume=九州篇 2 |ref={{Harvid|川島|2007}} }}
* {{Cite book|和書|author=川島令三 |title=四国・九州ライン 全線・全駅・全配線 |date=2013-09-18 |publisher=[[講談社]] |series=【図説】 日本の鉄道 |isbn=978-4-06-295161-6 |volume=第5巻 長崎・佐賀エリア |ref={{Harvid|川島|2013}} }}
* {{Cite book |和書 |author= |title=長崎文化 |year=2013 |publisher=長崎国際文化協会 |volume=第71号 |ref={{Harvid|長崎文化}} }}
* {{Cite book|和書|author=長崎の原爆遺構を記録する会 編 |title=原爆遺構 長崎の記憶 |year=2005 |publisher=[[海鳥社]] |isbn=4-874-15543-X |ref={{Harvid|原爆遺構}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=長崎市史編さん委員会 |title=新長崎市史 第四巻現代編 |year=2014.3 |publisher=長崎市 |ref={{Harvid|新市史四巻}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|ページ名=Nagasaki Station (JR Kyushu)|タイトル=長崎駅|追加1=Nagasaki Station (Nagasaki Electric Tramway)|タイトル1=長崎駅前停留場}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[長崎市長射殺事件]](同駅前の路上で発生した[[政治家]][[暗殺]]事件)
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120320|name=長崎}}
* [https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/machidukuri/toshikeikaku-kokudoriyo/renritsu/ JR長崎本線連続立体交差事業] - 長崎県長崎振興局都市計画課
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浦上駅
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浦上駅(うらかみえき)は、長崎県長崎市川口町にある九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線の駅である。
本項では駅前にある長崎電気軌道(長崎電鉄)本線の停留場、浦上駅前停留場(うらかみえきまえていりゅうじょう、浦上駅前電停)についても扱う。
長崎本線の新・旧線の分岐駅であり、全定期旅客列車が停車する。2008年3月14日までは寝台特急「あかつき」1往復のみが当駅を通過していたが、廃止されたため、当駅を通過する列車は無くなった。2005年2月28日までは「あかつき」の他に寝台特急「さくら」も当駅を通過していた。特急「ふたつ星4047」などのD&S列車は当駅を通過する。
快速「シーサイドライナー」も当駅に停車するため、諫早・佐世保・鳥栖・佐賀・福岡方面から長崎市北部・時津町・長与町などへ向かう玄関口となっている(バスまたは路面電車に乗り換え)。
また、終点の長崎駅まで行かなくても長与方面と市布方面との乗り換えが出来るため、快速と長与方面の列車の乗り換え利用者も若干いる(運賃は最短距離では計算されないため、喜々津乗り換えの場合とは運賃が異なるが、選択乗車制度があるので最短距離で計算できる。ただし、券面表示区間以外は途中下車できない)。
2022年9月23日の西九州新幹線開業に伴い、当駅を経由し、停車する定期特急列車はなくなった。西九州新幹線は当駅を経由しないため、利用するには一旦長崎駅を経由する必要があるが、分岐駅通過の特例が適用されるため当駅から諫早方面行きの乗車券で長崎駅を経由できる(別途特急券が必要。西九州新幹線は新線ルートの線増扱いであるため当駅から長崎駅までは乗車した列車にかかわらず旧線ルートを利用したと見なされる。また、長崎駅では途中下車できない)。
長崎電気軌道の浦上駅前停留場は名前のとおり浦上駅の前にあり、1号系統・2号系統・3号系統の電車が停車する。
1897年(明治30年)7月22日の開業当時、この駅は長崎駅(ながさきえき)という名であった。今の長崎駅が出来るまでの8年間は終着駅であり、長崎市の表玄関の駅でもあった。現在でも駅前広場の一角に「長崎駅址」の石碑が建てられている。
1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下では、当駅は爆心地より約1キロの至近距離に位置していたことから、駅舎は全壊し構内には多数の遺体が散乱していたという。国鉄職員の人的被害も甚大で、勤務中の職員ら約70名のうち即死者20名を含む65名が亡くなったが、諫早駅等との間で被災者をピストン輸送する拠点として機能し続けた。被爆後の駅舎は原爆により焼失しバラック建てによる仮復旧の後、1953年(昭和28年)に建てられたものである。
1973年(昭和48年)の8月9日には、当駅を含む国鉄職員の原爆犠牲者を慰霊する目的で「国鉄原爆死没者慰霊之碑」が国鉄労働組合により建立され、同時に慰霊祭が執り行われた。
島式ホームの1面2線高架駅。
地上駅時代は相対式ホーム2面2線、2015年12月23日より高架化工事のため島式1面2線の仮ホームとなった。業務委託駅で、みどりの窓口が設置されている。
(出典:JR九州 駅情報一覧)
当駅はJR長崎本線連続立体交差事業区間内であるため高架化工事が行われている。かつての平屋建ての旧駅舎は取り壊され、2013年11月末に仮駅舎完成、同年12月14日より供用開始した。旧駅舎に存在し、2013年5月6日から一時閉店していたファミリーマートとトランドールも12月14日より仮駅舎での営業再開した。2020年3月28日に高架駅舎の供用を開始した。西九州新幹線の暫定開業後は、通常2 - 4両の普通・快速列車しか停車しなくなるため、不要になるホーム部分は撤去された。
停留場は浦上駅前を走る併用軌道上にあり、ホームは道路上に置かれる。ホームは2面あり、浦上駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う(相対式ホーム)。駅側にあるのが赤迫方面行きのホーム、反対側が長崎駅前方面行きのホーム。ホームには横断歩道橋と横断歩道が接続する。もとは歩道橋のみだったが、利便性を向上させるため2004年に横断歩道が追加で設置された。駅番号は22。
1915年の開業当初は南寄りにあり、当時の路線は浦上駅前から長崎大学病院(旧長崎県立病院)の門前まで大きくカーブを描いて迂回するようなルートをとっていた。この区間は専用軌道で、途中には長崎電気軌道で唯一、赤色灯付きの踏切があった。ルートが変更されたのは1947年5月、原爆投下から浦上駅前 - 大橋間が復旧した時のことで、都市計画に基づいて浦上駅前から浜口町までが一直線に結ばれるようになった。
長崎県内の駅では長崎駅、諫早駅、佐世保駅に次いで4番目に利用客が多い。市布経由の列車を利用するために、平和公園・住吉方面から路面電車やバスを利用し当駅でJRに乗り換える利用者も多い。2022年度以降は西九州新幹線が開業したことに伴い特急の停車がなくなり、JRの利用客が激減している。当駅から長崎駅への利用は元より少ないが、西九州新幹線を利用するために一駅間だけ長崎本線を利用する客が若干いる。浦上駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。
駅前広場を挟み国道に面する。駅の裏には長崎原爆病院、茂里町側にはみらい長崎ココウォーク(商業施設)、ココウォークバスセンター(バスターミナル、ココウォーク1階)、長崎ブリックホール(コンサートホール・国際会議場)、長崎文化放送(放送局)、長崎新聞社、長崎西高校、活水中学・高校など公共・文教施設が多い。また、バス・路面電車(北部方面)への乗り換え利用者も多い。この駅の利用者は通勤通学者が多数を占める。
最寄りのバス停は国道206号沿いにある長崎自動車・長崎県交通局の「浦上駅前」バス停。他にもココウォーク茂里町バス停やココウォークバスセンターが徒歩圏内にある。浦上駅前を起終点とする便は少ない。
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"text": "停留場は浦上駅前を走る併用軌道上にあり、ホームは道路上に置かれる。ホームは2面あり、浦上駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う(相対式ホーム)。駅側にあるのが赤迫方面行きのホーム、反対側が長崎駅前方面行きのホーム。ホームには横断歩道橋と横断歩道が接続する。もとは歩道橋のみだったが、利便性を向上させるため2004年に横断歩道が追加で設置された。駅番号は22。",
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"text": "1915年の開業当初は南寄りにあり、当時の路線は浦上駅前から長崎大学病院(旧長崎県立病院)の門前まで大きくカーブを描いて迂回するようなルートをとっていた。この区間は専用軌道で、途中には長崎電気軌道で唯一、赤色灯付きの踏切があった。ルートが変更されたのは1947年5月、原爆投下から浦上駅前 - 大橋間が復旧した時のことで、都市計画に基づいて浦上駅前から浜口町までが一直線に結ばれるようになった。",
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"text": "長崎県内の駅では長崎駅、諫早駅、佐世保駅に次いで4番目に利用客が多い。市布経由の列車を利用するために、平和公園・住吉方面から路面電車やバスを利用し当駅でJRに乗り換える利用者も多い。2022年度以降は西九州新幹線が開業したことに伴い特急の停車がなくなり、JRの利用客が激減している。当駅から長崎駅への利用は元より少ないが、西九州新幹線を利用するために一駅間だけ長崎本線を利用する客が若干いる。浦上駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。",
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"text": "駅前広場を挟み国道に面する。駅の裏には長崎原爆病院、茂里町側にはみらい長崎ココウォーク(商業施設)、ココウォークバスセンター(バスターミナル、ココウォーク1階)、長崎ブリックホール(コンサートホール・国際会議場)、長崎文化放送(放送局)、長崎新聞社、長崎西高校、活水中学・高校など公共・文教施設が多い。また、バス・路面電車(北部方面)への乗り換え利用者も多い。この駅の利用者は通勤通学者が多数を占める。",
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"text": "最寄りのバス停は国道206号沿いにある長崎自動車・長崎県交通局の「浦上駅前」バス停。他にもココウォーク茂里町バス停やココウォークバスセンターが徒歩圏内にある。浦上駅前を起終点とする便は少ない。",
"title": "駅周辺"
}
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浦上駅(うらかみえき)は、長崎県長崎市川口町にある九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線の駅である。 本項では駅前にある長崎電気軌道(長崎電鉄)本線の停留場、浦上駅前停留場(うらかみえきまえていりゅうじょう、浦上駅前電停)についても扱う。
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{{出典の明記|date=2018年8月}}
{{画像提供依頼|生活列車入居の駅舎|それ以前の駅舎|date=2013年4月|依頼ページ=Portal:日本の都道府県/長崎県/画像提供依頼|cat=長崎市}}
{{駅情報
|社色 =
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|駅名 = 浦上駅
|画像 = JR Urakami Station 20200407.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 高架駅舎と仮駅舎(2020年4月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
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|ローマ字 = Urakami
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|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]川口町
}}
'''浦上駅'''(うらかみえき)は、[[長崎県]][[長崎市]]川口町にある[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[長崎本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。
本項では駅前にある[[長崎電気軌道]](長崎電鉄)本線の[[路面電車停留場|停留場]]、'''浦上駅前停留場'''(うらかみえきまえていりゅうじょう、浦上駅前電停)についても扱う。
== 概要 ==
長崎本線の新・旧線の分岐駅であり、全定期旅客列車が停車する。2008年3月14日までは[[寝台列車|寝台特急]]「[[あかつき (列車)|あかつき]]」1往復のみが当駅を通過していたが、廃止されたため、当駅を通過する列車は無くなった。2005年2月28日までは「あかつき」の他に寝台特急「[[さくら (列車)|さくら]]」も当駅を通過していた。特急「[[ふたつ星4047]]」などのD&S列車は当駅を通過する。
[[快速列車|快速]]「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」も当駅に停車するため、諫早・佐世保・鳥栖・佐賀・福岡方面から長崎市北部・時津町・長与町などへ向かう玄関口となっている(バスまたは路面電車に乗り換え)。
また、終点の長崎駅まで行かなくても長与方面と市布方面との乗り換えが出来るため、快速と長与方面の列車の乗り換え利用者も若干いる(運賃は最短距離では計算されないため、喜々津乗り換えの場合とは運賃が異なるが、[[選択乗車]]制度があるので最短距離で計算できる。ただし、券面表示区間以外は途中下車できない)。
2022年9月23日の西九州新幹線開業に伴い、当駅を経由し、停車する定期特急列車はなくなった。西九州新幹線は当駅を経由しないため、利用するには一旦長崎駅を経由する必要があるが、分岐駅通過の特例が適用されるため当駅から諫早方面行きの乗車券で長崎駅を経由できる(別途特急券が必要。西九州新幹線は新線ルートの線増扱いであるため当駅から長崎駅までは乗車した列車にかかわらず旧線ルートを利用したと見なされる。また、長崎駅では途中下車できない)。
長崎電気軌道の浦上駅前停留場は名前のとおり浦上駅の前にあり{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=53}}、[[長崎電気軌道1号系統|1号系統]]・[[長崎電気軌道2号系統|2号系統]]・[[長崎電気軌道3号系統|3号系統]]の電車が停車する。
== 歴史 ==
1897年([[明治]]30年)7月22日の開業当時、この駅は'''長崎駅'''(ながさきえき)という名であった<ref name="停車場">{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|pages=716-717}}</ref>。今の[[長崎駅]]が出来るまでの8年間は終着駅であり、[[長崎市]]の表玄関の駅でもあった。現在でも[[駅前広場]]の一角に「長崎駅址」の石碑が建てられている。
1945年([[昭和]]20年)8月9日の[[長崎市への原子爆弾投下]]では、当駅は爆心地より約1キロの至近距離に位置していたことから、駅舎は全壊し構内には多数の遺体が散乱していたという{{Sfn|ガイドブックながさき|p=81-82}}。国鉄職員の人的被害も甚大で、勤務中の職員ら約70名のうち即死者20名を含む65名が亡くなった{{Sfn|ガイドブックながさき|p=81-82}}が、[[諫早駅]]等との間で被災者をピストン輸送する拠点として機能し続けた。被爆後の駅舎は原爆により焼失しバラック建てによる仮復旧の後、[[1953年]](昭和28年)に建てられたものである。
1973年(昭和48年)の8月9日には、当駅を含む国鉄職員の原爆犠牲者を慰霊する目的で「国鉄原爆死没者慰霊之碑」が[[国鉄労働組合]]により建立され、同時に慰霊祭が執り行われた{{Sfn|ガイドブックながさき|p=81-82}}。
=== 年表 ===
[[ファイル:Nagasaki_Station_(presently_Urakami_Station).jpg|thumb|初代駅舎(1899年)]]
* [[1897年]]([[明治]]30年)
** [[7月22日]]:[[九州鉄道]]長崎線の終着駅、'''長崎駅'''として開業{{R|停車場}}。
*** [[長与駅]]との間の区間が開通(長与駅も同日開業)。なお長与駅より先の区間は未開通で、長与駅と[[早岐駅]](同年7月10日開通)は汽船で連絡していた。
*** 当時、現在の長崎・浦上駅間一帯は海で、市中に乗り入れができなかったため、長崎駅は浦上山里村字外開(現・浦上駅所在地)に設置された。
*** 開通初日の長崎駅乗客数は494名、その料金収入は58円30銭5厘であった。
** 10月:長崎港湾埋立工事が始まる。
* [[1898年]](明治31年)[[11月27日]]:長与 - [[大村駅 (長崎県)|大村]]間の路線が開通し、長崎駅から[[門司駅]]までの全線が開通。
* [[1904年]](明治37年)11月:長崎港湾埋立工事が完成し、埋立地に台場町等の24町が新設される。
* [[1905年]](明治38年)
** 2月:浦上から台場町までの1マイルの臨港路線が延長され、仮駅舎が設置される。
*** 埋立工事が完成し、[[日露戦争]]勃発によって軍事物資の輸送等の必要性が出てきたため。
** [[4月5日]]:路線延伸により台場町の仮駅舎が[[長崎駅]]として開業。従来の長崎駅である当駅は'''浦上駅'''に改称{{R|停車場}}。
* [[1907年]](明治40年)[[7月1日]]:九州鉄道の国有化に伴い官設鉄道(九州帝国鉄道)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:国有鉄道の線路名称制定により長崎本線の駅となる。
* [[1915年]]([[大正]]4年)[[11月16日]]:長崎電気軌道が[[大学病院停留場|病院下]] - [[新地中華街停留場|築町]]間で開通{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=87}}{{Sfn|100年史|p=129}}、浦上駅前停留場が開業{{Sfn|今尾|2009|p=57}}。当初は現在の場所よりやや南にあった{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=53}}。
* [[1945年]]([[昭和]]20年)
** [[8月9日]]:[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]により被災。爆心地に近く駅舎は全壊し職員65名が死亡{{Sfn|ガイドブックながさき|p=81-82}}。線路も大橋鉄橋から長崎駅の間は不通となる。長崎電鉄も全線が不通{{Sfn|田栗|2005|p=157}}。
** [[8月10日]]:大橋鉄橋付近・浦上駅・長崎駅間の復旧工事作業が開始。
** [[8月11日]]:午後10時15分長崎駅発の終列車から運行を再開。
* [[1946年]](昭和21年)[[2月1日]]:長崎電鉄、長崎駅前から浦上駅前までが復旧{{Sfn|田栗|2005|p=157}}。
* [[1947年]](昭和22年)[[5月16日]]:長崎電鉄、浦上駅前から[[大橋停留場|大橋]]までの区間を一部路線変更の上復旧{{Sfn|田栗|2005|p=157}}。
* [[1953年]](昭和28年)[[8月26日]]:旧駅舎が落成し{{Sfn|原爆遺構|p=154}}、被爆後8年間のバラック駅舎での営業を終了。
[[ファイル:JR Kyushu Urakami Station.jpg|thumb|1953年竣工の旧駅舎(2009年)]]
* [[1954年]](昭和29年)[[2月1日]]:浦上駅前停留場を移設{{Sfn|今尾|2009|p=57}}。
* [[1972年]](昭和47年)[[10月2日]]:[[喜々津駅]]から[[市布駅]]を経て当駅に至る長崎本線の新線が開業し、分岐駅となる。
* [[1982年]](昭和57年)[[7月24日]]:[[長崎大水害]]により駅舎が水没し全線運休。[[7月27日]]に復旧。
* [[1986年]](昭和61年)[[12月19日]]:浦上歩道橋線歩行者専用道路が開通。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、九州旅客鉄道(JR九州)の駅となる{{R|停車場}}。
* [[2000年]]([[平成]]12年)[[3月10日]]:浦上駅前停留場を改築{{Sfn|田栗|2005|p=156}}。
* [[2004年]](平成16年)[[12月7日]]:浦上駅前停留場に横断歩道を設置{{Sfn|100年史|p=200}}。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:前日限りで当駅を通過していた寝台特急「あかつき」が廃止されたため、全列車が停車となる。
* [[2012年]](平成24年)[[12月1日]]:同駅を含む長崎地区19駅に[[SUGOCA]]を導入<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1 |date=2012.12.4 }}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** 6月:長崎本線連続立体交差化事業により、高架化工事のため、駅舎取り壊し開始。
** 11月末:仮駅舎完成。
** [[12月14日]]:仮駅舎供用開始。
[[ファイル:Urakamistation13.JPG|thumb|2013年から供用の仮駅舎(2013年)]]
* [[2020年]]([[令和]]2年)[[3月28日]]:当駅 - 長崎間[[連続立体交差事業]]により当駅 - 長崎間が高架化される<ref name="JR九州ダイヤ改正2020">{{Cite press release|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|title=新型車両を投入し、通勤・通学をより快適にします ダイヤをよりわかりやすく利用しやすくします|date=2019-12-13|accessdate=2019-12-29|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|page=4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191224235633/http://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2019/12/13/201912132020harusingatasyaryoudounyuusimasu.pdf|archivedate=2019-12-24}}</ref><ref name="長崎県連立">{{Cite press release|和書|title=JR長崎本線(長崎駅から浦上駅間)の高架化について |url=https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/418010/ |publisher=長崎県都市政策課 |date=2019-12-13 |accessdate=2019-12-13|archivedate=2020-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200220045750/https://www.pref.nagasaki.jp/press-contents/418010/}}</ref><ref name="news20200329">{{Cite news|url=https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200329024212/https://this.kiji.is/616649540609000545?c=174761113988793844|title=JR 新「長崎駅」開業 高架化、踏切4カ所廃止 長崎-浦上両駅 新型コロナで式典で中止|newspaper=長崎新聞|publisher=長崎新聞社|date=2020-03-29|accessdate=2020-03-29|archivedate=2020-03-29}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)[[9月23日]] - 西九州新幹線の開業に伴い、特急の停車がなくなる。
<gallery widths="180px" heights="135px">
NagasakiStationMonument.jpg|長崎駅址の石碑
国鉄原爆犠牲者慰霊之碑.jpeg|国鉄原爆死没者慰霊之碑
</gallery>
== 駅構造 ==
=== JR九州 ===
{{駅情報
|社色 = #ff0000
|駅名 = JR 浦上駅*
|画像 = JR Urakami-STA Gate.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 改札口と切符売り場(2023年1月)
|よみがな = うらかみ
|ローマ字 = Urakami
|電報略号 = ウラ
|所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州)
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]川口町1-50
|座標 = {{coord|32|45|56.12|N|129|51|48.73|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR浦上駅}}
|開業年月日 = [[1897年]]([[明治]]30年)[[7月22日]]
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 1面2線
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 2,363
|乗降人員 =
|統計年度 = 2022年
|乗入路線数 = 2
|所属路線1 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]]
|前の駅1 = **[[現川駅|現川]]
|駅間A1 = 8.9
|駅間B1 = 1.6
|次の駅1 = [[長崎駅|長崎]]
|駅番号1 =
|キロ程1 = 123.7
|起点駅1 = [[鳥栖駅|鳥栖]]
|所属路線2 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]](長与支線)
|前の駅2 = [[西浦上駅|西浦上]]
|駅間A2 = 2.9
|駅間B2 = -
|次の駅2 = (長崎)
|駅番号2 =
|キロ程2 = 23.5
|起点駅2 = [[喜々津駅|喜々津]]
|備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="JRK">[http://www.jrksp.co.jp/guide/branch_nagasaki.html 長崎駅事業所] - JR九州サービスサポート.2021年11月29日閲覧</ref><br />[[みどりの窓口]] 有<ref name="MADO">[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191441_1601.html 駅情報] - JR九州.2021年12月6日閲覧</ref>
|備考全幅 = * [[1905年]]に長崎駅から改称。<br/>** この間に[[肥前三川信号場]]有り(当駅から5.2km先)。
}}
[[島式ホーム]]の1面2線[[高架駅]]。
地上駅時代は相対式ホーム2面2線、2015年12月23日より高架化工事のため島式1面2線の仮ホームとなった。[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]で<ref name="JRK"/>、[[みどりの窓口]]が設置されている<ref name="MADO"/>。
==== のりば ====
{| class="wikitable"
!のりば<!-- 事業者側による呼称 --->!!colspan="2"|路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="3"|{{Color|#faaf18|■}}長崎本線
|style="text-align:center;"|<nowiki>-</nowiki>
|下り
|[[長崎駅|長崎]]方面
|-
!rowspan=2|2
|[[市布駅|市布]]経由
|rowspan=2|上り
| rowspan="2" |[[諫早駅|諫早]]・[[江北駅 (佐賀県)|江北]]・[[佐賀駅|佐賀]]・[[鳥栖駅|鳥栖]]方面
|-
|[[長与駅|長与]]経由
|}
(出典:[https://www.jrkyushu.co.jp/railway/station/1191441_1601.html JR九州 駅情報一覧])<!--※方面案内は出典内にある「駅別時刻表」を基にしております。なお、出典の方面案内は経由地単位(市布または長与)での振り分けは行なっておりません。-->
==== 駅高架化への動き ====
{{節スタブ}}
当駅はJR長崎本線[[連続立体交差事業]]区間内であるため高架化工事が行われている。かつての平屋建ての旧[[駅舎]]は取り壊され、2013年11月末に仮駅舎完成、同年12月14日より供用開始した。旧駅舎に存在し、2013年5月6日から一時閉店していた[[ファミリーマート]]<ref>旧:[[生活列車]]→[[am/pm]]</ref>と[[トランドール]]も12月14日より仮駅舎での営業再開した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrkyushu.co.jp/nagasaki/news/2013/05_14_urakami.pdf |title=浦上駅工事のお知らせ |accessdate=2013-08-02 |format=PDF |publisher=九州旅客鉄道 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304195607/http://www.jrkyushu.co.jp/nagasaki/news/2013/05_14_urakami.pdf |archivedate=2016-03-04 |deadlinkdate=2017年8月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.traindor.com/shop.shtml |title=店舗案内 |accessdate=2013-08-01 |publisher=トランドール}}</ref>。2020年3月28日に高架駅舎の供用を開始した<ref name="JR九州ダイヤ改正2020" /><ref name="長崎県連立" /><ref name="news20200329"/>。[[西九州新幹線]]の暫定開業後は、通常2 - 4両の普通・快速列車しか停車しなくなるため、不要になるホーム部分は撤去された<ref>{{Cite news|url=https://this.kiji.is/667177250798650465?c=174761113988793844|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200815081415/https://this.kiji.is/667177250798650465?c=174761113988793844|title=長崎のJR浦上駅 完成形は?|newspaper=長崎新聞|publisher=長崎新聞社|date=2020-08-15|accessdate=2020-08-15|archivedate=2020-08-15}}</ref>。
<gallery widths="180px" heights="135px">
JR_Urakami_Station_20200407_02.jpg|構内
UrakamiStationPlatform.jpg|地上駅時代の構内
</gallery>
=== 長崎電気軌道 ===
{{駅情報
|社色 = #008000
|文字色 =
|駅名 = 長崎電気軌道 浦上駅前停留場
|画像 = <!-- 記事のバランスが乱れるので画像は入れないでください -->
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな = うらかみえきまえ
|ローマ字 = Urakami Station
|前の駅 = 21 [[大学病院停留場|大学病院]]
|駅間A = 0.4
|駅間B = 0.2
|次の駅 = [[茂里町停留場|茂里町]] 23
|電報略号 =
|駅番号 = '''22'''
|所属事業者 = [[長崎電気軌道]]
|所属路線 = 本線({{Color|blue|■}}[[長崎電気軌道1号系統|1号系統]]・□[[長崎電気軌道2号系統|2号系統]]・{{Color|red|■}}[[長崎電気軌道3号系統|3号系統]])
|キロ程 = 3.2 km([[住吉停留場 (長崎県)|住吉]]起点)<br />[[赤迫停留場|赤迫]]から3.4
|起点駅 =
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]川口町3番地先
|座標 = {{coord|32|45|55.88|N|129|51|51.08|E|type:railwaystation_region:JP|name=浦上駅前停留場}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1915年]]([[大正]]4年)[[11月16日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 2,800
|統計年度 = 2019年
|備考 =
}}
停留場は浦上駅前を走る[[併用軌道]]上にあり、[[プラットホーム|ホーム]]は道路上に置かれる{{Sfn|100年史|p=130}}{{Sfn|川島|2013|p=47}}。ホームは2面あり、浦上駅に並行して伸びる2本の線路を挟んで向かい合う([[相対式ホーム]]){{Sfn|100年史|p=130}}{{Sfn|川島|2013|p=47}}。駅側にあるのが[[赤迫停留場|赤迫]]方面行きのホーム、反対側が[[長崎駅]]前方面行きのホーム{{Sfn|川島|2013|p=47}}。ホームには[[横断歩道橋]]と[[横断歩道]]が接続する。もとは歩道橋のみだったが、利便性を向上させるため2004年に横断歩道が追加で設置された{{Sfn|100年史|p=116}}。駅番号は'''22'''。
1915年の開業当初は南寄りにあり{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=53}}、当時の路線は浦上駅前から[[長崎大学病院]](旧長崎県立病院)の門前まで大きくカーブを描いて迂回するようなルートをとっていた{{Sfn|100年史|p=129}}{{Sfn|田栗|2005|p=44}}。この区間は[[専用軌道]]で{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=88}}、途中には長崎電気軌道で唯一、赤色灯付きの[[踏切]]があった{{Sfn|田栗|2005|p=46}}。ルートが変更されたのは1947年5月、原爆投下から浦上駅前 - 大橋間が復旧した時のことで{{Sfn|今尾|2009|p=57}}{{Sfn|田栗|2005|p=157}}、都市計画に基づいて浦上駅前から[[原爆資料館停留場|浜口町]]までが一直線に結ばれるようになった{{Sfn|田栗|宮川|2000|p=98}}。
<gallery widths="180px" heights="135px">
Nagasaki Electric Tramway station 22 Urakami eki-mae.png|停留場全景
</gallery>
{{-}}
== 利用状況 ==
* JR九州 - 2022年度の1日平均[[乗車人員]]は'''2,363人'''である<ref>{{Cite web|和書|title=駅別乗車人員上位300駅(2022年度)|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2022ekibetsu.pdf|publisher=九州旅客鉄道|format=PDF|accessdate=2023-09-07}}</ref>。
* 長崎電気軌道 - 2019年の1日の乗降人員は'''2,800人'''である<ref>[https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-S12-v2_7.html 国土数値情報 駅別乗降客数データ ] - 国土交通省、2021年9月7日閲覧</ref>。
長崎県内の駅では長崎駅、諫早駅、佐世保駅に次いで4番目に利用客が多い。{{要出典範囲|市布経由の列車を利用するために、平和公園・住吉方面から路面電車やバスを利用し当駅でJRに乗り換える利用者も多い。2022年度以降は西九州新幹線が開業したことに伴い特急の停車がなくなり、JRの利用客が激減している。当駅から長崎駅への利用は元より少ないが、西九州新幹線を利用するために一駅間だけ長崎本線を利用する客が若干いる|date=2023年9月}}。浦上駅の各年度の1日平均乗車人員は以下の通り。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|-
!年度
!style="text-align:center;"|1日平均<br/>乗車人員<!--2015年度以前は長崎県統計年鑑から--><!--年間乗車人員/年間日数365or366(小数点以下は四捨五入)-->
|-
|2000年
|2,095
|-
|2001年
|2,033
|-
|2002年
|1,955
|-
|2003年<!--366で除する-->
|1,888
|-
|2004年
|1,887
|-
|2005年
|1,903
|-
|2006年
|1,908
|-
|2007年<!--366で除する-->
|2,061
|-
|2008年
|2,213
|-
|2009年
|2,330
|-
|2010年
|2,379
|-
|2011年<!--366で除する-->
|2,412
|-
|2012年
|2,551
|-
|2013年
|2,562
|-
|2014年
|2,569
|-
|2015年<!--366で除する-->
|2,597
|-
|2016年
|2,609
|-
|2017年
|2,568
|-
|2018年
|2,629
|-
|2019年
|2,590
|-
|2020年
|2,146
|-
|2021年
|2,270
|}
== 駅周辺 ==
[[駅前広場]]を挟み国道に面する。駅の裏には長崎原爆病院、茂里町側には[[みらい長崎ココウォーク]](商業施設)、ココウォークバスセンター(バスターミナル、ココウォーク1階)、[[長崎ブリックホール]](コンサートホール・国際会議場)、[[長崎文化放送]](放送局)、[[長崎新聞|長崎新聞社]]、長崎西高校、活水中学・高校など公共・文教施設が多い。また、バス・路面電車(北部方面)への乗り換え利用者も多い。この駅の利用者は通勤通学者が多数を占める。
=== 文教施設 ===
* [[活水中学校・高等学校]]
* [[長崎県立長崎西高等学校]]
* [[長崎市立淵中学校]]
* [[長崎市立銭座小学校]]
* [[長崎市立坂本小学校]]
* [[北九州予備校]]長崎校
* [[長崎大学]]医学部・歯学部
* 長崎歯科衛生士専門学校
=== 医療 ===
* [[長崎大学病院]]
* [[日本赤十字社長崎原爆病院]]
* 長崎県医師会館
=== 文化施設 ===
* 長崎市平和会館
* 長崎市立歴史民俗資料館
* [[長崎ブリックホール]]
* 長崎県総合福祉センター
* 長崎県障害者職業センター
* [[長崎原爆資料館]]
=== マスコミ ===
* [[長崎新聞]]
* [[長崎文化放送]]
=== その他 ===
* まるなか蒲鉾総本店
* [[みらい長崎ココウォーク]] - 2008年10月1日に浦上駅近くの[[長崎自動車]]茂里町営業所の再開発事業計画によって建設された。観覧車をランドマークとする大型商業施設。
* [[浦上川]]
=== バス路線 ===
最寄りのバス停は[[国道206号]]沿いにある[[長崎自動車]]・[[長崎県交通局]]の「浦上駅前」バス停。他にもココウォーク茂里町バス停やココウォークバスセンターが徒歩圏内にある。浦上駅前を起終点とする便は少ない。
* 大橋・住吉・本原・昭和町・西町方面 - '''浦上駅前''' - 長崎駅前・中央橋・新地中華街方面
** 長崎大学病院行きミニバス「元気くん」と浦上駅前始発立神行きは駅前広場から発車する。
** 長崎空港行きリムジンバス(昭和町経由・道の尾経由)も利用可能。
== 隣の駅 ==
; 九州旅客鉄道(JR九州)
: {{Color|#faaf18|■}}長崎本線(新線、市布経由)
:: {{Color|#e78137|■}}区間快速「[[シーサイドライナー (列車)|シーサイドライナー]]」
::: [[喜々津駅]] - '''浦上駅''' - [[長崎駅]]
:: {{color|#216daf|■}}快速「シーサイドライナー」・{{color|#666568|■}}普通
::: [[現川駅]] - ([[肥前三川信号場]]) - '''浦上駅''' - 長崎駅
: {{Color|#faaf18|■}}長崎本線(旧線、長与経由)
:: {{color|#666568|■}}普通
::: [[西浦上駅]] - '''浦上駅''' - 長崎駅
; 長崎電気軌道
: 本線({{Color|blue|■}}1号系統・□2号系統・{{Color|red|■}}3号系統)
::: [[大学病院停留場]](21) - '''浦上駅前停留場(22)''' - [[茂里町停留場]](23)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介 |title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=12 九州沖縄 |year=2009 |isbn=978-4-10-790030-2 |ref={{Harvid|今尾|2009}} }}
* {{Cite book|和書|author=川島令三 |authorlink=川島令三 |title=四国・九州ライン 全線・全駅・全配線 |year=2013 |publisher=[[講談社]] |series=【図説】 日本の鉄道 |isbn=978-4-06-295161-6 |volume=第5巻 長崎・佐賀エリア |ref={{Harvid|川島|2013}} }}
* {{Cite book|和書|author=田栗優一 |title=長崎「電車」が走る街今昔 |year=2005 |publisher=[[JTBパブリッシング]] |series=JTBキャンブックス |isbn=4-533-05987-2 |ref={{Harvid|田栗|2005}} }}
* {{Cite book|和書|author1=田栗優一 |author2=宮川浩一 |title=長崎のチンチン電車 |year=2000 |publisher=[[葦書房]] |isbn=4-7512-0764-4 |ref={{Harvid|田栗|宮川|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author=長崎電気軌道株式会社 |title=長崎電気軌道100年史 |year=2016 |ref={{Harvid|100年史}} }}
* {{Cite book|和書|author=長崎の原爆遺構を記録する会 編 |title=原爆遺構 長崎の記憶 |year=2005 |publisher=[[海鳥社]] |isbn=4-874-15543-X |ref={{Harvid|原爆遺構}} }}
* {{Cite book|和書|author=長崎平和研究所 |title=ガイドブックながさき |date=1997-08-09 |publisher=新日本出版社 |isbn=4406025324 |ref={{Harvid|ガイドブックながさき}} }}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|ページ名=Urakami Station (JR Kyushu)|タイトル=浦上駅|追加1=Urakami Station (Nagasaki Electric Tramway)|タイトル1=浦上駅前停留場}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120310|name=浦上}}
{{鉄道路線ヘッダー}}
{{長崎本線}}
{{長崎電気軌道1系統}}
{{長崎電気軌道2系統}}
{{長崎電気軌道3系統}}
{{鉄道路線フッター}}
{{リダイレクトの所属カテゴリ
|redirect= 浦上駅前停留場|長崎電気軌道の鉄道駅|1915年開業の鉄道駅}}
{{DEFAULTSORT:うらかみ}}
[[Category:長崎市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 う|らかみ]]
[[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]]
[[Category:長崎本線]]
[[Category:九州鉄道(初代)の鉄道駅]]
[[Category:長崎原爆]]
[[Category:1897年開業の鉄道駅]]
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16,420 |
西浦上駅
|
西浦上駅(にしうらかみえき)は、長崎県長崎市音無町にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線(長与支線)の駅である。
開業前の仮称は「赤迫」であった。
単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅である。かつては簡易委託駅で、きっぷうりばが設置されていた。
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西浦上駅(にしうらかみえき)は、長崎県長崎市音無町にある、九州旅客鉄道(JR九州)長崎本線(長与支線)の駅である。
|
{{駅情報
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|駅名 = 西浦上駅
|画像 = JR Kyushu Nishi-Urakami station.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅全景(2017年4月、北側より)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = にしうらかみ
|ローマ字 = Nishi-Urakami
|前の駅 = [[道ノ尾駅|道ノ尾]]
|駅間A = 1.7
|駅間B = 2.9
|次の駅 = [[浦上駅|浦上]]
|所属事業者 = [[九州旅客鉄道]](JR九州)
|所属路線 = {{Color|#faaf18|■}}[[長崎本線]](長与支線)
|電報略号 = ラカ
|駅番号 =
|キロ程 = 20.6
|起点駅 = [[喜々津駅|喜々津]]
|所在地 = [[長崎県]][[長崎市]]音無町
|座標 = {{coord|32|47|25.69|N|129|51|32.43|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]
|ホーム = 1面1線<ref name="zeneki27">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =27号 長崎駅・佐世保駅・大村駅ほか75駅 |date =2013-02-17 |page =23 }}</ref>
|開業年月日 = [[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月9日]]<ref name="交通861226">{{Cite news |title=4駅の名称決る 開業は3月9日 国鉄九州総局の臨時乗降場 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-12-26 |page=1 }}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 = 740
|乗降人員 =
|統計年度 = 2021年
|乗換 = [[住吉停留場 (長崎県)|住吉電停]]([[長崎電気軌道]])
|備考 = [[無人駅]]{{R|zeneki27}}
}}
'''西浦上駅'''(にしうらかみえき)は、[[長崎県]][[長崎市]]音無町にある、[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[長崎本線]](長与支線)の[[鉄道駅|駅]]である{{R|zeneki27}}。
== 歴史 ==
開業前の仮称は「赤迫」であった{{R|交通861226}}。
* [[1987年]]([[昭和]]62年)
** [[3月9日]]:[[日本国有鉄道]]が[[臨時駅]]として開設{{R|交通861226}}。開業時は[[ホーム有効長#プラットホーム有効長|ホーム有効長]]は90m{{R|交通861226}}。また、開業当時は[[無人駅]]であった<ref>{{Cite news |title=地域密着へ6新駅開業 九州総局管内 日豊本線の一部複線化も |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-03-10 |page=1 }}</ref>。
** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]により[[九州旅客鉄道]]が継承、同時に駅に昇格<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=717}}</ref>。
* [[2012年]]([[平成]]24年)[[12月1日]]:当駅を含む長崎地区19駅に[[SUGOCA]]を導入<ref>{{Cite news |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=[[交通新聞社]] |page=1 |date=2012.12.4 }}</ref>。
== 駅構造 ==
[[ファイル:JR Nishi-Urakami Sta. - panoramio (1).jpg|thumb|ホーム(2009年6月)]]
[[単式ホーム]]1面1線を有する[[地上駅]]{{R|zeneki27}}。[[無人駅]]である{{R|zeneki27}}。かつては簡易委託駅で、きっぷうりばが設置されていた。
== 利用状況 ==
* 2019年度の1日平均乗車人員は'''907人'''である<ref>{{Cite web|和書|title=駅別乗車人員上位300駅(2019年度)|url=https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/pdf/2019ekibetsu.pdf |publisher=九州旅客鉄道 |format=PDF |accessdate=2020-09-5}}</ref>。
{| class="wikitable" style="margin: 1em 0.2em; text-align: center; font-size: 80%;"
|- style="background: #ddd;"
!colspan="2"|乗車人員推移<ref>[https://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/754000/p034368.html 令和元年版長崎市統計年鑑 ] 、2020年9月5日閲覧</ref>
|-
!年度
!1日平均人数
|-
|2000
|865
|-
|2001
|779
|-
|2002
|356
|-
|2003
|323
|-
|2004
|305
|-
|2005
|301
|-
|2006
|287
|-
|2007
|
|-
|2008
|
|-
|2009
|301
|-
|2010
|308
|-
|2011
|298
|-
|2012
|353
|-
|2013
|630
|-
|2014
|635
|-
|2015
|698
|-
|2016
|728
|-
|2017
|774
|-
|2018
|888
|-
|2019
|907
|}
== 駅周辺 ==
* [[長崎大学]]本部
* [[長崎電気軌道]][[住吉停留場 (長崎県)|住吉電停]]
* [[長崎自動車|長崎バス]]・[[長崎県交通局|県営バス]]住吉停留所
* [[チトセピア]](複合施設)
** 長崎市西浦上支所
** 長崎市北公民館
** 長崎市チトセピアホール
** 長崎住吉郵便局
* [[長崎トンネル#長崎トンネル (JR長崎本線)|長崎トンネル]]
== 隣の駅 ==
; 九州旅客鉄道(JR九州)
: {{Color|#faaf18|■}}長崎本線(長与支線)
:: [[道ノ尾駅]] - '''西浦上駅''' - [[浦上駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/JR九州駅|filename=91120410|name=西浦上}}
{{長崎本線}}
{{DEFAULTSORT:にしうらかみ}}
[[Category:長崎市の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 に|しうらかみ]]
[[Category:九州旅客鉄道の鉄道駅]]
[[Category:日本国有鉄道の臨時乗降場]]
[[Category:長崎本線]]
[[Category:1987年開業の鉄道駅]]
|
2003-09-12T16:26:07Z
|
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E9%A7%85
|
16,421 |
AND
|
AND、and、アンド、アンパサンド、&
|
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] |
AND、and、アンド、アンパサンド、&
|
'''AND'''、'''and'''、'''アンド'''、'''アンパサンド'''、'''&'''
== AND ==
=== 一般名称 ===
* [[論理積]]、[[ANDゲート]]
* [[アンドラ|アンドラ公国]]の[[ISO 3166-1]][[国名コード]]
* [[アンドロメダ座]] (Andromeda) の略符
== and ==
=== 施設 ===
* [[あべのand]] - [[大阪市]][[天王寺]]地区にある[[商業施設]]
=== 作品名 ===
* [[and〜安堵〜]] - [[2007年]]から[[2008年]]まで放送されたテレビ番組。
* 『[[And (アルバム)|and]]』(アンド) - 日本の歌手[[椎名慶治]]のアルバム
== アンド ==
=== 組織 ===
* [[アンド (バンド)]] - 日本のヴィジュアル系バンド
== &(アンパサンド) ==
* 「&」([[アンパサンド]]) - 「…と…」を意味する記号である。英語の "and" に相当する。
== &(アンド) ==
=== 作品 ===
* 『[[& (シングル)|&]]』(アンド) - 日本の歌手[[浜崎あゆみ]]のシングル
* 『[[& (一青窈のアルバム)|&]]』(アンド) - 日本の歌手[[一青窈]]のアルバム
* 『[[& (山本彩のアルバム)|&]]』(アンド) - 日本の歌手[[山本彩]]のアルバム
=== 組織 ===
* [[&[AND]]](アンド) - 日本の音楽ユニット
* [[et-アンド-]](アンド) - [[ゼスト (芸能事務所)|ゼスト]]所属の女性ボーカルグループ
== エンド ==
=== 組織 ===
* [[ジョンソン・エンド・ジョンソン]] - 製薬、医療機器その他のヘルスケア関連製品を取り扱う多国籍企業 andをエンドと発音する。
== 関連項目 ==
* [[& (曖昧さ回避)]]
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16,422 |
OR
|
OR, Or, or
|
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OR, Or, or
|
{{WikipediaPage|独自研究(Original Researches)|Wikipedia:独自研究は載せない}}
'''OR''', '''Or''', '''or'''
== 一般 ==
* どちらか一方という意味。「パンORライス」と書かれていればパン又はライスのことで両方を選択できない。論理演算では[[排他的論理和]]に相当。
* [[論理和]] (OR operation)は[[論理演算]]の一つ。一般的に使われるORとは異なり、両方を選択しても真となる。
** [[ORゲート]] - 論理和を実装した[[論理回路]]
* [[オリンピック記録]](Olympic record)の略。
* [[オペレーションズリサーチ]] (operations research)
* [[接眼レンズ]]のオルソスコピック形式
*[[リバウンド (バスケットボール)#状況による分類|オフェンスリバウンド]]
*[[オッズ比]](odds ratio)の略。
== 固有名詞 ==
* [[オリスターノ県]](イタリアの県)の[[イタリア共和国の県名略記号|県名略記号]]および[[ISO 3166-2:IT]]県名コード。
* [[オリヤー語]]の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]]
*[[鉄道]]の[[サインシステム]]において、[[近江鉄道|近江鉄道線]] ('''Ō'''mi'''R'''ailway)、[[肥薩おれんじ鉄道線]] ('''O'''range'''R'''ailway) の[[路線記号]]として用いられる。
*[[オレゴン州]]の略。[[アメリカ合衆国]]の西海岸の州。
== 組織 ==
* [[MBSラジオ]] (JOOR)
* [[ORANGE RANGE]] - [[ロックバンド]]。
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|
16,425 |
テレビ局一覧
|
テレビ局一覧(てれびきょくいちらん)では、世界のテレビで見られるチャンネルを集めた一覧である。日本のケーブルテレビは除く。
表で設立年とあるが、これは会社の設立年ではなく、テレビ局の設立年である。
|
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テレビ局一覧(てれびきょくいちらん)では、世界のテレビで見られるチャンネルを集めた一覧である。日本のケーブルテレビは除く。 表で設立年とあるが、これは会社の設立年ではなく、テレビ局の設立年である。
|
'''テレビ局一覧'''(てれびきょくいちらん)では、[[世界]]の[[テレビ]]で見られる[[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]を集めた一覧である。[[日本]]のケーブルテレビは除く。
表で設立年とあるが、これは会社の設立年ではなく、テレビ局の設立年である。
{{main2|[[:Category:各国のテレビ局]]や[[:en:Category:Television stations by country]]も}}
== アメリカ合衆国 ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー|ABC]]||American Broadcasting Company||1940||
|-
|[[CBS]]||CBS Corporation||1927||世界で初めてカラーテレビを採用した
|-
|[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]||Cable News Network||1980||ニュース専門
|-
|[[NBC]]||National Broadcasting Company||1926||
|-
|[[フォックス放送|FOX]]||Fox Broadcasting Company||1986||新興大手ネットワーク。[[ニューズ・コープ]]系列
|-
|[[PBS]]||Public Broadcasting Service||1969||公共系テレビ局||
|-
|[[ディスカバリーチャンネル|DSC]]||Discovery Channel||1984||教養番組専門
|-
|[[ターナー・ネットワーク・テレビジョン|TNT]]||Turner Network Television||1988||娯楽番組主体
|-
|[[MTV]]||Music Television||1981||音楽専門
|-
|[[HBO]]||Home Box Office||1972||アメリカ最大手の有料チャンネル。映画番組主体
|-
|[[ESPN]]||Entertainment and Sports Programming Network||1979||スポーツ放送主体
|-
|}
== カナダ ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[カナダ放送協会|CBC]]||Canadian Broadcasting Corporation||1936||公共系放送局
|-
|[[CTVテレビジョンネットワーク|CTV]]||CTV television network||1961||民放最大手局
|-
|[[グローバルテレビジョンネットワーク|Global]] ||Global Television Network||1974||
|-
|}
== メキシコ ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[テレビサ]]||Televisa || ||
|-
|[[テレビシオン・アステカ]]||Tele Azteca || ||
|-
|}
== ブラジル ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[グローボ]]||Rede Globo||1965||ブラジル最大のテレビ局、南米の[[ハリウッド]]とも称される
|-
|[[SBT]]||Sistema Brasileiro de Televisão||1981||
|-
|[[RecordTV]]||RecordTV||1953||
|-
|[[バンデランテス]]||Rede Bandeirantes||1967||
|-
|{{ill|Rede TV|en|RedeTV!}}||RedeTV!||1999||
|-
|[[TVクルトゥーラ]]||TV Cultura||1969||教養番組主体。財団運営
|}
== イギリス ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[英国放送協会|BBC]]||The British Broadcasting Corporation||1922||公共放送局
|-
|[[ITN]]||Independent Television News||1955||ITVのニュース製作部門
|-
|[[ITV (イギリス)|ITV]]||Independent Television||1955||民放最大手局
|-
|[[チャンネル4]]||Channel Four Television Corporation||1982||公共放送局(広告収入で成り立つ)
|-
|{{ill|Film Four|en|Film4 Productions}}|| || ||チャンネル4傘下の映画専門局
|-
|[[Five (放送局)|five]]||Channel Five (Broadcasting Corporaiton)||1997||最後発の地上波民放局
|-
|[[Sky1]]|| ||1982||エンターテイメント専門
|-
|[[Sky News]]||Sky News||1989||ニュース専門
|-
|[[Sky Sports]]|| || ||スポーツ専門
|-
|}
== ドイツ ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[ドイツ公共放送連盟|ARD]]||Arbeitsgemeinschaft der öffentlich-rechtlichen Rundfunkanstalten der Bundesrepublik Deutschland|| ||
|-
|[[第2ドイツテレビ|ZDF]]||Zweites Deutsches Fernsehen||1963||公共系放送局
|-
|[[RTLテレビジョン|RTL]]|| || ||
|-
|[[SAT1]]|| || ||
|-
|[[PRO7]]|| || ||
|-
|[[VOX (テレビ局)|VOX]]|| || ||
|-
|[[RTL2]]|| || ||
|-
|[[mehr]]|| || ||
|-
|}
== フランス ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[フランステレビジョン]]||France Télévisions||1962||[[公共放送]]。France 2、France 3、France 4、France 5の4チャンネルがある
|-
|[[TF1]]||Télévision Française 1||1948||民放最大手局
|-
|[[Canal+]]|| || ||
|-
|[[M6 (テレビ局)|M6]]||Métropole Télévision||1987||若者に人気のケーブルチャンネル。
|-
|}
== イタリア ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[イタリア放送協会|RAI]]||RAdiotelevisione Italiana (旧称Radio Audizioni Italiane)||1954||RaiUno、RaiDue、RaiTreの3チャンネルがある
|-
|[[メディアセット]]||Gruppo Mediaset(?) ||1980||イタリア1、レテ4、カナレ5の3チャンネルがある。設立年はイタリア1発足時
|-
|[[ラ7]]||La 7||1974||[[テレコム・イタリア]]傘下、1999年に本社を[[モナコ]]から[[ローマ]]へ移転
|}
== スペイン ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:10%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:15%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[テレビション・エスパニョーラ|TVE]]||Televisión Española||1956||国営放送局。1970年代までスペイン唯一のテレビ局。チャンネル1、2を保有
|-
|[[アンテナ3]]||Antena 3||1988||チャンネル3、[[RTL]]が資本参加
|-
|[[クアトロ (テレビ局)|クアトロ]]||Cuatro TV||2005||チャンネル4の意。現在テレシンコグループ傘下
|-
|[[テレシンコ]]||Telecinco||1989||チャンネル5、[[メディアセット]]が資本参加
|-
|[[ラ・セクスタ]]||La Sexta||2006||チャンネル6
|}
== ロシア ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[チャンネル1 (ロシア)|Channel One]]|| || ||
|-
|[[NTV (ロシア)|NTV]]|| || ||
|-
|[[ロシア1]]||Russian State Television and Radio Broadcasting|| ||
|-
|}
== オーストラリア ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[オーストラリア放送協会|ABC]]||Australian Broadcasting Corporation||1932||公共系放送局
|-
|[[スペシャル・ブロードキャスティング・サービス|SBS]]||Special Broadcasting Service||1975||公共系放送局
|-
|[[セブン・ネットワーク|Channel 7]]||Seven Network||1956||
|-
|[[ナイン・ネットワーク|Channel 9]]||Nine Network||1956||
|-
|[[ネットワーク・テン|Channel 10]]||Ten Network||1965||カナダ資本の傘下
|-
|}
== 日本 ==
{{main|日本のテレビジョン放送局}}
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]||NHK総合テレビジョン(日本放送協会)||1950||公共放送。1953年テレビ放送開始
|-
|[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]||NHK教育テレビジョン(日本放送協会)||1959||公共放送。教育,教養,福祉を中心に放送
|-
|[[日本テレビ放送網|日本テレビ(日テレ)]]||日本テレビ放送網株式会社||2012||旧日本テレビ放送網株式会社(現:[[日本テレビホールディングス]]、1953年テレビ放送開始)よりテレビ部門の現業全般を継承
|-
|[[テレビ朝日|テレビ朝日(テレ朝)]]||株式会社テレビ朝日||2014||旧株式会社テレビ朝日(現:[[テレビ朝日ホールディングス]]、1959年テレビ放送開始)よりテレビ部門の現業全般を継承
|-
|[[TBSテレビ|TBSテレビ(TBS)]]||株式会社TBSテレビ||2004||株式会社東京放送(現:[[東京放送ホールディングス]]、1955年テレビ放送開始)よりテレビ部門の現業全般を継承
|-
|[[フジテレビジョン|フジテレビ(フジ)]]||株式会社フジテレビジョン||2008||[[フジサンケイグループ]]基幹企業。旧株式会社フジテレビジョン(現:[[フジ・メディア・ホールディングス]]、1959年テレビ放送開始)よりテレビ部門の現業全般を継承
|-
|[[テレビ東京|テレビ東京(テレ東)]]||株式会社テレビ東京||1964||日本で最後に開局したVHFを親局とするテレビ局(旧称:日本科学技術振興財団テレビ事業本部→株式会社東京12チャンネル)
|-
|}
== 中華民国 ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[台湾電視公司|TTV、台視]]||臺灣電視事業股份有限公司||1962||台湾初のテレビ局。
|-
|[[中華電視公司|CTS、華視]]||中華電視股份有限公司||1971||台湾三局目のテレビ局。
|-
|[[中国電視公司|CTV、中視]]||中國電視事業股份有限公司||1969||台湾二局目のテレビ局。
|-
|[[民間全民電視公司|FTV、民視]]||民間全民電視股份有限公司||1997||台湾初の地上波民間放送局として開局。
|-
|[[公共電視台|PTS、公視]]||財團法人公共電視文化事業基金會||1998||公共放送局。財団法人運営。
|}
== 大韓民国 ==
{{main|韓国の放送局一覧}}
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[韓国放送公社|KBS]]||한국방송공사(韓国放送公社)||1961||公共放送局
|-
|[[韓国教育放送公社|EBS]]||한국교육방송공사(韓国教育放送公社)||1990||教育専門の公共放送局
|-
|[[文化放送 (韓国)|MBC]]||문화방송(文化放送)||1969||半官半民の放送局
|-
|[[SBS (韓国)|SBS]]||에스비에스(エスビーエス)||1990||新興民放局
|-
|[[JTBC]]||제이티비씨(ジェイティービーシー)||2011||
|-
|[[毎日放送 (韓国)|MBN]]||매일방송(毎日放送)||1993||
|-
|[[朝鮮放送|TV朝鮮]]||조선방송(朝鮮放送)||2011||
|-
|[[チャンネルA]]||채널에이(チャンネルエイ)||2011||
|-
|[[YTN]]||와이티엔(ワイティーエヌ)||1993||ニュース専門局
|-
|[[ニュースY]]||뉴스와이(ニュースワイ)||2011||
|}
== 朝鮮民主主義人民共和国 ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[朝鮮中央放送|KCBC]]||조선중앙방송(朝鮮中央放送)||1963||
|-
|[[万寿台テレビ]]||만수대 텔레비죤(万寿台テレビ)||1973||全国放送||
|-
|[[竜南山テレビ]]||조선교육문화텔레비죤(竜南山テレビ)||2012||平壌市周辺のみカバー||
|-
|[[体育テレビ]]||체육텔레비죤(体育テレビ)||2015||平壌市周辺のみカバー||
|-
|[[朝鮮中央テレビ]]
|〃
|1963
|
|-
|[[朝鮮中央通信]]
|〃
|1946
|
|}
== 中華人民共和国 ==
{{seealso|香港のテレビ局一覧}}
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|-
|[[中国中央電視台|CCTV、央視、中央台]]||{{lang|zh|中国中央电视台}}||1958||国営放送局
|-
|[[中国教育電視台|CETV]]||{{lang|zh|中国教育电视台}}||1986||国営教育専門放送局
|-
|[[北京電視台|BTV]]||{{lang|zh|北京电视台}}||1979||北京市の地方局
|-
|[[上海電視台|STVN]]||{{lang|zh|上海电视}}||1958||上海市の地方局
|-
|[[鳳凰衛視|フェニックステレビ]]||{{lang|zh-hk|鳳凰衛視}}||1996||香港の衛星放送局
|-
|[[無綫電視|TVB、無綫電視]]||{{lang|zh-hk|電視廣播有限公司}}||1967||香港の放送局
|-
|[[亜洲電視|ATV、亞視]]||{{lang|zh-hk|亞洲電視有限公司}}||1957||香港の放送局。中華圏最初のテレビ局。2016年に放送終了。
|-
|[[香港電視娯楽]]
|香港電視娛樂有限公司
|2013年
|香港の放送局
|-
|[[有線電視|有線]]||{{lang|zh-hk|香港有線電視服務有限公司}}||1993||香港の有料放送局
|-
|[[香港電台|RTHK、港台]]||{{lang|zh-hk|香港電台}}||1928||香港の公営放送局
|-
|[[澳門電視台|TDM]]||澳門廣播電視股份有限公司||1982||マカオの放送局。
|-
|}
== シンガポール ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|{{仮リンク|CNA(チャンネル・ニュースアジア)|en|CNA (TV network)}}|| Channel News Asia||1999||ニュース専門局
|-
|[[メディアコープ|Channel5]]||MediaCorp Channel 5 ||1963||(前時代は政府機構形式の国営放送。2001年は民営化)英語放送局
|-
|[[メディアコープ|Channel8]]||MediaCorp Channel 8 ||1963||中国語放送局
|-
|[[メディアコープ|Suria]]||MediaCorp Suria ||1984||2000年まで放送されたPrime12の一部番組は他局へ分割して局名変更となる
|-
|}
== ベトナム ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[VTV]]||Đài Truyền hình Việt Nam||1970||
|-
|}
== タイ ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[チャンネル3]]||Bangkok entertainment company limited ||1970 ||
|-
|[[タイ王国陸軍テレビ局|チャンネル 5]]||Royal thai army radio and television ||1958 ||
|-
|[[チャンネル7]]||Bangkok Broadcasting and tv company limited ||1967 ||
|-
|[[Channel 9 MCOT HD]]||MCOT public company limited ||1955 ||前身はタイテレビ有限会社で所属、[[1977年]]よりMCOTで傘下
|-
|[[GMM 25]]|| ||2014 ||The One Enterpriseの傘下
|-
|[[One 31]]|| ||2011 ||The One Enterpriseの傘下
|-
|[[タイ国営テレビ局|NBT]]||National Broadcasting Services of Thailand (Formely Known as Television of Thailand) ||1985 ||国営テレビ局 なお、[[1985年]]は機関で設立 [[1988年]]で開局
|-
|[[タイ公共放送公団|Thai PBS]]||Thai Public Broadcasting Service ||1996 ||UHF波テレビ局 、2007-2008年の間に国有と公共化した(旧名は[[ITV (タイ)|ITV]]及びTITV)
|-
|}
== フィリピン ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[ABS-CBN]]||ABS-CBN Broadcasting Corporation||1953||
|-
|[[GMAネットワーク]]||GMA Network||1950||
|-
|[[TV5 (フィリピン)|TV5]]||Associated Broadcasting Company||1960||
|-
|}
== ミャンマー ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[ミャンマー国営放送|MRTV]]||Myanmar Radio and Television||1979||国営放送局
|-
|[[ミャワディテレビ|MWD]]||Myawaddy TV||1995||ミャンマー国軍所有のテレビ局
|-
|}
== その他アジア ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[:en:Radio Television Afghanistan|RTA]][http://www.rta.org.af]||Radio and Television of Afghanistan||1925||アフガニスタン国営ラジオテレビ
|-
|[[:en:Bangladesh Television|BTV]][http://www.btv.com.bd/btv_world.html]||Bangladesh TV World||1964||バングラデシュ国営国際放送
|-
|[[TVK]] [http://www.tvk.gov.kh]||National Television of Kampuchea ||1966||カンボジア国営放送局
|-
||[[:en:TV5 Cambodia|TV5]] [http://www.ch5cambodia.com/]||TV5 Cambodia||1995||
|-
||[[ドゥールダルシャン|DD]] [http://www.ddindia.gov.in/]||Doordarshan India||1959||インド国営テレビ局。国際放送(english)を含む33チャンネルを放送するインド最大の放送局。多言語国家のため、バングラ語、カンナダ語、テルグ語、ラジャ語など多数の専門語チャンネルを放送している。
|-
||[[:en:Asianet Satellite Communications|ASIANET]][http://www.asianetglobal.com/]||Asianet Satellite Communications||1993||インド最南端の空港都市トリバンドラムに本拠を置く、英語とパンジャブ語とテルグ語で放送されているTV局
|-
||[[:en:Zee TV|Zee TV]][http://www.zeetelevision.com/]||Zee Entertainment Enterprises Limited||1992||DDに次いで放送開始の早い民間TV局。アラビア語、バングラ語など多数の言語専門チャンネルと、スポーツ、音楽、映画など合計33チャンネルを放送。ムンバイ市に本拠を置く全国TV局
|-
||[[:en:Qazaqstan (channel)|Qazaqstan]][https://qazaqstan.tv/]||Kazakhstan TV Kostanai||1958||国営カザフスタンTV
|-
||[[:en:Nepal Television|NTV]][https://web.archive.org/web/20061026113224/http://www.nepaltelevision.com.np/]||Nepal TV||1983||ネパール国営TV
|-
||[[:en:Sagarmatha Television (Nepal)|STV]][http://www.sagarmatha.tv]||Sagarmatha TV||2007||ネパール国営TV
|-
||[[:en:Independent Television Network|ITN]][http://www.itn.lk/]||Independent Television Network||1979||スリランカ国営企業経営のTV局
|-
||[[:en:Radio Television Brunei|RTB]][http://www.rtb.gov.bn]||Radio Television Brunei||1975||ブルネイ王国国営ラジオTV局
|-
|}
== 中東諸国 ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[アルジャジーラ]]||الجزيرة||1996||[[カタール]]本拠のアラビア語主体ニュース専門局
|-
|[[中東放送センター|mbc]]||Middle East Broadcasting Center ||1991 ||
|-
|[[アルアラビア]]|| ||2003||
|-
|[[レバノン放送協会|LBC]]||Lebanese Broadcasting Corporation ||1993||
|-
|[[アルアラキーヤ]]|| ||2003||
|-
|[[イラン・イスラム共和国放送]]|| Islamic Republic of Iran Broadcasting、略称:IRIB||1966||前時代のイラン王国時代は「イラン国営放送」(NIRT) の局名。ただし、1979年は共和国で変更より IRIB で変更
|-
|[[イラク国営放送]]|| ||不明||
|-
|[[パキスタン国営放送|PTV]][http://ptv.com.pk/index.asp]||Pakistan Television Corporation ||1964||パキスタン政府と民間企業で設立されたパキスタン公共放送だが、パキスタン政府が管理する実質の国営放送
|-
|[[Israel 10]]||||2002||
|-
|}
== 南アフリカ ==
{| style="border:1px solid #000000;padding:2px;width:90%;" align="center"
|- bgcolor="#CCCCCC"
! style="width:20%;"|通称テレビ局名
! style="width:45%;"|正式テレビ局名
! style="width:5%;"|設立年
! style="width:30%;"|備考
|- style="border:1px solid #000000;"
|[[南アフリカ放送協会|SABC]]||South African Broadcasting Corporation ||1936 ||南アフリカの公共放送局
|-
|}
[[Category:各国のテレビ局|*てれひきよくいちらん]]
[[Category:放送関連一覧|てれひきよく]]
[[sv:Lista över TV-kanaler i Sverige]]
[[zh:电视台列表]]
|
2003-09-12T16:47:15Z
|
2023-08-29T07:16:54Z
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|
16,426 |
大阪港トランスポートシステム
|
株式会社大阪港トランスポートシステム(おおさかこうトランスポートシステム、英: Osaka Port Transport System Co., Ltd.)は、大阪府大阪市内で鉄道事業とトラックターミナルその他流通施設管理などを行っている第三セクター会社。大阪市などが出資している。略称はOTS。本社は大阪府大阪市住之江区南港東四丁目10番108号、大阪南港トラックターミナル管理棟2階。
本来の事業として、長距離を走る大型路線トラックと市内を走る小型集配車を中継する機能を持つトラックターミナルや流通倉庫などの運営を行っている。これらの拠点はすべて大阪市住之江区にある。
鉄道事業として、Osaka Metro中央線の大阪港駅からコスモスクエア駅まで、およびOsaka Metro南港ポートタウン線のコスモスクエア駅からトレードセンター前駅までの区間における線路を保有している。2005年6月30日までは大阪港 - コスモスクエア - 中ふ頭間を大阪港トランスポートシステムが「南港・港区連絡線」として直接運営していた(詳細は路線の節を参照)。
大阪南港の埋立地に、新たな集客施設として大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC。現在の大阪府咲洲庁舎)やアジア太平洋トレードセンター(ATC)といったタワー型ビルや商業施設が開設されたが、鉄道による交通アクセスが大阪市交通局南港ポートタウン線(現在のOsaka Metro南港ポートタウン線。愛称ニュートラム)しかないという欠点があった。梅田や難波など市内中心部からは、大阪市営地下鉄四つ橋線(現在のOsaka Metro四つ橋線)を経由し住之江公園駅乗り換えでニュートラムを利用するしかなく遠回りで時間がかかるという不便さが災いし、バブル崩壊による不況も重なって企業誘致が思うように進まず空き地だらけなうえに、一度は南港に移転した企業の中には再び都心部へ戻ってしまった企業もあるという悪循環であった。その不便さを解消するために計画されたのが、大阪港駅と中ふ頭駅を結ぶ鉄道路線であった。
ただ、路線が計画された当時は、当区間の建設が公共輸送とは認められず、「利益誘導」と見做されたため、公共交通の事業者(ここでは大阪市)の路線としては不適格との見解から、大阪市営地下鉄中央線(現在のOsaka Metro中央線)の延伸線としては国から建設費の補助を受けられなかった。そのため、建設費軽減を目的に、第三セクターである大阪港トランスポートシステムに白羽の矢を立て、同社が鉄道路線を建設し、かつ中央線とは「別会社、別路線」扱いにして運営も委ねることで、当区間の建設に漕ぎ付けた。
当初は大阪港 - 中ふ頭の全区間をニュートラムで結ぶ計画(南港テクノポート線)であったが、コスモスクエア駅周辺でのライブホール(Zepp Osaka。1998年開設、2012年閉鎖)の観客輸送など開業後の輸送需要を勘案し、最終的に中ふ頭 - コスモスクエア間はニュートラム(ニュートラムテクノポート線)、コスモスクエア - 大阪港間は中央線と同様の第三軌条方式(テクノポート線)に変更された。
2005年6月30日までは大阪港 - 中ふ頭間を南港・港区連絡線として大阪港トランスポートシステムが直接運営しており、愛称は大阪港 - コスモスクエア間がテクノポート線、コスモスクエア - 中ふ頭間がニュートラムテクノポート線であった。
大阪港 - コスモスクエア間およびコスモスクエア - 中ふ頭間は1997年の開業以来、大阪港トランスポートシステムが第一種鉄道事業者(大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間)、軌道事業者(トレードセンター前 - 中ふ頭間)として直接運営していたが、直通運転している大阪市交通局の地下鉄・ニュートラムと運賃体系が別立てであったため、運賃が割高となり、開業当初見込みよりも利用者数が低迷していた。
そのため、2005年7月1日に大阪市交通局へ線路以外の鉄道施設・車両を譲渡して、同局が第二種鉄道事業者として路線を運営することで、同局の地下鉄などと運賃体系を統一して運賃値下げを図ることになった。同時に大阪港トランスポートシステムは線路の保有のみを行う、大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間の第三種鉄道事業者となった。これにより日本の新交通システムでは唯一であった異なる事業者間での直通運転は消滅した。
乗務員は、OTS線内も交通局の乗務員が通しで乗務していた。
大阪市交通局は、2018年4月1日の市営地下鉄・ニュートラムの民営化に伴い廃止され、第二種鉄道事業者は交通局のこれらの事業を継承した大阪市高速電気軌道となった。
また、コスモスクエア駅から大阪港上の人工島である夢洲(ゆめしま)の夢洲駅、舞洲(まいしま)の舞洲駅(仮称)を経て此花区の新桜島駅(仮称)へ延びる「北港テクノポート線」の開業を目指して事業化に着手したが、最大の目的であった2008年の大阪オリンピック招致に失敗したことからその採算性を問題視され、コスモスクエア駅 - 夢洲駅間の沈埋トンネル「夢咲トンネル」のみが建設された。同トンネルの鉄道部分は準備工事のみで、道路部分のみが2009年8月1日に先行開通している。その後、コスモスクエア - 夢洲間(南ルート)については夢洲が2025年日本国際博覧会の会場として決定したことなどを受け、2019年に事業が再開されている。南ルートについては2023年8月に大阪市高速電気軌道が第二種鉄道事業許可を申請しており、大阪港駅 - コスモスクエア駅間と同様に大阪港トランスポートシステムが線路を保有し、大阪市高速電気軌道が運営する形になる予定である。
大阪港トランスポートシステムはテクノポート線・大阪市営地下鉄中央線(現:Osaka Metro中央線)・近鉄東大阪線(現:けいはんな線)用の自社車両としてOTS系を保有していたが、2005年7月に大阪市交通局に譲渡され、中央線で24系50番台として走行した後、近鉄けいはんな線との相互直通運転区間拡大に伴う車両転用計画に基づき22系に改造され、大阪市営地下鉄谷町線(現:Osaka Metro谷町線)へ移籍した。移籍後は、OTS系独特の塗装やオーシャンブルーの座席を見ることはできなくなったが、床や化粧板などは現在もOTS時代のままである。前述の通り、近鉄けいはんな線(生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅)開業前の2006年3月以前に全編成が転属したため、生駒以東に営業列車で乗り入れたことはない。
また、ニュートラム用の100A系も33 - 35編成がOTS100系を名乗っていたが、こちらも2005年7月の大阪市交通局譲渡時に100A系に編入された。100A系編入後もOTSカラーのままで、車内も座席以外はそのままだった。2016年に第33編成と第35編成が廃車となり、第34編成のみが唯一Osaka Metroに継承されたが、2019年に運用を終了した。
大阪港トランスポートシステムが当時管理を受託していた大阪港咲洲トンネルの通行回数券が、約1万1,000枚(約2億2,800万円分)に亘り紛失していたことが、同社の内部調査により、2009年2月16日に発覚した。また、同回数券の利用実績が、販売実績を上回る異常事態も起こった。トンネル管理事務所の当時の所長で販売管理担当をしていた元社員の男性が横流しした疑いがもたれた。
同社は、この元社員を、業務上横領で告訴した上、約2億円の損害賠償を求め大阪地裁に訴えを起こした。2010年5月17日に、大阪府警察捜査2課がこの元社員を業務上横領の容疑で逮捕した。
|
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"text": "大阪港 - コスモスクエア間およびコスモスクエア - 中ふ頭間は1997年の開業以来、大阪港トランスポートシステムが第一種鉄道事業者(大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間)、軌道事業者(トレードセンター前 - 中ふ頭間)として直接運営していたが、直通運転している大阪市交通局の地下鉄・ニュートラムと運賃体系が別立てであったため、運賃が割高となり、開業当初見込みよりも利用者数が低迷していた。",
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"text": "そのため、2005年7月1日に大阪市交通局へ線路以外の鉄道施設・車両を譲渡して、同局が第二種鉄道事業者として路線を運営することで、同局の地下鉄などと運賃体系を統一して運賃値下げを図ることになった。同時に大阪港トランスポートシステムは線路の保有のみを行う、大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間の第三種鉄道事業者となった。これにより日本の新交通システムでは唯一であった異なる事業者間での直通運転は消滅した。",
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"text": "また、コスモスクエア駅から大阪港上の人工島である夢洲(ゆめしま)の夢洲駅、舞洲(まいしま)の舞洲駅(仮称)を経て此花区の新桜島駅(仮称)へ延びる「北港テクノポート線」の開業を目指して事業化に着手したが、最大の目的であった2008年の大阪オリンピック招致に失敗したことからその採算性を問題視され、コスモスクエア駅 - 夢洲駅間の沈埋トンネル「夢咲トンネル」のみが建設された。同トンネルの鉄道部分は準備工事のみで、道路部分のみが2009年8月1日に先行開通している。その後、コスモスクエア - 夢洲間(南ルート)については夢洲が2025年日本国際博覧会の会場として決定したことなどを受け、2019年に事業が再開されている。南ルートについては2023年8月に大阪市高速電気軌道が第二種鉄道事業許可を申請しており、大阪港駅 - コスモスクエア駅間と同様に大阪港トランスポートシステムが線路を保有し、大阪市高速電気軌道が運営する形になる予定である。",
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"text": "大阪港トランスポートシステムはテクノポート線・大阪市営地下鉄中央線(現:Osaka Metro中央線)・近鉄東大阪線(現:けいはんな線)用の自社車両としてOTS系を保有していたが、2005年7月に大阪市交通局に譲渡され、中央線で24系50番台として走行した後、近鉄けいはんな線との相互直通運転区間拡大に伴う車両転用計画に基づき22系に改造され、大阪市営地下鉄谷町線(現:Osaka Metro谷町線)へ移籍した。移籍後は、OTS系独特の塗装やオーシャンブルーの座席を見ることはできなくなったが、床や化粧板などは現在もOTS時代のままである。前述の通り、近鉄けいはんな線(生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅)開業前の2006年3月以前に全編成が転属したため、生駒以東に営業列車で乗り入れたことはない。",
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"text": "大阪港トランスポートシステムが当時管理を受託していた大阪港咲洲トンネルの通行回数券が、約1万1,000枚(約2億2,800万円分)に亘り紛失していたことが、同社の内部調査により、2009年2月16日に発覚した。また、同回数券の利用実績が、販売実績を上回る異常事態も起こった。トンネル管理事務所の当時の所長で販売管理担当をしていた元社員の男性が横流しした疑いがもたれた。",
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] |
株式会社大阪港トランスポートシステムは、大阪府大阪市内で鉄道事業とトラックターミナルその他流通施設管理などを行っている第三セクター会社。大阪市などが出資している。略称はOTS。本社は大阪府大阪市住之江区南港東四丁目10番108号、大阪南港トラックターミナル管理棟2階。
|
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社大阪港トランスポートシステム
|英文社名 = Osaka Port Transport System Co., Ltd.
|ロゴ = [[File:Osaka Port Transport System Logo.svg|200px]]
|画像 = {{画像募集中}}
|画像説明 =
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|市場情報 = 非上場
|略称 = OTS
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 559-0031
|本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[住之江区]]南港東四丁目10番108号<br>大阪南港トラックターミナル管理棟2階<ref name="outline">{{Cite web |url=http://www.opts.co.jp/gaiyou.html|title=会社概要|publisher=株式会社大阪港トランスポートシステム|accessdate=2016-10-13}}</ref>
|設立 = [[1974年]]([[昭和]]49年)[[7月10日]]<ref name="outline" /><br />(株式会社大阪南港複合ターミナル)
|業種 = 5200
|統一金融機関コード =
|SWIFTコード =
|事業内容 = トラックターミナル・流通施設管理事業・第三種鉄道事業他
|代表者 = 代表取締役 薮内 弘<ref name="outline" />
|資本金 = 50億円
|売上高 = 13億5099万8000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/08f41/311968 株式会社大阪港トランスポートシステム 第49期決算公告]</ref>
|営業利益 = 4億4100万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|経常利益 = 4億3518万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|純利益 = 2億9651万2000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|純資産 = 132億7363万4000円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|総資産 = 209億0245万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|従業員数 = 4人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
|決算期 = 3月31日
|主要株主 = [[大阪市]] 69.56%<br />[[三井住友銀行]] 3.33%<br />[[三菱UFJ銀行]] 3.33%<br />[[りそな銀行]] 2.95%<br />[[みずほ銀行]] 2.95%<br />[[日本トラスティ・サービス信託銀行]] (信託口) 2.95%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
|主要子会社 =
|関係する人物 =
|外部リンク = http://www.opts.co.jp/
|特記事項 =
}}
'''株式会社大阪港トランスポートシステム'''(おおさかこうトランスポートシステム、{{Lang-en-short|Osaka Port Transport System Co., Ltd.}})は、[[大阪府]][[大阪市]]内で[[鉄道事業者|鉄道事業]]と[[トラックターミナル]]その他流通施設管理などを行っている[[第三セクター鉄道|第三セクター]]会社。大阪市などが出資している。略称は'''OTS'''。本社は大阪府大阪市[[住之江区]]南港東四丁目10番108号、大阪南港トラックターミナル管理棟2階。
== 沿革 ==
*[[1974年]]([[昭和]]49年)7月10日 - 株式会社大阪南港複合ターミナルとして設立。
*[[1976年]](昭和51年)10月4日 - [[大阪南港トラックターミナル]]開業。
*[[1989年]]([[平成]]元年)8月 - 大阪港トランスポートシステムに商号変更。
*[[1997年]](平成9年)
**10月17日 - 管理を受託した[[大阪港咲洲トンネル]]が開通。
**12月18日 - テクノポート線とニュートラムテクノポート線の営業を開始<ref>{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1998-03 |volume = 32 |issue = 3 |pages = 56-57 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。<!-- ここはOTSのページですから自社線はいちいち社名(の略称)を付けなくとも結構です。-->
*[[2005年]](平成17年)7月1日 - [[大阪市交通局]]へテクノポート線の運営を移管、ニュートラムテクノポート線の施設・車両を譲渡。大阪港トランスポートシステムは第三種鉄道事業者となる(詳細は[[#路線|路線]]の節にて後述)。
*[[2009年]](平成21年)
**2月16日 - 大阪港咲洲トンネルの回数券約1万1千枚、2億2800万円相当の紛失を公表(詳細は[[#不祥事|不祥事]]の節で後述)。
**5月31日 - 大阪港咲洲トンネルの[[指定管理者]]としての管理運営終了。6月1日から[[阪神高速道路]]が同トンネルの指定管理者となる<ref>{{Cite web|和書|title=大阪港咲洲トンネル・夢咲トンネルのご案内|url=https://www.hanshin-exp.co.jp/drivers/douro/sakishima_tunnel/|website=阪神高速道路株式会社|accessdate=2019-08-18|publisher=}}</ref>。
== トラックターミナル・流通施設管理事業 ==
本来の事業として、長距離を走る大型路線トラックと市内を走る小型集配車を中継する機能を持つ[[トラックターミナル]]や流通倉庫などの運営を行っている。これらの拠点はすべて大阪市住之江区にある。
*トラックターミナル
**[[大阪南港トラックターミナル]]
*駐車場・車両整備設備
**大阪区域トラックセンター
**大阪南港海上コンテナシャーシプール
*流通倉庫
**大阪港化学品センター
**大阪南港R物流センター
**南港航空貨物ターミナル
== 鉄道事業 ==
鉄道事業として、[[Osaka Metro中央線]]の[[大阪港駅]]から[[コスモスクエア駅]]まで、および[[Osaka Metro南港ポートタウン線]]の[[コスモスクエア駅]]から[[トレードセンター前駅]]までの区間における線路を保有している。[[2005年]][[6月30日]]までは大阪港 - コスモスクエア - 中ふ頭間を大阪港トランスポートシステムが「南港・港区連絡線」として直接運営していた(詳細は[[#路線|路線]]の節を参照)。
大阪南港の埋立地に、新たな集客施設として大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC。現在の[[大阪府咲洲庁舎]])や[[アジア太平洋トレードセンター]](ATC)といったタワー型ビルや商業施設が開設されたが、鉄道による交通アクセスが[[Osaka Metro南港ポートタウン線|大阪市交通局南港ポートタウン線]](現在のOsaka Metro南港ポートタウン線。愛称ニュートラム)しかないという欠点があった。[[梅田]]や[[難波]]など市内中心部からは、[[Osaka Metro四つ橋線|大阪市営地下鉄四つ橋線]](現在のOsaka Metro四つ橋線)を経由し[[住之江公園駅]]乗り換えでニュートラムを利用するしかなく遠回りで時間がかかるという不便さが災いし、[[バブル崩壊]]による不況も重なって企業誘致が思うように進まず空き地だらけなうえに、一度は南港に移転した企業の中には再び都心部へ戻ってしまった企業もあるという悪循環であった。その不便さを解消するために計画されたのが、大阪港駅と[[中ふ頭駅]]を結ぶ鉄道路線であった。
ただ、路線が計画された当時は、当区間の建設が公共輸送とは認められず<ref group="注釈">現在はコスモスクエア駅周辺に分譲マンションや[[森ノ宮医療大学]]のキャンパスがあるため公共輸送の一端を担っているものの、計画された当時はそれらの施設がなく、公共輸送とは認められなかった。</ref>、「利益誘導」と見做されたため、公共交通の事業者(ここでは大阪市)の路線としては不適格との見解から、[[Osaka Metro中央線|大阪市営地下鉄中央線]](現在のOsaka Metro中央線)の延伸線としては国から建設費の補助を受けられなかった。そのため、建設費軽減を目的に、第三セクターである大阪港トランスポートシステムに白羽の矢を立て、同社が鉄道路線を建設し、かつ中央線とは「別会社、別路線」扱いにして運営も委ねることで、当区間の建設に漕ぎ付けた。
当初は大阪港 - 中ふ頭の全区間をニュートラムで結ぶ計画(南港テクノポート線)であったが、コスモスクエア駅周辺でのライブホール([[Zepp#日本国内|Zepp Osaka]]。1998年開設、2012年閉鎖)の観客輸送など開業後の輸送需要を勘案し、最終的に中ふ頭 - コスモスクエア間はニュートラム(ニュートラムテクノポート線)、コスモスクエア - 大阪港間は中央線と同様の第三軌条方式(テクノポート線)に変更された。
=== 路線 ===
[[File:OTS map Cosmosquare.jpg|thumb|250px|テクノポート線・ニュートラムテクノポート線を強調したOTS仕様の路線図。大阪市交通局の路線に転じた際、ロゴと路線名がテープで覆われた(2005年7月8日にコスモスクエア駅にて撮影、現存せず)。]]
* 現有区間(ともに大阪港トランスポートシステムが[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]、[[大阪市高速電気軌道]]が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])
** [[Osaka Metro中央線|中央線]](旧:テクノポート線) 大阪港 - コスモスクエア 2.4km
** [[Osaka Metro南港ポートタウン線|南港ポートタウン線]](旧:ニュートラムテクノポート線) コスモスクエア - トレードセンター前 0.6km
* 譲渡区間([[軌道法|軌道事業]])
** [[Osaka Metro南港ポートタウン線|ニュートラムテクノポート線]] トレードセンター前 - 中ふ頭 0.7km
[[2005年]][[6月30日]]までは大阪港 - 中ふ頭間を南港・港区連絡線として大阪港トランスポートシステムが直接運営しており、愛称は大阪港 - コスモスクエア間がテクノポート線、コスモスクエア - 中ふ頭間がニュートラムテクノポート線であった。
* 未成区間(大阪港トランスポートシステムが[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]])
**[[大阪港トランスポートシステム北港テクノポート線|北港テクノポート線]] 新桜島 - コスモスクエア 7.5km<ref name="otsjigyo">{{Cite web |url=http://www.opts.co.jp/zigyou.html |title=事業内容 |accessdate=2018-11-24 |publisher=株式会社大阪港トランスポートシステム |date= |format= |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/page/0000461641.html|title=平成30年度事業再評価にかかる対応方針の決定について(平成31年2月)|accessdate=2019-08-12|publisher=|date=2019-03-29|format=|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=|website=大阪市}}</ref>
大阪港 - コスモスクエア間およびコスモスクエア - 中ふ頭間は[[1997年]]の開業以来、大阪港トランスポートシステムが第一種鉄道事業者(大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間)、軌道事業者(トレードセンター前 - 中ふ頭間)として直接運営していたが、直通運転している大阪市交通局の[[大阪市営地下鉄|地下鉄]]・ニュートラムと運賃体系が別立てであったため<ref group="注釈">境界駅である大阪港駅・中ふ頭駅到着前には自動放送でこれらの駅から先は別運賃になる旨、注意を喚起していた。</ref>、運賃が割高となり<ref group="注釈">大阪港トランスポートシステム線内は均一料金で230円。大阪市営地下鉄線との乗継割引も設定されていたが、1区で40円、2区以上で20円の割引だった。</ref>、開業当初見込みよりも利用者数が低迷していた。
そのため、[[2005年]]7月1日に大阪市交通局へ線路以外の鉄道施設・車両を譲渡して、同局が第二種鉄道事業者として路線を運営することで、同局の地下鉄などと運賃体系を統一して運賃値下げを図ることになった。同時に大阪港トランスポートシステムは線路の保有のみを行う、大阪港 - コスモスクエア - トレードセンター前間の第三種鉄道事業者となった<ref>「[https://web.archive.org/web/20051118112516/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/16/050209a.html OTS線鉄道料金 平成17年7月下旬値下げに向けて手続きを行います]」(InternetArchive) 大阪市交通局、2005年2月9日。</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20051231073557/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots.pdf OTS線の事業主体変更等に向けた申請書・届出書の提出について]」(PDF, InternetArchive) 大阪市交通局、2005年4月21日。</ref><ref>「[https://web.archive.org/web/20051218215042/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots_ittai.pdf OTS線を交通局が一体的に運営し、通算料金とします]」(PDF, InternetArchive) 大阪市交通局、2005年6月7日。</ref>。これにより日本の新交通システムでは唯一であった異なる事業者間での直通運転は消滅した。
乗務員は、OTS線内も交通局の乗務員が通しで乗務していた。
大阪市交通局は、2018年4月1日の市営地下鉄・ニュートラムの民営化に伴い廃止され、第二種鉄道事業者は交通局のこれらの事業を継承した大阪市高速電気軌道となった。
また、コスモスクエア駅から大阪港上の人工島である[[夢洲]](ゆめしま)の[[夢洲駅]]、[[舞洲]](まいしま)の舞洲駅(仮称)を経て此花区の新桜島駅(仮称)へ延びる「北港テクノポート線」の開業を目指して事業化に着手したが、最大の目的であった[[2008年]]の[[大阪オリンピック構想|大阪オリンピック招致]]に失敗したことからその採算性を問題視され、コスモスクエア駅 - 夢洲駅間の[[沈埋トンネル]]「[[夢咲トンネル]]」のみが建設された。同トンネルの鉄道部分は準備工事のみで、道路部分のみが2009年8月1日に先行開通している<ref>「[http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090212-OYO1T00674.htm 大阪五輪の夢の跡、夢咲トンネル8月開通へ…利用見込めず] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090215000901/http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090212-OYO1T00674.htm |date=2009年2月15日 }}」読売新聞 2009年2月12日</ref>。その後、コスモスクエア - 夢洲間(南ルート)については夢洲が[[2025年日本国際博覧会]]の会場として決定したことなどを受け、[[2019年]]に事業が再開されている。南ルートについては2023年8月に大阪市高速電気軌道が第二種鉄道事業許可を申請しており<ref>{{Cite web|和書|title=北港テクノポート線(コスモスクエア駅から夢洲駅間)の第二種鉄道事業許可を申請しました|Osaka Metro |url=https://subway.osakametro.co.jp/news/news_release/20230825_yumeshima_enshin.php |website=Osaka Metro |access-date=2023-09-02 |language=ja}}</ref>、大阪港駅 - コスモスクエア駅間と同様に大阪港トランスポートシステムが線路を保有し、大阪市高速電気軌道が運営する形になる予定である<ref>{{Cite web|和書|title=Osaka Metroの第2種鉄道事業許可申請及び夢洲新駅の駅名を決定しました |url=https://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/port/0000604111.html |website=大阪市 |access-date=2023-09-02 |language=ja}}</ref>。
{{See also|Osaka Metro中央線#延伸計画}}
=== 車両 ===
[[File:OTS系.jpg|thumb|250px|OTS系。現在は大阪市交22系に編入(2005年夏頃 大阪港駅)]]
[[File:Newtram105-34F-2017-5-4.jpg|thumb|250px|OTS100系]]
大阪港トランスポートシステムはテクノポート線・大阪市営地下鉄中央線(現:[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]中央線)・[[近畿日本鉄道|近鉄]]東大阪線(現:[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]])用の自社車両として[[大阪市交通局20系電車#大阪港トランスポートシステムOTS系|OTS系]]を保有していたが、2005年7月に大阪市交通局に譲渡され、中央線で24系50番台として走行した後、近鉄けいはんな線との相互直通運転区間拡大に伴う車両転用計画に基づき[[大阪市交通局20系電車#22系(谷町線)|22系]]に改造され、大阪市営地下鉄[[Osaka Metro谷町線|谷町線]](現:Osaka Metro谷町線)へ移籍した。移籍後は、OTS系独特の塗装やオーシャンブルーの座席を見ることはできなくなったが、床や化粧板などは現在もOTS時代のままである。前述の通り、近鉄けいはんな線([[生駒駅]] - [[学研奈良登美ヶ丘駅]])開業前の2006年3月以前に全編成が転属したため、生駒以東に営業列車で乗り入れたことはない。
また、ニュートラム用の[[大阪市交通局100系電車 (新交通)|100A系]]も33 - 35編成が[[大阪市交通局100系電車 (新交通)#大阪港トランスポートシステムOTS100系|OTS100系]]を名乗っていたが、こちらも2005年7月の大阪市交通局譲渡時に100A系に編入された。100A系編入後もOTSカラーのままで、車内も座席以外はそのままだった。2016年に第33編成と第35編成が廃車となり、第34編成のみが唯一Osaka Metroに継承されたが<ref>{{Cite news|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/257010/ |title=【大阪メトロ】イルミネーション列車運転|publisher=鉄道ホビダス|work=RMニュース|date=2018-12-27}}</ref>、2019年に運用を終了した。
== 不祥事 ==
大阪港トランスポートシステムが当時管理を受託していた[[大阪港咲洲トンネル]]の通行回数券が、約1万1,000枚(約2億2,800万円分)に亘り紛失していたことが、同社の内部調査により、2009年2月16日に発覚した。また、同回数券の利用実績が、販売実績を上回る異常事態も起こった。トンネル管理事務所の当時の所長で販売管理担当をしていた元社員の男性が横流しした疑いがもたれた<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090216/crm0902161958030-n1.htm |title=トンネル通行回数券2億2000万円分行方不明に 大阪|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090221074215/http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090216/crm0902161958030-n1.htm |archivedate=2009-02-21|publisher=[[産経新聞]] |date=2009-02-16}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090217-OYT1T00083.htm |title=大阪港トンネル回数券2億円分不明、3セク元社員横流しか|publisher=[[読売新聞]] |date=2009-02-17}}{{リンク切れ|date=2010年9月}}</ref>。
同社は、この元社員を、[[業務上横領罪|業務上横領]]で[[告訴・告発|告訴]]した上、約2億円の[[損害賠償]]を求め[[大阪地裁]]に訴えを起こした<ref>[https://archive.is/7VXf 大阪、トンネル回数券不明で提訴 元所長に2億円の損害賠償 - 47NEWS(よんななニュース)]</ref>。2010年5月17日に、[[大阪府警察]]捜査2課がこの元社員を業務上横領の容疑で[[逮捕]]した<ref>[https://archive.is/JeWh 大阪市の三セク元所長を逮捕 トンネル回数券横領容疑 - 47NEWS(よんななニュース)]</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
*{{Official website}}
{{スルッとKANSAI}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:おおさかこうとらんすほうとしすてむ}}
[[Category:大阪港トランスポートシステム|*]]
[[Category:日本の第三種鉄道事業者]]
[[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]]
[[Category:住之江区の企業]]
[[Category:日本の地方公企業]]
[[Category:日本の陸運業者]]
[[Category:1974年設立の企業]]
[[Category:大阪湾]]
|
2003-09-12T16:48:37Z
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2023-11-18T03:35:46Z
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野島昭生
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野島 昭生(のじま あきお、1945年4月6日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。東京都杉並区、西東京市出身。シグマ・セブン所属。
3人の息子がおり、長男の野島裕史と次男の野島健児は共に声優、三男は作家の野島智司。孫(健児の長男)は俳優の野島透也。
代表作に『ナイトライダー』(K.I.T.T.〈ナイト2000〉)や『ナイトライダーNEXT』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『CSI:科学捜査班』(ギル・グリッソム)などがある。
満洲国・撫順市で誕生したが、父は生後40日目に終戦のわずか一か月前に召集されて戦死し、終戦後、母と姉ともに日本に引き上げる。東京都杉並区の四畳半のアパートに住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ。そのような環境で子役として芸能界に入ったと語っている。小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘い、仕事は1954年頃からテレビとラジオの両方でしていたという。小学5年生の時に劇団東芸 に入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた。声優としても子役時代から活動しており、洋画のアテレコにも数多く出演。
東京都立井草高等学校卒業。学校卒業後、その頃は『ローハイド』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた。その後、東京俳優生活協同組合に所属し、1989年にシグマ・セブンへと移籍。
本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『ナンシーはお年頃(英語版)』であり、そのレギュラーで初めて本格的にアテレコをやり始めた。当時は声だけでなく、スタジオドラマ、TV映画といった生の顔出しも色々出演していたが、「やっぱりアテレコっていうのは面白いな」と思い、どんどんそちらに行って、30歳前からはほとんどアテレコだけになったという。
1977年から1986年にかけて、スラップスティックのリーダー、ベーシスト(当初はギター担当で、後にパートが変わった)としても活躍した。
妻がナチュラリストだったこともあって家族全員で大分県竹田市荻町 の山奥に引っ越しして、自給自足の生活をして一時は声優活動を休止していた時期もある。
長男の裕史が20歳の時に就職した際、昭生は「農業に飽きたから東京に戻る」と言い出した。その後は東京と九州を行ったり来たりしながら声優の仕事を続けていた。
九州のローカル局でアナウンサーの講師をしていた時期もある。
声種はバリトン。ちょっと高めだが、温かい声が魅力的。
アニメ、外画を中心に、ナレーションでも活躍している。
次男の健児によれば、昭生は三枚目役が多く、ヒーロー作品に出演する際、戦隊ものにおけるポジションでいえばイエローやグリーンの役柄が多かったとのこと。昭生は「グリーンやイエローは楽しいんだよ」と健児に語っていたが、当時の健児はそれについて理解できなかった。後年健児が昭生と同じく声優業を開始した際に、「イエローやグリーンは『自由にやってください』という役が多く、脇役こそ役者の力が試されるテクニカルな仕事」であると再認識し、昭生の語っていた役柄のやりがいや楽しさを感じるようになったという。
声の仕事の一番の魅力についてはアテレコに限れば、「役にいかになりすまして、自分が日本語版で、その役にプラスアルファをしていくか。さらにおもしろいものをつくっていくか」というところをいつも心掛けているという。アフレコ開始当初の時代は全て生放送であり、それが一番嫌だったが、しばらく経って録音になった。『ローハイド』出演時は最初から30分通しで収録していたが、最後にトチると最初からやり直しになるため、皆必死だったという。
ナレーションとアテレコの違いについては「作品の内容がどういうものなのか、どういうターゲットなのか、何を言わんとしているのかをまず把握することを考えると、同じですね・・・。」という。ナレーションの場合は、「作品をつくった人の、こういう作品にしたいという気持ちがきちんと伝わってくる」、アテレコの場合は、映画製作した監督、アテレコの監督がおり、「ミステリーだ、ラブだとか、いろんなテーマがあって、それぞれ理解しなければならない」と話している。
『ナイトライダー』ではナイト2000の人工知能K.I.T.T.の役作りにはずいぶん悩み、ディレクターとも2人で話し合ったが、パイロット版の製作は難航し、およそ1か月をかけた3度目の収録でようやく完成した。現在の喋り方になるまでは、原語に近いフレンドリーな口調や、逆に徹底的に無機質な演技も試したというが、最終的には「マイケルを兄と慕う弟(兄弟愛)」「奔放な兄を窘める慎重派の弟」をイメージした上で、少しコンピュータっぽく、かつ大人っぽくした感じにすることで決まったという。ブルーレイBOXに同封のブックレットにあるインタビューによると、K.I.T.T.の声は機械でエフェクトを掛けないといけないため、主演で相棒のマイケル・ナイト役の声優ささきいさおとは別録りで収録せねばならず、「彼の収録を見てから演技に入り、覚えている内に一気に録り終えた」とのこと。ブルーレイBOXのための追加収録でも、当時の雰囲気を再現するために別録りとした。それだけにマイケルとK.I.T.T.の掛け合いは、一番苦労していた。現在でもK.I.T.T.は野島の代表作として挙げられ、野島自身も「自分の仕事の中で三本の指に入る」と語っている。テレビ放送時の全74話のエピソード中、最も印象に残っているのはシーズン3第13話「ナイト2000魔の毒液に溶ける!決死の再生!立ち直れキット!!︎(原題:JUNK YARD DOG)」と述べている。2012年にはフジテレビのみ放映された『ナイトライダーNEXT』での新型K.I.T.T.〈ナイト3000〉の役も担当している。なお原語版ではナイト2000(ウィリアム・ダニエルズ)とナイト3000(ヴァル・キルマー)は各々異なる人物が演じている。
息子たちとの共演の機会も何度かあり、実際に親子役で共演することが多い。裕史が主演の『スケアクロウマン』ではゲストとしてシュタインの現在の声を演じ、その過去の声を健児が担当したことで親子三人での共演が実現した。『スケートリーディング☆スターズ』でも息子たちが演じる双子の兄弟の父親役を演じ、親子三人での共演を果たしている。
神谷明や曽我部和恭とよく飲みに行ったスナックで曽我部がギターを披露し、あまりに上手だったためにバンドを結成する気になり、古川登志夫、古谷徹を迎え、スラップスティックを結成。1回目の練習では真夏のため、全員汗だくになったという。アテレコとは違う世界を触れたことで、このバンド時代を「凄く楽しかった、いい経験ができた」と振り返っている。すでにバンドとしての活動は終了しているが、2007年2月に元メンバーの曽我部・鈴置洋孝両名の追悼コンサートを行っている。
役者になっていなかったら、「地味な研究の物理学者」になっていたという。2つの大学に合格をしていたが、経済的理由で進学を断念したという。
野島の結婚式の仲人は、花沢徳衛だった。
趣味・特技はギター、スケート、卓球、草野球、将棋、カメラ。所持資格は普通自動車免許。
好きな言葉は「己心厳」、「自分に厳しく 人に優しく」。
役名のうち、太字はメインキャラクター。
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"text": "野島 昭生(のじま あきお、1945年4月6日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。東京都杉並区、西東京市出身。シグマ・セブン所属。",
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"text": "代表作に『ナイトライダー』(K.I.T.T.〈ナイト2000〉)や『ナイトライダーNEXT』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『CSI:科学捜査班』(ギル・グリッソム)などがある。",
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"text": "満洲国・撫順市で誕生したが、父は生後40日目に終戦のわずか一か月前に召集されて戦死し、終戦後、母と姉ともに日本に引き上げる。東京都杉並区の四畳半のアパートに住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ。そのような環境で子役として芸能界に入ったと語っている。小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘い、仕事は1954年頃からテレビとラジオの両方でしていたという。小学5年生の時に劇団東芸 に入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた。声優としても子役時代から活動しており、洋画のアテレコにも数多く出演。",
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野島 昭生は、日本の声優、俳優、ナレーター。東京都杉並区、西東京市出身。シグマ・セブン所属。 3人の息子がおり、長男の野島裕史と次男の野島健児は共に声優、三男は作家の野島智司。孫(健児の長男)は俳優の野島透也。 代表作に『ナイトライダー』(K.I.T.T.〈ナイト2000〉)や『ナイトライダーNEXT』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『CSI:科学捜査班』(ギル・グリッソム)などがある。
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| 本名 = 同じ<ref name="声優事典 第二版">{{Cite book|和書 |chapter= 男性篇 |date=1996-03-30 |editor= 掛尾良夫 |title=声優事典 第二版 |page= 232|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn= 4-87376-160-3}}</ref><ref name="OUT">{{Cite journal|和書|date = 1980-09-01|title = 声優インタビュー 野島昭生|journal = [[月刊OUT]]|issue = 1980年9月号 |pages = 135-140|publisher = [[みのり書房]]}}</ref>
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'''野島 昭生'''(のじま あきお、[[1945年]][[4月6日]]{{R|OUT|anime24}}<ref>{{Cite book|和書|title=声優名鑑|pages=584頁|publisher=成美堂出版|isbn=4-415-00878-X|date=1999-08|accessdate=2012-02-15}}</ref> - )は、[[日本]]の[[声優]]、[[俳優]]、[[ナレーター]]{{R|databank}}。[[東京都]][[杉並区]]{{R|ジ・アニメ}}、[[西東京市]]出身{{R|excite}}。[[シグマ・セブン]]所属{{R|sigma7}}。
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代表作に『[[ナイトライダー]]』([[ナイト2000|K.I.T.T.〈ナイト2000〉]])や『[[ナイトライダー#ナイトライダー(2008年)/ナイトライダーNEXT|ナイトライダーNEXT]]』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『[[CSI:科学捜査班]]』(ギル・グリッソム)などがある{{R|talentmeikan|superdramatv}}。
== 経歴 ==
[[満洲国]]・[[撫順市]]で誕生したが、父は生後40日目に[[終戦の日|終戦]]のわずか一か月前に召集されて[[戦死]]し、終戦後、母と姉ともに日本に引き上げる{{R|anime24|ジ・アニメ}}。[[東京都]][[杉並区]]の四畳半の[[アパート]]に住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ{{R|anime24|ジ・アニメ}}。そのような環境で[[子役]]として[[芸能界]]に入ったと語っている{{R|anime24}}。小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘い、仕事は[[1954年]]頃からテレビとラジオの両方でしていたという{{R|OUT}}。小学5年生の時に劇団東芸<ref name="声優の世界">{{Cite book|和書|author=|title=声優の世界-アニメーションから外国映画まで |series = [[ファンタスティックコレクション]]別冊|page=97|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=|date=1979-10-30}}</ref> に入団し、高校2年生まで[[テレビドラマ]]の子役として活躍していた{{R|OUT|ジ・アニメ}}。声優としても子役時代から活動しており<ref>{{Cite book|和書|author=|title=声優名鑑 アニメーションから洋画まで…|page=125|publisher=[[近代映画社]]|isbn=|date=1985}}</ref><ref name="superdramatv">{{Cite web|和書| url = http://www.superdramatv.com/alacarte/seiyuu/detail10.html| title = スーパー!ドラマTV 海外ドラマ:声優名鑑| accessdate = 2017-4-25}}</ref>、洋画の[[アテレコ]]にも数多く出演{{R|ジ・アニメ}}。
[[東京都立井草高等学校]]卒業<ref name="igusakai">{{Cite web|和書|date=|url=https://igusakai.org/wp/wp-content/uploads/2019/04/Kaiho%20023%20H030710(1991).pdf|title=1991(平成3年)|format=PDF|page=6|work=東京都立井草高校同窓会|publisher=[[東京都立井草高等学校]]|accessdate=2020-02-15}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=|title=日本タレント名鑑(1978年版)|page=139|publisher=VIPタイムズ社 |isbn=|date=1978}}</ref>。学校卒業後、その頃は『[[ローハイド]]』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた{{R|OUT}}。その後、[[東京俳優生活協同組合]]{{R|声優の世界}}に所属{{R|OUT}}し、[[1989年]]に[[シグマ・セブン]]へと移籍<ref name="bio">{{Cite web|和書|url=http://www.sigma7.co.jp/m_profile/m11.html|title=野島昭生|publisher=シグマ・セブン|accessdate=2020-08-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010226145815fw_/http://www.sigma7.co.jp/m_profile/m11.html|archivedate=2001年2月26日}}</ref>。
本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『{{仮リンク|ナンシーはお年頃|en|Nancy (TV series)}}』であり、そのレギュラーで初めて本格的にアテレコをやり始めた{{R|superdramatv}}。当時は声だけでなく、スタジオドラマ、TV映画といった生の顔出しも色々出演していたが、「やっぱりアテレコっていうのは面白いな」と思い、どんどんそちらに行って、30歳前からはほとんどアテレコだけになったという{{R|superdramatv}}。
[[1977年]]から[[1986年]]にかけて、[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]のリーダー、[[ベーシスト]](当初は[[ギター]]担当で、後にパートが変わった)としても活躍した{{R|nico20230501|superdramatv}}<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://mouvement.jp/works/%E3%80%8Cslapstick%E3%80%8D|title=「SLAPSTICK」 06.03.15発売|publisher=ムーブマン|accessdate=2023-06-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.topio.jp/017-gabe-hiro-thuito.htm|title=「スラップスティック リメンバーコンサート」によせて ~今は亡き 曽我部和行・鈴置洋孝 両君に捧ぐ~ 古川登志夫 2013.8|publisher=TOSHIO's HOME |accessdate=2023-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210622073216/http://www.topio.jp/017-gabe-hiro-thuito.htm|archivedate=2021-06-22}}</ref><ref name="topio010-music">{{Cite web|和書|date= |url=http://www.topio.jp/010-music.htm|title=音楽活動|publisher=TOSHIO's HOME |accessdate=2023-06-10}}</ref>。
妻がナチュラリストだったこともあって家族全員で[[大分県]][[竹田市]][[荻町]]<ref>{{Cite web|和書|author=野島智司 |date=2008-08-06 |url=http://www.kosodate.pref.fukuoka.jp/archive/column_old/archives/2008/08/post_148.html|title=第2話 ホゲ娘|work=連載子育てコラム|website=ふくおか子育てパーク|publisher= 福岡県立社会教育総合センター|accessdate=2023-01-06}}</ref> の山奥に引っ越しして<ref>{{Cite interview |和書|date=2017-09-14 |subject=野島健児 |interviewer=タウンワークマガジン |url=https://townwork.net/magazine/serial/c_offrecord/44804/ |title=声優インタビュー:野島健児【先輩のオフレコ!】2|work=タウンワークマガジン, [[リクルートホールディングス]] |accessdate=2023-01-06}}</ref>、[[自給自足]]の生活をして一時は声優活動を休止していた時期もある{{R|igusakai}}。
長男の裕史が20歳の時に就職した際、昭生は「農業に飽きたから東京に戻る」と言い出した<ref>{{Cite journal|和書|date = 2016-05|title = インタビュー ゲスト:声優・野島裕史|journal = Private eyes|issue = 2016年5月号|page = 7 |publisher = 近代光学出版社}}</ref>。その後は東京と[[九州]]を行ったり来たりしながら声優の仕事を続けていた<ref name="声優になるp103">{{Cite book|和書|author1=柳谷杞一郎|author2= 東海林龍|author3= 菊地 和俊 |editor= 声優になる!マガジン編集部 |title=きっと声優になる!夢を見ないとはじまらない!!人気声優たちのリアルインタビュー|chapter= interview_07 野島健児さん|page=103|publisher=[[雷鳥社]]|isbn=978-4-8441-3574-6|date= 2011-10-01}}</ref>。
九州の[[ローカル局]]で[[アナウンサー]]の講師をしていた時期もある{{R|声優になるp103}}。
== 人物 ==
=== 特色・役柄 ===
[[音域#人声の音域|声種]]は[[バリトン]]{{R|OUT}}。ちょっと高めだが、温かい声が魅力的<ref>{{Cite book |和書 |author=小川びい |title=こだわり声優事典'97 |publisher=[[徳間書店]] |series=ロマンアルバム |page= 110|date=1997-03-10 |isbn=4-19-720012-9}}</ref>。
[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、外画を中心に、[[ナレーション]]でも活躍している{{R|databank}}。
次男の健児によれば、昭生は三枚目役が多く<ref>{{Cite web|和書|date=2009-12-03|url=http://girls-style.jp/interview/004/03sop01_gs.php|title=【Style of the PRINCE】第4回ゲスト:野島 健児さん Vol.3|page=1|work=Girls-Style|publisher=ビートニクス|accessdate=2023-02-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160407230859/http://www.girls-style.jp/interview/004/03sop01_gs.php|archivedate=2016-04-07}}</ref>、ヒーロー作品に出演する際、[[スーパー戦隊シリーズ|戦隊もの]]におけるポジションでいえばイエローやグリーンの役柄が多かったとのこと<ref name="townwork1">{{Cite interview |和書|date=2017-09-11 |subject=野島健児 |interviewer=タウンワークマガジン |url=https://townwork.net/magazine/serial/c_offrecord/44802/ |title=声優インタビュー:野島健児【先輩のオフレコ!】1|work=タウンワークマガジン, [[リクルートホールディングス]] |accessdate=2023-02-07}}</ref>。昭生は「グリーンやイエローは楽しいんだよ」と健児に語っていたが、当時の健児はそれについて理解できなかった{{R|townwork1}}。後年健児が昭生と同じく声優業を開始した際に、「イエローやグリーンは『自由にやってください』という役が多く、脇役こそ役者の力が試されるテクニカルな仕事」であると再認識し、昭生の語っていた役柄のやりがいや楽しさを感じるようになったという{{R|townwork1}}。
声の仕事の一番の魅力についてはアテレコに限れば、「役にいかになりすまして、自分が日本語版で、その役にプラスアルファをしていくか。さらにおもしろいものをつくっていくか」というところをいつも心掛けているという{{R|superdramatv}}。アフレコ開始当初の時代は全て[[生放送]]であり、それが一番嫌だったが、しばらく経って録音になった{{R|superdramatv}}。『ローハイド』出演時は最初から30分通しで収録していたが、最後にトチると最初からやり直しになるため、皆必死だったという{{R|superdramatv}}。
ナレーションとアテレコの違いについては「作品の内容がどういうものなのか、どういうターゲットなのか、何を言わんとしているのかをまず把握することを考えると、同じですね・・・。」という{{R|superdramatv}}。ナレーションの場合は、「作品をつくった人の、こういう作品にしたいという気持ちがきちんと伝わってくる」、アテレコの場合は、映画製作した監督、アテレコの監督がおり、「ミステリーだ、ラブだとか、いろんなテーマがあって、それぞれ理解しなければならない」と話している{{R|superdramatv}}。
『[[ナイトライダー]]』ではナイト2000の人工知能K.I.T.T.の役作りにはずいぶん悩み、ディレクターとも2人で話し合ったが、パイロット版の製作は難航し、およそ1か月をかけた3度目の収録でようやく完成した。現在の喋り方になるまでは、原語に近いフレンドリーな口調や、逆に徹底的に無機質な演技も試したというが、最終的には「マイケルを兄と慕う弟(兄弟愛)」「奔放な兄を窘める慎重派の弟」をイメージした上で、少しコンピュータっぽく、かつ大人っぽくした感じにすることで決まったという{{R|superdramatv}}。ブルーレイBOXに同封のブックレットにあるインタビューによると、K.I.T.T.の声は機械でエフェクトを掛けないといけないため、主演で相棒のマイケル・ナイト役の声優[[ささきいさお]]とは別録りで収録せねばならず、「彼の収録を見てから演技に入り、覚えている内に一気に録り終えた」とのこと。ブルーレイBOXのための追加収録でも、当時の雰囲気を再現するために別録りとした。それだけにマイケルとK.I.T.T.の掛け合いは、一番苦労していた。現在でもK.I.T.T.は野島の代表作として挙げられ、野島自身も「自分の仕事の中で三本の指に入る」と語っている。テレビ放送時の全74話のエピソード中、最も印象に残っているのはシーズン3第13話「ナイト2000魔の毒液に溶ける!決死の再生!立ち直れキット!!︎(原題:JUNK YARD DOG)」と述べている<ref>ナイトライダーコンプリートブルーレイBOXのブックレットより</ref>。2012年にはフジテレビのみ放映された『ナイトライダーNEXT』での新型K.I.T.T.〈ナイト3000〉の役も担当している。なお原語版ではナイト2000([[ウィリアム・ダニエルズ]])とナイト3000([[ヴァル・キルマー]])は各々異なる人物が演じている。
息子たちとの共演の機会も何度かあり、実際に親子役で共演することが多い。裕史が主演の『[[スケアクロウマン]]』ではゲストとしてシュタインの現在の声を演じ、その過去の声を健児が担当したことで親子三人での共演が実現した。『[[スケートリーディング☆スターズ]]』でも息子たちが演じる双子の兄弟の父親役を演じ、親子三人での共演を果たしている。
=== その他エピソード ===
[[神谷明]]や[[曽我部和恭]]とよく飲みに行った[[スナックバー (飲食店)|スナック]]で曽我部がギターを披露し、あまりに上手だったために[[バンド (音楽)|バンド]]を結成する気になり、[[古川登志夫]]、[[古谷徹]]を迎え、[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]を結成{{R|superdramatv}}。1回目の練習では真夏のため、全員汗だくになったという{{R|superdramatv}}。[[アテレコ]]とは違う世界を触れたことで、このバンド時代を「凄く楽しかった、いい経験ができた」と振り返っている{{R|superdramatv}}。すでにバンドとしての活動は終了しているが、[[2007年]][[2月]]に元メンバーの曽我部・[[鈴置洋孝]]両名の追悼コンサートを行っている{{R|topio010-music}}<ref>{{cite news|url= http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=5666|title=スラップスティック追悼ライブ -曽我部和恭・鈴置洋孝を偲んで-|publisher= CINEMA TOPICS ONLINE|date= 2023-06-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923203816/http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=5666|archivedate=2015-09-23}}</ref>。
役者になっていなかったら、「地味な研究の[[物理学者]]」になっていたという{{R|anime24}}。2つの[[大学]]に合格をしていたが、経済的理由で進学を断念したという{{R|anime24}}。
野島の[[結婚式]]の[[仲人]]は、[[花沢徳衛]]だった{{R|anime24}}。
趣味・特技は[[ギター]]、[[スケート]]、[[卓球]]{{R|声優の世界}}、[[アマチュア野球|草野球]]、[[将棋]]{{R|OUT}}、[[カメラ]]{{R|anime24}}。所持[[資格]]は[[普通自動車]][[日本の運転免許|免許]]{{R|sigma7}}。
好きな言葉は「己心厳{{refnest|group="注"|野島自身が作った言葉である{{R|anime24}}。}}」、「自分に厳しく 人に優しく」{{R|superdramatv}}。
== 出演 ==
役名のうち、'''太字'''はメインキャラクター。
=== テレビアニメ ===
{{dl2
| 1964年 |
* [[ビッグX]]
| 1966年 |
* [[レインボー戦隊ロビン]](ミケロン)
| 1968年 |
* [[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]](伴大造の運転手)
| 1969年 |
* [[アタックNo.1]](三村秀三)
| 1970年 |
* [[赤き血のイレブン]](屋島才三)
* [[あしたのジョー]]
* [[ばくはつ五郎]]
| 1971年 |
* [[アパッチ野球軍]](ダニ<ref>{{Cite web|和書| url = https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/apach/| title = アパッチ野球軍| publisher = 東映アニメーション| accessdate = 2016-06-12}}</ref>)
* [[さるとびエッちゃん]](大平)
| 1972年 |
* [[アストロガンガー]](ブラスター99 / アスファルター、大山次郎)
* [[デビルマン]](ドランゴ{{R|デビルマン}})
| 1974年 |
* [[柔道讃歌]]
* [[てんとう虫の歌]]
* [[破裏拳ポリマー]]
* [[荒野の少年イサム]]
| 1975年 |
* [[ドン・チャック物語]]
| 1976年 |
* [[ドカベン]](大道寺、晴彦)
* [[母をたずねて三千里]](ロッキー)
| 1977年 |
* [[あらいぐまラスカル]](カール・マーティ)
* [[合身戦隊メカンダーロボ]]('''敷島竜介''')
* [[新・巨人の星]]([[田淵幸一]])
* [[無敵超人ザンボット3]](神一太郎{{R|ザンボット3}}、ズブター)
| 1978年 |
* [[家なき子 (アニメ)|家なき子]](フォートン)
* [[一球さん]](岩風監督)
* [[宝島 (テレビアニメ)|宝島]](1978年 - 1979年、グレー<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180217202805/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/989| title = 宝島| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-11-27}}</ref>)
* [[無敵鋼人ダイターン3]](ナレーター)
| 1979年 |
* [[科学冒険隊タンサー5]]('''赤井大地〈ダイチ〉'''{{R|科学冒険隊タンサー5}})
* [[銀河鉄道999 (アニメ)|銀河鉄道999]](青年、ナヴァアロ)
* [[ベルサイユのばら]](ベルナール・シャトレ)
* [[未来ロボ ダルタニアス]](ラムス)
| 1980年 |
* [[鉄腕アトム (アニメ第2作)|鉄腕アトム(第2作)]](タック)
* [[無敵ロボ トライダーG7]](川村)
| 1981年 |
* [[怪物くん (カラーアニメ)|怪物くん]]
* [[銀河旋風ブライガー]](チェホボラ)
* [[新竹取物語 1000年女王]](雨森元)
* [[ワンワン三銃士]](1981年 - 1982年、[[アトス (ダルタニャン物語)|アトス]])
| 1982年 |
* [[おちゃめ神物語コロコロポロン]]([[アポローン|アポロン]])
* [[Dr.スランプ アラレちゃん]](マシリト)
* [[パタリロ!]]([[タマネギ部隊|タマネギ部隊の3人目]])
* [[魔境伝説アクロバンチ]]('''蘭堂リョウ'''<ref group="注">第11話から第15話までは[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]が一時的に代役を務めた(第13話は総集編のため野島の声が使用されている)。</ref>)
* [[六神合体ゴッドマーズ]](ガッシュ{{R|ゴッドマーズ}})
| 1983年 |
* [[亜空大作戦スラングル]]('''キャプテン・チャンス''')
* [[伊賀野カバ丸]](前島)
* [[銀河疾風サスライガー]](ブッコロ)
* [[装甲騎兵ボトムズ]](1983年 - 1984年、アロン・シュミッテル<ref name="VOTOMS">{{Cite web|和書|url=http://www.votoms.net/about/character/20.php|title=アロン&グラン - ABOUT VOTOMS|publisher=ボトムズWeb|accessdate=2022-07-25}}</ref>)
* [[ふしぎの国のアリス (テレビアニメ)|ふしぎの国のアリス]](おとうさん)
* [[プラレス3四郎]](プロデューサー)
* [[まんが日本史 (日本テレビ)|まんが日本史]](1983年 - 1984年、[[藤原基経]]、[[後三条天皇]]、[[平清盛]]、[[足利義満]]、[[松平定信]])
| 1984年 |
* [[オヨネコぶーにゃん]](大判焼ウマ夫<ref>{{Cite web|和書|url=https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C8190|title=オヨネコぶーにゃん|publisher=メディア芸術データベース|accessdate=2022-12-09}}</ref>)
* [[ふしぎなコアラブリンキー]](エリマキトカゲ)
* [[ふたり鷹]]([[デビッド・アルダナ]])
* [[牧場の少女カトリ]](テーム・ライッコラ)
* [[魔法の妖精ペルシャ]](1984年 - 1985年、速水英樹<ref>{{Cite web|和書| url = https://pierrot.jp/archive/1980/tv80_08.html| title = 魔法の妖精ペルシャ| publisher = ぴえろ公式サイト | accessdate = 2022-09-02}}</ref>)
* [[ミームいろいろ夢の旅]](シャンポリオン)
| 1985年 |
* [[プロゴルファー猿]](1985年 - 1988年、中年ゴルファー、ナレーション、司会者、アナウンサー、係の男、伴の者、ホットマン、青年A、部下、男(2))
* [[あした天気になあれ (漫画)|あした天気になあれ]](日吉)
| 1986年 |
* [[愛少女ポリアンナ物語]](ハロルド)
* [[宇宙船サジタリウス]](キャット)
* [[青春アニメ全集]]「あすなろ物語」(加島)
* [[生徒諸君!心に緑のネッカチーフを]](金田巌)
| 1987年 |
* [[オズの魔法使い (テレビアニメ)|オズの魔法使い]](木挽き台の馬)
| 1988年 |
* [[グリム名作劇場]]「[[つぐみのひげの王さま]]」(音楽師)
* [[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]([[黄金聖闘士#双子座のサガ|アーレス教皇]])※聖域編のみ
| 1991年 |
* [[横山光輝 三国志]]([[曹洪]])
| 1992年 |
* [[ファンタジーアドベンチャー 長靴をはいた猫の冒険]]
| 1993年 |
* [[無責任艦長タイラー (アニメ)|無責任艦長タイラー]](通信兵)
* [[幽☆遊☆白書 (テレビアニメ)|幽☆遊☆白書]](陰魔鬼)
| 1995年 |
* [[H2 (漫画)|H2]](竹村)
| 1996年 |
* [[名犬ラッシー (世界名作劇場)|名犬ラッシー]](サム・キャラクロー)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]](般若)
| 1998年 |
* [[快傑蒸気探偵団 TV ANIMATION SERIES]](キトマー)
* [[ドクタースランプ]](怪獣博士)
* [[遊☆戯☆王 (アニメ第1作)|遊☆戯☆王]](吉森)
| 1999年 |
* [[THE ビッグオー]](1999年 - 2003年、R・インストル) - 2シリーズ
* [[シティーハンター (アニメ)|シティーハンター 緊急生中継!? 凶悪犯冴羽獠の最期]](おかまのママ{{R|冴羽獠の最期}})
* [[∀ガンダム]](シド・ムンザ{{R|∀ガンダム}})
| 2000年 |
* [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](2000年 - 2019年、片桐正紀、萬田年久、漆原典児、小嶋元次、熊堂巌、福原栄鏡、深町惇史)
| 2001年 |
* [[電脳冒険記ウェブダイバー]](老騎士)
| 2002年 |
* [[犬夜叉 (アニメ)|犬夜叉]](羅刹の勘助)
* [[陸上防衛隊まおちゃん]](鬼瓦陸士郎<ref>{{Cite web|和書| url = http://king-cr.jp/special/mao/staff/index.html| title = スタッフ&キャスト| publisher = 陸上防衛隊まおちゃん| accessdate = 2016-06-27}}</ref>)
| 2004年 |
* [[KURAU Phantom Memory]](フランク)
* [[ごくせん]](沢田父)
| 2005年 |
* [[英國戀物語エマ]](2005年 - 2007年、リチャード・ジョーンズ<ref>{{Cite web|和書| url = http://pierrot.jp/archives/tv_list_2005/tv_073.html| title = 英國戀物語エマ 第二幕| publisher = ぴえろ公式サイト| accessdate = 2016-05-16}}</ref>) - 2シリーズ
* [[奥さまは魔法少女]](柏田祐二)
* [[蟲師]](旦那様)
| 2006年 |
* [[エンジェル・ハート]](槇村の父)
* [[シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜]](老デオン)
* [[ブラック・ジャック21]](シュタイン博士<ref>{{Cite news | url = https://tezukaosamu.net/jp/anime/124.html| title = ブラック・ジャック21| newspaper = | publisher = 手塚治虫公式サイト| date = | accessdate = 2016-05-08}}</ref>)
* [[マージナルプリンス〜月桂樹の王子達〜]](謎の男)
| 2007年 |
* [[DARKER THAN BLACK -黒の契約者-]](ディケイド)
| 2008年 |
* [[ゴルゴ13]](ウォルトン)
* [[シゴフミ]](野島辰巳)
* [[スケアクロウマン]](シュタイン)
* [[ハヤテのごとく! (アニメ)|ハヤテのごとく!]](チャット)
| 2009年 |
* [[きらりん☆レボリューション STAGE3]](ニャイトライダー)
| 2011年 |
* [[灼眼のシャナIII-FINAL-]](『犀渠の護り手』ザムエル・デマンティウス)
* [[たまゆら〜hitotose〜]](かおるの父)
* [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(テレビ朝日版第2期)]](委員長)
| 2012年 |
* [[エウレカセブンAO]](アレクサンダー・ボイル)
| 2013年 |
* [[キルラキル]](揃三蔵)
* [[ゆゆ式]](神)
* [[夜桜四重奏 〜ハナノウタ〜]](比泉槇春)
| 2014年 |
* [[信長協奏曲]]([[浅井久政]])
* [[六畳間の侵略者!?]](里見雄一郎)
| 2016年 |
* [[亜人 (漫画)|亜人]](橋口)
* [[ALL OUT!!]](拝島雄爾)
* [[美男高校地球防衛部LOVE!LOVE!]](ハシビロ先輩)
| 2017年 |
* [[モンスターハンター ストーリーズ RIDE ON]](ノルム村長)
| 2018年 |
* [[グランクレスト戦記]](クライシェ大公)<!-- 2018-01-06 -->
| 2020年 |
* [[BORUTO-ボルト- NARUTO NEXT GENERATIONS]](無常)<!-- 2020-01-26 -->
| 2021年 |
* [[トミカ絆合体 アースグランナー]](白いワシ、スカイカイザー)<!-- 2021-01-17 -->
* [[スケートリーディング☆スターズ]](石川元)<!-- 2021-01-24 -->
| 2022年 |
* [[名探偵コナン 犯人の犯沢さん]]([[まじっく快斗#寺井黄之助|寺井黄之助]])<!-- 2022-12-20 -->
| 2023年 |
* [[青のオーケストラ]](佐伯の祖父)<!-- 2023-07-30 -->
}}
=== 劇場アニメ ===
{{dl2
| 1979年 |
* [[ルパン三世 カリオストロの城]]
| 1980年 |
* [[がんばれ!!タブチくん!!|がんばれ!! タブチくん!! 初笑い第3弾 あゝツッパリ人生]]
* [[まことちゃん]]
| 1982年 |
* [[1000年女王]](雨森元)
| 1983年 |
* [[パタリロ! スターダスト計画]]([[タマネギ部隊]]B<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20180321130909/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/1594| title = パタリロ! スターダスト計画| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-09-28}}</ref>)
* [[プロ野球を10倍楽しく見る方法]](ナレーター)
| 1984年 |
* プロ野球を10倍楽しく見る方法 PART2(ナレーター)
* [[綿の国星]](魚八の主人)
| 1985年 |
* [[オーディーン 光子帆船スターライト]](山川)
| 1986年 |
* [[プロゴルファー猿 スーパーGOLFワールドへの挑戦!!]](父親)
* [[メイプルタウン物語 (1986年の映画)|メイプルタウン物語]](ハリソン)
| 1987年 |
* [[プロゴルファー猿 甲賀秘境!影の忍法ゴルファー参上!]](ナレーション)
* [[ベルサイユのばら|ベルサイユのばら 生命あるかぎり愛して]](ベルナール・シャトレ)
| 2002年 |
* [[ギルステイン]](オライアン・スアド博士<ref>{{Cite web | url = https://web.archive.org/web/20170826235211/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/an/anime_series/7923| title = GUILSTEIN| publisher = メディア芸術データベース| accessdate = 2016-08-05}}</ref>)
| 2005年 |
* [[劇場版 NARUTO -ナルト- 大激突!幻の地底遺跡だってばよ]](ハイド)
| 2006年 |
* [[名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌]](深山総一郎)
| 2010年 |
* [[イヴの時間|イヴの時間 劇場版]](真崎篤郎)
| 2011年 |
* [[鬼神伝]](多治比麻呂)
| 2015年 |
* [[GAMBA ガンバと仲間たち]](忠一)
| 2021年 |
* [[プリンセス・プリンシパル Crown Handler]] 第2章(ポール)<!-- 2021-09-23 -->
}}
=== OVA ===
* [[NORA]](1985年、ビカンソン)
* トゥインクル NORA ロック・ミー!(1985年、マックス)
* [[装甲騎兵ボトムズ|装甲騎兵ボトムズ ザ・ラストレッドショルダー]](1985年、アロン・シュミッテル<ref name="VOTOMS"/>)
* [[ウォナビーズ]](1986年、オキ園田)
* [[装鬼兵MDガイスト]](1986年、クルツ)
* [[TWD EXPRESS#OVA|TWD EXPRESS ROLLING TAKEOFF]](1987年、“ドラゴン”イワン・サルニコフ)
* [[やじきた学園道中記]](1991年、本八幡)
* [[紺碧の艦隊]](1999年、松島九平)
* [[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説外伝 決闘者]](2000年、ヘルクスハイマー伯爵)
=== Webアニメ ===
* [[イヴの時間]](2008年、真崎篤郎)
* [[果汁グミ#メグミとタイヨウIII タイムラインワールド|メグミとタイヨウIII タイムラインワールド]](2012年、ハヤマ教授)
* [[ULTRAMAN (漫画)|ULTRAMAN]](2019年 - 2022年、おっさん / ヤプール) - 2シリーズ{{Ras|シーズン1(2019年)<!-- 2019-04-01 -->、シーズン2(2022年)<!-- 2022-04-14 -->}}<!-- 2019-04-01 -->
=== ゲーム ===
* [[G-Nome]](1997年、ステファン・キリー)
* [[EVE The Lost One]](1998年、望月雅雄)
* [[ときめきメモリアル2]](1999年、すみれパパ、的屋)
* [[BLOOD THE LAST VAMPIRE]](2000年、正夫)
* [[サーヴィランス 監視者]](2002年、ハリス・ライアン)
* [[ワイルドアームズ ザ フォースデトネイター|Wild Arms: The 4th Detonator]](2005年、アウグスト・ヘンリクセン)
* [[ファイナルファンタジーXII]](2006年、ハルム・オンドール4世)
* [[スーパーロボット大戦Z]](2008年、神一太郎)
* [[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (アニメ)#ゲーム|るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 完醒]](2012年、般若)
=== ドラマCD ===
* [[ガンドライバー]](ジェロニモ)
* [[戦場ロマン・シリーズ]]「イカロスの飛ぶ日」(医師)
* [[篁破幻草子]]([[小野岑守]])
* 「[[Danza]]」PLUS「[[COPPERS]]」(カッツェル)
=== 吹き替え ===
==== 担当俳優 ====
{{dl2
| [[ウィンストン・チャオ]] |
* [[1911 (映画)|1911]](孫文)
* [[恕の人 -孔子伝-]](孔子)
* [[魔界戦記 雪の精と闇のクリスタル]](張仙人)
| [[J・T・ウォルシュ]] |
* [[アウトブレイク (映画)|アウトブレイク]](大統領補佐官)※日本テレビ版
* [[カナディアン・エクスプレス]](マイケル・ターロー)※テレビ朝日版
* [[カラー・オブ・ハート]](ビッグ・ボブ)
| [[ジョン・ハード]] |
* [[判決前夜/ビフォア・アンド・アフター]](ウェンデル・バイ)
* [[ホーム・アローン]](ピーター・マカリスター)※テレビ朝日版
* [[ホーム・アローン2]](ピーター・マカリスター)※テレビ朝日版
| [[ツイ・ハーク]] |
* [[男たちの挽歌]](音楽学院の審査員)※パラマウント版
* [[おじいちゃんはデブゴン]](ツイ・ハーク)
* [[桃さんのしあわせ]](本人)
* [[人魚姫 (2016年の映画)|人魚姫]](リー氏)
| [[ハーヴェイ・カイテル]] |
* [[グランドフィナーレ (映画)|グランドフィナーレ]](ミック・ボイル)
* [[フロム・ダスク・ティル・ドーン]](ジェイコブ・フラー)※Netflix版
* [[マッド・フィンガーズ]](ジミー・アンジェレリ)
| [[ブルース・デイヴィソン]] |
* [[アンフォゲッタブル 完全記憶捜査|アンフォゲッタブル4 完全記憶捜査]] #13(Dr.エドワード・ワイス)
* [[X-メン (映画)|X-メン]](ケリー上院議員)※テレビ朝日版
* [[X-MEN2]](ケリー上院議員)※テレビ朝日版<ref>{{Cite web | url = http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou_2012/bk/data/01598.html| title = X-MEN2| publisher = 日曜洋画劇場| accessdate = 2016-07-22}}</ref>
* [[クレイジー/ビューティフル]](トム・オークリー)
| [[ロバート・デ・ニーロ]] |
* [[ジョーカー (映画)|ジョーカー]](マレー・フランクリン<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0112792|title=『ジョーカー』来年1月ソフト発売!日本語吹替版は平田広明がアーサー役|work=シネマトゥデイ|date=2019-12-06|accessdate=2019-12-06}}</ref>)
* [[ジョイ (映画)|ジョイ]](ルディ・マンガーノ)
* [[ダーティ・グランパ]](ディック・ケリー)
* [[マイ・インターン]](ベン・ウィテカー)
}}
==== 映画(吹き替え) ====
* [[RRR (映画)|RRR]](スコット・バクストン総督〈[[レイ・スティーヴンソン]]〉<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/529051|title=「RRR」吹替版公開!杉田智和がビーム、日野聡がラーマに デジタル配信も実施|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-16|accessdate=2023-06-16}}</ref>)<!-- 2023-07-28 -->
* [[アイアン・スカイ 第三帝国の逆襲]](ウォルフガング・コーツフライシュ、アドルフ・ヒトラー〈[[ウド・キア]]〉<ref>{{Cite web | url = https://www.twin2.co.jp/catalog/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%82%A4%EF%BC%8F%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2/| title = アイアン・スカイ/第三帝国の逆襲| publisher = 株式会社twin| accessdate = 2019-10-14}}</ref>)
* [[アイアンマン2]](ハワード・スターク〈[[ジョン・スラッテリー]]〉)※テレビ朝日版
* [[愛と喝采の日々]](アーノルド)※TBS版
* [[愛の選択 (映画)|愛の選択]](ゴードン〈[[ヴィンセント・ドノフリオ]]〉)
* [[アウトサイダー (1983年の映画)|アウトサイダー]](ダレル・カーティス〈[[パトリック・スウェイジ]]〉)※フジテレビ版
* [[悪魔の恋人]](スティーヴ・ウォーカー〈[[ウィリアム・ピーターセン]]〉)
* [[アナベル 死霊館の人形]](ペレズ神父〈[[トニー・アメンドーラ]]〉)
* [[アニマル・ハウス]](グレッグ・マーマラード〈[[ジェームズ・ドートン]]〉)※テレビ朝日版
* [[アポロ13]] ※日本テレビ版
* [[アマゾネス (映画)|アマゾネス]] ※テレビ朝日版
* [[雨のパスポート]](ジョン〈[[パトリック・モワー]]〉)
* [[アメリカン・グラフィティ]](カート・ヘンダーソン〈[[リチャード・ドレイファス]]〉)※フジテレビ版・TBS版
* [[アメリカン・スウィートハート]](リー・フィリップス〈[[ビリー・クリスタル]]〉)
* [[アラスカ魂]](ビリー・プラット〈[[フェビアン]]〉)※フジテレビ版
* [[アラモ (2004年の映画)|アラモ]](デイヴィ・クロケット〈[[ビリー・ボブ・ソーントン]]〉)
* [[ある愛の詩]] ※日本テレビ版
* [[アルゴ探検隊の大冒険]](アカスタス〈[[ゲイリー・レイモンド]]〉)※東京12ch版
* [[アルタード・ステーツ/未知への挑戦]]
* [[アンドロメダ…]](ショーン)※テレビ朝日版
* [[怒りの河]](グリン・マクリントック〈[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュアート]]〉)※ソフト版
* [[意表をつくアホらしい作戦]](ナレーター〈[[マーティン・マル]]〉)
* [[イルカの日]](マイク〈[[エドワード・ハーマン]]〉)※テレビ朝日版
* [[ウエスト・サイド物語 (映画)|ウエスト・サイド物語]] ※TBS旧録版
* [[ウエストワールド]]
* [[ウェンディの見る夢は]](ジェイク〈[[ヒューゴ・ウィーヴィング]]〉)
* [[宇宙からのツタンカーメン]](ジャック・パーカー〈[[ロバート・ランドム]]〉)
* [[海辺の家]](ジョージ・モンロー〈[[ケヴィン・クライン]]〉)
* [[裏窓]](トム・ドイル刑事〈ウェンデル・コーリイ〉)※BD版
* [[裏窓の女 -甘い嘘-]](ユゴー)
* [[ウルヴァリン:X-MEN ZERO]](ウィリアム・ストライカー〈[[ダニー・ヒューストン]]〉<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20130920/index.html |title=ウルヴァリン: X-MEN ZERO |publisher=金曜ロードSHOW! |accessdate=2016-09-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130909000813/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20130920/index.html |archivedate=2013-09-09}}</ref>)
* [[ウルフマン/狼男伝説]](医師〈[[スティーヴン・レイ]]〉)
* [[エアポート'75]](アレクサンダー少佐〈[[エド・ネルソン]]〉)
* [[英雄の条件]](ソーカル大統領補佐官〈[[ブルース・グリーンウッド]]〉)※ソフト版
* [[エイリアン2]](ハドソン〈[[ビル・パクストン]]〉)※TBS版
* [[エクスカリバー (1981年の映画)|エクスカリバー]](ロット〈[[キアラン・ハインズ]]〉)
* [[エターナル・サンシャイン]](ハワード・ミュージワック博士〈[[トム・ウィルキンソン]]〉)
* Mの物語(ジュリアン)
* [[エリックの青春]](エリック〈[[ジョン・サヴェージ]]〉)
* [[エンド・オブ・デイズ]] ※ソフト版
* [[エンブリヨ]](ゴードン・ホリストン〈[[ジョン・エリック]]〉)
* [[オースティン・パワーズ#第2作|オースティン・パワーズ:デラックス]](米国大統領〈[[ティム・ロビンス]]〉)
* [[オーメン2/ダミアン]](ポール〈[[ロバート・フォックスワース]]〉)※TBS版
* [[オール・ザット・ジャズ]](オコナー・フロッド)※テレビ朝日版
* [[黄金の七人]](アルド〈ガブリエレ・ティンティ〉)※日本テレビ版
* [[襲われた幌馬車]](クリント)※フジテレビ版
* [[男たちの挽歌]](キン〈[[ケネス・ツァン]]〉)※パラマウント版
* [[オペレーション・メコン]](麻薬取締局局長〈スン・チュン〉)
* [[俺たちは天使じゃない (1955年の映画)|俺たちは天使じゃない]] ※フジテレビ版
* [[会議は踊る]](ペピ)
* [[崖っぷちの男]](フランク・キャシディ〈[[ウィリアム・サドラー]]〉)
* [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]](スチュアート・タールトン〈[[ジョージ・リーヴス]]〉)※日本テレビ旧録版、(チャールズ・ハミルトン)※日本テレビ新録版
* [[風とライオン]] ※テレビ朝日版
* 合衆国壊滅 M10.5(ポール・ホリスター大統領〈[[ボー・ブリッジス]]〉)
* 合衆国壊滅II 再襲来!M10.5(ポール・ホリスター大統領〈ボー・ブリッジス〉)
* [[合併結婚]](マイク・ビアーズレー〈[[ティム・マシスン]]〉)※テレビ朝日版
* [[カリフォルニア・ドールズ]](ビル・ダッドリー〈[[リチャード・ジャッケル]]〉)
* [[彼と彼女の第2章]](アンディ〈[[ジョー・マンテーニャ]]〉)
* [[かわいい女 (1969年の映画)|かわいい女]](ウィンスロウ・ウォン〈[[ブルース・リー]]〉)
* [[がんばれ!ルーキー]](ジャック・ブラッドフィールド〈[[ブルース・アルトマン]]〉)
* [[カンフー・ヨガ]](館長<ref>{{Cite news|publisher=ふきカエル大作戦!!|title=話題のふきカエ カンフー・ヨガ|url=http://www.fukikaeru.com/?p=8457|date=2017-12-22|accessdate=2017-12-22}}</ref>)
* [[黄色いリボン (映画)|黄色いリボン]](フリント・コーヒル中尉〈[[ジョン・エイガー]]〉)※テレビ朝日版
* [[奇蹟の輝き]](クリス・ニールセン〈[[ロビン・ウィリアムズ]]〉)
* [[キャノンボール (映画)|キャノンボール]](マッドドッグ)※フジテレビ版
* [[キューブ2]](ジェリー〈[[ニール・クローン]]〉)※テレビ東京版
* 恐怖のエレベーター/高層ビルパニック(ジョンソン)
* [[銀河伝説クルール]]
* [[空軍大戦略]](アーチー少尉〈[[エドワード・フォックス]]〉)
* [[グリース (映画)|グリース]](ドゥーディ〈[[バリー・パール]]〉)※日本テレビ版
* [[グリニッチ・ビレッジの青春]](ロバート・フルマー〈[[クリストファー・ウォーケン]]〉、ニック・コスタ〈[[ビル・マーレイ]]〉)
* [[クリフハンガー (映画)|クリフハンガー]](ハル・タッカー〈[[マイケル・ルーカー]]〉<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.tv-asahi.co.jp/nichiyou_2012/bk/data/01648.html| title = クリフハンガー| publisher = 日曜洋画劇場| accessdate = 2016-09-06}}</ref>)※日本テレビ版
* K-911 やっぱり俺たち最強コンビ(マイク・ドゥーリー〈[[ジェームズ・ベルーシ]]〉)
* [[ケイン号の叛乱]](ペインター〈アーサー・フランツ〉)※フジテレビ版
* [[ゴーストバスターズ2]](ピーター・ヴェンクマン博士〈ビル・マーレイ〉)※テレビ朝日版
* [[ゴーストバスターズ (2016年の映画)|ゴーストバスターズ]](エド・マルグレイヴ〈[[エド・ベグリー・ジュニア]]〉)
* [[コールド・ウォー 香港警察 二つの正義]](マシュー・マック〈アレックス・ツイ〉)
* [[恋人たちの予感]](ハリー・バーンズ〈ビリー・クリスタル)※ANA上映版
* [[幸福の条件]](ジェレミー・グリーン〈[[オリヴァー・プラット]]〉)※日本テレビ版
* [[告発の行方]](クリフ・オルブレクト〈[[レオ・ロッシ]]〉)※テレビ朝日版
* [[地上より永遠に]](マジオ〈[[フランク・シナトラ]]〉)※テレビ朝日版
* [[GODZILLA]](チャールズ・ケイマン)※日本テレビ版
* [[コッチおじさん]](ピーター・ハーゼンスティール)
* [[この胸のときめき]](ジョー・デイトン〈ジェームズ・ベルーシ〉、ジョーイ・ジアン)
* [[コマンド戦略]](カードウェル大尉〈[[トム・スターン]]〉)※NET版
* [[コルドラへの道]](へザリンドン一等兵〈[[マイケル・カラン]]〉)※フジテレビ版
* [[コンフィデンスマン/ある詐欺師の男]](ゼイビア〈トム・ウィルキンソン〉)
* [[策謀のシナリオ]](ダニエル・マリン)
* [[サハラに舞う羽根]](ハミルトン大佐)※ソフト版
* [[サプライズ (2011年の映画)|サプライズ]](ポール〈[[ロブ・モラン]]〉)
* [[THE MYTH/神話]](グー教授)
* [[ザ・ミッション 非情の掟]](ブン〈[[コウ・ホン]]〉)
* [[ザ・メキシカン]](バーニー・ネイマン〈[[ボブ・バラバン]]〉)※テレビ朝日版
* [[ザ・ヤクザ]](ダスティ〈[[リチャード・ジョーダン]]〉)
* [[ザ・ラスト・マーセナリー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaeru.com/?p=16372|title=ザ・ラスト・マーセナリー -日本語吹き替え版|website=ふきカエル大作戦!!|date=2021-08-03|accessdate=2021-08-08}}</ref>
* [[ジェイソン・ボーン (映画)|ジェイソン・ボーン]](リチャード・ウェッブ〈[[グレッグ・ヘンリー]]〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-tvtokyo.co.jp/cinema/smp/?p=202210101830|title=ジェイソン・ボーン <新録吹き替え版>|website=BSテレ東|date=2022-10-10|accessdate=2022-09-25}}</ref>)※BSテレ東版
* [[地獄の女囚コマンド]]
* [[地獄の戦線]](ジョンソン〈[[マーシャル・トンプソン]]〉)※東京12ch版
* [[地獄への逆襲]](クレム〈[[ジャッキー・クーパー]]〉)※テレビ版2
* [[シティ・スリッカーズ (映画)|シティ・スリッカーズ]](フィル・バークィスト〈[[ダニエル・スターン]]〉)※テレビ東京版
* [[ジャスティス (2002年の映画)|ジャスティス]](ワーナー・ビッサー大佐〈[[マーセル・ユーレス]]〉)
* [[ジャッキー・チェンの必殺鉄指拳]](洪〈ティエン・ファン〉<ref>{{Cite web|和書|url= https://paramount.jp/search/detail.php?id=8998 |title= ジャッキー・チェンの必殺鉄指拳 |publisher=paramount pictures |accessdate=2023-11-26}}</ref>)※ソフト版
* [[13日の金曜日シリーズ#13日の金曜日 PART2|13日の金曜日 PART2]](ポール・ホルト〈[[ジョン・ヒューリー]]〉)※日本テレビ版
* [[ジョーズ3]](フィリップ・フィッツロイス〈[[サイモン・マッコーキンデール]]〉)
* [[少林寺への道]](タイチイ)
* [[新宿インシデント]](コウ〈[[高捷|ジャック・カオ]]〉)
* [[真説フランケンシュタイン]](ウィリアム・フランケンシュタイン)
* [[スタンド・バイ・ミー]](成人のゴードン・ラチャンス / ナレーション〈リチャード・ドレイファス〉)※DVD・VHS版
* [[スパイ・ゲーム]](チャールズ・ハーカー〈[[スティーヴン・ディレイン]]〉)※ソフト版
* [[スパルタンX]](伯爵家の執事)※ソフト版
* [[スモール・ソルジャーズ]](フィル・フィンブル〈[[フィル・ハートマン]]〉)※VHS版、(スチュアート・バーナシー〈[[ケヴィン・ダン]]〉)※日本テレビ版
* [[成龍拳]](オウ〈[[タン・リン]]〉)※TBS版
* [[世界にひとつの金メダル]](セルジュ・デュラン〈[[ダニエル・オートゥイユ]]〉<ref>{{cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=16314|title=#66 水樹奈々さんとの初仕事(たぶん)|work=ふきカエル大作戦!!|date=2021-08-01|accessdate=2021-08-02}}</ref>)※BSテレ東版
* [[セルピコ]](ボブ・ブレア)
* [[戦争のはらわた]](アンセルン〈[[ディエタ・シャイダー]]〉)
* [[戦略大作戦]]
* [[続・青い体験]](リノ)
* [[続・黄金の七人 レインボー作戦]](アルド〈[[ガブリエレ・ティンティ]]〉)※テレビ朝日版
* [[大地震 (1974年の映画)|大地震]](ウォルター・ラッセル)※TBS版
* [[大脱走2]](マイク・コレリー大尉〈[[アンソニー・ジョン・デニソン]]〉)
* [[タイタン (映画)|タイタン]](ソラーノ大佐〈[[フランセスク・ガリード]]〉)
* [[ダイ・ハード2]](ベーカー)※フジテレビ版
* [[ダイヤモンドの犬たち]](ロバーツ)
* [[大陸横断超特急]] ※日本テレビ版
* [[桃さんのしあわせ]](ビン)
* [[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]](トム〈[[アルバート・ブルックス]]〉)※TBS版
* [[戦う幌馬車]] ※フジテレビ版
* [[たったひとつの愛]](フィル)
* [[ダラスの熱い日]](ティム〈[[コルビー・チェスター]]〉)
* [[探偵物語 (1951年の映画)|探偵物語]](アーサー〈[[クレイグ・ヒル]]〉)※フジテレビ版
* [[チェーン・リアクション]](ドイル捜査官〈ケヴィン・ダン〉)※テレビ朝日版
* [[血のバレンタイン (映画)|血のバレンタイン]](ハワード〈[[アルフ・ハンフリーズ]]〉)
* [[チャタレイ夫人の恋人 (1981年の映画)|チャタレイ夫人の恋人]](アントン〈[[アンソニー・スチュワート・ヘッド]]〉)
* [[沈黙の聖戦]](フィッチ・マクウェイド)※テレビ東京版
* [[追撃のバラード]](R・L・デイヴィス〈リチャード・ジョーダン〉)
* [[追跡者 (1998年の映画)|追跡者]](コズモ・レンフロ連邦副保安官〈[[ジョー・パントリアーノ]]〉)※テレビ朝日版・テレビ東京版
* [[D3 マイティ・ダックス 飛べないアヒル3]](テッド・オライオン〈[[ジェフリー・ノードリング]]〉)
* [[D-TOX]](スレイター〈クリストファー・フルフォード〉)※テレビ東京版
* [[デイアフター2020 -首都大凍結-]](カバナー社長〈[[サム・ニール]]〉)
* [[デイジー (映画)|デイジー]](チャン〈[[チョン・ホジン]]〉)
* [[テキサス (映画)|テキサス]](ハワード・シブレー)※テレビ朝日版
* [[テキサスSWAT]](ケイヨ〈[[ロバート・ベルトラン]]〉)
* [[テスタメント (映画)|テスタメント]](ホリス〈[[フィリップ・アングリム]]〉)
* [[天国の日々]](チャック〈[[サム・シェパード]]〉)
* [[デンジャラス・ラン]](ハーラン・ホイットフォード〈サム・シェパード〉)※BSジャパン版
* [[天地創造 (映画)|天地創造]](アダム〈[[マイケル・パークス]]〉)※TBS版
* [[トゥームレイダー2 (映画)|トゥームレイダー2]](チェン・ロー〈[[サイモン・ヤム]]〉)※テレビ朝日版
* [[逃亡者 (1993年の映画)|逃亡者]](コズモ・レンフロ連邦副保安官〈ジョー・パントリアーノ〉)※テレビ朝日版
* [[トゥルーマン・ショー]]
* [[ドクター・ドリトル]](ブレイン医師〈[[ポール・ジアマッティ]]〉、騎馬警官)※日本テレビ版
* [[突撃隊 (映画)|突撃隊]](ホーマー〈[[ニック・アダムス]]〉)
* [[トップガン (映画)|トップガン]](バイパー〈[[トム・スケリット]]〉)※ソフト版
* [[ドミノ (2005年の映画)|ドミノ]](バーク・ベケット〈[[ピーター・ジェイコブソン (俳優)|ピーター・ジェイコブソン]]〉、ジェリー・スプリンガー)
* [[ドラキュラ (1992年の映画)|ドラキュラ]](アーサー・ホームウッド卿〈[[ケイリー・エルウィス]]〉)※テレビ朝日版
* [[ドラゴン危機一発]](シャン)
* [[ドラゴンロード]](ロンの父〈[[ティエン・ファン]]〉)※ソフト版
* [[トラ・トラ・トラ!]](ジョージ・エリオット)
* [[ドロップ・ゾーン]](スープ〈[[カイル・セコー]]〉、ボブ・コヴィングトンFBI捜査官〈[[クラーク・ジョンソン]]〉)※テレビ朝日版
* 永遠の語らい(ジョン船長〈[[ジョン・マルコヴィッチ]]〉)
* ドン・ボスコ(ドン・ボスコ)
* [[ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々]](リッチモンド学部長〈[[ラリー・ミラー]]〉)※フジテレビ版
* [[なりすましアサシン]](アモス〈[[ロン・リフキン]]〉)
* [[2010年 (映画)|2010年]](オルロフ博士)※TBS版
* [[野ばら (映画)|野ばら]](ブルナー〈[[トマス・ヘルビガー]]〉)※NET版
* [[ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実]](チャールズ・ホーイ、スタン・ホルダー元伍長、マイク・スルソナ、[[ロバート・ケネディ]])
* [[バーブ・ワイヤー/ブロンド美女戦記]](カーリー〈[[ウド・キア]]〉)※テレビ朝日版
* [[バイオハザードII アポカリプス]](チャールズ・アシュフォード〈[[ジャレッド・ハリス]]〉)※フジテレビ版
* [[ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ]](ハファティ保安官〈[[ディラン・ベイカー]]〉)※テレビ東京版
* ハイヒール・エンジェル(トレメイン〈[[マーク・ウィリアムズ (俳優)|マーク・ウィリアムズ]]〉)
* [[初体験/リッジモント・ハイ]](ブラッド・ハミルトン〈[[ジャッジ・ラインホルド]]〉)
* [[バットマン リターンズ]] ※ソフト版
* [[ハットンガーデン・ジョブ]](ブライアン〈ラリー・ラム〉)
* [[ハッピー・エンディング]](フランク〈[[トム・アーノルド]]〉)
* [[バティニョールおじさん]](バティニョール〈[[ジェラール・ジュニョ]]〉)
* [[バトル・オーシャン 海上決戦]](藤堂高虎)
* [[バトルクリーク・ブロー]](ロバート・クワン)
* [[パニック・イン・テキサスタワー]](チャールズ・ジョセフ・ホイットマン〈[[カート・ラッセル]]〉)
* [[巴里のアメリカ人]](ジェリー〈[[ジーン・ケリー]]〉)※テレビ朝日版
* [[パリは燃えているか]](ワレンと一緒にいるGI〈[[スキップ・ワード]]〉)
* [[ハロー・ドーリー! (映画)|ハロー・ドーリー!]](コーネリアス・ハックル〈[[マイケル・クロフォード]]〉)※TBS版
* [[バンデットQ]](ランドール)
* [[ビーチレッド戦記]]
* [[ビッグ・ウェンズデー (映画)|ビッグ・ウェンズデー]](スリック〈[[デニス・アーバーグ]]〉)
* [[ヒットマン (2007年の映画)|ヒットマン 完全無修正版]](ユーリ・マルクロフ〈[[ロバート・ネッパー]]〉)
* [[ビバリーヒルズ・コップ]](ビリー・ローズウッド〈ジャッジ・ラインホルド〉<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.thecinema.jp/program/00036 |title= ビバリーヒルズ・コップ |publisher=洋画専門チャンネル ザ・シネマ |accessdate=2023-09-08}}</ref>)※テレビ朝日版
* [[ピラミッド (1955年の映画)|ピラミッド]](センタ〈[[デューイ・マーティン]]〉)※フジテレビ版
* [[ビリー・ザ・キッド/21才の生涯]](イーノ〈[[ルーク・アスキュー]]〉、チャーリー〈[[チャールズ・マーティン・スミス]]〉)
* [[ファール・プレイ]]
* [[ファイナル・デスティネーション]](ヴァイン捜査官〈[[ダニエル・ローバック]]〉)
* [[ファンタズム (映画)|ファンタズム]](ジョディ・ピアソン〈[[ビル・ソーンベリー]]〉)
* [[54 フィフティ★フォー]](大使〈[[マイケル・ヨーク]]〉)※Netflix版
* [[プライド 栄光への絆]](ゲイリー・ゲインズ〈ビリー・ボブ・ソーントン〉)
* [[フライングハイ]](テッド・ストライカー〈[[ロバート・ヘイズ]]〉)
* [[ブラックジャック (映画)|ブラックジャック]](トーマス〈[[ソウル・ルビネック]]〉)※テレビ朝日版
* [[プラットフォーム (映画)|プラットフォーム]](トリマガシ〈ソリオン・エギレオール〉<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[クロックワークス]]|url=https://klockworx.com/bluraydvd/p-409348/|title=プラットフォーム|accessdate=2021-05-07}}</ref>)
* [[フランケンシュタイン (1994年の映画)|フランケンシュタイン]](ロバート・ウォルトン〈[[エイダン・クイン]]〉)※テレビ朝日版
* [[フリー・ウィリー 自由への旅立ち]](ガス〈ボー・ブリッジス〉)
* [[プリズン・フリーク]](刑務所長〈ディラン・ベイカー〉、ワインの試飲人〈[[マイケル・ヒッチコック]]〉)
* [[ブリット]](エディ〈[[ジャスティン・タール]]〉)※テレビ朝日版
* [[プリティ・ウーマン]](フィリップ・スタッキー〈[[ジェイソン・アレクサンダー]]〉)※TBS版
* [[フル・コンタクト]](ジャッジ〈サイモン・ヤム〉)
* [[フルスピード 悪魔のフル・チューン]](ホルツバウアー)※テレビ東京版
* [[ブルベイカー]](ラリー・リー・バレン〈[[デヴィッド・キース]]〉)
* [[フレンジー]](ロバート・“ボブ”・ラスク〈[[バリー・フォスター (俳優)|バリー・フォスター]]〉)※BD版
* [[プロジェクトA]](ジャガー〈[[ユン・ピョウ]]〉)※テレビ朝日版
* [[プロジェクトBB]](洪峰〈チェン・バオグォ〉)
* [[フロム・ダスク・ティル・ドーン]](ジェイコブ・フラー〈ハーヴェイ・カイテル〉)※Netflix版
* [[BUNRAKU (映画)|BUNRAKU]](語り〈[[マイク・パットン]]〉)
* [[ペーパーチェイス]](ホテル支配人)
* [[北京原人の逆襲]](チャーリー)
* [[ペット・セマタリー|ペット・セメタリー]](ルイス・クリード〈デイル・ミドキフ〉)※ソフト版
* [[ベニスに死す (映画)|ベニスに死す]](アルフレッド〈[[マーク・バーンズ]]〉)
* [[ペンタグラム/悪魔の烙印]] ※テレビ朝日版
* [[ホーム・アローン5]](シンクレア〈[[マルコム・マクダウェル]]〉)
* [[暴走機関車]](バック〈[[エリック・ロバーツ]]〉)※TBS版、(フランク・バーストゥ)※テレビ朝日版
* [[ポセイドン・アドベンチャー (映画)|ポセイドン・アドベンチャー]](ハリソン船長〈[[レスリー・ニールセン]]〉)※BS-TBS版
* [[ボディ・ターゲット]] ※ソフト版
* [[炎のランナー]](ハロルド・エイブラハムス〈[[ベン・クロス]]〉)
* [[ホビット (映画)|ホビット三部作]](ラダガスト〈シルベスター・マッコイ〉)
** [[ホビット 思いがけない冒険]]
** [[ホビット 竜に奪われた王国]]
** [[ホビット 決戦のゆくえ]]<ref>{{Cite news |url=http://dramanavi.net/news/2014/11/post-3255.php |title=『ホビット 決戦のゆくえ』レジェンド級の声優集う!! 「こんな吹替版は二度と作れない」 |accessdate=2014-11-18}}</ref>
* [[ポリス・ストーリー/香港国際警察]](検事)※フジテレビ版追加収録部分
* [[ホワイトハウスの陰謀]](ステングル刑事〈[[デニス・ミラー]]〉)
* [[香港国際警察/NEW POLICE STORY]](ジョーの父〈スン・チュン〉)
* [[マシンガン・パニック|マシンガン・パニック/笑う警官]](ジミー)
* [[M★A★S★H マッシュ]](レーダー・オライリー伍長)※LD版
* [[摩天楼を夢みて]](ジョン・ウィリアムソン〈[[ケヴィン・スペイシー]]〉)
* [[真昼の用心棒]](スコット・ジュニア〈[[ニーノ・カステルヌオーヴォ]]〉)※テレビ東京版
* マリア・マザレロ しあわせな家(ドン・ボスコ)
* [[ミクロの決死圏]] ※フジテレビ版
* [[Mr.3000]](ボーカ〈[[マイケル・リスポリ]]〉)
* [[未来警察]](マーヴィン〈[[スタン・ショウ]]〉)
* [[名探偵ベンジー]](ベンジャミン・ブラウニング〈[[チェビー・チェイス]]〉)
* [[モーガン プロトタイプL-9]](シャピロ博士〈[[ポール・ジアマッティ]]〉)
* [[燃えよドラゴン]](パーソンズ〈[[ピーター・アーチャー]]〉)※テレビ朝日版
* [[目撃者 (1999年の映画)|目撃者]](アラン・クランサー)
* [[奴らを高く吊るせ!]](ビリー・ジョー)
* [[山猫は眠らない|山猫は眠らない2 狙撃手の掟]](エクレス〈[[ダン・バトラー]]〉)※テレビ東京版
* [[ヤング・フランケンシュタイン]](医学生)※LD版
* [[ヤングマスター 師弟出馬]](ティン師匠〈ティエン・ファン〉)※ソフト版
* [[ユーズド・カー]](ジェフ〈[[ゲリット・グレアム]]〉)
* [[遊星からの物体X]](ノールス〈T・K・カーター〉)
* [[夜の道]](グラント・マクレーン〈ジェームズ・ステュアート〉)※ソフト版
* [[楽園の瑕]](「西毒」欧陽鋒〈[[レスリー・チャン]]〉)
* [[ラストベガス]](サム〈ケヴィン・クライン〉)
* [[ラッシュアワー2]](リッキー・タン〈[[ジョン・ローン]]〉)
* [[ラ・ヨローナ〜泣く女〜]](ペレス神父〈トニー・アメンドーラ〉)
* [[リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い]](M〈[[リチャード・ロクスバーグ]]〉)
* [[リクルート (映画)|リクルート]](デニス・スレイン)
* [[理由なき反抗]](クランチ〈[[フランク・マッゾラ]]〉、ムーズ〈ニック・アダムス〉)※TBS版
* [[緑園の天使]](マイ・テイラー〈[[ミッキー・ルーニー]]〉)※テレビ東京版
* [[レーサー (映画)|レーサー]]
* [[レイダース/失われたアーク《聖櫃》]](サティポ〈[[アルフレッド・モリーナ]]〉)※日本テレビ版
* [[レイチェルの結婚]](ポール〈[[ビル・アーウィン (俳優)|ビル・アーウィン]]〉)
* [[レジェンド・オブ・ゾロ]](フレイ・フェリペ神父〈[[ジュリオ・オスカー・メチョソ]]〉)※ソフト版
* [[レッドブル (映画)|レッドブル]](スタッブス警部補〈[[ローレンス・フィッシュバーン]]〉)※テレビ朝日版
* [[レプリカント (映画)|レプリカント]](スタン・レイズマン〈イアン・ロビンソン〉)※テレビ東京版
* [[レマゲン鉄橋]](グレブス〈[[ボー・ホプキンス]]〉)※TBS版
* [[ローヤル・フラッシュ]](エリック・ハンセン〈[[クリストファー・カザノフ]]〉)
* [[ロミオとジュリエット (1968年の映画)|ロミオとジュリエット]](マキューシオ〈[[ジョン・マケナリー]]〉)※テレビ朝日版
* [[ロング・キス・グッドナイト]](ルーク / ダエダルス〈[[デヴィッド・モース]]〉)※ソフト版
* [[ワーロック (1959年の映画)|ワーロック]] ※テレビ朝日版
* [[ワイルドカード (映画)|ワイルドカード]](ベイビー〈[[スタンリー・トゥッチ]]〉)
* [[ワイルドバンチ (映画)|ワイルドバンチ]](クレージー・リー〈ボー・ホプキンス〉)
* ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ外伝/天地笑覇(ケン〈[[レオン・カーフェイ]]〉)
* [[ワンダー・ボーイズ]](テリー・クラブツリー〈[[ロバート・ダウニー・Jr]]〉)
* [[愛人 もうひとりのわたし]](ミョンス〈[[シン・ヒョンジュ]]〉)
==== ドラマ ====
* [[アウトランダー (テレビドラマ)|アウトランダー]](ネッド・ガウアン〈[[ビル・パターソン]]〉)
* [[海の救助隊レスキュー5]](フィル・トライヤル〈[[エリック・オルドフィールド]]〉)
* [[NCIS: ニューオーリンズ]] シーズン4 #6(ボー・ラサール)
* [[NCIS 〜ネイビー犯罪捜査班]] シーズン8 #22(フランク・ライミー)
* [[エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY|エレメンタリー2 ホームズ&ワトソン in NY]] #16(リチャード・バルシール〈ビル・アーウィン/[[:en:Bill Irwin|Bill Irwin]]〉)
* [[カウボーイビバップ (テレビドラマ)|カウボーイビバップ]]
* [[華麗なるペテン師たち|華麗なるペテン師たち3]](ヨーク警部)
* [[騎馬警官 (テレビドラマ)|騎馬警官]] シーズン1 #2(ハワード医師)
* [[宮廷女官チャングムの誓い]](ハン・ドンイク)
* [[クリスマス・マジック プレゼントはお天気マシーン]](マルティーノ)
* [[刑事コロンボ]]シリーズ
** 刑事コロンボ 黒のエチュード(ポール・リフキン)※日本テレビ版
** 刑事コロンボ 逆転の構図(アルヴィン・ダシュラー)
** 刑事コロンボ ルーサン警部の犯罪(監督)
** 新・刑事コロンボ 初夜に消えた花嫁(グッドマン刑事)
* [[刑事スタスキー&ハッチ]] シーズン1 #5(クランドール〈[[ジョージ・ズンザ]]〉)
* [[ケネディ家の人びと]](リンドン・ジョンソン〈[[ドン・アリソン]]〉)
* [[コールドケース 迷宮事件簿|コールドケース2]] #16(ルディ・タナー)
* コールドケース7 ザ・ファイナル #9(ダレン)
* [[項羽と劉邦 King's War]](劉邦〈[[陳道明|チェン・ダオミン]]〉)
* [[孔子 (テレビドラマ)|孔子]](孔丘〈チュウ・ガンリーヤオ〉)
* [[三国志演義 (テレビドラマ)|三国志演義]](魏延)※NHK-BS2版
* [[CSI:科学捜査班]]('''ギル・グリッソム'''〈ウィリアム・ピーターセン〉)
** [[CSI: ベガス]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[WOWOW]]|url=https://www.wowow.co.jp/detail/174822|title=CSI:ベガス|accessdate=2022-04-07}}</ref>
* [[シカゴ・ホープ|シカゴホープ2]](ジョン・サットン〈[[ジェイミー・シェリダン]]〉)※テレビ朝日版
* [[上海グランド#テレビドラマ|上海灘]](ブン〈[[チョウ・ユンファ]]〉)
* [[ジョーイ (テレビドラマ)|ジョーイ]] シーズン1 #11(ジェリー)
* [[私立探偵マグナム]](オーヴィル・“リック”・ライト〈ラリー・マネッティ〉)※TBS版
* [[人造人間クエスター]](チェン博士〈[[ジェームズ・シゲタ]]〉)
* [[スーパーストーム]](カッツェンバーグ〈[[トム・サイズモア]]〉)
* [[スタートレック:ヴォイジャー]](アートゥリス)
* [[曹操 (テレビドラマ)|曹操]](王允〈[[李暁文]]〉)
* [[ターザンの大冒険]](ペルパ)※NHK-BS2版
* [[ダイナスティ (テレビドラマ)|ダイナスティ]](マシュー・ブレーズデル〈ボー・ホプキンス〉)
* [[ダイノトピア]](サイラス・クラッブ〈[[デヴィッド・シューリス]]〉)※ソフト版
* [[タイムレス (テレビドラマ)|タイムレス]](ベンジャミン・ケイヒル〈[[ジョン・ゲッツ]]〉)
* [[TABOO (テレビドラマ)|TABOO]](ブレイス)
* [[CHASE/逃亡者を追え!]](パブロ・コルドヴァ)
* [[チャーリーズ・エンジェル|地上最強の美女たち!チャーリーズ・エンジェル]]
** シーズン1 #19(トニー・ボーディネー)
** シーズン2 #24(デニー・レイルズバック〈[[ダーク・ベネディクト]]〉)
* [[超音速攻撃ヘリ エアーウルフ]]
** シーズン2 #1(ボビー)
** シーズン3 #9(グスタヴォ)
* [[ディフェンダーズ 闘う弁護士]](ニック・モレリ〈ジェームズ・ベルーシ〉)
* [[デスパレートな妻たち]]5(ブルース)
* [[特捜刑事マイアミ・バイス]]
** シーズン1 #9(ジョーイ・ブラムレット〈[[キース・ザラバッカ]]〉)、#21(エヴァン・フリード〈[[ウィリアム・ラス]]〉)
** シーズン2 #15(キャット)
* [[特捜班CI-5]](ドイル〈マーティン・ショウ〉)
* [[ドクタークイン 大西部の女医物語]](ダニエル・サイモン〈[[ジョン・シュナイダー]]〉)
* [[特別狙撃隊S.W.A.T.]] シーズン1 #6(ブライアン・バーンズ)、#11(トルーパー)
* [[トレイター/TRAITOR 国を売った男]](ヴァレリ・ブロック〈マルトゥ・ヌルク〉<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wowow.co.jp/detail/175322|title=トレイター/TRAITOR 国を売った男|website=WOWOW|accessdate=2023-02-25}}</ref>)
* [[ナイトライダー]]('''K.I.T.T.[ナイト2000]'''<!-- 〈声:[[ウィリアム・ダニエルズ]]〉 -->)
* [[ナイトライダー#ナイトライダー(2008年)/ナイトライダーNEXT|ナイトライダーNEXT]]('''K.I.T.T.[ナイト3000]'''<!-- 〈声:[[ヴァル・キルマー]]〉 -->)
* ナンシーはお年頃
* [[バーン・ノーティス 元スパイの逆襲]](トニー、レインズ)
* [[爆発!デューク]](イーノス・ストレート〈ソニー・シュロイヤー〉)
* [[パパにはヒ・ミ・ツ]](トム〈ラリー・ミラー〉)
* [[ヒルストリート・ブルース]] シーズン1 #5(ブルース・ウォーニック)
* [[ダーマ&グレッグ|ふたりは最高!ダーマ&グレッグ]] シーズン2 #11(デヴィッド・サンダース〈[[カート・フラー]]〉)
* [[ホワイトチャペル 終わりなき殺意]](レイ・マイルズ)
* [[魔術師 MERLIN]](アレディアン〈[[チャールズ・ダンス]]〉)
* [[Mr.ビーン]](ナレーション)
* ミスター・ベンソン シーズン1 #15(エド・シャーマン)
* [[ミセス・コロンボ]](ジェイ・ジョンソン)
* [[ムーン・パニック]]
* [[名探偵登場〜ルーク教授]] ロンドン殺人事件(ジミー〈[[レイ・ローソン]]〉)
* [[名探偵モンク]] シーズン3 #4(ブルックス〈サヴェリオ・グェルラ〉)
* [[メンタリスト (テレビドラマ)|THE MENTALIST メンタリストの捜査ファイル]](アーノルド・ネイル)
* [[よみがえり 〜レザレクション〜]](ヘンリー・ラングストン〈[[カートウッド・スミス]]〉)
* ラバーン&シャーリー(ノーマン・ヒューズ巡査)
* [[ローハイド]](ヘイ・スース〈[[ロバート・カバル]]〉)
* [[ロスト・ガール]](トリック〈リック・ホウランド〉)
==== テレビ番組 ====
* [[ジェリー・スプリンガー・ショー]](ジェリー・スプリンガー)
==== アニメ ====
* [[あの夏のルカ]](トンマーゾ<ref>{{Cite news|url=https://www.fukikaeru.com/?p=15950|title=あの夏のルカ|publisher=ふきカエル大作戦!!|date=2021-06-01|accessdate=2021-06-01}}</ref>)
* [[サミーとシェリー 七つの海の大冒険]](オールドサミー、ナレーター)
* [[サミーとシェリー2 僕らの脱出大作戦]]('''サミー''')
* [[少年勇者ギルドン]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://cinemakorea.blog.fc2.com/blog-entry-6.html|title=シネマコリア|韓国映画情報 >>『少年勇者ギルドン』 シン・ドンホン監督ティーチイン|publisher=シネマコリア|date=2012-06-27|accessdate=2017-03-27}}</ref>
* [[バッタ君町に行く]] ※フジテレビ版2
* [[ロボッツ]](クランク・ケイシー<!-- 〈声:[[ドリュー・キャリー]]〉 -->)
==== 人形劇 ====
* [[地球防衛軍テラホークス]](ヒロ)
=== ボイスオーバー ===
* [[日立 世界・ふしぎ発見!]]
* [[美の巨人たち]]
** [[新美の巨人たち]]([[鏑木清方|清方]]の言葉朗読)
* 奇跡のレッスン
=== テレビドラマ ===
* [[特別機動捜査隊]](1961年 - 1977年)
* [[七人の刑事]](1967年)
* [[丸太と包丁]](1968年)
* [[大河ドラマ]] [[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]](1968年、NHK) - 利三
* [[お嫁さん (テレビドラマ)|お嫁さん]] 第6話(1968年 - 1969年、フジテレビ) - クリーニング店御用聞き
* [[坊つちやん (テレビドラマ)|坊っちゃん]](1970年、日本テレビ)
* [[おれは男だ!]] 第39話(1972年、日本テレビ) - 清水千加の兄
* [[闘え!ドラゴン]] 第1 - 3、8話(1974年、東京12チャンネル) - マジン リャンの声
* [[バラ色の人生]] 最終話(1974年、TBS)
* [[ふしぎ犬トントン]](1978年、フジテレビ) - 野山
* [[東京全力少女]] 第1話(2012年、日本テレビ) - 四国高速バスの車内アナウンス
=== テレビ番組 ===
* 『[[NHKスペシャル]] 沸騰都市 第8回 「TOKYOモンスター」』内、短編アニメーション(三田)
* 原子の力を解放せよ 〜戦争に翻弄された核物理学者たち〜(声の出演)
* [[ミュージックステーション]](K.I.T.T.[ナイト2000]の声)
=== 映画 ===
* [[激動の昭和史 軍閥]](1970年)
* [[クヒオ大佐]](2009年、ナレーション)
=== 特撮 ===
* [[快獣ブースカ]](1966年、第1話の自満軒の出前持ち)
* [[ウルトラセブン]](1968年、第28話の1号車の男〈キル星人〉)
* [[マイティジャック]](1968年、第13話の三村カメラマン)
* [[イナズマンF]](1974年、ジシャクデスパーの声)
* [[アクマイザー3]](1976年、カサドラーの声、コマイヌーンの声)
* [[スーパー戦隊シリーズ]]
** [[秘密戦隊ゴレンジャー]](1976年、ダイヤモンド仮面の声、鳥牙仮面の声)
** [[天装戦隊ゴセイジャー]](2010年、ズテラメドロプ星人・研究のアバウタの声)
* [[UFO大戦争 戦え! レッドタイガー]](1978年、ロボQ〈声〉、ナレーター)
=== 人形劇 ===
* [[こどもにんぎょう劇場]]「[[おおかみと七ひきのこやぎ|おおかみと7匹のこやぎ]]」(おおかみ)
=== テレビナレーション ===
* [[池上彰|池上彰が選ぶ 日本の運命を決めたニュース]]
* [[ここがポイント!!池上彰解説塾]]
* [[史上最強のクイズ王決定戦]]
* [[スーパーJチャンネル]]
* [[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]
* ファイトフィッシング
* メイドインジャパン研究所〜暮らしを変える魔法の技術〜
=== ラジオ ===
* [[お話でてこい]](朗読)
=== ラジオドラマ ===
* [[播磨灘物語]](1975年、KBC・[[九州朝日放送]])
* [[夜のドラマハウス]]
* ラジオ劇場 [[下町ロケット]]
=== CMナレーション ===
* [[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]] [[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]DX合体セット(1979年)
* [[絶対無敵ライジンオー]] 玩具CM(1991年)
* [[ココスジャパン]](2011年)
* [[サッポロ一番]]ソース焼きそば(1990年)
* [[ダイソン (企業)|ダイソン]] ダイソン掃除機(2009年)
* [[不二家]] ザ・ギンザ(1982年)
=== パチンコ・パチスロ ===
* 銀座「[[パチスロ]] ナイトライダー」('''[[ナイト2000|K.I.T.T.〈ナイト2000〉]]''')
=== その他コンテンツ ===
* [[東京国立博物館]]「対決 巨匠たちの日本美術」音声ガイド([[木喰]])
* プラスエスト「きゃらナビ CNS-2000NA」type NAs(ボイス)
* モニターリサーチ
** 「カーセキュリティ GOOD NIGHT SC2000」(ボイス)
** 「ボイスマイスター ギルシード」GS-R05スペシャルエディション/GVZ-01(ボイス)
* [[ウルトラセブン]]とペリーヌちゃんのなぞなぞクイズレコード([[幼稚園 (雑誌)|小学館の幼稚園]]1978年11月号付録のソノシート)('''[[ウルトラセブン (キャラクター)|ウルトラセブン]]の声''')
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist
|refs=
<ref name="デビルマン">{{Cite book|和書 |chapter=声のヒーロー37人総登場 |date=1978-02-25 |editor=[[尾形英夫]] |page=76 |publisher=[[徳間書店]] |title=ロマンアルバム(4) [[テレビランド]]増刊号 デビルマン}}</ref>
<ref name="ザンボット3">{{Cite web | accessdate = 2023-02-19 | publisher = [[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] | title = OUTLINE | url = http://zambot3.net/anime.html | website = 『無敵超人ザンボット3』公式サイト}}</ref>
<ref name="科学冒険隊タンサー5">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-02-19 | publisher = サンライズ | title = キャラクター | url = http://tansar5.net/character/index.html | website = 科学冒険隊タンサー5}}</ref>
<ref name="ゴッドマーズ">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-04-18 | publisher = [[トムス・エンタテインメント]] | title = 六神合体ゴッドマーズ | url = https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1980s/040101.html | website = トムス・エンタテインメント 公式サイト}}</ref>
<ref name="冴羽獠の最期">{{Cite web|和書| accessdate = 2023-01-07 | publisher = サンライズ | title = シティーハンタースペシャル 緊急生中継!?凶悪犯冴羽獠の最期 | url = http://sunrise-world.net/titles/pickup_237.php | website = サンライズワールド}}</ref>
<ref name="∀ガンダム">{{Cite web | accessdate = 2022-04-09 | url = http://www.turn-a-gundam.net/character/29.html | title = character |website = ∀ガンダムWeb |publisher = サンライズ }}</ref>
}}
== 外部リンク ==
* {{Official|1=https://sigma7.co.jp/actors/nojima_akio|name=野島 昭生|株式会社シグマ・セブン}}
{{シグマ・セブン}}
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[[Category:野島家|あきお]]
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[[Category:シグマ・セブン]]
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[[Category:満洲国出身の人物]]
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Osaka Metro南港ポートタウン線
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南港ポートタウン線(なんこうポートタウンせん)は、大阪府大阪市住之江区のコスモスクエア駅から住之江公園駅を結ぶ大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) の自動案内軌条式旅客輸送システム (AGT) 路線。愛称はニュートラム。駅番号を表す際に用いられる路線記号は「P」。ラインカラーは海と空を模した水色(セルリアンブルー )である。
大阪南港・咲洲に造られた住宅団地南港ポートタウンやフェリーターミナルへの交通手段として1981年(昭和56年)3月16日に住之江公園駅 - 中ふ頭駅間が開業した。神戸新交通ポートアイランド線(ポートライナー)に次ぐ日本で2番目の本格的なAGTの路線で、公営交通(地方公営企業である交通局)のAGT路線としては初であり、2008年(平成20年)3月に東京都交通局の日暮里・舎人ライナーが開業するまでは公営交通による唯一のAGT路線であった。
当路線は地下鉄と同じくOsaka Metroが直接運営しているAGT路線である。運賃体系も地下鉄路線と一体化されており、両端駅はOsaka Metroの地下鉄路線と改札内で乗り換えすることができる(運賃額は「大阪市高速電気軌道#運賃」を参照)。
すべての駅が開業時からホームドア設置の島式ホーム1面2線(停車時は終点駅以外は進行方向から向かって右側の扉が開く)となっている。
駅構内案内表示板における案内表記は、開業当時から「ニュートラム」で統一されている。大阪市交通局時代の末期に更新された案内表示では「南港ポートタウン線」へと変更されており、地下鉄の乗り換え放送では2014年3月頃から「ニュートラム南港ポートタウン線はお乗り換えです」と放送が変更されていた。その後、Osaka Metroに移行した際に案内表記・放送ともに「ニュートラム」に戻されている。
駅により、列車発着案内が開業時からの反転フラップ式表示のものや、1997年のOTS開業時にLED表示のものに変更されているものと統一されていなかったが、2012年3月より、カラーLED式の発着案内表示機に全駅で交換された。
南港ポートタウン線は歴史的経緯(後述)により、距離を示すキロポストが2つに分かれている(矢印の方向にキロ数が増える)。
それまで南港ポートタウンと大阪市中心部とは、路線バスで結ばれていたが、南港ポートタウンが完成すると居住人口は大幅に増加する。しかし、バスの増発は渋滞など道路状況の悪化のおそれがあり、鉄道では需要に対して輸送力が大きすぎる。このため、両交通機関の中間にあたる「新交通システム」(厳密にはAGTシステム)が採用された。
1974年度、運輸省、建設省、大阪府、阪神高速道路公団(いずれも当時の名称)、学識経験者、大阪市関係者から構成する「大阪南港新交通システム調査委員会」が発足し、半年間にわたって南港ポートタウンへの交通機関を検討し、「新交通システム」(厳密にはAGTシステム)の採用に至ったものである。その後1974年(昭和49年)9月、大阪市では学識経験者と大阪市関係者から構成する「大阪南港新種交通機関機種選定委員会」を設置し、当時各製造メーカーで開発・実験を行っていた新交通システム(主にAGTシステム)から南港ポートタウン線に適するシステムとして、以下の7機種が候補に挙げられた(会社名は当時)。
各種調査・検討の結果、1977年(昭和52年)2月には※のついた3機種に絞られ、最終的には12月に新潟鐵工所が中心に開発したNTS(ニュートランシステム)システムを基本とした車両システムを、駅務機器に神戸製鋼所が中心に開発したKRTシステムを採用した。
コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅間と中ふ頭駅 - フェリーターミナル駅間は鉄道事業法による鉄道、トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間とフェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間は軌道法による軌道となっている。
コスモスクエア駅 - 住之江公園駅間全線通し運転の列車のほかに、車両基地のある中ふ頭駅を始発・終着とする列車として、早朝および朝夕のラッシュ時間帯前に中ふ頭発コスモスクエア行きが、朝夕のラッシュ時間帯後および深夜に住之江公園発中ふ頭行きが運転される。また、深夜にはコスモスクエア発中ふ頭行きの列車も運転される。
日中は約6分間隔で運行する。また、地下鉄に比べて車両全体の定員が少ないため、住之江でのボートレース開催時や南港の咲洲地区にあるアジア太平洋トレードセンター (ATC) 大阪府咲洲庁舎(コスモタワー)、インテックス大阪でのイベント開催時にはイベントなどの来場者に合わせた増発ダイヤとなる。臨時ダイヤは平日用のA1・A2と休日用のM1・M2・M3の5種類あり、イベント開催の集客数などで臨時ダイヤの種類が決まる。臨時ダイヤの場合は常設の時刻表近くに「本日は臨時ダイヤです」と表示される(場所によっては臨時ダイヤそのものが掲示されたり、5種類の臨時ダイヤが常に掲示されているところもある)。臨時ダイヤの種類の判別は、臨時ダイヤ表の右下に「M1」といった記載があるのでそれで判別できる。
南港ポートタウン線は自動列車運転装置 (ATO)・自動列車制御装置 (ATC) による無人自動運転を行っている。しかし、1981年の開業当時は無人運転の前例がなく、無人運転システムへの理解と信頼が得られるまで乗務員を添乗させて監視を行っていた(同年開業のポートライナーも当初は乗務員添乗)。1991年から無人運転が一部の列車で開始され、その後すべての列車に拡大されたが、1993年の住之江公園駅での車両暴走事故の後、しばらくは運転資格を持たない添乗員を添乗させて監視させていた。2006年のゆりかもめ(AGT路線)の車輪脱落事故の際には、乗務員を添乗させて有人手動運転を行っており、平日朝ラッシュ時等に乗務員の運転訓練のため、有人手動運転を行っている列車もある。
コスモスクエア駅 - 中ふ頭駅間は大阪港トランスポートシステム (OTS) の南港・港区連絡線(ニュートラムテクノポート線)として1997年に開業した。
大阪府咲洲庁舎(コスモタワー、当時は大阪ワールドトレードセンタービルディング)やアジア太平洋トレードセンターなどがある南港コスモスクエア地区の交通を担っているが、運賃体系が異なっていた(2005年6月時点で大人全線230円均一)ため通算運賃が割高となり、利用者数が開業当初の見込みより低迷していた。そこで、大阪市交通局(当時)のニュートラムと運賃体系を統一することで運賃を値下げして利用者増加を図ることになり、大阪港トランスポートシステムは2005年2月9日に鉄道事業廃止届を提出するとともに、ニュートラムテクノポート線のコスモスクエア - トレードセンター前間の線路以外の施設と車両などを大阪市に売却し、第三種鉄道事業者として線路を第二種鉄道事業者となる大阪市交通局に貸与する形を採り、トレードセンター前 - 中ふ頭間については軌道事業を大阪市交通局に譲渡した。同年7月1日から大阪市交通局はこれらの区間を南港ポートタウン線の一部として運営することになった。なお、2018年4月1日の大阪市営地下鉄民営化に伴い、当路線の運営も大阪市高速電気軌道に移管された。
また、それまで弁天町駅と南港を結び、OTS線に比べ運賃が安いため利用者もそれなりに多かった大阪市営バスの44・44A系統(弁天町バスターミナル - ポートタウン東駅前・南港バスターミナル)が、上記のOTS線移管に伴う運賃の値下げにより乗客が減少することが見込まれるため、2005年8月16日から運行経路と区間が変更され、本数もこれまでより削減された(のちに同路線の南港への乗り入れもなくなった)。詳細は「大阪市営バス酉島営業所#84号系統」を参照。
また、2005年7月からの値下げなどの効果によりコスモスクエア駅、トレードセンター前駅の平均乗車人員は、値下げ前と比べて約 15 - 30%増えている。
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"text": "それまで南港ポートタウンと大阪市中心部とは、路線バスで結ばれていたが、南港ポートタウンが完成すると居住人口は大幅に増加する。しかし、バスの増発は渋滞など道路状況の悪化のおそれがあり、鉄道では需要に対して輸送力が大きすぎる。このため、両交通機関の中間にあたる「新交通システム」(厳密にはAGTシステム)が採用された。",
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"text": "各種調査・検討の結果、1977年(昭和52年)2月には※のついた3機種に絞られ、最終的には12月に新潟鐵工所が中心に開発したNTS(ニュートランシステム)システムを基本とした車両システムを、駅務機器に神戸製鋼所が中心に開発したKRTシステムを採用した。",
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"text": "コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅間と中ふ頭駅 - フェリーターミナル駅間は鉄道事業法による鉄道、トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間とフェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間は軌道法による軌道となっている。",
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"text": "コスモスクエア駅 - 住之江公園駅間全線通し運転の列車のほかに、車両基地のある中ふ頭駅を始発・終着とする列車として、早朝および朝夕のラッシュ時間帯前に中ふ頭発コスモスクエア行きが、朝夕のラッシュ時間帯後および深夜に住之江公園発中ふ頭行きが運転される。また、深夜にはコスモスクエア発中ふ頭行きの列車も運転される。",
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"text": "日中は約6分間隔で運行する。また、地下鉄に比べて車両全体の定員が少ないため、住之江でのボートレース開催時や南港の咲洲地区にあるアジア太平洋トレードセンター (ATC) 大阪府咲洲庁舎(コスモタワー)、インテックス大阪でのイベント開催時にはイベントなどの来場者に合わせた増発ダイヤとなる。臨時ダイヤは平日用のA1・A2と休日用のM1・M2・M3の5種類あり、イベント開催の集客数などで臨時ダイヤの種類が決まる。臨時ダイヤの場合は常設の時刻表近くに「本日は臨時ダイヤです」と表示される(場所によっては臨時ダイヤそのものが掲示されたり、5種類の臨時ダイヤが常に掲示されているところもある)。臨時ダイヤの種類の判別は、臨時ダイヤ表の右下に「M1」といった記載があるのでそれで判別できる。",
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"text": "また、それまで弁天町駅と南港を結び、OTS線に比べ運賃が安いため利用者もそれなりに多かった大阪市営バスの44・44A系統(弁天町バスターミナル - ポートタウン東駅前・南港バスターミナル)が、上記のOTS線移管に伴う運賃の値下げにより乗客が減少することが見込まれるため、2005年8月16日から運行経路と区間が変更され、本数もこれまでより削減された(のちに同路線の南港への乗り入れもなくなった)。詳細は「大阪市営バス酉島営業所#84号系統」を参照。",
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"title": "歴史"
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] |
南港ポートタウン線(なんこうポートタウンせん)は、大阪府大阪市住之江区のコスモスクエア駅から住之江公園駅を結ぶ大阪市高速電気軌道 の自動案内軌条式旅客輸送システム (AGT) 路線。愛称はニュートラム。駅番号を表す際に用いられる路線記号は「P」。ラインカラーは海と空を模した水色(セルリアンブルー )である。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Redirect|ニュートラム|ブータン王国の通貨|ニュルタム}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Osaka Metro logo 2.svg|20px|大阪市高速電気軌道|link=大阪市高速電気軌道]] 南港ポートタウン線
|路線色 = #00a0de
|ロゴ = [[File:Newtram logo.png|50px]] [[File:Osaka Metro Nanko Port Town line symbol.svg|50px]]
|ロゴサイズ =
|画像 = Newtram200.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 咲洲を行くニュートラムの車両[[大阪市交通局200系電車|200系]]
|通称 = ニュートラム
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[住之江区]]
|種類 = [[案内軌条式鉄道]] ([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])
|起点 = [[コスモスクエア駅]]
|終点 = [[住之江公園駅]]
|駅数 = 10駅
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|路線記号 = [[File:Osaka Metro Nanko Port Town line symbol.svg|20px|P]] P
|路線色3 = {{Legend2|#00a0de|[[水色]]([[セルリアンブルー]])}}
|開業 = [[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月16日]]
|全通 = [[1997年]]([[平成]]9年)[[12月18日]]
|所有者 = [[大阪港トランスポートシステム]]
*コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅間 第3種鉄道事業者
[[大阪市高速電気軌道]]
*トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間・フェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間 軌道経営者
*中ふ頭駅 - フェリーターミナル駅間 第1種鉄道事業者
|運営者 = 大阪市高速電気軌道
*コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅間 第2種鉄道事業者
*トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間・フェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間 軌道経営者
*中ふ頭駅 - フェリーターミナル駅間 第1種鉄道事業者
|車両基地 = 南港検車場
|使用車両 = [[#車両|車両]]の節を参照
|路線構造 =
|路線距離 = 7.9 [[キロメートル|km]]
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[三相交流]] 600 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />側方接触式・三線剛体架線方式
|閉塞方式 =
|保安装置 = [[自動列車制御装置|ATC]]、[[自動列車運転装置|ATO]]
|最高速度 =55 [[キロメートル毎時|km/h]]<!--車両記事参照-->
|路線図 = 7 newtram.png
}}
'''南港ポートタウン線'''(なんこうポートタウンせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[住之江区]]の[[コスモスクエア駅]]から[[住之江公園駅]]を結ぶ[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) の[[自動案内軌条式旅客輸送システム]] (AGT) 路線。愛称は'''ニュートラム'''。[[駅ナンバリング|駅番号]]を表す際に用いられる路線記号は「'''P'''」<ref group="注釈">nanko '''P'''ort town。Nが[[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]] (Nagahori Tsurumi-ryokuchi) で使われたため。[[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]]とともに、路線記号がローマ字表記の頭文字になっていない。</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2004-02-24 |url=http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/kotsu_b/no_hyouji/no_hyouji1.html |title=地下鉄・ニュートラムの路線名及び駅名への記号・番号表示について |publisher=大阪市交通局 |accessdate=2021-04-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040605135836/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/kotsu_b/no_hyouji/no_hyouji1.html |archivedate=2004-06-05}}</ref>。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は海と空を模した[[水色]]([[セルリアンブルー]] [[File:Osaka Metro Nanko Port Town line symbol.svg|20px]])である。
== 概要 ==
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title = 停車場・施設・接続路線
|title-bg = #00a0de
|title-color = white
|collapse = yes
|map =
{{BS3|||tSTR|||[[大阪市高速電気軌道|地下鉄線]]:{{rint|osaka|c}} [[Osaka Metro中央線|中央線]]|}}
{{BS3||utKBHFa|O2=HUBaq|tKBHFe|O3=HUBeq|0.0|P09 [[コスモスクエア駅]]||}}
{{BS3||utSTRe|||}}
{{BS3|BOOT|uBHF||0.6|P10 [[トレードセンター前駅]]|}}
{{BS3||uSTR||||[[大阪港#南港|さんふらわあターミナル(大阪)]]}}
{{BS3|uSTR+l|uABZg+r||||}}
{{BS3|uDST|uBHF||1.3|P11 [[中ふ頭駅]]|}}
{{BS3|uSTRl|uABZgr|||南港検車場|}}
{{BS3||uBHF||2.0|P12 [[ポートタウン西駅]]|}}
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{{BS3||uSTR||||[[大阪港#南港|大阪南港フェリーターミナル]]}}
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{{BS3||uhKRZWae|||}}
{{BS3||uhKRZWae|||}}
{{BS3||uBHF||6.7|P17 [[平林駅 (大阪府)|平林駅]]|}}
{{BS3||uKBHFe|O2=HUBaq|tKBHFaq|O3=HUBeq|7.9|P18 [[住之江公園駅]]||}}
{{BS||||地下鉄:{{rint|osaka|y}} [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]|}}
}}
[[大阪港|大阪南港]]・[[咲洲]]に造られた住宅団地[[南港ポートタウン]]やフェリーターミナルへの交通手段として[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月16日]]に[[住之江公園駅]] - [[中ふ頭駅]]間が開業した。[[神戸新交通ポートアイランド線]](ポートライナー)に次ぐ日本で2番目の本格的なAGTの路線で、[[公営交通]]([[地方公営企業]]である交通局)のAGT路線としては初であり、[[2008年]]([[平成]]20年)3月に[[東京都交通局]]の[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]が開業するまでは公営交通による唯一のAGT路線であった。
当路線は地下鉄と同じくOsaka Metroが直接運営しているAGT路線<!-- 鉄道と軌道の混在路線なので「鉄道路線」では不正確-->である。[[運賃]]体系も地下鉄路線と一体化されており、両端駅はOsaka Metroの地下鉄路線と改札内で乗り換えすることができる(運賃額は「[[大阪市高速電気軌道#運賃]]」を参照)。
すべての駅が開業時から[[ホームドア]]設置の[[島式ホーム]]1面2線(停車時は終点駅以外は進行方向から向かって右側の扉が開く)となっている。
駅構内案内表示板における案内表記は、開業当時から「ニュートラム」で統一されている。大阪市交通局時代の末期に更新された案内表示では「南港ポートタウン線」へと変更されており、地下鉄の乗り換え放送では2014年3月頃から「ニュートラム南港ポートタウン線はお乗り換えです」と放送が変更されていた。その後、Osaka Metroに移行した際に案内表記・放送ともに「ニュートラム」に戻されている。
駅により、列車発着案内が開業時からの[[反転フラップ式案内表示機|反転フラップ式表示]]のものや、1997年の[[#OTSニュートラムテクノポート線の編入|OTS開業時]]に[[発光ダイオード|LED]]表示のものに変更されているものと統一されていなかったが、2012年3月より、カラーLED式の発着案内表示機に全駅で交換された。
南港ポートタウン線は歴史的経緯([[#OTSニュートラムテクノポート線の編入|後述]])により、距離を示す[[距離標|キロポスト]]が2つに分かれている(矢印の方向にキロ数が増える)。
* (中央線大阪港駅→)コスモスクエア駅→中ふ頭駅:OTSの南港・港区連絡線として開通した区間を大阪港起点でキロポストを打っているため。
* 中ふ頭駅→住之江公園駅:中ふ頭起点でキロポストを打っているため。
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長 7.9 km
** 大阪市高速電気軌道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]])・[[大阪港トランスポートシステム]]([[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業]])
*** コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅間 0.6 km
** 大阪市高速電気軌道([[軌道法|軌道事業]])
*** トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間 0.7 km
*** フェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間 3.9 km
** 大阪市高速電気軌道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業]])
*** 中ふ頭駅 - フェリーターミナル駅間 2.7 km
* 案内軌条:側方案内式
* 駅数:10駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* 電気方式:[[三相交流]] 600 [[ボルト (単位)|V]]・60 [[ヘルツ (単位)|Hz]](側方接触式・三線剛体架線方式)
* 最高速度:55km/h<!--車両記事参照-->
* ホーム有効長:50 [[メートル|m]]
* 最大停車車両数:6両(現在は4両で運行)
* 混雑率(コスモスクエア方面行き):74%(2009年度:住之江公園駅→平林駅間)
* 混雑率(住之江公園方面行き):72%(2009年度:コスモスクエア駅→トレードセンター前駅間)
コスモスクエア駅 - [[トレードセンター前駅]]間と[[中ふ頭駅]] - [[フェリーターミナル駅]]間は[[鉄道事業法]]による鉄道、トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間とフェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間は[[軌道法]]による軌道となっている{{efn|軌道法区間における都市計画上の路線名はトレードセンター前駅 - 中ふ頭駅間が「コスモスクエア新交通専用道」、フェリーターミナル駅 - 住之江公園駅間は「南港都市ガイドウェイ専用道」。<!--[https://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000593729.html 都市施設の概要図](大阪市都市計画局)で確認可能。-->}}。
== 運行形態 ==
[[File:NT SHAKO1.JPG|200px|thumb|ニュートラム車両基地(旧[[大阪府咲洲庁舎|WTCコスモタワー]]・展望台より)]]
コスモスクエア駅 - 住之江公園駅間全線通し運転の列車のほかに、車両基地のある中ふ頭駅を始発・終着とする列車として、早朝および朝夕のラッシュ時間帯前に中ふ頭発コスモスクエア行きが、朝夕のラッシュ時間帯後および深夜に住之江公園発中ふ頭行きが運転される。また、深夜にはコスモスクエア発中ふ頭行きの列車も運転される。
日中は約6分間隔で運行する。また、地下鉄に比べて車両全体の定員が少ないため、[[住之江競艇場|住之江でのボートレース]]開催時や南港の咲洲地区にある[[アジア太平洋トレードセンター]] (ATC) [[大阪府咲洲庁舎]](コスモタワー)<!-- 後で別の意味の"ATC"が出現する-->、[[大阪国際見本市会場|インテックス大阪]]でのイベント開催時にはイベントなどの来場者に合わせた増発ダイヤとなる。臨時ダイヤは平日用のA1・A2と休日用のM1・M2・M3の5種類あり、イベント開催の集客数などで臨時ダイヤの種類が決まる。臨時ダイヤの場合は常設の時刻表近くに「本日は臨時ダイヤです」と表示される(場所によっては臨時ダイヤそのものが掲示されたり、5種類の臨時ダイヤが常に掲示されているところもある)。臨時ダイヤの種類の判別は、臨時ダイヤ表の右下に「M1」といった記載があるのでそれで判別できる。<!-- [[大阪国際見本市会場|インテックス大阪]]での同人誌イベントや会場をほぼすべて使うような大規模イベント時は、事前に「[[中ふ頭駅]]は大変な混雑が予想されます。会場へは[[コスモスクエア駅]]から徒歩でお願いします。」といった旨との掲示が各駅になされ、混雑時にニュートラムを使わないようにと呼びかけられる。また、著名で大規模イベント時はそれ専用の臨時ダイヤも仕立てられる。-->
南港ポートタウン線は[[自動列車運転装置]] (ATO)・[[自動列車制御装置]] (ATC) による無人自動運転を行っている。しかし、1981年の開業当時は無人運転の前例がなく、無人運転システムへの理解と信頼が得られるまで乗務員を添乗させて監視を行っていた(同年開業のポートライナーも当初は乗務員添乗)。1991年から無人運転が一部の列車で開始<!-- 1991年開始で正当。「再開」は1993年の事故の後の2000年。この下の歴史の節も参照。 -->され、その後すべての列車に拡大されたが、1993年の[[住之江公園駅]]での'''[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#ニュートラム暴走衝突事故|車両暴走事故]]'''の後、しばらくは運転資格を持たない添乗員を添乗させて監視させていた。2006年の[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]](AGT路線)の車輪脱落事故の際には、乗務員を添乗させて有人手動運転を行っており、平日朝ラッシュ時等に乗務員の運転訓練のため、有人手動運転を行っている列車もある。
== 車両 ==
=== 現用車両 ===
* [[大阪市交通局200系電車|200系]](2016年 -)
<gallery>
Newtram200 2.jpg|200系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* [[大阪市交通局100系電車|100系]](1981年 - 2001年)
* [[大阪市交通局100系電車|100A系]](1991年 - 2019年)
<gallery>
Osaka Newtram01.jpg|100A系
</gallery>
== 歴史 ==
=== 機種の選択 ===
それまで南港ポートタウンと大阪市中心部とは、[[路線バス]]で結ばれていたが、南港ポートタウンが完成すると居住人口は大幅に増加する<ref name="JTOA1978-4">日本鉄道運転協会『運転協会誌』1978年4月号「大阪市中量軌道南港ポータウン線について」pp.7 - 10 。</ref>。しかし、バスの増発は渋滞など道路状況の悪化のおそれがあり、鉄道では需要に対して輸送力が大きすぎる<ref name="JTOA1978-4"/>。このため、両交通機関の中間にあたる「新交通システム」(厳密にはAGTシステム)が採用された<ref name="JTOA1978-4"/>。
1974年度、[[運輸省]]、[[建設省]]、[[大阪府]]、[[阪神高速道路公団]](いずれも当時の名称)、学識経験者、大阪市関係者から構成する「大阪南港新交通システム調査委員会」が発足し、半年間にわたって南港ポートタウンへの交通機関を検討し、「新交通システム」(厳密にはAGTシステム)の採用に至ったものである<ref name="JTOA1978-4"/>。その後1974年(昭和49年)9月、大阪市では学識経験者と大阪市関係者から構成する「大阪南港新種交通機関機種選定委員会」を設置し、当時各製造メーカーで開発・実験を行っていた新交通システム(主にAGTシステム)から南港ポートタウン線に適するシステムとして、以下の7機種が候補に挙げられた(会社名は当時)<ref name="JTOA1978-4"/>。
* KCV([[川崎重工業]])※
* KRT([[神戸製鋼所]]、[[シンフォニア テクノロジー|神鋼電機]])※
* NTS([[新潟鐵工所]]、[[住友商事]]、[[住友電気工業]]、[[東洋電機製造]])※
* PARA TRAN([[東急車輛製造]]、[[日立製作所]])
* MAT([[三菱重工業]]、[[三菱電機]]、[[三菱商事]])
* ミニモノレール([[東芝|東京芝浦電気]]、[[安全索道]]。AGTではなく小型モノレール)
* [[VONA]]([[日本車輌製造]]、[[三井物産]])
各種調査・検討の結果、1977年(昭和52年)2月には※のついた3機種に絞られ、最終的には12月に新潟鐵工所が中心に開発したNTS(ニュートランシステム)システムを基本とした車両システムを、駅務機器に神戸製鋼所が中心に開発したKRTシステムを採用した<ref name="JTOA1978-4"/>。
=== OTSニュートラムテクノポート線の編入 ===
コスモスクエア駅 - 中ふ頭駅間は[[大阪港トランスポートシステム]] (OTS) の'''南港・港区連絡線(ニュートラムテクノポート線)'''として1997年に開業した。
[[大阪府咲洲庁舎]]([[コスモタワー]]、当時は[[大阪ワールドトレードセンタービルディング]])やアジア太平洋トレードセンターなどがある南港コスモスクエア地区の交通を担っているが、運賃体系が異なっていた(2005年6月時点で大人全線230円均一)ため通算運賃が割高となり、利用者数が開業当初の見込みより低迷していた。そこで、大阪市交通局(当時)のニュートラムと運賃体系を統一することで運賃を値下げして利用者増加を図ることになり、大阪港トランスポートシステムは2005年2月9日に鉄道事業廃止届を提出するとともに、ニュートラムテクノポート線のコスモスクエア - トレードセンター前間の線路以外の施設と車両などを大阪市に売却し、第三種鉄道事業者として線路を第二種鉄道事業者となる大阪市交通局に貸与する形を採り、トレードセンター前 - 中ふ頭間については軌道事業を大阪市交通局に譲渡した。同年7月1日から大阪市交通局はこれらの区間を南港ポートタウン線の一部として運営することになった<ref>{{Cite web|和書|date=2005-02-09 |url=http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/16/050209a.html |title=OTS線鉄道料金 平成17年7月下旬値下げに向けて手続きを行います |publisher=大阪市交通局 |accessdate=2021-04-09 |archive-url=https://web.archive.org/web/20051118112516/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/16/050209a.html |archive-date= 2005-11-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2005-04-21 |title=OTS線の事業主体変更等に向けた申請書・届出書の提出について |publisher=大阪市交通局 |url=http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots.pdf |format=PDF |access-date=2022-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20051231073557/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots.pdf |archive-date=2005-12-31 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2005-06-07 |url=http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots_ittai.pdf |format=PDF |title=OTS線を交通局が一体的に運営し、通算料金とします |publisher=大阪市交通局|access-date=2022-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20051218215042/http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/houdouhappyou/17/ots_ittai.pdf |archive-date=2005-12-18 }}</ref>。なお、2018年4月1日の大阪市営地下鉄民営化に伴い、当路線の運営も[[大阪市高速電気軌道]]に移管された。
また、それまで[[弁天町駅]]と南港を結び、OTS線に比べ運賃が安いため利用者もそれなりに多かった[[大阪市営バス]]の[[大阪市営バス港営業所#44号系統|44・44A系統]](弁天町バスターミナル - ポートタウン東駅前・南港バスターミナル)が、上記のOTS線移管に伴う運賃の値下げにより乗客が減少することが見込まれるため、2005年8月16日から運行経路と区間が変更され、<!--大阪市営バス唯一の高速道路を通るバス路線は無くなってしまい、-->本数もこれまでより削減された(のちに同路線の南港への乗り入れもなくなった)。詳細は「[[大阪市営バス酉島営業所#84号系統]]」を参照。<!--影響を述べるにとどめてバスの細かい説明コメントアウト-->
また、2005年7月からの値下げなどの効果により[[コスモスクエア駅]]、[[トレードセンター前駅]]の平均乗車人員は、値下げ前と比べて約 15 - 30%増えている<ref>{{Cite web|和書|title=咲洲コスモスクエア地区の状況 |publisher=大阪市交通局 |url=http://www.city.osaka.jp/keieikikakushitsu/kanridantai/saiken/iinkai/kanshi/08/pdf/07.pdf |format=PDF |access-date=2022-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20070930190058/http://www.city.osaka.jp/keieikikakushitsu/kanridantai/saiken/iinkai/kanshi/08/pdf/07.pdf |archive-date=2007-09-30}}</ref>。
{| style="text-align:center; font-size:90%"
|+'''運営者および施設保有者(2005年6月以前)'''
|-
|路線名
| colspan="5" style="border-bottom:solid 6px #00a0de;"|南港ポートタウン線
| colspan="5" style="border-bottom:double 6px #00a0de;"|ニュートラムテクノポート線
|-
|運営者
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|住之江公園|height=6em}}
| rowspan="2" style="background-color:#9e9;" |大阪市交通局<br />(軌道経営者)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|フェリーターミナル|height=10em}}
| rowspan="2" style="background-color:#9e9;" |大阪市交通局<br />(第一種)
| colspan="2" rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|中ふ頭|height=4em}}
| rowspan="2" style="background-color:#6cf;" |大阪港<br />トランスポートシステム<br />(軌道経営者)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|トレードセンター前|height=10em}}
| rowspan="2" style="background-color:#6cf;" |大阪港<br />トランスポートシステム<br />(第一種)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|コスモスクエア|height=8em}}
|-
|施設保有者
|}
{| style="text-align:center; font-size:90%"
|+'''運営者および施設保有者(2018年4月以降)'''
|-
|路線名
| colspan="9" style="border-bottom:solid 6px #00a0de;" |南港ポートタウン線
|-
|運営者
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|住之江公園|height=6em}}
| rowspan="2" style="background-color:#9e9;" |大阪市<br />高速電気軌道<br />(軌道経営者)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|フェリーターミナル|height=10em}}
| rowspan="2" style="background-color:#9e9;" |大阪市<br />高速電気軌道<br />(第一種)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|中ふ頭|height=4em}}
| rowspan="2" style="background-color:#9e9;" |大阪市<br />高速電気軌道<br />(軌道経営者)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|トレードセンター前|height=10em}}
| style="background-color:#9e9;" |大阪市<br />高速電気軌道<br />(第二種)
| rowspan="2" style="background-color:#ff9; width:1.2em;" |{{縦書き|コスモスクエア|height=8em}}
|-
|施設保有者
| rowspan="2" style="background-color:#6cf;" |大阪港<br />トランスポートシステム<br />(第三種)
|}
* 2005年7月から2018年3月までは大阪市交通局が軌道経営者および第一種・第二種鉄道事業者
=== 年表 ===
* [[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月16日]]:[[中ふ頭駅]] - [[住之江公園駅]]間が開業。当初乗務員が添乗。
* [[1991年]]([[平成]]3年)[[10月20日]]:無人自動運転開始。100A系営業運転開始<ref name="Fan1992-1">交友社『鉄道ファン』1992年1月号CAR INFO「大阪市交100系3次車」p.74。</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[10月5日]]:住之江公園駅で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#ニュートラム暴走衝突事故|車両暴走事故]]が発生し、車止めに衝突<ref name="交通1993-1109">{{Cite news |title=大阪市ニュートラム暴走事故 原因はリレー回路接続不良 運輸省が中間報告 ブレーキ指令伝わらず |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-11-09 |page=1 }}</ref>。乗客215人が負傷{{R|交通1993-1109}}。全線運休となる。
** [[11月19日]]:乗務員添乗で運行再開<ref>{{Cite news |title=大阪市交「ニュートラム」 きょう運行再開 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-11-19 |page=1 }}</ref>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[10月31日]]:[[大阪港トランスポートシステム|OTS]]ニュートラムテクノポート線との相互直通運転の準備作業(試運転等)に伴い、全線終日運休。代行バス運行。
** [[12月18日]]:OTSニュートラムテクノポート線[[コスモスクエア駅]] - 中ふ頭駅間が開業し、相互直通運転開始<ref>{{Cite journal|和書 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |date=1998-03 |volume=32 |issue=3 |pages=56-57 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]]}}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[2月20日]]:無人自動運転を再開。以降、ごくまれに有人手動運転が行われる。
* [[2005年]](平成17年)[[7月1日]]:OTSニュートラムテクノポート線を編入。
* [[2006年]](平成18年)[[4月15日]]・[[4月16日|16日]]:[[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]](AGT路線)の車輪脱落事故に対する警戒のため乗務員添乗で有人手動運転される。17日から無人運転を再開。
* [[2016年]](平成28年)[[6月29日]]:[[大阪市交通局200系電車 (新交通)|200系車両]]営業運転開始<ref>{{Cite news|title=笑顔もカラフル 大阪ニュートラム、25年ぶり新型車両|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2016-06-29|url=http://www.asahi.com/articles/ASJ6X6K4GJ6XPTIL02B.html|publisher=朝日新聞|access-date = 2022-09-10|archive-url=https://web.archive.org/web/20160630223811/http://www.asahi.com/articles/ASJ6X6K4GJ6XPTIL02B.html|archive-date=2016-06-30}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[4月1日]]:大阪市交通局の民営化により、[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) の路線となる。
* [[2019年]](<!--平成31年/-->[[令和]]元年)
** [[6月4日]] - :[[横浜シーサイドライン金沢シーサイドライン|金沢シーサイドライン]](AGT路線)の[[新杉田駅]]での[[金沢シーサイドライン新杉田駅逆走事故|逆走事故]]を受け、全車両を緊急点検の上、ホームに乗務員を新たに配置するなどの対応をとる<ref>{{Cite web|和書| url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190604/k10011940201000.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20190604041352/www3.nhk.or.jp/news/html/20190604/k10011940201000.html | title = 大阪メトロ「ニュートラム」緊急点検など安全管理強化 | website = [[NHKニュース]] | accessdate = 2019-6-4 | archivedate = 2019-6-4 | deadlinkdate = 2019年10月13日}}</ref>。
** [[6月27日]] - [[6月29日]]:[[第14回20か国・地域首脳会合]](G20大阪サミット)開催に伴う[[テロリズム|テロ]]対策のため、同期間中は中ふ頭駅の営業を休止した<ref>[https://subway.osakametro.co.jp/news/news_release/20190528_g20_nakafuto_nr.php G20大阪サミット開催に伴うOsaka Metro及び大阪シティバスの運行計画について] - Osaka Metro 2019年5月28日</ref>。
== 駅一覧 ==
<!-- 所在地は電話帳記載のものを基準。色は公式色。 -->
* 全駅[[大阪府]][[大阪市]][[住之江区]]内に所在。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #00a0de"|駅番号
!style="width:11em; border-bottom:solid 3px #00a0de"|駅名
!style="width:3em; border-bottom:solid 3px #00a0de"|駅間<br />キロ
!style="width:3em; border-bottom:solid 3px #00a0de"|営業<br />キロ
!style="border-bottom:solid 3px #00a0de"|接続路線
|-
!P09
|[[コスモスクエア駅]]
|style="text-align:center"| -
|style="text-align:right"|0.0
|[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka Metro Chuo line symbol.svg|15px]] [[Osaka Metro中央線|中央線]] (C10)
|-
!P10
|[[トレードセンター前駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|0.6
|
|-
!P11
|[[中ふ頭駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|1.3
|
|-
!P12
|[[ポートタウン西駅]]
|style="text-align:right"|0.7
|style="text-align:right"|2.0
|
|-
!P13
|[[ポートタウン東駅]]
|style="text-align:right"|0.5
|style="text-align:right"|2.5
|
|-
!P14
|[[フェリーターミナル駅]]
|style="text-align:right"|1.5
|style="text-align:right"|4.0
|
|-
!P15
|[[南港東駅]]
|style="text-align:right"|0.8
|style="text-align:right"|4.8
|
|-
!P16
|[[南港口駅]]
|style="text-align:right"|0.6
|style="text-align:right"|5.4
|
|-
!P17
|[[平林駅 (大阪府)|平林駅]]
|style="text-align:right"|1.3
|style="text-align:right"|6.7
|
|-
!P18
|[[住之江公園駅]]
|style="text-align:right"|1.2
|style="text-align:right"|7.9
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|15px]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y21)
|}
== 輸送実績 ==
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!rowspan="2" style="width:9em"|調査年月日
!colspan="3"|乗車人員(人)
!colspan="3"|降車人員(人)
|-
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
|-style="text-align:right; border-top:solid 3px #00a0de"
|style="text-align:left"|1998年11月10日
|17,281||13,093||30,374||17,070||12,776||29,846
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|2007年11月13日
|13,977||16,482||30,459||15,416||17,038||32,454
|}
== 駅別乗降人員 ==
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:90%; text-align:right"
|-
!colspan="8"|1998年11月10日調査結果
|-
!rowspan="2" style="width:9em"|駅名
!colspan="3"|乗車人員(人)
!colspan="3"|降車人員(人)
!rowspan="2" style="width:39em"|備考
|-
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
|-style="text-align:right; border-top:solid 3px #00a0de"
|style="text-align:left"|コスモスクエア
|16||48||64|||27||27||54
|rowspan="2" style="text-align:left"|当時は大阪港トランスポートシステム (OTS) ニュートラム・テクノポート線の駅
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|トレードセンター前
|820||1,719||2,539||1,230||1,462||2,692
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|中ふ頭
|1,805||1,743||3,548||1,779||1,655||3,434
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|ポートタウン西
|3,445||1,657||5,102||2,888||1,653||4,541
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|ポートタウン東
|5,898||2,856||8,754||5,472||3,202||8,674
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|フェリーターミナル
|769||1,019||1,788||1,077||1,158||2,235
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|南港東
|613||462||1,075||753||451||1,204
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|南港口
|1,522||1,013||2,535||1,432||939||2,371
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|平林
|950||771||1,721||1,028||676||1,704
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|住之江公園
|1,443||1,805||3,248||1,384||1,553||2,937
|
|}
{|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:90%; text-align:right"
!colspan="8"|2007年11月13日調査結果
|-
!rowspan="2" style="width:9em"|駅名
!colspan="3"|乗車人員(人)
!colspan="3"|降車人員(人)
!rowspan="2" style="width:39em"|備考
|-
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
!style="width:6em"|定期利用
!style="width:6em"|定期外利用
!style="width:6em"|合計
|-style="text-align:right; border-top:solid 3px #00a0de"
|style="text-align:left"|コスモスクエア
|5,233||3,866||9,099||4,113||3,592||7,705
|style="text-align:left"|中央線を含む
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|トレードセンター前
|1,342||2,259||3,601||2,594||2,395||4,989
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|中ふ頭
|1,451||3,827||5,278||1,524||3,969||5,493
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|ポートタウン西
|2,866||2,290||5,156||2,741||2,256||4,997
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|ポートタウン東
|4,179||3,649||7,828||4,146||3,728||7,874
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|フェリーターミナル
|713||1,157||1,870||870||1,335||2,205
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|南港東
|1,020||1,130||2,150||1,127||1,147||2,274
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|南港口
|1,314||1,120||2,434||1,324||1,136||2,460
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|平林
|1,092||1,050||2,142||1,090||1,072||2,162
|
|-style="text-align:right"
|style="text-align:left"|住之江公園
|6,410||7,496||13,906||6,235||7,221||13,456
|style="text-align:left"|四つ橋線を含む
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[新交通システム]]
* [[自動案内軌条式旅客輸送システム]] (AGT)
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Nanko Port Town Line}}
* [https://subway.osakametro.co.jp/station_guide/index.php#newtram 路線情報|Osaka Metro]
{{大阪市高速電気軌道の路線}}
{{日本の新交通システム}}
{{デフォルトソート:おおさかめとろなんこうほおとたうんせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|なんこうほおとたうんせん]]
[[Category:大阪市高速電気軌道の鉄軌道事業|路なんこうほおとたうんせん]]
[[Category:大阪市交通局の鉄軌道事業|路なんこうほおとたうんせん]]
[[Category:大阪港トランスポートシステム|路なんこう]]
[[Category:住之江区の交通]]
[[Category:日本の新交通システム]]
[[Category:案内軌条式鉄道路線|な]]
[[Category:大阪湾]]
|
2003-09-12T17:01:04Z
|
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[
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"Template:大阪市高速電気軌道の路線"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/Osaka_Metro%E5%8D%97%E6%B8%AF%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%B7%9A
|
16,434 |
OTS
|
OTS
|
[
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OTS CORBAが提供するサービス「Object Transaction Service」の略。
アメリカ合衆国の貯蓄金融機関監督局。Office of Thrift Supervision。
日本の大阪府大阪市に本社を置く流通施設管理会社、大阪港トランスポートシステムの略。
大阪港トランスポートシステムOTS系電車 - 上記の大阪港トランスポートシステムがかつて所有していた鉄道車両。2005年に大阪市交通局に売却され、2018年以降は同局の民営化によりOsaka Metroが所有している。
オンコセラピー・サイエンス
日本の沖縄県那覇市に本社を置く旅行会社、沖縄ツーリストの略称。元々は「OKINAWA TOURIST SERVICE」という英字社名の略だが、キャッチフレーズとして「One Two Smile」を使用しており、こちらの略としても扱われる。関連会社にレンタカー会社、OTSレンタカー(沖縄県と北海道のみで展開)がある。
|
'''OTS'''
* [[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]が提供するサービス「[[Object Transaction Service]]」の略。
* アメリカ合衆国の[[貯蓄金融機関監督局]]。Office of Thrift Supervision。
* 日本の大阪府大阪市に本社を置く流通施設管理会社、[[大阪港トランスポートシステム]]の略。
** [[大阪港トランスポートシステムOTS系電車]] - 上記の大阪港トランスポートシステムがかつて所有していた鉄道車両。2005年に[[大阪市交通局]]に売却され、2018年以降は同局の民営化により[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]が所有している。
* [[オンコセラピー・サイエンス]] (OncoTherapy Science)
* 日本の沖縄県那覇市に本社を置く[[旅行会社]]、[[沖縄ツーリスト]]の略称。元々は「OKINAWA TOURIST SERVICE」という英字社名の略だが、キャッチフレーズとして「One Two Smile」を使用しており、こちらの略としても扱われる。関連会社に[[レンタカー]]会社、OTSレンタカー(沖縄県と北海道のみで展開)がある。
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16,435 |
近江
|
近江(おうみ、ちかえ)
|
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近江(おうみ、ちかえ) 近江国(おうみのくに)- 現在の滋賀県。古代における呼称の変遷については「琵琶湖#古代の呼称」も参照。
近江町 - 滋賀県坂田郡近江町(おうみちょう)。2005年に米原市に編入合併。
近江高等学校 - 滋賀県彦根市の私立高等学校。
近江町市場 - 石川県金沢市の市場
近江 (新潟市) - 新潟市中央区の町字。
近江 (百官名) - 百官名の一つ。
近江 (戦艦) - 日本海軍の八八艦隊計画の紀伊型戦艦4番艦の予定艦名。
近江屋 - 屋号。
日本人の姓のひとつ
近江あかり - バレーボール選手。
近江毛野 - 古墳時代の豪族。
近江源五郎- 江州音頭音頭取り、浪曲師。
近江幸治- 法学者。
近江榮- 建築史家。
近江孝行- サッカー選手。
近江輝子 - 俳優。
近江俊秀- 考古学者。
近江俊郎 - 歌手、作曲家、映画監督。
近江知永 - 歌手、声優。
近江七恵- フリー・アナウンサー
近江のこ - 滋賀県出身の漫画家。
近江誠 - 研究者(スピーチ・コミュニケーション教育)、南山短期大学名誉教授。
近江雅人(1966)- 工学者。
近江正俊- アナウンサー。
近江巳記夫- 政治家。
近江友介- サッカー選手。
近江友里恵 - アナウンサー (NHK)。
近江陽一郎 - 俳優。
|
'''近江'''(おうみ、ちかえ)
* [[近江国]](おうみのくに)- 現在の滋賀県。古代における呼称の変遷については「[[琵琶湖#古代の呼称]]」も参照。
** [[近江町]] - 滋賀県坂田郡近江町(おうみちょう)。2005年に[[米原市]]に編入合併。
** [[近江高等学校]] - 滋賀県彦根市の私立高等学校。
* [[近江町市場]] - 石川県金沢市の市場
* [[近江 (新潟市)]] - 新潟市中央区の町字。
*近江 (百官名) - [[百官名]]の一つ。
* 近江 (戦艦) - 日本海軍の八八艦隊計画の[[紀伊型戦艦]]4番艦の予定艦名。
* [[近江屋]] - 屋号。
* 日本人の姓のひとつ
** [[近江あかり]] (1989 - ) - バレーボール選手。
**[[近江毛野]] - 古墳時代の豪族。
**[[近江源五郎]](1926 - 2010)- 江州音頭音頭取り、浪曲師。
**[[近江幸治]](1948 - )- 法学者。
**[[近江榮]](1925 - )- 建築史家。
**[[近江孝行]](1982 - )- サッカー選手。
** [[近江輝子]] (1920 - 2008) - 俳優。
**[[近江俊秀]](1966 - )- 考古学者。
** [[近江俊郎]] (1918 - 1992) - 歌手、作曲家、映画監督。
**[[近江知永]] (1982 - ) - 歌手、声優。
**[[近江七恵]](1971 - )- フリー・アナウンサー
**[[近江のこ]] - 滋賀県出身の漫画家。
** [[近江誠]] (1941 - ) - 研究者(スピーチ・コミュニケーション教育)、南山短期大学名誉教授。
**[[近江雅人]](1966)- 工学者。
**[[近江正俊]](1925 - )- アナウンサー。
**[[近江巳記夫]](1935 - )- 政治家。
**[[近江友介]](1946 - )- サッカー選手。
** [[近江友里恵]] (1988 - ) - アナウンサー (NHK)。
** [[近江陽一郎]] (1989 - ) - 俳優。
== 関連項目 ==
* [[淡海 (曖昧さ回避)]]
* [[遠江]] (とおとうみ) - 静岡県西部の古称。
* [[Wikipedia:索引 おうみ]]
* {{Prefix}}
* {{intitle}}
{{Aimai}}
{{デフォルトソート:おうみ}}
[[Category:日本の旧地域名]]
[[Category:日本語の姓]]
[[Category:百官名]]
[[Category:滋賀県]]
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[
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"Template:Prefix",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F
|
16,436 |
1157年
|
1157年(1157 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
[
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"title": "死去"
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1157年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
|
{{年代ナビ|1157}}
{{year-definition|1157}}
== 他の紀年法 ==
{{他の紀年法}}
* [[干支]] : [[丁丑]]
* [[日本]]
** [[保元]]2年 (保元元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]] - 保元2年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]])
** [[皇紀]]1817年
* [[中国]]
** [[南宋]] : [[紹興 (宋)|紹興]]27年
** [[金 (王朝)|金]] : [[正隆]]2年
** [[西夏]] : [[天盛]]9年
* [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]]
** [[高麗]] : [[毅宗 (高麗王)|毅宗]]11年
** [[檀君紀元|檀紀]]3490年
* [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]]
** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[大定 (李朝)|大定]]18年
* [[仏滅紀元]] : 1699年 - 1700年
* [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 552年 - 553年
* [[ユダヤ暦]] : 4917年 - 4918年
{{Clear}}
== カレンダー ==
{{年間カレンダー|年=1157|Type=J|表題=可視}}
== できごと ==
== 誕生 ==
{{see also|Category:1157年生}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[9月8日]] - [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]、[[プランタジネット朝]]第2代[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1199年]])
* [[アルフォンソ2世 (アラゴン王)|アルフォンソ2世]]、[[アラゴン王国|アラゴン王]]、[[バルセロナ伯]](+ [[1196年]])
* [[休子内親王]]、[[平安時代]]の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](+ [[1171年]])
* [[建春門院中納言]]、平安時代、[[鎌倉時代]]の[[女房]]、[[歌人]](+ 没年未詳)
* [[小督]]、[[高倉天皇]]の[[後宮]](+ 没年未詳)
* [[里見義成]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](+ [[1234年]])
* [[平重衡]]、平安時代の武将、[[公卿]](+ [[1185年]])
* [[藤原殖子]]、高倉天皇の[[典侍]](+ [[1228年]])
* [[北条政子]]、[[鎌倉幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼朝]]の[[正室]](+ [[1225年]])
== 死去 ==
{{see also|Category:1157年没}}
<!--世界的に著名な人物のみ項内に記入-->
* [[2月5日]] - [[コンラート1世 (マイセン辺境伯)|コンラート1世]]、[[マイセン辺境伯]]、[[ラウジッツ]]辺境伯(* [[1098年]]?)
* [[4月29日]](保元2年[[3月19日 (旧暦)|3月19日]])? - [[藤原基衡]]、[[平安時代]]の[[豪族]]、[[奥州藤原氏]]の第2代当主(* [[1105年]]?)
* [[5月15日]] - [[ユーリー・ドルゴルーキー]]、[[スーズダリ公]]、[[ペレヤスラヴリ公]]、[[キエフ大公]](* [[1099年]]?)
