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整備新幹線
整備新幹線(せいびしんかんせん)とは、新幹線の計画路線のうち、全国新幹線鉄道整備法(昭和45年法律第71号)第7条に基づいて、日本政府が1973年(昭和48年)11月13日に整備計画を決定した以下の5路線を指す。当初は「整備5線」や「整備5新幹線」とも呼ばれていたが、現在は「整備新幹線」の呼称が定着している。 なお、この5路線以前に計画されていた新幹線である東海道新幹線、山陽新幹線、東北新幹線の東京駅 - 盛岡駅間、上越新幹線、成田新幹線(計画失効)は整備新幹線には含まれない。また、計画中の中央新幹線は、全国新幹線鉄道整備法第7条に基づく新幹線ではあるが、整備計画の決定が2011年5月であったため、整備新幹線には含まれない。 九州新幹線(西九州ルート)は当初導入予定であったフリーゲージトレイン(軌間可変列車)の開発に時間がかかり、開業を予定していた2022年(令和4年)度から2025年(令和7年)度以降に一旦ずれ込む見通しと発表された。その後、国土交通省は暫定措置として博多駅 - 武雄温泉駅間を在来線特急列車、武雄温泉駅 - 長崎駅間を新幹線列車とするリレー方式を採用し、西九州新幹線として2022年9月23日に開業した。 1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法(以下全幹法)が公布された。この法律により、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。全幹法に基づき、東北新幹線(盛岡市 - 青森市)は昭和47年告示第242号、北海道新幹線(青森市 - 札幌市)、北陸新幹線(東京都 - 大阪市)、九州新幹線(福岡市 - 鹿児島市)は昭和47年告示第243号、九州新幹線(福岡市 - 長崎市)は昭和47年告示第466号によって基本計画が告示された。 1973年(昭和48年)11月13日、運輸大臣によって5路線の整備計画が決定された。 1988年、運輸省(当時)が、東北・北陸・九州(鹿児島ルート)の3線について、建設費を削減しつつスピードアップを図るため、ミニ新幹線やスーパー特急方式を組み合わせた、いわゆる「運輸省案」を発表。 着工区間の沿線自治体や政治家からは、この案を「ウナギ(フル規格)を注文したらアナゴやドジョウ(ミニ新幹線やスーパー特急方式)が出てきた」と揶揄されるほど不評であったが、この機会を逃すと次回の着工がいつになるか不透明であったことから、やむなくこれを受け入れ、同年、政府・与党申し合わせにより着工順位が決定された。 しかし新幹線の建設財源が限られていたことから、優先順位1位でフル規格区間であった高崎駅 - 軽井沢駅間のみ翌1989年に着工。その他の区間は、既存新幹線譲渡収入(旧スキームの項を参照)が新幹線建設の特定財源となる1991年以降の着工となった。 1991年、イギリス・バーミンガムで開かれた国際オリンピック委員会 (IOC) の総会にて、長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢駅 - 長野駅間がフル規格に変更された。一方、同順位だった高岡駅 - 金沢駅間は、富山県内の沿線自治体が並行在来線となる北陸本線石動駅 - 高岡駅間の経営分離に反対したことから、新高岡駅 - 金沢駅間の基本ルートを変更、着工区間は石動駅 - 金沢駅間に短縮された。 1994年、5年毎に行うとされた計画見直しで新規着工の機運が高まるが、財源が壁となり、ミニ新幹線で建設するとしていた東北新幹線の盛岡駅 - 沼宮内駅間をフル規格に変更の上、八戸駅 - 青森駅間の着工を延期した。 1996年、新規着工の財源にJR本州3社(JR東日本・JR東海・JR西日本)の固定資産税軽減特例(1/2)(新スキームの項参照)を活用する方針が示され、新規着工区間の選定が活発化する。 同年12月25日、政府与党合意により、候補となる3線3区間を選定。政府・与党整備新幹線検討委員会による採算性の検討などを行い、1998年1月21日、着工および着工区間の優先順位が決定した。これらの区間は同年3月に着工している。 1999年、自自連立、自自公連立による計画見直し案で、既着工区間のフル規格化と新規着工の方針が出され、2000年には、運輸省(当時)が翌2001年度予算の概算要求で、北陸・上越駅 - 糸魚川駅間と九州・博多駅 - 船小屋駅間の新規着工を要求した。 同年の政府・与党申し合わせで、新黒部駅 - 富山駅間を加えた2線3区間の新規着工が正式に決定した。 2004年3月13日、九州新幹線・新八代駅 - 鹿児島中央駅間が部分開業。開業に前後して新規着工に向けた見直し作業が行われ、2004年6月10日、与党整備新幹線建設促進プロジェクトチームの合意により3区間(福井駅周辺区間の整備を含めると4区間)の新規着工区間が決定した。 2005年、北海道新幹線と北陸新幹線の新規区間が着工された。長崎(西九州)ルートについては、並行在来線となる長崎本線・肥前山口駅(現:江北駅) - 諫早駅間の沿線自治体(佐賀県江北町・鹿島市)が経営分離に反対していたため、2005年以降国の公共事業費として毎年10億円が計上されていたが着工できず、予算は消化できないという状況が続いていた。その後、2007年12月に推進派3者(佐賀県・長崎県・JR九州)による、いわゆる「三者合意」による「上下分離方式」により、JR九州が並行在来線区間を新幹線開業後20年間運行するという形で決着が図られ、2008年3月に着工認可が下り、翌4月に着工された。 2009年9月の自民党から民主党への政権交代に伴い、大幅な公共事業の見直しが行われ、北海道・北陸・九州(西九州ルート)の未着工区間の建設は一時凍結されることになった。これらの区間については、莫大な建設費や並行在来線の分離に対する沿線自治体の合意などの面でも大きな問題を抱えていた。しかし、JRが支払う線路使用料を建設費に充てることで財源の目途が立ったことや沿線自治体との協議が進んだこと、また、東日本大震災以降、軸となるインフラの整備を集中的に行っていく方向に進んでいたこともあり、2011年末に、沿線自治体との合意という条件付きで以下の3区間の新規着工の方針が国土交通省によって示された。 そして、2012年6月29日に正式に着工が認可された。北海道は2035年度、北陸は2025年度、九州(西九州ルート)は着工済の武雄温泉 - 諫早間を含めて2022年度の完成を目指して建設が進められることになった。その後、自民政権下の2015年1月14日に前倒しが正式に決定した。 2017年3月現在の未着工区間は以下の通りである。 北陸新幹線については、フリーゲージトレイン (FGT) により、暫定的に湖西線・北陸本線への乗り入れが検討されていたが、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、FGT導入を断念した。 また、九州新幹線西九州ルートは武雄温泉駅以西がフル規格(標準軌)による整備に変更され、武雄温泉駅以東は未着工であることから、狭軌の並行在来線が取り残される形となった。当初、FGTで標準軌区間と狭軌区間を疎通する予定であったが、FGTの導入断念と併せ、2022年9月23日にリレー方式で暫定開業することになった。 東北・上越新幹線は、国鉄の自己資金や財政投融資等の借入金によって建設され、結果的に国鉄債務増大の一因となったことへの反省から、整備新幹線は原則として、返済の必要がない無償資金による国や自治体による公共事業方式で建設され、営業を担当するJRからは、開業後の受益に応じた線路貸付料を受け取る形とした。 しかし、公共事業費の増額には財務省(旧・大蔵省)の抵抗が大きく、新規着工や開業前倒しには新たな財源探しが付き物となる。 1989年、北陸新幹線・高崎 - 軽井沢間着工の際に決められた 地方負担分は原則として都道府県の負担となるが、90%は地方債の起債が可能。また10%は沿線市町村に負担させることができる(新スキームでも同様)。 1990年、既存新幹線のJR東日本・JR東海・JR西日本の3社への売却を翌年に控え、譲渡収入のうち資産再評価に伴う上乗せ額1.1兆円が整備新幹線の特定財源とされ、毎年724億円が国およびJR(既存新幹線リース料余剰分に代わるもの)の財源となった。 なお北陸新幹線(高崎 - 長野)については、開業を長野オリンピック開幕に間に合わせるため、例外として有償資金である財政投融資(2775億円)が投入された。開業後は後に開業した東北・九州を含む開業済み区間の線路貸付料で返済を行ってきたため、線路貸付料から建設費にはほとんど充当されなかった。しかし、2011年6月8日に成立した「改正国鉄債務処理法」によって、鉄道・運輸機構の特例業務勘定における利益剰余金から債務が償還されたため、その分が建設費に充てることができるようになった。 1996年、3線3区間の新規着工に伴い、国・地方・JRの負担割合の見直しを行った。 2004年末の政府・与党申し合わせで、既存新幹線の譲渡収入の中から2013年度以降の分を前倒しする形で活用することが決まった。 また、着工予定区間である北陸新幹線(富山 - 金沢)や北海道新幹線(新青森 - 新函館)の収支改善効果試算の過程で、他社区間に乗り入れることになるJR東日本の収益増加額(いわゆる「根元受益」)が巨額(北陸390億円/年、北海道220億円/年)となることが明らかになり、この分についても負担を求める方針も盛り込まれたが、当事者のJR東日本は難色を示している。 整備新幹線の並行在来線は、沿線地方公共団体とJRとの合意により、JRの経営から分離されることになっており、第三セクター鉄道に転換または廃止されている。これは、高額な新幹線の施設と地方閑散線区に転落した並行在来線を両方所有運営することによる、JRの負担を軽減する措置である。ただし、JRの経営のまま残った区間もある。1996年12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」 で「建設着工する区間の並行在来線については、従来どおり、開業時にJRの経営から分離することとする」としており、今後開業する整備新幹線の並行在来線についても、同様の措置とする予定である。並行在来線では、沿線の利用者や貨物列車および並行在来線の枝線の扱い、新事業者の経営をどのように支えるかが課題となる。2022年の西九州新幹線開業時点で、廃止となった路線は、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間のみである。なお、既存新幹線路線の並行在来線は、経営分離される予定はない。 新青森駅 - 新函館北斗駅間の開業に向けて、江差線の扱いが一つの課題であった。木古内駅 - 五稜郭駅間については、経営分離で合意されていたが、非電化区間である木古内駅 - 江差駅間は、在来線と接続しない路線となる上、JR北海道管内で乗降客が著しく少ない区間の一つであった。このため、2014年5月12日をもって廃止されることになった。一方、2014年8月には、道南いさりび鉄道の前身となる北海道道南地域並行在来線準備株式会社が設立され、2016年3月26日の北海道新幹線開業とともに木古内駅 - 五稜郭駅間が道南いさりび鉄道に経営分離された。 また、津軽線については、青森県は「津軽線の経営はJR東日本で北海道新幹線の経営はJR北海道が行うため経営分離の対象ではない」という見解を出しており、JR東日本も2004年に経営分離しないことを明らかにしている。その後2022年8月に発生した豪雨災害により蟹田駅 - 三厩駅間が不通になっており復旧費用が最低6億円かかることから不通区間の廃止を含めた協議に入っている。 函館本線函館駅 - 新函館北斗駅間は整備新幹線上の新駅と在来線中心駅のアクセス列車(はこだてライナー)が運行されている区間であり、函館市と函館商工会議所は同区間を新幹線札幌延伸後も経営分離せず、JR北海道による運行を継続することを求めていた。 これに対し、JR北海道は、小樽駅 - 札幌駅間に関しては継続運行を表明したものの、新函館北斗駅 - 函館駅間の継続運行の方針は示さず、北海道新幹線の延伸区間の認可・着工には函館駅 - 小樽駅間の経営分離の同意が必要不可欠である旨の方針を示したため、最終的に函館市を含む沿線自治体が同区間の経営分離に合意することとなった。 2022年2月3日、並行在来線となる函館駅 - 小樽駅間のうち、長万部駅 - 余市駅間については、鉄道を維持した場合に多額の維持費用により赤字が生じることから、沿線自治体の協議において鉄道存続を断念、バスに転換することで合意した。新幹線開業に伴う並行在来線の廃線は、1997年10月1日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間開業に伴い廃止された信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間以来、2例目となる。 一方、余市駅 - 小樽駅間については、小樽市への通勤、通学が多い余市町が第三セクター鉄道での存続を主張していたことから、バス転換も視野に入れる小樽市との協議がまとまらず、結論が先送りされていたが、2022年3月26日に北海道と小樽市、余市町がバス転換で合意し、翌27日の沿線9自治体と北海道との協議で長万部駅 - 小樽駅間の廃止・バス転換が合意された。 2002年12月1日に盛岡駅 - 八戸駅間が開業し、東北本線の盛岡駅 - 目時駅間が第三セクター鉄道のIGRいわて銀河鉄道(第一種鉄道事業事業者)に、目時駅 - 八戸駅間が青森県(第三種鉄道事業者)と青い森鉄道(第二種鉄道事業者)に経営移管された。また、2010年12月4日に八戸駅 - 新青森駅間が延伸開業し、東北本線の八戸駅 - 青森駅間が青森県と青い森鉄道に移管された。 この区間は関東地方と北海道を結ぶ物流の大動脈であり、経営移管に際して、同区間を第二種鉄道事業者として営業を行うJR貨物に対して、線路使用料の引き上げを求めた。旅客営業の経営規模では過剰な電化施設や複線を貨物運行のために維持しているとして、アボイダブルコスト方式をやめて、過剰な施設負担分を含めた線路使用料を支払うように要求した。 関係者の間で協議が行われた結果、当該区間の整備新幹線を建設した特殊法人日本鉄道建設公団(後の独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構)がJR東日本から受けとる新幹線に対する線路使用料を原資として、JR貨物の支払う線路使用料を補填することになった。この制度は後の整備新幹線開業でも適用され、期限はJR貨物の完全民営化時とされている。 北海道新幹線が開業する2016年まで、上野駅 - 札幌駅間を運行する寝台特急「北斗星」・「カシオペア」がJRからの乗り入れ列車として運行を継続していた。また、大湊線と八戸線が自社在来線と直接に接続せず孤立することになったが、そこで使用される車両については、転換後も乗り入れ列車の設定により融通されている。 かつては、秋田や郡山にある工場への車両回送ルートとなっていたが、JRの路線が分断され、従来は東北管内で完結していた回送であっても、首都圏を経由するなど大迂回をするようになった。 1997年10月1日の高崎駅 - 長野駅間(長野新幹線)開業に伴い、信越本線のうち、高崎駅 - 横川駅間がJR東日本の路線として存続、 横川駅 - 軽井沢駅間が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクター鉄道として設立されたしなの鉄道に経営移管され、並行在来線経営分離の最初の例となった。篠ノ井駅 - 長野駅間については、篠ノ井線からの列車が多数乗り入れる輸送体系上、引き続きJR東日本が運営している。 2015年3月14日の長野駅 - 金沢駅間開業時には、信越本線と北陸本線のうち、長野県内区間(信越本線長野駅 - 妙高高原駅間)がしなの鉄道に、新潟県内区間(信越本線妙高高原駅 - 直江津駅間および北陸本線直江津駅 - 市振駅間)がえちごトキめき鉄道に、富山県内区間(北陸本線市振駅 - 倶利伽羅駅間)があいの風とやま鉄道に、石川県内区間(北陸本線倶利伽羅駅 - 金沢駅間)がIRいしかわ鉄道にそれぞれ経営移管された。 2024年3月16日予定の金沢駅 - 敦賀駅間開業時には、北陸本線のうち、石川県内区間(金沢駅 - 大聖寺駅間)がIRいしかわ鉄道に、福井県内区間(大聖寺駅 - 敦賀駅間)がハピラインふくいに経営移管される予定である。 敦賀駅 - 新大阪駅間については、2019年5月に鉄道・運輸機構が環境影響評価法に基づく計画段階環境配慮書を公表し、概略ルートを示しているが、並行在来線の扱いについては未定である。 2004年3月13日に新八代駅 - 鹿児島中央駅間が開業し、鹿児島本線のうち八代駅 - 川内駅間が第三セクター肥薩おれんじ鉄道に経営移管された。この区間はJR貨物が第二種鉄道事業を行っており、JR貨物も株主として出資し引き続き第二種鉄道事業を行っている。貨物列車の運転用に電化設備が存置されているが、熊本・鹿児島県境の閑散区間であり、旅客列車は運行経費削減のため軽快気動車による運転となった。この区間で運行されていた夜行列車は同鉄道区間への乗り入れが行われず、新大阪駅 - 西鹿児島駅(鹿児島中央駅に改称)の「なは」(2008年3月15日廃止)も熊本駅までに運行区間が短縮された。なお、JR九州が2013年から運行するクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」、2020年運行開始のD&S列車「36ぷらす3」は当区間に乗り入れている。 これ以外の路線区間は都市圏輸送体系上、分離されずにJR九州が継続して経営を行っている。 長崎本線のうち肥前山口駅 - 諫早駅間は上下分離方式により佐賀県と長崎県が鉄道施設を保有し、肥前山口駅 - 肥前鹿島駅間についてはJR九州、肥前鹿島駅 - 諫早駅については両県が中心となって設立する第三セクター鉄道が鉄道運営を行うと合意されたが、一部沿線自治体の経営分離反対により、新幹線開業後もJR九州が並行在来線全区間を23年間運営する方針に変更された。ただし、上下分離方式については変更されておらず、両県共同で設立した佐賀・長崎鉄道管理センターが鉄道施設を保有する。また、長崎本線の諫早駅 - 長崎駅間は経営分離されない。これらの区間のうち肥前浜駅 - 長崎駅間については、電化施設を撤去し、気動車で運行される。並行在来線の電化設備の撤去は初の事例となる。 新幹線の建設を促進する理由として、地方格差の是正と地域振興が主張されるが、地方の衰退を促進する効果が大きいと指摘する専門家もいる。 その理由として、以下のようなことを挙げている。 整備新幹線区間はこれまで整備されてきた各新幹線同様最高速度が260 km/hとして設計・整備されている。建設費用の問題や、速達性の需要程度の関係により、整備新幹線区間は開業時から設計時最高速度と同じ260 km/h運転を行うもののそれを超える速度での運転を行っていない。また、北陸新幹線の30‰、九州新幹線の35‰(筑紫トンネルほか)勾配や線形など、新規路線にもかかわらず、従来の新幹線路線に比べきつい制限が掛かることもある。 2020年10月6日、JR東日本は盛岡 - 新青森間で将来的に最高速度を現在の260 km/hから320 km/hに引き上げると発表した。防音対策などの工事が完了する2027年頃の運用開始を目指す。
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軽井沢駅間のみ翌1989年に着工。その他の区間は、既存新幹線譲渡収入(旧スキームの項を参照)が新幹線建設の特定財源となる1991年以降の着工となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1991年、イギリス・バーミンガムで開かれた国際オリンピック委員会 (IOC) の総会にて、長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢駅 - 長野駅間がフル規格に変更された。一方、同順位だった高岡駅 - 金沢駅間は、富山県内の沿線自治体が並行在来線となる北陸本線石動駅 - 高岡駅間の経営分離に反対したことから、新高岡駅 - 金沢駅間の基本ルートを変更、着工区間は石動駅 - 金沢駅間に短縮された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1994年、5年毎に行うとされた計画見直しで新規着工の機運が高まるが、財源が壁となり、ミニ新幹線で建設するとしていた東北新幹線の盛岡駅 - 沼宮内駅間をフル規格に変更の上、八戸駅 - 青森駅間の着工を延期した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1996年、新規着工の財源にJR本州3社(JR東日本・JR東海・JR西日本)の固定資産税軽減特例(1/2)(新スキームの項参照)を活用する方針が示され、新規着工区間の選定が活発化する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "同年12月25日、政府与党合意により、候補となる3線3区間を選定。政府・与党整備新幹線検討委員会による採算性の検討などを行い、1998年1月21日、着工および着工区間の優先順位が決定した。これらの区間は同年3月に着工している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1999年、自自連立、自自公連立による計画見直し案で、既着工区間のフル規格化と新規着工の方針が出され、2000年には、運輸省(当時)が翌2001年度予算の概算要求で、北陸・上越駅 - 糸魚川駅間と九州・博多駅 - 船小屋駅間の新規着工を要求した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同年の政府・与党申し合わせで、新黒部駅 - 富山駅間を加えた2線3区間の新規着工が正式に決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2004年3月13日、九州新幹線・新八代駅 - 鹿児島中央駅間が部分開業。開業に前後して新規着工に向けた見直し作業が行われ、2004年6月10日、与党整備新幹線建設促進プロジェクトチームの合意により3区間(福井駅周辺区間の整備を含めると4区間)の新規着工区間が決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2005年、北海道新幹線と北陸新幹線の新規区間が着工された。長崎(西九州)ルートについては、並行在来線となる長崎本線・肥前山口駅(現:江北駅) - 諫早駅間の沿線自治体(佐賀県江北町・鹿島市)が経営分離に反対していたため、2005年以降国の公共事業費として毎年10億円が計上されていたが着工できず、予算は消化できないという状況が続いていた。その後、2007年12月に推進派3者(佐賀県・長崎県・JR九州)による、いわゆる「三者合意」による「上下分離方式」により、JR九州が並行在来線区間を新幹線開業後20年間運行するという形で決着が図られ、2008年3月に着工認可が下り、翌4月に着工された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2009年9月の自民党から民主党への政権交代に伴い、大幅な公共事業の見直しが行われ、北海道・北陸・九州(西九州ルート)の未着工区間の建設は一時凍結されることになった。これらの区間については、莫大な建設費や並行在来線の分離に対する沿線自治体の合意などの面でも大きな問題を抱えていた。しかし、JRが支払う線路使用料を建設費に充てることで財源の目途が立ったことや沿線自治体との協議が進んだこと、また、東日本大震災以降、軸となるインフラの整備を集中的に行っていく方向に進んでいたこともあり、2011年末に、沿線自治体との合意という条件付きで以下の3区間の新規着工の方針が国土交通省によって示された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そして、2012年6月29日に正式に着工が認可された。北海道は2035年度、北陸は2025年度、九州(西九州ルート)は着工済の武雄温泉 - 諫早間を含めて2022年度の完成を目指して建設が進められることになった。その後、自民政権下の2015年1月14日に前倒しが正式に決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2017年3月現在の未着工区間は以下の通りである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "北陸新幹線については、フリーゲージトレイン (FGT) により、暫定的に湖西線・北陸本線への乗り入れが検討されていたが、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、FGT導入を断念した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、九州新幹線西九州ルートは武雄温泉駅以西がフル規格(標準軌)による整備に変更され、武雄温泉駅以東は未着工であることから、狭軌の並行在来線が取り残される形となった。当初、FGTで標準軌区間と狭軌区間を疎通する予定であったが、FGTの導入断念と併せ、2022年9月23日にリレー方式で暫定開業することになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "東北・上越新幹線は、国鉄の自己資金や財政投融資等の借入金によって建設され、結果的に国鉄債務増大の一因となったことへの反省から、整備新幹線は原則として、返済の必要がない無償資金による国や自治体による公共事業方式で建設され、営業を担当するJRからは、開業後の受益に応じた線路貸付料を受け取る形とした。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "しかし、公共事業費の増額には財務省(旧・大蔵省)の抵抗が大きく、新規着工や開業前倒しには新たな財源探しが付き物となる。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1989年、北陸新幹線・高崎 - 軽井沢間着工の際に決められた", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "地方負担分は原則として都道府県の負担となるが、90%は地方債の起債が可能。また10%は沿線市町村に負担させることができる(新スキームでも同様)。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1990年、既存新幹線のJR東日本・JR東海・JR西日本の3社への売却を翌年に控え、譲渡収入のうち資産再評価に伴う上乗せ額1.1兆円が整備新幹線の特定財源とされ、毎年724億円が国およびJR(既存新幹線リース料余剰分に代わるもの)の財源となった。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお北陸新幹線(高崎 - 長野)については、開業を長野オリンピック開幕に間に合わせるため、例外として有償資金である財政投融資(2775億円)が投入された。開業後は後に開業した東北・九州を含む開業済み区間の線路貸付料で返済を行ってきたため、線路貸付料から建設費にはほとんど充当されなかった。しかし、2011年6月8日に成立した「改正国鉄債務処理法」によって、鉄道・運輸機構の特例業務勘定における利益剰余金から債務が償還されたため、その分が建設費に充てることができるようになった。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1996年、3線3区間の新規着工に伴い、国・地方・JRの負担割合の見直しを行った。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2004年末の政府・与党申し合わせで、既存新幹線の譲渡収入の中から2013年度以降の分を前倒しする形で活用することが決まった。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、着工予定区間である北陸新幹線(富山 - 金沢)や北海道新幹線(新青森 - 新函館)の収支改善効果試算の過程で、他社区間に乗り入れることになるJR東日本の収益増加額(いわゆる「根元受益」)が巨額(北陸390億円/年、北海道220億円/年)となることが明らかになり、この分についても負担を求める方針も盛り込まれたが、当事者のJR東日本は難色を示している。", "title": "財源問題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "整備新幹線の並行在来線は、沿線地方公共団体とJRとの合意により、JRの経営から分離されることになっており、第三セクター鉄道に転換または廃止されている。これは、高額な新幹線の施設と地方閑散線区に転落した並行在来線を両方所有運営することによる、JRの負担を軽減する措置である。ただし、JRの経営のまま残った区間もある。1996年12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」 で「建設着工する区間の並行在来線については、従来どおり、開業時にJRの経営から分離することとする」としており、今後開業する整備新幹線の並行在来線についても、同様の措置とする予定である。並行在来線では、沿線の利用者や貨物列車および並行在来線の枝線の扱い、新事業者の経営をどのように支えるかが課題となる。2022年の西九州新幹線開業時点で、廃止となった路線は、信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間のみである。なお、既存新幹線路線の並行在来線は、経営分離される予定はない。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "新青森駅 - 新函館北斗駅間の開業に向けて、江差線の扱いが一つの課題であった。木古内駅 - 五稜郭駅間については、経営分離で合意されていたが、非電化区間である木古内駅 - 江差駅間は、在来線と接続しない路線となる上、JR北海道管内で乗降客が著しく少ない区間の一つであった。このため、2014年5月12日をもって廃止されることになった。一方、2014年8月には、道南いさりび鉄道の前身となる北海道道南地域並行在来線準備株式会社が設立され、2016年3月26日の北海道新幹線開業とともに木古内駅 - 五稜郭駅間が道南いさりび鉄道に経営分離された。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、津軽線については、青森県は「津軽線の経営はJR東日本で北海道新幹線の経営はJR北海道が行うため経営分離の対象ではない」という見解を出しており、JR東日本も2004年に経営分離しないことを明らかにしている。その後2022年8月に発生した豪雨災害により蟹田駅 - 三厩駅間が不通になっており復旧費用が最低6億円かかることから不通区間の廃止を含めた協議に入っている。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "函館本線函館駅 - 新函館北斗駅間は整備新幹線上の新駅と在来線中心駅のアクセス列車(はこだてライナー)が運行されている区間であり、函館市と函館商工会議所は同区間を新幹線札幌延伸後も経営分離せず、JR北海道による運行を継続することを求めていた。 これに対し、JR北海道は、小樽駅 - 札幌駅間に関しては継続運行を表明したものの、新函館北斗駅 - 函館駅間の継続運行の方針は示さず、北海道新幹線の延伸区間の認可・着工には函館駅 - 小樽駅間の経営分離の同意が必要不可欠である旨の方針を示したため、最終的に函館市を含む沿線自治体が同区間の経営分離に合意することとなった。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2022年2月3日、並行在来線となる函館駅 - 小樽駅間のうち、長万部駅 - 余市駅間については、鉄道を維持した場合に多額の維持費用により赤字が生じることから、沿線自治体の協議において鉄道存続を断念、バスに転換することで合意した。新幹線開業に伴う並行在来線の廃線は、1997年10月1日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間開業に伴い廃止された信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間以来、2例目となる。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、余市駅 - 小樽駅間については、小樽市への通勤、通学が多い余市町が第三セクター鉄道での存続を主張していたことから、バス転換も視野に入れる小樽市との協議がまとまらず、結論が先送りされていたが、2022年3月26日に北海道と小樽市、余市町がバス転換で合意し、翌27日の沿線9自治体と北海道との協議で長万部駅 - 小樽駅間の廃止・バス転換が合意された。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2002年12月1日に盛岡駅 - 八戸駅間が開業し、東北本線の盛岡駅 - 目時駅間が第三セクター鉄道のIGRいわて銀河鉄道(第一種鉄道事業事業者)に、目時駅 - 八戸駅間が青森県(第三種鉄道事業者)と青い森鉄道(第二種鉄道事業者)に経営移管された。また、2010年12月4日に八戸駅 - 新青森駅間が延伸開業し、東北本線の八戸駅 - 青森駅間が青森県と青い森鉄道に移管された。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この区間は関東地方と北海道を結ぶ物流の大動脈であり、経営移管に際して、同区間を第二種鉄道事業者として営業を行うJR貨物に対して、線路使用料の引き上げを求めた。旅客営業の経営規模では過剰な電化施設や複線を貨物運行のために維持しているとして、アボイダブルコスト方式をやめて、過剰な施設負担分を含めた線路使用料を支払うように要求した。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "関係者の間で協議が行われた結果、当該区間の整備新幹線を建設した特殊法人日本鉄道建設公団(後の独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構)がJR東日本から受けとる新幹線に対する線路使用料を原資として、JR貨物の支払う線路使用料を補填することになった。この制度は後の整備新幹線開業でも適用され、期限はJR貨物の完全民営化時とされている。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北海道新幹線が開業する2016年まで、上野駅 - 札幌駅間を運行する寝台特急「北斗星」・「カシオペア」がJRからの乗り入れ列車として運行を継続していた。また、大湊線と八戸線が自社在来線と直接に接続せず孤立することになったが、そこで使用される車両については、転換後も乗り入れ列車の設定により融通されている。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "かつては、秋田や郡山にある工場への車両回送ルートとなっていたが、JRの路線が分断され、従来は東北管内で完結していた回送であっても、首都圏を経由するなど大迂回をするようになった。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1997年10月1日の高崎駅 - 長野駅間(長野新幹線)開業に伴い、信越本線のうち、高崎駅 - 横川駅間がJR東日本の路線として存続、 横川駅 - 軽井沢駅間が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクター鉄道として設立されたしなの鉄道に経営移管され、並行在来線経営分離の最初の例となった。篠ノ井駅 - 長野駅間については、篠ノ井線からの列車が多数乗り入れる輸送体系上、引き続きJR東日本が運営している。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2015年3月14日の長野駅 - 金沢駅間開業時には、信越本線と北陸本線のうち、長野県内区間(信越本線長野駅 - 妙高高原駅間)がしなの鉄道に、新潟県内区間(信越本線妙高高原駅 - 直江津駅間および北陸本線直江津駅 - 市振駅間)がえちごトキめき鉄道に、富山県内区間(北陸本線市振駅 - 倶利伽羅駅間)があいの風とやま鉄道に、石川県内区間(北陸本線倶利伽羅駅 - 金沢駅間)がIRいしかわ鉄道にそれぞれ経営移管された。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2024年3月16日予定の金沢駅 - 敦賀駅間開業時には、北陸本線のうち、石川県内区間(金沢駅 - 大聖寺駅間)がIRいしかわ鉄道に、福井県内区間(大聖寺駅 - 敦賀駅間)がハピラインふくいに経営移管される予定である。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "敦賀駅 - 新大阪駅間については、2019年5月に鉄道・運輸機構が環境影響評価法に基づく計画段階環境配慮書を公表し、概略ルートを示しているが、並行在来線の扱いについては未定である。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2004年3月13日に新八代駅 - 鹿児島中央駅間が開業し、鹿児島本線のうち八代駅 - 川内駅間が第三セクター肥薩おれんじ鉄道に経営移管された。この区間はJR貨物が第二種鉄道事業を行っており、JR貨物も株主として出資し引き続き第二種鉄道事業を行っている。貨物列車の運転用に電化設備が存置されているが、熊本・鹿児島県境の閑散区間であり、旅客列車は運行経費削減のため軽快気動車による運転となった。この区間で運行されていた夜行列車は同鉄道区間への乗り入れが行われず、新大阪駅 - 西鹿児島駅(鹿児島中央駅に改称)の「なは」(2008年3月15日廃止)も熊本駅までに運行区間が短縮された。なお、JR九州が2013年から運行するクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」、2020年運行開始のD&S列車「36ぷらす3」は当区間に乗り入れている。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これ以外の路線区間は都市圏輸送体系上、分離されずにJR九州が継続して経営を行っている。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "長崎本線のうち肥前山口駅 - 諫早駅間は上下分離方式により佐賀県と長崎県が鉄道施設を保有し、肥前山口駅 - 肥前鹿島駅間についてはJR九州、肥前鹿島駅 - 諫早駅については両県が中心となって設立する第三セクター鉄道が鉄道運営を行うと合意されたが、一部沿線自治体の経営分離反対により、新幹線開業後もJR九州が並行在来線全区間を23年間運営する方針に変更された。ただし、上下分離方式については変更されておらず、両県共同で設立した佐賀・長崎鉄道管理センターが鉄道施設を保有する。また、長崎本線の諫早駅 - 長崎駅間は経営分離されない。これらの区間のうち肥前浜駅 - 長崎駅間については、電化施設を撤去し、気動車で運行される。並行在来線の電化設備の撤去は初の事例となる。", "title": "並行在来線問題" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新幹線の建設を促進する理由として、地方格差の是正と地域振興が主張されるが、地方の衰退を促進する効果が大きいと指摘する専門家もいる。", "title": "地方格差助長問題" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "その理由として、以下のようなことを挙げている。", "title": "地方格差助長問題" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "整備新幹線区間はこれまで整備されてきた各新幹線同様最高速度が260 km/hとして設計・整備されている。建設費用の問題や、速達性の需要程度の関係により、整備新幹線区間は開業時から設計時最高速度と同じ260 km/h運転を行うもののそれを超える速度での運転を行っていない。また、北陸新幹線の30‰、九州新幹線の35‰(筑紫トンネルほか)勾配や線形など、新規路線にもかかわらず、従来の新幹線路線に比べきつい制限が掛かることもある。", "title": "設計・運行速度" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2020年10月6日、JR東日本は盛岡 - 新青森間で将来的に最高速度を現在の260 km/hから320 km/hに引き上げると発表した。防音対策などの工事が完了する2027年頃の運用開始を目指す。", "title": "設計・運行速度" } ]
整備新幹線(せいびしんかんせん)とは、新幹線の計画路線のうち、全国新幹線鉄道整備法(昭和45年法律第71号)第7条に基づいて、日本政府が1973年(昭和48年)11月13日に整備計画を決定した以下の5路線を指す。当初は「整備5線」や「整備5新幹線」とも呼ばれていたが、現在は「整備新幹線」の呼称が定着している。 北海道新幹線 (青森市から札幌市まで) 東北新幹線 (盛岡市から青森市まで) 北陸新幹線 九州新幹線 鹿児島ルート 西九州ルート(長崎ルート) なお、この5路線以前に計画されていた新幹線である東海道新幹線、山陽新幹線、東北新幹線の東京駅 - 盛岡駅間、上越新幹線、成田新幹線(計画失効)は整備新幹線には含まれない。また、計画中の中央新幹線は、全国新幹線鉄道整備法第7条に基づく新幹線ではあるが、整備計画の決定が2011年5月であったため、整備新幹線には含まれない。
'''整備新幹線'''(せいびしんかんせん)とは、[[新幹線]]の[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画|計画路線]]のうち、[[全国新幹線鉄道整備法]](昭和45年法律第71号)第7条に基づいて、[[日本国政府|日本政府]]が[[1973年]](昭和48年)[[11月13日]]に整備計画を決定<ref name="MITL01">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000224500.pdf 整備新幹線とは]}} - [[国土交通省]]</ref>した以下の5路線を指す。当初は「整備5線」や「整備5新幹線」とも呼ばれていたが、現在は「整備新幹線」の呼称が定着している。 * [[北海道新幹線]] (青森市から札幌市まで)<ref name="MITL01" /> * [[東北新幹線]] (盛岡市から青森市まで)<ref name="MITL01" /> * [[北陸新幹線]]<ref name="MITL01" /> * [[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線]] ** [[九州新幹線|鹿児島ルート]]<ref name="MITL01" /> ** [[西九州新幹線|西九州ルート(長崎ルート)]]<ref name="MITL01" /><!-- 出典MITL01では長崎ルート表記--> なお、この5路線以前に計画されていた新幹線である[[東海道新幹線]]、[[山陽新幹線]]、東北新幹線の東京駅 - 盛岡駅間、[[上越新幹線]]、[[成田新幹線]](計画失効)は整備新幹線には含まれない。また、計画中の[[中央新幹線]]は、全国新幹線鉄道整備法第7条に基づく新幹線ではあるが、整備計画の決定が2011年5月であったため、整備新幹線には含まれない。 == 整備新幹線の概要 == {| class="wikitable" style="font-size:80%" |+ 整備新幹線の一覧 !style="width:8em"|路線名 !style="width:8em"|起点 !style="width:8em"|終点 !経由地 !距離 !style="width:4em"|進捗状況 !営業中の区間 !style="width:10em"|建設中の区間<br />(開業予定) !未着工区間 |- ![[北海道新幹線]] |[[青森県]][[青森市]] |[[北海道]][[札幌市]] |[[函館市]]付近・[[小樽市]]付近 |360&nbsp;km |一部開業 |[[新青森駅|新青森]] - [[新函館北斗駅|新函館北斗]] |style="white-space:nowrap;"|新函館北斗 - [[札幌駅|札幌]]<br />(2030年度末) | |- ![[東北新幹線]] |[[岩手県]][[盛岡市]] |青森県青森市 |[[八戸市]]付近 |179&nbsp;km |全線開業 |[[盛岡駅|盛岡]] - 新青森 | | |- ![[北陸新幹線]] |[[東京都]] |[[大阪府]][[大阪市]] |[[長野市]]・[[富山市]]・[[小浜市]]付近<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/000109162.pdf#page=8 新幹線鉄道の建設に関する整備計画]}} - 国土交通省</ref> |600&nbsp;km |一部開業 |東京 - [[金沢駅|金沢]]<ref group="注">[[東京駅|東京]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]間は東北・[[上越新幹線|上越]]新幹線、大宮 - [[高崎駅|高崎]]間は上越新幹線と共用。</ref> |金沢 - [[敦賀駅|敦賀]]<br />(2024年3月16日) |敦賀 - [[新大阪駅|新大阪]] |- ![[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線]]<br />([[九州新幹線|鹿児島ルート]]) |[[福岡県]][[福岡市]] |[[鹿児島県]][[鹿児島市]] |[[熊本市]]・[[薩摩川内市]]付近 |257&nbsp;km |全線開業 |[[博多駅|博多]] - [[鹿児島中央駅|鹿児島中央]] | | |- !九州新幹線<br />([[九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルート|西九州ルート]]) |福岡県福岡市 |[[長崎県]][[長崎市]] |[[佐賀市]]付近 |118&nbsp;km |一部開業 |博多 - 新鳥栖<ref group="注">九州新幹線(鹿児島ルート)と共用。</ref> [[武雄温泉駅|武雄温泉]] - [[長崎駅|長崎]]([[西九州新幹線]]) | |新鳥栖 - 武雄温泉 |} 九州新幹線(西九州ルート)は当初導入予定であった[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン(軌間可変列車)]]の開発に時間がかかり、開業を予定していた2022年(令和4年)度から[[2025年]](令和7年)度以降に一旦ずれ込む見通しと発表された<ref>{{Cite news|title=九州新幹線長崎ルート、開業3年遅れに…国交省|newspaper=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|date=2016-2-12|url=http://www.yomiuri.co.jp/economy/20160211-OYT1T50080.html|accessdate=2016-2-15|publisher=読売新聞社|archiveurl=|archivedate=}}</ref>。その後、国土交通省は暫定措置として博多駅 - [[武雄温泉駅]]間を在来線特急列車、武雄温泉駅 - [[長崎駅]]間を新幹線列車とするリレー方式を採用し、[[西九州新幹線]]として2022年9月23日に開業した<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=西九州新幹線の開業日について|publisher=九州旅客鉄道|date=2022-02-22|url=https://www.jrkyushu.co.jp/common/inc/news/newtopics/__icsFiles/afieldfile/2022/02/22/220222_nishikyushu_kaigyoubi.pdf|format=PDF|accessdate=2022-02-23}}</ref>。 == 沿革 == === 基本計画の決定 === 1970年(昭和45年)に[[全国新幹線鉄道整備法]](以下全幹法)が公布された。この法律により、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。全幹法に基づき、東北新幹線(盛岡市 - 青森市)は[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画#昭和46年告示第17号|昭和47年告示第242号]]、北海道新幹線(青森市 - 札幌市)、北陸新幹線(東京都 - 大阪市)、九州新幹線(福岡市 - 鹿児島市)は[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画#昭和47年告示第243号|昭和47年告示第243号]]、九州新幹線(福岡市 - 長崎市)は[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画#昭和47年告示第466号|昭和47年告示第466号]]によって基本計画が告示された。 === 整備計画の決定 === 1973年(昭和48年)11月13日、[[運輸大臣]]によって5路線の整備計画が決定された<ref name="昭和48年整備計画">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.saga.lg.jp/shinkansen/kiji0039655/3_9655_3_material731113.pdf |title=全国新幹線鉄道整備法、第七条第一項の規定に基づき、新幹線鉄道建設に関する整備計画を別紙のとおり決定する 昭和四十八年十一月十三日 運輸大臣 新谷 寅三郎 |format=PDF |publisher=[[佐賀県]] |date= |accessdate=2018-04-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171231100119/https://www.pref.saga.lg.jp/shinkansen/kiji0039655/3_9655_3_material731113.pdf |archivedate=2017-03-31 }}</ref>。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |- !建設線 !走行方式 !最高設計<br />速度 !建設に要する費用の概算額<br />(車両費を含む) !建設主体!! style="width:30%" |その他 |- !東北新幹線 |粘着駆動による<br />電車方式 |260&nbsp;km/h |3,300億円 |[[日本国有鉄道]] | |- !北海道新幹線 |〃 |260&nbsp;km/h |6,300億円 |[[日本鉄道建設公団]] |1 北海道新幹線は、[[津軽海峡]]部において、[[青函トンネル|青函ずい道]]を[[津軽海峡線]]と共用する。<br />2 建設に要する費用の概算額には、津軽海峡線の工事費は含まない。 |- !北陸新幹線 |〃 |260&nbsp;km/h |11,700億円 |日本鉄道建設公団 |東京都・[[高崎市]]間は上越新幹線を共用する。 |- !九州新幹線<br />(福岡市・鹿児島市間) |〃 |260&nbsp;km/h |4,450億円 |日本国有鉄道 | |- !九州新幹線<br />(福岡市・長崎間) |〃 |260&nbsp;km/h |2,150億円 |日本国有鉄道 |1 九州新幹線(福岡市・鹿児島市間)と[[筑紫平野]]で分岐するものとし、福岡市・分岐点間は共用する。<br />2 建設に要する費用の概算額には九州新幹線(福岡市・鹿児島市間)との共用部分は含まない。 |} === 運輸省案と3線5区間の着工 === 1988年、[[運輸省]](当時)が、東北・北陸・九州(鹿児島ルート)の3線について、建設費を削減しつつスピードアップを図るため、[[ミニ新幹線]]や[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]を組み合わせた、いわゆる「運輸省案」を発表。 着工区間の沿線[[地方公共団体|自治体]]や[[政治家]]からは、この案を「[[ウナギ]](フル規格)を注文したら[[アナゴ]]や[[ドジョウ]](ミニ新幹線やスーパー特急方式)が出てきた」と揶揄されるほど不評であったが、この機会を逃すと次回の着工がいつになるか不透明であったことから、やむなくこれを受け入れ、同年、政府・与党申し合わせにより着工順位が決定された。 * 1.北陸新幹線:[[高崎駅]] - [[長野駅]]間(高崎駅 - [[軽井沢駅]]間フル規格、軽井沢駅 - 長野駅間はミニ新幹線。ただし、[[長野オリンピック]]の開催が決定した場合、フル規格への変更も考慮)→1997年フル規格で開業。 * 1.北陸新幹線:[[高岡駅]] - [[金沢駅]]間(スーパー特急方式)→1992年8月、[[石動駅]] - 金沢駅間着工。→2015年フル規格で開業。 * 2.東北新幹線:[[盛岡駅]] - [[青森駅]]間(沼宮内駅(現・[[いわて沼宮内駅]]) - [[八戸駅]]間フル規格、前後の区間はミニ新幹線)→盛岡駅 - 八戸駅間が2002年、八戸駅 - 新青森駅間が2010年にフル規格で開業。 * 3.九州新幹線(鹿児島ルート):[[八代駅]] - 西鹿児島駅(現・[[鹿児島中央駅]])間(スーパー特急方式)→起点を[[新八代駅]]に変更の上、2004年フル規格で開業。 * 4.北陸新幹線:[[糸魚川駅]] - [[魚津駅]]間(スーパー特急方式)→1993年10月に着工したが、新黒部駅(仮称。現・[[黒部宇奈月温泉駅]]) - 魚津駅間は在来線への取り付け線のため工事は行われず。 しかし新幹線の建設財源が限られていたことから、優先順位1位でフル規格区間であった高崎駅 - 軽井沢駅間のみ翌1989年に着工。その他の区間は、既存新幹線譲渡収入([[#旧スキーム|旧スキーム]]の項を参照)が新幹線建設の特定財源となる1991年以降の着工となった。 1991年、[[イギリス]]・[[バーミンガム]]で開かれた[[国際オリンピック委員会]] (IOC) の[[国際オリンピック委員会総会|総会]]にて、長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢駅 - 長野駅間がフル規格に変更された。一方、同順位だった高岡駅 - 金沢駅間は、富山県内の沿線自治体が並行在来線となる[[北陸本線]]石動駅 - 高岡駅間の経営分離に反対したことから、新高岡駅 - 金沢駅間の基本ルートを変更、着工区間は石動駅 - 金沢駅間に短縮された。 1994年、5年毎に行うとされた計画見直しで新規着工の機運が高まるが、財源が壁となり、ミニ新幹線で建設するとしていた東北新幹線の盛岡駅 - 沼宮内駅間をフル規格に変更の上、八戸駅 - 青森駅間の着工を延期した。 === 新スキームによる3線3区間の着工 === 1996年、新規着工の財源にJR本州3社([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])の[[固定資産税]]軽減特例(1/2)([[#新スキーム|新スキーム]]の項参照)を活用する方針が示され、新規着工区間の選定が活発化する。 同年12月25日、政府与党合意により、候補となる3線3区間を選定。政府・与党整備新幹線検討委員会による採算性の検討などを行い、1998年1月21日、着工および着工区間の優先順位が決定した。これらの区間は同年3月に着工している。 * 1.東北新幹線:八戸駅 - 新青森駅間(フル規格)→2010年開業。 * 1.九州新幹線(鹿児島ルート):船小屋駅(九州新幹線全通に合わせて[[筑後船小屋駅]]に改称) - 新八代駅間(スーパー特急方式。同時に着工済みの八代駅 - 西鹿児島駅間の起点を新八代駅に変更)→2011年フル規格で開業。 * 2.北陸新幹線:長野駅 - 上越駅(仮称。現・[[上越妙高駅]])間(フル規格)→2015年開業。 === 自自公連立政権成立と2線3区間の新規着工 === [[1999年]]、[[自自連立政権|自自連立]]、[[自自公連立政権|自自公連立]]による計画見直し案で、既着工区間のフル規格化と新規着工の方針が出され、[[2000年]]には、運輸省(当時)が翌[[2001年]]度予算の概算要求で、北陸・上越駅 - 糸魚川駅間と九州・[[博多駅]] - 船小屋駅間の新規着工を要求した。 同年の政府・与党申し合わせで、新黒部駅 - 富山駅間を加えた2線3区間の新規着工が正式に決定した。 * 北陸新幹線:上越駅(仮称) - 糸魚川駅間および新黒部駅(仮称) - 富山駅間(フル規格。同時に着工済みの糸魚川駅 - 新黒部駅(仮称)間もフル規格に変更)→2015年開業。 * 九州新幹線(鹿児島ルート):博多駅 - 船小屋駅間(フル規格。同時に着工済みの船小屋駅 - 西鹿児島駅間もフル規格に変更)→2011年開業。 === 九州新幹線部分開業と3区間の新規着工 === [[2004年]]3月13日、九州新幹線・新八代駅 - 鹿児島中央駅間が部分開業。開業に前後して新規着工に向けた見直し作業が行われ、2004年6月10日、与党整備新幹線建設促進プロジェクトチームの合意により3区間([[福井駅 (福井県)|福井駅]]周辺区間の整備を含めると4区間)の新規着工区間が決定した。 * 北海道新幹線:新青森駅 - 新函館駅(仮称。現・[[新函館北斗駅]])間(フル規格)→2016年開業。 * 北陸新幹線:富山駅 - 石動駅間および金沢駅 - 白山総合車両基地(仮称。現・[[白山総合車両所]])間(フル規格。同時に着工済みの石動駅 - 金沢駅間もフル規格に変更)→2015年開業。 * 北陸新幹線:福井駅 →2005年6月4日着工、2009年2月19日完成。2015年から2018年まで暫定的に[[えちぜん鉄道]]が使用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.fukui.jp/doc/ekisyuu/keii2013.html|title=福井駅付近連続立体交差事業の経緯|work=福井県|date=2018-06-24|accessdate=2018-09-18}}</ref>。 * 九州新幹線長崎ルート(西九州ルート):[[武雄温泉駅]] - [[諫早駅]]間(スーパー特急方式)→2022年フル規格で開業。 [[2005年]]、北海道新幹線と北陸新幹線の新規区間が着工された。長崎(西九州)ルートについては、並行在来線となる[[長崎本線]]・肥前山口駅(現:[[江北駅 (佐賀県)|江北駅]]) - 諫早駅間の沿線自治体([[佐賀県]][[江北町]]・[[鹿島市]])が経営分離に反対していたため、2005年以降国の公共事業費として毎年10億円が計上されていたが着工できず、予算は消化できないという状況が続いていた。その後、[[2007年]]12月に推進派3者(佐賀県・長崎県・[[九州旅客鉄道|JR九州]])による、いわゆる「三者合意」による「上下分離方式」により、JR九州が並行在来線区間を新幹線開業後20年間運行するという形で決着が図られ、[[2008年]]3月に着工認可が下り、翌4月に着工された。 === 民主党政権初の新規着工 === 2009年9月の[[自由民主党 (日本)|自民党]]から[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]への[[政権交代]]に伴い、大幅な公共事業の見直しが行われ、北海道・北陸・九州(西九州ルート)の未着工区間の建設は一時凍結されることになった。これらの区間については、莫大な建設費や並行在来線の分離に対する沿線自治体の合意などの面でも大きな問題を抱えていた。しかし、JRが支払う線路使用料を建設費に充てることで財源の目途が立ったことや沿線自治体との協議が進んだこと、また、[[東日本大震災]]以降、軸となるインフラの整備を集中的に行っていく方向に進んでいたこともあり、2011年末に、沿線自治体との合意という条件付きで以下の3区間の新規着工の方針が国土交通省によって示された<ref>[http://www.asahi.com/politics/update/1226/TKY201112260312.html 整備新幹線3区間の着工方針決定 北海道・北陸・九州] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120629145656/http://www.asahi.com/politics/update/1226/TKY201112260312.html |date=2012年6月29日 }} - [[朝日新聞]]</ref>。 * 北海道新幹線:新函館駅(仮称。現・新函館北斗駅) - [[札幌駅]]間 212&nbsp;km * 北陸新幹線:金沢 - [[敦賀駅]]間 124&nbsp;km(福井駅部分を除く) * 九州新幹線長崎ルート(西九州ルート):諫早駅 - [[長崎駅]]間 21&nbsp;km。武雄温泉駅 - 長崎駅間をフル規格で一体整備に変更。→2022年開業 そして、2012年6月29日に正式に着工が認可された<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2012062900298 3区間着工を正式認可=整備新幹線、民主政権で初―羽田国交相]{{リンク切れ|date=2014年9月}} - [[時事通信]]</ref>。北海道は2035年度、北陸は2025年度、九州(西九州ルート)は着工済の武雄温泉 - 諫早間を含めて2022年度の完成を目指して建設が進められることになった。その後、自民政権下の2015年1月14日に前倒しが正式に決定した<ref>{{PDFlink|[https://www.soumu.go.jp/main_content/000357377.pdf 整備新幹線について]}} - 総務省、2015年3月13日</ref>。 === 未着工区間 === 2017年3月現在の未着工区間は以下の通りである。 * 北陸新幹線:敦賀駅 - 新大阪駅間 約143 km(キロ程は[[東小浜駅]]付近・[[京都駅]]・[[松井山手駅]]付近経由)<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/001174926.pdf|title=北陸新幹線京都・新大阪間のルートに係る調査について|work=国土交通省鉄道局|date=2017-03-07|accessdate=2017-04-27}}</ref> ** 敦賀以西はさまざまなルートの案があったが、2016年に敦賀駅 - 小浜市付近 - 京都駅というルート(小浜・京都ルート)が決定をみた。京都駅から新大阪駅へは、[[東海道新幹線]]の北側を通る「北回りルート」と、京都駅 - 京都府南部の[[関西文化学術研究都市]]付近 - 新大阪駅という「南回りルート」のふたつが提案されていたが、2017年3月15日に南回りルートが経由地を[[片町線|学研都市線]]松井山手駅付近に変更した上で正式採用された<ref name="nikkei20170315">{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS15H2U_V10C17A3PP8000/|title=北陸新幹線の全ルート確定 敦賀以西31年着工|newspaper=日本経済新聞 電子版|publisher=日本経済新聞社|date=2017-03-15|accessdate=2017-04-27}}</ref>(「[[北陸新幹線#敦賀 - 新大阪間]]」および「[[北陸新幹線敦賀以西のルート選定]]」参照)。 * 九州新幹線長崎ルート(西九州ルート):[[新鳥栖駅]] - 武雄温泉駅間 51&nbsp;km ** 武雄温泉駅以東は[[環境アセスメント]]まで実施。 北陸新幹線については、[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]] (FGT) により、暫定的に湖西線・北陸本線{{Refnest|group="注"|敦賀着工時の国土交通省の試算では、フリーゲージトレイン導入時の設定本数は「現行の在来優等([[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]23本、[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]16本)と同等」としている<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.mlit.go.jp/common/000207259.pdf|title=収支採算性及び投資効果に関する詳細資料|page=31|publisher=国土交通省 鉄道局|date=2012-04|accessdate=2015-03-12}}</ref>。}}への乗り入れが検討されていたが、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、FGT導入を断念した<ref>{{Cite news|title=北陸新幹線にフリーゲージ断念へ 政府、与党とJR西日本|newspaper=[[福井新聞]]ONLINE|date=2018年8月25日|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/684158|accessdate=2018年8月26日|publisher=福井新聞社|archiveurl=|archivedate=|deadlinkdate=}}</ref>。 また、九州新幹線西九州ルートは武雄温泉駅以西がフル規格(標準軌)による整備に変更され、武雄温泉駅以東は未着工であることから、狭軌の並行在来線が取り残される形となった。当初、FGTで標準軌区間と狭軌区間を疎通する予定であったが、FGTの導入断念と併せ、2022年9月23日にリレー方式で暫定開業することになった<ref name=":0" />。 == 財源問題 == {{See also|昭和三大馬鹿査定}} 東北・上越新幹線は、国鉄の自己資金や[[財政投融資]]等の借入金によって建設され、結果的に国鉄債務増大の一因となったことへの反省から、整備新幹線は原則として、返済の必要がない無償資金による国や自治体による[[公共事業]]方式で建設され、営業を担当するJRからは、開業後の受益に応じた線路貸付料を受け取る形とした。 しかし、公共事業費の増額には[[財務省 (日本)|財務省]](旧・[[大蔵省]])の抵抗が大きく、新規着工や開業前倒しには新たな財源探しが付き物となる。 === 旧スキーム === [[1989年]]、北陸新幹線・高崎 - 軽井沢間着工の際に決められた<ref name="MLIT 整備新幹線に係る主な経緯">[https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen4.html 整備新幹線に係る主な経緯] - [[国土交通省]]</ref> * JR:50% ** 整備新幹線の線路貸付料 ** 既設新幹線(東海道・山陽・東北・上越)のリース料から新幹線保有機構の旧国鉄債務を返済した余剰分 * 国(公共事業費等):35% ** 第一種工事(線路その他の主体等の鉄道施設に係る工事) - 40% ** 第二種工事(駅その他の地域の便益に密接に関連する鉄道施設に係る工事) - 25% * 地方:15% ** 第一種工事 - 10% ** 第二種工事 - 25% 地方負担分は原則として[[都道府県]]の負担となるが、90%は[[地方債]]の起債が可能。また10%は沿線[[市町村]]に負担させることができる(新スキームでも同様)。 [[1990年]]、既存新幹線のJR東日本・JR東海・JR西日本の3社への売却を翌年に控え、譲渡収入のうち資産再評価に伴う上乗せ額1.1兆円が整備新幹線の特定財源とされ、毎年724億円が国およびJR(既存新幹線リース料余剰分に代わるもの)の財源となった。 なお北陸新幹線(高崎 - 長野)については、開業を[[長野オリンピック]]開幕に間に合わせるため、例外として有償資金である[[財政投融資]](2775億円)が投入された。開業後は後に開業した東北・九州を含む開業済み区間の線路貸付料で返済を行ってきたため、線路貸付料から建設費にはほとんど充当されなかった。しかし、2011年6月8日に成立した「改正国鉄債務処理法」によって、鉄道・運輸機構の特例業務勘定における利益剰余金から債務が償還されたため、その分が建設費に充てることができるようになった<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2012pdf/20120702087.pdf|title=整備新幹線未着工区間の新規着工に向けた動き ― 財源問題を中心に ―|work=立法と調査 330号|publisher=参議院|date=2012-07-02|accessdate=2015-03-12}}</ref>。 === 新スキーム === [[1996年]]、3線3区間の新規着工に伴い、国・地方・JRの負担割合の見直しを行った<ref name="MLIT 整備新幹線に係る主な経緯" />。 * JR:受益の範囲を限度とした貸付料など * 国:JR負担分を除く2/3 ** 公共事業費 ** 既存新幹線譲渡収入(旧スキームでJRの負担とされていたものも含む) * 地方:JR負担分を除く1/3 ** うち90%は地方債の起債が認められ、償還の際には元利償還金の標準財政規模に占める割合に応じて元利合計の50%から70%に対して[[地方交付税]]措置を行う(JR本州3社の[[固定資産税]]軽減特例(1/2)終了に伴う地方交付税減額分を配分)。したがって地方の実質負担は約12%から18%となる。 2004年末の政府・与党申し合わせで、既存新幹線の譲渡収入の中から2013年度以降の分を前倒しする形で活用することが決まった。 また、着工予定区間である北陸新幹線(富山 - 金沢)や北海道新幹線(新青森 - 新函館)の収支改善効果試算の過程で、他社区間に乗り入れることになる[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の収益増加額(いわゆる「根元受益」)が巨額(北陸390億円/年、北海道220億円/年)となることが明らかになり、この分についても負担を求める方針も盛り込まれたが、当事者のJR東日本は難色を示している。 === 整備新幹線建設費の推移 === {| |+整備新幹線建設費の推移(単位億円)<ref>{{Cite journal|和書|author=蓼沼慶正、森田泰智、堀川淳|title=整備新幹線の財源について|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|year=2011|month=7|issue=850|pages=64-65}}</ref> |- |1989年||63||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:6px; text-align:center" title="63"|<br/> |} |- |1990年||211||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:21px" title="211"|<br/> |} |- |1991年||373||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:37px" title="373"|<br/> |} |- |1992年||1296||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:130px" title="1296"|<br/> |} |- |1993年||1922||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:192px" title="1922"|<br/> |} |- |1994年||1942||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:194px" title="1942"|<br/> |} |- |1995年||2548||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:255px" title="2548"|<br/> |} |- |1996年||1725||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:173px" title="1725"|<br/> |} |- |1997年||1482||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:148px" title="1482"|<br/> |} |- |1998年||1899||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:190px" title="1899"|<br/> |} |- |1999年||2379||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:238px" title="2379"|<br/> |} |- |2000年||2753||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:275px" title="2753"|<br/> |} |- |2001年||2916||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:292px" title="2916"|<br/> |} |- |2002年||2380||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:238px" title="2380"|<br/> |} |- |2003年||2072||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:207px" title="2072"|<br/> |} |- |2004年||2207||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:221px" title="2207"|<br/> |} |- |2005年||2253||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:225px" title="2253"|<br/> |} |- |2006年||2509||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:251px" title="2509"|<br/> |} |- |2007年||2687||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:269px" title="2687"|<br/> |} |- |2008年||3178||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:318px" title="3178"|<br/> |} |- |2009年||3666||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:367px" title="3666"|<br/> |} |- |2010年||2510||style="white-space:nowrap"| {| cellspacing="0" style="height:16px" |style="background:#99f; width:251px" title="2510"|<br/> |} |} == 並行在来線問題 == {{See also|在来線#並行在来線}} 整備新幹線の並行[[在来線]]は、沿線[[地方公共団体]]と[[JR]]との合意により、JRの経営から分離されることになっており、[[第三セクター鉄道]]に転換または[[廃線|廃止]]されている。これは、高額な新幹線の施設と地方閑散線区に転落した並行在来線を両方所有運営することによる、JRの負担を軽減する措置である。ただし、JRの経営のまま残った区間もある。[[1996年]][[12月25日]]の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」<ref>[https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html#goui 新幹線鉄道の整備|整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意] - [[国土交通省]] 1996年12月25日</ref> で「建設着工する区間の並行在来線については、従来どおり、開業時にJRの経営から分離することとする」としており、今後開業する整備新幹線の並行在来線についても、同様の措置とする予定である。並行在来線では、沿線の利用者や[[貨物列車]]および並行在来線の枝線の扱い、新事業者の経営をどのように支えるかが課題となる<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1501/30/news028.html 杉山淳一の時事日想:赤字で当然、並行在来線問題を解決する必要はない]</ref>。[[2022年]]の[[西九州新幹線]]開業時点で、廃止となった路線は、[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間のみである。なお、既存新幹線路線の並行在来線は、経営分離される予定はない。 {|class="wikitable" style="font-size:80%" |+ 整備新幹線(未着工区間を除く)の並行在来線の一覧 !style="width:8em;"|整備新幹線 !colspan="2"|新幹線開業前 !style="width:10em;"|区間 !営業キロ !style="width:8em;"|移管(廃止)日 !新幹線開業後 |- !rowspan="7" style="width:7em;" |[[北海道新幹線]] !style="width:8em;"|[[東日本旅客鉄道]]<br>(JR東日本) !style="width:6em;"|[[津軽線]] |[[青森駅|青森]] - [[三厩駅|三厩]] |style="text-align:right"|55.8 | |style="background:#ccf"|JR東日本のまま存続(新幹線と在来線で経営する会社が異なる) |- !rowspan="6" |[[北海道旅客鉄道]]<br>(JR北海道) ![[海峡線]] |[[中小国駅|中小国]] - [[木古内駅|木古内]] |style="text-align:right"|87.8 | |style="background:#ccf"|JR北海道のまま存続(定期旅客列車は廃止され、貨物列車とツアー形式の[[クルーズトレイン]]のみ運行) |- ![[江差線]] |木古内 - [[五稜郭駅|五稜郭]] |style="text-align:right"|37.8 |[[2016年]][[3月26日]] |style="background:#fec"|[[道南いさりび鉄道]]に移管(電化設備は存置するが、定期旅客列車は[[気動車]]にて運行) |- !rowspan="4"|[[函館本線]] |[[函館駅|函館]] - [[新函館北斗駅|新函館北斗]] |style="text-align:right"|17.9 |rowspan="3" |2030年度 |style="background:#ccf"|[[新青森駅|新青森]] - 新函館北斗間開通時は、JR北海道のまま存続。新函館北斗 - 札幌間開通時は、JR北海道より経営分離予定 |- |新函館北斗 - [[長万部駅|長万部]]<br>[[大沼駅|大沼]] - [[鹿部駅|鹿部]] - [[森駅 (北海道)|森]] |style="text-align:right"|129.7 |JR北海道より経営分離予定。分離後の扱いについては2022年現在未確定。 |- |長万部 - [[小樽駅|小樽]] |style="text-align:right"|140.2 |style="background:#fcc"|廃止予定(路線バスに転換) |- |小樽 - [[札幌駅|札幌]] |style="text-align:right"|33.8 | |style="background:#ccf"|JR北海道のまま存続予定 |- !rowspan="3"|[[東北新幹線]] !rowspan="3"|東日本旅客鉄道<br>(JR東日本) !rowspan="3"|[[東北本線]] |[[盛岡駅|盛岡]] - [[目時駅|目時]] |style="text-align:right"|82.0 |rowspan="2"|[[2002年]][[12月1日]] |style="background:#fec"|[[IGRいわて銀河鉄道]]に移管 |- |目時 - [[八戸駅|八戸]] |style="text-align:right"|25.9 |rowspan="2" style="background:#fec"|青森県および[[青い森鉄道]]に移管([[上下分離方式]]) |- |八戸 - 青森 |style="text-align:right"|96.0 |[[2010年]][[12月4日]] |- !rowspan="11"|[[北陸新幹線]] !rowspan="6"|東日本旅客鉄道<br>(JR東日本) !rowspan="6"|[[信越本線]] |[[高崎駅|高崎]] - [[横川駅 (群馬県)|横川]] |style="text-align:right"|29.7 | |style="background:#ccf"|JR東日本のまま存続 |- |横川 - [[軽井沢駅|軽井沢]] |style="text-align:right"|11.2 |rowspan="2"|[[1997年]][[10月1日]] |style="background:#fcc"|廃止([[ジェイアールバス関東]][[碓氷線]]へ転換) |- |軽井沢 - [[篠ノ井駅|篠ノ井]] |style="text-align:right"|65.1 |style="background:#fec"|[[しなの鉄道]]に移管 |- |篠ノ井 - [[長野駅|長野]] |style="text-align:right"|9.3 | |style="background:#ccf"|JR東日本のまま存続 |- |長野 - [[妙高高原駅|妙高高原]] |style="text-align:right"|37.3 |rowspan="2"|[[2015年]][[3月14日]] |style="background:#fec"|しなの鉄道に移管 |- |妙高高原 - [[直江津駅|直江津]] |style="text-align:right"|37.7 |style="background:#fec"|[[えちごトキめき鉄道]]に移管 |- !rowspan="5"|[[西日本旅客鉄道]]<br>(JR西日本) !rowspan="5"|[[北陸本線]] |直江津 - [[市振駅|市振]] |style="text-align:right"|59.3 |rowspan="3"|2015年3月14日 |style="background:#fec"|えちごトキめき鉄道に移管(電化設備は存置するが、定期旅客列車は気動車にて運行) |- |市振 - [[倶利伽羅駅|倶利伽羅]] |style="text-align:right"|100.1 |style="background:#fec"|[[あいの風とやま鉄道]]に移管 |- |倶利伽羅 - [[金沢駅|金沢]] |style="text-align:right"|17.8 |style="background:#fec"|[[IRいしかわ鉄道]]に移管 |- |金沢 - [[大聖寺駅|大聖寺]] |style="text-align:right"|46.4 |rowspan="2"|2024年3月16日<br><ref name="traficnews20230830">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/127860 |title=快速も走る! JR北陸本線の第三セクター「ハピラインふくい」3月16日に開業へ 大聖寺~敦賀間84km |access-date=2023-08-31 |date=2023-08-30 |website=乗りものニュース}}</ref> |style="background:#fec"|IRいしかわ鉄道に移管予定 |- |大聖寺 - [[敦賀駅|敦賀]] |style="text-align:right"|84.3 |style="background:#fec"|[[ハピラインふくい]]に移管予定 |- !rowspan="3"|[[九州新幹線|九州新幹線<br>(鹿児島ルート)]] !rowspan="5"|[[九州旅客鉄道]]<br>(JR九州) !rowspan="3"|[[鹿児島本線]] |[[博多駅|博多]] - [[八代駅|八代]] |style="text-align:right"|154.1 | |style="background:#ccf"|JR九州のまま存続 |- |八代 - [[川内駅 (鹿児島県)|川内]] |style="text-align:right"|116.9 |[[2004年]][[3月13日]] |style="background:#fec"|[[肥薩おれんじ鉄道]]に移管(電化設備は存置するが、定期旅客列車は気動車にて運行) |- |川内 - [[鹿児島中央駅|西鹿児島]]<ref group="注">新幹線開業時に鹿児島中央に改称</ref> |style="text-align:right"|46.1 | |style="background:#ccf"|JR九州のまま存続 |- !rowspan="2"|[[九州新幹線 (整備新幹線)#西九州ルート|九州新幹線<br>(西九州ルート)]]<br>([[西九州新幹線]]) !rowspan="2"|[[長崎本線]] |[[江北駅 (佐賀県)|肥前山口]]<ref group="注">新幹線開業時に江北に改称</ref> - [[諫早駅|諫早]] |style="text-align:right"|60.8 |[[2022年]][[9月23日]] |style="background:#dfc"|新幹線開業後23年間は上下分離方式(長崎県・佐賀県が出資する[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]が施設を管理、JR九州が列車を運行。[[肥前浜駅|肥前浜]] - 諫早間は電化設備を廃止) |- |諫早 - [[市布駅|市布]] - [[長崎駅|長崎]]<br>[[喜々津駅|喜々津]] - [[長与駅|長与]] - [[浦上駅|浦上]] |style="text-align:right"|48.4 | |style="background:#ccf"|JR九州のまま存続(電化設備を廃止) |} === 北海道新幹線 === {{Main|北海道新幹線#並行在来線の扱い}} [[新青森駅]] - [[新函館北斗駅]]間の開業に向けて、[[江差線]]の扱いが一つの課題であった。[[木古内駅]] - [[五稜郭駅]]間については、経営分離で合意されていたが、非電化区間である木古内駅 - [[江差駅]]間は、在来線と接続しない路線となる上、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]管内で乗降客が著しく少ない区間の一つであった。このため、[[2014年]][[5月12日]]をもって廃止されることになった<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/press/2012/120903-3.pdf|format=PDF|title=江差線(木古内・江差間)の鉄道事業廃止について|publisher=[[北海道旅客鉄道]]|date=2012-09-03|accessdate=2022-10-11}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.jrhokkaido.co.jp/press/2013/130426-1.pdf|format=PDF|title=江差線(木古内・江差間)の鉄道事業廃止届の提出について|publisher=北海道旅客鉄道|date=2013-04-26|accessdate=2013-04-26}}</ref>。一方、2014年8月には、[[道南いさりび鉄道]]の前身となる北海道道南地域並行在来線準備株式会社が設立され<ref>[http://e-kensin.net/news/article/7768.html 14年5月にも三セク準備会社設立へ-江差線五稜郭-木古内間] - [[北海道建設新聞]]、2013年8月27日。</ref>、[[2016年]][[3月26日]]の北海道新幹線開業とともに木古内駅 - 五稜郭駅間が道南いさりび鉄道に経営分離された。 また、[[津軽線]]については、[[青森県]]は「津軽線の経営は[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]で北海道新幹線の経営はJR北海道が行うため経営分離の対象ではない」という見解を出しており、JR東日本も[[2004年]]に経営分離しないことを明らかにしている<ref>{{Cite web|和書|title=北海道新幹線の並行在来線 - ページ 2 / 2|url=https://www.mag2.com/p/news/158658/2|website=まぐまぐニュース!|date=2016-03-19|accessdate=2020-05-26|language=ja}}</ref>。その後2022年8月に発生した豪雨災害により[[蟹田駅]] - [[三厩駅]]間が不通になっており復旧費用が最低6億円かかることから不通区間の廃止を含めた協議に入っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20221219-OYT1T50196/ |title=JR津軽線の蟹田―三厩、廃止も含め協議へ…8月の豪雨で被災した赤字路線 |access-date=2023-11-14 |publisher=読売新聞社 |date=2022-12-19 |website=読売新聞オンライン |language=ja}}</ref>。 [[函館本線]][[函館駅]] - 新函館北斗駅間は整備新幹線上の新駅と在来線中心駅のアクセス列車([[はこだてライナー]])が運行されている区間であり、[[函館市]]と函館[[商工会議所]]は同区間を新幹線札幌延伸後も経営分離せず、JR北海道による運行を継続することを求めていた<ref>{{Cite web|和書|title=【Q&#038;A】18.並行在来線とはそもそも何なのか|url=http://www.shinkansen-hakodate.com/archives/1083|website=北海道新幹線2016.3新函館北斗開業ウェブサイト|accessdate=2020-05-26|language=ja}}</ref>。 これに対し、JR北海道は、[[小樽駅]] - [[札幌駅]]間に関しては継続運行を表明したものの、新函館北斗駅 - 函館駅間の継続運行の方針は示さず、北海道新幹線の延伸区間の認可・着工には函館駅 - 小樽駅間の経営分離の同意が必要不可欠である旨の方針を示したため、最終的に函館市を含む沿線自治体が同区間の経営分離に合意することとなった<ref>「函館-小樽253km沿線15市町村と協議開始予定」 - [[北海道新聞]] 16版 2012年2月15日 2面</ref><ref>{{Cite web|和書|title=北海道新幹線(開業までのあゆみ)|企業・採用|JR北海道- Hokkaido Railway Company|url=https://www.jrhokkaido.co.jp/corporate/shinkansen/index.html|accessdate=2020-05-26}}</ref>。 [[2022年]]2月3日、並行在来線となる函館駅 - 小樽駅間のうち、[[長万部駅]] - [[余市駅]]間については、鉄道を維持した場合に多額の維持費用により赤字が生じることから、沿線自治体の協議において鉄道存続を断念、バスに転換することで合意した。新幹線開業に伴う並行在来線の廃線は、[[1997年]][[10月1日]]の[[北陸新幹線]][[高崎駅]] - [[長野駅]]間開業に伴い廃止された[[信越本線]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間以来、2例目となる<ref>[https://www.hokkaido-np.co.jp/article/641260 長万部―余市はバス転換 並行在来線 沿線自治体が支持] - 北海道新聞 どうしん電子版 2022年2月3日</ref><ref name="mainichi20220203" />。 一方、余市駅 - 小樽駅間については、[[小樽市]]への通勤、通学が多い[[余市町]]が[[第三セクター鉄道]]での存続を主張していたことから、バス転換も視野に入れる小樽市との協議がまとまらず、結論が先送りされていた<ref name="mainichi20220203">[https://mainichi.jp/articles/20220203/k00/00m/040/247000c JR長万部-余市間は廃線、バス転換へ 並行在来線で全国2例目] - 毎日新聞 2022年2月3日</ref>が、2022年3月26日に北海道と小樽市、余市町がバス転換で合意し<ref name="mainichi20220326">{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20220326/k00/00m/040/142000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220326170133/https://mainichi.jp/articles/20220326/k00/00m/040/142000c|title=JR函館線 小樽-余市間も廃線へ 自治体、バス転換で合意|newspaper=毎日新聞|date=2022-03-26|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-26}}</ref>、翌27日の沿線9自治体と北海道との協議で長万部駅 - 小樽駅間の廃止・バス転換が合意された<ref name="kyodo20220327">{{Cite news|url=https://nordot.app/880696038871416832|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220327071448/https://nordot.app/880696038871416832|title=小樽―長万部の廃線決定 JR函館線、新幹線延伸で|newspaper=共同通信|date=2022-03-27|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-27}}</ref>。 === 東北新幹線 === {{See also|線路使用料#JR貨物の線路使用料|IGRいわて銀河鉄道|青い森鉄道}} [[2002年]][[12月1日]]に[[盛岡駅]] - [[八戸駅]]間が開業し、[[東北本線]]の盛岡駅 - [[目時駅]]間が第三セクター鉄道の[[IGRいわて銀河鉄道]]([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業事業者]])に、目時駅 - 八戸駅間が[[青森県]]([[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]])と[[青い森鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])に経営移管された。また、[[2010年]][[12月4日]]に八戸駅 - [[新青森駅]]間が延伸開業し、東北本線の八戸駅 - [[青森駅]]間が青森県と青い森鉄道に移管された。 この区間は[[関東地方]]と[[北海道]]を結ぶ物流の大動脈であり、経営移管に際して、同区間を第二種鉄道事業者として営業を行う[[日本貨物鉄道|JR貨物]]に対して、[[線路使用料]]の引き上げを求めた。旅客営業の経営規模では過剰な電化施設や[[複線]]を貨物運行のために維持しているとして、[[線路使用料#日本における線路使用の関係|アボイダブルコスト方式]]をやめて、過剰な施設負担分を含めた線路使用料を支払うように要求した。 関係者の間で協議が行われた結果、当該区間の整備新幹線を建設した[[特殊法人]][[日本鉄道建設公団]](後の[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])がJR東日本から受けとる新幹線に対する線路使用料を原資として、JR貨物の支払う線路使用料を補填することになった。この制度は後の整備新幹線開業でも適用され、期限はJR貨物の完全民営化時とされている。 [[北海道新幹線]]が開業する[[2016年]]まで、[[上野駅]] - [[札幌駅]]間を運行する寝台特急「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」・「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」がJRからの乗り入れ列車として運行を継続していた。また、[[大湊線]]と[[八戸線]]が自社在来線と直接に接続せず孤立することになったが、そこで使用される車両については、転換後も乗り入れ列車の設定により融通されている。 かつては、[[秋田総合車両センター|秋田]]や[[郡山総合車両センター|郡山]]にある工場への車両回送ルートとなっていたが、JRの路線が分断され、従来は東北管内で完結していた回送であっても、首都圏を経由するなど大迂回をするようになった。 === 北陸新幹線 === {{Main|北陸新幹線#並行在来線の扱い|北陸新幹線敦賀以西のルート選定#並行在来線の扱い}} [[1997年]][[10月1日]]の[[高崎駅]] - [[長野駅]]間([[長野新幹線]])開業に伴い、[[信越本線]]のうち、高崎駅 - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間が[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の路線として存続、 横川駅 - [[軽井沢駅]]間が廃止、軽井沢駅 - [[篠ノ井駅]]間が[[第三セクター鉄道]]として設立された[[しなの鉄道]]に経営移管され、並行在来線経営分離の最初の例となった。篠ノ井駅 - 長野駅間については、[[篠ノ井線]]からの列車が多数乗り入れる輸送体系上、引き続きJR東日本が運営している。 [[2015年]][[3月14日]]の長野駅 - [[金沢駅]]間開業時には、信越本線と[[北陸本線]]のうち、[[長野県]]内区間(信越本線長野駅 - [[妙高高原駅]]間)がしなの鉄道に、[[新潟県]]内区間(信越本線妙高高原駅 - [[直江津駅]]間および北陸本線直江津駅 - [[市振駅]]間)が[[えちごトキめき鉄道]]に、[[富山県]]内区間(北陸本線市振駅 - [[倶利伽羅駅]]間)が[[あいの風とやま鉄道]]に、[[石川県]]内区間(北陸本線倶利伽羅駅 - 金沢駅間)が[[IRいしかわ鉄道]]にそれぞれ経営移管された。 [[2024年]][[3月16日]]予定の金沢駅 - [[敦賀駅]]間開業時には、北陸本線のうち、石川県内区間(金沢駅 - [[大聖寺駅]]間)がIRいしかわ鉄道に、[[福井県]]内区間(大聖寺駅 - 敦賀駅間)が[[ハピラインふくい]]に経営移管される予定である<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65401200T21C20A0LB0000/|title=北陸新幹線の予定通り延伸で連携 石川と福井知事|newspaper=日本経済新聞|date=2020-10-23|accessdate=2020-11-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=会社概要|株式会社ハピラインふくい|url=https://www.hapi-line.co.jp/company.html|accessdate=2022-10-11}}</ref><ref name="traficnews20230830" />。 敦賀駅 - [[新大阪駅]]間については、[[2019年]]5月に[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|鉄道・運輸機構]]が[[環境影響評価法]]に基づく計画段階環境配慮書を公表し、概略ルートを示しているが<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/jkr2-06-02.pdf#page=31|title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)事業に関する再評価|page=2-21|publisher=[[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]|date=2021-03|accessdate=2022-10-11}}</ref>、並行在来線の扱いについては未定である。 === 九州新幹線(鹿児島ルート) === {{See also|肥薩おれんじ鉄道}} [[2004年]][[3月13日]]に[[新八代駅]] - [[鹿児島中央駅]]間が開業し、[[鹿児島本線]]のうち[[八代駅]] - [[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]]間が第三セクター[[肥薩おれんじ鉄道]]に経営移管された。この区間はJR貨物が第二種鉄道事業を行っており、JR貨物も株主として出資し引き続き第二種鉄道事業を行っている。貨物列車の運転用に電化設備が存置されているが、熊本・鹿児島県境の閑散区間であり、旅客列車は運行経費削減のため軽快[[気動車]]による運転となった。この区間で運行されていた夜行列車は同鉄道区間への乗り入れが行われず、[[新大阪駅]] - 西鹿児島駅(鹿児島中央駅に改称)の「[[なは (列車)|なは]]」([[2008年]][[3月15日]]廃止)も[[熊本駅]]までに運行区間が短縮された。なお、JR九州が[[2013年]]から運行するクルーズトレイン「[[ななつ星 in 九州]]」、2020年運行開始の[[九州旅客鉄道#D&S列車(観光列車)|D&S列車]]「[[36ぷらす3]]」は当区間に乗り入れている。 これ以外の路線区間は都市圏輸送体系上、分離されずにJR九州が継続して経営を行っている<ref>[http://www.jiti.co.jp/graph/kouji/sin-kyusyu/sin-kyusyu.htm 連載特集・整備新幹線 九州新幹線:明日の九州を支える新幹線整備] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130512054814/http://www.jiti.co.jp/graph/kouji/sin-kyusyu/sin-kyusyu.htm |date=2013年5月12日 }} - 建設グラフ(自治タイムス)2002年8月号</ref>。 === 九州新幹線(西九州ルート) === {{Main|西九州新幹線#並行在来線の扱い}} [[長崎本線]]のうち[[江北駅 (佐賀県)|肥前山口駅]] - [[諫早駅]]間は[[上下分離方式]]により[[佐賀県]]と[[長崎県]]が鉄道施設を保有し、肥前山口駅 - [[肥前鹿島駅]]間については[[九州旅客鉄道|JR九州]]、肥前鹿島駅 - 諫早駅については両県が中心となって設立する[[第三セクター鉄道]]が鉄道運営を行うと合意されたが、一部沿線自治体の経営分離反対により、新幹線開業後もJR九州が並行在来線全区間を23年間運営する方針に変更された。ただし、上下分離方式については変更されておらず、両県共同で設立した[[佐賀・長崎鉄道管理センター]]が鉄道施設を保有する。また、長崎本線の諫早駅 - [[長崎駅]]間は経営分離されない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001131887.pdf|title=北海道・東北・九州新幹線の並行在来線区間|accessdate=2017-11-12|author=国土交通省|format=PDF}}</ref>。これらの区間のうち[[肥前浜駅]] - 長崎駅間については、電化施設を撤去し、[[気動車]]で運行される。並行在来線の電化設備の撤去は初の事例となる<ref>[https://news.railway-pressnet.com/archives/25993#:~:text=%E9%9B%BB%E5%8C%96%E7%B6%AD%E6%8C%81%E5%8C%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%BB%B6%E4%BC%B8,%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%81%A0%E3%80%82 長崎本線・肥前山口~諫早「非電化化」少し短縮 電化維持区間を肥前浜まで延伸] - 鉄道プレスネット 2021年7月7日</ref>。 == 地方格差助長問題 == {{独自研究|date=2016年4月|section=1}} 新幹線の建設を促進する理由として、地方格差の是正と地域振興が主張されるが、地方の衰退を促進する効果が大きいと指摘する専門家もいる<ref name="nagaoka">{{PDFlink|[http://www.nagaokauniv.ac.jp/m-center/chiken/pdf/vol_14/033-047.pdf 鯉江康正「開発投資型新幹線による地域振興策の検討 - 糸魚川地域を例として -」]}}、6.新幹線整備の影響(正の効果と負の効果)参照、[[長岡大学]]</ref>。 その理由として、以下のようなことを挙げている。 * [[北陸新幹線]]([[長野新幹線]])の開業で発展した[[長野県]][[佐久市]]に対して、新幹線ルートから外れた[[小諸市]]は衰退している<ref name="nagaoka" />。 * 整備の不徹底や[[ストロー効果]]により、地方格差の是正どころか大都市部への一極集中の促進効果が強い。これについては反論も存在する<ref name="nagaoka" />。 * 並行在来線の分離問題により、収益の低い路線を地方に押し付け財政悪化につながること<ref name="nagaoka" /> や、地方交通ネットワークが破壊されることなど。 == 設計・運行速度 == 整備新幹線区間はこれまで整備されてきた各新幹線同様最高速度が260 km/hとして設計・整備されている<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟|authorlink=曽根悟|title=新幹線50年の技術史|publisher=[[講談社]]|pages=195-196|isbn=978-4-06-257863-9}}</ref><ref>日本国有鉄道建設局新幹線工事課『東北新幹線工事誌-上野・大宮間-』、日本国有鉄道、1986年11月。</ref>。建設費用の問題や、速達性の需要程度の関係により、整備新幹線区間は開業時から設計時最高速度と同じ260 km/h運転を行うもののそれを超える速度での運転を行っていない。また、北陸新幹線の30[[パーミル|‰]]、九州新幹線の35‰([[筑紫トンネル]]ほか)勾配や線形など、新規路線にもかかわらず、従来の新幹線路線に比べきつい制限が掛かることもある。 2020年10月6日、JR東日本は[[盛岡駅|盛岡]] - [[新青森駅|新青森]]間で将来的に最高速度を現在の260 km/hから320 km/hに引き上げると発表した。防音対策などの工事が完了する2027年頃の運用開始を目指す<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20201006115203/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100600907&g=soc |title=盛岡-新青森で時速320キロへ 最大5分短縮、27年ごろ―東北新幹線 |newspaper=時事通信 |publisher=[[時事通信社]] |date=2020-10-06 |accessdate=2020-10-06 }}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[新幹線]] * [[全国新幹線鉄道整備法]] * [[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画]] * [[新幹線鉄道規格新線]] * [[ミニ新幹線]] * [[中央新幹線]] == 外部リンク == {{Wikinews|整備新幹線の未着工3区間、着工認可へ|date=2011年12月27日}} * [https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen.html 新幹線鉄道について] - 国土交通省 * [https://www.jrtt.go.jp/02Business/Construction/const-seibi.html 整備新幹線の建設] - 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 * {{Kotobank}} {{日本国有鉄道}} {{日本の新幹線}} {{日本の鉄道史}} {{デフォルトソート:せいひしんかんせん}} [[Category:整備新幹線|*]] [[Category:新幹線の路線|*せいひ]]
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北陸新幹線
北陸新幹線(ほくりくしんかんせん)は、東京都から上信越・北陸地方を経由して大阪市までを結ぶ計画の高速鉄道路線(新幹線)であり、整備新幹線5路線の一つである。2015年(平成27年)3月14日時点で、群馬県高崎市の高崎駅から石川県金沢市の金沢駅までの間が開業している。運営主体は高崎駅 - 上越妙高駅(新潟県上越市)間が東日本旅客鉄道(JR東日本)、上越妙高駅 - 金沢駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)である。 『鉄道要覧』では高崎駅を起点としているが、整備新幹線としては東京都が起点で、高崎駅以東については、東京駅(東京都千代田区) - 大宮駅(埼玉県さいたま市大宮区)間は東北新幹線、大宮駅 - 高崎駅間は上越新幹線と共用しており、列車は上越新幹線および東北新幹線を経由して東京駅まで乗り入れている。旅客案内上は東北・上越新幹線の東京駅 - 高崎駅間を含む東京駅 - 金沢駅間が「北陸新幹線」と案内される。2015年3月13日までは長野駅が終点であり、1997年(平成9年)の開業当時は「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と呼ばれていた(後節参照)。 北陸新幹線は1972年(昭和47年)に、全国新幹線鉄道整備法第4条第1項の規定による『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』により公示され、1973年(昭和48年)11月13日に整備計画が決定された5路線(いわゆる整備新幹線)の路線の一つである。国鉄の財政悪化により建設が一時凍結されたが、1989年(平成元年)に高崎駅 - 軽井沢駅間で着工され、1997年(平成9年)10月に高崎駅 - 長野駅間が整備新幹線としては初めて開業した。長野 - 金沢間は一部区間がスーパー特急方式で着工された後、全区間がフル規格化され、2015年(平成27年)3月に長野駅 - 金沢駅間が開業した。 1997年の開業時点では長野駅が終点であり、2015年の延伸まで北陸新幹線は北陸地方に達していなかったことから旅客向けには当初「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と呼称していた(詳細は沿革および「長野新幹線#「長野新幹線」の呼称の変遷」を参照)。JR東日本管内の駅の北陸新幹線の乗り換え案内では「北陸(長野経由)新幹線」、「北陸新幹線(長野経由)」など「長野経由」まで表示されている。 鉄道建設・運輸施設整備支援機構が鉄道施設を建設・保有し、高崎駅 - 上越妙高駅間はJR東日本、上越妙高駅 - 金沢駅間はJR西日本により運営されている。JR東日本・JR西日本の施設管理境界は上越妙高駅の金沢方・高崎起点177 km950 m地点である。同一名称の新幹線の路線が複数の鉄道会社によって運営されるのは、北陸新幹線が初めてであり、現在でも唯一である。また、JR西日本は北陸新幹線とは別に山陽新幹線も運営しており、JR東日本に続いて複数の新幹線路線を運営する鉄道会社となり、1つの鉄道会社が運営する新幹線の路線が直接つながっていない初の事例ともなった。 北陸新幹線は整備新幹線として初めて着工され、電源周波数が異なる地域や山岳地帯、豪雪地域を経由する路線でありながら工事費を抑えるために様々な新技術が用いられている。 金沢駅 - 敦賀駅間は2012年(平成24年)に着工され、2024年(令和6年)3月16日に開業する予定である。 なお、未着工区間である敦賀駅 - 新大阪駅間については、2019年(令和元年)5月に環境アセスメントのための概略ルートが公表されている。 安中榛名駅 - 上田駅間の通過線のない各駅と、飯山駅以西の各駅については開業当初よりホーム上に可動式安全柵が設置されており、2017年には軽井沢駅についても通過列車が存在する2・3番線に設置工事が行われている。上越新幹線との共用区間上の高崎駅・本庄早稲田駅・熊谷駅には通過線がある。 ※高崎駅は下り方に上越新幹線上り線と北陸新幹線上り線が別線で入線している 金沢 - 敦賀間に新設される駅については、各駅ともホームは12両編成対応の312 mであり、小松駅と芦原温泉駅が2面2線、加賀温泉駅と越前たけふ駅が2面2線+通過線、福井駅が1面2線、敦賀駅が2面4線となる。 1997年の高崎駅 - 長野駅間開業時点では旅客向けには「長野新幹線」と案内され、速達タイプも各駅タイプも全て「あさま」としての運行であった。2015年の長野駅 - 金沢駅間の開業にあたり、首都圏と富山・石川エリアを短時間で結ぶ速達タイプの「かがやき」、主に長野駅以東の主要駅と長野以西の各駅間の利便性確保を目的とした停車タイプの「はくたか」、富山駅 - 金沢駅間シャトルタイプの「つるぎ」、東京駅 - 長野駅間運転タイプの「あさま」の4種類になった。原則として、全ての列車がE7系・W7系を使用する。 「かがやき」は、東京駅 - 金沢駅間で運行される最速達タイプの列車である。全車指定席。 2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。途中停車駅は上野駅・大宮駅・長野駅・富山駅であるが、最速達列車の1往復は上野駅を通過する。朝と夜を中心に概ね毎時1本の割合で運行されており、2023年3月18日時点の最短所要時間は東京駅 - 長野駅間で1時間17分(下り)1時間18分(上り)、東京駅 - 富山駅間で2時間5分(下り)2時間6分(上り)、東京駅 - 金沢駅間で2時間25分(下り)2時間26分(上り)である。 「はくたか」は、東京駅・長野駅 - 金沢駅間で運行される列車である。 2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。東京駅 - 長野駅間では「かがやき」に次ぐ速達列車の位置づけであり、熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅は全列車通過し、「かがやき」が運転されない時間帯は大宮駅 - 長野駅間では高崎駅のみに停車する。長野駅 - 金沢駅間では基本的に各駅に停車する(一部の列車は飯山駅を通過)。概ね毎時1本の割合で運行されている。 「つるぎ」は、2015年3月14日に設定された、富山駅 - 金沢駅間で運行される列車である。 2015年3月14日の北陸新幹線金沢延伸開業に伴い、それまで運行されていた名古屋・大阪・福井方面から富山方面に直通運転していた在来線特急「しらさぎ」「サンダーバード」の運転区間が新幹線開業に伴い金沢駅までに短縮されたため、その代替として設定された。富山・金沢両都市間のシャトル列車としての役割を担っている。12両編成だがグランクラスを含む4両(8(一部列車)・9・10・12号車)は締め切り扱いで乗車できない。 「あさま」は、東京駅 - 長野駅間で運行される列車である。 1997年10月1日の長野開業時点では速達・各駅タイプを問わず全ての列車が「あさま」として運行されていたが、2015年の金沢延伸以降は東京駅 - 長野駅間の各駅停車タイプとしての役割が大きくなっている(全区間各駅に停車する列車は5往復のみで、それ以外は熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅のいずれかを通過する)。 2016年3月26日から現在までの基本的な日中ダイヤパターンである。 以下に示す時刻・運転区間などは昼間時間帯の平均的なパターンで、早朝・深夜は若干異なる。 列車番号は、かがやきが3000+号数+E、それ以外の定期列車が基本的に号数+E、臨時列車が8000、9000+号数+Eである。 2015年3月14日から2016年3月25日まで 長野新幹線時代の2005年からJR東日本管内の新幹線路線に先駆けて全面禁煙化に踏み切っている。金沢延伸後も喫煙車の設定はなく、喫煙スペースを設けた車両も存在しない。 運賃は営業キロに基づいて算出する。東京駅 - 高崎駅間の営業キロは、並行する東北本線(東京駅 - 大宮駅間)・高崎線(大宮駅 - 高崎駅間)と同一となっている。高崎駅以西については並行するJRの路線が存在しないため、実キロ(新幹線での実際の距離)が用いられている。 特急料金は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。基本的には他の新幹線と同様であるが、会社間をまたぐ(上越妙高駅を挟む)場合に定額(詳細後述)を加算している。JR西日本が『中日新聞』の取材に答えたところによると、2社での共同運行になるため運賃システムの改修が必要になり、九州新幹線など既存の新幹線と比べ早い時期の認可申請になったという。2019年10月1日改定の営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は以下のとおり。 北陸新幹線は全区間、JR東日本のえきねっと、JR西日本のe5489で予約した乗車券と特急券の受け取りが可能である。なお、JR西日本も山陽新幹線において導入しているエクスプレス予約については、北陸新幹線ではJR西日本管内の区間も含め対象外となっている。 東京駅 - 長野駅間はJR東日本長野総合運輸区(一部の列車は東京新幹線運輸区の運転要員が担当)、長野駅 - 金沢駅間はJR西日本金沢新幹線列車区の運転要員(運転士、車掌)がそれぞれ担当しており、管轄境界駅である上越妙高駅ではなく長野駅でJR東日本とJR西日本の乗務員が交代する。これは上越妙高駅に「かがやき」が停車しないため、JR東日本とJR西日本の両社が乗務員を効率的に運用できるよう、敢えて「かがやき」「はくたか」の全列車が停車する長野駅を交代駅と定めたものである。そのため、長野駅 - 上越妙高駅間は新幹線唯一の他社乗務員による運転区間となる。 車内販売ならびにグランクラスアテンダントはJR東日本サービスクリエーション (JESC) 金沢列車営業支店及び東京列車営業支店が担当しており、東京駅 - 金沢駅間は通し乗務となる。ただし、「つるぎ」のグランクラスおよび車内販売は非営業、「あさま」や長野駅 - 金沢駅間の「はくたか」はグランクラスがシートのみの営業となっており、車内販売は非営業である。 2019年5月1日以降は「かがやき」「はくたか」共に臨時列車での車内販売を終了する。同年7月1日以降はホットコーヒーや弁当、軽食類、デザート類、土産類、雑貨類の販売を終了して「ソフトドリンク類(ペットボトル)、菓子類、アルコール類、つまみ類」のみの販売となる。 北陸新幹線沿線の商用電源周波数は、群馬県内は50 Hz、長野県内は60 Hz、新潟県内は50 Hz、富山・石川県内は60 Hzとなっている。営業中の新幹線路線で異周波数接続が存在する路線は北陸新幹線が唯一である。異なる周波数の電流が混触すると大電流が流れるおそれがあるため、電気的な絶縁を保ちつつ変電所間での電源系統の切替を行うために、新軽井沢き電区分所(SP)、新高田SP、新糸魚川SPに周波数切替セクションが設けられている。列車の通過に連動して自動的にき電を切り替えるため、新幹線車両はこれらのセクションを力行したまま通過できる。高崎駅 - 軽井沢駅 - 新軽井沢SP間が50 Hz、新軽井沢SP - 佐久平駅 - 上越妙高駅 - 新高田SP間が60 Hz、新高田SP - 糸魚川駅 - 新糸魚川SP間が50 Hz、新糸魚川SP - 黒部宇奈月温泉駅 - 金沢駅 - 白山総合車両所間が60 Hzとなっている。 また、新幹線の保安装置であるATC(自動列車制御装置)では、異周波数電源が突き合わされるSP付近において異周波妨害が起こる。そのため1997年の長野開業時には異周波妨害対策法を開発することで50 Hzと60 Hzの両周波数に対応し、当時東北・上越新幹線で用いられていたアナログATC(ATD-1D)と互換性を持つアナログATC(ATC-HS型、HS-ATC)が導入された。その後東北・上越新幹線で導入が進められたデジタルATC(DS-ATC)は電源周波数が50 Hz用であったため、金沢開業を前に新たに60 Hz対応のDS-ATCが開発され、北陸新幹線に導入された。 なお、新潟県内の50 Hzき電を担う新上越変電所の異常時には、隣接する変電所からの救済き電により、新高田SS - 新糸魚川SS間を60 Hzき電に切り替えることが可能である。そのため、この区間では50 Hzと60 Hzの両対応のATC装置や電気設備が設けられており、周波数に応じて切り替える構成になっている。 北陸新幹線の経由する上信越・北陸地方は日本でも有数の豪雪地帯であり、冬季においても安定輸送を維持するための対策を施す必要がある。1985年(昭和60年)12月に高崎 - 小松間の認可申請が行われると、北陸新幹線の雪害対策の検討が開始された。既設新幹線においては、比較的降雪量が少ない東北新幹線盛岡以南では貯雪方式が、降雪量が多い上越新幹線では散水消雪方式が採用されていた。しかし、散水消雪方式の導入には多額の費用が必要である。在来線で行われている機械除雪は安価であるが、人家に近接する場所や道路との交差箇所での雪捨て場の確保の問題がある。整備新幹線においては建設費の低減が求められており、沿線の気候条件に適した様々な技術を開発する必要があった。 1986年度に、北陸新幹線の建設主体であった鉄道公団は、北陸新幹線沿線の雪質および雪量に対応した貯雪量の多い貯雪式高架橋の実物大試験を行った。モデル高架橋は北陸新幹線沿線の富山市に近い富山県大沢野町舟倉地先に設置された。積雪深120 cmと170 cmの試験設備が設けられ、新幹線のスノープラウによる排雪を再現した実験が行われた。 さらに、鉄道公団と新日本製鐵は新たな対策方法として、温水が流れるパイプを設置したパネルによって雪を融かす消雪パネルの開発を行った。そして1987年度から1989年度まで飯山市の消雪試験場で試験を実施した。その後、「運輸省案」に基づき長野 - 軽井沢間を優先して着工する方針が示されたことで、北陸新幹線向けの試験はいったん終了したが、同時期に高速化が決定した北越北線の一部区間において、鉄道として初めて消雪パネルを導入することが決定した。 ハード面での対策としては沿線の積雪状況や周辺地形を踏まえて、区間ごとに様々な対策が取られている。飯山駅 - 金沢駅間では雪害対策のためホーム全体が屋根で覆われている。 JR東日本管内のうち比較的積雪量が少ない長野までの区間では高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している。降雪量の多い区間ではスプリンクラーによる散水消雪方式が採用されている。飯山エリアでは、東北新幹線で実績があり、厳冬期に早期散水が可能となるよう予め送水本管内に温水を循環させておく「循環方式」を採用している。一方、上越エリアでは、上越新幹線で実績があり、散水終了後に送水本管内の水抜きを行うことで凍結を防止する「水抜き方式」を採用している。また、新規導入設備としてトンネル緩衝口端部より5 m幅で散水するトンネル雪庇散水や、下り線側の保守用斜路への散水消雪設備が導入された。 JR西日本管内では、沿線に水源を確保できる場合はスプリンクラーによる散水消雪を採用し、困難な場合には高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している。比較的降雪量の多い区間では、高架橋内の降雪を減らすための雪覆いを設けた半雪覆式貯雪型高架橋が採用されている。貯雪可能な量を超える積雪が予想される糸魚川 - 富山間の黒部地区では、夜間にロータリーモーターカーで雪を高架下に投下できる側方開床式貯雪型高架橋が採用されている。しかし、道路などがあり高架下への投雪が困難な区間では、高架橋を拡幅して貯雪量を増やした閉床式貯雪型高架橋(拡幅型)、拡幅も困難な場合は高架橋のケーブルダクト上に加温した不凍液を循環させる温水パネルを設置して融雪するなど、周辺環境に合わせた対策を行っている。また、トンネル間の短い明かり区間にはスノーシェルターを設けることで高架橋への積雪を防止している。 ソフト面での対策としては、台車からの落雪により地上設備が破損することを防ぐため、東京方面へ直通する列車に対して、糸魚川駅上りホームにおいて雪落とし作業を行っている。雪落とし作業の要否については前日の降雪予報と経験によって判断されていたが、実際には着雪量が少ないため作業が不要である事例が生じていた。そこでJR西日本は人工知能 (AI) を用いて沿線の気象状況などから着雪量の推定を行い、雪落とし作業の要否判断を支援するツールの導入を検討した。着雪量推定モデル作成にあたってはオープンコンペティション方式を活用した。そのうち上位3件のモデルをもとに雪落とし作業の要否判断を支援するツールを開発し、実際の業務に導入している。さらに、画像分析AIによって営業列車の着雪量を測定することで、毎年冬に着雪量推定モデルの再学習が可能となり、さらなる精度向上が期待される。なお、金沢駅および白山総合車両所でも雪落とし作業を行っている。 上越妙高 - 富山間、富山 - 金沢間のうち、気象条件によって夜間に架線へ雪氷が付着する可能性がある区間について、雪氷を除去するために始発列車前に110 km/h以下の回送列車(雪払い列車)を運行している。また、北陸新幹線では列車本数が少なく、激しい降雪の場合に列車間合いにおいて運転中止基準(積雪量レール面上31 cm)に達すると予想される場合、排雪列車として臨時回送列車を設定する。開業後、実際に4本の排雪列車を運転し、運転中止を回避している。 2018年1月から2月にかけての大雪により、北陸地方では交通網に大きな影響が生じた。1月下旬、大雪による道路通行止めの影響で、係員が新高岡 - 金沢間の除雪基地にたどり着けない事態が発生した。この時は他の区間から除雪車を手配することができたが、夜間の除雪作業ができないことは翌日の新幹線の運行に大きな影響を及ぼす。そこで、同様の事態が再び起きた場合に備えて、回送列車を用いて除雪基地付近まで係員を移動させる案が検討され、同年2月上旬には実際に行われた。 さらに、開業以来実施されたことはないが、高架橋外への投雪が困難な富山 - 金沢間において上下線で運転中止となるほどの降雪が生じた場合、単線運転を行うことが可能になっている。単線運転時には下り線を投雪スペースとして除雪車による除雪を行った後、上り線のみを使用する。保安装置については通常のDS-ATCではなく代用のRS-ATCを使用し、最高速度110 km/h以下で運転することになる。 建設中の金沢駅 - 敦賀駅間では、石川県能美郡川北町と福井県あわら市伊井の2か所に除雪基地が設けられ、冬季は基地内に格納した除雪車が必要に応じて出動する予定となっている。 1975年から国鉄において、地震波のP波から地震の規模や位置を推定するアルゴリズム(早期検知アルゴリズム)の研究が行われ、世界初のP波警報システムである「ユレダス (Urgent Earthquake Detection and Alarm System)」の開発が進められた。ユレダスは1992年に東海道新幹線で導入が開始され、1998年には北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間においても導入された。ユレダス導入によってP波およびS波の2種類の警報判定が可能になり、S波到達より早く新幹線の停止信号を送ることが可能になった。 その後、最新の観測技術や高速ネットワークに対応し、早期探知アルゴリズムを改良した「早期地震防災システム」が開発された。 2004年に発生した新潟県中越地震による上越新幹線脱線事故を受けて、新幹線車両が地震などにより脱線した場合でも、車両がレールから大きく逸脱することを防止する「車両逸脱防止L型ガイド」を開発し、2008年度上期までに全ての新幹線車両に設置を完了した。さらにレールの転倒や大幅な移動を防ぎ、L型車両ガイドが有効に機能するよう、スラブ軌道用やバラスト軌道用などの「レール転倒防止装置」を開発し、敷設工事が進められている。 1965年(昭和40年)9月26日、金沢市の石川県体育館で「1日内閣」が開催された。これは後年に言うタウンミーティングのようなもので、現職閣僚が地方へ出向いて実情を聞く公聴会であった。当時内閣総理大臣を務めていた佐藤栄作も出席したこの公聴会において、富山県代表の公述人である岩川毅(中越パルプ工業創業者・当時の砺波商工会議所会頭)は、政府に対して東京を起点とし松本、立山連峰を貫通して富山、金沢を経由して大阪に至る「北陸新幹線」の建設を求めた。この提案に、鉄道官僚出身の佐藤も興味を示した。「1日内閣」での新幹線構想の発表により、北陸地方では新幹線誘致の機運が高まっていった。 1967年(昭和42年)7月には、北陸三県商工会議所会頭会議において、北陸新幹線の実現を目指すことが決議された。その後、同年12月8日に「北回り新幹線建設促進同盟会」が発足した。これは、北陸地方の活性化と将来逼迫する東海道新幹線の代替交通機関を目的としていた。1969年(昭和44年)5月30日に「新全国総合開発計画」が閣議決定された。この中で主要開発事業の構想として「北陸地方を首都圏および近畿圏と結ぶ北回り新幹線鉄道の建設を進めるとともに」と現在の北陸新幹線に相当する新幹線鉄道の建設構想が盛り込まれた。 1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法(以下「全幹法」)が公布された。この法律により、逼迫する幹線の輸送力増強を目的とした東海道・山陽新幹線とは異なり、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。1972年(昭和47年)6月29日に基本計画が決定、7月3日に全幹法第5条第1項の規定による「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和47年運輸省告示第243号)により北海道新幹線(青森市 - 札幌市)、北陸新幹線(東京都 - 大阪市)、九州新幹線(福岡市 - 鹿児島市)の3路線の基本計画が告示された。この基本計画において北陸新幹線は、東京都を起点に長野市附近、富山市附近を主要な経過地として大阪市を終点とすることが示された。整備計画決定を受けて「北回り新幹線建設促進同盟会」は1972年7月に「北陸新幹線建設促進同盟会」と改称した。 翌年の1973年(昭和48年)11月13日には前述の3路線に加え、東北新幹線(盛岡市 - 青森市)、九州新幹線(福岡市 - 長崎市)を含む5路線(いわゆる整備新幹線)の整備計画が決定された。北陸新幹線は主要な経過地として「長野市附近、富山市附近、小浜市附近」が示され、その他「東京都・高崎市間は上越新幹線を共用する。」とされ、建設主体は日本鉄道建設公団とされた。 高崎 - 長野間のルートでは、高崎 - 長野間をほぼ最短距離で結ぶ鳥居峠経由の「長野原ルート」と信越本線に沿って結ぶ「信越本線沿いルート」が考案された。その後の地質調査の結果、「長野原ルート」では活火山である草津白根山に長大トンネルを建設する必要があり、施工はほとんど不可能であるとされた。そのため、距離は長くなるが沿線人口や利用客の多い「信越本線沿いルート」が採用された。 高崎 - 軽井沢間の標高差は約840 mあり、信越本線は横川駅 - 軽井沢駅間に存在する碓氷峠を66.7 ‰の勾配で通過していた。当時の新幹線規格であった12 ‰勾配で建設するためには延長70 kmの路線を建設して峠を大きく迂回しなければならず、工費や所要時間の拡大につながる。そこで、公団は高崎から左に進み松井田駅上空を橋で通過し、物見山の下をトンネルで抜け、佐久方面に抜ける南回りのルート案を検討したが、当時年間80万人もの観光客を有する軽井沢駅を経由しないため、運営主体となる国鉄から難色を示された。その後、高崎駅を出てすぐ登り始めて30 ‰の勾配で軽井沢へ向かい、中間に途中駅を設けられるよう1 km程度の水平部分を設けるルートが検討された。その後、公団や国鉄内部で車両工学の面からも検討が重ねられた後、1984年(昭和59年)3月20日に北陸新幹線高崎 - 長野間のルートを公表し、環境影響評価を開始した。 長野 - 富山間については途中の経由地が明示されず、国鉄は1975年(昭和50年)頃に北アルプス(飛騨山脈)の直下をトンネルで貫通する短距離ルートの建設も検討したが、火山地域のため高熱となる岩盤や最大2000mに達する「土被り」(地表からトンネルまでの距離)で生じる大量の湧水や「山はね」(岩盤破壊)に耐えながら全長約70 kmに及ぶ超長大トンネルを建設するのは困難として、信越本線や北陸本線に沿って新潟県上越市などを経由する従来のルートでの建設が決定された。 国鉄の経営悪化などを背景に1982年(昭和57年)9月の臨時行政調査会の基本答申に沿って、北陸新幹線を含む整備新幹線計画を当面見合わせる閣議決定がなされた。 1985年(昭和60年)12月に、高崎 - 小松間の認可申請が行われた。国鉄改革や行財政改革の進展、沿線地域の建設促進への強い要望などを背景に、1987年(昭和62年)1月に整備新幹線建設の凍結解除が閣議決定され、北陸新幹線の建設に道が開かれた。同年4月に国鉄が分割民営化され、北陸新幹線については東日本旅客鉄道(JR東日本)が高崎市 - 上越市、西日本旅客鉄道(JR西日本)が上越市 - 大阪市の営業主体とされた。 しかし、建設費を削減するため、いわゆる「運輸省案」が考案され、北陸区間については以下のような案が検討された。上野 - 長野間では高崎 - 軽井沢間に標準軌新線を建設し、軽井沢 - 長野間 に狭軌に加え標準軌を導入する新幹線直通線化(ミニ新幹線化)をすることで上野 - 長野間でミニ新幹線車両による直通運転を行い、所要時間を2時間44分から1時間52分に短縮するとした。上野 - 富山・金沢間は東京のほかに大阪や名古屋や新潟との旅客流動も大きいことから、糸魚川 - 魚津間および高岡 - 金沢間に、新幹線と同じ規格の新線を建設するが当面狭軌を敷設して北陸本線と直通運転を行う新幹線鉄道規格新線(スーパー特急方式)による整備を行うとされた。また、越後湯沢駅で上越新幹線と接続し、当時建設中であった北越北線(現 北越急行ほくほく線)を高速化し、これを経由して富山、金沢までを最高速度160 km/hで結ぶスーパー特急を運行するとされた。これにより上野 - 富山間は3時間26分から2時間48分に、上野 - 金沢間は4時間10分から3時間17分に短縮されるとした。 1988年(昭和63年)8月31日の「整備新幹線の取扱いについて」において整備新幹線着工優先順位が示され、1(i)として北陸新幹線高崎 - 軽井沢間の標準軌新線、なお軽井沢 - 長野間の取扱いは1998年冬季五輪の開催地決定を考慮して3年以内に結論を出す。1(ii)として高岡 - 金沢間の新幹線規格新線。2として東北新幹線。3として九州新幹線。4として糸魚川 - 魚津間の新幹線規格新線とされた。 1989年(平成元年)1月17日の政府与党申合わせにおいて、整備新幹線の建設主体などなどが示された。整備新幹線の事業費はJR、国、沿線の地方自治体の負担とすること。建設主体は日本鉄道建設公団とし、建設した鉄道施設を公団がJRに有償で貸し付けること。北陸新幹線高崎 - 軽井沢間を平成元年度から本格的に着工すること、あわせて難工事推進事業として3トンネルについても平成元年度中に着手すること。並行在来線である信越本線横川駅 - 軽井沢間については、適切な代替交通手段を検討し、その導入を図ったうえで開業時に廃止することとし、そのために関係者間で協議するとされた。 1989年(平成元年)1月17日の申し入れを受けて、公団は1985年(昭和60年)12月25日に認可申請した北陸新幹線 高崎 - 小松間の工事実施計画を高崎 - 軽井沢間と軽井沢 - 小松間に分割し、1989年6月23日に高崎 - 軽井沢間の追加申請を行い、6月28日に高崎 - 軽井沢間41.2 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された。その後、8月2日に軽井沢駅構内で起工式が行われた。 「運輸省案」では軽井沢 - 長野間について、信越本線を新幹線直通線(ミニ新幹線)化する方式で整備するとしていた。そのため、首都圏と直通する列車の廃止や並行在来線問題を回避できるとして、信越本線沿線で北陸新幹線の駅設置計画がない長野県内の小諸市や御代田町はミニ新幹線の早期着工を主張した。しかし、1990年(平成2年)の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合わせ」において、北陸新幹線 軽井沢 - 長野間については、必要な調整を行ったうえで、標準軌新線で平成3年度において、所定の認可等の手続きを経て、その建設に着工すること。建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認することが示された。その後、県による説得が行われ、御代田町が第三セクター化を受け入れ、1991年(平成3年)6月には小諸市も同意した。これにより軽井沢 - 長野間においても標準軌新線(フル規格)着工認可の条件が整った。なお、6月11日には長野市が1998年のオリンピック・パラリンピック開催地に決定している。同年8月22日に軽井沢 - 長野間53.6 kmの工事実施計画(フル規格)が認可され、9月17日に起工式が行われた。佐久市と小諸市は佐久(仮称)駅の駅名をめぐっても対立した。詳細は「佐久平駅」を参照。 1997年(平成9年)10月1日に高崎駅 - 長野駅間が開業した。これにより、東京駅 - 長野駅間の所要時間は最短で1時間19分となった。しかし長野開業時点では、東京から富山・金沢へは越後湯沢駅で上越新幹線からほくほく線経由の在来線特急「はくたか」を乗り継ぐルートが最速ルートであった。このため、JR東日本は東京から北陸方面への旅客の誤乗車を防ぐため、案内名称として長野行新幹線(後に「長野新幹線」と短縮)を用いていた。また、北陸新幹線開業に備え、東京駅のJR東日本の新幹線ホームが1面2線から2面4線に増設された。 厳しい財政状況のなかで建設が開始されたことから、建設費縮減のため様々な新技術が導入された。前述のとおり、勾配の上限を30 ‰に高めることで路線延長を約20 km短縮し、建設費を約1,000億円圧縮することが可能となった。また、高崎起点約3.3 kmの上越新幹線との分岐点では国内最速の分岐器である「38番分岐器」を導入し160 km/hで分岐器側の通過を可能にした。これにより、上越新幹線の軌道をできるだけ長い区間共用することで、下り線の高架橋約2.2 kmを新設せずに済んだ。この他、橋梁においては新幹線初のPC斜張橋、架線においては従来新幹線で用いられていたヘビーコンパウント架線に比べ、経済的で輸送量に見合った高速シンプル架線(CSシンプルカテナリ式)が初めて採用された。 2014年度末に新規開業する長野駅 - 金沢駅間は保安装置がデジタルATCであることから、2013年11月9日夜から10日早朝にかけて、高崎駅 - 長野新幹線運転所までの区間の保安装置が従来のアナログATCからデジタルATCに切り替えられた。これにより、JR東日本の新幹線の全区間がデジタルATC化された。このATC更新により、2014年3月15日のダイヤ改正から東京駅 - 長野駅間で平均して下りで2分、上りで4分所要時間が短縮された。 1989年(平成元年)6月に難工事推進事業として、富山・石川県境にまたがる加越トンネルの着工が認可された。 1992年(平成3年)に新幹線直通線(ミニ新幹線)や新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)による「暫定整備計画」を決定できるよう全幹法が改正された。北陸新幹線では「運輸省案」に基づき2区間でスーパー特急方式による暫定整備計画が認可され、着工された。 1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において高崎 - 軽井沢間と並んで着工優先順位1位であった高岡 - 金沢間は、富山県内の自治体が並行在来線の経営分離に反対したため、ルートを変更したうえで着工区間を石動 - 金沢間に短縮した。石動 - 金沢間は北陸本線で石動駅(小矢部市)西方約1 kmの西石動(仮称)信号所で分岐し、在来線駅に併設して金沢駅を設置し、金沢駅の西方約1 kmで北陸本線に合流する計画であった。1992年(平成4年)7月29日に小矢部市 - 金沢市間の暫定整備計画が決定、8月6日に石動 - 金沢間25.0 kmの工事実施計画が認可され、8月27日に起工式が行われた。その際、加越トンネルはルート変更により不要となり、既に投入された建設費8億円は富山県が負担することになった。石動 - 金沢間においては2007年度末までに富山・石川県境から金沢駅までの土木工事がほぼ完成した。 1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において着工優先順位4位であった糸魚川 - 魚津間は、北陸本線糸魚川駅西方4 kmの西糸魚川(仮称)信号所で分岐し、新設する新黒部(仮称)駅(現 黒部宇奈月温泉駅)を経て、魚津駅手前の東魚津(仮称)信号所で北陸本線に合流する計画であった。1994年(平成5年)9月13日に糸魚川市 - 魚津市間の暫定整備計画が決定、9月22日に糸魚川 - 魚津間40.5 kmの工事実施計画が認可され、10月13日に起工式が行われた。 1996年(平成8年)12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」では北陸新幹線の新規着工区間として長野 - 上越間の標準軌新線(フル規格)が示された。平成8年の合意に基づいて、1998年(平成10年)1月に「政府・与党整備新幹線検討委員会における検討結果」が公表され、従来の整備新幹線計画が維持されていることを確認したうえで新規着工区間の優先順位が示され(1)東北新幹線 八戸 - 新青森間、九州新幹線(鹿児島ルート)船小屋 - 新八代間(2)北陸新幹線 長野 - 上越間とされた。 同年3月には長野 - 上越間約60 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された。 2000年(平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野 - 富山間について「フル化し、今後概ね12年後強の完成を目指す」とされた。今回着工しない区間ついてはについては、東北新幹線(盛岡駅 - 八戸駅間)、九州新幹線(新八代駅 - 鹿児島中央駅間)の開業後に見直しを行うとされた。このうち、富山 - 金沢間は「三、の見直しの際、石動 - 金沢間をすでに着工していることを踏まえて認可に向けた検討を行う」とされた。2001年(平成13年)4月には上越 - 糸魚川間、魚津 - 富山間の新規着工を含む上越 - 富山間全区間がフル規格で着工された。 2003年(平成15年)10月1日に鉄道建設・運輸施設整備支援機構が設立され、日本鉄道建設公団は解散した。これにより北陸新幹線の建設・貸付け業務は機構に引き継がれた。 2004年(平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野駅 - 金沢車両基地(現 白山総合車両所)間についてはフル規格で整備するものとし、富山 - 石動間、金沢 - 金沢車両基地間については平成17年度当初に着工し、長野 - 金沢車両基地間で一体的に平成26年度末の完成を目指すとされた。この申し合わせに基づき、2005年(平成17年)4月27日に富山 - 金沢(白山総合車両所)間の全区間がフル規格で認可され、6月26日に起工式が行われた。これにより富山 - 石動間約35 kmと金沢 - 白山総合車両基地間約9 kmが新規着工、石動 - 金沢間約25 kmがフル規格化されることになった。 2006年(平成18年)4月14日に既認可区間である長野 - 上越間、上越 - 富山間、富山 - 金沢間を変更して長野 - 金沢(白山総合車両基地)間の一体的な完成を目指す工事実施計画の変更認可申請が行われ、同月28日に認可された。 2015年(平成27年)3月14日に長野駅 - 金沢駅間が開業し、金沢駅 - 白山総合車両所間の線路も回送線として運用が開始された。これにより、東京 - 富山・金沢間の鉄道での最速ルートは北陸新幹線となり、所要時間は最短で東京駅 - 富山駅間が2時間8分、東京駅 - 金沢駅間が2時間28分となった。旅客向けの案内は「北陸新幹線」に統一されたが、JR東日本管轄区間においては一部で「北陸新幹線(長野経由)」と案内される場合がある。 長野 - 金沢間の総事業費は 16,988 億円(平成30年度)であった。全線フル規格の新規認可額は 15,660 億円(平成15年4月価格)であったが、建設物価上昇の影響や法令・基準等の改正、地質不良等に対する工事費の増額に伴い、平成24年3月に約 14 %増嵩となる 17,801 億円に修正された。しかしその後のコスト削減や落札差額により、修正額から813億円減となる 16,988 億円(新規認可額に対して 8 %増)で事業を完成した。 北陸新幹線の整備費用のうち、新潟県の負担分について国と新潟県との間で一時対立が生じていた。 2009年(平成21年)2月12日、新潟県の泉田裕彦知事は、国土交通省から資材価格高騰などを理由に220億円の建設費追加負担を求められたことに対して、「突然増額を求められても対応は難しい」として、算出根拠について納得できる説明があるまでは増額分の負担に応じない姿勢を表明した。 同年12月25日、泉田知事は前原誠司国土交通大臣と話し合い、「県と国の信頼関係が再構築された」として2009年度分負担金残額計104億円を支払うと表明した。新潟県は2009年(平成21年)11月6日に国地方係争処理委員会へ計画の認可について審査を要求し、委員会は同年12月25日却下。新潟県は却下に対して規定の30日内の2010年(平成22年)1月27日までに東京高裁に提訴せず、国との協議は続行されることとなった。 しかし、新潟県は協議が進展しないことを理由に2011年度当初予算案に建設負担金を盛り込まなかった。 2010年9月13日、JRが国側へ支払う貸付料には、並行在来線の赤字解消分が含まれるとして新潟県が行った北陸新幹線貸付料に関する情報開示請求に対して一部開示の決定がなされた。これを受けて同県は、同県区間の並行在来線の赤字解消相当額は、30年で780億円を超えるとの試算を発表した。 なお、新潟県および泉田知事の対応には、大阪府の橋下徹知事(当時)は北陸新幹線自体には賛成ではあるが、直轄事業負担金の観点からこの対応に強い支持を表明した一方、新幹線未開業の富山・石川両県を人質にとるような手法であることから石川県の谷本正憲知事からは強い不快感が表明された。 しかし2012年2月17日、新潟県の泉田知事は前田武志国土交通大臣と会談し、新幹線開業に伴う並行在来線の第三セクター運営において、国内有数の豪雪地域である信越及び越中・越後国境(新潟・富山県境)での鉄道運営に関する赤字相当額として県が試算していた「30年間で780億円」という金額を国が追加支援をする事等を条件に、これまで県として支払いを拒否していた地方負担分を支出することに合意した。これにより、北陸新幹線の建設は予定通り2014年度末までの開業計画に遅れることがなくなった。 2000年(平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢 - 南越間では「福井駅部機能高度化事業を行う」とされた。 2004年(平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢車両基地 - 南越間では、福井駅部についてえちぜん鉄道の高架化と一体的に工事を行うため、2005年度(平成17年)当初に着工し2008年度(平成20年)末の完成を目指すとされた。南越 - 敦賀間については直ちに工事実施計画の認可申請を行うとされた。この申し合わせに基づき、2006年(平成17年)4月27日に福井駅部の工事実施計画が認可され、6月26日に起工式が行われた。また、同年12月には南越(仮称)- 敦賀間の工事実施計画の認可申請が行われた。福井駅部は高崎起点421 km405 mに位置し、北陸本線の東側に高架橋を設置する延長800mの区間であり、2009年(平成21年)2月に高架橋が完成した。その後、福井駅部の高架橋は2015年(平成27年)9月27日から2018年(平成30年)6月24日にえちぜん鉄道単独の高架完成までの間えちぜん鉄道の福井駅 - 福井口駅間の仮線・仮駅舎として使用されていた。 2011年(平成23年)12月26日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党確認事項において北陸新幹線は長野駅 - 白山総合車両基地間の「平成26年度末の開業」および新たな着工区間として、白山総合車両基地 - 敦賀駅間について営業主体であるJR西日本の同意と並行在来線の経営分離に関する沿線自治体の同意を条件に「長野・白山総合車両基地の開業から概ね10年後強」を想定完成・開業時期とする方針を示した。 翌2012年(平成24年)6月に北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間が認可、着工された。 2023年(令和5年)5月27日、芦原温泉駅で金沢駅 - 敦賀駅間のレール締結式が行われ、東京 - 敦賀間約580kmが線路で繋がった。 金沢駅以西については、フリーゲージトレイン(FGT)による在来線乗り入れとする案が検討されてきた。これは、金沢駅 - 敦賀駅開業後、在来線である湖西線に乗り入れて京都駅経由で大阪(新大阪駅または大阪駅)へ至るというもので、敦賀駅以西の建設の見通しが立たないことにより、2012年2月に国土交通省が提案したものであった。FGTが導入されると、北陸本線・東海道本線経由で米原・名古屋方面への直通も可能になるというメリットもあった。 金沢 - 敦賀間の着工に向けた試算では、金沢 - 敦賀間のフル規格整備に加えて、富山 - 大阪間に軌間可変電車(フリーゲージトレイン)の導入した場合についても想定されていた。 2013年6月からFGTのプロジェクトチームを拡大して開発を本格化するとした。JR西日本もこの案を前向きに検討し、同社は2014年9月、敦賀市において模擬台車による軌間変換試験を同年10月から開始すること、また、北陸ルートに対応したFGT試験車(6両編成)の設計・製作にも取りかかり、2016年度から試験車両による試験を始めることを表明していた。 しかし、FGTは開発途上で技術的な課題があるとともに、仮に実現しても在来線では従来の特急列車と同じ速度でしか運転できない、通常の新幹線より重くなることにより線路の保守費用が膨らみ、車両の製造費が高くなるというデメリットが指摘された。さらに、金沢 - 敦賀間の開業が当初予定の2025年度から2022年度に3年繰り上げられたことで、JR西日本は開業が前倒しされた場合には、導入が間に合わないとの見解を示した。 なお、2012年5月には沿線の富山・石川・福井・滋賀・京都・大阪の各府県と関西広域連合、JR西日本はFGT導入について、新幹線の大阪延伸までの暫定措置として認めるとの申し入れを国土交通省に行っているが、福井県の市民団体は高価なFGT車両の導入により敦賀以西のフル規格での整備が進まなくなる、料金が割高になるとして、導入を見送るように県に対して申し入れを行っている。 2015年(平成27年)1月14日の「整備新幹線の取扱いについて」の中で「沿線地方公共団体の最大限の取組を前提に、完成・開業時期の前倒しを図る。」とする方針が示された。北陸新幹線においては金沢 - 福井 - 敦賀間の「完成・開業時期を平成37(2025)年度から3年前倒しし、平成34(2022)年度末の完成・開業を目指す」とされた。また、在来線との乗換利便性を確保し、十分な開業効果をできる限り早期に発揮する観点から、別途与党において、整備が先行している福井駅の早期活用等について、今夏までに検討を行うこと。金沢 - 敦賀間には、フリーゲージトレインを導入することが予定されているが、フル規格を前提とする整備計画に影響を与えるものではないことも示された。 2017年6月17日の定期会見で福井県知事は九州新幹線(西九州ルート)(JR九州)でのFGT導入見送りを受けて、在来線特急の調整を行う都合から、採用の結論を求めていた一方で、同年6月20日のJR西日本の定期記者会見においては、技術的な問題が解決するまで動向を注視するとして、FGT導入について明言を避けていたが、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、導入を断念せざるを得なくなった。 フリーゲージトレインの導入を断念する方針が発表されると、与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(PT)の検討委員会において、福井駅および敦賀駅の乗換利便性向上設備の追加が決定された。福井駅の新幹線ホームは1面2線と狭いことから、乗換利便性向上のため、ホーム開口部を3か所設置することや中2階に在来線との連絡通路を設置すること、ホーム柵の位置を変更してホーム幅を拡張する計画となった 。また、2020年度の福井先行開業も計画していたが2017年3月11日に与党PTにより断念している。敦賀駅では大阪・米原方面の在来線特急との乗り継ぎ時間短縮などを目的に、新幹線駅舎の1階に在来線を引き込み、上下で乗り換えできるように計画が見直された。2017年(平成29年)10月には工事完了を「平成34(2022)年度に前倒しする」ことや、福井駅、敦賀駅の乗換利便性向上施設などを追加した工事実施計画(その2)が認可された。 建設コストの削減や河川環境への影響低減を目的に、九頭竜川に架かる北陸新幹線 九頭竜川橋りょうと福井県道 新九頭竜橋(仮称)の一体的整備が進められており、完成すれば新幹線では初の鉄道道路一体橋となる。橋梁下部工を鉄道と道路で一体構造にすることで、約2.5億円のコスト削減が見込まれる。九頭竜川流域への環境問題において、前述の九頭竜川橋りょう建設地付近には国指定の天然記念物であるアラレガコの生息地が存在する。これらの生物は遡上能力が高くないため、環境変化の影響を受けやすい。そのため、川の流れを変える瀬替えをしない、間隔を広くとった仮橋・仮設構台を設けて施工している。2019年5月11日には九頭竜川橋りょうの架橋工事が完了している。 敦賀市内に建設予定の深山トンネル付近には、新幹線建設の認可後、国際的な湿地保護条約であるラムサール条約に登録された中池見湿地が存在している。そのため、専門家による検討委員会が開催され、中池見湿地付近の深山トンネルと後谷部およびその前後のルートを東側へずらすルート変更が行われ、認可された。 2019年(平成31年)3月には現認可額の1兆1,858億円から2,263億円の増加となる1兆4,121億円となる工事実施計画の変更が認可された。 2021年(令和3年)3月には工事費の増額および工事の完了時期の変更伴う工事実施計画の変更が認可され、工事費は現認可額の1兆4,121億円から2,658億円の増加となる1兆6,779億円となった。また工事の完了時期が現認可の平成34(2022)年度末から令和5(2023)年度末に変更された。 金沢 - 敦賀間の総事業費は 16,779 億円(令和2年4月価格)である。平成23年の新規認可額は 11,600 億円であったが、消費税増税や物価上昇、耐震設計標準の改訂等により、平成29年に 14,121 億円に修正された。更に、物価上昇と法令改正、地質不良対策・工期短縮策・生コン不足対策等により、令和2年に 16,779 億円に修正された。平成23年の新規認可額と、令和2年の事業費を比較すると、5,179 億円(約 45 %)増額された。 長野県千曲市が長野駅-上田駅間に新駅「新千曲駅」(仮称。旧仮称「更埴駅」)を誘致する運動を行っていた。在来線特急「あさま」のうち毎日約半数が屋代駅に、また戸倉駅にはほぼ全便が停車していたが、屋代駅が所在する旧更埴市は、市に特急列車の停車がなくなることの代替措置として「長野新幹線」計画段階から新幹線新駅誘致を構想。宮坂博敏・更埴市長(千曲市発足後は千曲市長)はこれを推進する方針を取り、1992年3月、旧更埴市の対策委員会が日本鉄道建設公団との設計協議で更埴市内への駅の設置追加を要望するも、「当初計画に基づき長野オリンピックまでに開業させることを最優先とする」との理由から棚上げとなった。建設工事中の1996年7月には更埴市・戸倉町・上山田町他の陳情を長野県議会が採択、1997年5月には須坂市など近隣自治体も加わった「北陸新幹線(仮称)更埴駅誘致期成同盟会」が結成された。1997年10月の長野駅までの先行開業、2003年の更埴市・戸倉町・上山田町合併による千曲市発足を経て、2007年9月、宮坂市長の後を受けて新駅誘致実行を公約した近藤清一郎・旧更埴市前助役が千曲市長に当選した。市は新駅について五里ヶ峰トンネル長野駅方出口から長野自動車道更埴IC付近までの「明かり部」の区間内への設置を予定していた。当初期成同盟会は観光需要などの観点から長野県立歴史館及び森将軍塚古墳・科野の里歴史公園傍の五里ヶ峰トンネル長野駅方出口付近を想定していたが、同市長はパークアンドライド式利用を見込んで新駅を更埴IC(しなの鉄道線屋代高校前駅付近)に接続させる案を示した。更にいわゆる「請願駅」として金沢駅延伸開業までに建設する構想を提起、2009年6月、市の施政方針として示した。2011年9月の市長選挙においては新駅構想が選挙の争点となる情勢であったものの、新駅誘致構想推進を公約した近藤市長に対して反対派からは立候補者がなく、同市長が無投票で再選となった。近藤市長は引き続き新駅誘致構想を進めたが、2012年9月、病気により退任。同年11月の市長選挙において改めて新駅構想が争点となり、推進派候補2名・反対派候補1名が立候補した。選挙戦において反対派候補への支持は低迷、推進派候補2名の争いとなり、岡田昭雄・前千曲市参与が新市長に当選した。この結果新駅誘致推進支持の民意が確認された。2015年3月の金沢駅延伸開業までには間に合わない見通しとなったものの、2013年1月には「北陸新幹線新駅誘致期成同盟会」が設立され、「対策協議会」など他の団体も活動を開始、2014年12月には阿部守一長野県知事が新駅誘致推進支持を表明した。2015年7月には千曲市・同市議会他による「北陸新幹線新駅設置早期実現を求める陳情」を長野県議会が採択、千曲市への新駅設置構想は事実上長野県の方針ともなった。しなの鉄道線との接続については未定、また建設資金などの問題もあったが、千曲市は2023年度の敦賀駅延伸までには開業させたいとの意向であった。2016年10月の千曲市長選挙においても再び新駅構想が争点となった。新駅誘致を推進する岡田市長と反対派候補の一騎討ちとなり、接戦となるも新駅構想を掲げる岡田市長が再選された。2017年2月には阿部守一長野県知事が期成同盟会の顧問に就任。同年3月、期成同盟会はJR東日本長野支社に新駅設置を求める要望書を提出した。これに対し同年10月、JR東日本は新駅設置について「技術的に難しい」と回答。専門家もその回答を妥当と説明した。また新駅設置の課題であった線路の傾きについて、解消には250億から350億円の費用かかることが明らかになり、岡田市長は2017年12月5日の千曲市議会12月定例会において、JRの回答などを踏まえ「新駅設置を進める合理的な理由を見つけることができない」と新駅設置を断念することを明らかにした。長野県も誘致断念を了承。これを受け期成同盟会は2018年2月、活動を終了し3月末をもって解散することを決定した。対策協議会など他の団体も活動を終了した。 石川県白山市が金沢駅 - 小松駅間に新駅「白山駅」(仮称)を誘致する運動を行っていた。当初、白山総合車両所に新幹線乗降場を設置する案が提起されていたが、その後、北陸本線加賀笠間駅周辺に新駅を設置する構想となっていた。「北陸新幹線(仮称)白山駅建設期成同盟会」を地元自治体・経済団体で構成していたものの、2017年4月15日、「白山駅」設置を断念。同年5月に同盟会解散を決定した。 2019年(令和元年)10月上旬、東日本台風(台風19号)の接近に伴い日本各地120か所で半日あたりの雨量が観測史上最大を記録するなど大量の降雨があった。北陸新幹線も台風接近前の12日夕方までに計画運休していた。気象庁は東日本を中心とする13都県に大雨特別警報を発表し、長野県に対しては12日午後3時半に発表した。降雨の影響で千曲川の水位は12日昼頃から上がり始め、13日午前0時に氾濫危険水位を超えたのち同日午前3時から5時半の間に長野市穂保地区において堤防が決壊した。 千曲川から1キロほどの距離にある長野新幹線車両センターが位置する赤沼地区では、最大約4.3メートル浸水したと推定されている。長野駅 - 飯山駅間の本線の一部や車両センターに併設されていた信号関係の電源設備、臨時修繕庫、車輪研削庫、確認車車庫、変電所(地下電源室、事務所含む)、センター向かい側の新赤沼き電区分所などでも冠水した。同地区は13日午前0時45分に緊急の避難指示が出されており、車両センターにいた社員などの36人は建物の高い場所に避難した。 長野市のハザードマップでは付近の浸水を最大10メートル以上であると予想していた。また国土交通省北陸地方整備局千曲川河川事務所が2016年に、想定される最大の豪雨の場合10メートル以上浸水する「浸水想定区域」と認定しており、JR東日本も建設を行った鉄道・運輸機構もこれを把握していたものの多大な費用が掛かるとして浸水対策は行っていなかった。日本鉄道建設公団は建設当時の1982年に、県が1982年に作成した浸水被害実績図を参考に、それ以前の水害より90cm高い位置にするため車両センターに2mの盛り土をしたとしており、公団の後継団体となる鉄道・運輸機構も「建設当時は必要な設計をした」との考えを示している。 これらの結果、車両センターに留置されていた車両であるE7系8編成とW7系2編成、場所別では屋外の留置線で7編成、屋内の仕業検査・交番検査庫で3編成の計10編成が座席の肘掛けの高さまで浸水した。また、このうちの2編成78軸に脱線が発生しており、うち1編成は10 - 15メートル移動していた。車両センターから車両を退避させる場所や基準を定めたマニュアルなどがなかったことや台風の進路から避難を計画するには至らないと判断していたこともあって、車両の退避は行われなかった。当時、北陸新幹線では全30編成を運用しており、平常時は24編成を使用していたが、被害編成は全体のうち3分の1を占めていた。11月6日、JR東日本とJR西日本は全車両を廃車にし、一部の部品は転用するものの帳簿上の損失は最大で148億円になると発表した。また、JR東日本は、2020年春までに、上越新幹線に導入予定だった新造E7系車両5編成を北陸新幹線に転用し、かつ上越・北陸兼用の1編成を北陸専用にして北陸用に26編成を用意すると発表した。JR西日本も被害を受けた2編成の補充の方針を明らかにしている。 13日は長野駅 - 富山駅間を運休し、14日は長野駅 - 糸魚川駅間を運休し、15日から24日までは長野駅 - 上越妙高駅間を運休した。 10月25日に暫定ダイヤで運行再開された。東京駅 - 金沢駅間では通常48本に対して46本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対して23本、金沢駅 - 富山駅間では通常36本に対して35本と、合計では通常118本に対して104本での運行となった。11月30日からのダイヤでは東京駅 - 金沢駅間が通常通りの48本、金沢駅 - 富山駅間では通常通り36本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対し30本に増え、さらに12月27日からは32本に増えると発表された。ただし、臨時列車を含めた年末年始の本数は前年比90%に留まると発表されている。2019年11月28日、2020年1月6日から2月29日にかけての臨時列車を含めた本数は前年比96%の2945本となる予定が発表された。2020年1月9日、同年3月14日から定期ダイヤが全面復旧する予定であると発表された。 2019年12月6日、JR東日本が長野新幹線車両センターの主要施設を2020年にも10メートル程度かさ上げする計画であることが明らかになった。留め置き線路についてはかさ上げが難しいために、浸水が予想される場合には車両は他所に退避させる方針である。 長野 - 東京間の運行本数の変化は、高崎 - 軽井沢間着工後の1990年は、鉄道19本、高速バス0本であったが、高崎 - 長野開業後の1997年には鉄道が24本に増加、高速バスも12本に増加し、開業10年後の2007年には鉄道が27本に微増したものの、高速バスは32本とさらに増加した。 首都圏(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県) - 長野県間の鉄道利用実績は、1990年度は定期外998万人であったが、高崎 - 長野間開業後の1997年度は定期外1,089万人、定期5万人に増加し、2005年度は定期外1,015万人、定期247万人と定期利用者が増加している。 首都圏 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道57%、航空39%、バス4%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道47%、航空48%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道57%、航空34%、バス9%と鉄道が5割から6割、航空が3割から4割程度であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道83%、航空13%、バス4%と鉄道が大幅に増加し、航空は大きく減少し、2018年度には鉄道86%、航空10%、バス4%とその傾向は継続している。 東京 - 富山間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道16本、航空(富山 - 羽田)8本、高速バス3本であったが、2005年は鉄道が17本、航空8本、高速バス6本、2014年は鉄道18本、航空6本、高速バス10本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は6本を維持、高速バスは9本であったが、2018年に航空は4本に減少し、高速バスは8本になった。 首都圏 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は116万人、2005年度は103万人、2014年度は133万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は284万人と約2倍に増加し、2017年度も281万人と高い水準を維持している。 首都圏 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道33%、航空60%、バス6%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道29%、航空67%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道38%、航空52%、バス9%と航空が5割から7割で最も多く、鉄道は3割から4割であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道72%、航空23%、バス5%と鉄道が大幅に増加した一方、航空は大きく減少したことでシェアが逆転した。2018年度には鉄道70%、航空25%、バス6%とその傾向は継続している。 東京 - 金沢間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道16本、航空8本、高速バス9本であったが、2005年には鉄道17本、航空は14本、高速バス12本、2014年は鉄道18本、航空15本、高速バス本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は15本を維持、高速バスは10本であったが、2018年に航空は13本に減少し、高速バスは9本になった。 首都圏 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は83万人、2005年度は89万人、2014年度は131万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は374万人と約3倍に増加し、2017年度も339万人と高い水準を維持している。 長野県 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、開業前年の2014年度では鉄道90%、バス10%とバス利用もみられたが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は鉄道97%、バスは3%に減少し、2017年度以降は再び鉄道が100%になった。 立山黒部アルペンルートを除く長野県 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は10万人、2005年度は4万人、2014年度は5万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は26万人と約5倍に増加し、2017年度も19万人と高い水準を保っている。 長野県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、2005年度では鉄道81%、バス19%とバス利用もみられたが、2008年度以降は再び鉄道が100%になった。 長野県 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は8万人、2005年度は3万人、2014年度は8万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は40万人と約8倍に増加し、2017年度も25万人と高い水準を保っている。 ※2015年度のデータには、あいの風とやま鉄道およびIRいしかわ鉄道のデータが含まれていないため除外した。 富山県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道97%、バス3%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道91%、バス9%、開業前年の2014年度では鉄道73%、バス27%とバスの割合が増加傾向にあった。長野 - 金沢間開業後の2016年度は、鉄道77%、バス23%と大きな変化は見られない。 富山 - 金沢間の運行本数の変化は、鉄道約40本、高速バス約20本であり開業前後で大きな変化は見られない。 富山県 - 石川県間の鉄道利用実績は1992年度は334万人、2005年度は307万人、2014年度は268万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2016年度は351万人と約1.2倍に増加した。 開業後の所要時間について、金沢 - 敦賀間の着工に向けた2012年4月時点での国土交通省の試算では、富山 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで1時間16分30秒、速達(平均的)タイプで1時間1分15秒、東京 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで4時間13分0秒、速達(平均的)タイプで3時間21分45秒と想定されていた。なお、2021年3月時点での鉄道・運輸機構による時間短縮効果の試算では、東京 - 福井間の所要時間は開業前(以下2020年4月時点)の3時間14分から約20分短縮されて2時間53分、大阪 - 金沢間では2時間31分から約25分短縮されて2時間4分、富山 - 福井間では1時間12分から約25分短縮されて44分となる。2023年8月にJR西日本が公表した運行計画の概要では、最速達列車の所要時間について東京 - 福井間で2時間51分、東京 - 敦賀間で3時間8分、大阪 - 金沢間で2時間9分とされている。 また、金沢 - 敦賀間の整備により、北陸3県(富山、石川、福井)と大阪の交流人口が14,800人/日から1.1倍の16,200人に、北陸地域内では福井と富山の交流人口が5,300人/日から1.2倍の6,300人/日に増加すると予測されている。 環境面では航空機、バスから新幹線に旅客が転移することで、福井県の運輸部門(自動車除く)の二酸化炭素排出量の約26%に相当する59,000 tの二酸化炭素の排出量削減が期待される。 敦賀駅以西のルートについては様々な議論がなされたが、2016年(平成28年)12月20日、政府与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(与党PT)は敦賀駅から西進して福井県小浜市を経由、そこから南下して京都駅につなぐ「小浜・京都ルート」を正式採用した。京都駅 - 新大阪駅間のルートについては、引き続き与党PTで検討されていたが、2017年(平成29年)3月15日に、JR片町線(学研都市線)松井山手駅(京田辺市)付近に中間駅を設ける「南回り案」を正式採用した。 鉄道建設・運輸施設整備支援機構は2017(平成29)年度から駅やルートを決めるための調査を始め、2019年(令和元年)5月に計画段階環境配慮書の中で概略ルートを示した。設置予定駅は敦賀駅、小浜市(東小浜)附近、京都駅、京田辺市(松井山手)附近、新大阪駅であり、主要な線形条件として、最小曲線半径は4,000m、最急勾配は15‰とし、ラムサール条約に基づく登録湿地である三方五湖や周辺の国定公園(若狭湾国定公園)、京都丹波高原国定公園のうち第1種・第2種特別地域に指定されている芦生の森を回避することなどが考慮されている。今後の詳細なルート検討においては、京都市中心市街地、伏見酒造エリアを回避した区域を選定し、京都市市街地の文化財や地下水への影響を考慮すること、京都丹波高原国定公園や金剛生駒紀泉国定公園の第3種特別地域等を通過する際の自然環境に配慮した工法の検討、全体の8割がトンネルを占めるため、都市部における大深度地下の利用や発生掘削土の受け入れなどの考慮事項が挙げられている。2022(令和4)年には国土交通省が、将来的な山陰新幹線との分岐も含む南丹市付近での駅設置可能性について調査することを決定している。 2015年(平成27年)3月14日時点で新幹線が開業および事業化された区間の並行在来線については、以下のような措置(予定事項を含む)がそれぞれ執られている。なお飯山線の豊野駅 - 飯山駅間も北陸新幹線と並行するが、この区間はルート上の制約でたまたま飯山駅を経由することになったため、本来の並行在来線の意義から外れるとして同区間の経営分離は行われていない。 信越本線は高崎駅 - 直江津駅間が並行在来線とされた。このうち高崎駅 - 横川駅間と篠ノ井駅 - 長野駅間は新幹線開業後も信越本線としてJR東日本が運行している。横川駅 - 軽井沢駅間は鉄道路線としては廃止され、JRバス関東によるバス路線碓氷線として運行されている。これら以外の区間については県域ごとに設立された第三セクター鉄道会社に経営移管された。 長野県内の区間はしなの鉄道が軽井沢駅 - 篠ノ井駅間をしなの鉄道線、長野駅 - 妙高高原駅を北しなの線として運行している。 新潟県内の妙高高原駅 - 直江津駅間はえちごトキめき鉄道が妙高はねうまラインとして運行している。 北陸本線の直江津駅 - 金沢駅間は県域ごとに設立された第三セクター鉄道会社に経営移管された。新潟県内の区間はえちごトキめき鉄道が直江津駅 - 市振駅間を日本海ひすいラインとして運行している。富山県内の区間はあいの風とやま鉄道が市振駅 - 倶利伽羅駅間をあいの風とやま鉄道線として運行している。石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が倶利伽羅駅 - 金沢駅間をIRいしかわ鉄道線として運行している。 この区間は北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間の開業時にJR西日本から経営分離される予定である。2017年時点で石川・福井の県境駅の扱いについては、石川県側は2017年3月30日の「第1回 いしかわ並行在来線金沢以西延伸対策検討会」においては大聖寺駅を境界とする検討がなされている。 石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が経営を引き継ぐ計画である。 福井県内の区間は、福井県並行在来線対策協議会において、経営を引き継ぐ第三セクター鉄道事業者の開業予定を当初の2025年度(令和7年度)から2022年度(令和4年度)と見直している。2019年8月に福井県並行在来線準備株式会社として設立され、2022年7月にハピラインふくいに社名を変更した。開業時期は2023年度末(令和5年度末、2024年春)に変更されている。 なお、金沢駅 - 敦賀駅間の着工に向けた試算では、金沢駅 - 敦賀駅間では特急「サンダーバード」などの在来線優等列車の運転は行わないと想定している。そのため、特に(新幹線駅が設けられない予定の)鯖江市において敦賀開業以降も大阪・名古屋方面への特急の直通運転継続の要望が高く、「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」が活動している。フリーゲージトレインの開発が難航していることから、敦賀開業時からの導入は困難であり、鯖江市が特急を福井駅まで乗り入れるよう求める意見書を、2017年3月に福井県議会に提出し、その時点では明確な回答はなかったが、2017年4月22日に鯖江市での国土交通省・福井県の担当者との意見交換会が実施された。 国土交通省の担当者は、JRから経営分離するスキームは変わらないとした上で「JR西日本と並行在来線会社が相互直通運転をするためには、なんらかの協定を結ぶことが最低限必要」と説明し、福井県の担当者は協定締結に向けた話し合いについて「JRが行っている並行在来線会社の支援策の一つとして、在来線特急の運行も入れてもらえるように話をしていきたい」と述べた。 2018年1月の鯖江市の市政アンケート(回答率:50.6パーセント)でも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続を望む声が74.6パーセントあり、まちづくりに関する設問でも最多だった「鯖江駅を中心とした交通利便性の高いまちづくり」(20.5パーセント)という意識からも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続の意識が高いことがうかがえる。それを受け「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」事務局担当は「特急存続を願う市民の声を再認識した。実現する会一体となって県全体またはそれ以上の活動に広げ、敦賀開業後の市民の利便性確保に努めたい」と述べている。 2018年9月27日にはフリーゲージトレイン導入断念に伴い、鯖江市長は福井県知事に対して特急「サンダーバード」存続に絞って要望を行った。