* [[7月7日]](保元2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[源義康]]、平安時代の[[武将]](* [[1127年]])
* [[8月21日]] - [[アルフォンソ7世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ7世]]、[[ガリシア王国|ガリシア王]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]]、[[レオン王国|レオン王]](* [[1105年]])
* [[10月6日]](保元2年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[徳大寺実能]]、平安時代の[[公卿]](* [[1096年]])
* [[11月4日]] - [[マファルダ・デ・サボイア (ポルトガル王妃)|マファルダ・デ・サボイア]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の王妃(* [[1125年]])
<!-- == 脚注 ==
'''注釈'''
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'''出典'''
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== 参考文献 == -->
== 関連項目 ==
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* [[年の一覧]]
* [[年表]]
* [[年表一覧]]
<!-- == 外部リンク == -->
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MFM
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MFM
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MFM 磁気力顕微鏡 - 走査型プローブ顕微鏡の一つ
修正周波数変調 - フロッピーディスク等にデジタルでデータを記録する際の変調方法の一つ
マカオ国際空港のIATA空港コード
Music Freak Magazine - エムアールエムが発行していたフリーペーパー。
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'''MFM'''
* [[磁気力顕微鏡]] (Magnetic Force Microscopy) - [[走査型プローブ顕微鏡]]の一つ
* 修正周波数変調 ([[Modified Frequency Modulation]]) - [[フロッピーディスク]]等にデジタルでデータを記録する際の変調方法の一つ<!--Frequency Modulation([[周波数変調]])を改良し、同一周波数において50%増のデータ記録を可能としたもの-->
* [[マカオ国際空港]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[空港コード]]
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北九州高速鉄道
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北九州高速鉄道株式会社(きたきゅうしゅうこうそくてつどう、英: Kitakyushu Urban Monorail Co.,Ltd.)は、福岡県北九州市の小倉北区と小倉南区でモノレール(軌道法による軌道)を運営している会社である。本社は福岡県北九州市小倉南区企救丘2丁目13番1号。「北九州モノレール」または「小倉モノレール」と呼ばれている。コーポレートスローガンは「街にあなたに豊かな時間と空間を」・「安全・正確・快適」である。
北九州市の小倉北区と小倉南区とを結ぶ小倉線を運営している。当初、北九州市による直営も検討されていたが、1972年(昭和47年)11月17日に公布・施行された「都市モノレールの整備の促進に関する法律」(都市モノレール法)による「都市モノレール建設のための道路整備に対する補助制度」の適用を受けることになり、その事業運営主体として北九州市が52%、民間が48%を出資する、資本金22億円の第三セクター会社として1976年(昭和51年)7月31日に設立された。民間48%のうち大口出資企業は西日本鉄道がおよそ20%、次いで九州電力が6%、他に新日本製鐵が6%、住友金属工業が5%などであった。
当初は国鉄(現JR九州)小倉駅北口地区の振興を狙って、小倉駅の北側に起点駅を設ける計画であった。しかし、山陽新幹線の上を乗り越えることが困難であり現実的でなかったため、小倉駅南側に駅を設ける方針とした。ところが、景観問題を大義名分として南口商店街の猛反発に遭い、小倉駅への乗り入れができず乗り換えに不便が伴った。小倉駅周辺のモノレールの地下化を求める声もあったが、費用・技術面から現実的ではなく、実現していない。
小倉駅での徒歩連絡という不便のためにモノレール利用客数は予想を大きく下回り、長期間にわたる赤字の原因となったが、1998年(平成10年)の小倉駅乗り入れを機に利用者数が増加、単年度では黒字を出すまでになった。それでも2004年度末で約148億2千万円の債務超過状態にあり、経営体質の改善が急務となっていた。
そこで、2005年(平成17年)に産業活力再生特別措置法に基づく再生計画の認可を受け、まず同年9月に既存の資本金82億円について100%減資を実施すると同時に、北九州市からの借入金270億3880万円についてデットエクイティスワップを実施して債務超過を解消(この時点で北九州市が全株式を保有することになる)、さらに11月には資本金および資本準備金を取り崩すことで、未処理損失を一掃した。
小倉線の建設は、西鉄北方線廃止と引き換えの事業でもあったため、開業時には西鉄北九州線で勤務していた乗務員を採用している。
小倉駅乗り入れ10周年を迎えた2008年(平成20年)には、かつて車両で使用されていた吊革を再利用した小倉-企救丘間の「吊革きっぷ」を販売し、3月29日の発売から数日で売り切れた。
大人普通旅客運賃(小児及び障害者手帳、交付1年以内の母子健康手帳所持者は半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定。
2007年5月1日から、全線の隣駅までの区間と小倉 - 旦過間で企画乗車券「100円モノレール」(大人100円・小児50円)を発売している。下表の隣駅までと小倉 - 旦過間の運賃は「100円モノレール」を利用した場合のもの。本来の運賃は180円。
2015年10月1日からJR九州のICカード乗車券「SUGOCA」と完全互換のICカード乗車券「mono SUGOCA」を導入した。愛称は2014年11月26日に決定したもので、モノレールの「mono」と、「ICカードでもっと乗ろう」という2つの意味から名付けられており、「もの凄い」を意味する肥筑方言である「ものすごか」とも掛かっている。デザインは、水色をベースに小倉駅ビルとモノレールのイラストが描かれたもの。
元々北九州モノレールでは全駅に自動改札機を導入していたが、ICカード式乗車券の導入に当たっては2008年と2010年にそれぞれ約1ヶ月間、九州大学と共同でICカード式乗車券「monoca」(モノカ)の実証実験を実施した。monocaシステムの運営は広島市に本店を置く和多利が担当し、カードの規格はSUGOCAなどのベースとなっているFeliCaではなく、住民基本台帳カードと同じISO/IEC 14443 Type Bを採用した。乗車券機能としては定期券のみであるが、旦過市場(小倉北区)の11店舗(期間中も随時参加店舗を募っていた)と第一交通産業なども参加し、電子マネーとして利用できたり、和多利の共通ポイントカードシステム「W-Point」のカードとしても使えた。
結果的に2013年7月に老朽化した券売機・自動改札機をICカード対応型に更新することが発表され、小倉駅でJR九州と接続していることが決め手となってSUGOCA(mono SUGOCA)を導入することが決定した。nimoca・はやかけん・Suicaなどとの交通系ICカード全国相互利用サービスにも対応している。なお、開業以来磁気式の切符を販売しており、小倉駅乗り入れ以降はJR九州との連絡乗車券を発売していた(運賃はJR線との単純合算で無割引)が、自動改札機のリプレースにあわせて乗車券がQRコード式の非磁気化券となり、連絡普通乗車券の販売を終了した(連絡定期券はSUGOCA(mono SUGOCA)定期券で販売継続)。
毎年11月に車両基地広場で開催。普段乗車することのできない工作車への試乗をはじめ、さまざまなイベントが行なわれる。
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北九州高速鉄道株式会社は、福岡県北九州市の小倉北区と小倉南区でモノレール(軌道法による軌道)を運営している会社である。本社は福岡県北九州市小倉南区企救丘2丁目13番1号。「北九州モノレール」または「小倉モノレール」と呼ばれている。コーポレートスローガンは「街にあなたに豊かな時間と空間を」・「安全・正確・快適」である。
|
{{Otheruseslist|北九州市でモノレールを運営する鉄道会社|この会社が運営するモノレール路線|北九州高速鉄道小倉線|[[筑肥線]]の前身となった鉄道事業者|北九州鉄道}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 北九州高速鉄道株式会社
| 英文社名 = Kitakyushu Urban Monorail Co.,Ltd.
| ロゴ = Kitakyushu monorail logo.svg
| ロゴサイズ = 250px
| 画像 = Kitakyushu monorail HQ.jpg
| 画像サイズ = 300px
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません -->
| 略称 = 北九州モノレール、小倉モノレール
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 802-0981
| 本社所在地 = [[福岡県]][[北九州市]][[小倉南区]]企救丘二丁目13番1号
| 本社緯度度 = 39|本社緯度分 = 49|本社緯度秒 = 15.4|本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 130|本社経度分 = 52|本社経度秒 = 48.9|本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1976年]](昭和51年)[[7月31日]]<ref name="sone30">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=30号 モノレール・新交通システム・鋼索鉄道 |date=2011-10-16 |page=10 }}</ref>
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = {{Plainlist|
* 軌道法による一般運輸業
* 飲食店業並びに食品雑貨、薬品、酒類及びタバコ等の販売業
* 土地建物及び施設の売買、賃貸並びに建設業 他
}}
| 代表者 = 代表取締役社長 柴田卓典
| 資本金 = 1億円(2023年3月31日現在)<ref name="kessan">{{Cite web|和書|url=https://www.kitakyushu-monorail.co.jp/company/ |title=2022年度決算 |format= |publisher=北九州高速鉄道株式会社 |accessdate=2023-07-27}}</ref>
| 発行済株式総数 =
* 27万0388株
(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 売上高 =
* 23億7818万2928円
(2023年3月期)<ref name="kessan" />
| 営業利益 =
* 5億3535万4356円
(2023年3月期)<ref name="kessan" />
| 経常利益 =
* 5億5249万3766円
(2023年3月期)<ref name="kessan" />
| 純利益 =
* 6億7861万8047円
(2023年3月期)<ref name="kessan" />
| 純資産 =
* 35億9277万0507円
(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 総資産 =
* 60億8484万1435円
(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 従業員数 = 130人<ref name="city.kitakyushu.jp">{{PDFlink|[http://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000176844.pdf 北九州市出資法人の概要(平成26年度版)北九州高速鉄道 ]}}(北九州市ウェブサイト)</ref>
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = 北九州市 100%<br />(2023年3月31日現在)<ref name="kessan" />
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.kitakyushu-monorail.co.jp/
| 特記事項 =
}}
'''北九州高速鉄道株式会社'''(きたきゅうしゅうこうそくてつどう、{{Lang-en-short|Kitakyushu Urban Monorail Co.,Ltd.}})は、[[福岡県]][[北九州市]]の[[小倉北区]]と[[小倉南区]]で[[モノレール]]([[軌道法]]による軌道)を運営している会社である。本社は福岡県北九州市小倉南区企救丘2丁目13番1号。「'''北九州モノレール'''」または「'''小倉モノレール'''」と呼ばれている。[[キャッチコピー|コーポレートスローガン]]は「街にあなたに豊かな時間と空間を」・「安全・正確・快適」である<ref>[https://www.kitakyushu-monorail.co.jp/pdf/company/chukikeiei_keikaku_2020.pdf 中期経営計画「2020-2024」] - 北九州高速鉄道、2022年12月2日閲覧</ref><ref group="注釈">コーポレートスローガンと明言はされていないが、中期経営計画においてそれぞれビジョンとミッションとして明記され、公式サイトやポスターなど広報媒体でもしばしばこの文言が使用されている。</ref>。
== 概要 ==
北九州市の小倉北区と小倉南区とを結ぶ[[北九州高速鉄道小倉線|小倉線]]を運営している。当初、北九州市による直営も検討されていたが、1972年(昭和47年)11月17日に公布・施行された「[[都市モノレールの整備の促進に関する法律]]」(都市モノレール法)による「都市モノレール建設のための道路整備に対する補助制度」の適用を受けることになり、その事業運営主体として北九州市が52%、民間が48%を出資する、資本金22億円の[[第三セクター]]会社として[[1976年]](昭和51年)[[7月31日]]に設立された<ref name="sone30"/>。民間48%のうち大口出資企業は[[西日本鉄道]]がおよそ20%、次いで[[九州電力]]が6%、他に[[新日本製鐵]]が6%、[[住友金属工業]]が5%などであった。
当初は[[日本国有鉄道|国鉄]](現[[九州旅客鉄道|JR九州]])[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]]北口地区の振興を狙って、小倉駅の北側に起点駅を設ける計画であった。しかし、[[山陽新幹線]]の上を乗り越えることが困難であり現実的でなかったため、小倉駅南側に駅を設ける方針とした。ところが、景観問題を大義名分として南口商店街の猛反発に遭い<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/004/index.htm サンポート高松 鉄道2駅の連携は(四国新聞1998年(平成10年)2月2日付)]</ref><ref name="RJ411">{{Cite journal ja-jp |author=[[佐藤信之 (評論家)|佐藤信之]]・下村仁士 |year=2001 |month=1 |title=◎鉄道・軌道整備に対する助成制度の概要◎事例紹介25 北九州高速鉄道 北九州モノレール小倉線について |journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻411号 |pages= 156-159 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] |url=http://www2u.biglobe.ne.jp/~n_satoh/RJ_0101B.html }}<!--内容が全文全く同じで著者のサイトなのでURL先としました--></ref>、小倉駅への乗り入れができず乗り換えに不便が伴った。小倉駅周辺のモノレールの地下化を求める声もあったが、費用・技術面から現実的ではなく、実現していない。
小倉駅での徒歩連絡という不便のためにモノレール利用客数は予想を大きく下回り、長期間にわたる赤字の原因となったが、[[1998年]](平成10年)の小倉駅乗り入れを機に利用者数が増加、単年度では黒字を出すまでになった。それでも2004年度末で約148億2千万円の債務超過状態にあり<ref name="saikoutiku">[https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/08/080728_.html 認定事業再構築計画の内容の公表] - 国土交通省</ref>、経営体質の改善が急務となっていた。
そこで、[[2005年]](平成17年)に[[産業活力再生特別措置法]]に基づく再生計画の認可を受け、まず同年9月に既存の資本金82億円について100%減資を実施すると同時に、北九州市からの借入金270億3880万円について[[デットエクイティスワップ]]を実施して債務超過を解消(この時点で北九州市が全株式を保有することになる)、さらに11月には資本金および資本準備金を取り崩すことで、未処理損失を一掃した<ref name="saikoutiku" />。
小倉線の建設は、[[西鉄北九州線|西鉄北方線]]廃止と引き換えの事業でもあったため、開業時には[[西鉄北九州線]]で勤務していた乗務員を採用している。
小倉駅乗り入れ10周年を迎えた[[2008年]](平成20年)には、かつて車両で使用されていた[[つり革|吊革]]を再利用した小倉-企救丘間の「吊革きっぷ」を販売し、3月29日の発売から数日で売り切れた。
== 歴史 ==
<!-- 路線の詳細な歴史は路線の記事 [[北九州高速鉄道小倉線]]に記述。運賃の件は路線記事にもあるので確認を。 -->
* [[1976年]]([[昭和]]51年)
** [[7月31日]]:会社設立<ref name="sone30"/>。
** [[12月6日]]:軌道特許取得<ref name="sone30"/>。
* [[1985年]](昭和60年)[[1月9日]]:小倉線開業<ref name="RJ411"/>。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[1月14日]]:小倉駅への乗り入れについて北九州市と[[九州旅客鉄道|JR九州]]が覚書に調印<ref>{{Cite news |title=都市モノレール小倉線のJR乗り入れ 覚書の調印式 JR九州北九州市 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-01-18 |page=1 }}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)
** [[4月1日]]:小倉線が小倉駅乗り入れ<ref name="RJ411"/>。単年度決算が黒字に転じる。
** [[5月18日]]:運賃改定。初乗り170円。ただし小倉 - 平和通間は150円<ref>『JTBの運賃表』第17号、JTB、1998年、p.252</ref>。
* [[2005年]](平成17年)[[7月28日]]:産業活力再生特別措置法に基づく事業再構築計画が認定され、9月から11月にかけて実施。
* [[2014年]](平成26年)4月1日:[[消費税]]率改定に伴う運賃改定、230円以上の区間を一律10円ずつ値上げ<ref>[http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/news/detail.php?id=148 消費税率引き上げに伴う運賃改定について] - 北九州高速鉄道、2013年12月20日</ref><ref name="kitakyushu-monorail-20140310">[http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/news/detail.php?id=154 運賃改定のお知らせ] - 北九州高速鉄道、2014年3月10日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[10月1日]]:[[ICカード]]「[[SUGOCA|mono SUGOCA]]」を導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/__icsFiles/afieldfile/2017/04/11/150624_press.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171013033129/http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/__icsFiles/afieldfile/2017/04/11/150624_press.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北九州モノレール「mono SUGOCA」のサービス開始日について|publisher=九州旅客鉄道/北九州高速鉄道|date=2015-06-24|accessdate=2020-02-06|archivedate=2017-10-13}}</ref>。定期券もICカード化。普通・往復乗車券を[[QRコード]]方式に切り替え。[[回数乗車券]]、持参人式定期券、らぶパス、JR連絡普通乗車券を廃止。運賃改定(小倉 - 平和通間150円→180円、その他の区間は一律10円ずつの値上げ)<ref name="kitakyushu-monorail-20150624" />。
* [[2019年]]([[令和]]元年)10月1日:消費税率引き上げ伴う運賃改定、200円・280円・310円区間を10円値上げ。マタニティ割引・一日乗車券を導入<ref name="kitakyushu-monorail-20190906" />。
== ロゴマーク ==
* 現在使用されているロゴマークは、青い丸に、北九州の頭文字である「K」の形をイメージしたデザイン。
== 路線 ==
* [[北九州高速鉄道小倉線|小倉線]]: [[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - [[企救丘駅]] (8.8km)
== 車両 ==
; 旅客用
:* [[北九州高速鉄道1000形電車|1000形]]
; 事業用車(無車籍)
:* 500形
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ファイル:KitakyushuUrbanMonorail.jpg|1000形
ファイル:Kitakyushu monorail working car 501.jpg|工作車 501
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== 運賃 ==
大人普通旅客運賃(小児及び[[障害者手帳]]<ref group="注釈">[[身体障害者手帳]]・[[療育手帳]]・[[精神障害者保健福祉手帳]]の3種類(本人及び条件付きで介護者1人を含む)</ref>、交付1年以内の[[母子健康手帳]]所持者は半額・10円未満切り上げ)。2019年10月1日改定<ref name="kitakyushu-monorail-20190906">{{PDFlink|1=[http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/output/file.php?no=1&id=354 北九州モノレールの運賃改定について]}} - 北九州高速鉄道、2019年9月6日</ref>。
2007年5月1日から、全線の隣駅までの区間と小倉 - 旦過間で企画乗車券「100円モノレール」(大人100円・小児50円)を発売している。下表の隣駅までと小倉 - 旦過間の運賃は「100円モノレール」を利用した場合のもの。本来の運賃は180円。
{| class="wikitable" border="1" style="text-align:center; font-size:85%; border:none; background:transparent;"
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!style="width: 4em;"|'''[[小倉駅 (福岡県)|小倉]]'''
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!style="width: 4em;"|'''[[旦過駅|旦過]]'''
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!style="width: 4em;"|'''[[香春口三萩野駅|香春口<br/>三萩野]]'''
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!style="width: 6em;"|'''[[競馬場前駅 (福岡県)|競馬場前]]'''
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!style="width: 4em;"|'''[[志井駅 (北九州高速鉄道)|志井]]'''
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!style="width: 4em;"|'''[[企救丘駅|企救丘]]'''
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; 1日乗車券
: 2019年10月1日から発売。大人700円・小児350円<ref name="kitakyushu-monorail-20190906" />。
=== ICカード乗車券 ===
2015年10月1日からJR九州のICカード乗車券「[[SUGOCA]]」と完全互換のICカード乗車券「mono SUGOCA」を導入した<ref name="kitakyushu-monorail-20150624">{{Cite press release |和書 |url=http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/output/file.php?no=1&id=204 |title=北九州モノレールの平成27年10月1日からの営業施策について |format=PDF |publisher=北九州高速鉄道 |date=2015-06-24 |accessdate=2020-01-31 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150626112508/http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/output/file.php?no=1&id=204 |archivedate=2015-06-26}}</ref><ref name="SUGOCAinst">{{Cite press release |和書 |url=http://www.jrkyushu.co.jp/sugoca/pressrelease/pdf/130719_kakudai_press.pdf |title=SUGOCAがご利用いただけるエリアを拡大いたします〜北九州モノレールでSUGOCAがご利用可能に〜 |format=PDF |publisher=九州旅客鉄道、北九州高速鉄道 |date=2013-07-19 |accessdate=2013-07-22}}</ref>。愛称は2014年11月26日に決定したもので<ref name="SUGOCA">[http://www2.kitakyushu-monorail.co.jp/news/detail.php?id=175 北九州モノレール発行予定のICカード乗車券「SUGOCA」の愛称及びデザイン決定について] - 北九州高速鉄道、2014年11月26日</ref>、モノレールの「mono」と、「ICカードで'''も'''っと'''乗'''ろう」という2つの意味から<ref name="SUGOCA"/>名付けられており、{{要出典|範囲=「もの凄い」を意味する[[肥筑方言]]である「ものすごか」とも掛かっている。|date=2016年3月}}デザインは、水色をベースに小倉駅ビルとモノレールのイラストが描かれたもの。
元々北九州モノレールでは全駅に[[自動改札機]]を導入していたが、ICカード式乗車券の導入に当たっては2008年と2010年にそれぞれ約1ヶ月間、[[九州大学]]と共同でICカード式乗車券「monoca」(モノカ)の実証実験を実施した。monocaシステムの運営は[[広島市]]に本店を置く[[和多利]]が担当し、カードの規格はSUGOCAなどのベースとなっている[[FeliCa]]ではなく、[[住民基本台帳カード]]と同じ[[ISO/IEC 14443]] Type Bを採用した<ref>[https://web.archive.org/web/20080129130831/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/20080116/20080116_011.shtml 定期券を財布代わりに ICカード2月まで実験 北九州モノレールなど モニター募集(西日本新聞2008年01月16日付朝刊)] (Internet Archive)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kyushu-u.ac.jp/pressrelease/2007/2007-12-05.pdf 「北九州モノレール交通連携タイムリーサービス実証実験」のお知らせ(九州大学2007年12月5日付ニュースリリース)]}}</ref>。乗車券機能としては定期券のみであるが、[[旦過市場]]([[小倉北区]])の11店舗(期間中も随時参加店舗を募っていた)と[[第一交通産業]]なども参加し、電子マネーとして利用できたり、和多利の共通ポイントカードシステム「W-Point」のカードとしても使えた。
結果的に2013年7月に老朽化した券売機・自動改札機をICカード対応型に更新することが発表され、小倉駅でJR九州と接続していることが決め手となってSUGOCA(mono SUGOCA)を導入することが決定した<ref name="mainichi">{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20130725k0000e020180000c.html |title=ICカード:スゴカ、北九州モノレールに導入 15年秋 |author=石田宗久 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2013-07-25 |accessdate=2013-07-25}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20130720-OYS1T00249.htm |title=北九州モノレール、SUGOCA導入へ |newspaper=[[読売新聞]] |date=2013-07-20 |accessdate=2021-04-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130724053115/http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20130720-OYS1T00249.htm |archivedate=2013-07-24}}</ref>。[[nimoca]]・[[はやかけん]]・[[Suica]]などとの[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にも対応している。なお、開業以来磁気式の切符を販売しており、小倉駅乗り入れ以降はJR九州との[[連絡運輸|連絡乗車券]]を発売していた(運賃はJR線との単純合算で無割引)が、自動改札機のリプレースにあわせて乗車券が[[QRコード]]式の非磁気化券となり、連絡普通乗車券の販売を終了した(連絡定期券はSUGOCA(mono SUGOCA)定期券で販売継続)<ref name="kitakyushu-monorail-20150624"/>。
== モノレールまつり ==
毎年11月に車両基地広場で開催。普段乗車することのできない工作車への試乗をはじめ、さまざまなイベントが行なわれる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[アニうた KITAKYUSHU]] - 北九州高速鉄道が特別協力しているアニメソングコンサート。開催当日にはラッピング広告された車両を走らせている。
* [[北九州市交通局]] - 当社の主要株主である北九州市が運営する地方公営企業。
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kitakyushu Monorail}}
* [https://www.kitakyushu-monorail.co.jp/ 北九州高速鉄道]
{{旅名人九州満喫きっぷ}}
{{日本のモノレール}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きたきゆうしゆうこうそくてつとう}}
[[Category:北九州高速鉄道|*]]
[[Category:日本の軌道事業者]]
[[Category:福岡県の交通]]
[[Category:小倉南区の企業]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
[[Category:日本の地方公企業]]
[[Category:日本のモノレール]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
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16,443 |
マティルダ (神聖ローマ皇后)
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マティルダ(Matilda, 1102年2月7日 - 1167年9月10日)は、イングランドの王族。ノルマン朝のイングランド王ヘンリー1世と王妃であるスコットランド王マルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。ウィリアム・アデリン王子の姉でプランタジネット朝の始祖ヘンリー2世の母。
同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、マティルダ皇后(Empress Matilda)、モード皇后(Empress Maude、Maude は Matildaのアングロ=ノルマン語形)、イングランドのマティルダ(Matilda of England)などとも呼ばれる。
マティルダはイギリスにおける初の女性君主として知られる。ただし、実効支配者としてイングランドに君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数か月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。
モードは1102年に生まれた。最初に名付けられた名前はアデレードだったが、1114年、12歳で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚して皇后になったとき、母の名前を取ってモード(マティルダ)と改名した。
1120年に父の後継者と目された弟ウィリアム・アデリンがホワイトシップの遭難で事故死したことがマティルダの環境が一変するきっかけになり、5年後の1125年に夫が死ぬとイングランドに帰され、翌1126年に弟に代わる父の後継者として貴族から認められた。1127年にも貴族の誓約が交わされ、その中には後に王位を巡って対立することになるブロワ家出身の従兄のエティエンヌ(後のイングランド王スティーブン)や、母方の叔父のスコットランド王デイヴィッド1世、異母兄で父の庶子のグロスター伯ロバートもいた。
1128年に今度はフランスに送られて、父と対立していたアンジュー伯兼メーヌ伯フルク5世が和睦のため政略結婚を計画、フルク5世の息子で10歳年少のジョフロワ4世と再婚した。ヘンリー1世とフルク5世は1119年にも和睦としてそれぞれの子女ウィリアム・アデリンとマティルド(ジョフロワ4世の姉)を結婚させていたが、ホワイトシップの遭難で台無しになったため、再度政略結婚を纏めてマティルダとジョフロワ4世の結婚に至った。なお、フルク5世は結婚後ジョフロワ4世にアンジュー伯位を譲ると旅に出て、エルサレム王として後半生を送ることになる。
マティルダは再婚に不満で、元皇后としての自負心から夫を見下して夫婦仲は悪かったが、1133年には長男アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)を生む。ヘンリー1世は孫の誕生に喜び、同年に貴族にアンリへの臣従の誓いをさせたが、イングランド貴族たちからは結婚でノルマンディーとイングランドが宿敵アンジュー家(ガティネ家)に乗っ取られる危惧から反感を買い、マティルダは夫と共にノルマンディーとアンジュー境界領域の城の支配権をヘンリー1世に要求して対立、前途は多難だった。
1135年に父が死ぬとアンジューに留まったが、その隙にエティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーブンとなった。スティーブンはヘンリー1世の生前、1127年の誓約で王位を要求しないことを重ねて誓約していたため、マティルダは誓約違反をローマ教皇庁に訴え出たが、スティーブンは弟がウィンチェスター司教(英語版)ヘンリー(英語版)だったことに加え、ローマ教会と友好関係にあったため却下された。しかし、王位簒奪の過程で教会や諸侯に数多くの譲歩をしたスティーブンの王権は次第に弱体化してゆく。諸侯の統制を失ったと見たマティルダは、1139年にノルマンディーからイングランドに上陸、スティーブンとの間で王位を争って戦いを始めた。この結果、スティーブンの治世は内乱に明け暮れることとなり、史上「無政府時代」と呼ばれる時代が到来する。一方、夫は内乱に無関心でノルマンディー侵攻を優先、1141年から1144年にかけてノルマンディーを征服した。
マティルダを支持する異母兄のグロスター伯率いるアンジュー伯派は、1141年2月に第一次リンカーンの戦い(英語版)でスティーブンを破り捕虜にするという大勝利を挙げた。マティルダはイングランド人の女君主(The Lady of The English)を名乗ってロンドンに至り、ロンドン入城とともに戴冠して女王となる予定を立てていたが、これに先立ってロンドン市から寄せられた減税の陳情をにべもなく却下したことから、ロンドン市民はマティルダに愛想をつかして城門を堅く閉ざし、その入城を拒むに至った。そうこうするうちに王妃マティルダ・オブ・ブロインが反撃に出て9月にウィンチェスターでグロスター伯を捕獲、捕虜交換でスティーブンは解放されまもなく内戦が再開、これでマティルダ戴冠の機会は永遠に失われた。
スティーブンを戴く国王派はすでにイングランド全土でその権威を失っていたが、マティルダを戴くアンジュー伯派もまた他方を制圧するだけの力がなく、以後の内戦は泥沼化したまま年月を費やした。1147年にグロスター伯が死ぬと、強力な支持者を失ったマティルダは翌1148年2月にフランス・ルーアンに帰ることを余儀なくされる。1151年には夫も死去し、これでアンジュー伯派の力は著しく衰えてしまう。
しかしマティルダの長男アンリが成長するとともに、再びアンジュー伯派は力を得はじめた。アンリは父が征服したノルマンディー公位を得たのを皮切りに、父の死後にはアンジュー伯位を襲爵、婚姻によって妻アリエノール・ダキテーヌが有する広大なアキテーヌ公領・ガスコーニュ公領・ポワチエ伯領なども得て、フランス国土の半分にも及ぶ一大勢力を築くと、1153年1月に大軍を率いてイングランドに上陸した。対するスティーブンは1152年に王妃を、1153年8月に長男ユースタスを失い意気消沈していた。そして双方で妥協して(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)、生涯にわたってスティーブンの王位を認めるかわりに、自らがイングランド王位継承者となることを認めさせた。スティーブンは翌1154年に死去し、約束通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる。
マティルダはフランスに留まったままそのすべてを見届け、1167年にひっそりとこの世を去った。
傲慢で気性が激しい上、ドイツ育ちでイングランドに馴染みが薄いという欠点で内乱ではイングランドで支持を得られず、諸侯やロンドン市民から嫌われて女王になるチャンスを逃した。それがためイングランドで女王は忌避され、1553年にテューダー朝のメアリー1世が即位するまで女王は誕生しなかった。一方でルーアンで身を引いた後も息子の行く末を見守りながら、ヘンリー2世に帝王学と人心掌握術を教え、大法官トマス・ベケットのカンタベリー大司教任命に反対するなど息子に忠告している。また息子の嫁アリエノールにも自分と同じ資質を見出し、彼女にも政治思想で影響を与えたとされる。
2番目の夫ジョフロワ4世との間に以下の3子をもうけた。
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"text": "スティーブンを戴く国王派はすでにイングランド全土でその権威を失っていたが、マティルダを戴くアンジュー伯派もまた他方を制圧するだけの力がなく、以後の内戦は泥沼化したまま年月を費やした。1147年にグロスター伯が死ぬと、強力な支持者を失ったマティルダは翌1148年2月にフランス・ルーアンに帰ることを余儀なくされる。1151年には夫も死去し、これでアンジュー伯派の力は著しく衰えてしまう。",
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マティルダは、イングランドの王族。ノルマン朝のイングランド王ヘンリー1世と王妃であるスコットランド王マルカム3世の娘マティルダとの間に生まれた王女。ウィリアム・アデリン王子の姉でプランタジネット朝の始祖ヘンリー2世の母。 同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、マティルダ皇后、モード皇后、イングランドのマティルダなどとも呼ばれる。 マティルダはイギリスにおける初の女性君主として知られる。ただし、実効支配者としてイングランドに君臨したのが対立王を一時的に捕獲していた1141年の数か月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。
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{{Expand English|Empress Matilda|date=2021年3月|fa=yes}}
{{基礎情報 君主の正配
| 人名 = マティルダ・オブ・イングランド
| 各国語表記 = Matilda of England
| 正配称号 = 神聖ローマ皇后
| 画像 = Empress matilda.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1114年]][[1月7日]] - [[1125年]][[5月23日]]
| 戴冠日 =
| 別称号 = イングランド人の女君主(The Lady of The English) 1141年 - 1148年
| 全名 =
| 別称 = 通称:モード皇后(Empress Maud)
| 出生日 = {{生年月日と年齢|1102|2|7|no}}
| 生地 = [[File:Flag of Normandie.svg|border|25px]] [[ノルマンディー公国]]
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1102|2|7|1167|9|10}}
| 没地 = [[File:Flag of Normandie.svg|border|25px]] [[ノルマンディー公国]]、[[ルーアン]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[File:Flag of Normandie.svg|border|25px]] [[ノルマンディー公国]]、[[ル・ベック=エルルワン]]、後に[[ルーアン]]大聖堂
| 結婚 = [[1114年]][[1月7日]]、[[マインツ]]<br>[[1128年]][[6月17日]]、[[ル・マン]]
| 配偶者1 = [[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]
| 配偶者2 = [[アンジューの領主一覧|アンジュー伯]][[ジョフロワ4世]]
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 氏族 =
| 家名 = [[ノルマン朝|ノルマンディー家]]
| 父親 = [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]
| 母親 = [[マティルダ・オブ・スコットランド]]
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''マティルダ'''(Matilda, [[1102年]][[2月7日]] - [[1167年]][[9月10日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の王族。[[ノルマン朝]]の[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]と王妃である[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]の娘[[マティルダ・オブ・スコットランド|マティルダ]]との間に生まれた王女。[[ウィリアム・アデリン]]王子の姉で[[プランタジネット朝]]の始祖[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の母。
同じマティルダの名を持つ多くの歴史上の人物と区別して、'''マティルダ皇后'''(Empress Matilda)、'''モード皇后'''(Empress Maude、Maude は Matildaの[[アングロ=ノルマン語]]形)、'''イングランドのマティルダ'''(Matilda of England)などとも呼ばれる。
マティルダはイギリスにおける初の女性君主として知られる。ただし、実効支配者としてイングランドに君臨したのが[[対立王]]を一時的に捕獲していた[[1141年]]の数か月間に限られること、女王として戴冠することがついになかったこと、そして自らの手で王権を統合することができなかったことなどから、後世の史家はこのマティルダを正統な君主として認めながらも歴代のイングランド王には数えないという、玉虫色の扱いをするに至っている。
== 生涯 ==
モードは1102年に生まれた。最初に名付けられた名前はアデレードだったが、[[1114年]]、12歳で[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]と結婚して皇后になったとき、母の名前を取ってモード(マティルダ)と改名した。
[[1120年]]に父の後継者と目された弟ウィリアム・アデリンが[[ホワイトシップの遭難]]で事故死したことがマティルダの環境が一変するきっかけになり、5年後の[[1125年]]に夫が死ぬとイングランドに帰され、翌[[1126年]]に弟に代わる父の後継者として貴族から認められた。[[1127年]]にも貴族の誓約が交わされ、その中には後に王位を巡って対立することになる[[ブロワ家]]出身の従兄のエティエンヌ(後のイングランド王[[スティーブン (イングランド王)|スティーブン]])や、母方の叔父のスコットランド王[[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]、異母兄で父の庶子のグロスター伯[[ロバート (初代グロスター伯)|ロバート]]もいた<ref name="松村464">松村、P464。</ref><ref>森、P34、ルゴエレル、P29、朝治、P28 - P29、君塚、P53 - P55。</ref>。
[[1128年]]に今度は[[フランス王国|フランス]]に送られて、父と対立していた[[アンジュー]][[アンジューの領主一覧|伯]]兼[[メーヌ]]伯[[フルク5世]]が和睦のため政略結婚を計画、フルク5世の息子で10歳年少の[[ジョフロワ4世]]と再婚した。ヘンリー1世とフルク5世は[[1119年]]にも和睦としてそれぞれの子女ウィリアム・アデリンとマティルド(ジョフロワ4世の姉)を結婚させていたが、ホワイトシップの遭難で台無しになったため、再度政略結婚を纏めてマティルダとジョフロワ4世の結婚に至った。なお、フルク5世は結婚後ジョフロワ4世にアンジュー伯位を譲ると旅に出て、[[エルサレム王国|エルサレム]][[エルサレム国王一覧|王]]として後半生を送ることになる<ref name="松村464"></ref><ref>森、P34 - P35、ペルヌー(1988)、P188 - P189、ペルヌー(1996)、P92、ルゴエレル、P29 - P30、君塚、P55。</ref>。
マティルダは再婚に不満で、元皇后としての自負心から夫を見下して夫婦仲は悪かったが、[[1133年]]には長男アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)を生む。ヘンリー1世は孫の誕生に喜び、同年に貴族にアンリへの臣従の誓いをさせたが、イングランド貴族たちからは結婚で[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]]とイングランドが宿敵[[アンジュー家]]([[ガティネ家]])に乗っ取られる危惧から反感を買い、マティルダは夫と共にノルマンディーとアンジュー境界領域の城の支配権をヘンリー1世に要求して対立、前途は多難だった<ref name="松村464"></ref><ref>森、P35、ペルヌー(1988)、P189 - P190、ルゴエレル、P30 - P31、朝治、P29、君塚、P55 - P56。</ref>。
[[File:Political map of England 1140.PNG|thumb|1140年ごろのイングランドとウェールズ。マティルダの支配(青)、スティーブンの支配(赤)、ウェールズ人の支配(灰色)]]
[[1135年]]に父が死ぬとアンジューに留まったが、その隙にエティエンヌが[[ロンドン]]に入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーブンとなった。スティーブンはヘンリー1世の生前、1127年の誓約で王位を要求しないことを重ねて誓約していたため、マティルダは誓約違反を[[ローマ教皇庁]]に訴え出たが、スティーブンは弟が{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester|label=ウィンチェスター司教}}{{仮リンク|ヘンリー・オブ・ブロワ|en|Henry of Blois|label=ヘンリー}}だったことに加え、[[カトリック教会|ローマ教会]]と友好関係にあったため却下された。しかし、王位簒奪の過程で教会や[[諸侯]]に数多くの譲歩をしたスティーブンの王権は次第に弱体化してゆく。諸侯の統制を失ったと見たマティルダは、[[1139年]]にノルマンディーからイングランドに上陸、スティーブンとの間で王位を争って戦いを始めた。この結果、スティーブンの治世は内乱に明け暮れることとなり、史上「[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]]」と呼ばれる時代が到来する。一方、夫は内乱に無関心でノルマンディー侵攻を優先、1141年から[[1144年]]にかけてノルマンディーを征服した<ref name="松村464"></ref><ref>森、P37 - P38、桐生、P75、石井、P195、ペルヌー(1996)、P92 - P93、ルゴエレル、P31 - P33、朝治、P29 - P31、君塚、P56 - P60。</ref>。
マティルダを支持する異母兄のグロスター伯率いるアンジュー伯派は、1141年2月に{{仮リンク|第一次リンカーンの戦い|en|Battle of Lincoln (1141)}}でスティーブンを破り捕虜にするという大勝利を挙げた。マティルダは'''イングランド人の女君主'''(The Lady of The English)を名乗ってロンドンに至り、ロンドン入城とともに戴冠して女王となる予定を立てていたが、これに先立ってロンドン市から寄せられた減税の陳情をにべもなく却下したことから、ロンドン市民はマティルダに愛想をつかして城門を堅く閉ざし、その入城を拒むに至った。そうこうするうちに王妃[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルダ・オブ・ブロイン]]が反撃に出て9月に[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]でグロスター伯を捕獲、捕虜交換でスティーブンは解放されまもなく内戦が再開、これでマティルダ戴冠の機会は永遠に失われた<ref name="松村464"></ref><ref>森、P38 - P39、ペルヌー(1988)、P192 - P193、朝治、P30、君塚、P61 - P62。</ref>。
スティーブンを戴く国王派はすでにイングランド全土でその権威を失っていたが、マティルダを戴くアンジュー伯派もまた他方を制圧するだけの力がなく、以後の内戦は泥沼化したまま年月を費やした。[[1147年]]にグロスター伯が死ぬと、強力な支持者を失ったマティルダは翌[[1148年]]2月にフランス・[[ルーアン]]に帰ることを余儀なくされる。[[1151年]]には夫も死去し、これでアンジュー伯派の力は著しく衰えてしまう<ref name="松村464"></ref><ref name="朝治31">朝治、P31。</ref><ref>森、P39、ペルヌー(1988)、P193 - P194、君塚、P62。</ref>。
しかしマティルダの長男アンリが成長するとともに、再びアンジュー伯派は力を得はじめた。アンリは父が征服した[[ノルマンディー公]]位を得たのを皮切りに、父の死後にはアンジュー伯位を襲爵、婚姻によって妻[[アリエノール・ダキテーヌ]]が有する広大な[[アキテーヌ公]]領・[[ガスコーニュ]]公領・[[ポワチエ]]伯領なども得て、フランス国土の半分にも及ぶ一大勢力を築くと、[[1153年]]1月に大軍を率いてイングランドに上陸した。対するスティーブンは[[1152年]]に王妃を、1153年8月に長男[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ユースタス]]を失い意気消沈していた。そして双方で妥協して([[ウォーリングフォード協定]]、ウィンチェスター協定とも)、生涯にわたってスティーブンの王位を認めるかわりに、自らがイングランド王位継承者となることを認めさせた。スティーブンは翌[[1154年]]に死去し、約束通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王に即位、ここにプランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる<ref name="松村464"></ref><ref name="朝治31"></ref><ref>森、P39 - P40、桐生、P92 - P96、石井、P220 - P223、P252 - P253、ペルヌー(1996)、P118 - P121、ルゴエレル、P34 - P39、君塚、P62 - P64。</ref>。
マティルダはフランスに留まったままそのすべてを見届け、1167年にひっそりとこの世を去った<ref>ペルヌー(1996)、P173。</ref>。
傲慢で気性が激しい上、ドイツ育ちでイングランドに馴染みが薄いという欠点で内乱ではイングランドで支持を得られず、諸侯やロンドン市民から嫌われて女王になるチャンスを逃した。それがためイングランドで女王は忌避され、[[1553年]]に[[テューダー朝]]の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]が即位するまで女王は誕生しなかった。一方でルーアンで身を引いた後も息子の行く末を見守りながら、ヘンリー2世に帝王学と人心掌握術を教え、[[大法官]][[トマス・ベケット]]の[[カンタベリー大司教]]任命に反対するなど息子に忠告している。また息子の嫁アリエノールにも自分と同じ資質を見出し、彼女にも政治思想で影響を与えたとされる<ref name="松村464"></ref><ref>桐生、P99 - P100、P111 - P112、石井、P221 - P222、ペルヌー(1996)、P120、君塚、P58、P65 - P66、P190 - P191、P200。</ref>。
== 子女 ==
2番目の夫ジョフロワ4世との間に以下の3子をもうけた。
# [[ヘンリー2世 (イングランド王)|アンリ]](1133年 - 1189年) - イングランド王、ノルマンディー公、アキテーヌ公、アンジュー伯
# [[ジョフロワ (ナント伯)|ジョフロワ]](1134年 - 1158年) - アンジュー伯、メーヌ伯、ナント伯
# ギヨーム(1136年 - 1164年) - ポワチエ伯
== 系図 ==
{{イングランド王室ノルマン朝以降}}
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[レジーヌ・ペルヌー]]著、[[福本秀子]]訳『中世を生きぬく女たち』[[白水社]]、1988年。
* [[桐生操]]『王妃アリエノール・ダキテーヌ <small>-リチャード獅子王の母-</small>』[[新書館]]、1988年。
* [[石井美樹子]]『王妃エレアノール <small>ふたつの国の王妃となった女</small>』[[平凡社]]、1988年。
* レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』[[パピルス (出版社)|パピルス]]、1996年。
* [[アンリ・ルゴエレル]]著、福本秀子訳『プランタジネット家の人びと』白水社([[文庫クセジュ]])、2000年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* [[朝治啓三]]・[[渡辺節夫]]・[[加藤玄]]編著『中世英仏関係史1066-1500 <small>ノルマン征服から百年戦争終結まで</small>』[[創元社]]、2012年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(上) <small>古代ブリテン島からエリザベス1世まで</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2015年。
== 関連項目 ==
* [[女性君主の一覧]]
* [[ナイツブリッジ]]
* [[オックスフォード城]]
* [[修道士カドフェル]] - [[イーディス・パージター|エリス・ピーターズ]]の推理小説シリーズ。
* [[大聖堂 (ケン・フォレットの小説)]] - この時代を描いた[[ケン・フォレット]]による歴史小説。端役ながら「モード」として登場する。テレビドラマ版ではより重要な登 場人物として扱われている。
{{イングランド王|1141年 - 1148年|イングランド人の女君主}}
{{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:まているた}}
[[Category:マティルダ (神聖ローマ皇后)|*]]
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[[Category:中世イングランドの女性]]
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|
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北大阪急行電鉄南北線
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南北線(なんぼくせん)は、大阪府吹田市の江坂駅から大阪府豊中市の千里中央駅までを結ぶ北大阪急行電鉄の鉄道路線である。
1970年(昭和45年)に吹田市で開催された日本万国博覧会(万博)の会場へのアクセスとして営業していた会場線(東西線、万博線とも呼ばれた)、ならびに延伸予定区間である千里中央駅から大阪府箕面市の箕面萱野駅までを結ぶ南北線延伸線(なんぼくせんえんしんせん)についても述べる。
1970年2月24日に大阪万博の会場アクセス路線として開業した。万博開催期間中の大量輸送により建設費を全て償還したことから、初乗り運賃が低廉に抑えられている。大阪府北部の北摂地域を走る路線の一つで、千里中央駅から桃山台駅にかけての沿線に広がる千里ニュータウンと大阪市中心部を結んでおり、起点の江坂駅から大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 御堂筋線(江坂駅 - 中百舌鳥駅間)と相互直通運転を行い、新幹線乗り換え駅の新大阪駅や大阪市中心部の梅田駅や難波駅へ乗り換えなしでアクセスできる。
千里丘陵と呼ばれる丘陵地帯を走り、地下区間を走る千里中央駅付近を除いて新御堂筋の上下車線の間を通っている。全線が立体交差化されている。2024年3月23日に箕面萱野駅まで延伸する予定である(「延伸計画」を参照)。
別会社ではあるものの御堂筋線と一体的に運行されていることから、御堂筋線の延長部として認識されている面がある。
路線名は「北大阪急行線」あるいは「北急線」と呼称されることがほとんどで、旅客案内でも正式名称で「南北線」と案内されることは一切ない。
江坂駅を除いて上り(南)方面の列車を「大阪市内行」として案内しているが、列車は堺市内まで運行されており、北花田駅、新金岡駅、および中百舌鳥駅は堺市北区にある。列車の行先では「新大阪・梅田・なんば・天王寺方面なかもず行き」のように案内されている。
駅番号を構成する路線記号はMで、番号は直通運転している御堂筋線と一体で振られている。江坂駅以外の各駅は青地に白抜きのM( M )だが、江坂駅は赤地に白抜きのM( M )で描かれている。
車両については「北大阪急行電鉄#車両」を参照。
全列車が江坂駅からOsaka Metro御堂筋線と相互直通運転しており、ダイヤは御堂筋線と一体化されている。南北線のみの運転はない。また御堂筋線に直通する列車はほとんどが中百舌鳥駅発着であり、中百舌鳥駅発着ではないのは初発の天王寺発千里中央行きと平日朝の新金岡発千里中央行き1本のみである。
列車の運転間隔は「Osaka Metro御堂筋線#運行形態」を参照。
かつては平日朝ラッシュ後に千里中央発新金岡行き(中百舌鳥検車場へ入庫を兼ねた運転)1本、我孫子駅始発の千里中央行きが数本設定されていたが、2015年(平成27年)3月のダイヤ改正で廃止された。また、朝ラッシュ時には新金岡発千里中央行きや2015年3月ダイヤ改正以降は休日ダイヤのみ、夕方に天王寺発千里中央行きが1本存在していたが、これらも2018年3月のダイヤ改正で廃止となった。終電には唯一の線内完結列車であった千里中央発江坂行き(江坂駅で同駅発中百舌鳥行き終電に接続)が設定されていたが、2020年10月31日のダイヤ改正で千里中央発中百舌鳥行きに統合されたため、線内完結列車は消滅した。この列車はOsaka Metroの車両が充当され、江坂駅到着後大国町駅まで回送されていた。同改正で新金岡発千里中央行きが再度設定された。
乗り入れ先の御堂筋線とともに、平日は6号車に女性専用車両を終日設定している。
南北線の輸送実績を下表に記す。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
南北線の収入実績を下表に記す。
千里丘陵で開催された日本万国博覧会の会場アクセスのため1970年に江坂駅 - 万国博中央口駅間が開業。万博会場最寄駅の万国博中央口駅は、現在の大阪モノレール万博記念公園駅のすぐ北側の中国自動車道上の位置にあった。
開業当時の千里中央駅は現在位置ではなく、桃山台駅 - 現・千里中央駅間で分岐していた会場線上に設けられた仮設駅(現在の千里阪急ホテル前付近)で営業していた。万博終了後、会場線の分岐点 - 万国博中央口駅間が廃止され、現在の千里中央駅が正式開業した。
会場線の跡地には中国自動車道上り線が通っている。中国自動車道を暫定的に下り線用の敷地に対面2車線で開通させ、上り線用の敷地を借用していた。
現在、南北線は千里中央駅が終点であるが、さらに北へ、箕面市萱野まで約2.5km延伸する計画がある。営業中の千里中央までの区間と同様、国道423号(新御堂筋)に沿うコースに敷設する計画である。計画の実現により、延伸先の終点に箕面萱野駅、途中の船場団地付近に箕面船場阪大前駅の2駅が新設される予定。2018年(平成30年)6月5日、箕面市が仮称を新箕面駅としていた延伸区間の終点駅の候補駅名を「箕面萱野駅」、箕面船場駅としていた中間駅の候補駅名を「箕面船場阪大前駅」とすると発表した。営業主体の北大阪急行電鉄が国へ手続きを行い、同年7月24日にこの名称で正式決定した。
千里中央駅から箕面船場阪大前駅の北までが地下区間の予定であり、新御堂筋の南行き線の下に地下線が建設される予定である。また、以北は高架区間の予定であり、終点の箕面萱野駅は新御堂筋の東側に高架駅として建設される予定となっており、箕面市によって駅用地が確保されている。
千里中央 - 萱野間の住民は、阪急バスが運行するバスの利用が現在主流であり、大幅な利便性の向上が期待されている。なお、計画されている箕面萱野駅と現在ある阪急箕面線箕面駅とは約1.8km離れている。
1989年(平成元年)に運輸政策審議会「大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」(答申第10号)において、「北大阪急行南北線の延伸線 千里中央 - 箕面中部間」が、「2005年(平成17年)までに整備に着手することが適当である区間」として位置づけられた。2004年(平成16年)10月には国土交通省近畿運輸局長の諮問機関・近畿地方交通審議会がとりまとめた「近畿圏における望ましい交通のあり方」(答申第8号)で、「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」の一つに位置づけられた。
不確定要素が多く、国の答申に位置づけられてから約20年間具体的な話が進んでいなかったが、2008年(平成20年)8月24日投開票の箕面市長選挙において当選した倉田哲郎が市長として初登庁した際、「北大阪急行線を箕面まで延伸するため、1期目の間に事業化のめどを付けたい」「約20年前に計画ができてから、具体的に何も進んでいない。かけ声ばかりは嫌なので、国へ強く働きかけていきたい」「(初仕事として)明日さっそく国(国土交通省)に要望に行きたい」 と話すなど、意欲を示した。倉田は箕面市長就任後、新たに箕面市に「地域創造部北大阪鉄道延伸課」を発足させるほか、建設に備えた基金の積立を開始した。また、市と北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で、事業化に向けた協力を定める覚書を締結し、上記4者に国や学識経験者なども加えた「北大阪急行線延伸検討委員会」を組織して2年にわたり整備計画案の検討をおこなった。
2010年(平成22年)1月15日に「北大阪急行線延伸検討委員会」は、2018年の開通をめざす整備計画案を策定・公表した。その中では、終日8分間隔運転・初乗り運賃140 - 150円の前提で、一日あたりの需要を、中間駅の箕面船場(当時の仮称。後に箕面船場阪大前と駅名決定)まで約12,500人、終点の新箕面(当時の仮称。後に箕面萱野と駅名決定)まで約39,500人が想定されるとした。
北大阪急行電鉄と阪急電鉄は同委員会のメンバーであったが、2010年時点では、いずれも本件について会社としては公式の発表をおこなっていなかった。鉄道事業者側は建設の負担について慎重な姿勢を崩しておらず、親会社の阪急電鉄は「隣接する当社の千里線、箕面線への影響と対策が示されないと、参画の意思決定をできる段階にはならない」というスタンスであると報じられていた。
当時の大阪府知事の橋下徹は、2010年2月22日の箕面市議との意見交換会で「(市議会で)大阪(伊丹)空港廃止を決議してくれれば、北大阪急行の延伸は全力で支える」と述べた。
この間、箕面市は国土交通省との交渉を続けており、2010年末頃、補助率の高い社会資本整備総合交付金を延伸事業に導入することが認められた。これを受け、2012年(平成24年)3月には箕面市・北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で「北大阪急行線の延伸に係る事業調査に関する覚書」を締結し、社会資本整備総合交付金を活用して共同で本格的な事業調査を開始することとなった。2013年12月、箕面市長倉田哲郎との間で延伸事業化の協議が進んでいることを当時の大阪府知事松井一郎が公表した。
2014年(平成26年)3月31日には、延伸に向けた正式な事業化について大阪府・箕面市・北大阪急行電鉄・阪急電鉄の4者で基本的合意を締結し、開業目標を2020年度(この時点)とする北大阪急行線の延伸が実現へ向けて動き出した。この延伸の準備で所要車両数を増加させる必要もあり、北大阪急行電鉄では2014年より9000形を投入している。
2015年(平成27年)12月1日、国土交通省の運輸審議会は北大阪急行電鉄から出されていた延伸区間の軌道特許申請につき、「軌道法上問題となる点は認められないこと、利害関係人の異議申し立てがなされ又は予想されるような案件ではないこと」を確認したと発表し、事業化に近づいたと報じられた。
同年12月25日、大阪府箕面市方面、新箕面(当時の仮称。後の箕面萱野)駅までの延伸計画について、国土交通大臣から千里中央 - 箕面船場(当時の仮称。後の箕面船場阪大前)間の第一種鉄道事業の許可と箕面船場(後の箕面船場阪大前) - 新箕面(後の箕面萱野)間の軌道事業の特許を受け、2017年(平成29年)1月19日に着工した。
箕面船場 - 新箕面間を軌道法による軌道としたのは、新御堂筋を通ることから一般国道423号の整備の名目として建設されるからである。
2018年(平成30年)6月5日、新設2駅の駅名案が発表され、仮称を箕面船場駅としていた中間駅を「箕面船場阪大前駅」、新箕面駅としていた終点駅を「箕面萱野駅」に駅名案の通り決定した。
2019年(令和元年)5月7日には、用地買収の遅れや工事中に見つかったコンクリート壁・土留壁の除去などによる工程見直しを理由に、開業時期を当初目標の2020年度から2023年(令和5年)度中へ延期すると発表された。2022年(令和4年)8月25日、開業時期が2023年度末(令和5年度末)になることが発表された。2023年(令和5年)8月23日、開業日が2024年(令和6年)3月23日になることが発表された。
沿線開発については、箕面船場阪大前駅付近への誘致活動が行われていた国立循環器病研究センターは、当地には建設されないことになった。その後、箕面市と大阪大学は「関西スポーツ科学・ヘルスケア総合センター(仮称)構想」を公表 し、検討を進めている。
豊中市と吹田市を交互に行き交うのは両市の市境の屈曲のため。北大阪急行電鉄南北線の線路はほぼ直線的である。
(分岐点) - 千里中央駅 - 万国博中央口駅
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"text": "南北線(なんぼくせん)は、大阪府吹田市の江坂駅から大阪府豊中市の千里中央駅までを結ぶ北大阪急行電鉄の鉄道路線である。",
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"text": "1970年(昭和45年)に吹田市で開催された日本万国博覧会(万博)の会場へのアクセスとして営業していた会場線(東西線、万博線とも呼ばれた)、ならびに延伸予定区間である千里中央駅から大阪府箕面市の箕面萱野駅までを結ぶ南北線延伸線(なんぼくせんえんしんせん)についても述べる。",
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"text": "1970年2月24日に大阪万博の会場アクセス路線として開業した。万博開催期間中の大量輸送により建設費を全て償還したことから、初乗り運賃が低廉に抑えられている。大阪府北部の北摂地域を走る路線の一つで、千里中央駅から桃山台駅にかけての沿線に広がる千里ニュータウンと大阪市中心部を結んでおり、起点の江坂駅から大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 御堂筋線(江坂駅 - 中百舌鳥駅間)と相互直通運転を行い、新幹線乗り換え駅の新大阪駅や大阪市中心部の梅田駅や難波駅へ乗り換えなしでアクセスできる。",
"title": "概要"
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"text": "千里丘陵と呼ばれる丘陵地帯を走り、地下区間を走る千里中央駅付近を除いて新御堂筋の上下車線の間を通っている。全線が立体交差化されている。2024年3月23日に箕面萱野駅まで延伸する予定である(「延伸計画」を参照)。",
"title": "概要"
},
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"text": "別会社ではあるものの御堂筋線と一体的に運行されていることから、御堂筋線の延長部として認識されている面がある。",
"title": "概要"
},
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"text": "路線名は「北大阪急行線」あるいは「北急線」と呼称されることがほとんどで、旅客案内でも正式名称で「南北線」と案内されることは一切ない。",
"title": "概要"
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"text": "江坂駅を除いて上り(南)方面の列車を「大阪市内行」として案内しているが、列車は堺市内まで運行されており、北花田駅、新金岡駅、および中百舌鳥駅は堺市北区にある。列車の行先では「新大阪・梅田・なんば・天王寺方面なかもず行き」のように案内されている。",
"title": "概要"
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"text": "駅番号を構成する路線記号はMで、番号は直通運転している御堂筋線と一体で振られている。江坂駅以外の各駅は青地に白抜きのM( M )だが、江坂駅は赤地に白抜きのM( M )で描かれている。",
"title": "概要"
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"text": "車両については「北大阪急行電鉄#車両」を参照。",
"title": "概要"
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"text": "全列車が江坂駅からOsaka Metro御堂筋線と相互直通運転しており、ダイヤは御堂筋線と一体化されている。南北線のみの運転はない。また御堂筋線に直通する列車はほとんどが中百舌鳥駅発着であり、中百舌鳥駅発着ではないのは初発の天王寺発千里中央行きと平日朝の新金岡発千里中央行き1本のみである。",
"title": "運行形態"
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"text": "列車の運転間隔は「Osaka Metro御堂筋線#運行形態」を参照。",
"title": "運行形態"
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"text": "かつては平日朝ラッシュ後に千里中央発新金岡行き(中百舌鳥検車場へ入庫を兼ねた運転)1本、我孫子駅始発の千里中央行きが数本設定されていたが、2015年(平成27年)3月のダイヤ改正で廃止された。また、朝ラッシュ時には新金岡発千里中央行きや2015年3月ダイヤ改正以降は休日ダイヤのみ、夕方に天王寺発千里中央行きが1本存在していたが、これらも2018年3月のダイヤ改正で廃止となった。終電には唯一の線内完結列車であった千里中央発江坂行き(江坂駅で同駅発中百舌鳥行き終電に接続)が設定されていたが、2020年10月31日のダイヤ改正で千里中央発中百舌鳥行きに統合されたため、線内完結列車は消滅した。この列車はOsaka Metroの車両が充当され、江坂駅到着後大国町駅まで回送されていた。同改正で新金岡発千里中央行きが再度設定された。",
"title": "運行形態"
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"text": "乗り入れ先の御堂筋線とともに、平日は6号車に女性専用車両を終日設定している。",
"title": "運行形態"
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"text": "南北線の輸送実績を下表に記す。",
"title": "利用状況"
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"text": "表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
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"text": "南北線の収入実績を下表に記す。",
"title": "利用状況"
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"text": "千里丘陵で開催された日本万国博覧会の会場アクセスのため1970年に江坂駅 - 万国博中央口駅間が開業。万博会場最寄駅の万国博中央口駅は、現在の大阪モノレール万博記念公園駅のすぐ北側の中国自動車道上の位置にあった。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "開業当時の千里中央駅は現在位置ではなく、桃山台駅 - 現・千里中央駅間で分岐していた会場線上に設けられた仮設駅(現在の千里阪急ホテル前付近)で営業していた。万博終了後、会場線の分岐点 - 万国博中央口駅間が廃止され、現在の千里中央駅が正式開業した。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 19,
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"text": "会場線の跡地には中国自動車道上り線が通っている。中国自動車道を暫定的に下り線用の敷地に対面2車線で開通させ、上り線用の敷地を借用していた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "現在、南北線は千里中央駅が終点であるが、さらに北へ、箕面市萱野まで約2.5km延伸する計画がある。営業中の千里中央までの区間と同様、国道423号(新御堂筋)に沿うコースに敷設する計画である。計画の実現により、延伸先の終点に箕面萱野駅、途中の船場団地付近に箕面船場阪大前駅の2駅が新設される予定。2018年(平成30年)6月5日、箕面市が仮称を新箕面駅としていた延伸区間の終点駅の候補駅名を「箕面萱野駅」、箕面船場駅としていた中間駅の候補駅名を「箕面船場阪大前駅」とすると発表した。営業主体の北大阪急行電鉄が国へ手続きを行い、同年7月24日にこの名称で正式決定した。",
"title": "延伸計画"
},
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"text": "千里中央駅から箕面船場阪大前駅の北までが地下区間の予定であり、新御堂筋の南行き線の下に地下線が建設される予定である。また、以北は高架区間の予定であり、終点の箕面萱野駅は新御堂筋の東側に高架駅として建設される予定となっており、箕面市によって駅用地が確保されている。",
"title": "延伸計画"
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"text": "千里中央 - 萱野間の住民は、阪急バスが運行するバスの利用が現在主流であり、大幅な利便性の向上が期待されている。なお、計画されている箕面萱野駅と現在ある阪急箕面線箕面駅とは約1.8km離れている。",
"title": "延伸計画"
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"text": "1989年(平成元年)に運輸政策審議会「大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」(答申第10号)において、「北大阪急行南北線の延伸線 千里中央 - 箕面中部間」が、「2005年(平成17年)までに整備に着手することが適当である区間」として位置づけられた。2004年(平成16年)10月には国土交通省近畿運輸局長の諮問機関・近畿地方交通審議会がとりまとめた「近畿圏における望ましい交通のあり方」(答申第8号)で、「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」の一つに位置づけられた。",
"title": "延伸計画"
},
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"text": "不確定要素が多く、国の答申に位置づけられてから約20年間具体的な話が進んでいなかったが、2008年(平成20年)8月24日投開票の箕面市長選挙において当選した倉田哲郎が市長として初登庁した際、「北大阪急行線を箕面まで延伸するため、1期目の間に事業化のめどを付けたい」「約20年前に計画ができてから、具体的に何も進んでいない。かけ声ばかりは嫌なので、国へ強く働きかけていきたい」「(初仕事として)明日さっそく国(国土交通省)に要望に行きたい」 と話すなど、意欲を示した。倉田は箕面市長就任後、新たに箕面市に「地域創造部北大阪鉄道延伸課」を発足させるほか、建設に備えた基金の積立を開始した。また、市と北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で、事業化に向けた協力を定める覚書を締結し、上記4者に国や学識経験者なども加えた「北大阪急行線延伸検討委員会」を組織して2年にわたり整備計画案の検討をおこなった。",
"title": "延伸計画"
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"text": "2010年(平成22年)1月15日に「北大阪急行線延伸検討委員会」は、2018年の開通をめざす整備計画案を策定・公表した。その中では、終日8分間隔運転・初乗り運賃140 - 150円の前提で、一日あたりの需要を、中間駅の箕面船場(当時の仮称。後に箕面船場阪大前と駅名決定)まで約12,500人、終点の新箕面(当時の仮称。後に箕面萱野と駅名決定)まで約39,500人が想定されるとした。",
"title": "延伸計画"
},
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"text": "北大阪急行電鉄と阪急電鉄は同委員会のメンバーであったが、2010年時点では、いずれも本件について会社としては公式の発表をおこなっていなかった。鉄道事業者側は建設の負担について慎重な姿勢を崩しておらず、親会社の阪急電鉄は「隣接する当社の千里線、箕面線への影響と対策が示されないと、参画の意思決定をできる段階にはならない」というスタンスであると報じられていた。",
"title": "延伸計画"
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"text": "当時の大阪府知事の橋下徹は、2010年2月22日の箕面市議との意見交換会で「(市議会で)大阪(伊丹)空港廃止を決議してくれれば、北大阪急行の延伸は全力で支える」と述べた。",
"title": "延伸計画"
},
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"text": "この間、箕面市は国土交通省との交渉を続けており、2010年末頃、補助率の高い社会資本整備総合交付金を延伸事業に導入することが認められた。これを受け、2012年(平成24年)3月には箕面市・北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で「北大阪急行線の延伸に係る事業調査に関する覚書」を締結し、社会資本整備総合交付金を活用して共同で本格的な事業調査を開始することとなった。2013年12月、箕面市長倉田哲郎との間で延伸事業化の協議が進んでいることを当時の大阪府知事松井一郎が公表した。",
"title": "延伸計画"
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"text": "2014年(平成26年)3月31日には、延伸に向けた正式な事業化について大阪府・箕面市・北大阪急行電鉄・阪急電鉄の4者で基本的合意を締結し、開業目標を2020年度(この時点)とする北大阪急行線の延伸が実現へ向けて動き出した。この延伸の準備で所要車両数を増加させる必要もあり、北大阪急行電鉄では2014年より9000形を投入している。",
"title": "延伸計画"
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"text": "2015年(平成27年)12月1日、国土交通省の運輸審議会は北大阪急行電鉄から出されていた延伸区間の軌道特許申請につき、「軌道法上問題となる点は認められないこと、利害関係人の異議申し立てがなされ又は予想されるような案件ではないこと」を確認したと発表し、事業化に近づいたと報じられた。",
"title": "延伸計画"
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"text": "同年12月25日、大阪府箕面市方面、新箕面(当時の仮称。後の箕面萱野)駅までの延伸計画について、国土交通大臣から千里中央 - 箕面船場(当時の仮称。後の箕面船場阪大前)間の第一種鉄道事業の許可と箕面船場(後の箕面船場阪大前) - 新箕面(後の箕面萱野)間の軌道事業の特許を受け、2017年(平成29年)1月19日に着工した。",
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"text": "箕面船場 - 新箕面間を軌道法による軌道としたのは、新御堂筋を通ることから一般国道423号の整備の名目として建設されるからである。",
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"text": "2018年(平成30年)6月5日、新設2駅の駅名案が発表され、仮称を箕面船場駅としていた中間駅を「箕面船場阪大前駅」、新箕面駅としていた終点駅を「箕面萱野駅」に駅名案の通り決定した。",
"title": "延伸計画"
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"text": "2019年(令和元年)5月7日には、用地買収の遅れや工事中に見つかったコンクリート壁・土留壁の除去などによる工程見直しを理由に、開業時期を当初目標の2020年度から2023年(令和5年)度中へ延期すると発表された。2022年(令和4年)8月25日、開業時期が2023年度末(令和5年度末)になることが発表された。2023年(令和5年)8月23日、開業日が2024年(令和6年)3月23日になることが発表された。",
"title": "延伸計画"
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"text": "沿線開発については、箕面船場阪大前駅付近への誘致活動が行われていた国立循環器病研究センターは、当地には建設されないことになった。その後、箕面市と大阪大学は「関西スポーツ科学・ヘルスケア総合センター(仮称)構想」を公表 し、検討を進めている。",
"title": "延伸計画"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "豊中市と吹田市を交互に行き交うのは両市の市境の屈曲のため。北大阪急行電鉄南北線の線路はほぼ直線的である。",
"title": "駅一覧"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "(分岐点) - 千里中央駅 - 万国博中央口駅",
"title": "駅一覧"
}
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南北線(なんぼくせん)は、大阪府吹田市の江坂駅から大阪府豊中市の千里中央駅までを結ぶ北大阪急行電鉄の鉄道路線である。 1970年(昭和45年)に吹田市で開催された日本万国博覧会(万博)の会場へのアクセスとして営業していた会場線(東西線、万博線とも呼ばれた)、ならびに延伸予定区間である千里中央駅から大阪府箕面市の箕面萱野駅までを結ぶ南北線延伸線(なんぼくせんえんしんせん)についても述べる。
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{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[file:Kitakyu-logo.svg|22px|北大阪急行電鉄|link=北大阪急行電鉄]] 南北線
|路線色 = #ed1a3d
|画像 = Kitaosaka-Series8000.jpg
|画像サイズ = 300px
|画像説明 = 南北線を走行する8000形(2018年4月8日)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]][[吹田市]]、[[豊中市]]
|起点 = [[江坂駅]]
|終点 = [[千里中央駅]]
|駅数 = 4駅
|路線記号 = {{駅番号s|#000080|#fff|M}}
|開業 = [[1970年]](昭和45年)[[2月24日]]
|所有者 = [[北大阪急行電鉄]]
|運営者 = 北大阪急行電鉄
|車両基地 = 桃山台車庫
|使用車両 = [[北大阪急行電鉄#車両]]の節を参照
|路線距離 = 5.9 [[キロメートル|km]]<ref name="50th_159">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.159。</ref>
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])<ref name="50th_164">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.164。</ref>
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]750 [[ボルト (単位)|V]] [[第三軌条方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|最大勾配=35 [[パーミル|‰]]<ref name="50th_164" />
|最小曲線半径 = 197.5 m<ref name="50th_164" />
|保安装置 = [[自動列車制御装置#WS-ATC (WaysideSignal-ATC)|WS-ATC]]
|最高速度 = 70 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 = Kita-Osaka Kyuko Railway Linemap.svg
}}
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
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|map-title=南北線・南北線延伸線
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{{BS2||exhKBHFa|8.4|''[[箕面萱野駅]]'' ||}}
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{{BS||||↑中国自動車道}}
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{{BS3|SKRZ-Aoq|xKRZu|eHSTq|||[[阪急電鉄|阪急]]:[[阪急千里線|千里線]] ''[[山田駅 (大阪府)#万国博西口駅|万国博西口駅]]''|}}
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|bottom=<small>※会場線廃止後に開業した路線・駅は省略</small>
}}
'''南北線'''(なんぼくせん)は、[[大阪府]][[吹田市]]の[[江坂駅]]から大阪府[[豊中市]]の[[千里中央駅]]までを結ぶ[[北大阪急行電鉄]]の[[鉄道路線]]である。
[[1970年]](昭和45年)に吹田市で開催された[[日本万国博覧会]](万博)の会場へのアクセスとして営業していた'''会場線'''('''東西線'''、'''万博線'''とも呼ばれた)、ならびに延伸予定区間である千里中央駅から大阪府[[箕面市]]の[[箕面萱野駅]]までを結ぶ'''南北線延伸線'''(なんぼくせんえんしんせん)についても述べる。
== 概要 ==
[[1970年]]2月24日に[[日本万国博覧会|大阪万博]]の会場アクセス路線として開業した。万博開催期間中の大量輸送により建設費を全て償還したことから、初乗り[[運賃]]が低廉に抑えられている。大阪府北部の[[北摂]]地域を走る路線の一つで、[[千里中央駅]]から[[桃山台駅]]にかけての沿線に広がる[[千里ニュータウン]]と[[大阪市]]中心部を結んでおり、起点の[[江坂駅]]から[[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro)<ref group="注釈">旧[[大阪市営地下鉄]]</ref> [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]](江坂駅 - [[中百舌鳥駅]]間)と[[直通運転|相互直通運転]]を行い、[[新幹線]]乗り換え駅の[[新大阪駅]]や大阪市中心部の[[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]や[[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]]へ乗り換えなしでアクセスできる。
[[千里丘陵]]と呼ばれる丘陵地帯を走り、地下区間を走る千里中央駅付近を除いて[[新御堂筋]]の上下車線の間を通っている。全線が[[立体交差]]化されている。[[2024年]]3月23日に[[箕面萱野駅]]まで延伸する予定である(「[[#延伸計画|延伸計画]]」を参照)<ref name="延伸開業日" />。
別会社ではあるものの御堂筋線と一体的に運行されていることから、御堂筋線の延長部として認識されている面がある。
路線名は「'''北大阪急行線'''」あるいは「'''北急線'''」と呼称されることがほとんどで、旅客案内でも正式名称で「南北線」と案内されることは一切ない。
江坂駅を除いて上り(南)方面の列車を「大阪市内行」として案内しているが、列車は[[堺市]]内まで運行されており、[[北花田駅]]、[[新金岡駅]]、および中百舌鳥駅は[[北区 (堺市)|堺市北区]]にある。列車の行先では「新大阪・梅田・[[難波駅 (Osaka Metro)|なんば]]・[[天王寺駅|天王寺]]方面[[中百舌鳥駅|なかもず]]行き」のように案内されている。
[[駅ナンバリング|駅番号]]を構成する路線記号は'''M'''で、番号は[[直通運転]]している御堂筋線と一体で振られている。江坂駅以外の各駅は青地に白抜きのM({{駅番号s|#000080|#fff|M}})だが、江坂駅は赤地に白抜きのM({{駅番号s|#ed1a3d|white|M}})で描かれている。
車両については「[[北大阪急行電鉄#車両]]」を参照。
== 路線データ ==
* 路線距離([[営業キロ]]):江坂駅 - 千里中央駅間 5.9 km<ref name="50th_159" />
* [[軌間]]:1435 mm<ref name="50th_164" />
* 駅数:4駅(起終点駅含む)
* [[複線]]区間:全線
* [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化(直流750V・[[第三軌条方式]])
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 最高速度:70km/h
* 最大勾配:35 [[パーミル|‰]]<ref name="50th_164" />
* 最小曲線半径:197.5 m<ref name="50th_164" />
* [[車両基地]]:桃山台車庫(緑地公園駅 - 桃山台駅間の西側に所在)
* 編成両数:10両(1995年 - )
** 2023年現在、日本の第三軌条路線で7両編成以上で運行されているのは当路線と直通先のOsaka Metro御堂筋線だけである。
南北線は全線が[[鉄道事業法]]に基づく鉄道路線である。なお、南北線延伸線は千里中央駅 - 箕面船場阪大前駅間が鉄道事業法に基づく鉄道路線、箕面船場阪大前駅 - 箕面萱野駅間が[[軌道法]]に基づく軌道路線となる。
== 運行形態 ==
全列車が[[江坂駅]]から[[Osaka Metro御堂筋線]]と[[直通運転|相互直通運転]]しており、ダイヤは御堂筋線と一体化されている。南北線のみの運転はない。また御堂筋線に直通する列車はほとんどが[[中百舌鳥駅]]発着であり、中百舌鳥駅発着ではないのは初発の[[天王寺駅|天王寺]]発[[千里中央駅|千里中央]]行きと平日朝の[[新金岡駅|新金岡]]発千里中央行き1本のみである。
列車の運転間隔は「[[Osaka Metro御堂筋線#運行形態]]」を参照。
かつては平日朝ラッシュ後に千里中央発新金岡行き([[中百舌鳥検車場]]へ入庫を兼ねた運転)1本、[[我孫子駅 (大阪府)|我孫子駅]]始発の千里中央行きが数本設定されていたが、[[2015年]](平成27年)3月のダイヤ改正で廃止された。また、朝ラッシュ時には新金岡発千里中央行きや2015年3月ダイヤ改正以降は休日ダイヤのみ、夕方に天王寺発千里中央行きが1本存在していたが、これらも[[2018年]]3月のダイヤ改正で廃止となった。終電には唯一の線内完結列車であった千里中央発江坂行き(江坂駅で同駅発中百舌鳥行き終電に接続)が設定されていたが、2020年10月31日のダイヤ改正で千里中央発中百舌鳥行きに統合されたため、線内完結列車は消滅した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/155.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220310135322/https://www.kita-kyu.co.jp/upload/155.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改正の実施について|publisher=北大阪急行電鉄|date=2020-09-30|accessdate=2022-03-21|archivedate=2022-03-10}}</ref>。この列車はOsaka Metroの車両が充当され、江坂駅到着後[[大国町駅]]まで回送されていた。同改正で新金岡発千里中央行きが再度設定された。
乗り入れ先の御堂筋線とともに、平日は6号車に[[女性専用車両]]を終日設定している。
{| style="float:none; font-size:100%; margin:.5em 0em 0em 0em; border:1px solid gray;"
|-
|colspan="2" style="font-size:100%; background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #ed1a3d;"|編成図
|-
|←中百舌鳥・江坂||style="text-align:right;"|千里中央→
|-
|colspan="2"|
{| class="wikitable" style="border:1px; font-size:80%; margin:0;"
|- style="text-align:center;" |
| style="width:3.5em;" | 1号車
| style="width:3.5em;" | 2号車
| style="width:3.5em;" | 3号車
| style="width:3.5em;" | 4号車
| style="width:3.5em;" | 5号車
| style="width:3.5em; background:#ffccff" | 6号車
| style="width:3.5em;" | 7号車
| style="width:3.5em;" | 8号車
| style="width:3.5em;" | 9号車
| style="width:3.5em;" | 10号車
|}
|}
== 利用状況 ==
=== 輸送実績 ===
南北線の輸送実績を下表に記す<ref>[http://www.kita-kyu.co.jp/jigyo/number.html 北大阪急行電鉄 旅客輸送人員]</ref>。
表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" style="font-size:90%; text-align:right"
|-
! colspan="6" | 年度別輸送実績
|-
! rowspan="2" style="width:10em" | 年度
! colspan="4" | 輸送実績(乗車人員):万人/年度
! rowspan="2" style="width:10em" | 特記事項
|-
! style="width:7em" | 通勤定期
! style="width:7em" | 通学定期
! style="width:7em" | 定期外
! style="width:7em" | 合計
|-
! style="font-weight:normal" | 1985年(昭和60年)
| style="background-color: #ccffcc;"| 3409.4
| ←←←←
| style="background-color: #ccffcc;"| 2305.8
| style="background-color: #ccffcc;"| 5715.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1986年(昭和61年)
| 2924.4
| 628.2
| 2370.5
| 5923.1
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1987年(昭和62年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1988年(昭和63年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1989年(平成元年)
| 3839.9
| ←←←←
| 2400.8
| 6240.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1990年(平成2年)
| 3842.3
| ←←←←
| 2590.7
| 6433.0
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1991年(平成3年)
| 3921.5
| ←←←←
| 2758.3
| 6679.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1992年(平成4年)
| style="background-color: #ffcccc;"| 3967.8
| ←←←←
| 2813.7
| style="background-color: #ffcccc;"| 6781.5
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1993年(平成5年)
| 3923.9
| ←←←←
| 2838.5
| 6762.4
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1994年(平成6年)
| 3849.4
| ←←←←
| 2846.4
| 6695.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1995年(平成7年)
| 3856.0
| ←←←←
| 2903.8
| 6759.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1996年(平成8年)
| 3750.4
| ←←←←
| style="background-color: #ffcccc;"| 2917.4
| 6667.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1997年(平成9年)
| 3706.1
| ←←←←
| 2842.2
| 6548.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1998年(平成10年)
| 3076.9
| 525.5
| 2751.2
| 6353.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1999年(平成11年)
| 3493.1
| ←←←←
| 2706.4
| 6199.5
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2000年(平成12年)
| 3381.9
| ←←←←
| 2671.8
| 6053.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2001年(平成13年)
| 3316.3
| ←←←←
| 2623.9
| 5940.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2002年(平成14年)
| 3225.4
| ←←←←
| 2597.9
| 5823.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2003年(平成15年)
| 3195.3
| ←←←←
| 2534.3
| 5729.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2004年(平成16年)
| 2707.2
| 462.7
| 2455.2
| 5625.1
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2005年(平成17年)
| 3166.6
| ←←←←
| 2461.2
| 5627.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2006年(平成18年)
| 3070.9
| ←←←←
| 2549.3
| 5620.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2007年(平成19年)
| 3046.8
| ←←←←
| 2594.6
| 5641.4
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2008年(平成20年)
| 3025.0
| ←←←←
| 2630.2
| 5655.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2009年(平成21年)
| 2499.6
| 428.0
| 2572.5
| 5500.1
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2010年(平成22年)
| 2862.3
| ←←←←
| 2596.3
| 5458.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2011年(平成23年)
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2012年(平成24年)
| 2496.0
| 431.2
| 2656.4
| 5583.6
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2013年(平成25年)
| 2577.3
| 435.2
| 2707.3
| 5719.8
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2014年(平成26年)
| 2610.3
| 425.7
| 2667.7
| 5703.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2015年(平成27年)
| 2656.0
| 443.0
| 2788.5
| 5887.5
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2016年(平成28年)
| 2691.2
| 450.7
| 2799.4
| 5941.3
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2017年(平成29年)
| 2751.3
| 458.7
| 2706.7
| 5916.7
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2018年(平成30年)
| 2786.8
| 469.9
| 2681.4
| 5938.1
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2019年(令和元年)
| 2883.6
| 472.3
| 2575.3
| 5931.2
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2020年(令和2年)
| style="background-color: #ccffff;"| 2453.7
| 313.5
| style="background-color: #ccffff;"| 1754.0
| style="background-color: #ccffff;"| 4521.2
|
|}
{{節スタブ}}
=== 収入実績 ===
南北線の収入実績を下表に記す。
* 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable mw-collapsible" style="font-size:90%; text-align:right;"
|-
! colspan="8" | 年度別収入実績
|-
! rowspan="2" | 年度
! colspan="5" | 旅客運賃収入:千円/年度
! rowspan="2" | 運輸雑収<br />千円/年度
! rowspan="2" | 総合計<br />千円/年度
|-
! style="width:10%" | 通勤定期
! style="width:10%" | 通学定期
! style="width:10%" | 定期外
! style="width:10%" | 手小荷物
! style="width:10%" | 合計
|-
! style="font-weight:normal" | 1985年(昭和60年)
|
| style="text-align:center" | ←←←←
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1986年(昭和61年)
| 1,272,019
| style="text-align:center" | ←←←←
| 1,561,105
| 0
| 2,833,124
| 219,296
| 3,052,420
|-
! style="font-weight:normal" | 1987年(昭和62年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1988年(昭和63年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1989年(平成元年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1990年(平成2年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1991年(平成3年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1992年(平成4年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1993年(平成5年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1994年(平成6年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1995年(平成7年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1996年(平成8年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1997年(平成9年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 1998年(平成10年)
| 1,896,100
| 201,113
| 2,867,255
| 0
| 4,964,468
| 354,850
| 5,319,318
|-
! style="font-weight:normal" | 1999年(平成11年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2000年(平成12年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2001年(平成13年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2002年(平成14年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2003年(平成15年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2004年(平成16年)
| 1,671,372
| 174,716
| 2,577,749
| 0
| 4,423,837
| 387,612
| 4,811,449
|-
! style="font-weight:normal" | 2005年(平成17年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
! style="font-weight:normal" | 2006年(平成18年)
|
|
|
|
|
|
|
|-
|}
{{節スタブ}}
== 歴史 ==
{{See also|北大阪急行電鉄#概要|北大阪急行電鉄#歴史|大阪万博の交通}}
千里丘陵で開催された日本万国博覧会の会場アクセスのため1970年に江坂駅 - 万国博中央口駅間が開業。万博会場最寄駅の[[万国博中央口駅]]は、現在の[[大阪モノレール]][[万博記念公園駅 (大阪府)|万博記念公園駅]]のすぐ北側の[[中国自動車道]]上の位置<ref group="注釈">[[中国吹田インターチェンジ|中国吹田IC]]に挟まれた上下本線道路部分。</ref>にあった。
開業当時の千里中央駅は現在位置ではなく、桃山台駅 - 現・千里中央駅間で分岐していた会場線上に設けられた仮設駅(現在の[[千里阪急ホテル]]前付近)で営業していた。万博終了後、会場線の分岐点 - 万国博中央口駅間が廃止され、現在の千里中央駅が正式開業した。
会場線の跡地には中国自動車道上り線が通っている。中国自動車道を暫定的に下り線用の敷地に対面2車線で開通させ、上り線用の敷地を借用していた。
=== 年表 ===
* [[1967年]]([[昭和]]42年)[[7月9日]]:[[運輸省]]に江坂駅 - 万博博中央口駅間の工事施工の認可を申請<ref name="50th_178">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.178。</ref>。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[3月22日]]:[[大阪市交通局]]と相互直通運転に関する基本協定を締結<ref name="50th_178" />。
** [[7月9日]]:運輸省から江坂駅 - 万博博中央口駅間の工事施工の認可を取得<ref name="50th_26">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.26。</ref>。
** [[7月16日]]:江坂駅 - 万博博中央口駅間の起工式を実施<ref name="50th_26" />。
* [[1969年]](昭和44年)
** [[8月6日]]:桃山台車庫が完成する<ref name="50th_178" />。
** [[9月25日]]:桃山台車庫 - 新千里隧道間 (1.3 km) で試運転を開始<ref name="50th_178" />。
** [[12月3日]]:桃山台駅 - 江坂駅間 (3.9 km) で試運転を開始<ref name="50th_179" />。
** [[12月17日]]:全線で試運転を開始<ref name="50th_179" />。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[2月24日]]:南北線・会場線 江坂駅 - 万国博中央口駅間 (9.0 km) が開業<ref name="50th_179">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.179。</ref>。御堂筋線と直通運転を開始。開業当時は北大阪急行の車両は天王寺駅までの乗り入れであり、天王寺以南からの乗り入れは[[大阪市交通局]](現在のOsaka Metro)の車両のみであった。
** [[9月14日]]:会場線 分岐点 - 万国博中央口駅間 (3.6 km) が廃止<ref name="50th_179" />。南北線 分岐点 - 千里中央駅間 (0.5 km) が開業。相前後して開業後初のダイヤ改正が実施され、北大阪急行の車両も天王寺駅 - 我孫子駅(当時の御堂筋線の終点駅)間に乗り入れを開始。
** [[12月15日]]:会場線 分岐点 - 万国博中央口駅間の撤去工事が終了<ref name="50th_180">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.180。</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)[[3月30日]]:緑地公園駅開業<ref name="50th_52">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.52。</ref>。
* [[1986年]](昭和61年)[[7月1日]]:[[北大阪急行電鉄8000形電車|8000形]]電車運転開始<ref name="50th_183">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.183。</ref>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月12日]]:9両編成の運行を開始<ref name="50th_183" />。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月8日]]:全線において自動閉塞区間の無絶縁化および[[自動列車制御装置#デジタルATC|デジタルATC]]・[[緊急列車防護装置]]を導入<ref name="50th_184">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.184。</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 自社線内冷房化率100%達成。
** [[10月1日]]:自社線車内でのテープ放送開始。
** [[10月2日]]:[[北大阪急行電鉄2000形電車|2000形]]電車運転終了。
* [[1996年]](平成7年)[[12月9日]]:10両編成の運行を開始<ref name="50th_186">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.186。</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月31日]]:大阪府と箕面市、阪急電鉄、北大阪急行電鉄の4者が千里中央 - 箕面萱野間の延伸に合意<ref name="50th_134-135" />。
** [[4月28日]]:[[北大阪急行電鉄9000形電車|9000形]]電車運転開始<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/021..pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140327221512/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/021..pdf|format=PDF|language=日本語|title=新型車両9000形「POLESTARII」営業運転開始および記念式典について|publisher=北大阪急行電鉄|date=2014-03-26|accessdate=2022-03-21|archivedate=2014-03-27}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[4月15日]]:[[国土交通省]]に千里中央駅 - 箕面萱野駅間の工事施工の認可を申請<ref name="50th_196">[[#50th|北大阪急行50年史]]、p.196。</ref>。
** [[11月25日]]:国土交通省から千里中央駅 - 箕面萱野駅間の工事施工の認可を取得<ref name="50th_134-135" />。
* [[2017年]](平成29年)[[1月19日]]:千里中央駅 - [[箕面萱野駅]]間の工事着工<ref name="50th_134-135">[[#50th|北大阪急行50年史]]、pp.134 - 135。</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASK1K6FQVK1KPPTB00J.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170123202217/http://www.asahi.com/articles/ASK1K6FQVK1KPPTB00J.html|title=北大阪急行延伸へ起工式 建設費600億円、新駅二つ|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2017-01-19|accessdate=2022-03-21|archivedate=2017-01-23}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[7月24日]]:延伸区間の新設2駅の名称が、[[箕面船場阪大前駅]](仮称:箕面船場駅)、箕面萱野駅(仮称:新箕面駅)に決定<ref name="kitakyu20180724">{{Cite press release|和書|url=http://www.kita-kyu.co.jp/upload/092.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180724093343/http://www.kita-kyu.co.jp/upload/092.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄南北線延伸線の新駅の名称が本日決定しました|publisher=北大阪急行電鉄/箕面市|date=2018-07-24|accessdate=2022-03-21|archivedate=2018-07-24}}</ref>。
* [[2024年]]([[令和]]6年)[[3月23日]]:千里中央駅 - 箕面萱野駅間 (約2.5 km) が開業(予定)<ref name="延伸開業日">{{Cite web|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/206.pdf |title=北大阪急行電鉄南北線延伸線(千里中央駅〜箕面萱野駅)の開業日が2024年(令和6年)3月23日(土)に決定! |publisher=箕面市/北大阪急行電鉄 |date=2023-08-23 |access-date=2023-08-23}}</ref>。
== 延伸計画 ==
{{Double image stack|right|Planned site for Shin-Minoo Station.jpg|Planned site for Minoo-Semba Station.jpg|220|{{Center|上:箕面萱野駅予定地<br />下:箕面船場阪大前駅予定地<br />(2016年10月)}}}}
現在、南北線は千里中央駅が終点であるが、さらに北へ、[[箕面市]][[萱野 (箕面市)|萱野]]まで約2.5km延伸する計画がある<ref name="response20170521">[https://response.jp/article/2017/05/21/294984.html 阪急電鉄「幻の鉄路」が長期計画に…十三〜新大阪間の連絡線] - 2017年05月21日 13時30分配信、同日閲覧。「『幻の鉄路』が復活か」参照</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/documents/kitakyu_projectoutline.pdf 北大阪急行線延伸プロジェクト・アウトライン]}} - 箕面市</ref>。営業中の千里中央までの区間と同様、[[国道423号]]([[新御堂筋]])に沿うコースに敷設する計画である。計画の実現により、延伸先の終点に[[箕面萱野駅]]、途中の船場団地付近に[[箕面船場阪大前駅]]の2駅が新設される予定。2018年(平成30年)6月5日、箕面市が仮称を新箕面駅としていた延伸区間の終点駅の候補駅名を「箕面萱野駅」、箕面船場駅としていた中間駅の候補駅名を「箕面船場阪大前駅」とすると発表した<ref name="minoh20180605">[https://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/sinnekimeikouhoann.html 北大阪急行線延伸線の新駅名の候補案を「箕面萱野駅」「箕面船場阪大前」に決定しました] - 箕面市、2018年6月5日</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31386880V00C18A6LKA000/ 「箕面萱野」など名称決定 北大阪急行線、延伸区間の新駅] - 日本経済新聞、2018年6月5日</ref>。営業主体の北大阪急行電鉄が国へ手続きを行い、同年7月24日にこの名称で正式決定した<ref name="kitakyu20180724" />。
千里中央駅から箕面船場阪大前駅の北までが地下区間の予定であり、新御堂筋の南行き線の下に地下線が建設される予定である。また、以北は高架区間の予定であり、終点の箕面萱野駅は新御堂筋の東側に高架駅として建設される予定となっており、箕面市によって駅用地が確保されている。
千里中央 - 萱野間の住民は、[[阪急バス]]が運行するバスの利用が現在主流であり、大幅な利便性の向上が期待されている。なお、計画されている箕面萱野駅と現在ある[[阪急箕面線]][[箕面駅]]とは約1.8km離れている。
=== 沿革 ===
1989年(平成元年)に運輸政策審議会「[[大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]]」(答申第10号)において、「北大阪急行南北線の延伸線 千里中央 - 箕面中部間」が、「2005年(平成17年)までに整備に着手することが適当である区間」として位置づけられた。2004年(平成16年)10月には国土交通省近畿運輸局長の諮問機関・近畿地方交通審議会がとりまとめた「近畿圏における望ましい交通のあり方」(答申第8号)で、「京阪神圏において、中長期的に望まれる鉄道ネットワークを構成する新たな路線」の一つに位置づけられた。
不確定要素が多く、国の答申に位置づけられてから約20年間具体的な話が進んでいなかったが、2008年(平成20年)8月24日投開票の箕面市長選挙において当選した[[倉田哲郎]]が市長として初登庁した際、「北大阪急行線を箕面まで延伸するため、1期目の間に事業化のめどを付けたい」「約20年前に計画ができてから、具体的に何も進んでいない。かけ声ばかりは嫌なので、国へ強く働きかけていきたい」「(初仕事として)明日さっそく国(国土交通省)に要望に行きたい」<ref>[https://megalodon.jp/2008-0831-1829-32/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/173456/ 産経新聞「イザ!」2008年8月27日(ウェブ魚拓)]<br />[https://megalodon.jp/2008-0831-1843-06/mainichi.jp/area/osaka/news/20080828ddlk27010357000c.html 毎日新聞「毎日jp」2008年8月28日(ウェブ魚拓)]</ref> と話すなど、意欲を示した。倉田は箕面市長就任後、新たに箕面市に「地域創造部北大阪鉄道延伸課」を発足させるほか、建設に備えた基金の積立を開始した。また、市と北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で、事業化に向けた協力を定める覚書を締結し、上記4者に国や学識経験者なども加えた「北大阪急行線延伸検討委員会」を組織して2年にわたり整備計画案の検討をおこなった<ref name="minoo">[http://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/kitakyu-enshin.html 北大阪急行線延伸] - 箕面市ウェブサイト</ref>。
2010年(平成22年)1月15日に「北大阪急行線延伸検討委員会」は、2018年の開通をめざす整備計画案を策定・公表した。その中では、終日8分間隔運転・初乗り運賃140 - 150円の前提で、一日あたりの需要を、中間駅の箕面船場(当時の仮称。後に箕面船場阪大前と駅名決定)まで約12,500人、終点の新箕面(当時の仮称。後に箕面萱野と駅名決定)まで約39,500人が想定されるとした<ref>[http://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/houdou.html (報道資料)平成30年に北大阪急行線延伸をめざしています] - 箕面市ウェブサイト</ref>。
北大阪急行電鉄と阪急電鉄は同委員会のメンバーであったが、2010年時点では、いずれも本件について会社としては公式の発表をおこなっていなかった。鉄道事業者側は建設の負担について慎重な姿勢を崩しておらず、親会社の阪急電鉄は「隣接する当社の[[阪急千里線|千里線]]、[[阪急箕面線|箕面線]]への影響と対策が示されないと、参画の意思決定をできる段階にはならない」というスタンスであると報じられていた<ref>[https://web.archive.org/web/20100609092255/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100405/plc1004050824001-n1.htm 橋下知事も応援“大動脈”延伸どうなる?阪急と市で温度差] - 産経新聞、2010年4月5日。2010年9月9日閲覧</ref>。
当時の[[大阪府知事]]の[[橋下徹]]は、2010年2月22日の箕面市議との意見交換会で「(市議会で)[[大阪国際空港|大阪(伊丹)空港]]廃止を決議してくれれば、北大阪急行の延伸は全力で支える」と述べた<ref>[http://osaka.yomiuri.co.jp/tokusyu/h_osaka/20100223-OYO8T00480.htm 伊丹空港「廃止決議なら北急延伸支援」…知事、箕面市議と意見交換]{{リンク切れ|date=2011年9月}} - 読売新聞(関西)、2010年2月23日。2010年9月9日閲覧</ref>。
この間、箕面市は[[国土交通省]]との交渉を続けており、2010年末頃、補助率の高い[[社会資本#社会資本整備総合交付金|社会資本整備総合交付金]]を延伸事業に導入することが認められた。これを受け、2012年(平成24年)3月には箕面市・北大阪急行電鉄・大阪府・阪急電鉄の4者で「北大阪急行線の延伸に係る事業調査に関する覚書」を締結し、社会資本整備総合交付金を活用して共同で本格的な事業調査を開始することとなった<ref>[http://blog.goo.ne.jp/butyoublog/e/d95dcfee064e65fc63adfdd2ea1cfa5c 北急延伸 現地調査・基本設計に着手!] - 箕面市部長ブログ(地域創造部長)2012年5月24日</ref>。2013年12月、箕面市長倉田哲郎との間で延伸事業化の協議が進んでいることを当時の大阪府知事[[松井一郎]]が公表した<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASF0OSK201312190002.html 北大阪急行延伸、年度内合意へ] - 朝日新聞、2013年12月19日</ref>。
2014年(平成26年)3月31日には、延伸に向けた正式な事業化について大阪府・箕面市・北大阪急行電鉄・阪急電鉄の4者で基本的合意を締結し<ref>{{PDFlink|[http://www.kita-kyu.co.jp/upload/022._1.pdf 北大阪急行線の延伸に関する基本合意について]}} - 北大阪急行電鉄、2014年3月31日</ref>、開業目標を2020年度(この時点)とする北大阪急行線の延伸が実現へ向けて動き出した<ref name="minoo" />。この延伸の準備で所要車両数を増加させる必要もあり、北大阪急行電鉄では2014年より9000形を投入している。
2015年(平成27年)12月1日、国土交通省の運輸審議会は北大阪急行電鉄から出されていた延伸区間の軌道[[特許 (行政法)|特許]]申請につき、「軌道法上問題となる点は認められないこと、利害関係人の異議申し立てがなされ又は予想されるような案件ではないこと」を確認したと発表し、事業化に近づいたと報じられた<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/unyu00_hh_000120.html 北大阪急行電鉄株式会社からの南北線延伸線に係る軌道事業の特許申請事案に関する国土交通省設置法第15条第3項の規定に該当する事案としての認定について] - 国土交通省(2015年12月1日)</ref><ref>[http://trafficnews.jp/post/46438/ 北大阪急行、延伸へ前進 箕面方面〜大阪都心のアクセス向上] - 乗りものニュース2015年12月2日</ref>。
同年12月25日、大阪府箕面市方面、新箕面(当時の仮称。後の箕面萱野)駅までの延伸計画について、[[国土交通大臣]]から千里中央 - 箕面船場(当時の仮称。後の箕面船場阪大前)間の第一種鉄道事業の許可と箕面船場(後の箕面船場阪大前) - 新箕面(後の箕面萱野)間の軌道事業の特許を受け<ref name="kita-kyu20151225">{{Cite press release|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/040.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210129170032/https://www.kita-kyu.co.jp/upload/040.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄南北線延伸線の「第一種鉄道事業の許可」、「軌道事業の特許」を取得しました|publisher=北大阪急行電鉄|date=2015-12-25|accessdate=2021-01-29|archivedate=2021-01-29}}</ref><ref>[http://response.jp/article/2015/12/25/266839.html 国交相、北大阪急行電鉄の延伸事業を許可…2020年度に箕面へ] - レスポンス、2015年12月25日</ref>、2017年(平成29年)1月19日に着工した<ref name="2017-1-29Asahi">{{cite news|url=http://www.asahi.com/sp/articles/ASK1K6FQVK1KPPTB00J.html |title=北大阪急行延伸へ起工式 建設費600億円、新駅二つ |newspaper=朝日新聞デジタル|date=2017-01-19|accessdate=2017-01-19}}</ref><ref name="response20170521" />。
箕面船場 - 新箕面間を軌道法による軌道としたのは、新御堂筋を通ることから一般[[国道423号]]の整備の名目として建設されるからである。
2018年(平成30年)6月5日、新設2駅の駅名案が発表され<ref name="minoh20180605" />、仮称を箕面船場駅としていた中間駅を「箕面船場阪大前駅」、新箕面駅としていた終点駅を「箕面萱野駅」に駅名案の通り決定した<ref name="kitakyu20180724" />。
2019年(令和元年)5月7日には、用地買収の遅れや工事中に見つかったコンクリート壁・土留壁の除去などによる工程見直しを理由に、開業時期を当初目標の2020年度から2023年(令和5年)度中へ延期すると発表された<ref name="nikkei20190507">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44498830X00C19A5AC8000/ 北大阪急行延伸、3年延期 設計や工程見直し] - 日本経済新聞、2019年5月7日</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-07 |url=https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190507/0015243.html |title=北大阪急行延伸 目標3年延期へ |website=NHK NEWS WEB |work=関西 NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |access-date=2022-09-18 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190507164223/https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20190507/0015243.html |archive-date=2019-05-07}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kita-kyu.co.jp/upload/109.pdf 北大阪急行線延伸事業の開業目標見直しについて]}} - 箕面市・北大阪急行電鉄、2019年5月7日</ref><ref>[https://www.city.minoh.lg.jp/kitakyu/enki/mokuhyouminaosi.html 北大阪急行線延伸事業の開業目標を見直しました] - 箕面市、2019年5月8日</ref>。2022年(令和4年)8月25日、開業時期が2023年度末(令和5年度末)になることが発表された<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/181.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220826012627/https://www.kita-kyu.co.jp/upload/181.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北大阪急行電鉄南北線延伸線(千里中央駅〜箕面萱野駅)を『2023年度末(令和5年度末)に開業』します|publisher=箕面市/北大阪急行電鉄|date=2022-08-25|accessdate=2022-08-26|archivedate=2022-08-26}}</ref>。2023年(令和5年)8月23日、開業日が2024年(令和6年)3月23日になることが発表された<ref name="延伸開業日" />。
=== その他 ===
沿線開発については、箕面船場阪大前駅付近への誘致活動が行われていた[[国立循環器病研究センター]]は、当地には建設されないことになった。その後、箕面市と大阪大学は「関西スポーツ科学・ヘルスケア総合センター(仮称)構想」を公表<ref>[https://www.city.minoh.lg.jp/machidukuri/houdou/sportshealthcare.html 「関西スポーツ科学・ヘルスケア総合センター(仮称)」関係者連絡協議会の発足について〜北大阪急行線の新駅(箕面船場駅)拠点整備をめざして〜] - 箕面市報道資料</ref> し、検討を進めている。
== 駅一覧 ==
=== 営業中の区間 ===
* 全駅[[大阪府]]内に所在。
* 駅番号順に記述。正式には江坂駅が起点。駅番号は相互直通運転する御堂筋線との通し番号となる。
<!-- 所在地は電話帳記載のものを基準とした。 -->
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|-
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!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1a3d;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ed1a3d;"|営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #ed1a3d;"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #ed1a3d;"|所在地
|-
!M08
|[[千里中央駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[大阪モノレール]]:[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線(本線)]] (15)
|style="white-space:nowrap;"|[[豊中市]]
|-
!M09
|[[桃山台駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|2.0
|
|[[吹田市]]
|-
!M10
|[[緑地公園駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|4.0
|
|豊中市
|-
!M11
|[[江坂駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|5.9
|[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[中百舌鳥駅]]まで直通運転)
|吹田市
|}
豊中市と吹田市を交互に行き交うのは両市の市境の屈曲のため<ref group="注釈">もともとは豊中市の千里中央と吹田市の桃山台が旧[[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[新田村 (大阪府)|新田村]]、豊中市の緑地公園は旧[[豊能郡]][[小曽根村]]、吹田市の江坂が旧[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]榎阪村→豊能郡[[豊津村 (大阪府)|豊津村]]だった。</ref>。北大阪急行電鉄南北線の線路はほぼ直線的である。
=== 延伸予定区間(南北線延伸線) ===
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|-
!style="width:3.5em;"|駅番号
!style="width:10em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間<br>キロ
!style="width:3em;"|江坂<br><small>からの</small><br>営業<br>キロ<br><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kita-kyu.co.jp/upload/199.pdf |title=北大阪急行電鉄南北線延伸線の運賃認可申請について |access-date=2023-06-11 |publisher=北大阪急行}}</ref>
!接続路線
!所在地
|-
!M08
|千里中央駅
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|5.9
|大阪モノレール:大阪モノレール線(本線)(15)
|豊中市
|-
!
|[[箕面船場阪大前駅]]
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|
| rowspan="2" |[[箕面市]]
|-
!
|[[箕面萱野駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|8.4
|
|}
=== 廃止区間(会場線) ===
(分岐点) - 千里中央駅 - [[万国博中央口駅]]
* 路線免許は閉幕日の翌々日を以って失効するとされており、万博輸送のためだけに存在した路線であった。
* 線路跡地は[[中国自動車道]]として利用されている(「[[#歴史|歴史]]」節を参照)。
* 当時の千里中央駅は仮設。分岐点は桃山台駅 - 千里中央駅間の千里中央駅に進入するトンネルの途中にあった。現在でも分岐していく会場線跡のトンネルを車窓から見ることができる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=北大阪急行50年史|publisher=北大阪急行電鉄|date=2018-04|ref=50th}}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.kita-kyu.co.jp/traffic/ 路線図・各駅情報|北大阪急行電鉄株式会社]
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[[Category:近畿地方の鉄道路線|なんほくせん]]
[[Category:北大阪急行電鉄|路なんほくせん]]
[[Category:部分廃止路線]]
[[Category:大阪府の交通]]
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2003-09-12T18:47:08Z
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16,447 |
中つ国
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中つ国(なかつくに)とは、中間の国、中央の国を意味し、「つ」は、上代日本語の格助詞で、現代語の「の」に相当する。中津国、中国とも書く。
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中つ国(なかつくに)とは、中間の国、中央の国を意味し、「つ」は、上代日本語の格助詞で、現代語の「の」に相当する。中津国、中国とも書く。
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'''中つ国'''(なかつくに)とは、中間の国、中央の国を意味し、「[[つ (格助詞)|つ]]」は、[[上代日本語]]の格助詞で、現代語の「の」に相当する。'''中津国'''、'''中国'''とも書く。
==一覧==
*[[葦原中国]] - [[日本神話]]における地上世界、[[高天原]]と[[黄泉]]の国の間。転じて[[日本]]の国土。
*[[ミズガルズ]] - [[北欧神話]]に登場する地名。[[ユグドラシル]]の中央周辺にある。「中つ国」と日本語で訳される。
*[[中つ国 (トールキン)]] - 『[[指輪物語]]』など、[[J・R・R・トールキン]]が書いた[[ファンタジー]]小説の舞台の大陸の呼称「ミドルアース{{Enlink|Middle-earth}}」の邦訳。
== 関連項目 ==
*[[中国 (曖昧さ回避)]]
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不死鳥
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不死鳥(ふしちょう)
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'''不死鳥'''(ふしちょう)
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== 関連項目 ==
* [[フェニックス]]
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16,452 |
スティーブン (イングランド王)
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スティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。
フランス貴族であるブロワ伯エティエンヌ2世と、イングランド王兼ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)の娘アデルの間の息子の1人として生まれた。フランスでの名前はエティエンヌ・ド・ブロワ(Étienne de Blois)である。
幼年期は母方の叔父であるイングランド王ヘンリー1世の宮廷で育てられ、1120年のホワイトシップの遭難では従弟のウィリアム・アデリンと一緒にホワイトシップ号に乗船する予定だったが、直前に病気になったため同行出来ず難を逃れた。以後も叔父に可愛がられ、1125年には叔父の計らいでブローニュ伯ウスタシュ3世の娘マティルド(英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄ティボー4世(シャンパーニュ伯としてはティボー2世)が継承している。
1人息子ウィリアム・アデリンを失ったヘンリー1世には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に嫁いでいた娘でウィリアムの姉マティルダ(モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを1125年に呼び戻して王位継承者とし、1128年にはノルマンディーに隣接するアンジュー伯フルク5世の息子ジョフロワ4世と結婚させていた。この間ヘンリー1世は王族・貴族たちとマティルダへの王位継承を認める誓約を交わしたが、スティーブンも誓約した王族の1人で1126年・1127年に誓約した(他にはヘンリー1世の庶子でマティルダの異母兄のグロスター伯ロバート、マティルダの母方の叔父に当たるスコットランド王デイヴィッド1世もいた)。
ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の臣下たちの意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランス・ブローニュからイングランドへ上陸してロンドンに入ると、ロンドン市民と自らの弟・ウィンチェスター司教(英語版)ヘンリー(英語版)にカンタベリー大司教ウィリアム・ド・コルベイユ(英語版)を説得させ、教会主要人物からも王位継承を承認させ、彼らの推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)。
はじめ安定するかに見えた治世は、マティルダ派の巻き返しによって次第に混乱していった。1136年にはスコットランド王デイヴィッド1世がマティルダの加勢と称して北イングランドへ侵攻、同年にウェールズでもオワイン・グウィネズが反乱を起こした。スティーブンはウェールズの反乱に対応出来ず放置、スコットランドには譲歩を重ね、1136年の第1次ダラム条約(英語版)と1139年の第2次ダラム条約(英語版)でイングランドは北部ノーサンブリアのほとんどを失った。
スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、従妹マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求しローマ教皇庁へ訴えたが、スティーブンが聖職者層に譲歩して支持を取り付けていたため、教皇庁はマティルダの訴えに取り合わなかった。一方、スティーブンは有力者たち(賢人会議)による推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張するという事態の解決は、マティルダの息子ヘンリー2世の登場を待たねばならなかった。
スティーブンの治世を3期に分けると、第1期は即位した1135年から1139年までで、この頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のため臣下の者たちにばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、彼らの不信と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。1139年から10年間の第2期はマティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。1141年2月にスティーブンはマティルダ派のグロスター伯との第一次リンカーンの戦い(英語版)に敗れて捕虜となったが、マティルダ派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブン王妃マティルドが奮戦してグロスター伯を捕らえ、スティーブンはグロスター伯との捕虜交換でその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。第3期は1140年代末から始まり、1147年のグロスター伯の死去で翌1148年にマティルダがルーアンに戻り、1151年のアンジュー伯の死去でマティルダ派が凋落した。
厭戦気分が漂い始めた1153年に転機が訪れ、1月にマティルダの息子アンジュー伯アンリ(後にイングランド王ヘンリー2世)がイングランドに上陸、西部を平定してロンドンへ迫った。対するスティーブンは1152年に王妃を、1153年8月に長男のブローニュ伯ウスタシュ4世(英名ユースタス)を失い意気消沈、マティルダ派との話し合いに応じた。ウィンチェスター司教ヘンリーとカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベック(英語版)の仲裁で11月6日にアンリとの間に和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを後継者に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子にはウスタシュの弟の次男ギヨーム(ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた。
和睦後は双方の傭兵解散、地方貴族が勝手に築いた城(違法城砦(英語版))の破壊、一部貴族の反乱討伐などに奔走したが、1154年10月25日にドーバーで死去。協定の通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。遺体は自身が建立に携わり、妻と長男が眠るケントのフェヴァーシャム修道院に埋葬された。
ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が1159年に亡くなると娘のマリーが相続、フランドル伯ティエリー・ダルザスの長男マチューと結婚するが、1170年に離婚、ブローニュはマチューに奪われる形となった。所領は失ったが、孫娘マティルドがブラバント公アンリ1世に嫁ぎ、その子孫はホラント伯、エノー伯となった。イングランド王エドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノーはエノー伯家の出身である。
マティルド(マティルダ、1103年/1105年? - 1152年)との間に3男2女をもうけた。
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"text": "スティーブン(Stephen, 1096年頃 - 1154年10月25日)は、ブロワ朝唯一のイングランド王(在位:1135年 - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、無政府時代(The Anarchy)と呼ばれた。",
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"text": "フランス貴族であるブロワ伯エティエンヌ2世と、イングランド王兼ノルマンディー公ウィリアム1世(征服王)の娘アデルの間の息子の1人として生まれた。フランスでの名前はエティエンヌ・ド・ブロワ(Étienne de Blois)である。",
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"text": "幼年期は母方の叔父であるイングランド王ヘンリー1世の宮廷で育てられ、1120年のホワイトシップの遭難では従弟のウィリアム・アデリンと一緒にホワイトシップ号に乗船する予定だったが、直前に病気になったため同行出来ず難を逃れた。以後も叔父に可愛がられ、1125年には叔父の計らいでブローニュ伯ウスタシュ3世の娘マティルド(英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した。ブロワ伯は兄ティボー4世(シャンパーニュ伯としてはティボー2世)が継承している。",
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スティーブンは、ブロワ朝唯一のイングランド王。その治世は内戦が収まらず、無政府時代と呼ばれた。
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'''スティーブン'''('''Stephen''', [[1096年]]頃 - [[1154年]][[10月25日]])は、[[ブロワ家|ブロワ朝]]唯一の[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]](在位:[[1135年]] - 1154年)。その治世は内戦が収まらず、[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]](The Anarchy)と呼ばれた。{{基礎情報 君主
| 人名 = スティーブン
| 君主号 = [[イングランド君主一覧|イングランド国王]]
| 画像 = Stepan Blois.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = スティーブン
| 在位 = [[1135年]][[12月22日]] - [[1154年]][[10月25日]]
| 戴冠日 = [[1135年]][[12月22日]]
| 別号 = [[ノルマンディー公]]<br>ブローニュ伯
| 全名 =
| 出生日 = [[1092年]]?[[1096年]]?
| 生地 = [[フランス王国]] [[ブロワ]]
| 死亡日 = [[1154年]][[10月25日]]
| 没地 = [[イングランド]] [[ドーバー]] [[ケント]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = [[フェヴァーシャム修道院]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[マティルド・ド・ブローニュ]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]]<br>[[マリー・ド・ブローニュ|マリー]]<br>[[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]]<br>ジェルヴァシス<br>ラルフ<br>アマルリック
| 王家 = [[ブロワ朝|ブロワ家]]
| 王朝 = [[ブロワ家|ブロワ朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[エティエンヌ2世 (ブロワ伯) |エティエンヌ2世]]
| 母親 = [[アデル・ド・ノルマンディー]]
| 各国語表記 = Stephen
}}
== 生涯 ==
=== 即位前 ===
[[フランス王国|フランス]]貴族である[[ブロワ伯]][[エティエンヌ2世 (ブロワ伯)|エティエンヌ2世]]と、イングランド王兼[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]][[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)の娘[[アデル・ド・ノルマンディー|アデル]]の間の息子の1人として生まれた。フランスでの名前は'''エティエンヌ・ド・ブロワ'''(Étienne de Blois)である。
幼年期は母方の叔父であるイングランド王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の宮廷で育てられ、[[1120年]]の[[ホワイトシップの遭難]]では従弟の[[ウィリアム・アデリン]]と一緒にホワイトシップ号に乗船する予定だったが、直前に病気になったため同行出来ず難を逃れた。以後も叔父に可愛がられ、[[1125年]]には叔父の計らいで[[ブローニュ伯]][[ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ3世]]の娘[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]](英名マティルダ)と結婚し、ブローニュ伯位を継承した<ref name="松村716">松村、P716。</ref><ref name="森37-38">森、P37 - P38。</ref>。ブロワ伯は兄[[ティボー4世 (ブロワ伯)|ティボー4世]]([[シャンパーニュ伯]]としてはティボー2世)が継承している。
1人息子ウィリアム・アデリンを失ったヘンリー1世には、[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]に嫁いでいた娘でウィリアムの姉[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]](モードは愛称)が唯一の嫡出子となった。そのため、夫と死別したマティルダを1125年に呼び戻して王位継承者とし、[[1128年]]にはノルマンディーに隣接する[[アンジュー]][[アンジューの領主一覧|伯]][[フルク5世]]の息子[[ジョフロワ4世]]と結婚させていた。この間ヘンリー1世は王族・貴族たちとマティルダへの王位継承を認める誓約を交わしたが、スティーブンも誓約した王族の1人で[[1126年]]・[[1127年]]に誓約した(他にはヘンリー1世の庶子でマティルダの異母兄のグロスター伯[[ロバート (初代グロスター伯)|ロバート]]、マティルダの母方の叔父に当たる[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]もいた)<ref>君塚、P54 - P56。</ref>。
ところがヘンリー1世が1135年に死ぬと、スティーブンはヘンリー1世の生前の取り決めや先王の臣下たちの意向にもかかわらず、強引に家臣を率いて所領のフランス・ブローニュからイングランドへ上陸して[[ロンドン]]に入ると、ロンドン市民と自らの弟・{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester|label=ウィンチェスター司教}}{{仮リンク|ヘンリー・オブ・ブロワ|en|Henry of Blois|label=ヘンリー}}に[[カンタベリー大司教]]{{仮リンク|ウィリアム・ド・コルベイユ|en|William de Corbeil}}を説得させ、教会主要人物からも王位継承を承認させ、彼らの推戴を受けてイングランド王に即位した(王の宝物庫の管理はウィンチェスター司教が行っていたので、対マティルダ戦の軍資金には事欠かなかった)<ref name="松村716"></ref><ref name="森37-38"></ref><ref>青山、P225 - P226、ペルヌー、P106 - P107、ルゴエレル、P31、君塚、P56 - P58。</ref>。
=== 無政府時代 ===
[[File:Battle of Lincoln 1141.jpg|thumb|リンカーンの戦い(1141年);A - ウェールズ軍;B - グロスター伯ロバート;C - アラン黒伯;D - スティーブン王;E - ウィリアム;F - フォス・ダイク;G - リンカーン城;H - リンカーン大聖堂;I - リンカーンの街;J - ウィザム川]]
はじめ安定するかに見えた治世は、マティルダ派の巻き返しによって次第に混乱していった。[[1136年]]にはスコットランド王デイヴィッド1世がマティルダの加勢と称して北イングランドへ侵攻、同年に[[ウェールズ]]でも[[オワイン・グウィネズ]]が反乱を起こした。スティーブンはウェールズの反乱に対応出来ず放置、スコットランドには譲歩を重ね、1136年の{{仮リンク|ダラム条約 (1136年)|en|Treaty of Durham (1136)|label=第1次ダラム条約}}と[[1139年]]の{{仮リンク|ダラム条約 (1139年)|en|Treaty of Durham (1139)|label=第2次ダラム条約}}でイングランドは北部ノーサンブリアのほとんどを失った<ref>青山、P304、P332 - P333、君塚、P60。</ref>。
スティーブンの弱点は、生前のヘンリー1世に対して2度も、従妹マティルダを王位継承者として受け入れ推戴する旨を宣誓していたことである。マティルダは世襲の権利に基いて王位を請求し[[ローマ教皇庁]]へ訴えたが、スティーブンが聖職者層に譲歩して支持を取り付けていたため、教皇庁はマティルダの訴えに取り合わなかった。一方、スティーブンは有力者たち([[賢人会議]])による推戴を王位の根拠にしていたが、この時期までの王位継承にはその両者が必要とされ、それぞれが一方を根拠に王位を主張するという事態の解決は、マティルダの息子[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]の登場を待たねばならなかった<ref>青山、P226 - P227、君塚、P59。</ref>。
スティーブンの治世を3期に分けると、第1期は即位した1135年から[[1139年]]までで、この頃までは国土の統治に一定の成功を収めていた。ただし、王位承認のため臣下の者たちにばら撒いた特権・領地・称号・年金授与などが相互に矛盾し、彼らの不信と叛乱を招くことになり、教会とも対立を深めた。1139年から10年間の第2期はマティルダ派の巻き返しにより、ノルマンディーをアンジュー伯に奪われ、イングランドでは秩序が全く失われた。[[1141年]]2月にスティーブンはマティルダ派のグロスター伯との{{仮リンク|第一次リンカーンの戦い|en|Battle of Lincoln (1141)}}に敗れて捕虜となったが、マティルダ派もそれ以上の決定的な勝利を得ることはなく、スティーブン王妃マティルドが奮戦してグロスター伯を捕らえ、スティーブンはグロスター伯との捕虜交換でその年のうちに釈放されて王位を保ち、両者は長い内戦を戦うようになる。第3期は[[1140年]]代末から始まり、[[1147年]]のグロスター伯の死去で翌[[1148年]]にマティルダが[[ルーアン]]に戻り、[[1151年]]のアンジュー伯の死去でマティルダ派が凋落した<ref name="松村716"></ref><ref>森、P39、青山、P227 - P228、ルゴエレル、P32 - P33、君塚、P60 - P63。</ref>。
=== 終結 ===
厭戦気分が漂い始めた[[1153年]]に転機が訪れ、1月にマティルダの息子[[ヘンリー2世 (イングランド王)|アンジュー伯アンリ]](後にイングランド王ヘンリー2世)がイングランドに上陸、西部を平定してロンドンへ迫った。対するスティーブンは[[1152年]]に王妃を、1153年8月に長男のブローニュ伯[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]](英名ユースタス)を失い意気消沈、マティルダ派との話し合いに応じた。ウィンチェスター司教ヘンリーとカンタベリー大司教{{仮リンク|シオボルド・オブ・ベック|en|Theobald of Bec}}の仲裁で[[11月6日]]にアンリとの間に和平協定([[ウォーリングフォード協定]]、ウィンチェスター協定とも)を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを後継者に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子にはウスタシュの弟の次男[[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位請求権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所領全てを保全する約束を取りつけた<ref name="松村716"></ref><ref>森、P39 - P40、青山、P228 - P229、ペルヌー、P118 - P120、ルゴエレル、P37 - P38、君塚、P63 - P64。</ref>。
和睦後は双方の傭兵解散、地方貴族が勝手に築いた城({{仮リンク|違法城砦|en|Adulterine castle}})の破壊、一部貴族の反乱討伐などに奔走したが、1154年10月25日に[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]で死去。協定の通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、[[プランタジネット朝]]が成立した。遺体は自身が建立に携わり、妻と長男が眠る[[ケント (イングランド)|ケント]]の[[フェヴァーシャム修道院]]に埋葬された<ref name="松村716"></ref><ref>森、P40、青山、P229、君塚、P64。</ref>。
=== 子孫 ===
ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が[[1159年]]に亡くなると娘の[[マリー・ド・ブローニュ|マリー]]が相続、[[フランドル伯]][[ティエリー・ダルザス]]の長男[[マチュー・ダルザス|マチュー]]と結婚するが、[[1170年]]に離婚、ブローニュはマチューに奪われる形となった。所領は失ったが、孫娘マティルドが[[ブラバント公]][[アンリ1世 (ブラバント公)|アンリ1世]]に嫁ぎ、その子孫は[[ホラント伯]]、[[エノー伯]]となった。イングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の王妃[[フィリッパ・オブ・エノー]]はエノー伯家の出身である。
== 子女 ==
[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド]](マティルダ、1103年/1105年? - 1152年)との間に3男2女をもうけた<ref>Weir、P53 - P55。</ref>。
* ボードゥアン(ボルドウィン、1126年頃 - 1135年) - [[ロンドン塔]]で死去し、アルドゲイト([[ロンドン]])のホーリー・トリニティ修道院に埋葬された。
* [[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]](ユースタス、1127/31年 - 1153年) - ブローニュ伯
* マオー(マティルダ、1133/34年 - 1137/41年) - ムーラン伯ワレラン・ド・ボーモンと結婚
* [[マリー・ド・ブローニュ|マリー]](メアリー、1136年頃 - 1182年) - ブローニュ女伯、[[フランドル伯]][[ティエリー・ダルザス]]の長男[[マチュー・ダルザス|マチュー]]と結婚。[[フィリッパ・オブ・エノー]]([[プランタジネット朝]]第7代[[エドワード3世]]の王妃)へ血を引く<ref>イングランド王スティーブン→マリー・ド・ブローニュ→マチルダ・ド・ブローニュ→マチルダ・ド・ブラバント→アデレード・オブ・ホラント→エノー伯ジャン2世→エノー伯ギヨーム1世→フィリッパ・オブ・エノー</ref>。
* [[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム]](ウィリアム、1137年頃 - 1159年) - ブローニュ伯、[[サリー伯爵|サリー伯]]
==系図==
{{イングランド王室ノルマン朝以降}}
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[青山吉信]]編『世界歴史大系 イギリス史1 -先史~中世-』[[山川出版社]]、1991年。
* [[レジーヌ・ペルヌー]]著、[[福本秀子]]訳『王妃アリエノール・ダキテーヌ』[[パピルス (出版社)|パピルス]]、1996年。
* [[アンリ・ルゴエレル]]著、福本秀子訳『プランタジネット家の人びと』[[白水社]]([[文庫クセジュ]])、2000年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* Alison Weir, ''Britain's Royal Families'', Vintage, 2008.
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(上) <small>古代ブリテン島からエリザベス1世まで</small>』[[中央公論新社]]([[中公新書]])、2015年。
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Stephen of England}}
* [[エセックス伯]]
* [[ペンブルック伯]]
* [[ケント伯爵]]
* [[ペンブルック城]]
* [[オックスフォード城]]
* [[イングランド教会史]]
* [[修道士カドフェル]]
* [[大聖堂 (ケン・フォレットの小説)]] - 小説。登場人物の1人。{{先代次代|[[イングランド君主一覧|イングランド国王]]|[[1135年]] - [[1154年]]|[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]|[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]}}{{先代次代|[[ブローニュ伯]]|1128年 - 1151年<br>[[マティルド・ド・ブローニュ|マティルド1世]]と共同統治|[[ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ3世]]|[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]]}}
{{イングランド王|1135年 - 1154年}}
{{イングランド王、スコットランド王及び連合王国国王}}
{{ノルマンディー公|1135年 - 1144年}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すていふん}}
[[Category:12世紀ヨーロッパの君主]]
[[Category:12世紀フランスの人物]]
[[Category:12世紀イングランドの人物]]
[[Category:イングランドの君主]]
[[Category:ノルマンディー公]]
[[Category:ブローニュ伯]]
[[Category:モルタン伯]]
[[Category:ブロワ家]]
[[Category:1090年代生]]
[[Category:1154年没]]
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2023-12-27T13:34:57Z
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オワイン・グウィネズ
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オワイン・グウィネズ(Owain Gwynedd, 1100年以前 - 1170年11月28日)は、ウェールズのグゥイネッズの王(在位:1137年 - 1170年)で、ウェールズ公(羅: Princeps Walliae、ウェールズ語: Tywysog Cymru)を称した。オワイン・アプ・グリフィズ(Owain ap Gruffydd)とも言うが、彼の名前Owain(英語ではOwenと綴る)は日本語ではオーワイン、オエイン、オウェン、オワインなどと表記されることもある。大サウェリンと呼ばれるサウェリン・アプ・ヨルウェルスの祖父で、サウェリンの覇権の基礎を築いた人物として評価されている。
オワインの父、グリフィズ・アプ・カナンはグゥイネッズ(ウェールズ北部、スノードン山を中心とする地方)の強力かつ長命な支配者で、アングルシー島を根拠地に62年の長きに渡る治世を通じてウェールズに大きな影響力をふるった。オワインは兄弟とともに父を助け、1120年頃から盛んになるグゥイネッズの勢力拡大に活躍した。1135年に彼らはイングランドと戦って勝利を収めている。
1132年に長兄のカドゥアソン(英語版)が死ぬと、オワインは兄弟間の第一人者となった。1137年に父グリフィズが死去すると、既に40歳ほどのオワインはグゥイネッズを兄弟と分け合って継承するが、次第に兄弟を圧倒し、1143年からはウェールズ北部のほとんどと南部の主要な拠点を領有するに至った。イングランドでヘンリー2世が即位すると、オワインはイングランド王の宗主権を受け入れ、1163年には王への忠誠の誓いと引き換えにウェールズの統治者として承認された。しかし、ウェールズの教会に対するカンタベリー大司教の権威は拒否し、1165年のウェールズ蜂起にあたっては王の所有する城を攻撃してさえいる。
オワインは1170年11月に死去した。彼の死により、息子たちの間で内戦が勃発し、グゥイネッズはオワイン時代の繁栄を失ってしまった。グゥイネッズの更なる覇権はオワインの孫、大サウェリンの登場を待たねばならない。
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オワイン・グウィネズは、ウェールズのグゥイネッズの王で、ウェールズ公を称した。オワイン・アプ・グリフィズとも言うが、彼の名前Owain(英語ではOwenと綴る)は日本語ではオーワイン、オエイン、オウェン、オワインなどと表記されることもある。大サウェリンと呼ばれるサウェリン・アプ・ヨルウェルスの祖父で、サウェリンの覇権の基礎を築いた人物として評価されている。
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| 人名 = オーワイン・グゥイネッズ
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'''オワイン・グウィネズ'''('''Owain Gwynedd''', [[1100年]]以前 - [[1170年]][[11月28日]])は、[[ウェールズ]]の[[グゥイネッズ王国|グゥイネッズ]]の王(在位:[[1137年]] - [[1170年]])で、[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]]({{lang-la-short|Princeps Walliae}}、{{lang-cy| Tywysog Cymru}})を称した。'''オワイン・アプ・グリフィズ'''('''Owain ap Gruffydd''')とも言うが、彼の名前[[オーワイン|Owain]](英語では[[オーウェン|Owen]]と綴る)は日本語では'''[[オーワイン]]'''、'''オエイン'''、'''オウェン'''、'''オワイン'''などと表記されることもある。大サウェリンと呼ばれる[[サウェリン・アプ・ヨルウェルス]]の祖父で、サウェリンの覇権の基礎を築いた人物として評価されている。
== 生涯 ==
オワインの父、[[グリフィズ・アプ・カナン]]はグゥイネッズ(ウェールズ北部、[[スノードン山]]を中心とする地方)の強力かつ長命な支配者で、[[アングルシー島]]を根拠地に62年の長きに渡る治世を通じてウェールズに大きな影響力をふるった。オワインは兄弟とともに父を助け、[[1120年]]頃から盛んになるグゥイネッズの勢力拡大に活躍した。[[1135年]]に彼らは[[イングランド]]と戦って勝利を収めている。
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オワインは[[1170年]]11月に死去した。彼の死により、息子たちの間で内戦が勃発し、グゥイネッズはオワイン時代の繁栄を失ってしまった。グゥイネッズの更なる覇権はオワインの孫、大サウェリンの登場を待たねばならない。
== 関連項目 ==
* [[ウェールズの君主]]
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名鉄瀬戸線
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瀬戸線(せとせん)は、愛知県名古屋市東区の栄町駅から同県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。
本記事では、かつてこの路線を運営していた瀬戸自動鉄道→瀬戸電気鉄道(名古屋鉄道に合併)についても述べる。
名古屋中心部の栄にある栄町駅を起点とし、そこから東郊を経て瀬戸焼の産地である瀬戸市に達する近距離通勤路線である。大曽根駅 - 尾張瀬戸駅間では、ほぼ瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と矢田川に並行している。リニモや名鉄豊田線と同様に尾張丘陵を東西に進む路線であるが、両線と比べると地上を進む区間では勾配は比較的なだらかである。
名古屋市営地下鉄、名古屋ガイドウェイバス、東海旅客鉄道(JR東海)、愛知環状鉄道と接続しているが、名鉄の他路線とは接続していない孤立路線であることもあり、改札口前等の案内標識では「名鉄瀬戸線」と路線名かつ会社名入りで強調して表記されていることが多い。また瀬戸電気鉄道を前身としていることも相まって、名鉄の路線となった後も高齢の世代などからは瀬戸電(せとでん)と呼ばれることがある。
運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍。計算方法は名古屋鉄道#運賃を参照)。孤立路線ではあるものの、運賃体系は他の名鉄の路線と同様となっている。
すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。
孤立路線ということから、かつては瀬戸線各駅と名鉄の他線の間を地下鉄などで別途移動して乗り継ぐ場合、前後の名鉄線の営業キロを通算する特例が栄町駅 - 名鉄名古屋駅・金山駅間(地下鉄鶴舞線を経由して上小田井駅や赤池駅から名鉄線へ直通する場合を除く。大曽根駅からJR中央本線や地下鉄などで金山駅・名古屋駅へ向かった場合は瀬戸線の改札を出た時点で連絡乗車券が回収されていた)および大曽根駅 - 上飯田駅間(上飯田駅接続の場合は、瀬戸線各駅と小牧線、犬山線の犬山駅 - 新鵜沼駅間、各務原線、広見線及び八百津線〈2001年9月末まで〉の各駅相互間に限定。犬山駅から犬山線江南駅・岩倉駅方面へ向かった場合は下車駅で差額精算となっていた)に設けられていた(通過連絡運輸ではないため地下鉄などの他社線区間の運賃は含まれておらず、他社線分は別払いとなる。接続駅で連絡乗車券を自動改札機に入れても回収されなかった。乗車券は当日中に乗り継げば有効であった)。また栄町駅 - 東大手駅の間に建設費回収のための加算運賃が設定されていた。これらはともに、2006年(平成18年)12月16日のトランパス導入に合わせて廃止された(ただし営業キロの通算については、通学定期券のみ、その後に開業した西尾線南桜井駅利用の場合を除き、2009年(平成21年)12月15日購入分まで据え置かれて存続した)。 瀬戸線と近鉄線、あおなみ線、豊橋鉄道渥美線、愛知環状鉄道線、リニモなどとの連絡定期券は購入できない。ただし、あおなみ線は名古屋市営地下鉄経由で3社局連絡にすれば名古屋市交通局で購入可能(この場合各運賃が単純に合算されるために地下鉄とあおなみ線との間に連絡割引は適用されなくなる)で、豊橋鉄道市内線やゆとりーとライン高架区間はバスと同様に扱われるため瀬戸線の定期券と同一のmanacaに定期券情報を載せられる。
manacaを利用する場合の乗継割引は瀬戸線と他の名鉄各線との間には適用されない(名鉄バスとは最初に乗車してから90分以内に次の交通機関に乗り継げば乗継割引が適用される)。
孤立路線であることから、本線系各駅周辺(犬山・知多半島・三河地方各地など)を目的地とする企画乗車券については瀬戸線各駅を発駅とするものが設定されていないことが多い(1DAYフリーきっぷとセットのものを除く)。
瀬戸においては古くから窯業(瀬戸焼)が盛んであり、貨物輸送の需要は高く、鉄道の敷設は悲願であった。しかし、明治20年代に当時国が整備を進めていた中央本線の誘致に失敗してしまう。ただ、地元により鉄道を敷設すれば、接続点として中央本線に大曽根駅を開設するとの国の意向を取り付けたため、瀬戸 - 大曽根間の鉄道敷設の気運が高まった。
その結果、主に加藤杢左衛門 を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、1905年(明治38年)4月2日、瀬戸自動鉄道として開業した。現在の名鉄の路線の中では、尾西線に次ぐ早期の開業であった。しかし、開業時においては、矢田川を渡る橋の架橋工事が困難をきわめ、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)沿いの瀬戸駅(現在の尾張瀬戸駅) - 矢田駅間14.6kmの開業となった。翌1906年(明治39年)には大曽根駅まで開業する。ただし、中央本線大曽根駅の開業は後述の「外濠線」が開業する1911年(明治44年)まで待たなければならなかった。
開業当初は非電化で、セルポレー式蒸気動車で運行していた。これが日本初の気動車運行である(「日本の気動車史」も参照)。この蒸気動車は車両ごとにそれぞれA・B・C号と称し、瀬戸駅 - 矢田駅間を1時間半近くかけて走破していた。本数は1日わずか4往復であった。しかし、上り坂で動けなくなるなどの故障が続出したため、1906年(明治39年)に社名を瀬戸電気鉄道と変更し、翌1907年(明治40年)には全線を電化して電車の運転を開始した。ただし、当時は電力会社の名古屋電灯が夜間の電力需要に対応するべく毎日午後6時以降の電力供給を停止していたので、1910年(明治43年)に後に開業する喜多山駅の東側にあたる場所に自家発電所として火力発電所(2008年に解体撤去)が設けられるまでは、蒸気動車も引き続き使われていた。
このような経緯で開業したにも拘らず、中央本線の大曽根駅はなかなか開業されなかった。そのため、名古屋都心部への乗り入れを並行して進める必要があった。名古屋都心部への乗り入れの計画としては、名古屋城の外堀を経路としてとる「外濠線」や車道沿いに新堀川に至る「車道線」などが計画されていた。これらのうち、瀬戸からの陶器など貨物を堀川を運航する貨物船へ積み替えるため、「外濠線」が建設されることとなった。
まず、1911年(明治44年)5月23日、大曽根駅 - 土居下駅間が開業した。この延伸区間は当時の名古屋市街地の北端に沿って敷設されたため、用地買収が安く済んだ。同じ年の9月には御園駅まで延伸した。この外濠区間はほとんど用地買収の必要がなかったが、名古屋城の外濠に線路を通すという特殊な条件から、ガントレットと呼ばれる単複線やサンチャインカーブと呼ばれる急カーブなど特殊な線形が採用された。この外濠を通る区間は「お濠電車」とも呼ばれ、その後長く親しまれた。これに先立つ同年4月9日には中央本線大曽根駅も開業しており、これにより、大曽根駅で中央本線へ、堀川で水運へとの連絡を実現し、瀬戸線は、名古屋や瀬戸の貨物輸送に大きな力を発揮するようになった。
このほか、開業当時には小牧線(大曽根 - 小牧間、1907年〈明治40年〉特許申請→1914年〈大正3年〉不許可)、龍泉寺線(小幡 - 龍泉寺 間、1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)、品野線(瀬戸 - 品野間、1912年〈明治45年〉特許申請→1912年〈大正元年〉取得)、瀬戸町内線(1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)などの新線建設が計画されていた(取得した特許はいずれも1916年〈大正5年〉に失効)。
瀬戸電気鉄道の本社は大曽根駅に設置され、1917年(大正6年)に建築された本社社屋は同駅の駅舎を兼ねたモダンな建物であり、名鉄合併後も後述する矢田駅 - 森下駅間の高架化事業の完成により解体されるまで駅舎として利用されていた。
名古屋市が市内の路面電車を買収し名古屋市電気局による全面市営化を進めていた1921年(大正10年)4月13日、軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更した。これに伴い、従来あった停留場を整理し、計29駅として整備した。
その後、瀬戸電は輸送力の増強と設備の近代化を図り、1929年(昭和4年)12月までに全線が複線化された。また開業以来、貨物輸送が収入の大きな割合を占めていたため、沿線の好況は瀬戸線の増収に結びついていった。
しかし、瀬戸市内の国鉄バス(岡多線)や瀬戸街道の民営バスなど沿線へのバス路線の拡張や昭和恐慌による瀬戸の窯業の不況のあおりなどを受けて、業績は急速に悪化した。日中戦争の長期化による鉄道輸送統制強化として国の陸上交通事業調整法の制定や行政指導もあって、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併による1935年(昭和10年)名古屋鉄道の誕生と機を一にして、1939年(昭和14年)、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併し、同社の瀬戸線となった。
第二次世界大戦中には、運行効率を上げるため、多くの駅が休止または廃止に追い込まれた。また、瀬戸市内の愛知航空機への工員輸送の強化を目的として、終戦直前の1945年(昭和20年)8月13日に森下駅付近を通る市電高岳線に乗り入れ、名古屋駅 - 尾張瀬戸駅間の直通運転が検討された。だが同月25日の運転開始を前に終戦を迎えたため未実施に終わった。
瀬戸線の路線施設はあまり空襲の被害を受けなかったため、太平洋戦争が終わると早期に運行が再開された。しかし、1948年(昭和23年)1月5日、大森駅(現:大森・金城学院前駅)東側で多数の初詣客を乗せた車両が横転するという脱線転覆事故が発生し、多数の死傷者が出る瀬戸線史上最悪の惨事となってしまう。
これを受けて、線形改良などの近代化が進められた。特に、輸送上のネックとなっていたお濠電車の特殊な区間を整備し、名古屋市の都心への乗り入れをいかに実現するかが最重要課題であった。そこで、名鉄は、名古屋市や戦災復興院などと名古屋市内の鉄道整備に関する協定を結び、それを受け、名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網が取りまとめられ、1950年(昭和25年)1月、都市計画決定がされた。その中で、瀬戸線は、4号線と大曽根駅で相互直通運転を行うものとされた。4号線は、水分橋駅(現、味鋺駅付近)で名鉄小牧線と相互直通運転を行い、大曽根駅を経由し、市役所裏駅(現、東大手駅付近)まで達する路線の計画で、市役所裏駅で、新川橋駅 - 石川町駅(現、石川橋付近)間を計画していた2号線と接続することになっていた。
この都市計画決定を踏まえ、大曽根駅 - 清水駅間は、1956年(昭和31年)、大曽根地区の戦災復興の土地区画整理の進捗に合わせて、名古屋市が鉄道用地として先行取得していた土地を譲り受け、社宮祠と駅前の両駅を廃止の上、全く新しく線路を敷設し直した(旧経路は、東区と北区の区界などとしてその痕跡を見ることができる)。
しかし、その後、建築資金の分担の問題などから、相互直通運転を前提とした整備計画は暗礁に乗り上げていった。1961年(昭和36年)には、都市交通審議会名古屋部会答申において見直しがなされた。この答申には、大曽根からの東方への延伸部分を八事、金山を結ぶ4号線として計画する一方(現在の名城線の環状化の原型)、市役所 - 大曽根間については、同答申の2号線(現在の名城線・名港線の原型となる計画)の一部としつつ、含みを持たせ瀬戸線の乗り入れについての結論は保留されていた。名古屋鉄道は、その後も2号線への瀬戸線の乗り入れについて、名古屋市と協議を続けた。しかし、市内の鉄道整備を独自に行おうとする姿勢の強い名古屋市とは折り合わず、結局この協議は、1965年(昭和40年)ころまでには、実質上頓挫してしまう(その結果、名古屋市側は、市役所 - 大曽根間を黒川駅経由の北側大回りの路線として、独自に建設することとし、第三軌条方式にした)。
地下鉄への乗り入れが断念された後の1966年(昭和41年)のダイヤ改正からは、輸送力強化の方策として、車両を大幅に更新するとともに、大津町駅 - 尾張瀬戸駅間で特急が設定された。
しかしその後、都心部への乗り換え駅として主に機能していた大津町駅が市電の廃止によってその機能を失い、1971年(昭和46年)までに、名古屋市は地下鉄名城線の栄駅 - 大曽根駅間を開通させた。そのため、名古屋都心部への乗客の多くが大曽根駅で乗り換えるようになった。
このような状況から、瀬戸線独自での都心部への乗り入れは急務となり、名鉄は1968年(昭和43年)、東大手駅 - 栄町間について独自に敷設する申請を行った。しかし、瀬戸線が独自に栄乗り入れを行えば、栄駅 - 大曽根駅間は地下鉄と競合することになることから、名古屋市と再度の協議が必要であった。協議の結果、1971年(昭和46年)12月、新三河鉄道時代から名鉄が保有していた八事 - 赤池間(現:地下鉄鶴舞線)の免許を名古屋市に譲渡し、その見返りとして、瀬戸線独自に栄への地下新線を建設する協定が、名古屋市と名鉄の間で締結された。名鉄は、栄までの路線免許を1972年(昭和47年)5月18日付で取得した。この新線建設計画と名古屋市内の他の部分の高架化計画に関して、瀬戸線は昭和47年の都市交通審議会答申において、他の地下鉄整備計画と並んで高速度鉄道9号線と位置付けられた(ただし、栄町駅 - 矢田駅間の整備終了後に出された平成4年運輸政策審議会答申「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」ではそのような位置付けはなくなっている)。
栄乗り入れ工事の起工式は1976年(昭和51年)1月30日に実施され、その工事開始に伴って土居下駅を仮設駅に移転し、堀川駅 - 土居下駅間は、同年2月14日から代替バスでの運行となった。また全線で昇圧工事も始まり、各駅のホームの嵩上げや4両編成に対応するための延伸工事が実施された。
1978年(昭和53年)になると貨物営業が廃止され、同年3月19日、架線電圧の1,500 Vへの昇圧が完了した。これに伴い新造車6600系の投入など、車両の全面的な更新が行われた。
そして同年8月20日、名鉄長年の悲願であった瀬戸線の都心乗り入れを果たした。都心乗り入れ区間の終着駅である栄の駅は、地下鉄と同じ栄とはせず、栄町とした。栄乗り入れにあたっては、テレビ塔周辺の久屋大通公園の整備も同時に行われ、栄町駅に接続するセントラルパーク地下街も開業した。
栄町乗り入れに伴い、従来の特急を急行に変更し、準急の停車駅を見直した上で、朝は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各12分間隔、日中は急行30分・普通15分間隔、夕方は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各15分間隔のダイヤとなった。栄乗り入れによって瀬戸線はドル箱路線に転じ、地価高騰に泣いていた名古屋市民の人口流出を後押ししただけでなく、大曽根駅一帯などの地域再開発を加速させる格好となった。
なお、栄町への乗り入れに伴い、建設費用回収のため栄町駅 - 東大手駅間内または同区間に跨って利用する場合はキロ程で算出された運賃に別途全乗車区間のキロ程に応じて大人の普通運賃の場合で40 - 60円を加える加算運賃の制度が導入された。加算運賃は1995年(平成7年)9月1日の運賃改定から一律30円(大人)に引き下げられ、その後2006年(平成18年)12月16日の運賃制度改定(前述)で廃止された。
矢田 - 大曽根間は、旧瀬戸街道(現在の矢田本通商店街)沿いの経路を通っていたが、ここは江戸時代の矢田川の河道に沿ったところでもあり、大雨が降ると中央本線のアンダークロス部分を中心に線路が浸水し、運行に支障が生じることがよくあった。また、大曽根駅北側の踏切は東大曽根六叉路交差点(現在は五叉路)のすぐ東側にあって、ラッシュ時の東大曽根交差点の道路の渋滞は深刻なものになっていた。そこで、大曽根駅周辺の瀬戸線の高架化整備が急がれ、周辺の土地区画整理事業の進捗とあいまって、1983年(昭和58年)に森下駅 - 矢田駅間が高架化された。これに伴い、瀬戸電気鉄道の本社として建設された大曽根駅駅舎は解体された。
1990年(平成2年)9月30日 には、国道19号と空港線(国道41号)を跨ぐ東大手駅 - 森下駅間が高架化された。これにより、両国道の渋滞の原因となっていた踏切が廃止された。また、車両の冷房化率が100%となった。
その後、尾張旭駅(1994年〈平成6年〉移転新築)、印場駅(1995年〈平成7年〉再開)、小幡駅(1999年〈平成11年〉改築)、尾張瀬戸駅(2001年〈平成13年〉移転新築)などの設備の改善が進められた。
2006年(平成18年)には駅集中管理システムが導入され、主要駅を除き多くの駅が大曽根駅から遠隔管理される無人駅となった。また、ストアードフェアシステムが導入され、全駅でトランパスが利用できるようになった。なおこれに際して、運賃制度にも変更が加えられている(前述)。
2007年(平成19年)6月30日には、戦後長く使用されてきた喜多山検車区が廃止され、尾張旭検車区が供用を開始した。併せて検車・保線業務については、入換・牽引用電気機関車や貨車を全廃し、機械扱いの機材への置き換えが行われた。
2008年(平成20年)、4000系の導入 が開始され、1,500 V昇圧以来30年ぶりに、車両の全面的な更新が始まった。
現在、検車区廃止後の喜多山駅の高架駅化と、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と環状2号(国道302号)上の踏切の立体化を中心とした小幡 - 大森・金城学院前間(1.9 km)の高架化事業が進捗中である。当初は2013年(平成25年)度末(2014年3月)の完成を目指していたが、同年度末になっても工事の第1段階である仮道の整備もできていない状態で工事は進んでおらず、2023年(令和5年)度まで事業が延長されている。
急行・準急・普通の3種別の列車が運転されているが、喜多山駅を除いて途中に待避設備がないため平行ダイヤとなっており、追い抜きは行われず、先発列車が先着する(栄町駅ではその旨の掲示が発車案内板に表示されている。上り急行が尾張旭駅で始発の普通列車に直接接続することはある)。普通列車の全区間所要時間は40分前後で、急行との差は10分程度である。下りは2016年以降(ただし2022年現在工事の支障になるため待避線は使用停止中)、上りは2022年以降喜多山駅で緩急接続が可能であるが、通常は行われない。
ワンマン運転は行われていないが、車内放送は、自動放送になっている。
定期列車は全日の初電の喜多山駅発尾張瀬戸駅行き、平日朝の尾張旭駅発尾張瀬戸駅行き下り各1本を除き全て栄町駅を発着する。「せともの祭り」などでまれに尾張瀬戸駅発尾張旭駅行きの臨時普通列車(一部は回送列車を特別に客扱いする。2016年〈平成28年〉までは喜多山駅行きの普通列車も運転されていた)が運転されることがある。方向幕は「三郷」も表示できるが、通常は使用されない。
現在列車はすべて4両固定編成であるが、一部の駅(栄町・大曽根・小幡・喜多山(上り)・印場・尾張旭・尾張瀬戸)では将来の増結を考慮し、6両編成に対応した有効長のホームを有する。先の高架化により、喜多山駅(下り)についても6両編成対応になる予定である。車両規格はほぼ統一されているものの、可動式ホーム柵や女性専用車両は導入されていない。
瀬戸線ではミューチケットが必要な特別車(座席指定車両)連結列車は運行されていないが、有人駅の窓口で特別車が運行されている路線のミューチケットを購入することが可能である。
急行は概ね10時までと15時以降の運転。現行ダイヤでは日中は普通のみの運転。
早朝(栄町駅を午前6時台に発着する列車)は両方向とも普通のみの運転である。
平日の朝は、栄町方面の朝7時から8時までにおいては、尾張旭駅 - 栄町駅間は、最短運転時隔で3分、その他は4分間隔で走る高密度ダイヤになっている。待避設備を通常使わないこともあって、栄町方面には、急行などの優等列車が設定できず、普通のみの運用となっている。尾張瀬戸方面は準急と普通が交互に走り、普通の大半(2023年3月までは準急1本も)が尾張旭折り返しになる。また、三郷駅始発の普通栄町行きが3本設定されている(三郷駅には留置線や渡り線などがないため全て尾張瀬戸駅から回送されてくる)。
昼間時間帯では、平日・休日問わず概ね10時台から14時台まで普通のみが毎時6本、約10分間隔で運転されている。15時台以降は、これに準急と急行が毎時各2本加わり、普通4本のうち2本が尾張旭駅折り返しとなる。尾張旭折り返しの普通と急行は尾張旭駅で連絡している。
10時台から14時台の急行は、2021年5月22日のダイヤ改正により運転が取り止めとなり、尾張旭駅折り返しの普通列車の運転区間を尾張瀬戸駅まで延長することとなった(2021年10月30日のダイヤ改正により当該時間帯の準急は普通に格下げされた)。このため、急行の運転がない時間帯は優等種別が停車する駅でも15分間隔となる部分があった。また、この改正で土休日に喜多山駅の待避線で日中留置される運用が登場した(栄町駅から回送で喜多山駅に到着したあと、夕方に尾張旭駅へ回送され普通列車になる)。喜多山駅待避線での土休日日中の車両留置は2022年3月をもって無くなり、喜多山駅上り留置線での留置に変更されている。
平日の夕ラッシュ時間帯にはすべての列車が栄町駅 - 尾張瀬戸駅間の通し運転となり、優等列車の種別が、尾張瀬戸方面はすべて準急、栄町方面はすべて急行となる。
平日夜間21時以降と休日夜間19時以降は、一部を除いて普通のみの運用となっている。この時間帯は尾張瀬戸駅発の定期回送列車も尾張旭駅まで数本運行されている。
栄町駅 - 喜多山駅間の区間列車はかつて数多くあり、栄町乗り入れからしばらくは、普通を栄町駅 - 喜多山駅間の区間運用とし、急行停車駅を除き、名古屋市内の駅は普通、尾張旭・瀬戸両市内の駅は準急という運用が行われていた。検車区が尾張旭に移転した後は始発と最終列車に限られたものとなっている。また、平日のみ8時台に喜多山駅終着・始発の普通が1本設定されている。最終の喜多山行きは尾張旭駅へ回送されずにそのまま夜間滞泊となり、翌日の初電となって尾張瀬戸駅へ向かう。
1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線は名鉄で唯一準急が走る路線だった。2005年(平成17年)のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅が急行停車駅となったため、急行と準急では印場駅と旭前駅に停車するか否かの違いしかない。名古屋本線などとは異なり、瀬戸線内で急行や準急の特別停車や途中駅からの種別変更は行われていない(名鉄ハイキング開催時は印場駅や旭前駅などに急行が臨時停車することがある。2004年まではせともの祭り開催時に水野駅に急行が臨時停車したことがある)。
曲線区間が多いことなどから、急行といえども平常ダイヤ時の実質的な最高速度は尼ヶ坂駅 - 大曽根駅間、守山自衛隊前駅 - 小幡駅間、印場駅 - 尾張旭駅間と三郷駅 - 水野駅間で85 km/h程度である。停車駅が増えているが、車両性能が向上しているため全区間の所要時間は30分前後と、600 V時代の1966年(昭和41年)から1977年(昭和52年)に運行されていた特急からほとんど変わっていない。
かつて準急は朝と夜のみに設定されていたが、2000年6月10日のダイヤ改正以降、日中にも設定され、平日の夕方ラッシュ帯の尾張瀬戸行き急行が準急に置き換えられるなど大幅に増えた。また日中の準急は栄町駅 - 尾張旭駅間の運転で、区間運転の準急が設定されたのはこの時が初めてである。2003年3月27日のダイヤ改正以降、日中も尾張瀬戸駅まで延長され、区間運転の準急は平日朝の栄町駅発1本のみである。この1本も2023年3月18日のダイヤ改正で廃止された。
先述の通り、日中の急行は尾張旭駅折り返しの普通と連絡している。2003年3月27日のダイヤ改正で日中の準急が尾張瀬戸駅まで延長され、普通毎時4本のうち2本が尾張旭駅折り返しになったが、下りは急行の前、上りは急行の後をそれぞれ走っているため、名古屋市内の急行通過駅と当時急行通過駅であった水野駅・瀬戸市役所前駅の間を行き来する場合、実質30分間隔となってしまった。このため、2005年1月29日のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅を急行停車駅とすることで、尾張旭駅のりかえで行き来できるようにしている。
瀬戸線の沿線はほとんど住宅地や市街地となっており、山林や田園地帯は多くない。全体的に平坦な地形を通っていることからトンネルは栄町地下トンネルのみである。大まかには以下のようになる。
起点の栄町駅は、名古屋市の繁華街栄地区にあり、地下街や地下鉄栄駅に隣接している。ここから東大手駅を過ぎるまでの約1.7kmは栄町地下トンネルを進む。地下で名古屋市営地下鉄名城線と並走し、同桜通線との交差地点には両地下鉄線の久屋大通駅があるが、栄町駅に近いため瀬戸線の駅は設けられていない。愛知県庁の直下付近で60km/h制限のS字カーブを切り名城線と別れてさらに東寄りになり、地下駅の東大手駅に着く。同駅の付近には愛知県庁・名古屋市役所を始めとする官庁街、名古屋医療センター、愛知県立明和高等学校などがあり、朝夕は通勤客と学生で賑わう。
東大手駅を出てすぐのところで地上に出て30パーミルの勾配で一気に高架に上がる。右へカーブして空港線(国道41号)と、名古屋高速1号楠線を乗り越えたところに清水駅がある。この辺りは名古屋台地の北端の崖下の低地であり、清水駅から尼ヶ坂駅を経て森下駅付近までは崖に沿うように進む。栄町トンネルを出てから大曽根駅の手前までは側道に桜が植えられており、桜のシーズンには列車の両側に桜を見ながら進む。国道19号を乗り越え森下駅、さらに左へカーブして大曽根駅に着く。
大曽根は古くから街道の合流点であり宿場町として栄えた町で、現在でも名古屋の繁華街・歓楽街の一つである。大曽根駅は大曽根地区の北東にあり、JR中央本線・名古屋市営地下鉄名城線・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)と乗り換えが可能な名古屋の交通の要衝の駅でもある。瀬戸方面から名鉄で来た後、同駅でJRに乗り換え金山・名古屋方面へ向かう客や地下鉄・市バスへの乗り換え客も多い。大曽根駅を過ぎると右へカーブしてJRを乗り越える。高架から降りて瀬戸街道を瀬戸線で唯一のトラス橋である矢田橋梁で乗り越えると矢田駅に着く。矢田駅は瀬戸線の駅では最も利用者が少ないが、ナゴヤドームまで900mであり、地下鉄が開業するまでは最寄り駅だったこともあり、現在でも瀬戸方面から同駅で下車してナゴヤドームへ向かう客が少なからず存在する。
矢田駅を過ぎるとすぐに瀬戸線最急で、現在は名鉄全線中最急でもあるカーブ(半径120m・制限速度35km/h)を通過後矢田川鉄橋を渡る。ここは瀬戸線の有名撮影地として知られ、瀬戸線でイベント列車が走るときは多くのカメラマンが集結する。橋を渡ると守山区に入り、ゆとりーとラインの高架をくぐると守山自衛隊前駅に着く。陸上自衛隊第10師団が駐屯する守山駐屯地はこの北側にあり、瀬戸線からも駐屯地の正門を見ることができる。この付近から終点の尾張瀬戸駅まではほとんど瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と並走する。なお守山自衛隊前駅周辺でも立体交差事業の構想がある。瓢箪山駅を過ぎると守山区役所に近く、橋上駅を持つ急行停車駅の小幡駅。準急はここから瀬戸方面は各駅停車となる。小幡駅を出ると左へカーブし瀬戸街道と交差する。この交点にある小幡5号踏切は自動車の交通量がかなり多く、朝ラッシュは列車の本数も多いためよく閉まり、開かずの踏切になっている。なお、踏切付近の線路はS字状にカーブしており、45 km/hの速度制限が掛かっている。踏切を抜けると瀬戸街道の北側を走り、喜多山駅に着く。喜多山駅には瀬戸線で唯一構内踏切が残っている。尾張旭検車区ができる前は同駅に隣接して車庫が設けられていたため現在も列車の運行上で重要な駅であり、乗務員の交代も行われている。また、喜多山駅周辺では単独立体交差事業が始まっており、同駅は高架駅となる予定である。喜多山駅を出ると環状2号(国道302号)と平面交差する(名古屋第二環状自動車道は同所で地下を通る)。度々渋滞が起こっているが高架化によってこの踏切も除去される予定である。さらに進むと大森・金城学院前駅に着く。同駅は瀬戸線で名古屋市内最後の駅であり、付近の金城学院大学の学生で賑わっている。大森・金城学院前駅を出ると尾張旭市に入り、東名高速道路の高架をくぐってすぐのところにあるのが印場駅。同駅は1944年に休止、その後廃止されていたが、1995年に復活した瀬戸線で最も新しい駅であり、旭労災病院や東尾張病院への通院者や付近からの通勤・通学での利用者がそこそこいる。印場の次は旭前駅。両駅間にあるカーブの85km/h制限は当線で最も高い速度制限である。旭前駅は愛知県立旭野高等学校の最寄り駅であり朝夕は高校生で賑わう。旭前駅を出て左側に城山公園やスカイワードあさひ、右側に尾張旭検車区が見えてきて尾張旭市の中心部に入ると、橋上駅舎を有する尾張旭駅に着く。
尾張旭駅は検車区を有し、栄町方面から来た普通列車の約半数が折り返す大きな駅である。急行はここから終点の尾張瀬戸駅まで各駅に停車する。かつては急行も停まらない無人駅で利用者が少なかったが、1995年に急行が停車するようになり利用者も大幅に増えている。尾張旭駅の次は愛知県森林公園に近い三郷駅。同駅は1977年まで特急も停車しており尾張旭市内では最も利用者が多く、現在も急行停車駅として多くの利用者で賑わっている。三郷駅を出ると瀬戸市に入り水野駅を経由し新瀬戸駅。新瀬戸は愛知環状鉄道の瀬戸市駅が隣接しており、乗り換える客や公立陶生病院への通院患者、付近からの通勤・通学などの利用者がそこそこいる。新瀬戸駅を出ると国道155号と平面交差し、間も無く瀬戸市役所前駅。瀬戸市役所前駅は公立陶生病院を越えてすぐのところに位置している。周辺は静かな住宅街となっており、利用者は少ない。瀬戸市役所前駅を出て国道155号と瀬戸川が右手に並ぶと間もなく終点の尾張瀬戸駅に着く。
瀬戸線は、名鉄の他の路線網と接続が無い孤立路線であること、駅間距離が短いこと、さらに、栄町駅 - 東大手駅間では地下を走るため、A - A基準を満たす地下鉄対応車両が必要となることなどから、瀬戸線専用として登場した特徴的な車両がいくつか存在する。1996年(平成8年)に3780系が全廃となって以降、瀬戸線では3ドアロングシートの通勤形車両のみが走っている。
新車両の導入や他線との車両の転属を行う場合にはトレーラーでの陸送が行われる。2008年度(平成20年度)より開始された4000系の導入に際しても、製造会社である日本車輌製造豊川製作所から尾張旭検車区まで、道路上をトレーラーで運ばれた。これに対して1978年(昭和53年)の1,500 V昇圧時など、大曽根駅が地上駅で中央本線との貨物連絡線があった頃は、同線経由で搬入していた。重要部検査・全般検査の際には台車や主要機器を車体から取り外して舞木検査場までトラックで搬送し、検査を行っている。
6000系・6600系などの4000系より前に登場した車両は塗装が必要な車体であったが、現在瀬戸線内には揮発性塗料による塗装設備がないため、全般検査等においても部分補修に留めてその延命を図っていた。しかし次第に塗装の傷んだ部分が目立つようになったため、2010年(平成22年)12月に出場した6600系6602Fからは周囲の環境に影響を与えにくいよう、水性塗料を用いて塗装するようになった。
かつては旧型車の楽園といった状況であったが、JR東海が愛知環状鉄道線を経由した名古屋駅までの直通運転を開始した3年後の2008年(平成20年)からすべての在籍車両の4000系への置き換えが進められた。2011年(平成23年)3月までに6750系、2013年(平成25年)3月までに6600系を全車廃車し、6000系についても6032Fが2011年(平成23年)4月に廃車となったことを皮切りに廃車が進められた。6600系については2013年3月3日のさよなら運転で、6000系については2014年4月6日のさよなら運転で運用を終了した。
以降、列車はすべて4000系4両編成で運転していたが、喜多山駅付近の高架工事に伴い、本線系で使用の3300系が暫定的に導入された。3300系は2016年9月17日より運用されている。4000系と3300系はいずれもVVVFインバータ制御で、フルカラーLED式の行先表示を備えている。また、ステンレス車でもある。両形式とも右手操作式ワンハンドルマスコンを備えている。3300系は本線系のものと同様に120km/hに対応しているが、瀬戸線では本来の性能を発揮しない。また瀬戸線以外を走ることはないため、塗装は変更されないまま運用されている。
西暦は瀬戸線運用期間。「」は瀬戸線からの運用離脱により瀬戸電籍・名鉄籍として形式消滅した車両。
全駅愛知県内に所在。
以下は1921年(大正10年)以前の軌道時代に廃止された停車場。
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"text": "瀬戸線(せとせん)は、愛知県名古屋市東区の栄町駅から同県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。",
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"text": "本記事では、かつてこの路線を運営していた瀬戸自動鉄道→瀬戸電気鉄道(名古屋鉄道に合併)についても述べる。",
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"text": "名古屋中心部の栄にある栄町駅を起点とし、そこから東郊を経て瀬戸焼の産地である瀬戸市に達する近距離通勤路線である。大曽根駅 - 尾張瀬戸駅間では、ほぼ瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と矢田川に並行している。リニモや名鉄豊田線と同様に尾張丘陵を東西に進む路線であるが、両線と比べると地上を進む区間では勾配は比較的なだらかである。",
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"text": "名古屋市営地下鉄、名古屋ガイドウェイバス、東海旅客鉄道(JR東海)、愛知環状鉄道と接続しているが、名鉄の他路線とは接続していない孤立路線であることもあり、改札口前等の案内標識では「名鉄瀬戸線」と路線名かつ会社名入りで強調して表記されていることが多い。また瀬戸電気鉄道を前身としていることも相まって、名鉄の路線となった後も高齢の世代などからは瀬戸電(せとでん)と呼ばれることがある。",
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"text": "運賃計算区分はB(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.15倍。計算方法は名古屋鉄道#運賃を参照)。孤立路線ではあるものの、運賃体系は他の名鉄の路線と同様となっている。",
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"text": "すべての駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードが使用できる。",
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"text": "孤立路線ということから、かつては瀬戸線各駅と名鉄の他線の間を地下鉄などで別途移動して乗り継ぐ場合、前後の名鉄線の営業キロを通算する特例が栄町駅 - 名鉄名古屋駅・金山駅間(地下鉄鶴舞線を経由して上小田井駅や赤池駅から名鉄線へ直通する場合を除く。大曽根駅からJR中央本線や地下鉄などで金山駅・名古屋駅へ向かった場合は瀬戸線の改札を出た時点で連絡乗車券が回収されていた)および大曽根駅 - 上飯田駅間(上飯田駅接続の場合は、瀬戸線各駅と小牧線、犬山線の犬山駅 - 新鵜沼駅間、各務原線、広見線及び八百津線〈2001年9月末まで〉の各駅相互間に限定。犬山駅から犬山線江南駅・岩倉駅方面へ向かった場合は下車駅で差額精算となっていた)に設けられていた(通過連絡運輸ではないため地下鉄などの他社線区間の運賃は含まれておらず、他社線分は別払いとなる。接続駅で連絡乗車券を自動改札機に入れても回収されなかった。乗車券は当日中に乗り継げば有効であった)。また栄町駅 - 東大手駅の間に建設費回収のための加算運賃が設定されていた。これらはともに、2006年(平成18年)12月16日のトランパス導入に合わせて廃止された(ただし営業キロの通算については、通学定期券のみ、その後に開業した西尾線南桜井駅利用の場合を除き、2009年(平成21年)12月15日購入分まで据え置かれて存続した)。 瀬戸線と近鉄線、あおなみ線、豊橋鉄道渥美線、愛知環状鉄道線、リニモなどとの連絡定期券は購入できない。ただし、あおなみ線は名古屋市営地下鉄経由で3社局連絡にすれば名古屋市交通局で購入可能(この場合各運賃が単純に合算されるために地下鉄とあおなみ線との間に連絡割引は適用されなくなる)で、豊橋鉄道市内線やゆとりーとライン高架区間はバスと同様に扱われるため瀬戸線の定期券と同一のmanacaに定期券情報を載せられる。",
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"text": "manacaを利用する場合の乗継割引は瀬戸線と他の名鉄各線との間には適用されない(名鉄バスとは最初に乗車してから90分以内に次の交通機関に乗り継げば乗継割引が適用される)。",
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"text": "孤立路線であることから、本線系各駅周辺(犬山・知多半島・三河地方各地など)を目的地とする企画乗車券については瀬戸線各駅を発駅とするものが設定されていないことが多い(1DAYフリーきっぷとセットのものを除く)。",
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"text": "瀬戸においては古くから窯業(瀬戸焼)が盛んであり、貨物輸送の需要は高く、鉄道の敷設は悲願であった。しかし、明治20年代に当時国が整備を進めていた中央本線の誘致に失敗してしまう。ただ、地元により鉄道を敷設すれば、接続点として中央本線に大曽根駅を開設するとの国の意向を取り付けたため、瀬戸 - 大曽根間の鉄道敷設の気運が高まった。",
"title": "歴史"
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"text": "その結果、主に加藤杢左衛門 を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、1905年(明治38年)4月2日、瀬戸自動鉄道として開業した。現在の名鉄の路線の中では、尾西線に次ぐ早期の開業であった。しかし、開業時においては、矢田川を渡る橋の架橋工事が困難をきわめ、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)沿いの瀬戸駅(現在の尾張瀬戸駅) - 矢田駅間14.6kmの開業となった。翌1906年(明治39年)には大曽根駅まで開業する。ただし、中央本線大曽根駅の開業は後述の「外濠線」が開業する1911年(明治44年)まで待たなければならなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "開業当初は非電化で、セルポレー式蒸気動車で運行していた。これが日本初の気動車運行である(「日本の気動車史」も参照)。この蒸気動車は車両ごとにそれぞれA・B・C号と称し、瀬戸駅 - 矢田駅間を1時間半近くかけて走破していた。本数は1日わずか4往復であった。しかし、上り坂で動けなくなるなどの故障が続出したため、1906年(明治39年)に社名を瀬戸電気鉄道と変更し、翌1907年(明治40年)には全線を電化して電車の運転を開始した。ただし、当時は電力会社の名古屋電灯が夜間の電力需要に対応するべく毎日午後6時以降の電力供給を停止していたので、1910年(明治43年)に後に開業する喜多山駅の東側にあたる場所に自家発電所として火力発電所(2008年に解体撤去)が設けられるまでは、蒸気動車も引き続き使われていた。",
"title": "歴史"
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"text": "このような経緯で開業したにも拘らず、中央本線の大曽根駅はなかなか開業されなかった。そのため、名古屋都心部への乗り入れを並行して進める必要があった。名古屋都心部への乗り入れの計画としては、名古屋城の外堀を経路としてとる「外濠線」や車道沿いに新堀川に至る「車道線」などが計画されていた。これらのうち、瀬戸からの陶器など貨物を堀川を運航する貨物船へ積み替えるため、「外濠線」が建設されることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "まず、1911年(明治44年)5月23日、大曽根駅 - 土居下駅間が開業した。この延伸区間は当時の名古屋市街地の北端に沿って敷設されたため、用地買収が安く済んだ。同じ年の9月には御園駅まで延伸した。この外濠区間はほとんど用地買収の必要がなかったが、名古屋城の外濠に線路を通すという特殊な条件から、ガントレットと呼ばれる単複線やサンチャインカーブと呼ばれる急カーブなど特殊な線形が採用された。この外濠を通る区間は「お濠電車」とも呼ばれ、その後長く親しまれた。これに先立つ同年4月9日には中央本線大曽根駅も開業しており、これにより、大曽根駅で中央本線へ、堀川で水運へとの連絡を実現し、瀬戸線は、名古屋や瀬戸の貨物輸送に大きな力を発揮するようになった。",
"title": "歴史"
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"text": "このほか、開業当時には小牧線(大曽根 - 小牧間、1907年〈明治40年〉特許申請→1914年〈大正3年〉不許可)、龍泉寺線(小幡 - 龍泉寺 間、1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)、品野線(瀬戸 - 品野間、1912年〈明治45年〉特許申請→1912年〈大正元年〉取得)、瀬戸町内線(1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)などの新線建設が計画されていた(取得した特許はいずれも1916年〈大正5年〉に失効)。",
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"text": "瀬戸電気鉄道の本社は大曽根駅に設置され、1917年(大正6年)に建築された本社社屋は同駅の駅舎を兼ねたモダンな建物であり、名鉄合併後も後述する矢田駅 - 森下駅間の高架化事業の完成により解体されるまで駅舎として利用されていた。",
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"text": "名古屋市が市内の路面電車を買収し名古屋市電気局による全面市営化を進めていた1921年(大正10年)4月13日、軌道法による軌道から地方鉄道法による鉄道に変更した。これに伴い、従来あった停留場を整理し、計29駅として整備した。",
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"text": "その後、瀬戸電は輸送力の増強と設備の近代化を図り、1929年(昭和4年)12月までに全線が複線化された。また開業以来、貨物輸送が収入の大きな割合を占めていたため、沿線の好況は瀬戸線の増収に結びついていった。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、瀬戸市内の国鉄バス(岡多線)や瀬戸街道の民営バスなど沿線へのバス路線の拡張や昭和恐慌による瀬戸の窯業の不況のあおりなどを受けて、業績は急速に悪化した。日中戦争の長期化による鉄道輸送統制強化として国の陸上交通事業調整法の制定や行政指導もあって、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併による1935年(昭和10年)名古屋鉄道の誕生と機を一にして、1939年(昭和14年)、瀬戸電気鉄道は名古屋鉄道と合併し、同社の瀬戸線となった。",
"title": "歴史"
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"text": "第二次世界大戦中には、運行効率を上げるため、多くの駅が休止または廃止に追い込まれた。また、瀬戸市内の愛知航空機への工員輸送の強化を目的として、終戦直前の1945年(昭和20年)8月13日に森下駅付近を通る市電高岳線に乗り入れ、名古屋駅 - 尾張瀬戸駅間の直通運転が検討された。だが同月25日の運転開始を前に終戦を迎えたため未実施に終わった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 21,
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"text": "瀬戸線の路線施設はあまり空襲の被害を受けなかったため、太平洋戦争が終わると早期に運行が再開された。しかし、1948年(昭和23年)1月5日、大森駅(現:大森・金城学院前駅)東側で多数の初詣客を乗せた車両が横転するという脱線転覆事故が発生し、多数の死傷者が出る瀬戸線史上最悪の惨事となってしまう。",
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "これを受けて、線形改良などの近代化が進められた。特に、輸送上のネックとなっていたお濠電車の特殊な区間を整備し、名古屋市の都心への乗り入れをいかに実現するかが最重要課題であった。そこで、名鉄は、名古屋市や戦災復興院などと名古屋市内の鉄道整備に関する協定を結び、それを受け、名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網が取りまとめられ、1950年(昭和25年)1月、都市計画決定がされた。その中で、瀬戸線は、4号線と大曽根駅で相互直通運転を行うものとされた。4号線は、水分橋駅(現、味鋺駅付近)で名鉄小牧線と相互直通運転を行い、大曽根駅を経由し、市役所裏駅(現、東大手駅付近)まで達する路線の計画で、市役所裏駅で、新川橋駅 - 石川町駅(現、石川橋付近)間を計画していた2号線と接続することになっていた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この都市計画決定を踏まえ、大曽根駅 - 清水駅間は、1956年(昭和31年)、大曽根地区の戦災復興の土地区画整理の進捗に合わせて、名古屋市が鉄道用地として先行取得していた土地を譲り受け、社宮祠と駅前の両駅を廃止の上、全く新しく線路を敷設し直した(旧経路は、東区と北区の区界などとしてその痕跡を見ることができる)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "しかし、その後、建築資金の分担の問題などから、相互直通運転を前提とした整備計画は暗礁に乗り上げていった。1961年(昭和36年)には、都市交通審議会名古屋部会答申において見直しがなされた。この答申には、大曽根からの東方への延伸部分を八事、金山を結ぶ4号線として計画する一方(現在の名城線の環状化の原型)、市役所 - 大曽根間については、同答申の2号線(現在の名城線・名港線の原型となる計画)の一部としつつ、含みを持たせ瀬戸線の乗り入れについての結論は保留されていた。名古屋鉄道は、その後も2号線への瀬戸線の乗り入れについて、名古屋市と協議を続けた。しかし、市内の鉄道整備を独自に行おうとする姿勢の強い名古屋市とは折り合わず、結局この協議は、1965年(昭和40年)ころまでには、実質上頓挫してしまう(その結果、名古屋市側は、市役所 - 大曽根間を黒川駅経由の北側大回りの路線として、独自に建設することとし、第三軌条方式にした)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "地下鉄への乗り入れが断念された後の1966年(昭和41年)のダイヤ改正からは、輸送力強化の方策として、車両を大幅に更新するとともに、大津町駅 - 尾張瀬戸駅間で特急が設定された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "しかしその後、都心部への乗り換え駅として主に機能していた大津町駅が市電の廃止によってその機能を失い、1971年(昭和46年)までに、名古屋市は地下鉄名城線の栄駅 - 大曽根駅間を開通させた。そのため、名古屋都心部への乗客の多くが大曽根駅で乗り換えるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "このような状況から、瀬戸線独自での都心部への乗り入れは急務となり、名鉄は1968年(昭和43年)、東大手駅 - 栄町間について独自に敷設する申請を行った。しかし、瀬戸線が独自に栄乗り入れを行えば、栄駅 - 大曽根駅間は地下鉄と競合することになることから、名古屋市と再度の協議が必要であった。協議の結果、1971年(昭和46年)12月、新三河鉄道時代から名鉄が保有していた八事 - 赤池間(現:地下鉄鶴舞線)の免許を名古屋市に譲渡し、その見返りとして、瀬戸線独自に栄への地下新線を建設する協定が、名古屋市と名鉄の間で締結された。名鉄は、栄までの路線免許を1972年(昭和47年)5月18日付で取得した。この新線建設計画と名古屋市内の他の部分の高架化計画に関して、瀬戸線は昭和47年の都市交通審議会答申において、他の地下鉄整備計画と並んで高速度鉄道9号線と位置付けられた(ただし、栄町駅 - 矢田駅間の整備終了後に出された平成4年運輸政策審議会答申「名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」ではそのような位置付けはなくなっている)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "栄乗り入れ工事の起工式は1976年(昭和51年)1月30日に実施され、その工事開始に伴って土居下駅を仮設駅に移転し、堀川駅 - 土居下駅間は、同年2月14日から代替バスでの運行となった。また全線で昇圧工事も始まり、各駅のホームの嵩上げや4両編成に対応するための延伸工事が実施された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1978年(昭和53年)になると貨物営業が廃止され、同年3月19日、架線電圧の1,500 Vへの昇圧が完了した。これに伴い新造車6600系の投入など、車両の全面的な更新が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "そして同年8月20日、名鉄長年の悲願であった瀬戸線の都心乗り入れを果たした。都心乗り入れ区間の終着駅である栄の駅は、地下鉄と同じ栄とはせず、栄町とした。栄乗り入れにあたっては、テレビ塔周辺の久屋大通公園の整備も同時に行われ、栄町駅に接続するセントラルパーク地下街も開業した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "栄町乗り入れに伴い、従来の特急を急行に変更し、準急の停車駅を見直した上で、朝は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各12分間隔、日中は急行30分・普通15分間隔、夕方は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各15分間隔のダイヤとなった。栄乗り入れによって瀬戸線はドル箱路線に転じ、地価高騰に泣いていた名古屋市民の人口流出を後押ししただけでなく、大曽根駅一帯などの地域再開発を加速させる格好となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、栄町への乗り入れに伴い、建設費用回収のため栄町駅 - 東大手駅間内または同区間に跨って利用する場合はキロ程で算出された運賃に別途全乗車区間のキロ程に応じて大人の普通運賃の場合で40 - 60円を加える加算運賃の制度が導入された。加算運賃は1995年(平成7年)9月1日の運賃改定から一律30円(大人)に引き下げられ、その後2006年(平成18年)12月16日の運賃制度改定(前述)で廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "矢田 - 大曽根間は、旧瀬戸街道(現在の矢田本通商店街)沿いの経路を通っていたが、ここは江戸時代の矢田川の河道に沿ったところでもあり、大雨が降ると中央本線のアンダークロス部分を中心に線路が浸水し、運行に支障が生じることがよくあった。また、大曽根駅北側の踏切は東大曽根六叉路交差点(現在は五叉路)のすぐ東側にあって、ラッシュ時の東大曽根交差点の道路の渋滞は深刻なものになっていた。そこで、大曽根駅周辺の瀬戸線の高架化整備が急がれ、周辺の土地区画整理事業の進捗とあいまって、1983年(昭和58年)に森下駅 - 矢田駅間が高架化された。これに伴い、瀬戸電気鉄道の本社として建設された大曽根駅駅舎は解体された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)9月30日 には、国道19号と空港線(国道41号)を跨ぐ東大手駅 - 森下駅間が高架化された。これにより、両国道の渋滞の原因となっていた踏切が廃止された。また、車両の冷房化率が100%となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "その後、尾張旭駅(1994年〈平成6年〉移転新築)、印場駅(1995年〈平成7年〉再開)、小幡駅(1999年〈平成11年〉改築)、尾張瀬戸駅(2001年〈平成13年〉移転新築)などの設備の改善が進められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2006年(平成18年)には駅集中管理システムが導入され、主要駅を除き多くの駅が大曽根駅から遠隔管理される無人駅となった。また、ストアードフェアシステムが導入され、全駅でトランパスが利用できるようになった。なおこれに際して、運賃制度にも変更が加えられている(前述)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)6月30日には、戦後長く使用されてきた喜多山検車区が廃止され、尾張旭検車区が供用を開始した。併せて検車・保線業務については、入換・牽引用電気機関車や貨車を全廃し、機械扱いの機材への置き換えが行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)、4000系の導入 が開始され、1,500 V昇圧以来30年ぶりに、車両の全面的な更新が始まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "現在、検車区廃止後の喜多山駅の高架駅化と、瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と環状2号(国道302号)上の踏切の立体化を中心とした小幡 - 大森・金城学院前間(1.9 km)の高架化事業が進捗中である。当初は2013年(平成25年)度末(2014年3月)の完成を目指していたが、同年度末になっても工事の第1段階である仮道の整備もできていない状態で工事は進んでおらず、2023年(令和5年)度まで事業が延長されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "急行・準急・普通の3種別の列車が運転されているが、喜多山駅を除いて途中に待避設備がないため平行ダイヤとなっており、追い抜きは行われず、先発列車が先着する(栄町駅ではその旨の掲示が発車案内板に表示されている。上り急行が尾張旭駅で始発の普通列車に直接接続することはある)。普通列車の全区間所要時間は40分前後で、急行との差は10分程度である。下りは2016年以降(ただし2022年現在工事の支障になるため待避線は使用停止中)、上りは2022年以降喜多山駅で緩急接続が可能であるが、通常は行われない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "ワンマン運転は行われていないが、車内放送は、自動放送になっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "定期列車は全日の初電の喜多山駅発尾張瀬戸駅行き、平日朝の尾張旭駅発尾張瀬戸駅行き下り各1本を除き全て栄町駅を発着する。「せともの祭り」などでまれに尾張瀬戸駅発尾張旭駅行きの臨時普通列車(一部は回送列車を特別に客扱いする。2016年〈平成28年〉までは喜多山駅行きの普通列車も運転されていた)が運転されることがある。方向幕は「三郷」も表示できるが、通常は使用されない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "現在列車はすべて4両固定編成であるが、一部の駅(栄町・大曽根・小幡・喜多山(上り)・印場・尾張旭・尾張瀬戸)では将来の増結を考慮し、6両編成に対応した有効長のホームを有する。先の高架化により、喜多山駅(下り)についても6両編成対応になる予定である。車両規格はほぼ統一されているものの、可動式ホーム柵や女性専用車両は導入されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "瀬戸線ではミューチケットが必要な特別車(座席指定車両)連結列車は運行されていないが、有人駅の窓口で特別車が運行されている路線のミューチケットを購入することが可能である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "急行は概ね10時までと15時以降の運転。現行ダイヤでは日中は普通のみの運転。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "早朝(栄町駅を午前6時台に発着する列車)は両方向とも普通のみの運転である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "平日の朝は、栄町方面の朝7時から8時までにおいては、尾張旭駅 - 栄町駅間は、最短運転時隔で3分、その他は4分間隔で走る高密度ダイヤになっている。待避設備を通常使わないこともあって、栄町方面には、急行などの優等列車が設定できず、普通のみの運用となっている。尾張瀬戸方面は準急と普通が交互に走り、普通の大半(2023年3月までは準急1本も)が尾張旭折り返しになる。また、三郷駅始発の普通栄町行きが3本設定されている(三郷駅には留置線や渡り線などがないため全て尾張瀬戸駅から回送されてくる)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "昼間時間帯では、平日・休日問わず概ね10時台から14時台まで普通のみが毎時6本、約10分間隔で運転されている。15時台以降は、これに準急と急行が毎時各2本加わり、普通4本のうち2本が尾張旭駅折り返しとなる。尾張旭折り返しの普通と急行は尾張旭駅で連絡している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "10時台から14時台の急行は、2021年5月22日のダイヤ改正により運転が取り止めとなり、尾張旭駅折り返しの普通列車の運転区間を尾張瀬戸駅まで延長することとなった(2021年10月30日のダイヤ改正により当該時間帯の準急は普通に格下げされた)。このため、急行の運転がない時間帯は優等種別が停車する駅でも15分間隔となる部分があった。また、この改正で土休日に喜多山駅の待避線で日中留置される運用が登場した(栄町駅から回送で喜多山駅に到着したあと、夕方に尾張旭駅へ回送され普通列車になる)。喜多山駅待避線での土休日日中の車両留置は2022年3月をもって無くなり、喜多山駅上り留置線での留置に変更されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "平日の夕ラッシュ時間帯にはすべての列車が栄町駅 - 尾張瀬戸駅間の通し運転となり、優等列車の種別が、尾張瀬戸方面はすべて準急、栄町方面はすべて急行となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "平日夜間21時以降と休日夜間19時以降は、一部を除いて普通のみの運用となっている。この時間帯は尾張瀬戸駅発の定期回送列車も尾張旭駅まで数本運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "栄町駅 - 喜多山駅間の区間列車はかつて数多くあり、栄町乗り入れからしばらくは、普通を栄町駅 - 喜多山駅間の区間運用とし、急行停車駅を除き、名古屋市内の駅は普通、尾張旭・瀬戸両市内の駅は準急という運用が行われていた。検車区が尾張旭に移転した後は始発と最終列車に限られたものとなっている。また、平日のみ8時台に喜多山駅終着・始発の普通が1本設定されている。最終の喜多山行きは尾張旭駅へ回送されずにそのまま夜間滞泊となり、翌日の初電となって尾張瀬戸駅へ向かう。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線は名鉄で唯一準急が走る路線だった。2005年(平成17年)のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅が急行停車駅となったため、急行と準急では印場駅と旭前駅に停車するか否かの違いしかない。名古屋本線などとは異なり、瀬戸線内で急行や準急の特別停車や途中駅からの種別変更は行われていない(名鉄ハイキング開催時は印場駅や旭前駅などに急行が臨時停車することがある。2004年まではせともの祭り開催時に水野駅に急行が臨時停車したことがある)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "曲線区間が多いことなどから、急行といえども平常ダイヤ時の実質的な最高速度は尼ヶ坂駅 - 大曽根駅間、守山自衛隊前駅 - 小幡駅間、印場駅 - 尾張旭駅間と三郷駅 - 水野駅間で85 km/h程度である。停車駅が増えているが、車両性能が向上しているため全区間の所要時間は30分前後と、600 V時代の1966年(昭和41年)から1977年(昭和52年)に運行されていた特急からほとんど変わっていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "かつて準急は朝と夜のみに設定されていたが、2000年6月10日のダイヤ改正以降、日中にも設定され、平日の夕方ラッシュ帯の尾張瀬戸行き急行が準急に置き換えられるなど大幅に増えた。また日中の準急は栄町駅 - 尾張旭駅間の運転で、区間運転の準急が設定されたのはこの時が初めてである。2003年3月27日のダイヤ改正以降、日中も尾張瀬戸駅まで延長され、区間運転の準急は平日朝の栄町駅発1本のみである。この1本も2023年3月18日のダイヤ改正で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "先述の通り、日中の急行は尾張旭駅折り返しの普通と連絡している。2003年3月27日のダイヤ改正で日中の準急が尾張瀬戸駅まで延長され、普通毎時4本のうち2本が尾張旭駅折り返しになったが、下りは急行の前、上りは急行の後をそれぞれ走っているため、名古屋市内の急行通過駅と当時急行通過駅であった水野駅・瀬戸市役所前駅の間を行き来する場合、実質30分間隔となってしまった。このため、2005年1月29日のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅を急行停車駅とすることで、尾張旭駅のりかえで行き来できるようにしている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "瀬戸線の沿線はほとんど住宅地や市街地となっており、山林や田園地帯は多くない。全体的に平坦な地形を通っていることからトンネルは栄町地下トンネルのみである。大まかには以下のようになる。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "起点の栄町駅は、名古屋市の繁華街栄地区にあり、地下街や地下鉄栄駅に隣接している。ここから東大手駅を過ぎるまでの約1.7kmは栄町地下トンネルを進む。地下で名古屋市営地下鉄名城線と並走し、同桜通線との交差地点には両地下鉄線の久屋大通駅があるが、栄町駅に近いため瀬戸線の駅は設けられていない。愛知県庁の直下付近で60km/h制限のS字カーブを切り名城線と別れてさらに東寄りになり、地下駅の東大手駅に着く。同駅の付近には愛知県庁・名古屋市役所を始めとする官庁街、名古屋医療センター、愛知県立明和高等学校などがあり、朝夕は通勤客と学生で賑わう。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "東大手駅を出てすぐのところで地上に出て30パーミルの勾配で一気に高架に上がる。右へカーブして空港線(国道41号)と、名古屋高速1号楠線を乗り越えたところに清水駅がある。この辺りは名古屋台地の北端の崖下の低地であり、清水駅から尼ヶ坂駅を経て森下駅付近までは崖に沿うように進む。栄町トンネルを出てから大曽根駅の手前までは側道に桜が植えられており、桜のシーズンには列車の両側に桜を見ながら進む。国道19号を乗り越え森下駅、さらに左へカーブして大曽根駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "大曽根は古くから街道の合流点であり宿場町として栄えた町で、現在でも名古屋の繁華街・歓楽街の一つである。大曽根駅は大曽根地区の北東にあり、JR中央本線・名古屋市営地下鉄名城線・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)と乗り換えが可能な名古屋の交通の要衝の駅でもある。瀬戸方面から名鉄で来た後、同駅でJRに乗り換え金山・名古屋方面へ向かう客や地下鉄・市バスへの乗り換え客も多い。大曽根駅を過ぎると右へカーブしてJRを乗り越える。高架から降りて瀬戸街道を瀬戸線で唯一のトラス橋である矢田橋梁で乗り越えると矢田駅に着く。矢田駅は瀬戸線の駅では最も利用者が少ないが、ナゴヤドームまで900mであり、地下鉄が開業するまでは最寄り駅だったこともあり、現在でも瀬戸方面から同駅で下車してナゴヤドームへ向かう客が少なからず存在する。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "矢田駅を過ぎるとすぐに瀬戸線最急で、現在は名鉄全線中最急でもあるカーブ(半径120m・制限速度35km/h)を通過後矢田川鉄橋を渡る。ここは瀬戸線の有名撮影地として知られ、瀬戸線でイベント列車が走るときは多くのカメラマンが集結する。橋を渡ると守山区に入り、ゆとりーとラインの高架をくぐると守山自衛隊前駅に着く。陸上自衛隊第10師団が駐屯する守山駐屯地はこの北側にあり、瀬戸線からも駐屯地の正門を見ることができる。この付近から終点の尾張瀬戸駅まではほとんど瀬戸街道(愛知県道61号名古屋瀬戸線)と並走する。なお守山自衛隊前駅周辺でも立体交差事業の構想がある。瓢箪山駅を過ぎると守山区役所に近く、橋上駅を持つ急行停車駅の小幡駅。準急はここから瀬戸方面は各駅停車となる。小幡駅を出ると左へカーブし瀬戸街道と交差する。この交点にある小幡5号踏切は自動車の交通量がかなり多く、朝ラッシュは列車の本数も多いためよく閉まり、開かずの踏切になっている。なお、踏切付近の線路はS字状にカーブしており、45 km/hの速度制限が掛かっている。踏切を抜けると瀬戸街道の北側を走り、喜多山駅に着く。喜多山駅には瀬戸線で唯一構内踏切が残っている。尾張旭検車区ができる前は同駅に隣接して車庫が設けられていたため現在も列車の運行上で重要な駅であり、乗務員の交代も行われている。また、喜多山駅周辺では単独立体交差事業が始まっており、同駅は高架駅となる予定である。喜多山駅を出ると環状2号(国道302号)と平面交差する(名古屋第二環状自動車道は同所で地下を通る)。度々渋滞が起こっているが高架化によってこの踏切も除去される予定である。さらに進むと大森・金城学院前駅に着く。同駅は瀬戸線で名古屋市内最後の駅であり、付近の金城学院大学の学生で賑わっている。大森・金城学院前駅を出ると尾張旭市に入り、東名高速道路の高架をくぐってすぐのところにあるのが印場駅。同駅は1944年に休止、その後廃止されていたが、1995年に復活した瀬戸線で最も新しい駅であり、旭労災病院や東尾張病院への通院者や付近からの通勤・通学での利用者がそこそこいる。印場の次は旭前駅。両駅間にあるカーブの85km/h制限は当線で最も高い速度制限である。旭前駅は愛知県立旭野高等学校の最寄り駅であり朝夕は高校生で賑わう。旭前駅を出て左側に城山公園やスカイワードあさひ、右側に尾張旭検車区が見えてきて尾張旭市の中心部に入ると、橋上駅舎を有する尾張旭駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "尾張旭駅は検車区を有し、栄町方面から来た普通列車の約半数が折り返す大きな駅である。急行はここから終点の尾張瀬戸駅まで各駅に停車する。かつては急行も停まらない無人駅で利用者が少なかったが、1995年に急行が停車するようになり利用者も大幅に増えている。尾張旭駅の次は愛知県森林公園に近い三郷駅。同駅は1977年まで特急も停車しており尾張旭市内では最も利用者が多く、現在も急行停車駅として多くの利用者で賑わっている。三郷駅を出ると瀬戸市に入り水野駅を経由し新瀬戸駅。新瀬戸は愛知環状鉄道の瀬戸市駅が隣接しており、乗り換える客や公立陶生病院への通院患者、付近からの通勤・通学などの利用者がそこそこいる。新瀬戸駅を出ると国道155号と平面交差し、間も無く瀬戸市役所前駅。瀬戸市役所前駅は公立陶生病院を越えてすぐのところに位置している。周辺は静かな住宅街となっており、利用者は少ない。瀬戸市役所前駅を出て国道155号と瀬戸川が右手に並ぶと間もなく終点の尾張瀬戸駅に着く。",
"title": "沿線風景"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "瀬戸線は、名鉄の他の路線網と接続が無い孤立路線であること、駅間距離が短いこと、さらに、栄町駅 - 東大手駅間では地下を走るため、A - A基準を満たす地下鉄対応車両が必要となることなどから、瀬戸線専用として登場した特徴的な車両がいくつか存在する。1996年(平成8年)に3780系が全廃となって以降、瀬戸線では3ドアロングシートの通勤形車両のみが走っている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "新車両の導入や他線との車両の転属を行う場合にはトレーラーでの陸送が行われる。2008年度(平成20年度)より開始された4000系の導入に際しても、製造会社である日本車輌製造豊川製作所から尾張旭検車区まで、道路上をトレーラーで運ばれた。これに対して1978年(昭和53年)の1,500 V昇圧時など、大曽根駅が地上駅で中央本線との貨物連絡線があった頃は、同線経由で搬入していた。重要部検査・全般検査の際には台車や主要機器を車体から取り外して舞木検査場までトラックで搬送し、検査を行っている。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "6000系・6600系などの4000系より前に登場した車両は塗装が必要な車体であったが、現在瀬戸線内には揮発性塗料による塗装設備がないため、全般検査等においても部分補修に留めてその延命を図っていた。しかし次第に塗装の傷んだ部分が目立つようになったため、2010年(平成22年)12月に出場した6600系6602Fからは周囲の環境に影響を与えにくいよう、水性塗料を用いて塗装するようになった。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "かつては旧型車の楽園といった状況であったが、JR東海が愛知環状鉄道線を経由した名古屋駅までの直通運転を開始した3年後の2008年(平成20年)からすべての在籍車両の4000系への置き換えが進められた。2011年(平成23年)3月までに6750系、2013年(平成25年)3月までに6600系を全車廃車し、6000系についても6032Fが2011年(平成23年)4月に廃車となったことを皮切りに廃車が進められた。6600系については2013年3月3日のさよなら運転で、6000系については2014年4月6日のさよなら運転で運用を終了した。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "以降、列車はすべて4000系4両編成で運転していたが、喜多山駅付近の高架工事に伴い、本線系で使用の3300系が暫定的に導入された。3300系は2016年9月17日より運用されている。4000系と3300系はいずれもVVVFインバータ制御で、フルカラーLED式の行先表示を備えている。また、ステンレス車でもある。両形式とも右手操作式ワンハンドルマスコンを備えている。3300系は本線系のものと同様に120km/hに対応しているが、瀬戸線では本来の性能を発揮しない。また瀬戸線以外を走ることはないため、塗装は変更されないまま運用されている。",
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"text": "西暦は瀬戸線運用期間。「」は瀬戸線からの運用離脱により瀬戸電籍・名鉄籍として形式消滅した車両。",
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瀬戸線(せとせん)は、愛知県名古屋市東区の栄町駅から同県瀬戸市の尾張瀬戸駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 本記事では、かつてこの路線を運営していた瀬戸自動鉄道→瀬戸電気鉄道(名古屋鉄道に合併)についても述べる。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox rail line
| box_width = 300px
| name = [[File:Meitetsu logomark 2.svg|20px|名古屋鉄道|link=名古屋鉄道]] 瀬戸線
| color = 7c2982
| logo = NP-ST.svg
| image = Meitetsu 4000 series EMU 011.JPG
| image_width = 300px
| image_alt = 守山自衛隊前駅へ向かう4000系の急行
| caption = [[名鉄4000系電車|4000系]]による瀬戸線の[[急行列車|急行]]<br>(2009年7月13日 [[守山自衛隊前駅]]付近)
| system = {{Color|#7c2982|■}}瀬戸方面
| start = 起点:[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]
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| stations = 20駅
| linenumber = {{名鉄駅番号|ST}}
| open = {{Start date and age|1905|04|02}}
| event1label = 堀川駅まで延伸
| event1 = {{Start date|1911|10|01|df=y}}
| event2label = お濠区間廃止
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| event3label = 栄町乗入れ
| event3 = {{Start date|1978|08|20|df=y}}(全通)
| owner = 瀬戸自動鉄道→瀬戸電気鉄道<br />→[[名古屋鉄道]]
| linelength_km = 20.6
| gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}}
| el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]], <br> [[架空電車線方式]]
| speed = 最高100[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="RP816_p301">{{Cite journal|和書|author = 外山勝彦|title = 名古屋鉄道 現有車両プロフィール 2009|date = 2009-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 816|page=301}}</ref>
| website = [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line16/index.html 瀬戸線]
| map = [[File:Linemap of Meitetsu Seto Line.svg|300px]]
}}
'''瀬戸線'''(せとせん)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]の[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]から同県[[瀬戸市]]の[[尾張瀬戸駅]]までを結ぶ[[名古屋鉄道]](名鉄)の[[鉄道路線]]。
本記事では、かつてこの路線を運営していた'''瀬戸自動鉄道'''→'''瀬戸電気鉄道'''([[名古屋鉄道]]に合併)についても述べる。
== 概要 ==
名古屋中心部の[[栄 (名古屋市)|栄]]にある栄町駅を起点とし、そこから東郊を経て[[瀬戸焼]]の産地である瀬戸市に達する近距離通勤路線である。[[大曽根駅]] - 尾張瀬戸駅間では、ほぼ瀬戸街道([[愛知県道61号名古屋瀬戸線]])と[[矢田川 (愛知県)|矢田川]]に並行している。[[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]]や[[名鉄豊田線]]と同様に[[尾張丘陵]]を東西に進む路線であるが、両線と比べると地上を進む区間では勾配は比較的なだらかである。
[[名古屋市営地下鉄]]、[[名古屋ガイドウェイバス]]、[[東海旅客鉄道]](JR東海)、[[愛知環状鉄道]]と接続しているが、名鉄の他路線とは接続していない<ref>[https://www.meitetsu.co.jp/profile/environment/report/detail/goaisatsugaiyo_0-3.pdf 環境報告書 2014] - 名古屋鉄道</ref>孤立路線であることもあり、[[改札]]口前等の案内標識では「名鉄瀬戸線」と路線名かつ会社名入りで強調して表記されていることが多い。また'''瀬戸電気鉄道'''を前身としていることも相まって、名鉄の路線となった後も高齢の世代などからは'''瀬戸電'''(せとでん)と呼ばれることがある。
=== 運賃 ===
[[運賃]]計算区分は'''B'''(運賃計算に用いる距離は[[営業キロ]]の1.15倍。計算方法は[[名古屋鉄道#運賃]]を参照)。孤立路線ではあるものの、運賃体系は他の名鉄の路線と同様となっている。
すべての駅で[[manaca]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系ICカード全国相互利用サービス対応カード]]が使用できる。
孤立路線ということから、かつては瀬戸線各駅と名鉄の他線の間を地下鉄などで別途移動して乗り継ぐ場合、前後の名鉄線の営業キロを通算する特例が栄町駅 - [[名鉄名古屋駅]]・[[金山駅 (愛知県)|金山駅]]間(地下鉄鶴舞線を経由して上小田井駅や赤池駅から名鉄線へ直通する場合を除く。大曽根駅からJR中央本線や地下鉄などで金山駅・名古屋駅へ向かった場合は瀬戸線の改札を出た時点で連絡乗車券が回収されていた)および大曽根駅 - [[上飯田駅]]間(上飯田駅接続の場合は、瀬戸線各駅と小牧線、犬山線の犬山駅 - 新鵜沼駅間、各務原線、広見線及び八百津線〈2001年9月末まで〉の各駅相互間に限定。犬山駅から犬山線江南駅・岩倉駅方面へ向かった場合は下車駅で差額精算となっていた)に設けられていた([[通過連絡運輸]]ではないため地下鉄などの他社線区間の運賃は含まれておらず、他社線分は別払いとなる。接続駅で連絡乗車券を自動改札機に入れても回収されなかった。乗車券は当日中に乗り継げば有効であった)。また栄町駅 - 東大手駅の間に建設費回収のための[[運賃#加算運賃|加算運賃]]が設定されていた。これらはともに、[[2006年]]([[平成]]18年)[[12月16日]]の[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]導入に合わせて廃止された(ただし営業キロの通算については、通学[[定期乗車券|定期券]]のみ、その後に開業した[[名鉄西尾線|西尾線]][[南桜井駅 (愛知県)|南桜井駅]]利用の場合を除き、[[2009年]](平成21年)[[12月15日]]購入分まで据え置かれて存続した)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2006/20060623.html|title=瀬戸線におけるキロ程通算特例措置の廃止申請の認可について|publisher=[[名古屋鉄道]]|date=2006-06-23|accessdate=2016-08-22}}</ref>。
瀬戸線と[[近畿日本鉄道|近鉄]]線、[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]、[[豊橋鉄道渥美線]]、[[愛知環状鉄道線]]、[[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]]などとの連絡定期券は購入できない。ただし、あおなみ線は名古屋市営地下鉄経由で3社局連絡にすれば名古屋市交通局で購入可能(この場合各運賃が単純に合算されるために地下鉄とあおなみ線との間に連絡割引は適用されなくなる)で、[[豊橋鉄道東田本線|豊橋鉄道市内線]]や[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ゆとりーとライン高架区間]]はバスと同様に扱われるため瀬戸線の定期券と同一のmanacaに定期券情報を載せられる。
manacaを利用する場合の乗継割引は瀬戸線と他の名鉄各線との間には適用されない(名鉄バスとは最初に乗車してから90分以内に次の交通機関に乗り継げば乗継割引が適用される)。
孤立路線であることから、本線系各駅周辺(犬山・知多半島・三河地方各地など)を目的地とする企画乗車券については瀬戸線各駅を発駅とするものが設定されていないことが多い(1DAYフリーきっぷとセットのものを除く)。
=== 路線データ ===
; 営業中の区間(栄町 - 尾張瀬戸間)
:* 路線距離([[営業キロ]]):20.6 km
:* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])(栄町 - 東大手間)
:* [[軌間]]:1,067 mm
:* 駅数:20駅(起終点駅含む)
:* 複線区間:全線
:* 電化区間:全線(直流1,500 V)
:* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
:* 認可最高速度:100 km/h<ref name="RP816_p301"/><ref group="注釈">他の名鉄路線より運転速度が低く、信号現示に対する制限速度も注意信号45 km/h、減速信号65 km/hと20 km/hほど低くなっている。</ref>
:
; 1976年(昭和51年)廃止区間(堀川 - (旧)東大手間、廃止時点)
:* 路線距離(営業キロ):1.9 km
:* 軌間:1,067 mm
:* 駅数:4駅([[休止駅|休止]]中の東大手駅含む)
:* 複線区間:全線(ただし[[単複線|ガントレット]]が存在した)
:* 電化区間:全線([[直流電化|直流]]600 V)
:* 閉塞方式:[[閉塞_(鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]]
:* 認可最高速度:70 km/h(ただし駅間距離が短く、半径60 mの急曲線も存在した)
== 歴史 ==
{{基礎情報 会社
|社名 = 瀬戸電気鉄道
|ロゴ = [[File:Setoden logomark.svg|150px]]
|種類 = [[株式会社]]
|機関設計 =
|市場情報 =
|略称 = 瀬戸電、瀬戸電鉄
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 =
|本社所在地 = [[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]][[大曽根 (名古屋市)|大曽根町]]中4丁目585<ref name="NDLDC1186026-56"/>
|設立 = [[1902年]](明治35年)3月17日<ref name="NDLDC1186026-56"/>
|業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]]
|事業内容 = 旅客鉄道事業、索道運輸業、不動産業 他<ref name="NDLDC1186026-56"/>
|代表者 = 社長 [[水野銅治郎]]<ref name="NDLDC1186026-56"/>
|資本金 = 2,300,000円(払込額)<ref name="NDLDC1186026-56"/>
|売上高 =
|従業員数 =
|決算期 =
|会計監査人 =
|所有者 =
|主要株主 =
|主要部門 =
|関係する人物 =
|特記事項 = 上記データは1937年(昭和12年)4月1日現在<ref name="NDLDC1186026-56">[{{NDLDC|1186026/56}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}}
=== 開業 ===
[[瀬戸市|瀬戸]]においては古くから窯業([[瀬戸焼]])が盛んであり、貨物輸送の需要は高く、鉄道の敷設は悲願であった。しかし、[[明治]]20年代に当時国が整備を進めていた[[中央本線]]の誘致に失敗してしまう。ただ、地元により鉄道を敷設すれば、接続点として中央本線に[[大曽根駅]]を開設するとの国の意向を取り付けたため、瀬戸 - 大曽根間の鉄道敷設の気運が高まった。
その結果、主に加藤杢左衛門<ref>[{{NDLDC|779812/557}} 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> を中心した瀬戸の実業家らの出資により、瀬戸からの鉄道敷設が実現し、[[1905年]](明治38年)[[4月2日]]、'''瀬戸自動鉄道'''として開業した。現在の名鉄の路線の中では、[[名鉄尾西線|尾西線]]に次ぐ早期の開業であった。しかし、開業時においては、[[矢田川 (愛知県)|矢田川]]を渡る橋の架橋工事が困難をきわめ、瀬戸街道([[愛知県道61号名古屋瀬戸線]])沿いの瀬戸駅(現在の[[尾張瀬戸駅]]) - [[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]]間14.6kmの開業となった。翌[[1906年]](明治39年)には大曽根駅まで開業する。ただし、中央本線大曽根駅の開業は後述の「外濠線」が開業する[[1911年]](明治44年)まで待たなければならなかった。
開業当初は[[非電化]]で、[[セルポレー式蒸気動車]]で運行していた。これが[[日本初の一覧|日本初]]の[[気動車]]運行である(「[[日本の気動車史#蒸気動車|日本の気動車史]]」も参照)。この蒸気動車は車両ごとにそれぞれA・B・C号と称し、瀬戸駅 - 矢田駅間を1時間半近くかけて走破していた。本数は1日わずか4往復であった。しかし、上り坂で動けなくなるなどの故障が続出したため<ref group="注釈">不通時には人力の[[トロッコ]]に乗客を乗せ換えて対処したといわれている。</ref>、1906年(明治39年)に社名を'''瀬戸電気鉄道'''と変更し、翌[[1907年]](明治40年)には全線を電化して電車の運転を開始した。ただし、当時は[[電力会社]]の[[名古屋電灯]]が夜間の電力需要に対応するべく毎日午後6時以降の電力供給を停止していたので、[[1910年]](明治43年)に後に開業する[[喜多山駅 (愛知県)|喜多山駅]]の東側にあたる場所に[[自家発電]]所として[[火力発電|火力発電所]](2008年に解体撤去)が設けられるまでは、蒸気動車も引き続き使われていた。
このような経緯で開業したにも拘らず、中央本線の大曽根駅はなかなか開業されなかった。そのため、名古屋都心部への乗り入れを並行して進める必要があった。名古屋都心部への乗り入れの計画としては、[[名古屋城]]の外堀を経路としてとる「外濠線」や車道沿いに[[新堀川 (名古屋市)|新堀川]]に至る「車道線」などが計画されていた。これらのうち、瀬戸からの陶器など[[貨物]]を[[堀川 (名古屋市)|堀川]]を運航する[[貨物船]]へ積み替えるため、「外濠線」が建設されることとなった。
まず、1911年(明治44年)[[5月23日]]、大曽根駅 - [[土居下駅]]間が開業した。この延伸区間は当時の名古屋市街地の北端に沿って敷設されたため、用地買収が安く済んだ。同じ年の9月には[[堀川駅 (愛知県)|御園駅]]まで延伸した。この外濠区間はほとんど用地買収の必要がなかった<ref group="注釈">堀川駅予定地までの3[[チェーン (単位)|鎖]](約60m)は名古屋市有地であったため、この区間は用地買収の必要が生じた。またその手前にある御園御門の工事もあり、御園 - 堀川間6鎖(約120m)の開通に約3年3ヶ月かかっている。</ref>が、名古屋城の外濠に線路を通す<ref group="注釈">名古屋城は[[熱田台地]]の北端にあって地面がその北側の地域より一段高くなっているので、線路が敷かれた外濠の底の高さは北側の地域の地面と同じ高さになっている。</ref>という特殊な条件から、[[本町駅 (愛知県)#駅構造|ガントレット]]と呼ばれる[[単複線]]や[[久屋駅#サンチャインカーブ|サンチャインカーブ]]と呼ばれる急カーブなど特殊な線形が採用された。この外濠を通る区間は「'''お濠電車'''」とも呼ばれ、その後長く親しまれた。これに先立つ同年[[4月9日]]には中央本線大曽根駅も開業しており、これにより、大曽根駅で中央本線へ、堀川で[[水運]]へとの連絡を実現し、瀬戸線は、名古屋や瀬戸の貨物輸送に大きな力を発揮するようになった。
このほか、開業当時には小牧線<ref group="注釈">[[名鉄小牧線]]の[[上飯田駅|上飯田]] - [[小牧駅|新小牧]]間開業は[[1931年]]。</ref>(大曽根 - 小牧間、1907年〈明治40年〉特許申請→1914年〈大正3年〉不許可)、龍泉寺線([[小幡駅|小幡]] - [[龍泉寺 (名古屋市守山区)|龍泉寺]]<ref group="注釈">龍泉寺近くには、後世の[[2001年]]に[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])の[[小幡緑地駅]]が開業している。</ref> 間、1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)、品野線(瀬戸 - [[品野町|品野]]間<ref>[{{NDLDC|2952217/8}} 『官報』1912年12月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref group="注釈">瀬戸 - 品野方面は、のちに[[鉄道省]]→[[日本国有鉄道]](国鉄)による路線建設も構想されたが([[愛知環状鉄道線|岡多線]]:[[岡崎駅|岡崎]] - 瀬戸 - 品野 - [[多治見駅|多治見]])、瀬戸 - 多治見間は省営バス(のちに[[国鉄バス]]→[[東海旅客鉄道|JR東海]]→[[ジェイアール東海バス]])[[瀬戸南線|岡多線]]としての運行が実現したのみで([[#名鉄合併と戦争|後述]])鉄道としては未成に終わっている。</ref>、1912年〈明治45年〉特許申請→1912年〈大正元年〉取得)、瀬戸町内線(1912年〈明治45年〉特許申請→1914年〈大正3年〉取得)などの新線建設が計画されていた(取得した特許はいずれも1916年〈大正5年〉に失効<ref>[{{NDLDC|2953324/4}} 『官報』1916年8月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>)<ref>{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=2|year=2006|pages=216-218}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=井戸田弘|title=東海地方の鉄道敷設史|volume=3|year=2008|page=182}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor =名古屋鉄道|year =1961|title = 名古屋鉄道社史|asin = B000JAMKU4|pages=287-288}}</ref>。
瀬戸電気鉄道の本社は大曽根駅に設置され、[[1917年]](大正6年)に建築された本社社屋は同駅の駅舎を兼ねたモダンな建物であり、名鉄合併後も後述する矢田駅 - [[森下駅 (愛知県)|森下駅]]間の高架化事業の完成により解体されるまで駅舎として利用されていた。
=== 名鉄合併と戦争 ===
[[名古屋市]]が市内の[[路面電車]]を買収し[[名古屋市交通局|名古屋市電気局]]による全面市営化を進めていた[[1921年]](大正10年)4月13日、[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更した。これに伴い、従来あった[[停車場|停留場]]を整理し、計29駅として整備した。
{{Image frame|align=none|caption={{center|1921年度の年間駅別乗降人員(単位:人)<ref>[{{NDLDC|973618/75}} 『愛知県統計書. 大正10年 第1編』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>}}|border=no|content=
{{Graph:Chart|width=750|height=300|xAxisAngle=-40|legend=凡例|type=rect|showValues=offset:4|y1Title=乗車人員|y2Title=降車人員|colors=#c11920,#0975b9
|x=堀川,
本町,
久屋,
東大手,
土居下,
清水,
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社宮祠,
坂下,
森下,
駅前,
大曽根,
矢田,
守山口,
連隊前,
笠寺道,
小幡,
小幡原,
大森,
印場,
聾石,
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三郷,
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11714,
292996,
}}}}
その後、瀬戸電は輸送力の増強と設備の近代化を図り、[[1929年]](昭和4年)12月までに全線が複線化された。また開業以来、貨物輸送が収入の大きな割合を占めていたため、沿線の好況は瀬戸線の増収に結びついていった。
しかし、瀬戸市内の[[国鉄バス]]([[瀬戸南線|岡多線]])や瀬戸街道の民営バスなど沿線へのバス路線の拡張や[[昭和恐慌]]による瀬戸の窯業の不況のあおりなどを受けて、業績は急速に悪化した。[[日中戦争]]の長期化による鉄道輸送統制強化として国の[[陸上交通事業調整法]]の制定や行政指導もあって、名岐鉄道と愛知電気鉄道の合併による[[1935年]](昭和10年)[[名古屋鉄道]]の誕生と機を一にして、[[1939年]](昭和14年)、瀬戸電気鉄道は'''名古屋鉄道'''と合併し、同社の瀬戸線となった。
[[第二次世界大戦]]中には、運行効率を上げるため、多くの駅が休止または廃止に追い込まれた。また、瀬戸市内の[[愛知航空機]]への工員輸送の強化を目的として、終戦直前の[[1945年]](昭和20年)8月13日に森下駅付近を通る[[名古屋市電|市電]][[名古屋市電高岳線|高岳線]]に乗り入れ、名古屋駅 - 尾張瀬戸駅間の直通運転が検討された。だが同月25日の運転開始を前に[[終戦の日|終戦]]を迎えたため未実施に終わった<ref>{{Citation|title=名驛、上前津から直通運轉 名市電、瀬戸線乗入れ|date=1945年8月14日| newspaper=中部日本新聞|page=2面}}</ref>。
=== 戦後600V時代 ===
瀬戸線の路線施設はあまり[[日本本土空襲|空襲]]の被害を受けなかったため、[[太平洋戦争]]が終わると早期に運行が再開された。しかし、[[1948年]](昭和23年)[[1月5日]]、大森駅(現:[[大森・金城学院前駅]])東側で多数の初詣客を乗せた車両が横転するという[[名鉄瀬戸線脱線転覆事故|脱線転覆事故]]が発生し、多数の死傷者が出る瀬戸線史上最悪の惨事となってしまう。
これを受けて、線形改良などの近代化が進められた。特に、輸送上のネックとなっていた'''お濠電車'''の特殊な区間を整備し、名古屋市の都心への乗り入れをいかに実現するかが最重要課題であった。そこで、名鉄は、名古屋市や[[戦災復興院]]などと名古屋市内の鉄道整備に関する協定を結び、それを受け、'''名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網'''が取りまとめられ、[[1950年]](昭和25年)1月、都市計画決定がされた。その中で、瀬戸線は、'''4号線'''と[[大曽根駅]]で相互直通運転を行うものとされた。4号線は、水分橋駅(現、[[味鋺駅]]付近)で[[名鉄小牧線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行い、大曽根駅を経由し、市役所裏駅(現、[[東大手駅]]付近)まで達する路線の計画で、市役所裏駅で、[[新川橋駅]] - 石川町駅(現、石川橋付近)間を計画していた2号線と接続することになっていた。
この都市計画決定を踏まえ、大曽根駅 - [[清水駅 (愛知県)|清水駅]]間は、[[1956年]](昭和31年)、大曽根地区の[[戦災復興#名古屋の戦災復興計画|戦災復興]]の土地区画整理の進捗に合わせて、名古屋市が鉄道用地として先行取得していた土地を譲り受け、[[社宮祠駅|社宮祠]]と[[駅前駅 (名古屋市)|駅前]]の両駅を廃止の上、全く新しく線路を敷設し直した(旧経路は、[[東区 (名古屋市)|東区]]と[[北区 (名古屋市)|北区]]の区界などとしてその痕跡を見ることができる)。
しかし、その後、建築資金の分担の問題などから、相互直通運転を前提とした整備計画は暗礁に乗り上げていった。1961年(昭和36年)には、[[都市交通審議会]]名古屋部会答申において見直しがなされた。この答申には、大曽根からの東方への延伸部分を[[八事駅|八事]]、[[金山駅 (愛知県)|金山]]を結ぶ4号線として計画する一方(現在の[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]の環状化の原型)、市役所 - 大曽根間については、同答申の2号線(現在の名城線・[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]の原型となる計画)の一部としつつ、含みを持たせ瀬戸線の乗り入れについての結論は保留されていた。名古屋鉄道は、その後も2号線への瀬戸線の乗り入れについて、[[名古屋市]]と協議を続けた。しかし、市内の鉄道整備を独自に行おうとする姿勢の強い名古屋市とは折り合わず、結局この協議は、1965年(昭和40年)ころまでには、実質上頓挫してしまう(その結果、名古屋市側は、市役所 - 大曽根間を[[黒川駅 (愛知県)|黒川駅]]経由の北側大回りの路線として、独自に建設することとし、第三軌条方式にした)。
=== 1500V昇圧と栄町乗り入れ ===
[[File:Seto-otemachi.jpg|thumb|right|250px|大津町駅跡]]
{{地図外部リンク
|width = 200px
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}}{{Clearleft}}
地下鉄への乗り入れが断念された後の[[1966年]](昭和41年)のダイヤ改正からは、輸送力強化の方策として、車両を大幅に更新するとともに、[[大津町駅 (愛知県)|大津町駅]] - 尾張瀬戸駅間で[[名鉄特急#瀬戸線特急|特急]]が設定された。
しかしその後、都心部への乗り換え駅として主に機能していた大津町駅が[[名古屋市電|市電]]の廃止によってその機能を失い、[[1971年]](昭和46年)までに、名古屋市は地下鉄名城線の栄駅 - 大曽根駅間を開通させた。そのため、名古屋都心部への乗客の多くが大曽根駅で乗り換えるようになった。
このような状況から、瀬戸線独自での都心部への乗り入れは急務となり、名鉄は1968年(昭和43年)、東大手駅 - [[栄町駅 (愛知県)|栄町]]間について独自に敷設する申請を行った。しかし、瀬戸線が独自に[[栄 (名古屋市)|栄]]乗り入れを行えば、栄駅 - 大曽根駅間は地下鉄と競合することになることから、名古屋市と再度の協議が必要であった。協議の結果、1971年(昭和46年)12月、[[新三河鉄道]]時代から名鉄が保有していた[[八事駅|八事]] - [[赤池駅 (愛知県)|赤池]]間(現:[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|地下鉄鶴舞線]])の免許<ref group="注釈">免許自体は赤池から東の[[豊田市]]内まで続いており、名鉄の免許として残った区間は名鉄豊田線(赤池 - [[梅坪駅|梅坪]]間)として建設された。「[[名鉄豊田線]]」の記事を参照。</ref>を名古屋市に譲渡し、その見返りとして、瀬戸線独自に栄への地下新線を建設する協定が、名古屋市と名鉄の間で締結された。名鉄は、栄までの路線免許を[[1972年]](昭和47年)[[5月18日]]付で取得した。この新線建設計画と名古屋市内の他の部分の高架化計画に関して、瀬戸線は昭和47年の都市交通審議会答申において、他の地下鉄整備計画と並んで'''高速度鉄道9号線'''と位置付けられた(ただし、栄町駅 - 矢田駅間の整備終了後に出された平成4年[[運輸政策審議会]]答申「[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について]]」ではそのような位置付けはなくなっている)。
栄乗り入れ工事の起工式は[[1976年]](昭和51年)[[1月30日]]に実施され、その工事開始に伴って土居下駅を仮設駅に移転し、堀川駅 - 土居下駅間は、同年[[2月14日]]から[[バス代行|代替バス]]での運行となった。また全線で昇圧工事も始まり、各駅のホームの嵩上げや4両編成に対応するための延伸工事が実施された。
[[1978年]](昭和53年)になると貨物営業が廃止され、同年[[3月19日]]、架線電圧の1,500 Vへの昇圧が完了した。これに伴い新造車6600系の投入など、車両の全面的な更新が行われた。
そして同年[[8月20日]]、名鉄長年の悲願であった瀬戸線の都心乗り入れを果たした。都心乗り入れ区間の終着駅である栄の駅は、地下鉄と同じ栄とはせず、'''栄町'''とした。栄乗り入れにあたっては、[[名古屋テレビ塔|テレビ塔]]周辺の[[久屋大通公園]]の整備も同時に行われ、栄町駅に接続する[[セントラルパーク地下街]]も開業した。
栄町乗り入れに伴い、従来の特急を急行に変更し、準急の停車駅を見直した上で、朝は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各12分間隔、日中は急行30分・普通15分間隔、夕方は準急及び普通(栄町駅 - 喜多山駅間の運転)で各15分間隔のダイヤとなった。栄乗り入れによって瀬戸線は[[ドル箱]]路線に転じ、地価高騰に泣いていた名古屋市民の人口流出を後押ししただけでなく、大曽根駅一帯などの地域再開発を加速させる格好となった<ref>『[[中日新聞]]』1990年9月30日朝刊市民版18頁「【愛知県】名鉄瀬戸線の連続立体交差化 きょう完了 南北交通一気に好転へ 計画から苦難の23年 地域開発に弾み」([[中日新聞社]])</ref>。
なお、栄町への乗り入れに伴い、建設費用回収のため栄町駅 - 東大手駅間内または同区間に跨って利用する場合はキロ程で算出された運賃に別途全乗車区間のキロ程に応じて大人の普通運賃の場合で40 - 60円を加える[[運賃#加算運賃|加算運賃]]の制度が導入された。加算運賃は[[1995年]](平成7年)[[9月1日]]の運賃改定から一律30円(大人)に引き下げられ、その後[[2006年]](平成18年)[[12月16日]]の運賃制度改定([[#運賃|前述]])で廃止された。
=== 名古屋市内高架化と駅集中管理システムの導入 ===
矢田 - 大曽根間は、旧瀬戸街道(現在の矢田本通商店街)沿いの経路を通っていたが、ここは[[江戸時代]]の[[矢田川 (愛知県)|矢田川]]の河道に沿ったところでもあり、大雨が降ると中央本線のアンダークロス部分を中心に線路が浸水し、運行に支障が生じることがよくあった。また、大曽根駅北側の[[踏切]]は東大曽根六叉路交差点(現在は五叉路)のすぐ東側にあって、[[ラッシュ時]]の東大曽根交差点の道路の渋滞は深刻なものになっていた。そこで、大曽根駅周辺の瀬戸線の高架化整備が急がれ、周辺の[[土地区画整理事業]]の進捗とあいまって、[[1983年]](昭和58年)に森下駅 - 矢田駅間が高架化された<ref name="交通8308">{{Cite news |title=連続立交化工事が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-08-19 |page=1 }}</ref>。これに伴い、瀬戸電気鉄道の本社として建設された大曽根駅駅舎は解体された。
1990年(平成2年)[[9月30日]] には、[[国道19号]]と[[名古屋市道堀田高岳線|空港線]]([[国道41号]])を跨ぐ東大手駅 - 森下駅間が高架化された<ref name="交通900906">{{Cite news |title=名鉄瀬戸線 栄町-矢田間 連続立体化に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-09-06 |page=1 }}</ref>。これにより、両国道の渋滞の原因となっていた踏切が廃止された。また、車両の冷房化率が100%となった。
その後、[[尾張旭駅]]([[1994年]]〈平成6年〉移転新築)、[[印場駅]]([[1995年]]〈平成7年〉再開)、[[小幡駅]]([[1999年]]〈平成11年〉改築)、[[尾張瀬戸駅]]([[2001年]]〈平成13年〉移転新築)などの設備の改善が進められた。
[[2006年]](平成18年)には[[駅集中管理システム]]が導入され、主要駅を除き多くの駅が大曽根駅から遠隔管理される[[無人駅]]となった。また、[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]が導入され、全駅で[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]が利用できるようになった。なおこれに際して、運賃制度にも変更が加えられている([[#運賃|前述]])。
[[2007年]](平成19年)[[6月30日]]には、戦後長く使用されてきた[[喜多山駅 (愛知県)#喜多山検車区|喜多山検車区]]が廃止され、[[尾張旭駅#尾張旭検車区|尾張旭検車区]]が供用を開始した。併せて[[日本の鉄道車両検査|検車]]・[[保線]]業務については、入換・牽引用[[電気機関車]]や[[貨車]]を全廃し、機械扱いの機材への置き換えが行われた。
[[2008年]](平成20年)、[[名鉄4000系電車|4000系]]の導入<ref group="注釈">4000系電車は、同年[[8月24日]]、尾張旭検車区での栄町乗り入れ30周年の記念イベント開催の際、初めて一般に公開された([http://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2008/1187313_1140.html 〜名鉄瀬戸線 栄町乗り入れ30周年記念イベント〜「記念発車式」や「新型車両4000系撮影会&車内見学会」などを実施。] - 名古屋鉄道、2008年8月5日)。</ref> が開始され、1,500 V昇圧以来30年ぶりに、車両の全面的な更新が始まった。
[[File:Owari-Seto-station with 40th-train.jpg|thumb|250px|right|栄町乗り入れ40周年記念列車]]
現在、検車区廃止後の[[喜多山駅 (愛知県)|喜多山駅]]の[[高架駅]]化と、瀬戸街道([[愛知県道61号名古屋瀬戸線]])と[[名古屋環状2号線|環状2号]]([[国道302号]])上の踏切の立体化を中心とした小幡 - 大森・金城学院前間(1.9 km)の高架化事業が進捗中である。当初は[[2013年]](平成25年)度末([[2014年]]3月)の完成を目指していたが、同年度末になっても工事の第1段階である仮道の整備もできていない状態で工事は進んでおらず、[[2026年]](令和8年)度まで事業が延長されている<ref>[https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000010565.html 一般国道302号及び都市計画道路守山本通線と名古屋鉄道瀬戸線との立体交差事業] - 名古屋市</ref>。
=== 年表 ===
* [[1901年]]([[明治]]34年)[[5月16日]] - 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村-東春日井郡瀬戸町間)<ref name="kanp2157"/>。
* [[1902年]](明治35年)[[3月17日]] - 瀬戸自動鉄道株式会社設立(取締役会長 加藤杢左衛門)<ref>[{{NDLDC|780118/494}} 『日本全国諸会社役員録。 明治36年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|1190630/59}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道。 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1905年]](明治38年)[[4月2日]] - 瀬戸自動鉄道により矢田・瀬戸(現在の尾張瀬戸)間が開業{{sfn|今尾|2008|pp=45-46}}。
* [[1906年]](明治39年)
** [[3月1日]] - 大曽根・矢田間が開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[12月18日]] - 瀬戸自動鉄道が瀬戸電気鉄道に社名変更{{sfn|今尾|2008|p=45}}。
* [[1907年]](明治40年)3月17日 - 大曽根・瀬戸間が電化。電車運転開始<ref name="M100-745">{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=745}}</ref>。
* [[1909年]](明治42年)[[12月25日]] - 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村-名古屋市西区南外堀町間)<ref name="kanp2157"/>。
* [[1911年]](明治44年)
** [[5月23日]] - 土居下・大曽根間が開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[7月25日]] - 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村地内)<ref name="kanp2157"/>。
** 9月 - 御園・土居下間開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[10月1日]] - 東大手駅、久屋駅、本町駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1912年]](明治45年 / [[大正]]元年)
** この年以前 - 志談味通駅(後の霞ヶ丘駅と同位置)、桜川駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[8月10日]] - 軌道特許状下付(西春日井郡六郷村地内)<ref name="kanp2157"/>。
** 11月 - 大曽根駅に中央本線との貨物連絡線設置{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** 12月18日 - 鉄道免許状下付(東春日井郡瀬戸町字刎田-同郡品野村大字品野 動力蒸気 軌間762mm)<ref>[{{NDLDC|2952217/8}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1912年12月21日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1913年]](大正2年)
** [[7月15日]] - 駅前駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001>鉄道省 編 『[{{NDLDC|1207554/208}} 鉄道停車場一覧 昭和12年10月1日現在]』p.308 川口印刷所出版部 1934年 国立国会図書館デジタルコレクション</ref>。
** [[11月1日]] - 御園・大曽根間が複線化<ref name="RP864-149"/>。
* [[1914年]](大正3年)[[12月23日]] - 軌道特許状下付(東春日井郡瀬戸町一ノ坪-同町字刎田間、同郡守山町-志段味村間、西春日井郡六郷村-相愛知郡東山村間)<ref name="kanp16816"/>。
* 1914年(大正3年)以降 - 娯楽園駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1915年]](大正4年)
** この年以前 - 桜川駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** この年以降 - 師範下駅(師範学校下駅)廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[1月18日]] - 御園御門東から終点までの6[[チェーン (単位)|鎖]](約120m)が開通して全通、堀川駅開業<ref name="RP864-149"/>。
** [[6月16日]] - 森下駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001/>。
* [[1916年]](大正5年)[[8月16日]] - 鉄道免許失効(1912年〈大正元年〉12月18日免許 東春日井郡瀬戸町字刎田-同郡品野村大字品野 指定ノ期限内ニ工事施工認可申請ヲ為ササルタメ)軌道特許失効(1914年〈大正3年〉12月23日軌道特許 東春日井郡瀬戸町一ノ坪 - 同町字刎田間、同郡守山町-志段味村間、西春日井郡六郷村-愛知郡東山村間 指定ノ期限内ニ電気事業経営許可及工事施工認可ノ申請ヲ為ササルタメ)<ref name="kanp16816">[{{NDLDC|2953324/4}} 「軽便鉄道免許失効」、「軌道特許失効」『官報』1916年8月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1920年]](大正9年)[[8月13日]] - 鉄道免許状下付(名古屋市西区南外堀町-東春日井郡瀬戸町間)<ref>[{{NDLDC|2954526/4}} 「鉄道免許状下付」『官報』1920年8月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[[駄知町]]延長構想もあった [{{新聞記事文庫|url|0100189238|title=尾張瀬戸の交通文明 : 鉄道=電鉄=索道|oldmeta=00100703}} 「尾張瀬戸の交通文明」『大阪朝日新聞』1920年7月20日](神戸大学附属新聞記事文庫)</ref>。
* [[1921年]](大正10年)
** この年以前 - 御園駅、志談味通駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[2月15日]] - 大曽根・小幡間(矢田川橋梁除く)が複線化<ref name="M100-745"/>。
** [[2月19日]] - 瀬戸駅を尾張瀬戸駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[4月13日]] - 全線を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更<ref name="kanp2157">[{{NDLDC|2954743/11}} 「軌道特許失効」『官報』1921年5月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|2954727/13}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1921年4月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。守山口駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001/>。
* [[1922年]](大正11年)[[4月1日]] - 新居駅を旭新居駅に改称<ref name=chizucho_teiho/><ref>[{{NDLDC|2954988/4}} 「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1922年3月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
* [[1923年]](大正12年)以降 - 娯楽園駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}{{refnest|group="注釈"|地方鉄道法による鉄道変更直後の『[{{NDLDC|973618/75}} 大正10年 愛知県統計書]』(1921年)には娯楽園駅の記載がないが、一方で大津町駅開業後であるはずの『[{{NDLDC|1025500/184}} 昭和2年 鉄道停車場一覧]』(1927年)に未だ娯楽園駅として掲載されている。}}。
* [[1924年]](大正13年)[[12月17日]] - 三郷・根ノ鼻(後に廃止)間が複線化<ref name="M100-745"/>。
* [[1926年]](大正15年)[[5月26日]] - 娯楽園駅跡地付近に大津町駅を仮設<ref name="RP864-151">{{Cite journal|和書|author = 松永直幸|title = 名鉄沿線 歴史のある風景 補遺|date = 2012-07 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 864|page=151}}</ref>{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)
** この年以前 - 学園前駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[2月1日]] - 横山駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001/>および横山・尾張瀬戸間が複線化<ref name="M100-745"/>。
** [[7月1日]] - 喜多山信号所が駅に昇格<ref name=chizucho_teiho>{{Cite web|和書|url= https://www.railforum.jp/ftrain/public/dl/chizucho/tokai_46-48.html|title= 日本鉄道旅行地図帳 追加・訂補一覧|date=2010-12-31||author=星野真太郎|coauthors=伊藤昌英|publisher=鉄道フォーラム|accessdate=2018-04-18}}</ref>。霞ヶ丘駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001/>。
** [[7月2日]] - 小幡・印場間が複線化<ref name="M100-745"/>。
** [[11月11日]] - 印場・三郷間が複線化<ref name="M100-745"/>。
* [[1928年]](昭和3年)[[12月27日]] - 根ノ鼻・横山間が複線化<ref name="M100-745"/>。
* [[1929年]](昭和4年)12月<!--18日--> - 矢田川橋梁が複線化<ref>{{Cite book|和書|editor =名古屋鉄道|year =1961|title = 名古屋鉄道社史|asin = B000JAMKU4|page=288}}</ref>。
* [[1930年]](昭和5年) - 大津町駅が正式開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1935年]](昭和10年)[[6月1日]] - 横山駅を尾張横山駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1936年]](昭和11年)[[6月3日]] - 瓢{{lang|ja|簞}}山駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}<ref name=list19371001/>。
* [[1939年]](昭和14年)
**(名鉄合併前<!--瀬戸電名義で工費を一部寄付-->) - 久屋橋架替により複線幅が確保されガントレットが解消される<ref name="RP864-149">{{Cite journal|和書|author = 松永直幸|title = 名鉄沿線 歴史のある風景 補遺|date = 2012-07 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 864|page=149}}</ref>。
** [[9月1日]] - 名古屋鉄道が瀬戸電気鉄道を合併、瀬戸線となる{{sfn|今尾|2008|p=45}}。
* [[1941年]](昭和16年)
** [[2月10日]] - 聯隊前駅を二十軒家駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** [[2月24日]] - 久屋駅、坂下駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1942年]](昭和17年)
** この年以前 - 聾石駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** 4月頃 - 旭前駅開業{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1943年]](昭和18年)10月以前 - 清水橋の支間が拡幅されてガントレット(大手信号所<ref name="1943H">{{Cite book|和書|author = 清水武、田中義人|title=名古屋鉄道車両史 上巻|publisher=アルファベータブックス|year=2019|page=182}}</ref>)が解消された他、土居下・柳原信号所<ref name="1943H"/>間の単線区間も複線化される<ref name="RP864-149"/>。
* [[1944年]](昭和19年) - 東大手駅、社宮祠駅、駅前駅、守山口駅、瓢{{lang|ja|簞}}山駅、笠寺道駅、小幡原駅、霞ヶ丘駅、印場駅、平池駅、根ノ鼻駅休止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1945年]](昭和20年)頃 - 今村駅を水野駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1946年]](昭和21年)
** 6月1日 - 二十軒家駅を守山町駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
** 9月1日 - 喜多山車両検査工場開設。
** [[9月15日]] - 瓢{{lang|ja|簞}}山駅営業再開{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1948年]](昭和23年)[[1月5日]] - 印場・大森間で[[名鉄瀬戸線脱線転覆事故]]発生。瀬戸線史上最悪の惨事となる。
* [[1955年]](昭和30年)2月1日 - 守山町駅を守山市駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1956年]](昭和31年)[[10月15日]] - 大曽根・清水間の路線を敷設し直す。休止中の社宮祠駅、駅前駅廃止<ref>{{Cite book|和書|author=名古屋鉄道広報宣伝部(編)|year=1994|title=名古屋鉄道百年史|publisher=名古屋鉄道|page=996}}</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)[[1月20日]] - 追分駅を瀬戸市役所前駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1966年]](昭和41年)[[3月15日]] - 守山市駅を守山自衛隊前駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1969年]](昭和44年)[[4月5日]] - 休止中の守山口駅、笠寺道駅、小幡原駅、霞ヶ丘駅、印場駅、平池駅、根ノ鼻駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1971年]](昭和46年)11月1日 - 旭新居駅を尾張旭駅に、尾張横山駅を新瀬戸駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1976年]](昭和51年)2月15日 - 堀川・東大手(1944年〈昭和19年〉から休止中)間が廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}、東大手・土居下間が休止。
* [[1978年]](昭和53年)
** 2月15日 - 貨物営業廃止。
** [[3月19日]] - 架線電圧を600 Vから1,500 Vに昇圧。6600系、3730系、3770系、3780系の営業運転開始。最高速度を70 km/hから85 km/hに向上。
** [[8月20日]] - 栄町・東大手間の地下新線が開業。東大手・土居下間が経路変更、営業再開。東大手駅営業再開、土居下駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=46}}。栄町・東大手間に対して加算運賃を設定。一部の列車において4両編成での運転を開始。栄町駅、東大手駅には、地下新線開業時から自動改札機を設置。
* [[1983年]](昭和58年)[[8月21日]] - 森下・矢田間が高架化{{R|交通8308}}。0.1km延長。
* [[1986年]](昭和61年)- 6750系営業運転開始。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[12月10日]] - 東大手・森下間の上り線が立体交差化<ref>{{Cite news |title=東大手-大曽根間 上り線が立体化 名鉄 10日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1989-12-08 |page=2 }}</ref>。
* [[1990年]](平成2年)
** 6750系20両の増備とそれにともなう非冷房車(3730系・3770系)全廃により、冷房化率100%達成。
** [[9月30日]] - 東大手・森下間の下り線が立体交差化され、完成{{R|交通900906}}。
* [[1992年]](平成4年)[[11月14日]] - 大森駅を大森・金城学院前駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=46}}。
* [[1995年]](平成7年)
** 本線系より6000系16両が転入。
** [[12月22日]] - 印場駅再開業<ref name="Meitetsu2014_p183">{{Cite book|和書|author=名鉄120年史編纂委員会事務局(編)|year=2014|title=名鉄120年:近20年のあゆみ|publisher=名古屋鉄道|page=183}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)[[6月8日]] - 本線系からの6000系12両転入とそれによる3780系全廃にともなうダイヤ改正。全列車3ドア車での運転となり、スピードアップが実施された。
* [[2000年]](平成12年)[[6月10日]] - 本線系からの6000系8両の転入によるダイヤ改正。この時より、平日朝ラッシュ時間帯の運転パターンが普通のみの4分間隔での運転となった。また、平・休日に関わらず昼の時間帯に尾張旭折り返しの準急が毎時2往復増発され、1時間当たり急行・準急各2往復と普通4往復のダイヤパターンとなった。
* [[2001年]](平成13年)[[4月14日]] - 尾張瀬戸駅が移転。0.1km延長。
* [[2003年]](平成15年)[[3月27日]] - ダイヤ改正により、昼の運転パターンが見直され、準急を尾張瀬戸まで延長する代わりに普通の半数が尾張旭折り返しとなり、尾張旭で急行と接続するダイヤパターンとなった。また、大曽根駅と[[名鉄小牧線|小牧線]][[上飯田駅]]との通過連絡運輸措置の廃止。
* [[2005年]](平成17年)[[1月29日]] - 瓢{{lang|ja|簞}}山駅の表記を「瓢箪山」に変更(正字から略字の「箪」に){{sfn|今尾|2008|p=46}}。ダイヤ改正により、水野駅、瀬戸市役所前駅を急行停車駅に格上げ。これにより、急行は尾張旭 - 尾張瀬戸間の各駅に停車するようになった。
* [[2006年]](平成18年)
** 7月25日 - 尼ヶ坂駅を皮切りに駅集中管理システムを順次稼働開始(同年12月16日までに急行通過駅と瀬戸市役所前駅・水野駅に導入)。
** [[12月16日]] - 栄町駅乗り入れ時の加算運賃と通過連絡運輸措置の廃止に伴う運賃改定実施。トランパス導入。
* [[2007年]](平成19年)[[6月30日]] - 尾張旭検車区の供用開始に伴い、喜多山検車区が廃止。
* [[2008年]](平成20年)10月1日 - 4000系車両営業運行開始。
* [[2011年]](平成23年)
** [[2月11日]] - ICカード乗車券「[[manaca]]」供用開始。
** [[3月26日]] - ダイヤ改正により栄町発の尾張瀬戸行き最終が9分、喜多山行き最終が8分繰り下げ<ref>{{Cite press release|和書|title=2011年3月26日(土)から新ダイヤスタート ~ 朝の特急がより便利に ~|publisher=名古屋鉄道|date=2011-01-24|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2010/20110124_01.html}}</ref>。また、この改正までに6750系車両が全車営業運転を終了し、名鉄から吊り掛け駆動の旅客車両が消滅する。
* [[2012年]] (平成24年)[[2月29日]] - トランパス供用終了。
* [[2013年]] (平成25年)[[3月3日]] - 6600系のさよなら運転を実施。
* [[2014年]] (平成26年)[[4月6日]] - 6000系のさよなら運転を実施。瀬戸線の営業用車両が4000系に統一。
* [[2016年]](平成28年)[[9月17日]] - 喜多山駅仮線切り替えに伴うダイヤ修正。全線での所要時間が約1分伸長。3300系車両営業運行開始。
* [[2021年]]([[令和]]3年)
** [[5月22日]] - ダイヤ改正により日中の急行を削減し、尾張旭駅折り返しの普通を尾張瀬戸駅まで延長<ref name="meitetsu20210316">{{Cite press release|和書|title=5月22日(土)にダイヤ改正を実施します|publisher=名古屋鉄道|date=2021-03-16|url=https://www.meitetsu.co.jp/profile/news/2020/__icsFiles/afieldfile/2021/03/15/210316_daiyakaisei.pdf|format=PDF|accessdate=2021-03-24}}</ref>。
** [[10月30日]] - ダイヤ改正により前改正で急行の削減された時間帯における準急を普通へ格下げ。これにより該当時間帯における準急通過駅の停車本数が毎時4本から6本に増加した。
* [[2022年]](令和4年)[[3月19日]] - 小幡・大森・金城学院前間の上り線が立体交差化。
== 運行形態 ==
[[急行列車|急行]]・[[準急列車|準急]]・[[普通列車|普通]]の3種別の列車が運転されているが、喜多山駅を除いて途中に[[待避駅|待避設備]]がないため[[ダイヤグラム#ダイヤの作成|平行ダイヤ]]となっており、追い抜きは行われず、先発列車が先着する(栄町駅ではその旨の掲示が発車案内板に表示されている。上り急行が尾張旭駅で始発の普通列車に直接接続することはある)。普通列車の全区間所要時間は40分前後で、急行との差は10分程度である。下りは2016年以降(ただし2022年現在工事の支障になるため待避線は使用停止中)、上りは2022年以降喜多山駅で緩急接続が可能であるが、通常は行われない。
[[ワンマン運転]]は行われていないが、[[車内放送]]は、自動放送になっている。
定期列車は全日の初電の喜多山駅発尾張瀬戸駅行き、平日朝の尾張旭駅発尾張瀬戸駅行き下り各1本を除き<ref group="注釈">喜多山駅5:45(土休日5:50)発 普通列車と尾張旭駅6:03発 普通列車(第681列車)</ref>全て栄町駅を発着する。「せともの祭り」などでまれに尾張瀬戸駅発尾張旭駅行きの[[臨時列車|臨時]]普通列車(一部は[[回送]]列車を特別に客扱いする。2016年〈平成28年〉までは喜多山駅行きの普通列車も運転されていた)が運転されることがある。[[方向幕]]は「[[三郷駅 (愛知県)|三郷]]」も表示できるが、通常は使用されない。
現在列車はすべて4両[[編成 (鉄道)#車両編成|固定編成]]であるが、一部の駅(栄町・大曽根・小幡・喜多山(上り)・印場・尾張旭・尾張瀬戸)では将来の増結を考慮し、6両編成に対応した[[有効長]]のホームを有する。先の高架化により、喜多山駅(下り)についても6両編成対応になる予定である。車両規格はほぼ統一されているものの、[[ホームドア|可動式ホーム柵]]や[[女性専用車両]]は導入されていない。
瀬戸線では[[ミューチケット]]が必要な特別車(座席指定車両)連結列車は運行されていないが、有人駅の窓口で特別車が運行されている路線のミューチケットを購入することが可能である。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
|+日中の運行パターン(2021年5月22日改正時点)
!種別\駅名
!style="width:1em;"|栄町
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|小幡
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|尾張旭
!…
!style="width:1em;"|尾張瀬戸
!style="width:3em;"|本数
|- style="text-align:center;"
|style="background:#cf9;"|準急
|style="background:#cf9;" colspan="3"|
|style="background:#dfc;" colspan="6"|(各駅停車)
|2本
|- style="text-align:center;"
|style="background:#ddd;" rowspan="1"|普通
|style="background:#ddd;" colspan="9"|
|4本
|}
急行は概ね10時までと15時以降の運転。現行ダイヤでは日中は普通のみの運転。
=== 時間帯ごとの運行形態 ===
早朝(栄町駅を午前6時台に発着する列車)は両方向とも普通のみの運転である。
平日の朝は、栄町方面の朝7時から8時までにおいては、[[尾張旭駅]] - 栄町駅間は、最短運転時隔で3分、その他は4分間隔で走る高密度ダイヤになっている。待避設備を通常使わないこともあって、栄町方面には、急行などの優等列車が設定できず、普通のみの運用となっている。尾張瀬戸方面は準急と普通が交互に走り、普通の大半(2023年3月までは準急1本も)が尾張旭折り返しになる。また、三郷駅始発の普通栄町行きが3本設定されている(三郷駅には留置線や渡り線などがないため全て尾張瀬戸駅から回送されてくる)。
昼間時間帯では、平日・休日問わず概ね10時台から14時台まで普通のみが毎時6本、約10分間隔で運転されている。15時台以降は、これに準急と急行が毎時各2本加わり、普通4本のうち2本が尾張旭駅折り返しとなる。尾張旭折り返しの普通と急行は尾張旭駅で連絡している。
10時台から14時台の急行は、2021年5月22日のダイヤ改正により運転が取り止めとなり、尾張旭駅折り返しの普通列車の運転区間を尾張瀬戸駅まで延長することとなった<ref name="meitetsu20210316" />(2021年10月30日のダイヤ改正により当該時間帯の準急は普通に格下げされた)。このため、急行の運転がない時間帯は優等種別が停車する駅でも15分間隔となる部分があった。また、この改正で土休日に喜多山駅の待避線で日中留置される運用が登場した(栄町駅から回送で喜多山駅に到着したあと、夕方に尾張旭駅へ回送され普通列車になる)。喜多山駅待避線での土休日日中の車両留置は2022年3月をもって無くなり、喜多山駅上り留置線での留置に変更されている。
平日の夕ラッシュ時間帯にはすべての列車が栄町駅 - 尾張瀬戸駅間の通し運転となり、優等列車の種別が、尾張瀬戸方面はすべて準急、栄町方面はすべて急行となる。
平日夜間21時以降と休日夜間19時以降は、一部を除いて普通のみの運用となっている。この時間帯は尾張瀬戸駅発の定期回送列車も尾張旭駅まで数本運行されている。
栄町駅 - [[喜多山駅 (愛知県)|喜多山駅]]間の区間列車はかつて数多くあり、栄町乗り入れからしばらくは、普通を栄町駅 - 喜多山駅間の区間運用とし、急行停車駅を除き、名古屋市内の駅は普通、[[尾張旭市|尾張旭]]・[[瀬戸市|瀬戸]]両市内の駅は準急という運用が行われていた。検車区が尾張旭に移転した後は始発と[[終電|最終列車]]に限られたものとなっている。また、平日のみ8時台に喜多山駅終着・始発の普通が1本設定されている<ref group="注釈">2016年9月まで喜多山駅行きは到着後、駅東側の渡り線を使って上り線へ転線、折り返して栄町駅行きとなっていた。現在は高架化工事に伴い、尾張旭駅から回送されてきた列車が当駅始発の栄町駅行きとなり、喜多山駅行きは到着後、尾張旭駅へ回送される。</ref>。最終の喜多山行きは尾張旭駅へ回送されずにそのまま[[夜間滞泊]]となり、翌日の初電となって尾張瀬戸駅へ向かう。
=== 急行・準急 ===
1990年(平成2年)から2005年(平成17年)までの間、瀬戸線は名鉄で唯一準急が走る路線だった。[[2005年]](平成17年)のダイヤ改正で水野駅と[[瀬戸市役所前駅]]が急行停車駅となったため、急行と準急では印場駅と[[旭前駅]]に停車するか否かの違いしかない。名古屋本線などとは異なり、瀬戸線内で急行や準急の特別停車や途中駅からの種別変更は行われていない(名鉄ハイキング開催時は印場駅や旭前駅などに急行が臨時停車することがある。2004年まではせともの祭り開催時に水野駅に急行が臨時停車したことがある)。
曲線区間が多いことなどから、急行といえども平常ダイヤ時の実質的な最高速度は[[尼ヶ坂駅]] - [[大曽根駅]]間、[[守山自衛隊前駅]] - [[小幡駅]]間、[[印場駅]] - [[尾張旭駅]]間と[[三郷駅 (愛知県)|三郷駅]] - [[水野駅]]間で85 [[キロメートル毎時|km/h]]程度である。停車駅が増えているが、車両性能が向上しているため全区間の所要時間は30分前後と、600 V時代の[[1966年]](昭和41年)から[[1977年]](昭和52年)に運行されていた[[名鉄特急#瀬戸線特急|特急]]からほとんど変わっていない。
かつて準急は朝と夜のみに設定されていたが、2000年6月10日のダイヤ改正以降、日中にも設定され、平日の夕方ラッシュ帯の尾張瀬戸行き急行が準急に置き換えられるなど大幅に増えた。また日中の準急は栄町駅 - 尾張旭駅間の運転で、区間運転の準急が設定されたのはこの時が初めてである。2003年3月27日のダイヤ改正以降、日中も尾張瀬戸駅まで延長され、区間運転の準急は平日朝の栄町駅発1本のみである。この1本も2023年3月18日のダイヤ改正で廃止された。
先述の通り、日中の急行は尾張旭駅折り返しの普通と連絡している。2003年3月27日のダイヤ改正で日中の準急が尾張瀬戸駅まで延長され、普通毎時4本のうち2本が尾張旭駅折り返しになったが、下りは急行の前、上りは急行の後をそれぞれ走っているため、名古屋市内の急行通過駅と当時急行通過駅であった水野駅・瀬戸市役所前駅の間を行き来する場合、実質30分間隔となってしまった。このため、2005年1月29日のダイヤ改正で水野駅と瀬戸市役所前駅を急行停車駅とすることで、尾張旭駅のりかえで行き来できるようにしている。
=== 列車種別・停車駅の変遷 ===
; 瀬戸電気鉄道時代(1936年 - 1939年頃<ref group="注釈">1936年7月3日(瓢{{lang|ja|簞}}山駅開業)から1939年9月1日(瀬戸電気鉄道が名鉄に合併)までの間。</ref>)
: [[File:Line map of Seto Electric Railroad.svg|600px|停車駅]]
:
; 1953年6月28日改正
:* 急行を再設定(1950年8月1日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Seto Line (1953).svg|600px|停車駅]]
:
; 1969年7月6日改正
:* 特急を新設(1966年3月16日改正)。
:* 急行を廃止(1967年8月22日改正)。
:* 準急を新設(1968年3月20日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Seto Line (1969).svg|600px|停車駅]]
:
; 1978年8月20日改正
:* 停車駅を変えずに特急を急行に格下げ(1977年3月20日改正)。
:* “お濠区間”を廃止し、栄町へ乗入れ(1978年8月20日改正)。
: [[File:Line map of Meitetsu Seto Line (1978).svg|600px|停車駅]]
:
; 1995年5月8日改正
: [[File:Line map of Meitetsu Seto Line (1995).svg|600px|停車駅]]
:
; 2005年1月29日改正
: [[File:Line map of Meitetsu Seto Line (2005).svg|600px|停車駅]]
== 沿線風景 ==
{|{{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線 |#7c2982}}
{{BS-table}}
{{BS6||||||||お濠電車区間|-1976|}}
{{BS6|||||uexSTR||||''[[名古屋市電]]'' :''[[名古屋市電行幸線|行幸線]]''|}}
{{BS6|||||uexhKRZWae|WASSERq|||[[堀川 (名古屋市)|堀川]]|}}
{{BS6|||||uexBHF|O5=HUBaq|exKBHFa|O6=HUBeq|{{BSkm|-|*0.0}}|''[[堀川駅 (愛知県)|堀川駅]]''|/左:''景雲橋電停''|}}
{{BS6|||||uexSTR|exSTR|O6=uexlHST||''御園駅''|-1921以前|}}
{{BS6|||||uexBHF|O5=HUBa|exSTR|||''名古屋城電停'' {{BSsplit|↑''行幸線''|↓''[[名古屋市電東片端線|東片端線]]''}}|}}
{{BS6|||||uexSTR|O5=HUB|exDST||''招魂社前信号所''|(本町橋[[単複線|ガントレット]])|}}
{{BS6|||||uexSTR|O5=HUBl|exBHF|O6=HUBeq|{{BSkm|-|*0.7}}|''[[本町駅 (愛知県)|本町駅]]''|''護国神社前駅'' ?|}}
{{BS6|||||uexSTR|exBHF|O6=HUBa|{{BSkm|-|*0.9}}|''娯楽園駅''|-1923以降|}}
{{BS6|||||uexSTR|O5=HUB+l|exBHF|O6=HUBrf|{{BSkm|-|*1.0}}|''[[大津町駅 (愛知県)|大津町駅]]''||}}
{{BS6|||||uexTBHFx|O5=HUBe|exmKRZu|||''大津橋電停'' {{BSsplit|←''[[名古屋市電大津町線|大津町線]]''/''廓内線''→|↑↓''東片端線''}}|}}
{{BS6|||||uexLSTR|exLSTR|||下に続く|}}
{{BS-colspan}}
----
{{BS4||||tSTR|||[[名古屋市交通局|名市交]]:[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]|}}
{{BS6||||tSTRq|tKRZt|tBHFq|O6=HUBa|||名市交:[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]|}}
{{BS6|||||O4=HUB+l|tBHF|O5=HUBq||O6=HUBr|||[[栄駅 (愛知県)|栄駅]]|}}
{{BS6||||tKBHFa|O4=HUBe|tSTR||{{BSkm|0.0|-}}|ST01 [[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]||}}
{{BS6||||tKRZt|tKRZt|tHSTq|O6=HUBa|||名市交:[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]|}}
{{BS6||||tSTR|tHST|O5=HUBaq||O6=HUBr|||[[久屋大通駅]]|}}
{{BS6|||tSTRc2|tSTR3|O4=POINTERg@lfq|tSTR2|tSTRc3||栄町地下トンネル|1725.3 m<ref>{{Cite journal|和書|author = 高橋大介|title = 線路と保線|date = 2009-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 816|page=101}}</ref>|}}
{{BS6||uexBHFq|O2=HUBaq|tSTR+1|O3=uexSTRq|P3=HUBq|tSTRc4|O4=uexSTRq|P4=HUBq|tSTRc1|O5=uexSTRq|P5=HUB+r|tSTR+4|O6=uexLSTRq|||''東外堀町電停''|}}
{{BS6||exSTR+l|tSTR|O3=exSTRq|exDSTq|exBHFq|O5=HUBe|tSTR|O6=exLSTRq|{{BSkm|-|*1.2}}|''[[久屋駅]]''|-1944 /''お濠区間''→(上図)|}}
{{BS6||exSTR2|tSTR2|O3=exSTRc3|tSTRc3|O4=POINTERg@g||tSTR|||(久屋橋ガントレット) -1939||}}
{{BS6||exSTRc1|exSTR+4|tSTR+4||tHST|||[[名古屋城駅]]|}}
{{BS6|||exDST|tSTR||tSTR||''大手信号所''|(清水橋ガントレット) -1943|}}
{{BS6|||exBHF|tBHF||tSTR|{{BSkm|1.5|*1.9}}|ST02 [[東大手駅]]|<ref group="*" name="kyushi1978">1944年休止 1978年再開</ref>|}}
{{BS6|||exSTRl|etKRZ|exSTR+r|tSTRl|||名市交:名城線→|}}
{{BS6||||tSTR|exBHF||{{BSkm|-|*2.2}}|''[[土居下駅]]''||}}
{{BS6||||tSTR|exDST|||''柳原信号所''|-1943|}}
{{BS4|||tSTRe|exBHF|{{BSkm|(2.0)|*2.6}}|''[[土居下駅]](仮)''|<ref group="*">1976年 - 1978年</ref>|}}
{{BS4|||eKRWg+l|exKRWr|O4=POINTERg@f||''お濠電車区間''|-1976|}}
{{BS4||exKRW+l|O2=POINTERf@g|eKRWgr|||''旧線区間''|(I) -1956|}}
{{BS4||exmKRZ|emKRZ|uexBHFq|O4=HUBa|||''深田町電停'':''[[名古屋市電清水口延長線|清水口延長線]]''|}}
{{BS4||exSTR|SKRZ-Au||O4=HUB|||[[名古屋高速道路|名古屋高速]][[名古屋高速1号楠線|1号楠線]]|}}
{{BS4||exBHF2|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|P3=exSTRc3||O4=HUBr|{{BSkm|2.2|*2.8}}|ST03 [[清水駅 (愛知県)|清水駅]]||}}
{{BS4||exSTRc1|exSTR2+4|O3=BHF|exSTRc3|{{BSkm|2.7|*3.3}}|ST04 [[尼ヶ坂駅]]||}}
{{BS4|||eSTR+c1|exSTR+4|O4=uexlHST3|{{BSkm|-|*3.5}}|''[[師範下駅]]''|-1915以降|}}
{{BS4|||STR|exBHF|{{BSkm|-|*3.8}}|''[[社宮祠駅]]''|<ref group="*" name="kyushi1956">1944年休止、1956年廃止</ref>|}}
{{BS4|||STR|exBHF|{{BSkm|-|*4.2}}|''[[坂下駅 (愛知県)|坂下駅]]''|-1941|}}
{{BS6||||BHF|O4=HUBaq|exSTR|O5=HUBq|HUB+r|{{BSkm|3.6|-}}|ST05 [[森下駅 (愛知県)|森下駅]]|(II) 1956-|}}
{{BS6||||emKRZ|exmKRZ|uexTBHFa|O6=HUB|||''大曽根電停'' {{BSsplit|←''[[名古屋市電高岳線|高岳線]]''/''[[名古屋市電御成通線|御成通線]]''→|↓''[[名古屋市電大曽根線|大曽根線]]''}}|}}
{{BS6||||STR|exBHF|O5=HUBaq|uexSTR|O6=HUBr|{{BSkm|-|*4.4}}|''森下駅''|(I) -1956|}}
{{BS6||||STR|exSTR|O5=uexlHST|uexSTR||''柳ヶ坪駅''|-? ''稲荷山駅'' ?|}}
{{BS6|STRq|STRq|STR+r|STR|exSTR|uexSTR|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[中央本線]]|}}
{{BS6|||STR|O3=lvBHF-Rq|P3=HUBaq|STR|O4=HUBq|exBHF|O5=HUBeq|uexSTR|{{BSkm|-|*5.0}}|''[[駅前駅 (名古屋市)|駅前駅]]''|<ref group="*" name="kyushi1956" /> (南口と連絡)|}}
{{BS6|||STR|O3=lBHF-Mq|eKRWgl|exKRWg+r|O5=POINTERg@fq|uexSTR|||{{BSsplit|↑''旧線区間'' (I) -1956|↓''旧線区間'' (II) -1983}}|}}
{{BS6|||STR|O3=lBHF-Mq|STR|exBHF|O5=HUBa|uexSTR|{{BSkm|-|*5.2}}|''大曽根駅''|(I) -1983 ''下街道駅'' ?|}}
{{BS6||uKBHFa|O2=HUBrg-R|STR|O3=lBHF-Lq|P3=HUB-Lq|BHF|O4=HUB-Lq|exSTR|uexSTR|O5=HUBtr-3|{{BSkm|4.6|-}}|ST06 [[大曽根駅]]|{{BSsplit|(II) 1983-|←[[ゆとりーとライン]]<ref group="*" name="NGB">[[名古屋ガイドウェイバス]]:[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]<!-- 文字数が多く横幅を取るので脚注に送る --></ref>}}|}}
{{BS6|uSTRq|uSTRr|O2=HUB-R|eABZgl|eKRZo|exABZg+r|O5=HUB-L|uexSTR|||''貨物連絡線'' -1983|}}
{{BS6|uexSTRq|uexKBHFeq|O2=HUB-R|STR|STR|exSTR|O5=HUBlf-L|uexKBHFe|O6=HUBlg-L|||{{BSsplit|右:''東大曽根電停''|左:''矢田町四丁目電停''/←[[名古屋市電循環東線|循環北線]]}}|}}
{{BS6|tSTRq|tSTRq|O2=HUBlf-R|KRZt|O3=HUB-Rq|KRZt|O4=HUB-Rq|xKRZt|O5=HUB-Rq|tBHFq|O6=HUBrf-L|||名市交:名城線|}}
{{BS6|exSTR+l|exSTRq|eKRZo|eKRZo|exSTRr|||||}}
{{BS6|exSTR||STRl|KRZo|STRq|STRq|||JR東海:中央本線|}}
{{BS6|exSTRl|exSTRq|exSTRq|eABZg+r|||||←''旧線区間'' (II) -1983|}}
{{BS2||hSTRae||[[矢田橋梁]]|27 m<ref group="*">[[瀬戸街道]]([[愛知県道61号名古屋瀬戸線]])</ref><!-- 文字数が多く横幅を取るので脚注に送る -->|}}
{{BS2||BHF|{{BSkm|5.9|*6.3}}|ST07 [[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]]|''木ヶ崎駅'' ?|}}
{{BS2||hKRZWae|||[[矢田川 (愛知県)|矢田川]]|}}
{{BS2||eBHF|6.4|''[[守山口駅]]''|<ref group="*" name="kyushi1969">1944年休止、1969年廃止</ref>|}}
{{BS2||STR|O2=uexlHST||''守山駅''|-? ''役場前駅'' ?|}}
{{BS4||uSTRq|mKRZu|uHSTq|O4=HUBa|||[[守山駅 (愛知県)|守山駅]]/ゆとりーとライン<ref group="*" name="NGB"/>|}}
{{BS4|||BHF|O3=HUBaq||O4=HUBr|7.0|ST08 [[守山自衛隊前駅]]|''衛門前駅'' ?|}}
{{BS2||BHF|7.6|ST09 [[瓢箪山駅 (愛知県)|瓢箪山駅]]||}}
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{{BS2|exnSTR+l|eABZgnr||''[[喜多山駅 (愛知県)#喜多山検車区|喜多山検車区]]''|-2007|}}
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{{BS2||BHF|10.7|ST12 [[大森・金城学院前駅]]||}}
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{{BS4|||BHF|O3=HUBaq||O4=HUB+r|18.7|ST18 [[新瀬戸駅]]||}}
{{BS4||STRq|KRZu|BHFq|O4=HUBe|||[[瀬戸市駅]]/[[愛知環状鉄道線]]|}}
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{{BS2|WASSER+r|STR|||[[瀬戸川 (愛知県)|瀬戸川]]|}}
{{BS2|WASSER|eBHF|20.5|''尾張瀬戸駅'' (I)|-2002|}}
{{BS2|WASSER|KBHFe|20.6|ST20 [[尾張瀬戸駅]] (II)|2002-|}}
{{BS-colspan}}
----
凡例
{{BS2|STR|O1=uexlHST|exSTR|O2=uexlHST|||軌道時代の廃止停車場|}}
{{BS-colspan}}
<references group="*" />
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|}
瀬戸線の沿線はほとんど住宅地や市街地となっており、山林や田園地帯は多くない。全体的に平坦な地形を通っていることからトンネルは栄町地下トンネルのみである。大まかには以下のようになる。
起点の'''[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]'''は、名古屋市の繁華街[[栄 (名古屋市)|栄地区]]にあり、地下街や地下鉄栄駅に隣接している。ここから東大手駅を過ぎるまでの約1.7kmは[[栄町地下トンネル]]を進む。地下で[[名古屋市営地下鉄]][[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]と並走し、同[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]との交差地点には両地下鉄線の[[久屋大通駅]]があるが、栄町駅に近いため瀬戸線の駅は設けられていない。愛知県庁の直下付近で60km/h制限のS字カーブを切り名城線と別れてさらに東寄りになり、地下駅の'''[[東大手駅]]'''に着く。同駅の付近には[[愛知県庁]]・[[名古屋市役所]]を始めとする官庁街、[[名古屋医療センター]]、[[愛知県立明和高等学校]]などがあり、朝夕は通勤客と学生で賑わう。
東大手駅を出てすぐのところで地上に出て30[[パーミル]]の勾配で一気に高架に上がる。右へカーブして[[名古屋市道堀田高岳線|空港線]]([[国道41号]])と、[[名古屋高速1号楠線]]を乗り越えたところに'''[[清水駅 (愛知県)|清水駅]]'''がある。この辺りは[[熱田台地|名古屋台地]]の北端の崖下の低地であり、清水駅から'''[[尼ヶ坂駅]]'''を経て森下駅付近までは崖に沿うように進む。栄町トンネルを出てから大曽根駅の手前までは側道に桜が植えられており、桜のシーズンには列車の両側に桜を見ながら進む。[[国道19号]]を乗り越え'''[[森下駅 (愛知県)|森下駅]]'''、さらに左へカーブして'''[[大曽根駅]]'''に着く。
大曽根は古くから街道の合流点であり宿場町として栄えた町で、現在でも名古屋の繁華街・歓楽街の一つである。大曽根駅は大曽根地区の北東にあり、JR[[中央線 (名古屋地区)|中央本線]]・名古屋市営地下鉄名城線・[[名古屋ガイドウェイバス]][[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])と乗り換えが可能な名古屋の交通の要衝の駅でもある。瀬戸方面から名鉄で来た後、同駅でJRに乗り換え金山・名古屋方面へ向かう客や地下鉄・市バスへの乗り換え客も多い。大曽根駅を過ぎると右へカーブしてJRを乗り越える。高架から降りて瀬戸街道を瀬戸線で唯一の[[トラス橋]]である[[矢田橋梁]]で乗り越えると'''[[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]]'''に着く。矢田駅は瀬戸線の駅では最も利用者が少ないが、[[ナゴヤドーム]]まで900mであり、地下鉄が開業するまでは最寄り駅だったこともあり、現在でも瀬戸方面から同駅で下車してナゴヤドームへ向かう客が少なからず存在する。
矢田駅を過ぎるとすぐに瀬戸線最急で、現在は名鉄全線中最急でもあるカーブ(半径120m・制限速度35km/h)を通過後[[矢田川 (愛知県)|矢田川]]鉄橋を渡る。ここは瀬戸線の有名撮影地として知られ、瀬戸線でイベント列車が走るときは多くのカメラマンが集結する。橋を渡ると[[守山区]]に入り、ゆとりーとラインの高架をくぐると'''[[守山自衛隊前駅]]'''に着く。[[第10師団 (陸上自衛隊)|陸上自衛隊第10師団]]が駐屯する[[守山駐屯地]]はこの北側にあり、瀬戸線からも駐屯地の正門を見ることができる。この付近から終点の尾張瀬戸駅まではほとんど[[瀬戸街道]]([[愛知県道61号名古屋瀬戸線]])と並走する。なお守山自衛隊前駅周辺でも立体交差事業の構想がある。'''[[瓢箪山駅 (愛知県)|瓢箪山駅]]'''を過ぎると守山区役所に近く、橋上駅を持つ急行停車駅の'''[[小幡駅]]'''。準急はここから瀬戸方面は各駅停車となる。小幡駅を出ると左へカーブし[[愛知県道61号名古屋瀬戸線|瀬戸街道]]と交差する。この交点にある小幡5号踏切は自動車の交通量がかなり多く、朝ラッシュは列車の本数も多いためよく閉まり、[[開かずの踏切]]になっている。なお、踏切付近の線路はS字状にカーブしており、45 km/hの速度制限が掛かっている。踏切を抜けると瀬戸街道の北側を走り、'''[[喜多山駅 (愛知県)|喜多山駅]]'''に着く。喜多山駅には瀬戸線で唯一構内踏切が残っている。[[尾張旭駅#尾張旭検車区|尾張旭検車区]]ができる前は同駅に隣接して車庫が設けられていたため現在も列車の運行上で重要な駅であり、乗務員の交代も行われている。また、喜多山駅周辺では単独立体交差事業が始まっており、同駅は高架駅となる予定である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/53-3-2-5-2-0-0-0-0-0.html |title=道路と鉄道の立体交差化 |publisher=名古屋市 |date=2012-07-23 |accessdate=2015-09-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000010565.html |title=一般国道302号及び都市計画道路守山本通線と名古屋鉄道瀬戸線との立体交差事業 |publisher=名古屋市 |date=2014-04-04 |accessdate=2015-09-27}}</ref>。喜多山駅を出ると[[名古屋環状2号線|環状2号]]([[国道302号]])と平面交差する([[名古屋第二環状自動車道]]は同所で地下を通る)。度々渋滞が起こっているが高架化によってこの踏切も除去される予定である。さらに進むと'''[[大森・金城学院前駅]]'''に着く。同駅は瀬戸線で名古屋市内最後の駅であり、付近の[[金城学院大学]]の学生で賑わっている。大森・金城学院前駅を出ると[[尾張旭市]]に入り、[[東名高速道路]]の高架をくぐってすぐのところにあるのが'''[[印場駅]]'''。同駅は1944年に休止、その後廃止されていたが、1995年に復活した瀬戸線で最も新しい駅であり、旭労災病院や東尾張病院への通院者や付近からの通勤・通学での利用者がそこそこいる。印場の次は'''[[旭前駅]]'''。両駅間にあるカーブの85km/h制限は当線で最も高い速度制限である。旭前駅は[[愛知県立旭野高等学校]]の最寄り駅であり朝夕は高校生で賑わう。旭前駅を出て左側に城山公園やスカイワードあさひ、右側に尾張旭検車区が見えてきて尾張旭市の中心部に入ると、橋上駅舎を有する'''[[尾張旭駅]]'''に着く。
尾張旭駅は検車区を有し、栄町方面から来た普通列車の約半数が折り返す大きな駅である。急行はここから終点の尾張瀬戸駅まで各駅に停車する。かつては急行も停まらない無人駅で利用者が少なかったが、[[1995年]]に急行が停車するようになり利用者も大幅に増えている。尾張旭駅の次は愛知県森林公園に近い'''[[三郷駅 (愛知県)|三郷駅]]'''。同駅は1977年まで特急も停車しており尾張旭市内では最も利用者が多く、現在も急行停車駅として多くの利用者で賑わっている。三郷駅を出ると[[瀬戸市]]に入り'''[[水野駅]]'''を経由し'''[[新瀬戸駅]]'''。新瀬戸は[[愛知環状鉄道]]の[[瀬戸市駅]]が隣接しており、乗り換える客や[[公立陶生病院]]への通院患者、付近からの通勤・通学などの利用者がそこそこいる。新瀬戸駅を出ると[[国道155号]]と平面交差し、間も無く'''[[瀬戸市役所前駅]]'''。瀬戸市役所前駅は公立陶生病院を越えてすぐのところに位置している。周辺は静かな住宅街となっており、利用者は少ない。瀬戸市役所前駅を出て国道155号と瀬戸川が右手に並ぶと間もなく終点の'''[[尾張瀬戸駅]]'''に着く。
== 車両 ==
[[File:Meitetsu Setoline 6235.jpg|thumb|250px|right|水性塗料で塗装された6000系]]
瀬戸線は、名鉄の他の路線網と接続が無い孤立路線であること、駅間距離が短いこと、さらに、栄町駅 - 東大手駅間では地下を走るため、A - A基準を満たす[[地下鉄等旅客車|地下鉄対応車両]]が必要となることなどから、瀬戸線専用として登場した特徴的な車両がいくつか存在する。1996年([[平成]]8年)に3780系が全廃となって以降、瀬戸線では3ドアロングシートの[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]]のみが走っている。
新車両の導入や他線との車両の転属を行う場合には[[牽引自動車|トレーラー]]での陸送が行われる。2008年度(平成20年度)より開始された4000系の導入に際しても、製造会社である[[日本車輌製造]]豊川製作所から尾張旭検車区まで、道路上をトレーラーで運ばれた。これに対して1978年(昭和53年)の1,500 V昇圧時など、[[大曽根駅]]が[[地上駅]]で[[中央本線]]との貨物連絡線があった頃は、同線経由で搬入していた。[[日本の鉄道車両検査|重要部検査・全般検査]]の際には台車や主要機器を車体から取り外して[[舞木検査場]]まで[[貨物自動車|トラック]]で搬送し、検査を行っている。
6000系・6600系などの4000系より前に登場した車両は[[塗装]]が必要な車体であったが、現在瀬戸線内には[[相転移#物理学的性質|揮発性]][[塗料]]による塗装設備がないため、全般検査等においても部分補修に留めてその延命を図っていた。しかし次第に塗装の傷んだ部分が目立つようになったため、2010年(平成22年)12月に出場した6600系6602Fからは周囲の環境に影響を与えにくいよう、水性塗料を用いて塗装するようになった。
=== 現行の車両 ===
かつては旧型車の楽園といった状況であったが、JR東海が愛知環状鉄道線を経由した名古屋駅までの直通運転を開始した3年後の2008年(平成20年)からすべての在籍車両の4000系への置き換えが進められた。[[2011年]](平成23年)3月までに6750系、2013年(平成25年)3月までに6600系を全車[[廃車 (鉄道)|廃車]]し、6000系についても6032Fが2011年(平成23年)4月に廃車となったことを皮切りに廃車が進められた。6600系については[[2013年]][[3月3日]]の[[さよなら運転]]で<ref>[http://railf.jp/news/2013/03/04/163000.html 名鉄6600系が、さよなら運転] 鉄道ファン公式サイト、2013年3月4日配信</ref>、6000系については[[2014年]][[4月6日]]のさよなら運転で<ref>[http://railf.jp/news/2014/04/07/160000.html 名鉄瀬戸線6000系がさよなら運転] 鉄道ファン公式サイト、2014年4月7日配信</ref>運用を終了した。
以降、列車はすべて4000系4両編成で運転<ref group="注釈">4000系運転開始まで、平日朝ラッシュ時は検査車両を除く全編成(当時18本)で運行し、予備編成はなかったため、事故や故障で1本でも車両が使えなくなると、数本の運休または区間運休をせざるを得なくなっていた。運休となった場合は次の列車を利用するように案内される。また運休や遅れによって乗り換え予定の列車に乗り遅れても、その補償はしないといったことが駅の時刻表に掲示されていた。その後、3300系が1編成導入された時点では19本に対し最大運用数は17となり、2本の余剰が生じることとなる。</ref>していたが、喜多山駅付近の高架工事に伴い、本線系で使用の3300系が暫定的に導入された<ref>[https://archive.is/20141221003445/http://www.meitetsu.co.jp/recommend/catalog/1240451_5053.html 「瀬戸線3300系車両搬入記念スタンプ入場券」を発売いたします] - 名古屋鉄道、2014年12月17日(archive.isによるアーカイブ、2014年12月21日取得、2016年11月5日閲覧)</ref>。3300系は2016年9月17日より運用されている。4000系と3300系はいずれも[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]で、フルカラーLED式の行先表示を備えている。また、ステンレス車でもある。両形式とも右手操作式[[マスター・コントローラー|ワンハンドルマスコン]]を備えている。3300系は本線系のものと同様に120km/hに対応しているが、瀬戸線では本来の性能を発揮しない。また瀬戸線以外を走ることはないため、塗装は変更されないまま運用されている。
* [[名鉄4000系電車|4000系]](全18編成)
* [[名鉄3300系電車 (3代)|3300系]](3306Fの1編成のみ)
<gallery widths="150" style="font-size:90%;">
Meitetsu4000.JPG|4000系
Meitetsu Express 3300 series 4.jpg|3300系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
西暦は瀬戸線運用期間<!--転属時期不明の車両も「?」とした-->。「<sup>×</sup>」は瀬戸線からの運用離脱により瀬戸電籍・名鉄籍として形式消滅した車両<!--他線区と同時の場合を含む-->。
==== 瀬戸自動鉄道時代 ====
* <sup>×</sup>[[セルポレー式蒸気動車]](A・B・C) - 1905年-1922年{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=162}}
==== 瀬戸電気鉄道時代 ====
; 電車
:* [[瀬戸電気鉄道テ1形電車|テ1形]]
:** テ1・2 - 1906年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** テ3・4→サ10形 - 1908年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** VS5・6(レ5・6{{sfn|山田・鈴木|2005|p=22}})→サ20形(21・22) - 1909年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** テ7 - 1910年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** テ8-10・12 - 1911年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** テ11 - 1912年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=152}}
:** テ13 - 1912年-1927年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=22}}
:** テ14-16→モ10形11-13 - 1912年-1947年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=22}}
:** テ17-22→モ10形14-19 - 1913年-1949年{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=153}}
:** テ23-27→モ20形 - 1919年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=153}}
:** テ28-32→モ30形 - 1920年-?{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=153}}
:* [[瀬戸電気鉄道ホ101形電車|ホ101形]]→モ550形 - 1925年-1960年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=32}}
:* [[瀬戸電気鉄道ホ103形電車|ホ103形]]→モ560形 - 1926年-1964年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=33-35}}
; 蒸気機関車
:* <sup>×</sup>[[雨宮製作所]]製の8t機(1) - 1920年-1937年{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=164}}{{sfn|山田・鈴木|2005|p=18}}
; ガソリンカー
:* <sup>×</sup>200形→[[瀬戸電気鉄道キハ300形気動車|キハ300形]]→ク2200形 - 1936年-1964年{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=153}}
; 電気機関車
:* <sup>×</sup>[[瀬戸電気鉄道デキ1形電気機関車|デキ1形]]→デキ200形 - 1927年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=62}}
; 事業用車
:* <sup>×</sup>[[瀬戸電気鉄道テワ1形電車|テワ1形]]→デワ1形 - 1920年-1960年
; 貨車
:* (形式不明)→[[名鉄ト1形貨車|ト1形]] - 1912年-?
<gallery widths="150" style="font-size:90%;">
Serpollet steam powered railcar.JPG|セルポレー式蒸気動車
Meitetsu mo 10.JPG|モ10形<br />(旧テ1形15)
Setoden te 1 No.27.jpg|テ1形27<br />(後のモ20形)
Setoden te 1 No.32.jpg|テ1形32<br />(後のモ30形)
Meitetsu mo 550 (I).jpg|モ550形<br />(旧ホ101形)
Seto Electric Railway ho 107.jpg|ホ103形<br />(後のモ560形)
Meitetsu ku 2201 kitayama.jpg|ク2200形
Setoden deki 1.jpg|デキ1形<br />(後のデキ200形)
Meitetsu dewa 1 (II).jpg|デワ1形<br />(旧テワ1形)
</gallery>
==== 600 V時代 ====
; 電車
:*[[美濃電気軌道セミボ510形電車|モ520形]] - 1939年-?{{sfn|山田・鈴木|2005|p=38}}
:* サ2240形(サニ2240形{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=161}}) - 1944年-[[名鉄瀬戸線脱線転覆事故|1948年]]{{sfn|山田・鈴木|2005|p=39}}
:* [[尾西鉄道デボ100形電車|モ160形]] - ?-1952年以降{{sfn|山田・鈴木|2005|p=40}}
:* [[名岐鉄道キボ50形気動車|ク2060形]] - ?-1960年頃{{sfn|山田・鈴木|2005|p=41}}
:* <sup>×</sup>[[名岐鉄道デボ300形電車|ク2270形]] - ?-1960年頃{{sfn|山田・鈴木|2005|p=43}}
:* <sup>×</sup>[[名岐鉄道デボ400形電車|ク2260形]] - ?-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=44}}
:* <sup>×</sup>[[名岐鉄道デボ600形電車|モ600形]] - 1950年頃-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=48}}
:* <sup>×</sup>[[名古屋鉄道デボ650形電車|ク2230形]] - ?-1966年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=46}}
:* [[尾西鉄道デボ200形電車|モ250形]] - 1950年頃-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=52}}
:* [[尾西鉄道デボ200形電車|モ200形]] - ?-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=55}}
:* <sup>×</sup>ク2120形 - 1958年-1965年{{sfn|加藤・渡辺|2015|p=154}}
:* [[愛知電気鉄道電5形電車|ク2040形]] - 1959年-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=56-57}}
:* <sup>×</sup>[[三河鉄道キ80形気動車|ク2220形]] - 1960年-1973年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=66}}
:* <sup>×</sup>[[碧海電気鉄道デ100形電車|ク1010形]] - 1962年-1965年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=59}}
:* [[名古屋鉄道デセホ700形電車|モ700形]] - 1962年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=72}}
:* <sup>×</sup>[[東美鉄道デボ100形電車|ク2190形]] - 1964年-1973年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=69}}
:* [[名古屋鉄道デセホ700形電車|モ750形]] - 1964年-1978年{{sfn|徳田|2013|pp=142, 174}}
:* <sup>×</sup>[[愛知電気鉄道電7形電車|ク2300形]] - 1965年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=81-82}}
:* [[愛知電気鉄道電7形電車|ク2320形]] - 1965年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=77-78}}
:* <sup>×</sup>[[知多鉄道デハ910形電車|モ900形]] - 1965年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=83-85}}
:* <sup>×</sup>[[三河鉄道デ400形電車|ク2100形]] - 1966年-1973年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=70-71}}
:* [[名鉄3700系電車 (2代)#3700系|3700系]] - 1973年-1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|pp=86-87}}
; 電気機関車
:*[[名岐鉄道デキ50形電気機関車|デキ30形]] - ?-1952年以降{{sfn|山田・鈴木|2005|p=42}}
:* <sup>×</sup>[[愛知電気鉄道デキ360形電気機関車|デキ360形]] - 1960年頃-1968年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=60}}
:* <sup>×</sup>[[関西電力モ250形電気機関車|デキ250形]] - 1965年-1968年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=60}}
<gallery widths="150" style="font-size:90%;">
Meitetsu mo 520 in Seto.jpg|モ520形
Meitetsu ku 2272.jpg|ク2270形
Setogura-mo754.JPG|モ750形
M0901-三郷.jpg|モ900形
M3706大曽根ダラ-尾張瀬戸.jpg|3700系
</gallery>
==== 1,500 V時代 ====
; 電車
:* <sup>×</sup>[[名鉄3700系電車 (2代)#3730系・3770系|3770系]] - 1978年-1990年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=89}}
:* [[名鉄3700系電車 (2代)#3730系・3770系|3730系]] - 1978年-1990年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=89}}
:* <sup>×</sup>[[名鉄3780系電車|3780系]] - 1978年-1996年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=91}}
:* <sup>×</sup>[[名鉄6600系電車|6600系]] - 1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=92}}-2013年
:* <sup>×</sup>[[名鉄6750系電車|6750系]] - 1986年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=95}}-2011年
:* [[名鉄6000系電車|6000系]] - 1995年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=101}}-2014年
; 電気機関車
:* <sup>×</sup>[[愛知電気鉄道デキ370形電気機関車|デキ370形]] - 1978年{{sfn|山田・鈴木|2005|p=104}}-2007年
<gallery widths="150" style="font-size:90%;">
Meitetsu 6600 series EMU 015.JPG|6600系
Meitetsu 6750 series 021.JPG|6750系(1次車)
Meitetsu 6750 series 015.JPG|6750系(2次車)
Meitetsu 6000 series 011.JPG|6000系
Nagoya Railroad-Deki376.JPG|デキ370形
</gallery>
== 駅一覧 ==
全駅[[愛知県]]内に所在。
=== 営業区間 ===
* 接続路線名の()内の英数字は駅番号を表す。
* 普通は全駅に停車(表中省略)
* 停車駅は[[2005年からの名古屋鉄道ダイヤ改正#2005年1月29日改正|2005年1月29日改正]]時点。
; 凡例
: 停車駅 … ●:標準停車駅、|:通過
: 駅員 … 有:有人駅、特:特殊勤務駅(早朝・深夜等は不在)
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!style="width:3.5em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|駅番号
!style="width:9.5em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|営業キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #7c2982; background-color:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #7c2982; background-color:#cdf;"|{{縦書き|急行}}
!style="width:33em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|{{縦書き|駅員}}
!colspan="2" style="width:5em; border-bottom:solid 3px #7c2982;"|所在地
|-
!ST01
|style="text-align: left;"|[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]]
|style="text-align: center;"|-
|style="text-align: right;"|0.0
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|style="text-align: left;"|[[名古屋市営地下鉄]]:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]・[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]([[栄駅 (愛知県)|栄駅]]:H10・M05)
|style="text-align:center;"|有
|style="width:1em; text-align: center;" rowspan="12"|{{縦書き|[[名古屋市]]}}
|style="text-align: left;"|[[東区 (名古屋市)|東区]]
|-
!ST02
|style="text-align: left;"|[[東大手駅]]
|style="text-align: right;"|1.5
|style="text-align: right;"|1.5
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|style="text-align: left;"|[[中区 (名古屋市)|中区]]
|-
!ST03
|style="text-align: left;"|[[清水駅 (愛知県)|清水駅]]
|style="text-align: right;"|0.7
|style="text-align: right;"|2.2
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|style="text-align: left;" rowspan="2"|[[北区 (名古屋市)|北区]]
|-
!ST04
|style="text-align: left;"|[[尼ヶ坂駅]]
|style="text-align: right;"|0.5
|style="text-align: right;"|2.7
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|-
!ST05
|style="text-align: left;"|[[森下駅 (愛知県)|森下駅]]
|style="text-align: right;"|0.9
|style="text-align: right;"|3.6
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|style="text-align: left;" rowspan="3"|東区
|-
!ST06
|style="text-align: left;"|[[大曽根駅]]
|style="text-align: right;"|1.0
|style="text-align: right;"|4.6
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|style="text-align: left;"|[[東海旅客鉄道]]:{{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]] (CF04)<br />名古屋市営地下鉄:[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|20px]] 名城線 (M12)<br />[[名古屋ガイドウェイバス]]:[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])(Y01)
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST07
|style="text-align: left;"|[[矢田駅 (愛知県)|矢田駅]]
|style="text-align: right;"|1.3
|style="text-align: right;"|5.9
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|-
!ST08
|style="text-align: left;"|[[守山自衛隊前駅]]
|style="text-align: right;"|1.1
|style="text-align: right;"|7.0
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|style="text-align: left;"|名古屋ガイドウェイバス:ガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)([[守山駅 (愛知県)|守山駅]]:Y04)
|
|style="text-align: left; white-space:nowrap;" rowspan="5"|[[守山区]]
|-
!ST09
|style="text-align: left;"|[[瓢箪山駅 (愛知県)|瓢箪山駅]]
|style="text-align: right;"|0.6
|style="text-align: right;"|7.6
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|-
!ST10
|style="text-align: left;"|[[小幡駅]]
|style="text-align: right;"|1.0
|style="text-align: right;"|8.6
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST11
|style="text-align: left;"|[[喜多山駅 (愛知県)|喜多山駅]]
|style="text-align: right;"|1.3
|style="text-align: right;"|9.9
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST12
|style="text-align: left;"|[[大森・金城学院前駅]]
|style="text-align: right;"|0.8
|style="text-align: right;"|10.7
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST13
|style="text-align: left;"|[[印場駅]]
|style="text-align: right;"|1.5
|style="text-align: right;"|12.2
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|style="text-align: left; white-space:nowrap;" rowspan="4" colspan="2"|[[尾張旭市]]
|-
!ST14
|style="text-align: left;"|[[旭前駅]]
|style="text-align: right;"|0.9
|style="text-align: right;"|13.1
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"||
|
|
|-
!ST15
|style="text-align: left;"|[[尾張旭駅]]
|style="text-align: right;"|1.6
|style="text-align: right;"|14.7
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST16
|style="text-align: left;"|[[三郷駅 (愛知県)|三郷駅]]
|style="text-align: right;"|1.4
|style="text-align: right;"|16.1
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|-
!ST17
|style="text-align: left;"|[[水野駅]]
|style="text-align: right;"|1.9
|style="text-align: right;"|18.0
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|
|style="text-align: left;" rowspan="4" colspan="2"|[[瀬戸市]]
|-
!ST18
|style="text-align: left;"|[[新瀬戸駅]]
|style="text-align: right;"|0.7
|style="text-align: right;"|18.7
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|style="text-align: left;"|[[愛知環状鉄道]]:{{Color|#2536a1|■}}[[愛知環状鉄道線]]([[瀬戸市駅]]:21)
|style="text-align:center;"|特
|-
!ST19
|style="text-align: left;"|[[瀬戸市役所前駅]]
|style="text-align: right;"|0.7
|style="text-align: right;"|19.4
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|
|-
!ST20
|style="text-align: left;"|[[尾張瀬戸駅]]
|style="text-align: right;"|1.2
|style="text-align: right;"|20.6
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|style="text-align:center;"|有
|}
=== 廃止区間 ===
==== お壕区間 ====
* 1976年2月15日廃止
* 普通は全駅に停車(表中省略)
* 停車駅は[[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1969年7月6日改正|1969年7月6日改正]]時点。
*; 凡例
*: 停車駅 … ●:標準停車駅 |:通過
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!style="width:14em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間キロ
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!style="width:1em; background-color:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; background-color:#f96;"|{{縦書き|特急}}
!style="width:34.5em; "|接続路線
!colspan="2" style="width:5em; "|所在地
|-
|style="text-align: left;"|[[堀川駅 (愛知県)|堀川駅]]
|style="text-align: center;"|-
|style="text-align: right;"|0.0
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#f96;"|●
|style="text-align: left;"|[[名古屋市電]]:[[名古屋市電行幸線|行幸線]](景雲橋電停)''1971年2月1日廃止''
|style="width:1em; text-align: center;" rowspan="5"|{{縦書き|[[名古屋市]]}}
|style="text-align: left;" rowspan="4"|[[中区 (名古屋市)|中区]]
|-
|style="text-align: left;"|[[本町駅 (愛知県)|本町駅]]
|style="text-align: right;"|0.7
|style="text-align: right;"|0.7
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#f96;"||
|style="text-align: left;"|名古屋市電:行幸線(名古屋城電停)''1971年2月1日廃止''<br />名古屋市電:[[名古屋市電東片端線|東片端線]](名古屋城電停)''1971年2月1日廃止''
|-
|style="text-align: left;"|[[大津町駅 (愛知県)|大津町駅]]
|style="text-align: right;"|0.3
|style="text-align: right;"|1.0
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#f96;"|●
|style="text-align: left;"|名古屋市電:東片端線(大津橋電停)''1971年2月1日廃止''<br />名古屋市電:[[名古屋市電大津町線|大津町線]](大津橋電停)''1968年2月1日廃止''<br />名古屋市電:[[名古屋市電廓内線|廓内線]](大津町電停)''1943年12月1日休止''
|-
|style="text-align: left;"|[[土居下駅]]
|style="text-align: right;"|1.2
|style="text-align: right;"|2.2
|style="background-color:#cf9;"||
|style="background-color:#f96;"||
|
|-
|style="text-align: left;"|[[清水駅 (愛知県)|清水駅]]
|style="text-align: right;"|0.6
|style="text-align: right;"|2.8
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#f96;"||
|style="text-align: left;"|名古屋市電:[[名古屋市電清水口延長線|清水口延長線]](深田町電停)''1971年4月1日廃止''
|style="text-align: left;"|[[北区 (名古屋市)|北区]]
|-
!colspan="8" style="text-align:center;"|[[#営業区間|営業区間]]
|-
|}
* 大津町 - 土居下間の東大手駅は1944年より休止されていたが栄町方面の開通とともに新線上で営業を再開した。
* 1976年2月15日の堀川 - 土居下間廃止後、土居下駅から0.4km清水駅寄りに土居下駅(仮)が仮設され、栄町方面が開業するまで営業を継続した(下記)。
==== 仮線営業区間 ====
* 1976年2月15日 - 1978年8月20日
* 普通は全駅に停車(表中省略)
* 停車駅は[[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1977年3月20日改正|1977年3月20日改正]]時点。
*; 凡例
*: 停車駅 … ●:標準停車駅 △:特別停車駅([[1986年までの名古屋鉄道ダイヤ改正#1976年8月30日改正|1976年8月30日改正]]より昼間帯に停車)
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!style="width:14em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|駅間キロ
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!style="width:1em; background-color:#cf9;"|{{縦書き|準急}}
!style="width:1em; background-color:#cdf;"|{{縦書き|急行}}
!style="width:34.5em; "|接続路線
!style="width:5em; "|所在地
|-
|style="text-align: left;"|土居下駅(仮)
|style="text-align: center;"|-
|style="text-align: right;"|0.0
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|●
|
|rowspan="2" style="text-align: left;"|[[名古屋市]]<br />[[北区 (名古屋市)|北区]]
|-
|style="text-align: left;"|清水駅
|style="text-align: right;"|0.2
|style="text-align: right;"|0.2
|style="background-color:#cf9;"|●
|style="background-color:#cdf;"|△
|
|-
!colspan="7" style="text-align:center;"|[[#営業区間|営業区間]]
|-
|}
=== 廃駅 ===
* [[大津町駅 (愛知県)|娯楽園駅]](本町駅 - 大津町駅間) 1923年以降廃止
* [[久屋駅]](大津町駅 - 東大手駅間) 1941年2月24日廃止
* [[土居下駅]](東大手駅 - 清水駅間) 1978年8月20日廃止
*: 1976年2月15日から1978年8月20日までは土居下駅から0.4km清水駅寄りに仮設された土居下駅(仮)での営業
* [[社宮祠駅]](尼ヶ坂駅 - 森下駅間) 1944年休止、1956年10月15日廃止
* [[坂下駅 (愛知県)|坂下駅]](尼ヶ坂駅 - 森下駅間) 1941年2月24日廃止
* [[駅前駅 (名古屋市)|駅前駅]](森下駅 - 大曽根駅間) 1944年休止、1956年10月15日廃止
* [[守山口駅]](矢田駅 - 守山自衛隊前駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[笠寺道駅]](瓢箪山駅 - 小幡駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[小幡原駅]](小幡駅 - 喜多山駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[霞ヶ丘駅 (愛知県)|霞ヶ丘駅]](大森・金城学院前駅 - 印場駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* (旧)[[印場駅]] 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[旭前駅|聾石駅]](印場駅 - 尾張旭駅間) 1942年廃止
* [[平池駅]](尾張旭駅 - 三郷駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[根ノ鼻駅]](三郷駅 - 水野駅間) 1944年休止、1969年4月5日廃止
* [[学園前駅 (愛知県)|学園前駅]](新瀬戸駅 - 瀬戸市役所前駅間)1926年-1927年廃止
==== 軌道時代の廃止停車場 ====
以下は[[1921年]](大正10年)以前の軌道時代に廃止された[[停車場]]。
* 御園(堀川駅 - 本町駅間)
* 柳原(東大手駅 - 清水駅間)
* 師範下(尼ヶ坂駅 - 森下駅間)1915年以前に廃止
* 柳ヶ坪(森下駅 - 大曽根駅間)
* 守山(矢田駅 - 守山自衛隊前駅間)
* 志談味通(大森・金城学院前駅 - 印場駅間)
* 良福寺前(印場駅付近)
* 桜川(瀬戸市役所前駅 - 尾張瀬戸駅間)1915年以前に廃止
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
* 『瀬戸線の90年 保存版 われらが「せとでん」激動のドラマ』 [[郷土出版社]] 1997年
* 『せとでんの歴史 名鉄瀬戸線史』 前島一廣著 雑論グループ知神 1995年
* 『瀬戸電開通90周年特別企画展せとでん』 瀬戸市歴史民俗資料館 1995年
* 『名鉄の廃線を歩く』 [[徳田耕一]]編著 [[JTB]] 2001年
* 『名古屋鉄道社史』 名古屋鉄道 1961年
* 『瀬戸電鉄沿線案内』 瀬戸電気鉄道 1924年
* {{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=7 東海 |year=2008 |isbn=978-4-10-790025-8 |pages=45-46|ref={{sfnref|今尾|2008}}}}
* {{Cite book|和書|author=山田司|author2=鈴木裕幸|title=せとでん100年|publisher =中日新聞社|year=2005|ref={{sfnref|山田・鈴木|2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=徳田耕一|title=名鉄電車 昭和ノスタルジー|publisher =JTBパブリッシング|year=2013|ref={{sfnref|徳田|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=加藤久爾夫|author2=渡辺肇|title =私鉄車両めぐり 名古屋鉄道|date = 2015-02 |publisher = 鉄道図書刊行会|journal = 鉄道ピクトリアル アーカイブズセレクション |volume = 30 |ref={{sfnref|加藤・渡辺|2015}}}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Meitetsu Seto Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* 他の大手私鉄の自社路線からの孤立路線
** [[東武東上線]]
*** [[東武越生線]]
** [[西武多摩川線]]
** [[京阪大津線]] - かつては三条駅(京津三条駅)で線路がつながっており直通運転もあったが、現在は一部区間の廃止より分断されている。
*** [[京阪京津線]]
*** [[京阪石山坂本線]]
** [[近鉄田原本線]] - 線路自体は西田原本駅で橿原線田原本駅とつながっており運賃も通算される。
** [[西鉄貝塚線]]
== 外部リンク ==
* [https://www.meitetsu.co.jp/train/station_info/line16/index.html 瀬戸線] - 名古屋鉄道
{{名古屋鉄道路線}}
{{DEFAULTSORT:せとせん}}
[[Category:中部地方の鉄道路線]]
[[Category:名古屋鉄道の鉄道路線|せと]]
[[Category:瀬戸電気鉄道|路]]
[[Category:愛知県の交通|めいてつせとせん]]
[[Category:部分廃止路線]]
|
2003-09-12T22:54:24Z
|
2023-12-30T04:38:54Z
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[
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名古屋市営地下鉄
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名古屋市営地下鉄(なごやしえいちかてつ)は、名古屋市交通局が運営する地下鉄である。
現在は6路線が営業中で、守山区を除く名古屋市15区と日進市に路線がある。営業キロ数は93.3km、駅数は87駅(以上2011年3月27日現在)。車両数は782両(2017年9月現在)。一日あたりの乗車人員は約134万人(2018年度現在)。なお、名古屋市の例規上の正式名は、名古屋市高速度鉄道である。
線路幅は全6路線中3路線が標準軌・第三軌条方式で、残る3路線が狭軌・架空電車線方式である。また鶴舞線と上飯田線の2路線は、下記の通り名古屋鉄道(名鉄)と相互直通運転を行っている。
また、名古屋市営地下鉄の駅や車内に掲示されている路線図には、名古屋市営地下鉄の路線以外に、直通先の名鉄線やゆとりーとライン(高架区間)、あおなみ線、リニモも掲載されていたが、現在は省略されている。
1992年(平成4年)の運輸政策審議会答申第12号で示されて以降、新たな整備計画は出されておらず、今後の安全対策や資金不足、費用対効果が薄いなどの理由により、2019年(平成31年)3月時点では新線建設は行わないとしている。
営業列車による運行時間は、午前5時30分から翌日午前0時30分までの19時間である。夜間は施設の保守時間として確保されている。名城線以外の基本的に区間運転を行わない各路線でも、初電・終電は途中駅発着の列車がある。
2014年の7月以降は、東山線で金曜日と祝日前日(年末年始やお盆期間を除く)に限り終電を45分間延長した。「補助金カットを防ぎたい」という局長と、「サービスを向上させたい」という名古屋市長河村たかしの意向で、2013年12月20日と27日に試行実施を行い、2014年7月4日以降、上下各2本の臨時列車を運行している。
なお、曜日ダイヤ区分のうち、東山線は原則として夏休み・冬休み(12月29日 - 1月3日を除く)・春休み期間中の平日は「学校休校期ダイヤ」を設定する。また年末年始の12月29日 - 1月3日は土休日ダイヤで運行するが、東山線については12月31日から1月3日は土休日ダイヤではなく、専用特別ダイヤ(12月31日が「大晦日ダイヤ」、正月3が日は「正月ダイヤ」)を適用する。1975年大晦日以降、毎年12月31日深夜から1月1日までの間、上飯田線以外の全路線で終夜運転を行っている。沿線に熱田神宮がある名城線は初詣客で混雑するため、正月3が日は大曽根 - 八事 - 新瑞橋 - 金山の区間も一部時間帯で5分間隔で運行していたが、2012年以降は通常ダイヤでの運行となっている。
沿線にイベントがある時は、臨時列車が運行されることがある。ナゴヤドームのイベントや名古屋港の花火大会が沿線で行われる名城線・名港線で運行されることがほとんどである。
名古屋市による市営地下鉄の建設計画は、人口が100万人を突破した1936年(昭和11年)に発表されたものが最初である。この計画によれば、以下の7路線約52kmを2期に渡って建設する予定であった。この計画は、地下線での計画を基本にしながら、田端 - 市役所や桜山 - 柴田などでは高架線での建設も予定されていた。
その後、1937年(昭和12年)に国鉄名古屋駅が笹島から現在の位置に移転すると、1938年(昭和13年)6月、その跡地地下に関西急行電鉄の関急名古屋駅(現:近鉄名古屋駅)が建設され、名古屋で初の地下線による鉄道が開業した。
日中戦争の長期化により名古屋市の財政は悪化したが、軍需産業都市としての発展もあり、1939年(昭和14年)に臨時名古屋市並近郊交通調査会が発足し、地下鉄計画を再検討した結果、以下の基本4路線約29kmが発表された。この基本計画のほかに将来計画として大規模な地下鉄整備計画も発表されており、実際にボーリング調査の準備まで行われたものの、第二次世界大戦開戦の影響により、計画は凍結される。
戦後になるとまず、1946年(昭和21年)1月、高速鉄道網検討用基礎案として以下の4路線約43Kmが立案された。これは、戦災復興のため将来人口を200万人と想定した都市計画として立案されたため、鉄道着工よりも鉄道用地を先行確保するのが主目的の計画であった。この計画では、平田橋、上飯田、守山、八事などで既存の鉄道との相互乗り入れが重視されていたため、現在の地下鉄路線とはかなり違う経路を通っているものが多い。
9月には名古屋市高速度鉄道協議会が設置され、これには名古屋市のほか、運輸省、内務省、戦災復興院、名鉄、近鉄も参加し、1947年(昭和22年)10月に以下の6路線約55kmの路線網を定めた。
1950年(昭和25年)1月19日には建設省告示第9号でこれらのうち約48.4kmが名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網として都市計画決定された。この都市計画決定は、日本国有鉄道(国鉄)名古屋駅0番ホームを借り受け、そこに地下鉄を乗り入れ、栄生まで延長して名鉄名古屋本線と相互直通運転をする計画のほか、名古屋市、名鉄、近鉄の三者の協定により、新川橋、八田、大曽根、水分橋でも相互直通運転をすることが予定されていた。
その後、建設資金分担や国鉄ホームの使用を巡る問題などにより、上記計画は頓挫した。名古屋市は独自に相互直通を前提とせずに地下鉄を建設することになり、第三軌条方式を採用し、すでに免許を取っていた名古屋 - 田代間及び市役所裏 - 金山間の早期開業を図った。1954年(昭和29年)8月には名古屋 - 栄町間について着工し、1956年(昭和31年)には名古屋市電下之一色線での試作車による運行テストを開始した。
1957年(昭和32年)11月15日、名古屋市営の最初の地下鉄として、名古屋 - 栄町(現:栄)間2.4kmが開業した。当初の料金は名古屋 - 栄町間で大人15円・小児8円の均一制。名古屋市内の1世帯に1枚ずつ試乗券が配布された。
開業日の営業開始時刻は、日付に*印を付したものは14時、**印を付したものは12時、無印は始発からである。
交通局では運賃を「料金」と呼んでおり、記事内でもそれに従い表記する。
大人片道普通料金。小児は半額(10円未満切り捨て)2019年10月1日改定。
障害者手帳や証明書を所持する身体障害者・知的障害者・精神障害者・養護児童・戦傷病者・被爆者および特別支援学校の生徒は割引料金。
普通料金は経由駅にかかわらず最短距離の料金を適用する(改札外乗り換えの駅はない)。定期券は指定経路で計算され、指定区間外では途中下車できない。
当局では入場券・往復乗車券・回数乗車券は発売されていない。また、プレミアム(特典額)つきの磁気プリペイドカード「ユリカ」(後述)が発売されていたが、2011年2月11日にIC乗車カードmanacaが導入されたことで、前日の同年2月10日に発売を終了した。
名古屋鉄道の犬山・小牧・豊田の各線に上小田井・上飯田・赤池の各駅連絡で乗車する場合、連絡駅を挟んだ併算により特に割高となる一部の近隣区間(連絡駅から名鉄170円、地下鉄210円となる駅間の相互利用のみ)においては別に定める乗継割引料金(大人20円引・小児10円引)が適用される。
他に名称が類似する駅がある駅の場合、以下のように乗車券上の駅名表記が、かな書き表記や文字の大きさの変更など、一見して発行駅が判別できるよう工夫されている。
定期券は地下鉄のみのほか、地下鉄と市バス、ゆとりーとライン、あおなみ線、名鉄、JR東海、リニモとの連絡定期券が発売されている。近鉄との連絡定期券は存在しない。市バス以外のmanaca導入のバス事業者(豊橋鉄道市内線を含む)の定期券とも複合させることができ、券面下半分に印字される。
また、名古屋市営地下鉄の学生・生徒・児童向けの定期券は通学定期券ではなく、学生定期券として発売されており、塾やアルバイトなどの通学経路に関係ない区間でも購入することができる。
乗車カードとして、従来の回数券や連続割引サービスを含めた乗車券として、トランパス対応で、同局の地下鉄・バス路線や名古屋鉄道などの提携他社において使用できるプリペイドカード式乗車券を「ユリカ」という名称で発売していた。
ユリカが1998年に導入される前には、1988年4月1日から自動券売機・自動精算機できっぷの購入や運賃精算ができる(自動改札機に直接投入はできない)プリペイドカード「リリーカード」が発売されていたが、2003年3月27日に利用停止、2006年3月31日で交換終了となり、現在は無効となっている。また、同じ頃から、自動改札機に直接投入できる回数券カードが発売されていた。回数券カードには地下鉄・バス乗継回数カードも存在した。これは地下鉄(1区 - 5区)券10枚と市バス200円券10枚が1枚のカードにセットされたものである。現在はユリカに乗継割引機能があるため、いずれも発売を終了した。
2011年2月11日より非接触型ICカード「manaca(マナカ)」が導入された。これに伴い、ユリカ(バス・地下鉄共通ユリカ、バス昼間割引専用ユリカ、地下鉄昼間割引専用ユリカ)及び大人3800円で地下鉄1区間を22回利用できる「地下鉄1区特別きっぷ」の発売は前日の同年2月10日で終了した。利用についても2012年2月29日をもって終了した。
車両は「標準軌・第三軌条・小型車両」仕様の東山線、名城・名港線タイプと「狭軌・架空電車線・大型車両」仕様の鶴舞線、桜通線、上飯田線タイプに大別することができる。
東京、大阪に次いで、1957年(昭和32年)に名古屋でも地下鉄が走り始めた。開業にあたり、用意された車両はウィンザーイエローの車体色が特徴的であり、この車体色から「黄電」(きいでん)という愛称で呼ばれた。
第一世代「黄電」の特徴として導入年によってマイナーチェンジが多数行われており、形式も多数あることが挙げられる。これらの共通点は車体色、鋼製車体、非冷房、抵抗制御であるほかは形式によって車体、内装、機器類も異なっている。
2000年(平成12年)の東山線300形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非冷房車は営業線上から姿を消した。
2路線で最大371両が運用された「黄電」も登場から約25年が経過して老朽化が進んでいた。また、乗客数も輸送力も飛躍的に増大した地下鉄では駅構内やトンネル内の温度上昇が著しく、非冷房車「黄電」の後継となる冷房付き新型車両の登場が望まれた。
こうした中、1977年(昭和52年)に新規開業した鶴舞線では開業当初より冷房・ステンレス車体・電機子チョッパ制御の3000形が用意された。また、小断面トンネルの東山線でも技術進捗により、省電力で薄型の冷房装置の車両搭載が可能となり、1980年(昭和55年)に冷房・アルミ車体・電機子チョッパ制御の5000形試作車が登場し、1982年(昭和57年)からは量産が開始された。
2023年(令和5年)の鶴舞線3000形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非VVVF車は営業線上から姿を消した。
1989年(平成元年)の桜通線開業にあたり、最新の車両技術と電子技術を駆使し、省エネルギーと省メンテナンスと共に乗り心地向上や快適性追求のため、従来にない新型車両の開発が進んだ。1987年(昭和62年)に登場した桜通線6000形ではVVVFインバータ制御のほか、オールステンレス車体、ボルスタレス式空気ばね台車、LED式車内案内表示器、ホーム監視映像モニタが初採用された。以降、2007年(平成19年)の東山線N1000形登場まではこれが名古屋市交通局の第三世代の標準車両となり、東山線、名城線、鶴舞線、上飯田線と全路線に展開された。
従来の車両は約30年程度で廃車されたものが、第三世代以降の車体構造は丈夫な一方で、主要電気機器は老朽化が早いことから、より長期にわたって活躍することが見込まれており、名古屋市の長期維持管理計画では約40年超の使用が見込まれているため、経年約20 - 25年程度での更新が進んでいる。ただし、鶴舞線3050形3159編成は非VVVF車との混成編成のため、2019年(令和元年)9月26日に廃車された。
東山線5000形の更新にあたり、設計理念3S(silent・speed・safe)を基本に、「安心・安全で快適なまちづくり」の推進のため、第四世代となる新しい車両が設計された。
2007年(平成19年)に東山線N1000形が登場している。形式名頭文字の「N」には次世代の名古屋の地下鉄を担う車両として「New」「Next」「Nagoya」の意味合いが込められている。ただし、桜通線6050形は地下鉄車両の附番方法のルール上、頭文字にはNが付いていない。
車体は各車両メーカーが開発した新工法にて製造されており、日車式ブロック工法もしくはA-trainとなっている。そのため、車体にはビードがなく、すっきりしている。また、火災対策や省エネ化に重点が置かれている。なお、東山線N1000形は製造時期によって車体の溶接方法、鶴舞線N3000形は車体構造によって自重が異なる。
各編成については、○○○○Hのように表す。
名古屋市において、守山区以外の各区内に駅がある。路線ごとに駅務区を設置(名城線は駅務区を南北でそれぞれ1つずつ設置、名港線は名城線南部駅務区管轄下、上飯田線は全駅が名城線南部駅務区管轄または名鉄管轄であるため駅務区が設置されていない)、さらに駅務区の下に管区を1つないし2つ設け、各管区ごとに複数の駅を管理している。駅務区には駅務区長、管区には管区駅長がそれぞれを統括する役職として配置されている。なお、各駅に配置されている駅長は利用者にその駅の責任者であることをわかりやすく伝えるための対外的な呼称であり、役職上は助役である。
車両基地や折り返し設備のある駅の一部は駅務区ではなく、乗務員部署である運転区が管轄し、乗務員が駅業務を兼務している。
全駅でバリアフリーのための整備を行っている。韓国・大邱都市鉄道公社での放火による火災によって反対路線に停車した列車に延焼したことを受けて、対向式ホーム中央の柱間にガラス及び鉄製の防火壁の取り付けが順次行われている。
自動券売機で発売される磁気券は、券紙を回数券発行に使用しないため、裏面が茶色の低保磁券を採用している。
各駅の発車案内にはLEDのものが使われている。上飯田線は開通当初からLEDとなっているが、それ以外の5路線は行灯方式を使っていた。1999年に名城線(現・名港線部分も含む)から置き換えが始まり、その後東山線・桜通線の順に置き換えられ、2012年の鶴舞線を最後に置き換えが完了した。市役所駅の改札口には行灯方式のものが残っている。なお、2019年より名城線・名港線では発車案内の液晶化が行われ、同年12月までに交換が完了した。
各路線の全駅に駅番号が割り振られている。駅番号は、2004年に名城線が全通したのを機に割り振られた。名城線・名港線以外では、各路線の北ないし西を01番(起点)として付けている。名城線・名港線は分岐点となる金山駅を01番としており、名城線では栄、大曽根方面に向かって右回りの順に付けられている。
駅ホームに設置されている駅名標のデザインは、設置時期により異なっている。相違点は以下のとおり。なお、同じ駅に複数種類の駅名標が使われている場合もある。
乗換駅での乗り換え案内表示にあるラインカラーは車両の路線表示と同じくラインカラーの横線5本からラインカラーの地下鉄のマークに変更されているところもある。
経費削減のため、駅構内照明器具の省エネ化を進めており、2013年度まではラピッドスタート式の蛍光灯からHfインバーター式蛍光灯、2014年度からは久屋大通駅を皮切りにラピッドスタート方式蛍光灯からLED照明への置き換え、駅名標や業務案内板などの内照式看板(広告用を除く)の非内照式への改造を進めている。
当交通局独自の規則として、エスカレーター上での歩行を禁止し、手すりに掴まって2列で立ち止まって乗り、急いでいる人は階段を使うよう呼び掛けている。
地上連絡エレベーターは独立した出入口として機能している場合でも番号は付与しておらず、既存の出入口をエレベーター専用出入口に改修した駅では出入口番号に欠番が発生している場合もある。
交通局の外郭団体、名古屋交通開発機構が売店として「Do!」という独自名称のコンビニ形態の店舗をかつては展開していた(実際の店舗運営はサークルケイ・システムサービスに委託)。しかし、順次「サークルKミニ」を経て「ファミリーマート」に改称しており、「Do!」を名乗る売店は無くなっている。なお、既存チェーン店が出店する場合も店舗名の一部にDo!を冠する場合があったため、この形で名残を残している店舗が一部存在する。また、セブン-イレブン(丸の内駅、徳重駅など)、ローソン(高畑駅、丸の内駅桜通線ホームなど)などのコンビニも出店している(このほか、ファミリーマートはサークルKサンクスとの統合前から伏見、今池に出店していた)。どの売店でもmanacaは使用可能(ただし、セブン-イレブンはPOSと連動していないほか、一般のファミリーマートでは対象の名鉄のミュースターポイントは付かないなど運用が異なる)。交通系以外の電子マネーやクレジットカード、バーコード決済はチェーン全体に準ずる。店舗は改札外に設置されることが多いが、乗り換え駅では改札内コンコースやホームに設置されている場合もある。
2011年3月27日の桜通線延伸開業時より、利用者の少ない桜通線の3駅(鳴子北駅、相生山駅、神沢駅)と名港線の4駅(日比野駅、六番町駅、港区役所駅、築地口駅)の駅業務を日本通運名古屋支店に委託している。委託により年間8400万円の経費が削減されている。当初の委託期間は2016年3月末までであったが、2015年に委託契約を更新し、2026年3月末までとなっている。
2015年の更新契約の結果、東山線の5駅(八田駅、中村公園駅、中村日赤駅、本陣駅、亀島駅)の駅業務に関しても2016年4月1日より縁エキスパートに委託している。委託期間は2023年3月末まで。
2018年4月より、一部の駅では改札口への係員配置を廃止し、インターホンにより駅長室から駆けつける形に変更している。
名古屋市営地下鉄と他社線を直接繋ぐ連絡改札口はどの乗換駅にも存在しない。
名古屋市営地下鉄の駅構内の通路区分(右側通行、左側通行)は統一されておらず、その判断は各駅に委ねられており、周辺施設の位置や利用者の要望により決めることもある。
2016年度は、一日平均の利用者数が約129万人(2010年度は116万人)収入は945億円、支出は784億円、収支は161億円の黒字でその結果、累積欠損金は2,482億円、実質資金不足額は2,298億円となった(2016年度決算)。
経常収支は、1994年(平成6年)度に最大445億円の赤字を記録し、累積欠損金は、2004年(平成16年)度には4500億円に迫るところにまで至っていた。その後、中期経営健全化計画(計画期間:2002年度から2005年度)、経営改革計画(計画期間:2006年度から2010年度)、市営交通事業経営健全化計画(計画期間:2009年度から2016年度)と順次計画を策定し、2010年5月には名古屋市交通事業経営健全化委員会を設置して、市バス事業とともに経営の改善に努め、上記のような決算状況に至っている。名古屋市交通局では、累積欠損金について、2039年度において解消されるとの評価をしている。
2019年度(令和元年度)1日当たり。名古屋市交通局のオープンデータによる。
地下鉄車両などに掲出されているシンボルマークは、画家の杉本健吉がデザインしたもので、名古屋市の市章である「○」の中に「八」を基に、トンネルの中を通る線路に見えるようアレンジした図案である。なお、開業当初は「○」部分が破線になっていた。
上小田井駅と上飯田駅を除く駅の出入口にある駅名サインは現在以下の3種類が存在する。写真は各駅の記事を参照。
名古屋市営地下鉄では、各路線を識別するカラーを設定している。2018年より鶴舞線を除き、従来よりも赤みを帯びた色に路線カラーが変更された。各路線のカラーは以下の通り。なお、DIC色番号は「名古屋市交通局 旅客サインマニュアル」に定められているもので、そのDIC色番号をDICの「COLORGUIDE」アプリで検索した際に表示されるsRGB値(HTML値)を参考として掲載する(なお、このHTML値は公式サイトでは用いられない)。
路線シンボルは、路線カラーとした地下鉄シンボルマークを使用した1世代前ものと、路線カラーの横5本線を使用した2世代前のものが併用されていたが、新たに「○」の下部を切り欠き、その内部に路線記号を配したものに変更された。
2018年より栄駅を皮切りに新型の案内サイン掲示に更新されている。
主な相違点としては、
などがある。
2000年頃から、新たな広告媒体の事業化を目指す目的で「新交通広告表示システム」の計画が開始された。翌2001年に桜通線名古屋駅で実証実験を行った後、2004年12月より東山線の栄駅と伏見駅のホームにて液晶モニタを使ったサービスを開始している。内容は、テレビコマーシャル、オリジナルのアニメーション広告、ニュースなどで、公営の地下鉄駅としては珍しく音声も流している。さらに2006年12月からは名城線久屋大通駅ホームにプロジェクターを使ったシステムが導入されたのを皮切りに、翌2007年4月には同線の栄・本山・金山・上前津の各駅にも設置された。また、同年6月からは東山線名古屋駅、翌年3月から同線伏見駅ホーム軌道内にて液晶モニターを使ったサービスも開始している。
2006年5月頃に名古屋市交通局が地下鉄車両内に掲示したマナー啓発広告に使用した画像に関し、PHS事業者のウィルコムより抗議を受けて謝罪をした。
2018年現在、全線全駅、および全区間で、4Gおよび3Gの携帯電話ネットワークによるデータ通信および音声通話、WiMAX 2によるデータ通信が可能。ただし走行中の車内での通話自粛要請と、混雑時の優先席付近での電源OFF要請が行われている。
駅コンコース(改札口付近)およびプラットホームでは通信事業者各社およびNAGOYA Free Wi-Fiによる公衆無線LANが利用可能。桜通線車内ではauおよびWi2による車内Wi-Fiが利用可能である。(ソフトバンクのみ、2016年12月より公衆無線LANの提供駅を主要10駅のみに縮小した)
このように現代では都市部で携帯電話が使えることは当たり前であるが、かつては医用電子機器(心臓ペースメーカー等)への無線電波の影響を懸念する根強い意見があり、地下鉄駅構内および路線トンネル内への携帯電話基地局の設置は意図的に見送られていた。
名古屋市営地下鉄では2004年9月頃から、2GHz帯を使用する方式を除いて携帯電話各社についてプラットホームでは圏外になるような対策が行われた(改札口付近では利用可。また、PHSについては設置事業者においても元より改札口付近のみ圏内)。名古屋市交通局は、総務省の「電波の医用機器等への影響に関する調査結果」(2002年7月2日)に基づく処置であるとしていた。
地下鉄利用中は電話の着信もできないことから、名古屋市営地下鉄のこの対応以降、トヨタ自動車や日立製作所、NTTデータ東海などは一部従業員に対し、業務時間中の移動に地下鉄を利用せず、タクシーやJR・名鉄など地上を走行する交通機関を利用するよう求めていた。
携帯電話技術の進展により、心臓ペースメーカー等への影響が過去のものとなったことや、2011年3月11日の東日本大震災を契機として、地下空間での通信手段の確保の必要性が認知されるようになり、通信不能とするのではなく、優先席付近での利用や車内での通話の自粛要請という形でエリア整備が進められることとなった。
2012年3月27日より、NTTドコモ・au・ソフトバンク・イーモバイル(現在のワイモバイル)の4社は、名古屋駅 - 今池駅間の東山線車内で携帯電話のサービスを開始し、2012年10月31日より東山線全線、名城線は市役所駅(現在の名古屋城駅) - 金山駅 - 新瑞橋駅間、桜通線は中村区役所駅(現在の太閤通駅) - 御器所駅間までサービスを広げ、これを皮切りに、順次各路線に拡大した。
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"text": "現在は6路線が営業中で、守山区を除く名古屋市15区と日進市に路線がある。営業キロ数は93.3km、駅数は87駅(以上2011年3月27日現在)。車両数は782両(2017年9月現在)。一日あたりの乗車人員は約134万人(2018年度現在)。なお、名古屋市の例規上の正式名は、名古屋市高速度鉄道である。",
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"text": "線路幅は全6路線中3路線が標準軌・第三軌条方式で、残る3路線が狭軌・架空電車線方式である。また鶴舞線と上飯田線の2路線は、下記の通り名古屋鉄道(名鉄)と相互直通運転を行っている。",
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"text": "また、名古屋市営地下鉄の駅や車内に掲示されている路線図には、名古屋市営地下鉄の路線以外に、直通先の名鉄線やゆとりーとライン(高架区間)、あおなみ線、リニモも掲載されていたが、現在は省略されている。",
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"text": "1992年(平成4年)の運輸政策審議会答申第12号で示されて以降、新たな整備計画は出されておらず、今後の安全対策や資金不足、費用対効果が薄いなどの理由により、2019年(平成31年)3月時点では新線建設は行わないとしている。",
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"text": "営業列車による運行時間は、午前5時30分から翌日午前0時30分までの19時間である。夜間は施設の保守時間として確保されている。名城線以外の基本的に区間運転を行わない各路線でも、初電・終電は途中駅発着の列車がある。",
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"text": "2014年の7月以降は、東山線で金曜日と祝日前日(年末年始やお盆期間を除く)に限り終電を45分間延長した。「補助金カットを防ぎたい」という局長と、「サービスを向上させたい」という名古屋市長河村たかしの意向で、2013年12月20日と27日に試行実施を行い、2014年7月4日以降、上下各2本の臨時列車を運行している。",
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"text": "なお、曜日ダイヤ区分のうち、東山線は原則として夏休み・冬休み(12月29日 - 1月3日を除く)・春休み期間中の平日は「学校休校期ダイヤ」を設定する。また年末年始の12月29日 - 1月3日は土休日ダイヤで運行するが、東山線については12月31日から1月3日は土休日ダイヤではなく、専用特別ダイヤ(12月31日が「大晦日ダイヤ」、正月3が日は「正月ダイヤ」)を適用する。1975年大晦日以降、毎年12月31日深夜から1月1日までの間、上飯田線以外の全路線で終夜運転を行っている。沿線に熱田神宮がある名城線は初詣客で混雑するため、正月3が日は大曽根 - 八事 - 新瑞橋 - 金山の区間も一部時間帯で5分間隔で運行していたが、2012年以降は通常ダイヤでの運行となっている。",
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"text": "沿線にイベントがある時は、臨時列車が運行されることがある。ナゴヤドームのイベントや名古屋港の花火大会が沿線で行われる名城線・名港線で運行されることがほとんどである。",
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"text": "名古屋市による市営地下鉄の建設計画は、人口が100万人を突破した1936年(昭和11年)に発表されたものが最初である。この計画によれば、以下の7路線約52kmを2期に渡って建設する予定であった。この計画は、地下線での計画を基本にしながら、田端 - 市役所や桜山 - 柴田などでは高架線での建設も予定されていた。",
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"text": "その後、1937年(昭和12年)に国鉄名古屋駅が笹島から現在の位置に移転すると、1938年(昭和13年)6月、その跡地地下に関西急行電鉄の関急名古屋駅(現:近鉄名古屋駅)が建設され、名古屋で初の地下線による鉄道が開業した。",
"title": "歴史"
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"text": "日中戦争の長期化により名古屋市の財政は悪化したが、軍需産業都市としての発展もあり、1939年(昭和14年)に臨時名古屋市並近郊交通調査会が発足し、地下鉄計画を再検討した結果、以下の基本4路線約29kmが発表された。この基本計画のほかに将来計画として大規模な地下鉄整備計画も発表されており、実際にボーリング調査の準備まで行われたものの、第二次世界大戦開戦の影響により、計画は凍結される。",
"title": "歴史"
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"text": "戦後になるとまず、1946年(昭和21年)1月、高速鉄道網検討用基礎案として以下の4路線約43Kmが立案された。これは、戦災復興のため将来人口を200万人と想定した都市計画として立案されたため、鉄道着工よりも鉄道用地を先行確保するのが主目的の計画であった。この計画では、平田橋、上飯田、守山、八事などで既存の鉄道との相互乗り入れが重視されていたため、現在の地下鉄路線とはかなり違う経路を通っているものが多い。",
"title": "歴史"
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"text": "9月には名古屋市高速度鉄道協議会が設置され、これには名古屋市のほか、運輸省、内務省、戦災復興院、名鉄、近鉄も参加し、1947年(昭和22年)10月に以下の6路線約55kmの路線網を定めた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 15,
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"text": "1950年(昭和25年)1月19日には建設省告示第9号でこれらのうち約48.4kmが名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網として都市計画決定された。この都市計画決定は、日本国有鉄道(国鉄)名古屋駅0番ホームを借り受け、そこに地下鉄を乗り入れ、栄生まで延長して名鉄名古屋本線と相互直通運転をする計画のほか、名古屋市、名鉄、近鉄の三者の協定により、新川橋、八田、大曽根、水分橋でも相互直通運転をすることが予定されていた。",
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"text": "その後、建設資金分担や国鉄ホームの使用を巡る問題などにより、上記計画は頓挫した。名古屋市は独自に相互直通を前提とせずに地下鉄を建設することになり、第三軌条方式を採用し、すでに免許を取っていた名古屋 - 田代間及び市役所裏 - 金山間の早期開業を図った。1954年(昭和29年)8月には名古屋 - 栄町間について着工し、1956年(昭和31年)には名古屋市電下之一色線での試作車による運行テストを開始した。",
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"text": "1957年(昭和32年)11月15日、名古屋市営の最初の地下鉄として、名古屋 - 栄町(現:栄)間2.4kmが開業した。当初の料金は名古屋 - 栄町間で大人15円・小児8円の均一制。名古屋市内の1世帯に1枚ずつ試乗券が配布された。",
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"text": "開業日の営業開始時刻は、日付に*印を付したものは14時、**印を付したものは12時、無印は始発からである。",
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"text": "交通局では運賃を「料金」と呼んでおり、記事内でもそれに従い表記する。",
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"text": "大人片道普通料金。小児は半額(10円未満切り捨て)2019年10月1日改定。",
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"text": "障害者手帳や証明書を所持する身体障害者・知的障害者・精神障害者・養護児童・戦傷病者・被爆者および特別支援学校の生徒は割引料金。",
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"text": "普通料金は経由駅にかかわらず最短距離の料金を適用する(改札外乗り換えの駅はない)。定期券は指定経路で計算され、指定区間外では途中下車できない。",
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"text": "当局では入場券・往復乗車券・回数乗車券は発売されていない。また、プレミアム(特典額)つきの磁気プリペイドカード「ユリカ」(後述)が発売されていたが、2011年2月11日にIC乗車カードmanacaが導入されたことで、前日の同年2月10日に発売を終了した。",
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"text": "名古屋鉄道の犬山・小牧・豊田の各線に上小田井・上飯田・赤池の各駅連絡で乗車する場合、連絡駅を挟んだ併算により特に割高となる一部の近隣区間(連絡駅から名鉄170円、地下鉄210円となる駅間の相互利用のみ)においては別に定める乗継割引料金(大人20円引・小児10円引)が適用される。",
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"text": "他に名称が類似する駅がある駅の場合、以下のように乗車券上の駅名表記が、かな書き表記や文字の大きさの変更など、一見して発行駅が判別できるよう工夫されている。",
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"text": "定期券は地下鉄のみのほか、地下鉄と市バス、ゆとりーとライン、あおなみ線、名鉄、JR東海、リニモとの連絡定期券が発売されている。近鉄との連絡定期券は存在しない。市バス以外のmanaca導入のバス事業者(豊橋鉄道市内線を含む)の定期券とも複合させることができ、券面下半分に印字される。",
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"text": "また、名古屋市営地下鉄の学生・生徒・児童向けの定期券は通学定期券ではなく、学生定期券として発売されており、塾やアルバイトなどの通学経路に関係ない区間でも購入することができる。",
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"text": "乗車カードとして、従来の回数券や連続割引サービスを含めた乗車券として、トランパス対応で、同局の地下鉄・バス路線や名古屋鉄道などの提携他社において使用できるプリペイドカード式乗車券を「ユリカ」という名称で発売していた。",
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"text": "ユリカが1998年に導入される前には、1988年4月1日から自動券売機・自動精算機できっぷの購入や運賃精算ができる(自動改札機に直接投入はできない)プリペイドカード「リリーカード」が発売されていたが、2003年3月27日に利用停止、2006年3月31日で交換終了となり、現在は無効となっている。また、同じ頃から、自動改札機に直接投入できる回数券カードが発売されていた。回数券カードには地下鉄・バス乗継回数カードも存在した。これは地下鉄(1区 - 5区)券10枚と市バス200円券10枚が1枚のカードにセットされたものである。現在はユリカに乗継割引機能があるため、いずれも発売を終了した。",
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"text": "2011年2月11日より非接触型ICカード「manaca(マナカ)」が導入された。これに伴い、ユリカ(バス・地下鉄共通ユリカ、バス昼間割引専用ユリカ、地下鉄昼間割引専用ユリカ)及び大人3800円で地下鉄1区間を22回利用できる「地下鉄1区特別きっぷ」の発売は前日の同年2月10日で終了した。利用についても2012年2月29日をもって終了した。",
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"text": "車両は「標準軌・第三軌条・小型車両」仕様の東山線、名城・名港線タイプと「狭軌・架空電車線・大型車両」仕様の鶴舞線、桜通線、上飯田線タイプに大別することができる。",
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"text": "東京、大阪に次いで、1957年(昭和32年)に名古屋でも地下鉄が走り始めた。開業にあたり、用意された車両はウィンザーイエローの車体色が特徴的であり、この車体色から「黄電」(きいでん)という愛称で呼ばれた。",
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"text": "第一世代「黄電」の特徴として導入年によってマイナーチェンジが多数行われており、形式も多数あることが挙げられる。これらの共通点は車体色、鋼製車体、非冷房、抵抗制御であるほかは形式によって車体、内装、機器類も異なっている。",
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"text": "2000年(平成12年)の東山線300形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非冷房車は営業線上から姿を消した。",
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"text": "2路線で最大371両が運用された「黄電」も登場から約25年が経過して老朽化が進んでいた。また、乗客数も輸送力も飛躍的に増大した地下鉄では駅構内やトンネル内の温度上昇が著しく、非冷房車「黄電」の後継となる冷房付き新型車両の登場が望まれた。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "こうした中、1977年(昭和52年)に新規開業した鶴舞線では開業当初より冷房・ステンレス車体・電機子チョッパ制御の3000形が用意された。また、小断面トンネルの東山線でも技術進捗により、省電力で薄型の冷房装置の車両搭載が可能となり、1980年(昭和55年)に冷房・アルミ車体・電機子チョッパ制御の5000形試作車が登場し、1982年(昭和57年)からは量産が開始された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "2023年(令和5年)の鶴舞線3000形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非VVVF車は営業線上から姿を消した。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1989年(平成元年)の桜通線開業にあたり、最新の車両技術と電子技術を駆使し、省エネルギーと省メンテナンスと共に乗り心地向上や快適性追求のため、従来にない新型車両の開発が進んだ。1987年(昭和62年)に登場した桜通線6000形ではVVVFインバータ制御のほか、オールステンレス車体、ボルスタレス式空気ばね台車、LED式車内案内表示器、ホーム監視映像モニタが初採用された。以降、2007年(平成19年)の東山線N1000形登場まではこれが名古屋市交通局の第三世代の標準車両となり、東山線、名城線、鶴舞線、上飯田線と全路線に展開された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "従来の車両は約30年程度で廃車されたものが、第三世代以降の車体構造は丈夫な一方で、主要電気機器は老朽化が早いことから、より長期にわたって活躍することが見込まれており、名古屋市の長期維持管理計画では約40年超の使用が見込まれているため、経年約20 - 25年程度での更新が進んでいる。ただし、鶴舞線3050形3159編成は非VVVF車との混成編成のため、2019年(令和元年)9月26日に廃車された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "東山線5000形の更新にあたり、設計理念3S(silent・speed・safe)を基本に、「安心・安全で快適なまちづくり」の推進のため、第四世代となる新しい車両が設計された。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2007年(平成19年)に東山線N1000形が登場している。形式名頭文字の「N」には次世代の名古屋の地下鉄を担う車両として「New」「Next」「Nagoya」の意味合いが込められている。ただし、桜通線6050形は地下鉄車両の附番方法のルール上、頭文字にはNが付いていない。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "車体は各車両メーカーが開発した新工法にて製造されており、日車式ブロック工法もしくはA-trainとなっている。そのため、車体にはビードがなく、すっきりしている。また、火災対策や省エネ化に重点が置かれている。なお、東山線N1000形は製造時期によって車体の溶接方法、鶴舞線N3000形は車体構造によって自重が異なる。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "各編成については、○○○○Hのように表す。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "名古屋市において、守山区以外の各区内に駅がある。路線ごとに駅務区を設置(名城線は駅務区を南北でそれぞれ1つずつ設置、名港線は名城線南部駅務区管轄下、上飯田線は全駅が名城線南部駅務区管轄または名鉄管轄であるため駅務区が設置されていない)、さらに駅務区の下に管区を1つないし2つ設け、各管区ごとに複数の駅を管理している。駅務区には駅務区長、管区には管区駅長がそれぞれを統括する役職として配置されている。なお、各駅に配置されている駅長は利用者にその駅の責任者であることをわかりやすく伝えるための対外的な呼称であり、役職上は助役である。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "車両基地や折り返し設備のある駅の一部は駅務区ではなく、乗務員部署である運転区が管轄し、乗務員が駅業務を兼務している。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "全駅でバリアフリーのための整備を行っている。韓国・大邱都市鉄道公社での放火による火災によって反対路線に停車した列車に延焼したことを受けて、対向式ホーム中央の柱間にガラス及び鉄製の防火壁の取り付けが順次行われている。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "自動券売機で発売される磁気券は、券紙を回数券発行に使用しないため、裏面が茶色の低保磁券を採用している。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "各駅の発車案内にはLEDのものが使われている。上飯田線は開通当初からLEDとなっているが、それ以外の5路線は行灯方式を使っていた。1999年に名城線(現・名港線部分も含む)から置き換えが始まり、その後東山線・桜通線の順に置き換えられ、2012年の鶴舞線を最後に置き換えが完了した。市役所駅の改札口には行灯方式のものが残っている。なお、2019年より名城線・名港線では発車案内の液晶化が行われ、同年12月までに交換が完了した。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "各路線の全駅に駅番号が割り振られている。駅番号は、2004年に名城線が全通したのを機に割り振られた。名城線・名港線以外では、各路線の北ないし西を01番(起点)として付けている。名城線・名港線は分岐点となる金山駅を01番としており、名城線では栄、大曽根方面に向かって右回りの順に付けられている。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "駅ホームに設置されている駅名標のデザインは、設置時期により異なっている。相違点は以下のとおり。なお、同じ駅に複数種類の駅名標が使われている場合もある。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "乗換駅での乗り換え案内表示にあるラインカラーは車両の路線表示と同じくラインカラーの横線5本からラインカラーの地下鉄のマークに変更されているところもある。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "経費削減のため、駅構内照明器具の省エネ化を進めており、2013年度まではラピッドスタート式の蛍光灯からHfインバーター式蛍光灯、2014年度からは久屋大通駅を皮切りにラピッドスタート方式蛍光灯からLED照明への置き換え、駅名標や業務案内板などの内照式看板(広告用を除く)の非内照式への改造を進めている。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "当交通局独自の規則として、エスカレーター上での歩行を禁止し、手すりに掴まって2列で立ち止まって乗り、急いでいる人は階段を使うよう呼び掛けている。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "地上連絡エレベーターは独立した出入口として機能している場合でも番号は付与しておらず、既存の出入口をエレベーター専用出入口に改修した駅では出入口番号に欠番が発生している場合もある。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "交通局の外郭団体、名古屋交通開発機構が売店として「Do!」という独自名称のコンビニ形態の店舗をかつては展開していた(実際の店舗運営はサークルケイ・システムサービスに委託)。しかし、順次「サークルKミニ」を経て「ファミリーマート」に改称しており、「Do!」を名乗る売店は無くなっている。なお、既存チェーン店が出店する場合も店舗名の一部にDo!を冠する場合があったため、この形で名残を残している店舗が一部存在する。また、セブン-イレブン(丸の内駅、徳重駅など)、ローソン(高畑駅、丸の内駅桜通線ホームなど)などのコンビニも出店している(このほか、ファミリーマートはサークルKサンクスとの統合前から伏見、今池に出店していた)。どの売店でもmanacaは使用可能(ただし、セブン-イレブンはPOSと連動していないほか、一般のファミリーマートでは対象の名鉄のミュースターポイントは付かないなど運用が異なる)。交通系以外の電子マネーやクレジットカード、バーコード決済はチェーン全体に準ずる。店舗は改札外に設置されることが多いが、乗り換え駅では改札内コンコースやホームに設置されている場合もある。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2011年3月27日の桜通線延伸開業時より、利用者の少ない桜通線の3駅(鳴子北駅、相生山駅、神沢駅)と名港線の4駅(日比野駅、六番町駅、港区役所駅、築地口駅)の駅業務を日本通運名古屋支店に委託している。委託により年間8400万円の経費が削減されている。当初の委託期間は2016年3月末までであったが、2015年に委託契約を更新し、2026年3月末までとなっている。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "2015年の更新契約の結果、東山線の5駅(八田駅、中村公園駅、中村日赤駅、本陣駅、亀島駅)の駅業務に関しても2016年4月1日より縁エキスパートに委託している。委託期間は2023年3月末まで。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2018年4月より、一部の駅では改札口への係員配置を廃止し、インターホンにより駅長室から駆けつける形に変更している。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "名古屋市営地下鉄と他社線を直接繋ぐ連絡改札口はどの乗換駅にも存在しない。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "名古屋市営地下鉄の駅構内の通路区分(右側通行、左側通行)は統一されておらず、その判断は各駅に委ねられており、周辺施設の位置や利用者の要望により決めることもある。",
"title": "駅"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "2016年度は、一日平均の利用者数が約129万人(2010年度は116万人)収入は945億円、支出は784億円、収支は161億円の黒字でその結果、累積欠損金は2,482億円、実質資金不足額は2,298億円となった(2016年度決算)。",
"title": "経営状況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "経常収支は、1994年(平成6年)度に最大445億円の赤字を記録し、累積欠損金は、2004年(平成16年)度には4500億円に迫るところにまで至っていた。その後、中期経営健全化計画(計画期間:2002年度から2005年度)、経営改革計画(計画期間:2006年度から2010年度)、市営交通事業経営健全化計画(計画期間:2009年度から2016年度)と順次計画を策定し、2010年5月には名古屋市交通事業経営健全化委員会を設置して、市バス事業とともに経営の改善に努め、上記のような決算状況に至っている。名古屋市交通局では、累積欠損金について、2039年度において解消されるとの評価をしている。",
"title": "経営状況"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2019年度(令和元年度)1日当たり。名古屋市交通局のオープンデータによる。",
"title": "経営状況"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "地下鉄車両などに掲出されているシンボルマークは、画家の杉本健吉がデザインしたもので、名古屋市の市章である「○」の中に「八」を基に、トンネルの中を通る線路に見えるようアレンジした図案である。なお、開業当初は「○」部分が破線になっていた。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "上小田井駅と上飯田駅を除く駅の出入口にある駅名サインは現在以下の3種類が存在する。写真は各駅の記事を参照。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "名古屋市営地下鉄では、各路線を識別するカラーを設定している。2018年より鶴舞線を除き、従来よりも赤みを帯びた色に路線カラーが変更された。各路線のカラーは以下の通り。なお、DIC色番号は「名古屋市交通局 旅客サインマニュアル」に定められているもので、そのDIC色番号をDICの「COLORGUIDE」アプリで検索した際に表示されるsRGB値(HTML値)を参考として掲載する(なお、このHTML値は公式サイトでは用いられない)。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "路線シンボルは、路線カラーとした地下鉄シンボルマークを使用した1世代前ものと、路線カラーの横5本線を使用した2世代前のものが併用されていたが、新たに「○」の下部を切り欠き、その内部に路線記号を配したものに変更された。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2018年より栄駅を皮切りに新型の案内サイン掲示に更新されている。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "主な相違点としては、",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "などがある。",
"title": "サインシステム"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "2000年頃から、新たな広告媒体の事業化を目指す目的で「新交通広告表示システム」の計画が開始された。翌2001年に桜通線名古屋駅で実証実験を行った後、2004年12月より東山線の栄駅と伏見駅のホームにて液晶モニタを使ったサービスを開始している。内容は、テレビコマーシャル、オリジナルのアニメーション広告、ニュースなどで、公営の地下鉄駅としては珍しく音声も流している。さらに2006年12月からは名城線久屋大通駅ホームにプロジェクターを使ったシステムが導入されたのを皮切りに、翌2007年4月には同線の栄・本山・金山・上前津の各駅にも設置された。また、同年6月からは東山線名古屋駅、翌年3月から同線伏見駅ホーム軌道内にて液晶モニターを使ったサービスも開始している。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "2006年5月頃に名古屋市交通局が地下鉄車両内に掲示したマナー啓発広告に使用した画像に関し、PHS事業者のウィルコムより抗議を受けて謝罪をした。",
"title": "広告"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "2018年現在、全線全駅、および全区間で、4Gおよび3Gの携帯電話ネットワークによるデータ通信および音声通話、WiMAX 2によるデータ通信が可能。ただし走行中の車内での通話自粛要請と、混雑時の優先席付近での電源OFF要請が行われている。",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "駅コンコース(改札口付近)およびプラットホームでは通信事業者各社およびNAGOYA Free Wi-Fiによる公衆無線LANが利用可能。桜通線車内ではauおよびWi2による車内Wi-Fiが利用可能である。(ソフトバンクのみ、2016年12月より公衆無線LANの提供駅を主要10駅のみに縮小した)",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "このように現代では都市部で携帯電話が使えることは当たり前であるが、かつては医用電子機器(心臓ペースメーカー等)への無線電波の影響を懸念する根強い意見があり、地下鉄駅構内および路線トンネル内への携帯電話基地局の設置は意図的に見送られていた。",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "名古屋市営地下鉄では2004年9月頃から、2GHz帯を使用する方式を除いて携帯電話各社についてプラットホームでは圏外になるような対策が行われた(改札口付近では利用可。また、PHSについては設置事業者においても元より改札口付近のみ圏内)。名古屋市交通局は、総務省の「電波の医用機器等への影響に関する調査結果」(2002年7月2日)に基づく処置であるとしていた。",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "地下鉄利用中は電話の着信もできないことから、名古屋市営地下鉄のこの対応以降、トヨタ自動車や日立製作所、NTTデータ東海などは一部従業員に対し、業務時間中の移動に地下鉄を利用せず、タクシーやJR・名鉄など地上を走行する交通機関を利用するよう求めていた。",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "携帯電話技術の進展により、心臓ペースメーカー等への影響が過去のものとなったことや、2011年3月11日の東日本大震災を契機として、地下空間での通信手段の確保の必要性が認知されるようになり、通信不能とするのではなく、優先席付近での利用や車内での通話の自粛要請という形でエリア整備が進められることとなった。",
"title": "携帯電話・モバイル"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "2012年3月27日より、NTTドコモ・au・ソフトバンク・イーモバイル(現在のワイモバイル)の4社は、名古屋駅 - 今池駅間の東山線車内で携帯電話のサービスを開始し、2012年10月31日より東山線全線、名城線は市役所駅(現在の名古屋城駅) - 金山駅 - 新瑞橋駅間、桜通線は中村区役所駅(現在の太閤通駅) - 御器所駅間までサービスを広げ、これを皮切りに、順次各路線に拡大した。",
"title": "携帯電話・モバイル"
}
] |
名古屋市営地下鉄(なごやしえいちかてつ)は、名古屋市交通局が運営する地下鉄である。 現在は6路線が営業中で、守山区を除く名古屋市15区と日進市に路線がある。営業キロ数は93.3km、駅数は87駅(以上2011年3月27日現在)。車両数は782両(2017年9月現在)。一日あたりの乗車人員は約134万人(2018年度現在)。なお、名古屋市の例規上の正式名は、名古屋市高速度鉄道である。
|
{{pp-vandalism|small=yes}}
{{出典の明記|date=2016年8月}}
{{Infobox 公共交通機関
|名称=名古屋市営地下鉄
|ロゴ=
|ロゴサイズ=
|画像=Nagoya Subway Logo (black).svg
|画像サイズ=100px
|画像説明=高速電車の章標([[名古屋市交通局#徽章・章標|1979年制定]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[愛知県]][[名古屋市]]、[[日進市]]
|種類=[[地下鉄]]
|開業=[[1957年]][[11月15日]]
|廃止=
|運営者=[[名古屋市交通局]]
|ウェブサイト=[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/ 名古屋市交通局公式ウェブサイト]
|総延長距離=93.3 [[キロメートル|km]]
|路線数=6路線
|駅数=87駅
|輸送人員=
|1日利用者数=
|保有車両数=
|軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]](東山線・名城線・名港線)<br />1,067 mm(鶴舞線・桜通線・上飯田線)
|電化方式=[[直流電化|直流]] 600 [[ボルト (単位)|V]] [[第三軌条方式]](東山線・名城線・名港線)<br />直流 1,500 V [[架空電車線方式]](鶴舞線・桜通線・上飯田線)
|最高速度=65 [[キロメートル毎時|km/h]](東山線・名城線・名港線)<br />75 km/h(鶴舞線・桜通線・上飯田線)
|路線図=[[File:Linemap of Nagoya Municipal Subway H29-.svg|300px]]}}
[[ファイル:名古屋市営地下鉄東山線一社駅付近.JPG|代替文=|サムネイル|東山線一社駅付近(地上区間)]]
'''名古屋市営地下鉄'''(なごやしえいちかてつ)は、[[名古屋市交通局]]が運営する[[地下鉄]]である。
現在は6路線が営業中で、[[守山区]]を除く[[名古屋市]]15区と[[日進市]]に路線がある<ref group="注釈">路線ではないが、藤が丘工場の一部は[[長久手市]]にかかる。</ref>。[[営業キロ]]数は93.3[[キロメートル|km]]、駅数は87駅(以上2011年3月27日現在)。車両数は782両(2017年9月現在)<ref group="PR">[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ENJOY/TRP0000488.htm 設備・車両ガイド] - 名古屋市交通局</ref>。一日あたりの乗車人員は約134万人(2018年度現在)。なお、名古屋市の例規上の正式名は、'''名古屋市高速度鉄道'''である。
== 路線 ==
=== 営業路線 ===
線路幅は全6路線中3路線が[[標準軌]]・第三軌条方式で、残る3路線が[[狭軌]]・架空電車線方式である。また[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]と[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]の2路線は、下記の通り[[名古屋鉄道]](名鉄)と[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。
また、名古屋市営地下鉄の駅や車内に掲示されている路線図には、名古屋市営地下鉄の路線以外に、直通先の[[名古屋鉄道#路線|名鉄線]]や[[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ゆとりーとライン(高架区間)]]、[[名古屋臨海高速鉄道あおなみ線|あおなみ線]]、[[愛知高速交通東部丘陵線|リニモ]]も掲載されていたが、現在は省略されている。
{|class="wikitable" style="font-size:80%;"
|-
!色!!記号!!路線名!!愛称!!区間!!キロ程!!駅数!!色名!!軌間!!電化方式
|-
|style="background:#FAB123;"|
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|24px|H]]
|1号線
|[[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]
|[[高畑駅]] (H-01) - [[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘駅]] (H-22)
|style="text-align:right;"|20.6 km
|style="text-align:right;"|22 駅
|黄
|rowspan=6 |1,435 mm<br />(標準軌)
|rowspan=6 |直流600 V<br />[[第三軌条方式]]
|-
|rowspan=2 style="background:#B074D6;"|
|rowspan=2 style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|24px|M]]
||2号線
|rowspan=2 style="white-space:nowrap;"|[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]
|[[金山駅 (愛知県)|金山駅]] (M-01) - [[栄駅 (愛知県)|栄駅]] (M-05) - [[大曽根駅]] (M-12)<br/>(4号線とともに相互直通運転)
|rowspan=2 align="right"|26.4 km
|rowspan=2 align="right"|28 駅
|rowspan=2|紫
|-
|4号線
|大曽根駅 (M-12) - [[八事駅]] (M-20) - 金山駅 (M-01)<br/>(2号線とともに相互直通運転)
|-
|style="background:#B074D6;" border="1"|
|rowspan=3 style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|24px|E]]
|rowspan=3|2号線
|rowspan=3|[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]
|rowspan=3|金山駅 (E-01) - [[名古屋港駅 (名古屋市営地下鉄)|名古屋港駅]] (E-07)
|rowspan=3 align="right"|6.0 km
|rowspan=3 align="right"|7 駅
|rowspan=3|紫 + 白
|-
|style="background:#FFFFFF;" border="1"|
|-
|style="background:#B074D6;" border="1"|
|-
|style="background:#009BBF;"|
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|24px|T]]
|3号線
|[[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]
|[[上小田井駅]] (T-01) - [[赤池駅 (愛知県)|赤池駅]] (T-20)
|style="text-align:right;"|20.4 km
|style="text-align:right;"|20 駅
|青
|rowspan=3 |1,067 mm<br />(狭軌)
|rowspan=3 |直流1,500 V<br />架空電車線方式
|-
|style="background:#C92F44;"|
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|24px|S]]
|6号線
|[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]
|[[太閤通駅]] (S-01) - [[徳重駅 (名古屋市)|徳重駅]] (S-21)
|style="text-align:right;"|19.1 km
|style="text-align:right;"|21 駅
|赤
|-
|style="background:#FC78B4;"|
|style="text-align:center;"|[[ファイル:Nagoya Subway Logo V2 (Kamiiida Line).svg|24px|K]]
|[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]
|
|[[上飯田駅]] (K-01) - [[平安通駅]] (K-02)
|style="text-align:right;"|0.8 km
|style="text-align:right;"|2 駅
|桃
|}
*たとえば「東山線」と呼ばれる路線は例規上「名古屋市高速度鉄道第1号線」と称し、1969年の愛称決定までは「地下鉄1号線」あるいは通称の東西線と呼ばれた。[[都市交通審議会]]でも「○号線」として計画され、愛称決定まではその名称が用いられた。[[1972年]]の都市交通審議会答申第14号において1号線から9号線まで存在していたが、[[1992年]]の[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|運輸政策審議会答申第12号]]で路線網が見直された際、新たな経路で計画された路線は数字ではなく愛称と同様に地名などを冠した。この時に計画された上飯田線はそのままの名称で開業した。
*ラインカラーは1977年3月の鶴舞線開業に合わせて定められたものである<ref>{{Cite book |和書 |author1=大須賀広郷 |author2=田川輝紀 |author3=小川金治 |title=日本の私鉄 (20) 名古屋市営地下鉄 |series=カラーブックス (586) |publisher=保育社 |date=1982-11-01 |isbn=9784586505869 |page=65}}</ref>。
*色の選別は、桜通線開業以降、案内時に伝えやすいよう、似た色や複雑な色を避け、鶴舞線の「青」や桜通線の「赤」と単純な色名で表現できる色が選別されており、今後の新規路線を想定した予備として緑や橙は未使用のまま用意されている。
*2号線と4号線から形成される名城線は環状になっており、1つの路線として運転が行われている。
*名城線と名港線は始発・終電時間帯を除き直通運転が行われている。
*鶴舞線は、上小田井駅より[[名鉄犬山線|犬山線]][[犬山駅]]まで、赤池駅より[[名鉄豊田線|豊田線]]を経て[[名鉄三河線|三河線]][[豊田市駅]]まで名鉄と相互直通運転を行っている。
*上飯田線は、上飯田駅より[[名鉄小牧線|小牧線]]犬山駅まで名鉄と相互直通運転を行っている。上飯田線は[[第三セクター]]会社[[上飯田連絡線]]株式会社が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]として施設を保有しており、交通局が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]として施設を同社から借り受け運営している。ただし、列車の運行は同線に乗り入れる小牧線を運営する名鉄に委託している。
=== 計画上の路線 ===
{{See also|名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について}}
1992年(平成4年)の[[運輸政策審議会]][[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|答申第12号]]で示されて以降、新たな整備計画は出されておらず、今後の安全対策や資金不足、費用対効果が薄いなどの理由により、[[2019年]](平成31年)3月時点では新線建設は行わないとしている<ref>{{PDFlink|[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/ABOUT/TRP0003651/名古屋市営交通事業経営計画2023(案)に対する市民意見の内容及び交通局の考え方.pdf 名古屋市営交通事業経営計画2023(案)に対する市民意見の内容及び交通局の考え方]}} - 名古屋市交通局</ref>。
=== 運行形態 ===
{{Main|名古屋市営地下鉄東山線#運行形態|名古屋市営地下鉄名城線#運行形態|名古屋市営地下鉄名港線#運行形態|名古屋市営地下鉄鶴舞線#運行形態|名古屋市営地下鉄桜通線#運行形態|名古屋市営地下鉄上飯田線#運行形態}}
営業列車による運行時間は、午前5時30分から翌日午前0時30分までの19時間である。夜間は施設の保守時間として確保されている。名城線以外の基本的に区間運転を行わない各路線でも、初電・終電は途中駅発着の列車がある{{Refnest|group="注釈"|開業時は5時30分から23時30分までの運行であった。[[1968年]]4月から0時00分まで、[[1976年]]12月から東山線のみ0時28分まで、[[1978年]]8月から鶴舞線以外は0時30分まで延長されている。ただし鶴舞線は[[1977年]]3月の開業時から[[2003年]]3月まで0時00分までの運行であった<ref>『開業30周年 地下鉄資料集』名古屋市交通局、1987年 、p162-169(年表)</ref>。}}。
[[2014年]]の7月以降は、東山線で金曜日と祝日前日(年末年始やお盆期間を除く)に限り終電を45分間延長した。「補助金カットを防ぎたい」という局長{{要出典|date=2022年10月}}と、「サービスを向上させたい」という名古屋市長[[河村たかし]]の意向で、2013年12月20日と27日に試行実施を行い、2014年7月4日以降、上下各2本{{Refnest|group="注釈"|本来の最終である名古屋駅0時07分発星ヶ丘行と、同じく0時20発岩塚行は、それぞれ藤が丘行、高畑行に変更される。この便の後に2本の増便が行われている。}}の臨時列車を運行している。
なお、[[ダイヤグラム|曜日ダイヤ]]区分のうち、東山線は原則として[[夏休み]]・[[冬休み]]([[12月29日]] - [[1月3日]]を除く)・[[春休み]]期間中の平日は「学校休校期ダイヤ」を設定する。また年末年始の12月29日 - 1月3日は土休日ダイヤで運行するが、東山線については[[12月31日]]から1月3日は土休日ダイヤではなく、専用特別ダイヤ(12月31日が「大晦日ダイヤ」、正月3が日は「正月ダイヤ」)を適用する。1975年大晦日以降、毎年12月31日深夜から1月1日までの間、上飯田線以外の全路線<ref group="PR">{{Cite web|和書|accessdate=2021-02-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041231025410/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/osirase/nenmatunenshiunkou/nenmatunenshiunkou.htm|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/osirase/nenmatunenshiunkou/nenmatunenshiunkou.htm|deadlinkdate=2021-02-02|date=2004-12-17|archivedate=2004-12-31|title=市バス・地下鉄年末年始の運行及び交通局サービスセンター営業体制等について(2004 - 2005年)|publisher=名古屋市交通局}}</ref>で終夜運転を行っている。沿線に[[熱田神宮]]がある名城線は初詣客で混雑するため、正月3が日は大曽根 - 八事 - 新瑞橋 - 金山の区間も一部時間帯で5分間隔で運行していたが、[[2012年]]以降は通常ダイヤでの運行となっている。
沿線にイベントがある時は、臨時列車が運行されることがある。[[ナゴヤドーム]]のイベントや[[名古屋港]]の花火大会が沿線で行われる名城線・名港線で運行されることがほとんどである。
== 歴史 ==
=== 建設の経緯 ===
名古屋市による市営地下鉄の建設計画は、人口が100万人を突破した[[1936年]](昭和11年)に発表されたものが最初である。この計画によれば、以下の7路線約52kmを2期に渡って建設する予定であった。この計画は、地下線での計画を基本にしながら、田端 - 市役所や桜山 - 柴田などでは[[高架橋|高架線]]での建設も予定されていた。
; 一期
:* 中村 - 覚王山
:** 現在の中村公園駅付近 - 覚王山駅付近
:* 田端 - 市役所 - 内田橋
:** 現在の黒川駅付近 - 熱田神宮伝馬町駅付近
; 二期
:* 桜山 - 篠原町 - 押切
:** 現在の桜山駅付近 - あおなみ線 荒子駅東部? - 浅間町駅付近
:* 覚王山 - 新池
:** 現在の覚王山駅付近 - 東山公園駅付近
:* 本山橋 - 八事
:** 現在の本山駅付近 - 八事駅付近
:* 押切 - 田端 - 大幸町
:** 現在の浅間町駅付近 - 黒川駅付近 - 砂田橋駅付近
:* 桜山 - 笠寺 - 鳴尾 - 柴田
:** 現在の桜山駅付近 - 名鉄 本笠寺駅付近 - 名鉄 本星崎駅南部 - 名鉄 柴田駅付近
その後、[[1937年]](昭和12年)に[[名古屋駅|国鉄名古屋駅]]が笹島から現在の位置に移転すると、[[1938年]](昭和13年)6月、その跡地地下に[[大阪電気軌道#関西急行電鉄|関西急行電鉄]]の関急名古屋駅(現:[[近鉄名古屋駅]])が建設され、名古屋で初の地下線による鉄道が開業した。
[[日中戦争]]の長期化により名古屋市の財政は悪化したが、軍需産業都市としての発展もあり、[[1939年]](昭和14年)に'''臨時名古屋市並近郊交通調査会'''が発足し、地下鉄計画を再検討した結果、以下の基本4路線約29kmが発表された。この基本計画のほかに将来計画として大規模な地下鉄整備計画も発表されており、実際にボーリング調査の準備まで行われたものの、[[第二次世界大戦]]開戦の影響により、計画は凍結される。
* 名古屋駅 - 覚王山
** 現在の東山線の中央部に相当。
* 市役所 - 熱田
** 現在の名城線の西部に相当。
* 名古屋駅 - 高辻
** 大部分が現在の鶴舞線の一部に相当。
* 大曽根駅 - 熱田
** 現在の名城線(4号線)とは全く別の路線。
戦後になるとまず、[[1946年]](昭和21年)1月、'''高速鉄道網検討用基礎案'''として以下の4路線約43Kmが立案された。これは、戦災復興のため将来人口を200万人と想定した都市計画として立案されたため、鉄道着工よりも鉄道用地を先行確保するのが主目的の計画であった。この計画では、平田橋、上飯田、守山、八事などで既存の鉄道との[[直通運転|相互乗り入れ]]が重視されていたため、現在の地下鉄路線とはかなり違う経路を通っているものが多い。
* 八田 - 栄町 - 覚王山 - 守山
* 平田橋 - 栄町 - 八事
* 上飯田 - 栄町 - 八事
* 覚王山 - 総合運動公園
9月には'''名古屋市高速度鉄道協議会'''が設置され、これには名古屋市のほか、[[運輸省]]、[[内務省 (日本)|内務省]]、[[戦災復興院]]、[[名古屋鉄道|名鉄]]、[[近畿日本鉄道|近鉄]]も参加し、[[1947年]](昭和22年)10月に以下の6路線約55kmの路線網を定めた。
[[File:Yanagibashi Station plan (1952).JPG|300px|thumb|right|柳橋駅想像図。この時の計画では名古屋駅乗り入れとの兼ね合いや経費削減のため、市中央部でも一部区間が高架式で建設される予定だった。]]
[[1950年]](昭和25年)[[1月19日]]には[[建設省]]告示第9号でこれらのうち約48.4kmが'''名古屋復興都市計画高速度鉄道路線網'''として都市計画決定された<ref name="kensetsusho-1963">{{Cite
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| title = [[建設省]]十五年小史
| publisher = [[建設広報協議会]]
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| date = 1963年10月1日
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}}</ref>。この都市計画決定は、[[日本国有鉄道]](国鉄)名古屋駅0番ホームを借り受け、そこに地下鉄を乗り入れ、栄生まで延長して[[名鉄名古屋本線]]と相互直通運転をする計画のほか、名古屋市、名鉄、近鉄の三者の協定により、新川橋、八田、大曽根、水分橋でも相互直通運転をすることが予定されていた。
* 覚王山線(1号線):(八田 - )名古屋駅 - 栄町 - 田代 - 石川町
** 八田 - 田代間は現在の東山線の一部にほぼ相当するが、1950年1月の都市計画決定では八田 - 名古屋駅間が保留となった。名古屋駅で名鉄線との直通運転{{sfn|交通局|1952b|p=103}}が予定されたほか、保留区間の八田からは近鉄線([[近鉄八田駅]])との乗り入れも想定されていた{{sfn|交通局|1952b|pp=97-98}}。田代 - [[石川町 (名古屋市)|石川町]]間は現在の名城線本山 - 八事間のやや西側に相当する。
* 城北線(2号線):新川 - 市役所裏
** 新川([[新川橋駅]])で名鉄と接続し、[[枇杷島駅]]および[[名鉄犬山線|犬山線]]を立体交差して市北部に進入し、名古屋城北側を回って市役所裏で熱田線と大曽根線に接続する路線{{sfn|交通局|1952b|p=98}}。
* 熱田線(2号線):市役所裏 - 栄町 - 金山 - 石川町
** 市役所裏([[土居下駅]]付近)から南下して栄町で覚王山線と立体交差し、金山付近と熱田付近で2度国鉄・名鉄と立体交差して石川町に至る路線{{sfn|交通局|1952b|pp=98-99}}。市役所裏 - 金山間および金山 - 熱田間の手前までは現在の名城線南西部とほぼ一致するが、熱田 - 石川町間は現在の名城線と市電路線([[名古屋市電八熊東線|八熊東線]]・[[名古屋市電東郊線|東郊線]]・[[名古屋市電藤成線|藤成線]])の中間付近を通る。
* 東山線(3号線):田代 - 東山
** 現在の東山線の一部に相当。将来構想では高針を経由して挙母(現:[[豊田市]])に至る予定だった{{sfn|交通局|1952b|p=99}}。
* 大曽根線(4号線):市役所裏 - 大曽根 - 水分橋
** 市役所裏 - 大曽根間は[[名鉄瀬戸線]]と同一ルートを沿って大曽根で瀬戸線と接続し、北上して水分橋付近で[[名鉄小牧線]]と接続する路線{{sfn|交通局|1952b|p=99}}。
* 中根線(5号線):石川町 - 名市大薬学部前
** 石川町から[[名古屋薬科大学|名古屋市立大学薬学部]]前([[鳴海町]]滝の水39{{sfn|交通局|1952b|p=97}}。現在の滝の水公園付近)に至る路線。将来構想では[[有松駅]]を経由して[[刈谷駅]]に至り、[[名鉄三河線]](海線)沿線と名古屋市とを短絡する予定だった{{sfn|交通局|1952b|p=99}}。
* 築港線(6号線):金山 - 名古屋港
** 現在の名港線より西側、[[名古屋港線]]沿いに名古屋港に至る路線。将来構想では名古屋港西岸方面へ延長する予定だった{{sfn|交通局|1952b|p=99}}。
その後、建設資金分担や国鉄ホームの使用を巡る問題などにより、上記計画は頓挫した。名古屋市は独自に相互直通を前提とせずに地下鉄を建設することになり、[[第三軌条方式]]を採用し、すでに免許を取っていた名古屋 - 田代間及び市役所裏 - 金山間の早期開業を図った。[[1954年]](昭和29年)8月には名古屋 - 栄町間について着工し<ref name="kensetsusho-1963" />、[[1956年]](昭和31年)には[[名古屋市電下之一色線]]での試作車による運行テストを開始した。
[[1957年]](昭和32年)[[11月15日]]、名古屋市営の最初の地下鉄として、名古屋 - 栄町(現:栄)間2.4kmが開業した{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。当初の料金は名古屋 - 栄町間で大人15円・小児8円の均一制。名古屋市内の1世帯に1枚ずつ試乗券が配布された。
=== 年表 ===
開業日の営業開始時刻は、日付に*印を付したものは14時、**印を付したものは12時、無印は始発からである<ref>{{要出典範囲|[[中日新聞]]各号|title=それぞれ、何月何日付何ページかを明記してください。|date=2013年6月}}、[[中日新聞社]]</ref>。
* [[1957年]]([[昭和]]32年)[[11月15日]]* - 1号線(現:東山線)名古屋 - 栄町間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1960年]](昭和35年)[[6月15日]] - 1号線栄町 - 池下間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1963年]](昭和38年)[[4月1日]] - 1号線池下 - 東山公園間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1965年]](昭和40年)[[10月15日]]* - 2号線(現:名城線)栄町 - 市役所間が開業。
* [[1966年]](昭和41年)[[6月1日]] - 駅名変更(栄町→栄、伏見町→伏見)。
* [[1967年]](昭和42年)[[3月30日]]* - 1号線東山公園 - 星ヶ丘間、2号線栄 - 金山間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1969年]](昭和44年)
** 4月1日** - 1号線星ヶ丘 - 藤ヶ丘間・名古屋 - 中村公園が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
** [[5月1日]] - 1号線の愛称を東山線、2号線の愛称を名城線として使用開始。
*** これ以前は1号線を「東西線」、2号線を「南北線」と呼称する場合もあった(名古屋市の広報紙・中日新聞など)。
* [[1970年]](昭和45年)[[12月10日]] - 東山線上社駅新設{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1971年]](昭和46年)
** [[3月29日]]** - 名城線金山 - 名古屋港間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}(現:名港線)。
** [[12月20日]]** - 名城線市役所 - 大曽根間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}(当時の名城線全通)。
* [[1974年]](昭和49年)3月30日** - 4号線金山 - 新瑞橋間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1975年]](昭和50年)[[12月31日]] - 大晦日から元旦の[[終夜運転]]開始<ref name="shibasu_subway">『市バス・地下鉄』名古屋市交通局営業本部管理部 総務課、1989年 、p29-p30(年表)</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)
** [[11月1日]] - 普通乗車券磁気化<ref name="shibasu_subway"/>
** [[11月29日]] - 大曽根駅と星ヶ丘駅に磁気式の自動改札機を初めて設置する<ref name="subway30">『ナゴヤの地下鉄 メモリアル30』名古屋市交通局、1987年 、p37</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)[[3月18日]]** - 鶴舞線伏見 - 八事間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1978年]](昭和53年)[[10月1日]] - 鶴舞線八事 - 赤池間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1979年]](昭和54年)
** [[3月30日]] - 名古屋港駅への導入をもって、自動改札機全駅導入完了<ref name="shibasu_subway"/><ref name="subway30"/>。
** [[7月29日]] - 鶴舞線と名鉄豊田線の相互乗り入れ開始{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1981年]](昭和56年)[[11月27日]] - 鶴舞線浄心 - 伏見間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1982年]](昭和57年)[[9月21日]] - 東山線中村公園 - 高畑間が開業(東山線全通){{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1984年]](昭和59年)[[9月6日]] - 鶴舞線庄内緑地公園 - 浄心間が開業{{sfn|新修名古屋市史|1998}}。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[9月10日]] - 桜通線中村区役所 - 今池間が開業<ref name="chunichi2009910">{{Cite news
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| title = 地下鉄桜通線きょう20周年 記念グッズも販売
| newspaper = [[中日新聞]]
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| publisher = 中日新聞社
| date = 2009-09-10
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* [[1993年]](平成5年)[[8月12日]] - 鶴舞線上小田井 - 庄内緑地公園間が開業(鶴舞線全通)。名鉄犬山線と相互乗り入れ開始。
* [[1994年]](平成6年)3月30日 - 桜通線今池 - 野並間が開業。
* [[2000年]](平成12年)[[1月19日]] - 4号線大曽根 - 砂田橋間が開業。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月27日]] - 上飯田線平安通 - 上飯田間が開業。名鉄小牧線と相互乗り入れ開始。
** [[12月13日]] - 4号線砂田橋 - 名古屋大学間が開業。
* [[2004年]](平成16年)[[10月6日]] - 名城線名古屋大学 - 新瑞橋間が開業(名城線全通)。4号線の愛称を名城線に変更、名城線環状運転開始。
** 名城線金山 - 名古屋港間の愛称を名港線に変更。駅名変更(藤ヶ丘→藤が丘、瑞穂運動場→瑞穂運動場西)。
* [[2011年]](平成23年)[[2月11日]] - ICカード乗車券[[manaca]]を導入{{Refnest|group="PR"|https://web.archive.org/web/20101217234300/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/006523.html ICカード「マナカ(manaca)」のサービス開始日について] - 名古屋市交通局、2010年11月11日付(2010年12月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}。
* 2011年(平成23年)3月27日 - 桜通線野並 - 徳重間が開業<ref name="chunichi2011328">{{Cite news
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| title = 地下鉄桜通線が延伸 野並-徳重間、記念グッズに行列
| newspaper = [[中日新聞]]
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| accessdate = }}</ref>{{Refnest|group="PR"|name="桜通線延伸"|[https://web.archive.org/web/20101101090758/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/006501.html 桜通線野並・徳重間の開業について] - 名古屋市交通局、2010年10月25日付(2010年11月1日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])}}。
* [[2012年]](平成24年)4月21日 - manacaが[[TOICA]]と相互利用開始。
* [[2013年]](平成25年)3月23日 - IC乗車カード全国相互利用開始で、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2014年]](平成26年)7月4日 - 東山線にて、金曜日及び祝休日前日の最終列車延長運転開始。
* [[2015年]](平成27年)4月1日 - 東山線の女性専用車の運行時刻を平日の始発から終発までに変更。
* [[2023年]]([[令和]]5年)1月4日 - 駅名変更(中村区役所→太閤通、市役所→名古屋城、伝馬町→熱田神宮伝馬町、神宮西→熱田神宮西、本陣に中村区役所の副駅名を付属)
== 料金 ==
[[ファイル:SubwayTicketMachines.JPG|thumb|right|様々な種類の券売機 - 東別院駅]]
交通局では[[運賃]]を「料金」と呼んでおり<ref>高速電車乗車料条例(昭和32年10月19日名古屋市条例第35号)第1条には、「本市の高速電車に乗車する者は、'''料金'''を支払い乗車券を受けなければならない。」と定められている。</ref>、記事内でもそれに従い表記する。
大人片道普通料金。小児は半額(10[[円 (通貨)|円]]未満切り捨て)2019年10月1日改定<ref group="PR">{{Cite web|和書|title=市バス・地下鉄の料金改定のお知らせ |publisher=名古屋市交通局|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0003752.htm|date=2019-09-05|accessdate=2019-10-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190907114144/https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0003752.htm |archivedate=2019-09-07}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!区数!![[営業キロ]]数!!料金(円)
|-
|1区||1 - 3km||210
|-
|2区||4 - 7km||240
|-
|3区||8 - 11km||270
|-
|4区||12 - 15km||310
|-
|5区||15km以上||340
|}
[[障害者手帳]]や証明書を所持する[[身体障害者]]・[[知的障害者]]・[[精神障害者]]{{Refnest|group="PR"|2016年4月より適用対象に追加された。[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0001545.htm 精神障害者への割引料金の適用について] - 名古屋市交通局}}・養護児童・[[戦傷病者特別援護法|戦傷病者]]・[[被爆者]]および[[特別支援学校]]の生徒は割引料金{{Refnest|group="PR"|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0000133.htm 割引制度(身体障害者など)について] - 名古屋市交通局}}。
普通料金は経由駅にかかわらず最短距離の料金を適用する(改札外乗り換えの駅はない)。定期券は指定経路で計算され、指定区間外では途中下車できない。
当局では[[入場券]]・[[往復乗車券]]・[[回数乗車券]]は発売されていない。また、プレミアム(特典額)つきの磁気[[プリペイドカード]]「[[ユリカ]]」(後述)が発売されていたが、[[2011年]][[2月11日]]にIC乗車カード[[manaca]]が導入されたことで、前日の同年[[2月10日]]に発売を終了した。
[[名古屋鉄道]]の犬山・小牧・豊田の各線に上小田井・上飯田・赤池の各駅連絡で乗車する場合、連絡駅を挟んだ併算により特に割高となる一部の近隣区間(連絡駅から名鉄170円、地下鉄210円となる駅間の相互利用のみ)においては別に定める乗継割引料金(大人20円引・小児10円引)が適用される{{Refnest|group="PR"|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/SUBWAY/TRP0000173.htm 名鉄連絡特定割引] - 名古屋市交通局}}。
他に名称が類似する駅がある駅の場合、以下のように乗車券上の駅名表記が、かな書き表記や文字の大きさの変更など、一見して発行駅が判別できるよう工夫されている。
* [[名古屋駅]]「なごや」、[[名古屋城駅]]「なごや城」(両者と離れた場所に位置する名古屋港駅・名古屋大学駅は漢字表記。名古屋市営バスの方向幕は、名古屋駅と名古屋大学が漢字表記、名古屋港が「なごや港」と表記されている。)
* [[鶴里駅]]「つる里」([[鶴舞駅]]との区別)
* [[中村公園駅]]「なかむら公園」(中村日赤駅・中村区役所駅〈現在の太閤通駅〉との区別)
* [[本郷駅 (愛知県)|本郷駅]]「ほんごう」(本陣駅・本山駅との区別)
* [[藤が丘駅 (愛知県)|藤が丘駅]]「{{Larger|'''藤'''}}が丘」(星ヶ丘駅との区別、「藤」の字が大きい)
* [[星ヶ丘駅 (愛知県)|星ヶ丘駅]]「星ヶ{{Larger|'''丘'''}}」(藤が丘駅との区別、「丘」の字が大きい)
定期券は地下鉄のみのほか、地下鉄と市バス、ゆとりーとライン、あおなみ線、名鉄、JR東海、リニモとの連絡定期券が発売されている。近鉄との連絡定期券は存在しない。市バス以外のmanaca導入のバス事業者(豊橋鉄道市内線を含む)の定期券とも複合させることができ、券面下半分に印字される。
また、名古屋市営地下鉄の学生・生徒・児童向けの定期券は通学定期券ではなく、'''学生定期券'''として発売されており、塾やアルバイトなどの通学経路に関係ない区間でも購入することができる<ref>[https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0000283.htm 定期券の購入方法] 名古屋市交通局 2023年6月28日閲覧</ref>。
=== 企画乗車券 ===
* バス・地下鉄全線[[一日乗車券]](大人870円・小児430円)
* 地下鉄全線一日乗車券(大人740円・小児370円)
** 後述する「24時間乗車券」の導入により、2019年(令和元年)5月26日をもって発売終了。
* 地下鉄全線24時間乗車券(大人760円・小児380円)
** 2019年(令和元年)5月27日発売開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/pc/TICKET/TRP0003667.htm|title=地下鉄全線24時間券の発売開始|accessdate=2019年6月20日|publisher=名古屋市営地下鉄}}</ref><ref>{{Cite news |title=地下鉄全線24時間券を発売 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=2019-05-17 |page=3 }}</ref>。従来の「始発から終電まで有効」から「使用開始時刻から24時間有効」に変更された。終電から始発までの、運行されない5時間も含まれるため、実際の使用可能時間は19時間。
* [[ドニチエコきっぷ]](大人620円・小児310円)
**土・日・祝日(お盆や年末年始などの休日ダイヤ運行日を含む)と毎月8日の一日のみ有効のバス・地下鉄一日乗車券。地下鉄駅改札窓口・駅長室、市バス営業所・車内、交通局サービスセンター定期券売り場、一部の乗車券委託販売所で発売。尚、当日券のみ、黄色い(manaca対応)券売機でも発売。
=== 乗車カード ===
[[乗車カード]]として、従来の回数券や連続割引サービスを含めた乗車券として、[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]対応で、同局の地下鉄・バス路線や[[名古屋鉄道]]などの提携他社において使用できる[[プリペイドカード]]式乗車券を「'''[[ユリカ]]'''」という名称で発売していた。
ユリカが[[1998年]]に導入される前には、[[1988年]][[4月1日]]から自動券売機・自動精算機できっぷの購入や運賃精算ができる(自動改札機に直接投入はできない)プリペイドカード「[[リリーカード]]」が発売されていたが、[[2003年]][[3月27日]]に利用停止、[[2006年]][[3月31日]]で交換終了となり、現在は無効となっている。また、同じ頃から、自動改札機に直接投入できる回数券カードが発売されていた。回数券カードには地下鉄・バス乗継回数カードも存在した。これは地下鉄(1区 - 5区)券10枚と市バス200円券10枚が1枚のカードにセットされたものである。現在はユリカに乗継割引機能があるため、いずれも発売を終了した。
2011年2月11日より非接触型[[ICカード]]「manaca(マナカ)」が導入された。これに伴い、ユリカ(バス・地下鉄共通ユリカ、バス昼間割引専用ユリカ、地下鉄昼間割引専用ユリカ)及び大人3800円で地下鉄1区間を22回利用できる「地下鉄1区特別きっぷ」の発売は前日の同年2月10日で終了した。利用についても[[2012年]][[2月29日]]をもって終了した。
== 車両 ==
=== 地下鉄路線ごとの違い ===
{{独自研究|section=1|date=2022年5月4日 (水) 02:11 (UTC)}}
車両は「標準軌・第三軌条・小型車両」仕様の東山線、名城・名港線タイプと「狭軌・架空電車線・大型車両」仕様の鶴舞線、桜通線、上飯田線タイプに大別することができる。
{| class="wikitable"
!路線名
!東山線
!名城線・名港線
!鶴舞線
!桜通線
!上飯田線
|-
!正式名称
|第1号線
|第2号線・第4号線
|第3号線
|第6号線
|上飯田線
|-
!軌間
| colspan="2" |標準軌1,435 mm
| colspan="3" |狭軌1,067 mm
|-
!集電方式
| colspan="2" |第三軌条 直流600 V
| colspan="3" |架空電車線 直流1,500 V
|-
!車両最大寸法
| colspan="2" |小型車両<br />(全長15 m58/全幅2 m548 cm)
| colspan="3" |大型車両<br />(全長20 m/全幅2 m746 cm)
|-
!組成両数
|6両
|6両
|6両
|5両
|4両
|}
=== 地下鉄車両・主要電気機器の変遷 ===
{{独自研究|section=1|date=2022年5月4日 (水) 02:11 (UTC)}}
==== 第一世代「黄電」 ====
* 制御方式:[[抵抗制御]]
* 車体構造:[[炭素鋼|普通鋼]]車体([[名古屋市交通局100形電車|100形・200形・250形]]・[[名古屋市交通局300形電車|300形]]・[[名古屋市交通局1000形電車|1000形・1100形・1200形]])
東京、大阪に次いで、1957年(昭和32年)に名古屋でも地下鉄が走り始めた。開業にあたり、用意された車両はウィンザーイエローの車体色が特徴的であり、この車体色から「[[黄電]]」(きいでん)という愛称で呼ばれた。
第一世代「黄電」の特徴として導入年によってマイナーチェンジが多数行われており、形式も多数あることが挙げられる。これらの共通点は車体色、鋼製車体、非[[冷房]]、抵抗制御であるほかは形式によって車体、内装、機器類も異なっている。
2000年(平成12年)の東山線300形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非冷房車は営業線上から姿を消した。
==== 第二世代「冷房化」 ====
* 制御方式:[[電機子チョッパ制御]]
* 車体構造:[[ステンレス鋼|ステンレス]]車体([[名古屋市交通局3000形電車 (鉄道)|3000形]])・[[アルミニウム合金|アルミ]]車体([[名古屋市交通局5000形電車|5000形]])
2路線で最大371両が運用された「黄電」も登場から約25年が経過して老朽化が進んでいた。また、乗客数も輸送力も飛躍的に増大した地下鉄では駅構内やトンネル内の温度上昇が著しく、非冷房車「黄電」の後継となる冷房付き新型車両の登場が望まれた。
こうした中、1977年(昭和52年)に新規開業した鶴舞線では開業当初より冷房・ステンレス車体・電機子チョッパ制御の3000形が用意された。また、小断面トンネルの東山線でも技術進捗により、省電力で薄型の冷房装置の車両搭載が可能となり、1980年(昭和55年)に冷房・アルミ車体・電機子チョッパ制御の5000形試作車が登場し、1982年(昭和57年)からは量産が開始された。
2023年(令和5年)の鶴舞線3000形の営業運転終了により、名古屋市営地下鉄の非VVVF車は営業線上から姿を消した。
==== 第三世代「VVVF化」 ====
* 制御方式:[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]([[ゲートターンオフサイリスタ|GTO]][[半導体素子|素子]]→[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子)
* 車体構造:ステンレス車体([[名古屋市交通局6000形電車|6000形]]・[[名古屋市交通局2000形電車 (鉄道)|2000形]]・[[名古屋市交通局5050形電車|5050形]]・[[名古屋市交通局3050形電車|3050形]]・[[名古屋市交通局7000形電車|7000形]](当初よりIGBT素子))
1989年(平成元年)の桜通線開業にあたり、最新の車両技術と電子技術を駆使し、省エネルギーと省メンテナンスと共に乗り心地向上や快適性追求のため、従来にない新型車両の開発が進んだ。1987年(昭和62年)に登場した桜通線6000形ではVVVFインバータ制御のほか、オールステンレス車体、ボルスタレス式空気ばね台車、LED式車内案内表示器、ホーム監視映像モニタが初採用された。以降、2007年(平成19年)の東山線N1000形登場まではこれが[[名古屋市交通局]]の第三世代の標準車両となり、東山線、名城線、鶴舞線、上飯田線と全路線に展開された。
従来の車両は約30年程度で廃車されたものが、第三世代以降の車体構造は丈夫な一方で、主要電気機器は老朽化が早いことから、より長期にわたって活躍することが見込まれており、名古屋市の長期維持管理計画では約40年超の使用が見込まれているため、経年約20 - 25年程度での更新が進んでいる。ただし、鶴舞線3050形3159編成は非VVVF車との混成編成のため、2019年(令和元年)9月26日に廃車された。
==== 第四世代「N化」 ====
* 制御方式:VVVFインバータ制御(IGBT素子)
* 車体構造:ステンレス車体([[名古屋市交通局N1000形電車|N1000形]]・[[名古屋市交通局6050形電車|6050形]]・[[名古屋市交通局N3000形電車|N3000形]](N3102編成以降))・アルミ車体(N3000形(N3101編成のみ))
東山線5000形の更新にあたり、設計理念3S(silent・speed・safe)を基本に、「安心・安全で快適なまちづくり」の推進のため、第四世代となる新しい車両が設計された。
2007年(平成19年)に東山線N1000形が登場している。形式名頭文字の「N」には次世代の名古屋の地下鉄を担う車両として「New」「Next」「Nagoya」の意味合いが込められている。ただし、桜通線6050形は地下鉄車両の附番方法のルール上、頭文字にはNが付いていない。
車体は各車両メーカーが開発した新工法にて製造されており、[[N-QUALIS#日車式ブロック工法|日車式ブロック工法]]もしくは[[A-train (日立製作所)|A-train]]となっている。そのため、車体にはビードがなく、すっきりしている。また、火災対策や省エネ化に重点が置かれている。なお、東山線N1000形は製造時期によって車体の溶接方法、鶴舞線N3000形は車体構造によって自重が異なる。
=== 現有車両 ===
* 東山線
** [[名古屋市交通局5050形電車|5050形]]
** [[名古屋市交通局N1000形電車|N1000形]]
* 名城線・名港線
** [[名古屋市交通局2000形電車 (鉄道)|2000形]]
* 鶴舞線
** [[名古屋市交通局3050形電車|3050形]]
** [[名古屋市交通局N3000形電車|N3000形]]
* 桜通線
** [[名古屋市交通局6000形電車|6000形]]
** [[名古屋市交通局6050形電車|6050形]]
* 上飯田線
** [[名古屋市交通局7000形電車|7000形]]
<gallery widths="200">
File:Nagoya Subway 5171 20170712.jpg|5050形
File:Nagoya Subway N1106 20170712.jpg|N1000形
File:Nagoya Subway 2127 Motoyama 20090518.JPG|2000形
File:鶴舞線3050形電車.jpg|3050形
File:N3000形電車.jpg|N3000形
File:ntb6000.jpg|6000形
File:[email protected]|6050形
File:7102H.jpg|7000形
</gallery>
=== 過去の車両 ===
{{See also|黄電}}
* 東山線
** [[名古屋市交通局5000形電車|5000形]]
* 鶴舞線
** [[名古屋市交通局3000形電車 (鉄道)|3000形]]
<gallery widths="200">
Nagoya Subway 1000 series 001.JPG|1000形
5000_20150729A.JPG|5000形
Nagoya-Municipal-Subway Series3000-3120.jpg|3000形
</gallery>
=== 車両基地・工場 ===
* 東山線
** [[名古屋市交通局藤が丘工場|藤が丘工場]]
** [[高畑車庫]]
** 池下車庫(閉鎖)
* 名城線・名港線
** [[名古屋市交通局名港工場|名港工場]]
** [[大幸車庫]]
** [[名古屋市交通局名城工場|名城工場]](閉鎖)
* 鶴舞線・桜通線・上飯田線
** [[名古屋市交通局日進工場|日進工場]]
** [[名古屋市交通局徳重車庫|徳重車庫]](桜通線用)
=== 特記事項 ===
各編成については、○○○○Hのように表す。
== 駅 ==
名古屋市において、[[守山区]]以外の各区内に駅がある{{Refnest|group="注釈"|2011年[[3月26日]]までは[[緑区 (名古屋市)|緑区]]にも駅がなかったが、桜通線が徳重駅まで開業して、緑区内に初めて駅ができた。また、守山区では、いわゆる「地下鉄」というものはないが、名古屋圏高速鉄道に関する1992年の運輸政策審議会答申における志段味線が名古屋ガイドウェイバス(ゆとりーとライン)として整備されたほか、[[名鉄瀬戸線]]の栄町乗り入れなどが1972年の都市交通審議会答申において'''9号線'''に位置付けられて整備された。}}。路線ごとに駅務区を設置(名城線は駅務区を南北でそれぞれ1つずつ設置、名港線は名城線南部駅務区管轄下、上飯田線は全駅が名城線南部駅務区管轄または名鉄管轄であるため駅務区が設置されていない)、さらに駅務区の下に管区を1つないし2つ設け、各管区ごとに複数の駅を管理している。駅務区には駅務区長、管区には管区駅長がそれぞれを統括する役職として配置されている。なお、各駅に配置されている駅長は利用者にその駅の責任者であることをわかりやすく伝えるための対外的な呼称であり、役職上は助役である。
車両基地や折り返し設備のある駅の一部は駅務区ではなく、乗務員部署である運転区が管轄し、乗務員が駅業務を兼務している。
全駅で[[バリアフリー]]のための整備を行っている。[[大韓民国|韓国]]・[[大邱都市鉄道公社]]での[[大邱地下鉄放火事件|放火による火災]]によって反対路線に停車した列車に延焼したことを受けて、対向式ホーム中央の柱間にガラス及び鉄製の防火壁の取り付けが順次行われている。
自動券売機で発売される磁気券は、券紙を回数券発行に使用しないため、裏面が茶色の低保磁券を採用している。
各駅の発車案内にはLEDのものが使われている。上飯田線は開通当初からLEDとなっているが、それ以外の5路線は行灯方式を使っていた。1999年に名城線(現・名港線部分も含む)から置き換えが始まり、その後東山線・桜通線の順に置き換えられ、2012年の鶴舞線を最後に置き換えが完了した。市役所駅の改札口には行灯方式のものが残っている。なお、2019年より名城線・名港線では発車案内の液晶化が行われ、同年12月までに交換が完了した。[[ファイル:Nagoya Subway Meijo・Meiko Line(M-01-M-28 - E-01-E-07).jpg|代替文=|サムネイル|名城線・名港線のホーム、改札口に設置されているLCD発車標]]
各路線の全駅に[[駅ナンバリング|駅番号]]が割り振られている。駅番号は、2004年に名城線が全通したのを機に割り振られた。名城線・名港線以外では、各路線の北ないし西を01番(起点)として付けている。名城線・名港線は分岐点となる金山駅を01番としており、名城線では栄、大曽根方面に向かって右回りの順に付けられている。
駅ホームに設置されている[[駅名標]]のデザインは、設置時期により異なっている。相違点は以下のとおり。なお、同じ駅に複数種類の駅名標が使われている場合もある。
* 黒地に白抜き文字のもの。駅ナンバリング併記済み。一部ラインカラーが入っているものもあり。1989年の世界デザイン博開催に合わせて導入された。このタイプは2013年度中に全駅でラインカラーと駅番号が駅名の左側にはいったものに更新。
* 白地に黒文字で壁のラインカラーと一体化したもの。漢字表記と平仮名表記を交互に設置。桜通線・名城線(ナゴヤドーム前矢田駅 - 瑞穂運動場東駅)・上飯田線といった平成以降に開業した比較的新しい路線で見られる。また、[[ピクトグラム]]は2005年の[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]開催時に合わせて[[ユニバーサルデザイン]]に準拠したものを導入した。
* 2017年のサインシステムの改訂により、同年夏の栄駅を皮切りに新タイプの駅名標と路線図およびサインシステムに更新されている。このため、今後は上記2タイプの駅名標類は順次この新タイプに取り換えられる計画である。
* これらの他、鶴舞線の相対式ホームでは黒地に白抜き文字で赤い矢印で進行方向を表したものも使われており、2008年10月までは白地に黒文字で漢字駅名の下に全部大文字でローマ字を入れたもの(名古屋市営地下鉄の駅名標としては最も古いタイプで、隣の駅は平仮名表記)も使われていた。
乗換駅での乗り換え案内表示にあるラインカラーは車両の路線表示と同じくラインカラーの横線5本からラインカラーの地下鉄のマークに変更されているところもある。
経費削減のため、駅構内照明器具の省エネ化を進めており、2013年度までは[[蛍光灯#ラピッドスタート式|ラピッドスタート式]]の[[蛍光灯]]から[[蛍光灯#インバーター式|Hfインバーター式]]蛍光灯、2014年度からは久屋大通駅を皮切りにラピッドスタート方式蛍光灯から[[LED照明]]への置き換え、駅名標や業務案内板などの内照式看板(広告用を除く)の非内照式への改造を進めている。
当交通局独自の規則として、[[エスカレーター]]上での歩行を禁止し、手すりに掴まって2列で立ち止まって乗り、急いでいる人は[[階段]]を使うよう呼び掛けている。
地上連絡エレベーターは独立した出入口として機能している場合でも番号は付与しておらず、既存の出入口をエレベーター専用出入口に改修した駅では出入口番号に欠番が発生している場合もある。
交通局の外郭団体、[[名古屋交通開発機構]]が売店として「Do!」という独自名称のコンビニ形態の店舗をかつては展開していた(実際の店舗運営は[[サークルケイ・システムサービス]]に委託)。しかし、順次「サークルKミニ」を経て「[[ファミリーマート]]」に改称しており、「Do!」を名乗る売店は無くなっている。なお、既存チェーン店が出店する場合も店舗名の一部にDo!を冠する場合があったため、この形で名残を残している店舗が一部存在する。また、[[セブン-イレブン]](丸の内駅、徳重駅など)、[[ローソン]](高畑駅、丸の内駅桜通線ホームなど)などのコンビニも出店している(このほか、ファミリーマートはサークルKサンクスとの統合前から伏見、今池に出店していた)。どの売店でもmanacaは使用可能(ただし、セブン-イレブンはPOSと連動していないほか、一般のファミリーマートでは対象の名鉄のミュースターポイントは付かないなど運用が異なる)。交通系以外の電子マネーやクレジットカード、バーコード決済はチェーン全体に準ずる。店舗は改札外に設置されることが多いが、乗り換え駅では改札内コンコースやホームに設置されている場合もある。
2011年3月27日の桜通線延伸開業時より、利用者の少ない桜通線の3駅(鳴子北駅、相生山駅、神沢駅)と名港線の4駅(日比野駅、六番町駅、港区役所駅、築地口駅)の駅業務を[[日本通運]]名古屋支店に委託している{{Refnest|group="PR"|{{PDFlink|[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/101115torikumijyoukyoushuusei.pdf 経営健全化計画に対する取り組み状況]}}(資料3) P.18 - 名古屋市交通局(2013年2月17日閲覧)}}。委託により年間8400万円の経費が削減されている<ref>「民間委託どこまで 駅の業務、ごみ収集… 経費削減で成果/仕事の質下がる」 [[中日新聞]]、2013年4月6日付[[朝刊]]、*10版 36ページ(社会面)</ref>。当初の委託期間は2016年3月末までであったが、2015年に委託契約を更新し、2026年3月末までとなっている。
2015年の更新契約の結果、東山線の5駅(八田駅、中村公園駅、中村日赤駅、本陣駅、亀島駅)の駅業務に関しても2016年4月1日より縁エキスパートに委託している。委託期間は2023年3月末まで。
2018年4月より、一部の駅では改札口への係員配置を廃止し、インターホンにより駅長室から駆けつける形に変更している。
名古屋市営地下鉄と他社線を直接繋ぐ連絡改札口はどの乗換駅にも存在しない<ref group="注釈">ただし[[千種駅]]のように、他社線の改札口が目と鼻の先に存在する例はある。</ref>。
名古屋市営地下鉄の駅構内の[[通路#駅構内|通路区分]](右側通行、左側通行)は統一されておらず、その判断は各駅に委ねられており、周辺施設の位置や利用者の要望により決めることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/337245 |title=<ユースク>地下鉄改札外通路 通るのは左? 右? 新人記者が足で取材 |website=中日新聞 |publisher=中日新聞社 |date=2021-09-27 |accessdate=2022-10-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=過去には事件も…「右側通行」「左側通行」の法則は?名古屋市営地下鉄の駅通路 6路線全87駅を調査|url=https://www.tokai-tv.com/tokainews/feature/article_20210927_12091|website=東海テレビ|accessdate=2021-09-27|language=ja|date=2021-09-27}}</ref>。
== 経営状況 ==
{{See also|日本の地下鉄#日本の地下鉄の経営状況}}
[[2016年]]度は、一日平均の利用者数が約129万人(2010年度は116万人)収入は945億円、支出は784億円、収支は161億円の黒字でその結果、累積欠損金は2,482億円、実質資金不足額は2,298億円となった(2016年度決算{{Refnest|group="PR"|{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/sp/ABOUT/TRP0002194/TRF0013088.pdf|format=PDF|title=平成28年度の決算の決算見込|website=名古屋市交通局|accessdate=2023-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170809130823/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/jp/sp/ABOUT/TRP0002194/TRF0013088.pdf|archivedate=2017-08-09}}}})。
経常収支は、[[1994年]](平成6年)度に最大445億円の赤字を記録し、累積欠損金は、[[2004年]](平成16年)度には4500億円に迫るところにまで至っていた{{Refnest|group="PR"|{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/keiei_committee/data2_1.pdf|format=PDF|page=8.9|title=平成17年度決算の概要 市営交通事業中期経営健全化計画|website=名古屋市交通局|accessdate=2023-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160305055024/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/keiei_committee/data2_1.pdf|archivedate=2016-03-05}}}}。その後、中期経営健全化計画(計画期間:2002年度から2005年度)、経営改革計画(計画期間:2006年度から2010年度)、市営交通事業経営健全化計画(計画期間:2009年度から[[2016年]]度)と順次計画を策定し、2010年5月には名古屋市交通事業経営健全化委員会を設置して、市バス事業とともに経営の改善に努め、上記のような決算状況に至っている。名古屋市交通局では、累積欠損金について、[[2039年]]度において解消されるとの評価をしている{{Refnest|group="PR"|{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/_res/pdf/soukatuhyou.pdf|format=PDF|title=事後評価 総括表|website=名古屋市交通局|accessdate=2023-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110722114721/http://www.kotsu.city.nagoya.jp/dbps_data/_material_/localhost/_res/about/_res/pdf/soukatuhyou.pdf|archivedate=2011-07-22}}}}。
=== 駅別乗車人員 ===
2019年度(令和元年度)1日当たり。名古屋市交通局のオープンデータによる。
{| class="wikitable" style="text-align:right; vertical-align:middle;"
|+
!駅名
!乗車人員
!駅名
!乗車人員
!駅名
!乗車人員
!駅名
!乗車人員
|-
!高畑駅
|11,129
!大曽根駅
|19,786
!上小田井経由
|11,991
!中村区役所駅<br />(現・太閤通駅)
|6,570
|-
!八田駅
|7,239
!平安通駅
|6,272
!上小田井
|9,091
!国際センター駅
|5,982
|-
!岩塚駅
|8,861
!志賀本通駅
|7,291
!庄内緑地公園駅
|4,389
!高岳駅
|9,387
|-
!中村公園駅
|13,000
!黒川駅
|14,574
!庄内通駅
|7,440
!車道駅
|7,280
|-
!中村日赤駅
|4,994
!名城公園駅
|5,394
!浄心駅
|7,282
!吹上駅
|7,630
|-
!本陣駅
|8,486
!市役所駅<br />(現・名古屋城駅)
|21,659
!浅間町駅
|5,222
!桜山駅
|12,690
|-
!亀島駅
|4,868
!久屋大通駅
|26,319
!丸の内駅
|19,723
!瑞穂区役所駅
|7,607
|-
!名古屋駅
|198,633
!矢場町駅
|31,590
!大須観音駅
|9,753
!瑞穂運動場西駅
|3,701
|-
!伏見駅
|49,937
!上前津駅
|24,530
!鶴舞駅
|14,826
!桜本町駅
|4,056
|-
!栄駅
|109,901
!東別院駅
|7,738
!荒畑駅
|4,498
!鶴里駅
|3,167
|-
!新栄町駅
|15,074
!金山駅
|82,211
!御器所駅
|11,680
!野並駅
|6,764
|-
!千種駅
|25,810
!西高蔵駅
|3,297
!川名駅
|6,100
!鳴子北駅
|5,131
|-
!今池駅
|23,962
!神宮西駅<br />(現・熱田神宮西駅)
|4,489
!いりなか駅
|7,102
!相生山駅
|4,433
|-
!池下駅
|13,734
!伝馬町駅<br />(現・熱田神宮伝馬町駅)
|7,747
!塩釜口駅
|12,158
!神沢駅
|3,257
|-
!覚王山駅
|9,649
!堀田駅
|7,669
!植田駅
|8,780
!徳重駅
|10,427
|-
!本山駅
|15,726
!妙音通駅
|2,080
!原駅
|10,239
!
|
|-
!東山公園駅
|7,987
!新瑞橋駅
|13,439
!平針駅
|8,478
!上飯田経由
|14,966
|-
!星ヶ丘駅
|26,271
!瑞穂運動場東駅
|4,876
!赤池駅
|10,743
!上飯田駅
|2,566
|-
!一社駅
|14,275
!総合リハビリセンター駅
|3,359
!赤池経由
|19,976
|
|
|-
!上社駅
|11,361
!八事駅
|17,798
|
|
|
|
|-
!本郷駅
|11,185
!八事日赤駅
|6,921
|
|
|
|
|-
!藤が丘駅
|30,666
!名古屋大学駅
|10,455
|
|
|
|
|-
|
|
!自由ヶ丘駅
|6,735
|
|
|
|
|-
|
|
!茶屋ヶ坂駅
|7,663
|
|
|
|
|-
|
|
!砂田橋駅
|7,636
|
|
|
|
|-
|
|
!ナゴヤドーム前矢田駅
|12,668
|
|
|
|
|-
|
|
!日比野駅
|9,345
|
|
|
|
|-
|
|
!六番町駅
|7,465
|
|
|
|
|-
|
|
!東海通駅
|7,461
|
|
|
|
|-
|
|
!港区役所駅
|5,114
|
|
|
|
|-
|
|
!築地口駅
|4,676
|
|
|
|
|-
|
|
!名古屋港駅
|5,521
|
|
!合計
|1,331,611
|}
== サインシステム ==
=== 地下鉄シンボルマーク ===
[[File:Nagoya Municipal Subway Logomark.jpg|right|thumb|200px|破線付きシンボルマーク]]
地下鉄車両などに掲出されている[[シンボルマーク]]は、画家の[[杉本健吉]]がデザインしたもので、名古屋市の市章である「○」の中に「八」を基に、トンネルの中を通る線路に見えるようアレンジした図案である。なお、開業当初は「○」部分が破線になっていた。
上小田井駅と上飯田駅を除く駅の出入口にある駅名サインは現在以下の3種類が存在する。写真は各駅の記事を参照。
:a.昔から使われている白地に青文字のもの。縦書きが多いが、横書きのものもある(鶴舞駅・千種駅など)。最初から駅名には英語表記(全部大文字)もされている。出入口番号は併記されておらず、別にプレートを掲示して表示する。現在はかなり少なくなったが、一部の駅ではまだ使われている。
:b.黒地に白抜き文字。桜通線開業時より広まった。ほとんどが横書きだが、縦書きのものもわずかに存在する(本陣駅など)。この型のものより駅を表す「Sta.」の英語と出入口番号が追加された。赤池駅ではこのタイプが使われており、名鉄の文字も加わっている。
:c.青地に白抜き文字。名城線が名古屋大学まで開通した頃より各線に拡大。この種類のみ地下鉄のマークは小さいものになっており、一般的な電車のピクトグラムが追加されている。
=== 路線カラーと路線シンボル ===
{{色|節}}
名古屋市営地下鉄では、各路線を識別するカラーを設定している。2018年より鶴舞線を除き、従来よりも赤みを帯びた色に路線カラーが変更された。各路線のカラーは以下の通り。なお、[[DIC (企業)|DIC]]色番号は「名古屋市交通局 旅客サインマニュアル」に定められているもので、そのDIC色番号をDICの「COLORGUIDE」アプリで検索した際に表示される[[sRGB]]値(HTML値)を参考として掲載する(なお、このHTML値は公式サイトでは用いられない)。
{| class="wikitable"
|-
! rowspan="2"|路線名
! colspan="3"|路線カラー(旧)
! colspan="3"|路線カラー(新)
|-
! 色 !! DIC !! sRGB
! 色 !! DIC !! sRGB
|-
|東山線
| style="background:#FFB700"|
| style="text-align:center"|165
| style="text-align:center"|FFB700
| style="background:#FAB123"|
| style="text-align:center"|2534
| style="text-align:center"|FAB123
|-
|名城線
| style="background:#8F76D6"|
| style="text-align:center"|105
| style="text-align:center"|8F76D6
| style="background:#B074D6"|
| style="text-align:center"|106
| style="text-align:center"|B074D6
|-
| rowspan="3"|名港線
| style="background:#8F76D6"|
| rowspan="3" style="text-align:center"|105
| rowspan="3" style="text-align:center"|8F76D6
| style="background:#B074D6"|
| rowspan="3" style="text-align:center"|106
| rowspan="3" style="text-align:center"|B074D6
|-
| style="background:#FFF"|
| style="background:#FFF"|
|-
| style="background:#8F76D6"|
| style="background:#B074D6"|
|-
|鶴舞線
| style="background:#009BBF"|
| style="text-align:center"|138
| style="text-align:center"|009BBF
| style="background:#009BBF"|
| style="text-align:center"|138
| style="text-align:center"|009BBF
|-
|桜通線
| style="background:#BD342C"|
| style="text-align:center"|199
| style="text-align:center"|BD342C
| style="background:#C92F44"|
| style="text-align:center"|2492
| style="text-align:center"|C92F44
|-
|上飯田線
| style="background:#E77B9F"|
| style="text-align:center"|J702
| style="text-align:center"|E77B9F
| style="background:#FC78B4"|
| style="text-align:center"|F180
| style="text-align:center"|FC78B4
|}
路線シンボルは、路線カラーとした地下鉄シンボルマークを使用した1世代前ものと、路線カラーの横5本線を使用した2世代前のものが併用されていたが、新たに「○」の下部を切り欠き、その内部に路線記号を配したものに変更された。
=== 案内サインのデザイン ===
{{節スタブ}}
2018年より栄駅を皮切りに新型の案内サイン掲示に更新されている。
主な相違点としては、
* 前述の新路線カラー及び路線シンボルへの変更
* 英語フォントを変更 ([[Helvetica]]から[[Myriad|Myriad Semibold]]へ)
* [[駅名標]]を白地に黒文字へ (従来は黒地に白文字)
* 非内照式案内を案内内容によって色分け (ホーム案内等は白地に黒、出口案内等は黄地に黒文字)
* ホーム案内において[[駅ナンバリング|駅ナンバリング記号]]を併記、併せて名城線では右・左回りを記号併記で案内
* [[路線図]]デザインの変更 (特に名城・名港線では、観光客等の逆回り列車への誤乗防止のため大幅に変更されている)
* 英語表記の修正 (「改札口」は"Wicket"から"Gate"へ)
などがある。
<gallery widths="200" heights="200">
ファイル:Nagoya Municipal Subway Sign System.jpg|3世代のサインシステムが混在する<br />2019年現在の案内表示([[丸の内駅]])
ファイル:名古屋市営地下鉄栄駅 新型案内サイン.jpg|[[栄駅 (愛知県)]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]ホームでの設置例。主な変更点を併記。
</gallery>
== 広告 ==
[[2000年]]頃から、新たな広告媒体の事業化を目指す目的で「[[新交通広告表示システム]]」の計画が開始された。翌[[2001年]]に桜通線名古屋駅で実証実験を行った後、[[2004年]]12月より東山線の栄駅と伏見駅のホームにて液晶モニタを使ったサービスを開始している。内容は、テレビコマーシャル、オリジナルのアニメーション広告、ニュースなどで、公営の地下鉄駅としては珍しく音声も流している。さらに[[2006年]]12月からは名城線久屋大通駅ホームにプロジェクターを使ったシステムが導入されたのを皮切りに、翌[[2007年]]4月には同線の栄・本山・金山・上前津の各駅にも設置された<!-- (2008年11月より、上前津、久屋大通、本山は営業休止)-->。また、同年6月からは東山線名古屋駅、翌年3月から同線伏見駅ホーム軌道内にて液晶モニターを使ったサービスも開始している。
2006年5月頃に名古屋市交通局が地下鉄車両内に掲示したマナー啓発広告に使用した画像に関し、[[PHS]]事業者の[[ウィルコム]]より抗議を受けて謝罪をした{{Refnest|group="PR"|[http://www.willcom-inc.com/ja/info/06050901.html 名古屋市交通局広告への抗議について] - ウィルコム、2006年5月9日付}}{{Refnest|group="PR"|[http://www.willcom-inc.com/ja/info/06051101.html 名古屋市交通局からの回答について] - ウィルコム、2006年5月11日付}}。
== 携帯電話・モバイル ==
2018年現在、全線全駅、および全区間で、[[4G]]および[[3G]]の携帯電話ネットワークによるデータ通信および音声通話、[[WiMAX 2]]によるデータ通信が可能。ただし走行中の車内での通話自粛要請と、混雑時の優先席付近での電源OFF要請が行われている。
駅コンコース(改札口付近)およびプラットホームでは通信事業者各社および[[NAGOYA Free Wi-Fi]]による[[公衆無線LAN]]が利用可能。桜通線車内ではauおよびWi2による車内Wi-Fiが利用可能である。(ソフトバンクのみ、2016年12月より公衆無線LANの提供駅を主要10駅のみに縮小した)
このように現代では都市部で携帯電話が使えることは当たり前であるが、かつては医用電子機器(心臓ペースメーカー等)への無線電波の影響を懸念する根強い意見があり、地下鉄駅構内および路線トンネル内への携帯電話基地局の設置は意図的に見送られていた。
名古屋市営地下鉄では[[2004年]]9月頃から、[[2GHz帯]]を使用する方式を除いて[[携帯電話]]各社について[[プラットホーム]]では圏外になるような対策が行われた(改札口付近では利用可。また、PHSについては設置事業者においても元より改札口付近のみ圏内)。名古屋市交通局は、[[総務省]]の「電波の医用機器等への影響に関する調査結果」(2002年7月2日)に基づく処置であるとしていた。
地下鉄利用中は電話の着信もできないことから、名古屋市営地下鉄のこの対応以降、[[トヨタ自動車]]や[[日立製作所]]、[[NTTデータ東海]]などは一部従業員に対し、業務時間中の移動に地下鉄を利用せず、タクシーやJR・名鉄など地上を走行する交通機関を利用するよう求めていた。
携帯電話技術の進展により、心臓ペースメーカー等への影響が過去のものとなったことや、[[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]を契機として、地下空間での通信手段の確保の必要性が認知されるようになり、通信不能とするのではなく、優先席付近での利用や車内での通話の自粛要請という形でエリア整備が進められることとなった。
2012年3月27日より、NTTドコモ・[[au (携帯電話)|au]]・[[SoftBank (携帯電話)|ソフトバンク]]・イーモバイル(現在の[[ワイモバイル]])の4社は、名古屋駅 - 今池駅間の東山線車内で携帯電話のサービスを開始し、2012年10月31日より東山線全線、名城線は市役所駅(現在の名古屋城駅) - 金山駅 - 新瑞橋駅間、桜通線は中村区役所駅(現在の太閤通駅) - 御器所駅間までサービスを広げ、これを皮切りに、順次各路線に拡大した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1201/12/news091.html キャリア4社、名古屋市営地下鉄の駅間トンネルをエリア化] - +D Mobile(2012年1月12日付)</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
=== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ===
{{Reflist|group="PR"|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |title=市営三十年史 |editor=名古屋市交通局 |volume=後編 |publisher=名古屋市交通局 |date=1952 |id={{全国書誌番号|64002833}} |ref={{sfnref|交通局|1952b}}}}
* {{Cite book |和書 |title=新修名古屋市史 |editor=新修名古屋市史編集委員会 |volume=第7巻 |publisher=名古屋市 |date=1998-03-31 |id={{全国書誌番号|99042350}} |ref={{sfnref|新修名古屋市史|1998}}}}
== 関連項目 ==
* [[日本の地下鉄]]
* [[名古屋地下鉄道]]
* [[なごや地下鉄ガイド]] - 名古屋市交通局が協力しているタブロイド情報紙。
* [[SUPER BELL"Z]] - 走行音やアナウンスをモチーフにした楽曲がCDアルバムに収録されている。
== 外部リンク ==
{{Commons|Nagoya Subway}}
* [https://www.kotsu.city.nagoya.jp/ 名古屋市交通局](公式サイト)
* [http://www.chubudenkikyokai.com/archive/project/ 『プロジェクト紀行 地下鉄が変えた街 -なごや地下鉄建設の物語-』](一社)日本電気協会中部支部
{{日本の地下鉄}}
{{トランパス}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なこやしえいちかてつ}}
[[Category:名古屋市営地下鉄|*]]
[[Category:日本の地下鉄]]
|
2003-09-12T23:24:04Z
|
2023-12-11T13:14:49Z
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|
16,460 |
中区 (名古屋市)
|
中区(なかく)は、愛知県名古屋市を構成する16行政区の一つ。名古屋市の中心となる区であり、愛知県庁および名古屋市役所の所在地である。
1908年4月1日の4区制施行時から存在する。1937年10月1日に一部が中村区となる。1944年2月1日に栄区(さかえく)を分区したが、翌年11月3日に編入されている。
名古屋市の中核に位置する行政区で、市内最大の繁華街・オフィス街である栄や、電気街として有名な大須、観光名所として有名な名古屋城などが位置している。栄は松坂屋や三越、パルコなどの大型商業施設や飲食店が集積する中部地方最大の繁華街であり、中心部には名古屋のランドマークとして有名な名古屋テレビ塔(中部電力 MIRAI TOWER)や久屋大通公園が位置している。栄に隣接する錦三丁目(錦三)や女子大小路は市内随一の歓楽街として夜も賑わいを見せている。栄地区はターミナル駅の名古屋駅が位置する名駅地区(中村区)と並ぶ名古屋の2大商業エリアとして発展している。
また、名古屋城南側の三の丸は、国の出先機関、愛知県庁、名古屋市役所などの行政機関が集中している官公庁街である。伏見駅から栄駅の間、または丸の内駅から久屋大通駅にかけての桜通、錦通、広小路通では金融機関が林立するビジネス街となっており、名古屋におけるメガバンク・都市銀行や地方銀行の拠点がこれらの通りに面している所に集中している。
市内では最も多くの区に隣接している。
中部地方・東海地方を所管する中央省庁の出先機関(地方支分部局)が中区三の丸界隈に多く置かれている。
主なスポーツ施設
名古屋市や愛知県、中部地方の経済の中枢機能が集積していることもあり、多くの企業が本社を構えている。 区内に日本三大証券取引所の一角である名古屋証券取引所や名古屋商工会議所などの金融商品取引所や経済団体などが存在する。 また、中日本最大の繁華街である栄を中心に商業などの第三次産業が発展している。
※他に、愛知学院大学、東海学園大学、名古屋学院大学等のサテライトキャンパスがある。
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主な寺院
主な神社
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中区(なかく)は、愛知県名古屋市を構成する16行政区の一つ。名古屋市の中心となる区であり、愛知県庁および名古屋市役所の所在地である。
|
{{日本の行政区
|画像 = {{Multiple image
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| image1 = Sunshine Sakae20230125.jpg{{!}}
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}}
|画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse">
<tr><td style="width:50%">[[栄 (名古屋市)|栄]]<td style="width:50%">[[名古屋城]]</tr>
<tr><td style="width:50%">[[久屋大通公園]]<td style="width:50%">[[大須観音]]
</table>
|区旗 = [[File:Flag of Naka, Nagoya, Aichi.svg|100px]]<br>中区旗
|区章 = [[File:Emblem of Naka, Nagoya, Aichi.svg|100px]]<br>中区章(1987年11月制定)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/naka/page/0000001935.html|title=名古屋市:区章 区の花 区の木(中区)|accessdate=2015-01-11|publisher=中区役所区民生活部まちづくり推進室まちづくり推進係|date=2009-01-21}}</ref>
|自治体名 = 中区
|都道府県 = 愛知県
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|コード = 23106-1
|隣接自治体・行政区 = ''名古屋市''([[千種区]]、[[東区 (名古屋市)|東区]]、[[北区 (名古屋市)|北区]]、[[西区 (名古屋市)|西区]]、[[中村区]]、[[昭和区]]、[[熱田区]]、[[中川区]])
|木 = [[イチョウ]]
|花 = [[パンジー]]
|シンボル名 =
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|郵便番号 = 460-8447
|所在地 = 中区栄四丁目1番8号<br><small>{{ウィキ座標度分秒|35|10|7.3|N|136|54|37.2|E|region:JP-23_type:adm3rd|display=inline,title}}</small><br>[[File:Nagoya-City-Naka-Ward-Office.jpg|220px|center|中区役所]](中区役所が入居する[[栄サンシティビル]])
|外部リンク = [https://www.city.nagoya.jp/naka/ 名古屋市中区]
|位置画像 = [[File:地図-愛知県名古屋市中区-2006.png|250px|中区の県内位置]][[File:行政区位置図 23106-2.svg|320x320px|中区(名古屋市)位置図]]
|特記事項 =
}}
'''中区'''(なかく)は、[[愛知県]][[名古屋市]]を構成する16[[行政区]]の一つ。名古屋市の中心となる区であり、[[愛知県庁舎|愛知県庁]]および[[名古屋市役所]]の所在地である。
== 概要 ==
[[1908年]]4月1日の4区制施行時から存在する。[[1937年]]10月1日に一部が[[中村区]]となる。[[1944年]]2月1日に'''栄区'''(さかえく)を分区したが、翌年11月3日に編入されている。
名古屋市の中核に位置する行政区で、市内最大の[[繁華街]]・[[オフィス街]]である'''[[栄 (名古屋市)|栄]]'''や、[[電気街]]として有名な[[大須 (名古屋市)|大須]]、観光名所として有名な[[名古屋城]]などが位置している。栄は[[松坂屋]]や[[名古屋三越|三越]]、[[パルコ]]などの大型商業施設や飲食店が集積する[[中部地方]]最大の繁華街であり、中心部には名古屋の[[ランドマーク]]として有名な[[名古屋テレビ塔]]([[中部電力]] MIRAI TOWER)や[[久屋大通公園]]が位置している。栄に隣接する[[錦三丁目]](錦三)や[[女子大小路]]は市内随一の[[歓楽街]]として夜も賑わいを見せている。栄地区は[[ターミナル駅]]の[[名古屋駅]]が位置する[[名駅]]地区([[中村区]])と並ぶ名古屋の2大商業エリアとして発展している。
また、名古屋城南側の[[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]は、国の出先機関、[[愛知県庁]]、[[名古屋市役所]]などの行政機関が集中している官公庁街である。[[伏見駅 (愛知県)|伏見駅]]から[[栄駅 (愛知県)|栄駅]]の間、または[[丸の内駅]]から[[久屋大通駅]]にかけての[[桜通 (名古屋市)|桜通]]、[[錦通 (名古屋市)|錦通]]、[[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]では[[金融機関]]が林立するビジネス街となっており、名古屋における[[メガバンク]]・[[都市銀行]]や[[地方銀行]]の拠点がこれらの通りに面している所に集中している。
<gallery>
File:Shiyakushokencho1.JPG|[[名古屋市役所]]と[[愛知県庁]]
File:大樹生命ビル2.jpg|[[丸の内 (名古屋市)|丸の内]]の[[オフィス街]]([[桜通 (名古屋市)|桜通]]・日銀前交差点)
File:Naka 20210710-09.jpg|[[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]の[[官庁街]]
File:Nagoya Fushimi Hirokoji Honmachi 2020-12 ac (1).jpg|[[伏見 (名古屋市)|伏見]]の[[金融街]]
File:Main shopping street (Osu in Nagoya, Japan).jpg|[[大須 (名古屋市)|大須]]の[[商店街]]
File:SUNSHINE SAKAE seen from Nishiki-dori Otsu intersection.jpg|[[中部地方]]最大の[[繁華街]]である[[栄 (名古屋市)|栄]]
File:Nishiki 3-chome crossing(2).jpg|中部地方最大の[[歓楽街]]である[[錦三丁目]]
File:Princess-Odori 101027.jpg|[[歓楽街]]である[[呉服町通]]
File:錦通り - panoramio.jpg|[[錦 (名古屋市)|錦通]]
File:The night view of Hisaya Odori Park.jpg|[[久屋大通公園]]にある希望の泉と[[名古屋テレビ塔]]([[中部電力]] MIRAI TOWER)の夜景
File:Nagoya - Central Park - Entrance.jpg|セントラルパークと[[名古屋テレビ塔]]([[中部電力]] MIRAI TOWER)
File:Central Park Underground City 20150918.JPG|[[久屋大通公園]]の地下に広がる[[セントラルパーク地下街]]
File:Naka Ward Office Intersection - panoramio.jpg|中区役所交差点
File:Matsuzakaya-honkan.JPG|[[大津通]]から見た[[松坂屋]]本館
File:Nagoya Castle Keep Tower and Northwest Turret.jpg|[[名古屋城]]北西櫓と[[天守閣]]
</gallery>
==地理==
[[File:Nayabashi 110222.jpg|thumb|180px|[[堀川 (名古屋市)|堀川]]に架かる[[納屋橋]]]]
===地形===
====河川====
;主な川
*[[堀川 (名古屋市)|堀川]]
*[[新堀川 (名古屋市)|新堀川]]
===地域===
{{Main|名古屋市の地名#中区}}
{{colbegin|4}}
*[[葵 (名古屋市)|葵]]
*[[伊勢山 (名古屋市)|伊勢山]]
*[[大井町 (名古屋市)|大井町]]
*[[大須 (名古屋市)|大須]]
*[[金山 (名古屋市)|金山]]
*[[金山 (名古屋市)|金山町]]
*[[上前津]]
*[[栄 (名古屋市)|栄]]
*[[矢場町]]
*[[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]
*[[新栄]]
*[[新栄町 (名古屋市)|新栄町]]
*[[橘 (名古屋市)|橘]]
*[[千代田 (名古屋市)|千代田]]
*[[錦 (名古屋市)|錦]]
*[[伏見 (名古屋市)|伏見]]
*[[二の丸 (名古屋市)|二の丸]]
*[[東桜]]
*[[富士見町 (名古屋市)|富士見町]]
*[[古渡町]]
*[[平和 (名古屋市)|平和町]]
*[[本丸 (名古屋市)|本丸]]
*[[正木 (名古屋市)|正木]]
*[[松原 (名古屋市)|松原]]
*[[丸の内 (名古屋市)|丸の内]]
*[[門前町 (名古屋市)|門前町]]
{{colend}}
===人口===
{|style="font-size:smaller"
|-
|colspan="2" style="text-align:center;"|中区の人口の推移
{|class="wikitable" style="margin:auto"
{{人口統計/fluctuation/item|2000|64791|91502}}
{{人口統計/fluctuation/item|2005|70867|91502}}
{{人口統計/fluctuation/item|2010|78243|91502}}
{{人口統計/fluctuation/item|2015|83420|91502}}
{{人口統計/fluctuation/item|2020|91502|91502}}
|}
|-
|colspan="2" style="text-align:right"|[[総務省]][[統計局]] [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より<ref>[https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-5-0-0-0-0-0-0-0.html 「毎月1日現在の世帯数と人口(全市・区別)」]</ref>
|}
===隣接行政区===
市内では最も多くの区に隣接している。
{{colbegin|2}}
*[[千種区]]
*[[東区 (名古屋市)|東区]]
*[[北区 (名古屋市)|北区]]
*[[西区 (名古屋市)|西区]]
*[[中村区]]
*[[昭和区]]
*[[熱田区]]
*[[中川区]]
{{colend}}
==歴史==
[[File:Fujimi Fuji view field in the Owari province.jpg|thumb|180px|[[葛飾北斎]]「[[富嶽三十六景]]」[[尾州不二見原]]、描かれている場所は名古屋市中区の富士見原もしくは伏見町。]]
===近代===
====明治時代====
*[[1878年]]([[明治]]11年)郡区町村編制法による新行政区名古屋区ができる
*[[1889年]](明治22年)名古屋区が名古屋市となる(人口157,496人)
*[[1891年]](明治24年)濃尾大震災
*[[1894年]](明治27年)日清戦争始まる
*[[1898年]](明治31年)(笹島―県庁前)間に市内電車開通
**市内電話通話開始(加入者200名)
*[[1904年]](明治37年)日露戦争始まる
*[[1907年]](明治40年)都市ガス供給開始(本町―古渡間)
**名古屋港開港
*[[1908年]](明治41年)中区設置4区制(中区、東区、西区、南区)
**中区役所を万松寺境内に置く
*[[1909年]](明治42年)鶴舞公園(当時中区鶴舞町)開園
*[[1910年]](明治43年)精進川改修工事完成
**第10回関西府県連合共進会を鶴舞公園で開催
*[[1911年]](明治44年)精進川を新堀川と改称
====大正時代====
*[[1913年]]([[大正]]2年)納屋橋架け替え工事完成
*[[1914年]](大正3年)中区役所庁舎完成([[西川端町 (名古屋市)|西川端町]]3-42 現[[千代田 (名古屋市)|千代田]]一丁目)
**第1次世界大戦始まる
**名古屋市上水道完工・給水開始
*[[1918年]](大正7年)名古屋でも米騒動起こる
*[[1920年]](大正9年)第1回国勢調査(市世帯数92,461、人口429,997人、中区世帯数37,748、人口174,141人)
*[[1921年]](大正10年)隣接16カ町村を本市に編入
*[[1922年]](大正11年)電車の市営開始
*[[1925年]](大正14年)NHK名古屋放送(JOCK)ラジオ放送開始
===近現代===
====昭和(戦前)====
*[[1928年]]([[昭和]]3年)[[御大典奉祝名古屋博覧会]]が鶴舞公園にて開催
*[[1930年]](昭和5年)市営バス営業開始
**名古屋城を名古屋市へ御下賜
*[[1931年]](昭和6年)満洲事変起こる
*[[1933年]](昭和8年)市役所現庁舎完成([[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]三丁目)
*[[1934年]](昭和9年)中区役所現庁舎現在地に移転([[新栄|新栄町]]1-6 現栄四丁目)
*[[1936年]](昭和11年)桜通(名古屋駅前―東桜町間)完成
*[[1937年]](昭和12年)[[名古屋汎太平洋平和博覧会]]開催
**日支事変起こる
**10区制施行により中区の区域変更
*[[1941年]](昭和16年)太平洋戦争始まる
*[[1942年]](昭和17年)初空襲市内6ヵ所に焼夷弾落下
*[[1944年]](昭和19年)13区制実施により、栄区を新設
**中区役所 中区[[大池町 (名古屋市)|大池町]]に移転
**中保健所開所([[下前津町]])
*[[1945年]](昭和20年)名古屋城天守閣、本丸御殿等空襲により焼失
**太平洋戦争終結
**中区役所および栄区役所を栄区新栄町1丁目7番地に移転<ref>{{Citation|和書|title=名古屋市告示第百五十四號 區役所移轉(中、榮) |date=1920-10-18 |periodical=名古屋市公報 |issue=879 |publisher=名古屋市役所 |page=106}}</ref>
**栄区を中区に合併<ref>{{Citation|和書|title=名古屋市告示第百五十八號 減區竝區ノ區域變更 |date=1920-11-01 |periodical=名古屋市公報 |issue=880 |publisher=名古屋市役所 |page=120}}</ref>(12区に減区)
====昭和(戦後)====
*[[1947年]](昭和22年)新憲法・地方自治法施行
*[[1951年]](昭和26年)日本初の民間放送局中部日本放送(CBC)ラジオ放送開始
*[[1952年]](昭和27年)名古屋空港開港
*[[1954年]](昭和29年)日本初となるテレビ塔完工
*[[1955年]](昭和30年)第1回名古屋まつり開催
*[[1956年]](昭和31年)名古屋市政令指定都市になる
*[[1957年]](昭和32年)地下鉄(名古屋―栄町間)開通
*[[1958年]](昭和33年)[[錦通 (名古屋市)|錦通]]開通
**中区役所新庁舎完成(栄四丁目1-11)
**区制50周年
*[[1959年]](昭和34年)伊勢湾台風名古屋地方を襲う
**名古屋城再建
*[[1962年]](昭和37年)市教育館開館
**市科学館開館
*[[1963年]](昭和38年)守山市を編入、守山区を設置(13区制実施)
**愛知郡鳴海町を編入、緑区を設置(14区制実施)
*[[1964年]](昭和39年)東海道新幹線営業開始
**第18回オリンピック東京大会開催
**名古屋都市計画第1号・栄公園完成
*[[1965年]](昭和40年)名神高速道路全線開通
*[[1966年]](昭和41年)新住居表示実施(丸の内、錦、栄)
**市役所西庁舎完成
*[[1968年]](昭和43年)区政協力委員制度発足
*[[1969年]](昭和44年)名古屋市人口200万人突破
**「サカエチカ」オープン
*[[1970年]](昭和45年)日本万国博覧会開催
*[[1971年]](昭和46年)前津福祉会館・児童館開館
*[[1972年]](昭和47年)市民会館開館
*[[1974年]](昭和49年)市電全廃
*[[1975年]](昭和50年)名東区、天白区を設置(16区制)
*[[1977年]](昭和52年)市博物館開館
**名古屋市基本構想議決
*[[1978年]](昭和53年)中区制70周年
**婦人会館開館
**大井プール開所
*[[1980年]](昭和55年)市基本計画を策定・公表
*[[1981年]](昭和56年)納屋橋改築完成
*[[1982年]](昭和57年)中文化センター開館
**基幹バス(ミッキー)運行開始
**セントラルブリッジ(久屋大通公園)開通
**中社会教育センター開館
*[[1983年]](昭和58年)エンゼルブリッジ(久屋大通公園)開通
*[[1984年]](昭和59年)名古屋城博開催
**名古屋国際センター開館
*[[1985年]](昭和60年)高速2号線(東新町―高辻間)、高速分岐3号線(鶴舞南―東別院間)開通
**市役所東庁舎完成
*[[1986年]](昭和61年)若宮大通調節池完成
*[[1987年]](昭和62年)中区の区章の制定・区の木・区の花選定
*[[1988年]](昭和63年)中区制80周年
**白川公園に市美術館開館
**市新基本計画策定・公表
===現代===
====平成====
*[[1989年]]([[平成]]元年)市会で「デザイン都市宣言」決議
**金山総合駅オープン
**世界デザイン博覧会開催
**市制百周年
*[[1990年]](平成2年)名古屋国際会議場開場
**第1回中区区民まつり(中区なかよしまつり)実施
*[[1991年]](平成3年)名古屋都市センター発足
**中区役所朝日生命共同ビル業務開始
*[[1992年]](平成4年)市総合体育館開館
*[[1993年]](平成5年)市リサイクル推進センターの開設
*[[1994年]](平成6年)「[[わかしゃち国体]]」を開催
*[[1995年]](平成7年)阪神・淡路大震災
**伏見ライフプラザを開設
*[[1996年]](平成8年)平成8年8月8日を「まるはちの日」として市内各所で記念イベントの開催を決定
**ナディアパーク完成
*[[1997年]](平成9年)[[名古屋能楽堂]]開館
*[[1998年]](平成10年)ランの館開館
*[[1999年]](平成11年)ごみ非常事態宣言
**金山南ビル・名古屋ボストン美術館開館
**にっぽんど真ん中祭りを開催
*[[2000年]](平成12年) 介護保険制度開始
**東海豪雨 東海地方に集中豪雨 全市に甚大な被害
**名古屋市新世紀計画2010公表
*[[2001年]](平成13年)中スポーツセンター開館
**ガイドウェイバスシステム「ゆとりーとライン」運行開始
*[[2002年]](平成14年)名古屋市が東海大地震にかかる地震防災対策強化地域に指定
**オアシス21オープン
**藤前干潟がラムサール条約の登録湿地として認定
*[[2003年]](平成15年)市男女平等参画推進センター(つながれっとNAGOYA)オープン
*[[2004年]](平成16年)「あおなみ線」開業(名古屋駅―金城ふ頭)
**「安心・安全で快適なまちづくり条例」施行
*[[2005年]](平成17年)中部国際空港「セントレア」開港
**日本国際博覧会「愛・地球博」開催
**「新世紀・名古屋城博」開催
**金山総合駅北にアスナル金山オープン
*[[2007年]](平成19年)市が「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)」国内開催地に決定
**名古屋港開港100周年
*[[2008年]](平成20年)中区制100周年
**区政運営方針策定(以降毎年度策定)
**大井プール閉鎖
*[[2010年]](平成22年)名古屋開府400年
**生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)開催
**栄市税事務所、ささしま市税事務所、金山市税事務所開設
*[[2011年]](平成23年)名古屋市科学館リニューアルオープン
**東日本大震災
*[[2012年]](平成24年)第1回中区安心・安全・快適なまちづくり大会開催
*[[2013年]](平成25年)中保健所が中区役所内に移転
**名古屋都市高速道路全面開通
*[[2014年]](平成26年)ランの館閉館
**久屋大通庭園フラリエ開館
**名古屋市生涯学習推進センター閉館
**イーブルなごや(男女平等参画推進センター・女性会館)開館
**なごや人権啓発センターソレイユプラザなごや開館
**持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議開催
*[[2016年]](平成28年)中区区民会議がスタート
*[[2017年]](平成29年)中区広報大使を設置
*[[2018年]](平成30年)金シャチ横丁オープン
**中区制110周年
**中保健所を中保健センターに名称変更
**御園座リニューアルオープン
==官公庁・施設==
[[File:Marunouchi Ramp 20160403A.JPG|thumb|180px|[[中部地方]]の政治中心地である[[三の丸 (名古屋市)|三の丸]][[官庁街]]]]
[[中部地方]]・[[東海地方]]を所管する[[中央省庁]]の[[出先機関]]([[地方支分部局]])が中区[[三の丸 (名古屋市)|三の丸]]界隈に多く置かれている。
===国家機関===
====人事院====
*[[人事院#地方事務局等|中部事務局]]
====内閣府====
*[[公正取引委員会]] [[公正取引委員会#地方機関|中部事務所]]
;[[警察庁]]
*[[中部管区警察局]]
====環境省====
*[[中部地方環境事務所]]
====経済産業省====
*[[中部経済産業局]]
*[[産業保安監督部#各産業保安監督部|中部近畿産業保安監督部]]
*[[製品評価技術基盤機構]] [[製品評価技術基盤機構#組織|中部支所]]
====厚生労働省====
*[[東海北陸厚生局]]
**指導総括管理官
**[[社会保険審査官]]
*[[愛知労働局]]
<!--;[[社会保険庁]]
*[[愛知社会保険事務局]]、[[愛知社会保険事務局#管内社会保険事務所等|鶴舞社会保険事務所]]-->
====特殊法人====
;[[日本年金機構]]
*[[日本年金機構#ブロック本部→地域部|日本年金機構中部ブロック本部]]
====国土交通省====
*[[中部地方整備局]]
*[[中部運輸局]]
*[[国土地理院]] [[国土地理院#地方測量部及び支所|中部地方測量部]]
*[[水資源機構]] [[水資源機構#支社・事業所|名古屋支社]]
*[[自動車事故対策機構]] [[自動車事故対策機構#組織概要|名古屋主管支局]]
====財務省====
*[[東海財務局]]
;[[国税庁]]
*[[名古屋国税局]]、[[名古屋国税局#愛知県|名古屋中税務署]]
====総務省====
*[[管区行政評価局#管轄地域|中部管区行政評価局]]
====農林水産省====
*[[東海農政局]]
**[[農林水産消費安全技術センター]]
**[[東海農政局#管内事業所|土木改良技術事務所]]
====防衛省====
*[[近畿中部防衛局|近畿中部防衛局東海防衛支局]]
====法務省====
*[[名古屋法務局]]
*[[地方更生保護委員会|中部地方更生保護委員会]]
*[[保護観察所|名古屋保護観察所]]
;[[公安調査庁]]
*[[公安調査局#管轄地域|中部公安調査局]]
;[[検察庁]]
*[[名古屋高等検察庁]]
**[[名古屋地方検察庁]]
**[[名古屋区検察庁]]
**[[特別捜査部|名古屋特別捜査部]]
====司法機関====
;[[裁判所]]
*[[名古屋高等裁判所]]
**[[名古屋地方裁判所]]
**[[名古屋家庭裁判所]]
**[[名古屋簡易裁判所]]
;司法組織
*[[中部弁護士会連合会]]
*[[愛知県弁護士会]]
===施設===
[[File:Nagoya Naka Police Station.jpg|thumb|180px|愛知県中警察署]]
[[File:Nagoya Naka Fire Station 20190511.jpg|thumb|180px|名古屋市中消防署]]
[[File:NTT West Tokai Hospital 20170309.jpg|thumb|180px|NTT西日本東海病院]]
[[File:Aichi Prefectural Library exterior ac (3).jpg|thumb|180px|愛知県図書館]]
[[File:Nagoya-naka post office 21001.JPG|thumb|180px|名古屋中郵便局]]
[[File:RZ Fushimi Million-za 2020-04 (6).jpg|thumb|180px|伏見ミリオン座]]
[[File:Nagoya Sports Center (Entrance).jpg|thumb|180px|名古屋スポーツセンター本部]]
====警察====
;本部
*[[愛知県警察|愛知県警察本部]]
;警察署
*[[中警察署|愛知県中警察署]]
;交番
*大津橋交番([[丸の内 (名古屋市)|丸の内]]三丁目)
*南久屋交番([[新栄|新栄町]]2丁目)
*池田交番(栄四丁目)
*新栄交番(新栄三丁目)
*公園前交番(千代田五丁目)
*大須交番(大須二丁目)
*広小路交番(栄一丁目)
*栄交番([[錦三丁目]])
*矢場交番(栄三丁目)
*松元交番(千代田一丁目)
*橘交番(富士見町)
*金山駅前交番([[金山 (名古屋市)|金山]]1丁目)
====消防====
;本部
*[[名古屋市消防局]]
;消防署
*[[名古屋市消防局#消防署|名古屋市中消防署]]
*[[橘消防署|名古屋市橘消防署]]
;出張所
*老松(中区新栄1-46-12)
*橘(中区橘1-22-15)
====医療・福祉====
;主な病院
*愛知三の丸クリニック
*[[NTT西日本東海病院]]
*[[国立病院機構名古屋医療センター]]
*[[中日病院]]
*[[名城病院]]
====郵便局====
;主な郵便局
{{colbegin|2}}
*[[名古屋中郵便局]]
**[[ゆうちょ銀行]]名古屋支店
*[[名古屋栄郵便局]]
*[[名古屋錦郵便局]]
*[[名古屋丸の内郵便局]]
*[[名古屋丸の内三郵便局]]
*[[名古屋橘郵便局]]
*[[名古屋大須郵便局]]
*[[名古屋栄一郵便局]]
*[[名古屋大津町郵便局]]
*[[名古屋正木郵便局]]
*[[名古屋千郷郵便局]]
*[[名古屋東新町郵便局]]
*[[名古屋平和郵便局]]
*[[名古屋中日ビル内郵便局]]
*[[名古屋東陽町郵便局]]
*[[名古屋新栄郵便局]]
*[[名古屋市役所内郵便局]]
*[[名古屋流町郵便局]]
*[[名古屋上前津郵便局]]
*[[名古屋南大津町郵便局]]
*[[名古屋白山郵便局]]
*[[名古屋七本松郵便局]]
*[[名古屋米浜郵便局]]
*[[ループ金山郵便局]]
{{colend}}
====文化施設====
;図書館
*[[愛知県図書館]]
*[[名古屋都市センターまちづくりライブラリー]]
*[[御園座演劇図書館]]
;劇場・ホール
{{colbegin|2}}
*[[大須演芸場]]
*[[センチュリーシネマ]]
*[[DIAMOND HALL]]
*[[中日劇場]]
*[[電気文化会館]]
*[[名古屋市民会館]]
*[[名古屋能楽堂]]
*[[七ツ寺共同スタジオ]]
*[[伏見ミリオン座]]
*[[御園座]]
*[[三井住友海上しらかわホール]]
*[[宗次ホール]]
{{colend}}
;生涯学習施設
{{colbegin|2}}
*[[愛知県公文書館]]
*[[愛知県産業貿易館]]
*[[愛知・名古屋 戦争に関する資料館]]
*[[印章歴史館]]
*[[切支丹遺跡博物館]]
*[[市営交通資料センター]]
*[[でんきの科学館]]
*[[名古屋市科学館]]
*[[名古屋市短歌会館]]
*[[名古屋市美術館]]
*[[名古屋ボストン美術館]](2018年閉館)
*[[歯の博物館 (愛知県)|歯の博物館]]
*[[松坂屋美術館]]
{{colend}}
===運動施設===
'''主なスポーツ施設'''
*[[愛知県体育館]]
*[[中スポーツセンター]]
*[[名古屋スポーツセンター]]
==対外関係==
[[File:Shirakawa No.8 Building 20150801-01.JPG|thumb|180px|[[在名古屋ブラジル総領事館|在名古屋ブラジル連邦共和国総領事館]]]]
===国際機関===
====国際連合機関====
*{{Flagicon|UN}} [[愛知県図書館]]([[国際連合寄託図書館]])(2010年度をもって指定解除)
====領事館====
;総領事館
* {{Flagicon|TUR}} [[在名古屋トルコ共和国総領事館]]
* {{Flagicon|PHL}} [[在名古屋フィリピン総領事館|在名古屋フィリピン共和国総領事館]]
* {{Flagicon|BRA}} [[在名古屋ブラジル総領事館|在名古屋ブラジル連邦共和国総領事館]]
* {{Flagicon|PER}} [[在名古屋ペルー総領事館|在名古屋ペルー共和国総領事館]]
;領事館
* {{Flagicon|CAN}} [[在名古屋カナダ領事館]]
;名誉総領事館
* {{Flagicon|SGP}} 在名古屋[[シンガポール共和国]]名誉総領事館
* {{Flagicon|THA}} 在名古屋[[タイ王国]]名誉総領事館
;名誉領事館
* {{flagicon|ETH}} 在名古屋[[エチオピア連邦民主共和国]]名誉領事館
* {{Flagicon|NED}} 在名古屋[[オランダ王国]]名誉領事館
* {{Flagicon|COL}} 在名古屋[[コロンビア共和国]]名誉領事館
==経済==
{{Double image aside|right|Nagoya Stock Exchange Building, Sakae Naka Ward Nagoya 2022.jpg|180|Nagoya Chamber of Commerce & Industry (2), Sakae Naka Ward Nagoya 2022.jpg|180|[[名古屋証券取引所]]|[[名古屋商工会議所]]}}
[[名古屋市]]や[[愛知県]]、[[中部地方]]の経済の中枢機能が集積していることもあり、多くの企業が本社を構えている。
区内に日本[[三大証券取引所]]の一角である[[名古屋証券取引所]]や[[名古屋商工会議所]]などの[[金融商品取引所]]や経済団体などが存在する。
また、[[中日本]]最大の[[繁華街]]である[[栄 (名古屋市)|栄]]を中心に[[商業]]などの[[第三次産業]]が発展している。
===第三次産業===
====商業====
;百貨店
*[[松坂屋]]名古屋本店
*[[三越]]名古屋栄店([[オリエンタルビル]])
<gallery>
File:Matsuzakaya-minamikan.JPG|[[松坂屋]]名古屋店 南館
File:Maruei Department Store.jpg|[[丸栄]]本店(閉店)
File:SKYLE 20181212.jpg|[[スカイル]]
File:Nagoya Mitsukoshi Sakae Store (2017-04-28).jpg|[[三越]]名古屋栄店
</gallery>
;主な商業施設
*[[アスナル金山]]
*[[オアシス21]]
*[[大須301ビル]]
*[[コメ兵]]
*[[サンシャイン栄]]
*[[テラッセ納屋橋]]
*[[ドン・キホーテ (企業)|ドンキホーテ名古屋栄]]
*[[パルコ|名古屋 ZERO GATE]]
*[[パルコ#店舗一覧(PARCO)|名古屋PARCO]]
*[[ナディアパーク]]
*[[万松寺ビル]]
*[[ヨドバシカメラ|ヨドバシカメラ名古屋松坂屋]]
*[[ラシック]]
*[[Maruei Galleria]](旧[[丸栄]]跡地に建設された商業施設)
<gallery>
File:Asnal Kanayama 2020-10 ac (1).jpg|[[アスナル金山]]
File:Oasis 21 - Spaceship Aqua - 01.JPG|[[オアシス21]]
File:Osu-301.jpg|[[大須301ビル]]
File:Osu4.JPG|[[コメ兵ホールディングス]]本社
File:Sunshine Sakae 001.JPG|[[サンシャイン栄]]
File:Proud Tower Nagoya Sakae.jpg|[[テラッセ納屋橋]]
File:Don.Quijote-Nagoya-Sakae.JPG|[[ドン・キホーテ (企業)|ドンキホーテ名古屋栄]]
File:Nagoya zero gate edited.jpg|[[パルコ|名古屋 ZERO GATE]]
File:Nagoyaparco nishikan.JPG|[[パルコ#店舗一覧(PARCO)|名古屋PARCO]]
File:Nadya Park (2017-09-30) 1.jpg|[[ナディアパーク]]
File:Bansyouji building002.JPG|[[万松寺ビル]]
File:Matsuzakaya-new-minamikan&yodobashicamera.JPG|[[ヨドバシカメラ|ヨドバシカメラ名古屋松坂屋]]
File:LACHIC 2017.jpg|[[ラシック]]
File:Maruei Galleria - 4.jpg|[[Maruei Galleria]]
</gallery>
===本社を置く企業===
{{See also|Category:名古屋市中区の企業}}
;上場企業
{{colbegin|4}}
*[[アイサンテクノロジー]]
*[[あいちフィナンシャルグループ]]
*[[アイホン]]
*[[アルペン (企業)|アルペン]]
*[[医学生物学研究所]]
*[[ウッドフレンズ]]
*[[エスケーアイ]]
*[[NDS (企業)|NDS]]
*[[岡谷鋼機]]
*[[カゴメ]]
*[[川崎設備工業]]
*[[菊水化学工業]]
*[[キムラユニティー]]
*[[グッドマン (医療機器販売)|グッドマン]]
*[[ゲオホールディングス]]
*[[コメ兵ホールディングス]]
*[[シイエム・シイ]]
*[[シーキューブ (電気通信工事)|シーキューブ]]
*[[ジェイグループホールディングス]]
*[[ジャパンベストレスキューシステム]]
*[[シンクレイヤ]]
*[[スターキャット・ケーブルネットワーク]]
*[[ゼットン (企業)|ゼットン]]
*[[セディナ]]
*[[セントラルファイナンス]]
*[[大成 (愛知県)|大成]] 本社
*[[大同メタル工業]]
*[[ダイナパック]]
*[[大宝運輸]]
*[[中央コーポレーション]]
*[[中部証券金融]]
*[[中部日本放送]]
*[[ディー・ディー・エス]]
*[[デ・ウエスタン・セラピテクス研究所]]
*[[テンプスタッフ・ピープル]]
*[[東海エレクトロニクス]]
*[[東建コーポレーション]]
*[[トーエネック]]
*[[トーシンホールディングス]]
*[[徳倉建設]]
*[[トビラシステムズ]]
*[[トラスト (中古車輸出)|トラスト]]
*[[名古屋銀行]]
*[[ナ・デックス]]
*[[ニチハ]]
*[[パーソルR&D]]
*[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]
*[[初穂商事]]
*[[VTホールディングス]]
*[[プロトコーポレーション]]
*[[ワンダープラネット (ゲーム会社)|ワンダープラネット]]
{{colend}}
;その他の主な企業
{{colbegin|4}}
*[[愛知県医師会]]
*[[愛知県道路公社]]
*[[愛知信用金庫]]
*[[朝日新聞名古屋本社]]
*[[アサヒドーカメラ]]
*[[アビバ]]
*[[アリュール (名古屋市)|アリュール]]
*[[安藤証券]]
*[[ウェルビー (愛知県)|ウェルビー]]
*[[エスワイフード]]
*[[NTB (芸能プロダクション)|NTB]]
*[[エフエム愛知]]
*[[エムジーホーム]]
*[[大須ういろ]]
*[[オールハーツ・カンパニー]]
*[[キングコーポレーション]]
*[[興和]]
*[[国際デザインセンター]]
*[[コーチングアカデミー]]
*[[近藤紡績所]]
*[[CBCテレビ]]
*[[CBCラジオ]]
*[[ZIP-FM]]
*[[スガキコシステムズ]]
*[[中日新聞社]]
*[[テレビ愛知]]
*[[豊島 (繊維商社)|豊島]]
*[[中日本高速道路]]
*[[名古屋市交通局]]
*[[名古屋証券取引所]]
*[[名古屋テレビ放送]]
*[[日本メナード化粧品]]
*[[ビジネスデザイン研究所]]
*[[富士コーヒー]]
*[[プロドローン]]
*[[ポッカサッポロフード&ビバレッジ]]
*[[マドラス (企業)|マドラス]]
*[[美濃忠]]
{{colend}}
===金融機関===
{{Vertical images list|幅=180px
|画像1=Aichi Bank head office.jpg
|説明1=[[愛知銀行]]本店
|画像2=Old The Bank of Nagoya Head Office 2020-12 ac.jpg
|説明2=[[名古屋銀行]]本店
|画像3=中京銀行本店.jpg
|説明3=[[中京銀行]]本店
|画像4=The Juroku Bank Nagoya Building 110222.jpg
|説明4=[[十六銀行名古屋ビル]]
|画像5=Banco do Brasil Agência Nagoya.JPG
|説明5=[[ブラジル銀行]]名古屋支店
|画像6=Aichi Shinkin Bank 101214.jpg
|説明6=[[愛知信用金庫]]本店
}}
* [[三菱UFJ銀行]]
** 名古屋営業部・名古屋中央支店・栄町支店(同一店舗に所在)
** 大津町支店
** 鶴舞支店
** 上前津支店
** 金山支店・熱田支店(同一店舗に所在)
* [[みずほ銀行]]
** 名古屋支店
** 名古屋中央支店
* [[三井住友銀行]]
** 名古屋支店
** 名古屋栄支店
** 上前津支店
** 金山支店
* [[りそな銀行]]
** 名古屋支店
** 赤門通支店
* [[SBI新生銀行]]名古屋支店栄出張所
* [[SMBC信託銀行]]名古屋支店(旧称[[シティバンク銀行]])
* [[愛知銀行]]
** 本店
** 大須支店
** 金山支店
* [[名古屋銀行]]
** 本店
** 上前津支店
* [[中京銀行]]
** 本店
** 名古屋中央支店
** 大津橋支店
** 東別院支店
* [[十六銀行]]
** 名古屋営業部 名古屋支店
** 大須支店
* [[大垣共立銀行]]名古屋支店
* [[三十三銀行]]
** 名古屋支店
** 上前津支店
* [[百五銀行]]上前津支店
* [[静岡銀行]]名古屋支店
* [[スルガ銀行]]名古屋支店
* [[清水銀行]]名古屋支店
* [[七十七銀行]]名古屋支店
* [[横浜銀行]]名古屋支店
* [[第四北越銀行]]名古屋支店
* [[八十二銀行]]名古屋支店
* [[北陸銀行]]
** 名古屋支店
** 金山橋支店
* [[北國銀行]]名古屋支店
* [[福井銀行]]名古屋支店
* [[滋賀銀行]]名古屋支店
* [[京都銀行]]名古屋支店
* [[広島銀行]]名古屋支店
* [[山口銀行]]名古屋支店
* [[伊予銀行]]名古屋支店
* [[福岡銀行]]名古屋支店
* [[三菱UFJ信託銀行]]名古屋支店
* [[みずほ信託銀行]]名古屋支店
* [[三井住友信託銀行]]
** 名古屋営業部
** 名古屋栄支店
* [[SBJ銀行]]名古屋支店
* [[中国銀行 (中華人民共和国)|中国銀行]]名古屋支店
* [[ブラジル銀行]]名古屋支店
* [[商工組合中央金庫|商工中金]]名古屋支店
* [[愛知信用金庫]]本店
==情報・生活==
===マスメディア===
====新聞社====
* [[中日新聞社]]
* [[朝日新聞名古屋本社]]
* [[読売新聞中部支社]]
* [[日本経済新聞名古屋支社]]
* [[日刊スポーツ新聞西日本]] 名古屋本社
* [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]] 大阪本社名古屋オフィス
<gallery>
File:Chunichi Shimbun Nagoya Head Office.jpg|[[中日新聞社]]
File:Nagoya Asahi Kaikan Bldg 20110709-001.jpg|[[朝日新聞名古屋本社]]
File:Yomiuri Shimbun Chubu New Office.jpg|[[読売新聞中部支社]]
File:Nikkei Nagoya Office Building 120222.jpg|[[日本経済新聞名古屋支社]]
</gallery>
====通信社====
*[[共同通信社]] 名古屋支社
*[[時事通信社]] 名古屋支社
====放送局====
* [[中部日本放送]]
** [[CBCテレビ]]
** [[CBCラジオ]]
* [[名古屋テレビ放送]]
* [[テレビ愛知]]
* [[エフエム愛知]]
* [[ZIP-FM]]
* HeartFM
<gallery>
File:CBC Hall of Chubu-Nippon Broadcasting.jpg|[[中部日本放送]]
File:Nagoya Broadcasting Network Head Office 2022.jpg|[[名古屋テレビ放送]]
File:Aichi Television Head Office.jpg|[[テレビ愛知]]
</gallery>
===芸能事務所===
*[[セントラルジャパン]]
== 教育 ==
[[File:Nagoya city 93.jpg|thumb|180px|[[名古屋商科大学]]<br>名古屋キャンパス]]
[[File:Nihon Fukushi University Nagoya Campus 20170527.jpg|thumb|180px|[[日本福祉大学]]<br>名古屋千代田キャンパス]]
===大学===
;私立
{{colbegin|2}}
*[[朝日大学]] [[朝日大学#所在地|名古屋キャンパス]]
*[[桜花学園大学]] 栄キャンパス
*[[星城大学]] 丸の内キャンパス
*[[中部大学]] 名古屋キャンパス(2021年度中に解体、当面駐車場)
*[[東京福祉大学]] 名古屋キャンパス
*[[名古屋学芸大学]] [[名古屋医療センター|名城前医療キャンパス]]
*[[名古屋商科大学]] 名古屋伏見キャンパス
*[[日本福祉大学]] 名古屋千代田キャンパス
{{colend}}
※他に、[[愛知学院大学]]、[[東海学園大学]]、名古屋学院大学等のサテライトキャンパスがある。
===専修学校===
;私立
{{colbegin|2}}
*[[あいちビジネス専門学校]]
*愛知美容専門学校
*広告デザイン専門学校
*国際製菓技術専門学校
*[[東海工業専門学校金山校]]
*[[名古屋医健スポーツ専門学校]]
*[[名古屋ウェルネススポーツカレッジ]]
*名古屋栄養専門学校
*[[名古屋NSCカレッジ]]
*[[名古屋音楽学校]]
*[[名古屋観光専門学校]]
*名古屋コミュニケーションアート専門学校
**名古屋ECO動物海洋専門学校
**名古屋カフェ・パティシエ&調理専門学校
**名古屋デザイン&テクノロジー専門学校
*名古屋スクールオブミュージック&ダンス専門学校
*名古屋製菓専門学校
*名古屋綜合美容専門学校
*名古屋ファッション専門学校
*ニチエイ調理専門学校
*[[日本福祉大学#系列校|日本福祉大学中央福祉専門学校]]
*[[専門学校名古屋スクール・オブ・ビジネス]]
*[[専門学校名古屋デザイナー学院]]
*[[専門学校名古屋ビジュアルアーツ]]
{{colend}}
<gallery>
File:Aichi Business College No.1 20150502.jpg|[[あいちビジネス専門学校]]
File:Nagoya School of Business 20141030.JPG|[[専門学校名古屋スクール・オブ・ビジネス]]
File:Nagoya Visual Arts 20141030.JPG|[[専門学校名古屋ビジュアルアーツ]]
File:Tokai Polytechnic College 101126.jpg|[[東海工業専門学校金山校]]
File:Sky Oasis Sakae 20141006.JPG|[[名古屋音楽学校]]
File:Nagoya NSC College 20150426.JPG|[[名古屋NSCカレッジ]]
</gallery>
=== 高等学校 ===
;市立
*[[名古屋市立中央高等学校]]
;私立
*[[私立学校|私立]][[愛知産業大学工業高等学校]]
=== 中学校 ===
;市立
*[[名古屋市立伊勢山中学校]]
*[[名古屋市立白山中学校]]
*[[名古屋市立前津中学校]]
*[[名古屋市立丸の内中学校]]
=== 小学校 ===
;市立
*[[名古屋市立老松小学校]]
*[[名古屋市立大須小学校]]
*[[名古屋市立栄小学校]]
*[[名古屋市立新栄小学校]]
*[[名古屋市立橘小学校]]
*[[名古屋市立千早小学校]]
*[[名古屋市立平和小学校]]
*[[名古屋市立正木小学校]]
*[[名古屋市立松原小学校]]
*[[名古屋市立丸の内小学校]]
===その他の学校===
*[[小沢喜美子モード学院]]
*[[東海聖書神学塾]]
== 交通 ==
[[File:Oasis 21 - Spaceship Aqua - 01.JPG|thumb|180px|[[栄駅 (愛知県)|栄駅(オアシス21)]]]]
[[File:Oasis 21 - Sakae Bus Terminal - 01.JPG|thumb|180px|[[オアシス21|栄バスターミナル]]]]
[[File:Nagoya Expressway Maruta-machi JCT 20150426.JPG|thumb|180px|[[丸田町ジャンクション|丸田町JCT]]]]
=== 鉄道 ===
====鉄道路線====
;[[東海旅客鉄道]](JR東海)
*{{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]:(名古屋市中川区)- [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] -(名古屋市熱田区)
*{{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]]:(名古屋市中村区)- 金山駅 - [[鶴舞駅]] -(名古屋市東区)
;[[名古屋鉄道]](名鉄)
*{{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]:(名古屋市中川区)- 金山駅 -(名古屋市熱田区)
*{{名鉄駅番号|ST}} [[名鉄瀬戸線|瀬戸線]]:[[栄町駅 (愛知県)|栄町駅]] - [[東大手駅]] -(名古屋市北区)
:名鉄金山駅は熱田区金山町が所在地であり、中区との区境である。
:名鉄公式サイトにおいては、栄町駅住所は「東区東桜一丁目12番先」とされている。駅自体は中区[[森の地下街]]のさらに地下に所在する。
:東山線[[新栄町駅 (愛知県)|新栄町駅]]は駅名の由来は中区新栄町だが、駅は区境を越えた東区にある。
====地下鉄====
;[[名古屋市交通局]](名古屋市営地下鉄)
*[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]:(名古屋市中村区)- [[伏見駅 (愛知県)|伏見駅]] - [[栄駅 (愛知県)|栄駅]] - [[新栄町駅 (愛知県)|新栄町駅]] -(名古屋市千種区)
*[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meijo Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]:(名古屋市北区)- [[名古屋城駅]] - [[久屋大通駅]] - 栄駅 - [[矢場町駅]] - [[上前津駅]] - [[東別院駅]] - [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] -(名古屋市熱田区)
*[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Meiko Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]]:金山駅 - (名古屋市熱田区)
*[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Tsurumai Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]:(名古屋市西区)- [[丸の内駅]] - 伏見駅 - [[大須観音駅]] - 上前津駅 - [[鶴舞駅]] -(名古屋市昭和区)
*[[File:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]:(名古屋市中村区)- 丸の内駅 - 久屋大通駅 -(名古屋市東区)
===バス===
====路線バス====
* [[名古屋市営バス]]
* [[名鉄バス]]
* [[あおい交通]]([[豊山町]]コミュニティバス)
=== 道路 ===
====高速道路====
;[[名古屋高速道路]]
*[[名古屋高速都心環状線|都心環状線]]:[[丸の内入口]]・[[丸の内出口 (愛知県)|出口]] - [[東別院入口]] - [[鶴舞南ジャンクション|鶴舞JCT]] - [[丸田町ジャンクション|丸田町JCT]]
*[[名古屋高速2号東山線|2号東山線]]:[[白川出入口]] - 丸田町JCT
====国道====
*[[国道19号]]([[伏見通]]・[[桜通 (名古屋市)|桜通]])
*[[国道22号]](伏見通)
*[[国道41号]](空港線)
*[[国道153号]]([[飯田街道]])
====県道====
;[[主要地方道]]
*[[愛知県道68号名古屋津島線]](桜通)
*[[愛知県道60号名古屋長久手線 ]]([[広小路通 (名古屋市)|広小路通]])
*[[愛知県道200号名古屋甚目寺線]]([[外堀通 (名古屋市)|外堀通]])
;[[一般県道]]
*[[愛知県道215号田籾名古屋線]](出来町通)
====市道====
* [[名古屋市道山王線]](山王通)
* [[名古屋市道堀田高岳線]](空港線)
====幹線道路の道路通称名====
; <南北の道路>
* [[伏見通]]
* [[大津通]]
* [[久屋大通]]
* [[名古屋市道堀田高岳線|空港線]]
* [[飯田街道]]
; <東西の道路>
* [[出来町通]]
* [[外堀通 (名古屋市)|外堀通]]
* [[桜通 (名古屋市)|桜通]]
* [[錦通 (名古屋市)|錦通]]
* [[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]
* [[若宮大通]]
* [[大須通]]
* [[山王通]]
====中心部の道路通称名====
; <南北の道路>
{{colbegin|4}}
* 木挽町通
* 皆戸通
* 竪三蔵通
* 中ノ町通
* 御園通
* 堀川東通
* 西大須通
* 常盤通
* 桑名町通
* 長島町通
* 長者町通
* [[本町通 (名古屋市)|本町通]]
* 七間町通
* [[呉服町通]]
* 伊勢町通
* 大須本通
* 門前町通
* 裏門前町通
* 新天地通
* 武平通
* 東栄通
* [[前津通]]
* 西川端通
* 東川端通
* 千代田通
* 七本松通
* 中央線西通
{{colend}}
; <東西の道路>
{{colbegin|4}}
* [[京町通 (名古屋市)|京町通]]
* 上中通
* 魚ノ棚通
* 杉ノ町通
* 伝馬町通
* 袋町通
* 本重町通
* 入江町通
* 三蔵通
* 白川通
* 矢場町通
* 瓦通
* 東陽通
* 花園通
* 大須観音西通
* 赤門明王通
* 赤門通
* 大須観音通
* 万松寺通
* 仁王門通
* 東仁王門通
* 松元通
* 松ヶ枝通
* 宇津木橋通
{{colend}}
==観光==
[[File:Nagoya Castle dk4696.jpg|thumb|180px|[[名古屋城]]]]
[[File:愛知県名古屋市中区大須 - panoramio (5).jpg|thumb|180px|[[大須観音]]]]
[[File:2016 Japan Nagoya 81 (33038233234).jpg|thumb|180px|[[オアシス21]]と[[久屋大通公園]]内に建つ[[名古屋テレビ塔]]]]
===名所・旧跡===
'''主な城郭'''
*[[那古野城]]
*[[名古屋城]]
*[[日置城]]
*[[古渡城]]
'''主な寺院'''
*[[栄国寺]]
*[[大須観音]](宝生院)
*[[休玄寺]]
*[[乾徳寺 (名古屋市中区)|乾徳寺]]
*[[誓願寺 (名古屋市中区)|誓願寺]]
*[[政秀寺]] - [[平手政秀]]の菩提寺
*[[千光寺 (名古屋市)|千光寺]]
*[[總見寺]]
*[[大光院 (名古屋市)|大光院]]
*[[長福寺 (名古屋市中区)|長福寺]]
*[[天寧寺 (名古屋市)|天寧寺]]
*[[白林寺]]
*[[萬松寺|万松寺]]
*[[真宗大谷派名古屋別院|東本願寺名古屋別院]](東別院)
*[[福生院]]
*[[本願寺名古屋別院]](西別院)
*[[萬福院]]
'''主な神社'''
*[[愛知縣護國神社]]
*[[闇之森八幡社]]
*[[桜天神社]] - 名古屋三天神の1つ。
*[[洲崎神社 (名古屋市)|洲崎神社]]
*[[那古野神社]]
*[[名古屋東照宮]]
*[[白山神社 (名古屋市)|白山神社]]
*[[日置神社 (名古屋市)|日置神社]]
*[[三輪神社 (名古屋市)|三輪神社]]
*[[若宮八幡社 (名古屋市中区)|若宮八幡社]]
'''宿場'''
*[[美濃路]]
**[[名古屋宿]]
'''古墳・遺跡'''
*[[大須二子山古墳]]
*[[那古野山古墳]]
*[[白山古墳 (名古屋市)|白山古墳]]
'''教会'''
*[[名古屋教会]]
===観光スポット===
;主な公園
*[[池田公園]]
*[[白川公園 (名古屋市)|白川公園]]
*[[久屋大通公園]]
**[[久屋大通庭園フラリエ]]
*[[名城公園]]
*[[若宮大通公園]]
;主な文化施設
*[[新名古屋ミュージカル劇場]]
*[[でんきの科学館]]
*[[名古屋市科学館]]
*[[名古屋市美術館]]
*[[名古屋テレビ塔]]([[中部電力]] MIRAI TOWER)
*[[名古屋ボストン美術館]]
*[[御園座]]
**[[御園座演劇図書館]]
*[[サンシャイン栄]]
*[[歯の博物館 (愛知県)|歯の博物館]]
==文化・名物==
[[File:Domatsuri 20160827-01.jpg|thumb|180px|[[にっぽんど真ん中祭り]]]]
===祭事・催事===
;主な祭事
*[[大須大道町人祭]]
*[[名古屋まつり]]
*[[名古屋城#イベント|名古屋城夏まつり]](2006年より「名古屋城宵まつり」として開催)
*[[にっぽんど真ん中祭り]]
*[[広小路夏まつり]]
;主な催事
*[[大相撲]][[本場所|名古屋場所]] - 大相撲[[本場所]]
===名産・特産===
;主な名産
*[[東雲焼]]
==出身関連著名人==
[[File:Oda Nobunaga Portrait Sanpoji Temple c1582-1586.jpg|thumb|180px|[[織田信長]]]]
[[File:Katsuko Kosaki 1943.jpg|thumb|180px|[[小崎甲子]]]]
===出身著名人===
* [[織田信長]] - 戦国時代の先駆者、[[三英傑]]の1人
* [[お市の方]] - 織田信長の妹、浅井長政・柴田勝家の正室
* [[奥村石蘭]] - 日本画家
* [[加藤由作]] - [[一橋大学]]名誉教授、初代日本保険学会理事長
* [[加藤亮]] - ライター、出生は[[昭和区]]
* [[木村修治]] - [[名古屋女子大生誘拐殺人事件]]の犯人
* [[小崎甲子]] - 女性初の黒帯柔道家
* [[田島道治]] - 初代[[宮内庁]]長官、[[ソニー]]会長
* [[代官山康弘]] - [[十両]][[力士]]
* [[伊藤みどり]] - 元[[フィギュアスケート]]選手
* [[宮地佑紀生]] - 名古屋の[[ローカルタレント]]
* [[矢野きよ実]] - 名古屋のローカルタレント
* [[近藤芳正]] - [[俳優]]
* [[舘ひろし]] - [[歌手]]、俳優
* [[山羊智詞]] - [[ロック (音楽)|ロック]]歌手、[[音楽プロデューサー]]、俳優
* [[井上徳三郎]] - [[実業家]]
* [[水谷孝次]] - [[アートディレクター]]
* [[真咲よう子]] - [[演歌歌手]]
* [[田島荘三]] - [[音響監督]]
* [[山田耕二]] - [[ラグビー日本代表]]選手、ラグビー監督
* [[村上佳菜子]] - 元[[フィギュアスケート]]選手
* [[木村三千夫]] - [[日本デコラックス]]創業者
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://www.city.nagoya.jp/naka/ 名古屋市中区]<!-- 「公式ウェブサイト」と表記されるテンプレートは貼付しないこと -->
 {{commonscat-inline|Naka-ku, Nagoya|中区}}
 {{Wikivoyage-inline|ja:中区 (名古屋市)}}
{{名古屋市中区の町名}}
{{愛知県の自治体}}
{{Japan-area-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:なかく}}
[[Category:名古屋市の区]]
[[Category:中区 (名古屋市)|*]]
[[Category:1908年に成立した行政区画]]
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2003-09-12T23:54:25Z
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2023-12-02T02:57:22Z
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[
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8C%BA_(%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82)
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燃料電池
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燃料電池(ねんりょうでんち、英: fuel cell)は、燃料(多くは水素)と酸化剤(多くは酸素)の化学エネルギーを、一対の酸化還元反応によって電気に変換する電気化学電池である。燃料電池が多くの電池と異なる点は、化学反応を維持するために燃料と(通常は空気からの)酸素を継続的に供給する必要がある点である。一方、電池では化学エネルギーは通常、電池内に既に存在する物質から得られる。燃料電池は、燃料と酸素が供給される限り、継続的に電気を作り出すことができる。
最初の燃料電池は、1838年にウィリアム・グローブにより発明された。その後、1932年にフランシス・ベーコンが水素-酸素燃料電池を発明して以来、1世紀以上にわたって商業利用されてきた。アルカリ型燃料電池は、発明者の名前をとってベーコン型燃料電池とも呼ばれ、1960年代半ばからNASAの宇宙計画で人工衛星や宇宙カプセルの発電に使用されてきた。それ以来、燃料電池は他の多くのアプリケーションにも使用されている。燃料電池は、商業施設、産業施設、住宅、遠隔地やアクセスが困難な場所での一次電源やバックアップ電源として使用されている。また、フォークリフト、自動車、バス、列車、ボート、オートバイ、潜水艦などの燃料電池自動車の動力源としても使用されている。
燃料電池にはさまざまな種類があるが、いずれも陽極と陰極、そしてイオン(多くは正電荷の水素イオン(プロトン))を行き来させる電解質で構成され、その電解質は燃料電池の両側面に存在する。陽極では、触媒によって燃料が酸化反応を起こし、イオン(多くの場合、正電荷の水素イオン)と電子が生成される。イオンは電解質を通って陽極から陰極に移動する。同時に、電子は外部回路を通って陽極から陰極に流れ、直流電気を発生させる。陰極では、別の触媒によってイオン、電子、酸素が反応し、水やその他の物質が生成される。燃料電池は電解質の種類によって分類され、起動時間が1秒の固体高分子形燃料電池(PEM燃料電池、PEMFC)から10分の固体酸化物型燃料電池(SOFC)までの差がある。関連技術として、充電することで燃料が再生されるフロー電池がある。個々の燃料電池の電位は0.7ボルト程度と比較的小さいため、用途に応じて十分な電圧を発生させるために、電池を「積み重ねる」、つまり直列に配置する。燃料電池は電気だけでなく、水蒸気や熱も発生し、燃料によってはごく微量の二酸化窒素などの排出物もある。一般的に普及している燃料電池自動車やエネファームでの発電効率は30~40%であり、PEFC燃料電池の発電効率はそこまで高くない。ただしエネファームでは効率の悪さからくる廃熱を給湯に回す事でエネルギー効率の向上が可能である。また高温域で運転するSOFCによるコジェネレーション方式で廃熱を回収すれば、最大85%の効率を得ることができる。
使用する電解質の種類によって主に4種類の燃料電池の方式が研究されている。アルカリ電解質形燃料電池(AFC)は、従来方式であり今後の利用は限定的だと考えられている。バイオ燃料電池は、他方式と全く異なっており不明な点が多い。
固体高分子(膜)形燃料電池(PE(M)FC, Polymer Electrolyte (Membrane) Fuel Cell)は、イオン交換膜を挟んで、正極に酸化材を、負極に還元材(燃料)を供給することにより発電する。イオン交換膜としてナフィオンなどのプロトン交換膜を用いた場合は、プロトン交換膜燃料電池(PEMFC, Proton Exchange Membrane Fuel Cell)とも呼ばれる。起動が早く、運転温度も80-100°Cと低い。水素を燃料に用いる場合では、触媒に高価な白金を使用しており、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。発電効率は30-40%程と燃料電池の中では比較的低い。
リン酸型に次いで実用化が進んでおり、主に小型用途での発電使用が想定されている。触媒として使用される白金の使用量を減らすことによるコスト低減、電解質として使用されるフッ素系イオン交換樹脂の耐久性向上などが今後の普及における課題である。
室温動作と小型軽量化が可能であるため、携帯機器、家庭用コージェネレーション、燃料電池自動車などでの利活用が進められている。
りん酸形燃料電池(PAFC, Phosphoric Acid Fuel Cell)は、電解質としてリン酸(H3PO4)水溶液をセパレーターに含浸させて用いる。動作温度は200°C程度で、発電効率は、約40%LHV。固体高分子形燃料電池と同様に白金を触媒としているため、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。従って、天然ガスなどを燃料とする場合は、あらかじめ水蒸気改質・一酸化炭素変成反応により一酸化炭素濃度が1%程度の水素をつくり、電池本体に供給する必要がある。
工場、ビルなどの需要設備に設置するオンサイト型コジェネレーションシステムとして100/200kW級パッケージの市場投入がなされ、すでに商用機にて4万時間以上の運転寿命(スタック・改質器無交換)を達成している。
溶融炭酸塩形燃料電池(MCFC, Molten Carbonate Fuel Cell)は、水素イオン(H)の代わりに炭酸イオン(CO3)を用い、溶融した炭酸塩(炭酸リチウム、炭酸カリウムなど)を電解質として、セパレーターに含浸させて用いる。そのため、水素に限らず天然ガスや石炭ガスを燃料とすることが可能である。動作温度は600°C-700°C程度。常温では固体の炭酸塩も動作温度近傍では溶融するため、電解質として用いることができる。PAFCに競合する選択肢として、250kW級パッケージが市場に投入されつつある。発電効率は約45%LHV。白金触媒を用いないためPEFCやPAFCと異なり一酸化炭素による被毒の心配がなく、排熱の利用にも有利である。内部改質方式とされるが、プレリフォーミング用の改質器をシステム内に設置するのが一般的のようである。火力発電所の代替などの用途が期待されている。
なお、通常の燃焼反応では、空気中の窒素の存在により排ガス中の二酸化炭素濃度は約20%が上限であり、更に二酸化炭素濃度を高めるには空気の代わりに酸素を用いなければならない。しかし、MCFCは炭酸イオンが電池反応に介在し、空気極側の二酸化炭素と酸素が選択的に燃料極側に移動・蓄積するため燃料極側排ガスの二酸化炭素濃度は80%程度にも達する。この性質を利用し、MCFCで二酸化炭素の回収を行うことが試みられている。日本国内では経産省補助事業として中国電力・中部電力が共同実施している。
固体酸化物形燃料電池(SOFC, Solid Oxide Fuel Cell)は、固体電解質形燃料電池とも呼ばれ、動作温度は700-1,000°Cを必要とするので高耐熱性の材料が必要となる。また、起動・停止時間も長い。電解質として酸化物イオンの透過性が高い安定化ジルコニアやランタン、ガリウムのペロブスカイト酸化物などのイオン伝導性セラミックスを用いており、空気極で生成した酸化物イオン(O)が電解質を透過し、燃料極で水素あるいは一酸化炭素と反応することにより電気エネルギーを発生させている。そのため、水素だけではなく天然ガスや石炭ガスなども、脱硫処理は必要であるが、簡単な水蒸気改質処理(一酸化炭素の除去が不要で、燃料中に若干の未改質ガスを含む改質)により燃料として用いることが可能である。活性化電圧降下が少ないので発電効率は高く、すでに56.1%LHVを達成している例もある。家庭用・業務用の1kW-10kW級としても開発されている。 原理的には発電部分における改質(ニッケルを含む燃料極における直接内部改質)が可能であるが、吸熱反応による発電部分の極端な温度変化を防ぐために、プレリフォーマー(発電反応による熱や反応後の燃料を燃焼した熱を利用した間接内部改質)を採用するのが一般的である。固体高分子形燃料電池等の他の燃料電池で使用される白金やパラジウム等の貴金属系の触媒が不要で燃料極としては、ニッケルと電解質セラミックスによるサーメット、空気極としては導電性セラミックスを用いる。大型SOFCは、燃焼排ガスをガスタービン発電や蒸気発電に利用すれば、極めて高い総合発電効率を得ることが出来ると予測されるため、火力発電所の代替などの用途が期待されている。
日本ガイシ株式会社は2009年6月11日に独自構造のSOFCを開発し、世界最高レベルの63%の発電効率(LHV)と90%の高い燃料利用率を達成したと発表した。
JX日鉱日石エネルギーは2011年10月、市販機としては世界初となるSOFC型「エネファーム」を発売した。
アルカリ電解質形燃料電池(AFC, Alkaline Fuel Cell)は、水酸化物イオンをイオン伝導体とし、アルカリ電解液を電極間のセパレータに含侵させてセルを構成している。PEFCと同様、高分子膜を用いるタイプも報告されている。最も構造が簡単であり、アルカリ雰囲気での使用であることから、ニッケル酸化物等の安価な電極触媒を利用することができること、常温にて液体電解質を用いることからセル構成も単純にできるため、信頼性が高く、宇宙用途などに実用化されている燃料電池である。一方、改質した炭化水素系燃料から水素を取り出す場合、炭化水素が混入しているとアルカリ性電解液が炭酸塩を生じて劣化する。同様に空気を酸化剤として用いると電解液が二酸化炭素を吸収して劣化するため、純度の高い酸素を酸化剤として用いる必要がある。水素の純度を高めるためには、パラジウムの膜を透過させることにより純度を高める。電解質が水溶液であるため、作動温度域は電解液が凍結・蒸発しない温度に制限される。また、温度によりイオンの移動度(拡散係数)が変わり、発電力に影響するため、温度条件が厳しい。ニッケル系触媒は配位性のある一酸化炭素、炭化水素、酸素および水蒸気等により活性が下がるので水素燃料の純度は重要である。これらを不純物として含む改質水素の使用は望ましくない。
21世紀現在の燃料電池の研究開発上ではほとんど目を向けられることはないが、年少向けの教材から、アポロ計画やスペースシャトルまで広く「実用化」されている。アポロ13号における事故はこの燃料電池に供給する液体酸素供給系統の不具合に起因したものであり、燃料電池そのものの問題ではない。
ダイハツ工業は産業技術総合研究所と共同で水加ヒドラジン(N2H4・H2O)を燃料として0.50W/cm2の出力密度を達成したと発表している。この場合、燃料電池への炭化水素の混入はなく、排出物は水と窒素のみとなる。
直接形燃料電池(DFC, Direct Fuel Cell)は、改質器を介さずに燃料を直接セルスタックに供給する形式で、メタノール、エタノール、ジメチルエーテル、ヒドラジン、ホルムアルデヒド、ギ酸、アンモニア等を使用するものが試みられてきた。つまり、DFCは燃料電池それ自身の方式を指す言葉ではない。固体酸化物形燃料電池は全てDFCに属する。燃料として用いる物質に炭素が含まれている場合、反応(発電)によって二酸化炭素が生成して排出される。そのため、アルカリ性水溶液の電解質は炭酸塩を生成するので使用できない。ヒドラジンのような還元性の燃料を使用する場合には貴金属の触媒が不要になるため、貴金属フリー液体燃料燃料電池として注目される。燃料供給ポンプや放熱ファンを使うか否かで、パッシブ型とアクティブ型に区分される。燃料極の白金に反応中間体である一酸化炭素が強吸着(被毒)してしまい反応速度が遅く、水溶性の高い燃料を用いた場合では燃料のクロスオーバーが起こるため、電力・発電効率とも低いが小型軽量のものが作れる。直接形メタノール燃料電池(DMFC)では、数十mW-10W程度の小規模小電力発電に適している。これらは小型携帯電子機器の電源としての用途が考えられている。一方で設置型には1kw級の発電能力を有する物もある。
食物からエネルギーを取りだす生体システムを応用した燃料電池である。燃料を酸化する触媒として酵素や微生物などが用いられる。酵素を用いた燃料電池においては、環境の変化に対しても安定して働く強力な酵素が不可欠であり、研究開発では、酵素の寿命を伸ばすことなどが課題となっている。血液中のグルコースを利用する体内埋め込み型ペースメーカーの開発が行われている。微生物を用いた燃料電池においては、廃水中の有機物の利用などといった観点から研究されることが多い。
類似の研究には、光合成による植物の生体システムを応用した「太陽光バイオ燃料電池」もある。
21世紀初頭現在、研究開発が進められている主要な4つの方式について比較を示す。
燃料電池の原理は1801年にイギリスのハンフリー・デービーによって考案された。現在の燃料電池に通じる燃料電池の原型は1839年にイギリスのウィリアム・グローブによって作製された。この燃料電池は、電極に白金を、電解質に希硫酸を用いて、水素と酸素から電力を取り出し、この電力を用いて水の電気分解をすることができた。
その後、燃料電池は、熱機関により動かされる発電機の登場によって発電システムとしてはしばらく忘れられたが、1955年、米ゼネラル・エレクトリック社(GE社)に勤務していた化学者であるW. Thomas Grubbはスルホ基で修飾されたスチレンによるイオン交換膜を電解質として用いた改良型燃料電池を開発した。3年後、GE社の別の化学者であるLeonard Niedrachは、触媒である白金の使用量を減らすことに成功し、Grubb-Niedrach 燃料電池として知られる事となった。GE社はこの技術の開発と利用を、当時進行中だったアメリカ航空宇宙局のジェミニ宇宙計画に働きかけて採用され、これが燃料電池の最初の実用となった。
1965年にアメリカ合衆国の有人宇宙飛行計画であるジェミニ5号で炭化水素系樹脂を使用した固体高分子形燃料電池が採用され、再び燃料電池が注目されるようになった。1959年、フランシス・トーマス・ベーコンは5kWの定置式燃料電池の開発に成功した。1959年、Harry Ihrigが率いるチームによって15kW出力の燃料電池トラクターが米国ウイスコンシン州のアリスシャルマーズ社の米国横断フェアーで公開された。このシステムは水酸化カリウムを電解質として使用して、圧縮水素と酸素を反応させていた。1959年、ベーコンと協力者は5kWの装置で溶接機の電源として使用できることを示した。1960年代、プラット&ホイットニー社は米国の宇宙計画に於いて宇宙船の電力と水を供給するために、ベーコンの米国での特許の使用許諾を得た。アポロ計画からスペースシャトルに至るまで燃料電池は電源、飲料水源として使用された。その際は材料の信頼性による検討の結果、アルカリ電解質形燃料電池が採用された。
民生用燃料電池として、住宅用のコジェネレーションシステムや発電施設向けに研究開発が続けられた。日本においては、通商産業省の省エネルギー政策「ムーンライト計画」に基づき、リン酸形、溶融炭酸塩形燃料電池、固体電解質形燃料電池の開発が始められた。1982年、東芝が50kWりん酸形燃料電池実験プラントを浜川崎工場に建設し、加圧形として日本初めての発電に成功。1985年には米国UTCとIFC社(米国コネチカット州)を設立し、世界最大の11MW級プラントの共同開発を開始し、1991年には、11MW実験プラントを東京電力五井火力発電所に完成させ、出力1万1000kWのリン酸形燃料電池の実証運転が行われた。
1987年、カナダのバラード パワーシステム社がフッ素系樹脂(Nafion)を電解質膜に用いた固体高分子形燃料電池を開発した。この電解質膜の耐久性に優れていたことから、燃料電池が再び注目されるようになり、研究開発が盛んになった。
米国防総省と国防総省高等研究事業局(DARPA)のローレンス・H・デュボワは、様々な液体炭化水素(メタノール、エタノールなど)で動く燃料電池に着目して、南カリフォルニア大学(USC)のローカー炭化水素研究所に所属していた酸の専門家スルヤ・プラカッシュと、ノーベル賞受賞者のジョージ・A・オラーに声をかけた。USCはジェット推進研究所、カリフォルニア工科大学の協力の下、液体炭化水素が直接酸化するシステムを発明し、のちにダイレクトメタノール燃料電池(DMFC)と名付けられた。
1994年、ダイムラーベンツ(当時)が燃料電池自動車の試作車を発表した。また、トヨタは、1997年の東京モーターショーに燃料電池自動車の試作車を発表し、2005年までに量産化することを宣言した。
2001年には、ソニー・日立製作所・日本電気が、相次いで「携帯機器向けの燃料電池」の開発を発表している。
2002年12月には、トヨタ・FCHVおよびホンダ・FCXの燃料電池自動車の市販第一号が日本国政府に納入され、小泉純一郎首相が試乗を行った。これらは総理大臣官邸と経済産業省で使用され、24時間のフルメンテナンス体制付きのリース契約となった。
2003年には、東京都交通局にトヨタ・日野自動車製の燃料電池バスが納入、2004年末までお台場周辺で運行された。2005年には愛知万博で日野製FCHV-BUSが納入された。また、2004年には日産も横浜市などへ納入した。2006年からは、愛知万博で使用された水素ステーションが移設された中部国際空港でも運行されている。これらの公共バスは、一般人が乗る事が出来る燃料電池車であるといえる。
主に1980-1990年代に、燃料電池の開発段階に応じて、リン酸形燃料電池を「第1世代型燃料電池」、溶融炭酸塩形燃料電池を「第2世代型燃料電池」、固体酸化物形(固体電解質形)燃料電池を「第3世代型燃料電池」と呼んでいた時期もあるが、固体高分子形燃料電池が開発の主役となってから、21世紀現在、この呼び方が用いられることは殆どない。
2014年末には、トヨタが水素燃料電池により長距離走行を可能とする「MIRAI」を発売した。
燃料電池の実用化には、消防法、高圧ガス保安法、電気事業法及び建築基準法(メタノールを燃料とするものは、さらに毒物劇物取扱法)などの法的規制緩和が必要であるとされ、電気設備技術基準などの見直しが行われた。2002年10月には米国運輸省が燃料電池の飛行機内持ち込みを許可するなど、燃料電池普及に向けた規制緩和の方針をいち早く打ち出している。また、安全基準や性能評価について国際的な基準制定の動きもある。
1998年に、国際電気標準会議(IEC)内の105番目の専門委員会であるTC105が発足し、燃料電池に関する電気分野での標準化が話し合われ、すでに8つの規格が規定されている。また、電気分野以外での標準化は国際標準化機構(ISO)で行なわれている。
燃料電池を普及させるための最も大きな課題は、コストや効率の低さである。購入時の初期コストと使用期間にかかるランニング・コストが共に高いため、普及を妨げている。さらに耐久性・発電効率の向上・電解質の長寿命化やインフラ整備等の課題が指摘されてきた。
また水素が非常に扱い難い性質である為、コストが非常に高くなってしまう事や、そもそも地球上に存在しない水素を化石燃料から製造しており、環境負荷への影響が懸念されている。
触媒に白金のような貴金属を使用する方式の場合、貴金属が不足する可能性が指摘されている。
燃料電池のシステム全体としての効率の低さは無視できないレベルであり、水素の製造・輸送・圧縮・発電において未だに発展途上である。
2007年現在、欧州のキャンピングカーにおいて、メタノールを使用したものが開発され、2009年春、日本仕様として、エタノール濃度を調整した製品の販売が開始された。また、液化石油ガス (LPG) を使用するものが、数年の間に採用される。また、りん酸形燃料電池であるUTC Power製の400kWPAFCが、ニューヨークのフリーダム・タワーに12台設置される。
なお、2009年6月4日に放送されたテレビ東京「ニュースモーニングサテライト」で、京都のベンチャー企業が携帯電話やデジタルオーディオプレーヤーの充電用として、水から水素を分離して燃料とする小型の燃料電池を2010年春にコンビニエンスストアで「高校生の小遣いで買える」価格で発売を開始すると報じられたが、詳細については不明である。
2009年10月22日、東芝がモバイル機器の充電用としてメタノールを燃料とする小型のモデルの販売を、台数限定で開始した。IEC (国際電気標準会議) の安全性規格 (暫定版) に準拠、としている。
米国ニュージャージー州において太陽光発電パネルと水素燃料による住宅設備のフル稼働がおこなわれている。
燃料電池の説明では、いくつか特有の用語を使用する。一般的な用語もあるが、燃料電池だけの独自の意味を持つものもある。
燃料極=アノード=(陽極)=負極である。つまり通常の電池でいうマイナス極である。
空気極=カソード=(陰極)=正極である。つまり通常の電池でいうプラス極である。
電子伝導性があり、イオン伝導性がなく、剛直であり、ガス・液体を通さないことが必要である。 リチウムイオン電池などにおいては「セパレータ」はイオンの通過する部分の正負極を、静電的に絶縁する層を指し、燃料電池においては電解質層に当たるものであり、注意が必要である。
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"text": "燃料電池(ねんりょうでんち、英: fuel cell)は、燃料(多くは水素)と酸化剤(多くは酸素)の化学エネルギーを、一対の酸化還元反応によって電気に変換する電気化学電池である。燃料電池が多くの電池と異なる点は、化学反応を維持するために燃料と(通常は空気からの)酸素を継続的に供給する必要がある点である。一方、電池では化学エネルギーは通常、電池内に既に存在する物質から得られる。燃料電池は、燃料と酸素が供給される限り、継続的に電気を作り出すことができる。",
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"text": "最初の燃料電池は、1838年にウィリアム・グローブにより発明された。その後、1932年にフランシス・ベーコンが水素-酸素燃料電池を発明して以来、1世紀以上にわたって商業利用されてきた。アルカリ型燃料電池は、発明者の名前をとってベーコン型燃料電池とも呼ばれ、1960年代半ばからNASAの宇宙計画で人工衛星や宇宙カプセルの発電に使用されてきた。それ以来、燃料電池は他の多くのアプリケーションにも使用されている。燃料電池は、商業施設、産業施設、住宅、遠隔地やアクセスが困難な場所での一次電源やバックアップ電源として使用されている。また、フォークリフト、自動車、バス、列車、ボート、オートバイ、潜水艦などの燃料電池自動車の動力源としても使用されている。",
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"text": "燃料電池にはさまざまな種類があるが、いずれも陽極と陰極、そしてイオン(多くは正電荷の水素イオン(プロトン))を行き来させる電解質で構成され、その電解質は燃料電池の両側面に存在する。陽極では、触媒によって燃料が酸化反応を起こし、イオン(多くの場合、正電荷の水素イオン)と電子が生成される。イオンは電解質を通って陽極から陰極に移動する。同時に、電子は外部回路を通って陽極から陰極に流れ、直流電気を発生させる。陰極では、別の触媒によってイオン、電子、酸素が反応し、水やその他の物質が生成される。燃料電池は電解質の種類によって分類され、起動時間が1秒の固体高分子形燃料電池(PEM燃料電池、PEMFC)から10分の固体酸化物型燃料電池(SOFC)までの差がある。関連技術として、充電することで燃料が再生されるフロー電池がある。個々の燃料電池の電位は0.7ボルト程度と比較的小さいため、用途に応じて十分な電圧を発生させるために、電池を「積み重ねる」、つまり直列に配置する。燃料電池は電気だけでなく、水蒸気や熱も発生し、燃料によってはごく微量の二酸化窒素などの排出物もある。一般的に普及している燃料電池自動車やエネファームでの発電効率は30~40%であり、PEFC燃料電池の発電効率はそこまで高くない。ただしエネファームでは効率の悪さからくる廃熱を給湯に回す事でエネルギー効率の向上が可能である。また高温域で運転するSOFCによるコジェネレーション方式で廃熱を回収すれば、最大85%の効率を得ることができる。",
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"text": "使用する電解質の種類によって主に4種類の燃料電池の方式が研究されている。アルカリ電解質形燃料電池(AFC)は、従来方式であり今後の利用は限定的だと考えられている。バイオ燃料電池は、他方式と全く異なっており不明な点が多い。",
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"text": "固体高分子(膜)形燃料電池(PE(M)FC, Polymer Electrolyte (Membrane) Fuel Cell)は、イオン交換膜を挟んで、正極に酸化材を、負極に還元材(燃料)を供給することにより発電する。イオン交換膜としてナフィオンなどのプロトン交換膜を用いた場合は、プロトン交換膜燃料電池(PEMFC, Proton Exchange Membrane Fuel Cell)とも呼ばれる。起動が早く、運転温度も80-100°Cと低い。水素を燃料に用いる場合では、触媒に高価な白金を使用しており、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。発電効率は30-40%程と燃料電池の中では比較的低い。",
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"text": "リン酸型に次いで実用化が進んでおり、主に小型用途での発電使用が想定されている。触媒として使用される白金の使用量を減らすことによるコスト低減、電解質として使用されるフッ素系イオン交換樹脂の耐久性向上などが今後の普及における課題である。",
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"text": "室温動作と小型軽量化が可能であるため、携帯機器、家庭用コージェネレーション、燃料電池自動車などでの利活用が進められている。",