2019年3月4日の福井県議会では特急「しらさぎ」が福井駅までの運行では利用が見込めず、車両や乗務員の確保の問題もあって、JR西日本は消極的だとしている。 一方2017年5月14日、自由民主党の整備新幹線建設推進プロジェクトチームの検討委員会での会合では、経営分離後の区間で日本貨物鉄道(JR貨物)に委託して貨物列車に旅客車両を連結して運行する案や、福井県の第三セクター鉄道事業者が特急を運行する案が議論され検討が進んでいる。 2019年5月16日には、(北陸新幹線敦賀延伸時に北陸本線牛ノ谷駅 - 敦賀駅間の経営を承継する)福井県内区間の第三セクター鉄道事業者への出資金20億円(うち設立時の1次出資5億円、本格会社移行時の2次出資15億円)のうち、福井県が14億円・県内全市町が4億円・民間が2億円を負担することと、福井県内区間の第三セクター鉄道事業者の準備会社(福井県並行在来線準備株式会社)を予定より約1年早く2019年8月に設立することが決定し、決定通り同年8月13日に設立された。 2021年6月9日になって、福井県とJR西日本との間でなされていた特急の福井駅 - 敦賀駅間の存続についての協議が打ち切りとなったことが報道された。これについて鯖江市は、市のウェブサイトで遺憾ではあるが受け入れざるを得ないものという立場を表明した。 各年度の平均通過人員は以下の通りである。定期利用者については、長野 - 金沢間開業前の2014年度は約4,003人/日であったが、開業後の2015年は約5,787人/日と約1.4倍に増加し、2017年度には6,688人/日と増加傾向である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北陸新幹線(ほくりくしんかんせん)は、東京都から上信越・北陸地方を経由して大阪市までを結ぶ計画の高速鉄道路線(新幹線)であり、整備新幹線5路線の一つである。2015年(平成27年)3月14日時点で、群馬県高崎市の高崎駅から石川県金沢市の金沢駅までの間が開業している。運営主体は高崎駅 - 上越妙高駅(新潟県上越市)間が東日本旅客鉄道(JR東日本)、上越妙高駅 - 金沢駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『鉄道要覧』では高崎駅を起点としているが、整備新幹線としては東京都が起点で、高崎駅以東については、東京駅(東京都千代田区) - 大宮駅(埼玉県さいたま市大宮区)間は東北新幹線、大宮駅 - 高崎駅間は上越新幹線と共用しており、列車は上越新幹線および東北新幹線を経由して東京駅まで乗り入れている。旅客案内上は東北・上越新幹線の東京駅 - 高崎駅間を含む東京駅 - 金沢駅間が「北陸新幹線」と案内される。2015年3月13日までは長野駅が終点であり、1997年(平成9年)の開業当時は「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と呼ばれていた(後節参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "北陸新幹線は1972年(昭和47年)に、全国新幹線鉄道整備法第4条第1項の規定による『建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画』により公示され、1973年(昭和48年)11月13日に整備計画が決定された5路線(いわゆる整備新幹線)の路線の一つである。国鉄の財政悪化により建設が一時凍結されたが、1989年(平成元年)に高崎駅 - 軽井沢駅間で着工され、1997年(平成9年)10月に高崎駅 - 長野駅間が整備新幹線としては初めて開業した。長野 - 金沢間は一部区間がスーパー特急方式で着工された後、全区間がフル規格化され、2015年(平成27年)3月に長野駅 - 金沢駅間が開業した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1997年の開業時点では長野駅が終点であり、2015年の延伸まで北陸新幹線は北陸地方に達していなかったことから旅客向けには当初「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と呼称していた(詳細は沿革および「長野新幹線#「長野新幹線」の呼称の変遷」を参照)。JR東日本管内の駅の北陸新幹線の乗り換え案内では「北陸(長野経由)新幹線」、「北陸新幹線(長野経由)」など「長野経由」まで表示されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鉄道建設・運輸施設整備支援機構が鉄道施設を建設・保有し、高崎駅 - 上越妙高駅間はJR東日本、上越妙高駅 - 金沢駅間はJR西日本により運営されている。JR東日本・JR西日本の施設管理境界は上越妙高駅の金沢方・高崎起点177 km950 m地点である。同一名称の新幹線の路線が複数の鉄道会社によって運営されるのは、北陸新幹線が初めてであり、現在でも唯一である。また、JR西日本は北陸新幹線とは別に山陽新幹線も運営しており、JR東日本に続いて複数の新幹線路線を運営する鉄道会社となり、1つの鉄道会社が運営する新幹線の路線が直接つながっていない初の事例ともなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "北陸新幹線は整備新幹線として初めて着工され、電源周波数が異なる地域や山岳地帯、豪雪地域を経由する路線でありながら工事費を抑えるために様々な新技術が用いられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "金沢駅 - 敦賀駅間は2012年(平成24年)に着工され、2024年(令和6年)3月16日に開業する予定である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお、未着工区間である敦賀駅 - 新大阪駅間については、2019年(令和元年)5月に環境アセスメントのための概略ルートが公表されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "安中榛名駅 - 上田駅間の通過線のない各駅と、飯山駅以西の各駅については開業当初よりホーム上に可動式安全柵が設置されており、2017年には軽井沢駅についても通過列車が存在する2・3番線に設置工事が行われている。上越新幹線との共用区間上の高崎駅・本庄早稲田駅・熊谷駅には通過線がある。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "※高崎駅は下り方に上越新幹線上り線と北陸新幹線上り線が別線で入線している", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "金沢 - 敦賀間に新設される駅については、各駅ともホームは12両編成対応の312 mであり、小松駅と芦原温泉駅が2面2線、加賀温泉駅と越前たけふ駅が2面2線+通過線、福井駅が1面2線、敦賀駅が2面4線となる。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1997年の高崎駅 - 長野駅間開業時点では旅客向けには「長野新幹線」と案内され、速達タイプも各駅タイプも全て「あさま」としての運行であった。2015年の長野駅 - 金沢駅間の開業にあたり、首都圏と富山・石川エリアを短時間で結ぶ速達タイプの「かがやき」、主に長野駅以東の主要駅と長野以西の各駅間の利便性確保を目的とした停車タイプの「はくたか」、富山駅 - 金沢駅間シャトルタイプの「つるぎ」、東京駅 - 長野駅間運転タイプの「あさま」の4種類になった。原則として、全ての列車がE7系・W7系を使用する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "「かがやき」は、東京駅 - 金沢駅間で運行される最速達タイプの列車である。全車指定席。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。途中停車駅は上野駅・大宮駅・長野駅・富山駅であるが、最速達列車の1往復は上野駅を通過する。朝と夜を中心に概ね毎時1本の割合で運行されており、2023年3月18日時点の最短所要時間は東京駅 - 長野駅間で1時間17分(下り)1時間18分(上り)、東京駅 - 富山駅間で2時間5分(下り)2時間6分(上り)、東京駅 - 金沢駅間で2時間25分(下り)2時間26分(上り)である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「はくたか」は、東京駅・長野駅 - 金沢駅間で運行される列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。東京駅 - 長野駅間では「かがやき」に次ぐ速達列車の位置づけであり、熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅は全列車通過し、「かがやき」が運転されない時間帯は大宮駅 - 長野駅間では高崎駅のみに停車する。長野駅 - 金沢駅間では基本的に各駅に停車する(一部の列車は飯山駅を通過)。概ね毎時1本の割合で運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「つるぎ」は、2015年3月14日に設定された、富山駅 - 金沢駅間で運行される列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2015年3月14日の北陸新幹線金沢延伸開業に伴い、それまで運行されていた名古屋・大阪・福井方面から富山方面に直通運転していた在来線特急「しらさぎ」「サンダーバード」の運転区間が新幹線開業に伴い金沢駅までに短縮されたため、その代替として設定された。富山・金沢両都市間のシャトル列車としての役割を担っている。12両編成だがグランクラスを含む4両(8(一部列車)・9・10・12号車)は締め切り扱いで乗車できない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「あさま」は、東京駅 - 長野駅間で運行される列車である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1997年10月1日の長野開業時点では速達・各駅タイプを問わず全ての列車が「あさま」として運行されていたが、2015年の金沢延伸以降は東京駅 - 長野駅間の各駅停車タイプとしての役割が大きくなっている(全区間各駅に停車する列車は5往復のみで、それ以外は熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅のいずれかを通過する)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2016年3月26日から現在までの基本的な日中ダイヤパターンである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "以下に示す時刻・運転区間などは昼間時間帯の平均的なパターンで、早朝・深夜は若干異なる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "列車番号は、かがやきが3000+号数+E、それ以外の定期列車が基本的に号数+E、臨時列車が8000、9000+号数+Eである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2015年3月14日から2016年3月25日まで", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "長野新幹線時代の2005年からJR東日本管内の新幹線路線に先駆けて全面禁煙化に踏み切っている。金沢延伸後も喫煙車の設定はなく、喫煙スペースを設けた車両も存在しない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "運賃は営業キロに基づいて算出する。東京駅 - 高崎駅間の営業キロは、並行する東北本線(東京駅 - 大宮駅間)・高崎線(大宮駅 - 高崎駅間)と同一となっている。高崎駅以西については並行するJRの路線が存在しないため、実キロ(新幹線での実際の距離)が用いられている。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "特急料金は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。基本的には他の新幹線と同様であるが、会社間をまたぐ(上越妙高駅を挟む)場合に定額(詳細後述)を加算している。JR西日本が『中日新聞』の取材に答えたところによると、2社での共同運行になるため運賃システムの改修が必要になり、九州新幹線など既存の新幹線と比べ早い時期の認可申請になったという。2019年10月1日改定の営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は以下のとおり。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "北陸新幹線は全区間、JR東日本のえきねっと、JR西日本のe5489で予約した乗車券と特急券の受け取りが可能である。なお、JR西日本も山陽新幹線において導入しているエクスプレス予約については、北陸新幹線ではJR西日本管内の区間も含め対象外となっている。", "title": "運賃と特急料金" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "東京駅 - 長野駅間はJR東日本長野総合運輸区(一部の列車は東京新幹線運輸区の運転要員が担当)、長野駅 - 金沢駅間はJR西日本金沢新幹線列車区の運転要員(運転士、車掌)がそれぞれ担当しており、管轄境界駅である上越妙高駅ではなく長野駅でJR東日本とJR西日本の乗務員が交代する。これは上越妙高駅に「かがやき」が停車しないため、JR東日本とJR西日本の両社が乗務員を効率的に運用できるよう、敢えて「かがやき」「はくたか」の全列車が停車する長野駅を交代駅と定めたものである。そのため、長野駅 - 上越妙高駅間は新幹線唯一の他社乗務員による運転区間となる。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "車内販売ならびにグランクラスアテンダントはJR東日本サービスクリエーション (JESC) 金沢列車営業支店及び東京列車営業支店が担当しており、東京駅 - 金沢駅間は通し乗務となる。ただし、「つるぎ」のグランクラスおよび車内販売は非営業、「あさま」や長野駅 - 金沢駅間の「はくたか」はグランクラスがシートのみの営業となっており、車内販売は非営業である。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2019年5月1日以降は「かがやき」「はくたか」共に臨時列車での車内販売を終了する。同年7月1日以降はホットコーヒーや弁当、軽食類、デザート類、土産類、雑貨類の販売を終了して「ソフトドリンク類(ペットボトル)、菓子類、アルコール類、つまみ類」のみの販売となる。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "北陸新幹線沿線の商用電源周波数は、群馬県内は50 Hz、長野県内は60 Hz、新潟県内は50 Hz、富山・石川県内は60 Hzとなっている。営業中の新幹線路線で異周波数接続が存在する路線は北陸新幹線が唯一である。異なる周波数の電流が混触すると大電流が流れるおそれがあるため、電気的な絶縁を保ちつつ変電所間での電源系統の切替を行うために、新軽井沢き電区分所(SP)、新高田SP、新糸魚川SPに周波数切替セクションが設けられている。列車の通過に連動して自動的にき電を切り替えるため、新幹線車両はこれらのセクションを力行したまま通過できる。高崎駅 - 軽井沢駅 - 新軽井沢SP間が50 Hz、新軽井沢SP - 佐久平駅 - 上越妙高駅 - 新高田SP間が60 Hz、新高田SP - 糸魚川駅 - 新糸魚川SP間が50 Hz、新糸魚川SP - 黒部宇奈月温泉駅 - 金沢駅 - 白山総合車両所間が60 Hzとなっている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また、新幹線の保安装置であるATC(自動列車制御装置)では、異周波数電源が突き合わされるSP付近において異周波妨害が起こる。そのため1997年の長野開業時には異周波妨害対策法を開発することで50 Hzと60 Hzの両周波数に対応し、当時東北・上越新幹線で用いられていたアナログATC(ATD-1D)と互換性を持つアナログATC(ATC-HS型、HS-ATC)が導入された。その後東北・上越新幹線で導入が進められたデジタルATC(DS-ATC)は電源周波数が50 Hz用であったため、金沢開業を前に新たに60 Hz対応のDS-ATCが開発され、北陸新幹線に導入された。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、新潟県内の50 Hzき電を担う新上越変電所の異常時には、隣接する変電所からの救済き電により、新高田SS - 新糸魚川SS間を60 Hzき電に切り替えることが可能である。そのため、この区間では50 Hzと60 Hzの両対応のATC装置や電気設備が設けられており、周波数に応じて切り替える構成になっている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "北陸新幹線の経由する上信越・北陸地方は日本でも有数の豪雪地帯であり、冬季においても安定輸送を維持するための対策を施す必要がある。1985年(昭和60年)12月に高崎 - 小松間の認可申請が行われると、北陸新幹線の雪害対策の検討が開始された。既設新幹線においては、比較的降雪量が少ない東北新幹線盛岡以南では貯雪方式が、降雪量が多い上越新幹線では散水消雪方式が採用されていた。しかし、散水消雪方式の導入には多額の費用が必要である。在来線で行われている機械除雪は安価であるが、人家に近接する場所や道路との交差箇所での雪捨て場の確保の問題がある。整備新幹線においては建設費の低減が求められており、沿線の気候条件に適した様々な技術を開発する必要があった。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1986年度に、北陸新幹線の建設主体であった鉄道公団は、北陸新幹線沿線の雪質および雪量に対応した貯雪量の多い貯雪式高架橋の実物大試験を行った。モデル高架橋は北陸新幹線沿線の富山市に近い富山県大沢野町舟倉地先に設置された。積雪深120 cmと170 cmの試験設備が設けられ、新幹線のスノープラウによる排雪を再現した実験が行われた。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "さらに、鉄道公団と新日本製鐵は新たな対策方法として、温水が流れるパイプを設置したパネルによって雪を融かす消雪パネルの開発を行った。そして1987年度から1989年度まで飯山市の消雪試験場で試験を実施した。その後、「運輸省案」に基づき長野 - 軽井沢間を優先して着工する方針が示されたことで、北陸新幹線向けの試験はいったん終了したが、同時期に高速化が決定した北越北線の一部区間において、鉄道として初めて消雪パネルを導入することが決定した。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ハード面での対策としては沿線の積雪状況や周辺地形を踏まえて、区間ごとに様々な対策が取られている。飯山駅 - 金沢駅間では雪害対策のためホーム全体が屋根で覆われている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "JR東日本管内のうち比較的積雪量が少ない長野までの区間では高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している。降雪量の多い区間ではスプリンクラーによる散水消雪方式が採用されている。飯山エリアでは、東北新幹線で実績があり、厳冬期に早期散水が可能となるよう予め送水本管内に温水を循環させておく「循環方式」を採用している。一方、上越エリアでは、上越新幹線で実績があり、散水終了後に送水本管内の水抜きを行うことで凍結を防止する「水抜き方式」を採用している。また、新規導入設備としてトンネル緩衝口端部より5 m幅で散水するトンネル雪庇散水や、下り線側の保守用斜路への散水消雪設備が導入された。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "JR西日本管内では、沿線に水源を確保できる場合はスプリンクラーによる散水消雪を採用し、困難な場合には高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している。比較的降雪量の多い区間では、高架橋内の降雪を減らすための雪覆いを設けた半雪覆式貯雪型高架橋が採用されている。貯雪可能な量を超える積雪が予想される糸魚川 - 富山間の黒部地区では、夜間にロータリーモーターカーで雪を高架下に投下できる側方開床式貯雪型高架橋が採用されている。しかし、道路などがあり高架下への投雪が困難な区間では、高架橋を拡幅して貯雪量を増やした閉床式貯雪型高架橋(拡幅型)、拡幅も困難な場合は高架橋のケーブルダクト上に加温した不凍液を循環させる温水パネルを設置して融雪するなど、周辺環境に合わせた対策を行っている。また、トンネル間の短い明かり区間にはスノーシェルターを設けることで高架橋への積雪を防止している。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ソフト面での対策としては、台車からの落雪により地上設備が破損することを防ぐため、東京方面へ直通する列車に対して、糸魚川駅上りホームにおいて雪落とし作業を行っている。雪落とし作業の要否については前日の降雪予報と経験によって判断されていたが、実際には着雪量が少ないため作業が不要である事例が生じていた。そこでJR西日本は人工知能 (AI) を用いて沿線の気象状況などから着雪量の推定を行い、雪落とし作業の要否判断を支援するツールの導入を検討した。着雪量推定モデル作成にあたってはオープンコンペティション方式を活用した。そのうち上位3件のモデルをもとに雪落とし作業の要否判断を支援するツールを開発し、実際の業務に導入している。さらに、画像分析AIによって営業列車の着雪量を測定することで、毎年冬に着雪量推定モデルの再学習が可能となり、さらなる精度向上が期待される。なお、金沢駅および白山総合車両所でも雪落とし作業を行っている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "上越妙高 - 富山間、富山 - 金沢間のうち、気象条件によって夜間に架線へ雪氷が付着する可能性がある区間について、雪氷を除去するために始発列車前に110 km/h以下の回送列車(雪払い列車)を運行している。また、北陸新幹線では列車本数が少なく、激しい降雪の場合に列車間合いにおいて運転中止基準(積雪量レール面上31 cm)に達すると予想される場合、排雪列車として臨時回送列車を設定する。開業後、実際に4本の排雪列車を運転し、運転中止を回避している。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2018年1月から2月にかけての大雪により、北陸地方では交通網に大きな影響が生じた。1月下旬、大雪による道路通行止めの影響で、係員が新高岡 - 金沢間の除雪基地にたどり着けない事態が発生した。この時は他の区間から除雪車を手配することができたが、夜間の除雪作業ができないことは翌日の新幹線の運行に大きな影響を及ぼす。そこで、同様の事態が再び起きた場合に備えて、回送列車を用いて除雪基地付近まで係員を移動させる案が検討され、同年2月上旬には実際に行われた。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらに、開業以来実施されたことはないが、高架橋外への投雪が困難な富山 - 金沢間において上下線で運転中止となるほどの降雪が生じた場合、単線運転を行うことが可能になっている。単線運転時には下り線を投雪スペースとして除雪車による除雪を行った後、上り線のみを使用する。保安装置については通常のDS-ATCではなく代用のRS-ATCを使用し、最高速度110 km/h以下で運転することになる。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "建設中の金沢駅 - 敦賀駅間では、石川県能美郡川北町と福井県あわら市伊井の2か所に除雪基地が設けられ、冬季は基地内に格納した除雪車が必要に応じて出動する予定となっている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1975年から国鉄において、地震波のP波から地震の規模や位置を推定するアルゴリズム(早期検知アルゴリズム)の研究が行われ、世界初のP波警報システムである「ユレダス (Urgent Earthquake Detection and Alarm System)」の開発が進められた。ユレダスは1992年に東海道新幹線で導入が開始され、1998年には北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間においても導入された。ユレダス導入によってP波およびS波の2種類の警報判定が可能になり、S波到達より早く新幹線の停止信号を送ることが可能になった。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その後、最新の観測技術や高速ネットワークに対応し、早期探知アルゴリズムを改良した「早期地震防災システム」が開発された。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2004年に発生した新潟県中越地震による上越新幹線脱線事故を受けて、新幹線車両が地震などにより脱線した場合でも、車両がレールから大きく逸脱することを防止する「車両逸脱防止L型ガイド」を開発し、2008年度上期までに全ての新幹線車両に設置を完了した。さらにレールの転倒や大幅な移動を防ぎ、L型車両ガイドが有効に機能するよう、スラブ軌道用やバラスト軌道用などの「レール転倒防止装置」を開発し、敷設工事が進められている。", "title": "主要技術" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1965年(昭和40年)9月26日、金沢市の石川県体育館で「1日内閣」が開催された。これは後年に言うタウンミーティングのようなもので、現職閣僚が地方へ出向いて実情を聞く公聴会であった。当時内閣総理大臣を務めていた佐藤栄作も出席したこの公聴会において、富山県代表の公述人である岩川毅(中越パルプ工業創業者・当時の砺波商工会議所会頭)は、政府に対して東京を起点とし松本、立山連峰を貫通して富山、金沢を経由して大阪に至る「北陸新幹線」の建設を求めた。この提案に、鉄道官僚出身の佐藤も興味を示した。「1日内閣」での新幹線構想の発表により、北陸地方では新幹線誘致の機運が高まっていった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)7月には、北陸三県商工会議所会頭会議において、北陸新幹線の実現を目指すことが決議された。その後、同年12月8日に「北回り新幹線建設促進同盟会」が発足した。これは、北陸地方の活性化と将来逼迫する東海道新幹線の代替交通機関を目的としていた。1969年(昭和44年)5月30日に「新全国総合開発計画」が閣議決定された。この中で主要開発事業の構想として「北陸地方を首都圏および近畿圏と結ぶ北回り新幹線鉄道の建設を進めるとともに」と現在の北陸新幹線に相当する新幹線鉄道の建設構想が盛り込まれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法(以下「全幹法」)が公布された。この法律により、逼迫する幹線の輸送力増強を目的とした東海道・山陽新幹線とは異なり、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。1972年(昭和47年)6月29日に基本計画が決定、7月3日に全幹法第5条第1項の規定による「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和47年運輸省告示第243号)により北海道新幹線(青森市 - 札幌市)、北陸新幹線(東京都 - 大阪市)、九州新幹線(福岡市 - 鹿児島市)の3路線の基本計画が告示された。この基本計画において北陸新幹線は、東京都を起点に長野市附近、富山市附近を主要な経過地として大阪市を終点とすることが示された。整備計画決定を受けて「北回り新幹線建設促進同盟会」は1972年7月に「北陸新幹線建設促進同盟会」と改称した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "翌年の1973年(昭和48年)11月13日には前述の3路線に加え、東北新幹線(盛岡市 - 青森市)、九州新幹線(福岡市 - 長崎市)を含む5路線(いわゆる整備新幹線)の整備計画が決定された。北陸新幹線は主要な経過地として「長野市附近、富山市附近、小浜市附近」が示され、その他「東京都・高崎市間は上越新幹線を共用する。」とされ、建設主体は日本鉄道建設公団とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "高崎 - 長野間のルートでは、高崎 - 長野間をほぼ最短距離で結ぶ鳥居峠経由の「長野原ルート」と信越本線に沿って結ぶ「信越本線沿いルート」が考案された。その後の地質調査の結果、「長野原ルート」では活火山である草津白根山に長大トンネルを建設する必要があり、施工はほとんど不可能であるとされた。そのため、距離は長くなるが沿線人口や利用客の多い「信越本線沿いルート」が採用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "高崎 - 軽井沢間の標高差は約840 mあり、信越本線は横川駅 - 軽井沢駅間に存在する碓氷峠を66.7 ‰の勾配で通過していた。当時の新幹線規格であった12 ‰勾配で建設するためには延長70 kmの路線を建設して峠を大きく迂回しなければならず、工費や所要時間の拡大につながる。そこで、公団は高崎から左に進み松井田駅上空を橋で通過し、物見山の下をトンネルで抜け、佐久方面に抜ける南回りのルート案を検討したが、当時年間80万人もの観光客を有する軽井沢駅を経由しないため、運営主体となる国鉄から難色を示された。その後、高崎駅を出てすぐ登り始めて30 ‰の勾配で軽井沢へ向かい、中間に途中駅を設けられるよう1 km程度の水平部分を設けるルートが検討された。その後、公団や国鉄内部で車両工学の面からも検討が重ねられた後、1984年(昭和59年)3月20日に北陸新幹線高崎 - 長野間のルートを公表し、環境影響評価を開始した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "長野 - 富山間については途中の経由地が明示されず、国鉄は1975年(昭和50年)頃に北アルプス(飛騨山脈)の直下をトンネルで貫通する短距離ルートの建設も検討したが、火山地域のため高熱となる岩盤や最大2000mに達する「土被り」(地表からトンネルまでの距離)で生じる大量の湧水や「山はね」(岩盤破壊)に耐えながら全長約70 kmに及ぶ超長大トンネルを建設するのは困難として、信越本線や北陸本線に沿って新潟県上越市などを経由する従来のルートでの建設が決定された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "国鉄の経営悪化などを背景に1982年(昭和57年)9月の臨時行政調査会の基本答申に沿って、北陸新幹線を含む整備新幹線計画を当面見合わせる閣議決定がなされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1985年(昭和60年)12月に、高崎 - 小松間の認可申請が行われた。国鉄改革や行財政改革の進展、沿線地域の建設促進への強い要望などを背景に、1987年(昭和62年)1月に整備新幹線建設の凍結解除が閣議決定され、北陸新幹線の建設に道が開かれた。同年4月に国鉄が分割民営化され、北陸新幹線については東日本旅客鉄道(JR東日本)が高崎市 - 上越市、西日本旅客鉄道(JR西日本)が上越市 - 大阪市の営業主体とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "しかし、建設費を削減するため、いわゆる「運輸省案」が考案され、北陸区間については以下のような案が検討された。上野 - 長野間では高崎 - 軽井沢間に標準軌新線を建設し、軽井沢 - 長野間 に狭軌に加え標準軌を導入する新幹線直通線化(ミニ新幹線化)をすることで上野 - 長野間でミニ新幹線車両による直通運転を行い、所要時間を2時間44分から1時間52分に短縮するとした。上野 - 富山・金沢間は東京のほかに大阪や名古屋や新潟との旅客流動も大きいことから、糸魚川 - 魚津間および高岡 - 金沢間に、新幹線と同じ規格の新線を建設するが当面狭軌を敷設して北陸本線と直通運転を行う新幹線鉄道規格新線(スーパー特急方式)による整備を行うとされた。また、越後湯沢駅で上越新幹線と接続し、当時建設中であった北越北線(現 北越急行ほくほく線)を高速化し、これを経由して富山、金沢までを最高速度160 km/hで結ぶスーパー特急を運行するとされた。これにより上野 - 富山間は3時間26分から2時間48分に、上野 - 金沢間は4時間10分から3時間17分に短縮されるとした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)8月31日の「整備新幹線の取扱いについて」において整備新幹線着工優先順位が示され、1(i)として北陸新幹線高崎 - 軽井沢間の標準軌新線、なお軽井沢 - 長野間の取扱いは1998年冬季五輪の開催地決定を考慮して3年以内に結論を出す。1(ii)として高岡 - 金沢間の新幹線規格新線。2として東北新幹線。3として九州新幹線。4として糸魚川 - 魚津間の新幹線規格新線とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)1月17日の政府与党申合わせにおいて、整備新幹線の建設主体などなどが示された。整備新幹線の事業費はJR、国、沿線の地方自治体の負担とすること。建設主体は日本鉄道建設公団とし、建設した鉄道施設を公団がJRに有償で貸し付けること。北陸新幹線高崎 - 軽井沢間を平成元年度から本格的に着工すること、あわせて難工事推進事業として3トンネルについても平成元年度中に着手すること。並行在来線である信越本線横川駅 - 軽井沢間については、適切な代替交通手段を検討し、その導入を図ったうえで開業時に廃止することとし、そのために関係者間で協議するとされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)1月17日の申し入れを受けて、公団は1985年(昭和60年)12月25日に認可申請した北陸新幹線 高崎 - 小松間の工事実施計画を高崎 - 軽井沢間と軽井沢 - 小松間に分割し、1989年6月23日に高崎 - 軽井沢間の追加申請を行い、6月28日に高崎 - 軽井沢間41.2 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された。その後、8月2日に軽井沢駅構内で起工式が行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「運輸省案」では軽井沢 - 長野間について、信越本線を新幹線直通線(ミニ新幹線)化する方式で整備するとしていた。そのため、首都圏と直通する列車の廃止や並行在来線問題を回避できるとして、信越本線沿線で北陸新幹線の駅設置計画がない長野県内の小諸市や御代田町はミニ新幹線の早期着工を主張した。しかし、1990年(平成2年)の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合わせ」において、北陸新幹線 軽井沢 - 長野間については、必要な調整を行ったうえで、標準軌新線で平成3年度において、所定の認可等の手続きを経て、その建設に着工すること。建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認することが示された。その後、県による説得が行われ、御代田町が第三セクター化を受け入れ、1991年(平成3年)6月には小諸市も同意した。これにより軽井沢 - 長野間においても標準軌新線(フル規格)着工認可の条件が整った。なお、6月11日には長野市が1998年のオリンピック・パラリンピック開催地に決定している。同年8月22日に軽井沢 - 長野間53.6 kmの工事実施計画(フル規格)が認可され、9月17日に起工式が行われた。佐久市と小諸市は佐久(仮称)駅の駅名をめぐっても対立した。詳細は「佐久平駅」を参照。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)10月1日に高崎駅 - 長野駅間が開業した。これにより、東京駅 - 長野駅間の所要時間は最短で1時間19分となった。しかし長野開業時点では、東京から富山・金沢へは越後湯沢駅で上越新幹線からほくほく線経由の在来線特急「はくたか」を乗り継ぐルートが最速ルートであった。このため、JR東日本は東京から北陸方面への旅客の誤乗車を防ぐため、案内名称として長野行新幹線(後に「長野新幹線」と短縮)を用いていた。また、北陸新幹線開業に備え、東京駅のJR東日本の新幹線ホームが1面2線から2面4線に増設された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "厳しい財政状況のなかで建設が開始されたことから、建設費縮減のため様々な新技術が導入された。前述のとおり、勾配の上限を30 ‰に高めることで路線延長を約20 km短縮し、建設費を約1,000億円圧縮することが可能となった。また、高崎起点約3.3 kmの上越新幹線との分岐点では国内最速の分岐器である「38番分岐器」を導入し160 km/hで分岐器側の通過を可能にした。これにより、上越新幹線の軌道をできるだけ長い区間共用することで、下り線の高架橋約2.2 kmを新設せずに済んだ。この他、橋梁においては新幹線初のPC斜張橋、架線においては従来新幹線で用いられていたヘビーコンパウント架線に比べ、経済的で輸送量に見合った高速シンプル架線(CSシンプルカテナリ式)が初めて採用された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2014年度末に新規開業する長野駅 - 金沢駅間は保安装置がデジタルATCであることから、2013年11月9日夜から10日早朝にかけて、高崎駅 - 長野新幹線運転所までの区間の保安装置が従来のアナログATCからデジタルATCに切り替えられた。これにより、JR東日本の新幹線の全区間がデジタルATC化された。このATC更新により、2014年3月15日のダイヤ改正から東京駅 - 長野駅間で平均して下りで2分、上りで4分所要時間が短縮された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)6月に難工事推進事業として、富山・石川県境にまたがる加越トンネルの着工が認可された。 1992年(平成3年)に新幹線直通線(ミニ新幹線)や新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)による「暫定整備計画」を決定できるよう全幹法が改正された。北陸新幹線では「運輸省案」に基づき2区間でスーパー特急方式による暫定整備計画が認可され、着工された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において高崎 - 軽井沢間と並んで着工優先順位1位であった高岡 - 金沢間は、富山県内の自治体が並行在来線の経営分離に反対したため、ルートを変更したうえで着工区間を石動 - 金沢間に短縮した。石動 - 金沢間は北陸本線で石動駅(小矢部市)西方約1 kmの西石動(仮称)信号所で分岐し、在来線駅に併設して金沢駅を設置し、金沢駅の西方約1 kmで北陸本線に合流する計画であった。1992年(平成4年)7月29日に小矢部市 - 金沢市間の暫定整備計画が決定、8月6日に石動 - 金沢間25.0 kmの工事実施計画が認可され、8月27日に起工式が行われた。その際、加越トンネルはルート変更により不要となり、既に投入された建設費8億円は富山県が負担することになった。石動 - 金沢間においては2007年度末までに富山・石川県境から金沢駅までの土木工事がほぼ完成した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において着工優先順位4位であった糸魚川 - 魚津間は、北陸本線糸魚川駅西方4 kmの西糸魚川(仮称)信号所で分岐し、新設する新黒部(仮称)駅(現 黒部宇奈月温泉駅)を経て、魚津駅手前の東魚津(仮称)信号所で北陸本線に合流する計画であった。1994年(平成5年)9月13日に糸魚川市 - 魚津市間の暫定整備計画が決定、9月22日に糸魚川 - 魚津間40.5 kmの工事実施計画が認可され、10月13日に起工式が行われた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」では北陸新幹線の新規着工区間として長野 - 上越間の標準軌新線(フル規格)が示された。平成8年の合意に基づいて、1998年(平成10年)1月に「政府・与党整備新幹線検討委員会における検討結果」が公表され、従来の整備新幹線計画が維持されていることを確認したうえで新規着工区間の優先順位が示され(1)東北新幹線 八戸 - 新青森間、九州新幹線(鹿児島ルート)船小屋 - 新八代間(2)北陸新幹線 長野 - 上越間とされた。 同年3月には長野 - 上越間約60 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野 - 富山間について「フル化し、今後概ね12年後強の完成を目指す」とされた。今回着工しない区間ついてはについては、東北新幹線(盛岡駅 - 八戸駅間)、九州新幹線(新八代駅 - 鹿児島中央駅間)の開業後に見直しを行うとされた。このうち、富山 - 金沢間は「三、の見直しの際、石動 - 金沢間をすでに着工していることを踏まえて認可に向けた検討を行う」とされた。2001年(平成13年)4月には上越 - 糸魚川間、魚津 - 富山間の新規着工を含む上越 - 富山間全区間がフル規格で着工された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)10月1日に鉄道建設・運輸施設整備支援機構が設立され、日本鉄道建設公団は解散した。これにより北陸新幹線の建設・貸付け業務は機構に引き継がれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野駅 - 金沢車両基地(現 白山総合車両所)間についてはフル規格で整備するものとし、富山 - 石動間、金沢 - 金沢車両基地間については平成17年度当初に着工し、長野 - 金沢車両基地間で一体的に平成26年度末の完成を目指すとされた。この申し合わせに基づき、2005年(平成17年)4月27日に富山 - 金沢(白山総合車両所)間の全区間がフル規格で認可され、6月26日に起工式が行われた。これにより富山 - 石動間約35 kmと金沢 - 白山総合車両基地間約9 kmが新規着工、石動 - 金沢間約25 kmがフル規格化されることになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)4月14日に既認可区間である長野 - 上越間、上越 - 富山間、富山 - 金沢間を変更して長野 - 金沢(白山総合車両基地)間の一体的な完成を目指す工事実施計画の変更認可申請が行われ、同月28日に認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)3月14日に長野駅 - 金沢駅間が開業し、金沢駅 - 白山総合車両所間の線路も回送線として運用が開始された。これにより、東京 - 富山・金沢間の鉄道での最速ルートは北陸新幹線となり、所要時間は最短で東京駅 - 富山駅間が2時間8分、東京駅 - 金沢駅間が2時間28分となった。旅客向けの案内は「北陸新幹線」に統一されたが、JR東日本管轄区間においては一部で「北陸新幹線(長野経由)」と案内される場合がある。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "長野 - 金沢間の総事業費は 16,988 億円(平成30年度)であった。全線フル規格の新規認可額は 15,660 億円(平成15年4月価格)であったが、建設物価上昇の影響や法令・基準等の改正、地質不良等に対する工事費の増額に伴い、平成24年3月に約 14 %増嵩となる 17,801 億円に修正された。しかしその後のコスト削減や落札差額により、修正額から813億円減となる 16,988 億円(新規認可額に対して 8 %増)で事業を完成した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "北陸新幹線の整備費用のうち、新潟県の負担分について国と新潟県との間で一時対立が生じていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)2月12日、新潟県の泉田裕彦知事は、国土交通省から資材価格高騰などを理由に220億円の建設費追加負担を求められたことに対して、「突然増額を求められても対応は難しい」として、算出根拠について納得できる説明があるまでは増額分の負担に応じない姿勢を表明した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "同年12月25日、泉田知事は前原誠司国土交通大臣と話し合い、「県と国の信頼関係が再構築された」として2009年度分負担金残額計104億円を支払うと表明した。新潟県は2009年(平成21年)11月6日に国地方係争処理委員会へ計画の認可について審査を要求し、委員会は同年12月25日却下。新潟県は却下に対して規定の30日内の2010年(平成22年)1月27日までに東京高裁に提訴せず、国との協議は続行されることとなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "しかし、新潟県は協議が進展しないことを理由に2011年度当初予算案に建設負担金を盛り込まなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2010年9月13日、JRが国側へ支払う貸付料には、並行在来線の赤字解消分が含まれるとして新潟県が行った北陸新幹線貸付料に関する情報開示請求に対して一部開示の決定がなされた。これを受けて同県は、同県区間の並行在来線の赤字解消相当額は、30年で780億円を超えるとの試算を発表した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "なお、新潟県および泉田知事の対応には、大阪府の橋下徹知事(当時)は北陸新幹線自体には賛成ではあるが、直轄事業負担金の観点からこの対応に強い支持を表明した一方、新幹線未開業の富山・石川両県を人質にとるような手法であることから石川県の谷本正憲知事からは強い不快感が表明された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "しかし2012年2月17日、新潟県の泉田知事は前田武志国土交通大臣と会談し、新幹線開業に伴う並行在来線の第三セクター運営において、国内有数の豪雪地域である信越及び越中・越後国境(新潟・富山県境)での鉄道運営に関する赤字相当額として県が試算していた「30年間で780億円」という金額を国が追加支援をする事等を条件に、これまで県として支払いを拒否していた地方負担分を支出することに合意した。これにより、北陸新幹線の建設は予定通り2014年度末までの開業計画に遅れることがなくなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢 - 南越間では「福井駅部機能高度化事業を行う」とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢車両基地 - 南越間では、福井駅部についてえちぜん鉄道の高架化と一体的に工事を行うため、2005年度(平成17年)当初に着工し2008年度(平成20年)末の完成を目指すとされた。南越 - 敦賀間については直ちに工事実施計画の認可申請を行うとされた。この申し合わせに基づき、2006年(平成17年)4月27日に福井駅部の工事実施計画が認可され、6月26日に起工式が行われた。また、同年12月には南越(仮称)- 敦賀間の工事実施計画の認可申請が行われた。福井駅部は高崎起点421 km405 mに位置し、北陸本線の東側に高架橋を設置する延長800mの区間であり、2009年(平成21年)2月に高架橋が完成した。その後、福井駅部の高架橋は2015年(平成27年)9月27日から2018年(平成30年)6月24日にえちぜん鉄道単独の高架完成までの間えちぜん鉄道の福井駅 - 福井口駅間の仮線・仮駅舎として使用されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)12月26日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党確認事項において北陸新幹線は長野駅 - 白山総合車両基地間の「平成26年度末の開業」および新たな着工区間として、白山総合車両基地 - 敦賀駅間について営業主体であるJR西日本の同意と並行在来線の経営分離に関する沿線自治体の同意を条件に「長野・白山総合車両基地の開業から概ね10年後強」を想定完成・開業時期とする方針を示した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "翌2012年(平成24年)6月に北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間が認可、着工された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)5月27日、芦原温泉駅で金沢駅 - 敦賀駅間のレール締結式が行われ、東京 - 敦賀間約580kmが線路で繋がった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "金沢駅以西については、フリーゲージトレイン(FGT)による在来線乗り入れとする案が検討されてきた。これは、金沢駅 - 敦賀駅開業後、在来線である湖西線に乗り入れて京都駅経由で大阪(新大阪駅または大阪駅)へ至るというもので、敦賀駅以西の建設の見通しが立たないことにより、2012年2月に国土交通省が提案したものであった。FGTが導入されると、北陸本線・東海道本線経由で米原・名古屋方面への直通も可能になるというメリットもあった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "金沢 - 敦賀間の着工に向けた試算では、金沢 - 敦賀間のフル規格整備に加えて、富山 - 大阪間に軌間可変電車(フリーゲージトレイン)の導入した場合についても想定されていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2013年6月からFGTのプロジェクトチームを拡大して開発を本格化するとした。JR西日本もこの案を前向きに検討し、同社は2014年9月、敦賀市において模擬台車による軌間変換試験を同年10月から開始すること、また、北陸ルートに対応したFGT試験車(6両編成)の設計・製作にも取りかかり、2016年度から試験車両による試験を始めることを表明していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "しかし、FGTは開発途上で技術的な課題があるとともに、仮に実現しても在来線では従来の特急列車と同じ速度でしか運転できない、通常の新幹線より重くなることにより線路の保守費用が膨らみ、車両の製造費が高くなるというデメリットが指摘された。さらに、金沢 - 敦賀間の開業が当初予定の2025年度から2022年度に3年繰り上げられたことで、JR西日本は開業が前倒しされた場合には、導入が間に合わないとの見解を示した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "なお、2012年5月には沿線の富山・石川・福井・滋賀・京都・大阪の各府県と関西広域連合、JR西日本はFGT導入について、新幹線の大阪延伸までの暫定措置として認めるとの申し入れを国土交通省に行っているが、福井県の市民団体は高価なFGT車両の導入により敦賀以西のフル規格での整備が進まなくなる、料金が割高になるとして、導入を見送るように県に対して申し入れを行っている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)1月14日の「整備新幹線の取扱いについて」の中で「沿線地方公共団体の最大限の取組を前提に、完成・開業時期の前倒しを図る。」とする方針が示された。北陸新幹線においては金沢 - 福井 - 敦賀間の「完成・開業時期を平成37(2025)年度から3年前倒しし、平成34(2022)年度末の完成・開業を目指す」とされた。また、在来線との乗換利便性を確保し、十分な開業効果をできる限り早期に発揮する観点から、別途与党において、整備が先行している福井駅の早期活用等について、今夏までに検討を行うこと。金沢 - 敦賀間には、フリーゲージトレインを導入することが予定されているが、フル規格を前提とする整備計画に影響を与えるものではないことも示された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2017年6月17日の定期会見で福井県知事は九州新幹線(西九州ルート)(JR九州)でのFGT導入見送りを受けて、在来線特急の調整を行う都合から、採用の結論を求めていた一方で、同年6月20日のJR西日本の定期記者会見においては、技術的な問題が解決するまで動向を注視するとして、FGT導入について明言を避けていたが、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、導入を断念せざるを得なくなった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "フリーゲージトレインの導入を断念する方針が発表されると、与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(PT)の検討委員会において、福井駅および敦賀駅の乗換利便性向上設備の追加が決定された。福井駅の新幹線ホームは1面2線と狭いことから、乗換利便性向上のため、ホーム開口部を3か所設置することや中2階に在来線との連絡通路を設置すること、ホーム柵の位置を変更してホーム幅を拡張する計画となった 。また、2020年度の福井先行開業も計画していたが2017年3月11日に与党PTにより断念している。敦賀駅では大阪・米原方面の在来線特急との乗り継ぎ時間短縮などを目的に、新幹線駅舎の1階に在来線を引き込み、上下で乗り換えできるように計画が見直された。2017年(平成29年)10月には工事完了を「平成34(2022)年度に前倒しする」ことや、福井駅、敦賀駅の乗換利便性向上施設などを追加した工事実施計画(その2)が認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "建設コストの削減や河川環境への影響低減を目的に、九頭竜川に架かる北陸新幹線 九頭竜川橋りょうと福井県道 新九頭竜橋(仮称)の一体的整備が進められており、完成すれば新幹線では初の鉄道道路一体橋となる。橋梁下部工を鉄道と道路で一体構造にすることで、約2.5億円のコスト削減が見込まれる。九頭竜川流域への環境問題において、前述の九頭竜川橋りょう建設地付近には国指定の天然記念物であるアラレガコの生息地が存在する。これらの生物は遡上能力が高くないため、環境変化の影響を受けやすい。そのため、川の流れを変える瀬替えをしない、間隔を広くとった仮橋・仮設構台を設けて施工している。2019年5月11日には九頭竜川橋りょうの架橋工事が完了している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "敦賀市内に建設予定の深山トンネル付近には、新幹線建設の認可後、国際的な湿地保護条約であるラムサール条約に登録された中池見湿地が存在している。そのため、専門家による検討委員会が開催され、中池見湿地付近の深山トンネルと後谷部およびその前後のルートを東側へずらすルート変更が行われ、認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2019年(平成31年)3月には現認可額の1兆1,858億円から2,263億円の増加となる1兆4,121億円となる工事実施計画の変更が認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2021年(令和3年)3月には工事費の増額および工事の完了時期の変更伴う工事実施計画の変更が認可され、工事費は現認可額の1兆4,121億円から2,658億円の増加となる1兆6,779億円となった。また工事の完了時期が現認可の平成34(2022)年度末から令和5(2023)年度末に変更された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "金沢 - 敦賀間の総事業費は 16,779 億円(令和2年4月価格)である。平成23年の新規認可額は 11,600 億円であったが、消費税増税や物価上昇、耐震設計標準の改訂等により、平成29年に 14,121 億円に修正された。更に、物価上昇と法令改正、地質不良対策・工期短縮策・生コン不足対策等により、令和2年に 16,779 億円に修正された。平成23年の新規認可額と、令和2年の事業費を比較すると、5,179 億円(約 45 %)増額された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "長野県千曲市が長野駅-上田駅間に新駅「新千曲駅」(仮称。旧仮称「更埴駅」)を誘致する運動を行っていた。在来線特急「あさま」のうち毎日約半数が屋代駅に、また戸倉駅にはほぼ全便が停車していたが、屋代駅が所在する旧更埴市は、市に特急列車の停車がなくなることの代替措置として「長野新幹線」計画段階から新幹線新駅誘致を構想。宮坂博敏・更埴市長(千曲市発足後は千曲市長)はこれを推進する方針を取り、1992年3月、旧更埴市の対策委員会が日本鉄道建設公団との設計協議で更埴市内への駅の設置追加を要望するも、「当初計画に基づき長野オリンピックまでに開業させることを最優先とする」との理由から棚上げとなった。建設工事中の1996年7月には更埴市・戸倉町・上山田町他の陳情を長野県議会が採択、1997年5月には須坂市など近隣自治体も加わった「北陸新幹線(仮称)更埴駅誘致期成同盟会」が結成された。1997年10月の長野駅までの先行開業、2003年の更埴市・戸倉町・上山田町合併による千曲市発足を経て、2007年9月、宮坂市長の後を受けて新駅誘致実行を公約した近藤清一郎・旧更埴市前助役が千曲市長に当選した。市は新駅について五里ヶ峰トンネル長野駅方出口から長野自動車道更埴IC付近までの「明かり部」の区間内への設置を予定していた。当初期成同盟会は観光需要などの観点から長野県立歴史館及び森将軍塚古墳・科野の里歴史公園傍の五里ヶ峰トンネル長野駅方出口付近を想定していたが、同市長はパークアンドライド式利用を見込んで新駅を更埴IC(しなの鉄道線屋代高校前駅付近)に接続させる案を示した。更にいわゆる「請願駅」として金沢駅延伸開業までに建設する構想を提起、2009年6月、市の施政方針として示した。2011年9月の市長選挙においては新駅構想が選挙の争点となる情勢であったものの、新駅誘致構想推進を公約した近藤市長に対して反対派からは立候補者がなく、同市長が無投票で再選となった。近藤市長は引き続き新駅誘致構想を進めたが、2012年9月、病気により退任。同年11月の市長選挙において改めて新駅構想が争点となり、推進派候補2名・反対派候補1名が立候補した。選挙戦において反対派候補への支持は低迷、推進派候補2名の争いとなり、岡田昭雄・前千曲市参与が新市長に当選した。この結果新駅誘致推進支持の民意が確認された。2015年3月の金沢駅延伸開業までには間に合わない見通しとなったものの、2013年1月には「北陸新幹線新駅誘致期成同盟会」が設立され、「対策協議会」など他の団体も活動を開始、2014年12月には阿部守一長野県知事が新駅誘致推進支持を表明した。2015年7月には千曲市・同市議会他による「北陸新幹線新駅設置早期実現を求める陳情」を長野県議会が採択、千曲市への新駅設置構想は事実上長野県の方針ともなった。しなの鉄道線との接続については未定、また建設資金などの問題もあったが、千曲市は2023年度の敦賀駅延伸までには開業させたいとの意向であった。2016年10月の千曲市長選挙においても再び新駅構想が争点となった。新駅誘致を推進する岡田市長と反対派候補の一騎討ちとなり、接戦となるも新駅構想を掲げる岡田市長が再選された。2017年2月には阿部守一長野県知事が期成同盟会の顧問に就任。同年3月、期成同盟会はJR東日本長野支社に新駅設置を求める要望書を提出した。これに対し同年10月、JR東日本は新駅設置について「技術的に難しい」と回答。専門家もその回答を妥当と説明した。また新駅設置の課題であった線路の傾きについて、解消には250億から350億円の費用かかることが明らかになり、岡田市長は2017年12月5日の千曲市議会12月定例会において、JRの回答などを踏まえ「新駅設置を進める合理的な理由を見つけることができない」と新駅設置を断念することを明らかにした。長野県も誘致断念を了承。これを受け期成同盟会は2018年2月、活動を終了し3月末をもって解散することを決定した。対策協議会など他の団体も活動を終了した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "石川県白山市が金沢駅 - 小松駅間に新駅「白山駅」(仮称)を誘致する運動を行っていた。当初、白山総合車両所に新幹線乗降場を設置する案が提起されていたが、その後、北陸本線加賀笠間駅周辺に新駅を設置する構想となっていた。「北陸新幹線(仮称)白山駅建設期成同盟会」を地元自治体・経済団体で構成していたものの、2017年4月15日、「白山駅」設置を断念。同年5月に同盟会解散を決定した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)10月上旬、東日本台風(台風19号)の接近に伴い日本各地120か所で半日あたりの雨量が観測史上最大を記録するなど大量の降雨があった。北陸新幹線も台風接近前の12日夕方までに計画運休していた。気象庁は東日本を中心とする13都県に大雨特別警報を発表し、長野県に対しては12日午後3時半に発表した。降雨の影響で千曲川の水位は12日昼頃から上がり始め、13日午前0時に氾濫危険水位を超えたのち同日午前3時から5時半の間に長野市穂保地区において堤防が決壊した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "千曲川から1キロほどの距離にある長野新幹線車両センターが位置する赤沼地区では、最大約4.3メートル浸水したと推定されている。長野駅 - 飯山駅間の本線の一部や車両センターに併設されていた信号関係の電源設備、臨時修繕庫、車輪研削庫、確認車車庫、変電所(地下電源室、事務所含む)、センター向かい側の新赤沼き電区分所などでも冠水した。同地区は13日午前0時45分に緊急の避難指示が出されており、車両センターにいた社員などの36人は建物の高い場所に避難した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "長野市のハザードマップでは付近の浸水を最大10メートル以上であると予想していた。また国土交通省北陸地方整備局千曲川河川事務所が2016年に、想定される最大の豪雨の場合10メートル以上浸水する「浸水想定区域」と認定しており、JR東日本も建設を行った鉄道・運輸機構もこれを把握していたものの多大な費用が掛かるとして浸水対策は行っていなかった。日本鉄道建設公団は建設当時の1982年に、県が1982年に作成した浸水被害実績図を参考に、それ以前の水害より90cm高い位置にするため車両センターに2mの盛り土をしたとしており、公団の後継団体となる鉄道・運輸機構も「建設当時は必要な設計をした」との考えを示している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "これらの結果、車両センターに留置されていた車両であるE7系8編成とW7系2編成、場所別では屋外の留置線で7編成、屋内の仕業検査・交番検査庫で3編成の計10編成が座席の肘掛けの高さまで浸水した。また、このうちの2編成78軸に脱線が発生しており、うち1編成は10 - 15メートル移動していた。車両センターから車両を退避させる場所や基準を定めたマニュアルなどがなかったことや台風の進路から避難を計画するには至らないと判断していたこともあって、車両の退避は行われなかった。当時、北陸新幹線では全30編成を運用しており、平常時は24編成を使用していたが、被害編成は全体のうち3分の1を占めていた。11月6日、JR東日本とJR西日本は全車両を廃車にし、一部の部品は転用するものの帳簿上の損失は最大で148億円になると発表した。また、JR東日本は、2020年春までに、上越新幹線に導入予定だった新造E7系車両5編成を北陸新幹線に転用し、かつ上越・北陸兼用の1編成を北陸専用にして北陸用に26編成を用意すると発表した。JR西日本も被害を受けた2編成の補充の方針を明らかにしている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "13日は長野駅 - 富山駅間を運休し、14日は長野駅 - 糸魚川駅間を運休し、15日から24日までは長野駅 - 上越妙高駅間を運休した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "10月25日に暫定ダイヤで運行再開された。東京駅 - 金沢駅間では通常48本に対して46本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対して23本、金沢駅 - 富山駅間では通常36本に対して35本と、合計では通常118本に対して104本での運行となった。11月30日からのダイヤでは東京駅 - 金沢駅間が通常通りの48本、金沢駅 - 富山駅間では通常通り36本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対し30本に増え、さらに12月27日からは32本に増えると発表された。ただし、臨時列車を含めた年末年始の本数は前年比90%に留まると発表されている。2019年11月28日、2020年1月6日から2月29日にかけての臨時列車を含めた本数は前年比96%の2945本となる予定が発表された。2020年1月9日、同年3月14日から定期ダイヤが全面復旧する予定であると発表された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2019年12月6日、JR東日本が長野新幹線車両センターの主要施設を2020年にも10メートル程度かさ上げする計画であることが明らかになった。留め置き線路についてはかさ上げが難しいために、浸水が予想される場合には車両は他所に退避させる方針である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "長野 - 東京間の運行本数の変化は、高崎 - 軽井沢間着工後の1990年は、鉄道19本、高速バス0本であったが、高崎 - 長野開業後の1997年には鉄道が24本に増加、高速バスも12本に増加し、開業10年後の2007年には鉄道が27本に微増したものの、高速バスは32本とさらに増加した。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "首都圏(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県) - 長野県間の鉄道利用実績は、1990年度は定期外998万人であったが、高崎 - 長野間開業後の1997年度は定期外1,089万人、定期5万人に増加し、2005年度は定期外1,015万人、定期247万人と定期利用者が増加している。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "首都圏 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道57%、航空39%、バス4%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道47%、航空48%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道57%、航空34%、バス9%と鉄道が5割から6割、航空が3割から4割程度であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道83%、航空13%、バス4%と鉄道が大幅に増加し、航空は大きく減少し、2018年度には鉄道86%、航空10%、バス4%とその傾向は継続している。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "東京 - 富山間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道16本、航空(富山 - 羽田)8本、高速バス3本であったが、2005年は鉄道が17本、航空8本、高速バス6本、2014年は鉄道18本、航空6本、高速バス10本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は6本を維持、高速バスは9本であったが、2018年に航空は4本に減少し、高速バスは8本になった。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "首都圏 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は116万人、2005年度は103万人、2014年度は133万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は284万人と約2倍に増加し、2017年度も281万人と高い水準を維持している。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "首都圏 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道33%、航空60%、バス6%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道29%、航空67%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道38%、航空52%、バス9%と航空が5割から7割で最も多く、鉄道は3割から4割であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道72%、航空23%、バス5%と鉄道が大幅に増加した一方、航空は大きく減少したことでシェアが逆転した。2018年度には鉄道70%、航空25%、バス6%とその傾向は継続している。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "東京 - 金沢間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道16本、航空8本、高速バス9本であったが、2005年には鉄道17本、航空は14本、高速バス12本、2014年は鉄道18本、航空15本、高速バス本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は15本を維持、高速バスは10本であったが、2018年に航空は13本に減少し、高速バスは9本になった。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "首都圏 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は83万人、2005年度は89万人、2014年度は131万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は374万人と約3倍に増加し、2017年度も339万人と高い水準を維持している。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "長野県 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、開業前年の2014年度では鉄道90%、バス10%とバス利用もみられたが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は鉄道97%、バスは3%に減少し、2017年度以降は再び鉄道が100%になった。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "立山黒部アルペンルートを除く長野県 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は10万人、2005年度は4万人、2014年度は5万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は26万人と約5倍に増加し、2017年度も19万人と高い水準を保っている。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "長野県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、2005年度では鉄道81%、バス19%とバス利用もみられたが、2008年度以降は再び鉄道が100%になった。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "長野県 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は8万人、2005年度は3万人、2014年度は8万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は40万人と約8倍に増加し、2017年度も25万人と高い水準を保っている。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "※2015年度のデータには、あいの風とやま鉄道およびIRいしかわ鉄道のデータが含まれていないため除外した。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "富山県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道97%、バス3%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道91%、バス9%、開業前年の2014年度では鉄道73%、バス27%とバスの割合が増加傾向にあった。長野 - 金沢間開業後の2016年度は、鉄道77%、バス23%と大きな変化は見られない。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "富山 - 金沢間の運行本数の変化は、鉄道約40本、高速バス約20本であり開業前後で大きな変化は見られない。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "富山県 - 石川県間の鉄道利用実績は1992年度は334万人、2005年度は307万人、2014年度は268万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2016年度は351万人と約1.2倍に増加した。", "title": "事業の効果と影響" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "開業後の所要時間について、金沢 - 敦賀間の着工に向けた2012年4月時点での国土交通省の試算では、富山 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで1時間16分30秒、速達(平均的)タイプで1時間1分15秒、東京 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで4時間13分0秒、速達(平均的)タイプで3時間21分45秒と想定されていた。なお、2021年3月時点での鉄道・運輸機構による時間短縮効果の試算では、東京 - 福井間の所要時間は開業前(以下2020年4月時点)の3時間14分から約20分短縮されて2時間53分、大阪 - 金沢間では2時間31分から約25分短縮されて2時間4分、富山 - 福井間では1時間12分から約25分短縮されて44分となる。2023年8月にJR西日本が公表した運行計画の概要では、最速達列車の所要時間について東京 - 福井間で2時間51分、東京 - 敦賀間で3時間8分、大阪 - 金沢間で2時間9分とされている。", "title": "今後の見通し" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "また、金沢 - 敦賀間の整備により、北陸3県(富山、石川、福井)と大阪の交流人口が14,800人/日から1.1倍の16,200人に、北陸地域内では福井と富山の交流人口が5,300人/日から1.2倍の6,300人/日に増加すると予測されている。", "title": "今後の見通し" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "環境面では航空機、バスから新幹線に旅客が転移することで、福井県の運輸部門(自動車除く)の二酸化炭素排出量の約26%に相当する59,000 tの二酸化炭素の排出量削減が期待される。", "title": "今後の見通し" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "敦賀駅以西のルートについては様々な議論がなされたが、2016年(平成28年)12月20日、政府与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(与党PT)は敦賀駅から西進して福井県小浜市を経由、そこから南下して京都駅につなぐ「小浜・京都ルート」を正式採用した。京都駅 - 新大阪駅間のルートについては、引き続き与党PTで検討されていたが、2017年(平成29年)3月15日に、JR片町線(学研都市線)松井山手駅(京田辺市)付近に中間駅を設ける「南回り案」を正式採用した。", "title": "今後の見通し" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "鉄道建設・運輸施設整備支援機構は2017(平成29)年度から駅やルートを決めるための調査を始め、2019年(令和元年)5月に計画段階環境配慮書の中で概略ルートを示した。設置予定駅は敦賀駅、小浜市(東小浜)附近、京都駅、京田辺市(松井山手)附近、新大阪駅であり、主要な線形条件として、最小曲線半径は4,000m、最急勾配は15‰とし、ラムサール条約に基づく登録湿地である三方五湖や周辺の国定公園(若狭湾国定公園)、京都丹波高原国定公園のうち第1種・第2種特別地域に指定されている芦生の森を回避することなどが考慮されている。今後の詳細なルート検討においては、京都市中心市街地、伏見酒造エリアを回避した区域を選定し、京都市市街地の文化財や地下水への影響を考慮すること、京都丹波高原国定公園や金剛生駒紀泉国定公園の第3種特別地域等を通過する際の自然環境に配慮した工法の検討、全体の8割がトンネルを占めるため、都市部における大深度地下の利用や発生掘削土の受け入れなどの考慮事項が挙げられている。2022(令和4)年には国土交通省が、将来的な山陰新幹線との分岐も含む南丹市付近での駅設置可能性について調査することを決定している。", "title": "今後の見通し" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)3月14日時点で新幹線が開業および事業化された区間の並行在来線については、以下のような措置(予定事項を含む)がそれぞれ執られている。なお飯山線の豊野駅 - 飯山駅間も北陸新幹線と並行するが、この区間はルート上の制約でたまたま飯山駅を経由することになったため、本来の並行在来線の意義から外れるとして同区間の経営分離は行われていない。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "信越本線は高崎駅 - 直江津駅間が並行在来線とされた。このうち高崎駅 - 横川駅間と篠ノ井駅 - 長野駅間は新幹線開業後も信越本線としてJR東日本が運行している。横川駅 - 軽井沢駅間は鉄道路線としては廃止され、JRバス関東によるバス路線碓氷線として運行されている。これら以外の区間については県域ごとに設立された第三セクター鉄道会社に経営移管された。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "長野県内の区間はしなの鉄道が軽井沢駅 - 篠ノ井駅間をしなの鉄道線、長野駅 - 妙高高原駅を北しなの線として運行している。 新潟県内の妙高高原駅 - 直江津駅間はえちごトキめき鉄道が妙高はねうまラインとして運行している。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "北陸本線の直江津駅 - 金沢駅間は県域ごとに設立された第三セクター鉄道会社に経営移管された。新潟県内の区間はえちごトキめき鉄道が直江津駅 - 市振駅間を日本海ひすいラインとして運行している。富山県内の区間はあいの風とやま鉄道が市振駅 - 倶利伽羅駅間をあいの風とやま鉄道線として運行している。石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が倶利伽羅駅 - 金沢駅間をIRいしかわ鉄道線として運行している。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "この区間は北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間の開業時にJR西日本から経営分離される予定である。2017年時点で石川・福井の県境駅の扱いについては、石川県側は2017年3月30日の「第1回 いしかわ並行在来線金沢以西延伸対策検討会」においては大聖寺駅を境界とする検討がなされている。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が経営を引き継ぐ計画である。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "福井県内の区間は、福井県並行在来線対策協議会において、経営を引き継ぐ第三セクター鉄道事業者の開業予定を当初の2025年度(令和7年度)から2022年度(令和4年度)と見直している。2019年8月に福井県並行在来線準備株式会社として設立され、2022年7月にハピラインふくいに社名を変更した。開業時期は2023年度末(令和5年度末、2024年春)に変更されている。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "なお、金沢駅 - 敦賀駅間の着工に向けた試算では、金沢駅 - 敦賀駅間では特急「サンダーバード」などの在来線優等列車の運転は行わないと想定している。そのため、特に(新幹線駅が設けられない予定の)鯖江市において敦賀開業以降も大阪・名古屋方面への特急の直通運転継続の要望が高く、「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」が活動している。フリーゲージトレインの開発が難航していることから、敦賀開業時からの導入は困難であり、鯖江市が特急を福井駅まで乗り入れるよう求める意見書を、2017年3月に福井県議会に提出し、その時点では明確な回答はなかったが、2017年4月22日に鯖江市での国土交通省・福井県の担当者との意見交換会が実施された。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "国土交通省の担当者は、JRから経営分離するスキームは変わらないとした上で「JR西日本と並行在来線会社が相互直通運転をするためには、なんらかの協定を結ぶことが最低限必要」と説明し、福井県の担当者は協定締結に向けた話し合いについて「JRが行っている並行在来線会社の支援策の一つとして、在来線特急の運行も入れてもらえるように話をしていきたい」と述べた。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2018年1月の鯖江市の市政アンケート(回答率:50.6パーセント)でも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続を望む声が74.6パーセントあり、まちづくりに関する設問でも最多だった「鯖江駅を中心とした交通利便性の高いまちづくり」(20.5パーセント)という意識からも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続の意識が高いことがうかがえる。それを受け「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」事務局担当は「特急存続を願う市民の声を再認識した。実現する会一体となって県全体またはそれ以上の活動に広げ、敦賀開業後の市民の利便性確保に努めたい」と述べている。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2018年9月27日にはフリーゲージトレイン導入断念に伴い、鯖江市長は福井県知事に対して特急「サンダーバード」存続に絞って要望を行った。2019年3月4日の福井県議会では特急「しらさぎ」が福井駅までの運行では利用が見込めず、車両や乗務員の確保の問題もあって、JR西日本は消極的だとしている。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "一方2017年5月14日、自由民主党の整備新幹線建設推進プロジェクトチームの検討委員会での会合では、経営分離後の区間で日本貨物鉄道(JR貨物)に委託して貨物列車に旅客車両を連結して運行する案や、福井県の第三セクター鉄道事業者が特急を運行する案が議論され検討が進んでいる。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2019年5月16日には、(北陸新幹線敦賀延伸時に北陸本線牛ノ谷駅 - 敦賀駅間の経営を承継する)福井県内区間の第三セクター鉄道事業者への出資金20億円(うち設立時の1次出資5億円、本格会社移行時の2次出資15億円)のうち、福井県が14億円・県内全市町が4億円・民間が2億円を負担することと、福井県内区間の第三セクター鉄道事業者の準備会社(福井県並行在来線準備株式会社)を予定より約1年早く2019年8月に設立することが決定し、決定通り同年8月13日に設立された。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "2021年6月9日になって、福井県とJR西日本との間でなされていた特急の福井駅 - 敦賀駅間の存続についての協議が打ち切りとなったことが報道された。これについて鯖江市は、市のウェブサイトで遺憾ではあるが受け入れざるを得ないものという立場を表明した。", "title": "並行在来線の扱い" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "各年度の平均通過人員は以下の通りである。定期利用者については、長野 - 金沢間開業前の2014年度は約4,003人/日であったが、開業後の2015年は約5,787人/日と約1.4倍に増加し、2017年度には6,688人/日と増加傾向である。", "title": "利用状況" } ]
北陸新幹線(ほくりくしんかんせん)は、東京都から上信越・北陸地方を経由して大阪市までを結ぶ計画の高速鉄道路線(新幹線)であり、整備新幹線5路線の一つである。2015年(平成27年)3月14日時点で、群馬県高崎市の高崎駅から石川県金沢市の金沢駅までの間が開業している。運営主体は高崎駅 - 上越妙高駅(新潟県上越市)間が東日本旅客鉄道(JR東日本)、上越妙高駅 - 金沢駅間が西日本旅客鉄道(JR西日本)である。 『鉄道要覧』では高崎駅を起点としているが、整備新幹線としては東京都が起点で、高崎駅以東については、東京駅(東京都千代田区) - 大宮駅(埼玉県さいたま市大宮区)間は東北新幹線、大宮駅 - 高崎駅間は上越新幹線と共用しており、列車は上越新幹線および東北新幹線を経由して東京駅まで乗り入れている。旅客案内上は東北・上越新幹線の東京駅 - 高崎駅間を含む東京駅 - 金沢駅間が「北陸新幹線」と案内される。2015年3月13日までは長野駅が終点であり、1997年(平成9年)の開業当時は「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と呼ばれていた(後節参照)。
{{otheruses||2015年3月13日までの営業形態|長野新幹線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo JRgroup.svg|35px|link=JR]] 北陸新幹線 |路線色=#008000 |路線色2=#0072bc |ロゴ= [[File:Shinkansen-E.svg|48px|■]] [[File:Shinkansen jrw.svg|48px|■]] |画像=SeriesE7-F19.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=北陸新幹線[[新幹線E7系・W7系電車|E7系電車]]<br />(2020年8月、[[佐久平駅]]付近) |国={{JPN}} |所在地=[[群馬県]]、[[長野県]]、[[新潟県]]、[[富山県]]、[[石川県]]<!--、[[福井県]]、[[京都府]]、[[大阪府]]--> |種類=[[高速鉄道]]([[新幹線]]) |起点=[[高崎駅]] |終点=[[金沢駅]](2015年3月14日時点) |駅数=13駅 |開業=[[1997年]][[10月1日]](高崎駅 - [[長野駅]]間) |最終延伸=[[2015年]][[3月14日]](長野駅 - 金沢駅間) |休止= |廃止= |所有者=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] |運営者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />(高崎駅 - [[上越妙高駅]]間)<br /> [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<br />(上越妙高駅 - 金沢駅間) |車両基地= |使用車両=[[新幹線E7系・W7系電車|E7系・W7系]] |路線構造= |路線距離=345.5 [[キロメートル|km]] |営業キロ= |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化区間=全線 |電化方式=[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]]・50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]<br />(高崎駅 - 新軽井沢SP・新高田SP - 新糸魚川SP)<br />交流25,000 V・60 Hz<br />(新軽井沢SP - 新高田SP・新糸魚川SP - 金沢駅)<br />いずれも[[架空電車線方式]]([[#異周波数対応|異周波数対応]]の節も参照)。 |最大勾配=基本15 [[パーミル|‰]]、最大30 ‰ |最小曲線半径=基本4,000 [[メートル|m]]、最小1,500 m |閉塞方式=車内信号式 |保安装置=[[自動列車制御装置|ATC]] ([[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]) |最高速度=260 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=File:Hokuriku Shinkansen route map.svg }} '''北陸新幹線'''(ほくりくしんかんせん)は、[[東京都]]から[[上信越]]・[[北陸地方]]を経由して[[大阪市]]までを結ぶ計画の[[高速鉄道]]路線([[新幹線]])であり、[[整備新幹線]]5路線の一つである{{Sfn|北山斉|1988|p=18153}}。[[2015年]]([[平成]]27年)[[3月14日]]時点で、[[群馬県]][[高崎市]]の[[高崎駅]]から[[石川県]][[金沢市]]の[[金沢駅]]までの間が開業している{{Sfn|弘中知之|2016|p=40073}}。運営主体は高崎駅 - [[上越妙高駅]]([[新潟県]][[上越市]])間が[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)、上越妙高駅 - 金沢駅間が[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)である。 『[[鉄道要覧]]』では高崎駅を起点としているが、整備新幹線としては東京都が起点で、高崎駅以東については、[[東京駅]](東京都[[千代田区]]) - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]([[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]])間は[[東北新幹線]]、大宮駅 - 高崎駅間は[[上越新幹線]]と共用しており、列車は上越新幹線および東北新幹線を経由して東京駅まで乗り入れている。旅客案内上は東北・上越新幹線の東京駅 - 高崎駅間を含む東京駅 - 金沢駅間が「北陸新幹線」と案内される。2015年3月13日までは[[長野駅]]が終点であり、[[1997年]](平成9年)の開業当時は「長野{{Small|行}}新幹線」、後に「[[長野新幹線]]」と呼ばれていた([[#概要|後節]]参照)。 == 概要 == 北陸新幹線は[[1972年]]([[昭和]]47年)に、[[全国新幹線鉄道整備法]]第4条第1項の規定による『[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画]]』により公示され、[[1973年]](昭和48年)[[11月13日]]に整備計画が決定された5路線(いわゆる[[整備新幹線]])の路線の一つである{{Sfn|北山斉|1988|p=18153}}。[[日本国有鉄道|国鉄]]の財政悪化により建設が一時凍結されたが、[[1989年]]([[平成]]元年)に高崎駅 - [[軽井沢駅]]間で着工され、[[1997年]](平成9年)10月に高崎駅 - 長野駅間が整備新幹線としては初めて開業した{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24994}}。長野 - 金沢間は一部区間が[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]で着工された後、全区間がフル規格化され、[[2015年]](平成27年)3月に長野駅 - 金沢駅間が開業した{{Sfn|弘中知之|2016|p=40073}}。 1997年の開業時点では長野駅が終点であり、2015年の延伸まで北陸新幹線は北陸地方に達していなかったことから旅客向けには当初「[[長野新幹線|長野{{Small|行}}新幹線]]」、後に「[[長野新幹線]]」と呼称していた(詳細は[[#高崎 - 長野間の建設・開業|沿革]]および「[[長野新幹線#「長野新幹線」の呼称の変遷]]」を参照)。JR東日本管内の駅の北陸新幹線の乗り換え案内では「北陸([[長野駅|長野]]経由)新幹線」、「北陸新幹線(長野経由)」など「長野経由」まで表示されている<ref group="注">「長野経由」が入る経緯は「[[長野新幹線#長野 - 金沢間延伸開業時の呼称の見直し]]」を参照。</ref>。 [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が鉄道施設を建設・保有し、高崎駅 - [[上越妙高駅]]間はJR東日本、上越妙高駅 - 金沢駅間はJR西日本により運営されている{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39349}}。JR東日本・JR西日本の施設管理境界は上越妙高駅の金沢方・高崎起点177 km950 m地点である{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2015|p=6}}。同一名称の新幹線の路線が複数の鉄道会社によって運営されるのは、北陸新幹線が初めてであり、現在でも唯一である<ref group="注">[[北海道新幹線|北海道]]・[[東北新幹線|東北]]及び、[[東海道新幹線|東海道]]・[[山陽新幹線|山陽]]・[[九州新幹線|九州]]の各新幹線は[[会社境界駅]]で路線名も変わる。</ref>。また、JR西日本は北陸新幹線とは別に[[山陽新幹線]]も運営しており、JR東日本に続いて複数の新幹線路線を運営する鉄道会社となり、1つの鉄道会社が運営する新幹線の路線が直接つながっていない初の事例ともなった{{efn2|ただし北陸新幹線の新大阪延伸時には山陽新幹線と共用の地下ホームを建設し相互に乗り入れる計画案も検討されている<ref group="新聞">[https://www.nikkan.co.jp/articles/view/468037 新大阪駅地下に山陽新幹線のホームを 国交省検討] - 日刊工業新聞、2018年4月2日</ref>。}}。 北陸新幹線は整備新幹線として初めて着工され、電源周波数が異なる地域や山岳地帯、豪雪地域を経由する路線でありながら工事費を抑えるために様々な新技術が用いられている。 金沢駅 - [[敦賀駅]]間は[[2012年]](平成24年)に着工され、[[2024年]]([[令和]]6年)[[3月16日]]に開業する予定である<ref group="報道" name="jrwest20230830">{{Cite press release|title=北陸新幹線 金沢〜敦賀間開業に伴う運行計画の概要について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2023-08-30|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/230830_00_press_hokurikushinkansen.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-08-31}}</ref>。 なお、未着工区間である敦賀駅 - [[新大阪駅]]間については、[[2019年]](令和元年)5月に[[環境アセスメント]]のための概略ルートが公表されている。 === 路線データ === * 営業主体 ** 高崎駅 - 上越妙高駅間:[[東日本旅客鉄道]](JR東日本) ** 上越妙高駅 - 金沢駅間:[[西日本旅客鉄道]](JR西日本) * 建設主体 ** 高崎駅 - 長野駅間:[[日本鉄道建設公団]] ** 長野駅 - 金沢駅 - 敦賀駅間:[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] * [[軌間]]:1,435 mm([[標準軌]]) * [[複線]]区間:全線 * 電化方式(カッコ内は駅構内含まず。「[[#異周波数対応|異周波数対応]]」の節も参照) ** 高崎駅 - 軽井沢駅、(上越妙高駅) - [[糸魚川駅]]:[[交流電化|交流]]25,000 [[ボルト (単位)|V]] (50 Hz) ** (軽井沢駅)- 上越妙高駅、(糸魚川駅) - 金沢駅 - [[白山総合車両所]]:交流25,000 V (60 Hz) * 保安装置:[[自動列車制御装置|ATC]] ([[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]]) * [[運転指令所]]:JR東日本[[東日本旅客鉄道新幹線統括本部|新幹線統括本部]] 新幹線総合指令所、JR西日本[[西日本旅客鉄道金沢支社|金沢支社]] 金沢新幹線総合指令所 * [[列車運行管理システム]]:[[新幹線総合システム]] (COSMOS) * 最高速度:260 km/h(高崎駅 - 金沢駅間) * 構造種別延長割合 ** 高崎駅 - 長野駅間{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2008|p=4}}:路盤 15%、橋梁 9%、高架橋 25%、トンネル 51% ** 長野駅 - 金沢駅間{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=1―2}}:路盤 2%、橋梁 14%、高架橋 40%、トンネル 44% ** 金沢 - 敦賀間(建設中){{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=1―2}}:路盤 2%、橋梁 14%、高架橋 51%、トンネル 33% * [[架線]]吊架方式{{Sfn|福島友貴|2013|p=34}} ** 高崎駅 - 長野駅間:CS[[架空電車線方式#シンプルカテナリー式|シンプルカテナリ式]](耐荷速度300 km/h) ** 長野駅 - 金沢駅間:PHCシンプルカテナリ式(耐荷速度350 km/h) == 駅一覧 == === 開業区間 === * 乗車人員は東日本旅客鉄道の駅のもの<ref>[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>。在来線分は含まない。[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]][[ファイル:Decrease2.svg|11px|alt=減少|link=]]は前年度に比較した増([[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]])減([[ファイル:Decrease2.svg|11px|alt=減少|link=]])を表す。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !rowspan="2" colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|営業主体|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|[[商用電源周波数|架線周波数]]|height=6em}} !rowspan="2" style="width:9em;"|駅名 !colspan="2"|高崎からの !colspan="2"|[[東京駅|東京]]からの !rowspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|停車}} !rowspan="2" style="text-align:center; width:6em;"|2021年度<br />乗車人員<br />(1日平均) !rowspan="2"|接続路線 !rowspan="2" colspan="2"|所在地 |- !style="width:3em;"|営業<br />キロ !style="width:3em;"|実<br />キロ !style="width:3em;"|営業<br />キロ !style="width:3em;"|実<br />キロ |- !rowspan="15" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|東日本旅客鉄道|height=14em}} |rowspan="15" style="width:3px; padding:0; border-style:none hidden none; background-color:#008000;"| !rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|東北新幹線|height=6em}} |style="width:1em; background:#99ff99; font-weight:bold; text-align:center;" rowspan="10"|50<br />[[ヘルツ (単位)|Hz]] |[[東京駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|105.0 |style="text-align:right;"|108.6 |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|全 |style="text-align:right;"|32,080[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■]] [[東海道新幹線]]<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 01)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 26)・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線]] (JC 01)<br />[[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 01)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]] (JU 01)・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐線]]・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武快速線]] (JO 19)・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-17)・[[ファイル:Logo_of_Tokyo_Metro_Tōzai_Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] ⇒[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] (T-09) |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=4em}} |[[千代田区]] |- |[[上野駅]] {{JR特定都区市内|山}}{{JR特定都区市内|区}} |style="text-align:right;"|101.4 |style="text-align:right;"|105.0 |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|6,651[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 05)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 30)<br />[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] 宇都宮線・高崎線 (JU 02)・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線 (JJ 01)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-17)<br />[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線|本線]] ⇒[[京成上野駅]] (KS01) |[[台東区]] |-style="height:4em;" |rowspan="2"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|74.7 |rowspan="2" style="text-align:right;"|77.3 |rowspan="2" style="text-align:right;"|30.3 |rowspan="2" style="text-align:right;"|31.3 |rowspan="2" style="text-align:center;"|全 |rowspan="2" style="text-align:right;"|18,915[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 47)<br />[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] 宇都宮線・高崎線 (JU 07)・[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 26)・{{Color|#00ac9a|■}} [[川越線]]<br />[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TD]] [[東武野田線|野田線]] (TD-01)<br />[[埼玉新都市交通]]:[[ファイル:New Shuttle Line symbol.svg|18px]] [[埼玉新都市交通伊奈線|伊奈線(ニューシャトル)]](NS01) |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[埼玉県]]|height=4em}} |rowspan="2" style=white-space:nowrap;"|[[さいたま市]]<br />[[大宮区]] |- !rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|上越新幹線|height=6em}} |- |[[熊谷駅]] |style="text-align:right;"|40.3 |style="text-align:right;"|40.7 |style="text-align:right;"|64.7 |style="text-align:right;"|67.9 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|2,659[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |東日本旅客鉄道:{{color|#f68b1e|■}} 高崎線<br />[[秩父鉄道]]:{{color|blue|■}} [[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] (CR09) |[[熊谷市]] |- |[[本庄早稲田駅]] |style="text-align:right;"|19.0 |style="text-align:right;"|19.6 |style="text-align:right;"|86.0 |style="text-align:right;"|89.0 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|1,398[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |&nbsp; |[[本庄市]] |-style="height:3em;" |rowspan="2"|[[高崎駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|105.0 |rowspan="2" style="text-align:right;"|108.6 |rowspan="2" style="text-align:center;"|&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:right;"|8,757[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[上越新幹線]]・{{color|#00b3e6|■}} [[上越線]]・{{color|#f68b1e|■}} 高崎線<br />{{color|yellowgreen|■}} [[信越本線]]・{{color|#ffd400|■}} [[両毛線]]・{{color|#b4aa96|■}} [[八高線]]・{{color|#0F5474|■}} [[吾妻線]]<br />[[上信電鉄]]:{{color|red|■}} [[上信電鉄上信線|上信線]] |rowspan="3" colspan="1" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[群馬県]]|height=4em}} |rowspan="2"|[[高崎市]] |- !rowspan="14" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|北陸新幹線|height=10em}} |- |[[安中榛名駅]] |style="text-align:right;"|18.5 |style="text-align:right;"|18.5 |style="text-align:right;"|123.5 |style="text-align:right;"|127.1 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|177[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |&nbsp; |[[安中市]] |- |[[軽井沢駅]] |style="text-align:right;"|41.8 |style="text-align:right;"|41.8 |style="text-align:right;"|146.8 |style="text-align:right;"|150.4 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|2,564[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |[[しなの鉄道]]:{{color|#f0a401|■}} [[しなの鉄道線]] |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[長野県]]|height=4em}} |[[北佐久郡]]<br />[[軽井沢町]] |- |style="width:1em; background:#ffff99; font-weight:bold; text-align:center;" rowspan="6"|60<br />Hz |[[佐久平駅]] |style="text-align:right;"|59.4 |style="text-align:right;"|59.4 |style="text-align:right;"|164.4 |style="text-align:right;"|168.0 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|1,777[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |東日本旅客鉄道:{{Color|#41934c|■}} [[小海線]] |[[佐久市]] |- |[[上田駅]] |style="text-align:right;"|84.2 |style="text-align:right;"|84.2 |style="text-align:right;"|189.2 |style="text-align:right;"|192.8 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|1,428[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |しなの鉄道:{{color|#f0a401|■}} しなの鉄道線<br />[[上田交通|上田電鉄]]:{{color|#0c2949|●BE}} [[上田電鉄別所線|別所線]] (BE01) |[[上田市]] |- |[[長野駅]] |style="text-align:right;"|117.4 |style="text-align:right;"|117.4 |style="text-align:right;"|222.4 |style="text-align:right;"|226.0 |style="text-align:center;"|全 |style="text-align:right;"|4,189[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |東日本旅客鉄道:{{color|#00B3E6|■}} 信越本線・{{color|#7bc24b|■}} [[飯山線]]<br />しなの鉄道:{{color|#999966|■}} [[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]<br />[[長野電鉄]]:{{color|red|●N}} [[長野電鉄長野線|長野線]] (N1) |[[長野市]] |- |[[飯山駅]] |style="text-align:right;"|147.3 |style="text-align:right;"|147.3 |style="text-align:right;"|252.3 |style="text-align:right;"|255.9 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|361[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |東日本旅客鉄道:{{color|#7bc24b|■}} 飯山線 |[[飯山市]] |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[上越妙高駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|176.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|176.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|281.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|285.5 |rowspan="2" style="text-align:center;"|&nbsp; |rowspan="2" style="text-align:right;"|995[[ファイル:Increase2.svg|11px|alt=増加|link=]] |rowspan="2"|[[えちごトキめき鉄道]]:{{color|#35c98e|■}} [[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]] |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[新潟県]]|height=4em}} |rowspan="2"|[[上越市]] |- !rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|西日本旅客鉄道|height=8em}} |rowspan="6" style="width:3px; padding:0; border-style:none hidden none; background-color:#0072bc;"| |- |style="width:1em; background:#99ff99; font-weight:bold; text-align:center;"|50<br />Hz |[[糸魚川駅]] |style="text-align:right;"|213.9 |style="text-align:right;"|213.9 |style="text-align:right;"|318.9 |style="text-align:right;"|322.5 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|- |[[西日本旅客鉄道]]:{{color|#0072bc|■}} [[大糸線]]<br />えちごトキめき鉄道:{{color|#3782bd|■}} [[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]] |style="white-space:nowrap;"|[[糸魚川市]] |- |style="width:1em; background:#ffff99; font-weight:bold; text-align:center;" rowspan="4"|60<br />Hz |[[黒部宇奈月温泉駅]] |style="text-align:right;"|253.1 |style="text-align:right;"|253.1 |style="text-align:right;"|358.1 |style="text-align:right;"|361.7 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|- |[[富山地方鉄道]](鉄道線):{{color|#007DC5|■}} [[富山地方鉄道本線|本線]] ⇒[[新黒部駅]] (T31) |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[富山県]]|height=4em}} |[[黒部市]] |- |[[富山駅]] |style="text-align:right;"|286.9 |style="text-align:right;"|286.9 |style="text-align:right;"|391.9 |style="text-align:right;"|395.5 |style="text-align:center;"|全 |style="text-align:right;"|- |西日本旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}} [[高山本線]]<br />[[あいの風とやま鉄道]]:{{color|#00a556|■}} [[あいの風とやま鉄道線]]<br />富山地方鉄道(鉄道線):{{color|#007DC5|■}} 本線・{{color|#8AC75A|■}} [[富山地方鉄道立山線|立山線]]・{{color|#ff8000|■}} [[富山地方鉄道不二越線|不二越線]]・{{color|#ff8000|■}} [[富山地方鉄道上滝線|上滝線]]([[電鉄富山駅]]: T01)<br />富山地方鉄道([[富山地方鉄道富山軌道線|軌道線]]):{{color|#00AE95|■}} 本線・{{color|#F58220|■}}支線 ⇒[[電鉄富山駅・エスタ前停留場]] (C14)<br /><!--ラインカラーなし-->富山駅南北接続線・{{color|darkblue|■}} [[富山地方鉄道富山港線|富山港線]] ⇒[[富山駅停留場]] (C15) |[[富山市]] |- |[[新高岡駅]] |style="text-align:right;"|305.8 |style="text-align:right;"|305.8 |style="text-align:right;"|410.8 |style="text-align:right;"|414.4 |style="text-align:center;"|&nbsp; |style="text-align:right;"|- |西日本旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}} [[城端線]] |[[高岡市]] |- |[[金沢駅]] |style="text-align:right;"|345.5 |style="text-align:right;"|345.5 |style="text-align:right;"|450.5 |style="text-align:right;"|454.1 |style="text-align:center;"|全 |style="text-align:right;"|- |西日本旅客鉄道:{{color|#0072bc|■}} [[北陸本線]]・{{color|#0072bc|■}}[[七尾線]]<br />[[IRいしかわ鉄道]]:{{color|#00a7e3|■}} [[IRいしかわ鉄道線]]<br />[[北陸鉄道]]:{{color|darkorange|■}} [[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]] ⇒[[金沢駅#北陸鉄道 北鉄金沢駅|北鉄金沢駅]] (A01) |colspan="2"|[[石川県]]<br />[[金沢市]] |- |colspan="14"| * 停車…全:全ての列車が停車する駅(2016年3月[[ダイヤ改正|改正]]時点) * 長距離乗車券の[[特定都区市内]] ** {{JR特定都区市内|山}}:[[東京山手線内]] ** {{JR特定都区市内|区}}:東京都区内 |} === 未開業区間 === ==== 着工区間 ==== * 金沢駅 - 敦賀駅間は2024年3月16日開業予定<ref group="報道" name="jrwest20230830" />。 * なお、この区間のうち金沢駅 - [[白山総合車両所]]間は長野駅 - 金沢駅間開業と同時に非営業の[[回送]]線として供用開始している。なお、敦賀駅の新大阪方には[[白山総合車両所#敦賀支所|白山総合車両所敦賀支所]]が、富山駅の高崎方には留置線が新たに設けられる<ref group="JRTT" name="pamphlet orbit" />。 * ※:開業後に経営分離予定の路線 * 営業主体は全区間[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)。 * 停車…全:全ての列車が停車する駅(2024年3月[[ダイヤ改正|改正]]予定時点) {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|[[商用電源周波数|架線周波数]]|height=6em}} !style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名 !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|高崎<br /><small>からの<br /></small>実<br />キロ<br />{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=1―2}} !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|[[東京駅|東京]]<br /><small>からの</small>実<br />キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|停車}} !style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地 |- |style="width:1em; background:#ffff99; font-weight:bold; text-align:center;" rowspan="7"|60<br />Hz |[[金沢駅]] |style="text-align:right;"|345.5 |style="text-align:right;"|454.1 |style="text-align:center;"|全 |西日本旅客鉄道:※[[北陸本線]]・[[七尾線]]<br />[[IRいしかわ鉄道]]:{{color|#00a7e3|■}} [[IRいしかわ鉄道線]]<br />[[北陸鉄道]]:{{color|darkorange|■}} [[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]] ⇒[[金沢駅#北陸鉄道 北鉄金沢駅|北鉄金沢駅]] (A01) |rowspan="3" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[石川県]]|height=4em}} |[[金沢市]] |- |[[小松駅]] |style="text-align:right;"|372.6 |style="text-align:right;"|481.2 |style="text-align:center;"|&nbsp; |西日本旅客鉄道:※北陸本線 |[[小松市]] |- |[[加賀温泉駅]] |style="text-align:right;"|387.1 |style="text-align:right;"|495.7 |style="text-align:center;"|&nbsp; |西日本旅客鉄道:※北陸本線 |[[加賀市]] |- |[[芦原温泉駅]] |style="text-align:right;"|403.5 |style="text-align:right;"|512.0 |style="text-align:center;"|&nbsp; |西日本旅客鉄道:※北陸本線 |rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[福井県]]|height=4em}} |style="white-space:nowrap;"|[[あわら市]] |- |[[福井駅 (福井県)|福井駅]] |style="text-align:right;"|421.5 |style="text-align:right;"|530.0 |style="text-align:center;"|全 |西日本旅客鉄道:※北陸本線・[[越美北線]](九頭竜線)<br />[[えちぜん鉄道]]:{{color|#ff6600|■}} [[えちぜん鉄道勝山永平寺線|勝山永平寺線]] (E1)<br />[[福井鉄道]]:{{color|green|■}} [[福井鉄道福武線|福武線]]⇒[[福井駅 (福井県)#福井鉄道|福井駅停留場]] (F22) |[[福井市]] |- |[[越前たけふ駅]] |style="text-align:right;"|440.5 |style="text-align:right;"|549.0 |style="text-align:center;"|&nbsp; |(接続路線なし、予定地は[[北陸自動車道]][[武生インターチェンジ|武生IC]]付近) |[[越前市]] |- |[[敦賀駅]] |style="text-align:right;"|470.6 |style="text-align:right;"|579.2 |style="text-align:center;"|全 |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} {{JR西路線記号|K|B}} 北陸本線 (JR-A01・JR-B08)・[[小浜線]] |[[敦賀市]] |- |} ==== 未着工区間 ==== * [[敦賀駅]] - [[新大阪駅]]間は鉄道建設・運輸施設整備支援機構が公表した北陸新幹線(敦賀・新大阪間)計画段階環境配慮書に基づくルートを示す。ただし、本配慮書時点では、具体的なルート案を単一に絞り込んでおらず、数kmの幅を持ったルート帯を示している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2019|p=2―4}}。 * 営業主体は全区間[[西日本旅客鉄道]](JR西日本) {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:1em;"|{{縦書き|[[商用電源周波数|架線周波数]]|height=6em}} !style="width:8em; "|駅名 !style="width:3em; "|高崎<br /><small>からの<br /></small>実<br />キロ<br />{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=1―2}} !style="width:3em; "|[[東京駅|東京]]<br /><small>からの</small>実<br />キロ !接続路線 !colspan="2"|所在地 |- |style="width:1em; background:#ffff99; font-weight:bold; text-align:center;" rowspan="6"|60<br />Hz |- |[[敦賀駅]] |style="text-align:right;"|470.6 |style="text-align:right;"|579.2 |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} {{JR西路線記号|K|B}} 北陸本線 (JR-A01・JR-B08)・[[小浜線]] |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[福井県]]|height=4em}} |[[敦賀市]] |- |名称未定 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |小浜線 [[東小浜駅]]付近 |[[小浜市]] |- |[[京都駅]] {{JR特定都区市内|京}} |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■]] 東海道新幹線<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[琵琶湖線]])(JR-A31)・{{JR西路線記号|K|B}} [[湖西線]] (JR-B31)<br />{{JR西路線記号|K|D}} [[奈良線]] (JR-D01)・{{JR西路線記号|K|E}} [[山陰本線]]([[嵯峨野線]])(JR-E01)<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]] (B01)<br />[[京都市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|18px|K]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] (K11) |rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[京都府]]|height=4em}} |[[京都市]]<br />[[下京区]] |- |名称未定 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |{{JR西路線記号|K|H}} [[片町線|片町線(学研都市線)]][[松井山手駅]]付近 |[[京田辺市]] |- |[[新大阪駅]] {{JR特定都区市内|阪}} |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"| |東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■]] 東海道新幹線・[[中央新幹線]](予定)<br />西日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|18px|■]] [[山陽新幹線]]・{{JR西路線記号|K|A}} 東海道本線(JR京都線)(JR-A46)・<br />{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]] (JR-F02)・[[梅田貨物線]]・[[なにわ筋線]](計画中)<br />[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急新大阪連絡線|新大阪連絡線]](計画中)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[ファイル:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|18px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M13) |colspan="2"|[[大阪府]]<br />[[大阪市]]<br />[[淀川区]] |- |} === 各駅の構造 === [[安中榛名駅]] - [[上田駅]]間の[[待避線#通過追越|通過線]]のない各駅と、[[飯山駅]]以西の各駅については開業当初よりホーム上に[[ホームドア|可動式安全柵]]が設置されており、2017年には軽井沢駅についても通過列車が存在する2・3番線に設置工事が行われている<ref>{{Cite news|title=北陸新幹線軽井沢駅に可動式ホーム柵|newspaper=railf.jp(鉄道ニュース)|date=2017年2月10日|author=[[鉄道ファン (雑誌)]]|url=http://railf.jp/news/2017/02/11/201000.html|accessdate=2017年2月12日|publisher=[[交友社]]}}</ref><ref group="注">駅東側(高崎方面)に急カーブ(半径800 m)があることで、通過列車のホーム通過速度が[[自動列車制御装置|ATC]]信号により100 km/h程度に減速されるため、開業当初は設置されなかった。</ref>。上越新幹線との共用区間上の高崎駅・[[本庄早稲田駅]]・[[熊谷駅]]には通過線がある。 {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align: center;" |+ 各駅の構内配線とホームの形式 |- !配線分類 |2面4線 |2面2線+通過線 |2面3線+通過線 |2面2線 |- !構内図 |[[ファイル:Station Track layout-1.png|150px]] |[[ファイル:Station Track layout-2.png|150px]] |[[ファイル:Station Track layout-3.png|150px]] |[[ファイル:Station Track layout-4.png|120px]] |- !該当駅 |[[上野駅]]・[[軽井沢駅]]<br />[[長野駅]]・[[上越妙高駅]]<br />[[富山駅]]・[[金沢駅]] |[[本庄早稲田駅]] |[[熊谷駅]] |[[安中榛名駅]]・[[佐久平駅]]<br />[[上田駅]]・[[飯山駅]]<br />[[糸魚川駅]]<br />[[黒部宇奈月温泉駅]]<br />[[新高岡駅]] |} {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align: center;" |+ その他の特殊な構内配線とホームの形式 |- !配線分類 |2面4線+通過線 |3面6線 |2面4線(終着駅) |- !構内図 |[[ファイル:Station Track layout-Shinkansen Takasaki Station.png|200px]] |[[ファイル:Station Track layout-12.png|250px]] |[[ファイル:Station Track layout-7.png|150px]] |- !該当駅 |[[高崎駅]]※ |[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] |[[東京駅]] |} <small>※高崎駅は下り方に上越新幹線上り線と北陸新幹線上り線が別線で入線している</small> 金沢 - 敦賀間に新設される駅については、各駅ともホームは12両編成対応の312 mであり、[[小松駅]]と[[芦原温泉駅]]が2面2線、[[加賀温泉駅]]と[[越前たけふ駅]]が2面2線+通過線、福井駅が1面2線、敦賀駅が2面4線となる<ref group="JRTT" name="pamphlet station" />。 == 運行形態 == === 列車の概要 === 1997年の高崎駅 - 長野駅間開業時点では旅客向けには「'''[[長野新幹線]]'''」と案内され、速達タイプも各駅タイプも全て「あさま」としての運行であった{{Sfn|井上進|1997|p=24999}}{{Sfn|井上進|1997|p=25000}}。2015年の長野駅 - 金沢駅間の開業にあたり、[[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[富山県|富山]]・[[石川県|石川]]エリアを短時間で結ぶ速達タイプの「かがやき」、主に長野駅以東の主要駅と長野以西の各駅間の利便性確保を目的とした停車タイプの「はくたか」、[[富山駅]] - 金沢駅間シャトルタイプの「つるぎ」、東京駅 - 長野駅間運転タイプの「あさま」の4種類になった{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39346}}。原則として、全ての列車が[[新幹線E7系・W7系電車|E7系・W7系]]を使用する。 === 列車愛称 === ==== 「かがやき」 ==== 「'''[[かがやき (列車)|かがやき]]'''」は、東京駅 - 金沢駅間で運行される最速達タイプの列車である。全車[[座席指定席|指定席]]。 2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。途中停車駅は[[上野駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[長野駅]]・[[富山駅]]であるが、最速達列車の1往復は上野駅を通過する。朝と夜を中心に概ね毎時1本の割合で運行されており、2023年3月18日時点の最短所要時間は東京駅 - 長野駅間で1時間17分(下り)1時間18分(上り)、東京駅 - 富山駅間で2時間5分(下り)2時間6分(上り)、東京駅 - 金沢駅間で2時間25分(下り)2時間26分(上り)である<ref group="報道" name="jreast20221216">{{Cite press release |和書 |title=2023年3月ダイヤ改正について |publisher=東日本旅客鉄道 |date=2022-12-16 |url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/20221216_ho02.pdf |format=PDF |access-date=2022-12-16 |archive-url=https://web.archive.org/web/20221216050327/https://www.jreast.co.jp/press/2022/20221216_ho02.pdf |archive-date=2022-12-16}}</ref>。 ==== 「はくたか」 ==== 「'''[[はくたか]]'''」は、東京駅・長野駅 - 金沢駅間で運行される列車である。 2015年3月14日の金沢延伸開業時に運行を開始した。東京駅 - 長野駅間では「かがやき」に次ぐ速達列車の位置づけであり、熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅は全列車通過し、「かがやき」が運転されない時間帯は大宮駅 - 長野駅間では高崎駅のみに停車する<ref group="注">上り556号・下り557号・573号は高崎駅を通過し、軽井沢駅・佐久平駅・上田駅に停車。</ref>。長野駅 - 金沢駅間では基本的に各駅に停車する(一部の列車は[[飯山駅]]を通過)。概ね毎時1本の割合で運行されている。 ==== 「つるぎ」 ==== 「'''[[つるぎ (列車)|つるぎ]]'''」は、2015年3月14日に設定された、富山駅 - 金沢駅間で運行される列車である。 2015年3月14日の北陸新幹線金沢延伸開業に伴い、それまで運行されていた[[名古屋駅|名古屋]]・[[大阪駅|大阪]]・福井方面から富山方面に直通運転していた在来線特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」の運転区間が新幹線開業に伴い金沢駅までに短縮されたため、その代替として設定された。富山・金沢両都市間のシャトル列車としての役割を担っている。12両[[編成 (鉄道)|編成]]だが[[グランクラス]]を含む4両(8(一部列車)・9・10・12号車)は締め切り扱いで乗車できない。 ==== 「あさま」 ==== 「'''[[あさま]]'''」は、東京駅 - 長野駅間で運行される列車である。 1997年10月1日の長野開業時点では速達・各駅タイプを問わず全ての列車が「あさま」として運行されていたが、2015年の金沢延伸以降は東京駅 - 長野駅間の各駅停車タイプとしての役割が大きくなっている(全区間各駅に停車する列車は5往復のみで、それ以外は熊谷駅・本庄早稲田駅・安中榛名駅のいずれかを通過する<ref group="注">例外的に上り602号は上田駅・佐久平駅を通過し、安中榛名駅・本庄早稲田駅・熊谷駅に停車。</ref>)。 === 現行のダイヤパターンと停車駅 === 2016年3月26日から現在までの基本的な日中ダイヤパターンである。 以下に示す時刻・運転区間などは'''昼間時間帯の平均的なパターン'''で、早朝・深夜は若干異なる。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" |+ style="text-align:left; font-weight:bold; padding-top:0.5em;"|下り |- !style="width:6em;"|種別 !style="width:8em;"|東京駅<br />発車時刻 !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:1em;"|[[上野駅]] !style="width:1em;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] !style="width:1em;"|[[熊谷駅]] !style="width:1em; line-height:1.3em;"|[[本庄早稲田駅]] !style="width:1em;"|[[高崎駅]] !style="width:1em;"|[[安中榛名駅]] !style="width:1em;"|[[軽井沢駅]] !style="width:1em;"|[[佐久平駅]] !style="width:1em;"|[[上田駅]] !style="width:1em;"|[[長野駅]] !style="width:1em;"|[[飯山駅]] !style="width:1em;"|[[上越妙高駅]] !style="width:1em;"|[[糸魚川駅]] !style="width:1em; line-height:1em;"|[[黒部宇奈月温泉駅]] !style="width:1em;"|[[富山駅]] !style="width:1em;"|[[新高岡駅]] !style="width:1em;"|[[金沢駅]] !style="width:8em;"|終着 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま |style="text-align:right;"|04分 |●||●||●||●||●||●||○||●||●||●||◎|| || || || || || || |style="text-align:left;"|長野 |- style="background:#cff" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|はくたか |style="text-align:right;"|24分 |●||●||●||→||→||●||→||△||△||△||◎||○||●||●||●||●||●||● |style="text-align:left;"|金沢 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま◆ |style="text-align:right;"|32分 |●||●||●||→||→||●||→||●||●||●||●|| || || || || || || |style="text-align:left;"|長野 |- style="background:#cfc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|かがやき◆ |style="text-align:right;"|52分 |●||●||●||→||→||→||→||→||→||→||●||→||→||→||→||●||→||● |style="text-align:left;"|金沢 |- style="background:#ecf" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|つるぎ |style="text-align:right;"|(富山発)17分 | || || || || || || || || || || || || || || ||●||●||● |style="text-align:left;"|金沢 |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" |+ style="text-align:left; font-weight:bold; padding-top:0.5em;"|上り |- !style="width:6em;"|種別 !style="width:8em;"|始発 !style="width:1em;"|[[金沢駅]] !style="width:1em;"|[[新高岡駅]] !style="width:1em;"|[[富山駅]] !style="width:1em; line-height:1em;"|[[黒部宇奈月温泉駅]] !style="width:1em;"|[[糸魚川駅]] !style="width:1em;"|[[上越妙高駅]] !style="width:1em;"|[[飯山駅]] !style="width:1em;"|[[長野駅]] !style="width:1em;"|[[上田駅]] !style="width:1em;"|[[佐久平駅]] !style="width:1em;"|[[軽井沢駅]] !style="width:1em;"|[[安中榛名駅]] !style="width:1em;"|[[高崎駅]] !style="width:1em; line-height:1.3em;"|[[本庄早稲田駅]] !style="width:1em;"|[[熊谷駅]] !style="width:1em;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] !style="width:1em;"|[[上野駅]] !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:8em;"|東京駅<br />到着時刻 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま |style="text-align:left;"|長野 | || || || || || || ||◎||●||●||●||○||●||●||●||●||●||● |style="text-align:right;"|12分 |- style="background:#cfc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|かがやき◆ |style="text-align:left;"|金沢 |●||→||●||→||→||→||→||●||→||→||→||→||→||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|20分 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま◆ |style="text-align:left;"|長野 | || || || || || || ||●||●||●||●||→||●||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|40分 |- style="background:#cff" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|はくたか |style="text-align:left;"|金沢 |●||●||●||●||●||●||○||◎||△||△||△||→||●||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|52分 |- style="background:#ecf" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|つるぎ |style="text-align:left;"|金沢 |●||●||●|| || || || || || || || || || || || || || || |style="text-align:right;"|(富山着)51分 |} * ●:停車、○:一部通過、→:通過、◎:相互に接続を図る駅、△:この駅のうち0 - 3駅に停車、◆:臨時列車 === 号数の振り方=== [[列車番号]]は、かがやきが3000+号数+'''E'''、それ以外の定期列車が基本的に号数+'''E'''、臨時列車が8000、9000+号数+'''E'''である。 * '''かがやき''' ** 東京駅 - 金沢駅間:500 - 519号、臨時列車が520 - 545号 * '''はくたか''' ** 東京駅 - 金沢駅間:551 - 578号 ** 長野駅 - 金沢駅間:590・591号、臨時列車が580号(日曜日もしくは連休最終日運転)・582号(土・祝日前日運転) ** 長野駅 - 上越妙高駅間:596・598号(上り2本のみ) * '''あさま''' ** 東京駅 - 長野駅間:600 - 632号、臨時列車が633 - 658号 ** 上野駅 - 長野駅間(臨時列車のみ):664・666号(上り2本のみ) * '''つるぎ''' ** 富山駅 - 金沢駅間:700 - 735号 === 過去のダイヤパターンと停車駅 === <!--{{Main2|2015年3月13日以前|長野新幹線}}--> === 2015年3月14日 === 2015年3月14日から2016年3月25日まで {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" |+ style="text-align:left; font-weight:bold; padding-top:0.5em;"|下り |- !style="width:6em;"|種別 !style="width:8em;"|東京駅<br />発車時刻 !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:1em;"|[[上野駅]] !style="width:1em;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] !style="width:1em;"|[[熊谷駅]] !style="width:1em; line-height:1.3em;"|[[本庄早稲田駅]] !style="width:1em;"|[[高崎駅]] !style="width:1em;"|[[安中榛名駅]] !style="width:1em;"|[[軽井沢駅]] !style="width:1em;"|[[佐久平駅]] !style="width:1em;"|[[上田駅]] !style="width:1em;"|[[長野駅]] !style="width:1em;"|[[飯山駅]] !style="width:1em;"|[[上越妙高駅]] !style="width:1em;"|[[糸魚川駅]] !style="width:1em; line-height:1em;"|[[黒部宇奈月温泉駅]] !style="width:1em;"|[[富山駅]] !style="width:1em;"|[[新高岡駅]] !style="width:1em;"|[[金沢駅]] !style="width:8em;"|終着 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま |style="text-align:right;"|08分 |●||●||●||●||●||●||○||●||●||●||●|| || || || || || || |style="text-align:left;"|長野 |- style="background:#cfc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|かがやき◆ |style="text-align:right;"|24分 |●||●||●||→||→||→||→||→||→||→||●||→||→||→||→||●||→||● |style="text-align:left;"|金沢 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま◆ |style="text-align:right;"|40分 |●||●||●||→||→||●||→||●||●||●||●|| || || || || || || |style="text-align:left;"|長野 |- style="background:#cff" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|はくたか |style="text-align:right;"|56分 |●||●||●||→||→||●||→||△||△||△||●||○||●||●||●||●||●||● |style="text-align:left;"|金沢 |- style="background:#ecf" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|つるぎ |style="text-align:right;"|(富山発)15分 | || || || || || || || || || || || || || || ||●||●||● |style="text-align:left;"|金沢 |} {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:90%;" |+ style="text-align:left; font-weight:bold; padding-top:0.5em;"|上り |- !style="width:6em;"|種別 !style="width:8em;"|始発 !style="width:1em;"|[[金沢駅]] !style="width:1em;"|[[新高岡駅]] !style="width:1em;"|[[富山駅]] !style="width:1em; line-height:1em;"|[[黒部宇奈月温泉駅]] !style="width:1em;"|[[糸魚川駅]] !style="width:1em;"|[[上越妙高駅]] !style="width:1em;"|[[飯山駅]] !style="width:1em;"|[[長野駅]] !style="width:1em;"|[[上田駅]] !style="width:1em;"|[[佐久平駅]] !style="width:1em;"|[[軽井沢駅]] !style="width:1em;"|[[安中榛名駅]] !style="width:1em;"|[[高崎駅]] !style="width:1em; line-height:1.3em;"|[[本庄早稲田駅]] !style="width:1em;"|[[熊谷駅]] !style="width:1em;"|[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] !style="width:1em;"|[[上野駅]] !style="width:1em;"|[[東京駅]] !style="width:8em;"|東京駅<br />到着時刻 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま◆ |style="text-align:left;"|長野 | || || || || || || ||●||●||●||●||→||●||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|12分 |- style="background:#cff" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|はくたか |style="text-align:left;"|金沢 |●||●||●||●||●||●||○||●||△||△||△||→||●||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|28分 |- style="background:#cfc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|かがやき◆ |style="text-align:left;"|金沢 |●||→||●||→||→||→||→||●||→||→||→||→||→||→||→||●||●||● |style="text-align:right;"|44分 |- style="background:#fcc" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|あさま |style="text-align:left;"|長野 | || || || || || || ||●||●||●||●||○||●||●||●||●||●||● |style="text-align:right;"|56分 |- style="background:#ecf" |style="font-weight:bold;text-align:left;"|つるぎ |style="text-align:left;"|金沢 |●||●||●|| || || || || || || || || || || || || || || |style="text-align:right;"|(富山着)29分 |} * ●:停車、○:一部通過、→:通過、△:この駅のうち0 - 3駅に停車、◆:臨時列車 == 車両 == 長野新幹線時代の2005年からJR東日本管内の新幹線路線に先駆けて全面禁煙化に踏み切っている。金沢延伸後も喫煙車の設定はなく、喫煙スペースを設けた車両も存在しない。 === 現用車両 === ==== 営業車両 ==== * [[新幹線E7系・W7系電車|E7系]] - F3-6・9・11-13・15・17・19-47[[編成 (鉄道)|編成]]、12両編成(JR東日本所有){{Sfn|梅田啓|児玉佳則|2014|p=38301}}。金沢延伸開業前から先行投入されていた。 * [[新幹線E7系・W7系電車|W7系]] - W1・3-6・8-24編成、12両編成(JR西日本所有){{Sfn|梅田啓|児玉佳則|2014|p=38301}}。 *: E7系とW7系は両者の区別なく共通運用となっており、設備なども同一仕様とされている。 <gallery> Series-W7-W1.jpg|E7系・W7系 </gallery> ==== 事業用車両 ==== * [[新幹線E926形電車|E926形 (East i)]] - S51編成、電気・軌道総合試験車(JR東日本所有)。長野駅 - 金沢駅間の完成後の初乗り入れとなる試運転にも使用された。 <gallery> TypeE926.jpg|E926形「East i」 </gallery> === 過去の車両 === {{See also|長野新幹線#車両}} * [[新幹線200系電車|200系]] - 長野新幹線時代に臨時列車として、60Hz対応改造を施した[[新幹線200系電車#F編成|F80編成]]が入線。 * [[新幹線E4系電車|E4系]] - P編成、2階建て8両編成。長野新幹線時代に60Hz対応編成が臨時列車で使用。 * [[新幹線E2系電車|E2系]] ** J編成 - 長野新幹線時代に1000番台の量産車に準じた塗装色変更と10両編成化の前に乗り入れ。N編成とは共通運用であった。また、開業前の長野駅 - 黒部宇奈月温泉駅間の試運転にJ5・J6編成が充当された実績もある。 ** N編成、8両編成(JR東日本所有) - 「あさま」用の編成で、東京駅 - 高崎駅 - 長野駅間のみで使用された。2016年3月26日改正で定期運用を終了。以降は臨時列車のみに運用されたが<ref group="新聞">{{Cite news |title=「長野新幹線」あさま「引退」へ E2系車両、臨時列車に |newspaper=[[信濃毎日新聞]] |date=2015-12-19 |url=http://www.shinmai.co.jp/news/20151219/KT151218FTI090020000.php |accessdate=2016-04-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151222164020/http://www.shinmai.co.jp/news/20151219/KT151218FTI090020000.php |archivedate=2015-12-22 |deadlinkdate=2017-09}}</ref>、2017年3月31日をもって運用を終了した<ref>{{Cite web|和書|work=[[鉄道ファン (雑誌)|railf.jp(鉄道ニュース)]] |date=2017年4月1日 |url=http://railf.jp/news/2017/04/01/202000.html |title=E2系N編成"あさま"の営業運転終了 |publisher=[[交友社]] |accessdate=2017年4月2日}}</ref>。 * [[ドクターイエロー#925形|925形]](ドクターイエロー) - S1・2編成。電気・信号検測車。急勾配・60Hz対応改造が施され2002年のE926形の運用開始まで検測を担当した。検測時は必ず後述の921-32を連結して運行された。高崎駅 - 長野駅間の完成後の初乗り入れに使用された。 ** [[ドクターイエロー#32|921-32]]。軌道検測車。従来の3台車式の軌道検測車では軸重の関係で入線が困難なことから、日本初のレーザー測定式軌道検測車として、[[1997年]]に[[新幹線200系電車|200系]]中間車の改造により導入。 <gallery> ファイル:E2 J6 Asama Karuizawa 19980218.jpg|E2系J編成の「あさま」<br />(1998年2月18日 軽井沢駅) ファイル:N11 Asama 514 Tokyo 20020601.jpg|E2系(N編成 2002年6月1日 東京駅) ファイル:200 F80 Asama Ueda 19980218.jpg|長野新幹線を走る200系F80編成<br />(1998年2月18日 [[第二千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第二千曲川橋梁]]) </gallery> == 運賃と特急料金 == [[運賃]]は[[営業キロ]]に基づいて算出する。東京駅 - 高崎駅間の営業キロは、並行する[[東北本線]](東京駅 - 大宮駅間)・[[高崎線]](大宮駅 - 高崎駅間)と同一となっている。高崎駅以西については並行するJRの路線が存在しないため、実キロ(新幹線での実際の距離)が用いられている。 [[特別急行券|特急料金]]は、「三角表」と称するものにより各駅間個別に定められている。一方、この各駅間の特急料金は当該区間の営業キロに基づいて算出されたものである。基本的には他の新幹線と同様であるが、会社間をまたぐ(上越妙高駅を挟む)場合に定額(詳細後述)を加算している<ref name="mlit20190323">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001062049.pdf|title=運輸審議会配付資料(東日本旅客鉄道株式会社及び西日本旅客鉄道株式会社からの鉄道の特別急行料金の上限設定認可申請事案に係る審議(第2回))|accessdate=2019年3月23日|publisher=国土交通省}}</ref>。JR西日本が『[[中日新聞]]』の取材に答えたところによると、2社での共同運行になるため運賃システムの改修が必要になり、九州新幹線など既存の新幹線と比べ早い時期の認可申請になったという<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |url=http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2014100402100007.html|title=金沢-東京 指定席1万4120円 北陸新幹線料金 JR申請|newspaper=[[北陸中日新聞]]|publisher=中日新聞北陸本社|date=2014-10-04|accessdate=2014-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141007081540/http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2014100402100007.html|archivedate=2014年10月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。2019年10月1日改定の営業キロに対応する特急料金、およびその他の特定の区間の特急料金は以下のとおり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/consumption-tax2019/ |title=2019年10月1日、消費税率引上げに伴う運賃・料金改定について |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2019-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/guide/img/shinkansen_ryoukin2.pdf |format=PDF |title=北陸新幹線の運賃・特急料金 |website=JRおでかけネット |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2019-12-07}}</ref>。 {{Col-begin}} {{Col-2}} {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:right;" |+ (参考)北陸新幹線特急料金表<br />(2019年10月1日改定。普通車通常期・大人料金)<br />【JR東日本・JR西日本管内で完結する場合】 !colspan="2" rowspan="2"|営業キロ・区間!!colspan="2"|特急料金(円) |- !自由席!!指定席 |- |rowspan="2" style="text-align:left;"|100キロ以下 |style="text-align:left;"|隣接駅間<ref group="注">[[特別急行券#特定特急券|特定特急券区間]]</ref>||880 |rowspan="2"|2,400 |- |style="text-align:left;"|上記以外 |1,870 |- |rowspan="2" style="text-align:left;"|101 - 200キロ |style="text-align:left;"|上野駅 - 高崎駅・安中榛名駅 |2,300 |2,830 |- |style="text-align:left;"|上記以外 |2,640 |3,170 |- |colspan="2" style="text-align:left;"|201 - 300キロ |3,530 |4,060 |} {{Col-2}} {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:right;" |+ (参考)北陸新幹線特急料金表<br />(2019年10月1日改定。普通車通常期・大人料金)<br />【上越妙高駅を挟む場合】 !colspan="2" rowspan="2"|営業キロ・区間!!colspan="2"|特急料金(円) |- !自由席!!指定席 |- |colspan="2" style="text-align:left;"|100キロ以下 |2,540 |3,070 |- |rowspan="2" style="text-align:left;"|101 - 200キロ |style="text-align:left;"|飯山駅・糸魚川駅発着 |3,300 |3,830 |- |style="text-align:left;"|上記以外 |3,630 |4,160 |- |rowspan="3" style="text-align:left;"|201 - 300キロ |style="text-align:left;"|糸魚川駅発着 |4,200 |4,730 |- |style="text-align:left;"|黒部宇奈月温泉駅発着<br />長野駅 - 金沢駅 |4,520 |5,050 |- |style="text-align:left;"|上記以外 |4,860 |5,390 |- |rowspan="3" style="text-align:left;"|301 - 400キロ |style="text-align:left;"|糸魚川駅発着 |4,960 |5,490 |- |style="text-align:left;"|黒部宇奈月温泉駅発着 |5,290 |5,820 |- |style="text-align:left;"|上記以外 |5,620 |6,150 |- |colspan="2" style="text-align:left;"|401 - 500キロ |6,160 |6,690 |} {{Col-end}} {{Reflist|group="*"}} * 東京駅と大宮駅以北の各駅との間の特急料金は、東京駅発着の営業キロは使用せず、上野駅発着の営業キロで算出した特急料金に210円を加算した額となっている。 * 特急料金(指定席)は、閑散期は一律200円引き、繁忙期は一律200円増し、最繁忙期は一律400円増し。自由席は通年で同額。 * グリーン車を利用する場合には、乗車日に適用される普通車指定席の特急料金から530円を引き、利用区間に応じたグリーン料金を加算した金額となる。「[[グリーン券#JR各社のグリーン料金表|グリーン料金]]」を参照。 * グランクラスを利用する場合には、乗車日に適用される普通車指定席の特急料金から530円を引き、利用区間に応じたグランクラス料金を加算した金額となる。「[[グランクラス#料金|グランクラス料金]]」を参照。 * 「かがやき」の立席特急券料金は自由席特急料金と同額(ただし特定特急券区間は1,870円)。 * 新幹線[[定期乗車券]]については、JR東日本・JR西日本の両社にかかる区間(上越妙高駅をまたぐ区間)は発売されない<ref group="新聞">{{Cite news |title=【日本の議論】「北口に出られない!」混雑、不便、人手不足…北陸新幹線で難題次々 |newspaper=[[産経デジタル|産経ニュース]] |date=2015-04-19 |url=https://www.sankei.com/article/20150419-2UJW3DDEMBOY3NEIZKVLA3DJYQ/ |accessdate=2020-03-24}}</ref>。 * 上越妙高駅を挟む場合の料金設定の考え方としては以下のとおり<ref name="mlit20190323"/>。 ** 上越妙高駅の隣の駅(飯山駅・糸魚川駅)を発着する場合:営業キロに基づく特急料金に650円(2014年認可時点、現:660-670円)を加算 ** 上越妙高駅の2つ隣の駅(長野駅・黒部宇奈月温泉駅)を発着する場合:営業キロに基づく特急料金に970円(同990-1000円)を加算 ** 上記以外:営業キロに基づく特急料金に1300円(同1330円)を加算 北陸新幹線は全区間、JR東日本の[[えきねっと]]、JR西日本の[[e5489]]で予約した乗車券と特急券の受け取りが可能である<ref group="注">JR西日本管内である北陸本線の[[福井駅 (福井県)|福井駅]]、[[芦原温泉駅]]、[[加賀温泉駅]]、[[小松駅]]と七尾線の[[和倉温泉駅]]でも、えきねっとで予約した乗車券と特急券の受け取りが可能である。ただし、[[えちごトキめき鉄道]]([[直江津駅]]はえきねっとのみ受け取り可能)、[[あいの風とやま鉄道]]、[[IRいしかわ鉄道]]等の[[第三セクター鉄道]]会社を含むそれ以外の各駅では受け取ることができない。</ref>。なお、JR西日本も[[山陽新幹線]]において導入している[[エクスプレス予約]]については、北陸新幹線ではJR西日本管内の区間も含め対象外となっている。 == 乗務員 == === 運転要員 === 東京駅 - 長野駅間はJR東日本[[長野新幹線運輸区|長野総合運輸区]](一部の列車は[[東日本旅客鉄道新幹線統括本部#乗務員区所|東京新幹線運輸区]]の運転要員が担当)、長野駅 - 金沢駅間は[[西日本旅客鉄道金沢支社|JR西日本金沢新幹線列車区]]の運転要員([[運転士]]、[[車掌]])がそれぞれ担当しており、管轄[[境界駅]]である上越妙高駅ではなく長野駅でJR東日本とJR西日本の乗務員が交代する<ref group="新聞" name="yomiuri20150228"/>。これは上越妙高駅に「かがやき」が停車しないため、JR東日本とJR西日本の両社が乗務員を効率的に運用できるよう、敢えて「かがやき」「はくたか」の全列車が停車する長野駅を交代駅と定めたものである<ref group="新聞" name="yomiuri20150228">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/special/shinkansen/hokuriku/naruhodo05.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201023112057/https://www.yomiuri.co.jp/special/shinkansen/hokuriku/naruhodo05.html|title=北陸新幹線「なるほど!」 乗務員~JR東・西 長野で交代|newspaper=読売新聞|date=2015-02-28|accessdate=2020-10-23|archivedate=2020-10-23}}</ref>。そのため、長野駅 - 上越妙高駅間は新幹線唯一の他社乗務員による運転区間となる<ref group="注">ただし、平日の朝に運行される上越妙高駅発長野駅行き「はくたか」596号はJR東日本の乗務員が担当。</ref>。 === 客室乗務員 === [[車内販売]]ならびに[[グランクラス]][[乗務員#鉄道の客室乗務員|アテンダント]]は[[JR東日本サービスクリエーション]] (JESC) 金沢列車営業支店及び東京列車営業支店が担当しており、東京駅 - 金沢駅間は通し乗務となる。