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"text": "りん酸形燃料電池(PAFC, Phosphoric Acid Fuel Cell)は、電解質としてリン酸(H3PO4)水溶液をセパレーターに含浸させて用いる。動作温度は200°C程度で、発電効率は、約40%LHV。固体高分子形燃料電池と同様に白金を触媒としているため、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。従って、天然ガスなどを燃料とする場合は、あらかじめ水蒸気改質・一酸化炭素変成反応により一酸化炭素濃度が1%程度の水素をつくり、電池本体に供給する必要がある。",
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"text": "工場、ビルなどの需要設備に設置するオンサイト型コジェネレーションシステムとして100/200kW級パッケージの市場投入がなされ、すでに商用機にて4万時間以上の運転寿命(スタック・改質器無交換)を達成している。",
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"text": "溶融炭酸塩形燃料電池(MCFC, Molten Carbonate Fuel Cell)は、水素イオン(H)の代わりに炭酸イオン(CO3)を用い、溶融した炭酸塩(炭酸リチウム、炭酸カリウムなど)を電解質として、セパレーターに含浸させて用いる。そのため、水素に限らず天然ガスや石炭ガスを燃料とすることが可能である。動作温度は600°C-700°C程度。常温では固体の炭酸塩も動作温度近傍では溶融するため、電解質として用いることができる。PAFCに競合する選択肢として、250kW級パッケージが市場に投入されつつある。発電効率は約45%LHV。白金触媒を用いないためPEFCやPAFCと異なり一酸化炭素による被毒の心配がなく、排熱の利用にも有利である。内部改質方式とされるが、プレリフォーミング用の改質器をシステム内に設置するのが一般的のようである。火力発電所の代替などの用途が期待されている。",
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"text": "なお、通常の燃焼反応では、空気中の窒素の存在により排ガス中の二酸化炭素濃度は約20%が上限であり、更に二酸化炭素濃度を高めるには空気の代わりに酸素を用いなければならない。しかし、MCFCは炭酸イオンが電池反応に介在し、空気極側の二酸化炭素と酸素が選択的に燃料極側に移動・蓄積するため燃料極側排ガスの二酸化炭素濃度は80%程度にも達する。この性質を利用し、MCFCで二酸化炭素の回収を行うことが試みられている。日本国内では経産省補助事業として中国電力・中部電力が共同実施している。",
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"text": "固体酸化物形燃料電池(SOFC, Solid Oxide Fuel Cell)は、固体電解質形燃料電池とも呼ばれ、動作温度は700-1,000°Cを必要とするので高耐熱性の材料が必要となる。また、起動・停止時間も長い。電解質として酸化物イオンの透過性が高い安定化ジルコニアやランタン、ガリウムのペロブスカイト酸化物などのイオン伝導性セラミックスを用いており、空気極で生成した酸化物イオン(O)が電解質を透過し、燃料極で水素あるいは一酸化炭素と反応することにより電気エネルギーを発生させている。そのため、水素だけではなく天然ガスや石炭ガスなども、脱硫処理は必要であるが、簡単な水蒸気改質処理(一酸化炭素の除去が不要で、燃料中に若干の未改質ガスを含む改質)により燃料として用いることが可能である。活性化電圧降下が少ないので発電効率は高く、すでに56.1%LHVを達成している例もある。家庭用・業務用の1kW-10kW級としても開発されている。 原理的には発電部分における改質(ニッケルを含む燃料極における直接内部改質)が可能であるが、吸熱反応による発電部分の極端な温度変化を防ぐために、プレリフォーマー(発電反応による熱や反応後の燃料を燃焼した熱を利用した間接内部改質)を採用するのが一般的である。固体高分子形燃料電池等の他の燃料電池で使用される白金やパラジウム等の貴金属系の触媒が不要で燃料極としては、ニッケルと電解質セラミックスによるサーメット、空気極としては導電性セラミックスを用いる。大型SOFCは、燃焼排ガスをガスタービン発電や蒸気発電に利用すれば、極めて高い総合発電効率を得ることが出来ると予測されるため、火力発電所の代替などの用途が期待されている。",
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"text": "アルカリ電解質形燃料電池(AFC, Alkaline Fuel Cell)は、水酸化物イオンをイオン伝導体とし、アルカリ電解液を電極間のセパレータに含侵させてセルを構成している。PEFCと同様、高分子膜を用いるタイプも報告されている。最も構造が簡単であり、アルカリ雰囲気での使用であることから、ニッケル酸化物等の安価な電極触媒を利用することができること、常温にて液体電解質を用いることからセル構成も単純にできるため、信頼性が高く、宇宙用途などに実用化されている燃料電池である。一方、改質した炭化水素系燃料から水素を取り出す場合、炭化水素が混入しているとアルカリ性電解液が炭酸塩を生じて劣化する。同様に空気を酸化剤として用いると電解液が二酸化炭素を吸収して劣化するため、純度の高い酸素を酸化剤として用いる必要がある。水素の純度を高めるためには、パラジウムの膜を透過させることにより純度を高める。電解質が水溶液であるため、作動温度域は電解液が凍結・蒸発しない温度に制限される。また、温度によりイオンの移動度(拡散係数)が変わり、発電力に影響するため、温度条件が厳しい。ニッケル系触媒は配位性のある一酸化炭素、炭化水素、酸素および水蒸気等により活性が下がるので水素燃料の純度は重要である。これらを不純物として含む改質水素の使用は望ましくない。",
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"text": "民生用燃料電池として、住宅用のコジェネレーションシステムや発電施設向けに研究開発が続けられた。日本においては、通商産業省の省エネルギー政策「ムーンライト計画」に基づき、リン酸形、溶融炭酸塩形燃料電池、固体電解質形燃料電池の開発が始められた。1982年、東芝が50kWりん酸形燃料電池実験プラントを浜川崎工場に建設し、加圧形として日本初めての発電に成功。1985年には米国UTCとIFC社(米国コネチカット州)を設立し、世界最大の11MW級プラントの共同開発を開始し、1991年には、11MW実験プラントを東京電力五井火力発電所に完成させ、出力1万1000kWのリン酸形燃料電池の実証運転が行われた。",
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"text": "1987年、カナダのバラード パワーシステム社がフッ素系樹脂(Nafion)を電解質膜に用いた固体高分子形燃料電池を開発した。この電解質膜の耐久性に優れていたことから、燃料電池が再び注目されるようになり、研究開発が盛んになった。",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "米国防総省と国防総省高等研究事業局(DARPA)のローレンス・H・デュボワは、様々な液体炭化水素(メタノール、エタノールなど)で動く燃料電池に着目して、南カリフォルニア大学(USC)のローカー炭化水素研究所に所属していた酸の専門家スルヤ・プラカッシュと、ノーベル賞受賞者のジョージ・A・オラーに声をかけた。USCはジェット推進研究所、カリフォルニア工科大学の協力の下、液体炭化水素が直接酸化するシステムを発明し、のちにダイレクトメタノール燃料電池(DMFC)と名付けられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1994年、ダイムラーベンツ(当時)が燃料電池自動車の試作車を発表した。また、トヨタは、1997年の東京モーターショーに燃料電池自動車の試作車を発表し、2005年までに量産化することを宣言した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2001年には、ソニー・日立製作所・日本電気が、相次いで「携帯機器向けの燃料電池」の開発を発表している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2002年12月には、トヨタ・FCHVおよびホンダ・FCXの燃料電池自動車の市販第一号が日本国政府に納入され、小泉純一郎首相が試乗を行った。これらは総理大臣官邸と経済産業省で使用され、24時間のフルメンテナンス体制付きのリース契約となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2003年には、東京都交通局にトヨタ・日野自動車製の燃料電池バスが納入、2004年末までお台場周辺で運行された。2005年には愛知万博で日野製FCHV-BUSが納入された。また、2004年には日産も横浜市などへ納入した。2006年からは、愛知万博で使用された水素ステーションが移設された中部国際空港でも運行されている。これらの公共バスは、一般人が乗る事が出来る燃料電池車であるといえる。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "主に1980-1990年代に、燃料電池の開発段階に応じて、リン酸形燃料電池を「第1世代型燃料電池」、溶融炭酸塩形燃料電池を「第2世代型燃料電池」、固体酸化物形(固体電解質形)燃料電池を「第3世代型燃料電池」と呼んでいた時期もあるが、固体高分子形燃料電池が開発の主役となってから、21世紀現在、この呼び方が用いられることは殆どない。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2014年末には、トヨタが水素燃料電池により長距離走行を可能とする「MIRAI」を発売した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "燃料電池の実用化には、消防法、高圧ガス保安法、電気事業法及び建築基準法(メタノールを燃料とするものは、さらに毒物劇物取扱法)などの法的規制緩和が必要であるとされ、電気設備技術基準などの見直しが行われた。2002年10月には米国運輸省が燃料電池の飛行機内持ち込みを許可するなど、燃料電池普及に向けた規制緩和の方針をいち早く打ち出している。また、安全基準や性能評価について国際的な基準制定の動きもある。",
"title": "規制"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1998年に、国際電気標準会議(IEC)内の105番目の専門委員会であるTC105が発足し、燃料電池に関する電気分野での標準化が話し合われ、すでに8つの規格が規定されている。また、電気分野以外での標準化は国際標準化機構(ISO)で行なわれている。",
"title": "国際標準化"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "燃料電池を普及させるための最も大きな課題は、コストや効率の低さである。購入時の初期コストと使用期間にかかるランニング・コストが共に高いため、普及を妨げている。さらに耐久性・発電効率の向上・電解質の長寿命化やインフラ整備等の課題が指摘されてきた。",
"title": "普及への課題"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また水素が非常に扱い難い性質である為、コストが非常に高くなってしまう事や、そもそも地球上に存在しない水素を化石燃料から製造しており、環境負荷への影響が懸念されている。",
"title": "普及への課題"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "触媒に白金のような貴金属を使用する方式の場合、貴金属が不足する可能性が指摘されている。",
"title": "普及への課題"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "燃料電池のシステム全体としての効率の低さは無視できないレベルであり、水素の製造・輸送・圧縮・発電において未だに発展途上である。",
"title": "普及への課題"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2007年現在、欧州のキャンピングカーにおいて、メタノールを使用したものが開発され、2009年春、日本仕様として、エタノール濃度を調整した製品の販売が開始された。また、液化石油ガス (LPG) を使用するものが、数年の間に採用される。また、りん酸形燃料電池であるUTC Power製の400kWPAFCが、ニューヨークのフリーダム・タワーに12台設置される。",
"title": "実用化"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "なお、2009年6月4日に放送されたテレビ東京「ニュースモーニングサテライト」で、京都のベンチャー企業が携帯電話やデジタルオーディオプレーヤーの充電用として、水から水素を分離して燃料とする小型の燃料電池を2010年春にコンビニエンスストアで「高校生の小遣いで買える」価格で発売を開始すると報じられたが、詳細については不明である。",
"title": "実用化"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2009年10月22日、東芝がモバイル機器の充電用としてメタノールを燃料とする小型のモデルの販売を、台数限定で開始した。IEC (国際電気標準会議) の安全性規格 (暫定版) に準拠、としている。",
"title": "実用化"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "米国ニュージャージー州において太陽光発電パネルと水素燃料による住宅設備のフル稼働がおこなわれている。",
"title": "実用化"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "燃料電池の説明では、いくつか特有の用語を使用する。一般的な用語もあるが、燃料電池だけの独自の意味を持つものもある。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 44,
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"text": "燃料極=アノード=(陽極)=負極である。つまり通常の電池でいうマイナス極である。",
"title": "用語"
},
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"tag": "p",
"text": "空気極=カソード=(陰極)=正極である。つまり通常の電池でいうプラス極である。",
"title": "用語"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "電子伝導性があり、イオン伝導性がなく、剛直であり、ガス・液体を通さないことが必要である。 リチウムイオン電池などにおいては「セパレータ」はイオンの通過する部分の正負極を、静電的に絶縁する層を指し、燃料電池においては電解質層に当たるものであり、注意が必要である。",
"title": "用語"
}
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燃料電池は、燃料(多くは水素)と酸化剤(多くは酸素)の化学エネルギーを、一対の酸化還元反応によって電気に変換する電気化学電池である。燃料電池が多くの電池と異なる点は、化学反応を維持するために燃料と(通常は空気からの)酸素を継続的に供給する必要がある点である。一方、電池では化学エネルギーは通常、電池内に既に存在する物質から得られる。燃料電池は、燃料と酸素が供給される限り、継続的に電気を作り出すことができる。 最初の燃料電池は、1838年にウィリアム・グローブにより発明された。その後、1932年にフランシス・ベーコンが水素-酸素燃料電池を発明して以来、1世紀以上にわたって商業利用されてきた。アルカリ型燃料電池は、発明者の名前をとってベーコン型燃料電池とも呼ばれ、1960年代半ばからNASAの宇宙計画で人工衛星や宇宙カプセルの発電に使用されてきた。それ以来、燃料電池は他の多くのアプリケーションにも使用されている。燃料電池は、商業施設、産業施設、住宅、遠隔地やアクセスが困難な場所での一次電源やバックアップ電源として使用されている。また、フォークリフト、自動車、バス、列車、ボート、オートバイ、潜水艦などの燃料電池自動車の動力源としても使用されている。 燃料電池にはさまざまな種類があるが、いずれも陽極と陰極、そしてイオン(多くは正電荷の水素イオン)を行き来させる電解質で構成され、その電解質は燃料電池の両側面に存在する。陽極では、触媒によって燃料が酸化反応を起こし、イオン(多くの場合、正電荷の水素イオン)と電子が生成される。イオンは電解質を通って陽極から陰極に移動する。同時に、電子は外部回路を通って陽極から陰極に流れ、直流電気を発生させる。陰極では、別の触媒によってイオン、電子、酸素が反応し、水やその他の物質が生成される。燃料電池は電解質の種類によって分類され、起動時間が1秒の固体高分子形燃料電池(PEM燃料電池、PEMFC)から10分の固体酸化物型燃料電池(SOFC)までの差がある。関連技術として、充電することで燃料が再生されるフロー電池がある。個々の燃料電池の電位は0.7ボルト程度と比較的小さいため、用途に応じて十分な電圧を発生させるために、電池を「積み重ねる」、つまり直列に配置する。燃料電池は電気だけでなく、水蒸気や熱も発生し、燃料によってはごく微量の二酸化窒素などの排出物もある。一般的に普及している燃料電池自動車やエネファームでの発電効率は30~40%であり、PEFC燃料電池の発電効率はそこまで高くない。ただしエネファームでは効率の悪さからくる廃熱を給湯に回す事でエネルギー効率の向上が可能である。また高温域で運転するSOFCによるコジェネレーション方式で廃熱を回収すれば、最大85%の効率を得ることができる。
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[[ファイル:Fuel cell NASA p48600ac.jpg|thumb|250px|燃料電池([[直接メタノール形燃料電池]])]]
'''燃料電池'''(ねんりょうでんち、{{lang-en-short|fuel cell}})は、燃料(多くは[[水素燃料|水素]]<ref>{{Cite book|last=Saikia|first=Kaustav|last2=Kakati|first2=Biraj Kumar|last3=Boro|first3=Bibha|last4=Verma|first4=Anil|title=Recent Advancements in Biofuels and Bioenergy Utilization|date=2018|publisher=Springer|location=Singapore|isbn=978-981-13-1307-3|pages=303–337|chapter=Current Advances and Applications of Fuel Cell Technologies|doi=10.1007/978-981-13-1307-3_13}}</ref>)と[[酸化剤]](多くは酸素)の[[化学エネルギー]]を、一対の[[酸化還元反応]]によって電気に変換する電気化学電池である<ref>{{Cite book|last=Khurmi|first=R. S.|title=Material Science|url=http://www.biblio.com/books/436308472.html|publisher=S. Chand & Company|year=2014|isbn=9788121901468}}</ref>。燃料電池が多くの[[電池]]と異なる点は、化学反応を維持するために燃料と(通常は空気からの)酸素を継続的に供給する必要がある点である。一方、電池では化学エネルギーは通常、電池内に既に存在する物質から得られる<ref>{{Cite journal|last=Winter|first=Martin|last2=Brodd|first2=Ralph J.|date=28 September 2004|title=What Are Batteries, Fuel Cells, and Supercapacitors?|url=https://doi.org/10.1021/cr020730k|journal=Chemical Reviews|volume=104|issue=10|pages=4245–4270|DOI=10.1021/cr020730k|PMID=15669155}}</ref>。燃料電池は、燃料と酸素が供給される限り、継続的に電気を作り出すことができる。
最初の燃料電池は、1838年に[[ウィリアム・ロバート・グローブ|ウィリアム・グローブ]]により発明された。その後、1932年に[[フランシス・トーマス・ベーコン|フランシス・ベーコン]]が水素-酸素燃料電池を発明して以来、1世紀以上にわたって商業利用されてきた。アルカリ型燃料電池は、発明者の名前をとってベーコン型燃料電池とも呼ばれ、1960年代半ばから[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙計画で[[人工衛星]]や[[宇宙カプセル]]の発電に使用されてきた。それ以来、燃料電池は他の多くのアプリケーションにも使用されている。燃料電池は、商業施設、産業施設、住宅、遠隔地やアクセスが困難な場所での一次電源やバックアップ電源として使用されている。また、フォークリフト、自動車、バス、列車、ボート、オートバイ、潜水艦などの[[燃料電池自動車]]の動力源としても使用されている。
燃料電池にはさまざまな種類があるが、いずれも[[アノード|陽極]]と[[カソード|陰極]]、そしてイオン(多くは正電荷の[[水素イオン]](プロトン))を行き来させる[[電解質]]で構成され、その電解質は燃料電池の両側面に存在する。[[アノード|陽極]]では、触媒によって燃料が酸化反応を起こし、イオン(多くの場合、正電荷の水素イオン)と電子が生成される。イオンは電解質を通って[[アノード|陽極]]から[[カソード|陰極]]に移動する。同時に、電子は外部回路を通って陽極から陰極に流れ、[[直流]]電気を発生させる。陰極では、別の触媒によってイオン、電子、酸素が反応し、水やその他の物質が生成される。燃料電池は電解質の種類によって分類され、起動時間が1秒の[[固体高分子形燃料電池]](PEM燃料電池、PEMFC)から10分の固体酸化物型燃料電池(SOFC)までの差がある。関連技術として、充電することで燃料が再生される[[フロー電池]]がある。個々の燃料電池の電位は0.7ボルト程度と比較的小さいため、用途に応じて十分な電圧を発生させるために、電池を「積み重ねる」、つまり直列に配置する<ref>Nice, Karim and Strickland, Jonathan. [http://auto.howstuffworks.com/fuel-efficiency/alternative-fuels/fuel-cell2.htm "How Fuel Cells Work: Polymer Exchange Membrane Fuel Cells"]. How Stuff Works, accessed 4 August 2011</ref>。燃料電池は電気だけでなく、水蒸気や熱も発生し、燃料によってはごく微量の[[二酸化窒素]]などの排出物もある。一般的に普及している[[燃料電池自動車]]や[[エネファーム]]での発電効率は30~40%であり、PEFC燃料電池の発電効率はそこまで高くない。ただし[[エネファーム]]では効率の悪さからくる廃熱を給湯に回す事でエネルギー効率の向上が可能である。また高温域で運転するSOFCによる[[コジェネレーション]]方式で廃熱を回収すれば、最大85%の効率を得ることができる<ref name="Types1">[http://www1.eere.energy.gov/hydrogenandfuelcells/fuelcells/fc_types.html "Types of Fuel Cells"] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100609041046/http://www1.eere.energy.gov/hydrogenandfuelcells/fuelcells/fc_types.html|date=9 June 2010}}. Department of Energy EERE website, accessed 4 August 2011</ref>。
== 方式 ==
[[ファイル:Fuel cell (V-I characteristic chart) J.PNG|thumb|250px|'''主要な燃料電池のV-I特性''']]
使用する電解質の種類によって主に4種類の燃料電池の方式が研究されている。アルカリ電解質形燃料電池(AFC)は、従来方式であり今後の利用は限定的だと考えられている。バイオ燃料電池は、他方式と全く異なっており不明な点が多い。
=== 固体高分子形燃料電池 (PEFC) ===
{{main|固体高分子形燃料電池}}
固体高分子(膜)形燃料電池(PE(M)FC, Polymer Electrolyte (Membrane) Fuel Cell)は、イオン交換膜を挟んで、正極に酸化材を、負極に還元材(燃料)を供給することにより発電する。イオン交換膜として[[ナフィオン]]などの[[水素イオン|プロトン]]交換膜を用いた場合は、プロトン交換膜燃料電池(PEMFC, Proton Exchange Membrane Fuel Cell)とも呼ばれる。起動が早く、運転温度も80-100℃と低い。水素を燃料に用いる場合では、触媒に高価な白金を使用しており、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。発電効率は30-40%程と燃料電池の中では比較的低い。
リン酸型に次いで実用化が進んでおり、<!--発電効率が低いため、-->主に小型用途での発電使用が想定されている。[[触媒]]として使用される[[白金]]の使用量を減らすことによるコスト低減、電解質として使用されるフッ素系[[イオン交換樹脂]]の耐久性向上などが今後の普及における課題である。
室温動作と小型軽量化が可能であるため、携帯機器、家庭用コージェネレーション、[[燃料電池自動車]]などでの利活用が進められている。
=== りん酸形燃料電池 (PAFC) ===
<!--JIS C8801では、ひらがなであるのでカタカナから修正-->
りん酸形燃料電池(PAFC, Phosphoric Acid Fuel Cell)は、電解質として[[リン酸]](H{{sub|3}}PO{{sub|4}})水溶液をセパレーターに含浸させて用いる。動作温度は200℃程度で、発電効率は、約40%LHV。固体高分子形燃料電池と同様に白金を触媒としているため、燃料中に一酸化炭素が存在すると触媒の白金が劣化する。従って、[[天然ガス]]などを燃料とする場合は、あらかじめ水蒸気改質・一酸化炭素変成反応<!--PAFCは、選択酸化反応を必要としないので削除-->により一酸化炭素濃度が1%程度の水素をつくり、電池本体に供給する必要がある。
工場、ビルなどの需要設備に設置するオンサイト型コジェネレーションシステムとして100/200kW級パッケージの市場投入がなされ、すでに商用機にて4万時間以上の運転寿命(スタック・改質器無交換)を達成している<ref group="注">りん酸形燃料電池の代表メーカーは、UTC Power([[ユナイテッド・テクノロジーズ]]子会社)や[[富士電機システムズ]]など。富士電機システムズ製の100kWPAFCは、2008年に燃料電池としては初めて日本での消防用非常電源の認定を受けた。</ref>。
<!--代表メーカーは[[東芝燃料電池システム]]や[[富士電機システムズ]]など。-->
<!--東芝は、現在家庭用PEFCに特化しておりPAFCは生産していない。現在は元の合弁先であるUTC Powerが生産。-->
=== 溶融炭酸塩形燃料電池 (MCFC) ===
{{main|溶融炭酸塩型燃料電池}}
溶融炭酸塩形燃料電池(MCFC, Molten Carbonate Fuel Cell)は、水素イオン(H{{sup|+}})の代わりに炭酸イオン(CO{{sub|3}}{{sup|2-}})を用い、溶融した炭酸塩([[炭酸リチウム]]、[[炭酸カリウム]]など)を電解質として、セパレーターに含浸させて用いる。そのため、水素に限らず[[天然ガス]]や[[石炭]]ガスを燃料とすることが可能である。動作温度は600℃-700℃程度。常温では固体の炭酸塩も動作温度近傍では溶融するため、電解質として用いることができる。PAFCに競合する選択肢として、250kW級パッケージが市場に投入されつつある。発電効率は約45%LHV。白金触媒を用いないためPEFCやPAFCと異なり一酸化炭素による被毒の心配がなく、排熱の利用にも有利である。内部改質方式とされるが、プレリフォーミング用の改質器をシステム内に設置するのが一般的のようである。[[火力発電所]]の代替などの用途が期待されている<ref group="注">溶融炭酸塩形燃料電池の代表メーカーは、Fuel Cell Energy<!--Merubeniは10%以下の持分、川崎は記載なし-->や[[石川島播磨重工業]]などである。</ref>。
なお、通常の燃焼反応では、空気中の窒素の存在により排ガス中の二酸化炭素濃度は約20%が上限であり、更に二酸化炭素濃度を高めるには空気の代わりに酸素を用いなければならない。しかし、MCFCは炭酸イオンが電池反応に介在し、空気極側の二酸化炭素と酸素が選択的に燃料極側に移動・蓄積するため燃料極側排ガスの二酸化炭素濃度は80%程度にも達する。この性質を利用し、MCFCで二酸化炭素の回収を行うことが試みられている。日本国内では経産省補助事業として[[中国電力]]・[[中部電力]]が共同実施している<ref>[http://www.chuden.co.jp/corpo/publicity/press2002/0918_1.html 溶融炭酸塩形燃料電池(MCFC)商用型1号機導入 〜廃棄物ガス化装置との組合せ研究を実施〜] 2002年9月18日 中部電力</ref>。
=== 固体酸化物形燃料電池 (SOFC) ===
{{main|固体酸化物形燃料電池}}
固体酸化物形燃料電池(SOFC, Solid Oxide Fuel Cell)は、固体電解質形燃料電池とも呼ばれ、動作温度は700-1,000℃を必要とするので高耐熱性の材料が必要となる。また、起動・停止時間も長い。電解質として酸化物イオンの透過性が高い安定化[[ジルコニア]]や[[ランタン]]、[[ガリウム]]の[[ペロブスカイト構造|ペロブスカイト酸化物]]などのイオン伝導性[[セラミックス]]を用いており、空気極で生成した酸化物イオン(O{{sup|2-}})が電解質を透過し、燃料極で水素あるいは一酸化炭素と反応することにより電気エネルギーを発生させている。そのため、水素だけではなく[[天然ガス]]や[[石炭]]ガスなども、脱硫処理は必要であるが、簡単な水蒸気改質処理(一酸化炭素の除去が不要で、燃料中に若干の未改質ガスを含む改質)により燃料として用いることが可能である。活性化電圧降下が少ないので発電効率は高く、すでに56.1%LHVを達成している例もある。家庭用・業務用の1kW-10kW級としても開発されている<ref group="注">PEFCの発電効率の最高値は公称37.5%LHVとされる。</ref>。
原理的には発電部分における改質(ニッケルを含む燃料極における直接内部改質)が可能であるが、吸熱反応による発電部分の極端な温度変化を防ぐために、プレリフォーマー(発電反応による熱や反応後の燃料を燃焼した熱を利用した間接内部改質)を採用するのが一般的である。[[固体高分子形燃料電池]]等の他の燃料電池で使用される[[白金]]や[[パラジウム]]等の[[貴金属]]系の[[触媒]]が不要で燃料極としては、ニッケルと電解質セラミックスによるサーメット、空気極としては導電性セラミックスを用いる。大型SOFCは、燃焼排ガスをガスタービン発電や蒸気発電に利用すれば、極めて高い総合発電効率を得ることが出来ると予測されるため、火力発電所の代替などの用途が期待されている。<ref group="注">固体酸化物形燃料電池の代表メーカーは、[[ジーメンス]]・[[ウェスチングハウス]]や[[三菱重工業]]、[[日本特殊陶業]]、[[TOTO (企業)|TOTO]]、[[三菱マテリアル]]([[関西電力]])、[[京セラ]]などである。</ref><ref group="注">2005年11月から3ヶ月間、[[大阪ガス]]と京セラは、都市ガスを使って集合住宅でのSOFCによる1kW発電装置の実証実験を行なった。これは660Wの給湯出力も得られ、1日の平均発電効率で44.1%(LHV)という成績だった。2007年度からは、[[経済産業省]]等の元で[[新エネルギー財団]]が、4メーカーからの29台の装置によって都市ガス、LPG、灯油によるSOFCの実証研究を行い、平均の発電効率は35%(LHV)という成績だった。実証研究は、2010年度まで継続され、累計233台が実証研究に供された。[[三菱マテリアル]]と[[関西電力]]は、都市ガスを燃料にSOFCによる出力10kW級のコジェネレーション発電装置を実験運用しており、発電効率は50%を達成している。[[新エネルギー・産業技術総合開発機構|NEDO]]は、4つの企業グループに委託して、SOFCによる出力10kW級から200kW級の発電装置を実験している。内1つは[[三菱重工業]]の都市ガスを燃料とするSOFC発電と[[マイクロガスタービン]]発電を組み合わせた複合発電であり、SOFCから生じる未反応の水素と一酸化炭素よりなる副生ガスもマイクロガスタービンで燃焼させることで無駄を排除した。(出典:燃料電池の基礎マスター ISBN 978-4485610077)</ref>
<!--; ナトリウム-硫黄電池(NaS電池)<ref group="注">NaS電池・レドックスフロー電池は、一般的な分類としては二次電池・蓄電池であるが、再生型燃料電池として扱われる場合もある。{{要出典}}</ref> -->
<!--: 工場、ビルなどの需要設備に設置する負荷平準化を目的とした燃料電池。正極に[[硫黄]]・電解質にナトリウムイオン伝導体である[[β-アルミナ]]・負極に[[ナトリウム]]を使用し、300℃程度で運転される。単価の安い夜間電力で充電し、昼間放電することにより電気料金の削減が期待される。(代表メーカー:[[日本ガイシ]])-->
[[日本ガイシ]]株式会社は2009年6月11日に独自構造のSOFCを開発し、世界最高レベルの63%の発電効率(LHV)と90%の高い燃料利用率を達成したと発表した。<ref>[http://www.ngk.co.jp/news/2009/20090611.html 世界最高効率の燃料電池を開発](2009年06月11日日本ガイシ株式会社)</ref>
[[JX日鉱日石エネルギー]]は2011年10月、市販機としては世界初となるSOFC型「[[エネファーム]]」を発売した<ref>[http://www.noe.jx-group.co.jp/newsrelease/2010/20110224_01_0794529.html 家庭用燃料電池「エネファーム」のラインアップ拡充について]</ref>。
=== アルカリ電解質形燃料電池 (AFC) ===
{{main|アルカリ電解質形燃料電池}}
アルカリ電解質形燃料電池(AFC, Alkaline Fuel Cell)は、[[水酸化物イオン]]をイオン伝導体とし、[[アルカリ]]電解液を電極間のセパレータに含侵させてセルを構成している。[[固体高分子形燃料電池|PEFC]]と同様、高分子膜を用いるタイプも報告されている。最も構造が簡単であり、アルカリ雰囲気での使用であることから、[[ニッケル]]酸化物等の安価な電極触媒を利用することができること、常温にて液体電解質を用いることからセル構成も単純にできるため、信頼性が高く、宇宙用途などに実用化されている燃料電池である。一方、改質した炭化水素系燃料から水素を取り出す場合、炭化水素が混入しているとアルカリ性電解液が[[炭酸塩]]を生じて劣化する。同様に空気を酸化剤として用いると電解液が[[二酸化炭素]]を吸収して劣化するため、純度の高い酸素を酸化剤として用いる必要がある。水素の純度を高めるためには、[[パラジウム]]の膜を透過させることにより純度を高める。電解質が水溶液であるため、作動温度域は電解液が凍結・蒸発しない温度に制限される。また、温度によりイオンの移動度(拡散係数)が変わり、発電力に影響するため、温度条件が厳しい。ニッケル系触媒は配位性のある[[一酸化炭素]]、炭化水素、酸素および水蒸気等により活性が下がるので水素燃料の純度は重要である。これらを不純物として含む[[水蒸気改質|改質]]水素の使用は望ましくない。
21世紀現在の燃料電池の研究開発上ではほとんど目を向けられることはないが、年少向けの教材から、[[アポロ計画]]や[[スペースシャトル]]まで広く「実用化」されている。[[アポロ13号]]における事故はこの燃料電池に供給する液体酸素供給系統の不具合に起因したものであり、燃料電池そのものの問題ではない。
[[ダイハツ工業]]は[[産業技術総合研究所]]と共同で水加[[ヒドラジン]](N{{sub|2}}H{{sub|4}}・H{{sub|2}}O)を燃料として0.50W/cm2の出力密度を達成したと発表している<ref>{{Cite web|和書|date=2007-09-14 |url=https://www.daihatsu.com/jp/news/2007/20070914-01.html |title=CO2排出ゼロ、省資源、低コストが可能な貴金属を全く使わない燃料電池の基礎技術を新開発 |publisher=ダイハツ工業 |accessdate=2020-12-02}}([https://www.daihatsu.com/jp/news/2007/kv071l0000000qvu-att/070914-1.pdf 技術詳細添付資料〈PDF〉])</ref>。この場合、燃料電池への炭化水素の混入はなく、排出物は水と[[窒素]]のみとなる。
=== 直接形燃料電池 (DFC) ===
直接形燃料電池(DFC, Direct Fuel Cell)は、改質器を介さずに燃料を直接セルスタックに供給する形式で、[[メタノール]]、[[エタノール]]、[[ジメチルエーテル]]、[[ヒドラジン]]、[[ホルムアルデヒド]]、[[ギ酸]]、[[アンモニア]]等を使用するものが試みられてきた<ref group="注">DFCの燃料には、[[ボロハイドライト]]も考えられている。</ref>。つまり、DFCは燃料電池それ自身の方式を指す言葉ではない。[[固体酸化物形燃料電池]]は全てDFCに属する。燃料として用いる物質に炭素が含まれている場合、反応(発電)によって[[二酸化炭素]]が生成して排出される。そのため、アルカリ性水溶液の電解質は[[炭酸塩]]を生成するので使用できない。[[ヒドラジン]]のような還元性の燃料を使用する場合には[[貴金属]]の触媒が不要になるため、[[貴金属フリー液体燃料電池車|貴金属フリー液体燃料燃料電池]]として注目される。燃料供給ポンプや放熱ファンを使うか否かで、パッシブ型とアクティブ型に区分される。燃料極の[[白金]]に反応中間体である一酸化炭素が強吸着(被毒)してしまい反応速度が遅く、水溶性の高い燃料を用いた場合では燃料のクロスオーバーが起こるため、電力・発電効率とも低いが小型軽量のものが作れる。[[直接メタノール燃料電池|直接形メタノール燃料電池]](DMFC)では、数十mW-10W程度の小規模小電力発電に適している。これらは小型携帯電子機器の電源としての用途が考えられている。一方で設置型には1kw級の発電能力を有する物もある<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO30754720R20C18A5000000/ IHI、アンモニアで動く燃料電池 改質器は不要] - [[日本経済新聞]]</ref>。
=== バイオ燃料電池 (BFC) ===
[[食物]]からエネルギーを取りだす生体システムを応用した燃料電池である<ref group="注">バイオガス燃料電池と呼ばれる下水消化ガスやメタン[[発酵]]ガスを利用した燃料電池とは異なる。</ref>。燃料を酸化する触媒として酵素や微生物などが用いられる。酵素を用いた燃料電池においては、環境の変化に対しても安定して働く強力な酵素が不可欠であり、研究開発では、酵素の[[寿命]]を伸ばすことなどが課題となっている。[[血液]]中の[[グルコース]]を利用する体内埋め込み型[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]の開発が行われている<ref>{{Cite journal |url=http://www.hess.jp/Search/data/36-02-032.pdf |author= |coauthors= |date=2011 |title=グルコースを用いた酵素型バイオ燃料電池 |journal=水素エネルギーシステム |volume=36 |issue=2 |pages=32-6 |publisher=水素エネルギー学会 |doi= |pmid= |accessdate=2016-08-04}}</ref>。微生物を用いた燃料電池においては、廃水中の有機物の利用などといった観点から研究されることが多い。
類似の研究には、[[光合成]]による[[植物]]の生体システムを応用した「太陽光バイオ燃料電池」もある。
== 主要4方式の比較 ==
21世紀初頭現在、研究開発が進められている主要な4つの方式について比較を示す。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+4方式の比較<ref name="燃料電池の基礎マスター">田辺茂著 『燃料電池の基礎マスター』 電気書院 2009年1月31日第1版第1刷発行 ISBN 9784485610077</ref>
!colspan="2"|
!style="background:#c0f0f0;width:21%;"|PEFC<br />固体高分子形
!style="background:#c0f0f0;width:21%;"|PAFC<br />りん酸形
!style="background:#c0f0f0;width:21%;"|MCFC<br />溶融炭酸塩形
!style="background:#c0f0f0;width:21%;"|SOFC<br />固体酸化物形
|-
!style="background:#d0f0f0;" rowspan="3"|電解質
!style="background:#d0f0f0;"|電解質材料
|イオン交換膜||りん酸||炭酸リチウム、炭酸ナトリウム||安定化ジルコニアなど
|-
!style="background:#d0f0f0;"|移動イオン
|colspan=2|<chem>H+</chem>||<chem>CO3^{2-}</chem>||<chem>O^{2-}</chem>
|-
!style="background:#d0f0f0;"|使用形態
|膜||マトリックスに含浸||マトリックスに含浸、又はペースト||薄膜、薄板
|-
!style="background:#d0f0f0;" rowspan="3"|反応
!style="background:#d0f0f0;"|触媒
|colspan=2|白金系||colspan=2|不要
|-
!style="background:#d0f0f0;"|燃料極
|colspan=2|<chem>H2 -> 2H^+{} +2\mathit{e}^-</chem>
|<chem>H2{} + CO3^{2-} -> H2O{} + CO2{} + 2\mathit{e}^-</chem>
|<chem>H2{} + O^{2-} -> H2O{} + 2\mathit{e}^-</chem>
|-
!style="background:#d0f0f0;"|空気極
|colspan=2|<chem>\tfrac{1}{2} O2{} + 2H^+{} + 2\mathit{e}^- -> H2O</chem>
|<chem>\tfrac{1}{2} O2{} + CO2{} + 2\mathit{e}^- -> CO3^2-</chem>
|<chem>\tfrac{1}{2} O2{} + 2\mathit{e}^- -> O^2-</chem>
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|運転温度(℃)
|80-100||190-200||600-700||600-1,000
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|燃料
|colspan=2|水素||colspan=2|水素、一酸化炭素
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|発電効率(%)
|30-40||40-45||50-65||50-70
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|想定発電出力
|数W-数十kW||100-数百kW||250kW-数MW||数kW-数十MW
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|想定用途
|携帯端末、家庭電源、自動車||colspan=2|定置発電||家庭電源、定置発電
|-
!style="background:#d0f0f0;" colspan="2"|開発状況
|家庭用は2009年に国内販売開始、自動車用は2015年に国内販売開始
|下水処理場、病院、オフィスビルなど常時稼働形緊急電源として多数の実績がある
|日本以外での実績があり、拡大中
|家庭用は2011年に国内販売開始([[エネファーム]])、250kW級定置用(MGT(マイクロガスタービン)とのコンバインド型)が2018年に販売開始
|}
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
[[ファイル:Grove's Gaseous Voltaic Battery.png|thumb|right|250px|グローブの気体[[ボルタ電池]](1842)<br />燃料電池の原型として知られる]]
<!-- "fuel cell effectの発見"と"fuel cellの発明"は区別した方がよいのでは?-->
燃料電池の原理は[[1801年]]に[[イギリス]]の[[ハンフリー・デービー]]によって考案された。現在の燃料電池に通じる燃料電池の原型は[[1839年]]にイギリスの[[ウィリアム・グローブ]]によって作製された。この燃料電池は、[[電極]]に[[白金]]を、電解質に[[希硫酸]]を用いて、[[水素]]と[[酸素]]から電力を取り出し、この電力を用いて水の[[電気分解]]をすることができた。
その後、燃料電池は、熱機関により動かされる[[発電機]]の登場によって発電システムとしてはしばらく忘れられたが、1955年、米ゼネラル・エレクトリック社(GE社)に勤務していた化学者であるW. Thomas Grubbは[[スルホ基]]で修飾された[[スチレン]]による[[イオン交換膜]]を電解質として用いた改良型燃料電池を開発した。3年後、GE社の別の化学者であるLeonard Niedrachは、触媒である白金の使用量を減らすことに成功し、Grubb-Niedrach 燃料電池として知られる事となった。GE社はこの技術の開発と利用を、当時進行中だった[[アメリカ航空宇宙局]]のジェミニ宇宙計画に働きかけて採用され、これが燃料電池の最初の実用となった。
[[1965年]]に[[アメリカ合衆国]]の有人宇宙飛行計画である[[ジェミニ計画|ジェミニ]]5号で炭化水素系[[合成樹脂|樹脂]]を使用した固体高分子形燃料電池が採用され、再び燃料電池が注目されるようになった。1959年、[[フランシス・トーマス・ベーコン]]は5kWの定置式燃料電池の開発に成功した。1959年、Harry Ihrigが率いるチームによって15kW出力の燃料電池トラクターが米国ウイスコンシン州のアリスシャルマーズ社の米国横断フェアーで公開された。このシステムは[[水酸化カリウム]]を電解質として使用して、圧縮水素と酸素を反応させていた。1959年、ベーコンと協力者は5kWの装置で溶接機の電源として使用できることを示した。1960年代、[[プラット&ホイットニー]]社は米国の宇宙計画に於いて宇宙船の電力と水を供給するために、ベーコンの米国での特許の使用許諾を得た。[[アポロ計画]]から[[スペースシャトル]]に至るまで燃料電池は電源、飲料水源として使用された。その際は材料の信頼性による検討の結果、アルカリ電解質形燃料電池が採用された。
民生用燃料電池として、住宅用の[[コジェネレーション]]システムや発電施設向けに研究開発が続けられた。日本においては、[[経済産業省|通商産業省]]の省エネルギー政策「[[ムーンライト計画]]」に基づき、リン酸形、溶融炭酸塩形燃料電池、固体電解質形燃料電池の開発が始められた。1982年、東芝が50kWりん酸形燃料電池実験プラントを浜川崎工場に建設し、加圧形として日本初めての発電に成功。1985年には米国UTCとIFC社(米国コネチカット州)を設立し、世界最大の11MW級プラントの共同開発を開始し、1991年には、11MW実験プラントを[[東京電力]]五井火力発電所に完成させ、出力1万1000kWのリン酸形燃料電池の実証運転が行われた。
[[1987年]]、[[カナダ]]の[[バラード パワーシステム]]社が[[フッ素]]系樹脂(Nafion)を電解質膜に用いた固体高分子形燃料電池を開発した。この電解質膜の耐久性に優れていたことから、燃料電池が再び注目されるようになり、研究開発が盛んになった。
米[[国防総省]]と国防総省高等研究事業局([[国防高等研究計画局|DARPA]])のローレンス・H・デュボワは、様々な液体炭化水素(メタノール、エタノールなど)で動く燃料電池に着目して、[[南カリフォルニア大学]](USC)のローカー炭化水素研究所に所属していた[[酸]]の専門家スルヤ・プラカッシュと、[[ノーベル賞]]受賞者の[[ジョージ・オラー|ジョージ・A・オラー]]に声をかけた。USCは[[ジェット推進研究所]]、[[カリフォルニア工科大学]]の協力の下、液体炭化水素が直接酸化するシステムを発明し、のちに[[ダイレクトメタノール燃料電池]](DMFC)と名付けられた。
[[1994年]]、ダイムラーベンツ(当時)が[[燃料電池自動車]]の試作車を発表した。また、[[トヨタ自動車|トヨタ]]は、[[1997年]]の[[東京モーターショー]]に燃料電池自動車の試作車を発表し、2005年までに量産化することを宣言した<ref group="注">トヨタは、燃料電池車は政府機関を中心に[[リース]]契約とし、一般消費者向けにはガソリンエンジンとニッケル水素蓄電池(その後[[リチウムイオン蓄電池]]へ移行)を組み合わせたハイブリッド車を販売する方針とした。</ref>。
=== 2000年代 ===
[[ファイル:TOYOTA FCHV 01.jpg|thumb|200px|トヨタの燃料電池自動車([[トヨタ・FCHV]])]]
[[ファイル:FCX-Honda.JPG|サムネイル|200x200ピクセル|ホンダの燃料電池車([[ホンダ・FCX]])]]
[[ファイル:TOYOTA FCHV Bus.jpg|thumb|200px|トヨタ・日野自動車製の燃料電池バス<br />[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]のシャトルバスとして使用された。]]
2001年には、[[ソニー]]・[[日立製作所]]・[[日本電気]]が、相次いで「携帯機器向けの燃料電池」の開発を発表している。
[[2002年]]12月には、[[トヨタ・FCHV]]および[[ホンダ・FCX]]の[[燃料電池自動車]]の市販第一号が[[日本国政府]]に納入され、[[小泉純一郎]]首相が試乗を行った。これらは[[総理大臣官邸]]と[[経済産業省]]で使用され、24時間のフル[[メンテナンス]]体制付きのリース契約となった。
[[2003年]]には、[[東京都交通局]]にトヨタ・[[日野自動車]]製の燃料電池バスが納入、[[2004年]]末まで[[お台場]]周辺で運行された。2005年には[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]で日野製[[トヨタ・FCHV#FCHV-BUS|FCHV-BUS]]が納入された。また、2004年には[[日産自動車|日産]]も[[横浜市]]などへ納入した。2006年からは、愛知万博で使用された[[水素ステーション]]が移設された[[中部国際空港]]でも運行されている。これらの公共バスは、一般人が乗る事が出来る燃料電池車であるといえる。
主に1980-1990年代に、燃料電池の開発段階に応じて、リン酸形燃料電池を「第1世代型燃料電池」、溶融炭酸塩形燃料電池を「第2世代型燃料電池」、固体酸化物形(固体電解質形)燃料電池を「第3世代型燃料電池」と呼んでいた時期もあるが、固体高分子形燃料電池が開発の主役となってから、[[21世紀]]現在、この呼び方が用いられることは殆どない。
[[2014年]]末には、トヨタが水素燃料電池により長距離走行を可能とする「[[トヨタ・MIRAI|MIRAI]]」を発売した。
== 規制 ==
燃料電池の実用化には、[[消防法]]、[[高圧ガス保安法]]、[[電気事業法]]及び[[建築基準法]](メタノールを燃料とするものは、さらに[[毒物劇物取扱法]])などの法的規制緩和が必要であるとされ、電気設備技術基準などの見直しが行われた。2002年10月には米国運輸省が燃料電池の飛行機内持ち込みを許可するなど、燃料電池普及に向けた規制緩和の方針をいち早く打ち出している。また、安全基準や性能評価について国際的な基準制定の動きもある。
== 国際標準化 ==
1998年に、[[国際電気標準会議]](IEC)内の105番目の専門委員会であるTC105が発足し、燃料電池に関する電気分野での標準化が話し合われ、すでに8つの規格が規定されている。また、電気分野以外での標準化は[[国際標準化機構]](ISO)で行なわれている<ref name = "燃料電池の基礎マスター"/>。
== 普及への課題 ==
燃料電池を普及させるための最も大きな課題は、コストや効率の低さである。購入時の初期コストと使用期間にかかるランニング・コストが共に高いため、普及を妨げている。さらに耐久性・発電効率の向上・電解質の長寿命化やインフラ整備等の課題が指摘されてきた<ref name = "燃料電池の基礎マスター"/><ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20060720/106579/ 燃料電池車の時代は当分来ない] 日経ビジネスオンライン 2006年7月20日</ref>。
また[[水素]]が非常に扱い難い性質である為、コストが非常に高くなってしまう事や、そもそも地球上に存在しない[[水素]]を[[化石燃料]]から製造しており、環境負荷への影響が懸念されている。<ref>{{Cite web|和書|title=次世代エネルギー「水素」、そもそもどうやってつくる? |url=https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/suiso_tukurikata.html |website=経済産業省 資源エネルギー庁 |access-date=2022-09-23 |language=ja}}</ref>
触媒に白金のような[[貴金属]]を使用する方式の場合、貴金属が不足する可能性が指摘されている<ref>渡辺正、「[https://doi.org/10.11188/seisankenkyu.59.425 化学屋の見た環境騒動]」 『生産研究』 2007年 59巻 5号 p. 425-440, {{doi|10.11188/seisankenkyu.59.425}}, 東京大学生産技術研究所</ref>。
燃料電池のシステム全体としての効率の低さは無視できないレベルであり、水素の製造・輸送・圧縮・発電において未だに発展途上である。
{{seealso|燃料電池自動車#エネルギー効率}}
== 実用化 ==
2007年現在、欧州の[[キャンピングカー]]において、[[メタノール]]を使用したものが開発され、2009年春、日本仕様として、エタノール濃度を調整した製品の販売が開始された。また、[[液化石油ガス]] (LPG) を使用するものが、数年の間に採用される<ref>[http://www.efoy.de/index.php?option=com_content&task=view&id=905&Itemid=177 EFOY Fuel Cell now available ex works on all Dethleffs motor homes] SFC Smart Fuel Cell, July 16, 2007</ref>。また、りん酸形燃料電池であるUTC Power製の400kWPAFCが、ニューヨークの[[1 ワールドトレードセンター|フリーダム・タワー]]に12台設置される。
なお、2009年6月4日に放送された[[テレビ東京]]「[[ニュースモーニングサテライト]]」で、京都のベンチャー企業が[[携帯電話]]や[[デジタルオーディオプレーヤー]]の充電用として、水から水素を分離して燃料とする小型の燃料電池を2010年春に[[コンビニエンスストア]]で「高校生の小遣いで買える」価格で発売を開始すると報じられたが、詳細については不明である<ref>[http://www.tv-tokyo.co.jp/nms/shincyouryu/post_87.html 新電池元年③ コンビニで燃料電池]テレビ東京「ニュースモーニングサテライト」2009年6月4日</ref>。
2009年10月22日、[[東芝]]がモバイル機器の充電用としてメタノールを燃料とする小型のモデルの販売を、台数限定で開始した<ref>[http://www.toshiba.co.jp/about/press/2009_10/pr_j2201.htm 東芝のプレスリリース。]</ref>。IEC ([[国際電気標準会議]]) の安全性規格 (暫定版) に準拠、としている。
米国ニュージャージー州において[[太陽光発電]]パネルと[[水素燃料]]による住宅設備のフル稼働がおこなわれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.swagelok.co.jp/~/media/Corporate%20eDocuments/Newsroom/JP/J_Hydrogen%20House.ashx|title=実証中|accessdate=20191016|publisher=不明}}</ref>。
== 用語 ==
燃料電池の説明では、いくつか特有の用語を使用する。一般的な用語もあるが、燃料電池だけの独自の意味を持つものもある。
;セル
:電池の分野において"cell"は、両電極と電解質、セパレータを含む最も簡単な電池を表す。一方"battery"は、組みあがった電池全体を指す。燃料電池においては通常、積層などしない単体の燃料電池のことを「単位セル」、「単セル」もしくは単に「セル」と呼ぶことが多い。
;スタック
:単板形状の単位セルでは、それらを積層したもの。円筒横縞型や円筒縦縞型の単位セルでは上下に重ねたり数珠繋ぎにしたもの。いずれも直列接続される。「セルスタック」とも呼ばれる。
;燃料極
:[[アノード]]のことであり、電子を失う側の電極を意味するアノードを、水素などの燃料を供給する側を意味する「燃料極」と呼んでいる。電極端子の電圧の方向に基づく'''正極'''や'''負極'''という名称,電流の方向に基づく'''アノード'''や'''カソード'''という名称に対して,'''陽極'''・'''陰極'''という用語は,「電位の高低の意味」と「電流の出入りの意味」の両方の意義に用いられて混乱している。そのため,供給ガスを電極の名前に選ぶのが一般的になっている。
燃料極=アノード=(陽極)=負極である。つまり通常の電池でいうマイナス極である。
;空気極
:[[カソード]]のことであり,電子を得る側の電極を意味するカソードを、酸素を含む空気を供給する側を意味する「空気極」や「酸素極」と呼んでいる。
空気極=カソード=(陰極)=正極である。つまり通常の電池でいうプラス極である。
;セパレータ
:セルの主要な構成要素であり、一方の面に水素、逆の面に酸素をはさんでこれらを分離する(Separate)のでセパレータと呼ばれる。出来るだけ低い電気抵抗で両面間に電流を流す必要から薄い方が良いが、水素や酸素、冷却水の流路の溝を備えるために厚みのあるものが多い。高濃度の水素イオンは強酸性であるため、グラファイトや耐食性を持つ金属で作られることが多い<ref name ="燃料電池の基礎マスター"/>。
電子伝導性があり、イオン伝導性がなく、剛直であり、ガス・液体を通さないことが必要である。
リチウムイオン電池などにおいては「セパレータ」はイオンの通過する部分の正負極を、静電的に絶縁する層を指し、燃料電池においては電解質層に当たるものであり、注意が必要である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|30em|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* 竹原善一郎監修『燃料電池技術とその応用』 テクノシステム刊、2000年
* 「今そこに燃料電池」『日経エレクトロニクス』 2001年 10/22号 p117-p145
* 「燃料電池、携帯機器に載る」『日経エレクトロニクス』 2002年 6/3号 p59-p68
* 「売るに売れない燃料電池」『日経エレクトロニクス』 2003年 1/20号 p49-p55
* 「燃料電池2004」『日経エレクトロニクス・D&M日経メカニカル・日経エコロジー合同別冊』、2004年
* 『燃料電池2005』 日経BP社刊、2005年
* 「特集 普及前夜の燃料電池」『日経エコロジー』 2008年6号
* {{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2006_1/20060404.pdf JR東日本 NEトレイン]}}
== 関連項目 ==
* [[ハイブリッドカー]]
* [[電気自動車]]
* [[燃料電池自動車]]
* [[コジェネレーション]]
* [[エネルギー貯蔵]]
*燃料電池評価装置
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Fuel cells}}
* [http://fccj.jp/jp/aboutfuelcell.html 燃料電池とは] - 燃料電池実用化推進協議会
* [https://www.toshiba.co.jp/product/fc/fc/index.htm 燃料電池のしくみ] - [[東芝燃料電池システム]]
* [http://www.paj.gr.jp/eco/fuelcell/ 石油とエコ 燃料電池とは] - [[石油連盟]]
* [https://www.fcdic.jp/ 燃料電池とは] [[燃料電池開発情報センター|- 燃料電池開発情報センター]]
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16,462 |
長瀬愛
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長瀬 愛(ながせ あい、1979年10月26日 - )は、日本の元AV女優。
千葉県出身。元ウィナーズアソシエーション所属。企画単体(いわゆるキカタン)女優の元祖。
裏ビデオにも多く出演している。
1999年に「ゆうか」名義でAVデビュー。きっかけは、スカウト。同年オーロラプロジェクト発売の『純情女子高生ゆうか18才Cカップ』で人気に火が付き、2001年度「オレンジ通信」AVアイドル賞受賞。
2002年、堤さやか、桃井望、樹若菜らとユニット「minx」を結成、CDをリリースするなどアイドルとしての活動を開始するが、桃井望の不慮の死により2002年10月で解散となった。
2003年、長瀬自身が原案を務めたマンガ『長瀬愛物語』が連載スタート。同年、AVを引退。
日本テレビで深夜・ゴールデンタイムに放送されていた『マネーの虎』のオープニングシーンにも札束を握った女子高生役にて登場。
ライターの安田理央は80年代AV(宇宙企画美少女)がセーラー服を着た清純派だったのに対して、長瀬らキカタンブーム期の女優は、同じ女子高生(校生)でもブルセラブームをアップデートさせたブレザーだったのが象徴的と記述している。
ゆうか 名義
長瀬愛(長瀬あい)名義
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'''長瀬 愛'''(ながせ あい、[[1979年]][[10月26日]] - )は、[[日本]]の元[[AV女優]]。
[[千葉県]]出身。元ウィナーズアソシエーション所属。企画単体(いわゆる[[AV女優#企画単体女優|キカタン]])女優の元祖。
[[裏ビデオ]]にも多く出演している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cyzo.com/2012/08/post_11102_entry_2.html |title=「クラスで上から2~3番目じゃないと、AV女優になれない!?」AV業界、激動の15年史 |publisher=[[日刊サイゾー]] |author=[[中村淳彦]] |date=2012-08-01 |access-date=2023-04-15 }}</ref>。
== 略歴 ==
[[1999年]]に「'''ゆうか'''」名義でAVデビュー。きっかけは、スカウト<ref name="b-v">{{Cite journal |和書 |author= |title=今月のグラビアAVアイドル |year=2001 |publisher=[[三和出版]] |journal=ベストビデオ |issue=2001年8月号 |number=175 |page= |url=https://web.archive.org/web/20020604003737/http://www.b-v.co.jp/back-number/175/nagaseai.html}}</ref>。同年オーロラプロジェクト発売の『純情女子高生ゆうか18才Cカップ』で人気に火が付き、2001年度「オレンジ通信」AVアイドル賞受賞<ref>安田理央『痴女の誕生 アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』(2021年、鉄人社・鉄人文庫)77頁</ref>。
[[2002年]]、[[堤さやか]]、[[桃井望]]、[[樹若菜]]らとユニット「'''minx'''」を結成、CDをリリースするなど[[アイドル]]としての活動を開始するが、桃井望の不慮の死により2002年10月で解散となった。
[[2003年]]、長瀬自身が原案を務めたマンガ『長瀬愛物語』が連載スタート。同年、AVを引退。
[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で深夜・[[ゴールデンタイム (テレビ番組)|ゴールデンタイム]]に放送されていた『[[マネーの虎]]』のオープニングシーンにも札束を握った[[女子高生]]役にて登場。
ライターの[[安田理央]]は80年代AV([[宇宙企画]]美少女)がセーラー服を着た清純派だったのに対して、長瀬らキカタンブーム期の女優は、同じ女子高生(校生)でもブルセラブームをアップデートさせたブレザーだったのが象徴的と記述している<ref>安田理央『痴女の誕生 アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』(2021年、鉄人社・鉄人文庫)79頁</ref>。
== 作品 ==
=== アダルトビデオ ===
'''ゆうか 名義'''
* 純情女子高生 ゆうか18才Cカップ Part.1(1999年8月1日、[[オーロラ・プロジェクト]])
* 純情女子高生 ゆうか18才Cカップ Part.2(1999年8月1日、オーロラ・プロジェクト)
** AURORA PROJECT PREMIUM 純情女子高生 ゆうか18才Cカップ Part.1&2(2003年7月11日、オーロラプロジェクト)
* 「ゆうか・ふたたび」 Vol.1(2000年7月1日、オーロラ・プロジェクト)
* 「ゆうか・ふたたび」 Vol.2(2000年7月1日、オーロラ・プロジェクト)
** AURORA PROJECT PREMIUM 真・絶頂体験 「ゆうか・ふたたび」 Vol.1&2(2002年11月1日、オーロラプロジェクト)
* メヴィウス 3 ゆうか&ゆう 前編(2000年12月16日、オーロラ・プロジェクト)
* メヴィウス 3 ゆうか&ゆう 後編(2000年12月16日、オーロラ・プロジェクト)
* ゆうか・最終章 前編(2001年12月1日、オーロラ・プロジェクト)
* ゆうか・最終章 後編(2001年12月1日、オーロラ・プロジェクト)
'''長瀬愛(長瀬あい)名義'''
;1999年
* [[ザ・カメラテスト]] カワイイ美乳ギャルは新人デビューする前に…(5月21日、アテナ映像)
;2000年
* みるきぃガ〜ルズ!長瀬愛(6月9日、みるきぃぷりん♪)
* 新感覚ブルセラハメ撮りときめき女子高生 1(7月5日、[[ディープス]])
* みるきぃHiスクール。長瀬愛(10月12日、みるきぃぷりん♪)
* AV虎の穴 AV女優の作り方 長瀬愛(12月26日、[[ワンズファクトリー]])
;2001年
* Love、Day After Tomorrow 長瀬あい(1月25日、[[GLAY'z]])
* 愛 LOVEしましょ 長瀬愛(4月6日、TMA)
* 長瀬愛 Face of love(4月18日、タカラ映像)
* I LIKE YOUR EYEs AI NAGASE 長瀬愛、北川さやか(4月18日、タカラ映像)
* Judy&Mary 長瀬愛(4月20日、アイルビークリエイト)
* Happy Date 長瀬愛(5月1日、ワンズファクトリー)
* 人気者で抜こう!!(5月24日、[[九鬼 (アダルトビデオ)|KUKI]])
* 青い性欲 長瀬愛(6月7日、[[ドグマ (アダルトビデオ)|ドグマ]])
* 痴女行為の虜になった私たち 4 高校の頃、同じクラスに痴女がいた。(6月7日、[[SODクリエイト|ハムレット]])<ref>{{Cite web|和書|title=【SODアーカイブス】AVの歴史を変えたSOD珠玉の名作!キカタンブームの立役者!長瀬愛&南えり【痴女行為の虜になった私たち4】|url=https://news.sod.co.jp/adultvideo/33139/|website=日刊SODオンライン|date=2019-10-05|accessdate=2019-10-30|language=ja|last=2019-10-05}}</ref>
* 新任女教師 長瀬愛(6月7日、[[アイエナジー]])
* 長瀬あいと学校でしようよ!(6月22日、GLAY'z)
* 徹底攻略 長瀬愛(7月1日、ワンズファクトリー)
* Angel(7月1日、[[アイデアポケット]])
* 長瀬愛 Can you keep a secret?(7月4日、タカラ映像)
* 露出 長瀬愛、[[泉星香]] (2001年7月4日、タカラ映像)
* メヴィウス 4 完結前編(7月5日、オーロラ・プロジェクト)
* メヴィウス 4 完結中編(7月5日、オーロラ・プロジェクト)
* メヴィウス 4 完結後編(7月5日、オーロラ・プロジェクト)
* 君を犯したい 長瀬愛(7月7日、アイエナジー)
* コスプレ 長瀬あい(7月27日、TMA)
* LOVE2デート(8月21日、ハムレット)
* ROX GIRL COLLECTION 2 長瀬愛、[[聖さやか]](9月1日、桃太郎映像出版)
* 新任教師デラックス 長瀬愛(9月7日、アイエナジー)
* レズれ! 3(9月7日、ハムレット)
* Happy Date 長瀬愛(9月10日、ワンズファクトリー)
* 徹底攻略 長瀬愛(9月10日、ワンズファクトリー)
* みるきぃガ〜ルズ!長瀬愛(9月12日、みるきぃぷりん♪)
* 月刊 長瀬愛(9月28日、[[VIP (アダルトビデオ)|VIP]])
* 君を犯したい 2 長瀬愛(10月6日、アイエナジー)
* 痴女行為の虜になった私たち 4 長瀬愛、一色志乃(10月6日、SODクリエイト)
* 人気女優で抜こう!!(10月12日、VIP)
* 最後の長瀬愛(10月12日、TMA)
* 愛をください 長瀬愛(10月26日、[[ビッグモーカル]])
* ときめき女子校生 シリーズ Vol.1 長瀬愛(11月8日、ディープス)
* 長瀬愛の箱(12月5日、ワンズファクトリー)
* 妄想劇場 第1話 強制フェラチオお腹いっぱい(12月7日、アイエナジー)
* ありがとう 長瀬愛(12月14日、グレイズ)
* 妹はあまえんぼう(12月23日、[[レイディックス]])
* 主演監督 長瀬愛(12月27日、ワンズファクトリー)
;2002年
* EROCCO(1月18日、アリーナ)他多数出演
* REAL MODELS 20(2月1日、[[トータル・メディア・エージェンシー|TMA]])
* 青い性欲 女優編ベスト 森下 笠木 長瀬 [[森下くるみ]]、[[笠木忍]]、長瀬愛(4月6日、ドグマ)
* ルームメイト(4月6日、[[ドグマ (アダルトビデオ)|ドグマ]])
* 超‐股間のアングル(5月1日、ワンズファクトリー)
* 生 女子校生 長瀬愛(5月3日、デジタルドリーム)
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* 完全 長瀬愛(6月14日、デジタルドリーム)
* 長瀬愛スペシャル(7月5日、アイエナジー)
* ロリータ監禁レズ(7月19日、[[SODクリエイト]])
* みるきぃHiスクール。長瀬愛 2(8月1日、みるきぃぷりん♪)
* わたしの全部見せてアゲル AI NAGASE[長瀬愛](8月1日、美人画報)
* 長瀬愛、[[堤さやか]]、[[桃井望]] デラックス(8月4日、アイエナジー)
* The Best of Angel Girl [[広末奈緒]]×長瀬愛(8月8日、アイデアポケット)
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* あいふたたび 長瀬愛(10月1日、TMA)
* WWAV 〜第二章〜 兆し(10月25日、オブテイン・フューチャー)
* 続 新任女教師 長瀬愛(11月4日、アイエナジー)
* 特選インディーズアイドル 長瀬愛&[[堤さやか]](11月13日、ハヤブサ)
* 新型マジックミラー号21誕生記念全国出張ファン感謝祭神奈川県[[川崎市]]編(11月20日、SODクリエイト)<ref>{{Cite web|和書|title=【長瀬愛がミラー号でファンと触れ合い!】AVの歴史を変えたSOD珠玉の名作!SODアーカイブス 懐かしのJUKEBOX【新型マジックミラー号21誕生記念 全国出張ファン感謝祭 神奈川県川崎市編】|url=https://news.sod.co.jp/adultvideo/50434/|website=日刊SODオンライン|date=2020-04-04|accessdate=2020-07-06|language=en}}</ref>
* 大暴露(11月20日、[[ネクスト (アダルトビデオ)|ネクストイレブン]])
* ねこねこ狂騒曲(11月20日、クロスフィールド)
* 超高級美少女レズ・ソープ嬢 2 長瀬愛(12月6日、ディープス)
* 新任女教師 君を犯したいスペシャル 輪姦伝説(12月6日、アイエナジー)
* 長瀬愛のレズ第2弾 澤宮有希ちゃんと濃厚レズファック(12月6日、素人倶楽部)
* THE 痴女 淫女男喰(12月6日、[[ジャネス]])
* Private Teacher 長瀬愛 相沢まほ(12月18日、ジャネス)
* first lady 長瀬愛(12月18日、ジャネス)
* W痴女 長瀬愛&[[堤さやか]](12月18日、ジャネス)
* 人気女優8人が!!(12月20日、ネクストイレブン)
* WWAV 〜最終章 JUDGMENT DAY〜(12月20日、オブテイン・フューチャー)
* アブノーマルなアイドル(12月22日、銀河映像)
* EROTIC DANCE 長瀬愛&[[堤さやか]](12月27日、ジャネス)
;2003年
* 大衆風俗嬢(1月10日、[[ナチュラルハイ (企業)|ナチュラルハイ]])
* 聖露出 長瀬愛(1月10日、[[ソフト・オン・デマンド|忠実堂]])
* 新型マジックミラー号21誕生記念全国出張ファン感謝祭千葉県[[佐倉市]]編(1月23日、SODクリエイト)
* ADハルナの接吻バトルロワイヤル 2nd BATTLE(2月6日、忠実堂)
* 夢の競演 長瀬愛&泉星香の超過激レズ(素人倶楽部)
* Remix of 樹若菜 [[樹若菜]]、長瀬愛、堤さやか(3月6日、SODクリエイト)
* やみつきプロモ VOL.1 [長瀬愛](3月20日、アイエナジー)
* 体感ファックif...7 僕の彼女は長瀬愛(3月28日、桃太郎映像出版)
* 堤さやかデラックス 堤さやか、長瀬愛、桃井望(4月5日、アイエナジー)
* NG!!Best of 長瀬愛(4月5日、アイエナジー)
* 接吻中毒少女(4月10日、ドグマ)
* 濃縮 長瀬愛(4月18日、オブテインフューチャー)
* B P T D-IDOL 長瀬愛 POWER UP RETURNS(4月22日、未来 フューチャー)
* 素人倶楽部オムニ 長瀬愛スペシャル 長瀬愛、[[泉星香]]、[[澤宮有希]](4月22日、素人倶楽部)
* 長瀬愛 完全版(5月1日、ワンズファクトリー)
* 超アイドル長瀬愛のノーモザイクビデオ 穴パン 2003 (5月3日、ディープス)
* IDOL LES 長瀬愛・堤さやか(5月21日、ジャネス)
* 濃縮キャンペーンセット 長瀬愛、[[朝河蘭]]、[[樹若菜]](5月23日、オブテインフューチャー)
* SWEET DEVIL TEACHER 長瀬愛(5月29日、ジャネス)
* P.C.Sport DVD 01 あい 長瀬愛(6月6日、ワールドユニティ)
* 自慰悶絶 長瀬愛(6月12日、ジャネス)
* プレミアム 長瀬あい(7月1日、マルクス兄弟)
* 時空特捜 エレクトリア(7月5日、アイエナジー)
* 獲物 〜狂気の眼〜(7月8日、[[アタッカーズ]])
* 純情女子校生 ゆうか18才Cカップ PART.1&2 長瀬愛(7月11日、オーロラ)
* 濃縮 長瀬愛 2(7月15日、オブテインフューチャー)
* 新人ナースの凌辱教育指導(8月3日、アイエナジー)
* 龍縛監禁凌辱2 女子校生強制処女喪失(8月8日、アタッカーズ)
* THE 長瀬愛(8月8日、ハヤブサ)
* THE 長瀬愛 ANTHOLOGY(8月22日、デジタルバンク)
* 長瀬愛がアナタのお好きなシチュエーションで癒したげるよ(9月1日、[[MOODYZ]])
* 僕だけのペット 長瀬愛(9月5日、アイエナジー)
* 濃縮 長瀬愛 3(9月19日、オブテインフューチャー)
* 長瀬愛ベストコレクション(10月10日、ドグマ)
* 完全 長瀬愛2(10月17日、デジタルドリーム)
* No.1 美女 11人斬り OL+女教師4時間(11月6日、アイエナジー)
* 長瀬愛 4時間1980円(11月20日、ディープス)
* 長瀬あいの完全ハメ撮り コスプレSM(11月20日、素人倶楽部)
* 3人バイブ責めでイキまくりの連続 これが素人倶楽部の原点だ!! [[榊うらら]]、長瀬愛、堤さやか(11月20日、素人倶楽部)
* 長瀬愛 公式引退作品(11月21日、アリスJAPAN)
* 長瀬愛とちっちゃい子980(11月21日、エクストリージョン)
* 長瀬愛 連続SEXトランス編集90分(12月10日、ワンズファクトリー)
* 長瀬愛ちゃん、再登場 何十回イッたか教えて下さい!!(12月26日、素人倶楽部)
* 長瀬愛 LAST(12月10日ルファーインターナショナル)
;2004年
* さやか&あいの自我撮りオナニー 堤さやか、長瀬愛(2月9日、素人倶楽部)
* 独占 長瀬愛(2月20日、デジタルドリーム)
* DANCING IDOLS 長瀬愛、堤さやか、[[笠木忍]]、桃井望(3月19日、ジャネス)
* 密輸入密造DVD 堤さやか、長瀬愛、桃井望 緊急放出(5月8日、秘密結社「Z」)
* 長瀬愛の表で発売できない 裏 DVD(7月22日、裏もの.Network.)
;2005年
* 裏ビデオ 堤さやか、長瀬愛、桃井望(2月22日、裏屋)
* 長瀬愛 -厳選特集- 創刊号(4月22日、ザイエ)
* 夢の競演 長瀬愛&[[泉星香]]の超過激レズ(7月15日、素人倶楽部)
* 衝撃裏映像 堤さやか 長瀬愛(10月25日、極宣企画)
* 生でベロベロいかせて!19 【12人の咥える女たち】(11月28日、ボーダー)
;2006年
* 人工膣型 長瀬愛 感触ホール(6月7日、LUCKY TIME)
* 私立ご奉仕学園 エロカワ日記 長瀬愛、堤さやか、[[渋谷りな]](6月23日、デジタルバンク)
* サンプルビデオ流出 長瀬愛(8月25日、ホッサン)
;2008年
* W出演 [[堤さやか]]・長瀬愛 型抜きホール(8月25日、おもちゃ)
* 完全限定生産 SOFT ON DEMAND ClassicBox Platinum(10月9日、SODクリエイト)
;2009年
* DIGITAL REMOSAIC あいふたたび(7月31日、DIGITAL REMOSAIC)
* MOSAIC REMASTER Love,Day After Tomorow(8月21日、グレイズ)
;2011年
* 長瀬愛スペシャルコレクション(4月13日、オーロラプロジェクト・アネックス)
;発売日不明
* 美少女監禁性奴隷(帝国映像)
* メガロマニアデラックス(アクセス)
* クアトロ(販売麒麟堂、企画制作クアトロプロジェクト)
* 長瀬愛の催眠伝説(バーチャルカンパニー)
== 書籍 ==
=== 写真集 ===
* 感傷旅行(2001年12月、[[メディアックス]]、撮影:西尾和久)ISBN 978-4896136777
* ナガセ・ハシル!(2002年5月、[[ぶんか社]]、撮影:吉田裕之)ISBN 978-4821124244
* ラブラブ 長瀬愛(2002年9月、バウハウスムック)
=== コミック ===
* 長瀬愛物語(2003年5月、ジュネコミックス)(原案:長瀬愛 作画:[[近石雅史]])
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
※以下は、[[レイティング|18禁]]サイト
* {{Xcity|945|長瀬愛}}
* [https://www.alicejapan.co.jp/actress.php?actress_id=1b71a28cca20351057adc95b6fa44323 アリスJAPAN 女優詳細 長瀬愛]
{{デフォルトソート:なかせ あい}}
[[Category:日本のAV女優]]
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西ヨーロッパ
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西ヨーロッパ(にしヨーロッパ、英: Western Europe、仏: L’europe de l'ouest、独: Westeuropa)とは、ヨーロッパの西部地域を指す語である。西欧(せいおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは、分類の仕方により異なる。
ローマ帝国の下で統一されていた(パクス・ロマーナ)ヨーロッパ世界は、ゲルマン民族の大移動をうけて、その西部であるロマンス語圏がゲルマン民族の諸王国の下に置かれるようになった。一方で、首都コンスタンティノープルを中心とするギリシア語圏はローマ帝国の領域に留まった(東ローマ帝国)。
西方ヨーロッパではゲルマン諸王国のうち、ローマ市のカトリック教会と結んだフランク王国が覇権を確立した。フランク王国は北アフリカからイベリア半島を支配したウマイヤ朝の侵攻を食い止め、カトリックの教皇から西ローマ帝国の帝冠を受け、東ローマ帝国の宗主権から脱した、ローマ・カトリック教会に帰依する独自の秩序を形成した。東ローマ帝国のギリシア化や、コンスタンティノープルとローマの東西教会の相互破門を経て、ローマ・カトリックを戴きラテン語をリングワ・フランカとするロマンス語・ゲルマン語・西スラブ語圏(ルーマニアを除く)と、コンスタンティノープルを首座とする正教会を戴くギリシア語・東スラブ語・南スラブ語圏(クロアチア以北を除く)がそれぞれ独自のまとまりとなっていった。
さらに東スラブ地域にはモンゴル帝国系の征服王朝が成立し、バルカン半島はオスマン朝に長らく支配され、対照的に外来勢力の支配を受けなかった西ヨーロッパは、東方から科学や哲学を学びながらも独自の文化を形成する。
東ヨーロッパとは地理的特徴よりむしろ歴史、文化により区別される。基本的に、この概念は民主主義と関連していて、イギリスでは大憲章マグナカルタにより議会がつくられフランスでも三部会が開かれたことにより西欧といえば民主主義国家と考えられるようになった。また、西ヨーロッパの諸国においては、アメリカ合衆国やカナダと文化、経済体制、および政治的な伝統において多くの点で共通すると考えられる。第一次世界大戦以前においては、西ヨーロッパといえばフランス、イギリス諸島、およびベネルクス三国のことであった。
第二次世界大戦後の冷戦期において、ソビエト連邦の影響力の元に共産主義化されていない、鉄のカーテンの西側の諸国を指すようになった(ただし、ギリシャ・トルコ・キプロスは除かれることもある)。このとき、東ヨーロッパの計画経済に対抗する市場経済の様相を補完する用語としてイデオロギー的に用いられた。ゆえにNATOの枠外の民主主義国家であるフィンランド・スウェーデン・スイスや、独裁国家であったスペイン・ポルトガルも西ヨーロッパに含まれた。また、地理的には明らかにヨーロッパの西部には位置していないギリシャやトルコも、NATOのメンバーであったということから西ヨーロッパに含まれることがあった。
2004年のヨーロッパ連合の拡大まで、西ヨーロッパの概念はヨーロッパ連合に関連して考えられることがあった(ただし、ヨーロッパ連合のメンバーでないスイスやノルウェーは明らかに西ヨーロッパであった)。今日、NATOやヨーロッパ連合と西ヨーロッパの概念のつながりは歴史的なものになりつつある。
西ヨーロッパには多数の先進国が集中しており、北米や東アジアと並んで経済規模が大きいという特徴を持つ。また、広義の西欧に含まれる英仏独伊はヨーロッパにおける四大国「ビッグ4」と呼ばれ、G7・G20への参加や世界のGDPランキングで四ヵ国とも10位以内に収まるなど、列強が集中しているという特徴もある。
国際連合統計局による分類
冷戦における西側という意味で「西欧」とされた国で、北大西洋条約機構に加盟していた。非加盟国も東側ではないということで西側に含めることが多い。
国際連合による分類では、中央ヨーロッパに含まれる以下の国々を含める。
これに対しCIAによる分類では、北ヨーロッパに含まれる以下のブリテン諸島の国々を含める。
また、南ヨーロッパの以下の国々を含める場合もある。
西ヨーロッパの気候はイタリア、ポルトガルおよびスペイン海岸の亜熱帯とステップ気候からピレネー山脈やアルプス山脈の高山気候までさまざまである。南部の地中海性気候は乾燥して温暖である。西部と北西部は北大西洋海流の影響により、穏やかで全般的に湿潤な気候である。西ヨーロッパは熱波の中心地であり、北半球中緯度の他の地域と比べて3-4倍早い上昇傾向を示す。
西ヨーロッパの言語はほとんどがインド・ヨーロッパ語族の2つの語派に分類される。ローマ帝国のラテン語の子孫であるロマンス諸語と、南スカンジナビアから来たゲルマン祖語の子孫であるゲルマン語派である。 ロマンス諸語は基本的に西ヨーロッパの南部と中央部で話され、ゲルマン語派は北部 (ブリテン諸島とネーデルラント) に加えて北および中央ヨーロッパの大部分で話される。
他の西ヨーロッパの言語にはケルト語派 (すなわちアイルランド語、スコットランド・ゲール語、マン島語、ウェールズ語、コーンウォール語およびブルトン語) と、ヨーロッパに現存する唯一の孤立した言語であるバスク語が含まれる。
多言語と地域言語および少数言語の保護とは今日の西ヨーロッパにおける政治的な目標と認識されている。欧州評議会少数者保護枠組条約(英語版)と欧州評議会の地方言語または少数言語のための欧州憲章がヨーロッパにおける法的な枠組みを打ち立てている。
西ヨーロッパは世界で最も裕福な地域の1つである。ドイツの国内総生産はヨーロッパで最も高く、どの国よりも財政黒字が大きい。ルクセンブルクの国民1人あたりGDPは世界一であり、ドイツの国民純資産は欧州の他のどの国よりも高い。
スイスとルクセンブルクの平均賃金は、名目賃金と購買力平価においてそれぞれ世界一である。ノルウェーの社会進歩指標(英語版)における順位は世界一である。
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"text": "第二次世界大戦後の冷戦期において、ソビエト連邦の影響力の元に共産主義化されていない、鉄のカーテンの西側の諸国を指すようになった(ただし、ギリシャ・トルコ・キプロスは除かれることもある)。このとき、東ヨーロッパの計画経済に対抗する市場経済の様相を補完する用語としてイデオロギー的に用いられた。ゆえにNATOの枠外の民主主義国家であるフィンランド・スウェーデン・スイスや、独裁国家であったスペイン・ポルトガルも西ヨーロッパに含まれた。また、地理的には明らかにヨーロッパの西部には位置していないギリシャやトルコも、NATOのメンバーであったということから西ヨーロッパに含まれることがあった。",
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"text": "2004年のヨーロッパ連合の拡大まで、西ヨーロッパの概念はヨーロッパ連合に関連して考えられることがあった(ただし、ヨーロッパ連合のメンバーでないスイスやノルウェーは明らかに西ヨーロッパであった)。今日、NATOやヨーロッパ連合と西ヨーロッパの概念のつながりは歴史的なものになりつつある。",
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"text": "西ヨーロッパには多数の先進国が集中しており、北米や東アジアと並んで経済規模が大きいという特徴を持つ。また、広義の西欧に含まれる英仏独伊はヨーロッパにおける四大国「ビッグ4」と呼ばれ、G7・G20への参加や世界のGDPランキングで四ヵ国とも10位以内に収まるなど、列強が集中しているという特徴もある。",
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"text": "国際連合統計局による分類",
"title": "国際連合の分類 (現在)"
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"text": "冷戦における西側という意味で「西欧」とされた国で、北大西洋条約機構に加盟していた。非加盟国も東側ではないということで西側に含めることが多い。",
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"text": "国際連合による分類では、中央ヨーロッパに含まれる以下の国々を含める。",
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"text": "これに対しCIAによる分類では、北ヨーロッパに含まれる以下のブリテン諸島の国々を含める。",
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"text": "また、南ヨーロッパの以下の国々を含める場合もある。",
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"text": "西ヨーロッパの気候はイタリア、ポルトガルおよびスペイン海岸の亜熱帯とステップ気候からピレネー山脈やアルプス山脈の高山気候までさまざまである。南部の地中海性気候は乾燥して温暖である。西部と北西部は北大西洋海流の影響により、穏やかで全般的に湿潤な気候である。西ヨーロッパは熱波の中心地であり、北半球中緯度の他の地域と比べて3-4倍早い上昇傾向を示す。",
"title": "気候"
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"text": "西ヨーロッパの言語はほとんどがインド・ヨーロッパ語族の2つの語派に分類される。ローマ帝国のラテン語の子孫であるロマンス諸語と、南スカンジナビアから来たゲルマン祖語の子孫であるゲルマン語派である。 ロマンス諸語は基本的に西ヨーロッパの南部と中央部で話され、ゲルマン語派は北部 (ブリテン諸島とネーデルラント) に加えて北および中央ヨーロッパの大部分で話される。",
"title": "言語"
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"text": "他の西ヨーロッパの言語にはケルト語派 (すなわちアイルランド語、スコットランド・ゲール語、マン島語、ウェールズ語、コーンウォール語およびブルトン語) と、ヨーロッパに現存する唯一の孤立した言語であるバスク語が含まれる。",
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"text": "多言語と地域言語および少数言語の保護とは今日の西ヨーロッパにおける政治的な目標と認識されている。欧州評議会少数者保護枠組条約(英語版)と欧州評議会の地方言語または少数言語のための欧州憲章がヨーロッパにおける法的な枠組みを打ち立てている。",
"title": "言語"
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"text": "西ヨーロッパは世界で最も裕福な地域の1つである。ドイツの国内総生産はヨーロッパで最も高く、どの国よりも財政黒字が大きい。ルクセンブルクの国民1人あたりGDPは世界一であり、ドイツの国民純資産は欧州の他のどの国よりも高い。",
"title": "経済"
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"text": "スイスとルクセンブルクの平均賃金は、名目賃金と購買力平価においてそれぞれ世界一である。ノルウェーの社会進歩指標(英語版)における順位は世界一である。",
"title": "経済"
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] |
西ヨーロッパとは、ヨーロッパの西部地域を指す語である。西欧(せいおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは、分類の仕方により異なる。
|
{{出典の明記|date=2012年8月}}
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[[File:Europe subregion map UN geoscheme.svg|right|thumb|250px|[[国際連合]]によるヨーロッパの地域の分類(西ヨーロッパは水色)<ref name="a"/>
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[[ファイル:Europe subregion map world factbook.svg|thumb|right|250px|[[CIA World Factbook]]によるヨーロッパの地域の分類
{{legend|#007FFF|北ヨーロッパ}}
{{legend|#00FFFF|'''西ヨーロッパ'''}}
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'''西ヨーロッパ'''(にしヨーロッパ、{{lang-en-short|Western Europe}}、{{lang-fr-short|L’europe de l'ouest}}、{{lang-de-short|Westeuropa}})とは、[[ヨーロッパ]]の西部地域を指す語である。'''西欧'''(せいおう)とも呼ばれる。具体的にどの地方や国を含めるかは、分類の仕方により異なる。
== 成り立ち ==
[[ローマ帝国]]の下で統一されていた([[パクス・ロマーナ]])ヨーロッパ世界は、[[ゲルマン民族の大移動]]をうけて、その西部である[[ロマンス語]]圏が[[ゲルマン民族]]の諸王国の下に置かれるようになった。一方で、首都[[コンスタンティノープル]]を中心とする[[ギリシア語]]圏はローマ帝国の領域に留まった([[東ローマ帝国]])。
西方ヨーロッパではゲルマン諸王国のうち、[[ローマ市]]の[[カトリック教会]]と結んだ[[フランク王国]]が覇権を確立した。フランク王国は[[北アフリカ]]から[[イベリア半島]]を支配した[[ウマイヤ朝]]の侵攻を食い止め、カトリックの[[教皇]]から[[西ローマ帝国]]の帝冠を受け、東ローマ帝国の宗主権から脱した、ローマ・カトリック教会に帰依する独自の秩序を形成した。東ローマ帝国のギリシア化や、コンスタンティノープルとローマの[[東西教会の分裂|東西教会の相互破門]]を経て、ローマ・カトリックを戴き[[ラテン語]]を[[リングワ・フランカ]]とするロマンス語・[[ゲルマン語]]・[[西スラブ語]]圏([[ルーマニア]]を除く)と、コンスタンティノープルを首座とする[[正教会]]を戴くギリシア語・[[東スラブ語]]・[[南スラブ語]]圏([[クロアチア]]以北を除く)がそれぞれ独自のまとまりとなっていった。
さらに[[東スラブ]]地域には[[モンゴル帝国]]系の征服王朝が成立し、[[バルカン半島]]は[[オスマン朝]]に長らく支配され、対照的に外来勢力の支配を受けなかった西ヨーロッパは、東方から科学や哲学を学びながらも独自の文化を形成する。
== 特徴 ==
[[File:Europe-western-countries.svg|thumb|250px|広義の西ヨーロッパ(濃い黄色の部分は狭義の西ヨーロッパ)]]
[[東ヨーロッパ]]とは[[地理]]的特徴よりむしろ[[歴史]]、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]により区別される。基本的に、この概念は[[民主主義]]と関連していて、イギリスでは大憲章マグナカルタにより議会がつくられフランスでも三部会が開かれたことにより西欧といえば民主主義国家と考えられるようになった。また、西ヨーロッパの諸国においては、[[アメリカ合衆国]]や[[カナダ]]と[[文化_(代表的なトピック)|文化]]、[[経済|経済体制]]、および[[政治]]的な伝統において多くの点で共通すると考えられる。[[第一次世界大戦]]以前においては、西ヨーロッパといえば[[フランス]]、[[イギリス諸島]]、および[[ベネルクス]]三国のことであった。
[[第二次世界大戦]]後の[[冷戦]]期において、[[ソビエト連邦]]の影響力の元に[[共産主義]]化されていない、[[鉄のカーテン]]の西側の諸国を指すようになった(ただし、[[ギリシャ]]・[[トルコ]]・[[キプロス]]は除かれることもある)。このとき、東ヨーロッパの[[計画経済]]に対抗する[[市場経済]]の様相を補完する用語としてイデオロギー的に用いられた。ゆえに[[北大西洋条約機構|NATO]]の枠外の民主主義国家である[[フィンランド]]・[[スウェーデン]]・[[スイス]]や、[[独裁政治|独裁国家]]であった[[スペイン]]・[[ポルトガル]]も西ヨーロッパに含まれた。また、地理的には明らかにヨーロッパの西部には位置していないギリシャやトルコも、NATOのメンバーであったということから西ヨーロッパに含まれることがあった。
2004年の[[ヨーロッパ連合]]の拡大まで、西ヨーロッパの概念はヨーロッパ連合に関連して考えられることがあった(ただし、ヨーロッパ連合のメンバーでないスイスや[[ノルウェー]]は明らかに西ヨーロッパであった)。今日、NATOやヨーロッパ連合と西ヨーロッパの概念のつながりは歴史的なものになりつつある。
西ヨーロッパには多数の[[先進国]]が集中しており、北米や東アジアと並んで経済規模が大きいという特徴を持つ。また、広義の西欧に含まれる英仏独伊はヨーロッパにおける四大国「[[ビッグ4 (ヨーロッパ)|ビッグ4]]」と呼ばれ、[[G7]]・[[G20]]への参加や世界のGDPランキングで四ヵ国とも10位以内に収まるなど、[[列強]]が集中しているという特徴もある。
== 国際連合の分類 (現在) ==
* {{Flagcountry|Austria}}
* {{Flagcountry|Belgium}}
* {{Flagcountry|France}}
* {{Flagcountry|Germany}}
* {{Flagcountry|Liechtenstein}}
* {{Flagcountry|Luxembourg}}
* {{Flagcountry|Monaco}}
* {{Flagcountry|Netherlands}}
* {{Flagcountry|Switzerland}}
[[国際連合]]統計局による分類 <ref name="a">[http://unstats.un.org/unsd/methods/m49/m49regin.htm Geographical region and composition] 「Western Europe」参照</ref>
== 歴史的分類 ==
=== 19世紀ごろまで ===
* [[エルベ川]]以西
=== 第一次世界大戦前 ===
* [[ベルギー王国]]
* [[フランス共和国]]
* [[ドイツ帝国]]
* [[ルクセンブルク大公国]]
* [[オランダ王国]]
* [[スイス連邦]]
* [[イギリス]]
=== 冷戦時代 ===
[[冷戦]]における[[西側諸国|西側]]という意味で「西欧」とされた国で、[[北大西洋条約機構]]に加盟していた。非加盟国も[[東側諸国|東側]]ではないということで[[西側諸国|西側]]に含めることが多い。
=== 北大西洋条約機構加盟国 ===
* [[ベルギー]]
* [[デンマーク]]
* [[フランス]]
* [[アイスランド]]
* [[イタリア]]
* [[ルクセンブルク]]
* [[オランダ]]
* [[ノルウェー]]
* [[ポルトガル]]
* [[スペイン]] (1982年加盟)
* [[イギリス]]
* [[西ドイツ]] (1955年加盟)
=== 北大西洋条約機構非加盟国 ===
* [[アンドラ]]
* [[フィンランド]]
* [[アイルランド]]
* [[マルタ]]
* [[モナコ]]
* [[サンマリノ]]
* [[スウェーデン]]
* [[スイス]]
* [[バチカン市国]]
== 民族・地理的分類 ==
=== 狭義 ===
* {{Flagcountry|Belgium}}
* {{Flagcountry|France}}
* {{Flagcountry|Luxembourg}}
* {{Flagcountry|Netherlands}}
=== 広義 ===
国際連合による分類では、中央ヨーロッパに含まれる以下の国々を含める。
* {{Flagcountry|Austria}}
* {{Flagcountry|Germany}}
* {{Flagcountry|Liechtenstein}}
* {{Flagcountry|Switzerland}}
これに対しCIAによる分類では、北ヨーロッパに含まれる以下のブリテン諸島の国々を含める。
* {{Flagcountry|Ireland}}
* {{Flagcountry|United Kingdom}}
また、南ヨーロッパの以下の国々を含める場合もある。
* {{Flagcountry|Andorra}}
* {{Flagcountry|Italy}}
* {{Flagcountry|Malta}}
* {{Flagcountry|Monaco}}
* {{Flagcountry|Portugal}}
* {{Flagcountry|San Marino}}
* {{Flagcountry|Spain}}
* {{Flagcountry|Vatican City}}
== 気候 ==
[[File:Europe Köppen Map.png|thumb|upright=1.25|ヨーロッパの気候。[[ケッペンの気候区分]]地図はイースト・アングリア大学の気候研究ユニットとドイツ気象局の全球降水気候センターによる]]
西ヨーロッパの気候は[[イタリア]]、[[ポルトガル]]および[[スペイン]]海岸の[[亜熱帯]]と[[ステップ気候]]から[[ピレネー山脈]]や[[アルプス山脈]]の[[高山気候]]までさまざまである。南部の[[地中海性気候]]は乾燥して温暖である。西部と北西部は[[北大西洋海流]]の影響により、穏やかで全般的に湿潤な気候である。西ヨーロッパは[[熱波]]の中心地であり、北半球中緯度の他の地域と比べて3-4倍早い上昇傾向を示す<ref>{{Cite journal |last1=Rousi |first1=Efi |last2=Kornhuber |first2=Kai |last3=Beobide-Arsuaga |first3=Goratz |last4=Luo |first4=Fei |last5=Coumou |first5=Dim |date=2022-07-04 |title=Accelerated western European heatwave trends linked to more-persistent double jets over Eurasia |url=https://www.nature.com/articles/s41467-022-31432-y |journal=Nature Communications |language=en |volume=13 |issue=1 |pages=3851 |doi=10.1038/s41467-022-31432-y |bibcode=2022NatCo..13.3851R |s2cid=250282752 |issn=2041-1723}}</ref>。
== 言語 ==
西ヨーロッパの言語はほとんどが[[インド・ヨーロッパ語族]]の2つの語派に分類される。[[ローマ帝国]]の[[ラテン語]]の子孫である[[ロマンス諸語]]と、南[[スカンジナビア]]から来た[[ゲルマン祖語]]の子孫である[[ゲルマン語派]]である<ref name="Encyclopædia Britannica">{{cite encyclopedia|url=http://www.britannica.com/eb/article-9106055|title=Europe|year=2007|encyclopedia=[[Encyclopædia Britannica]]|access-date=10 June 2008}}</ref>。
ロマンス諸語は基本的に西ヨーロッパの南部と中央部で話され、ゲルマン語派は北部 ([[ブリテン諸島]]と[[ネーデルラント]]) に加えて[[北ヨーロッパ|北]]および[[中央ヨーロッパ]]の大部分で話される<ref name="Encyclopædia Britannica" />。
他の西ヨーロッパの言語には[[ケルト語派]] (すなわち[[アイルランド語]]、[[スコットランド・ゲール語]]、[[マン島語]]、[[ウェールズ語]]、[[コーンウォール語]]および[[ブルトン語]]<ref name="Encyclopædia Britannica" />) と、ヨーロッパに現存する唯一の[[孤立した言語]]である[[バスク語]]が含まれる<ref>{{Cite web|title=Basque language|url=https://www.britannica.com/topic/Basque-language|access-date=16 June 2020|website=Encyclopedia Britannica|language=en}}</ref>。
多言語と地域言語および少数言語の保護とは今日の西ヨーロッパにおける政治的な目標と認識されている。[[欧州評議会]]{{仮リンク|少数者保護枠組条約|en|Framework Convention for the Protection of National Minorities}}と欧州評議会の[[地方言語または少数言語のための欧州憲章]]がヨーロッパにおける法的な枠組みを打ち立てている{{cn|date=April 2018}}。
== 経済 ==
西ヨーロッパは世界で最も裕福な地域の1つである。[[ドイツ]]の[[国内総生産]]はヨーロッパで最も高く、どの国よりも財政黒字が大きい。[[ルクセンブルク]]の国民1人あたりGDPは世界一であり、ドイツの[[国富|国民純資産]]は欧州の他のどの国よりも高い<ref>{{Cite web|title=GDP (current US$) - European Union {{!}} Data|url=https://data.worldbank.org/indicator/NY.GDP.MKTP.CD?locations=EU|access-date=2021-03-12|website=data.worldbank.org}}</ref>。
[[スイス]]とルクセンブルクの[[平均賃金]]は、名目賃金と[[購買力平価説|購買力平価]]においてそれぞれ世界一である。[[ノルウェー]]の{{仮リンク|社会進歩指標|en|Social Progress Index}}における順位は世界一である<ref>{{cite web|url=https://www.socialprogress.org/index/global/results|title=2020 Social Progress Index|publisher=The Social Progress Imperative|access-date=29 December 2020}}</ref>。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[東ヨーロッパ]]
* [[中央ヨーロッパ]]
* [[北ヨーロッパ]]
* [[南ヨーロッパ]]
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[[Category:西欧|*]]
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16,464 |
保安装置
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保安装置(ほあんそうち)は、システムを安全に運用するために装置を組み合わせたものである。
設計段階で考えられるすべての場合に安全側動作するように考慮され、確実に動作するように(不要な動作をしないように)、定期的な点検・保守が行われていなければならない。
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保安装置(ほあんそうち)は、システムを安全に運用するために装置を組み合わせたものである。 設計段階で考えられるすべての場合に安全側動作するように考慮され、確実に動作するように(不要な動作をしないように)、定期的な点検・保守が行われていなければならない。
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{{特筆性|date=2020-12-17}}
'''保安装置'''(ほあんそうち)は、[[システム]]を安全に運用するために装置を組み合わせたものである。
設計段階で考えられるすべての場合に安全側動作するように考慮され、確実に動作するように(不要な動作をしないように)、定期的な点検・保守が行われていなければならない。
== 分類 ==
; インターロック装置
: 手順どおりの操作のみを可能とする装置。機械的なものと電子的なものとがある。
; 制御装置
: 安全領域内の動作を保つ装置。制御装置の故障時にも、安全側動作するように設計する。
; 検知装置
: 事故・故障などを検知する装置。1つの検知装置の故障で危険領域の検知が不可能にならないように設計する。
; 保護装置・安全装置
: 想定される故障・事故時に安全側に動作するように、システム自体を設計しておく。
== 関連項目 ==
* [[安全装置]]
* [[信頼性設計]]
* [[ポカヨケ]]
* [[保護継電器]]
* [[自動列車保安装置]]
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16,465 |
JR東西線
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JR東西線(ジェイアールとうざいせん)は、大阪府大阪市城東区の京橋駅から兵庫県尼崎市の尼崎駅に至る鉄道路線である。第三種鉄道事業者の関西高速鉄道が線路などの鉄道施設を保有し、第二種鉄道事業者の西日本旅客鉄道(JR西日本)が旅客運送を行っている(幹線)。
JR西日本では、関西本線(大和路線)のJR難波駅 - 今宮駅間に次ぐ地下路線として1997年3月8日に開業した。同社のアーバンネットワークの路線の一つとなっている。大阪市街地の地下を東西に横断し、起点の京橋駅で片町線(学研都市線)、終点の尼崎駅で東海道本線(JR神戸線)・福知山線(JR宝塚線)と接続し、これらの路線との直通運転が行われている。ラインカラーは桜桃色(■)であり、選定理由は「沿線に造幣局・大阪城公園などの桜の名所を持つイメージ」とされている。路線記号は H 。
「JR」の語を含む「JR東西線」が正式な路線名であり愛称でもある。JR西日本において、路線名の愛称にJRと付けられている事例はあるが、正式な路線名にJRが入るのはJR全社含めて当路線が唯一である。ただし、駅の発車標や車両の行先表示では字数の関係から東西線経由と表示される。
全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれている。また、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。
全区間をJR西日本近畿統括本部が管轄している。尼崎側の関西高速鉄道・JR西日本の施設上の境界は下神崎川橋梁の京橋方(東海道本線との並走区間に入る地点)に設置されている。
京橋駅を出ると、上下線間には片町線(学研都市線)の列車が折り返す引上線がある。また、京橋を出ると右にかつて片町駅に行くための線路跡が見える。この引上線の分岐部から地下に向けて下り勾配を進むと、大阪城北詰駅に着く。ここから加島駅の先までは地下区間で、架線には剛体架線が採用されている。
JR東西線の各駅は下り(尼崎方面)のホームを1番のりばとしている。地下区間の駅は、すべて島式ホーム1面2線の地下駅となっており、絶対信号機のある停車場となっている。また、既にある地下鉄・地下街・淀川の下部を通るため、JR西日本管内でも上位級の急勾配が続き、当線の北新地駅は同社の駅で最深度(標高-23.95 m)に位置している。
大阪城北詰駅を出ると、大川(旧淀川)の下を通って国道1号の地下を、北新地駅付近からは国道2号の地下を御幣島駅まで走る。大阪天満宮駅・北新地駅では可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。海老江駅 - 御幣島間で淀川の下部を通る。淀川を横切る鉄道路線はすべて橋を架けて渡っていたが、JR東西線は初めて水底トンネルで渡る路線となった。
加島駅を発車すると地上に出る。ここからは上下線とも東海道本線(JR神戸線・JR宝塚線)の内側線・外側線の間を走行するが、これはもともと東海道本線の外側線として使用されていた線路をJR東西線に転用し、その外側に東海道本線の外側線が増設されたためである。神崎川を渡ると尼崎駅に到着する。
すべての列車が京橋駅から学研都市線(片町線)に直通し、一部をのぞいて尼崎駅からJR宝塚線(福知山線)宝塚・新三田方面およびJR神戸線(東海道・山陽本線)西明石方面と直通運転している。このため、学研都市線とJR東西線はほぼ一体の運行形態となっている。
運行されている列車種別は普通と快速・区間快速があるが、JR東西線内では全列車が各駅に停車する。区間快速は、学研都市線から直通する列車(日中時間帯の塚口行きは除く)については、京橋駅で種別を普通に変更して運転するため、JR東西線区間で日中以外はJR神戸線・宝塚線からおよび尼崎発で京橋・四条畷方面へ向かう列車のみが運転されている。なお、JR神戸線・宝塚線区間では普通・快速での運行となる。
尼崎方面行きの列車は、尼崎・塚口止まりを除き、京橋駅からJR宝塚線・JR神戸線内の種別を案内し、京橋・四条畷方面行きの列車は、尼崎駅から学研都市線内の種別を案内する。
平日朝ラッシュ時は運行本数が多く、JR神戸線方面からの普通のほか、JR宝塚線からの快速・普通が入る。尼崎駅からは大半がJR宝塚線に直通する。
日中時間帯は1時間に8本運行されている。この時間帯は普通がJR神戸線直通、区間快速が塚口駅発着で運行されている。朝晩には尼崎駅を始発および終点とする列車が設定されているが、JR東西線から京橋駅で折り返す列車はない。尼崎駅ではJR東西線部分に引き上げ線がないため、塚口駅発着または回送として塚口駅・新三田駅まで運行されている。
2008年3月15日から2019年3月15日まで毎日朝夕に、奈良駅 - 尼崎駅間でおおさか東線・関西本線(大和路線)を経由して直通快速が運転されていた。JR東西線内では他の快速と同様に各駅に停車し、尼崎駅では、JR神戸線・JR宝塚線の列車と同一ホームで乗り換えができた。2019年3月16日のおおさか東線全線開業に伴い、学研都市線・JR東西線の放出駅 - 尼崎駅間での運行を終了し、奈良駅 - 新大阪駅間の運転に変更された。
開業以来、大晦日深夜から元旦にかけて、JR東西線では全線において普通のみ臨時列車を増発して終夜運転を実施してきた。運転区間は、直通する学研都市線とJR宝塚線とを通して運行されてきたが、徐々に区間が縮小され、2018年度の時点では運転区間は学研都市線四条畷駅 - JR宝塚線宝塚駅間において普通のみ約30〜60分間隔で実施されたに留まった。2019年度は更に、学研都市線四条畷駅 - 尼崎駅間(JR宝塚線区間は中止)において普通のみ約30分間隔かつ午前3時頃までの運行に縮小され、終夜運転ではなくなった。
なお2020 - 2021年の大晦日から元旦においても、当初は1月1日0時過ぎから3時ごろにかけて臨時列車を30分間隔で延長運転を実施すると発表していたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大のため、延長運転自体が取りやめられた。
207系の木津側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
JR東西線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。
JR東西線は架線に剛体架線を使用しているため、電動車にパンタグラフを2基装備した電車が乗り入れる。2基使用するのはJR東西線内のみで、他の線区では京都・木津寄りの1基は下降している。パンタグラフの昇降は京橋駅・尼崎駅で行う。現在、JR東西線で定期運用されているのは4扉ロングシートの通勤型車両207系・321系(いずれも網干総合車両所明石支所の所属)である。
なお、2008年3月15日から2011年3月11日まで、おおさか東線経由の尼崎駅 - 奈良駅間の直通快速には宮原総合運転所(現:網干総合車両所宮原支所)の223系6000番台が使用されていたが、ホームドア設置に伴い車両ドア数を統一するため、4扉車両での運転となった。
JR東西線に係わる旅客営業規則に定められた乗車制度の特例は次のものがある。
旅客の利便性向上のため、大阪駅・北新地駅発着または経由の定期券・回数券については、次の通り他経路乗車が認められている(他経路区間での乗降はできない)。また、この制度を利用して乗り越しをした場合、乗客に有利な扱いを行っている。
なお、「尼崎駅 - 大阪駅」の定期券で尼崎駅から乗車し、北新地駅の手前の新福島駅で下車した場合は、この特例の対象とはならず定期券区間外となる「尼崎駅 - 新福島駅」の運賃190円を支払う。
大阪市内発着となる乗車券については、次のような特例が認められている。
大阪市内発着の乗車券では、大阪市内駅で下車すると本来は前途無効になるが、大阪駅と北新地駅のあいだを当日中に徒歩連絡する場合に限り、改札を出て乗り継ぐことができる。
大阪市内発着の乗車券は、尼崎駅(大阪市外)で途中下車しない限り、加島駅 - 尼崎駅 - 塚本駅間を乗車できる。
通常、特定都区市内の適用は強制(途中下車を目的とした適用除外は不可)であるが、特定都区市内を通過し外を経てから再びその都市内に戻る場合は適用除外となる(旅客営業規則86条)。本特例は尼崎駅を経由することを事実上「外を経て」いないものとみなすものであるが、旅客営業規則に規定がないため、原則通り経路指定単駅発着の乗車券を購入することで尼崎駅および経路上の大阪市内各駅で途中下車することも可能である。
大阪市内着の乗車券で尼崎駅以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)に乗り越した場合、乗車経路にかかわらず加島駅から乗り越したものとして精算する。
尼崎以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)の発駅から加島着の乗車券及び、大阪市内発の乗車券を併用する乗客は、別途運賃を支払うことなく、当該発駅から最終の着駅まで乗車できる。逆に、大阪市内着の乗車券及び、加島発尼崎以遠着の乗車券を併用する場合も、同様である。
沿線の都市化が進んでいた片町線と福知山線を地下線で結ぶ片福連絡線として計画され、1971年(昭和46年)の都市交通審議会答申第13号で「新設すべき路線のうち緊急に実施すべき区間」とされたが着工されず、1981年に日本国有鉄道法53条第4号により「大阪環状線京橋 - 大阪間、東海道本線大阪 - 尼崎間線路増設(京橋 - 尼崎間に1複複線増線する)」として当時の運輸省から認可を受けたが、財政難から着工は見送られた。国鉄分割民営化後、片福連絡線の免許はJR西日本に承継された。
JR西日本単独での建設は困難なため、1988年に鉄道施設の建設・保有を行う第三セクター会社の関西高速鉄道が設立され、JR西日本が鉄道施設の貸付を受けて列車の運行を行うことになった。1989年には「(前略)片町線と福知山線を相互直通運転で(神戸三田国際公園都市と関西文化学術研究都市を)結ぶことによって、東西方向の都心貫通型広域鉄道幹線を形成するために必要な路線、大阪環状線の混雑緩和にも資する路線」として再度位置づけられ、この年ようやく着工された。
当初は1995年春に開業予定だったが、海老江付近で出水事故が発生したため開業が2年遅れた。駅名は、開業後すべて建設中の仮称と異なる駅名が採用された(建設時の仮称は、大阪城北詰駅:片町駅、大阪天満宮駅:南森町駅、北新地駅:桜橋駅、新福島駅:福島駅、海老江駅:野田阪神駅、御幣島駅:歌島橋駅、加島駅:竹島駅)。
1980年に、1978年に発足した「片福連絡線調査委員会」がまとめた中間報告書によると、ルート案は以下の通り3つ挙げられた。いずれのルート案も京橋駅から北新地駅を過ぎて阪神高速道路と交差する付近までは同じである。
これらの案のうち、阪神野田駅・地下鉄野田阪神駅と接続し、大阪市営地下鉄の路線網の空白地帯だった歌島橋付近の新たな鉄道サービス、大阪市交通局(当時)のバスターミナルの統合といった交通計画や沿線開発のインパクトや、JR神戸線と直通運転が可能であること、建設費が他の2案の中間的なものであるから、C案を推進した。
しかしその後は、国鉄の財政赤字のために長期にわたって建設の目処がたたず、建設費の削減のため大阪駅西方で東海道本線に乗り入れる案や、さらに三線軌条として阪神・京阪の直通運転も行う案まで検討された。
尼崎駅構内の配線は当初、4面7線の構造で福知山線(JR宝塚線)の取り付け部を変更せず、JR東西線を上下内外側線の間から方向別に取り付ける形で計画されていたが、宝塚方面・JR東西線の直通運転を行う場合、外側線を横断して平面交差することから順方向のほとんどで同一ホームで乗り換えができるように構内配線を変更して、現在の配線に決定した。
地下線区間である大阪城北詰駅 - 加島駅の各駅では、駅ごとに当地の歴史や地理を反映したシンボルが定められており、ホームの壁面に掲出されている。
大阪城北詰駅・新福島駅・海老江駅・加島駅は、株式会社JR西日本交通サービスによる業務委託駅となっており、それ以外の駅がJR西日本直営駅である。
|
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"text": "JR東西線(ジェイアールとうざいせん)は、大阪府大阪市城東区の京橋駅から兵庫県尼崎市の尼崎駅に至る鉄道路線である。第三種鉄道事業者の関西高速鉄道が線路などの鉄道施設を保有し、第二種鉄道事業者の西日本旅客鉄道(JR西日本)が旅客運送を行っている(幹線)。",
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"text": "JR西日本では、関西本線(大和路線)のJR難波駅 - 今宮駅間に次ぐ地下路線として1997年3月8日に開業した。同社のアーバンネットワークの路線の一つとなっている。大阪市街地の地下を東西に横断し、起点の京橋駅で片町線(学研都市線)、終点の尼崎駅で東海道本線(JR神戸線)・福知山線(JR宝塚線)と接続し、これらの路線との直通運転が行われている。ラインカラーは桜桃色(■)であり、選定理由は「沿線に造幣局・大阪城公園などの桜の名所を持つイメージ」とされている。路線記号は H 。",
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"text": "「JR」の語を含む「JR東西線」が正式な路線名であり愛称でもある。JR西日本において、路線名の愛称にJRと付けられている事例はあるが、正式な路線名にJRが入るのはJR全社含めて当路線が唯一である。ただし、駅の発車標や車両の行先表示では字数の関係から東西線経由と表示される。",
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"text": "全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれている。また、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。",
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"text": "全区間をJR西日本近畿統括本部が管轄している。尼崎側の関西高速鉄道・JR西日本の施設上の境界は下神崎川橋梁の京橋方(東海道本線との並走区間に入る地点)に設置されている。",
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"text": "京橋駅を出ると、上下線間には片町線(学研都市線)の列車が折り返す引上線がある。また、京橋を出ると右にかつて片町駅に行くための線路跡が見える。この引上線の分岐部から地下に向けて下り勾配を進むと、大阪城北詰駅に着く。ここから加島駅の先までは地下区間で、架線には剛体架線が採用されている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "JR東西線の各駅は下り(尼崎方面)のホームを1番のりばとしている。地下区間の駅は、すべて島式ホーム1面2線の地下駅となっており、絶対信号機のある停車場となっている。また、既にある地下鉄・地下街・淀川の下部を通るため、JR西日本管内でも上位級の急勾配が続き、当線の北新地駅は同社の駅で最深度(標高-23.95 m)に位置している。",
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"text": "大阪城北詰駅を出ると、大川(旧淀川)の下を通って国道1号の地下を、北新地駅付近からは国道2号の地下を御幣島駅まで走る。大阪天満宮駅・北新地駅では可動式ホーム柵(ホームドア)が設置されている。海老江駅 - 御幣島間で淀川の下部を通る。淀川を横切る鉄道路線はすべて橋を架けて渡っていたが、JR東西線は初めて水底トンネルで渡る路線となった。",
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"text": "加島駅を発車すると地上に出る。ここからは上下線とも東海道本線(JR神戸線・JR宝塚線)の内側線・外側線の間を走行するが、これはもともと東海道本線の外側線として使用されていた線路をJR東西線に転用し、その外側に東海道本線の外側線が増設されたためである。神崎川を渡ると尼崎駅に到着する。",
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"text": "すべての列車が京橋駅から学研都市線(片町線)に直通し、一部をのぞいて尼崎駅からJR宝塚線(福知山線)宝塚・新三田方面およびJR神戸線(東海道・山陽本線)西明石方面と直通運転している。このため、学研都市線とJR東西線はほぼ一体の運行形態となっている。",
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"text": "運行されている列車種別は普通と快速・区間快速があるが、JR東西線内では全列車が各駅に停車する。区間快速は、学研都市線から直通する列車(日中時間帯の塚口行きは除く)については、京橋駅で種別を普通に変更して運転するため、JR東西線区間で日中以外はJR神戸線・宝塚線からおよび尼崎発で京橋・四条畷方面へ向かう列車のみが運転されている。なお、JR神戸線・宝塚線区間では普通・快速での運行となる。",
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"text": "尼崎方面行きの列車は、尼崎・塚口止まりを除き、京橋駅からJR宝塚線・JR神戸線内の種別を案内し、京橋・四条畷方面行きの列車は、尼崎駅から学研都市線内の種別を案内する。",
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"text": "平日朝ラッシュ時は運行本数が多く、JR神戸線方面からの普通のほか、JR宝塚線からの快速・普通が入る。尼崎駅からは大半がJR宝塚線に直通する。",
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"text": "日中時間帯は1時間に8本運行されている。この時間帯は普通がJR神戸線直通、区間快速が塚口駅発着で運行されている。朝晩には尼崎駅を始発および終点とする列車が設定されているが、JR東西線から京橋駅で折り返す列車はない。尼崎駅ではJR東西線部分に引き上げ線がないため、塚口駅発着または回送として塚口駅・新三田駅まで運行されている。",
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"text": "2008年3月15日から2019年3月15日まで毎日朝夕に、奈良駅 - 尼崎駅間でおおさか東線・関西本線(大和路線)を経由して直通快速が運転されていた。JR東西線内では他の快速と同様に各駅に停車し、尼崎駅では、JR神戸線・JR宝塚線の列車と同一ホームで乗り換えができた。2019年3月16日のおおさか東線全線開業に伴い、学研都市線・JR東西線の放出駅 - 尼崎駅間での運行を終了し、奈良駅 - 新大阪駅間の運転に変更された。",
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"text": "開業以来、大晦日深夜から元旦にかけて、JR東西線では全線において普通のみ臨時列車を増発して終夜運転を実施してきた。運転区間は、直通する学研都市線とJR宝塚線とを通して運行されてきたが、徐々に区間が縮小され、2018年度の時点では運転区間は学研都市線四条畷駅 - JR宝塚線宝塚駅間において普通のみ約30〜60分間隔で実施されたに留まった。2019年度は更に、学研都市線四条畷駅 - 尼崎駅間(JR宝塚線区間は中止)において普通のみ約30分間隔かつ午前3時頃までの運行に縮小され、終夜運転ではなくなった。",
"title": "運行形態"
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"text": "なお2020 - 2021年の大晦日から元旦においても、当初は1月1日0時過ぎから3時ごろにかけて臨時列車を30分間隔で延長運転を実施すると発表していたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大のため、延長運転自体が取りやめられた。",
"title": "運行形態"
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"text": "207系の木津側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。",
"title": "運行形態"
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"text": "JR東西線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。",
"title": "運行形態"
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"text": "JR東西線は架線に剛体架線を使用しているため、電動車にパンタグラフを2基装備した電車が乗り入れる。2基使用するのはJR東西線内のみで、他の線区では京都・木津寄りの1基は下降している。パンタグラフの昇降は京橋駅・尼崎駅で行う。現在、JR東西線で定期運用されているのは4扉ロングシートの通勤型車両207系・321系(いずれも網干総合車両所明石支所の所属)である。",
"title": "使用車両"
},
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"text": "なお、2008年3月15日から2011年3月11日まで、おおさか東線経由の尼崎駅 - 奈良駅間の直通快速には宮原総合運転所(現:網干総合車両所宮原支所)の223系6000番台が使用されていたが、ホームドア設置に伴い車両ドア数を統一するため、4扉車両での運転となった。",
"title": "使用車両"
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"text": "JR東西線に係わる旅客営業規則に定められた乗車制度の特例は次のものがある。",
"title": "乗車制度"
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"text": "旅客の利便性向上のため、大阪駅・北新地駅発着または経由の定期券・回数券については、次の通り他経路乗車が認められている(他経路区間での乗降はできない)。また、この制度を利用して乗り越しをした場合、乗客に有利な扱いを行っている。",
"title": "乗車制度"
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"text": "なお、「尼崎駅 - 大阪駅」の定期券で尼崎駅から乗車し、北新地駅の手前の新福島駅で下車した場合は、この特例の対象とはならず定期券区間外となる「尼崎駅 - 新福島駅」の運賃190円を支払う。",
"title": "乗車制度"
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"text": "大阪市内発着となる乗車券については、次のような特例が認められている。",
"title": "乗車制度"
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"text": "大阪市内発着の乗車券では、大阪市内駅で下車すると本来は前途無効になるが、大阪駅と北新地駅のあいだを当日中に徒歩連絡する場合に限り、改札を出て乗り継ぐことができる。",
"title": "乗車制度"
},
{
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"text": "大阪市内発着の乗車券は、尼崎駅(大阪市外)で途中下車しない限り、加島駅 - 尼崎駅 - 塚本駅間を乗車できる。",
"title": "乗車制度"
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"text": "通常、特定都区市内の適用は強制(途中下車を目的とした適用除外は不可)であるが、特定都区市内を通過し外を経てから再びその都市内に戻る場合は適用除外となる(旅客営業規則86条)。本特例は尼崎駅を経由することを事実上「外を経て」いないものとみなすものであるが、旅客営業規則に規定がないため、原則通り経路指定単駅発着の乗車券を購入することで尼崎駅および経路上の大阪市内各駅で途中下車することも可能である。",
"title": "乗車制度"
},
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"text": "大阪市内着の乗車券で尼崎駅以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)に乗り越した場合、乗車経路にかかわらず加島駅から乗り越したものとして精算する。",
"title": "乗車制度"
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"text": "尼崎以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)の発駅から加島着の乗車券及び、大阪市内発の乗車券を併用する乗客は、別途運賃を支払うことなく、当該発駅から最終の着駅まで乗車できる。逆に、大阪市内着の乗車券及び、加島発尼崎以遠着の乗車券を併用する場合も、同様である。",
"title": "乗車制度"
},
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"text": "沿線の都市化が進んでいた片町線と福知山線を地下線で結ぶ片福連絡線として計画され、1971年(昭和46年)の都市交通審議会答申第13号で「新設すべき路線のうち緊急に実施すべき区間」とされたが着工されず、1981年に日本国有鉄道法53条第4号により「大阪環状線京橋 - 大阪間、東海道本線大阪 - 尼崎間線路増設(京橋 - 尼崎間に1複複線増線する)」として当時の運輸省から認可を受けたが、財政難から着工は見送られた。国鉄分割民営化後、片福連絡線の免許はJR西日本に承継された。",
"title": "建設の経緯"
},
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"text": "JR西日本単独での建設は困難なため、1988年に鉄道施設の建設・保有を行う第三セクター会社の関西高速鉄道が設立され、JR西日本が鉄道施設の貸付を受けて列車の運行を行うことになった。1989年には「(前略)片町線と福知山線を相互直通運転で(神戸三田国際公園都市と関西文化学術研究都市を)結ぶことによって、東西方向の都心貫通型広域鉄道幹線を形成するために必要な路線、大阪環状線の混雑緩和にも資する路線」として再度位置づけられ、この年ようやく着工された。",
"title": "建設の経緯"
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"text": "当初は1995年春に開業予定だったが、海老江付近で出水事故が発生したため開業が2年遅れた。駅名は、開業後すべて建設中の仮称と異なる駅名が採用された(建設時の仮称は、大阪城北詰駅:片町駅、大阪天満宮駅:南森町駅、北新地駅:桜橋駅、新福島駅:福島駅、海老江駅:野田阪神駅、御幣島駅:歌島橋駅、加島駅:竹島駅)。",
"title": "建設の経緯"
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"text": "1980年に、1978年に発足した「片福連絡線調査委員会」がまとめた中間報告書によると、ルート案は以下の通り3つ挙げられた。いずれのルート案も京橋駅から北新地駅を過ぎて阪神高速道路と交差する付近までは同じである。",
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"text": "これらの案のうち、阪神野田駅・地下鉄野田阪神駅と接続し、大阪市営地下鉄の路線網の空白地帯だった歌島橋付近の新たな鉄道サービス、大阪市交通局(当時)のバスターミナルの統合といった交通計画や沿線開発のインパクトや、JR神戸線と直通運転が可能であること、建設費が他の2案の中間的なものであるから、C案を推進した。",
"title": "建設の経緯"
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"text": "しかしその後は、国鉄の財政赤字のために長期にわたって建設の目処がたたず、建設費の削減のため大阪駅西方で東海道本線に乗り入れる案や、さらに三線軌条として阪神・京阪の直通運転も行う案まで検討された。",
"title": "建設の経緯"
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"text": "尼崎駅構内の配線は当初、4面7線の構造で福知山線(JR宝塚線)の取り付け部を変更せず、JR東西線を上下内外側線の間から方向別に取り付ける形で計画されていたが、宝塚方面・JR東西線の直通運転を行う場合、外側線を横断して平面交差することから順方向のほとんどで同一ホームで乗り換えができるように構内配線を変更して、現在の配線に決定した。",
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"text": "地下線区間である大阪城北詰駅 - 加島駅の各駅では、駅ごとに当地の歴史や地理を反映したシンボルが定められており、ホームの壁面に掲出されている。",
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"text": "大阪城北詰駅・新福島駅・海老江駅・加島駅は、株式会社JR西日本交通サービスによる業務委託駅となっており、それ以外の駅がJR西日本直営駅である。",
"title": "駅一覧"
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JR東西線(ジェイアールとうざいせん)は、大阪府大阪市城東区の京橋駅から兵庫県尼崎市の尼崎駅に至る鉄道路線である。第三種鉄道事業者の関西高速鉄道が線路などの鉄道施設を保有し、第二種鉄道事業者の西日本旅客鉄道(JR西日本)が旅客運送を行っている(幹線)。
|
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] JR東西線
|路線色 = #ff1493
|ロゴ = JRW kinki-H.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = JRW series207 Tozai.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]に到着する[[JR西日本207系電車|207系電車]]による快速列車
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]、[[兵庫県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
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|廃止 =
|所有者 = [[関西高速鉄道]]
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|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
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|路線図 =
}}
'''JR東西線'''(ジェイアールとうざいせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[城東区]]<ref>[http://www.jr-odekake.net/eki/top.php?id=0610511 京橋駅] - JRおでかけネット</ref>の[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]から[[兵庫県]][[尼崎市]]の[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]に至る[[鉄道路線]]である。[[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]]の[[関西高速鉄道]]が線路などの鉄道施設を保有し、[[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]の[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が旅客運送を行っている([[幹線]])。
== 概要 ==
JR西日本では、[[関西本線]]([[大和路線]])の[[JR難波駅]] - [[今宮駅]]間に次ぐ地下路線として[[1997年]][[3月8日]]に開業した<ref name="交通2001"/>。同社の[[アーバンネットワーク]]の路線の一つとなっている。大阪市街地の地下を東西に横断し、起点の京橋駅で[[片町線]](学研都市線)、終点の尼崎駅で[[東海道本線]]([[JR神戸線]])・[[福知山線]](JR宝塚線)と接続し、これらの路線との直通運転が行われている。ラインカラーは'''桜桃色'''({{Color|#ff1493|■}})であり、選定理由は「沿線に[[造幣局 (日本)|造幣局]]・[[大阪城公園]]などの桜の名所を持つイメージ」とされている。路線記号は''' H '''<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
「[[JR]]」の語を含む「'''JR東西線'''」が正式な路線名であり[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]でもある<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_07.pdf 『データで見るJR西日本2022』]}} 西日本旅客鉄道 p.53</ref><ref>[[国土交通省]]鉄道局監修『[[鉄道要覧]]』[[電気車研究会]]・鉄道図書刊行会</ref>。JR西日本において、路線名の愛称にJRと付けられている事例はあるが、正式な路線名にJRが入るのはJR全社含めて当路線が唯一である<ref group="注釈">私鉄ではいくつか例が見られ、在阪私鉄では[[阪神なんば線]]・[[京阪本線]]・[[南海本線]]がある。(一方で、[[阪神電気鉄道]]の[[阪神本線|本線]]の正式名称は何も付かない「本線」であり、[[近畿日本鉄道]]の[[近鉄難波線|難波線]]は近鉄の付かない「難波線」が正式名称である)</ref>。ただし、駅の[[発車標]]や車両の行先表示では字数の関係から'''東西線経由'''と表示される。
全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」および、[[電車特定区間]]に含まれている。また、IC乗車カード「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている。
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])・関西高速鉄道([[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):12.5km
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:9(起終点駅含む)
** JR東西線所属駅に限定した場合、大阪環状線所属の京橋駅と東海道本線所属の尼崎駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref>が除外され、7駅となる。
* 複線区間:全線
* 電化区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P<ref name="zensen" />)
* 最高速度:90km/h
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[列車運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム]]
* 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
* 2020年度の混雑率:73%(大阪天満宮→北新地 7:30-8:30)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref>
全区間をJR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄している。尼崎側の関西高速鉄道・JR西日本の施設上の境界は下神崎川橋梁の京橋方(東海道本線との並走区間に入る地点)に設置されている。
== 沿線概況 ==
{{JR東西線路線図}}
京橋駅を出ると、上下線間には片町線(学研都市線)の列車が折り返す[[引上線]]がある。また、京橋を出ると右にかつて片町駅に行くための線路跡が見える。この引上線の分岐部から地下に向けて下り勾配を進むと、[[大阪城北詰駅]]に着く。ここから[[加島駅]]の先までは地下区間で、[[架線]]には[[剛体架線]]が採用されている。
JR東西線の各駅は下り(尼崎方面)のホームを1番のりばとしている。地下区間の駅は、すべて[[島式ホーム]]1面2線の地下駅となっており、[[日本の鉄道信号#主信号機|絶対信号機]]のある[[停車場#停車場の定義|停車場]]となっている。また、既にある[[大阪市高速電気軌道|地下鉄]]・[[地下街]]・[[淀川]]の下部を通るため、JR西日本管内でも上位級の急勾配が続き、当線の[[北新地駅]]は同社の駅で最深度(標高-23.95 m)<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_11.pdf 『データで見るJR西日本2022』]}} 西日本旅客鉄道 p.91</ref>に位置している。
大阪城北詰駅を出ると、大川([[旧淀川]])の下を通って[[国道1号]]の地下を、北新地駅付近からは[[国道2号]]の地下を[[御幣島駅]]まで走る。[[大阪天満宮駅]]・北新地駅では可動式ホーム柵([[ホームドア]])が設置されている<ref>[http://mainichi.jp/photo/news/20120328k0000e040252000c.html 転落防止:JR大阪天満宮駅に可動式ホーム柵が設置] - [[毎日新聞]] 2012年3月28日</ref>。[[海老江駅]] - 御幣島間で淀川の下部を通る。淀川を横切る鉄道路線はすべて橋を架けて渡っていたが、JR東西線は初めて[[水底トンネル]]で渡る路線となった。
加島駅を発車すると地上に出る。ここからは上下線とも東海道本線(JR神戸線・JR宝塚線)の内側線・外側線の間を走行するが、これはもともと東海道本線の外側線として使用されていた線路をJR東西線に転用し、その外側に東海道本線の外側線が増設されたためである。[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]を渡ると尼崎駅に到着する。
<gallery>
JRW plathome-door.jpg|北新地駅に設置されたホームドア。
JRW series321 Tozai.jpg|東海道本線との並走区間(加島 - 尼崎間)。
</gallery>
== 運行形態 ==
{{See also|片町線#運行形態}}
=== 定期列車 ===
すべての列車が京橋駅から学研都市線(片町線)に直通し、一部をのぞいて尼崎駅からJR宝塚線(福知山線)宝塚・新三田方面およびJR神戸線(東海道・[[山陽本線]])西明石方面と直通運転している<ref name="midare" group="注釈">ただし、ダイヤが乱れた場合は、学研都市線への直通運転は行われず、京橋駅止め列車が運転されることがある。</ref>。このため、学研都市線とJR東西線はほぼ一体の運行形態となっている。
運行されている列車種別は普通と快速・区間快速があるが、JR東西線内では全列車が各駅に停車する。区間快速は、学研都市線から直通する列車(日中時間帯の塚口行きは除く)については、京橋駅で種別を普通に変更して運転するため、JR東西線区間で日中以外はJR神戸線・宝塚線からおよび尼崎発で京橋・四条畷方面へ向かう列車のみが運転されている。なお、JR神戸線・宝塚線区間では普通・快速での運行となる。
尼崎方面行きの列車は、尼崎・塚口止まりを除き、京橋駅からJR宝塚線・JR神戸線内の種別を案内し、京橋・四条畷方面行きの列車は、尼崎駅から学研都市線内の種別を案内する<ref group="注釈">この案内方法は、[[東京メトロ千代田線]]、[[都営地下鉄浅草線]]など多くの地下鉄路線で見られる。</ref>。
平日朝ラッシュ時は運行本数が多く、JR神戸線方面からの普通のほか、JR宝塚線からの快速・普通が入る。尼崎駅からは大半がJR宝塚線に直通する。
日中時間帯は1時間に8本運行されている。この時間帯は普通がJR神戸線直通、区間快速が塚口駅発着で運行されている。朝晩には尼崎駅を始発および終点とする列車が設定されているが、JR東西線から京橋駅で折り返す列車はない<ref name="midare" group="注釈" />。尼崎駅ではJR東西線部分に引き上げ線がないため、塚口駅発着または回送として塚口駅・新三田駅まで運行されている。
2008年3月15日から2019年3月15日まで毎日朝夕に、[[奈良駅]] - 尼崎駅間で[[おおさか東線]]・[[関西本線]]([[大和路線]])を経由して[[おおさか東線#運行形態|直通快速]]が運転されていた。JR東西線内では他の快速と同様に各駅に停車し、尼崎駅では、JR神戸線・JR宝塚線の列車と同一ホームで乗り換えができた。2019年3月16日のおおさか東線全線開業に伴い、学研都市線・JR東西線の放出駅 - 尼崎駅間での運行を終了し、奈良駅 - 新大阪駅間の運転に変更された<ref>[https://news.mynavi.jp/article/jrdiagram2019-3/ JRダイヤ改正は2019年3月16日(3) JR西日本、おおさか東線全線開業後の新大阪発直通快速の時刻公開] - マイナビニュース、2018年12月14日</ref>。
=== 大晦日臨時列車 ===
開業以来、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、JR東西線では全線において普通のみ臨時列車を増発して[[終夜運転]]を実施してきた。運転区間は、直通する学研都市線とJR宝塚線とを通して運行されてきたが、徐々に区間が縮小され、2018年度の時点では運転区間は学研都市線四条畷駅 - JR宝塚線宝塚駅間において普通のみ約30〜60分間隔で実施されたに留まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。2019年度は更に、学研都市線四条畷駅 - 尼崎駅間(JR宝塚線区間は中止)において普通のみ約30分間隔かつ午前3時頃までの運行に縮小され、終夜運転ではなくなった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>。
なお2020 - 2021年の大晦日から元旦においても、当初は1月1日0時過ぎから3時ごろにかけて臨時列車を30分間隔で延長運転を実施すると発表していたが<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201204_00_oomisokarinji.pdf 大晦日の臨時列車 運転時刻のお知らせ]}} - 西日本旅客鉄道、2020年12月4日</ref>、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大]]のため、延長運転自体が取りやめられた<ref>{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201299_00_toriyame.pdf 大晦日の臨時列車 運転取り止めについて]}} - 西日本旅客鉄道、2020年12月15日</ref>。
=== 女性専用車 ===
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray"
|-
|style="background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #ff1493"|女性専用車
|-
|style="font-size:90%"|{{TrainDirection|尼崎・宝塚・西明石|<br/>京橋・木津・奈良}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em"
|-
|style="width:2em"|1
|style="width:2em"|2
|style="width:2em"|3
|style="width:2em"|4
|style="width:2em; background:#fcf"|5
|style="width:2em"|6
|style="width:2em"|7
|}
|-
|}
207系の木津側から3両目と321系の5号車には、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
JR東西線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20021007">[https://web.archive.org/web/20021018141417/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月17日</ref>が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
== 使用車両 ==
{{Main|片町線#使用車両}}
JR東西線は[[架線]]に[[剛体架線]]を使用しているため、[[動力車|電動車]]に[[集電装置|パンタグラフ]]を2基装備した[[電車]]が乗り入れる。2基使用するのはJR東西線内のみで、他の線区では京都・木津寄りの1基は下降している。パンタグラフの昇降は京橋駅・尼崎駅で行う。現在、JR東西線で定期運用されているのは4扉ロングシートの通勤型車両[[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]](いずれも[[網干総合車両所]]明石支所の所属)である。
なお、2008年3月15日から2011年3月11日まで、おおさか東線経由の尼崎駅 - 奈良駅間の直通快速には[[宮原総合運転所]](現:網干総合車両所宮原支所)の[[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]が使用されていた<ref>[http://pamph.jr-odekake.net/view_pamph2.php?client_id=jrwest&book_id=osaka_newdaiya JRおでかけネット - 新しい大阪駅へ。新ダイヤ、はじまる。3.12 新ダイヤ] - 西日本旅客鉄道</ref>が、ホームドア設置{{Refnest|group="注釈"|2011年3月のダイヤ改正時に北新地駅で最初に導入、次いで2012年3月に大阪天満宮、2016-17年にかけて京橋駅に設置されたが、いずれも7両・4扉対応のスライド式のものである。なお各駅のホームはいずれも将来的な8両編成への対応ができるように設計されているが、2022年12月時点でJR東西線・学研都市線の列車は全て7両編成であるため<ref group="注釈">学研都市線の単線区間である大住駅 - 西木津駅も7両編成対応のみ。</ref>、8両目相当分には鉄柵を設置している。}}に伴い車両ドア数を統一するため、4扉車両での運転となった。
== 乗車制度 ==
JR東西線に係わる[[旅客営業規則]]に定められた乗車制度の特例は次のものがある。
=== 他経路乗車の特例 ===
[[ファイル:JR Tozai.png|300px|thumb|right|尼崎駅 - 京橋駅間相関図]]
旅客の利便性向上のため、大阪駅・北新地駅発着または経由の[[定期乗車券|定期券]]・[[回数乗車券|回数券]]については、次の通り他経路乗車が認められている(他経路区間での乗降はできない)。また、この制度を利用して乗り越しをした場合、乗客に有利な扱いを行っている<ref>{{Cite web|和書|title=大阪駅まで乗車区間が有効な定期券を使って北新地駅で下車できますか。|url=https://faq.jr-odekake.net/faq_detail.html?id=1200&category=&page=1|work=FAQ|website=JRおでかけネット|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2020-02-12}}</ref>。
{|class="wikitable" rules="all"
|-
!原券記載の経路
!乗車できる他経路
|-
|尼崎駅 - 大阪駅間を含む区間
|尼崎駅 - 北新地駅間
|-
|尼崎駅 - 北新地駅間を含む区間
|尼崎駅 - 大阪駅間
|-
|大阪駅 - 京橋駅間を含む区間
|北新地駅 - 京橋駅間
|-
|北新地駅 - 京橋駅間を含む区間
|大阪駅 - 京橋駅間
|}
*(例1)「芦屋駅 - 北新地駅」の定期券の場合、大阪駅でも乗降できる。この定期券で[[新大阪駅]]で下車する場合、「北新地駅 - 新大阪駅」の運賃230円ではなく、「大阪駅 - 新大阪駅」の運賃170円を支払う。
*(例2)「芦屋駅 - 高槻駅」の定期券の場合、北新地駅でも乗降できる。この定期券で[[大阪天満宮駅]]で下車する場合、「大阪駅 - 大阪天満宮駅」の運賃190円ではなく、「北新地駅 - 大阪天満宮駅」の運賃140円を支払う。
なお、「尼崎駅 - 大阪駅」の定期券で尼崎駅から乗車し、北新地駅の手前の新福島駅で下車した場合は、この特例の対象とはならず定期券区間外となる「尼崎駅 - 新福島駅」の運賃190円を支払う。
=== 大阪市内発着の乗車券に対する特例 ===
大阪市内発着となる乗車券については、次のような特例が認められている。
==== 大阪駅・北新地駅での乗り換え一時出場 ====
大阪市内発着の乗車券では、大阪市内駅で下車すると本来は前途無効になるが、大阪駅と北新地駅のあいだを当日中に徒歩連絡する場合に限り、改札を出て乗り継ぐことができる<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/02a.html#3 きっぷのルール:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
*(例)[[東京駅]](東京都区内) - 【[[東海道新幹線]]】 - 新大阪駅 - 【JR京都線】 - 大阪駅 … 徒歩連絡 … 北新地駅 - 【JR東西線・学研都市線】 - [[放出駅]](大阪市内東端)
==== 市外乗車の特例 ====
大阪市内発着の乗車券は、尼崎駅(大阪市外)で途中下車しない限り、加島駅 - 尼崎駅 - 塚本駅間を乗車できる<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/02b.html#13 きっぷのルール:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
*(例)東京駅(東京都区内) - 【東海道新幹線】 - 新大阪駅 - 【JR京都線・神戸線】 - 尼崎駅 - 【JR東西線】 - [[加島駅]](大阪市内)。
通常、特定都区市内の適用は強制(途中下車を目的とした適用除外は不可)であるが、特定都区市内を通過し外を経てから再びその都市内に戻る場合は適用除外となる(旅客営業規則86条)。本特例は尼崎駅を経由することを事実上「外を経て」いないものとみなすものであるが、旅客営業規則に規定がないため、原則通り経路指定単駅発着の乗車券を購入することで尼崎駅および経路上の大阪市内各駅で途中下車することも可能である。
==== 尼崎以遠への乗り越し精算 ====
大阪市内着の乗車券で尼崎駅以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)に乗り越した場合、乗車経路にかかわらず加島駅から乗り越したものとして精算する<ref>[[旅客営業取扱細則]] 第27条の2「(大阪市内着となる乗車券で区間変更をする場合の旅客運賃計算の特例) 大阪市内着の乗車券を所持する旅客が、尼崎以遠(立花又は塚口方面)の駅を着駅とする規程第275条第1号に規定する区間変更の取扱いを申し出た場合は、実乗車経路にかかわらず、加島駅着のものとして取り扱うことができる。」</ref>。
*(例)「東京都区内⇒大阪市内」の乗車券で、東京駅(東京都区内) - 【東海道新幹線】 - 新大阪駅 - 【JR京都線】 - 大阪駅 - 【JR神戸線】 - 西宮駅と乗車した場合、乗り越し運賃は「加島 - 尼崎 - 西宮」(営業キロ 9.9km)で計算した190円となる。「塚本 - 尼崎 - 西宮」(営業キロ12.0km)の230円ではない。
==== 尼崎以遠発着の乗車券の併用 ====
尼崎以遠(尼崎駅を含め、三ノ宮駅または宝塚駅方面)の発駅から加島着の乗車券及び、大阪市内発の乗車券を併用する乗客は、別途運賃を支払うことなく、当該発駅から最終の着駅まで乗車できる。逆に、大阪市内着の乗車券及び、加島発尼崎以遠着の乗車券を併用する場合も、同様である<ref>[[旅客営業取扱基準規程]] 第155条(6)</ref>。
*(例)「西宮⇒加島(190円区間)」及び「大阪市内⇒東京都区内」の乗車券を併用して、西宮駅 - 【JR神戸線】 - 大阪駅 - 【JR京都線】 - 新大阪駅 - 【東海道新幹線】 -東京駅(東京都区内)の経路で乗車できる。逆経路でも同様。
== 建設の経緯 ==
沿線の都市化が進んでいた片町線と福知山線を地下線で結ぶ'''片福連絡線'''として計画され、[[1971年]]([[昭和]]46年)の都市交通審議会答申第13号で「新設すべき路線のうち緊急に実施すべき区間」とされたが着工されず、[[1981年]]に日本国有鉄道法53条第4号により「大阪環状線京橋 - 大阪間、東海道本線大阪 - 尼崎間線路増設(京橋 - 尼崎間に1複複線増線する)」として当時の運輸省から認可を受けたが、財政難から着工は見送られた。国鉄分割民営化後、片福連絡線の免許はJR西日本に承継された。
JR西日本単独での建設は困難なため、[[1988年]]に鉄道施設の建設・保有を行う第三セクター会社の関西高速鉄道が設立され、JR西日本が鉄道施設の貸付を受けて列車の運行を行うことになった。[[1989年]]には「(前略)片町線と福知山線を相互直通運転で([[神戸三田国際公園都市]]と[[関西文化学術研究都市]]を<!--本来の建設目的はこの2都市を大阪都心経由で直結させるのも狙い-->)結ぶことによって、東西方向の都心貫通型広域鉄道幹線を形成するために必要な路線、大阪環状線の混雑緩和にも資する路線」として再度位置づけられ、この年ようやく着工された。
当初は[[1995年]]春に開業予定だったが、海老江付近で出水事故が発生したため開業が2年遅れた。駅名は、開業後すべて建設中の仮称と異なる駅名が採用された(建設時の仮称は、大阪城北詰駅:片町駅、大阪天満宮駅:南森町駅、北新地駅:桜橋駅、新福島駅:福島駅、海老江駅:野田阪神駅、御幣島駅:歌島橋駅、加島駅:竹島駅)。
=== ルートの選定 ===
1980年に、1978年に発足した「片福連絡線調査委員会」がまとめた中間報告書によると、ルート案は以下の通り3つ挙げられた。いずれのルート案も京橋駅から北新地駅を過ぎて[[阪神高速道路]]と交差する付近までは同じである。
* A案:[[国道2号]]を尼崎市内まで進み、[[阪神電気鉄道]](阪神)[[大物駅]]の北方付近から北上して東海道本線(JR神戸線)と交差したあと、福知山線(JR宝塚線)とつなぐルート(JR神戸線とは連絡しない)<ref group="注釈">当時、国道2号以北では福知山線の尼崎港支線が営業中であったが1981年には旅客営業が廃止されている。</ref>。
* B案:[[阪神高速11号池田線]](当時は空港線)沿いに進み、[[淀川]]の手前で東海道本線(JR神戸線)と並走して尼崎駅に至るルート
* C案:B案よりもさらに国道2号を進み、歌島橋交差点から北上して淀川を越えて[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]の手前で東海道本線(JR神戸線)と並走して尼崎駅に至るルート
これらの案のうち、阪神[[野田駅 (阪神)|野田駅]]・地下鉄[[野田阪神駅]]と接続し、大阪市営地下鉄の路線網の空白地帯だった歌島橋付近の新たな鉄道サービス<ref group="注釈">1975年以前は[[阪神国道線]]が運行されていた。</ref>、[[大阪市交通局]](当時)のバスターミナルの統合といった交通計画や沿線開発のインパクトや、JR神戸線と直通運転が可能であること、建設費が他の2案の中間的なものであるから、C案を推進した。
しかしその後は、国鉄の財政赤字のために長期にわたって建設の目処がたたず、建設費の削減のため大阪駅西方で東海道本線に乗り入れる案や、さらに[[三線軌条]]<!--(ないし四線軌条?)-->として阪神・京阪の直通運転も行う案まで検討された。
尼崎駅構内の配線は当初、4面7線の構造で福知山線(JR宝塚線)の取り付け部を変更せず、JR東西線を上下内外側線の間から方向別に取り付ける形で計画されていたが、宝塚方面・JR東西線の直通運転を行う場合、外側線を横断して平面交差することから順方向のほとんどで同一ホームで乗り換えができるように構内配線を変更して、現在の配線に決定した。
== 歴史 ==
* [[1988年]](昭和63年)
** [[5月25日]]:関西高速鉄道が設立。
** [[10月28日]]:片福連絡線の第二種鉄道事業免許取得。
* [[1989年]]([[平成]]元年)[[11月11日]]:着工<ref>{{Cite book|和書 |date=1990-08-01 |title=JR気動車客車編成表 90年版 |chapter=JR年表 |page=173 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-111-2}}</ref><ref>[http://www.kr-railway.co.jp/corporate.html 会社概要 沿革] - 関西高速鉄道、2022年1月8日閲覧</ref>。
* [[1996年]](平成8年)
** [[5月16日]]:正式名称がJR東西線に決定<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1996-08 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 08 |page = 90 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[9月25日]]:レール締結式挙行<ref>{{Cite news |title=北新地駅でレール締結式 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1996-09-27 |page=1 }}</ref>。
** [[10月20日]]:大阪城北詰駅 → 大阪天満宮駅間でJR東西線トンネルウォークが実施される<ref>「完成したJR東西線の地下トンネルを歩こう 10月20日に開く」読売新聞 1996年9月15日</ref>。
** [[12月4日]]:試運転開始<ref>「JR東西線(京橋 - 尼崎) 営業車両のテスト走行始まる/JR西日本」- 読売新聞 1996年12月4日</ref>。
* [[1997年]](平成9年)[[3月8日]]:京橋駅 - 尼崎駅間開業<ref name="交通2001"/>。片町線の京橋駅 - [[片町駅]]間は京橋駅 - 大阪城北詰駅間に代替されて廃止。ただし片町駅までの定期券などは、京橋駅 - 大阪城北詰駅間を利用できる乗車券としては継承されなかった。同時に[[Jスルー]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。
* [[2002年]](平成14年) [[12月2日]]:女性専用車が導入される<ref name="jrw_20021007" />。
* [[2008年]](平成20年)[[3月15日]]:おおさか東線(この日開業)・片町線(学研都市線)・JR東西線経由で関西本線(大和路線)奈良駅 - 尼崎駅間に直通快速が運転開始。
* [[2010年]](平成22年)[[12月1日]]:組織改正により、[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]の管轄から近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** 3月8日:JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システムが導入される<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175201_799.html 2011年2月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道 2011年2月18日</ref>。
** [[3月27日]]:北新地駅でJR西日本の在来線で初めて可動式ホーム柵(ホームドア)の使用を開始<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032715370038-n1.htm 北新地駅にホームドア JR西在来線で初] - 産経新聞 2011年3月27日</ref>。
** [[4月18日]]:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304" />。
* [[2012年]](平成24年)[[3月28日]]:大阪天満宮駅で可動式ホーム柵の使用を開始。
* [[2015年]](平成27年)[[7月31日]]:京橋駅 - 尼崎駅間の地下線内で携帯電話通信サービスが開始される<ref>[http://response.jp/article/2015/07/30/256785.html JR西日本、大阪の在来線地下区間で携帯電話サービス開始] - レスポンス、2015年7月30日</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用を開始する。
* [[2019年]](平成31年)[[3月15日]]:おおさか東線全通に伴い、この日限りで直通快速の乗り入れを終了。
== 駅一覧 ==
地下線区間である大阪城北詰駅 - 加島駅の各駅では、駅ごとに当地の歴史や地理を反映したシンボルが定められており、ホームの壁面に掲出されている。
* 全列車当線内は全駅に停車
* {{JR特定都区市内|阪}}:[[特定都区市内]]制度における「大阪市内」エリアの駅
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%"
|-
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ff1493"|駅ナンバー<br><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!style="width:8em; border-bottom:solid 3px #ff1493"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff1493"|駅間<br>営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff1493"|累計<br>営業キロ
!style="border-bottom:solid 3px #ff1493"|接続路線
!style="border-bottom:solid 3px #ff1493; white-space:nowrap"|シンボル
!colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #ff1493"|所在地
|-
!JR-H41
|[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW_kinki-H.svg|17px|H]] [[片町線]](学研都市線)(最長 [[ファイル:JRW_kinki-Q.svg|17px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]])[[奈良駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JRW_kinki-O.svg|17px|O]] [[大阪環状線]] (JR-O08)<br>[[京阪電気鉄道]]:[[ファイル:Number_prefix_Keihan_lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]] (KH04)<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka Metro Nagahori Tsurumi-ryokuchi line symbol.svg|15px|N]] [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]] (N22)
|style="text-align:center"| -
|rowspan="8" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=12em}}
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|[[大阪城北詰駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|style="text-align:right"|0.9
|
|[[ヒョウタン|瓢箪]]
|[[都島区]]
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!JR-H43
|[[大阪天満宮駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]・[[File:Osaka Metro Sakaisuji line symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]] …[[南森町駅]] (T21・K13)
|[[ウメ|梅]]
|rowspan="2"|[[北区 (大阪市)|北区]]
|-
!JR-H44
|[[北新地駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-A.svg|17px|A]] [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])・[[ファイル:JRW_kinki-G.svg|17px|G]] [[福知山線]](JR宝塚線)<ref group="*">福知山線の正式な起点は尼崎駅だが、運転系統としての「JR宝塚線」は東海道本線(JR神戸線)経由で大阪駅に乗り入れる。</ref>・[[ファイル:JRW_kinki-O.svg|17px|O]] 大阪環状線・[[ファイル:JRW kinki-F.svg|17px|F]] [[おおさか東線]]<ref group="*">おおさか東線の正式な起点は[[新大阪駅]]だが、運転系統としての「おおさか東線」は東海道本線貨物支線(梅田貨物線)経由で大阪駅に乗り入れる。</ref>・東海道本線貨物支線([[梅田貨物線]])…[[大阪駅]] (JR-A47・JR-G47・JR-O11・JR-F01)<ref group="*">北新地駅と大阪駅の間は徒歩連絡の特例がある([[#乗車制度]]を参照)。</ref><br>大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] …[[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]] (M16)・[[File:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] 谷町線 …[[東梅田駅]] (T20)・[[File:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] …[[西梅田駅]] (Y11)<br>[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神本線|本線]] …[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]] (HS 01)<br>[[阪急電鉄]]:[[File:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]・[[File:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[File:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]<ref group="*">京都本線の正式な起点は[[十三駅]]だが、運転系統上の「京都本線」は宝塚本線経由で大阪梅田駅に乗り入れる。</ref>…[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] (HK-01)
|[[イネ|稲穂]]
|-
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|[[新福島駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-O.svg|17px|O]] 大阪環状線 …[[福島駅 (JR西日本)|福島駅]] (JR-O12)<br>阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] 本線 …[[福島駅 (阪神)|福島駅]] (HS 02)
|[[逆櫓の松]]
|rowspan="2"|[[福島区]]
|-
!JR-H46
|[[海老江駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] 本線 …[[野田駅 (阪神)|野田駅]] (HS 03)<br>大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] …[[野田阪神駅]] (S11)
|[[フジ (植物)#人間との関わり|野田藤]]
|-
!JR-H47
|[[御幣島駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|
|[[渡し船]]
|style="white-space:nowrap"|[[西淀川区]]
|-
!JR-H48
|[[加島駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
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|
|[[青海波]]
|[[淀川区]]
|-
!JR-H49
|[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]
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|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW_kinki-A.svg|17px|A]] 東海道本線(JR神戸線: JR-A49)([[山陽本線]][[西明石駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JRW_kinki-G.svg|17px|G]] 福知山線(JR宝塚線: JR-G49)(最長[[篠山口駅]]まで直通運転)・東海道本線貨物支線([[北方貨物線]])
|style="text-align:center"|-
|colspan="2" style="white-space:nowrap"|[[兵庫県]]<br>[[尼崎市]]
|}
{{Reflist|group="*"}}
大阪城北詰駅・新福島駅・海老江駅・加島駅は、株式会社[[JR西日本交通サービス]]による[[業務委託駅]]となっており、それ以外の駅がJR西日本[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 10 大阪 | year = 2009 | isbn = 978-4-10-790028-9 | ref = imao }}
* 『新世紀へ走る JR西日本10年のあゆみ』西日本旅客鉄道、1997年。{{ISBN2|4-87513-066-X}}。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|JR Tozai Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/tozai.html JR東西線:JR西日本 列車走行位置]
* [http://www.kr-railway.co.jp/ 関西高速鉄道]
{{アーバンネットワーク}}
{{西日本旅客鉄道近畿エリア}}
{{西日本旅客鉄道近畿統括本部}}
{{デフォルトソート:しえいああるとうさい}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:兵庫県の交通]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E7%B7%9A
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16,466 |
ロバート (初代グロスター伯)
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初代グロスター伯ロバート(Robert, 1st Earl of Gloucester, 1090年頃 - 1147年10月31日)は、イングランド王ヘンリー1世の庶子である。出生地名を取ってロバート・デ・カーン(ロベール・ド・カーン、Robert De Caen)と呼んだり、「王の子」を意味するフィッツロイ(FitzRoy)のあだ名を付けることもある。
ロバートは父ヘンリーがイングランド王位を継承するより以前で未婚の頃に、ノルマンディーのカーンで生まれた。正確な誕生日と母の名前は伝わっていない。グロスターの領主ロバート・フィッツハモン(イングランド王ウィリアム1世の従兄弟)の娘メイベル・オブ・グロスター(フィッツハモン)と結婚し、1121年頃、グロスター伯の爵位を授けられた。
父ヘンリー1世が死ぬと、ヘンリーが後継者に指名したロバートの異母妹マティルダ(通称「モード王女」)と、実力でイングランド王位を獲得したスティーブン王の間で王位を巡る争いが起こった。ロバートは、スティーブン王への忠誠を放棄し、モードを支持する派の重鎮として活躍した。
1141年には、リンカーンの戦いでスティーブンを捕える功績を立てる。しかしまもなくスティーブンの支持者にウィンチェスターで敗れて逆に捕えられてしまい、モードは兄ロバートを助けるため、スティーブン王を交換に解放せざるを得なかった。
ロバートはその後もモード支持派として戦いつづけ、内戦状態が継続する最中の1147年10月に亡くなった。
子孫にイングランド王ジョンの最初の妻(即位前に離婚)イザベル・オブ・グロスター、スコットランド王ジョン・ベイリャルおよびロバート1世がいる。
メイベル・オブ・グロスターとの間に以下の子女をもうけた。
以下の庶子がいる。
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初代グロスター伯ロバートは、イングランド王ヘンリー1世の庶子である。出生地名を取ってロバート・デ・カーンと呼んだり、「王の子」を意味するフィッツロイ(FitzRoy)のあだ名を付けることもある。
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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = ロバート・フィッツロイ
| 各国語表記 = Robert FitzRoy
| 家名・爵位 = 初代グロスター伯
| 画像 = Robert Consul.jpg
| 画像サイズ = 120px
| 画像説明 =
| 在位 = [[1121年]]頃 - [[1147年]]
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
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| 死亡日 = [[1147年]][[10月31日]]
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| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = メイベル・オブ・グロスター
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| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 家名 = [[ノルマンディー家]]
| 父親 = [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]
| 母親 =
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''初代グロスター伯ロバート'''(Robert, 1st Earl of Gloucester, [[1090年]]頃 - [[1147年]][[10月31日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]の[[庶子]]である。出生地名を取って'''ロバート・デ・カーン'''('''ロベール・ド・カーン'''、Robert De Caen)と呼んだり、「王の子」を意味する'''フィッツロイ'''(FitzRoy)のあだ名を付けることもある。
== 生涯 ==
ロバートは父ヘンリーがイングランド王位を継承するより以前で未婚の頃に、[[ノルマンディー]]のカーンで生まれた。正確な誕生日と母の名前は伝わっていない。[[グロスター]]の領主ロバート・フィッツハモン(イングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の従兄弟)の娘メイベル・オブ・グロスター(フィッツハモン)と結婚し、[[1121年]]頃、[[グロスター伯]]の爵位を授けられた。
父ヘンリー1世が死ぬと、ヘンリーが後継者に指名したロバートの異母妹[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]](通称「モード王女」)と、実力でイングランド王位を獲得した[[スティーブン (イングランド王)|スティーブン王]]の間で王位を巡る争いが起こった。ロバートは、スティーブン王への忠誠を放棄し、モードを支持する派の重鎮として活躍した。
[[1141年]]には、リンカーンの戦いでスティーブンを捕える功績を立てる。しかしまもなくスティーブンの支持者に[[ウィンチェスター]]で敗れて逆に捕えられてしまい、モードは兄ロバートを助けるため、スティーブン王を交換に解放せざるを得なかった。
ロバートはその後もモード支持派として戦いつづけ、内戦状態が継続する最中の1147年10月に亡くなった。
子孫にイングランド王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]の最初の妻(即位前に離婚)[[イザベル・オブ・グロスター]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン・ベイリャル]]および[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]がいる。
== 子女 ==
メイベル・オブ・グロスターとの間に以下の子女をもうけた。
* ウィリアム(1116年 - 1183年) - 第2代グロスター伯
* ロジャー(1118年頃 - 1179年) - ウスター司教
* ハモン(1122年頃 - 1159年) - トゥールーズ包囲の際に戦死
* リチャード(1125年頃 - 1175年) - クルリー領主
* マティルダ(1126年頃 - 1189年) - 第4代チェスター伯ラヌルフ・ド・ガーノンと結婚
* メイベル - オーブリー・ド・ヴィアーと結婚
* フィリップ(1130年頃 - 1148年) - クリクレード領主
以下の庶子がいる。
* リチャード(1142年没) - バイユー司教
* ロバート(1170年没) - グロスター城主
* メイベル - センヘニズ領主グリフィズと結婚
* トマス
{{先代次代|グロスター伯|1121年頃 - 1147年|-|ウィリアム}}
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[[Category:中世イングランドの人物]]
[[Category:グロスター伯]]
[[Category:ヘンリー1世の子女]]
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16,467 |
調和振動子
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調和振動子(ちょうわしんどうし、英: harmonic oscillator)とは、質点が定点からの距離に比例する引力を受けて運動する系である。調和振動子は定点を中心として振動する系であり、その運動は解析的に解くことができる。
一端を壁につないだばね定数 k {\displaystyle k} のばねの他端に質量 m {\displaystyle m} の物体をつなぐ。静止状態から物体を x {\displaystyle x} だけ手で引っ張り、静かに手を離すと物体は振動を始める。物体に作用する力は − k x {\displaystyle -kx} である。ニュートンの運動方程式 m x ̈ = − k x {\displaystyle m{\ddot {x}}=-kx} を解くと、一般解は次のようになる。
A , B は定数で、初期条件によって決まる。振動数 ω {\displaystyle \omega } は、ばね定数と物体の質量にのみ依存する。
調和振動子のポテンシャル U {\displaystyle U} は次のようになる。
ただし x {\displaystyle x} は物体の位置である。ばねが自然長の時の位置を原点とする。ハミルトニアン H = T + U {\displaystyle H=T+U} を求めれば、運動はハミルトンの正準方程式にしたがう。 T {\displaystyle T} は運動エネルギー、 p {\displaystyle p} は運動量である。
ハミルトンの正準方程式は
である。ハミルトンの正準方程式から連立方程式が得られるが、これを解いても ニュートンの運動方程式 m x ̈ = − k x {\displaystyle m{\ddot {x}}=-kx} を得るだけである。したがって、解は古典力学と同じ結果である。
また、ここで用いたハミルトニアンは量子力学でも使用する。
量子力学では運動量演算子 p ^ {\displaystyle {\hat {p}}} を
と書く(正準量子化)。 ħ {\displaystyle \hbar } は換算プランク定数、 i {\displaystyle i} は虚数。よってハミルトニアン H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} は
となる。
1次元の量子的な調和振動子についての時間依存しないシュレーディンガー方程式は、以下のように書ける。
この方程式は解析的に解くことができ、その解(エネルギー固有状態)はエルミート多項式 H n {\displaystyle H_{n}} を使って以下のように表される。
ただし、 ξ = m ω ħ x {\displaystyle \xi ={\sqrt {\frac {m\omega }{\hbar }}}x} 、 A {\displaystyle A} は規格化定数で次式で与えられる。
また、エルミート多項式 H n {\displaystyle H_{n}} は
で定義される。具体例として n = 0 , 1 , 2 {\displaystyle n=0,1,2} の場合を示すと
である。基底状態( n = 0 {\displaystyle n=0} )のエネルギー固有状態はガウス波束であり、 x = 0 {\displaystyle x=0} 付近に局在している。 エネルギー固有値は次のようになる。
つまりエネルギー準位は ħ ω {\displaystyle \hbar \omega } という均等な間隔で並ぶ。 n = 0 {\displaystyle n=0} の状態は零点振動、そのエネルギー固有値 E 0 = ħ ω / 2 {\displaystyle E_{0}=\hbar \omega /2} は零点エネルギーと呼ばれる。
以上は一次元調和振動子の場合であるが、2次元、3次元も同様に解ける。3次元の場合、エネルギー固有値は次のようになる。
N は三方向の量子数 ( n x {\displaystyle n_{x}} , n y {\displaystyle n_{y}} , n z {\displaystyle n_{z}} ) の和で、また E N {\displaystyle E_{N}} は、(N+2)(N+1)/2 重に縮退している。これは縮退が見られなかった一次元の場合とは明らかに異なる。
調和振動子の扱い方としては、上述の正準変数を用いた方法の他に、生成消滅演算子で書きなおして考える方法がある。
以下のような演算子を定義する。
これを使うと、上述のシュレディンガー方程式は次のように書きなおせる。
1/2の項が出るのは演算子に微分が含まれているためである。エネルギー固有値との比較から、 a ^ † a ^ {\displaystyle {\hat {a}}^{\dagger }{\hat {a}}} の固有値は n {\displaystyle n} に等しいことがわかる。よって a ^ † a ^ {\displaystyle {\hat {a}}^{\dagger }{\hat {a}}} を数演算子と呼び n ^ {\displaystyle {\hat {n}}\ } で表す。
生成・消滅演算子をエネルギー固有状態 φ n ( x ) {\displaystyle \phi _{n}(x)} に作用させると、 n ^ {\displaystyle {\hat {n}}\ } の固有値n を増減させる。( n {\displaystyle n} = 0 , 1 , 2 , . . . . {\displaystyle 0,1,2,....} )
つまり n {\displaystyle n} をなんらかの粒子の数と見なすならば、生成演算子は粒子を一つ作り、消滅演算子は一つ減らす働きをする。また基底状態(粒子数0の状態)に消滅演算子を作用させても、もう粒子は消せない。
この演算子を用いれば、方程式の解を容易に導出できる。
場の量子論や量子多体系では、場を量子的な調和振動子に分解することがある。量子的な調和振動子の組があれば、必ずそれをボース粒子の系とみなすことができる。独立な調和振動子からなる系は、エネルギー固有値や平衡状態を議論するかぎり、化学ポテンシャル μ = 0 {\displaystyle \mu =0} の理想ボース気体と数学的に完全に等価である。
ただし全ての場が調和振動子に帰着されるわけではない。調和振動子の集まりと考えることができる場は、双曲線型の微分方程式を満たすものに限られる(詳細は非調和振動子やボゴリューボフ変換を参照)。また粒子像が描けるのは、調和振動子になるような量子場に限られる。たとえばマクスウェルの場の全体が調和振動子の集まりになるわけではなく、遠くのほうに電磁波として伝わっていく成分だけが、調和振動子になる。このとき現れる粒子像が光子である。ただし粒子の数と調和振動子の数には直接的な関係はない。粒子の数が増減すると調和振動子の状態が変化する。
量子的な調和振動子に分解するというのは、量子がもつ粒子性を振幅で解釈し、波動性を振動数で理解しようとする考え方である。この考え方をあえてフェルミ粒子にも適用すると、ボース粒子はいくらでも振幅が大きくなれるが、フェルミ粒子は振幅に制限があるためにあまり大きくなれないと考えることもできる。この量子的な調和振動子の振幅を表すのが生成消滅演算子である。
量子力学における1次元の調和振動子の運動をアニメーションで示す(図1)(図2)。青い曲線が粒子の波動関数の実部である。緑の曲線が粒子の存在確率密度である。
量子力学では粒子の運動状態を波動関数で表す。波動関数は一般に複素数で与えられる。波動関数の絶対値の2乗が存在確率密度を表す。図1、図2に示される存在確率密度の変動は古典論での粒子の単振動に対応している。
波動関数は一般に
とかける。ただし C n {\displaystyle C_{n}} は波束を決定する係数である。初期条件として零点振動の中心を x 0 {\displaystyle x_{0}} だけ変位させた波束
を選ぶ(ただし x 0 {\displaystyle x_{0}} は任意の定数)と、係数 C n {\displaystyle C_{n}} はエルミートの多項式の直交性から
で与えられる(ただし、 ξ 0 = m ω ħ x 0 {\displaystyle \xi _{0}={\sqrt {\frac {m\omega }{\hbar }}}x_{0}} とした)。この場合の粒子の運動が図1、図2である。
ξ 0 = 0.0 {\displaystyle \xi _{0}=0.0} では 1 ≦ n {\displaystyle 1\leqq n} の n {\displaystyle n} に対して C n = 0 {\displaystyle C_{n}=0} になる。すなわち波動関数が
となる。波動関数は定常波のように振動する。この振動が零点振動である。存在確率密度が時間変化しない定常状態となる。エネルギー固有値は零点エネルギー E n = 1 2 ħ ω {\displaystyle E_{n}={\frac {1}{2}}\hbar \omega } であり、エネルギー状態は基底状態である。基底状態はエネルギーが0の状態ではないので波動関数は運動する。
ξ 0 = 0.45 {\displaystyle \xi _{0}=0.45} では C n {\displaystyle C_{n}} が 0 {\displaystyle 0} でない値を持つ n {\displaystyle n} が2つ以上存在する。波動関数はエネルギー状態が基底状態の波動関数と励起状態の波動関数の重ね合わせで表される。波動関数の波形は時間によって変化し、定常状態ではない。波動関数は振動の中心付近で速度が最大になる。ド・ブロイの関係式
により速度が大きくなると波長 λ {\displaystyle \lambda } が短くなるので波動関数の波長が振動の中心付近では振動の端と比べて短くなっている。
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"text": "一端を壁につないだばね定数 k {\\displaystyle k} のばねの他端に質量 m {\\displaystyle m} の物体をつなぐ。静止状態から物体を x {\\displaystyle x} だけ手で引っ張り、静かに手を離すと物体は振動を始める。物体に作用する力は − k x {\\displaystyle -kx} である。ニュートンの運動方程式 m x ̈ = − k x {\\displaystyle m{\\ddot {x}}=-kx} を解くと、一般解は次のようになる。",
"title": "古典的な調和振動子"
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"text": "A , B は定数で、初期条件によって決まる。振動数 ω {\\displaystyle \\omega } は、ばね定数と物体の質量にのみ依存する。",
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"text": "調和振動子のポテンシャル U {\\displaystyle U} は次のようになる。",
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"text": "ただし x {\\displaystyle x} は物体の位置である。ばねが自然長の時の位置を原点とする。ハミルトニアン H = T + U {\\displaystyle H=T+U} を求めれば、運動はハミルトンの正準方程式にしたがう。 T {\\displaystyle T} は運動エネルギー、 p {\\displaystyle p} は運動量である。",
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"text": "量子力学では運動量演算子 p ^ {\\displaystyle {\\hat {p}}} を",
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"text": "1次元の量子的な調和振動子についての時間依存しないシュレーディンガー方程式は、以下のように書ける。",
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"text": "この方程式は解析的に解くことができ、その解(エネルギー固有状態)はエルミート多項式 H n {\\displaystyle H_{n}} を使って以下のように表される。",
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"text": "で定義される。具体例として n = 0 , 1 , 2 {\\displaystyle n=0,1,2} の場合を示すと",
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"text": "つまりエネルギー準位は ħ ω {\\displaystyle \\hbar \\omega } という均等な間隔で並ぶ。 n = 0 {\\displaystyle n=0} の状態は零点振動、そのエネルギー固有値 E 0 = ħ ω / 2 {\\displaystyle E_{0}=\\hbar \\omega /2} は零点エネルギーと呼ばれる。",
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"text": "以上は一次元調和振動子の場合であるが、2次元、3次元も同様に解ける。3次元の場合、エネルギー固有値は次のようになる。",
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"text": "調和振動子の扱い方としては、上述の正準変数を用いた方法の他に、生成消滅演算子で書きなおして考える方法がある。",
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"text": "1/2の項が出るのは演算子に微分が含まれているためである。エネルギー固有値との比較から、 a ^ † a ^ {\\displaystyle {\\hat {a}}^{\\dagger }{\\hat {a}}} の固有値は n {\\displaystyle n} に等しいことがわかる。よって a ^ † a ^ {\\displaystyle {\\hat {a}}^{\\dagger }{\\hat {a}}} を数演算子と呼び n ^ {\\displaystyle {\\hat {n}}\\ } で表す。",
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"text": "生成・消滅演算子をエネルギー固有状態 φ n ( x ) {\\displaystyle \\phi _{n}(x)} に作用させると、 n ^ {\\displaystyle {\\hat {n}}\\ } の固有値n を増減させる。( n {\\displaystyle n} = 0 , 1 , 2 , . . . . {\\displaystyle 0,1,2,....} )",
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"text": "つまり n {\\displaystyle n} をなんらかの粒子の数と見なすならば、生成演算子は粒子を一つ作り、消滅演算子は一つ減らす働きをする。また基底状態(粒子数0の状態)に消滅演算子を作用させても、もう粒子は消せない。",
"title": "量子的な調和振動子"
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"text": "この演算子を用いれば、方程式の解を容易に導出できる。",
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"text": "場の量子論や量子多体系では、場を量子的な調和振動子に分解することがある。量子的な調和振動子の組があれば、必ずそれをボース粒子の系とみなすことができる。独立な調和振動子からなる系は、エネルギー固有値や平衡状態を議論するかぎり、化学ポテンシャル μ = 0 {\\displaystyle \\mu =0} の理想ボース気体と数学的に完全に等価である。",
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"text": "ただし全ての場が調和振動子に帰着されるわけではない。調和振動子の集まりと考えることができる場は、双曲線型の微分方程式を満たすものに限られる(詳細は非調和振動子やボゴリューボフ変換を参照)。また粒子像が描けるのは、調和振動子になるような量子場に限られる。たとえばマクスウェルの場の全体が調和振動子の集まりになるわけではなく、遠くのほうに電磁波として伝わっていく成分だけが、調和振動子になる。このとき現れる粒子像が光子である。ただし粒子の数と調和振動子の数には直接的な関係はない。粒子の数が増減すると調和振動子の状態が変化する。",
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"text": "量子的な調和振動子に分解するというのは、量子がもつ粒子性を振幅で解釈し、波動性を振動数で理解しようとする考え方である。この考え方をあえてフェルミ粒子にも適用すると、ボース粒子はいくらでも振幅が大きくなれるが、フェルミ粒子は振幅に制限があるためにあまり大きくなれないと考えることもできる。この量子的な調和振動子の振幅を表すのが生成消滅演算子である。",
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{
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"text": "量子力学における1次元の調和振動子の運動をアニメーションで示す(図1)(図2)。青い曲線が粒子の波動関数の実部である。緑の曲線が粒子の存在確率密度である。",
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{
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"text": "量子力学では粒子の運動状態を波動関数で表す。波動関数は一般に複素数で与えられる。波動関数の絶対値の2乗が存在確率密度を表す。図1、図2に示される存在確率密度の変動は古典論での粒子の単振動に対応している。",
"title": "具体例"
},
{
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"text": "波動関数は一般に",
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"text": "とかける。ただし C n {\\displaystyle C_{n}} は波束を決定する係数である。初期条件として零点振動の中心を x 0 {\\displaystyle x_{0}} だけ変位させた波束",
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"text": "を選ぶ(ただし x 0 {\\displaystyle x_{0}} は任意の定数)と、係数 C n {\\displaystyle C_{n}} はエルミートの多項式の直交性から",
"title": "具体例"
},
{
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"text": "で与えられる(ただし、 ξ 0 = m ω ħ x 0 {\\displaystyle \\xi _{0}={\\sqrt {\\frac {m\\omega }{\\hbar }}}x_{0}} とした)。この場合の粒子の運動が図1、図2である。",
"title": "具体例"
},
{
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"text": "ξ 0 = 0.0 {\\displaystyle \\xi _{0}=0.0} では 1 ≦ n {\\displaystyle 1\\leqq n} の n {\\displaystyle n} に対して C n = 0 {\\displaystyle C_{n}=0} になる。すなわち波動関数が",
"title": "具体例"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "となる。波動関数は定常波のように振動する。この振動が零点振動である。存在確率密度が時間変化しない定常状態となる。エネルギー固有値は零点エネルギー E n = 1 2 ħ ω {\\displaystyle E_{n}={\\frac {1}{2}}\\hbar \\omega } であり、エネルギー状態は基底状態である。基底状態はエネルギーが0の状態ではないので波動関数は運動する。",
"title": "具体例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ξ 0 = 0.45 {\\displaystyle \\xi _{0}=0.45} では C n {\\displaystyle C_{n}} が 0 {\\displaystyle 0} でない値を持つ n {\\displaystyle n} が2つ以上存在する。波動関数はエネルギー状態が基底状態の波動関数と励起状態の波動関数の重ね合わせで表される。波動関数の波形は時間によって変化し、定常状態ではない。波動関数は振動の中心付近で速度が最大になる。ド・ブロイの関係式",
"title": "具体例"
},
{
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"tag": "p",
"text": "により速度が大きくなると波長 λ {\\displaystyle \\lambda } が短くなるので波動関数の波長が振動の中心付近では振動の端と比べて短くなっている。",
"title": "具体例"
}
] |
調和振動子とは、質点が定点からの距離に比例する引力を受けて運動する系である。調和振動子は定点を中心として振動する系であり、その運動は解析的に解くことができる。
|
'''調和振動子'''(ちょうわしんどうし、{{lang-en-short|harmonic oscillator}})とは、[[質点]]が定点からの[[距離]]に比例する[[引力]]を受けて運動する系である。調和振動子は定点を中心として振動する系であり、その運動は[[解析的]]に解くことができる。
== 古典的な調和振動子 ==
=== ニュートンの運動方程式から ===
{{see also|自由振動}}
一端を壁につないだ[[ばね定数]] <math>k</math> のばねの他端に[[質量]] <math>m</math> の物体をつなぐ。静止状態から物体を <math>x</math> だけ手で引っ張り、静かに手を離すと物体は振動を始める。物体に作用する[[力 (物理学)|力]]は <math>-kx</math> である。[[ニュートンの運動方程式]] <math>m\ddot{x}=-kx</math> を解くと、一般解は次のようになる。
:<math>x(t)=A\cos\omega t+B\sin\omega t,</math>
:<math>\omega=\sqrt{k/m}</math> : 調和振動子の角振動数(固有振動数)
''A'' , ''B'' は定数で、初期条件によって決まる。振動数<math>\omega</math> は、ばね定数と物体の質量にのみ依存する。
=== ハミルトンの運動方程式(正準方程式)から ===
調和振動子の[[ポテンシャル]]<math>U</math> は次のようになる。
:<math>U=\frac{1}{2}kx^2</math>
ただし<math>x</math>は物体の位置である。ばねが自然長の時の位置を原点とする。[[ハミルトニアン]] <math> H = T + U </math>を求めれば、運動は[[ハミルトン力学|ハミルトンの正準方程式]]にしたがう。<math>T</math> は[[運動エネルギー]]、<math>p</math> は運動量である。
:<math>H=\frac{1}{2m}p^2+\frac{k}{2}x^2</math>
ハミルトンの正準方程式は
:<math>\frac{\partial x}{\partial t}= \frac{\partial H}{\partial p}</math>
:<math>\frac{\partial p}{\partial t}=-\frac{\partial H}{\partial x}</math>
である。ハミルトンの正準方程式から連立方程式が得られるが、これを解いても [[ニュートンの運動方程式]] <math>m\ddot{x}=-kx</math> を得るだけである。したがって、解は古典力学と同じ結果である。
また、ここで用いたハミルトニアンは量子力学でも使用する。
== 量子的な調和振動子 ==
=== 1次元の調和振動子 ===
量子力学では運動量演算子 <math>\hat{p}</math> を
:<math>\hat{p}=-i\hbar\frac{\partial}{\partial x}</math>
と書く([[正準量子化]])。<math>\hbar</math> は[[換算プランク定数]]、<math>i</math>は虚数。よってハミルトニアン<math>\hat{H}</math>は
:<math>\hat{H}=-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{\partial^2}{\partial x^2}+\frac{1}{2} m \omega^2 x^2</math>
となる。
1次元の量子的な調和振動子についての時間依存しない[[シュレーディンガー方程式]]は、以下のように書ける。
:<math>\left(-\frac{\hbar^2}{2m}\frac{\partial^2}{\partial x^2}+\frac{1}{2} m \omega^2 x^2\right)\phi(x)=E\phi(x)</math>
この方程式は解析的に解くことができ、その解([[エネルギー固有状態]])は[[エルミート多項式]] <math>H_n</math> を使って以下のように表される。
:<math>\phi_n(x)=AH_n(\xi)\exp\left(-\frac{\xi^2}{2}\right)</math>
ただし、<math>\xi=\sqrt{\frac{m\omega}{\hbar}}x</math>、<math>A</math> は[[規格化]]定数で次式で与えられる。
:<math>A=\sqrt{\frac{1}{n!2^n}\sqrt\frac{m\omega}{\pi\hbar}}</math>
また、[[エルミート多項式]]<math>H_n</math>は
:<math>H_n(x)=(-1)^n\exp\left(x^2\right)\frac{\mathrm{d}^n}{\mathrm{d}x^n}\exp\left(-x^2\right)</math>
で定義される。具体例として<math>n=0,1,2</math> の場合を示すと
:<math>H_0=1</math>
:<math>H_1=2x</math>
:<math>H_2=4x^2-2 </math>
である。基底状態(<math>n=0</math>)のエネルギー固有状態は[[ガウス波束]]であり、<math>x=0</math>付近に局在している。
エネルギー固有値は次のようになる。
:<math>E_n=\hbar\omega\left(n+\frac{1}{2}\right) \qquad (n=0,1,2,...)</math>
つまりエネルギー準位は <math>\hbar\omega</math> という均等な間隔で並ぶ。<math> n = 0 </math>の状態は零点振動、そのエネルギー固有値<math> E_0 = \hbar\omega/2 </math>は零点エネルギーと呼ばれる。
=== より高次元の調和振動子 ===
以上は一次元調和振動子の場合であるが、2次元、3次元も同様に解ける。3次元の場合、エネルギー固有値は次のようになる。
:<math>E_N=\hbar\omega\left(N+\frac{3}{2}\right)</math>
''N'' は三方向の量子数 (<math>n_x</math>, <math>n_y</math>, <math>n_z</math>) の和で、また<math>E_N</math> は、(''N''+2)(''N''+1)/2 重に[[縮退]]している。これは縮退が見られなかった一次元の場合とは明らかに異なる。
=== 生成消滅演算子 ===
調和振動子の扱い方としては、上述の正準変数を用いた方法の他に、[[生成消滅演算子]]で書きなおして考える方法がある。
以下のような演算子を定義する。
:<math>\hat{a}=\sqrt{\frac{\hbar}{2m\omega}}\left(+\frac{\partial}{\partial x}+\frac{m\omega}{\hbar}x\right)</math> : 消滅演算子
:<math>\hat{a}^\dagger=\sqrt{\frac{\hbar}{2m\omega}}\left(-\frac{\partial}{\partial x}+\frac{m\omega}{\hbar}x\right)</math> : 生成演算子
これを使うと、上述のシュレディンガー方程式は次のように書きなおせる。
:<math>\hbar\omega\left(\hat{a}^\dagger\hat{a}+\frac{1}{2}\right)\phi=E\phi</math>
1/2の項が出るのは演算子に微分が含まれているためである。エネルギー固有値との比較から、<math>\hat{a}^\dagger\hat{a}</math>の固有値は <math>n</math> に等しいことがわかる。よって<math>\hat{a}^\dagger\hat{a}</math>を'''[[数演算子]]'''と呼び<math>\hat{n} \ </math>で表す。
生成・消滅演算子をエネルギー固有状態<math>\phi_n(x)</math>に作用させると、<math>\hat{n} \ </math>の固有値''n'' を増減させる。( <math>n</math> = <math>0,1,2,....</math>)
:<math>\begin{align}
\hat{a}^\dagger\phi_n(x)&=\sqrt{n+1}\phi_{n+1}(x) \\
\hat{a}\phi_n(x)&=\sqrt{n}\phi_{n-1}(x) & (n \ge 1) \\
\hat{a}\phi_0(x)&=0
\end{align}</math>
つまり <math>n</math> をなんらかの粒子の数と見なすならば、生成演算子は粒子を一つ作り、消滅演算子は一つ減らす働きをする。また基底状態(粒子数0の状態)に消滅演算子を作用させても、もう粒子は消せない。
この演算子を用いれば、方程式の解を容易に導出できる。
=== 量子場との関係 ===
[[場の量子論]]や[[量子多体系]]では、場を量子的な調和振動子に分解することがある。量子的な調和振動子の組があれば、必ずそれをボース粒子の系とみなすことができる。独立な調和振動子からなる系は、エネルギー固有値や平衡状態を議論するかぎり、[[化学ポテンシャル]]<math>\mu=0</math>の[[理想ボース気体]]と数学的に完全に等価である。<ref>{{Cite book|和書|last=田崎|first=晴明|authorlink=田崎晴明|title=統計力学 II|publisher=[[培風館]]|date=2008-12-5|isbn=978-4-563-02438-3}}</ref>
ただし全ての場が調和振動子に帰着されるわけではない。調和振動子の集まりと考えることができる場は、[[双曲線]]型の[[微分方程式]]を満たすものに限られる(詳細は[[非調和振動子]]や[[ボゴリューボフ変換]]を参照)。また粒子像が描けるのは、調和振動子になるような量子場に限られる。たとえば[[マクスウェル方程式|マクスウェルの場]]の全体が調和振動子の集まりになるわけではなく、遠くのほうに電磁波として伝わっていく成分だけが、調和振動子になる<ref name=takahashi>{{Cite book|和書|author=高橋康|authorlink=高橋康|title=物理数学ノート<2>力学I|publisher=[[講談社]]|date=1993-12|id={{ISBN2|4-06-153208-1}}。ISBN-13: 978-4-06-153208-3}}</ref>。このとき現れる粒子像が光子である。ただし粒子の数と調和振動子の数には直接的な関係はない。粒子の数が増減すると調和振動子の状態が変化する<ref>鈴木博『場の量子論の考え方』数理科学, No.41, p.6-11 (2008).</ref>。
量子的な調和振動子に分解するというのは、量子がもつ粒子性を[[振幅]]で解釈し、波動性を振動数で理解しようとする考え方である。この考え方をあえてフェルミ粒子にも適用すると、[[ボース粒子]]はいくらでも振幅が大きくなれるが、[[フェルミ粒子]]は振幅に制限があるためにあまり大きくなれないと考えることもできる。この量子的な調和振動子の振幅を表すのが生成消滅演算子である<ref name=takahashi/>。
=== 例 ===
* [[光子]]([[電磁場]]の[[フーリエ成分]])
* [[フォノン]]([[格子振動]]の[[基準振動]])
==具体例==
[[File:Harmonic Oscillator 0.0 450.gif|thumb|450px|図1:<math>\xi_0=0</math>における量子的調和振動子の図]]
[[File:Harmonic Oscillator 0.45 450.gif|thumb|450px|図2:<math>\xi_0=0.45</math>における量子的調和振動子の図]]
量子力学における1次元の調和振動子の運動をアニメーションで示す(図1)(図2)。青い曲線が粒子の波動関数の実部である。緑の曲線が粒子の存在確率密度である。
量子力学では粒子の運動状態を波動関数で表す。波動関数は一般に複素数で与えられる。波動関数の絶対値の2乗が存在確率密度を表す。図1、図2に示される存在確率密度の変動は古典論での粒子の単振動に対応している。
波動関数は一般に
:<math>\psi(x,t)=\sum^{\infty}_{n=0} C_n\phi_n(x)\exp\left(-i\omega\left(n+\frac{1}{2}\right)t\right)</math>
とかける。ただし<math>C_n</math>は波束を決定する係数である。初期条件として零点振動の中心を<math>x_0</math> だけ変位させた波束
:<math>\psi(x,0)=A\exp\left(-\frac{m\omega}{2\hbar}(x-x_0)^2\right)</math>
を選ぶ(ただし <math>x_0</math> は任意の定数)と、係数<math>C_n</math>はエルミートの多項式の直交性から
:<math>
\begin{align}
C_n&=\int_{-\infty}^{\infty} \phi_n(x)\psi(x,0)\,dx\\
&=\frac{1}{n!2^n}\sqrt\frac{m\omega}{\pi\hbar}\left(\sqrt\frac{m\omega}{\hbar}x_0\right)^n\exp\left(-\frac{m\omega}{4\hbar}x_0^2\right)\\
&=\frac{1}{n!2^n}\sqrt\frac{m\omega}{\pi\hbar}\xi_0^n\exp\left(-\frac{\xi_0^2}{4}\right)
\end{align}
</math>
で与えられる(ただし、<math>\xi_0 = \sqrt\frac{m\omega}{\hbar}x_0 </math> とした)。この場合の粒子の運動が図1、図2である。
===図1のアニメーション===
<math>\xi_0 = 0.0</math>では<math>1 \leqq n </math>の<math> n </math>に対して<math>C_n=0</math>になる。すなわち波動関数が
:<math>\psi(x,t)=C_0\phi_0(x)\exp\left(-\frac{i\omega}{2}t\right)</math>
となる。波動関数は定常波のように振動する。この振動が零点振動である。存在確率密度が時間変化しない定常状態となる。エネルギー固有値は零点エネルギー<math> E_n = \frac{1}{2}\hbar\omega </math>であり、エネルギー状態は基底状態である。基底状態はエネルギーが0の状態ではないので波動関数は運動する。
===図2のアニメーション===
<math>\xi_0 = 0.45 </math>では<math>C_n</math>が<math>0</math>でない値を持つ<math>n</math>が2つ以上存在する。波動関数はエネルギー状態が基底状態の波動関数と励起状態の波動関数の重ね合わせで表される。波動関数の波形は時間によって変化し、定常状態ではない。波動関数は振動の中心付近で速度が最大になる。ド・ブロイの関係式
:<math>p=\frac{\hbar}{\lambda}</math>
により速度が大きくなると波長<math>\lambda</math>が短くなるので波動関数の波長が振動の中心付近では振動の端と比べて短くなっている。
== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* 長岡洋介 著、[[小出昭一郎]]・[[阿部龍蔵]] 監修 『振動と波』 [[裳華房]]、1992年。{{ISBN2|4-7853-2045-1}}。
* [[小出昭一郎]] 『量子力学 (I)』(改訂版)、裳華房〈[[基礎物理学選書]]〉、1990年。{{ISBN2|4-7853-2132-6}}。
* 『物理学事典』(三訂版) [[培風館]]、2005年。
== 関連項目 ==
* [[共振]]
* [[格子振動]]
* [[分子内振動]]
* [[原子核振動]]
* [[非調和振動子]]
* [[RLC回路]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちようわしんとうし}}
[[Category:力学]]
[[Category:量子力学]]
[[Category:振動と波動]]
[[Category:力学系]]
[[Category:常微分方程式]]
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2022-06-20T00:59:00Z
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片町線
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片町線(かたまちせん)は、京都府木津川市の木津駅から大阪府大阪市都島区の京橋駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。「学研都市線」(がっけんとしせん)の愛称が付けられており、少なくとも旅客案内において正式路線名の「片町線」と案内されることはほぼなくなっている。このほか、本線から離れた神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間および正覚寺信号場 - 平野駅間に貨物支線を持つ。
本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線の尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」、福知山線の尼崎駅 - 篠山口駅間は「JR宝塚線」、関西本線の久宝寺駅 - 奈良駅間・奈良駅 - 木津駅間は「大和路線」の愛称で記述する。
JR西日本のアーバンネットワークに含まれる路線の一つである。生駒山地の北端を廻り、大阪府北河内地域の各都市や京都府南部に広がる住宅地と大阪・阪神方面との通勤・通学路線となっている。また愛称の通り、関西文化学術研究都市田辺地区のアクセス路線でもある。京橋駅からはJR東西線に直通運転を行っており、さらにJR東西線の尼崎駅から先はJR神戸線(東海道本線・山陽本線)またはJR宝塚線(福知山線)に乗り入れている。
元は路線名の由来であった片町駅が終点だったが、同駅が1997年のJR東西線開業と同時に同線の大阪城北詰駅に置き換わる形で廃止されたため、京橋駅が終点となった。片町駅が廃止された後も正式路線名は変更されていない。1990年に制定されたラインカラーは黄緑(■)で、選定理由は「これからの若いエネルギーをイメージ」としていたが、2014年度に路線記号 H を導入した際にラインカラーは直通運転しているJR東西線と同じ桜桃色(■)に変更されている。
関西の日本国有鉄道(国鉄)線で初の電化区間である。また国鉄では武蔵野線に次いで、西日本地域としては初めて自動改札機を採用した路線でもある。
旅客営業区間の全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、長尾駅 - 京橋駅間が電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃設定となっている。また、全線がIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。
全区間をJR西日本近畿統括本部が管轄している。
北陸新幹線の京都駅 - 新大阪駅間のルートは、当線の松井山手駅付近に近畿地方で唯一の北陸新幹線単独駅を設置する京田辺ルート(南回り)に確定しており、これにより関西文化学術研究都市の経済振興が図れるとされている。
かつては放出駅・鴫野駅からそれぞれ南北に伸びる貨物支線(通称「城東貨物線」)を持ち、関西本線と東海道本線を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車が同線を経由して運行されていた。
JR発足後、同線の一部は新大阪駅 - 久宝寺駅間を結ぶおおさか東線として旅客営業に用いられることになり、第三セクター会社の大阪外環状鉄道によって旅客線化する工事が進められ、2008年3月15日に放出駅 - 久宝寺駅間が、2019年3月16日に新大阪駅 - 鴫野駅間が開業した。この際に片町線の重複する区間が廃止された結果、現在の貨物支線は本線から離れた正覚寺信号場 - 平野駅間および神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間のみが残る状態となっている。
京都府内は生駒山地の東側から北側に沿っており、ほぼ全区間が単線である。関西文化学術研究都市の沿線であるため近年は利用者が増えている。
起点である木津駅は京都府の最南部木津川市に位置し、片町線(学研都市線)の列車は1線のみを使用している。木津駅を出ると大きく左にカーブし、住宅地の合間をカーブしながら抜けると右側にのみホームのある西木津駅、その先で右にカーブして近鉄京都線をくぐってしばらく近鉄線と並走し、精華町に入り関西文化学術研究都市の玄関口である祝園駅に着く。左側にホームのある下狛駅を過ぎると京田辺市に入って、しだいに右手には近鉄西大寺検車区宮津車庫の横を走行し、行き違い設備を持つJR三山木駅、続いて同志社大学京田辺キャンパスの最寄り駅である同志社前駅に着き、さらにミツマンボと呼ばれるレンガ橋の天井川をくぐって京田辺駅に着く。2010年3月12日まで京田辺駅では全列車の車両の増解結が行われていたが、これは京田辺駅以南は4両編成しか運転できなかったためである。
京田辺を出ると再度天井川をくぐって京奈和自動車道との交差部に大住駅があり、左右にカーブを進みながら住宅地が多くなると掘削駅の松井山手駅である。松井山手駅は線内で一番新しい駅であり、駅周辺のニュータウン開発に伴い開業した。木津駅から松井山手駅までは終日、列車のドアは半自動扱いとなっている。松井山手駅からは複線で、京橋方面からのほとんどの普通がこの駅で折り返しており、引き上げ線も1線設けられている。第二京阪道路を越えると大阪府に入る。
1989年3月の松井山手駅開業・長尾以東電化複線化までは、大住駅 - 長尾駅間に大谷トンネル・奥大谷トンネルの2本のトンネルがあった。大谷トンネルは開削されて現存しない。松井山手駅が旧・大谷トンネルの位置にあるとされることが多いが実際にはそうではなく、大谷トンネルを含む旧線は松井山手駅より少し東に位置する。奥大谷トンネルは京都・大阪の府境にあったが、トンネルの老朽化と複線化対応のため、トンネルの北側を切り通しにして線路が付け替えられた。旧線の路盤は埋められたが、京橋方のポータル(坑口)の上部が地上に出ており、現在線の車窓からも見ることができる。また、1989年に長尾以東が電化される前は、片町線のこの区間は運行頻度も少なく不便であったために利用客は非常に少なく、沿線の精華町や京田辺市(当時は田辺町)の住民は片町線沿線(大東市や四條畷市など)や関西本線木津以東が目的地以外の場合は殆どが近鉄京都線を利用し、京橋への移動でさえ大和西大寺駅や丹波橋駅経由で移動したり、あるいは京阪樟葉駅にバスで出て移動するケースが殆どであった。
大阪府内は四条畷付近まで生駒山地の北側から西側を走り、進路を変えて西進する。大阪府枚方市に入るとすぐに長尾駅、藤阪駅と続く。津田駅では島式2面4線の用地が確保されているが、実際に線路が敷設されているのは内側2線のみで東側1線は保線基地として使用されている。交野市に入り第二京阪道路を過ぎて右にカーブを進むと京阪交野線との乗換駅である河内磐船駅を過ぎて、高架駅である星田駅である。高架を下りる前に寝屋川市に入り、掘削駅の寝屋川公園駅で再び住宅地が目立つようになると、その先の四條畷市内で再び高架となり忍ケ丘駅、高架を下り地上駅で2面4線の四条畷駅に着く。四条畷駅は、京橋方面からの列車はどのホームでも折り返すことができる駅で朝夕のラッシュ時は四条畷駅発着の列車が数多く設定されている。なお四条畷駅の所在地は四條畷市ではなく大東市である。
続く野崎駅は野崎観音の最寄り駅で、参道は商店街となっている。大きく右にカーブして、恩智川を渡ると高架駅2面4線の住道駅、東大阪市に入って鴻池新田駅と続く。同駅は門真市駅 - 瓜生堂駅間延伸事業が行われる大阪モノレール線との乗換駅となる予定である。近畿自動車道・大阪中央環状線を越えると近畿車輛を左手に眺めて地平に降りると徳庵駅である。同社ではJR西日本のほか、親会社である近鉄など他社の車両も多く製造しており、車窓から搬出前の車両が見えることもある。
徳庵駅を過ぎて大きく右にカーブすると、大阪市に入り、下り線はおおさか東線を越えるための高架となり、その高架からは網干総合車両所明石支所放出派出所を眺めることができる。片町線の上下線に挟まれる形で走るおおさか東線と合わせて方向別複々線になると地上に降り、対面乗り換えが可能な放出駅に到着する。再び高架になると城北川を渡る付近で上り高架線はさらに高さを上げ、おおさか東線の上下線を越える。鴫野駅の手前で下り線と合流し、おおさか東線とは線路別複々線となる。
鴫野駅はカーブ区間にホームが設置されており、駅係員もラッシュ時にホームに常駐している。寝屋川を渡っておおさか東線が右に別れ地上となり、左にカーブすると現在の終点である京橋駅に到着する。なお一部の列車を除き大半の列車が同駅からJR東西線へ直通運転を行う。
かつての終着駅であった片町駅は、京橋駅からそのまま直進した場所にあった。
1989年3月11日に木津駅 - 長尾駅間が電化されるまでは長尾駅で運転系統が分かれ、木津駅 - 長尾駅間には気動車が運転されていた(「歴史」の節も参照)。また、当時の木津駅 - 長尾駅間の気動車列車は、関西本線亀山駅 - 奈良駅間の列車と共通の2両編成で運転されていた。
JR東西線開業前は、片町駅 - 四条畷駅間では日中時間帯快速20分間隔・普通10分間隔であったが、開業後は同線と一体的な運行形態が組まれ、福知山線(JR宝塚線)宝塚方面や東海道本線・山陽本線(JR神戸線)神戸方面と直通運転を行い、日中時間帯は快速・普通とも15分間隔に変更した。普通や快速のほか、朝晩には区間快速および関西本線(大和路線)奈良駅発着の列車が運行されている。
全列車が7両編成で運転されている。2010年3月12日までは京田辺駅で車両の連結・切り離しが行われ、京田辺駅 - 同志社前駅・木津駅間は4両編成で運転されていた。207系の量産車に4両編成と3両編成が存在するのは、このような運用を考慮したものである。
2022年3月12日改正時点の運行形態は以下の通りである。
15分サイクルでの運転が基本で、閑散時間帯の運転本数は上表のとおり、1時間当たり、区間快速は木津発着1本、同志社前発着3本、普通は四条畷発着4本が設定されている。すべてJR東西線直通で、区間快速はJR宝塚線塚口まで直通、普通はJR神戸線西明石まで直通となる。
木津駅 - 長尾駅の各駅と、河内磐船駅・星田駅・四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。
大半の列車がJR宝塚線に直通し、塚口駅・宝塚駅・新三田駅・篠山口駅まで乗り入れる。JR神戸線からの直通列車は土休日夜に西明石発同志社前行き(JR神戸線内は普通)が2本設定されているが、JR神戸線への直通列車はない。夜には京橋駅からJR東西線・JR宝塚線内は普通となる宝塚・新三田行きの快速がある。
早朝・深夜には吹田総合車両所奈良支所への回送列車を兼ねて、木津経由で大和路線と直通する奈良駅発着列車が1往復運転されている。この列車は大和路線系統の快速と同じく平城山駅に停車する。
主に朝夕に運転されている。2015年3月13日までは日中にも設定があったが、区間快速に置き換えられて廃止された。ラッシュ時は住道駅または四条畷駅で普通と緩急接続を行う。
快速は1988年3月13日に設定された。当初は長尾駅 - 片町駅間に平日のみ上り1本、下り2本が運転され、途中の停車駅は四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅のみであったが、同年9月1日に河内磐船駅が停車駅に追加された。1989年3月11日の改正で日中にも設定され、同志社前駅・木津駅まで運転区間を拡大し、長尾駅から終点までは各駅に停車するようになった。1989年3月11日からは全区間3両編成で運転されていたが、混雑が非常に激しいことから1990年3月10日から4両編成に変更された。1997年3月8日にJR東西線が開通するまでは、朝の同志社大学への通学用に片町発同志社前行き(7両編成で運転し、松井山手駅で後3両を切り離し)が2本運転されていたのを除き、朝ラッシュ時には快速は運転されず、1時間の本数は日中は片町駅 - 同志社前駅間で3本(20分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で1 - 2本(40分間隔)、夕方以降は4両編成で京橋駅 - 同志社前駅間で4本(16分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で2本(32分間隔)が運転されていた。
木津駅 - 四条畷駅の各駅と住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。
大半が尼崎駅発着およびJR宝塚線直通の塚口駅・宝塚駅・新三田駅発着であるが、JR神戸線の西明石駅を発着する列車(JR神戸線内は普通)が運転されている。大和路線奈良駅発着列車(木津駅経由)も1往復運転されている。上り木津方面の列車は尼崎駅で普通・快速から区間快速に、下り尼崎方面の列車は京橋駅で区間快速から普通・快速に種別が変わる。
日中時間帯は1時間に京橋駅 - 同志社前駅間が4本、同志社前駅 - 木津駅間が1本の運転である。
2010年3月13日のダイヤ改正で普通・快速を置き換えて増発し、木津行きの最終列車も快速から区間快速に変更された。また、2015年3月14日のダイヤ改正で日中の快速が区間快速に変更された。
全区間で各駅に停車する。大半の列車がJR神戸線西明石方面と直通運転している。基本的な運行区間は西明石駅・京橋駅 - 四条畷駅・松井山手駅間であり、朝晩にはJR宝塚線の塚口駅・宝塚駅・新三田駅を発着する列車も設定されている。
日中時間帯は京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に4本運転されている。朝夕は京橋駅で折り返す列車も運行されている。京橋駅 - 木津駅間を直通する普通は、早朝にJR宝塚線方面および尼崎・京橋発の木津行き5本、木津発が下り最終の京橋行き1本のみである。朝晩には快速・区間快速との緩急接続もあり、西明石駅発着は四条畷駅(朝のみ住道駅)で、京橋駅発着は住道駅で行う。日中時間帯は四条畷駅で区間快速と片接続を行う。
JR東西線開業前は朝ラッシュ時に快速の設定がなかったため、その時間帯に木津駅・同志社前駅発着列車の設定があった。1999年5月9日までは朝の四条畷駅 → 京橋駅間は4分間隔であったが、区間快速への置き換えが進んだ。2002年3月22日までは日中にも京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に6本が運転されていた。区間列車については1999年5月10日に4両に減車され、最終的に廃止された。2006年3月17日までは、長尾行きや大久保駅発着の列車も設定されていた。
2010年3月13日のダイヤ改正では、日中時間帯の上り松井山手行きが須磨発に変更された。このダイヤ改正以前は、夕方ラッシュ時の系統は京橋発四条畷行きで、折り返し四条畷発西明石行きとして運転されていた。2011年3月12日の改正で平日午前中の一部列車が長尾駅折り返しに変更され、夜のJR神戸線直通の一部が四条畷発に変更された。2012年3月17日の改正で日中の松井山手駅発着が長尾駅発着に変更された。2015年3月14日のダイヤ改正では日中の列車の運転区間が四条畷駅発着に見直された。その後、2016年の摩耶駅開業に伴う時間調整の影響で、日中時間帯の上りは再び西明石始発となり、代替としてJR神戸線 - 大阪駅・高槻駅間の系統は上下とも須磨駅発着となっている。
JR東西線が開業した1997年には、快速「万葉レジャー号」が新三田駅 - 奈良駅間で1往復(新三田駅 - 木津駅間は定期列車)が運転されたほか、2000年と2001年には快速「神戸シーサイドレジャー号」が四条畷駅 - 西明石駅間で1往復運転された。
現在は、臨時列車の運転はない。
大晦日深夜から元日未明にかけて、片町線では京橋駅 - 四条畷駅間(運転区間はJR東西線尼崎駅 - 四条畷駅間)において、午前3時頃まで約30分間隔で普通のみ臨時列車を運行している。
かつては元日の始発にかけて、JR尼崎駅から先、JR宝塚線宝塚駅まで(一時期は新三田駅まで)約30 - 60分間隔で、また四条畷駅から先も、京田辺駅まで(一時期は木津駅まで)普通のみ約60分間隔で終夜運転が実施されていたこともあったが、これらの区間の運行は2018年度までに全て取り止められている。さらに、2019年度からは午前3時頃で運転を打ち切っているため終夜運転ではなくなり、運行区間・時間は縮小傾向にある。2020年度はJR西日本が管内の全ての路線で終夜運転はおろか、最終電車終了後の延長運転自体を取り止めたため実施されなかった。
平日・土曜・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、全列車の木津側から3両目(321系では5号車)に女性専用車が設定されている。対象車両および乗車位置には、女性専用車の案内表示が設置されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
当線では、2002年7月1日より平日の始発から9時までに京橋駅に到着する下り列車の最後部車両を女性専用車として試験的に導入し、同年10月1日から本格的に導入した。その後、同年12月7日からは木津方面行きの列車にも設定するとともに設定車両を木津側から3両目に変更し、平日の17時から21時までの時間帯についても女性専用車の設定を行った。
さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。
おおさか東線が部分開業した2008年3月15日から同線が全線開業する前日である2019年3月15日まで、直通快速が奈良駅 - 尼崎駅間に大和路線・おおさか東線経由で朝夕に運転されていた。運転本数は朝に奈良発尼崎行き4本、夕方に尼崎発奈良行き4本である。当線内は放出駅・京橋駅に停車し、鴫野駅を通過していた。車両は2011年3月11日の尼崎行きまで223系6000番台4両編成を2本連結した8両編成が、同日夕方の奈良行き以降は207系が使用されている。後に321系も運用されている。2019年3月16日のおおさか東線新大阪駅 - 放出駅間開業に伴い全列車が新大阪始発・終着となり、当線・JR東西線での運行が廃止された。
全列車が電車で運転されている。直通運転を行うJR東西線とともに全区間の列車がロングシート車で占められている。また、所属は網干総合車両所所属・明石支所配置である。直通先のJR宝塚線の普通・快速列車やJR神戸線・JR京都線の普通(京阪神緩行線)と共通運用となっている。
現行の主力車両である207系が最初に投入された路線が当路線であることや、当路線の延長路線であるJR東西線の開業もあり、JR西日本の電化路線では最も早く全列車がJR発足後製造の車両に置き換わった路線である(103系はJR東西線開業前の1996年に運用終了)。なお、直通先のJR東西線では、開業当初から207系(2008年以降は207系に加え321系)のみが使用され、201系、205系は入線しなかった。
但し、例外として2008年のおおさか東線の放出駅 - 久宝寺駅間の区間開業時に、尼崎発着の東西線・放出駅経由の直通快速に限り、クロスシート仕様の223系6000番台が2011年3月11日まで使用されていたが、JR東西線の北新地駅で4扉・7両編成対応のホームドアを設置する関係で当路線での運用ができなくなり、同年3月12日以降はロングシート車のみが乗り入れている。
片町駅 - 四条畷駅間は、浪速鉄道が生駒山地北部の飯盛山西麓にある野崎観音(慈眼寺)・四條畷神社への参詣鉄道として1895年に開業させたもの。四条畷駅 - 新木津駅・木津駅間は、その頃、大阪進出を計画していた関西鉄道が1897年に浪速鉄道とともに合併した城河鉄道から四条畷駅 - 長尾駅 - 木津駅間の鉄道敷設免許を使い、翌1898年に開通させたものである。
関西鉄道は網島駅 - 四条畷駅 - 新木津駅間を名阪間を結ぶ本線とし、網島駅 - 名古屋駅間に四条畷駅経由で直通列車を運転するが、1900年に大阪鉄道を合併して名阪間の本線を王寺駅経由に変更、さらに加茂駅 - 奈良駅間を大仏駅経由から木津駅経由に変更した1907年より後は、木津駅 - 桜ノ宮駅・片町駅間を結ぶだけのローカル線となった。同年国有化され、1909年に木津駅 - 桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅 - 片町駅間を片町線とするが、1913年に放出駅 - 桜ノ宮駅間を廃止し、木津駅 - 片町駅間が片町線となった。
1932年、四条畷駅 - 片町駅間が関西の国電区間では初めて電化され(1929年に開通した阪和線は当時阪和電鉄という私鉄)、木津駅 - 四条畷駅間はC11形が牽引する汽車、四条畷駅 - 片町駅間は電車になった。C11形投入後は蒸気機関車が廃止されるまで、同機が専ら列車牽引に用いられた。
戦前の当線の特色として、陸軍大阪砲兵工廠(現在の大阪城公園の一部・大阪ビジネスパーク・森ノ宮電車区・Osaka Metro森之宮検車場の地にあった)と沿線に設置された工廠や火薬庫を結ぶ軍需輸送がある。これらの施設までは陸軍の専用線が敷設されていた(星田駅 - 香里製造所・津田駅 - 中宮(禁野火薬庫)・現在の下狛駅付近 - 祝園弾薬庫の3線)。戦後、施設の廃止により香里と中宮に至る専用線は道路化されたが、戦後に米軍および自衛隊の施設に転用された祝園の専用線はその後も使われ、現在もその跡をわずかに留めている。なお、香里製造所の敷地は1958年から香里団地に、専用跡は枚方市道・交野市道に流用された。中宮の禁野火薬庫は小松製作所大阪工場に流用され、1967年10月からはこの頃に一般国道昇格が決定された主要地方道水口枚方線(1970年4月1日に国道307号へ昇格)バイパスに流用されている。
戦後の1949年には、四条畷駅 - 片町駅間22分間隔、所要時間34分のところを、20分間隔、所要時間は日中22分、朝夕24 - 26分に増発・スピードアップされた。1950年に長尾駅 - 四条畷駅間が電化され、非電化区間は気動車のキハ41000形に変わり、汽車は木津駅 - 放出駅間1日2 - 3往復(放出駅 - 片町駅間と城東貨物線については不明)の貨物列車だけになった(1972年に蒸気機関車使用廃止)。木津駅 - 長尾駅間は気動車が日中以降1 - 2時間間隔で運転されるだけであり、国鉄末期に増発が行われた。
国鉄分割民営化後の1989年に木津駅 - 長尾駅間が電化され、全区間で電車が運転されるようになった。
1970年代、急激な都市化が進む大阪市北西部・兵庫県阪神地域を結ぶための実質的な延伸区間「片福連絡線」の構想が、1971年の都市交通審議会答申第13号で「新設すべき路線のうち、緊急に実施すべき区間」と指定を受けたものの、長年にわたり着工が財政上の問題から見送られてきた。1988年、JR西日本と沿線自治体などが共同で出資した関西高速鉄道が設立され、線路の建設と保有を関西高速鉄道(第3種鉄道事業者)、運行をJR西日本(第2種鉄道事業者)が行う「上下分離方式」で着工されるに至り、1997年、JR東西線として開業し福知山線(JR宝塚線)・東海道・山陽本線(JR神戸線)との直通運転を開始。同時に京橋駅 - 片町駅間が廃止された。
以下で区間の「廃止」は特に注記がなければ当該駅および信号場間の営業線としての廃止を意味する。廃止日以降も車両基地への回送線としてや、重複区間であるため一部区間では線路が残っている(いた)場合はその旨注記した。
祝園駅・同志社前駅・大住駅・藤阪駅・津田駅・星田駅・寝屋川公園駅・忍ケ丘駅・鴻池新田駅がJR西日本交通サービスによる業務委託駅、西木津駅・下狛駅・JR三山木駅が無人駅、それ以外の駅はJR西日本の直営駅である。
括弧内の数値は起点からのキロ程。
括弧内は木津駅起点の営業キロ。廃止区間の駅を除く。
片町線は1989年3月にこれまで気動車が運行されていた長尾駅 - 木津駅間の電化が実現したものの、この時開業した松井山手駅と木津駅の間は複線化はされなかった。片町線は関西文化学術研究都市へのアクセスとして重要な役割を担うため、大阪方面との輸送力の強化の必要性が大きく高まっていたが、松井山手駅以東は単線区間が残っており、また、木津、西木津、下狛、同志社前の各駅は現在も上下列車の行き違いをすることができないため、列車の増発には限界があった。
この片町線全線の複線電化の実現へ向けて、1952年、沿線に当たる地域のうち、大阪府と京都府に境を接す東大阪市・大東市・四條畷市・寝屋川市・交野市・枚方市・京田辺市・精華町・木津川市の以上8市1町の9つの自治体が中心となって、片町線複線化促進期成同盟会という団体が行政レベルを中心に設立されており、JR西日本に対し、輸送力の増強及び夜間の時間帯の輸送改善および全線の複線化を毎年要望している。
京都府は輸送需要の増加が著しい松井山手駅 - 京田辺駅間を中心に高速化・輸送力増強が早期に実現できるようJR西日本への要請を強め、1998年の補正予算でも高速化・輸送力増強事業費および駅舎整備費補助金として合計1,100万円を計上した。輸送改善の工事は1998年10月に着工し、松井山手駅 - 京田辺駅間の高速化が行われ、大住駅に行き違い設備の新設、京田辺駅の構内改良、JR三山木駅付近の線路移設および行き違い設備の新設・高架化が行われた。これにより列車の増発が可能になり、京橋方面から京田辺駅まで7両編成で運転できるようになった。
その後、同志社大学の八田英二学長(当時)名による申入れがあり、京田辺駅 - 木津駅間でも輸送改善工事が行われた。同志社前駅 - 木津駅間の各駅のホームを4両編成から7両編成に対応できるように延伸する工事が行われ、2010年3月13日から京田辺駅で行われていた車両の増解結がなくなり、全線で7両編成で運転することが可能になった。
2017年、北陸新幹線の西伸計画のうち、京都駅 - 新大阪駅間について、片町線松井山手駅付近を経由する「南回りルート」として建設する方針が固まったが、このタイミングで、当時の京都府知事・山田啓二は「舞鶴を経て日本海に至る山陰新幹線も含めた鉄道ネットワークの強化や、新幹線の整備効果をより高めるための学研都市線の複線化等の検討が、合わせて行われることが必要」と談話を述べ、さらに京田辺市の当時の市長・石井明三も「府南部地域の地域開発効果や学研都市の発展、さらには学研都市線の複線化につながるものと大いに期待している」と学研都市線の複線化の推進を促すコメントを残している。しかしながら、2019年に期成同盟会がJR西日本に対して陳情したところ、「北陸新幹線の延伸や、おおさか東線の全線開通、学研都市の機能の充実などでポテンシャルは上がっているが、現状では、現在のダイヤで十分に対応でき、増発や複線化は難しいと言わざるを得ない」とする回答があった。
日本の国土交通省は、学研都市建設に関する基本方針の一環として、京阪奈の各都心との連絡性を高めるため、学研都市線と奈良線を直通する「片奈連絡線(かたなれんらくせん)」という短絡線の建設の推進、および祝園駅付近の分岐線や木津駅方面への整備の必要性について検討している。実際、1989年5月に出された、運輸政策審議会答申第10号では、「2005年までに整備すべき路線」として挙げられていたが、2004年10月の近畿地方審議会答申第8号には盛り込まれていない。前述の沿線期成同盟会は、京田辺駅 - 奈良線・長池駅を結ぶ片奈連絡線の実現を陳情している。
学研都市線の終点駅である京橋駅周辺の都島区片町から城東区新喜多にかけては、京橋駅が長年地上ホームとなっていることから、地区が南北に分断しており、地域の発展を阻害しているとされる。またそこへ走る都市計画道路構想も工事に着手できない状態が続いている。
そこで、ここにある「新喜多」「馬の口」「鯰江」の3つの踏切を除却し、約1.3kmを地下路線に移行したうえで、都市計画道路の整備と交通渋滞の緩和、地域分断化の解消などを進める再開発構想が大阪市によって計画されているが、財政上の問題で再開発が進んでいない。京橋駅学研都市・東西線ホームも地下に移行し、2面2線の乗り場を建設することが考えられている。
しかし、イオン京橋店(2019年9月閉店)のオフィス併設の商業施設への建て替え工事などの再開発の動きが活発化していることから、2021年7月、この立体交差事業再開へ向けて、大阪市が日本交通技術に調査検討業務を委託し、地下化のルートや工法についての再検討を行うことになった(履行期間:2022年3月31日まで)。
大東市は住道駅 - 野崎駅間に新駅を設置することを要望している。
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"text": "片町線(かたまちせん)は、京都府木津川市の木津駅から大阪府大阪市都島区の京橋駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。「学研都市線」(がっけんとしせん)の愛称が付けられており、少なくとも旅客案内において正式路線名の「片町線」と案内されることはほぼなくなっている。このほか、本線から離れた神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間および正覚寺信号場 - 平野駅間に貨物支線を持つ。",
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"paragraph_id": 1,
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"text": "本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線の尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」、福知山線の尼崎駅 - 篠山口駅間は「JR宝塚線」、関西本線の久宝寺駅 - 奈良駅間・奈良駅 - 木津駅間は「大和路線」の愛称で記述する。",
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"paragraph_id": 2,
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"text": "JR西日本のアーバンネットワークに含まれる路線の一つである。生駒山地の北端を廻り、大阪府北河内地域の各都市や京都府南部に広がる住宅地と大阪・阪神方面との通勤・通学路線となっている。また愛称の通り、関西文化学術研究都市田辺地区のアクセス路線でもある。京橋駅からはJR東西線に直通運転を行っており、さらにJR東西線の尼崎駅から先はJR神戸線(東海道本線・山陽本線)またはJR宝塚線(福知山線)に乗り入れている。",
"title": "概要"
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"text": "元は路線名の由来であった片町駅が終点だったが、同駅が1997年のJR東西線開業と同時に同線の大阪城北詰駅に置き換わる形で廃止されたため、京橋駅が終点となった。片町駅が廃止された後も正式路線名は変更されていない。1990年に制定されたラインカラーは黄緑(■)で、選定理由は「これからの若いエネルギーをイメージ」としていたが、2014年度に路線記号 H を導入した際にラインカラーは直通運転しているJR東西線と同じ桜桃色(■)に変更されている。",
"title": "概要"
},
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"paragraph_id": 4,
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"text": "関西の日本国有鉄道(国鉄)線で初の電化区間である。また国鉄では武蔵野線に次いで、西日本地域としては初めて自動改札機を採用した路線でもある。",
"title": "概要"
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"paragraph_id": 5,
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"text": "旅客営業区間の全線が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、長尾駅 - 京橋駅間が電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃設定となっている。また、全線がIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。",
"title": "概要"
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{
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"text": "全区間をJR西日本近畿統括本部が管轄している。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "北陸新幹線の京都駅 - 新大阪駅間のルートは、当線の松井山手駅付近に近畿地方で唯一の北陸新幹線単独駅を設置する京田辺ルート(南回り)に確定しており、これにより関西文化学術研究都市の経済振興が図れるとされている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "かつては放出駅・鴫野駅からそれぞれ南北に伸びる貨物支線(通称「城東貨物線」)を持ち、関西本線と東海道本線を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物列車が同線を経由して運行されていた。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "JR発足後、同線の一部は新大阪駅 - 久宝寺駅間を結ぶおおさか東線として旅客営業に用いられることになり、第三セクター会社の大阪外環状鉄道によって旅客線化する工事が進められ、2008年3月15日に放出駅 - 久宝寺駅間が、2019年3月16日に新大阪駅 - 鴫野駅間が開業した。この際に片町線の重複する区間が廃止された結果、現在の貨物支線は本線から離れた正覚寺信号場 - 平野駅間および神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間のみが残る状態となっている。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "京都府内は生駒山地の東側から北側に沿っており、ほぼ全区間が単線である。関西文化学術研究都市の沿線であるため近年は利用者が増えている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "起点である木津駅は京都府の最南部木津川市に位置し、片町線(学研都市線)の列車は1線のみを使用している。木津駅を出ると大きく左にカーブし、住宅地の合間をカーブしながら抜けると右側にのみホームのある西木津駅、その先で右にカーブして近鉄京都線をくぐってしばらく近鉄線と並走し、精華町に入り関西文化学術研究都市の玄関口である祝園駅に着く。左側にホームのある下狛駅を過ぎると京田辺市に入って、しだいに右手には近鉄西大寺検車区宮津車庫の横を走行し、行き違い設備を持つJR三山木駅、続いて同志社大学京田辺キャンパスの最寄り駅である同志社前駅に着き、さらにミツマンボと呼ばれるレンガ橋の天井川をくぐって京田辺駅に着く。2010年3月12日まで京田辺駅では全列車の車両の増解結が行われていたが、これは京田辺駅以南は4両編成しか運転できなかったためである。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "京田辺を出ると再度天井川をくぐって京奈和自動車道との交差部に大住駅があり、左右にカーブを進みながら住宅地が多くなると掘削駅の松井山手駅である。松井山手駅は線内で一番新しい駅であり、駅周辺のニュータウン開発に伴い開業した。木津駅から松井山手駅までは終日、列車のドアは半自動扱いとなっている。松井山手駅からは複線で、京橋方面からのほとんどの普通がこの駅で折り返しており、引き上げ線も1線設けられている。第二京阪道路を越えると大阪府に入る。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "1989年3月の松井山手駅開業・長尾以東電化複線化までは、大住駅 - 長尾駅間に大谷トンネル・奥大谷トンネルの2本のトンネルがあった。大谷トンネルは開削されて現存しない。松井山手駅が旧・大谷トンネルの位置にあるとされることが多いが実際にはそうではなく、大谷トンネルを含む旧線は松井山手駅より少し東に位置する。奥大谷トンネルは京都・大阪の府境にあったが、トンネルの老朽化と複線化対応のため、トンネルの北側を切り通しにして線路が付け替えられた。旧線の路盤は埋められたが、京橋方のポータル(坑口)の上部が地上に出ており、現在線の車窓からも見ることができる。また、1989年に長尾以東が電化される前は、片町線のこの区間は運行頻度も少なく不便であったために利用客は非常に少なく、沿線の精華町や京田辺市(当時は田辺町)の住民は片町線沿線(大東市や四條畷市など)や関西本線木津以東が目的地以外の場合は殆どが近鉄京都線を利用し、京橋への移動でさえ大和西大寺駅や丹波橋駅経由で移動したり、あるいは京阪樟葉駅にバスで出て移動するケースが殆どであった。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 14,
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"text": "大阪府内は四条畷付近まで生駒山地の北側から西側を走り、進路を変えて西進する。大阪府枚方市に入るとすぐに長尾駅、藤阪駅と続く。津田駅では島式2面4線の用地が確保されているが、実際に線路が敷設されているのは内側2線のみで東側1線は保線基地として使用されている。交野市に入り第二京阪道路を過ぎて右にカーブを進むと京阪交野線との乗換駅である河内磐船駅を過ぎて、高架駅である星田駅である。高架を下りる前に寝屋川市に入り、掘削駅の寝屋川公園駅で再び住宅地が目立つようになると、その先の四條畷市内で再び高架となり忍ケ丘駅、高架を下り地上駅で2面4線の四条畷駅に着く。四条畷駅は、京橋方面からの列車はどのホームでも折り返すことができる駅で朝夕のラッシュ時は四条畷駅発着の列車が数多く設定されている。なお四条畷駅の所在地は四條畷市ではなく大東市である。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "続く野崎駅は野崎観音の最寄り駅で、参道は商店街となっている。大きく右にカーブして、恩智川を渡ると高架駅2面4線の住道駅、東大阪市に入って鴻池新田駅と続く。同駅は門真市駅 - 瓜生堂駅間延伸事業が行われる大阪モノレール線との乗換駅となる予定である。近畿自動車道・大阪中央環状線を越えると近畿車輛を左手に眺めて地平に降りると徳庵駅である。同社ではJR西日本のほか、親会社である近鉄など他社の車両も多く製造しており、車窓から搬出前の車両が見えることもある。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"text": "徳庵駅を過ぎて大きく右にカーブすると、大阪市に入り、下り線はおおさか東線を越えるための高架となり、その高架からは網干総合車両所明石支所放出派出所を眺めることができる。片町線の上下線に挟まれる形で走るおおさか東線と合わせて方向別複々線になると地上に降り、対面乗り換えが可能な放出駅に到着する。再び高架になると城北川を渡る付近で上り高架線はさらに高さを上げ、おおさか東線の上下線を越える。鴫野駅の手前で下り線と合流し、おおさか東線とは線路別複々線となる。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"text": "鴫野駅はカーブ区間にホームが設置されており、駅係員もラッシュ時にホームに常駐している。寝屋川を渡っておおさか東線が右に別れ地上となり、左にカーブすると現在の終点である京橋駅に到着する。なお一部の列車を除き大半の列車が同駅からJR東西線へ直通運転を行う。",
"title": "沿線概況"
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"text": "かつての終着駅であった片町駅は、京橋駅からそのまま直進した場所にあった。",
"title": "沿線概況"
},
{
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"text": "1989年3月11日に木津駅 - 長尾駅間が電化されるまでは長尾駅で運転系統が分かれ、木津駅 - 長尾駅間には気動車が運転されていた(「歴史」の節も参照)。また、当時の木津駅 - 長尾駅間の気動車列車は、関西本線亀山駅 - 奈良駅間の列車と共通の2両編成で運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "JR東西線開業前は、片町駅 - 四条畷駅間では日中時間帯快速20分間隔・普通10分間隔であったが、開業後は同線と一体的な運行形態が組まれ、福知山線(JR宝塚線)宝塚方面や東海道本線・山陽本線(JR神戸線)神戸方面と直通運転を行い、日中時間帯は快速・普通とも15分間隔に変更した。普通や快速のほか、朝晩には区間快速および関西本線(大和路線)奈良駅発着の列車が運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
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"text": "全列車が7両編成で運転されている。2010年3月12日までは京田辺駅で車両の連結・切り離しが行われ、京田辺駅 - 同志社前駅・木津駅間は4両編成で運転されていた。207系の量産車に4両編成と3両編成が存在するのは、このような運用を考慮したものである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
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"text": "2022年3月12日改正時点の運行形態は以下の通りである。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "15分サイクルでの運転が基本で、閑散時間帯の運転本数は上表のとおり、1時間当たり、区間快速は木津発着1本、同志社前発着3本、普通は四条畷発着4本が設定されている。すべてJR東西線直通で、区間快速はJR宝塚線塚口まで直通、普通はJR神戸線西明石まで直通となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "木津駅 - 長尾駅の各駅と、河内磐船駅・星田駅・四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "大半の列車がJR宝塚線に直通し、塚口駅・宝塚駅・新三田駅・篠山口駅まで乗り入れる。JR神戸線からの直通列車は土休日夜に西明石発同志社前行き(JR神戸線内は普通)が2本設定されているが、JR神戸線への直通列車はない。夜には京橋駅からJR東西線・JR宝塚線内は普通となる宝塚・新三田行きの快速がある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "早朝・深夜には吹田総合車両所奈良支所への回送列車を兼ねて、木津経由で大和路線と直通する奈良駅発着列車が1往復運転されている。この列車は大和路線系統の快速と同じく平城山駅に停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "主に朝夕に運転されている。2015年3月13日までは日中にも設定があったが、区間快速に置き換えられて廃止された。ラッシュ時は住道駅または四条畷駅で普通と緩急接続を行う。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "快速は1988年3月13日に設定された。当初は長尾駅 - 片町駅間に平日のみ上り1本、下り2本が運転され、途中の停車駅は四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅のみであったが、同年9月1日に河内磐船駅が停車駅に追加された。1989年3月11日の改正で日中にも設定され、同志社前駅・木津駅まで運転区間を拡大し、長尾駅から終点までは各駅に停車するようになった。1989年3月11日からは全区間3両編成で運転されていたが、混雑が非常に激しいことから1990年3月10日から4両編成に変更された。1997年3月8日にJR東西線が開通するまでは、朝の同志社大学への通学用に片町発同志社前行き(7両編成で運転し、松井山手駅で後3両を切り離し)が2本運転されていたのを除き、朝ラッシュ時には快速は運転されず、1時間の本数は日中は片町駅 - 同志社前駅間で3本(20分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で1 - 2本(40分間隔)、夕方以降は4両編成で京橋駅 - 同志社前駅間で4本(16分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で2本(32分間隔)が運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "木津駅 - 四条畷駅の各駅と住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "大半が尼崎駅発着およびJR宝塚線直通の塚口駅・宝塚駅・新三田駅発着であるが、JR神戸線の西明石駅を発着する列車(JR神戸線内は普通)が運転されている。大和路線奈良駅発着列車(木津駅経由)も1往復運転されている。上り木津方面の列車は尼崎駅で普通・快速から区間快速に、下り尼崎方面の列車は京橋駅で区間快速から普通・快速に種別が変わる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は1時間に京橋駅 - 同志社前駅間が4本、同志社前駅 - 木津駅間が1本の運転である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "2010年3月13日のダイヤ改正で普通・快速を置き換えて増発し、木津行きの最終列車も快速から区間快速に変更された。また、2015年3月14日のダイヤ改正で日中の快速が区間快速に変更された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "全区間で各駅に停車する。大半の列車がJR神戸線西明石方面と直通運転している。基本的な運行区間は西明石駅・京橋駅 - 四条畷駅・松井山手駅間であり、朝晩にはJR宝塚線の塚口駅・宝塚駅・新三田駅を発着する列車も設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に4本運転されている。朝夕は京橋駅で折り返す列車も運行されている。京橋駅 - 木津駅間を直通する普通は、早朝にJR宝塚線方面および尼崎・京橋発の木津行き5本、木津発が下り最終の京橋行き1本のみである。朝晩には快速・区間快速との緩急接続もあり、西明石駅発着は四条畷駅(朝のみ住道駅)で、京橋駅発着は住道駅で行う。日中時間帯は四条畷駅で区間快速と片接続を行う。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "JR東西線開業前は朝ラッシュ時に快速の設定がなかったため、その時間帯に木津駅・同志社前駅発着列車の設定があった。1999年5月9日までは朝の四条畷駅 → 京橋駅間は4分間隔であったが、区間快速への置き換えが進んだ。2002年3月22日までは日中にも京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に6本が運転されていた。区間列車については1999年5月10日に4両に減車され、最終的に廃止された。2006年3月17日までは、長尾行きや大久保駅発着の列車も設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2010年3月13日のダイヤ改正では、日中時間帯の上り松井山手行きが須磨発に変更された。このダイヤ改正以前は、夕方ラッシュ時の系統は京橋発四条畷行きで、折り返し四条畷発西明石行きとして運転されていた。2011年3月12日の改正で平日午前中の一部列車が長尾駅折り返しに変更され、夜のJR神戸線直通の一部が四条畷発に変更された。2012年3月17日の改正で日中の松井山手駅発着が長尾駅発着に変更された。2015年3月14日のダイヤ改正では日中の列車の運転区間が四条畷駅発着に見直された。その後、2016年の摩耶駅開業に伴う時間調整の影響で、日中時間帯の上りは再び西明石始発となり、代替としてJR神戸線 - 大阪駅・高槻駅間の系統は上下とも須磨駅発着となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "JR東西線が開業した1997年には、快速「万葉レジャー号」が新三田駅 - 奈良駅間で1往復(新三田駅 - 木津駅間は定期列車)が運転されたほか、2000年と2001年には快速「神戸シーサイドレジャー号」が四条畷駅 - 西明石駅間で1往復運転された。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "現在は、臨時列車の運転はない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "大晦日深夜から元日未明にかけて、片町線では京橋駅 - 四条畷駅間(運転区間はJR東西線尼崎駅 - 四条畷駅間)において、午前3時頃まで約30分間隔で普通のみ臨時列車を運行している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "かつては元日の始発にかけて、JR尼崎駅から先、JR宝塚線宝塚駅まで(一時期は新三田駅まで)約30 - 60分間隔で、また四条畷駅から先も、京田辺駅まで(一時期は木津駅まで)普通のみ約60分間隔で終夜運転が実施されていたこともあったが、これらの区間の運行は2018年度までに全て取り止められている。さらに、2019年度からは午前3時頃で運転を打ち切っているため終夜運転ではなくなり、運行区間・時間は縮小傾向にある。2020年度はJR西日本が管内の全ての路線で終夜運転はおろか、最終電車終了後の延長運転自体を取り止めたため実施されなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "平日・土曜・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、全列車の木津側から3両目(321系では5号車)に女性専用車が設定されている。対象車両および乗車位置には、女性専用車の案内表示が設置されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "当線では、2002年7月1日より平日の始発から9時までに京橋駅に到着する下り列車の最後部車両を女性専用車として試験的に導入し、同年10月1日から本格的に導入した。その後、同年12月7日からは木津方面行きの列車にも設定するとともに設定車両を木津側から3両目に変更し、平日の17時から21時までの時間帯についても女性専用車の設定を行った。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "おおさか東線が部分開業した2008年3月15日から同線が全線開業する前日である2019年3月15日まで、直通快速が奈良駅 - 尼崎駅間に大和路線・おおさか東線経由で朝夕に運転されていた。運転本数は朝に奈良発尼崎行き4本、夕方に尼崎発奈良行き4本である。当線内は放出駅・京橋駅に停車し、鴫野駅を通過していた。車両は2011年3月11日の尼崎行きまで223系6000番台4両編成を2本連結した8両編成が、同日夕方の奈良行き以降は207系が使用されている。後に321系も運用されている。2019年3月16日のおおさか東線新大阪駅 - 放出駅間開業に伴い全列車が新大阪始発・終着となり、当線・JR東西線での運行が廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "全列車が電車で運転されている。直通運転を行うJR東西線とともに全区間の列車がロングシート車で占められている。また、所属は網干総合車両所所属・明石支所配置である。直通先のJR宝塚線の普通・快速列車やJR神戸線・JR京都線の普通(京阪神緩行線)と共通運用となっている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "現行の主力車両である207系が最初に投入された路線が当路線であることや、当路線の延長路線であるJR東西線の開業もあり、JR西日本の電化路線では最も早く全列車がJR発足後製造の車両に置き換わった路線である(103系はJR東西線開業前の1996年に運用終了)。なお、直通先のJR東西線では、開業当初から207系(2008年以降は207系に加え321系)のみが使用され、201系、205系は入線しなかった。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "但し、例外として2008年のおおさか東線の放出駅 - 久宝寺駅間の区間開業時に、尼崎発着の東西線・放出駅経由の直通快速に限り、クロスシート仕様の223系6000番台が2011年3月11日まで使用されていたが、JR東西線の北新地駅で4扉・7両編成対応のホームドアを設置する関係で当路線での運用ができなくなり、同年3月12日以降はロングシート車のみが乗り入れている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "片町駅 - 四条畷駅間は、浪速鉄道が生駒山地北部の飯盛山西麓にある野崎観音(慈眼寺)・四條畷神社への参詣鉄道として1895年に開業させたもの。四条畷駅 - 新木津駅・木津駅間は、その頃、大阪進出を計画していた関西鉄道が1897年に浪速鉄道とともに合併した城河鉄道から四条畷駅 - 長尾駅 - 木津駅間の鉄道敷設免許を使い、翌1898年に開通させたものである。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "関西鉄道は網島駅 - 四条畷駅 - 新木津駅間を名阪間を結ぶ本線とし、網島駅 - 名古屋駅間に四条畷駅経由で直通列車を運転するが、1900年に大阪鉄道を合併して名阪間の本線を王寺駅経由に変更、さらに加茂駅 - 奈良駅間を大仏駅経由から木津駅経由に変更した1907年より後は、木津駅 - 桜ノ宮駅・片町駅間を結ぶだけのローカル線となった。同年国有化され、1909年に木津駅 - 桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅 - 片町駅間を片町線とするが、1913年に放出駅 - 桜ノ宮駅間を廃止し、木津駅 - 片町駅間が片町線となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1932年、四条畷駅 - 片町駅間が関西の国電区間では初めて電化され(1929年に開通した阪和線は当時阪和電鉄という私鉄)、木津駅 - 四条畷駅間はC11形が牽引する汽車、四条畷駅 - 片町駅間は電車になった。C11形投入後は蒸気機関車が廃止されるまで、同機が専ら列車牽引に用いられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "戦前の当線の特色として、陸軍大阪砲兵工廠(現在の大阪城公園の一部・大阪ビジネスパーク・森ノ宮電車区・Osaka Metro森之宮検車場の地にあった)と沿線に設置された工廠や火薬庫を結ぶ軍需輸送がある。これらの施設までは陸軍の専用線が敷設されていた(星田駅 - 香里製造所・津田駅 - 中宮(禁野火薬庫)・現在の下狛駅付近 - 祝園弾薬庫の3線)。戦後、施設の廃止により香里と中宮に至る専用線は道路化されたが、戦後に米軍および自衛隊の施設に転用された祝園の専用線はその後も使われ、現在もその跡をわずかに留めている。なお、香里製造所の敷地は1958年から香里団地に、専用跡は枚方市道・交野市道に流用された。中宮の禁野火薬庫は小松製作所大阪工場に流用され、1967年10月からはこの頃に一般国道昇格が決定された主要地方道水口枚方線(1970年4月1日に国道307号へ昇格)バイパスに流用されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "戦後の1949年には、四条畷駅 - 片町駅間22分間隔、所要時間34分のところを、20分間隔、所要時間は日中22分、朝夕24 - 26分に増発・スピードアップされた。1950年に長尾駅 - 四条畷駅間が電化され、非電化区間は気動車のキハ41000形に変わり、汽車は木津駅 - 放出駅間1日2 - 3往復(放出駅 - 片町駅間と城東貨物線については不明)の貨物列車だけになった(1972年に蒸気機関車使用廃止)。木津駅 - 長尾駅間は気動車が日中以降1 - 2時間間隔で運転されるだけであり、国鉄末期に増発が行われた。",
"title": "歴史"
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"text": "国鉄分割民営化後の1989年に木津駅 - 長尾駅間が電化され、全区間で電車が運転されるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1970年代、急激な都市化が進む大阪市北西部・兵庫県阪神地域を結ぶための実質的な延伸区間「片福連絡線」の構想が、1971年の都市交通審議会答申第13号で「新設すべき路線のうち、緊急に実施すべき区間」と指定を受けたものの、長年にわたり着工が財政上の問題から見送られてきた。1988年、JR西日本と沿線自治体などが共同で出資した関西高速鉄道が設立され、線路の建設と保有を関西高速鉄道(第3種鉄道事業者)、運行をJR西日本(第2種鉄道事業者)が行う「上下分離方式」で着工されるに至り、1997年、JR東西線として開業し福知山線(JR宝塚線)・東海道・山陽本線(JR神戸線)との直通運転を開始。同時に京橋駅 - 片町駅間が廃止された。",
"title": "歴史"
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"text": "以下で区間の「廃止」は特に注記がなければ当該駅および信号場間の営業線としての廃止を意味する。廃止日以降も車両基地への回送線としてや、重複区間であるため一部区間では線路が残っている(いた)場合はその旨注記した。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "祝園駅・同志社前駅・大住駅・藤阪駅・津田駅・星田駅・寝屋川公園駅・忍ケ丘駅・鴻池新田駅がJR西日本交通サービスによる業務委託駅、西木津駅・下狛駅・JR三山木駅が無人駅、それ以外の駅はJR西日本の直営駅である。",
"title": "駅一覧"
},
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"text": "括弧内の数値は起点からのキロ程。",
"title": "駅一覧"
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{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "括弧内は木津駅起点の営業キロ。廃止区間の駅を除く。",
"title": "駅一覧"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "片町線は1989年3月にこれまで気動車が運行されていた長尾駅 - 木津駅間の電化が実現したものの、この時開業した松井山手駅と木津駅の間は複線化はされなかった。片町線は関西文化学術研究都市へのアクセスとして重要な役割を担うため、大阪方面との輸送力の強化の必要性が大きく高まっていたが、松井山手駅以東は単線区間が残っており、また、木津、西木津、下狛、同志社前の各駅は現在も上下列車の行き違いをすることができないため、列車の増発には限界があった。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
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"text": "この片町線全線の複線電化の実現へ向けて、1952年、沿線に当たる地域のうち、大阪府と京都府に境を接す東大阪市・大東市・四條畷市・寝屋川市・交野市・枚方市・京田辺市・精華町・木津川市の以上8市1町の9つの自治体が中心となって、片町線複線化促進期成同盟会という団体が行政レベルを中心に設立されており、JR西日本に対し、輸送力の増強及び夜間の時間帯の輸送改善および全線の複線化を毎年要望している。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "京都府は輸送需要の増加が著しい松井山手駅 - 京田辺駅間を中心に高速化・輸送力増強が早期に実現できるようJR西日本への要請を強め、1998年の補正予算でも高速化・輸送力増強事業費および駅舎整備費補助金として合計1,100万円を計上した。輸送改善の工事は1998年10月に着工し、松井山手駅 - 京田辺駅間の高速化が行われ、大住駅に行き違い設備の新設、京田辺駅の構内改良、JR三山木駅付近の線路移設および行き違い設備の新設・高架化が行われた。これにより列車の増発が可能になり、京橋方面から京田辺駅まで7両編成で運転できるようになった。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "その後、同志社大学の八田英二学長(当時)名による申入れがあり、京田辺駅 - 木津駅間でも輸送改善工事が行われた。同志社前駅 - 木津駅間の各駅のホームを4両編成から7両編成に対応できるように延伸する工事が行われ、2010年3月13日から京田辺駅で行われていた車両の増解結がなくなり、全線で7両編成で運転することが可能になった。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2017年、北陸新幹線の西伸計画のうち、京都駅 - 新大阪駅間について、片町線松井山手駅付近を経由する「南回りルート」として建設する方針が固まったが、このタイミングで、当時の京都府知事・山田啓二は「舞鶴を経て日本海に至る山陰新幹線も含めた鉄道ネットワークの強化や、新幹線の整備効果をより高めるための学研都市線の複線化等の検討が、合わせて行われることが必要」と談話を述べ、さらに京田辺市の当時の市長・石井明三も「府南部地域の地域開発効果や学研都市の発展、さらには学研都市線の複線化につながるものと大いに期待している」と学研都市線の複線化の推進を促すコメントを残している。しかしながら、2019年に期成同盟会がJR西日本に対して陳情したところ、「北陸新幹線の延伸や、おおさか東線の全線開通、学研都市の機能の充実などでポテンシャルは上がっているが、現状では、現在のダイヤで十分に対応でき、増発や複線化は難しいと言わざるを得ない」とする回答があった。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
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"text": "日本の国土交通省は、学研都市建設に関する基本方針の一環として、京阪奈の各都心との連絡性を高めるため、学研都市線と奈良線を直通する「片奈連絡線(かたなれんらくせん)」という短絡線の建設の推進、および祝園駅付近の分岐線や木津駅方面への整備の必要性について検討している。実際、1989年5月に出された、運輸政策審議会答申第10号では、「2005年までに整備すべき路線」として挙げられていたが、2004年10月の近畿地方審議会答申第8号には盛り込まれていない。前述の沿線期成同盟会は、京田辺駅 - 奈良線・長池駅を結ぶ片奈連絡線の実現を陳情している。",
"title": "将来の構想・計画"
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"paragraph_id": 65,
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"text": "学研都市線の終点駅である京橋駅周辺の都島区片町から城東区新喜多にかけては、京橋駅が長年地上ホームとなっていることから、地区が南北に分断しており、地域の発展を阻害しているとされる。またそこへ走る都市計画道路構想も工事に着手できない状態が続いている。",
"title": "将来の構想・計画"
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{
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"text": "そこで、ここにある「新喜多」「馬の口」「鯰江」の3つの踏切を除却し、約1.3kmを地下路線に移行したうえで、都市計画道路の整備と交通渋滞の緩和、地域分断化の解消などを進める再開発構想が大阪市によって計画されているが、財政上の問題で再開発が進んでいない。京橋駅学研都市・東西線ホームも地下に移行し、2面2線の乗り場を建設することが考えられている。",
"title": "将来の構想・計画"
},
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"paragraph_id": 67,
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"text": "しかし、イオン京橋店(2019年9月閉店)のオフィス併設の商業施設への建て替え工事などの再開発の動きが活発化していることから、2021年7月、この立体交差事業再開へ向けて、大阪市が日本交通技術に調査検討業務を委託し、地下化のルートや工法についての再検討を行うことになった(履行期間:2022年3月31日まで)。",
"title": "将来の構想・計画"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "大東市は住道駅 - 野崎駅間に新駅を設置することを要望している。",
"title": "将来の構想・計画"
}
] |
片町線(かたまちせん)は、京都府木津川市の木津駅から大阪府大阪市都島区の京橋駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。「学研都市線」(がっけんとしせん)の愛称が付けられており、少なくとも旅客案内において正式路線名の「片町線」と案内されることはほぼなくなっている。このほか、本線から離れた神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間および正覚寺信号場 - 平野駅間に貨物支線を持つ。 本項では正式な路線名を示す場合を除いて、東海道本線の尼崎駅から三ノ宮方面については「JR神戸線」、福知山線の尼崎駅 - 篠山口駅間は「JR宝塚線」、関西本線の久宝寺駅 - 奈良駅間・奈良駅 - 木津駅間は「大和路線」の愛称で記述する。
|
{{混同|redirect=学研都市線|学園都市線|x1=JR北海道[[札沼線]]の愛称}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 片町線
|路線色 = #ff1493
|ロゴ = JRW kinki-H.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = 207系100番台体質改善車.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 鴫野駅に停車中の207系電車による普通列車
|通称 = 学研都市線(木津駅 - 京橋駅間)<br />城東貨物線(神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間、正覚寺信号場 - 平野駅間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[京都府]]、[[大阪府]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[木津駅 (京都府)|木津駅]]
|終点 = [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]
|駅数 = 24駅
|電報略号 = カタセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局|date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |publisher= |volume= |page=22}}</ref>
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|H}}(支線を除く)
|開業 = {{start date and age|1895|8|22}}
|項目1 = 一部廃止
|日付1 = {{start date and age|1997|3|8}}<br />(京橋駅 - 片町駅間)
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]
|運営者 = 西日本旅客鉄道<br />[[日本貨物鉄道]]
|車両基地 = [[網干総合車両所]]明石支所ほか
|使用車両 = [[JR西日本207系電車|207系]]、[[JR西日本321系電車|321系]]
|路線距離 = 44.8 [[キロメートル|km]](木津駅 - 京橋駅間)<br />3.7 km<ref name="nikkei20181221" />(神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間)<br />1.5 km(正覚寺信号場 - 平野駅間)
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
|線路数 = [[複線]](松井山手駅-京橋駅間)、[[単線]](左記以外<!--支線も-->)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P方式)
|最高速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]]
|路線図 =
}}
'''片町線'''(かたまちせん)は、[[京都府]][[木津川市]]の[[木津駅 (京都府)|木津駅]]から[[大阪府]][[大阪市]][[都島区]]の[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]に至る[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。「'''学研都市線'''」(がっけんとしせん)の[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]が付けられており、少なくとも旅客案内において正式路線名の「片町線」と案内されることはほぼなくなっている。このほか、本線から離れた[[神崎川信号場]] - [[吹田貨物ターミナル駅]]間および[[正覚寺信号場]] - [[平野駅 (JR西日本)|平野駅]]間に貨物支線を持つ。
本項では正式な路線名を示す場合を除いて、[[東海道本線]]の尼崎駅から[[三ノ宮駅|三ノ宮]]方面については「[[JR神戸線]]」、[[福知山線]]の尼崎駅 - 篠山口駅間は「JR宝塚線」、[[関西本線]]の[[久宝寺駅]] - [[奈良駅]]間・奈良駅 - 木津駅間は「[[大和路線]]」の愛称で記述する。
== 概要 ==
JR西日本の[[アーバンネットワーク]]に含まれる路線の一つである。[[生駒山地]]の北端を廻り、大阪府[[北河内 (大阪府)|北河内]]地域の各都市や京都府南部に広がる住宅地と[[大阪市|大阪]]・[[阪神間|阪神]]方面との通勤・通学路線となっている。また愛称の通り、[[関西文化学術研究都市]]田辺地区のアクセス路線でもある。[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]からは[[JR東西線]]に直通運転を行っており、さらにJR東西線の[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]から先は[[JR神戸線]]([[東海道本線]]・[[山陽本線]])またはJR宝塚線([[福知山線]])に乗り入れている。
元は路線名の由来であった[[片町駅]]が終点だったが、同駅が[[1997年]]のJR東西線開業と同時に同線の[[大阪城北詰駅]]に置き換わる形で廃止されたため、京橋駅が終点となった。片町駅が廃止された後も正式路線名は変更されていない。1990年に制定されたラインカラーは'''黄緑'''({{Color|#9acd32|■}})で、選定理由は「これからの若いエネルギーをイメージ」としていたが、2014年度に[[駅ナンバリング|路線記号]] '''H''' を導入した際にラインカラーは直通運転しているJR東西線と同じ'''桜桃色'''({{Color|#ff1493|■}})に変更されている<ref name="westjr20140806">[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2014年8月6日</ref>。
関西の[[日本国有鉄道]](国鉄)線で初の[[鉄道の電化|電化]]区間である<ref>{{Citation|title=昭和戦前期の京阪神地域における省線の都市圏輸送への参入と私鉄各社の対応|last=廣田|first=誠|last2=Hirota|first2=Makoto|date=2020-06|url=https://doi.org/10.18910/76187|publisher=大阪大学経済学会・大阪大学大学院経済学研究科|language=ja|doi=10.18910/76187|accessdate=2022-02-09|page=2}}</ref>{{Refnest|group="注"|桜ノ宮駅北側にあった車両基地の旧[[淀川電車区]]には関西初の[[国電]]が片町線を走ったことを示す「[[省電]]始元之碑」が建立された。淀川電車区移転に伴い碑も放出の新電車区(現・[[網干総合車両所#放出派出所|網干総合車両所明石支所放出派出所]])に移されている<ref>{{PDFlink|1=[https://konoikeshindenkaisho.jp/down/katamachisen.pdf#page=18 鴻池新田会所 平成22年度秋季特別展「片町線ノスタルジイ」解説図録]}} p.16</ref>。}}。また国鉄では[[武蔵野線]]に次いで、西日本地域としては初めて[[自動改札機]]を採用した路線でもある<ref group="注">この当時に導入された自動改札機が、[[交通科学博物館]]を経て[[京都鉄道博物館]]に展示されている。</ref>。
旅客営業区間の全線が[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」および、[[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]] - 京橋駅間が[[電車特定区間]]に含まれ、区間外よりも割安な近距離運賃設定となっている。また、全線が[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
全区間をJR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が管轄している。
[[北陸新幹線]]の[[京都駅]] - [[新大阪駅]]間のルートは、当線の[[松井山手駅]]付近に近畿地方で唯一の北陸新幹線単独駅を設置する[[京田辺市|京田辺]]ルート(南回り)に確定しており<ref name="kyoto-np20170315">[http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20170315000070 北陸新幹線「南回り」与党了承 敦賀以西ルート確定] - 京都新聞、2017年3月15日</ref>、これにより関西文化学術研究都市の経済振興が図れるとされている<ref>[http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170307000013 北陸新幹線新駅「松井山手」検討 京都-新大阪南回り案] - 京都新聞、2017年3月7日</ref>{{Refnest|group=注|南回りを提案したのは[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]所属で現京都府連会長の[[西田昌司]][[参議院議員]]である<ref>[http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/117231.html 南回り、京都が政治主導で勝ち取る 北陸新幹線ルート、短期間で決着] - 福井新聞、2017年3月16日</ref>。なお、JR西日本は北回りを提案していた<ref name="kyoto-np20170315" />。}}。<!--その一方で[[在来線#並行在来線|並行在来線]]としてJR西日本から経営分離される可能性もある。-->
=== 貨物支線 ===
[[ファイル:Joto Freight Line Bridge.jpg|thumb|放出駅から網干総合車両所明石支所放出派出所に延びる鉄橋。[[おおさか東線]][[久宝寺駅]]方面にもつながっている]]
{{Main|おおさか東線}}
かつては放出駅・鴫野駅からそれぞれ南北に伸びる貨物支線(通称「'''城東貨物線'''」)を持ち、[[関西本線]]と[[東海道本線]]を結ぶ[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の[[貨物列車]]が同線を経由して運行されていた。
JR発足後、同線の一部は[[新大阪駅]] - [[久宝寺駅]]間を結ぶおおさか東線として旅客営業に用いられることになり、[[第三セクター]]会社の[[大阪外環状鉄道]]によって旅客線化する工事が進められ、[[2008年]][[3月15日]]に放出駅 - 久宝寺駅間が、[[2019年]][[3月16日]]<ref name="mynavi20181214" />に新大阪駅 - 鴫野駅間が開業した。この際に片町線の重複する区間が廃止された結果、現在の貨物支線は本線から離れた正覚寺信号場 - 平野駅間および神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間のみが残る状態となっている。
=== 路線データ ===
* 管轄・路線距離([[営業キロ]]):
** 西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]):
*** 木津駅 - 京橋駅間 44.8km
*** 神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間 3.7km
*** 正覚寺信号場 - 平野駅間 1.5km
** [[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]):
*** 徳庵駅 - 放出駅間 (1.8km) ※放出駅 - 鴫野駅間はおおさか東線の区間として扱われている<ref name="ganen">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>。
*** 神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間 (3.7km)
*** 正覚寺信号場 - 平野駅間 (1.5km)
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:24(起終点駅含む、支線を除く)
** 片町線所属駅に限定した場合、関西本線所属の木津駅および、大阪環状線所属の京橋駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref>が除外され、22駅となる。
* 複線区間:松井山手駅 - 京橋駅間<ref group="注">放出駅 - 鴫野駅間はおおさか東線の複線と並列。</ref>
* 電化区間:全線(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]
** 木津駅 - JR三山木駅間:自動閉塞式(特殊)
** JR三山木駅 - 京橋駅間:自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]](拠点P方式)および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]]
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[列車運行管理システム]]
** 正覚寺信号場 - 平野駅間 [[運行管理システム (JR西日本)|大阪環状・大和路線運行管理システム]]
** 木津駅 - 京橋駅間 [[運行管理システム (JR西日本)|JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム]]
* 最高速度:110km/h
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
* 2020年度の混雑率:120%(鴫野→京橋 7:30-8:30)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-08-21|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref>
* 保線区:
** 木津駅 - 四条畷駅間 大和路線保線区
** 四条畷駅 - 京橋駅間 天王寺保線区
== 沿線概況 ==
{{片町線路線図}}
=== 木津駅 - 松井山手駅間 ===
京都府内は生駒山地の東側から北側に沿っており、ほぼ全区間が単線である。[[関西文化学術研究都市]]の沿線であるため近年は利用者が増えている。
起点である木津駅は京都府の最南部[[木津川市]]に位置し、片町線(学研都市線)の列車は1線のみを使用している。木津駅を出ると大きく左にカーブし、住宅地の合間をカーブしながら抜けると右側にのみホームのある[[西木津駅]]、その先で右にカーブして[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄京都線|京都線]]をくぐってしばらく近鉄線と並走し、[[精華町]]に入り関西文化学術研究都市の玄関口である[[祝園駅]]に着く。左側にホームのある[[下狛駅]]を過ぎると[[京田辺市]]に入って、しだいに右手には近鉄[[西大寺検車区]]宮津車庫の横を走行し、行き違い設備を持つ[[JR三山木駅]]、続いて[[同志社大学]]京田辺キャンパスの最寄り駅である[[同志社前駅]]に着き、さらにミツマンボと呼ばれるレンガ橋の[[天井川]]<ref>[http://kyotana.be/object/detail/33 ミツマンボ | 歴史 | 京たなべ まるごと検索!] - 京田辺市観光協会</ref>をくぐって[[京田辺駅]]に着く。[[2010年]]3月12日まで京田辺駅では全列車の車両の[[増解結]]が行われていたが、これは京田辺駅以南は4両編成しか運転できなかったためである。
京田辺を出ると再度天井川をくぐって[[京奈和自動車道]]との交差部に[[大住駅]]があり、左右にカーブを進みながら住宅地が多くなると掘削駅の[[松井山手駅]]である。松井山手駅は線内で一番新しい駅であり、駅周辺のニュータウン開発に伴い開業した。木津駅から松井山手駅までは終日、列車のドアは[[自動ドア#半自動|半自動]]扱いとなっている。松井山手駅からは複線で、京橋方面からのほとんどの普通がこの駅で折り返しており、[[引き上げ線]]も1線設けられている。[[第二京阪道路]]を越えると大阪府に入る。
1989年3月の松井山手駅開業・長尾以東電化複線化までは、大住駅 - 長尾駅間に大谷トンネル・奥大谷トンネルの2本のトンネルがあった。大谷トンネルは開削されて現存しない。松井山手駅が旧・大谷トンネルの位置にあるとされることが多いが実際にはそうではなく、大谷トンネルを含む旧線は松井山手駅より少し東に位置する。奥大谷トンネルは京都・大阪の府境にあったが、トンネルの老朽化と複線化対応のため、トンネルの北側を切り通しにして線路が付け替えられた。旧線の路盤は埋められたが、京橋方のポータル(坑口)の上部が地上に出ており、現在線の車窓からも見ることができる<ref>{{PDFlink|[https://www.city.hirakata.osaka.jp/uploaded/attachment/16667.pdf つだ・すがわら生涯学習市民センターだより(5号)]}}</ref>。また、1989年に長尾以東が電化される前は、片町線のこの区間は運行頻度も少なく不便であったために利用客は非常に少なく、沿線の精華町や京田辺市(当時は田辺町)の住民は片町線沿線(大東市や四條畷市など)や関西本線木津以東が目的地以外の場合は殆どが近鉄京都線を利用し、京橋への移動でさえ[[大和西大寺駅]]や[[丹波橋駅]]経由で移動したり、あるいは[[京阪本線|京阪]][[樟葉駅]]にバスで出て移動するケースが殆どであった。
<gallery>
ファイル:Gakkentoshi Line view-01.jpg|「ミツマンボ」をくぐる207系(2010年3月12日)
ファイル:JRW series207 Gakkentoshi.jpg|京田辺駅で後ろ3両を切り離した同志社前行(2010年3月12日)
</gallery>
=== 松井山手駅 - 京橋駅間 ===
大阪府内は四条畷付近まで生駒山地の北側から西側を走り、進路を変えて西進する。大阪府[[枚方市]]に入るとすぐに[[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]]、[[藤阪駅]]と続く。[[津田駅]]では島式2面4線の用地が確保されているが、実際に線路が敷設されているのは内側2線のみで東側1線は[[保線基地]]として使用されている。[[交野市]]に入り[[第二京阪道路]]を過ぎて右にカーブを進むと[[京阪電気鉄道|京阪]][[京阪交野線|交野線]]との乗換駅である[[河内磐船駅]]を過ぎて、高架駅である[[星田駅]]である。高架を下りる前に[[寝屋川市]]に入り、掘削駅の[[寝屋川公園駅]]で再び住宅地が目立つようになると、その先の[[四條畷市]]内で再び高架となり[[忍ケ丘駅]]、高架を下り地上駅で2面4線の[[四条畷駅]]に着く。四条畷駅は、京橋方面からの列車はどのホームでも折り返すことができる駅で朝夕のラッシュ時は四条畷駅発着の列車が数多く設定されている。なお四条畷駅の所在地は四條畷市ではなく[[大東市]]である。
続く[[野崎駅 (大阪府)|野崎駅]]は[[野崎観音]]の最寄り駅で、参道は[[商店街]]となっている。大きく右にカーブして、[[恩智川]]を渡ると高架駅2面4線の[[住道駅]]、[[東大阪市]]に入って[[鴻池新田駅]]と続く。同駅は[[門真市駅]] - [[瓜生堂駅]]間延伸事業が行われる[[大阪モノレール本線|大阪モノレール線]]との乗換駅となる予定である。[[近畿自動車道]]・[[大阪中央環状線]]を越えると[[近畿車輛]]を左手に眺めて地平に降りると[[徳庵駅]]である。同社ではJR西日本のほか、親会社である近鉄など他社の車両も多く製造しており、車窓から搬出前の車両が見えることもある。
徳庵駅を過ぎて大きく右にカーブすると、大阪市に入り、下り線は[[おおさか東線]]を越えるための高架となり、その高架からは[[網干総合車両所]]明石支所放出派出所を眺めることができる。片町線の上下線に挟まれる形で走るおおさか東線と合わせて方向別[[複々線]]になると地上に降り、[[対面乗り換え]]が可能な[[放出駅]]に到着する。再び高架になると[[城北川]]を渡る付近で上り高架線はさらに高さを上げ、おおさか東線の上下線を越える。[[鴫野駅]]の手前で下り線と合流し、おおさか東線とは線路別複々線となる。
鴫野駅はカーブ区間にホームが設置されており、駅係員もラッシュ時にホームに常駐している。[[寝屋川]]を渡っておおさか東線が右に別れ地上となり、左にカーブすると現在の終点である[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]に到着する。なお一部の列車を除き大半の列車が同駅からJR東西線へ直通運転を行う。
かつての終着駅であった[[片町駅]]は、京橋駅からそのまま直進した場所にあった。
== 運行形態 ==
{{See also|JR東西線#運行形態}}
[[1989年]][[3月11日]]に木津駅 - 長尾駅間が電化されるまでは長尾駅で運転系統が分かれ、木津駅 - 長尾駅間には[[気動車]]が運転されていた(「[[#歴史|歴史]]」の節も参照)。また、当時の木津駅 - 長尾駅間の気動車列車は、[[関西本線]][[亀山駅 (三重県)|亀山駅]] - [[奈良駅]]間の列車と共通の2両編成で運転されていた。
JR東西線開業前は、片町駅 - 四条畷駅間では日中時間帯[[快速列車|快速]]20分間隔・[[普通列車|普通]]10分間隔であったが、開業後は同線と一体的な運行形態が組まれ、[[福知山線]](JR宝塚線)[[宝塚駅|宝塚]]方面や[[東海道本線]]・[[山陽本線]]([[JR神戸線]])[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]方面と[[直通運転]]を行い、日中時間帯は快速・普通とも15分間隔に変更した。普通や快速のほか、朝晩には[[列車種別#区間種別|区間快速]]および関西本線(大和路線)奈良駅発着の列車が運行されている。
全列車が7両編成で運転されている。[[2010年]][[3月12日]]までは京田辺駅で車両の[[増解結|連結・切り離し]]が行われ、京田辺駅 - 同志社前駅・木津駅間は4両編成で運転されていた。[[JR西日本207系電車|207系]]の量産車に4両編成と3両編成が存在するのは、このような運用を考慮したものである<ref name="jrwkaisei100314osaka">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/pdf/20091218_kaisei_osaka.pdf 平成22年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道大阪支社プレスリリース 2009年12月18日</ref>。
2022年3月12日改正時点の運行形態は以下の通りである。
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center;"
|-
|+日中1時間あたりの運転本数<br />(2022年3月12日現在)
!種別\駅名
!style="width:1em;"|木津
!…
!colspan="2" style="width:1em; line-height:1.2em;"|同志社前
!…
!colspan="2" style="width:1em; line-height:1.2em;"|四条畷
!…
!style="width:1em;"|京橋
!…
|-
|rowspan="2" style="background-color:#cfc;"|区間快速||colspan="9" style="background-color:#cfc;"|1本|| rowspan="2" |JR東西線経由<br/>塚口発着
|-
|colspan="3"| ||colspan="6" style="background-color:#cfc;"|3本
|-
|普通||colspan="6"| ||colspan="3" style="background-color:#ccc"|4本||JR東西線・JR神戸線方面<br>西明石発着
|}
15分サイクルでの運転が基本で、閑散時間帯の運転本数は上表のとおり、1時間当たり、区間快速は木津発着1本、同志社前発着3本、普通は四条畷発着4本が設定されている。すべて[[JR東西線]]直通で、区間快速はJR宝塚線塚口まで直通、普通はJR神戸線西明石まで直通となる。
=== 定期列車 ===
==== 快速 ====
木津駅 - 長尾駅の各駅と、河内磐船駅・星田駅・四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。
大半の列車がJR宝塚線に直通し、[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]・[[宝塚駅]]・[[新三田駅]]・[[篠山口駅]]まで乗り入れる。JR神戸線からの直通列車は土休日夜に西明石発同志社前行き(JR神戸線内は普通)が2本設定されているが、JR神戸線への直通列車はない。夜には京橋駅からJR東西線・JR宝塚線内は普通となる宝塚・新三田行きの快速がある。
早朝・深夜には[[吹田総合車両所|吹田総合車両所奈良支所]]への回送列車を兼ねて、木津経由で大和路線と直通する奈良駅発着列車が1往復運転されている。この列車は大和路線系統の快速と同じく[[平城山駅]]に停車する。
主に朝夕に運転されている。2015年3月13日までは日中にも設定があったが、区間快速に置き換えられて廃止された。ラッシュ時は住道駅または四条畷駅で普通と[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を行う。
快速は[[1988年]]3月13日に設定された。当初は長尾駅 - 片町駅間に平日のみ上り1本、下り2本が運転され、途中の停車駅は四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅のみであったが{{refnest|group="注"|1988年3月号の大型[[時刻表]]においては、『交通公社の時刻表』(現『[[JTB時刻表]]』)は住道駅通過と記載されているが<ref name="JTBjikoku198803">{{Cite journal|和書 |date=1988-03 |journal=交通公社の時刻表 |issue=745 |page=566 |publisher=[[JTBパブリッシング|日本交通公社]] }}</ref>、編集締切に間に合わなかったことによる誤りである。『JR編集時刻表』(現『[[JR時刻表]]』)は住道駅停車と正しく記載されている<ref name="JRjikoku198803">{{Cite journal|和書 |date=1988-03 |journal=JR編集時刻表 |issue=199 |pages=667及び672頁 |publisher=[[弘済出版社]] }}</ref>。}}、同年9月1日に河内磐船駅が停車駅に追加された<ref name="jikoku198809">『JR時刻表』 1988年8月号、p.649の快速電車停車駅表<!-- 住道停車・河内磐船通過となっている。このほか1988年3月13日改正の複数駅のポケット時刻表でも確認-->、『JTB時刻表』1989年1月号、p.566 の昭和63年9月20日訂補時刻表で確認。<!-- 訂補日付に意味がある(1989年1月号だが前年9月改正後に近い時期の時刻であることを示す)。--></ref>。1989年3月11日の改正で日中にも設定され、同志社前駅・木津駅まで運転区間を拡大し、長尾駅から終点までは各駅に停車するようになった。1989年3月11日からは全区間3両編成で運転されていたが、混雑が非常に激しいことから[[1990年]]3月10日から4両編成に変更された。[[1997年]]3月8日にJR東西線が開通するまでは、朝の[[同志社大学]]への通学用に片町発同志社前行き(7両編成で運転し、松井山手駅で後3両を切り離し)が2本運転されていたのを除き、朝ラッシュ時には快速は運転されず、1時間の本数は日中は片町駅 - 同志社前駅間で3本(20分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で1 - 2本(40分間隔)、夕方以降は4両編成で京橋駅 - 同志社前駅間で4本(16分間隔)、同志社前駅 - 木津駅間で2本(32分間隔)が運転されていた。
==== 区間快速 ====
木津駅 - 四条畷駅の各駅と住道駅・放出駅・京橋駅に停車する。
大半が尼崎駅発着およびJR宝塚線直通の塚口駅・宝塚駅・新三田駅発着であるが、JR神戸線の西明石駅を発着する列車(JR神戸線内は普通)が運転されている。大和路線奈良駅発着列車(木津駅経由)も1往復運転されている。上り木津方面の列車は尼崎駅で普通・快速から区間快速に、下り尼崎方面の列車は京橋駅で区間快速から普通・快速に種別が変わる。
日中時間帯は1時間に京橋駅 - 同志社前駅間が4本、同志社前駅 - 木津駅間が1本の運転である。
2010年3月13日のダイヤ改正で普通・快速を置き換えて増発し、木津行きの最終列車も快速から区間快速に変更された。また、2015年3月14日のダイヤ改正で日中の快速が区間快速に変更された<ref name="jrw_20141219">[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/141219_00_keihanshin_kai.pdf 平成27年春ダイヤ改正について] - 西日本旅客鉄道近畿総括本部 2014年12月19日</ref>。
==== 普通 ====
{{See also|京阪神緩行線}}
全区間で各駅に停車する。大半の列車が[[JR神戸線]]西明石方面と直通運転している。基本的な運行区間は西明石駅・京橋駅 - 四条畷駅・松井山手駅間であり、朝晩にはJR宝塚線の塚口駅・宝塚駅・新三田駅を発着する列車も設定されている。
日中時間帯は京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に4本運転されている。朝夕は京橋駅で折り返す列車も運行されている。京橋駅 - 木津駅間を直通する普通は、早朝にJR宝塚線方面および尼崎・京橋発の木津行き5本、木津発が下り最終の京橋行き1本のみである。朝晩には快速・区間快速との緩急接続もあり、西明石駅発着は四条畷駅(朝のみ住道駅)で、京橋駅発着は住道駅で行う。日中時間帯は四条畷駅で区間快速と片接続を行う。
JR東西線開業前は朝ラッシュ時に快速の設定がなかったため、その時間帯に木津駅・同志社前駅発着列車の設定があった。1999年5月9日までは朝の四条畷駅 → 京橋駅間は4分間隔であったが、区間快速への置き換えが進んだ。[[2002年]][[3月22日]]までは日中にも京橋駅 - 四条畷駅間で1時間に6本が運転されていた。区間列車については1999年5月10日に4両に減車され、最終的に廃止された。[[2006年]]3月17日までは、長尾行きや大久保駅発着の列車も設定されていた。
2010年3月13日のダイヤ改正では、日中時間帯の上り松井山手行きが須磨発に変更された。このダイヤ改正以前は、夕方ラッシュ時の系統は京橋発四条畷行きで、折り返し四条畷発西明石行きとして運転されていた。2011年3月12日の改正で平日午前中の一部列車が長尾駅折り返しに変更され、夜のJR神戸線直通の一部が四条畷発に変更された。2012年3月17日の改正で日中の松井山手駅発着が長尾駅発着に変更された。2015年3月14日のダイヤ改正では日中の列車の運転区間が四条畷駅発着に見直された<ref name="jrw_20141219" />。その後、2016年の[[摩耶駅]]開業に伴う時間調整の影響で、日中時間帯の上りは再び西明石始発となり、代替としてJR神戸線 - 大阪駅・高槻駅間の系統は上下とも須磨駅発着となっている。
=== 臨時列車 ===
==== 快速 ====
JR東西線が開業した1997年には、快速「万葉レジャー号」が新三田駅 - 奈良駅間で1往復(新三田駅 - 木津駅間は定期列車)<ref>{{Cite press release|title=平成9年《春》の臨時列車の運転について|publisher=西日本旅客鉄道|date=1997-01-20|url=http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970120b.html|language=ja|access-date=2023-11-20|archive-url=https://web.archive.org/web/19980625054640/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970120b.html|archive-date=1998-06-25}}</ref>が運転されたほか、2000年と2001年には快速「神戸シーサイドレジャー号」が四条畷駅 - 西明石駅間で1往復運転された。
現在は、臨時列車の運転はない。
==== 大晦日臨時列車 ====
[[大晦日]]深夜から[[元日]]未明にかけて、片町線では京橋駅 - 四条畷駅間(運転区間はJR東西線尼崎駅 - 四条畷駅間)において、午前3時頃まで約30分間隔で普通のみ[[臨時列車]]を運行している<ref name="jr191212">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>。
かつては元日の始発にかけて、JR尼崎駅から先、JR宝塚線宝塚駅まで(一時期は新三田駅まで)約30 - 60分間隔で、また四条畷駅から先も、京田辺駅まで(一時期は木津駅まで)普通のみ約60分間隔で[[終夜運転]]が実施されていたこともあったが、これらの区間の運行は2018年度までに全て取り止められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。さらに、2019年度からは午前3時頃で運転を打ち切っているため終夜運転ではなくなり、運行区間・時間は縮小傾向にある<ref name="jr191212" />。2020年度はJR西日本が管内の全ての路線で終夜運転はおろか、最終電車終了後の延長運転自体を取り止めたため実施されなかった。
=== 女性専用車 ===
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;"
|-
|style="background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #ff1493;"|女性専用車
|-
|{{TrainDirection|京橋|木津}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;"
|-
|style="width:2em;"|1
|style="width:2em;"|2
|style="width:2em;"|3
|style="width:2em;"|4
|style="width:2em; background:#fcf"|5
|style="width:2em;"|6
|style="width:2em;"|7
|}
|}
平日・土曜・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、全列車の木津側から3両目(321系では5号車)に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。対象車両および乗車位置には、女性専用車の案内表示が設置されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
当線では、2002年7月1日より平日の始発から9時までに京橋駅に到着する下り列車の最後部車両を女性専用車として試験的に導入し<ref name="jrw_20020515">[http://replay.waybackmachine.org/20020808071511/http://www.westjr.co.jp/news/k020515.html 2002年5月定例会見](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年5月15日</ref>、同年10月1日から本格的に導入した。その後、同年12月7日からは木津方面行きの列車にも設定するとともに設定車両を木津側から3両目に変更し、平日の17時から21時までの時間帯についても女性専用車の設定を行った<ref name="jrw_20021007">[http://replay.waybackmachine.org/20021203004309/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月7日</ref>。
さらに2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
=== 廃止列車 ===
==== 直通快速 ====
おおさか東線が部分開業した2008年3月15日から同線が全線開業する前日である2019年3月15日まで、直通快速が奈良駅 - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間に大和路線・おおさか東線経由で朝夕に運転されていた<ref>[http://railf.jp/news/2008/03/18/161500.html JR西日本おおさか東線経由「直通快速」運転開始] - 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』[[交友社]] railf.jp鉄道ニュース 2008年3月18日</ref>。運転本数は朝に奈良発尼崎行き4本、夕方に尼崎発奈良行き4本である。当線内は放出駅・京橋駅に停車し、鴫野駅を通過していた。車両は2011年3月11日の尼崎行きまで[[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]4両編成を2本連結した8両編成が、同日夕方の奈良行き以降は207系が使用されている<ref name="rf_20110317">[http://railf.jp/news/2011/03/17/142400.html おおさか東線経由の直通快速が207系に] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年3月17日</ref>。後に<!--207系と共通運用で-->[[JR西日本321系電車|321系]]も運用されている<ref>[http://railf.jp/news/2011/05/16/192000.html 321系が直通快速運用に] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年5月16日</ref>。2019年3月16日のおおさか東線[[新大阪駅]] - 放出駅間開業に伴い全列車が新大阪始発・終着となり、当線・JR東西線での運行が廃止された<ref name="mynavi20181214">{{Cite web|和書|date=2018-12-14 |url=https://news.mynavi.jp/article/jrdiagram2019-3/ |title=JR西日本、おおさか東線全線開業後の新大阪発直通快速の時刻公開 |website=マイナビニュース |publisher=マイナビ |accessdate=2018-12-15}}</ref><ref name="jrwest20181214-p2">{{Cite press release|和書|title=2019年3月16日にダイヤ改正を実施します |publisher=西日本旅客鉄道 近畿統括本部 |date=2018-12-14 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/181212_00_keihanshin_1.pdf#page=2 |format=PDF |page=2 |accessdate=2018-12-15}}</ref>。
<gallery widths="200px">
ファイル:Chokutsu-kaisoku.jpg|直通快速の表示
ファイル:JRW Amagasaki station platform display.jpg|「東西線経由」の直通快速を表示する尼崎駅の電光掲示板
</gallery>
== 使用車両 ==
=== 現在の車両 ===
全列車が[[電車]]で運転されている。直通運転を行うJR東西線とともに全区間の列車が[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]車で占められている。また、所属は網干総合車両所所属・明石支所配置である。直通先のJR宝塚線の普通・快速列車やJR神戸線・JR京都線の普通(京阪神緩行線)と共通運用となっている。
現行の主力車両である207系が最初に投入された路線が当路線であることや、当路線の延長路線であるJR東西線の開業もあり、JR西日本の電化路線では最も早く全列車がJR発足後製造の車両に置き換わった路線である(103系はJR東西線開業前の1996年に運用終了)。なお、直通先のJR東西線では、開業当初から207系(2008年以降は207系に加え321系)のみが使用され、201系、205系は入線しなかった。
但し、例外として[[2008年]]の[[おおさか東線]]の放出駅 - 久宝寺駅間の区間開業時に、尼崎発着の東西線・放出駅経由の直通快速に限り、クロスシート仕様<ref group="注">主に[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]の[[新快速]]などで運用。</ref>の[[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]が[[2011年]]3月11日まで使用されていたが、JR東西線の[[北新地駅]]で4扉・7両編成対応のホームドアを設置する関係で当路線での運用ができなくなり、同年3月12日以降はロングシート車のみが乗り入れている<ref group="注">ただし単線区間の西木津駅 - 大住駅を除くほとんどの駅は将来の8両編成増結へ向けたホーム設計はなされている。</ref>。
* [[JR西日本207系電車|207系]]
** 当線では1991年4月30日から営業運転を開始した。最初に投入されたのはF1編成と呼ばれる試作車7両固定編成で、片町駅 - 松井山手駅間の列車に運用された。同年12月から量産車が投入され、木津駅までの全線で運用されるようになった。F1編成は2002年3月23日のダイヤ改正時に当線とJR東西線の運用から離脱、その後2005年4月25日の[[JR福知山線脱線事故]]によって一時的に復帰、翌2006年3月18日のダイヤ改正時に再離脱、321系と共通運用になっている関係で2008年3月15日改正で再び入線するようになるなど、当線への入線と離脱を繰り返していたが、2022年に廃車された。
* [[JR西日本321系電車|321系]]
** 2008年3月14日より当線でも運用を開始した。[[2010年]]3月12日までは京橋駅 - 松井山手駅・京田辺駅間の区間快速と普通のみで、ダイヤが乱れた際などには突発的に快速に充当されることもあった。全区間7両編成で運転することになった翌[[3月13日|13日]]のダイヤ改正以後は一部の快速列車にも運用され、運転区間も木津駅までに延長された。
<gallery widths="180">
ファイル:JRW207-1000 Constitution improving car.jpg|207系
ファイル:JRW series321 Gakkentoshi.jpg|321系
</gallery>
=== 過去の車両 ===
* 電車
** [[国鉄101系電車|101系]]
** [[国鉄103系電車|103系]]
** [[国鉄72系電車|72系]]
** [[国鉄51系電車|51系]]
** [[国鉄42系電車|42系]]
** [[国鉄40系電車|40系]]
** [[国鉄32系電車|32系]]
** [[JR西日本223系電車#6000番台|223系6000番台]]
*** [[宮原総合運転所]](現:網干総合車両所宮原支所)の編成を使用し、おおさか東線経由の直通快速のため、京橋駅 - 放出駅間で2008年3月15日から2011年3月11日まで使用されていた<ref name="rf_20110317" />。
* 気動車
** [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
** [[国鉄キハ45系気動車|キハ45系]]
** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40系]]
** [[国鉄キハ35系気動車|キハ35系]]
** [[国鉄キハ20系気動車|キハ20系]]
** [[国鉄キハ10系気動車|キハ10系]]
** [[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]
<gallery>
ファイル:JNR Katamachi Line Nagao Sta.jpg|キハ20
ファイル:Katamachi Station (Osaka)-05.jpg|72系(左)と101系
ファイル:JR EC Mc103-5003.jpg|103系
</gallery>
== 歴史 ==
片町駅 - 四条畷駅間は、[[浪速鉄道]]が生駒山地北部の[[飯盛山 (生駒山地)|飯盛山]]西麓にある[[慈眼寺 (大東市)|野崎観音(慈眼寺)]]・[[四條畷神社]]への参詣鉄道として1895年に開業させたもの。四条畷駅 - 新木津駅・木津駅間は、その頃、大阪進出を計画していた[[関西鉄道]]が1897年に浪速鉄道とともに合併した城河鉄道から四条畷駅 - 長尾駅 - 木津駅間の鉄道敷設免許を<!-- 譲り受け →合併した時点で自社のものなので、「譲り受ける」ことはおかしい-->使い、翌1898年に開通させたものである。
関西鉄道は網島駅 - 四条畷駅 - 新木津駅間を名阪間を結ぶ本線とし、網島駅 - 名古屋駅間に四条畷駅経由で直通列車を運転するが、1900年に[[大阪鉄道 (初代)|大阪鉄道]]を合併して名阪間の本線を王寺駅経由に変更、さらに加茂駅 - 奈良駅間を[[大仏駅]]経由から木津駅経由に変更した1907年より後は、木津駅 - 桜ノ宮駅・片町駅間を結ぶだけのローカル線となった。同年国有化され、1909年に木津駅 - 桜ノ宮駅間を'''桜ノ宮線'''、放出駅 - 片町駅間を'''片町線'''とするが、1913年に放出駅 - 桜ノ宮駅間を廃止し、木津駅 - 片町駅間が'''片町線'''となった。
1932年、四条畷駅 - 片町駅間が関西の[[国電]]区間では初めて電化され(1929年に開通した[[阪和線]]は当時[[阪和電気鉄道|阪和電鉄]]という私鉄)、木津駅 - 四条畷駅間は[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]が牽引する[[蒸気機関車|汽車]]、四条畷駅 - 片町駅間は[[電車]]になった。C11形投入後は[[蒸気機関車]]が廃止されるまで、同機が専ら列車牽引に用いられた。
[[戦前]]の当線の特色として、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[大阪砲兵工廠]](現在の[[大阪城公園]]の一部・[[大阪ビジネスパーク]]・[[森ノ宮電車区]]・[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]][[森之宮検車場]]の地にあった)と沿線に設置された工廠や火薬庫を結ぶ軍需輸送がある。これらの施設までは陸軍の専用線が敷設されていた(星田駅 - 香里製造所・津田駅 - 中宮([[禁野火薬庫]])・現在の下狛駅付近 - [[祝園分屯地|祝園弾薬庫]]の3線)。戦後、施設の廃止により香里と中宮に至る専用線は道路化されたが、戦後に米軍および[[自衛隊]]の施設に転用された祝園の専用線はその後も使われ、現在もその跡をわずかに留めている。なお、香里製造所の敷地は1958年から[[香里団地]]に、専用跡は枚方市道・交野市道に流用された。中宮の禁野火薬庫は[[小松製作所]]大阪工場に流用され、1967年10月からはこの頃に[[一般国道]]昇格が決定された主要地方道水口枚方線(1970年4月1日に[[国道307号]]へ昇格)バイパスに流用されている。
[[ファイル:Katamachi101-1985b.JPG|thumb|[[片町駅]]へ向かう[[国鉄101系電車|101系電車]](1985年)]]
[[戦後]]の1949年には、四条畷駅 - 片町駅間22分間隔、所要時間34分のところを、20分間隔、所要時間は日中22分、朝夕24 - 26分に増発・スピードアップされた。1950年に長尾駅 - 四条畷駅間が電化され、[[非電化]]区間は[[気動車]]の[[国鉄キハ04形気動車|キハ41000形]]に変わり、汽車は木津駅 - 放出駅間1日2 - 3往復(放出駅 - 片町駅間と城東貨物線については不明)の貨物列車だけになった(1972年に蒸気機関車使用廃止)。木津駅 - 長尾駅間は気動車が日中以降1 - 2時間間隔で運転されるだけであり、国鉄末期に増発が行われた。[[File:19870208 hosono stasion.jpg|thumb|国鉄時代の片町線<!--(学研都市線)→国鉄時代はまだ愛称はついていない。-->の祝園駅、長尾から京都・奈良寄りの区間ではまだ古いディーゼルカーが走っていた(1987年2月)]]
[[国鉄分割民営化]]後の1989年に木津駅 - 長尾駅間が電化され、全区間で電車が運転されるようになった。
1970年代、急激な都市化が進む大阪市北西部・[[兵庫県]][[阪神間|阪神地域]]を結ぶための実質的な延伸区間「片福連絡線」の構想が、1971年の[[都市交通審議会]]答申第13号で「新設すべき路線のうち、緊急に実施すべき区間」と指定を受けたものの、長年にわたり着工が財政上の問題から見送られてきた。[[1988年]]、JR西日本と沿線自治体などが共同で出資した[[関西高速鉄道]]が設立され、線路の建設と保有を関西高速鉄道([[鉄道事業者|第3種鉄道事業者]])、運行をJR西日本(第2種鉄道事業者)が行う「[[上下分離方式]]」で着工されるに至り、1997年、JR東西線として開業し福知山線(JR宝塚線)・東海道・山陽本線(JR神戸線)との直通運転を開始。同時に京橋駅 - 片町駅間が廃止された<ref name="交通970307">{{Cite news |title=片町駅 102年の歴史に幕 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1997-03-07 |page=3 }}</ref>。
=== 年表 ===
以下で区間の「廃止」は特に注記がなければ当該駅および信号場間の営業線としての廃止を意味する。廃止日以降も車両基地への回送線としてや、重複区間であるため一部区間では線路が残っている(いた)場合はその旨注記した。
==== 浪速鉄道・関西鉄道 ====
* [[1895年]]([[明治]]28年)[[8月22日]]:'''浪速鉄道'''により片町駅 - 四条畷駅間(8[[マイル|M]]5[[チェーン (単位)|C]]≒12.98km)が開業。全線単線。片町駅・放出駅・徳庵駅・住道駅・四条畷駅が開業。
* [[1896年]](明治29年)[[6月9日]]:全線で営業距離が9C(≒0.18km)延長。
* [[1897年]](明治30年)[[2月9日]]:浪速鉄道が'''関西鉄道'''に路線を譲渡。
* [[1898年]](明治31年)
** [[4月12日]]:四条畷駅 - 長尾駅間(8M23C≒13.34km)が延伸開業。津田駅・長尾駅が開業。
** [[6月4日]]:長尾 - 新木津間(11M23C≒18.17km)が延伸開業。田辺駅(現在の京田辺駅)・祝園駅・新木津駅が開業。
** [[7月1日]]:星田駅が開業。
** [[9月16日]]:木津駅 - 新木津駅間(29C≒0.58km)が延伸開業し、現在の奈良線である奈良鉄道線に接続。起点を片町駅から木津駅に変更。
** [[11月8日]]:支線 放出駅 - 寝屋川間(1M35C≒2.31km)が開業。寝屋川駅が開業<ref name=IMAO10>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=新潮社 |volume=10 大阪 |year=2009 |isbn=978-4-10-790028-9|pages=27-28}}</ref>。
** [[11月18日]]:加茂駅 - 新木津駅間(3M64C≒6.12km)<ref name=IMAO08>{{Cite book|和書|author=今尾恵介(監修)|authorlink=今尾恵介|title=[[日本鉄道旅行地図帳]] |publisher=[[新潮社]] |volume=8 関西1 |year=2008 |isbn=978-4-10-790026-5|pages=38-39}}</ref>、寝屋川駅 - 網島駅間(1M6C≒1.73km)が延伸開業<ref name=IMAO10/>。網島駅が開業。寝屋川駅が寝屋川聯絡所に変更<ref name=IMAO10/>。[[名古屋駅]] - 新木津駅 - 網島駅間が本線となり、同区間で直通列車を運転開始。支線となった放出駅 - 片町駅間の旅客営業廃止<ref name=IMAO10/>。
* [[1899年]](明治32年)[[5月15日]]:野崎[[臨時駅|仮停車場]]が開業。
* [[1900年]](明治33年)[[6月6日]]:大阪鉄道の奈良駅 - 湊町駅(現在の[[JR難波駅]])間が本線に編入され、加茂駅 - 新木津駅 - 網島駅間は支線になる。
* [[1901年]](明治34年)
** [[1月18日]]:支線 新木津駅 - 木津駅間が休止。
** [[1月25日]]:放出駅 - 片町駅間の営業距離が2C(≒0.04km)延長。
** [[12月21日]]:網島駅 - 桜ノ宮駅間(57C≒1.15km)が開業。
* [[1902年]](明治35年)[[11月12日]]:営業距離の単位をマイル・チェーンからマイルのみに変更(加茂駅 - 網島駅間 31M71C→31.9M、放出駅 - 片町駅間 2M17C→2.2M、網島駅 - 桜ノ宮駅間 57C→0.7M、新木津駅 - 木津駅間 29C→0.4M)。
* [[1905年]](明治38年)[[1月1日]]:放出駅 - 片町駅間の旅客営業再開。
* [[1907年]](明治40年)
** [[8月21日]]:加茂駅 - 新木津駅間(3.8M≒6.12km)休止。新木津駅が新木津給水所に変更。
==== 国有鉄道 ====
* 1907年(明治40年)
** [[10月1日]]:関西鉄道が国有化。新木津給水所が新木津給水給炭所に変更。
** 11月1日:加茂駅 - 新木津駅間(0.4M≒0.64km)が正式に廃止。木津駅 - 桜ノ宮駅間で営業距離が0.2M(≒0.32km)延長。
* [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定。木津駅 - 桜ノ宮駅間を'''桜ノ宮線'''、放出駅 - 片町駅間を'''片町線'''とする。
* [[1911年]](明治44年)[[8月29日]]:新木津給水給炭所が廃止。
* [[1912年]](明治45年)
** [[4月21日]]:野崎仮停車場を野崎駅に変更。鴻池新田駅が開業。片町駅構内扱いで京橋口乗降場が設置される。
** [[5月11日]]:新喜多駅が開業。
* [[1913年]]([[大正]]2年)[[11月15日]]:放出駅 - 桜ノ宮駅間(3.1M≒4.99km)が廃止。木津駅 - 片町駅間を'''片町線'''とする。片町駅京橋口乗降場が京橋駅に統合。網島駅・寝屋川聯絡所が廃止。この時、放出駅 - 中野町信号所 - 桜ノ宮駅間に連絡線が開設(廃止時期不明)。
* [[1916年]](大正5年)[[12月11日]]:新喜多駅が廃止。
* [[1922年]](大正11年)[[4月1日]]:中野町信号所が中野町信号場に改称。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月10日]]:放出駅 - 鴫野駅間が複線化。貨物支線 京橋駅 - 淀川駅間(1.2M≒1.93km)、放出駅 - 淀川駅間(3.0M≒4.83km)が開業し貨物駅として[[淀川駅 (国鉄)|淀川駅]]が開業。
* [[1929年]](昭和4年)[[3月15日]]:貨物支線 淀川駅 - 千里信号場 - 吹田駅間(6.2M≒9.98km)が開業。中間に巽信号場・千里信号場が開設。
* [[1930年]](昭和5年)[[4月1日]]:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(木津駅 - 片町駅間 28.1M→45.4km、放出駅 - 淀川駅間 3.0M→4.8km、淀川駅 - 吹田駅間 6.2M→10.0km、京橋駅 - 淀川駅間 1.2M→1.8km)。
* [[1931年]](昭和6年)[[8月10日]]:貨物支線 放出駅 - 正覚寺信号場 - 平野駅間 (8.4km)、放出駅 - 吹田駅間 (10.7km) が開業。関西本線との分岐点に正覚寺信号場(初代)が開設。
* [[1932年]](昭和7年)
** 7月8日:千里信号場が廃止。
** 11月1日:放出駅 - 京橋駅間に鴫野信号場が開設。
** [[12月1日]]:四条畷駅 - 片町駅間、鴫野信号場 - 吹田駅間が電化。
* [[1933年]](昭和8年)
** 6月17日:奈良駅 - 四条畷駅間で[[気動車]](ガソリンカー)運行開始<ref>[{{NDLDC|1114638/98}} 『鉄道省年報. 昭和9年度』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。
** 7月1日:旅客列車が無煙化(蒸気機関車使用廃止)<ref name="konoikeshindenkaisho">{{PDFlink|1=[https://konoikeshindenkaisho.jp/down/katamachisen.pdf#page=32 鴻池新田会所 平成22年度秋季特別展「片町線ノスタルジイ」解説図録]}} p.30</ref>。
**[[9月1日]]:鴫野信号場が駅に変更され、鴫野駅が開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[12月2日]]:河内磐船駅が開業。
* [[1939年]](昭和14年)[[10月15日]]:貨物支線 放出駅 - [[竜華操車場]] - 八尾駅間 (10.4km) が開業。正覚寺信号場(初代)が平野駅に統合されて廃止。
* [[1941年]](昭和16年)[[7月25日]]:正覚寺信号場(2代目)が開設。
* [[1943年]](昭和18年)10月1日:貨物支線 放出駅 - 平野駅間に蛇草信号場、放出駅 - 吹田駅間に都島信号場が開設。
* [[1944年]](昭和19年)6月18日:ガソリンカーの運転を休止し、蒸気機関車牽引列車に置き換え<ref name="konoikeshindenkaisho" />。
* [[1945年]](昭和20年)頃:野崎駅 - 住道駅間に東住道[[仮乗降場]]が開業。朝夕通勤時のみ列車が停車した。
* [[1948年]](昭和23年)頃:東住道仮乗降場が廃止。
* [[1950年]](昭和25年)[[12月25日]]:長尾駅 - 四条畷駅間が電化され、長尾駅 - 片町駅間で直通運転開始<ref name="kinkijnr_359">近畿地方の日本国有鉄道、p.359</ref>。
** 電化当初は4両編成の電車が40 - 60分間隔で1日21往復。木津駅 - 長尾駅間は気動車1日9往復と早朝に下り貨客混合列車1本。
* [[1951年]](昭和26年)[[11月10日]]:奈良駅 - 長尾駅間で気動車運転開始<ref name="kinkijnr_359" />。
* [[1952年]](昭和27年)12月1日:西木津駅・下狛駅・上田辺駅(現在のJR三山木駅)・大住駅が開業。
* [[1953年]](昭和28年)
** [[2月1日]]:片町線に土曜ダイヤ、休日ダイヤが設定される<ref>近畿地方の日本国有鉄道、p.360</ref>。<!--土休日ダイヤではなく、土曜が平日・休日と別のダイヤ。念のため。-->
** [[5月1日]]:忍ケ丘駅が開業。
* [[1954年]](昭和29年):津田駅 - 禁野火薬庫と星田駅 - 香里製造所の専用線(禁野側線・香里側線)が廃止。
* [[1955年]](昭和30年)[[1月25日]]:鴫野駅 - 片町駅間が複線化。
* [[1961年]](昭和36年)
** [[4月25日]]:貨物支線 京橋駅 - 淀川駅間 (1.8km) が廃止(ただし、大阪環状線列車の[[淀川電車区]]への入出区のために、線路自体は存続)。
** 12月10日:正覚寺信号場(2代目)が平野駅に統合されて廃止。
* [[1963年]](昭和38年)12月5日:全列車の5両運転開始<ref>近畿地方の日本国有鉄道、p.367</ref>。
* [[1969年]](昭和44年)[[2月27日]]:四条畷駅 - 住道駅間が複線化。
** [[3月22日]]:住道駅 - 徳庵駅間が複線化。
** [[3月25日]]:徳庵駅 - 放出駅間が複線化。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[3月15日]]:定期列車無煙化(蒸気機関車使用廃止)。
** [[6月30日]]:祝園弾薬庫線(川西側線)が廃止。
* [[1976年]](昭和51年):101系電車が森ノ宮電車区から転入し、片町線で運用開始。
* [[1977年]](昭和52年)3月:73系電車の運用終了。
* [[1979年]](昭和54年)
** 103系6両編成が新製投入される。また、101系5両編成を6両編成に増強。
** 10月1日:長尾駅 - 四条畷駅間が複線化<ref>{{Cite news |title=「通報」●片町線長尾・四条畷間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1979-09-27 |page=2 }}</ref>(一部高架化)。藤阪駅・東寝屋川駅が開業。長尾駅 - 片町駅間の各駅に関西の国鉄線では初めて自動改札機設置。
* [[1982年]](昭和57年)11月15日:貨物支線 放出駅 - 淀川駅間 (4.8km)、淀川駅 - 吹田駅間 (10.0km) が廃止<ref>{{Cite news |title=日本国有鉄道公示第166号 |newspaper=[[官報]] |date=1982-11-13 }}</ref>(放出駅 - 鴫野駅間、巽信号場 - 吹田駅間は現存区間と重複)。ただし、片町線電車の淀川電車区への出入区線として、線路は淀川電車区移転まで存続。淀川駅が廃止されて淀川信号場になる<ref>近畿地方の日本国有鉄道、p.380</ref>。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月21日]]:103系が[[明石電車区]]から転属([[1984年]][[9月30日]]に完了)。
* [[1984年]](昭和59年)2月10日:都島信号場が廃止<ref>近畿地方の日本国有鉄道、p.381</ref>。
* [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:巽信号場・淀川信号場が廃止<ref>近畿地方の日本国有鉄道、p.382</ref>。片町線の車両基地である淀川電車区が、大阪市都島区中野町から東大阪市川俣([[森ノ宮電車区]]放出派出所)に移転し、放出駅 - 淀川駅間、京橋駅 - 淀川駅間の淀川電車区への出入区線が廃止。
* [[1986年]](昭和61年)[[4月1日]]:同志社前駅が開業。
==== 西日本旅客鉄道発足後 ====
* [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道が継承。日本貨物鉄道が一部区間の第二種鉄道事業者になる。木津駅 - 徳庵駅間の貨物営業廃止。貨物支線 放出駅 - 吹田駅間の起点を放出駅から鴫野駅に変更。放出駅 - 八尾駅間、鴫野駅 - 吹田駅間が書類上旅客営業開始。
* [[1988年]](昭和63年)
** [[3月13日]]:'''学研都市線'''の愛称使用開始。快速列車が運転開始(当初は平日のみ上り1本・下り2本。停車駅は長尾駅・四条畷駅・住道駅・放出駅・京橋駅・片町駅)<ref name="JRjikoku198803"/>。
** 9月1日:河内磐船駅が快速停車駅になる<ref name="jikoku198809"/>。
** 9月28日:大住駅 - 長尾駅間を新線に切り替え、暫定の単線<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 間宮康広 | title = 片町線新線切替 | journal = 鉄道ピクトリアル | issue = 506 | year = 1989 | month = 1 | pages = 126 | publisher = 電気車研究会}}</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[3月11日]]:木津駅 - 長尾駅間が電化<ref name=JRR1989>{{Cite book|和書 |date=1989-08-01 |title=JR気動車客車情報 89年版 |chapter=JR年表 |page=144 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-110-4}}</ref>。大住駅 - 長尾駅間が経路変更で0.1km短縮、同区間に松井山手駅が開業{{R|JRR1989}}。松井山手駅 - 長尾駅間複線化{{R|JRR1989}}。快速列車を日中も含めて増発。
** 6月頃:片町線での101系電車運用が終了(7両編成を6両編成化した上で森ノ宮電車区に転属し、桜島線や大阪環状線で1991年まで運用)。
* [[1990年]](平成2年)[[2月3日]]:住道駅付近が高架化<ref>『JR気動車客車編成表 91年版』ジェー・アール・アール、1991年。{{ISBN2|4-88283-112-0}}。</ref>。
* [[1991年]](平成3年)[[4月30日]]:207系電車が営業運転開始。
* [[1996年]](平成8年)9月:103系電車の運用終了(使用されていた103系は1991年以降、森ノ宮電車区・[[奈良電車区]]・[[日根野電車区]]などに転属)。
* [[1997年]](平成9年)3月8日:JR東西線開業により、福知山線(JR宝塚線)・東海道・山陽本線(JR神戸線)との直通運転が開始。京橋駅 - 片町駅間 (0.5km) が廃止され、片町駅が廃止{{R|交通970307}}。田辺駅が京田辺駅に、上田辺駅がJR三山木駅に改称<ref>[https://web.archive.org/web/19980625054654/http://www.westjr.co.jp/new/1press/n970116c.html 学研都市線(片町線)田辺駅及び上田辺駅の駅名改称について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1997年1月16日</ref>。[[Jスルー]]を導入<ref>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=187 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[5月10日]]:区間快速が運転開始。
* [[2002年]](平成14年)
** [[3月23日]]:JR三山木駅 - 松井山手駅間の輸送改善工事の完成によるダイヤ改正を実施<ref>[https://web.archive.org/web/20021221183130/www.westjr.co.jp/news/011214c.html 平成14年春 ダイヤ改正について II.アーバンネットワーク](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2001年12月14日</ref>。増解結駅が松井山手駅から京田辺駅に変更となる。星田駅が快速停車駅になる。ラッシュ時に区間快速を増発。日中の四条畷駅 - 京橋駅間折り返しの普通を廃止。この区間の普通は1時間あたり4本となる。
** [[7月1日]]:女性専用車が試験導入<ref name="jrw_20020515" />。
** [[12月2日]]:女性専用車が本格導入<ref name="jrw_20021007" />。
* [[2003年]](平成15年)
** 3月:貨物支線の蛇草信号場が廃止。
** 10月1日:各駅でコンコースの喫煙コーナーを廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
* [[2007年]](平成19年)[[12月16日]]:貨物支線に[[JR俊徳道駅#俊徳道信号場|俊徳道信号場]]が新設。放出駅 - 俊徳道信号場間が複線化。
* [[2008年]](平成20年)
** [[3月9日]]:貨物支線の俊徳道信号場が廃止され、正覚寺信号場(3代目)が新設。俊徳道信号場 - 正覚寺信号場間が複線化。
** 3月14日:321系の営業運転開始。
** 3月15日:おおさか東線開業のため、貨物支線 放出駅 - 八尾駅間 (10.4km) が廃止。貨物支線 放出駅 - 平野駅間の起点を放出駅から正覚寺信号場に変更(放出駅 - 正覚寺信号場間がおおさか東線と重複するため)。正覚寺信号場 - 平野駅間に第一種鉄道事業における営業キロ (1.5km) が付与される<ref group="注">電気車研究会『鉄道要覧』において、平成二十年度版より、放出駅 - 八尾駅間に代わって営業キロの記載が実施されるようになった。</ref>。直通快速の運転開始。
* [[2009年]](平成21年)
** [[7月1日]]:各駅でホーム上の喫煙コーナーが廃止され全面禁煙化<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
** [[10月4日]]:貨物支線 正覚寺信号場 - 平野駅間と木津駅に[[運行管理システム (JR西日本)|大阪環状・大和路線運行管理システム]] が導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174388_799.html 大阪環状・大和路線運行管理システムの使用開始について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年9月28日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月13日]]:木津駅 - 同志社前駅間各駅のホーム延伸工事完成に伴い、全線で7両編成で運転開始。区間快速が増発され、土休日ダイヤの午前中にも運転されるようになる<ref name="jrwkaisei100314osaka" />。
** [[12月1日]]:組織改正により、[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]および[[西日本旅客鉄道京都支社|京都支社]]の管轄から近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月8日]]:京橋駅 - 松井山手駅間と、京田辺駅・同志社前駅・祝園駅に[[運行管理システム (JR西日本)|JR宝塚・JR東西・学研都市線運行管理システム]] が導入される<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175201_799.html 2011年2月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道 2011年2月18日</ref>。
** [[3月12日]]:貨物支線 正覚寺信号場 - 平野駅間が直流電化。祝園駅留置線使用開始。
** 4月18日:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304" />。
* [[2012年]](平成24年)[[10月8日]]:貨物支線 鴫野駅 - 吹田駅間の終点(東海道本線との接続点)を吹田駅から吹田貨物ターミナル駅<ref group="注">2013年(平成25年)3月16日の貨物駅としての開業までは信号場と同様の扱いで供用。</ref>に変更(+1.5km)<ref>電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』 p.46</ref>。ただし、日本貨物鉄道の第二種鉄道事業の終点変更は、吹田貨物ターミナル駅が実際に貨物駅としての営業を開始した[[2013年]](平成25年)[[3月16日]]付で実施<ref>電気車研究会『平成二十六年度 鉄道要覧』 p.57</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]]:各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用を開始する。
** [[12月25日]]:おおさか東線(新大阪駅 - 放出駅間)の試運転開始に伴い<ref name="kanzakigawa">{{Cite web|和書|title=おおさか東線延伸開業予定区間で試運転が続く|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]]|date=2019-01-29 |url=https://railf.jp/news/2019/01/29/140000.html|accessdate=2019-02-14}}</ref>、貨物支線 鴫野駅 - 吹田貨物ターミナル駅間の神崎川信号場の供用を開始。
* [[2019年]](平成31年)
** [[3月16日]]:おおさか東線(新大阪駅 - 放出駅間)開業のため、重複区間となる貨物支線 鴫野駅 - 神崎川信号場間 (6.9km) が廃止<ref name="nikkei20181221">{{Cite news |title= 片町線の貨物区間の一部を廃止へ JR西日本 |newspaper=日本経済新聞 |date=2018-12-21 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39265450R21C18A2LKA000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2018-12-24 }}</ref>。東寝屋川駅を寝屋川公園駅に改称<ref>{{Cite news |title=来春のダイヤ改正で駅名変更、「東寝屋川駅」が「寝屋川公園駅」に |newspaper=産経新聞 |date=2018-12-15 |url=https://www.sankei.com/article/20181215-QOYS3ROLYBJJZI6LDKX7GQIWQ4/ |publisher=産経新聞社 |accessdate=2018-12-16 }}</ref><ref name="jrwest20181214-p10">{{Cite press release|和書|title=2019年3月16日にダイヤ改正を実施します |publisher=西日本旅客鉄道 近畿統括本部 |date=2018-12-14 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/181212_00_keihanshin_1.pdf#page=10 |format=PDF |page=10 |accessdate=2018-12-15}}</ref>。おおさか東線の直通快速の乗り入れ終了<ref name="jrwest20181214-p2" />。JR貨物の第二種鉄道事業のみ、放出駅 - 鴫野駅間を線路名称上おおさか東線に編入<ref name="ganen" />。
== 駅一覧 ==
=== 本線(学研都市線) ===
* 駅名 … ◇:貨物取扱駅(定期貨物列車の発着なし)、{{JR特定都区市内|阪}}:[[特定都区市内]]制度における「大阪市内」エリアの駅
* <nowiki>#</nowiki> … 待避可能駅
* 停車駅
** 普通…すべての駅に停車
** 区間快速・快速…●印の駅は停車、|印の駅は通過
* 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∧:ここより下は複線
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ff1493;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #ff1493;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff1493;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff1493;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ff1493; background:#cfc;"|{{縦書き|区間快速}}
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ff1493; background:#feb;"|{{縦書き|快速}}
!style="border-bottom:solid 3px #ff1493;"|接続路線
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #ff1493;"|{{縦書き|線路}}
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #ff1493;"|所在地
|-
!JR-H18
|[[木津駅 (京都府)|木津駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-Q.svg|15px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]]・朝夕の一部列車が直通)(JR-Q38)・[[ファイル:JRW kinki-D.svg|15px|D]] [[奈良線]] (JR-D19)
||
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[京都府]]|height=6em}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[木津川市]]
|-
!JR-H19
|[[西木津駅]]
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|2.2
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
||
|-
!JR-H20
|[[祝園駅]]
|style="text-align:right;"|2.9
|style="text-align:right;"|5.1
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]] …[[新祝園駅]] (B21)
|◇
|rowspan="2" colspan="2"|[[相楽郡]]<br />[[精華町]]
|-
!JR-H21
|[[下狛駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|7.4
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
||
|-
!JR-H22
|[[JR三山木駅]]
|style="text-align:right;"|2.0
|style="text-align:right;"|9.4
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|◇
|rowspan="5" colspan="2"|[[京田辺市]]
|-
!JR-H23
|[[同志社前駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|10.5
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
||
|-
!JR-H24
|[[京田辺駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|12.4
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|◇
|-
!JR-H25
|[[大住駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|14.5
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|◇
|-
!JR-H26
|[[松井山手駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|17.0
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|∧
|-
!JR-H27
|[[長尾駅 (大阪府)|長尾駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|18.6
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|∥
|rowspan="15" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}}
|rowspan="3" colspan="2"|[[枚方市]]
|-
!JR-H28
|[[藤阪駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|20.2
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|-
!JR-H29
|[[津田駅]]
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|21.8
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|-
!JR-H30
|[[河内磐船駅]]
|style="text-align:right;"|3.2
|style="text-align:right;"|25.0
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪交野線|交野線]] …[[河内森駅]] (KH66)
|∥
|rowspan="2" colspan="2"|[[交野市]]
|-
!JR-H31
|[[星田駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
|style="text-align:right;"|27.1
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|∥
|-
!JR-H32
|[[寝屋川公園駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|28.8
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|colspan="2"|[[寝屋川市]]
|-
!JR-H33
|[[忍ケ丘駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|30.1
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|colspan="2"|[[四條畷市]]
|-
!JR-H34
|[[四条畷駅]]#
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|32.0
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|∥
|rowspan="3" colspan="2"|[[大東市]]
|-
!JR-H35
|[[野崎駅 (大阪府)|野崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|33.3
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|-
!JR-H36
|[[住道駅]]#
|style="text-align:right;"|2.2
|style="text-align:right;"|35.5
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|
|∥
|-
!JR-H37
|[[鴻池新田駅]]
|style="text-align:right;"|2.4
|style="text-align:right;"|37.9
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|rowspan="2" colspan="2"|[[東大阪市]]
|-
!JR-H38
|[[徳庵駅]]#
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|39.8
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|
|∥
|-
!JR-H39
|[[放出駅]] {{JR特定都区市内|阪}}#
|style="text-align:right;"|1.8
|style="text-align:right;"|41.6
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-F.svg|15px|F]] [[おおさか東線]] (JR-F08)
|∥
|rowspan="3" style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[鶴見区 (大阪市)|鶴見区]]
|-
!JR-H40
|[[鴫野駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|43.2
|style="background:#cfc;"||
|style="background:#feb;"||
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-F.svg|15px|F]] おおさか東線 (JR-F07)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Imazatosuji_line_symbol.svg|15px|I]] [[Osaka Metro今里筋線|今里筋線]] (I19)
|∥
|rowspan="2"|[[城東区]]
|-
!JR-H41
|[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|44.8
|style="background:#cfc;"|●
|style="background:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-H.svg|15px|H]] [[JR東西線]](一部列車を除き直通運転)・[[ファイル:JRW kinki-O.svg|15px|O]] [[大阪環状線]] (JR-O08)<br />京阪電気鉄道:[[File:Number prefix Keihan lines.png|20px|KH]] [[京阪本線]] (KH04)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Nagahori_Tsurumi-ryokuchi_line_symbol.svg|15px|N]] [[Osaka Metro長堀鶴見緑地線|長堀鶴見緑地線]] (N22)
|∥
|}
祝園駅・同志社前駅・大住駅・藤阪駅・津田駅・星田駅・寝屋川公園駅・忍ケ丘駅・鴻池新田駅が[[JR西日本交通サービス]]による[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]、西木津駅・下狛駅・JR三山木駅が[[無人駅]]、それ以外の駅はJR西日本の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]である。
=== 貨物支線 ===
{{See also|おおさか東線#城東貨物線}}
* 全駅・信号場とも大阪府内に所在。
* 千里信号場は1932年7月8日廃止。
* 吹田駅は2012年10月8日までの書類上の終点であった。同日付で終点を吹田貨物ターミナル駅に変更。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!
!style="width:8em;"|駅名<br />信号場名
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!接続路線
!colspan="2"|所在地
|-
!rowspan="2" style="width:6em;"|城東貨物<br />南連絡線
|[[正覚寺信号場]]
|style="text-align:right;"|0.0
|西日本旅客鉄道:おおさか東線
|rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[大阪市]]}}
|rowspan="2" colspan="2"|[[平野区]]
|-
|[[平野駅 (JR西日本)|平野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|西日本旅客鉄道:関西本線<br />[[日本貨物鉄道]]:関西本線貨物支線([[百済貨物ターミナル駅]]方面)
|-
!rowspan="4" style="width:6em;"|城東貨物<br />北連絡線
|[[神崎川信号場]]
|style="text-align:right;"|0.0
|西日本旅客鉄道:おおさか東線
|style="white-space:nowrap;"|[[東淀川区]]
|-
|''千里信号場''
|style="text-align:right;"|1.8
|
|colspan="2"|
|-
|([[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]])
|style="text-align:right;"|2.2
|西日本旅客鉄道:[[東海道本線]](本線)
|rowspan="2" colspan="2"|[[吹田市]]
|-
|(貨)[[吹田貨物ターミナル駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|西日本旅客鉄道:東海道本線(本線・[[北方貨物線]]・[[梅田貨物線]])<br />日本貨物鉄道:東海道本線貨物支線([[大阪貨物ターミナル駅]]方面)
|}
=== 廃止区間 ===
括弧内の数値は起点からのキロ程。
; 2019年3月16日廃止区間
: (放出駅 -) [[鴫野駅]] (0.0) - 巽信号場 (1.3) - [[おおさか東線#神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間|都島信号場]] (4.1) - 神崎川信号場 (6.9)
:* 全区間が現在のおおさか東線と重複。1987年4月1日の国鉄分割民営化と同時に登記上の起点を放出駅から鴫野駅に変更。巽信号場は1985年3月14日、都島信号場は1984年2月10日にそれぞれ廃止。最末期の2018年12月25日よりおおさか東線延伸区間の試運転が開始されたため<ref name="kanzakigawa" />、 神崎川信号場を新設。
; 2008年3月15日廃止区間
: 放出駅 (0.0) - [[JR俊徳道駅#俊徳道信号場|俊徳道信号場]] - 蛇草信号場 (4.8) - [[正覚寺信号場]] (6.9) - [[竜華操車場|竜華信号場]] (9.6) - [[八尾駅]] (10.4)
:* 放出駅 - 正覚寺信号場間は現在のおおさか東線と重複。竜華信号場(旧:竜華操車場)は1997年7月28日、蛇草信号場は2003年3月にそれぞれ廃止。おおさか東線建設の進捗に伴い2007年12月6日から2008年3月9日のみ俊徳道信号場を設置し、最末期の2008年3月9日に正覚寺信号場を新設。
; 1997年3月8日廃止区間{{R|交通970307}}
: 京橋駅 (0.0) - [[片町駅]] (0.5)
; 1982年11月15日廃止区間
: 放出駅 (0.0) - 鴫野駅 (1.6) - (貨)[[淀川駅 (国鉄)|淀川駅]] (4.8)
: (貨)淀川駅 (0.0) - 巽信号場 (2.2) - [[おおさか東線#神崎川信号場 - 吹田貨物ターミナル駅間|都島信号場]] (5.0) - 千里信号場 (9.6) - [[吹田駅 (JR西日本)|吹田駅]] (10.0)
:* 淀川電車区出入区のため、1985年3月14日まで線路は存続した。放出駅 - 鴫野駅間、巽信号場 - 吹田駅間は現存区間ならびに現在のおおさか東線と重複。千里信号場は1932年7月8日廃止。
; 1961年4月25日廃止区間
: 京橋駅 (0.0) - (貨)淀川駅 (1.8)
:* 大阪環状線から分岐。淀川電車区出入区のため1985年3月14日まで路線は存続した。
; 廃止時期不明
: 放出駅 - (寝屋川聯絡所) - 中野町信号場 - 桜ノ宮駅
:* 1913年11月15日開設の非営業の連絡線で同日廃止の網島駅経由の路線の代替をなすものだが、廃止時期不明。京橋駅 - 淀川駅間の貨物線がこの路線をオーバークロスするように建設されている。
; 1913年11月15日廃止区間(桜ノ宮線)
: 放出駅 (0.00) - 寝屋川聯絡所 (2.3) - [[網島駅]] (3.86) - [[桜ノ宮駅]] (4.99)
; 1907年8月21日廃止区間
: [[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] (0.0) - 新木津駅 (6.12)
=== 廃駅 ===
括弧内は木津駅起点の営業キロ。廃止区間の駅を除く。
* 新木津駅:1907年給炭所に格下げ、1911年廃止、木津駅 - 西木津駅間(約0.6)
* 東住道仮乗降場:1948年頃廃止、野崎駅 - 住道駅間
* 新喜多駅:1916年廃止、鴫野駅 - 京橋駅間(約44.0)
== 将来の構想・計画 ==
=== 単線区間(木津駅 - 松井山手駅間)の複線化 ===
片町線は1989年3月にこれまで気動車が運行されていた長尾駅 - 木津駅間の電化が実現したものの、この時開業した松井山手駅と木津駅の間は[[複線]]化はされなかった。片町線は[[関西文化学術研究都市]]へのアクセスとして重要な役割を担うため、大阪方面との輸送力の強化の必要性が大きく高まっていたが、松井山手駅以東は[[単線]]区間が残っており、また、木津、西木津、下狛、同志社前<ref group="注">ただし、過去に同志社前発着列車があった名残りで、利用はできないが現在も2番線ホームは残されている。</ref>の各駅は現在も上下列車の行き違いをすることができないため、列車の増発には限界があった。
この片町線全線の複線電化の実現へ向けて、[[1952年]]、沿線に当たる地域のうち、大阪府と京都府に境を接す東大阪市・大東市・四條畷市・寝屋川市・交野市・枚方市・京田辺市・精華町・木津川市の以上8市1町の9つの自治体が中心となって、片町線複線化促進期成同盟会という団体が行政レベルを中心に設立されており<ref>[http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakensen/kiseidomeikai/kiseidomeikai.html 片町線複線化促進期成同盟会](学研都市線で行こう)</ref>、JR西日本に対し、輸送力の増強及び夜間の時間帯の輸送改善および全線の複線化を毎年要望している。<!--複線化については一部区間{{どこ|date=2014年8月}}には用地がある。←確保(買収)済みのものですか?-->
京都府は輸送需要の増加が著しい松井山手駅 - 京田辺駅間を中心に高速化・輸送力増強が早期に実現できるようJR西日本への要請を強め、1998年の補正予算でも高速化・輸送力増強事業費および駅舎整備費補助金として合計1,100万円を計上した。輸送改善の工事は1998年10月に着工し、松井山手駅 - 京田辺駅間の高速化が行われ、大住駅に行き違い設備の新設、京田辺駅の構内改良、JR三山木駅付近の線路移設および行き違い設備の新設・高架化が行われた。これにより列車の増発が可能になり、京橋方面から京田辺駅まで7両編成で運転できるようになった。
その後、[[同志社大学]]の[[八田英二]]学長(当時)名による申入れ<ref>{{PDFlink|1=[https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-495/3422/file/no143.pdf#page=27 「JR福知山線脱線事故について」, 同志社大学通信『One Purpose』, 2005 June No.143 p.27]}}, 2017年12月22日参照</ref><ref>{{PDFlink|1=[http://www.doshisha.ed.jp/pdf/works_report/2005.pdf#page=13 「JR福知山線脱線事故、宇治市小6女子児童刺殺事件に関して」, 学校法人 同志社 事業報告書2005]}}, 2006年5月27日発行、 2017年12月22日閲覧</ref>があり、京田辺駅 - 木津駅間でも輸送改善工事が行われた。同志社前駅 - 木津駅間の各駅のホームを4両編成から7両編成に対応できるように延伸する工事<ref group="注">同志社前駅(の旧2番のりば)のみ前述の申入れ通りにはホーム延伸工事が行われなかった。その理由は、同駅で当時使用していた2面2線のうち、駅舎と反対側の線路(旧2番のりば)が京橋方面のみ線路が繋がっていたことである。加えて、駅舎側のホーム(1番のりば)との連絡が構内踏切となっており、1番のりばを延伸すると支障となる構内踏切を撤去して代替設備の設置が必要になるが、1番のりばの木津方面は隣接建物との関係でホーム延伸後も狭く、代替設備の設置が難しいこともあって実現しなかった。</ref>が行われ、2010年3月13日から京田辺駅で行われていた車両の増解結がなくなり、全線で7両編成で運転することが可能になった。
[[2017年]]、[[北陸新幹線]]の西伸計画のうち、[[京都駅]] - [[新大阪駅]]間について、片町線松井山手駅付近を経由する「南回りルート」として建設する方針が固まったが、このタイミングで、当時の[[京都府知事]]・[[山田啓二]]は「[[舞鶴市|舞鶴]]を経て日本海に至る[[山陰新幹線]]も含めた鉄道ネットワークの強化や、新幹線の整備効果をより高めるための学研都市線の複線化等の検討が、合わせて行われることが必要」と談話を述べ、さらに京田辺市の当時の市長・[[石井明三]]も「府南部地域の地域開発効果や学研都市の発展、さらには学研都市線の複線化につながるものと大いに期待している」と学研都市線の複線化の推進を促すコメントを残している<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASK3H5J97K3HPLZB00L.html 京都)北陸新幹線、松井山手経由に 府、学研線複線化を テツの広場・岡本智、伊藤誠] - 朝日新聞デジタル、2017年3月16日(2021年11月2日閲覧)</ref>。しかしながら、2019年に期成同盟会がJR西日本に対して陳情したところ、「北陸新幹線の延伸や、おおさか東線の全線開通、学研都市の機能の充実などでポテンシャルは上がっているが、現状では、現在のダイヤで十分に対応でき、増発や複線化は難しいと言わざるを得ない」とする回答があった<ref name=kyotonp20190829>[https://web.archive.org/web/20191103133515/https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/13915 JR片町線「複線化や増便難しい」 期成同盟会にJR西回答]『京都新聞』2019年8月29日</ref>。
=== 片奈連絡線 ===
日本の[[国土交通省]]は、学研都市建設に関する基本方針の一環として、京阪奈の各都心との連絡性を高めるため、学研都市線と奈良線を直通する「'''[[片奈連絡線]]'''(かたなれんらくせん)」という短絡線の建設の推進、および祝園駅付近の分岐線や木津駅方面への整備の必要性について検討している<ref>[https://www.mlit.go.jp/crd/daisei/daikan/houshin8.html 関西文化学術研究都市の建設に関する基本方針 第8章 公共施設、公益的施設、住宅施設 その他の施設の整備に関する基本的事項](イ・鉄道の項参照)</ref>。実際、[[1989年]]5月に出された、[[大阪圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について|運輸政策審議会答申第10号]]では、「[[2005年]]までに整備すべき路線」として挙げられていたが、[[2004年]]10月の近畿地方審議会答申第8号には盛り込まれていない<ref>[https://frdb.railway-pressnet.com/kansai/kk1005 片奈連絡線](未来鉄道データーベース)</ref>。前述の沿線期成同盟会は、京田辺駅 - 奈良線・[[長池駅]]を結ぶ片奈連絡線の実現を陳情している<ref name=kyotonp20190829/>。
=== 京橋駅地下化構想 ===
学研都市線の終点駅である[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]周辺の[[都島区]][[片町 (大阪市)|片町]]から[[城東区]][[新喜多 (大阪市)|新喜多]]にかけては、京橋駅が長年地上ホームとなっていることから、地区が南北に分断しており、地域の発展を阻害しているとされる。またそこへ走る都市計画道路構想も工事に着手できない状態が続いている。
そこで、ここにある「新喜多」「馬の口」「鯰江」の3つの[[踏切]]を除却し、約1.3㎞を地下路線に移行したうえで、都市計画道路の整備と交通渋滞の緩和、地域分断化の解消などを進める再開発構想<ref>{{PDFlink|[https://www.city.osaka.lg.jp/shiseikaikakushitsu/cmsfiles/contents/0000294/294837/01-1_tyosyo.pdf 事業再評価調書(2回目以降)]}} - 大阪市</ref>が大阪市によって計画されているが、財政上の問題で再開発が進んでいない。京橋駅学研都市・東西線ホームも地下に移行し、2面2線の乗り場を建設することが考えられている<ref name="鉄道プレスネット">[https://news.railway-pressnet.com/archives/27224 学研都市線・JR東西線の京橋駅「地下化」事業再開に向け調査へ] - 鉄道プレスネット、2021年8月8日</ref>。
しかし、[[イオン京橋店]](2019年9月閉店)のオフィス併設の商業施設への建て替え工事などの再開発の動きが活発化していることから、[[2021年]]7月、この立体交差事業再開へ向けて、大阪市が[[日本交通技術]]に調査検討業務を委託し、地下化のルートや工法についての再検討を行うことになった(履行期間:[[2022年]][[3月31日]]まで)<ref name="鉄道プレスネット" />。
=== 新駅設置計画 ===
大東市は住道駅 - 野崎駅間に新駅を設置することを要望している<ref>{{PDFlink|[http://www.city.daito.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/3/20184-00-35.pdf 「〈特集〉平成30年度施政方針」『広報だいとう』平成30年4月号]}}、大東市、p.3</ref>。
== 脚注 ==
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{{Reflist|group=注}}
== 出典 ==
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{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『JR時刻表』各号、交通新聞社
* 『携帯全国時刻表』各号、交通新聞社西日本支社
* 『[[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線』10 大阪、今尾恵介(監修)、[[新潮社]]、2009年 {{ISBN2|978-4-10-790028-9}}
* 『近畿地方の日本国有鉄道 -大阪・天王寺・福知山鉄道局史』大阪・天王寺・福知山鉄道局史編集委員会、2004年
* 京都府・京田辺市・精華町各議会録
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Katamachi Line}}
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[東大阪電気鉄道]](森ノ宮 - 逢坂 - 奈良間の[[未成線]])
* [[奈良電気鉄道#大阪線計画|奈良電気鉄道大阪延伸線]](新玉造 - 西長尾 - 小倉間の未成線)
* [[大阪電気軌道四条畷線]](桜ノ宮 - 蒲生 - 住道 - 額田間の未成線)
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/gakkentoshi.html 学研都市線:JR西日本 列車走行位置]
* [http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakensen/ 学研都市線で行こう] - 片町線複線化促進期成同盟会
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[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
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[[Category:関西鉄道|路かたまち]]
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[[Category:京都府の交通]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:部分廃止路線]]
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16,469 |
ヘヴィサイドの階段関数
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ヘヴィサイドの階段関数(、英: Heaviside step function)は、正負の引数に対しそれぞれ 1, 0 を返す階段関数
H ( x ) = { 0 ( x < 0 ) 1 ( x > 0 ) = x + | x | 2 | x | ( x ≠ 0 ) {\displaystyle {\begin{aligned}H(x)&={\begin{cases}0&(x<0)\\1&(x>0)\end{cases}}\\&={\dfrac {x+|x|}{2|x|}}\quad (x\neq 0)\end{aligned}}}
である。名称はオリヴァー・ヘヴィサイドにちなむ。ヘヴィサイド関数と呼ばれることもある。通常、H(x) や Y(x) などで表されることが多い。
単位ステップ関数と似ているが、こちらは
U ( x ) = { 0 ( x ≦ 0 ) 1 ( x > 0 ) = { 0 ( x = 0 ) x + | x | 2 | x | ( x ≠ 0 ) {\displaystyle {\begin{aligned}U(x)&={\begin{cases}0&(x\leqq 0)\\1&(x>0)\end{cases}}\\&={\begin{cases}0&(x=0)\\{\dfrac {x+|x|}{2|x|}}&(x\neq 0)\end{cases}}\end{aligned}}}
と x = 0 の時も0の値を持つものとして定義される。切断冪関数の0乗。
階段関数は、x < 0 または x > 0 の範囲で連続であるが, x = 0 で値 c をとるものとして階段関数
H c ( x ) = { 0 ( x < 0 ) c ( x = 0 ) 1 ( x > 0 ) = { c ( x = 0 ) x + | x | 2 | x | ( x ≠ 0 ) {\displaystyle {\begin{aligned}H_{c}(x)&={\begin{cases}0&(x<0)\\c&(x=0)\\1&(x>0)\end{cases}}\\&={\begin{cases}c&(x=0)\\{\dfrac {x+|x|}{2|x|}}&(x\neq 0)\end{cases}}\end{aligned}}}
を実数全体の集合 R {\displaystyle \mathbb {R} } 上の関数 H c : R → R {\displaystyle H_{c}\colon \,\mathbb {R} \to \mathbb {R} } と考えるならば、c をどのように定めても原点 x = 0 で不連続である。c の値は必要に応じて都合のよい値を選ぶことができるが、c = 0, 1/2, 1 などがしばしば用いられ、それぞれ
である。また、
H 1 ( x ) = 1 − U ( − x ) = lim t → x − 0 U ( t ) {\displaystyle H_{1}(x)=1-U(-x)=\lim _{t\to x-0}U(t)} H 0 ( x ) = U ( x ) {\displaystyle H_{0}(x)=U(x)} H c ( x ) = c H 1 ( x ) + ( 1 − c ) H 0 ( x ) {\displaystyle H_{c}(x)=cH_{1}(x)+(1-c)H_{0}(x)} H 1 / 2 ( x ) = 1 + sgn ( x ) 2 {\displaystyle H_{1/2}(x)={\frac {1+\operatorname {sgn}(x)}{2}}}
と表すことができる。関数 sgn は符号関数である。
ディラックのデルタ関数 δと区間 ( − ∞ , x ] {\displaystyle (-\infty ,x]} の定義関数 χ ( − ∞ , x ] {\displaystyle \chi _{(-\infty ,x]}} に対し
∫ − ∞ x δ ( t ) d t := ∫ − ∞ ∞ χ ( − ∞ , x ] ( t ) δ ( t ) d t = χ ( − ∞ , x ] ( 0 ) {\displaystyle \int _{-\infty }^{x}\delta (t)dt:=\int _{-\infty }^{\infty }\chi _{(-\infty ,x]}(t)\delta (t)dt=\chi _{(-\infty ,x]}(0)}
とおくと、これは x < 0 のとき区間 ( − ∞ , x ] {\displaystyle (-\infty ,x]} は 0 を含まず、x ≧ 0 のとき区間 ( − ∞ , x ] {\displaystyle (-\infty ,x]} が 0 を含むことから
χ ( − ∞ , x ] ( 0 ) = { 0 ( x < 0 ) 1 ( x ≧ 0 ) {\displaystyle \chi _{(-\infty ,x]}(0)={\begin{cases}0&(x<0)\\1&(x\geqq 0)\end{cases}}}
となる。つまり
H 1 ( x ) = ∫ − ∞ x δ ( ξ ) d ξ {\displaystyle H_{1}(x)=\int _{-\infty }^{x}\delta (\xi )d\xi }
と表される。この意味でヘヴィサイドの階段関数はディラックのデルタ関数を確率密度関数とするときの累積分布関数に相当する。
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ヘヴィサイドの階段関数(ヘヴィサイドのかいだんかんすう、は、正負の引数に対しそれぞれ 1, 0 を返す階段関数 である。名称はオリヴァー・ヘヴィサイドにちなむ。ヘヴィサイド関数と呼ばれることもある。通常、H や Y などで表されることが多い。 単位ステップ関数と似ているが、こちらは と x = 0 の時も0の値を持つものとして定義される。切断冪関数の0乗。
|
{{出典の明記|date=2015年12月}}
[[Image:Dirac distribution CDF.svg|250px|thumb|right|''x'' = 0 で 1/2 の値をとる階段関数]]
{{読み仮名|'''ヘヴィサイドの階段関数'''|ヘヴィサイドのかいだんかんすう|{{lang-en-short|Heaviside step function}}}}は、正負の引数に対しそれぞれ 1, 0 を返す[[階段関数]]
{{Indent|<math>\begin{align}
H(x) &= \begin{cases}
0 & (x < 0) \\
1 & (x > 0)
\end{cases} \\
&= \dfrac{x + |x|}{2|x|} \quad (x \neq 0)
\end{align}</math>}}
である。名称は[[オリヴァー・ヘヴィサイド]]にちなむ。ヘヴィサイド関数と呼ばれることもある。通常、{{math|''H''(''x'')}} や {{math|''Y''(''x'')}} などで表されることが多い。
[[単位ステップ関数]]と似ているが、こちらは
{{Indent|<math>\begin{align}
U(x) &= \begin{cases}
0 & (x \leqq 0) \\
1 & (x > 0)
\end{cases} \\
&= \begin{cases}
0 & (x = 0) \\
\dfrac{x + |x|}{2|x|} & (x \neq 0)
\end{cases}
\end{align}</math>}}
と {{math|''x'' {{=}} 0}} の時も0の値を持つものとして定義される。[[切断冪関数]]の0乗。
== 不連続性 ==
階段関数は、{{math|''x'' < 0}} または {{math|''x'' > 0}} の範囲で連続であるが, {{math|''x'' {{=}} 0}} で値 {{mvar|''c''}} をとるものとして階段関数
{{Indent|<math>\begin{align}
H_c(x) &= \begin{cases}
0 & (x < 0) \\
c & (x = 0) \\
1 & (x > 0)
\end{cases} \\
&= \begin{cases}
c & (x = 0) \\
\dfrac{x + |x|}{2|x|} & (x \neq 0)
\end{cases}
\end{align}</math>}}
を実数全体の集合 <math>\mathbb R</math> 上の関数 <math>H_c \colon\, \mathbb R \to \mathbb R</math> と考えるならば、{{mvar|''c''}} をどのように定めても原点 {{math|''x'' {{=}} 0}} で[[不連続性の分類|不連続]]である。{{mvar|''c''}} の値は必要に応じて都合のよい値を選ぶことができるが、{{math|''c'' {{=}} 0, {{sfrac|1|2}}, 1}} などがしばしば用いられ、それぞれ
{|
|-
| <math>\begin{align}
H_0(x) &= \begin{cases}
0 & (x \leqq 0) \\
1 & (x > 0)
\end{cases} \\
&= \begin{cases}
0 & (x = 0) \\
\dfrac{x + |x|}{2|x|} & (x \neq 0)
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| <math>\begin{align}
H_{1/2}(x) &= \begin{cases}
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&= \begin{cases}
\dfrac{1}{2} & (x = 0) \\
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| <math>\begin{align}
H_1(x) &= \begin{cases}
0 & (x < 0) \\
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\end{cases} \\
&= \begin{cases}
1 & (x = 0) \\
\dfrac{x + |x|}{2|x|} & (x \neq 0)
\end{cases}
\end{align}</math>
|}
である。また、
{{Indent|
<math> H_1(x) = 1 - U(-x) = \lim_{t \to x-0} U(t)</math><br />
<math> H_0(x) = U(x)</math><br />
<math> H_c(x) = c H_1(x) + (1 - c) H_0(x)</math><br />
<math> H_{1/2}(x) = \frac{1 + \sgn(x)}{2}</math>
}}
と表すことができる。関数 sgn は[[符号関数]]である。
== 階段関数の密度とデルタ関数 ==
[[ディラックのデルタ関数]] δと[[区間 (数学)|区間]] <math>(-\infty, x]</math> の[[指示関数|定義関数]] <math>\chi_{(-\infin, x]} </math> に対し
{{Indent|<math>\int_{-\infin}^x \delta(t)dt
:= \int_{-\infin}^{\infin}\chi_{(-\infin, x]}(t)\delta(t)dt
= \chi_{(-\infin, x]}(0)
</math>}}
とおくと、これは {{math|''x'' < 0}} のとき区間 <math>(-\infty, x]</math> は 0 を含まず、{{math|''x'' ≧ 0}} のとき区間 <math>(-\infty, x]</math> が 0 を含むことから
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0 & (x < 0) \\
1 & (x \geqq 0)
\end{cases}</math>}}
となる。つまり
{{Indent|<math> H_1(x) = \int^{x}_{-\infin} \delta(\xi) d\xi</math>}}
と表される。この意味でヘヴィサイドの階段関数はディラックのデルタ関数を[[確率密度関数]]とするときの[[累積分布関数]]に相当する。
== 関連項目 ==
*[[ディラックのデルタ関数]]
{{DEFAULTSORT:へういさいとのかいたんかんすう}}
[[Category:特殊関数]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数学のエポニム]]
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2022-12-24T06:10:00Z
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[
"Template:出典の明記",
"Template:読み仮名",
"Template:Indent",
"Template:Math",
"Template:Mvar"
] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89%E3%81%AE%E9%9A%8E%E6%AE%B5%E9%96%A2%E6%95%B0
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16,471 |
マイケル・フェルプス
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マイケル・フレッド・フェルプス(Michael Fred Phelps, 1985年6月30日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルティモア出身の競泳選手。身長193センチ。体重88キロ。
世界の頂点に昇りつめた実力から「水の怪物」の異名を持つ。
イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ドイツの血を引く家庭に生まれる。2020年時点、400m個人メドレーの世界記録保持者であり、“水の超人”イアン・ソープ(オーストラリア)に代わり、世界の頂点に昇りつめた「水の怪物」。自由形でも世界トップレベルの実力を誇り、一大会で複数の種目を制する体力を活かして、オリンピックメダル獲得数史上1位の記録も打ち立てた。主種目としたバタフライをはじめ、さまざまな種目で頭角を現したことから史上最強のスイマーとの呼び声も高い。
もっとも得意とした200mバタフライでは、2001年3月に男子競泳史上最年少15歳9ヶ月で世界記録を更新してから2019年7月まで18年間世界記録保持者を維持し2009年7月まで7度世界記録を更新、2001年7月の世界選手権で優勝してから世界大会(オリンピックと世界選手権)では長らく敗れていなかった(2005年の世界選手権はエントリーせず)。傑出した選手の1つの記録が、10年以上という長い年月に渡り世界記録として残ることはしばしばあるが、一人の選手が長い年月同じ種目の記録を更新し続けるということは競泳史上では稀である。同種目では2002年パンパシフィック選手権で敗れて(2位)以降、出場した60回のレース全てで優勝していたが、2011年4月8日から10日に行われたミシガングランプリで9年ぶりに敗れた。オリンピックにおいては、アテネ五輪(2004年)と北京五輪(2008年)で金メダルを連続取得していたが、ロンドン五輪(2012年)ではフィニッシュ寸前に抜かれ、100分の5秒差で2位(銀メダル)となった。しかし、これがオリンピックメダルとしては歴代最多タイの18個目となった。
リオデジャネイロ五輪競泳競技終了時点でオリンピックメダルの通算獲得数28個、金メダルの通算獲得数23個となり歴代1位の記録となっている。また、オリンピック1大会でのメダル獲得数8個(アテネ五輪・北京五輪でそれぞれ8個)というのも歴代1位タイ記録である。しかも北京五輪で獲得した8個のメダルは全て金メダルであり、オリンピック1大会で8個の金メダル獲得というのは史上初の記録となった(うち7つは世界新記録)。
世界選手権では通算33個のメダルを獲得している。うち、26個が金メダルである。
大会成績以外の受賞歴は、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度の世界競泳選手オブザイヤー(Swimming World Swimmers of the Year)、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度のアメリカ競泳選手オブザイヤー(American Swimmer of the Year)など。
薬物疑惑をかけられたことがあり、北京五輪の際は本人曰く一か月半の間に約40回の薬物検査を受けたという。2009年2月1日、英紙ニュース・オブ・ザ・ワールドにて、ガラス製の吸引器具で大麻を吸引しているらしき写真が掲載された。本人はその写真が本物であることを認めた上で謝罪した。しかし、2009年2月16日、サウスカロライナ州リッチランド郡の警察は、フェルプスが大麻を吸引した証拠や本人の自白がないため、フェルプスに対して刑罰を科さないことを発表した。スポンサーはケロッグ社の1社だけが降板したのみである。この件でフェルプスは米国水泳連盟から3か月間の出場停止処分を受けたのみである。
2010年2月18日(現地時間)、バンクーバーオリンピックのアイスホッケー競技を観戦した際にメディアからの質問に応じ「30代までは泳がない」とロンドンオリンピックが最後のオリンピックになると明言。北京オリンピックで金メダルを獲得した8種目のうちいくつかには出場しない旨も明らかにした。
2014年4月、現役に復帰することが判明。
2015年、着用ギアをイタリア製ブランドの“aqua sphere/アクアスフィア”と契約し自身のMPブランドを立ち上げ開発にも携わる。
2015年 12月3日 - 5日、アメリカ Frederal Wayで行われた冬季全米選手権大会に200m個人メドレー、100mバタフライ、200mバタフライの3種目にエントリー。3種目共に1位を獲得。
2016年、ブラジルリオデジャネイロで行われたオリンピックで競泳種目に6種目に出場した。この内、100mバタフライではシンガポールのジョセフ・スクーリングに0.75秒遅れての銀メダルとなった。
広げると身長より遥かに長い腕と大きな足そして非常に柔らかい関節は、一掻きで大量の水を掻くことが出来るので、大きな推進力を生み出す。爆発的な推進力を生み出すドルフィンキックは、フェルプスのこれは全く体幹の軸がブレないため、抵抗が少なくてすむ。また、全身を鞭の様にしならせているので、更に推進力が増す。さらに驚異的なスタミナが、他の選手と違うフェルプス最大の特徴である。200m自由形、バタフライの150mターンは心肺能力が限界に近いので、通常はすぐに浮上してくる。しかしフェルプスはそこでまだ10m以上潜水できるほどのスタミナを持つ。彼の泳ぎは他の選手と比べて、スタートとターン時の潜水距離が圧倒的に長く、潜水から浮上した時点では他の選手より体半分リードを奪っている。この泳法は彼が得意とするドルフィンキックを最大限に生かす泳法と言える。
バタフライは泳ぎの特性上ゴールタッチを決めることが難しいのだが、フェルプスはその技術にも優れており、ゴール局面で競り合っている状況でタッチを決めて競り勝ったことがたびたびある。特に2008年北京オリンピック100mバタフライでの逆転は大きな話題となった。
2000年、15歳でシドニー五輪に出場し、200mバタフライで5位入賞する。
2001年3月に200mバタフライの世界記録(当時)を更新し、男子競泳史上最年少の15歳9ヶ月で世界記録保持者となった。7月の世界水泳福岡大会では、200mバタフライで自己の持つ世界記録(当時)を更新して優勝。
2002年、この年から個人メドレーにも本格的に力を入れ、400m個人メドレーで世界記録(当時)を更新。
2003年の世界水泳バルセロナ大会では、400mに加え200m個人メドレーでも世界記録(当時)を更新。 同レースで2位に入ったイアン・ソープに3秒6以上の差をつける圧勝であった。また、同大会の4x200mフリーリレーでは、第1泳者として1分46秒60で泳ぎ、自由形長距離界の王者グラント・ハケットを抑えて1位で次の泳者に繋いだ。このレースでクロールの潜在能力も高いことが覗えたことから、以降自由形にも本格的に力を入れ始める。そして、アテネ五輪では200m自由形にも出場することを表明し、当時この種目の第一人者であったイアン・ソープに挑戦状を叩きつけることとなった。
2004年のアテネ五輪では、1972年のミュンヘン五輪におけるマーク・スピッツの7冠を超える8冠を目指したが、4x100mフリーリレーでは伏兵南アフリカとオランダに、200m自由形ではイアン・ソープとピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドに敗れて銅メダルに終わり、6冠に止まった。
2005年は腰を痛めたこともあって精彩を欠き、世界水泳モントリオール大会では負担の大きい200mバタフライ、400m個人メドレーを欠場した。自己ベストも、200m自由形で1分45秒20を出したのみであった。
2006年もあまりタイムを伸ばすことはなかったが、それでもパンパシフィック選手権で200mバタフライと200m個人メドレーで自己の持つ世界記録(当時)を僅かばかり更新した。
2007年の世界水泳メルボルン大会では、低調だった2年前とは打って変わってタイムを大きく伸ばし、大会史上初となる7冠(個人種目5冠・リレー種目2冠)を達成し、5つの世界記録(当時)を更新した。しかし、4x100mメドレーリレーの予選においてイアン・クロッカーが引継違反をしてアメリカチームが失格となったため、競泳の国際大会史上初となる8冠は達成できなかった。
2008年の北京五輪では、個人5種目とリレー3種目に出場した。9日間で17レースをこなさなければならない状況にもかかわらず、全ての種目で金メダルを獲得し、ミュンヘン五輪でマーク・スピッツが達成した7冠を超え、競泳世界大会史上初・オリンピック史上初となる8冠を達成した。このうち100mバタフライを除く7種目では世界新記録となった(なお、100mバタフライは五輪新記録。100mバタフライは最後の最後で逆転に成功し、わずか0.01秒差の金メダルだった)。最終種目となった4x100mメドレーリレーの表彰式の最後に、この前人未到の功績を称えて記念品が贈呈された。
2012年のロンドン五輪では、400m個人メドレーで萩野公介に競り負け4位に終わった。200mバタフライでは、チャド・レクロー(南アフリカ)とわずか0.05秒の差で銀メダルとなった。4×100mフリーリレーでも銀メダルに終わった。200m個人メドレー・100mバタフライ・4×200mフリーリレー・4×100mメドレーリレーにて同一種目3連覇を達成した。なお、過去2大会でメダルを獲得していた200m自由形にはエントリーしなかった。
2016年のリオデジャネイロ五輪では、200mバタフライ、200m個人メドレー、4×100mフリーリレー、4×200mフリーリレー、4×100mメドレーリレーで金メダルを獲得、100mバタフライは銀メダルを獲得した。200m個人メドレー・4×200mフリーリレー・4×100mメドレーリレーにて同一種目4連覇を達成した。
生涯において、世界新記録を39回樹立(個人種目29、リレー種目10)。
2023年の福岡世界水泳において、レオン・マルシャンが4分02秒50の世界新記録を樹立。フェルプスが持つ従来の記録を15年振りに更新。これにより、フェルプスの持っていた個人種目全ての世界記録が他の選手よって破られたことになったが、未だにその功績が色褪せることは無い。
太字で示しているものは現在の世界記録
メリーランド州のボルティモアで生まれ育ち、トウソン高校を2003年に卒業。ニックネームはMPである。父親はメリーランド州の元警察官であるフレッド・フェルプスで、学生時代はフットボール選手だった。母親は中学校の校長をするデボラ(通称デビー)・フェルプスで、1994年に夫と離婚後、教育関係の仕事でマイケルら3人の子を育て、2009年には金メダリストを育てたシングルマザーとして自伝を出版した。ホイットニーとヒラリーの2人の姉をもち、姉たちも競泳選手であった。ホイットニーに至っては、1996年のオリンピックでアメリカのナショナルチーム入りが濃厚とされていたが、怪我により引退している。
両親が離婚した9歳のとき、フェルプスは、注意欠陥・多動性障害(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)との診断をうける。7歳で水泳を始めたのも、彼の姉の影響もあるが、多動性障害特有の有り余ったエネルギーのはけ口として、母親が水泳を始めさせた。10歳の時に、同年齢を対象にした全米大会で大会新記録をマークした。両親の離婚により、プールが父親を失った辛さをまぎらわす場ともなり、コーチが代理父のような存在だったという。
2004年11月に、メーリーランド州ソールズベリーにおいて、酒気帯び運転で逮捕され、同年12月に、地裁で、罰金250ドルと保護観察18カ月の判決を受ける。保護観察期間中の禁酒、高校生に飲酒運転がいかに危険であるかを講演すること、米民間非営利団体(NPO)「MADD(飲酒運転に反対する母親たち)」がスポンサーする会合への出席が命じられた。その後、フェルプスは、テレビ番組に出演した際に、事件について「家族とアメリカ国民を落胆させてしまった」と反省を述べている。
イギリスのガーディアン紙によると、フェルプスは1日に12000キロカロリーを摂取しており、一般男性の6倍になる。フェルプスの平均的な朝食は、卵焼きとチーズ、レタス、トマト、焼いた玉ねぎとマヨネーズを挟んだサンドイッチ3つ、さらに、2杯のコーヒーとオムレツ1つ、加えて、砂糖をかけたフレンチトースト3切れ、そして最後にチョコレートチップス3袋を食べる。昼食は、500gの大盛パスタ、マヨネーズのかかった大きなハム2つとチーズのサンドイッチを食べる。さらに、体力をつけるために、1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。夕食は、次の日の練習に備え、500gのパスタとピザ1枚を食べ、さらに1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。フェルプスはアメリカのNBCテレビに対し、「Eat, sleep and swim, that's all I can do.(良く食べ、良く睡眠をとり、良く泳ぐこと。これが僕に出来ることのすべてだ)」と語っている。
2008年北京オリンピック後、「もう目標を達成したから、ほかのことに挑戦したい。自分探しをしたいんだ」と一時引退を発表。その後、燃え尽き症候群に悩まされた。
フェルプスは、2012年のロンドンオリンピックを最後に競泳から一時引退。自身にとって最後の公式競技となった4x100mメドレーリレー(2012年8月4日)で通算22個目のオリンピック・メダル(金メダルとしては18個目)を獲得後、「自分は水泳において、やるべきことは全てやった」と語り、NBCのスタジオ・インタビューにおいて、司会のボブ・コスタスが何度尋ねても、引退の決心に変わりはないと述べた。「これまで、競泳であちこちの町を訪れたが、実際に町を観光したことはない。ホテルとプール以外のものも見てみたい」という理由により、今後は世界各地を旅行するつもりだという。一方で、「どうして自分はもっと努力をしなかったんだろう」と後悔の念、自身への失望が大きく、五輪後に深刻なうつ状態に陥った。
2014年9月30日に米国メリーランド州で酒気帯び運転などの疑いで逮捕された。そのため米国水連から「6か月の競技会出場停止」「既に代表権を獲得していた翌年の世界選手権の代表権剥奪」という処分を下された。逮捕後の45日間のリハビリ施設収容中に、長年わだかまりとなっていた「父親に捨てられた」という感情と向き合い、父親と面会し関係修復した。
2016年には引退を撤回して復帰しておりリオ五輪が改めて自身のファイナルレースになると公言している。
セラピーを受けることで、それまで苦しんでいた人間関係性を清算・和解することで、リオ五輪に際しては最高の精神状態で臨んだ。
2016年の引退後は、若年層の大麻・アルコール依存や鬱病からの脱却をサポートするメンタル・ヘルス関連企業のESPYSの役員に就任した。
2021年には、大坂なおみのメンタル・ヘルスに関する発言に対して「大坂なおみの勇気には脱帽します」と述べ、応援してほしいと訴えている。
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"text": "2004年11月に、メーリーランド州ソールズベリーにおいて、酒気帯び運転で逮捕され、同年12月に、地裁で、罰金250ドルと保護観察18カ月の判決を受ける。保護観察期間中の禁酒、高校生に飲酒運転がいかに危険であるかを講演すること、米民間非営利団体(NPO)「MADD(飲酒運転に反対する母親たち)」がスポンサーする会合への出席が命じられた。その後、フェルプスは、テレビ番組に出演した際に、事件について「家族とアメリカ国民を落胆させてしまった」と反省を述べている。",
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"text": "イギリスのガーディアン紙によると、フェルプスは1日に12000キロカロリーを摂取しており、一般男性の6倍になる。フェルプスの平均的な朝食は、卵焼きとチーズ、レタス、トマト、焼いた玉ねぎとマヨネーズを挟んだサンドイッチ3つ、さらに、2杯のコーヒーとオムレツ1つ、加えて、砂糖をかけたフレンチトースト3切れ、そして最後にチョコレートチップス3袋を食べる。昼食は、500gの大盛パスタ、マヨネーズのかかった大きなハム2つとチーズのサンドイッチを食べる。さらに、体力をつけるために、1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。夕食は、次の日の練習に備え、500gのパスタとピザ1枚を食べ、さらに1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる。フェルプスはアメリカのNBCテレビに対し、「Eat, sleep and swim, that's all I can do.(良く食べ、良く睡眠をとり、良く泳ぐこと。これが僕に出来ることのすべてだ)」と語っている。",
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"text": "2008年北京オリンピック後、「もう目標を達成したから、ほかのことに挑戦したい。自分探しをしたいんだ」と一時引退を発表。その後、燃え尽き症候群に悩まされた。",
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"text": "フェルプスは、2012年のロンドンオリンピックを最後に競泳から一時引退。自身にとって最後の公式競技となった4x100mメドレーリレー(2012年8月4日)で通算22個目のオリンピック・メダル(金メダルとしては18個目)を獲得後、「自分は水泳において、やるべきことは全てやった」と語り、NBCのスタジオ・インタビューにおいて、司会のボブ・コスタスが何度尋ねても、引退の決心に変わりはないと述べた。「これまで、競泳であちこちの町を訪れたが、実際に町を観光したことはない。ホテルとプール以外のものも見てみたい」という理由により、今後は世界各地を旅行するつもりだという。一方で、「どうして自分はもっと努力をしなかったんだろう」と後悔の念、自身への失望が大きく、五輪後に深刻なうつ状態に陥った。",
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"text": "2014年9月30日に米国メリーランド州で酒気帯び運転などの疑いで逮捕された。そのため米国水連から「6か月の競技会出場停止」「既に代表権を獲得していた翌年の世界選手権の代表権剥奪」という処分を下された。逮捕後の45日間のリハビリ施設収容中に、長年わだかまりとなっていた「父親に捨てられた」という感情と向き合い、父親と面会し関係修復した。",
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"text": "2016年には引退を撤回して復帰しておりリオ五輪が改めて自身のファイナルレースになると公言している。",
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"text": "セラピーを受けることで、それまで苦しんでいた人間関係性を清算・和解することで、リオ五輪に際しては最高の精神状態で臨んだ。",
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"text": "2016年の引退後は、若年層の大麻・アルコール依存や鬱病からの脱却をサポートするメンタル・ヘルス関連企業のESPYSの役員に就任した。",
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"text": "2021年には、大坂なおみのメンタル・ヘルスに関する発言に対して「大坂なおみの勇気には脱帽します」と述べ、応援してほしいと訴えている。",
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マイケル・フレッド・フェルプスは、アメリカ合衆国メリーランド州ボルティモア出身の競泳選手。身長193センチ。体重88キロ。 世界の頂点に昇りつめた実力から「水の怪物」の異名を持つ。
|
{{Otheruses|競泳選手|バスケットボール選手|マイク・フェルプス}}
{{Infobox Swimmer
| 氏名 = マイケル・フェルプス
| 画像 = Michael Phelps August 2016.jpg
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| 画像説明 = 2016年
| フルネーム = マイケル・フレッド・フェルプス<ref name="TV Guide">{{cite web|title=Michael Phelps|url=http://www.tvguide.com/celebrities/michael-phelps/258249|publisher=TVGuide.com|accessdate=July 28, 2012}}</ref>
| ニックネーム = 水の怪物<br />ボルチモアの弾丸<ref>{{cite news|title = 'Baltimore Bullet' has history in his sights|last = Harris|first = Nick|url = http://www.independent.co.uk/sport/olympics/baltimore-bullet-has-history-in-his-sights-889968.html|newspaper = The Independent|date = August 11, 2008|archiveurl = https://webcitation.org/5sFuQpI5B?url=http://www.independent.co.uk/sport/olympics/baltimore-bullet-has-history-in-his-sights-889968.html|archivedate = 2010年8月25日|accessdate = August 25, 2010|location = London|deadurldate = 2017年9月}}</ref><br />トビウオ<ref>{{cite web|publisher=MSNBC|url=http://www.msnbc.msn.com/id/26249018/ns/beijing_olympics-beijing_olympics_news/t/flying-fish-phelps-largely-unknown-china/|title='Flying Fish' Phelps largely unknown in China|date=August 17, 2008|accessdate=April 21, 2012}}</ref><br />[[マイペース二等兵|ゴーマー]]<ref>http://parade.com/488473/samanthacoley/10-things-you-might-not-know-about-michael-phelps</ref><ref>http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A1355-2004Aug14.html</ref><br />最も偉大なオリンピック選手<ref>{{cite web|publisher=dw.com|url=http://www.dw.com/en/olympics-greatest-ever-olympian-michael-phelps-clinches-21st-gold-his-third-in-rio/a-19462324|title = Greatest ever Olympian Michael Phelps clinches 21st gold, his third in Rio|date=August 10, 2016|accessdate=August 10, 2016}}</ref>
| 国籍 = {{USA}}
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}}
'''マイケル・フレッド・フェルプス'''(Michael Fred Phelps, [[1985年]][[6月30日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[メリーランド州]][[ボルティモア]]出身の[[競泳]]選手。身長193センチ。体重88キロ。
世界の頂点に昇りつめた実力から「'''水の怪物'''」の異名を持つ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/swimming/3041|title=真剣勝負の中で生まれる!競泳界で起きた奇跡とは|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2017-02-16|accessdate=2020-11-15}}</ref>。
== 概要 ==
イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ドイツの血を引く家庭に生まれる<ref>{{cite web|url=http://freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com/~battle/olympics08/phelps.htm |title=michael phelps |publisher=Freepages.genealogy.rootsweb.ancestry.com |date= |accessdate=2012-08-01}}</ref>。2020年時点、400m[[個人メドレー]]の世界記録保持者であり、“水の超人”[[イアン・ソープ]]([[オーストラリア]])に代わり、世界の頂点に昇りつめた「'''水の怪物'''」。自由形でも世界トップレベルの実力を誇り、一大会で複数の種目を制する体力を活かして、オリンピックメダル獲得数史上1位の記録も打ち立てた。主種目としたバタフライをはじめ、さまざまな種目で頭角を現したことから史上最強のスイマーとの呼び声も高い<ref>青木剛『できる!スポーツテクニック8 水泳』株式会社ポプラ社、2010年、4ページ、ISBN 978-4-591-11652-4</ref>。
もっとも得意とした200mバタフライでは、2001年3月に男子競泳史上最年少15歳9ヶ月で世界記録を更新してから2019年7月まで18年間世界記録保持者を維持し2009年7月まで7度世界記録を更新、2001年7月の[[2001年世界水泳選手権|世界選手権]]で優勝してから世界大会(オリンピックと世界選手権)では長らく敗れていなかった(2005年の世界選手権はエントリーせず)。傑出した選手の1つの記録が、10年以上という長い年月に渡り世界記録として残ることはしばしばあるが、一人の選手が長い年月同じ種目の記録を更新し続けるということは競泳史上では稀である。同種目では[[2002年パンパシフィック水泳選手権|2002年パンパシフィック選手権]]で敗れて(2位)以降、出場した60回のレース全てで優勝していたが、2011年4月8日から10日に行われたミシガングランプリで9年ぶりに敗れた<ref>[http://www.usatoday.com/sports/olympics/2011-04-10-michael-phelps-loses-race_N.htm] 「USA TODAY.com」(60連勝というのは本人の発言による)</ref>。オリンピックにおいては、[[2004年アテネオリンピックの競泳競技|アテネ五輪]](2004年)と[[2008年北京オリンピックの競泳競技|北京五輪]](2008年)で金メダルを連続取得していたが、[[2012年ロンドンオリンピックの競泳競技|ロンドン五輪]](2012年)ではフィニッシュ寸前に抜かれ、100分の5秒差で2位(銀メダル)となった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/london2012/news/120801/swm12080109590011-n1.htm 20歳のレクロー「信じられないよ」 フェルプスの3連覇阻む 男子200メートルバタフライ] ''MSN産経ニュース'' 2012年8月1日付</ref><ref>[http://www.dailymail.co.uk/sport/olympics/article-2181722/London-2012-Olympics-Michael-Phelps-beats-record-medal-tally.html Greatest Olympian ever! Phelps beats all-time record medal tally with double in pool] ''Mail Online'' 2012年7月31日付</ref>。しかし、これがオリンピックメダルとしては歴代最多タイ{{efn|体操の[[ラリサ・ラチニナ]]選手が、[[1956年]]から[[1964年]]にかけて、計18個取得していた。}}の18個目となった。
リオデジャネイロ五輪競泳競技終了時点でオリンピックメダルの通算獲得数28個、金メダルの通算獲得数23個となり歴代1位の記録となっている。また、オリンピック1大会でのメダル獲得数8個([[2004年アテネオリンピックの競泳競技|アテネ五輪]]・[[2008年北京オリンピックの競泳競技|北京五輪]]でそれぞれ8個)というのも歴代1位タイ記録である{{efn|旧ソビエト連邦の体操選手[[アレクサンドル・ディチャーチン]]が[[1980年モスクワオリンピック|モスクワ五輪]]で8個獲得している。}}。しかも北京五輪で獲得した8個のメダルは全て金メダルであり、オリンピック1大会で8個の金メダル獲得というのは史上初の記録となった(うち7つは世界新記録)。
[[世界水泳選手権|世界選手権]]では通算33個のメダルを獲得している。うち、26個が金メダルである。
大会成績以外の受賞歴は、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度の世界競泳選手オブザイヤー(Swimming World Swimmers of the Year)、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2012年度のアメリカ競泳選手オブザイヤー(American Swimmer of the Year)など。
薬物疑惑をかけられたことがあり、北京五輪の際は本人曰く一か月半の間に約40回の薬物検査を受けたという<ref>「読売新聞」8月21日朝刊</ref>。[[2009年]][[2月1日]]、英紙[[ニュース・オブ・ザ・ワールド]]にて、ガラス製の吸引器具で大麻を吸引しているらしき写真が掲載された<ref>{{cite news|title=14-times Olympic gold medal winner Michael Phelps caught with cannabis pipe |url=http://www.newsoftheworld.co.uk/news/150832/14-times-Olympic-gold-medal-winner-Michael-Phelps-caught-with-bong-cannabis-pipe.html |publisher=[[ニュース・オブ・ザ・ワールド|The News of the World]] |accessdate=2009-02-03 |date=2009-02-01}}</ref>。本人はその写真が本物であることを認めた上で謝罪した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/other/090202/oth0902020807001-n1.htm フェルプスに大麻疑惑 英紙が写真掲載、本人謝罪] 産経ニュース 2009.2.2</ref>。しかし、[[2009年]][[2月16日]]、[[サウスカロライナ州]][[リッチランド郡 (サウスカロライナ州)|リッチランド郡]]の[[警察]]は、フェルプスが大麻を吸引した証拠や本人の自白がないため、フェルプスに対して刑罰を科さないことを発表した。スポンサーはケロッグ社の1社だけが降板したのみである<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009030402000083.html 『成人の半数は経験』 / 『たばこと違い死者なし』 大麻、米社会は寛容?] 東京新聞 2009年3月4日 朝刊</ref>。この件でフェルプスは米国水泳連盟から3か月間の出場停止処分を受けたのみである<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special//200902swimming/KFullNormal20090207139.html “失望へ返礼”フェルプス3カ月出場停止] スポニチ 2009年02月07日</ref>。
[[2010年]]2月18日(現地時間)、[[2010年バンクーバーオリンピック|バンクーバーオリンピック]]のアイスホッケー競技を観戦した際にメディアからの質問に応じ「30代までは泳がない」と[[2012年ロンドンオリンピック|ロンドンオリンピック]]が最後のオリンピックになると明言。北京オリンピックで金メダルを獲得した8種目のうちいくつかには出場しない旨も明らかにした<ref>[https://web.archive.org/web/20110524021526/http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021901000642.html フェルプス、ロンドン五輪が最後 冬季五輪観戦で明言] - [[47NEWS]] 2010年2月19日</ref>。
[[2014年]][[4月]]、現役に復帰することが判明。
[[2015年]]、着用ギアをイタリア製ブランドの“aqua sphere/アクアスフィア”と契約し自身のMPブランドを立ち上げ開発にも携わる。
[[2015年]] [[12月3日]] - [[12月5日|5日]]、アメリカ Frederal Wayで行われた冬季全米選手権大会に200m個人メドレー、100mバタフライ、200mバタフライの3種目にエントリー。3種目共に1位を獲得。
[[2016年]]、[[ブラジル]][[リオデジャネイロ]]で行われたオリンピックで競泳種目に6種目に出場した。この内、100mバタフライではシンガポールの[[ジョセフ・スクーリング]]に0.75秒遅れての銀メダルとなった。
== 特徴 ==
広げると身長より遥かに長い腕と大きな足そして非常に柔らかい関節は、一掻きで大量の水を掻くことが出来るので、大きな推進力を生み出す。爆発的な推進力を生み出すドルフィンキックは、フェルプスのこれは全く体幹の軸がブレないため、抵抗が少なくてすむ。また、全身を鞭の様にしならせているので、更に推進力が増す。さらに驚異的なスタミナが、他の選手と違うフェルプス最大の特徴である。200m自由形、バタフライの150mターンは心肺能力が限界に近いので、通常はすぐに浮上してくる。しかしフェルプスはそこでまだ10m以上潜水できるほどのスタミナを持つ。彼の泳ぎは他の選手と比べて、スタートとターン時の潜水距離が圧倒的に長く、潜水から浮上した時点では他の選手より体半分リードを奪っている。この泳法は彼が得意とするドルフィンキックを最大限に生かす泳法と言える<ref>[http://www.ultimatebody.jp/taidan008.html 外部リンク]</ref><ref>[http://masujiro.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-e74a.html 外部リンク]</ref>。
バタフライは泳ぎの特性上ゴールタッチを決めることが難しいのだが、フェルプスはその技術にも優れており、ゴール局面で競り合っている状況でタッチを決めて競り勝ったことがたびたびある。特に2008年北京オリンピック100mバタフライでの逆転は大きな話題となった。
== 略歴 ==
[[2000年]]、15歳で[[2000年シドニーオリンピックの競泳競技|シドニー五輪]]に出場し、200mバタフライで5位入賞する。
[[2001年]]3月に200mバタフライの世界記録(当時)を更新し、男子競泳史上最年少の15歳9ヶ月で世界記録保持者となった。7月の[[2001年世界水泳選手権|世界水泳福岡大会]]では、200mバタフライで自己の持つ世界記録(当時)を更新して優勝。
[[2002年]]、この年から個人メドレーにも本格的に力を入れ、400m個人メドレーで世界記録(当時)を更新。
[[2003年]]の[[2003年世界水泳選手権|世界水泳バルセロナ大会]]では、400mに加え200m個人メドレーでも世界記録(当時)を更新。
同レースで2位に入った[[イアン・ソープ]]に3秒6以上の差をつける圧勝であった。また、同大会の4x200mフリーリレーでは、第1泳者として1分46秒60で泳ぎ、自由形長距離界の王者[[グラント・ハケット]]を抑えて1位で次の泳者に繋いだ。このレースでクロールの潜在能力も高いことが覗えたことから、以降自由形にも本格的に力を入れ始める。そして、アテネ五輪では200m自由形にも出場することを表明し、当時この種目の第一人者であったイアン・ソープに挑戦状を叩きつけることとなった。
[[2004年]]の[[2004年アテネオリンピックの競泳競技|アテネ五輪]]では、[[1972年]]の[[1972年ミュンヘンオリンピックの競泳競技|ミュンヘン五輪]]における[[マーク・スピッツ]]の7冠を超える8冠を目指したが、4x100mフリーリレーでは伏兵南アフリカとオランダに、200m自由形ではイアン・ソープと[[ピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド]]に敗れて銅メダルに終わり、6冠に止まった。
[[2005年]]は腰を痛めたこともあって精彩を欠き、[[2005年世界水泳選手権|世界水泳モントリオール大会]]では負担の大きい200mバタフライ、400m個人メドレーを欠場した。自己ベストも、200m自由形で1分45秒20を出したのみであった。
[[2006年]]もあまりタイムを伸ばすことはなかったが、それでもパンパシフィック選手権で200mバタフライと200m個人メドレーで自己の持つ世界記録(当時)を僅かばかり更新した。
[[2007年]]の[[2007年世界水泳選手権|世界水泳メルボルン大会]]では、低調だった2年前とは打って変わってタイムを大きく伸ばし、大会史上初となる7冠(個人種目5冠・リレー種目2冠)を達成し、5つの世界記録(当時)を更新した。しかし、4x100mメドレーリレーの予選において[[イアン・クロッカー]]が引継違反をしてアメリカチームが失格となったため、競泳の国際大会史上初となる8冠は達成できなかった。
[[2008年]]の[[2008年北京オリンピックの競泳競技|北京五輪]]では、個人5種目とリレー3種目に出場した。9日間で17レースをこなさなければならない状況にもかかわらず、全ての種目で金メダルを獲得し、ミュンヘン五輪で[[マーク・スピッツ]]が達成した7冠を超え、競泳世界大会史上初・オリンピック史上初となる8冠を達成した。このうち100mバタフライを除く7種目では世界新記録となった(なお、100mバタフライは五輪新記録。100mバタフライは最後の最後で逆転に成功し、わずか0.01秒差の金メダルだった)。最終種目となった4x100mメドレーリレーの表彰式の最後に、この前人未到の功績を称えて記念品が贈呈された。
[[2012年]]の[[2012年ロンドンオリンピックの競泳競技|ロンドン五輪]]では、400m個人メドレーで[[萩野公介]]に競り負け4位に終わった。200mバタフライでは、チャド・レクロー(南アフリカ)とわずか0.05秒の差で銀メダルとなった。4×100mフリーリレーでも銀メダルに終わった。200m個人メドレー・100mバタフライ・4×200mフリーリレー・4×100mメドレーリレーにて同一種目3連覇を達成した。なお、過去2大会でメダルを獲得していた200m自由形にはエントリーしなかった。
[[2016年]]の[[2016年リオデジャネイロオリンピックの競泳競技|リオデジャネイロ五輪]]では、200mバタフライ、200m個人メドレー、4×100mフリーリレー、4×200mフリーリレー、4×100mメドレーリレーで金メダルを獲得、100mバタフライは銀メダルを獲得した。200m個人メドレー・4×200mフリーリレー・4×100mメドレーリレーにて[[オリンピックで多数の金メダルを獲得した選手一覧#連覇記録|同一種目4連覇]]を達成した。
生涯において、世界新記録を39回樹立(個人種目29、リレー種目10)。
[[2023年]]の[[2023年世界水泳選手権|福岡世界水泳]]において、[[レオン・マルシャン]]が4分02秒50の世界新記録を樹立。フェルプスが持つ従来の記録を15年振りに更新。これにより、フェルプスの持っていた個人種目全ての世界記録が他の選手よって破られたことになったが、未だにその功績が色褪せることは無い。
== 自己ベスト ==
{| class="wikitable"
!種目!!記録!!樹立年!!備考
|-
|style="text-align: right;"|100m自由形||style="text-align: right;"|47秒51||2008年||
|-
|style="text-align: right;"|200m自由形||style="text-align: right;"|1分42秒96||2008年||世界歴代2位<ref>[https://www.fina.org/swimming/rankings?gender=M&distance=200&stroke=FREESTYLE&poolConfiguration=LCM&year=all&startDate=&endDate=×Mode=BEST_TIMES®ionId=all&countryId= Men 200m Freestyle Rankings]</ref>
|-
|style="text-align: right;"|400m自由形||style="text-align: right;"|3分46秒73||2003年||
|-
|style="text-align: right;"|100m背泳ぎ||style="text-align: right;"|53秒01||2007年||
|-
|style="text-align: right;"|200m背泳ぎ||style="text-align: right;"|1分54秒65||2007年||
|-
|style="text-align: right;"|100mバタフライ||style="text-align: right;"|49秒82||2009年||世界歴代3位<ref>[https://www.fina.org/swimming/rankings?gender=M&distance=100&stroke=BUTTERFLY&poolConfiguration=LCM&year=all&startDate=&endDate=×Mode=BEST_TIMES®ionId=all&countryId= Men 100m Butterfly Rankings]</ref>
|-
|style="text-align: right;"|200mバタフライ||style="text-align: right;"|1分51秒51||2009年||世界歴代2位<ref>[https://www.fina.org/swimming/rankings?gender=M&distance=200&stroke=BUTTERFLY&poolConfiguration=LCM&year=all&startDate=&endDate=×Mode=BEST_TIMES®ionId=all&countryId= Men 200m Butterfly Rankings]</ref>
|-
|style="text-align: right;"|200m個人メドレー||style="text-align: right;"|1分54秒16||2011年||世界歴代2位<ref>[https://www.fina.org/swimming/rankings?gender=M&distance=200&stroke=MEDLEY&poolConfiguration=LCM&year=all&startDate=&endDate=×Mode=BEST_TIMES®ionId=all&countryId= Men 200m Medley Rankings]</ref>
|-
|style="text-align: right;"|400m個人メドレー||style="text-align: right;"|4分03秒84||2008年||世界歴代2位<ref>[https://www.fina.org/swimming/rankings?gender=M&distance=400&stroke=MEDLEY&poolConfiguration=LCM&year=all&startDate=&endDate=×Mode=BEST_TIMES®ionId=all&countryId= Men 400m Medley Rankings]</ref>
|}
== 主な成績 ==
'''太字'''で示しているものは現在の世界記録
* [[2000年]] [[2000年シドニーオリンピックの競泳競技|シドニーオリンピック]] 200mバタフライ 5位 1分56秒50
* [[2001年]] [[2001年世界水泳選手権|世界水泳]] 200mバタフライ 金メダル 1分54秒58 ※世界新(当時)
* [[2003年]] [[2003年世界水泳選手権|世界水泳]] 100mバタフライ 銀メダル 51秒10
* 2003年 世界水泳 200mバタフライ 金メダル 1分54秒35 ※準決勝で1分53秒93の世界新(当時)
* 2003年 世界水泳 200m個人メドレー 金メダル 1分56秒04 ※世界新(当時)
* 2003年 世界水泳 400m個人メドレー 金メダル 4分09秒09 ※世界新(当時)
* 2003年 世界水泳 4x200mフリーリレー 銀メダル 7分10秒26
* 2003年 世界水泳 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分31秒54 ※世界新(当時)、フェルプスは予選にのみ出場
* [[2004年]] [[2004年アテネオリンピックの競泳競技|アテネオリンピック]] 200m自由形 銅メダル 1分45秒32
* 2004年 アテネオリンピック 100mバタフライ 金メダル 51秒25※五輪新(当時)
* 2004年 アテネオリンピック 200mバタフライ 金メダル 1分54秒04※五輪新(当時)
* 2004年 アテネオリンピック 200m個人メドレー 金メダル 1分57秒14※五輪新(当時)
* 2004年 アテネオリンピック 400m個人メドレー 金メダル 4分08秒26 ※世界新(当時)
* 2004年 アテネオリンピック 4x100mフリーリレー 銅メダル 3分14秒62
* 2004年 アテネオリンピック 4x200mフリーリレー 金メダル 7分07秒33
* 2004年 アテネオリンピック 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分30秒68 ※世界新(当時)、フェルプスは予選にのみ出場
* [[2005年]] [[2005年世界水泳選手権|世界水泳]] 100m自由形 7位 48秒99
* 2005年 世界水泳 200m自由形 金メダル 1分45秒20
* 2005年 世界水泳 400m自由形 予選落ち 3分50秒53
* 2005年 世界水泳 100mバタフライ 銀メダル 51秒65
* 2005年 世界水泳 200m個人メドレー 金メダル 1分56秒68
* 2005年 世界水泳 4x100mフリーリレー 金メダル 3分13秒77
* 2005年 世界水泳 4x200mフリーリレー 金メダル 7分06秒58
* 2005年 世界水泳 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分31秒85 ※フェルプスは予選にのみ出場
* [[2007年]] [[2007年世界水泳選手権|世界水泳]] 200m自由形 金メダル 1分43秒86 ※世界新(当時)
* 2007年 世界水泳 100mバタフライ 金メダル 50秒77
* 2007年 世界水泳 200mバタフライ 金メダル 1分52秒09 ※世界新(当時)
* 2007年 世界水泳 200m個人メドレー 金メダル 1分54秒98 ※世界新(当時)
* 2007年 世界水泳 400m個人メドレー 金メダル 4分06秒22 ※世界新(当時)
* 2007年 世界水泳 4x100mフリーリレー 金メダル 3分12秒72※大会新(当時)
* 2007年 世界水泳 4x200mフリーリレー 金メダル 7分03秒24 ※世界新(当時)
* [[2008年]] [[2008年北京オリンピックの競泳競技|北京オリンピック]] 200m自由形 金メダル 1分42秒96 ※世界新(当時)
* 2008年 北京オリンピック 100mバタフライ 金メダル 50秒58(五輪新)
* 2008年 北京オリンピック 200mバタフライ 金メダル 1分52秒03 ※世界新(当時)
* 2008年 北京オリンピック 200m個人メドレー 金メダル 1分54秒23 ※世界新(当時)
* 2008年 北京オリンピック 400m個人メドレー 金メダル 4分03秒84 ※世界新(当時)
* 2008年 北京オリンピック 4x100mフリーリレー 金メダル '''3分08秒24'''
* 2008年 北京オリンピック 4x200mフリーリレー 金メダル 6分58秒56 ※世界新(当時)
* 2008年 北京オリンピック 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分29秒34 ※世界新(当時)
* [[2009年]] [[2009年世界水泳選手権|世界水泳]] 200m自由形 銀メダル 1分43秒22
* 2009年 世界水泳 100mバタフライ 金メダル 49秒82
* 2009年 世界水泳 200mバタフライ 金メダル 1分51秒51
* 2009年 世界水泳 4x100mフリーリレー 金メダル 3分09秒21 ※大会新
* 2009年 世界水泳 4x200mフリーリレー 金メダル '''6分58秒55'''
* 2009年 世界水泳 4x100mメドレーリレー 金メダル '''3分27秒28'''
* [[2011年]] [[2011年世界水泳選手権|世界水泳]] 200m自由形 銀メダル 1分44秒79
* 2011年 世界水泳 100mバタフライ 金メダル 50秒71
* 2011年 世界水泳 200mバタフライ 金メダル 1分53秒34
* 2011年 世界水泳 200m個人メドレー 銀メダル 1分54秒16
* 2011年 世界水泳 4x100mフリーリレー 銅メダル 3分11秒96
* 2011年 世界水泳 4x200mフリーリレー 金メダル 7分02秒67
* 2011年 世界水泳 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分32秒06
* [[2012年]] [[2012年ロンドンオリンピックの競泳競技|ロンドンオリンピック]] 100mバタフライ 金メダル 51秒21
* 2012年 ロンドンオリンピック 200mバタフライ 銀メダル 1分53秒01
* 2012年 ロンドンオリンピック 200m個人メドレー 金メダル 1分54秒27
* 2012年 ロンドンオリンピック 400m個人メドレー 4位 4分09秒28
* 2012年 ロンドンオリンピック 4x100mフリーリレー 銀メダル 3分10秒38
* 2012年 ロンドンオリンピック 4x200mフリーリレー 金メダル 6分59秒70
* 2012年 ロンドンオリンピック 4x100mメドレーリレー 金メダル 3分29秒35
== 夏季オリンピックでの戦績 ==
{| class="wikitable"
|- style="text-align: left;"
!
!200m<br/>自由形
!100m<br/>バタフライ
!200m<br/>バタフライ
!200m<br/>個人メドレー
!400m<br/>個人メドレー
!4x100m<br/>フリーリレー
!4x200m<br/>フリーリレー
!4x100m<br/>メドレーリレー
|-
|[[2000年シドニーオリンピックの競泳競技|2000 シドニー]]||||||5位||||||||||
|-
|[[2004年アテネオリンピックの競泳競技|2004 アテネ]]||3位{{bronze3}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||3位{{bronze3}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}
|-
|[[2008年北京オリンピックの競泳競技|2008 北京]]||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}
|-
|[[2012年ロンドンオリンピックの競泳競技|2012 ロンドン]]||||'''優勝'''{{gold1}}||2位{{silver2}}||'''優勝'''{{gold1}}||4位||2位{{silver2}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}
|-
|[[2016年リオデジャネイロオリンピックの競泳競技|2016 リオデジャネイロ]]||||2位{{silver2}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}||'''優勝'''{{gold1}}
|}
{| class="wikitable"
|- style="text-align: left;"
!!!金{{gold1}}!!銀{{silver2}}!!銅{{bronze3}}
|-
|個人種目||13||2||1
|-
|団体種目||10||1||1
|-
|合計||23||3||2
|}
== 人物 ==
[[メリーランド州]]の[[ボルチモア|ボルティモア]]で生まれ育ち、トウソン高校を2003年に卒業。ニックネームはMPである。父親は[[メリーランド州]]の元警察官であるフレッド・フェルプスで、学生時代はフットボール選手だった<ref name=heavy/>。母親は中学校の校長をするデボラ(通称デビー)・フェルプスで<ref>[http://beijing.yahoo.co.jp/news/detail/20080817-00000997-reu-spo]</ref>、1994年に夫と離婚後、教育関係の仕事でマイケルら3人の子を育て、2009年には金メダリストを育てたシングルマザーとして自伝を出版した<ref name=heavy>[http://heavy.com/sports/2016/08/michael-phelps-parents-relationship-father-police-mother-teacher-divorce-adhd-age-photos-olympics/ Michael Phelps’ Parents: 5 Fast Facts You Need to Know]Heavy, August 5, 2016</ref>。ホイットニーとヒラリーの2人の姉をもち、姉たちも競泳選手であった。ホイットニーに至っては、1996年のオリンピックでアメリカの[[ナショナルチーム]]入りが濃厚とされていたが、怪我により引退している<ref>[http://findarticles.com/p/articles/mi_qa4270/is_200511/ai_n15744074]</ref>。
両親が離婚した9歳のとき<ref name=heavy/>、フェルプスは、[[注意欠陥・多動性障害]](Attention-Deficit Hyperactivity Disorder)との診断をうける<ref name="liven">2008年8月3日付ボルティモア・サン紙より</ref><ref>[http://well.blogs.nytimes.com/2008/11/24/michael-phelps-and-the-potential-of-adhd/ Michael Phelps and the Potential of A.D.H.D.] NYTimes.com 2008年11月28日</ref><ref>[http://www.additudemag.com/adhd/article/1998.html “ADHD Parenting Advice from Michael Phelps' Mom”] ADDtude</ref>。7歳で水泳を始めたのも、彼の姉の影響もあるが、多動性障害特有の有り余ったエネルギーのはけ口として、母親が水泳を始めさせた。10歳の時に、同年齢を対象にした全米大会で大会新記録をマークした。両親の離婚により、プールが父親を失った辛さをまぎらわす場ともなり、コーチが代理父のような存在だったという<ref name=heavy/>。
2004年11月に、[[メリーランド州|メーリーランド州]][[ソールズベリー (メリーランド州)|ソールズベリー]]において、[[飲酒運転|酒気帯び運転]]で逮捕され、同年12月に、地裁で、罰金250ドルと保護観察18カ月の判決を受ける。保護観察期間中の[[禁酒令|禁酒]]、高校生に[[飲酒運転]]がいかに危険であるかを講演すること、米民間非営利団体([[NPO]])「MADD(飲酒運転に反対する母親たち)」がスポンサーする会合への出席が命じられた<ref>[http://www.cbsnews.com/stories/2004/11/08/national/main654380.shtml]</ref>。その後、フェルプスは、テレビ番組に出演した際に、事件について「家族とアメリカ国民を落胆させてしまった」と反省を述べている<ref name="liven" />。
イギリスの[[ガーディアン|ガーディアン紙]]によると、フェルプスは1日に12000[[キロカロリー]]を摂取しており、一般男性の6倍になる。フェルプスの平均的な朝食は、[[卵焼き]]と[[チーズ]]、[[レタス]]、[[トマト]]、焼いた[[タマネギ|玉ねぎ]]と[[マヨネーズ]]を挟んだ[[サンドイッチ]]3つ、さらに、2杯の[[コーヒー]]と[[オムレツ]]1つ、加えて、砂糖をかけた[[フレンチトースト]]3切れ、そして最後に[[チョコレートチップス]]3袋を食べる。昼食は、500gの大盛パスタ、マヨネーズのかかった大きな[[ハム]]2つとチーズのサンドイッチを食べる。さらに、体力をつけるために、1000キロカロリーの[[栄養ドリンク]]を飲んでいる。夕食は、次の日の練習に備え、500gの[[パスタ]]と[[ピザ]]1枚を食べ、さらに1000キロカロリーの栄養ドリンクを飲んでいる<ref name="midoriy">{{Cite web|title=Michael Phelps is now the top Olympian of all time. Here's what it takes ...|url=http://www.theguardian.com/sport/2008/aug/14/michaelphelps.swimming1|website=the Guardian|date=2008-08-13|accessdate=2020-07-25|language=en|first=Guardian|last=Staff}}</ref>。フェルプスはアメリカの[[NBC]]テレビに対し、「Eat, sleep and swim, that's all I can do.(良く食べ、良く睡眠をとり、良く泳ぐこと。これが僕に出来ることのすべてだ)」と語っている<ref name="midoriy" />。
[[2008年北京オリンピック]]後、「もう目標を達成したから、ほかのことに挑戦したい。自分探しをしたいんだ」と一時引退を発表。その後、[[燃え尽き症候群]]に悩まされた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=うつや不安障害など "メンタルの問題"を共有する選手たち {{!}} SPORTS STORY {{!}} NHK|url=https://web.archive.org/web/20200822165244/https://www.nhk.or.jp/sports-story/detail/20190327_3651.html|website=NHK SPORTS STORY|accessdate=2020-07-25|language=ja|publisher=[[日本放送協会]]|date=2019-03-27}}</ref>。
フェルプスは、[[2012年ロンドンオリンピック|2012年のロンドンオリンピック]]を最後に競泳から一時引退。自身にとって最後の公式競技となった4x100m[[メドレーリレー]](2012年[[8月4日]])で通算22個目のオリンピック・メダル(金メダルとしては18個目)を獲得後、「自分は水泳において、やるべきことは全てやった」と語り、[[NBC]]のスタジオ・インタビュー<ref name="nbc20120804">NBC系列にて、アメリカ時間の2012年8月4日夜に放送されたスタジオ・インタビュー。</ref>において、司会の[[:en:Bob Costas|ボブ・コスタス]]{{efn|アメリカNBC系列によるオリンピック中継の顔ともいうべき総合司会者。}}が何度尋ねても、引退の決心に変わりはないと述べた。「これまで、競泳であちこちの町を訪れたが、実際に町を観光したことはない。ホテルとプール以外のものも見てみたい」という理由により、今後は世界各地を旅行するつもりだという<ref name="nbc20120804" />。一方で、「どうして自分はもっと努力をしなかったんだろう」と後悔の念、自身への失望が大きく、五輪後に深刻な[[抑うつ|うつ状態]]に陥った<ref name=":0" />。
2014年9月30日に米国[[メリーランド州]]で酒気帯び運転などの疑いで逮捕された<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASGB120PQGB1UHBI001.html 水泳のフェルプス選手を逮捕 酒気帯び運転の疑い] 朝日新聞 2014年10月1日10時02分</ref>。そのため米国水連から「6か月の競技会出場停止」「既に代表権を獲得していた翌年の[[世界水泳|世界選手権]]の代表権剥奪」という処分を下された<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/9332081/ フェルプスに6か月の出場停止処分、世界水泳への道も閉ざされる]livedoorNEWS2014年10月7日 9時10分 </ref>。逮捕後の45日間の[[リハビリテーション|リハビリ]]施設収容中に、長年わだかまりとなっていた「父親に捨てられた」という感情と向き合い、父親と面会し関係修復した<ref name=heavy/>。
2016年には引退を撤回して復帰しており<ref>[http://www.sankei.com/rio2016/news/160703/rio1607030002-n1.html 外部リンク]</ref><ref>[http://www.sankei.com/rio2016/news/160702/rio1607020003-n1.html 外部リンク]</ref>[[2016年リオデジャネイロオリンピック|リオ五輪]]が改めて自身のファイナルレースになると公言している。
[[セラピー]]を受けることで、それまで苦しんでいた人間関係性を清算・和解することで、リオ五輪に際しては最高の精神状態で臨んだ<ref name=":0" />。
2016年の引退後は、若年層の[[大麻精神病|大麻]]・[[アルコール依存症|アルコール]]依存や[[うつ病|鬱病]]からの脱却をサポートする[[メンタルヘルス|メンタル・ヘルス]]関連企業のESPYSの役員に就任した。
2021年には、[[大坂なおみ]]のメンタル・ヘルスに関する発言に対して「大坂なおみの勇気には脱帽します」と述べ、応援してほしいと訴えている<ref>[https://www.gqjapan.jp/culture/article/20210729-tokyo2020-olympic-michael-fred-phelps-omega-florent-dabadie 競泳界のレジェンド、マイケル・フェルプス──「大坂なおみの勇気には脱帽します」] GQ Japan|2021年7月29日</ref>。
== コーチ ==
* [[ボブ・バウマン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[競泳の世界記録一覧]]
* [[競泳のオリンピック記録一覧]]
* [[オリンピックで多数の金メダルを獲得した選手一覧]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Michael Phelps}}
* {{Sports links}}
{{Navboxes|title={{Flagicon|IOC}}オリンピック金メダリスト 8種目23回[[ファイル:Swimming pictogram.svg|25px]]
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{{Navboxes|title=世界水泳選手権金メダリスト 8種目26回[[ファイル:Swimming pictogram.svg|25px]]
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{{ヒコックベルト賞}}
{{ローレウス世界スポーツ賞年間最優秀復帰選手}}
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[[Category:20世紀アメリカ合衆国の人物]]
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ミリイ・バラキレフ
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ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ(ロシア語: Ми́лий Алексе́евич Бала́кирев, ラテン文字転写: Mily Alekseyevich Balakirev 発音, 1837年1月2日 - 1910年5月29日)は、ロシアの作曲家。今日では作品よりも「ロシア五人組」のまとめ役として知られている。
ニジニ・ノヴゴロド出身。少年時代に母親からピアノを習い、続いてジョン・フィールドの弟子アレクサンドル・デュビュークに就いた。さらに作曲家カール・トラウゴット・アイスリッヒの息子でピアニストのカール・アイスリッヒの下で研鑽を積み、彼の紹介で、ロシアにおけるモーツァルトの伝記作家ウーリビチョフから、さまざまな有益な音楽教育を受けた。18歳でサンクトペテルブルクに上京、大学で数学を専攻した後、ウーリビチョフの紹介でミハイル・グリンカの面識を得る。バラキレフを中心にツェーザリ・キュイらが集まって、1862年に無料音楽学校が設立される。1869年にバラキレフは、帝室宮廷礼拝堂の監督と、帝国音楽協会の指揮者に任命される。指導者やロシア音楽のまとめ役としての発言力から、新たな運動の発起人という役割を得た。「五人組」ばかりでなく、チャイコフスキーもいくつかの標題音楽や《マンフレッド交響曲》の作曲に、バラキレフの助言や批評を仰いでいる。
しかし、1870年代からは無料音楽学校の経済的な問題、演奏活動の失敗などから精神的に落ち込み、1874年に無料音楽学校学長を辞任して以降ほとんど創作活動から遠ざかる。生活のためにサンクトペテルブルク・ワルシャワ鉄道で勤務したこともあった。この創作活動の停滞は、結果としてバラキレフの音楽界への影響をほとんど失わせることになってしまった。1881年に無料音楽学校学長に復帰して以降ようやく徐々に創作意欲を取り戻し、未完のまま放置していた2曲の交響曲などの作品を完成させていった。1883年には宮廷聖歌隊の長に任命された。
1910年に死去した時には《ピアノ協奏曲第2番》などの作品が未完のまま残され、私淑していたセルゲイ・リャプノフにより完成された。他の「五人組」の同人と同じく、サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地に埋葬されている。
一時的に音楽界から身を退いていたこともあり、残された作品はあまり多くないが、ロシア民謡の要素に基づき、作品は親しみやすい。代表作のピアノ曲「イスラメイ」は、難曲として有名だが、それ以外のピアノ曲は、理想として思い描いていたショパンやシューマン、リストの影響を鮮明に示している。2曲の交響曲を残している。さまざまな音楽理論やドイツ・ロマン派音楽に精通していたことがかえって自発的な創造力を阻害したのか、「五人組」の指導者でありながら、同人のうち最も遅筆で、最初の交響曲は完成まで33年の歳月を要した。作曲の中断や改作も頻繁に繰り返された。
世俗曲と同様に作品数は限られているが、無伴奏(正教会の聖歌は無伴奏声楽が原則である)の正教会聖歌も作曲している。
近年、「ケーネマン出版社」(総代理店はMELBAY)から出版されたバラキレフ・ピアノ作品全集(全5巻)は、内容の良さと破格の安価であったことから予想外の注文が殺到し、一時期入手不可能になるほどのベストセラーとなった。2004年現在は、MELBAYのWEBサイトから入手可能である。
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ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフは、ロシアの作曲家。今日では作品よりも「ロシア五人組」のまとめ役として知られている。
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'''ミリイ・アレクセエヴィチ・バラキレフ'''({{翻字併記|ru|Ми́лий Алексе́евич Бала́кирев|Mily Alekseyevich Balakirev}} {{audio|Ru-Mily-Alekseevich-Balakirev.ogg|発音|help=no}}, [[1837年]][[1月2日]] - [[1910年]][[5月29日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[作曲家]]。今日では作品よりも「[[ロシア5人組|ロシア五人組]]」のまとめ役として知られている。
== 略歴 ==
[[ニジニ・ノヴゴロド]]出身。少年時代に母親からピアノを習い、続いて[[ジョン・フィールド]]の弟子[[アレクサンドル・デュビューク]]に就いた<ref name=":0">「バラキレフ 交響曲第1番&イスメライ(管弦楽編)他」NAXOS 8.550792 ライナーノーツ</ref>。さらに作曲家[[カール・トラウゴット・アイスリッヒ]]の息子でピアニストのカール・アイスリッヒの下で研鑽を積み、彼の紹介で、ロシアにおける[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の伝記作家[[アレクサンドル・ウリビシェフ|ウーリビチョフ]]から、さまざまな有益な音楽教育を受けた<ref name=":0" />。18歳で[[サンクトペテルブルク]]に上京、大学で[[数学]]を専攻した後{{要出典|date=2021年12月}}、ウーリビチョフの紹介で[[ミハイル・グリンカ]]の面識を得る<ref>森田稔「ウルィーブィシェフ」日本・ロシア音楽家協会編『ロシア音楽事典』河合楽器製作所・出版部, 2006年, p48</ref>。バラキレフを中心に[[ツェーザリ・キュイ]]らが集まって、[[1862年]]に[[無料音楽学校]]が設立される。[[1869年]]にバラキレフは、[[サンクトペテルブルク国立アカデミーカペラ|帝室宮廷礼拝堂]]の監督と、帝国音楽協会の指揮者に任命される。指導者やロシア音楽のまとめ役としての発言力から、新たな運動の発起人という役割を得た。「五人組」ばかりでなく、[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]もいくつかの標題音楽や《[[マンフレッド交響曲]]》の作曲に、バラキレフの助言や批評を仰いでいる。
しかし、1870年代からは無料音楽学校の経済的な問題、演奏活動の失敗などから精神的に落ち込み、[[1874年]]に無料音楽学校学長を辞任して以降ほとんど創作活動から遠ざかる。生活のために[[サンクトペテルブルク・ワルシャワ鉄道]]で勤務したこともあった。この創作活動の停滞は、結果としてバラキレフの音楽界への影響をほとんど失わせることになってしまった。[[1881年]]に無料音楽学校学長に復帰して以降ようやく徐々に創作意欲を取り戻し、未完のまま放置していた2曲の交響曲などの作品を完成させていった。[[1883年]]には[[サンクトペテルブルク国立アカデミーカペラ|宮廷聖歌隊]]の長に任命された。
1910年に死去した時には《ピアノ協奏曲第2番》などの作品が未完のまま残され、私淑していた[[セルゲイ・リャプノフ]]により完成された。他の「五人組」の同人と同じく、サンクトペテルブルクの[[アレクサンドル・ネフスキー大修道院]]のチフヴィン墓地に埋葬されている。
== 作品 ==
一時的に音楽界から身を退いていたこともあり、残された作品はあまり多くないが、ロシア[[民謡]]の要素に基づき、作品は親しみやすい。代表作の[[ピアノ]]曲「'''[[イスラメイ]]'''」は、難曲として有名だが、それ以外のピアノ曲は、理想として思い描いていた[[フレデリック・ショパン|ショパン]]や[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、[[フランツ・リスト|リスト]]の影響を鮮明に示している。2曲の[[交響曲]]を残している。さまざまな音楽理論やドイツ・[[ロマン派音楽]]に精通していたことがかえって自発的な創造力を阻害したのか、「五人組」の指導者でありながら、同人のうち最も遅筆で、最初の交響曲は完成まで33年の歳月を要した。作曲の中断や改作も頻繁に繰り返された。
世俗曲と同様に作品数は限られているが、無伴奏(正教会の聖歌は無伴奏声楽が原則である)の[[正教会]]聖歌も作曲している。
近年、「ケーネマン出版社」(総代理店はMELBAY)から出版されたバラキレフ・ピアノ作品全集(全5巻)は、内容の良さと破格の安価であったことから予想外の注文が殺到し、一時期入手不可能になるほどのベストセラーとなった。[[2004年]]現在は、MELBAYのWEBサイトから入手可能である。
=== 作品一覧 ===
{{see also|バラキレフの楽曲一覧}}
* 管弦楽曲・協奏曲
** [[交響曲第1番 (バラキレフ)|交響曲第1番 ハ長調]] (1864-66年、再開1893-97年)
** [[交響曲第2番 (バラキレフ)|交響曲第2番 ニ短調]] (1900-08年)
** 組曲 ロ短調 (1902-08年、[[セルゲイ・リャプノフ]]により完成)
** [[タマーラ (バラキレフ)|交響詩「タマーラ」]] (1867-82年)
** [[ルーシ (バラキレフ)|交響詩「ルーシ」]] ([[1884年]]、「3つのロシアの主題による序曲 第2番」の改作)
** [[3つのロシアの主題による序曲第1番|3つのロシアの主題による序曲 第1番]](1858年、1881年改訂)
** 3つのロシアの主題による序曲 第2番 (1863-64年)
** チェコの主題による序曲 (1867年)
** 交響詩「ボヘミアにて」 (1905年、上記の改作)
** スペインの行進曲の主題による序曲 (1857年)
** スペイン序曲 (1886年、上記の改作)
** [[ピアノ協奏曲 第1番 (バラキレフ)|ピアノ協奏曲第1番嬰ヘ短調]] 作品1 (1855/56年)
** [[ピアノ協奏曲 第2番 (バラキレフ)|ピアノ協奏曲第2番変ホ長調]] (1861/62年, 再開1909/10年、[[セルゲイ・リャプノフ]]により完成)
** ピアノと管弦楽のためのロシアの主題による大幻想曲変ニ長調 作品4 (1852年)
* ピアノ曲
** ピアノソナタ第1番変ロ短調 作品5 (1855/56年)
** [[ピアノソナタ 第2番 (バラキレフ)|ピアノソナタ第2番変ロ短調]] (1900年-1905年):現在バラキレフのソナタとして有名なもの
** [[イスラメイ]](東洋風幻想曲)(1869年、改訂1902年)
** 7つのマズルカ
** 7つのワルツ
** 3つの夜想曲
** 3つのスケルツォ
** 薗にて(1884年)
** トッカータ嬰ハ短調(1902年)
* 室内楽曲
** フルート、オーボエ、ホルン、弦楽四重奏とピアノのための八重奏曲ハ短調 作品3 (1850年-1856年)
** チェロとピアノのためのロマンス ホ長調([[1856年]])
* 声楽曲
** カンタータ「ペテルブルクのグリンカ記念祭に」(1902年-1904年)
** 民謡編曲
* 正教会聖歌(無伴奏)
** 諸預言者は預告せり({{lang|ru|Свыше пророцы}})
== 出典 ==
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* {{IMSLP|id=Balakirev%2C_Mily|cname=ミリイ・バラキレフ}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:はらきれふ みりい}}
[[Category:ロシアの作曲家]]
[[Category:ニジニ・ノヴゴロド県出身の人物]]
[[Category:ニジニ・ノヴゴロド出身の人物]]
[[Category:アレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬された人物]]
[[Category:1837年生]]
[[Category:1910年没]]
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アルバン・ベルク
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アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg, 1885年2月9日 - 1935年12月24日)は、オーストリアの作曲家。 アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。
ベルクはウィーンで富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた。
1902年にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児(娘)の父となり、翌年にはギムナジウムの卒業試験に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。
1904年、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、ウィーン国立音楽院へ。
1907年、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。
1908年7月23日、宿痾の病となる喘息を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。
1911年、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母アンナはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。
1912年、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。
1914年、ゲオルク・ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェック」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽のオペラの作曲を始めたが、この年に第一次世界大戦が勃発、翌年から兵役に服する事になり作曲が不可能になったが、1917年になって休暇を与えられ、歌劇「ヴォツェック」 OP.7の作曲再開に踏み切った。「ヴォツェック」の完成はその5年後の事である。
「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日には間に合わず、1925年に完成する。
その同じ年に歌劇「ヴォツェック」がベルリン国立歌劇場でエーリヒ・クライバーの指揮によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、プラハ訪問中に知り合ったハンナ・フックス=ローベッティーンとの不倫関係が始まり、この関係から「抒情組曲」という音楽的果実が実る事になった。
1928年、フランク・ヴェーデキントの戯曲「地霊」および「パンドラの箱」に基づく歌劇「ルル」の作曲に取り掛かるも、翌年には「ルル」の作曲を一時中断、演奏会用アリア「ワイン」を作曲した。
「ヴォツェック」の成功によって順調であるかに見えたベルクの作曲家人生は、1933年のナチス・ドイツ政権発足によって暗転する。師シェーンベルクと共に(ベルクはユダヤ人ではないが)ベルクの音楽も「退廃音楽」のレッテルが貼られ、ドイツでの演奏が不可能になる。
1935年、アルマ・マーラーと彼女の2番目の夫ヴァルター・グロピウスとの娘でベルクも可愛がっていた、マノン・グロピウスの訃報に接し、「ルル」作曲の筆を再び置いて、ベルクとしては異例の速筆でヴァイオリン協奏曲(「ある天使の想い出に」)を書き上げる。しかし、協奏曲完成の直前に虫刺されが原因で腫瘍ができ、これが悪化、手術を受けるも敗血症を併発しこの年の12月24日に50年の生涯を閉じた。
未完のまま遺された「ルル」は完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、3幕の形での「ルル」(フリードリヒ・ツェルハ補筆版)初演はヘレーネ没後の1979年にパリのオペラ座にて行われた(パトリス・シェロー演出、ピエール・ブーレーズ指揮)。ヘレーネがここまで頑なになったのは、第二次世界大戦後にショイヒルの子と会ったこと、ベルクとアルマの三番目の夫の姉ハンナとの不倫を知ったことによる夫への反感から情報をコントロールしようとしたことが原因とされる。
小惑星(4528) Bergはベルクの名前にちなんで命名された。
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アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルクは、オーストリアの作曲家。
アルノルト・シェーンベルクに師事し、アントン・ヴェーベルンと共に、無調音楽を経て十二音技法による作品を残した。十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。
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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
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{{Portal クラシック音楽}}
'''アルバン・マリーア・ヨハネス・ベルク'''(Alban Maria Johannes Berg, [[1885年]][[2月9日]] - [[1935年]][[12月24日]])は、[[オーストリア]]の[[作曲家]]。
[[アルノルト・シェーンベルク]]に師事し、[[アントン・ヴェーベルン]]と共に、[[無調音楽]]を経て[[十二音技法]]による作品を残した。十二音技法の中に[[調性]]を織り込んだ作風で知られる。
==経歴==
ベルクは[[ウィーン]]で富裕な商家の子供として生まれた。幼い時から音楽や文学に興味を抱き早熟な少年時代を送る。15歳の時、父が没した頃から独学で作曲を試みるようになる。この時の現存する多数の歌曲は1980年まで封印されていた<ref>{{Cite journal|和書|author=今野哲也 |date=2017-03 |url=https://tamagawa.repo.nii.ac.jp/records/309 |title=歌曲史におけるアルバン・ベルクの初期歌曲の位置付け ―創作の開始から1903年まで― |journal=芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 |ISSN=1881-6517 |publisher=玉川大学 |issue=8 |pages=89-100 |hdl=11078/405 |naid=120006868332 |CRID=1050003824837547904 |ref=harv}}</ref>。
[[1902年]]にはベルク家の別荘で働いていた女中、マリー・ショイヒルとの間の私生児(娘)の父となり、翌年には[[ギムナジウム]]の[[アビトゥア資格|卒業試験]]に失敗して自殺を図るなど10代後半の私生活は波瀾に彩られたものだった。
[[1904年]]、ベルクの兄が弟の作品をシェーンベルクのもとに持ち込み、シェーンベルクや同門のヴェーベルンとの交友が始まる。ベルクはギムナジウム卒業後、公務員となるが作曲活動に打ち込むためわずか2年で辞職し、[[ウィーン国立音楽大学|ウィーン国立音楽院]]へ。
[[1907年]]、「4つの歌曲」Op.2などの曲で本格的な作曲家デビューを飾る。
[[1908年]][[7月23日]]、宿痾の病となる[[気管支喘息|喘息]]を発病、この時23歳だったベルクは「23」という数字を自己の運命の数と決め、この数は以後の作品の構成を彩る事になる。
[[1911年]]、声楽を学んでいたヘレーネ・ナホフスキーと結婚。ヘレーネの母[[アンナ・ナホフスキー|アンナ]]はオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]]の愛人として知られ、ヘレーネは皇帝の庶子とも言われており、ベルクの周辺では気位の高い女性として知られていた。
[[1912年]]、「アルテンベルク歌曲集」Op.4を完成するも師シェーンベルクの反応は色よいものではなく、この歌曲集の完全初演はベルクの死の17年後まで持ち越される。
[[1914年]]、[[ゲオルク・ビューヒナー]]の[[戯曲]]「[[ヴォイツェック]]」の上演に接したベルクはこの戯曲を基にした無調音楽の[[オペラ]]の作曲を始めたが、この年に[[第一次世界大戦]]が勃発、翌年から[[兵役]]に服する事になり作曲が不可能になったが、[[1917年]]になって休暇を与えられ、歌劇「[[ヴォツェック]]」 OP.7の作曲再開に踏み切った。「ヴォツェック」の完成はその5年後の事である。
「ヴォツェック」完成後、シェーンベルク50歳の誕生日に献呈するべく、ピアノ・ヴァイオリン・13管楽器のための室内協奏曲に取り組むも50歳の誕生日には間に合わず、[[1925年]]に完成する。
その同じ年に歌劇「ヴォツェック」が[[ベルリン国立歌劇場]]で[[エーリヒ・クライバー]]の[[指揮 (音楽)|指揮]]によって初演された。初演にあたって34回ものオーケストラ練習と14回のアンサンブル練習が行われ、分奏を含めると総計150回の練習が行われたという。ベルクと指揮者は激しい批判に晒されるが、この作品によってベルクの作曲家としての名声は揺るがぬものとなった。この年、[[プラハ]]訪問中に知り合ったハンナ・フックス=ローベッティーンとの[[不倫]]関係が始まり、この関係から「[[抒情組曲 (ベルク)|抒情組曲]]」という音楽的果実が実る事になった。
[[1928年]]、[[フランク・ヴェーデキント]]の戯曲[[ルル二部作|「地霊」および「パンドラの箱」]]に基づく歌劇「[[ルル (オペラ)|ルル]]」の作曲に取り掛かるも、翌年には「ルル」の作曲を一時中断、演奏会用アリア「ワイン」を作曲した。
「ヴォツェック」の成功によって順調であるかに見えたベルクの作曲家人生は、[[1933年]]の[[ナチス・ドイツ]]政権発足によって暗転する。師シェーンベルクと共に(ベルクは[[ユダヤ人]]ではないが)ベルクの音楽も「[[退廃音楽]]」のレッテルが貼られ、[[ドイツ]]での演奏が不可能になる。
[[1935年]]、[[アルマ・マーラー]]と彼女の2番目の夫[[ヴァルター・グロピウス]]との娘でベルクも可愛がっていた、マノン・グロピウスの訃報に接し、「ルル」作曲の筆を再び置いて、ベルクとしては異例の速筆で[[ヴァイオリン協奏曲 (ベルク)|ヴァイオリン協奏曲]](「ある天使の想い出に」)を書き上げる。しかし、協奏曲完成の直前に虫刺されが原因で腫瘍ができ、これが悪化、手術を受けるも[[敗血症]]を併発しこの年の12月24日に50年の生涯を閉じた。
未完のまま遺された「ルル」は完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、3幕の形での「ルル」([[フリードリヒ・ツェルハ]]補筆版)初演はヘレーネ没後の[[1979年]]に[[パリ]]の[[ガルニエ宮|オペラ座]]にて行われた([[パトリス・シェロー]]演出、[[ピエール・ブーレーズ]]指揮)。ヘレーネがここまで頑なになったのは、[[第二次世界大戦]]後にショイヒルの子と会ったこと、ベルクとアルマの三番目の夫の姉ハンナとの不倫を知ったことによる夫への反感から情報をコントロールしようとしたことが原因とされる<ref>[http://www.takashi-sato.jp/reading/h16_berg.html ウィーン 音だより(3) ベルクとウィーン]、[[佐藤卓史]]</ref>。
== その他 ==
[[小惑星]][[ベルク (小惑星)|(4528) Berg]]はベルクの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4528|title=(4528) Berg = 1978 NB4 = 1979 SU3 = 1981 DX3 = 1983 PP = 1988 VF7|publisher=MPC|accessdate=2021-10-09}}</ref>。
== 主要作品 ==
{{main|ベルクの楽曲一覧}}
* [[7つの初期の歌曲]]
* [[ピアノソナタ_(ベルク)|ピアノ・ソナタ]] op. 1
* [[弦楽四重奏曲_(ベルク)|弦楽四重奏曲]] op. 3
* [[アルテンベルク歌曲集]] op. 4
* [[管弦楽のための3つの小品 (ベルク)|管弦楽の為の3つの小品]] op. 6 ([[1914年]] - [[1915年]]/[[1929年]]改訂)
* 歌劇『[[ヴォツェック]]』 op. 7 ([[1925年]]初演)
* [[室内協奏曲 (ベルク)|室内協奏曲]] ([[1923年]] - [[1925年]])
* [[抒情組曲 (ベルク)|抒情組曲]] ([[1925年]] - [[1926年]])
* [[ヴァイオリン協奏曲 (ベルク)|ヴァイオリン協奏曲]] ([[1935年]])
* 歌曲集「[[私の両眼を閉じてください]]」
* 管弦楽伴奏歌曲「ワイン」
* 歌劇『[[ルル (オペラ)|ルル]]』([[1928年]] - /未完成)
* 編曲
** [[フランツ・シュレーカー]]の歌劇《[[はるかなる響き]]》の[[ヴォーカルスコア]]([[1911年]])
** [[アルノルト・シェーンベルク]]の《[[グレの歌]]》のヴォーカルスコア([[1912年]])
** シェーンベルクの《[[弦楽四重奏曲第2番 (シェーンベルク)|弦楽四重奏曲第2番]]》の後半2楽章(同上)
** [[ヨハン・シュトラウス2世]]の[[ワルツ]]《[[酒、女、歌]]》([[1921年]])
== 参考文献 ==
* Ingo Müller: ''Lulu. Literaturbearbeitung und Operndramaturgie: Eine vergleichende Analyse von Frank Wedekinds Lulu-Dramen und Alban Bergs Oper Lulu im Lichte gattungstheoretischer Reflexionen'' (= Rombach Wissenschaften: Reihe Litterae. Band 177). Freiburg i. Br. 2010.
* Cordula Knaus: ''Gezähmte Lulu: Alban Bergs Wedekind-Vertonung im Spannungsfeld von literarischer Ambition, Opernkonvention und ''„''absoluter Musik''“ (= Rombach Wissenschaften: Reihe Cultura. Band 38). Freiburg i. Br. 2004.
* Ingo Müller: ''Einflüsse der Kinematographie auf die Dramaturgie von Alban Bergs „Lulu“.'' In: Nils Grosch (Hrsg.): ''Aspekte des modernen Musiktheaters in der Weimarer Republik.'' Münster 2004, S. 335–369.
* [[Siglind Bruhn]]: ''Die musikalische Darstellung psychologischer Wirklichkeit in Alban Bergs Wozzeck.'' Peter Lang, Frankfurt 1986, ISBN 3-8204-8951-7.
* {{NDB|2|73||Berg, Alban|Hans-Heinz Dräger|118509322}}
* [[Constantin Floros]]: ''Alban Berg - Musik als Autobiographie.'' 1992, ISBN 3-7651-0290-3, ISBN 978-3-7651-0290-5.
* Anton Fuchs: ''Auf ihren Spuren in Kärnten – Alban Berg, Gustav Mahler, Johannes Brahms, Hugo Wolf, Anton Webern''. Verlag Carinthia, Klagenfurt 1982, ISBN 3-85378-601-4.
* Armin Lücke (Hrsg.): ''[[Franz Grundheber]] und [[Wozzeck (Berg)|Wozzeck]].'' Verlag Matergloriosa, Trier 2008, ISBN 978-3-940760-05-0.
* [[Soma Morgenstern]]: ''Alban Berg und seine Idole''. Aufbau, Berlin 1999, ISBN 3-7466-1455-4.
* [[Theodor W. Adorno]]: ''Berg. Der Meister des kleinsten Übergangs''. Suhrkamp, Frankfurt am Main 1982, ISBN 3-518-01575-3.
* Erich Alban Berg: ''Alban Berg – Leben und Werk in Daten und Bildern''. [[Insel Verlag]] Frankfurt am Main 1976, ISBN 3-458-01894-8.
* [[Werner König (Musikwissenschaftler)|Werner König]]: ''Tonalitätsstrukturen in Alban Bergs Oper „Wozzeck“''. Schneider, Tutzing 1974, ISBN 3-7952-0131-4.
* ''Alban Berg Kammermusik I.'', (= Musik-Konzepte. 4). Hrsg. von Heinz-Klaus Metzger und Rainer Riehn. Edition Text + Kritik, München 1978, ISBN 3-921402-66-2.
* ''Alban Berg Kammermusik II.'', (= Musik-Konzepte. 9). Hrsg. von Heinz-Klaus Metzger und Rainer Riehn. Edition Text + Kritik, München 1979, ISBN 3-88377-015-9.
* Peter Petersen: ''Wozzeck'' (= Musik-Konzepte. Sonderband). Hrsg. von Heinz-Klaus Metzger und Rainer Riehn. Edition Text + Kritik, München 1985, ISBN 3-88377-214-3.
* ''Alban Berg Studien Band 2'' (= Alban Berg Symposion 1980). Universal Edition, Wien 1981, ISBN 3-7024-0158-X.
* ''50 Jahre Wozzeck von Alban Berg'' (= Studien zur Wertungsforschung. Band 10). Hrsg. von Otto Kolleritsch. Universal Edition, Wien 1978, ISBN 3-7024-0130-X.
* {{ÖBL|1|71|72}}
* ''Letters to his wife / Alban Berg''. Herausgegeben, übersetzt und kommentiert von Bernard Grun, Faber and Faber, London 1971, ISBN 0-571-08395-1.
* Brian R. Simms: ''Alban Berg: a research and information guide.'' Routledge, New York u. a. 2009, ISBN 978-0-415-99462-0.
* Herwig Knaus, [[Wilhelm Sinkovicz]] (Hrsg.): ''Alban Berg. Zeitumstände – Lebenslinien.'' Residenz-Verlag, Salzburg 2009.
* Christopher Hailey (Hrsg.): ''Alban Berg and his world.'' Princeton Univ. Press, Princeton, NJ u. a. 2010, ISBN 978-0-691-14856-4.