ただし、「つるぎ」のグランクラスおよび車内販売は非営業、「あさま」や長野駅 - 金沢駅間の「はくたか」はグランクラスがシートのみの営業となっており、車内販売は非営業である。 2019年5月1日以降は「かがやき」「はくたか」共に[[臨時列車]]での車内販売を終了する<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=北陸新幹線(臨時列車)の車内販売終了について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2019年4月2日|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/04/page_14107.html|language=ja|accessdate=2019年4月3日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190402232812/https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/04/page_14107.html|archivedate=2019年4月3日}}</ref>。同年7月1日以降はホットコーヒーや弁当、軽食類、デザート類、土産類、雑貨類の販売を終了して「ソフトドリンク類(ペットボトル)、菓子類、アルコール類、つまみ類」のみの販売となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|title=新幹線・在来線特急列車の車内販売サービスの取扱品目の見直しについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-05-28|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190528_ho04.pdf|format=PDF|language=ja|accessdate=2019-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190529041328/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190528_ho04.pdf|archivedate=2019-05-29}}</ref>。 == 主要技術 == === 異周波数対応 === [[File:Hokuriku Shinkansen utility frequencies.png|thumb|400px]] 北陸新幹線沿線の[[商用電源周波数]]は、群馬県内は50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、長野県内は60 Hz、新潟県内は50 Hz、富山・石川県内は60 Hzとなっている{{Sfn|兎束哲夫|森本大観|八木英行|金子利美|2008|p=29}}。営業中の新幹線路線で異周波数接続が存在する路線は北陸新幹線が唯一である<ref group="注">東海道新幹線の[[富士川]]以東では沿線の周波数は50 Hzであるが、[[周波数変換所|周波数変換変電所]]で60 Hzに変換しているため、全区間60 Hzで供給されている。</ref>。異なる周波数の[[電流]]が混触すると大電流が流れるおそれがある{{Sfn|長谷伸一|持永芳文|八木英行|1998|p=930}}ため、電気的な[[絶縁 (電気)|絶縁]]を保ちつつ[[変電所]]間での電源系統の切替を行うために、新軽井沢[[デッドセクション#異周波数接続|き電区分所]](SP)、新高田SP、新糸魚川SPに周波数切替セクションが設けられている。列車の通過に連動して自動的に[[鉄道の電化#方式|き電]]を切り替えるため、新幹線車両はこれらのセクションを[[力行]]したまま通過できる{{Sfn|須貝孝博|2015|p=560}}。高崎駅 - 軽井沢駅 - 新軽井沢SP間が50 Hz、新軽井沢SP - 佐久平駅 - 上越妙高駅 - 新高田SP間が60 Hz、新高田SP - 糸魚川駅 - 新糸魚川SP間が50 Hz、新糸魚川SP - 黒部宇奈月温泉駅 - 金沢駅 - 白山総合車両所間が60 Hzとなっている{{Sfn|寺田夏樹|赤木雅陽|横田倫一|2014|p=20}}。 また、新幹線の保安装置であるATC([[自動列車制御装置]])では、異周波数電源が突き合わされるSP付近において異周波妨害が起こる。そのため1997年の長野開業時には異周波妨害対策法を開発することで50 Hzと60 Hzの両周波数に対応し、当時東北・上越新幹線で用いられていたアナログATC(ATD-1D)と互換性を持つアナログATC(ATC-HS型、HS-ATC{{Refnest|group="注"|文献によって表記が異なる。ATC-HS型{{Sfn|奥谷民雄|犀川潤|館裕|2001|p=32}}、HS (Hokuriku Shinkansen) -ATC{{Sfn|寺田夏樹|横田倫一|須貝孝博|葛西隆也|2012|p=17}}}})が導入された{{Sfn|奥谷民雄|犀川潤|館裕|2001|p=32}}。その後東北・上越新幹線で導入が進められたデジタルATC(DS-ATC)は電源周波数が50 Hz用であったため、金沢開業を前に新たに60 Hz対応のDS-ATCが開発され{{Sfn|寺田夏樹|横田倫一|須貝孝博|葛西隆也|2012|p=17}}、北陸新幹線に導入された{{Sfn|須貝孝博|2015|p=559}}。 なお、新潟県内の50 Hzき電を担う新上越変電所の異常時には、隣接する変電所からの救済き電により、新高田SS - 新糸魚川SS間を60 Hzき電に切り替えることが可能である。そのため、この区間では50 Hzと60 Hzの両対応のATC装置や電気設備が設けられており、周波数に応じて切り替える構成になっている{{Sfn|須貝孝博|2015|p=560}}。 === 冬季対策設備 === 北陸新幹線の経由する上信越・北陸地方は日本でも有数の[[豪雪地帯]]であり、冬季においても安定輸送を維持するための対策を施す必要がある。1985年(昭和60年)12月に高崎 - 小松間の認可申請が行われると、北陸新幹線の雪害対策の検討が開始された。既設新幹線においては、比較的降雪量が少ない東北新幹線盛岡以南では貯雪方式が、降雪量が多い上越新幹線では散水消雪方式が採用されていた。しかし、散水消雪方式の導入には多額の費用が必要である。在来線で行われている機械除雪は安価であるが、人家に近接する場所や道路との交差箇所での雪捨て場の確保の問題がある。整備新幹線においては建設費の低減が求められており、沿線の気候条件に適した様々な技術を開発する必要があった。 1986年度に、北陸新幹線の建設主体であった鉄道公団は、北陸新幹線沿線の雪質および雪量に対応した貯雪量の多い貯雪式高架橋の実物大試験を行った{{Sfn|小島滋|1987|p=17366}}。モデル高架橋は北陸新幹線沿線の富山市に近い富山県[[大沢野町]]舟倉地先に設置された。積雪深120 cmと170 cmの試験設備が設けられ、新幹線のスノープラウによる排雪を再現した実験が行われた{{Sfn|小島滋|1987|pp=17367-17368}}。 さらに、鉄道公団と[[新日本製鐵]]は新たな対策方法として、温水が流れるパイプを設置したパネルによって雪を融かす消雪パネルの開発を行った。そして1987年度から1989年度まで飯山市の消雪試験場で試験を実施した。その後、「運輸省案」に基づき長野 - 軽井沢間を優先して着工する方針が示されたことで、北陸新幹線向けの試験はいったん終了したが、同時期に高速化が決定した北越北線の一部区間において、鉄道として初めて消雪パネルを導入することが決定した{{Sfn|末広章一|竹内貴司|慶野作|1993|pp=17367-17368}}。 ハード面での対策としては沿線の積雪状況や周辺地形を踏まえて、区間ごとに様々な対策が取られている。飯山駅 - 金沢駅間では雪害対策のためホーム全体が屋根で覆われている。 JR東日本管内のうち比較的積雪量が少ない長野までの区間では高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している。降雪量の多い区間では[[スプリンクラー]]による散水消雪方式が採用されている{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39346}}。飯山エリアでは、東北新幹線で実績があり、厳冬期に早期散水が可能となるよう予め送水本管内に温水を循環させておく「循環方式」を採用している{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39348}}。一方、上越エリアでは、上越新幹線で実績があり、散水終了後に送水本管内の水抜きを行うことで凍結を防止する「水抜き方式」を採用している{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39349}}。また、新規導入設備としてトンネル緩衝口端部より5 m幅で散水するトンネル[[雪庇]]散水や、下り線側の保守用斜路への散水消雪設備が導入された{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39349}}。 JR西日本管内では、沿線に水源を確保できる場合はスプリンクラーによる散水消雪を採用し、困難な場合には高架橋の軌道下の路盤コンクリートを高くし、線路の両脇に雪を貯める貯雪方式を採用している{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39350}}。比較的降雪量の多い区間では、高架橋内の[[降雪]]を減らすための雪覆いを設けた半雪覆式貯雪型高架橋が採用されている。貯雪可能な量を超える積雪が予想される糸魚川 - 富山間の黒部地区では、夜間に[[モーターカー#|ロータリーモーターカー]]で雪を高架下に投下できる側方開床式貯雪型高架橋が採用されている{{Sfn|山東徹生|2011|p=100}}。しかし、道路などがあり高架下への投雪が困難な区間では、高架橋を拡幅して貯雪量を増やした閉床式貯雪型高架橋(拡幅型)、拡幅も困難な場合は高架橋のケーブルダクト上に加温した不凍液を循環させる温水パネルを設置して融雪するなど、周辺環境に合わせた対策を行っている{{Sfn|鎌田慈|2018|p=30}}。また、トンネル間の短い明かり区間には[[スノーシェルター]]を設けることで高架橋への積雪を防止している{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39350}}。 ソフト面での対策としては、台車からの落雪により地上設備が破損することを防ぐため、東京方面へ直通する列車に対して、糸魚川駅上りホームにおいて雪落とし作業を行っている。雪落とし作業の要否については前日の降雪予報と経験によって判断されていたが、実際には着雪量が少ないため作業が不要である事例が生じていた{{Sfn|池内三津喜|宮崎祐丞 |松田篤史|兒玉庸平|2021|p=687}}。そこでJR西日本は[[人工知能]] (AI) を用いて沿線の気象状況などから着雪量の推定を行い、雪落とし作業の要否判断を支援するツールの導入を検討した。着雪量推定モデル作成にあたってはオープンコンペティション方式を活用した。そのうち上位3件のモデルをもとに雪落とし作業の要否判断を支援するツールを開発し、実際の業務に導入している。さらに、画像分析AIによって営業列車の着雪量を測定することで、毎年冬に着雪量推定モデルの再学習が可能となり、さらなる精度向上が期待される{{Sfn|池内三津喜|宮崎祐丞|松田篤史|兒玉庸平|2021|p=688-670}}。なお、金沢駅および白山総合車両所でも雪落とし作業を行っている{{Sfn|久徳昌史|2019|p=43339-43340}}。 上越妙高 - 富山間、富山 - 金沢間のうち、気象条件によって夜間に架線へ雪氷が付着する可能性がある区間について、雪氷を除去するために始発列車前に110 km/h以下の回送列車(雪払い列車)を運行している。また、北陸新幹線では列車本数が少なく、激しい降雪の場合に列車間合いにおいて運転中止基準(積雪量レール面上31 cm)に達すると予想される場合、排雪列車として臨時回送列車を設定する。開業後、実際に4本の排雪列車を運転し、運転中止を回避している{{Sfn|久徳昌史|2019|p=43340}}。 [[平成30年の大雪|2018年1月から2月にかけての大雪]]により、北陸地方では交通網に大きな影響が生じた。1月下旬、大雪による道路通行止めの影響で、係員が新高岡 - 金沢間の除雪基地にたどり着けない事態が発生した。この時は他の区間から除雪車を手配することができたが、夜間の除雪作業ができないことは翌日の新幹線の運行に大きな影響を及ぼす。そこで、同様の事態が再び起きた場合に備えて、回送列車を用いて除雪基地付近まで係員を移動させる案が検討され、同年2月上旬には実際に行われた{{Sfn|久徳昌史|2019|p=43340-43341}}。 さらに、開業以来実施されたことはないが、高架橋外への投雪が困難な富山 - 金沢間において上下線で運転中止となるほどの降雪が生じた場合、単線運転を行うことが可能になっている。単線運転時には下り線を投雪スペースとして除雪車による除雪を行った後、上り線のみを使用する。保安装置については通常のDS-ATCではなく代用のRS-ATCを使用し、最高速度110 km/h以下で運転することになる{{Sfn|久徳昌史|2019|p=43341}}。 建設中の金沢駅 - 敦賀駅間では、[[石川県]][[能美郡]][[川北町]]と[[福井県]][[あわら市]]伊井の2か所に除雪基地が設けられ、冬季は基地内に格納した除雪車が必要に応じて出動する予定となっている<ref group="新聞">{{Cite news |url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1376476 |title=北陸新幹線の駅から3kmの所にまた駅舎? 地元住民が不思議がる建物 福井県あわら市 |newspaper=[[福井新聞]] |publisher=福井新聞社 |date=2021-08-12 |accessdate=2021-08-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210812075804/https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1376476 |archivedate=2021-08-12 }}</ref>。 === 地震対策 === 1975年から国鉄において、[[地震波]]のP波から地震の規模や位置を推定する[[アルゴリズム]](早期検知アルゴリズム)の研究が行われ、世界初のP波警報システムである「[[ユレダス]] (Urgent Earthquake Detection and Alarm System)」の開発が進められた。ユレダスは1992年に[[東海道新幹線]]で導入が開始され、1998年には北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間においても導入された。ユレダス導入によってP波およびS波の2種類の警報判定が可能になり、S波到達より早く新幹線の停止信号を送ることが可能になった{{Sfn|佐藤新二|佐溝昌彦|山本俊六|2017|p=1058}}。 その後、最新の観測技術や高速ネットワークに対応し、早期探知アルゴリズムを改良した「早期地震防災システム」が開発された{{Sfn|佐藤新二|佐溝昌彦|山本俊六|2017|p=1059}}。 2004年に発生した[[新潟県中越地震]]による[[上越新幹線脱線事故]]を受けて、新幹線車両が地震などにより[[列車脱線事故|脱線]]した場合でも、車両がレールから大きく逸脱することを防止する「車両逸脱防止L型ガイド」を開発し、2008年度上期までに全ての新幹線車両に設置を完了した{{Sfn|梶谷泰史|加藤博之|浅野浩二|2009|p=29}}。さらにレールの転倒や大幅な移動を防ぎ、L型車両ガイドが有効に機能するよう、[[スラブ軌道]]用{{Sfn|松本剛明|島津健|戸矢真琴|堀雄一郎|小関昌信|2012|p=43}}や[[バラスト軌道]]用{{Sfn|板倉真理佳|熊倉孝雄|小西俊之|2017|pp=46-47}}などの「レール転倒防止装置」を開発し、敷設工事が進められている。 == 沿革 == === 構想から整備計画の決定 === [[1965年]]([[昭和]]40年)9月26日、[[金沢市]]の石川県体育館で「1日内閣」が開催された。これは後年に言う[[タウンミーティング (対話集会)|タウンミーティング]]のようなもので、現職[[閣僚]]が地方へ出向いて実情を聞く[[公聴会]]であった。当時[[内閣総理大臣]]を務めていた[[佐藤栄作]]も出席したこの公聴会において、[[富山県]]代表の公述人である岩川毅([[中越パルプ工業]]創業者・当時の砺波[[商工会議所]]会頭)は、[[日本国政府|政府]]に対して[[東京都|東京]]を起点とし[[松本市|松本]]、[[立山連峰]]を貫通して[[富山市|富山]]、金沢を経由して[[大阪市|大阪]]に至る「北陸新幹線」の建設を求めた{{Sfn|入江一也|2015}}。この提案に、[[鉄道省|鉄道官僚]]出身の佐藤も興味を示した。「1日内閣」での新幹線構想の発表により、[[北陸地方]]では新幹線誘致の機運が高まっていった。 1967年(昭和42年)7月には、北陸三県商工会議所会頭会議において、北陸新幹線の実現を目指すことが決議された。その後、同年[[12月8日]]に「'''北回り新幹線'''建設促進同盟会」が発足した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.h-shinkansen.gr.jp/toyama/p6.html|title=北陸新幹線の関係団体について|publisher=富山県土木部新幹線建設課|date= |accessdate=2015-02-06|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。これは、北陸地方の活性化と将来逼迫する東海道新幹線の代替交通機関を目的としていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.e-tonamino.com/column/story/story_detail.jsp?id=225&userid=000000|title=となみ野ストーリー 第10回 北陸新幹線の実現を夢見た男|publisher=[[となみ衛星通信テレビ]]|date=2008-09-01|accessdate=2014-11-14|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。1969年(昭和44年)5月30日に「[[新全国総合開発計画]]」が[[閣議決定]]された。この中で主要開発事業の構想として「北陸地方を首都圏および[[近畿圏]]と結ぶ北回り新幹線鉄道の建設を進めるとともに」{{Sfn|西田正之|1970|p=6775}}と現在の北陸新幹線に相当する新幹線鉄道の建設構想が盛り込まれた。 [[1970年]](昭和45年)に[[全国新幹線鉄道整備法]](以下「全幹法」)が公布された。この法律により、逼迫する幹線の輸送力増強を目的とした東海道・山陽新幹線とは異なり、経済発展や地域の振興を目的とした新幹線の建設が行われるようになった。[[1972年]](昭和47年)6月29日に基本計画が決定{{Sfn|菊池正|1973|p=9171}}、7月3日に全幹法第5条第1項の規定による「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」(昭和47年[[運輸省]]告示第243号)により[[北海道新幹線]]([[青森市]] - [[札幌市]])、'''北陸新幹線'''(東京都 - 大阪市)、九州新幹線([[福岡市]] - [[鹿児島市]])の3路線の基本計画が告示された。この基本計画において北陸新幹線は、東京都を起点に長野市附近、富山市附近を主要な経過地として大阪市を終点とすることが示された。整備計画決定を受けて「北回り新幹線建設促進同盟会」は1972年7月に「'''北陸新幹線'''建設促進同盟会」と改称した。 翌年の1973年(昭和48年)11月13日には前述の3路線に加え、東北新幹線([[盛岡市]] - 青森市)、九州新幹線(福岡市 - [[長崎市]])を含む5路線(いわゆる[[整備新幹線]])の整備計画が決定された{{Sfn|中井善人|1974|p=9652}}。北陸新幹線は主要な経過地として「長野市附近、富山市附近、小浜市附近」が示され、その他「東京都・高崎市間は上越新幹線を共用する。」とされ、建設主体は[[日本鉄道建設公団]]とされた{{Sfn|中井善人|1974|p=9652}}。 === ルート選定 === 高崎 - 長野間のルートでは、高崎 - 長野間をほぼ最短距離で結ぶ[[鳥居峠 (長野県・群馬県)|鳥居峠]]経由{{Sfn|井野俊介|2012|p=20}}の「[[長野原町|長野原]]ルート」と[[信越本線]]に沿って結ぶ「信越本線沿いルート」が考案された{{Sfn|中井善人|1974|p=9653}}。その後の地質調査の結果、「長野原ルート」では[[活火山]]である[[草津白根山]]に長大トンネルを建設する必要があり{{Sfn|井野俊介|2012|p=20}}、施工はほとんど不可能であるとされた。そのため、距離は長くなるが沿線人口や利用客の多い「信越本線沿いルート」が採用された{{Sfn|中井善人|1974|p=9653}}。 高崎 - 軽井沢間の標高差は約840 mあり、信越本線は[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - 軽井沢駅間に存在する[[碓氷峠]]を66.7 [[パーミル|‰]]の[[縦断勾配|勾配]]で通過していた。当時の新幹線規格であった12 ‰勾配で建設するためには延長70 kmの路線を建設して峠を大きく迂回しなければならず、工費や所要時間の拡大につながる{{Sfn|仁杉巌|1999|p=25878}}。そこで、公団は高崎から左に進み[[松井田駅]]上空を橋で通過し、物見山の下をトンネルで抜け{{Sfn|仁杉巌|1999|p=25879}}、[[佐久市|佐久]]方面に抜ける南回りのルート案を検討したが、当時年間80万人もの観光客を有する軽井沢駅を経由しないため、運営主体となる国鉄から難色を示された{{Sfn|仁杉巌|1999|p=25878}}。その後、高崎駅を出てすぐ登り始めて30 ‰の勾配で軽井沢へ向かい、中間に途中駅を設けられるよう1 km程度の水平部分を設けるルートが検討された{{Sfn|仁杉巌|1999|p=25878}}。その後、公団や国鉄内部で車両工学の面からも検討が重ねられた後、[[1984年]](昭和59年)3月20日に北陸新幹線高崎 - 長野間のルートを公表し、[[環境アセスメント|環境影響評価]]を開始した{{Sfn|仁杉巌|1999|p=25879}}。 長野 - 富山間については途中の経由地が明示されず、国鉄は1975年(昭和50年)頃に北アルプス([[飛騨山脈]])の直下をトンネルで貫通する短距離ルートの建設も検討したが、火山地域のため高熱となる岩盤<ref group="注">新幹線トンネル計画地の南側の黒部峡谷で行われた[[仙人谷ダム]](黒部川第三発電所)の建設を題材とした[[吉村昭]]の『[[高熱隧道]]』では、建設中の岩盤温度が165度に到達し、工事用[[ダイナマイト]]の自然発火・暴発事故が起こったとされている。</ref>や最大2000mに達する「土被り」(地表からトンネルまでの距離)で生じる大量の湧水や「[[山はね]]」(岩盤破壊)に耐えながら全長約70 kmに及ぶ超長大トンネル<ref group="注">当時着工していた長大トンネルは、全長53.8kmの海底トンネルである[[青函トンネル]]を別にすると、全長22.2 km(最大土被り1,300 m)の[[大清水トンネル]]が山岳トンネルでは最長だった。</ref>を建設するのは困難として、信越本線や北陸本線に沿って[[新潟県]][[上越市]]などを経由する従来のルートでの建設が決定された<ref group="JRTT" name=mlit20100929 /><ref name=mlit20100929B group="注">ただし、北アルプストンネルは最急勾配12‰の当時の新幹線規格で計画されたため、長野駅北方の[[長野盆地]]から富山駅東方の[[富山平野]]までの超長大トンネルが必要となったが、実際の北陸新幹線では[[碓氷峠]]で30‰の特例が認められた。もし長野 - 富山間でこれが採用されていれば、途中の[[白馬盆地]]([[国道148号]]とJR[[大糸線]])と[[黒部峡谷]]([[黒部峡谷鉄道]])で地上に現れる事が可能なため、各トンネルの延長距離や土被りは大きく減少していた。</ref>。 === 建設の凍結と運輸省案による整備方針 === 国鉄の経営悪化などを背景に[[1982年]](昭和57年)9月の[[臨時行政調査会]]の基本答申に沿って、北陸新幹線を含む[[整備新幹線]]計画を当面見合わせる閣議決定がなされた{{Sfn|北山斉|1988|p=18153}}。 [[1985年]](昭和60年)12月に、高崎 - [[小松市|小松]]間の認可申請が行われた{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。国鉄改革や行財政改革の進展、沿線地域の建設促進への強い要望などを背景に、[[1987年]](昭和62年)1月に整備新幹線建設の凍結解除が閣議決定され、北陸新幹線の建設に道が開かれた{{Sfn|北山斉|1988|p=18153}}。同年4月に国鉄が分割民営化され、北陸新幹線については東日本旅客鉄道(JR東日本)が高崎市 - [[上越市]]<ref name="yuho_E">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/investor/securitiesreport/2023/pdf/securitiesreport.pdf 第36期有価証券報告書 31頁]}} - 東日本旅客鉄道</ref>、西日本旅客鉄道(JR西日本)が上越市 - 大阪市<ref name="yuho_W">{{PDFlink|[https://www.westjr.co.jp/company/ir/library/securities-report/pdf/report36_04.pdf 第36期有価証券報告書 36頁]}} - 西日本旅客鉄道</ref>の営業主体とされた。 [[File:Hokuriku Shinkansen plan 1988.svg|thumb|北陸新幹線の運輸省案|400px]] しかし、建設費を削減するため、いわゆる「[[運輸省]]案」が考案され、北陸区間については以下のような案が検討された。上野 - 長野間では高崎 - 軽井沢間に[[標準軌]]新線を建設し、軽井沢 - 長野間 に[[狭軌]]に加え標準軌を導入する新幹線直通線化([[ミニ新幹線]]化)をすること{{Sfn|北山斉|1988|p=18155}}で上野 - 長野間でミニ新幹線車両による直通運転を行い、所要時間を2時間44分から1時間52分に短縮するとした{{Sfn|北山斉|1988|p=18157}}。上野 - 富山・金沢間は東京のほかに大阪や名古屋や新潟との旅客流動も大きいことから、[[糸魚川市|糸魚川]] - [[魚津市|魚津]]間および[[高岡市|高岡]] - 金沢間に、新幹線と同じ規格の新線を建設するが当面狭軌を敷設して北陸本線と直通運転を行う[[新幹線鉄道規格新線]](スーパー特急方式)による整備を行うとされた{{Sfn|北山斉|1988|p=18157}}。また、[[越後湯沢駅]]で[[上越新幹線]]と接続し、当時建設中であった北越北線(現 [[北越急行ほくほく線]])を高速化し、これを経由して富山、金沢までを最高速度160 km/hで結ぶスーパー特急を運行するとされた。これにより上野 - 富山間は3時間26分から2時間48分に、上野 - 金沢間は4時間10分から3時間17分に短縮されるとした{{Sfn|北山斉|1988|p=18157}}。 *北陸区間の「運輸省案」{{Sfn|北山斉|1988|p=18155}} **高崎 - 軽井沢間:標準軌新線 **軽井沢 - 長野間:新幹線直通線 **糸魚川 - 魚津間:新幹線鉄道規格新線 **高岡 - 金沢間:新幹線鉄道規格新線 **(北越北線:高速化)北越北線の建設および高速化は全幹法によるものではない。 [[1988年]](昭和63年)8月31日の「整備新幹線の取扱いについて」において整備新幹線着工優先順位が示され、1(i)として北陸新幹線高崎 - 軽井沢間の標準軌新線、なお軽井沢 - 長野間の取扱いは1998年冬季五輪の開催地決定を考慮して3年以内に結論を出す。1(ii)として高岡 - 金沢間の新幹線規格新線。2として東北新幹線。3として九州新幹線。4として糸魚川 - 魚津間の新幹線規格新線とされた{{Sfn|北山斉|1988|p=18158}}。 [[1989年]]([[平成]]元年)1月17日の政府与党申合わせにおいて、整備新幹線の建設主体などなどが示された。整備新幹線の事業費はJR、国、沿線の地方自治体の負担とすること{{Sfn|沢田諄|1989|p=18452}}。建設主体は日本鉄道建設公団とし、建設した鉄道施設を公団がJRに有償で貸し付けること{{Sfn|沢田諄|1989|p=18452}}。北陸新幹線高崎 - 軽井沢間を平成元年度から本格的に着工すること、あわせて難工事推進事業として3トンネルについても平成元年度中に着手すること{{Sfn|沢田諄|1989|p=18453}}。[[並行在来線]]である信越本線横川駅 - 軽井沢間については、適切な代替交通手段を検討し、その導入を図ったうえで開業時に廃止することとし、そのために関係者間で協議するとされた{{Sfn|沢田諄|1989|p=18453}}。 === 高崎 - 長野間の建設・開業 === [[ファイル:Shinkansen-Platform-Takasaki-sta.jpg|thumb|「長野<small>行</small>新幹線」表記が残っていた[[高崎駅]]新幹線ホーム(2007年7月21日撮影)]] [[ファイル:JReastE2 N11 Omiya 20130320.jpg|thumb|長野新幹線(高崎 - 長野間)で運行されていた[[新幹線E2系電車|E2系]]。]] 1989年(平成元年)1月17日の申し入れを受けて、公団は1985年(昭和60年)12月25日に認可申請した北陸新幹線 高崎 - 小松間の工事実施計画を高崎 - 軽井沢間と軽井沢 - 小松間に分割し、1989年6月23日に高崎 - 軽井沢間の追加申請を行い、6月28日に高崎 - 軽井沢間41.2 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された{{Sfn|中原昭夫|田代美樹男|1989|p=18857}}。その後、8月2日に軽井沢駅構内で起工式が行われた{{Sfn|中原昭夫|田代美樹男|1989|p=18857}}。 「運輸省案」では軽井沢 - 長野間について、信越本線を新幹線直通線(ミニ新幹線)化する方式で整備するとしていた。そのため、首都圏と直通する列車の廃止や並行在来線問題を回避できるとして、信越本線沿線で北陸新幹線の駅設置計画がない長野県内の[[小諸市]]や[[御代田町]]はミニ新幹線の早期着工を主張した{{Sfn|井野俊介|2012|p=26}}。しかし、[[1990年]](平成2年)の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合わせ」において、北陸新幹線 軽井沢 - 長野間については、必要な調整を行ったうえで、標準軌新線で平成3年度において、所定の認可等の手続きを経て、その建設に着工すること。建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認することが示された。その後、県による説得が行われ、御代田町が[[第三セクター鉄道|第三セクター]]化を受け入れ、1991年(平成3年)6月には小諸市も同意した{{Sfn|井野俊介|2012|p=27}}。これにより軽井沢 - 長野間においても標準軌新線(フル規格)着工認可の条件が整った。なお、6月11日には長野市が[[長野オリンピック|1998年のオリンピック]]・[[長野パラリンピック|パラリンピック]]開催地に決定している。同年8月22日に軽井沢 - 長野間53.6 kmの工事実施計画(フル規格)が認可され、9月17日に起工式が行われた{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。佐久市と小諸市は佐久(仮称)駅の駅名をめぐっても対立した。詳細は「[[佐久平駅]]」を参照。 [[1997年]](平成9年)10月1日に高崎駅 - 長野駅間が開業した{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24994}}。これにより、東京駅 - 長野駅間の所要時間は最短で1時間19分となった{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24994}}。しかし長野開業時点では、東京から富山・金沢<!--小松以西は米原経由が最速-->へは越後湯沢駅で上越新幹線からほくほく線経由の在来線特急「[[はくたか#在来線特急「はくたか」|はくたか]]」を乗り継ぐルートが最速ルートであった。このため、JR東日本は東京から北陸方面への旅客の誤乗車を防ぐため、案内名称として'''長野<small>行</small>新幹線'''{{Sfn|井上進|1997|p=24998}}(後に「[[長野新幹線]]」と短縮)を用いていた。また、北陸新幹線開業に備え、東京駅のJR東日本の新幹線ホームが1面2線から2面4線に増設された{{Sfn|吉田幸一|1997|p=25005}}。 厳しい財政状況のなかで建設が開始されたことから、建設費縮減のため様々な新技術が導入された。前述のとおり、勾配の上限を30 ‰に高めることで路線延長を約20 km短縮し、建設費を約1,000億円圧縮することが可能となった{{Sfn|塩田澄夫|1997|p=24983}}。また、高崎起点約3.3 kmの上越新幹線との分岐点では国内最速の分岐器である「38番分岐器」を導入し160 km/hで分岐器側の通過を可能にした{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24996}}。これにより、上越新幹線の軌道をできるだけ長い区間共用することで、下り線の高架橋約2.2 kmを新設せずに済んだ{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24996}}。この他、橋梁においては新幹線初のPC斜張橋、架線においては従来新幹線で用いられていたヘビーコンパウント架線に比べ、経済的で輸送量に見合った高速シンプル架線(CSシンプルカテナリ式)が初めて採用された{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24997}}。 2014年度末に新規開業する長野駅 - 金沢駅間は保安装置がデジタルATCであることから、2013年11月9日夜から10日早朝にかけて、高崎駅 - 長野新幹線運転所までの区間の保安装置が従来のアナログATCからデジタルATCに切り替えられた。これにより、JR東日本の新幹線の全区間がデジタルATC化された{{Sfn|菅原大|2014|p=38516}}。このATC更新により、2014年3月15日のダイヤ改正から東京駅 - 長野駅間で平均して下りで2分、上りで4分所要時間が短縮された{{Sfn|菅原大|2014|p=38516}}。 === 長野 - 金沢間の建設・開業 === ==== スーパー特急方式による暫定整備計画 ==== 1989年(平成元年)6月に難工事推進事業として、富山・石川県境にまたがる[[加越トンネル]]の着工が認可された{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 1992年(平成3年)に新幹線直通線(ミニ新幹線)や新幹線鉄道規格新線(スーパー特急)による「暫定整備計画」を決定できるよう全幹法が改正された。北陸新幹線では「運輸省案」に基づき2区間でスーパー特急方式による暫定整備計画が認可され、着工された。 1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において高崎 - 軽井沢間と並んで着工優先順位1位であった高岡 - 金沢間は、富山県内の自治体が並行在来線の経営分離に反対したため、ルートを変更したうえで着工区間を石動 - 金沢間に短縮した。石動 - 金沢間は北陸本線で[[石動駅]]([[小矢部市]])西方約1 km{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}の西石動(仮称)信号所{{Sfn|日本鉄道建設公団|2002|p=3}}で分岐し、在来線駅に併設して金沢駅を設置し、金沢駅の西方約1 kmで北陸本線に合流する計画であった{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}。[[1992年]](平成4年)7月29日に小矢部市 - [[金沢市]]間の暫定整備計画が決定、8月6日に石動 - 金沢間25.0 kmの工事実施計画が認可され、8月27日に起工式が行われた{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。その際、加越トンネルはルート変更により不要となり、既に投入された建設費8億円は富山県が負担することになった。石動 - 金沢間においては2007年度末までに富山・石川県境から金沢駅までの土木工事がほぼ完成した{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}。 1988年(昭和63年)の「整備新幹線の取扱いについて」において着工優先順位4位であった糸魚川 - 魚津間は、北陸本線[[糸魚川駅]]西方4 km{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}の西糸魚川(仮称)信号所{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2007|p=1}}で分岐し、新設する新黒部(仮称)駅(現 黒部宇奈月温泉駅)を経て、[[魚津駅]]手前{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}の東魚津(仮称)信号所{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2007|p=1}}で北陸本線に合流する計画であった{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}。[[1994年]](平成5年)9月13日に[[糸魚川市]] - [[魚津市]]間の暫定整備計画が決定、9月22日に糸魚川 - 魚津間40.5 kmの工事実施計画が認可され、10月13日に起工式が行われた{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ==== 新規着工拡大と全区間フル規格化 ==== [[ファイル:Route comparison between Tokyo and Hokuriku ja.png|thumb|400px|東京と北陸を結ぶルートの変遷。ほくほく線開業前は、東海道新幹線[[米原駅]]乗換の「[[しらさぎ (列車)#きらめき|きらめき]]」ルートと、上越新幹線[[長岡駅]]乗換の「かがやき」ルートがあったが、ほくほく線開業により、金沢以東では上越新幹線[[越後湯沢駅]]乗換の「はくたか」ルートが使われるようになった。北陸新幹線が金沢駅まで延伸開業した後は、芦原温泉以東では北陸新幹線が最速ルートとなった。]] [[1996年]](平成8年)12月25日の「整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意」では北陸新幹線の新規着工区間として長野 - 上越間の標準軌新線(フル規格)が示された<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H8.12.25" />。平成8年の合意に基づいて、[[1998年]](平成10年)1月に「政府・与党整備新幹線検討委員会における検討結果」が公表され、従来の整備新幹線計画が維持されていることを確認したうえで新規着工区間の優先順位が示され(1)東北新幹線 [[八戸駅|八戸]] - [[新青森駅|新青森]]間、九州新幹線(鹿児島ルート)[[筑後船小屋駅|船小屋]] - [[新八代駅|新八代]]間(2)北陸新幹線 長野 - 上越間とされた<ref group="報道" name="motnet19980121">{{Cite press release |和書 |title=政府・与党整備新幹線検討委員会における検討結果 |publisher=[[運輸省]] |date=1998-01-21 |url=http://www.motnet.go.jp/KOHO98/SEIBISEN_.htm|accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/19980125090147/http://www.motnet.go.jp/KOHO98/SEIBISEN_.htm |archivedate=1998-01-25 }}</ref>。 同年3月には長野 - 上越間約60 kmの工事実施計画(フル規格)が認可された{{Sfn|片山正|2000|p=27031}}。 [[2000年]](平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野 - 富山間について「フル化し、今後概ね12年後強の完成を目指す」とされた。今回着工しない区間ついてはについては、東北新幹線(盛岡駅 - 八戸駅間)、[[九州新幹線]](新八代駅 - 鹿児島中央駅間)の開業後に見直しを行うとされた。このうち、富山 - 金沢間は「三、の見直しの際、石動 - 金沢間をすでに着工していることを踏まえて認可に向けた検討を行う」とされた<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H12.12.18" />。[[2001年]](平成13年)4月には上越 - 糸魚川間、魚津 - 富山間の新規着工を含む上越 - 富山間全区間がフル規格で着工された{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}。 [[2003年]](平成15年)10月1日に[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が設立され、日本鉄道建設公団は解散した。これにより北陸新幹線の建設・貸付け業務は機構に引き継がれた。 [[2004年]](平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の長野駅 - 金沢車両基地(現 [[白山総合車両所]])間についてはフル規格で整備するものとし、富山 - 石動間、金沢 - 金沢車両基地間については平成17年度当初に着工し、長野 - 金沢車両基地間で一体的に平成26年度末の完成を目指すとされた。この申し合わせに基づき、[[2005年]](平成17年)4月27日に富山 - 金沢(白山総合車両所)間の全区間がフル規格で認可され、6月26日に起工式が行われた{{Sfn|林淳|2006|p=31346}}。これにより富山 - 石動間約35 kmと金沢 - 白山総合車両基地間約9 kmが新規着工、石動 - 金沢間約25 kmがフル規格化されることになった{{Sfn|林淳|2006|p=31348}}。 [[2006年]](平成18年)4月14日に既認可区間である長野 - 上越間、上越 - 富山間、富山 - 金沢間を変更して長野 - 金沢(白山総合車両基地)間の一体的な完成を目指す工事実施計画の変更認可申請が行われ、同月28日に認可された{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}。 [[2015年]](平成27年)3月14日に長野駅 - 金沢駅間が開業し{{Sfn|弘中知之|2016|p=40073}}、金沢駅 - 白山総合車両所間の線路も回送線として運用が開始された。これにより、東京 - 富山・金沢間の鉄道での最速ルートは北陸新幹線となり、所要時間は最短で東京駅 - 富山駅間が2時間8分、東京駅 - 金沢駅間が2時間28分となった{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39346}}。旅客向けの案内は「北陸新幹線」に統一されたが、JR東日本管轄区間においては一部で「北陸新幹線(長野経由)」と案内される場合がある。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:80%;" |+ 事業全体の投資効率性(開業後50年後まで){{Refnest|便益および費用は、年度ごとに現在価値化し、開業後 50 年までの累計額。現在価値化基準年度は平成 18 年度,平成 23 年度,または令和元年度。需要予測結果は開業後 50 年間の平均値である。}} ! 区間 !! 試算年度 !! 需要<br/>(人キロ/日·km) !! 便益<br />(B) !! 費用<br />(C) !! 純[[現在価値]]<br/>(B-C) !! [[費用便益比]]<br />(B/C) !! [[内部収益率|経済的内部<br />収益率]] |- ! rowspan="3" | 長野<br/>|<br/>金沢 | [[平成18年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/evaluation18.html | title=平成18年度事業評価監視委員会 北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する対応方針 |page=21 |publisher=[[鉄道・運輸機構]] |accessdate=2023-02-02}}</ref> || - || 19,974 億円 || 15,341 億円 || 4,633 億円 || 1.3 || 5.3 % |- | [[平成23年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/evaluation23.html | title=平成23年度事業評価監視委員会 北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する再評価対応方針 |page=52 |publisher=鉄道・運輸機構 |accessdate=2023-02-02}}</ref> || 21,600 || 23,763 億円 || 21,404 億円 || 2,358 億円 || 1.1 || 4.5 % |- | [[令和元年]]<ref name="JRTT2019">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/evaluation2019.html | title=令和元年事業評価監視委員会 北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する事後評価対応方針 事後評価報告書 |page=55 |publisher=鉄道・運輸機構 |accessdate=2023-02-02}}</ref> || 22,020 || 34,414 億円 || 32,937 億円 || 1,477 億円 || 1.0 || 4.2 % |} 長野 - 金沢間の総事業費は 16,988 億円(平成30年度)であった。全線フル規格の新規認可額は 15,660 億円(平成15年4月価格)であったが、建設物価上昇の影響や法令・基準等の改正、地質不良等に対する工事費の増額に伴い、平成24年3月に約 14 %増嵩となる 17,801 億円に修正された。しかしその後のコスト削減や落札差額により、修正額から813億円減となる 16,988 億円(新規認可額に対して 8 %増)で事業を完成した<ref name="JRTT2019"/>。 ==== 新潟県の費用負担問題 ==== 北陸新幹線の整備費用のうち、[[新潟県]]の負担分について国と新潟県との間で一時対立が生じていた。 [[2009年]](平成21年)2月12日、新潟県の[[泉田裕彦]]知事は、[[国土交通省]]から資材価格高騰などを理由に220億円の建設費追加負担を求められたことに対して、「突然増額を求められても対応は難しい」として、算出根拠について納得できる説明があるまでは増額分の負担に応じない姿勢を表明した。 同年12月25日、泉田知事は[[前原誠司]][[国土交通大臣]]と話し合い、「県と国の信頼関係が再構築された」として2009年度分負担金残額計104億円を支払うと表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/koutsuseisaku/1263416472152.html|title=北陸新幹線事業費負担金の支払いについて|publisher=新潟県交通政策課|date=2010-01-14|accessdate=2010-01-28}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091226ddm012010021000c.html|title=北陸新幹線:負担金の104億円支払いへ--新潟県知事が表明|newspaper=[[毎日新聞]](毎日jp)|publisher=毎日新聞社|date=2009-12-26|accessdate=2009-12-26|archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2014年11月}}</ref><ref group="新聞">『読売新聞』朝刊2009年12月26日13版33面(読売新聞社)</ref>。新潟県は2009年(平成21年)11月6日に[[国地方係争処理委員会]]へ計画の認可について審査を要求し、委員会は同年12月25日却下<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02gyosei01_000013.html|title=国地方係争処理委員会に対する審査の申出に係る決定と通知について|publisher=[[総務省]]|date=2009-12-25|accessdate=2010-01-30|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。新潟県は却下に対して規定の30日内の2010年(平成22年)1月27日までに[[東京高等裁判所|東京高裁]]に提訴せず、国との協議は続行されることとなった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/railway/20100128-OYT8T00546.htm?from=yoltop|title=新潟県、「新幹線」提訴せず 係争処理委の結論受け入れ|newspaper=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|publisher=読売新聞社|date=2010-01-28|accessdate=2010-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100130080912/http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/railway/20100128-OYT8T00546.htm?from=yoltop|archivedate=2010年1月30日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|和書 |url=http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010012801000385.html|title=新潟県、北陸新幹線で提訴せず 工事認可めぐり協議続行|newspaper=[[東京新聞]]|publisher=中日新聞東京本社|date=2010-01-28|accessdate=2010-01-30|archiveurl= |archivedate= }}{{リンク切れ|date=2014年11月}}</ref>。 しかし、新潟県は協議が進展しないことを理由に2011年度当初予算案に建設負担金を盛り込まなかった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021601000335.html|title=新潟知事、新幹線負担金計上せず 「責任は国に」|newspaper=[[47NEWS]]([[共同通信]])|publisher=全国新聞ネット(共同通信社)|date=2011-02-16|accessdate=2014-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110219105600/http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021601000335.html|archivedate=2011年2月19日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 2010年9月13日、JRが国側へ支払う貸付料には、並行在来線の赤字解消分が含まれるとして新潟県が行った北陸新幹線貸付料に関する情報開示請求に対して一部開示の決定がなされた。これを受けて同県は、同県区間の並行在来線の赤字解消相当額は、30年で780億円を超えるとの試算を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/koutsuseisaku/1287522081374.html|title=北陸新幹線貸付料に関する情報開示文書の分析結果について|publisher=新潟県交通政策課|date=2010-10-22|accessdate=2010-11-08|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 なお、新潟県および泉田知事の対応には、[[大阪府]]の[[橋下徹]]知事(当時)は北陸新幹線自体には賛成ではあるが、直轄事業負担金の観点からこの対応に強い支持を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.osaka.jp/koho/kaiken/20090212.html|title=平成21年(2009年)2月12日 知事記者会見内容|publisher=大阪府|date= |accessdate=2009-02-12|archiveurl= |archivedate= }}</ref>一方、新幹線未開業の富山・石川両県を[[人質]]にとるような手法であることから石川県の[[谷本正憲]]知事からは強い不快感が表明された<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110217-OYT1T00411.htm?from=main7|title=石川知事、「まるで嫌がらせ」と新潟知事に苦言|newspaper=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|publisher=読売新聞社|date=2011-02-17|accessdate=2011-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110220052836/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110217-OYT1T00411.htm?from=main7|archivedate=2011年2月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 しかし2012年2月17日、新潟県の泉田知事は[[前田武志]]国土交通大臣と会談し、新幹線開業に伴う並行在来線の[[第三セクター]]運営において、国内有数の豪雪地域である[[信越地方|信越]]及び[[越中国|越中]]・[[越後国|越後]]国境(新潟・富山県境)での鉄道運営に関する赤字相当額として県が試算していた「30年間で780億円」という金額を国が追加支援をする事等を条件に、これまで県として支払いを拒否していた地方負担分を支出することに合意した。これにより、北陸新幹線の建設は予定通り2014年度末までの開業計画に遅れることがなくなった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120218k0000m040039000c.html|title=北陸新幹線:新潟県が建設負担金の支払い合意|newspaper=毎日新聞(毎日jp)|publisher=毎日新聞社|date=2012-02-17|accessdate=2012-02-17|archiveurl=https://archive.is/20120710015101/mainichi.jp/select/wadai/news/20120218k0000m040039000c.html|archivedate=2012年7月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 === 金沢 - 敦賀間の建設 === 2000年(平成12年)12月18日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢 - 南越<!--- 公表時点での表記に従う --->間では「福井駅部機能高度化事業を行う」とされた<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H12.12.18" />。 2004年(平成16年)12月16日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申合せにおいて、北陸新幹線の金沢車両基地 - 南越間では、福井駅部について[[えちぜん鉄道]]の高架化と一体的に工事を行うため、2005年度(平成17年)当初に着工し2008年度(平成20年)末の完成を目指すとされた{{Sfn|林淳|2006|p=31346}}。南越 - 敦賀間については直ちに工事実施計画の認可申請を行うとされた<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H16.12.16" />。この申し合わせに基づき、2006年(平成17年)4月27日に福井駅部の工事実施計画が認可され、6月26日に起工式が行われた{{Sfn|林淳|2006|p=31346}}。また、同年12月には南越(仮称)- 敦賀間の工事実施計画の認可申請が行われた<ref group="報道" name="jrtt20051209">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線南越(仮称)・敦賀間工事実施計画(その1)の認可申請について |publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |date=2005-12-09 |url=http://www.jrtt.go.jp/news/pressrelease/data/pressH17.12.12.pdf |format=PDF |accessdate=2005-12-12 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/239769/www.jrtt.go.jp/news/pressrelease/data/pressH17.12.12.pdf |archivedate=2006-02-23 }}</ref>。福井駅部は高崎起点421 km405 mに位置し、北陸本線の東側に高架橋を設置する延長800mの区間であり{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}、2009年(平成21年)2月に高架橋が完成した{{Sfn|蓼沼慶正|2011|p=35660}}。その後、福井駅部の高架橋は2015年(平成27年)9月27日から<ref group="新聞" name="fukuishimbun20150927">{{Cite news |date=2015-09-27 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/80485.html |title=えちぜん鉄道3駅舎の役目終える 仮線運行で福井、新福井、福井口移設 |publisher=福井新聞社 |newspaper=[[福井新聞]](福井新聞ONLINE) |accessdate=2015-11-21|archiveurl= |archivedate=}}</ref>2018年(平成30年)6月24日にえちぜん鉄道単独の高架完成までの間<ref>{{Cite news |title=北陸新幹線高架を使用、えちぜん鉄道福井〜福井口間仮線運行終了 |newspaper=[[マイナビニュース]] |date=2018-06-23 |url=https://news.mynavi.jp/article/20180623-echitetsu/ |publisher=マイナビ |accessdate=2018-06-27}}</ref><ref>{{Cite news |title=北陸新幹線高架から新たな高架へ - えちぜん鉄道福井駅で記念式典 |newspaper=マイナビニュース |date=2018-06-24 |url=https://news.mynavi.jp/article/20180624-echitetsu/ |publisher=マイナビ |accessdate=2018-06-27}}</ref>えちぜん鉄道の福井駅 - [[福井口駅]]間の仮線・仮駅舎として使用されていた。 [[2011年]](平成23年)12月26日の「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党確認事項において北陸新幹線は長野駅 - 白山総合車両基地間の「平成26年度末の開業」および新たな着工区間として、白山総合車両基地 - 敦賀駅間について営業主体であるJR西日本の同意と並行在来線の経営分離に関する沿線自治体の同意を条件に「長野・白山総合車両基地の開業から概ね10年後強」を想定完成・開業時期とする方針を示した<ref group="報道" name="mlit20111226">{{Cite press release |和書 |title=整備新幹線の取扱いについて(政府・与党確認事項)平成23年12月26日 |publisher=国土交通省 |date=2011-12-26 |url=https://www.mlit.go.jp/common/000186763.pdf |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3195559/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo03_hh_000042.html |archivedate=2012-01-04 }}</ref>。 翌[[2012年]](平成24年)6月に北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間が認可、着工された{{Sfn|瓜生良知|2013|p=37409}}。 [[2023年]](令和5年)[[5月27日]]、[[芦原温泉駅]]で金沢駅 - 敦賀駅間のレール締結式が行われ、東京 - 敦賀間約580kmが線路で繋がった<ref group="新聞" name="teike">『北日本新聞』2023年5月28日付26面『東京 - 敦賀 線路つながる 北陸新幹線 福井で締結式』より。</ref>。 ==== フリーゲージトレイン導入計画と断念 ==== 金沢駅以西については、[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]](FGT)による在来線乗り入れとする案が検討されてきた。これは、金沢駅 - 敦賀駅開業後、在来線である湖西線に乗り入れて京都駅経由で大阪(新大阪駅または大阪駅)へ至るというもので、敦賀駅以西の建設の見通しが立たないことにより、2012年2月に国土交通省が提案したものであった<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120228-OYT1T00290.htm|title=北陸新幹線、一部区間にフリーゲージ導入の方針|newspaper=読売新聞(YOMIURI ONLINE)|publisher=読売新聞社|date=2012-02-28|accessdate=2010-01-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120301211620/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20120228-OYT1T00290.htm|archivedate=2012年3月1日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。FGTが導入されると、[[北陸本線]]・[[東海道本線]]経由で米原・名古屋方面への直通も可能になるというメリットもあった<ref group="新聞" name="asahi_20120428">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201204280039.html|title=北陸新幹線、フリーゲージ採用へ 敦賀で在来線乗り入れ|newspaper=[[朝日新聞]]([[朝日新聞デジタル]])|publisher=朝日新聞社|date=2012-04-28|accessdate=2014-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120506045404/http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201204280039.html|archivedate=2012年5月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 金沢 - 敦賀間の着工に向けた試算では、金沢 - 敦賀間のフル規格整備に加えて、富山 - 大阪間に軌間可変電車(フリーゲージトレイン)の導入した場合についても想定されていた{{Sfn|国土交通省 鉄道局|2012|p=27}}。 2013年6月からFGTのプロジェクトチームを拡大して開発を本格化するとした<ref group="新聞">{{Cite news |title=新幹線と在来線のどっちも運行 JR西がフリーゲージトレイン開発加速 サンダーバードで導入!! |newspaper=産経新聞 |date=2013-08-13 |url=https://www.sankei.com/west/news/130813/wst1308130021-n1.html |accessdate=2015-01-22}}</ref>。JR西日本もこの案を前向きに検討し、同社は2014年9月、敦賀市において模擬台車による軌間変換試験を同年10月から開始すること、また、北陸ルートに対応したFGT試験車(6両編成)の設計・製作にも取りかかり、2016年度から試験車両による試験を始めることを表明していた<ref group="報道" name="westjr 20140917">{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/09/page_6164.html|title=フリーゲージトレイン(FGT)の開発状況について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2014-09-17|accessdate=2014-09-20|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 しかし、FGTは開発途上で技術的な課題があるとともに、仮に実現しても在来線では従来の特急列車と同じ速度でしか運転できない<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/railway/33357.html|title=新幹線認可後に在来線対策協設置 福井知事方針、石川と協力も|newspaper=福井新聞(福井新聞ONLINE)|publisher=福井新聞社|date=2012-03-01|accessdate=2014-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120302210948/http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/railway/33357.html|archivedate=2012年3月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、通常の新幹線より重くなることにより線路の[[メンテナンス|保守]]費用が膨らみ、車両の製造費が高くなる<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.sankeibiz.jp/business/news/120206/bsd1202060501000-n2.htm|title=フリーゲージ、敷設割安でも線路保守費用など課題 北陸新幹線も導入検討|newspaper=[[フジサンケイ ビジネスアイ]](SankeiBiz)|publisher=産業経済新聞社|date=2012-02-06|accessdate=2012-02-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120210214539/http://www.sankeibiz.jp/business/news/120206/bsd1202060501000-n2.htm|archivedate=2012年2月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>というデメリットが指摘された。さらに、金沢 - 敦賀間の開業が当初予定の2025年度から2022年度に3年繰り上げられたことで、JR西日本は開業が前倒しされた場合には、導入が間に合わないとの見解を示した<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/57186.html|title=敦賀開業時期にフリーゲージ影響も 北陸新幹線、前倒しなら導入厳しく|newspaper=福井新聞(福井新聞ONLINE)|publisher=福井新聞社|date=2014-11-12|accessdate=2015-01-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141112221742/http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/57186.html|archivedate=2014年11月12日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 なお、2012年5月には沿線の富山・石川・福井・滋賀・京都・大阪の各府県と[[関西広域連合]]、JR西日本はFGT導入について、新幹線の大阪延伸までの暫定措置として認めるとの申し入れを国土交通省に行っているが<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201205290155.html|title=北陸新幹線、敦賀延伸でフリーゲージ導入確実に 福井|newspaper=朝日新聞(朝日新聞デジタル)|publisher=朝日新聞社|date=2012-05-30|accessdate=2015-01-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120821181031/http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201205290155.html|archivedate=2012年8月21日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、福井県の市民団体は高価なFGT車両の導入により敦賀以西のフル規格での整備が進まなくなる、料金が割高になるとして、導入を見送るように県に対して申し入れを行っている<ref group="新聞">{{Cite news|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/44692.html|title=北陸新幹線開業後も特急は存続を 市民団体が福井県に申し入れ|newspaper=福井新聞(福井新聞ONLINE)|publisher=福井新聞社|date=2013-08-07|accessdate=2013-08-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130810020925/http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/44692.html|archivedate=2013年8月10日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 [[2015年]](平成27年)1月14日の「整備新幹線の取扱いについて」の中で「沿線地方公共団体の最大限の取組を前提に、完成・開業時期の前倒しを図る。」とする方針が示された。北陸新幹線においては金沢 - 福井 - 敦賀間の「完成・開業時期を平成37(2025)年度から3年前倒しし、平成34(2022)年度末<!--- 公表時点での表記に従う --->の完成・開業を目指す」とされた。また、在来線との乗換利便性を確保し、十分な開業効果をできる限り早期に発揮する観点から、別途与党において、整備が先行している福井駅の早期活用等について、今夏までに検討を行うこと。金沢 - 敦賀間には、[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]を導入することが予定されているが、フル規格を前提とする整備計画に影響を与えるものではないことも示された<ref group="報道" name="mlit20150114">{{Cite press release |和書 |title=「整備新幹線の取扱いについて」(政府・与党申合せ)の決定について |publisher=国土交通省 |date=2015-01-14 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo03_hh_000066.html |accessdate=2018-05-19 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8977860/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo03_hh_000066.html |archivedate=2015-02-13 }}</ref>。 2017年6月17日の定期会見で福井県知事は[[九州新幹線 (整備新幹線)|九州新幹線(西九州ルート)]](JR九州)でのFGT導入見送りを受けて、在来線特急の調整を行う都合から、採用の結論を求めていた<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年6月17日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/206474 |title=北陸新幹線フリーゲージ「結論を」 知事、JR九州の導入見送り検討受け |publisher=福井新聞社 |newspaper=[[福井新聞]]ONLINE |accessdate=2017年7月19日 |archiveurl=https://archive.is/20170617091048/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/206474 |archivedate=2017年6月17日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>一方で、同年6月20日のJR西日本の定期記者会見においては、技術的な問題が解決するまで動向を注視するとして、FGT導入について明言を避けていたが<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年6月21日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/207969 |title=FGT導入、明言避けるJR西社長 敦賀開業後、問題解決まで動向注視 |publisher=福井新聞社 |newspaper=福井新聞ONLINE |accessdate=2017年7月19日 |archiveurl=https://archive.is/20170719102930/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/207969 |archivedate=2017年7月19日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、2018年8月24日の政府与党とJR西日本の会合で「技術的課題があり、開発が難航している」との理由により、導入を断念せざるを得なくなった<ref group="新聞">{{Cite news |date=2018年8月25日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/684158 |title=北陸新幹線にフリーゲージ断念へ 政府、与党とJR西日本 |publisher=福井新聞社 |newspaper=福井新聞ONLINE |accessdate=2018年8月26日 |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= }}</ref>。 ==== 計画の見直しと工事費の増加 ==== フリーゲージトレインの導入を断念する方針が発表されると、与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(PT)の検討委員会において、福井駅および敦賀駅の乗換利便性向上設備の追加が決定された{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―2}}。福井駅の新幹線ホームは1面2線と狭いことから、乗換利便性向上のため、ホーム開口部を3か所設置することや中2階に在来線との連絡通路を設置すること、ホーム柵の位置を変更してホーム幅を拡張する計画となった {{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―3}}。また、2020年度の福井先行開業も計画していたが2017年3月11日に与党PTにより断念している<ref group="新聞" name="fukuishimbun.co.jp/articles/-/194281" />。敦賀駅では大阪・[[米原駅|米原]]方面の在来線特急との乗り継ぎ時間短縮などを目的に、新幹線駅舎の1階に在来線を引き込み、上下で乗り換えできるように計画が見直された{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―2}}。[[2017年]](平成29年)10月には工事完了を「平成34(2022)年度<!--- 公表時点での表記に従う --->に前倒しする」ことや、福井駅、敦賀駅の乗換利便性向上施設などを追加した工事実施計画(その2)が認可された<ref group="報道" name="mlit20171006">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)工事実施計画(その2)を認可しました |publisher=国土交通省 |date=2017-10-06 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000055.html |accessdate=2018-12-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10981162/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000055.html |archivedate=2017-10-09 }}</ref>。 建設コストの削減や河川環境への影響低減を目的に、[[九頭竜川]]に架かる北陸新幹線 九頭竜川橋りょうと福井県道 新九頭竜橋(仮称)の一体的整備が進められており、完成すれば新幹線では初の鉄道道路一体橋となる{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―6}}。橋梁下部工を鉄道と道路で一体構造にすることで、約2.5億円のコスト削減が見込まれる{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―19}}。九頭竜川流域への環境問題において、前述の九頭竜川橋りょう建設地付近には国指定の[[天然記念物]]である[[アユカケ|アラレガコ]]<ref>{{国指定文化財等データベース|401|1051|アラレガコ生息地}}</ref>の生息地が存在する。これらの生物は遡上能力が高くないため、環境変化の影響を受けやすい。そのため、川の流れを変える瀬替えをしない、間隔を広くとった仮橋・仮設構台を設けて施工している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―21}}。2019年5月11日には九頭竜川橋りょうの架橋工事が完了している<ref group="新聞">{{Cite news|author=山本洋児|date=2019年5月11日|url=https://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20190511/CK2019051102000029.html|title=新幹線開業へ、また一歩前進 九頭竜川橋りょう、両岸結ぶ|publisher=[[中日新聞社]]|newspaper=[[中日新聞]]|accessdate=2019-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190531033758/https://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20190511/CK2019051102000029.html|archivedate=2019-05-31}}</ref>。 敦賀市内に建設予定の深山トンネル付近には、新幹線建設の認可後、国際的な[[湿地]]保護条約である[[ラムサール条約]]に登録された[[中池見湿地]]が存在している。そのため、専門家による検討委員会が開催され、中池見湿地付近の深山トンネルと後谷部およびその前後のルートを東側へずらすルート変更が行われ、認可された{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=5―20}}。 [[2019年]](平成31年)3月には現認可額の1兆1,858億円から2,263億円の増加となる1兆4,121億円となる工事実施計画の変更が認可された<ref group="報道" name="mlit20190329">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)工事実施計画の変更認可について |publisher=国土交通省 |date=2019-03-29 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000063.html |accessdate=2019-04-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11275008/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000063.html |archivedate=2019-04-01 }}</ref>。 [[2021年]](令和3年)3月には工事費の増額および工事の完了時期の変更伴う工事実施計画の変更が認可され、工事費は現認可額の1兆4,121億円から2,658億円の増加となる1兆6,779億円となった。また工事の完了時期が現認可の平成34(2022)年度末から令和5(2023)年度末に変更された<ref group="報道" name="mlit20210331">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)工事実施計画の変更認可について |publisher=国土交通省 |date=2021-03-31 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000113.html |accessdate=2021-06-27 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11669893/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000113.html |archivedate=2021-04-01}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:80%;" |+ 事業全体の投資効率性(令和2年度試算・開業後50年後まで){{Refnest|便益および費用は、年度ごとに現在価値化し、開業後 50 年までの累計額。現在価値化基準年度は令和 2 年度。需要予測結果は開業後 50 年間の平均値である。<ref name="JRTT2020">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/evaluation2020.html | title=令和2年度事業評価監視委員会 北陸新幹線(金沢・敦賀間)事業に関する再評価対応方針 - 再評価報告書 |page=93 |publisher=鉄道・運輸機構 |accessdate=2023-02-02}}</ref>}} ! 区間 !! 需要<br/>(人キロ/日·km) !! 便益<br />(B) !! 費用<br />(C) !! 純[[現在価値]]<br/>(B-C) !! [[費用便益比]]<br />(B/C) !! [[内部収益率|経済的内部<br />収益率]] |- ! 金沢 - 敦賀 | 24,000 || 14,266 億円 || 17,277 億円 || -3,011 億円 || 0.8 || 3.0 % |} 金沢 - 敦賀間の総事業費は 16,779 億円([[令和2年]]4月価格)である。平成23年の新規認可額は 11,600 億円であったが、消費税増税や物価上昇、耐震設計標準の改訂等により、平成29年に 14,121 億円に修正された。更に、物価上昇と法令改正、地質不良対策・工期短縮策・生コン不足対策等により、令和2年に 16,779 億円に修正された。平成23年の新規認可額と、令和2年の事業費を比較すると、5,179 億円(約 45 %)増額された<ref name="JRTT2020"/>。 === 新駅誘致運動 === ==== 長野県千曲市 ==== 長野県[[千曲市]]が長野駅-上田駅間に新駅「'''新千曲駅'''」(仮称。旧仮称「更埴駅」)を誘致する運動を行っていた<ref>[http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2014070800024/ 千曲市に新幹線新駅設置の実現を目指して] - 千曲市</ref>。在来線特急「[[あさま]]」のうち毎日約半数が[[屋代駅]]に、また[[戸倉駅]]にはほぼ全便が停車していたが、屋代駅が所在する旧[[更埴市]]は、市に特急列車の停車がなくなることの代替措置として「長野新幹線」計画段階から新幹線新駅誘致を構想。宮坂博敏・更埴市長(千曲市発足後は千曲市長)はこれを推進する方針を取り、[[1992年]]3月、旧更埴市の対策委員会が日本鉄道建設公団との設計協議で更埴市内への駅の設置追加を要望するも、「当初計画に基づき[[長野オリンピック]]までに開業させることを最優先とする」との理由から棚上げとなった。建設工事中の[[1996年]]7月には更埴市・[[戸倉町]]・[[上山田町]]他の陳情を[[長野県議会]]が採択、[[1997年]]5月には[[須坂市]]など近隣自治体も加わった「北陸新幹線(仮称)更埴駅誘致期成同盟会」が結成された。1997年10月の[[長野駅]]までの先行開業、[[2003年]]の更埴市・戸倉町・上山田町合併による千曲市発足を経て、[[2007年]]9月、宮坂市長の後を受けて新駅誘致実行を公約した[[近藤清一郎]]・旧更埴市前助役が千曲市長に当選した。市は新駅について[[五里ヶ峰トンネル]]長野駅方出口から[[長野自動車道]][[更埴インターチェンジ|更埴IC]]付近までの「明かり部」の区間内への設置を予定していた。当初期成同盟会は[[観光]]需要などの観点から[[長野県立歴史館]]及び[[森将軍塚古墳]]・科野の里歴史公園傍の五里ヶ峰トンネル長野駅方出口付近を想定していたが、同市長は[[パークアンドライド]]式利用を見込んで新駅を更埴IC([[しなの鉄道線]][[屋代高校前駅]]付近)に接続させる案を示した<ref>[http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2015072100013/#nana 【ご意見等】新駅の場所はどのあたりになるのでしょうか。【回答】屋代の五里ヶ峯トンネル坑口から更埴インターチェンジ付近までの間です。]皆さんからのご意見とその回答 - 千曲市新幹線対策室 2015年10月16日</ref>。更にいわゆる「[[請願駅]]」として金沢駅延伸開業までに建設する構想を提起、[[2009年]]6月、市の施政方針として示した。[[2011年]]9月の市長選挙においては新駅構想が選挙の争点となる情勢であったものの、新駅誘致構想推進を公約した近藤市長に対して反対派からは立候補者がなく、同市長が無投票で再選となった。近藤市長は引き続き新駅誘致構想を進めたが、[[2012年]]9月、病気により退任。同年11月の市長選挙において改めて新駅構想が争点となり、推進派候補2名・反対派候補1名が立候補した。選挙戦において反対派候補への支持は低迷、推進派候補2名の争いとなり、[[岡田昭雄]]・前千曲市参与が新市長に当選した。この結果新駅誘致推進支持の民意が確認された。[[2015年]]3月の金沢駅延伸開業までには間に合わない見通しとなったものの、[[2013年]]1月には「北陸新幹線新駅誘致期成同盟会」が設立され、「対策協議会」など他の団体も活動を開始、[[2014年]]12月には[[阿部守一]]長野県知事が新駅誘致推進支持を表明した。2015年7月には千曲市・同市議会他による「北陸新幹線新駅設置早期実現を求める陳情」を長野県議会が採択<ref>[http://www.pref.nagano.lg.jp/gikai/giji/teireikai/houkoku/h2706/seig2706.html 平成27年6月定例会 請願陳情 陳第13号] - 長野県議会</ref>、千曲市への新駅設置構想は事実上長野県の方針ともなった。しなの鉄道線との接続については未定、また建設資金などの問題もあったが、千曲市は[[2023年]]度の敦賀駅延伸までには開業させたいとの意向であった。[[2016年]]10月の千曲市長選挙においても再び新駅構想が争点となった<ref group="新聞">{{Cite news |title=千曲活性化へ舌戦 市長選は現新の一騎打ちに |newspaper=産経新聞 |date=2016-10-24 |url=https://www.sankei.com/article/20161024-GQY3ZT3QNNPE3MXVTVZ2T46T64/}}</ref>。新駅誘致を推進する岡田市長と反対派候補の[[一騎討ち]]となり、接戦となるも新駅構想を掲げる岡田市長が再選された<ref group="新聞">[https://web.archive.org/web/20161030145004/http://www.asahi.com/articles/ASJBW5WV2JBWTGPB00Y.html 千曲市長に岡田昭雄氏が再選(30日の新市長)] 『朝日新聞』2016年(平成28年)10月30日</ref>。[[2017年]]2月には阿部守一長野県知事が期成同盟会の顧問に就任。同年3月、期成同盟会はJR東日本長野支社に新駅設置を求める要望書を提出した。これに対し同年10月、JR東日本は新駅設置について「技術的に難しい」と回答。専門家もその回答を妥当と説明した。また新駅設置の課題であった線路の傾きについて、解消には250億から350億円の費用かかることが明らかになり、岡田市長は2017年12月5日の千曲市議会12月[[定例会]]において、JRの回答などを踏まえ「新駅設置を進める合理的な理由を見つけることができない」と新駅設置を断念することを明らかにした<ref group="新聞">[https://web.archive.org/web/20171214181112/http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20171205/KT171205ASI000006000.php 千曲市 新幹線新駅を断念 市長、市会で「区切り」表明] 『[[信濃毎日新聞]]』2017年(平成29年)12月6日</ref>。長野県も誘致断念を了承。これを受け期成同盟会は[[2018年]]2月、活動を終了し3月末をもって解散することを決定した<ref group="新聞">[https://web.archive.org/web/20180228161705/http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20180227/KT180226ATI090028000.php 期成同盟会解散へ 千曲への新幹線新駅誘致活動] 『信濃毎日新聞』2018年(平成30年)2月27日</ref>。対策協議会など他の団体も活動を終了した<ref>{{Cite web|和書|date=2018年3月1日 |url=http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2018022800025/ |title=北陸新幹線新駅誘致期成同盟会の解散について |publisher=千曲市 |accessdate=2018年8月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180820142048/http://www.city.chikuma.lg.jp/docs/2018022800025/ |archivedate=2018年8月20日 |deadlinkdate=}}</ref>。 ==== 石川県白山市 ==== 石川県[[白山市]]が金沢駅 - 小松駅間に新駅「'''白山駅'''」(仮称)を誘致する運動を行っていた。当初、[[白山総合車両所]]に新幹線乗降場を設置する案が提起されていたが、その後、北陸本線[[加賀笠間駅]]周辺に新駅を設置する構想となっていた<ref group="新聞">{{Cite news|和書 |url=http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120815101.htm|newspaper=[[北國新聞]]|publisher=北國新聞社|title=白山・笠間に新駅構想 北陸新幹線|date=2012-08-15|accessdate=2014-11-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120817232243/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120815101.htm|archivedate=2012年8月17日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。「北陸新幹線(仮称)白山駅建設期成同盟会<ref>[https://slideshowjp.com/doc/725159/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89---%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A--%E4%BB%AE%E7%A7%B0-%E7%99%BD%E5%B1%B1%E9%A7%85%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%9C%9F%E6%88%90%E5%90%8C%E7%9B%9F%E4%BC%9A ふるさとの未来のためにつくろう!北陸新幹線(仮称)白山駅]2014年4月 北陸新幹線 (仮称)白山駅建設期成同盟会 2022年 パンフレットダウンロード - SlideShow JP</ref>」を地元自治体・経済団体で構成していたものの、[[2017年]]4月15日、「白山駅」設置を断念。同年5月に同盟会解散を決定した<ref group="新聞">{{Cite news |title=北陸新幹線「白山駅」設置を断念 石川・白山市 |newspaper=産経新聞 |date=2017-04-15 |url=https://www.sankei.com/west/news/170415/wst1704150058-n1.html |accessdate=2017年4月15日}}</ref>。 {{Main|加賀笠間駅#北陸新幹線「白山駅」設置構想}} === 令和元年台風第19号による被害 === ==== 被害の発生 ==== 2019年([[令和]]元年)10月上旬、[[令和元年東日本台風|東日本台風]](台風19号)の接近に伴い日本各地120か所で半日あたりの雨量が観測史上最大を記録するなど大量の降雨があった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191015/k10012133451000.html |title = 台風19号 半日の雨量は120か所で観測史上1位更新 |publisher = NHK |date=2019-10-15 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。北陸新幹線も台風接近前の12日夕方までに計画運休していた<ref group="新聞">{{Cite web|和書|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50911360R11C19A0LB0000/ |title = JR西日本、サンダーバードや北陸新幹線を計画運休 |publisher = 日本経済新聞 |date=2019-10-11 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。[[気象庁]]は[[東日本]]を中心とする13都県<ref group="注">静岡県、神奈川県、東京都、埼玉県、群馬県、山梨県、長野県、茨城県、栃木県、新潟県、福島県、宮城県、岩手県</ref>に[[特別警報|大雨特別警報]]を発表し<ref>{{Cite web|和書|url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191012/k10012125671000.html |title = 大雨特別警報 一時13都県に発表 |publisher = NHK |accessdate = 2019-10-22 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1910/12a/201910121630.html|title=7都県に大雨特別警報発表|publisher=気象庁|date=2019-10-12|accessdate=2019-10-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1910/12b/201910122050.html|title=5県に大雨特別警報発表|publisher=気象庁|date=2019-10-12|accessdate=2019-10-12}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/press/1910/13a/201910130140.html|title=岩手県に大雨特別警報発表|publisher=気象庁|date=2019-10-13|accessdate=2019-10-13}}</ref>、長野県に対しては12日午後3時半に発表した<ref group="新聞" name="20191015産経新聞場所"/>。降雨の影響で[[信濃川|千曲川]]の水位は12日昼頃から上がり始め、13日午前0時に[[危険水位|氾濫危険水位]]を超えたのち同日午前3時から5時半の間に長野市[[長沼 (長野市)#穂保|穂保地区]]において堤防が決壊した<ref group="注">千曲川では、同台風の接近に伴い長野県上田市でも氾濫が発生している</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191013/k10012128321000.html |title = 長野市穂保 千曲川の堤防一部が決壊か |publisher = NHK |date=2019-10-13 |accessdate = 2019-10-16 }}</ref><ref group="新聞" name="20191015産経新聞場所">{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/article/20191015-JFIGPKXTTNK4NLKTRQA36EI2SM/ |title = 【台風19号】千曲川氾濫、割れる住民の避難行動「普段から危機意識を」 |publisher = 産経新聞 |date=2019-10-15 |accessdate = 2019-10-16 }}</ref>。 千曲川から1キロほどの距離にある[[長野新幹線車両センター]]が位置する[[長沼 (長野市)#赤沼|赤沼地区]]では、最大約4.3メートル浸水したと推定されている<ref group="注">2019年10月13日段階</ref><ref name="20191016アイティーメディア">{{Cite web|和書|url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1910/16/news052.html |title = 「なぜこうなったのか分からない」 台風19号で水没の北陸新幹線、全線復旧見込みは1〜2週間後 |publisher = ITmedia |date=2019-10-16 |accessdate = 2019-10-16 }}</ref><ref group="新聞">{{Cite web|和書|url = https://mainichi.jp/articles/20191014/k00/00m/040/014000c |title = 千曲川周辺で最大4・3メートル浸水 国土地理院が推定図を作成 |website = 毎日新聞 |publisher = 毎日新聞社 |date=2019-10-14 |accessdate = 2019-10-16 }}</ref>。長野駅 - 飯山駅間の本線の一部や車両センターに併設されていた信号関係の電源設備、臨時修繕庫、車輪研削庫、確認車車庫、変電所(地下電源室、事務所含む)、センター向かい側の新赤沼き電区分所などでも冠水した<ref name="鉄道チャンネル北陸新幹線12両編成2本78軸が長野新幹線車両センター内で脱線"/><ref>{{YouTube|GpqsJs_ymcM|北陸新幹線の車両基地が水没}} ANNnews、{{Accessdate|2019-10-18}}</ref><ref name="ITmedia水没した北陸新幹線 「代替不可」の理由">{{Cite web|和書|url = https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1910/18/news029.html |title = 水没した北陸新幹線 「代替不可」の理由と「車両共通化」の真実 |publisher = ITmedia |date=2019-10-18 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref><ref name="乗りものニュース北陸新幹線、25日に全線運転再開へ">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/90541|title=北陸新幹線、25日に全線運転再開へ 東京〜金沢間の直通本数は通常の9割 JR東日本|publisher=乗りものニュース|date=2019-10-18|accessdate=2019-10-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1910/18/news117.html |title = 車両総数の1/3が水没 長野「新幹線車両センター」台風19号による被害詳細を報告、新幹線だけでなく施設全体に甚大な被害 |publisher = ねとらぼITmedia |date=2019-10-18 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。同地区は13日午前0時45分に緊急の避難指示が出されており、車両センターにいた社員などの36人は建物の高い場所に避難した<ref group="新聞" name="北陸新幹線再開、本数9割で 東京-金沢毎日">{{Cite web|和書|url = https://mainichi.jp/articles/20191018/k00/00m/040/405000c |title = 北陸新幹線再開、本数9割で 東京-金沢、25日再開 浸水車両「廃車の可能性ある」 |website = 毎日新聞 |publisher = 毎日新聞社 |accessdate = 2019-10-19 }}</ref>。 長野市の[[ハザードマップ]]では付近の浸水を最大10メートル以上であると予想していた<ref name="20191016アイティーメディア"/>。また[[国土交通省]][[地方整備局#北陸地方整備局|北陸地方整備局]][[地方整備局#出先機関|千曲川河川事務所]]が2016年に、想定される最大の豪雨の場合10メートル以上浸水する「浸水想定区域」と認定しており<ref group="新聞" name="「浸水想定区域」対策せず中日新聞">{{Cite web|和書|url = https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019101702100019.html |title = 「浸水想定区域」対策せず 鉄道機構 長野の新幹線基地 |website = 中日新聞 |publisher = 中日新聞社 |accessdate = 2019-10-19 }}</ref>、JR東日本も建設を行った[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構|鉄道・運輸機構]]<ref group="注">当時は日本鉄道建設公団</ref>もこれを把握していたものの多大な費用が掛かるとして浸水対策は行っていなかった<ref group="新聞" name="中日新聞設備、運用 見直し必要">{{Cite web|和書|url = https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019102202100021.html |title = 設備、運用 見直し必要 北陸新幹線基地浸水 再発防止 |publisher = 中日新聞 |accessdate = 2019-10-22 }}</ref>。[[日本鉄道建設公団]]は建設当時の1982年に、県が1982年に作成した浸水被害実績図を参考に、それ以前の水害より90cm高い位置にするため車両センターに2mの盛り土をしたとしており、公団の後継団体となる鉄道・運輸機構も「建設当時は必要な設計をした」との考えを示している<ref group="新聞" name="「浸水想定区域」対策せず中日新聞"/><ref name="信毎web対策実らず新幹線浸水">{{Cite web|和書|url = https://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20191017/KT191016ATI090016000.php |title = 対策実らず新幹線浸水 車両センター過去にも氾濫の地 機構「必要な設計をした」 |website = [[信濃毎日新聞|信毎web]] |publisher = 信濃毎日新聞 |date=2019-10-17 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。 これらの結果、車両センターに留置されていた車両であるE7系8編成とW7系2編成、場所別では屋外の[[留置線]]で7編成、屋内の仕業検査・交番検査庫で3編成の計10編成が座席の肘掛けの高さまで浸水した<ref group="報道" name="pr20191018">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho04.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116104246/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191013_ho04.pdf|format=PDF|language=日本語|title=台風19号による北陸新幹線の設備等の主な被害状況について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-10-18|accessdate=2020-11-16|archivedate=2020-11-16}}</ref><ref group="新聞" name="日本経済新聞北陸新幹線、補修に長期か">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50965450U9A011C1CZ8000/ 「北陸新幹線、補修に長期か 全編成の3分の1浸水被害」] 『[[日本経済新聞]]』2019年10月14日</ref><ref group="新聞" name="北陸新幹線の浸水被害、「退避」基準なく日経"/><ref name="鉄道チャンネル北陸新幹線12両編成2本78軸が長野新幹線車両センター内で脱線">{{Cite web|和書|url = https://tetsudo-ch.com/9839268.html |title = 北陸新幹線12両編成2本78軸が長野新幹線車両センター内で脱線、事務所も浸水_復旧続け東京―金沢10/25直通運転再開 |website = 鉄道チャンネル |accessdate = 2019-10-21 }}</ref>。また、このうちの2編成78軸に脱線が発生しており<ref group="報道" name="pr20191018"/><ref name="鉄道チャンネル北陸新幹線12両編成2本78軸が長野新幹線車両センター内で脱線"/><ref name="時事通信2019年10月16日19時52分">{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2019101601090&g=eco|title=北陸新幹線、被害全容なお時間=浸水120両、代替車両なく-JR東日本|website=[[時事通信]]|publisher=時事通信社|date=2019-10-16|accessdate=2019-10-18}}</ref>、うち1編成は10 - 15メートル移動していた<ref name="時事通信北陸新幹線、25日に全線再開">{{Cite web|和書|url = https://www.jiji.com/jc/article?k=2019101800795&g=eco |title = 北陸新幹線、25日に全線再開=通常運行の9割-JR東 |website=時事通信|publisher=時事通信社|date=2019-10-18 |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。車両センターから車両を退避させる場所や基準を定めたマニュアルなどがなかったことや台風の進路から避難を計画するには至らないと判断していたこともあって、車両の退避は行われなかった<ref group="注">[[栃木県]][[那須塩原市]]の東北新幹線の車両基地([[小山新幹線車両センター#那須塩原電留線|那須塩原電留線]])は台風が直撃する予想があったことから車両の退避が行われたという。</ref><ref group="新聞" name="北陸新幹線の浸水被害、「退避」基準なく日経">{{Cite web|和書|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51164760Y9A011C1X12000/ |title = 北陸新幹線の浸水被害、「退避」基準なく |date=2019-10-18 |website=日本経済新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |accessdate = 2019-10-19 }}</ref>。当時、北陸新幹線では全30編成を運用しており、平常時は24編成を使用していたが<ref name="信毎web対策実らず新幹線浸水"/>、被害編成は全体のうち3分の1を占めていた。11月6日、JR東日本とJR西日本は全車両を廃車にし、一部の部品は転用するものの帳簿上の損失は最大で148億円になると発表した<ref name="廃車" group="新聞">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51843800W9A101C1MM0000/ |title=北陸新幹線、浸水の10編成廃車 特別損失を計上へ|website = 日本経済新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |accessdate=2019-11-06|date=2019-11-06}}</ref>。また、JR東日本は、2020年春までに、上越新幹線に導入予定だった新造[[新幹線E7系・W7系電車|E7系]]車両5編成を北陸新幹線に転用し、かつ上越・北陸兼用の1編成を北陸専用にして北陸用に26編成を用意すると発表した<ref name="廃車" group="新聞"/>。JR西日本も被害を受けた2編成の補充の方針を明らかにしている<ref name="乗りものニュース2019.11.08">{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/91166 |title = 来島JR西社長:北陸新幹線2編成を新たに購入する=水没車両の補充で |website = 乗りものニュース |accessdate = 2019-11-08 }}</ref>。 ==== 運転再開および通常ダイヤ復活に向けて ==== 13日は長野駅 - 富山駅間を運休し、14日は長野駅 - 糸魚川駅間を運休し、15日から24日までは長野駅 - 上越妙高駅間を運休した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001314113.pdf#page=91 |title=令和元年台風第19号による被害状況等について(第25報)|format=PDF | work=国土交通省 災害情報 |date=2019-10-25 7:30 |accessdate=2019-11-05}}</ref>。 10月25日に暫定ダイヤで運行再開された。東京駅 - 金沢駅間では通常48本に対して46本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対して23本、金沢駅 - 富山駅間では通常36本に対して35本と、合計では通常118本に対して104本での運行となった<ref name="jreast20191023">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191023_ho01.pdf|format=PDF|title=北陸新幹線(東京~金沢間)の直通運転再開に伴う暫定ダイヤについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-10-23|accessdate=2019-10-23}}</ref>。11月30日からのダイヤでは東京駅 - 金沢駅間が通常通りの48本、金沢駅 - 富山駅間では通常通り36本、東京駅 - 長野駅間では通常34本に対し30本に増え、さらに12月27日からは32本に増えると発表された<ref name="jreast20191115">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191115_ho01.pdf|format=PDF|title=北陸新幹線の 11 月 30 日以降の暫定ダイヤについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-11-15|accessdate=2019-11-16}}</ref>。ただし、臨時列車を含めた年末年始の本数は前年比90%に留まると発表されている<ref name="jreast20191115_2">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20191115_ho02.pdf|format=PDF|title=北陸・上越新幹線 臨時列車運転について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-11-15|accessdate=2019-11-16}}</ref>。2019年11月28日、2020年1月6日から2月29日にかけての臨時列車を含めた本数は前年比96%の2945本となる予定が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20191129302.htm|title=北陸新幹線運行本数 前年比96%の2945本 1、2月計画発表|website=北國新聞|date=2019-11-29|accessdate=2019-11-29}}</ref>。2020年1月9日、同年3月14日から定期ダイヤが全面復旧する予定であると発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tulip-tv.co.jp/news/detail/?TID_DT03=20200110115047 |title=北陸新幹線 定期ダイヤ 3月14日全面復旧|website=[[チューリップテレビ]]|date=2020-01-10|accessdate=2020-01-12}}</ref>。 ==== 被害を受けての浸水対策 ==== 2019年12月6日、JR東日本が[[長野新幹線車両センター]]の主要施設を2020年にも10メートル程度かさ上げする計画であることが明らかになった。留め置き線路についてはかさ上げが難しいために、浸水が予想される場合には車両は他所に退避させる方針である<ref>{{Cite web|和書|url =https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53050020W9A201C1MM8000/ |title =JR東日本、新幹線基地約10メートルかさ上げ 浸水対策 |website = 日本経済新聞 |publisher = 日本経済新聞社 |accessdate = 2019-12-06 }}</ref>。 === 年表 === ==== 開業前 国鉄時代 ==== * [[1964年]]([[昭和]]39年)3月23日:[[日本鉄道建設公団]]発足{{Sfn|斉藤俊彦|1964|p=3505}}。 * [[1969年]](昭和44年)5月30日:[[新全国総合開発計画]]閣議決定{{Sfn|山本博之|1982|p=14347}}。 * [[1970年]](昭和45年)5月18日:[[全国新幹線鉄道整備法]]公布{{Sfn|山本博之|1982|p=14347}}。 * [[1972年]](昭和47年) ** 6月29日:北陸新幹線(東京都 - 大阪市)を含む4路線の基本計画決定および調査の指示{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 ** 7月3日:[[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画#昭和47年告示第243号|昭和47年運輸省告示第243号]]により、北海道新幹線(青森市 - 札幌市)、'''北陸新幹線(東京都 - 大阪市)'''、九州新幹線(福岡市 - 鹿児島市)の3路線の基本計画公示{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 * [[1973年]](昭和48年)11月13日:北陸新幹線(東京都 - 大阪市)を含む5路線の[[整備新幹線#整備計画の決定|整備計画]]決定および建設の指示{{Sfn|中井善人|1974|p=9652}}。 * [[1982年]](昭和57年) ** 3月30日:高崎 - 小松間のルート公表{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。同日、日本鉄道建設公団富山新幹線準備事務所が富山県内の停車駅を黒部、富山、高岡にすることを決定<ref>『新聞に見る20世紀の富山 第3巻』(2000年11月26日、北日本新聞社発行)92頁。</ref>。 ** 6月23日:[[東北新幹線]] 大宮駅 - 盛岡駅間開業{{Sfn|御船直人|由川透|吉田孝登志|五十嵐晃|1994|p=22772}}。 ** 9月24日:臨時行政調査会第三次答申にて、財政赤字の拡大、国鉄の経営悪化を理由に整備新幹線の建設計画の当面見合わせを閣議決定{{Sfn|北山斉|1988|p=18153}}{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 ** 11月15日:[[上越新幹線]] 大宮駅 - 新潟駅間開業{{Sfn|御船直人|由川透|吉田孝登志|五十嵐晃|1994|p=22772}}。 ** 12月6日:高崎 - 小松間における環境影響評価報告書案を公表{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 * [[1983年]](昭和58年)10月20日:着工準備事務所設置(長野、富山、金沢){{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 ** 3月30日:高崎 - 小松間のルート公表{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 * [[1985年]](昭和60年) ** 1月22日:小松 - 芦原温泉間のルート公表{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 ** 3月14日:東北新幹線 上野駅 - 大宮駅間開業{{Sfn|御船直人|由川透|吉田孝登志|五十嵐晃|1994|p=22772}}。 ** 8月22日:整備新幹線財源問題等検討委員会の設置、新幹線駅周辺周辺環境整備事業の実施{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 ** 12月25日:高崎 - 小松間の工事実施計画認可申請{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 * [[1987年]](昭和62年) ** 1月30日:整備新幹線計画見合わせの閣議決定を変更{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 ** 2月19日:芦原温泉 - 南越(仮称)間のルート公表{{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 ** 3月16日:駅周辺環境整備事業着手(長野駅、富山駅、金沢駅){{Sfn|堀内義朗|1987|p=13}}。 ==== 開業前 JR発足後 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[JR|JR各社]]および[[新幹線鉄道保有機構]]が発足。北陸新幹線は東日本旅客鉄道(JR東日本)が高崎市 - 上越市<ref name="yuho_E" />、西日本旅客鉄道(JR西日本)が上越市 - 大阪市<ref name="yuho_W" />の営業主体とされた。 * [[1988年]](昭和63年)8月31日:「整備新幹線の取扱について」政府・与党申合せにおいて整備新幹線着工優先順位決定。北陸新幹線 高崎 - 軽井沢間は昭和64(1989)年度に着工を目指す。軽井沢 - 長野間は五輪開催地を考慮し3年以内に結論を出すとされる{{Sfn|北山斉|1988|p=18158}}。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 1月17日:「平成元年度予算編成にあたっての整備新幹線の取扱について」により整備新幹線の[[整備新幹線#旧スキーム|旧財源スキーム]]策定。北陸新幹線 高崎 - 軽井沢間のフル規格での着工を決定{{Sfn|沢田諄|1989|p=18452}}。同時に、信越本線 横川 - 軽井沢間の廃止も決定{{Sfn|沢田諄|1989|p=18452}}。 ** 6月2日:整備新幹線難工事推進事業計画(加越トンネル)認可{{Sfn|田代美樹男|水元清志|1989|p=18892}}。 ** 6月23日:高崎 - 軽井沢間の工事実施計画(フル規格)追加認可申請<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 6月28日:高崎 - 軽井沢間の工事実施計画(フル規格)追加認可{{Sfn|中原昭夫|田代美樹男|1989|p=18857}}。 ** 8月2日:高崎 - 軽井沢間起工式{{Sfn|中原昭夫|田代美樹男|1989|p=18857}}。 * [[1990年]](平成2年)12月24日:「整備新幹線着工等について政府与党申合せ」により軽井沢 - 長野間のフル規格着工を決定。同時に、並行在来線をJRから経営分離することを明記。 * [[1991年]](平成3年) ** 6月20日:東北新幹線 東京駅 - 上野駅間開業{{Sfn|御船直人|由川透|吉田孝登志|五十嵐晃|1994|p=22777}}。 ** 8月9日:軽井沢 - 長野間の工事実施計画(フル規格)追加認可申請<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 8月22日:軽井沢 - 長野間の工事実施計画(フル規格)追加認可{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 9月17日:軽井沢 - 長野間起工式{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 10月1日:新幹線鉄道保有機構が解散し、鉄道整備基金設立。 * [[1992年]](平成4年) ** 7月29日:小矢部市 - 金沢市間の暫定整備計画決定および建設の指示{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 8月6日:石動 - 金沢間の工事実施計画(新幹線鉄道規格新線)認可{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 8月27日:石動 - 金沢間起工式{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 * [[1993年]](平成5年) ** 9月13日:糸魚川市 - 魚津市間の暫定整備計画決定および建設の指示{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 9月22日:糸魚川 - 魚津間の工事実施計画(新幹線鉄道規格新線)認可{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 ** 10月13日:糸魚川 - 魚津間起工式{{Sfn|中原昭夫|1994|p=22765}}。 * [[1996年]](平成8年) ** 3月28日:小松 - 南越(仮称)間の環境影響評価および工事実施計画認可申請、南越(仮称)- 敦賀間のルート公表<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 12月25日:「新幹線の取扱いについて 政府与党合意」により新幹線の[[整備新幹線#新スキーム|新財源スキーム]]、新規着工区間など決定。上下分離方式により、JRは受益の範囲を限度とした貸付料を支払うこととされる。北陸新幹線長野 - 上越間をフル規格で新規着工することを決定。また、北陸新幹線の富山駅・小松駅・福井駅整備事業を決定<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H8.12.25" />。 ==== 長野開業後 ==== * [[1997年]](平成9年)10月1日:'''北陸新幹線 高崎駅 - 長野駅間 (117.4 km) 開業'''{{Sfn|宮林秀次|1997|p=24994}}。鉄道整備基金が船舶整備公団と統合し、[[運輸施設整備事業団]]設立。 * [[1998年]](平成10年) ** 1月21日:「政府・与党整備新幹線検討委員会における検討結果」公表。従来の整備計画として、北陸新幹線 高崎 - 大阪間の維持を確認。新規着工区間の優先順位を決定し、長野 - 上越間のフル規格での認可・着工、富山駅、小松駅、福井駅の駅整備事業実施および着手を決定<ref group="報道" name="motnet19980121" />。 ** 2月19日:長野 - 上越(仮称)間の工事実施計画(フル規格)追加認可申請<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 3月12日:長野 - 上越(仮称)間の工事実施計画(フル規格)追加認可<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 3月13日:長野 - 上越(仮称)間の建設工事(フル規格)着手<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 * [[2000年]](平成12年)12月18日:「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申し合わせにおいて、長野 - 富山間をフル規格で整備し、概ね12年強後の完成を目指すこと、石動 - 金沢間を既に着工していることを踏まえて認可に向けて検討すること、福井駅部の機能高度化事業等を実施することを決定。なお、今回着工しない区間は東北新幹線 盛岡 - 八戸間および九州新幹線 新八代 - [[鹿児島中央駅|西鹿児島]]間の完成後に見直すこととした<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H12.12.18" />。 * [[2001年]](平成13年)4月25日:上越(仮称)- 富山間の工事実施計画(フル規格)追加認可申請、追加認可および建設工事着手<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 * [[2002年]](平成14年) ** 1月8日:南越(仮称) - 敦賀間の環境影響評価<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 10月25日:全国新幹線鉄道整備法施行令の一部を改正する政令案を公表<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha02/08/081024_.html|title=「全国新幹線鉄道整備法施行令の一部を改正する政令案」について|publisher=[[国土交通省]]|date=2002-10-24|accessdate=2014-12-16|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2003年]](平成15年) ** 10月1日:運輸施設整備事業団と日本鉄道建設公団が統合し、[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]設立。 ** 12月17日:同日付の与党整備新幹線建設促進プロジェクトチーム取りまとめを踏まえ、整備新幹線の取扱いについて、政府・与党合意<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/08/081222_.html|title=内閣官房長官、財務大臣、国土交通大臣及び与党政務調査会長による合意事項|publisher=国土交通省|date=2003-12-22|accessdate=2014-12-26|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2004年]](平成16年) ** 4月1日:長野新幹線運転所が[[長野新幹線車両センター]]に改称。 ** 12月16日:「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党中間申し合わせにおいて、富山 - 石動間、金沢 - 金沢車両基地(仮称)間を平成17(2005)年度初に着工することとし、長野 - 金沢車両基地(仮称)間をフル規格で一体的に平成26(2014)年度末の完成を目指すとともに、福井駅部を平成17(2005)年度初に認可・着工し、平成20(2008)度末の完成を目指すことを決定<ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H16.12.16" />。 * [[2005年]](平成17年) ** 3月25日:全国新幹線鉄道整備法施行令の一部を改正する政令案を閣議決定<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/08/080324_.html|title=全国新幹線鉄道整備法施行令の一部を改正する政令案について|publisher=国土交通省|date=2005-03-24|accessdate=2014-12-16|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 ** 4月20日:富山 - 金沢(白山総合車両基地)間・福井駅部の工事実施計画(フル規格)追加認可申請<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 4月27日:富山 - 金沢(白山総合車両基地)間・福井駅部の工事実施計画(フル規格)追加認可{{Sfn|林淳|2006|p=31346}}<ref group="報道" name="mlit20050427">{{Cite press release |和書 |title=整備新幹線の工事実施計画の認可について |publisher=[[国土交通省]] |date=2005-04-27 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/08/080427_.html |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/243596/www.mlit.go.jp/kisha/kisha05/08/080427_.html |archivedate=2006-02-17 }}</ref>。 ** 6月24日:富山 - 金沢(白山総合車両基地)間・福井駅部起工式{{Sfn|林淳|2006|p=31346}}。 ** 12月12日:南越(仮称)- 敦賀間の工事実施計画認可申請<ref group="報道" name="jrtt20051209" />。 * [[2006年]](平成18年) ** 4月14日:長野 - 上越(仮称)間、上越(仮称)- 富山間、富山 - 金沢間工事実施計画の変更認可申請{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}。 ** 4月28日:長野 - 金沢間工事実施計画の変更を認可、長野 - 金沢(白山総合車両基地)間の一体的な完成を目指す{{Sfn|渡邉修|2009|p=33897}}<ref group="報道" name="mlit20060428">{{Cite press release |和書 |title=整備新幹線の工事実施計画の変更認可について |publisher=国土交通省 |date=2006-04-28 |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/08/080428_2_.html |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/243856/www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/08/080428_2_.html |archivedate=2007-02-22 }}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)2月19日:福井駅部完成<ref name="福井駅周辺整備 経緯">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.fukui.jp/doc/ekisyuu/keii2013.html|title=事業の経緯|publisher=福井市|date= |accessdate=2015-02-26|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)12月26日:「整備新幹線の取扱いについて」政府・与党申し合わせにおいて金沢(白山総合車両所)- 敦賀間の新規着工を決定<ref group="報道" name="mlit20111226" />。 * [[2012年]](平成24年) ** 6月12日:金沢 - 敦賀間の工事実施計画追加認可申請<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 6月29日:金沢 - 敦賀間の工事実施計画追加認可<ref group="報道" name="mlit20120629">{{Cite press release |和書 |title=整備新幹線の工事実施計画の認可について |publisher=国土交通省 |date=2012-06-29 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000032.html |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3510705/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo09_hh_000032.html |archivedate=2012-07-02 }}</ref>、着手<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 * [[2013年]](平成25年)11月10日:高崎 - 長野 - 長野新幹線車両センター間のアナログATC([[自動列車制御装置#ATC-2型(東北・上越型)(消滅)|ATC-2型]])からデジタルATC([[自動列車制御装置#DS-ATC|DS-ATC]])へ切り替え工事完了 {{Sfn|菅原大|2014|p=38516}}。 * [[2014年]](平成26年) ** 3月15日:ダイヤ改正に伴い、「あさま」計7往復にE7系を投入{{Sfn|菅原大|2014|p=38515}}。 ** 12月17日:国土交通省が、JR東日本およびJR西日本に対して、長野 - 上越妙高 - 金沢間の鉄道施設の完成検査合格書を交付<ref group="報道" name="mlit20141216">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線 長野〜金沢間の開業に向けた手続きについて |publisher=国土交通省 |date=2014-12-16 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo06_hh_000082.html |accessdate=2014-12-16 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8945264/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo06_hh_000082.html |archivedate=2015-01-08 }}</ref>。同時に、JR東日本およびJR西日本が10月3日に申請した長野 - 上越妙高 - 金沢間の特別急行料金の上限を認可<ref group="報道" name="mlit20141217">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線(長野〜金沢間)の特別急行料金の設定認可について |publisher=国土交通省 |date=2014-12-17 |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000033.html |accessdate=2014-12-18 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8945264/www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000033.html |archivedate=2015-01-10 }}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** 1月14日:「整備新幹線の取り扱いについて」政府・与党申し合わせ。「金沢 - 敦賀間の開業時期を当初計画の平成37(2025)年度より3年前倒しし、平成34(2022)年度末<!--- 公表時点での表記に従う --->とする」ことで合意。このうち、金沢 - 福井間についてはさらに前倒しを検討<ref group="報道" name="mlit20150114" />。 ** 3月13日:鉄道・運輸機構が申請した長野 - 金沢間の貸付料について、長野 - 上越妙高間(JR東日本)を年額165億円、上越妙高 - 金沢間(JR西日本)を80億円として国土交通省が認可<ref group="報道" name="mlit20150313">{{Cite press release |和書 |title=北陸新幹線(長野・上越妙高間及び上越妙高・金沢間)の貸付料の額について |publisher=国土交通省 |date=2015-03-13 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo03_hh_000067.html |accessdate=2015-03-13 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9255300/www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo03_hh_000067.html |archivedate=2015-04-02 }}</ref>。 ==== 金沢開業後 ==== * [[2015年]](平成27年)3月14日:'''北陸新幹線 長野駅 - 金沢駅間 (228.0 km) 開業'''{{Sfn|弘中知之|2016|p=40073}}。W7系の運用を開始{{Sfn|祝迫栄一郎|宮本佳洋|堀内則利|若松健|2015|p=39347}}。 * [[2016年]](平成28年) ** 6月28日:高崎 - 安中榛名間で、携帯電話不通区間<!--JR東日本では、「携帯電話不通区間」と記載-->が解消{{Refnest|group="注"|2016年6月17日のJR東日本の発表では、大宮 - 高崎間は、既に携帯電話の利用が可能とされている<ref group="報道" name="jreast/press/20160613" />。}}<ref group="報道" name="jreast/press/20160613">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160613.pdf|title=新幹線における携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-06-17|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404062634/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160613.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** 12月20日:与党PTが、敦賀以西のルートを「小浜・京都ルート」に決定{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=2―22}}。 * [[2017年]](平成29年) ** 3月10日:与党PTが2020年の福井先行開業を断念<ref group="新聞" name="fukuishimbun.co.jp/articles/-/194281">{{Cite news|date=2017年3月11日|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/194281|title=福井先行開業を断念、北陸新幹線 与党検討委の山本拓氏見通し|publisher=福井新聞社|newspaper=[[福井新聞]]ONLINE|accessdate=2019年4月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810101947/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/194281|archivedate=2017年8月10日}}</ref>。 ** 3月15日:与党PTが、京都 - 新大阪間のルートを「南回りルート」に決定{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=2―22}}。 ** 3月31日:開業以来20年走行したE2系がこの日をもって運用終了。E7系とW7系に置き換えを完了<ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/66706 |title = 長野新幹線開業に貢献 E2系「あさま」車両、2017年3月で引退 碓氷峠、境界を克服 |publisher = 乗りものニュース |accessdate = 2019-10-18 }}</ref>。 ** 9月8日:福井県[[あわら市]]柿原の柿原トンネル掘削部で土砂崩壊により、地上部の柿原グラウンドが陥没する<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年9月8日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/236101 |title=北陸新幹線トンネル掘削現場で崩落 地上のグラウンド陥没、直径15m |publisher=福井新聞社 |newspaper=福井新聞ONLINE |accessdate=2018年2月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170908233110/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/236101 |archivedate=2017-09-08}}</ref><ref group="JRTT">{{Cite web|和書|work=北陸新幹線、金沢・敦賀間トンネル施工技術委員会|date=|url=http://www.jrtt.go.jp/02Business/Construction/constPhrk_Kakihara01B.html|title=柿原トンネル陥没事故について|publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構|accessdate=2019年4月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180530164024/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Construction/constPhrk_Kakihara01B.html|archivedate=2018年5月30日}}</ref>。 ** 10月6日:金沢 - 敦賀間の工事実施計画(その2)認可<ref group="報道" name="mlit20171006" />。 ** 12月22日:富山 - 金沢間で、携帯電話不感地帯<!--JR西日本では、「携帯電話不感地帯」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jrwest/press/20171210">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11643.html|title=北陸新幹線における携帯電話通信サービスの開始について ~北陸新幹線車内の携帯電話通信サービスを金沢~富山駅間で提供!~|publisher=西日本旅客鉄道|date=2017-12-20|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404065513/https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11643.html|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** 3月5日:新親不知トンネル西側 - 富山間で、携帯電話不感地帯<!--JR西日本では、「携帯電話不感地帯」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jrwest/press/20180302">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/03/page_11992.html|title=北陸新幹線における携帯電話通信サービス区間延長について ~北陸新幹線車内の携帯電話通信サービスを富山~黒部宇奈月温泉間にも拡大!~|publisher=西日本旅客鉄道|date=2018-03-02|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404065537/https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/03/page_11992.html|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** 3月31日:安中榛名 - 上田(手前)間で、携帯電話不通区間<!--JR東日本では、「携帯電話不通区間」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jreast/press/20180316">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180316.pdf|title=新幹線における携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-03-26|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404064018/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180316.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** 2月22日:峰山トンネル西側 - 糸魚川間で、携帯電話不感地帯<!--JR西日本では、「携帯電話不感地帯」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jrwest/press/20190218">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/02/page_13826.html|title=北陸新幹線における携帯電話通信サービス区間延長について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2019-02-18|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404070506/https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/02/page_13826.html|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** 3月15日:糸魚川 - 新親不知トンネル西側間で、携帯電話不感地帯<!--JR西日本では、「携帯電話不感地帯」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jrwest/press/20190218" />。 ** 3月29日:金沢 - 敦賀間の工事実施計画変更認可<ref group="報道" name="mlit20190329" />。 ** 3月31日:上田(手前)- 飯山間で、携帯電話不通区間<!--JR東日本では、「携帯電話不通区間」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jreast/press/20190316">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190316.pdf|title=新幹線における携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-03-25|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404064508/https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190316.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** 5月31日:敦賀 - 新大阪間のルート公表<ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況" />。 ** 10月12日:[[令和元年東日本台風]](台風19号)により千曲川の堤防が決壊して長野新幹線車両センターと一部の本線・施設が水没し、以降13日間にわたり一部区間で運行停止<ref group="報道" name="pr20191018"/>。北陸新幹線車両の3分の1にあたるE7系・W7系合計10編成が水害を被る(→[[#令和元年台風第19号による被害|前述]])<ref group="報道" name="pr20191018"/>。 ** 10月25日:全線で運行再開。通常と比較して全線直通列車が約96%、北陸新幹線全体で約88%程度の本数を運行<ref name="jreast20191023"/>。 ** 10月26日:上越妙高 - 峰山トンネル東側間で、携帯電話不感地帯<!--JR西日本では、「携帯電話不感地帯」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jrwest/press/20191023">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/10/page_15151.html|title=北陸新幹線における携帯電話通信サービス区間延長について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2019-10-23|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404070653/https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/10/page_15151.html|archivedate=2020-04-04}}</ref>。 ** 11月30日:全線直通列車が通常運行に戻る。 * [[2020年]](令和2年) ** 3月14日:定期ダイヤが復旧。 ** 3月31日:飯山 - 上越妙高間で、携帯電話不通区間<!--JR東日本では、「携帯電話不通区間」と記載-->が解消<ref group="報道" name="jreast/press/20200323_ho01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200323_ho01.pdf|title=新幹線におけるトンネル内携帯電話サービスの一部開始について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2020-03-23|accessdate=2020-04-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200404064835/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200323_ho01.pdf|archivedate=2020-04-04}}</ref>。これに伴い、北陸新幹線におけるトンネル内の携帯電話不感区間が全て解消<ref group="報道">[https://www.soumu.go.jp/soutsu/hokuriku/shisaku/tonnnerutaisaku.html 令和2年3月31日(火)から北陸新幹線全トンネル内で携帯電話の利用が可能になります。(令和2年3月23日現在)] [[総務省]]</ref>。 * [[2021年]](令和3年)3月31日:金沢 - 敦賀間の工事実施計画変更認可。事業費の増額および工事の完了予定を令和5(2023)年度末に変更<ref group="報道" name="mlit20210331" />。 * [[2023年]](令和5年) ** 5月27日:[[芦原温泉駅]]で金沢駅 - 敦賀駅間のレール締結式が行われ、東京 - 敦賀間約580kmが線路で繋がった<ref group="新聞" name="teike" />。 ** 9月24日:金沢駅 - 敦賀駅間において[[新幹線E926形電車|East i]]での試運転を開始。 ** 9月26日:上記区間において[[新幹線E7系・W7系電車|営業用車両]]による試運転も開始。 ** 12月11日 : 上記区間の施設管理権を鉄道・運輸機構からJR西日本に引き渡す。 ==== 今後の予定 ==== * [[2024年]](令和6年)3月16日:金沢 - 敦賀間開業予定<ref group="報道" name="jrwest20230830" />。 == 事業の効果と影響 == === 公共交通機関の変化 === ==== 首都圏 - 長野 ==== 長野 - 東京間の運行本数の変化は、高崎 - 軽井沢間着工後の1990年は、鉄道<ref group="注">在来線特急[[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|「あさま」「白山」]](-1996年)、新幹線「あさま」(1997年-)の下り本数</ref>19本、高速バス0本であったが、高崎 - 長野開業後の1997年には鉄道が24本に増加、高速バス<ref group="注">東京都内 - 北陸新幹線沿線都市を結ぶ路線の下り本数。(1995-1997年にかけて[[上信越自動車道|上信越道]]および[[長野自動車道|長野道]]が延伸、2001年には高速バス参入の規制緩和)</ref>も12本に増加し、開業10年後の2007年には鉄道が27本に微増したものの、高速バスは32本とさらに増加した。 [[首都圏 (日本)|首都圏]]([[東京都]]・[[神奈川県]]・[[埼玉県]]・[[千葉県]]) - 長野県間の鉄道利用実績は、1990年度は定期外998万人であったが、高崎 - 長野間開業後の1997年度は定期外1,089万人、定期5万人に増加し、2005年度は定期外1,015万人、定期247万人と定期利用者が増加している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2008|p=28}}。 ==== 首都圏 - 富山 ==== 首都圏 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道57%、航空39%、バス4%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道47%、航空48%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道57%、航空34%、バス9%と鉄道が5割から6割、航空が3割から4割程度であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道83%、航空13%、バス4%と鉄道が大幅に増加し、航空は大きく減少し、2018年度には鉄道86%、航空10%、バス4%とその傾向は継続している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―14}}。 東京 - 富山間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道<ref group="注" name="tokyo-toyama, kanazawa railway">在来線特急[[あさま#在来線特急「あさま」「白山」|「白山」]][[北越 (列車)#かがやき|「かがやき」]](-1996年)、[[サンダーバード (列車)#雷鳥・スーパー雷鳥|「雷鳥」]](-2000年)、[[はくたか#在来線特急「はくたか」|「はくたか」]](1997-2014年)、[[北越 (列車)|「北越」]](-2014年)、新幹線「かがやき」「はくたか」(2015年-)の下り本数</ref>16本、航空([[富山空港|富山]] - [[東京国際空港|羽田]])8本、高速バス3本であったが、2005年は鉄道が17本、航空8本、高速バス6本{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2007|p=18}}、2014年は鉄道18本、航空6本、高速バス10本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は6本を維持、高速バスは9本であったが、2018年に航空は4本に減少し、高速バスは8本になった{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―23}}。 首都圏 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は116万人、2005年度は103万人、2014年度は133万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は284万人と約2倍に増加し、2017年度も281万人と高い水準を維持している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―3}}。 ==== 首都圏 - 石川 ==== 首都圏 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道33%、航空60%、バス6%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道29%、航空67%、バス4%、開業前年の2014年度では鉄道38%、航空52%、バス9%と航空が5割から7割で最も多く、鉄道は3割から4割であった。しかし、長野 - 金沢間開業後の2015年度は、鉄道72%、航空23%、バス5%と鉄道が大幅に増加した一方、航空は大きく減少したことでシェアが逆転した。2018年度には鉄道70%、航空25%、バス6%とその傾向は継続している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―14}}。 東京 - 金沢間の運行本数の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年は、鉄道16本<ref group="注" name="tokyo-toyama, kanazawa railway" />、航空<ref group="注">[[東京国際空港|羽田]] - [[小松飛行場|小松]] 、 羽田 - [[能登空港|能登]](2003年-)、[[成田国際空港|成田]] - 小松(2004年-)の合計運行本数</ref>8本、高速バス9本であったが、2005年には鉄道17本、航空は14本、高速バス12本{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2007|p=18}}、2014年は鉄道18本、航空15本、高速バス本であった。長野 - 金沢間開業後の2015年は鉄道が24本と大きく増加し、航空は15本を維持、高速バスは10本であったが、2018年に航空は13本に減少し、高速バスは9本になった{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―23}}。 首都圏 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は83万人、2005年度は89万人、2014年度は131万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は374万人と約3倍に増加し、2017年度も339万人と高い水準を維持している{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―3}}。 ==== 長野 - 富山 ==== 長野県 - 富山県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、開業前年の2014年度では鉄道90%、バス10%とバス利用もみられたが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は鉄道97%、バスは3%に減少し、2017年度以降は再び鉄道が100%になった{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―13}}。 [[立山黒部アルペンルート]]を除く長野県 - 富山県間の鉄道利用実績は、1992年度は10万人、2005年度は4万人、2014年度は5万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は26万人と約5倍に増加し、2017年度も19万人と高い水準を保っている{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―2}}。 ==== 長野 - 石川 ==== 長野県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度から鉄道が100%であり、2005年度では鉄道81%、バス19%とバス利用もみられたが、2008年度以降は再び鉄道が100%になった{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―13}}。 長野県 - 石川県間の鉄道利用実績は、1992年度は8万人、2005年度は3万人、2014年度は8万人であったが、長野 - 金沢間開業後の2015年度は40万人と約8倍に増加し、2017年度も25万人と高い水準を保っている{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―2}}。 ==== 富山 - 石川 ==== ※2015年度のデータには、あいの風とやま鉄道およびIRいしかわ鉄道のデータが含まれていないため除外した。 富山県 - 石川県間の公共交通機関分担率の変化は、石動 - 金沢間がスーパー特急方式で着工された1992年度は、鉄道97%、バス3%、長野 - 金沢間の全区間がフル規格となった2005年度は、鉄道91%、バス9%、開業前年の2014年度では鉄道73%、バス27%とバスの割合が増加傾向にあった。長野 - 金沢間開業後の2016年度は、鉄道77%、バス23%と大きな変化は見られない{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―15}}。 富山 - 金沢間の運行本数の変化は、鉄道<ref group="注">在来線特急[[しらさぎ (列車)|「しらさぎ」]][[はくたか#在来線特急「はくたか」|「はくたか」]][[サンダーバード (列車)|「サンダーバード」]](-2014年)、新幹線「かがやき」「はくたか」「つるぎ」(2015年-)の下り本数</ref>約40本、高速バス約20本であり開業前後で大きな変化は見られない{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―24}}。 富山県 - 石川県間の鉄道利用実績は1992年度は334万人、2005年度は307万人、2014年度は268万人と減少傾向であったが、長野 - 金沢間開業後の2016年度は351万人と約1.2倍に増加した{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|p=5―4}}。 == 今後の見通し == === 金沢 - 敦賀間の整備 === 開業後の所要時間について、金沢 - 敦賀間の着工に向けた2012年4月時点での国土交通省の試算では、富山 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで1時間16分30秒、速達(平均的)タイプで1時間1分15秒、東京 - 敦賀間の所要時間は緩行タイプで4時間13分0秒、速達(平均的)タイプで3時間21分45秒と想定されていた{{Sfn|国土交通省 鉄道局|2012|p=28}}。なお、2021年3月時点での鉄道・運輸機構による時間短縮効果の試算では、東京 - 福井間の所要時間は開業前(以下2020年4月時点)の3時間14分から約20分短縮されて2時間53分、大阪 - 金沢間では2時間31分から約25分短縮されて2時間4分、富山 - 福井間では1時間12分から約25分短縮されて44分となる{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=3―1}}。2023年8月にJR西日本が公表した運行計画の概要では、最速達列車の所要時間について東京 - 福井間で2時間51分、東京 - 敦賀間で3時間8分、大阪 - 金沢間で2時間9分とされている<ref group="報道" name="jrwest20230830" />。 また、金沢 - 敦賀間の整備により、北陸3県(富山、石川、福井)と大阪の[[交流人口]]が14,800人/日から1.1倍の16,200人に、北陸地域内では福井と富山の交流人口が5,300人/日から1.2倍の6,300人/日に増加すると予測されている{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=3―6}}。 環境面では航空機、バスから新幹線に旅客が転移することで、福井県の運輸部門(自動車除く)の[[二酸化炭素]]排出量の約26%に相当する59,000 tの二酸化炭素の排出量削減が期待される{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=3―31}}。 === 敦賀 - 新大阪間 === {{Main|北陸新幹線敦賀以西のルート選定}} 敦賀駅以西のルートについては様々な議論がなされたが、2016年(平成28年)12月20日、政府与党の整備新幹線建設推進プロジェクトチーム(与党PT)は敦賀駅から西進して福井県[[小浜市]]を経由、そこから南下して[[京都駅]]につなぐ「小浜・京都ルート」を正式採用した。京都駅 - 新大阪駅間のルートについては、引き続き与党PTで検討されていたが、2017年(平成29年)3月15日に、JR[[片町線]](学研都市線)[[松井山手駅]]([[京田辺市]])付近に中間駅を設ける「南回り案」を正式採用した{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=2―21}}。 鉄道建設・運輸施設整備支援機構は2017(平成29)年度から駅やルートを決めるための調査を始め、2019年(令和元年)5月に計画段階環境配慮書の中で概略ルートを示した{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2021|p=2―21}}。設置予定駅は敦賀駅、小浜市([[東小浜駅|東小浜]])附近、京都駅、京田辺市(松井山手)附近、新大阪駅であり、主要な線形条件として、最小曲線半径は4,000m、最急勾配は15‰とし、[[ラムサール条約]]に基づく登録湿地である[[三方五湖]]や周辺の国定公園([[若狭湾国定公園]])、[[京都丹波高原国定公園]]のうち第1種・第2種特別地域に指定されている芦生の森を回避することなどが考慮されている{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2019|p=2―2}}。今後の詳細なルート検討においては、京都市中心市街地、伏見酒造エリアを回避した区域を選定し、京都市市街地の[[文化財]]や[[地下水]]への影響を考慮すること、京都丹波高原国定公園や[[金剛生駒紀泉国定公園]]の第3種特別地域等を通過する際の自然環境に配慮した工法の検討、全体の8割がトンネルを占めるため、都市部における[[大深度地下]]の利用や発生掘削土の受け入れなどの考慮事項が挙げられている{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2019|p=2―5}}。2022(令和4)年には国土交通省が、将来的な[[山陰新幹線]]との分岐も含む[[南丹市]]付近での駅設置可能性について調査することを決定している<ref>{{Cite video |people=[[西田昌司]] |date=2022-12-26 |title=山陰新幹線の実現に一歩前進 |url=https://www.youtube.com/watch?v=yJtbmFtLa6o&t=1046s |quote=調査をすることが予算としても付いている}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|title=北陸新幹線ルート、京都駅通らず地上駅案 丹波地域に新駅構想も浮上|date=2022-12-29|newspaper=京都新聞|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/948061}}</ref>。 == 並行在来線の扱い == 2015年(平成27年)3月14日時点で新幹線が開業および事業化された区間の並行在来線については、以下のような措置(予定事項を含む)がそれぞれ執られている。なお[[飯山線]]の豊野駅 - 飯山駅間も北陸新幹線と並行するが、この区間はルート上の制約でたまたま飯山駅を経由することになったため、本来の並行在来線の意義から外れるとして同区間の経営分離は行われていない。 === 信越本線 === [[信越本線]]は高崎駅 - [[直江津駅]]間が並行在来線とされた。このうち高崎駅 - 横川駅間と[[篠ノ井駅]] - 長野駅間は新幹線開業後も信越本線としてJR東日本が運行している。横川駅 - 軽井沢駅間は鉄道路線としては廃止され、[[ジェイアールバス関東小諸支店|JRバス関東]]によるバス路線[[碓氷線]]として運行されている。これら以外の区間については県域ごとに設立された[[第三セクター鉄道]]会社に経営移管された。 長野県内の区間は[[しなの鉄道]]が軽井沢駅 - 篠ノ井駅間を[[しなの鉄道線]]、長野駅 - [[妙高高原駅]]を[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]として運行している<ref group="国交省" name="heikouzairaisen-Hokuriku" />{{Sfn|斎藤幹雄|2015|pp=39627-39629}}。 新潟県内の妙高高原駅 - 直江津駅間は[[えちごトキめき鉄道]]が[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]として運行している{{Sfn|斎藤幹雄|2015|pp=39629-39630}}。 === 北陸本線(直江津駅 - 金沢駅間) === [[北陸本線]]の直江津駅 - 金沢駅間は県域ごとに設立された第三セクター鉄道会社に経営移管された。新潟県内の区間はえちごトキめき鉄道が直江津駅 - [[市振駅]]間を[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]として運行している{{Sfn|斎藤幹雄|2015|pp=39630-39631}}。富山県内の区間は[[あいの風とやま鉄道]]が市振駅 - [[倶利伽羅駅]]間を[[あいの風とやま鉄道線]]として運行している{{Sfn|斎藤幹雄|2015|pp=39629-39630}}。石川県内の区間は[[IRいしかわ鉄道]]が倶利伽羅駅 - 金沢駅間を[[IRいしかわ鉄道線]]として運行している{{Sfn|斎藤幹雄|2015|p=39632}}。 === 北陸本線(金沢駅 - 敦賀駅間) === この区間は北陸新幹線金沢駅 - 敦賀駅間の開業時にJR西日本から経営分離される予定である{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2018|p=3―3}}。