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Alban Berg}}
* [[新ウィーン楽派]]
* [[アルバン・ベルク弦楽四重奏団]]
== 外部リンク ==
* [http://www.albanberg.jp/ 日本アルバン・ベルク協会]
* {{IMSLP|id=Berg%2C_Alban|cname=アルバン・ベルク}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:へるく あるはん}}
[[Category:オーストリアの作曲家]]
[[Category:近現代の作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
[[Category:表現主義]]
[[Category:ウィーン国立音楽大学出身の人物]]
[[Category:第一次世界大戦期オーストリア=ハンガリー帝国の軍人]]
[[Category:ヒーツィング墓地に埋葬された人物]]
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倒幕運動
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倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。
主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。
また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。
これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。
江戸時代には日本の古典研究などを行う国学が発達し、王政復古・武家政権批判の流れが生じた。
同時期、外国船の来航も多発した。1853年(嘉永6年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーやロシア帝国のエフィム・プチャーチンらが来航して通商を求め始めたことから、江戸幕府は1858年(安政5年)、諸外国と通商条約を締結し、開国を決定した。
しかし当時の朝廷では攘夷派の公家たちが優勢であったことから、勅許を待たずに調印した条約は無効であるとして、公家たちが幕府と大老・井伊直弼を厳しく非難した。このことから朝廷と幕府との間の緊張が高まり、安政の大獄(同年)や井伊の暗殺(1860年)などの事件が発生した。
そこで幕府は、権力の再構築を図る公武合体政策を提起し、1862年(文久2年)にはロンドン覚書を締結するなどして開国の延期を決定した。また外国勢力も条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、天皇や朝廷の権威が復活することとなった。
他方、在野の倒幕派の志士たちは、水戸学の思想的影響のもと名分論に基づき、攘夷を断行しない幕府に対する討幕論を形成し、薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)、大久保利通、小松清廉、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、広沢真臣、土佐藩の武市瑞山、吉村寅太郎、また公家の岩倉具視などの討幕派らは、王政復古と鎖国の継続を構想するとして活動していた。
公武合体を推していた会津藩や薩摩藩など公武合体派(佐幕派)は、これら討幕派(尊王攘夷派)の鎮圧を図った。薩摩藩は、天誅組の変(1863年)、禁門の変(1864年)などにおいて討幕派を鎮圧していた。長州藩は1863年(文久3年)5月に下関事件を起こした後、朝敵として京都から追放された(八月十八日の政変)。
長州藩はその後も、1864年(元治元年)5月に再び下関戦争を起こしたが、その後の6月に第一次長州征伐が行われた後は佐幕派(俗論派)が藩政を握り、討幕運動は表向きには下火となった。しかしながら、高杉晋作などの正義派は、再び佐幕派を打倒するようになった。1865年(慶応元年)には英国グラバー商会から薩摩藩名義で蒸気船軍艦ユニオン号を購入するなどして武力を蓄えながら、討幕の構想を維持していた。
他方、薩摩藩は1863年に薩英戦争でイギリスの優れた技術力を身をもって経験し、また幕政改革に関する方針が幕府とは異なっていたことから、1866年(慶応2年)3月7日、密かに長州藩と薩長同盟を結んだ。
そして長州藩は6月には幕府の第二次長州征伐の征討軍を撃退し、その権威を低下させることに成功した。
1867年(慶応3年)1月には孝明天皇が35歳で崩御し、14歳の明治天皇が皇位に就くこととなった。その後の5月から行われた四侯会議は不成功に終わり、朝廷は11月9日、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅を下した。そこで薩摩藩は岩倉具視などと協力し、朝廷における幕府の影響力の排除や、長州藩の復権に務めることとなった。
15代将軍である徳川慶喜はこれら討幕派の動きに対し、討幕の密勅と同日の11月9日、大政奉還を行った。大久保利通ら討幕派は当初、ロンドン覚書の開市開国の期日に基づき、1868年(慶応4年)1月2日に王政復古を行う予定であったが、土佐藩の後藤象二郎の要請により延期して、1月3日に王政復古の大号令を発令した(明治政府)、江戸幕府が消滅したため、討幕運動は名目上は終わったかのように見えた。
しかし、幕府を支える勢力は残っており、1月26日に京都で発生した鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が始まった。
新政権の議定であった前越前藩主・松平春嶽は、この戦いは薩摩藩と佐幕派との私闘であるとして政府の関与に反対したが、議定となったばかりの岩倉具視は佐幕派の征討に賛成し、征討軍に錦の御旗を与えたことで、佐幕派の勢力は朝敵と見なされることとなった。
5月3日には江戸幕府の本拠地であった江戸城が無血開城し、大阪城から江戸に戻った徳川慶喜は明治政府に恭順し、このことから江戸城は明治政府に接収され、徳川家による政治機構は消滅した。
ただし、佐幕派はその後も東北諸藩と共に甲州や東北地方、蝦夷地にも及ぶ地域で、朝敵とされながらも抗戦を続け、戊辰戦争はその後も続くこととなった。
島津家が関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いたのは、当時の情報収集能力の欠如が原因と言われる。当時の島津家は上方の情勢に疎かったがために西軍に付かざるを得ない状況となり、この反省から、以後薩摩藩は独立王国の様相を呈し始め、各地に密偵を配置し、情報収集力の増強に努めた。また、敵側の密偵が越境してきた場合はたとえ幕府関係者であろうと厳しく断罪し、情報の漏洩防止に努めた。また黒砂糖事業や琉球王国を介した密貿易事業によって着実に内貨外貨を蓄積し続けたことが、幕末に至って西洋式軍備を急速かつ容易に導入できた大きな要因となった。
長州藩の場合、関ヶ原の戦いにおいて毛利家は西軍の総大将であったが敗北し、減封という結果に終わった。長州藩は江戸時代を通じて表向きは幕府に恭順の姿勢をとる普通の藩として存在していたが、藩内には幕府に対する怨恨が蓄積するようになった。それが最も爆発したのは吉田松陰という青年が出現した幕末である。松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約に調印し、また安政の大獄によって志士の弾圧が始まった事を知ると、1858年(安政5年)11月11日に老中・間部詮勝の討伐を藩に願い出た。後に幕府はこの動きを知るところとなり、松陰が処刑されると、これを機に長州藩(松下村塾の塾生)は終始幕府への敵対心をむき出しにし、その結果禁門の変を起こし、二度に渡る幕府からの征討を受けた。この間、俗論党という佐幕派勢力によるクーデターも起き、藩論は一時佐幕に傾いた事もあるが、高杉晋作率いる奇兵隊によって俗論党政権は掃討され、再度藩論は倒幕に動くこととなった。関ヶ原の戦いで生じた怨恨を直に徳川家にぶつけたのが、この長州藩であった。その直接さがゆえ、徳川慶喜は維新後、長州に対しての恨みが消えていったが、佐幕派を装いつつ結果的に寝返った薩摩に対しての恨みは強かったと言われる(司馬遼太郎の小説『最後の将軍 徳川慶喜』『竜馬がゆく』より)。
ここで特筆すべきは藩主・毛利敬親の寛容さである(そうせい侯)。土佐藩主・山内容堂は武士身分に属する郷士階級に対して厳しい差別を行っているが、奇兵隊は土佐郷士より遙かに下層の階級の人々を主力としていた。このことは、明治初期の四民平等政策や徴兵制度による国民皆兵構想の根幹ともなった。
長州藩からは下級の身分から身を起こした人物が多く運動に参加した。山縣有朋や伊藤博文がその代表的な存在で、倒幕運動の中心となり、明治新政府内では栄進を遂げ、旧長州藩勢力を日本の近代化及び富国強兵への原動力に成長させた。
山内家の土佐入封時、掛川城主時代までの家臣(板垣退助らの家系)や土佐入封前に大坂浪人を取り立てたもの(後藤象二郎らの家系)、長宗我部家旧臣の一部(吉田東洋、谷干城らの家系)を上士とし、土佐にいた郎党・地侍を郷士とした区分があったが、土佐藩の場合は、郷士であっても特別な家系や功績によっては上士扱いの白札とするという弾力的な制度も持っていた。武市瑞山は祖父の代より白札郷士であったし、坂本龍馬の大叔父の宮地家なども「庄屋→郷士→白札郷士(上士)」と家格が上がった家である。幕末期には、家老格、中老格、馬廻格、小姓格、留守居格を以て上士を構成した。
「長宗我部氏臣下だった者は下士(郷士)で明確に身分が分けられ長年身分の格差に虐げられてきた」とするのは、司馬遼太郎らによる歴史小説の影響(司馬史観)で史実とは異なる。その結果、幕末には土佐の豊かな風土から独特の豪快ないごっそうという気質が生まれ、板垣退助、後藤象二郎、谷干城、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎といった人材を輩出した。藩論は討幕・佐幕に二分され、山内容堂も「酔っては勤皇、覚めては佐幕」と揶揄されたが、武力討幕を推し進める板垣退助が中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と結んだ薩土討幕の密約を承認し、藩の軍制改革、練兵の近代化を図った。一方で幕府に大政奉還を促し穏健に徳川家を存続させる薩土盟約も承認して、藩内の討幕派・佐幕派の攻防が加速したが、大政奉還は、幕府の権威を段階的に削ぎ落とす効果を発揮した。さらに鳥羽・伏見の戦いにおいて、容堂の静止を振り切り薩土討幕の密約に基づき緒戦より藩士・山田平左衛門、吉松速之助、山地元治、北村重頼らが参戦。これにより勤皇討幕が決定的となり、土佐勤王党で活躍した郷士達は、戊辰戦争では迅衝隊に加わるなど華々しい戦果を挙げた。会津戦争では、会津藩の身分格差が激しく庶民らが幕府に不満を募らせ、官軍の進行を阻む人が居ないばかりか、落城し城主・松平容保が寺へ謹慎する際も見送りに来る人は、一人もおらず、この経験が、板垣退助ら戊辰戦争従軍者らが明治維新以降、自由民権運動に参画する動機ともなった。
関ヶ原で西軍についた鍋島家は同じ西軍の立花宗茂を攻略した事によって家康から旧領を安堵され、35万7千石の肥前藩が誕生したが、この知行高は支藩や鍋島・龍造寺庶流四家の領地を含む表高であり、藩が有する実質的な内高は6万石程度しかなかった。さらに藩が地理的に長崎に程近いため、幕府より筑前藩と1年交代での長崎警固を命じられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかった。その後、江戸期を通じて藩直轄領の拡大(1869年の時点で内高88万石)と中央集権化が行われた事や藩主・鍋島直正が藩政改革に着手した事でようやく藩財政は立ち直り、幕末の日本における産業革命を推進し、日本有数の軍事力と技術力を有するまでに至った。
肥前藩は幕末における最も近代化された藩の一つとなったが、政局に対しては姿勢を明確にすることなく、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。それでも、山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、肥前藩の精神的支柱となり、藩内に倒幕運動の機運を漂わせるようになった。肥前藩が倒幕運動に加わったのは薩長土肥では最も遅く、戊辰戦争に肥前藩兵が派遣されてからであった。つまり、肥前藩は大政奉還が行われるまでは政治力・軍事力ともに行使していない。このことは明治政府に副島種臣、江藤新平、大隈重信らの多数の人物が登用され活躍しながら、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなってしまった一因となっている。
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"text": "倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。",
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"text": "主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。",
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"text": "また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。",
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"text": "これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。",
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"text": "江戸時代には日本の古典研究などを行う国学が発達し、王政復古・武家政権批判の流れが生じた。",
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"text": "同時期、外国船の来航も多発した。1853年(嘉永6年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーやロシア帝国のエフィム・プチャーチンらが来航して通商を求め始めたことから、江戸幕府は1858年(安政5年)、諸外国と通商条約を締結し、開国を決定した。",
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"text": "しかし当時の朝廷では攘夷派の公家たちが優勢であったことから、勅許を待たずに調印した条約は無効であるとして、公家たちが幕府と大老・井伊直弼を厳しく非難した。このことから朝廷と幕府との間の緊張が高まり、安政の大獄(同年)や井伊の暗殺(1860年)などの事件が発生した。",
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"text": "そこで幕府は、権力の再構築を図る公武合体政策を提起し、1862年(文久2年)にはロンドン覚書を締結するなどして開国の延期を決定した。また外国勢力も条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、天皇や朝廷の権威が復活することとなった。",
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"text": "他方、在野の倒幕派の志士たちは、水戸学の思想的影響のもと名分論に基づき、攘夷を断行しない幕府に対する討幕論を形成し、薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)、大久保利通、小松清廉、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、広沢真臣、土佐藩の武市瑞山、吉村寅太郎、また公家の岩倉具視などの討幕派らは、王政復古と鎖国の継続を構想するとして活動していた。",
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"text": "公武合体を推していた会津藩や薩摩藩など公武合体派(佐幕派)は、これら討幕派(尊王攘夷派)の鎮圧を図った。薩摩藩は、天誅組の変(1863年)、禁門の変(1864年)などにおいて討幕派を鎮圧していた。長州藩は1863年(文久3年)5月に下関事件を起こした後、朝敵として京都から追放された(八月十八日の政変)。",
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"text": "長州藩はその後も、1864年(元治元年)5月に再び下関戦争を起こしたが、その後の6月に第一次長州征伐が行われた後は佐幕派(俗論派)が藩政を握り、討幕運動は表向きには下火となった。しかしながら、高杉晋作などの正義派は、再び佐幕派を打倒するようになった。1865年(慶応元年)には英国グラバー商会から薩摩藩名義で蒸気船軍艦ユニオン号を購入するなどして武力を蓄えながら、討幕の構想を維持していた。",
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"text": "他方、薩摩藩は1863年に薩英戦争でイギリスの優れた技術力を身をもって経験し、また幕政改革に関する方針が幕府とは異なっていたことから、1866年(慶応2年)3月7日、密かに長州藩と薩長同盟を結んだ。",
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"text": "そして長州藩は6月には幕府の第二次長州征伐の征討軍を撃退し、その権威を低下させることに成功した。",
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"text": "1867年(慶応3年)1月には孝明天皇が35歳で崩御し、14歳の明治天皇が皇位に就くこととなった。その後の5月から行われた四侯会議は不成功に終わり、朝廷は11月9日、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅を下した。そこで薩摩藩は岩倉具視などと協力し、朝廷における幕府の影響力の排除や、長州藩の復権に務めることとなった。",
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"text": "15代将軍である徳川慶喜はこれら討幕派の動きに対し、討幕の密勅と同日の11月9日、大政奉還を行った。大久保利通ら討幕派は当初、ロンドン覚書の開市開国の期日に基づき、1868年(慶応4年)1月2日に王政復古を行う予定であったが、土佐藩の後藤象二郎の要請により延期して、1月3日に王政復古の大号令を発令した(明治政府)、江戸幕府が消滅したため、討幕運動は名目上は終わったかのように見えた。",
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"text": "しかし、幕府を支える勢力は残っており、1月26日に京都で発生した鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が始まった。",
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"text": "新政権の議定であった前越前藩主・松平春嶽は、この戦いは薩摩藩と佐幕派との私闘であるとして政府の関与に反対したが、議定となったばかりの岩倉具視は佐幕派の征討に賛成し、征討軍に錦の御旗を与えたことで、佐幕派の勢力は朝敵と見なされることとなった。",
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"text": "5月3日には江戸幕府の本拠地であった江戸城が無血開城し、大阪城から江戸に戻った徳川慶喜は明治政府に恭順し、このことから江戸城は明治政府に接収され、徳川家による政治機構は消滅した。",
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"text": "ただし、佐幕派はその後も東北諸藩と共に甲州や東北地方、蝦夷地にも及ぶ地域で、朝敵とされながらも抗戦を続け、戊辰戦争はその後も続くこととなった。",
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"text": "島津家が関ヶ原の戦いにおいて西軍に付いたのは、当時の情報収集能力の欠如が原因と言われる。当時の島津家は上方の情勢に疎かったがために西軍に付かざるを得ない状況となり、この反省から、以後薩摩藩は独立王国の様相を呈し始め、各地に密偵を配置し、情報収集力の増強に努めた。また、敵側の密偵が越境してきた場合はたとえ幕府関係者であろうと厳しく断罪し、情報の漏洩防止に努めた。また黒砂糖事業や琉球王国を介した密貿易事業によって着実に内貨外貨を蓄積し続けたことが、幕末に至って西洋式軍備を急速かつ容易に導入できた大きな要因となった。",
"title": "関ヶ原の戦いと薩長土肥各藩における倒幕運動"
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"text": "長州藩の場合、関ヶ原の戦いにおいて毛利家は西軍の総大将であったが敗北し、減封という結果に終わった。長州藩は江戸時代を通じて表向きは幕府に恭順の姿勢をとる普通の藩として存在していたが、藩内には幕府に対する怨恨が蓄積するようになった。それが最も爆発したのは吉田松陰という青年が出現した幕末である。松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約に調印し、また安政の大獄によって志士の弾圧が始まった事を知ると、1858年(安政5年)11月11日に老中・間部詮勝の討伐を藩に願い出た。後に幕府はこの動きを知るところとなり、松陰が処刑されると、これを機に長州藩(松下村塾の塾生)は終始幕府への敵対心をむき出しにし、その結果禁門の変を起こし、二度に渡る幕府からの征討を受けた。この間、俗論党という佐幕派勢力によるクーデターも起き、藩論は一時佐幕に傾いた事もあるが、高杉晋作率いる奇兵隊によって俗論党政権は掃討され、再度藩論は倒幕に動くこととなった。関ヶ原の戦いで生じた怨恨を直に徳川家にぶつけたのが、この長州藩であった。その直接さがゆえ、徳川慶喜は維新後、長州に対しての恨みが消えていったが、佐幕派を装いつつ結果的に寝返った薩摩に対しての恨みは強かったと言われる(司馬遼太郎の小説『最後の将軍 徳川慶喜』『竜馬がゆく』より)。",
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"text": "ここで特筆すべきは藩主・毛利敬親の寛容さである(そうせい侯)。土佐藩主・山内容堂は武士身分に属する郷士階級に対して厳しい差別を行っているが、奇兵隊は土佐郷士より遙かに下層の階級の人々を主力としていた。このことは、明治初期の四民平等政策や徴兵制度による国民皆兵構想の根幹ともなった。",
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"text": "長州藩からは下級の身分から身を起こした人物が多く運動に参加した。山縣有朋や伊藤博文がその代表的な存在で、倒幕運動の中心となり、明治新政府内では栄進を遂げ、旧長州藩勢力を日本の近代化及び富国強兵への原動力に成長させた。",
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"text": "山内家の土佐入封時、掛川城主時代までの家臣(板垣退助らの家系)や土佐入封前に大坂浪人を取り立てたもの(後藤象二郎らの家系)、長宗我部家旧臣の一部(吉田東洋、谷干城らの家系)を上士とし、土佐にいた郎党・地侍を郷士とした区分があったが、土佐藩の場合は、郷士であっても特別な家系や功績によっては上士扱いの白札とするという弾力的な制度も持っていた。武市瑞山は祖父の代より白札郷士であったし、坂本龍馬の大叔父の宮地家なども「庄屋→郷士→白札郷士(上士)」と家格が上がった家である。幕末期には、家老格、中老格、馬廻格、小姓格、留守居格を以て上士を構成した。",
"title": "関ヶ原の戦いと薩長土肥各藩における倒幕運動"
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"text": "「長宗我部氏臣下だった者は下士(郷士)で明確に身分が分けられ長年身分の格差に虐げられてきた」とするのは、司馬遼太郎らによる歴史小説の影響(司馬史観)で史実とは異なる。その結果、幕末には土佐の豊かな風土から独特の豪快ないごっそうという気質が生まれ、板垣退助、後藤象二郎、谷干城、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎といった人材を輩出した。藩論は討幕・佐幕に二分され、山内容堂も「酔っては勤皇、覚めては佐幕」と揶揄されたが、武力討幕を推し進める板垣退助が中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と結んだ薩土討幕の密約を承認し、藩の軍制改革、練兵の近代化を図った。一方で幕府に大政奉還を促し穏健に徳川家を存続させる薩土盟約も承認して、藩内の討幕派・佐幕派の攻防が加速したが、大政奉還は、幕府の権威を段階的に削ぎ落とす効果を発揮した。さらに鳥羽・伏見の戦いにおいて、容堂の静止を振り切り薩土討幕の密約に基づき緒戦より藩士・山田平左衛門、吉松速之助、山地元治、北村重頼らが参戦。これにより勤皇討幕が決定的となり、土佐勤王党で活躍した郷士達は、戊辰戦争では迅衝隊に加わるなど華々しい戦果を挙げた。会津戦争では、会津藩の身分格差が激しく庶民らが幕府に不満を募らせ、官軍の進行を阻む人が居ないばかりか、落城し城主・松平容保が寺へ謹慎する際も見送りに来る人は、一人もおらず、この経験が、板垣退助ら戊辰戦争従軍者らが明治維新以降、自由民権運動に参画する動機ともなった。",
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"text": "関ヶ原で西軍についた鍋島家は同じ西軍の立花宗茂を攻略した事によって家康から旧領を安堵され、35万7千石の肥前藩が誕生したが、この知行高は支藩や鍋島・龍造寺庶流四家の領地を含む表高であり、藩が有する実質的な内高は6万石程度しかなかった。さらに藩が地理的に長崎に程近いため、幕府より筑前藩と1年交代での長崎警固を命じられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかった。その後、江戸期を通じて藩直轄領の拡大(1869年の時点で内高88万石)と中央集権化が行われた事や藩主・鍋島直正が藩政改革に着手した事でようやく藩財政は立ち直り、幕末の日本における産業革命を推進し、日本有数の軍事力と技術力を有するまでに至った。",
"title": "関ヶ原の戦いと薩長土肥各藩における倒幕運動"
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"text": "肥前藩は幕末における最も近代化された藩の一つとなったが、政局に対しては姿勢を明確にすることなく、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。それでも、山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、肥前藩の精神的支柱となり、藩内に倒幕運動の機運を漂わせるようになった。肥前藩が倒幕運動に加わったのは薩長土肥では最も遅く、戊辰戦争に肥前藩兵が派遣されてからであった。つまり、肥前藩は大政奉還が行われるまでは政治力・軍事力ともに行使していない。このことは明治政府に副島種臣、江藤新平、大隈重信らの多数の人物が登用され活躍しながら、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなってしまった一因となっている。",
"title": "関ヶ原の戦いと薩長土肥各藩における倒幕運動"
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] |
倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒す(討幕)ための政治的な運動・活動のことである。 主として日本の江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す革命運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。 また、鎌倉時代末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府打倒の動き(正中の変や元弘の乱)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。 これに対して、室町幕府の場合、足利義昭を追放した織田信長は義昭の将軍職の解任手続を取らなかった上、毛利家などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、豊臣政権下で義昭が准三宮の待遇を受けて出家した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『公卿補任』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。
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'''倒幕運動'''(とうばくうんどう)とは、[[幕府]]を倒す(討幕)ための[[政治]]的な運動・活動のことである。
主として[[日本]]の[[江戸時代]]後期の[[幕末]]に、[[江戸幕府]]を打倒して新政権樹立を目的とした政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした'''討幕運動'''を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す[[革命]]運動も含めて倒幕運動と呼ぶ。
また、[[鎌倉時代]]末期の[[後醍醐天皇]]が主導した[[鎌倉幕府]]打倒の動き([[正中の変]]や[[元弘の乱]])のことも「倒幕運動」と呼ばれる。
これに対して、[[室町幕府]]の場合、[[足利義昭]]を追放した[[織田信長]]は義昭の[[征夷大将軍|将軍職]]の解任手続を取らなかった上、[[毛利氏|毛利家]]などが義昭を将軍として奉じる状態が続き、[[豊臣政権]]下で義昭が准三宮の待遇を受けて[[出家]]した時に自動的に将軍職も失職したと考えられる(『[[公卿補任]]』)ため、「討幕運動」は存在しなかったと言える。
== 概要 ==
江戸時代には[[日本]]の[[古典]]研究などを行う[[国学]]が発達し、王政復古・武家政権批判の流れが生じた。
同時期、外国船の来航も多発した。[[1853年]]([[嘉永]]6年)に[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー]]や[[ロシア帝国]]の[[エフィム・プチャーチン]]らが[[黒船来航|来航]]して[[貿易|通商]]を求め始めたことから、江戸幕府は[[1858年]]([[安政]]5年)、諸外国と[[安政五カ国条約|通商条約]]を締結し、[[開国]]を決定した。
しかし当時の[[朝廷 (日本)|朝廷]]では[[攘夷論|攘夷]]派の[[公家]]たちが優勢であったことから、[[勅許]]を待たずに調印した条約は無効であるとして、公家たちが幕府と[[大老]]・[[井伊直弼]]を厳しく非難した。このことから朝廷と幕府との間の緊張が高まり、[[安政の大獄]](同年)や[[桜田門外の変|井伊の暗殺]]([[1860年]])などの事件が発生した。
そこで幕府は、権力の再構築を図る[[公議政体論|公武合体政策]]を提起し、[[1862年]]([[文久]]2年)には[[ロンドン覚書]]を締結するなどして開国の延期を決定した。また外国勢力も条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、[[天皇]]や朝廷の権威が復活することとなった。
他方、在野の倒幕派の[[志士]]たちは、[[水戸学]]の思想的影響のもと名分論に基づき、攘夷を断行しない幕府に対する討幕論を形成し、[[薩摩藩]]の[[西郷隆盛]](吉之助)、[[大久保利通]]、[[小松清廉]]、[[長州藩]]の桂小五郎([[木戸孝允]])、[[広沢真臣]]、[[土佐藩]]の[[武市瑞山]]、[[吉村虎太郎|吉村寅太郎]]、また公家の[[岩倉具視]]などの討幕派らは、[[王政復古 (日本)|王政復古]]と[[鎖国]]の継続を構想するとして活動していた。
[[公武合体]]を推していた[[会津藩]]や薩摩藩など[[公武合体派]]([[佐幕|佐幕派]])は、これら討幕派([[尊王攘夷]]派)の鎮圧を図った。薩摩藩は、[[天誅組の変]]([[1863年]])、[[禁門の変]]([[1864年]])などにおいて討幕派を鎮圧していた。[[長州藩]]は[[1863年]](文久3年)[[5月]]に[[下関戦争|下関事件]]を起こした後、[[朝敵]]として[[京都]]から追放された([[八月十八日の政変]])。
長州藩はその後も、[[1864年]]([[元治]]元年)5月に再び[[下関戦争]]を起こしたが、その後の[[6月]]に[[長州征討|第一次長州征伐]]が行われた後は佐幕派(俗論派)が藩政を握り、討幕運動は表向きには下火となった。しかしながら、[[高杉晋作]]などの[[正義派]]は、再び佐幕派を打倒するようになった。[[1865年]]([[慶応]]元年)には[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|英国]]グラバー商会から薩摩藩名義で蒸気船軍艦[[ユニオン号]]を購入するなどして武力を蓄えながら、討幕の構想を維持していた。
他方、薩摩藩は1863年に[[薩英戦争]]でイギリスの優れた技術力を身をもって経験し、また[[幕政改革]]に関する方針が幕府とは異なっていたことから、[[1866年]](慶応2年)[[3月7日]]、密かに長州藩と[[薩長同盟]]を結んだ。
そして長州藩は[[6月]]には幕府の第二次長州征伐の征討軍を撃退し、その権威を低下させることに成功した。
[[1867年]](慶応3年)[[1月]]には[[孝明天皇]]が35歳で[[崩御]]し、14歳の[[明治天皇]]が[[皇位]]に就くこととなった。その後の5月から行われた[[四侯会議]]は不成功に終わり、朝廷は[[11月9日]]、薩摩藩と長州藩に[[討幕の密勅]]を下した。そこで薩摩藩は岩倉具視などと協力し、朝廷における幕府の影響力の排除や、長州藩の復権に務めることとなった。
15代将軍である[[徳川慶喜]]はこれら討幕派の動きに対し、討幕の密勅と同日の11月9日、[[大政奉還]]を行った。大久保利通ら討幕派は当初、ロンドン覚書の開市開国の期日に基づき、[[1868年]](慶応4年)[[1月2日]]に[[王政復古]]を行う予定であったが、土佐藩の後藤象二郎の要請により延期して、[[1月3日]]に[[王政復古の大号令]]を発令した([[明治政府]])、江戸幕府が消滅したため、討幕運動は名目上は終わったかのように見えた。
しかし、幕府を支える勢力は残っており、[[1月26日]]に京都で発生した[[鳥羽・伏見の戦い]]を皮切りに、[[戊辰戦争]]が始まった。
新政権の[[議定]]であった前[[福井藩|越前藩]]主・[[松平春嶽]]は、この戦いは薩摩藩と佐幕派との私闘であるとして政府の関与に反対したが、議定となったばかりの岩倉具視は佐幕派の征討に賛成し、征討軍に[[錦の御旗]]を与えたことで、佐幕派の勢力は朝敵と見なされることとなった。
[[5月3日]]には江戸幕府の本拠地であった[[江戸城]]が[[江戸開城|無血開城]]し、[[大阪城]]から[[江戸]]に戻った徳川慶喜は明治政府に恭順し、このことから江戸城は明治政府に接収され、[[徳川氏|徳川家]]による政治機構は消滅した。
ただし、佐幕派はその後も[[奥羽越列藩同盟|東北諸藩]]と共に[[甲州]]や[[東北地方]]、[[蝦夷地]]にも及ぶ地域で、朝敵とされながらも抗戦を続け、戊辰戦争はその後も続くこととなった。
==倒幕への経過==
{{独自研究|section=1|date=2010年11月}}
#[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]は[[徳川家康]]による江戸幕府創設を決定付けると同時に、200年以上の時を超え各[[大名]]に多くの教訓を残した。そして、関ヶ原の戦いで生じた怨恨は倒幕運動の原動力となっていった(後述)。
#[[帝国主義]]時代に入った[[欧米]]列強の進出・[[侵略]]の手は[[東アジア]]にも迫り、[[清|中国]]ではイギリスとの間に[[アヘン戦争]]が起こり[[香港島]]が奪われ、日本ではロシアの[[アダム・ラクスマン]]の来航([[1792年]])といった諸外国が通商を求める出来事や、[[フェートン号事件]]([[1808年]])や[[ゴローニン事件]]([[1811年]])といった摩擦・[[紛争]]が起こり始めた。天下泰平の世の中([[鎖国]]体制下の社会)を乱されたくない・邪魔されたくないといった心情は、攘夷運動になっていった。
#やがて[[1841年]]([[天保]]12年)に[[天保の改革]]が始まると、[[外様大名]]の中から藩政の改革に成功を収める藩が出てくるようになる。奇しくもその筆頭格は、倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐・[[佐賀藩|肥前]]の各藩であった。
#政権を担当する者・勢力はいつの世でもそうすることが多いが、[[黒船]]に象徴される圧倒的な武力を見せ付けられた幕府は、現実的な解として、[[開国]]を選択する。
#朝廷が攘夷の意志を示す。孝明天皇自身が賛同したか否かは意見が一致しない。
#江戸後期ごろ、日本の古典を研究する学問国学のなかから、“外来宗教伝来以前の[[日本人]]固有の考え方”という発想が起こった。[[良寛]]が残した戒語のひとつ「好んで唐言葉を使う」によって表される社会の気分・雰囲気から生まれたものだと思われる。この発想で追求された“日本人固有”の行き着くところは[[天皇]]になり、外圧の高まりとともに[[勤王|尊皇思想]]も高ぶっていくことになった。[[政治]]の重心が、京都に移行する。
#14代将軍・[[徳川家茂]]の上洛の折、京都の治安悪化が懸念され[[浪士組]]が結成される。その浪士組のうち、京に残った派が[[新選組]]を結成(のちに[[憲兵]]のような役割を果たす)。
#朝廷からの攘夷願いを無視できず、幕府は形式的な攘夷命令を諸藩に下す。
#長州藩は下関戦争を引き起こし、砲台を奪われ、領地に侵入され英・[[フランス第二帝政|仏]]・[[オランダ|蘭]]・米の四国連合に大敗する。
#薩摩藩は[[薩英戦争]]で人的損失は少なかったが、[[鹿児島城]]下の10分の1が焼失するという甚大な被害が生じる事となった。
#薩摩藩は、薩英戦争の経験から攘夷は不可能であると判断し、開国に論を変え、藩力の充実と先進技術の取得に努めることになった。長州藩は下関戦争の後、尊皇論を基盤に藩論は攘夷で維持していたが、1865年(慶応元年)、[[日米修好通商条約]]に孝明天皇が勅許を出したことにより尊皇と攘夷は結びつかなくなり、攘夷の力が失われた。土佐藩の[[坂本龍馬]]らの仲介があって、薩摩藩と長州藩は和解、[[薩長同盟]]を結ぶ。その後、西の諸藩が倒幕の元に結集する。
#長州藩は、[[長州正義派|俗論党]]により途中「幕府恭順」姿勢を見せるも、その前後は反幕府という姿勢だった。
#薩摩藩・土佐藩などは、当初は[[公武合体]]・徳川家を議長とする諸侯会議を目標としていたが、ある段階から幕府を見切り、それまでの敵の長州藩と手を結んだ。
#1867年(慶応3年)11月9日に密かに薩長に討幕の密勅がだされた(偽勅説もある)。しかし、元土佐藩主・[[山内容堂]]らの進言・尽力により、同じ日に将軍・徳川慶喜は大政を奉還した。
== 関ヶ原の戦いと薩長土肥各藩における倒幕運動 ==
=== 薩摩藩 ===
<!-- {{独自研究|section=1|date=2008年11月}} -->
[[島津氏|島津家]]が[[関ヶ原の戦い]]において[[西軍]]に付いたのは、当時の情報収集能力の欠如が原因と言われる。当時の島津家は[[上方]]の情勢に疎かったがために西軍に付かざるを得ない状況となり、この反省から、以後薩摩藩は独立王国の様相を呈し始め、各地に密偵を配置し、情報収集力の増強に努めた。また、敵側の[[スパイ|密偵]]が越境してきた場合はたとえ幕府関係者であろうと厳しく断罪し、情報の漏洩防止に努めた。また[[黒砂糖]]事業や[[琉球王国]]を介した[[密輸|密貿易]]事業によって着実に内貨外貨を蓄積し続けたことが、幕末に至って西洋式軍備を急速かつ容易に導入できた大きな要因となった。
=== 長州藩 ===
長州藩の場合、[[関ヶ原の戦い]]において毛利家は[[西軍]]の総大将であったが敗北し、減封という結果に終わった。長州藩は江戸時代を通じて表向きは幕府に恭順の姿勢をとる普通の藩として存在していたが、藩内には幕府に対する怨恨が蓄積するようになった。それが最も爆発したのは[[吉田松陰]]という青年が出現した幕末である。松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約に調印し、また安政の大獄によって志士の弾圧が始まった事を知ると、[[1858年]](安政5年)[[11月11日]]に[[老中]]・[[間部詮勝]]の討伐を藩に願い出た。後に幕府はこの動きを知るところとなり、松陰が処刑されると、これを機に長州藩(松下村塾の塾生)は終始幕府への敵対心をむき出しにし、その結果[[禁門の変]]を起こし、二度に渡る幕府からの征討を受けた。この間、俗論党という佐幕派勢力によるクーデターも起き、藩論は一時佐幕に傾いた事もあるが、[[高杉晋作]]率いる[[奇兵隊]]によって俗論党政権は掃討され、再度藩論は倒幕に動くこととなった。関ヶ原の戦いで生じた怨恨を直に徳川家にぶつけたのが、この長州藩であった。その直接さがゆえ、徳川慶喜は維新後、長州に対しての恨みが消えていったが、佐幕派を装いつつ結果的に寝返った薩摩に対しての恨みは強かったと言われる([[司馬遼太郎]]の小説『[[最後の将軍 徳川慶喜]]』『[[竜馬がゆく]]』より)。
ここで特筆すべきは藩主・[[毛利敬親]]の寛容さである(そうせい侯)。土佐藩主・山内容堂は武士身分に属する[[郷士]]階級に対して厳しい差別を行っているが、奇兵隊は土佐郷士より遙かに下層の階級の人々を主力としていた。このことは、明治初期の[[士農工商|四民平等]]政策や[[徴兵制度]]による[[国民皆兵]]構想の根幹ともなった。
長州藩からは下級の身分から身を起こした人物が多く運動に参加した。[[山縣有朋]]や[[伊藤博文]]がその代表的な存在で、倒幕運動の中心となり、[[明治]]新政府内では栄進を遂げ、旧長州藩勢力を日本の近代化及び富国強兵への原動力に成長させた。<!--しかし、彼ら長州[[藩閥|閥]]勢力が一人勝ちをしていくなかで、旧長州藩の人脈は'''長閥'''と呼ばれ明治中期から大正にかけて世間から嫌悪される結果となった。--><!--POV/脱線-->
=== 土佐藩 ===
[[土佐山内氏|山内家]]の[[土佐国|土佐]]入封時、[[掛川城]]主時代までの家臣([[板垣退助]]らの家系)や土佐入封前に[[大阪|大坂]][[浪人]]を取り立てたもの([[後藤象二郎]]らの家系)、[[長宗我部氏|長宗我部家]]旧臣の一部([[吉田東洋]]、[[谷干城]]らの家系)を[[上士]]とし、土佐にいた郎党・[[地侍]]を郷士とした区分があったが、土佐藩の場合は、郷士であっても特別な家系や功績によっては上士扱いの白札とするという弾力的な制度も持っていた。武市瑞山は祖父の代より白札郷士であったし、坂本龍馬の大叔父の宮地家なども「[[庄屋]]→[[郷士]]→白札郷士(上士)」と家格が上がった家である。幕末期には、[[家老|家老格]]、中老格、[[馬廻|馬廻格]]、[[小姓|小姓格]]、[[留守居|留守居格]]を以て上士を構成した。
==== 長宗我部旧臣系の上士 ====
*[[吉田氏#土佐吉田氏|吉田氏]] - [[吉田東洋]]、[[吉田正春]]
*[[武市正恒#来歴|武市氏]] - [[武市正恒]]、[[武市瑞山]]
*[[宮地信貞#家族|宮地氏]] - [[宮地信貞]]([[坂本龍馬]]の大叔父)、[[宮地茂春]]
*[[大黒清勝#家族|大黒氏]] - [[大黒清勝]]([[無双直伝英信流]][[居合]]宗家)
*[[池田氏]]・[[林氏]] - [[林政誠]]、[[池田政承]]([[無双直伝英信流]][[居合]]宗家)
*[[谷氏]] - [[谷秦山]]、[[谷干城]]
*[[本山氏]] - [[本山茂任]]
*[[明神善秀#家族|明神氏]] - [[明神善秀]]
「長宗我部氏臣下だった者は下士(郷士)で明確に身分が分けられ長年身分の格差に虐げられてきた」とするのは、司馬遼太郎らによる[[歴史小説]]の影響(司馬史観)で史実とは異なる。その結果、幕末には土佐の豊かな風土から独特の豪快な[[いごっそう]]という気質が生まれ、板垣退助、後藤象二郎、谷干城、武市瑞山、坂本龍馬、[[中岡慎太郎]]といった人材を輩出した。藩論は討幕・佐幕に二分され、山内容堂も「酔っては勤皇、覚めては佐幕」と揶揄されたが、武力討幕を推し進める板垣退助が中岡慎太郎の仲介で西郷隆盛と結んだ'''[[薩土密約|薩土討幕の密約]]'''を承認し、藩の軍制改革、練兵の近代化を図った。一方で幕府に'''大政奉還'''を促し穏健に徳川家を存続させる'''[[薩土盟約]]'''も承認して、藩内の討幕派・佐幕派の攻防が加速したが、大政奉還は、幕府の権威を段階的に削ぎ落とす効果を発揮した。さらに鳥羽・伏見の戦いにおいて、容堂の静止を振り切り薩土討幕の密約に基づき緒戦より藩士・[[山田平左衛門]]、[[吉松速之助]]、[[山地元治]]、[[北村重頼]]らが参戦。これにより勤皇討幕が決定的となり、[[土佐勤王党]]で活躍した郷士達は、戊辰戦争では[[迅衝隊]]に加わるなど華々しい戦果を挙げた。[[会津戦争]]では、会津藩の身分格差が激しく庶民らが幕府に不満を募らせ、[[官軍]]の進行を阻む人が居ないばかりか、落城し城主・[[松平容保]]が寺へ謹慎する際も見送りに来る人は、一人もおらず、この経験が、板垣退助ら戊辰戦争従軍者らが明治維新以降、[[自由民権運動]]に参画する動機ともなった。{{main|薩土討幕の密約}}
=== 肥前藩 ===
関ヶ原で西軍についた[[鍋島氏|鍋島家]]は同じ西軍の[[立花宗茂]]を攻略した事によって家康から旧領を安堵され、35万7千石の[[佐賀藩|肥前藩]]が誕生したが、この知行高は支藩や鍋島・[[龍造寺四家|龍造寺庶流四家]]の領地を含む[[表高]]であり、藩が有する実質的な[[内高]]は6万石程度しかなかった。さらに藩が地理的に長崎に程近いため、幕府より[[福岡藩|筑前藩]]と1年交代での長崎警固を命じられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかった。その後、江戸期を通じて藩直轄領の拡大([[1869年]]の時点で内高88万石)と[[中央集権|中央集権化]]が行われた事や藩主・[[鍋島直正]]が[[藩政改革]]に着手した事でようやく藩財政は立ち直り、幕末の日本における産業革命を推進し、日本有数の軍事力と技術力を有するまでに至った。
肥前藩は幕末における最も[[近代化]]された藩の一つとなったが、政局に対しては姿勢を明確にすることなく、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。それでも、[[山本常朝]]の口述を著した「[[武士道]]とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、肥前藩の精神的支柱となり、藩内に倒幕運動の機運を漂わせるようになった。肥前藩が倒幕運動に加わったのは[[薩長土肥]]では最も遅く、戊辰戦争に肥前藩兵が派遣されてからであった。つまり、肥前藩は大政奉還が行われるまでは政治力・軍事力ともに行使していない。このことは明治政府に[[副島種臣]]、[[江藤新平]]、[[大隈重信]]らの多数の人物が登用され活躍しながら、肥前勢力が中央で[[薩長|薩長閥]]に比べて相対的に小さくなってしまった一因となっている。
== 脚注 ==
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==関連項目==
*[[宝暦事件]] - 江戸時代中期、公家勢力により構想された倒幕運動
* [[慶長遣欧使節]] - スペインとの軍事同盟を利用して倒幕を考えていたという説がある。
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レナード・バーンスタイン
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レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。
バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。
ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。
1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。
1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。
1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られる。
1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌1990年6月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。
これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。
1990年6月には札幌で自ら創設した国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、すでにバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。満72歳没。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。
バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF(7月3日)、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。逝去する3ヶ月前、PMFのために札幌芸術の森で行われたリハーサルの模様や最晩年の様子はNHK特集「バーンスタイン」に収録され放映された。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇陛下が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。
ヘビースモーカーとして有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲むことを日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。
バーンスタインがカラヤンと初めて会ったのは1948年、彼がまだ30歳のときであった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色が多い。
ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。佐渡裕の話によれば、1988年秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。
カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌1989年7月16日にカラヤンが死去した時、パリの演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の9月16日にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の弦楽合奏版を指揮した。
特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲はモーツァルトの交響曲第40番、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」など。
なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンから持ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。
これを受けてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィルを指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によってついに果たされることはなかった。
カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザールにカラヤンを訪ねたときのことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。
バーンスタインの若いころ、自宅で「トスカニーニの指揮する」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはそのことを聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。
1950年、フルトヴェングラーがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きにいき、特にブラームスの交響曲第1番に魅了された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、ナチスの協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きにいき、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。
詳しくは「フリッツ・ライナー#エピソード」を参照。
前述の通り、若き日のバーンスタインはカーティス音楽院でライナーに師事して指揮法を習っている。バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。「ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。彼こそまさに天才だった。指揮で私が高い水準に達することができたのは、ライナーの指導の賜物である。だからこそ私は、今も彼を崇拝しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴は天才だ」と評して指導に力をいれ、卒業の時には他の弟子には決して与えることがなかった最高ランクの「A」評価をつけた。
同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られるセルジュ・チェリビダッケの矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなったときちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだといわれている。
12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、1992年1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。
バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として共産主義に傾倒していた。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していた。
バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人が癌だと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密にふるまうことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのはホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と答えたという。また、ファーリー・グレンジャーは2007年に出版した自伝のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。
最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「ピーター・グライムズ 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。 ( 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636)
小惑星(4476) Bernsteinはバーンスタインの名前にちなんで命名された。
2023年、バーンスタインと妻フェリシアが歩んだ紆余曲折に満ちた愛と葛藤の人生を描いた映画『マエストロ: その音楽と愛と』が制作された。ブラッドリー・クーパー(兼監督・脚本・製作)がバーンスタインを演じた。
レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。
バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、アメリカ国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた者たち(トスカニーニ、ワルター、モントゥー、オーマンディなど)であり、ブルーノ・ワルターのように第二次世界大戦の難を逃れてきた者も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。1953年12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノ・スカラ座の客演指揮に招かれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮した。1950年代前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインとイタリアのグィド・カンテルリの2人だった。
1954年11月18日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957年に代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。
ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代、バーンスタインの主要レパートリーはCBSレコード(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は1963年作曲の交響曲第3番『カディッシュ』と1965年作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」1964年-1965年のシーズンは休みを取ったほどである。1966年にバーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。
1969年を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人気を集めた。1970年代半ばにはCBSレコードとの独占録音契約を離れ、ドイツ・グラモフォンおよびEMIと録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタイン最後のコンサートのライブ録音まで続くことになる。CBSレコード時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人により、また曲によりまちまちである。
グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時にユニテルや放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979年から1981年に発表されたベートーヴェンの交響曲全集と序曲集・弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)および『ミサ・ソレムニス』は、マクシミリアン・シェルとバーンスタインによる楽曲解説を含むオーストリア放送協会ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。
この時期、1979年10月4日・5日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と1度限りの共演が行われた。曲目は、マーラーの交響曲第9番で、バーンスタインの没後1992年に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手が今なお多い。
若い頃には情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団であった。
2000年10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。なかには正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され(ワーグナー『神々の黄昏』、ブルックナーの交響曲第6番など)、ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)とのシューマンのチェロ協奏曲などの珍しい共演も正式な録音として発売された。
バーンスタインはまた、積極的に現代曲の演奏にも取り組んだ。自身の曲に加えて、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、コープランド、アイヴズ等の作品を積極的に紹介した。現代音楽の分野においても、代表的には、メシアンのトゥーランガリラ交響曲の世界初演を担った他、ニューヨーク・フィル等と共に、ヴァレーズの「インテグラル」と「アルカナ」、デニソフの「クレッシェンドとディミヌェンド」、ブーレーズの『プリ・スロン・プリ』より「マラルメによる即興第1」、フェルドマン『最後の作品』から、ジョン・ケージの「黄道の地図」、エリオット・カーターの「管弦楽のための協奏曲」、メシアンの「神の現存についての3つの小典礼」、リゲティの「アトモスフェール」、クセナキスの「ヒトプラクタ」、ダッラピッコラの「タルティニアーナ」、ガンサー・シュラーの「トリプラム」など様々な録音を残している。そのほかにも、とりわけアメリカの現代作曲家の作品を中心に多くの現代曲を振っている。また、邦人作曲家では黛敏郎の「饗宴」を好んで指揮したという。 また、バーンスタインはテレビ向けにシェーンベルクの解説をしてことはあるが、シェーンベルクの録音は残していない。一方で同じ新ウィーン楽派に属するヴァーベルンやベルクの作品は録音している。
バーンスタインがニューヨーク・フィルで振った多くの曲のスコアは、バーンスタインの書き込みが入った形のまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索・閲覧することができる。
初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。
いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージをはらみながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴といえる。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。
作風はひとことでいえば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中でジャズやクラシックなどのさまざまな音楽の要素を巧みに織り交ぜることは、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。
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"text": "レナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918年8月25日 - 1990年10月14日)は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。",
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"text": "バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。",
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"text": "ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学ぶ。彼が指揮者を志したのはディミトリ・ミトロプーロスの刺激だった。指揮ではフリッツ・ライナーやセルゲイ・クーセヴィツキーに師事し、作曲はウォルター・ピストンに師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。",
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"text": "1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。",
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"text": "1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。",
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"text": "1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られる。",
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"text": "1985年8月に広島を訪れ、被爆40周年を悼むための「広島平和コンサート」を開催した。1989年のクリスマスには、直前に起きたベルリンの壁崩壊を受け、ベルリンで東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーでベートーヴェンの交響曲第9番を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌1990年6月にも、民主化されたチェコスロバキアのプラハの春音楽祭で同曲を指揮した。",
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"text": "これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。",
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"text": "1990年6月には札幌で自ら創設した国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、すでにバーンスタインは病に冒されていた。同年8月19日のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去した。満72歳没。この年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。",
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"text": "バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回(1961年、1970年、1974年、1979年)はニューヨーク・フィルを率いて。1985年には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF(7月3日)、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。逝去する3ヶ月前、PMFのために札幌芸術の森で行われたリハーサルの模様や最晩年の様子はNHK特集「バーンスタイン」に収録され放映された。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、7月10日の演奏会に天皇陛下が招待されていたことや、自作(「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス)を弟子の大植英次に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。",
"title": "人物・来歴"
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"text": "ヘビースモーカーとして有名で、14歳の時に煙草を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、1986年(68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに肺気腫の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名なミュンヘンの音楽評論家であるヨアヒム・カイザーの談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)とウイスキー1本を飲むことを日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた佐渡裕の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。",
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"text": "バーンスタインがカラヤンと初めて会ったのは1948年、彼がまだ30歳のときであった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色が多い。",
"title": "エピソード"
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"text": "ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。佐渡裕の話によれば、1988年秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。",
"title": "エピソード"
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"text": "カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌1989年7月16日にカラヤンが死去した時、パリの演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の9月16日にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番の弦楽合奏版を指揮した。",
"title": "エピソード"
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"text": "特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲はモーツァルトの交響曲第40番、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」など。",
"title": "エピソード"
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"text": "なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンから持ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。",
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"text": "これを受けてカラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィルを指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によってついに果たされることはなかった。",
"title": "エピソード"
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"text": "カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、ウィーン・ムジークフェラインザールにカラヤンを訪ねたときのことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。",
"title": "エピソード"
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"text": "バーンスタインの若いころ、自宅で「トスカニーニの指揮する」ベルリオーズの「ロメオとジュリエット」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはそのことを聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなくシャルル・ミュンシュであった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。",
"title": "エピソード"
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"text": "1950年、フルトヴェングラーがアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きにいき、特にブラームスの交響曲第1番に魅了された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、ナチスの協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きにいき、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "詳しくは「フリッツ・ライナー#エピソード」を参照。",
"title": "エピソード"
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"text": "前述の通り、若き日のバーンスタインはカーティス音楽院でライナーに師事して指揮法を習っている。バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。「ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。彼こそまさに天才だった。指揮で私が高い水準に達することができたのは、ライナーの指導の賜物である。だからこそ私は、今も彼を崇拝しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴は天才だ」と評して指導に力をいれ、卒業の時には他の弟子には決して与えることがなかった最高ランクの「A」評価をつけた。",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られるセルジュ・チェリビダッケの矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなったときちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだといわれている。",
"title": "エピソード"
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"text": "12歳下であるカルロス・クライバーをバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮したプッチーニの「ラ・ボエーム」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、1992年1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとのニューイヤーコンサートの指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、ジュゼッペ・シノーポリが来日した。",
"title": "エピソード"
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"text": "バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として共産主義に傾倒していた。バーンスタインは熱心な民主党支持者であり、ジョン・F・ケネディ大統領を理想の政治家として尊敬していた。",
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"text": "バーンスタインは師匠のミトロプーロスと同じく、同性愛傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人が癌だと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密にふるまうことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのはホミンテルン(ホモ+コミンテルン)なんだぜ」と答えたという。また、ファーリー・グレンジャーは2007年に出版した自伝のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。",
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"paragraph_id": 26,
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"text": "最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「ピーター・グライムズ 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。 ( 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636)",
"title": "エピソード"
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"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "小惑星(4476) Bernsteinはバーンスタインの名前にちなんで命名された。",
"title": "エピソード"
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"text": "2023年、バーンスタインと妻フェリシアが歩んだ紆余曲折に満ちた愛と葛藤の人生を描いた映画『マエストロ: その音楽と愛と』が制作された。ブラッドリー・クーパー(兼監督・脚本・製作)がバーンスタインを演じた。",
"title": "エピソード"
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"text": "レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。",
"title": "指揮活動"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、アメリカ国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた者たち(トスカニーニ、ワルター、モントゥー、オーマンディなど)であり、ブルーノ・ワルターのように第二次世界大戦の難を逃れてきた者も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。1953年12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めてミラノ・スカラ座の客演指揮に招かれ、ケルビーニのオペラ『メデア』を指揮した。1950年代前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインとイタリアのグィド・カンテルリの2人だった。",
"title": "指揮活動"
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"text": "1954年11月18日、バーンスタインはCBSのテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、ベートーヴェンの交響曲第5番の解説を行った。これが一連の教育番組『青少年コンサート』(Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった1957年に代表作『ウエスト・サイド物語』が生み出された。",
"title": "指揮活動"
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"text": "ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代、バーンスタインの主要レパートリーはCBSレコード(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーなどの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は1963年作曲の交響曲第3番『カディッシュ』と1965年作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」1964年-1965年のシーズンは休みを取ったほどである。1966年にバーンスタインは初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。",
"title": "指揮活動"
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"text": "1969年を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人気を集めた。1970年代半ばにはCBSレコードとの独占録音契約を離れ、ドイツ・グラモフォンおよびEMIと録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタイン最後のコンサートのライブ録音まで続くことになる。CBSレコード時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人により、また曲によりまちまちである。",
"title": "指揮活動"
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"text": "グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時にユニテルや放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979年から1981年に発表されたベートーヴェンの交響曲全集と序曲集・弦楽四重奏曲第14番(弦楽合奏版)および『ミサ・ソレムニス』は、マクシミリアン・シェルとバーンスタインによる楽曲解説を含むオーストリア放送協会ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。",
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"text": "この時期、1979年10月4日・5日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と1度限りの共演が行われた。曲目は、マーラーの交響曲第9番で、バーンスタインの没後1992年に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手が今なお多い。",
"title": "指揮活動"
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"text": "若い頃には情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そしてイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団であった。",
"title": "指揮活動"
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"text": "2000年10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。なかには正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され(ワーグナー『神々の黄昏』、ブルックナーの交響曲第6番など)、ヴィルヘルム・ケンプ(ピアノ)とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)とのシューマンのチェロ協奏曲などの珍しい共演も正式な録音として発売された。",
"title": "指揮活動"
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"text": "バーンスタインはまた、積極的に現代曲の演奏にも取り組んだ。自身の曲に加えて、ショスタコーヴィチ、ストラヴィンスキー、コープランド、アイヴズ等の作品を積極的に紹介した。現代音楽の分野においても、代表的には、メシアンのトゥーランガリラ交響曲の世界初演を担った他、ニューヨーク・フィル等と共に、ヴァレーズの「インテグラル」と「アルカナ」、デニソフの「クレッシェンドとディミヌェンド」、ブーレーズの『プリ・スロン・プリ』より「マラルメによる即興第1」、フェルドマン『最後の作品』から、ジョン・ケージの「黄道の地図」、エリオット・カーターの「管弦楽のための協奏曲」、メシアンの「神の現存についての3つの小典礼」、リゲティの「アトモスフェール」、クセナキスの「ヒトプラクタ」、ダッラピッコラの「タルティニアーナ」、ガンサー・シュラーの「トリプラム」など様々な録音を残している。そのほかにも、とりわけアメリカの現代作曲家の作品を中心に多くの現代曲を振っている。また、邦人作曲家では黛敏郎の「饗宴」を好んで指揮したという。 また、バーンスタインはテレビ向けにシェーンベルクの解説をしてことはあるが、シェーンベルクの録音は残していない。一方で同じ新ウィーン楽派に属するヴァーベルンやベルクの作品は録音している。",
"title": "指揮活動"
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"text": "バーンスタインがニューヨーク・フィルで振った多くの曲のスコアは、バーンスタインの書き込みが入った形のまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索・閲覧することができる。",
"title": "指揮活動"
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"text": "初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。",
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"text": "いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、ユダヤ教の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージをはらみながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴といえる。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。",
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レナード・バーンスタイン は、ユダヤ系アメリカ人の指揮者、作曲家であり、ピアニストとしても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、ヘルベルト・フォン・カラヤンやゲオルク・ショルティらと並んで、20世紀後半のクラシック音楽界をリードしてきたスター音楽家だった。愛称はレニー。妻は、チリ出身の女優・ピアニストの、フェリシア・モンテアレグレ。
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{{参照方法|date=2010年6月}}
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = レナード・バーンスタイン<br /><small>Leonard Bernstein</small>
| Img = File:Leonard Bernstein by Jack Mitchell.jpg
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{{Portal クラシック音楽}}
[[File:Signature of Leonard Bernstein.svg|thumb|200px|バーンスタインのサイン]]
'''レナード・バーンスタイン''' ({{Lang|en|Leonard Bernstein}}、[[1918年]][[8月25日]] - [[1990年]][[10月14日]])は、[[ユダヤ人|ユダヤ系]][[アメリカ合衆国|アメリカ人]]の[[指揮者]]、[[作曲家]]であり、[[ピアニスト]]としても知られている。アメリカが生んだ最初の国際的レベルの指揮者であり、[[ヘルベルト・フォン・カラヤン]]や[[ゲオルク・ショルティ]]らと並んで、[[20世紀]]後半の[[クラシック音楽]]界をリードしてきた音楽家だった。愛称はレニー。妻は、[[チリ]]出身の[[俳優|女優]]・[[ピアニスト]]の、フェリシア・モンテアレグレ。
== 人物・来歴 ==
バーンスタインは、[[ウクライナ]]系[[ユダヤ人]]移民の2世として、[[マサチューセッツ州]][[ローレンス (マサチューセッツ州)|ローレンス]]に生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔な[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた[[蓄音機]]の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。
[[ボストン・ラテン・スクール]]を経て、[[ハーバード大学]]・[[カーティス音楽学校|カーティス音楽院]]で学ぶ。彼が指揮者を志したのは[[ディミトリ・ミトロプーロス]]の刺激だった。指揮では[[フリッツ・ライナー]]や[[セルゲイ・クーセヴィツキー]]に師事し、作曲は[[ウォルター・ピストン]]に師事した。ピアノはイサベラ・ヴェンゲーロワに師事している。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったが、[[1943年]]夏に[[アルトゥール・ロジンスキ]]の指名により[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]の「副指揮者」(Assistant Conductor)に就任した。
[[1943年]][[11月14日]]、病気のため指揮できなくなった大指揮者[[ブルーノ・ワルター]]の代役として[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]](現・[[ニューヨーク・フィルハーモニック]])を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こす。この時の曲目は以下の通りである。
* [[ロベルト・シューマン]]『[[マンフレッド (シューマン)|マンフレッド序曲]]』
* [[ロージャ・ミクローシュ|ミクロス・ローザ]](ハンガリー出身の作曲家、映画「[[ベン・ハー (1959年の映画)|ベン・ハー]]」の音楽などが代表作)『主題、変奏曲と終曲 Op.13a』
* [[リヒャルト・シュトラウス]]『[[ドン・キホーテ (交響詩)|ドン・キホーテ]]』(チェロ:ジョゼフ・シュスター、ヴィオラ:ウィリアム・リンサー)
* [[リヒャルト・ワーグナー]]『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』第1幕前奏曲
[[1958年]]、アメリカ生まれの指揮者として史上初めて[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団]]の音楽監督に就任する。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|CBSレコード]]と録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。
[[1969年]]にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団|ウィーン・フィル]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団|イスラエル・フィル]]、[[バイエルン放送交響楽団]]、[[ロンドン交響楽団]]、[[フランス国立管弦楽団]]などに客演した。ことに同じユダヤ系作曲家である[[グスタフ・マーラー]]の交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、数々の演奏を残した。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、[[テレビ]]放送でクラシック音楽や[[ジャズ]]についての啓蒙的な解説を演奏を交えて行った。[[マイケル・ティルソン・トーマス]]、[[小澤征爾]]、[[大植英次]]、[[佐渡裕]]など多くの弟子を世に送り出したことでも知られる。
[[File:1985-9-3 Leonard BernsteinImg、Israel Philharmonic Orchestra in Osaka Festival Hall, Mahler Symphony No. 9 in D major 861☆彡.jpg|thumb|280px|left|[[1985年]]、[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]との来日時([[大阪フェスティバルホール]]にて。曲目は[[マーラー]][[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]<ref name="itscom.net">{{Cite web|和書|url=http://home.t08.itscom.net/iwalin/nihon_kouen.html|title=Leonard Bernstein - バーンスタインの日本公演の記録です。|accessdate=2023-2-21}}</ref>。]]
[[1985年]]8月に[[広島市|広島]]を訪れ、被爆40周年を悼むための「[[広島平和コンサート]]」を開催した。[[1989年]]のクリスマスには、直前に起きた[[ベルリンの壁崩壊]]を受け、[[ベルリン]]で東西ドイツ・アメリカ・ソ連・フランス・イギリスの各オーケストラの混成メンバーで[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|交響曲第9番]]を指揮、この時第4楽章の「歓喜の歌」の“Freude”を“Freiheit(自由)”にして演奏し、東西冷戦終結を象徴する演奏会として記憶されることとなった。また翌[[1990年]]6月にも、民主化された[[チェコスロバキア]]の[[プラハの春音楽祭]]で同曲を指揮した。
これらのように音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。
[[File:Leonard Bernstein Grave, Sunset, Green-Wood Cemetery.jpg|thumb|180px|バーンスタインの墓]]
[[1990年]]6月には[[札幌市|札幌]]で自ら創設した国際教育音楽祭、[[パシフィック・ミュージック・フェスティバル]](PMF)を開始し、後進の育成にも力を入れようとしていたが、すでにバーンスタインは病に冒されていた。同年[[8月19日]]の[[タングルウッド音楽祭]]における[[ボストン交響楽団]]との演奏([[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]:「4つの海の間奏曲」、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]:[[交響曲第7番 (ベートーヴェン)|交響曲第7番]])が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明する。それから5日後の[[10月14日]]に、[[肺癌]]のため[[ニューヨーク]]市内の自宅で逝去した。{{没年齢2|1918|8|25|1990|10|14}}。この年に[[高松宮殿下記念世界文化賞]]を受賞している。
バーンスタインは生涯に7度来日した。最初の4回([[1961年]]、[[1970年]]、[[1974年]]、[[1979年]])はニューヨーク・フィルを率いて。[[1985年]]には8月上旬に前述の「広島平和コンサート」を開催し、9月前半にはイスラエル・フィルを率いて来日公演を行った。最後(1990年)はPMF(7月3日)、それに続いてロンドン交響楽団を率い、東京で2回の公演を行った。逝去する3ヶ月前、PMFのために札幌芸術の森で行われたリハーサルの模様や最晩年の様子はNHK特集「バーンスタイン」に収録され放映された。しかし、バーンスタインの病状悪化が周囲に知らされず、2回の東京公演以降に予定されていた演奏会をキャンセルし、途中でアメリカに帰国することになる。この一件は、[[7月10日]]の演奏会に[[明仁|天皇]]陛下が招待されていたことや、自作([[ウエスト・サイド物語|「ウェスト・サイド・ストーリー」よりシンフォニック・ダンス]])を弟子の[[大植英次]]に指揮させたこともあり、観客の一部と主催者との間にトラブルを起こす事態にまで発展した。
== エピソード ==
=== ヘビースモーカー ===
ヘビースモーカーとして有名で、14歳の時に[[煙草]]を覚えたという。煙草にまつわるエピソードも多く、[[1986年]](68歳の時)には米国の新聞紙面で「私は20歳代の半ばに[[肺気腫]]の兆候があると診断された。煙草をやめなければ35歳までに死ぬと言われた」と語ったことがある。著名な[[ミュンヘン]]の音楽評論家である[[ヨアヒム・カイザー]]の談話によれば、彼は1日に煙草を100本(5箱)と[[ウイスキー]]1本を飲むことを日課としていたという。また、晩年にアシスタントを務めた[[佐渡裕]]の著書によれば、しばしば「今日で禁煙するが、最後に1本だけ」と煙草に火をつけ、結局やめたことはなかったという。
=== カラヤン ===
[[File:Bundesarchiv Bild 183-R92264, Herbert von Karajan.jpg|thumb|250px|ヘルベルト・フォン・カラヤン]]
バーンスタインが[[ヘルベルト・フォン・カラヤン|カラヤン]]と初めて会ったのは[[1948年]]、彼がまだ30歳のときであった。音楽ファンから“ライバル”とみなされてきた2人だけに、おびただしい数に及ぶ比較などが行われ、2人に関連して語られるエピソードには脚色が多い。
ウィーンでは、バーンスタインの演奏会の前後にカラヤンの演奏会が開かれることがよくあった。[[佐渡裕]]の話によれば、[[1988年]]秋のある日のこと、佐渡はバーンスタインの演奏会の翌日にあったカラヤンの演奏会の前売り券を購入した。自分の演奏会の翌日にカラヤンの演奏会があることを知ったバーンスタインは佐渡に「明日(カラヤンの演奏会に)行くのか?」と尋ね、佐渡が「行きます」と告白したところ「俺も連れてってくれよ」。佐渡とマネージャーが「あなたが行けば、マスコミがスキャンダラスに書き立てるから」と行くことを断念するよう説得したが、「俺はヤツの音楽は嫌いなんだけど、ヤツの顔が見たいんだ」。翌日、お忍びでカラヤンの演奏会場に出現したバーンスタインは、舞台裏で“めでたく”カラヤンと対面したという。
カラヤンの伝記作者リチャード・オズボーンによれば、カラヤンは1988年4月5日、80歳の誕生日祝いのバースデー・カードをバーンスタインから受け取ったという。翌[[1989年]][[7月16日]]にカラヤンが死去した時、[[パリ]]の演奏会でこのニュースに接したバーンスタインは、彼のために2分間の黙祷を捧げ、2ヶ月後の[[9月16日]]にウィーン・フィルが開いたカラヤン追悼演奏会では、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[弦楽四重奏曲第16番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第16番]]の[[弦楽合奏]]版を指揮した。
特に若い頃は、お互いに相手の才能を認め合っていたと、オズボーンは記している。1958年にニューヨーク・フィルの客演にカラヤンを招聘したのもバーンスタインであった。カラヤンは11月13日から23日にかけて、合計8回の演奏会を指揮している。曲は[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[交響曲第40番 (モーツァルト)|交響曲第40番]]、[[リヒャルト・シュトラウス]]の「[[英雄の生涯]]」など。
なお、カラヤンとバーンスタインの間に本当に確執があったかどうかであるが、少なくともバーンスタインは音楽ジャーナリストのエンリーコ・カスティリォーネとの対談においてこれを完全に否定している。そればかりか、カラヤンの亡くなる少し前、そうした噂を一挙に払拭するために同じ演奏会で指揮台を分け合うという合同演奏会の話をカラヤンから持ちかけられたといい、バーンスタインはこれをすぐに受け入れた。
これを受けてカラヤンがバーンスタインに「[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]を指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」という理由からウィーン・フィルでの演奏会を望んだ。カラヤンはこの選択を非常に喜んだという。二人はこの演奏会を心待ちにしていたが、カラヤンの死によってついに果たされることはなかった。
カラヤンが没した翌夏、札幌でのパーティでバーンスタインに同席した音楽評論家クラウス・ガイテルによれば、バーンスタインは、[[ウィーン楽友協会|ウィーン・ムジークフェラインザール]]にカラヤンを訪ねたときのことを、カラヤンへの深い尊敬の念とともに語ったという。
=== トスカニーニ ===
バーンスタインの若いころ、自宅で「[[アルトゥーロ・トスカニーニ|トスカニーニ]]の指揮する」[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]の「[[ロメオとジュリエット (ベルリオーズ)|ロメオとジュリエット]]」のレコードを聴いていたところ、ふと疑問に思う演奏箇所があったため、バーンスタインはそのことを聞くためにトスカニーニの自宅を訪問し面会した。しかし、レコード室を管理していたトスカニーニの息子が外出しており、「疑問点に関しては後ほど手紙で答えよう」ということになった。ところが、バーンスタインが帰宅後、聴いていたレコードをよく見ると演奏者はトスカニーニではなく[[シャルル・ミュンシュ]]であった。慌てたバーンスタインは早速己の勘違いを謝罪する手紙を書き、それを出そうとしたところトスカニーニからの返事が届いた。恐る恐るその手紙を見ると、「君の指摘を受けてレコードを聴き直してみたが、私の解釈は間違っていないと思う。しかし、それが万全なものであるとも限らないはずだ。貴重な忠告をありがとう」と綴られていた。
=== フルトヴェングラー ===
[[1950年]]、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]が[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団]]に客演した際、ちょうどアムステルダムに仕事で滞在していたバーンスタインはフルトヴェングラーの演奏会を聴きにいき、特に[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[交響曲第1番 (ブラームス)|交響曲第1番]]に魅了された。演奏会終了後、楽屋を訪ねようとしたが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の協力者とされているフルトヴェングラーをユダヤ人のバーンスタインが訪問するというのは政治的にも非常に危険なことだと彼のエージェントに止められたため(当日演奏会場の外では、フルトヴェングラーが第二次世界大戦中ドイツに留まったことを非難するデモが行われていた)、断念せざるをえなかった。そしてついにこの二人の天才的な芸術家が個人的な面識を持つチャンスは永遠に失われたのであった。フルトヴェングラーの死後、バーンスタインはフルトヴェングラーの日記を読む機会があり、アムステルダムでのフルトヴェングラーの演奏会の数日後、バーンスタインの演奏会をフルトヴェングラーが聴きにいき、この若いアメリカの指揮者に完全に魅了された、とあった。演奏会後にバーンスタインに会おうとしたが、やはり政治的な問題もあり、自分は人見知りする性質なので諦めたと書かれていた。
=== ライナー ===
詳しくは「[[フリッツ・ライナー#エピソード]]」を参照。
前述の通り、若き日のバーンスタインはカーティス音楽院でライナーに師事して指揮法を習っている。バーンスタインはライナーの指導について次のように述懐している。「ライナーは専制的で残酷、辛辣、無慈悲だったけれども、それは、何が問題かを理解していない相手に対してだけだった。彼の指導は、まったく信じられないような要求水準の高さを持っていたが、しかし彼は自分自身に求める以上のことを学生に求めることは決してやらなかった。彼は、演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた。彼こそまさに天才だった。指揮で私が高い水準に達することができたのは、ライナーの指導の賜物である。だからこそ私は、今も彼を崇拝しているのである」。また、ライナーもバーンスタインのことを「奴は天才だ」と評して指導に力をいれ、卒業の時には他の弟子には決して与えることがなかった最高ランクの「A」評価をつけた。
=== チェリビダッケ ===
同業の指揮者に対する辛辣な批判で知られる[[セルジュ・チェリビダッケ]]の矛先は、当然バーンスタインにも向けられていた。バーンスタインは「自分の世界とは無縁」である、と語った。しかし、バーンスタインが1990年に亡くなったときちょうど来日していたチェリビダッケは、バーンスタインについて「彼と私は長年書簡を交わしてきた。彼は真の天才だった。彼は亡くなるにはあまりにも早すぎた」と、その死を悼んだといわれている。
=== カルロス・クライバー ===
12歳下である[[カルロス・クライバー]]をバーンスタインは深く尊敬しており、クライバーの指揮した[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の「[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]」を「最も美しい聴体験の一つ」と語っているほどであった。クライバーは、[[1992年]]1月1日にバーンスタインが果たせなかったウィーン・フィルとの[[ニューイヤーコンサート]]の指揮を代行している。しかし、同年3月のウィーン・フィル創立150周年記念来日公演はクライバーの急病によりキャンセルされ、[[ジュゼッペ・シノーポリ]]が来日した。
=== 共産主義への傾倒 ===
バーンスタインに限らず、当時のアメリカの多くの芸術家は政治的傾向として[[共産主義]]に傾倒していた。バーンスタインは熱心な[[民主党 (アメリカ)|民主党]]支持者であり、[[ジョン・F・ケネディ]]大統領を理想の政治家として尊敬していた。
=== 同性愛 ===
バーンスタインは師匠の[[ディミトリ・ミトロプーロス|ミトロプーロス]]と同じく、[[同性愛]]傾向も有していた。彼は1951年に結婚したフェリシア夫人との間に3児をもうけ、病床に伏した夫人が癌だと判明すると献身的に看護するなど(フェリシアは1978年に死去。晩年のバーンスタインには大きな精神的打撃を与えたことを彼の周囲の人々は回想している)、妻を深く愛していたが、その一方で自らの同性愛傾向を隠さなかったのも事実であり、男性と必要以上に親密にふるまうことも多かった。たまりかねたフェリシアが「もう男といちゃつくのはやめて!」と訴えると、バーンスタイン自身は平然と「なに言っているんだい? 芸術家ってのは[[ホミンテルン]]([[同性愛|ホモ]]+[[コミンテルン]])なんだぜ」と答えたという。また、[[ファーリー・グレンジャー]]は[[2007年]]に出版した[[自伝]]のなかで、バーンスタインとの恋愛関係について告白している。
=== 最後のコンサート ===
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最後の指揮となったボストンでのコンサートは体力の消耗が激しく、最初の「[[ピーター・グライムズ]] 4つの海の間奏曲」は何とか終えたものの、最後のベートーヴェンの交響曲第7番になると目に見えて動きが悪くなった。第3楽章では腕が上がらなくなったが、コンサートマスターとアイコンタクトをとりながら体力を蓄え、第4楽章までを終えた。その後打ち上げのパーテイーもそこそこに、ニューヨークに飛んで帰り、すべてのコンサートをキャンセルして引退宣言を行った。
( 中川右介『巨匠たちのラストコンサート』文春新書 636)
=== その他 ===
[[小惑星]][[バーンスタイン (小惑星)|(4476) Bernstein]]はバーンスタインの名前にちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=4476|title=(4476) Bernstein = 1978 YF = 1983 DE = 1985 TC3|publisher=MPC|accessdate=2021-09-09}}</ref>。
2023年、バーンスタインと妻フェリシアが歩んだ紆余曲折に満ちた愛と葛藤の人生を描いた映画『[[マエストロ: その音楽と愛と]]』が制作された。[[ブラッドリー・クーパー]](兼監督・脚本・製作)がバーンスタインを演じた<ref>{{cite news|url=https://eiga.com/news/20230902/7/|title=ブラッドリー・クーパー監督・主演「マエストロ」、フィンチャーのサイコサスペンス「ザ・キラー」などNetflix映画4作品配信日決定|publisher=映画.com|date=2023-09-02|accessdate=2023-12-03}}</ref>。
== 指揮活動 ==
[[Image:Leonard Bernstein NYWTS 1945.jpg|210px|thumb|レナード・バーンスタイン(1945年)]]
[[Image:Bernstein with TV Camera.jpg|thumb|200px|right|ニューヨーク・フィルを指揮するバーンスタイン(1958年)]]
[[File:Leonard Bernstein 1971.jpg|210px|thumb|レナード・バーンスタイン(1971年)]]
レナード・バーンスタインの指揮活動は、大きく分けて3つの時期に大別することができる。
* [[1943年]]-[[1958年]] デビュー・コンサートから[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]常任指揮者就任まで
* [[1958年]]-[[1969年]] ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者時代
* [[1969年]]-[[1990年]] ニューヨーク・フィルハーモニック常任指揮者辞任から晩年まで
バーンスタインが25歳で指揮活動を始めた時期、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国内で活動していた指揮者はほとんどが他国から移住してきた者たち(トスカニーニ、[[ブルーノ・ワルター|ワルター]]、[[ピエール・モントゥー|モントゥー]]、[[ユージン・オーマンディ|オーマンディ]]など)であり、[[ブルーノ・ワルター]]のように[[第二次世界大戦]]の難を逃れてきた者も多かった。「アメリカ生まれ・アメリカ育ち」の指揮者はほとんどいなかったため、バーンスタインはすぐにアメリカ・クラシック音楽界の期待の星となる。当時は録音技術もモノラルしかなかったため、バーンスタインの最初期録音は比較的少ないが、彼は早くから幅広いレパートリーを手中に収めていたことが分かる。[[1953年]]12月、35歳のバーンスタインはアメリカ人指揮者として初めて[[ミラノ]]・[[スカラ座]]の客演指揮に招かれ、[[ルイジ・ケルビーニ|ケルビーニ]]のオペラ『[[メデア (オペラ)|メデア]]』を指揮した。[[1950年代]]前半の時期、若手指揮者として最も目覚ましい躍進を見せていたのが、バーンスタインと[[イタリア]]の[[グィード・カンテッリ|グィド・カンテルリ]]の2人だった。
[[1954年]]11月18日、バーンスタインは[[CBS]]のテレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「オムニバス」に出演し、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]]の解説を行った。これが一連の教育番組[[ヤング・ピープルズ・コンサート|『青少年コンサート』]](Young People’s Concert)の出発点となる。ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だった[[1957年]]に代表作『[[ウエスト・サイド物語]]』が生み出された。
ニューヨーク・フィルハーモニックの常任指揮者時代、バーンスタインの主要レパートリーは[[CBSレコード]](現在の[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])が独占契約で録音していた。『青少年コンサート』もこの時期の活動で大きな位置を占めている。同オーケストラの常任指揮者の職務にあった時期、バーンスタインは自らの「補助指揮者」の育成にも尽力した。ここから[[小澤征爾]]、[[クラウディオ・アバド]]、[[ズデニェク・コシュラー]]などの指揮者が育っていった。しかし、この時期は作曲にあてる時間がほとんど取れず、主な作品は[[1963年]]作曲の[[交響曲第3番 (バーンスタイン)|交響曲第3番]]『カディッシュ』と[[1965年]]作曲の宗教合唱曲『チチェスター詩篇』ぐらいしかない。わざわざ「作曲の時間を取るため」[[1964年]]-[[1965年]]のシーズンは休みを取ったほどである。[[1966年]]にバーンスタインは初めて[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]の客演指揮に招かれ、このオーケストラとの良好な関係は終生にわたって続いた。
[[1969年]]を最後にバーンスタインがニューヨーク・フィル常任指揮者のポスト辞任を希望した理由は「作曲の時間を取るため」だった。作曲の分野では『ウエスト・サイド物語』を上回る作品を生み出したいという願いは満たされなかったが、バーンスタインは“世界一の客演指揮者”として高い人気を集めた。[[1970年代]]半ばには[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|CBSレコード]]との独占録音契約を離れ、[[ドイツ・グラモフォン]]および[[EMI]]と録音契約を交わして、かつて録音していたレパートリーの再録音を中心に、ヨーロッパとアメリカのさまざまなオーケストラとの多彩な録音に着手した。このうちEMIとの契約は短期に終了したが、グラモフォンとの関係はその後専属となり、バーンスタイン最後のコンサートのライブ録音まで続くことになる。[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|CBSレコード]]時代の旧録音と、EMI・グラモフォン時代の新録音の間では、溌剌とした前者を好む者、後者に指揮者としての円熟を感じる者など、当然のことながら評価は人により、また曲によりまちまちである。
グラモフォンでの録音の多くが、当初から商品化を想定したライブ・レコーディングで行われたのも、当時としては画期的であった。同時に[[ユニテル]]や放送局による映像収録も積極的に行われるようになる。1979年から1981年に発表された[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の交響曲全集と序曲集・[[弦楽四重奏曲第14番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第14番]](弦楽合奏版)および『[[ミサ・ソレムニス]]』は、[[マクシミリアン・シェル]]とバーンスタインによる楽曲解説を含む[[オーストリア放送協会]]ら制作のTVミニシリーズ『ベートーヴェン/バーンスタイン』と並行して録音されたものである。
この時期、[[1979年]][[10月4日]]・[[10月5日|5日]]に[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]と1度限りの共演が行われた。曲目は、[[グスタフ・マーラー|マーラー]]の[[交響曲第9番 (マーラー)|交響曲第9番]]で、バーンスタインの没後[[1992年]]に、放送用のライブ録音音源から商品としてリリースされた。これをバーンスタインの代表作とする熱心な聴き手が今なお多い。
若い頃には情熱的できびきびした音楽作りが魅力でもあったバーンスタインは、晩年にはゆったりとした重厚な表現を好むようになる。時には極めて主観的な演奏を展開し、楽譜から表現しうる限界といえるほどの感情移入も厭わなかった。彼が最も愛した3つのオーケストラはニューヨーク・フィル、ウィーン・フィル、そして[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団]]であった。
[[2000年]]10月、バーンスタインの没後10年目にニューヨーク・フィルの「自主制作盤」として「バーンスタイン・ライブ」(Bernstein Live)という10枚組のCDが発売された。なかには正規の録音が残されなかった珍しいレパートリーも見出され([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]『[[神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏]]』、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の[[交響曲第6番 (ブルックナー)|交響曲第6番]]など)、[[ヴィルヘルム・ケンプ]]([[ピアノ]])との[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[ピアノ協奏曲第3番 (ベートーヴェン)|ピアノ協奏曲第3番]]、[[ジャクリーヌ・デュ・プレ]]([[チェロ]])との[[ロベルト・シューマン|シューマン]]の[[チェロ協奏曲 (シューマン)|チェロ協奏曲]]などの珍しい共演も正式な録音として発売された。
バーンスタインはまた、積極的に現代曲の演奏にも取り組んだ。自身の曲に加えて、[[ショスタコーヴィチ]]、[[ストラヴィンスキー]]、[[コープランド]]、[[アイヴズ]]等の作品を積極的に紹介した。現代音楽の分野においても、代表的には、[[メシアン]]の[[トゥーランガリラ交響曲]]の世界初演を担った他、ニューヨーク・フィル等と共に、[[ヴァレーズ]]の「インテグラル」と「アルカナ」、[[デニソフ]]の「クレッシェンドとディミヌェンド」、[[ブーレーズ]]の『[[プリ・スロン・プリ]]』より「マラルメによる即興第1」、[[フェルドマン]]『最後の作品』から、[[ジョン・ケージ]]の「黄道の地図」、[[エリオット・カーター]]の「管弦楽のための協奏曲」、メシアンの「[[神の現存についての3つの小典礼]]」、[[リゲティ]]の「[[アトモスフェール]]」、[[クセナキス]]の「ヒトプラクタ」、[[ダッラピッコラ]]の「タルティニアーナ」、[[ガンサー・シュラー]]の「トリプラム」など様々な録音を残している。そのほかにも、とりわけアメリカの現代作曲家の作品を中心に多くの現代曲を振っている。また、邦人作曲家では[[黛敏郎]]の「饗宴」を好んで指揮したという。
また、バーンスタインはテレビ向けに[[シェーンベルク]]の解説をしてことはあるが、シェーンベルクの録音は残していない。一方で同じ[[新ウィーン楽派]]に属する[[ヴァーベルン]]や[[ベルク]]の作品は録音している。
バーンスタインがニューヨーク・フィルで振った多くの曲のスコアは、バーンスタインの書き込みが入った形のまま、ニューヨーク・フィルのデジタル・アーカイヴで検索・閲覧することができる[https://archives.nyphil.org/]。
== 主要作品 ==
* [[交響曲]]
**[[交響曲第1番 (バーンスタイン)|第1番『エレミア』]] (''Symphony No.1 "Jeremiah"'') ([[1942年]])
**[[交響曲第2番 (バーンスタイン)|第2番『不安の時代』]](ピアノと管弦楽のための) (''Symphony No.2 "The age of anxiety"'') ([[1947年]]-[[1949年]]/[[1965年]]改訂)
**[[交響曲第3番 (バーンスタイン)|第3番『カディッシュ』]](管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (''Symphony No.3 "Kaddish"'') ([[1963年]]/[[1977年]]改訂)
* [[バレエ]]『[[ファンシー・フリー]]』 (''Fancy Free'') ([[1944年]])
* [[ミュージカル]]『[[オン・ザ・タウン]]』 (''On the Town'') ([[1944年]]初演)
* ミュージカル『[[ワンダフル・タウン (1953年のミュージカル)|ワンダフル・タウン]]』(''Wonderful Town'') ([[1953年]]初演)
* ミュージカル『[[ウエスト・サイド物語]]』 (''West Side Story'') ([[1957年]]初演)
* ミュージカル『[[キャンディード]]』 (''Candide'') ([[1956年]]初演/[[1989年]]最終改訂)
* [[オペラ]]『[[タヒチ島の騒動]]』 (''Trouble in Tahiti'') ([[1952年]])
*: この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (''A Quiet Place'')となった。([[1983年]])
* クラリネット・ソナタ (''Sonata for Clarinet and Piano'') ([[1942年]])
* 5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (''I Hate Music'') ([[1943年]])
* 合唱曲『[[チチェスター詩篇]]』 (''Chichester Psalms'') ([[1965年]])
* 歌手と演奏家、踊り手のための[[ミサ曲 (バーンスタイン)|ミサ曲]] (''Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players'') ([[1971年]])
* 合唱曲『ソングフェスト』 (''Songfest'') ([[1977年]])
* 前奏曲、フーガとリフ (''Prelude, fugue and riffs'') ([[1949年]]/[[1952年]]改訂)
* 映画『[[波止場 (映画)|波止場]]』 (''On the Waterfront'')の音楽 ([[1954年]])
* [[セレナード (バーンスタイン)|セレナード]] (''Serenade'') ([[1954年]])
* バレエ『ディバック』 (''Dybbuk'') ([[1974年]])
* 政治的序曲『[[スラヴァ!]]』 (''Slava! A Political Overture'') ([[1977年]])
* オーケストラのための[[ディヴェルティメント (バーンスタイン)|ディヴェルティメント]] (''Divertimento for Orchestra'') ([[1980年]])
* ハリル (''Halil'') ([[1981年]])
* ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (''Touches - Chorale, Eight Variations and Coda'') ([[1981年]])
* アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (''Arias and Barcarolles'') ([[1988年]])
=== バーンスタインの作品の特徴 ===
[[File:Tony&MariaWestSideStory.jpg|thumb|150px|ウェスト・サイド物語]]
初期はブロードウェイ・ミュージカルで音楽活動の基盤を築き、その分野では早くから人気作曲家になっていた。
いっぽうでシリアス・ミュージックの作曲家としては、交響曲第1番『エレミア』、交響曲第3番『カディッシュ』など、[[ユダヤ教]]の影響を受けた宗教的作品を数多く残している。それらは宗教的なメッセージをはらみながら決して難解ではなく、むしろ時に啓蒙的な作風であるのが特徴といえる。現代の「信仰の危機」というテーマを、ローマ・カトリックの典礼文を下敷きに、ミュージカルシアター作品として書き上げた『ミサ』は、大衆性と宗教的モティーフとの両面を統合した点で、作曲家バーンスタインを象徴する作品である。
作風はひとことでいえば「折衷的」なスタイルで書かれたものが多い。1つの作品の中でジャズやクラシックなどのさまざまな音楽の要素を巧みに織り交ぜることは、彼の生前には批判が多かった点の1つだった。しかし現代にあっては、むしろ多様な表現様式の融合は音楽の潮流ともなっており、「ウェスト・サイド物語」「キャンディード」といったもともとミュージカルシアターのために書かれた作品がミラノ・スカラ座をはじめトップクラスの歌劇場で上演されるようになったのも、バーンスタインの作品への再評価の動きの表れである。
== 受賞歴 ==
=== アカデミー賞 ===
;ノミネート
:[[第27回アカデミー賞|1955年]] [[アカデミー作曲賞|アカデミードラマ・コメディ音楽賞]]:『[[波止場 (映画)|波止場]]』
==バーンスタイン自身の著書==
* 『音楽のよろこび』(''The Joy of Music'', 1959年)
** [[吉田秀和]]訳、[[音楽之友社]]、1966年、のち新版
* 『青少年コンサート』(''Leonard Bernstein's Young People's Concerts'', 1962年)
** 『青少年コンサート 音楽鑑賞の新しい試み』、岡野弁訳、全音楽譜出版社、1976年
* 『音楽の無限の多様性』(''The Infinite Variery of Music'', 1966年)
** 『バーンスタイン音楽を語る』、岡野弁訳、[[全音楽譜出版社]]、1972年、新版1990年、1998年
* 『答えのない質問』(''The Unanswered Question'', 1976年) 当時の初版には、画期的なサンプル・レコード盤がついていた。
** [[和田旦]]訳、[[みすず書房]]、1978年、新版1991年。1973年度[[ハーバード大学|ハーヴァード大学]]詩学講座
* 『発見』(''Findings'', 1982年)
** 『バーンスタイン わが音楽的人生』、岡野弁訳、[[作品社]]、2012年
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* ハンフリー・バートン『バーンスタインの生涯』、棚橋志行訳、[[福武書店]](上・下)、1994年
**新版・青土社(上・下)、2018年、上巻:ISBN 479177065X/下巻:ISBN 4791770668。没後初めての本格的な伝記。
* CDジャーナル・ムック「対決! カラヤン vs. バーンスタイン」音楽出版社編、1997年、ISBN 4900340065
*「写真集 レナード・バーンスタイン」(原題 ''Bernstein Remembered'')、アルファベータ社、1996年、ISBN 4871984982
* ウィリアム・ウェストブルック・バートン編『バーンスタインの思い出』、山田治生訳、[[音楽之友社]]、1997年、ISBN 4276217229
* ジョナサン・コット『レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー』
*: 山田治生訳、アルファベータ・ブックス、2013年、ISBN 4871985806
* バートン・バーンスタイン『バーンスタイン その音楽と家族』、須加葉子訳、[[新潮社]]、1986年、ISBN 4105193015、実弟の著書。
* レナード・バーンスタイン/エンリーコ・カスティリォーネ『バーンスタイン 音楽を生きる』
*: [[西本晃二]]監訳、笠羽映子訳、[[青土社]]、1999年、新版2018年、ISBN 4791770676
* Peter Gradenwitz: ''Leonard Bernstein: 1918–1990; unendliche Vielfalt eines Musikers.'' Atlantis, Zürich 1995, ISBN 3-254-00174-5
* Joan Peyser: ''Leonard Bernstein: die Biographie eines Musikgenies.'' Heyne, München 1991, ISBN 3-453-04626-9
* Barry Seldes: ''Leonard Bernstein : the political life of an American musician'' Berkeley, Calif. [u.a.] : Univ. of California Press, 2009, ISBN 978-0-520-25764-1
* Klaus Geitel: ''Die Kunst, Leonard Bernstein zu sein.'' from Booklet of ''Leonard Bernstein The Symphony Edition.'' Sony Music 2010
== 外部リンク ==
* [http://www.leonardbernstein.com レナード・バーンスタイン公式サイト(英語)]
* [http://www.klassikakzente.de/leonardbernstein Biografie und Diskografie] bei "KlassikAkzente" (Auswahl, mit Klangbeispielen in [[RealAudio]])
{{イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督}}
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エミール・ゾラ
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エミール・ゾラ(フランス語: Émile Zola、1840年4月2日 - 1902年9月29日)は、フランスの小説家。
自然主義文学の定義者であり、代表的存在でもあった。代表作品は全20作から成るルーゴン・マッカール叢書で、著名作は『ジェルミナール』『居酒屋』『ナナ』。
少年期を南フランスで過ごし、ロマン主義の詩にあこがれていた。だがパリでの貧窮生活から、しだいに現実に目ざめはじめた。
ヴェネツィア出身の技術者である父とフランス人の母との間の1人息子として、1840年にパリのサン=ジョゼフ街(fr, 現在の2区)10番地で生まれた。父が指揮をとる運河工事のために、一家は1843年に南仏エクサンプロヴァンスに引っ越した。しかし父は1847年に亡くなり、残された家族は苦しい生活を送った。
1858年にパリに戻り、現在の6区にあるリセ・サン=ルイでバカロレア(大学入学資格試験)に向けた準備をし、後の科学的、医学的発想の源となった当時の歴史家、現代作家ジュール・ミシュレらに影響され科学系バカロレアに二度挑戦するも、二度失敗する。1862年から出版社アシェット書店で働き始め(配送部に入社。後に広報部に移動)、実証主義的著作を多く扱うこの出版社で働く中で、少年時代からのロマン主義的な傾向を捨て、詩作から小説への方針転換を果たす。1865年から本格的に評論を手がけ始め、エドゥアール・マネなどの印象派の画家を擁護する批評を発表した。1866年にジャーナリスト、作家として生計を立てていく決断をし、アシェット書店を退職した。
『クロードの告白』(1865)から『マドレーヌ・フェラ』(1868)までの初期小説作品は、二人の男(夫と愛人)と一人の女で構成される三角関係を共通の枠組みとして持っている。そのうちの一つ、『テレーズ・ラカン』(1867)によって小説家としての最初の成功を収めた。この頃、ゾラは「人種」「環境」「時代」によって文学作品を説明するイポリット・テーヌの方法論や、ジュール・ミシュレを介して学んだプロスペル・リュカの遺伝理論などを応用して、環境や遺伝から物語の登場人物の行動を説明することを試みるようになる。「第二帝政下における一家族の自然的、社会的歴史」との副題を持つ『ルーゴン=マッカール叢書』(1871-1893)の執筆を1869年から始める。アルコール中毒によって破滅していく労働者階級を描いた第7作『居酒屋』は、社会に大きな衝撃を与え、爆発的な売上を記録した。売上とは対照的に文壇の評価は二分され、ゾラは彼の作品が「腐敗した文学」であるとの批判に晒され続けることになる。1890年からアカデミー・フランセーズへの立候補を続けるが遂に選出されなかった。1891年にフランス文芸家会長に就任した。
1893年に『ルーゴン=マッカール叢書』を完成させた後、科学と宗教の間で板挟みになるカトリックの神父を主人公とした『三都市叢書』(1894-1898)を手がける。ドレフュス事件では、右翼的軍部の陰謀によりスパイ容疑にかけられたユダヤ系の参謀本部付砲兵大尉アルフレド・ドレフュスを弁護し、1898年に『我弾劾す』("J'accuse") に始まる公開状を『オーロール(フランス語版、英語版)』紙に寄稿した。このため罪に問われ、イギリスに亡命するが、翌年帰国。ドレフュスの再審が決定した(1906年に無罪確定)。
帰国後、最後の作品群となる『四福音書』の第1巻『豊穣』(1899)を出版する。1902年9月29日、メダンからパリの自宅に戻ってきた翌日に、一酸化炭素中毒によって亡くなる。当時は事故として処理されたが、煙突が反ドレフュス派によって故意に塞がれていたという可能性も有力である。遺骸はパンテオンに眠る。
ゾラがメダンに造った別荘には多くの文学者が集まった。モーパッサンやユイスマンスもゾラの別荘に出入りするうちに才能を認められた作家である。
特に画家のポール・セザンヌとは、少年時代からの親友で印象派絵画の運動を支援する芸術論も著した。『制作』(1886)の中で、セザンヌをモデルの一人とした主人公クロードの悲惨な生涯を描いたことで、セザンヌから絶交されたと一般に考えられてきたが、より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が2014年に発見され、再考が求められている。『セザンヌ=ゾラ往復書簡』がある(訳書は下記)。
『ルーゴン家の繁栄』から『パスカル博士』まで全20巻の構成。第二帝政時代の「ルーゴン・マッカール家」の運命を描く。
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エミール・ゾラは、フランスの小説家。 自然主義文学の定義者であり、代表的存在でもあった。代表作品は全20作から成るルーゴン・マッカール叢書で、著名作は『ジェルミナール』『居酒屋』『ナナ』。 少年期を南フランスで過ごし、ロマン主義の詩にあこがれていた。だがパリでの貧窮生活から、しだいに現実に目ざめはじめた。
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'''エミール・ゾラ'''({{Lang-fr|Émile Zola}}、[[1840年]][[4月2日]] - [[1902年]][[9月29日]])は、[[フランス]]の[[小説家]]。
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少年期を南フランスで過ごし、ロマン主義の詩にあこがれていた。だがパリでの貧窮生活から、しだいに現実に目ざめはじめた。
[[ファイル:Edouard Manet 049.jpg|thumb|[[エドゥアール・マネ|マネ]]《[[エミール・ゾラの肖像]]》 1868年]]
== 生涯 ==
[[ヴェネツィア]]出身の技術者である父とフランス人の母との間の1人息子として、1840年に[[パリ]]のサン=ジョゼフ街([[:fr:Rue Saint-Joseph (Paris)|fr]], 現在の[[2区 (パリ)|2区]])10番地で生まれた。父が指揮をとる運河工事のために、一家は1843年に[[南フランス|南仏]][[エクス=アン=プロヴァンス|エクサンプロヴァンス]]に引っ越した。しかし父は1847年に亡くなり、残された家族は苦しい生活を送った。
1858年にパリに戻り、現在の[[6区 (パリ)|6区]]にある[[リセ・サン=ルイ]]で[[バカロレア (フランス)|バカロレア]](大学入学資格試験)に向けた準備をし、後の科学的、医学的発想の源となった当時の歴史家、現代作家[[ジュール・ミシュレ]]らに影響され科学系バカロレアに二度挑戦するも、二度失敗する。1862年から出版社[[アシェット・リーブル|アシェット書店]]で働き始め(配送部に入社。後に広報部に移動)、実証主義的著作を多く扱うこの出版社で働く中で、少年時代からの[[ロマン主義]]的な傾向を捨て、詩作から小説への方針転換を果たす。1865年から本格的に評論を手がけ始め、[[エドゥアール・マネ]]などの[[印象派]]の画家を擁護する批評を発表した。1866年にジャーナリスト、作家として生計を立てていく決断をし、アシェット書店を退職した。
『クロードの告白』(1865)から『マドレーヌ・フェラ』(1868)までの初期小説作品は、二人の男(夫と愛人)と一人の女で構成される三角関係を共通の枠組みとして持っている。そのうちの一つ、『[[テレーズ・ラカン]]』(1867)によって小説家としての最初の成功を収めた。この頃、ゾラは「人種」「環境」「時代」によって文学作品を説明する[[イポリット・テーヌ]]の方法論や、[[ジュール・ミシュレ]]を介して学んだ[[プロスパー・ルーカス|プロスペル・リュカ]]の遺伝理論などを応用して、環境や遺伝から物語の登場人物の行動を説明することを試みるようになる。「第二帝政下における一家族の自然的、社会的歴史」との副題を持つ[[ルーゴン・マッカール叢書|『ルーゴン=マッカール叢書』]](1871-1893)の執筆を1869年から始める。アルコール中毒によって破滅していく労働者階級を描いた第7作『居酒屋』は、社会に大きな衝撃を与え、爆発的な売上を記録した。売上とは対照的に文壇の評価は二分され、ゾラは彼の作品が「腐敗した文学」であるとの批判に晒され続けることになる。1890年から[[アカデミー・フランセーズ]]への立候補を続けるが遂に選出されなかった。1891年にフランス文芸家会長に就任した。
1893年に『ルーゴン=マッカール叢書』を完成させた後、科学と宗教の間で板挟みになるカトリックの神父を主人公とした『三都市叢書』(1894-1898)を手がける。[[ドレフュス事件]]では、右翼的軍部の陰謀によりスパイ容疑にかけられたユダヤ系の参謀本部付砲兵大尉[[アルフレド・ドレフュス]]を弁護し、1898年に『[[私は弾劾する|我弾劾す]]』(''"J'accuse"'') に始まる公開状を『{{仮リンク|オーロール|fr|L'Aurore (journal)|en|L'Aurore}}』紙に寄稿した。このため罪に問われ、イギリスに[[亡命]]するが、翌年帰国。ドレフュスの再審が決定した(1906年に無罪確定)。
帰国後、最後の作品群となる『四福音書』の第1巻『豊穣』(1899)を出版する。1902年9月29日、メダンからパリの自宅に戻ってきた翌日に、一酸化炭素中毒によって亡くなる。当時は事故として処理されたが、煙突が反ドレフュス派によって故意に塞がれていたという可能性も有力である<ref>{{Cite book|title=Zola. assassiné|date=2002|year=2002|publisher=Flammarion}}</ref>。遺骸は[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に眠る。
ゾラがメダンに造った別荘には多くの文学者が集まった。[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]や[[ジョリス=カルル・ユイスマンス|ユイスマンス]]もゾラの別荘に出入りするうちに才能を認められた作家である。
特に画家の[[ポール・セザンヌ]]とは、少年時代からの親友で[[印象派]]絵画の運動を支援する芸術論も著した。『制作』(1886)の中で、セザンヌをモデルの一人とした主人公クロードの悲惨な生涯を描いたことで、セザンヌから絶交されたと一般に考えられてきたが、より後年の交友を示す手紙(新著『[[大地]]』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が2014年に発見され、再考が求められている。『セザンヌ=ゾラ往復書簡』がある(訳書は下記)。
<br />
== 著作 ==
=== ルーゴン=マッカール叢書 ===
{{see|ルーゴン=マッカール叢書}}
『ルーゴン家の繁栄』から『パスカル博士』まで全20巻の構成。[[フランス第二帝政|第二帝政]]時代の「ルーゴン・マッカール家」の運命を描く。<ref>日本語訳は、[[小田光雄]]・伊藤桂子訳が、[[論創社]](全13冊、2002年より2009年まで)で刊行。[[藤原書店]]「ゾラ・セレクション」(全11巻、[[宮下志朗]]・[[小倉孝誠]]責任編集)では、6巻分が刊行作品。2002年に開始し2012年に第11巻「書簡集」を刊行。</ref> <ref>作品論は、各・藤原書店で『ゾラ・ハンドブック』(セレクション・別巻、未刊)。[[寺田光徳]](訳者の一員)『欲望する機械 ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」』(2013年)、各 宮下・小倉責任編集で、作品論集『いま、なぜゾラか ゾラ入門』、『ゾラの可能性』(2002年‐2005年)がある。</ref>
* 『ルーゴン家の誕生』''"La Fortune des Rougon"'', 1870年
*:南仏の架空の町プラッサンを舞台に、ナポレオン派と共和派の争いを、少年シルヴェールの悲恋を絡めて描く。ルーゴン・マッカール家第三世代までの顔見せ興行的な面がある<ref>『血縁』[[木蘇穀]]訳 大鐙閣、1923。『ルゴン家の人々』[[吉江喬松]]訳 ゾラ全集 [[春秋社]]、1930。[[伊藤桂子]]訳 論創社 2003.10</ref>。
* 『[[獲物の分け前]]』''"La Curée"'', 1871年
*: パリ再開発をめぐる不動産投機の駆け引きを、赤裸々に描く<ref>中井敦子訳 [[ちくま文庫]] 2004.5。伊藤桂子訳 論創社 2004.11</ref>
* 『[[パリの胃袋]]』''"Le Ventre de Paris"'', 1873年
*: パリの市場を舞台に、ギニアから脱走してきた青年フロランは監督官として働き者との評判を取るが、やがて周囲に疑われるようになり、フロランの義妹リザ・クニュ(マッカールの娘)の密告で共和主義者として逮捕される<ref>『巴里の胃袋』[[武林無想庵]]訳「ゾラ全集」春秋社、1931。[[朝比奈弘治]]訳 藤原書店 2003.3</ref>。
* 『プラッサンの征服』''"La Conquête de Plassans"'', 1874年
*: プラッサンに赴任してきた謎めいたフォージャ神父がムーレ家に下宿を始める。家主の妻、召使いを味方につけた神父は、子供達、そして最後には家主であるフランソワ・ムーレ自身をも家から追い出す。神父は宗教的影響力を行使しプラッサンの世論を政権支持へと操作していく<ref>[[小田光雄]]訳 論創社 2006.10</ref>。
* 『ムーレ神父のあやまち』''"La Faute de l'Abbé Mouret"'', 1875年
*: 神父セルジュ・ムーレは記憶を失い、エデンの園を思わせるパラドゥーの森で野性的な少女アルビーヌの看病を受け、愛し合うようになる。記憶が戻ったセルジュは彼女を捨て、教会に戻る。アルビーヌは失意のうちに死んでゆく<ref>アベ・ムウレの罪 [[松本泰]]訳 ゾラ叢書 改造社、1930。清水正和・[[倉智恒夫]]訳 藤原書店 2003.10</ref>。
* 『ウージェーヌ・ルーゴン閣下』''"Son Excellence Eugène Rougon "'', 1876年
*: 政治家ウージェーヌの活動を通し、第二帝政の内幕と[[ボナパルティスム]]の実態を露にした[[政治小説]]<ref>小田光雄訳 論創社 2009.3</ref>。
* 『[[居酒屋 (小説) |居酒屋]]』''"L'Assommoir"'', 1876年
*: 出世作で代表作。パリに出てきた洗濯女ジェルヴェーズ・マッカールが死にものぐるいで働き、自分の店を持つまでになるが、やがて酒におぼれ、破滅してゆくさまを描き、当時のフランス社会に大反響をもたらした<ref>[[古賀照一]]訳 新潮文庫、改版2006(ほかに訳書は多数出版、リンク先参照)</ref>。
* 『{{仮リンク|愛の一ページ|fr|Une page d'amour}}』''"Une page d'amour"'', 1878年
*: エレーヌ・ムーレは医師と恋に落ちるが、娘のジャンヌはそのために嫉妬に駆られて死んでゆく。パリの情景<ref>[[石井啓子]]訳 藤原書店 2003.9</ref>。
* 『[[ナナ (小説)|ナナ]]』''"Nana"'', 1879年
*: ジェルヴェーズの娘アンナが、舞台女優から高級娼婦ナナ([[クルチザンヌ]])になり、周囲のブルジョワ・貴族たちを次々と破滅させてゆく<ref>作品中最も日本語訳が多い。以下は現行版のみ、それ以外はリンク先参照。
<!--リンク先に列挙しておりコメントアウト、**女優ナナ [[永井荷風]]訳、新声社、1903-抄訳本
女優ナナ [[松山敏]]訳 愛文閣、1923
[[井上勇]]訳 世界文豪代表作全集刊行会、1926
女優ナナ 西牧保雄訳 三水社、1926
[[宇高伸一]]訳 新潮社、1929
[[三好達治]]訳 春陽堂、1933
[[山口年臣]]訳 [[角川文庫]] 1952、改版1969
関義・[[安東次男]]訳 青木書店上下 1955
[[田辺貞之助]]・河内清訳 岩波文庫上下、1955
[[斎藤正直]]訳 筑摩書房 1961、新版1978.4
[[山田稔 (小説家)|山田稔]]訳 河出書房新社〈河出世界文学〉、1968、新版1980.11-->
[[平岡篤頼]]訳 中央公論社〈世界の文学〉、1968、新版1995.2
[[川口篤]]・[[古賀照一]]訳、新潮文庫上下、初版1956-59、改版全1巻 2006
小田光雄訳 論創社 2006.9</ref>。
* 『{{仮リンク|ごった煮 (ゾラ)|label=ごった煮|fr|Pot-Bouille}} 』''"Pot-Bouille"'', 1882年
*: プラッサンから出てきたオクターヴ・ムーレが、その周囲のブルジョワ婦人と次々に情交を重ねてゆく。当時のブルジョワの風俗を戯画的に描く<ref>田辺貞之助訳 角川文庫 1958。小田光雄訳 論創社 2004.9</ref>
* 『[[ボヌール・デ・ダム百貨店]]』''"Au Bonheur des Dames"'', 1883年
*: 前作の主人公オクターヴが経営する近代的百貨店ボヌール・デ・ダームが周囲の小規模な商店を破滅させながら発展してゆく。ドゥニーズ・ボーデュとの恋<ref>貴女の楽園 [[三上於菟吉]]訳 天佑社、1922。伊藤桂子訳 論創社 2002.11。[[吉田典子]]訳 藤原書店 2004.2</ref>。
* 『[[生きる歓び (小説)|生きる歓び]]』''"La Joie de Vivre"'', 1884年
*: ポーリーヌ(リザの娘)が、海辺のまちで健やかに育ち、ひっそりと暮らしてゆく。当時フランスでも隆盛を誇った[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]哲学に対するゾラの文学的回答<ref>生の悦び [[中島孤島]]訳 早稲田大學出版部、1914。小田光雄訳 論創社 2006.3</ref>
* 『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』''"Germinal"'', 1885年
*: 炭坑における労働者の悲惨な生活、その生活苦から労働者が立ち上がりストライキを起こすが、そのストライキが敗北に終わるまでを描いた大作。主人公はジェルヴェーズの息子エチエンヌ・ランティエ<ref>木の芽立 [[堺利彦]]訳 アルス、1921。芽の出る頃 関口鎮雄訳 金星堂、1923。伊佐襄訳 平凡社、1930。高島襄治訳 改造社、1934。[[安士正夫]]訳 美紀書房、1946、岩波文庫上中下 1954 数度復刊。河内清訳 中央公論社「世界の文学」、1964.中公文庫上下 1994。小田光雄訳 論創社 2009.1</ref>。
* 『{{仮リンク|制作(ゾラ)|label=制作|fr|L'Œuvre (Émile Zola)}}』''"L'Œuvre"'', 1886年
*: 画家クロード・ランティエは、理想の女を描こうと苦闘するが、やがて敗れて自殺する。妻のクリスティーヌは心を病む<ref>井上勇訳 聚英閣、1922。[[清水正和]]訳 岩波文庫上下 1999.9、復刊2010</ref>。
* 『{{仮リンク|大地(ゾラ)|label=大地|fr|La Terre (Zola)}}』''"La Terre"'', 1887年
*: 軍隊を退役してきた農民ジャン・マッカールはフーアンの姪フランソワーズと結婚するが、フランソワーズは姉リーズともみ合いになり死に、ジャンは軍隊に戻る。フーアン家の財産争い<ref>[[犬田卯]]訳 ゾラ叢書 改造社、1931。武林無想庵訳 鄰友社、1940。田辺貞之助・河内清共訳 岩波文庫 1953。小田光雄訳 論創社 2005.12</ref>。
* 『{{仮リンク|夢(ゾラ)|label=夢|fr|Le Rêve (roman)}}』''"Le Rêve "'', 1888年
*: シドニーの娘アンジェリックが、貴族の息子フェリシアンと恋に落ちる。当初反対していたフェリシアンの父もやがてアンジェリックとの結婚を認めるが、彼女は結婚式の最中に息を引き取る<ref>木村幹訳 新潮社、1929。『夢想』小田光雄訳 論創社 2004.12</ref>。
* 『{{仮リンク|獣人(ゾラ)|label=獣人|fr|La Bête humaine}}』''"La Bête Humaine"'', 1890年
*: 休暇中の機関士ジャック・ランティエは、列車内での殺人を目撃する。ジャックはやがて犯人ルーボーの妻セヴリーヌと情を通じるが、彼女を衝動的に殺害する<ref>三上於菟吉訳 改造社、1923。川口篤訳、三笠書房、1951.岩波文庫上下 復刊1991ほか。[[河内清]]・[[倉智恒夫]]訳 世界文学全集:筑摩書房、1967。『野獣人間』[[古屋健三]]訳 世界文学全集:講談社、1981。『獣人 愛と殺人の鉄道物語』[[寺田光徳]]訳 藤原書店、2004</ref>。
* 『{{仮リンク|金(かね)|fr|L'Argent}}』''"L'Argent"'', 1891年
*: 土地投機に失敗したアリスティドは、「ユニヴァーサル銀行」を開業。バブル経済に乗って当初は破竹の勢いを示すが、やがて破綻する<ref>飯田旗軒訳、博文館、1916。野村正人訳、藤原書店 2003.11</ref>。
* 『{{仮リンク|壊滅(ゾラ)|label=壊滅|fr|La Débâcle}}』''"La Débâcle"'', 1892年
*: 無学な農民のジャンは軍隊でインテリ青年モーリスと親友になる。普仏戦争の敗北・第二帝政の崩壊、[[パリ・コミューン]]の混乱の中で、ジャンはモーリスを殺害してしまう<ref>『陥落』渡辺俊夫訳 日本書院、1923。難波浩訳 アルス、1941。小田光雄訳 論創社 2005.5</ref>。
* 『{{仮リンク|パスカル博士|fr|Le Docteur Pascal}}』''"Le Docteur Pascal"'', 1893年
*: パスカル・ルーゴンは故郷のプラッサンで一族の記録をとどめ、新しい遺伝理論の構築を図る。彼は姪クロチルドと愛し合うが、心臓病で急死する。原稿はパスカルの母フェリシテが焼き払う<ref>小田光雄訳 論創社 2005.9</ref>。
=== 三都市叢書 ===
* 『ルルド』''"Lourdes"'', 1894年
* 『ローマ』''"Rome"'', 1896年
* 『パリ』''"Paris"'', 1898年<ref>『巴里』飯田旗郎訳、共同出版、1908。『巴里』杉田次郎訳 春陽堂、1933-34。※新訳 『パリ』[[竹中のぞみ]]訳、白水社 上下、2010.11</ref>
=== 四福音書叢書 ===
* 『豊饒』''"Fécondité"'', 1899年
* 『労働』''"Le Travail"'', 1901年<ref>堺利彦訳 叢文閣、1920。水上斉訳 天佑社、1923</ref>
* 『真理』''"La Vérité"'', 1903年<ref>中原光之訳 [[白水社]]、1922</ref>
* 『正義』''"La Justice"'', 未完作
=== その他の作品 ===
* 『ニノンへのコント』''"Contes à Ninon"'', 1864年
* 『クロードの告白』''"La confession de Claude"'', 1865年<ref>[[山田稔 (小説家)|山田稔]]訳『クロードの告白』「世界文学全集」河出書房新社 1967年</ref>
* 『死せる女の願い』''"Le vœu d'une morte"'', 1866年
* 『マルセイユの秘密』''"Les mystères de Marseille"'', 1867年
* 『テレーズ・ラカン』''"Thérèse Raquin"'', 1867年<ref>大西克和訳 角川文庫 1952。嘆きのテレーズ 井上勇訳、三笠書房 1954。[[小林正 (仏文学者)|小林正]]訳 岩波文庫(上下)、1966、復刊1989ほか。[[篠田浩一郎]]訳 講談社〈世界文学全集〉 1968。</ref>
*: 上記の他、短編で「引き立て役」<ref>[[朝比奈弘治]]訳『水車小屋攻撃 他七篇』岩波文庫 2015</ref>、「広告の犠牲者」<ref>『ゾラ・セレクション1 初期名作集』、[[宮下志朗]]編訳、[[藤原書店]] 2004。「テレーズ・ラカン」の他に短編「引き立て役」「広告の犠牲者」「猫たちの天国」「コクヴィル村の酒盛り」「オリヴィエ・ベカーユの死」</ref>、「ある恋愛結婚」、「辻馬車」、「猫たちの天国」、「コクヴィル村の酒盛り」、「オリヴィエ・ベカーユの死」<ref>[[國分俊宏]]訳 『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家』[[光文社古典新訳文庫]] 2015。短篇集全5篇。</ref>
* 『マドレーヌ・フェラ』''"Madeleine Férat"'', 1868年
* 『新ニノンへのコント』''"Nouveaux contes à Ninon"'', 1874年
* 『スルディ夫人』''"Madame Sourdis"'', 1880年
* 『ビュルル大尉』''"Le Capitaine Burle"'', 1882年
* 『ナイス・ミクラン』''"Naïs Micoulin"'', 1884年
=== 創作以外 ===
*『ゾラ・セレクション8 文学論集 1865-1896』 佐藤正年<ref>小著に、アンリ・ミットラン『ゾラと自然主義』(佐藤正年訳、白水社〈[[文庫クセジュ]]〉、1999年)</ref>編訳 藤原書店、2007<ref>「実験小説論」河内清訳、仏蘭西文芸思潮叢書 白水社、1939</ref>
*『ゾラ・セレクション9 美術論集』 [[三浦篤]]・藤原貞朗編訳、2010 - 前期[[印象派]]運動を擁護。
*『ゾラ・セレクション10 時代を読む 1870‐1900』 小倉孝誠・菅野賢治編訳、2002 - ジャーナリズム論集([[ドレフュス事件]]<ref>「私は告発する」 古賀照一訳(新潮社〈ゾラ 新潮世界文学〉に所収、1970)</ref>ほか)
*『ゾラ・セレクション11 書簡集 1858-1902』 [[小倉孝誠]]<ref>評伝に、小倉孝誠『ゾラと近代フランス 歴史から物語へ』(白水社、2017)。[[清水正和]]『ゾラと世紀末』([[国書刊行会]]、1992)。[[尾崎和郎]]『ゾラ 人と思想』(清水書院、新装版2015)</ref>編・解説、2012 - 『別巻 「ゾラ・ハンドブック」』は未刊。
*『セザンヌ=ゾラ往復書簡 1858-1887』、アンリ・ミトラン校訂・解説、吉田典子・高橋愛訳、[[法政大学出版局]]・叢書ウニベルシタス、2019
*『[[エドゥアール・マネ]]を見つめて』 ロバート・レスブリッジ解説、[[林卓行]]監訳、神田由布子訳、[[東京書籍]]、2020
== 映像化された作品 ==
* {{仮リンク|大地 (1921年の映画)|label=大地|fr|La_Terre_(film,_1921)}} (1921)
* [[女優ナナ (1926年の映画)|女優ナナ]] ''Nana'' (1926)
* [[テレーズ・ラカン (1928年の映画)|テレーズ・ラカン]] ''Thérèse Raquin'' (1928) 現存せず
* {{仮リンク|金 (1928年の映画)|label=金|fr|L'Argent_(film,_1928)}} (1928)
* [[居酒屋 (1934年の映画)|居酒屋]] ''L'Assommoir'' (1934)
* [[女優ナナ (1934年の映画)|女優ナナ]] ''Nana'' (1934)
* [[獣人 (小説)|獸人]] ''La bête humaine'' (1938)
* [[嘆きのテレーズ]] ''Thérèse Raquin'' (1953)
* [[人間の欲望]] ''Human Desire'' (1954) 「獣人」の映画化
* [[女優ナナ (1955年の映画)|女優ナナ]] ''Nana'' (1955)
* [[居酒屋 (1956年の映画)|居酒屋]] ''Gervaise'' (1956)
* [[奥様ご用心]] ''Pot-Bouille'' (1957) 「ごった煮」の映画化
* [[獲物の分け前]] ''La Curée'' (1966)
* [[娼婦ナナ]] ''Nana'' (1981) ※フランスのTVドラマ作品
* [[ジェルミナル (1993年の映画)|ジェルミナル]] ''Germinal'' (1993)
* [[テレーズ 情欲に溺れて]] ''In Secret'' (2013) ※「テレーズ・ラカン」の映画化作品
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Émile Zola}}
*[[ゾラの生涯]] - 1937年の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ合衆国]]の[[伝記映画]]。[[ドレフュス事件]]を軸に描いている。
*[[セザンヌと過ごした時間]] - [[2016年の映画|2016年公開]]の[[フランスの映画|フランス]]の伝記映画。[[印象派]]画家の[[ポール・セザンヌ]]との長年にわたる友情を描いている。
*[https://global.oup.com/academic/product/thrse-raquin-9780193361164?cc=jp&lang=en& テレーズ・ラカン(オペラ版)] - [[マイケル・フィニスィー]]によるピアノと歌手4人のための室内[[オペラ]]。
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そら えみいる}}
[[Category:エミール・ゾラ|*]]
[[Category:19世紀フランスの小説家]]
[[Category:イタリア系フランス人]]
[[Category:フランスの亡命者]]
[[Category:パリ出身の人物]]
[[Category:エクス=アン=プロヴァンス出身の人物]]
[[Category:ドレフュス事件の人物]]
[[Category:事故死した人物]]
[[Category:自然主義文学]]
[[Category:1840年生]]
[[Category:1902年没]]
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朝鮮半島
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朝鮮半島(ちょうせんはんとう、朝: 조선반도)は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、韓半島(かんはんとう、韓: 한반도)と呼称する。
陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが一般的であり、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を擁する。
済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。
古くから朝鮮半島地域をあらわす名称として「韓国」(三韓など)と「朝鮮」(箕子朝鮮など)という呼び名が存在しており、朝鮮半島と呼ぶか、韓半島と呼ぶかという呼称の問題がある。
朝鮮半島はユーラシア大陸の東端に位置し、南北に長く、約1000キロメートルにおよび、古くは「三千里」と数えられ、それが国土領域を表現する愛称となった。
ユーラシア大陸から日本列島の九州に向かうような形をしている。東側を東海(日本海)、西側を黄海、南側の日本とは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)にて隔てられている。北端は一般的には北朝鮮と中国の境界、すなわち鴨緑江と豆満江及び白頭山山頂とされる。
韓国の面積は日本の約26%、北朝鮮の面積は日本の約32%、朝鮮半島全体の面積は、日本の約58%、日本の本州の96%、イギリスのグレートブリテン島とほぼ同じ面積である。
人口はおよそ7,600万人。人口密度の高さは世界有数であり、日本を超える。
朝鮮半島は中国大陸と同じく中国地塊に属する安定大陸(安定陸塊)で、先カンブリア時代には原型が出来上がっていたと考えられる。非常に古く安定した大地のため、日本列島に比べて地震が非常に少なく、また済州島を除いて火山も稀である。西側南部と対馬海峡側の海岸線はリアス式海岸になっている。
黄海に面した西側は平野が多く農地に適しており、古くから穀倉地帯として重要である。一方、日本海に面した東側は太白山脈をはじめ多くの山地がそびえており、平地は非常に少ない。半島は西朝鮮湾と東朝鮮湾に挟まれた北緯39度線よりやや北方で最も狭まっており、最狭部より北方は黄海沿岸部を除いて海抜1000メートルを越える狼林山脈等の山地や蓋馬高原が卓越しており、農業には不向きである(特に白頭山付近は2000メートルを上回る)。
朝鮮半島の気候は、南部は温暖で湿潤な亜熱帯で夏は蒸し暑い。北部は湿潤大陸性気候であり、冬の寒さは非常に厳しい。朝鮮半島の中で最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の中江鎮である。現在は北朝鮮の実効支配地域であるが、韓国の新聞の天気予報にも当地の最低気温の予想が掲載される。
朝鮮戦争によって生じた軍事境界線を中心とした幅4キロメートルの非武装地帯は地雷原のため、民間人は立ち入ることができない。そのため、渡り鳥などが集まる世界有数の野生生物の生息地となっている。
中国の史書によると、3世紀頃には朝鮮半島北部や東北部沿岸には夫余系民族、南部には韓人と倭人が住み、西北部は漢や魏などの郡が置かれて移民の漢人も住んでいた。4世紀頃には高句麗領に夫余族の高句麗人が、百済に百済人(支配層は夫余族、被支配層は韓族)が、新羅・伽耶に韓族の新羅人と伽耶人が居住し、7世紀、新羅により統一されると民族統合が進んだ。その後、ツングース系女真族の金朝の南下とモンゴル帝国の侵攻により、鴨緑江と豆満江一帯は再び民族混住地域となった。
一方、高麗時代にかけて異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する。あるいは契丹が滅亡して契丹人が各地に散る時に、高麗に入って来て暮らした契丹人は100万人に達するという記録もある。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文学にたけ、官僚にたくさん進出した。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国出身帰化人である。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。その後、李氏朝鮮の初期の頃までに豆満江一帯のツングース系女真族は朝鮮に同化されたと見られ、これにより朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民族の居住地となった。
1910年の韓国併合により、日本本国(内地)から日本人が外地の朝鮮半島に移住し、都市部を中心に居住していた。日本による朝鮮半島の統治は1945年まで続いた。この時期における日本人の朝鮮半島全人口に占める割合は3%ほどであった。
朴チョルヒ(朝: 박철희、京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述され、帰化人の存在と文化的影響はほとんど触れられていないと批判している。また、小学校6年生の社会教科書にある「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済、新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ(朝: 박철희、京仁教育大学校)は「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べてみよう』と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している。
李鮮馥(朝: 이선복、英: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「『5000年単一民族』が科学的・歴史的な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの姓氏の中には歴史時代を通して中国や日本・ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが『5000年単一民族』を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう」「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている。
韓洪九は、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)、モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)、日本(文禄・慶長の役)、満州(丁卯胡乱)からの侵入など歴史上大量に外国人が流入した事例は数多くあり、朝鮮の氏族の族譜では、祖先が外国から渡来した帰化氏族が多数あり(金光林によると、朝鮮氏族の半分は外国人起源であり、特に大半は中国人に起源に持つ)、朝鮮が単一民族というのは「神話」に過ぎないと指摘している。
浜田耕策は、「留意すべきことは、朝鮮半島がただ半島の語によって説明されるが如くに、政治的にも、社会的にも一元的なかつ単層の社会ではなかった点である。少なくとも、司馬遷の『史記』巻115・朝鮮伝に見られるが、古朝鮮の社会には中国東北部の燕をはじめとする勢力に押された人々が流入しており、そこに二元的な社会と文化が生じていたことである。即ち、『史記』朝鮮列伝からは、古朝鮮の地では土着民に加えて、中国東北部からの移住者がひとつの社会を築き、また、その周辺に『真番』『朝鮮』の政治社会が存在したことが確認されるのである。この朝鮮半島の西北部に多様な政治社会が存在したことは、『史記』以後の歴史書にも見られる。例えば、『魏略』の逸文を編修した張鵬一の『魏略輯本』巻21・朝鮮にも『中国亡命』集団が『朝鮮』のなかに一定の勢力を占めていたことが読みとれる。また、3世末の陳寿が撰した『三国志』巻30・魏書・東夷伝・東沃沮にも『漢初,燕亡人衛満王朝鮮,時沃沮皆屬焉』とあり、同じく、『箕子朝鮮』と『衞満朝鮮』には『燕斉趙の民』が流入した社会があり、この朝鮮を沃沮、濊、高句麗、辰韓が取り巻いた多様な政治世界が存したことが理解されるのである」と指摘している。
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"text": "朝鮮半島(ちょうせんはんとう、朝: 조선반도)は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、韓半島(かんはんとう、韓: 한반도)と呼称する。",
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"text": "陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、とくに人文地理学で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、豆満江や鴨緑江などによって隔てられる伝統的な中朝国境より南を指すのが一般的であり、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を擁する。",
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"text": "済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。",
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"text": "古くから朝鮮半島地域をあらわす名称として「韓国」(三韓など)と「朝鮮」(箕子朝鮮など)という呼び名が存在しており、朝鮮半島と呼ぶか、韓半島と呼ぶかという呼称の問題がある。",
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"text": "朝鮮半島はユーラシア大陸の東端に位置し、南北に長く、約1000キロメートルにおよび、古くは「三千里」と数えられ、それが国土領域を表現する愛称となった。",
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"text": "ユーラシア大陸から日本列島の九州に向かうような形をしている。東側を東海(日本海)、西側を黄海、南側の日本とは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)にて隔てられている。北端は一般的には北朝鮮と中国の境界、すなわち鴨緑江と豆満江及び白頭山山頂とされる。",
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"text": "韓国の面積は日本の約26%、北朝鮮の面積は日本の約32%、朝鮮半島全体の面積は、日本の約58%、日本の本州の96%、イギリスのグレートブリテン島とほぼ同じ面積である。",
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"text": "人口はおよそ7,600万人。人口密度の高さは世界有数であり、日本を超える。",
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"text": "朝鮮半島は中国大陸と同じく中国地塊に属する安定大陸(安定陸塊)で、先カンブリア時代には原型が出来上がっていたと考えられる。非常に古く安定した大地のため、日本列島に比べて地震が非常に少なく、また済州島を除いて火山も稀である。西側南部と対馬海峡側の海岸線はリアス式海岸になっている。",
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"text": "黄海に面した西側は平野が多く農地に適しており、古くから穀倉地帯として重要である。一方、日本海に面した東側は太白山脈をはじめ多くの山地がそびえており、平地は非常に少ない。半島は西朝鮮湾と東朝鮮湾に挟まれた北緯39度線よりやや北方で最も狭まっており、最狭部より北方は黄海沿岸部を除いて海抜1000メートルを越える狼林山脈等の山地や蓋馬高原が卓越しており、農業には不向きである(特に白頭山付近は2000メートルを上回る)。",
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"text": "朝鮮半島の気候は、南部は温暖で湿潤な亜熱帯で夏は蒸し暑い。北部は湿潤大陸性気候であり、冬の寒さは非常に厳しい。朝鮮半島の中で最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の中江鎮である。現在は北朝鮮の実効支配地域であるが、韓国の新聞の天気予報にも当地の最低気温の予想が掲載される。",
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"text": "朝鮮戦争によって生じた軍事境界線を中心とした幅4キロメートルの非武装地帯は地雷原のため、民間人は立ち入ることができない。そのため、渡り鳥などが集まる世界有数の野生生物の生息地となっている。",
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"text": "一方、高麗時代にかけて異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する。あるいは契丹が滅亡して契丹人が各地に散る時に、高麗に入って来て暮らした契丹人は100万人に達するという記録もある。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文学にたけ、官僚にたくさん進出した。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国出身帰化人である。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。その後、李氏朝鮮の初期の頃までに豆満江一帯のツングース系女真族は朝鮮に同化されたと見られ、これにより朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民族の居住地となった。",
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"text": "1910年の韓国併合により、日本本国(内地)から日本人が外地の朝鮮半島に移住し、都市部を中心に居住していた。日本による朝鮮半島の統治は1945年まで続いた。この時期における日本人の朝鮮半島全人口に占める割合は3%ほどであった。",
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"text": "朴チョルヒ(朝: 박철희、京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述され、帰化人の存在と文化的影響はほとんど触れられていないと批判している。また、小学校6年生の社会教科書にある「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済、新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ(朝: 박철희、京仁教育大学校)は「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べてみよう』と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している。",
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"text": "李鮮馥(朝: 이선복、英: Yi Seon-bok、ソウル大学)は、「『5000年単一民族』が科学的・歴史的な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの姓氏の中には歴史時代を通して中国や日本・ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが『5000年単一民族』を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう」「われわれはよく、われわれ自身を檀君の子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識と民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的で歴史的な事実にはなりえない」と述べている。",
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"text": "韓洪九は、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)、モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)、日本(文禄・慶長の役)、満州(丁卯胡乱)からの侵入など歴史上大量に外国人が流入した事例は数多くあり、朝鮮の氏族の族譜では、祖先が外国から渡来した帰化氏族が多数あり(金光林によると、朝鮮氏族の半分は外国人起源であり、特に大半は中国人に起源に持つ)、朝鮮が単一民族というのは「神話」に過ぎないと指摘している。",
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"text": "浜田耕策は、「留意すべきことは、朝鮮半島がただ半島の語によって説明されるが如くに、政治的にも、社会的にも一元的なかつ単層の社会ではなかった点である。少なくとも、司馬遷の『史記』巻115・朝鮮伝に見られるが、古朝鮮の社会には中国東北部の燕をはじめとする勢力に押された人々が流入しており、そこに二元的な社会と文化が生じていたことである。即ち、『史記』朝鮮列伝からは、古朝鮮の地では土着民に加えて、中国東北部からの移住者がひとつの社会を築き、また、その周辺に『真番』『朝鮮』の政治社会が存在したことが確認されるのである。この朝鮮半島の西北部に多様な政治社会が存在したことは、『史記』以後の歴史書にも見られる。例えば、『魏略』の逸文を編修した張鵬一の『魏略輯本』巻21・朝鮮にも『中国亡命』集団が『朝鮮』のなかに一定の勢力を占めていたことが読みとれる。また、3世末の陳寿が撰した『三国志』巻30・魏書・東夷伝・東沃沮にも『漢初,燕亡人衛満王朝鮮,時沃沮皆屬焉』とあり、同じく、『箕子朝鮮』と『衞満朝鮮』には『燕斉趙の民』が流入した社会があり、この朝鮮を沃沮、濊、高句麗、辰韓が取り巻いた多様な政治世界が存したことが理解されるのである」と指摘している。",
"title": "住民"
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朝鮮半島は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、韓半島と呼称する。
|
{{Otheruses|地理や住民など|名称・呼称等|朝鮮}}
{{Otheruses||韓国の映画作品「韓半島 -HANBANDO-」|韓半島 -HANBANDO-}}
{{Infobox 半島
|半島名 = 朝鮮半島
|画像 = [[File:Locator map of Korea.svg|250px]]
|座標 = {{coord|38|128|type:_region:}}
|面積 = 220,903
|周囲 =
|標高 = 2,744
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|最大都市 = {{ROK}}・[[ソウル特別市]]<br>{{DPRK}}・[[平壌直轄市]]
|大陸・島 = [[ユーラシア大陸]]
|海域 = {{plainlist|
*[[日本海]]
*[[黄海]]
*[[東シナ海]]
}}
|国 = {{plainlist|
*{{ROK}}
*{{DPRK}}
}}
}}
{{韓国の事物
|title = 韓半島 {{small|(韓国の表記)}}
|hangeul = 한반도
|hanja = 韓半島
|katakana = ハンバンド
|hiragana = かんはんとう
|latin = Han Bando
|alphabet = Korean Peninsula
}}
{{北朝鮮の事物
|title = 朝鮮半島 {{small|(北朝鮮の表記)}}
|chosŏn'gŭl = 조선반도
|hanja = 朝鮮半島
|katakana = チョソンバンド
|hiragana = ちょうせんはんとう
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|alphabet = Korean Peninsula
}}
{{multiple image
| direction = horizontal
| align = right
| width = 200
| image1 = Korean Peninsula topographic map.png
| width1 = 200
| caption1 = 地図
| image2 = N Korea sat image.jpg
| width2 = 230
| caption2 = 衛星写真
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''朝鮮半島'''|ちょうせんはんとう|{{lang-ko-kp-short|조선반도}}}}は、[[アジア大陸]]東部から南南東に突出した[[半島]]。[[大韓民国]](韓国)においては、{{読み仮名_ruby不使用|'''韓半島'''|かんはんとう|{{lang-ko-kr-short|한반도}}}}と呼称する<ref>{{kotobank|1=朝鮮半島 |2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>。
== 定義 ==
陸地の幅が最も狭くなるのは[[平壌直轄市|平壌]]のやや北の[[平安南道]] - [[咸鏡南道]]だが、とくに[[人文地理学]]で「朝鮮半島」と言った場合は半島最狭部より北の、[[豆満江]]や[[鴨緑江]]などによって隔てられる伝統的な[[中朝国境]]より南を指すのが一般的であり、[[大韓民国]](韓国)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)を擁する。
[[済州島]]を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは政治的・文化的・歴史的な文脈において、[[朝鮮]]の同義語として使われることが少なくない。
== 呼称 ==
古くから朝鮮半島地域をあらわす名称として「[[大韓民国|韓国]]」([[三韓]]など)と「[[朝鮮]]」([[箕子朝鮮]]など)という呼び名が存在しており、朝鮮半島と呼ぶか、韓半島と呼ぶかという呼称の問題がある。
== 地理 ==
朝鮮半島はユーラシア大陸の東端に位置し、南北に長く、約1000[[キロメートル]]におよび、古くは「三千里」と数えられ、それが国土領域を表現する愛称となった<ref name=takeda3>[[#武田|武田(2000)pp.3-125]]</ref>。
ユーラシア大陸から[[日本列島]]の[[九州]]に向かうような形をしている。東側を東海([[日本海]])、西側を[[黄海]]、南側の日本とは[[対馬海峡]]西水道([[朝鮮海峡]])にて隔てられている<ref name=takeda3/>。北端は一般的には[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]と[[中華人民共和国|中国]]の境界、すなわち[[鴨緑江]]と[[豆満江]]及び[[白頭山]]山頂とされる。
[[大韓民国|韓国]]の面積は[[日本]]の約26%<ref group="注釈">面積:韓国9万8480[[平方キロメートル]]、日本37万8000平方キロメートル</ref>、北朝鮮の面積は日本の約32%<ref group="注釈">面積:北朝鮮12万540平方キロメートル、日本37万8000平方キロメートル</ref>、朝鮮半島全体の面積は、日本の約58%<ref group="注釈">面積:朝鮮半島21万9020平方キロメートル、日本37万8000平方キロメートル</ref>、日本の[[本州]]の96%<ref group="注釈">面積:朝鮮半島21万9020平方キロメートル、本州22万7900平方キロメートル</ref>、[[イギリス]]の[[グレートブリテン島]]とほぼ同じ面積である<ref group="注釈">面積:グレートブリテン島21万6800平方キロメートルの101%の面積が、朝鮮半島21万9020平方キロメートルの面積である。</ref>。
[[人口]]はおよそ7,600万人。[[人口密度]]の高さは世界有数であり、日本を超える。
朝鮮半島は[[中国大陸]]と同じく'''中国地塊'''に属する安定大陸([[安定陸塊]])で、[[先カンブリア時代]]には原型が出来上がっていたと考えられる。非常に古く安定した大地のため、日本列島に比べて[[地震]]が非常に少なく、また済州島を除いて[[火山]]も稀である。西側南部と[[対馬海峡]]側の海岸線は[[リアス式海岸]]になっている。
黄海に面した西側は[[平野]]が多く[[農地]]に適しており、古くから穀倉地帯として重要である。一方、日本海に面した東側は[[太白山脈]]をはじめ多くの[[山地]]がそびえており、平地は非常に少ない。半島は[[西朝鮮湾]]と[[東朝鮮湾]]に挟まれた[[北緯39度線]]よりやや北方で最も狭まっており、最狭部より北方は黄海沿岸部を除いて海抜1000[[メートル]]を越える[[狼林山脈]]等の山地や[[蓋馬高原]]が卓越しており、[[農業]]には不向きである(特に[[白頭山]]付近は2000メートルを上回る)。
朝鮮半島の気候は、南部は温暖で湿潤な[[亜熱帯]]で[[夏]]は蒸し暑い。北部は[[湿潤大陸性気候]]であり、冬の寒さは非常に厳しい。朝鮮半島の中で最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の[[中江鎮]]である。現在は北朝鮮の実効支配地域であるが、韓国の[[新聞]]の[[天気予報]]にも当地の最低気温の予想が掲載される。
[[朝鮮戦争]]によって生じた[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]を中心とした幅4[[キロメートル]]の[[非武装地帯]]は[[地雷原]]のため、[[民間人]]は立ち入ることができない。そのため、[[渡り鳥]]などが集まる世界有数の野生生物の生息地となっている。
== 住民 ==
{{See also|朝鮮民族|朝鮮の歴史}}
[[中国]]の[[歴史書|史書]]によると、[[3世紀]]頃には朝鮮半島北部や東北部沿岸には[[扶余語族|夫余系民族]]、南部には[[韓人]]と[[倭人]]が住み、西北部は[[漢]]や[[魏 (三国)|魏]]などの[[郡]]が置かれて[[移民]]の[[漢民族|漢人]]も住んでいた。[[4世紀]]頃には[[高句麗]]領に夫余族の高句麗人が、[[百済]]に百済人(支配層は夫余族、被支配層は韓族)が、[[新羅]]・[[伽耶]]に韓族の新羅人と伽耶人が居住し、[[7世紀]]、新羅により統一されると民族統合が進んだ。その後、[[女真|ツングース系女真族]]の[[金 (王朝)|金朝]]の南下と[[モンゴル帝国]]の侵攻により、鴨緑江と豆満江一帯は再び民族混住地域となった。
一方、[[高麗|高麗時代]]にかけて[[民族|異民族]]が[[帰化]]した数字は23万8000人余りに達する<ref name="b">{{Cite news|author=|url=https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391 |title=초등교과서, 고려때 ‘23만 귀화’ 언급도 안해|newspaper=[[京郷新聞]]|publisher=|date=2007-08-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210730074749/https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391|archivedate=2021-07-30}}</ref>。あるいは[[契丹]]が滅亡して[[契丹|契丹人]]が各地に散る時に、高麗に入って来て暮らした契丹人は100万人に達するという記録もある<ref>{{Cite news|url=http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD201505&num=838|title=권두논단 국민의식 선진화가 시급하다|newspaper=[[時代精神 (雑誌)|時代精神]]|publisher=|date=2015-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170821215548/http://www.sdjs.co.kr/read.php?quarterId=SD201505&num=838|archivedate=2017-08-21}}</ref>。帰化した[[漢民族|漢族]]は国際情勢に明るく、[[文学]]にたけ、[[官僚]]にたくさん進出した。[[崔茂宣]]に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国出身帰化人である<ref name="b"/>。帰化した[[女真|女真族]]は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。[[李氏朝鮮]]を建国した[[李成桂]]は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった[[李之蘭]]はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい<ref name="b"/>。その後、[[李氏朝鮮]]の初期の頃までに豆満江一帯のツングース系女真族は朝鮮に同化されたと見られ、これにより朝鮮半島のほぼ全域が[[朝鮮民族]]の居住地となった。
[[1910年]]の[[韓国併合]]により、[[大日本帝国|日本]]本国([[内地]])から[[日本人]]が[[外地]]の朝鮮半島に移住し、都市部を中心に居住していた。[[日本統治時代の朝鮮|日本による朝鮮半島の統治]]は[[1945年]]まで続いた。この時期における日本人の朝鮮半島全人口に占める割合は3%ほどであった。
朴チョルヒ({{lang-ko-short|박철희}}、[[京仁教育大学校|京仁教育大学]])は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述され、帰化人の存在と文化的影響はほとんど触れられていないと批判している<ref name="b"/>。また、小学校6年生の社会教科書にある「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・[[古朝鮮]]を建てて、[[高句麗]]、[[百済]]、[[新羅]]に続いて[[新羅|統一新羅]]へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ({{lang-ko-short|박철희}}、[[京仁教育大学校]])は「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べてみよう』と記し、[[旧石器時代|旧石器]]、[[新石器時代|新石器]]、[[青銅器時代]]を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している<ref name="b"/>。
李鮮馥({{lang-ko-short|이선복}}、{{lang-en-short|Yi Seon-bok}}、[[ソウル大学校|ソウル大学]])は、「『5000年単一民族』が[[科学|科学的]]・[[歴史|歴史的]]な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの[[姓氏]]の中には歴史時代を通して[[中国]]や[[日本]]・[[ベトナム]]をはじめ遠近各国から[[帰化]]した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが『5000年単一民族』を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう」「われわれはよく、われわれ自身を[[檀君]]の[[親族|子孫]]と称し、5000年の悠久な歴史をもつ[[単一民族国家|単一民族]]であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの[[歴史認識|歴史意識]]と[[民族主義|民族意識]]の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的[[証拠]]に立脚した[[科学|科学的]]で[[歴史|歴史的]]な[[事実]]にはなりえない」と述べている<ref>{{Cite news|author=金相勲|date=2012|title=韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係|newspaper=山形大学歴史・地理・人類学論集|publisher=山形大学歴史・地理・人類学研究会|url=http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/013/hgca-13-00270054.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170822014948/http://www2.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/013/hgca-13-00270054.pdf|format=PDF|archivedate=2017-08-22|page=52-53}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=이선복|date=2003|title=화석인골 연구와 한민족의 기원|series=韓國史市民講座 Vol.32|publisher=일조각|isbn=|pages=64-65}}</ref>。
[[韓洪九]]は、[[中国人]]の[[箕子]]・[[衛満]]、[[渤海 (国)|渤海]]遺民の集団移住、[[契丹]]([[契丹の高麗侵攻]])、[[蒙古|モンゴル]]([[モンゴルの高麗侵攻]])、日本([[文禄・慶長の役]])、[[満州]]([[丁卯胡乱]])からの侵入など歴史上大量に[[外国人]]が流入した事例は数多くあり、朝鮮の[[氏族]]の[[族譜]]では、祖先が外国から渡来した帰化氏族が多数あり([[金光林 (歴史学者)|金光林]]によると、朝鮮氏族の半分は外国人起源であり、特に大半は中国人に起源に持つ<ref>{{Cite news|author=[[金光林 (歴史学者)|金光林]]|date=2014|title=A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names |newspaper=Journal of cultural interaction in East Asia|publisher=[[東アジア文化交渉学会]]|url=http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf|language=en|format=PDF|page=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf|archivedate=2016-03-27}}</ref>)、朝鮮が[[単一民族国家|単一民族]]というのは「[[神話]]」に過ぎないと指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=韓洪九|authorlink=韓洪九|date=2003-12-17|title=韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か|series=|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582454291|pages=68-69}}</ref>。
[[浜田耕策]]は、「留意すべきことは、朝鮮半島がただ[[半島]]の語によって説明されるが如くに、[[政治|政治的]]にも、[[社会|社会的]]にも一元的なかつ単層の社会ではなかった点である。少なくとも、[[司馬遷]]の『[[史記]]』巻115・朝鮮伝に見られるが、[[古朝鮮]]の社会には[[中国東北部]]の[[燕 (春秋)|燕]]をはじめとする勢力に押された人々が流入しており、そこに二元的な社会と文化が生じていたことである。即ち、『史記』朝鮮列伝からは、古朝鮮の地では土着民に加えて、中国東北部からの移住者がひとつの社会を築き、また、その周辺に『[[真番郡|真番]]』『朝鮮』の政治社会が存在したことが確認されるのである。この朝鮮半島の西北部に多様な政治社会が存在したことは、『史記』以後の歴史書にも見られる。例えば、『[[魏略]]』の[[逸文]]を編修した[[張鵬一]]の『[[魏略輯本]]』巻21・朝鮮にも『中国[[亡命]]』集団が『朝鮮』のなかに一定の勢力を占めていたことが読みとれる。また、3世末の[[陳寿]]が撰した『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』巻30・魏書・東夷伝・東沃沮にも『漢初,燕亡人[[衛満]]王朝鮮,時沃沮皆屬焉』とあり、同じく、『[[箕子朝鮮]]』と『[[衛氏朝鮮|衞満朝鮮]]』には『[[燕 (春秋)|燕]][[斉 (春秋)|斉]][[趙 (戦国)|趙]]の民』が流入した社会があり、この朝鮮を[[沃沮]]、[[濊]]、[[高句麗]]、[[辰韓]]が取り巻いた多様な政治世界が存したことが理解されるのである」と指摘している<ref>{{Cite news|author=[[浜田耕策]]|date=2005-06|title=4世紀の日韓関係|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf|format=[[PDF]]|archivedate=2015-10-18|page=44-45}}</ref>。
== 朝鮮半島の古地図 ==
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ファイル:Paldochongdo dokdo.jpg|李荇・尹殷輔・申公済『八道総図』(1530年)。『[[新増東国輿地勝覧]]』収載
ファイル:Map of Korea LACMA M.2008.258 (1 of 2).jpg|1628年
ファイル:Hae dong paldo bongwha mountain map 1700.jpg|17世紀
ファイル:Haehaejoa jundo 1850.jpg|1850年
ファイル:Daedongyeojido-full.jpg|[[金正浩]]『[[大東輿地図]]』(1861年)。
ファイル:DaedongYeoji Jeondo1861.jpg|金正浩『大東輿地全図』(1861年)。『大東輿地図』の縮小版。対馬を描いているが、竹島は描かれていない。
ファイル:Korean map in 1899.jpg|玄采『大韓全図』(1899年)。[[大韓帝国]]時代に教科書として使用された『[[大韓地誌]]』の附図
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=武田幸男|authorlink=武田幸男|editor=武田幸男編集|year=2000|month=8|chapter=序章 隣国・朝鮮とその歴史的潮流|title=朝鮮史|series=世界各国史2|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41320-5|ref=武田}}
* {{Cite news|author=[[李萬烈]]|date=2005-06|title=近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に― |publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archivedate=2015-09-08|format=PDF|ref={{Harvid|李|2005}}}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|朝鮮|[[画像:P Korea2.svg|34px|Portal:朝鮮]]}}
* [[朝鮮]]
* [[朝鮮民族]]
* [[朝鮮の文化]]
* [[朝鮮の歴史]]
* [[半島的性格論]]
* [[朝鮮のスポーツ]]
* [[大韓民国の人口統計]]
* [[朝鮮民主主義人民共和国の人口統計]]
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
* {{Wiktionary-inline|朝鮮半島}}
* {{Commonscat-inline|Korean Peninsula}}
{{東・東南・南アジアにおける領有権紛争}}
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明治神宮野球場
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明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、東京都新宿区の明治神宮外苑に所在する野球場。宗教法人明治神宮が所有する。通称「神宮球場(じんぐうきゅうじょう)」「神宮」(本項では以下、神宮球場に統一)。
ここではメイン球場のほか、隣接する神宮第2球場(兼明治神宮外苑ゴルフ練習場西練習場)についても触れる。
1926年(大正15年)に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、東京六大学野球の他、東都大学野球1部リーグおよび入替戦を中心に今日まで使用されている。
他にも高校野球全国高等学校野球選手権東東京大会および西東京大会、秋季大会(いずれも準決勝以降)、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会の他、社会人野球(JABA東京スポニチ大会。過去には都市対抗野球大会、現在も東京都二次予選が開催される)、日本リトルシニア全日本選手権などのアマチュアの大会が開催されるなど、阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とされている。
アマチュア専用として初期はプロ野球公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では東京ヤクルトスワローズが専用球場(本拠地球場)として使用している。
なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』だが(正面玄関上の球場名の文字看板もこの表記)、一般には常用漢字の「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。
後述するように周辺には国立競技場や秩父宮ラグビー場、併設の第二球場(使用は終了)もあり、いずれも各競技でトップレベルの大会が行われる特徴的な立地となっている。
神宮球場が完成したのは1926年(大正15年)である。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(1958年に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に改築され、現在は国立競技場が建設されている。)などのスポーツ施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち明治神宮奉賛会が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。敷地造成工事に着手したのは1925年(大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣工式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、1927年(昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。
なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に仕えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる。
早慶戦などで収容能力に不足が見られたため、1931年(昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。収容人員は29,000人 から58,000人(松内則三の実況アナウンスでは「6万の観衆、内野外野のスタンドに詰めかけまして」という表現が見られる) に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。
建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。読売新聞社長の正力松太郎は「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後に読売ジャイアンツとなる)を組織し、1934年(昭和9年)に米国メジャーリーグの招待試合を神宮球場で開催した。正力は翌年2月に右翼に切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、天皇機関説支持とともに挙げられている。
日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。
日本の敗戦後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。
それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われた。このうち、東西対抗戦はプロ野球発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった。
1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球日本選手権シリーズ第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていたが、1950年(昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年(昭和27年)3月のこと。
連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設されている。1962年には相撲場跡地に第2球場が完成した。
1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始し、次いで1964年(昭和39年)に後楽園球場から国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は後述)。
東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設(上述の通り米軍接収時代以来の復活)、ラッキーゾーンの設置といったプロ基準に合わせる改修が施された。さらに1967年(昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。
収益を優先する観点から、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。
収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は後述)。2007年(平成19年)11月24日からは大規模な改修工事を実施し、2008年(平成20年)3月6日に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。
2011年(平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。当球場のカウント表示はコンピューターグラフィックスを使用しているため(後述)表示部分(ハードウェア)の改修は必要なく、ソフトウェアの更新などで対応した。同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。
2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施した。施工業者は安藤ハザマ。工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時に耐震改修促進法に基づく耐震認定の検定を受けた。第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期(2014年度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期(2015年度)は外野席の改修を行なった。また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行なった。正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を壁面に採用した。正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更された。
また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修した。屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材で組み上げられるような形状とした。
現球場は築90年を超え、老朽化や耐震補強が課題となっており、上記の通り2013年から3年計画による工事を実施(上述以外では2015年、2023年に人工芝の張替を施工)しているが、2013年ごろから、東京都が2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出している と、複数の報道機関が報じた。この報道がなされた2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階だった。
2015年4月1日、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催後に、明治神宮外苑をスポーツの聖地とするための再開発を進める一環として、近接の秩父宮ラグビー場(区境を跨ぎ港区にある)との土地交換で新球場を建設する計画を明らかにした。
計画案としては、まず東京大会前までに現ラグビー場を撤去・解体し、開催期間中は暫定的に駐車場として利用する。大会終了後、正式に新球場の建設工事に取り掛かり、完成後に現在の神宮球場を撤去・解体し、跡地に新ラグビー場を建設する方針とされた。
また第二球場についても、再開発をするにあたり解体する予定で、工事中も野球・ラグビーなどが滞りなく、可能な限り開催できるようにすべく、新たな球技場の建設を予定している。
その後、2017年7月に当初の計画案から順番を入れ替えた形で秩父宮ラグビー場、神宮球場の順に建て替える方向で調整が進められていることが明らかになった。
2019年2月25日に神宮球場を所有する明治神宮、秩父宮ラグビー場を所有する日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事、三井不動産の4者で神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所を入れ替えて整備する神宮外苑地区の再開発の基本協定を締結。2022年5月19日には「神宮外苑まちづくり」プロジェクトが発足した。
まず神宮第二球場を解体し、非開放のドーム型で遮音性を持つ人工芝の新たなラグビー場の建設を開始する。南面を除くラグビー場の工事が一旦完了した後に、現在の秩父宮ラグビー場を解体し、その跡地に新たな野球場を建設。新球場は2031年に完成し、2032年の利用開始を予定している。現在の神宮球場を取り壊した後は、防災拠点として芝生などを敷きつめた中央広場を設け、広場に面したラグビー場の南面の整備を行い、工事が完了する。
伊藤忠商事東京本社ビルは取り壊し、新しい野球場の左右に高さ190mの高層ビルを2棟建設し、宿泊施設も入居する。テニスコートは絵画館の南側に集約し、これにより明治神宮外苑軟式グラウンドは廃止となり、神宮第二球場の解体と共に「草野球の聖地」としての役割は終わる見込みとなった。ラグビー場の新築着工は2024年を予定し、地域全体が竣工するのは2036年になる予定。しかし、神宮球場は1世紀近い歴史的な価値や、イチョウの古木の伐採の計画があり、その観点から移設・建て替えに反対する意見も多々あり、スポーツライターのマーティー・キーナートは、アメリカ合衆国のフェンウェイ・パークを引き合いに出し「同球場の建て替え計画が市民から反対されて撤回した例があり、神宮もモニュメントである」と指摘している
1961年(昭和36年)、東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)の本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、1962年から神宮球場の方を使用することが認められた。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や東京スタジアム(1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上の専用球場とされた。球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在の日本プロフェッショナル野球協約では認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。
その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ・阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり後楽園球場で開催された。また1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームを初開催した。
1964年(昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌1965年(昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも日拓ホームフライヤーズ(1973年)→日本ハムファイターズ(1974年)への球団名変更をへて、1980年(昭和55年)まで準本拠地として使用した。
その後2005年から行われているセ・パ交流戦では、ヤクルト主催でのビジターゲームで使用することがある。
1963年(昭和38年)のシーズンには、後楽園球場を専用球場としていた国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)も地方開催扱いで数試合開催した。
シーズン終了後、国鉄球団は第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、産経新聞社・フジテレビジョンが主体となって30,000人収容の球場とする具体的な改装計画まで明らかにしたものの、日本学生野球協会は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し今村均元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として1964年(昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。
これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったこと(主催球団を問わず日本テレビが独占していたが、1962年には駒沢球場廃止との兼ね合いから、東映主催試合に限りNETテレビの中継が認められた)と、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったことなども絡んでいる。プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会では自民党の川崎秀二議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で愛知揆一文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた。
国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・8月中・9月上旬)に限定される(8月については2012年までは暑さのため自発的に行わなかったが、2013年以後、17時開始の薄暮という形でデーゲームを組む試合が数回ある。2015年には7月にも17時開始の薄暮デーゲームがある)。2004年(平成16年)まで毎年5月下旬に行われていた千葉マリンスタジアムでの公式戦は、同時期に神宮で行われる早慶戦の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。2008年(平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は後述)。
1978年(昭和53年)にはヤクルトスワローズ(1974年に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され日本シリーズ(対阪急戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は2021年を除き全て神宮での開催となっている。1992年には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。1995年(平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも1970年代初め頃まで大学野球との日程の絡みで、消化試合を神宮で行えず川崎球場や東京スタジアム、横浜公園平和野球場(現:横浜スタジアム)を借りて行った事例もある。
2021年は東京2020オリンピック・東京パラリンピック開催のためにセリーグ公式戦8試合と日本シリーズ3試合が東京ドームで代替開催された。公式戦では国立競技場へ来場する来賓待合所と資材置き場として使用するためであった。日本シリーズは本来の日程では確保されていたが、延期された試合が多かったために一週間後ろ倒しになり第52回明治神宮野球大会と日程が重なったため。本来の五輪開催予定だった2020年においても、7 - 9月に東京ドームで11試合を主催する予定だったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行による五輪の延期により開催の支障が無くなり、プロ野球の日程が再編され神宮球場での開催となった。
神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔はビジターチームのファンが多かった。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に阪神タイガースが終盤まで優勝争いを演じている年はライトスタンドですらビジター側のファンが大半を占めることも珍しくなかった。古田敦也が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「F-PROJECT」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。その甲斐もあり、近年ではレフト側にヤクルト応援席ができる試合も登場するなど、ヤクルトファンがスタンドを埋めることも少なくはない。
1972年(昭和47年)オフの東京スタジアムの閉鎖に伴い本拠地を失ったロッテオリオンズは、金田正一監督在任時代の1973年(昭和48年)から川崎球場に正式に移転する前年の1977年(昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。
1973年当時、ロッテは都内での試合数確保の観点から、年20試合程度を当球場で開催する意向だった。ところが、ヤクルト球団、東京六大学野球連盟・東都大学野球連盟との日程調整で折衝するも折り合いがつかず、年6試合(その後10試合に増加)の開催にとどまざるを得なかった(その後、1974年4試合に一度減るも、1975年6試合、1976年8試合と微増。1977年はジプシー期間中で最大の12試合を行った)。
1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは南海と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対日拓ホーム3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについてはジプシー・ロッテを参照)。
横浜DeNAベイスターズは、本拠地の横浜スタジアムが2021年に延期となった2020年東京オリンピックの野球種目の会場となっており、開催期間中とその前後は横浜スタジアムが使用できないことから、2021年6月29日・30日の対中日戦及び7月3日・4日の対巨人戦は、前身球団時代も含めて初となる神宮球場での主催試合が開催された。
神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められているということ。これには神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実がある。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズ側が間借りしているのが正しい(ただし他の球団の本拠地球場も球団所有ではなく間借りであるものが少なくない)。
収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に譲歩するようになってきている面もある。ただし、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。
明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新している。このことが、度々取り沙汰されるヤクルトの他地域への移転の根拠として挙げられている。
学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまでも基本的に春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてのみ。一年を通して、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。
この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。
大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日 - 水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に基づく。そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程および六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。球場の年間使用スケジュールの概況は各年の「神宮球場ガイドブック」春季号に掲載されていた(廃刊)。
プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。2009年(平成21年)からは併用日でもプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。1989年(平成元年)までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに1990年(平成2年)から2008年(平成20年)まで18時20分開始となっていた(併用日以外は一部年度を除いて18時)。大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、1985年(昭和60年)10月16日に阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。
ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。1990年以降、神宮でのデーゲームは1991年(平成3年)の9月と2001年(平成13年)の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。2005年(平成17年)は6月4日、5日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦、6月18日の西武ライオンズ戦(交流戦予備日)と7月2日、3日の中日ドラゴンズ戦をデーゲームで開催した。更に2006年(平成18年)には「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き6月3日、4日に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった5月3日、4日もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。
2011年(平成23年)も東日本大震災による省エネ・節電の対策により4月の公式戦・ヤクルト主催試合の一部をデーゲームで行うことになり、東京六大学・東都大学両野球連盟の協力を得て、プロと同日開催である場合、学生野球の試合は1試合に減らし(それも午前9時開始)、プロ野球の試合を午後から開催できるようにした。
2017年(平成29年)は5月3日・5月4日の阪神タイガース戦をデーゲームで開催することにし、これに伴い、本来であれば上記の木・金曜日(および東京六大学連盟が使用しない火・水曜日)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟のリーグ戦は、5月1日・5月2日(3回戦にもつれたり、雨天延期が生じた場合は5月5日に予備日を設定する)の月・火曜日に前倒して開催を行った。
アマチュア野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則(アマチュア野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は試合中に主に外野席から優先してプロ野球の観客を入場させることがある。アマチュア野球で外野席を開放するのは原則東京六大学リーグ戦のみ。
下記にその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)を示す。
上記のようにファンサービスの観点で、学生野球が組まれていない時期にもデーゲームが行われることがあるが、これまで8月の開催については暑さ対策のためデーゲームとはしなかった。2013年以後は、8月にも17時開始の薄暮開催の形でデーゲームをする試合が増えている。なお2018年は4月から6月に昼間開催を行ったほか、6月30日と7月1日には17時からの薄暮デーゲームを実施した。それ以後はすべて18時以後のナイターとなり、夏季薄暮を含めたデーゲームは行われない。
1967年(昭和42年)から2007年(平成19年)までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m。野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112.3m、右中間は112.2m。この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で公認野球規則2.01(両翼は約99.1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短く、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は97.5mに拡張された。この際は101mに拡張したと発表されていたが、2013年オフに耐震工事開始前の測量を行った際に誤りだったとされ訂正された。ただしそれ以前から97.5mとする資料も存在する。
拡張されて両翼97.5m、中堅120mとなったがこの数値は他のプロ野球の本拠地球場と比較すればまだ狭い。また左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134mでフェンスは直線となっており、東京ドームに似たような広さ・形状となっている。ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広め。外野側ファウルゾーンには2組の屋外ブルペンがあるが、プレイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場で神宮球場が唯一。ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。グラウンドは全面ロングパイル人工芝、ベース付近やマウンドなどにはアンツーカーを主に使用した土が敷かれている。
完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m。内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。当時としてはかなり広大なものであり、東京六大学ではエンタイトルツーベースを“エンタイトルスリーベース”とするオリジナルルールを適用していた。1962年には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけてラッキーゾーンを設置した。設置時の両翼は91.4m。1965年には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。さらに1967年、ホームベースの位置を中堅方向へ8.5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが1.8mとなり、当時としては標準的な広さとなった。ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のち1970年に全面ラバーフェンスとなった。
1980年(昭和55年)、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、1982年から全面透水性人工芝化。日本初の透水性人工芝と謳われた。マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。その後、1988年・1993年(内野のみ)・2003年(内野のみ)・2008年と張替えを行っている。ロングパイル人工芝となったのは2008年からで、それに合わせ人工芝下の舗装と暗渠も全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。なお過去にも当球場で使われた人工芝は戸田球場や第二球場、東京大学のグラウンドで再利用されている。1995年(平成7年)には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1.5mの金網フェンスが追加され、全体で3.3mとなった。
完成当初の収容人員は29,000人で、外野スタンドは芝生席(収容人員約20,000人)、内野スタンドはベンチシート(収容人員約9,000人)。バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある聖徳記念絵画館全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。58,000人収容となる1931年の増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。スタンドの増築分の下にはコロッセオをイメージしたアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。
東映フライヤーズが使用を開始した1962年(昭和37年)には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。1967年(昭和42年)の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、1998年(平成10年)には公称が45,000人になった。2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った2008年(平成20年)の改修で収容人数は35,650人となった。なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。2011年(平成23年)にはボックス式のテーブルシートのPontaドリームシートが設置されて収容人数は35,429人となり、2012年にもPontaペアシートが増設され収容人数は35,133人に、2013年にもセブン-イレブンデッキシートが設置されて収容人数は34,572人となった。その後改修工事に伴い2015年は34,092人、2016年は31,941人、2017年は31,828人、2018年は31,805人、2021年現在は神宮球場公式ホームページによると30,969人となっている。前述の特別シート及び外野席の中・後席を除いて同じ折り畳みの背もたれ付き。かつては内野席入口で座布団の有料貸出しがあった。
プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。1967年(昭和42年)の改修で増設されたスタンドの前方(下段)は内野席、外野席とも傾斜が緩く(中堅部分になるにつれ解消される)、特に外野側(ヤクルト試合時の外野指定席)の一部では、前の客の頭でグラウンドが見えづらい席もある。一方、スタンドの後方(上段)は勾配のある造りとなっているものの、段差が不規則であることから、席により観戦のしやすさはかなり異なる(特に内野寄りにある外野席のはね上げ式座席部分)。選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗した日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。試合後の移動では取材陣がコメントを取るために監督や選手を囲んでいる様子が見られる(いわゆるぶら下がり)。なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。この地下道は荒木大輔が入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」もしくは「荒木トンネル」と呼ばれている(燕太郎は荒木トンネルで生まれたという設定)。ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。
1・3塁のスタンドには、大学野球の応援用に使用するパネルを設置するための金具が設けられている。2011クライマックス・セ1stステージのヤクルト対巨人戦(10月29日 - 10月31日)は、早慶戦と日程が重複したため、慶応の応援団が陣取る3塁側の応援パネルが撤去されずそのままの状態で飾られた中で試合が行われた。
周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。また2009年5月よりジェット風船の使用を禁止している。当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、新型インフルエンザの日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い同年5月から使用自粛を呼びかけ、6月から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。
外野観覧席背後に設置したスコアボードは、完成当初から得点表示部分は巻き取り式で、得点・カウントなどを遠隔操作で自動的に表示できる、当時としては近代的なものだった(選手名表示部はパネル式)。1931年の拡張工事で得点表示部は延長15回まで、それにヒットやエラーなどを表示する装置も付けられた。 1980年(昭和55年)には電光化、次いで1995年(平成7年)に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。さらに2008年(平成20年)にはLEDによる全面フルカラーフリーボードとなった。屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。映像表示時は画面アスペクト比16:9ワイドサイズのデジタルハイビジョンに対応している。電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式がCGによってほぼ踏襲されている。特色として以下の点があげられる。
この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。セ・リーグ連盟旗を通常日本国旗が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。
広告のある箇所はフェンスやバックスクリーン周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。広告が最初に設置されたのは1969年(昭和44年)で、改修費用の捻出という目的があった。コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組みで、当初はプロ野球使用時のみに限定、大学野球開催時にも設置されるようになったのはこの年の秋から。
翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けられた。またこの頃にスコアボード付近(時計のある箇所の両サイドと、スコアボード下)の合計5箇所に広告が貼り付けられた。
1980年(昭和55年)の電光掲示板設置時には、その周辺のみではあるが電光看板広告を設置(その後1995年にスコアボード寄りの左中間・右中間スタンド最上段にも1枚ずつ設置)した。後楽園、横浜スタジアム、川崎球場、ナゴヤ球場、阪神甲子園球場、広島市民球場に続いてであった。
逆にフェンス広告は1981年に一度全て撤廃され、1990年代にはオールスターゲームで2013年(平成25年)オープン戦までの通常ネット裏スポンサーだったブリヂストン のスペースが使用できなかった為に一時的に掲示したケース以外は全く掲示を行なわなかった。この理由として当時の神宮宮司は「フェンスは芝生の延長であり、芝生に広告を出さないだろう」と語った。
その後再び老朽化した球場を含む神宮外苑のスポーツ施設の管理・維持捻出のため2000年代初期からベンチ付近に復活、2006年(平成18年)からは外野部分にも貼り付けられた。
2006年 - 2009年は外野側にヤクルト球団の協賛スポンサー・ユニデンの広告が集中的に貼り付けられていたが、ユニデンとの契約が切れた2010年から広告が減らされた。2010年は当初、左中間部分に明治記念館、右中間部分にはヤクルトミルミルの二つのみであったが、8月以降はヤクルト製品の広告が外野側に貼り付けられるようになった。2011年(平成23年)は左中間・右中間に一部ヤクルト以外のスポンサーの広告(ほけんの窓口・明治記念館、復興応援スローガン「がんばろう!日本」など。2015年からは新たに住友ゴム工業(「ダンロップ・エナセーブ」名義)も加わった)も掲示された。
また、バックスクリーンは回転板になる前から三菱自動車、NKホーム(旧:日本鋼管グループの住宅メーカー、すでに解散し現存せず)や東京スタイルの広告が両サイドに掲載されていた。1981年に回転板になってからは中央部分にヤクルト本社(1990年ごろまで)→トヨタ自動車(1991年ごろから2010年代前半)→オープンハウス(2010年代後半)→TEKNOS(2022年)、両サイドは左がフジテレビ・右はニッポン放送(2006年ごろからニッポン放送の箇所もフジテレビに変更されたが、2018年現在は左がフジテレビ、右は青山商事<「洋服の青山」名義>になっている)が掲載されており、両サイドも回転板を採用している。ただし2011年は節電対策と、バックスクリーン中央部のスポンサー・トヨタの広告自粛の影響のため、2021年はバックスクリーンの広告協賛のスポンサーが付かなかったため、中央部の稼動は中断した時期があった。
スコアボード本体については、2008年の改修実施後のフルビジョン化の実施に伴い、それまで選手の個々の打率・ホームラン数を表示していた箇所に広告が表示されるようになった。
バックスクリーン裏や内野、外野観客席裏に軽食や弁当類、カレーやラーメンなどを提供する店舗が多数入居している。なお、築地銀だこやサーティワンアイスクリームなど、複数のチェーン店の店舗も入居している。アマチュア野球の開催が中心であった経緯から、他球場に比べてオーソドックスな出店形態であったが近年はプロ開催時を中心にオリジナルグルメも充実させている。東京六大学野球でも限定メニューを販売。売り子は、2017年まで男性による瓶ビール(紙コップに注いで)の販売も続いていた。自販機はヤクルト社を含めて缶、瓶製品以外を設置。また、ヤクルトスワローズを中心としたプロ野球グッズ(ポップコーン、ビニール傘等)を販売する売店が内外にあるほか、試合開催時には対戦チームのグッズを専用に販売する売店も設けられる。なお球場の構造上、観客が内野スタンドと外野スタンドを行き来することは出来ない(野球以外のイベントでは認められる場合がある)。2011年からは内野席の観客が外野スタンド内の売店を利用することが認められており、場外から再入場する形で行われている(直接の往来は不可のまま)。
1926年(大正15年)、明治神宮相撲場として開設された。宮武三郎が神宮球場の外野スタンド増築前に場外ホームランをここに打ち込んだという。1947年(昭和22年)から1948年にかけて大相撲の本場所興行が行われた。その後野球場に改築されることになり、1961年に竣工したが国鉄スワローズの移転の見込みに伴いすぐに増改築が行われた。当初は神宮球場のレフトスタンドとセンターが接する形となっていたが、一塁側スタンド(現在のゴルフ練習場)が接する向きに変更された。以前フィールドは全面クレー舗装だったが、1993年(平成5年)に人工芝が敷設された。2020年の東京五輪では当敷地を投擲種目の練習場とすることになっているが、具体案は公表されていない。
球場自体の用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドがなく、フェンスに沿って高い防球ネットが張られていた。また1・3塁側についてもベンチを越えた内野以降は座席が設けられていなかった。メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。多客時には2階も開放されていた。2階席の一部には神宮球場のグラウンドを見下ろすことができるエリアがあり、神宮球場で試合が行われている場合は満員時を除き立ち入り禁止となっていた。
座席は本球場の外野席と同様の背もたれのない一人用となっており、バックネット裏上段に机付きの記者席もあった。高校、大学野球ではダッグアウト上のスペースで応援団員がエール交換等を行っていた(最大3名程度)。
券売窓口が1つで、1・3塁側にそれぞれ入り口があった。売店は球場入口正面にのみ設置、限られた種類の飲食を販売していた。
2019年までは東京都高等学校野球連盟主管の大会(夏の高校野球東東京大会や春季・秋季大会)に使用されていた。以前は創設当初の首都大学野球連盟、東京新大学野球連盟や東都大学野球連盟の2部リーグも使用していたが大学野球は日程が祝日になった場合、加盟校のグラウンドを使用するため、原則として明治神宮大会、及び東京都高野連主管大会で使用する場合を除いて、アマチュア野球が第2球場を週末(土・日)と祝日に使うことはなかった。明治神宮大会ではかつて高校の部は準決勝までの試合が行われ、以後本球場への開催に移った際も大学の部1回戦は数試合が組まれていた(明治神宮大会では本球場との共通券が販売され、各球場分で両辺が切り取れる形態となっていた)。また多くの入場が見込まれる試合は本球場での開催に変更されることもあった。末期は夏季大会の準々決勝や秋季大会の準決勝以降の会場から外されるなど、高校野球での使用も減少傾向にあった。
なお東都大学2部リーグでは1973年から第2球場を主会場としていたが、球場が狭いことにより打球が場外に飛び出すケースが比較的多いことや、施設の老朽化などから、2013年秋季をもって第2球場の使用を中止することになり、2014年春季リーグ戦以後は、2部リーグに加盟する大学のグラウンド、町田市小野路球場等での実施を経て首都圏公営球場で開催している(ただし、東京六大学連盟のその週の大会が日曜日までに終わっていれば、神宮球場を会場として使う場合もあった)。また、かつて1部リーグや2部以下の入替戦も開催実績がある(雨天順延等で本球場での試合消化が難しい際)。
上記事情によりプロ野球1軍の試合には使用されていないが、過去に2軍・イースタン・リーグの試合に使用された例はある(1962年の国鉄対大毎戦他)。
また第二球場は明治神宮外苑ゴルフ練習場(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねており、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけてゴルフ練習用の打席が121打席設置されている。ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、アマチュア野球公式戦の行われる日は早朝(基本的に6時 - 8時45分)と夜間(アマチュア野球大会の試合終了後から深夜)のみの営業となる。アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており、野球場としての草野球の一般利用は受け付けていない(ゴルフのみ運営の場合でも9:00 - 9:30はボールの回収作業を行うため利用不可。また周辺道路や施設への影響を考慮し、練習場では飛距離を抑制した低反発球を使用することになっており、一般のゴルフコースや他のゴルフ練習所で使用する通常のボールの使用・持ち込みは厳禁となっている)。ゴルフ西練習所は1973年(昭和48年)に設置された(東練習所=第2球場東隣はその前年の1972年開設)。
フェンス広告はないが、ゴルフ練習場として活用されていることを踏まえて、レフト側にゴルフ関連の広告看板が設置されている。また、過去には、神宮球場に合わせて右翼側のスコアボード上に、SEIKOの広告看板が設置されていた。
東都2部撤退後の2014年頃から外野を中心として人工芝の劣化が顕著となり、2016年頃には外野の大半は下地がむき出しの黒ずんだ状態となっていた。2017年頃から一部の芝が張り替えられたもののそれ以降も外野の芝は継ぎ接ぎ状態であり、センターからライト方向深くの芝は最後まで黒ずんだ状態で使用された。
2019年11月3日の秋季東京都高等学校野球大会準々決勝・日大三 - 帝京戦を最後に野球場としての使用は終了した。奇しくも甲子園大会に出場経験のある高校同士の対戦となり、試合前には東京都高野連による高校野球全日程終了の式典が行われた。試合終了後には両校の選手・監督らによる記念撮影が行われ、帝京監督の前田三夫、日大三監督の小倉全由は健闘を讃え合うとともに球場への感謝の思いを語った。その後2019年末までゴルフ場としての営業が継続されたのち、2020年以降は東京オリンピックに向けた資材置き場となっていた。 前述の通り、神宮外苑地区の再開発に伴い、2021年をもって第二球場は解体され、跡地には新秩父宮ラグビー場が建設される予定となっているが、東京オリンピックが2021年に延期されたためその動向は不明となっていた。2021年1月15日、スポーツ庁はラグビー振興に関する関係者会議を開き、新秩父宮ラグビー場を完全密閉型屋根付きのスタジアムとする方針を決定した。グラウンドは人工芝にして多用途に対応し、収容人数は2万人規模を想定している。2023年から2026年に予定されている第1期工事では南側をオープンにしたスタンドが3方向のスタジアムとして整備される。現在の神宮球場が取り壊された後に、南側のスタンド及び屋根の設置工事が行われるため、最終的な工事完成は2033年からずれ込む見通し。
初試合に皇太子(のちの昭和天皇)が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。1931年(昭和6年)の増築は早慶戦を観戦した際、入りきらなかった観衆を見た秩父宮が勧めたのがきっかけであった。2009年(平成21年)には愛子内親王と皇太子および同妃雅子が若松勉の解説で東京ヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズの試合を観戦した。
当球場で起きた大きな事故(選手・観客)として以下のものがある。
ヤクルトが1978年(昭和53年)にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や広岡達朗監督を胴上げするという光景が見られ、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。その模様は、フジテレビの製作によって全国テレビ中継された。そういったこともあり、同じ神宮で1985年、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。
2015年現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは横浜DeNAベイスターズ(前身球団含む)だけとなっている。胴上げを行ったチームは順にヤクルト(1978年、1993年、1995年、1997年、2015年、2022年 )、阪神(1985年)、広島(1986年)、中日(1999年)、巨人(2008年)となる。
パシフィック・リーグのチームでは、1992年に西武ライオンズ、2015年に福岡ソフトバンクホークス、2022年にオリックスバファローズが日本選手権シリーズの制覇によって監督を胴上げしている。2005年から始まったセ・パ交流戦では、同年に千葉ロッテマリーンズが優勝をこの球場で決めたものの、胴上げには至らなかった。
第二次世界大戦終了後、進駐軍に接収された明治神宮野球場では、1945年11月11日にアメリカ合衆国軍人らによるロデオ大会が開催された。
また戦後初めてとなる公式のサッカー試合が行われたのもこの明治神宮野球場である(1947年4月3日開催のサッカー東西対抗戦)。この翌年の1948年にも同所で東西対抗戦サッカー試合が開催された。
人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、ストロングリーグでは全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの決勝会場や交流試合などで使用している。周辺には国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(2014年に閉鎖され、解体された)や秩父宮ラグビー場などの球技場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、1989年8月7日には日本代表対マンチェスター・ユナイテッドFCの親善試合が行われている。
コンサートやイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には神宮外苑花火大会(日刊スポーツ主催)のメイン会場として使用され、花火の打ち上げを第二球場から行っている。近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。
|
[
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"text": "明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、東京都新宿区の明治神宮外苑に所在する野球場。宗教法人明治神宮が所有する。通称「神宮球場(じんぐうきゅうじょう)」「神宮」(本項では以下、神宮球場に統一)。",
"title": null
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"text": "ここではメイン球場のほか、隣接する神宮第2球場(兼明治神宮外苑ゴルフ練習場西練習場)についても触れる。",
"title": null
},
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"paragraph_id": 2,
"tag": "p",
"text": "1926年(大正15年)に開場以来、アマチュア野球においては大学野球の主要球場として長年使用され、東京六大学野球の他、東都大学野球1部リーグおよび入替戦を中心に今日まで使用されている。",
"title": "概要"
},
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"text": "他にも高校野球全国高等学校野球選手権東東京大会および西東京大会、秋季大会(いずれも準決勝以降)、全日本大学野球選手権大会、明治神宮野球大会の他、社会人野球(JABA東京スポニチ大会。過去には都市対抗野球大会、現在も東京都二次予選が開催される)、日本リトルシニア全日本選手権などのアマチュアの大会が開催されるなど、阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とされている。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "アマチュア専用として初期はプロ野球公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では東京ヤクルトスワローズが専用球場(本拠地球場)として使用している。",
"title": "概要"
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{
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"text": "なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』だが(正面玄関上の球場名の文字看板もこの表記)、一般には常用漢字の「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "後述するように周辺には国立競技場や秩父宮ラグビー場、併設の第二球場(使用は終了)もあり、いずれも各競技でトップレベルの大会が行われる特徴的な立地となっている。",
"title": "概要"
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{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "神宮球場が完成したのは1926年(大正15年)である。明治神宮外苑に明治神宮外苑競技場(1958年に国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に改築され、現在は国立競技場が建設されている。)などのスポーツ施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち明治神宮奉賛会が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。敷地造成工事に着手したのは1925年(大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣工式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、1927年(昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に仕えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "早慶戦などで収容能力に不足が見られたため、1931年(昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。収容人員は29,000人 から58,000人(松内則三の実況アナウンスでは「6万の観衆、内野外野のスタンドに詰めかけまして」という表現が見られる) に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。読売新聞社長の正力松太郎は「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後に読売ジャイアンツとなる)を組織し、1934年(昭和9年)に米国メジャーリーグの招待試合を神宮球場で開催した。正力は翌年2月に右翼に切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、天皇機関説支持とともに挙げられている。",
"title": "歴史"
},
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"text": "日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "日本の敗戦後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。",
"title": "歴史"
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"text": "それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われた。このうち、東西対抗戦はプロ野球発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった。",
"title": "歴史"
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"text": "1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球日本選手権シリーズ第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていたが、1950年(昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年(昭和27年)3月のこと。",
"title": "歴史"
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"text": "連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設されている。1962年には相撲場跡地に第2球場が完成した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始し、次いで1964年(昭和39年)に後楽園球場から国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は後述)。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設(上述の通り米軍接収時代以来の復活)、ラッキーゾーンの設置といったプロ基準に合わせる改修が施された。さらに1967年(昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "収益を優先する観点から、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は後述)。2007年(平成19年)11月24日からは大規模な改修工事を実施し、2008年(平成20年)3月6日に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "2011年(平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。当球場のカウント表示はコンピューターグラフィックスを使用しているため(後述)表示部分(ハードウェア)の改修は必要なく、ソフトウェアの更新などで対応した。同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施した。施工業者は安藤ハザマ。工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時に耐震改修促進法に基づく耐震認定の検定を受けた。第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期(2014年度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期(2015年度)は外野席の改修を行なった。また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行なった。正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を壁面に採用した。正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修した。屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材で組み上げられるような形状とした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "現球場は築90年を超え、老朽化や耐震補強が課題となっており、上記の通り2013年から3年計画による工事を実施(上述以外では2015年、2023年に人工芝の張替を施工)しているが、2013年ごろから、東京都が2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出している と、複数の報道機関が報じた。この報道がなされた2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階だった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2015年4月1日、2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催後に、明治神宮外苑をスポーツの聖地とするための再開発を進める一環として、近接の秩父宮ラグビー場(区境を跨ぎ港区にある)との土地交換で新球場を建設する計画を明らかにした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "計画案としては、まず東京大会前までに現ラグビー場を撤去・解体し、開催期間中は暫定的に駐車場として利用する。大会終了後、正式に新球場の建設工事に取り掛かり、完成後に現在の神宮球場を撤去・解体し、跡地に新ラグビー場を建設する方針とされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また第二球場についても、再開発をするにあたり解体する予定で、工事中も野球・ラグビーなどが滞りなく、可能な限り開催できるようにすべく、新たな球技場の建設を予定している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "その後、2017年7月に当初の計画案から順番を入れ替えた形で秩父宮ラグビー場、神宮球場の順に建て替える方向で調整が進められていることが明らかになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2019年2月25日に神宮球場を所有する明治神宮、秩父宮ラグビー場を所有する日本スポーツ振興センター、伊藤忠商事、三井不動産の4者で神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所を入れ替えて整備する神宮外苑地区の再開発の基本協定を締結。2022年5月19日には「神宮外苑まちづくり」プロジェクトが発足した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "まず神宮第二球場を解体し、非開放のドーム型で遮音性を持つ人工芝の新たなラグビー場の建設を開始する。南面を除くラグビー場の工事が一旦完了した後に、現在の秩父宮ラグビー場を解体し、その跡地に新たな野球場を建設。新球場は2031年に完成し、2032年の利用開始を予定している。現在の神宮球場を取り壊した後は、防災拠点として芝生などを敷きつめた中央広場を設け、広場に面したラグビー場の南面の整備を行い、工事が完了する。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "伊藤忠商事東京本社ビルは取り壊し、新しい野球場の左右に高さ190mの高層ビルを2棟建設し、宿泊施設も入居する。テニスコートは絵画館の南側に集約し、これにより明治神宮外苑軟式グラウンドは廃止となり、神宮第二球場の解体と共に「草野球の聖地」としての役割は終わる見込みとなった。ラグビー場の新築着工は2024年を予定し、地域全体が竣工するのは2036年になる予定。しかし、神宮球場は1世紀近い歴史的な価値や、イチョウの古木の伐採の計画があり、その観点から移設・建て替えに反対する意見も多々あり、スポーツライターのマーティー・キーナートは、アメリカ合衆国のフェンウェイ・パークを引き合いに出し「同球場の建て替え計画が市民から反対されて撤回した例があり、神宮もモニュメントである」と指摘している",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1961年(昭和36年)、東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)の本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、1962年から神宮球場の方を使用することが認められた。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や東京スタジアム(1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上の専用球場とされた。球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在の日本プロフェッショナル野球協約では認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ・阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり後楽園球場で開催された。また1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームを初開催した。",
"title": "プロ野球"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌1965年(昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも日拓ホームフライヤーズ(1973年)→日本ハムファイターズ(1974年)への球団名変更をへて、1980年(昭和55年)まで準本拠地として使用した。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "その後2005年から行われているセ・パ交流戦では、ヤクルト主催でのビジターゲームで使用することがある。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1963年(昭和38年)のシーズンには、後楽園球場を専用球場としていた国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)も地方開催扱いで数試合開催した。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "シーズン終了後、国鉄球団は第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、産経新聞社・フジテレビジョンが主体となって30,000人収容の球場とする具体的な改装計画まで明らかにしたものの、日本学生野球協会は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し今村均元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として1964年(昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。",
"title": "プロ野球"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったこと(主催球団を問わず日本テレビが独占していたが、1962年には駒沢球場廃止との兼ね合いから、東映主催試合に限りNETテレビの中継が認められた)と、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったことなども絡んでいる。プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会では自民党の川崎秀二議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で愛知揆一文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた。",
"title": "プロ野球"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・8月中・9月上旬)に限定される(8月については2012年までは暑さのため自発的に行わなかったが、2013年以後、17時開始の薄暮という形でデーゲームを組む試合が数回ある。2015年には7月にも17時開始の薄暮デーゲームがある)。2004年(平成16年)まで毎年5月下旬に行われていた千葉マリンスタジアムでの公式戦は、同時期に神宮で行われる早慶戦の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。2008年(平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は後述)。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1978年(昭和53年)にはヤクルトスワローズ(1974年に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され日本シリーズ(対阪急戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は2021年を除き全て神宮での開催となっている。1992年には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。1995年(平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも1970年代初め頃まで大学野球との日程の絡みで、消化試合を神宮で行えず川崎球場や東京スタジアム、横浜公園平和野球場(現:横浜スタジアム)を借りて行った事例もある。",
"title": "プロ野球"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2021年は東京2020オリンピック・東京パラリンピック開催のためにセリーグ公式戦8試合と日本シリーズ3試合が東京ドームで代替開催された。公式戦では国立競技場へ来場する来賓待合所と資材置き場として使用するためであった。日本シリーズは本来の日程では確保されていたが、延期された試合が多かったために一週間後ろ倒しになり第52回明治神宮野球大会と日程が重なったため。本来の五輪開催予定だった2020年においても、7 - 9月に東京ドームで11試合を主催する予定だったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行による五輪の延期により開催の支障が無くなり、プロ野球の日程が再編され神宮球場での開催となった。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔はビジターチームのファンが多かった。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に阪神タイガースが終盤まで優勝争いを演じている年はライトスタンドですらビジター側のファンが大半を占めることも珍しくなかった。古田敦也が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「F-PROJECT」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。その甲斐もあり、近年ではレフト側にヤクルト応援席ができる試合も登場するなど、ヤクルトファンがスタンドを埋めることも少なくはない。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)オフの東京スタジアムの閉鎖に伴い本拠地を失ったロッテオリオンズは、金田正一監督在任時代の1973年(昭和48年)から川崎球場に正式に移転する前年の1977年(昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1973年当時、ロッテは都内での試合数確保の観点から、年20試合程度を当球場で開催する意向だった。ところが、ヤクルト球団、東京六大学野球連盟・東都大学野球連盟との日程調整で折衝するも折り合いがつかず、年6試合(その後10試合に増加)の開催にとどまざるを得なかった(その後、1974年4試合に一度減るも、1975年6試合、1976年8試合と微増。1977年はジプシー期間中で最大の12試合を行った)。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは南海と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対日拓ホーム3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについてはジプシー・ロッテを参照)。",
"title": "プロ野球"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "横浜DeNAベイスターズは、本拠地の横浜スタジアムが2021年に延期となった2020年東京オリンピックの野球種目の会場となっており、開催期間中とその前後は横浜スタジアムが使用できないことから、2021年6月29日・30日の対中日戦及び7月3日・4日の対巨人戦は、前身球団時代も含めて初となる神宮球場での主催試合が開催された。",
"title": "プロ野球"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められているということ。これには神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実がある。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズ側が間借りしているのが正しい(ただし他の球団の本拠地球場も球団所有ではなく間借りであるものが少なくない)。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に譲歩するようになってきている面もある。ただし、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新している。このことが、度々取り沙汰されるヤクルトの他地域への移転の根拠として挙げられている。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまでも基本的に春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてのみ。一年を通して、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日 - 水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に基づく。そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程および六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。球場の年間使用スケジュールの概況は各年の「神宮球場ガイドブック」春季号に掲載されていた(廃刊)。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。2009年(平成21年)からは併用日でもプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。1989年(平成元年)までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに1990年(平成2年)から2008年(平成20年)まで18時20分開始となっていた(併用日以外は一部年度を除いて18時)。大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、1985年(昭和60年)10月16日に阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。1990年以降、神宮でのデーゲームは1991年(平成3年)の9月と2001年(平成13年)の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。2005年(平成17年)は6月4日、5日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦、6月18日の西武ライオンズ戦(交流戦予備日)と7月2日、3日の中日ドラゴンズ戦をデーゲームで開催した。更に2006年(平成18年)には「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き6月3日、4日に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった5月3日、4日もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2011年(平成23年)も東日本大震災による省エネ・節電の対策により4月の公式戦・ヤクルト主催試合の一部をデーゲームで行うことになり、東京六大学・東都大学両野球連盟の協力を得て、プロと同日開催である場合、学生野球の試合は1試合に減らし(それも午前9時開始)、プロ野球の試合を午後から開催できるようにした。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2017年(平成29年)は5月3日・5月4日の阪神タイガース戦をデーゲームで開催することにし、これに伴い、本来であれば上記の木・金曜日(および東京六大学連盟が使用しない火・水曜日)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟のリーグ戦は、5月1日・5月2日(3回戦にもつれたり、雨天延期が生じた場合は5月5日に予備日を設定する)の月・火曜日に前倒して開催を行った。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "アマチュア野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則(アマチュア野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は試合中に主に外野席から優先してプロ野球の観客を入場させることがある。アマチュア野球で外野席を開放するのは原則東京六大学リーグ戦のみ。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "下記にその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)を示す。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "上記のようにファンサービスの観点で、学生野球が組まれていない時期にもデーゲームが行われることがあるが、これまで8月の開催については暑さ対策のためデーゲームとはしなかった。2013年以後は、8月にも17時開始の薄暮開催の形でデーゲームをする試合が増えている。なお2018年は4月から6月に昼間開催を行ったほか、6月30日と7月1日には17時からの薄暮デーゲームを実施した。それ以後はすべて18時以後のナイターとなり、夏季薄暮を含めたデーゲームは行われない。",
"title": "優先使用権"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1967年(昭和42年)から2007年(平成19年)までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m。野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112.3m、右中間は112.2m。この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で公認野球規則2.01(両翼は約99.1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短く、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は97.5mに拡張された。この際は101mに拡張したと発表されていたが、2013年オフに耐震工事開始前の測量を行った際に誤りだったとされ訂正された。ただしそれ以前から97.5mとする資料も存在する。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "拡張されて両翼97.5m、中堅120mとなったがこの数値は他のプロ野球の本拠地球場と比較すればまだ狭い。また左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134mでフェンスは直線となっており、東京ドームに似たような広さ・形状となっている。ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広め。外野側ファウルゾーンには2組の屋外ブルペンがあるが、プレイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場で神宮球場が唯一。ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。グラウンドは全面ロングパイル人工芝、ベース付近やマウンドなどにはアンツーカーを主に使用した土が敷かれている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m。内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。当時としてはかなり広大なものであり、東京六大学ではエンタイトルツーベースを“エンタイトルスリーベース”とするオリジナルルールを適用していた。1962年には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけてラッキーゾーンを設置した。設置時の両翼は91.4m。1965年には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。さらに1967年、ホームベースの位置を中堅方向へ8.5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが1.8mとなり、当時としては標準的な広さとなった。ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のち1970年に全面ラバーフェンスとなった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1980年(昭和55年)、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、1982年から全面透水性人工芝化。日本初の透水性人工芝と謳われた。マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。その後、1988年・1993年(内野のみ)・2003年(内野のみ)・2008年と張替えを行っている。ロングパイル人工芝となったのは2008年からで、それに合わせ人工芝下の舗装と暗渠も全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。なお過去にも当球場で使われた人工芝は戸田球場や第二球場、東京大学のグラウンドで再利用されている。1995年(平成7年)には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1.5mの金網フェンスが追加され、全体で3.3mとなった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "完成当初の収容人員は29,000人で、外野スタンドは芝生席(収容人員約20,000人)、内野スタンドはベンチシート(収容人員約9,000人)。バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある聖徳記念絵画館全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。58,000人収容となる1931年の増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。スタンドの増築分の下にはコロッセオをイメージしたアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "東映フライヤーズが使用を開始した1962年(昭和37年)には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。1967年(昭和42年)の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、1998年(平成10年)には公称が45,000人になった。2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った2008年(平成20年)の改修で収容人数は35,650人となった。なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。2011年(平成23年)にはボックス式のテーブルシートのPontaドリームシートが設置されて収容人数は35,429人となり、2012年にもPontaペアシートが増設され収容人数は35,133人に、2013年にもセブン-イレブンデッキシートが設置されて収容人数は34,572人となった。その後改修工事に伴い2015年は34,092人、2016年は31,941人、2017年は31,828人、2018年は31,805人、2021年現在は神宮球場公式ホームページによると30,969人となっている。前述の特別シート及び外野席の中・後席を除いて同じ折り畳みの背もたれ付き。かつては内野席入口で座布団の有料貸出しがあった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。1967年(昭和42年)の改修で増設されたスタンドの前方(下段)は内野席、外野席とも傾斜が緩く(中堅部分になるにつれ解消される)、特に外野側(ヤクルト試合時の外野指定席)の一部では、前の客の頭でグラウンドが見えづらい席もある。一方、スタンドの後方(上段)は勾配のある造りとなっているものの、段差が不規則であることから、席により観戦のしやすさはかなり異なる(特に内野寄りにある外野席のはね上げ式座席部分)。選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗した日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。試合後の移動では取材陣がコメントを取るために監督や選手を囲んでいる様子が見られる(いわゆるぶら下がり)。なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。この地下道は荒木大輔が入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」もしくは「荒木トンネル」と呼ばれている(燕太郎は荒木トンネルで生まれたという設定)。ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1・3塁のスタンドには、大学野球の応援用に使用するパネルを設置するための金具が設けられている。2011クライマックス・セ1stステージのヤクルト対巨人戦(10月29日 - 10月31日)は、早慶戦と日程が重複したため、慶応の応援団が陣取る3塁側の応援パネルが撤去されずそのままの状態で飾られた中で試合が行われた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。また2009年5月よりジェット風船の使用を禁止している。当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、新型インフルエンザの日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い同年5月から使用自粛を呼びかけ、6月から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "外野観覧席背後に設置したスコアボードは、完成当初から得点表示部分は巻き取り式で、得点・カウントなどを遠隔操作で自動的に表示できる、当時としては近代的なものだった(選手名表示部はパネル式)。1931年の拡張工事で得点表示部は延長15回まで、それにヒットやエラーなどを表示する装置も付けられた。 1980年(昭和55年)には電光化、次いで1995年(平成7年)に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。さらに2008年(平成20年)にはLEDによる全面フルカラーフリーボードとなった。屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。映像表示時は画面アスペクト比16:9ワイドサイズのデジタルハイビジョンに対応している。電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式がCGによってほぼ踏襲されている。特色として以下の点があげられる。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。セ・リーグ連盟旗を通常日本国旗が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "広告のある箇所はフェンスやバックスクリーン周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。広告が最初に設置されたのは1969年(昭和44年)で、改修費用の捻出という目的があった。コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組みで、当初はプロ野球使用時のみに限定、大学野球開催時にも設置されるようになったのはこの年の秋から。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けられた。またこの頃にスコアボード付近(時計のある箇所の両サイドと、スコアボード下)の合計5箇所に広告が貼り付けられた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1980年(昭和55年)の電光掲示板設置時には、その周辺のみではあるが電光看板広告を設置(その後1995年にスコアボード寄りの左中間・右中間スタンド最上段にも1枚ずつ設置)した。後楽園、横浜スタジアム、川崎球場、ナゴヤ球場、阪神甲子園球場、広島市民球場に続いてであった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "逆にフェンス広告は1981年に一度全て撤廃され、1990年代にはオールスターゲームで2013年(平成25年)オープン戦までの通常ネット裏スポンサーだったブリヂストン のスペースが使用できなかった為に一時的に掲示したケース以外は全く掲示を行なわなかった。この理由として当時の神宮宮司は「フェンスは芝生の延長であり、芝生に広告を出さないだろう」と語った。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "その後再び老朽化した球場を含む神宮外苑のスポーツ施設の管理・維持捻出のため2000年代初期からベンチ付近に復活、2006年(平成18年)からは外野部分にも貼り付けられた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2006年 - 2009年は外野側にヤクルト球団の協賛スポンサー・ユニデンの広告が集中的に貼り付けられていたが、ユニデンとの契約が切れた2010年から広告が減らされた。2010年は当初、左中間部分に明治記念館、右中間部分にはヤクルトミルミルの二つのみであったが、8月以降はヤクルト製品の広告が外野側に貼り付けられるようになった。2011年(平成23年)は左中間・右中間に一部ヤクルト以外のスポンサーの広告(ほけんの窓口・明治記念館、復興応援スローガン「がんばろう!日本」など。2015年からは新たに住友ゴム工業(「ダンロップ・エナセーブ」名義)も加わった)も掲示された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また、バックスクリーンは回転板になる前から三菱自動車、NKホーム(旧:日本鋼管グループの住宅メーカー、すでに解散し現存せず)や東京スタイルの広告が両サイドに掲載されていた。1981年に回転板になってからは中央部分にヤクルト本社(1990年ごろまで)→トヨタ自動車(1991年ごろから2010年代前半)→オープンハウス(2010年代後半)→TEKNOS(2022年)、両サイドは左がフジテレビ・右はニッポン放送(2006年ごろからニッポン放送の箇所もフジテレビに変更されたが、2018年現在は左がフジテレビ、右は青山商事<「洋服の青山」名義>になっている)が掲載されており、両サイドも回転板を採用している。ただし2011年は節電対策と、バックスクリーン中央部のスポンサー・トヨタの広告自粛の影響のため、2021年はバックスクリーンの広告協賛のスポンサーが付かなかったため、中央部の稼動は中断した時期があった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "スコアボード本体については、2008年の改修実施後のフルビジョン化の実施に伴い、それまで選手の個々の打率・ホームラン数を表示していた箇所に広告が表示されるようになった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "バックスクリーン裏や内野、外野観客席裏に軽食や弁当類、カレーやラーメンなどを提供する店舗が多数入居している。なお、築地銀だこやサーティワンアイスクリームなど、複数のチェーン店の店舗も入居している。アマチュア野球の開催が中心であった経緯から、他球場に比べてオーソドックスな出店形態であったが近年はプロ開催時を中心にオリジナルグルメも充実させている。東京六大学野球でも限定メニューを販売。売り子は、2017年まで男性による瓶ビール(紙コップに注いで)の販売も続いていた。自販機はヤクルト社を含めて缶、瓶製品以外を設置。また、ヤクルトスワローズを中心としたプロ野球グッズ(ポップコーン、ビニール傘等)を販売する売店が内外にあるほか、試合開催時には対戦チームのグッズを専用に販売する売店も設けられる。なお球場の構造上、観客が内野スタンドと外野スタンドを行き来することは出来ない(野球以外のイベントでは認められる場合がある)。2011年からは内野席の観客が外野スタンド内の売店を利用することが認められており、場外から再入場する形で行われている(直接の往来は不可のまま)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "1926年(大正15年)、明治神宮相撲場として開設された。宮武三郎が神宮球場の外野スタンド増築前に場外ホームランをここに打ち込んだという。1947年(昭和22年)から1948年にかけて大相撲の本場所興行が行われた。その後野球場に改築されることになり、1961年に竣工したが国鉄スワローズの移転の見込みに伴いすぐに増改築が行われた。当初は神宮球場のレフトスタンドとセンターが接する形となっていたが、一塁側スタンド(現在のゴルフ練習場)が接する向きに変更された。以前フィールドは全面クレー舗装だったが、1993年(平成5年)に人工芝が敷設された。2020年の東京五輪では当敷地を投擲種目の練習場とすることになっているが、具体案は公表されていない。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "球場自体の用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドがなく、フェンスに沿って高い防球ネットが張られていた。また1・3塁側についてもベンチを越えた内野以降は座席が設けられていなかった。メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。多客時には2階も開放されていた。2階席の一部には神宮球場のグラウンドを見下ろすことができるエリアがあり、神宮球場で試合が行われている場合は満員時を除き立ち入り禁止となっていた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "座席は本球場の外野席と同様の背もたれのない一人用となっており、バックネット裏上段に机付きの記者席もあった。高校、大学野球ではダッグアウト上のスペースで応援団員がエール交換等を行っていた(最大3名程度)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "券売窓口が1つで、1・3塁側にそれぞれ入り口があった。売店は球場入口正面にのみ設置、限られた種類の飲食を販売していた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2019年までは東京都高等学校野球連盟主管の大会(夏の高校野球東東京大会や春季・秋季大会)に使用されていた。以前は創設当初の首都大学野球連盟、東京新大学野球連盟や東都大学野球連盟の2部リーグも使用していたが大学野球は日程が祝日になった場合、加盟校のグラウンドを使用するため、原則として明治神宮大会、及び東京都高野連主管大会で使用する場合を除いて、アマチュア野球が第2球場を週末(土・日)と祝日に使うことはなかった。明治神宮大会ではかつて高校の部は準決勝までの試合が行われ、以後本球場への開催に移った際も大学の部1回戦は数試合が組まれていた(明治神宮大会では本球場との共通券が販売され、各球場分で両辺が切り取れる形態となっていた)。また多くの入場が見込まれる試合は本球場での開催に変更されることもあった。末期は夏季大会の準々決勝や秋季大会の準決勝以降の会場から外されるなど、高校野球での使用も減少傾向にあった。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "なお東都大学2部リーグでは1973年から第2球場を主会場としていたが、球場が狭いことにより打球が場外に飛び出すケースが比較的多いことや、施設の老朽化などから、2013年秋季をもって第2球場の使用を中止することになり、2014年春季リーグ戦以後は、2部リーグに加盟する大学のグラウンド、町田市小野路球場等での実施を経て首都圏公営球場で開催している(ただし、東京六大学連盟のその週の大会が日曜日までに終わっていれば、神宮球場を会場として使う場合もあった)。また、かつて1部リーグや2部以下の入替戦も開催実績がある(雨天順延等で本球場での試合消化が難しい際)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "上記事情によりプロ野球1軍の試合には使用されていないが、過去に2軍・イースタン・リーグの試合に使用された例はある(1962年の国鉄対大毎戦他)。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "また第二球場は明治神宮外苑ゴルフ練習場(外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねており、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけてゴルフ練習用の打席が121打席設置されている。ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、アマチュア野球公式戦の行われる日は早朝(基本的に6時 - 8時45分)と夜間(アマチュア野球大会の試合終了後から深夜)のみの営業となる。アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており、野球場としての草野球の一般利用は受け付けていない(ゴルフのみ運営の場合でも9:00 - 9:30はボールの回収作業を行うため利用不可。また周辺道路や施設への影響を考慮し、練習場では飛距離を抑制した低反発球を使用することになっており、一般のゴルフコースや他のゴルフ練習所で使用する通常のボールの使用・持ち込みは厳禁となっている)。ゴルフ西練習所は1973年(昭和48年)に設置された(東練習所=第2球場東隣はその前年の1972年開設)。",
"title": "施設概要"
},
{
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"tag": "p",
"text": "フェンス広告はないが、ゴルフ練習場として活用されていることを踏まえて、レフト側にゴルフ関連の広告看板が設置されている。また、過去には、神宮球場に合わせて右翼側のスコアボード上に、SEIKOの広告看板が設置されていた。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "東都2部撤退後の2014年頃から外野を中心として人工芝の劣化が顕著となり、2016年頃には外野の大半は下地がむき出しの黒ずんだ状態となっていた。2017年頃から一部の芝が張り替えられたもののそれ以降も外野の芝は継ぎ接ぎ状態であり、センターからライト方向深くの芝は最後まで黒ずんだ状態で使用された。",
"title": "施設概要"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "2019年11月3日の秋季東京都高等学校野球大会準々決勝・日大三 - 帝京戦を最後に野球場としての使用は終了した。奇しくも甲子園大会に出場経験のある高校同士の対戦となり、試合前には東京都高野連による高校野球全日程終了の式典が行われた。試合終了後には両校の選手・監督らによる記念撮影が行われ、帝京監督の前田三夫、日大三監督の小倉全由は健闘を讃え合うとともに球場への感謝の思いを語った。その後2019年末までゴルフ場としての営業が継続されたのち、2020年以降は東京オリンピックに向けた資材置き場となっていた。 前述の通り、神宮外苑地区の再開発に伴い、2021年をもって第二球場は解体され、跡地には新秩父宮ラグビー場が建設される予定となっているが、東京オリンピックが2021年に延期されたためその動向は不明となっていた。2021年1月15日、スポーツ庁はラグビー振興に関する関係者会議を開き、新秩父宮ラグビー場を完全密閉型屋根付きのスタジアムとする方針を決定した。グラウンドは人工芝にして多用途に対応し、収容人数は2万人規模を想定している。2023年から2026年に予定されている第1期工事では南側をオープンにしたスタンドが3方向のスタジアムとして整備される。現在の神宮球場が取り壊された後に、南側のスタンド及び屋根の設置工事が行われるため、最終的な工事完成は2033年からずれ込む見通し。",
"title": "施設概要"
},
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"text": "初試合に皇太子(のちの昭和天皇)が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。1931年(昭和6年)の増築は早慶戦を観戦した際、入りきらなかった観衆を見た秩父宮が勧めたのがきっかけであった。2009年(平成21年)には愛子内親王と皇太子および同妃雅子が若松勉の解説で東京ヤクルトスワローズ対横浜ベイスターズの試合を観戦した。",
"title": "天覧・台覧試合"
},
{
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"text": "当球場で起きた大きな事故(選手・観客)として以下のものがある。",
"title": "事故"
},
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"text": "ヤクルトが1978年(昭和53年)にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や広岡達朗監督を胴上げするという光景が見られ、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。その模様は、フジテレビの製作によって全国テレビ中継された。そういったこともあり、同じ神宮で1985年、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。",
"title": "胴上げ"
},
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"text": "2015年現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは横浜DeNAベイスターズ(前身球団含む)だけとなっている。胴上げを行ったチームは順にヤクルト(1978年、1993年、1995年、1997年、2015年、2022年 )、阪神(1985年)、広島(1986年)、中日(1999年)、巨人(2008年)となる。",
"title": "胴上げ"
},
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"text": "パシフィック・リーグのチームでは、1992年に西武ライオンズ、2015年に福岡ソフトバンクホークス、2022年にオリックスバファローズが日本選手権シリーズの制覇によって監督を胴上げしている。2005年から始まったセ・パ交流戦では、同年に千葉ロッテマリーンズが優勝をこの球場で決めたものの、胴上げには至らなかった。",
"title": "胴上げ"
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"text": "第二次世界大戦終了後、進駐軍に接収された明治神宮野球場では、1945年11月11日にアメリカ合衆国軍人らによるロデオ大会が開催された。",
"title": "硬式野球以外での使用"
},
{
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"text": "また戦後初めてとなる公式のサッカー試合が行われたのもこの明治神宮野球場である(1947年4月3日開催のサッカー東西対抗戦)。この翌年の1948年にも同所で東西対抗戦サッカー試合が開催された。",
"title": "硬式野球以外での使用"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、ストロングリーグでは全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップの決勝会場や交流試合などで使用している。周辺には国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(2014年に閉鎖され、解体された)や秩父宮ラグビー場などの球技場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、1989年8月7日には日本代表対マンチェスター・ユナイテッドFCの親善試合が行われている。",
"title": "硬式野球以外での使用"
},
{
"paragraph_id": 98,
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"text": "コンサートやイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には神宮外苑花火大会(日刊スポーツ主催)のメイン会場として使用され、花火の打ち上げを第二球場から行っている。近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。",
"title": "硬式野球以外での使用"
}
] |
明治神宮野球場(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、東京都新宿区の明治神宮外苑に所在する野球場。宗教法人明治神宮が所有する。通称「神宮球場(じんぐうきゅうじょう)」「神宮」(本項では以下、神宮球場に統一)。 ここではメイン球場のほか、隣接する神宮第2球場(兼明治神宮外苑ゴルフ練習場西練習場)についても触れる。
|
{{出典の明記|date=2018年4月}}
{{記事名の制約|明治神{{lang|zh|宫}}野球場}}
{{野球場情報ボックス
| スタジアム名称 = 明治神宮野球場
| 愛称 =
| 画像 = [[File:Meiji Jingu Stadium 2019c.jpg|thumb|280px|外観]]
[[File:Meiji Jingu Stadium 20190601.jpg|thumb|280px|フィールド全景]]
{{Infobox mapframe|zoom=13|frame-width=250}}
| 所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[霞ヶ丘町]]3番1号
| 緯度度 = 35 | 緯度分 = 40 | 緯度秒 = 28.46 | N(北緯)およびS(南緯) = N
| 経度度 = 139 |経度分 = 43 | 経度秒 = 1.69 | E(東経)およびW(西経) = E
| 地図国コード = JP
| pushpin_map = Tokyo city
| 起工 = [[1925年]](大正14年)[[12月]]
| 開場 = [[1926年]](大正15年)[[10月23日]]
| 所有者 = [[明治神宮]]
| グラウンド = ロングパイル[[人工芝]]
| ダグアウト=ホーム - 一塁側<br />ビジター - 三塁側
| 照明 = 照明塔 - 6基<br/>照度 投捕間3000Lx<br/>内野2300Lx<br/>外野1700Lx
| 建設費 = 53万円(着工当時)
| 設計者 = [[小林政一]]
| 旧称 = STATESIDE PARK(1945年 - 1952年)
| 使用チーム、大会 =
;主なアマチュア関連
*[[東京六大学野球連盟]](開場 - 現在)
*[[都市対抗野球大会]](1927年 - 1937年)
*[[東都大学野球連盟]](1932年 - 現在)
*[[全日本大学野球選手権大会]](1952年 - 現在)
*[[明治神宮野球大会]](1970年 - 現在)
*[[全国高等学校野球選手権東東京大会]](1974年 - 現在)
*[[全国高等学校野球選手権西東京大会]](1974年 - 現在)
*[[JABA東京スポニチ大会]]
;プロ野球の使用チーム
*[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]](1962年 - 1972年){{refnest|group="注"|1962年・1963年は本拠地扱いであるが、以降は準本拠地であった。}}
*[[東京ヤクルトスワローズ]](1964年 - 現在)
| 収容能力 = 30,969人 (内野:-席、外野:-席)
| 規模 = グラウンド面積:12,659[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]<br/>両翼 - 97.5 m(約319.8 ft)<br/> 中堅 - 120 m(約393.7 ft)<br/>左右中間 - 112.3m
| フェンスの高さ = 3.3 m (約10.83ft)<br/>ラバーフェンス:1.8 m<br/>金網フェンス:1.5 m
}}
{{野球場情報ボックス
| スタジアム名称 = 明治神宮第二球場
| 愛称 =
| 画像 = [[File:Meiji Jingu Stadium9.jpg|250px]]<br/>明治神宮第二野球場<br/>(2016年10月29日撮影)<ref>平成28年 秋季東京都高等学校野球大会 準々決勝 早大学院対日大三戦の模様</ref>
| 所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[霞ヶ丘町]]3番2号
| 座標 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|40|33.6|N|139|42|58.1|E|region:JP}}
| 開場 = [[1961年]]([[昭和]]36年)
| 閉場 = [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月3日]]
| 所有者 = [[明治神宮]]
| グラウンド = [[人工芝]]
| 設計者 = 不明
| 使用チーム、大会 = *[[東都大学野球連盟]](2部)(1973年 - 2013年)
*[[明治神宮野球大会]](1970年 - 2008年)
*[[全国高等学校野球選手権東東京大会]]( - 2019年)
*[[全国高等学校野球選手権西東京大会]]( - 2012年)
| 収容能力 = 5,600人
| 規模 = 両翼 - 91 m(約298.6 ft)<br/>中堅 - 116 m(約380.6 ft)
| フェンスの高さ = 不明
}}
'''明治神宮野球場'''(めいじじんぐうやきゅうじょう)は、[[東京都]][[新宿区]]の[[明治神宮外苑]]に所在する[[野球場]]。[[宗教法人]][[明治神宮]]が所有する。通称「'''神宮球場'''(じんぐうきゅうじょう)」「'''神宮'''」(本項では以下、神宮球場に統一)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20200911-GSA7JUEHTVKQXHOJPRD2GR6UHY/|title=【100年の森 明治神宮物語】球音(上)外苑に誕生した「野球の聖地」|publisher=産経ニュース|date=2020-09-11|accessdate=2021-04-25}}</ref>。
ここではメイン球場のほか、隣接する[[#明治神宮第二球場|神宮第2球場]](兼[[明治神宮外苑ゴルフ練習場]]西練習場)についても触れる。
==概要==
[[1926年]]([[大正]]15年)に開場以来、[[日本のアマチュア野球|アマチュア野球]]においては[[日本の大学野球|大学野球]]の主要球場として長年使用され、[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]の他、[[東都大学野球連盟|東都大学野球]]1部リーグおよび入替戦を中心に今日まで使用されている。
他にも[[日本の高校野球|高校野球]][[全国高等学校野球選手権東東京大会]]および[[全国高等学校野球選手権西東京大会|西東京大会]]、秋季大会(いずれも準決勝以降)、[[全日本大学野球選手権大会]]、[[明治神宮野球大会]]の他、[[社会人野球]]([[JABA東京スポニチ大会]]。過去には[[都市対抗野球大会]]、現在も東京都二次予選が開催される)、日本リトルシニア全日本選手権などのアマチュアの大会が開催されるなど、[[阪神甲子園球場]]とならんで「野球の聖地」とされている。
アマチュア専用として初期は[[日本プロ野球|プロ野球]]公式戦での使用は認められなかったが、徐々に緩和され現在では[[東京ヤクルトスワローズ]]が[[専用球場]](本拠地球場)として使用している。
なお、本来の表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫野球場』だが(正面玄関上の球場名の文字看板もこの表記)、一般には[[常用漢字]]の「宮」が使用されている(球場公式サイトも同様)。
後述するように周辺には[[国立競技場]]や[[秩父宮ラグビー場]]、併設の第二球場(使用は終了)もあり、いずれも各競技でトップレベルの大会が行われる特徴的な立地となっている。
== 歴史 ==
=== 建設から戦前まで ===
神宮球場が完成したのは[[1926年]](大正15年)である。明治神宮外苑に[[明治神宮外苑競技場]]([[1958年]]に[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]に改築され、現在は[[国立競技場]]が建設されている。)などのスポーツ施設が建造されるなか建設された。当時の金額で総工費は53万円、うち[[明治神宮奉賛会]]が48万円を出費し、東京六大学野球連盟が5万円を本工事に寄付。敷地造成工事に着手したのは[[1925年]](大正14年)12月で、翌年1月に起工式、10月23日に竣工式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの[[昭和天皇]])と[[閑院宮載仁親王]]が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われた。東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦の一部の試合で使用し、[[1927年]]([[昭和]]2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められた。
なお、建設されるはるか前、江戸時代は江戸幕府に仕えた甲賀者の「百人組」が住んでいた居住地「青山甲賀町」だった。与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったとされ、射撃場のあった場所がちょうど外野ライト前に当たる。忍者頭高峰家の屋敷があった場所が、現在の球団クラブハウスに当たる<ref>[[磯田道史]] 『歴史の愉しみ方』 中公新書</ref>。
[[早慶戦]]などで収容能力に不足が見られたため、[[1931年]](昭和6年)には東京六大学野球連盟が工費55万円を負担して内野・外野スタンドを増築、球場正面を除いて外形が現在の形となった。収容人員は29,000人<ref name="example">明治神宮奉賛会 『明治神宮外苑志』 1937年、166頁</ref> から58,000人([[松内則三]]の実況アナウンスでは「6万の観衆、内野外野のスタンドに詰めかけまして」という表現が見られる)<ref>[[文藝春秋]] 『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』 第一巻、1988年、62頁</ref> に増えている。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、[[1932年]](昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めた。
建設の経緯、および明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、プロ野球の使用は論外という雰囲気があった。[[読売新聞社|読売新聞]]社長の[[正力松太郎]]は「将来プロにする」ということを伏せて全日本チーム(後に[[読売ジャイアンツ]]となる)を組織し、[[1934年]](昭和9年)に[[アメリカ合衆国|米国]][[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]の招待試合を神宮球場で開催した。正力は翌年2月に[[右翼]]に切りつけられる事件に見舞われたが、犯人が取り調べで述べた動機には「読売がアメリカの野球チームを招き神聖な神宮球場を使ったこと」が、[[天皇機関説]]支持とともに挙げられている。
=== 第二次世界大戦前後 ===
[[日中戦争]]勃発後の[[1938年]](昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の[[後楽園球場]]に会場を移し、さらに[[1943年]](昭和18年)には[[太平洋戦争]]の激化により[[文部科学省|文部省]]からの通達で、東京六大学と東都は共に解散となってしまった。[[1945年]](昭和20年)5月には、[[アメリカ軍]]による[[東京大空襲]](山の手大空襲)によって被災し、火災によって一部が崩れ落ちた。
[[日本の降伏|日本の敗戦]]後には、日本占領軍であるアメリカ軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用された。
それでも終戦年である1945年(昭和20年)には日本人の使用にも開放され、東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、[[職業野球東西対抗戦]]などが行われた。このうち、東西対抗戦は[[日本野球連盟 (プロ野球)|プロ野球]]発足後に当球場で初めて開催されたプロの試合である。[[1946年]](昭和21年)からは東京六大学と東都が復活、春季は神宮球場での試合は認められなかったが秋季から一部の試合で開放されている。帝国主義者を養成してきた東京大学に球場を使用させないというのも接収が1952年まで続いた理由の1つであった{{要出典|date=2018年4月}}。
1946年(昭和21年)5月から6月にかけ連合国軍により修復工事が行われ、照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれている。この時期には球場初のプロ野球公式戦、[[全日本大学野球選手権大会]]の前身である大学野球王座決定戦、第1回目のプロ野球[[日本選手権シリーズ]]第1戦(当時の呼称は「日本ワールドシリーズ」)などが開催されている。東京六大学は[[上井草球場]]などと併用してリーグ戦を行っていたが、[[1950年]](昭和25年)秋季より全試合での開催を認められている。ただし連合国軍による接収が解除されて明治神宮に返還されたのは、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ条約]]の発効間近である[[1952年]](昭和27年)3月のこと。
=== プロ野球球団の本拠地へ ===
連合国軍による接収解除後は内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に[[1953年]](昭和28年)から放送が開始された[[テレビ]]放送席が新設されている。[[1962年]]には相撲場跡地に第2球場が完成した。
1962年(昭和37年)からは閉鎖される[[駒澤野球場]]の代わりとして[[東映]]フライヤーズ(現:[[北海道日本ハムファイターズ]])が使用を開始し、次いで[[1964年]](昭和39年)に後楽園球場から[[日本国有鉄道|国鉄]]スワローズ(現:[[東京ヤクルトスワローズ]])が、東映と入れ替わるように移転している。これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、結局は認められた(詳細は[[#プロ野球|後述]])。
=== 相次ぐ改修 ===
東映の使用開始時の1962年にはバックネット裏の増築、ナイター設備新設(上述の通り米軍接収時代以来の復活)、[[ラッキーゾーン]]の設置といったプロ基準に合わせる改修が施された。さらに[[1967年]](昭和42年)にはホームベースを動かすなど当時の標準的な球場に近づける大改修が行われた。その後幾たびも改修が重ねられ、個別座席・人工芝グラウンド・照明塔・電光スコアボードなどが取り入れられている。
収益を優先する観点から、1981年に一度は廃止されたフェンス広告をのちに再開した。またコンサートなど大型イベントの開催も行うなどの動きもある。
収益の高いプロ野球を人気の低下が見られる学生野球より優先しようとする意見もあるが、優先度の変化のみで学生野球優先の方針は維持されたまま現在に至っている(詳細は[[#優先使用権|後述]])。[[2007年]]([[平成]]19年)[[11月24日]]からは大規模な改修工事を実施し、[[2008年]](平成20年)[[3月6日]]に竣工式が行われた。スコアボードの全面フルカラーフリーボード化やフィールドの拡張、ロングパイル人工芝への張替えなどを行った。総工費は約15億円。
[[2011年]](平成23年)シーズンからボールカウントの表示方式を、日本国内で旧来使用されていた「SBO」(上からストライク、ボール、アウト)順から、国際ルールに則した「BSO」順に変更した。当球場のカウント表示は[[コンピューターグラフィックス]]を使用しているため([[#スコアボード|後述]])表示部分([[ハードウェア]])の改修は必要なく、[[ソフトウェア]]の更新などで対応した。同年には内野席に、2013年には外野席にウッドデッキ調の特別席が設置された。
2013年オフからは3年計画でスタンドの老朽箇所の改修と、耐震補強工事を実施した<ref>[http://www.jingu-stadium.com/news/2013/20131029_1396.html 明治神宮野球場耐震補強工事について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131101164455/http://www.jingu-stadium.com/news/2013/20131029_1396.html |date=2013年11月1日 }}{{リンク切れ|date=2021年10月}}</ref>。施工業者は[[安藤・間|安藤ハザマ]]。工事は継続的に野球の試合に利用できるようにするため、シーズンオフ(年度下半期)のみに限定し、2016年3月の完全竣工時に[[耐震改修促進法]]に基づく耐震認定の検定を受けた。第1期(2013年度)は内野正面スタンド部(屋根を除く)、第2期([[2014年]]度)は1・3塁側内野スタンドと正面スタンドの屋根、第3期([[2015年]]度)は外野席の改修を行なった。また外壁の改修は耐震補強工事に従って順次行なった。正面スタンドは一部が耐震補強壁となることから歴史性を忍ばせ、耐久性に優れたレンガ素材を壁面に採用した。正面スタンドの大屋根は鉄製からテフロン製テント膜に変更された。
また正面スタンドの大屋根は現在の鉄骨骨組を補強した際は、2階席から視界が遮られてしまうので、鉄骨の骨組みを盛替えて改修した。屋根の軽量化を図るためにこれまで使用していた鉄板からテフロン膜を使用することで、最小限の構造部材で組み上げられるような形状とした。
=== 建て替え計画 ===
{{Wikinews|明治神宮球場と秩父宮ラグビー場を全面建て替えへ 2020年東京五輪終了後にも}}
現球場は築90年を超え、老朽化や耐震補強が課題となっており、上記の通り2013年から3年計画による工事を実施(上述以外では[[2015年]]、[[2023年]]に人工芝の張替を施工)しているが、2013年ごろから、[[東京都]]が2021年から神宮外苑の再開発を行う構想を打ち出している<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0706/TKY201307060356.html 神宮と秩父宮、入れ替え構想 20年五輪を機に再開発] 朝日新聞デジタル</ref> と、複数の報道機関が報じた。この報道がなされた2013年現在はまだ地権者との話し合いが行われている段階だった。
[[2015年]][[4月1日]]、[[2020年東京オリンピック構想|2020年東京オリンピック・パラリンピック]]の開催後に、明治神宮外苑をスポーツの聖地とするための再開発を進める一環として、近接の[[秩父宮ラグビー場]](区境を跨ぎ[[港区 (東京都)|港区]]にある)との土地交換で新球場を建設する計画を明らかにした。
計画案としては、まず東京大会前までに現ラグビー場を撤去・解体し、開催期間中は暫定的に駐車場として利用する。大会終了後、正式に新球場の建設工事に取り掛かり、完成後に現在の神宮球場を撤去・解体し、跡地に新ラグビー場を建設する方針とされた<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150401/k10010035211000.html 神宮球場建て替えなど神宮外苑を再開発](NHK 2015年4月1日 2015年4月2日閲覧)</ref>。
また第二球場についても、再開発をするにあたり解体する予定で、工事中も野球・ラグビーなどが滞りなく、可能な限り開催できるようにすべく、新たな球技場の建設を予定している<ref>[http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00289391.html 神宮球場建て替えへ 神宮外苑地区をスポーツ拠点として再整備](FNN 2015年4月1日 2015年4月2日閲覧)</ref>。
その後、2017年7月に当初の計画案から順番を入れ替えた形で秩父宮ラグビー場、神宮球場の順に建て替える方向で調整が進められていることが明らかになった<ref>[http://www.sanspo.com/sports/news/20170728/oly17072812560001-n1.html 神宮外苑再開発、新秩父宮の建設先行で調整 球場は後] サンケイスポーツ、2017年7月29日閲覧</ref>。
2019年2月25日に神宮球場を所有する[[明治神宮]]、秩父宮ラグビー場を所有する[[日本スポーツ振興センター]]、[[伊藤忠商事]]、[[三井不動産]]の4者で神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所を入れ替えて整備する神宮外苑地区の再開発の基本協定を締結。2022年5月19日には「神宮外苑まちづくり」プロジェクトが発足した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=神宮外苑地区まちづくり |url=https://www.jingugaienmachidukuri.jp/ |website=www.jingugaienmachidukuri.jp |access-date=2022-06-06}}</ref>。
まず神宮第二球場を解体し、非開放のドーム型で遮音性を持つ人工芝の新たなラグビー場の建設を開始する<ref>{{Cite web|和書|title=秩父宮ラグビー場、屋根付き人工芝に改修へ…当初より工期が延び33年予定ずれ込む |url=https://hochi.news/articles/20210115-OHT1T50289.html |website=スポーツ報知 |date=2021-01-16 |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。南面を除くラグビー場の工事が一旦完了した後に、現在の秩父宮ラグビー場を解体し、その跡地に新たな野球場を建設。新球場は2031年に完成し、2032年の利用開始を予定している<ref>{{Cite web|和書|title=ヤクルトが株主総会 新神宮球場は32年から|url=https://www.iza.ne.jp/article/20210624-EN5S3L2BRNOIBK7L5NNXTCV5ZI/|website=サンケイスポーツ|date=2021-06-24|accessdate=2022-08-22|language=ja}}</ref>。現在の神宮球場を取り壊した後は、防災拠点として芝生などを敷きつめた中央広場を設け、広場に面したラグビー場の南面の整備を行い、工事が完了する。
[[伊藤忠商事東京本社ビル]]は取り壊し、新しい野球場の左右に高さ190mの高層ビルを2棟建設し、宿泊施設も入居する。テニスコートは[[聖徳記念絵画館|絵画館]]の南側に集約し、これにより[[明治神宮外苑軟式グラウンド]]は廃止となり、神宮第二球場の解体と共に「草野球の聖地」としての役割は終わる見込みとなった<ref>{{Cite web|和書|title=草野球の聖地「外苑」に異変あり! 草野球人のもとへ戻った軟式球場に迫る再開発計画とは《そもそもなぜ聖地?》(田澤健一郎) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/851513 |website=Number Web - ナンバー |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。ラグビー場の新築着工は2024年を予定し、地域全体が竣工するのは2036年になる予定<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=神宮外苑が「高層ビルの森」に、再開発計画の全貌判明で浮かぶ疑問 |url=https://diamond.jp/articles/-/204521 |website=ダイヤモンド・オンライン |date=2019-06-05 |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。しかし、神宮球場は1世紀近い歴史的な価値や、イチョウの古木の伐採の計画があり、その観点から移設・建て替えに反対する意見も多々あり、[[スポーツライター]]の[[マーティー・キーナート]]は、[[アメリカ合衆国]]の[[フェンウェイ・パーク]]を引き合いに出し「同球場の建て替え計画が市民から反対されて撤回した例があり、神宮もモニュメントである」と指摘している<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/227378 神宮外苑再開発を米著名作家やラグビー元日本代表が批判 野球場とラグビー場取り壊し反対の署名始める 2023年1月25日 18時55分](東京新聞)</ref>
=== 年表 ===
[[ファイル:けふ神宮外苑の賑かさ(『東京朝日新聞』 1926年10月24日付夕刊2面).jpg|thumb|150px|[[一戸兵衛]]の始球式<br/ >(1926年10月23日)]]
* [[1926年]]([[大正]]15年) - 10月に完成。東京六大学野球連盟の使用開始。
* [[1927年]]([[昭和]]2年) - 米[[ニグロリーグ]]選抜との日米親善試合が行われる。[[ビズ・マッキー]]が球場初の本塁打を放った。またこの年より[[1937年]](昭和12年)まで都市対抗野球大会が開催された。
* [[1931年]](昭和6年) - スタンド増築工事竣工。初めて[[バックスクリーン]]を採用。
* [[1932年]](昭和7年) - 東都大学野球連盟の使用開始。
* [[1934年]](昭和9年) - 日米親善大会として行われた[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]選抜チームと全日本チーム([[読売ジャイアンツ]]の原型)の対戦でプロが初めて神宮球場を使用。
* [[1943年]](昭和18年) - 東京六大学と東都が解散。リーグ戦中断。
* [[1945年]](昭和20年) - 空襲により一部損壊。終戦後に[[アメリカ軍]]に接収され、「STATESIDE PARK」(ステイト・サイド・パーク)と改称される。
* [[1946年]](昭和21年) - 修復工事実施。内野天然芝・照明設備完成。秋季シーズンより東京六大学の使用再開。
* [[1948年]](昭和23年) - プロ野球公式戦初試合<ref name="central">{{PDFlink|[http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2009/28.pdf 2009年度セントラル・リーグ記録集、セ・リーグ本拠地球場の広さ・本塁打]}}</ref>([[大映ユニオンズ|金星スターズ]]対[[中日ドラゴンズ]]戦)と大学野球王座決定戦(第2回、以降[[1951年]](昭和26年)まで)開催。
* [[1950年]](昭和25年) - [[1950年の日本シリーズ|第1回]][[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]の第1戦([[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]対[[松竹ロビンス]]戦)が行われる。
* [[1952年]](昭和27年) - 明治神宮に返還される。内野天然芝・照明設備撤去。[[第1回全日本大学野球選手権大会]]開催(以降毎年開催)。
* [[1958年]](昭和33年) - スコアボード改修。
* [[1962年]](昭和37年) - [[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]が使用開始([[1980年]](昭和55年)まで)。[[ラッキーゾーン]]がプロ野球開催時のみ登場。バックネット裏スタンド拡張。同年6月には照明設備が完成。
* [[1964年]](昭和39年) - [[後楽園球場]]より移転した[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]の[[専用球場]]となる。東映フライヤーズは後楽園球場に事実上移転。10月、[[1964年東京オリンピックの野球競技|東京オリンピックの野球競技]]が[[オリンピック公開競技|公開競技]]として開催。
* [[1965年]](昭和40年) - ラッキーゾーン固定、金網フェンスを従来のコンクリートフェンス内側に設置。
* [[1967年]](昭和42年) - スタンド・グラウンド改築。グラウンドを縮小(一部拡大)、ラッキーゾーン廃止。
* [[1969年]](昭和44年) - フェンス広告設置。
* [[1970年]](昭和45年) - 金網フェンス廃止。コンクリートフェンスにラバーを貼り付け。[[第1回明治神宮野球大会]]を開催(以降毎年開催)。
* [[1972年]](昭和47年) - [[第1回日米大学野球選手権大会日本代表|第1回日米大学野球世界選手権大会]]開催(以降不定期開催)。
* [[1973年]](昭和48年) - [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]が主催試合の一部で使用する([[1977年]](昭和52年)まで)。
* [[1975年]](昭和50年) - 照明塔ランプ改良。
* [[1976年]](昭和51年) - 神宮球場竣工50周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
* [[1978年]](昭和53年) - 外野席改修工事完成。芝生席をプラスチック製の座席に変更。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]が初のリーグ優勝。ただし、この年の[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は開催されなかった([[#優先使用権|下記]]参照)。
* [[1980年]](昭和55年) - 電光スコアボード完成、看板広告を設置。ファウルグラウンド人工芝を敷設。アーケード部分に塗装が施される。[[8月1日]]、明治神宮鎮座60年を記念し、第1回[[神宮外苑花火大会]]を開催(以後毎年開催)。
* [[1981年]](昭和56年) - フェンス広告抹消。フェンスを濃い緑色に変更。
* [[1982年]](昭和57年) - フェアグラウンドに人工芝敷設。フェンスを青色に変更。こけらおとし興行として東京六大学と東都の前季優勝校対決を実施。塁ベースを黒土から[[アンツーカー]]に変更。
* [[1983年]](昭和58年) - マウンドおよびブルペンをアンツーカーに変更。ネット裏に[[ブリヂストン]]の電動式広告設置。
* [[1985年]](昭和60年) - 内野側照明塔4基建て替え。
* [[1986年]](昭和61年) - 外野側照明塔2基建て替え。
* [[1987年]](昭和62年) - 外野身障者席・トイレ新設。
* [[1988年]](昭和63年) - 野球規則の一部変更に対応しマウンドの高さを変更。併せて人工芝も全面張り替え。
* [[1989年]](昭和64年・[[平成]]元年) - ファウルポールの塗色を黄色から白色に変更。
* [[1992年]](平成4年) - ヤクルトスワローズ主催の日本シリーズをこの球場では初めて実施し、デーゲームで行われた。なお、学生野球はナイトゲームで実施。
* [[1993年]](平成5年) - 内野部分の人工芝張り替え。内野席の椅子を折り畳み式に取替え。
* [[1995年]](平成7年) - スコアボードを改修、カラービジョンを設置。外野フェンス上部に1.5mの金網フェンスを追加。
* [[1996年]](平成8年) - 神宮球場竣工70周年記念試合として東京六大学選抜対東都大学選抜の対抗試合を実施。
* [[2001年]](平成13年) - 内野フェンス改装に伴い、大学野球用の応援台設置用金具をフェンス支柱と一体化(応援台の所有者は[[東京六大学応援団連盟]])。
* [[2003年]](平成15年) - 内野部分の人工芝張り替え。
* [[2005年]](平成17年) - 第1回[[日本生命セ・パ交流戦]](ヤクルトスワローズ対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦)開幕試合開催{{refnest|group="注"|他の5球場の前日に試合が組まれたものの、雨天順延により6球場同時開幕となった。}}。
* [[2006年]](平成18年) - 広告を大幅変更。[[11月4日]]、明治神宮外苑の創建80年を記念して、東京六大学選抜対[[東京ヤクルトスワローズ]]のプロ・アマ交流試合開催。
* [[2008年]](平成20年) - スコアボードを全面[[発光ダイオード|LED]]化、グラウンド拡張、ロングパイル人工芝導入。
* [[2011年]](平成23年) - 内野スタンドに[[ウッドデッキ]]調の特別席「[[Ponta]]ドリームシート」を設置。
* [[2013年]](平成25年) - 外野スタンドにウッドデッキ調の特別席「[[セブン-イレブン]]デッキシート」を設置。オフより改修・耐震補強工事を開始。
* [[2015年]](平成27年) - 改良型ロングパイル人工芝に張り替え<ref>[http://www.srigroup.co.jp/newsrelease/2015/sri/2015_031.html ロングパイル人工芝「ハイブリッドターフExcitingエキサイティング」の神宮球場への施工が完了] - [[住友ゴム工業]]、2015年3月17日</ref>。
* [[2016年]](平成28年) - 改修・耐震補強工事終了。
* [[2020年]](令和2年)- 照明設備を高演色形LED投光器に改修<ref>[http://www.jingu-stadium.com/news/2020/20200302_4322.html 明治神宮野球場ナイター照明設備のLED化について] - 明治神宮野球場、2020年3月2日</ref><ref>[https://www.iwasaki.co.jp/NEWS/release/2020/jingu.html 「明治神宮野球場(神宮球場)」ナイター照明設備のLED化について] - [[岩崎電気]]、2020年3月2日</ref>。
; 2019年(平成31年)2月22日時点の明治神宮野球場
<gallery mode="packed">
Meiji Jingu Stadium 2019a.jpg|北側は工事中の国立競技場
Meiji Jingu Stadium 2019b.jpg|左側は球場の三塁側内野席
Meiji Jingu Stadium 2019c.jpg|明治神宮野球場の正面入口
Meiji Jingu Stadium 2019d.jpg|中央奥はパークアクシス青山一丁目ビル
Meiji Jingu Stadium 2019e.jpg|南側隣接地はTEPIA先端技術館
Meiji Jingu Stadium 2019k.jpg|1塁側内野席と外野席の境部分
Meiji Jingu Stadium 2019l.jpg|外野席の右中間部分
Meiji Jingu Stadium 2019m.jpg|1塁側内野席下部の見上
Meiji Jingu Stadium 2019n.jpg|外野席のスコアーボード部分
Meiji Jingu Stadium 2019o.jpg|明治神宮ゴルフ練習場
Meiji Jingu Stadium 20190727b.jpg|日本青年館より見る(2019年7月27日撮影)
Meiji Jingu Stadium 20190727a.jpg|同左(2019年7月27日撮影)
</gallery>
==プロ野球==
===東映→日拓ホーム→日本ハムの使用===
[[1961年]](昭和36年)、東映フライヤーズ(現:[[北海道日本ハムファイターズ]])の本拠だった[[駒澤野球場]]が、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]](1964年)の開催に伴い[[東京都]]から用地返還を求められたため、閉鎖されることになった。東映は次の本拠を探す中で、明治神宮側へ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を申し出た。一度は断られたものの原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局は[[#優先使用権|学生野球の試合が開催される場合それを優先すること]]、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に、[[1962年]]から神宮球場の方を使用することが認められた。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場や[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]](1962年6月完成)と併用する形で、主催試合数の半数近くが神宮で開催され事実上の[[専用球場]]とされた。球場別試合数では神宮が多かったものの、これは半数以上の試合開催を求める現在の[[日本プロフェッショナル野球協約]]では認められない試合数である(1962年:神宮32試合、後楽園24試合、東京3試合、その他6試合、1963年:神宮31試合、後楽園26試合、東京18試合)。
その年、パ・リーグ優勝を果たした東映は[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]・[[阪神タイガース]]戦の主催3試合中第3、4戦の2試合を開催。第5戦は学生野球優先の取り決めもあり[[後楽園球場]]で開催された。また[[1963年]](昭和38年)には東京オリンピックの協賛[[チャリティー]]というサブタイトルで[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]を初開催した。
[[1964年]](昭和39年)から国鉄スワローズが神宮球場を正式に専用球場としたため、その年の東映は日程の余裕が出る後楽園球場で主に試合を開催し(後楽園46試合、神宮25試合、その他3試合)、翌[[1965年]](昭和40年)より正式に後楽園球場を専用球場として結果的に入れ替わることになった。ただし試合数を段階的に減らしながらも日拓ホームフライヤーズ([[1973年]])→日本ハムファイターズ([[1974年]])への球団名変更をへて、[[1980年]](昭和55年)まで準本拠地として使用した。
その後2005年から行われているセ・パ交流戦では、ヤクルト主催でのビジターゲームで使用することがある。
===国鉄→サンケイ→アトムズ→ヤクルトの本拠地===
[[File:Tokyo - Baseball (3410369438).jpg|thumb|1967年、サンケイ主催試合。ラッキーゾーンが廃止されグラウンド形状が改められた直後のシーズン。]]
[[1963年]](昭和38年)のシーズンには、[[後楽園球場]]を専用球場としていた[[日本国有鉄道|国鉄]]スワローズ(現:[[東京ヤクルトスワローズ]])も地方開催扱いで数試合開催した。
シーズン終了後、国鉄球団は第2球場を専用球場にしたい意向を明らかにし、[[産業経済新聞社|産経新聞社]]・[[フジテレビジョン]]が主体となって30,000人収容の球場とする具体的な改装計画まで明らかにしたものの、[[日本学生野球協会]]は反対の意向を表明。更に学生野球が将来神宮球場から追い出され、第2球場に追いやられるのではという噂まで流布し、国会の文教委員会でも問題となり、更には右翼団体までもが介入し[[今村均]]元陸軍大将までもが神宮プロ野球進出反対運動に担ぎ出されたという。結局、第2球場はアマチュア専用にしたいという管理者の意向や、プロ側が要求する球場設備を満たすための拡張用地の確保が既に無理なこともあり、第2球場の使用は却下され改修工事は第1期工事で中断となった。代わりに、国鉄の専用球場として[[1964年]](昭和39年)のシーズンより神宮球場の通年使用が認められた。
これは、国鉄を実質的に経営していたフジテレビに対して後楽園球場のテレビ中継権が与えられていなかったこと(主催球団を問わず日本テレビが独占していたが、1962年には駒沢球場廃止との兼ね合いから、東映主催試合に限りNETテレビの中継が認められた)と、それに付随してフジテレビが国鉄戦テレビ中継を強化したかったことなども絡んでいる<ref>徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』[[ベースボールマガジン]]社、徳永喜男は元[[ヤクルト球団]]代表(国鉄・サンケイ時代を含む)</ref>。プロ使用への反対はすぐになくなったわけではなく、1965年2月の衆議院体育振興特別委員会では[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[川崎秀二]]議員が「外苑の経済的維持が困難なら、国立野球場にしてもよいのではないか。またプロ球団に貸さなくても外に財源の道はあるのではないか」と質問したり、予算委員会で[[愛知揆一]]文部大臣が「プロ野球の根拠地となることは歓迎できない」と発言するなど、保守系の議員から国会で反対する意見が出されていた<ref>[[井上章一]]『阪神タイガースの正体』(太田出版、2003年)P215 - 216。</ref>。
国鉄はプロ野球球団で初めて神宮球場を専用球場にしたものの、球場側には東映と同様に学生野球を優先することを求められた。そのため神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない時期(4月上旬・6月下旬・8月中・9月上旬)に限定される(8月については[[2012年]]までは暑さのため自発的に行わなかったが、[[2013年]]以後、17時開始の薄暮という形でデーゲームを組む試合が数回ある。2015年には7月にも17時開始の薄暮デーゲームがある)。[[2004年]](平成16年)まで毎年5月下旬に行われていた[[千葉マリンスタジアム]]での公式戦は、同時期に神宮で行われる[[早慶戦]]の開催を考慮したものである。一般的にプロ野球では試合前の練習を球場のグラウンドで行うが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際に外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われる。[[2008年]](平成20年)までは試合開始時間をずらすことも行われた(詳細は[[#優先使用権|後述]])。
[[1978年]](昭和53年)にはヤクルトスワローズ([[1974年]]に改称)が初めてリーグ優勝したものの、東京六大学が優先され[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]](対[[オリックス・バファローズ|阪急]]戦)は後楽園球場で振り替え開催された。その後東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、[[1992年の日本シリーズ|1992年]]と翌[[1993年の日本シリーズ]](いずれもヤクルト-[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦)では、ヤクルトのホームゲームが初めて神宮球場で開催された(デーゲーム。これに伴い大学野球はナイトゲーム開催)。以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は2021年を除き全て神宮での開催となっている。[[1992年]]には、日本シリーズの表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が六大学の試合を観戦したというエピソードが残っている。[[1995年]](平成7年)以降は日本シリーズがナイター開催となったため、シーズン中同様に大学野球はデーゲームで開催されている。このほかにも[[1970年代]]初め頃まで大学野球との日程の絡みで、[[消化試合]]を神宮で行えず[[川崎球場]]や東京スタジアム、[[横浜公園平和野球場]](現:[[横浜スタジアム]])を借りて行った事例もある。
2021年は[[2020年東京オリンピック|東京2020オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]開催のためにセリーグ公式戦8試合と[[2021年の日本シリーズ|日本シリーズ]]3試合が[[東京ドーム]]で代替開催された。公式戦では[[国立競技場]]へ来場する来賓待合所と資材置き場として使用するためであった。日本シリーズは本来の日程では確保されていたが、延期された試合が多かったために一週間後ろ倒しになり[[第52回明治神宮野球大会]]と日程が重なったため。本来の五輪開催予定だった[[2020年]]においても、7 - 9月に東京ドームで11試合を主催する予定だったが、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]流行による五輪の延期により開催の支障が無くなり、プロ野球の日程が再編され神宮球場での開催となった。
神宮球場はヤクルトの本拠地ではあるが昔はビジターチームのファンが多かった。レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に[[阪神タイガース]]が終盤まで優勝争いを演じている年はライトスタンドですらビジター側のファンが大半を占めることも珍しくなかった。[[古田敦也]]が監督就任時に「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新など「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉のもと進めた「[[東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウン|F-PROJECT]]」発足の理由の1つとして、この状況が挙げられる。その甲斐もあり、近年ではレフト側にヤクルト応援席ができる試合も登場するなど、ヤクルトファンがスタンドを埋めることも少なくはない。
=== ロッテの使用 ===
[[1972年]](昭和47年)オフの[[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]]の閉鎖に伴い本拠地を失った[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]は、[[金田正一]]監督在任時代の[[1973年]](昭和48年)から[[川崎球場]]に正式に移転する前年の[[1977年]](昭和52年)まで主催公式戦の一部を神宮球場で開催した。
1973年当時、ロッテは都内での試合数確保の観点から、年20試合程度を当球場で開催する意向だった。ところが、ヤクルト球団、東京六大学野球連盟・東都大学野球連盟との日程調整で折衝するも折り合いがつかず、年6試合(その後10試合に増加)の開催にとどまざるを得なかった<ref>パ・リーグどん底時代:激動の昭和48年(長崎出版・[[佐野正幸 (作家)|佐野正幸]]著)・[https://nikkansportspublishing.wordpress.com/2015/09/07/%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0%E6%BF%80%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%98%AD%E5%92%8C48%E5%B9%B4%E3%80%80%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E6%AC%A1/ パ・リーグ激動の昭和48年 信じられないことが次々と……](日刊スポーツ出版社・佐野正幸著=左記著書の加筆増補版)</ref>(その後、1974年4試合に一度減るも、1975年6試合、1976年8試合と微増。1977年はジプシー期間中で最大の12試合を行った)。
1973年のパ・リーグ(前期)でロッテは[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]と熾烈な優勝争いを展開。優勝がかかった6月の対[[北海道日本ハムファイターズ|日拓ホーム]]3連戦では1試合あたり6万人ものファンが詰めかけロッテ優勝の瞬間を見届けようとしたが、ロッテは惜しくも前期優勝を逃している(この頃のロッテについては[[ジプシー・ロッテ]]を参照)。
=== DeNAの使用 ===
[[横浜DeNAベイスターズ]]は、本拠地の[[横浜スタジアム]]が[[2021年]]に延期となった[[2020年東京オリンピック]]の[[オリンピックの野球競技|野球種目]]の会場となっており、開催期間中とその前後は横浜スタジアムが使用できないことから、2021年[[6月29日]]・[[6月30日|30日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦及び[[7月3日]]・[[7月4日|4日]]<ref group="注">7月2日にも開催を予定していたが雨天中止。</ref>の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は、前身球団時代も含めて初となる神宮球場での主催試合が開催された。
== 優先使用権 ==
神宮球場が他の球場と決定的に違うのは、学生野球(東京六大学と東都)に優先使用権が認められているということ。これには神宮球場の建設と拡張に東京六大学連盟の尽力や資金提供があったという事実がある。また、所有者の明治神宮がアマチュア野球を優先してきたという歴史的な経緯もある。しばしば他の一般的なプロ野球の本拠地球場になっている球場と同じように「神宮球場はスワローズの本拠地で大学野球は間借りしている」と誤解されることがあるが、スワローズ側が間借りしているのが正しい(ただし他の球団の本拠地球場も球団所有ではなく間借りであるものが少なくない){{refnest|group="注"|球団もしくはその親会社・兄弟会社などグループ企業が本拠地球場を直接運営しているのは、中日、阪神、オリックス、西武、ソフトバンク、日本ハム(2023年より)が該当する。また、所有団体から下請けの形で球団もしくはその親会社・兄弟会社などグループ企業が球場運営しているのは、楽天、ロッテ、広島、 DeNAが該当する。この4球団は本拠地球場の所在する自治体が球場を所有して、下請けの形で本拠地球団か親会社・兄弟会社などグループ企業が指定管理者などの形態で球場運営をしている。また、巨人は本拠地所有及び運営会社は直接の関係は無いが、親会社との株主関係はあるため、所有も球場運営も球団ともその親会社とも全く関係の無い本拠地間借り球団はヤクルトのみ。}}。
収益力の高いプロの日程を最優先させるべきだとの意見は以前から一部にはあり、時代の経過とともに大学野球全体の人気の低下がその声を後押しする傾向が強まり、近年は興行収入の問題から大学連盟側がヤクルト球団側に譲歩するようになってきている面もある。ただし、神宮球場側の基本的な認識は、前述の歴史的な経緯から、現在でも球場使用の割り当ての最優先権を東京六大学野球連盟に与えている。
明治神宮とヤクルト球団は、神宮球場の使用契約を1年ごとに更新している。このことが、度々取り沙汰されるヤクルトの他地域への移転の根拠として挙げられている。
学生野球の使用割り当てを優先的にするのは、あくまでも基本的に春先に行われるその年度の球場使用割り当てを決定する場合においてのみ。一年を通して、春先に決定した内容が年間を通して遵守される。後日に順延等の都合で調整が必要な場合は、基本的に未使用で空いている日時をやりくりして調整を行うことになる。
この手の誤解を招く元になっている代表例として、東京六大学(以下、六大学)と東都の関係を紹介する。
大学野球のリーグ戦期間中は、基本的に六大学が土曜日 - 水曜日、東都が木曜日・金曜日の割り当てとなっている。実際には東都が火・水の日程で組まれているが、これは「六大学のリーグ戦期間中で六大学が使わない日は東都側が使用しても構わない」という六大学と東都間の従来からの協定に基づく。そのため六大学が順延などで月曜までにその週の対戦(前週の未消化試合がある場合はそれも含む)が決着しない場合は、翌日以降も六大学の開催日に変更される。東都の開催日はそれに従い順延され、最悪木・金のみに変更されることもある。この順延の制度のためいつでも六大学が自由に使えるという誤解が一部に生じている。事前の球場使用割り当て時では六大学のリーグ戦の日程および六大学連盟からのその他の使用申し出に従った割り当てを優先的に行う(従来から行われている使用申請がほぼ認められる)が、リーグ戦期間外では優先権はない。そのためリーグ戦後に行う新人戦と、リーグ戦が消化しきれなかった場合では六大学が優先的に割り込めるわけではない。東都側についても同様で、リーグ戦期間外でも東都が木・金曜日を自由に使えるわけではない。シーズン固有の事情などにより事前に何らかの使用権が成立している場合は例外となる。球場の年間使用スケジュールの概況は各年の「神宮球場ガイドブック」春季号に掲載されていた(廃刊)。
プロ野球(ナイター開催)と大学野球(日中開催)の併用日には、大学野球の試合開始時間を通常より30分ないし1時間早めたり(東京六大学と東都では別の処置となる)、延長なしの9回打ち切りとなる。[[2009年]](平成21年)からは併用日でもプロ野球の試合開始時間が18時となっているが、それまでは遅らせて試合を開催していた。[[1989年]](平成元年)までは一律18時30分、延長戦が15回までに変更されたことをきっかけに[[1990年]](平成2年)から[[2008年]](平成20年)まで18時20分開始となっていた(併用日以外は一部年度を除いて18時)。大学野球が長引いた場合は試合開始時間を遅らせる処置が取られている。このように学生野球のスケジュールが優先されてきたが、[[1985年]](昭和60年)[[10月16日]]に[[阪神タイガース]]が21年ぶりのリーグ優勝を決めたヤクルト対阪神戦の試合当日は、日中に予定されていた東都大学リーグの試合が延期される事態となった。これは前日から阪神ファンが球場前に多数詰め掛けたため、学生野球の試合を開催した場合の混乱を避けるべくなされた措置で、当球場始まって以来の異例のものであった。
ヤクルトではオープン戦期間中と、公式戦でも主として学生野球の試合が組まれない4月初旬、ないしは9月初旬にデーゲームを組むことがある。1990年以降、神宮でのデーゲームは[[1991年]](平成3年)の9月と[[2001年]](平成13年)の4月に各2試合開催したのみだったが、近年は大学野球側との折衝交渉を積極的に行うようになり開催数が若干増加している。[[2005年]](平成17年)は[[6月4日]]、[[6月5日|5日]]の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦、[[6月18日]]の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦(交流戦予備日)と[[7月2日]]、[[7月3日|3日]]の[[中日ドラゴンズ]]戦をデーゲームで開催した。更に[[2006年]](平成18年)には「F-PROJECT」の一環としてデーゲーム開催数の増加について大学野球側と折衝を行った結果、前年に引き続き[[6月3日]]、[[6月4日|4日]]に加えて、従来の東都大学野球連盟のリーグ戦使用分であった[[5月3日]]、[[5月4日|4日]]もデーゲーム開催(東都大学リーグ戦はナイター開催)に変更した。
[[2011年]](平成23年)も[[東日本大震災]]による省エネ・節電の対策により[[4月]]の公式戦・ヤクルト主催試合の一部をデーゲームで行うことになり、東京六大学・東都大学両野球連盟の協力を得て、プロと同日開催である場合、学生野球の試合は1試合に減らし(それも午前9時開始)、プロ野球の試合を午後から開催できるようにした。
[[2017年]](平成29年)は[[5月3日]]・[[5月4日]]の[[阪神タイガース]]戦をデーゲームで開催することにし、これに伴い、本来であれば上記の木・金曜日(および東京六大学連盟が使用しない火・水曜日)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟のリーグ戦は、[[5月1日]]・[[5月2日]](3回戦にもつれたり、雨天延期が生じた場合は[[5月5日]]に予備日を設定する)の月・火曜日に前倒して開催を行った。
アマチュア野球とプロ野球が同日に開催される場合、観客は通常入れ替え制とするのが原則(アマチュア野球の観客がすべて出場してから、プロ野球の観客を入場させる)。ただし、曜日・注目カード・優勝決定等の理由で入場待ち列が長くなり、神宮外苑内に並ばせる余地がない場合は試合中に主に外野席から優先してプロ野球の観客を入場させることがある。アマチュア野球で外野席を開放するのは原則東京六大学リーグ戦のみ。
下記にその一例(六大学野球・東都大学野球の双方で例外入場歴あり)を示す。
* [[1997年]](平成9年)[[9月28日]] - ヤクルトの優勝がかかった試合・日曜日などの条件が重なり、さらには隣接する国立競技場で[[1998 FIFAワールドカップ|サッカーフランスワールドカップ予選]]の日韓戦が行われており、神宮周辺は史上最高の人出と言われるほどにまでなったため、外野自由席の客を東京六大学の試合中に入場させた。六大学野球でも[[高橋由伸]](当時[[慶應義塾大学野球部|慶大]]4年)が[[1968年]](昭和43年)[[田淵幸一]](当時法大4年)の持つリーグ戦通算本塁打記録を更新する可能性があり、こちらも多くの集客があった。高橋はヤクルトファンで埋まったライトスタンドにホームランを打って記録を更新している。
* [[2007年]](平成19年)[[10月7日]] - ヤクルトの大功労者である古田敦也の引退記念試合であり、日曜日ということもあって早朝から多数の観客が詰めかけたため、東京六大学の試合中に入場させた。
上記のようにファンサービスの観点で、学生野球が組まれていない時期{{refnest|group="注"|夏の高校野球東東京大会は早朝~午前に1試合のみ実施することがある。}}にもデーゲームが行われることがあるが、これまで8月の開催については暑さ対策のためデーゲームとはしなかった。[[2013年]]以後は、8月にも17時開始の薄暮開催の形でデーゲームをする試合が増えている。なお2018年は4月から6月に昼間開催を行ったほか、6月30日と7月1日には17時からの薄暮デーゲームを実施した。それ以後はすべて18時以後のナイターとなり、夏季薄暮を含めたデーゲームは行われない{{refnest|group="注"|土、日に他球場がデーゲームでプロ野球の試合が実施されているのに、神宮だけナイター開催というのが頻繁にあるのは大学野球との関係のため。なお2020年度9月以後の、東京六大学野球とプロ野球ナイター開催日が重複する土曜・日曜のヤクルト主催ナイターは、レギュラーシーズンとしては1989年以来となる18:30試合開始に設定された。}}。
== 施設概要 ==
[[ファイル:Jingu gaien air.jpg|thumb|神宮球場の空撮写真(1989年撮影、国土交通省提供)]]
=== 明治神宮野球場 ===
{{節スタブ}}
==== 球場データ ====
* 所在地 - 東京都新宿区霞ヶ丘町3-1
* 竣工 - [[1926年]](大正15年)[[10月]]
* 収容人数 - 30,969名(うち車椅子席17席)
* グラウンド面積 - 12,659m<sup>2</sup>
* 両翼 - 97.5m, 中堅 - 120m, 左右中間 - 112.3m
* 外野フェンスの高さ - 3.3m(ラバーフェンス1.8m+金網フェンス1.5m)
* 内外野 - 全面透水性モノフィラメント・ロングパイル[[人工芝]]([[住友ゴム工業]]製 ハイブリッドターフExciting)
* スコアボード - 全面フルカラー[[発光ダイオード|LED]]式2基
** メインスコアボード - [[東芝ライテック]]製 [[スーパーカラービジョン]]、表示部大きさ: H 12 × W 27.2m、面積: 326.4m<sup>2</sup>、1,170[[インチ]]相当。
** サブスコアボード - 東芝ライテック製 スーパーカラービジョン、表示部大きさ: H 3.6 × W 6.4m、面積: 23.04m<sup>2</sup>、289インチ相当。
==== グラウンド ====
[[1967年]](昭和42年)から[[2007年]](平成19年)までの公称は両翼91m、中堅120mで、グラウンド面積は12,525m<sup>2</sup>。野球場研究家の沢柳政義によれば左中間は112.3m、右中間は112.2m。この広さは1967年の改修当時において標準的なものであったが、1980年代後半以降から日本各地で[[公認野球規則]]2.01(両翼は約99.1m、中堅は約122m)に合わせた球場が増えたために相対的に狭くなった。特に両翼は拡張される前の時点でプロ野球の本拠地球場としては最も距離が短く、そのためにファウルポール際の打球は詰まった当たりや低いライナーなどが容易にスタンドインしてしまうことが目立っていた。これを改めるため、2007年オフには改修に着手、両翼の距離は97.5mに拡張された。この際は101mに拡張したと発表されていたが、2013年オフに耐震工事開始前の測量を行った際に誤りだったとされ訂正された。ただしそれ以前から97.5mとする資料も存在する<ref name="central"/>。
拡張されて両翼97.5m、中堅120mとなったがこの数値は他のプロ野球の本拠地球場と比較すればまだ狭い。また左・右中間から両翼にかけて拡張された面積は僅か134m<sup>2</sup>でフェンスは直線となっており、[[東京ドーム]]に似たような広さ・形状となっている。ファウルゾーンはバックネットが直線状であるためダッグアウト前がやや広め。外野側ファウルゾーンには2組の屋外[[ブルペン]]があるが、プレイングフィールド内にブルペンがあるのは日本プロ野球12球団の本拠地球場で神宮球場が唯一。ブルペン側のスタンド下にはダッグアウトと別にリリーフピッチャー用の控え室が用意されている。グラウンドは全面ロングパイル[[人工芝]]、ベース付近やマウンドなどには[[アンツーカー]]を主に使用した土が敷かれている。
完成当初は両翼100 m、中堅118 mでグラウンド面積は13,566m<sup>2</sup>。内野がクレー舗装(黒土)、外野が天然芝であった。当時としてはかなり広大なものであり、東京六大学ではエンタイトルツーベースを“エンタイトルスリーベース”とするオリジナルルールを適用していた。[[1962年]]には東映フライヤーズの要請により、プロ野球開催時のみ左・右中間から両翼にかけて[[ラッキーゾーン]]を設置した。設置時の両翼は91.4m。[[1965年]]には前年の東京六大学の試合において、外野手がコンクリートフェンスに激突して怪我を負った事故の対策としてラッキーゾーンが固定式になり、他のコンクリートフェンスの内側にも金網フェンスが付けられた。さらに[[1967年]]、ホームベースの位置を中堅方向へ8.5m移動し、内野スタンドと外野スタンドの両翼側を内側へ増築、外野スタンドの中堅部分を削る工事を行った。この工事により両翼が91m、中堅が120m、外野フェンスの高さが1.8mとなり、当時としては標準的な広さとなった。ラッキゾーンは廃止されたが危険防止用の内側金網フェンスは存続、のち[[1970年]]に全面ラバーフェンスとなった。
[[1980年]](昭和55年)、ファウルグラウンドにのみ人工芝を敷設してテストし、[[1982年]]から全面透水性人工芝化。日本初の透水性人工芝と謳われた。マウンドなど土の部分は当初黒土のままであったがまもなくアンツーカーへ変更された。その後、[[1988年]]・[[1993年]](内野のみ)・[[2003年]](内野のみ)・[[2008年]]と張替えを行っている。ロングパイル人工芝となったのは[[2008年]]からで、それに合わせ人工芝下の舗装と[[溝渠#暗渠|暗渠]]も全面改修され、古くなった人工芝は隣接の第2球場に使われた。なお過去にも当球場で使われた人工芝は[[ヤクルト戸田球場|戸田球場]]や第二球場、[[東京大学]]のグラウンドで再利用されている。[[1995年]](平成7年)には人工芝の導入により増加していたエンタイトルツーベースへの対策として、ラバーフェンスの上部に1.5mの金網フェンスが追加され、全体で3.3mとなった。
==== スタンド ====
完成当初の収容人員は29,000人で、外野スタンドは芝生席(収容人員約20,000人)、内野スタンドはベンチシート(収容人員約9,000人)<ref name="example"/>。バックネット裏最上段には貴賓席が設けられた。景観に配慮された設計となっており、貴賓席からレフト場外にある[[聖徳記念絵画館]]全体が見えるように高さを調整するため、外野スタンドは内野スタンドに比べ小さく、傾斜も緩くなった。58,000人収容となる[[1931年]]の増築ではそのまま外側に継ぎ足すように行われ、内野スタンドと外野スタンドの奥行きが同程度となった。傾斜に関してはそのままとなったため内野スタンドの外野寄りは、外野席側にやや傾きのあるようになった。スタンドの増築分の下には[[コロッセオ]]をイメージしたアーケードが作られたが、バックネット裏の球場正面部分は増築されずそのまま残された。
東映フライヤーズが使用を開始した[[1962年]](昭和37年)には球場正面部分も増築し、2階席が作られてその下に貴賓席や放送席が設けられた。[[1967年]](昭和42年)の改修ではスタンドの傾斜の見直しと共に座席の前後幅を広げ、背もたれ付きの個別座席も設けられるようになった。その後は断続的に日本人の体格向上に合わせる座席の更新を行ったため収容人数は減少し、[[1998年]](平成10年)には公称が45,000人になった。2000年代には収容人数を実数の36,011人と訂正、さらに外野スタンドを削った[[2008年]](平成20年)の改修で収容人数は35,650人となった。なお2008年の改修ではバックネットも鋼製から繊維ネットに張り替えられた。[[2011年]](平成23年)にはボックス式のテーブルシートの[[Ponta]]ドリームシートが設置されて収容人数は35,429人となり、2012年にもPontaペアシートが増設され収容人数は35,133人に、2013年にもセブン-イレブンデッキシートが設置されて収容人数は34,572人となった。その後改修工事に伴い2015年は34,092人、2016年は31,941人、2017年は31,828人、2018年は31,805人、2021年現在は神宮球場公式ホームページによると30,969人となっている。前述の特別シート及び外野席の中・後席を除いて同じ折り畳みの背もたれ付き。かつては内野席入口で座布団の有料貸出しがあった。
プロ野球の本拠地球場としては延床面積が狭いなどやや施設面で欠点を抱えている。球場外の通路が駐車場として使用されており、試合終了後は観客の通行に支障が出る場合もある他、スタンドの面構成も適切とは言えないものとなっている。[[1967年]](昭和42年)の改修で増設されたスタンドの前方(下段)は内野席、外野席とも傾斜が緩く(中堅部分になるにつれ解消される)、特に外野側(ヤクルト試合時の外野指定席)の一部では、前の客の頭でグラウンドが見えづらい席もある。一方、スタンドの後方(上段)は勾配のある造りとなっているものの、段差が不規則であることから、席により観戦のしやすさはかなり異なる(特に内野寄りにある外野席のはね上げ式座席部分)。選手用のスペースも小さく、クラブハウスと球場との行き来の際は内野スタンドと外野スタンドとの間にある通路から入り、ここからベンチへはグラウンド内を歩いていく。試合前や勝利後はファンとの触れ合いが見られる一方、連敗や惨敗した日は観客からの罵声や野次が飛び交い、時には物が投げ込まれるなど特にビジター側の選手にとっては「つらい移動」と呼ばれている。試合後の移動では取材陣がコメントを取るために監督や選手を囲んでいる様子が見られる(いわゆる[[ぶら下がり]])。なお、スワローズの選手は通路とクラブハウスの間は原則として地上を歩いて行くが、地下道もあって選手の移動に支障がある場合に使用される。この地下道は[[荒木大輔]]が入団時、ファンに囲まれて身動きが取れなくなるのを避ける為に設置されたため、通称「大輔トンネル」もしくは「荒木トンネル」と呼ばれている([[燕太郎]]は荒木トンネルで生まれたという設定)。ビジター側は通路とクラブハウスが陸橋で繋がっている。
1・3塁のスタンドには、大学野球の応援用に使用するパネルを設置するための金具が設けられている。[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2011クライマックス・セ]]1stステージのヤクルト対巨人戦([[10月29日]] - [[10月31日]])は、[[早慶戦]]と日程が重複したため、慶応の応援団が陣取る3塁側の応援パネルが撤去されずそのままの状態で飾られた中で試合が行われた。
; 禁止事項
周辺住民に配慮し太鼓を叩いての応援は原則的には禁止。また[[2009年]][[5月]]より[[ジェット風船]]の使用を禁止している。当初はライトスタンドのみ禁止されていたが、[[2009年新型インフルエンザ|新型インフルエンザ]]の日本国内での感染拡大を受けて、他球場に倣い同年5月から使用自粛を呼びかけ、[[6月]]から球場周辺への風船ゴミ飛散防止と観客の衛生面への配慮を理由に全面禁止に移行した。
==== スコアボード ====
[[ファイル:Meiji Jingu Stadium-7.jpg|thumb|神宮球場 電光式スコアボード(2007年)]]
[[ファイル:20071007_jingu_score_interval.jpg|thumb|2007年当時のプロ野球開催時の表示。選手名表示部には出場各選手の打率・本塁打数を表示。審判名はイニング間に不定期で表示される(2007年10月7日・ヤクルト対広島最終戦にて)]]
外野観覧席背後に設置した[[野球場#スコアボード|スコアボード]]は、完成当初から得点表示部分は巻き取り式で、得点・カウントなどを遠隔操作で自動的に表示できる、当時としては近代的なものだった(選手名表示部はパネル式)<ref>明治神宮奉賛会 『明治神宮外苑志』 1937年、168-169頁</ref>。1931年の拡張工事で得点表示部は延長15回まで、それにヒットやエラーなどを表示する装置も付けられた<ref>明治神宮奉賛会 『明治神宮外苑志』 1937年、171-172頁</ref>。 [[1980年]](昭和55年)には電光化、次いで[[1995年]](平成7年)に高輝度放電管に置き換わって、フリーボードがスーパーカラービジョンとなりフルカラー化された。さらに[[2008年]](平成20年)には[[発光ダイオード|LED]]による全面フルカラーフリーボードとなった。屋外野球場としては国内最大規模の表示面積を誇る。映像表示時は[[画面アスペクト比]]16:9ワイドサイズのデジタル[[ハイビジョン]]に対応している。電光化以降、独特の表示方式を用いており2008年の全面フリーボード化以降もこの方式が[[コンピュータグラフィックス|CG]]によってほぼ踏襲されている。特色として以下の点があげられる。
* 大時計及び両端の広告のレイアウトはかつて存在した[[後楽園球場]]および[[大阪スタヂアム|大阪球場]]と同じ[[セイコーホールディングス|SEIKO]]製。広告主がない時期は「JINGU」「STADIUM」と表記している。
* 電光化されたと同時に選手名表示部には出場中の全選手の打率・本塁打数を表示することができた。当時のプロ野球本拠地球場で打席に立つ選手以外の成績も常時表示していたのは唯一であった。2007年までは両チームとも常時表示していたが、全面LED化後から試合中は広告スペースとなり現在打席に立つ打者の成績のみをスコアボード上部に表示している。東京六大学野球では顔写真、プロフィールを表示。選手の登録名に従って旧字体はそのまま表示される。また[[指名打者]]制に対応するため選手名の枠が10名分あり、指名打者制がない場合でも空欄の枠が表示されている。また、2008年からはデーゲームとナイトゲーム文字のカラーレイアウトを変更、デーゲームでは新しい表示方法として選手名を白文字・打順など表記を橙文字、ナイトゲーム(なお、デイゲームでも延長などで18時を過ぎるとナイトゲームレイアウトに変更される)ではその逆で従来のスコアボードのレイアウトを継承し、選手名を橙文字、打順など表記を白文字とし、それぞれ視覚性の向上を図っている。有料試合でも夏の高校野球東東京大会では準々決勝まではポジション番号のみで選手名が表示されないことがある。
** 電光化直後は選手名の表示部分が9名分しかなかったため、指名打者制を使用する試合では投手名をチーム名表示の箇所に、後に中央下部にあるビジョンの両端に表示されていた。
* 得点表示部には各イニングの得点と合わせて安打数も表示される。ただし写真にあるように高校野球等、一部ヒット数の表示がされない場合もある。その関係で通常は得点表示部の上に出すイニング表示が上下のスコア表示部の間にある。また総得点の右横に並べることの多いチームの総安打数は総得点の上側に表示される。[[失策|エラー]]数はチーム全体で得た四死球の数と共に、普段何も表示されていない中央下部の両サイドに表示される。イニング表示は9回までで10回以後は一度表示をクリアした上で1回のところから表示する。この場合は最大18回まで表示できるが、規定以上の回は空欄となっている。
** 電光化前はイニング表示が15回まで用意されていた。これは、東京六大学野球の引き分け規定が延長15回まで(一時期、場合により18回まで)であったためである。電光化直後は、9イニング分までしか枠がなかったため、延長10回時に「計」の部分(スコアが2桁となった場合の十の位の部分)を代用し、合計得点が表示できないでいたが、カラービジョン設置以後は10回の枠もあり、延長戦でも合計得点の表示が出来るようになった。
** 巻き取り式の時代は1イニングの得点は最大9点までしか表示が出来なかった。このため、[[1969年]][[5月27日]]に当球場で行われたアトムズ戦・6回において、阪神が達成した当時の1イニング最多得点・13点を直接は表示できなかったため、6回にとりあえず9点を表示し、残り4点分は10回表の欄に表示して間に合わせるという異例の事態があった。
** カラービジョン前の1994 - 2007年は、[[東京ヤクルトスワローズ]]のチームロゴ表記が「''Ys''」でなく「''S''」となっていた。また[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]](1993 - 2007年)は星のない「β」であった。<br/>カラービジョン後は大学野球(東京六大学、東都)リーグ戦でも各校ロゴ・マークでの表示となった。また同様に改修前オーダー上部のチーム名表示は大学野球開催時、東京六大学野球リーグ戦のみローマ字表記がされていた。(立教大学はユニフォームと同じ「RIKKIO」)
* ボールカウントはCGで信号灯を模して上部中央に表示している。その左横には試合開始からの経過時間とプレーの判定表示(H・E・Fc)がある。
** 電光化以降は数字で表示していたが全面LED化時に変更となった。
* 映像は普段何も表示されていない中央下部のみで表示される場合と、全画面で表示される場合、スコア表示部分を含めた中間の大きさで表示される場合の3パターンがある。球速の表示も中央下部になっている。
* 審判名を常時表示する部分がなく、中央下部に適宜表示される。通常はダイヤモンドを模した図で表示されるが、[[全日本大学野球選手権大会|大学選手権]]や[[明治神宮野球大会|神宮大会]]、[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]のように、複数の連盟から審判が派遣される大会では、審判名の他に所属連盟が、横書き縦スクロールで表示される。
* スコアボードの中央下部には、[[東芝]]の広告スペースが設けられている(初期は同社のオーディオ機器のブランド「[[Aurex]]」であった)。電光化と同時に設置されたもので、当初はナイターの試合中に常時点灯していた。しかしホームベースからは投手の投球が見えづらいと選手から苦情が出され、試合前後とイニング間に限って点灯されるようになった。
* スーパーカラービジョン化以降は両端が自由表示による広告スペース([[デジタルサイネージ]])となった。明治神宮記念館や[[マイナビ]]などが日替わりで表示されている。
この他、バックネット裏2階席の屋根にサブスコアボードを1基設置している。メインと同じく2008年に全面フルカラーLEDフリーボードに変わり、映像表示が可能となった。またプロ野球の開催球場ではスコアボード上に5本のポールがあるのが一般的だが、当球場には3本しかない。セ・リーグ連盟旗を通常[[日本の国旗|日本国旗]]が掲げられる中央に掲げ、代わりに国旗はサブスコアボード上のポールに掲げられている。
==== 広告 ====
広告のある箇所はフェンスや[[バックスクリーン]]周辺など、プロ野球の本拠地球場としてはかなり限定されている。広告が最初に設置されたのは[[1969年]](昭和44年)で、改修費用の捻出という目的があった。コンクリートのフェンスと金網フェンスの間に差し込む仕組み{{refnest|group="注"|[[阪神甲子園球場]]も内野は[[1983年]](昭和58年)まで、外野は[[ラッキーゾーン]]撤去前の[[1991年]](バックスクリーン付近のみ[[1985年]])までは差込脱着式の広告フェンスを使用していた。}}で、当初はプロ野球使用時のみに限定、大学野球開催時にも設置されるようになったのはこの年の秋から。
翌年にはラバーフェンスとなったため、ラバーに貼り付けられた。またこの頃にスコアボード付近(時計のある箇所の両サイドと、スコアボード下)の合計5箇所に広告が貼り付けられた。
[[1980年]](昭和55年)の電光掲示板設置時には、その周辺のみではあるが電光看板広告を設置(その後[[1995年]]にスコアボード寄りの左中間・右中間スタンド最上段にも1枚ずつ設置<ref>[http://www.jingu-stadium.com/about_kyujo/history/history_07.html 平成4年∼ | 球場史 | 明治神宮野球場]</ref>)した。後楽園、[[横浜スタジアム]]、[[川崎球場]]、[[ナゴヤ球場]]、[[阪神甲子園球場]]、[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]に続いてであった。
逆にフェンス広告は[[1981年]]に一度全て撤廃され、1990年代には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]で[[2013年]](平成25年)オープン戦までの通常ネット裏スポンサーだった[[ブリヂストン]]{{refnest|group="注"|2008年までは反転フラップ式だったが、2009年から回転式広告板になっている。2013年オープン戦をもって1983年から長年にわたってネット裏スポンサーだったブリヂストンが撤退し、2013年シーズンは[[マルハン]]、2014年シーズンはヤクルト本社がネット裏スポンサーを務め、2015年からは2 - 3社の複数社によるスポンサー広告となっており、同年はヤクルト本社と[[明治記念館]]、シーズン途中からは[[伊藤忠商事]]がスポンサーに加わり、2016年は前年からの伊藤忠商事に加えて、新たに[[ファミリーマート]]、[[プリマハム]]がスポンサーとなっている。}} のスペースが使用できなかった為に一時的に掲示したケース以外は全く掲示を行なわなかった。この理由として当時の神宮宮司は「フェンスは芝生の延長であり、芝生に広告を出さないだろう」と語った。
その後再び老朽化した球場を含む神宮外苑のスポーツ施設の管理・維持捻出のため[[2000年代]]初期からベンチ付近に復活、[[2006年]](平成18年)からは外野部分にも貼り付けられた。
[[2006年]] - [[2009年]]は外野側にヤクルト球団の協賛スポンサー・[[ユニデン]]の広告が集中的に貼り付けられていたが、ユニデンとの契約が切れた[[2010年]]から広告が減らされた。[[2010年]]は当初、左中間部分に[[明治記念館]]、右中間部分には[[ヤクルト本社|ヤクルトミルミル]]の二つのみであったが、[[8月]]以降はヤクルト製品の広告が外野側に貼り付けられるようになった。[[2011年]](平成23年)は左中間・右中間に一部ヤクルト以外のスポンサーの広告([[ほけんの窓口]]・明治記念館、復興応援スローガン「がんばろう!日本」など。2015年からは新たに[[住友ゴム工業]](「[[ダンロップ|ダンロップ・エナセーブ]]」名義)も加わった)も掲示された。
また、バックスクリーンは回転板になる前から[[三菱自動車工業|三菱自動車]]、NKホーム(旧:[[JFEホールディングス|日本鋼管]]グループの住宅メーカー、すでに解散し現存せず)や[[東京スタイル]]の広告が両サイドに掲載されていた。[[1981年]]に回転板になってからは中央部分に[[ヤクルト本社]]([[1990年]]ごろまで)→[[トヨタ自動車]]([[1991年]]ごろから[[2010年代]]前半)→[[オープンハウスグループ|オープンハウス]](2010年代後半)→[[TEKNOS]]([[2022年]])、両サイドは左が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・右は[[ニッポン放送]]([[2006年]]ごろからニッポン放送の箇所もフジテレビに変更されたが、2018年現在は左がフジテレビ、右は[[青山商事]]<「洋服の青山」名義>になっている)が掲載されており、両サイドも回転板を採用している。ただし2011年は節電対策と、バックスクリーン中央部のスポンサー・トヨタの広告自粛の影響のため、2021年はバックスクリーンの広告協賛のスポンサーが付かなかったため、中央部の稼動は中断した時期があった。
スコアボード本体については、2008年の改修実施後のフルビジョン化の実施に伴い、それまで選手の個々の打率・ホームラン数を表示していた箇所に広告が表示されるようになった。
==== 売店 ====
バックスクリーン裏や内野、外野観客席裏に軽食や[[弁当]]類、[[カレー]]や[[ラーメン]]などを提供する店舗が多数入居している。なお、[[築地銀だこ]]や[[バスキン・ロビンス|サーティワンアイスクリーム]]など、複数のチェーン店の店舗も入居している。<br/>アマチュア野球の開催が中心であった経緯から、他球場に比べてオーソドックスな出店形態であったが近年はプロ開催時を中心にオリジナルグルメも充実させている。東京六大学野球でも限定メニューを販売。売り子は、2017年まで男性による瓶ビール(紙コップに注いで)の販売も続いていた。自販機はヤクルト社を含めて缶、瓶製品以外を設置。また、ヤクルトスワローズを中心としたプロ野球グッズ([[ポップコーン]]、[[ビニール傘]]等)を販売する売店が内外にあるほか、試合開催時には対戦チームのグッズを専用に販売する売店も設けられる。なお球場の構造上、観客が内野スタンドと外野スタンドを行き来することは出来ない(野球以外のイベントでは認められる場合がある)。2011年からは内野席の観客が外野スタンド内の売店を利用することが認められており、場外から再入場する形で行われている(直接の往来は不可のまま)。
; 2019年(令和元年)7月24日時点の明治神宮野球場
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Meiji Jingu Stadium 20190724a.jpg|ネット裏よりレフトを見る
Meiji Jingu Stadium 20190724b.jpg|ライトよりホームを見る
Meiji Jingu Stadium 20190724c.jpg|エントランスホール
Meiji Jingu Stadium 20190724d.jpg|バックネット裏階段
Meiji Jingu Stadium 20190724e.jpg|内野席階段
Meiji Jingu Stadium 20190724f.jpg|同左
Meiji Jingu Stadium 20190724g.jpg|選手控室前廊下
Meiji Jingu Stadium 20190724h.jpg|記者席通路
Meiji Jingu Stadium 20190724i.jpg|内野席ホール
Meiji Jingu Stadium 20190724j.jpg|同左
Meiji Jingu Stadium 20190724k.jpg|同左
Meiji Jingu Stadium 20190724l.jpg|同左
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=== 明治神宮第二球場 ===
* 竣工 - [[1961年]](昭和36年)4月19日
* サイズ - 両翼91m、中堅116m
* 内外野 - 全面透水性人工芝
* スコアボード - パネル式(15回まで なお合計得点は原則として15回の部分に掲示する。)
** 竣工時は神宮球場のレフトスタンド外壁部にあった。改築後はバックスクリーンすぐ横(ライト側)に設けられたが、後に右翼手の守備位置ほぼ後ろに移設されている。
* 収容人数 - 5,600人
[[1926年]](大正15年)、明治神宮相撲場として開設された。[[宮武三郎]]が神宮球場の外野スタンド増築前に場外ホームランをここに打ち込んだという。[[1947年]](昭和22年)から1948年にかけて大相撲の[[本場所]]興行が行われた{{refnest|group="注"|1945年5月にも、3月の東京大空襲で初代の両国国技館が罹災したため、明治神宮相撲場で本場所が開催される予定で、番付も発表されたが、5月の空襲で明治神宮も罹災し、本場所は初代国技館で開催されるように変更された。}}。その後野球場に改築されることになり、1961年に竣工したが国鉄スワローズの移転の見込みに伴いすぐに増改築が行われた。当初は神宮球場のレフトスタンドとセンターが接する形となっていたが<ref>[http://www.meijijingugaien.jp/history/images/chronology_img24.jpg 明治神宮外苑HP]</ref>、一塁側スタンド(現在のゴルフ練習場)が接する向きに変更された。以前フィールドは全面クレー舗装だったが、[[1993年]](平成5年)に人工芝が敷設された。2020年の[[2020年夏季オリンピック|東京五輪]]では当敷地を投擲種目の練習場とすることになっているが、具体案は公表されていない。
球場自体の用地が狭隘で外野後方には道路があるため外野スタンドがなく、フェンスに沿って高い防球ネットが張られていた。また1・3塁側についてもベンチを越えた内野以降は座席が設けられていなかった。メインスタンド(バックネット裏)は二層式スタンドで、通常は1階席の部分のみ開放。多客時には2階も開放されていた。2階席の一部には神宮球場のグラウンドを見下ろすことができるエリアがあり、神宮球場で試合が行われている場合は満員時を除き立ち入り禁止となっていた。
座席は本球場の外野席と同様の背もたれのない一人用となっており、バックネット裏上段に机付きの記者席もあった。高校、大学野球ではダッグアウト上のスペースで応援団員がエール交換等を行っていた(最大3名程度)。
券売窓口が1つで、1・3塁側にそれぞれ入り口があった。売店は球場入口正面にのみ設置、限られた種類の飲食を販売していた。
2019年までは[[東京都高等学校野球連盟]]主管の大会([[全国高等学校野球選手権東東京大会|夏の高校野球東東京大会]]や春季・秋季大会)に使用されていた。以前は創設当初の[[首都大学野球連盟]]、[[東京新大学野球連盟]]や[[東都大学野球連盟]]の2部リーグも使用していたが大学野球は日程が祝日になった場合、加盟校のグラウンドを使用するため、原則として明治神宮大会、及び東京都高野連主管大会で使用する場合を除いて、アマチュア野球が第2球場を週末(土・日)と祝日に使うことはなかった。明治神宮大会ではかつて高校の部は準決勝までの試合が行われ、以後本球場への開催に移った際も大学の部1回戦は数試合が組まれていた(明治神宮大会では本球場との共通券が販売され、各球場分で両辺が切り取れる形態となっていた)。また多くの入場が見込まれる試合は本球場での開催に変更されることもあった。末期は夏季大会の準々決勝や秋季大会の準決勝以降の会場から外されるなど、高校野球での使用も減少傾向にあった。
なお東都大学2部リーグでは[[1973年]]から第2球場を主会場としていたが、球場が狭いことにより打球が場外に飛び出すケースが比較的多いことや、施設の老朽化などから、[[2013年]]秋季をもって第2球場の使用を中止することになり、[[2014年]]春季リーグ戦以後は、2部リーグに加盟する大学のグラウンド、[[町田市小野路球場]]等での実施を経て首都圏公営球場で開催している<ref>[https://www.sanspo.com/article/20131116-ZUQBAXZ5UNJXXDQ6FMNUPJQ4S4/ 球場狭い…東都2部リーグ、神宮第2を来春から使用せず](サンケイスポーツ2013年11月16日付 2014年4月10日閲覧)・[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/131219/bbl13121919590009-n1.htm 神宮第二で開催せず、来春は当該校で土日開催 東都2部](産経新聞2013年12月19日付け 2014年4月10日閲覧)</ref>(ただし、東京六大学連盟のその週の大会が日曜日までに終わっていれば、神宮球場を会場として使う場合もあった<ref>[http://www.tohto-bbl.com/gameinfo/schedule.php?YEAR=2014&SEASONID=01&LEAGUEID=02 東都大学野球連盟・2部リーグ日程表]</ref>)。また、かつて1部リーグや2部以下の入替戦も開催実績がある(雨天順延等で本球場での試合消化が難しい際)。
上記事情によりプロ野球1軍の試合には使用されていないが、過去に2軍・[[イースタン・リーグ]]の試合に使用された例はある([[1962年]]の国鉄対大毎戦他)<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201910/CK2019102802100021.html サヨナラ、神宮第二球場 狭さも古さも魅力 11月3日が最後の試合](東京新聞2019年10月28日 2020年1月6日閲覧)</ref>。
また第二球場は[[明治神宮外苑ゴルフ練習場]](外苑ゴルフクラブ)の西練習場を兼ねており、一塁側ダッグアウト付近から右翼ポール際にかけて[[ゴルフ]]練習用の打席が121打席設置されている。ゴルフ練習場のうち東練習場は通年営業しているが、第二球場を兼ねる西練習場は、アマチュア野球公式戦の行われる日は早朝(基本的に6時 - 8時45分)と夜間(アマチュア野球大会の試合終了後{{refnest|group="注"|営業開始時間については概ね16:30前後であるが、アマチュア野球の試合展開により前後するため、[http://www.meijijingugaien.jp/sports/golf/training-field/ 西練習場営業のご案内] にも掲載されている。}}から深夜)のみの営業となる。アマチュア野球公式戦が行われる時間帯以外はゴルフ練習場として供用しており、野球場としての草野球の一般利用は受け付けていない(ゴルフのみ運営の場合でも9:00 - 9:30はボールの回収作業を行うため利用不可。また周辺道路や施設への影響を考慮し、練習場では飛距離を抑制した低反発球を使用することになっており、一般のゴルフコースや他のゴルフ練習所で使用する通常のボールの使用・持ち込みは厳禁となっている)。ゴルフ西練習所は[[1973年]](昭和48年)に設置された(東練習所=第2球場東隣はその前年の[[1972年]]開設)。
フェンス広告はないが、ゴルフ練習場として活用されていることを踏まえて、レフト側にゴルフ関連の広告看板が設置されている。また、過去には、神宮球場に合わせて右翼側のスコアボード上に、[[SEIKO]]の広告看板が設置されていた。
東都2部撤退後の2014年頃から外野を中心として人工芝の劣化が顕著となり、2016年頃には外野の大半は下地がむき出しの黒ずんだ状態となっていた。2017年頃から一部の芝が張り替えられたもののそれ以降も外野の芝は継ぎ接ぎ状態であり、センターからライト方向深くの芝は最後まで黒ずんだ状態で使用された。
2019年11月3日の[[秋季東京都高等学校野球大会]]準々決勝・[[日本大学第三中学校・高等学校|日大三]] - [[帝京中学校・高等学校|帝京]]戦を最後に野球場としての使用は終了した。奇しくも甲子園大会に出場経験のある高校同士の対戦となり、試合前には東京都高野連による高校野球全日程終了の式典が行われた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/11/03/kiji/20191103s00001002253000c.html ありがとう神宮第2 最後の試合、日大三―帝京の前に式典 満員で入場規制] スポーツニッポン 2019年11月3日</ref>。試合終了後には両校の選手・監督らによる記念撮影が行われ、帝京監督の[[前田三夫]]、日大三監督の[[小倉全由]]は健闘を讃え合うとともに球場への感謝の思いを語った<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201911030000674.html 最後神宮第2で帝京4強「においある球場」前田監督] 日刊スポーツ 2019年11月3日</ref><ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191104-13 神宮第二、最後の試合。“東京の聖地”に思いを馳せる名将] 高校野球ドットコム 2019年11月4日</ref>。その後2019年末までゴルフ場としての営業が継続されたのち、2020年以降は東京オリンピックに向けた資材置き場となっていた。
前述の通り、神宮外苑地区の再開発に伴い、2021年をもって第二球場は解体され、跡地には新秩父宮ラグビー場が建設される予定となっているが、東京オリンピックが2021年に延期されたためその動向は不明となっていた。2021年1月15日、スポーツ庁はラグビー振興に関する関係者会議を開き、新秩父宮ラグビー場を完全密閉型屋根付きのスタジアムとする方針を決定した。グラウンドは人工芝にして多用途に対応し、収容人数は2万人規模を想定している。2023年から2026年に予定されている第1期工事では南側をオープンにしたスタンドが3方向のスタジアムとして整備される。現在の神宮球場が取り壊された後に、南側のスタンド及び屋根の設置工事が行われるため、最終的な工事完成は2033年からずれ込む見通し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/202101150000931.html|title=新秩父宮ラグビー場、完全密閉型屋根付きアリーナへ|accessdate=2021-01-17|date=2021-01-15|publisher=日刊スポーツ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210115-AXRLEEZJO5LBXBVV4RJ4ESCJPI/|title=新秩父宮は屋根付き密閉型 工期延長で空白期間も|accessdate=2021-01-17|date=2021-01-15|publisher=産経新聞}}</ref>。
; 2019年(平成31年)2月22日時点の明治神宮第二野球場
<gallery mode="packed">
Meiji Jingu Stadium 2019f.jpg|北側は工事中の国立競技場
Meiji Jingu Stadium 2019g.jpg|明治神宮第二野球場正面入り口
Meiji Jingu Stadium 2019h.jpg|隣接は明治神宮野球場
Meiji Jingu Stadium 2019i.jpg|南側は明治神宮野球場
Meiji Jingu Stadium 2019j.jpg|同左
</gallery>
== 天覧・台覧試合 ==
初試合に皇太子(のちの[[昭和天皇]])が臨席するなど、皇族を招いての試合が幾つか行われている。[[1931年]](昭和6年)の増築は[[早慶戦]]を観戦した際、入りきらなかった観衆を見た[[秩父宮雍仁親王|秩父宮]]が勧めたのがきっかけであった。[[2009年]](平成21年)には[[愛子内親王]]と[[徳仁|皇太子]]および[[皇后雅子|同妃雅子]]が[[若松勉]]の解説で東京ヤクルトスワローズ対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の試合を観戦した。
== 事故 ==
当球場で起きた大きな事故(選手・観客)として以下のものがある<ref>沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、pp.288 - 289</ref>。
* 1929年(昭和4年)5月18日 - [[早慶戦|早慶]]1回戦の試合に集まった三塁側スタンドの観衆がなだれ落ちる形で場内に落下、7 - 8名の負傷者が出た。
* 1948年(昭和23年)6月9日 - 早慶戦の観衆による群集事故で負傷者14人。
* 1948年(昭和23年)11月4日 - 読売ジャイアンツ創設15周年記念の無料オープン戦(相手は[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[大映ユニオンズ|金星スターズ]]・[[北海道日本ハムファイターズ|急映フライヤーズ]]3球団からの選抜チーム)に集まった群衆が数万人にもおよび、その圧力で入口の扉が開けられそうになったため、予定より30分ほど早く開門したところ、将棋倒しが発生して圧死2人、重軽傷者32人が発生。なお、この当時戦争中の[[金属類回収令]]により入口の鉄柵が撤去されていた。
* 1964年(昭和39年)9月19日 - 東京六大学リーグ戦の早稲田対立教戦で、早稲田の直江輝昭(右翼手)が飛球を負って背走した際にフェンスに激突し、重傷。事故後の1965年にフェンスの内側に金網が設置されたが、金網に手が入って負傷する事故が発生したことから、1970年に金網を取り除いてラバーフェンスに変更している。
* 2022年(令和4年)8月29日 - [[乃木坂46]]「真夏の全国ツアー2022」の東京公演にて、メンバーの[[掛橋沙耶香]]がアンコールのパフォーマンス中に1塁ベンチ上の階段から転落して負傷し救急搬送され、その後治療のため長期間休業する事態となっている。
== 胴上げ ==
ヤクルトが[[1978年]](昭和53年)にセ・リーグで初優勝した時、ファンが優勝を祝うが余りに客席から飛び出して選手や[[広岡達朗]]監督を胴上げするという光景が見られ、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。その模様は、フジテレビの製作によって全国テレビ中継された。そういったこともあり、同じ神宮で[[1985年]]、21年ぶりの優勝を決めた阪神タイガースの試合のときには警備員を多数増員して、乱入をしないように警戒を強めたという。
[[2015年]]現在、当球場で監督の優勝胴上げを行っていないセ・リーグのチームは[[横浜DeNAベイスターズ]](前身球団含む)だけとなっている。胴上げを行ったチームは順にヤクルト([[1978年]]、[[1993年]]、[[1995年]]、[[1997年]]、[[2015年]]、[[2022年]]
)、阪神([[1985年]])、広島([[1986年]])、中日([[1999年]])、巨人([[2008年]])となる。
[[パシフィック・リーグ]]のチームでは、[[1992年]]に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]、[[2015年]]に[[福岡ソフトバンクホークス]]、[[2022年]]に[[オリックスバファローズ]]が[[日本選手権シリーズ]]の制覇によって監督を胴上げしている。[[2005年]]から始まった[[セ・パ交流戦]]では、同年に[[千葉ロッテマリーンズ]]が優勝をこの球場で決めたものの、胴上げには至らなかった。
== その他のエピソード ==
* [[2020年の日本プロ野球|2020年]]10月24日、セ・リーグ公式戦のヤクルト対[[中日ドラゴンズ|中日]](22回戦)の6回表に、隣接する国立競技場で打ち上げられた花火の煙が球場の上空を覆い、試合が中断するという珍事が発生した。煙が薄くなるのを待って1分ほどで試合は再開したが、今度は7回表に国立競技場から大量の風船が球場の上空に飛来。中にはグラウンドに落下したものもあったため再び試合が中断した。国立競技場ではこの日、アイドルグループ・[[嵐 (グループ)|嵐]]が配信ライブの収録を行っており、花火や風船はその演出の一環であった。同日、嵐の所属する[[ジャニーズ事務所]]が、演出によって試合が中断したことをホームページ上で謝罪した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.johnny-associates.co.jp/news/info-320/|title=10月24日 神宮球場「ヤクルト対中日」戦 試合中断に関するお詫び|date=2020-10-24|accessdate=2020-10-25|publisher=Johnny&Associates|}}</ref><ref>{{Cite web|和書| |url=https://hochi.news/articles/20201024-OHT1T50317.html?page=1 |title=ジャニーズ事務所、神宮のヤクルト戦中断で謝罪 嵐コンサート収録 |date=2020-10-24 |accessdate=2023-06-15 |publisher=報知新聞社 |website=[[スポーツ報知]] |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615104641/https://hochi.news/articles/20201024-OHT1T50317.html?page=1 |archive-date=2023-06-15}}</ref>。なお、試合はほどなくして再開された(結果は9-5でヤクルトの勝利)。花火が打ち上げられたのは偶然にも中日・[[滝野要]]がプロ初安打を放つのとほぼ同時であり、また風船が飛来したのも中日・[[阿部寿樹]]がこの日3本目となる安打([[猛打賞]])を放ったのとほぼ同時だった。そのため、いくつかのメディアは、滝野や阿部を祝福しているかのようだったと報じている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/10/24/kiji/20201024s00001173470000c.html|title=中日・滝野プロ初安打の祝砲?神宮のヤクルトVS中日戦、花火の煙で試合が一時中断 さらに“風船中断”も|date=2020-10-24|accessdate=2020-10-25|publisher=[[スポニチアネックス]]|}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/142875?rct=dragons|title=中日滝野プロ初安打を花火が祝福!? 煙と風船飛来で試合2度中断、嵐の無観客ライブだった|date=2020-10-24|accessdate=2020-10-25|publisher=[[中日スポーツ]]|}}</ref>。
* [[2022年の日本プロ野球|2022年]][[10月3日]]に開催されたヤクルト対DeNA25回戦<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2022/games/s2022100301835.html |title=2022年10月3日 【公式戦】 試合結果 (東京ヤクルトvs横浜DeNA) |access-date=2023-06-15 |publisher=NPB.jp 日本野球機構 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615095931/https://npb.jp/bis/2022/games/s2022100301835.html |archive-date=2023-06-15}}</ref>では、ヤクルトの[[村上宗隆]]がNPBの日本人選手では史上最多となるシーズン56本塁打を記録した<ref name="sponichi202210032056 ">{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/10/03/kiji/20221003s00001173593000c.html |title=ヤクルト村上、今季最終打席で王超え56号&令和初3冠王のダブル偉業 打点はバースに並んだ |access-date=2023-06-15 |date=2022-10-03 |website=[[スポニチ]] Sponichi Annex 野球 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615100754/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/10/03/kiji/20221003s00001173593000c.html |archive-date=2023-06-15}}</ref>{{Efn2|村上はこの試合で史上最年少<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221003/k10013846671000.html |title=【詳しく】村上宗隆 史上最年少で三冠王 56号HR 王貞治さん上回る |access-date=2023-06-15 |publisher=NHK |date=2022-10-04 |website=NHK NEWS WEB |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615111225/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221003/k10013846671000.html |archive-date=2023-06-15}}</ref>かつ元号が令和になってからは初めてとなる三冠王も確定させた<ref name="sponichi202210032056" />。}}。それを記念し、翌年6月15日には56号本塁打が着弾した右翼席スタンドFブロックの階段付近の壁にモニュメントが取り付けられ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230615/k10014100231000.html |title=村上宗隆 日本選手最多の56号記念モニュメント 神宮球場に設置 |access-date=2023-06-15 |publisher=NHK |date=2023-06-15 |website=NHK NEWS WEB |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615104252/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230615/k10014100231000.html |archive-date=2023-06-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/28589 |title=神宮球場にプロ野球ホームラン記録 記念モニュメント設置 |access-date=2023-06-15 |publisher=東京ヤクルトスワローズ (yakult-swallows.co.jp) |date=2023-06-15 |website=東京ヤクルトスワローズ公式サイト |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615102838/https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/28589 |archive-date=2023-06-15}}</ref>、村上も参加して除幕式が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://baseballking.jp/ns/377620 |title=ヤクルト・村上の“56号記念モニュメント”お披露目 「また新たな記録をたくさん立てられるように」 |access-date=2023-06-15 |date=2023-06-15 |website=BASEBALL KING |archive-url=https://web.archive.org/web/20230615103633/https://baseballking.jp/ns/377620 |archive-date=2023-06-15}}</ref>。
== 硬式野球以外での使用 ==
[[第二次世界大戦]]終了後、[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]に接収された明治神宮野球場では、1945年11月11日にアメリカ合衆国軍人らによるロデオ大会が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=日本ニュース 第261号|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300576_00000&chapter=008|website=NHK戦争証言アーカイブス|accessdate=2019-08-15|publisher=日本放送協会|date=1945-11-22|language=日本語}}</ref>。
また戦後初めてとなる公式の[[サッカー]]試合が行われたのもこの明治神宮野球場である(1947年4月3日開催のサッカー東西対抗戦)。この翌年の1948年にも同所で東西対抗戦サッカー試合が開催された<ref>{{PDFLink|[http://210.237.98.102/jfm/images/pdf1/3/010000105901.pdf 東西対抗を語る 堀江忠男]}} 日本蹴球協会機関誌『SOCCER』第1号(29頁) 1948年8月</ref>。
人工芝導入後より一般貸し出しが行われており、[[ストロングリーグ]]では[[全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップ]]の決勝会場や交流試合などで使用している。周辺には[[国立霞ヶ丘競技場陸上競技場]]([[2014年]]に閉鎖され、解体された)や[[秩父宮ラグビー場]]などの球技場があるために野球以外のスポーツイベントが行われることはほぼないが、[[1989年]][[8月7日]]には[[サッカー日本代表|日本代表]]対[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]の親善試合が行われている。
[[コンサート]]やイベントの会場としても使われることがあり、毎年8月には[[神宮外苑花火大会]]([[日刊スポーツ]]主催)のメイン会場として使用され、[[花火]]の打ち上げを第二球場から行っている。近年行われた主なイベントとしては以下のものがある。
* [[ジャパンスーパークロス]]([[1987年]] - [[1995年]])
* [[東京国際女子マラソン]]([[1990年]]・ゴール地点として使用) - [[即位の礼]]が行われた関係により日程が変更され、変更された日(12月9日)がサッカーの[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]と日程が重なり国立競技場が使用出来なくなったため。
* [[新宿シティハーフマラソン]]([[2015年]] - 2020 ゴール地点として使用) - 国立が改修のため
* [[UWFインターナショナル]]プロレスリング世界ヘビー級選手権試合・[[髙田延彦|高田延彦]]対[[ビッグバン・ベイダー|ベイダー]]([[1994年]][[12月5日]]) - 当球場で初開催となる[[プロレス]]興行<ref>[http://www.jingu-stadium.com/about_kyujo/history/history_07.html 球場史|明治神宮野球場]</ref>
* [[新日本プロレス]]
** 「GINGU CLIMAX{{refnest|group="注"|正確には「JINGU CLIMAX」と表記されるべきだが、同団体の看板興行である「[[G1 CLIMAX]]」に似せるためにこの表記を用いた。}}」([[1999年]])
** 「D4DJ Groovy Mix Presents SUMMER STRUGGLE in JINGU」(2020年8月29日)<ref>{{Cite press release|和書|title= 【電撃決定!】なんと21年ぶり!新日本プロレスが、8月29日(土)明治神宮野球場で大会を開催!!|publisher= 新日本プロレスリング|date= 2020-07-25|url= https://www.njpw.co.jp/253530|format= HTML|language= 日本語|trans-title= |accessdate= 2020-07-25|archiveurl= |archivedate= |quote= |ref=}}</ref>
* [[M-1グランプリ]]([[2005年]]・敗者復活戦)
* 第26回[[全国高等学校クイズ選手権]]([[2006年]]・関東地区予選会場)
* [[全国高等学校定時制通信制軟式野球大会]]-定時制と通信制高校の軟式野球の全国大会。開会式および開幕試合(第一試合)と決勝戦と、その他一部試合に使用されている。
* [[リアル脱出ゲーム]]([[2010年]] - [[2011年]]・[[2014年]] - [[2015年]]・[[2017年]]・2022-) - [[SCRAP]]主催の体感型謎解きイベント。2010年はオリジナル作品『'''あるスタジアムからの脱出'''』、2011年は[[信長の野望シリーズ]]・[[戦国無双シリーズ]]とのコラボ『'''終わらない合戦からの脱出'''』、2014年は[[進撃の巨人]]とのコラボ『'''ある城塞都市からの脱出'''』東京公演、2015年は[[ONE PIECE]]とのコラボ『'''頂上戦争からの脱出'''』東京公演(東京追加公演も含む。ただし、東京最終公演は[[東京ドーム]]で実施)、2017年は[[キングダム (漫画)|キングダム]]とのコラボ『'''大戦場からの脱出'''』東京公演として開催し、リアル脱出ゲームの野外ツアー東京公演の会場として定着した。
=== コンサート ===
* [[井上陽水]]・[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]](1986年8月20日)
* [[大澤誉志幸]](1986年8月30日)
* [[中村あゆみ]](1986年8月31日)
* [[THE ALFEE]](1998年8月22日、2000年8月12日・13日)
* [[乃木坂46]](2014年8月30日、2015年8月30日・31日、2016年8月28日 - 30日、2017年7月1日・2日、2018年7月6日 - 8日{{refnest|group="注"|秩父宮ラグビー場と2会場同時併催。隣接する両会場間をメンバーが2組に分かれて行き来し、それぞれの会場でパフォーマンスした。}}、2019年8月30日 - 9月1日、2022年8月29日 - 31日<ref>{{Cite web|和書|title=「真夏の全国ツアー2022」開催決定!ラストは明治神宮野球場!|url=https://www.nogizaka46.com/s/n46/news/detail/65530|website=乃木坂46公式サイト|accessdate=2022-05-15|language=ja}}</ref>、2023年8月25日 - 28日<ref>{{cite web2|url=https://www.nogizaka46.com/s/n46/news/detail/66403?ima=2239|title=「乃木坂46 真夏の全国ツアー2023」開催決定!乃木坂46初の沖縄公演も!|website=乃木坂46 公式サイト|publisher=乃木坂46LLC|date=2023-05-08|accessdate=2023-05-09|df=ja}}</ref>)
== 交通機関 ==
* [[東日本旅客鉄道|JR]] [[File:JR JB line symbol.svg|15px|]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]] - [[信濃町駅]]より徒歩13分
* JR [[File:JR JB line symbol.svg|15px|]] 中央・総武線(各駅停車) - [[千駄ケ谷駅]]より徒歩15分
* [[東京地下鉄|東京メトロ]] [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] - [[外苑前駅]]より徒歩5分
* 東京メトロ [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|15px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] - [[青山一丁目駅]]より徒歩15分
* 東京メトロ [[File:Logo of Tokyo Metro Fukutoshin Line.svg|15px|F]] [[東京メトロ副都心線|副都心線]] - [[北参道駅]]より徒歩17分
* [[都営地下鉄]] [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] - [[国立競技場駅]]より徒歩13分
* [[都営バス品川営業所#黒77系統|都営バス 黒77系統]] - 霞ヶ丘団地バス停より徒歩7分
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Meiji Jingu Stadium}}
* [[日本の野球場一覧]]
* [[村上春樹]] - 平日の神宮の外野席でヤクルト戦を見ていた際に小説家になろうと思い立って、『[[風の歌を聴け]]』が生まれた。
* [[野球狂の詩]] - [[東京メッツ]]が本拠地としている「[[国分寺市|国分寺]]球場」は当球場がモデルとされており、実写による映画版、並びにドラマ版でも神宮が撮影に使用されている。
* [[ROOKIES]] - 実写版のロケに使用された。ただし、[[TBSテレビ]]制作ということもあり、バックスクリーン周りの広告(フジテレビ・ニッポン放送・コカコーラ・東芝・麒麟麦酒)は隠された。
== 外部リンク ==
* {{Official website}}
* [http://npb.jp/stadium/detail.html?082 明治神宮野球場|球場詳細|球場情報|NPB.jp 日本野球機構]
{{S-start}}
{{本拠地の変遷|[[後楽園球場]]|1950|1963|[[東京ヤクルトスワローズ]]|1964|現在|n/a| | }}
{{本拠地の変遷|[[駒澤野球場]]|1953.9|1961|[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]|1962|1963|後楽園球場|1964|1987}}
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{{日本プロ野球の本拠地野球場}}
{{東京ヤクルトスワローズの本拠地}}
{{北海道日本ハムファイターズの本拠地}}
{{Normdaten}}
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[[Category:日本プロ野球の本拠地野球場]]
[[Category:関東地方の野球場]]
[[Category:明治神宮外苑]]
[[Category:新宿区のスポーツ施設]]
[[Category:国鉄スワローズ]]
[[Category:サンケイアトムズ]]
[[Category:東京ヤクルトスワローズ]]
[[Category:東映フライヤーズ]]
[[Category:東京六大学野球連盟]]
[[Category:東京六大学野球公式戦開催野球場]]
[[Category:日本のプロレス会場]]
[[Category:関東地方のサッカー競技施設]]
[[Category:占領軍に接収された日本の建築物]]
[[Category:1926年開設のスポーツ施設]]
[[Category:オリンピックの野球競技会場]]
[[Category:1964年東京オリンピックの会場]]
[[Category:日本野球聖地・名所150選]]
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16,501 |
静態保存
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静態保存(せいたいほぞん)とは、機械類が、本来の用途としての動作・運用が可能とは限らない状態で保存されていることである。対して、動作・運用可能な状態で保存されている場合は動態保存(どうたいほぞん)と言う。静態保存の状態から動作・運用可能な状態に復元することも行われる(その行為をレストレーションと言う。蒸気機関車に多い。なおこの動態復元の際に、別の静態保存のものから部品を供出させる例もある)。
動態保存されていた個体が、保存環境や維持管理の悪さのために静態保存となる場合もある。飛行可能であった旧日本軍の軍用機が里帰りしたあと、維持管理が出来ず静態保存状態になったことが上げられる。
また、静態保存の一種として、後に現状復帰させることを前提とした「モスボール」がある。精密機器類の取り外しや稼働箇所のグリース漬け、各所の隙の封止による防水・防塵を行うなど、なるべく劣化が起こらない処置を取った上で保存(保管)する。このような一時保管を単に「ストア」(Store)と呼ぶ場合もある。
日本では、公園など監視が少なく人の出入りの多い場所に設置された蒸気機関車や路面電車などの保存車両が、劣化(およびそれによる破損箇所の危険性を指摘されること)により解体・撤去される例が少なくない。また、一部の愛好家および愛好家へ高値で売ろうとする者(窃盗犯)によって部品を持ち出されたり、ヴァンダリズム(破壊行為)の対象とされたり、大勢の人が車内に立ち入ることで劣化が進むケースもあり、場合によってはレプリカを公開するケースもある。
大型の鉄道車両や航空機の場合、運搬方法や設置場所の制約といった理由から、車体・機体の前頭部や前半部分のみの保存となる場合もある。また、中間部を抜いて切継いで短縮することもある。
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静態保存(せいたいほぞん)とは、機械類が、本来の用途としての動作・運用が可能とは限らない状態で保存されていることである。対して、動作・運用可能な状態で保存されている場合は動態保存(どうたいほぞん)と言う。静態保存の状態から動作・運用可能な状態に復元することも行われる(その行為をレストレーションと言う。蒸気機関車に多い。なおこの動態復元の際に、別の静態保存のものから部品を供出させる例もある)。
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[[画像:JNR C11 189 20040327.jpg|thumb|right|220px|静態保存の例(鉄道車両)<br />[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形蒸気機関車]]]]
[[画像:Ys-11 2006-9-10-022.jpg|thumb|right|220px|静態保存の例(航空機)<br />[[YS-11]]]]
[[画像:Kuha481-ed76-ef30.JPG|thumb|right|220px|前頭部のみの保存の例<br />(右から[[国鉄EF30形電気機関車|EF30形電気機関車]]、[[国鉄ED76形電気機関車|ED76形電気機関車]]、[[国鉄485系電車|485系電車]])]]
'''静態保存'''(せいたいほぞん)とは、[[機械]]類が、本来の用途としての動作・運用が可能とは限らない状態で保存されていることである。対して、動作・運用可能な状態で保存されている場合は'''[[動態保存]]'''(どうたいほぞん)と言う。静態保存の状態から動作・運用可能な状態に復元することも行われる(その行為を[[レストア|レストレーション]]と言う。[[蒸気機関車]]に多い。なおこの動態復元の際に、別の静態保存のものから[[部品取り|部品を供出]]させる例もある)。
== 解説 ==
動態保存されていた個体が、保存環境や維持管理の悪さのために静態保存となる場合もある。飛行可能であった旧[[日本軍]]の[[軍用機]]が里帰りしたあと、維持管理が出来ず静態保存状態になったことが上げられる。
また、静態保存の一種として、後に現状復帰させることを前提とした「[[モスボール (軍事)|モスボール]]」がある。精密機器類の取り外しや稼働箇所の[[グリース]]漬け、各所の隙の封止による[[防水]]・防塵を行うなど、なるべく劣化が起こらない処置を取った上で保存(保管)する。このような一時保管を単に「ストア」(Store)と呼ぶ場合もある。
日本では、[[公園]]など[[監視]]が少なく人の出入りの多い場所に設置された[[蒸気機関車]]や[[路面電車]]などの保存車両が、劣化(およびそれによる破損箇所の危険性を指摘されること)により[[解体]]・撤去される例が少なくない。また、[[鉄道ファン#鉄道ファンによる迷惑・犯罪行為|一部の愛好家]]および愛好家へ高値で売ろうとする者([[窃盗|窃盗犯]])によって部品を持ち出されたり、[[ヴァンダリズム]](破壊行為)の対象とされたり、大勢の人が車内に立ち入ることで劣化が進むケースもあり、場合によっては[[レプリカ]]を公開するケースもある。
大型の[[鉄道車両]]や[[航空機]]の場合、運搬方法や設置場所の制約といった理由から、車体・機体の前頭部や前半部分のみの保存となる場合もある。また、中間部を抜いて切継いで短縮することもある。
== 関連項目 ==
* [[形体展示]]
* [[生体展示]]
* [[形態展示]]
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16,502 |
文殊
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文殊
もんじゅ
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文殊 文殊菩薩 - 智慧を司る、菩薩の一尊。
文殊 (列車) - 西日本旅客鉄道でかつて運行していた特別急行列車。 もんじゅ もんじゅ - 福井県敦賀市にある原子力発電所(高速増殖炉)。
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'''文殊'''
*[[文殊菩薩]] - 智慧を司る、[[菩薩]]の一尊。
*[[文殊 (列車)]] - [[西日本旅客鉄道]]でかつて運行していた[[特別急行列車]]。
'''もんじゅ'''
*[[もんじゅ]] - [[福井県]][[敦賀市]]にある[[原子力発電所]]([[高速増殖炉]])。
== 関連項目 ==
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16,503 |
恋愛小説
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恋愛小説(れんあいしょうせつ)は、異性間もしくは同性間での恋愛を主題とした小説のこと。
文学史的には、現在に伝わる、世界最古の恋愛小説は、ロンゴスのダフニスとクロエとされている。
恋愛小説の古典としては、スタンダール作『赤と黒』、ジェーン・オースティン作『高慢と偏見』、エミリー・ブロンテ作『嵐が丘』、シャーロット・ブロンテ作『ジェイン・エア』、ゲーテ作『若きウェルテルの悩み』、ツルゲーネフ作『初恋』などが挙げられる。
純文学とみなされる作品も少なくないが、通俗的なものはロマンス小説 (romance novel) と称されることもある。ロマンス小説は、若者同士のどこにでもありそうな恋愛体験や事件をテーマにした小説であったり、純愛を強調した空想的なストーリーであったりすることも多い。ジュブナイル、ヤングアダルト向けの作品が多く、ありきたりなパターン、結末に終始することが多いため、ロマンス小説(または恋愛小説)といった場合、暗に安っぽいという揶揄を含んでいることがある。
そうした小説を、若い女性のひと夏の恋、海外体験、避暑地、シンデレラ・ストーリーといったパターンにはめて、消費される文学として次々に生み出し、それを1つの出版のスタイルにまでしたものもある。ハーレクイン・ロマンといわれるものがそれで、ハーレクインが発売している一連のペーパーバック本やその翻訳書が挙げられる。作家としては、バーバラ・カートランドなどがいる。また、それに類似する出版物をも含むことがある。
また、ジュブナイルの分野では、主に少女向けとして集英社コバルト文庫など、専門の文庫レーベルを刊行している出版社もある。オリジナル作品が多いが少女漫画・アニメの小説化もあり、さらに文庫が漫画・アニメの原作となる場合もある。
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恋愛小説(れんあいしょうせつ)は、異性間もしくは同性間での恋愛を主題とした小説のこと。
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'''恋愛小説'''(れんあいしょうせつ)は、[[異性]]間もしくは[[同性]]間での[[恋愛]]を主題とした[[小説]]のこと。
== 概要 ==
文学史的には、現在に伝わる、世界最古の恋愛小説は、[[ロンゴス]]の[[ダフニスとクロエ]]とされている。
恋愛小説の[[古典]]としては、[[スタンダール]]作『[[赤と黒]]』、[[ジェーン・オースティン]]作『[[高慢と偏見]]』、[[エミリー・ブロンテ]]作『[[嵐が丘]]』、[[シャーロット・ブロンテ]]作『[[ジェイン・エア]]』、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]作『[[若きウェルテルの悩み]]』、[[ツルゲーネフ]]作『[[初恋_(ツルゲーネフ)|初恋]]』などが挙げられる。
[[純文学]]とみなされる作品も少なくないが、通俗的なものは'''ロマンス小説''' (romance novel) と称されることもある。ロマンス小説は、若者同士のどこにでもありそうな[[恋愛]]体験や事件をテーマにした小説であったり、[[純愛]]を強調した空想的なストーリーであったりすることも多い。[[ジュブナイル]]、[[ヤングアダルト]]向けの作品が多く、ありきたりなパターン、結末に終始することが多いため、ロマンス小説(または恋愛小説)といった場合、暗に安っぽいという揶揄を含んでいることがある。
そうした小説を、若い[[女性]]のひと夏の恋、海外体験、[[避暑地]]、[[シンデレラ・ストーリー]]といったパターンにはめて、消費される文学として次々に生み出し、それを1つの出版のスタイルにまでしたものもある。[[ハーレクイン・ロマン]]といわれるものがそれで、[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン]]が発売している一連のペーパーバック本やその翻訳書が挙げられる。作家としては、[[バーバラ・カートランド]]などがいる。また、それに類似する出版物をも含むことがある。
また、[[ジュブナイル]]の分野では、主に少女向けとして[[集英社]][[コバルト文庫]]など、専門の文庫レーベルを刊行している出版社もある。オリジナル作品が多いが[[少女漫画]]・[[アニメーション|アニメ]]の[[小説化]]もあり、さらに文庫が漫画・アニメの原作となる場合もある。
== 関連項目 ==
* [[ラブストーリー]]
* [[ボーイズラブ]]
* [[百合 (ジャンル)|百合]]
* [[恋愛]]
* [[恋愛漫画]]
<!--
== 外部リンク ==
* [http://www.harlequin.co.jp/ ハーレクイン社(日本)公式ホームページ]
-->
{{Narrative}}
{{Authority control}}
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[[Category:恋愛小説|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E6%84%9B%E5%B0%8F%E8%AA%AC
|
16,504 |
ストップ!! ひばりくん!
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『ストップ!! ひばりくん!』は、江口寿史による漫画作品。『週刊少年ジャンプ』(WJ、集英社)誌上において1981年(昭和56年)45号から 1983年(昭和58年)51号まで多くの休載を挟みながら連載され、長期の中断を経て27年越しで完結した。1983年には東映動画によりアニメ化もされた江口の代表作の一つである。
母との死別をきっかけとしてヤクザの大空組に世話になる事となった高校生・坂本耕作と、事実を知らなければ美少女としか見えない大空組の長男・大空ひばりを中心とした日常生活を描いたラブコメディである。
江口の意図は、ヒロインを「女装した男の子」にする事によってギャグとし、ちゃかす事によって、当時少年誌で全盛を誇っていたラブコメのアンチテーゼとなりうるギャグ漫画を制作することにあった。
本作は『ひのまる劇場』の次に当たる江口3作目となる連載作品である。
江口が『ひのまる劇場』を連載際していた当時は、少年誌でラブコメディが流行していた。江口は元々あだち充や柳沢きみおの作品を好いていたものの、これらの作品の二番煎じといえるほど程度が低い作品が連載されていることに不満を抱いていた。そこで、江口は「惚れた美少女が実は男で、主人公が困ってしまう」という漫画を描こうと考え、ヒロインをかわいく描けば描くほど周囲がパニックに陥り、物語が動くだろうと見込む。女装への認知度は低かった当時であったが、連載開始にあたり障害となったものはなかった。主人公の名前だけは変えてくれと言われ、「美空ひばり」であったものが「大空ひばり」になったという。タイトルは関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』に由来する。また、連載当時江口は『イラストレーション』という雑誌を読んでいたが、イラストの手法は躍動感のあるギャグ漫画には不向きだったため、扉絵で同誌から学んだ手法などを試していた。ひばりの容姿服装についてはファッション誌『エムシーシスター』を参考にしていた。
当初はオカマキャラを前面に出したギャグ漫画として考えていたが、ひばりくんを可愛く描けば描く程ギャグとなる事に気付き、出来る限りの可愛さでひばりくんを描くようになる。その反面、可愛く描きすぎたことによって、「ひばりくん」というキャラクターが超人的存在として一人歩きを始め、情けない行動を取らせられなくなり行き詰まるようになる。また可愛く描く事を含めた絵へのこだわりがアシスタントの使用を困難にして原稿の完成が遅れ、1話を1週間で完成させる事ができなくなっていった。江口は隔週での連載を希望するが、西村繁男が編集長を務める当時の編集部には受け入れられず、その結果、落稿や休載が目立つようになっていく。このことは劇中にも表れており、序盤で唐突に本編とは何の関係も無い話を描いてページを埋めていた。
ジャンプ・コミックス版の最後に収録された「メイキング・オブ・ひばりくん!」では、終始一貫して江口が締切を守れない言い訳ともとれる内容 が描かれており、最後には製作現場が崩壊した挙句、お粗末な原稿の仕上がりを詫びる担当と怒り心頭の編集長の傍らで「いきのいいネタを探しに千葉の勝浦に行く」と江口が逃げ出している。実際に、江口が連載を投げ出し、締め切り日に逃亡した事から、編集部も打ち切りという形で連載終了を決定した。本作は江口が『WJ』で連載した最後の作品となっている(2020年時点)。
2020年7月放送の『漫道コバヤシ』に出演した際にも、本人の口から当時の経緯の一部が語られた。毎週締め切りに追われ、遂には翌日まで5ページを仕上げなければ間に合わない状況に追い込まれた。到底無理と判断した本人は仕事場から逃走し、締め切り時間が過ぎるまでホテルに潜伏してやり過ごした。翌日「もう終ったな」と覚悟の上で自宅に戻ると、西村編集長自らの電話があり「おう、出てこいや」と編集部への出頭を要求。そして会議室で話し合いが持たれた。本人は改めて週刊連載の限界を訴え、隔週もしくは月刊連載への変更を要望する。同時期にTVアニメも放送中のデリケートな時期であったが、厳格で知られる西村編集長はそれを許さず「うちでは面倒見きれないので、それなら余所でやってくれ」と突き放し、連載打ち切りの降板が決まった。
また、2021年7月の朝日新聞とのインタビューの中でも、同様の経緯が語られており、その際、最終回となった原稿はネームができていたものの、締め切りまで約1日しかなかったことが明かされた。
1983年以来、本作は未完のままの状態であり、連載末期の分も長らく単行本未収録の状態(後記)が続いていた。本作は江口が連載を放棄してそのまま未完となった最初の作品とみなされていた。2005年、『SIGHT』 Vol.23に「2005年のひばりくん」が掲載された。2007年のインタビューで、江口は他の作品の続編への意欲を示したが、本作の続編執筆に関しては「ひばりくんは難しいけど」と否定的な発言をした。 2007年、『週刊少年ジャンプ』時代の江口作品をまとめた総集編『江口寿史 JUMP WORKS』の第1巻、『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』の表紙用に新たにひばりが描き下ろされた。
再開を望む読者の声は多く、江口は彼らに向けて何らかの意思表示をする必要を感じていた。2009年より、加筆修正と再編集を加えた『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』が刊行を開始、表紙を江口が描き下ろした。そして、2010年2月27日に発売された『コンプリート・エディション』最終巻(第3巻)では、ラスト5ページが加筆された最終話の完全版が収録された。これにより未完であった本作が27年越しで完結した。ただしこれは未完部分だったオチを完全にしたものであって、物語全体が完走した訳ではなかった。
完結を受けて「男の娘」専門誌『おと☆娘』に江口のインタビュー記事が掲載された。江口は続編について問われ、「続編を描くとしたら、突っ込んで描かないといけない感じがするんですよね」としつつ、次のようなアイデアを語っている。
多分、耕作くんが主人公で、ひばりくんと一緒に住んでいるかもしれない。自然な流れとして、つぐみさんがサブさんと一緒になって、サブさんが大空組の跡目を継いで......。〔......〕
江口としては本編の続きをそのまま描くつもりはなく、描くにしても『ストップ!! ひばりくん!』というタイトルではないとしている。後年『漫道コバヤシ』に出演した際も、「あくまで本作はギャグコメディであり、坂本耕作と大空ひばりの結末は当初から全く考えていない。ストップ!! ひばりくん!の世界観で二人を描けるのは高校卒業まで。それ以降を描くとしたら別の物語(設定)になるだろうな」と語っている。
母を亡くし天涯孤独の身となった少年耕作は、遺言に従い、母の古い友人・大空いばりの家に身を寄せる事になる。しかし事もあろうに大空家は「関東極道連盟・関東大空組」、つまり弱小団体とはいえ暴力団であり、いばりはその組長だった。
身の危険を感じて逃げようとする耕作の前にとびきりの美少女が現れ、にっこりと微笑みかける。彼女に一目惚れしてしまった耕作は大空家で生活する決心をしたが、それが運の尽きだった。つばめ・つぐみ・すずめと美人ぞろいの大空家の姉妹の中で、耕作が最初に会った一番の美少女・ひばりは実は男だった。
ひばりは学校では女で通しており、ごく一部の者以外はその秘密を知らない。その上ひばりは耕作を好きになったそぶりを見せ、積極的にアタックしてくる。ひばりの引き起こす騒動に巻き込まれて耕作の気の休まる暇もない日々が続く。
ひばりの秘密に気づいた高円寺さゆりが口外しない代償として、耕作に自分とデートするよう要求した結果、他の者に目撃され、翌日学校で噂になるところでストーリーは一旦終わっている。
1983年5月20日から1984年1月27日まで、フジテレビで金曜日19:00 - 19:30枠に於いて放送された。全35話。元々原作のストックが少なかった為、すぐに原作のエピソードを使い切ってしまい、後半は他の江口作品のストーリーを転用したり、アニメ側のスタッフが作ったオリジナルストーリーを制作している。また原作よりもラブコメテイストが強めに描かれている。2003年、全話収録のDVDボックスセットが発売された。なお、アニメ内で描かれる電柱には練馬区(東映動画の所在地)の住所表示がある。
上記2曲を収録したEPレコードは、キャニオン・レコード(現在のポニーキャニオン)から発売された。2曲とも後にCD化されている。オープニングテーマは大杉久美子によるカヴァーバージョンが存在する。なお、「コンガラ・コネクション」のギターは、当時まだ無名だった布袋寅泰がスタジオ・ミュージシャンとして演奏している。
キー局・制作局であるフジテレビではローカルセールス枠で放送されたことから、フジテレビ系列の基幹局でもテレビ西日本 など放送されなかった局や、東海テレビ、関西テレビ 等時差ネットした局があった。また、テレビ新広島 では本放送終了後の1984年7月より放送が開始されたが、小学校・中学校の夏休み期間中の特別編成による集中放送であった。
テレビ新広島を除く放送日時は個別に出典が掲示されているものを除き、1983年9月中旬 - 10月上旬時点のものとする。
テレビアニメの放映当時、家庭用ビデオデッキはまだそれほど普及しておらず、家庭内には厳しいチャンネル争いがあるのが一般であった。本作テレビアニメの裏番組には『ドラえもん』があり、1983年10月からは『銀河漂流バイファム』の放送が開始され、関東地方などでは同じ時間帯に『ひばりくん』『ドラえもん』『バイファム』が並ぶ状況となった。ライターの早川清一朗は、当時の状況を振り返って、「時代の最先端を行くジェンダー論を取り込んだアニメと『ドラえもん』。果たして子を持つ親はどちらを見せたがるかと言えば、それは『ドラえもん』になってしまいます。」と述べている。『ドラえもん』のために本作テレビアニメは視聴者獲得で苦戦することになった。
精神科医の斎藤環は、本作は「女性的な外見と男性的な内面を対比させることで」大空ひばりとの「目まぐるしい日常」を実現しているものであるとし、異性装のキャラクターたちによる「服装倒錯の連続」として捉えることができると解説している。マンガ評論家の中野晴行は、大空ひばりが(本当は)少年であり、かつヤクザの跡取りでもあるという複合した設定が、本作をユニークで傑出したギャグマンガにしていると評し、この成功はまた、少女たちを単にかわいく描くだけでなく、いい味を持たせ、色気も醸し出せる江口の能力によるところが大きいとしている。(一般に)ひばりの繊細な描き方は、ギャグマンガであることを読者が忘れてしまうほど魅力的だとされている。ライターの島田一志は、80年代の空気感を見事に切り取りつつ、年月を経ても古びない時代を超越したクールな絵と評している。
雑誌『Cyzo』に寄稿した漫画評論家のJyamaoは、本作ではその全体的に軽快・ポップな文体のために、わいせつまたは不道徳な女装が生じておらず、テレビアニメがゴールデンタイムに放映できたのもそのためであろうと推測している。Jyamaoは、女装を伴うギャグと比べ、ヤクザの組員を取り巻くギャグは性質が極端であると指摘し、今日では薬物ネタを含む一部のギャグはユーモアとは受け取られないだろうと述べている。マンガ解説者の南信長は、高いファッションセンスを持つキャラクターを描いたパイオニアとして、本作の江口を賞賛している。南は、本作が少年漫画のファッションを「シンボル」から「アクセサリー」へと事実上変化させたと評している。江口の細部へのこだわりも賞賛しており、例えばある回で耕作がチャック・テイラー・オールスターズを履いている点を挙げている。
『ガーディアン』紙はジャパン・ソサエティーの美術展を紹介した記事において、江口が『すすめ!!パイレーツ』や本作の創作を通じ、実質的にJ-POP現象全体への道を開いたとしている。中学時代に本作を読んだ『テガミバチ』の作者・浅田弘幸は、本作の新しいセンスに憧れ、絵にも影響を受けた。火浦功による小説『未来放浪ガルディーン』の主人公の一人は「大空ひばり」がモデルになっている。幾夜大黒堂『境界のないセカイ』は18歳になると「性別の選択」が可能になる世界を描いた漫画作品であるが、幾夜は第1巻の内田啓子編を本作や『プラナス・ガール』のフォーマットに準じて描いたと述べている。
島田一志は2020年の論稿において、大空ひばりが異性装者やゲイに対する差別や偏見を排除し、80年代の人々の認識を変えた原動力のひとつになったのではないかと述べている。江口も何人かの読者が本作に影響され女装を始めたと報告している。島田は、ギャグであるはずのひばりの女装が、実際は「あなたの好きなように生きればいい」というマイノリティへのメッセージになっており、読者に対し「マイノリティであることは悪いことではなく“個性”」という感覚を秘かに植えつけた可能性を指摘している。
江口本人は本作のような「オカマの面白さ」を扱った作品として、後に「BREAK DOWN」等を描いている。
おたく文化史研究家・吉本たいまつによれば、本作はその後の「男の娘」ブームの直接の先祖であるとされている。吉本は、江口が男女の描画コードを明示的に転倒させることでギャグを生み出している一方、そこにおいて「性別を越境する妖しい魅力」をも作り出していたと分析する。男性キャラクターに対して女性の描画コードを使い、受け手の認識を混乱させる試みは、吉本によれば手塚治虫の『リボンの騎士』にまで遡るとされ、本作では『リボンの騎士』より明確に「男の子でもかわいければ恋愛・性の対象にしてもよい」という視点が打ち出されているとされている。吉本は、描画コードの転倒は、その後も漫画表現の中に根付いて継続していったとし、奥浩哉『HEN』、小野敏洋『バーコードファイター』(ともに1992年)をその例として挙げている。
「オトコの娘年表」(『おと☆娘』VOL.7)の構成を担当した来栖美憂は、「オトコの娘文化」の始点はどこかと論じることから始めている。それによれば、江戸川乱歩の小林少年、横山光輝『伊賀の影丸』の影丸の女装の頃には、一部に熱狂的なファンがついていたという。そこへ「大きな一石を投じ」ることになったのが本作であるとし、「ひばりくんの可愛さは衝撃的であり、彼が近代女装美少年文化の始点という評価に異を唱える者はまずいないだろう」と断じている。一方で来栖は、『オトコノコ倶楽部vol.1』において本作を「女装系漫画のルーツ」とみなす認識に異を唱えている。ラブコメのアンチテーゼとして書かれた本作であるが、結局本作の流れを継いだのは『きまぐれオレンジ☆ロード』などのポップなラブコメであった。系譜を作り得なかった本作は、その意味において「ルーツ」とまでは言えないと述べている。『おと☆娘』における来栖の分析では、本作の流れは一旦少女漫画に受け継がれつつ、『バーコードファイター』で多くの児童の価値観を再び揺るがしたとされている。
漫画評論を行っている永山薫もまた、現在の男の娘漫画に直結する先駆的作品として本作を挙げている。家族が嘘をついて耕作をからかっているだけという可能性を指摘しつつ、「実は男の子なんだけど、本当は女の子かもしれない」という想像の余地を読者に残す本作の手法は、後の松本トモキ『プラナス・ガール』(2009年)に継承されたとしている。
一方、あしやまひろこは2015年の、本作を「男の娘作品」の古典として挙げた論稿において、大空ひばりには「男の娘」の本質の一部が欠けていたと分析している。あしやまはひばりを『プラナス・ガール』の主人公・藍川絆と比較し、「容姿と行動で男の主人公を翻弄する小悪魔」という点では通じるものがあるとしつつ、両者には決定的な違いがあると論じた。すなわち、大空ひばりは、主人公と家族以外の世間には女性として紹介され、かつ認知されている。また性同一性障害やオカマとして扱われる一面もあり、ポジションはギャグキャラクターである。対して藍川絆は、常に女装で生活していながら、性自認は一貫して男性であり、にもかかわらず学園中からアイドルとして扱われているのである(この点には永山も注意を与えている)。あしやまは『プラナス・ガール』では男の娘の可愛さが性別の範疇を超越するものとして表現されていると評し、両者の対比の中に80年代から現代に至るまでのパラダイムシフトを見出せるとしている。
『プラナス・ガール』などの後、男の娘ブームは収束に向かった。『オトコノコ倶楽部』の創刊者で、『オトコノコ時代』の編集長であった井戸隆明は、ブームの頃に面白いコンテンツがあまり出てこなかったことを衰退の原因の一つに挙げている。その上で、本作を次のように評価している。
井戸は、今後も大きな波は再びやってこないだろうと予測し、男の娘的なもののメルクマールといえるものは、結局、本作や『バーコードファイター』になるだろうとしている。
6度にわたって刊行されている。 最初に発行されたジャンプ・コミックス(JC)版の単行本には最後の4話が未収録であった。1991年に発売された完全版は、JC版に未収録だった4話のうち3話を収録したものの、連載最後の回は収録しなかった。最終回の収録は1999年の短編集『江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短篇』(KKベストセラーズ)が最初となる。その後2004年に発行された文庫版(ホーム社)はこの最終回も含んでおり、一応の全編収録となった。 『ストップ!!ひばりくん! コンプリート・エディション3』に最終話が加筆掲載された(前出)。なお第2巻(2009年)に単行本未収録の「Jの告白」のエピソードが初掲載された。
ただし、JC版の時点で、コマ割りに手を加える、『ジャンプ』掲載時の2話を1話にまとめ直すなど、大きく手を加えている話が多々あるため、未収録のページが存在する。
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"text": "『ストップ!! ひばりくん!』は、江口寿史による漫画作品。『週刊少年ジャンプ』(WJ、集英社)誌上において1981年(昭和56年)45号から 1983年(昭和58年)51号まで多くの休載を挟みながら連載され、長期の中断を経て27年越しで完結した。1983年には東映動画によりアニメ化もされた江口の代表作の一つである。",
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"text": "母との死別をきっかけとしてヤクザの大空組に世話になる事となった高校生・坂本耕作と、事実を知らなければ美少女としか見えない大空組の長男・大空ひばりを中心とした日常生活を描いたラブコメディである。",
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"text": "江口の意図は、ヒロインを「女装した男の子」にする事によってギャグとし、ちゃかす事によって、当時少年誌で全盛を誇っていたラブコメのアンチテーゼとなりうるギャグ漫画を制作することにあった。",
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"text": "江口が『ひのまる劇場』を連載際していた当時は、少年誌でラブコメディが流行していた。江口は元々あだち充や柳沢きみおの作品を好いていたものの、これらの作品の二番煎じといえるほど程度が低い作品が連載されていることに不満を抱いていた。そこで、江口は「惚れた美少女が実は男で、主人公が困ってしまう」という漫画を描こうと考え、ヒロインをかわいく描けば描くほど周囲がパニックに陥り、物語が動くだろうと見込む。女装への認知度は低かった当時であったが、連載開始にあたり障害となったものはなかった。主人公の名前だけは変えてくれと言われ、「美空ひばり」であったものが「大空ひばり」になったという。タイトルは関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』に由来する。また、連載当時江口は『イラストレーション』という雑誌を読んでいたが、イラストの手法は躍動感のあるギャグ漫画には不向きだったため、扉絵で同誌から学んだ手法などを試していた。ひばりの容姿服装についてはファッション誌『エムシーシスター』を参考にしていた。",
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"text": "当初はオカマキャラを前面に出したギャグ漫画として考えていたが、ひばりくんを可愛く描けば描く程ギャグとなる事に気付き、出来る限りの可愛さでひばりくんを描くようになる。その反面、可愛く描きすぎたことによって、「ひばりくん」というキャラクターが超人的存在として一人歩きを始め、情けない行動を取らせられなくなり行き詰まるようになる。また可愛く描く事を含めた絵へのこだわりがアシスタントの使用を困難にして原稿の完成が遅れ、1話を1週間で完成させる事ができなくなっていった。江口は隔週での連載を希望するが、西村繁男が編集長を務める当時の編集部には受け入れられず、その結果、落稿や休載が目立つようになっていく。このことは劇中にも表れており、序盤で唐突に本編とは何の関係も無い話を描いてページを埋めていた。",
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"text": "ジャンプ・コミックス版の最後に収録された「メイキング・オブ・ひばりくん!」では、終始一貫して江口が締切を守れない言い訳ともとれる内容 が描かれており、最後には製作現場が崩壊した挙句、お粗末な原稿の仕上がりを詫びる担当と怒り心頭の編集長の傍らで「いきのいいネタを探しに千葉の勝浦に行く」と江口が逃げ出している。実際に、江口が連載を投げ出し、締め切り日に逃亡した事から、編集部も打ち切りという形で連載終了を決定した。本作は江口が『WJ』で連載した最後の作品となっている(2020年時点)。",
"title": "作品背景"
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"text": "2020年7月放送の『漫道コバヤシ』に出演した際にも、本人の口から当時の経緯の一部が語られた。毎週締め切りに追われ、遂には翌日まで5ページを仕上げなければ間に合わない状況に追い込まれた。到底無理と判断した本人は仕事場から逃走し、締め切り時間が過ぎるまでホテルに潜伏してやり過ごした。翌日「もう終ったな」と覚悟の上で自宅に戻ると、西村編集長自らの電話があり「おう、出てこいや」と編集部への出頭を要求。そして会議室で話し合いが持たれた。本人は改めて週刊連載の限界を訴え、隔週もしくは月刊連載への変更を要望する。同時期にTVアニメも放送中のデリケートな時期であったが、厳格で知られる西村編集長はそれを許さず「うちでは面倒見きれないので、それなら余所でやってくれ」と突き放し、連載打ち切りの降板が決まった。",
"title": "作品背景"
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"text": "また、2021年7月の朝日新聞とのインタビューの中でも、同様の経緯が語られており、その際、最終回となった原稿はネームができていたものの、締め切りまで約1日しかなかったことが明かされた。",
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"text": "1983年以来、本作は未完のままの状態であり、連載末期の分も長らく単行本未収録の状態(後記)が続いていた。本作は江口が連載を放棄してそのまま未完となった最初の作品とみなされていた。2005年、『SIGHT』 Vol.23に「2005年のひばりくん」が掲載された。2007年のインタビューで、江口は他の作品の続編への意欲を示したが、本作の続編執筆に関しては「ひばりくんは難しいけど」と否定的な発言をした。 2007年、『週刊少年ジャンプ』時代の江口作品をまとめた総集編『江口寿史 JUMP WORKS』の第1巻、『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』の表紙用に新たにひばりが描き下ろされた。",
"title": "作品背景"
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"text": "再開を望む読者の声は多く、江口は彼らに向けて何らかの意思表示をする必要を感じていた。2009年より、加筆修正と再編集を加えた『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』が刊行を開始、表紙を江口が描き下ろした。そして、2010年2月27日に発売された『コンプリート・エディション』最終巻(第3巻)では、ラスト5ページが加筆された最終話の完全版が収録された。これにより未完であった本作が27年越しで完結した。ただしこれは未完部分だったオチを完全にしたものであって、物語全体が完走した訳ではなかった。",
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"text": "完結を受けて「男の娘」専門誌『おと☆娘』に江口のインタビュー記事が掲載された。江口は続編について問われ、「続編を描くとしたら、突っ込んで描かないといけない感じがするんですよね」としつつ、次のようなアイデアを語っている。",
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"text": "多分、耕作くんが主人公で、ひばりくんと一緒に住んでいるかもしれない。自然な流れとして、つぐみさんがサブさんと一緒になって、サブさんが大空組の跡目を継いで......。〔......〕",
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"text": "母を亡くし天涯孤独の身となった少年耕作は、遺言に従い、母の古い友人・大空いばりの家に身を寄せる事になる。しかし事もあろうに大空家は「関東極道連盟・関東大空組」、つまり弱小団体とはいえ暴力団であり、いばりはその組長だった。",
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"text": "身の危険を感じて逃げようとする耕作の前にとびきりの美少女が現れ、にっこりと微笑みかける。彼女に一目惚れしてしまった耕作は大空家で生活する決心をしたが、それが運の尽きだった。つばめ・つぐみ・すずめと美人ぞろいの大空家の姉妹の中で、耕作が最初に会った一番の美少女・ひばりは実は男だった。",
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"text": "ひばりの秘密に気づいた高円寺さゆりが口外しない代償として、耕作に自分とデートするよう要求した結果、他の者に目撃され、翌日学校で噂になるところでストーリーは一旦終わっている。",
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"text": "「オトコの娘年表」(『おと☆娘』VOL.7)の構成を担当した来栖美憂は、「オトコの娘文化」の始点はどこかと論じることから始めている。それによれば、江戸川乱歩の小林少年、横山光輝『伊賀の影丸』の影丸の女装の頃には、一部に熱狂的なファンがついていたという。そこへ「大きな一石を投じ」ることになったのが本作であるとし、「ひばりくんの可愛さは衝撃的であり、彼が近代女装美少年文化の始点という評価に異を唱える者はまずいないだろう」と断じている。一方で来栖は、『オトコノコ倶楽部vol.1』において本作を「女装系漫画のルーツ」とみなす認識に異を唱えている。ラブコメのアンチテーゼとして書かれた本作であるが、結局本作の流れを継いだのは『きまぐれオレンジ☆ロード』などのポップなラブコメであった。系譜を作り得なかった本作は、その意味において「ルーツ」とまでは言えないと述べている。『おと☆娘』における来栖の分析では、本作の流れは一旦少女漫画に受け継がれつつ、『バーコードファイター』で多くの児童の価値観を再び揺るがしたとされている。",
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"text": "漫画評論を行っている永山薫もまた、現在の男の娘漫画に直結する先駆的作品として本作を挙げている。家族が嘘をついて耕作をからかっているだけという可能性を指摘しつつ、「実は男の子なんだけど、本当は女の子かもしれない」という想像の余地を読者に残す本作の手法は、後の松本トモキ『プラナス・ガール』(2009年)に継承されたとしている。",
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"text": "一方、あしやまひろこは2015年の、本作を「男の娘作品」の古典として挙げた論稿において、大空ひばりには「男の娘」の本質の一部が欠けていたと分析している。あしやまはひばりを『プラナス・ガール』の主人公・藍川絆と比較し、「容姿と行動で男の主人公を翻弄する小悪魔」という点では通じるものがあるとしつつ、両者には決定的な違いがあると論じた。すなわち、大空ひばりは、主人公と家族以外の世間には女性として紹介され、かつ認知されている。また性同一性障害やオカマとして扱われる一面もあり、ポジションはギャグキャラクターである。対して藍川絆は、常に女装で生活していながら、性自認は一貫して男性であり、にもかかわらず学園中からアイドルとして扱われているのである(この点には永山も注意を与えている)。あしやまは『プラナス・ガール』では男の娘の可愛さが性別の範疇を超越するものとして表現されていると評し、両者の対比の中に80年代から現代に至るまでのパラダイムシフトを見出せるとしている。",
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"text": "『プラナス・ガール』などの後、男の娘ブームは収束に向かった。『オトコノコ倶楽部』の創刊者で、『オトコノコ時代』の編集長であった井戸隆明は、ブームの頃に面白いコンテンツがあまり出てこなかったことを衰退の原因の一つに挙げている。その上で、本作を次のように評価している。",
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"text": "井戸は、今後も大きな波は再びやってこないだろうと予測し、男の娘的なもののメルクマールといえるものは、結局、本作や『バーコードファイター』になるだろうとしている。",
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"text": "6度にわたって刊行されている。 最初に発行されたジャンプ・コミックス(JC)版の単行本には最後の4話が未収録であった。1991年に発売された完全版は、JC版に未収録だった4話のうち3話を収録したものの、連載最後の回は収録しなかった。最終回の収録は1999年の短編集『江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短篇』(KKベストセラーズ)が最初となる。その後2004年に発行された文庫版(ホーム社)はこの最終回も含んでおり、一応の全編収録となった。 『ストップ!!ひばりくん! コンプリート・エディション3』に最終話が加筆掲載された(前出)。なお第2巻(2009年)に単行本未収録の「Jの告白」のエピソードが初掲載された。",
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"text": "ただし、JC版の時点で、コマ割りに手を加える、『ジャンプ』掲載時の2話を1話にまとめ直すなど、大きく手を加えている話が多々あるため、未収録のページが存在する。",
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] |
『ストップ!! ひばりくん!』は、江口寿史による漫画作品。『週刊少年ジャンプ』(WJ、集英社)誌上において1981年(昭和56年)45号から 1983年(昭和58年)51号まで多くの休載を挟みながら連載され、長期の中断を経て27年越しで完結した。1983年には東映動画によりアニメ化もされた江口の代表作の一つである。 母との死別をきっかけとしてヤクザの大空組に世話になる事となった高校生・坂本耕作と、事実を知らなければ美少女としか見えない大空組の長男・大空ひばりを中心とした日常生活を描いたラブコメディである。 江口の意図は、ヒロインを「女装した男の子」にする事によってギャグとし、ちゃかす事によって、当時少年誌で全盛を誇っていたラブコメのアンチテーゼとなりうるギャグ漫画を制作することにあった。
|
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{{加筆依頼|反響について|date=2021年7月}}
{{Infobox animanga/Header
| タイトル = <nowiki>ストップ!! ひばりくん!</nowiki>
| 画像 = Stop Hibari-kun.png
| サイズ = 300px
| 説明 =
| ジャンル = [[ラブコメディ]]、[[少年漫画]]、[[ギャグ漫画]]
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{{Infobox animanga/Manga
| 作者 = [[江口寿史]]
| 出版社 = [[集英社]]
| 他出版社 = [[双葉社]]([[完全版コミックス|完全版]]・FB)、[[ホーム社]](HMB)
| 掲載誌 = [[週刊少年ジャンプ]]
| レーベル = [[ジャンプ・コミックス]](JC)<br/>双葉文庫(FB)<br />ホーム社漫画文庫(HMB)<br />[[集英社ジャンプリミックス]](SJR)
| 開始 = [[1981年]]45号
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{{Infobox animanga/TVAnime
| タイトル =
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| 監督 =
| シリーズディレクター = 久岡敬史
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{{Infobox animanga/Footer}}
『'''ストップ!! ひばりくん!'''』は、[[江口寿史]]による漫画作品。『[[週刊少年ジャンプ]]』(WJ、[[集英社]])誌上において[[1981年]](昭和56年)45号から [[1983年]](昭和58年)51号まで多くの休載を挟みながら連載され、長期の中断を経て27年越しで完結した<ref name=" pen201508">[[Pen (雑誌)|Pen]]2015年 8/1 号 [いま読みたい、日本のマンガ] 2015/7/15発売</ref>。[[1983年]]には[[東映動画]]によりアニメ化もされた江口の代表作の一つである。
母との死別をきっかけとして[[ヤクザ]]の大空組に世話になる事となった高校生・坂本耕作と、事実を知らなければ美少女としか見えない大空組の長男・大空ひばりを中心とした日常生活を描いた[[ラブコメディ]]である。
江口の意図は、ヒロインを「[[女装]]した男の子」にする事によってギャグとし、ちゃかす事によって、当時少年誌で全盛を誇っていたラブコメの[[アンチテーゼ]]となりうるギャグ漫画を制作することにあった<ref>江口寿史「文庫版あとがき」『[[「エイジ」]]』発行:ホーム社・発売:集英社〈ホーム社漫画文庫〉2004年2月23日初版発行 ISBN 9784834272918、277頁</ref><ref>印南敦史「新 家の履歴書」『週刊文春 2007年12月13日号』114頁</ref><ref name="ejwp308">「江口寿史先生インタビュー」『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』308頁</ref><ref name="rwg">「リアルワインガイドインタヴュー」『リアルワインガイド VOL.19』115頁</ref>{{R|Asahi7}}。
== 作品背景 ==
=== 連載までの経緯 ===
本作は『[[ひのまる劇場]]』の次に当たる江口3作目となる連載作品である。
江口が『ひのまる劇場』を連載際していた当時は、少年誌でラブコメディが流行していた。江口は元々[[あだち充]]や[[柳沢きみお]]の作品を好いていたものの、これらの作品の二番煎じといえるほど程度が低い作品が連載されていることに不満を抱いていた<ref name="Asahi7">{{Cite interview|和書|interviewer=宮代栄一|title=語る 人生の贈りもの ひばりくん連載 絵に凝りすぎて 江口寿史 7|publication-date=2021-07-27|work=朝日新聞}}</ref>。そこで、江口は「惚れた美少女が実は男で、主人公が困ってしまう」という漫画を描こうと考え、ヒロインをかわいく描けば描くほど周囲がパニックに陥り、物語が動くだろうと見込む{{R|Asahi7}}。女装への認知度は低かった当時であったが、連載開始にあたり障害となったものはなかった{{R|otonyan_v2}}。主人公の名前だけは変えてくれと言われ、「美空ひばり」であったものが「大空ひばり」になったという{{R|otonyan_v2}}{{efn2|{{要出典範囲|また、連載前の設定では、ギャグの要素として、ひばりが無駄毛(江口の弁によれば、ひばりが髭を剃るシーンを入れようとしたとのこと)の処理をするシーンを端々で描く予定だったと雑誌のインタビュー内で語っている。しかしそのアイデアは編集サイドから断固拒絶され、非常に悔しかった記憶があるという。|date=2021年7月}}}}。タイトルは[[関谷ひさし]]の『[[ストップ!にいちゃん]]』に由来する<ref>[[やまだないと]]×えぐちひさし「「時間ですよ」みたいな漫画が描きたい」『[総集編]江口寿史』156頁</ref>。また、連載当時江口は『[[イラストレーション (雑誌)|イラストレーション]]』という雑誌を読んでいたが、イラストの手法は躍動感のあるギャグ漫画には不向きだったため、扉絵で同誌から学んだ手法などを試していた{{R|Asahi8}}。ひばりの容姿服装についてはファッション誌『[[エムシーシスター]]』を参考にしていた{{R|otonyan_v2}}。
=== 連載打ち切りへ ===
当初は[[オカマ]]キャラを前面に出したギャグ漫画として考えていたが、ひばりくんを可愛く描けば描く程ギャグとなる事に気付き{{R|rwg}}、出来る限りの可愛さでひばりくんを描くようになる<ref>江口寿史「マンガで子供のやわらかい頭をかきまわしたい」『マンガの道 - 私はなぜマンガ家になったのか』94・95頁</ref>{{R|Asahi7}}。その反面、可愛く描きすぎたことによって、「ひばりくん」というキャラクターが超人的存在として一人歩きを始め、情けない行動を取らせられなくなり行き詰まるようになる{{R|ejwp308|Asahi7}}。また可愛く描く事を含めた絵へのこだわりがアシスタントの使用を困難にして原稿の完成が遅れ、1話を1週間で完成させる事ができなくなっていった{{Efn2|江口は2021年の朝日新聞とのインタビューの中で、1本(話を)描くのに10日かかったとも話している{{R|Asahi7}}。}}<ref>「江口寿史先生インタビュー」『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』集英社インターナショナル、310頁</ref>。江口は隔週での連載を希望するが、[[西村繁男]]が編集長を務める当時の編集部には受け入れられず{{R|rwg}}、その結果、落稿や休載が目立つようになっていく<ref name="Asahi8">{{Cite interview|和書|interviewer=宮代栄一|title=語る 人生の贈りもの 絵に向く関心 技磨いて扉絵に 江口寿史 8|publication-date=2021-07-28|work=朝日新聞}}</ref>。このことは劇中にも表れており、序盤で唐突に本編とは何の関係も無い話を描いてページを埋めていた{{Efn2|例として、製作中に「[[都市伝説一覧#生物|白いワニ]]」に襲われる錯覚を起こす{{R|Asahi8}}、無意味なギャグを入れる、アシスタントに奇抜なアイデアを出すなどし、最後にはアシスタントや担当に「早く本編を書け!」と突っ込まれてようやく本編が始まるなどの描写があった。また実際に「締切を守れ」「漫画を描くのが遅い」「原稿が真っ白」という自虐的な会話も見られた。加えて連載後期では本編途中にも関係のない話を書く回が増えており、製作の行き詰りを物語っている。}}。
[[ジャンプ・コミックス]]版の最後に収録された「メイキング・オブ・ひばりくん!」{{Efn2|連載時は「パニック・イン・寿スタジオ!」というサブタイトルだった。}}では、終始一貫して江口が締切を守れない言い訳ともとれる内容{{Efn2|この頃になると締切前日の時点で原稿はおろかネームすら仕上がっていない事が語られている。}} が描かれており、最後には製作現場が崩壊した挙句、お粗末な原稿の仕上がりを詫びる担当と怒り心頭の編集長の傍らで「いきのいいネタを探しに千葉の勝浦に行く」と江口が逃げ出している<ref>江口寿史「マンガで子供のやわらかい頭をかきまわしたい」『マンガの道 - 私はなぜマンガ家になったのか』92頁</ref>。実際に、江口が連載を投げ出し、締め切り日に逃亡した事から、編集部も[[打ち切り]]という形で連載終了を決定した{{R|Asahi8}}。本作は江口が『WJ』で連載した最後の作品となっている(2020年時点)。
[[2020年]]7月放送の『[[漫道コバヤシ]]』に出演した際にも、本人の口から当時の経緯の一部が語られた。毎週締め切りに追われ、遂には翌日まで5ページを仕上げなければ間に合わない状況に追い込まれた。到底無理と判断した本人は仕事場から逃走し、締め切り時間が過ぎるまでホテルに潜伏してやり過ごした。翌日「もう終ったな」と覚悟の上で自宅に戻ると、西村編集長自らの電話があり「おう、出てこいや」と編集部への出頭を要求。そして会議室で話し合いが持たれた。本人は改めて週刊連載の限界を訴え、隔週もしくは月刊連載への変更を要望する。同時期にTVアニメも放送中のデリケートな時期であったが、厳格で知られる西村編集長はそれを許さず「うちでは面倒見きれないので、それなら余所でやってくれ」と突き放し、連載打ち切りの降板が決まった。
また、2021年7月の朝日新聞とのインタビューの中でも、同様の経緯が語られており、その際、最終回となった原稿はネームができていたものの、締め切りまで約1日しかなかったことが明かされた{{R|Asahi8}}。
=== 完結まで ===
[[1983年]]以来、本作は未完のままの状態であり、連載末期の分も長らく単行本未収録の状態(後記)が続いていた。本作は江口が連載を放棄してそのまま未完となった最初の作品とみなされていた<ref>斎藤宣彦+横井周子「江口寿史全漫画単行本解題」『[総集編]江口寿史』186頁</ref>。2005年、『SIGHT』 Vol.23に「2005年のひばりくん」が掲載された<ref>「江口寿史インタヴュー」『SIGHT Vol.23』ロッキング・オン〈[[ROCKIN'ON JAPAN|ロッキング・オン・ジャパン]]増刊〉73頁</ref>。2007年のインタビューで、江口は他の作品の続編への意欲を示したが、本作の続編執筆に関しては「ひばりくんは難しいけど」と否定的な発言をした{{R|rwg}}。 2007年、『週刊少年ジャンプ』時代の江口作品をまとめた総集編『江口寿史 JUMP WORKS』の第1巻、『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』の表紙用に新たにひばりが描き下ろされた。
再開を望む読者の声は多く、江口は彼らに向けて何らかの意思表示をする必要を感じていた{{R|otonyan_v2}}。2009年より、加筆修正と再編集を加えた『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』が刊行を開始、表紙を江口が描き下ろした{{R|nata}}。そして、[[2010年]][[2月27日]]に発売された『コンプリート・エディション』最終巻(第3巻)では、ラスト5ページが加筆された最終話の完全版が収録された<ref name="nata">{{cite news|title = 先ちゃん27年越しで最終話描く。「ひばりくん」完結|url =https://natalie.mu/comic/news/28357|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|date = 2010年2月27日| accessdate = 2010年2月27日}}</ref>。これにより未完であった本作が27年越しで完結した{{R|nata}}。ただしこれは未完部分だったオチを完全にしたものであって、物語全体が完走した訳ではなかった。
完結を受けて「男の娘」専門誌『[[おと☆娘]]』に江口のインタビュー記事が掲載された{{R|otonyan_v2}}。江口は続編について問われ、「続編を描くとしたら、突っ込んで描かないといけない感じがするんですよね」としつつ、次のようなアイデアを語っている{{R|otonyan_v2}}。
{{Quotation|19歳くらいの大学生になるのかなあ。お父さんが死んだシーン、遺影から始まるのかな、と思っているんです。心臓発作がたびたび起こっていたんで。<br/>
多分、耕作くんが主人公で、ひばりくんと一緒に住んでいるかもしれない。自然な流れとして、つぐみさんがサブさんと一緒になって、サブさんが大空組の跡目を継いで……。{{Interp|……|notooltip=1|和文=1}}<br/>
それから、今度は耕作くんの気持ちのほうが焦点になってきて、“ほんとに男同士でも愛し合えるのか?”と。愛し合えると僕は思うんですけれど、そんなふうにしていくと面白い感じがするんです。|江口寿史{{R|otonyan_v2}}}}
江口としては本編の続きをそのまま描くつもりはなく、描くにしても『ストップ!! ひばりくん!』というタイトルではないとしている{{R|otonyan_v2}}。後年『漫道コバヤシ』に出演した際も、「あくまで本作はギャグコメディであり、坂本耕作と大空ひばりの結末は当初から全く考えていない。ストップ!! ひばりくん!の世界観で二人を描けるのは高校卒業まで。それ以降を描くとしたら別の物語(設定)になるだろうな」と語っている。
== あらすじ ==
母を亡くし天涯孤独の身となった少年耕作は、遺言に従い、母の古い友人・大空いばりの家に身を寄せる事になる。しかし事もあろうに大空家は「関東極道連盟・関東大空組」、つまり弱小団体とはいえ暴力団であり、いばりはその組長だった。
身の危険を感じて逃げようとする耕作の前にとびきりの美少女が現れ、にっこりと微笑みかける。彼女に一目惚れしてしまった耕作は大空家で生活する決心をしたが、それが運の尽きだった。つばめ・つぐみ・すずめと美人ぞろいの大空家の姉妹の中で、耕作が最初に会った一番の美少女・ひばりは実は男だった。
ひばりは学校では女で通しており、ごく一部の者以外はその秘密を知らない。その上ひばりは耕作を好きになったそぶりを見せ、積極的にアタックしてくる。ひばりの引き起こす騒動に巻き込まれて耕作の気の休まる暇もない日々が続く。
ひばりの秘密に気づいた高円寺さゆりが口外しない代償として、耕作に自分とデートするよう要求した結果、他の者に目撃され、翌日学校で噂になるところでストーリーは一旦終わっている{{Efn2|この次に「メイキング・オブ―」が続き打ち切り。}}。
== 主な登場人物 ==
=== 大空組関係者 ===
; {{読み仮名|大空 ひばり|おおぞら ひばり}}
: 本作の主人公。耕作が大空家に越してきた直後から猛アタックをかける。[[男の娘|一見美少女にしか見えないが]]大空家の「長男」であり、ひばりが男の子であることは家族や一部関係者以外には知られていない。知力体力とも抜群の優等生で、成績は常にトップ、才色兼備の学園のアイドルとして生活を送っている。なお、自身が男だという自覚は一応ある模様{{Efn2|ボクシング部の合宿で理絵から一緒にお風呂に入ろうと誘われた際、恥じらいながら断るシーンがある。なお、理絵が近眼である事が分かると、何のためらいも無く理絵と風呂に入っている。}}。
; {{読み仮名|坂本 耕作|さかもと こうさく}}
: 本作におけるもう一人の主人公であり語り部。成り行きで大空家の一員として生活することになる。アブノーマルなひばりのアタックに苦悩する、根は優しく一本気で純情な[[九州男児]]([[熊本県]]出身)。強くなるためボクシングに入部し、マネージャーの可愛理絵が好きになる。お酒に弱く酒癖が悪く、その勢いでひばりの正体をばらそうとした事もある。ひばりを男の子とは知りつつも、次第に、ひばりを意識するようになる自分に戸惑うようになる。
; {{読み仮名|大空 いばり|おおぞら いばり}}
: 関東大空組組長にして大空四姉妹(?)の父親。組の唯一の跡取りであるはずのひばりの奇行に日々心労が絶えない。かつて耕作の母に惚れていたが、結婚相手が[[マタギ]]と知って「自分は所詮ヤクザ。堅気のマタギには敵わない」と身を退き、彼女の死後孤児となった耕作を引き取る。心臓に持病があり、興奮し過ぎたり強いショックを受けると発作を起こし倒れるが、その都度怪しい薬(鎮静剤ではなく覚醒剤や自白剤など)を打たれ、奇行を起こすがいつの間にか回復している場面が多い{{Efn2|アニメ版では、幻覚を伴う発作で、しばらくすると元に戻るように変えられている。}}。猫舌。
: 自白剤を間違えて打たれた時に『[[クックロビン]]』の殺害をほのめかしている(※『[[パタリロ!]]』からのアンサーギャグ)。
; {{読み仮名|大空 つぐみ|おおぞら つぐみ}}
: 大空家長女。美人。駆け出しのイラストレーターで、早くに母親を亡くしている妹弟たちの母親代わりとして世話をしている。大空組と敵対する海牛組の組長の息子と恋に落ち、両家から猛反対され駆け落しようとするが、相手が実家を恐れ待ち合わせ場所に来ずに逃げ出した上、親が勧めた他の女性と結婚してしまい、失恋してしまう。
; {{読み仮名|大空 つばめ|おおぞら つばめ}}
: 大空家次女で、ひばりの2歳年上の美人。ヘアスタイルと目の色以外はひばりと瓜二つだが、男子生徒にもてている様子はない。ひばりが女の子として学校に通うのを苦々しく思っているが、男だと知れると自分も迷惑を被るので、身体検査などでひばりの正体がバレそうになると、変装して身代わりをしている。
; {{読み仮名|大空 すずめ|おおぞら すずめ}}
: 大空家三女。おませな小学生。ヒラメ顔の男を見ると泣き出す。いばりが発作を起こすと怖がって泣き、いばりは死んだら地獄に落ちると思っている。
; サブ
: 関東大空組若頭。つぐみに惚れている。非常な男気の持ち主で、つぐみにも想いを打ち明けず、無骨ながら見守っている。
; {{読み仮名|政二|せいじ}}
: 関東大空組組員。強面だが気が小さく喧嘩も弱い。耕作及び大空家の世話係として行動。朝、奇抜な格好で耕作を目覚めさせ、驚かす事を生き甲斐にしている。
; ひばりの母
: 関東大空組先代組長の一人娘でつぐみに似ている。いばりを婿に取る。いばりに耕作の母・春江の写真をおさめるアルバムを贈るなど、心優しい女性。すずめを生んでからまもなく他界する。
=== その他 ===
; {{読み仮名|椎名 まこと|しいな まこと}}
: 耕作とひばりのクラスメイトで、ひばりに惚れている(ひばりが男だとは知らない)。そのため耕作に何かと因縁をつけてくる。ボクシング部に所属しており、当初は耕作よりも強かったが、徐々に差を詰められるようになっている。最後には耕作とサシの漢の対決を挑んだ。
: 家の中でも靴を履いたまま生活しており(この嗜好は父譲り)、母親からは「畳の上に靴で上がるな」と怒られている。
; {{読み仮名|可愛 理絵|かわい りえ}}
: 耕作と椎名が所属するボクシング部の美人マネージャー。耕作が一目惚れをするが、理絵自身は椎名に恋心を抱いている。しかしボクシング部の合宿で椎名が理絵に対し全く興味を持っていない事実を知り、合宿後より部活動に姿を見せなくなった。ませた弟がいる。
; {{読み仮名|梶 みつを|かじ みつを}}
: つばめの同級生で、つばめに強引に迫ってくる暑苦しい男(その行動はほとんどストーカー)。ボクシング部キャプテン。2人の弟と妹{{Efn2|弟の名前はみつあき・みつみね、妹の名前はみつ子。}}がいるが、全員同じ顔をしている。ペットのチャッピィ(犬)も同じ顔。卒業後もOBを名乗り、事あるごとに顔を出す。登場の際には勢いよく右手の掌を見せる癖がある。
; {{読み仮名|花園 かおり|はなぞの かおり}}
: 耕作やひばりのクラスメイト。ひばりが学園中の注目と人気を集めていることを妬み、3人の仲間とともに、何かとひばりにイジワルを仕掛けてくる。本人いわく陰険さには自信あり。一時ひばりを男だと疑っていたが、ひばりに変装したつばめが彼女の前で胸を見せた事でその疑惑を捨てる。
; {{読み仮名|犬井 犬子|いぬい けんこ}}
: 耕作やひばりのクラスメイトで、花園かおりの取り巻きの一人。アニメ版では「花子」という名前になっていて、政二との淡いラブロマンスがあったりしている。
; {{読み仮名|鳳 ジュン|おおとり ジュン}}
: 女子バレー部の美人キャプテンで、女生徒たちから憧れを抱かれている。実は同性愛者で、ひばりに惚れている。宝塚系な母とハードゲイな3人の兄がいる。
; {{読み仮名|呉井寺 やすあき|くれいじ やすあき}}
: 呉井寺会親分のひとり息子。通称ヤックン。太っていて頭が大きく、唇が厚く、歯が数本抜けている。[[香川伸行|ドカベン香川]]に似ていて、[[山下清|裸の大将]]風のしゃべり方をする。親分に甘やかされ、言動はお茶目な坊やだが、実は28歳。ひばりとの結婚を希望しており、親分が手先に耕作を脅迫させるが、これを知ったひばりが軽機関銃を携えて自宅に乗り込み威嚇射撃で逆襲、「耕作に手を出したら許さない」と釘を刺す。
; {{読み仮名|本田 拓人|ほんだ たくと}}
: 耕作やひばりのクラスメイト。その美貌で、数多くの女の子をナンパで落とすことを生き甲斐とし、高校に入学してから998.5人(「ナンパする気が無くたまたま目があっただけの5歳の幼女」は「0.5人」と計上)ナンパしたと豪語している。ナンパの際にはなぜか目つきや前髪がコロコロ変わる。1000人目のターゲットとしてひばりを狙うも、ひばりが全く興味を示さず、本田は人生初のナンパ失敗を味わうこととなる。
: ひばりを狙い続けるが尽く失敗に終わり、最後には本田とひばりが付き合っているかのような学校新聞を捏造する。その身勝手な行動からひばりの反感を買い、ひばりは仕返しとして耕作と更にいちゃつくようになる。
: 初登場時、耕作から「しかし同じクラスに君みたいなのがいたとは知らなかった」という指摘を受けた際に「なにしろ作者がいい加減だからね」という愚痴をこぼしている。
; {{読み仮名|鈴木銭馬|すずき じぇんま}}、{{読み仮名|山羽佐利庵|やまは さりあん}}
: 本田とともに、若葉学園スケコマシトリオ。3人は呼ばれていないにも関わらず大空組の年忌兼クリスマスパーティーに出席した。山羽の父は坊主をしており、大空家の年忌も務めたが、組長を除きクリスマスパーティしかする気のない大空組を見限り、途中から仕事を放り出し、勝手にクリスマスパーティを始めてしまった。
; {{読み仮名|岩咲 ひろみ|いわさき ひろみ}}
: ひばりと耕作の担任教師。任侠映画にはまっている。
; {{読み仮名|天地先生|あまちせんせい}}
: 暑苦しい体育教師。岩咲先生のことが好き。
; {{読み仮名|高円寺 さゆり|こうえんじ さゆり}}
: 豪邸に住む、わがままなお嬢様。椎名の中学時代の後輩。黒龍高校ボクシング部員に絡まれていたのを助けてくれた耕作に惚れて、身辺を探偵を使って探っているうちにひばりの秘密を知る。耕作よりも1学年下だが強引に同じクラスに転入し、「私はオカマじゃない。こんな異常な環境からあなたを救いたい」と自分の乳房に着衣越しに触れさせたりとこれまた強引にアタックする。活字でしか解らないギャグを吐く事がある。「『薬師丸ひろ子に似ている』とよく言われる」が口癖。
: アニメでは若葉学園への転入はなく、再度不良に絡まれた際に助けてくれた梶みつをに気持ちが移り、耕作への想いをあっさりと忘れる。
; {{読み仮名|白智 小五郎|しらとも こごろう}}
: 高円寺さゆりに雇われた探偵。ひばりの秘密を探り、さゆりに報告する。『ひのまる劇場』の初期の主人公。
; {{読み仮名|理事長|りじちょう}}
: 本名はジョー明石。若葉学園の理事長。若い頃は「いばり」と台風三人組と呼ばれた極道者。ひばりが男だという事も知っているが、その事を指摘した白智小五郎に対し、「個人の趣味の問題」と相手にしていない。お風呂好き。
; {{読み仮名|江口"Candy"寿史|えぐち キャンディ ひさし}}
: 本作の作者である江口寿史本人。通称「先ちゃん」。サングラスを着用した天然パーマに肥満体質が目立つ男性だが、作者曰く「本物はこんなに太っていない」とのこと。本編のあちこちで顔を出し注釈を入れることもあるが、基本的にはページを埋めるための無意味なギャグや白いワニに襲われる錯覚を起こす事が多い。結局は本編の妨害をしていることがほとんどであることから担当からツッコミを入れられたり暴行を受けるオチがつく事がほとんど。
: 締切を守れなかったため江口本人が坊主頭になった際も、彼も同じく坊主頭になっていた。
: JC版最終回では都合上、主役になっている。
; {{読み仮名|河野"ハニーチェリー"哲郎|こうの ハニーチェリー てつろう}}
: 江口のアシスタント。趣味はロックバンドのようで、時折佐野元春の「Happy Man」を口ずさむ。基本的にツッコミ役。暇が多いらしく、どこでも寝られるという特技を持つ。
; {{読み仮名|[[高橋俊昌|高橋"トド"俊昌]]|たかはし トド としまさ}}、{{読み仮名|[[奥脇三雄|奥脇 三雄]]|おくわき みつお}}、{{読み仮名|中平 信|なかひら まこと}}
: 歴代の江口の担当達。締切を守れない江口に振り回されてばかりで、かなり苦労している模様。
: 中平以前の担当は、過労や精神的ショック等が災いし全員死去した設定になっている。
; 白いワニ
: 未完成の「白い原稿」を象徴する存在で、作者・江口の周囲に幻覚のように現れ、彼を苦しめる。アニメ版においては、大空いばりの精神状態が憤った際にテーマ曲と共に出現する。
== テレビアニメ ==
{{出典の明記|date=2021年8月|section=1}}
[[1983年]][[5月20日]]から[[1984年]][[1月27日]]まで、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で金曜日19:00 - 19:30枠に於いて放送された。全35話。元々原作のストックが少なかった為、すぐに原作のエピソードを使い切ってしまい、後半は他の江口作品のストーリーを転用したり、アニメ側のスタッフが作ったオリジナルストーリーを制作している。また原作よりもラブコメテイストが強めに描かれている。2003年、全話収録のDVDボックスセットが発売された。なお、アニメ内で描かれる電柱には練馬区(東映動画の所在地)の住所表示がある。
=== 声の出演 ===
* 大空 ひばり - [[間嶋里美]]
* 坂本 耕作 - [[古谷徹]]
* 大空 いばり - [[八奈見乗児]]
* 大空 つぐみ - [[平野文]]
* 大空 つばめ - [[色川京子]]
* 大空 すずめ - [[鈴木富子]]
* 若頭 サブ - [[若本規夫|若本紀昭]]
* 子分 政二 - [[西尾徳]]
* 椎名 まこと - [[森功至]]
* 春江(耕作の母) - [[池田昌子]]
* 龍作(耕作の父) - [[塩屋浩三]]
* 岩咲 ひろみ - [[川島千代子]]
* 素張田 辰五郎(通称・スパルタの辰) - [[大塚周夫]](第2話登場)
* 花園 かおり - [[中野聖子]]
* 花子 - [[上村典子]]
* みちこ(花園かおりの取り巻きでポニーテールの女性) - [[高木ゆう子]]
* ナオコ(花園かおりの取り巻きでショートカットの女性) - 島津博美
* 番長 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]](第3話登場)
* 梶 光男 - 塩屋浩三
* 可愛 理絵 - [[鶴ひろみ]](第4・5話登場)
* 海牛 文太(海牛組組長の息子) - [[塩沢兼人]](第6話登場)
* 文太の父(海牛組組長) - [[雨森雅司]](第6話登場)
* 素張田 小辰(素張田 辰五郎の息子) - [[古川登志夫]](第7話登場)
* 片桐(すずめの友達) - [[坂本千夏]](第8話登場)
* 板垣 大助(耕作の親友) - [[三ツ矢雄二]](第10話登場)
* 天地先生 - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]](第13話登場)
* ウルトラ親分 - [[田中康郎]](第13話登場)
* 仮面親分 - [[田中亮一]](第13話登場)
* 則巻親分 - 佐藤正治(第13話登場)
* 呉井寺親分 - [[青野武]](第13話登場)
* 呉井寺 やすあき(通称・ヤックン) - [[八代駿]](第13話登場)
* 本田 進 - [[田中和実]](第14話登場)
* 鈴木 兵介 - [[森しん|広森信吾]](第14話登場)
* 山羽 珍庵 - [[大滝進矢|小滝進]](第14話登場)
* 高倉 裕次郎 - [[龍田直樹]](第16話登場)
* 龍作 - [[郷里大輔]](第17話登場)
* 大曽根 - [[矢田耕司]](第17話登場)
* パンサー横畑 - 中野聖子(第21話登場)
* ジャイアントリッパー - 上村典子(第21話登場)
* 珍間 おかし - 雨森雅司(第21話登場)
* 鳳ジュン - [[三田ゆう子]](第22話登場)
* ジュンの母 - [[京田尚子]](第22話登場)
* 一刀斎 - [[塩屋浩三]](第23話登場)
* ジャンケン強盗 - [[大竹宏]](第23話登場)
* 青田刑事 - [[はせさん治]](第24話登場)
* 黒田刑事 - 青野武(第24話登場)
* 雪代 - [[雨宮かずみ|雨宮一美]](第24話登場)
* 玉城 - [[蟹江栄司]](第24話登場)
* 老婆 - [[鈴木れい子]](第24話登場)
* 川鼻 広 - [[塩沢兼人]](第25話登場)
* リバヒィ - [[山本百合子]](第25話登場)
* 酋長 - 田中康郎(第25話登場)
* ジェロニモ - 佐藤正治(第26話登場)
* 仁吉 - 大竹宏(第26話登場)
* 虎造 - [[青森伸]](第26話登場)
* 文子 - [[武藤礼子]](第27話登場)
* 森田 健作 - 塩沢兼人(第28話登場)
* 鈴木 すし丸(影の大番長) - 龍田直樹(第28話登場)
* 高円寺 さゆり - 山本百合子(第29話登場)
* 白智 小五郎 - [[宮内幸平]](第29話登場)
* 金田 金助 - [[滝口順平]](第30話登場)
* 執事 - はせさん治(第30話登場)
* ハンセン石松 - 佐藤正治(第32話登場)
* 看護婦 - [[頓宮恭子]](第34話登場)
* 梶の母 - [[つかせのりこ]](第34話登場)
=== スタッフ ===
* 企画 - 岡正([[フジテレビジョン|フジテレビ]])、横山賢二([[東映アニメーション|東映動画]])
* 原作 - 江口寿史
* 音楽 - 西村耕次
* キャラクターデザイン - [[兼森義則]]
* 美術デザイン - [[椋尾篁]]、[[窪田忠雄]]
* シリーズディレクター - 久岡敬史
* プロデューサー - 大野清
* 製作担当 - 佐々木章
* 特殊効果 - 岡田良明、中島正之、石橋康全、北村喜久子、熊井芳貴
* 撮影 - [[白井久男]]、菅谷英夫、佐野禎史、佐藤隆郎
* 編集 - 吉川泰弘
* 録音 - 池上信照
* 効果 - [[原田サウンド|原田千昭]]
* 選曲 - 白井多美雄
* キャスティング協力 - [[青二プロダクション]]
* 演出助手 - 堀川和政、江幡宏之、松沢正一
* 製作進行 - 鈴木元、森田正男
* オーディオディレクター - [[本田保則]]
* 記録 - 池田紀代子
* 現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]]
* 制作 - フジテレビ、[[東映]]
=== 主題歌 ===
; オープニングテーマ「ストップ!! ひばりくん!」
: 作詞 - [[伊藤アキラ]] / 作曲・編曲 - [[小林泉美 (歌手)|小林泉美]] / 歌 - 雪野ゆき
; エンディングテーマ「コンガラ・コネクション」
: 作詞 - 伊藤アキラ / 作曲・編曲 - 小林泉美 / 歌 - 星野アイ
上記2曲を収録したEPレコードは、[[キャニオン・レコード]](現在の[[ポニーキャニオン]])から発売された。2曲とも後にCD化されている。オープニングテーマは[[大杉久美子]]によるカヴァーバージョンが存在する。なお、「コンガラ・コネクション」のギターは、当時まだ無名だった[[布袋寅泰]]がスタジオ・ミュージシャンとして演奏している。
=== 各話リスト ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!話数!!初回放送日!!サブタイトル!!脚本!!(絵コンテ)<br />演出!!作画監督!!美術
|-
|1||'''1983年'''<br />5月20日||彼女!?はアイドル!||[[柳川茂]]||([[今沢哲男]])<br />久岡敬史||[[伊東誠 (作画監督)|伊東誠]]||[[椋尾篁]]
|-
|2||5月27日||特訓!スパルタの辰||浅野佑美||([[笹川ひろし]])<br />池田裕之||[[兼森義則]]||[[窪田忠雄]]
|-
|3||6月3日||ばれた!?みられた!?||[[土屋斗紀雄]]||[[川尻善昭]]||[[富沢和雄]]||椋尾篁
|-
|4||6月10日||リングサイドの恋||[[戸田博史]]||石黒育||松本清||rowspan="3"|窪田忠雄
|-
|5||6月17日||失恋は夏ミカンの味?||柳川茂||山吉康夫||河村信道
|-
|6||6月24日||ああ!!ロミオとジュリエット||[[筒井ともみ]]||(笹川ひろし)<br />[[高山秀樹]]||八島善孝
|-
|7||7月1日||吹けよ風!小辰の逆襲!!||浅野佑美||今沢哲男||rowspan="2"|[[香西隆男]]||rowspan="2"|鹿野良行
|-
|8||7月8日||身代わりデート作戦||戸田博史||池田裕之
|-
|9||7月15日||すずめのボーイフレンド||柳川茂||高山秀樹||[[梅津泰臣]]||窪田忠雄
|-
|10||7月22日||愛のレッスンA・B・C||[[首藤剛志]]||石黒育||松本清||鹿野良行
|-
|11||7月29日||海辺のパニック!||土屋斗紀雄||山吉康夫||河村信道||窪田忠雄
|-
|12||8月5日||青春はきもだめし!||浅野佑美||高山秀樹||横山健次||鹿野良行
|-
|13||8月12日||ひばり大勝負入ります!!||戸田博史||今沢哲男||香西隆男||河野尋美
|-
|14||8月19日||ドキ!ドキ!三角関係||柳川茂||久岡敬史||兼森義則||窪田忠雄
|-
|15||8月26日||政二さんの熱い一日||土屋斗紀雄||池田裕之||梅津泰臣||鹿野良行
|-
|16||9月2日||つぐみのセカンドラブ!||戸田博史||今沢哲男||香西隆男||窪田忠雄
|-
|17||9月9日||㊙父さんのロマンアルバム!||筒井ともみ||(福島和美)<br />久岡敬史||伊東誠||鹿野良行
|-
|18||9月16日||いちゃついて!ラブラブラブ||柳川茂||山吉康夫||河村信道||伊藤豊
|-
|19||9月23日||探せ!マフィアの花嫁||戸田博史||(笹川ひろし)<br />[[新田義方]]||[[西城隆詞]]||鹿野良行
|-
|20||10月7日||おひかえなすって!家庭訪問||土屋斗紀雄||久岡敬史||兼森義則||伊藤豊
|-
|21||10月14日||女子プロレス!理絵VSひばり||柳川茂||池田裕之||今沢恵子||鹿野良行
|-
|22||10月21日||うるわし!学園タカラヅカ||戸田博史||(笹川ひろし)<br />新田義方||西城隆詞||窪田忠雄
|-
|23||10月28日||本日開店!くりから探偵物語||柳川茂||笠井由勝||伊東誠||鹿野良行
|-
|24||11月4日||恐ろしか!!南の島の怪奇事件||rowspan="2"|戸田博史||山吉康夫||河村信道||伊藤豊
|-
|25||11月11日||ヤシの木陰で恋じゃらホイ!!||久岡敬史||兼森義則||鹿野良行
|-
|26||11月18日||お祭りこわい!野球もこわい!!||土屋斗紀雄||新田義方||西城隆詞||伊藤豊
|-
|27||11月25日||いばりの純愛一曲線!?||柳川茂||池田裕之||今沢恵子||鹿野良行
|-
|28||12月2日||悪い子団がやってきた!||rowspan="2"|戸田博史||江幡宏之||水村十司||窪田忠雄
|-
|29||12月9日||ひろ子そっくり!恋の爆弾娘!!||新田義方||西城隆詞||鹿野良行
|-
|30||12月16日||怪盗マウスキッドに御用心!!||rowspan="2"|柳川茂||山吉康夫||河村信道||伊藤豊
|-
|31||12月23日||みんな呼んでメリー誕生日!!||久岡敬史||兼森義則||鹿野良行
|-
|32||'''1984年'''<br />1月6日||おとぎSF!?枕の源氏ひばり絵巻||rowspan="2"|戸田博史||池田裕之||今沢恵子||窪田忠雄
|-
|33||1月13日||大混線!!ひばりが耕作・耕作がひばり||新田義方||西城隆詞||鹿野良行
|-
|34||1月20日||ゴッホン!昭和の沖田くん!!||柳川茂||久岡敬史||兼森義則||峰村るみ子
|-
|35||1月27日||超人ひばり?!時をかける!!||土屋斗紀雄||山吉康夫||河村信道||鹿野良行
|}
=== 放送局 ===
キー局・制作局であるフジテレビではローカルセールス枠で放送されたことから、フジテレビ系列の[[基幹局]]でも[[テレビ西日本]]<ref>テレビ西日本の金曜日19:00 - 19:30枠では、1983年9月まで『[[アーノルド坊やは人気者]]』(海外作品。[[CBCテレビ|CBC]]・[[東北新社]]配給)。10月からは『別冊・[[笑っていいとも!増刊号]]』を放送。</ref> など放送されなかった局や、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]<ref>東海テレビの金曜日19:00 - 19:30枠では、自社制作『[[家族対抗チャンスクイズ]]』を放送。</ref>、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]<ref>関西テレビの金曜日19:00 - 19:30枠では、自社制作『[[阪急ドラマシリーズ]]』を放送(フジテレビでも別枠で放送)。</ref> 等時差ネットした局があった。また、[[テレビ新広島]]<ref>テレビ新広島の金曜日19:00 - 19:30枠では、自社制作・[[中国電力]][[一社提供]]『[[クイズクロス5]]』を放送。</ref> では本放送終了後の1984年7月より放送が開始されたが、小学校・中学校の夏休み期間中の特別編成による集中放送であった。
テレビ新広島を除く放送日時は個別に出典が掲示されているものを除き、1983年9月中旬 - 10月上旬時点のものとする<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1983年10月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国放映リスト |pages=98 - 99}}</ref>。
* フジテレビ(制作局):金曜 19:00 - 19:30
* [[北海道文化放送]]:金曜 19:00 - 19:30
* [[青森テレビ]]:水曜 17:30 - 18:00
* [[山形テレビ]]:木曜 17:30 - 18:00
* [[仙台放送]]:金曜 19:00 - 19:30(時差ネット・1983年6月10日 - 1984年2月17日に放送)<ref>『[[福島民報]]』1983年6月10日 - 1984年2月17日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[福島テレビ]]:日曜 7:30 - 8:00<ref>『福島民報』1983年5月29日 - 1984年1月29日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[NST新潟総合テレビ|新潟総合テレビ]]:金曜 17:25 - 17:55
* [[富山テレビ放送|富山テレビ]]:木曜 17:20 - 17:50
* [[石川テレビ放送|石川テレビ]]:木曜 17:25 - 17:55、1984年放送<ref>『[[北國新聞]]』1984年9月27日付朝刊、テレビ欄。</ref>
* [[テレビ山梨]]:土曜 17:00 - 17:30(1984年2月頃)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1984年3月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国縦断放映リスト |pages=116}}</ref>→日曜 17:00 - 17:30(1984年4月頃)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメディア]] |issue=1984年5月号 |publisher=[[学習研究社]] |title=テレビ局ネットワーク |pages=97}}</ref>
* [[テレビ静岡]]:金曜 19:00 - 19:30
* 東海テレビ:日曜 10:30 - 11:00(1983年5月 - 9月) → 木曜 16:30 - 17:00(1983年10月 - 12月) → 金曜 16:30 - 17:00(1984年1月 - 2月)
* 関西テレビ:月曜 19:00 - 19:30
* [[山陰中央テレビジョン放送|山陰中央テレビ]]:月曜 19:00 - 19:30
* [[岡山放送]]:金曜 19:00 - 19:30
* [[テレビ山口]]:木曜 17:00 - 17:30<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[アニメージュ]] |issue=1984年3月号 |publisher=[[徳間書店]] |title=全国縦断放映リスト |pages=117}}</ref>
* [[テレビ愛媛]]:月曜 17:25 - 17:55
* [[テレビ高知]]:水曜 17:30 - 18:00
* [[サガテレビ]]:金曜 19:00 - 19:30
* [[テレビ長崎]]:金曜 17:30 - 18:00
* [[テレビ熊本]]:月曜 17:00 - 17:30
=== DVD ===
* ストップ!! ひばりくん! DVDコレクション I(2003年2月26日、ユニバーサルミュージック)<ref>[https://tower.jp/item/958658/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97!!%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93!DVD%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-I%EF%BC%9C%E9%80%9A%E5%B8%B8%E7%89%88%EF%BC%9E DVDコレクション I(TOWER RECORDS)]</ref>
* ストップ!! ひばりくん! DVDコレクション II(2003年2月26日、ユニバーサルミュージック)<ref>[https://tower.jp/item/966100/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97!!%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93!DVD%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3II DVDコレクション II(TOWER RECORDS)]</ref>
* ストップ!! ひばりくん! DVD-BOX デジタルリマスター版(2014年9月26日、ベストフィールド){{R|tc-ent}}
== 反響 ==
=== 売り上げ ===
{{節スタブ|1=<nowiki/>
* 発行部数
* 視聴率
}}
テレビアニメの放映当時、家庭用ビデオデッキはまだそれほど普及しておらず、家庭内には厳しいチャンネル争いがあるのが一般であった。本作テレビアニメの裏番組には『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』があり、1983年10月からは『[[銀河漂流バイファム]]』の放送が開始され、関東地方などでは同じ時間帯に『ひばりくん』『ドラえもん』『バイファム』が並ぶ状況となった。ライターの早川清一朗は、当時の状況を振り返って、「時代の最先端を行く[[ジェンダー論]]を取り込んだアニメと『ドラえもん』。果たして子を持つ親はどちらを見せたがるかと言えば、それは『ドラえもん』になってしまいます。」と述べている<ref>{{Cite web|和書|author=早川清一朗 |date=2020-05-20 |url=https://news.infoseek.co.jp/article/magmix_28173/ |title=裏番組が強すぎたアニメ『ストップ!! ひばりくん!』「男の娘」に少年たちは衝撃 |accessdate=2021-08-10}}</ref>。『ドラえもん』のために本作テレビアニメは視聴者獲得で苦戦することになった<ref name="tc-ent">[https://www.tc-ent.co.jp//products/detail/BFTD-0105 想い出のアニメライブラリー 第26集 ストップ!! ひばりくん! DVD-BOX デジタルリマスター版。TCエンタテインメント株式会社]</ref>。
=== 批評 ===
精神科医の[[斎藤環]]は、本作は「女性的な外見と男性的な内面を対比させることで」大空ひばりとの「目まぐるしい日常」を実現しているものであるとし、異性装のキャラクターたちによる「服装倒錯の連続」として捉えることができると解説している<ref>{{cite book|author=Saitō, Tamaki|author-link=斎藤環|translator1=Vincent, J. Keith|translator2=Lawson, Dawn|title=Beautiful Fighting Girl|chapter=A Genealogy of the Beautiful Fighting Girl|publisher=[[ミネソタ大学ツインシティー校|ミネソタ大学出版局]]|date=2011-03-16|isbn=978-0-8166-5450-5|page=110}}</ref><ref>{{cite book|author=Denison, Rayna|title=Anime: A Critical Introduction|chapter=Anime, Video and the Shōjo and Shōnen Genres|publisher=Bloomsbury Academic|date=2015-12-03|isbn=978-1-84788-479-4}}</ref>。マンガ評論家の[[中野晴行]]は、大空ひばりが(本当は)少年であり、かつヤクザの跡取りでもあるという複合した設定が、本作をユニークで傑出したギャグマンガにしていると評し、この成功はまた、少女たちを単にかわいく描くだけでなく、いい味を持たせ、色気も醸し出せる江口の能力によるところが大きいとしている{{R|daimokuroku}}。(一般に)ひばりの繊細な描き方は、ギャグマンガであることを読者が忘れてしまうほど魅力的だとされている{{R|asagei}}。ライターの島田一志は、80年代の空気感を見事に切り取りつつ、年月を経ても古びない時代を超越したクールな絵と評している{{R|shimada}}。
{{Quote box
| quote = 私はその時小学生、ちょうどオシャレにこだわりだした頃で、Tシャツ1枚買うのにも母を連れ回したりしていたのですが、その頃のオシャレの参考は、テレビや雑誌でも他の誰でもなく“ひばりくん”でした。
| source = —[[YUKI (歌手)|Yuki]]{{R|gendai44-45}}
| align = right
| width = 20%
}}
雑誌『Cyzo』に寄稿した漫画評論家のJyamaoは、本作ではその全体的に軽快・ポップな文体のために、わいせつまたは不道徳な女装が生じておらず、テレビアニメがゴールデンタイムに放映できたのもそのためであろうと推測している{{R|cyzo}}。Jyamaoは、女装を伴うギャグと比べ、ヤクザの組員を取り巻くギャグは性質が極端であると指摘し、今日では薬物ネタを含む一部のギャグはユーモアとは受け取られないだろうと述べている{{R|cyzo}}。マンガ解説者の[[新保信長|南信長]]は、高いファッションセンスを持つキャラクターを描いたパイオニアとして、本作の江口を賞賛している。南は、本作が少年漫画のファッションを「シンボル」から「アクセサリー」へと事実上変化させたと評している{{R|gendai44-45}}。江口の細部へのこだわりも賞賛しており、例えばある回で耕作が[[コンバース・オールスター|チャック・テイラー・オールスターズ]]を履いている点を挙げている{{R|gendai44-45}}。
=== 影響 ===
『[[ガーディアン]]』紙は[[ジャパン・ソサエティー]]の美術展を紹介した記事において、江口が『[[すすめ!!パイレーツ]]』や本作の創作を通じ、実質的に[[J-POP]]現象全体への道を開いたとしている{{R|jpop}}。中学時代に本作を読んだ『[[テガミバチ]]』の作者・[[浅田弘幸]]は、本作の新しいセンスに憧れ、絵にも影響を受けた{{R|gokui}}。[[火浦功]]による小説『[[未来放浪ガルディーン]]』の主人公の一人は「大空ひばり」がモデルになっている<ref name="vol1p295t296">{{Cite book|和書|title=未来放浪ガルディーン① 大熱血。|isbn=4-04-162702-8|author=火浦功|authorlink=火浦功|chapter=大無謀対談ー"ガルディーン"のつくりかた|coauthors=[[出渕裕]]、[[ゆうきまさみ]]|publisher=[[角川書店]]|series=[[角川文庫]]|date=1986-08-25|edition=11版|pages=295-296}}</ref>。[[幾夜大黒堂]]『[[境界のないセカイ]]』は18歳になると「性別の選択」が可能になる世界を描いた漫画作品であるが、幾夜は第1巻の内田啓子編を本作や『[[プラナス・ガール]]』のフォーマットに準じて描いたと述べている{{R|ikuya}}。
島田一志は2020年の論稿において、大空ひばりが異性装者やゲイに対する差別や偏見を排除し、80年代の人々の認識を変えた原動力のひとつになったのではないかと述べている{{R|shimada}}。江口も何人かの読者が本作に影響され女装を始めたと報告している{{R|qj}}。島田は、ギャグであるはずのひばりの女装が、実際は「あなたの好きなように生きればいい」というマイノリティへのメッセージになっており、読者に対し「マイノリティであることは悪いことではなく“個性”」という感覚を秘かに植えつけた可能性を指摘している{{R|shimada}}。
江口本人は本作のような「オカマの面白さ」を扱った作品として、後に「BREAK DOWN」<ref>江口寿史「BREAK DOWN」『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』[[双葉社]] 1991年7月1日 ISBN 4575281123、69 - 72頁</ref>等を描いている。
=== 男の娘の系譜における大空ひばり ===
おたく文化史研究家・吉本たいまつによれば、本作はその後の「男の娘」ブームの直接の先祖であるとされている。吉本は、江口が男女の描画コードを明示的に転倒させることでギャグを生み出している一方、そこにおいて「性別を越境する妖しい魅力」をも作り出していたと分析する。男性キャラクターに対して女性の描画コードを使い、受け手の認識を混乱させる試みは、吉本によれば[[手塚治虫]]の『[[リボンの騎士]]』にまで遡るとされ、本作では『リボンの騎士』より明確に「男の子でもかわいければ恋愛・性の対象にしてもよい」という視点が打ち出されているとされている。吉本は、描画コードの転倒は、その後も漫画表現の中に根付いて継続していったとし、[[奥浩哉]]『[[変 (漫画)|HEN]]』、[[小野敏洋]]『[[バーコードファイター]]』(ともに1992年)をその例として挙げている{{R|taimatsu}}。
「オトコの娘年表」(『おと☆娘』VOL.7)の構成を担当した来栖美憂は、「オトコの娘文化」の始点はどこかと論じることから始めている。それによれば、[[江戸川乱歩]]の[[少年探偵団#小林少年|小林少年]]、[[横山光輝]]『[[伊賀の影丸]]』の影丸の女装の頃には、一部に熱狂的なファンがついていたという。そこへ「大きな一石を投じ」ることになったのが本作であるとし、「ひばりくんの可愛さは衝撃的であり、彼が近代女装美少年文化の始点という評価に異を唱える者はまずいないだろう」と断じている{{R|otonyan_v7}}。一方で来栖は、『オトコノコ倶楽部vol.1』において本作を「女装系漫画のルーツ」とみなす認識に異を唱えている。ラブコメのアンチテーゼとして書かれた本作であるが、結局本作の流れを継いだのは『[[きまぐれオレンジ☆ロード]]』などのポップなラブコメであった。系譜を作り得なかった本作は、その意味において「ルーツ」とまでは言えないと述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20110208171542/http://josotsusin.jp/contents/content/53 女装通信 - 女装少年の系譜/第一回【メジャー漫画・2000年編】(『オトコノコ倶楽部vol.1』のコンテンツより)](2011年2月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。『おと☆娘』における来栖の分析では、本作の流れは一旦少女漫画に受け継がれつつ、『バーコードファイター』で多くの児童の価値観を再び揺るがしたとされている{{R|otonyan_v7}}。
漫画評論を行っている[[永山薫]]もまた、現在の男の娘漫画に直結する先駆的作品として本作を挙げている。家族が嘘をついて耕作をからかっているだけという可能性を指摘しつつ、「実は男の子なんだけど、本当は女の子かもしれない」という想像の余地を読者に残す本作の手法は、後の[[松本トモキ]]『プラナス・ガール』(2009年)に継承されたとしている{{R|nagayama}}。
一方、あしやまひろこは2015年の、本作を「男の娘作品」の古典として挙げた論稿において、大空ひばりには「男の娘」の本質の一部が欠けていたと分析している。あしやまはひばりを『プラナス・ガール』の主人公・藍川絆と比較し、「容姿と行動で男の主人公を翻弄する小悪魔」という点では通じるものがあるとしつつ、両者には決定的な違いがあると論じた{{R|ashiyama}}。すなわち、大空ひばりは、主人公と家族以外の世間には女性として紹介され、かつ認知されている。また性同一性障害やオカマとして扱われる一面もあり、ポジションはギャグキャラクターである。対して藍川絆は、常に女装で生活していながら、性自認は一貫して男性であり、にもかかわらず学園中からアイドルとして扱われているのである{{R|ashiyama}}(この点には永山も注意を与えている{{R|nagayama}})。あしやまは『プラナス・ガール』では男の娘の可愛さが性別の範疇を超越するものとして表現されていると評し、両者の対比の中に80年代から現代に至るまでのパラダイムシフトを見出せるとしている{{R|ashiyama}}。
『プラナス・ガール』などの後、男の娘ブームは収束に向かった{{Refnest|「男の娘ブーム自体は全体として収束して、いまは低空飛行で安定」{{R|ido}}。「2015年現在、二次元表現における「男の娘」ブームは、終わりを告げたように思える」{{R|taimatsu}}。}}。『オトコノコ倶楽部』の創刊者で、『オトコノコ時代』の編集長であった井戸隆明は、ブームの頃に面白いコンテンツがあまり出てこなかったことを衰退の原因の一つに挙げている{{R|ido}}。その上で、本作を次のように評価している。
{{Quotation|絶対的にかわいい、小悪魔的な男の娘というのは『ひばりくん』を超えるものはもうないんじゃないかと。ただ、あれを描ける時代というのもあったと思います。ニューハーフブームはあったにしても、ひばりくんの実態がはっきりとはわからないんですよ。それに翻弄されるというのがギャグマンガとして成り立ったのは時代性でしょうね。いま同じようなことをやってもたぶん成立しない。|『オトコノコ時代』編集長・井戸隆明{{R|ido}}}}
井戸は、今後も大きな波は再びやってこないだろうと予測し、男の娘的なもののメルクマールといえるものは、結局、本作や『バーコードファイター』になるだろうとしている{{R|ido}}。
== 書誌情報 ==
6度にわたって刊行されている。
最初に発行されたジャンプ・コミックス(JC)版の単行本には最後の4話が未収録であった。1991年に発売された[[完全版コミックス|完全版]]は、JC版に未収録だった4話のうち3話を収録したものの、連載最後の回は収録しなかった。最終回の収録は1999年の短編集『江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短篇』([[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]])が最初となる。その後2004年に発行された文庫版(ホーム社)はこの最終回も含んでおり、一応の全編収録となった。
『ストップ!!ひばりくん! コンプリート・エディション3』に最終話が加筆掲載された(前出)。なお第2巻(2009年)に単行本未収録の「Jの告白」のエピソードが初掲載された。
ただし、JC版の時点で、コマ割りに手を加える、『ジャンプ』掲載時の2話を1話にまとめ直すなど、大きく手を加えている話が多々あるため、未収録のページが存在する。
* ストップ!! ひばりくん!
** 新書版([[集英社]])〈[[ジャンプ・コミックス]]〉
**# 1982年11月15日初版発行 ISBN 4-08-851391-6
**# 1983年3月15日初版発行 ISBN 4-08-851392-4
**# 1983年6月15日初版発行 ISBN 4-08-851393-2
**# 1984年1月15日初版発行 ISBN 4-08-851394-0
** [[完全版コミックス|完全版]]([[双葉社]])
**# 1991年7月1日初版発行 ISBN 978-4-57-528113-2
**# 1991年7月1日初版発行 ISBN 978-4-57-528114-9
**# 1991年7月1日初版発行 ISBN 978-4-57-528115-6
** 文庫版(双葉社)〈双葉文庫〉
**# 1995年1月 ISBN 978-4-57-572018-1
**# 1995年1月 ISBN 978-4-57-572019-8
** [[コンビニコミック]]版(集英社)〈[[集英社ジャンプリミックス]]〉
**# 2001年5月 ISBN 978-4-08-106030-6
**# 2001年5月 ISBN 978-4-08-106036-8
**# 2001年6月 ISBN 978-4-08-106042-9
**# 2001年6月 ISBN 978-4-08-106048-1
** 文庫版(発行:ホーム社・発売:集英社)〈ホーム社漫画文庫〉
**# 2004年1月 ISBN 978-4-83-427289-5
**# 2004年1月 ISBN 978-4-83-427290-1
** ストップ!!ひばりくん! コンプリート・エディション(小学館クリエイティブ)
**# 2009年7月16日初版発行 ISBN 978-4-77-803119-0
**# 2009年10月16日初版発行 ISBN 978-4-77-803120-6
**# 2010年2月27日初版発行 ISBN 978-4-77-803121-3
* 江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短篇([[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]]) - 1999年2月5日初版発行 ISBN 4-58-419553-6
* 江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!(発行:集英社インターナショナル・発売:集英社) - 2005年8月24日初版発行 ISBN 978-4-79-762001-6
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|2|refs=
<ref name="otonyan_v2">[[#otonyan_v2|来栖美憂(聞き手)「『ストップ!! ひばりくん!』ついに完結!! 江口寿史スペシャルインタビュー」、『おと☆娘』VOL.2、99-102頁。]]</ref>
<ref name="otonyan_v7">[[#otonyan_v7|「おと☆娘特製 オトコの娘年表」、『おと☆娘』VOL.7、103-105頁。]]</ref>
<ref name="ikuya">[[#eureka_201509|幾夜大黒堂インタビュー「境目と境界の漸近線 - 『境界のないセカイ』の向こう側」、『ユリイカ』2015年9月号。]]</ref>
<ref name="nagayama">[[#eureka_201509|永山薫「大きな声ではいえないオトコノコ漫画の秘密」、『ユリイカ』2015年9月号。]]</ref>
<ref name="ashiyama">[[#eureka_201509|あしやまひろこ「女装と男の娘の容姿と身体」、『ユリイカ』2015年9月号。]]</ref>
<ref name="ido">[[#eureka_201509|井戸隆明インタビュー「“オトコノコ”はどこにいる」、『ユリイカ』2015年9月号。]]</ref>
<ref name="taimatsu">[[#eureka_201509|吉本たいまつ「ショタ・女装少年・男の娘 二次元表現における「男の娘」の変遷」、『ユリイカ』2015年9月号、210-224頁。]]</ref>
<ref name="qj">[[#qj|「ハロルド作石×江口寿史 - FEATURES.1 マンガ最前線」、『Quick Japan』Vol.59。]]</ref>
<ref name="gendai44-45">[[#gendai|南信長「〈ファッションリーダー〉としての江口寿史」、『現代マンガの冒険者たち』、44-45頁。]]</ref>
<ref name="asagei">{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/15006|title=我が青春の週刊少年ジャンプ(3)江口にとっては極限状態も楽しい思い出|publisher=[[徳間書店]]|work=Asagei Plus|date=2013-08-16|accessdate=2016-04-25}}</ref>
<ref name="daimokuroku">{{Cite web|和書|author=[[中野晴行]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121209003943/http://www.daimokuroku.com/?index=somme&date=20120608|url=http://www.daimokuroku.com/?index=somme&date=20120608|title=第101回 元祖「男の娘」? あべこべの笑いを超えたミラクルワールド 江口寿史『ストップ!!ひばりくん!完全版』|publisher=eBook Initiative Japan|date=2012-06-08|archivedate=2012-12-09|accessdate=2016-04-25}}</ref>
<ref name="cyzo">{{Cite web|和書|url=https://www.cyzo.com/2016/03/post_27235_entry.html|title=過激発言連発!! 打ち切り&発禁になった伝説の女装男子マンガ『ストップ!! ひばりくん!』『おカマ白書』|publisher=Cyzo|date=2016-03-25|accessdate=2016-04-25}}</ref>
<ref name="jpop">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/technology/gamesblog/2009/mar/30/nintendo|title=Going Krazy in New York: anime, manga and the language of videogames|work=[[ガーディアン]]|date=2009-03-30|accessdate=2016-04-24}}</ref>
<ref name="gokui">{{Cite web|和書|url=http://jumpsq.shueisha.co.jp/contents/manganogokui11/interview1.html|title=ジャンプSQ.若手作家が聞く「マンガの極意!」浅田弘幸先生&濱岡幸真先生《1》浅田先生、「少年漫画」のルーツ|publisher=[[集英社]]|accessdate=2016-04-26}}</ref>
<ref name="shimada">{{Cite web|和書|author=島田一志 |date=2020-11-27 |url=https://realsound.jp/book/2020/11/post-662030.html |title=『ストップ!! ひばりくん!』なぜ時代を超えて愛される? 江口寿史が投げかけたメッセージ |accessdate=2021-08-10}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 「江口寿史先生インタビュー」『江口寿史 JUMP WORKS 1 ストップ!! ひばりくん!』集英社インターナショナル、308 - 311頁
* 江口寿史「マンガで子供のやわらかい頭をかきまわしたい」『マンガの道 - 私はなぜマンガ家になったのか』[[ロッキング・オン]]2005年3月29日、ISBN 9784860520472、66 - 109頁
* 「リアルワインガイドインタヴュー」『リアルワインガイド VOL.19』寿スタジオ、2007年10月15日発行、114 - 117頁
* 印南敦史「新 家の履歴書」『週刊文春 2007年12月13日号』[[文藝春秋]]、112 - 115頁
* 『[総集編]江口寿史』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢ムック文藝別冊〉2003年1月31日、ISBN 4309976433
* {{Cite book |和書 |title=おと☆娘 |volume=VOL.2 |series=ミリオンムック |publisher=[[ミリオン出版]] |date=2011-01-25 |isbn=978-4813064190 |url= |ref=otonyan_v2}}
* {{Cite book |和書 |title=おと☆娘 |volume=VOL.7 |series=ミリオンムック |publisher=ミリオン出版 |date=2012-04-26 |isbn=978-4813065944 |url= |ref=otonyan_v7}}
* {{Cite journal |和書 |journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] |volume= |issue=2015年9月号 特集=男の娘 —“かわいい”ボクたちの現在— |publisher=[[青土社]] |date=2015-08-27 |isbn=978-4791702947 |ref=eureka_201509 }}
* {{Cite journal |和書 |journal=[[Quick Japan]] |volume=59 |issue= |publisher=[[太田出版]] |date=2005-03-15 |isbn=978-4872339383 |ref=qj}}
* {{Cite book |和書 |author=南信長 |title=現代マンガの冒険者たち |publisher=[[NTT出版]] |date=2008-05-15 |isbn=978-4757141773 |url= |ref=gendai}}
== 関連文献 ==
* {{Cite journal2 |last=Lewicki |first=Riley Hannah |title=Prefiguring the Otokonoko Genre: A Comparative Trans Analysis of Stop!! Hibari-Kun! and No Bra |journal=Journal of Anime and Manga Studies |volume=3 |issue=3 |publisher=[[イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校|University of Illinois Urbana-Champaign]] |date=2022-12-14 |pages=62-84 |doi=10.21900/j.jams.v3 |doi-access=free}}
== 関連項目 ==
* [[すすめ!!パイレーツ]] - 初連載作品。伝説の大親分として粳寅組の粳寅満次が関東大空組にやってくる。アニメ第26話ではジェロニモが登場。
* [[ひのまる劇場]] - 前の連載作品。
* [[寿五郎ショウ]] - 次の連載作品「日の丸劇場」を収録。
* 現在、未完のままの江口作品一覧
** [[「エイジ」]]
** [[パパリンコ物語]]
** [[ケンとエリカ]]
** ラッキーストライク
* [[銀杏BOYZ]] - [[峯田和伸]]の依頼によって、アルバム『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』のジャケットにひばりくんが描き下ろされている。
* [[男の娘]]
{{前後番組|
放送局=[[フジテレビジョン|フジテレビ]]|
放送枠=金曜19:00~19:30枠|
番組名=ストップ!! ひばりくん! <br />(1983. 5/20 - 1984. 1/27)|
前番組=[[パタリロ!#テレビアニメ|ぼくパタリロ!]]<br />(1983. 4/ 8 - 5/13)<br />[[土曜日]]19:30枠から移動 →|
次番組=[[みゆき (漫画)#テレビアニメ|みゆき]]<br />(1984. 2/ 3 - 4/13)<br />[[木曜日]]19:30枠から移動 →|
}}
{{東映アニメーション}}
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[[Category:漫画作品 す|とつふひはりくん]]
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[[Category:1983年のシングル]]
[[Category:伊藤アキラが制作した楽曲]]
|
2003-09-13T04:59:35Z
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2023-11-21T00:23:02Z
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16,505 |
D-51
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"D-51"(ディー・ゴー・イチ)は、沖縄県出身の"YASU"(吉田安英)と"YU"(上里優)からなるボーカルデュオ。所属事務所はGiftBank LLC。
ユニット名は、芸能事務所が用意した数ある候補の中からメンバーが語感で選んだもの。かつて日本中を駆け巡った国鉄D51形蒸気機関車(デゴイチ)にちなんでいるが、そもそも両者はデゴイチの存在を知らず、由来となった機関車については名前が決定してから知ったとインタビューで語っている。
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'''D-51'''(ディー・ゴー・イチ)は、沖縄県出身の'''YASU'''(吉田安英)と'''YU'''(上里優)からなるボーカルデュオ。所属事務所はGiftBank LLC。
ユニット名は、[[芸能事務所]]が用意した数ある候補の中からメンバーが語感で選んだもの。かつて日本中を駆け巡った[[国鉄D51形蒸気機関車]](デゴイチ)にちなんでいるが、そもそも両者はデゴイチの存在を知らず、由来となった機関車については名前が決定してから知ったとインタビューで語っている。
== メンバー ==
* '''YU'''(ユウ、本名:'''上里 優'''(うえざと ゆう)、{{生年月日と年齢|1983|11|9}} - )- [[沖縄県]][[宜野湾市]]出身 宜野湾市立大山小学校、[[宜野湾市立真志喜中学校]]、[[沖縄県立宜野湾高等学校]]卒業。[[ABO式血液型|血液型]]O型。
* '''YASU'''(ヤス、本名:'''吉田 安英'''(よしだ やすひで)、{{生年月日と年齢|1982|4|6}} - )- 沖縄県[[那覇市]]出身。那覇市立高良小学校、[[那覇市立小禄中学校]]、[[興南中学校・高等学校|興南高等学校]]卒業。[[ラジオ沖縄]]で民謡番組「[[安盛の暁でーびる]]」のパーソナリティーを務める[[吉田安盛]]・[[盛和子]]夫妻の三男。民謡歌手の[[吉田安敬]]は兄である。血液型A型。
== 来歴 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2010年5月}}
* [[2003年]][[6月]]に[[沖縄県]][[北谷町]]美浜のカーニバルパークでストリートライブを開始。
* 2003年[[8月30日]]、自主制作によるシングル『LET'S TRY』を発売し「手売り」で5000枚を売り上げた<ref name="sanspo_040503">[https://web.archive.org/web/20050204113304/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200405/gt2004050302.html 沖縄発「D-51」7・7メジャーデビュー!]、[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]、2004年5月2日。([[インターネットアーカイブ]])</ref>。
* [[2004年]][[2月14日]]、シングル『[[STREET BREEZE]]』でインディーズデビュー。当初沖縄県限定販売だったが、[[4月5日]]に全国発売される<ref name="sanspo_040503" />。
* 大手レコード会社17社による争奪戦の末、[[ポニーキャニオン]]からの[[メジャーレーベル|メジャー]]デビューが決定<ref name="sanspo_040503" />。
* 2004年[[7月7日]]、シングル『[[TOP OF THE SUMMER]]』でメジャーデビュー。
* [[2005年]]、3枚目のシングル『[[NO MORE CRY]]』がテレビドラマ『[[ごくせん (テレビドラマ)|ごくせん]]』の主題歌となり、[[オリコンチャート|オリコン]]最高2位·40万枚以上の大ヒットを記録。また、映画『[[ALWAYS 三丁目の夕日]]』の主題歌も手がけた。
* [[2006年]][[7月23日]]、アニメ『[[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]]』の主題歌「BRAND NEW WORLD」を手がけた縁から、同作の第272話 「ルフィ目前! 裁判所前広場へ集結せよ」に役人役で声優として出演。
* [[2008年]][[2月6日]]、初の[[ベスト・アルバム]]『BEST OF D-51』、10枚目のシングル『セピア』を同時リリース。
* [[2008年]][[4月]]、前年に続き、[[カルピスウォーター]]のCMソングとして『Travelers Of Life』が起用される。
* [[2011年]][[12月7日]]、フライング・ハイから通販・ライブ会場・配信限定でミニアルバム『Yet the earth does move』を発売。
* [[2012年]]、レコード会社を[[徳間ジャパンコミュニケーションズ]]に移籍。
== ディスコグラフィー ==
=== シングル ===
; オリジナル
# LET'S TRY ([[2003年]][[8月30日]])
; インディーズ
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!備考
|-
|1st
|[[2004年]][[2月14日]]
! [[STREET BREEZE]]
|FLHO-101
|オリコン最高169位、登場回数5回
|-
|}
; メジャー
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!備考
|-
|1st
|2004年[[7月7日]]
! [[TOP OF THE SUMMER]]
|PCCA-02051
|オリコン最高14位、登場回数12回
|-
|2nd
|2004年[[11月24日]]
! '''[[Dreamin' on]]'''
|PCCA-02151
|オリコン最高40位、登場回数9回
|-
|3rd
|[[2005年]][[2月2日]]
! [[NO MORE CRY]]
|PCCA-70151
|オリコン最高2位、登場回数28回
|-
|4th
|2005年[[7月6日]]
! [[ハイビスカス (D-51の曲)|ハイビスカス]]
|PCCA-02351
|オリコン最高23位、登場回数7回
|-
|5th
|2005年[[10月26日]]
! [[ALWAYS (D-51の曲)|ALWAYS]]
|PCCA-02451
|オリコン最高23位、登場回数8回
|-
|6th
|[[2006年]][[7月26日]]
! [[BRAND NEW WORLD]]
|PCCA-02751
|オリコン最高15位、登場回数11回
|-
|7th
|2006年[[11月29日]]
! [[はじまる]]
|PCCA-2851
|オリコン最高88位
|-
|8th
|[[2007年]][[2月7日]]
! [[Forever Friends (D-51の曲)|Forever Friends]]
|PCCA-70251
|オリコン最高67位
|-
|9th
|2007年[[8月29日]]
! [[Stand Up! (D-51の曲)|Stand Up!]]
|PCCA-70351
|オリコン最高110位
|-
|10th
|[[2008年]][[2月6日]]
! [[セピア (D-51の曲)|セピア]]
|PCCA-70551
|オリコン最高135位
|-
|11th
|2008年[[7月30日]]
! [[Travelers Of Life]]
|PCCA-70651
|オリコン最高85位
|-
|12th
|[[2009年]][[2月4日]]
! [[ロード (D-51の曲)|ロード]]
|PCCA-70751
|オリコン最高172位
|-
|13th
|[[2009年]][[10月28日]]
! '''[[Lady Don't Cry]]'''
|PCCA-03451
|オリコン最高110位
|-
|14th
|[[2010年]][[5月26日]]
! [[ファミリア (D-51の曲)|ファミリア]]
|PCCA-70851
|オリコン最高50位、登場回数3回
|-
|15th
|[[2012年]][[10月17日]]
! [[めぐり逢い (D-51の曲)|めぐり逢い]]
|TKCA-73824
|オリコン最高148位
|-
|}
=== アルバム ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!style="width:30%"|収録曲
!備考
|-
|1st
|2005年[[3月16日]]
! [[ONENESS (D-51のアルバム)|ONENESS]]
|PCCA-2251
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全15曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#TOP OF THE SUMMER
#Dreamin' on
#NO MORE CRY(SMILE POWER MIX)
#My favorite island
#風のメロディー
#MILLION NIGHTS
#Born singer×2
#希望クラップ
#コーノトリ
#Life is music
#BELIEVER
#Another DAY
#HARMONY
#We are ready!
#LET's TRY(STREET BAND VERSION)
</div></div>
|オリコン最高4位<br />登場回数11回
|-
|2nd
|2006年[[3月15日]]
! 2GETHER
|PCCA-02551:初回限定盤<br />PCCA-02651:通常盤
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全11曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# SHALL WE ノリノリ? [5:19]
# DANCE AROUND [4:50]
# ハイビスカス [5:13]
# MISSING YOU [5:39]
# どんなに [4:38]
# オレトモ [3:35]
# サヴァイバー -BEAT PATROL MIX- [4:53]
# バッカナルTIME [4:42]
# あなたへ 〜 A SONG FOR YOU [4:33]
# HOPEFUL DAYS [4:47]
# ALWAYS [5:35]
</div></div>
|オリコン最高39位<br />登場回数3回
|-
|3rd
|2007年[[2月28日]]
! 三横一村
|PCCA-02951:初回限定盤<br />PCCA-03051:通常盤
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全11曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# お花見して〜な [5:12]
# 3rd time's luck [4:30]
# はじまる [4:31]
# Forever Friends (album mix) [5:13]
# 願晴れ [4:00]
# 裸の王様 [5:03]
# No work, No holiday [5:38]
# ラスト・シーン(卒業MIX) [5:32]
# BRAND NEW WORLD [4:18]
# Stay with me (acoustic live recording) [5:32]
# HOPEFUL DAYS (acoustic live recording) [5:22]
</div></div>
|オリコン最高108位
|-
|ベスト
|2008年2月6日
! BEST OF D-51
|PCCA-03251
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全15曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# TOP OF THE SUMMER [4:48]
# Dreamin' on [5:22]
# NO MORE CRY [4:55]
# ハイビスカス [5:06]
# ALWAYS [4:57]
# BRAND NEW WORLD [4:19]
# はじまる [4:32]
# Forever Friends [5:15]
# Stand Up! [5:31]
# セピア [4:52]
# great man (YASU solo) [4:16]
# さよならと涙 (YU solo) [5:02]
# LONELY SATURDAY NIGHT [4:48]
# 飛行少年紀〜僕の背中、ツバサに変わる〜 [4:43]
# Life [4:41]
</div></div>
|オリコン最高60位<br />登場回数4回
|-
|4th
|2009年3月4日
! Daisy
|PCCA-03351
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全14曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# Daisy [0:27]
# The life is dramatic [3:18]
# ロード [4:29]
# マノン [4:21]
# and i love you [4:21]
# ひとりじゃない [5:42]
# Love [5:42]
# Another sky [4:30]
# Play on! [4:54]
# Travelers Of Life [4:36]
# ファイト [5:41]
# 奇跡は出会いまたそれへ [5:32]
# LOVE SONG [5:41]
# 東京 [5:29]
</div></div>
|オリコン最高296位
|-
|5th
|2010年[[12月1日]]
! STAR
|PCCA-03651
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全12曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# GOLDEN TIME [4:47]
# BEAT [4:24]
# Lady Don't Cry [3:55]
# Step & Go [4:05]
# ひとりきりのクリスマス [5:08]
# Midnight Train [4:08]
# あこがれ [3:39]
# fall in love [5:07]
# Perfect World (FUJIMINO MIX) [5:28]
# 旅立ちの風 [5:03]
# ファミリア [3:56]
# STAR [4:39]
</div></div>
|オリコン最高271位
|-
|ミニ
|2011年[[12月7日]]
! Yet the earth does move
|FLHO-106
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全4曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 空
# Rainy Days
# Christmas Snow
# Dear...
</div></div>
|通販・ライブ会場・配信限定
|-
|ベスト
|[[2014年]][[7月2日]]
! Singles Collection : Decade-15
|PCCA-4051
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全17曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#TOP OF THE SUMMER
#Travelers Of Life
#NO MORE CRY
#ハイビスカス
#BRAND NEW WORLD
#Dreamin' on
#ALWAYS
#ファミリア
#セピア
#はじまる
#Stand Up !
#ロード
#Lady Don't Cry
#Forever Friends
#めぐり逢い
#LET's TRY
#ひとりじゃない
</div></div>
|オリコン圏外
|-
|コラボ
|[[2015年]][[4月29日]]
! Sing a Song 〜Present for...〜
|TKCA-74210
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全12曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#光の方へ / [[中西圭三]]
#逢えない / HIROKI.NAOTO([[ORANGE RANGE]])
#恋のシーソー / [[Vligde]]
#微熱 / [[アンダーグラフ]]
#You’re my Love / [[MIHIRO 〜マイロ〜]]
#4.9センチ / [[前山田健一]](ヒャダイン)
#MOMENT / DJ KATSU([[Hilcrhyme]])
#さよならのかわりに / [[Be Choir]]
#ONE DAY ONE LIFE / TAKE.KOHSHI([[FLOW]])
#Be with you tonight / SUGA([[dustbox]])
#SHAKE UP MY HEART / [[イクマあきら]]
#わナンバー / D-51 ※新曲
</div></div>
|オリコン圏外
|-
|カバー
|[[2015年]][[11月18日]]
! Animeno
|FLH-1001
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全7曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#[[お料理行進曲]]
#でてこいとびきりZENKAIパワー
#[[微笑みの爆弾]]
#四方八方肘鉄砲
#空へ...
#[[悪魔くん (曲)|悪魔くん]]
#[[君が好きだと叫びたい]]
</div></div>
|オリコン圏外<br />アニメソングカバーミニアルバム
|-
|ミニ
|[[2017年]][[9月20日]]
! whim
|FLH-1002
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全7曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Treasure
#アネモネ
#平均寿命
#はなから愛していないでしょ?
#Only You
#Above the sky
#フレーフレー明日の君へ
</div></div>
|
|-
|ミニ
|[[2018年]][[9月26日]]
! Late Summer
|UPCY-7538
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead">全8曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
#Take it easy
#We could be good friends
#忘れないよ
#ノクターン
#ラストシーン
#南の島のメリークリスマス
#Cindy
#忘れないよ Tropical Beach Ver.
</div></div>
|
|-
|}
=== 配信 ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!発売日
!タイトル
!タイアップ
|-
|[[2016年]][[4月27日]]
|Treasure
|[[沖縄バヤリース]] 2016,2017 CMソング
|-
|[[2018年]][[2月7日]]
|忘れないよ
|[[NHKみんなのうた]] 2018年2-3月
|-
|[[2018年]][[2月7日]]
|ラストシーン
|
|-
|[[2018年]][[7月25日]]
|忘れないよ Tropical Beach Ver.
|
|-
|}
=== DVD ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!style="width:31%"|収録曲
!備考
|-
|1st
|2009年07月08日
! 5TH ANNIVERSARY -D-51 MUSIC CLIP COLLECTION-
|PCBP-51935
|
#TOP OF THE SUMMER
#DREAMIN’ ON
#NO MORE CRY
#ハイビスカス
#ALWAYS
#BRAND NEW WORLD
#はじまる
#FOREVER FRIENDS
#STAND UP!
#セピア
#TRAVELERS OF LIFE
#ロード
|オリコン圏外
|-
|}
=== 参加作品 ===
{|class="wikitable" style=font-size:small
|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
!style="width:31%"|収録曲
!備考
|-
|2006年06月07日
! [[フジテレビ]]「[[めざましテレビ]]」39キャンペーン<br />ポニーキャニオン盤 Thank You〜ありがとう〜
|PCCA-02263
|1.あなたへ 〜A Song For You
|ポニーキャニオン
|-
|2007年03月07日
! [[ONE PIECE SUPER BEST]]
|AVCA-26233<br />AVCA-26235
|DISC1-6.BRAND NEW WORLD
|avex mode
|-
|2008年02月20日
! シュウカツ<nowiki>!!</nowiki>
|MHCL-1288
|8.NO MORE CRY
|GT music
|-
|2008年04月16日
! J-MOVIE SONGS
|MHCL-1321
|7.ALWAYS
|GT music
|-
|2009年04月15日
! [[BLUE DRAGON (アニメ)|BLUE DRAGON]] OPENING & ENDING THEME SONGS
|PCCR-00955
|6.セピア
|ポニーキャニオン
|-
|2010年03月17日
! [[ONE PIECE MEMORIAL BEST]]
|AVCA-29700B<br />AVCA-29702
|DISC1-6.BRAND NEW WORLD
|avex mode
|-
|2010年09月01日
! [[家庭教師ヒットマンREBORN!]] OPENING & ENDING THEME SONGS3<br />〜未来決戦編までのアニメ主題歌をフルで聴け!〜
|PCCA-03259
|6.ファミリア
|ポニーキャニオン
|-
|2011年03月02日
! [[BEGIN (バンド)|BEGIN]] 20th アニバーサリー スペシャル・トリビュート・アルバム
|TECI-1298
|12.誓い
|Imperial Records
|-
|2012年08月22日
! [[オリオンビール]]55周年記念 オリオンビールCMソング大全集
|TECI-1338
|DISC1-16.オレトモ (2006 ドラフトビール)
|Imperial Records
|-
|2012年11月28日
! '''アゲイン! 00's BEST OF HEARTFUL J-POP SONGS'''
|AQCD-50756
|DISC2-2.NO MORE CRY
|avex infinity
|-
|2013年01月16日
! [[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]] 15th Anniversary BEST ALBUM
|AVCA-62205
|6.BRAND NEW WORLD
|avex mode
|-
|2015年10月01日
! [[青年海外協力隊]]50周年イメージソング
|SLCL-9010
|ひとりひとつ
|[[ユーズミュージック|U's Music]]
|-
|2016年02月03日
! Cheer up! あなたへのエール・ソングス(応援歌)
|PCCA-04341
|6.NO MORE CRY
|ポニーキャニオン
|-
|}
== タイアップ一覧 ==
{| class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
!タイトル!!タイアップ
|-
|TOP OF THE SUMMER||[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[フジネットワーク|系]]『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』[[2004年]]6・7月度エンディングテーマ
|-
|Dreamin' on||[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系]]『[[アッコとマチャミの新型テレビ]]』テーマソング
|-
|NO MORE CRY||日本テレビ系ドラマ『[[ごくせん (テレビドラマ)|ごくせん]]』主題歌
|-
|バッカナルTIME||[[オリオンビール]] オリオンドラフトビールCMソング
|-
|ALWAYS||映画『[[ALWAYS 三丁目の夕日]]』主題歌
|-
|BRAND NEW WORLD||フジテレビ系アニメ『[[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]]』主題歌
|-
|はじまる||[[TBSテレビ|TBS]][[Japan News Network|系]]『[[王様のブランチ]]』2006年10・11月度エンディングテーマ
|-
|Forever Friends||日本テレビ系『[[音楽戦士 MUSIC FIGHTER]]』2007年1月度エンディングテーマ<br />[[カルピス]] [[カルピスウォーター]]CMソング
|-
|Stand Up!||[[テレビ東京]][[TXN|系]][[ドラマ24]]『[[BOYSエステ#テレビドラマ|BOYSエステ]]』主題歌
|-
|セピア||テレビ東京系アニメ『[[BLUE DRAGON (アニメ)|BLUE DRAGON]]』エンディングテーマ
|-
|The life is dramatic||[[テレビ神奈川|tvk]]「[[高校野球ニュース|高校野球ニュース2009]]」<br />([[第91回全国高等学校野球選手権大会|第91回]][[全国高等学校野球選手権神奈川大会]])オープニング曲
|-
|Travelers Of Life||カルピス カルピスウォーターCMソング
|-
|Lady Don't Cry||[[青山商事|洋服の青山]] 「婚活スーツ」CMソング
|-
|ファミリア||テレビ東京系アニメ『[[家庭教師ヒットマンREBORN!]]』エンディングテーマ
|-
|GOLDEN TIME||[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]『[[週刊キングスTV]]』エンディングテーマ<br />[[ユニー|APITA]]2011年初売りCMソング
|-
|Midnight Train||[[ウィルコム沖縄]]テレビCMソング
|-
|あこがれ||[[BSフジ]]『[[beポンキッキーズ]]』挿入歌
|-
|Perfect World (FUJIMINO MIX)||クイーンズヒル迎賓館CMソング
|-
|めぐり逢い||映画『[[百年の時計]]』主題歌<br />[[西日本放送テレビ|西日本放送]]『[[RNC news every.]]』2012年10 - 12月度エンディングテーマ<br />[[朝日放送テレビ|朝日放送]]『[[東西芸人いきなり!2人旅]]』2012年10月度エンディングテーマ
|-
|恋のシーソー||日本テレビ系『[[バズリズム]]』POWER PLAY
|-
|Treasure||[[沖縄バヤリース]] 2016〜2018 CMソング
|-
|フレーフレー明日の君へ||[[沖縄バヤリース]] 2017 CMソング
|-
|Only You||マリエールオークパイン那覇2017-2019CMソング
|-
|忘れないよ||[[NHKみんなのうた]] 2018年2-3月
|-
|}
== ミュージックビデオ ==
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
! 監督
! 曲名
|-
|[[青木亮二]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=yAxNHXjb0QA Lady Don't Cry]」
|-
|[[井上強]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=t3X69lAvYW4 Stand Up!]」
|-
|[[江原慎太郎]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=ddV9Xmi6GJQ セピア]」
|-
|[[窪田崇]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=JtLHVlsEfhg ロード]」
|-
|[[後藤光]]
|「ファミリア」
|-
|[[高田弘隆]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=8wlWQ-preu0 Dreamin'on]」「[https://www.youtube.com/watch?v=knYowLDYlcI NO MORE CRY]」「[https://www.youtube.com/watch?v=oz1LJ_8oGws TOP OF THE SUMMER]」「[https://www.youtube.com/watch?v=_2wolEEVIOY ハイビスカス]」
|-
|[[土屋隆俊]]
|「Travelers Of Life」
|-
|[[ニシヤママコト]]
|「LET'S TRY」
|-
|[[野田智雄]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=sKHg-JQaLBQ ALWAYS]」「BRAND NEW WORLD」「[https://www.youtube.com/watch?v=rHLES6tS9wk Forever Friends]」「[https://www.youtube.com/watch?v=gW0V2HmhYrA はじまる]」
|-
|[[渡辺素雄]]
|「[https://www.youtube.com/watch?v=TIqxGwlQGS8 めぐり逢い]」
|-
|}
== 主な出演イベント ==
{{Colbegin|2}}
*2004年06月26日 - 第4回 うたの日コンサート
*2004年08月28日 - SOUND MARINA '04 in SAKA 〜Feel the voice 3〜
*2005年08月21日 - [[a-nation]] 2005
*2005年08月23日 - TREASURE052 2005 ~SUMMER MIZ~
*2005年08月27日 - SOUND MARINA 2005〜Feel the Voice 4〜
*2005年09月03日 - [[音楽と髭]]達 2005
*2006年07月01日 - 第24回 [[ピースフルラブ・ロックフェスティバル|PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL]] 2006
*2008年07月05日 - 第26回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2008
*2009年07月04日 - 第27回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2009
*2009年08月07日 - 音霊 OTODAMA SEA STUDIO 2009
*2009年10月12日 - FUJIYAMA MUSIC FESTIVAL09×NOREN
*2010年07月03日 - 第28回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2010
*2010年10月11日 - 2010那覇まつりRBC市民フェスティバル&ビアパラダイス
*2011年07月09日 - 第29回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2011
*2012年07月07日 - 第30回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2012
*2012年10月16日 - 12色の素晴らしき歌声たちと 〜Black〜
*2013年05月26日 - Live! Do You KYOTO? 2013
*2013年10月27日 - 沖縄ぱいかじフェスティバル IN MATSUDO
*2014年07月12日 - 第32回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2014
*2014年08月17日 - a-nation island ANIMATION 15th ANNIVERSARY ONE PIECE SUPER LIVE "UTAGE" in a-nation
*2014年10月18日 - [[帝京大学]] 第48回 青舎祭 屋外ライブ2014
*2014年11月02日 - [[広島経済大学]] 第47回 経大祭
*2015年05月05日 - 第41回那覇ハーリー
*2015年08月30日 - [[ORANGE RANGE]] presents テレビズナイト015
*2015年11月01日 - [[日本大学]]国際関係学部・日本大学短期大学部 第65回 富桜祭
*2015年12月31日 - ニューレオマワールド カウントダウンセレブレーション
*2016年02月15日 - [[アンダーグラフ|UNDER GRAPH]] Live Tour 2016 ~チョコより宴、三夜続けて恋の歌!?~
*2016年04月30日 - OKUMA BEACH FEST 2016
*2016年07月09日 - 第34回 PEACEFUL LOVE ROCK FESTIVAL 2016
*2016年07月16日 - HIRAKATAから世界を~夏の陣~
*2016年10月16日 - [[東北学院大学]] 多賀城キャンパス 工学部祭
*2016年11月03日 - [[江戸川大学]] 駒木祭
*2017年11月05日 - [[中京大学]] 豊田キャンパス とよた祭
{{Colend|2}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://d-51.jp/ D-51 OFFICIAL WEBSITE]
* [https://ameblo.jp/d51blog/ D-51 オフィシャルブログ「オラに元気をわけてくれ」]
* {{Twitter|d51_yu|D-51 上里優}}
* {{Twitter|d51_yasu|D-51 吉田安英}}
* {{Instagram|yoshida_d_yasuhide|吉田安英}}
{{D-51}}
{{Singer-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ていいこおいち}}
[[Category:日本のボーイ・バンド]]
[[Category:沖縄県出身の人物]]
[[Category:NHK紅白歌合戦出演者]]
[[Category:ポニーキャニオンのアーティスト]]
[[Category:2人組の音楽グループ]]
[[Category:2003年に結成した音楽グループ]]
|
2003-09-13T05:04:36Z
|
2023-10-31T11:54:48Z
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[
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"Template:出典の明記",
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] |
https://ja.wikipedia.org/wiki/D-51
|
16,508 |
リグ・ヴェーダ
|
『リグ・ヴェーダ』(梵: ऋग्वेद、ṛgveda、英: Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。
「リグ」は讃歌を構成する詩節を意味するリチ(ṛc)の連音形である。「ヴェーダ」は「知識」を意味している。『リグ・ヴェーダ』には賛歌であるサンヒターのほかに散文のブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドなどが含まれるが、単に『リグ・ヴェーダ』といった場合、通常サンヒターを指す。『サーマ・ヴェーダ』が賛歌を歌うウドガートリ祭官、『ヤジュル・ヴェーダ』が祭儀行為にともなう呪文を唱えるアドヴァリユ祭官のために存在するのに対し、『リグ・ヴェーダ』は賛歌を唱えあるいは朗詠するホートリ祭官のためにある。
古代以来長らく口承されたヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(詩聖・聖仙)たちによって感得されたものとされる。成立時期ははっきりせず議論が分かれるが、おおまかに紀元前2千年紀後半(1500-1000BC)ごろと考えられる。
ミヒャエル・ヴィツェルによると、第1段階として巻1後半(1.51以降)から巻8までが十王戦争でスダース王による覇権がなった後にバラタ族によって編纂され、その後巻1と巻8の前半部分が追加された。第2段階としてパリークシット(英語版)王がクルクシェートラに開いたクル国で巻9と巻10を含めた完全な形に編纂された。
紀元前12世紀ころ、現在の形に編纂された。
『リグ・ヴェーダ』は10のマンダラ(maṇḍala、巻)から構成される。ひとつの巻には複数のスークタ(sūkta、篇)を収録し、1篇の讃歌はいくつかの詩節(ṛc)から構成される。『リグ・ヴェーダ』の特定の詩節を引用する場合は、マンダラの番号・そのマンダラ内でのスークタの通し番号、詩節番号の3つの数字を通常用いる。
現存する『リグ・ヴェーダ』は補遺を含めて1028篇の讃歌(スークタ)から構成される。ひとつの讃歌を構成する詩節の数は3から58まで多様であるが、10-12詩節を越えるものはまれである。主なヴェーダの韻律にはトリシュトゥブ(11音節4句)、ガーヤトリー(8音節3句)、ジャガティー(12音節4句)があり、この3種類だけで全体の約8割に達する。
『リグ・ヴェーダ』ではほかにも複数のスークタをまとめたアヌヴァーカ(anuvāka)という単位も用いられ、さらに別の方式による分類(全体を8つのアシュタカに分け、アディヤーヤとヴァルガに細分する)も記されているが、引用時には用いられない。ヘルマン・グラスマンは『リグ・ヴェーダ』のすべての賛歌に1から1028までの通し番号を振っている。
『リグ・ヴェーダ』は非常に長い間、おそらく千年以上にわたって口承によってのみ伝えられた。文字に記されるようになった時期は不明だが、おそらく西暦1000年ごろと考えられている。現存最古の写本は1464年のもので(バンダルカル東洋学研究所蔵)、『リグ・ヴェーダ』の成立時期から考えるときわめて新しい。
他のヴェーダと同様に、『リグ・ヴェーダ』のサンヒターはいくつかの流派(シャーカー)に分かれて伝えられた。『ヤジュル・ヴェーダ』のパリシシュタ(ヴェーダに対する補足)である『チャラナヴィユーハ』には『リグ・ヴェーダ』の流派としてシャーカラ、バースカラ、アーシュヴァラーヤナ、シャーンカーヤナ、マーンドゥーカーヤナの5派があったことを伝え、他の文献ではさらに多くの流派を羅列しているが、そのほとんどは滅んだか、少なくとも発見されていない。通常使われているのはシャーカラ版で、19世紀にフリードリヒ・マックス・ミュラーによって校訂出版された。2009年になってアーシュヴァラーヤナ版が刊行されたが、その内容はシャーカラ版を元にし、時代の新しい212句が加えられたものである。知られる限り他の流派についても同様で、シャーカラ版との違いはごく小さい。
『リグ・ヴェーダ』の索引としてアーシュヴァラーヤナ派のシャウナカという人物によって書かれた『アヌクラマニー』 (Anukramaṇī) という書物がある。この書物は各賛歌の作者と対象とする神々を羅列している。『アヌクラマニー』の記述には神々を作者としているものや、賛歌の内容をもとに作者をあてたようなものもあり、そのすべてを信じるわけにはいかないが、ある程度参考になる。それによれば、2巻から7巻までは基本的にそれぞれひとつの家系によるものであり、各巻の家系の始祖とされるリシは以下のようになっている。
また巻8の多くはカンヴァおよびアンギラスの家系によって書かれている。
後世これらのリシは神話化されて神々に匹敵する非常に大きな力を持つとされた。
中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。各巻はまず対象とする神によって分類され、同じ神では長いものから順に並べられている。長さも同じ場合は韻律によって分類される。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる(なお、8.49-8.59の11篇はヴァーラキリヤと呼ばれる補遺で、成立時代がもっとも新しい)。9巻はこれらとは大きく異なり、ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。
賛歌の大部分は特定の神または神々を賛美し、供犠によって神々を迎え、その加護を求める内容を持つ。讃歌の対象となった神格の数は非常に多く、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。
一部の賛歌は『アタルヴァ・ヴェーダ』に近い呪術的な内容を持つ。
とくに新しい部分である巻10には実際の祭祀と無関係と思われる作品もかなり含まれている。これらは祭祀の意義を伝えるためのものと考えられる。
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"text": "『リグ・ヴェーダ』(梵: ऋग्वेद、ṛgveda、英: Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。",
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"text": "「リグ」は讃歌を構成する詩節を意味するリチ(ṛc)の連音形である。「ヴェーダ」は「知識」を意味している。『リグ・ヴェーダ』には賛歌であるサンヒターのほかに散文のブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドなどが含まれるが、単に『リグ・ヴェーダ』といった場合、通常サンヒターを指す。『サーマ・ヴェーダ』が賛歌を歌うウドガートリ祭官、『ヤジュル・ヴェーダ』が祭儀行為にともなう呪文を唱えるアドヴァリユ祭官のために存在するのに対し、『リグ・ヴェーダ』は賛歌を唱えあるいは朗詠するホートリ祭官のためにある。",
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"text": "古代以来長らく口承されたヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的なヒンドゥー教の立場ではリシ(詩聖・聖仙)たちによって感得されたものとされる。成立時期ははっきりせず議論が分かれるが、おおまかに紀元前2千年紀後半(1500-1000BC)ごろと考えられる。",
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"text": "ミヒャエル・ヴィツェルによると、第1段階として巻1後半(1.51以降)から巻8までが十王戦争でスダース王による覇権がなった後にバラタ族によって編纂され、その後巻1と巻8の前半部分が追加された。第2段階としてパリークシット(英語版)王がクルクシェートラに開いたクル国で巻9と巻10を含めた完全な形に編纂された。",
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"text": "現存する『リグ・ヴェーダ』は補遺を含めて1028篇の讃歌(スークタ)から構成される。ひとつの讃歌を構成する詩節の数は3から58まで多様であるが、10-12詩節を越えるものはまれである。主なヴェーダの韻律にはトリシュトゥブ(11音節4句)、ガーヤトリー(8音節3句)、ジャガティー(12音節4句)があり、この3種類だけで全体の約8割に達する。",
"title": "構成"
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"text": "『リグ・ヴェーダ』ではほかにも複数のスークタをまとめたアヌヴァーカ(anuvāka)という単位も用いられ、さらに別の方式による分類(全体を8つのアシュタカに分け、アディヤーヤとヴァルガに細分する)も記されているが、引用時には用いられない。ヘルマン・グラスマンは『リグ・ヴェーダ』のすべての賛歌に1から1028までの通し番号を振っている。",
"title": "構成"
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"text": "『リグ・ヴェーダ』は非常に長い間、おそらく千年以上にわたって口承によってのみ伝えられた。文字に記されるようになった時期は不明だが、おそらく西暦1000年ごろと考えられている。現存最古の写本は1464年のもので(バンダルカル東洋学研究所蔵)、『リグ・ヴェーダ』の成立時期から考えるときわめて新しい。",
"title": "テクスト"
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"text": "他のヴェーダと同様に、『リグ・ヴェーダ』のサンヒターはいくつかの流派(シャーカー)に分かれて伝えられた。『ヤジュル・ヴェーダ』のパリシシュタ(ヴェーダに対する補足)である『チャラナヴィユーハ』には『リグ・ヴェーダ』の流派としてシャーカラ、バースカラ、アーシュヴァラーヤナ、シャーンカーヤナ、マーンドゥーカーヤナの5派があったことを伝え、他の文献ではさらに多くの流派を羅列しているが、そのほとんどは滅んだか、少なくとも発見されていない。通常使われているのはシャーカラ版で、19世紀にフリードリヒ・マックス・ミュラーによって校訂出版された。2009年になってアーシュヴァラーヤナ版が刊行されたが、その内容はシャーカラ版を元にし、時代の新しい212句が加えられたものである。知られる限り他の流派についても同様で、シャーカラ版との違いはごく小さい。",
"title": "テクスト"
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"text": "『リグ・ヴェーダ』の索引としてアーシュヴァラーヤナ派のシャウナカという人物によって書かれた『アヌクラマニー』 (Anukramaṇī) という書物がある。この書物は各賛歌の作者と対象とする神々を羅列している。『アヌクラマニー』の記述には神々を作者としているものや、賛歌の内容をもとに作者をあてたようなものもあり、そのすべてを信じるわけにはいかないが、ある程度参考になる。それによれば、2巻から7巻までは基本的にそれぞれひとつの家系によるものであり、各巻の家系の始祖とされるリシは以下のようになっている。",
"title": "作者"
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"text": "また巻8の多くはカンヴァおよびアンギラスの家系によって書かれている。",
"title": "作者"
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"text": "後世これらのリシは神話化されて神々に匹敵する非常に大きな力を持つとされた。",
"title": "作者"
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"text": "中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。各巻はまず対象とする神によって分類され、同じ神では長いものから順に並べられている。長さも同じ場合は韻律によって分類される。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる(なお、8.49-8.59の11篇はヴァーラキリヤと呼ばれる補遺で、成立時代がもっとも新しい)。9巻はこれらとは大きく異なり、ソーマに関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。",
"title": "内容"
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"text": "賛歌の大部分は特定の神または神々を賛美し、供犠によって神々を迎え、その加護を求める内容を持つ。讃歌の対象となった神格の数は非常に多く、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。",
"title": "内容"
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"text": "一部の賛歌は『アタルヴァ・ヴェーダ』に近い呪術的な内容を持つ。",
"title": "内容"
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"text": "とくに新しい部分である巻10には実際の祭祀と無関係と思われる作品もかなり含まれている。これらは祭祀の意義を伝えるためのものと考えられる。",
"title": "内容"
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『リグ・ヴェーダ』は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。
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[[ファイル:Rigveda MS2097.jpg|thumb|300px|リグ・ヴェーダ]]
{{Hinduism}}
『'''リグ・ヴェーダ'''』({{lang-sa-short|ऋग्वेद}}、{{transl|sa|ṛgveda}}、{{lang-en-short|Rigveda}})は、[[古代インド]]の聖典である[[ヴェーダ]]の1つ。[[サンスクリット]]の古形にあたる[[ヴェーダ語]]で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌(うち11篇は補遺)からなる。
== 呼称 ==
「リグ」は讃歌を構成する[[詩節]]を意味するリチ({{IAST|ṛc}})の[[連音]]形である{{r|winternitz|page=54}}。「ヴェーダ」は「知識」を意味している<ref>[[#菅沼編 1985|菅沼晃編(1985)『インド神話伝説辞典』]]、9-10頁。(インドの神話・伝説(概説))</ref>。『リグ・ヴェーダ』には賛歌である[[サンヒター]]のほかに散文の[[ブラーフマナ]]、[[アーラニヤカ]]、[[ウパニシャッド]]などが含まれるが、単に『リグ・ヴェーダ』といった場合、通常サンヒターを指す{{r|winternitz|page=57}}。『[[サーマ・ヴェーダ]]』が賛歌を歌うウドガートリ祭官、『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』が祭儀行為にともなう呪文を唱えるアドヴァリユ祭官のために存在するのに対し、『リグ・ヴェーダ』は賛歌を唱えあるいは朗詠するホートリ祭官のためにある{{r|jb|page=4}}{{r|winternitz|page=161-162}}。
== 歴史 ==
古代以来長らく口承された[[ヴェーダ]]聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。伝統的な[[ヒンドゥー教]]の立場では[[リシ]](詩聖・聖仙)たちによって感得されたものとされる。成立時期ははっきりせず議論が分かれるが、おおまかに[[紀元前2千年紀]]後半(1500-1000BC)ごろと考えられる{{r|jb|page=5}}。
ミヒャエル・ヴィツェルによると、第1段階として巻1後半(1.51以降)から巻8までが[[十王戦争]]で[[スダース]]王による覇権がなった後に[[バラタ族]]によって編纂され、その後巻1と巻8の前半部分が追加された。第2段階として{{仮リンク|パリークシット|en|Parikshit}}王が[[クルクシェートラ]]に開いた[[クル国]]で巻9と巻10を含めた完全な形に編纂された<ref>{{cite book|first=Michael|last=Witzel|year=1997|chapter=The development of the Vedic canon and its schools: the social and political milieu|title=Inside the Texts, Beyond the Texts|editor=Michael Witzel|pages=257-345|series=Harvard Oriental Series, Opera Minora|volume=2|location=Cambridge|doi=10.11588/xarep.00000110}}</ref>。
[[紀元前12世紀]]ころ、現在の形に[[編纂]]された<ref>[[中谷英明]] (2000)「古代インドにおける哲学と文献学」『古典学の再構築』第5号. pp. 18-21. ({{PDFLink|[http://classics.jp/RCS/NL05/NL05Naka.pdf オンライン・ペーパー]}})</ref>。
== 構成 ==
『リグ・ヴェーダ』は10のマンダラ({{unicode|maṇḍala}}、巻)から構成される。ひとつの巻には複数のスークタ({{unicode|sūkta}}、篇)を収録し、1篇の讃歌はいくつかの[[詩節]]({{unicode|ṛc}})から構成される。『リグ・ヴェーダ』の特定の詩節を引用する場合は、マンダラの番号・そのマンダラ内でのスークタの通し番号、詩節番号の3つの数字を通常用いる。
現存する『リグ・ヴェーダ』は補遺を含めて1028篇の讃歌(スークタ)から構成される<ref>Macdonell (1900) p.40</ref>。ひとつの讃歌を構成する詩節の数は3から58まで多様であるが、10-12詩節を越えるものはまれである。主な[[ヴェーダの韻律]]にはトリシュトゥブ(11音節4句)、ガーヤトリー(8音節3句)、ジャガティー(12音節4句)があり、この3種類だけで全体の約8割に達する<ref>Macdonell (1900) pp.54-55</ref>。
『リグ・ヴェーダ』ではほかにも複数のスークタをまとめたアヌヴァーカ({{unicode|anuvāka}})という単位も用いられ、さらに別の方式による分類(全体を8つのアシュタカに分け、アディヤーヤとヴァルガに細分する)も記されているが、引用時には用いられない。[[ヘルマン・グラスマン]]は『リグ・ヴェーダ』のすべての賛歌に1から1028までの通し番号を振っている。
== テクスト ==
『リグ・ヴェーダ』は非常に長い間、おそらく千年以上にわたって口承によってのみ伝えられた{{r|jb|page=13-14}}。文字に記されるようになった時期は不明だが、おそらく西暦1000年ごろと考えられている{{r|jb|page=18}}。現存最古の写本は1464年のもので(バンダルカル東洋学研究所蔵)、『リグ・ヴェーダ』の成立時期から考えるときわめて新しい{{r|jb|page=18}}。
他のヴェーダと同様に、『リグ・ヴェーダ』のサンヒターはいくつかの流派(シャーカー)に分かれて伝えられた。『[[ヤジュル・ヴェーダ]]』のパリシシュタ(ヴェーダに対する補足)である『チャラナヴィユーハ』には『リグ・ヴェーダ』の流派としてシャーカラ、バースカラ、アーシュヴァラーヤナ、シャーンカーヤナ、マーンドゥーカーヤナの5派があったことを伝え、他の文献ではさらに多くの流派を羅列しているが、そのほとんどは滅んだか、少なくとも発見されていない。通常使われているのはシャーカラ版で、19世紀に[[フリードリヒ・マックス・ミュラー]]によって校訂出版された。2009年になってアーシュヴァラーヤナ版が刊行されたが、その内容はシャーカラ版を元にし、時代の新しい212句が加えられたものである。知られる限り他の流派についても同様で、シャーカラ版との違いはごく小さい{{r|jb|page=15-16}}。
== 作者 ==
『リグ・ヴェーダ』の索引としてアーシュヴァラーヤナ派のシャウナカという人物によって書かれた『アヌクラマニー』{{enlink|Anukramaṇī}}という書物がある。この書物は各賛歌の作者と対象とする神々を羅列している。『アヌクラマニー』の記述には神々を作者としているものや、賛歌の内容をもとに作者をあてたようなものもあり、そのすべてを信じるわけにはいかないが、ある程度参考になる。それによれば、2巻から7巻までは基本的にそれぞれひとつの家系によるものであり、各巻の家系の始祖とされる[[リシ]]は以下のようになっている{{r|jb|page=10}}。
* 巻2 - {{仮リンク|グリッツァマダ|en|Gritsamada}}
* 巻3 - [[ヴィシュヴァーミトラ]]
* 巻4 - {{仮リンク|ヴァーマデーヴァ|en|Vamadeva}}
* 巻5 - [[アトリ (リシ)|アトリ]]
* 巻6 - [[バラドヴァージャ]]
* 巻7 - [[ヴァシシュタ]]
また巻8の多くは[[カンヴァ]]および[[アンギラス (インド神話)|アンギラス]]の家系によって書かれている{{r|jb|page=11}}。
後世これらのリシは神話化されて神々に匹敵する非常に大きな力を持つとされた。
== 内容 ==
中核となっているのは2巻から7巻で、祭官家の家集的な性質を持つ。各巻はまず対象とする神によって分類され、同じ神では長いものから順に並べられている。長さも同じ場合は韻律によって分類される{{r|jb|page=11}}。第1巻と第8巻は内容的に類似し、2巻〜7巻の前後に追加された部分と考えられる(なお、8.49-8.59の11篇はヴァーラキリヤと呼ばれる補遺で、成立時代がもっとも新しい)。9巻はこれらとは大きく異なり、[[ソーマ]]に関する讃歌が独占している。10巻は『リグ・ヴェーダ』の中で最も新しい部分とされる。
賛歌の大部分は特定の神または神々を賛美し、供犠によって神々を迎え、その加護を求める内容を持つ{{r|jb|page=7-8}}。讃歌の対象となった神格の数は非常に多く{{refnest|group="注釈"|例えば、[[インドラ]]、[[ヴァルナ (神)|ヴァルナ]](司法神)、[[ミトラ (インド神話)|ミトラ]](契約の神)、[[アシュヴィン双神]]、[[アグニ]](火神)、[[ソーマ]]、[[スーリヤ]](太陽神)、[[ヴァーユ]](風神)、ルドラ(後の[[シヴァ]]神)、[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]](死者の王)、[[ヴィシュヌ]]、など<ref>[[#上村 1981|上村勝彦(1981)『インド神話』]]、16-26頁。</ref>。}}、原則として神格相互のあいだには一定の序列や組織はなく、多数の神々は交互に最上級の賛辞を受けている。
一部の賛歌は『アタルヴァ・ヴェーダ』に近い呪術的な内容を持つ{{r|winternitz|page=109-111}}。
とくに新しい部分である巻10には実際の祭祀と無関係と思われる作品もかなり含まれている。これらは祭祀の意義を伝えるためのものと考えられる{{r|jb|page=8-9}}。
* 哲学的な内容を持つもの。プルシャ賛歌(10.90)、ヒラニヤガルバ賛歌(10.121)、宇宙創造に関する{{日本語版にない記事リンク|ナーサディーヤ讃歌|en|Nasadiya Sukta}}(10.129)などがあり、最後のものは[[ウパニシャッド]]哲学の萌芽ともいうべき帰一思想が断片的に散在している<ref>辻直四郎(1996)『リグ・ヴェーダ讃歌』第29刷{{full|date=2016-10-21}}、299頁。</ref>。
* 演劇に似たモノローグや対話が続く作品(アーキヤーナ)。たとえば最初の人間とされる[[ヤマ (インド神話)|ヤマ]]とヤミーの対話(10.10)、[[インドラ]]と[[インドラーニー]]と猿の[[ヴリシャーカピ]]の対話(10.86)、[[プルーラヴァス]]と[[ウルヴァシー]]の対話(10.95)、[[ヴァラ]]の洞窟を探りにきた雌犬[[サラマー]]と[[パニ族]]の対話(10.108)、[[アガスティヤ]]とその妻のローパームドラーの対話(10.179)などがある{{r|jb|page=8}}{{r|winternitz|page=100-107}}。
== 主なリグ・ヴェーダの原文と翻訳 ==
=== 日本語訳 ===
* 辻直四郎訳注 『リグ・ヴェーダ讃歌』 [[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、初版1970年。ISBN 978-4-00-320601-0。
* [[辻直四郎]]訳 「リグ・ヴェーダ讃歌」『インド集』 訳者代表 辻直四郎、[[筑摩書房]]〈世界文学大系 第4巻〉、1959年5月、pp. 5-37。{{全国書誌番号|55003870}}、{{NCID|BN02001043}}。
* 辻直四郎訳 「リグ・ヴェーダの讃歌」『ヴェーダ アヴェスター』 訳者代表 辻直四郎、筑摩書房〈[[世界古典文学全集]] 第3巻〉、1967年1月、pp. 5-104。{{全国書誌番号|55004966}}、{{NCID|BN01895536}}。
=== 日本語以外の主要な訳 ===
* {{cite book|author=Karl Freidrich Geldner|authorlink=カール・フリードリヒ・ゲルトナー|title=Der Rig-Veda aus dem Sanskrit ins Deutsche übersetzt|year=1951|location=London, Wiesbaden}}(定評のあるドイツ語訳)
* {{cite book|author=Stephanie W. Jamison|author2=Joel P. Brereton|title=The Rigveda : The Earliest Religious Poetry of India|year=2014|location=New York}}(英語訳)
* {{cite book|author=Michael E. J. Witzel|author2=Toshifumi Gotō(後藤敏文)|author3=Salvatore Scarlata|title=Rig-Veda : das heilige Wissen|year=2007,2013|location=Frankfurt am Main und Leipzig}} (ドイツ語新訳、巻1から巻5まで)
=== 原文 ===
* {{cite book|title=Die Hymnen des Rigveda|editor=Theodor Aufrecht|location=Bonn|publisher=Adolph Marcus|year=1877}}(ラテン文字表記)
* {{cite book|title=Rig Veda: a metrically restored text with an introduction and notes|author=Barend A. van Nooten |author2=Gary B. Holland|series=Harvard Oriental vol 5|location=Massachusetts|publisher=Harvard University Press|year=1994}}(ラテン文字表記、韻律が合わない箇所を合うように復元したもの)
* {{cite book|title=Rig-Veda-Samhitā: the sacred hymns of the Brāhmans, together with the commentary of Sāyanāchārya |editor=F. Max Müller |location=London |publisher=W.H. Allen |year=1874}}(デーヴァナーガリー表記)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist|refs=
<ref name="jb">{{cite book|title=The Rigveda: The Earliest Religious Poetry of India|others=translated by Stephanie W. Jamison and Joel P. Brereton|year=2017|origyear=2014|publisher=Oxford University Press|isbn=9780190685003}}</ref>
<ref name="winternitz">{{cite book|last=Winternitz |first=Moriz|authorlink=モーリッツ・ヴィンターニッツ|title=A History of Indian Literature|year=1927|others=translated by S. Ketkar|volume=1|publisher=University of Calcutta|url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.97551/page/n101/mode/2up}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。-->
* {{Cite book |和書 |author=上村勝彦|authorlink=上村勝彦 |title=インド神話 |publisher=[[東京書籍]] |date=1981-03 |isbn=978-4-487-75015-3 |ref=上村 1981 }}
** のち文庫化。上村勝彦 『インド神話 - マハーバーラタの神々』 [[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉、2003年1月。ISBN 978-4-480-08730-0。
* {{Cite book |和書 |editor=菅沼晃|editor-link=菅沼晃 |title=インド神話伝説辞典 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1985-03 |isbn=978-4-490-10191-1 |ref=菅沼編 1985 }}
* {{Cite book |和書 |others=辻直四郎訳注 |title=リグ・ヴェーダ讃歌 |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |date=1970-05 |isbn=978-4-00-320601-0 |ref= }}
* {{cite book|url=https://archive.org/stream/historyofsanskri00macduoft#page/54/mode/2up|title=A History of Sanskrit Literature|author=Macdonell, A. A|authorlink=アーサー・アンソニー・マクドネル|year=1900|location=Oxford|publisher=Clarendon Press|pages=54-58}}
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。
書籍の宣伝はおやめ下さい。-->
* 外薗幸一, 「[https://tripitaka.l.u-tokyo.ac.jp/INBUDS/search.php?m=trd&enm=%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%B5%8C%E5%A4%A7%E8%AB%96%E9%9B%86&usid=3343&a= 多神教の倫理 : リグ・ヴェーダの倫理観]」『鹿兒島経大論集』 第35巻第2号、[[鹿児島国際大学]]、1994年7月20日、pp.79-117。{{NAID|110004672218}}。{{オープンアクセス}}
== 関連項目 ==
* [[ヴェーダ語]]
* [[ヴェーダの韻律]]
* [[十王戦争]]
* [[インド古典演劇]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Rig Veda}}
{{wikisourcelang|sa|ऋग्वेदः|リグ・ヴェーダ}}
* [https://liberalarts.utexas.edu/lrc/rigveda/index.php The Rigveda : Metrically Restored Text] - utexas.edu {{en icon}}
* [http://www.sacred-texts.com/hin/rigveda/ The Rig Veda (Ralph T.H. Griffith, Translator. 1896)] - Sacred Texts {{en icon}}
* [http://www.aa.tufs.ac.jp/i-moji/tenji/syousai/B22.html 『リグ・ヴェーダ』聖典の写本(国立民族学博物館所藏「中西コレクション」)] - アジア・アフリカ言語文化研究所 {{ja icon}}
* [https://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/scans/GRAScan/2020/web/index.php {{de|Grassmann Wörterbuch zum Rig Veda}}]([[ヘルマン・グラスマン]]によるリグ・ヴェーダ辞典のオンライン版、[[ケルン大学]])
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16,509 |
感情
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感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある(感情の一覧)。
精神医学・心理学では感情(英: emotion)と気分(mood)を区別することがあり、前者の方がより一時的なものをさす(しばしば天気 weather と天候 climate に例えられる)。しかし両者を区別せずに使用する場合も多い。脳科学的には、感情は大脳の表面(大脳皮質)、および脳の深部(辺縁系など)、身体の密接な相互作用で成り立っているとする。また感情と思考や認知は、たとえその人が意識にのぼらせなくても密接に関係し合っている(「感情の脳科学」節参照)。
一般に人間(ヒト)は感情を抱くが、ヒト以外の哺乳類も、大脳辺縁系の構造はヒトと類似していること、辺縁系各部位に対する電気刺激や神経作用物質の投与により、不安・恐怖・怒りなどヒトの情動反応に類似した反応をみせることが古くから知られ、これらの動物にも感情(情動)があると推測されることも多い。ただし、比較認知科学的には研究が始まったばかりであり、あくまでも刺激と行動の相関関係が観測されているだけにすぎない、とする主張もある。
生活文化においては、単に「情」と略する事がある。他人の感情を深くくみ取り(感受性が高い)、場合によってはそれに伴った感情を態度(涙を流すなど)や行動に表すほどに心が豊かな事を「情に厚い」という。「情に厚い江戸っ子気質」などの語句に使用され、江戸っ子のいきの一つともされている。
生物学的には感情は大きく四つの要因に分ける事ができる。(1)感情を引き起こす脳科学的メカニズム、(2)感情の社会的メカニズム、(3)個人の感情を形作る感情の個体発達、(4)種に普遍的な感情を形作った進化的機能である。前二者は至近要因、後二者は究極要因と呼ばれる。
生理学的には、感情には身体感覚に関連した無意識な感情(emotion, 情動)と意識的な感情(feelingもしくはemotional feeling)と分類されることが多い。意識的感情(feeling)には、大脳皮質(大脳の表面)とりわけ帯状回、前頭葉が関与している。無意識感情には、皮質下(脳の中心の方)の扁桃体、視床下部、脳幹に加えて、自律神経系、内分泌系、骨格筋などの末梢系(脳の外の組織)が関与する。しかし、感情も情動も皮質と帯状回のみで成立する、という反論も存在する(Rollsたち)。
emotionについては情動を参照のこと。
たとえば我々が恐怖を感じるとき、同時に脈がはやくなり、口が渇き、手に汗を握るのを感じる。恐怖を感じているのは皮質であり、末梢の反応(動悸など)を起こすのは皮質下である。しかし感情について考えるとき、両者を切り離して考えることはできない。
アントニオ・ダマシオらは、スタンレー・シャクターらの感情の二要因説を発展させ、感情を体験・認識することは、刺激に対して発生した身体反応を説明するために皮質が作るストーリーであると主張している。例えば、被験者にアドレナリンを注射した後で不快な環境に置いたところ、アドレナリンの副作用を知らされていない被験者は、アドレナリンにより起こった動悸や冷や汗などの反応を環境のせいにし不快がったが、副作用を知らせておいた被験者はアドレナリンのせいだと判断し、不快さも少なかったという。つまり皮質が、身体の反応を、前後の文脈と照らし合わせて解釈し感情というストーリーを作ったということになる。
(注)シャクターらは、感情2要因説を1960年代に唱えたが、その後2要因となるような直接の証拠が得られなかったため、彼は自身の仮説を修正して、生理的基盤(=情動)に基づいてその後感情が形成される、という感情の2段階説を唱えた(1982年)。これを発展させたのが、Lazarusたちで、感情を社会性も含めたより複雑なものとして定義した(罪悪感、やきもち、嫉妬、愛、なども含めた)。
マグダ・アーノルドの感情理論では、外界からの刺激に対して、まず危険であるか有益であるかを皮質下および帯状回で無意識に判断し、次に皮質でどう行動するかを判断する。その判断に基づいて末梢の反応(交感神経の興奮、骨格筋の緊張など)が起こり、最後に皮質にてそれを意識的な感情として認識する。この説の根拠となる実験的証拠は、強い感情を惹起する視覚刺激を短時間(30ms以下)呈示すると、意識上は認識できない(サブリミナル効果参照)にもかかわらず末梢では反応が見られるという事実である。しかし意識に関して、どこでどのように感情意識が発生しているか、という点については、いまだ諸説あり、詳細は不明である。
幼い赤ん坊でも生後数日で母親の表情に反応するようになる。また宙に浮いた物体を見せると長く見つめるなど、何らかの感情を持っていると考えられる。主要な感情は4歳頃までには形成される。
進化心理学では、感情の仕組みは、環境に応じて素早く行動を決定するための生物学的適応であり、進化の過程で形成されたと考える。進化心理学者は親族間の愛情は血縁選択によって、親子間、夫婦間の愛情と反目は親子の対立、性的対立の要因によって進化したと考えている。またレダ・コスミデスのような研究者はそれぞれの感情が異なる選択圧によって形成され、異なる機能を持ち、したがって異なる神経的基盤あるいはモジュールを持つと考えている。ロバート・トリヴァース、リチャード・アレグザンダー、マーティン・ノヴァクといった進化生物学者とゲーム理論家は、友情、協力、裏切り、罪悪感、公平さ、道徳観などを引き起こす動機として一部の感情が進化し、それは互恵的利他主義と間接互恵性、一般互酬性の理論から導きだせると考えている。このような視点からは、感情は少なくとも部分的には生得的であり、一般認知能力からある程度独立しており、内外の刺激に対して瞬時に自律的に発動すると考えられる。この生物学的適応という視点は機能主義心理学にも遡ることができる。
人間にはどのような感情があるのかについては古来様々に議論されてきた。以下に、歴史的文化的経緯、感情研究の歴史に基づく分類、 詳しくは感情の一覧を参照。
一般に、6種類の代表的な感情として、
が総称されることが多い。
人間の持つ代表的な感情を、
の五つにまとめて表す。
書物によって七情(中国語版)の内容は異なる。
「曰喜怒、曰哀懼、愛悪欲、七情具」とあり、
の七情が人にそなわっていると言う。
忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ) 等々。
感情を表す形容詞および形容動詞 (例:かなしい) 、その感情をいだいている/いだく動作を表す動詞 (例:かなしむ) 、抽象化された名詞 (例:かなしみ) を示す。ただし、「愛する」「嫌悪する」の様に「 (漢字) +〜する」は漢語が混ざっているため除いた。
ナヴァ・ラサ (人間の9つの基本的感情) というものがあり、それは、
の9つであるとされる (参考 ラサ) 。
悲しみ、幸福、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚きという七つの基本的感情が、文化によって異ならず、普遍的に同じ方法で表現されると考えていた。また子供の成長やオランウータンの感情表現の観察を通して、人間と他の霊長類の類似性を見いだした。
表情認知からみた感情の分類。ポール・エクマンは次の6つの感情は生物学的基盤を持ち、ヒューマン・ユニバーサルズであると結論した。
エクマンは1990年代にこのリストを拡張し、以下を加えた。
感情は表情や仕草となってあらわれる。表情は非言語コミュニケーションの一部である。
表情は自律的に働き、訓練しないと意識的にコントロールできない。またヒューマン・ユニバーサルな性質であり、どの文化でも基本的な表情は共通している。進化的な視点からは、コミュニケーション信号は他個体を操作するために自由にコントロールできる方が有利であると考えられるが、そうなっていない。アモツ・ザハヴィのような一部の生物学者は、正直に自分の感情を伝えることがもっとも利益を得られるからだと考え、ハンディキャップ信号の一種ではないかと主張しているが、実際にどのような利益があるのかは明らかでない。
音楽が人間に与える感情を利用して医療行為としての音楽療法が行われていた(ユーナーニー医学)。
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"text": "表情認知からみた感情の分類。ポール・エクマンは次の6つの感情は生物学的基盤を持ち、ヒューマン・ユニバーサルズであると結論した。",
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"text": "表情は自律的に働き、訓練しないと意識的にコントロールできない。またヒューマン・ユニバーサルな性質であり、どの文化でも基本的な表情は共通している。進化的な視点からは、コミュニケーション信号は他個体を操作するために自由にコントロールできる方が有利であると考えられるが、そうなっていない。アモツ・ザハヴィのような一部の生物学者は、正直に自分の感情を伝えることがもっとも利益を得られるからだと考え、ハンディキャップ信号の一種ではないかと主張しているが、実際にどのような利益があるのかは明らかでない。",
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"text": "音楽が人間に与える感情を利用して医療行為としての音楽療法が行われていた(ユーナーニー医学)。",
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感情(かんじょう)とは、ヒトなどの動物がものごとや対象に対して抱く気持ちのこと。喜び、悲しみ、怒り、諦め、驚き、嫌悪、恐怖などがある(感情の一覧)。
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{{Redirect|喜怒哀楽|ジャニーズWESTの楽曲|でっかい愛/喜努愛楽}}
{{出典の明記|date=2023年3月}}
[[File:Emotions - 3.png|thumb|感情の例。上から時計回りに、興奮・愛情・恐怖・怒り・悲しみ・喜び。]]
'''感情'''(かんじょう)とは、[[ヒト]]などの動物がものごとや対象に対して抱く[[気持ち]]のこと。[[喜び]]、[[悲しみ]]、[[怒り]]、[[諦め]]、[[驚愕|驚き]]、[[嫌悪]]、[[恐怖]]などがある([[感情の一覧]])。
== 概要 ==
[[精神医学]]・[[心理学]]では感情({{lang-en-short|emotion}})と[[気分]](mood)を区別することがあり、前者の方がより一時的なものをさす(しばしば[[天気]] weather と[[天候]] climate に例えられる)。しかし両者を区別せずに使用する場合も多い。[[脳科学]]的には、感情は[[大脳]]の表面([[大脳皮質]])、および[[脳]]の深部(辺縁系など)、[[身体]]の密接な[[相互作用]]で成り立っているとする。また感情と[[思考]]や[[認知]]は、たとえその人が意識にのぼらせなくても密接に関係し合っている([[#感情の生物学|「感情の脳科学」節]]参照)。
一般に[[人間]]([[ヒト]])は感情を抱くが、ヒト以外の[[哺乳類]]も、大脳辺縁系の構造はヒトと類似していること、辺縁系各部位に対する電気刺激や神経作用物質の投与により、不安・恐怖・怒りなどヒトの[[情動]]反応に類似した反応をみせることが古くから知られ、これらの動物にも感情(情動)があると推測されることも多い。ただし、比較認知科学的には研究が始まったばかりであり、あくまでも[[刺激]]と[[行動]]の相関関係が観測されているだけにすぎない、とする主張もある。
生活文化においては、単に「'''[[:wikt:情|情]]'''」と略する事がある。他人の感情を深くくみ取り(感受性が高い)、場合によってはそれに伴った感情を態度(涙を流すなど)や行動に表すほどに心が豊かな事を「情に厚い」という。「情に厚い江戸っ子気質」などの語句に使用され、[[江戸っ子]]の[[いき]]の一つともされている。
== 感情の生物学 ==
生物学的には感情は大きく四つの要因に分ける事ができる。(1)感情を引き起こす[[脳科学]]的メカニズム、(2)感情の社会的メカニズム、(3)個人の感情を形作る感情の[[発達|個体発達]]、(4)種に普遍的な感情を形作った進化的機能である。前二者は[[至近要因]]、後二者は[[究極要因]]と呼ばれる。
=== 至近要因-感情の脳科学 ===
[[生理学]]的には、感情には'''身体感覚に関連した[[無意識]]な感情'''(emotion, 情動)と'''[[意識]]的な感情'''(feelingもしくはemotional feeling)と分類されることが多い。意識的感情(feeling)には、'''大脳皮質'''(大脳の表面)とりわけ[[帯状回]]、[[前頭葉]]が関与している。無意識感情には、'''皮質下'''(脳の中心の方)の[[扁桃体]]、[[視床下部]]、[[脳幹]]に加えて、[[自律神経]]系、[[内分泌]]系、骨格筋などの'''末梢系'''(脳の外の組織)が関与する。しかし、感情も情動も皮質と帯状回のみで成立する、という反論も存在する(Rollsたち)。
emotionについては[[情動]]を参照のこと。
たとえば我々が恐怖を感じるとき、同時に脈がはやくなり、口が渇き、手に汗を握るのを感じる。恐怖を感じているのは皮質であり、末梢の反応(動悸など)を起こすのは皮質下である。しかし感情について考えるとき、両者を切り離して考えることはできない。
[[アントニオ・ダマシオ]]らは、[[スタンレー・シャクター]]らの[[感情の二要因説]]を発展させ、感情を体験・認識することは、刺激に対して発生した身体反応を説明するために皮質が作る'''ストーリー'''であると主張している。例えば、被験者にアドレナリンを注射した後で不快な環境に置いたところ、アドレナリンの副作用を知らされていない被験者は、アドレナリンにより起こった動悸や冷や汗などの反応を環境のせいにし不快がったが、副作用を知らせておいた被験者はアドレナリンのせいだと判断し、不快さも少なかったという。つまり皮質が、'''身体の反応を、前後の文脈と照らし合わせて解釈し感情というストーリーを作った'''ということになる。
(注)シャクターらは、感情2要因説を1960年代に唱えたが、その後2要因となるような直接の証拠が得られなかったため、彼は自身の仮説を修正して、生理的基盤(=情動)に基づいてその後感情が形成される、という感情の2段階説を唱えた([[1982年]])。これを発展させたのが、Lazarusたちで、感情を社会性も含めたより複雑なものとして定義した([[罪悪感]]、やきもち、[[嫉妬]]、[[愛]]、なども含めた)。
[[マグダ・アーノルド]]の感情理論では、外界からの刺激に対して、'''まず危険であるか有益であるか'''を皮質下および帯状回で無意識に判断し、次に皮質で'''どう行動するかを判断'''する。その判断に基づいて末梢の反応('''交感神経の興奮、骨格筋の緊張など''')が起こり、最後に皮質にてそれを'''意識的な感情として認識する'''。この説の根拠となる実験的証拠は、強い感情を惹起する視覚刺激を短時間(30ms以下)呈示すると、意識上は認識できない([[サブリミナル効果]]参照)にもかかわらず末梢では反応が見られるという事実である。しかし意識に関して、どこでどのように感情意識が発生しているか、という点については、いまだ諸説あり、詳細は不明である。
* 補足1
*: 上記したような身体と感情の密接なつながりは、感情に関係する日常的な言葉にもよくみられる。例えば、「胸が痛む」、「断腸の思い」、「血湧き肉躍る」、「手に汗握る」、「胸をおどらせる」、「腹が立つ」、「はらわたが煮えくり返る」、「頭に血が上る」、「むかつく」、「苦々しい」、「鉛を呑んだような」、「ちむぐりさ(=肝苦しい、沖縄方言)」など。このうちの幾つかは典型的な交感神経亢進反応であり、幾つかはそれらに起因するかもしれない消化管症状である。
* 補足2
*: [[精神疾患]]の治療に用いられる[[認知行動療法]]は、「認知の仕方を変えることによって感情を調整する」という理論に基づいており、皮質と皮質下の相互作用を応用した好例と言える。また、[[自律訓練法]]は「手が暖かい」「気持ちがおちついている」など、リラックスした身体状態をイメージしながら心身の緊張をとる訓練法であり、ストレス解消、心身症、神経症などの治療に用いられる。これも末梢の自律神経反応と感情の相互作用を応用した一例である。
* 2012年10月、脳神経外科の世界的権威であるエベン・アレグザンダーは「死後の世界は存在する」と発言した。かつては一元論者で死後の世界を否定していた人物であったが、脳の病に侵され入院中に臨死体験を経験して回復した。退院後、体験中の脳の状態を徹底的に調査した結果、昏睡状態にあった7日間、脳の大部分は機能を停止していたことを確認した。そしてあらゆる可能性を検討した結果、「あれは死後の世界に間違いない」と判断して、自分の体験から「脳それ自体は意識を作り出さないのでは?」との実体二元論の仮説を立てている。
==== 個体発達 ====
幼い[[赤ん坊]]でも生後数日で母親の表情に反応するようになる。また宙に浮いた物体を見せると長く見つめるなど、何らかの感情を持っていると考えられる。主要な感情は4歳頃までには形成される。
=== 進化心理学で想定する要因 ===
[[進化心理学]]では、感情の仕組みは、環境に応じて素早く行動を決定するための生物学的適応であり、進化の過程で形成されたと考える。[[進化心理学|進化心理学者]]は親族間の愛情は[[血縁選択]]によって、親子間、夫婦間の愛情と反目は[[親子の対立]]、[[性的対立]]の要因によって進化したと考えている。また[[レダ・コスミデス]]のような研究者はそれぞれの感情が異なる選択圧によって形成され、異なる機能を持ち、したがって異なる神経的基盤あるいは[[心のモジュール性|モジュール]]を持つと考えている。[[ロバート・トリヴァース]]、[[リチャード・アレグザンダー]]、[[マーティン・ノヴァク]]といった進化生物学者と[[ゲーム理論]]家は、友情、協力、裏切り、罪悪感、公平さ、道徳観などを引き起こす動機として一部の感情が進化し、それは[[互恵的利他主義]]と[[間接互恵性]]、[[互酬|一般互酬性]]の理論から導きだせると考えている。このような視点からは、感情は少なくとも部分的には生得的であり、一般認知能力からある程度独立しており、内外の刺激に対して瞬時に自律的に発動すると考えられる。この生物学的適応という視点は機能主義心理学にも遡ることができる。
== 感情の分類 ==
{{main|{{ill2|感情の分類|en|Emotion classification}}}}
[[File:Plutchik-wheel jp.png|thumb|{{ill2|ロバート・プルチック|en|Robert Plutchik|label=プルチック}}の感情の輪。このほかに、感情が干渉しあうプルチックの混合感情図(Dyad、ダイアド)がある。]]
[[File:Circumplex model of emotion.svg|thumb|ラッセルの円環モデル。1980年に James Russell によって提案された<ref>{{Cite journal |last=Russell |first=James A. |date=1980-12 |title=A circumplex model of affect. |url=http://doi.apa.org/getdoi.cfm?doi=10.1037/h0077714 |journal=Journal of Personality and Social Psychology |volume=39 |issue=6 |pages=1161–1178 |language=en |doi=10.1037/h0077714 |issn=1939-1315}}</ref>。]]
人間にはどのような感情があるのかについては古来様々に議論されてきた。以下に、歴史的文化的経緯、感情研究の歴史に基づく分類、
詳しくは[[感情の一覧]]を参照。
=== 六情 ===
一般に、6種類の代表的な感情として、
# 喜
# 怒
# 哀
# 楽
# 愛 (いとしみ)
# 憎 (にくしみ)
が総称されることが多い。
=== 中国の五情(ごじょう) ===
人間の持つ代表的な感情を、
# 喜 (よろこび)
# 怒 (いかり)
# 哀 (かなしみ)
# 楽 (たのしみ)
# 怨 (うらみ)
の五つにまとめて表す。
=== 七情 ===
書物によって{{ill2|七情|zh|七情}}の内容は異なる。
;三字経
「曰喜怒、曰哀懼、愛悪欲、七情具」とあり、
# 喜
# 怒
# 哀
# 懼 (おそれ)
# 愛 (いとしみ)
# 悪 (にくしみ)
# 欲
の七情が人にそなわっていると言う。
;中国医学
:喜怒憂思悲恐驚の七情あり、日本で馴染みが無い語である、思は考えの意である。これらが過剰となると[[精神障害]]が起きるとされる<ref>[[黄帝内経]] 『素問』陰陽応象大論篇</ref>。
=== 部首が「心」で感情を表す漢字 ===
忌 (いむ) ・忍 (しのぶ) ・怒 (いかる) ・恐 (おそれる) ・恥 (はじらう) ・恋 (こい) ・悲 (かなしい) ・愁 (うれえる) ・慕 (したう) ・憂 (うれえる) ・怪 (あやしむ) ・怖 (こわい) ・悔 (くやむ) ・恨 (うらむ) ・惜 (おしむ) ・悼 (いたむ) ・愉 (たのしむ) ・憎 (にくむ) ・憤 (いきどおる) ・懐 (なつかしむ) 等々。
=== 感情を表す和語 ===
感情を表す形容詞および形容動詞 (例:かなしい) 、その感情をいだいている/いだく動作を表す動詞 (例:かなしむ) 、抽象化された名詞 (例:かなしみ) を示す。ただし、「愛する」「嫌悪する」の様に「 (漢字) +〜する」は漢語が混ざっているため除いた。
* 形容詞および形容動詞
*: かなしい・うらがなしい・ものがなしい・みじめだ・やるせない・たのしい・うれしい・しあわせだ・めでたい・いまわしい・はずかしい・うらめしい・にくたらしい・いやだ・きらいだ・さわやかだ・いつくしい・いとおしい・つまらない・おそろしい・こわい
* 動詞
*: このむ・よろこぶ・いかる・おこる・かなしむ・おそれる・はじらう・はにかむ・うれえる・あやしむ・うらむ・にくむ・いきどおる・むかつく・きらう・けぎらいする・めでる・うんざりする・あきる・びびる
* 名詞
*: よろこび・かなしみ・いかり・うらみ
=== インドの伝統的な美学理論 ===
ナヴァ・ラサ (人間の9つの基本的感情) というものがあり、それは、
# シュリンガーラ ([[恋愛]]感情;恋する気持ち、愛する気持ち)
# ハースヤ (滑稽な笑い)
# カルナ (悲しみ)
# ラウドラ (怒り)
# ヴィーラ (勇ましい気持ち、活力あふれる気持ち)
# バヤーナカ (恐れ)
# ビーバッサ (嫌悪)
# アドブタ (驚き・驚愕)
# シャーンタ (平和)
の9つであるとされる (参考 [[ラサ (インド文化)|ラサ]]) 。
=== チャールズ・ダーウィン ===
悲しみ、幸福、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚きという七つの基本的感情が、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]によって異ならず、普遍的に同じ方法で表現されると考えていた。また子供の成長やオランウータンの感情表現の観察を通して、人間と他の霊長類の類似性を見いだした。
=== 心理学的な感情の分類 ===
表情認知からみた感情の分類。[[ポール・エクマン]]は次の6つの感情は生物学的基盤を持ち、[[ヒューマン・ユニバーサルズ]]であると結論した。
* 幸福感、驚き、恐れ、悲しみ、怒り、嫌悪
エクマンは1990年代にこのリストを拡張し、以下を加えた。
* 楽しさ、軽蔑、満足、困惑、興奮、罪の意識、功績に基づく自負心、安心、満足感、喜び、罪悪感
== 表情 ==
感情は[[表情]]や仕草となってあらわれる。表情は[[非言語コミュニケーション]]の一部である。
表情は自律的に働き、訓練しないと意識的にコントロールできない。また[[ヒューマン・ユニバーサル]]な性質であり、どの文化でも基本的な表情は共通している。進化的な視点からは、コミュニケーション信号は他個体を操作するために自由にコントロールできる方が有利であると考えられるが、そうなっていない。[[アモツ・ザハヴィ]]のような一部の生物学者は、正直に自分の感情を伝えることがもっとも利益を得られるからだと考え、[[ハンディキャップ理論|ハンディキャップ信号]]の一種ではないかと主張しているが、実際にどのような利益があるのかは明らかでない。
== 感情が冒される疾患や状態 ==
* 感情・気分が冒される疾患の代表的なものは[[気分障害]]([[うつ病]]、[[躁うつ病]]、[[躁病]]など)である。うつ病では抑うつ気分(落ち込んだ、疲れた、元気のない、悲しい、泣きたいような、嫌になる、死にたい、絶望的)を呈するが、躁状態では気分が爽快になり、元気で、活気にあふれている、自信満々、動き回りたいなどの気分を呈する。重症になると攻撃的な気分、怒りが前面に出てくる。
* しかし抑うつ気分を呈する疾患はうつ病だけではない。[[適応障害]]、[[統合失調症]]、[[摂食障害]]、[[パーソナリティ障害]]など様々な疾患に合併することがある。また、精神疾患に限らず、健康な人でも一時的に抑うつ的になることはよくある。
* 大脳辺縁系の一部をなす[[扁桃体]]やその周辺が破壊されると、[[クリューヴァー・ビューシー症候群]](Klüver-Bucy syndrome)と呼ばれる、性行動異常、情動異常(サルの場合、ヘビを見ても全く怖がらず触ろうとする)、口唇傾向などを特徴とする状態になる。
* [[アレキシサイミア]](alexithymia)は、[[精神医学]]の用語で、自らの感情を自覚・認知したり表現したりすることが不得意で、空想力・想像力に欠ける傾向のことをさす。この傾向を持つ人は[[心身症]]になりやすいといわれている。つまり自らの感情を認識することが苦手なため、身体の症状として現れてしまうという(詳しくは[[アレキシサイミア]]、[[心身症]]参照)。
=== イスラム世界 ===
[[音楽]]が人間に与える感情を利用して[[医療]]行為としての[[音楽療法]]が行われていた([[ユーナーニー医学]])。
== 感情に作用する薬物 ==
* [[抗うつ薬]]:抗うつ薬はうつ病、うつ状態の治療薬であり、落ち込んだ気分、意欲低下などを改善する。[[セロトニン]]系、[[ノルアドレナリン]]系、[[ドパミン]]系神経を賦活することで効果を発現する。抗うつ薬によってその3系統の神経系への働きの強さが異なり、薬剤ごとに薬効が異なる。
* [[抗不安薬]]:[[ベンゾジアゼピン]]受容体に働くことで、不安を取り除く作用がある。
* 違法な薬物である[[覚醒剤]]は、脳の[[ドーパミン]]系を強く興奮させることで快の気分を発現する。しかし同時に[[ドーパミン]]系神経の異常を来たし、様々な副作用・後遺症を来たす。
* その他にも、アルコール、ステロイドなど様々な薬物が感情に作用する。
== 感情を分析する医療用工学技術 ==
* [[情動]]:[[感性制御技術]]の分野における、[[韻律 (言語学)|韻律]]からの感情認識がある。医療用工学技術としては、情動は興奮において90%以上の認識精度を持つが、感情は個人の認知ラベルの影響差があり、そこまでの精度は保障されない。
* [[感情認識]]:独立行政法人・[[情報通信研究機構]]と株式会社[[AGI (企業)|AGI]]の共同研究において、fMRI用に使用可能な感情認識は音声からの[[感性制御技術]]STがある。しかし、音声が出ない状況では使用できない。
* その他にも、[[徳島大学]]などでは、表情からの感情認識の研究がされている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{sisterlinks
| wikt = 感情
| commons = Category:Emotions
}}
* [[感情の一覧]]
* [[アンビバレンス]]
* [[感情労働]]
* [[心理学]]
* [[脳科学]]
* [[認知行動療法]]
* [[自律訓練法]]
* [[性格と病気]]
* [[クオリア]]
* {{ill2|七情六欲|zh|七情六欲}}
* [[感情認識]]
== 外部リンク ==
{{Spedia|Models_of_Emotion|Models of Emotion|感情のモデル}}
{{SEP|emotion|Emotion}}
* 松川半山『[{{NDLDC|863409/31}} 童蒙画引単語篇]』1874年。(国会図書館・近代デジタルライブラリー)
* {{脳科学辞典|記事名=顔表情認知}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:感情|*]]
[[Category:心理学]]
[[Category:顔]]
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国鉄D51形蒸気機関車
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D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。
主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。
この他に、台湾総督府鉄道向けに32両、胆振縦貫鉄道(1944年(昭和19年)に国有化)向けに5両(再掲)が製造され、戦後はソビエト連邦サハリン州鉄道向けに30両、台湾鉄路管理局向けに5両、朝鮮戦争における国連軍向けの標準軌仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及ぶ。
また、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両(200号機)が継承され、翌1988年(昭和63年)には東日本旅客鉄道(JR東日本)で1両(498号機)が復籍し、この2両が動態保存されている。JR東日本の498号機は復籍後の初仕業で来日中のオリエント急行を牽引して復活、西日本の200号機は2017年(平成29年)に山口線のSLやまぐち号で、本線運転に復帰した。
現場の機関士にも操作性の良さから人気があり「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。もし、D51がなければ日本はこれほど進歩しなかったかもしれないと極言する評価さえ存在し、その性能や扱いやすさは後世の試作研究の目標になるほどであった。
1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、その影響で日本国内で発生した昭和恐慌により、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。そのため、恐慌発生以前に計画されていた貨物用の新形機関車の製造は中断されていた。大正12年のD50以降、新型機を開発して製造されることがなかったのである。
その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められた。国鉄(当時鉄道省)では電気機関車専用のチームがあり基礎研究も行われていたが、電化区間がまだ短く蒸気機関車に輸送の大部分を頼らざるを得なかった。 そこで1935年(昭和10年)に開発を始め1936年(昭和11年)から製造されたのが本形式である。C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用して製造され、当時の設計主任である島秀雄は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げている。C53の複雑な設計や工作不良を反省し、本機では部分ごとの標準化やユニット化がされ整備や修理が容易になっている。このシステマチックな視点は国鉄80系電車から新幹線の開発でも大きく反映されシステム工学の先駆けともいえる鉄道車用であった。
設計の基本となったのは、同じく軸配置2-8-2(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形で、三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通である。ボイラー使用圧力は当初D50形の13 kg/cmに対して14 kg/cmと1 kg/cm昇圧、シリンダー径を縮小しつつ牽引力の若干の増大を図っている。新技術によりD50よりも安定した優れた性能を発揮できるようになっている
また、リベット接合部を電気溶接(アーク溶接)で置き換えるなど、構造と工法の見直しを行って軸重の軽減と全長の短縮を実現し、全国配備が可能となった。最大動軸重を14.3 tに引き下げ、これによりD50形では入線が困難だった丙線への入線が可能とされた。ただし、標準形以降は最大・平均ともに動軸重が増大し、特に最大動軸重は最終的に15.11 t(第4動軸)とD50形(14.99 t〈第1動軸〉)以上の値となっている。全長は初期形でD50形より571 mm短縮された。フロントオーバーハングの大きいD50形は、退行運転や推進運転時に、軽量な二軸車を中心として連結相手を脱線させてしまう事故をしばしば起した。この問題は本形式で前部デッキと先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面、先台車周辺の保守が困難になり、検修陣にはD50形と比して本形式を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17 mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19 mを、それぞれ超過するD50形は60フィート (18.3 m) 転車台での転向が難しく、通常は20 m転車台での転向を必要としていた。この短縮により亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、本形式の運用範囲拡大に大きく貢献している。
動輪はそれまでのスポーク動輪から、輪心を中空構造の箱形(ボックス)輪芯に変更している。これはアメリカで開発され、本形式の設計が始まった1935年(昭和10年)の前年に当たる1934年(昭和9年)に製品が発表されたものをいち早く採用した形である。その構造・形状から太鼓焼きや蓮根といった異名で呼ばれることもあったが、円盤に近い形状であるため円周の各部に均等に力がかかり、また比較的軽量であると言う利点から以後ほぼ全ての省形蒸気機関車に採用されている。
戦時形ではボイラー使用圧力15 kg/cmへの引き上げがなされ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した。初期形、標準形についても戦後に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。登場時は燃焼室を装備していないため、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えなかったが、戦後に重油併燃装置が追加され三分の一以上も石炭が節約できるようになった他、引張定数または速度を 10%向上させている。
電気溶接の全面的な採用と箱形化された動輪輪芯など、形態的には同時期に設計されたC57形との共通点が多い。
本形式は製造時期と形態から三種に大分される。以下にその特徴を記す。
D51 1 - 85・91 - 100
D51 86 - 90・101 - 954
これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、操縦に馴れるにつれD50 形式よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになってからであった。根室本線旧線のように25‰の勾配と漏水するトンネル、カーブが全体の71.7%に達し(半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mが連続する)、国内の鉄道路線の中でも自然条件と運転の条件が厳しい過酷な状況でも実用に耐え、昭和41年1966年の新線に切り替わるまで使われた。大型機の使用されなかった四国線で勾配区間の輸送力増強に力闘するなどの実績もある。後述の旧狩勝線や人吉機関区のように本来ならば急勾配専用機が必要な区間で運用された。 最終的に、運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを残し「デゴイチはきつい坂を登っていても、絶対に止まることはないから安心しろ」と機関士に評価されるようになった。 なお、本形式については戦時中以降、輸送力増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロントデッキなどにコンクリート塊の死重を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている。
D51 1001 - 1161
量産を進める段階で国内情勢が戦時体制へと突入し、貨物機である本形式に対する需要が非常に大きくなったため、国内の大型機関車メーカー5社と国有鉄道の工場(工機部)のうち8工場が製造に参加し、1936年から1945年(昭和20年)までの間に1,115両もの多数の車両が製造されることとなった。そのうちの8両については、国有鉄道の発注ではなく、私鉄の戦時買収や南樺太の内地化に伴い鉄道省へ編入されたもの、外地向けのものが戦況の悪化に伴う制海権喪失により発送できなくなり、国有鉄道籍を得たものである。また、955 - 1000は欠番となっているが、戦時型を1001から付番し番号で区別したためである。そのため、国有鉄道所有機のラストナンバーは1161である。
これらの他、戦前から台湾総督府鉄道向けに製造されたものが32両(1944年製の5両は、一時的にD51 1162 - 1166として借入使用された)、戦後にソビエト連邦サハリン州鉄道向けに輸出されたものが30両、国連軍に納入されたものが2両、さらに1951年に台湾鉄路管理局向けに輸出された5両が存在する。これらを合わせると、D51形は1,184両製造されたことになる。
国有鉄道発注車は、全部で1,107両である。その製造の状況は、次のとおりである。
D511・2 → D51 864・865:恵須取鉄道(樺太)より買収。
1944年に未成のまま買収された樺太の孤立鉄道より編入したもので、概ね標準形に準ずるが、寒冷地対策として製造時より密閉キャブであり、炭水車の前端部にも風除けを立ててキャンバス製の幌を運転台との間に設けていたのが特徴である。1943年、汽車製造製(製造番号2235・2331)。この2両は樺太には送られず、北海道内で使用された。
D5101 - D5105 → D51 950 - D51 954:1944年胆振縦貫鉄道より買収
内地私鉄がD51形同等機を新造した唯一の事例である。D5101 - D5103の3両は同鉄道開業前の1940年5月に設計認可を得て、開業直後の1941年1月に竣工した。厳密な竣工日は順に1941年1月9日、11日、13日。以後輸送力強化のため、それぞれ1942年7月17日・1943年5月7日付けでD5104・D5105が増備された。製造はD5101 - D5104が汽車製造(製造番号2021 - 2023・2234)、D5105が日立製作所(製造番号1785)で、いずれも同時期の省鉄向けに準じた仕様で竣工しており、形態も標準形と同様である。
D51 1161 日本窒素より購入。
海南島の日窒興業石碌鉄道で使用するため日本車輌製造本店で製造されたものの、海軍の敗退で制海権が失われ、発送できなくなったものを国鉄が購入した。戦時形であり、D51形全体で見ても唯一の1945年製(製造番号1373)で、鉄道研究者の実見により、工作方法がより簡素化されていたのが確認されている。
中国海南島の鉄石輸送のための日窒興業石碌鉄道は、1067mm軌間であり、1942年および1943年(1944年との説もあり)に5両のD51形(D51 621・632 - 635)が供出されたが、終戦時には2輌のみ存在していた。戦後の動向は不明であり、中国国鉄の形式も持っていない。
当時、日本の統治下にあった台湾の総督府鉄道向けに1939年から1944年にかけ32両 (D51 1 - 32) が製造されたもので、形態的には1 - 27が標準形に、28 - 32が戦時形に属する。このグループは、日本国有鉄道籍を有したことはない。製造の状況は次のとおりである。
このうち、戦時形のD51 28 - 32は制海権喪失で発送できず、一時的な措置として国有鉄道が借り入れ、D51 1162 - 1166として使用された。この時期、本土では既に戦時形(1000番台)が製造されていたが、この5両は戦前の標準形と似る形態(ドームはかまぼこ形でなく、標準形と同じ形状)で製造された。これは、外地向けゆえ、大日本帝国の威信を保つためといわれている。しかし、見た目こそ標準形だったが、ドーム以外の実態、炭水車などは内地向けに製造されたものと同じ戦時形で、性能、機能面で劣るため、使用晩期はボイラ圧力が12kg/cmに制限されていた。この5両は、戦後の1946年4月になって台湾に発送された。台湾のD51形は、戦後台湾鉄路管理局に引き継がれ、DT650形 (DT651 - 682) と改称された。
戦後の1951年、国際連合の援助による中華民国の注文で、5両の標準形(カウキャッチャー付き、炭水車はやや大型化)が台湾に輸出され、DT683 - 687とされた。製造は汽車製造が3両(DT683 - 685・製造番号2608 - 2610)、新三菱重工が2両(DT686・687・製造番号718・719)だった。この5両が、D51形として最後の新製機となった。
1949年、ソビエト連邦へ輸出物資の一環として、国鉄形客車各種などとともに30両が樺太に送られた。なお、よく賠償物資として輸出との誤解がみられるが、正規の条約である日ソ共同宣言の締結は1956年であり、条約締結以前に賠償物資の請求は原則的にありえない。そして日ソ共同宣言時には条約第6項においてソビエトは日本に対し賠償請求権を放棄している。また当時の複数の文献「機関車」第3号(1949年11月発行)や「交通技術」51号(1950年10月号)にも正規の輸出との記述が存在する。一方「賠償輸出」という記述が見られ始めたのは、往時の記録があいまいになりだし、孫引きが増加した1970年代以降のことである。
これらは、同年1月から4月にかけて5社で製造されている。樺太向けに輸出されたものは、国内向けのものと区別するために、形式番号と車両番号の間にハイフンが入っている(例えば、国内向けは「D51 27」であるのに対して、樺太向けは「D51-27」)。また防寒のために運転席は密閉構造になっているなど、一部構造が国内向けとは異なっている。
なお、形式やナンバープレートにロシア語で使用されるキリル文字の「Д」ではなく、ラテン文字の「D」が使われている。蒸気機関車研究家の臼井茂信は、サハリン占領後も鉄道システムは日本式だったためではないかと推測している。
樺太向けD51形の製造の状況は、次のとおりである。
1950年の朝鮮戦争勃発とともに鉄道は主要な攻撃対象となり、多数の機関車が破壊された。この被害補充のためにアメリカ第8軍は国連軍名義で日本に蒸気機関車を発注するが、他社が南満洲鉄道や朝鮮総督府鉄道の設計図を流用して「ミカイ形」を製造するなか、中日本重工業(現・三菱重工業)のみがD51形を標準軌・密閉キャブ化して納入した。製造の状況は次のとおりである。
2両とも休戦後に大韓民国交通部鉄道局(当時。後の鉄道庁)に引き渡され、미카7形(ミカ7形)1・2として1960年代まで使用された。
戦後、軍需貨物輸送の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による旅客の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年から1947年にかけて急遽C57形32両とC59形73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、1948年の段階で機関車メーカー各社は大量の仕掛品在庫を抱えていた。
だが、その後は預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、1948年にGHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、C61形旅客用機関車が33両製造されている。新規製造ではなく、書類上改造扱いだったため、予算会計上の規制を回避できた。既に車籍が存在していれば、実際には完全な新製であっても書類上「改造」とすることで会計監査上の指弾を免れうる、といういかにも官僚主義的なこの回避策は、戦前の統制経済初期段階から地方私鉄では車両確保の常套手段と化していた方策である。つまり国鉄当局は、貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用すればよい、というデ・グロートの助言をこれ幸いと言質にとって、戦前から監督官庁としてその手口を知悉していたこの策を講じた。また、このプランは仕掛状態で宙に浮いていたC57形未成車の部材、ひいては突然の予算凍結で困窮を強いられたメーカー各社の救済という意味合いもあり、33両といういかにも中途半端な製造両数も仕掛部材の残数に由来する。
さらに、1960年には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となっている。
個別の改造機として注目すべきは、1956年11月の運転業務研究会発表資料として軸重可変機構を付与された、奈良機関区所属のD51 65である。当時の奈良機関区は中在家信号場前後に加太越えの難所を擁す関西本線を担当しており、重量級列車の機関車運用には困難を伴い、特に上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい本形式は、その改善が望まれていた。D51 65での改造は、この問題を解決するために提案されたもので、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変え、これにより動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替え可能とするものである。この軸重可変機構は、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、撒砂量の減少により軌道保守の負担軽減にも資するという特徴を有し、さらに単純に甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なり、上り勾配区間や駅構内などの必要な区間のみを軌道強化すればよく、本形式の運用線区に制約を加えるものではない、というメリットもあった。もっとも、この方式は動力近代化の方向性が定まってからの改造のためか他車には波及せずに終わっている。ただし、D51 65はその後奈良機関区から吹田第一機関区へ転じ、吹田操車場の入換機として、比較的長期にわたりこの仕様のままで運用された。なお、この軸重可変の思想は本形式の後継車となったDD51形において形を変えて日の目を見ている。
その他にもD51形は使用線区の事情に応じて様々な改造が施され、北海道や東北地方では寒冷地対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施され、品質の悪い石炭を常用する常磐線で運行されていた水戸、平機関区配置のD51 112・121・123・248・313・381・389・411・503・551・645・647・672・695・821・914・931・946・1024・1068の20両には1仕業での投炭量が4 - 5トンを超過していたことから、機関助士の2人乗務を避けるべく自動給炭機(メカニカルストーカー)を追加搭載、長野では砂撒き管の増設が行われている。その他にも重油併焼装置やATS用発電機の設置、副灯の設置、キャブの屋根の後方への延長、運転室左右の前面部への旋回窓の設置、さらには変形(切り取り式)デフや集煙装置(変形デフや集煙装置の形状は担当工場ごとに細かく異なる)の装備、誘導通風装置(ギースル・エジェクタ)の取り付けなど、変化のバリエーションは多い。重油併燃装置用の重油タンクの装備位置は地域ごとに異なり、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースがある(大型の3000リットルタンク装備車は東北地方に多かった)。また、肥薩線大畑越えに使用された人吉区のD51は、ボイラー上のタンクの容量不足を補うために助手席側ランボード上に200リットルの補助タンクを装備していた。誘導通風装置は、1963年3月に長野工場で改造されたD51 349を皮切りに、117・120・167・226・232・241・252・276・285・293・308・315・328・343・345・357・371・391・413・457・492・509・539・570・605・711・725・733・742・842・952・953・1037・1042・1119の合計36両に対して取り付けられた。シンダの溜まりが多く、また火の粉止めとしての効果も得られるなど好成績で、秋田機関区や北海道の各機関区、特に追分機関区所属車に対して集中的にこの改造が実施されている。
その中でも北海道で活躍したD51 54は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装され、ナメクジ形ながら標準形の風貌を持つことで知られた。この機関車は特異な改造だったため、オリジナルを尊重する愛好家からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」という愛称で呼ばれた。
全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた。ただし、四国では土讃本線限定で使用された。貨物用のため地味な存在だったが、中央本線(中央東線・中央西線とも)や函館本線の“山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、急行をはじめとする優等列車を含む旅客列車の牽引に使われることも多く、羽越本線などのような平坦路線でも旅客列車牽引に使われた例があった。D51形は軸重が大きいため、多くは東海道本線や山陽本線、東北本線などの幹線の貨物列車を中心に牽引した。中にはお召し列車を牽引した車両や、先述のD51 65のように新鶴見操車場や吹田操車場などの基幹ヤードでハンプ押上げ用として使用された車両もある。
運転・保守両面では一部勾配線(後述)を除き概ね好評を博し、全国的に鉄道車両の保守状態が劣悪だった第二次世界大戦終結直後でも、本形式は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。また、本形式以前の機関車は乗務員が慣れるまでの評価が低いものが多かったが、本形式は予想以上の好評で迎えられ、一番扱いやすい機関車であったとの証言も残っている。
しかし、勾配での重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に生じる重心移動で空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。
1941年から生産されたC59形は、当初の計画では本形式とボイラーを共通設計として量産効果や保守の容易化といったメリットが出る予定だったが、本形式において前後方向の重心問題が解決しなかったことで共通設計を断念し、対策として本形式のものを基本としつつ煙管長を500mm延長して重心を前方にシフトさせた専用ボイラーを別途設計することを強いられている。しかも、それでさえ従軸の軸重が過大で列車牽き出し時に車輪の割損事故を引き起こすなど、ボイラー火室付近の重量が過大であることを示すトラブルが頻発しており、この点からも、本形式のボイラーは機関車の重心設計という点で決して好ましいデザインではなかったことが見て取れる。
またD50の初期生産車は動軸の軸ばね機構が揺動特性の点で有利な下ばね式となっており、良好な乗り心地で乗務員からは好評であったD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曽福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は他に選択肢が存在しない状況になるまで初期型を受け入れない対応を行っていた。改良形(標準形)が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。 さらに前記の各区はD50形が空転し多数の窒息による重症者と死者を出した痛ましい事故が記憶に新しく標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では1941年に本形式が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している。しかし、昭和23年(1948年)に再配備され、韮崎から小淵沢24.8kmにかけて25‰の勾配が続き標高差533mに達する急勾配と急カーブが連続する区間で、空転せずにD51を運転する方法を見つけ同機の性能を100%引き出したと評される。この難行区間で運転された準急「穂高」は乗員の技量とD51の性能無くして運用できなかった 。否定的な声も取扱に馴れると影を潜め、近代的な装備のD51を礼讃する声が大きくなっていった。 これに対して平坦線を担当する各区は稲沢機関区を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。戦時中には輸送力増強のためボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心にコンクリート製の死重をフロントデッキに搭載するなどの対策が講じられている。これにより、動輪上重量が15tに増えたほか、シリンダー牽引力がD50形より8パーセント上昇した。
国鉄形蒸気機関車で最も多く生産され末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」、「代表機」、「代名詞」などと表現されることもある本形式であるが、その広範な運用と知名度は、戦時体制に伴う貨物機大量需要から来た膨大な量産と、無理のあるコンパクト化によって軸量や転車台、曲線性能の関係で入線可能な区間が多かった結果に過ぎなかった。もっとも、これだけ生産されながら余剰機が出始めたのは動力近代化の進んだ1960年代からであり、各地の幹線・亜幹線で活躍し輸送力増強に貢献している。設計上の無理が生じた車両長の短縮についても、幹線は電化による近代化が進められていくことから、亜幹線でも十分な性能を発揮できるよう考慮されてのことであった。
当初 D51 の配置を好まない傾向があった機関区でも、操縦に馴れるにつれD50よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになっていった。 初期型(ナメクジ型)もD50よりは使いやすいと評価されるようになり、どこも評判の悪いD50の受け入れを拒みがちになっていく。勾配線での牽引力に優れていたため各地で貨物はもとより旅客列車にもその性能を発揮していき、特記すべき区間として「矢岳超え」こと33.0‰の急勾配が存在する人吉 - 吉松間を受け持つ、人吉機関区では勾配用機関車E10形よりも曲線での空転が発生しにくいことから 、1972年にDD51形へ置き換えられるまで本形式が使用され続けている。「狩勝を経験した人は、どこの線区に行っても通用すると言われたし、事実、その通りだった」と評され、国内の路線でも自然条件と25‰の勾配が続き最小半径180mから179mの曲線が連続し運転の条件が厳しいため屈指の難所としてしられる旧狩勝線でも新線に切り替わる1966年まで運用された。運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを与え、急勾配でもD51は絶対に止まらないと運転側に信用されるようになった。
夕張線(現・石勝線)・室蘭本線の貨物列車牽引では、夕張方面の炭鉱から室蘭港へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたことがあった。1953年(昭和28年)時点では本形式で函館本線小樽築港 - 滝川間と室蘭本線岩見沢 - 追分間で牽引定数が換算185両 (=1,850t)、追分 - 室蘭間で換算260両 (=2,600t) を設定。1952年(昭和27年)2月に追分 - 室蘭間で3,000tの牽き出し試験をしたところ、成績は良好だったものの単線区間の線路有効長の関係で実施に至らなかった。ここは従輪を持たず牽き出し性能で有利な9600形が2,000t牽引を行っていた区間であるが、夕張方面の炭坑から追分駅を経て苫小牧駅付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえセキの積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、本形式の単機でも牽き出しさえすれば、後は室蘭港まで引っ張っていけた。なお、牽き出しは非常にゆっくりしたもので、一両ずつ連結器がぶつかる音をたてながら行われた。この列車の尋常ではない長さは、空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、多く連なるセキが空気を巻き込んで抵抗が増え、速度が上らなかったほどである。大戦中は10‰勾配区間で本形式に8620形を補助機関車としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所要数の増加を招くことから中止となった。
旅客列車の牽引では、函館本線の急行列車の牽引が特筆される。これは函館 - 長万部間を単機で、長万部 - 小樽間の通称「山線」を重連で牽引するも、高速運転で各部の損耗の速さによる検修の負担と、振動の激しさと連続力行で助士2人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大からC62形への転換が行われ、1971年にはDD51形に置き換えられた。山線区間の仕業は機関車、乗務員ともに限界に挑むものであり、牽引機が更新されるたび、運転時分も短縮していった。
繁忙期には不足する旅客機関車に代わり臨時列車の牽引を受け持つこともあり、強力でスピードも出せるため勾配線では旅客列車を引っ張り、急行列車の先頭に立つこともあった。東北本線の臨時急行ではダイヤ上の関係から80km/h近い速度を出して運行されていた。これは、運転規定の最高速度85km/hに迫るものであり、前後動と乗り心地の悪さは異常なものであったと語られている。
電化やディーゼル化の影響による余剰廃車が本格的に出始めたのは1967年ごろからのことで、蒸気機関車の最後の時期まで多くの本形式が残っていた。特に1960年代から1970年代にかけて石北本線、東北本線、奥羽本線、伯備線などの急勾配区間において重連や3重連などで活躍する姿は当時の「SLブーム」の波に乗り、鉄道ファンや写真家、マスコミ関係者などの間で大変な人気を集めた。
また、羽越本線をはじめとする日本の原風景が残っていた線区を走る雄姿を撮影する鉄道ファンの姿も多かった。
しかし、製造両数が多いこともあって、当然蒸気機関車の中でも残存両数が多く、他の機関車よりも多く見ることができたため、鉄道撮影を主とするファンの中には他の少数派形式が来ることを期待していて、本形式が来ると「またD51か」とため息を漏らす者や、本形式牽引列車の場合はシャッターを切らない者も少なからず居たという。
最後に残ったのは北海道の追分機関区に所属していた5両で、C57 135牽引(現・鉄道博物館所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の1975年12月24日まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終貨物列車(夕張線6788列車)ならびに国鉄最後の蒸機本線走行となった。
これらの国鉄蒸気機関車の最後を飾った追分区所属のD51形は、地元、追分町(現・安平町)(241号機)や東京都台東区上野の国立科学博物館(国鉄工場最終出場蒸気機関車603号機)などといった各地に保存が決定していたが、1976年4月13日深夜に発生した追分機関区扇形庫火災により、国鉄最後の蒸気牽引入換運用機79602号機や、配属されたばかりの新鋭ディーゼル機関車(DD51形 682 - 684・1079・1103・1144・1169号機とDE10形 1744号機)8両とともに4両(241・465・603・1086号機)が焼失した。現在、安平町の鉄道資料館には旧追分機関区の機関庫の火災で焼失した当初の静態保存予定機で、動輪と煙室扉だけになってしまった241号機他の代わりとして、小樽築港機関区や追分機関区などで使用されていた320号機が静態保存されている。320号機は、本来は静態保存を予定していなかったが、急遽、静態保存機となったものである。また、国立科学博物館には同じく予定されていた603号機の代替として231号機が保存され、603号機は前面のみが状態が良かった為、前半分をカットモデルとして京都市の19世紀ホールに、書類上保留車のまま、屋外展示の51号機や他機関車と共に展示されていたが、2019年の年末に51号機の展示が終了し解体された。そして465号機は北海道の夕張郡由仁町の伏見台公園トリムコース入口付近に、1086号機はC57形 135号機として、北海道岩見沢市の岩見沢観光バスと、長万部駅前のお店から北海道大沼にある「SL夢ギャラリー ポッポ爺」に譲り受けた、動輪のみがそれぞれ展示されている。なお、一方で火災を免れたDD51形 681・1166号機はのちに保存されずに、国鉄とJR貨物に廃車解体され、実質追分機関庫の火災で一切の損傷を受けずに残った機関車は現存しない形となった。なお、最終5両の内、916号機のみが前橋市前橋こども公園に保存されている。
日本国外では、台湾でDT650形として37両が使用された。台湾で使用されていたものは既に全車廃車となり、うち4両が静態保存されていたが、2011年11月に、DT668が動態復活した。観光用、イベント用として活用されている。
サハリンで使用されたものは引退後6両(1・2・23・25・26・27)が帰国し、各地に保存されているほか、現地でも4号機が観光列車として運行されている。
蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、日本国内に限っても2021年現在2両(200・498号機)が本線で運行可能な状態で動態保存中、それ以外にも100両以上が全国各地の鉄道博物館やその他博物館、公共施設、学校、公園などで保存されている。なお、そのうち1・187・200・488・745号の5両は準鉄道記念物に指定されている。
東日本旅客鉄道(JR東日本)が、1988年に動態復元した機関車である。車籍は1972年に一旦抹消されたが、1988年の動態復元に伴い、同年復活した。
西日本旅客鉄道(JR西日本)の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている200号機は動態保存されており、車籍も有するが、全般検査を受けていなかったため本線走行はできず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)のみに留まっていたが、2017年に本線運転可能な状態に復元され、「SLやまぐち号」での運用を開始した。車籍は1979年に一旦抹消(有火保存)されたが、1987年に復活している。
2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。
2011年10月28日に海線にて試運転を行った後、11月11日の内湾線の記念運転を経て正式に動態復活となった。
以下に番号と所在地を示す。静態保存が大半だが、施設内を遊覧運転する程度の動態保存がなされている車両もある。
本形式の愛称としては「デコイチ」、「デゴイチ」ともに用いられている。現在は「デゴイチ」が多く見られるが、過去には、各鉄道趣味誌においても「デコイチ」の表記が多く存在していた。なおこの愛称については、本来は「デコイチ」だがSLブーム以降「デゴイチ」の方が一般的になった、という見解もある。竹島紀元は、戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、「鉄道現場のスラングのようなものでその発生や普及変遷について確実な状況はつかめない」と断った上で、以下のような点を指摘している。
一方、1946年発行『絵とき鉄道科学』(交友社)に「デゴイチ(中略)と呼ぶのが普通であります」と書かれ、、内田百閒による1950年ごろの国鉄職員が、Dの51だから「デゴイチ」だと言ったとする記述もあるため、少なくともこの頃に「デコイチ」のみだったと言えない。
初期形(半流線形)の愛称の「なめくじ」は、1936年3月発行の『鉄道趣味』で宮松金次郎が「上から見た処は丁度ボイラーの上に這い廻るなめくじです」と記したものが始めで、後年になって広まったものとされる。
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"text": "D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。",
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"text": "主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。",
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"text": "この他に、台湾総督府鉄道向けに32両、胆振縦貫鉄道(1944年(昭和19年)に国有化)向けに5両(再掲)が製造され、戦後はソビエト連邦サハリン州鉄道向けに30両、台湾鉄路管理局向けに5両、朝鮮戦争における国連軍向けの標準軌仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及ぶ。",
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"text": "また、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両(200号機)が継承され、翌1988年(昭和63年)には東日本旅客鉄道(JR東日本)で1両(498号機)が復籍し、この2両が動態保存されている。JR東日本の498号機は復籍後の初仕業で来日中のオリエント急行を牽引して復活、西日本の200号機は2017年(平成29年)に山口線のSLやまぐち号で、本線運転に復帰した。",
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"text": "現場の機関士にも操作性の良さから人気があり「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。もし、D51がなければ日本はこれほど進歩しなかったかもしれないと極言する評価さえ存在し、その性能や扱いやすさは後世の試作研究の目標になるほどであった。",
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"text": "1929年(昭和4年)に始まった世界恐慌、その影響で日本国内で発生した昭和恐慌により、1930年代前半の日本における鉄道輸送量は低下していた。そのため、恐慌発生以前に計画されていた貨物用の新形機関車の製造は中断されていた。大正12年のD50以降、新型機を開発して製造されることがなかったのである。",
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"text": "その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められた。国鉄(当時鉄道省)では電気機関車専用のチームがあり基礎研究も行われていたが、電化区間がまだ短く蒸気機関車に輸送の大部分を頼らざるを得なかった。 そこで1935年(昭和10年)に開発を始め1936年(昭和11年)から製造されたのが本形式である。C11形のボイラーで実用化された電気溶接技術を応用して製造され、当時の設計主任である島秀雄は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げている。C53の複雑な設計や工作不良を反省し、本機では部分ごとの標準化やユニット化がされ整備や修理が容易になっている。このシステマチックな視点は国鉄80系電車から新幹線の開発でも大きく反映されシステム工学の先駆けともいえる鉄道車用であった。",
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"text": "設計の基本となったのは、同じく軸配置2-8-2(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形で、三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通である。ボイラー使用圧力は当初D50形の13 kg/cmに対して14 kg/cmと1 kg/cm昇圧、シリンダー径を縮小しつつ牽引力の若干の増大を図っている。新技術によりD50よりも安定した優れた性能を発揮できるようになっている",
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"text": "また、リベット接合部を電気溶接(アーク溶接)で置き換えるなど、構造と工法の見直しを行って軸重の軽減と全長の短縮を実現し、全国配備が可能となった。最大動軸重を14.3 tに引き下げ、これによりD50形では入線が困難だった丙線への入線が可能とされた。ただし、標準形以降は最大・平均ともに動軸重が増大し、特に最大動軸重は最終的に15.11 t(第4動軸)とD50形(14.99 t〈第1動軸〉)以上の値となっている。全長は初期形でD50形より571 mm短縮された。フロントオーバーハングの大きいD50形は、退行運転や推進運転時に、軽量な二軸車を中心として連結相手を脱線させてしまう事故をしばしば起した。この問題は本形式で前部デッキと先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面、先台車周辺の保守が困難になり、検修陣にはD50形と比して本形式を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17 mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19 mを、それぞれ超過するD50形は60フィート (18.3 m) 転車台での転向が難しく、通常は20 m転車台での転向を必要としていた。この短縮により亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、本形式の運用範囲拡大に大きく貢献している。",
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"text": "動輪はそれまでのスポーク動輪から、輪心を中空構造の箱形(ボックス)輪芯に変更している。これはアメリカで開発され、本形式の設計が始まった1935年(昭和10年)の前年に当たる1934年(昭和9年)に製品が発表されたものをいち早く採用した形である。その構造・形状から太鼓焼きや蓮根といった異名で呼ばれることもあったが、円盤に近い形状であるため円周の各部に均等に力がかかり、また比較的軽量であると言う利点から以後ほぼ全ての省形蒸気機関車に採用されている。",
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"text": "戦時形ではボイラー使用圧力15 kg/cmへの引き上げがなされ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した。初期形、標準形についても戦後に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。登場時は燃焼室を装備していないため、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えなかったが、戦後に重油併燃装置が追加され三分の一以上も石炭が節約できるようになった他、引張定数または速度を 10%向上させている。",
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"text": "電気溶接の全面的な採用と箱形化された動輪輪芯など、形態的には同時期に設計されたC57形との共通点が多い。",
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"text": "本形式は製造時期と形態から三種に大分される。以下にその特徴を記す。",
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"text": "D51 1 - 85・91 - 100",
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"text": "これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、操縦に馴れるにつれD50 形式よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになってからであった。根室本線旧線のように25‰の勾配と漏水するトンネル、カーブが全体の71.7%に達し(半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mが連続する)、国内の鉄道路線の中でも自然条件と運転の条件が厳しい過酷な状況でも実用に耐え、昭和41年1966年の新線に切り替わるまで使われた。大型機の使用されなかった四国線で勾配区間の輸送力増強に力闘するなどの実績もある。後述の旧狩勝線や人吉機関区のように本来ならば急勾配専用機が必要な区間で運用された。 最終的に、運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを残し「デゴイチはきつい坂を登っていても、絶対に止まることはないから安心しろ」と機関士に評価されるようになった。 なお、本形式については戦時中以降、輸送力増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロントデッキなどにコンクリート塊の死重を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている。",
"title": "製造時期による区分"
},
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"paragraph_id": 16,
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"text": "D51 1001 - 1161",
"title": "製造時期による区分"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "量産を進める段階で国内情勢が戦時体制へと突入し、貨物機である本形式に対する需要が非常に大きくなったため、国内の大型機関車メーカー5社と国有鉄道の工場(工機部)のうち8工場が製造に参加し、1936年から1945年(昭和20年)までの間に1,115両もの多数の車両が製造されることとなった。そのうちの8両については、国有鉄道の発注ではなく、私鉄の戦時買収や南樺太の内地化に伴い鉄道省へ編入されたもの、外地向けのものが戦況の悪化に伴う制海権喪失により発送できなくなり、国有鉄道籍を得たものである。また、955 - 1000は欠番となっているが、戦時型を1001から付番し番号で区別したためである。そのため、国有鉄道所有機のラストナンバーは1161である。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "これらの他、戦前から台湾総督府鉄道向けに製造されたものが32両(1944年製の5両は、一時的にD51 1162 - 1166として借入使用された)、戦後にソビエト連邦サハリン州鉄道向けに輸出されたものが30両、国連軍に納入されたものが2両、さらに1951年に台湾鉄路管理局向けに輸出された5両が存在する。これらを合わせると、D51形は1,184両製造されたことになる。",
"title": "製造"
},
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"tag": "p",
"text": "国有鉄道発注車は、全部で1,107両である。その製造の状況は、次のとおりである。",
"title": "製造"
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{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "D511・2 → D51 864・865:恵須取鉄道(樺太)より買収。",
"title": "製造"
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{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "1944年に未成のまま買収された樺太の孤立鉄道より編入したもので、概ね標準形に準ずるが、寒冷地対策として製造時より密閉キャブであり、炭水車の前端部にも風除けを立ててキャンバス製の幌を運転台との間に設けていたのが特徴である。1943年、汽車製造製(製造番号2235・2331)。この2両は樺太には送られず、北海道内で使用された。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "D5101 - D5105 → D51 950 - D51 954:1944年胆振縦貫鉄道より買収",
"title": "製造"
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"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "内地私鉄がD51形同等機を新造した唯一の事例である。D5101 - D5103の3両は同鉄道開業前の1940年5月に設計認可を得て、開業直後の1941年1月に竣工した。厳密な竣工日は順に1941年1月9日、11日、13日。以後輸送力強化のため、それぞれ1942年7月17日・1943年5月7日付けでD5104・D5105が増備された。製造はD5101 - D5104が汽車製造(製造番号2021 - 2023・2234)、D5105が日立製作所(製造番号1785)で、いずれも同時期の省鉄向けに準じた仕様で竣工しており、形態も標準形と同様である。",
"title": "製造"
},
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"paragraph_id": 24,
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"text": "D51 1161 日本窒素より購入。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "海南島の日窒興業石碌鉄道で使用するため日本車輌製造本店で製造されたものの、海軍の敗退で制海権が失われ、発送できなくなったものを国鉄が購入した。戦時形であり、D51形全体で見ても唯一の1945年製(製造番号1373)で、鉄道研究者の実見により、工作方法がより簡素化されていたのが確認されている。",
"title": "製造"
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"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "中国海南島の鉄石輸送のための日窒興業石碌鉄道は、1067mm軌間であり、1942年および1943年(1944年との説もあり)に5両のD51形(D51 621・632 - 635)が供出されたが、終戦時には2輌のみ存在していた。戦後の動向は不明であり、中国国鉄の形式も持っていない。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "当時、日本の統治下にあった台湾の総督府鉄道向けに1939年から1944年にかけ32両 (D51 1 - 32) が製造されたもので、形態的には1 - 27が標準形に、28 - 32が戦時形に属する。このグループは、日本国有鉄道籍を有したことはない。製造の状況は次のとおりである。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "このうち、戦時形のD51 28 - 32は制海権喪失で発送できず、一時的な措置として国有鉄道が借り入れ、D51 1162 - 1166として使用された。この時期、本土では既に戦時形(1000番台)が製造されていたが、この5両は戦前の標準形と似る形態(ドームはかまぼこ形でなく、標準形と同じ形状)で製造された。これは、外地向けゆえ、大日本帝国の威信を保つためといわれている。しかし、見た目こそ標準形だったが、ドーム以外の実態、炭水車などは内地向けに製造されたものと同じ戦時形で、性能、機能面で劣るため、使用晩期はボイラ圧力が12kg/cmに制限されていた。この5両は、戦後の1946年4月になって台湾に発送された。台湾のD51形は、戦後台湾鉄路管理局に引き継がれ、DT650形 (DT651 - 682) と改称された。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "戦後の1951年、国際連合の援助による中華民国の注文で、5両の標準形(カウキャッチャー付き、炭水車はやや大型化)が台湾に輸出され、DT683 - 687とされた。製造は汽車製造が3両(DT683 - 685・製造番号2608 - 2610)、新三菱重工が2両(DT686・687・製造番号718・719)だった。この5両が、D51形として最後の新製機となった。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1949年、ソビエト連邦へ輸出物資の一環として、国鉄形客車各種などとともに30両が樺太に送られた。なお、よく賠償物資として輸出との誤解がみられるが、正規の条約である日ソ共同宣言の締結は1956年であり、条約締結以前に賠償物資の請求は原則的にありえない。そして日ソ共同宣言時には条約第6項においてソビエトは日本に対し賠償請求権を放棄している。また当時の複数の文献「機関車」第3号(1949年11月発行)や「交通技術」51号(1950年10月号)にも正規の輸出との記述が存在する。一方「賠償輸出」という記述が見られ始めたのは、往時の記録があいまいになりだし、孫引きが増加した1970年代以降のことである。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "これらは、同年1月から4月にかけて5社で製造されている。樺太向けに輸出されたものは、国内向けのものと区別するために、形式番号と車両番号の間にハイフンが入っている(例えば、国内向けは「D51 27」であるのに対して、樺太向けは「D51-27」)。また防寒のために運転席は密閉構造になっているなど、一部構造が国内向けとは異なっている。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、形式やナンバープレートにロシア語で使用されるキリル文字の「Д」ではなく、ラテン文字の「D」が使われている。蒸気機関車研究家の臼井茂信は、サハリン占領後も鉄道システムは日本式だったためではないかと推測している。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "樺太向けD51形の製造の状況は、次のとおりである。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1950年の朝鮮戦争勃発とともに鉄道は主要な攻撃対象となり、多数の機関車が破壊された。この被害補充のためにアメリカ第8軍は国連軍名義で日本に蒸気機関車を発注するが、他社が南満洲鉄道や朝鮮総督府鉄道の設計図を流用して「ミカイ形」を製造するなか、中日本重工業(現・三菱重工業)のみがD51形を標準軌・密閉キャブ化して納入した。製造の状況は次のとおりである。",