2017年時点で石川・福井の県境駅の扱いについては、石川県側は2017年3月30日の「第1回 いしかわ並行在来線金沢以西延伸対策検討会」においては[[大聖寺駅]]を境界とする検討がなされている{{Refnest|{{Cite web|和書|date=2017年4月11日 |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/iseikentoukai/documents/04iseigaiyou.pdf |title=金沢以西の並行在来線の概要について |format=PDF |publisher=石川県 |accessdate=2018年1月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180124061551/http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/iseikentoukai/documents/04iseigaiyou.pdf |archivedate=2018年1月24日 |deadlinkdate=}}<ref name="iseikentoukai290330">{{Cite web|和書|date=2017年4月11日 |url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/iseikentoukai/iseikentoukai290330.html |title=第1回 いしかわ並行在来線金沢以西延伸対策検討会について |publisher=石川県 |accessdate=2018年1月24日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180124061518/http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/iseikentoukai/iseikentoukai290330.html |archivedate=2018年1月24日 |deadlinkdate=}}</ref>}}。 石川県内の区間はIRいしかわ鉄道が経営を引き継ぐ計画である{{Refnest|name="heikouzairaisen-Ishikawa"|{{Cite web|和書|date=2017年4月11日 |format=PDF|url=http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/iseikentoukai/documents/05schedule.pdf|title=並行在来線の金沢以西延伸に向けた概略スケジュール|publisher=石川県 |accessdate=2017-12-20}}<ref name="iseikentoukai290330" />}}。 福井県内の区間は、福井県並行在来線対策協議会において、経営を引き継ぐ第三セクター鉄道事業者の開業予定を当初の[[2025年]]度(令和7年度)から[[2022年]]度(令和4年度)と見直している{{Refnest|{{Cite web|和書|url=http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/koukyoukoutuu/2st_d/fil/003.pdf |title=並行在来線開業までのスケジュール(案) |format=PDF |publisher=福井県 |accessdate=2017年4月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170408004648/http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/koukyoukoutuu/2st_d/fil/003.pdf |archivedate=2017年4月8日 |deadlinkdate=}}<ref>{{Cite web|和書|work=福井県並行在来線対策協議会|date=2015年3月18日|url=http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/koukyoukoutuu/2st.html|title=開業までのスケジュールの見直しについて|publisher=福井県|accessdate=2017年4月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170408004259/http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/sokou/koukyoukoutuu/2st.html|archivedate=2017年4月8日|deadlinkdate=}}</ref>}}。2019年8月に福井県並行在来線準備株式会社として設立され<ref group="新聞" name="fukuinp190814" />、2022年7月に[[ハピラインふくい]]に社名を変更した<ref group="新聞" name="chuunichi20220705">{{Cite news|date=2022-07-05 |title=延びる新幹線 社名「ハピラインふくい」出発 並行在来線準備会社が変更 |newspaper=中日新聞 朝刊 福井中日|page=18 |url=https://www.chunichi.co.jp/article/502027 |access-date=2022-10-07}}</ref>。開業時期は2023年度末(令和5年度末、2024年春)に変更されている<ref group="報道" name="mlit20210331" /><ref group="新聞" name="chuunichi20220705" />。 なお、金沢駅 - 敦賀駅間の着工に向けた試算では、金沢駅 - 敦賀駅間では特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」などの在来線優等列車の運転は行わないと想定している{{Sfn|国土交通省 鉄道局|2012|p=27}}。そのため、特に(新幹線駅が設けられない予定の)[[鯖江市]]において敦賀開業以降も大阪・名古屋方面への特急の直通運転継続の要望が高く、「特急サンダーバード・特急[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]の存続を実現する会」が活動している<ref>{{Cite web|和書|date=2017年3月24日 |url=https://www.city.sabae.fukui.jp/kurashi_tetsuduki/kokyokotsu/hokurikushinkansen/oshirase/tokkyu_sonzoku.html |title=特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会について |publisher=[[鯖江市]] |accessdate=2017年6月6日<!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170604051158/https://www.city.sabae.fukui.jp/kurashi_tetsuduki/kokyokotsu/hokurikushinkansen/oshirase/tokkyu_sonzoku.html |archivedate=2017年6月4日 |deadlinkdate=-->}}</ref>。フリーゲージトレインの開発が難航していることから、[[#フリーゲージトレイン導入計画と断念|敦賀開業時からの導入]]は困難であり、鯖江市が特急を福井駅まで乗り入れるよう求める意見書を、2017年3月に[[福井県議会]]に提出し、その時点では明確な回答はなかったが<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年4月7日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/118825.html |title=北陸新幹線、関西との連携手探り 延伸実現、政財界との政治力結集が鍵 |publisher=福井新聞社 |newspaper=福井新聞ONLINE |accessdate=2017年4月8日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170407152146/http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/super_expless/118825.html |archivedate=2017年4月7日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、2017年4月22日に鯖江市での国土交通省・福井県の担当者との意見交換会が実施された。 国土交通省の担当者は、JRから経営分離するスキームは変わらないとした上で「JR西日本と並行在来線会社が相互直通運転をするためには、なんらかの協定を結ぶことが最低限必要」と説明し、福井県の担当者は協定締結に向けた話し合いについて「[[JR]]が行っている並行在来線会社の支援策の一つとして、在来線特急の運行も入れてもらえるように話をしていきたい」と述べた<ref group="新聞">{{Cite news |date=2017年4月23日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/193726 |title=JR西日本との特急存続交渉を示唆 福井県、北陸新幹線敦賀開業見据え |publisher=福井新聞社 |newspaper=福井新聞ONLINE |accessdate=2017年6月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170610172539/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/193726 |archivedate=2017年6月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 2018年1月の鯖江市の市政アンケート(回答率:50.6パーセント)でも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続を望む声が74.6パーセントあり、まちづくりに関する設問でも最多だった「鯖江駅を中心とした交通利便性の高いまちづくり」(20.5パーセント)という意識からも特急「サンダーバード」「しらさぎ」の存続の意識が高いことがうかがえる。それを受け「特急サンダーバード・特急しらさぎの存続を実現する会」事務局担当は「特急存続を願う市民の声を再認識した。実現する会一体となって県全体またはそれ以上の活動に広げ、敦賀開業後の市民の利便性確保に努めたい」と述べている<ref group="新聞">{{Cite news |date=2018年1月25日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/285828 |title=特急存続「必要ある」が7割超 鯖江市民アンケート |publisher=福井新聞社 |newspaper=[[福井新聞]]ONLINE |accessdate=2018年2月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180201191241/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/285828 |archivedate=2018年2月1日}}</ref>。 2018年9月27日には[[フリーゲージトレイン]]導入断念に伴い、鯖江市長は福井県知事に対して特急「サンダーバード」存続に絞って要望を行った<ref group="新聞">{{Cite news |date=2018年9月28日 |url=http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/708866 |title=サンダーバードに絞って存続要望 鯖江市長が福井県知事に |publisher=福井新聞社 |newspaper=[[福井新聞]]ONLINE |accessdate=2019年1月5日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180929114755/http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/708866 |archivedate=2018-09-29}}</ref>。2019年3月4日の福井県議会では特急「しらさぎ」が福井駅までの運行では利用が見込めず、車両や乗務員の確保の問題もあって、JR西日本は消極的だとしている<ref group="新聞">{{Cite news|date=2019年3月5日|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/808455|title=しらさぎ福井方面「JRは消極的」 北陸新幹線の敦賀開業後|publisher=福井新聞社|newspaper=[[福井新聞]]ONLINE|accessdate=2019年4月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190314180403/https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/808455|archivedate=2019年3月14日}}</ref>。 一方2017年5月14日、自由民主党の整備新幹線建設推進プロジェクトチームの検討委員会での会合では、経営分離後の区間で[[日本貨物鉄道]](JR貨物)に委託して[[貨物列車]]に旅客車両を連結して運行する案や、福井県の第三セクター鉄道事業者が特急を運行する案が議論され検討が進んでいる<ref group="新聞">{{Cite news|date=2017年6月15日|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO17673250U7A610C1LB0000/|title=金沢―敦賀間の並行在来線、特急存続へJR貨物委託案 与党案|publisher=[[日本経済新聞社]]|newspaper=[[日本経済新聞]]|agency=電子版|accessdate=2017年6月16日|archiveurl=https://archive.is/20170615024538/http://www.nikkei.com/article/DGXLZO17673250U7A610C1LB0000/|archivedate=2017年6月15日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 2019年5月16日には、(北陸新幹線敦賀延伸時に北陸本線牛ノ谷駅 - 敦賀駅間の経営を承継する)福井県内区間の第三セクター鉄道事業者への出資金20億円(うち設立時の1次出資5億円、本格会社移行時の2次出資15億円)のうち、福井県が14億円・県内全市町が4億円・民間が2億円を負担することと、福井県内区間の第三セクター鉄道事業者の準備会社(福井県並行在来線準備株式会社<ref group="新聞">{{Cite web|和書|date=2019年8月14日 |url=https://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2019081402000203.html |title=三セク準備会社設立 並行在来線 |publisher=[[日刊県民福井]] |newspaper=[[中日新聞|CHUNICHI]] Web |accessdate=2019年9月11日<!--|archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate= -->}}</ref>)を予定より約1年早く2019年8月に設立することが決定し<ref group="新聞">{{Cite news|date=2019年5月17日|url=https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/855122|title=並行在来線、三セク出資割合案決定 北陸新幹線で福井県と市町、民間分|publisher=福井新聞社|newspaper=[[福井新聞]]ONLINE|accessdate=2019-05-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190531033618/https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/855122|archivedate=2019-05-31}}</ref>、決定通り同年8月13日に設立された<ref group="新聞" name="fukuinp190814">[https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/914073 新幹線並行在来線の準備会社発足] - [[福井新聞]](2019年8月14日付、2019年12月23日閲覧)</ref>。 2021年6月9日になって、福井県とJR西日本との間でなされていた特急の福井駅 - 敦賀駅間の存続についての協議が打ち切りとなったことが報道された<ref group="新聞">{{Cite news|date=2021年6月9日|url=https://www.yomiuri.co.jp/local/fukui/news/20210608-OYTNT50053/|title=在来線特急の存続 断念|publisher=[[読売新聞社]]|newspaper=[[読売新聞]]電子版|accessdate=2021年6月12日}}</ref>。これについて鯖江市は、市のウェブサイトで遺憾ではあるが受け入れざるを得ないものという立場を表明した<ref>[https://www.city.sabae.fukui.jp/kurashi_tetsuduki/kokyokotsu/hokurikushinkansen/oshirase/20210610message.html 特急存続協議の打ち切りに関する市民の皆様への市長メッセージ]</ref>。 === 敦賀駅以西 === {{See|北陸新幹線敦賀以西のルート選定#並行在来線の扱い}} == 利用状況 == 各年度の[[輸送密度|平均通過人員]]は以下の通りである。定期利用者については、長野 - 金沢間開業前の2014年度は約4,003人/日であったが、開業後の2015年は約5,787人/日と約1.4倍に増加し、2017年度には6,688人/日と増加傾向である{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2020|pp=5 - 34}}。 {{see also|長野新幹線#利用状況}} {|class="wikitable" border="1" style="font-size:80%; text-align:right;" |+ !rowspan="2"|年度 !colspan="6"|平均通過人員(人/日) !rowspan="2"|備考 !rowspan="2"|出典 |- !style="width:5em;"|JR東日本<br />区間 !style="width:6em;"|高崎 - 長野 !style="width:6em;"|長野 - <br />上越妙高 !style="width:5em;"|JR西日本<br />区間 !style="width:6em;"|上越妙高<br /> - 富山 !style="width:6em;"|富山 - 金沢 |- !style="text-align:left;"|1997年度 |colspan="2" style="text-align:center;"|'''21,995''' |rowspan="4" colspan="4" style="text-align:center;"|未開業 |style="text-align:left;"|高崎 - 長野間開業初年度 |rowspan="4"|<ref group="利用状況" name="jreast1987-2017">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf|format=PDF|title=路線別ご利用状況(1987〜2017年度(5年毎))|publisher=東日本旅客鉄道|page=1|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190330100718/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/1987-2017.pdf |archivedate=2019-03-30}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2002年度 |colspan="2" style="text-align:center;"|'''18,969''' | |- !style="text-align:left;"|2007年度 |colspan="2" style="text-align:center;"|'''19,359''' | |- !style="text-align:left;"|2012年度 |colspan="2" style="text-align:center;"|'''18,565''' | |- !style="text-align:left;"|2014年度 |colspan="2" style="text-align:center;"|'''21,247''' |colspan="1" style="text-align:center;"|非開示 |colspan="3" style="text-align:center;"|記載なし |style="text-align:left;"|本年度末に長野 - 金沢間開業 |<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf|format=PDF|page=1|title=路線別ご利用状況(2014〜2018年度)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190707014015/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2014-2018.pdf |archivedate=2019-07-07}}</ref><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2015_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2015 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成26年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2021-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150928075929/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2015_08.pdf|archivedate=2015-09-28}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2015年度 |'''37,050''' |42,855 |25,595 |'''24,139''' |24,858 |22,790 | |<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018"/><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2016 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(平成27年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161005151819/http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2016_08.pdf|archivedate=2016-10-05}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2016年度 |'''35,899''' |41,835 |24,187 |'''22,658''' |23,245 |21,556 | |<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018"/><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2017_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2017 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2016年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl= https://web.archive.org/web/20190602131827/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2017_08.pdf|archivedate=2019-06-02}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2017年度 |'''36,127''' |42,179 |24,185 |'''22,533''' |23,173 |21,330 | |<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018"/><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2018 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2017年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190602131834/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2018_08.pdf|archivedate=2019-06-02}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2018年度 |'''37,056''' |43,278 |24,781 |'''23,001''' |23,666 |21,753 | |<ref group="利用状況" name="jreast2014-2018"/><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2019 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2018年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2019-10-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191004005328/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2019_08.pdf|archivedate=2019-10-04}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2019年度 |'''34,125''' |40,139 |22,260 |'''20,831''' |21,281 |19,987 |style="text-align:left;"|[[令和元年東日本台風|台風19号]]の被災による減便及び[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの流行]]に伴う需要減 |<ref group="利用状況" name="jreast2016-2020"/><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2020 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2019年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2020-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201007094423/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_08.pdf|archivedate=2020-10-07}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2020年度 |'''12,702''' |15,013 |8,144 |'''8,224''' |7,913 |8,807 |style="text-align:left;" rowspan="2"|新型コロナウイルスの流行に伴う需要減 |<ref group="利用状況" name="jreast2016-2020">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2016-2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210709073227/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2016-2020.pdf|title=路線別ご利用状況(2016〜2020年度)|page=1|archivedate=2021-07-09|accessdate=2021-07-10|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF}}</ref><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2021 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2020年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2021-10-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211020130656/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_08.pdf|archivedate=2021-10-20}}</ref> |- !style="text-align:left;"|2021年度 |'''16,931''' |20,007 |10,863 |'''10,177''' |10,105 |10,312 |<ref group="利用状況" name="jreast2017-2021">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220801113624/https://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2017-2021.pdf|title= 路線別ご利用状況(2017〜2021年度)|page=1|archivedate=2022-08-01|accessdate=2022-09-04|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF}}</ref><ref group="利用状況">{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_08.pdf|format=PDF|title=データで見るJR西日本2022 > 区間別平均通過人員および旅客運輸収入(2021年度)|page=58|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2023-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221005100734/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2022_08.pdf|archivedate=2022-10-05}}</ref> |} == 路線形態詳細 == <!-- 新幹線が主体として見やすいよう、一部の施設、接続路線・並行路線などを省略しています。--> {| {{Railway line header|collapse=yes|align=left}} {{UKrail-header|停車場・主要構造物・接続路線|}} {{BS-table}} {{BS-colspan|HI=style="font-size:90%"}} ;キロ程 :*高崎起点で計算。<!--テンプレート呼び出し制限対策で暫定的にコメントアウト 金沢 - 敦賀間は計画値<ref name="route1_tsubata-tsuruga" />より100m未満切り上げ。--> ;施設 :*橋梁・トンネル等は主要なものを示す(建設中のものを含む) :**T…トンネル :**B…橋梁 :**Bv…架道橋 :*※一部のトンネルは実際には覆い等により連続している ;記載路線 :*JR線(旅客営業線のみ。路線名は正式名称を記す)<!-- ほかの新幹線の記事に合わせてJR線と並行在来線事業者に限定しています。--> :*並行在来線 :**[[しなの鉄道]] :**[[えちごトキめき鉄道]] :**[[あいの風とやま鉄道]] :**[[IRいしかわ鉄道]] {{BS-colspan}} ---- {{BS6||hKHSTa|||||||[[東京駅]]}} {{BS6||hLSTR|||||||[[東北新幹線]]を参照}} {{BS6||hHST|||||||[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]}} {{BS6|hSTRq|hABZgr|||||||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:東北新幹線|}} {{BS6||hLSTR|||||||[[上越新幹線]]を参照}} {{BS6|STRl|hKRZ|STR+r||||||←JR東:[[高崎線]]}} {{BS6|hSTR+l|hABZgr|STR||||||}} {{BS6|hBHF-L|O1=HUBaq|hBHF-R|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||||0.0|[[高崎駅]]|}} {{BS6|hKRZ|O1=STRg|hKRZ|ABZlr|STRq|STR+r||||←JR東:[[上越線]]/↓[[信越本線]]}} {{BS6|hSTR2|hABZg2|O2=hSTRc3|hSTRc3||LSTR||||}} {{BS6|hSTRc1|hSTR+hc1|O2=MSTR2+4|P2=hSTR2+4|hSTR+4|O3=hSTRc3||||||}} {{BS6|hSTRc2|hSTR3|O2=hSTRc1|hABZg+4||||||JR東:上越新幹線}} {{BS6|hSTR3+1|hSTRc4|hTUNNEL2|||||高浜T|172m<ref name="nttdocomo20160617">{{Cite web|和書|url=https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2016/06/17_00.html|format=|title=北陸新幹線 高崎駅~安中榛名駅間トンネル内における携帯電話のサービスエリア拡大について|publisher=NTTドコモ|date=2016-06-17|accessdate=2017-05-12}}</ref> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||第1諏訪T|346m <ref name="nttdocomo20160617" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||第2諏訪T|271m <ref name="nttdocomo20160617" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||神戸T|226m <ref name="nttdocomo20160617" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hKRZW|||||烏川B|215m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[烏川]]}} {{BS6|||htSTRa@g||LSTR|||里見T|2,688m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}}}} {{BS6|||tSTRe||HST||||[[安中駅]]}} {{BS6|||tBHFa@f||HST||18.5|[[安中榛名駅]]|[[磯部駅 (群馬県)|磯部駅]]}} {{BS6|||tSTRe||LSTR|||第1長岩T|426m <ref name="mit20160622">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/press/28/0622r1.html|format=|title=北陸新幹線5トンネル内で携帯電話利用に向けて|publisher=総務省|date=2016-06-22|accessdate=2017-05-12}}</ref> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||TUNNEL1|||||第2長岩T|177m <ref name="mit20160622" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||TUNNEL2|||||第3長岩T|74.5m <ref name="mit20160622" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||tSTRa@g|||||秋間T|8,295m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|||tSTRe@f||LSTR||||}} {{BS6|||tSTRa@g||KHSTxe|||一ノ瀬T|6,165m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}} [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]}} {{BS6|||tSTRe@f||exLSTR|||}} {{BS6|||hKRZWae|||||霧積川B|107m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[霧積川]]}} {{BS6|||tSTRa@g|||||碓氷峠T|6,092m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|||tSTR||exLSTR||||横川 - 軽井沢間1997年廃止}} {{BS6||extSTR+l|etKRZt|exLSTRq|exLSTRr||||||}} {{BS6||extSTRe|tSTRe||||||||}} {{BS6||KBHFxa|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq||||41.8|[[軽井沢駅]]|}} {{BS6||STR|O2=POINTERg@fq|hSTRa||||||[[しなの鉄道]]:[[しなの鉄道線]]}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||湯川B|127m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[湯川 (北佐久郡)|湯川]]}} {{BS6|STRc2|LSTR3|htSTRa|||||借宿T|2,005m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}}}} {{BS6|LSTR+1|STRc4|htSTRe||||||}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||第1追分T|118m <ref name="mit20160722">{{Cite web|和書|url=https://www.soumu.go.jp/soutsu/shinetsu/sbt/hodo/160722-1.html|format=|title=北陸新幹線トンネルの軽井沢・上田間での携帯電話の利用に向けて|publisher=総務省|date=2016-07-22|accessdate=2017-05-12}}</ref> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||第2追分T|280m <ref name="mit20160722" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||第3追分T|125m <ref name="mit20160722" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||草越T|955m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||向原T|950.5m<ref name="mit20160722" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||児玉T|340m <ref name="mit20160722" /> {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||htSTRa@g|||||小田井T|2,690m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|LSTR||htSTRe@f||||||}} {{BS6|ABZg+l|O1=v-GRZ|STRq|TBHFu|STRq|||59.4|[[佐久平駅]]|JR東:[[小海線]]}} {{BS6|HST||hSTRa@g||||||[[小諸駅]]}} {{BS6|LSTR||hKRZW|||||第1千曲川B|149m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[信濃川|千曲川]]}} {{BS6|||htSTRa|||||浅科T|1,072m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}}}} {{BS6|||htSTRe||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|||||御牧原T|6,984m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||hKRZW|||||鹿曲川B|217m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[鹿曲川]]}} {{BS6|||htSTRa@g|||||八重原T|5,718m{{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||hKRZW|||||依田川B|157m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[依田川]]}} {{BS6|||htSTRa@g|||||丸子T|2318m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}}}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|LSTR||hKRZW|||||[[第二千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第2千曲川B]]|265m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} 千曲川}} {{BS6|STRl|STRq|hKRZ|STR+r|||||}} {{BS6|||hBHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq|||84.2|[[上田駅]]}} {{BS6|||hSTR|STR||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|STR||||[[五里ヶ峯トンネル|五里ヶ峯T]]|15,175m {{Sfn|今尾恵介|2008|p=3}}}} {{BS6|||htSTRe@f|STR|||||}} {{BS6||STR+l|hKRZ|STRr|||||}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||[[第三千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第3千曲川B]]|552m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} 千曲川}} {{BS6||STRl|hKRZ|STR+r|||||||↑しなの鉄道:しなの鉄道線}} {{BS6|||hSTRe@f|ABZg+l|O4=GRZq-|STRq||||→JR東:[[篠ノ井線]]}} {{BS6|||STR|HST|||||[[篠ノ井駅]]}} {{BS6|||hSTRa|STR|O4=POINTERg@fq|||||JR東:信越本線}} {{BS6|||hKRZW|hKRZWae||||犀川B|518m {{Sfn|三輪誠|1997|pp=64-66}} [[犀川 (長野県)]]}} {{BS6|||hSTRe|STR|||||}} {{BS6|||BHF|O3=HUBaq|BHF+GRZq|O4=HUBeq|||117.4|[[長野駅]]}} {{BS6||STR+l|hKRZa|STRr|||||}} {{BS6||STR|O2=POINTERg@fq|hSTR||||||しなの鉄道:[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]}} {{BS6||STRl|hKRZ|STRq|STRq|STR+r||}} {{BS6|||hKRWgl|hKRW+r||STR|}} {{BS6|||hSTR|KDSTe||STR||[[長野新幹線車両センター]]}} {{BS6|||hSTR|||HST|||[[豊野駅]]}} {{BS6|||hSTR||STR+l|KRWgr|||||}} {{BS6|||hKRZW|WASSER+r|LSTR|LSTR||[[第四千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第4千曲川B]]|304m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} 千曲川}} {{BS6|||htSTRa@g|WASSER|LSTR|||高丘T|6,944m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f|WASSER|||||}} {{BS6|||hKRZW|WABZg+r||||夜間瀬川B|216m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} 夜間瀬川}} {{BS6|||htSTRa@g|WASSER||||高社山T|4,278m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f|WASSER||||||}} {{BS6|||hTUNNEL2|WASSER||||月岡T|210m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hKRZW|WASSERr|LSTR|||[[第五千曲川橋梁 (北陸新幹線)|第5千曲川B]]|742m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} 千曲川}} {{BS6||STRq|hTBHF|STRq|STRr||147.3|[[飯山駅]]|JR東:[[飯山線]]}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||長峯T|154m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||htSTRa@g|||LSTR||[[飯山トンネル|飯山T]]|22,251m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||tSTR|||LSTR|||しなの鉄道:北しなの線↑}} {{BS6|||tSTR|||HST+GRZq|||[[妙高高原駅]]}} {{BS6|||htSTRe@f||STRc2|LSTR3|||[[えちごトキめき鉄道|トキてつ]]:[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]↓}} {{BS6|||hKRZW|STRc2|LSTR3+1|STRc4||関川B|213m<ref name="zenitaka_sekikawa">{{Cite web|和書|url=https://www.zenitaka.co.jp/completionreport/sekikawareport.html|format=|title=錢高組:完成工事レポート:北陸新幹線 関川橋りょう|publisher=錢高組|date=|accessdate=2017-05-12}}</ref> [[関川 (信越)|関川]]}} {{BS6|||hSTR|LSTR+1|STRc4||||}} {{BS6|||hKRZW|hKRZWae||||矢代川B|117m<ref name="route3_nagano-itoigawa">{{Cite web|和書|url=http://www.h-shinkansen.gr.jp/route3.html|title=北陸新幹線〔長野・糸魚川間〕路線概要図|publisher=北陸新幹線建設促進同盟会|date= |accessdate=2015-02-26|archiveurl= |archivedate= }}</ref> 矢代川}} {{BS6|||hBHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq|||176.9|[[上越妙高駅]]|}} {{BS6||STRq|hKRZ|STRr|||||}} {{BS6|||hSTR+GRZq||||177.95|施設管理境界|↑[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]/[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]↓{{Sfn|鉄道建設・運輸施設整備支援機構|2015|p=6}}}} {{BS6|||htSTRa@g|||||高田T|2,752m<ref name="pref-niigata">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/516/770/01_nagano_itoigawa,0.pdf|format=PDF|title=北陸新幹線(長野・糸魚川間)工事進捗状況|publisher=新潟県|date=2014-08-01|accessdate=2015-01-12}}</ref>}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|||||松ノ木T|6,777m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|||||桑取T|1,806m<ref name="pref-niigata" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|||||峰山T|7,035m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||hKRZW|||||能生川B|117m<ref name="route3_nagano-itoigawa" /> 能生川}} {{BS6|||htSTRa@g|||||新木浦T|2,614m<ref name="pref-niigata" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||htSTRa@g|||||高峰T|3,951m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6||STR+4|htSTRa|||||中浜T|1,472m<ref name="pref-niigata" />}} {{BS6||STR|htSTRe||||||トキてつ:[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||早川B|123m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> [[早川 (糸魚川市)|早川]]}} {{BS6||STR|hTUNNEL2|||||金山T|657m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||海川B|124m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> 海川}} {{BS6||BHF|O2=HUBaq|hBHF|O3=HUBeq||||213.9|[[糸魚川駅]]}} {{BS6||ABZgl|hKRZ|STRq|LSTRq||||JR西:[[大糸線]]}} {{BS6||STRl|hKRZ|STR+r|||||}} {{BS6|||hKRZW|hKRZWae||||[[姫川橋梁 (北陸新幹線)|姫川B]]|458m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} [[姫川]]}} {{BS6||STR+l|hKRZ|STRr|||||}} {{BS6||LSTR3|hTUNNEL2|||||名引T|583m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||上野T|75m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6||RP4c2|RP43+1|O3=lhMSTR|P3=hSTR|||||北陸道Bv|387m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> [[北陸自動車道]]}} {{BS6||WASSERq|O2=RP43+1|hKRZW|O3=RP4c4||||||青海川}} {{BS6|||htSTRa@g|O3=POINTERg@fq|||||青海T|4,300m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6||LSTR+4|htSTRa@g|||||歌T|1,747m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}}}} {{BS6||LSTR|htSTRe@f||||||}} {{BS6||tSTRa|htSTRa@g||||||}} {{BS6||tSTRe@f|tSTR|O3=POINTERg@fq|||||新親不知T|7,336m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6||HST+GRZq|tSTRe@f||||||[[市振駅]] [[あいの風とやま鉄道線]]↓}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||境川B|119m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> [[境川 (富山県・新潟県)|境川]]}} {{BS6|STRc2|LSTR3|htSTRa@g|||||朝日T|7,570m<ref 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{{BS6|||htSTRa@g|||||第2魚津T|3,097m<ref group="JRTT" name="pamphlet2013" />}} {{BS6|||htSTRe@f||||||}} {{BS6|||hTUNNEL2|||||上中島T|599m {{Sfn|中川信行|2015|pp=6-15}}}} {{BS6|||hKRZW|||||早月川B|248m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} [[早月川]]}} {{BS6|||hKRZW|||||上市川B|131m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> [[上市川]]}} {{BS6|LSTR||hKRZW|||||白岩川B|143m<ref name="route2_itoigawa-kanazawa" /> [[白岩川]]}} {{BS6|LSTR2|STRc3|hKRZW|||||常願寺川B|474m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} [[常願寺川]]}} {{BS6|STRc1|STR+4|hSTR||||||}} {{BS6||BHF|O2=HUBaq|hBHF|O3=HUBeq||||286.9|[[富山駅]]|}} {{BS6||hKRZWae|hKRZW|||||神通川B|478m {{Sfn|若公雅敏|2015|p=78}} [[神通川]]}} {{BS6||ABZgl|hKRZ|STRq|||||JR西:[[高山本線]]}} {{BS6||TUNNEL2|hTUNNEL2|O3=POINTERg@fq|||||新呉羽山T|440m <ref name="satokogyo">{{Cite web|和書|url=http://www.satokogyo.co.jp/works/detail.php?id=441&parent_id=2&category_id=16|format=|title=新呉羽山トンネル 工事実績|publisher=佐藤工業|date=|accessdate=2017-05-12}}</ref>}} {{BS6||STRl|hKRZ|STR+r|||||}} {{BS6|||hSTR|STR|||||}} {{BS6||STR+l|hKRZ|STRr|||||}} 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news|url=http://www.decn.co.jp/?p=71667|title=鉄道運輸機構大阪支社/北陸新幹線・加賀トンネル南外3箇所他工事/清水建設JVに|newspaper=日刊建設工業新聞|publisher=日刊建設工業新聞社|date=2016-03-23|accessdate=2017-06-10|archiveurl=|archivedate=}}</ref><ref name="route1_tsubata-tsuruga" /><ref name="citykaga_root1" /><ref group="注">当初、花房トンネル(1635m)、奥谷トンネル(1202m)ほかとして計画。</ref>}} {{BS6||STRlf|xtKRZ|STRlg|||||}} {{BS6|||exhtSTRef|STR|||||}} {{BS6|||exhTUNNEL2|STR||||第1樋山T|335m<ref group="新聞" name="decn20160701" />}} {{BS6|||exhTUNNEL2|STR||||第2樋山T|100m<ref group="新聞" name="decn20160701" />}} {{BS6|||exhTUNNEL2|STR||||第3樋山T|105m<ref group="新聞" name="decn20160701" />}} {{BS6|||exhtSTRag|STR||||柿原T|2493m<ref name="route1_tsubata-tsuruga" />}} {{BS6|||exhtSTRe|STR|||||}} {{BS6||STRrg|xhKRZ|STRrf|||||}} {{BS6||BHF|O2=HUB84|exhBHF|O3=HUB82||||403.5|[[芦原温泉駅]]}} {{BS6||hKRZWae|exhWSTR|WASSER+r||||第1竹田川B|163m<ref name="route1_tsubata-tsuruga" /> [[竹田川 (福井県)|竹田川]]}} {{BS6||SHI1r|O2=v-WASSER+l|exhWSTR|WASSERr||||第2竹田川B|423m<ref 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平成28年新春号(No.48)|publisher=独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構|date=2017-01|accessdate=2017-06-11}}</ref><ref name="route1_tsubata-tsuruga" /><ref group="JRTT" name="pamphlet2013" /><ref group="注">当初計画では延長20009m。</ref>}} {{BS6|||exhtSTRef|tSTRag|||||[[北陸トンネル|北陸T]]}} {{BS6|||exhTUNNEL2|tSTRef||||深山T|780m<ref name="jrtt-osaka2016">{{Cite web|url=http://www.jrtt.go.jp/03tender/System/mitoshi/pdf/osaka_4280401.pdf|format=PDF|title=平成28年度 独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構鉄道建設本部大阪支社における発注の見通しの公表について|publisher=独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構鉄道建設本部大阪支社|date=2016-04-01|accessdate=2017-06-10}}</ref>}} {{BS6||STRrg|xhKRZ|STRrf|||||}} {{BS6||BHF|O2=HUB84|exhBHF|O3=HUB82||||470.6|[[敦賀駅]]|}} {{BS6||STR|exKDSTe|||||敦賀車両基地(仮称)}} {{BS6||ABZrf|||||||←JR西:[[小浜線]]/↓北陸本線}} --> |} |} {{-}} === 地理 === ==== 通過する自治体 ==== {{Main2|東京 - 大宮間は[[東北新幹線]]の「[[東北新幹線#通過する自治体|通過する自治体]]」節を、<br />大宮 - 高崎間は[[上越新幹線]]の「[[上越新幹線#通過する自治体|通過する自治体]]」節を}} *[[群馬県]] **[[高崎市]] - [[安中市]] - 高崎市 - 安中市 *[[長野県]] **[[北佐久郡]][[軽井沢町]] - 北佐久郡[[御代田町]] - [[佐久市]] - [[東御市]] - [[上田市]] - [[埴科郡]][[坂城町]] - [[千曲市]] - [[長野市]] - [[上高井郡]][[小布施町]] - 長野市 - [[中野市]] - [[飯山市]] *[[新潟県]] **[[妙高市]] - [[上越市]] - 妙高市 - 上越市 - [[糸魚川市]] *[[富山県]] **[[下新川郡]][[朝日町 (富山県)|朝日町]] - 下新川郡[[入善町]] - [[黒部市]] - [[魚津市]] - [[滑川市]] - [[中新川郡]][[上市町]] - [[富山市]] - 中新川郡上市町 - 富山市 - [[射水市]] - [[高岡市]] - [[小矢部市]] *[[石川県]] **[[河北郡]][[津幡町]] - [[金沢市]]<!--- - [[野々市市]] - [[白山市]] - 野々市市 - 白山市 - [[能美郡]][[川北町]] - [[能美市]] - [[小松市]] - 能美市 - 小松市 - [[加賀市]] *[[福井県]] **[[あわら市]] *石川県 **加賀市 *福井県 **あわら市 - [[坂井市]] - [[福井市]] - [[鯖江市]] - [[越前市]] - [[南条郡]][[南越前町]] - 越前市 - 南条郡南越前町 - [[敦賀市]] (金沢 - 敦賀間は予定ルートを元にした推定) --> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|refs=|2}} ==== 利用状況 ==== {{Reflist|group="利用状況"}} ==== 国土交通省 ==== {{Reflist|group="国交省"|refs= <ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H8.12.25">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html#goui |title=平成8年12月25日 整備新幹線の取扱いについて 政府与党合意 |publisher=[[国土交通省]] |date= |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283156/www.mlit.go.jp/tetudo/index.html |archivedate=2004-11-11 }}</ref> <ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H12.12.18">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html#mousi |title=平成12年12月18日 整備新幹線の取扱いについて 政府与党申合せ |publisher=国土交通省 |date= |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/283156/www.mlit.go.jp/tetudo/index.html |archivedate=2004-11-11 }}</ref> <ref group="国交省" name="整備新幹線の取扱いについて H16.12.16">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/shinkansen/shinkansen6_kanren.html#moushi16 |title=平成16年12月16日 整備新幹線の取扱いについて 政府・与党申合せ |publisher=国土交通省 |date= |accessdate=2018-05-01 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/243596/www.mlit.go.jp/tetudo/index.html |archivedate=2006-02-17 }}</ref> <ref group="国交省" name="heikouzairaisen-Hokuriku">{{Cite web|和書|author=国土交通省 |format=PDF |url=https://www.mlit.go.jp/common/001094534.pdf |title=北陸新幹線の並行在来線区間 |accessdate=2017-11-12 }}</ref> }} ==== 鉄道・運輸機構 ==== {{Reflist|group="JRTT"|refs= <ref group="JRTT" name="mlit20100929">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000125056.pdf |format=PDF |title=北陸新幹線(長野・富山間)のルートについて |publisher=[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]] |date=2010-09-29 |accessdate=2014-08-30|archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref group="JRTT" name="pamphlet2013">{{Cite web|和書|url=http://www.jrtt.go.jp/01Organization/publicity/publicity-pamphlet.html |format=PDF |title=明日を拓く 北陸新幹線 |publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |date=2012-08 |accessdate=2015-01-12 |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8231130/www.jrtt.go.jp/01Organization/publicity/publicity-pamphlet.html |archivedate=2013-07-05 }}</ref> <ref group="JRTT" name="整備新幹線の手続き状況">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/construction/outline/shinkansen/process.html |title=整備新幹線の手続き状況 |publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |date= |accessdate=2020-01-12 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref group="JRTT" name="pamphlet station">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/project/asset/pdf/hokuriku/PamphletArchitecture.pdf |format=PDF |title=北陸新幹線 金沢・敦賀間 地域に愛される駅をめざして |publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |date=2019-04 |accessdate=2021-01-15 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> <ref group="JRTT" name="pamphlet orbit">{{Cite web|和書|url=https://www.jrtt.go.jp/project/asset/pdf/hokuriku/PamphletOrbit.pdf |format=PDF |title=北陸新幹線軌道工事 金沢・敦賀間 |publisher=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |accessdate=2021-01-15 |archiveurl= |archivedate= }}</ref> }} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"|2}} == 参考文献 == === 書籍 === * {{Cite book |和書|author=今尾恵介 |title=新潮「旅」ムック 日本鉄道旅行地図帳 |volume=6号 北信越 |date=2008-10 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-790024-1 |ref=harv }} * {{Cite book |和書|author=入江一也 |title=北陸新幹線鉄旅ガイド 完全保存版 |volume=JTBの交通ムック 28 |date=2015-07|publisher=JTBパブリッシング |isbn=978-4-533-10505-0 |ref=harv }} * {{Cite book |和書|author=中川信行 |date=2015-07-10 |title=北陸新幹線&北陸の鉄道トラベルBOOK |publisher=株式会社マイナビ |isbn=978-4-83-995586-1 |ref=harv }} === 雑誌記事 === {{Div col}} * {{Cite journal |和書|author=池内三津喜 |author2=宮崎祐丞 |author3=松田篤史 |author4=兒玉庸平 |title=AIを活用した北陸新幹線着雪量推定モデル開発 |date=2021-02 |journal=AI・データサイエンス論文集 |volume=2 |issue=J2 |pages=687-990 |publisher=[[土木学会]] |doi=10.11532/jsceiii.2.J2_687 |ref=harv }} * {{Cite journal |和書|author=井野俊介 |title=空間統合の高速化がもたらす不均等発展 ―北陸新幹線建設と、小諸・岩村田の都市間競争を例として― |year=2012 |journal=空間・社会・地理思想 |volume=15 |pages=15-41 |publisher=[[大阪市立大学]]文学部地理学教室 |naid=120006001557 |ref=harv }} * {{Cite journal |和書|author=井上進 |title=長野行新幹線の輸送計画 |date=1997-11 |journal=JREA |volume=40 |issue=11 |pages=24998-25001 |publisher=[[日本鉄道技術協会]] |naid=10002170489 |ref=harv }} * {{Cite journal |和書|author=祝迫栄一郎 |author2=宮本佳洋 |author3=堀内則利 |author4=若松健 |title=北陸新幹線金沢開業ダイヤの概要と営業施策および冬季対策設備 |date=2015-03 |journal=JREA |volume=58 |issue=3 |pages=39346-39350 |publisher=日本鉄道技術協会 |naid=40020376992 |ref=harv }} * {{Cite journal |和書|author=梅田啓 |author2=児玉佳則 |title=北陸新幹線用新型車両E7系/W7系新幹線電車の概要 |date=2014-01 |journal=JREA |volume=57 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|和書|author=吉田幸一 |title=長野行新幹線(北陸新幹線)東京乗り入れに伴なう東京駅改良工事 |date=1997-11 |journal=JREA |volume=40 |issue=11 |pages=25005-25008 |publisher=日本鉄道技術協会 |naid=10002170491 |ref=harv }} * {{Cite journal|和書|author=若公雅敏 |title=北陸新幹線(長野―金沢間)建設工事の概要と路線紹介 |date=2015-04-01 |journal=鉄道ファン |volume=55 |issue=4号(通巻648号)|pages=76-83 |publisher=交友社 |ref=harv }} * {{Cite journal |和書|author=渡邉修 |title=整備新幹線の建設概要 |date=2009-01 |journal=JREA |volume=52 |issue=1 |pages=33895-33898 |publisher=日本鉄道技術協会 |naid=10024928452 |ref=harv }} {{Div col end}} === 報告書 === ==== 国土交通省 ==== * {{Cite report |author= 国土交通省 交通政策審議会 整備新幹線小委員会 |title=整備新幹線未着工区間の「収支採算性及び投資効果の確認」に関するとりまとめ |date=2012-04-03 |language=ja |url=https://www.mlit.go.jp/common/000207255.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author= 国土交通省 鉄道局 |title=収支採算性及び投資効果に関する詳細資料 |date=2012-04-03 |language=ja |url=https://www.mlit.go.jp/common/000207259.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=北陸新幹線の工程・事業費管理に関する検証委員会 |title=北陸新幹線の工程・事業費管理に関する検証委員会 報告書 |year=2021 |month=06 |language=ja |url=https://www.mlit.go.jp/tetudo/content/001411107.pdf |ref=harv |format=PDF }} ==== 鉄道・運輸機構 ==== * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(高崎・長野間)事業に関する事後評価対応方針 |year=2008 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/asset/jk19-6-2.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=日本鉄道建設公団 |title=北陸新幹線(西石動(仮称)信号所・金沢間)事業に関する対応方針 |url=http://www.jrcc.go.jp/news/sinkansen/taio-hosin.PDF |year=2002 |month=03 |language=ja |archiveurl=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/237728/www.jrcc.go.jp/news/sinkansen/taio-hosin.PDF |archivedate=2003-09-19 |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する対応方針 |year=2007 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/asset/jk6-2.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する対応方針 |year=2012 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/asset/jk23-05-2.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=平成26年度業務実績等報告書 鉄道建設等業務 |year=2015 |month=06 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/corporate/asset/gzh26.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(長野・金沢間)事業に関する事後評価報告書 |year=2020 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/asset/jkr1-05-02.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)事業に関する再評価報告書 |year=2018 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/asset/jk29-06-2.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(金沢・敦賀間)事業に関する再評価報告書 |year=2021 |month=03 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/construction/committee/jkr2-06-02.pdf |ref=harv |format=PDF }} * {{Cite report |author=鉄道建設・運輸施設整備支援機構 |title=北陸新幹線(敦賀・新大阪間)計画段階環境配慮書 |year=2019 |month=05 |language=ja |url=https://www.jrtt.go.jp/project/hokuriku-const-phrk-hyoukar0105.html |ref=harv }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[全国新幹線鉄道整備法]] * [[建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画]] * [[整備新幹線]] * [[長野新幹線]] * [[2014年問題 (新幹線)]] - 北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間の延伸開業後に予想される、上越新幹線の枝線化の問題について。 * [[信越本線]] * [[北陸本線]] * [[上信越自動車道]] * [[北陸自動車道]] * [[もんじゅ]] - [[敦賀駅]]までの延伸工事を求めて、[[福井県]]や[[敦賀市]]がもんじゅ運転再開の条件として突き付けた。 == 外部リンク == {{Wikinews|北陸新幹線長野 - 金沢間が延伸開業}} {{Commons}} {{外部リンクの注意|date=2023年4月}} * 営業主体 ** [https://www.jreast.co.jp/train/shinkan/hokuriku.html 北陸新幹線:JR東日本] - 東日本旅客鉄道 ** [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=76=1=%e5%8c%97%e9%99%b8%e6%96%b0%e5%b9%b9%e7%b7%9a 検索結果(北陸新幹線の駅):JR東日本] - 東日本旅客鉄道{{リンク切れ|date=2023年4月}} ** [https://www.jr-odekake.net/shinkansen/kagayaki/ 北陸新幹線 かがやき・はくたか・つるぎ:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道 ** [https://www.westjr.co.jp/railroad/project/project1/ 北陸新幹線プロジェクト:JR西日本] - 西日本旅客鉄道 * 建設主体(鉄道建設・運輸施設整備支援機構) ** [https://www.jrtt.go.jp/construction/achievement/hokuriku1.html 北陸新幹線(高崎・長野間)] ** [https://www.jrtt.go.jp/construction/achievement/hokuriku2.html 北陸新幹線(長野・金沢間)] ** [https://www.jrtt.go.jp/project/hokuriku.html 北陸新幹線|建設中のプロジェクト] * 国土交通省 ** [https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk9_000023.html 北陸新幹線の工程・事業費管理に関する検証委員会について] * 沿線自治体 ** [https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9371539/www.pref.nagano.lg.jp/kurashi/kotsu/shinkansen/index.html 北陸新幹線] - 長野県のアーカイブ ***[https://www.city.iiyama.nagano.jp/soshiki/machizukuri/keikaku/39235/shinkansen_machidukuri 新幹線・まちづくり情報] - 飯山市 ** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/koutsuseisaku/1195575355755.html 新幹線] - 新潟県 *** [https://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/kotsu/ 交通政策課] - 上越市 *** [https://www.city.itoigawa.lg.jp/dd.aspx?menuid=1270 北陸新幹線] - 糸魚川市 ** [https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9365998/www.pref.toyama.jp/cms_cat/302020/index.html 新幹線] - 富山県のアーカイブ *** [https://www.city.toyama.toyama.jp/special/toyamaekishuhennoime-jidouga_2.html 北陸新幹線関連] - 富山市 *** [https://www.city.takaoka.toyama.jp/kotsu/kurashi/kotsu/kokyo/shinkansen/index.html 北陸新幹線] - 高岡市 ** [http://www.pref.ishikawa.jp/shink/hokuriku-shinkansen/ 石川県 北陸新幹線ホームページ] - 石川県 *** [https://www.city.komatsu.lg.jp/shiseijoho/4/2/8/index.html 北陸新幹線] - 小松市 *** [https://www.city.kaga.ishikawa.jp/sangyo_iju/kaihatsu_keikaku/toshi_keikaku/7/index.html 北陸新幹線] - 加賀市 ** [https://www.pref.fukui.lg.jp/manabi/transport/cat0102/index.html 北陸新幹線] - 福井県 *** [http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/life/shinkansenseibi/index.html 北陸新幹線本体整備] - あわら市 *** [https://www.city.fukui.lg.jp/dept/d360/shinkansen/index.html 新幹線推進室] - 福井市 *** [https://www.city.sabae.fukui.jp/kurashi_tetsuduki/kokyokotsu/hokurikushinkansen/index.html 北陸新幹線] - 鯖江市 *** [https://www.city.echizen.lg.jp/office/030/015/nanetsuekishuhenseibikoso.html 北陸新幹線南越駅周辺整備について] - 越前市 *** [https://www.city.tsuruga.lg.jp/about_city/news_from_division/toshiseibi_bu/ekisyuuhenseibi/index.html 新幹線整備課] - 敦賀市 *** [https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/shinkansen/ 北陸新幹線小浜・京都ルート みんなの力で早期開業!! ―京は遠ても19分―] - 小浜市 ** [https://www.pref.kyoto.jp/kotsu/hokuriku.html 北陸新幹線] - 京都府 *** [http://www.kyoto-hokurikushinkansen.com/ 北陸新幹線を、京都へ。京都市総合企画局リニア・北陸新幹線誘致推進室] - 京都市 * [http://www.h-shinkansen.gr.jp/ 北陸新幹線建設促進同盟会] * [https://www.shinmai.co.jp/feature/sinkansen/ 新幹線「あさま」特集] - 信濃毎日新聞 * [https://www.fukuishimbun.co.jp/subcategory/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A 【特集】北陸新幹線|福井新聞ONLINE] - 福井新聞 * 並行在来線事業者 ** [https://www.shinanorailway.co.jp/ しなの鉄道株式会社] ** [https://www.echigo-tokimeki.co.jp/ えちごトキめき鉄道株式会社] ** [https://ainokaze.co.jp/ あいの風とやま鉄道株式会社] ** [http://www.ishikawa-railway.jp/ IRいしかわ鉄道株式会社] ** [https://www.hapi-line.co.jp/ 株式会社ハピラインふくい] {{日本の新幹線}} {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{東日本旅客鉄道新幹線統括本部}} {{西日本旅客鉄道金沢支社}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほくりくしんかんせん}} [[Category:新幹線の路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:関東地方の鉄道路線]] [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:近畿地方の鉄道路線]] 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待避駅
待避駅(たいひえき)とは、速達列車がより下位の種別の列車を追い越すための設備(待避設備)がある駅。待避する列車が入線する副本線を待避線という。 単線での対向列車のすれ違いの場合は「待避」ではなく「交換」または「行違」と呼んで区別され、「交換駅(行違駅)」「行き違い施設」という。 なお、待避機能を持つ信号場も存在。信号場の記事を参照。 待避駅は特急・快速などの速達列車が運転されている路線の大半に設けられている。待避の種類には、接続して追い越す「接続追越」(「待ち合わせ」)と、通過して追い越す「通過追越」(「通過待ち」)の2つがある。 追越す列車と追越される列車が同時に駅に停車し、互いに接続した後、速達列車が追い越すこと。緩急接続や相互接続とも呼ばれる。主に在来線や私鉄線(共に大都市近郊に多い)で使われ、旅客向け案内として「待ち合わせ」や「連絡」と呼ばれることもある。 速達列車が停車しない駅から乗車し、待避駅で乗り継ぐことができる。双方の列車を同一ホームの対面に停車させる場合が多い。 上位種別の列車が通過駅で下位種別の列車を追い越すこと。通過待避・緩急分離とも言う。主に地下鉄や新幹線、有料特急列車の待避に使われ、旅客向け案内として「通過待ち」と呼ばれることもある。 東海道・山陽新幹線と北陸本線などで通過追越ダイヤを組む駅が多いが、専門的な鉄道知識を持たない一般客にとって「本線」「副本線」「待避線」「通過線」といった用語は馴染みが薄いため、便宜上、高速道路に例えて「追越車線」「走行車線」と紹介されることがある。 駅の構造上、接続追越が不可能で通過追越しか出来ない場合もあるが、接続追越が可能な構造であっても優等列車が一切停車せず通過追越しか設定されない駅も少なくない(都営地下鉄新宿線・岩本町駅、西武池袋線・東長崎駅など)。また、通常は接続追越を行っている都市部の過密路線(特にJR以外の大手民鉄の路線)では、遠近分離や待避可能駅での相互発着の兼ね合いでラッシュ時のみ通過追越となっていることがある。近畿日本鉄道では、特急停車駅において有料特急列車が有料特急列車を通過追越(同格待避)することがまれにある。 待避線には通常プラットホームが設置されるが、貨物列車や回送列車用の待避線を設置する場合は、ホームが設けられない場合もある。 複線で上下線ともに同一駅で向かい側に乗換可能な形の待避を行うためには原則的に島式ホーム2面4線以上の設備が必要。用地に余裕が無い場合や運転本数の少ない路線では2面3線の待避駅も多く見られるが、2面3線や折り返し列車がある場合には乗客が別ホームでの乗り換えが必要な場合があり、待避線を上下で共用(この場合の待避線を特に中線という)する場合は上下列車が同時に待避できないなどの運用上の制約が発生。鉄道評論家の川島令三は自著で、2面3線であり中線が両方向で使用可能な待避駅を「国鉄形配線」(および「JR形配線」)と呼んでいる。国鉄の待避駅でよく用いられた。建設費用を抑えることができるメリットがある。私鉄ではあまり見られない待避駅。JR発足後、2面3線から2面4線への改良が行われた駅がある。 2面3線であっても中線を上下両方向のホームで挟み込むような構造で擬似的な2面4線とし、同一方向の列車に同一ホームで乗車できるようになっている駅もある(神戸市の阪急神戸三宮駅や新開地駅(阪急・阪神乗り場)など)。ただし、あくまでも擬似的なものなので、運用上の制約は受けやすい。しかし、かつて東京都営地下鉄の岩本町駅で行われたように待避する列車が本線に停車し、速い列車が中線を走行することによって、中線の占有時間を減らし運用上の制約を軽減させることもできる。これは速い列車が停車・通過するための占有時間は、待避する列車が停車する占有時間よりも圧倒的に短いからである。 通過待避においては、優等列車の通過線にホームを設置しない通過待避専用駅とすることにより建設費を安くできるが、列車ごとの乗継は不便になる。構造上は接続追越が可能な駅で行うことも多い。接続待避を前提に建設されたものの通過待避しか行われなくなった駅では、ホームの通過線側に柵やロープを設置していることもある(東急田園都市線・江田駅など)。 新幹線の場合は駅における通過速度が高いため、利用客が列車が作る風に煽られないよう、多くの駅でホームが通過線に面さないように作られている。また、新幹線が通過する駅でも、地形上制約を受けて、新幹線がホームに面した線を通過する駅の場合、利用客が風の影響を受けない位置に安全柵やホームドアを設けていて、車両の乗降時以外には入れないようになっている。 2面2線の新幹線型のほか、三島駅(東海道新幹線)、鮫洲駅(京浜急行電鉄本線)、布施駅(近鉄大阪線・近鉄奈良線)などの1面2線(通過線が外側にある)もある。 JR西日本のアーバンネットワークの兵庫県内の場合は、加古川駅や芦屋駅のように、新快速・普通列車相互の接続が主体だが、須磨駅では快速と普通が接続する。JR神戸駅では1番線と新快速ホームとの連絡は階段を使う。JR三ノ宮駅でも新快速・普通の接続があるが、複々線のため追越は行わない。 京阪神地区では、待避駅において通過・接続待ちする列車は、車内保温のためドア横の開閉ボタンで乗り降りする。阪神でも普通列車新型車両5700系においても同様の措置が執られるようになった。
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待避駅(たいひえき)とは、速達列車がより下位の種別の列車を追い越すための設備(待避設備)がある駅。待避する列車が入線する副本線を待避線という。 単線での対向列車のすれ違いの場合は「待避」ではなく「交換」または「行違」と呼んで区別され、「交換駅(行違駅)」「行き違い施設」という。 なお、待避機能を持つ信号場も存在。信号場の記事を参照。
{{出典の明記|date=2012年11月|ソートキー=鉄}} [[ファイル:こだま号を追い越すさくら号.jpg|thumb|300px|right|[[厚狭駅]]で通過待避中の「[[こだま (列車)|こだま]]」(右)。その間に後続の「[[さくら (新幹線)|さくら]]」(左)が通過線を走行し待避列車を追い越す。]] '''待避駅'''(たいひえき)とは、[[優等列車|速達列車]]がより下位の種別の[[列車]]を追い越すための設備(待避設備)がある[[鉄道駅|駅]]。待避する列車が入線する[[停車場|副本線]]を'''待避線'''という。 [[単線]]での対向列車のすれ違いの場合は「待避」ではなく「[[列車交換|交換]]」または「行違」と呼んで区別され、「[[列車交換|交換駅]](行違駅)」「[[列車交換|行き違い施設]]」という。 なお、待避機能を持つ[[信号場]]も存在。信号場の記事を参照。 == 待避の種類 == 待避駅は特急・快速などの速達列車が運転されている路線の大半に設けられている。待避の種類には、接続して追い越す「接続追越」(「待ち合わせ」)と、通過して追い越す「通過追越」(「通過待ち」)の2つがある。 <!-- [[信号場]]や[[引き上げ線]]での待避、[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]での待避の場合は、必然的に「通過追越」である。--><!--かつて急行「能登」が本庄駅に運転停車して同駅停車の「あかぎ」を待避したことがあるので、「運転停車での待避は必然的に通過追越」は誤り。信号場での待避でも、追い抜く側が停車しての追い抜きは物理的にありえるので「必然的に通過追越」は誤り。よってこの一文は全面的に誤りにつき削除--> === 接続追越 === 追越す列車と追越される列車が同時に駅に停車し、互いに接続した後、速達列車が追い越すこと。'''[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]'''や'''相互接続'''とも呼ばれる。主に[[在来線]]や[[私鉄]]線(共に大都市近郊に多い)で使われ、旅客向け案内として「'''待ち合わせ'''」や「'''連絡'''」と呼ばれることもある。 速達列車が停車しない駅から乗車し、待避駅で乗り継ぐことができる。双方の列車を同一ホームの対面に停車させる場合が多い。 === 通過追越 === 上位種別の列車が通過駅で下位種別の列車を追い越すこと。'''通過待避'''・'''緩急分離'''とも言う{{要出典|date=2012年11月}}。主に[[地下鉄]]や[[新幹線]]、有料特急列車の待避に使われ、旅客向け案内として「'''通過待ち'''」と呼ばれることもある。 東海道・山陽新幹線と北陸本線などで通過追越ダイヤを組む駅が多いが、専門的な鉄道知識を持たない一般客にとって「本線」「副本線」「待避線」「通過線」といった用語は馴染みが薄いため、便宜上、高速道路に例えて「[[追越車線]]」「[[走行車線]]」と紹介されることがある{{要出典|date=2012年11月}}。 駅の構造上、接続追越が不可能で通過追越しか出来ない場合もあるが、接続追越が可能な構造であっても優等列車が一切停車せず通過追越しか設定されない駅も少なくない([[都営地下鉄新宿線]]・[[岩本町駅]]、[[西武池袋線]]・[[東長崎駅]]など)。また、通常は接続追越を行っている都市部の過密路線(特にJR以外の大手民鉄の路線)では、遠近分離や待避可能駅での[[相互発着]]の兼ね合いでラッシュ時のみ通過追越となっていることがある。[[近畿日本鉄道]]では、特急停車駅において[[近鉄特急|有料特急列車]]が有料特急列車を通過追越(同格待避)することがまれにある。 == 待避駅の構造 == [[ファイル:Station Track layout-1.png|thumb|250px|right|接続追越駅の構造([[プラットホーム#島式ホーム|2面4線]])]] [[ファイル:Station Track layout-2.png|thumb|250px|right|通過追越駅の構造([[プラットホーム#相対式ホーム|新幹線型]])]] 待避線には通常[[プラットホーム]]が設置されるが、[[貨物列車]]や[[回送|回送列車]]用の待避線を設置する場合は、ホームが設けられない場合もある。 ===接続追越駅=== 複線で上下線ともに同一駅で向かい側に乗換可能な形の待避を行うためには原則的に[[島式ホーム]]2面4線以上の設備が必要。用地に余裕が無い場合や運転本数の少ない路線では2面3線の待避駅も多く見られるが、2面3線や折り返し列車がある場合には乗客が別ホームでの乗り換えが必要な場合があり、待避線を上下で共用(この場合の待避線を特に'''[[停車場#線名|中線]]'''という)する場合は上下列車が同時に待避できないなどの運用上の制約が発生。鉄道評論家の[[川島令三]]は自著で、2面3線であり中線が両方向で使用可能な待避駅を「国鉄形配線」(および「JR形配線」)と呼んでいる。国鉄の待避駅でよく用いられた。建設費用を抑えることができるメリットがある。私鉄ではあまり見られない待避駅。JR発足後、2面3線から2面4線への改良が行われた駅がある。 2面3線であっても中線を上下両方向のホームで挟み込むような構造で擬似的な2面4線とし、同一方向の列車に同一ホームで乗車できるようになっている駅もある(神戸市の[[三宮駅#阪急電鉄(神戸三宮駅)|阪急神戸三宮駅]]や[[新開地駅]](阪急・阪神乗り場)など)。ただし、あくまでも擬似的なものなので、運用上の制約は受けやすい。しかし、かつて東京都営地下鉄の[[岩本町駅]]で行われたように待避する列車が本線に停車し、速い列車が中線を走行することによって、中線の占有時間を減らし運用上の制約を軽減させることもできる。これは速い列車が停車・通過するための占有時間は、待避する列車が停車する占有時間よりも圧倒的に短いからである。 ===通過追越駅=== 通過待避においては、優等列車の通過線にホームを設置しない通過待避専用駅とすることにより建設費を安くできるが、列車ごとの乗継は不便になる。構造上は接続追越が可能な駅で行うことも多い。接続待避を前提に建設されたものの通過待避しか行われなくなった駅では、ホームの通過線側に柵やロープを設置していることもある([[東急田園都市線]]・[[江田駅 (神奈川県)|江田駅]]など)。 [[新幹線]]の場合は駅における通過速度が高いため、利用客が列車が作る[[風]]に煽られないよう、多くの駅でホームが通過線に面さないように作られている。また、新幹線が通過する駅でも、地形上制約を受けて、新幹線がホームに面した線を通過する駅の場合、利用客が風の影響を受けない位置に安全柵や[[ホームドア]]を設けていて、車両の乗降時以外には入れないようになっている。 [[File:Samezu station platform.jpg|thumb|200px|通過線が外側にある駅<br>(京急・鮫洲駅)]] 2面2線の新幹線型のほか、[[三島駅]]([[東海道新幹線]])、[[鮫洲駅]]([[京浜急行電鉄]][[京急本線|本線]])、[[布施駅]]([[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄大阪線|大阪線]]・[[近鉄奈良線]])などの1面2線(通過線が外側にある)もある。 {{-}} ===その他=== JR西日本の[[アーバンネットワーク]]の兵庫県内の場合は、[[加古川駅]]や[[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]のように、[[新快速]]・普通列車相互の接続が主体だが、[[須磨駅]]では快速と普通が接続する。JR[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]では1番線と新快速ホームとの連絡は階段を使う。JR[[三ノ宮駅]]でも新快速・普通の接続があるが、[[複々線]]のため追越は行わない。 京阪神地区では、待避駅において通過・接続待ちする列車は、車内保温のためドア横の開閉ボタンで乗り降りする。[[阪神電気鉄道|阪神]]でも普通列車新型車両5700系においても同様の措置が執られるようになった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[停車場#線名]] * [[ダイヤグラム]] {{Railway track layouts}} {{DEFAULTSORT:たいひえき}} [[Category:鉄道駅]] [[Category:鉄道運転業務]] [[Category:駅種別]] [[de:Ausweiche]] [[en:Passing loop]] [[fi:Junakohtaus]]
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福井藩
福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。 越前国は戦国大名朝倉氏滅亡の後、柴田勝家・丹羽長秀・堀秀政の領有を経て豊臣秀吉配下の小大名によって分割支配させられていた。関ヶ原の戦いの際、青木一矩は西軍方に付いたために戦後越前北ノ庄8万石を没収されている。 慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの功により、徳川家康の次男の秀康が越前一国67万石を与えられ、柴田勝家の築いた北ノ庄城を約6年かけて大改修し居城とする。秀康は結城姓を松平に復し、越前松平家を興す。 秀康の嫡男松平忠直は、大坂の陣で戦功を立てながらも将軍秀忠に認められなかったことなどから、次第に幕府に反抗的態度を取るようになった。そのため、元和9年(1623年)忠直は乱行を理由に廃されて豊後国大分に配流された。 翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟(秀康の次男)の松平忠昌が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする)、藩領を継承する。7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。 その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、貞享3年(1686年)に第6代藩主綱昌は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(吉品)した。吉品が就封の際、領地宛行状が国名の越前少将から、城地名の福井侍従となり、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。ただし、この間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱を拝領する「特別な家」であり続けた。享保6年(1721年)には支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。官位も10代宗矩から再び左近衛権少将に戻る。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる一揆に見舞われて困難を極めた。 田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。 戊辰戦争では、薩長主導の明治新政府に加わり、江戸無血開城後は、上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦した。 福井藩領は明治4年(1871年)、廃藩置県により福井県、ついで足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるが、のち旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となった。 親藩 67万石 (1601年 - 1624年) 親藩 50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石 (1624年-1871年) 光通の子・権蔵は光通正室の国姫所生ではなく嗣子とはならなかった。延宝元年(1673年)に江戸へ出奔し、延宝3年(1675年)将軍・徳川家綱に謁見し従五位下、備中守に叙任、賄料1万俵江戸定府の諸侯に列した。 家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家。 府中領主の筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった。 1852年(嘉永5年)時点で、荒子・中間等の小者973人を除く家臣団総数は2700名(士802、卒1898) 上記のほか、南条郡12村、今立郡18村、丹生郡14村、大野郡13村、坂井郡69村の幕府領を預かったが、「旧高旧領取調帳」では第1次府県統合後の状況になっているため、下記以外の変遷の詳細は不明である。 明治維新後、南条郡3村(旧西尾藩領1村、旗本領1村、福井藩預所管轄の旧幕府領1村)、大野郡11村(福井藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。
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福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ庄藩(きたのしょうはん)と称することがある。
{{No footnotes|date=2018年3月}} [[ファイル:Matsudaira residence Edo P2.jpg|thumb|right|250px|松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型]] [[ファイル:Fukui Castle01st3200.jpg|thumb|right|250px|福井城(現在は[[福井県庁]])]] '''福井藩'''(ふくいはん)は、[[越前国]]にあって現在の[[福井県]][[嶺北]]中心部を治めた[[藩]]。藩庁は[[福井城]]([[福井市]])。藩主は[[越前松平家]](福井藩主家)。家格は[[親藩]]・[[御家門]]で、32万石。'''越前藩'''(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代[[松平忠昌|忠昌]]以前の[[結城秀康|結城(松平)秀康]]・[[松平忠直|忠直]]時代を故に北ノ庄'''藩'''(きたのしょうはん)と称することがある。 == 藩歴 == [[越前国]]は[[戦国大名]][[朝倉氏]]滅亡の後、[[柴田勝家]]・[[丹羽長秀]]・[[堀秀政]]の領有を経て[[豊臣秀吉]]配下の小大名によって分割支配させられていた。[[関ヶ原の戦い]]の際、[[青木一矩]]は西軍方に付いたために戦後越前北ノ庄8万石を没収されている。 {{右|[[ファイル:Yūki Hideyasu.jpg|thumb|250px|藩祖・結城秀康]]}} [[慶長]]6年([[1601年]])に関ヶ原の戦いの功により、[[徳川家康]]の次男の秀康が越前一国67万石を与えられ、柴田勝家の築いた[[北ノ庄城]]を約6年かけて大改修し居城とする。秀康は[[結城氏|結城姓]]を[[松平氏|松平]]に復し<ref group="注釈">秀康は生涯結城姓であったとする説もある。</ref>、[[越前松平家]]を興す。 秀康の嫡男[[松平忠直]]は、[[大坂の陣]]で戦功を立てながらも[[征夷大将軍|将軍]][[徳川秀忠|秀忠]]に認められなかったことなどから、次第に[[江戸幕府|幕府]]に反抗的態度を取るようになった。そのため、[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])忠直は乱行を理由に廃されて[[豊後国]][[大分市|大分]]に配流された。 {{右| [[ファイル:Fukui Castle03n4592.jpg|thumb|right|250px|福井の語源となったとされる福井城内の「福の井」]] }} [[画像:Youkoukan09bs4592.jpg|thumb|250px|藩主の別邸であった「お泉水」(現・[[養浩館庭園]])]] 翌年の[[寛永]]元年([[1624年]])4月、<!---[[英勝院]]の縁によって--->越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直の弟(秀康の次男)の[[松平忠昌]]が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする{{refnest|group="注釈"|忠昌の北ノ荘入部に際し、松平光長旧臣に対して越前への同行、北ノ荘への出仕、他家への退転は自由に選択させ、約500名の家臣のうちの幕府により選抜された105名を中心とする家臣が忠昌に出仕し、その他の家臣は光長に随って[[越後高田藩松平(越前)家家臣団|越後高田藩臣]]となったり、同時に分家された大野藩などの諸家に仕えた<ref name="kokuji">『国事叢記』</ref>。また、老臣5人のうち、本多飛騨守は大名になり、小栗美作守・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断り、幕府による選抜の中心となった[[附家老]]の本多伊豆守は忠昌に出仕した<ref name="kokuji"/>。}})、藩領を継承する<ref group="注釈">忠直の嫡男[[松平光長]]には[[越後国|越後]]高田26万石が与えられ、[[高田藩]]を立藩した。</ref><ref group="注釈">松平光長を福井藩3代と数える説もあり、光長が一旦継承したと読むことも可能な史料もあるが、継承の件自体が後世、幕府により否定されているので公式とはならず、逆に「忠直 - 忠昌 - 以降」が幕府の公式見解である。</ref>。7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。 * '''福井藩''':越前福井50万石が秀康次男[[松平忠昌|忠昌]]に与えられる。 * [[丸岡藩]]:越前丸岡4万6千石が附家老の[[本多成重]]に与えられ独立する。 * [[大野藩]]:越前大野5万石が秀康三男[[松平直政|直政]]に与えられる。 * [[越前勝山藩|勝山藩]]:越前勝山3万石が秀康五男[[松平直基|直基]]に与えられる。 * [[木本藩]]:越前大野郡内の木本2万5千石が秀康六男[[松平直良|直良]]に与えられる。 * 越前敦賀郡はいったん[[幕府領]]となり、その後、[[小浜藩]]の[[京極氏]]に与えられる。 その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、[[貞享]]3年([[1686年]])に第6代藩主[[松平綱昌|綱昌]]は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主[[松平昌親|昌親]]が領地半減の上で再襲(吉品)した。吉品が就封の際、領地宛行状が国名の'''越前少将'''から、城地名の'''福井侍従'''となり<ref group="注釈">このとき、福井藩の領主の家格が越前国主より福井城主へ降格した。</ref>、忠昌が大坂の陣で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時に藩邸の格式も下がり、江戸城の[[伺候席|詰間]]が将軍家の親族が詰める大廊下から、[[外様大名|外様]]の[[国主|国持大名]]と同じ大広間へ異動した。ただし、この間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の[[偏諱]]を拝領する「特別な家」であり続けた。[[享保]]6年([[1721年]])には支藩[[越前松岡藩|松岡藩]](福井県[[吉田郡]][[永平寺町]])の再併合により30万石に復し、[[文政]]2年([[1819年]])にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。官位も10代[[松平宗矩|宗矩]]から再び左近衛権少将に戻る。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる[[一揆]]に見舞われて困難を極めた。 [[画像:京都福井藩邸跡.jpg|thumb|150px|京都市 福井藩邸跡]] [[画像:Shungaku Matsudaira.jpg|thumb|150px|松平慶永(春嶽)]] [[田安徳川家]]から養子に入った[[幕末]]の藩主[[松平春嶽|慶永(春嶽)]]は、[[橋本左内]]らを登用し、また熊本藩から[[横井小楠]]を招聘して藩政改革をおこなった。[[安政の大獄]]により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は[[公武合体]]派の重鎮として幕政に参与している。 [[戊辰戦争]]では、[[薩長]]主導の[[明治新政府]]に加わり、[[江戸無血開城]]後は、[[上野]]の寛永寺一帯に立てこもった[[彰義隊]]の討伐に参戦した。 福井藩領は[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福井県、ついで[[足羽県]]となり、さらに[[敦賀県]]を経て[[石川県]]に併合されるが、のち旧越前および[[若狭国|若狭]]が福井県として分立した際にその中心部となった。 == 歴代藩主 == ;越前松平宗家 親藩 67万石 (1601年 - 1624年) # [[結城秀康|秀康]](ひでやす) 結城より改姓<ref group="注釈">秀康時代の主な家臣 * 今村盛次→久世騒動で改易。子孫は忠昌に越後高田で召出される * 江口石見→忠直の時蟄居。子孫は忠昌に召出される。 * 落合美作→久世騒動の際、忠直の勘気を蒙って和泉国堺に蟄居。後に[[徳川頼宣]]に仕える。 * 久世但馬→久世騒動で成敗される。 * 清水孝正([[敦賀藩|敦賀城代]])→久世騒動で改易。伊達家預け。 * 林定正([[越前勝山藩|勝山城代]])→久世騒動で改易。最上家預け。 * 多賀谷泰経→断絶。子孫は松平直基に召出される。 * 土屋昌春→秀康に殉死。 * 永見吉望(貞武)→秀康に殉死。 * 山川朝貞→断絶。 * 吉田修理→断絶。 * [[本多富正]]([[越前府中藩|府中城代]])→[[御附家老|附家老]]。幕命により、以降数代にわたり藩政を指揮する。</ref> # [[松平忠直|忠直]](ただなお)<ref group="注釈">忠直時代の主な家臣 * [[荻田長繁]]→越後出身。光長の越後入国に従い、[[糸魚川藩|糸魚川城代]]となる。 * [[小栗正重]]→[[大野藩|大野城代]]。光長の越後入国に従い、高田城代となる。 * 本多富正 →附家老。忠直配流後も幕命により忠昌に仕え、以降も福井藩を指揮する。 * [[本多成重]]([[丸岡藩|丸岡城代]])→附家老。寛永元年(1624年)諸侯に成る。 </ref> #[[松平光長|光長]](みつなが) - 幕府の公式見解では光長を歴代に数えない{{refnest|group="注釈"|これを歴代に数えるかは学説・見解が分かれているが、現在のところは幕府の公式見解に則り「含めない」が一般的である。「貞享年中之書上ニハ継中納言之遺跡与申儀無之、賜越前国与計認有之候間此度も継遺跡と申儀ハ相除可被指出候事」<ref>『越系余筆』[[井上翼章]]・文化3年([[1806年]]) 松平文庫蔵</ref>とあって、寛政12年([[1800年]])に福井松平家に対して幕府は同系図の修正を命じ、福井松平家では越前家の代数より光長を排除する作為を系図に加えている。つまり公式には「歴代に含めない」のではあるが、「'''光長は明らかに父の遺跡を継いだといわねばならない'''」、「[[細川忠利]]は『越前御国替に罷り成り』(寛永元年五月晦日付披露状『細川家史料』)といい、[[久保田藩]]の重臣[[梅津政景]]も『越前ノ若子様ハ越後へ廿五万石ニ而御国替の由』(『梅津政景日記』寛永元年六月五日条)といっており、当時の大名などもそのように認識していたのである」という見解も存在するが<ref>『福井県史 通史編3・近世一』</ref>、幕府の公式見解とは違っている。}}{{refnest|group="注釈"|津山松平氏家譜 元和9年([[1623年]])2月10日条に、光長が「家督を承け祖父以来のノ遺跡一円領知スヘキノ旨を命セラル」<ref>「越前'''支流'''美作津山松平」『徳川諸家系譜』第四</ref>とあり、同年7月幕府国目付が北荘へ来着し、台命を伝達した奉書中に忠直仕置等万事不相届故を以て越前国仙千代丸ニ被仰付」<ref>津山松平氏家譜 元和9年7月29日条[[徳川家光]]黒印状</ref>とあるが、その後幕府から再度使者が派遣され、光長の相続は取り消しとなっている。}} ;福井松平家 親藩 50万石→52.5万石→45万石→47.5万石→25万石→30万石→32万石 (1624年-1871年) # [[松平忠昌|忠昌]](ただまさ) 北ノ庄(北ノ荘)を福居と改名<ref group="注釈">忠昌時代の主な家臣 * 笹治大膳→忠昌の時に加増される。 * 永見吉次→高田より随従。 * 本多富正→附家老。幕命により藩政を指導する。 * [[片山良庵]]→松代時代に召し抱えられた軍学者。</ref>。 # [[松平光通|光通]](みつみち) 分知により45万石となる 自殺により一旦収公され、即日昌親の相続が認められる # [[松平昌親|昌親]](まさちか)分家の吉江藩主より就任。合わせて47.5万石となる。 # [[松平綱昌|綱昌]](つなまさ) 発狂により除封 # [[松平昌親|吉品]](よしのり) 昌親の再襲 半減により25万石([[土芥寇讎記]]に拠れば実高30万石) # [[松平吉邦|吉邦]](よしくに) 越前国内の天領10万石余を預所として附属。 # [[松平宗昌|宗昌]](むねまさ) 分家の松岡藩主より就任。合わせて30万石となる # [[松平宗矩|宗矩]](むねのり) 越前国内の天領全てを預所として附属。 # [[松平重昌|重昌]](しげまさ) 若年相続により、預所が一旦幕府直轄となる。 # [[松平重富|重富]](しげとみ) # [[松平治好|治好]](はるよし) 32万石となる # [[松平斉承|斉承]](なりつぐ) # [[松平斉善|斉善]](なりさわ) # [[松平春嶽|慶永]](よしなが) # [[松平茂昭|茂昭]](もちあき) == 分家 == 光通の子・権蔵は光通正室の[[国姫 (松平光通正室)|国姫]]所生ではなく嗣子とはならなかった。延宝元年([[1673年]])に江戸へ出奔し、延宝3年([[1675年]])将軍・[[徳川家綱]]に謁見し従五位下、備中守に叙任、賄料1万俵江戸[[定府]]の諸侯に列した。 # [[松平直堅]] # [[松平直知]] # [[松平直之 (糸魚川藩主)|松平直之]] {{See|糸魚川藩}} == 家老 == * [[本多氏]]([[御附家老|附家老]]。越前府中領2万石・筆頭家老本多内蔵助家)維新後[[男爵]] [[本多富正]]([[本多重次|重次]]の甥)-[[本多昌長|昌長]]-[[本多長員|長員]]=[[本多長教|長教]]-[[本多副紹|副紹]]-[[本多副充|副充]]=副久-[[本多副昌|副昌]]-[[本多富恭|富恭]]=[[本多副元|副元]]([[常陸国|常陸]][[常陸府中藩|府中藩]]主・[[松平頼説]]の子、頼功の次男) 家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家。 * 本多飛騨家([[本多成重]]の五男[[本多重方|重方]]が初代) * 本多修理家([[本多富正]]の次男[[本多正房|正房]]が初代。[[本多敬義]]等。) * 本多源四郎家(修理家分家) * 酒井外記家([[酒井重成]]が初代) * 酒井孫四郎家 * 狛山城家([[狛孝澄]]が初代。北狛。墓所は福井市木田の通安寺) * 狛帯刀家(山城家[[狛貞澄]]の長男[[狛政貞]]が1600石で分家。南狛。墓所同上) * 芦田信濃家(初代は加藤康寛([[依田康勝]])) * 松平主馬家([[長沢松平家]]の一族[[松平正世]]が初代。越後高田藩主[[松平忠輝]]の改易後に[[松代藩]]主であった忠昌に仕えた。) * 山形三郎兵衛家(笹治大膳家。[[笹治正時]](笹治大膳)が初代。十代のちに山県に改姓、[[山県昌景]]の子孫を称す。最大時で1万石。) * 稲葉采女家([[稲葉正成]]の四男正房が初代) * 有賀内記家([[有賀正成]]が初代) * 明石将監家(元は支藩の松岡藩の家老。松岡藩の本家への再合併後、本家の家老家となった) * 萩野小四郎家([[荻野永道]]が初代) * 杉田壱岐家(松平忠昌譜代家臣の[[杉田三正]]が初代) * 大谷丹下家(『[[華頂要略]]』では[[鳥居小路経孝]]の子で青蓮院門跡防官大谷泰珍の養孫とされる[[大谷泰重]]の子である[[大谷重政]]が初代。[[大谷吉継]]の子孫を称す。) * 岡部豊後家([[岡部長起]]<ref>岡部長次とも。母親が[[岡部貞綱]]の娘の[[大姥局]]。1700石。大坂の陣直後に福井藩抜け駆け戦功の責任を取って[[吉田好寛]]と共に入水自殺</ref>-淡路<ref>秀康死去時に殉死を禁じられたことを不服として、大坂の陣に出陣時に突撃戦死</ref>=安直(淡路の弟)-貞則=起平(渥美平内の子)-主貞-貞起(南嶽)=興起(狛孝章次男))-長(ながし) 府中領主の筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった。 == 家臣団と家格 == === 士 === *本多家 *高知席 *高家 *寄合席 *定座番外席 *番士 役番外 大番など *新番・新番格 *医師・絵師など === 卒 === *与力 *小役人 *一統目見席 *小算・坊主・下代 *諸組(足軽) 1852年([[嘉永]]5年)時点で、荒子・中間等の小者973人を除く家臣団総数は2700名(士802、卒1898)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11479306_po_10rireki2-all.pdf 福井藩家臣団の家格別人数(舟沢茂樹「福井藩家臣団と藩士の昇進」『福井県地域史研究』創刊号 1970年による)]『福井藩士履歴. 2』福井県文書館 (福井県, 2014-02-26) </ref> == 幕末の領地 == {{Location map |Japan |label=福井藩<br>親藩<br>32万石 |lat_deg=36|lat_min=3|lat_sec=55.64 |lon_deg=136|lon_min=13|lon_sec=15.24 |position=top |width=250 |caption=福井藩の位置 |mark=Mitsuba Aoi inverted.jpg |marksize=10 |relief=1 }} * [[越前国]] ** [[足羽郡]] - 158村 ** [[吉田郡]] - 136村 ** [[南条郡]]のうち - 57村 ** [[今立郡]]のうち - 57村(うち2村を[[本保県]]に編入) ** [[丹生郡]]のうち - 93村 ** [[大野郡 (福井県)|大野郡]]のうち - 8村 ** [[坂井郡]]のうち - 168村(うち2村を本保県に編入) 上記のほか、[[南条郡]]12村、今立郡18村、丹生郡14村、大野郡13村、坂井郡69村の[[天領|幕府領]]を預かったが、「[[旧高旧領取調帳]]」では第1次府県統合後の状況になっているため、下記以外の変遷の詳細は不明である。 [[明治維新]]後、南条郡3村(旧[[西尾藩]]領1村、[[地方知行|旗本領]]1村、福井藩[[預地|預所]]管轄の旧[[天領|幕府領]]1村)、大野郡11村(福井藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * [[舟澤茂樹]]『シリーズ藩物語 福井藩』([[現代書館]]、[[2010年]][[11月]]) * 『藩史総覧』 [[児玉幸多]]・[[北島正元]]/監修 [[新人物往来社]]、[[1977年]] * 『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年 * 『大名の日本地図』 中嶋繁雄/著 [[文春新書]]、[[2003年]] * 『徳川一族大全』[[中山良昭]] [[古藤祐介]]/文 [[廣済堂出版]]、[[2018年]] == 関連項目 == {{Commonscat|Fukui_Domain}} * [[新影幕屋流]] * [[越前騒動]] * [[糸魚川藩]] * [[高田藩]] * [[津山藩]] * [[松江藩]] * [[前橋藩]]・[[川越藩]] == 外部リンク == *[http://codh.rois.ac.jp/bukan/book/200018823/012/ 福井(松平越前守重富) | 大名家情報 - 武鑑全集] {{s-start}} {{s-bef|before=([[越前国]])|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷 |years=[[1624年]] - [[1871年]]|years2=福井藩→第1次福井県}} {{s-aft|after=[[足羽県|福井県]](第1次)|表記=次}} {{end}} {{江戸時代の藩}} {{Portal bar|日本|福井県|江戸|歴史}} {{DEFAULTSORT:ふくいはん}} [[Category:福井藩|*]] [[Category:藩|ふくい]] [[Category:越前国の藩|ふくい]] [[Category:結城氏|藩ふくい]] [[Category:越前松平家|藩]] [[Category:福井松平家|藩]] [[Category:福井市の歴史]] [[Category:福井県の歴史]] [[Category:16世紀の日本の設立]]
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16,031
中村区
中村区(なかむらく)は、名古屋市を構成する16行政区の一つで、区の東部にはターミナル駅の名古屋駅が位置する。 名古屋市の鉄道玄関口である名古屋駅周辺は、江戸時代までは、名古屋城の城下町から西へ外れた湿地帯であり、笹島と呼ばれていた。 しかし、明治になると、東海道本線が引かれた際に名古屋駅が設置され、戦前から商工業地域として栄えた。 この頃、同時に名古屋有数の風俗街となる中村遊廓も発展した。駅ビルのJRセントラルタワーズやその核店舗のJR名古屋タカシマヤの開業を契機として、2000年代以降は再開発により日本有数の超高層ビル街へと変貌を遂げた。名古屋駅周辺(特に東側)は名駅と呼ばれ、中区の栄地区と並ぶビジネス街・商業エリアへと成長した。名駅は、2027年のリニア中央新幹線開業に向けて現在も大規模な再開発が進んでいる。 一方で名古屋駅西側は、歴史的な関係や地権者の問題から再開発は進められておらず、東側ほど発達はしていない。 名古屋駅南西部の笹島地区は、かつてはドヤ街であったものの、ささしまライブ24地区として再開発され新都心のような都市景観を形成している。 しかし、現在でもその面影はわずかながら残している。 名駅エリアを除いて、区内全域が名古屋市内きっての典型的な下町地域となっており、戦前からの住宅街でもあるがゆえ現在でも下町情緒溢れる街並みを残している。 名古屋市営地下鉄桜通線延伸や名古屋市営地下鉄東部線整備などの計画もあり、今後の発展が注目されているが、実現へ至っていない。 中村の名は豊臣秀吉の生まれの地、旧愛知郡中村に由来する(現在の中村公園駅周辺)。 日本武尊が東征の際に、七所社にある古塚に腰を掛けたとされる。この腰掛岩が現在の岩塚町の地名の由来とする説がある。 豊臣秀吉は現在の中村区域に相当する尾張国愛知郡中村郷中中村に生まれており、太閤、千成、日吉、豊臣、本陣など、秀吉に関する地名や小学校名が多い。 また、熊本城などを筆頭に築城の名手であった加藤清正も中村生まれである。 歌舞伎役者の初代中村勘三郎は中村と縁があり、出自は名古屋中村とも言われている。 1636年(嘉永13年)、東海道の脇往還として、佐屋街道が整備され、砂子村から宿場が差し替えられ、岩塚村(現在の愛知県名古屋市中村区岩塚町)に岩塚宿が設置された。 1923年(大正12年)4月1日 、中村遊廓(または中村旭廓)が開業。ただし当時の新聞記事によると、4月1日に一斉移転できたわけではなく、一部の業者は移転未了のままのスタートだった。新生中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿町(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち) または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれた。 1937年(昭和12年)10月1日、西区と中区の一部から分区、新設された。その後、中川区との間で、境界線を概ね関西本線に合わせるよう修正している。 区の人口は1960年代前半に20万人台に達し、市内で最多の住民を擁する地域となった。 しかし、それ以降は名古屋東方への市街地拡大や、高い人口密度による生活環境の悪化や再開発などが行われ、現在は漸減傾向にある。 郵便番号は以下の通りとなっている。 JR、名鉄、近鉄、地下鉄の名古屋駅(名駅)が所在する。 ※ 北隣の栄生駅も、当区と西区との境に所在する。 ※ 地下鉄八田駅は中川区に所在するが、当区から徒歩圏内にある。 ※ 他に、東京通信大学、東京福祉大学、名城大学、名古屋経済大学のサテライトキャンパスや広報センターが設置されている。
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中村区(なかむらく)は、名古屋市を構成する16行政区の一つで、区の東部にはターミナル駅の名古屋駅が位置する。
{{日本の行政区 |画像 = {{Multiple image | border = infobox | total_width = 280 | image_style = border:1; | perrow = 2/2 | image1 = Nagoya Station at night01.jpg{{!}} | image2 = Nakamurapark3.jpg{{!}} | image3 = JICA Chubu Center20220531.jpg{{!}} | image4 = Nakamura Omon 2016c.jpg{{!}} }} |画像の説明 = <table style="width:280px; margin:2px auto; border-collapse:collapse"> <tr><td style="width:50%">[[名駅]]<td style="width:50%">[[中村公園]]</tr> <tr><td style="width:50%">[[ささしまライブ24]]<td style="width:50%">[[中村遊郭]] </table> |区章 = |自治体名 = 中村区 |都道府県 = 愛知県 |支庁 = |市 = 名古屋市 |コード = 23105-3 |隣接自治体・行政区 = ''名古屋市''([[中区 (名古屋市)|中区]]、[[中川区]]、[[西区 (名古屋市)|西区]])<br>[[清須市]]、[[あま市]]、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[大治町]] |木 = [[サツキ]] |花 = [[スイセン]] |シンボル名 = |鳥など = |郵便番号 = 453-0021 |所在地 = 中村区松原町1丁目23番地1<br><small>{{ウィキ座標度分秒|35|10|36|N|136|52|5|E|region:JP-23_type:adm3rd|display=inline,title}}</small><br> [[File:Nakamura Ward Office Complex 20230121-05.jpg|220px|center|中村区役所]] |外部リンク = [https://www.city.nagoya.jp/nakamura/ 名古屋市中村区] |位置画像 = [[ファイル:地図-愛知県名古屋市中村区-2006.png|250px|中村区の県内位置]][[ファイル:Location of Nakamura ward Nagoya city Aichi prefecture Japan.svg|320x320px|中村区位置図]] |特記事項 = }} '''中村区'''(なかむらく)は、[[名古屋市]]を構成する16[[行政区]]の一つで、区の東部には[[ターミナル駅]]の[[名古屋駅]]が位置する。 == 概要 == [[File:Sasashima-raibu 24 (2017-09-01).jpg|thumb|180px|西部[[都心|新都心]]となる[[ささしまライブ]]24地区 ]] [[File:NGO Nakamura Sasashima Intersection 20230313 181914.jpg|thumb|180px|[[名駅通]]に並ぶ[[超高層ビル]]群]] [[名古屋市]]の[[鉄道]]玄関口である[[名古屋駅]]周辺は、[[江戸時代]]までは、[[名古屋城]]の[[城下町]]から西へ外れた湿地帯であり、[[笹島町|笹島]]と呼ばれていた。 しかし、[[明治]]になると、[[東海道本線]]が引かれた際に[[名古屋駅]]が設置され、戦前から商工業地域として栄えた。 この頃、同時に名古屋有数の[[風俗街]]となる[[中村遊廓]]も発展した。[[駅ビル]]の[[JRセントラルタワーズ]]やその[[アンカーストア|核店舗]]の[[ジェイアール名古屋タカシマヤ|JR名古屋タカシマヤ]]の開業を契機として、[[2000年代]]以降は[[都市再開発|再開発]]により日本有数の[[超高層建築物|超高層ビル]]街へと変貌を遂げた。名古屋駅周辺(特に東側)は[[名駅]]と呼ばれ、[[中区 (名古屋市)|中区]]の[[栄 (名古屋市)|栄]]地区と並ぶ[[オフィス街|ビジネス街]]・商業エリアへと成長した。名駅は、2027年の[[リニア中央新幹線]]開業に向けて現在も大規模な再開発が進んでいる。 一方で名古屋駅西側は、歴史的な関係や地権者の問題から再開発は進められておらず、東側ほど発達はしていない。 名古屋駅南西部の笹島地区は、かつては[[ドヤ街]]であったものの、[[ささしまライブ24]]地区として再開発され[[新都心]]のような都市景観を形成している。 しかし、現在でもその面影はわずかながら残している。 名駅エリアを除いて、区内全域が名古屋市内きっての典型的な[[下町]]地域となっており、戦前からの住宅街でもあるがゆえ現在でも下町情緒溢れる街並みを残している。 [[名古屋市営地下鉄桜通線#延伸計画|名古屋市営地下鉄桜通線]]延伸や[[名古屋圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について#市交東部線の新設|名古屋市営地下鉄東部線]]整備などの計画もあり、今後の発展が注目されているが、実現へ至っていない。 <gallery> Nagoya 20200729-137.jpg|[[中村遊廓]]大門商店街<br>(通称:大門通) Nakamura Omon 2016f.jpg|中村遊郭にある[[妓楼]]建築の「松岡健遊館」 </gallery> === 地名の由来 === 中村の名は戦国武将で天下人の[[豊臣秀吉]]の生まれの地、旧[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]][[中村 (愛知県)|中村]](中村郡中中村・中々村)に由来する(現在の[[中村公園駅]]周辺)。 == 地理 == [[File:Nagoya view from Marriott.jpg|thumb|180px|[[名古屋マリオットアソシアホテル]]から見た中村区]] === 地形 === ==== 河川 ==== ; 主な川 * [[笈瀬川]]([[中川運河|中川]]) * [[庄内川]] * [[荒子川|柳瀬川]]([[荒子川]]) === 地域 === [[File:Meieki Skyscraper.jpg|thumb|180px|[[名駅]]・[[桜通 (名古屋市)|桜通]]]] {{Main|名古屋市の地名#中村区}} ; 主な地域 {{columns-list|colwidth=15em| * 稲葉地(いなばじ) * 岩塚(いわつか) * 大門町(おおもんちょう) * [[烏森町|烏森]](かすもり) * 亀島(かめじま) * 黄金(こがね) * 米野(こめの) * 笹島(ささしま) * 千成(せんなり) * 太閤(たいこう) * 中村公園(なかむらこうえん) * 則武(のりたけ) * 八田(はった) * 本陣(ほんじん) * 日吉(ひよし) * [[名駅]](めいえき) }} === 人口 === {|style="font-size:smaller" |- |colspan="2" style="text-align:center;"|中村区の人口の推移 {|class="wikitable" style="margin:auto" {{人口統計/fluctuation/item|2000|134778|134677}} {{人口統計/fluctuation/item|2005|134487|134677}} {{人口統計/fluctuation/item|2010|136192|134677}} {{人口統計/fluctuation/item|2015|135968|134677}} {{人口統計/fluctuation/item|2020|134677|134677}} |} |- |colspan="2" style="text-align:right"|[[総務省]][[統計局]] [[国勢調査 (日本)|国勢調査]]より<ref>[https://www.city.nagoya.jp/shisei/category/67-5-5-0-0-0-0-0-0-0.html 「毎月1日現在の世帯数と人口(全市・区別)」]</ref> |} === 隣接自治体・行政区 === ; 名古屋市の行政区 * [[中区 (名古屋市)|中区]] * [[西区 (名古屋市)|西区]] * [[中川区]] ; 他の市町村 * [[清須市]] * [[あま市]] * [[海部郡 (愛知県)|海部郡]]:[[大治町]] == 歴史 == === 古代 === [[File:Shichishosha3.JPG|thumb|180px|[[七所社]]にある古塚。[[岩塚宿]]の地名由来となる。]] ==== 古墳時代 ==== ; [[大和時代]] [[日本武尊]]が[[ヤマトタケル#東征|東征]]の際に、[[七所社]]にある古塚に腰を掛けたとされる。この腰掛岩が現在の[[岩塚町]]の地名の由来とする説がある。 === 中世 === ==== 戦国時代 ==== [[豊臣秀吉]]は現在の中村区域に相当する尾張国愛知郡中村郷中中村に生まれており、[[太閤 (名古屋市)|太閤]]、千成、[[日吉町 (名古屋市)|日吉]]、豊臣、[[本陣]]など、秀吉に関する地名や小学校名が多い。 また、[[熊本城]]などを筆頭に[[築城]]の名手であった[[加藤清正]]も中村生まれである。 === 近世 === ==== 江戸時代 ==== [[歌舞伎]]役者の初代[[中村勘三郎 (初代)|中村勘三郎]]は中村と縁があり、出自は名古屋中村とも言われている。 [[1636年]]([[嘉永]]13年)、[[東海道]]の[[脇往還]]として、[[佐屋街道]]が整備され、砂子村から宿場が差し替えられ、岩塚村(現在の愛知県名古屋市中村区岩塚町)に[[岩塚宿]]が設置された。 === 近代 === ==== 大正時代 ==== [[1923年]]([[大正]]12年)[[4月1日]] 、[[中村遊廓]](または中村旭廓)が開業。ただし当時の新聞記事によると、4月1日に一斉移転できたわけではなく、一部の業者は移転未了のままのスタートだった。新生中村遊廓は、'''[[日吉町 (名古屋市)|日吉]]'''(ひよし)・'''[[寿町 (名古屋市)|寿町]]'''(ことぶき)・'''[[大門町 (名古屋市)|大門]]'''(おおもん)・'''[[羽衣町 (名古屋市)|羽衣]]'''(はごろも)・'''[[賑町 (名古屋市)|賑]]'''(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)<ref name="歓楽の名古屋">稲川勝次郎『歓楽の名古屋』趣味春秋社(1937年)</ref> または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれた。 <gallery> Ryotei Inamoto 20130512.JPG|[[名古屋市都市景観重要建築物等#第4回|名古屋市都市景観重要建築物等]]に指定されている料亭「稲本」 </gallery> === 近現代 === ==== 昭和時代 ==== [[1937年]]([[昭和]]12年)[[10月1日]]、[[西区 (名古屋市)|西区]]と[[中区 (名古屋市)|中区]]の一部から分区、新設された。その後、中川区との間で、境界線を概ね[[関西本線]]に合わせるよう修正している。 === 現代 === 区の人口は1960年代前半に20万人台に達し、市内で最多の住民を擁する地域となった。 しかし、それ以降は名古屋東方への市街地拡大や、高い人口密度による生活環境の悪化や[[都市再開発|再開発]]などが行われ、現在は漸減傾向にある。 == 政治 == === 行政 === ==== 役所 ==== ; 区役所 * 中村区役所 ** [[2023年]]([[令和]]5年)1月4日に竹橋町36番31号から、約1km北西<!-- (直線距離) -->の松原町一丁目23番地の1の中村区役所等複合庁舎(区役所・保健センター・土木事務所・市税事務所)に移転した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/page/0000154327.html|title=中村区役所等の移転について|format=|publisher=名古屋市|accessdate=2022-07-11}}</ref>。 ; その他 * [[佐古前町#施設|名古屋市中村環境事務所]] <gallery> Nagoya City Nakamura Public Cleaning Office 20140527.JPG|名古屋市中村環境事務所 </gallery> ==出先機関・施設== [[File:JICA Chubu.jpg|thumb|180px|JICA中部]] ===国家機関=== ====外務省==== * [[国際協力機構]] [[国際協力機構#国内拠点|JICA中部]] ====経済産業省==== * [[産業技術総合研究所]] [[産業技術総合研究所#地域センター|中部センター]] ** [[産業技術総合研究所#地域センター|名古屋駅前サイト]]([[愛知県産業労働センター]]15階) ====厚生労働省==== * [[愛知労働局]] ** [[愛知労働局#出先機関|名古屋西労働基準監督署]] ** [[愛知労働局#出先機関|名古屋中公共職業安定所]] ====財務省==== ; [[国税庁]] * [[名古屋国税局]] [[名古屋国税局#愛知県|名古屋中村税務署]] ====防衛省==== ; [[自衛隊]] * [[自衛隊愛知地方協力本部]] 名古屋出張所 ====特殊法人==== ; [[日本年金機構]] * 中村年金事務所 ===施設=== [[File:Nakamura Police Station.jpg|thumb|180px|愛知県中村警察署]] [[File:Nakamura Fire Station 20200729.jpg|thumb|180px|名古屋市中村消防署]] [[File:Nagoya Central Hospital 110222.jpg|thumb|180px|[[名古屋セントラル病院]]]] [[File:Hideyosikiyomasa.JPG|thumb|180px|名古屋市中村図書館<br>中村公園文化プラザ]] [[File:Nakamura post office 21340.JPG|thumb|180px|中村郵便局]] [[File:Nakamura Sports Center.jpg|thumb|180px|名古屋市中村スポーツセンター]] ====警察==== ; 警察署 * [[中村警察署 (愛知県)|愛知県中村警察署]] ; 交番 {{Div col}} * 日比津交番([[高道町]]6丁目) * 則武交番([[松原町 (名古屋市)|松原町]]4丁目) * 亀島交番([[亀島 (名古屋市)|亀島]]2丁目) * 名古屋駅西交番([[名駅]]1丁目) * 名古屋駅交番(名駅1丁目) * 新明交番(名駅3丁目) * 笹島交番([[名駅南]]2丁目) * 六反交番(名駅南5丁目) * 米野交番([[権現通]]1丁目) * 柳交番([[畑江通]]6丁目) * 岩塚交番([[岩塚町]]4丁目) * 稲葉地交番([[稲葉地本通]]2丁目) * 中村交番([[中村町 (名古屋市)|中村町]]) * 大門交番([[寿町 (名古屋市)|寿町]]) * 牧野交番([[竹橋町 (名古屋市)|竹橋町]]) * 日吉交番([[大宮町 (名古屋市)|大宮町]]3丁目) {{Div col end}} ====消防==== ; 消防署 * [[中村消防署|名古屋市中村消防署]] ; 出張所 * 日比津出張所(中村区高道町5-2-18) * 椿出張所(中村区則武2-1-21) * 岩塚出張所(中村区剣町158) ====医療・福祉==== ; 主な病院 * [[名古屋市立西部医療センター城西病院|偕行会城西病院]] * [[名古屋セントラル病院]] * [[日本赤十字社愛知医療センター名古屋第一病院]] ====郵便局==== ; 郵便番号 郵便番号は以下の通りとなっている。 * [[中村郵便局]]:453-00xx、453-08xx、453-85xx、453-86xx、453-87xx * [[名古屋西郵便局]]([[西区 (名古屋市)|西区]]):450-00xx、450-60xx、450-62xx、450-64xx、450-85xx、450-86xx、450-87xx ; 主な郵便局 * [[中村郵便局]] * [[名古屋中央郵便局]]([[JPタワー名古屋]]・[[JPタワー名古屋#KITTE名古屋|KITTE名古屋]]) ====文化施設==== ;図書館 *[[名古屋市中村図書館]] - [[中村公園文化プラザ]]にある。 ;劇場 * [[Zepp NAGOYA|Zepp 名古屋]] * [[シネマスコーレ]] * [[名古屋四季劇場]] * [[名古屋市文化小劇場|中村文化小劇場]]([[中村公園文化プラザ]]) * [[名古屋市演劇練習館]] * [[名鉄ホール]] ====運動施設==== * [[稲葉地公園野球場]] * [[中村スポーツセンター|名古屋市中村スポーツセンター]] * [[名古屋競輪場]] == 対外関係 == [[File:Nagoya International Center Building, Nagono Nakamura Ward Nagoya 2022.jpg|thumb|180px|[[名古屋国際センター]]]] === 国際機関 === ==== 国際連合機関 ==== * {{Flagicon|UN}}[[国際連合地域開発センター]] ==== 領事館 ==== ; 総領事館 * {{Flagicon|KOR}}駐名古屋[[大韓民国]]総領事館 ; 領事館 * {{Flagicon|USA}}[[在名古屋米国領事館|在名古屋アメリカ合衆国領事館]] ; 名誉総領事館 * {{Flagicon|CRC}}在名古屋[[コスタリカ共和国]]名誉総領事館 ; 名誉領事館 {{columns-list|colwidth=25em| * {{Flagicon|AUT}}在名古屋[[オーストリア共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|KAZ}}在名古屋[[カザフスタン共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|KEN}}在名古屋[[ケニア共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|ESP}}在名古屋[[スペイン王国]]名誉領事館 * {{Flagicon|DEN}}在名古屋[[デンマーク|デンマーク王国]]名誉領事館 * {{Flagicon|FIN}}在名古屋[[フィンランド|フィンランド共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|FRA}}在名古屋[[フランス共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|BUR}}在名古屋[[ブルキナファソ|ブルキナ共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|POR}}在名古屋[[ポルトガル共和国]]名誉領事館 * {{Flagicon|MEX}}在名古屋[[メキシコ合衆国]]名誉領事館 * {{Flagicon|ROU}}在名古屋[[ルーマニア|ルーマニア国]]名誉領事館 }} == 経済 == {{Double image aside|right|Nagoya Station at night01.jpg|180|Nagoya city 99.jpg|180|[[名駅]]・[[桜通 (名古屋市)|桜通口]]|[[椿町 (名古屋市)|椿町]]・[[太閤通|太閤通口]]}} [[File:Nakamurapark3.jpg|thumb|180px|[[中村公園駅|中村公園駅前]]]] [[File:Global Gate Shopping Area - 6.jpg|thumb|180px|[[グローバルゲート]]]] [[File:DMG MORI SEIKI Co.,Ltd. Headquarter.JPG|thumb|180px|right|[[DMG森精機]]本社]] === 第三次産業 === ==== 商業 ==== ; 主な繁華街 * [[名駅]] * [[太閤通]] * [[八田町 (名古屋市)|八田]] * [[烏森町]] * [[ささしまライブ24]] ; 百貨店 * [[ジェイアール名古屋タカシマヤ]] * [[名鉄百貨店]] * [[近鉄百貨店名古屋店]](近鉄パッセ) ; スーパーマーケット {{columns-list|colwidth=20em| * [[パレマルシェ中村]] * [[ユニー|ピアゴ]](旧・ユニー) - 中村店 * [[アオキスーパー]] - 烏森店、中村店、八田店 * [[成城石井]] - 名古屋駅広小路口店 * [[ナフコ (スーパーマーケット)|ナフコ]]トミダ - 千成店 * [[フィールコーポレーション|フィール]] - 栄生店 * [[ヤマナカ]] - 稲葉地店、八田フランテ館、則武店 * [[マックスバリュ]] - 向島店、[[イオンタウン太閤ショッピングセンター|太閤店]] * [[コノミヤ]] - 日比津店 }} ; 家電量販店 * [[ビックカメラ]] - 名古屋駅西店 * [[エディオン]] - 名古屋本店 * [[ヤマダデンキ]] - LABI名古屋 * [[CaDen]] - 中村店 ; ホームセンター * [[DCMカーマ]] - 八田店、黄金店 ; その他の商業施設 * [[グローバルゲート]] ; 書店等 * [[三省堂書店]] - 名古屋本店 * [[ジュンク堂書店]] - 名古屋店 * [[タワーレコード]] - 名古屋近鉄パッセ店 * [[ゲオ]] - 亀島店 === 金融機関 === {{columns-list|colwidth=20em| * [[みずほ銀行]] - 名古屋駅前・名駅支店(同一店舗に所在) * [[三菱UFJ銀行]] - 名古屋駅前・新名古屋駅前・笹島支店(同一店舗に所在)、柳橋支店、中村公園前支店、中村支店 * [[三井住友銀行]] - 名古屋駅前支店 * [[りそな銀行]] - 名古屋駅前支店 * [[北陸銀行]] - 中村支店 * [[大垣共立銀行]] - 中村支店 * [[十六銀行]] - 中村支店、名古屋駅前支店、 * [[百五銀行]] - 中部法人営業部・名古屋支店(同一店舗に所在)、中村支店 * [[関西みらい銀行]] - 名古屋・名古屋中央支店(同一店舗に所在) * [[百十四銀行]] - 名古屋支店 * [[三菱UFJ信託銀行]] - 名駅支店 * [[三井住友信託銀行]] - 名駅南支店、名古屋駅前支店 * [[SMBC信託銀行]] - 名古屋駅前支店 * [[SBI新生銀行]] - 名古屋支店 * [[あおぞら銀行]] - 名古屋支店 * [[愛知銀行]] - 中村支店、本陣支店、岩塚支店、名古屋駅前支店 * [[名古屋銀行]] - 名古屋駅前支店、中村支店、柳橋支店、岩塚支店 * [[中京銀行]] - 中村支店、千成支店 * [[三十三銀行]] - 名古屋支店、本陣支店、名古屋駅前支店、中村公園前支店 * [[岐阜信用金庫]] - 中村公園支店、稲葉地支店 * [[愛知信用金庫]] - 中村支店 * [[いちい信用金庫]] - 中村支店 * [[瀬戸信用金庫]] - 中村支店、岩塚支店 * [[中日信用金庫]] - 栄生支店 }} ===拠点を置く企業 === {{See also|Category:中村区の企業}} ==情報・生活== === マスメディア === ==== 新聞社 ==== * [[毎日新聞中部本社]]([[毎日新聞]]) * [[中部経済新聞社]]([[中部経済新聞]]) ** [[日刊ゲンダイ]] 名古屋総局 * [[産業経済新聞社]]中部総局([[産経新聞]]) ==== 放送局 ==== ; テレビ * [[中京テレビ放送]] * TBS<ref group="注釈">会社法人としては現在の[[TBSホールディングス]]。放送局としては現在の[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]。</ref> 名古屋支局 ==== 中継局 ==== * [[名古屋駅新幹線口エスカ地下街中継局]] ===ライフライン=== ====電力==== *[[中部電力]] ====ガス==== *[[東邦ガス]] ====上下水道==== *[[名古屋市上下水道局]] ====電信==== *[[NTT西日本]] == 交通 == [[File:Shinkansen in Downtown Nagoya.jpg|thumb|180px|[[名古屋駅]]]] [[File:Shinsuzaki JCT 20150824A.JPG|thumb|180px|[[新洲崎ジャンクション|新洲崎JCT]]]] [[File:愛知県名古屋市中村区名駅1丁目1 - panoramio.jpg|thumb|180px|[[名駅通]]]] === 鉄道 === JR、名鉄、近鉄、地下鉄の'''[[名古屋駅]]'''([[名駅]])が所在する。 ==== 鉄道路線 ==== ; [[東海旅客鉄道]](JR東海) * [[File:Shinkansen jrc.svg|16px]] [[東海道新幹線]]:(岐阜県羽島市)- [[名古屋駅]] -(安城市) * {{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]:(清須市)- [[名古屋駅]] -(名古屋市中川区) * {{JR海駅番号|CF}} [[中央線 (名古屋地区)|中央本線]]:名古屋駅 -(名古屋市中川区) * {{JR海駅番号|CJ}} [[関西線 (名古屋地区)|関西本線]]:名古屋駅 - ([[笹島信号場]]) - [[八田駅]] -(名古屋市中川区) ; [[名古屋鉄道]](名鉄) * {{名鉄駅番号|NH}} [[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]:(名古屋市西区)- [[名鉄名古屋駅]] -(名古屋市中川区) ※ 北隣の[[栄生駅]]も、当区と西区との境に所在する。 ; [[近畿日本鉄道]](近鉄) * {{近鉄駅番号|E}} [[近鉄名古屋線|名古屋線]]:[[近鉄名古屋駅]] - [[米野駅]] - [[黄金駅 (愛知県)|黄金駅]] - [[烏森駅]] - [[近鉄八田駅]] -(名古屋市中川区) ; [[名古屋臨海高速鉄道]] * {{Color|navy|■}}[[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|西名古屋港線(あおなみ線)]]:名古屋駅 - [[ささしまライブ駅]] -([[笹島信号場]])-(名古屋市中川区) ==== 地下鉄 ==== ; [[名古屋市交通局]](名古屋市営地下鉄) * [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Higashiyama Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]:(名古屋市中区)- [[名古屋駅]] - [[亀島駅]] - [[本陣駅]] - [[中村日赤駅]] - [[中村公園駅]] - [[岩塚駅]] -(名古屋市中川区) * [[File:Nagoya Subway Logo V2 (Sakura-dori Line).svg|18px]] [[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]:[[太閤通駅]] - 名古屋駅 - [[国際センター駅 (愛知県)|国際センター駅]] -(名古屋市中区) ※ 地下鉄[[八田駅]]は中川区に所在するが、当区から徒歩圏内にある。 === バス === ==== バス路線 ==== * [[名古屋市営バス]] ** [[名古屋市営バス稲西営業所]] * [[名鉄バス]] ** [[名鉄バス名古屋中央営業所]] * [[三重交通]] ; 主なバスターミナル * [[名古屋市交通局]] ** [[名古屋駅バスターミナル]] ** [[名古屋市営バス#バス専用ターミナル|本陣バスターミナル]] ** [[名古屋市営バス#バス専用ターミナル|中村公園バスターミナル]] * [[名鉄バス]] ** [[名鉄バスセンター]] === 道路 === ==== 高速道路 ==== ;[[名古屋高速道路]] *[[名古屋高速都心環状線|都心環状線]]:(名古屋市中川区)- (JCT)[[新洲崎ジャンクション|新洲崎JCT]] - (R05)[[錦橋出口]]/(R06)[[名駅入口]] -(名古屋市西区) *[[名古屋高速5号万場線|5号万場線]]:(JCT)[[新洲崎ジャンクション|新洲崎JCT]] -(名古屋市中川区)- (502,512)[[烏森出入口]] -(名古屋市中川区) ==== 国道 ==== *区内には一般国道が1本も走っていない。 ==== 県道 ==== ; 主要地方道 * [[愛知県道60号名古屋長久手線]]([[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]) * [[愛知県道68号名古屋津島線]](太閤通・名駅通・[[桜通 (名古屋市)|桜通]]) ; 一般県道 * [[愛知県道106号鳥ヶ地名古屋線]] * [[愛知県道107号中川中村線]](江川線) * [[愛知県道115号津島七宝名古屋線]] * [[愛知県道190号名古屋一宮線]] * [[愛知県道200号名古屋甚目寺線]]([[外堀通 (名古屋市)|外堀通]]) * [[愛知県道229号八田停車場線]] ==== 市道 ==== ; 主要地方道 * [[名古屋市道名古屋環状線]](環状線) * 名古屋市道愛知名駅南線([[名駅通]]) * [[名古屋市道山王線]](名駅通) * [[名古屋市道江川線]](江川線) ==== 幹線道路の道路通称名 ==== ; <南北の通り> * [[名古屋市道名古屋環状線|環状線]] * [[名駅通]] * [[名古屋市道江川線|江川線]] ; <東西の通り> * [[外堀通 (名古屋市)|外堀通]] * [[桜通 (名古屋市)|桜通]] * [[錦通 (名古屋市)|錦通]] * [[愛知県道68号名古屋津島線|太閤通]] * [[広小路通 (名古屋市)|広小路通]] * [[若宮大通]] * [[大須通]] == 教育 == === 専門職大学 === [[File:Mode Gakuen Spiral Towers.JPG|thumb|180px|[[モード学園スパイラルタワーズ]]]] ; 私立 * [[国際ファッション専門職大学]] 名古屋キャンパス * [[名古屋国際工科専門職大学]] === 大学院大学 === ; 私立 * [[グロービス経営大学院大学]] 名古屋キャンパス * [[事業構想大学院大学]] 名古屋校 === 大学 === [[File:Aichi University Nagoya Campus from Sasashima-raibu Station.jpg|thumb|180px|[[愛知大学]] 名古屋キャンパス]] [[File:Nagoya College of Music Building C 20151024.JPG|thumb|180px|[[名古屋音楽大学]]]] ; 私立 * [[愛知大学]] 名古屋キャンパス * [[産業能率大学]] [[産業能率大学#キャンパスと交通アクセス|中部事業部]] * [[同朋大学]] * [[名古屋音楽大学]] ※ 他に、[[東京通信大学]]、[[東京福祉大学]]、[[名城大学]]、[[名古屋経済大学]]のサテライトキャンパスや広報センターが設置されている。 === 専修学校 === {{Div col}} * [[さつき調理・福祉学院]] * [[東海医療科学専門学校]] * [[学校法人立志舎]] ** [[東京IT会計専門学校]] 名古屋校 ** [[東京法律専門学校]] 名古屋校 * [[トライデントデザイン専門学校]] * [[学校法人日本教育財団]] ** [[名古屋医専]] ** [[名古屋モード学園]] ** [[HAL (専門学校)|HAL名古屋]] * [[名古屋未来工科専門学校]] * [[日本デザイナー芸術学院 名古屋校]] * [[日本マンガ芸術学院]] * [[日本聴能言語福祉学院]] * [[学校法人名古屋大原学園]] ** 大原簿記情報医療専門学校 ** 大原法律公務員専門学校 ** 大原トラベル・ホテル・ウエディング専門学校 {{Div col end}} === 高等学校 === ; 県立 * [[愛知県立松蔭高等学校]] * [[愛知県立中村高等学校]] ; 私立 * [[同朋学園 同朋高等学校]] * [[名城大学附属高等学校]] * [[愛知産業大学工業高等学校]](岩塚校舎) === 中学校 === ; 市立 {{Div col}} * [[名古屋市立笹島中学校]] * [[名古屋市立黄金中学校]] * [[名古屋市立豊国中学校]] * [[名古屋市立笈瀬中学校]] * [[名古屋市立日比津中学校]] * [[名古屋市立豊正中学校]] * [[名古屋市立御田中学校]] {{Div col end}} ; 私立 * [[星槎名古屋中学校]] === 小学校 === ; 市立 {{Div col}} * [[名古屋市立笹島小学校]] * [[名古屋市立米野小学校]] * [[名古屋市立牧野小学校]] * [[名古屋市立日比津小学校]] * [[名古屋市立ほのか小学校]] * [[名古屋市立日吉小学校]] * [[名古屋市立柳小学校]] * [[名古屋市立千成小学校]] * [[名古屋市立中村小学校]] * [[名古屋市立豊臣小学校]] * [[名古屋市立諏訪小学校]] * [[名古屋市立稲葉地小学校]] * [[名古屋市立稲西小学校]] * [[名古屋市立岩塚小学校]] * [[名古屋市立八社小学校]] {{Div col end}} === インターナショナルスクール === * [[名古屋朝鮮初級学校]] == 観光 == [[File:Myogyoji2.jpg|thumb|180px|[[妙行寺 (名古屋市中村区中村町)|妙行寺]]]] [[File:Nakamurakouen5.JPG|thumb|180px|[[中村公園]]]] [[File:Yanagi-bashi Chuo Shijo Market 20141103.JPG|thumb|180px|[[柳橋中央市場]]]] [[File:JP-Aichi-Midland -Square-Building-Observation -Deck-Inside-View.JPG|thumb|180px|[[ミッドランドスクエア]]<br />スカイプロムナード]] [[File:名古屋駅前 - panoramio (3).jpg|thumb|180px|[[名古屋駅]]前]] [[File:名古屋中村区名駅 広小路通 - panoramio.jpg|thumb|180px|[[広小路通 (名古屋市)|広小路通]]]] [[File:Hideyoshi & Kiyomasa Memorial Museum - 1.jpg|thumb|180px|[[中村公園文化プラザ#秀吉清正記念館(2階)|名古屋市秀吉清正記念館]]]] === 名所・旧跡 === ; 城郭 {{Div col}} * [[城屋敷町 (名古屋市)#地名の由来|稲葉地城]] * [[岩塚城]] * [[大秋城]] * [[烏森城]] * [[栗山城]] * [[米野城]] * [[日比津城]] {{Div col end}} ; 寺院 {{Div col}} * [[願成寺 (名古屋市)|願成寺]] * [[常泉寺 (名古屋市)|常泉寺]] - [[豊臣秀吉]]の生誕地と伝えられている。 * [[白王寺]] - 中村観音 * [[法蔵寺 (名古屋市中村区)|法蔵寺]] * [[妙行寺 (名古屋市中村区中村町)|妙行寺]] - 正悦山。[[加藤清正]]の出生地と伝えられている。 * [[妙行寺 (名古屋市中村区五反城町)|妙行寺]] - 広居山 * [[凌雲寺]] {{Div col end}} ; 主な神社 {{Div col}} * [[金山神社 (名古屋市中村区)|金山神社]] * [[熊野社 (名古屋市中村区)|熊野社]] * [[七所社]] - 境内には東征の際に日本武尊が庄内川の渡し船を待つ間に腰掛けたと伝わる日本武尊腰掛岩や岩塚の地名の由来となった3ヶ所の古墳がある。 * [[下中八幡宮]] * [[素盞男神社]] - [[酉の市]]が行われる。 * [[椿神社 (名古屋市)|椿神社]] * [[豊国神社 (名古屋市)|豊国神社]] * [[白龍神社]] * [[向島神社]] {{Div col end}} ; 街道 * [[佐屋街道]] ** [[岩塚宿]] ** [[遍慶寺]](尾張守護・斯波氏の一族の吉田重氏が築城したと伝わる岩塚城の城址石碑がある。) ** [[光明寺 (名古屋市中村区)|光明寺]](境内には三十三観音像がある。) ** 七所社の道標(かつて、岩塚宿の高札場があった場所。) ; その他の主な史跡 * [[中村遊廓]] * [[名古屋モスク]] === 観光スポット === ; 文化施設 * [[中村公園文化プラザ#秀吉清正記念館(2階)|名古屋市秀吉清正記念館]] * [[大一美術館]] * [[中村公園記念館]] * [[名古屋東洋官窯陶磁美術館]] * [[名古屋市演劇練習館]] * [[名古屋四季劇場]] * [[Zepp NAGOYA|Zepp 名古屋]] ; その他 {{Div col}} * [[JRセントラルタワーズ]] ** [[ジェイアール名古屋タカシマヤ]] ** [[名古屋マリオットアソシアホテル]] * [[JRゲートタワー]] **[[ゲートウォーク]] * [[ミッドランドスクエア]] * [[モード学園スパイラルタワーズ]] * [[JPタワー名古屋]] ** [[JPタワー名古屋#KITTE名古屋|KITTE名古屋]] * [[大名古屋ビルヂング]] ** [[大名古屋ビルヂング#ダイナード|ダイナード地下街]] * [[名古屋国際センター]] * [[名古屋駅#ナナちゃん|ナナちゃん人形]] * [[愛知県産業労働センター]](ウィンクあいち) * [[名古屋クロスコートタワー]] * [[センチュリー豊田ビル]] * [[シンフォニー豊田ビル]] * [[アクアタウン納屋橋]] * [[ささしまライブ]] ** [[グローバルゲート]] ** [[マーケットスクエアささしま]](旧・ラ・バーモささしま) ** [[中川運河]] * [[柳橋中央市場]] {{Div col end}} ; 公園 * [[中村公園]] * [[米野公園]] * [[日比津公園]] * [[稲葉地公園]] * [[横井山緑地]] ; 温泉 * [[中京温泉]] == 文化・名物 == === 祭事・催事 === ; 主な祭事 * [[七所社#きねこさ祭り|きねこさ祭り]](御田祭り)- 毎年、旧暦1月17日に[[七所社]]行われる。尾張三大奇祭で名古屋市[[無形民俗文化財]]のきねこさ祭り(別名:御田祭り)が行われる。 * [[豊国神社 (名古屋市)#主な祭り・催事|太閤祭り]] === スポーツ === ==== 公営競技 ==== ; [[競輪]] * [[競輪場]] ** [[名古屋競輪場]] == 出身・関連著名人 == [[File:Toyotomi_Hideyoshi_c1598_Kodai-ji_Temple.png|thumb|180px|[[豊臣秀吉]]]] [[File:Kato Kiyomasa.jpg|thumb|180px|[[加藤清正]]]] === 歴史人物 === * [[豊臣秀吉]](戦国時代の最高権力者、[[三英傑]]の1人) * [[豊臣秀長]](豊臣秀吉の異父弟、大和大納言) * [[加藤清正]](戦国武将、豊臣秀吉の子飼い家臣、[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]初代藩主) * [[小出秀政]](戦国武将、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]初代藩主。[[但馬国|但馬]][[出石藩]]小出家初代頭首) * [[中村一氏]](戦国武将、豊臣家家臣、[[三中老]]の1人、出自は諸説有り。) * [[中村勘三郎 (初代)|中村勘三郎]](江戸時代の[[歌舞伎]]役者、[[中村座]]の創始者) * [[坪内鋭雄]]([[坪内逍遥]]の甥、[[作家]]、[[日露戦争]]に従軍し戦死) * [[饗庭孝男]]([[文芸評論家]]) === 政治家 === * [[近藤昭一]](衆議院議員・[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]愛知県連代表) * [[斎藤嘉隆]](参議院議員) === 芸能 === * [[玉木宏]]([[俳優]]) * [[中村浩一 (プロデューサー)|中村浩一]]( [[実業家]]・[[芸能プロモーター]]・[[パーソナリティー]]・名古屋アイドル「[[dela]]」事務所社長) * [[森下千里]](タレント) * [[矢野晶裕]]([[アーティスト]]、[[音楽プロデューサー]]、[[タレント]]、[[ディスクジョッキー|DJ]]) * [[山田まりや]]([[タレント]]・[[俳優|女優]]) === スポーツ選手 === * [[市原孝行]](元[[力士]]) * [[伊藤文隆]](元プロ野球選手) * [[平野謙 (野球)|平野謙]](元プロ野球選手) * [[秋田豊]](元プロサッカー選手) * [[岡山哲也]](元プロサッカー選手) * [[姫野和樹]]([[ラグビーユニオン|ラグビー]]選手) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[デ・ラ・ファンタジア]]:[[2005年日本国際博覧会]]ささしまサテライト会場 ** [[Pokémon The Park 2005]] * [[名駅地下街サンロード]] == 外部リンク == {{Commonscat|Nakamura-ku, Nagoya}} {{Wikivoyage|ja:中村区}} * [https://www.city.nagoya.jp/nakamura/ 名古屋市中村区] {{Geographic Location | Centre = 中村区 | North = [[清須市]] | Northeast = [[西区 (名古屋市)|西区]] | East = [[中区 (名古屋市)|中区]] | Southeast = | South = [[中川区]] | Southwest = | West = [[大治町]] | Northwest = [[あま市]] | image = }} {{名古屋市中村区の町・字}} {{愛知県の自治体}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかむらく}} [[Category:中村区|*]] [[Category:名古屋市の区]] [[Category:1937年に成立した行政区画]]
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常滑市
常滑市(とこなめし)は、愛知県の尾張地方にある市。 知多半島西岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。伊勢湾の海上埋立地には中部国際空港(セントレア)がある。 窯業が伝統産業であり、常滑焼は日本六古窯の一つ(他は瀬戸、越前、信楽、丹波、備前の五つ)に数えられ、この中でも最も古く最も規模が大きい。 市名は土壌に由来するとされ、「常」は「床」(地盤)、「滑」は「滑らか」という意味である。古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられている。 旧市街にはレンガ煙突が点在するなど、窯業で栄えた古くからの町並みがそのまま残っている。この地域はやきもの散歩道として整備されており、登り窯や黒板塀、「土管坂」などの情緒ある風景が見られ、前衛作家などのギャラリーも多く存在する。 2005年には伊勢湾の当市沖に中部国際空港(セントレア)が開港。これに合わせて鉄道(名鉄空港線)および道路(セントレアラインなど)の整備が行われ、交通アクセスの利便性が向上した。その一方、市域南部には名鉄知多新線が通るものの鉄道駅は存在せず、この地域では路線バスが唯一の公共交通機関となっている。 知多半島西海岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。同湾に沿って北側に知多市、南側に美浜町があり、半島中央部の丘陵地帯を越えた先に阿久比町、半田市、武豊町があり、互いに市域・町域を接している。 海岸は遠浅であるものの、中部国際空港及び中部臨空都市空港対岸部(通称「前島」)のある常滑沖や、名古屋港口埋立地として伊勢湾北部に沿ってコンビナート建設のため埋め立て事業が行なわれた。当市の北の知多市を南限として埋め立ては進んでいないが、これにより図らずも、環境省とは別に愛知県が絶滅危惧種に指定している海浜植物(スナビキソウやマルバアカザなど)の残存をもたらしている。 丘陵の連なった知多半島特有の地形のため、平地は海沿いの比較的狭い部分に限られ、市域の大部分は丘陵地である。丘陵は低くなだらかで、市内最高所でも標高100mに満たない。海側に面する市北部の丘陵地は、ほとんどすべて農地と宅地用に造成された。 この点、海側の丘が一部そのまま残されている東海市(聚楽園付近)、知多市(日長-古見付近)と異なる。 気候は一年を通じて比較的温暖であるが、冬には三重県の鈴鹿山脈方面から「鈴鹿おろし」と呼ばれる風が伊勢湾を越えて吹き寄せ、まれに降雪もある。 当市は大合併の影響もあり、南北に細長い地形であり、ひとつの枠組みでは対応が難しく、中学校の校区や公民館などの公共施設においては、合併前の5町1村の枠組みが原則的に踏襲されている。北から青海地区(せいかい、旧大野町と三和村)、鬼崎地区(おにざき、旧鬼崎町)、常滑地区(とこなめ、旧常滑町)、南陵地区(なんりょう、旧西浦町と小鈴谷町)に分かれる。 知多半島の市では最も人口が少ない。1980年代から人口が減少傾向であったが、2005年に中部国際空港が開港以降は人口が増加に転じた。 地名の初見は、猿投神社『大般若経』巻70の奥書に「于時応永四年丁丑五月十三日 於尾張国智多郡堤田庄常滑郷宮坂草庵,□□□畢」とある。 また、『言継卿記』弘治3年3月16日条に「とこなべ」、天正9年3月7日付越前竜沢寺勧化帳に「トコナベ」という名が見られる。 当市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。平安時代後期頃から中世にかけて当市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、北は青森県から南は鹿児島県まで、全国の中世遺跡において出土する。 室町時代には三河の守護である一色氏が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の港町である大野に大野城(宮山城)を築いた。のちに一色氏の被官である佐治氏が主家にかわって大野城主となり、佐治氏の下で大野は伊勢湾東岸の港湾として繁栄した。 戦国時代には、知多郡緒川(現・東浦町)の領主水野氏の一族が現市域中心部に常滑城を築き、大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分した。しかし常滑水野氏は本能寺の変直後に明智光秀に味方したことから没落し、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。また、常滑の焼き物も茶の湯が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。 江戸時代には、現市域の村々は尾張藩領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから廻船、酒造、木綿生産などの商工業が行われる町場的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。この時代には、かつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。 明治時代になると土管、タイルなども生産されるようになり、近代的な窯業の町に発展した。中でも1924年創立の地元製陶会社「伊奈製陶」(のちINAX、現在のLIXIL)は便器など衛生陶器の分野において全国第2位のシェアを占め、タイルにおいては国内はもとより世界的にもトップとなる大企業に成長する。 第二次世界大戦後には「昭和の大合併」により、1954年に常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町と三和村の4町1村が合併して成立した。1957年に南の小鈴谷町の一部を編入して現在の市域に拡大した。 2017年(平成29年)4月18日には、「きっと恋する六古窯 -日本生まれ日本育ちのやきもの産地-」の名称で、日本遺産に常滑焼、常滑の陶器の生産用具・製品、連房式登窯、無形文化財常滑焼の製作技術、やきもの散歩道と文化的景観などが登録された。 市財政は窯業などの事業者からの税収のほか、常滑駅の近くに設置されたボートレースとこなめ(旧:常滑競艇場)で開催される市の競艇事業に支えられてきた。しかし近年は競艇の売上が落ち込み、進む高齢化に対して市の財政は悪化していた。 しかし、中部国際空港の開港によって税収が増加し、平成18,19年度は地方交付税の不交付団体となった(27,28年は外れている。地方交付税)。 平成の市町村合併では、当初知多半島5市5町の合併研究会が設置されたが廃止され、次いで知多南部2市4町による研究会が近い将来の合併を見送ったため、当面は現在の規模が維持されることになった。 窯業産地という縁があり、2018年(平成30年)には中華人民共和国の宜興市(江蘇省無錫市)と友好都市提携を結んだ。 近隣の半田市、碧南市、西尾市と「竜の子街道(UMAMI ROAD)」という地域おこしプロジェクトを展開している。4市を合わせるとタツノオトシゴに似ていることから命名。常滑の醸造業や器から西尾の抹茶までを連携させ、うま味を重視する和食をアピールすることを目指している。 2005年に開催された愛知万博では「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われ、県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。当市はマレーシアがフレンドシップ相手国だった。 中部国際空港は、ドイツのバイエルン州にあるミュンヘン国際空港、台湾の台中市にある台中国際空港と姉妹空港提携を結んでいる。このミュンヘン空港のレストラン「エアブロイ」で醸造されたビールは毎年、中部国際空港にルフトハンザ・カーゴにより空輸され、中部国際空港内のレストランで味わうことができる。 近年ではINAXの常滑本社工場をはじめとして工場の閉鎖、中小工場の廃業が相次ぎ、経済の停滞傾向が著しい時期があり、これに対して窯業家や市民によって焼き物の町としての観光化と窯業の再活性化に向けた努力が行われている。人口は1975年には5万5,000人を超えたが、その後は減少に転じ、1990年代後半から2000年代前半にかけて5万1,000人を割り込んだ。しかし、2005年の中部国際空港の開港に伴い、労働人口が少しずつ流入したことに加えて新興住宅地(かじま台、北汐見坂、虹の丘、飛香台など)の開発により定住人口も増加に転じており、2015年には約5万7,000人にまで増加している。 2005年の中部国際空港開港に際して、空港島のうち東側地域とその対岸部の前島を合わせた約230ヘクタールを中部臨空都市として開発した。2015年には前島にイオンモール常滑が開業している。2019年には空港島に愛知県国際展示場がオープンした。なお、常滑市には常滑競艇場がある。 窯業は当地では伝統的な産業である。 江戸時代後期に復興した常滑焼は、幕末に中国(当時は清朝)から導入された技術で連房式登り窯が作られ、大量生産が開始された。明治時代以降、陶管(陶製土管)やタイルの生産が開始され、陶管は全国の上下水道管のシェアの大部分を占め、産業資材や衛生陶器の分野において全国屈指の生産地に成長する。また、茶器、花器、鉢、干支の置物や招き猫などの民具、江戸時代に生産が開始された朱泥の日本茶用の道具(急須、湯飲みなど)は常滑焼を代表するものである。 工場は伝統的な中心地である常滑地区を中心に市域の各地に点在しており、南部の小鈴谷地区では日本酒「ねのひ」を製造する盛田による醸造業も行われている。 農業は、知多半島の地理的条件から田畑が狭く、また大きな河川がないためにため池に頼り、水不足に悩まされてきた。しかし現在は愛知用水によって農業用水が供給され、土地基盤整備事業による区画の整理や、農業用ダムの建設、機械化が行われて、近郊農業地帯になっており、主な特産品は、キャベツ、タマネギ、イチジクなどである。また、市内にあいち知多農業協同組合(JAあいち知多)の本部が置かれている。 漁業は、知多半島西岸の伊勢湾海上で行われる海苔の養殖が特に盛んである。 海苔養殖業の他に底引き網漁業、採貝漁業、刺し網漁業、潜水漁業などがある。主な水産物はアサリ、アナゴ、ガザミ、クルマエビ、シャコ、タイラギなどである。 中部国際空港の開港に合わせて、地元の要望により中部臨空都市の開発が愛知県によって行われている。これにより、空港島内には物流事業者およびホテルが進出している。2019年8月30日に愛知県国際展示場が開業した。空港対岸部(通称「前島」)は当初は工業用地とされ、部品の輸出入需要が見込める自動車製造関連企業の誘致を行ったものの、部品を空輸するよりも海外で現地生産する方がコストを抑えられるため誘致は失敗し、造成後も長らく空き地になっていた。そこで、一部を商業用地に転換して誘致を行った結果、2006年6月にイオンモール常滑の進出が発表され、それ以降は結婚式場や飲食店などが出店。めんたいパークとこなめ、NTPマリーナりんくう、コストコ中部空港倉庫店などが出店した。また、工業用地として維持された区画では、ユミコア日本触媒や名古屋メッキ工業などの工場や研究所が建設された。 市街地では、空港アクセス道路の国道155号、247号に沿って、ロードサイド型の店舗の進出が続き、2007年11月にカインズモール常滑が、2013年10月にヤマナカ常滑青海店が開業した。 市内に大学のキャンパスは存在しないが、名古屋芸術大学が常滑工房を、藤田医科大学が常滑教育病院を置いている。 1976年には愛知県立常滑高等学校から愛知県立常滑北高等学校が分離独立したが、2006年には両校が統合されて常滑高校が存続し、常滑高校は常滑北高校の敷地に移転した。 中部国際空港を発着する高速バス、船舶については中部国際空港の項を参照。 市の中心となる駅:常滑駅 空港線の施設の保有者(第三種鉄道事業者)は、第三セクターの中部国際空港連絡鉄道である。 中心市街に設置された常滑駅は、常滑線の下り終着駅である。中部国際空港の開港に際して常滑線を延伸させる形で空港線が設置され、常滑線と一体運行されている。 なお市南部に知多新線が通っているが、市内に駅はない。上野間駅(美浜町)が最寄駅となる。 名産として常滑焼や一口香(銘菓)がある。 2011年には野球チームの通信教育総合学園ROOKIES(日本野球連盟)が設立された。 2010年(平成22年)2月11日にはお笑いコンビのナインティナインの矢部浩之が「常滑親善大使」に就任した。「ナインティナインのオールナイトニッポン」でもコーナー化されている。 常滑市の公式キャラクターとして、招き猫をモチーフにした「トコタン」がある。2001年(平成13年)8月1日にボートレースとこなめのマスコットキャラクターとして生まれ、市制60周年を機会に平成26年度から市の公式キャラクターとなった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "常滑市(とこなめし)は、愛知県の尾張地方にある市。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "知多半島西岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。伊勢湾の海上埋立地には中部国際空港(セントレア)がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "窯業が伝統産業であり、常滑焼は日本六古窯の一つ(他は瀬戸、越前、信楽、丹波、備前の五つ)に数えられ、この中でも最も古く最も規模が大きい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "市名は土壌に由来するとされ、「常」は「床」(地盤)、「滑」は「滑らか」という意味である。古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "旧市街にはレンガ煙突が点在するなど、窯業で栄えた古くからの町並みがそのまま残っている。この地域はやきもの散歩道として整備されており、登り窯や黒板塀、「土管坂」などの情緒ある風景が見られ、前衛作家などのギャラリーも多く存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2005年には伊勢湾の当市沖に中部国際空港(セントレア)が開港。これに合わせて鉄道(名鉄空港線)および道路(セントレアラインなど)の整備が行われ、交通アクセスの利便性が向上した。その一方、市域南部には名鉄知多新線が通るものの鉄道駅は存在せず、この地域では路線バスが唯一の公共交通機関となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "知多半島西海岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。同湾に沿って北側に知多市、南側に美浜町があり、半島中央部の丘陵地帯を越えた先に阿久比町、半田市、武豊町があり、互いに市域・町域を接している。 海岸は遠浅であるものの、中部国際空港及び中部臨空都市空港対岸部(通称「前島」)のある常滑沖や、名古屋港口埋立地として伊勢湾北部に沿ってコンビナート建設のため埋め立て事業が行なわれた。当市の北の知多市を南限として埋め立ては進んでいないが、これにより図らずも、環境省とは別に愛知県が絶滅危惧種に指定している海浜植物(スナビキソウやマルバアカザなど)の残存をもたらしている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "丘陵の連なった知多半島特有の地形のため、平地は海沿いの比較的狭い部分に限られ、市域の大部分は丘陵地である。丘陵は低くなだらかで、市内最高所でも標高100mに満たない。海側に面する市北部の丘陵地は、ほとんどすべて農地と宅地用に造成された。 この点、海側の丘が一部そのまま残されている東海市(聚楽園付近)、知多市(日長-古見付近)と異なる。 気候は一年を通じて比較的温暖であるが、冬には三重県の鈴鹿山脈方面から「鈴鹿おろし」と呼ばれる風が伊勢湾を越えて吹き寄せ、まれに降雪もある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当市は大合併の影響もあり、南北に細長い地形であり、ひとつの枠組みでは対応が難しく、中学校の校区や公民館などの公共施設においては、合併前の5町1村の枠組みが原則的に踏襲されている。北から青海地区(せいかい、旧大野町と三和村)、鬼崎地区(おにざき、旧鬼崎町)、常滑地区(とこなめ、旧常滑町)、南陵地区(なんりょう、旧西浦町と小鈴谷町)に分かれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "知多半島の市では最も人口が少ない。1980年代から人口が減少傾向であったが、2005年に中部国際空港が開港以降は人口が増加に転じた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "地名の初見は、猿投神社『大般若経』巻70の奥書に「于時応永四年丁丑五月十三日 於尾張国智多郡堤田庄常滑郷宮坂草庵,□□□畢」とある。 また、『言継卿記』弘治3年3月16日条に「とこなべ」、天正9年3月7日付越前竜沢寺勧化帳に「トコナベ」という名が見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "当市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。平安時代後期頃から中世にかけて当市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、北は青森県から南は鹿児島県まで、全国の中世遺跡において出土する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "室町時代には三河の守護である一色氏が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の港町である大野に大野城(宮山城)を築いた。のちに一色氏の被官である佐治氏が主家にかわって大野城主となり、佐治氏の下で大野は伊勢湾東岸の港湾として繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "戦国時代には、知多郡緒川(現・東浦町)の領主水野氏の一族が現市域中心部に常滑城を築き、大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分した。しかし常滑水野氏は本能寺の変直後に明智光秀に味方したことから没落し、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。また、常滑の焼き物も茶の湯が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "江戸時代には、現市域の村々は尾張藩領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから廻船、酒造、木綿生産などの商工業が行われる町場的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。この時代には、かつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治時代になると土管、タイルなども生産されるようになり、近代的な窯業の町に発展した。中でも1924年創立の地元製陶会社「伊奈製陶」(のちINAX、現在のLIXIL)は便器など衛生陶器の分野において全国第2位のシェアを占め、タイルにおいては国内はもとより世界的にもトップとなる大企業に成長する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後には「昭和の大合併」により、1954年に常滑町、鬼崎町、西浦町、大野町と三和村の4町1村が合併して成立した。1957年に南の小鈴谷町の一部を編入して現在の市域に拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)4月18日には、「きっと恋する六古窯 -日本生まれ日本育ちのやきもの産地-」の名称で、日本遺産に常滑焼、常滑の陶器の生産用具・製品、連房式登窯、無形文化財常滑焼の製作技術、やきもの散歩道と文化的景観などが登録された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "市財政は窯業などの事業者からの税収のほか、常滑駅の近くに設置されたボートレースとこなめ(旧:常滑競艇場)で開催される市の競艇事業に支えられてきた。しかし近年は競艇の売上が落ち込み、進む高齢化に対して市の財政は悪化していた。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、中部国際空港の開港によって税収が増加し、平成18,19年度は地方交付税の不交付団体となった(27,28年は外れている。地方交付税)。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "平成の市町村合併では、当初知多半島5市5町の合併研究会が設置されたが廃止され、次いで知多南部2市4町による研究会が近い将来の合併を見送ったため、当面は現在の規模が維持されることになった。", "title": "行政" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "窯業産地という縁があり、2018年(平成30年)には中華人民共和国の宜興市(江蘇省無錫市)と友好都市提携を結んだ。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近隣の半田市、碧南市、西尾市と「竜の子街道(UMAMI ROAD)」という地域おこしプロジェクトを展開している。4市を合わせるとタツノオトシゴに似ていることから命名。常滑の醸造業や器から西尾の抹茶までを連携させ、うま味を重視する和食をアピールすることを目指している。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2005年に開催された愛知万博では「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われ、県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた。当市はマレーシアがフレンドシップ相手国だった。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "中部国際空港は、ドイツのバイエルン州にあるミュンヘン国際空港、台湾の台中市にある台中国際空港と姉妹空港提携を結んでいる。このミュンヘン空港のレストラン「エアブロイ」で醸造されたビールは毎年、中部国際空港にルフトハンザ・カーゴにより空輸され、中部国際空港内のレストランで味わうことができる。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "近年ではINAXの常滑本社工場をはじめとして工場の閉鎖、中小工場の廃業が相次ぎ、経済の停滞傾向が著しい時期があり、これに対して窯業家や市民によって焼き物の町としての観光化と窯業の再活性化に向けた努力が行われている。人口は1975年には5万5,000人を超えたが、その後は減少に転じ、1990年代後半から2000年代前半にかけて5万1,000人を割り込んだ。しかし、2005年の中部国際空港の開港に伴い、労働人口が少しずつ流入したことに加えて新興住宅地(かじま台、北汐見坂、虹の丘、飛香台など)の開発により定住人口も増加に転じており、2015年には約5万7,000人にまで増加している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2005年の中部国際空港開港に際して、空港島のうち東側地域とその対岸部の前島を合わせた約230ヘクタールを中部臨空都市として開発した。2015年には前島にイオンモール常滑が開業している。2019年には空港島に愛知県国際展示場がオープンした。なお、常滑市には常滑競艇場がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "窯業は当地では伝統的な産業である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "江戸時代後期に復興した常滑焼は、幕末に中国(当時は清朝)から導入された技術で連房式登り窯が作られ、大量生産が開始された。明治時代以降、陶管(陶製土管)やタイルの生産が開始され、陶管は全国の上下水道管のシェアの大部分を占め、産業資材や衛生陶器の分野において全国屈指の生産地に成長する。また、茶器、花器、鉢、干支の置物や招き猫などの民具、江戸時代に生産が開始された朱泥の日本茶用の道具(急須、湯飲みなど)は常滑焼を代表するものである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "工場は伝統的な中心地である常滑地区を中心に市域の各地に点在しており、南部の小鈴谷地区では日本酒「ねのひ」を製造する盛田による醸造業も行われている。", "title": 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常滑市(とこなめし)は、愛知県の尾張地方にある市。 知多半島西岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。伊勢湾の海上埋立地には中部国際空港(セントレア)がある。
{{出典の明記|date=2019年11月}} {{日本の市 | 画像 = Yakimonosanpomichi1.JPG | 画像の説明 = [[やきもの散歩道|土管坂]] | 市旗 = [[ファイル:Flag of Tokoname, Aichi.svg|100px|border|常滑市旗]] | 市旗の説明 = 常滑[[市町村旗|市旗]] | 市章 = [[ファイル:Emblem of Tokoname, Aichi.svg|75px|常滑市章]] | 市章の説明 = 常滑[[市町村章|市章]]<br />[[1955年]][[6月1日]]制定 | 都道府県 = 愛知県 | 自治体名 = 常滑市 | コード = 23216-5 | 隣接自治体 = [[知多市]]、[[半田市]]、[[知多郡]][[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[阿久比町]]、[[武豊町]] | 木 = [[クロマツ]] | 花 = [[サザンカ]] | シンボル名 = 他のシンボル | 鳥など = | 郵便番号 = 479-8610 | 所在地 = 常滑市飛香台3丁目3番地の5<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-23|display=inline,title}}<br />[[File:Tokoname City Hall 2023 ac (8).jpg|250px]]<!--{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=no|frame-align=center|frame-width=230|frame-height=200|type=shape-inverse|fill=#fffff0|stroke-color=#cc0000|stroke-width=1|type2=point|marker2=town-hall|text=市庁舎位置}}--> | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|23|216|image=基礎自治体位置図 23216.svg|村の色分け=yes}} | 特記事項 = }} [[ファイル:Isewan.JPG|thumb|200px|大野城展望台から伊勢湾を望む]] '''常滑市'''(とこなめし)は、[[愛知県]]の[[尾張国|尾張地方]]にある[[市]]。 [[知多半島]]西岸の中央部に位置し、西側は[[伊勢湾]]に面している。伊勢湾の海上[[埋立地]]には[[中部国際空港]](セントレア)がある。 == 概要 == [[窯業]]が伝統産業であり、[[常滑焼]]は[[六古窯|日本六古窯]]の一つ(他は[[瀬戸焼|瀬戸]]、[[越前焼|越前]]、[[信楽焼|信楽]]、[[丹波立杭焼|丹波]]、[[備前焼|備前]]の五つ)に数えられ、この中でも最も古く最も規模が大きい。 市名は[[土壌]]に由来するとされ、「常」は「床」(地盤)、「滑」は「滑らか」という意味である。古くからこの地は粘土層の露出が多く、その性質が滑らかなため「とこなめ」と呼び、そうした習俗が地名として定着していったと考えられている。 旧市街にはレンガ煙突が点在するなど、窯業で栄えた古くからの町並みがそのまま残っている。この地域は[[やきもの散歩道]]として整備されており、[[登り窯]]や黒板塀、「土管坂」などの情緒ある風景が見られ、[[アバンギャルド|前衛作家]]などの[[ギャラリー (美術)|ギャラリー]]も多く存在する。 2005年には[[伊勢湾]]の当市沖に[[中部国際空港]](セントレア)が開港。これに合わせて鉄道([[名鉄空港線]])および道路([[セントレアライン]]など)の整備が行われ、交通アクセスの利便性が向上した。その一方、市域南部には[[名鉄知多新線]]が通るものの[[鉄道駅]]は存在せず、この地域では[[路線バス]]が唯一の[[公共交通機関]]となっている。 == 地理 == [[ファイル:矢田川河口 - panoramio.jpg|thumb|200px|[[矢田川 (知多半島)|矢田川]]河口]] 知多半島西海岸の中央部に位置し、西側は伊勢湾に面している。同湾に沿って北側に[[知多市]]、南側に[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]があり、半島中央部の[[丘陵|丘陵地帯]]を越えた先に[[阿久比町]]、[[半田市]]、[[武豊町]]があり、互いに市域・町域を接している。 [[海岸]]は遠浅であるものの、中部国際空港及び[[中部臨空都市]]空港対岸部(通称「前島」)のある常滑沖や、[[名古屋港]]口埋立地として伊勢湾北部に沿って[[コンビナート]]建設のため埋め立て事業が行なわれた。当市の北の知多市を南限として埋め立ては進んでいないが、これにより図らずも、[[環境省]]とは別に愛知県が[[絶滅危惧種]]に指定している[[海浜植物]]([[スナビキソウ]]や[[アカザ (植物)#アカザ属|マルバアカザ]]など)の残存をもたらしている。 丘陵の連なった知多半島特有の地形のため、平地は海沿いの比較的狭い部分に限られ、市域の大部分は丘陵地である。丘陵は低くなだらかで、市内最高所でも標高100mに満たない。海側に面する市北部の丘陵地は、ほとんどすべて[[農地]]と[[宅地]]用に[[造成]]された。 この点、海側の[[丘]]が一部そのまま残されている[[東海市]]([[聚楽園公園|聚楽園]]付近)、知多市(日長-古見付近)と異なる。 気候は一年を通じて比較的温暖であるが、冬には[[三重県]]の[[鈴鹿山脈]]方面から「[[颪#日本の「〜颪」|鈴鹿おろし]]」と呼ばれる風が伊勢湾を越えて吹き寄せ、まれに[[降雪]]もある。 === 地形 === ; 山地 * [[本宮山 (常滑市)|本宮山]] ; 河川 * [[矢田川 (知多半島)|矢田川]] ; 湖沼 * [[半田池]] === 地名 === [[File:Tokoname city center area Aerial photograph.1987.jpg|thumb|200px|[[1987年]]([[昭和]]62年)撮影の市中心部周辺の空中写真。中部臨空都市の埋め立て建設前の様子。1987年撮影の9枚を合成作成。{{国土航空写真}}。]] 当市は[[日本の市町村の廃置分合|大合併]]の影響もあり、南北に細長い地形であり、ひとつの枠組みでは対応が難しく、中学校の校区や[[公民館]]などの公共施設においては、合併前の5町1村の枠組みが原則的に踏襲されている。北から青海地区(せいかい、旧[[大野町 (愛知県知多郡)|大野町]]と[[三和村 (愛知県知多郡)|三和村]])、鬼崎地区(おにざき、旧[[鬼崎町]])、常滑地区(とこなめ、旧[[常滑町]])、南陵地区(なんりょう、旧[[西浦町 (愛知県知多郡)|西浦町]]と[[小鈴谷町]])に分かれる。 ; 青海地区 * 大野町(合併時旧大野町域・鬼崎町西之口の一部より成立) * 矢田(旧三和村) * 久米(旧三和村) * 金山(旧三和村) * 小倉町([[1976年]]、金山・西之口の各一部より成立) * 青海町([[1976年]]、金山・西之口の各一部より成立) * <del>南粕谷</del>([[1980年]]に知多市南粕谷の一部より編入、[[1986年]]廃止) * 大塚町([[1986年]]、金山・久米・南粕谷の各一部より成立) * 晩台町([[1986年]]、南粕谷・金山の各一部より成立) * 北汐見坂([[2011年]]、西之口のほぼ全域および青海町・金山・蒲池の各一部より成立) ; 鬼崎地区 * 西之口(旧鬼崎町<!--、[[2011年]]廃止-->) * 蒲池(旧鬼崎町) * 榎戸(旧鬼崎町) * 多屋(旧鬼崎町) * 西之口1〜10丁目([[1976年]]、西之口の一部より成立) * 住吉町(1976年、西之口の一部より成立) * 蒲池町(1976年、蒲池の一部より成立) * 小林町(1976年、蒲池の一部より成立) * 神明町([[1977年]]、榎戸・蒲池の各一部より成立) * 榎戸町(1977年、榎戸の一部より成立) * 港町(1977年、榎戸の一部より成立) * 新田町(1977年、榎戸の一部より成立) * 本郷町(1977年、榎戸の一部より成立) * 明和町(1977年、多屋・榎戸の各一部より成立) * 多屋町(1977年、多屋・常滑の各一部より成立) * 森西町(1977年、常滑・多屋の各一部より成立) * 錦町(1977年、多屋・常滑の各一部より成立) * 末広町(1977年、多屋より成立) * 大鳥町(1977年、多屋より成立) * 大和町(1977年、多屋より成立) * 新浜町([[1984年]]、多屋・榎戸の各一部より成立) * 若松町([[1993年]]、蒲池・榎戸・金山の各一部より成立) * 虹の丘([[2019年]]、大鳥町・大和町・森西町・錦町の各一部より成立) ; 常滑地区 * ([[大字]]なしの地域=旧常滑町の区域。ここでは常滑と表記) * 北条([[1978年]]、常滑の一部より成立) * 原松町(1978年、常滑の一部より成立) * 陶郷町(1978年、常滑の一部より成立) * [[鯉江本町]](1978年、常滑の一部より成立) * [[新開町 (常滑市)|新開町]](1978年、常滑の一部より成立) * 栄町(1978年、常滑の一部より成立) * 瀬木町(1978年、常滑の一部より成立) * 本町(1978年、常滑の一部より成立) * 千代ケ丘(1978年、常滑の一部より成立) * 奥条(1978年、常滑の一部より成立) * 奥栄町(1978年、常滑の一部より成立) * 白山町(1978年、常滑の一部より成立) * 大曽町(1978年、常滑の一部より成立) * 市場町(1978年、常滑の一部より成立) * 山方町(1978年、常滑・樽水の各一部より成立) * 保示町(1978年、常滑の一部より成立) * [[中部国際空港|セントレア]]([[2002年]]、埋立地より成立) * [[りんくう町]](2002年、埋立地より成立) * かじま台(2006年、奥栄町・白山町・常滑の各一部より成立) * 飛香台([[2012年]]、常滑・金山の各一部より成立) ; 南陵地区 * 樽水(旧西浦町) * 西阿野(旧西浦町) * 苅屋(旧西浦町) * 檜原(旧西浦町) * 古場(旧西浦町) * 熊野(旧西浦町) * 小鈴谷(旧小鈴谷町) * 広目(旧小鈴谷町) * 大谷(旧小鈴谷町) * 大谷朝陽ヶ丘(成立年不明、大谷の一部より成立) * 坂井(旧小鈴谷町) * 樽水町([[1979年]]、樽水の一部より成立) * 泉町(1979年、樽水の一部より成立) * 塩田町(1979年、樽水・西阿野の各一部より成立) * 井戸田町(1979年、樽水・西阿野の各一部より成立) * 阿野町(1979年、西阿野・樽水の各一部より成立) * 唐崎町(1979年、西阿野・熊野の各一部より成立) * 熊野町(1979年、熊野・西阿野の各一部より成立) * 苅屋町(1979年、苅屋・古場の各一部より成立) * 古場町(1979年、古場・苅屋の各一部より成立) {{常滑市の町・字}} === 気候 === {{Weather box|location=セントレア(2005年 - 2020年)|single line=Y|metric first=Y|Jan record high C=16.3|Feb record high C=19.6|Mar record high C=22.9|Apr record high C=27.1|May record high C=30.3|Jun record high C=34.6|Jul record high C=35.6|Aug record high C=36.1|Sep record high C=35.6|Oct record high C=30.1|Nov record high C=24.3|Dec record high C=20.8|year record high C=36.1|Jan high C=9.1|Feb high C=9.7|Mar high C=13.0|Apr high C=17.9|May high C=22.7|Jun high C=25.7|Jul high C=29.3|Aug high C=31.2|Sep high C=27.7|Oct high C=22.6|Nov high C=17.1|Dec high C=11.6|year high C=19.8|Jan mean C=6.3|Feb mean C=6.6|Mar mean C=9.3|Apr mean C=13.9|May mean C=18.8|Jun mean C=22.5|Jul mean C=26.1|Aug mean C=27.8|Sep mean C=24.6|Oct mean C=19.6|Nov mean C=14.2|Dec mean C=8.8|year mean C=16.6|Jan low C=3.1|Feb low C=3.2|Mar low C=5.7|Apr low C=10.2|May low C=15.4|Jun low C=19.9|Jul low C=23.7|Aug low C=25.2|Sep low C=21.8|Oct low C=16.5|Nov low C=10.7|Dec low C=5.6|year low C=13.4|Jan record low C=-4.1|Feb record low C=-3.0|Mar record low C=-0.6|Apr record low C=1.7|May record low C=8.4|Jun record low C=13.7|Jul record low C=18.7|Aug record low C=19.6|Sep record low C=14.0|Oct record low C=8.5|Nov record low C=3.5|Dec record low C=-1.2|year record low C=-4.1|Jan precipitation mm=42.1|Feb precipitation mm=61.3|Mar precipitation mm=95.1|Apr precipitation mm=112.8|May precipitation mm=130.4|Jun precipitation mm=166.4|Jul precipitation mm=164.0|Aug precipitation mm=88.3|Sep precipitation mm=177.8|Oct precipitation mm=179.0|Nov precipitation mm=60.8|Dec precipitation mm=53.4|year precipitation mm=1363.5|unit precipitation days=1.0 mm|Jan precipitation days=4.9|Feb precipitation days=6.2|Mar precipitation days=8.3|Apr precipitation days=8.6|May precipitation days=9.1|Jun precipitation days=10.8|Jul precipitation days=10.9|Aug precipitation days=7.0|Sep precipitation days=10.4|Oct precipitation days=9.0|Nov precipitation days=6.0|Dec precipitation days=5.8|year precipitation days=97.7|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=51&block_no=1555&year=&month=&day=&view= |title=セントレア 過去の気象データ検索 |accessdate=2023-04-22 |publisher=気象庁}}</ref>}} === 人口 === {{人口統計|code=23216|name=常滑市|image=Demography23216.svg}} 知多半島の市では最も人口が少ない。1980年代から人口が減少傾向であったが、2005年に中部国際空港が開港以降は人口が増加に転じた。 === 隣接している自治体 === ; {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] * [[知多市]] * [[半田市]] * [[知多郡]][[阿久比町]] * [[知多郡]][[武豊町]] * [[知多郡]][[美浜町 (愛知県)|美浜町]] == 歴史 == === 古代から近世まで === 地名の初見は、[[猿投神社]]『[[大般若波羅蜜多経|大般若経]]』巻70の[[奥付|奥書]]に「于時[[応永]]四年丁丑五月十三日 於[[尾張国]]智多郡堤田庄常滑郷宮坂草庵,□□□畢」とある。 また、『[[言継卿記]]』[[弘治 (日本)|弘治]]3年3月16日条に「とこなべ」、[[天正]]9年3月7日付[[越前国|越前]][[龍澤寺 (あわら市)|竜沢寺]][[勧進|勧化帳]]に「トコナベ」という名が見られる。 当市域を含む知多半島中部では[[粘土]]を豊富に産出するため古くから[[陶磁器|陶器]]が生産された。[[平安時代]]後期頃から[[中世]]にかけて当市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は[[太平洋]]に沿って日本全国に広まり、北は[[青森県]]から南は[[鹿児島県]]まで、全国の中世遺跡において出土する。 [[室町時代]]には[[三河国|三河]]の[[守護]]である[[一色氏]]が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の[[港湾都市|港町]]である大野に[[大野城 (尾張国知多郡)|大野城]](宮山城)を築いた。のちに一色氏の[[被官]]である[[佐治氏]]が主家にかわって大野城主となり、佐治氏の下で大野は伊勢湾東岸の[[港湾]]として繁栄した。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、知多郡緒川(現・[[東浦町]])の領主[[水野氏]]の一族が現市域中心部に常滑城を築き、大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の[[水運]]を二分した。しかし常滑水野氏は[[本能寺の変]]直後に[[明智光秀]]に味方したことから没落し、佐治氏も四代[[佐治一成|一成]]の時に[[小牧・長久手の戦い]]で[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]と敵対し大野城を追われた。また、常滑の焼き物も[[茶道|茶の湯]]が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけて[[瀬戸焼]]などに押され衰退した。 [[江戸時代]]には、現市域の村々は[[尾張藩]]領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから[[廻船]]、[[醸造|酒造]]、[[木綿]]生産などの商工業が行われる[[町|町場]]的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。この時代には、かつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現市街地の原型が形作られた。 === 近代から現代へ === [[明治時代]]になると[[土管]]、[[タイル]]なども生産されるようになり、近代的な窯業の町に発展した。中でも1924年創立の地元製陶会社「伊奈製陶」(のち[[INAX]]、現在の[[LIXIL]])は[[便器]]など[[衛生陶器]]の分野において全国第2位のシェアを占め、タイルにおいては国内はもとより世界的にもトップとなる大企業に成長する。 [[第二次世界大戦]]後には「[[日本の市町村の廃置分合#昭和の大合併|昭和の大合併]]」により、1954年に[[常滑町]]、[[鬼崎町]]、[[西浦町 (愛知県知多郡)|西浦町]]、[[大野町 (愛知県知多郡)|大野町]]と[[三和村 (愛知県知多郡)|三和村]]の4町1村が合併して成立した。1957年に南の[[小鈴谷町]]の一部を編入して現在の市域に拡大した。 2017年([[平成]]29年)4月18日には、「きっと恋する[[六古窯]] -日本生まれ日本育ちのやきもの産地-」の名称で、[[日本遺産]]に[[常滑焼]]、[[常滑焼|常滑の陶器の生産用具・製品]]、[[登り窯|連房式登窯]]、[[常滑焼|無形文化財常滑焼の製作技術]]、[[やきもの散歩道|やきもの散歩道と文化的景観]]などが登録された。 === 年表 === * 1954年([[昭和]]29年)[[常滑町]]、[[鬼崎町]]、[[西浦町 (愛知県知多郡)|西浦町]]、[[大野町 (愛知県知多郡)|大野町]]と[[三和村 (愛知県知多郡)|三和村]]の4町1村が合併して成立。 * 1957年(昭和32年)南部にあった[[小鈴谷町]]の一部を編入し、現在の市域に拡大した。 * 2005年([[平成]]17年)2月17日:市沖合の埋立地に[[中部国際空港]]が開港。 === 自治体の変遷 === {| class="wikitable" style="font-size:x-small" ! 郡 ! colspan="5" | [[明治]]22年以前 ! 明治22年10月1日 ! colspan="2" | 明治22年 - 明治45年 ! 大正1年 - 大正15年 ! colspan="2" | 昭和1年 - 昭和64年 ! 平成1年 - 現在 |- | style="background-color:#6ff;" rowspan="25" | '''[[知多郡|知<br />多<br />郡]]''' | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大野村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 大野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大野村 | style="background-color:#6ff;" | [[大野町 (愛知県知多郡)|大野町]] | style="background-color:#6ff;" colspan="2" | 大野町 | style="background-color:#6ff;" | 大野町 | style="background-color:#6ff;" | 大野町 | rowspan="21" | 昭和29年4月1日<br />合併・市制<br />'''常滑市''' | rowspan="25" | '''常滑市''' |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="2" | 西之口村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西之口村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 西之口村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 明治39年5月1日<br />合併 '''鬼崎村''' | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 鬼崎村 | style="background-color:#6ff;" rowspan="5" | 昭和26年10月1日<br />町制 '''[[鬼崎町]]''' |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 蒲池村 |- | style="background-color:#9cf;" | 榎戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 榎戸村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="2" | 榎戸村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 榎戸村 |- | style="background-color:#9cf;" | 鬼ケ崎<br />新田 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 多屋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="4" | 常滑村 | style="background-color:#9cf;" | 多屋村 | style="background-color:#9cf;" | 多屋村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 常滑村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 常滑村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 常滑村 | style="background-color:#6ff;" colspan="2" rowspan="3" | 明治23年12月17日<br />町制 '''[[常滑町]]''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 常滑町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="3" | 常滑町 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 瀬木村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 北条村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 樽水村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 佐合村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 樽水村 | style="background-color:#9cf;" | 樽水村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 明治39年5月1日<br />合併 '''枳豆志村''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="6" | 明治44年12月10日<br />町制・改称<br />'''[[西浦町 (愛知県知多郡)|西浦町]]''' | style="background-color:#6ff;" rowspan="6" | 西浦町 | style="background-color:#6ff;" rowspan="6" | 西浦町 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西阿野村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 西阿野村 | style="background-color:#9cf;" | 西阿野村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 古場村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 中橋村 | style="background-color:#9cf;" | 古場村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 古場村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="3" | 古場村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 熊野村 | style="background-color:#9cf;" | 熊野村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 檜原村 | style="background-color:#9cf;" | 檜原村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 苅屋村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 苅屋村 | style="background-color:#9cf;" | 苅屋村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久米村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 米田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 久米村 | style="background-color:#9cf;" | 久米村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="6" | 明治39年5月1日<br />合併 '''[[三和村 (愛知県知多郡)|三和村]]''' | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 三和村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="6" | 三和村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 矢田村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 矢田村 | style="background-color:#9cf;" | 矢田村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小倉村 | style="background-color:#9cf;" colspan="3" rowspan="4" | 金山村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="4" | 金山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 前山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 宮山村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 石瀬村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 小鈴ケ谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="3" | 三谷村 | style="background-color:#9cf;" | 小鈴谷村 | style="background-color:#9cf;" rowspan="2" | 小鈴谷村 | style="background-color:#9cf;" colspan="2" rowspan="5" | 明治39年6月16日<br />合併 '''小鈴谷村'''<br />('''上野間'''を除く) | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 小鈴谷村<br />('''上野間'''を除く) | style="background-color:#9cf;" rowspan="5" | 昭和27年7月1日<br />町制 '''[[小鈴谷町]]'''<br />('''上野間'''を除く) | rowspan="4" | 昭和32年3月31日<br />'''常滑市'''に編入 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 広目村 | style="background-color:#9cf;" | 広目村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 大谷村 | style="background-color:#9cf;" | 大谷村 | style="background-color:#9cf;" | 大谷村 |- | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坂井村 | style="background-color:#9cf;" | 稲早村<br />(一部) | style="background-color:#9cf;" colspan="2" | 坂井村 | style="background-color:#9cf;" | 坂井村 |} == 行政 == === 市長 === * 市長:[[伊藤辰矢]](2019年4月26日就任<ref>[http://www.city.tokoname.aichi.jp/shisei/shicho/1002019/index.html 市長随想|常滑市]</ref>、1期目) ; 歴代市長 {| class="wikitable" ! 代 !! 氏名 !! 就任年月日 !! 退任年月日 !! 備考 |- | 初代 || [[伊奈長三郎]] || 1954年4月26日 || 1955年3月5日 || 元常滑町長 |- | 2代 || [[滝田次郎]] || 1955年3月27日 || 1959年3月26日 || 元常滑町長 |- | 3代 || [[久田慶三]] || 1959年3月27日 || 1979年4月29日 || 元[[西浦町 (愛知県知多郡)|西浦町]]長 |- | 4代 || [[庭瀬健太郎]] || 1979年4月30日 || 1987年4月29日 || |- | 5代 || [[中村克巳]] || 1987年4月30日 || 1991年11月3日 || 業務上横領と受託収賄で逮捕され辞職。 |- | 6代 || [[石橋誠晃]] || 1991年12月1日 || 2007年11月30日 || |- | 7代 || [[片岡憲彦]] || 2007年12月1日 || 2019年4月25日 || 市長選を市議選と同日実施にするため辞職。 |- | 8代 || [[伊藤辰矢]] || 2019年4月26日 || 現職 || |} === 財政と平成の大合併 === 市財政は窯業などの事業者からの税収のほか、[[常滑駅]]の近くに設置されたボートレースとこなめ(旧:[[常滑競艇場]])で開催される市の[[競艇]]事業に支えられてきた。しかし近年は競艇の売上が落ち込み、進む高齢化に対して市の財政は悪化していた。 しかし、中部国際空港の開港によって税収が増加し、平成18,19年度は[[地方交付税]]の[[地方交付税#|不交付団体]]となった(27,28年は外れている。[[地方交付税#普通交付税不交付団体の一覧(令和4年度)|地方交付税]])。 [[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の市町村合併]]では、当初知多半島5市5町の合併研究会が設置されたが廃止され、次いで知多南部2市4町による研究会が近い将来の合併を見送ったため、当面は現在の規模が維持されることになった。 == 議会 == === 常滑市議会 === {{Main|常滑市議会}} === 愛知県議会 === ; 2019年愛知県議会議員選挙 * 選挙区:常滑市選挙区 * 議員定数:1人 * 投票日:2019年4月7日 {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | 杉江繁樹 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 51 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="text-align:center" | 新 || 無投票 |} ; 2015年愛知県議会議員選挙 * 選挙区:常滑市選挙区 * 議員定数:1人 * 投票日:2015年4月12日 * 当日有権者数:45,623人<ref>{{Cite web|和書|date=2015-4-12 |url=https://www.pref.aichi.jp/uploaded/attachment/56179.pdf |title=平成27年4月12日執行 愛知県議会議員一般選挙 投票状況速報 |publisher=愛知県選挙管理委員会 |format=PDF |accessdate=2019-4-7 }}</ref> * 投票率:31.31% {| class="wikitable" ! 候補者名 !! 当落 !! 年齢 !! 党派名 !! 新旧別 !! 得票数 |- | [[伊藤辰矢]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="text-align:center" | 37 || 自由民主党 || style="text-align:center" | 新 || 11,124票 |- | 松林とも子 || style="text-align:center" | 落 || style="text-align:center" | 48 || [[自由党 (日本 2016-2019)|生活の党と山本太郎となかまたち]] || style="text-align:center" | 新 || style="text-align: right;" | 2,707票 |} === 衆議院 === * 選挙区:[[愛知県第8区|愛知8区]] ([[半田市]]、常滑市、[[東海市]]、[[知多市]]、[[阿久比町]]、[[武豊町]]、[[東浦町]]、[[美浜町 (愛知県)|美浜町]]、[[南知多町]]) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:437,624人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aichi.jp/senkyo/sokuho/data/L3039999.pdf | title=第49回衆議院議員総選挙(小選挙区) 投票状況速報 | publisher=愛知県選挙管理委員会 |format=PDF |date=2021-10-31 | accessdate=2021-11-1 }}</ref> * 投票率:56.53% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- style="background-color:#ffc0cb" | align="center" | 当 || [[伊藤忠彦]] || align="center" | 57 || [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || align="center" | 前 || 121,714票 || align="center" | ○ |- style="background-color:#ffdddd" | 比当 || [[伴野豊]] || align="center" | 60 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || align="center" | 元 || 120,649票 || align="center" | ○ |} == 国家機関 == === 厚生労働省 === * 名古屋[[検疫所]] 中部空港検疫所支所<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.forth.go.jp/keneki/nagoya/accesschubu.html |title = 名古屋検疫所 所在地 |publisher = [[厚生労働省]] |accessdate = 2016-08-24 }}</ref> === 国土交通省 === * 航空局 ** [[航空局|交通管制部運用課 飛行検査センター]]<ref name="fic">{{Cite web|和書|url = https://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_004048.html |title = 【平成27年5月16日】 航空局飛行検査センター格納庫落成・移転記念式典にうえの政務官が出席 - 国土交通省 |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2016-08-28 }}</ref> ** [[大阪航空局]] 中部空港事務所<ref name="tyubu">{{Cite web|和書|url = http://ocab.mlit.go.jp/about/jurisdiction/tyubu/ |title = 大阪航空局_大阪航空局のご案内_管内空港の現況と出先機関_中部国際空港 |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2016-08-24 }}</ref> * [[国土地理院]] [[国土地理院#その他施設|鬼崎験潮場]] ; 海上保安庁 * [[第四管区海上保安本部]] [[中部空港海上保安航空基地]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.kaiho.mlit.go.jp/04kanku/inquiry/access.html#link09 |title = 各事務所の住所・電話番号・交通アクセス|第四管区海上保安本部 |publisher = [[海上保安庁]] |accessdate = 2016-08-24 }}</ref>({{Coord|34|52|33|N|136|48|29|E|}}) : 2008年10月1日に発足し、10月21日に[[伊勢航空基地]]を移転して常滑海上保安署を統合した。[[巡視艇]]と航空機を運用する海上保安航空基地としては関西空港海上保安航空基地に次いで2箇所目。2機の[[アグスタウエストランド AW139]]ヘリコプターと巡視艇1隻が配備されている。 ; 気象庁 * [[東京管区気象台]] 中部航空地方気象台<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.jma-net.go.jp/chubu-airport/ |title = 中部航空地方気象台 |publisher = [[気象庁]] |accessdate = 2016-08-24 }}</ref> === 財務省 === * [[名古屋税関]] ** [[中部国際郵便局|中部外郵出張所]] ** [[名古屋税関|麻薬探知犬管理センター]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.cbr.mlit.go.jp/eizen/institution/dog02/ |title = 愛知県/名古屋税関麻薬探知犬管理センター |publisher = [[国土交通省]] |accessdate = 2016-09-09 }}</ref> * [[中部国際空港|中部空港税関支所]] === 農林水産省 === * [[植物防疫所]] [[植物防疫所#植物防疫所一覧|中部空港支所]] * [[検疫所#動物検疫所(農林水産省)|動物検疫所]] [[中部国際空港|中部国際空港支所]] === 法務省 === ; [[出入国在留管理庁]] * [[名古屋出入国在留管理局中部空港支局]] === 経済特区 === * [[アジアNo.1航空宇宙産業クラスター形成特区]] [[中部国際空港|セントレア]]・中部臨空都市地区 == 施設 == [[ファイル:Tokoname police station.jpg|thumb|200px|[[常滑警察署]]]] [[ファイル:Tokoname Fire department.JPG|thumb|200px|[[常滑市消防本部]]]] [[ファイル:Tokoname City Hospital ac (5).jpg|thumb|200px|[[常滑市民病院]]]] [[ファイル:Tokoname Post Office-2.jpg|thumb|200px|[[常滑郵便局]]]] [[ファイル:Aichi sky expo1.jpg|thumb|200px|[[愛知県国際展示場]]]] [[ファイル:Tokoname-kyotei-03.jpg|thumb|200px|[[常滑競艇場]]]] === 警察 === * [[常滑警察署]]、[[中部空港警察署]] ; 交番 * 西之口交番(西之口8丁目) * 常滑駅前交番(鯉江本町) * ターミナル交番(セントレア1丁目) ; 駐在所 * 久米警察官駐在所(久米) * 古場警察官駐在所(古場町7丁目) * 小鈴谷警察官駐在所(小鈴谷<!--こすがや-->) === 消防 === ; 本部 * [[常滑市消防本部]] ; 消防署 * 常滑市消防署 ; 出張所 * 南出張所(苅屋字加茂151) * 空港出張所(セントレア3-8-18) === 医療 === ; 主な病院 * [[常滑市民病院]] === 文化・教育施設 === * 常滑市民文化会館・中央公民館 - 1983年竣工。設計は[[坂倉建築研究所]]。[[中部建築賞]]受賞。 * とこなめ市民交流センター(旧鬼崎公民館) * 常滑市青海市民センター(青海公民館) * 常滑市南陵市民センター(南陵公民館) * [[常滑市立図書館]] - 1970年竣工。設計は[[三橋設計]]。中部建築賞受賞。建物は2022年に解体。蔵書は青海公民館・南陵公民館・市役所内に新設された「こども図書室」の3ヶ所へ移された。 === 郵便局 === ; 主な郵便局 * [[中部国際郵便局]] * [[常滑郵便局]] * [[常滑郵便局#分室|常滑郵便局セントレア分室]] === スポーツ施設 === * [[常滑市体育館]] - 常滑公園に1992年度竣工。設計は仙田満+環境デザイン研究所。第3回[[愛知まちなみ建築賞]]受賞。 * サザンアリーナ - 南陵公民館脇に1990年竣工。 * 常滑市温水プール - 大曽公園に2000年竣工。大曽公園には以前から屋外型の市民プールがあったが老朽化したため、公園敷地内に室内温水プールを新設し、屋外プールは廃止解体した。 === コンベンション施設 === * [[愛知県国際展示場]](Aichi Sky Expo) - 空港島に2019年竣工。日本第4位の展示面積を有する[[コンベンション・センター|国際展示場]]。 == 対外関係 == === 友好都市 === 窯業産地という縁があり、2018年(平成30年)には[[中華人民共和国]]の[[宜興市]]([[江蘇省]][[無錫市]])と友好都市提携を結んだ<ref>[http://www.city.tokoname.aichi.jp/shisei/koho/1001645/1002965/1003219.html 4月25日(水曜日)焼き物の連携で友好都市に向けて] ほっとニュース(2018年4月)常滑市/2019年8月4日閲覧。</ref>。 近隣の[[半田市]]、[[碧南市]]、[[西尾市]]と「竜の子街道(UMAMI ROAD)」という[[地域おこし]]プロジェクトを展開している。4市を合わせると[[タツノオトシゴ]]に似ていることから命名。常滑の[[醸造業]]や器から[[西尾の抹茶]]までを連携させ、[[うま味]]を重視する[[和食]]をアピールすることを目指している<ref>[https://www.tatsunoko-kaido.jp/ 竜の子街道プロジェクト「UMAMI ROAD」](2019年8月4日閲覧)。</ref>。 2005年に開催された[[2005年日本国際博覧会|愛知万博]]では「一市町村一国フレンドシップ事業」が行われ、県内の市町村(名古屋市を除く)が120の万博公式参加国をフレンドシップ相手国として迎え入れた<ref>[http://www.pref.aichi.jp/kokusai/friendship/city/chita/index.html 「あいちフレンドシップ交流アルバム」](あいちフレンドシップ交流アルバム)</ref>。当市は[[マレーシア]]がフレンドシップ相手国だった。 === 国内 === ; [[災害時相互応援協定]] {| class=wikitable border=1 ! 都市名 ! 県名 ! 提携年月日 |- |[[桐生市]] |{{Flagicon|群馬県}}[[群馬県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[戸田市]] |{{Flagicon|埼玉県}}[[埼玉県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[青梅市]] |{{Flagicon|東京都}}[[東京都]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[府中市 (東京都)|府中市]] |{{Flagicon|東京都}}[[東京都]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[坂井市]] |{{Flagicon|福井県}}[[福井県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[岡崎市]] |{{Flagicon|愛知県}}愛知県 |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[蒲郡市]] |{{Flagicon|愛知県}}愛知県 |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[津市]] |{{Flagicon|三重県}}[[三重県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[箕面市]] |{{Flagicon|大阪府}}[[大阪府]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[伊丹市]] |{{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[倉敷市]] |{{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[大竹市]] |{{Flagicon|広島県}}[[広島県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[周南市]] |{{Flagicon|山口県}}[[山口県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[鳴門市]] |{{Flagicon|徳島県}}[[徳島県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[丸亀市]] |{{Flagicon|香川県}}[[香川県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[唐津市]] |{{Flagicon|佐賀県}}[[佐賀県]] |1997年(平成9年)3月27日 |- |[[川崎町 (宮城県)|川崎町]] |{{Flagicon|宮城県}}[[宮城県]][[柴田郡]] |2013年(平成25年)9月17日 |} ; 日本六古窯災害時相互応援協定 {| class=wikitable border=1 ! 都市名 ! 県名 ! 提携年月日 |- |[[越前町]] |{{Flagicon|福井県}}[[福井県]][[丹生郡]] |2012年(平成24年)7月5日 |- |[[瀬戸市]] |{{Flagicon|愛知県}}愛知県 |2012年(平成24年)7月5日 |- |[[丹波篠山市]] |{{Flagicon|兵庫県}}[[兵庫県]] |2012年(平成24年)7月5日 |- |[[備前市]] |{{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] |2012年(平成24年)7月5日 |} === 姉妹空港・提携空港 === [[中部国際空港]]は、[[ドイツ]]の[[バイエルン州]]にある[[ミュンヘン国際空港]]、[[台湾]]の[[台中市]]にある[[台中国際空港]]と姉妹空港提携を結んでいる。このミュンヘン空港のレストラン「エアブロイ」で醸造されたビールは毎年、中部国際空港に[[ルフトハンザ・カーゴ]]により空輸され、中部国際空港内のレストランで味わうことができる。 {| class=wikitable border=1 ! 都市名 ! 国名・地域名 ! 提携年月日 |- |[[ミュンヘン国際空港]] |{{Flagicon|GER}}[[ドイツ連邦共和国]][[バイエルン州]] |2005年(平成17年)2月14日 中部国際空港と姉妹提携調印 |- |[[台中国際空港]] |{{Flagicon|台湾}}[[中華民国]][[台中市]] |2017年(平成29年)4月6日 中部国際空港と姉妹提携調印 |} === 国際機関 === ; [[領事館#駐日外国総領事館・領事館|名誉領事館]] * {{Flagicon|ベトナム}}{{要出典範囲|在名古屋[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]名誉領事館|date=2019年11月}} ; 物流拠点 * {{Flagicon|USA}}[[プロロジス|プロロジスパーク]] セントレア([[アメリカ合衆国]]) == 経済 == [[ファイル:Tokonamedokan.jpg|thumb|200px|常滑焼の土管]] [[ファイル:Tokoname yaki tubo.jpg|thumb|200px|常滑焼の甕]] [[ファイル:Chubu Central Airport aerial view.jpg|thumb|200px|中部国際空港俯瞰]] [[ファイル:Inax-office.jpg|thumb|200px|INAX(現:LIXIL)常滑本社]] 近年では[[INAX]]の常滑本社工場をはじめとして[[工場]]の閉鎖、中小工場の廃業が相次ぎ、経済の停滞傾向が著しい時期があり、これに対して窯業家や市民によって焼き物の町としての観光化と窯業の再活性化に向けた努力が行われている。人口は1975年には5万5,000人を超えたが、その後は減少に転じ、1990年代後半から2000年代前半にかけて5万1,000人を割り込んだ。しかし、2005年の[[中部国際空港]]の開港に伴い、労働人口が少しずつ流入したことに加えて新興住宅地(かじま台、北汐見坂、虹の丘、飛香台など)の開発により定住人口も増加に転じており、2015年には約5万7,000人にまで増加している。 2005年の[[中部国際空港]]開港に際して、空港島のうち東側地域とその対岸部の前島を合わせた約230[[ヘクタール]]を[[中部臨空都市]]として開発した。2015年には前島に[[イオンモール常滑]]が開業している。2019年には空港島に[[愛知県国際展示場]]がオープンした。なお、常滑市には[[常滑競艇場]]がある。 === 窯業・醸造業 === 窯業は当地では伝統的な産業である。 江戸時代後期に復興した常滑焼は、[[幕末]]に中国(当時は[[清]]朝)から導入された技術で[[登り窯|連房式登り窯]]が作られ、大量生産が開始された。[[明治時代]]以降、陶管(陶製[[土管]])や[[タイル]]の生産が開始され、陶管は全国の上下[[水道管]]のシェアの大部分を占め、産業資材や衛生陶器の分野において全国屈指の生産地に成長する。また、[[茶器]]、[[花器]]、[[鉢]]、[[干支]]の置物や[[招き猫]]などの[[民具]]、江戸時代に生産が開始された朱泥の[[日本茶]]用の道具([[急須]]、[[茶碗|湯飲み]]など)は常滑焼を代表するものである。 工場は伝統的な中心地である常滑地区を中心に市域の各地に点在しており、南部の小鈴谷地区では[[日本酒]]「ねのひ」を製造する[[盛田]]による醸造業も行われている。 === 農業 === [[農業]]は、知多半島の地理的条件から田畑が狭く、また大きな河川がないために[[ため池]]に頼り、水不足に悩まされてきた。しかし現在は[[愛知用水]]によって[[用水路|農業用水]]が供給され、土地基盤整備事業による区画の整理や、農業用[[ダム]]の建設、機械化が行われて、[[近郊農業]]地帯になっており、主な特産品は、[[キャベツ]]、[[タマネギ]]、[[イチジク]]などである。また、市内に[[あいち知多農業協同組合]](JAあいち知多)の本部が置かれている。 === 漁業 === [[漁業]]は、知多半島西岸の伊勢湾海上で行われる[[海苔]]の[[養殖業|養殖]]が特に盛んである。 海苔養殖業の他に[[トロール網|底引き網]]漁業、採貝漁業、[[刺し網]]漁業、[[潜水]]漁業などがある。主な[[魚介類|水産物]]は[[アサリ]]、[[マアナゴ|アナゴ]]、[[ガザミ]]、[[クルマエビ]]、[[シャコ]]、[[タイラギ]]などである。 ; [[漁業協同組合]](北から) * [[鬼崎漁業協同組合]] * 常滑漁業協同組合 * 小鈴谷漁業協同組合 === 空港開港と近年の動き === [[中部国際空港]]の開港に合わせて、地元の要望により中部臨空都市の開発が愛知県によって行われている。これにより、空港島内には物流事業者および[[ホテル]]が進出している。2019年8月30日に[[愛知県国際展示場]]が開業した。空港対岸部(通称「前島」)は当初は工業用地とされ、部品の輸出入需要が見込める自動車製造関連企業の誘致を行ったものの、部品を空輸するよりも海外で現地生産する方がコストを抑えられるため誘致は失敗し、造成後も長らく空き地になっていた。そこで、一部を商業用地に転換して誘致を行った結果、2006年6月に[[イオンモール常滑]]の進出が発表され、それ以降は結婚式場や飲食店などが出店。[[かねふく#めんたいパーク|めんたいパークとこなめ]]、[[名古屋トヨペット|NTP]]マリーナりんくう、[[コストコ]]中部空港倉庫店などが出店した。また、工業用地として維持された区画では、[[ユミコア]][[日本触媒]]や名古屋メッキ工業などの工場や研究所が建設された。 市街地では、空港アクセス道路の[[国道155号]]、[[国道247号|247号]]に沿って、ロードサイド型の店舗の進出が続き、2007年11月に[[カインズ]]モール常滑が、2013年10月に[[ヤマナカ]]常滑青海店が開業した。 === 本社を置く企業 === {{See also|Category:常滑市の企業}} * [[中部国際空港 (企業)|中部国際空港]] * [[LIXIL]]常滑本社(旧[[INAX]]本社) ** LIXILの本社・本店は東京に所在する。市内に榎戸(トイレなどの衛生陶器)、大谷(洗面化粧台などの住器)、常滑東、久米(ともにタイルなどの[[建築材料|建材]])の各工場がある。 * [[ジャニス工業]] * [[知多半島ケーブルネットワーク]] * [[名古屋エアケータリング]] * [[マエダモールド]] - 石膏型・[[エピテーゼ]]などの製作。 == 教育 == [[ファイル:Centrair shinryoujo.jpg|thumb|[[藤田医科大学中部国際空港診療所|常滑教育病院]]]] === 大学 === 市内に大学のキャンパスは存在しないが、[[名古屋芸術大学]]が常滑工房を、[[藤田医科大学]]が[[藤田医科大学中部国際空港診療所|常滑教育病院]]を置いている。 * [[名古屋芸術大学]] 常滑工房 * [[藤田医科大学]] [[藤田医科大学中部国際空港診療所|常滑教育病院]] === 高等学校 === 1976年には[[愛知県立常滑高等学校]]から愛知県立常滑北高等学校が分離独立したが、2006年には両校が統合されて常滑高校が存続し、常滑高校は常滑北高校の敷地に移転した。 * [[愛知県立常滑高等学校]] === 中学校 === * [[常滑市立青海中学校]] * [[常滑市立鬼崎中学校]] * [[常滑市立常滑中学校]] * [[常滑市立南陵中学校]] === 小学校 === * [[常滑市立三和小学校]] * [[常滑市立大野小学校]] * [[常滑市立鬼崎北小学校]] * [[常滑市立鬼崎南小学校]] * [[常滑市立常滑西小学校]] * [[常滑市立常滑東小学校]] * [[常滑市立西浦北小学校]] * [[常滑市立西浦南小学校]] * [[常滑市立小鈴谷小学校]] === 職業能力開発校 === * [[INAX建築技術専門校]] == 交通 == [[ファイル:Chubu Centrair International Airport - North Wing - 01.JPG|thumb|200px|中部国際空港]] [[ファイル:MT-Tokoname Station-WestGate.JPG|thumb|200px|常滑駅]] [[ファイル:Nagoya Railroad - Central Japan International Airport Station - Ticket Gate - 01.JPG|thumb|200px|中部国際空港駅]] [[ファイル:Centrair bridge.JPG|thumb|200px|[[セントレア大橋]]]] [[ファイル:Aichi Pref r-522.JPG|thumb|200px|セントレアラインの側道]] [[ファイル:Isewan ferry tokoname trm02.jpg|thumb|200px|常滑港]] === 空港 === ; [[中部国際空港]](セントレア) 中部国際空港を発着する高速バス、船舶については中部国際空港の項を参照。 === 鉄道路線 === 市の中心となる駅:'''常滑駅''' ; [[ファイル:Meitetsu_logomark_2.svg|20px]][[名古屋鉄道]] : {{名鉄駅番号|TA}}[[名鉄常滑線|常滑線]]:(知多市)- [[大野町駅]] - [[西ノ口駅]] - [[蒲池駅 (愛知県)|蒲池駅]] - [[榎戸駅 (愛知県)|榎戸駅]] - [[多屋駅]] - '''[[常滑駅]]''' - : {{名鉄駅番号|TA}}[[名鉄空港線|空港線]]:- '''常滑駅''' - [[りんくう常滑駅]] - [[中部国際空港駅]] 空港線の施設の保有者([[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]])は、[[第三セクター]]の[[中部国際空港連絡鉄道]]である。 中心市街に設置された常滑駅は、常滑線の下り終着駅である。中部国際空港の開港に際して常滑線を延伸させる形で空港線が設置され、常滑線と一体運行されている。 なお市南部に[[名鉄知多新線|知多新線]]が通っているが、市内に駅はない。[[上野間駅]](美浜町)が最寄駅となる。 === バス === ; [[常滑市コミュニティバス]] * [[知多乗合]]へ運行委託。路線の詳細は該当記事参照。 ; 知多バス(知多乗合) * 半田常滑線([[知多半田駅]] - [[青山駅 (愛知県)|青山駅]] - 常滑駅 - 中部国際空港) === 道路 === ; 有料道路 : [[ファイル:Chita Odan Road Route Sign.svg|60px]][[知多横断道路]] : {{Color|green|■}}[[中部国際空港連絡道路]] * 上記二つの路線を合わせて'''[[セントレアライン]]'''との愛称がついている。 ; 一般国道 : [[ファイル:Japanese National Route Sign 0155.svg|25px]][[国道155号]](起点) : [[ファイル:Japanese National Route Sign 0247.svg|25px]][[国道247号]] ; 主要地方道 * [[愛知県道34号半田常滑線]] * [[愛知県道72号武豊小鈴谷線]] ; 一般県道 * [[愛知県道252号大府常滑線]] * [[愛知県道265号碧南半田常滑線]] * [[愛知県道266号板山金山線]] * [[愛知県道267号大野町停車場線]] * [[愛知県道269号古場武豊線]] * [[愛知県道270号常滑港線]] * [[愛知県道274号小鈴谷河和線]] * [[愛知県道464号南粕谷半田線]] * [[愛知県道522号中部国際空港線]] === 港湾 === * [[常滑港]] ** かつて[[伊勢湾フェリー]]の常滑[[鳥羽港|鳥羽]]航路のターミナルがあった。航路廃止後にフェリーとの接続施設は撤去され、待合室建物はNTPマリーナりんくうの施設に転用された。 ** 2021年に初めて大型クルーズ船([[にっぽん丸]])が寄港した<ref>https://www.pref.aichi.jp/soshiki/kowan/tokoname-cruise-kiko.html</ref>。 == 名所・旧跡・観光スポット == === 名所・旧跡 === [[ファイル:Oonocastle.JPG|thumb|200px|{{small|[[大野城 (尾張国知多郡)|尾張大野城]]|}}]] ; 城郭 * [[大野城 (尾張国知多郡)|尾張大野城]]跡 ; 仏教寺院 * 頭光山[[安養寺 (常滑市)|安養寺]] – [[古場町 (常滑市)|古場町]]。[[曹洞宗]]。 * 大光山[[安楽寺 (常滑市)|安楽寺]] – [[知多四国霊場]] 第60番札所。 * 福聚山[[海音寺]] – [[大野町 (常滑市)|大野町]]。[[臨済宗妙心寺派]]。[[尾張八十八ヶ所]] 第74番札所<ref>[http://jikiden-koubou.jp/tera/74.html 四國直傳弘法八十八ヶ所めぐり]、[http://ohnodani.com/walk.html 大野谷文化圏 尾張大野まちおこし実行委員会]</ref> * 霊松山[[海徳寺 (常滑市)|海徳寺]] – [[榎戸町 (常滑市)|榎戸町]]。曹洞宗 * 万年山[[玉泉寺 (常滑市)|玉泉寺]] – 知多四国霊場 第59番札所 * 御嶽山[[高讃寺]] – 知多四国霊場 第61番札所 * 松林山[[光泉寺 (常滑市)|光泉寺]] – [[金山 (常滑市)|金山]]。[[真宗大谷派]] * 小林山[[光明寺 (常滑市)|光明寺]] – [[大野町 (常滑市)|大野町]]にある[[浄土真宗]]の寺院。知多半島の真宗寺院で最古であり、[[親鸞]]の真筆を伝えている。 * 萬松山[[斉年寺|斎年寺]] – 佐治氏の[[菩提寺]]。[[雪舟]]の代表作である『[[慧可断臂図]]』([[国宝]])を所蔵する。[[尾張三十三観音]] 第9番札所。 * 海松山[[西用寺]] – [[西之口 (常滑市)|西之口]]。[[浄土宗西山深草派]]。 * 松尾山[[三光院 (常滑市)|三光院]] – 知多四国霊場 第67番札所 * 龍松山[[正住院 (常滑市)|正住院]] – [[保示町 (常滑市)|保示町]]。[[西山浄土宗]]。 * 多門山[[松仙寺]] – [[蒲池町 (常滑市)|蒲池町]]。浄土宗西山深草派 * 龍現山[[盛泉寺 (常滑市)|盛泉寺]] – [[久米 (常滑市)|久米]]。真宗大谷派。 * 石松山[[瑞泉寺 (常滑市)|瑞泉寺]] – [[東海四十九薬師霊場]] 第4番札所 * 金鈴山[[曹源寺 (常滑市)|曹源寺]] – [[大谷 (常滑市)|大谷]]。曹洞宗。 * 神護山[[相持院]] – 知多四国霊場 第65番札所 * 補陀落山[[大善院 (常滑市)|大善院]] – 知多四国霊場 第63番札所 * 御嶽山[[洞雲寺 (常滑市)|洞雲寺]] – 知多四国霊場 第62番札所 * 青龍山[[桃源寺 (常滑市)|桃源寺]] – [[山方町 (常滑市)|山方町]]。曹洞宗。 * 八景山[[中之坊寺]] – 知多四国霊場 第66番札所 * 世昌山[[宝全寺 (常滑市)|宝全寺]] – 知多四国霊場 第64番札所 * 龍王山[[宝蔵寺 (常滑市)|宝蔵寺]] – 知多四国霊場 第68番札所 * 金光山[[来応寺 (常滑市)|来応寺]] – 知多四国霊場 第58番札所 * 嶋崎山[[蓮生寺 (常滑市)|蓮生寺]](子育観音、子育観世音菩薩) – [[小倉町 (常滑市)|小倉町]]。[[浄土宗]]。 * 小倉山[[蓮台寺 (常滑市)|蓮台寺]] – [[小倉町 (常滑市)|小倉町]]。[[時宗]]。 <gallery> Shojuin1.jpg|[[正住院 (常滑市)|正住院]]山門 Onomachi Komyoji 2019-07 ac (1).jpg|[[光明寺 (常滑市)|光明寺]]本堂 Tokoname Onomachi Sainenji ac (3).jpg|[[斉年寺]]山門 Tounji.jpg|[[洞雲寺 (常滑市)|洞雲寺]]本堂 </gallery> ; 神社 * [[榎戸神明社]] – [[榎戸村 (愛知県)|榎戸村]] * [[小倉神社 (常滑市)|小倉神社]](牟山権現) * [[熊野神社 (常滑市)|熊野神社]] * [[広石神社]] – [[広目村]]<ref>[http://www.geocities.jp/kamankara/text/documents/d-toko.html 『常滑市誌』]</ref> * [[佐治神社]] – [[佐治氏]]の[[氏神]] * [[大錦津見神社]] * [[常石神社]] * [[神明社 (常滑市)|常滑神明社]] *柴舟権現神社 - [[徳川家康]]が祭神 *秋葉神社 - 奥条区 *縣神社 - 奥条区(愛称:県社) * [[津島神社|多賀神社]] * [[津島神社 (常滑市)|津島神社]] – [[牛頭天王]]社。[[津島神社]]から勧請。 * [[白山神社 (常滑市)|白山神社]] * [[御嶽神社 (常滑市)|御嶽神社]] – [[みたけ公園]] * [[矢田八幡神社]] * [[海椙神社]] – 牛頭天王社 === 観光スポット === ; ビーチ [[ファイル:Ono Beach 2019-07 ac (2).jpg|thumb|200px|世界最古の海水浴場とも言われる[[大野海水浴場]]]] [[ファイル:Rinkubeach.jpg|thumb|200px|人工海岸のりんくうビーチ]] * [[大野海水浴場]](大野海岸) * 常滑りんくうビーチ * 坂井海水浴場 - 坂井温泉 ; マリーナ * [[名古屋トヨペット#概要|NTP]]マリーナりんくう [http://www.ntp.co.jp/marina/rinku/] * 常滑[[マリーナ]] ; 施設 * [[中部国際空港#商業施設|スカイタウン]](中部国際空港のショッピングモール) * [[イオンモール常滑]] ** ワンダーフォレストきゅりお ** 常滑温泉 マーゴの湯 * めんたいパークとこなめ * [[コストコ]]ホールセール中部空港倉庫店 * [[常滑競艇場|ボートレースとこなめ]] <gallery> Renga-dori.JPG|[[中部国際空港#商業施設|スカイタウン]] Aeonmall-Tokoname-Norengai.JPG|[[イオンモール常滑|常滑のれん街]] AEON Togoname 2.jpg|ワンダーフォレストきゅりお Tokoname-spa-ma-gonoyu.JPG|常滑温泉 マーゴの湯 Costco ChubuAirport.JPG|[[コストコ#日本の店舗|コストコ 中部空港倉庫]] Kanefuku Mentaipark-Tokoname.JPG|[[かねふく#めんたいパーク|めんたいパークとこなめ]] 120226 Competition scenery of the Tokoname motorboat race.JPG|[[常滑競艇場|ボートレース常滑]] </gallery> ; 博物館・資料館 [[File:Tokoname Tounomori Museum ac (12).jpg|thumb|とこなめ陶の森資料館]] * [[とこなめ陶の森]] ** とこなめ陶の森資料館 ** とこなめ陶の森陶芸研究所 * 尾張大野歴史資料館 * [[盛田味の館]](酒、味噌、たまり、醤油の製造工程をビデオで紹介するほか、十五代当主・[[盛田昭夫]]についての常設展示がある) * [[盛田昭夫塾]] * [[鈴渓資料館]] * [[INAXライブミュージアム]] * [[FLIGHT OF DREAMS]] <gallery> Tokoname Ceramic Research Institute ac (2).jpg|とこなめ陶の森陶芸研究所 Moritaaji1.jpg|[[盛田味の館]] Akio Morita Library.jpg|盛田昭夫塾 Inaxlivemuseum 2010.jpg|[[INAXライブミュージアム]] FLIGHT OF DREAMS4.jpg|[[FLIGHT OF DREAMS]] </gallery> ; 街並み * [[とこなめ招き猫通り]] * [[やきもの散歩道]](登窯跡、土管坂、常滑市陶磁器会館など) * [[廻船問屋瀧田家]]([[江戸時代]]に廻船問屋を営んだ旧家の復元公開) ** デンデン坂 * とこなめ焼卸団地(セラモール) <gallery> Tokoname Tokonyan ac (1).jpg|[[とこなめ招き猫通り]]を見下ろす「とこにゃん」 Yakimonosanpomichi2.JPG|[[やきもの散歩道]](陶栄窯) Takitake1.jpg|[[廻船問屋瀧田家]] Yakimonosanpomichi5.JPG|デンデン坂 やきもの散歩道 (愛知県常滑市栄町) - panoramio (4).jpg|常滑の街並み 前山ダム公園 親水広場/四阿 - panoramio.jpg|前山ダム公園 親水広場 </gallery> == 文化 == === 祭事・催事 === [[ファイル:Ōno Matsuri5.JPG|thumb|[[大野祭り]]]] * 春の祭礼 *: 春には合併以前の旧町村を受け継ぐ各地区で祭礼があり、知多地域の周辺市町と同様、町内ごとの[[山車]]が引き回される。開催日程は、3月第3週の苅屋地区を皮切りに[[ゴールデンウィーク]]期間中である5月4日の大野・蒲池地区まで毎週となっている。 *: なお、当市の山車は[[知多型]]と[[名古屋型]]に分かれる。 * 苅屋地区祭礼(毎年3月第2週日曜日に開催) * 坂井地区祭礼(毎年3月第3週土日曜日に開催) * 大谷地区祭礼(毎年3月最終週土日曜日に開催) * 小鈴谷地区祭礼(毎年3月最終週土日曜日に開催) * 榎戸地区祭礼(毎年3月最終週土日曜日に開催) * 広目地区祭礼(毎年3月最終週日曜日に開催) * 石瀬地区祭礼(毎年3月最終週日曜日に開催) * 宮山地区祭礼(毎年3月最終週日曜日に開催) * 久米地区祭礼(毎年4月第1週土曜日に開催) * 檜原地区祭礼(毎年4月第1週日曜日に開催) * 西阿野地区祭礼(毎年4月第1週日曜日に開催) * 多屋地区祭礼(毎年4月第1週土日曜日に開催) * 矢田地区祭礼(毎年4月第2週土日曜日に開催) * 常滑地区祭礼(毎年4月第2週土日曜日に開催) * 古場地区祭礼(毎年4月第2週日曜日に開催) * 西阿野地区祭礼(毎年4月第3週土日曜日に開催) * 樽水地区祭礼(毎年4月第3週日曜日に開催) * 前山地区祭礼(毎年4月第3週日曜日に開催) * 小倉地区祭礼(毎年4月23に近い土日曜日に開催) * 蒲池地区祭礼(毎年5月4日に開催) * 大野地区祭礼(毎年5月3·4日に開催) * 柴船権現まつり(毎年5月に開催) * 矢田地区うんか送り·虫送り(毎年6月に開催) * 瀬木天王祭(毎年7月第2週日曜日に開催) * 中の宮天王まつり(毎年7月第3週日曜日に開催) * 常滑焼まつり(毎年8月に開催) * アイアンマン70.3セントレア常滑ジャパン(日本初のハーフアイアンマン[[トライアスロン]]大会。2010年より開催。2013年にはコースを知多市、常滑市としてアイアンマン70.3セントレア知多・常滑ジャパンを開催) === 名産品 === 名産として[[常滑焼]]や[[一口香]](銘菓)がある。 === スポーツ === 2011年には野球チームの[[通信教育総合学園ROOKIES]]([[日本野球連盟]])が設立された。 == 出身関連著名人 == === 実業家 === * [[石田退三]](元[[トヨタ自動車]]社長) * [[岩田弍夫]](元[[東芝]]社長、常滑市名誉市民<ref name="meiyoshimin">{{Cite web|和書|url=http://www.city.tokoname.aichi.jp/shisei/guide/1001281/1001282/1001285.html |title=名誉市民|date=2016-08-25|publisher=常滑市|accessdate=2021-05-14}}</ref>) * [[伊奈長三郎]]([[伊奈製陶]](のちの[[INAX]]、現[[LIXIL]])創業者、初代常滑市長、常滑市名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>) * [[伊奈輝三]](INAX(現LIXIL)中興の祖、元日本セラミックス協会会長) * [[久田宗弘]]([[DCM Japan]]社長及び[[DCM Japanホールディングス]]社長) * [[平岩外四]](元[[東京電力]]社長、[[日本経済団体連合会|経団連]]会長、常滑市名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>) * [[盛田昭夫]]([[ソニー]]創業者、常滑市[[名誉市民]]<ref name="meiyoshimin"/>) === 文化人 === * [[鈴村興太郎]](経済学者、[[一橋大学]]名誉教授、元[[日本経済学会]]会長) * [[都築利夫]]([[農業経済学者]]、元[[北海学園北見大学]]教授) * [[谷川徹三]]([[哲学|哲学者]]、[[評論家]]、[[谷川俊太郎]]の父、常滑市名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>) * [[片岡剛士]](エコノミスト、[[日本銀行政策委員会]]審議委員) * [[桒山賀行]]([[彫刻家]]) * [[久田吉之助]](陶工) * 山田稔([[陶芸家]]、[[人間国宝]]、三代[[山田常山]] [http://www.wings-jp.com/profile/y_jyozan.html]) * [[鯉江良二]](陶芸家) * [[井口峰幸]]([[陶芸家]]・創土会代表・千葉県指定伝統的工芸品大多喜焼 窯元)※出生地は千葉県八街市 === 政治家 === * [[久田慶三]](第三代常滑市長、常滑市名誉市民<ref name="meiyoshimin"/>) * [[片岡憲彦]](第七代常滑市長) * [[伊藤辰矢]](第八代常滑市長) === スポーツ選手 === * [[大庭雅]]([[フィギュアスケート]]選手) * [[丸山泰資]]([[プロ野球選手]]。[[中日ドラゴンズ]]) * [[村上睦子]](元[[バスケットボール選手]]。[[アトランタオリンピック]]日本代表) * [[池田浩二]]([[競艇選手]]) * [[後藤達俊]]([[プロレスラー]]) * [[鈴木なな子]]([[プロボクサー]])※出生地は東京都板橋区 * [[伊藤由里子]](プロ[[エアロビクスダンス|エアロビック]]選手) === 芸能人 === * [[渡辺哲]]([[俳優]]) * [[山田昌]]([[俳優|女優]]) * [[中野良子]](女優) * [[ザ・ピーナッツ]](元歌手、[[伊藤エミ]]および[[伊藤ユミ]]) * [[TOKONA-X]]([[MC (ヒップホップ)|ラッパー]]) * [[谷川友梨]](お笑いタレント) === マスコミ === * [[森下桂吉]]([[テレビ朝日]][[アナウンサー]]) * [[大竹敏之]]([[フリーライター]]) === その他 === * [[大政 (侠客)|大政]]([[侠客]]、[[大野町 (愛知県知多郡)|大野湊]]出身) * [[森下信衛]]([[軍人]]、[[戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」第五代艦長) * [[成澤由浩]]([[シェフ]]) == 常滑市を舞台とした作品 == === テレビドラマ === * [[嵐の涙〜私たちに明日はある〜]](2016年2月 - 3月、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]/[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系) * [[NHK名古屋放送局|愛知]]発[[地域発ドラマ|地域ドラマ]]『[[黄色い煉瓦〜フランク・ロイド・ライトを騙した男〜]]』(2019年11月27日、[[NHK BSプレミアム]]) === 劇場アニメ === * [[泣きたい私は猫をかぶる]](2020年) == その他 == * [[日本の市外局番|市外局番]]は市内全域で'''0569'''(半田[[単位料金区域|MA]])が使用される。 * 本市の[[日本の郵便番号|郵便番号]]は〒479-00**・08**<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.post.japanpost.jp/cgi-zip/zipcode.php?pref=23&city=1232160&cmp=1|title=郵便番号検索>愛知県>常滑市|work=[[日本郵便]]|accessdate=2021-01-09}}</ref>。 * [[自動車検査証#権利部|車検証の使用者の住所]]が本市にある自動車には[[愛知運輸支局#愛知運輸支局本庁舎|名古屋ナンバー]]が交付される。 === 観光大使 === 2010年(平成22年)2月11日にはお笑いコンビの[[ナインティナイン]]の[[矢部浩之]]が「常滑親善大使」に就任した。「[[ナインティナインのオールナイトニッポン]]」でもコーナー化されている。 === 公式キャラクター === 常滑市の公式キャラクターとして、招き猫をモチーフにした「トコタン」がある。2001年(平成13年)8月1日にボートレースとこなめのマスコットキャラクターとして生まれ、市制60周年を機会に平成26年度から市の公式キャラクターとなった<ref>[http://www.city.tokoname.aichi.jp/shisei/guide/1001275/1002295.html 常滑市公式キャラクター「トコタン」プロフィール|常滑市]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat}} {{Osm box|r|4551431}} ;行政 * {{Official website}} * {{Facebook|city.tokoname|ええね!常滑市}} ;観光 * [https://www.tokoname-kankou.net/ 常滑市観光協会] * {{Googlemap|常滑市}} * {{ウィキトラベル インライン|常滑市|常滑市}} {{愛知県の自治体}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とこなめし}} [[Category:愛知県の市町村|とこなめし]] [[Category:常滑市|*]] [[Category:1954年設置の日本の市町村]]
2003-09-10T04:49:22Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%BB%91%E5%B8%82
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自由が丘駅
自由が丘駅(じゆうがおかえき)は、東京都目黒区自由が丘一丁目にある、東急電鉄の駅である。東横線と大井町線が乗り入れ、両線の乗換駅となっている。駅番号は東横線がTY07、大井町線がOM10である。 目黒区自由が丘と世田谷区奥沢にまたがる繁華街として知られる自由が丘地区の中心であり、地名としての定着に大きな役割を果たした駅である。 当駅は駅長所在駅である。「自由が丘管内」として当駅および東横線都立大学駅、大井町線緑が丘駅、九品仏駅、尾山台駅、等々力駅、上野毛駅の6駅を管理している。 2015年4月時点、駅の照明がLED照明などの消費電力の少ない照明器具となっている。これは「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」における事業で実施したもので、鉄道施設では設置例の少ない照明制御・調光システムを持つLED照明器具が設置されているほか、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「有機EL(有機エレクトロルミネッセンス)照明」や薄型のLEDサインも採用されている。 東京横浜電鉄九品仏駅として開業した当初は地上駅であったが、大井町線開業時に東横線当駅の前後520 mの区間を5.79 mかさ上げし、高架化した。この時点では1面2線の島式ホーム構造であった。 1958年(昭和33年)6月、当駅を急行列車の待避が可能な2面4線構造に改良するための工事が開始された。これは東横線の急行列車増発のため、日吉駅のみであった待避駅に当駅を加えるものである。改良工事は翌1959年(昭和34年)11月に完成し、現状に近い2面4線構造の駅に改良された。事業費は3億5,000万円を要した。 2005年度からエレベーター、エスカレータの設置を中心に耐震補強、バリアフリー化を目的とする改良工事を開始した。正面口のエレベーター設置に伴い、正面口が狭くなることから、北口改札が完成した。ランキンランキンの出店、テコプラザ、定期券売り場の移転、トイレ、改札外の交番の改装も行われた。2007年10月にコンコース部の改良工事が完成した。 近隣の古刹である九品仏浄真寺は9体の阿弥陀如来像を安置していることから「九品仏」(くほんぶつ)と呼ばれていたため、駅設置当時はこの最寄り駅として「九品仏駅」とした。大井町線の開業に伴い寺により近い場所に「九品仏駅」が設置されることになったため、駅所在地が東京府荏原郡碑衾村大字衾(ふすま)にあることから、「衾駅」も新しい駅名候補だった。地元にできた自由ヶ丘学園にちなんだ改称を舞踊家の石井漠ら文化人が運動して「自由ケ丘駅」となり、さらに現在の「自由が丘駅」という駅名になった(「年表」参照)。 大井町線(1・2番線)は相対式ホーム2面2線を有する地上駅、東横線(3 - 6番線)は島式ホーム2面4線を有する高架駅である。 東横線は2001年3月28日に特急を運行開始して以来、菊名駅と同様に終日緩急接続を実施するようになった。緩急接続時は外側の副本線3・6番線に各駅停車、内側の本線4・5番線に特急・通勤特急・急行(本線系統)が入線するが、2023年3月18日実施のダイヤ改正以降、土曜・休日ダイヤに限り、下り1本(急行湘南台行き)のみ当駅でS-TRAIN2号元町・中華街行きの待ち合わせを行なう。緩急接続駅であることから、平日朝ラッシュ時の渋谷方面ホームは乗車を待つ行列が伸び、急行・通勤特急は当駅から混雑が激しくなる。2023年8月21日より、当駅を7時20分から8時50分頃までに発着する上り列車に限り、朝ラッシュ時間帯の遅延軽減策の一環として、各停・急行・通勤特急を問わず5・6番線を交互に発着する形へ変更される。 東横線は夜間に元町・中華街駅発当駅終着の各駅停車1本が設定されている。到着後は6番線にそのまま夜間留置される。また3番線でも深夜に夜間留置が行われ、渋谷駅から回送で到着、翌朝も回送で出庫する。当駅 - 田園調布駅間には、非常時の折り返しに備えて渡り線が設けられている。 大井町線は九品仏駅寄りに留置線1本(5両編成対応)を有し、回送列車の留置に用いられるほか、平日朝に下りの当駅始発列車が1本設定されている。かつては自由が丘検車区が存在しており、その跡地にはトレインチ自由が丘が整備された。 駅名標は、2012年3月に実施した「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」におけるLED化により、薄型のLEDサインに変更された。それまでは、東横線用ホームは現行の標準タイプであるが、大井町線用ホームは旧タイプと現行の標準タイプであった。 有料座席指定列車「S-TRAIN」は、土曜・休日ダイヤのみ東横線に入線し、当駅にも停車する。 各線の2022年度の1日平均乗降人員は以下の通りである。 東横線の乗降人員は、特急通過駅の日吉駅・綱島駅より少ない。 近年の1日平均乗降人員推移は下表の通りである。 近年の1日平均乗車人員は下記の通り。
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自由が丘駅(じゆうがおかえき)は、東京都目黒区自由が丘一丁目にある、東急電鉄の駅である。東横線と大井町線が乗り入れ、両線の乗換駅となっている。駅番号は東横線がTY07、大井町線がOM10である。 目黒区自由が丘と世田谷区奥沢にまたがる繁華街として知られる自由が丘地区の中心であり、地名としての定着に大きな役割を果たした駅である。
{{半保護}} {{混同|x1=名古屋市営地下鉄名城線の|自由ヶ丘駅}} {{駅情報 |社色 = #ee0011 |文字色 = |駅名 = 自由が丘駅 |画像 = Jiyūgaoka Station (Tokyo) 2012.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 正面口 |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=13|type=point|frame-width=300|marker=rail}} |よみがな = じゆうがおか |ローマ字 = Jiyūgaoka<ref name="rosenzu">{{PDFLink|[http://www.tokyu.co.jp/railway/common/pdf/rosen-web140621.pdf 東急線・みなとみらい線路線案内]}}</ref><!--東急電鉄の「路線図」記載の表記にあわせます--> |電報略号 = |所属事業者 = [[東急電鉄]] |所在地 = [[東京都]][[目黒区]][[自由が丘]]一丁目9-8<ref name="eki"/> |座標 = {{coord|35|36|27|N|139|40|8|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月28日]] |廃止年月日 = |駅構造 = [[高架駅]]([[東急東横線|東横線]])<br />[[地上駅]]([[東急大井町線|大井町線]]) |ホーム = 2面4線(東横線)<br />2面2線(大井町線) |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="東急" name="tokyu2022" />(東横線)78,634人/日<br />(大井町線)46,371人/日<br />(合計)125,005人/日 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#da0442|■}}[[東急東横線|東横線]]<ref name="eki"/> |前の駅1 = TY06 [[都立大学駅|都立大学]] |駅間A1 = 1.4 |駅間B1 = 1.2 |次の駅1 = [[田園調布駅|田園調布]] TY08 |駅番号1 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'''自由が丘駅'''(じゆうがおかえき)は、[[東京都]][[目黒区]][[自由が丘]]一丁目にある、[[東急電鉄]]の[[鉄道駅|駅]]<ref name="eki">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/station/info/Pid=7.html |title=自由が丘駅|各駅情報 |publisher=東急電鉄 |accessdate=2022-07-10}}</ref>。[[東急東横線|東横線]]と[[東急大井町線|大井町線]]が乗り入れ、両線の[[乗換駅]]となっている<ref name="ensen">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/ekitown/info/?id=7 |title=自由が丘駅|沿線・駅周辺ガイド |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-11}}{{リンク切れ|date=2022年7月}}</ref>。[[駅ナンバリング|駅番号]]は東横線が'''TY 07'''、大井町線が'''OM 10'''<ref name="eki"/>。 目黒区自由が丘と[[世田谷区]][[奥沢]]にまたがる繁華街として知られる[[自由が丘#広域地名|自由が丘]]地区の中心であり、[[地名]]としての定着に大きな役割を果たした駅である<ref name="東京新聞20220626">[https://www.tokyo-np.co.jp/article/187495 【東京舞台さんぽ】「トットちゃん」の自由が丘:育み続ける自由の精神]『[[東京新聞]]』朝刊2022年6月26日22面(2022年7月10日閲覧)</ref>。 == 概要 == 当駅は[[駅長]]所在駅である。「自由が丘管内」として当駅および東横線[[都立大学駅]]、大井町線[[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]]、[[九品仏駅]]、[[尾山台駅]]、[[等々力駅]]、[[上野毛駅]]の6駅を管理している。 [[2015年]]4月時点、駅の照明が[[LED照明]]などの消費電力の少ない照明器具となっている。これは「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」における事業で実施したもので、鉄道施設では設置例の少ない照明制御・調光システムを持つLED照明器具が設置されているほか、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「有機EL([[有機エレクトロルミネッセンス]])照明」や薄型のLEDサインも採用されている<ref name="Pana-LED">[https://web.archive.org/web/20220808051736/https://www2.panasonic.biz/jp/solution/works/jiyugaoka.html パナソニックの空間ソリューション 東京急行電鉄株式会社自由が丘駅](インターネットアーカイブ)。</ref><ref name="LED">[https://web.archive.org/web/20221217015540/https://news.panasonic.com/jp/press/jn120330-2 東京急行電鉄 「自由が丘駅」に、有機EL照明器具29台、LED照明器具1,174台などを納入] - パナソニック 2012年3月30日(インターネットアーカイブ・2013年6月23日 閲覧)</ref>。 == 歴史 == === 年表 === * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月28日]]:[[東京横浜電鉄]]東横線の'''九品仏駅'''として開業<ref name="jtb48">[[#jtb|東急の駅]]、pp.48-49。</ref>。[[島式ホーム]]1面2線<ref name="jtb48"/>。 * [[1929年]](昭和4年) ** 1月:大井町線開業に先立ち、東横線当駅を地上駅から高架化(大井町線と立体交差)<ref name="tokyu976">[[#50th|50年史]]、pp.976・993 - 995。</ref>。 ** [[10月22日]]:'''自由ヶ丘駅'''に改称<ref name="jtb48"/>。 ** [[11月1日]]:[[目黒蒲田電鉄]]大井町線が開通。 * [[1958年]](昭和33年)[[6月13日]]:東横線ホームの改良工事に着手<ref name="tokyu976"/>。 * [[1959年]](昭和34年)[[11月30日]]:東横線ホームが島式ホーム2面4線化・改良工事完成<ref name="tokyu976"/><ref name="tokyu1214">[[#50th|50年史]]、p.1214。</ref><ref name="jtb48"/>。 * [[1961年]](昭和36年):駅前ロータリーに女神像が設置される<ref name="jtb48"/>。 * [[1966年]](昭和41年)[[1月20日]]:'''自由が丘駅'''に改称<ref name="jtb48"/>。 * [[1968年]](昭和43年)2月:券売機と改札機が一体となった「自動券売改札機」を設置<ref>{{Cite news |title=「自動券売改札機」が登場 東急自由が丘と目黒両駅に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-02-18 |page=3 }}</ref>。 * [[1974年]](昭和49年)[[6月1日]]:[[自動改札機]]設置<ref>{{Cite news |和書|title=七駅の改札口自動化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-05-29 |page=1 }}</ref>(入場用×4基、出場用×2基)。 === 駅改良工事 === <!--駅改良工事は駅の歴史に密接に関係する事柄なので、駅構造節より移します--> 東京横浜電鉄九品仏駅として開業した当初は地上駅であったが、大井町線開業時に東横線当駅の前後520&nbsp;mの区間を5.79&nbsp;mかさ上げし、高架化した<ref name="tokyu976"/>。この時点では1面2線の島式ホーム構造であった<ref name="tokyu976"/>。 1958年(昭和33年)6月、当駅を[[急行列車]]の待避が可能な2面4線構造に改良するための工事が開始された<ref name="tokyu976"/>。これは東横線の急行列車増発のため、[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]のみであった待避駅に当駅を加えるものである<ref name="tokyu976"/>。改良工事は翌1959年(昭和34年)11月に完成し、現状に近い2面4線構造の駅に改良された<ref name="tokyu976"/>。事業費は3億5,000万円を要した<ref name="tokyu976"/>。 2005年度から<ref name="ensen"/>[[エレベーター]]、[[エスカレータ]]の設置を中心に[[耐震]]補強、[[バリアフリー]]化を目的とする改良工事を開始した<ref name="ensen"/>。正面口のエレベーター設置に伴い、正面口が狭くなることから、北口改札が完成した。ランキンランキンの出店、テコプラザ、定期券売り場の移転、トイレ、改札外の交番の改装も行われた。2007年10月に[[コンコース]]部の改良工事が完成した。 * [[2005年]]([[平成]]17年)[[10月31日]] - 北口改札完成<ref>{{Cite journal|和書 |title=東横線・大井町線 自由が丘駅の正面口の改札が変わります |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2005-10-20 |issue =303 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0511/densya01.html#1 |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-11}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** [[2月7日]] - 大井町線1番線ホームより、東横線3・4、5・6番線への上昇エスカレーター竣工。 ** [[3月31日]] - 東横線ホームと大井町線ホームとを結ぶエレベーター4台が供用開始<ref>{{Cite journal|和書 |title=東横線・大井町線 自由が丘駅をバリアフリー化します |journal =HOT ほっと TOKYU |date=2006-03-20 |issue =308 |url=http://hot.tokyu.co.jp/railway/hot/0604/densya01.html#1 |publisher=東京急行電鉄 |accessdate=2015-01-12}}</ref>。 ** 10月 - 自由が丘駅が九品仏駅(旧駅名)から改称して「77周年」を迎えるのを記念し、記念パスネットの発売<ref name="Tokyu200608">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150414181358/http://www.tokyu.co.jp/file/060802_2.pdf 8月16日(水)、「自由が丘駅77周年記念パスネット」を発売します]}} 東京急行電鉄ニュースリリース([[インターネットアーカイブ]]・2015年時点の版)</ref>や東横線・大井町線において記念[[ヘッドマーク]]付き電車の運転([[東急9000系電車|9000系]]に各1編成)などが実施された<ref name="Tokyu200610">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20150414182204/http://www.tokyu.co.jp/file/060921.pdf ≪自由が丘駅77周年記念イベント≫10月24日(火)、「みらいの自由が丘」を考えるシンポジウムを開催]}} 東京急行電鉄ニュースリリース([[インターネットアーカイブ]]・2015年時点の版)</ref><ref name="RAIL FAN660">鉄道友の会『RAIL FAN』No.660記事「2006年度 東急総決算」pp.13 - 14。</ref> 。 ** [[12月18日]] - 正面口に新設の切符売り場完成。仮設の切符売り場は撤去。 ** [[12月21日]] - 正面口にインフォメーションセンターおよび定期券売り場供用開始。 * [[2007年]](平成19年)3月下旬 - 正面口前と東横線ホームを結ぶエスカレータ4基が竣工。新[[コンコース]]開通。 * [[2008年]](平成20年)3月 - 同月28日からの大井町線における急行運転開始に向け、6両編成対応ホーム延伸工事完了。 * [[2009年]](平成21年)3月 - [[東京地下鉄]][[東京メトロ副都心線|副都心線]]との[[相互直通運転]]開始に向け、特急・通勤特急・急行における10両編成の列車が停車できるようにするためホーム延伸を行うための高架橋補強工事に着手<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.tokyu.co.jp/file/111110-1.pdf |title=特定都市鉄道整備事業実施状況 |publisher=東京急行電鉄 |date=2011-11-10 |accessdate=2015-01-12 |format=pdf}}</ref><ref name="Fuku-10R">[https://web.archive.org/web/20120620034507/http://www.tokyu.co.jp/railway/railway/east/pr/sby_ykhm_jygok.html 東横線渋谷 - 横浜間改良工事 自由が丘駅改良工事(東急電鉄)](インターネットアーカイブ・2012年時点の版)</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[3月30日]] - 「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」:[[東急電鉄]]の駅では初めてとなる全駅[[LED照明]]として、駅構内全てを調光・調色LED照明及び[[LED]]サインとし、さらにシースルー改札と定期券うりばには、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「有機EL([[有機エレクトロルミネッセンス]])照明器具」を導入<ref name="LED" /><ref name="Pana-LED"/>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[3月16日]] - ホーム延伸部供用開始<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.tokyu.co.jp/file/130515-2.pdf |title=特定都市鉄道整備事業実施状況 |publisher=東京急行電鉄 |date=2013-05-15 |accessdate=2015-01-12 |format=pdf}}</ref>。 ** 3月31日 - 「〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜」:シースルー改札口と定期券うりばに設置してある、一般照明としては日本初の実用的設置となる次世代照明「[[有機EL]]([[有機エレクトロルミネッセンス]])照明器具」を更新した。 <gallery widths="230px" heights="180px"> EL-Light (OLED) 1.jpg|定期券売り場の有機EL照明(2012年度) EL-Light (OLED) 2.jpg|正面口改札窓口の有機EL照明(2012年度) Jiyugaoka Sta.'s LED and OLED Lighting.jpg|ホームなどはLED照明主体となっている(2012年度) </gallery> <!-- 写真をアップロードしてから下記ギャラリーを活用して下さい--><!-- <gallery widths="230px" heights="180px"> 定期券売り場の有機EL照明 2014年度|定期券売り場の有機EL照明 2014年度 正面口改札窓口の有機EL照明 2014年度|正面口改札窓口の有機EL照明 2014年度 </gallery>--> === 駅名の由来 === {{See also|自由が丘|自由ヶ丘学園高等学校}} 近隣の古刹である[[九品仏浄真寺]]は9体の[[阿弥陀如来像]]を安置していることから「九品仏」(くほんぶつ)と呼ばれていたため、駅設置当時はこの最寄り駅として「九品仏駅」とした。大井町線の開業に伴い寺により近い場所に「九品仏駅」が設置されることになったため、駅所在地が[[東京府]][[荏原郡]]碑衾村[[大字]]衾(ふすま)にあることから、「衾駅」も新しい駅名候補だった。地元にできた[[自由ヶ丘学園]]にちなんだ改称を[[舞踊家]]の[[石井漠]]ら文化人が運動して「自由ケ丘駅」となり、さらに現在の「自由が丘駅」という駅名になった<ref name="東京新聞20220626"/>(「[[#年表|年表]]」参照)。 == 駅構造 == {{Vertical images list |幅 = 200px |枠幅 = 200px |1 = Jiyugaoka-Sta-S.JPG |2 = 南口(2016年8月) |3 = Jiyugaoka Station Platform1-2.jpg |4 = 大井町線ホーム |5 = Jiyugaoka Station Platform3-6.jpg |6 = 東横線ホーム |7 = Jiyugaoka-Sta-Platforms.JPG |8 = 大井町線ホーム(地平)と東横線ホーム(高架) |9 = Toks 002.JPG |10 = toks (大井町線上りホーム) |11 = Toks 001.JPG |12 = toks(大井町線下りホーム) }} 大井町線(1・2番線)は[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地上駅]]、東横線(3 - 6番線)は[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]である<ref name="map">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyu.co.jp/railway/station/yardmap/?id=7 |title=自由が丘駅|駅構内図 |publisher=東急電鉄 |accessdate=2015-01-12}}</ref>。 === のりば === <ref name="map"/> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- |-style="border-top:solid 3px #999" | colspan="4" style="background-color:#eee" |'''地上ホーム''' |- !1 |rowspan="2"|[[File:Tokyu OM line symbol.svg|15px|OM]] 大井町線 |style="text-align:center"|下り |[[二子玉川駅|二子玉川]]・[[溝の口駅|溝の口]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_om10_jiyuugaoka2.pdf|title=大井町線標準時刻表 自由が丘駅 溝の口方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !2 |style="text-align:center"|上り |[[大岡山駅|大岡山]]・[[旗の台駅|旗の台]]・[[大井町駅|大井町]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_om10_jiyuugaoka.pdf|title=大井町線標準時刻表 自由が丘駅 大井町方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- |-style="border-top:solid 3px #999" | colspan="4" style="background-color:#eee" |'''高架ホーム''' |- !3・4 |rowspan="2"|[[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 |style="text-align:center"|下り |[[横浜駅|横浜]]・[[元町・中華街駅|元町・中華街]]・[[新横浜駅|新横浜]]・[[二俣川駅|二俣川]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty07_jiyuugaoka2.pdf|title=東横線標準時刻表 自由が丘駅 横浜 元町・中華街 新横浜方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |- !5・6 |style="text-align:center"|上り |[[渋谷駅|渋谷]]・[[池袋駅|池袋]]・[[川越市駅|川越市]]・[[所沢駅|所沢]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/timetable/pdf/202303_ty07_jiyuugaoka.pdf|title=東横線標準時刻表 自由が丘駅 渋谷方面|publisher=東急電鉄|accessdate=2023-03-18|}}</ref> |} 東横線は2001年3月28日に特急を運行開始して以来、[[菊名駅]]と同様に終日[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]を実施するようになった。緩急接続時は外側の[[停車場#本線|副本線]]3・6番線に各駅停車、内側の[[停車場#本線|本線]]4・5番線に特急・通勤特急・急行(本線系統)が入線するが、2023年3月18日実施のダイヤ改正以降、土曜・休日ダイヤに限り、下り1本(急行[[湘南台駅|湘南台]]行き)のみ当駅でS-TRAIN2号元町・中華街行きの待ち合わせを行なう。緩急接続駅であることから、平日朝[[ラッシュ時]]の渋谷方面ホームは乗車を待つ行列が伸び、急行・通勤特急は当駅から混雑が激しくなる。2023年8月21日より、当駅を7時20分から8時50分頃までに発着する上り列車に限り、朝ラッシュ時間帯の遅延軽減策の一環として、各停・急行・通勤特急を問わず5・6番線を交互に発着する形へ変更される<ref>[https://www.tokyu.co.jp/information/list/Pid=post_832.html 東横線自由が丘駅における平日朝ラッシュ時間帯、一部列車の発着番線変更について]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/127444 |title=自由が丘駅で遅延解消の秘策「番線入れ替え」実施へ 「ホーム空いたら入れる」運行方式 東急東横線 |date=2023-08-09 |access-date=2023-08-10 |website=乗りものニュース |publisher=メディア・ヴァーグ}}</ref>。 東横線は夜間に元町・中華街駅発当駅終着の各駅停車1本が設定されている。到着後は6番線にそのまま[[夜間滞泊|夜間留置]]される<ref>土曜・休日ダイヤについては、上り武蔵小杉方向からの当駅止まりがないため、深夜に元住吉検車区から出庫し、当駅へ[[回送]]されてそのまま翌朝まで留置される。なおこの回送電車は、6番線の電車が当日中に全て出発し終わった直後に入線する。なお2021年3月改正で土休日ダイヤも元町・中華街駅発の自由が丘駅止まりが設定され、当駅終着後はやはり夜間留置となる。</ref>。また3番線でも深夜に夜間留置が行われ、渋谷駅から回送で到着、翌朝も回送で出庫する。当駅 - [[田園調布駅]]間には、非常時の折り返しに備えて[[分岐器#形状による分類|渡り線]]が設けられている。 大井町線は[[九品仏駅]]寄りに[[留置線]]1本(5両編成対応)を有し、回送列車の留置に用いられるほか、平日朝に下りの当駅始発列車が1本設定されている。かつては[[自由が丘検車区]]が存在しており、その跡地には[[トレインチ自由が丘]]が整備された。 [[駅名標]]は、2012年3月に実施した「{{〜}}スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト{{〜}}」におけるLED化により、薄型のLEDサインに変更された。それまでは、東横線用ホームは現行の標準タイプであるが、大井町線用ホームは旧タイプと現行の標準タイプであった。 有料座席指定列車「[[S-TRAIN]]」は、土曜・休日ダイヤのみ東横線に入線し、当駅にも停車する<ref>[http://www.seibu-group.co.jp/railways/news/news-release/2016/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/s-train.pdf 2017年3月25日(土)から「S-TRAIN」運行開始!]{{リンク切れ|date=2021年12月}} 西武鉄道株式会社 2017年1月10日</ref>。 === 駅構内 === <ref name="map"/> * 正面口 ** [[定期乗車券|定期券]]うりば<ref name="eki"/>、[[公衆電話]]、[[交番]]、[[公衆便所|トイレ]](目黒区立) * 南口 ** [[コインロッカー]]、公衆電話 * 北口 ** インターホン、公衆電話、コインロッカー、[[ランキンランキン]]自由が丘店 * 大井町線上りホーム ** トイレ、[[toks]]、テコプラザ自由が丘駅店[http://www.tecoplaza.com/]、公衆電話、[[スープストックトーキョー]]自由が丘店 * 大井町線下りホーム ** トイレ、toks、ランキンランキン自由が丘南口店 == 利用状況 == 各線の[[2022年]]度の1日平均乗降人員は以下の通りである<ref group="東急" name="tokyu2022" />。 * 東横線 - '''78,634人''' * 大井町線 - '''46,371人''' 東横線の乗降人員は、特急通過駅の[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]・[[綱島駅]]より少ない。 * 東横線⇔大井町線間の乗換人員を含んだ、2018年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>。 ** 東横線 - '''279,683人''' - 同線内では渋谷駅、横浜駅に次ぐ第3位。 ** 大井町線 - '''237,587人''' - 同線内では第1位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 近年の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗降'''人員]]推移は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right" |+年度別1日平均乗降人員<ref name="train-media"/><ref>[http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/koho/hakkobutsu/kuseiyoran.html 区勢要覧] - 目黒区</ref><ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑]</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|東横線 !rowspan="2"|乗換人員 !colspan=2|大井町線 |- !1日平均<br />乗降人員!!増加率 !1日平均<br />乗降人員!!増加率 |- |2003年(平成15年) |83,998||2.6% |122,012 |36,331||6.4% |- |2004年(平成16年) |83,161||&minus;1.0% |128,395 |37,841||4.2% |- |2005年(平成17年) |83,582||0.5% |131,705 |38,802||2.5% |- |2006年(平成18年) |86,521||3.5% |137,660 |40,753||5.0% |- |2007年(平成19年) |87,319||0.9% |140,072 |48,832||19.8% |- |2008年(平成20年) |92,323||5.7% |148,078 |47,352||&minus;3.0% |- |2009年(平成21年) |92,236 ||&minus;0.1% |156,684 |48,711||2.9% |- |2010年(平成22年) |91,202||&minus;1.1% |161,375 |49,404||1.4% |- |2011年(平成23年) |90,099||&minus;1.2% |160,717 |49,566||0.3% |- |2012年(平成24年) |91,962||2.1% |165,198 |51,341||3.6% |- |2013年(平成25年) |95,721||4.1% |167,883 |53,389||4.0% |- |2014年(平成26年) |96,158||0.5% |168,003 |53,617||0.4% |- |2015年(平成27年) |97,453||1.3% |172,909 |54,943||2.5% |- |2016年(平成28年) |98,262||0.8% |176,143 |55,703||1.4% |- |2017年(平成29年) |99,512||1.3% |178,318 |57,028||2.4% |- |2018年(平成30年) |100,055||0.5% |179,628 |57,959||1.6% |- |2019年(令和元年) |<ref group="東急" name="tokyu2019">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2019.html |title=2019年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>98,557||&minus;1.5% | |<ref group="東急" name="tokyu2019" />57,603||&minus;0.6% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="東急" name="tokyu2020">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2020.html |title=2020年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>64,988||&minus;34.1% | |<ref group="東急" name="tokyu2020" />39,273||&minus;31.8% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="東急" name="tokyu2021">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/2021.html |title=2021年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>72,615||11.7% | |<ref group="東急" name="tokyu2021" />43,453||10.6% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="東急" name="tokyu2022">{{Cite web|和書|author=東急電鉄株式会社|url=https://www.tokyu.co.jp/railway/data/passengers/ |title=2022年度乗降人員 |東急電鉄|type= |page= |date= |accessdate=2023-06-17}}</ref>78,634||8.3% | |<ref group="東急" name="tokyu2022" />46,371||6.7% |} === 年度別1日平均乗車人員 === 近年の1日平均'''乗車人員'''は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> <!--1993年までのデータは乗り換え人員を含んでいるものと思われるが、そのまま記載する--> {|class="wikitable" !rowspan|年度 !rowspan|東 横 線 !rowspan|大井町線 !rowspan|出典 |- |1990年 |style="text-align:right"|96,556 |style="text-align:right"|75,863 |<ref group="東京都統計" name="toukei1990">東京都統計年鑑(平成2年)226ページ</ref> |- |1991年 |style="text-align:right"|96,451 |style="text-align:right"|77,109 |<ref group="東京都統計" name="toukei1991">東京都統計年鑑(平成3年)232ページ</ref> |- |1992年 |style="text-align:right"|94,482 |style="text-align:right"|74,068 |<ref group="東京都統計" name="toukei1992">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年 |style="text-align:right"|92,521 |style="text-align:right"|71,671 |<ref group="東京都統計" name="toukei1993">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年 |style="text-align:right"|35,937 |style="text-align:right"|15,471 |<ref group="東京都統計" name="toukei1994">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年 |style="text-align:right"|34,973 |style="text-align:right"|16,025 |<ref group="東京都統計" name="toukei1995">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年 |style="text-align:right"|35,252 |style="text-align:right"|15,600 |<ref group="東京都統計" name="toukei1996">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年 |style="text-align:right"|35,515 |style="text-align:right"|15,658 |<ref group="東京都統計" name="toukei1997">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年 |style="text-align:right"|37,236 |style="text-align:right"|16,200 |<ref group="東京都統計" name="toukei1998">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年 |style="text-align:right"|38,366 |style="text-align:right"|16,486 |<ref group="東京都統計" name="toukei1999">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年 |style="text-align:right"|38,726 |style="text-align:right"|16,570 |<ref group="東京都統計" name="toukei2000">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年 |style="text-align:right"|39,337 |style="text-align:right"|16,874 |<ref group="東京都統計" group="東京都統計" name="toukei2001">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年 |style="text-align:right"|40,041 |style="text-align:right"|17,068 |<ref group="東京都統計" name="toukei2002">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年 |style="text-align:right"|41,268 |style="text-align:right"|18,257 |<ref group="東京都統計" name="toukei2003">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年 |style="text-align:right"|41,274 |style="text-align:right"|18,756 |<ref group="東京都統計" name="toukei2004">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年 |style="text-align:right"|41,613 |style="text-align:right"|19,435 |<ref group="東京都統計" name="toukei2005">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年 |style="text-align:right"|43,033 |style="text-align:right"|20,419 |<ref group="東京都統計" name="toukei2006">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年 |style="text-align:right"|43,298 |style="text-align:right"|24,445 |<ref group="東京都統計" name="toukei2007">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年 |style="text-align:right"|45,800 |style="text-align:right"|23,721 |<ref group="東京都統計" name="toukei2008">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年 |style="text-align:right"|45,855 |style="text-align:right"|24,427 |<ref group="東京都統計" name="toukei2009">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年 |style="text-align:right"|45,301 |style="text-align:right"|24,778 |<ref group="東京都統計" name="toukei2010">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年 |style="text-align:right"|44,746 |style="text-align:right"|24,868 |<ref group="東京都統計" name="toukei2011">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年 |style="text-align:right"|45,611 |style="text-align:right"|25,822 |<ref group="東京都統計" name="toukei2012">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年 |style="text-align:right"|47,296 |style="text-align:right"|26,822 |<ref group="東京都統計" name="toukei2013">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年 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[[東急プラザ]] ** [[メルサ|メルサ自由が丘店]] ** 白樺広小路スクエア ** [[自由ヶ丘学園高等学校]] ** 自由が丘スイーツフォレスト ** [[山野楽器]]自由が丘店 ** 魚菜学園 ** [[ヤマダデンキ]]LABI LIFE SELECT 自由が丘 ** マリクレール通り ** Luz自由が丘 ** [[自由が丘産能短期大学]] ** [[熊野神社 (目黒区)]]<ref name="ensen"/> === バス路線 === [[画像:Tokyubus S233 tokyu-coach.jpg|thumb|200px|東急コーチ自由が丘線]] * '''自由が丘駅'''<ref name="bus1">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyubus.co.jp/jikoku/dia/cgi/search_route.cgi?stcode=1730501&starttype=0 |title=東急バス時刻表(自由が丘駅) |publisher=東急バス株式会社 |accessdate=2015-01-12}}</ref> ** [[東急バス]] *** <[[東急バス瀬田営業所#コーチ自由が丘線|自01]]> [[駒澤大学|駒大]][[深沢 (世田谷区)|深沢]]キャンパス前(深沢一丁目・深沢不動前経由)<ref name="bus1"/> ※休日の15時から18時を除く昼夕運転 *** <[[東急バス瀬田営業所#コーチ自由が丘線|自02]]> 駒大深沢キャンパス前(エーダンモール深沢・深沢不動前経由)<ref name="bus1"/> ※朝・深夜運転 *** <[[東急バス瀬田営業所#コーチ自由が丘線|自12]]> [[独立行政法人国立病院機構東京医療センター|東京医療センター]](エーダンモール深沢経由)<ref name="bus1"/> ※昼間運転 * '''自由が丘駅入口'''<ref name="bus2">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyubus.co.jp/jikoku/dia/cgi/search_route.cgi?stcode=1725220&starttype=0 |title=東急バス時刻表(自由が丘駅入口) |publisher=東急バス株式会社 |accessdate=2015-01-12}}</ref> - 自01系統と自12系統のバス停表記は'''自由が丘駅'''。 ** 東急バス *** <[[東急バス淡島営業所#グランド線|渋11]]> [[渋谷駅]]([[八雲学園中学校・高等学校|八雲高校]]・東京医療センター前・[[駒沢大学駅]]前経由)<ref name="bus2"/> *** <渋11> [[田園調布駅]]<ref name="bus2"/> *** <自01> 駒大深沢キャンパス前(深沢一丁目・深沢不動前経由)<ref name="bus2"/> ※休日の15時から18時運転 *** <自12> 東京医療センター(エーダンモール深沢経由)<ref name="bus2"/> ※休日の15時から18時運転 == 隣の駅 == <!--テンプレートは不評意見が多いようです。もしご意見があれば[[Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/各路線の駅一覧のテンプレート・隣りの駅]]で議論されています。--> ; 東急電鉄 : [[File:Tokyu TY line symbol.svg|15px|TY]] 東横線 :* {{Color|#0066cc|□}}[[S-TRAIN]]停車駅 :: {{Color|#f7931d|■}}特急・{{Color|#f7931d|□}}通勤特急 ::: [[中目黒駅]] (TY03) - '''自由が丘駅 (TY07)''' - [[武蔵小杉駅]] (TY11) :: {{Color|#ef3123|■}}急行 ::: [[学芸大学駅]] (TY05) - '''自由が丘駅 (TY07)''' - [[田園調布駅]] (TY08) :: {{Color|#1359a9|■}}各駅停車 ::: [[都立大学駅]] (TY06) - '''自由が丘駅 (TY07)''' - 田園調布駅 (TY08) : [[File:Tokyu OM line symbol.svg|15px|OM]] 大井町線 :: {{Color|#ef3123|■}}急行 ::: [[大岡山駅]] (OM08) - '''自由が丘駅 (OM10)''' - [[二子玉川駅]] (OM15) :: {{Color|#29b35d|□}}各駅停車([[二子新地駅]]・[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]は通過)・{{Color|#1359a9|■}}各駅停車(二子新地駅・高津駅に停車) ::: [[緑が丘駅 (東京都)|緑が丘駅]] (OM09) - '''自由が丘駅 (OM10)''' - [[九品仏駅]] (OM11) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} ; 東急電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="東急"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東京急行電鉄50年史|publisher=東京急行電鉄|date=1973-04-18|ref=50th}} * {{Cite book|和書 |author=宮田道一 |title=東急の駅 今昔・昭和の面影 |publisher=JTBパブリッシング |date=2008-09-01 |isbn=9784533071669 |ref=jtb}} == 関連項目 == {{commonscat|Jiyūgaoka Station (Tokyo)}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/東急電鉄駅|filename=7|name=自由が丘}} * [https://web.archive.org/web/20120404112008/http://www.tokyu.co.jp/contents_index/guide/news/111013-2.html 東急電鉄 〜スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト〜](インターネットアーカイブ) * [http://www.jiyugaoka2.jp/ 自由が丘オンラインマガジン] * [[日本地下鉄協会]]『SUBWAY』2015年8月号特集3{{PDFlink|[http://www.jametro.or.jp/upload/subway/hgOQmnRuFOfo.pdf 「スマートモデル自由が丘駅あかりプロジェクト」]}} pp.25 - 28 * [http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/keikaku/keikaku/yasashi_machi/rittaikosaka/genjouchosa/index.html 東急東横線都立大学~自由が丘駅間連続立体交差事業の推進に向けて(現況調査)] {{東急東横線}} {{東急大井町線}} {{デフォルトソート:しゆうかおかえき}} [[Category:日本の鉄道駅 し|ゆうかおか]] [[Category:東急電鉄の鉄道駅]] [[Category:目黒区の鉄道駅]] [[Category:自由が丘]] [[Category:1927年開業の鉄道駅]]
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神道集
『神道集』(しんとうしゅう)は、日本の中世の説話集・神道書。 安居院唱導教団の著作とされ、南北朝時代中期に成立したとされている。全10巻で50話を収録。 関東など東国の神社の縁起を中心としつつ、本地垂迹説に基づいた(当著に、「神々は仏の救いによって神となることができた」とする)神仏に関する説話が載っている。「諏訪縁起事」は甲賀三郎伝説を伝えるものとして知られる。 江戸時代の考証学者小山田(高田)与清(1783年 - 1847年)が、本文の内部微証から文和・延文(1352年 - 1361年)頃と推定している。 「安居院」(あぐい)は比叡山竹林坊(竹林院)の里坊で、上京区大宮通一条北大路にあって、応仁の乱で途絶えたが後に再興し、現在は浄土真宗本願寺派の安居院西法寺となっている。この安居院に唱導に優れた澄憲・聖覚親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は日光・鹿嶋にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。 全10巻50章。全国の神社縁起を集める。多くは東国に関するものとなっている。内容は、筑土鈴寛が、「神道論的なもの」と「垂迹縁起的なもの」とに分類したのが現在でも踏襲されている。「神道論的なもの」は神道教義について論じたものである。「垂迹縁起的なもの」は、公式的縁起と物語的縁起に分類され、前者は神社の由来や本地物を記すのに対し、後者は神々の苦しみや悲しみを基調として神々や神社の由来を説く。典型的な例が「熊野権現事」(二ノ六)の五衰殿である。かつて和辻哲郎は、この五衰殿から「苦しむ神」「悩める神」の観念を見出したように、中世文学史・思想史などを考える上で非常に重要な内容となっている。 『神道集』が何を目的として成立したのか、不明である。ただ近世浄土宗の説教僧が『神道集』を活用していたことから考えて、説教資料を目的として成立したのではないかと考えられる。 『神道集』は、現存・不明を含めて、二十本近い写本がある。それらは古本系統と流布本系統に分かれる。古本系統は、赤木文庫本(現天理図書館蔵)、真福寺本、天理図書館本など。流布本系統は東洋文庫本、旧豊宮崎文庫本・旧林崎文庫本(現神宮文庫蔵)、静嘉堂文庫本、無窮会本、河野省三旧蔵仮名本(現國學院大學蔵)など。最近確認されたものでは、天海旧蔵本(現盛岡市願教寺蔵)、国立歴史民俗博物館本(田中穣旧蔵)、同志社大学本がある。他に茨城県常福寺、東京大学にもあったようである。また慶応三年豊後国東郡田染の八幡宮に、多くの神道関係の書籍が奉納されたが、その内に神道集があったそうである。
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『神道集』(しんとうしゅう)は、日本の中世の説話集・神道書。 安居院唱導教団の著作とされ、南北朝時代中期に成立したとされている。全10巻で50話を収録。 関東など東国の神社の縁起を中心としつつ、本地垂迹説に基づいた(当著に、「神々は仏の救いによって神となることができた」とする)神仏に関する説話が載っている。「諏訪縁起事」は甲賀三郎伝説を伝えるものとして知られる。
{{出典の明記|date=2015年6月22日 (月) 12:23 (UTC)}} 『'''神道集'''』(しんとうしゅう)は、[[日本]]の中世の[[説話]]集・[[神道]]書。 [[安居院唱導教団]]の著作とされ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]中期に成立したとされている。全10巻で50話を収録。 関東など東国の[[神社]]の[[縁起]]を中心としつつ、[[本地垂迹説]]に基づいた(当著に、「神々は仏の救いによって神となることができた」とする)神仏に関する説話が載っている。「諏訪縁起事」は[[甲賀三郎 (伝説)|甲賀三郎伝説]]を伝えるものとして知られる。 == 構成 == * 1巻 : 神道由来之事、[[宇佐八幡宮]]事、正八幡宮事、鳥居事、御正体事。 * 2巻 : [[熊野権現]]事、二所権現事。 * 3巻 : 高座天王事、鹿島大明神事、香取大明神事、熱田大明神事、[[牛頭天王|祇園大明神事]]、赤山大明神事、稲荷大明神事、武蔵六所大明神事、上野国九ヶ所大明神事。 * 4巻 : 信濃鎮守[[諏訪大明神]]秋山祭事、諏訪大明神五月会事、越後国矢射子大明神事、越中国立山権現事、能登石動権現事、出羽国[[羽黒権現]]事。 * 5巻 : 日光権現事、宇都宮大明神事、春日大明神事、御神楽事、天神七代事、地神五代事、女人月水神忌給事、仏前二王神明鳥居獅子駒犬之事、酒肉備神前事。 * 6巻 : 吉野象王権現事、三島大明神事、上野国児持山事、[[白山権現]]事。 * 7巻 : 上野国一宮事、蟻通明神事、橋姫明神事、玉津島明神事、上野国勢多郡鎮守赤城大明神事、上野第三宮伊香保大明神事、摂津芦刈明神事。 * 8巻 : 上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事、鏡宮事、釜神事、富士浅間大菩薩事、群馬桃井郷上村内八ヶ権現事、上野国那波八郎大明神事。 * 9巻 : [[北野天神]]事。 * 10巻 : [[甲賀三郎 (伝説)|諏訪縁起]]事。 == 成立 == [[江戸時代]]の考証学者[[小山田与清|小山田(高田)与清]](1783年 - 1847年)が、本文の内部微証から[[文和]]・[[延文]]([[1352年]] - [[1361年]])頃と推定している。 == 著者 == 「安居院」(あぐい)は[[比叡山]]竹林坊(竹林院)の里坊で、[[上京区]][[大宮通]]一条北大路にあって、[[応仁の乱]]で途絶えたが後に再興し、現在は[[浄土真宗本願寺派]]の[[安居院西法寺]]となっている。この安居院に[[唱導]]に優れた[[澄憲]]・[[聖覚]]親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は[[日光市|日光]]・[[鹿嶋市|鹿嶋]]にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。 == 内容== 全10巻50章。全国の神社縁起を集める。多くは東国に関するものとなっている。内容は、[[筑土鈴寛]]が、「神道論的なもの」と「垂迹縁起的なもの」とに分類したのが現在でも踏襲されている。「神道論的なもの」は神道教義について論じたものである。「垂迹縁起的なもの」は、公式的縁起と物語的縁起に分類され、前者は神社の由来や[[本地物]]を記すのに対し、後者は神々の苦しみや悲しみを基調として神々や神社の由来を説く。典型的な例が「熊野権現事」(二ノ六)の五衰殿である。かつて[[和辻哲郎]]は、この五衰殿から「苦しむ神」「悩める神」の観念を見出したように、中世文学史・思想史などを考える上で非常に重要な内容となっている。 == 成立目的== 『神道集』が何を目的として成立したのか、不明である。ただ近世[[浄土宗]]の説教僧が『神道集』を活用していたことから考えて、説教資料を目的として成立したのではないかと考えられる。 == 諸本== 『神道集』は、現存・不明を含めて、二十本近い写本がある。それらは古本系統と流布本系統に分かれる。古本系統は、赤木文庫本(現[[天理図書館]]蔵)、真福寺本、天理図書館本など。流布本系統は[[東洋文庫]]本、旧豊宮崎文庫本・旧林崎文庫本(現神宮文庫蔵)、静嘉堂文庫本、無窮会本、河野省三旧蔵仮名本(現國學院大學蔵)など。最近確認されたものでは、天海旧蔵本(現盛岡市願教寺蔵)、国立歴史民俗博物館本(田中穣旧蔵)、同志社大学本がある。他に茨城県常福寺、東京大学にもあったようである。また慶応三年豊後国東郡田染の八幡宮に、多くの神道関係の書籍が奉納されたが、その内に神道集があったそうである{{sfn|後藤|1990}}。 == 刊行物 == * 『神道集』貴志正造編訳、[[平凡社]]〈[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 94〉、1978年、ISBN 978-4-582-80094-4 ** のちワイド版(オンデマンド版)、2004年9月、ISBN 978-4-256-80094-2 ::(※縁起物語的なもの19話を訳し収録) * 『神道集 東洋文庫本』近藤喜博編、[[角川書店]]、1959年、{{全国書誌番号|60000255}} <!--検索しても見つからずコメントアウト ** のち新装版、昭和53年--> ** ※他に影印本として各角川書店2冊組で、近藤・渡辺国雄編で『神道集 河野本』(1962年、{{全国書誌番号|62007175}})と近藤・貴志編で『神道集 赤木文庫本』(貴重古典籍叢刊 1、1968年、{{全国書誌番号|68006080}})が刊行。 * 『神道集』(神道大系編纂会編・発行〈[[神道大系]] 文学編1〉、1988年2月、{{全国書誌番号|88029240}}、{{NCID|BN02201610}}) * 西尾光一、貴志正造『鑑賞日本古典文学 第23巻 中世説話集』(角川書店、1977年、ISBN 978-4-04-561323-4) * 出渕智信「『神道集』の研究」([[言叢社]]、2008年1月、ISBN 978-4-86209-023-2) ** のち「新訂『神道集』の研究」に改訂(ブイツーソリューション、2013年2月、ISBN 9784864760850) * {{Cite book|和書|author=福田晃 |title=神道集説話の成立 |publisher=三井弥書店 |year=1984 |NCID=BN01792180 |ISBN=4838230141}} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=後藤重巳 |title=幻の蔵書 : 豊後田染河野家蔵書寄進目録をめぐって |journal=史学論叢 |ISSN=03868923 |publisher=別府大学史学研究会 |year=1990 |month=jun |issue=21 |pages=145-157 |naid=120001908527 |url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg02106 |ref={{harvid|後藤|1990}}}} == 関連項目 == * [[本地物]] * [[甲賀三郎 (伝説)|甲賀三郎]] * [[曽我物語]] {{lit-stub}} {{shinto-stub}} {{DEFAULTSORT:しんとうしゆう}} [[Category:神道の文献]] [[Category:神仏習合]] [[category:日本の説話集]] [[Category:室町時代の書籍]] [[Category:南北朝時代 (日本)]]
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安居院唱導教団
安居院唱導教団(あぐいしょうどうきょうだん)は、日本の南北朝時代の仏教宗派の1つ。 『神道集』を編纂したことで知られる。なお、この集団を指す「安居院唱導教団」という語は、現代の歴史学上の用語であり、当時そう呼ばれていたわけではない。
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東條英機