"title": "製造"
},
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2両とも休戦後に大韓民国交通部鉄道局(当時。後の鉄道庁)に引き渡され、미카7形(ミカ7形)1・2として1960年代まで使用された。",
"title": "製造"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "戦後、軍需貨物輸送の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による旅客の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年から1947年にかけて急遽C57形32両とC59形73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、1948年の段階で機関車メーカー各社は大量の仕掛品在庫を抱えていた。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "だが、その後は預金封鎖が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、1948年にGHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、C61形旅客用機関車が33両製造されている。新規製造ではなく、書類上改造扱いだったため、予算会計上の規制を回避できた。既に車籍が存在していれば、実際には完全な新製であっても書類上「改造」とすることで会計監査上の指弾を免れうる、といういかにも官僚主義的なこの回避策は、戦前の統制経済初期段階から地方私鉄では車両確保の常套手段と化していた方策である。つまり国鉄当局は、貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用すればよい、というデ・グロートの助言をこれ幸いと言質にとって、戦前から監督官庁としてその手口を知悉していたこの策を講じた。また、このプランは仕掛状態で宙に浮いていたC57形未成車の部材、ひいては突然の予算凍結で困窮を強いられたメーカー各社の救済という意味合いもあり、33両といういかにも中途半端な製造両数も仕掛部材の残数に由来する。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "さらに、1960年には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式のD61形となっている。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "個別の改造機として注目すべきは、1956年11月の運転業務研究会発表資料として軸重可変機構を付与された、奈良機関区所属のD51 65である。当時の奈良機関区は中在家信号場前後に加太越えの難所を擁す関西本線を担当しており、重量級列車の機関車運用には困難を伴い、特に上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい本形式は、その改善が望まれていた。D51 65での改造は、この問題を解決するために提案されたもので、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変え、これにより動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替え可能とするものである。この軸重可変機構は、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、撒砂量の減少により軌道保守の負担軽減にも資するという特徴を有し、さらに単純に甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なり、上り勾配区間や駅構内などの必要な区間のみを軌道強化すればよく、本形式の運用線区に制約を加えるものではない、というメリットもあった。もっとも、この方式は動力近代化の方向性が定まってからの改造のためか他車には波及せずに終わっている。ただし、D51 65はその後奈良機関区から吹田第一機関区へ転じ、吹田操車場の入換機として、比較的長期にわたりこの仕様のままで運用された。なお、この軸重可変の思想は本形式の後継車となったDD51形において形を変えて日の目を見ている。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "その他にもD51形は使用線区の事情に応じて様々な改造が施され、北海道や東北地方では寒冷地対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施され、品質の悪い石炭を常用する常磐線で運行されていた水戸、平機関区配置のD51 112・121・123・248・313・381・389・411・503・551・645・647・672・695・821・914・931・946・1024・1068の20両には1仕業での投炭量が4 - 5トンを超過していたことから、機関助士の2人乗務を避けるべく自動給炭機(メカニカルストーカー)を追加搭載、長野では砂撒き管の増設が行われている。その他にも重油併焼装置やATS用発電機の設置、副灯の設置、キャブの屋根の後方への延長、運転室左右の前面部への旋回窓の設置、さらには変形(切り取り式)デフや集煙装置(変形デフや集煙装置の形状は担当工場ごとに細かく異なる)の装備、誘導通風装置(ギースル・エジェクタ)の取り付けなど、変化のバリエーションは多い。重油併燃装置用の重油タンクの装備位置は地域ごとに異なり、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースがある(大型の3000リットルタンク装備車は東北地方に多かった)。また、肥薩線大畑越えに使用された人吉区のD51は、ボイラー上のタンクの容量不足を補うために助手席側ランボード上に200リットルの補助タンクを装備していた。誘導通風装置は、1963年3月に長野工場で改造されたD51 349を皮切りに、117・120・167・226・232・241・252・276・285・293・308・315・328・343・345・357・371・391・413・457・492・509・539・570・605・711・725・733・742・842・952・953・1037・1042・1119の合計36両に対して取り付けられた。シンダの溜まりが多く、また火の粉止めとしての効果も得られるなど好成績で、秋田機関区や北海道の各機関区、特に追分機関区所属車に対して集中的にこの改造が実施されている。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "その中でも北海道で活躍したD51 54は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装され、ナメクジ形ながら標準形の風貌を持つことで知られた。この機関車は特異な改造だったため、オリジナルを尊重する愛好家からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」という愛称で呼ばれた。",
"title": "戦後の改造機"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた。ただし、四国では土讃本線限定で使用された。貨物用のため地味な存在だったが、中央本線(中央東線・中央西線とも)や函館本線の“山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、急行をはじめとする優等列車を含む旅客列車の牽引に使われることも多く、羽越本線などのような平坦路線でも旅客列車牽引に使われた例があった。D51形は軸重が大きいため、多くは東海道本線や山陽本線、東北本線などの幹線の貨物列車を中心に牽引した。中にはお召し列車を牽引した車両や、先述のD51 65のように新鶴見操車場や吹田操車場などの基幹ヤードでハンプ押上げ用として使用された車両もある。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "運転・保守両面では一部勾配線(後述)を除き概ね好評を博し、全国的に鉄道車両の保守状態が劣悪だった第二次世界大戦終結直後でも、本形式は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。また、本形式以前の機関車は乗務員が慣れるまでの評価が低いものが多かったが、本形式は予想以上の好評で迎えられ、一番扱いやすい機関車であったとの証言も残っている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "しかし、勾配での重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に生じる重心移動で空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1941年から生産されたC59形は、当初の計画では本形式とボイラーを共通設計として量産効果や保守の容易化といったメリットが出る予定だったが、本形式において前後方向の重心問題が解決しなかったことで共通設計を断念し、対策として本形式のものを基本としつつ煙管長を500mm延長して重心を前方にシフトさせた専用ボイラーを別途設計することを強いられている。しかも、それでさえ従軸の軸重が過大で列車牽き出し時に車輪の割損事故を引き起こすなど、ボイラー火室付近の重量が過大であることを示すトラブルが頻発しており、この点からも、本形式のボイラーは機関車の重心設計という点で決して好ましいデザインではなかったことが見て取れる。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "またD50の初期生産車は動軸の軸ばね機構が揺動特性の点で有利な下ばね式となっており、良好な乗り心地で乗務員からは好評であったD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曽福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は他に選択肢が存在しない状況になるまで初期型を受け入れない対応を行っていた。改良形(標準形)が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。 さらに前記の各区はD50形が空転し多数の窒息による重症者と死者を出した痛ましい事故が記憶に新しく標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では1941年に本形式が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している。しかし、昭和23年(1948年)に再配備され、韮崎から小淵沢24.8kmにかけて25‰の勾配が続き標高差533mに達する急勾配と急カーブが連続する区間で、空転せずにD51を運転する方法を見つけ同機の性能を100%引き出したと評される。この難行区間で運転された準急「穂高」は乗員の技量とD51の性能無くして運用できなかった 。否定的な声も取扱に馴れると影を潜め、近代的な装備のD51を礼讃する声が大きくなっていった。 これに対して平坦線を担当する各区は稲沢機関区を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。戦時中には輸送力増強のためボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心にコンクリート製の死重をフロントデッキに搭載するなどの対策が講じられている。これにより、動輪上重量が15tに増えたほか、シリンダー牽引力がD50形より8パーセント上昇した。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "国鉄形蒸気機関車で最も多く生産され末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」、「代表機」、「代名詞」などと表現されることもある本形式であるが、その広範な運用と知名度は、戦時体制に伴う貨物機大量需要から来た膨大な量産と、無理のあるコンパクト化によって軸量や転車台、曲線性能の関係で入線可能な区間が多かった結果に過ぎなかった。もっとも、これだけ生産されながら余剰機が出始めたのは動力近代化の進んだ1960年代からであり、各地の幹線・亜幹線で活躍し輸送力増強に貢献している。設計上の無理が生じた車両長の短縮についても、幹線は電化による近代化が進められていくことから、亜幹線でも十分な性能を発揮できるよう考慮されてのことであった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "当初 D51 の配置を好まない傾向があった機関区でも、操縦に馴れるにつれD50よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになっていった。 初期型(ナメクジ型)もD50よりは使いやすいと評価されるようになり、どこも評判の悪いD50の受け入れを拒みがちになっていく。勾配線での牽引力に優れていたため各地で貨物はもとより旅客列車にもその性能を発揮していき、特記すべき区間として「矢岳超え」こと33.0‰の急勾配が存在する人吉 - 吉松間を受け持つ、人吉機関区では勾配用機関車E10形よりも曲線での空転が発生しにくいことから 、1972年にDD51形へ置き換えられるまで本形式が使用され続けている。「狩勝を経験した人は、どこの線区に行っても通用すると言われたし、事実、その通りだった」と評され、国内の路線でも自然条件と25‰の勾配が続き最小半径180mから179mの曲線が連続し運転の条件が厳しいため屈指の難所としてしられる旧狩勝線でも新線に切り替わる1966年まで運用された。運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを与え、急勾配でもD51は絶対に止まらないと運転側に信用されるようになった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "夕張線(現・石勝線)・室蘭本線の貨物列車牽引では、夕張方面の炭鉱から室蘭港へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたことがあった。1953年(昭和28年)時点では本形式で函館本線小樽築港 - 滝川間と室蘭本線岩見沢 - 追分間で牽引定数が換算185両 (=1,850t)、追分 - 室蘭間で換算260両 (=2,600t) を設定。1952年(昭和27年)2月に追分 - 室蘭間で3,000tの牽き出し試験をしたところ、成績は良好だったものの単線区間の線路有効長の関係で実施に至らなかった。ここは従輪を持たず牽き出し性能で有利な9600形が2,000t牽引を行っていた区間であるが、夕張方面の炭坑から追分駅を経て苫小牧駅付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえセキの積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、本形式の単機でも牽き出しさえすれば、後は室蘭港まで引っ張っていけた。なお、牽き出しは非常にゆっくりしたもので、一両ずつ連結器がぶつかる音をたてながら行われた。この列車の尋常ではない長さは、空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、多く連なるセキが空気を巻き込んで抵抗が増え、速度が上らなかったほどである。大戦中は10‰勾配区間で本形式に8620形を補助機関車としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所要数の増加を招くことから中止となった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "旅客列車の牽引では、函館本線の急行列車の牽引が特筆される。これは函館 - 長万部間を単機で、長万部 - 小樽間の通称「山線」を重連で牽引するも、高速運転で各部の損耗の速さによる検修の負担と、振動の激しさと連続力行で助士2人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大からC62形への転換が行われ、1971年にはDD51形に置き換えられた。山線区間の仕業は機関車、乗務員ともに限界に挑むものであり、牽引機が更新されるたび、運転時分も短縮していった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "繁忙期には不足する旅客機関車に代わり臨時列車の牽引を受け持つこともあり、強力でスピードも出せるため勾配線では旅客列車を引っ張り、急行列車の先頭に立つこともあった。東北本線の臨時急行ではダイヤ上の関係から80km/h近い速度を出して運行されていた。これは、運転規定の最高速度85km/hに迫るものであり、前後動と乗り心地の悪さは異常なものであったと語られている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "電化やディーゼル化の影響による余剰廃車が本格的に出始めたのは1967年ごろからのことで、蒸気機関車の最後の時期まで多くの本形式が残っていた。特に1960年代から1970年代にかけて石北本線、東北本線、奥羽本線、伯備線などの急勾配区間において重連や3重連などで活躍する姿は当時の「SLブーム」の波に乗り、鉄道ファンや写真家、マスコミ関係者などの間で大変な人気を集めた。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "また、羽越本線をはじめとする日本の原風景が残っていた線区を走る雄姿を撮影する鉄道ファンの姿も多かった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "しかし、製造両数が多いこともあって、当然蒸気機関車の中でも残存両数が多く、他の機関車よりも多く見ることができたため、鉄道撮影を主とするファンの中には他の少数派形式が来ることを期待していて、本形式が来ると「またD51か」とため息を漏らす者や、本形式牽引列車の場合はシャッターを切らない者も少なからず居たという。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "最後に残ったのは北海道の追分機関区に所属していた5両で、C57 135牽引(現・鉄道博物館所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の1975年12月24日まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終貨物列車(夕張線6788列車)ならびに国鉄最後の蒸機本線走行となった。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "これらの国鉄蒸気機関車の最後を飾った追分区所属のD51形は、地元、追分町(現・安平町)(241号機)や東京都台東区上野の国立科学博物館(国鉄工場最終出場蒸気機関車603号機)などといった各地に保存が決定していたが、1976年4月13日深夜に発生した追分機関区扇形庫火災により、国鉄最後の蒸気牽引入換運用機79602号機や、配属されたばかりの新鋭ディーゼル機関車(DD51形 682 - 684・1079・1103・1144・1169号機とDE10形 1744号機)8両とともに4両(241・465・603・1086号機)が焼失した。現在、安平町の鉄道資料館には旧追分機関区の機関庫の火災で焼失した当初の静態保存予定機で、動輪と煙室扉だけになってしまった241号機他の代わりとして、小樽築港機関区や追分機関区などで使用されていた320号機が静態保存されている。320号機は、本来は静態保存を予定していなかったが、急遽、静態保存機となったものである。また、国立科学博物館には同じく予定されていた603号機の代替として231号機が保存され、603号機は前面のみが状態が良かった為、前半分をカットモデルとして京都市の19世紀ホールに、書類上保留車のまま、屋外展示の51号機や他機関車と共に展示されていたが、2019年の年末に51号機の展示が終了し解体された。そして465号機は北海道の夕張郡由仁町の伏見台公園トリムコース入口付近に、1086号機はC57形 135号機として、北海道岩見沢市の岩見沢観光バスと、長万部駅前のお店から北海道大沼にある「SL夢ギャラリー ポッポ爺」に譲り受けた、動輪のみがそれぞれ展示されている。なお、一方で火災を免れたDD51形 681・1166号機はのちに保存されずに、国鉄とJR貨物に廃車解体され、実質追分機関庫の火災で一切の損傷を受けずに残った機関車は現存しない形となった。なお、最終5両の内、916号機のみが前橋市前橋こども公園に保存されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "日本国外では、台湾でDT650形として37両が使用された。台湾で使用されていたものは既に全車廃車となり、うち4両が静態保存されていたが、2011年11月に、DT668が動態復活した。観光用、イベント用として活用されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "サハリンで使用されたものは引退後6両(1・2・23・25・26・27)が帰国し、各地に保存されているほか、現地でも4号機が観光列車として運行されている。",
"title": "運用"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、日本国内に限っても2021年現在2両(200・498号機)が本線で運行可能な状態で動態保存中、それ以外にも100両以上が全国各地の鉄道博物館やその他博物館、公共施設、学校、公園などで保存されている。なお、そのうち1・187・200・488・745号の5両は準鉄道記念物に指定されている。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "東日本旅客鉄道(JR東日本)が、1988年に動態復元した機関車である。車籍は1972年に一旦抹消されたが、1988年の動態復元に伴い、同年復活した。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "西日本旅客鉄道(JR西日本)の京都鉄道博物館(旧梅小路蒸気機関車館)に保存されている200号機は動態保存されており、車籍も有するが、全般検査を受けていなかったため本線走行はできず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)のみに留まっていたが、2017年に本線運転可能な状態に復元され、「SLやまぐち号」での運用を開始した。車籍は1979年に一旦抹消(有火保存)されたが、1987年に復活している。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "2011年10月28日に海線にて試運転を行った後、11月11日の内湾線の記念運転を経て正式に動態復活となった。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "以下に番号と所在地を示す。静態保存が大半だが、施設内を遊覧運転する程度の動態保存がなされている車両もある。",
"title": "保存機"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "本形式の愛称としては「デコイチ」、「デゴイチ」ともに用いられている。現在は「デゴイチ」が多く見られるが、過去には、各鉄道趣味誌においても「デコイチ」の表記が多く存在していた。なおこの愛称については、本来は「デコイチ」だがSLブーム以降「デゴイチ」の方が一般的になった、という見解もある。竹島紀元は、戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、「鉄道現場のスラングのようなものでその発生や普及変遷について確実な状況はつかめない」と断った上で、以下のような点を指摘している。",
"title": "「デコイチ」と「デゴイチ」"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一方、1946年発行『絵とき鉄道科学』(交友社)に「デゴイチ(中略)と呼ぶのが普通であります」と書かれ、、内田百閒による1950年ごろの国鉄職員が、Dの51だから「デゴイチ」だと言ったとする記述もあるため、少なくともこの頃に「デコイチ」のみだったと言えない。",
"title": "「デコイチ」と「デゴイチ」"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "初期形(半流線形)の愛称の「なめくじ」は、1936年3月発行の『鉄道趣味』で宮松金次郎が「上から見た処は丁度ボイラーの上に這い廻るなめくじです」と記したものが始めで、後年になって広まったものとされる。",
"title": "「デコイチ」と「デゴイチ」"
}
] |
D51形蒸気機関車(D51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計、製造した、単式2気筒で過熱式のテンダー式蒸気機関車である。 主に貨物輸送のために用いられ、太平洋戦争中に大量生産されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、ディーゼル機関車や電気機関車などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録した。この記録は現在も更新されていない。 この他に、台湾総督府鉄道向けに32両、胆振縦貫鉄道(1944年に国有化)向けに5両(再掲)が製造され、戦後はソビエト連邦サハリン州鉄道向けに30両、台湾鉄路管理局向けに5両、朝鮮戦争における国連軍向けの標準軌仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及ぶ。 また、1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化時には、西日本旅客鉄道(JR西日本)に1両(200号機)が継承され、翌1988年(昭和63年)には東日本旅客鉄道(JR東日本)で1両(498号機)が復籍し、この2両が動態保存されている。JR東日本の498号機は復籍後の初仕業で来日中のオリエント急行を牽引して復活、西日本の200号機は2017年(平成29年)に山口線のSLやまぐち号で、本線運転に復帰した。 現場の機関士にも操作性の良さから人気があり「デゴイチ」の愛称は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった。もし、D51がなければ日本はこれほど進歩しなかったかもしれないと極言する評価さえ存在し、その性能や扱いやすさは後世の試作研究の目標になるほどであった。
|
{{機関車情報表
| 車両名 = 国鉄D51形蒸気機関車
| 背景色 = #000000
| 文字色 = #ffffff
| 画像 = JNR D51 SteamLoco Double header at okoba loop.jpg
| 画像幅 =
| 画像説明 = [[肥薩線]]にて[[貨物列車#混合列車|混合列車]]を牽くD51 545・890<br/>(1970年3月8日 [[大畑駅]] - [[矢岳駅]]間)
| 運用者 = [[鉄道省]]→[[日本国有鉄道]]<br />[[東日本旅客鉄道]]<br />[[西日本旅客鉄道]]
| 製造所 = [[川崎車両|川崎車輛]]<br />[[汽車製造]]<br />[[日立製作所]]<br />[[日本車輌製造]]<br />[[三菱重工業]]<br />[[東海旅客鉄道浜松工場|鉄道省浜松工場]]・[[大宮総合車両センター|大宮工場]]・[[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]]・[[小倉総合車両センター|小倉工場]]・[[長野総合車両センター|長野工場]]・[[秋田総合車両センター|土崎工場]]・[[郡山総合車両センター|郡山工場]]・[[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]]
| 製造年 = [[1935年]] - [[1945年]]
| 製造数 = 1,115両(国鉄在籍分)
| 引退 = 1975年12月24日
| 愛称 =
| 軸配置 = 1D1
| 軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]
| 全長 = 19,730 mm
| 全幅 =
| 全高 = 3,980 mm
| 機関車重量 = 78.37 t(運転整備)
| 動輪上重量 =
| 炭水車重量 = 47.40 t(運転整備)
| 総重量 = 125.77 t
| 固定軸距 =
| 先輪径 =
| 動輪径 = 1,400 mm
| 従輪径 =
| 軸重 = 14.30 [[トン|t]]
| シリンダ数 = 単式2気筒
| シリンダ = 550 mm × 660 mm
| 弁装置 = [[ワルシャート式弁装置|ワルシャート式]]
| ボイラ圧力 = {{convert|14.0|kgf/cm2|MPa psi|sigfig=4|abbr=on}}(登場時)<br />{{convert|15.0|kgf/cm2|MPa psi|sigfig=4|abbr=on}}(戦後全車)
| ボイラ水容量 = 6.0 m<sup>3</sup>
| 大煙管 = 140 mm×5,500 mm×35本
| 小煙管 = 57 mm×5,500 mm×94本
| 火格子面積 = 3.27 m<sup>2</sup>
| 全伝熱面積 = 221.5 m<sup>2</sup>
| 過熱伝熱面積 = 41.4 m<sup>2</sup>
| 全蒸発伝熱面積 = 168.8 m<sup>2</sup>
| 火室蒸発伝熱面積 = 17.5 m<sup>2</sup>
| 煙管蒸発伝熱面積 = 147.4 m<sup>2</sup>
| 燃料 = 石炭
| 燃料搭載量 = 8.0 t(1-954号機)<br>10.0 t(1001 - 1161号機)
| 水槽容量 = 20.0 [[立方メートル|m<sup>3</sup>]]
| 制動装置 = [[自動空気ブレーキ]]
| 最高運転速度 = 85 km/h
| 設計最高速度 =
| 最大出力 = 1,400 [[馬力|PS]]
| 定格出力 = 1,280 PS
| 引張力 =
| シリンダ引張力 =
| 粘着引張力 =
| 備考 =
| 保安装置 = ATS-P/Ps(498号機)<br />ATS-SW/ATS-P(200号機)
| 備考全幅 =
}}
'''D51形蒸気機関車'''(D51がたじょうききかんしゃ)は、[[日本国有鉄道]](国鉄)の前身である[[鉄道省]]が設計、製造した、単式2気筒で[[過熱蒸気発生装置|過熱式]]の[[テンダー機関車|テンダー式]][[蒸気機関車]]である。
主に[[貨物列車|貨物輸送]]のために用いられ、[[太平洋戦争]]中に[[大量生産]]されたこともあって、国鉄における所属総数は1,115両に達しており、[[ディーゼル機関車]]や[[電気機関車]]などを含めた日本の機関車1形式の両数でも最大を記録した。この記録は現在も更新されていない<ref group="注">一時的に籍を置いた1162 - 1166号機(→台湾鉄路管理局DT678 - 682)を含めると1,120両になるが、この5両については通常はカウントの対象外とされる。</ref>。
この他に、[[台湾総督府鉄道]]向けに32両、[[胆振縦貫鉄道]]([[1944年]]([[昭和]]19年)に[[戦時買収私鉄|国有化]])向けに5両(再掲)が製造され、戦後は[[ソビエト連邦]][[サハリンの鉄道|サハリン州鉄道]]向けに30両、[[台湾鉄路管理局]]向けに5両、[[朝鮮戦争]]における[[国連軍 (朝鮮半島)|国連軍]]向けの[[標準軌]]仕様機が2両製造されており、製造総数は1,184両に及ぶ。
また、[[1987年]](昭和62年)4月の[[国鉄分割民営化]]時には、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)に1両([[国鉄D51形蒸気機関車200号機|200号機]])が継承され、翌[[1988年]](昭和63年)には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)で1両([[国鉄D51形蒸気機関車498号機|498号機]])が復籍し、この2両が[[動態保存]]されている。JR東日本の498号機は復籍後の初仕業で[[オリエント・エクスプレス '88|来日中のオリエント急行]]を牽引して復活、西日本の200号機は[[2017年]]([[平成]]29年)に[[山口線]]の[[SLやまぐち号]]で、[[本線]]運転に復帰した。
現場の機関士にも操作性の良さから人気があり<ref>[蒸気機関車D51大辞典 P12]</ref>「'''デゴイチ'''」の[[愛称]]は、日本の蒸気機関車の代名詞にもなった<ref>[http://www.jreast.co.jp/train/joyful/d51498.html JR東日本公式サイト車両図鑑 D51498]</ref><ref>[http://www.mtm.or.jp/uslm/facility/steam-locomotive/model-d51/index.html 梅小路蒸気機関車館公式サイト 蒸気機関車群D51200号機/1号機]</ref>。もし、D51がなければ日本はこれほど進歩しなかったかもしれないと極言する評価さえ存在し、その性能や扱いやすさは後世の試作研究の目標になるほどであった<ref>D51蒸気機関車 中村由信(著) あかね書房(出版)</ref>。
== 概要 ==
=== 誕生の背景 ===
[[1929年]](昭和4年)に始まった[[世界恐慌]]、その影響で日本国内で発生した[[昭和恐慌]]により、[[1930年代]]前半の日本における鉄道[[輸送量の単位|輸送量]]は低下していた。そのため、恐慌発生以前に計画されていた[[貨物列車|貨物]]用の新形機関車の製造は中断されていた。大正12年のD50以降、新型機を開発して製造されることがなかったのである。
その後、景気が好転して輸送量の回復傾向が顕著になってきたため、改めて新形の貨物用機関車が求められた。国鉄(当時鉄道省)では電気機関車専用のチームがあり基礎研究も行われていたが、電化区間がまだ短く蒸気機関車に輸送の大部分を頼らざるを得なかった。<ref>[[#鉄道伝説|鉄道伝説II P11]]</ref>
そこで[[1935年]](昭和10年)に開発を始め[[1936年]](昭和11年)から製造されたのが本形式である。[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]の[[ボイラー]]で実用化された[[アーク溶接|電気溶接]]技術を応用して製造され、当時の設計主任である[[島秀雄]]は「多くの形式の設計を手掛けた中でも、一番の会心作」として同形式を挙げている<ref>「第18章 日本の代表的SL D51」『[[#久保田 (2005)|日本の鉄道史セミナー]]』 (p.143) </ref><ref group="注">ただし、彼が設計を担当した初期車は特に深刻な問題点が多々あり、以後の増備時に他の設計者によって大きく設計が変更され、島自身も機関車掛長として改良や仕様変更を重ねていった。これらから判断する限り、[[島秀雄|本人]]の項目で述べられているように客観的に見ると評価の分かれる機関車である。</ref>。C53の複雑な設計や工作不良を反省し<ref>[[ #高木 蒸気機関車技術論に対する疑問以上のもの]]</ref>、本機では部分ごとの標準化やユニット化がされ整備や修理が容易になっている。このシステマチックな視点は[[国鉄80系電車]]から[[新幹線]]の開発でも大きく反映されシステム工学の先駆けともいえる鉄道車用であった<ref>[[#鉄道伝説|鉄道伝説II P13 P19]]</ref>。
== 構造 ==
[[File:Pair of D51 driving wheels at Shimbashi Station.jpg|thumb|新橋駅汐留口前に保存展示されている国鉄D51形蒸気機関車の動輪。]]
設計の基本となったのは、同じく[[車軸配置|軸配置]][[車輪配置 2-8-2|2-8-2]](1D1=ミカド)のテンダー式機関車である[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]で、三缶胴構成の燃焼室を持たない広火室構造のストレートボイラーを搭載し、棒台枠を採用するなどの基本設計は共通である。ボイラー使用圧力は当初D50形の13 kg/cm<sup>2</sup>に対して14 kg/cm<sup>2</sup>と1 kg/cm<sup>2</sup>昇圧、シリンダー径を縮小しつつ牽引力の若干の増大を図っている。新技術によりD50よりも安定した優れた性能を発揮できるようになっている<ref>[[#D1001|鉄道ピクトリアル No.1001 P11]]</ref>
また、[[リベット]]接合部を[[アーク溶接|電気溶接(アーク溶接)]]で置き換えるなど、構造と工法の見直しを行って[[活荷重|軸重]]の軽減と全長の短縮を実現し、全国配備が可能となった。最大動軸重を14.3 tに引き下げ、これによりD50形では入線が困難だった[[丙線]]への入線が可能とされた。ただし、標準形以降は最大・平均ともに動軸重が増大し、特に最大動軸重は最終的に15.11 t(第4動軸)とD50形(14.99 t〈第1動軸〉)以上の値となっている。全長は初期形でD50形より571 mm短縮された。フロント[[オーバーハング (自動車用語)|オーバーハング]]の大きいD50形は、退行運転や[[推進運転]]時に、軽量な[[二軸車 (鉄道)|二軸車]]を中心として連結相手を[[列車脱線事故|脱線]]させてしまう事故をしばしば起した。この問題は本形式で前部[[デッキ]]と先台車の設計変更により改善が図られたが、その反面、先台車周辺の[[メンテナンス|保守]]が困難になり、[[整備士|検修陣]]にはD50形と比して本形式を嫌う者も少なくなかった。また、先台車からテンダーの第4軸までの長さが17 mを、前部端梁からテンダー後部端梁までが19 mを、それぞれ超過するD50形は60[[フィート]] (18.3 m) [[転車台]]での転向が難しく、通常は20 m転車台での転向を必要としていた。この短縮により[[線路等級|亜幹線]]クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向が可能となったことは、本形式の[[運用 (鉄道)|運用]]範囲拡大に大きく貢献している。
動輪はそれまでの[[スポーク]]動輪から、輪心を中空構造の箱形(ボックス)輪芯に変更している。これは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で開発され、本形式の設計が始まった1935年(昭和10年)の前年に当たる[[1934年]](昭和9年)に製品が発表されたものをいち早く採用した形である。その構造・形状から[[太鼓焼き]]や[[蓮根]]といった異名で呼ばれることもあったが、円盤に近い形状であるため円周の各部に均等に力がかかり、また比較的軽量であると言う利点から以後ほぼ全ての<ref group="注">本形式以降の新形式蒸機のうち、[[国鉄B20形蒸気機関車|B20]]と[[国鉄D60形蒸気機関車|D60]]はスポーク動輪を使用しているが、このうち後者は[[国鉄D50形蒸気機関車|D50]]の改造形式である。</ref>省形蒸気機関車に採用されている<ref>臼井茂信「機関車の系譜図 4」1972年 交友社刊 pp.581</ref>。
[[戦時設計|戦時形]]ではボイラー使用圧力15 kg/cm<sup>2</sup>への引き上げがなされ、動軸重の増加も行って牽引力を増大した<ref name="RP633">『鉄道ピクトリアル』No.633 p.102</ref>。初期形、標準形についても[[戦後]]に缶圧の引き上げと輪重増大改造が行われた。登場時は燃焼室を装備していないため、他国の蒸気機関車と比較すると熱効率が良いとは言えなかったが、戦後に重油併燃装置が追加され三分の一以上も石炭が節約できるようになった他、引張定数または速度を 10%向上させている<ref>鉄道技術発達史 第4篇P335</ref>。
電気溶接の全面的な採用と箱形化された動輪輪芯など、形態的には同時期に設計された[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]との共通点が多い。
== 製造時期による区分 ==
本形式は製造時期と形態から三種に大分される。以下にその特徴を記す。
=== 初期形 ===
{{Vertical images list
|幅= 240px
| 1=D51 1 ,Umekōji.jpg
| 2=1号機(ナメクジ型)
| 3=D51namekuzi.jpg
| 4=D51 51(ナメクジ型)
| 5=Steam Locomotive D51 23 March 1936.jpg
| 6=D51 23(おおナメクジ型)
}}
'''D51 1 - 85・91 - 100'''
* 先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20・8-20A(8-20Aは91 - 96のみ)、動力逆転機搭載
* 初期に製造された95両は、ボイラー上の[[砂撒き装置|砂箱]]と煙突の間に給水加熱器を[[軌条|レール]]方向に置き、それらを覆う長いキセ(着せ=覆い)持つことが外観上の特徴である。その後の通常形ドームとの区別のため「半[[流線形車両|流線形]]形」、略して「半流形」と呼ばれるようになり、その形状から「[[ナメクジ]]」の[[通称]]もある。また、汽車製造会社製の22・23号機はドームがさらに運転台まで延びているため「全流線形形」、略して「全流形」、「おおナメクジ」、「スーパーナメクジ」と呼ばれている。なお、23号機は[[操縦席|キャブ]]側面に[[通票|タブレット]]キャッチャーを、[[ランボード]]上に[[鉄道の車両番号|ナンバープレート]]を装着していた。この両機は後に保守上の都合等から通常の「ナメクジ」型に改装されている。また、このグループは運転台の奥行きが標準形に比して短い。文献によっては、設計主任の[[島秀雄]]の配慮により機関車を大きく見せるために通常よりも小さく作ったものであると記述されたものがあるが、D50形よりも前頭部を短くしたために後部が重くなってしまい、そのバランスをとるために小型化したものである<ref>高木宏之「改稿 国鉄蒸機発達史」、『RailMagazine 2008年9月号』 ネコ・パブリッシング</ref>。ゆったりした運転台を持つD50形に比べ[[乗務員]]の労働環境として劣悪で、「D50形では広い運転台の片隅に置いておいた[[弁当]]が傷むことはなかったが、狭いD51形の運転台では置いておいた弁当が(ボイラーの熱で)腐ることがあった」といった証言が残されているらしいが、D50とD51の乗務員用ツールボックスは座席下にあるため信憑性に疑問が残る<ref>[https://response.jp/article/2016/08/28/280754.html 【SL乗務員OBトーク #1】弁当が腐らない蒸機、闇添、ゴサンと生きる]</ref>。また、D50の運転室はボイラーとの重なりが多いため火室が大きく張り出しており実際に作業できる面積は見かけほど差がなく<ref>鉄道ピクトリアルNo.1001 2022年8月号 [特集]D51形蒸気機関車 P45</ref>、本機ではボイラーの熱を避けるため必要最低限の広さとしていた<ref>蒸気機関車のすべて p.193</ref>。D51やD52の乗務に慣れると、D50は機器や配管の位置が極めて乱雑な上に運転台が広いため操作に手惑い落ち着かないとの回想もあった<ref>日本蒸気機関車特集集成 鉄道ピクトリアル編集部(編)鉄道図書刊行会(出版)P48 </ref>。第1動軸から順に軸重が14.99 t・14.80 t・14.79 t・14.21 tと第1動軸を重く第4動軸を軽く配分してあり、牽き出し時に[[重心]]が後へ移動することで各動軸の軸重が平均化されるため[[空転]]が発生しにくい設計だったD50形と比較して動軸の重量配分に明らかな不備があり、動軸重が第1動軸から順に13.17 t・14.30 t・14.23 t・14.30 tで列車牽き出し時などの過荷重状態で第1動軸の軸重が低下し額面上の性能向上にもかかわらず空転が頻発する傾向が強かったため、乗務員の評価は良くなかったとされる。全長短縮により部品が後方に設置されたことに加え、ボイラが計画重量よりも軽く仕上がったことが原因であった<ref>[[#D1001|鉄道ピクトリアル No.1001 P18]]</ref>。なお空転の原因は、元乗務員の座談会では自動リバー(動力逆転機)が空気作動のため少し動かしたつもりが大きく変わってしまうこととされ<ref>蒸気機関車EX Vol.42 P64</ref>、国鉄の鉄道技術発達史にはシリンダけん引力(Cylinder power)に対する粘着力(Adhesion)の割合が、D50より小さいため操縦に慣れるまで好まれなかった<ref>鉄道技術発達史 第5篇 運転P117</ref>と書かれており動軸重の配分については触れられていない。
* ナメクジ形は、構造上汎用形の[[集煙装置]]が取り付けられないため、配置が区別されており、標準形と同仕様へ改造された例も見られる。なお、この呼び名は当初は鉄道ファンの間での通称だったが、後には初期形D51を区別する呼称として国鉄内部でも用いられた。その後、[[山口線]]で蒸気機関車運転の復活が決定された際、D51 1が復活予定候補に挙がったが、集煙装置が取付不可だったために予定機から外された経緯がある。結局、[[国鉄C57形蒸気機関車1号機|C57 1]]とC58 1が運用されたが、同形式の集煙装置の図面がなかったことから、標準形D51用の[[長野総合車両センター|長野工場(現・長野総合車両センター)]]式集煙装置が搭載された。
=== 標準形 ===
{{Vertical images list
|幅= 240px
| 1=D51-2.jpg
| 2=D51 720(標準型)<!--撮影年その他はクリックすれば分かるので本文では不要でしょう-->
| 3=SL D51470 04.JPG
| 4=標準型D51の運転席
}}
'''D51 86 - 90・101 - 954'''
* 先台車:LT126、従台車:LT154B、テンダー:8-20A・B、動力または手動(ねじ式)逆転機搭載
** 8-20Aは86 - 90・101 - 106・199 - 211に連結。AとBの相違点は炭水車の[[鉄道車両の台車|台車]]で、Aは軸ばねにコイルばねを用い、側枠を一体[[鋳鋼]]製としたTR24形類似のもの、Bは軸ばねに重ね板ばねを用い、側枠を[[リベット|鋲]]接板台枠構造としたものである。
** 逆転機は134号機以降、微妙な操作が行いにくい動力式から手動式に戻された。
* 前述のとおりナメクジ形は重量配分が悪く、重量列車牽き出し時に[[空転]]が多発する傾向があり、牽き出し時の重心移動を考慮すると本来一番重く設定されてしかるべき第1動軸の軸重が13.17tと第2 - 第4動軸に比して1t以上軽く、適正な重量配分ではなかった。そのため、[[1937年|1937]]・[[1938年]]に浜松工場で製造された86 - 90号機において改良[[プロトタイプ|試作]]が行われ、給水暖め器を煙突前に[[枕木]]方向に載せ、担いばねの釣合梁(イコライザー)の支点位置を変更して動輪重量の配分を可能な限り修正する、動力式逆転機を手動式に変更するなどの設計変更が行われた。これによりナメクジ形で問題とされた点は概ね改善された。ただし、ナメクジ形と比較すれば改善されてはいたものの、先行形式であるD50形と比較すると動輪、とくに牽き出し時に実効軸重が低下する第1動輪の粘着性能が劣り(標準形の昇圧後で動軸重は第1動軸から順に14.73t・14.77t・14.95t・15.11t。つまり、1次形と比較して多少の改善はあったものの第1動軸から順に第4動軸まで軸重が順に増えていくという、重量列車や勾配線での列車の牽き出し時に問題となる軸重の配分状況に変化はない)、ボイラー圧力の引き上げなどにより[[シリンダー]]出力が増大していたこともあって、空転多発の一因となっていた。そのため、粘着性能の良否が直接[[列車]]の定時運行に影響する[[北陸本線]]や[[信越線]]などの勾配線では、敦賀機関区を筆頭に改良版であるこの標準形さえ忌避し、額面上の性能では劣るが空転しにくいD50形の配置を強く要望する[[機関区]]が少なからず存在した。こうした否定的な状態が発生した理由は、D50においても勾配で立ち往生や逆行を頻発させており<ref>[https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf 続・滋賀の技術小史]</ref>、本機が配備される約10年前の1928年には二両のD50が牽引する貨物列車がトンネルで空転を起こし、救援に向かった列車も立ち往生してしまい全員が窒息による危篤状態に陥り、3名(5名説もあり)が死亡、12名が昏倒する悲惨な事故を起こしていた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1212/07/news013_3.html 杉山淳一の時事日想 鉄道のトンネルは、安全なのか]</ref>。
これらの機関区に本形式が配置されるようになるのは、操縦に馴れるにつれD50 形式よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになってからであった<ref name="No 0051">鉄道技術発達史 第5篇 運転 P117 1958年</ref>。根室本線旧線のように25‰の勾配と漏水するトンネル、カーブが全体の71.7%に達し(半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mが連続する)、国内の鉄道路線の中でも自然条件と運転の条件が厳しい過酷な状況でも実用に耐え<ref name="No 2051">[http://www.karikachi.org/heritage/ NOP法人「旧狩勝線を楽しむ会」旧狩勝線の近代化遺産]</ref><ref name="No 1966">[http://www.ecotorocco.jp/railhistory/largecurve1/ 狩勝高原エコトロッコ鉄道」根室本線旧線 大カーブ(狩勝信号場~新内駅間)その1]</ref>、昭和41年[[1966年]]の新線に切り替わるまで使われた。大型機の使用されなかった四国線で勾配区間の輸送力増強に力闘するなどの実績もある。後述の旧狩勝線や人吉機関区のように本来ならば急勾配専用機が必要な区間で運用された。
最終的に、運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを残し「デゴイチはきつい坂を登っていても、絶対に止まることはないから安心しろ」と機関士に評価されるようになった<ref name="No 0451">[https://www.70seeds.jp/sld51-066/ 現役技術者「SLは生き物」]</ref>。
なお、本形式については戦時中以降、[[輸送力]]増強を図って動軸重の引き上げが許容され、フロント[[デッキ]]などに[[コンクリート]]塊の[[重し#死重|死重]]を搭載することで空転癖の改善が実現を見ている<ref group="注">また山岳路線の多い中部地方の機関区所属車を中心に、撒砂管を3本とも前進用に並べ替えたものが多々ある(本来は最後尾の1本は逆行用で第3動輪の直後に付いていたが、これを第4動輪の前に向け直した)。</ref>。
* その後[[1938年]]6月竣工の101号機以降はこの仕様で新製され、この姿が広くD51のイメージとして流布することとなった。
* なお、このグループでは一部に台枠が[[圧延]][[鋼板]]をくりぬいた棒台枠ではなく、D51 354 - 359・403 - 405など、[[鋳鋼]]製台枠を採用したものが存在する他、[[1943年]]度製造分以降では、[[除煙板]]やナンバープレート、テンダーの石炭庫側板を木材で代用し、また煙室前部上方と煙室扉上部の丸みを省略するなど、金属資源節約と各部工程の簡略化が順次推し進められ、'''準戦時形'''と呼ぶべき仕様に移行した。[[戦後]]はこれらも徐々に標準形と同等の仕様となるように改修が行われている。
=== 戦時形 ===
[[ファイル:D51-1072kobe.jpg|thumb|D51 1072<br/>戦時形の特徴であるかまぼこ形ドームをボイラー上に搭載する。(保存場所:神戸駅近傍)]]
'''D51 1001 - 1161'''
* 先台車:LT128、従台車:LT157、テンダー:10-20、手動(ねじ式)逆転機
* [[昭和]]19年度発注グループ([[1944年]]から[[1945年]]にかけて竣工)は、上述の標準形後期や[[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]と同様に[[ランボード]]や[[除煙板|デフレクター]]などに[[木材]]などの代用材を多用、煙室前部上方と煙室扉上部の丸みの省略、ドームのカマボコ形化<ref group="注">ただし日立製の12両は普通型ドームで製作されている。</ref>、といった簡素化に加え、[[台枠]]を省略した[[船]]底形[[炭水車]]に変更するなど、より一層の資材節約と工期短縮を図った[[戦時設計]]とし、また前述のとおり缶圧と動輪上重量の増大が行われて牽引重量増が図られた。このため新形式としてもよいところ、途中欠番を置いて1001から付番した<ref name="RP633" />。しかし、粗悪な代用材料を使用し、本来は[[リベット]]2列が基本だったボイラーなどの重要接合部をリベット1列に簡略化、さらに[[溶接]]不良が少なからずあったことが原因で1140号機がボイラー爆発事故を起こし、乗務員には「[[爆弾]]を抱えて運転する気分」などと酷評された。[[戦後]]、これらの車両は、代用材使用部品の正規部品への交換、X線検査で状態不良と判定されたボイラーの新製交換などにより性能の標準化が行われたが<ref group="注">量産型(標準型)・準戦時型共々200両超のボイラー交換車が存在し、この結果準戦時型・戦時型由来であっても1098号機のように好調機として重用された車両がある。</ref>、性能面に影響のなかった部位はそのまま存置され、カマボコ形ドームや炭水車の形状などに特徴が残った(なお、きわめて少数ではあるが、戦後の改装時に、炭水車を船底形から標準型と同じものに振り替えた例もある)<ref group="注">自動給炭機を取り付けた2両が該当する。</ref>。ごく一部の機体は、煙室前面と煙室扉上部の欠き取りもそのまま残されていた。
== 製造 ==
量産を進める段階で国内情勢が戦時体制へと突入し、貨物機である本形式に対する需要が非常に大きくなったため、国内の大型機関車メーカー5社と国有鉄道の工場(工機部)のうち8工場が製造に参加し、1936年から[[1945年]](昭和20年)までの間に1,115両もの多数の車両が製造されることとなった。そのうちの8両については、国有鉄道の発注ではなく、[[戦時買収私鉄|私鉄の戦時買収]]や[[樺太|南樺太]]の[[内地]]化に伴い鉄道省へ編入されたもの、[[外地]]向けのものが戦況の悪化に伴う制海権喪失により発送できなくなり、国有鉄道籍を得たものである。また、955 - 1000は欠番となっているが、戦時型を1001から付番し[[番台区分|番号で区別]]したためである。そのため、国有鉄道所有機のラストナンバーは1161である。
これらの他、戦前から[[台湾総督府鉄道]]向けに製造されたものが32両(1944年製の5両は、一時的にD51 1162 - 1166として借入使用された)、戦後に[[ソビエト連邦]][[サハリンの鉄道|サハリン州鉄道]]向けに輸出されたものが30両、国連軍に納入されたものが2両、さらに1951年に台湾鉄路管理局向けに輸出された5両が存在する。これらを合わせると、D51形は1,184両製造されたことになる。
=== 鉄道省(国有鉄道) ===
国有鉄道発注車は、全部で1,107両である。その製造の状況は、次のとおりである。
* 1935年度(23両)
** [[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]](13両):D51 1 - 13([[製造番号]]1643 - 1655)
** [[汽車製造]](10両):D51 14 - 23(製造番号1371 - 1380)
* 1936年度(25両)
** 川崎車輛(14両):D51 24 - 37(製造番号1738 - 1742・1783 - 1791)
** 汽車製造(5両):D51 38 - 42(製造番号1451 - 1455)
** [[日立製作所]](6両):43 - 48(製造番号813 - 818)
* 1937年度(52両)
** 川崎車輛(27両):D51 49 - 67・71 - 78(製造番号1807 - 1819・1824・1825・1828 - 1831・1890 - 1897)
** 日立製作所(3両):D51 68 - 70(製造番号868 - 870)
** 汽車製造(17両):D51 79 - 85・91 - 100(製造番号1532 - 1538・1560 - 1569)
** [[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]](5両):86 - 90(製造番号19 - 23)
* 1938年度(127両)
** 汽車製造(6両):D51 101 - 106(製造番号1570 - 1575)
** 川崎車輛(14両):D51 107 - 120(製造番号1932 - 1945)
** 日立製作所(27両):D51 121 - 133・173 - 186(製造番号990 - 1002・1040 - 1053)
** [[日本車輌製造]](39両):D51 134 - 172(製造番号594・595・660 - 696)
** [[大宮総合車両センター|大宮工場]](8両):D51 187 - 194(製造番号1 - 8)
** [[東海旅客鉄道浜松工場|浜松工場]](8両):D51 199 - 206(製造番号24 - 31)
** [[西日本旅客鉄道鷹取工場|鷹取工場]](7両):D51 211 - 217(製造番号1 - 7)
** [[小倉総合車両センター|小倉工場]](7両):D51 220 - 226(製造番号16 - 22)
** [[長野総合車両センター|長野工場]](3両):D51 229 - 231(製造番号1 - 3)
** [[秋田総合車両センター|土崎工場]](2両):D51 232・233(製造番号1・2)
** [[郡山総合車両センター|郡山工場]](3両):D51 234 - 236(製造番号1 - 3)
** [[北海道旅客鉄道苗穂工場|苗穂工場]](3両):D51 237 - 239(製造番号1 - 3)
* 1939年度(196両)
** 大宮工場(10両):D51 195 - 198・243 - 244・469 - 472(製造番号9 - 18)
** 浜松工場(15両):D51 207 - 210・245 - 250・473 - 477(製造番号32 - 46)
** 鷹取工場(11両):D51 218・219・251 - 254・478 - 481・490(製造番号8 - 18)
** 小倉工場(10両):D51 227・228・255 - 258・482 - 485(製造番号23 - 32)
** 苗穂工場(4両):D51 240 - 242・489(製造番号4 - 7)
** 長野工場(3両):D51 259・260・486(製造番号4 - 6)
** 土崎工場(3両):D51 261・262・487(製造番号3 - 5)
** 郡山工場(3両):D51 263・264・488(製造番号4 - 6)
** 川崎車輛(45両):D51 265 - 309(製造番号2143 - 2152・2168 - 2177・2191 - 2197・2200 - 2209・2212・2211・2210・2213 - 2217)
** 日立製作所(50両):D51 310 - 359(製造番号1189 - 1237・1240)
** 日本車輌製造(27両):D51 379 - 405(製造番号754 - 780)
** 汽車製造(15両):D51 442 - 456(製造番号1861 - 1875)
* 1940年度(184両)
** 日立製作所(43両):D51 360 - 378・589 - 612(製造番号1238・1242・1239・1241・1243・1244・1246・1245・1247 - 1257・1420 - 1431・1434・1433・1432・1435 - 1443)
** 日本車輌製造(45両):D51 406 - 441・613 - 621(製造番号781 - 816・891 - 899)
** 汽車製造(20両):D51 457 - 468・581 - 588(製造番号1786 - 1887・2024 - 2031)
** 大宮工場(10両):D51 506 - 515(製造番号19 - 28)
** 浜松工場(13両):D51 518 - 530(製造番号47 - 59)
** 鷹取工場(10両):D51 491 - 500(製造番号19 - 28)
** 小倉工場(9両):D51 535 - 543(製造番号33 - 41)
** 長野工場(3両):D51 548 - 550(製造番号7 - 9)
** 土崎工場(3両):D51 551 - 553(製造番号6 - 8)
** 郡山工場(4両):D51 555 - 558(製造番号7 - 10)
** 苗穂工場(4両):D51 559 - 562(製造番号8 - 11)
** 川崎車輛(17両):D51 564 - 580(製造番号2417 - 2433)
** [[三菱重工業]](3両):D51 632 - 634(製造番号323 - 325)
* 1941年度(79両)
** 鷹取工場(6両):D51 501 - 505・690(製造番号29 - 34)
** 大宮工場(2両):D51 516・517(製造番号29・30)
** 浜松工場(5両):D51 531 - 534・685(製造番号60 - 64)
** 小倉工場(4両):D51 544 - 547(製造番号42 - 45)
** 土崎工場(1両):D51 554(製造番号9)
** 苗穂工場(1両):D51 563(製造番号12)
** 日本車輌製造(25両):D51 622 - 631・670 - 684(製造番号932 - 941・995 - 1000・1020 - 1028)
** 三菱重工業(17両):D51 635 - 641・660 - 669(製造番号326 - 332・336 - 345)
** 日立製作所(18両):D51 642 - 659(製造番号1460 - 1477)
* 1942年度(112両)
** 浜松工機部(12両):D51 686 - 689・819 - 826(製造番号65 - 76)
** 鷹取工機部(9両):D51 691 - 694・831 - 835(製造番号35 - 43)
** 日立製作所(33両):D51 695 - 727(製造番号1669 - 1668・1679 - 1691)
** 日本車輌製造(12両):D51 728 - 739(製造番号1130 - 1141)
** 川崎車輛(20両):D51 748 - 767(製造番号2692 - 2701・2718・2719・2725 - 2728・2763 - 2766)
** 汽車製造(13両):D51 773 - 785(製造番号2256 - 2261・2282 - 2286・2303・2265)
** 三菱重工業(13両):D51 791 - 803(製造番号360 - 372)
* 1943年度(163両)
** 日本車輌製造(33両):D51 740 - 747・846・847・916・917・1063 - 1083(製造番号1182 - 1187・1215 - 1220・1229 - 1249)
** 川崎車輛(40両):D51 768 - 772・843 - 845・918 - 949(製造番号2866 - 2873・2892 - 2901・2908 - 2917・2953 - 2964)
** 汽車製造(15両):D51 786 - 790・866 - 875(製造番号2326 - 2330・2355 - 2364)
** 三菱重工業(35両):D51 804 - 818・896 - 915(製造番号373 - 387・399 - 418)
** 浜松工機部(12両):D51 827 - 830・848 - 852・861 - 863(製造番号77 - 88)
** 鷹取工機部(15両):D51 836 - 842・853 - 860(製造番号44 - 58)
** 日立製作所(13両):D51 876 - 888(製造番号1814 - 1826)
* 1944年度(146両)
** 日立製作所(19両):D51 889 - 895・1051 - 1062(製造番号1827 - 1837・1886 - 1888・1890・1889・1891 - 1893)
** 三菱重工業(50両):D51 1001 - 1050(製造番号419 - 468)
** 日本車輌製造(46両):D51 1084 - 1129(製造番号1272 - 1289・1291 - 1318)
** 川崎車輛(31両):D51 1130 - 1160(製造番号3008 - 3011・3013 - 3024・3026 - 3028・3030 - 3042)
=== 恵須取鉄道 ===
D511・2 → D51 864・865:恵須取鉄道([[樺太]])より買収。
[[1944年]]に[[未成線|未成]]のまま買収された樺太の孤立鉄道より編入したもので、概ね標準形に準ずるが、寒冷地対策として製造時より密閉キャブであり、炭水車の前端部にも風除けを立てて[[キャンバス]]製の[[幌]]を運転台との間に設けていたのが特徴である。1943年、汽車製造製(製造番号2235・2331)。この2両は樺太には送られず、北海道内で使用された。
=== 胆振縦貫鉄道 ===
D5101 - D5105 → D51 950 - D51 954:1944年[[胆振縦貫鉄道]]より[[戦時買収私鉄|買収]]
内地私鉄がD51形同等機を新造した唯一の事例である。D5101 - D5103の3両は同鉄道開業前の1940年5月に設計認可を得て、開業直後の1941年1月に竣工した。厳密な竣工日は順に1941年1月9日、11日、13日。以後輸送力強化のため、それぞれ1942年7月17日・1943年5月7日付けでD5104・D5105が増備された。製造はD5101 - D5104が汽車製造(製造番号2021 - 2023・2234)、D5105が日立製作所(製造番号1785)で、いずれも同時期の省鉄向けに準じた仕様で竣工しており、形態も標準形と同様である。
=== 日本窒素 ===
D51 1161 [[日窒コンツェルン|日本窒素]]より購入。
[[海南島]]の日窒興業石碌鉄道で使用するため日本車輌製造本店で製造されたものの、[[大日本帝国海軍|海軍]]の敗退で[[制海権]]が失われ、発送できなくなったものを国鉄が購入した。戦時形であり、D51形全体で見ても唯一の[[1945年]]製(製造番号1373)で、鉄道研究者の実見により、工作方法がより簡素化されていたのが確認されている。
=== 中国 ===
中国[[海南島]]の鉄石輸送のための日窒興業石碌鉄道は、1067mm軌間であり、1942年および1943年(1944年との説もあり)に5両のD51形(D51 621・632 - 635)が[[廃車 (鉄道)#特別廃車|供出]]されたが、終戦時には2輌のみ存在していた。<ref>{{アジア歴史資料センター|C08010749200|集39号 海南島鉄道関係調書提出の件}}</ref>戦後の動向は不明であり、中国国鉄の形式も持っていない。
=== 台湾総督府鉄道・台湾鉄路管理局 ===
[[File:TRA DT668 SL at Changhua 2009.jpg|thumb|250px|動態復元された台湾鉄路管理局DT668号機]]
[[File:D51型煤水蒸氣火車頭.jpg|thumb|250px|[[新北市]]指定文化遺産として静態保存されている台湾鉄路管理局DT675号機(新北市芸文中心)]]
当時、日本の統治下にあった[[日本統治時代の台湾|台湾]]の[[台湾総督府鉄道|総督府鉄道]]向けに1939年から1944年にかけ32両 (D51 1 - 32) が製造されたもので、形態的には1 - 27が標準形に、28 - 32が戦時形に属する。このグループは、日本国有鉄道籍を有したことはない。製造の状況は次のとおりである。
* 1939年度(3両)
** 川崎車輛:D51 4 - 6(製造番号2218 - 2220)
* 1940年度(3両)
** 汽車製造:D51 1 - 3(製造番号1888 - 1890)
* 1941年(12両)
** 川崎車輛:D51 7 - 18(製造番号2416・2463 - 2470・2591 - 2593)
* 1942年(6両)
** 汽車製造:D51 19 - 24(製造番号2231 - 2233・2262 - 2264)
* 1943年(3両)
** 日立製作所:D51 25 - 27(製造番号1737 - 1739)
* 1944年(5両、戦時形)
** 日立製作所:D51 28 - 32(製造番号1674 - 1678)
このうち、戦時形のD51 28 - 32は制海権喪失で発送できず、一時的な措置として国有鉄道が借り入れ、D51 1162 - 1166として使用された。この時期、本土では既に戦時形(1000番台)が製造されていたが、この5両は戦前の標準形と似る形態(ドームはかまぼこ形でなく、標準形と同じ形状)で製造された。これは、[[外地]]向けゆえ、[[大日本帝国]]の威信を保つためといわれている。しかし、見た目こそ標準形だったが、ドーム以外の実態、炭水車などは[[内地]]向けに製造されたものと同じ戦時形で、性能、機能面で劣るため、使用晩期はボイラ圧力が12kg/cm<sup>2</sup>に制限されていた。この5両は、[[戦後]]の[[1946年]]4月になって台湾に発送された。台湾のD51形は、戦後[[台湾鉄路管理局]]に引き継がれ、'''DT650形''' (DT651 - 682) と改称された。
戦後の1951年、[[国際連合]]の援助による[[中華民国]]の注文で、5両の標準形([[カウキャッチャー (鉄道)|カウキャッチャー]]付き、炭水車はやや大型化{{refnest |group="注"|石炭12 t 、水20 m <sup>3</sup>であるがD51が従来用いていた8-20B形の炭庫を増量したものではなく、C57が用いていた12-17D形炭水車の前後長・水槽容積を増加させた新設計のもので、炭水車単体の運転整備重量も52.10 t に大型化されている。<ref>日本蒸気機関車史p.31</ref>}})が台湾に輸出され、DT683 - 687とされた。製造は汽車製造が3両(DT683 - 685・製造番号2608 - 2610)、[[三菱重工業|新三菱重工]]が2両(DT686・687・製造番号718・719)だった。この5両が、D51形として最後の新製機となった。
{{Seealso|zh:台鐵DT650型蒸汽機車}}
===ソビエト連邦(樺太)向け輸出車===
[[File:D51-23.jpg|thumb|振内鉄道記念館で保存されているD51-23]]
[[File:D51-27.jpg|thumb|別海町鉄道記念公園で保存されているD51-27]]
[[1949年]]、ソビエト連邦へ[[輸出]]物資の一環として、[[国鉄オハ35系客車|国鉄形客車]]各種などとともに30両が[[サハリン州|樺太]]に送られた。なお、よく[[賠償]]物資として輸出との誤解がみられるが、正規の条約である[[日ソ共同宣言]]の締結は1956年であり、条約締結以前に賠償物資の請求は原則的にありえない。そして日ソ共同宣言時には条約第6項においてソビエトは日本に対し[[賠償請求権]]を放棄している。また当時の複数の文献「機関車」第3号(1949年11月発行)や「交通技術」51号(1950年10月号)にも正規の輸出との記述が存在する。一方「賠償輸出」という記述が見られ始めたのは、往時の記録があいまいになりだし、孫引きが増加した[[1970年代]]以降のことである。
これらは、同年1月から4月にかけて5社で製造されている。樺太向けに輸出されたものは、国内向けのものと区別するために、形式番号と車両番号の間にハイフンが入っている(例えば、国内向けは「D51 27」であるのに対して、樺太向けは「D51-27」)。また防寒のために運転席は密閉構造になっているなど、一部構造が国内向けとは異なっている。
なお、形式やナンバープレートに[[ロシア語]]で使用される[[キリル文字]]の「[[Д]]」ではなく、[[ラテン文字]]の「[[D]]」が使われている。蒸気機関車研究家の臼井茂信は、サハリン占領後も鉄道システムは日本式だったためではないかと推測している。
[[ファイル:D51-22.jpg|代替文=ユジノサハリンスク駅前に保存されているD51-22(2015年8月撮影)|サムネイル|ユジノサハリンスク駅前に保存されているD51-22(2015年8月撮影)]]
樺太向けD51形の製造の状況は、次のとおりである。
* 日本車輌製造(7両):D51-1 - 7(製造番号1512 - 1518)
* 川崎車輛(7両):D51-8 - 14(製造番号3170 - 3176)
* 日立製作所(6両):D51-15 - 20(製造番号2032 - 2037)
* 汽車製造(5両):D51-21 - 25(製造番号2576 - 2580)
* 三菱重工業(5両):D51-26 - 30(製造番号665 - 669)
=== 国連軍・韓国鉄道 ===
[[1950年]]の[[朝鮮戦争]]勃発とともに鉄道は主要な攻撃対象となり、多数の機関車が破壊された。この被害補充のために[[第8軍 (アメリカ軍)|アメリカ第8軍]]は[[国連軍]]名義で日本に蒸気機関車を発注するが、他社が[[南満洲鉄道]]や[[朝鮮総督府鉄道]]の[[設計図]]を流用して「[[南満洲鉄道ミカイ型蒸気機関車|ミカイ形]]」を製造するなか、中日本重工業(現・三菱重工業)のみがD51形を[[標準軌]]・密閉キャブ化して納入した。製造の状況は次のとおりである。
* 1950年(2両)
** 中日本重工業:D51 101・102(製造番号705・706)
2両とも[[休戦]]後に[[大韓民国]][[国土交通部|交通部]]鉄道局(当時。後の[[鉄道庁 (韓国)|鉄道庁]])に引き渡され、'''{{lang|ko|미카}}7形'''(ミカ7形)1・2として[[1960年代]]まで使用された。
== 戦後の改造機 ==
{{画像提供依頼|D51 54の写真|date=2018年8月|cat=鉄道}}
戦後、[[軍需]][[貨物輸送]]の事実上の消滅と食糧難に起因する買い出し等による[[旅客]]の激増により、戦時中とは貨客の輸送需要が完全に逆転した。これに伴い、戦時中に最優先で量産されていた車齢の若い貨物用機関車が大量に余剰を来す一方で、旅客用機関車は1942年以降製造されておらず、1946年から1947年にかけて急遽[[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]32両と[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]73両が製造されて不足が補われ、以後も順次旅客用機関車を増備して旺盛な旅客需要に対応することが計画されていた。実際にもC57・59両形式の追加生産が継続的に実施されており、1948年の段階で機関車メーカー各社は大量の[[仕掛品]][[在庫]]を抱えていた。
だが、その後は[[預金封鎖]]が断行されるほど逼迫していた政府財政に起因する予算凍結が実施され、国鉄は機関車の自由な新規製造が不可能な状況に陥った。そのため、なおも不足する旅客用機関車を確保すべく、[[1948年]]に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]側担当[[将校]]デ・グロートの助言に従い、本形式のボイラーを活用し、C57形相当に従輪1軸を追加した軸配置、すなわちC57形のパシフィックからC60形やC62形と同様のハドソンとすることで重量増に対応する走り装置と組み合わせた、[[国鉄C61形蒸気機関車|C61形]]旅客用機関車が33両製造されている。新規製造ではなく、書類上改造扱いだったため、[[予算]][[会計]]上の規制を回避できた。既に車籍が存在していれば、実際には完全な新製であっても書類上「[[改造]]」とすることで会計監査上の指弾を免れうる、といういかにも官僚主義的なこの回避策は、戦前の統制経済初期段階から地方私鉄では車両確保の常套手段と化していた方策である。つまり国鉄当局は、貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用すればよい、というデ・グロートの助言をこれ幸いと言質にとって、戦前から監督官庁としてその手口を知悉していたこの策を講じた。また、このプランは仕掛状態で宙に浮いていたC57形未成車の部材、ひいては突然の予算凍結で困窮を強いられたメーカー各社の救済という意味合いもあり、33両といういかにも中途半端な製造両数も仕掛部材の残数に由来する。
さらに、[[1960年]]には地方線区への転用のため6両に軸重軽減の改造が施され、新形式の[[国鉄D61形蒸気機関車|D61形]]となっている。
個別の改造機として注目すべきは、[[1956年]]11月の運転業務研究会発表資料として軸重可変機構を付与された、奈良機関区所属のD51 65である。当時の奈良機関区は[[中在家信号場]]前後に加太越えの難所を擁す[[関西本線]]を担当しており、重量級列車の機関車運用には困難を伴い、特に上り勾配での牽き出し時に重心移動で空転が発生しやすい本形式は、その改善が望まれていた。D51 65での改造は、この問題を解決するために提案されたもので、第4動軸後部の主台枠に空気シリンダーを取り付け、第4動軸と従台車を結ぶ釣り合い梁(イコライザー)の支点位置を移動させて軸重バランスを変え、これにより動軸重を通常の13.96tと15.46tに切り替え可能とするもの<ref>渡辺肇「D51形式の分類と形状」 『SL No.2 1969』 交友社 1969年 pp.84 - 105</ref>である。この軸重可変機構は、上り勾配や出発時における空転抑止に加え、[[砂撒き装置|撒砂]]量の減少により[[保線|軌道保守]]の負担軽減にも資するという特徴を有し、さらに単純に甲線規格対応の強力機を導入する場合とは異なり、上り勾配区間や[[鉄道駅|駅]]構内などの必要な区間のみを軌道強化すればよく、本形式の運用線区に制約を加えるものではない、というメリットもあった。もっとも、この方式は[[動力近代化計画|動力近代化の方向性]]が定まってからの改造のためか他車には波及せずに終わっている。ただし、D51 65はその後奈良機関区から吹田第一機関区へ転じ、吹田操車場の入換機として、比較的長期にわたりこの仕様のままで運用された。なお、この軸重可変の思想は本形式の後継車となった[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]において形を変えて日の目を見ている。
その他にもD51形は使用線区の事情に応じて様々な改造が施され、[[北海道]]や[[東北地方]]では[[寒冷地]]対策として、運転室特別整備工事と称する開放形運転台から乗務員扉の付いた密閉形運転台への改造が実施され、品質の悪い石炭を常用する[[常磐線]]で運行されていた水戸、平機関区配置のD51 112・121・123・248・313・381・389・411・503・551・645・647・672・695・821・914・931・946・1024・1068の20両<ref group="注">これらは常磐線[[鉄道の電化|電化]]後は分散配置となっている。</ref>には1仕業での投炭量が4 - 5トンを超過していたことから、[[火夫|機関助士]]の2人乗務を避けるべく[[自動給炭機]](メカニカルストーカー)を追加搭載、長野では砂撒き管の増設が行われている。その他にも[[重油]]併焼装置や[[自動列車停止装置|ATS]]用発電機の設置、副灯の設置、キャブの屋根の後方への延長、運転室左右の前面部への[[旋回窓]]の設置、さらには変形(切り取り式)[[除煙板|デフ]]や集煙装置(変形デフや集煙装置の形状は担当工場ごとに細かく異なる)の装備、誘導通風装置([[ギースル・エジェクタ]])の取り付けなど、変化のバリエーションは多い。[[重油]]併燃装置用の重油タンクの装備位置は地域ごとに異なり、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備するケースと、炭水車(テンダー)の炭庫後方に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースがある(大型の3000リットルタンク装備車は東北地方に多かった)。また、[[肥薩線]][[大畑駅|大畑]]越えに使用された[[人吉機関区|人吉区]]のD51は、ボイラー上のタンクの容量不足を補うために助手席側[[ランボード]]上に200リットルの補助タンクを装備していた。誘導通風装置は、1963年3月に長野工場で改造されたD51 349を皮切りに、117・120・167・226・232・241・252・276・285・293・308・315・328・343・345・357・371・391・413・457・492・509・539・570・605・711・725・733・742・842・952・953・1037・1042・1119の合計36両に対して取り付けられた。シンダの溜まりが多く、また火の粉止めとしての効果も得られるなど好成績で、[[秋田機関区]]や北海道の各機関区、特に[[追分機関区]]所属車に対して集中的にこの改造が実施されている。
その中でも[[北海道]]で活躍したD51 54は、ナメクジ形ドームの砂箱前方を取り払い、その部分より前方を標準形と同様の形態に改装され、ナメクジ形ながら標準形の風貌を持つことで知られた。この機関車は特異な改造だったため、オリジナルを尊重する[[鉄道ファン|愛好家]]からは敬遠されたものの、変形機としての人気があり、地元では「オバQ」という愛称で呼ばれた。
== 運用 ==
[[ファイル:D51 260, Muroran-Honsen 01.jpg|thumb|300px|[[室蘭本線]]で貨物列車を牽くD51 260(1974年ごろ)]]
全国の幹線・亜幹線に普及し、至る所でその姿は見られた。ただし、[[四国]]では[[土讃線|土讃本線]]限定で使用された。貨物用のため地味な存在だったが、[[中央本線]](中央東線・中央西線とも)や[[函館本線]]の“山線”区間(長万部 - 小樽間)などのように急勾配区間の多い路線では、[[急行列車|急行]]をはじめとする[[優等列車]]を含む[[旅客列車]]の牽引に使われることも多く、[[羽越本線]]などのような平坦路線でも旅客列車牽引に使われた例があった。D51形は[[活荷重|軸重]]が大きいため、多くは[[東海道本線]]や[[山陽本線]]、[[東北本線]]などの幹線の[[貨物列車]]を中心に牽引した。中には[[お召し列車]]を牽引した車両や、先述のD51 65のように[[新鶴見信号場|新鶴見操車場]]や[[吹田操車場]]などの基幹ヤードでハンプ押上げ用として使用された車両<ref group="注">吹田操車場で使用された車両では、入換時の見通しを改善する目的から除煙板を撤去した。当時使用されていた51号機は保存の際に除煙板を復元。</ref>もある。
運転・保守両面では一部勾配線(後述)を除き概ね好評を博し、全国的に鉄道車両の保守状態が劣悪だった第二次世界大戦終結直後でも、本形式は9割を超える車両が稼働状態にあったといわれる。また、本形式以前の機関車は乗務員が慣れるまでの評価が低いものが多かったが、本形式は予想以上の好評で迎えられ、一番扱いやすい機関車であったとの証言も残っている。<ref name="名前なし-1">「栄光の日本の蒸気機関車」</ref>
しかし、勾配での重量貨物列車牽引においては、出力の増大と入線範囲拡大を目的とした動軸重の減少、それに車体長短縮などの設計上の無理に起因する不適切な動軸重配分によって、上り勾配での牽き出し時に生じる重心移動で空転しやすい傾向があり、勾配線では基本となったD50形の方が有利な局面が多々存在した。
1941年から生産された[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]は、当初の計画では本形式とボイラーを共通設計として量産効果や保守の容易化といったメリットが出る予定だったが、本形式において前後方向の重心問題が解決しなかったことで共通設計を断念し、対策として本形式のものを基本としつつ煙管長を500mm延長して重心を前方にシフトさせた専用ボイラーを別途設計することを強いられている。しかも、それでさえ従軸の軸重が過大で列車牽き出し時に車輪の割損事故を引き起こすなど、ボイラー火室付近の重量が過大であることを示すトラブルが頻発しており、この点からも、本形式のボイラーは機関車の重心設計という点で決して好ましい[[インダストリアルデザイン|デザイン]]ではなかったことが見て取れる。
またD50の初期生産車は動軸の軸ばね機構が揺動特性の点で有利な下ばね式となっており、良好な乗り心地で乗務員からは好評であったD50形を運用していた各区からは酷評を受けた。中でも初期型(ナメクジ型)の評価が特に低く、事例として1・2号機をはじめとする初期型の新製配置先だった敦賀機関区や松本機関区、それに木曽福島機関区などの各機関区は一旦は初期型を受け入れたものの、ほぼ例外なく2年前後、最短では約10か月で他区へ転出させ、その後は他に選択肢が存在しない状況になるまで初期型を受け入れない対応を行っていた。改良形(標準形)が浜松工場で急遽試作され、重心位置を修正し、空転問題を多少なりとも改善した背景には、これら勾配線担当各区の受け取り拒否に等しい厳しい対応が影響している。
さらに前記の各区はD50形が空転し多数の窒息による重症者と死者を出した痛ましい事故が記憶に新しく標準形についても否定的で、一例として上諏訪機関区では1941年に本形式が3両新製配置されたが、その年のうちに全数を他区へ転属させてD50形に戻している<ref>『Rail Magazine 2008年12月号』 ネコ・パブリッシング p.59</ref>。しかし、昭和23年(1948年)に再配備され、韮崎から小淵沢24.8kmにかけて25‰の勾配が続き標高差533mに達する急勾配と急カーブが連続する区間で、空転せずにD51を運転する方法を見つけ同機の性能を100%引き出したと評される<ref name="名前なし-20230316114358">[[#D1001|鉄道ピクトリアル No.1001 P30-P31]]</ref>。この難行区間で運転された準急「穂高」は乗員の技量とD51の性能無くして運用できなかった<ref name="名前なし-20230316114358"/>
。否定的な声も取扱に馴れると影を潜め、近代的な装備のD51を礼讃する声が大きくなっていった<ref>日本蒸気機関車特集集成下 鉄道ピクトリアル編集部(編)鉄道図書刊行会(出版)P105</ref>。
これに対して平坦線を担当する各区は[[稲沢機関区]]を筆頭に否定的な反応を示しておらず、高速走行時の脱線対策が採られていたこともあって比較的スムーズに導入が進んだ。戦時中には輸送力増強のためボイラー増圧に伴う空転対策が必要となったことから、平坦線各区に配置された車両を含め、本形式は初期形を中心に[[コンクリート]]製の[[重し#死重|死重]]をフロント[[デッキ]]に搭載するなどの対策が講じられている。これにより、動輪上重量が15tに増えたほか、シリンダー牽引力がD50形より8パーセント上昇した。<ref>栄光の日本の蒸気機関車p.196</ref>
国鉄形蒸気機関車で最も多く生産され末期まで残存した両数の多さと、知名度の高さにより、「名機」<ref name="名前なし-1"/>、「代表機」<ref name="mtm">[http://www.mtm.or.jp/uslm/facility/steam-locomotive/model-d51/index.html D51形200号機/1号機(梅小路蒸気機関車館)]<br />[http://www.mtm.or.jp/pavilion/picture/page09/index.html D51形蒸気機関車(交通科学博物館)]</ref>、「代名詞」<ref name="mtm" />などと表現されることもある本形式であるが、その広範な運用と知名度は、[[戦時体制]]に伴う貨物機大量需要から来た膨大な[[大量生産|量産]]と、無理のあるコンパクト化によって軸量や転車台、曲線性能の関係で入線可能な区間が多かった結果に過ぎなかった。もっとも、これだけ生産されながら余剰機が出始めたのは動力近代化の進んだ1960年代からであり、各地の幹線・亜幹線で活躍し輸送力増強に貢献している。<ref name="名前なし-1"/>設計上の無理が生じた車両長の短縮についても、幹線は電化による近代化が進められていくことから、亜幹線でも十分な性能を発揮できるよう考慮されてのことであった。<ref>「鉄道黄金時代シリーズNO.8 D51「"デゴイチ"鉄路の千両役者」」</ref>
当初 D51 の配置を好まない傾向があった機関区でも、操縦に馴れるにつれD50よりもむしろ優秀であることがわかり、D51の配置を希望するようになっていった<ref name="No 0051" />。 初期型(ナメクジ型)もD50よりは使いやすいと評価されるようになり<ref>蒸気機関車EX(エクスプローラ) Vol.10 イカロス出版(出版)P15</ref>、どこも評判の悪いD50の受け入れを拒みがちになっていく<ref>日本蒸気機関車特集集成 鉄道ピクトリアル編集部(編)鉄道図書刊行会(出版)P48 </ref>。勾配線での牽引力に優れていたため各地で貨物はもとより旅客列車にもその性能を発揮していき<ref>日本の蒸気機関車のすべて 交通博物館監修 p.69</ref>、特記すべき区間として「矢岳超え」こと33.0‰の急勾配が存在する人吉 - 吉松間を受け持つ、[[人吉機関区]]では勾配用機関車[[国鉄E10形蒸気機関車|E10形]]よりも曲線での空転が発生しにくいことから <ref>『国鉄・JR悲運の車両たち』p.28</ref> 、1972年にDD51形へ置き換えられるまで本形式が使用され続けている。「狩勝を経験した人は、どこの線区に行っても通用すると言われたし、事実、その通りだった」と評され<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20200114011580001.html |title=わがまち遺産 旧狩勝線(新得町) |date=20-01-12 |publisher=朝日新聞デジタル |accessdate=2022-12-27}}</ref>、国内の路線でも自然条件と25‰の勾配が続き最小半径180mから179mの曲線が連続し運転の条件が厳しいため屈指の難所としてしられる旧狩勝線でも新線に切り替わる1966年まで運用された<ref name="No 2051" /><ref name="No 1966" />。運転に関わる立場からも普通の人々にも「力強い」というイメージを与え、急勾配でもD51は絶対に止まらないと運転側に信用されるようになった。<ref name="No 0451" />
夕張線(現・[[石勝線]])・[[室蘭本線]]の貨物列車牽引では、夕張方面の[[炭鉱]]から[[室蘭港]]へ向かう2,400tの運炭列車をD50形とともに単機で牽引する運用をしていたことがあった。[[1953年]](昭和28年)時点では本形式で[[函館本線]][[小樽築港駅|小樽築港]] - [[滝川駅|滝川]]間と[[室蘭本線]][[岩見沢駅|岩見沢]] - [[追分駅 (北海道)|追分]]間で牽引定数が換算185両 (=1,850t)、追分 - [[室蘭駅|室蘭]]間で換算260両 (=2,600t) を設定。[[1952年]](昭和27年)2月に追分 - 室蘭間で3,000tの牽き出し試験をしたところ、成績は良好だったものの[[単線]]区間の線路[[有効長]]の関係で実施に至らなかった。ここは従輪を持たず牽き出し性能で有利な[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]が2,000t牽引を行っていた区間であるが、夕張方面の炭坑から[[追分駅 (北海道)|追分駅]]を経て[[苫小牧駅]]付近までの片勾配のゆるい下り坂区間においては、いかに長大とはいえ[[石炭車|セキ]]の積車状態の編成であれば走行抵抗が小さく、本形式の単機でも牽き出しさえすれば、後は室蘭港まで引っ張っていけた。なお、牽き出しは非常にゆっくりしたもので、一両ずつ[[連結器]]がぶつかる音をたてながら行われた。この列車の尋常ではない長さは、空車のときにはゆるい上り勾配であることとあわせ、多く連なるセキが空気を巻き込んで[[抗力|抵抗]]が増え、速度が上らなかったほどである。[[太平洋戦争|大戦]]中は10‰勾配区間で本形式に[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]を[[補助機関車]]としてつけることとして1,200t列車の計画が立てられたが、機関車の所要数の増加を招くことから中止となった<ref group="注">本来本形式を置き換えるために開発されたはずの[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]][[ディーゼル機関車]]が本形式が単機でまかなえていた貨物列車を置き換える際に重連での牽引を要するという例が、[[無煙化]]後、全国で多く見られた。これは、[[マスターコントローラー|マスコン]]の[[ノッチ]]刻みの制御では重量級列車の牽き出しで多用されていた圧縮牽き出しの実施が困難であり、貨車の軸受が平軸受で牽き出し抵抗の大きかった時代には、たとえ動輪周牽引力が同等でもDD51形のほうが牽き出しに限れば不利だったためである。</ref>。
[[旅客列車]]の牽引では、函館本線の[[急行列車]]の牽引が特筆される。これは[[函館駅|函館]] - [[長万部駅|長万部]]間を単機で、長万部 - [[小樽駅|小樽]]間の通称「山線」を重連で牽引するも、高速運転で各部の損耗の速さによる検修の負担と、[[振動]]の激しさと連続力行で助士2人乗務で投炭することによる乗務員の負担過大から[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形]]への転換が行われ、[[1971年]]にはDD51形に置き換えられた<ref group="注">この際、所要時間は牽引機が変更されるたびに短縮されており、牽き出しを除けばD51形よりもC62形、C62形よりもDD51形のほうが安定して強力だった。</ref>。山線区間の仕業は機関車、乗務員ともに限界に挑むものであり、牽引機が更新されるたび、運転時分も短縮していった。
繁忙期には不足する旅客機関車に代わり臨時列車の牽引を受け持つこともあり、強力でスピードも出せるため勾配線では旅客列車を引っ張り、急行列車の先頭に立つこともあった。<ref>「なつかしの蒸気機関車 : 鉄路の抒情」P.57</ref>東北本線の臨時急行ではダイヤ上の関係から80km/h近い速度を出して運行されていた。これは、運転規定の最高速度85km/hに迫るものであり、前後動と乗り心地の悪さは異常なものであったと語られている。<ref>『栄光の日本の蒸気機関車』P.217</ref>
[[鉄道の電化|電化]]やディーゼル化の影響による余剰[[廃車 (鉄道)|廃車]]が本格的に出始めたのは[[1967年]]ごろからのことで、蒸気機関車の最後の時期まで多くの本形式が残っていた。特に[[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて[[石北本線]]、[[東北本線]]、[[奥羽本線]]、[[伯備線]]などの急勾配区間において重連や3重連などで活躍する姿は当時の「[[SLブーム]]」の波に乗り、[[鉄道ファン]]や[[写真家]]、[[報道機関|マスコミ]]関係者などの間で大変な人気を集めた。
また、[[羽越本線]]をはじめとする日本の原風景が残っていた線区を走る雄姿を撮影する鉄道ファンの姿も多かった。
しかし、製造両数が多いこともあって、当然蒸気機関車の中でも残存両数が多く、他の機関車よりも多く見ることができたため、[[鉄道撮影]]を主とするファンの中には他の少数派形式が来ることを期待していて、本形式が来ると「またD51か」とため息を漏らす者や、本形式牽引列車の場合はシャッターを切らない者も少なからず居たという。
最後に残ったのは北海道の[[追分機関区]]に所属していた5両で、[[国鉄C57形蒸気機関車|C57]] 135牽引(現・[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]所蔵)の国鉄最終蒸機牽引旅客列車運転から10日後の[[1975年]][[12月24日]]まで使用され、この日は241号機が担当した。これが国鉄における蒸気機関車牽引の最終[[貨物列車]](夕張線6788列車)ならびに国鉄最後の蒸機[[本線]]走行となった。
これらの国鉄蒸気機関車の最後を飾った追分区所属のD51形は、地元、追分町(現・[[安平町]])(241号機)や[[東京都]][[台東区]]上野の[[国立科学博物館]](国鉄工場最終出場蒸気機関車603号機)などといった各地に保存が決定していたが、[[1976年]][[4月13日]]深夜に発生した追分機関区扇形庫火災により、国鉄最後の蒸気牽引入換運用機[[国鉄9600形蒸気機関車|79602]]号機や、配属されたばかりの新鋭ディーゼル機関車([[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形 682 - 684・1079・1103・1144・1169号機]]と[[国鉄DE10形ディーゼル機関車|DE10形 1744号機]])8両とともに4両(241・465・603・1086号機)が焼失した。現在、安平町の鉄道資料館には旧追分機関区の機関庫の火災で焼失した当初の静態保存予定機で、動輪と煙室扉だけになってしまった241号機他の代わりとして、[[小樽築港機関区]]や追分機関区などで使用されていた320号機が静態保存されている。320号機は、本来は静態保存を予定していなかったが、急遽、静態保存機となったものである。また、国立科学博物館には同じく予定されていた603号機の代替として231号機が保存され、603号機は前面のみが状態が良かった為、前半分をカットモデルとして京都市の19世紀ホールに、書類上'''保留車'''のまま、屋外展示の51号機や他機関車と共に展示されていたが、2019年の年末に51号機の展示が終了し解体された。そして465号機は北海道の夕張郡由仁町の伏見台公園トリムコース入口付近に、1086号機はC57形 135号機として、北海道岩見沢市の岩見沢観光バスと、長万部駅前のお店から北海道大沼にある「SL夢ギャラリー ポッポ爺」に譲り受けた、動輪のみがそれぞれ展示されている。なお、一方で火災を免れたDD51形 681・1166号機はのちに保存されずに、国鉄とJR貨物に廃車解体され、実質'''追分機関庫の火災で一切の損傷を受けずに残った機関車は現存しない'''形となった。なお、最終5両の内、916号機のみが[[前橋市]]前橋こども公園に保存されている。
日本国外では、台湾でDT650形として37両が使用された。台湾で使用されていたものは既に全車廃車となり、うち4両が静態保存されていたが、2011年11月に、DT668が動態復活した。観光用、イベント用として活用されている。
サハリンで使用されたものは引退後6両(1・2・23・25・26・27)が帰国し、各地に保存されているほか、現地でも4号機が観光列車として運行されている。
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ファイル:JNR D51 1077.jpg|常紋峠付近を走る1077号機(1971年4月)
ファイル:JNR D51 157.jpg|[[常紋信号場]]を通過する157号機(1971年4月)
ファイル:JNR-D51-733.png|留置中の733号機(1973年3月)
ファイル:JNR-D51-349.png|[[沼ノ沢駅]]を通過する349号機(1973年3月)
</gallery>
== 保存機 ==
蒸気機関車の代名詞でもあったD51形は、日本国内に限っても2021年現在2両(200・498号機)が本線で運行可能な状態で動態保存中、それ以外にも100両以上が全国各地の[[鉄道博物館の一覧#日本|鉄道博物館]]やその他[[博物館]]、[[公共施設]]、[[学校]]、[[公園]]などで保存されている。なお、そのうち1・187・200・488・745号の5両は[[鉄道記念物#準鉄道記念物|準鉄道記念物]]に指定されている。
=== 本線上を運行可能な保存機 ===
==== JR東日本 D51 498 ====
[[ファイル:D51 498 SLGumma Minakami.jpg|サムネイル|D51 498]]
{{main|国鉄D51形蒸気機関車498号機}}
[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)が、[[1988年]]に動態[[復元]]した機関車である。車籍は[[1972年]]に一旦抹消されたが、1988年の動態復元に伴い、同年復活した。
==== JR西日本 D51 200 ====
[[ファイル:D51 200 本線復活運転時.jpg|サムネイル|D51 200]]
{{main|国鉄D51形蒸気機関車200号機}}
[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[京都鉄道博物館]](旧[[梅小路蒸気機関車館]])に保存されている200号機は[[動態保存]]されており、車籍も有するが、[[日本の鉄道車両検査#全般検査|全般検査]]を受けていなかったため本線走行はできず、館の展示線での展示運転(SLスチーム号)のみに留まっていたが、[[2017年]]に本線運転可能な状態に復元され、「[[SLやまぐち号]]」での運用を開始した。車籍は1979年に一旦抹消(有火保存)されたが、1987年に復活している。
[[2006年]]、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、[[鉄道記念物#準鉄道記念物|準鉄道記念物]]に指定された。
==== 台湾鉄路管理局 DT668 ====
[[File:TRA DT668 steam locomotive 20111108 1.jpg|thumb|200px|DT668]]
{{main|台湾鉄路管理局DT668号機}}
2011年10月28日に海線にて試運転を行った後、11月11日の[[内湾線]]の記念運転を経て正式に動態復活となった。
=== その他の保存機 ===
以下に番号と所在地を示す。静態保存が大半だが、施設内を遊覧運転する程度の動態保存がなされている車両もある。
{| class="wikitable"
|+ D51形保存機(除籍済み)一覧
|-
!画像
!style="width:15%" |番号
!style="width:30%" |所在地
!備考
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[北海道]]'''
|-
|[[ファイル:JNR D51 6.JPG|150px]]
|D51 6
|北海道[[旭川市]][[神居古潭]]<br/>古潭公園<br/>(旧[[神居古潭駅]]跡)
|北海道形前部切詰除煙板装備
|-
|[[ファイル:JNR D51 11.JPG|150px]]
|D51 11
|北海道[[札幌市]][[西区 (札幌市)|西区]][[八軒 (札幌市)|八軒]]4条西6丁目<br/>[[農試公園]]
|
|-
|[[ファイル:Jnr-D5147.jpg|100px]]
|D51 47
|北海道[[岩見沢市]]9条東2丁目<br/>[[みなみ公園 (岩見沢市)|みなみ公園]]
|
|-
|[[ファイル:D51-95.jpg|150px]]
|D51 95
|北海道上川郡[[新得町]]字新得<br/>新得山スキー場
|
|-
|[[ファイル:JNR D51 159.JPG|150px]]
|D51 159
|北海道[[岩内郡]][[岩内町]]字宮園<br/>岩内運動公園
|
|-
|[[ファイル:JNR D51 237.JPG|150px]]
|D51 237
|北海道札幌市[[東区 (札幌市)|東区]]北5条東13丁目<br/>[[北海道旅客鉄道苗穂工場|JR北海道苗穂工場]]
|苗穂工場製D51形の第一号機。
|-
|[[ファイル:JNR D51 286.JPG|150px]]
|D51 286
|北海道[[小樽市]][[朝里川温泉]]130<br />北海道ワイン小樽醸造所
|蒸気機関車59614、客車スハフ44 6・スハフ44 7と連結されている。
|-
|
|D51 297
|北海道[[滝川市]]新町3丁目8-20<br/>郷土館
|
|-
|[[ファイル:JNR D51 311.JPG|150px]]整備前
|D51 311
|北海道[[北見市]]留辺蘂町旭中央<br/>留辺蘂町仲よし公園
|2022年10月に整備された。
|-
|[[ファイル:JNR D51 312.JPG|150px]]
|D51 312
|北海道[[深川市]]一已町一已1863<br/>[[深川市桜山公園]]
|旧・桜山レジャーランド時代から保存されている。
|-
|[[ファイル:JNR D51 320 steam locomotive at Michinoeki Abira D51 Station.jpg|150px]]
|D51 320
|北海道[[勇払郡]][[安平町]]追分柏が丘49-1<br/>[[道の駅あびら D51ステーション]]
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。<br />安平町鉄道資料館に保存されていたが、2019年6月に移設された。
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-333-20120724.jpg|120px]]
|D51 333
|北海道[[白老郡]][[白老町]]若草町1丁目1<br/>白老駅北口公園
|
|-
|
|D51 337
|北海道[[上川郡 (天塩国)|上川郡]][[和寒町]]字北町61<br/>[[和寒町郷土資料館]]
|
|-
|[[ファイル:JNR D51 397.JPG|150px]]
|D51 397
|北海道[[士別市]]東7条北9丁目<br/>[[つくも水郷公園]]
|
|-
|[[ファイル:JNR D51 398.JPG|150px]]
|D51 398
|北海道[[名寄市]]字緑丘222<br/>[[名寄市北国博物館]]
|蒸気機関車[[国鉄9600形蒸気機関車|59601]]、マックレー[[雪かき車]][[国鉄キ800形貨車|キ911]]、ロータリー雪かき車[[国鉄キ600形貨車|キ604]]、[[車掌車]][[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ4456]]と連結されて保存展示。<br />2010年に[[キマロキ編成]]として準鉄道記念物に指定された。
|-
|[[ファイル:JNR D51 444.JPG|150px]]
|D51 444
|北海道[[北見市]]北進町4丁目<br/>SL広場
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-560-20120724.jpg|100px]]
|D51 560
|北海道[[室蘭市]]海岸町1丁目5-1<br/>ぽっぽらん公園
||[[室蘭市青少年科学館]]に保存されていたが、2019年9月に移設された<ref>{{Cite news|author=|url=http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0351395.html|language=日本語|title=SL白鳥号、旧室蘭駅舎へ 市長移設方針「鉄路守る意思示す」|newspaper=[[北海道新聞]]|agency=どうしんウェブ/電子版(社会)|publisher=[[北海道新聞社]]|date=2016-12-07|accessdate=2016-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161207085444/http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0345856.html|archivedate=2016年12月7日}}</ref><ref>{{Cite news|author=三上修|url=http://www.asahi.com/articles/ASJD74T45JD7IIPE00T.html|language=日本語|title=北海道)旧室蘭駅舎に移設保存へ 室蘭市の蒸気機関車|newspaper=[[朝日新聞]]|agency=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2016-12-10|accessdate=2016-12-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161212062751/http://www.asahi.com/articles/ASJD74T45JD7IIPE00T.html|archivedate=2016年12月12日}}</ref>。
|-
|[[ファイル:JNR D51 565.JPG|150px]]
|D51 565
|北海道[[常呂郡]][[佐呂間町]]字永代町65-1<br/>佐呂間町交通公園<br />(旧[[佐呂間駅]])
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。かつては[[函館市]]の本通公園で保存されていた<ref>『カッコいいやつ‼』[[月刊OUT|OUT]] 12月増刊号 1979年 みのり書房 47頁</ref>。
|-
|
|D51 566
|北海道[[赤平市]]字赤平623<br/>旧赤平山スキー場
|施設が閉鎖されており放置状態となっている。
|- style="background-color:#ddf"
|
|D51 816
|北海道札幌市東区北5条東13丁目<br/>[[北海道旅客鉄道苗穂工場|JR北海道苗穂工場]]内 北海道鉄道技術館<br/>'''※前頭部のみ'''
|煙室先端部・煙室扉・前面ナンバープレート・前照灯のみの状態で保存されている。
|-
|
|D51 859
|北海道[[紋別郡]][[遠軽町]]西町1丁目<br/>[[太陽の丘えんがる公園]]
|砂箱と蒸気ドームが角形で、重油タンクを備える。<br />運転室は密閉化されているほか、保存開始後に除煙板に遠軽町の町章が入れられた。
|-
|
|D51 953
|北海道[[虻田郡]][[豊浦町]]字船見町95<br/>中央公民館
|D5104(旧胆振縦貫鉄道)
|-
|[[ファイル:街のD51(Locomotive) - panoramio.jpg|150px]]
|D51 954
|北海道[[富良野市]]弥生町1−2<br/>文化会館
|D5105(旧胆振縦貫鉄道)
|-
|[[ファイル:JNR D51 1052.JPG|150px]]
|D51 1052
|北海道[[千歳市]]上長都949-1<br/>キリンビール北海道千歳工場
|
|-
|
|サハリン州鉄道<br/>D51-23
|北海道[[沙流郡]][[平取町]]振内町20-4<br/>振内鉄道資料館<br />([[振内駅]]跡)
|日本国内に持ち込まれたサハリン向けD51形の残存2両のうちの1両。<br />塗装は日本国内向けと同様の色ながら煙室扉や前照灯の形状が日本国内向けとは異なる。
|-
|[[ファイル:Sakhalinskaja railway D51-27.JPG|150px]]
|サハリン州鉄道<br/>D51-27
|北海道[[野付郡]][[別海町]]西春別駅前西町1-2<br/>別海町鉄道記念公園<br/>([[西春別駅]]跡)
|日本国内に持ち込まれたサハリン向けD51形の残存2両のうちの1両。<br />日本国内向けとは塗装や連結器・前照灯など各部が異なる。<br />貨車[[国鉄ヨ3500形貨車|ヨ4642]]・[[国鉄キ100形貨車|キ276]]と連結されている。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[青森県]]'''
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-113-20110615.jpg|150px]]
|D51 113
|青森県[[三沢市]]桜町1丁目5<br/>中央公園
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-663-20110718.jpg|150px]]
|D51 663
|青森県[[十和田市]]西三番町2-1<br/>十和田市民文化センター
|北海道形前部切詰除煙板付き。
|-
|
|D51 762
|青森県[[八戸市]]大字十日市字天摩33-2<br/>[[八戸公園]]こどもの国
|
|-
|[[File:JNR-D51-892.jpg|150px]]
|D51 892
|青森県[[弘前市]]大字田町3丁目4-1<br/>城北公園交通広場
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[岩手県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 68.JPG|150px]]
|D51 68
|岩手県[[岩手郡]][[雫石町]]丸谷地<br/>[[小岩井農場]]まきば園
|客車[[国鉄20系客車|ナハネ20 352・ナハネ20 355・ナハネ20 363]]と連結されている。<br />1977年にSLホテルとして開業し、2008年にSLホテルは閉鎖されたが<ref>[https://web.archive.org/web/20090228124807/http://www.kahoku.co.jp/news/2009/02/20090226t32027.htm SLホテル終着 小岩井農場 開業32年、閉鎖へ] - [[河北新報]]、2009年2月26日(インターネット・アーカイブ)</ref>引き続き保存展示されている。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[秋田県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR D51-232 at Omoriyama Park, Akita, Akita.jpg|150px]]
|D51 232
|秋田県[[秋田市]][[浜田 (秋田市)|浜田]]字大森山29-1<br/>[[大森山公園]]
|国鉄からの無償貸付により、1971年7月に教養施設として公園内に設置された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.akita.lg.jp/zoo/guide/1003910.html|title=大森山公園|accessdate=2020-11-29|publisher=秋田市 2020年5月7日更新}}</ref>。
|-
|[[ファイル:JNR D51-270 in Yokote Park, Yokote, Akita.jpg|150px]]
|D51 270
|秋田県[[横手市]]城山町<br/>[[横手公園]]
|川崎車輌 配属 東京局
配置 平区→水戸区→姫路区→姫路第一区→宇都宮区→高崎第一区→長岡第一区
重油併燃装置(1500ℓ)取付 時期不明
1964年長野工場 旋回窓(左側)取付
1965年長野工場 旋回窓(右側)取付
→酒田区→新津区
1973年廃車
新津区最終在籍SL 走行距離 2,153,701km
|-
|[[ファイル:D51 370.jpg|150px]]
|D51 370
|秋田県[[秋田市]]土崎港中央3丁目9-45<br/>[[土崎街区公園]]
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[福島県]]'''
|-
|[[File:D51 264 in Kaiseizan Park-2.jpg|150px]]
|D51 264
|福島県[[郡山市]]開成1丁目5<br/>[[開成山公園]]
|1940年、郡山工場で5番目に製造。郡山工場製造で長く福島機関区で活躍し、晩年を関西で過ごした機関車。テンダライトの取り付け座が長い。
福島区→福島第一区(奥羽本線米沢電化により機関区分割のため)→福島区(統合)→亀山区
鷹取式集煙装置取付 時期不明
→竜華区
1970年廃車 会津若松運転区
|-
|[[ファイル:D51 946 in Iwaki, Fukushima.jpg|150px]]
|D51 946
|福島県[[いわき市]]常磐湯本町向田3-1<br/>[[いわき市石炭・化石館]]
|川崎車輌
1950年ボイラー交換
1958年→水戸区 自動給炭装置取付・炭水車改造→平区
1964年前照灯副灯取付→平区高萩支区
1969年ED76の代わりに海水浴臨客「さざなみ」8723ㇾを牽引
1970年廃車
常磐線で使用されていた機関車。1967年の常磐線電化後も平機関区で、小運転、入換に使われた機関車。最大の特徴はストーカー。低カロリーの常磐炭使用に対応している。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[茨城県]]'''
|-
|[[ファイル:D51-70.JPG|150px]]
|D51 70
|茨城県[[つくば市]][[吾妻 (つくば市)|吾妻]]4丁目3-3<br/>さくら交通公園
|追分機関区で1976年まで残っていたうちの1両。北海道形前部切詰除煙板装備。
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-515-20140504.jpg|150px]]
|D51 515
|茨城県[[水戸市]]千波町3080<br/>[[千波公園]]
|
|-
|[[File:D51-1116.jpg|150px]]<br/>
|D51 1116
|茨城県[[筑西市]]茂田1858<br/>[[ザ・ヒロサワ・シティ]]
|2018年10月、千葉県内個人宅から移設<ref>{{Cite news |date=2018年10月15日 |url=https://www.asahi.com/articles/ASLBF66VCLBFUJHB00J.html |title=北の鉄路で活躍、D51と北斗星ご対面 茨城で保存 |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]]デジタル |accessdate=2018年10月15日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181015083224/https://www.asahi.com/articles/ASLBF66VCLBFUJHB00J.html |archivedate=2018年10月15日}}</ref>。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[栃木県]]'''
|-
|[[File:D51 146 at Moka Station-1.jpg|150px]]
|D51 146
|[[栃木県]][[真岡市]]台町2474-6<br/>SLキューロク館<br/>([[真岡駅]]東口)
|当初は[[静岡市]]の駿府城公園内で保存され、2004年に同市内の城北公園に移設された。<br />経年により老朽化が進行したため一度は解体が発表されたが、市民の要望を受け譲渡の方針に転換し、2015年に真岡市に譲渡された<ref name="shimotsuke/2015-02-10/town/region/central/mooka/news/20150210/1866630">{{Cite news|author=|url=http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/central/mooka/news/20150210/1866630|language=日本語|title=「D51」を受け入れ 真岡市、静岡市から無償で|newspaper=[[下野新聞]](朝刊)|agency=下野新聞「SOON」(真岡)|publisher=下野新聞社|date=2015-02-10|accessdate=2015-02-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150211184602/http://www.shimotsuke.co.jp/town/region/central/mooka/news/20150210/1866630|archivedate=2015年2月11日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=qrBWXr1J0q8|title=D51 静岡から真岡への軌跡|accessdate=2021-03-19|publisher=真岡市役所 2015年11月30日}}</ref>。<br />また、2018年より、圧縮空気により館内の線路を走行することが可能となった。
|-
|[[File:D51 947.jpg|100px]]
|D51 947
|栃木県[[宇都宮市]]中岡本町2703<br/>三和テッキ鉄道広場<br/>'''※通常非公開'''
|2012年9月まで神奈川県[[箱根町]]の函嶺ふる里集蔵館に保存されていた。月1回の一般公開日に事前予約制にて見学可能。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[群馬県]]'''
|-
|[[ファイル:D51-96 steam locomotive at Usui Pass Railway Heritage Park 2017-10-01 (36741258314).jpg|150px]]
|D51 96
|群馬県[[安中市]][[松井田町横川]]<br/>[[碓氷峠鉄道文化むら]]
|廃車後、1977年9月に[[埼玉県]][[秩父郡]][[長瀞町]]にオープンしたSLホテル「長瀞SLホテル」の機関車として使用された<ref>{{Cite web|和書|title=<今日はどんな日・1月26日>振り返る埼玉新聞、00年は「さよなら長瀞SLホテル」|url=http://www.saitama-np.co.jp/news/2019/01/26/09.html|website=埼玉新聞|accessdate=2019-08-01|language=ja}}</ref>。<br />1999年9月30日に同ホテルが廃業したのち、修復して現在地に移設された。
|-
|[[ファイル:Hotel SL D51 561.jpg|150px]]
|D51 561
|群馬県[[利根郡]][[川場村]]大字谷地2419<br/>ホテル田園プラザ
|苗穂工場製で現役時は終始北海道で使用された機関車であるが、保存後、集煙装置が取り付けられ、除煙板も北海道形から長野工場形に変更された。<br />保存当初は20系客車と連結しSLホテルとして使用されたが、のちにSLホテルの営業は終了し客車は解体され、機関車のみの保存となった。<br />2006年から圧縮空気を用いてホテル内の線路を走行していたが、運転士が死去したため2016年シーズン限りで終了し<ref>{{Cite news|title=【川場】D51-561 ホテルSL[運行終了] : 保存車めぐりの記録|url=http://hozonsha.blog.jp/archives/67340024.html|accessdate=2018-04-29|language=ja-JP|work=保存車めぐりの記録}}</ref>、静態保存となった。
|-
|[[ファイル:D51 724 in Ekimae Children Park-2.jpg|150px]]
|D51 724
|群馬県[[渋川市]]石原207<br/>駅前児童公園
|
|-
|[[File:Minakami Station D51 745 2018-04 2.jpg|150px]]
|D51 745
|群馬県[[利根郡]][[みなかみ町]]鹿野沢<br/>[[水上駅]][[転車台]]広場
|[[2011年]][[11月17日]]までは同じくみなかみ町内の[[上毛高原駅]]前に保存されていた。さらにそれ以前は高崎鉄道管理局で保存されていた。<br />準鉄道記念物。
|-
|[[ファイル:D51 916 in Maebashi Children Park.jpg|150px]]
|D51 916
|群馬県[[前橋市]]西片貝町5丁目7<br/>前橋こども公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[埼玉県]]'''
|-
||[[ファイル:D51 118 in Kotesashi Park.jpg|150px]]
|D51 118
|埼玉県[[所沢市]][[小手指町]]1丁目32<br/>小手指公園
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。<br />フェンスで仕切られており、祝日を除く月・火・木・金曜の10-16時はフェンス内での見学が可能。
|-
|[[ファイル:D51-140 Kumagaya.jpg|150px]]
|D51 140
|埼玉県[[熊谷市]]河原町2丁目173<br/>荒川公園
|熊谷さくら祭などでフェンス内を見学可能。
|-
|[[File:D51 187 in Omiya General Rolling Stock Center.jpg|150px]]
|D51 187
|埼玉県[[さいたま市]][[大宮区]][[錦町 (さいたま市)|錦町]]<br/>[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[大宮総合車両センター]]
|大宮工場で製作された最初のD51形。現役時代には、G5型デフレクターと集煙装置を取り付けていたが、保存時に取り外され、デフは標準タイプに戻された。名残で煙突が短くなっている以外は、ほぼ原型に近い姿となっている。準鉄道記念物。
|- style="background-color:#ddf"
|[[File:D51 426 in the Railway Museum-1 (Japan).jpg|150px]]<br/>[[File:D51 426 in the Railway Museum-2 (Japan).jpg|150px]]
|D51 426
|埼玉県[[さいたま市]][[大宮区]][[大成町 (さいたま市)|大成町]]3丁目47<br/>[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]<br/>'''※前頭部のみ'''
|1972年に前頭部と運転台のみ保存され、鉄道博物館開館まで[[交通博物館]]で展示されていた。<br />鉄道博物館移設後は運転台部分を運転[[シミュレータ]]として利用。
|-
|[[ファイル:D51 885 in Sengen-yama Park.jpg|150px]]
|D51 885
|埼玉県[[深谷市]]上野台2565<br/>仙元山公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[千葉県]]'''
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-14-20110128.jpg|150px]]
|D51 14
|千葉県[[流山市]]野々下1丁目40-1<br/>[[流山市総合運動公園]]
|
|-
|[[ファイル:D51 125 at Funabashi Museum.jpg|150px]]
|D51 125
|千葉県[[船橋市]]薬円台4丁目25-19<br/>[[船橋市郷土資料館]]
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-385-20190709-144346.jpg|150px]]
|D51 385
|千葉県[[鎌ケ谷市]][[初富]]924-6<br/>市制記念公園
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-405-20110128.jpg|150px]]
|D51 405
|千葉県[[松戸市]][[小金原]]1丁目25<br/>[[ユーカリ交通公園]]
|
|-
|[[ファイル:D51 453 at Kashiwa Nishiguchi Park.jpg|150px]]
|D51 453
|千葉県[[柏市]]明原3丁目1<br/>柏西口第一公園
|D51ふれあいまつりにてフェンス内の見学が可能。
|-
|[[File:D51 609 in Kuriyama Park.jpg|150px]]
|D51 609
|千葉県[[成田市]]花崎町749-1<br/>栗山公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[東京都]]'''
|-
|[[File:D51 231 in National Museum of Nature and Science-3.jpg|150px]]
|D51 231
|東京都[[台東区]]上野公園7-20<br/>[[国立科学博物館]]
|追分機関区で1976年まで残っていたうちの1両。北海道形前部切詰除煙板装備。
|-
|[[File:D51 254 in Suginami Children Traffic Park-1.jpg|150px]]
|D51 254
|東京都[[杉並区]][[成田西]]1丁目22-13<br/>[[杉並児童交通公園]]
|
|-
|[[ファイル:D51 272 in Setagaya Park.jpg|150px]]
|D51 272
|東京都[[世田谷区]][[池尻 (世田谷区)|池尻]]1丁目5-27<br/>[[世田谷公園]]
|現役時代には九州・中国地方を転々としており、門鉄式除煙板(門鉄デフ)を装備する。車掌車[[国鉄ヨ5000形貨車|ヨ14740]]と連結されている。
|-
|[[ファイル:D51 296 in Fuchu Traffic Park.jpg|150px]]
|D51 296
|東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]矢崎町5丁目5<br/>[[府中市郷土の森公園]] 交通遊園
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-428-20110120.jpg|150px]]
|D51 428
|東京都[[大田区]][[南雪谷]]5丁目13-1<br/>東調布公園
|
|-
|[[ファイル:20210402_D51451_A.jpg|150px]]
|D51 451
|東京都[[昭島市]]東町5丁目11-43<br/>昭和公園
|2021年3月31に改修を完了し、8月1から公開開始。年末年始を除く午前8:30~午後4:45までフェンス内の見学が可能。
|-
|[[ファイル:D51 452 in Ome Railway Park.jpg|150px]]
|D51 452
|東京都[[青梅市]]勝沼2丁目155<br/>[[青梅鉄道公園]]
|竜華機関区で廃車となったのち1972年に入園。1965年頃までは長町機関区に所属していた。
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-502-20190531-160034.jpg|150px]]
|D51 502
|東京都[[葛飾区]][[西亀有]]1丁目27-1<br/>[[上千葉砂原公園]]
|
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-513-20190312-111524.jpg|150px]]
|D51 513
|東京都[[板橋区]][[坂下 (板橋区)|坂下]]2丁目19-1<br/>[[城北交通公園]]
|
|-
|[[File:飛鳥山公園ー1.JPG|150px]]
|D51 853
|東京都[[北区 (東京都)|北区]][[王子 (東京都北区)|王子]]1丁目1−3<br/>[[飛鳥山公園]]
|準戦時形でかまぼこ形蒸気ドームがそのまま残っている。
|-
|[[ファイル:D51 862 in Machida Child Developmental Center.jpg|150px]]
|D51 862
|東京都[[町田市]]中町2丁目13-14<br/>町田市子ども発達センターすみれ教室
|準戦時形で煙室上部に欠き取りが残っているほか、角型変形蒸気ドームとなっている。長野工場式除煙板(長工デフ)を装備する。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[神奈川県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 408 in Ikuta Ryokuchi.jpg|150px]]
|D51 408
|神奈川県[[川崎市]][[多摩区]]枡形7丁目1-2<br/>[[生田緑地]]内 かわさき宙と緑の科学館前
|
|-
|[[ファイル:D51 516 in Honmoku Shimin Park.jpg|150px]]
|D51 516
|神奈川県[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[本牧三之谷]]59<br/>[[本牧市民公園]]
|炭水車を隣接する運動公園のスプリンクラーの受水槽として使用しており<ref>[https://shimin-rinkai.jp/facility/ 施設のご案内] - 本牧市民・臨海公園</ref>、炭水車上部に金網と有刺鉄線が張られ、近年車体大半を再塗装されている、隣には車重秤や[[高島線]]の[[横浜機関区]]にあった転車台もあるが、展示されているいずれも、屋根がないため風化し朽ちている。
|-
|[[ファイル:D51_1119.jpg|150px]]
|D51 1119
|神奈川県[[厚木市]]森の里1丁目<br/>[[若宮公園]]
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。かまぼこ形蒸気ドーム、ギースルエジェクタ、北海道形前部切詰除煙板付き。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=5|'''[[新潟県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 75 in Gochi Traffic Park.jpg|150px]]
|D51 75
|新潟県[[上越市]]五智6丁目1569<br/>五智交通公園<ref>{{Cite web|和書|title=五智公園 - 上越市ホームページ|url=https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/toshiseibi/gochi-park.html|accessdate=2019-06-08}}</ref>
|
|-
|[[File:DSC 0014~2.jpg|150px]]
|D51 512
|新潟県[[新発田市]]諏訪町1丁目9<br/>東公園
|1940年11月、鉄道省大宮工場製。戦後から廃車まで一貫して新津区に在籍し、羽越線を中心に働いた。長工式除煙板や旋回窓、重油併燃装置が特徴。漫画「[[カレチ]]」第36話に登場。
|-
|
|D51 735
|新潟県[[村上市]]坂町2530<br/>荒川総合体育館<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/d51735|title=D51 735保存会|accessdate=2020-11-06|publisher=}}</ref><br/>'''※通常非公開'''
|展示庫に保管されており通常は非公開。年1回から数回程度、一般公開される。長野工場式除煙板を装備する<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/D51735/status/1076051046286295040|title=【新潟でここだけ】|accessdate=2020-11-06|publisher=D51 735保存会 2018年12月21日}}</ref>。
|-
|[[File:Naoetsu D51 Rail Park D51 827.jpg|150px]]
|D51 827
|新潟県上越市東町1-1<br/>直江津D51レールパーク
|愛知県名古屋市の個人が所有していたが、2017年にアチハ株式会社に譲渡され、同年夏から[[有田川町鉄道公園]]で圧縮空気による保存運転を行っていた<ref name="echigo20201104"/>。<br/>国の観光振興事業の一環として[[2020年]][[11月1日]]に現在地に移設<ref name="echigo20201104">{{Cite web|和書|url=https://www.echigo-tokimeki.co.jp/information/detail?id=1140|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201114032103/https://www.echigo-tokimeki.co.jp/information/detail?id=1140|title=SL D51-827がやってきた!!|date=2020-11-04|archivedate=2020-11-14|accessdate=2020-11-14|publisher=[[えちごトキめき鉄道]]|language=日本語}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20200926570426.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201004104936/https://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20200926570426.html|title=直江津駅でSLに乗れます トキ鉄、11月にも導入 圧縮空気で走行|newspaper=新潟日報|date=2020-09-26|accessdate=2020-11-14|archivedate=2020-10-04}}</ref>。その後2021年4月29日から再び保存運転を行っている<ref>[https://www.naoetsu-d51-railpark.com/ 直江津D51レールパーク] えちごトキめき鉄道</ref>。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[富山県]]'''
|-
|[[ファイル:Fukumitsu, Nanto, Toyama Prefecture 939-1610, Japan - panoramio.jpg|150px]]
|D51 165
|富山県[[南砺市]]福光新町<br/>福光公園
|スノープロー、北海道形前部切詰除煙板付き
|-
|
|D51 260
|富山県[[滑川市]]東福寺野41<br/>東福寺野自然公園 SLハウス
|北海道で使用されていたため、北海道形前部切詰除煙板を装備する。<br />後方に客車を模したコテージを設置しており、このコテージに宿泊可能である。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[石川県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 522.jpg|150px]]
|D51 522
|石川県[[金沢市]]北塚町東<br/>[[西部緑地公園]]
|廃車後[[日本海博|日本海博覧会]]にて展示、閉会後も同地で保存。
|-
|[[ファイル:D51-822Matto.JPG|150px]]
|D51 822
|石川県[[白山市]]殿町<br/>駅前緑地広場<br/>([[松任駅]]南口前)
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[福井県]]'''
|-
|[[ファイル:Imajyo D51481.jpg|150px]]
|D51 481
|福井県[[南条郡]][[南越前町]]今庄<br/>ふれあい会館 今庄サイクリングターミナル前
|
|-
|
|D51 607
|福井県[[福井市]]福町3-20<br/>福井少年運動公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[長野県]]'''
|-
|[[File:Kojinyama Park D51 59 2.jpg|150px]]
|D51 59
|長野県[[上伊那郡]][[辰野町]]大字樋口<br/>荒神山スポーツ公園
|北海道形前部切詰除煙板付き
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-155-20110831.jpg|120px]]
|D51 155
|長野県[[塩尻市]]大門七番町3-3<br/>[[塩尻市役所]]
|
|-
|[[File:JNR D51 172 2.jpg|150px]]
|D51 172
|長野県[[松本市]]大字笹賀5652<br/>大久保原公園
|
|-
|[[File:Ina Park D51 209 1.jpg|150px]]
|D51 209
|長野県[[伊那市]]中央5528-1<br/>伊那公園
|
|-
|[[File:Kiso yabuhara SL.JPG|150px]]
|D51 238
|長野県[[木曽郡]][[木祖村]]大字薮原196<br/>木祖村郷土館
|
|-
|[[File:D51 245 at Sakaki Culture Center.jpg|150px]]
|D51 245
|長野県[[埴科郡]][[坂城町]]大字中之条2459-2<br/>坂城町文化センター・わんぱく広場
|集煙装置、重油タンク付き
|-
|[[File:Suwako Heights D51 349 1.jpg|150px]]
|D51 349
|長野県[[岡谷市]]長地権現町4丁目11-50<br/>勤労福祉センター諏訪湖ハイツ
|中央東線で使用されていた1963年に[[ギースル・エジェクタ]]が初めて取り付けられた。<br />のちに北海道に移り、1975年の廃車後に当地に保存された。<br />ギースル・エジェクタはそのままであるが除煙板は北海道形の前部切詰形となっている。
|-
|[[File:JNR D51 351 1.jpg|150px]]
|D51 351
|長野県木曽郡[[南木曽町]]読書<br/>SL公園
|
|-
|[[File:D51 401 in Suzaka City Zoo.jpg|150px]]
|D51 401
|長野県[[須坂市]]臥竜2丁目4-8<br/>[[臥竜公園]]
|
|-
|[[File:D51 402 at Iida Kyounan Public Hall.jpg|150px]]
|D51 402
|長野県[[飯田市]]扇町35<br/>橋南公民館
|
|-
|[[File:D51 483 at Hotaka Swimming Club-1.jpg|150px]]
|D51 483
|長野県[[安曇野市]]穂高有明<br/>サンクラブ安曇野
|
|-
|[[File:D51 486.jpg|150px]]
|D51 486
|長野県[[長野市]]西和田2丁目29-1<br/>JR東日本[[長野総合車両センター]]
|長野工場で製造され、製造から廃車まで一貫して直江津機関区に所属し長野工場が検査修繕を行っていた機関車である。重油タンク付き。
|-
|[[File:D51 549 in the University of Nagano.jpg|150px]]
|D51 549
|長野県長野市大字南長野西後町614-1<br/>[[長野県立大学]]後町キャンパス
|長野工場製。1970年に篠ノ井線で、1973年に中央西線で蒸気機関車さよなら列車を牽引した。<br />廃車後に[[長野市立後町小学校|後町小学校]]に保存され、同校が閉校し跡地に長野県立大学後町キャンパスが開校したのちも引き続き保存されている。
|-
|[[ファイル:JNR Class D51 ‘D 51769’ (26806952471).jpg|150px]]
|D51 769
|長野県[[東筑摩郡]][[麻績村]]麻聖5889-1<br/>[[聖博物館]]
|1972年6月麻績村の聖高原博物館に移設展示。
経年による劣化・損傷を2014年8月に補修。
|-
|[[ファイル:D51-775.JPG|150px]]
|D51 775
|長野県[[木曽郡]][[木曽町]]福島<br/>[[木曽福島駅]]前
|1973年に木曽福島 - 塩尻間でSLさよなら列車を牽引した。運転室窓が旋回窓となっている。
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-787-20110908.jpg|150px]]
|D51 787
|長野県[[北佐久郡]][[御代田町]]大字御代田<br/>御代田町交通記念館<br/>(旧[[御代田駅]]跡)
|準戦時形でかまぼこ形ドーム付き。
|-
|[[ファイル:D51 824 at Suwa Lake park.jpg|150px]]
|D51 824
|長野県[[諏訪市]]湖岸通り5丁目<br/>諏訪市湖畔公園
|
|-
|[[ファイル:JNR Class D51 ‘D 51 837’ (27194578487).jpg|150px]]
|D51 837
|長野県[[駒ヶ根市]]赤穂14616-1<br/>共楽園
|
|-
|[[File:D51 921 at Shinonoi Ciry Center.jpg|150px]]
|D51 921
|長野県長野市篠ノ井御幣川281-1<br/>篠ノ井総合市民センター
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[岐阜県]]'''
|-
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-266-20120314.jpg|100px]]
|D51 266
|岐阜県[[中津川市]]本町3丁目15-11<br/>本町公園
|
|-
|[[File:JNR Class D51 ‘D 51409’ (21032514115).jpg|150px]]
|D51 409
|岐阜県[[美濃加茂市]]前平町3丁目1-2<br/>[[ヤマザキマザック工作機械博物館]]
|かつては[[滋賀県]]の[[甲西駅]]前に保存されていたが、駅周辺整備事業に伴い撤去が必要となった。<br />公募の結果2008年9月に[[ヤマザキマザック]]が引き取り、同社博物館の屋内で保存されている。運転室が開放されており、汽笛を鳴らすことができる。
|-
|[[ファイル:SL D51470 01.JPG|150px]]
|D51 470
|岐阜県[[岐阜市]]梅林南町<br/>[[梅林公園]]
|除煙板に鷲のマークを取り付けているが、これは現役時代の1970年代、厚狭機関区に所属していた頃に取り付けたマークを復元したものである。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[静岡県]]'''
|-
|
|D51 86
|静岡県[[浜松市]][[西区 (浜松市)|西区]][[舘山寺|舘山寺町]]195<br/>[[浜松市フラワーパーク]]
|標準形トップナンバーで、地元の浜松工場製。現役時代後期には北海道で使用されていたため、北海道形前部切詰除煙板を装備する。
|-
|[[File:D51 101 in Shimada Central Park.jpg|120px]]
|D51 101
|静岡県[[島田市]]中央町19-1<br/>中央小公園
|[[夕張市石炭博物館]]のSL館や[[三笠公園]]の公園内にある水タンクには同番号のプレートがつけられているが、両者とも本物の蒸気機関車ではなく見た目を似せたレプリカである。
|-
|[[File:D51 243 in Amagi Furusato Park.jpg|150px]]
|D51 243
|静岡県[[伊豆市]]上船原1120-1<br/>天城ふるさと広場
|
|-
|[[File:D51 943.jpg|100px]]
|D51 943
|静岡県[[富士市]]鷹岡本町<br/>入山瀬公園
|横には図書館に改造した[[国鉄オハ35系客車|オハ35 441]]が置かれ、「でごいち文庫」と呼ばれている。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[愛知県]]'''
|-
|[[ファイル:のんほいパーク - 蒸気機関車.JPG|150px]]
|D51 89
|愛知県[[豊橋市]]大岩町字大穴1-238<br/>[[豊橋総合動植物公園]]
|
|-
|[[ファイル:2016-04-30-d51-201.jpg|150px]]
|D51 201
|愛知県[[蒲郡市]]栄町10-22<br/>[[蒲郡市博物館]]
|オハフ33 2424と連結されている。
|-
|[[ファイル:2016-04-30-d51-688.jpg|150px]]
|D51 688
|愛知県[[岡崎市]][[若松町 (岡崎市)|若松町]]字萱林1番地1<br/>[[南公園 (岡崎市)|南公園]]
|集煙装置付き、一方の除煙板の下部に欠き取りがある
|-
|[[File:D51 718.jpg|150px]]
|D51 718
|愛知県[[一宮市]]朝日2丁目6<br/>大平島公園
|
|-
|[[ファイル:D51-777-Kariya-Aichi.jpg|150px]]
|D51 777
|愛知県[[刈谷市]]神田町3丁目47-1<br/>[[刈谷市交通児童遊園]]
|
|-
|[[ファイル:Kotsujidoyuen (Kasugai) 03.JPG|150px]]
|D51 792
|愛知県[[春日井市]]弥生町2丁目70<br/>[[春日井市交通児童遊園]]
|
|-
|[[File:D51 823.jpg|100px]]
|D51 823
|愛知県[[稲沢市]]小池1丁目14<br/>宮浦公園
|通常は上屋と金網で覆われており金網越しのみ見ることが可能。年一回、稲沢まつりの日のみ公開される。
|-
|[[File:D51 849 in Hirashiba Sakanoue Park.jpg|150px]]
|D51 849
|愛知県[[豊田市]]平芝町4丁目9<br/>平芝坂の上公園
|
|-
|[[ファイル:D51 1149.JPG|150px]]
|D51 1149<br />(D51 999)
|愛知県豊田市
個人所有
|多賀SLパーク跡に保存されていたが、移転した。動態保存が検討されていると言う。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[三重県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 at Tsu.jpg|150px]]
|D51 499
|三重県[[津市]]広明町<br/>[[偕楽公園]]
|[[山陰本線]]で使用されていた際に後藤工場で集煙装置、重油併燃装置、後藤工場式除煙板が取り付けられた。<br />蒸気ドーム・砂箱の後ろの重油タンクや、独特な形状の除煙板が特徴的で、独自色の強い外観である。
|-
|[[ファイル:D51_831.jpg|150px]]
|D51 831
|三重県[[伊賀市]]柘植町1065-4<br/>余野公園
|集煙装置、重油タンク付き。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[滋賀県]]'''
|-
|[[File:D51 403 in Tehara Inari Park.jpg|150px]]
|D51 403
|滋賀県[[栗東市]]手原3丁目9-1<br/>手原稲荷公園
|
|-
|[[ファイル:D51-793 Nagahama.jpg|150px]]
|D51 793
|滋賀県[[長浜市]]北船町1-41<br/>[[長浜鉄道スクエア]] 北陸線電化記念館
|当初は市内の豊公園に保存されており、現施設の前身である長浜駅資料館の開設に伴い移設された。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[京都府]]'''
|-
|
|
|
|
|-
|[[ファイル:D51 1 in Kyoto Railway Museum.jpg|150px]]
|D51 1
|[[京都府]][[京都市]][[下京区]]観喜寺町<br/>[[京都鉄道博物館]]
|トップナンバー機。1972年に[[梅小路蒸気機関車館]](京都鉄道博物館の前身)の開館に伴い保存された。<br />[[2006年]]、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として[[鉄道記念物#準鉄道記念物|準鉄道記念物]]に指定された。<br />開館当初は動態保存で実際に営業運行を行ったこともあったが、1986年に除籍され静態保存となっている。
|-
|
|D51 66
|京都府[[相楽郡]][[精華町]]<br/>[[精華町立川西小学校]]<br/>'''※学校敷地内'''
|
|- style="background-color:#ddf"
|[[File:D51 603 in Diorama Kyoto Japan.jpg|150px]]
|D51 603
|京都府京都市[[右京区]]嵯峨天龍寺車道町<br/>[[ジオラマ・京都・JAPAN]]<br/>'''※前半部のみ'''
|前頭部のみ。先輪と第1・第2動輪は残されておりレール上に載せられている。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[大阪府]]'''
|-
|[[ファイル:D51 158 in Ibaraki SL Park.jpg|150px]]
|D51 158
|大阪府[[茨木市]]沢良宜東町5-34<br/>SL公園
|
|-
|[[ファイル:D51 469 at hamadera transportation Park.jpg|150px]]
|D51 469
|大阪府[[高石市]]羽衣公園丁<br/>[[浜寺公園]] 浜寺交通遊園
|
|-
|[[ファイル:D51 882 in Shinryu-ji.jpg|150px]]
|D51 882
|大阪府茨木市東福井2丁目24-11<br/>[[真龍寺 (茨木市)|真龍寺]]
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[兵庫県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 8 in Daimotsu Park.jpg|150px]]
|D51 8
|兵庫県[[尼崎市]]東大物町1-1<br/>大物公園
|1936年3月31日に川崎車輌(NO.1650)で製造された。新製配属は門司局。配置は大里庫(着 4/23)。
九州地方や山口県で活躍したD51の一次形。
1936年4月27日に使用開始。
大里庫→鳥栖区→熊本区→鳥栖区→吉松区→厚狭区
1973年5月24日に廃車になった。
走行距離 2,404,191.3km
フェンスで囲まれているが、4月から11月の毎月第3日曜日(青少年の日)に限りフェンスが開放され運転室内に入ることができる。
|-
|[[ファイル:Woody town hajikamiikepark D5125.jpg|150px]]
|D51 25
|兵庫県[[三田市]]あかしあ台5丁目1<br/>はじかみ池公園
|
|-
|[[ファイル:D51_211.png|150px]]
|D51 211
|兵庫県[[神戸市]][[灘区]][[王子町 (神戸市)|王子町]]3-1<br/>[[神戸市立王子動物園]]
|地元鷹取工場製造の第1号機関車であり、「鉄道省 鷹取工場 昭和13年 製造番号1」という銘板が付いている。<br />[[車掌車]][[国鉄ヨ6000形貨車|ヨ6692]]・[[国鉄ヨ5000形貨車|ヨ14542]]と連結され、車掌車は休憩室となっている<ref>{{Cite web|和書| url = http://www.kobe-ojizoo.jp/blog/354/ | title = ふれあい広場のデゴイチ(オカンのうんちく) | date = 2014-06-02 | website = スタッフブログ | publisher = [[神戸市立王子動物園]] | accessdate = 2020-06-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/05/post_1258.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200617075227/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2010/05/post_1258.html |archivedate=2020-06-27 |deadlinkdate= 2020-08-16 |author= 名取紀之 |authorlink= 名取紀之 | title = 鷹取工場1号機 D51 211は今...。 | date = 2010-05-14 | website = 編集長敬白 | publisher = [[ネコ・パブリッシング]]『鉄道ホビダス』 | accessdate = 2020-06-17}}</ref>。
|-
|[[File:-hjmram.jpg|150px]]
|D51 345
|兵庫県[[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]]鵤135-1<br/>太子山公園
|北海道形。密閉キャブやギースルエジェクター、前照灯副灯、切り詰めデフが特徴。保存時に鷹取工場で丸煙突化、補助灯撤去、前端梁のボルト孔埋め、フロントデッキのコの字型手摺を撤去。
|-
|[[ファイル:蒸気機関車 Steam Locomotive D511072 - panoramio (1).jpg|150px]]
|D51 1072
|兵庫県[[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[相生町 (神戸市)|相生町]]3丁目1-1<br/>[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]南側
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。かまぼこ形蒸気ドーム、北海道形前部切詰除煙板付き。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[奈良県]]'''
|-
|[[File:D51 691 in Tainoshoike Park.jpg|150px]]
|D51 691
|奈良県[[天理市]]田井庄町<br/>田井庄池公園
|
|-
|[[ファイル:D51 895 in Funado Park.jpg|150px]]
|D51 895
|奈良県[[北葛城郡]][[王寺町]]舟戸1丁目3973-1<br/>舟戸児童公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[和歌山県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR D51 1085 Aridagawa-cho tetsudo koen 20100429.jpg|150px]]
|D51 1085
|和歌山県[[有田郡]][[有田川町]]徳田124-1<br/>[[有田川町鉄道公園]]
|2010年に[[藤並駅]]前から移設された。かまぼこ形蒸気ドーム、北海道形前部切詰除煙板付き。
|-
|
|D51 930
|和歌山県[[岩出市]]根来2347-213<br/>根来SL公園
|2003年に[[海南市]]のみなと公園から移設された。平日は9-16時の間、隣接する赤井工作所事務所で受付し見学可能。<br />日曜日は10-16時の間見学可能で、説明員による案内がある。重油タンク付き。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[鳥取県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 195 at Minatoyama Park.jpg|150px]]
|D51 195
|鳥取県[[米子市]]西町<br/>湊山公園
|
|-
|[[ファイル:D51 303 in Tottori Sakyu Kodomonokuni.jpg|150px]]
|D51 303
|鳥取県[[鳥取市]]浜坂1157-1<br/>鳥取砂丘こどもの国
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[島根県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR D51 194 in Tsuwano DSCN7329 20090821.JPG|150px]]
|D51 194
|島根県[[鹿足郡]][[津和野町]]後田<br/>[[津和野駅]]前
|2022年8月5日、山口線開業100周年を記念してDLやまぐちが運行された
列車が到着するときに、汽笛が鳴らされた
現在、町営駐車場から津和野駅舎前に移設され展示されている。
|-
|[[ファイル:Wakō Museum D51 488.jpg|150px]]
|D51 488
|島根県[[安来市]]安来町1058<br/>[[和鋼博物館]]
|1975年1月15日に動態保存以外では本州最後のSL旅客列車である「さよならSL列車石州号」を牽引した。当初は[[米子駅]]前で保存されていたが、和光博物館開館に合わせて移設された。準鉄道記念物。
|-
|[[ファイル:D51 774 at Taisha Station.JPG|150px]]
|D51 774
|島根県[[出雲市]]大社町北荒木441-3<br/>旧[[大社駅]]
|1974年11月30日に本州最後の定期運行の蒸気機関車牽引列車を牽引した。<br />廃車当初は[[出雲大社]]神苑で保存されていたが、2001年に旧JR大社駅整備施策として移設された。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[岡山県]]'''
|-
|[[File:D51 2 in Tsuyama Railroad Educational Museum.jpg|150px]]
|D51 2
|岡山県[[津山市]]大谷<br/>[[津山まなびの鉄道館]]
|1972年廃車後に交通科学館(→[[交通科学博物館]])に保存された。2014年に同館閉館後に移設され、2016年4月2日より公開されている<ref>{{Cite news |date=2015年3月9日 |url=http://www.sanyonews.jp/article/143941 |title=SL「デゴイチ」 津山駅に到着 扇形機関車庫で16年春公開 |publisher=山陽新聞社 |newspaper=[[山陽新聞]] |accessdate=2018年10月15日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150315002808/http://www.sanyonews.jp/article/143941 |archivedate=2015年3月15日}}</ref>。
|-
|[[ファイル:D51 838.jpg|150x150ピクセル]]
|D51 838
|岡山県[[新見市]]井倉<br/>[[井倉洞]]前駐車場
|1971年4月21日に島根県で植樹祭が開催された際、[[伯備線]]でお召し列車を牽引した。<br />2013年に修繕された時にお召仕様の装飾が施された。
|-
|[[ファイル:D51_842.jpg|150x150ピクセル]]
|D51 842
|岡山県[[倉敷市]]水島青葉町95-1<br/>水島中央公園
|北海道で使用されていた機関車で、北海道形前部切詰除煙板、かまぼこ形蒸気ドーム、ギースルエジェクター付き。
|-
|[[ファイル:D51 889.jpg|150px]]
|D51 889
|岡山県[[総社市]]中央1丁目11<br/>石原公園
|
|-
|[[ファイル:D51 917 in Shimoishii Park.jpg|150px]]
|D51 917
|岡山県[[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]]幸町10-16<br/>下石井公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[広島県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR D51 422.JPG|150px]]
|D51 422
|広島県[[尾道市]]古浜町3<br/>古浜児童公園
|
|-
|[[ファイル:D51 locomotive.jpg|150px]]
|D51 720
|広島県[[広島市]][[安芸区]]上瀬野町<br/>瀬野川公園
|
|-
|[[ファイル:D51 860 in Akebono Park.jpg|150px]]
|D51 860
|広島県[[福山市]]曙町4丁目<br/>曙公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[山口県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR Class D51-18 in Tokiwa Park 2.jpg|150px]]
|D51 18
|山口県[[宇部市]]野中3丁目6<br/>[[常盤公園 (宇部市)|常盤公園]] 石炭記念館
|
|-
|[[ファイル:1 Chome Motomachi, Iwakuni-shi, Yamaguchi-ken 740-0012, Japan - panoramio.jpg|150px]]
|D51 103
|山口県[[岩国市]]元町1丁目4<br/>元町第一街区公園
|
|-
|
|D51 300
|山口県[[山陽小野田市]]大字郡521-1<br/>殿町児童公園
|2014年9月に再塗装され、保存状態が良い
|-
|[[ファイル:D51_395.jpg|150px]]
|D51 395
|山口県[[周南市]]大字徳山5846<br/>[[周南市徳山動物園]]
|ライトが無い
|-
|
|D51 592
|山口県[[下松市]]大字[[笠戸島]]506<br/>国民宿舎大城第3駐車場
|地元の日立笠戸製のD51形
|-
|
|D51 768
|山口県[[下関市]]椋野町1丁目17-1<br/>一里山公園
|
|-
|
|D51 813
|山口県[[山口市]]小郡下郷609-5<br/>小郡町総合支所
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[福岡県]]'''
|-
|
|D51 10
|福岡県[[直方市]]大字頓野550-1<br/>汽車倶楽部<br/>'''※通常非公開'''
|[[行橋市]]市民会館で保存されていたが、老朽化の進行と同会館の閉鎖に伴って一度は解体が発表された。<br />その後市が引き取り先を募集したうえで、2017年に現所有者に譲渡された。
|-
|[[ファイル:JNR SL D51225.jpg|150px]]
|D51 225
|福岡県[[直方市]]大字畑686<br/>直方いこいの村
|
|-
|[[ファイル:JNR SL D51244.jpg|150px]]
|D51 244
|福岡県[[北九州市]][[八幡東区]]桃園3丁目1<br/>桃園公園
|
|- style="background-color:#ddf"
|[[ファイル:JNR SL D51542.jpg|150px]]
|D51 542
|福岡県[[北九州市]][[小倉北区]]金田3丁目1-1<br/>[[小倉総合車両センター|JR九州小倉総合車両センター]]<br/>'''※カットボディ'''
|カットボディとなっており、第2・第3動輪とその上方部、炭水車の後半分が取り払われている。客車[[国鉄60系客車|オハ61 1030]]と並べられている。
|-
|[[ファイル:JNR SL D51923.jpg|150px]]
|D51 923
|福岡県[[久留米市]]東櫛原町1667<br/>[[久留米市鳥類センター]]
|
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[佐賀県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 206 front of Saga City Hall.jpg|150px]]
|D51 206
|佐賀県[[佐賀市]]栄町1-1<br/>[[佐賀市役所]]
|
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[長崎県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR SL D511142.jpg|150px]]
|D51 1142
|長崎県[[佐世保市]]祇園町192<br/>佐世保市交通公園
|
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[熊本県]]'''
|-
|[[ファイル:D51 170.jpg|150px]]
|D51 170
|熊本県[[人吉市]]矢岳町<br/>人吉市SL展示館<br/>([[矢岳駅]]前)
|肥薩線で使用されたD51形で、矢岳駅前に設けられている展示施設内に保存されている。集煙装置、重油併燃装置装備。
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[大分県]]'''
|-
|[[ファイル:JNR SL D51176.jpg|100px]]
|D51 176
|大分県[[日田市]]田島本町54-77<br/>日田駅北公園
|
|-
|[[ファイル:D51 Steam Locomotive-1032.jpg|150px]]
|D51 1032
|大分県[[由布市]]湯布院町川北645-6<br/>[[岩下コレクション]]
|廃車後、湯布院町営ホテル([[SLホテル]])用の機関車として保存設置された。<br />ホテル廃業後、機関車のみ中央児童公園に保存された。2018年に由布市から譲渡を受け、移設された。
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[宮崎県]]'''
|-
|
|D51 485
|宮崎県[[延岡市]]大瀬町2丁目3<br/>大瀬町街区公園
|
|-
|
|D51 541
|宮崎県[[日向市]]本町12-12<br/>本町児童公園
|
|-
| style="background-color:#bf7" colspan=4|'''[[沖縄県]]'''
|-
|[[ファイル:Yogi Park Naha Okinawa Japan08n.jpg|150px]]
|D51 222
|沖縄県[[那覇市]]与儀1-1<br/>[[与儀公園]]
|現役時代は南延岡機関区に所属していた車両。<br />鉄道のない(当時)沖縄県に機関車を贈るという目的で、国鉄職員の呼びかけにより募金で約1400万円の費用を集め、1973年に九州から沖縄まで航送され設置された。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''{{RUS}}'''
|-
|
|南サハリン鉄道局<br/>D51-4
|{{RUS}}<br/>[[サハリン州]][[ユジノサハリンスク]]市<br/>ユジノサハリンスク機関区
|観光向け特別列車の牽引機として、戦後も保存運転されてきた。<br />2020年に全路線の[[広軌]]化が完了したため引退し、所属していたユジノサハリンスク機関区で保管されている。
|-
|[[ファイル:Japanese SL D51-22.jpg|150px]]
|南サハリン鉄道局<br/>D51-22
|{{RUS}}<br/>サハリン州ユジノサハリンスク市<br/>ユジノサハリンスク駅前公園
|
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''{{TWN}}'''
|-
|[[ファイル:原臺灣總督府D512蒸汽機關車.jpg|150px]]
|台湾鉄路管理局<br/>DT652
|{{TWN}}<br/>[[台南市]][[南区 (台南市)|南区]]体育路10号<br/>台南市立体育公園
|2019~2020年にかけて、同所に静態保存された[[国鉄C55形蒸気機関車|C55形]]のCT259(CT251に修正)と共に修復<ref>{{cite news|url= http://japan.cna.com.tw/search/202004230004.aspx |title='日本統治時代のSL、修繕終わる 南部・台南で公開' |publisher=中央社 |newspaper=フォーカス台湾 |date=2020-04-23 |accessdate =2020-05-17}}</ref><ref>台南市文化資産管理処[https://www.youtube.com/watch?v=8OBdTIYRd0A 「重現1982」原臺灣總督府C551、D512蒸汽機關車修復紀實影片]</ref>
|-
|[[ファイル:東石港口宮的DT651(DT664)號.jpg|150px]]
|台湾鉄路管理局<br/>DT664<br/>(DT651)
|{{TWN}}<br/>[[嘉義県]]<br/>東石郷
|DT664にDT651のナンバープレートを付けている。
|-
|[[ファイル:D51型煤水蒸氣火車頭.jpg|150px]]
|台湾鉄路管理局<br/>DT670<br/>(DT675)
|{{TWN}}<br/>[[新北市]][[板橋区 (新北市)|板橋区]]莊敬路62号<br/>新北市芸文中心
|DT670にDT675のナンバープレートを付けている。
|-
|style="background-color:#bf7" colspan=4|'''保存後に解体された車両''' ※保存場所は最終時のもの。部分保存に移行したものは含まない。
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:Saga-Arashiyama Station-3.jpg|150px]]
|D51 51
|京都府京都市右京区嵯峨天龍寺車道町<br/>19世紀ホール
|1972年から2004年までは[[大阪府]][[枚方市]]の[[くずはモール]]に保存されていた。その後[[トロッコ嵯峨駅]]前の19世紀ホールに移設されたが、老朽化のため2019年12月29日限りで公開を終了、撤去された<ref>[https://railf.jp/news/2019/12/30/200000.html トロッコ嵯峨駅のD51 51が解体へ] - railf.jp、2019年12月30日</ref>。
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:JNR D51 157 2009.JPG|150px]]
|D51 157
|北海道[[上川郡 (石狩国)|上川郡]][[上川町]]<br/>北の森ガーデン<br/>
|2009年に解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 192
|三重県[[桑名市]]<br/>[[ナガシマスパーランド]]内SLランド
|1984年ごろ解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 324
|千葉県[[習志野市]]教育センタープラネタリウム館
|2001年ごろ解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 463
|山口県[[防府市]]<br/>三田尻公園
|2000年12月解体、動輪のみJR貨物広島車輌所に保管
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:Daisenguchi D51 620.jpg|150px]]
|D51 620
|鳥取県西伯郡[[大山町]]<br/>[[大山口駅]]前
|2009年11月8日をもって展示終了後、解体。[https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Okinoshima_D51_620.jpg 一部部品は隠岐島へ譲渡、片側走り装置と動輪のみ展示]。
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:Old soldiers never die,They just fade away. - panoramio.jpg|150px]]
|D51 684
|東京都[[東村山市]]<br/>運動公園
|2019年9月下旬~10月上旬に解体され、動輪など一部部品はJR東日本に返却された。
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:JNR D51 714 20100312.jpg|100px]]
|D51 714
|鹿児島県[[鹿児島市]][[与次郎]]1丁目7-15<br/>[[ジャングルパーク遊園地|鹿児島国際ジャングルパーク]]
|2015年4月解体
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:D51 737-01.jpg|150px]]
|D51 737
|和歌山県[[有田郡]][[湯浅町]]湯浅<br/>なぎ公園
|北海道で使用されていたため、北海道形前部切詰除煙板を装備。2020年9月解体撤去。
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 764
|大阪府[[吹田市]]<br/>[[万博記念公園]] [[エキスポランド]]跡地
|2013年11月解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 828
|兵庫県[[淡路市]][[釜口]]<br/>[[平和観音寺]]
|1976年まで追分機関区に残ったD51形のうちの1両。2017年頃に撤去。
|- style="background-color:#ccc"
|
|D51 942<br/>(D51 327)
|北海道[[茅部郡]][[森町 (北海道)|森町]]字赤井川<br/>民宿旅館ハイツ前<br/>
|D51 327のナンバープレートを付けて保存されていた。2006年6月17日解体。
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:Japanese-national-railways-D51-1001-20110908.jpg|150px]]
|D51 1001
|長野県[[千曲市]]<br/>市民体育館
|2018年8月解体
|- style="background-color:#ccc"
|[[ファイル:D51 1108 Sendai General Shinkansen Depot 20080726.jpg|150px]]
|D51 1108
|宮城県宮城郡[[利府町]]<br/>JR東日本[[新幹線総合車両センター]]<br/>
|[[島野武]][[仙台市#市長|仙台市長]](当時)の鉄道公園構想に基づき、廃車後の1972年10月より仙台市ガス局本庁舎裏の旧原町工場引込線跡で保存されていた<ref name="rf_199610"/>。<br />1994年11月に新幹線総合車両センターに移転した<ref name="rf_199608">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年8月号 通巻424号 p.120</ref><ref name="rf_199610">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年10月号 通巻426号 p.102 - 103</ref>が、2019年12月に解体。
|- style="background-color:#ccc"
|
|サハリン州鉄道<br/>D51-1
|新潟県[[柏崎市]]<br/>[[柏崎駅]]前公園<br/>
|2011年7月解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|サハリン州鉄道<br/>D51-2
|北海道[[沙流郡]][[平取町]]<br/>
|機関車部と炭水車部が分離された状態で放置、2008年8月解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|サハリン州鉄道<br/>D51-25
|北海道[[勇払郡]][[鵡川町]]<br/>
|保存後解体
|- style="background-color:#ccc"
|
|サハリン州鉄道<br/>D51-26
|北海道勇払郡鵡川町<br/>
|保存後解体
|}
== D51形を題材にした作品 ==
* 楽曲
*;「退職の日」
*: 作詩・作曲・歌: [[さだまさし]]。[[1983年]]発売。
*;「D・51(でごいち)」
*: 作詞:[[阿久悠]]、作曲:[[浜圭介]]、歌:[[すがはらやすのり]]。[[1998年]]発売。
* 映画
*; 「[[きかんしゃやえもん D51の大冒険]]」
*: 本形式を主役としたアニメ映画。
*;「[[きかんしゃトーマス 伝説の英雄]]」
*: 本形式をモデルにした蒸気機関車「ヒロ」が登場する。D51がモデルになっているため、車体に番号「51」が付いている。
*テレビ
*; 今日限りの汽笛 D51 947
*: D51 947を主役としたテレビ企画
== 「デコイチ」と「デゴイチ」 ==
本形式の[[鉄道の車両愛称|愛称]]としては「デ'''コ'''イチ」、「デ'''ゴ'''イチ」ともに用いられている。現在は「デ'''ゴ'''イチ」が多く見られるが、過去には、各鉄道趣味誌においても「デ'''コ'''イチ」の表記が多く存在していた<ref>{{cite journal|和書|journal=鉄道ファン|year=1986|month=12|publisher=交友社|title=今年50歳を迎えた'''デコイチ'''}} {{cite journal|和書|journal=鉄道ファン 臨時増刊号|year=1969|month=12|publisher=交友社|title=木曽の'''デコイチ'''|author=若林泰之}}</ref>。なおこの愛称については、本来は「デ'''コ'''イチ」だが[[SLブーム]]以降「デ'''ゴ'''イチ」の方が一般的になった、という見解もある<ref>『鉄道ピクトリアル』2008年6月号 (No.804) 「特集・SLブーム」 p.40</ref>。[[竹島紀元]]は、戦前の蒸気機関車のニックネームとして鉄道現場に存在したのは自分が知る限りではD50形の「デコマル」とD51形の「デコイチ」であるとし、「鉄道現場のスラングのようなものでその発生や普及変遷について確実な状況はつかめない」と断った上で、以下のような点を指摘している<ref>『鉄道ジャーナル』1973年11月号「こちらジャーナル編集室」 p.112</ref>。
* 戦前の鉄道趣味雑誌の『[[鉄道趣味 (雑誌)|鉄道趣味]]』には「凸丸」「凸一」という表記もあったと記憶している。
* 「デコイチ」は「デコマル」の伝でつけられたと推察される。
* 鉄道の現場用語では例えば「架線」を「'''ガ'''セン」、「パンタグラフ」を「パン'''ダ'''」のように[[濁音|濁る]]場合が多いため、本来「デコマル」だったものが「デゴマル」と呼ばれるようになった可能性がある。
一方、1946年発行『絵とき鉄道科学』([[交友社]])に「デ'''ゴ'''イチ(中略)と呼ぶのが普通であります」と書かれ、<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1058650/46 鉄道教育研究会 編『絵とき鉄道科学』交友社、1946年、82頁]国立国会図書館デジタルコレクション</ref>、[[内田百閒]]による[[1950年]]ごろの国鉄職員が、Dの51だから「デ'''ゴ'''イチ」だと言ったとする記述もあるため<ref>[[内田百閒]]「区間[[阿房列車]]」 『第一阿房列車』福武文庫 1991年 47頁 この文章が1951年2月から4月に書かれていることは、同書271頁参照。</ref>、少なくともこの頃に「デ'''コ'''イチ」のみだったと言えない。
初期形(半流線形)の愛称の「なめくじ」は、1936年3月発行の『鉄道趣味』で[[宮松金次郎]]が「上から見た処は丁度ボイラーの上に這い廻るなめくじです」と記したものが始めで、後年になって広まったものとされる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://web.archive.org/web/20180805041547/http://www.kitekinet.com/D51a/deta.html 遠い汽笛-D51の全兄弟]
== 参考文献 ==
*「汽車会社蒸気機関車製造史」1972年、[[交友社]]刊
* 臼井茂信「機関車の系譜図 4」1978年、交友社刊
* 高田隆雄監修「蒸気機関車 日本編」1981年、[[小学館]]刊、万有ガイドシリーズ12
* 高砂雍郎「鉄道広報による国鉄機関車台帳〔機関車編〕」1991年、鉄道史資料保存会刊
* [[鉄道ピクトリアル]] 1966年12月号 (No.191)
* {{Cite book|和書|author=田中知己 | title=鉄道ピクトリアル 2022年8月号 No.1001 |year=2022|publisher=電気車研究会| ref =D1001 }}
* {{cite book | 和書 | author = [[久保田博]] | title = 日本の鉄道史セミナー | publisher = [[グランプリ出版]] | date = 2005-05-18 | edition = 初版 | pages = pp.39 - 46 | isbn = 978-4876872718 | ref = 久保田 (2005) }}
* {{Cite book|和書|author = BSフジ鉄道伝説製作班| title = 完全保存版 鉄道伝説II ~昭和・平成を駆け抜けた鉄道たち~ |year=2020|publisher = 辰巳出版| |isbn=9784777826650 | ref =鉄道伝説 }}
* {{Cite journal|和書| author =坂上茂樹 | title = [https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-118.pdf 高木 蒸気機関車技術論に対する疑問以上のもの] | publisher = 大阪市立大学大学院経済学研究科 | ref = 高木 蒸気機関車技術論に対する疑問以上のもの}}
*荒川好夫・成瀬京司『蒸気機関車D51大事典』2014年、戎光祥出版刊。ISBN 978-4864031219
*「SL no.2」 1969年、交友社刊 pp.84-105 当該頁著者 渡辺肇
== 関連項目 ==
{{commonscat|D51 steam locomotives}}
* [[国産の国鉄蒸気機関車]]
* [[動態保存中の蒸気機関車]]
* [[島秀雄]] - [[細川泉一郎]]
* [[下山事件]]
* [[三河島事故]] - 下り本線に進入しようとした貨物列車(D51 364牽引)が、安全側線に進入し脱線したことが発端。
* [[新日本紀行]] - NHKの紀行番組で、D51形が主役の回がある([[1970年]][[9月21日]]放送分の'''「三重連の峠〜秋田・青森県境 矢立峠〜」''')。
* [[黒姫山秀男]] - SLブームの頃の[[大相撲]][[力士]]、ニックネームが「デゴイチ」だった。
* [[米軍燃料輸送列車事故]] - 新宿駅の山手貨物線に蒸気機関車が消えてから11年目の1967年にD51 451が事故対応の救援列車を牽引し入線。
* [[男はつらいよ 望郷篇]] - [[小樽築港機関区|旧・小樽築港機関区(現・小樽運転所)]]のD51 27号機が登場する
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桜樹ルイ
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桜樹 ルイ (さくらぎ るい、1969年3月8日 - )は、日本の元AV女優、女優。本名:海老沢 美紀(えびさわ みき)。1990年代前半を代表するAV女優で、当時AVは千本売れればヒットと言われる中で、出す作品が毎回コンスタントに八千本から一万本を売り上げる人気を誇り、AVクィーンと呼ばれた。AV時代は1970年3月8日生、東京都出身としていた。趣味はファミコン、特技はエレキベース。
熊本県出身、埼玉県富士見市育ち。埼玉県立富士見高等学校卒業。一つ上の姉と四つ下の弟がいる。ロックが好きで高校の頃、友人たちとバンドを組みボーカルとベースギターを担当していた。高校3年の時にモデル事務所に所属し、授業を終えると歌などのレッスンのため埼玉の自宅から東京へ通い続ける日々を送る。『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)の公開オーディションにも出演、『青いスタスィオン』を歌い最終選考まで残った。卒業後の1987年、相沢美紀の名前でモモコクラブ桃組に所属したあと、一ノ瀬 (一の瀬) 雅子に改名。グラビアを中心に活動し、NHK大河ドラマ『春日局』にも端役で出演する。
1989年4月に『アダルトさせて』でAVデビュー、2本の作品に出演するが大きな話題にはならなかったものの、タレントからAV女優へ転身した先駆者とされる。
1990年4月、桜樹ルイと改名し、さらにAVを出すことを条件としてCD、『Papillon』(クラウン)で歌手デビューを果たす。これまでAVでは本番はしていなかったが、転機となったのは当時、作品内で確実に本番行為を行ってることで有名だったダイヤモンド映像に移籍してからで、そのハードな内容で一気に人気に火がつき、以後はトップAV女優として出演を重ねていくが、親に知られて勘当状態となる。このダイヤモンド映像時代の作品群は人気が高い。またメーカーとしてのダイヤモンド映像を飛躍させたキーパーソンの一人ともいわれる。
11月にはパッケージ撮影までしていた『豊田薫の口全ワイセツ 1』だが1991年1月、VTRの撮影前に突如失踪、業界中を騒然とさせた。主演女優不在という異常な状況の元でこの作品を担当することになった豊田薫監督は、過去の素材、ダイヤモンド映像の社長の村西とおるや他の専属女優へのインタビュー等で作品を組み立てることになった。ダイヤモンド映像は部屋を借りて、専属女優に住み込みさせる習わしがあったが、作品には「撮影2日前、桜樹ルイの部屋の電話が不通になった・・・」というテロップが挿入されている。これはAVにありがちなフェイクドキュメンタリーではなくて、ノンフィクションとして制作されており、この失踪の理由として桜樹は、ダイヤモンド映像のハードスケジュール、豊田への不信感、村西による贔屓女優との差別で正当に評価されてないことなどを挙げており、失踪後に出した『桜樹ルイの非口全ワイセツ』の中でこのことを糾弾している。その後、改名後のデビュー作を出したメーカーのVIPの社長の口利きで、業界に復帰することができた。
1991年は桜樹ルイの人気は頂点を極め全国でサイン会を決行、歌舞伎町のビデオショップにファン300人、特に北海道では3ヶ所で1,300人を集めた。6月6日に専修大学でイベントに出演、10月31日、東京経済大学の学園祭に招かれステージで歌い、その夜は中央大学でトークショーを行い、その模様は『こだわりTV PRE★STAGE』(テレビ朝日)で放送された。11月2日には立教大学の学園祭にも出演し、300人余りのファンの前で歌やトークショー、ゲームで盛り上がった。
12月18日、東京大飯店でAVメーカーのVIP、KUKI、ジャパンホームビデオ、ロイヤルアートが合同で行った「91'AV大感謝祭」でグランプリを受賞。
AV誌『オレンジ通信』(東京三世社)読者投票1位で1990年度AVアイドル賞受賞。
AV誌『アップル通信』(三和出版)の1991年度の読者の人気投票で年間総合ランキング1位。
雑誌『GORO』(小学館)が行った、1991年度のもっともすぐれたAV女優に送るAVマドンナ横綱賞を獲得。
1991年に俳優、森山周一郎が監督する映画『幻想のParis』 (1992年公開)に出演したのをきっかけに、女優への転身を志し、同年暮れにはAV女優を引退、芸能界への進出を本格化させる。
1992年にはNHKのテレビドラマ『とおせんぼ通り』に出ることによって親との勘当も解ける。
ロックバンドCHERRY LOUIE (チェリー・ルイ) を結成し、CDシングル1枚をリリースした。
しかし1995年10月、元AV女優ということで脱ぐシーンばかり要求される芸能界に行き詰まりを感じて、ストリッパーとして浅草ロック座よりデビュー、連日、超満員の大盛況となる。
1996年にはAV監督の鬼沢修二の求めに応じ短期間AVに復帰、4本の作品に出演。
2000年12月20日、川崎ロック座での興業を最後にストリップを引退。
2023年9月21日、約20年の沈黙を破り公式X(旧Twitter)を開始。15年前に潰瘍性大腸炎を発症(現在は寛解期)したことも明かした。
一ノ瀬雅子名義
桜樹ルイ名義 1990年
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桜樹 ルイ は、日本の元AV女優、女優。本名:海老沢 美紀。1990年代前半を代表するAV女優で、当時AVは千本売れればヒットと言われる中で、出す作品が毎回コンスタントに八千本から一万本を売り上げる人気を誇り、AVクィーンと呼ばれた。AV時代は1970年3月8日生、東京都出身としていた。趣味はファミコン、特技はエレキベース。
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'''桜樹 ルイ''' (さくらぎ るい、[[1969年]][[3月8日]] - )は、[[日本]]の元[[AV女優]]、[[俳優|女優]]<ref>{{Cite web|和書|title=【アイドルSEXY列伝】松坂季実子、桜樹ルイ、卑弥呼…D映像の黄金期を支えた“村西シスターズ”|url=https://www.zakzak.co.jp/article/20181122-6ABHJRFIABIPRAYUUMPU56ZTXU/|website=zakzak|accessdate=2020-07-12|language=ja|publisher=|date=2018.11.22}}</ref>。本名:'''海老沢 美紀'''(えびさわ みき)。[[1990年代]]前半を代表するAV女優で、当時[[アダルトビデオ|AV]]は千本売れればヒットと言われる中で、出す作品が毎回コンスタントに八千本から一万本を売り上げる人気を誇り、'''AVクィーン'''と呼ばれた<ref name="週刊ポスト">[[週刊ポスト]] 1995年10月20日号 [[小学館]] P212〜213</ref>。AV時代は[[1970年]][[3月8日]]生、[[東京都]]出身としていた。趣味は[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]、特技は[[エレクトリックベース|エレキベース]]。
== 略歴 ==
[[熊本県]]出身、[[埼玉県]][[富士見市]]育ち。[[埼玉県立富士見高等学校]]卒業。一つ上の姉と四つ下の弟がいる。ロックが好きで高校の頃、友人たちとバンドを組みボーカルと[[エレクトリックベース|ベースギター]]を担当していた<ref name="週刊ポスト2">週刊ポスト 1990年11月9日号 小学館 P150〜152</ref>。高校3年の時にモデル事務所に所属し、授業を終えると歌などのレッスンのため埼玉の自宅から東京へ通い続ける日々を送る<ref name="週刊ポスト2"/>。『[[夕やけニャンニャン]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])の公開[[オーディション]]にも出演、『[[青いスタスィオン]]』を歌い最終選考まで残った<ref>オレンジ通信 1990年10月号 [[東京三世社]] P8〜9</ref>。卒業後の[[1987年]]、'''相沢美紀'''の名前で[[Momoco#モモコクラブ|モモコクラブ]]桃組に所属したあと、'''一ノ瀬 (一の瀬) 雅子'''に改名。グラビアを中心に活動し、[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[春日局 (NHK大河ドラマ)|春日局]]』にも端役で出演する。
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1990年4月、'''桜樹ルイ'''と改名し、さらにAVを出すことを条件として[[コンパクトディスク|CD]]、『Papillon』([[日本クラウン|クラウン]])で歌手デビューを果たす。これまでAVでは[[本番行為|本番]]はしていなかったが、転機となったのは当時、作品内で確実に本番行為を行ってることで有名だった[[ダイヤモンド映像]]に移籍してからで、そのハードな内容で一気に人気に火がつき、以後はトップAV女優として出演を重ねていくが、親に知られて勘当状態となる<ref name="週刊現代">[[週刊現代]] 1992年8月22、29日号 [[講談社]] P211〜212</ref><ref name="週刊ポスト2"/>。この[[ダイヤモンド映像]]時代の作品群は人気が高い。またメーカーとしてのダイヤモンド映像を飛躍させたキーパーソンの一人ともいわれる<ref>{{Cite web|和書|title=【アイドルSEXY列伝】桜樹ルイ 「美女でも…」ハードコア作品がヒット 驚異的人気の後に訪れた失踪騒動(2/3ページ) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220602-R54UETQ5IVNEPNSKC4CQLMRFQQ/2/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2022-06-02 |access-date=2023-11-05 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
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1991年は桜樹ルイの人気は頂点を極め全国でサイン会を決行、[[歌舞伎町]]のビデオショップにファン300人、特に北海道では3ヶ所で1,300人を集めた<ref>ビデオ情報 1991年8月号 日本文芸社 P27</ref>。6月6日に[[専修大学]]でイベントに出演、10月31日、[[東京経済大学]]の学園祭に招かれステージで歌い、その夜は[[中央大学]]でトークショーを行い、その模様は『[[プレステージ|こだわりTV PRE★STAGE]]』([[テレビ朝日]])で放送された。11月2日には[[立教大学]]の学園祭にも出演し、300人余りのファンの前で歌やトークショー、ゲームで盛り上がった<ref>アップル通信 1992年1月号 [[三和出版]] P102</ref>。
12月18日、東京大飯店でAVメーカーのVIP、[[九鬼 (アダルトビデオ)|KUKI]]、[[ジャパンホームビデオ]]、ロイヤルアートが合同で行った「91'AV大感謝祭」でグランプリを受賞<ref>アップル通信 1992年3月号 三和出版 P102</ref><ref>ビデオTHEワールド 1992年2月号 [[白夜書房]] P80</ref>。
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1991年に俳優、[[森山周一郎]]が監督する映画『幻想のParis』 (1992年公開)に出演したのをきっかけに、女優への転身を志し、同年暮れにはAV女優を引退、芸能界への進出を本格化させる。
[[1992年]]には[[NHK総合テレビジョン|NHK]]のテレビドラマ『とおせんぼ通り』に出ることによって親との勘当も解ける<ref name="週刊現代"/>。
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2023年9月21日、約20年の沈黙を破り[[Twitter|公式X(旧Twitter)]]を開始<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=【アイドルSEXY列伝】桜樹ルイ レジェンドセクシー女優が完全プライベートでSNS降臨の衝撃 「何で今?…生きていることの証」(1/2ページ) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20231026-UZV77G54JZLUHGKUKKVE66SHOI/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2023-10-26 |access-date=2023-11-05 |language=ja |last=永瀬白虎}}</ref>。15年前に[[潰瘍性大腸炎]]を発症(現在は[[寛解|寛解期]])したことも明かした<ref name=":0" />。
== エピソード ==
* ダイヤモンド映像からの失踪事件の具体的な理由として、売り上げでこれだけ貢献しているのに、それに見合う報酬がないことを、後に村西夫人となる[[乃木真梨子]]とのギャラの格差を引き合いに出して述べている<ref name="アサヒ芸能"/>。
* 書籍、『アダルトな人びと』(講談社)には、専修大学生田キャンパスで行われたイベント、『アダルト ランチ タイム 桜樹ルイのルイは友を呼ぶ』には1,000人余りの学生が集まり、「ルイちゃんの初体験の場所は?」という司会者の質問に「焼肉屋の二階!」という学生たちの回答が瞬時にあり、1人の女性の初体験に関して不特定多数の人間が知っているという状況が驚きをもって語られており、当時の桜樹ルイの人気の凄さを物語っている<ref name="アダルトな人びと">アダルトな人びと [[足立倫行]] 1995年12月15日 [[講談社]] P9〜11</ref>。
* [[週刊少年マガジン]](講談社)にて連載された『[[金田一少年の事件簿]]』「ファイル4 学園七不思議殺人事件」(1993年6月2日〜8月4日)の登場人物、ミステリー研究会会長3年「桜樹るい子」の名前の元ネタとなった。
* 社会学者の[[赤川学]]は桜樹ルイと、そのデビュー直前までAVクィーンの座についていた[[樹まり子]]の二人を、顔、スタイル、官能表現の観点から「AV女優として要求される全ての訴求点を満たした究極の存在。」「現在の合理的範囲内で彼女たち以上のインパクトを与えるAV女優の出現を予想することはほとんど不可能。」と語っている<ref>『性への自由/性からの自由 ポルノグラフィの歴史社会学』現代日本のポルノグラフィー アダルトビデオのポリティクス [[青弓社]] 1996年8月10日 P173〜191</ref>。
* 歌舞伎町のイメクラ「スウィートロード」のオーナーであった。
* [[1991年]]6月、元AV男優で[[マネージャー]]の男性と[[結婚]]したが、翌年には[[離婚]]している<ref>[[読売ウイークリー|週刊読売]] 1992年9月6日号 P28〜30</ref>。
* ダイヤモンド映像の1990年度に出した全作品の売上本数の一位は、桜樹ルイの『ホジってください』だった<ref name="アダルトな人びと"/>。
* [[Netflix]]で配信された『[[全裸監督|全裸監督2]]』(2021年6月24日-)で[[佐藤あいり (タレント)]]が桜樹ルイ役を演じた。劇中の名前は「咲良夢梨亜」で、主に第5話のストリップシーンでの[[麦わら帽子]]をかぶっての演技となった。佐藤は「[[YouTube]]や当時のAV作品で桜樹さんを拝見して、メークや喋り方や雰囲気を参考にして撮影に臨みました<ref>{{Cite web|和書|title=佐藤あいり「全裸監督2」伝説のAV女優・桜樹ルイを熱演「山田孝之さんの演技に引き込まれ涙が…」|日刊ゲンダイDIGITAL |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/291245 |website=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2021-06-30 |access-date=2023-11-05}}</ref>」「ネットにあがっている桜樹ルイさんの写真や動画を見ました。常に村西さんの近くにいる人なので、知っている人なら、桜樹ルイさんがモデルというのは分かるので、眉毛の濃さ、クリクリした目の雰囲気を出したつもりです<ref>{{Cite web|和書|title=「全裸監督2」伝説の女優を演じた佐藤あいりが激白「オーディションでは泣き通した」 |url=https://encount.press/archives/188442/ |website=ENCOUNT |access-date=2023-11-05 |language=ja |date=2021.06.26}}</ref>」と語っている。
== 出演作品 ==
=== アダルトビデオ(オリジナル作品のみ) ===
'''一ノ瀬雅子'''名義
* アダルトさせて 本気でフォール・イン・ラヴ(1989年4月25日、[[h.m.p|ティファニー]])
* 真夜中のアバンチュール 不倫妻絶叫(1989年6月25日、[[h.m.p|小さな映画会社]])多人数出演
'''桜樹ルイ'''名義
1990年
* [https://www.vip-enterprise.com/detail.php?no=V160640 突然、炎のように](1990年6月16日、[[アトラスにじゅういち|ビップ]])<ref>安田理央『日本AV全史』(2023年、ケンエレブックス)391‐429頁「日本AV年表」</ref>
* ダイヤモンド・スペシャル 5 ホジってください(1990年9月15日、[[ダイヤモンド映像]])
* 喰い込みサーキットクィーン はやすぎてもイケないの(1990年10月5日、ダイヤモンド映像)他、[[美雪沙織]]、[[野坂なつみ]]、[[田中露央沙]]、[[沙羅樹]]、[[松坂季実子]]
* 堕天使 たまにはしゃぶりつきたい(1990年10月6日、[[アトラスにじゅういち|ステラ]])
* 新説・伊豆の踊り子(1990年10月15日、ダイヤモンド映像)
* ダイヤモンド・スペシャル 7 くやしいけど腰がぬけちゃった(1990年11月15日、ダイヤモンド映像)
* 吾輩は猫である(1990年12月25日、ダイヤモンド映像)
;1991年
* すすってください(1991年1月25日、ダイヤモンド映像)
* 豊田薫の口全ワイセツ 1(1991年2月7日、ダイヤモンド映像)
* 新説・痴人の愛(1991年2月25日、ダイヤモンド映像)
* 桜樹ルイ大図鑑(1991年3月11日、ダイヤモンド映像)
* 金閣寺 2(1991年3月22日、ビップ)
* 桜樹ルイのどうにもとまらない(1991年4月13日、ステラ)
* Bondage Fantasy Vol.11 HIP HOP RUI!(1991年4月、[[大洋図書]])
* 女帝ルイI世 悩殺ぬさゆランジェリーラーゲ(1991年5月17日、ビップ)
* 妹の生下着(1991年5月、[[二見書房|マドンナメイト]])
* LIP STICK(1991年5月、大洋図書)編集版?
* 胸さわぎの乙女たち 第七話 同級生は娼婦と令嬢(1991年6月1日、ステラ)共演、中山美里
* 胸さわぎの乙女たち 第八話 (完結編) 超過激アイドル伝説(1991年6月29日、ステラ)共演、早紀麻未
* ホールドアップ 3(1991年7月12日、ビップ)
* ザ・修行 私をしごいて(1991年8月3日、ステラ)
* 出血大制服スペシャル(1991年8月30日、ビップ)
* 感じる生下着(1991年7月20日、[[笠倉出版社]])
* 桜樹ルイの非口全ワイセツ(1991年9月20日、ビップ)
* DOUBT 偽りの正装(1991年10月7日、ロイヤルアート)
* ビザールの花嫁(1991年10月24日、[[九鬼 (アダルトビデオ)|VINL]])
* 逆レイプの痴女(1991年10月、マドンナメイト)
* スーパー・ボンテージ 2(1991年11月9日、ステラ)
* フラッシュ・パラダイス(1991年11月22日、[[JHV|アリスJAPAN]])
* 桜樹ルイの発禁行為(1991年12月10日、Kiss (ホップ) )
* ハイレグだらけの水泳大会(1991年12月24日、[[新東宝映画|ソドム]]) 多人数出演
* 桜樹ルイを犯る!(1991年12月27日、ステラ)
* 小悪魔の白い乳房(1991年12月、[[大陸書房|ピラミッド]])
* 全国AVギャル水泳大会 激闘45分! 勝ちヌキアヘアヘマッチ(1991年?、ピラミッド)多人数出演
* 桜樹ルイの固く侵入罪(1991年4月、アドテックス)
* あなたの胸の中で(1991年、ヴェスコインターナショナル)
* いじってください 2(1991年、ヴェスコインターナショナル)
* ダブル・エッチ(1991年10月、シュベール出版)
* レロレロしちゃった(1991年、VIP)
* 野坂なつみの金閣寺3(VIP、1991年)ゲスト出演
;1992年
* スペシャル・エクスタシー(1992年1月17日、アリスJAPAN)
* 桜樹ルイの愛のコリーダ(1992年2月21日、ビップ)
* 桜樹レイのレイプ狂い(1992年3月6日、アリスJAPAN)
;1993年
* ザ・ラスト・オブ桜樹ルイ(1992年4月10日、ビップ)
* ぐしょ濡れ下半身(1992年6月20日、ピラミッド)
;1996年
* 不死鳥ふたたび(1996年3月29日、[[アトラスにじゅういち|アトラス]])
* リアル・ハードコア 桜木ルイとFUCKする!!(1996年4月23日、アトラス)
* 超AVアイドル伝説(1996年5月25日、アトラス)
* さよなら桜樹ルイ 伝説から神話へ(1996年7月16日、アトラス)
=== オリジナルビデオ ===
* ダイハード・エンジェルス 危険に抱かれた女たち(1991年4月1日、日本ビデオ映画)
* ダイハード・エンジェルス 2 危険に抱かれた女たち(1991年5月10日、日本ビデオ映画)
* エッチでハッピー ピン!ピン!ピン!(1991年9月5日、J.V.D.)
* 新・傷だらけの天使たち 青春野望篇(1991年10月25日、TCC)
* 死神の使者 DEATH MESSENGER(1991年11月8日、[[東映ビデオ]])
* 私をベッドにつれてって ゴーストに抱かれた花嫁(1992年4月25日、[[バップ]])
* AV女学院 天使のパンツは校則違反(1992年4月25日、マクザム)
* おじいちゃん今日は 桜樹ルイ in PARIS(1992年8月28日、NUAプロジェクト (タキコーポレーション))
* [[稲川淳二]]と田村ガンの関東心霊スポット(1992年、[[バンダイビジュアル]])
* [[どチンピラ]] 9(1994年10月21日、SHS (セイヨー))
* どチンピラ 10(1995年1月1日、SHS (セイヨー))
* [[ビー・バップ・ハイスクール|BE-BOP-HIGHSCHOOL]] 先輩番長純情篇(1997年2月14日、[[東映]])
* Mの究極(1997年7月21日、ミュージアム)
* 皆殺しの天使 ビデオの中に悪魔がいる(1997年7月21日、ミュージアム)
* [[痴漢手記 午前8時の性衝動]](1997年11月21日、カレス・コミュニケーションズ)
* 大満足(1997年、神楽坂映画社)
* 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道3 破門状(2001年、ジーピー・ミュージアム)
* 実録日本ヤクザ抗争史 鯨道4 残侠譜 完結編(2001年、ジーピー・ミュージアム)
=== 映画 ===
* 美姉妹 絡み合い(1990年12月、[[エクセス]])
* 桜樹ルイ 性感・舌なめずり(1991年8月、エクセス)
* 桜樹ルイ ぐしょ濡れ下半身(1992年2月28日、エクセス)
* 幻想のParis(1992年3月21日、ヒーロ・コミュニケーションズ)相川みどり 役
* 東雲楼 女の乱(1994年10月1日、[[東映]])
* 銀座警察 武闘派刑事(1994年10月29日、[[シネマ・パラダイス]])志保 役
* チンピラぶるーす ど・アホ!(1996年1月27日、ファニーエンジェル)煙草屋のお姉さん 役
* 銀の男 青森純情篇(2002年1月19日、シー・アイ・エースタッフ)村川玲子 役
=== テレビドラマ ===
* 春日局(1989年、NHK)
* [[土曜ワイド劇場]]「[[セールスレディ連続殺人事件]]」(1991年12月21日、[[テレビ朝日]])
* [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]「とおせんぼ通り」(1992年12月12日、NHK) - 茜 役
* [[家政婦は見た!#木曜ドラマ版|家政婦は見た!]] 第9話「新婚夫婦の秘密」(1997年、テレビ朝日) - 葉月ナオミ 役
* 土曜ワイド劇場「ランジェリーモデル殺人事件!」(1997年10月25日、テレビ朝日) - 小林千鶴 (被害者) 役
* [[冷たい月 (テレビドラマ)|冷たい月]](1998年、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]])
=== バラエティー ===
* [[パラダイスGoGo!!]](1989年5月26日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[オールナイトフジ]](1990年8月11日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* ドキ!丸ごと水着・女だらけの水泳大会10(1992年7月21日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
* [[金髪先生]](1996年、[[テレビ朝日]])第一期、レギュラー
* [[ギルガメッシュないと]]([[テレビ東京]])
* [[トゥナイト2]]([[テレビ朝日]])
* しまうまのおしり([[毎日放送]])3代目アシスタント
* 福ぶくろ(テレビ朝日)
* 大顔面TV([[テレビ大阪]])
* [[紳助のとんでもいい夢]](日本テレビ)
* [[志村X]]([[フジネットワーク|フジテレビ]])
* [[志村けんのバカ殿様]]! '99だっちゅーの!!(1999年1月6日、フジテレビ)
=== アフレコ ===
*[[妖獣教室]] 3(1993年3月26日、[[大映]])
*妖獣教室 4(1993年3月26日、大映)
=== ラジオ ===
*ルイとあすかのわがままサンデー ([[茨城放送]]、1990年1月〜1990年3月、毎週日曜日16:30 - 17:00 [[森村あすか (AV女優)|森村あすか]]と共演)<ref>月刊[[ラジオパラダイス]] 1990年2月号「R・P NEWSパレット ローカルネットワーク」p.78</ref>
== 音楽 ==
=== シングル ===
{| class="wikitable" style="font-size:small"
!枚
!発売日
!タイトル
!c/w
![[規格品番]]
|-
! colspan="5" | [[日本クラウン|クラウンレコード]] / [[PANAM (レコードレーベル)|PANAM]]<br />桜樹ルイ 名義
|-
! 1st
| [[1990年]][[4月21日]]
| '''Papillon'''<br/>作詞:[[大津あきら]]<br/>作曲:[[高槻真裕]]<br/>編曲:[[安藤高弘]]
| Be Adult<br/>作詞:鈴木勝視<br/>作曲:安藤高弘<br/>編曲:安藤高弘
| CRDP-15001
|-
! colspan="5" | [[ZAIN RECORDS]] / b.jin<br />CHERRY LOUIE 名義
|-
! 1st
| [[1992年]][[11月11日]]
| '''さわるんじゃねー'''<br/>作詞:梅村マキ<br/>作曲:梅村マキ・[[西田昌史|西田魔阿思惟]]<br/>編曲:PINK CATS
| Dancing in the Night<br/>作詞:LOUIE-SAKURAI<br/>作曲:LOUIE-SAKURAI<br/>編曲:[[大堀薫]]
| BJDL-1006
|}
=== タイアップ ===
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
! 曲名
! タイアップ
! 収録作品
|-
| さわるんじゃねー
| [[TBSテレビ]]『Zutto』オープニングテーマ
| シングル「さわるんじゃねー」
|}
== 書籍 ==
=== 写真集 ===
* 熱風写真館 CHIC18(1990年5月30日、撮影:[[野村誠一]]、[[スコラ]])他、多数出演
* 桜樹ルイ写真集(1990年9月15日発行、撮影:村西とおる、ビックマン)
* 新説・伊豆の踊り子(1991年1月20日発行、撮影:石原高、ビックマン)
* 吾輩は猫である(1991年6月20日発行、撮影:石原高、ビックマン)
* マドンナメイト・ハード スチュワーデス物語(1991年6月25日発行、撮影:岡克己、[[二見書房]])
* 桜樹ルイ写真集(1991年7月20日発行、撮影:落合遼一、[[スコラ]])
* SEXY LINGERIE CATALOGUE(1992年3月1日、[[笠倉出版社]])他、早紀麻未、岡本ケイ、麗華、秋川典子
* NOON&MOON 真昼と真夜中(1992年10月発行、撮影:[[斉木弘吉]]、[[ぶんか社]])他、多数出演
* 桃色吐息 sexy mirage 乱舞91人・エロスの響宴(1993年7月5日、テイ・アイ・エス)他、多数
* 桜樹ルイ写真集(1993年9月10日発行、つがる)
* OUTBACK(1994年2月14日発行、撮影:リウ・ミセキ、スコラ)
* 5人の小悪魔(1994年2月25日、つがる)他、乃木真梨子、松坂季実子、野坂なつみ、[[高倉真理子]]
* nu(1996年4月12日発行、撮影:リュウ・ハナブサ、[[リイド社]])
* 東雲楼 女の乱(1994年10月10日、ブックマン社)他、多数出演
* 桜樹ルイ (女神シリーズ 2)(1999年8月10日発行、撮影:リウ・ミセキ、[[ぶんか社]])
* ザ・ストリッパー舞姫伝説50人(2000年4月3日、撮影:[[原芳市]]、[[双葉社]])他、多数出演
* L・A・S・T(2000年8月10日発行、撮影:山岸伸、[[音楽専科社]])
* 櫻(2002年4月15日発行、撮影:山岸伸、コンパス)
* 90's AV女優秘蔵アルバム(2003年1月27日、撮影:落合遼一、[[竹書房]])他、多数出演
* 炎の記憶(プルプルハウス)
* Video Gal Clip vol.1(さーくる社)他、[[佐伯琴美]]、[[美穂由紀]]
;連載
* 桜樹ルイのおねだり対談(1990年12月31日号 - 1991年2月25日号、[[週刊大衆]] [[双葉社]] )
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{twitter|rui_saku}}
※以下は、[[18禁]]サイト
* [https://www.alicejapan.co.jp/actress.php?actress_id=28cfa53c3d23278175ee485edff7c339 アリスJAPAN 女優詳細 桜樹ルイ]
* [https://fs.xcity.jp/aja/archives/free/kuki/memorial/rui/index.htm AV memorial 桜樹ルイ - Xcity]
{{DEFAULTSORT:さくらき るい}}
[[Category:日本のAV女優]]
[[Category:ダイヤモンド映像女優]]
[[Category:笠倉出版社女優]]
[[Category:アリスJAPAN女優]]
[[Category:アトラス21女優]]
[[Category:日本クラウンのアーティスト]]
[[Category:ビーイング系列所属者]]
[[Category:熊本県出身の人物]]
[[Category:1969年生]]
[[Category:存命人物]]
|
2003-09-13T05:49:17Z
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2023-12-08T15:29:02Z
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16,516 |
感情の一覧
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感情の一覧(かんじょうのいちらん)は、様々なことに感じて抱く気持ちを一覧にしたものである。
1980年にロバート・プルチック(英語版)は「感情の輪」を提示した。これは8つの基本感情と16の強弱派生、及び8つの応用感情(ダイアド)から成り立つ。応用感情は輪において隣接する2つの基本感情の組み合わせからなる。後にプルチックはこの8つの応用感情を「一次」と位置付け、さらに8つずつの「二次」「三次」の応用感情を理論化した。
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"title": "Plutchikの感情の輪"
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感情の一覧(かんじょうのいちらん)は、様々なことに感じて抱く気持ちを一覧にしたものである。
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'''[[感情]]の一覧'''(かんじょうのいちらん)は、様々なことに感じて抱く気持ちを一覧にしたものである。
== 一覧 ==
{| cellspacing="0" cellpadding="0" style="width:100%"
|style="width:33%;vertical-align:top"|
* [[安心]]、[[不安]]
* [[感謝]]
* [[驚愕]]、[[興奮]]、[[性的興奮]]、[[好奇心]]、[[性的好奇心]]
* [[冷静]]、[[焦燥]] ([[焦り]])
* [[不思議]] ([[困惑]])
* [[幸福]]、[[幸運]]
* [[リラクゼーション(心理学)|リラックス]]、[[緊張]]
* [[名誉]]、[[責任]]
* [[尊敬]]
* [[親近感]] ([[親しみ]])
* [[憧憬]] (憧れ)
*
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* [[欲望]] ([[意欲]])
* [[恐怖]]
* [[勇気]]
* [[快]]、[[快感]] ([[善|善行]]・[[徳]]に関して)
* [[後悔]]
* [[満足]]、[[フラストレーション|不満]]
* [[無念]]
* [[嫌悪]]
* [[羞恥心|恥]]
* [[軽蔑]]
* [[嫉妬]]
* [[罪悪感]]
* [[殺意]]
* [[シャーデンフロイデ]]
* [[サウダージ]]
|style="width:33%;vertical-align:top"|
* [[期待]]
* [[優越感]]、[[劣等感]]
* [[恨]]
* [[怨み]]
* [[苦しみ]]
* [[悲しみ]]、[[切なさ]]、[[感動]]
* [[怒り]]
* [[悩み]](苦悩、[[懊悩]]、[[煩悶]])
* [[諦念]] ([[諦め]])
* [[絶望]]、[[希望]]
* [[憎悪]]([[愛憎]])
* [[愛|愛しさ]]
* [[空虚]]
|}
== プルチックの感情の輪 ==
[[Image:Plutchik-wheel jp.png|thumb|プルチックの感情の輪|300px]]
1980年に{{仮リンク|ロバート・プルチック|en|Robert Plutchik}}は「感情の輪」を提示した。これは8つの基本感情と16の強弱派生、及び8つの応用感情(ダイアド)から成り立つ。応用感情は輪において隣接する2つの基本感情の組み合わせからなる<ref>{{cite web | url = http://www.fractal.org/Bewustzijns-Besturings-Model/Nature-of-emotions.htm | title = The Nature of Emotions | last = Plutchik | first = R | authorlink = :en:Robert Plutchik | accessdate = 2008-05-08 }}</ref>。後にプルチックはこの8つの応用感情を「一次」と位置付け、さらに8つずつの「二次」「三次」の応用感情を理論化した<ref>{{cite web|url=http://www.adliterate.com/archives/Plutchik.emotion.theorie.POSTER.pdf |format=PDF |title=Robert Plutchik's Psychoevolutionary Theory of Basic Emotions |website=Adliterate.com |accessdate=2017-06-05}}</ref><ref name="Turner2000">{{cite book|author=Jonathan Turner|title=On the Origins of Human Emotions: A Sociological Inquiry Into the Evolution of Human Affect|url=https://books.google.com/books?id=aEeSmDRsXkcC&pg=PA76|date=1 June 2000|publisher=Stanford University Press|isbn=978-0-8047-6436-0|page=76}}</ref><ref>{{cite journal|title=A Fuzzy Inference System for Synergy Estimation of Simultaneous Emotion Dynamics in Agents|journal=International Journal of Scientific & Engineering Research|volume=2|issue=6|date=June 2011|url=http://www.ijser.org/paper/A_Fuzzy_Inference_System_for_Synergy_Estimation_of_Simultaneous_Emotion_Dynamics_in_Agents.html|author1=Atifa Athar|author2=M. Saleem Khan|author3=Khalil Ahmed|author4=Aiesha Ahmed|author5=Nida Anwar}}
</ref>。
{|class="wikitable"
|+'''8つの基本感情と強弱派生'''
|-
!| '''基本感情'''
!| 強い感情
!| 弱い感情
!| 反対の基本感情
|-
|style="background:#DF7;"|喜び (Joy)||style="background:#CF3;"|恍惚 (Ecstasy)||style="background:#EFB;"|平穏 (Serenity)||style="background:#97F;"|''悲しみ (Sadness)''
|-
| style="background:#FB7;" |期待 (Anticipation)|| style="background:#F93;" |警戒 (Vigilance)|| style="background:#FDB;" |興味 (Interest)|| style="background:#7BF;" |''驚き (Surprise)''
|-
| style="background:#F79;" |怒り (Anger)|| style="background:#F36;" |激怒 (Rage)|| style="background:#FBC;" |煩さ (Annoyance)|| style="background:#7FD;" |''恐れ (Fear)''
|-
| style="background:#F7F;" |嫌悪 (Disgust)|| style="background:#F3F;" |憎悪 (Loathing)|| style="background:#FBF;" |退屈 (Boredom)|| style="background:#7F7;" |''信頼 (Trust)''
|-
| style="background:#97F;" |悲しみ (Sadness)|| style="background:#63F;" |悲痛 (Grief)|| style="background:#CBF;" |憂い (Pensiveness)|| style="background:#DF7;" |''喜び (Joy)''
|-
| style="background:#7BF;" |驚き (Surprise)|| style="background:#39F;" |驚嘆 (Amazement)|| style="background:#BDF;" |動揺 (Distraction)|| style="background:#FB7;" |''期待 (Anticipation)''
|-
| style="background:#7FD;" |恐れ (Fear)|| style="background:#3FC;" |恐怖 (Terror)|| style="background:#BFE;" |心配 (Apprehension)|| style="background:#F79;" |''怒り (Anger)''
|-
|style="background:#7F7;"|信頼 (Trust)||style="background:#3F3;"|感嘆 (Admiration)||style="background:#BFB;"|容認 (Acceptance)||style="background:#F7F;"|''嫌悪 (Disgust)''
|}
{|class="wikitable"
|+'''24の応用感情'''
|-
!| '''応用感情'''
!| '''構成'''
!| '''反対の感情'''
!| '''構成'''
|-
|楽観 (Optimism)||期待 (Anticipation) + 喜び (Joy)||失望 (Disappointment)||驚き (Surprise) + 悲しみ (Sadness)
|-
|誇り (Pride)
|怒り (Anger) + 喜び (Joy)
|絶望 (Despair)
|恐れ (Fear) + 悲しみ (Sadness)
|-
|病的状態 (Morbidness)
|嫌悪 (Disgust) + 喜び (Joy)
|感傷 (Sentimentality)
|信頼 (Trust) + 悲しみ (Sadness)
|-
|積極性 (Aggressiveness)
|怒り (Anger) + 期待 (Anticipation)
|畏敬 (Awe)
|恐れ (Fear) + 驚き (Surprise)
|-
|冷笑 (Cynicism)
|嫌悪 (Disgust) + 期待 (Anticipation)
|好奇心 (Curiosity)
|信頼 (Trust) + 驚き (Surprise)
|-
|悲観 (Pessimism)
|悲しみ (Sadness) + 期待 (Anticipation)
|歓喜 (Delight)
|喜び (Joy) + 驚き (Surprise)
|-
|軽蔑 (Contempt)
|嫌悪 (Disgust) + 怒り (Anger)
|服従 (Submission)
|信頼 (Trust) + 恐れ (Fear)
|-
|嫉妬(Envy)
|悲しみ (Sadness) + 怒り (Anger)
|罪悪感 (Guilt)
|喜び (Joy) + 恐れ (Fear)
|-
|憤慨 (Outrage)
|驚き (Surprise) + 怒り (Anger)
|不安 (Anxiety)
|期待 (Anticipation) + 恐れ (Fear)
|-
|自責 (Remorse)
|悲しみ (Sadness) + 嫌悪 (Disgust)
|[[愛]] (Love)
|喜び (Joy) + 信頼 (Trust)
|-
|不信 (Unbelief)
|驚き (Surprise) + 嫌悪 (Disgust)
|希望 (Hope)
|期待 (Anticipation) + 信頼 (Trust)
|-
|恥 (Shame)||恐れ (Fear) + 嫌悪 (Disgust)||優位 (Dominance)||怒り (Anger) + 信頼 (Trust)
|-
|失望 (Disappointment)
|驚き (Surprise) + 悲しみ (Sadness)
|楽観 (Optimism)
|期待 (Anticipation) + 喜び (Joy)
|-
|絶望 (Despair)||恐れ (Fear) + 悲しみ (Sadness)||誇り (Pride)||怒り (Anger) + 喜び (Joy)
|-
|感傷 (Sentimentality)||信頼 (Trust) + 悲しみ (Sadness)||病的状態 (Morbidness)||嫌悪 (Disgust) + 喜び (Joy)
|-
|畏敬 (Awe)||恐れ (Fear) + 驚き (Surprise)||積極性 (Aggressiveness)||怒り (Anger) + 期待 (Anticipation)
|-
|好奇心 (Curiosity)||信頼 (Trust) + 驚き (Surprise)||冷笑 (Cynicism)||嫌悪 (Disgust) + 期待 (Anticipation)
|-
|歓喜 (Delight)||喜び (Joy) + 驚き (Surprise)||悲観 (Pessimism)||悲しみ (Sadness) + 期待 (Anticipation)
|-
|服従 (Submission)||信頼 (Trust) + 恐れ (Fear)||軽蔑 (Contempt)||嫌悪 (Disgust) + 怒り (Anger)
|-
|罪悪感 (Guilt)||喜び (Joy) + 恐れ (Fear)||嫉妬(Envy)||悲しみ (Sadness) + 怒り (Anger)
|-
|不安 (Anxiety)||期待 (Anticipation) + 恐れ (Fear)||憤慨 (Outrage)||驚き (Surprise) + 怒り (Anger)
|-
|[[愛]] (Love)||喜び (Joy) + 信頼 (Trust)||自責 (Remorse)||悲しみ (Sadness) + 嫌悪 (Disgust)
|-
|希望 (Hope)||期待 (Anticipation) + 信頼 (Trust)||不信 (Unbelief)||驚き (Surprise) + 嫌悪 (Disgust)
|-
|優位 (Dominance)
|怒り (Anger) + 信頼 (Trust)
|恥 (Shame)
|恐れ (Fear) + 嫌悪 (Disgust)
|}
== 脚注 ==
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<references />
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音楽療法
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音楽療法(おんがくりょうほう、英語: Music therapy)は、音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とする健康法、代替医療あるいは補完医療(いずれも「現代西洋医学領域において、科学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称」と定義され、現代的な意味での医療とは区別される)である。歌唱や演奏を行う能動的音楽療法と音楽を聴くなどの受動的音楽療法の2つに分かれる。
バリー・キャシレスは、『代替医療ガイドブック』において「音楽療法は立証済みの補完療法であり、多くの病状や問題に効果を上げている。治癒力はなく、いくつかの補完療法のように、重大疾患の治療法として勧められることもない。しかし、優れた補完医療法の例にもれず、幸福感や生活の質を高め、症状を軽減し、初期治療やリハビリテーションの効果を高めてくれる」と述べている。
宗教(原始宗教、自然崇拝など)の誕生と同時に音楽は生まれ、儀式や呪術に用いられた。これにより人びとの精神を鼓舞したり一種のトランス状態(憑依)を引き起こしたりする。
ユダヤ、キリスト教の賛歌などにおいても音楽は用いられ、これも信仰を深め、精神的な豊かさを深耕することにより現代にも引き継がれている。
治療効果も古くから知られ、ダビデはサウルのうつ病を竪琴で治したとされる(旧約聖書『サムエル記』上16.14–23)。サウル王が「悪い霊」におびえたため、家来たちはサウル王に言った。「ねがはくはわれらの主汝のまへにつかふる臣僕に命じて善く琴を鼓く者一人を求めしめよ神よりきたれる惡鬼汝に臨む時彼手をもて琴を鼓て汝いゆることをえん(第一サムエル16:16)」この家来らの進言によりサウル王はダビデを呼んだ。こうしてダビデはサウルに仕え、竪琴を弾いた。「神より出たる惡鬼サウルに臨めるときダビデ琴を執り手をもてこれを弾にサウル慰さみて愈え惡鬼かれをはなる(第一サムエル16:23)」(文語訳聖書)
第二次世界大戦により大量の傷病兵を出した米国は野戦病院において音楽を流し、ないし演奏してみたところ兵士の治癒が早まった。その後米国を中心として音楽による治療効果が立証される(ディーサンズ (Diserens) ら)。
各地で高齢者ケア、引きこもり児童のケアなどの現場で活発に活動が展開されており、岐阜県音楽療法研究所を嚆矢として自治体、大学でそのための研修、研究機関を設けるところも出てきた。公的機関の認定として奈良市・岐阜県・兵庫県が独自の市及び県認定音楽療法士という資格を出している。現在の主流は日本音楽療法学会認定の音楽療法士(Music Therapist)という資格である。
同会では、脳卒中患者の運動障害だけでなく、感覚障害に対し、和太鼓を利用したリハビリによって、感覚受容器(マイスナー小体、パチニ小体)の回復が認められたとの報告もされている。
高齢者、発達障害者、身体障害者、不登校児、幼児、薬物乱用者、高次脳機能障害者。
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音楽療法は、音楽を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とする健康法、代替医療あるいは補完医療(いずれも「現代西洋医学領域において、科学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称」と定義され、現代的な意味での医療とは区別される)である。歌唱や演奏を行う能動的音楽療法と音楽を聴くなどの受動的音楽療法の2つに分かれる。 バリー・キャシレスは、『代替医療ガイドブック』において「音楽療法は立証済みの補完療法であり、多くの病状や問題に効果を上げている。治癒力はなく、いくつかの補完療法のように、重大疾患の治療法として勧められることもない。しかし、優れた補完医療法の例にもれず、幸福感や生活の質を高め、症状を軽減し、初期治療やリハビリテーションの効果を高めてくれる」と述べている。
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{{出典の明記|date=2017年8月}}
{{Infobox interventions
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| Caption = ルイ・ガレ作 ''音楽の力''<br />兄妹が古い墓の前で休んでいる。彼はバイオリンを弾くことで彼女を慰めようとし、やがて彼女は深い眠りへと就いた。<br />—あらゆる心身の嘆きを忘れて—
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'''音楽療法'''(おんがくりょうほう、{{lang-en|Music therapy}})は、[[音楽]]を聞いたり演奏したりする際の生理的・心理的・社会的な効果を応用して、心身の健康の回復、向上をはかる事を目的とする[[健康法]]、[[代替医療]]あるいは[[補完医療]](いずれも「現代西洋医学領域において、科学的未検証および臨床未応用の医学・医療体系の総称」と定義され、現代的な意味での医療とは区別される)である。歌唱や演奏を行う能動的音楽療法と音楽を聴くなどの受動的音楽療法の2つに分かれる。
バリー・キャシレスは、『代替医療ガイドブック』において「音楽療法は立証済みの補完療法であり、多くの病状や問題に効果を上げている。治癒力はなく、いくつかの補完療法のように、重大疾患の治療法として勧められることもない。しかし、優れた補完医療法の例にもれず、幸福感や生活の質を高め、症状を軽減し、初期治療やリハビリテーションの効果を高めてくれる」と述べている。
== 音楽療法の歴史 ==
=== 創成期 ===
[[宗教]]([[原始宗教]]、[[自然崇拝]]など)の誕生と同時に音楽は生まれ、儀式や呪術に用いられた。これにより人びとの精神を鼓舞したり一種の[[トランス (意識)|トランス状態]]([[憑依]])を引き起こしたりする。
[[ユダヤ]]、[[キリスト教]]の賛歌などにおいても音楽は用いられ、これも信仰を深め、精神的な豊かさを深耕することにより現代にも引き継がれている。
治療効果も古くから知られ、[[ダビデ]]は[[サウル]]の[[うつ病]]を竪琴で治したとされる([[旧約聖書]]『サムエル記』上16.14–23)。サウル王が「悪い霊」におびえたため、家来たちはサウル王に言った。「ねがはくはわれらの主汝のまへにつかふる臣僕に命じて善く琴を鼓く者一人を求めしめよ神よりきたれる惡鬼汝に臨む時彼手をもて琴を鼓て汝いゆることをえん(第一サムエル16:16)」この家来らの進言によりサウル王はダビデを呼んだ。こうしてダビデはサウルに仕え、竪琴を弾いた。「神より出たる惡鬼サウルに臨めるときダビデ琴を執り手をもてこれを弾にサウル慰さみて愈え惡鬼かれをはなる(第一サムエル16:23)」([[文語訳聖書]])
=== 発展期 ===
[[第二次世界大戦]]により大量の傷病兵を出した米国は野戦病院において音楽を流し、ないし演奏してみたところ兵士の治癒が早まった。その後米国を中心として音楽による治療効果が立証される(ディーサンズ (Diserens) ら)。
=== 現在 ===
各地で高齢者ケア、引きこもり児童のケアなどの現場で活発に活動が展開されており、岐阜県音楽療法研究所を嚆矢として自治体、大学でそのための研修、研究機関を設けるところも出てきた{{要出典|date=2012年11月|}}。公的機関の認定として奈良市・岐阜県・兵庫県が独自の市及び県認定音楽療法士という資格を出している。現在の主流は[[日本音楽療法学会]]認定の[[音楽療法士]](Music Therapist)という資格である。
同会では、[[脳卒中]]患者の[[運動障害]]だけでなく、[[感覚]][[障害]]に対し、[[和太鼓]]を利用したリハビリによって、[[機械受容器|感覚受容器]]([[マイスナー小体]]、[[パチニ小体]])の回復が認められたとの報告もされている{{sfn |JapanMusicTherapy4-2Wadaiko |2004 |p=198}}。
== 対象 ==
高齢者、発達障害者、身体障害者、不登校児、幼児、薬物乱用者、高次脳機能障害者。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{ cite journal|和書
|title=脳卒中患者のリハビリテーションとして行われた「和太鼓療法」の有効性について -第2報-
|journal=日本音楽療法学会誌
|volume=4
|issue=2
|ref={{sfnref |JapanMusicTherapy4-2Wadaiko |2004}} }}
{{Refend}}
== 関連項目 ==
* [[院内コンサート]]
== 外部リンク ==
*[http://www.horitamt.com/ 音楽療法講座]
*[http://www.daisakukawahara.net/ 音楽療法WEBガイド]
*[http://www.jmta.jp/index.html 日本音楽療法学会]
*[http://www.gmt-kyoukai.info/ 岐阜県音楽療法士協会] (公式サイト)
*[http://www.narashi-shakyo.com/html/ongaku01.htm 奈良市社会福祉協議会>音楽療法]
*[http://jecmt.jp/ 全国音楽療法士養成協議会]
*[https://www.jnmta.net NPO法人 日本ナラティブ音楽療法協会]
{{音楽}}
{{心理療法}}
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えんどコイチ
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えんど コイチ(本名 遠藤 幸一、1956年9月28日 - )は、日本の漫画家。新潟県白根市(現在は新潟市南区)出身。血液型O型。
1981年、週刊少年チャンピオン(秋田書店)掲載の『遠足の日』でデビュー。
1981年、週刊少年チャンピオンで『アノアノとんがらし』を連載後、集英社へ移籍。1983年末からフレッシュジャンプで『死神くん』を連載。
1984年からは週刊少年ジャンプでも『ついでにとんちんかん』を連載、アニメ化もされるなど、ヒット作となる。その後は少年漫画誌や青年漫画誌を中心に作品を発表している。
『ついでにとんちんかん』のヒットで、一般的にはギャグ漫画家だと認識されているが、えんど自身は「ギャグも描ける作家である」と認識して欲しかったらしく、続編の『ミラクルとんちんかん』連載終了後、ギャグメインの作品をほとんど発表していない時期があった。
文庫版『ついでにとんちんかん』によると、現在(文庫版発刊時)も独身とのこと。
虻川美穂子(北陽)のブログ(2011年6月1日分)によると、えんどコイチと会い、とんちんかんメンバー4人が描かれたサイン色紙を貰ったとのこと。また、その後も虻川のブログにてえんどコイチと会った事が書かれているなど、交流が続いていることが窺える。また、地元のジャズバンドで、ベーシストとして活動している。
追出仁(ついでに)町を舞台に「怪盗とんちんかん」が大富豪の邸宅にあるゴミに等しいものをわざわざ予告状まで出して盗み出すドタバタなギャグストーリーから始まり、「とんちんかん2」や「ミラクルとんちんかん」など、ギャグ漫画として「とんちんかん」がシリーズ化していった。
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えんど コイチは、日本の漫画家。新潟県白根市(現在は新潟市南区)出身。血液型O型。
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| 名前 = えんど コイチ
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| 本名 = 遠藤 幸一
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'''えんど コイチ'''(本名 '''遠藤 幸一'''、[[1956年]][[9月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]][[白根市]](現在は[[新潟市]][[南区 (新潟市)|南区]])出身。[[血液型]][[ABO式血液型|O型]]。
== 来歴 ==
[[1981年]]、[[週刊少年チャンピオン]]([[秋田書店]])掲載の『遠足の日』でデビュー。
1981年、週刊少年チャンピオンで『アノアノとんがらし』を連載後、集英社へ移籍。1983年末から[[フレッシュジャンプ]]で『[[死神くん]]』を連載。
1984年からは[[週刊少年ジャンプ]]でも『[[ついでにとんちんかん]]』を連載、アニメ化もされるなど、ヒット作となる。その後は少年漫画誌や青年漫画誌を中心に作品を発表している。
== 人物 ==
『[[ついでにとんちんかん]]』のヒットで、一般的にはギャグ漫画家だと認識されているが、えんど自身は「ギャグも描ける作家である」と認識して欲しかったらしく<ref>えんどコイチ「コイチの一人言(4)」『ついでにとんちんかん 第18巻』集英社〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、1989年12月10日、ISBN 4-08-852748-8、82頁。</ref>、続編の『ミラクルとんちんかん』連載終了後、ギャグメインの作品をほとんど発表していない時期があった。<ref>『ミラクルとんちんかん』の最終巻である、第4巻でも抜作以上のキャラクターを描けない自分に対して悔しさがあるのを書いている。</ref>
文庫版『ついでにとんちんかん』によると、現在(文庫版発刊時)も独身とのこと<ref>えんどコイチ「連載あとがきマンガ コイチのあとマンNo.6」『ついでにとんちんかん 第6巻』集英社(集英社文庫)、2004年7月21日、ISBN 4-08-618187-8、325頁。</ref>。
[[虻川美穂子]]([[北陽 (お笑いコンビ)|北陽]])のブログ(2011年6月1日分)によると、えんどコイチと会い、とんちんかんメンバー4人が描かれたサイン色紙を貰ったとのこと。また、その後も虻川のブログにてえんどコイチと会った事が書かれているなど、交流が続いていることが窺える<ref>[https://web.archive.org/web/20140419030502/https://ameblo.jp/abukawa/archive-1-201106.html 虻川美穂子オフィシャルブログ「はれ時々あぶ」ひゃっほ〜!! 2011年6月1日]</ref>。また、地元のジャズバンドで、ベーシストとして活動している<ref>FLASH2017年7月25日号(光文社)、ベースは右利き用</ref>。
== 作品リスト ==
=== 代表作 ===
追出仁(ついでに)町を舞台に「怪盗とんちんかん」が大富豪の邸宅にあるゴミに等しいものをわざわざ予告状まで出して盗み出すドタバタなギャグストーリーから始まり、「とんちんかん2」や「ミラクルとんちんかん」など、ギャグ漫画として「とんちんかん」がシリーズ化していった。
* 1987年~1988年に「[[ついでにとんちんかん]]」 が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]でアニメ化された。
* 2014年に「[[死神くん#テレビドラマ|死神くん]]」が[[テレビ朝日]]でドラマ化された。
=== 単行本 ===
* アノアノとんがらし(1981年、[[週刊少年チャンピオン]]、[[秋田書店]]、全4巻)
* [[死神くん]](1983年、[[フレッシュジャンプ]]、[[月刊少年ジャンプ]]、[[集英社]]、全13巻、愛蔵版及び文庫版全8巻)
* [[ついでにとんちんかん]](1985年、[[週刊少年ジャンプ]]、集英社、全18巻、文庫版全6巻)
** ミラクルとんちんかん(1992年、月刊少年ジャンプ、集英社、全4巻)
** オリジナルクエスト(ミラクルとんちんかん番外編)(1994年、月刊少年ジャンプ、集英社、全1巻)
* ミラクルプッツン大冒険(1987年、フレッシュジャンプ、集英社、全1巻)
* 不可思議堂奇譚(1994年、週刊少年ジャンプ、集英社、全1巻)
* [[リトル 〜神様修行中〜]](原作)(2001年、作画:[[小西紀行]]、月刊少年ジャンプ、集英社、全1巻)
* END ZONE(2001年、月刊少年ジャンプ、集英社、全2巻)
* ライフトレイン(2014年、[[主任がゆく!|主任がゆく!スペシャル]]、[[ぶんか社]]、全1巻)
=== 未単行本化作品 ===
* はらたち日記(2001年、コミック天誅、ホーム社)
=== 読切 ===
* 遠足の日(1981年、週刊少年チャンピオン、秋田書店)
* マジカルミラクル(1981年、週刊少年チャンピオン、秋田書店)
* 私設警察テクポリ(1986年、フレッシュジャンプ、集英社)
* サバイバル・ハネムーン(1988年、月刊少年ジャンプ・オータムスペシャル、集英社)
* なにゆえレイユ(1989年、少年ジャンプ・オータムスペシャル、集英社)
* ぱられるクロス(1990年、週刊少年ジャンプ24号)
* 死体は語る(1991年、原作:[[上野正彦]]、脚本:[[棟居仁]]、月刊少年ジャンプ増刊)
* お先まっ暗暗闇家族(1992年、ジャンプオリジナル9月増刊号)
* コイチの人性劇場([[みこすり半劇場]]、ぶんか社)
== アシスタント ==
* [[にわのまこと]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
* [[高橋俊昌]]
* [[茨木政彦]]
* [[日本の漫画家一覧]]
* [[新潟市出身の人物一覧]]
== 外部リンク ==
* [http://www.alphapolis.co.jp/manga/viewOpening/841000065/ ライフトレイン (web漫画)] - [[アルファポリス]]
{{Normdaten}}
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[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:新潟市出身の人物]]
[[Category:1956年生]]
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Subsets and Splits
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