東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。勲章は功二級。 陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。 岩手県出身。東條英教(陸軍中将)は父。東條かつ子は妻。東條輝雄(三菱自動車工業 社長・会長)・東條敏夫(空将補)は子。 陸軍士官学校第17期卒。陸軍大学校第27期卒。 永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年〈昭和16年〉10月18日 - 1944年〈昭和19年〉7月18日)。在任中に大東亜戦争(1941年12月 - )が開戦した。権力強化を志向し複数の大臣を兼任、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。 日本降伏後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴された。1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。 1884年(明治17年)12月30日、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は小倉出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。 東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である(知行は160石)。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。 番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。 1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。 1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。 1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。 1912年(大正元年)に陸大に入学。 1913年(大正2年)に父の英教が死去。 1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。 1915年(大正4年)に陸大を卒業。成績は11番目だった。主席は今村均、優等に本間雅晴、河辺正三、鷲津鈆平らがいる。陸軍歩兵大尉に昇進し、近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。その後、陸軍省高級副官和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規などを記した厚冊『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという有名なエピソードはこのころの話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。 1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。 1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。 1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。 1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。 1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。 張作霖爆殺事件(1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾、鈴木貞一、根本博や東條のボスであった永田鉄山、岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章、田中新一らも加わり一夕会が結成されている。 1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。歩兵第1連隊長に補された東條は、連隊の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した。陸大を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした。 帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった。内務班で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを太平洋戦争敗北に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった。 そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として連隊に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した。連隊長たる東條が自ら内務班に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった。 1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長)に就任し、翌年四女が誕生している。 この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。 1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。 1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。 1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する。 参謀長になった東條は、溥儀に対して「東條は元来、性質素朴で言葉を飾ることを知りませぬ。お言葉通り、今後は何も思いつき次第現状致すことにいたします。陛下には水で火を消さねばならぬようなことがあるかもしれませぬ」と初めて会うなり言っている。 日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。東條は自ら参謀次長電で、派遣兵団を「東條兵団」と命名した。参謀長と部隊指揮官を兼ねることは陸軍の伝統に反するものであったが 、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争以外の何物でもなかった」と証言している。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の作戦は大きな成功を収めたが、補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。また、作戦行動を共にしていた蒙古自治政府軍指揮官の李守信将軍の戦後の中国での取調における証言では、この作戦では各地で捕虜の虐殺が頻発していたことが示唆されているという。とくに陽高で行われた住民・捕虜の大量虐殺事件が、陽高事件として名高い。しかし実際には、作戦終結の時期になってもなお、住民虐殺が他でも起きていたことが伝えられている。陽高事件については、中国人犠牲者は350名とも500名ともいわれるが、はっきりしない。発生理由については、日本軍の死傷者も140名と大きかったため日本兵らが激昂した結果として説明されることが多いが、疑問もあり、東條はその後の首相時代の1943年2月に秘書官との雑談では「不穏なシナ人らは全部首をはねた」「斯くの如く日本の威力を知らせておいて、米とかを施してやった」「恩威並び行われたわけだ」と語ったと伝えられる。戦後、歴史家の秦郁彦は、東京裁判で提出された東条の履歴書に察哈爾兵団長の履歴が記されていなかったことから、東條がこの陽高事件で戦犯として訴追されなかったのは、察哈爾兵団長は出先かぎりの人事発令であったため、検察団にこの経歴が知られなかったことも一因であろうとしている。 1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局課長・額田坦に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣の下、参謀次長・多田駿、参謀本部総務部長・中島鉄蔵、陸軍省人事局長・飯沼守と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。 1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。 このころ、人造石油製造の開発失敗の報告を受けた際に、「(南方の石油資源の)物盗りへ日本が今後進まざるを得ず、陛下に対して申し開きできないではないか」と激怒した。 1941年(昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。 10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。また保阪正康は著書において「9月6日の御前会議で議題となった三案のうち、十月中旬までに日米交渉に妥結の可能性がないのであれば日本はアメリカに軍事行動を起こすという一案に対して、近衛は他の二案(外交交渉に希望を繋ぎ、また十月中旬にこだわる必要はないという案)に賛成した」ことや、「10月10日辺りから、近衛と東條の二人だけ、時には豊田貞次郎や及川古志郎を交えて事態解決について話し合ってる中で、豊田や及川と衝突することがあったとしても戦争を訴え続けた(あくまで9月6日の軍事行動を起こす案を守るべきだという言い方で留まっている。)」ことなどを明かし、「10月14日を境に近衛と東條の対立は一段と激しくなった」とも述べている。 しかし、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ(とオランダ)という、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。さらに東條らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカが、その後簡単に停戦交渉に応じるという根拠はどこにもなかった。 近衛は、これにより外交解決を見出せなくなったので近衛は翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対英米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ぬ」とし、第3次近衛内閣は総辞職した。近衛は「戦争には自信がない。自信のある人がおやりなさい」と言っていたという。 また近衛の辞任は、ゾルゲ事件により辞任日の14日に近衛内閣嘱託の尾崎秀実や西園寺公一らが検挙され、事前の取り調べによって近衞とこの事件との密接な関係が浮かび出てきたことで、いかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮し、近衛が首相辞職という道を選んだという意見もある。 実際に東條は、近衛辞任後もこの事件によって一挙に近衞とその周辺を抹殺することを考え徹底的な調査を命じたが、その時点は日英米開戦直前直後で、事件の影響を国政に与えるかを考慮した結果、近衛の聴取はあいまいなままに終わっている。 内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。 木戸は後に「あの期に陸軍を抑えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。...優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。 東條は10月18日の皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。 さらに対米交渉最大の難問であった中華民国からの撤兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に撤兵するという趣旨の2つの妥協案を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。 東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」とまで述べていた。 しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違いしたもので、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思の実現に全力を尽くそうとした。 しかし、日本政府側の提案はフランクリン・ルーズベルト政権には到底受け入れられず、組閣から約40日後には崩れ去ってしまう。 これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。 また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。 現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号「東條首相施政演説」がそれである。 東條は同盟国であるナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。 また東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった。 東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである。 1941年(昭和16年)12月8日、日本はマレー作戦と真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争が始まった。両作戦が成功したのちも日本軍は連合国軍に対して勝利を重ね、海軍はアジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大した。開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。 この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。 開戦時に内務大臣を兼任していた東條は、12月8日の開戦の翌日早朝を期して、被疑事件の検挙216(このうち令状執行154)、予防検束150、予防拘禁30(このうち令状執行13)の合計396人の身柄を一方的に拘束した。。これは二・二六事件のときにも同様に満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものだと保阪正康は推察している。 連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。 小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。 しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況であるが、攻撃前に知っていながらそれを止めなかったことから是認したと捉えられている。 緒戦、日本軍は自らの予想を上回るスピードで勝ち進み、当面の目標である蘭印を含めた東南アジア一帯を1942年の3月にはほぼ手中におさめた。この時点において陸軍は、占領した東南アジアの防衛に専守したい方針だったが、海軍は、オーストラリアを孤立化させるためソロモン諸島をも占領し、米豪の連絡線を遮断するという進撃案を主張した。結果、FS作戦などが考案され、陸海共同でガダルカナル島を確保するべくこの付近に大兵力が投入されることとなったが、連合国側もここを反撃の足場とする作戦に出たため、この地域で激しい戦闘が行われることとなった。なかには、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦など日本側が勝利を得た海戦もあったが、日本側の損害は常に甚大で、とくに陸軍輸送船団は海軍の護衛が手薄なこともあって、ガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、餓島とよばれるほどの悲惨な戦場となった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込むことをやめようとはせず、民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求したが、東條はこれを拒否した。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であったが、何よりそれをすれば、国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためであった。 東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・田中新一は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・佐藤賢了と討論の末とうとう殴り合いにまでなった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いたさいにも、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。しかしガダルカナル作戦は新局面を開けず、1943年(昭和18年)2月にはガダルカナル島からの撤退が確定する。 その後も、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが、戦線の伸び切りによる補給線の長さと、海上護衛の手薄さのために、多くが撃沈され、南方方面の日本軍は1943年の末には補給不足となっていた。対して、軍事生産の大拡充計画をスタートさせていたアメリカは、同年の中ごろにはこの結果を出しはじめていた。1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44,873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母(護衛空母)4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6,800万トン、航空機生産182,216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。加えてレンドリースによって他の連合国にも大量の兵器・物資を供給していた。また航空戦力でも新型艦上戦闘機F6Fや、ヨーロッパ戦線で活躍していたP47、P51が登場。さらには大型四発爆撃機B29が登場するのも間近となっていた。また戦前に日本が軽視していた電子兵器レーダーや音響兵器のソナーの性能差はいよいよ顕著となり、その他、VT信管などの新技術の開発においても連合国のほうが格段に進められていた。開戦から2年間を経て1944年に入ると、日本軍と連合国軍の攻守は完全に逆転していた。 そして、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月ごろから、東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなり始め、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動を押さえつけた(中野正剛事件)。 日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・重光葵の提案を元に1943年(昭和18年)11月、大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。 旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のA.M.ナイルなど国内外から幅広い協力を受けて会議は成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者の深田祐介は係る肯定的な評価を挙げる一方、念には念を入れマイクロマネジメントを行う東條を「準備魔」と表現している。 東條は会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府、5月にフィリピン、6〜7月にかけてタイ、昭南島(シンガポール)、クチン(サラワク王国)、インドネシアなどの友好国や占領地を歴訪している。 また会議の開催に先立つ1942年(昭和17年)9月に、東條は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。 大東亜会議が開催された1943年(昭和18年)11月にタラワ島が陥落、1944年(昭和19年)1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。また1944年に入ると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ海軍機動艦隊やオーストラリア、ニュージーランド海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線やインド洋においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。 戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などからくるさまざまな弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。 1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)。これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした。海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、海相・嶋田繁太郎が総長を兼任することになった(そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。2月28日には裁判官たちに戦争遂行に障害を与えるなら非常手段を取る旨の演説をした東條演説事件が発生している。 行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。 このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。 1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機であるボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島がアメリカ軍に陥落された場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。 しかし圏外での決戦思想に拘る海軍と中国大陸での作戦に拘る陸軍の思惑が入り乱れる事態となったためにマリアナ周辺の戦力の増強は想定したほど進まなかった。後に海軍はマリアナ防衛のために持てる艦艇戦力の全力をつぎ込み、1944年(昭和19年)6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で米海軍と相対したが、こちらのアウトレンジ戦法は米軍の新兵器とその物量の前にはまったく通じず大敗を喫してしまった。連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも同年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕する結果となった(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)。サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導を行っていたのは中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一であり、東條が直々に「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と激励しているが、この敗戦の責任を取って南雲は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸潰れになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。サイパンに続いてグアム島、テニアン島も次々に陥落する。 マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、その後に訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊に空母戦力がなくなった以上、サイパン島その他の奪回作戦は立てられなくなったからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、二・二六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、末次信正らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)。 東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと図り内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、 を要求。実は木戸はこの時既に東條を見限っており、既に反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸に東條が泣きつくだろうと予期していた岡田や近衛文麿たち反東條派の策略であった。 木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は梅津美治郎)、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介(戦後に首相歴任)に辞任を要求した。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の大敗によって今後の戦局の絶望を感じ、講和を提言したために東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでくれ」と連絡、岸もこれに賛同し同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。 東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈することはなかった。同時に重臣である米内光政の入閣交渉を佐藤賢了を通じて行うも、既に東條倒閣を狙っていた米内は拒否したため失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられてしまって帰ってくるという有様であった。 とうとう追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となった。東條は、この政変を「重臣の陰謀である」との声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立した。 東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる。赤松は回想録で、「周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまった」としている。 広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の内閣存続への執念が潰えた無念さが窺われる。 戦局が困難を極める1944年(昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。 その中に、高松宮宣仁親王と細川護貞によって計画された東條の暗殺計画があった。 9月には陸軍の津野田知重少佐と東亜連盟所属の柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がおり、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮崇仁親王に計画を打ち明けた。しかし、三笠宮はこの計画に困惑して母親の皇太后節子(貞明皇后)に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。予定されていた計画実行日は東條内閣が総辞職した日であった。ただし、三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。また、三笠宮によれば当時、結核で療養中だった秩父宮雍仁親王が何度も東條へ詰問状を送っている。東條は木で鼻をくくったような回答を返しており、サイパン陥落時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。 また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。 辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。 1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった。 終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている。 だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。また陸軍の中には「東條は戦争継続を上奏して陛下から叱責された」という噂が流れた。 しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたというわけではない。戦局が完全に日本に有利であった1942年(昭和17年)8月20日にアメリカでの抑留から戦時交換船で帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが2000年代ごろに判明している。 1945年8月13日の日記には「私はこんな弱気の国民と思わずに戦争指導にあたった不明を恥じる」と国民に責任転嫁する言葉を残している。 1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦「ミズーリ」において対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑が掛からないようにしている。 そのころ、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。...戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する」と複雑な心中を吐露しており、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。 銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が附記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、東條は大きく落胆したという。 東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の読売、毎日、朝日をはじめとする各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。 東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。 なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長・額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、いきなり拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている。歴史家ロバート・ビュートーも保阪正康も銃撃説を明確に否定している。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。 下村定は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた。 重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという。 出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに軍服を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた。 「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。 東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した。被告も弁護人も個人弁護に徹しようという者、国家弁護を主張する者など様々であったが、東條の自己弁護の内容は、1この戦争は欧米の経済的圧迫による自衛戦争である、2天皇は輔弼者からの進言に拒否権を発動したことはなく、よって天皇に責任はない、3大東亜政策は侵略でなくアジア植民地の欧米からの解放をめざしたもの、4日本は国際法や条約に違反したことはないとの「国家弁護」をすることであり、彼は宣誓口述書で自身の負うべき責任は寧ろ自国に対する「敗戦の責任」だとしている。 東條は、これらの自己の主張と対外交渉で実際に自身がとった言動の不一致を指摘されると、都度「外交は生きものである」「相手の出方によって変わる」と述べ、ときに此れについて長口舌を奮い、ウェッブ裁判長からそのような演説を聞きたいのではないことを注意されており、この「外交は生きもの」との東條の主張は、一部マスコミからは東條節と呼ばれた。一方で、東條の国家弁護は理路整然とし、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであったと主張する者もいる。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と主張したという。 判決文では、東條は厚かましくも(英文ではwith hardihood)全てを弁護しており、自衛戦争との主張は全く根拠が無いものとして、一蹴された。対して、日暮吉延は、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。一方で、被告らは早々に天皇には累を及ぼさないことで合意したとされ、また、後に東郷元外相が宣戦布告遅れに関し海軍に不都合なことを言わないよう嶋津らに脅されたことを暴露したとき、当時の報道には全共同被告に挑むといった表現も見られ、少なくともそれまでは自身に不都合が無い限り、彼らが極力協力し合っていた節もうかがえる。 秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであったという。 極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は平和に対する罪および通例の戦争法規違反(訴因54)で有罪となり、死刑(絞首刑)の判決を受けた。この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの主張がある。しかし、例えば判決では東條が泰緬鉄道建設に「働かざる者、食うべからず」と指示して捕虜らを建設に駆り出し、彼らの状態に影響を与えたことが問題視されており、そもそも英米法系の国では、重い保護責任を有する者が故意・不注意で人を死に至らせた場合、日本のような保護責任者遺棄致死罪ではなく、当時の日本における謀殺が属するものと同じ”murder”と呼ばれる犯罪類型に該当する。そのため、この当時の英国及び多くの大英帝国自治領では本来それだけで死刑判決の対象とされていた。 なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている。 死刑判決当時、巣鴨拘置所では教誨師として花山信勝が付いていた。 処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。 1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分、巣鴨拘置所内で、死刑が執行された。64歳没。 辞世の句は4首であり、 「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」 「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」 と記した。 絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、後に公表された米国公文書によれば、いったん川崎市の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、横浜市西区久保町の久保山火葬場に到着し、火葬された遺骨は粉砕され、骨の小さなカケラも残さないようにかき集め、横浜に臨時に設けられていた飛行場から飛び立った飛行機によって遺灰と共に太平洋沖合50kmあたりで広くまき散らすように投棄されたという。これは東條らA級戦犯が英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきであるというのが理由であった。 一方で、小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平は東條らの遺骨について一般の戦犯と同じ(遺骨は遺族に渡さないという意味になる)と聞き、遺骨の奪還を計画していた。三文字は久保山火葬場で火葬されるとの情報を掴み、たまたま知り合いであった、その近隣にある興禅寺住職の市川伊雄と奪還を共謀した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで火葬場に忍び込み残灰置場に捨てられた、7人の分という残りの遺灰と遺骨を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。先の米国公文書との食い違いについては、遺灰についてはある程度残っていた、監視と廃棄にあたった米国将兵らが慌てていて火葬時に別に放り出していた遺骨をそのままにしてしまった、三文字らが火葬場長を事前に泣きながら説得していたため場長らが(他に火葬はなかったと言っていたが)実は他の無縁者の遺灰をやむをえずわたしたのではないかと諸説ある。 1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている。 墓は雑司ヶ谷霊園にある。 東條英機は自らが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、「戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡した者に限る」という通達を出していたが、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判の戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀した。 大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、第二次世界大戦時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家のA・J・P・テイラーは、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、イタリア、ソ連についてはそれぞれの指導者(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン)を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としている。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものである。 しかしこの書籍の表紙には、他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を1人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになる。 東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていた。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていた。真珠湾攻撃でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだ。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わった。これは東條が、陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。 東條は、1942年(昭和17年)には軍務局長・佐藤賢了に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまで上げず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであった。東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっている。また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかった。井本熊男は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたという。1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っている。その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだ。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評している。 東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問を投げかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかった。伊藤隆は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘している。 また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。インパール作戦が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した参謀次長・秦彦三郎に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責している。しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたという。1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した侍従長・藤田尚徳は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。 渡部昇一によれば、「政治家としての評価は低い東條も、軍事官僚としては抜群であった」という。「強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけた」という。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男性をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは、「連合国側の証人として出廷し、東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろう」と秦郁彦は推察している。 「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。 旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上(=昭和天皇)におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという。 中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度が窺えたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している。 東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」であり、政治的に敵対した者を、職権を乱用して迫害したという批判が多い。 竹槍事件では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとしたとされる。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ。海軍飛行機だ」と海軍を支持する記事を書いたためであった。当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っており、新名は海軍の肩を持つ記事を書いたために陸軍の反感を買っていた。なお新名は海軍の働きかけによって戦地への動員は免れ、3か月後に召集解除となった。 また、勅任官たる逓信省工務局長・松前重義を42歳の高齢にもかかわらず(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された兵役法で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった)二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。 なお、高松宮と細川は東條内閣倒閣工作に深く関与していた反東條派であり、東條の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、陸軍次官・富永恭次は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ。ただし松前の召集日は東條内閣倒閣と同日である。また、富永は東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東條内閣が崩壊し、東條派が失脚していく中でも、懲罰召集の犠牲者となった松前に対する召集解除は行われなかった。 経済学者の都留重人は、海軍省調査課の対米研究会のメンバーであったが、1944年(昭和19年)6月に懲罰召集された。1912年(明治45年)3月6日生まれの都留は、召集の時点で32歳であった。なお、都留は約3か月後に召集解除された。 1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員・中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した。この検挙の理由を巡っては、中野が昭和18年元日の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している。また、戦後のラジオ番組『真相はかうだ』は、中野は東條暗殺計画のいずれかに関与しており、その発覚により東條側から自決を強要され、そうしなければ殺すだけだと脅されて、従うしかなかったとの推理を披歴している。 また、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の検事局思想部長である中村登音夫に対し、その報復として召集令状が届いた。 政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した福家俊一、有馬英治、浜田尚友の3名が現役の衆議院議員でありながら召集されたことに対して、東條が懲罰召集したとする主張がある。 東條の不興を買って最前線送りになった将校は多々おり、たとえば陸軍省整備局戦備課課員の塚本清彦少佐(陸士43期・陸大52期)は、戦局に関して東條に直言したことにより、1944年(昭和19年)6月13日付で第31軍参謀に転出させられ(第31軍司令部は在サイパン島。サイパンの戦いは既に始まっていた。)、1か月後にグアム島で玉砕した。この苛烈な処分は陸軍部内を震撼させた。 西尾寿造大将(陸士14期)は1941年(昭和16年)3月から軍事参議官を務めていたが、新聞記者から取材を受けた際に と、「ゴミ箱あさり」の挿話を持つ東條を揶揄する返答をした。西尾の発言を知った東條は激怒し、1943年(昭和18年)5月に西尾を予備役に編入した。 支那事変時の参謀次長だった多田駿(陸士15期)は石原莞爾と同様に戦争不拡大派であり、中国との和平を模索していたが、拡大賛成派の東條(陸軍次官であった)と対立した。多田と東條は共に職を解かれたが、東條が後に台頭していくと多田は次第に追いやられていき、予備役に追われた。 石原莞爾(陸士21期)は、鋭く対立していた東條によって閑職に追われ、さらに予備役に追いやられたとされる。 当時の陸軍次官であった阿南惟幾中将(陸士18期)は、石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって、日ごろの温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている。阿南は皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された。阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には木村兵太郎中将を、人事局長に冨永恭次少将、兵務局長に田中隆吉少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた。 一方で、藤井非三四は、 を指摘し、 と述べ、「石原は、鋭く対立していた東條によって、舞鶴要塞司令官と言う閑職に追われた」という説を否定している。 なお、藤井は「石原の、昭和16年(1941年)3月の予備役編入」については「見解を保留する」という旨を述べている。 第17師団長だった平林盛人中将(陸士21期)は、太平洋戦争初期に進駐していた中華民国徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しく、東條と馬が合わなかったという。平林もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。 旧加賀藩主・前田家当主(侯爵)で、東條とは陸士17期の同期生であった前田利為(陸大23期恩賜。東條より4年早く陸大入校を果たした)は東條と犬猿の仲であった。前田は東條を「頭が悪く、先の見えない男」と侮蔑し、逆に東條は前田を「世間知らずのお殿様」と揶揄していたという。 前田は、陸軍中将に進級して第8師団長を務めた後、1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された。 1942年(昭和17年)4月に召集されてボルネオ守備軍司令官に親補された前田は、クチンからラプラン島への飛行機での移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から前田の遺品と遺体が見つかった。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも南方軍総司令官・寺内寿一による弔辞では戦死となっていた。しかし、11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條はボルネオ守備軍参謀長・馬奈木敬信に対して「今回は戦死と認定することはできない」と告げ、東條の命を受けた富永恭次によって「戦死」ではなく「戦地に於ける公務死」とされた。 これにより前田家には相続税の納付に向けて全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた。なお、前田の葬儀では東條が自ら弔辞を読んだが、陸士からの長い付き合いに触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣したという。 尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。 東條の側近には、3人の奸物と4人の愚か者がいたことから、この7人を、侮蔑を込めて「三奸四愚」と総称することがある。 田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた。田中は兵務局長として憲兵政治とも呼ばれた東條の軍政面の影響力を支える軍官僚であったが、後に東条に不満を持ち反東條運動に加担、軍を辞めざるを得なくなった。戦後は連合軍側の証人として東京裁判で太平洋戦争に至る過程や戦時の内幕について証言したことから、東京裁判の被告や旧権力者層を中心に評判が悪かった。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で、一旦は軍紀に厳格な東條の不興を買い参謀本部第1部長を更迭されるも、1941年4月には陸軍省人事局局長に返り咲いている。1943年3月には陸軍次官も兼任し、東條の補佐に辣腕を振るい、東條の参謀総長就任時には杉山元元帥の説得などで実績を残す。東條が失脚後は最前線のフィリピンで第4航空軍司令官として航空戦を指揮、航空には全くの素人ながら、積極的な作戦指導でアメリカ軍を苦しめ、富永に批判的であった昭和天皇からも「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」その戦いぶりを称賛されている。やがて、戦力を消耗すると、第14方面軍参謀長の武藤章中将の提案などで、戦力立て直しのために台湾に撤退するも、大本営の承認をとっていなかったため、敵前逃亡に等しい行為と批判されて、第4航空軍は解体され、富永は予備役行きとなった。この行為は、戦後、書籍・新聞などで明るみに出され、フィリピンに残された兵士らは頽勢の中で各地を転々として苦境にさらされたことから、兵士を見捨てて逃亡したとして、マスコミや国会でも取り上げられた。当時、世間的に評判が悪いのだろうと見ていた者の名を挙げているものの、東條の評判自体との関係性について特段の説明はない。 自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行うなどなど、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)。 「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)。 また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。 秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。 司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。 元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている。 福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。 半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されているような、そんな印象を受けます」と著書内で評している。 保阪正康は、生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とあった。満州事変の関東軍の司令官の本庄繁は男爵になっている。東條たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている。 『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。 原剛と秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している。 日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える(ただし、日米開戦日に皇居の方角に向かって号泣していたことについて、君臣の考えが一致したことに感激して泣いたように語っていたとの主張もある)。 昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。 『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。東條は、細かく何事も天皇に報告していたと言われ、そのため天皇も東條の忠誠心を極めて信頼するようになっていったことが伺える。 東條の遺書といわれるものは複数存在する。一つは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。 英機・かつ子夫妻は7人の子供を儲けた。 東條は独特の風貌(禿頭と髭)とロイド眼鏡、甲高い声音と抑揚を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東條 英機(とうじょう ひでき、1884年〈明治17年〉12月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。勲章は功二級。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "岩手県出身。東條英教(陸軍中将)は父。東條かつ子は妻。東條輝雄(三菱自動車工業 社長・会長)・東條敏夫(空将補)は子。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "陸軍士官学校第17期卒。陸軍大学校第27期卒。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年〈昭和16年〉10月18日 - 1944年〈昭和19年〉7月18日)。在任中に大東亜戦争(1941年12月 - )が開戦した。権力強化を志向し複数の大臣を兼任、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長も兼任した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本降伏後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴された。1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1884年(明治17年)12月30日、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は小倉出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である(知行は160石)。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山、岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1912年(大正元年)に陸大に入学。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1913年(大正2年)に父の英教が死去。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1915年(大正4年)に陸大を卒業。成績は11番目だった。主席は今村均、優等に本間雅晴、河辺正三、鷲津鈆平らがいる。陸軍歩兵大尉に昇進し、近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。その後、陸軍省高級副官和田亀治歩兵大佐の引きで、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規などを記した厚冊『陸軍成規類聚』をすべて暗記したという有名なエピソードはこのころの話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。 1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。 1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。 1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "張作霖爆殺事件(1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾、鈴木貞一、根本博や東條のボスであった永田鉄山、岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章、田中新一らも加わり一夕会が結成されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。歩兵第1連隊長に補された東條は、連隊の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した。陸大を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった。内務班で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを太平洋戦争敗北に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として連隊に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した。連隊長たる東條が自ら内務班に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長)に就任し、翌年四女が誕生している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する。 参謀長になった東條は、溥儀に対して「東條は元来、性質素朴で言葉を飾ることを知りませぬ。お言葉通り、今後は何も思いつき次第現状致すことにいたします。陛下には水で火を消さねばならぬようなことがあるかもしれませぬ」と初めて会うなり言っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。東條は自ら参謀次長電で、派遣兵団を「東條兵団」と命名した。参謀長と部隊指揮官を兼ねることは陸軍の伝統に反するものであったが 、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争以外の何物でもなかった」と証言している。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の作戦は大きな成功を収めたが、補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。また、作戦行動を共にしていた蒙古自治政府軍指揮官の李守信将軍の戦後の中国での取調における証言では、この作戦では各地で捕虜の虐殺が頻発していたことが示唆されているという。とくに陽高で行われた住民・捕虜の大量虐殺事件が、陽高事件として名高い。しかし実際には、作戦終結の時期になってもなお、住民虐殺が他でも起きていたことが伝えられている。陽高事件については、中国人犠牲者は350名とも500名ともいわれるが、はっきりしない。発生理由については、日本軍の死傷者も140名と大きかったため日本兵らが激昂した結果として説明されることが多いが、疑問もあり、東條はその後の首相時代の1943年2月に秘書官との雑談では「不穏なシナ人らは全部首をはねた」「斯くの如く日本の威力を知らせておいて、米とかを施してやった」「恩威並び行われたわけだ」と語ったと伝えられる。戦後、歴史家の秦郁彦は、東京裁判で提出された東条の履歴書に察哈爾兵団長の履歴が記されていなかったことから、東條がこの陽高事件で戦犯として訴追されなかったのは、察哈爾兵団長は出先かぎりの人事発令であったため、検察団にこの経歴が知られなかったことも一因であろうとしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局課長・額田坦に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "板垣の下、参謀次長・多田駿、参謀本部総務部長・中島鉄蔵、陸軍省人事局長・飯沼守と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このころ、人造石油製造の開発失敗の報告を受けた際に、「(南方の石油資源の)物盗りへ日本が今後進まざるを得ず、陛下に対して申し開きできないではないか」と激怒した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。また保阪正康は著書において「9月6日の御前会議で議題となった三案のうち、十月中旬までに日米交渉に妥結の可能性がないのであれば日本はアメリカに軍事行動を起こすという一案に対して、近衛は他の二案(外交交渉に希望を繋ぎ、また十月中旬にこだわる必要はないという案)に賛成した」ことや、「10月10日辺りから、近衛と東條の二人だけ、時には豊田貞次郎や及川古志郎を交えて事態解決について話し合ってる中で、豊田や及川と衝突することがあったとしても戦争を訴え続けた(あくまで9月6日の軍事行動を起こす案を守るべきだという言い方で留まっている。)」ことなどを明かし、「10月14日を境に近衛と東條の対立は一段と激しくなった」とも述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、イギリス(とオーストラリアやニュージーランド、英領インドなどイギリス連邦諸国)とアメリカ(とオランダ)という、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。さらに東條らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカが、その後簡単に停戦交渉に応じるという根拠はどこにもなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "近衛は、これにより外交解決を見出せなくなったので近衛は翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対英米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ぬ」とし、第3次近衛内閣は総辞職した。近衛は「戦争には自信がない。自信のある人がおやりなさい」と言っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また近衛の辞任は、ゾルゲ事件により辞任日の14日に近衛内閣嘱託の尾崎秀実や西園寺公一らが検挙され、事前の取り調べによって近衞とこの事件との密接な関係が浮かび出てきたことで、いかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮し、近衛が首相辞職という道を選んだという意見もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "実際に東條は、近衛辞任後もこの事件によって一挙に近衞とその周辺を抹殺することを考え徹底的な調査を命じたが、その時点は日英米開戦直前直後で、事件の影響を国政に与えるかを考慮した結果、近衛の聴取はあいまいなままに終わっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "内大臣・木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "木戸は後に「あの期に陸軍を抑えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。...優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東條は10月18日の皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "さらに対米交渉最大の難問であった中華民国からの撤兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に撤兵するという趣旨の2つの妥協案を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」とまで述べていた。 しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違いしたもので、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思の実現に全力を尽くそうとした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし、日本政府側の提案はフランクリン・ルーズベルト政権には到底受け入れられず、組閣から約40日後には崩れ去ってしまう。 これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号「東條首相施政演説」がそれである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "東條は同盟国であるナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)12月8日、日本はマレー作戦と真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争が始まった。両作戦が成功したのちも日本軍は連合国軍に対して勝利を重ね、海軍はアジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大した。開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "開戦時に内務大臣を兼任していた東條は、12月8日の開戦の翌日早朝を期して、被疑事件の検挙216(このうち令状執行154)、予防検束150、予防拘禁30(このうち令状執行13)の合計396人の身柄を一方的に拘束した。。これは二・二六事件のときにも同様に満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものだと保阪正康は推察している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況であるが、攻撃前に知っていながらそれを止めなかったことから是認したと捉えられている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "緒戦、日本軍は自らの予想を上回るスピードで勝ち進み、当面の目標である蘭印を含めた東南アジア一帯を1942年の3月にはほぼ手中におさめた。この時点において陸軍は、占領した東南アジアの防衛に専守したい方針だったが、海軍は、オーストラリアを孤立化させるためソロモン諸島をも占領し、米豪の連絡線を遮断するという進撃案を主張した。結果、FS作戦などが考案され、陸海共同でガダルカナル島を確保するべくこの付近に大兵力が投入されることとなったが、連合国側もここを反撃の足場とする作戦に出たため、この地域で激しい戦闘が行われることとなった。なかには、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦など日本側が勝利を得た海戦もあったが、日本側の損害は常に甚大で、とくに陸軍輸送船団は海軍の護衛が手薄なこともあって、ガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、餓島とよばれるほどの悲惨な戦場となった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込むことをやめようとはせず、民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求したが、東條はこれを拒否した。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であったが、何よりそれをすれば、国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・田中新一は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・佐藤賢了と討論の末とうとう殴り合いにまでなった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いたさいにも、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。しかしガダルカナル作戦は新局面を開けず、1943年(昭和18年)2月にはガダルカナル島からの撤退が確定する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後も、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが、戦線の伸び切りによる補給線の長さと、海上護衛の手薄さのために、多くが撃沈され、南方方面の日本軍は1943年の末には補給不足となっていた。対して、軍事生産の大拡充計画をスタートさせていたアメリカは、同年の中ごろにはこの結果を出しはじめていた。1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44,873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母(護衛空母)4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6,800万トン、航空機生産182,216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。加えてレンドリースによって他の連合国にも大量の兵器・物資を供給していた。また航空戦力でも新型艦上戦闘機F6Fや、ヨーロッパ戦線で活躍していたP47、P51が登場。さらには大型四発爆撃機B29が登場するのも間近となっていた。また戦前に日本が軽視していた電子兵器レーダーや音響兵器のソナーの性能差はいよいよ顕著となり、その他、VT信管などの新技術の開発においても連合国のほうが格段に進められていた。開戦から2年間を経て1944年に入ると、日本軍と連合国軍の攻守は完全に逆転していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "そして、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月ごろから、東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなり始め、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動を押さえつけた(中野正剛事件)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・重光葵の提案を元に1943年(昭和18年)11月、大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のA.M.ナイルなど国内外から幅広い協力を受けて会議は成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者の深田祐介は係る肯定的な評価を挙げる一方、念には念を入れマイクロマネジメントを行う東條を「準備魔」と表現している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東條は会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府、5月にフィリピン、6〜7月にかけてタイ、昭南島(シンガポール)、クチン(サラワク王国)、インドネシアなどの友好国や占領地を歴訪している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "また会議の開催に先立つ1942年(昭和17年)9月に、東條は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "大東亜会議が開催された1943年(昭和18年)11月にタラワ島が陥落、1944年(昭和19年)1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。また1944年に入ると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ海軍機動艦隊やオーストラリア、ニュージーランド海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線やインド洋においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などからくるさまざまな弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)。これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした。海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、海相・嶋田繁太郎が総長を兼任することになった(そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。2月28日には裁判官たちに戦争遂行に障害を与えるなら非常手段を取る旨の演説をした東條演説事件が発生している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機であるボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島がアメリカ軍に陥落された場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかし圏外での決戦思想に拘る海軍と中国大陸での作戦に拘る陸軍の思惑が入り乱れる事態となったためにマリアナ周辺の戦力の増強は想定したほど進まなかった。後に海軍はマリアナ防衛のために持てる艦艇戦力の全力をつぎ込み、1944年(昭和19年)6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で米海軍と相対したが、こちらのアウトレンジ戦法は米軍の新兵器とその物量の前にはまったく通じず大敗を喫してしまった。連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも同年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕する結果となった(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)。サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導を行っていたのは中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一であり、東條が直々に「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と激励しているが、この敗戦の責任を取って南雲は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸潰れになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった)。サイパンに続いてグアム島、テニアン島も次々に陥落する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、その後に訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊に空母戦力がなくなった以上、サイパン島その他の奪回作戦は立てられなくなったからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、二・二六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、末次信正らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと図り内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "を要求。実は木戸はこの時既に東條を見限っており、既に反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸に東條が泣きつくだろうと予期していた岡田や近衛文麿たち反東條派の策略であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は梅津美治郎)、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介(戦後に首相歴任)に辞任を要求した。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の大敗によって今後の戦局の絶望を感じ、講和を提言したために東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでくれ」と連絡、岸もこれに賛同し同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈することはなかった。同時に重臣である米内光政の入閣交渉を佐藤賢了を通じて行うも、既に東條倒閣を狙っていた米内は拒否したため失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられてしまって帰ってくるという有様であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "とうとう追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となった。東條は、この政変を「重臣の陰謀である」との声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる。赤松は回想録で、「周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまった」としている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の内閣存続への執念が潰えた無念さが窺われる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "戦局が困難を極める1944年(昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "その中に、高松宮宣仁親王と細川護貞によって計画された東條の暗殺計画があった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "9月には陸軍の津野田知重少佐と東亜連盟所属の柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がおり、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮崇仁親王に計画を打ち明けた。しかし、三笠宮はこの計画に困惑して母親の皇太后節子(貞明皇后)に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。予定されていた計画実行日は東條内閣が総辞職した日であった。ただし、三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。また、三笠宮によれば当時、結核で療養中だった秩父宮雍仁親王が何度も東條へ詰問状を送っている。東條は木で鼻をくくったような回答を返しており、サイパン陥落時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。また陸軍の中には「東條は戦争継続を上奏して陛下から叱責された」という噂が流れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたというわけではない。戦局が完全に日本に有利であった1942年(昭和17年)8月20日にアメリカでの抑留から戦時交換船で帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが2000年代ごろに判明している。 1945年8月13日の日記には「私はこんな弱気の国民と思わずに戦争指導にあたった不明を恥じる」と国民に責任転嫁する言葉を残している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦「ミズーリ」において対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑が掛からないようにしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "そのころ、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。...戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する」と複雑な心中を吐露しており、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が附記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、東條は大きく落胆したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の読売、毎日、朝日をはじめとする各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長・額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、いきなり拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている。歴史家ロバート・ビュートーも保阪正康も銃撃説を明確に否定している。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている(東條英機の遺言参照)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "下村定は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに軍服を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した。被告も弁護人も個人弁護に徹しようという者、国家弁護を主張する者など様々であったが、東條の自己弁護の内容は、1この戦争は欧米の経済的圧迫による自衛戦争である、2天皇は輔弼者からの進言に拒否権を発動したことはなく、よって天皇に責任はない、3大東亜政策は侵略でなくアジア植民地の欧米からの解放をめざしたもの、4日本は国際法や条約に違反したことはないとの「国家弁護」をすることであり、彼は宣誓口述書で自身の負うべき責任は寧ろ自国に対する「敗戦の責任」だとしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "東條は、これらの自己の主張と対外交渉で実際に自身がとった言動の不一致を指摘されると、都度「外交は生きものである」「相手の出方によって変わる」と述べ、ときに此れについて長口舌を奮い、ウェッブ裁判長からそのような演説を聞きたいのではないことを注意されており、この「外交は生きもの」との東條の主張は、一部マスコミからは東條節と呼ばれた。一方で、東條の国家弁護は理路整然とし、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであったと主張する者もいる。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と主張したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "判決文では、東條は厚かましくも(英文ではwith hardihood)全てを弁護しており、自衛戦争との主張は全く根拠が無いものとして、一蹴された。対して、日暮吉延は、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。一方で、被告らは早々に天皇には累を及ぼさないことで合意したとされ、また、後に東郷元外相が宣戦布告遅れに関し海軍に不都合なことを言わないよう嶋津らに脅されたことを暴露したとき、当時の報道には全共同被告に挑むといった表現も見られ、少なくともそれまでは自身に不都合が無い限り、彼らが極力協力し合っていた節もうかがえる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は平和に対する罪および通例の戦争法規違反(訴因54)で有罪となり、死刑(絞首刑)の判決を受けた。この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの主張がある。しかし、例えば判決では東條が泰緬鉄道建設に「働かざる者、食うべからず」と指示して捕虜らを建設に駆り出し、彼らの状態に影響を与えたことが問題視されており、そもそも英米法系の国では、重い保護責任を有する者が故意・不注意で人を死に至らせた場合、日本のような保護責任者遺棄致死罪ではなく、当時の日本における謀殺が属するものと同じ”murder”と呼ばれる犯罪類型に該当する。そのため、この当時の英国及び多くの大英帝国自治領では本来それだけで死刑判決の対象とされていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "死刑判決当時、巣鴨拘置所では教誨師として花山信勝が付いていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分、巣鴨拘置所内で、死刑が執行された。64歳没。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "辞世の句は4首であり、", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "と記した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、後に公表された米国公文書によれば、いったん川崎市の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、横浜市西区久保町の久保山火葬場に到着し、火葬された遺骨は粉砕され、骨の小さなカケラも残さないようにかき集め、横浜に臨時に設けられていた飛行場から飛び立った飛行機によって遺灰と共に太平洋沖合50kmあたりで広くまき散らすように投棄されたという。これは東條らA級戦犯が英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきであるというのが理由であった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "一方で、小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平は東條らの遺骨について一般の戦犯と同じ(遺骨は遺族に渡さないという意味になる)と聞き、遺骨の奪還を計画していた。三文字は久保山火葬場で火葬されるとの情報を掴み、たまたま知り合いであった、その近隣にある興禅寺住職の市川伊雄と奪還を共謀した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで火葬場に忍び込み残灰置場に捨てられた、7人の分という残りの遺灰と遺骨を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。先の米国公文書との食い違いについては、遺灰についてはある程度残っていた、監視と廃棄にあたった米国将兵らが慌てていて火葬時に別に放り出していた遺骨をそのままにしてしまった、三文字らが火葬場長を事前に泣きながら説得していたため場長らが(他に火葬はなかったと言っていたが)実は他の無縁者の遺灰をやむをえずわたしたのではないかと諸説ある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "墓は雑司ヶ谷霊園にある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "東條英機は自らが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、「戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡した者に限る」という通達を出していたが、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判の戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、第二次世界大戦時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家のA・J・P・テイラーは、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、イタリア、ソ連についてはそれぞれの指導者(フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニ、ヨシフ・スターリン)を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としている。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものである。 しかしこの書籍の表紙には、他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を1人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになる。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていた。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていた。真珠湾攻撃でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだ。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わった。これは東條が、陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "東條は、1942年(昭和17年)には軍務局長・佐藤賢了に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまで上げず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであった。東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっている。また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかった。井本熊男は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたという。1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っている。その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだ。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問を投げかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかった。伊藤隆は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。インパール作戦が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した参謀次長・秦彦三郎に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責している。しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたという。1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した侍従長・藤田尚徳は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "渡部昇一によれば、「政治家としての評価は低い東條も、軍事官僚としては抜群であった」という。「強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけた」という。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、陽高に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男性をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは、「連合国側の証人として出廷し、東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろう」と秦郁彦は推察している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上(=昭和天皇)におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "中外商業新報社(後の日本経済新聞)の編集局長を務めていた小汀利得は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度が窺えたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」であり、政治的に敵対した者を、職権を乱用して迫害したという批判が多い。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "竹槍事件では新名丈夫記者(当時37歳)を二等兵として召集し硫黄島へ送ろうとしたとされる。新名が1944年(昭和19年)2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ。海軍飛行機だ」と海軍を支持する記事を書いたためであった。当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っており、新名は海軍の肩を持つ記事を書いたために陸軍の反感を買っていた。なお新名は海軍の働きかけによって戦地への動員は免れ、3か月後に召集解除となった。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "また、勅任官たる逓信省工務局長・松前重義を42歳の高齢にもかかわらず(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された兵役法で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった)二等兵として召集し、南方に送った。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる。このことについて、高松宮宣仁親王は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている。また、細川護貞は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "なお、高松宮と細川は東條内閣倒閣工作に深く関与していた反東條派であり、東條の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、陸軍次官・富永恭次は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は10月12日に無事にマニラに着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人はバシー海峡に沈んだ。ただし松前の召集日は東條内閣倒閣と同日である。また、富永は東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東條内閣が崩壊し、東條派が失脚していく中でも、懲罰召集の犠牲者となった松前に対する召集解除は行われなかった。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "経済学者の都留重人は、海軍省調査課の対米研究会のメンバーであったが、1944年(昭和19年)6月に懲罰召集された。1912年(明治45年)3月6日生まれの都留は、召集の時点で32歳であった。なお、都留は約3か月後に召集解除された。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員・中野正剛を東方同志会(東方会が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した。この検挙の理由を巡っては、中野が昭和18年元日の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で自決する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している。また、戦後のラジオ番組『真相はかうだ』は、中野は東條暗殺計画のいずれかに関与しており、その発覚により東條側から自決を強要され、そうしなければ殺すだけだと脅されて、従うしかなかったとの推理を披歴している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "また、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の検事局思想部長である中村登音夫に対し、その報復として召集令状が届いた。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した福家俊一、有馬英治、浜田尚友の3名が現役の衆議院議員でありながら召集されたことに対して、東條が懲罰召集したとする主張がある。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "東條の不興を買って最前線送りになった将校は多々おり、たとえば陸軍省整備局戦備課課員の塚本清彦少佐(陸士43期・陸大52期)は、戦局に関して東條に直言したことにより、1944年(昭和19年)6月13日付で第31軍参謀に転出させられ(第31軍司令部は在サイパン島。サイパンの戦いは既に始まっていた。)、1か月後にグアム島で玉砕した。この苛烈な処分は陸軍部内を震撼させた。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "西尾寿造大将(陸士14期)は1941年(昭和16年)3月から軍事参議官を務めていたが、新聞記者から取材を受けた際に", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "と、「ゴミ箱あさり」の挿話を持つ東條を揶揄する返答をした。西尾の発言を知った東條は激怒し、1943年(昭和18年)5月に西尾を予備役に編入した。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "支那事変時の参謀次長だった多田駿(陸士15期)は石原莞爾と同様に戦争不拡大派であり、中国との和平を模索していたが、拡大賛成派の東條(陸軍次官であった)と対立した。多田と東條は共に職を解かれたが、東條が後に台頭していくと多田は次第に追いやられていき、予備役に追われた。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "石原莞爾(陸士21期)は、鋭く対立していた東條によって閑職に追われ、さらに予備役に追いやられたとされる。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "当時の陸軍次官であった阿南惟幾中将(陸士18期)は、石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって、日ごろの温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている。阿南は皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された。阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して第11軍司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には木村兵太郎中将を、人事局長に冨永恭次少将、兵務局長に田中隆吉少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "一方で、藤井非三四は、", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "を指摘し、", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "と述べ、「石原は、鋭く対立していた東條によって、舞鶴要塞司令官と言う閑職に追われた」という説を否定している。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "なお、藤井は「石原の、昭和16年(1941年)3月の予備役編入」については「見解を保留する」という旨を述べている。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "第17師団長だった平林盛人中将(陸士21期)は、太平洋戦争初期に進駐していた中華民国徐州で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と陸軍士官学校の同期で親しく、東條と馬が合わなかったという。平林もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "旧加賀藩主・前田家当主(侯爵)で、東條とは陸士17期の同期生であった前田利為(陸大23期恩賜。東條より4年早く陸大入校を果たした)は東條と犬猿の仲であった。前田は東條を「頭が悪く、先の見えない男」と侮蔑し、逆に東條は前田を「世間知らずのお殿様」と揶揄していたという。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "前田は、陸軍中将に進級して第8師団長を務めた後、1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "1942年(昭和17年)4月に召集されてボルネオ守備軍司令官に親補された前田は、クチンからラプラン島への飛行機での移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から前田の遺品と遺体が見つかった。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも南方軍総司令官・寺内寿一による弔辞では戦死となっていた。しかし、11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條はボルネオ守備軍参謀長・馬奈木敬信に対して「今回は戦死と認定することはできない」と告げ、東條の命を受けた富永恭次によって「戦死」ではなく「戦地に於ける公務死」とされた。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "これにより前田家には相続税の納付に向けて全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた。なお、前田の葬儀では東條が自ら弔辞を読んだが、陸士からの長い付き合いに触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣したという。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "尾崎行雄は天皇への不敬罪として逮捕された(尾崎不敬事件)。これは1942年(昭和17年)の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。", "title": "政治手法" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "東條の側近には、3人の奸物と4人の愚か者がいたことから、この7人を、侮蔑を込めて「三奸四愚」と総称することがある。", "title": "腹心の部下とされる人物" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "田中隆吉と富永恭次は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた。田中は兵務局長として憲兵政治とも呼ばれた東條の軍政面の影響力を支える軍官僚であったが、後に東条に不満を持ち反東條運動に加担、軍を辞めざるを得なくなった。戦後は連合軍側の証人として東京裁判で太平洋戦争に至る過程や戦時の内幕について証言したことから、東京裁判の被告や旧権力者層を中心に評判が悪かった。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で、一旦は軍紀に厳格な東條の不興を買い参謀本部第1部長を更迭されるも、1941年4月には陸軍省人事局局長に返り咲いている。1943年3月には陸軍次官も兼任し、東條の補佐に辣腕を振るい、東條の参謀総長就任時には杉山元元帥の説得などで実績を残す。東條が失脚後は最前線のフィリピンで第4航空軍司令官として航空戦を指揮、航空には全くの素人ながら、積極的な作戦指導でアメリカ軍を苦しめ、富永に批判的であった昭和天皇からも「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」その戦いぶりを称賛されている。やがて、戦力を消耗すると、第14方面軍参謀長の武藤章中将の提案などで、戦力立て直しのために台湾に撤退するも、大本営の承認をとっていなかったため、敵前逃亡に等しい行為と批判されて、第4航空軍は解体され、富永は予備役行きとなった。この行為は、戦後、書籍・新聞などで明るみに出され、フィリピンに残された兵士らは頽勢の中で各地を転々として苦境にさらされたことから、兵士を見捨てて逃亡したとして、マスコミや国会でも取り上げられた。当時、世間的に評判が悪いのだろうと見ていた者の名を挙げているものの、東條の評判自体との関係性について特段の説明はない。", "title": "腹心の部下とされる人物" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、逓信省工務局長・松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行うなどなど、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、東條幕府と呼んで非難した)。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に予備役に編入させられた石原莞爾中将は、関東軍在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで馬鹿にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという(青江舜二郎『石原莞爾』)。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、甘粕正彦その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "元海軍軍人で作家の阿川弘之は、東京帝国大学の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "福田和也は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されているような、そんな印象を受けます」と著書内で評している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "保阪正康は、生前の木戸幸一に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とあった。満州事変の関東軍の司令官の本庄繁は男爵になっている。東條たちは爵位がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "『昭和天皇独白録』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "原剛と秦郁彦は、昭和天皇が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたことからもそれが窺える(ただし、日米開戦日に皇居の方角に向かって号泣していたことについて、君臣の考えが一致したことに感激して泣いたように語っていたとの主張もある)。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、ドーリットル空襲の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、石原莞爾、広田弘毅、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。東條は、細かく何事も天皇に報告していたと言われ、そのため天皇も東條の忠誠心を極めて信頼するようになっていったことが伺える。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "東條の遺書といわれるものは複数存在する。一つは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。", "title": "遺言" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "英機・かつ子夫妻は7人の子供を儲けた。", "title": "子孫" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "東條は独特の風貌(禿頭と髭)とロイド眼鏡、甲高い声音と抑揚を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。", "title": "東條英機を描いた作品" } ]
東條 英機は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。勲章は功二級。 陸軍次官、陸軍航空総監(初代)、陸軍大臣(第29代)、参謀総長(第16代)、大政翼賛会総裁(第2代)、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第57代)、外務大臣(第59代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第24代)、軍需大臣(初代)を歴任した。
{{表記揺れ案内|text=この記事の項目名には分野により以下のような表記揺れがあります。|表記1=東條英機|表記2=東条英機|議論ページ=[[Wikipedia‐ノート:記事名の付け方/過去ログ10#日本の歴史人物名の漢字表記|過去の議論]]}} {{政治家 | 人名 = 東條 英機 | 各国語表記 = とうじょう ひでき | 画像 = Hideki Tojo 2.jpg | 画像説明 = 1940年代撮影 | 画像サイズ = 206px | 国略称 = {{JPN1870}} | 生年月日 = [[1884年]][[12月30日]]{{Refnest|group=注釈|name=誕生日|{{要出典|範囲=誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を[[里子]]に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている|date=2021年7月}}。[[本籍地]]は[[東京都]]。}} | 出生地 = {{JPN1870}} [[東京府]][[東京市]][[麹町区]]<br/>(現・[[東京都]][[千代田区]]) | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1884|12|30|1948|12|23}} | 死没地 = {{JPN1947}} [[東京都]][[豊島区]]<br/>[[巣鴨拘置所]] | 出身校 = [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](第17期)<br/>[[陸軍大学校]](第27期) | 前職 = [[関東軍|関東軍参謀長]] | 所属政党 = [[大政翼賛会]](1941年 - 1944年)<ref group="注釈">1941年の「[[言論、出版、集会、結社等臨時取締法]]」における[[:s:言論、出版、集會、結社等臨時取締法#4|公事結社]]。{{Main|大政翼賛会}}</ref> | 称号・勲章 = [[File:帝國陸軍の階級―襟章―大将.svg|40px]] [[陸軍大将]]<br/>[[従二位]]<br/>[[勲一等旭日大綬章]]<br/>[[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]<br/>[[ドイツ鷲勲章]]<br/>[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]<br/>[[チュラチョームクラーオ勲章]] | 配偶者 = [[東條かつ子]] | 子女 = 東條英隆(長男)<br/>[[東條輝雄]](次男)<br/>[[東條敏夫]](三男)<br/>杉山光枝(長女)<br/>[[東條満喜枝]](次女)<br/>鷹森幸枝(三女)<br/>キミエ・ギルバートソン(四女) | 親族(政治家) = [[東條英俊]](祖父)<br/>[[東條英教]](父)<br/>[[東條千歳]](母)<br />[[東條寿]](弟)<br/>[[伊藤万太郎]](義父)<br/>[[杉山茂 (陸軍軍人)|杉山茂]](娘婿)<br/>[[古賀秀正]](娘婿)<br/>[[鷹森立一]](娘婿)<br/>[[東條由布子]](孫) | サイン = Hideki Tojo signature.svg | 国旗 = JPN1870 | 職名 = 第40代 [[内閣総理大臣]] | 内閣 = [[東條内閣]] | 就任日 = [[1941年]][[10月18日]] | 退任日 = [[1944年]][[7月22日]] | 元首職 = [[天皇]] | 元首 = [[昭和天皇]] | 国旗2 = JPN1870 | 職名2 = 初代 [[軍需省|軍需大臣]] | 内閣2 = 東條内閣 | 就任日2 = [[1943年]][[11月1日]] | 退任日2 = 1944年7月22日 | 国旗3 = JPN1870 | 職名3 = 第24代 [[商工省|商工大臣]] | 内閣3 = 東條内閣 | 就任日3 = 1943年[[10月8日]] | 退任日3 = 1943年11月1日 | 国旗4 = JPN1870 | 職名4 = 第53代 [[文部大臣]] | 内閣4 = 東條内閣 | 就任日4 = 1943年[[4月20日]] | 退任日4 = 1943年[[4月23日]] | 国旗5 = JPN1870 | 職名5 = 第59代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]] | 内閣5 = 東條内閣 | 就任日5 = [[1942年]][[9月1日]] | 退任日5 = 1942年[[9月17日]] | 国旗6 = JPN1870 | その他職歴1 = 第57代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]] | 就任日6 = 1941年10月18日 | 退任日6 = 1942年[[2月17日]] | 国旗7 = JPN1870 | その他職歴2 = 第29代 [[陸軍大臣]] | 就任日7 = [[1940年]]7月22日 | 退任日7 = 1944年7月22日 | 国旗8 = JPN1870 | その他職歴3 = [[事務次官等の一覧#陸軍次官|陸軍次官]] | 就任日8 = [[1938年]][[5月30日]] | 退任日8 = 1938年[[12月10日]]}} '''東條 英機'''(とうじょう ひでき、[[1884年]]〈[[明治]]17年〉[[12月30日]]{{Refnest|group=注釈|name=誕生日}} - [[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[12月23日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。[[軍隊の階級|階級]]は[[陸軍大将]]。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。[[勲章 (日本)|勲章]]は[[金鵄勲章|功二級]]。 [[事務次官等の一覧#陸軍次官|陸軍次官]]、[[陸軍航空総監]](初代)、[[陸軍大臣]](第29代)、[[参謀本部 (日本)|参謀総長]](第16代)<!--親補職・陸軍次官・陸軍大臣を記載。-->、[[大政翼賛会]]総裁(第2代)、[[内閣総理大臣]]([[東條内閣|第40代]])、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](第57代)、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](第59代)、[[文部大臣]](第53代)、[[商工大臣]](第24代)、[[軍需省|軍需大臣]](初代)を歴任した。<!-- 現在の[[百科事典]]や[[文部科学省|文科省]]検定[[教科書]]などでは[[新字体]]で東'''条''' 英機と表記されることが多い<ref group="注釈">現在の[[百科事典]]、辞典類、学術誌、研究書、文部科学省検定教科書 などにおける歴史人物名としての表記は「東'''条'''英機」。存命当時の『職員録』など印刷物における表記は「東'''條'''英機」、御署名原本における大臣副書は「東'''條'''英機」であった。</ref>。--> == 略歴 == [[岩手県]]出身<ref>{{Cite journal|author=渡辺滋|year=2019|title=日本海軍における出身地と人間関係:堀悌吉中将の失脚と関連して|url=https://www.l.yamaguchi-pu.ac.jp/archives/2019/01.part1/05.graduate%20schools/05.grad_WATANABE.pdf|journal=山口県立大学学術情報|volume=12|page=69}}</ref><ref name=":7" /><ref>{{Cite web|和書|title=忘却の将星・多田駿:/5 2人の「英雄」に明暗 戦犯として軟禁、県史に埋もれ /岩手|url=https://mainichi.jp/articles/20170815/ddl/k03/040/005000c|accessdate=2021-12-11|language=ja|publisher=[[毎日新聞]]|date=2017-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211211033434/https://mainichi.jp/articles/20170815/ddl/k03/040/005000c|archivedate=2021-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東条英機:日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)|url=https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%9D%A1%20%E8%8B%B1%E6%A9%9F-1650199|website=[[コトバンク]]|accessdate=2021-07-21|language=ja|first=|last=|archiveurl=https://megalodon.jp/2021-0721-1127-19/https://kotobank.jp:443/word/東条%2520英機-1650199|archivedate=2021-7-21}}</ref>。[[東條英教]]([[中将|陸軍中将]])は父。[[東條かつ子]]は妻。[[東條輝雄]]([[三菱自動車工業]] 社長・会長)・[[東條敏夫]]([[少将|空将補]])は子。 [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]][[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#17期|第17期]]卒。[[陸軍大学校]][[陸軍大学校卒業生一覧#27期 (大正4年卒)|第27期]]卒。 [[永田鉄山]]死後、[[統制派]]の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代[[内閣総理大臣]]に就任([[東條内閣]]、在任期間は[[1941年]]〈昭和16年〉[[10月18日]] - [[1944年]]〈昭和19年〉[[7月18日]])。在任中に[[大東亜戦争]](1941年12月 - )が開戦した。権力強化を志向し複数の大臣を兼任、[[1944年]](昭和19年)[[2月]]からは慣例を破って陸軍大臣と[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]も兼任した。 [[日本の降伏|日本降伏]]後に拳銃自殺を図るが、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による治療により一命を取り留める。その後、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって行われた[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]にて開戦の罪([[A級戦犯|A級]])および殺人の罪([[BC級戦犯|BC級]])として[[起訴]]された。[[1948年]](昭和23年)[[11月12日]]に[[絞首刑]]の判決が言い渡され、[[1948年]](昭和23年)[[12月23日]]、[[巣鴨拘置所]]で[[死刑]]執行された。享年65(満64歳)。 == 生涯 == === 生い立ちと経歴 === 1884年(明治17年)12月30日{{Refnest|group=注釈|name=誕生日}}、[[東京府]][[麹町区]](現在の[[東京都]][[千代田区]])で生まれた。父は陸軍歩兵[[中尉]](後に陸軍中将)[[東條英教]]、母は[[小倉市|小倉]]出身の徳永[[東條千歳|千歳]]。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「[[家督]]を継ぐ長男」として扱われた。 東條氏(安房東條氏)は[[安房国|安房]][[長狭郡]][[東条村 (千葉県安房郡)|東條郷]]の[[土豪]]で<ref>『姓氏』(著者:[[丹羽基二]]、監修:[[樋口清之]]、[[秋田書店]]、[[1970年]])p223.</ref>、[[江戸時代]]に[[能楽#現存する流派|宝生流]][[宝生流 (ワキ方)|ワキ方]]の[[能楽師]]として、北上して[[盛岡藩]]に仕えた家系である(知行は160石<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=108|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英教}}</ref>)。英機の父英教は[[陸軍教導団]]の出身で、下士官から将校に累進して、さらに[[陸軍大学校|陸大]]の一期生を首席で卒業したが(同期に[[秋山好古]]など)、陸軍中将で[[予備役]]となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州[[藩閥|閥]]に睨まれたことが原因と終生考えていたという。 === 陸軍歩兵将校となる === [[画像:Young Tojo.JPG|thumb|right|220px|青年期の東條]] [[千代田区立番町小学校|番町小学校]]、[[新宿区立四谷小学校|四谷小学校]]、[[学習院初等科]](1回落第)、[[港区立青山小学校|青山小学校]]、[[東京都立戸山高等学校|城北尋常中學校(現:戸山高等学校)]]<ref name=":7">{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)}}</ref>、[[東京陸軍幼年学校|東京陸軍地方幼年学校]](3期生)、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]を経て[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入校。 [[1905年]](明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に任陸軍[[歩兵]][[少尉]]、補[[近衛歩兵第3連隊]]附。[[1907年]](明治40年)12月21日には[[中尉|陸軍歩兵中尉]]に昇進する。 [[1909年]](明治42年)、[[東條かつ子|伊藤かつ子]]と結婚。 [[1910年]](明治43年)、[[1911年]](明治44年)と[[陸軍大学校]](陸大)に挑戦して失敗。東條のために[[小畑敏四郎]]の家の二階で勉強会が開かれ、[[永田鉄山]]、[[岡村寧次]]が集まった<ref>須山幸雄『小畑敏四郎』芙蓉書房</ref>。同年に長男の英隆が誕生。 [[1912年]]([[大正]]元年)に陸大に入学。 [[1913年]](大正2年)に父の英教が死去。 [[1914年]](大正3年)には二男の輝雄が誕生。 [[1915年]](大正4年)に陸大を卒業。成績は11番目だった。主席は[[今村均]]、優等に[[本間雅晴]]、[[河辺正三]]、[[鷲津鈆平]]らがいる。[[大尉|陸軍歩兵大尉]]に昇進し、近衛歩兵第3連隊[[中隊|中隊長]]に就く。その後、陸軍省高級副官[[和田亀治]][[歩兵大佐]]の引きで、[[陸軍兵器本廠]]附兼陸軍省副官となる。陸軍の諸法規などを記した厚冊『[[陸軍成規類聚]]』をすべて暗記したという有名なエピソードはこのころの話である。「努力即権威」が座右の銘だった東條らしい逸話である。 [[1918年]](大正7年)には長女が誕生、翌・[[1919年]](大正8年)8月、[[駐在武官]]として[[スイス]]に単身赴任。 [[1920年]](大正9年)8月10日に[[少佐|陸軍歩兵少佐]]に昇任、[[1921年]](大正10年)7月には[[ドイツ国|ドイツ]]に駐在{{refnest|group="注釈"|このとき、[[山下奉文]]・[[河辺正三]]らとも交流があったという<ref>佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』96頁</ref>。}}。同年10月27日に南ドイツの保養地[[バーデン=バーデン]]で永田・小畑・岡村が結んだ密約([[バーデン=バーデンの密約]])に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという<ref name="oe_31-48">大江志乃夫『張作霖爆殺』31-48頁</ref>。 [[1922年]](大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 [[1923年]](大正12年)10月5日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員、同23日には[[陸軍歩兵学校]]研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。 [[1924年]](大正13年)に[[中佐|陸軍歩兵中佐]]に昇進。 [[1925年]](大正14年)に三男・敏夫が誕生。 [[1926年]](大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 [[1928年]]([[昭和]]3年)3月8日には[[陸軍省]][[陸軍省#整備局|整備局]]動員課長に就任、同年8月10日に[[大佐|陸軍歩兵大佐]]に昇進。 [[張作霖爆殺事件]]([[1928年]]6月4日)の3か月前(3月1日)の[[木曜会]]の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「[[満蒙]]ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている<ref>川田稔『満州事変と政党政治』p4〜p7</ref>。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の[[石原莞爾]]、[[鈴木貞一]]、[[根本博]]や東條のボスであった[[永田鉄山]]、[[岡村寧次]]などが揃い、すでに[[世界恐慌]]の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に[[二葉会]]と合流し、[[武藤章]]、[[田中新一]]らも加わり[[一夕会]]が結成されている<ref>川田稔『満州事変と政党政治』p6〜p11</ref>。 === 歩兵第1連隊長を経て将官へ === [[1929年]](昭和4年)8月1日には[[歩兵第1連隊]]長に就任。同年には三女が誕生。歩兵第1連隊長に補された東條は、連隊の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した<ref name="半藤2013東条英機">{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 569-1024, 第一章 太平洋戦争への道-東条英機 国政、軍政、統帥の頂点に立つ}}</ref>。[[陸軍大学校|陸大]]を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした<ref name="半藤2013東条英機" />。 帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった<ref name=":122">{{Harvnb|藤井|2008|p=|pp=68-71|loc=第二章 社会階層を否定した軍隊-管理責任を果たさなかった指揮官}}</ref>。[[内務班]]で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを太平洋戦争敗北に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった<ref name=":122" />。 そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として連隊に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した<ref name="半藤2013東条英機" />。連隊長たる東條が自ら[[内務班]]に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った<ref name="半藤2013東条英機" />。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった<ref name="半藤2013東条英機" />。 [[1931年]](昭和6年)8月1日には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長<ref name=":7" />)に就任し<ref name=":8">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=320-328|loc=第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-2.参謀本部-B 第2期(明41 - 昭20)}}</ref>、翌年四女が誕生している。 この間、永田や小畑も帰国し、[[1927年]](昭和2年)には[[二葉会]]を結成し、[[1929年]](昭和4年)5月には二葉会と[[木曜会 (日本陸軍)|木曜会]]を統合した[[一夕会]]を結成している。東條は[[板垣征四郎]]や[[石原莞爾]]らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという<ref name="oe_31-48"/>。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において[[満州事変|満州問題解決方策大綱]]が完成している<ref>大江志乃夫『張作霖爆殺』176頁</ref>。 [[1933年]](昭和8年)3月18日に陸軍[[少将]]に昇進、同年8月1日に[[陸軍兵器廠|兵器本廠]]附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。[[1934年]](昭和9年)8月1日には歩兵第24[[旅団]]長([[久留米市|久留米]])に就任。 === 関東軍時代 === [[1935年]](昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、[[憲兵_(日本軍)|関東憲兵隊]]司令官・関東局警務部長に就任{{refnest|group="注釈"|この人事については[[皇道派]]による左遷であるという見方がある<ref>佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』107頁</ref>。}}。このとき関東軍将校の中で[[コミンテルン]]の影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の[[赤化]]を防止したという<ref>[[中西輝政]]2011「日本軍の敢闘とソ連の謀略…それは歴史の一大分岐点だった」『[[歴史街道]]』277」</ref>。[[1936年]](昭和11年)2月26日に[[二・二六事件]]が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、[[皇道派]]の関係者の検挙に功があった<ref>佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』110頁</ref>。同年12月1日に陸軍[[中将]]に昇進。 [[1937年]](昭和12年)3月1日、板垣の後任の[[関東軍#参謀長・総参謀長|関東軍参謀長]]に就任する<ref group="注釈">この時期の満州国経営の重要人物を一まとめにし、[[弐キ参スケ]]と称すことがある。</ref>。 参謀長になった東條は、溥儀に対して「東條は元来、性質素朴で言葉を飾ることを知りませぬ。お言葉通り、今後は何も思いつき次第現状致すことにいたします。陛下には水で火を消さねばならぬようなことがあるかもしれませぬ」と初めて会うなり言っている<ref>中田整一著「満州国皇帝の秘録」</ref>。 [[日中戦争]]([[支那事変]])が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として[[チャハル作戦|察哈爾作戦]]に参加した。東條は自ら参謀次長電で、派遣兵団を「東條兵団」と命名した。参謀長と部隊指揮官を兼ねることは陸軍の伝統に反するものであったが 、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争以外の何物でもなかった」と証言している<ref name=":12">{{Cite book|和書 |title=世界戦争犯罪史辞典 |date=2002-8-8 |publisher=文藝春秋 |page=77-78 |editor=常石 敬一}}</ref>。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の作戦は大きな成功を収めたが、補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという<ref>秦郁彦『現代史の争点』文春文庫254~255頁</ref>。また、作戦行動を共にしていた蒙古自治政府軍指揮官の李守信将軍の戦後の中国での取調における証言では、この作戦では各地で捕虜の虐殺が頻発していたことが示唆されているという<ref>{{Cite web|和書|url=http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html |title=歴史の闇に埋もれた陽高事件 |access-date=2023-10-21 |publisher=米濱 泰英 |archive-url=https://web.archive.org/web/20060828234725/http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html |archive-date=2006-8-28 |website=日華事変と山西省}}</ref>。とくに陽高で行われた住民・捕虜の大量虐殺事件が、[[陽高事件]]として名高い<ref>{{Cite book|和書 |title=東京兵団 Ⅰ胎動篇 |date=1963-1-1 |publisher=光風社 |pages=138-141 |author=畠山 清行}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史 |date=1982-4-1 |publisher=信太山砲四会 |pages=247-248 |editor=野砲兵第四聯隊史編纂委員会}}</ref>。しかし実際には、作戦終結の時期になってもなお、住民虐殺が他でも起きていたことが伝えられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=21346 |title=内蒙古で日本人医師が見た東條兵団の大量虐殺[エッセイ] |access-date=2023-10-18 |publisher=日本医事新報社 |website=Web医事新報}}</ref>。[[陽高事件]]については、中国人犠牲者は350名とも500名ともいわれるが、はっきりしない<ref name=":12" />。発生理由については、日本軍の死傷者も140名と大きかったため日本兵らが激昂した結果として説明されることが多い<ref name=":12" />が、疑問もあり、東條はその後の首相時代の1943年2月に秘書官との雑談では「不穏なシナ人らは全部首をはねた」「斯くの如く日本の威力を知らせておいて、米とかを施してやった」「恩威並び行われたわけだ」と語ったと伝えられる<ref name=":12" />。戦後、歴史家の秦郁彦は、東京裁判で提出された東条の履歴書に察哈爾兵団長の履歴が記されていなかったことから、東條がこの[[陽高事件]]で戦犯として訴追されなかったのは、察哈爾兵団長は出先かぎりの人事発令であったため、検察団にこの経歴が知られなかったことも一因であろうとしている<ref name=":12" />。 === 陸軍次官 === [[画像:Hideki_Tojo_posing.jpg|thumb|220px|第11代航空本部長(航空総監兼務)東條英機中将]] [[1938年]](昭和13年)5月、[[第1次近衛内閣]]の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍[[次官]]、[[陸軍航空本部]]長に就く。次官着任にあたり[[赤松貞雄]]少佐の強引な引き抜きを人事局課長・[[額田坦]]に無理やり行わせる<ref>額田坦回想録23頁</ref>。同年11月28日の軍人会館(現在の[[九段会館]])での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。 板垣の下、参謀次長・[[多田駿]]、参謀本部総務部長・[[中島鉄蔵]]、陸軍省人事局長・[[飯沼守]]と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された[[陸軍航空総監部|陸軍航空総監]]に補せられた<ref>額田坦回想録79頁</ref>。 === 陸軍大臣 === [[画像:Second Cabinet of Fumimaro Konoe.jpg|thumb|right|220px|[[1940年]]、[[第2次近衛内閣]]の閣僚らと]] [[1940年]](昭和15年)7月22日から[[第2次近衛内閣]]、[[第3次近衛内閣]]の[[陸軍大臣]]を務めた([[対満事務局]]総裁も兼任)。 近衛日記によると、[[支那派遣軍]]総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。 このころ、[[人造石油]]製造の開発失敗の報告を受けた際に、「(南方の石油資源の)物盗りへ日本が今後進まざるを得ず、陛下に対して申し開きできないではないか」と激怒した。 [[1941年]](昭和16年)[[8月27日|8月27]]・[[8月28日|28日]]両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、[[総力戦研究所]]より日米戦争は「'''日本必敗'''」との報告を受ける。 [[10月14日]]の閣議において日米衝突を回避しようと[[近衛文麿]]首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。また[[保阪正康]]は著書において「[[9月6日]]の[[御前会議]]で議題となった三案のうち、'''十月中旬'''までに[[日米交渉]]に妥結の可能性がないのであれば日本はアメリカに軍事行動を起こすという一案に対して、近衛は他の二案(外交交渉に希望を繋ぎ、また十月中旬にこだわる必要はないという案)に賛成した」ことや、「[[10月10日]]辺りから、近衛と東條の二人だけ、時には[[豊田貞次郎]]や[[及川古志郎]]を交えて事態解決について話し合ってる中で、豊田や及川と衝突することがあったとしても戦争を訴え続けた(あくまで9月6日の軍事行動を起こす案を守るべきだという言い方で留まっている。)」ことなどを明かし、「[[10月14日]]を境に近衛と東條の対立は一段と激しくなった」とも述べている<ref>{{Cite book |title=Shōwa no kaibutsu, nanatsu no nazo |url=https://www.worldcat.org/oclc/1045484521 |date=2018 |location=Tōkyō |isbn=978-4-06-512339-3 |oclc=1045484521 |first=Masayasu |last=Hosaka |last2=保阪正康}}</ref><ref>{{Cite book |title=Tōjō Hideki to tennō no jidai |url=https://www.worldcat.org/oclc/62397195 |publisher=Chikuma Shobō |date=2005 |location=Tōkyō |isbn=4-480-42163-7 |oclc=62397195 |first=Masayasu |last=Hosaka |last2=保阪正康}}</ref>。 しかし、イギリス(と[[オーストラリア]]や[[ニュージーランド]]、[[英領インド]]など[[イギリス連邦]]諸国)とアメリカ(と[[オランダ]])という、日本に比べて資源も豊富で人口も多く、さらに明らかに工業力が大きい国家、それも複数と同時に開戦するという、暴挙とも言える政策に異を唱える者の声は益々小さくなっていった。さらに東條らが言うように、日本陸海軍に攻撃されたイギリスやアメリカが、その後簡単に停戦交渉に応じるという根拠はどこにもなかった。 近衛は、これにより外交解決を見出せなくなったので近衛は翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対英米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ぬ」とし、[[第3次近衛内閣]]は総辞職した。近衛は「戦争には自信がない。自信のある人がおやりなさい」と言っていたという。 また近衛の辞任は、[[ゾルゲ事件]]により辞任日の14日に近衛[[内閣]]嘱託の[[尾崎秀実]]や[[西園寺公一]]らが検挙され、事前の取り調べによって近衞とこの事件との密接な関係が浮かび出てきたことで、いかに巨大な影響を国政に与えるかを考慮し、近衛が首相辞職という道を選んだという意見もある。 実際に東條は、近衛辞任後もこの事件によって一挙に近衞とその周辺を抹殺することを考え徹底的な調査を命じたが、その時点は日英米開戦直前直後で、事件の影響を国政に与えるかを考慮した結果、近衛の聴取はあいまいなままに終わっている<ref>三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略-戦争と共産主義』自由選書、1987年復刊(1950年GHQ発禁処分)137~138頁。</ref>。 <!--(2021年12月27日にコメントアウト。師団に「経理局長」職は無い。有効な出典が無い)また対米英開戦を諌めた[[関東軍]]第4師団経理局長・[[網本浅吉]]陸軍少将を、自分に逆らったとしてその場で免職。網本は戦争敗北後の[[1945年]](昭和20年)9月、全てを明らかにして自殺した<ref>[http://www.asahi.com/articles/TKY201312160561.html 伯父、身を賭して開戦に反対] 朝日新聞2013年12月17日付け『声 語りつぐ戦争』。投書者は網本の姪</ref>。--> === 首相就任 === [[画像:Hideki Tōjō Cabinet 19411018 3.jpg|thumb|220px|[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]]、[[総理大臣官邸]]での初[[閣議]]を終えた[[東條内閣]]の閣僚らと]] [[画像:Hideki Tōjō Cabinet 19411018.jpg|thumb|220px|[[1941年]](昭和16年)[[10月18日]]、[[東條内閣]]の閣僚らと]] [[画像:汪精卫见东条英机.jpg|thumb|220px|東條英機と[[汪兆銘]]([[汪兆銘政権]])(1942年12月)]] [[内大臣府|内大臣]]・[[木戸幸一]]は、独断で東條を後継首班に推挙し、[[昭和天皇]]の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、[[昭和天皇]]の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。 木戸は後に「あの期に陸軍を抑えられるとすれば、東條しかいない。[[宇垣一成]]の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている<ref>『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』、『[[木戸日記|木戸幸一日記]]』、『[[細川日記]]』など。</ref>。 東條は[[10月18日]]の皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の[[東郷茂徳]]を据え、一旦、[[帝国国策遂行要領]]を白紙に戻す。 さらに対米交渉最大の難問であった中華民国からの撤兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に撤兵するという趣旨の2つの妥協案を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、[[日独伊三国同盟]]の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。 東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」<ref group="注釈">1937年12月の[[トラウトマン工作]]の条件が賠償を含む厳しい条件に吊り上がり、[[1938年]]の[[近衛文麿]]による「国民政府相手とせず」により日中関係が最悪になっていたが、1940年の[[今井武夫#桐工作|桐工作]]で一時期対立していた蒋介石の国民政府との和睦を考え、「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」を基にした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。</ref>とまで述べていた。 しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違いしたもので、あくまで戦争回避を希望する[[昭和天皇]]の意思の実現に全力を尽くそうとした。 しかし、日本政府側の提案は[[フランクリン・ルーズベルト]]政権には到底受け入れられず、組閣から約40日後には崩れ去ってしまう。 これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。 また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。 現在ではごく普通になっている[[衆議院]]本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)[[11月18日]]に封切られた[[ニュース映画|日本ニュース]]第76号「[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300461_00000&chapter=002 東條首相施政演説]」がそれである。 東條は同盟国である[[ナチス・ドイツ]]の[[アドルフ・ヒトラー]]のやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。 また東條は組閣の際に自らの[[幕僚]]を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた{{sfn|戸部良一|2002|pp=62}}。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった{{sfn|戸部良一|2002|pp=62}}。 東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである<ref group="注釈">当時、大将への昇進条件の一つに、中将で5年活動するというものがあった。内閣成立時の東條の中将在任歴は4年10ヶ月であった。</ref>。 === 大東亜戦争 === ==== 開戦 ==== [[画像:Shashin_Shuho_No_249.jpg|thumb|220px|『寫眞週報』第二百四十九號(1942年12月2日)]] 1941年(昭和16年)[[12月8日]]、日本は[[マレー作戦]]と[[真珠湾攻撃]]を敢行、大東亜戦争が始まった。両作戦が成功したのちも日本軍は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]に対して勝利を重ね、海軍は[[アジア太平洋]]圏内のみならず、[[インド洋]]や[[アフリカ]]沿岸、[[アメリカ合衆国本土|アメリカ本土]]や[[オーストラリア]]までその作戦区域を拡大した。開戦4日後の[[12月12日]]の閣議決定において、すでに戦闘中であった[[支那事変]]([[日中戦争]])も含めて、対連合国の戦争の呼称を「[[大東亜戦争]]」とするとされた。 この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよ[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]も失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった<ref>広橋眞光・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』480-481頁</ref>。同じ8日夜には、[[NHKラジオ第1放送|日本放送協会ラジオ]]を通じて国民に向け、開戦の決意を「[[大詔を拝し奉りて]]」という演題で表明した。 開戦時に内務大臣を兼任していた東條は、12月8日の開戦の翌日早朝を期して、被疑事件の検挙216(このうち令状執行154)、予防検束150、予防拘禁30(このうち令状執行13)の合計396人の身柄を一方的に拘束した。<ref>『昭和特高弾圧史〈知識人にたいする弾圧〉1』</ref>。これは二・二六事件のときにも同様に満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものだと保阪正康は推察している。 ==== 海軍による真珠湾攻撃と東條首相 ==== 連合国は「東京裁判([[極東国際軍事裁判]])で[[ハワイ]]への攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、[[真珠湾]]を不法攻撃、[[アメリカ軍|米国軍隊]]と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。 [[小室直樹]]は[[栗林忠道]]に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としている<ref>小室直樹『硫黄島栗林忠道大将の教訓』</ref>が、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され<ref>明治百年史叢書杉山メモ 下巻 資料解説 P6</ref>、11月3日には海軍軍令部総長・[[永野修身]]と陸軍参謀総長・[[杉山元]]が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた<ref>戦史叢書(76)大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<5> P336</ref>。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている<ref>『海軍大学教育』「第三章 真珠湾作戦と海大」実松譲 光人社</ref><ref>『明治百年史叢書 杉山メモ -大本営・政府連絡会議等筆記- 上下巻』参謀本部編 原書房</ref>。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており{{refnest|group="注釈"|11月30日 東条首相拝謁時 『(前略)海軍ノ一部ニ作戦ニ就キ不安ヲ懐キ居ル者アルヤニ拝謁セラルル御話アリシトノコト(布哇作戦ノ予想ニテ犠牲ノ多カルヘキ御話ナリシカト思ハル)ニテ、首相ガ拝謁ノ時首相ニ御下問アリシ (首相)少シモ聞及無之旨奉答』<ref>昭和天皇発言記録集成 下巻(芙蓉書房出版)p.96</ref>}}、「知らなかった」とするのは正確ではない。 しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言している<ref>『東京裁判尋問調書』日本図書センター</ref>とおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況であるが、攻撃前に知っていながらそれを止めなかったことから是認したと捉えられている。 ==== 戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下 ==== [[File:Hideki_Tōjō_and_Nobusuke_Kishi_in_1943.jpg|thumb|岸信介商工相と東條英機首相(1943年)]] 緒戦、日本軍は自らの予想を上回るスピードで勝ち進み、当面の目標である蘭印を含めた東南アジア一帯を1942年の3月にはほぼ手中におさめた。この時点において陸軍は、占領した東南アジアの防衛に専守したい方針だったが、海軍は、オーストラリアを孤立化させるためソロモン諸島をも占領し、米豪の連絡線を遮断するという進撃案を主張した。結果、[[FS作戦]]などが考案され、陸海共同で[[ガダルカナル島]]を確保するべくこの付近に大兵力が投入されることとなったが、連合国側もここを反撃の足場とする作戦に出たため、この地域で激しい戦闘が行われることとなった。なかには、[[第一次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]など日本側が勝利を得た海戦もあったが、日本側の損害は常に甚大で、とくに陸軍輸送船団は海軍の護衛が手薄なこともあって、ガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、餓島とよばれるほどの悲惨な戦場となった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込むことをやめようとはせず<ref>『小説太平洋戦争』</ref>、民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求したが、東條はこれを拒否した。元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であったが、何よりそれをすれば、国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためであった。 東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・[[田中新一]]は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・[[佐藤賢了]]と討論の末とうとう殴り合いにまでなった。さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いたさいにも、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。しかしガダルカナル作戦は新局面を開けず、[[1943年]](昭和18年)2月にはガダルカナル島からの撤退が確定する。 その後も、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが、戦線の伸び切りによる補給線の長さと、海上護衛の手薄さのために、多くが撃沈され、南方方面の日本軍は1943年の末には補給不足となっていた。対して、軍事生産の大拡充計画をスタートさせていたアメリカは、同年の中ごろにはこの結果を出しはじめていた。1943年(昭和18年)と[[1944年]](昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44,873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母([[護衛空母]])4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6,800万トン、航空機生産182,216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。加えて[[レンドリース]]によって他の連合国にも大量の兵器・物資を供給していた。また航空戦力でも新型艦上戦闘機[[F6F]]や、ヨーロッパ戦線で活躍していた[[P47]]、[[P51]]が登場。さらには大型四発爆撃機[[B-29 (航空機)|B29]]が登場するのも間近となっていた。また戦前に日本が軽視していた電子兵器[[レーダー]]や音響兵器の[[ソナー]]の性能差はいよいよ顕著となり、その他、[[VT信管]]などの新技術の開発においても連合国のほうが格段に進められていた<ref>児島襄『太平洋戦争 上』中公新書 (84) 312頁 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』中公新書クラレ79頁</ref>。開戦から2年間を経て1944年に入ると、日本軍と連合国軍の攻守は完全に逆転していた。 そして、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月ごろから、東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなり始め、後述の[[中野正剛]]らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動を押さえつけた([[中野正剛事件]])。 ==== 大東亜会議主催 ==== [[画像:Greater East Asia Conference.JPG|thumb|220px|[[大東亜会議]]に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ]]、[[張景恵]]、[[汪兆銘]]、東條英機、[[ナラーティップポンプラパン]]、[[ホセ・ラウレル]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]。]] [[画像:19430610 meeting bose tojo.png|thumb|220px|[[1943年]][[6月10日]]、[[スバス・チャンドラ・ボース]]と]] [[画像:Hideki Tojo lands in Manila.jpg|thumb|right|220px|視察に訪れた陸軍大将東條英機(中央)に対し、出迎えの陸軍将校・[[軍属|陸軍軍属高等官]]一同(手前列)が「敬礼」を行う姿。陸軍大将(東條)はその「敬礼」に対し「答礼」を行っている。[[マニラ]]([[フィリピン]])、1943年。]] 日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・[[重光葵]]の提案を元に1943年(昭和18年)11月、[[大東亜会議]]を東京で開催し、同盟国の[[タイ王国]]や[[満洲国]]、[[中華民国]]([[汪兆銘]]政府)に併せて、イギリスやアメリカ、[[オランダ]]などの[[白人]]国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「[[大西洋憲章]]」に対抗して「[[大東亜共同宣言]]」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。 旧オランダ領でまだ独立準備中にあった[[インドネシア]]代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家の[[A.M.ナイル]]など国内外から幅広い協力を受けて会議は成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する{{要出典|date=2021年4月|}}。『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者の[[深田祐介]]は係る肯定的な評価を挙げる一方、念には念を入れ[[マイクロマネジメント]]を行う東條を「準備魔」と表現している。 東條は会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100304623|title=東条首相、満洲国を訪問 : 皇帝陛下の御機嫌奉伺 : 全面協力感謝・首脳と懇談|oldmeta=10106090}} 東条首相、満洲国を訪問 大阪朝日新聞 1943.4.2(昭和18)]</ref>、5月に[[フィリピン]]、6〜7月にかけてタイ、[[昭南島]]([[シンガポール]])、[[クチン]]([[サラワク王国]])、インドネシアなどの友好国や占領地を歴訪している<ref>[https://web.archive.org/web/20101206174329/http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2002/forum_j2002_5.pdf 戦争指導者としての東條英機]</ref>。 また会議の開催に先立つ[[1942年]](昭和17年)9月に、東條は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。 ==== 三職の兼任 ==== 大東亜会議が開催された1943年(昭和18年)11月に[[タラワ島]]が陥落、[[1944年]](昭和19年)1月には重要拠点だった[[クェゼリン]]にアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。また1944年に入ると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ海軍機動艦隊やオーストラリア、ニュージーランド海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線やインド洋においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。 戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などからくるさまざまな弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」<ref>広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』27頁</ref>と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。 1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった([[トラック島空襲]])。これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し<ref>『東條秘書官機密日誌』128-133頁</ref>、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答<ref>歴代陸軍大将全覧 昭和編 太平洋戦争期』83頁 中央新書クラレ</ref>。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め<!--{{要検証範囲|陸海統帥部総長の更迭を断行し}}-->、自ら[[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]に就任する。参謀総長を辞めることとなった杉山は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の[[陸軍三長官|三長官会議]]において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした<ref>額田坦回想録148頁</ref><ref>『杉山メモ(下)』資料解説27頁</ref>。海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・[[伏見宮博恭王]]の意向もあって最後は折れ、海相・[[嶋田繁太郎]]が総長を兼任することになった<ref>『杉山メモ(下)』資料解説32頁</ref>(そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。2月28日には裁判官たちに戦争遂行に障害を与えるなら非常手段を取る旨の演説をした[[東條演説事件]]が発生している。 [[行政|行政権]]の責任者である[[内閣総理大臣|首相]]、陸軍[[軍政]]の長である[[陸軍大臣]]、[[軍令]]の長である[[参謀本部 (日本)#参謀本部(明治22年-昭和20年)|参謀総長]]の三職を兼任したこと(および嶋田の[[海軍大臣]]と[[軍令部総長]]の兼任)は、[[天皇]]の[[統帥権]]に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば[[秩父宮雍仁親王]]は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している<ref>額田坦回想録149頁</ref>。東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。 このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると[[岡田啓介]]、[[若槻禮次郎|若槻礼次郎]]、近衛文麿、[[平沼騏一郎]]たち重臣グループが反東條で連携し始める。しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「[[細川護貞|細川日記]]」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという<ref>[[細川日記]]180頁</ref><ref>吉田裕『昭和天皇の終戦史』34頁</ref>。 ==== 退陣 ==== 1944年(昭和19年)に入り、[[アメリカ軍]]が長距離重爆撃機である[[ボーイング]][[B29]]の量産を開始したことが明らかになり、[[マリアナ諸島]]がアメリカ軍に陥落された場合、[[日本本土空襲|日本本土の多くが空襲]]を受ける可能性が出てきた。そこで東條は[[絶対国防圏]]を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、[[サイパン島]]周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。 しかし圏外での決戦思想に拘る海軍と中国大陸での作戦に拘る陸軍の思惑が入り乱れる事態となったためにマリアナ周辺の戦力の増強は想定したほど進まなかった。後に海軍はマリアナ防衛のために持てる艦艇戦力の全力をつぎ込み、1944年(昭和19年)[[6月19日]]から[[6月20日]]の[[マリアナ沖海戦]]で米海軍と相対したが、こちらのアウトレンジ戦法は米軍の新兵器とその物量の前にはまったく通じず大敗を喫してしまった。連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。地上戦でも同年6月15日から7月9日の[[サイパンの戦い]]で日本兵3万名が玉砕する結果となった(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)。サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導を行っていたのは中部太平洋方面艦隊司令長官・[[南雲忠一]]であり、東條が直々に「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と激励しているが<ref>[[#波まくらいくたびぞ]]電子版, 位置No.4135</ref>、この敗戦の責任を取って南雲は自決した。こうして[[絶対国防圏]]はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸潰れになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった{{要出典|date=2021年4月|}})。サイパンに続いて[[グアム島]]、[[テニアン島]]も次々に陥落する。 マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、その後に訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。連合艦隊に空母戦力がなくなった以上、サイパン島その他の奪回作戦は立てられなくなったからである。こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、[[二・二六事件]]で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、[[末次信正]]らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている([[実松譲]]『米内光政』)。 東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと図り内閣改造条件を宮中に求めた。7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、 #東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと。 #海軍大臣・嶋田繁太郎の更迭。 #重臣の入閣。 を要求。実は木戸はこの時既に東條を見限っており、既に反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸に東條が泣きつくだろうと予期していた岡田や近衛文麿たち反東條派の策略であった。 木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は[[梅津美治郎]])、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の[[岸信介]](戦後に首相歴任)に辞任を要求した。岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の大敗によって今後の戦局の絶望を感じ、講和を提言したために東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでくれ」と連絡、岸もこれに賛同し同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。 東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・[[四方諒二]]を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈することはなかった<ref>[[太田尚樹]] 『東条英機と阿片の闇』 [[角川ソフィア文庫]] ISBN 978-4044058050、230-231p</ref>。同時に重臣である[[米内光政]]の入閣交渉を佐藤賢了を通じて行うも、既に東條倒閣を狙っていた米内は拒否したため失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられてしまって帰ってくるという有様であった。 とうとう追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、[[7月18日]]に総辞職、予備役となった。東條は、この政変を「重臣の陰謀である」との声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。後任には、[[朝鮮総督]]の陸軍軍人である[[小磯國昭]]首相が就任し、[[小磯内閣]]が成立した。 東條の腹心の[[赤松貞雄]]らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた<ref>[[赤松貞雄]]『東條秘書官機密日誌』p.160</ref>。東條は[[小磯内閣|次の内閣]]において、[[山下奉文]]を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、[[杉山元]]以外を不可と主張した。自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる<ref name="nukata">『額田坦回想録』</ref><ref name="sugamo">『[[巣鴨日記]]』<!--誰の巣鴨日記か、何ページか、明確にしてください--></ref>。赤松は回想録で、「周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまった」としている<ref>『東條秘書官機密日誌』160-161頁</ref>。 [[広橋眞光]]による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の内閣存続への執念が潰えた無念さが窺われる<ref>広橋・伊藤隆・片島紀男『東條内閣総理大臣機密記録』556-557頁</ref>。 ==== 東條英機暗殺計画 ==== 戦局が困難を極める[[1944年]](昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。 その中に、[[高松宮宣仁親王]]と[[細川護貞]]によって計画された東條の暗殺計画があった。 9月には陸軍の[[津野田知重]]少佐と[[東亜連盟]]所属の柔道家の[[牛島辰熊]]が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる[[木村政彦]]が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた<ref>「[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]」[[増田俊也]]</ref>。軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。この計画のバックには東條と犬猿の仲の[[石原莞爾]]がおり、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。津野田は[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]時代に同級生であった[[三笠宮崇仁親王]]に計画を打ち明けた。しかし、三笠宮はこの計画に困惑して母親の皇太后節子([[貞明皇后]])に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。予定されていた計画実行日は[[東條内閣]]が総辞職した日であった<ref>津野田忠重『秘録東条英機暗殺計画』</ref>。ただし、三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。また、三笠宮によれば当時、[[結核]]で療養中だった[[秩父宮雍仁親王]]が何度も東條へ詰問状を送っている。東條は木で鼻をくくったような回答を返しており、[[サイパンの戦い|サイパン陥落]]時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。 また、海軍の[[高木惣吉]]らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった<ref>『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本 17)新人物往来社</ref>。 ==== 重臣会議 ==== 辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。[[鈴木貫太郎内閣]]が誕生した[[1945年]](昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する[[鈴木貫太郎]]首相案に不満で、[[畑俊六]]元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、[[小磯内閣]]は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた<ref group="注釈">小磯が予備役のままだったためである。小磯自身は大命降下の際に現役に復帰して陸相を兼ねることを希望したが、陸軍がそれを認めなかった。</ref>。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。 ==== 終戦工作への態度 ==== 1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫550頁</ref>。 終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた<ref>『加瀬俊一回想録』</ref>。また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2505283?pid=3211211 |title=東条元首相、戦争継続に固執 終戦直前の手記発見|website=AFPBB News|publisher= AFP通信|date=2008-8-12|accessdate=2019-05-11}}</ref>。 だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の[[古賀秀正]]少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。だが、古賀は[[宮城事件]]に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫562~569頁</ref>。また陸軍の中には「東條は戦争継続を上奏して陛下から叱責された」という噂が流れた<ref>2015年版の映画「日本のいちばん長い日」の中で、東条英機が日本をさざえに例えて自説を上奏するも、昭和天皇から叱責されるシーンがある。</ref>。 しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたというわけではない。戦局が完全に日本に有利であった1942年(昭和17年)8月20日にアメリカでの抑留から戦時[[交換船]]で帰国した直後の[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており<ref>来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P168</ref>、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが[[2000年代]]ごろに判明している。 1945年8月13日の日記には「私はこんな弱気の国民と思わずに戦争指導にあたった不明を恥じる」と国民に責任転嫁する言葉を残している。 === 敗戦と自殺未遂 === [[画像:Tojo beinjg treated by American doctors.psd.jpg|thumb|220px|自殺未遂後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]のアメリカ軍病院で手当を受ける東條]] {{See|東條英機自殺未遂事件}} 1945年(昭和20年)[[8月15日]]に[[玉音放送|終戦の詔勅]]、[[9月2日]]には戦艦「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」において[[日本の降伏文書|対連合国降伏文書]]への調印が行われ、日本は[[連合国軍占領下の日本|連合国軍の占領下]]となる。東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑が掛からないようにしている。 そのころ、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。…戦争責任者は『ルーズベルト』だ。戦争責任者と云うなら承知できない。尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する」と複雑な心中を吐露しており<ref>広橋・伊藤・片島『東条内閣総理大臣機密記録』559頁</ref>、果たして、1945年(昭和20年)[[9月11日]]、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って[[拳銃]][[自殺]]を図るも失敗するという事件が起こった。 ==== GHQによる救命措置 ==== 銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し[[救急車]]などと共に、[[世田谷区]][[用賀]]にある東條の私邸を取り囲んでいた[[アメリカ軍]]を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人[[軍医]]のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていた[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の指示の下、[[横浜市]][[本牧]]に設置された[[野外病院|野戦病院]]において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が附記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。入院中の東條に、[[ロバート・アイケルバーガー]]中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、東條は大きく落胆したという。 ==== 未遂に終わったことについて ==== 東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の[[読売新聞|読売]]、[[毎日新聞|毎日]]、[[朝日新聞|朝日]]をはじめとする各新聞でも[[阿南惟幾]]ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった<ref>1946年9月16日[[朝日新聞]]など</ref>。 東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の[[古賀秀正]]少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説<ref>『日本の100人 東条英機』</ref>や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説<ref name="Butow14">[[ロバート・ビュートー|ロバート・J・ビュートー]]『東條英機(下)』第14章 名誉の失われし時(215-245頁)時事通信社 1961年</ref><!--p.235-->もある。 ==== 米軍MPによる銃撃説 ==== なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長・額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、いきなり拳銃を発射し、大将は倒れた。MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ(後略)」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている<ref name="nukata"/><!--p.203--><!--要出典追加:これが本当であればもっと他にも出典が見つかるはず。出典が一つしかないならその旨を明記すべき-->。歴史家[[ロバート・ビュートー]]も[[保阪正康]]も銃撃説を明確に否定している<ref name="Butow14"/><!--p.239--><ref>『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫版590頁</ref>。自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている([[東條英機の遺言]]参照)。 ==== 戦陣訓 ==== [[下村定]]は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「<!--杉山元帥、阿南陸相亡きあと、←要検証のためコメントアウト(杉山元の自決は9月12日) 額田の原文ママ。額田が勘違いして書いたか、既に自決することを杉山から聞き、妻の説得を依頼されていた下村が杉山が死去する前提で発言したかは不明。-->ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた<ref name="nukata"/><!--p.203-->。 重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、[[戦陣訓]]の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した<ref>牛村圭『「戦争責任」論の真実』66頁</ref>。[[笹川良一]]によると[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという<ref name="sugamo"/>。 === 東京裁判 === [[画像:Tojo_at_IMTFE.png|thumb|220px|極東裁判にて、被告台に立つ東條]] [[画像:Tojo wearing tie.jpg|thumb|220px|1947年に撮影された東條。ワイシャツにネクタイを締め、その上に[[国民服]]の甲号上衣を着用した姿。]] 出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに[[軍服]]を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた<ref>「表情にあきらめ やせても小まめな東條」『朝日新聞』昭和22年8月5日,4面</ref>。 ==== 東條の国家弁護 ==== 「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し{{quotation |「ご意思に反したかも知れぬが、わが内閣及び軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。そのご意思は開戦の詔勅の『止ムヲ得サル事朕カ志シナラス』のお言葉で明白である。これは陛下の特別な思し召しで、我が内閣の責任に於いて入れた言葉である。陛下は最期の一瞬まで、和平を望んでおられた。この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」''}}とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。 東條の主任弁護人は[[清瀬一郎]]が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した<ref>『東條英機と天皇の時代』(ちくま文庫 614ページ)</ref>。被告も弁護人も個人弁護に徹しようという者、国家弁護を主張する者など様々であったが、東條の自己弁護の内容は、①この戦争は欧米の経済的圧迫による自衛戦争である、②天皇は輔弼者からの進言に拒否権を発動したことはなく、よって天皇に責任はない、③大東亜政策は侵略でなくアジア植民地の欧米からの解放をめざしたもの、④日本は国際法や条約に違反したことはないとの「国家弁護」をすることであり、彼は宣誓口述書で自身の負うべき責任は寧ろ自国に対する「敗戦の責任」だとしている<ref>{{Cite book|和書|title=秘録 大東亜戦史|year=1953|publisher=富士書苑|page=287}}</ref><ref>『「戦争責任」論の真実』52頁、74-75頁</ref>。 東條は、これらの自己の主張と対外交渉で実際に自身がとった言動の不一致を指摘されると、都度「外交は生きものである」「相手の出方によって変わる」と述べ、ときに此れについて長口舌を奮い、ウェッブ裁判長からそのような演説を聞きたいのではないことを注意されており、この「外交は生きもの」との東條の主張は、一部マスコミからは東條節と呼ばれた<ref>{{Cite news|和書 |title=ハル・ノートで論戦 開戦は正当 東条主張 キーナン検事尋問終る |newspaper=朝日新聞  |date=1948-1-7 |edition=東京版 朝刊}}</ref>。一方で、{{要出典|範囲=東條の国家弁護は理路整然とし、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと主張するなどして、[[ジョセフ・キーナン|キーナン]]はじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであったと主張する者もいる。また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と主張したという。|date=2022年12月}} 判決文では、東條は厚かましくも(英文ではwith hardihood<ref>{{Cite web |url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000340393&ID=&NO=&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf |title=A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.11~昭和23.11.12(第49497~49858頁)  |access-date=2022-12-12 |publisher=国立公文書館 |website=国立公文書館デジタルアーカイブ |page=358-359}}</ref>)全てを弁護しており、自衛戦争との主張は全く根拠が無いものとして、一蹴された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000340237&ID=&TYPE= |title=A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.164) |access-date=2022-12-12 |publisher=国立公文書館 |website=国立公文書館デジタルアーカイブ |page=82}}</ref>。対して、[[日暮吉延]]は、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする<ref name="Higure">[[日暮吉延]]『東京裁判』</ref>{{refnest|group="注釈"|もっとも、東條とその家族の動静を追ったジャーナリストの平野素邦の著述には、東條の自殺失敗でその家族が激しい批判にさらされたことが書かれているが、裁判証言でその評判が持ち直したといったことは日本の主権回復後の著述であっても一切書かれていない<ref>平野素邦『秘録 大東亜戦史 東京裁判篇』285頁</ref>。また、当時毎日新聞のカメラマンであった日沢四郎は、首相当時から処刑に至るまで東條の家族に取材で会うことがたびたび会っていたが、彼の著述においても処刑前に家族の様子に変化はなかったことが記されている<ref>日沢四郎『秘録 大東亜戦史 東京裁判篇』192頁</ref>。}}。一方で、被告らは早々に天皇には累を及ぼさないことで合意したとされ、また、後に東郷元外相が宣戦布告遅れに関し海軍に不都合なことを言わないよう嶋津らに脅されたことを暴露したとき、当時の報道には全共同被告に挑むといった表現も見られ<ref>{{Cite news|title=全共同被告にいどむ 果然、東郷証言の波乱|newspaper=朝日新聞 朝刊|date=1947-12-20|page=2}}</ref>、少なくともそれまでは自身に不都合が無い限り、彼らが極力協力し合っていた節もうかがえる。 秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の[[田中隆吉]]や、実際に日米衝突を推進していた[[服部卓四郎]]や[[有末精三]]、[[石川信吾]]といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであったという<ref>秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』|pages={{要ページ番号|date=2022年12月}}</ref>。 ==== 判決 ==== {{See also|A級戦犯|BC級戦犯}} [[極東国際軍事裁判]](東京裁判)の判決は、[[1948年]](昭和23年)[[11月4日]]に言い渡しが始まり、[[11月12日]]に終了した。7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。東條は[[平和に対する罪]]および通例の戦争法規違反(訴因54)で有罪となり、死刑([[絞首刑]])の判決を受けた。この判決について、東條をはじめ[[南京事件]]を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]で死刑を宣告された7被告は全員が[[BC級戦犯|BC級戦争犯罪]]でも有罪となっていたのが特徴であった。これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの主張がある<ref>「東京裁判における日本の東南アジア占領問題」梶居佳広(立命館法学2012.)P.223[https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/12-56/kajii.pdf]</ref>。しかし、例えば判決では東條が泰緬鉄道建設に「働かざる者、食うべからず」と指示して捕虜らを建設に駆り出し、彼らの状態に影響を与えたことが問題視されており、そもそも英米法系の国では、重い保護責任を有する者が故意・不注意で人を死に至らせた場合、日本のような保護責任者遺棄致死罪ではなく、当時の日本における謀殺が属するものと同じ”murder”と呼ばれる犯罪類型に該当する。そのため、この当時の英国及び多くの大英帝国自治領では本来それだけで死刑判決の対象とされていた。<!--どのような態度で判決を受けたか、よい出典があれば加筆を--> なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている<ref>『20世紀全記録 クロニック』[[小松左京]]、[[堺屋太一]]、[[立花隆]]企画委員。[[講談社]]、1987年9月21日、p708。</ref>。 ==== 巣鴨での信仰 ==== 死刑判決当時、巣鴨拘置所では[[教誨師]]として[[花山信勝]]が付いていた。 処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。 {{quotation |「''さらばなり 有為の奥山 けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき''」 :「''明日よりは たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む''」 :「''日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に彌陀の 光かがやく''」''}} ==== 死刑執行 ==== 1948年(昭和23年)[[12月23日]]午前0時1分、[[巣鴨拘置所]]内で、[[絞首刑|死刑]]が執行された。{{没年齢|1884|7|30|1948|12|23}}。 [[辞世|辞世の句]]は4首であり、 {{quotation |「''我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば''」 「''さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき''」 「''散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは''」 「''今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ''」''}} と記した。 === 死後 === ==== 遺骨と墓 ==== 絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、後に公表された米国公文書によれば、いったん[[川崎市]]の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、[[横浜市]]西区久保町の[[久保山火葬場]]に到着し、[[火葬]]された遺骨は粉砕され、骨の小さなカケラも残さないようにかき集め、横浜に臨時に設けられていた飛行場から飛び立った飛行機によって遺灰と共に[[太平洋]]沖合50kmあたりで広くまき散らすように投棄されたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=oZD1kbOyuTc |title=東条英機らA級戦犯の遺骨を「太平洋にまいた」公文書見つかる |access-date=2022-12-14 |publisher=TBS |website=TBSNEWSDIG}}</ref>。これは東條らA級戦犯が英雄や受難者として崇拝される可能性を永久に排除すべきであるというのが理由であった<ref group="注釈">2023年8月14日までに理由が記載されたアメリカ軍公文書がアメリカ国立公文書館にて発見されている</ref><ref>『北日本新聞』2023年8月15日付23面『A級戦犯崇拝阻止へ散骨 米軍 東条元首相ら 秘密裏に 決定過程 公文書で判明』より。</ref>。 一方で、[[小磯國昭]]の弁護士を務めた三文字正平は東條らの遺骨について一般の戦犯と同じ(遺骨は遺族に渡さないという意味になる)と聞き、遺骨の奪還を計画していた。三文字は久保山火葬場で火葬されるとの情報を掴み、たまたま知り合いであった、その近隣にある[[興禅寺 (横浜市南区)|興禅寺]]住職の[[市川伊雄]]と奪還を共謀した。同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで火葬場に忍び込み残灰置場に捨てられた、7人の分という残りの遺灰と遺骨を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の[[興亜観音]]に運ばれ隠された<ref>{{Cite book|和書|title=秘録 大東亜戦史|publisher=富士書苑|page=301-304|chapter=遺骨物語|volume=東京裁判 篇}}</ref>。先の米国公文書との食い違いについては、遺灰についてはある程度残っていた、監視と廃棄にあたった米国将兵らが慌てていて火葬時に別に放り出していた遺骨をそのままにしてしまった、三文字らが火葬場長を事前に泣きながら説得していたため場長らが(他に火葬はなかったと言っていたが)実は他の無縁者の遺灰をやむをえずわたしたのではないかと諸説ある。 [[1958年]](昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、[[1960年]](昭和35年)8月には、愛知県旧[[幡豆郡]][[幡豆町]](現[[西尾市]])の[[三ヶ根山]]の山頂に改葬された。同地には現在、[[殉国七士廟]]が造営され、遺骨が祀られている<ref>猪瀬直樹著『日本人はなぜ戦争をしたか』(小学館)173-174頁</ref>。 [[画像:東條英機の墓.jpg|thumb|right|250px|雑司ヶ谷霊園にある東條英機の墓]] 墓は[[雑司ヶ谷霊園]]にある。 ==== 合祀 ==== 東條英機は自らが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して[[靖国神社]][[合祀]]のための上申を、「戦死者または戦傷死者など[[戦役]]勤務に直接起因して死亡した者に限る」という通達を出していた{{refnest|「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」1944年7月15日付、「陸密第三〇〇四号 靖国神社合祀者の調査詮衡及上申名簿等の調製進達上の注意」1944年7月19日付<ref group="注釈">いずれも「陸軍大臣東條英機」名で出されたもの。</ref>}}が、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判の戦犯14名の合祀は、[[1966年]](昭和41年)、旧[[厚生省]](現[[厚生労働省]])が「祭神名票」を靖国神社側に送り、[[1970年]](昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は[[1978年]](昭和53年)にこれらを合祀した<ref group="注釈">靖国神社には一般的に、どの戦死者の遺骨も納められていない。[[神社]]は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため[[戦争]]・[[事変]]で命を落とした戦没者、およびその他の公務[[殉職]]者の霊を[[祭神]]として祀っている。</ref>。 == 政治手法 == === 戦争指導者としての東條 === [[画像:Tojo2.jpg|thumb|220px|東條英機]] 大戦中、戦後を通じて東條は、日本の代表的な戦争指導者と見なされることが多く、[[第二次世界大戦]]時の日本を代表する人物とされている。一方で戦史家の[[A・J・P・テイラー]]は、大戦時の戦争指導者を扱った記述の中で、[[アメリカ合衆国]]、[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]についてはそれぞれの指導者([[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、[[アドルフ・ヒトラー]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]、[[ヨシフ・スターリン]])を挙げているものの、日本については「戦争指導者不明」としている{{sfn|戸部良一|2002|pp=60}}。これは、総理大臣・陸相・参謀総長を兼任し、立場上は大きな指導力を発揮できるはずの東條の権力が、他の戦争指導者と同列に扱えないとテイラーが判断したことによるものである{{sfn|戸部良一|2002|pp=60}}。 しかしこの書籍の表紙には、他国の戦争指導者とともに東條の肖像が描かれており、第二次世界大戦時の日本の指導者を1人に絞る場合には、やはり東條の名前が挙がることになる{{sfn|戸部良一|2002|pp=60}}。 東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」などの政府案を支持していたが、「敵の死命を制する手段が無く」、長期戦となる確率は80パーセントぐらいであろうと考えていた{{sfn|戸部良一|2002|pp=65-66}}。また短期で勝利できる可能性は、アメリカ主力艦隊の撃滅、ドイツの対米宣戦やイギリス本土上陸によるアメリカの戦意喪失、通商破壊戦によってイギリスを追い込むことしかないと考えていた{{sfn|戸部良一|2002|pp=66}}。[[真珠湾攻撃]]でアメリカの主力艦隊は大きなダメージを負い、東條はこれを構想以上のものと考えた。東條は西アジア方面に主力を派遣し、イギリスの離脱を促進するよう望んでいたが、海軍は太平洋方面への進出を望んだ{{sfn|戸部良一|2002|pp=66}}。この際に東條は陸海軍の調停を積極的に行うこともせず、玉虫色の合意が形成されるに終わった{{sfn|戸部良一|2002|pp=67}}。これは東條が、陸海軍の摩擦や衝突を回避しようと考えていたことによる。 東條は、1942年(昭和17年)には軍務局長・佐藤賢了に対し、陸海軍の間でもめ事が起こった場合には、大臣にまで上げず、局長クラスで解決するようにという指示を与えている。これは陸海軍間の争いとなった場合には首相が調停を行わなければならないが、陸相を兼任している以上それが不可能であるというものであった{{sfn|戸部良一|2002|pp=63}}。東條の権力は陸海軍間の問題に関与できるほど大きなものではなく、この点でも主要国の戦争指導者と異なっている{{sfn|戸部良一|2002|pp=63}}。また陸軍に対する権力も大きなものではなく、統帥部がガダルカナル戦の継続を行おうとした時も、軍事物資の輸送を押さえて牽制することしかできなかった{{sfn|戸部良一|2002|pp=63-64}}。[[井本熊男]]は、東條が「統帥権独立のもとでは戦争はできぬ」とこぼすのをよく聞いたという{{sfn|戸部良一|2002|pp=64}}。1944年(昭和19年)2月にはそれを打開するために参謀総長に就任するが、この際にも首相や陸相が兼任するのではなく、東條という人格が参謀総長になる「二位一体」だという説明を行っている{{sfn|戸部良一|2002|pp=64}}。その後も東條は、あくまで参謀総長と陸相、首相としての立場をそれぞれ使い続け、相互の対立や摩擦を防ぐことに力を注いだ{{sfn|戸部良一|2002|pp=65}}。佐藤賢了は「東條さんは決して独裁者でもなく、その素質もそなえていない。」と評している{{sfn|戸部良一|2002|pp=72}}。 東條は会議で戦争の行く末に関してしばしば示唆や疑問を投げかけたものの、具体的なビジョンや指針を示すことはなく、代替案を提示することもなかった{{sfn|戸部良一|2002|pp=68}}。[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]は「東條は、当面の最大の課題として、戦争に勝たなければならないことを繰り返し強調するが、それが具体的にどのような形をとるものかというイメージは全く語っていない」と指摘している{{sfn|戸部良一|2002|pp=73}}。 また敗北を認めるような発言を行うことは非常に希であった。[[インパール作戦]]が失敗に終わりつつあった1944年(昭和19年)5月の時点でも、作戦継続困難を報告した参謀次長・[[秦彦三郎]]に対し「戦は最後までやってみなければ分からぬ。そんな弱気でどうするか」と叱責している{{sfn|戸部良一|2002|pp=71}}。しかし東條にとってこれは真意ではなく、秦と二人きりになった時には、「困ったことになった」と頭を抱えて困惑していたという{{sfn|戸部良一|2002|pp=71}}。1945年(昭和20年)2月、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に、東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した侍従長・[[藤田尚徳]]は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している<ref>『現代史の争点』229頁 秦郁彦 文春文庫</ref>。 === 軍事責任者としての東條 === [[渡部昇一]]によれば、「政治家としての評価は低い東條も、軍事官僚としては抜群であった」という。「強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく[[軍法会議]]にかけた」という。ただし、場合によっては暴虐ともとれる判断であっても、厳しく処罰していない事例もある。例えば、[[陽高県|陽高]]に突入した兵団は、ゲリラ兵が多く混ざっていると思える集団と対峙して強硬な抵抗に遭い、実際にかなりの死傷者が出た。ところが、日本軍が占領してみると降伏兵は全くいなかった。その際、日本軍は、場内の住民の男性をすべて狩り出し、戦闘に参加したか否かを取り調べもせずに全員縛り上げたうえ処刑してしまった。その数350人ともいわれる<ref>『野砲四連隊史』</ref>。しかし、この事件に対して東條は誰も処分していない。この事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは、「連合国側の証人として出廷し、東條らを追い詰めた[[田中隆吉]]が参謀長として参戦していたからだろう」と[[秦郁彦]]は推察している。 === 民政に対する態度 === <!--ここから井上寿一『日中戦争下の日本』が出典になります-->「モラルの低下」が戦争指導に悪影響を及ぼすことを憲兵隊司令官であった東條はよく理解しており、首相就任後も民心把握に人一倍努めていたと井上寿一は述べている。飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、米配給所で応急米をもらって老婆が礼を言っているのに対し、事務員が何も言おうとしていなかったことを目撃し、「君も婆さんに礼を言いなさい」といった逸話が伝えられている<ref>井上寿一『日中戦争下の日本』 P171-172</ref>。 ==== 国民への配慮 ==== 旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの[[魚]]の骨や[[野菜]]の芯が捨てられているか自ら確かめようとした。東條はのちに「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上(=[[昭和天皇]])におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と秘書官らに語ったという<ref>『東條秘書官機密日誌』34-35ページ</ref><ref>『黎明の世紀』28頁</ref>。 === 言論統制に関して擁護者からの主張 === [[中外商業新報社]](後の[[日本経済新聞]])の編集局長を務めていた[[小汀利得]]は戦前の言論統制について、不愉快なものであったが東條自身は世間でいうほど悪い人間では無く、東條同席の座談会でも新聞社を敵に回すべきではないというような態度が窺えたという。また小汀自身に対して東條は、言論界の雄に対しては、つまらぬことでうるさく言うなと部下に対する念押しまであったと聞いたと述べている。実際に小汀が東條政権時代に記事に関するクレームで憲兵隊に呼び出された時も、小汀が東條の名前を出すと憲兵はクレームを引っ込めたという一幕も紹介している<ref>『私の履歴書 反骨の言論人』2007年10月1日 P277</ref>。 === 懲罰召集や敵対者迫害との批判 === 東條は「一度不信感を持った人間に対しては容赦なくサディズムの権化と化してしまう、特異な性格」<ref>太田、39p</ref>であり、'''政治的に敵対した者を、職権を乱用して迫害した'''という批判が多い。 ==== 敵対者を懲罰召集 ==== ===== 新名丈夫(新聞記者)を懲罰召集 ===== {{Main|竹槍事件}} [[竹槍事件]]<ref>毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい海軍側の証言『証言 私の昭和史』学芸書林、陸軍側の証言『現代史の争点』文藝春秋 </ref>では[[新名丈夫]]記者(当時37歳)を[[二等兵]]として召集し[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]へ送ろうとしたとされる。新名が1944年(昭和19年)2月23日[[毎日新聞]]朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ。海軍飛行機だ」と海軍を支持する記事を書いたためであった。当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っており、新名は海軍の肩を持つ記事を書いたために陸軍の反感を買っていた。なお新名は[[大日本帝国海軍|海軍]]の働きかけによって戦地への動員は免れ、3か月後に召集解除となった。 ===== 松前重義(逓信省工務局長)を懲罰召集 ===== また、[[勅任官]]たる[[逓信省]]工務局長・[[松前重義]]を42歳の高齢にもかかわらず(徴召集の年限上限は40歳であったが、昭和18年11月1日法律第110号で改正された[[兵役法]]で、上限が45歳に引き上げられた。この改正にあたっての審議日数はわずか三日であった<ref>[https://hourei.ndl.go.jp/#/detail?billId=008312010 兵役法中改正法律 - 会議録一覧 | 日本法令索引]</ref>)[[二等兵]]として召集し、南方に送った<ref>太田、221p</ref>。松前が、技術者を集めて日米の生産力に圧倒的な差があることを綿密に調査し、この結果を軍令部や近衛らに広めて東條退陣を期したためであったとされる<!--電柱かつぎに使役された←要出典-->。このことについて、[[高松宮宣仁親王]]は日記のなかで「実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である」と述べている<ref>『高松宮日記 第7巻』522頁 1944年(昭和19年)7月補記欄 中央公論社</ref>。また、[[細川護貞]]は『細川日記』1944年(昭和19年)10月1日において「初め星野書記官長は電気局長に向ひ、松前を辞めさせる方法なきやと云ひたるも、局長は是なしと答へたるを以て遂に召集したるなりと。海軍の計算によれば、斯の如く一東条の私怨を晴らさんが為、無理なる召集をしたる者七十二人に及べりと。正に神聖なる応召は、文字通り東条の私怨を晴らさんが為の道具となりたり」と批判している。 なお、高松宮と細川は東條内閣倒閣工作に深く関与していた反東條派であり、東條の政敵である。倒閣工作に協力していた松前は、彼らから見れば「身内」であった。結局、松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省が取り消しを要請したものの、陸軍次官・[[富永恭次]]は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった<ref>秦郁彦『現代史の争点』文春文庫243頁</ref>。松前は10月12日に無事に[[マニラ]]に着いたが、松前と同時期に召集された老兵数百人は[[バシー海峡]]に沈んだ<ref name="nukata"/><ref>『二等兵記』東海大学出版</ref>。ただし松前の召集日は東條内閣倒閣と同日である。また、富永は東條内閣崩壊後の7月28日には早くも人事局長を辞任させられ、8月30日には第四航空軍司令官に転出させられるという状況であり、上記のエピソードは時系列的に疑問があるが、東條内閣が崩壊し、東條派が失脚していく中でも、懲罰召集の犠牲者となった松前に対する召集解除は行われなかった。{{main|松前重義#来歴・人物|寺内寿一#逸話}} ===== 都留重人(経済学者)を懲罰召集 ===== 経済学者の[[都留重人]]は、海軍省調査課の対米研究会のメンバーであったが、1944年(昭和19年)6月に懲罰召集された<ref name=":2" />。1912年(明治45年)3月6日生まれの都留は、召集の時点で32歳であった。なお、都留は約3か月後に召集解除された<ref name=":2" />。 ===== 中野正剛(政治家)への迫害、担当検事を懲罰召集 ===== 1943年(昭和18年)10月21日、警視庁特高課は東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員・[[中野正剛]]を東方同志会([[東方会]]が改称)ほか右翼団体の会員百数十名とともに「戦時刑事特別法違反」の容疑で検挙した<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79頁</ref>。この検挙の理由を巡っては、中野が昭和18年元日の[[朝日新聞]]に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある<ref group="注釈">ただしこの時、特高警察を指揮する内務大臣は[[安藤紀三郎]]。</ref>。中野は26日夜に釈放された後、まだ憲兵隊の監視下にある中、自宅で[[中野正剛事件|自決]]する。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに造言蜚語の事実を認めさせられたので、それを恥じて自決したものと推測している<ref>『日本憲兵正史』p.716下</ref>{{refnest|group="注釈"|本来の取り調べは警視庁の担当で、陸軍の憲兵隊ではない。東郷は中野を26日からの第83回帝国議会に登院できないよう拘束しておくことを望んだが、検事総長と警視総監は拘束しておくだけの罪状はないとしたため、憲兵隊長が中野の身柄を引き取って流言飛語の「自白」を引き出させたのである<ref>保阪正康『東條英機と天皇の時代 下』79-80頁</ref>。}}。また、戦後のラジオ番組『真相はかうだ』は、中野は東條暗殺計画のいずれかに関与しており、その発覚により東條側から自決を強要され、そうしなければ殺すだけだと脅されて、従うしかなかったとの推理を披歴している<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042022 |title=真相はかうだ. 第1輯 |access-date=2022-12-14 |publisher=国立国会図書館 |website=国立国会図書館デジタルコレクション |page=8コマ(原本p.4)}}</ref>。{{main|中野正剛#東條英機への反発|中野正剛事件#概要}} また、中野の取り調べを担当し嫌疑不十分で釈放した43歳の検事局思想部長{{Efn|明治憲法下の司法制度では、各級裁判所(大審院、控訴院、地方裁判所、区裁判所)に「検事局」が付設されていた<ref>{{Cite web|和書|title=司法官採用に関する戦前の制度|url=https://www.yamanaka-law.jp/cont7/121.html|website=弁護士山中理司(大阪弁護士会所属)のHP|accessdate=2022-01-01|language=ja}}</ref>。}}である[[中村登音夫]]に対し、その報復として召集令状が届いた<ref>秦郁彦『現代史の争点』210頁文藝春秋</ref><ref name=":2">{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置No. 802 - 834、東条英機-国政、軍政、統帥の頂点に立つ:懲罰召集の恐怖}}</ref><ref group="注釈">大日本帝国憲法第53条で定められた[[不逮捕特権]]を持つ国会議員たる中野は現行犯および内乱外患に関わる罪のいずれでもなかったため、そもそも拘留されること自体が法に反していた。</ref>。 ===== 現職の衆議院議員を懲罰召集 ===== 政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した[[福家俊一]]、[[有馬英治]]、[[浜田尚友]]の3名が現役の衆議院議員でありながら召集されたことに対して、東條が懲罰召集したとする主張がある<ref name="纐纈">[[纐纈厚]]『憲兵政治』p.97, 新日本出版社、2008年、ISBN 9784406051170</ref><ref name="summer">[[吉松安弘]]『東條英機 暗殺の夏』</ref>。 <!--miyaによるコメントアウト {{要検証範囲|この改正案そのものには東條自身乗り気ではなく、提出を強行して議会を混乱させたと責任を取らせるために[[湯沢三千男|湯澤三千男]]内務大臣を更迭している。}}--><!--ノンフィクションものとはいえ小説しか出典の無い記述をコメントアウト {{要検証範囲|[[木戸幸一]]内大臣の甥の[[都留重人]]海軍省調査員に圧力をかけ、海軍省を解雇させた上で召集し、木戸への圧力に利用した。木戸は、東條秘書官の赤松に最前線送りだけはしないように懇願した<ref name="summer"/>。}}--><!--ノンフィクション小説一つでは出典として不十分--> ==== 懲罰としての最前線送り ==== ===== 塚本清彦少佐を最前線送り ===== 東條の不興を買って最前線送りになった将校は多々おり、たとえば陸軍省整備局戦備課課員の[[塚本清彦 (軍人)|塚本清彦]]少佐(陸士43期・陸大52期<ref name="塚本清彦">{{Harvnb|秦|2005|p=103|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-塚本清彦}}</ref>)は、戦局に関して東條に直言したことにより、1944年(昭和19年)6月13日付で[[第31軍 (日本軍)|第31軍]]参謀に転出させられ(第31軍司令部は在[[サイパン島]]。[[サイパンの戦い]]は既に始まっていた。)、1か月後に[[グアム|グアム島]]で玉砕した<ref name="半藤2013東条英機" />{{Efn|秦郁彦 編著 『日本陸海軍総合事典』(第2版、東京大学出版会、2005年)によると、塚本清彦少佐(陸士36期・陸大52期)は、昭和16年3月に陸軍省整備局課員(戦備課)、昭和19年6月13日付で第31軍参謀、同年7月17日付で独立混成第48旅団参謀、同年9月30日(または同年7月24日)にグアム島で戦死<ref name="塚本清彦" />。}}。この苛烈な処分は陸軍部内を震撼させた<ref name="半藤2013東条英機" />。{{see also|グアムの戦い (1944年)#日本軍の壊滅と掃討戦|第31軍 (日本軍)#軍概要}} ==== 敵対者を予備役編入 ==== ===== 西尾寿造大将を予備役編入 ===== {{See Also|#ゴミ箱あさり}} [[西尾寿造]]大将(陸士14期)は[[1941年]](昭和16年)3月から[[軍事参議院|軍事参議官]]を務めていたが、新聞記者から取材を受けた際に :「そんなことは、朝早く起きて、街の塵箱をあさっているやつにでも聞け」<ref name=":10" /> と、「ゴミ箱あさり」の挿話を持つ東條を揶揄する返答をした<ref name=":10">{{Harvnb|半藤|2013b|loc=位置No.3178-3248、第4章 盧溝橋事件から支那事変へ:西尾寿造 - 初代支那派遣軍総司令官}}</ref>。西尾の発言を知った東條は激怒し、[[1943年]](昭和18年)5月に西尾を予備役に編入した<ref name=":10" />。 ===== 多田駿大将を予備役編入 ===== [[支那事変]]時の[[参謀本部 (日本)#参謀本部(明治22年-昭和20年)|参謀次長]]だった[[多田駿]](陸士15期)は石原莞爾と同様に戦争不拡大派であり、中国との和平を模索していたが、拡大賛成派の東條([[事務次官等の一覧#陸軍次官|陸軍次官]]であった)と対立した。多田と東條は共に職を解かれたが、東條が後に台頭していくと多田は次第に追いやられていき、予備役に追われた。{{Main|多田駿#東條英機との対立と参謀次長退任|板垣征四郎#支那事変以降}} ===== 石原莞爾中将を予備役編入 ===== [[石原莞爾]](陸士21期)は、鋭く対立していた東條によって閑職に追われ、さらに予備役に追いやられたとされる<ref>{{Cite web|和書|title=開戦2日前、東條はなぜ寝室で号泣したのか…「昭和の怪物 七つの謎」(週刊現代)|url=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57209|website=|accessdate=2021-12-31|language=ja|publisher=[[講談社]]|archivedate=2021-1-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123030151/https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57209?page=3}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「満州事変」石原莞爾は悲劇の将軍か|url=https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3535812014092018000000?page=4|website=日経BizGate|accessdate=2022-01-04|language=ja|last=|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2018-9-18|archiveurl=https://megalodon.jp/2022-0104-1754-07/https://bizgate.nikkei.co.jp:443/article/DGXMZO3535812014092018000000?page=4|archivedate=2022-1-4}}</ref><ref>{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置No. 693 - 744、東条英機-国政、軍政、統帥の頂点に立つ:「戦陣訓」の全軍示達}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「オレを戦犯にしろ」 終戦後「東久邇宮内閣」を生んだ「石原莞爾」最期の日々|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08220556/|website=デイリー新潮|accessdate=2022-01-06|language=ja|publisher=[[新潮社]]|author=早瀬利之(石原莞爾研究家)|archiveurl=https://megalodon.jp/2022-0106-1736-05/https://www.dailyshincho.jp:443/article/2021/08220556/?all=1|date=2021-8-22|archivedate=2022-1-6}}</ref>。 当時の陸軍次官であった[[阿南惟幾]]中将(陸士18期)は、石原の非凡な才を高く評価してきたこともあって{{Sfn|角田房子|1980|p=Kindle729}}、日ごろの温厚な態度から一変して顔を真っ赤にしながら「石原将軍を予備役というのは、陸軍自体の損失です。あのような有能な人を予備役に追い込めば、徒に摩擦が起きるだけではありませんか」と東條に反論し、他の将校が見ている前で激しい議論を繰り広げている{{Sfn|保阪正康|2005|p=226}}。阿南は[[皇族]]で陸軍大将の[[東久邇宮稔彦王]]にまで頼って、この東條の恣意的な人事を撤回させようとしたがかなわず、1941年3月に石原は師団長を更迭されて予備役に編入された{{Sfn|保阪正康|2005|p=226}}。阿南はこの事件で東條に愛想を尽かして、1941年4月の異動で、陸軍次官在任期間が長くなったからと適当な理由をつけて、陸軍次官を辞して[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]司令官として中支戦線へ赴いていった。東條は、阿南の後任の陸軍次官には[[木村兵太郎]]中将を、人事局長に[[冨永恭次]]少将、[[陸軍省#兵務局|兵務局長]]に[[田中隆吉]]少将を任命するなど、陸軍中央は東條の息のかかった人物が主要ポストを占めることとなった{{Sfn|保阪正康|2005|p=228}}。阿南は陸軍中央を離れてからも東條の人事を批判しており、「俺は東条大将とちがって、誰でも使える」と部下を選り好みする東條との違いを強調していた。阿南の人事統率の方針は「温情で統率する」という温情主義であり{{Sfn|戦史叢書82|1975|p=148}}、部下は能力の如何に関わらず、誰でも使うことができるという自負をもっていた{{Sfn|昭和史の天皇4|2012|p=205}}。{{main|石原莞爾#ふたたび関東軍へ・東條英機との確執|阿南惟幾#陸軍次官就任・東條英機との確執}} 一方で、藤井非三四は、 * 少将で関東軍参謀副長を務めていた石原が、昭和13年(1938年)6月に病気のために参謀副長を辞任すると申し出、人事発令を待たずに勝手に帰国・入院するという暴挙に出たこと。 * 石原が、何の処分も受けずに、昭和13年12月に[[舞鶴要塞]]司令官に補任されたこと。 を指摘し<ref name="調整弁となる要塞司令官">{{Harvnb|藤井|2015|pp=193-197|loc=内地にあった司令官:調整弁となる要塞司令官}}</ref>、 :「それでも東条は石原の豊かな才能を基本的に認めていた。和解の手を差し伸べたが石原が応じなかったのだろう」<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=戦略の天才・石原莞爾を「超二流」で挫折させた陸軍人事|生かす人材|url=https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO7576784015092021000000?page=2|website=日経BizGate|accessdate=2022-1-4|language=ja|last=|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2021-9-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211029011121/https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO7576784015092021000000?page=2|archivedate=2021-10-29}}</ref> :「よく、この人事〔石原の、舞鶴要塞司令官への補任〕は石原莞爾を閑職に追いやった非情なものと語られるが、それは間違いで、これは[[板垣征四郎]]陸相の友情あふれる温情人事だった。勝手に帰国したことのほとぼりが冷めるまで舞鶴におき、中将、師団長への道を開いてやったのだ。事実、翌〔昭和〕14年8月に石原は京都の[[第16師団 (日本軍)|第16師団長]]に上番している。」<ref name="調整弁となる要塞司令官" /> と述べ、「石原は、鋭く対立していた東條によって、舞鶴要塞司令官と言う閑職に追われた」という説を否定している。 なお、藤井は「石原の、昭和16年(1941年)3月の予備役編入」については「見解を保留する」という旨を述べている<ref name="調整弁となる要塞司令官" />。{{see also|石原莞爾#予備役編入|舞鶴要塞#歴代司令官}} ===== 平林盛人中将を予備役編入 ===== [[第17師団 (日本軍)|第17師団長]]だった[[平林盛人]]中将(陸士21期)は、太平洋戦争初期に進駐していた[[中華民国]][[徐州市|徐州]]で将校らを前に米英との開戦に踏み切ったことを徹底批判する演説を行った。その中で平林は東條を「陸軍大臣、総理大臣の器ではない」と厳しく指弾した。なお、平林は石原莞爾と[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]の同期で親しく、東條と馬が合わなかったという。平林もまた、後に師団長の任を解かれて予備役に編入された<ref>中日新聞2009年12月7日 朝刊「陸軍中将が太平洋戦争を批判 平林師団長、将校40人の前で演説」</ref>。{{Main|平林盛人#太平洋戦争開戦・東條英機への批判|石原莞爾#評論・政治活動}} <!--出典が明確でないためコメントアウト{{要出典範囲|陸士1期後輩の[[独立混成第1旅団]]長[[酒井鎬次]]は戦車用兵でしばしば東條と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした。東條が力をつけると酒井は閑職に左遷され、1940年(昭和15年)には予備役に編入された。ただし酒井が予備役に編入されたのは1月であり、当時の東條は航空総監でしかなかった。東條が陸軍次官を兼任するのは同年2月で、陸相に就任するのは7月である。}}--> ==== 前田利為大将の陣没を巡る紛議 ==== 旧[[加賀藩|加賀藩主]]・[[前田氏|前田家]]当主([[侯爵]])で、東條とは陸士17期の同期生であった[[前田利為]](陸大23期恩賜。東條より4年早く陸大入校を果たした)は東條と犬猿の仲であった<ref name=":9" />。前田は東條を「頭が悪く、先の見えない男」<ref name=":9" /><ref>『ある華族の昭和史』146頁</ref>と侮蔑し、逆に東條は前田を「世間知らずのお殿様」<ref name=":9" />と揶揄していたという<ref name=":9" />。 前田は、陸軍中将に進級して[[第8師団 (日本軍)|第8師団長]]を務めた後、1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された<ref name=":9">{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置No. 2619 - 2671、前田利為ーボルネオで「陣没」した加賀の殿様}}</ref>{{Efn|[[前田利為]]が予備役となった昭和14年1月の時点で、東條は陸軍人事に直接は関与しない[[陸軍航空総監部|陸軍航空総監]]であり、前田の予備役編入に関与した形跡は特にない。陸軍で人事畑が長かった[[額田坦]](陸軍中将)は「加賀藩前田家当主・侯爵である前田は、その身分を鼻にかけた振る舞いが目立って陸軍部内で評判が悪く、そのために中将で予備役に編入された」という旨を述べている<ref name=":9">{{Harvnb|半藤|2013|loc=位置No. 2619 - 2671、前田利為ーボルネオで「陣没」した加賀の殿様}}</ref>。}}。 1942年(昭和17年)4月に召集されて[[第37軍 (日本軍)|ボルネオ守備軍]]司令官に親補された前田は、[[クチン]]からラプラン島への飛行機での移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から前田の遺品と遺体が見つかった。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令官・[[寺内寿一]]による弔辞では戦死となっていた。しかし、11月20日、[[築地本願寺]]における陸軍葬の後で、東條はボルネオ守備軍参謀長・[[馬奈木敬信]]に対して「今回は戦死と認定することはできない」と告げ、東條の命を受けた富永恭次によって「戦死」ではなく「戦地に於ける公務死」と<!--1944年(昭和19年)4月[[辰巳栄一]]参謀長に通知-->された。 これにより前田家には相続税の納付に向けて全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた<ref>『陸軍大将全覧 昭和編/太平洋戦争期』中公新書クラレ 249-252頁</ref><ref group="注釈">[[前田利為]]の戦死後に、同様の状況で死亡と認定された[[古賀峯一]]は「戦地での公務死」であるにもかかわらず「殉職」とされた。</ref>。なお、前田の葬儀では東條が自ら弔辞を読んだが、陸士からの長い付き合いに触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣したという。 ==== 尾崎行雄(政治家)への迫害 ==== [[尾崎行雄]]は天皇への[[不敬罪]]として逮捕された([[尾崎不敬事件]])。これは1942年(昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、[[評論家]]の[[山本七平]]は著書『昭和天皇の研究』で、これを同年4月に尾崎が発表した『東條首相に与えた質問状』に対しての東條の報復だろうとしている。{{main|尾崎不敬事件#概要|尾崎行雄#政党政治から翼賛政治へ}} == 腹心の部下とされる人物 == *[[鈴木貞一]] *:陸軍中将。[[東條内閣]]の[[企画院総裁]]。 *[[加藤泊治郎]] *:陸軍中将。憲兵司令部本部長など。 *[[四方諒二]] *:陸軍少将。中支那派遣憲兵隊司令官。東京憲兵隊長。 *[[木村兵太郎]] *:陸軍大将。ビルマ方面軍司令官など。 *[[佐藤賢了]] *:陸軍中将。陸軍省軍務局長など。 *[[真田穣一郎]] *:陸軍少将。参謀本部第一部長など。 *[[浜本正勝]] *:陸軍少佐。[[総理秘書官]]付内閣嘱託。総理専属通訳。元・[[ゼネラルモーターズ]][[満州国]]・極東地区支配人。 *[[赤松貞雄]] *:陸軍大佐。内閣秘書官。赤松は東條の陸軍大学校の兵学教官時代の教え子で、陸軍次官時代に引き抜くなど厚遇し、赤松もそれによく応え東條を支えた。回想録『東條秘書官機密日誌』を残している。 *[[田中隆吉]] *:陸軍少将。 *[[富永恭次]] *:陸軍中将。陸軍省人事局長、陸軍次官、[[第4航空軍 (日本軍)|第4航空軍]]司令官など。 === 「三奸四愚」 === 東條の側近には、3人の奸物と4人の愚か者がいたことから、この7人を、侮蔑を込めて「三奸四愚」と総称することがある<ref>『現代史の争点』</ref>。 *三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二 *四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄 [[田中隆吉]]と[[富永恭次]]は、昭和天皇から「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判のよくない且部下の抑へのきかない者を使つた事も、評判を落した原因であらうと思ふ」と名指しされた<ref>昭和天皇独白録103頁</ref>。田中は兵務局長として憲兵政治とも呼ばれた東條の軍政面の影響力を支える軍官僚であったが、後に東条に不満を持ち反東條運動に加担、軍を辞めざるを得なくなった。戦後は連合軍側の証人として東京裁判で太平洋戦争に至る過程や戦時の内幕について証言したことから、東京裁判の被告や旧権力者層を中心に評判が悪かった{{refnest|group="注釈"|ただし田中は1965年(昭和40年)の「文藝春秋」において、東京裁判における自身の証言の真の目的は「天皇をこの裁判に出さずに無罪にし、国体を護持する」ことだったとしている<ref>田中隆吉「かくて天皇は無罪になった」(40.8)『「文藝春秋」にみる昭和史 第二巻』文藝春秋 1988年</ref>。}}。富永は、これも東條の陸軍大学校兵学教官時代の教え子で、東條陸軍大臣時代に[[仏印進駐]]の責任問題で、一旦は軍紀に厳格な東條の不興を買い参謀本部第1部長を更迭されるも<ref>防衛庁防衛研修所戦史室 「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<2> 」朝雲新聞社 1973年、147頁</ref>、1941年4月には陸軍省人事局局長に返り咲いている。1943年3月には陸軍次官も兼任し、東條の補佐に辣腕を振るい、東條の参謀総長就任時には[[杉山元]]元帥の説得などで実績を残す<ref>亀井宏「にっぽんのヒトラー 東條英機 下巻 その等身大の生涯と軍国日本」 潮書房光人社、149頁</ref>。東條が失脚後は最前線のフィリピンで第4航空軍司令官として航空戦を指揮、航空には全くの素人ながら、積極的な作戦指導でアメリカ軍を苦しめ<ref>[[チェスター・ニミッツ|C.W.ニミッツ]] 「ニミッツの太平洋海戦史 」恒文社 1962年、407頁</ref>、富永に批判的であった昭和天皇からも「第4航空軍がよく奮闘しているが、レイテ島の地上の敵を撃滅しなければ勝ったとはいえない。今一息だから十分第一線を激励せよ」その戦いぶりを称賛されている<ref>{{Harvnb|戦史叢書48|1971|p=352}}</ref>。やがて、戦力を消耗すると、第14方面軍参謀長の[[武藤章]]中将の提案などで、戦力立て直しのために[[台湾]]に撤退するも、大本営の承認をとっていなかったため、[[敵前逃亡]]に等しい行為と批判されて、第4航空軍は解体され、富永は予備役行きとなった<ref>[[額田坦]] 『額田坦回想録』(芙蓉書房出版、1999年)、163頁</ref>。この行為は、戦後、書籍・新聞などで明るみに出され、フィリピンに残された兵士らは頽勢の中で各地を転々として苦境にさらされたことから、兵士を見捨てて逃亡したとして、マスコミや国会でも取り上げられた<ref>{{Cite news|和書 |title=部下特攻隊を置去り歸国した富永指揮官 |newspaper=朝日新聞 |date=1955-10-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=102214410X00519550512&current=1 |title=第22回国会 参議院 社会労働委員会 第5号 昭和30年5月12日 |access-date=2023-6-18 |publisher=国会図書館}}</ref>。当時、世間的に評判が悪いのだろうと見ていた者の名を挙げているものの、東條の評判自体との関係性について特段の説明はない。 <!--富永はフィリピンで[[特攻隊|特攻]]指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、自身は[[胃潰瘍]]を理由に[[台湾島]]へ移動して温泉で英気を養うなど、帝国陸軍最低の将官との評価を受けている<ref>『昭和陸軍の研究 下』438 - 439頁 保阪正康 朝日文庫</ref>。富永が特攻を命じたわけでなく、陸軍の特攻開始は海軍と違って実質参謀本部からの組織命令、それに、帝国陸軍史上最低などとするのは保坂の主観で根拠なし、胃潰瘍なども患ったとの事実無く、記述に全く信憑性ないためコメントアウト--><!--木村も[[ビルマ国|ビルマ]]で同様の[[敵前逃亡]]を行ったと言われ、いずれも戦後における評価は低い。}} --> == 評価 == === 批判的な評価 === ==== 政治姿勢に対する批判 ==== 自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、[[逓信省]]工務局長・[[松前重義]]が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行うなどなど、[[陸軍大臣]]を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには[[憲兵]]を恣意的に使っての一種の[[恐怖政治]]を行った(東條の政治手法に反対していた人々は、'''東條幕府'''と呼んで非難した)<ref name="kanji">『秘録・石原莞爾』</ref>。<!--出典が明確でないためコメントアウト {{要出典範囲|政治上層部では東條英機の政治的立場は盤石とは程遠く、上下に批判者も多く、結局戦時中にもかかわらず内閣を潰されてしまうのだが、東條のこの方針は警察行政などでは戦後まで続き、特に庶民間ではナチスの様なヒトラーを頂点とした組織立った言論統制と政治犯の強制収容の社会と同じイメージを持たれ、徴兵制と軍の損耗率の高さ(いわゆる[[赤紙]]につきまとうイメージ)と相まって、現代における戦前日本社会に対する暗く断絶的なイメージに連なっているようである。}}--> 「カミソリ東條」の異名の通り、軍官僚としてはかなり有能であったとされたが、東條と犬猿の仲で後に[[予備役]]に編入させられた[[石原莞爾]]中将は、[[関東軍]]在勤当時上官であった東條を人前でも平気で「東條上等兵」と呼んで[[馬鹿]]にすることしばしばであった。スケールの大きな理論家肌の石原からすると、東條は部下に気を配っているだけの小人物にしか見えなかったようである。戦時中の言論統制下でも、石原は東條について容赦なく馬鹿呼ばわりし、「憲兵隊しかつかえない女々しい男」といって哄笑していた。このため石原には東條の命令で常に内務省や憲兵隊の監視がついたが、石原の度量の大きさにのまれて、逆に教えを乞う刑事や憲兵が多かったという([[青江舜二郎]]『石原莞爾』)。 また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際「あなたと東條は意見や思想上、対立していたようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見・思想がある。しかし、東條には意見・思想が何も無い。意見・思想の無い者と私が対立のしようがないではないか」と答えている。東條と石原を和解させ、石原の戦略的頭脳を戦局打開に生かそうと、[[甘粕正彦]]その他の手引きで、1942年(昭和17年)末、両者の会談が開かれている。しかし会談の冒頭、石原は東條に「君には戦争指導の能力はないから即刻退陣しなさい」といきなり直言、東條が機嫌を悪くして、会談は空振りに終わった。 <!--出典が明確でないためコメントアウト ;{{要出典範囲|「器が小さい」 東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としてはその官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者への弾圧、嫉妬深さ、憲兵を多用した警察国家的な政治手法などに起因するものが多く、「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。}}--> <!--「軍官僚としての実力」としての評価には言えないためコメントアウト 1944年(昭和19年)に退陣する際には秘書の[[赤松貞雄]]が続投の可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような姑息な行動を止めるように命じたと赤松は自ら手記に書き留めている。だが、東條に否定的な秦郁彦によれば、[[岸信介]]に対し憲兵を使って辞表を書くように脅迫したにもかかわらず岸が辞表提出を拒否したために東條内閣は瓦解したのであって、東條は天皇からも見放されていたのを知りつつなおもしがみつこうとしたが、赤松が進言したクーデター構想にはさすがに乗らなかっただけであるとしている。--> ==== その他・国内での批判など ==== [[秦郁彦]]は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。裁判がどう展開したか、私にも見当がつきかねるが、既定法の枠内だけでも、[[刑法 (日本)|刑法]]、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、[[チャハル作戦]]と、その作戦中に起きた[[山西省]][[陽高県|陽高]]における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。 <!--出典が明確でないためコメントアウト {{要出典範囲|このような当時の指導者を裁判にかけるという話は東久邇宮を中心にあったそうだが、昭和天皇や木戸幸一は「[[人民裁判]]になる」として反対していた。}}--> [[司馬遼太郎]]はエッセイ「大正生まれの「故老」」<ref>『[[小説新潮]]』第26巻第4号、1972年4月。[[新潮文庫]] 『歴史と視点』 [[新潮社]] ISBN 978-4101152264 に収められている。</ref>中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。 元海軍軍人で作家の[[阿川弘之]]は、[[東京大学|東京帝国大学]]の卒業式で東條が「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も[[日露戦争]]のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったと自らの書籍で書いている<ref>[[阿川弘之]]『軍艦長門の生涯』</ref>。 [[福田和也]]は東條を「日本的組織で人望を集める典型的人物」(『総理の値打ち』文藝春秋)と評している。善人であり、周囲や部下への優しい気配りを欠かさないが、同時に現場主義の権化のような人物でもあった。首相就任時点ではもはや誰が総理になっても開戦は避けられず、その状況下でも東條が開戦回避に尽力したのは事実であって開戦そのものに彼は責任はないが、開戦後、陸軍の現場主義者としてのマイナス面が出てしまい、外交的和平工作にほとんど関心を示さなかったことについては、東條の致命的な政治的ミスだったとしている。 半藤一利は「昭和の陸軍の持っていたあらゆる矛盾が彼のもとに集約されているような、そんな印象を受けます」と著書内で評している。 [[保阪正康]]は、生前の[[木戸幸一]]に取材し、「なぜ、東條や陸海軍の軍事指導者はあんな戦争を一生懸命やったのか」と書面で質問し、その答えの中に「彼らは[[華族]]になりたかった」とあった。[[満州事変]]の[[関東軍]]の司令官の[[本庄繁]]は[[男爵]]になっている。東條たちは[[爵位]]がほしかった。それが木戸の見方だったと述べている<ref>2018年4月18日中日新聞朝刊「変革の源流」第2部1</ref>。 === 好意的な評価 === ==== 昭和天皇からの信任 ==== 『[[昭和天皇独白録]]』には、下記のように東條を評価する言が多くみられる。 {{quotation|元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。|[[昭和天皇]]。『昭和天皇独白録』より|<ref name="半藤2013東条英機" />}} {{quotation|東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。|[[昭和天皇]]。『昭和天皇独白録』より|<ref name="半藤2013東条英機" />}} {{quotation|東条は[[平沼騏一郎|平沼]]に云はれて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云つて立派に提出したのである。私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない。只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く。|[[昭和天皇]]。『昭和天皇独白録』より|<ref name="半藤2013東条英機" />}} [[原剛 (軍事史家)|原剛]]と[[秦郁彦]]は、[[昭和天皇]]が東條を評価・信頼した理由を下記のように分析している<ref name="半藤2013東条英機">{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 569-1024, 第一章 太平洋戦争への道-東条英機 国政、軍政、統帥の頂点に立つ}}</ref>。 {{quotation|昭和天皇は東条に信頼感を寄せているんです。東条を非常に高く評価しているのは、それまでの大臣とか参謀総長と違って、本当のことをきちんと報告したからでしょう。|[[原剛 (軍事史家)|原剛]]|<ref name="半藤2013東条英機" />}} {{quotation|能吏なんですよ。今の世の中でも、能吏は意外に少ないんです。東条はまさに能吏であり、そこが天皇のお気に召したわけです。|[[秦郁彦]]|<ref name="半藤2013東条英機" />}} 日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、[[首相官邸]]において[[皇居]]の方角に向かって号泣した逸話は有名である。これは近衛内閣の陸相時の開戦派的姿勢と矛盾しているようにみえるが、東條本人は、陸軍の論理よりも天皇の直接意思を絶対優先する忠心の持ち主であり、首相就任時に天皇から戦争回避の意思を直接告げられたことで東條自身が天皇の意思を最優先することを決心、昭和天皇も東條のこの性格をよく知っていたということである。首相に就任する際、あまりの重責に顔面蒼白になったという話もある。『昭和天皇独白録』で語られている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉([[勅語]])を贈られたことからもそれが窺える(ただし、日米開戦日に[[皇居]]の方角に向かって号泣していたことについて、君臣の考えが一致したことに感激して泣いたように語っていたとの主張もある)。 昭和天皇は、東條首相在任時の行動について評価できる点として、首相就任後に、自分の意志を汲んで、戦争回避に全力を尽くしたこと、[[ドーリットル空襲]]の際、乗組員の米兵を捕虜にした時に、軍律裁判よる全員の処刑を主張する参謀本部に反対したこと(昭和天皇独白録「十七年四月米飛行士を処罰した時も、彼の意見で裁判に附する事にしたので、全部死刑にすると云ふのを、東條が反対して一番責任のある三人を銃殺にし、他は勅許により無罪にした。之が彼が参謀本部と妥協した結果であって、実際は、あの飛行機から射撃した場処には、高角砲か高射機関銃があったらしいから、三人の者も責任がなかったものと思ふ」)、サイパン島陥落の際に民間人を玉砕させることに極力反対した点などをあげている。 『昭和天皇独白録』には、昭和前期の多くの政治家・軍人に対し、昭和天皇の厳しい評価が記述されているが(例えば、[[石原莞爾]]、[[広田弘毅]]、[[松岡洋右]]、[[平沼騏一郎]]、[[宇垣一成]]などは昭和天皇に厳しく批判されている)その中で東條への繰り返しの高い評価は異例なものであり、いかに東條が昭和天皇個人からの信頼を強く受けていたかが分かる。東條は、細かく何事も天皇に報告していたと言われ、そのため天皇も東條の忠誠心を極めて信頼するようになっていったことが伺える。 ==== 国内の好意的な評価 ==== ;木戸幸一の評 :「東條って人は非常に陛下の命というと本当に一生懸命になってやるわけでね、その点はある意味ではまた大変強い。東條って人はよくみんなに言われるような主戦論者でもなければ何でもないんだ。極めて事務的な男で政治家でもないんですよ」と語っている<ref>昭和42年、木戸幸一本人へのインタビューにて。</ref>。 ;重光葵の評 :「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」<ref>小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』P192、幻冬舎 2006年6月 ISBN 4344011910</ref>。 ;徳富蘇峰の評 -日露戦争指導層との対比- :[[徳富蘇峰]]は「何故に日本は破れたるか」という考察の一端で、自らも良く知っていた日露戦争当時の日本の上層部とこの戦争時の上層部と比較し「人物の欠乏」を挙げて、「''舞台はむしろ戦争にかけて、十倍も大きくなっていたが、役者はそれに反して、前の役者の十分の一と言いたいが、実は百分の一にも足りない'' 」とした上で、首相を務めた東條、小磯、鈴木について「''彼らは負け相撲であったから、凡有る悪評を受けているが、悪人でもなければ、莫迦でもない。立派な一人前の男である。ただその荷が、仕事に勝ち過ぎたのである。(中略)その荷物は尋常一様の荷物ではなかった。相当の名馬でも、とてもその任に堪えぬ程の、重荷であった。況や当たり前の馬に於てをやだ。''」と評し、東條が日露戦争時の一軍の総帥であったならそれなりの働きをしたであろうに、「''咀嚼ができないほどの、大物''」があてがわれてこれをどうにもできなかったことを「''国家に取ては勿論、当人に取ても、笑止千万の事''」と断じている<ref>徳富蘇峰『終戦後日記IV』25-27頁</ref>。 ;井上寿一の評 :[[井上寿一]]は硬直化した官僚組織をバイパスして、直接、民衆と結びつくことで東條内閣への国民の期待は高まっていったのであり、国民モラルの低下を抑えることができたのは、東條一人だけであったとしている。国民の東條への期待が失望に変わったのはアッツ島の玉砕後あたりからであり、政治エリートの東條批判の高まりも、これらの国民世論の変化によるものであったと分析している<ref>井上寿一『日中戦争下の日本』 P172 ,P186</ref>。 ;来栖三郎の評 -大東亜主義に対する姿勢- :[[来栖三郎 (外交官)|来栖三郎]]は、東條の大東亜主義現実化に関する姿勢は極めて真摯であり、行事の際の文章に「日本は東亜の盟主として云々」という字句があったのに対して、「まだこんなことを言っているのか」といいながら自ら文章を削ったというエピソードを紹介し、東條自身は人を現地に派遣して、理想の実践を督励する熱の入れようだったが、現場の無理解により妨げられ、かえって羊頭狗肉との批判を浴びる結果になってしまったと戦後の回顧で述べている<ref>来栖三郎 『泡沫の三十五年』 2007年3月25日 P174</ref>。 ;山田風太郎の評 :[[山田風太郎]]は戦後の回顧で、当時の日本人は東條をヒトラーのような怪物的な独裁者とは考えていなかった、単なる陸軍大将に過ぎないと思っていたとしている<ref>『戦中派不戦日記』9月17日</ref>。自決未遂直後は東條を痛烈に批判した山田風太郎だが(「[[東條英機自殺未遂事件#反応]]」を参照)、後に社会の東條批判の風潮に対して『戦中派不戦日記』において以下のように述べている。 *東條大将は敵国から怪物的悪漢として誹謗され、日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書き立てるであろう。日本人は東條大将が敗戦日本の犠牲者であることを知りつつ、敵と口を合わせてののしりつつ、涙をのんで犠牲者の地にたつことを強いるのである(9月17日)。 *GHQの東條に対する事実無根の汚職疑惑発表と訂正について、がむしゃらに東條を悪漢にしようという魂胆が透けてみえる(11月12日)。 *敗戦後の日本人の東條に対する反応はヒステリックに過ぎる(11月20日)。 ;西部邁の評 :[[西部邁]](評論家)は2017年の著書で「[[靖国神社|(靖国)神社]]は「[[英霊]]」を祀る場所であり、そして「英(ひい)でた霊」とは「国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊」のことをさす。故東条英機をはじめとする[[A級戦犯]]と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」、「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない<ref>{{Cite book|和書|author=西部邁|year=2017|title=ファシスタたらんとした者|publisher=中央公論新社|pages=368-369}}</ref>」と述べている。 ==== 外国からの好意的な評価 ==== ;レーリンクの評 :東京裁判の判事の一人でオランダの[[ベルト・レーリンク]]は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、また「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」「多数派の判事の判決の要旨を見るにつけ、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱くようになった。これは極秘の話ですが、この判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容です」と東京裁判の有様を批判している。 ;その他 :イギリスのジャーナリストである[[ヘンリー・スコット・ストークス]]は、[[樋口季一郎]]、[[安江仙弘]]らと共に、多くのユダヤ人の人命を救い、[[アドルフ・ヒトラー]](ドイツ)からの再三にわたる抗議に「当然な人道上の配慮」と一蹴した東條の功績は大きいと評している<ref>{{Cite book|和書 |author = ヘンリー・スコット・ストークス |authorlink = ヘンリー・スコット・ストークス |translator = 藤田裕行 |title = 英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄 |date = 2013-12-02 |publisher = 祥伝社 |isbn = 9784396113513 |pages = 200-203 }}</ref>。 == 私生活・逸話 == *[[大川周明]]は東條を評して「下駄なり」と言った<ref name=":4" />。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である<ref name=":4">『敗因を衝く 軍閥専横の實相』田中隆吉 山水社(1946年1月20日)134p</ref>。 *学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった<ref name=":5" />。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する<ref name=":5" />。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった<ref name=":5" />。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格<ref name=":5" />。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという<ref name=":5" />。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった<ref name=":5">保阪正康『東條英機と天皇の時代』ちくま文庫62 - 63頁</ref>。 *[[樋口季一郎#オトポール事件|オトポール事件]]に際し、[[関東軍]]参謀長であった東條は、[[ハルビン市|ハルビン]][[特務機関|特務機関長]]として[[ユダヤ人]]難民を助ける決断を行った[[樋口季一郎]]少将を[[新京]]の関東軍司令部に呼び出して事情を尋ねた<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=【正論】杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹|url=https://www.sankei.com/column/news/170926/clm1709260007-n1.html|website=|date=2017-09-26|accessdate=2019-09-20|language=ja|first=|last=|publisher=[[産経新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190920080814/https://www.sankei.com/column/news/170926/clm1709260007-n1.html|archivedate=2019-9-20}}</ref>。樋口は、[[日露戦争]]に際してユダヤ人が日本を支援したことに[[明治天皇]]が述べた感謝の言葉と、「[[五族協和 (満州国)|五族共和]]」「[[八紘一宇]]」の理念に言及した上で、[[ナチス・ドイツ]](当時、日本とドイツは日独[[防共協定]]を結んでいた)のユダヤ人弾圧政策に日本が追随する理由はない、とユダヤ人に対する人道的対応の正当性を主張した<ref name=":6" />。東條は同意し、樋口の決断を不問とした<ref name=":6" />。関東軍や、独断専行を行う東條にはむしろ批判的であった樋口であるが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」と述べた<ref name=":6" />。 *陸軍大臣に就任した後に、[[東京都|東京]]・[[世田谷区]][[用賀]]に「私邸」(建坪は30坪。配給の資材を用いた)を建てた<ref name="半藤2013東条英機" />。東條は昭和19年7月に首相・陸相・参謀総長などの公職を全て退き、7月22日付で予備役に編入された<ref name=":0">{{Harvnb|秦|2005|p=108|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英機}} </ref>。その後、東條内閣の閣僚だった[[内田信也]]が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている<ref name="半藤2013東条英機" />。 {{quotation|先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・[[佐賀藩]]主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました。|[[内田信也]]。〔〕内は引用者が挿入|<ref name="半藤2013東条英機" />}} *首相秘書官を務めていた[[鹿岡円平]]が、[[重巡洋艦]]「[[那智 (重巡洋艦)|那智]]」艦長として[[マニラ湾]]で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい<ref>太田、68p</ref>。 *[[1941年]](昭和16年)ごろに知人から[[シャム (ネコ)|シャム猫]]を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた<ref>[[平岩米吉]]『猫の歴史と奇話』</ref>。 *日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ[[日系アメリカ人|日系]][[二世 (日系人)|2世]]に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち[[武士道]]なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた<ref group="注釈">映画「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」より。なお、松岡洋右も日米開戦前に行ったハワイでの講演会において、同様の発言をしている。</ref>。 *部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を[[秘書]]の手も借りずに自ら行っていた<ref>[[秘書官]][[赤松貞雄]]の回想『東條秘書官機密日誌』39頁</ref>{{sfn|戸部良一|2002|pp=73}}。 *精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例を挙げれば、[[コレヒドール島]]での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている<ref>広橋・伊藤・片島『東條内閣総理大臣機密記録』492頁</ref>。陸軍飛行学校を訪れた時、東條はそこの訓練生にこんな質問をした。「敵の飛行機は何によって墜とすか。」訓練生が機関銃や高角砲で墜とします、と答えると「銃によって墜とすと考えるのは、邪道である。どこまでも、魂によって敵にぶつかっていかなければ、敵機を墜とすことはできぬ。この気迫があってはじめて機関銃によって撃墜できる。」と訓示した。これを、小谷賢(日本大学教授)は、論理的合理性を外れて精神的なところを重視している、と指摘している<ref>NHK、歴史秘話ヒストリア 「特攻 なぜ若者は飛び立ったのか」2019年12月11日、33分 (原出典は『東條内閣総理大臣機密記録』)</ref>。 *1943年2月1日の衆議院予算委員会では、資源不足に対する対策として、2+3を5にするのではなく、10でも20でも80にもする必要があると発言し、「2+3=80」「1+4=80」の「決戦算術」と報じられた<ref>「2+3=80 これが勝ち抜く増産だ 東條さんの増産算術」1943年2月2日付『[[朝日新聞]]』大阪版朝刊3面</ref><ref>「1+4=80 これが勝ち抜く増産だ 大聲一番・東條さんの名答」1943年2月2日付『朝日新聞』東京版朝刊3面</ref>。[[松下電器産業]]はこの発言を元に、「東條首相の算術 2+2=80」という東條の顔写真入りのポスターを作製した。 *何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられぬ」と答えた<ref name=":1" />。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、「あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか」と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった<ref name=":1" />。それゆえに総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた<ref name=":1">[[小室直樹]]『『大東亜戦争、こうすれば勝てた』138頁</ref>。 *東條はドイツ留学時、軍馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた<ref name=":3" />。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もう今日限りで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した<ref name=":3" />。理由は「今日の競馬の最中、一頭の馬が躓き転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛を与えぬために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度と再び、競馬には行かぬ。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった<ref name=":3">[[篠原正瑛]]『ドイツにヒトラーがいたとき』121-122頁</ref>。 * 処刑前日の夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムといった“和洋折衷”のメニューで、東條は「一杯やりたい」などと笑っていたという<ref>週刊ポスト2017年12月1日号</ref>。 == 遺言 == {{main|東條英機の遺言}} 東條の遺書といわれるものは複数存在する。一つは1945年(昭和20年)9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである(逮捕直前に書かれたとされる遺書は偽書の疑いがある)。 ;家族に宛てたもの :日本側代表団が連合国に対する降伏文書に調印した翌日の1945年(昭和20年)9月3日に長男へ向けて書かれたものがある。東條の直筆の遺言はこれの他、妻勝子や次男など親族に宛てたものが複数存在する。 ;処刑を前にした時のもの :処刑前に東條が書き花山教誨師に対して口頭で伝えたものがある。書かれた時期は判決を受けた1948年(昭和23年)11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。また東條が花山教誨師に読み上げたものに近い長文の遺書が東條英機の遺書として[[世紀の遺書]]に収録されている<ref>『世紀の遺書』巣鴨の章</ref>。 ;逮捕前に書かれたとされるもの(偽書の疑いあり) :1945年(昭和20年)9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる遺書が、[[1952年]](昭和27年)の[[中央公論]]5月号に[[UPI通信社|UP通信]]のE・ホーブライト記者<!-- http://opac.ndl.go.jp/ 雑誌記事検索で「〜1969年」にチェックして、「東條英機の未発表遺書」「中央公論」「1952年5月」で検索-->記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されている。この遺書は、東京裁判で鈴木貞一の補佐弁護人を務めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。[[保阪正康]]は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐2人について本人にも直接取材し、この遺書が東條のものではなく、東條が雑談で話したものをまとめ、米国の日本がまた戦前のような国家になるという危惧を「東條」の名を使うことで強めようとしたものではないかと疑問を抱いている<ref>『昭和良識派の研究』保阪正康 光人社FN文庫 56頁</ref>。 == 子孫 == [[画像:Tojo family 1941.jpg|thumb|220px|[[1941年]]、[[東條かつ子]](左)、[[東條由布子]](中央)と]] 英機・かつ子夫妻は7人の子供を儲けた。 *長男の[[東條英隆]]は、満州国首都警察庁に勤め、英機が[[関東軍]]憲兵司令官であったときに仕事で[[満州]]にあり、阿片王・里見甫の家に下宿して、1936年に結婚。[[新京神社]]で挙式した。その後、[[鴨緑江発電]]職員になった。[[弱視]]のため兵役免除を受けていたが、[[太平洋戦争]]末期に海軍から召集を受け、[[横須賀市|横須賀]]で終戦を迎えたという<ref>[[佐藤早苗]]『東條英機の妻 勝子の生涯』141頁</ref>。長く東京を離れて伊豆の[[伊東市|伊東]]に居住し、英隆は英機が収監された[[巣鴨]]に行くこともなかったという<ref>佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』154頁</ref>。戦後は[[日本船舶振興会]]に勤め、1966年55歳没。 *次男の[[東條輝雄]]は、[[東京大学大学院工学系研究科・工学部|東京帝国大学工学部]]航空学科を卒業して[[三菱重工業]]に入社した[[技術者]]であり、[[零式艦上戦闘機|零戦]]や戦後初の国産旅客機である[[日本航空機製造]][[YS-11]]、[[航空自衛隊]]の[[C-1 (輸送機)|C-1]]の設計に携わり、[[三菱重工業]]の副社長を経て、[[三菱自動車工業]]の社長・会長を[[1981年]]から[[1984年]]まで務めた。<!-- 輝雄氏本人の記事があるので 1985年にA級戦犯合祀が問題になった際、当時の首相・[[中曽根康弘]]が、自身もA級戦犯[[板垣征四郎]]の息子である参議院議員[[板垣正]]を使って[[白菊遺族会]]会長・木村可縫([[木村兵太郎]]の妻)ら遺族に分祀を迫ったが、東條次男の輝雄は、「遺族が発音すべき筋合いの話ではないでしょう」と板垣に言い、結果、話は立ち消えとなった。輝雄は2005年にも「合祀にしろ、分祀にしろ、遺族が希望を申し出るような話ではなくて、靖国神社自身が判断されることだと思っています。もし、分祀をすると靖国神社が決められたとしたら、私としては非常に残念だけれど、連族は『それはいけない』と言う立場にはないと考えています」と語っている<ref>週刊朝日2005年7月20「東條英機(次男)輝雄氏が語る靖国」</ref>。--> *三男の[[東條敏夫]]は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、[[陸軍予科士官学校]](59期)に進学、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]在校中に終戦を迎えた。戦後、[[航空自衛隊]]に入隊し、[[少将|空将補]]にまで昇進した。 *他には長女の光枝(陸軍軍人・自衛官・実業家の[[杉山茂 (陸軍軍人)|杉山茂]]と結婚<ref>仲人は[[服部卓四郎]]夫妻(佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』239頁)</ref>)、次女の[[東條満喜枝|満喜枝]](陸軍軍人で宮城事件で自刃した[[古賀秀正]]と結婚、後に社会学者[[田村健二]]と再婚)、三女の幸枝(映画監督の[[鷹森立一]]と結婚)、四女の君枝(アメリカの実業家[[デニス・ルロイ・ギルバートソン]]と結婚しキミエ・ギルバートソンと名乗る)がいた。 *英機・かつ子夫妻の孫は14人とされる<ref>佐藤早苗『東條英機の妻 勝子の生涯』250頁</ref>。A級戦犯分祀反対を唱えた[[東條由布子]](本名:岩浪淑枝)は長男の英隆の子。同じく英隆の子(英機の孫)・東條英勝は[[西武運輸]]に勤務した{{Efn|英機の嫡孫である英勝も就職に苦労し、陸軍運輸部と戦争中に関係のあった[[西武運輸]]の温情により同社に入社できた<ref name="東條英利の談話" />。}}。英勝の子(英機の曽孫)・[[東條英利]]は国際教養振興協会代表理事<ref name="東條英利の談話">{{Cite web|和書|title=戦争の有名人 その子孫たちは「いま」【第1部】東條英機 松岡洋右 廣田弘毅……「戦犯の家族」と呼ばれてその名前を恨んだこともありました(週刊現代) |url=https://gendai.media/articles/-/44598 |website=現代ビジネス |accessdate=2022-01-28 |language=ja |publisher=[[講談社]] |date=2015-8-17 |archiveurl=https://megalodon.jp/2022-0128-1311-25/https://gendai.ismedia.jp:443/articles/-/44598?imp=0 |archivedate=2022-1-18}}</ref>。 <!--[[心理学者]]の[[東條正城]]は次男の輝雄の子。←出典が無いためコメントアウト。再掲には出典を明示してください--> <!--2000年代の読売新聞の社説に、東條英機の娘の孫(東條からすれば[[玄孫]])のうち、一人は米軍軍人と、もう一人は韓国人とそれぞれ結婚しているという記事が掲載された。孫娘二人のうち、前者の米軍軍人の話では「東條に子孫が居るとは知らなかった、[[ヒトラー]]は子孫が居ないので、東條にもいないだろうと考えていた。」と述べている。後者については孫の話として「何人でもよかったが、たまたま彼と相性があっただけ。」と証言している。←出典が無い(具体的に示されていない)ためコメントアウト。再掲には掲載年月日を明示してください--> == 年譜 == * [[1905年]]([[明治]]38年) ** 3月30日 - [[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]を卒業(17期生)。 ** 4月21日 - 陸軍歩兵[[少尉]]に任官。[[近衛歩兵第3連隊]]附。 * [[1907年]](明治40年)12月21日 - 陸軍歩兵[[中尉]]に昇進。 * [[1912年]]([[大正]]元年) - [[陸軍大学]]に入学。 * [[1915年]](大正4年)12月11日 - 陸軍大学を卒業。陸軍歩兵[[大尉]]に昇進。近衛歩兵第3連隊[[中隊長]]。 * [[1916年]](大正5年) - 陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。 * [[1919年]](大正8年)8月 - 駐在武官として[[スイス]]に赴任。 * [[1920年]](大正9年)8月10日 - 陸軍歩兵[[少佐]]に昇任。 * [[1921年]](大正10年)7月 - 駐在武官として[[ドイツ]]に赴任。 * [[1922年]](大正11年)11月28日 - 陸軍大学校兵学教官に就任。 * [[1923年]](大正12年) ** 10月5日 - [[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員(陸大教官との兼任)。 ** 10月23日 - 陸軍歩兵学校研究部員(陸大教官との兼任)。 * [[1924年]](大正13年) - 陸軍歩兵[[中佐]]に昇進。 * [[1926年]](大正15年)3月23日 - [[陸軍省]]軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官に就任。 * [[1928年]]([[昭和]]3年) ** 3月8日 - 陸軍省整備局動員課長に就任。 ** 8月10日 - 陸軍歩兵[[大佐]]に昇進。 * [[1929年]](昭和4年)8月1日 - [[歩兵第1連隊]]長に就任。 * [[1931年]](昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長<ref name=":7" />)に就任<ref name=":8" />。 * [[1933年]](昭和8年) ** 3月18日 - 陸軍[[少将]]に昇進。参謀本部付。 ** 8月1日 - 陸軍省軍事調査委員長に就任。 ** 11月22日 - 陸軍省軍事調査部長に就任。 * [[1934年]](昭和9年) ** 3月5日 - 陸軍士官学校幹事に就任。 ** 8月1日 - 歩兵第24旅団長に就任。 * [[1935年]](昭和10年) ** 8月1日 - [[第12師団 (日本軍)|第12師団]]司令部付。 ** 9月21日 - 関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長に就任。 * [[1936年]](昭和11年)12月1日 - 陸軍[[中将]]に昇進。 * [[1937年]](昭和12年)3月1日 - [[関東軍]]参謀長に就任。 * [[1938年]](昭和13年) ** 5月30日 - [[第1次近衛内閣]]の[[陸軍次官]]に就任(1938年(昭和13年)12月10日まで)。 ** 6月18日 - [[陸軍航空本部|陸軍航空本部長]]に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。 ** 12月10日 - [[陸軍航空総監部|陸軍航空総監]]に就任(1940年(昭和15年)7月22日まで)。 * [[1940年]](昭和15年) ** 2月24日 - 臨時[[軍事参議官]]に就任(1940年(昭和15年)2月26日まで)。 ** 7月22日 - [[第2次近衛内閣]]の[[陸軍大臣]]兼[[対満事務局]]総裁に就任。 * [[1941年]](昭和16年) ** 7月18日 - [[第3次近衛内閣]]の陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任。 ** 10月18日 - [[東條内閣]]の[[内閣総理大臣]]に就任。 ** 同日 - 陸軍大臣兼対満事務局総裁に留任(対満事務局総裁は1942年(昭和17年)11月1日まで)。 ** 同日 - [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]に就任(1942年(昭和17年)2月17日まで)。 ** 同日 - 陸軍[[大将]]に昇進。 * [[1942年]](昭和17年)9月1日 - [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任(1942年(昭和17年)9月17日まで)。 * [[1943年]](昭和18年) ** 4月20日 - [[文部大臣]]に就任(1943年(昭和18年)4月23日まで)。 ** 10月8日 - [[商工省|商工大臣]]に就任(1943年(昭和18年)11月1日まで)。 ** 11月1日 - [[軍需省|軍需大臣]]に就任。 * [[1944年]](昭和19年) ** 2月21日 - [[参謀本部 (日本)|参謀総長]]に就任。 ** 7月18日 - 参謀総長を免職。 ** 7月22日 - 内閣総理大臣、陸軍大臣、軍需大臣を辞任。 ** 同日 - 予備役に編入。 * [[1945年]](昭和20年) ** 9月11日 - [[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)により東條逮捕の指令が出される。 ** 同日 - 自殺未遂。 * [[1948年]](昭和23年)12月23日 - [[極東国際軍事裁判]](東京裁判)で[[A級戦犯]]となり、刑死。 == 栄典 == ; 位階 * [[1905年]](明治38年)[[5月26日]] - [[正八位]]<ref name="tjhki">[{{NDLDC|10273434}} 法廷証第128号: {{Nowiki|[東條英機關スル人事局履歴書]}}]</ref><ref>[{{NDLDC|2949905/3}} 『官報』1905年05月30日 敍任及辭令] </ref> * [[1908年]](明治41年)[[3月20日]] - [[従七位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2950765/15}} 『官報』1908年03月23日 敍任及辭令] </ref> * [[1913年]](大正2年)[[5月20日]] - [[正七位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2952339/9}} 『官報』1913年05月21日 敍任及辭令] </ref> * [[1918年]](大正7年)[[7月10日]] - [[従六位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2953895/6}} 『官報』1918年07月11日 敍任及辭令] </ref> * [[1923年]](大正12年)[[11月30日]] - [[正六位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2955534/1}} 『官報』1923年12月06日 敍任及辭令] </ref> * [[1928年]](昭和3年)[[9月15日]] - [[従五位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2956996/5}} 『官報』1928年10月05日 敍任及辭令] </ref> * [[1933年]](昭和8年)[[4月1日]] - [[正五位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2958352/6}} 『官報』1933年04月10日 敍任及辭令] </ref> * [[1937年]](昭和12年)[[12月26日]] - [[従四位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2959480/5}} 『官報』1936年12月29日 敍任及辭令] </ref> * [[1939年]](昭和14年)[[2月1日]] - [[正四位]]<ref name="tjhki"/><ref>『官報』第3711号「叙任及辞令」1939年5月23日。</ref> * [[1940年]](昭和15年)[[8月1日]] - [[従三位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2960579/3}} 『官報』1940年08月13日 敍任及辭令] </ref> * [[1942年]](昭和17年)[[8月15日]] - [[正三位]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2960442/6}} 『官報』1942年09月21日 敍任及辭令] </ref> * [[1944年]](昭和19年)[[7月28日]] - [[従二位]]<ref name="tjhki"/> ; 勲章など * [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]・[[従軍記章#明治三十七八年従軍記章|明治三十七八年従軍記章]]<ref name="tjhki"/> * [[1913年]](大正2年)[[5月31日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2952349/15}} 『官報』1913年06月02日 敍任及辭令] </ref> * [[1920年]](大正9年)[[6月25日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2954483/4}} 『官報』1920年06月26日 敍任及辭令] </ref> * [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[旭日章|旭日小綬章]]・[[従軍記章#大正三四年(大正三年乃至九年戦役)従軍記章|大正三年乃至九年戦役従軍記章]]<ref name="tjhki"/> * [[1928年]](昭和3年)[[9月29日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref name="tjhki"/><ref>[{{NDLDC|2956992/7}} 『官報』1928年10月01日 敍任及辭令] </ref> * [[1934年]](昭和9年)[[4月29日]] - [[旭日章|勲二等旭日重光章]]・[[従軍記章#昭和六年乃至九年事変従軍記章|昭和六年乃至九年事変従軍記章]]<ref name="tjhki"/> * [[1937年]](昭和12年)[[7月7日]] - [[画像:JPN Zuiho-sho (WW2) 1Class BAR.svg|50px]] [[勲一等瑞宝章]]<ref name="tjhki"/> * [[1940年]](昭和15年)[[4月29日]] - [[画像:JPN Kinshi-kunsho 2Class BAR.svg|50px]] [[金鵄勲章|功二級金鵄勲章]]・[[画像:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|50px]] [[勲一等旭日大綬章|旭日大綬章]]・[[従軍記章#支那事変従軍記章|支那事変従軍記章]]<ref name="tjhki"/> ; 外国勲章佩用允許 * [[1937年]](昭和12年)[[12月1日]] - [[満州国|満州帝国]]:勲一位柱国章<ref>『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。</ref> * [[1940年]](昭和15年) ** [[1月18日]] - [[ドイツ国]]:[[画像:DEU Deutsche Adlerorden 1 BAR.svg|50px]] [[ドイツ鷲勲章|ドイツ鷲勲章大十字章]]<ref>[{{NDLDC|2960407/7}} 『官報』1940年1月24日 敍任及辭令] </ref> ** [[9月9日]] - [[満州国|満州帝国]]:勲一位景雲章<ref>『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。</ref> * [[1941年]](昭和16年)[[6月27日]] ** [[イタリア王国]]:[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]グランコルドーニ<ref name="名前なし-1">『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。</ref> ** [[タイ王国]]:レレファンブラン勲章グランクロア<ref name="名前なし-1"/> * [[1942年]](昭和17年)[[2月9日]] - [[タイ王国]]:[[画像:Order of the White Elephant - Special Class (Thailand) ribbon.svg|50px]] [[白象勲章|白象特等勲章]]<ref>[{{NDLDC|2961028}} 『官報』1942年02月12日 敍任及辭令] </ref> * [[1942年]](昭和17年) ** [[2月20日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#満洲国の紀念章|建国神廟創建記念章]]<ref>[{{NDLDC|2961028}} 『官報』1942年02月24日 敍任及辭令] </ref> ** [[9月14日]] - [[満州国|満州帝国]]:勲一位龍光大綬章<ref>[{{NDLDC|2961209}} 『官報』1942年09月16日 敍任及辭令] </ref> * [[1943年]](昭和18年) ** [[4月17日]] - [[満州国|満州帝国]]:大勲位蘭花大綬章<ref>『官報』第4915号・付録「辞令二」1943年6月3日。</ref> ** [[6月2日]] - [[汪兆銘政権|中華民国]]:特級同光勲章<ref>[{{NDLDC|2961422/8}} 『官報』1943年06月05日 敍任及辭令] </ref> ** [[7月23日]] - [[タイ王国]]:[[画像:Order of Chula Chom Klao - 1st Class (Thailand) ribbon.svg|50px]] [[チュラチョームクラーオ勲章]]グランド・クロス<ref>[{{NDLDC|2960442/6}} 『官報』1943年07月30日 敍任及辭令] </ref> * [[1944年]](昭和19年)[[7月20日]] - [[満州国|満州帝国]]:[[記念章#満洲国の紀念章|満州国国勢調査紀念章]]<ref>{{アジア歴史資料センター|A10113504700|長谷川清外三十一名外国勲章記章受領及佩用の件}}</ref> == 著作 == * {{Cite book |和書 |editor=中央教化団体聯合会 |title=重畳せる非常時諸相の検討 |date=1934-02 |publisher=中央教化団体聯合会 |series=国民更生叢書 第12編 |pages= |chapter=極東の情勢に就いて |id={{全国書誌番号|44024500}} |ncid=BB05698328}} * {{Cite book |和書 |title=ロシヤ来るぞ! |date=1939-02 |publisher=帝国軍事協会 |pages=34-37 |chapter=ソ支二正面同時作戦と国民の覚悟 |id={{全国書誌番号|44045874}} |ncid=BA79920491}} * {{Cite book |和書 |others=岡山研堂訳編 |title=戦陣訓 国民義解 |date=1941-03 |publisher=[[教材社]] |id={{全国書誌番号|44036797}} |ncid=BA58040445}} * {{Cite book |和書 |title=大東亜建設宣言 東条首相獅子吼集 |date=1942-02 |publisher=アジア青年社 |series=世界維新叢書 第1輯 |id={{全国書誌番号|44022180}}}} * {{Cite book |和書 |editor=高鳥正 |title=大東亜戦争に直面して 東条英機首相演説集 |date=1942-02 |publisher=[[改造社]] |id={{全国書誌番号|46008519}} |ncid=BN15127576}} * {{Cite book |和書 |others=[[山中峯太郎]]編述 |title=一億の陣頭に立ちて 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|title=大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書 |edition=改訂新版 |date=2009-08 |publisher=ワック |series=WAC BUNKO B-109 |id={{全国書誌番号|21643277}} |isbn=9784898316092 |ncid=BB0011914X}} == 東條英機を描いた作品 == 東條は独特の風貌(禿頭と髭)と[[ロイド眼鏡]]、甲高い声音と抑揚を持つ。東條役の俳優にとっては、それらの特徴を強調したメーキャップや演出を施せば、たとえ容姿がそれほど似通っていなくても演じることができた。 === 小説 === * {{Cite book |和書 |author=有馬頼義|authorlink=有馬頼義 |title=時代小説大全集 |volume=6(人物日本史 昭和) |date=1991-09 |publisher=[[新潮社]] |series=[[新潮文庫]] |pages=67-112 |chapter=左利きの独裁者――東條英機の悲劇 |isbn=9784101208152}} * {{Cite book |和書 |author=松田十刻|authorlink=松田十刻 |title=東条英機――大日本帝国に殉じた男 |date=2002-08 |publisher=[[PHP研究所]] |series=[[PHP文庫]] |isbn=9784569577883}} === 映画 === * 『[[総統の顔]]』(1943年)- 東條役:不詳(日本では未公開) <small>※ディズニーアニメ</small> * 『[[東京スパイ大作戦]]』(1945年)- 東條役:[[ロバート・アームストロング (俳優)|ロバート・アームストロング]] * 『[[日本の悲劇 (1946年の映画)|日本の悲劇・自由の声]]』(1946年)-(本人出演) * 『[[大東亜戦争と国際裁判]]』(1959年)- 東條役:[[嵐寛寿郎]] * 『皇室と戦争とわが民族』(1960年)- 東條役:嵐寛寿郎 * 『[[激動の昭和史 軍閥]]』(1970年)- 東條役:[[小林桂樹]] * 『[[トラ・トラ・トラ!]]』(1970年)- 東條役:[[内田朝雄]] * 『[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]] 第三部 完結編』(1973年)- 東條役:[[井上正彦]] * 『[[大日本帝国 (映画)|大日本帝国]]』(1982年)- 東條役:[[丹波哲郎]] * 『[[帝都大戦]]』(1989年)- 東條役:[[草薙幸二郎]] * 『[[プライド・運命の瞬間]]』(1998年)- 東條役:[[津川雅彦]] * 『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年)- 東條役:[[竹中直人]] * 『[[南京の真実]]』第一部「七人の死刑囚」(2008年)- 東條役:[[藤巻潤]] * 『[[聯合艦隊司令長官 山本五十六]]』(2011年)- 東條役:[[山本勝]] * 『[[終戦のエンペラー]]』(カナダ2012年・アメリカ&日本2013年)- 東條役:[[火野正平]] * 『[[日本のいちばん長い日]]』(2015年)- 東條役:[[中嶋しゅう]] * 『[[アフリカン・カンフー・ナチス]]』(2020年)- 東條役:[[秋元義人]] === テレビ === * 『西陣物語』(1968年、関西テレビ)- 東條役:[[若宮忠三郎]] * 『[[落日燃ゆ#テレビドラマ(1976年版)|落日燃ゆ]]』(1976年、[[テレビ朝日|NET]])- 東條役:[[若宮大祐]] * 『[[日本の戦後]] 第8集 審判の日 極東国際軍事裁判』(1977年、[[日本放送協会|NHK]])- 東條役:[[小沢栄太郎]] * 『大いなる朝』(1979年、[[TBSテレビ|TBS]])- 東條役:[[南原宏治]] * 『さらば空中戦艦富嶽』(1980年、[[テレビ朝日|ANB]])- 東條役:[[内田朝雄]] * 『[[山河燃ゆ]]』(1984年、[[日本放送協会|NHK]])- 東條役:[[渥美國泰]] * 『[[昭和16年夏の敗戦#テレビドラマ|昭和16年の敗戦]]』(1991年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])- 東條役:[[高松英郎]] * 『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1994年、[[TBSテレビ]])- 東條役:[[すまけい]] * 『[[あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機]]』(2008年、[[TBSテレビ|TBS]])- 東條役:[[ビートたけし]] * 『[[気骨の判決]]』(2009年、NHK)- 東條役:[[岩崎ひろし]] * 『[[落日燃ゆ#テレビドラマ(2009年版)|落日燃ゆ]]』(2009年、[[テレビ朝日]])- 東條役:[[小峰隆司]] * 『[[経世済民の男]] 第三部 鬼と呼ばれた男〜松永安左エ門』(2015年、[[日本放送協会|NHK]])- 東條役:[[大竹まこと]] * 『[[二つの祖国]]』(2019年、[[テレビ東京]])- 東條役:[[ビートたけし]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 参考文献 == === 一次資料および当事者の証言、回想録 === * [[小田俊与]] 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し * 花山信勝 『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』朝日新聞社 1949年 ISBNコード無し * 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年 * 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力) * 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117 * 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040 * バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月(1995年再版)ISBN 9784884691141 * 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月 * 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月 * 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年 * 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月 * 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019 * 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027 * 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664 * 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。ISBN 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{{Commonscat|Hideki Tōjō}} {{Wikinews|東条英機元首相が合祀基準を通達}} * [[Portal:大東亜共栄圏]] * [[戦陣訓]] * [[フランクリン・ルーズベルト]] * [[ベニート・ムッソリーニ]] * [[アドルフ・ヒトラー]] * [[ウィンストン・チャーチル]] * [[近衛文麿]] * [[ホルティ・ミクローシュ]] * [[観阿弥]] * [[樋口季一郎]] * [[二式単座戦闘機|キ44 二式単座戦闘機「鍾馗」]]本機のアメリカ軍のコードネームは「Tojo」 * [[プレスコード]] * [[加州清光]](東條英機の[[軍刀]]) * [[バーデン=バーデンの密約]] * [[富田メモ]] == 外部リンク == * {{Kotobank|東条英機}} * {{Kotobank|東条 英機}} * {{Kotobank|東条英機内閣}} * [https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/040.html 東條英機 内閣総理大臣(第40代)] - [[首相官邸]] * [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/142/ 東条英機 | 近代日本人の肖像] - [[国立国会図書館]] * [https://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/maa/yasukuni/artist_toujou.html 東条英機|『靖国の絵巻』]|[[國學院大學]] * [https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary04500154/ とうじょうひでき【東条英機】 | と | 辞典] | [[学研キッズネット]] * [https://www.criticalpast.com/stock-footage-video/hideki+tojo Hideki tojo stock footage and images](英語) {{S-start}} {{s-off}} {{succession box | title = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]] | before = [[近衛文麿]] | years = 第40代:1941年 - 1944年 | after = 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リトルボーイ
リトルボーイ(英: Little Boy)は、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島市に投下した原子爆弾(ガンバレル型ウラニウム活性実弾 L11)のコードネーム。いわゆる「広島型原爆」である。 これは、人類史上初めて実戦で使用された核兵器であり、原子力災害(核実験、原発事故など)や自然災害(地震、台風、隕石衝突など)の規模を表記する際に、このリトルボーイを基準に「広島型原爆○個分」と換算されることもある。 全長3.05 m、最大直径0.71 m、総質量4,400 kg。番号はMk.1。ウラン235を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を火薬の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、臨界量を超過させて起爆するガンバレル型である。 積載されたウラン140ポンド(約63.5 kg)のうち、1.38 %(約876.3 g)が核分裂反応を起こしたと推定されている。 原子爆弾のコードネームは、プルトニウム原子爆弾に付けられていた。ガンバレル方式・インプロージョン方式のそれぞれに、Mark 2「シンマン」とMark 3「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバーだった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んでおり、Mark 2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男 (原題:The Thin Man)』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン(Thin Man、痩せ男)」と命名された。シンマンの開発は1944年に中止されたが、リトルボーイはこのシンマンの寸法よりもさらに小形になったため、サーバーとは別の人物によってリトルボーイ(少年)と呼ばれるようになった。 日本語では、単に「リトルボーイ」と表記することもあるが、「少年」や「かわいい少年」、または「ちび」と翻訳されることもある。 現在では(2005年以降)、核出力の最良推定値は、TNT換算で16 kt ± 2 kt である。1TNT換算トン = 4.184×10 J なので、 6.694×10 J ということになる。なお、長崎に投下されたファットマンの核出力は、21 kt ± 2 kt である。 核出力についての過去の数値は様々であった。 リトルボーイには核爆発を引き起こすための核分裂性物質としてウランが使用されている。ひとくちにウランと言っても、その原子核に含まれる中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核兵器や原子炉の核燃料においては核分裂しやすいウラン235を必要とするが、天然に存在するウランは核分裂しにくいウラン238が約99.2 %を占め、ウラン235の割合は約0.7 %程度である。そのため濃縮と呼ばれる工程を経る事で、ウラン全体に対するウラン235の割合(同位体比)を高める必要がある。原子力発電所の原子炉(軽水炉)で用いられる核燃料においてははウラン235は約3 %~4 %程度に濃縮されている一方、その程度では破壊的な核爆発を引き起こすことはできない。そのため核兵器においては90 %以上まで高める必要がある。リトルボーイで必要とされたウラン濃縮においては、ウラン238とウラン235の質量の差を利用したガス拡散法・熱拡散法・電磁濃縮法が利用された。 ガンバレル型の原子爆弾が「どのように設計されたのか」という詳細な情報は長く軍事機密扱いであり、情報公開されていなかった。今日では、ハーバード大学出身で地質学者のフランシス・バーチらが開発に当たったことが判明している。 一部に、リトルボーイは ナチス・ドイツ製、もしくはその複写であったのではないか、とする説がある。この説の説明として、アメリカがガンバレル型の開発をした経緯がなく、当初よりプルトニウムを用いた爆縮式(インプロージョン型)の実験を行っていた、とされることがある。 しかし、アメリカ合衆国が研究していた、原子爆弾の当初構想は「ガンバレル型」であり、原子爆弾の研究を行っていた世界のどの国においても、構造が比較的簡易であり、インプロージョン型よりも基本部分の製造が容易であるガンバレル型の研究が行われていた。実際に米国ではプルトニウム239を材料としたガンバレル型のシンマン(Mark 2)として開発が行われていた。ただしMark2の開発は難航し、実際に中断・放棄されている。これはプルトニウムの同位体の一つであるプルトニウム240が自発核分裂を引き起こしやすい性質を持っているため、構造上どうしても核分裂の進み具合(反応度)を加える効率がインプロージョン型に対して劣るガンバレル型では、核爆発を引き起こす十分な条件に達する前に核分裂連鎖反応を開始してしまい、その急激な発熱による小爆発で核物質が飛散するだけで終わってしまうという「過早爆発」を防ぐことができないためである。 米国および人類初の核爆弾稼働実験である「トリニティ実験」において使用された爆弾(ガジェット)もインプロージョン型である。では理論構造が単純であるとはいえ、取り扱いや安全性に疑問があり、実験実績のないガンバレル型を、なぜ投下第一号としたのか等の不明点が残るが、これもまた機密扱いであり明らかになっていない。リトルボーイ使用の3日後に長崎に投下されたファットマンは、トリニティ実験と同様の「プルトニウムを使用したインプロージョン型」である。 1943年頃、プルトニウムの過早反応が認識され、爆縮方式の設計がスタートする。1944年7月には、ほぼ全面的にプルトニウム爆縮式に開発努力は移行するが、トリニティ実験までは爆発成功の確信がなく、すでに爆弾設計としては完了しウラニウムの濃縮の進捗を待つのみとなっていたガンバレル型が予備として計画されたとされている。 大量のウラニウムを必要とするガンバレル型のリトルボーイの製造において、終戦間際にドイツ国内や潜水艦から押収されたウラニウムは使われなかったとする根拠はないが、量的には1939年の時点で カタンガ州(コンゴ)からおよそ一千トンが搬入されたウラニウム鉱石が原料の大部分を占めていた。 1945年当時、この方式の検証のための核実験は行われていない。核実験による検証を経たのは、プルトニウムを使った爆縮方式のものが1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴード近郊のアラモゴード爆撃試験場(現:ホワイトサンズ・ミサイル実験場内「トリニティ・サイト」)で行われたのみである。これは一般には、既にウラン235を使った核分裂試験が原子炉内で行われていた為に核爆発を伴う検証そのものが不要であったとされているが、実際はテストを行うことで高濃縮ウランが不足し、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることを、アメリカ軍が心配したというのが真相のようである。 ガンバレル型の原子爆弾は、安全性に大きな問題があるため、アメリカ合衆国で作られなくなった。完成したガンバレル型の原子爆弾は、推進薬に点火すると、必ず核爆発を起こしてしまうため、フェイルセーフが存在しない。 そのため、爆弾を搭載したB-29が墜落したり、何かのミスで投下前に推進薬が点火したりするなど、万が一の場合に備え、爆撃機に兵器係として原爆の技術者を同乗させ、その者が投下の前に手作業で砲身内に推進薬(コルダイト火薬)を詰めこむという安全対策を取ったほどである。 たとえ推進薬が無くとも、爆撃機墜落の衝撃によって砲弾部が標的部に突入すれば、核爆発が起きる可能性が十分に高く、海中に墜落すれば、爆弾内に流入した水が減速材として働き、臨界状態になる可能性があった。このため海に落下すれば、周囲一帯を「危険地域」として閉鎖せざるをえなくなる。これらの危険性を回避できる安全装置の開発は不可能であるとされ、ガンバレル型自体が開発中止になる原因となった。 焼失面積13.2 km、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。爆心地の近くにあった広島県産業奨励館は、現在原爆ドームとして世界文化遺産に登録されている。 (原爆被害の詳細は広島市への原子爆弾投下を参照)
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リトルボーイは、第二次世界大戦においてアメリカ軍が広島市に投下した原子爆弾のコードネーム。いわゆる「広島型原爆」である。 これは、人類史上初めて実戦で使用された核兵器であり、原子力災害(核実験、原発事故など)や自然災害(地震、台風、隕石衝突など)の規模を表記する際に、このリトルボーイを基準に「広島型原爆○個分」と換算されることもある。
{{redirect3|広島型原爆|広島に投下された原爆|熱量や各種被害の量を表す慣用単位|広島型原爆 (単位)}} {{Pathnav|核兵器|核爆弾|原子爆弾|frame=1}} {{出典の明記|date=2010年4月}} [[File:Atombombe Little Boy 2.jpg|thumb|right|300px|原子爆弾リトルボーイ(実物)]] '''リトルボーイ'''({{lang-en-short|Little Boy}})は、[[第二次世界大戦]]において[[アメリカ軍]]が[[広島市への原子爆弾投下|広島市に投下]]した[[原子爆弾]]([[ガンバレル型]]<ref>ガンバレルとは、[[銃]]の弾の通る部分、つまり「[[銃身]]」のこと。機構の詳細は[[ガンバレル型]]・[[原子爆弾]]参照</ref>ウラニウム活性実弾 L11)の[[コードネーム]]。いわゆる「'''広島型原爆'''」である。 これは、人類史上初めて実戦で使用された[[核兵器]]であり、[[原子力事故|原子力災害]]([[核実験]]、[[原子力事故|原発事故]]など)や[[自然災害]]([[地震]]、[[台風]]、[[隕石衝突]]など)の規模を表記する際に、このリトルボーイを基準に「'''[[広島型原爆 (単位)|広島型原爆○個分]]'''」と換算されることもある。 {{main2|核の歴史の詳細|核兵器}} == 概要 == [[File:Gun-type fission weapon en-labels thin lines.svg|thumb|right|300px|[[ガンバレル型]]核爆弾の構造]] 全長3.05 m、最大直径0.71 m、総質量4,400 kg。番号はMk.1。[[ウラン235]]を用いており、二分されたパイプの両端に置かれたウラン235の塊の一方を[[火薬]]の爆発力でもう一方のウラン塊にぶつけ、[[臨界量]]を超過させて起爆する[[ガンバレル型]]である。 積載された[[ウラン]]140ポンド(約63.5 kg)のうち、1.38 %(約876.3 g)が[[核分裂反応]]を起こしたと推定されている<ref>http://www.atomicheritage.org/history/little-boy-and-fat-man</ref>。 {{clear}} == 名称 == 原子爆弾のコードネームは、プルトニウム原子爆弾に付けられていた。ガンバレル方式・インプロージョン方式のそれぞれに、[[Mark 2 (核爆弾)|Mark 2]]「シンマン」とMark 3「[[ファットマン]]」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、[[ロバート・オッペンハイマー]]のかつての教え子で、自らも[[マンハッタン計画]]に参加した[[ロバート・サーバー]]だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んでおり、Mark 2は細長い形状であったため、[[ダシール・ハメット]]の探偵小説『影なき男 (原題:''The Thin Man'')』とその[[影なき男 (1934年の映画)|映画化作品]]から着想を得て、「シンマン(Thin Man、痩せ男)」と命名された。シンマンの開発は1944年に中止されたが、リトルボーイはこのシンマンの寸法よりもさらに小形になったため、サーバーとは別の人物によってリトルボーイ(少年)と呼ばれるようになった<ref>{{cite book |last=Serber |first=Robert |authorlink=Robert Serber |first2=Robert P. |last2=Crease |title=Peace & War: Reminiscences of a Life on the Frontiers of Science |location=New York |publisher=Columbia University Press |year=1998 |isbn= 9780231105460 |oclc=37631186 |ref= harv}} P.104</ref>。 [[日本語]]では、単に「リトルボーイ」と表記することもあるが、「[[少年]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf|title = 広島・長崎の被災状況|author = |date = |publisher = 長崎市|accessdate=2023-06-03}}</ref>」や「かわいい少年<ref>{{Cite web|和書|url = https://h-nomore-hibakusha.org/cando2/|title = 知っ得・なっ得コーナー|author = |date = |publisher = 北海道ノーモア・ヒバクシャ会館|accessdate=2023-06-03}}</ref>」、または「[[チビ|ちび]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://nagasakipeace.jp/content/files/excursion/abm_handbook.pdf|title = 長崎原爆資料館学習ハンドブック|author = |date = 2013-06|publisher = [[長崎原爆資料館]]|accessdate=2023-06-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.reuters.com/graphics/WW2-ANNIVERSARY/HIROSHIMA-LJA/xegpbaekmvq/|title = 原爆投下から75年 閃光、そして世界が一変した|author = Clarence Fernandez編集|date = 2020-08-04|publisher = [[ロイター]]|accessdate=2023-06-03}}</ref>」と翻訳されることもある。 == 核出力 == [[File:Atomic_cloud_over_Hiroshima_-_NARA_542192_-_Edit.jpg|thumb|right|300px|[[広島]]の原子雲、リトルボーイ(1945年8月6日)]] 現在では(2005年以降)、[[核出力]]の最良推定値は、[[TNT換算]]で16 kt ± 2 kt である<ref>[https://www.rerf.or.jp/library/scidata/scids/ds02/pdf/chapter01/cha01-p42-61.pdf Reassessment of the Atomic Bomb Radiation Dosimetry for Hiroshima and Nagasaki –Dosimetry System 2002 –, chapter1] Chapter 1 BOMB PARAMETERS, p.57 Table 4,by George D. Kerr, Robert W. Young, Harry M. Cullings, Robert F. Christy, [[放射線影響研究所]], 2005 </ref><ref>この値は、Dosimetry System 2002(2002年線量計測体系)(DS02と呼ばれる再評価体系)の一環である。DS86(1986年線量計測体系)では、15 kt ± 3 kt としていたが、再評価された。</ref>。1[[TNT換算]]トン = 4.184×10<sup>9</sup> J なので、 6.694×10<sup>13</sup> J ということになる。なお、長崎に投下されたファットマンの核出力は、21 kt ± 2 kt である。 核出力についての過去の数値は様々であった。 * [[エノラ・ゲイ]]の点火装置設定担当だった{{仮リンク|ウィルアム・パーソンズ|en|William Sterling Parsons}}による視認による推定値:18 kt * [[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]大統領の発表:20 kt(パーソンズの推定値をスピーチライターが丸めたもの) * 物理学者[[ウィルアム・ペニー]]らによる、広島の現地での測定による数値:12 kt±1 kt<ref>[https://www.jstor.org/stable/73796 The Nuclear Explosive Yields at Hiroshima and Nagasaki] Lord Penney, D. E. J. Samuels and G. C. Scorgie、Philosophical Transactions of the Royal Society of London. Series A, Mathematical and Physical Sciences Vol. 266, No. 1177 (Jun. 11, 1970), pp. 357-424 (76 pages)、Published 1970-06-11</ref> * 燃焼力に基づくもの:13.4 kt - 13.7 kt<ref>[https://permalink.lanl.gov/object/tr?what=info:lanl-repo/lareport/LA-08819 The Yields of the Hiroshima and Nagasaki Nuclear Explosions] By John Malik, LA-8819 UC-34, Sep.1985, p.21 </ref> * 物理学者[[フレデリック・ライネス]]による1953年の推定値:15 kt * [[ロスアラモス国立研究所]]のジョン・マリク(John Malik)による1985年の推定値:15 kt([[不確かさ]]は20%)<ref>[https://permalink.lanl.gov/object/tr?what=info:lanl-repo/lareport/LA-08819 The Yields of the Hiroshima and Nagasaki Nuclear Explosions] By John Malik,LA-8819 UC-34,Sep.1985、冒頭のABSTRACT,p.1 又は、XI. CONCLUSIONS,p.25</ref>(このMalikによる推定値は広範に引用されている。) == 開発 == [[File:Little Boy Internal Components (no labels).png|thumb|260px|リトルボーイの動作構造。赤がウラン235。弾尾側にある黄色い火薬が爆発すると、円筒状のウランが弾頭側へ移動し、円柱状のウランにかぶさって一体化する]] [[ファイル:Nuclear bomb Little Boy.jpg|thumb|right|300px|リトルボーイの構造。弾尾側にある緑色で示したコルダイト爆薬が爆発すると、紫色で示した円筒状のウランが弾頭側のウランに向かって移動することで核分裂の連鎖反応が始まり、爆発的な熱エネルギーが放出される。ウラン235の周囲には青色で示したタングステン製の中性子反射体が配置されており、核分裂の連鎖反応を仲介する中性子のうち、外側へ向かって逃げようとするものを再びウランのある内側に向かって反射させ、より多くのウランを核分裂させられる構造になっている]] リトルボーイには核爆発を引き起こすための核分裂性物質としてウランが使用されている。ひとくちにウランと言っても、その原子核に含まれる中性子の数が異なる[[同位体]]が複数存在する。核兵器や原子炉の核燃料においては核分裂しやすいウラン235を必要とするが、天然に存在するウランは核分裂しにくいウラン238が約99.2 %を占め、ウラン235の割合は約0.7 %程度である。そのため[[濃縮]]と呼ばれる工程を経る事で、ウラン全体に対するウラン235の割合(同位体比)を高める必要がある。原子力発電所の原子炉(軽水炉)で用いられる核燃料においてははウラン235は約3 %~4 %程度に濃縮されている一方、その程度では破壊的な核爆発を引き起こすことはできない。そのため核兵器においては90 %以上まで高める必要がある。リトルボーイで必要とされたウラン濃縮においては、ウラン238とウラン235の質量の差を利用したガス拡散法・熱拡散法・電磁濃縮法が利用された。 ガンバレル型の原子爆弾が「どのように設計されたのか」という詳細な情報は長く[[軍事機密]]扱いであり、[[情報公開]]されていなかった。今日では、[[ハーバード大学]]出身で[[地質学者]]の[[フランシス・バーチ]]らが開発に当たったことが判明している。 一部に、リトルボーイは [[ナチス・ドイツ]]製、もしくはその[[複写]]であったのではないか、とする説がある。この説の説明として、アメリカがガンバレル型の開発をした経緯がなく、当初より[[プルトニウム]]を用いた[[爆縮]]式(インプロージョン型)の実験を行っていた、とされることがある。 しかし、[[アメリカ合衆国]]が研究していた、原子爆弾の当初構想は「ガンバレル型」であり、原子爆弾の研究を行っていた世界のどの国においても、構造が比較的簡易であり、インプロージョン型よりも基本部分の製造が容易であるガンバレル型の研究が行われていた。実際に米国ではプルトニウム239を材料としたガンバレル型の[[Mark 2 (核爆弾)|シンマン(Mark 2)]]として開発が行われていた。ただしMark2の開発は難航し、実際に中断・放棄されている。これはプルトニウムの同位体の一つであるプルトニウム240が自発核分裂を引き起こしやすい性質を持っているため、構造上どうしても核分裂の進み具合(反応度)を加える効率がインプロージョン型に対して劣るガンバレル型では、核爆発を引き起こす十分な条件に達する前に核分裂連鎖反応を開始してしまい、その急激な発熱による小爆発で核物質が飛散するだけで終わってしまうという「過早爆発」を防ぐことができないためである。 米国および人類初の核爆弾稼働実験である「[[トリニティ実験]]」において使用された爆弾([[ガジェット (爆弾)|ガジェット]])もインプロージョン型である。では理論構造が単純であるとはいえ、取り扱いや安全性に疑問があり、実験実績のないガンバレル型を、なぜ投下第一号としたのか等の不明点が残るが、これもまた機密扱いであり明らかになっていない。リトルボーイ使用の3日後に長崎に投下された[[ファットマン]]は、トリニティ実験と同様の「[[プルトニウム]]を使用したインプロージョン型」である。 1943年頃、プルトニウムの過早反応が認識され、爆縮方式の設計がスタートする。1944年7月には、ほぼ全面的にプルトニウム爆縮式に開発努力は移行するが、トリニティ実験までは爆発成功の確信がなく、すでに爆弾設計としては完了しウラニウムの濃縮の進捗を待つのみとなっていたガンバレル型が予備として計画されたとされている。 大量のウラニウムを必要とするガンバレル型のリトルボーイの製造において、終戦間際にドイツ国内や潜水艦から押収されたウラニウムは使われなかったとする根拠はないが、量的には1939年の時点で [[カタンガ州]](コンゴ)からおよそ一千トンが搬入されたウラニウム鉱石が原料の大部分を占めていた。 == 実験 == 1945年当時、この方式の検証のための[[核実験]]は行われていない。核実験による検証を経たのは、[[プルトニウム]]を使った爆縮方式のものが1945年7月16日、[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード]]近郊のアラモゴード爆撃試験場(現:[[ホワイトサンズ・ミサイル実験場]]内「[[トリニティ・サイト]]」)で行われたのみである。これは一般には、既にウラン235を使った核分裂試験が[[原子炉]]内で行われていた為に[[核爆発]]を伴う検証そのものが不要であったとされているが、実際はテストを行うことで[[高濃縮ウラン]]が不足し、この方式の原子爆弾の戦線への投入に遅れが生じることを、[[アメリカ軍]]が心配したというのが真相のようである<ref>「リトルボーイ」に使われた大量の[[高濃縮ウラン]]の出所は明らかになっていない。一般には米ニューメキシコ州[[ロス・アラモス]]にある[[オークリッジ国立研究所]]であったとされている。</ref>。 == 安全性 == [[File:Spare_Little_Boy_atomic_bomb_casing_at_the_Imperial_War_Museum_in_London_in_November_2015.jpg|thumb|right|300px|リトルボーイのレプリカ、[[帝国戦争博物館]](2015年11月)]] ガンバレル型の原子爆弾は、安全性に大きな問題があるため、アメリカ合衆国で作られなくなった。完成したガンバレル型の原子爆弾は、推進薬に点火すると、必ず核爆発を起こしてしまうため、[[フェイルセーフ]]が存在しない。 そのため、爆弾を搭載した[[B-29_(航空機)|B-29]]が墜落したり、何かのミスで投下前に推進薬が点火したりするなど、万が一の場合に備え、爆撃機に兵器係として原爆の技術者を同乗させ、その者が投下の前に手作業で砲身内に推進薬([[コルダイト]]火薬)を詰めこむという安全対策を取ったほどである。 たとえ推進薬が無くとも、爆撃機墜落の衝撃によって砲弾部が標的部に突入すれば、核爆発が起きる可能性が十分に高く、海中に墜落すれば、爆弾内に流入した水が減速材として働き、[[臨界状態]]になる可能性があった。このため海に落下すれば、周囲一帯を「危険地域」として閉鎖せざるをえなくなる。これらの危険性を回避できる安全装置の開発は不可能であるとされ、ガンバレル型自体が開発中止になる原因となった。 == 経緯 == [[ファイル:General Effects of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki.ogv|thumbtime=12|thumb|right|300px|[[広島市]]と[[長崎市]]の原爆の余波]] * [[1945年]] - 第二次世界大戦中にアメリカが立ち上げた[[マンハッタン計画]]に基づき、アメリカ国内で製造。 * [[7月16日]] - [[サンフランシスコ]]にて[[重巡洋艦]][[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]に積載され、日本本土への[[爆撃機]]の基地である[[テニアン島]]へ向け出港。 * [[7月25日]] - [[日本への原子爆弾投下]]を決定(しかし、[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が投下を承認した記録はない)。 * [[7月26日]] - テニアン島到着。 * [[7月31日]] - リトルボーイ組み立て完了。 * [[8月5日]] - 爆撃機への搭載完了。投下に用いられた爆撃機は[[B-29_(航空機)|B-29]]であり、機名は[[エノラ・ゲイ]]と名付けられた。 * [[8月6日]]午前8時15分([[日本標準時|日本時間]]) - [[広島県]][[広島市]]の上空高度9600 mから投下され、細工町(現:広島市[[中区 (広島市)|中区]][[大手町 (広島市)|大手町]])の[[島病院]]上空約600 mで爆発した。 焼失面積13.2 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。[[爆心地]]の近くにあった[[広島県産業奨励館]]は、現在[[原爆ドーム]]として[[世界文化遺産]]に登録されている。 (原爆被害の詳細は[[広島市への原子爆弾投下]]を参照) == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Little Boy}} * 『[[原爆投下・10秒の衝撃]]』 - リトルボーイ炸裂の最初の10秒間の出来事を検証したテレビ番組 == 外部リンク == * [https://hpmmuseum.jp/ 広島平和記念資料館] * [https://www.city.urayasu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/011/722/chapter1.pdf 原子爆弾の基礎知識] *{{Kotobank}} {{マンハッタン計画}} {{核兵器}} {{核技術}} {{DEFAULTSORT:りとるほおい}} [[Category:広島原爆]] [[Category:マンハッタン計画]] [[Category:アメリカ合衆国の核爆弾]] [[Category:著名な兵器]]
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五胡
五胡(ごこ)は、中国の3 - 4世紀に、北方や西方から中国に移住した匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族(少数民族)を指す。これらの部族が五胡十六国時代に次々と中国北部を中心に国家を建てた晋代ごろから使われ始めた。 五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない。五胡が匈奴・鮮卑・羯・氐・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い。また、この5つの民族のみでなく3 - 4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。 漢代までの中国は農民が城内に住んで農耕をしていたのに対して、おもに後漢代から中国に移住した匈奴などの遊牧民族は集落を作って、放牧あるいは半農半牧の生活をして独自の天子や単于の子孫を推戴していた。しかし集団を保っているとはいえ中国に臣属しているので戦闘力として頻繁に使われた。晋代には異民族を境外に移住させる論争(徙戎論)もあったが、八王の乱が起きると諸王が異民族を利用して権力を争い、中国北部を中心に国家を建てた五胡をはじめとする異民族王朝の台頭のきっかけとなった。 秦漢帝国と対峙した北方遊牧民族である匈奴は、漢の武帝の征討等によって次第に国力が衰微すると後漢代に分裂し、西走したものを北匈奴、呼韓邪単于(日逐王)の統制下で華北に移住したものが南匈奴と呼ばれる。後漢や三国魏の抑圧を受けながら南匈奴は漢民族と混在して農耕を受け入れ、定住化し、人口も西晋時代には100万を超えていた。 304年、南匈奴の劉淵が漢王を称して西晋から独立し、劉淵が建てた漢(前趙)は西晋を滅ぼして五胡十六国時代の幕を開けた。同じく五胡十六国時代の407年には南匈奴の末裔を名乗る匈奴鉄弗部の赫連勃勃が夏を建国した。 羯(けつ)は漢代は匈奴に服属していた北西部の遊牧民であり、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた。月氏、康居類縁のトカラ系民族、東イラン系など諸説あり、その特徴は目が窪み鼻が高く髭の濃い顔立ちであったという記録があることから、西方系の種族中心の混血であると推測される。 羯族は石勒の統制下で前趙を滅ぼして華北の大部分を征服した後趙を建てた。後趙が衰退すると、349年に漢人の部将冉閔が羯族を大量に殺し、その後羯族はほぼ歴史から姿を消した。 鮮卑はモンゴル系民族であるとされ、北東部で半牧半農の生活をしていた民族であるが、匈奴が衰退した後漢代にモンゴル高原に覇を唱えていた。180年ごろには檀石槐の統制下で全盛期を迎え、領土を拡大して後漢政府を苦しめた。檀石槐の死後、鮮卑は分裂して後漢や三国魏に懐柔された。その後も統一勢力が出ることはなく、遼西に宇文部・段部・慕容部、陰山北部に拓跋部、さらに西部の小部族が河西や隴西に点在した。 慕容部は慕容廆が遼西に勢力を築き、それを継承した慕容皝が前燕を建てた。前燕は氐族(後述)の前秦に滅ぼされたが、前秦が衰退するとその後継国家として後燕や西燕(十六国に含まれない)が建てられた。南燕は後燕から独立した国家である。いずれも慕容部が建てたが、後燕から簒奪した北燕の創建者の慕容雲は高句麗人である。南涼や西秦などの国家は、西方に点在していた西部鮮卑によって建てられた。拓跋部は慕容部よりも遅れて中国化したが、北方に代国を建て、代国は国号を魏に変えて北魏として華北を統一して五胡十六国時代を終わらせた。段部や宇文部は慕容部に滅ぼされるが、南北朝時代には宇文部の子孫が北周を建てた。 氐族はチベット系遊牧民族で西部の甘粛省・陝西省・四川省に居住していたが、前漢時代には農耕に移行し始めていた。後漢は安撫政策を使ったため、関係は安定していた。しかし三国時代になると征討や強制移住をされ、関中や天水に流入した。また、魏と蜀の両政権に組み込まれた。 氐族の苻洪は後趙に従っていたが、後趙の混乱に乗じて独立して前秦を建てた。前秦は三代目の苻堅の時代に最盛期を迎え、拡大して華北を統一した。その際、西域の平定に向かわせた同じく氐族の呂光が淝水の戦いでの前秦の大敗を聞くと独自の国を立てて後涼とした。 羌族は氐族とともに最も古くみえる部族の一つであり、同じくチベット系で西部の甘粛省・陝西省・四川省に居住していた。前漢時代には分散と連合を繰り返しながら匈奴と連携していた。後漢に服属すると華北各地に点在したが、後漢末に農耕化も進み、人口が増えるとたびたび反乱して後漢にとって脅威となった。三国時代の政権にはそれぞれの国家に戦闘力として利用された。 前秦の瓦解後、羌族の姚萇が独立して後秦を建て、2代目の姚興の代に最盛期を迎えて華北の西部を従えた。 丁零はモンゴル高原北地を故地とするトルコ系の遊牧民族である。鮮卑が檀石槐の死後に勢いを失うと南下して三国時代には戦闘力と使われるなど、中国内地に部分的に住んでいた。基本的に丁零の翟氏は華北の国に服属していたが、後燕から独立して翟魏(十六国に含まれない)を建てた。 後漢末以来、渭水上流の略陽に割拠した氐族系の巴族と考えられる。296年、斉万年の乱や関中一帯の飢饉に遭い大量の流民が発生すると、その酋長である李特により漢中へ南下した。304年、西晋から自立して成漢を建て、四川にその勢力を築いていた。 397年、北涼を建てた沮渠蒙遜の出身の盧水胡は、匈奴や月氏などその起源に諸説あるが、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた。 高句麗は前漢の農耕社会の影響を受けて、1世紀には河北・山西地方にまで侵入するなど、後漢朝廷の脅威となった。後漢末、遼東に割拠した公孫氏と結託して勢力を伸ばしたが、公孫氏が三国魏により滅ぼされると、その圧力に押され始めた。244年、毌丘倹により首都が陥落され、族民の一部が滎陽へ移住して西晋にも服属していた。五胡十六国時代の華北政権にも服属し、前燕や後燕とたびたび覇権を争った。北燕の創建者の慕容雲(高雲)は前燕に敗れた際に移住した高句麗の王族である。
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五胡(ごこ)は、中国の3 - 4世紀に、北方や西方から中国に移住した匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族(少数民族)を指す。これらの部族が五胡十六国時代に次々と中国北部を中心に国家を建てた晋代ごろから使われ始めた。 五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない。五胡が匈奴・鮮卑・羯・氐・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い。また、この5つの民族のみでなく3 - 4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。
[[File:西晉時期北方各族分布圖.png|350px|thumb|西晋時代の北方遊牧民族の領域]] [[File:Wu Hu Uprising.png|thumb|350px|西晋末期に移動した北方遊牧民族の進路]] '''五胡'''(ごこ)は、中国の3 - 4世紀に、北方や西方から中国に移住した[[匈奴]]・[[鮮卑]]・[[羯]]・[[氐]]・[[羌]]の5つの非[[漢民族]]([[少数民族]])を指す。これらの部族が[[五胡十六国時代]]に次々と中国北部を中心に国家を建てた[[東晋|晋]]代ごろから使われ始めた{{Sfn|三崎|2012|pp=31-37}}。 五胡十六国時代に国を建てた少数民族はこの5つ以外にもおり、五という数字に実数の意味はない{{Sfn|三崎|2012|pp=31-37}}。五胡が匈奴・鮮卑・羯・&#27664;・羌を指すことが一般化したのは十三世紀ごろである可能性が高い{{Sfn|三崎|2012|pp=31-37}}。また、この5つの民族のみでなく3 - 4世紀ごろに移住した少数民族の総称として使用されることもある。 == 概要 == [[漢]]代までの中国は農民が城内に住んで農耕をしていたのに対して、おもに[[後漢]]代から中国に移住した匈奴などの遊牧民族は集落を作って、放牧あるいは半農半牧の生活をして独自の天子や[[単于]]の子孫を推戴していた。しかし集団を保っているとはいえ中国に臣属しているので戦闘力として頻繁に使われた{{Sfn|宮崎|2018|pp=124-130}}。[[西晋|晋]]代には異民族を境外に移住させる論争([[徙戎論]])もあったが、[[八王の乱]]が起きると諸王が異民族を利用して権力を争い、中国北部を中心に国家を建てた五胡をはじめとする異民族王朝の台頭のきっかけとなった{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 == 五胡の民族 == === 匈奴 === {{Main|南匈奴}} [[秦]][[漢]]帝国と対峙した北方遊牧民族である匈奴は、漢の[[武帝 (漢)|武帝]]の征討等によって次第に国力が衰微すると[[後漢]]代に分裂し、西走したものを[[匈奴|北匈奴]]、[[呼韓邪単于]](日逐王)の統制下で華北に移住したものが[[南匈奴]]と呼ばれる。後漢や[[魏 (三国)|三国魏]]の抑圧を受けながら南匈奴は漢民族と混在して農耕を受け入れ、定住化し、人口も[[西晋]]時代には100万を超えていた{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 [[304年]]、南匈奴の[[劉淵]]が漢王を称して西晋から独立し、劉淵が建てた漢([[前趙]])は西晋を滅ぼして五胡十六国時代の幕を開けた。同じく五胡十六国時代の[[407年]]には南匈奴の末裔を名乗る匈奴[[鉄弗部]]の[[赫連勃勃]]が[[夏 (五胡十六国)|夏]]を建国した。 === 羯 === {{Main|羯}} 羯(けつ)は漢代は匈奴に服属していた北西部の遊牧民であり、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた。[[月氏]]、[[康居]]類縁の[[トカラ人|トカラ]]系民族、東[[イラン]]系など諸説あり、その特徴は目が窪み鼻が高く髭の濃い顔立ちであったという記録があることから、西方系の種族中心の混血であると推測される{{Sfn|三崎|2012|p=61}}。 羯族は[[石勒]]の統制下で前趙を滅ぼして華北の大部分を征服した[[後趙]]を建てた。後趙が衰退すると、[[349年]]に漢人の部将[[冉閔]]が羯族を大量に殺し、その後羯族はほぼ歴史から姿を消した。 === 鮮卑 === {{Main|鮮卑}} 鮮卑はモンゴル系民族であるとされ、北東部で半牧半農の生活をしていた民族であるが、匈奴が衰退した後漢代にモンゴル高原に覇を唱えていた。[[180年]]ごろには[[檀石槐]]の統制下で全盛期を迎え、領土を拡大して後漢政府を苦しめた。檀石槐の死後、鮮卑は分裂して後漢や三国魏に懐柔された。その後も統一勢力が出ることはなく、[[遼西]]に[[宇文部]]・[[段部]]・[[慕容部]]、[[陰山山脈|陰山]]北部に拓跋部、さらに西部の小部族が[[河西区|河西]]や[[隴西郡|隴西]]に点在した{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 慕容部は[[慕容廆]]が遼西に勢力を築き、それを継承した[[慕容皝]]が前燕を建てた。前燕は&#27664;族(後述)の[[前秦]]に滅ぼされたが、前秦が衰退するとその後継国家として[[後燕]]や[[西燕]](十六国に含まれない)が建てられた。[[南燕]]は後燕から独立した国家である。いずれも慕容部が建てたが、後燕から簒奪した[[北燕]]の創建者の[[高雲|慕容雲]]は[[高句麗]]人である。[[南涼]]や[[西秦]]などの国家は、西方に点在していた西部鮮卑によって建てられた。拓跋部は慕容部よりも遅れて中国化したが、北方に[[代 (五胡十六国)|代国]]を建て、代国は国号を魏に変えて[[北魏]]として[[華北]]を統一して五胡十六国時代を終わらせた{{Sfn|川勝|2003|pp=324-342}}。段部や宇文部は慕容部に滅ぼされるが、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]には宇文部の子孫が[[北周]]を建てた。 === &#27664; === {{Main|氐}} &#27664;族は[[チベット民族|チベット]]系遊牧民族で西部の[[甘粛省]]・[[陝西省]]・[[四川省]]に居住していたが、[[前漢]]時代には農耕に移行し始めていた。後漢は安撫政策を使ったため、関係は安定していた。しかし三国時代になると征討や強制移住をされ、関中や天水に流入した。また、魏と蜀の両政権に組み込まれた{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 &#27664;族の[[苻洪]]は後趙に従っていたが、後趙の混乱に乗じて独立して[[前秦]]を建てた。前秦は三代目の[[苻堅]]の時代に最盛期を迎え、拡大して華北を統一した。その際、[[西域]]の平定に向かわせた同じく&#27664;族の呂光が[[淝水の戦い]]での前秦の大敗を聞くと独自の国を立てて[[後涼]]とした。 === 羌 === {{Main|羌}}羌族は[[氐]]族とともに最も古くみえる部族の一つであり、同じくチベット系で西部の[[甘粛省]]・[[陝西省]]・[[四川省]]に居住していた。前漢時代には分散と連合を繰り返しながら匈奴と連携していた。後漢に服属すると華北各地に点在したが、後漢末に農耕化も進み、人口が増えるとたびたび反乱して後漢にとって脅威となった。三国時代の政権にはそれぞれの国家に戦闘力として利用された{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 前秦の瓦解後、羌族の[[姚萇]]が独立して[[後秦]]を建て、2代目の[[姚興]]の代に最盛期を迎えて華北の西部を従えた。 == その他の少数民族 == === 丁零 === {{Main|丁零}}丁零はモンゴル高原北地を故地とするトルコ系の遊牧民族である。鮮卑が檀石槐の死後に勢いを失うと南下して三国時代には戦闘力と使われるなど、中国内地に部分的に住んでいた{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。基本的に丁零の[[翟魏|翟]]氏は華北の国に服属していたが、後燕から独立して[[翟魏]](十六国に含まれない)を建てた。 === 巴賨 === 後漢末以来、[[渭水]]上流の[[略陽郡|略陽]]に割拠した氐族系の[[巴|巴族]]と考えられる。[[296年]]、[[斉万年]]の乱や[[関中]]一帯の飢饉に遭い大量の流民が発生すると、その酋長である[[李特]]により[[漢中郡|漢中]]へ南下した。304年、西晋から自立して[[成漢]]を建て、四川にその勢力を築いていた{{Sfn|三崎|2012|p=56}}。 === 盧水胡 === [[397年]]、[[北涼]]を建てた[[沮渠蒙遜]]の出身の盧水胡は、匈奴や月氏などその起源に諸説あるが、政治・文化的に匈奴の影響を受けていた{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。 === 高句麗 === {{Main|高句麗}} 高句麗は前漢の農耕社会の影響を受けて、1世紀には河北・山西地方にまで侵入するなど、後漢朝廷の脅威となった。後漢末、遼東に割拠した公孫氏と結託して勢力を伸ばしたが、公孫氏が三国魏により滅ぼされると、その圧力に押され始めた。[[244年]]、[[毌丘倹]]により首都が陥落され、族民の一部が[[滎陽郡|滎陽]]へ移住して西晋にも服属していた{{Sfn|三崎|2012|pp=7-26}}。五胡十六国時代の華北政権にも服属し、前燕や後燕とたびたび覇権を争った。[[北燕]]の創建者の慕容雲([[高雲]])は前燕に敗れた際に移住した高句麗の王族である。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * {{Citation|和書|last=三崎|first=良章|authorlink=三崎良章|title=五胡十六国――中国史上の民族大移動|edition=新訂版|year=2012|publisher=東方書店|isbn=978-4497212221|ref=harv}} * {{Citation|和書|last=川勝|first=義雄|authorlink=川勝義雄|title=魏晋南北朝|series=講談社学術文庫|year=2003|publisher=講談社|isbn=978-4061595958|ref=harv}} * {{Citation|和書|last=宮崎|first=市定|authorlink=宮崎市定|title=大唐帝国|edition=改版|series=中公文庫|year=2018|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122066328|ref=harv}} == 関連項目 == * [[胡]] * [[五胡十六国時代]] * [[中国の異民族]] {{五胡十六国}} {{DEFAULTSORT:ここ}} [[Category:中国史の民族]] [[Category:中央ユーラシア史]] [[Category:名数5|こ]] [[Category:五胡十六国の部族|*]]
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白泉社
株式会社白泉社(はくせんしゃ)は、漫画、絵本、小説などを発行している日本の出版社。一ツ橋グループに属する。 1973年12月1日、集英社から枝分かれする形で編集会社として設立された。1974年5月に少女まんが誌『花とゆめ』(白泉社編集、集英社発行)を創刊。1975年5月に漫画単行本レーベル『花とゆめコミックス』を創刊し、出版事業を開始。1981年3月から7月にかけて出版物の発売元を集英社から自社に移管した。 社名は「泉のごとく申(白)す」、清冽な泉のように滾々と湧き出る「ことば」によって万人の心を癒やし感動させる出版社となりたい、という願いを込めて名付けられた。白泉社のマークは青空高く吹き上がる五条の泉の水、五条は五大を表している。
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株式会社白泉社(はくせんしゃ)は、漫画、絵本、小説などを発行している日本の出版社。一ツ橋グループに属する。 1973年12月1日、集英社から枝分かれする形で編集会社として設立された。1974年5月に少女まんが誌『花とゆめ』(白泉社編集、集英社発行)を創刊。1975年5月に漫画単行本レーベル『花とゆめコミックス』を創刊し、出版事業を開始。1981年3月から7月にかけて出版物の発売元を集英社から自社に移管した。 社名は「泉のごとく申(白)す」、清冽な泉のように滾々と湧き出る「ことば」によって万人の心を癒やし感動させる出版社となりたい、という願いを込めて名付けられた。白泉社のマークは青空高く吹き上がる五条の泉の水、五条は五大を表している。
{{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社白泉社 | 英文社名 = Hakusensha, Incorporated | ロゴ = Hakusensha logo.png | 画像 = [[Image:Hakusensha (2006.05.05).jpg|200px]] | 画像説明 = 白泉社(奥の建物。手前の建物は「神田志乃多寿司」本店である) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 101-0063 | 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[神田淡路町]]二丁目2番地2 | 設立 = [[1973年]][[12月1日]] | 業種 = 情報・通信業 | 事業内容 = 雑誌・書籍・コミックス・文庫・絵本等の発行 | 代表者 = 菅原弘文([[代表取締役]][[社長]]) | 資本金 = 1,000万円 | 売上高 = 133億円(2022年9月期)<ref>{{Cite web|和書|url=https://job.mynavi.jp/24/pc/search/corp71850/outline.html|title=(株)白泉社|publisher=マイナビ|accessdate=2023-03-02}}</ref> | 総資産 = | 従業員数 = 111名(2023年2月1日現在) | 決算期 = | 主要株主 = [[集英社]] | 主要子会社 = | 関係する人物 = 梅村義直(初代社長)<br/>[[小長井信昌]](元社長)<br/>麻木正美(元社長)<br/>坂口紀和(元社長)<br/>青木晟(元社長)<br/>大塚寛(元社長)<br/>[[鳥嶋和彦]](前社長) | 外部リンク = https://www.hakusensha.co.jp/ }} '''株式会社白泉社'''(はくせんしゃ)は、[[漫画]]、[[絵本]]、[[小説]]などを発行している[[日本]]の[[出版社]]。[[一ツ橋グループ]]に属する。 [[1973年]][[12月1日]]、[[集英社]]から枝分かれする形で編集会社として設立された。1974年5月に少女まんが誌『[[花とゆめ]]』(白泉社編集、[[集英社]]発行)を創刊。1975年5月に漫画単行本レーベル『花とゆめコミックス』を創刊し、出版事業を開始。1981年3月から7月にかけて出版物の発売元を集英社から自社に移管した。 社名は「泉のごとく申(白)す」、清冽な泉のように滾々と湧き出る「ことば」によって万人の心を癒やし感動させる出版社となりたい、という願いを込めて名付けられた。白泉社のマークは青空高く吹き上がる五条の泉の水、五条は[[五大]]を表している{{efn2|初代[[代表取締役]]社長の梅村義直の弁(『白泉社30年の歩み 1973-2003』非売品、2003年、13-14頁)。なお、梅村はこのマークを「青天五条水」と名付けているが、『白泉社30年の歩み』で記すまで誰にも明かさなかったという。}}。 == 定期刊行物 == === 少女漫画雑誌 === * [[花とゆめ]](毎月5日・20日発売) ** [[ザ花とゆめ]](1・4・7・10月の25日発売) * [[LaLa]](毎月24日発売) * [[LaLa DX]](偶数月10日発売) * [[MELODY (雑誌)|MELODY]](偶数月28日発売) === 青年漫画雑誌 === * [[ヤングアニマル]](毎月第2・第4金曜日発売) **ヤングアニマルZERO(奇数月9日発売) === 絵本雑誌 === * [[MOE (雑誌)|MOE]](毎月3日発売) === 育児情報誌 === * [https://kodomoe.net/ kodomoe](奇数月7日発売) === コミックアンソロジー === * [[楽園 Le Paradis]] === 電子雑誌 === * 少年ハナトユメ(不定期) *花ゆめAi(毎月20日配信) *[[ハレム (電子雑誌)|ハレム]](毎月29日配信) * Love Silky(毎月第3水曜日配信) * Love Jossie(不定期) * 花丸漫画(偶数月第4金曜日配信) * 小説花丸(毎月第4金曜日配信) * 黒蜜(毎月第2水曜日配信)<ref>{{Cite web|和書|title=女性の刺激的なドラマが満載! あたらしい電子コミック誌「黒蜜」創刊! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000367.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * ホラーシルキー(偶数月第3水曜日配信)<ref>{{Cite web|和書|title=オール新作・描き下ろしホラー系web雑誌「ホラーシルキー」Vol.1、11月13日配信! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000081.000046848.html |website=PR TIMES |accessdate=2021-04-13}}</ref> *Trifle by 花とゆめ(不定期)<ref>{{Cite web|和書|title=少女マンガ誌『花とゆめ』からBL誌が誕生! 電子限定の新雑誌『Trifle by 花とゆめ』配信スタート!!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000372.000046848.html|website=PR TIMES|accessdate=2021-04-13}}</ref> *読む余熱(不定期)<ref>{{Cite web|和書|title=お笑い・芸人・テレビのコラム&レビュー電子雑誌「読む余熱」創刊! M-1グランプリ大特集! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000366.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * ××LaLa(不定期)<ref>{{Cite web|和書|title=少女マンガ誌「LaLa」から電子限定の新雑誌「××LaLa」(バツバツララ)誕生! 3/24から主要電子書店で配信! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000465.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * メロディ+(不定期)<ref>{{Cite web|和書|title=少女漫画雑誌「メロディ」が贈る新電子増刊「メロディ+」誕生! 8/5より「白泉社e-net!」ほか主要電子書店で配信開始! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000578.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> === かつて発行していた主な雑誌 === * [[別冊花とゆめ]](1977年 - 2018年<ref>「別冊花とゆめ」、白泉社、1977年{{全国書誌番号|00030468}}</ref>) * [[月刊少年ジェッツ]](1981年 - 1983年<ref>「月刊少年ジェッツ」、白泉社、1981年{{全国書誌番号|00036006}}</ref>) * 別冊LaLa(1982年 - 1985年) * [[月刊コミコミ|コミコミ]](1983年 - 1988年<ref>「Comi comi」、白泉社、1983年{{全国書誌番号|00038521}}</ref>) * [[Silky]](1985年 - 2013年<ref>「Silky」、白泉社、1985年{{全国書誌番号|00043537}}</ref>)※月刊ウェブ・マガジン『Love Silky』へ移行 * 花ゆめEPO(1985年 - 1990年<ref>「花ゆめEpo」、白泉社、1985年{{全国書誌番号|00043074}}</ref>) * Lady's Comic SERIE(セリエ)(1985年 - 1990年<ref>「Serie」、白泉社、1985年{{全国書誌番号|00043394}}</ref>) * SERIE MYSTERY(セリエミステリー)(1988年 - 1997年<ref>「Serie mystery」、白泉社、1988年{{全国書誌番号|00043394}}</ref>) * [[月刊アニマルハウス]](1989年 - 1992年<ref>「Animal house」、白泉社、1989年{{全国書誌番号|00074299}}</ref>)※後継誌はヤングアニマル * 小説花丸(増刊誌: 1991年 - 1995年、独立創刊: 1995年 - 2011年<ref>「小説花丸」、白泉社、1991年{{全国書誌番号|00102571}}</ref>)※電子版へ移行 * 花曜日(1991年 - 1992年<ref>「花曜日」、白泉社、1991年{{全国書誌番号|00082136}}</ref>) * 花丸漫画(アンソロジー: 1995年 - 1996年、増刊誌: 1996年、独立創刊: 1997年 - 1999年<ref>「花丸漫画」、白泉社、1995年{{全国書誌番号|00101009}}</ref>)※後の同名誌との連続性は無い * プータオ(1996年 - 2001年<ref>「プータオ」、白泉社、1996年{{全国書誌番号|00105249}}</ref>) * [[CANDy]](2000年 - 2006年<ref>「Candy」、白泉社、2000年{{全国書誌番号|00113626}}</ref>) * [[ヤングアニマルあいらんど]](ヤングアニマル増刊: 2004年 - 2013年<ref>「ヤングアニマルあいらんど」、白泉社、2004年{{全国書誌番号|01012646}}</ref>)→[[ヤングアニマルあいらんど|ヤングアニマルイノセント]](ヤングアニマル増刊: 2014年) * [[ヤングアニマル嵐]](ヤングアニマル増刊: 2005年 - 2018年<ref>「ヤングアニマル嵐」、白泉社、2005年{{全国書誌番号|01008770}}</ref>) * [[Silky#増刊誌|Jossie]](Silky増刊: 2008年) * 花丸漫画(アンソロジー: 2011年 - 2013年)※電子版へ移行 * [[LaLa#関連誌|AneLaLa]](LaLa増刊: 2013年 - 2017年、電子版のみ: 2017年 - 2018年) === 書籍 === * [[花とゆめCOMICS]] * [[ヤングアニマルコミックス]] * 白泉社レディースコミックス(略称はHLC) * 白泉社文庫(コミック文庫) * 花丸文庫・花丸文庫BLACK([[ボーイズラブ]]専門レーベル) * 花丸ノベルズ(同上) * 白泉社招き猫文庫(時代小説専門レーベル) * コドモエのえほん * MOEのえほん == 主なサイト・アプリ == === 漫画 === * [[マンガPark]] * [https://manga-lab.net/ マンガラボ!] === 小説 === * WEB白泉社ノベルズ === かつて存在したWEBサイト === * [[ヤングアニマル#ヤングアニマルDensi|ヤングアニマルDensi]] ※マンガParkに統合 * 花LaLa online(花とゆめONLINEとLaLaメロディonlineが合体)※マンガParkに統合 == ベストセラー == === 漫画 === {{Columns-list|colwidth=25em| * 『[[ガラスの仮面]]』([[美内すずえ]]) * 『[[スケバン刑事]]』([[和田慎二]]) * 『[[パタリロ!]]』([[魔夜峰央]]) * 『[[エイリアン通り]]』([[成田美名子]]) * 『[[ここはグリーン・ウッド]]』([[那州雪絵]]) * 『[[ぼくの地球を守って]]』([[日渡早紀]]) * 『[[動物のお医者さん]]』([[佐々木倫子]]) * 『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』([[三浦建太郎]])<ref>{{Cite web|和書|title=三浦建太郎『ベルセルク』最新41巻12月24日(金)発売! 世界中のファンに感謝と敬意をこめて。世界3紙にて、本日同時掲載! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000696.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[赤ちゃんと僕]]』([[羅川真里茂]]) * 『[[っポイ!]]』([[やまざき貴子]]) * 『[[八雲立つ]]』([[樹なつみ]])<ref>{{Cite web|和書|title=「八雲立つ 灼」が表紙に! 巻頭カラーは「ぼくは地球と歌う」! 『メロディ』10月号8月28日発売!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000299.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=河惣益巳画業40周年記念号!! 巻頭カラーは「蜻蛉」&ふろくにミニブックも!! 『メロディ』12月号10月28日発売!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000658.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[天使禁猟区]]』([[由貴香織里]]) * 『[[彼氏彼女の事情]]』([[津田雅美]]) * 『[[闇の末裔]]』([[松下容子]]) * 『[[花ざかりの君たちへ]]』([[中条比紗也]])<ref>{{Cite web|和書|title=「ぼくの地球を守って」「花ざかりの君たちへ」「ふたりエッチ」3作品が全巻無料!白泉社による総合エンタメアプリ【マンガPark】が年末年始キャンペーン実施 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000068.000014185.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[ふたりエッチ]]』([[克・亜樹]])<ref>{{Cite web|和書|title=「ふたりエッチ」連載25周年突入!!感謝を込めて、豪華企画を大放出!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000700.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』([[高屋奈月]])<ref>{{Cite web|和書|title=「フルーツバスケットの世界展 ー高屋奈月 画業30周年へー」が、11月11日から東京・西武池袋本店別館2階の西武ギャラリーで開催! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000669.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[スキップ・ビート!]]』([[仲村佳樹]]) * 『[[桜蘭高校ホスト部]]』([[葉鳥ビスコ]]) * 『[[学園アリス]]』([[樋口橘]])<ref>{{Cite web|和書|title=『学園アリス』樋口橘デビュー25周年記念ガチャが、白泉社公式WEBくじ「漫福ガチャ」で10月8日12時から開催! 期間限定・はずれくじ無しで、限定アイテムが盛りだくさ... |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000640.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[夏目友人帳]]』([[緑川ゆき]]) * 『[[大奥 (漫画)|大奥]]』([[よしながふみ]]) * 『[[ヴァンパイア騎士]]』([[樋野まつり]]) * 『[[デトロイト・メタル・シティ]]』([[若杉公徳]]) * 『[[会長はメイド様!]]』([[藤原ヒロ]]) * 『[[赤髪の白雪姫]]』([[あきづき空太]]) * 『[[3月のライオン]]』([[羽海野チカ]]) * 『[[暁のヨナ]]』([[草凪みずほ]])<ref>{{Cite web|和書|title=2号連続「ヨナ祭り」第2弾!! 今号は表紙&ふろくで「暁のヨナ」のハクが登場!! 『花とゆめ』20号9月18日発売!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000623.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * 『[[なまいきざかり。]]』(ミユキ蜜蜂)<ref>{{Cite web|和書|title=「なまいきざかり。」複製原画セット&高屋奈月SPブックマーカーのWふろくが登場!! 『花とゆめ』23号11月5日発売!! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000662.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> }} === 絵本 === * 『[[しばわんこの和のこころ]]』([[川浦良枝]])<ref>{{Cite web|和書|title=柴犬が和の暮らしを教える「しばわんこの和のこころ」シリーズ最新刊『しばわんこの和のおもてなし』(川浦良枝・作 MOEのえほん/白泉社)が2021年4月23日に発売! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000477.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> * ノラネコぐんだん<ref>{{Cite web|和書|title=ノラネコぐんだん |url=https://noranekogundan.com/ |website=ノラネコぐんだん |accessdate=2020-06-10 |language=ja}}</ref>シリーズ([[工藤ノリコ]])<ref>{{Cite web|和書|title=累計200万部突破の大人気絵本シリーズ最新刊! 工藤ノリコ『ノラネコぐんだん ラーメンやさん』が、11月5日発売! |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000663.000046848.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |accessdate=2022-02-20}}</ref> == CM等 == * 過去に[[ニッポン放送]]系「[[オールナイトニッポン]]」で協賛スポンサーとしてCMがオンエアされていたが、[[2005年]][[12月]]をもって離脱した。 * [[文化放送]]の、[[土曜日]]25:30~26:00に「子安☆私市の花ゆめチックにLaLaしましょ」という[[ラジオ]]番組を放送していた。[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]は[[子安武人]]、[[私市淳]]。[[2002年]][[3月30日]]に番組終了。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[小学館集英社プロダクション]] - 2009年に資本参加。 * [[コミック出版社の会]] * [[デジタルコミック協議会]] == 外部リンク == {{commonscat|Hakusensha}} * [https://www.hakusensha.co.jp/ 公式サイト] * {{twitter|hakusensha}}(2009年6月10日 02:39:44 - )'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' * {{YouTube|u=HakusenshaBooks|HakusenshaBooks}}(2011年1月26日 - ) {{集英社}} {{一ツ橋グループ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はくせんしや}} [[Category:白泉社|*]] [[Category:一ツ橋グループ]] [[Category:日本の出版社]] [[Category:漫画出版社]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:1973年設立の企業]] [[Category:20世紀の日本の設立]]
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ファットマン
ファットマン(英語: Fat Man、「太った男」の意味)は、第二次世界大戦末期にアメリカ合衆国で開発された原子爆弾である。 アメリカ軍の分類番号はMk.3であり、大戦後も製造が継続された。人類史上初の核実験であるトリニティ実験に使用されたガジェットとほぼ同型。 ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。リトルボーイ(Mark 1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。 1945年8月9日に実戦使用されており、長崎県長崎市の北部(現在の松山町)の上空550メートルで炸裂した。長崎市への原子爆弾投下を行ったのは、B-29ボックスカー(機長:チャールズ・スウィーニー少佐)である。爆弾の威力は8月6日に広島県広島市に投下されたリトルボーイより若干威力が高いが、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺された。破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの、死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらした。核出力はTNT換算で、21キロトン ± 2 キロトン、すなわち 8.8×10 J = 88 テラジュールである。 第二次世界大戦終結後も製造が続けられ、Mark 2(ThinMan) というガンバレル型プルトニウム型爆弾は開発中止され、インプロージョン型原爆であるファットマンへと移行し、1940年代のアメリカ軍の核戦力を担った。 アメリカ合衆国では1941年よりマンハッタン計画として核兵器の開発を行っていた。ウランを用いた核兵器の開発(Mark 1=リトルボーイ)は進んでいたものの、プルトニウムを用いた核兵器の開発には障害があり、1943年にガンバレル型(Mark 2=シンマン )とインプロージョン方式(implosion、爆縮)(Mark 3=ファットマン)の両方の開発が進められることとなった。1944年にガンバレル型(Mark 2)は放棄され、インプロージョン方式で開発が継続されることとなった。 核物質にはプルトニウム239を用いている。核出力はTNT換算21キロトンを記録した。インプロージョン方式で用いられている爆縮レンズはジョン・フォン・ノイマンらによって完成した技術である。 使用されたプルトニウムはワシントン州ハンフォードにあるハンフォード・サイトのB原子炉で製造された。 プルトニウム型原爆(インプロージョン方式)の実証のため、1945年7月16日にアメリカ合衆国は、ニューメキシコ州アラモゴード砂漠にあるホワイトサンズ射爆場でファットマンのプロトタイプであるガジェットを用いて人類史上初の核実験であるトリニティ実験を実行した。 ファットマンの特異な形状の空中挙動を確かめるため、通常爆薬を装填した同形・同質量の模擬弾「パンプキン」が作られ、投下訓練の一環として日本に対して実戦投入された。 ファットマン型の原爆はまず3発が製造され、1発が長崎へ投下されたほか、核実験のクロスロード作戦(1946年)で使用された。 1945年7月にヘンリー・スティムソン陸軍長官にファットマン型原爆は毎月1個の生産が可能だと報告されたが、1945年8月15日に戦争が終結し、原爆製造の優先順位が引き下げられたため、生産量は縮小された。ハンフォードのプルトニウム生産炉も中性子照射による損傷で稼動に耐えなくなったため1946年に生産を停止した。 ファットマン自体は戦後も生産が継続され、1947年にはロスアラモス国立研究所にファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能なファットマン型原爆13発が備蓄されていた。1948年までには50発が生産され、1949年までに120発が生産された。改良型のMark 4の生産は1949年からのことである。 ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「シンマン」「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、ロバート・オッペンハイマーのかつての教え子で、自らもマンハッタン計画に参加したロバート・サーバーだった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。Mark 2は細長い形状であったため、ダシール・ハメットの探偵小説『影なき男 (原題:The Thin Man)』とその映画化作品から着想を得て、「シンマン(Thin Man、痩せ男)」と命名された。これに対してMark 3は丸くずんぐりした形状であったため、『マルタの鷹』(ハメットの同名探偵小説の1941年の映画化作品)にて、シドニー・グリーンストリート(英語版)が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された。 なお、イギリス保守党の政治家であるチャーチル首相にちなんだものとする俗説がある。 日本語では、「ふとっちょ(太っちょ)」または「デブ」(『はだしのゲン』など)と翻訳されることもあるが、「ファットマン」の表記もある。 爆縮レンズには合計で2,500キログラムもの爆薬が使用されている。その内部にそれぞれ120キログラムのアルミニウム合金製プッシャーと天然ウラン球があり、中心には6.2キログラムのδ相プルトニウム合金が収められている。 ファットマンの質量の半分以上を爆縮レンズの爆薬が占め、直径は137.8センチメートルもありファットマン(ふとっちょ)という名前の由来にもなっていた。これは当時の技術水準では必要な圧力を得るためにこれだけの分量が必要だったためである。 コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核 の順番に、密度比が1.65/2.71/19.05/19.8となっている。 後年では爆薬部分の密度を上げたり副臨界系を小さくすることで急速に小型化が行われ、最終的には100キロトンクラスの核兵器でも直径30センチメートル程度にまで小型化された。 ファットマンは、通常は最終段階の組み立てを行う前の状態で保管され、使用する直前になって組立作業を行う。これには2つの理由がある。 保管状態では「前部外殻」「後部外殻」「プルトニウムと爆縮レンズの塊」「電源装置」「中性子点火器」の5つのパーツに分解されている。中性子発生器を抜き取った空洞には小さな鉄球が詰め込まれている。 これは爆縮レンズが起爆してプルトニウムが爆縮されても中心に鉄の塊が入っていればそれが邪魔をして爆縮が進まず、核分裂が起きなくなるからである。 組立作業には48時間を要する。 組み立てたままの状態では電池が数日で劣化するため、48時間以内に使用されなかった場合は再び分解して電池を交換する必要がある。
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ファットマン(英語: Fat Man、「太った男」の意味)は、第二次世界大戦末期にアメリカ合衆国で開発された原子爆弾である。  アメリカ軍の分類番号はMk.3であり、大戦後も製造が継続された。人類史上初の核実験であるトリニティ実験に使用されたガジェットとほぼ同型。 ファットマンはマンハッタン計画の一部としてロスアラモス国立研究所で作られた核兵器である。リトルボーイ(Mark 1)が高濃縮ウランを用いたガンバレル型の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。 1945年8月9日に実戦使用されており、長崎県長崎市の北部(現在の松山町)の上空550メートルで炸裂した。長崎市への原子爆弾投下を行ったのは、B-29ボックスカー(機長:チャールズ・スウィーニー少佐)である。爆弾の威力は8月6日に広島県広島市に投下されたリトルボーイより若干威力が高いが、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺された。破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの、死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km2、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらした。核出力はTNT換算で、21キロトン ± 2 キロトン、すなわち 8.8×1013 J = 88 テラジュールである。 第二次世界大戦終結後も製造が続けられ、Mark 2(ThinMan) というガンバレル型プルトニウム型爆弾は開発中止され、インプロージョン型原爆であるファットマンへと移行し、1940年代のアメリカ軍の核戦力を担った。
{{Otheruses}} {{Pathnav|核兵器|核爆弾|原子爆弾|frame=1}} {{複数の問題 |参照方法=2017年10月 |出典の明記=2017年12月}}{{ Infobox Nuclear Weapon | 名称=Mark 3 ファットマン | 画像=file:Fat man.jpg | 画像説明=ファットマンの[[木型|モックアップ]] | タイプ=核分裂式爆弾 | 開発国={{USA1912}} | 配備先=アメリカ陸軍 | 開発期間=1943年-1945年 | 生産期間=1945年-1949年 | 配備期間=1945年-1950年 | 生産数=120発 | 核出力=21 キロトン ± 2 キロトン<ref name="名前なし-20231105131147">[https://www.rerf.or.jp/library/scidata/scids/ds02/pdf/chapter01/cha01-p42-61.pdf Reassessment of the Atomic Bomb Radiation Dosimetry for Hiroshima and Nagasaki –Dosimetry System 2002 –, chapter1] Chapter 1 BOMB PARAMETERS, p.52 Table 2,by George D. Kerr, Robert W. Young, Harry M. Cullings, Robert F. Christy, [[放射線影響研究所]], 2005 </ref><ref name="名前なし_2-20231105131147">この値は、Dosimetry System 2002(2002年線量計測体系)(DS02と呼ばれる再評価体系)の一環である。DS86(1986年線量計測体系)での値が再評価された。</ref> すなわち 8.8×10<sup>13</sup> J = 88 テラ[[ジュール]] | 弾頭=原子爆弾(インプロージョン方式) | 直径=1.524 m(60 インチ) | 長さ=3.2512 m(128インチ) | 重量=4672 kg(10 300ポンド) }} '''ファットマン'''({{lang-en|Fat Man}}、「[[デブ|太った]]男」の意味)は、[[第二次世界大戦]]末期に[[アメリカ合衆国]]で開発された[[原子爆弾]]である。  アメリカ軍の分類番号はMk.3であり、大戦後も製造が継続された。人類史上初の[[核実験]]である[[トリニティ実験]]に使用された[[ガジェット (爆弾)|ガジェット]]とほぼ同型<ref>Hoddeson, Lillian; Henriksen, Paul W.; Meade, Roger A.; Westfall, Catherine L. (1993). Critical Assembly: A Technical History of Los Alamos During the Oppenheimer Years, 1943–1945. New York: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-44132-2. OCLC 26764320. p.377</ref><ref>Coster-Mullen, John (2012). Atom Bombs: The Top Secret Inside Story of Little Boy and Fat Man. Waukesha, Wisconsin: J. Coster-Mullen. OCLC 298514167. p.53</ref>。 ファットマンは[[マンハッタン計画]]の一部として[[ロスアラモス国立研究所]]で作られた[[核兵器]]である。[[リトルボーイ]](Mark 1)が[[高濃縮ウラン]]を用いた[[ガンバレル型]]の原子爆弾であるのに対して、ファットマンはプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾である。 1945年[[8月9日]]に実戦使用されており、[[長崎県]][[長崎市]]の北部(現在の松山町)の上空550メートルで炸裂した。[[長崎市への原子爆弾投下]]を行ったのは、[[B-29_(航空機)|B-29]][[ボックスカー]](機長:[[チャールズ・スウィーニー]]少佐)である。爆弾の威力は[[8月6日]]に[[広島県]][[広島市]]に[[広島市への原子爆弾投下|投下]]されたリトルボーイより若干威力が高いが、長崎市は起伏に富んだ地形で、平坦な広島市に比べて威力が減殺された。破壊の度合いは広島市に比べると小さいものの、死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7 km<sup>2</sup>、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらした。[[核出力]]は[[TNT換算]]で、21キロトン ± 2 キロトン、すなわち 8.8×10<sup>13</sup> J = 88 テラ[[ジュール]]である。 [[第二次世界大戦]]終結後も製造が続けられ、[[Mark 2 (核爆弾)|Mark 2(ThinMan)]] というガンバレル型プルトニウム型爆弾は開発中止され、インプロージョン型原爆であるファットマンへと移行し、1940年代のアメリカ軍の核戦力を担った。 == 経緯 == アメリカ合衆国では1941年より[[マンハッタン計画]]として核兵器の開発を行っていた。ウランを用いた核兵器の開発(Mark 1=[[リトルボーイ]])は進んでいたものの、プルトニウムを用いた核兵器の開発には障害があり、1943年にガンバレル型(Mark 2=[[Mark 2 (核爆弾)|シンマン]] )とインプロージョン方式(implosion、[[爆縮]])(Mark 3=ファットマン)の両方の開発が進められることとなった。1944年にガンバレル型(Mark 2)は放棄され、インプロージョン方式で開発が継続されることとなった。 [[File:Implosion Nuclear weapon tag.svg|thumb|280px|right|インプロージョン方式の模式図]] 核物質には[[プルトニウム]]239を用いている。[[核出力]]は[[TNT換算]]21キロトンを記録した。インプロージョン方式で用いられている[[爆縮レンズ]]は[[ジョン・フォン・ノイマン]]らによって完成した技術である。 使用されたプルトニウムはワシントン州ハンフォードにある[[ハンフォード・サイト]]の[[B原子炉]]で製造された。 プルトニウム型原爆(インプロージョン方式)の実証のため、[[1945年]][[7月16日]]に[[アメリカ合衆国]]は、[[ニューメキシコ州]][[アラモゴード砂漠]]にある[[ホワイトサンズ・ミサイル実験場|ホワイトサンズ射爆場]]でファットマンのプロトタイプである[[ガジェット (爆弾)|ガジェット]]を用いて人類史上初の[[核実験]]である[[トリニティ実験]]を実行した。 ファットマンの特異な形状の空中挙動を確かめるため、通常爆薬を装填した同形・同質量の模擬弾「[[パンプキン爆弾|パンプキン]]」が作られ、投下訓練の一環として日本に対して実戦投入された。 ファットマン型の原爆はまず3発が製造され、1発が長崎へ投下されたほか、核実験の[[クロスロード作戦]](1946年)で使用された。 1945年7月に[[ヘンリー・スティムソン]]陸軍長官にファットマン型原爆は毎月1個の生産が可能だと報告されたが、1945年8月15日に戦争が終結し、原爆製造の優先順位が引き下げられたため、生産量は縮小された。ハンフォードのプルトニウム生産炉も中性子照射による損傷で稼動に耐えなくなったため1946年に生産を停止した。 ファットマン自体は戦後も生産が継続され、[[1947年]]には[[ロスアラモス国立研究所]]にファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能なファットマン型原爆13発が備蓄されていた。1948年までには50発が生産され、1949年までに120発が生産された。改良型の[[Mark 4 (核爆弾)|Mark 4]]の生産は1949年からのことである。 == 命名 == ガンバレル方式・インプロージョン方式のプルトニウム原子爆弾にはそれぞれ「[[Mark 2 (核爆弾)|シンマン]]」「ファットマン」とのコードネームが与えられた。これらの命名を行った人物は、[[ロバート・オッペンハイマー]]のかつての教え子で、自らも[[マンハッタン計画]]に参加した[[ロバート・サーバー]]だった。サーバーはそれぞれの爆弾の外観に基づいて名前を選んだ。[[Mark 2 (核爆弾)|Mark 2]]は細長い形状であったため、[[ダシール・ハメット]]の探偵小説『影なき男 (原題:''The Thin Man'')』とその[[影なき男 (1934年の映画)|映画化作品]]から着想を得て、「シンマン(Thin Man、痩せ男)」と命名された。これに対してMark 3は丸くずんぐりした形状であったため、『[[マルタの鷹 (1941年の映画)|マルタの鷹]]』(ハメットの同名探偵小説の1941年の映画化作品)にて、{{ill2|シドニー・グリーンストリート|en|Sydney Greenstreet}}が演じたキャラクター「カスパー・ガットマン」から着想を得て、「ファットマン(太った男)」と命名された{{sfn|Serber|Crease|1998|p=104}}。 なお、[[イギリス]][[保守党 (イギリス)|保守党]]の政治家である[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]][[イギリスの首相|首相]]にちなんだものとする俗説がある。 [[日本語]]では、「ふとっちょ(太っちょ)」<ref>{{Cite web|和書|url = https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf|title = 広島・長崎の被災状況|author = |date = |publisher = 長崎市|accessdate=2023-06-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://h-nomore-hibakusha.org/cando2/|title = 知っ得・なっ得コーナー|author = |date = |publisher = 北海道ノーモア・ヒバクシャ会館|accessdate=2023-06-01}}</ref>または「[[デブ]]」(『[[はだしのゲン]]』など)と翻訳されることもあるが、「ファットマン」の表記もある<ref>{{Cite web|和書|url = https://nagasakipeace.jp/content/files/souki/leaflet/japanese.pdf|title = 長崎原爆資料館リーフレット|author = |date = |publisher = 長崎市|accessdate=2023-06-01}}</ref>。 == 構造 == [[File:Fat Man External.jpg|thumb|300px|ファットマンの内部構造(全体)]] # AN 219 接地式起爆装置 # 対地測距用アンテナ # 電源 # 起爆用コンデンサー # 爆弾の前後の楕円部分を固定しているヒンジ # プルトニウムと爆縮レンズ # 対地測距用レーダーと起爆用タイマーなどの制御装置 # 起爆制御装置 # 尾翼(20インチのアルミニウム製) {{-}} === プルトニウムと爆縮レンズ内部の構造 === {{File clip|Fat Man Internal Components ja.gif|width=300|35|0|15|0|w=450|h=789|ファットマンの内部構造(起爆装置・爆縮レンズ等)}} [[爆縮レンズ]]には合計で2,500キログラムもの爆薬が使用されている。その内部にそれぞれ120キログラムのアルミニウム合金製プッシャーと天然ウラン球があり、中心には6.2キログラムのδ相プルトニウム合金が収められている。 ファットマンの質量の半分以上を爆縮レンズの爆薬が占め、直径は137.8センチメートルもありファットマン(ふとっちょ)という名前の由来にもなっていた。これは当時の技術水準では必要な圧力を得るためにこれだけの分量が必要だったためである。 コンポジションB/アルミニウム合金製プッシャー/天然ウラン中性子反射器/プルトニウム核 の順番に、密度比が1.65/2.71/19.05/19.8となっている。 後年では爆薬部分の密度を上げたり副臨界系を小さくすることで急速に小型化が行われ、最終的には100キロトンクラスの核兵器でも直径30センチメートル程度にまで小型化された。 == 構成部品 == ; [[起爆電橋線型雷管]] : 衝撃波は1ミリ秒につき8メートルも進むため、32個の雷管が点火するタイミングの許容誤差は0.1マイクロ秒以下になる。このため原爆用に新しい原理の雷管が新規に開発された。詳細は[[起爆電橋線型雷管]]の項目を参照。 ; 起爆装置 : 起爆電源のために、5キロボルト1,000アンペアの大型の高圧オイル[[コンデンサ]]が必要で、0.1マイクロ秒以下の誤差で作動させるために1マイクロ[[ファラッド]]の低[[キャパシタンス]]のスイッチ機構が必要である。これに電力を供給するための新型電池が開発された。コンデンサと電池だけで1トン近い質量があり、爆縮レンズの爆薬に次いで質量を占めている部品である。 ; [[爆縮レンズ]] : 爆薬だけで2.5トンもあり、ファットマンの質量と体積の半分以上を占めている最大の部品である。詳細は[[爆縮レンズ]]の項目を参照。 ; アルミニウム合金製プッシャー : 爆薬と天然ウラン、プルトニウムの間の密度差があまりにも大きいため、爆縮による衝撃波の反射波が大きくなる。すると[[レイリー・テイラー不安定性]]などの流体力学的不安定性が大きくなって衝撃波の高い球対称性が崩れてしまうため、いったんアルミニウム合金製プッシャーで衝撃波を受け止めるようになっている。レイリー・テイラー不安定性が大きくなると[[レイリー・テイラー波]]が発生して圧力が低下するのを防ぐ目的もある。 ; [[中性子反射体]] 兼 タンパー(Tamper) : 核分裂物質から発生した[[中性子]]が外部に逃げてしまって連鎖反応が止まらないようにするため、中性子反射体が必要である。ファットマンでは[[天然ウラン]]を用いており、中性子反射体としては厚さ3センチメートルで十分であるが、1ナノ秒の間に80回の連鎖反応を繰り返すまでは核分裂物質を一か所に留めておく必要がある。この押さえがタンパーである。核分裂物質を1ナノ秒間押さえ込むためにタンパーにはある程度の慣性質量が必要で、これを兼ねるために7センチメートルの厚さになった。 : 後年の研究では、熱量の20パーセントは天然ウランによる副臨界系から発生したと言われている。 ; 中性子点火器 : この装置は、プルトニウムが[[核分裂反応]]を起こすために必要な最初の中性子線を出すための装置である。点火器という名称は燃焼(核分裂反応)を始めるために必要な火種となる中性子を出すための装置であることに由来している。 : 構造は質量7グラムの[[ベリリウム]]球の表面に楔形の溝15本を掘り込んで厚さ0.1ミリメートルの金メッキを施し、さらに11ミリグラムの[[ポロニウム210]]をメッキしたものである。爆縮によって急に[[ベリリウム]]と[[ポロニウム]]が混合されると、[[ポロニウム]]が放射した[[アルファ粒子]]が[[ベリリウム]]原子に衝突し、束縛から解き放たれた中性子を放射する。 == 起爆過程 == [[File:Fat_Man_Detonation.png|center|ファットマンの起爆過程]] * {{legend|#ffff00|[[起爆電橋線型雷管]]が32個同時に起爆する。}} * {{legend|#cc6633|[[衝撃波]]は起爆した地点から放射状に広がっていく。}} * {{legend|#d79563|早い爆薬:[[コンポジション爆薬|コンポジションB]]}} * {{legend|#ffcc99|遅い爆薬:[[バラトール]](32個の遅い爆薬の中で衝撃波がレンズの中の光のように屈折する)}} * {{legend|#d79563|早い爆薬:[[コンポジション爆薬|コンポジションB]]}} * {{legend|#c6c6c6|[[アルミニウム]]合金製プッシャー(低密度の爆薬から高密度のウランに衝撃波が投射されると、その密度差から[[レイリー・テイラー波]]と呼ばれる低圧の波が発生して十分な圧力をプルトニウムに加えることが出来なくなる。これを抑えるために、いったん爆薬より高密度な軽金属に衝撃波を投射してからプルトニウムへ伝達している)}} * {{legend|#008000|'''中性子点火器'''が爆縮の衝撃波を受けると[[ポロニウム]]殻と内部の[[ベリリウム]]球が急激に混合され、[[ポロニウム210]]が放射した[[アルファ粒子]]が[[ベリリウム]]に衝突して中性子を10ナノ秒に1個の割合で周期的に放出する。}} * {{legend|#ff0000|低密度デルタ相の合金である核が爆縮による衝撃波で発生した数百万気圧の圧力によってアルファ相に転移すると、密度が増加して大きな反作用挿入を起こす。これに'''中性子点火器'''から放出された中性子が当たると急激に[[核分裂反応]]が進む。}} * {{legend|#808080|[[天然ウラン]]のタンパーが発生した[[中性子]]を反射して核分裂の効率を高める。}} * {{legend|#0000ff|ホウ素合金の殻が発生した核分裂中性子を低速の熱中性子にし、散乱して[[天然ウラン]]のタンパーに戻るのを防止することで核分裂の効率を高める。}} == ファットマンの組み立て == {{Double image aside|right|Fat Man Assembly Tinian 1945.jpg|200|Fat Man Assembled Tinian 1945.jpg|200|内殻を外殻に組み込んでいる工程|組み立てたファットマンを輸送}} ファットマンは、通常は最終段階の組み立てを行う前の状態で保管され、使用する直前になって組立作業を行う。これには2つの理由がある。 # 安全上の理由<br>完成状態では火災や搭載機の墜落などの事故により爆縮レンズが起爆すると[[核爆発]]が起こってしまうため。 # 設計上の理由<br>起爆装置には極めて大きな電源が必要であり、完成状態では電池が数日で劣化してしまうため。 保管状態では「前部外殻」「後部外殻」「プルトニウムと爆縮レンズの塊」「電源装置」「中性子点火器」の5つのパーツに分解されている。中性子発生器を抜き取った空洞には小さな鉄球が詰め込まれている。 これは爆縮レンズが起爆してプルトニウムが爆縮されても中心に鉄の塊が入っていればそれが邪魔をして爆縮が進まず、核分裂が起きなくなるからである。 組立作業には48時間を要する。 組み立てたままの状態では[[電池]]が数日で劣化するため、48時間以内に使用されなかった場合は再び分解して電池を交換する必要がある。 == 要目 == [[画像:Fat Man names on bomb.jpg|thumb|280px|ファットマンの尾翼には開発者達のサインが書かれていた]] {|border=1 class="wikitable" |- ! 質量 | 4,672 kg (10 300 [[ポンド (質量)|lb]]) |- ! 全長 | 3.2512 m (128 [[インチ|in]]) |- ! 最大直径 | 1.524 m (60 [[インチ|in]]) |- ! 中心核 | 6.2 kg 低密度デルタ相[[プルトニウム]]合金 (プルトニウム<sup>239</sup>と[[ガリウム]]) |- ! 中性子反射器 | [[天然ウラン]] (ウラン <sup>238</sup>U) |- ! 中性子発生器 | [[ベリリウム]]-[[ポロニウム]] |- ! [[爆縮レンズ]] | [[コンポジション爆薬|コンポジション-B]] (60 % [[ヘキソーゲン]], 39 % [[トリニトロトルエン|TNT]])、<br/>[[バラトール]]([[トリニトロトルエン|TNT]]と[[硝酸バリウム]]) |- ! 信管 | 接地式、対地距離レーダー式 |- ! 核出力 | [[TNT換算]] 21 キロトン ± 2 キロトン<ref name="名前なし-20231105131147"/><ref name="名前なし_2-20231105131147"/> すなわち 8.8×10<sup>13</sup> J = 88 テラ[[ジュール]] |} == 出典 == {{Reflist}} == 参考資料 == * The Los Alamos Primer(ISBN 0520075765) * {{cite book |last=Serber |first=Robert |authorlink=Robert Serber |first2=Robert P. |last2=Crease |title=Peace & War: Reminiscences of a Life on the Frontiers of Science |location=New York |publisher=Columbia University Press |year=1998 |isbn= 9780231105460 |oclc=37631186 |ref= harv}} == 関連項目 == * [[核兵器一覧]] * [[リトルボーイ]] == 外部リンク == * {{Cite web|和書|title=原子爆弾 “ファットマン”そのメカニズム |url=https://web.archive.org/web/20151003133254/https://www.nhk.or.jp/special/70years/pluto.html|website=70年目の戦争と平和 |accessdate=2022-02-17 |publisher=日本放送協会}} * {{コトバンク}} {{マンハッタン計画}} {{DEFAULTSORT:ふあつとまん}} [[Category:長崎原爆]] [[Category:マンハッタン計画]] [[Category:アメリカ合衆国の核爆弾]] [[Category:第二次世界大戦のアメリカ合衆国の航空爆弾]] [[Category:プルトニウム]] [[Category:著名な兵器]]
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胡(こ)は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。 もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。 「胡」は戦国時代、内モンゴルの塞外民族を指していたが(→北狄)、秦漢朝では特に匈奴を指すことが多くなった。唐代にいたり、シルクロードの往来が活発になると、「胡」は特に「西胡」ともいわれ、西方のペルシャ系民族(ソグド人)を指すようになった。彼らがトルキスタンから唐土に運んだ文物、風俗は「胡風趣味」として愛好され、胡服、胡笛、胡舞などが中国で一文化として根付いていった。 春秋時代から漢代にかけ内モンゴル東部にいた遊牧狩猟民族で、胡(匈奴)の東方に住んでいたことからの呼称という。モンゴル(またはテュルク)とツングースの雑種であり、秦代になると一時は匈奴を圧倒したが、冒頓単于により壊滅させられた。烏桓や鮮卑はその後裔といわれる。 朝鮮語で、胡 (호)には、「中国で夷狄を呼んだ言葉」のほか、「女真族 中國東北蠻人」、「豆満江北部に住んでいた女真族」などの意味がある。また、李氏朝鮮では、清を胡と位置づけて「淸 (清)」のことを「胡國 (胡国)」と呼称し、衛正斥邪の見地から人倫的および文化的に夷狄即胡虜視する対清観が一貫して流れていた。この背景には、朱子学の名分論に基づいて明を崇め、清を胡として蔑しめる風潮、中華文明の伝統は清朝によって夷狄化したとして蔑視し、その人びとを「胡虜」か「犬羊」とけなし、中華の正統を継ぐのは朝鮮だけだという唯我独尊的な小中華思想があった。 漢字文化圏には古来より「胡」という姓が存在し、霊太后の父胡国珍、北宋の儒者胡安国、中国共産党総書記の胡錦濤、ベトナムの国父ホー・チ・ミン(胡志明)などがいる。 その起源は、華人に同化した異民族出身の者が漢風の姓を付けたのが始まりとも言われるが、通志の氏族略が伝えるところによると、春秋時代の陳の初代君主胡公に由来し、陳の滅亡後に陳の遺民が名乗ったのが始まりと書かれている。 百家姓において、「胡」の姓は十三大姓の一つに数えられている。
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胡(こ)は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。 もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。
{{Otheruseslist|古代中国の北方・西方民族の蔑称|[[漢姓|漢字文化圏の姓]]|胡 (姓)|春秋時代の胡|胡 (春秋)|日本の神|えびす|その他の「えびす」|えびす (曖昧さ回避)}} {{観点|蔑称の意味のみを強調し過ぎではないか|date=2015年8月}} '''胡'''('''こ''')は、古代中国の[[中国の異民族|北方・西方民族]]に対する蔑称<ref>相原茂/荒川清秀/大川完三郎主編『東方中国語辞典』[[東方書店]]/北京[[商務印書館]]共同編集、2004年、ISBN 978-4497203120、554頁</ref>。「[[胡瓜]]」、「[[胡弓]]」、「[[胡姫]]」のように、これらの異民族由来のものである事を示す用法がある。 もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である<ref>http://www.zdic.net/z/21/xs/80E1.htm</ref>。 == 西胡 == 「胡」は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]、[[内モンゴル]]の塞外民族を指していたが(→[[狄|北狄]])、[[秦]][[漢]]朝では特に[[匈奴]]を指すことが多くなった。[[唐代]]にいたり、[[シルクロード]]の往来が活発になると、「胡」は特に「'''西胡'''」ともいわれ、西方の[[ペルシア人|ペルシャ系民族]]([[ソグド人]])を指すようになった。彼らが[[トルキスタン]]から唐土に運んだ文物、風俗は「胡風趣味」として愛好され、胡服、胡笛、胡舞などが中国で一文化として根付いていった。 == 東胡 == {{main|東胡}} [[春秋時代]]から[[漢]]代にかけ[[内モンゴル]]東部にいた遊牧狩猟民族で、胡([[匈奴]])の東方に住んでいたことからの呼称という<ref name="Yasuda">[[安田二郎]]「とうこ 東胡 Dōng hú)」『平凡社世界大百科事典 第20巻』平凡社、2007年9月1日 改訂新版発行、19頁。</ref>。{{要出典範囲|date=2015-08-18|[[モンゴル]](または[[テュルク]])とツングースの雑種であり}}、秦代になると一時は匈奴を圧倒したが、[[冒頓単于]]により壊滅させられた<ref name="Yasuda"/>。[[烏桓]]や[[鮮卑]]はその後裔といわれる<ref name="Yasuda"/>。 == 朝鮮語における胡 == [[朝鮮語]]で、'''胡 (호)'''には、「中国で[[夷狄]]を呼んだ言葉」<ref>安田吉実、孫洛範 [編]『エッセンス韓日辞典 机上版』1989年1月20日発行、民衆書林、ISBN 4-89174-105-8、2437頁。「胡亂」=「胡人による兵亂」(同2239頁)、「胡人」=「満洲人、野蠻人、外国人」(同2243頁)</ref>のほか、「[[女真族]] 中國東北[[野蛮|蠻人]]」<ref>弘字出版編集部 [編]『最新漢韓辞典』、1984年初版発行、1989年1月20日改訂版発行、民衆書林、ISBN 4-89174-106-6、626~627頁。</ref>、「[[豆満江]]北部に住んでいた女真族」<ref>[[大阪外国語大学]]朝鮮語研究室 [編]『朝鮮語大辞典』[[角川書店]]、昭和61年2月20日、ISBN 4-04-012200-3、2575頁。</ref>などの意味がある。また、[[李氏朝鮮]]では、清を胡と位置づけて<ref name="琴66">[[琴秉洞]]『朝鮮人の日本観: 歴史認識の共有は可能か』総和社、2002年、66頁。</ref>「淸 ([[清]])」のことを「胡國 ([[胡国]])」と呼称し、[[衛正斥邪]]の見地から<ref name="琴66"/>人倫的および文化的に夷狄即胡虜視する対清観が一貫して流れていた<ref>[[飯沼治郎]]、[[姜在彦]]『近代朝鮮の社会と思想』未来社、1981年、46頁。</ref>。この背景には、[[朱子学]]の[[名分論]]に基づいて[[明]]を崇め、清を胡として蔑しめる風潮<ref>[[金哲央]]『人物・近代朝鮮思想史』[[雄山閣]]、1984年、76頁。</ref>、中華文明の伝統は清朝によって夷狄化したとして蔑視し、その人びとを「胡虜」か「犬羊」とけなし、中華の正統を継ぐのは朝鮮だけだという唯我独尊的な[[小中華思想]]があった<ref>[[河宇鳳]]『朝鮮実学者の見た近世日本』ぺりかん社、2001年、389頁。</ref>。 == 姓 == {{main|胡 (姓)}} 漢字文化圏には古来より「[[胡 (姓)|胡]]」という姓が存在し、[[霊太后]]の父[[胡国珍]]、[[北宋]]の儒者[[胡安国]]、[[中国共産党]][[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]の[[胡錦濤]]、ベトナムの国父[[ホー・チ・ミン]](胡志明)などがいる。 その起源は、華人に同化した異民族出身の者が[[漢姓|漢風の姓]]を付けたのが始まりとも言われるが、[[通志]]の氏族略が伝えるところによると、[[春秋時代]]の[[陳 (春秋)|陳]]の初代君主[[胡公 (陳)|胡公]]に由来し、陳の滅亡後に陳の遺民が名乗ったのが始まりと書かれている。 [[百家姓]]において、「胡」の姓は十三大姓の一つに数えられている。 == 「胡」のつく言葉 == * [[胡弓]] - こきゅう * [[二胡]] - にこ * [[高胡]] - こうこ * [[キュウリ|胡瓜]] - きゅうり * [[クルミ|胡桃]] - くるみ * [[コショウ|胡椒]] - こしょう * [[ゴマ|胡麻]] - ごま * [[胡坐]] - あぐら * 胡散臭い - うさんくさい * [[胡蝶 (曖昧さ回避)|胡蝶]] - こちょう([[チョウ|蝶]]の別名) * [[スズメバチ|胡蜂]] - すずめばち * [[胡粉]] - ごふん == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group=注釈}}---> === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == * [[五胡十六国]] {{DEFAULTSORT:こ}} [[Category:中国史の民族]]
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LaLa
『LaLa』(ララ)は、白泉社の発行する少女向け漫画雑誌。毎月24日発売。キャッチコピーは「バラエティに富んだ パワーあふれるコミック誌」。版型はB5判。 1974年に『花とゆめ』を創刊させ、当時同誌の編集長であった小長井信昌は、同誌を軌道に乗せることに成功した。小長井はその「次なるプロジェクト」として、1976年7月に隔月刊誌として本誌を創刊。創刊号は山岸凉子の「花の精たち」というイラストが表紙を飾った。創刊時の表紙について、成田美名子は「枠の中に入っていて、すごくおしゃれ。当時はこういうデザインがなかったので、すごく新鮮」だと語っている。創刊号には美内すずえ、和田慎二、木原としえ、萩尾望都、竹宮恵子、倉多江美、三原順などの漫画家の作品が掲載された。 創刊当時の誌名は『花とゆめ LaLa』であり、価格は260円。初代編集長は小長井信昌が務めた。キャッチフレーズは「ビューティフルなまんが雑誌」であった。創刊号は24万8千部で、売行きは97.3パーセントという驚異の数字であったため、売り切れる店が続出したという。 創刊からちょうど1年後の1977年7月に同年9月号をもって月刊化され、誌名も『LaLa』へと変更された。それから1年の間、表紙を萩尾望都が担当した。本誌は「花とゆめよりも高い年齢層をカバーする少女マンガ誌」という位置づけであった。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に三原順の『ルーとソロモン』、和田慎二の『あさぎ色の伝説』、木原敏江の『摩利と新吾』、美内すずえの『黒百合の系図』、大島弓子の『綿の国星』、青池保子の『Z -ツェット-』、坂田靖子の『バジル氏の優雅な生活』などがある。 1979年7月、初の増刊号である『LaLa2月大増刊』が刊行される。 女子漫画研究家の小田真琴によると、初期の本誌は24年組が支えていた。例として山岸凉子の『日出処の天子』や大島弓子の『綿の国星』を挙げている。編集長の小長井は、集英社で『別冊マーガレット』の編集者として活動し、同誌で鈴木光明たちと創設した「マンガスクール」での経験を活かし、「白泉社でも新人の発掘・育成に力を入れて」いた。それにより、本誌から成田美名子、森川久美、ひかわきょうこ、樹なつみ、清水玲子などがデビューを果たす。 1980年代には『別冊LaLa SUMMER』をはじめとした増刊を多く刊行。「一つのマンガ誌が成功すると、それに付随して、別冊、増刊類の雑誌群、そしてコミックスのような単行本群が、比較的容易に出せるうまみと利点がある」という考えを持つ小長井によると、「グループの知名度も上り、かつマンガ家の活躍の場を作り、また有望作家や新人を他誌、他社にとられぬよう確保、維持する」目的のためであった。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に山岸凉子の『日出処の天子』、成田美名子の『CIPHER』、吉田秋生の『櫻の園』、なかじ有紀の『小山荘のきらわれ者』、安孫子三和の『みかん・絵日記』、清水玲子の『月の子 MOON CHILD』、樹なつみの『花咲ける青少年』などがある。1984年には『綿の国星』が劇場アニメ化されている。 コミックナタリーによると、このころの主な作品にやまざき貴子の『っポイ!』、ひかわきょうこの『彼方から』、清水玲子の『輝夜姫』、樹なつみの『八雲立つ』、猫山宮緒の『今日もみんな元気です』、森生まさみの『おまけの小林クン』、平井摩利の『火宵の月』、津田雅美の『彼氏彼女の事情』、マツモトトモの『キス』、田中メカの『お迎えです。』などがある。 1990年代には吉田秋生の『櫻の園』、安孫子三和の『みかん・絵日記』、津田雅美の『彼氏彼女の事情』、やまざき貴子の『っポイ!』がメディアミックス化されている。 2001年に創刊25周年を迎える。その記念に「LaLa25★25 SUMMER FESTIVAL」が企画され、原画展などを開催。2004年、創刊28周年を記念して、本誌初となるドラマCDが付属される。『桜蘭高校ホスト部』、『彼氏彼女の事情』、『美女が野獣』、『めるぷり メルヘン☆プリンス』、『おまけの小林クン』のボイスドラマが収録された。2007年、30周年を記念して、立正大学大崎キャンパスにて、イベント「ララ学園☆夏祭り」を開催。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に水野十子、ルビーパーティーによる『遙かなる時空の中で』、葉鳥ビスコの『桜蘭高校ホスト部』、呉由姫、ルビーパーティーによる『金色のコルダ』、樋野まつりの『ヴァンパイア騎士』、にざかなの『4ジゲン』、藤原ヒロの『会長はメイド様!』、あきづき空太の『赤髪の白雪姫』、緑川ゆきの『夏目友人帳』、原作:有川浩、弓きいろによる『図書館戦争 LOVE&WAR』、可歌まとの『狼陛下の花嫁』、時計野はりの『学園ベビーシッターズ』などがある。 2000年代には宇野亜由美の『オコジョさん』、葉鳥ビスコの『桜蘭高校ホスト部』、樹なつみの『獣王星』、樋野まつりの『ヴァンパイア騎士』、緑川ゆきの『夏目友人帳』、吉田秋生の『櫻の園』、樹なつみの『花咲ける青少年』がメディアミックス化されている。 2011年、創刊35周年を記念して、新宿駅コンコースのメトロプロムナード壁面にて、本誌歴代35作品のポスターを掲示。2016年7月23日から8月2日まで、創刊40周年を記念して原画展「美しい少女まんがの世界」を開催。2018年より本誌の電子版配信が開始。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に天乃忍の『ラストゲーム』、池ジュン子の『水玉ハニーボーイ』、斎藤けんの『天堂家物語』、縞あさとの『君は春に目を醒ます』、林みかせの『マリッジパープル』、冬夏アキハルの『転生悪女の黒歴史』などがある。 2010年代には藤原ヒロの『会長はメイド様!』、葉鳥ビスコの『桜蘭高校ホスト部』、あきづき空太の『赤髪の白雪姫』、田中メカの『お迎えです。』、時計野はりの『学園ベビーシッターズ』がメディアミックス化されている。 単行本は、白泉社の総合レーベル「花とゆめコミックス」より刊行されており、「白泉社文庫」にも収録されている作品もある。 誌名について、「多くの読者に愛されるよう、親しみやすい」名称にするために4つの由来がある。姓名判断より「外国の女の子の名前」、「口ずさみやすく馴染みの深い「歌声」」、「『ドクトル・ジバゴ』のヒロインの名前」より「名作」、「当時のフランスの少女たちにポピュラーな人形の名前」より「かわいい人形」の4つ。 初代編集長の小長井信昌によると、創刊時は『花とゆめ』よりやや上の読者層で「マンガ読みのための雑誌」を想定していた。しかし小長井のコンセプトである「オタクとかマニア向に偏しない、『わかりやすくおもしろい』という、マンガへのかねての私の持論は絶対外さないように」していた。編集長の佐藤一哉は、小長井は創刊時に過去に編集長を務めていた雑誌の『別冊マーガレット』とは異なる「ドラマ性をもった作品」を制作し、「懐の深い雑誌であろうという意志」があったと思うと話している。 マンガ研究者のヤマダトモコによると、創刊ごろの本誌は「当時注目の漫画家がほかの雑誌では描けない作品をLaLaで描く」といった様子で「新しいことをしている雑誌という印象」であった。「少女マンガの世界が恋愛一辺倒みたいになっていたころに、それとは違うタイプの作品がたくさん載っていた」と語っている。 編集長を務める佐藤一哉によると、本誌や『花とゆめ』には「代々引き継がれている何か」はないが、「学園が舞台の恋愛マンガ以外を読みたいと思っている読者の受け皿になりたい」という気風が受け継がれており、「雑多性の強い雑誌」である。 ライターの立花ももは、本誌に夢中になる理由として「恋愛一辺倒」ではなく、「物語の枠組みを重視している」点を挙げている。立花によると、本誌や『花とゆめ』は「王道の設定を著者の好みで自在にアレンジしていくもの」や「フェチ性の強い作品」が多く見られる。 2024年1月号現在。 コミカライズを除くオリジナル作品に限る。 従来の別冊・増刊など各誌の再編が始まり、1983年には姉妹誌の季刊『LaLa DELUXE』(のち『LaLa DX』)が創刊。 他方、それまでの『LaLa大増刊』を引き継いで同1985年夏に登場した『LaLaスペシャルWendy』は、翌1986年夏に『LaLaスペシャルCindy』に改題し、1987年には短編特集の増刊『Short Stories』も登場するなど、約2年間にわたって題号や発行周期に混乱が見られたが、1988年に季刊の『LaLa Club』(『LaLa SPRING Club』など)に一本化して1990年まで刊行した。1991年には『LaLa'』に再改題して計3回刊行したのを最後に、季刊増刊誌は一時消滅した。 のち『Lunatic LaLa』(1994年-1996年、年2回刊)、『LaLaスペシャル』(2004年-2010年、初期は年刊・後期は不定期刊)などが登場している。
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"誌名について、「多くの読者に愛されるよう、親しみやすい」名称にするために4つの由来がある。姓名判断より「外国の女の子の名前」、「口ずさみやすく馴染みの深い「歌声」」、「『ドクトル・ジバゴ』のヒロインの名前」より「名作」、「当時のフランスの少女たちにポピュラーな人形の名前」より「かわいい人形」の4つ。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初代編集長の小長井信昌によると、創刊時は『花とゆめ』よりやや上の読者層で「マンガ読みのための雑誌」を想定していた。しかし小長井のコンセプトである「オタクとかマニア向に偏しない、『わかりやすくおもしろい』という、マンガへのかねての私の持論は絶対外さないように」していた。編集長の佐藤一哉は、小長井は創刊時に過去に編集長を務めていた雑誌の『別冊マーガレット』とは異なる「ドラマ性をもった作品」を制作し、「懐の深い雑誌であろうという意志」があったと思うと話している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "マンガ研究者のヤマダトモコによると、創刊ごろの本誌は「当時注目の漫画家がほかの雑誌では描けない作品をLaLaで描く」といった様子で「新しいことをしている雑誌という印象」であった。「少女マンガの世界が恋愛一辺倒みたいになっていたころに、それとは違うタイプの作品がたくさん載っていた」と語っている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "編集長を務める佐藤一哉によると、本誌や『花とゆめ』には「代々引き継がれている何か」はないが、「学園が舞台の恋愛マンガ以外を読みたいと思っている読者の受け皿になりたい」という気風が受け継がれており、「雑多性の強い雑誌」である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ライターの立花ももは、本誌に夢中になる理由として「恋愛一辺倒」ではなく、「物語の枠組みを重視している」点を挙げている。立花によると、本誌や『花とゆめ』は「王道の設定を著者の好みで自在にアレンジしていくもの」や「フェチ性の強い作品」が多く見られる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2024年1月号現在。", "title": "現在の掲載作品" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "コミカライズを除くオリジナル作品に限る。", "title": "映像化作品" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "従来の別冊・増刊など各誌の再編が始まり、1983年には姉妹誌の季刊『LaLa DELUXE』(のち『LaLa DX』)が創刊。", "title": "関連誌" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "他方、それまでの『LaLa大増刊』を引き継いで同1985年夏に登場した『LaLaスペシャルWendy』は、翌1986年夏に『LaLaスペシャルCindy』に改題し、1987年には短編特集の増刊『Short Stories』も登場するなど、約2年間にわたって題号や発行周期に混乱が見られたが、1988年に季刊の『LaLa Club』(『LaLa SPRING Club』など)に一本化して1990年まで刊行した。1991年には『LaLa'』に再改題して計3回刊行したのを最後に、季刊増刊誌は一時消滅した。", "title": "関連誌" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "のち『Lunatic LaLa』(1994年-1996年、年2回刊)、『LaLaスペシャル』(2004年-2010年、初期は年刊・後期は不定期刊)などが登場している。", "title": "関連誌" } ]
『LaLa』(ララ)は、白泉社の発行する少女向け漫画雑誌。毎月24日発売。キャッチコピーは「バラエティに富んだ パワーあふれるコミック誌」。版型はB5判。
{{Otheruses||その他の「LaLa」|ララ}} {{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 =LaLa manga magazine.png | 画像サイズ =200px | 画像説明 = | 誌名 = LaLa(ララ) | 英文誌名 = | 誌名略称 = | ジャンル = [[少女漫画]] | 読者対象 = [[少女]] | 刊行頻度 = [[隔月刊]] → [[月刊]] | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 定価 = 470円(2014年6月号以降)<!--消費税8%で値上げ:2月発売の4月号までは表紙に「税込450円」表示、3月発売の5月号のみ「税抜429円」表示、4月発売の6月号より表紙での定価表示は記載なし。---> | 出版社 = [[白泉社]] | 編集部名 = | 発行人 = | 編集人1役職 = | 編集人1氏名 = 佐藤一哉{{R|realsound20210725}} | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = 09205 | 刊行期間 = [[1976年]]7月 - | 発行部数 = 58,500<!--<ref>{{Cite web|url=https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index|title=印刷証明付部数|publisher=日本雑誌協会|accessdate=2023-11-06}}</ref>--> | 発行部数調査年月 = 2023年7月 - 2023年9月 | 発行部数調査機関 = [[日本雑誌協会]] | レーベル = [[花とゆめコミックス]] | 姉妹誌 = [[LaLa DX]]、××LaLa | ウェブサイト = [http://www.hakusensha.co.jp/ 白泉社オンライン] | 特記事項 = }} 『'''LaLa'''』(ララ)は、[[白泉社]]の発行する[[少女]]向け[[漫画雑誌]]。毎月24日発売<ref name="hakusensha">{{Cite web|和書|url=https://www.hakusensha.co.jp/magazine/|title=白泉社が発刊する雑誌一覧|publisher=白泉社|accessdate=2022-09-03}}</ref>。キャッチコピーは「バラエティに富んだ パワーあふれるコミック誌」{{R|hakusensha}}。版型はB5判{{R|hakusensha}}。 == 歴史 == === 創刊 === [[1974年]]に『[[花とゆめ]]』を創刊させ、当時同誌の編集長であった小長井信昌は、同誌を軌道に乗せることに成功した{{R|natalie20190620}}。小長井はその「次なるプロジェクト」として{{R|natalie20190620}}、[[1976年]]7月に[[隔月刊|隔月刊誌]]として本誌を創刊<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000029087-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|Lala(白泉社)1976] ※同資料では「1巻1号(昭和51年9月)」と記載。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20141229030955/http://books.rakuten.co.jp/rb/12832540/ 楽天ブックス LaLa(ララ)2014年09月号[雑誌]- 白泉社](2014年12月29日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])※7月24日発売の同年9月号表紙にて「LaLa 38th ANNIVERSARY!」と記載。</ref><ref name="natalie20210524">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/pp/lala45th|title=LaLa創刊45周年!夢中になったあのキャラクター、忘れられないあのシーンを生んだ“ビューティフルなまんが雑誌”の歴史を振り返る|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-05-24|accessdate=2021-07-23}}</ref>。創刊号は[[山岸凉子]]の「花の精たち」というイラストが表紙を飾った{{R|natalie20210524|natalie20210721-2}}。創刊時の表紙について、[[成田美名子]]は「枠の中に入っていて、すごくおしゃれ。当時はこういうデザインがなかったので、すごく新鮮」だと語っている<ref name="natalie20160723">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/195589|title=LaLa原画展、本日から!40年の歴史に鳥嶋和彦や成田美名子も驚嘆|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-07-23|accessdate=2021-07-23}}</ref>。創刊号には[[美内すずえ]]、[[和田慎二]]、[[木原敏江|木原としえ]]、[[萩尾望都]]、[[竹宮恵子]]、[[倉多江美]]、[[三原順]]などの漫画家の作品が掲載された<ref name="natalie20190620">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/pp/hanayume45th_03|title=花とゆめ創刊45周年特集 第3回 コラム「われら少女マンガ界のはみだしっ子」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-06-20|accessdate=2022-09-03}}</ref>。 創刊当時の誌名は『花とゆめ LaLa』であり{{R|natalie20210524}}、価格は260円<ref>{{Cite journal|和書|date = 1976-07|journal =花とゆめLaLa|volume=1976年9月号|publisher = 白泉社}}表紙より。</ref>。初代編集長は[[小長井信昌]]が務めた{{R|natalie20210524}}。キャッチフレーズは「ビューティフルなまんが雑誌」であった{{R|natalie20160723}}。創刊号は24万8千部で、売行きは97.3パーセントという驚異の数字であったため、売り切れる店が続出したという{{R|natalie20210524}}。 === 1970年代 === 創刊からちょうど1年後の1977年7月に同年9月号をもって[[月刊]]化され、誌名も『LaLa』へと変更された{{R|natalie20210524}}。それから1年の間、表紙を[[萩尾望都]]が担当した{{R|natalie20210524}}。本誌は「花とゆめよりも高い年齢層をカバーする少女マンガ誌」という位置づけであった{{R|natalie20190620}}。 [[コミックナタリー]]によると、このころの主な作品に三原順の『[[ルーとソロモン]]』、和田慎二の『[[あさぎ色の伝説]]』、木原敏江の『[[摩利と新吾]]』、美内すずえの『黒百合の系図』、[[大島弓子]]の『[[綿の国星]]』、[[青池保子]]の『[[Z -ツェット-]]』、[[坂田靖子]]の『[[バジル氏の優雅な生活]]』などがある{{R|natalie20210524}}。 1979年7月、初の増刊号である『LaLa2月大増刊』が刊行される{{R|natalie20210524}}。 === 1980年代 === 女子漫画研究家の小田真琴によると、初期の本誌は[[24年組]]が支えていた{{R|natalie20190620}}。例として[[山岸凉子]]の『[[日出処の天子]]』や大島弓子の『綿の国星』を挙げている{{R|natalie20190620}}。編集長の小長井は、[[集英社]]で『[[別冊マーガレット]]』の編集者として活動し、同誌で[[鈴木光明]]たちと創設した「マンガスクール」での経験を活かし、「白泉社でも新人の発掘・育成に力を入れて」いた{{R|natalie20190620}}。それにより、本誌から[[成田美名子]]、[[森川久美]]、[[ひかわきょうこ]]、[[樹なつみ]]、[[清水玲子]]などがデビューを果たす{{R|natalie20190620}}。 1980年代には『別冊LaLa SUMMER』をはじめとした増刊を多く刊行{{R|natalie20210524}}。「一つのマンガ誌が成功すると、それに付随して、別冊、増刊類の雑誌群、そしてコミックスのような単行本群が、比較的容易に出せるうまみと利点がある」という考えを持つ小長井によると、「グループの知名度も上り、かつマンガ家の活躍の場を作り、また有望作家や新人を他誌、他社にとられぬよう確保、維持する」目的のためであった{{R|natalie20210524}}。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に山岸凉子の『日出処の天子』、成田美名子の『[[CIPHER]]』、[[吉田秋生]]の『[[櫻の園 (漫画)|櫻の園]]』、[[なかじ有紀]]の『[[小山荘のきらわれ者]]』、[[安孫子三和]]の『[[みかん・絵日記]]』、清水玲子の『月の子 MOON CHILD』、樹なつみの『[[花咲ける青少年]]』などがある{{R|natalie20210524}}。1984年には『綿の国星』が劇場アニメ化されている{{R|natalie20210524}}。 === 1990年代 === コミックナタリーによると、このころの主な作品に[[やまざき貴子]]の『[[っポイ!]]』、ひかわきょうこの『[[彼方から]]』、清水玲子の『[[輝夜姫]]』、樹なつみの『[[八雲立つ]]』、[[猫山宮緒]]の『今日もみんな元気です』、[[森生まさみ]]の『[[おまけの小林クン]]』、[[平井摩利]]の『[[火宵の月]]』、[[津田雅美]]の『[[彼氏彼女の事情]]』、[[マツモトトモ]]の『キス』、[[田中メカ]]の『[[お迎えです。]]』などがある{{R|natalie20210524}}。 1990年代には吉田秋生の『櫻の園』、安孫子三和の『みかん・絵日記』、津田雅美の『彼氏彼女の事情』、やまざき貴子の『っポイ!』がメディアミックス化されている{{R|natalie20210524}}。 === 2000年代 === 2001年に創刊25周年を迎える{{R|natalie20210524}}。その記念に「LaLa25★25 SUMMER FESTIVAL」が企画され、原画展などを開催{{R|natalie20210524}}。2004年、創刊28周年を記念して、本誌初となるドラマCDが付属される{{R|natalie20210524}}。『[[桜蘭高校ホスト部]]』、『彼氏彼女の事情』、『[[美女が野獣]]』、『[[めるぷり メルヘン☆プリンス]]』、『おまけの小林クン』のボイスドラマが収録された{{R|natalie20210524}}。2007年、30周年を記念して、[[立正大学]]大崎キャンパスにて、イベント「ララ学園☆夏祭り」を開催{{R|natalie20210524}}。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に[[水野十子]]、[[ルビーパーティー]]による『[[遙かなる時空の中で]]』、[[葉鳥ビスコ]]の『桜蘭高校ホスト部』、[[呉由姫]]、ルビーパーティーによる『[[金色のコルダ]]』、[[樋野まつり]]の『[[ヴァンパイア騎士]]』、[[にざかな]]の『[[4ジゲン]]』、[[藤原ヒロ]]の『[[会長はメイド様!]]』、[[あきづき空太]]の『[[赤髪の白雪姫]]』、[[緑川ゆき]]の『[[夏目友人帳]]』、原作:[[有川浩]]、弓きいろによる『[[図書館戦争 LOVE&WAR]]』、[[可歌まと]]の『[[狼陛下の花嫁]]』、[[時計野はり]]の『[[学園ベビーシッターズ]]』などがある{{R|natalie20210524}}。 2000年代には[[宇野亜由美]]の『[[オコジョさん]]』、葉鳥ビスコの『[[桜蘭高校ホスト部]]』、樹なつみの『[[獣王星]]』、樋野まつりの『ヴァンパイア騎士』、緑川ゆきの『夏目友人帳』、吉田秋生の『櫻の園』、樹なつみの『花咲ける青少年』がメディアミックス化されている{{R|natalie20210524}}<!--コミカライズを除いている-->。 === 2010年代以降 === 2011年、創刊35周年を記念して、[[新宿駅]]コンコースのメトロプロムナード壁面にて、本誌歴代35作品のポスターを掲示{{R|natalie20210524}}。2016年7月23日から8月2日まで、創刊40周年を記念して原画展「美しい少女まんがの世界」を開催{{R|natalie20210524|natalie20160723}}。2018年より本誌の電子版配信が開始{{R|natalie20210524}}。 コミックナタリーによると、このころの主な作品に[[天乃忍]]の『[[ラストゲーム]]』、[[池ジュン子]]の『水玉ハニーボーイ』、[[斎藤けん]]の『[[天堂家物語]]』、縞あさとの『君は春に目を醒ます』、[[林みかせ]]の『[[マリッジパープル]]』、冬夏アキハルの『[[転生悪女の黒歴史]]』などがある{{R|natalie20210524}}。 2010年代には藤原ヒロの『会長はメイド様!』、葉鳥ビスコの『桜蘭高校ホスト部』、あきづき空太の『赤髪の白雪姫』、田中メカの『お迎えです。』、時計野はりの『学園ベビーシッターズ』がメディアミックス化されている{{R|natalie20210524}}。 単行本は、白泉社の総合レーベル「[[花とゆめコミックス]]」より刊行されており、「白泉社文庫」にも収録されている作品もある。 == 特徴 == === 創刊ごろ === 誌名について、「多くの読者に愛されるよう、親しみやすい」名称にするために4つの由来がある{{R|natalie20210524}}。姓名判断より「外国の女の子の名前」、「口ずさみやすく馴染みの深い「歌声」」、「『[[ドクトル・ジバゴ]]』のヒロインの名前{{Efn2|正確な英字表記は'''Lara'''<ref>{{Cite web|work=[[:en:shmoop|shmoop]]|url=https://www.shmoop.com/study-guides/literature/doctor-zhivago/lara-antipova|title=Larisa Fyodorovna Antipova (aka Lara, Lurochka) in Doctor Zhivago|accessdate=2022-10-03}}</ref>。}}」より「名作」、「当時のフランスの少女たちにポピュラーな人形の名前」より「かわいい人形」の4つ{{R|natalie20210524}}。 初代編集長の小長井信昌によると、創刊時は『[[花とゆめ]]』よりやや上の読者層で「マンガ読みのための雑誌」を想定していた{{R|natalie20210524}}。しかし小長井のコンセプトである「オタクとかマニア向に偏しない、『わかりやすくおもしろい』という、マンガへのかねての私の持論は絶対外さないように」していた{{R|natalie20210524}}。編集長の佐藤一哉は、小長井は創刊時に過去に編集長を務めていた雑誌の『別冊マーガレット』とは異なる「ドラマ性をもった作品」を制作し、「懐の深い雑誌であろうという意志」があったと思うと話している{{R|realsound20210725}}。 マンガ研究者のヤマダトモコによると、創刊ごろの本誌は「当時注目の漫画家がほかの雑誌では描けない作品をLaLaで描く」といった様子で「新しいことをしている雑誌という印象」であった<ref name="natalie20210721-2">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/pp/lala45th_05|title=LaLa45周年特集|マンガ研究者、オタク女性ライター、マンガ家マネジメント会社広報が語るLaLaホープ作品、“強くておもしれー女”と上品さの共存|date=2021-07-21|accessdate=2021-07-23}}</ref>。「少女マンガの世界が恋愛一辺倒みたいになっていたころに、それとは違うタイプの作品がたくさん載っていた」と語っている{{R|natalie20210721-2}}。 === 誌風 === 編集長を務める佐藤一哉によると、本誌や『花とゆめ』には「代々引き継がれている何か」はないが、「学園が舞台の恋愛マンガ以外を読みたいと思っている読者の受け皿になりたい」という気風が受け継がれており、「雑多性の強い雑誌」である{{R|realsound20210725}}。 ライターの立花もも<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/list/author/5a2fb93277656126af000000|title=立花 もも プロフィール|website=文春オンライン|publisher=文藝春秋|date=2021-07-25|accessdate=2022-09-03}}</ref>は、本誌に夢中になる理由として「恋愛一辺倒」ではなく、「物語の枠組みを重視している」点を挙げている{{R|realsound20210725}}。立花によると、本誌や『花とゆめ』は「王道の設定を著者の好みで自在にアレンジしていくもの」や「フェチ性の強い作品」が多く見られる{{R|realsound20210725}}。 == 歴代編集長 == {{節スタブ}} * 小長井信昌(1976年(創刊{{R|natalie20210524}}) - ) * 井手優美<!--(2016年12月時点)--><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/pp/aupayment_comic/page/2|title=auかんたん決済 presents 女性マンガ誌の編集長24名が選ぶ!今年完結したイチオシマンガ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-12-20|accessdate=2021-10-21}}</ref> * 鈴木浩介( - 2021年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/column/416418|title=マンガ誌編集長が選ぶ、2020年のイチオシ作品|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-03-05|accessdate=2021-05-08}}</ref>) * 佐藤一哉(2021年6月<ref name="realsound20210725">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/book/2021/07/post-818283.html|title=「LaLa」編集長が語る、45年の歴史と作家との関係性 「“これはLaLaらしい”と誰もが感じる作品を送り出していきたい」|website=リアルサウンド ブック|publisher=blueprint|date=2021-07-25|accessdate=2022-09-03}}</ref> - ) == 現在の掲載作品 == 2024年2月号現在。 <!-- 最終話が掲載されてもその次の号が発売されるまでは連載中です。次の号が発売されるまでは最終話が掲載された作品を除去しないで下さい。--> {| class="wikitable sortable" ! 作品名 !! 作者(作画) !! 原作者など !! 開始号 !! 備考 |- | {{Display none|なつめゆうしんちよう}}[[夏目友人帳]] || {{Display none|みとりかわ ゆき}}[[緑川ゆき]] || - || 2007年09月号 || 『[[LaLa DX]]』から移籍 |- | {{Display none|かくえんへひいしつたあす}}[[学園ベビーシッターズ]] || {{Display none|とけいの はり}}[[時計野はり]] || - || 2009年11月号 || |- | {{Display none|あかかみのしらゆきひめ}}[[赤髪の白雪姫]] || {{Display none|あきつき そらた}}[[あきづき空太]] || - || 2011年11月号 || 『[[LaLa DX]]』から移籍 |- | {{Display none|かわいいたぬきもらくしやない}}[[可愛いたぬきも楽じゃない]] || {{Display none|かわくち けい}}河口けい || - || 2017年05月号 || |- | {{Display none|てんとうけものかたり}}[[天堂家物語]] || {{Display none|さいとう けん}}[[斎藤けん]] || - || 2018年02月号 || 『[[LaLa DX]]』から移籍 |- | {{Display none|てんせいあくしよのくろれきし}}[[転生悪女の黒歴史]] || {{Display none|とうか あきはる}}冬夏アキハル || - || 2018年10月号 || |- | {{Display none|すえなかくよろしくおねかいします}}末永くよろしくお願いします || {{Display none|いけ しゆんこ}}[[池ジュン子]] || - || 2020年05月号 || |- | {{Display none|しおのまちしえいたいさんふさくしりいす}}[[塩の街|塩の街 自衛隊三部作シリーズ]] || {{Display none|ゆみ きいろ}}弓きいろ || {{Display none|ありかわ ひろ}}[[有川ひろ]]{{Small|(原作)}} || 2021年10月号 || コミカライズ |- | {{Display none|こんやくしやはてきあいのふり}}婚約者は溺愛のふり || {{Display none|なかの えみこ}}[[仲野えみこ]] || - || 2021年11月号<!-- - 2022年2月号、2022年6月号 - --> || |- | {{Display none|それてもおとうとはこいをしたかる}}それでも弟は恋したがる || {{Display none|はやし みかせ}}[[林みかせ]] || - || 2022年04月号 || |- | {{Display none|ていこくのこいよめ}}帝国の恋嫁 || {{Display none|かうた まと}}[[可歌まと]] || - || 2022年05月号 || |- | {{Display none|あかのたち}}[[春夏秋冬代行者|春夏秋冬代行者 春の舞]] || {{Display none|こまつた なつは}}小松田なっぱ || {{Display none|あかつき かな}}[[暁佳奈]]{{Small|(原作)}} <br />{{Display none|すおう}}[[スオウ (イラストレーター)|スオウ]]{{Small|(キャラクターデザイン)}} || 2022年09月号 || コミカライズ |- | {{Display none|しにもとりれいしようのるちえつた}}死に戻り令嬢のルチェッタ || {{Display none|あまの しのふ}}[[天乃忍]] || - || 2022年11月号 || |- | {{Display none|もものいしゆつし}}モモの医術史 || {{Display none|あさの のん}}淺野のん || {{Display none|ななもと さんは}}猶本三羽{{Small|(ネーム原作)}} || <!-- 2022年5月号など読み切りとして掲載後<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/470985|title=可歌まとの異世界転生もの「帝国の恋嫁」がLaLaで連載化、ニャンコ先生付録も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-24|accessdate=2022-12-22}}</ref>-->2023年02月号 || |- | {{Display none|ぬいにこいしていいてすか}}ぬいに恋していいですか? || {{Display none|やまる やすこ}}屋丸やす子 || - || 2023年10月号 || |- | {{Display none|おしかあしすたんとにきたはなし}}推しがアシスタントに来た話 || {{Display none|かりね}}かりね。 || {{Display none|かわくち けい}}河口けい{{Small|(原作)}} || 2024年01月号 || |- | {{Display none|こいたのあいたのきみはほくのたいようた}}[[恋だの愛だの|恋だの愛だの〜君は僕の太陽だ〜]] || {{Display none|つした りりこ}}[[辻田りり子]] || - || 2024年01月号 || |- | {{Display none|まいりましたといわせたい}}まいりましたと言わせたい || {{Display none|あきもと あき}}あきもと明希 || - || 2024年02月号 || |} == 過去の掲載作品 == === あ行 === * [[あぁ愛しの番長さま]](藤方まゆ) * [[アイドルDTI]](冬夏アキハル) * [[あかく咲く声]]([[緑川ゆき]]) * あかのたち(海道ちとせ):2022年8月号 - 2023年9月号 * アプリボーイズ(屋丸やす子) * アルトの声の少女([[篠有紀子]]) * [[一清&千沙姫シリーズ]]([[柳原望]]) * 一万十秒シリーズ([[倉多江美]]) * [[インナーカルテット]]([[かわみなみ]]) * [[with!!]]([[斎藤けん]]) * うえぽん([[いしかわじゅん]]) * うそカノ([[林みかせ]]) * ウラカタ!!([[葉鳥ビスコ]]) * [[英会話スクールウォーズ]]([[マツモトトモ]]) * [[エイリアン通り]]([[成田美名子]]) * [[eensy-weensy モンスター]]([[津田雅美]]) * お池にはまってプリンセス(木村晃子) * 王様ゲーム([[水野十子]]) * [[桜蘭高校ホスト部]]([[葉鳥ビスコ]]) * [[狼陛下の花嫁]]([[可歌まと]]) * オガッツ!([[平井摩利]]) * お嬢、お目覚めの時間です(樫八重子):2021年3月号 - 2021年6月号、2021年9月号 - 2021年12月号 * [[OZ (樹なつみの漫画)|OZ]]([[樹なつみ]]) * [[お兄ちゃんと一緒]]([[時計野はり]]) * [[おまけの小林クン]]([[森生まさみ]]) * [[お迎えです。|お迎えです。第2シリーズ]]([[田中メカ]]) === か行 === * [[ガートルードのレシピ]]([[草川為]]) * [[会長はメイド様!]]([[藤原ヒロ]]) * [[彼方から]]([[ひかわきょうこ]]) * かたつむり前線(藤川佳世) * [[彼氏彼女の事情]]([[津田雅美]]) * [[輝夜姫]]([[清水玲子]]) * [[火宵の月]]([[平井摩利]]) * 機械じかけのマリー(あきもと明希):2020年8月号 - 2023年8月号 * キス([[マツモトトモ]]) * 君のコトなど絶対に([[田中メカ]]) * 君は春に目を醒ます(縞あさと):2017年7月号 - 2022年1月号 * 今日もみんな元気です([[猫山宮緒]]) * [[金色のコルダ]]([[呉由姫]]、原案:[[コーエーテクモゲームス|ルビー・パーティー]]) * [[銀の勇者]]([[渡辺祥智]]) * [[グレイテストな私達]]([[わかつきめぐみ]]) * [[黒のもんもん組]]([[猫十字社]]) * [[幻影奇譚]]([[いなだ詩穂]]) * [[ご近所の博物誌]]([[わかつきめぐみ]]) * この凶愛は天災です(夢木みつる):2020年4月号 - 2022年7月号 * [[小山荘のきらわれ者]]([[なかじ有紀]]) === さ行 === * 斎王寺兄弟に困らされるのも悪くない(晴海ひつじ) * [[CIPHER]]([[成田美名子]]) * [[櫻の園 (漫画)|櫻の園]]([[吉田秋生]]) * 砂漠のハレム(夢木みつる) * [[ZIG☆ZAG]]([[なかじ有紀]]) * 執事と主は結ばれません(角野ユウ) * [[シニカル・ヒステリー・アワー]]([[玖保キリコ]]) * [[シャンペン・シャワー]]([[かわみなみ]]) * [[獣王星]]([[樹なつみ]]) * 18だからと娶られましても(樫八重子):2022年6月号 - 2022年9月号 * [[知らない国の物語]]([[川瀬夏菜]]) * スイートバニラビーンズ(八神星子) * ストロベリ-・エッセイ([[篠有紀子]]) * セーラー服にお願い!([[田中メカ]]) * 千年の雪([[葉鳥ビスコ]]) * [[So What?]]([[わかつきめぐみ]]) === た行 === * 黄昏シティグラフィティ([[星崎真紀]]) * [[ダンキラ|ダンキラ!!! アドレナリンバースト]](樫八重子、原作:[[コナミデジタルエンタテインメント]]) * [[ちょっと江戸まで]]([[津田雅美]]) * Z-ツェット-([[青池保子]]) * 月の子([[清水玲子]]) * [[月は東に日は西に]]([[わかつきめぐみ]]) * [[っポイ!]]([[やまざき貴子]]) * [[デーモン聖典]]([[樹なつみ]]) * [[天然パールピンク]]([[田中メカ]]) * [[朱鷺色三角]]([[樹なつみ]]) * [[図書館戦争|図書館戦争 LOVE&WAR 別冊編]](弓きいろ、原作:[[有川浩]]) * となりのクロガネ先生(菅谷チヨ):2022年1月号 - 2022年4月号 * 隣のDOUBLE([[なかじ有紀]]) * 隣はSCRAMBLE([[なかじ有紀]]) * [[とらわれの身の上]]([[樋野まつり]]) * トロピカル半次郎([[高口里純]]) === な行 === * 撫子は恋で死にたい(夢衣):2023年3月号 - 2023年11月号 * 南京路に花吹雪([[森川久美]]) * [[NATURAL (漫画)|NATURAL]]([[成田美名子]]) === は行 === * 保健室の影山くん(天乃忍) * ラブラブミッチー(高野まさこ) * [[ハイスクール・オーラバスター]]([[杜真琴]]、原作:[[若木未生]]) * 化け狐の忠心(清音圭):<!-- 2022年12月号に読み切り掲載後 -->2023年4月号 - 2023年11月号 * 伯爵と呼ばれた男([[高口里純]]) * [[バジル氏の優雅な生活]]([[坂田靖子]]) * [[遙かなる時空の中で]]([[水野十子]]) * 八葉さんが行く!(カネチクヂュンコ) * [[美女が野獣]]([[マツモトトモ]]) * ハッスルで行こう([[なかじ有紀]]) * [[パッション・パレード]]([[樹なつみ]]) * 鳩子さんは時々魔法少女([[可歌まと]]) * [[花咲ける青少年]]([[樹なつみ]]) * ハルマゲドンシリーズ([[山田ミネコ]]) * [[ヴァンパイア騎士]]([[樋野まつり]]) * [[ビーナスは片想い]]([[なかじ有紀]]) * [[B.B.Joker]]([[にざかな]]) * [[ピエロ]]([[赤座ひではる]]) * [[日出処の天子]]([[山岸凉子]]) * 姫君は騎士団長(屋丸やす子) * [[ビューティー ハニー]]([[マツモトトモ]]) * [[funfun工房]]([[渡辺祥智]]) * [[フェアリー・マスター]]([[橘裕]]) * [[不協和音ラプソディ]]([[わかつきめぐみ]]) * BRAN-NEW([[なかじ有紀]]) * フレッシュグリーンの季節([[篠有紀子]]) * [[ペンギン革命]]([[筑波さくら]]) * ほいきた!りんご組(江咲桃恵) * [[オコジョさん|ぼくらはみんな高血圧! オコジョさん]]([[宇野亜由美]]) === ま行 === * [[魔術使いシド&リドシリーズ]]([[木々]]) * 魔女と使い魔様(藤代千鶴):2021年6月号 - 2021年9月号、2022年1月号 - 2022年4月号 * まり子闘争([[かわみなみ]]) * マリッジパープル([[林みかせ]]):2018年9月号 - 2021年10月号 * [[摩利と新吾]]([[木原敏江]]) * マリはハッピーエンドでお願いします(晴海ひつじ) * [[みかん絵日記]]([[安孫子三和]]) * 水玉ハニーボーイ([[池ジュン子]]) * [[みき&ユーティ]]([[成田美名子]]) * [[ミミズクと夜の王]](鈴木ゆう、原作:[[紅玉いづき]]):2020年11月号 - 2022年8月号 * [[目隠しの国]]([[筑波さくら]]) * [[めるぷり メルヘン☆プリンス]]([[樋野まつり]]) * [[もしかしてヴァンプ]]([[橘裕]]) === や行 === * [[八雲立つ]](樹なつみ) * ユキは地獄に堕ちるのか([[藤原ヒロ]]) * [[4ジゲン]]([[にざかな]]):2005年7月号 - 2021年9月号 * 嫁姑教室(柏屋キクゾー) === ら行 === * らぶ・ちょっぷ!(森生まさみ) * ラブラブミッチー(高野まさこ) * ラストゲーム (天乃忍) * [[リバース×リバース]]([[天乃忍]]):2020年3月号 - 2021年11月号 * 龍皇の影姫(大宙晃):2021年9月号 - 2021年12月号、2022年2月号 - 2023年10月号 * [[竜の眠る星]]([[清水玲子]]) * [[龍の花わずらい]]([[草川為]]) * 劉備徳子は静かに暮らしたい([[仲野えみこ]]) * [[金色のコルダ3|菩提樹寮のアリア─金色のコルダシリーズ─]]([[呉由姫]]、原案:[[コーエー|ルビー・パーティー]])<!--タイトルの読み「リンデンホールの…」--> * [[ルーとソロモン]]([[三原順]]) === わ行 === * [[綿の国星]]([[大島弓子]]) == 映像化作品 == コミカライズを除くオリジナル作品に限る。 === 劇場アニメ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !原作 !アニメーション制作 !備考 |- |[[綿の国星]] |1984年{{R|natalie20210524}} |[[大島弓子]] |[[虫プロダクション]] | |} === 実写映画 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !公開年 !原作 !監督 !備考 |- | rowspan="2" |[[櫻の園 (漫画)|櫻の園]] |1990年{{R|natalie20210524}} | rowspan="2" |[[吉田秋生]] | rowspan="2" |[[中原俊]] | rowspan="2" | |- |2008年{{R|natalie20210524}} |- |[[桜蘭高校ホスト部]] |2012年{{R|natalie20210524}} |[[葉鳥ビスコ]] |[[韓哲]] | |} === テレビアニメ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !放送年 !原作 !アニメーション制作 !備考 |- |[[みかん・絵日記]] |1992年{{R|natalie20210524}} |[[安孫子三和]] |[[日本アニメーション]] |テレビアニメのタイトルは『みかん絵日記』{{R|natalie20210524}} |- |[[彼氏彼女の事情]] |1998年{{R|natalie20210524}} |[[津田雅美]] |[[ガイナックス|GAINAX]]、[[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]] | |- |[[しあわせソウのオコジョさん|オコジョさん]] |2001年{{R|natalie20210524}} |[[宇野亜由美]] |[[ラディクスエースエンタテインメント|RADIX]] |テレビアニメのタイトルは『しあわせソウのオコジョさん』{{R|natalie20210524}} |- |桜蘭高校ホスト部 |2006年{{R|natalie20210524}} |葉鳥ビスコ | rowspan="2" |[[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]] | |- |[[獣王星]] |2006年{{R|natalie20210524}} |[[樹なつみ]] | |- |[[ヴァンパイア騎士]] |2008年(第1期、第2期){{R|natalie20210524}} |[[樋野まつり]] |[[スタジオディーン]] | |- | rowspan="6" |[[夏目友人帳]] |2008年(第1期){{R|natalie20210524}} | rowspan="6" |[[緑川ゆき]] | rowspan="4" |[[ブレインズ・ベース]] | |- |2009年(第2期) |テレビアニメのタイトルは『続 夏目友人帳』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/13929|title=アニメイトでニャンコ先生&黒ニャンコにまた会える|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2009-03-06|accessdate=2021-10-02}}</ref> |- |2011年(第3期) |テレビアニメのタイトルは『夏目友人帳 参』<ref name="natalie20160327">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/181233|title=夏目友人帳の3期&4期がBD-BOX化、朗読劇も収録!5期上映会申込券付き|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-03-27|accessdate=2021-10-02}}</ref> |- |2012年(第4期) |テレビアニメのタイトルは『夏目友人帳 肆』{{R|natalie20160327}} |- |2016年(第5期) | rowspan="2" |[[朱夏]] |テレビアニメのタイトルは『夏目友人帳 伍』<ref name="natalie20161221">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/214101|title=アニメ「夏目友人帳」シリーズ第6期の制作決定!2017年にオンエア|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-12-21|accessdate=2021-10-02}}</ref> |- |2017年(第6期) |テレビアニメのタイトルは『夏目友人帳 陸』{{R|natalie20161221}} |- |[[花咲ける青少年]] |2009年{{R|natalie20210524}} |樹なつみ |[[ぴえろ]] | |- |[[会長はメイド様!]] |2010年{{R|natalie20210524}} |[[藤原ヒロ]] |J.C.STAFF | |- |[[赤髪の白雪姫]] |2015年{{R|natalie20210524}} |[[あきづき空太]] |ボンズ | |- |[[学園ベビーシッターズ]] |2018年{{R|natalie20210524}} |[[時計野はり]] |ブレインズ・ベース | |} === OVA === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !発売年 !原作 !アニメーション制作 !備考 |- |[[八雲立つ]] |1997年{{R|natalie20210524}} |樹なつみ |スタジオぴえろ | |- |[[火宵の月]] |1998年{{R|natalie20210524}} |[[平井摩利]] |フォーサム | |} === テレビドラマ === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !放送年 !原作 !備考 |- |[[っポイ!]] |1999年{{R|natalie20210524}} |[[やまざき貴子]] | |- |桜蘭高校ホスト部 |2011年{{R|natalie20210524}} |葉鳥ビスコ | |- |[[お迎えです。]] |2016年{{R|natalie20210524}} |[[田中メカ]] |テレビドラマのタイトルは『お迎えデス。』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/176575|title=田中メカ原作のドラマ「お迎えデス。」堤円は福士蒼汰、阿熊幸は土屋太鳳|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-02-18|accessdate=2021-10-02}}</ref> |} == 新人賞 == ; アテナ大賞 : 1976年7月に、新人漫画賞である「アテナ大賞」(後の「[[白泉社アテナ新人大賞]]」)が『花とゆめ』との共催で新設{{R|natalie20210524}}。初回は[[水野英子]]が審査委員長、[[山岸凉子]]、[[美内すずえ]]、[[和田慎二]]、『LaLa』編集長が審査委員を務めた{{R|natalie20210524}}。同賞は1976年から2012年まで開催され、2013年以降は「[[白泉社アテナ新人大賞|白泉社少女まんが新人大賞]]」としてリニューアルされた。受賞作品は開催の翌年2月号に掲載される。 ; ララまんが家スカウトコース : 新人賞として、毎月開催される「ララまんが家スカウトコース」を主宰<ref name="lms">{{Cite web|和書|url=https://lala.ne.jp/lms/|title=マンガ作品募集 LMS ララまんが家スカウトコース|website=LaLa|publisher=白泉社|accessdate=2022-09-03}}</ref>。LMSと呼ばれる「ララまんが家スカウトコース」は「プロの少女まんが家育成を目的」とした賞で、編集長と編集部員により審査される{{R|lms}}。 ; ララまんがグランプリ : 4月、8月、12月に開催される「ララまんがグランプリ」は、「プロの少女漫画家になるために設立された漫画賞」である<ref name="lmg">{{Cite web|和書|url=https://lala.ne.jp/lmg/|title=マンガ作品募集 LMG ララまんがグランプリ|website=LaLa|publisher=白泉社|accessdate=2022-09-03}}</ref>。LMGと呼ばれる{{R|lmg}}。 ; ララまんがスクール : かつて主宰されていた漫画賞。 ; ラララボ!1dayハイスピードマンガ賞 : マンガ投稿サイトの「マンガラボ!」とともに開催される漫画賞<ref name="prtimes20200601">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000238.000046848.html|title=第2回ラララボ!1dayハイスピードマンガ賞結果発表!!デビューがなんと10人!!応募総数は前回を大きく超える約380作品!!|website=PR TIMES|date=2020-06-01|accessdate=2022-09-03}}</ref>。第1回は2019年10月27日<ref name="prtimes20191025">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000070.000046848.html|title=『ラララボ!1dayハイスピードマンガ賞』、10月27日(日)開催!! 描き下ろしの『夏目友人帳』ニャンコ先生応援イラストアイコンも配布中!! 鳥嶋和彦会長&菅原弘文社長の応援コメントも!!|website=PR TIMES|date=2019-10-25|accessdate=2022-09-03}}</ref>、第2回は2020年5月24日{{R|prtimes20200601}}、第3回は2020年11月29日<ref name="natalie20201124">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/405969|title=「夏目友人帳」ニャンコ先生付録が4号連続でLaLaに!第1弾はスケジュール帳|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-11-24|accessdate=2022-09-03}}</ref>、第4回は2021年8月9日に開催{{R|realsound20210725}}。「1日限定で投稿を受け付け、最終結果が1週間後に発表される」ことが特徴で{{R|natalie20201124}}、1本以上グランプリ受賞者が確約され、LaLa編集部よりデビューとなる{{R|prtimes20191025}}。大賞受賞作品は本誌または『LaLaDX』に掲載される{{R|prtimes20191025}}。 == 発行部数 == * 1978年6月:公称30万部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1979年版』参照。</ref> * 1979年7月:公称30万部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1980年版』参照。</ref> * 1980年7月:公称30万部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1981年版』参照。</ref> * 1981年9月:公称30万部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1982年版』参照。</ref> * 1982年12月:公称400,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1983年版』参照。</ref> * 1984年4月:公称450,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1984年版』参照。</ref> * 1985年3月:公称450,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1985年版』参照。</ref> * 1986年3月:公称350,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1986年版』参照。</ref> * 1987年3月:公称350,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1987年版』参照。</ref> * 1988年3月:公称350,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1988年版』参照。</ref> * 1989年2月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1989年版』参照。</ref> * 1990年2月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1990年版』参照。</ref> * 1991年2月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1991年版』参照。</ref> * 1991年4月 - 1992年3月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1992年版』参照。</ref> * 1992年4月 - 1993年3月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1993年版』参照。</ref> * 1993年4月 - 1994年3月:公称380,000部<ref>メディアリサーチセンター『雑誌新聞総かたろぐ 1994年版』参照。</ref> * 1996年1月 - 12月:推定21万部<ref>『1997年版 出版指標年報』全国出版協会推定発行部数</ref> * 1997年1月 - 12月:推定20万部<ref>『1998年版 出版指標年報』全国出版協会推定発行部数</ref> * 1998年1月 - 12月:推定22万部<ref>『1999年版 出版指標年報』全国出版協会推定発行部数</ref> * 1999年1月 - 12月:推定23万部<ref>『2000年版 出版指標年報』全国出版協会推定発行部数</ref> * 2000年1月 - 12月:推定20万部<ref>『2011年版 出版指標年報』全国出版協会推定発行部数</ref> * 2003年9月1日 - 2004年8月31日:166,750部<ref name="data">[http://www.j-magazine.or.jp/ 日本雑誌協会]マガジンデータによる1号当たり平均部数。</ref> * 2004年9月1日 - 2005年8月31日:173,583部{{R|data}} * 2005年9月1日 - 2006年8月31日:171,750部{{R|data}} * 2006年9月1日 - 2007年8月31日:170,833部{{R|data}} * 2007年10月1日 - 2008年9月30日:173,750部{{R|data}} * 2008年10月1日 - 2009年9月30日:178,667部{{R|data}} * 2009年10月1日 - 2010年9月30日:169,542部{{R|data}} * 2010年10月1日 - 2011年9月30日:160,250部{{R|data}} * 2011年10月1日 - 2012年9月30日:155,950部{{R|data}} * 2012年10月1日 - 2013年9月30日:144,609部{{R|data}} * 2013年10月1日 - 2014年9月30日:137,934部{{R|data}} * 2014年10月1日 - 2015年9月30日:130,359部{{R|data}} * 2015年10月1日 - 2016年9月30日:126,500部{{R|data}} * 2016年10月1日 - 2017年9月30日:120,675部{{R|data}} * 2017年10月1日 - 2018年9月30日:106,250部{{R|data}} * 2018年10月1日 - 2019年9月30日:101,250部{{R|data}} * 2019年10月1日 - 2020年9月30日:86,125部{{R|data}} * 2020年10月1日 - 2021年9月30日:78,200部{{R|data}} * 2021年10月1日 - 2022年9月30日:65,083部{{R|data}} * 2022年10月1日 - 2023年9月30日:58,042部{{R|data}} {{節スタブ}}<!--「1977年〜2002年」の不足データの拡充を要請--> == 関連誌 == 従来の別冊・増刊など各誌の再編が始まり、1983年には姉妹誌の季刊『LaLa DELUXE』(のち『[[LaLa DX]]』)が創刊{{R|natalie20210524}}。 他方、それまでの『LaLa大増刊』を引き継いで同1985年夏に登場した『LaLaスペシャルWendy』は、翌[[1986年]]夏に『LaLaスペシャルCindy』に改題し、[[1987年]]には短編特集の増刊『Short Stories』も登場するなど、約2年間にわたって題号や発行周期に混乱が見られたが、[[1988年]]に季刊の『LaLa Club』(『LaLa SPRING Club』など)に一本化して[[1990年]]まで刊行した。[[1991年]]には『LaLa'』に再改題して計3回刊行したのを最後に、季刊増刊誌は一時消滅した。 のち『Lunatic LaLa』(1994年-1996年、年2回刊)、『LaLaスペシャル』(2004年-2010年、初期は年刊・後期は不定期刊)などが登場している。 ; 年代別関連誌<!--現状では、年4回揃わない場合は「不定期刊」を使用していますが、概ね年4ペースの1回抜け程度の場合、一律で「季刊」扱いへの変更を検討しています。--> * LaLa大増刊(1979年{{R|natalie20210524}} - :不定期刊{{R|natalie20210524}}) * LaLa DELUXE(1983年:単発刊行{{R|natalie20210524}}、1985年 - 1986年:不定期刊<!--時期ズレや3回刊などで4回揃わないようなので不定扱い-->)<ref name="ndl-DELUXE1983">[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001625560-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|ララ・デラックス : ララ特別編集(白泉社)1983] ※同資料では「1983年8月」の初号のみ記載。</ref><ref name="ndl-DX1985">[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000045006-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|Lala DX(白泉社)1985] ※同資料では「1985年no.1」からの記載。</ref><ref name="ndlopac-DX1985">[https://ndlopac.ndl.go.jp/F/77SXUXD81U7NGRAHQHNRFYEKXQDA4HHFEJETVTCR23QI232XSS-11364?func=item-global&doc_library=NDL01&doc_number=002733456&year=&volume=&sub_library= NDL-OPAC - 所蔵詳細 - 請求記号:Z32-744] ※同資料では「1985年no.1」からの記載。</ref> →1987年に『LaLa DX』に誌名変更{{R|natalie20210524}} * 別冊LaLa(1982年{{R|natalie20210524}} - 1984年:季刊{{R|natalie20210524}}、1984年{{R|natalie20210524}} - 1985年{{R|natalie20210524}}:隔月刊{{R|natalie20210524}})<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000038662-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|別冊Lala : 別冊ララ(白泉社)1983]</ref><ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000041143-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|別冊Lala(白泉社)1984]</ref> * My LaLa(1984年 - 1985年:不定期刊)<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000041494-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|My lala (白泉社)1984]</ref><!--各号数では季刊のようだが刊行頻度不明につき「不定期刊」扱いとしている--> * [[LaLa DX]](1987年 - 1995年:季刊<!--時期ズレや3回などあるが概ね4回刊のため季刊扱い-->、1995年 - '''刊行中''':隔月刊)<ref name="ndl-DX1985"/><ref name="ndlopac-DX1985"/> * LaLaスペシャルWendy(1985年{{R|natalie20210524}} - 1986年:不定期刊)<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000042796-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|Wendy Lalaスペシャル(白泉社)1985]</ref><!--各号数では季刊から月号への変遷があるのようだが詳細不明につき「不定期刊」扱いとしている--> →1986年に『LaLaスペシャルCindy』に誌名変更{{R|natalie20210524}} * LaLaスペシャルCindy(1986年 - 1988年:季刊)<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000045699-00 国立国会図書館サーチ|書誌詳細|Cindy Lalaスペシャル(白泉社)1986]</ref> * LaLa CLUB(1989年{{R|natalie20210524}} - ) * LaLa’(ララダッシュ)(1991年{{R|natalie20210524}} - :不定期刊{{R|natalie20210524}}) * LunaticLaLa(1994年{{R|natalie20210524}} - :不定期刊{{R|natalie20210524}}) * LaLa Special(2004年{{R|natalie20210524}} - :不定期刊{{R|natalie20210524}}) * 黒LaLa(2011年{{R|natalie20210524}}<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/56287|title=藤原ヒロら参加の「黒LaLa」発売!11月には「白LaLa」も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2011-09-09|accessdate=2021-07-23}}</ref>:単発刊行) * 白LaLa(2011年{{R|natalie20210524}}<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/59429|title=黒に続く増刊・白LaLaに、あきづき空太、弓きいろら執筆|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2011-11-10|accessdate=2021-07-23}}</ref>:単発刊行) * トリコロールLaLa(2012年{{R|natalie20210524}}):『青LaLa』{{R|natalie20210524}}<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/72638|title=青春たっぷり「青LaLa」にあきづき空太、藤原ヒロら新作|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-07-10|accessdate=2021-07-23}}</ref>、『赤LaLa』{{R|natalie20210524}}<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/76239|title=情熱の増刊「赤LaLa」に草川為、弓きいろ、マツモトトモら|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-09-10|accessdate=2021-07-23}}</ref>、『白LaLa』{{R|natalie20210524}}<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/79681|title=白LaLaに田中メカ、斎藤けんら珠玉のファンタジー22本|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-11-09|accessdate=2021-07-23}}</ref>の3号が刊行。 * AneLaLa(2013年{{R|natalie20130605}} - 2014年{{R|natalie20140605}}:季刊、2014年{{R|natalie20140905}} - 2017年<ref>{{Cite web|和書|work=MANTANWEB|publisher=株式会社MANTAN|url=https://mantan-web.jp/article/20170904dog00m200020000c.html|title=AneLaLa:白泉社のマンガ誌が休刊 “お姉さん版”「LaLa」|date=2017-09-05|accessdate=2021-07-23}}</ref>:隔月刊):季刊時代は1月・4月・7月・10月発行の前月5日発売。隔月刊時代は偶数月発行の前月5日発売。2013年6月5日発売の2013年『LaLa』7月号増刊(創刊号)から<ref name="natalie20130605">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/92109|title=AneLaLa本日発売!津田雅美、葉鳥ビスコらの大人な一面が|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2013-06-05|accessdate=2021-07-23}}</ref>2014年6月5日発売の『LaLa』7月号増刊まで季刊<ref name="natalie20140605">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/118234|title=AneLaLa隔月刊化!樋野まつりが姫と野武士描く新作も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-06-05|accessdate=2021-07-23}}</ref>。2014年9月5日発売の10月号より隔月刊<ref name="natalie20140905">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/125317|title=小山荘のきらわれ者続編、彰吾たちが大学生に|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-09-05|accessdate=2021-07-23}}</ref>。2017年9月5日発売の10月号で休刊<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/247378|title=白泉社の大人ガール向けマンガ誌・AneLaLa休刊、津田雅美「ヒノコ」は完結|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-09-05|accessdate=2021-07-23}}</ref>、WEBへ移行したが2018年7月19日配信のVol.29で終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakusensha.co.jp/news/52348/|title=「AneLaLa Vol.29」 19年7月19日配信スタート!|publisher=講談社|date=2018-07-19|accessdate=2022-12-22}}</ref>。 * LaLaファンタジー(2013年{{R|natalie20210524}}) * ××LaLa(2021年<ref name="natalie20210324">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/421518|title=白泉社から××LaLa誕生!vol.1は弓きいろ、ふじつか雪、小椋アカネらがいちゃラブ描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-03-24|accessdate=2021-07-23}}</ref> - ):電子雑誌{{R|natalie20210324}}。2021年3月24日配信開始{{R|natalie20210324}}。 * 異世界転生LaLa(2022年<ref name="natalie20220401">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/472335|title=“異世界転生LaLa”が誕生、全部オリジナル作品!「転生悪女の黒歴史」特別編も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-01|accessdate=2022-04-02}}</ref> - ):電子雑誌{{R|natalie20220401}}。2022年4月1日配信開始{{R|natalie20220401}}。「悪役令嬢、騎士、転生、聖女」など、ファンタジーに焦点を当てたオリジナルの作品を掲載{{R|natalie20220401}}。 == 参考文献 == * [[白泉社]]発行月刊LaLa総目次[http://www.wasihasi.info/LALA/] * コミックホームズ 白泉社系少女マンガ作品データベース[http://comich.net/m.htm] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [http://www.hakusensha.co.jp/ 白泉社オンライン] * [http://www.hakusensha.co.jp/lala/ 白泉社 - LaLa] {{LaLa連載中}} {{DEFAULTSORT:らら}} [[Category:LaLa|*]] [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:白泉社の漫画雑誌]] 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https://ja.wikipedia.org/wiki/LaLa
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魏晋南北朝時代
魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱から始まり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。 なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。 (本項では時代区分の用語についてのみ説明し、詳細はそれぞれ三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代を参照。) この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀の三国が争覇した事で有名である。 280年から始まった西晋の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは316年)。司馬睿ら生き残った晋の皇族・貴族は南へ逃れて建康にて亡命政権を作った。これが東晋である。 一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら南下した遊牧民が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した304年から、439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいる。しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めている。ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるため、この用語も完全に適切とは言い難い。 そして439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼んでいる。 またこれとは別にこの時代に江南(中国語版、英語版)地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて六朝時代とも呼んでいる。 このように呼び名が複数でかつ互いに重なっている年代もあり、非常に複雑である。また後漢の滅亡は220年だが、それより前から後漢の皇帝(霊帝-献帝)の実権は無くなっており、184年の黄巾の乱の時点からを中国分裂時代の始まりと見るべきとの考えと、西晋の統一期間はごく短いもので、ここを含めて一時代と見るべきとの意見を合わせた観点から、この魏晋南北朝時代の用語が使われる。 この時代は西晋の一時的な統一時代があったものの相次ぐ戦乱により人口の減少、民族の大移動が起こった。特に五胡十六国時代以降、多くの異民族の介入の起こった中原を初めとする北方は中国語にも劇的な変化をもたらした。西晋以前の上古中国語は八王の乱以降、介入した異民族に支配交代の度、支配した異民族に都合の良い発音に変化し、上古音にみられた sl-, pl-, kl-, gn-等の複雑な重子音が消滅し単純化した。一方、古代漢民族が避難した南方のエリアは音節末子音が残り現代でも客家語や粤語、閩語、呉語などの南方方言に受け継がれている。隋による南北朝統一より初唐までに中国全土が中古音の中古中国語に変化した。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。これはこの時代が丁度ほぼ西晋・東晋の時代に当たり、270年から277年にかけての涼州で鮮卑系の禿髪樹機能らによる非漢民族の大規模な反乱、呉への侵攻と滅亡、八王の乱、永嘉の乱そして五胡十六国時代と度重なる大規模な戦乱で当時の日本の諸国との交流が断絶してしまったためによる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱から始まり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "(本項では時代区分の用語についてのみ説明し、詳細はそれぞれ三国時代・五胡十六国時代・南北朝時代を参照。)", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀の三国が争覇した事で有名である。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "280年から始まった西晋の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは316年)。司馬睿ら生き残った晋の皇族・貴族は南へ逃れて建康にて亡命政権を作った。これが東晋である。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら南下した遊牧民が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した304年から、439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいる。しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めている。ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるため、この用語も完全に適切とは言い難い。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "そして439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼んでいる。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "またこれとは別にこの時代に江南(中国語版、英語版)地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて六朝時代とも呼んでいる。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "このように呼び名が複数でかつ互いに重なっている年代もあり、非常に複雑である。また後漢の滅亡は220年だが、それより前から後漢の皇帝(霊帝-献帝)の実権は無くなっており、184年の黄巾の乱の時点からを中国分裂時代の始まりと見るべきとの考えと、西晋の統一期間はごく短いもので、ここを含めて一時代と見るべきとの意見を合わせた観点から、この魏晋南北朝時代の用語が使われる。", "title": "概略" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この時代は西晋の一時的な統一時代があったものの相次ぐ戦乱により人口の減少、民族の大移動が起こった。特に五胡十六国時代以降、多くの異民族の介入の起こった中原を初めとする北方は中国語にも劇的な変化をもたらした。西晋以前の上古中国語は八王の乱以降、介入した異民族に支配交代の度、支配した異民族に都合の良い発音に変化し、上古音にみられた sl-, pl-, kl-, gn-等の複雑な重子音が消滅し単純化した。一方、古代漢民族が避難した南方のエリアは音節末子音が残り現代でも客家語や粤語、閩語、呉語などの南方方言に受け継がれている。隋による南北朝統一より初唐までに中国全土が中古音の中古中国語に変化した。", "title": "多大なる中国語の変化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。これはこの時代が丁度ほぼ西晋・東晋の時代に当たり、270年から277年にかけての涼州で鮮卑系の禿髪樹機能らによる非漢民族の大規模な反乱、呉への侵攻と滅亡、八王の乱、永嘉の乱そして五胡十六国時代と度重なる大規模な戦乱で当時の日本の諸国との交流が断絶してしまったためによる。", "title": "日本の歴史空白期" } ]
魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱から始まり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年)。 なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。
{{出典の明記| date = 2022年6月}} {{ウィキポータルリンク|歴史学/東洋史}}{{ウィキポータルリンク|中国}} '''魏晋南北朝時代'''(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、[[後漢]]末期の[[黄巾の乱]]から始まり、[[隋]]が中国を再び統一するまで、同時代の[[中国本土]]に複数の王朝が割拠していた時期を表す([[184年]]-[[589年]])。 なお、[[長江]]中下流域(江南)における'''[[六朝|六朝時代]]'''がほぼこの時期と対応している。 == 概略 == (本項では時代区分の用語についてのみ説明し、詳細はそれぞれ[[三国時代 (中国)|三国時代]]・[[五胡十六国時代]]・[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]を参照。) この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の[[220年]]から西晋の統一[[280年]]までを[[三国時代 (中国)|三国時代]]と呼び、この時代には[[魏 (三国)|魏]]・[[呉 (三国)|呉]]・[[蜀]]の三国が争覇した事で有名である。 [[280年]]から始まった[[西晋]]の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、[[311年]]の[[永嘉の乱]]で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは[[316年]])。[[元帝 (東晋)|司馬睿]]ら生き残った晋の皇族・貴族は南へ逃れて[[建康 (都城)|建康]]にて亡命政権を作った。これが[[東晋]]である。 一方、華北では西晋を滅ぼした[[前趙]]を初めとした[[匈奴]]ら南下した[[遊牧民]]が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した[[304年]]から、[[439年]]の[[北魏]]による華北の再統一までを[[五胡十六国時代]]と呼んでいる。しかしこの胡の字には[[中国の異民族|異民族]]に対する[[差別]]的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めている。ただ五胡十六国時代の範囲には東晋滅亡後の20年ほども含んでいるため、この用語も完全に適切とは言い難い。 そして[[439年]]から[[589年]]の[[隋]]による南北統一までを[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]と呼んでいる。 またこれとは別にこの時代に江南([[:zh:江南|中国語版]]、[[:en:Jiangnan|英語版]])地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から[[宋 (南朝)|宋]]・[[斉 (南朝)|斉]]・[[梁 (南朝)|梁]]・[[陳 (南朝)|陳]]までの六の王朝を合わせて[[六朝|六朝時代]]とも呼んでいる。 このように呼び名が複数でかつ互いに重なっている年代もあり、非常に複雑である。また後漢の滅亡は[[220年]]だが、それより前から後漢の皇帝([[霊帝 (漢)|霊帝]]-[[献帝 (漢)|献帝]])の実権は無くなっており、[[184年]]の[[黄巾の乱]]の時点からを中国分裂時代の始まりと見るべきとの考えと、西晋の統一期間はごく短いもので、ここを含めて一時代と見るべきとの意見を合わせた観点から、この魏晋南北朝時代の用語が使われる。 == 多大なる中国語の変化 == この時代は西晋の一時的な統一時代があったものの相次ぐ戦乱により[[人口]]の減少、民族の大移動が起こった。特に五胡十六国時代以降、多くの異民族の介入の起こった[[中原]]を初めとする北方は[[中国語]]にも劇的な変化をもたらした。西晋以前の[[上古中国語]]は[[八王の乱]]以降、介入した異民族に支配交代の度、支配した異民族に都合の良い発音に変化し、[[上古音]]にみられた sl-, pl-, kl-, gn-等の複雑な重子音が消滅し単純化した。一方、古代漢民族が避難した南方のエリアは[[入声|音節末子音]]が残り現代でも[[客家語]]や[[粤語]]、[[閩語]]、[[呉語]]などの南方方言に受け継がれている。隋による南北朝統一より[[初唐]]までに中国全土が[[中古音]]の[[中古中国語]]に変化した。 ==日本の歴史空白期== 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。これはこの時代が丁度ほぼ西晋・東晋の時代に当たり、270年から277年にかけての涼州で鮮卑系の禿髪樹機能らによる非漢民族の大規模な反乱、[[呉の滅亡 (三国)|呉への侵攻と滅亡]]、[[八王の乱]]、[[永嘉の乱]]そして[[五胡十六国時代]]と度重なる大規模な戦乱で当時の日本の諸国との交流が断絶してしまったためによる。 <!-- == 脚注 == {{Reflist}}--> == 参考文献 == {{参照方法|date=2022年6月|section=1}} *[[森三樹三郎]]『六朝士大夫の精神』同朋舎、1986年。ISBN 4810405176 ==関連項目== *[[魏晋南北朝表]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{先代次代|[[中国の歴史]]||[[後漢]]|[[隋]]}} {{デフォルトソート:きしんなんほくちようしたい}} [[Category:魏晋南北朝|*]]
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MELODY (雑誌)
『MELODY』(メロディ)は、白泉社が発行する日本の少女向け隔月刊漫画雑誌。1997年9月16日、『月刊MELODY』として創刊した。創刊号の表紙のコピーは「すべてのドラマ世代へ 新ガールズ・コミック創刊!」であった。2006年、隔月刊(偶数月刊)となり、『MELODY』として新装刊した。発売日は刊行月の前々月(偶数月)の28日。 『花とゆめ』および『LaLa』(いずれも白泉社)から派生した。ドラマ性のある作品を中心に掲載している。掲載作品は「花とゆめコミックス」「花とゆめコミックススペシャル」レーベルにてコミックス化されている。なお、かつて一部の作品は「ジェッツコミックス」レーベルにてコミックス化されていた。 2023年10月号現在。
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『MELODY』(メロディ)は、白泉社が発行する日本の少女向け隔月刊漫画雑誌。1997年9月16日、『月刊MELODY』として創刊した。創刊号の表紙のコピーは「すべてのドラマ世代へ 新ガールズ・コミック創刊!」であった。2006年、隔月刊(偶数月刊)となり、『MELODY』として新装刊した。発売日は刊行月の前々月(偶数月)の28日。 『花とゆめ』および『LaLa』(いずれも白泉社)から派生した。ドラマ性のある作品を中心に掲載している。掲載作品は「花とゆめコミックス」「花とゆめコミックススペシャル」レーベルにてコミックス化されている。なお、かつて一部の作品は「ジェッツコミックス」レーベルにてコミックス化されていた。
{{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 誌名 = MELODY | 英文誌名 = | 誌名略称 = | ジャンル = [[漫画雑誌]] | 読者対象 = [[少女]] | 刊行頻度 = [[逐次刊行物#隔月刊|隔月刊]] (偶数月28日発売) | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 定価 = 600円 | 出版社 = [[白泉社]] | 編集部名 = | 発行人 = | 編集人1役職 = | 編集人1氏名 = 武田直子{{R|natalie20210305}} | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = 08631 | 刊行期間 = [[1997年]][[9月16日]] (1997年10月号) - | 発行部数 = 22,000<!--<ref>{{Cite web|url=https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index|title=印刷証明付部数|publisher=日本雑誌協会|accessdate=2023-11-06}}</ref>--> | 発行部数調査年月 = 2023年7月 - 2023年9月 | 発行部数調査機関 = [[日本雑誌協会]] | レーベル = | 姉妹誌 = | ウェブサイト = [https://melody-web.com/ 公式ホームページ] | 特記事項 = }} 『'''MELODY'''』(メロディ)は、[[白泉社]]が発行する[[日本]]の少女向け[[逐次刊行物#隔月刊|隔月刊]][[漫画]]雑誌。[[1997年]][[9月16日]]、『[[逐次刊行物#月刊|月刊]]MELODY』として創刊した。創刊号の表紙のコピーは「すべてのドラマ世代へ 新ガールズ・コミック創刊!」であった。[[2006年]]、隔月刊(偶数月刊)となり、『MELODY』として新装刊した。発売日は刊行月の前々月(偶数月)の28日。 『[[花とゆめ]]』および『[[LaLa]]』(いずれも白泉社)から派生した。{{独自研究範囲|date=2023-04-27|ドラマ性のある作品を中心に掲載している。}}掲載作品は「[[花とゆめコミックス]]」「花とゆめコミックススペシャル」レーベルにてコミックス化されている。なお、かつて一部の作品は「[[ジェッツコミックス]]」レーベルにてコミックス化されていた<ref>{{独自研究範囲|date=2023-04-27|花とゆめコミックススペシャルのレーベルが開始されてからも、一部作品はジェッツコミックスで刊行されていたが、2010年代以降新書判以外の大判(A5・B6)サイズで発行する新規作品や『[[獣王星]]』の完全版及び、『[[秘密 -トップ・シークレット-]]』の新装版及び続編『[[秘密 -トップ・シークレット-#秘密 season0|秘密 season0]]』は花とゆめコミックススペシャルで刊行されるなど、移行が進んでいる。なお、ジェッツコミックスは2016年6月より「ヤングアニマルコミックス」へレーベル名が変更されたが、ジェッツコミックスより単行本刊行されている『[[大奥 (漫画)|大奥]]』も、そのままヤングアニマルコミックスより最終19巻まで刊行が続けられた。前述のレーベル名変更もあり、今後新規での大判サイズで刊行されるタイトルは、花とゆめコミックススペシャルからの刊行に統一される模様。}}</ref>。 == 歴史 == * 1997年9月16日 - 『月刊MELODY』創刊号(10月号)発売。当初の発売日は前月16日。 * 2001年11月28日 - 2002年1月号発売。発売日を刊行月の前々月28日に変更。 * 2006年4月28日 - 6月号発売。隔月刊化(偶数月刊)。 * 2006年6月28日 - 8月号発売。新装刊してロゴ・表紙デザインをリニューアル。誌名も現在の『MELODY』に変更。 == 歴代編集長 == {{節スタブ}} * 佐久間崇<!--(2016年12月時点)--><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/pp/aupayment_comic/page/2|title=auかんたん決済 presents 女性マンガ誌の編集長24名が選ぶ!今年完結したイチオシマンガ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-12-20|accessdate=2021-10-21}}</ref> * 武田直子<!--(2021年3月時点)--><ref name="natalie20210305">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/column/416418|title=マンガ誌編集長が選ぶ、2020年のイチオシ作品|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-03-05|accessdate=2021-05-08}}</ref> == 現在の主な掲載作品 == 2024年2月号現在。 * 曙橋三叉路白鳳喫茶室にて([[高尾滋]]) * おかえり、南星バス(まどさわ窓子) * [[かげきしょうじょ!!]]([[斉木久美子]]) * [[髪を切りに来ました。]]([[高橋しん]]) * 吸血鬼と愉快な仲間たち(原作:[[木原音瀬]]、[[羅川真里茂]])←『花ゆめAi』から移籍<!-- 2023年2月号 - --> * キリコのこばらのこみち([[玖保キリコ]])<!-- 2022年2月号 - --> * 下足痕踏んじゃいました([[麻生みこと]]) * [[31☆アイドリーム]]([[種村有菜]]) * 寿々木君のていねいな生活([[ふじもとゆうき]])<!-- 2022年8月号 - --> * 相撲女子初心者ですが。(はしのちづこ) * 蜻蛉([[河惣益巳]]) * [[花よりも花の如く]]([[成田美名子]]) * 秘すれば、花([[南マキ]])<!-- 2022年12月号 - --> * ヒポクラテスの卵(ススキノ海)<!-- - 2024年2月号 --> * [[秘密 ―トップ・シークレット―|秘密 season0]]([[清水玲子]]) * ぶんぶんのーと(立花晶) * ベランダ絵日記帖([[六本木綾]]) * [[ぼくは地球と歌う]]([[日渡早紀]]) * 翠の社の龍神さま(松風はるか)<!-- 2022年10月号 - --> * [[八雲立つ|八雲立つ 灼]]([[樹なつみ]]) * ルーム・ツアーズ([[マツモトトモ]])<!-- 2023年6月号 - --> * 私のブルーガーネット([[秋山はる]])<!-- 2024年2月号 - --> == その他、過去の執筆陣(作品名等) == * [[青池保子]]:[[修道士ファルコ]] * [[麻生みこと]]:[[そこをなんとか]] * [[安孫子三和]]:[[みかん絵日記]] * [[磯谷友紀]]:王女の条件 * [[一条ゆかり]] * [[樹なつみ]]:[[獣王星]] * [[宇野亜由美]] * [[遠藤淑子]] * [[大雪師走]] * [[岡野史佳]] * [[岡野玲子]]:[[陰陽師 玉手匣]] * [[小川彌生]]:フィギュアよこんにちは * [[勝田文]]:[[プリーズ、ジーヴス]](原作:[[P・G・ウッドハウス]]) * [[加藤四季]] * [[加藤知子 (漫画家)|加藤知子]] * [[雁須磨子]] * [[喜多尚江]] * [[桑田乃梨子]] * [[佐原ミズ]]×[[スキマスイッチ]]:スキマ式 * [[清水玲子]]:[[秘密 ―トップ・シークレット―]] * [[高橋しん]] * [[竹宮惠子|竹宮恵子]] * 立花晶:すぴすぴ事情 〜白文鳥偏愛日記〜 * [[立野真琴]] * つぐみ屋:「9人目の嘘つき」<!-- 2022年2月号 - 2022年6月号、短期連載 --> * [[東城和実]] * [[西炯子]]:[[なかじまなかじま]] * [[中村世子]]:モフモフつきハイツ空室有〼<!-- 2022年10月号 - 2023年8月号→『花ゆめAi』へ移籍--> * [[波津彬子]] * [[ひかわきょうこ]]:[[お伽もよう綾にしき]]、魔法にかかった新学期<!-- - 2022年2月号 --> * [[松苗あけみ]] * [[マツモトトモ]]:リズムナシオン * [[魔夜峰央]]:[[パタリロ!]] * [[やまざき貴子]]:[[っポイ!]] * [[山田ユギ]]:[[まほろ駅前多田便利軒]](原作:[[三浦しをん]]) * [[山口美由紀]]:パラダイスパイレーツ * [[よしながふみ]]:[[大奥 (漫画)|大奥]] * [[米沢りか]] * [[羅川真里茂]]:しゃにむにアンチ★エイジング == 発行部数 == * 2006年9月1日 - 2007年8月31日、44,000部<ref name="data">[http://www.j-magazine.or.jp/ 日本雑誌協会]マガジンデータによる1号当たり平均部数。</ref> * 2007年10月1日 - 2008年9月30日、46,867部<ref name="data" /> * 2008年10月1日 - 2009年9月30日、46,567部<ref name="data" /> * 2009年10月1日 - 2010年9月30日、47,434部<ref name="data" /> * 2010年10月1日 - 2011年9月30日、49,717部<ref name="data" /> * 2011年10月1日 - 2012年9月30日、49,067部<ref name="data" /> * 2012年10月1日 - 2013年9月30日、47,550部<ref name="data" /> * 2013年10月1日 - 2014年9月30日、46,117部<ref name="data" /> * 2014年10月1日 - 2015年9月30日、43,117部<ref name="data" /> * 2015年10月1日 - 2016年9月30日、40,367部<ref name="data" /> * 2016年10月1日 - 2017年9月30日、38,217部<ref name="data" /> * 2017年10月1日 - 2018年9月30日、36,667部<ref name="data" /> * 2018年10月1日 - 2019年9月30日、35,250部<ref name="data" /> * 2019年10月1日 - 2020年9月30日、32,667部<ref name="data" /> * 2020年10月1日 - 2021年9月30日、31,083部<ref name="data" /> * 2021年10月1日 - 2022年9月30日、27,250部<ref name="data" /> * 2022年10月1日 - 2023年9月30日、22,083部<ref name="data" /> == 関連誌・関連サイト == ; LaLaメロディonline : 2013年11月22日に本誌と『LaLa』のWEBマンガサイト「LaLaメロディonline」が開始<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/104062|title=LaLaとメロディのWEBマンガサイト始動、毎週金曜更新|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2013-11-22|accessdate=2021-08-05}}</ref>。 ; 花LaLa online : 2015年4月3日に「花とゆめonline」と「LaLaメロディonline」が合わさり、「花LaLa online」が開始。本誌と『花とゆめ』、『別冊花とゆめ』、『LaLa』の4誌が合同で運営<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/143007|title=花ゆめ、別花、LaLa、メロディの4誌合同WEBマンガサイト「花LaLa online」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2015-04-03|accessdate=2021-08-05}}</ref>。2017年8月2日に「[[マンガPark]]」がリリースされるとともにサービスが終了<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20170802-a163/|title=白泉社の名作や連載作が集結した総合アプリ・マンガPark、本日リリース|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2017-08-02|accessdate=2021-08-05}}</ref>。 ; メロディ+ : 2021年8月5日、本誌の増刊である電子雑誌『メロディ+』が創刊し、電子書店で配信が開始<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/439743|title=新電子増刊メロディ+が誕生、斉木久美子の初期作品や「かげきしょうじょ!!」番外編|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-08-05|accessdate=2021-08-05}}</ref>。 == 関連項目 == * [[花とゆめコミックス]] * [[白泉社アテナ新人大賞]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://melody-web.com/ 公式ホームページ] {{MELODY連載中}} {{Manga-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=月刊MELODY |1-1=月刊漫画雑誌 }} {{DEFAULTSORT:めろてい}} [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:白泉社の漫画雑誌]] [[Category:隔月刊漫画雑誌]] [[Category:少女漫画雑誌]] [[Category:1997年創刊の雑誌]] [[Category:花とゆめ|*Bめろてい]] [[Category:LaLa|*Bめろてい]] [[Category:MELODY|*]] [[Category:刊行中の漫画雑誌]]
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16,056
ヤングアニマル
『ヤングアニマル』(Young Animal)は、白泉社が発行する月2回刊の青年漫画雑誌。発売日は毎月第2・第4金曜日。 1992年に創刊。略称は「YA」「ヤンアニ」「アニマル」。 単行本のレーベルとして「ジェッツコミックス」「ヤングアニマルコミックス」がある。 派生誌として『ヤングアニマル嵐』と『ヤングアニマルあいらんど』(『ヤングアニマルイノセント』)(以上は休刊)、『ヤングアニマルZERO』(奇数月9日発売)がある。 前身は『月刊アニマルハウス』。その系譜は1981年に創刊された月刊少年漫画雑誌の『少年ジェッツ』まで遡り、1983年の休刊後に『月刊コミコミ』が創刊。次いで1989年には青年誌としてリニューアルされた『月刊アニマルハウス』を経て、1992年に隔週刊としてリニューアル創刊されている。単行本のレーベル名が「ジェッツコミックス」となっているのは、その当時の名残である。2016年6月よりレーベルを「ヤングアニマルコミックス」に変更、その第1弾として『ベルセルク』の新装版が刊行された。 1992年の創刊時には、前身の『月刊アニマルハウス』から、『あばよ白書』『砂の薔薇』『ベルセルク』などの作品を引き続き掲載する。1990年代には、本誌出身の作家として技来静也・柴田ヨクサル・ももせたまみ・二宮ひかる・関崎俊三などが登場し、主力として誌面を牽引した。同時に、他社の雑誌で既に実績を挙げていた林崎文博・あさりよしとお・竹内桜などの作家も積極的に起用している。 2000年前後にはグラビア関係の記事にも力を入れ、2000年には「ミスヤングアニマル」がスタートしている。また、『ふたりエッチ』や『コイズミ学習ブック』などの性描写を中心とした作品の存在もあり、成年コミック出身の作家の起用も行われている(1990年代にも『ぶっとび!!CPU』などが人気を博している)。2000年には増刊の『ヤングアニマル嵐』が季刊としてスタート、2001年には隔月刊化した。同誌は過激な性描写で数々の有害図書指定を受けていたが、2018年6月に休刊した。一方、硬軟合わせたバランス重視の誌面となった『ヤングアニマル』本誌は、2020年現在、『ふたりエッチ』以外に直接的な性交シーンのある作品は存在せず、ラブコメ、エロコメ系作品の多くが「寸止め」程度に収まっている。 2000年代以降は数々のメディアミックスが行われている。既に1990年代に先述の『砂の薔薇』『ぶっとび!!CPU』などがOVA作品でアニメ化、また『ベルセルク』がTVアニメとして映像化されていたが、2000年代に入ってからは実写作品への進出が目立ち、2000年に『ふたりエッチ』、2004年に『ああ探偵事務所』、2005年に『ホーリーランド』が、それぞれTVドラマ化されている。また2006年には『ユリア100式』がオリジナルビデオ、2008年には『デトロイト・メタル・シティ』が実写映画として製作された。アニメに関しても、2002年・2003年に『藍より青し』がTVアニメ化、2002年 - 2004年に『ふたりエッチ』がOVA化される。2008年に『デトロイト・メタル・シティ』がOVA化され、同作品は2009年に衛星放送、2010年には衛星放送と地上波でそれぞれ放映されている。以降も『3月のライオン』『信長の忍び』『上野さんは不器用』『あそびあそばせ』など、人気連載の多くが映像化されている。 この他、映画・アニメ・ゲームの漫画化作品も少数ながら掲載されている。付録に不定期でDVDが付属していたこともある。 姉妹誌でもあった『ヤングアニマル嵐』とは、両誌での並行連載や連載作品の移籍、連載中の作品の番外編をもう一方の雑誌に掲載するなど、相互の交流が多かった。また、関連性を持つ雑誌に関しては、『MELODY』が挙げられる。 2017年11月2日、公式ウェブサイトをリニューアル。2018年には『ヤングアニマル嵐』が7号(6月1日発売)をもって休刊となったことに伴い、同誌連載で継続中作品のほとんどが『ヤングアニマル』本誌へ移籍、2018年14号(7月13日発売)から連載が開始された。 2019年には週刊漫画雑誌以外で初の合併号が発行された。同年9月9日には新増刊号となる『ヤングアニマルZERO』を発刊。同号は隔月刊ペースで発売する。 以下、2023年12月8日(2023年No.24)現在連載中の作品。月1連載作品や不定期連載作品、短期集中連載作品も含む。 2000年にスタート。当初は複数名のアイドルがエントリーし投票制で各賞を発表していたが、2002年から読者選出によりグラビアアイドルを毎年5月上旬発売号で発表し継続した。2014年度を最後に行われていなかったが、創刊30周年を迎える2022年に、東京Lilyとのコラボレーションにより、2001年以来21年ぶりとなるミスコンテスト形式での「ミスヤングアニマル2022」オーディションを開催することが発表された。 “ヤングアニマルから新たなグラビアクイーンを生み出したい!”という願いから生まれたフォトセッション企画。2ndシーズンまでは写真家が新人アイドルを推薦する形で開催。コンセプトから漫画誌初グラビアとなるアイドルも多い。3rdシーズンは10代限定。 読みは「ワイエー・グラひめ」。ヤングアニマル紙面を飾る次世代プリンセスを決定するオーディション。DMM.yellとの共催で2016年秋に初開催され、NEXTグラビアクイーンの後継コンテストとなる。一次選考はオープンエントリー制。ファイナリスト8名は紙面掲載のうえ、投票でグランプリを決定する。 YAグラ姫は2019年(2020年度)は開催されず、ヤングアニマル誌面グラビア争奪バトルとして縮小リニューアルされた。主催は「ヤングアニマル」および「LINE LIVE」。グランプリは3ページ以上のグラビア掲載権と交通広告掲載権が進呈される。 『ヤングアニマルDensi』は、本誌によるかつて存在したweb雑誌サイト。2013年4月26日から2017年7月31日まで独自の作品を配信していたが、2017年8月以降は白泉社の電子書籍ポータル『マンガPark』に移行している。 毎週金曜日更新。 創刊以来、以下の作品のうちの1本が不規則に2014年8月31日まで日替わりで掲載されていた。各作品とも、「読切・完結作品」のページでバックナンバーを公開している。 2014年4月25日配信開始し、月1〜2作程度の割合で追加配信されていた。 『ヤングアニマルWeb』は、本誌によるweb漫画サイト。2023年3月10日に開設。 Webマンガ誌を制作できるツールである「コミチ+」が導入されているため、今まで紙媒体で出版された作品をインターネット環境で読むことができる。サイトには本誌で連載中の作品、完結済みの作品、Webでのオリジナル作品が掲載される。コインを使用するとすべての漫画を無料で読むことができ、待つと無料の枠が増えるシステムとなっている。漫画以外にも、本誌のグラビアが同様の仕組みで利用できる。 検索でサイトへ訪問した読者や、SNSでバズった作品の試し読みを希望する人に対し、ログインすることなく単行本未収録の最新話まで読むことができるような場所を提供することが、本サイトが開始された背景にある。「かつて巨大な部数で影響力を誇った紙雑誌」だが、インターネットを前提として設計されている「コミチ+」を導入し、「これまで以上にヒット作から新作までを読者の手元に届ける」ことが、本サイトの狙いとされている。
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『ヤングアニマル』は、白泉社が発行する月2回刊の青年漫画雑誌。発売日は毎月第2・第4金曜日。 1992年に創刊。略称は「YA」「ヤンアニ」「アニマル」。 単行本のレーベルとして「ジェッツコミックス」「ヤングアニマルコミックス」がある。 派生誌として『ヤングアニマル嵐』と『ヤングアニマルあいらんど』(『ヤングアニマルイノセント』)(以上は休刊)、『ヤングアニマルZERO』(奇数月9日発売)がある。
{{特殊文字}} {{基礎情報 雑誌 | 画像ファイル名 = Young Animal logo.png | 画像サイズ = | 画像説明 = | 誌名 = ヤングアニマル | 英文誌名 = Young Animal | 誌名略称 = YA、ヤンアニ、アニマル | ジャンル = [[青年漫画]] | 読者対象 = 20代 - 50代の男性 | 刊行頻度 = 毎月第2・第4[[金曜日]] | 発売国 = {{JPN}} | 言語 = [[日本語]] | 定価 = 440円(2016年11月現在) | 出版社 = [[白泉社]] | 編集部名 = ヤングアニマル編集部 | 発行人 = | 編集人1役職 = | 編集人1氏名 = 永島隆行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hakusensha.co.jp/recruit2020/chief/interview03.html|title=ヤングアニマル編集長 永島隆行|website=白泉社2020年度定期採用|publisher=白泉社|accessdate=2021-10-06}}</ref> | 編集人2役職 = | 編集人2氏名 = | ISSN = | 雑誌名コード = | 刊行期間 = [[1992年]] - | 発行部数 = 4万7,600<!--<ref>{{Cite web|url=https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index|title=印刷証明付部数|publisher=日本雑誌協会|accessdate=2023-08-11}}</ref>--> | 発行部数調査年月 = 2023年4月 - 6月 | 発行部数調査機関 = [[日本雑誌協会]] | レーベル = ヤングアニマルコミックス<br/>[[ジェッツコミックス]] | 姉妹誌 = [[ヤングアニマル嵐]]<br/>[[ヤングアニマルあいらんど|ヤングアニマルあいらんど→ヤングアニマルイノセント]]<br/>[[ヤングアニマルZERO]] | ウェブサイト = https://magazine.younganimal.com/ | 特記事項 = }} 『'''ヤングアニマル'''』(Young Animal)は、[[白泉社]]が発行する[[逐次刊行物#月2回刊|月2回刊]]の[[青年漫画]]雑誌。発売日は毎月第2・第4[[金曜日]]。 [[1992年]]に創刊。略称は「'''YA'''」「'''ヤンアニ'''」「'''アニマル'''」。 単行本のレーベルとして「[[ジェッツコミックス]]」「ヤングアニマルコミックス」がある。 派生誌として『[[ヤングアニマル嵐]]』と『[[ヤングアニマルあいらんど]]』(『ヤングアニマルイノセント』)(以上は休刊)、『[[ヤングアニマルZERO]]』(奇数月9日発売)がある。 == 概要 == {{出典の明記|date=2014年9月|section=1}} 前身は『[[月刊アニマルハウス]]』。その系譜は1981年に創刊された月刊少年漫画雑誌の『[[少年ジェッツ]]』まで遡り、1983年の休刊後に『[[月刊コミコミ]]』が創刊。次いで1989年には青年誌としてリニューアルされた『月刊アニマルハウス』を経て、1992年に隔週刊としてリニューアル創刊されている。単行本のレーベル名が「ジェッツコミックス」となっているのは、その当時の名残である。2016年6月よりレーベルを「ヤングアニマルコミックス」に変更、その第1弾として『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』の新装版が刊行された<ref>[https://natalie.mu/comic/news/182748 コミックナタリー - ジェッツコミックスが名称変更!「ベルセルク」38巻発売&全巻リニューアル]</ref><ref>[https://natalie.mu/comic/news/190407 コミックナタリー - 「ベルセルク」次号アニマルより連載再開!アニメの原作パート収録した付録も]</ref>。 1992年の創刊時には、前身の『月刊アニマルハウス』から、『[[あばよ白書]]』『[[砂の薔薇]]』『[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]]』などの作品を引き続き掲載する。1990年代には、本誌出身の作家として[[技来静也]]・[[柴田ヨクサル]]・[[ももせたまみ]]・[[二宮ひかる]]・[[関崎俊三]]などが登場し、主力として誌面を牽引した。同時に、他社の雑誌で既に実績を挙げていた[[林崎文博]]・[[あさりよしとお]]・[[竹内桜]]などの作家も積極的に起用している。 2000年前後にはグラビア関係の記事にも力を入れ、2000年には「ミスヤングアニマル」がスタートしている。また、『[[ふたりエッチ]]』や『[[コイズミ学習ブック]]』などの性描写を中心とした作品の存在もあり、成年コミック出身の作家の起用も行われている(1990年代にも『[[ぶっとび!!CPU]]』などが人気を博している)。2000年には増刊の『[[ヤングアニマル嵐]]』が季刊としてスタート、2001年には隔月刊化した。同誌は過激な性描写で数々の有害図書指定を受けていたが、2018年6月に休刊した。 2000年代以降は数々の[[メディアミックス]]が行われている。既に1990年代に先述の『砂の薔薇』『ぶっとび!!CPU』などが[[OVA]]作品でアニメ化、また『ベルセルク』がTVアニメとして映像化されていたが、2000年代に入ってからは実写作品への進出が目立ち、2000年に『ふたりエッチ』、2004年に『[[ああ探偵事務所]]』、2005年に『[[ホーリーランド]]』が、それぞれTVドラマ化されている。また2006年には『[[ユリア100式]]』が[[オリジナルビデオ]]、2008年には『[[デトロイト・メタル・シティ]]』が実写映画として製作された。アニメに関しても、2002年・2003年に『[[藍より青し]]』がTVアニメ化、2002年 - 2004年に『ふたりエッチ』がOVA化される。2008年に『デトロイト・メタル・シティ』がOVA化され、同作品は2009年に衛星放送、2010年には衛星放送と地上波でそれぞれ放映されている。以降も『[[3月のライオン]]』『[[信長の忍び]]』『[[上野さんは不器用]]』『[[あそびあそばせ]]』など、人気連載の多くが映像化されている。 この他、映画・アニメ・ゲームの[[漫画化]]作品も少数ながら掲載されている。付録に不定期でDVDが付属していたこともある。 姉妹誌でもあった『ヤングアニマル嵐』とは、両誌での並行連載や連載作品の移籍、連載中の作品の番外編をもう一方の雑誌に掲載するなど、相互の交流が多かった。また、関連性を持つ雑誌に関しては、『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』が挙げられる。 2017年11月2日、公式ウェブサイトをリニューアル。2018年には『ヤングアニマル嵐』が7号(6月1日発売)をもって休刊となったことに伴い<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[コミックナタリー]]|url=https://natalie.mu/comic/news/284688|title=ヤングアニマル嵐が休刊、9月に電子雑誌・年末に新青年誌を創刊 - コミックナタリー|accessdate=2018-06-01}}</ref>、同誌連載で継続中作品のほとんどが『ヤングアニマル』本誌へ移籍、2018年14号(7月13日発売)から連載が開始された<ref>ただし、『[[実況!!泉くんの恋模様]]』は本誌の同年15号(7月27日発売)に最終回のみを掲載した。また、本誌から移籍された『[[マイぼーる!]]』と『[[拳闘暗黒伝セスタス|拳奴死闘伝セスタス]]』の2作は本誌に戻らず、両作とも『[[マンガPark]]』に移籍した。</ref>。 2019年には週刊漫画雑誌以外で初の合併号が発行された。同年9月9日には新増刊号となる『[[ヤングアニマルZERO]]』を発刊。同号は隔月刊ペースで発売する<ref>{{Cite web|和書|title=白泉社の新増刊が9月に誕生!「うらみちお兄さん」の久世岳や押切蓮介ら参加(動画あり)|url=https://natalie.mu/comic/news/339438|website=コミックナタリー|accessdate=2019-11-06|language=ja|publisher=株式会社ナターシャ|date=2019年7月12日}}</ref>。 == 現在連載中の作品 == 以下、2023年12月22日(2024年No.1)現在連載中の作品。月1連載作品や不定期連載作品、短期集中連載作品も含む。 <!-- 最終話が掲載されてもその次の号が発売されるまでは連載中です。次の号が発売されるまでは最終話が掲載された作品を除去しないで下さい。--> <!--「Wikipedia:性急な編集をしない」に基づき、連載開始前の分を記載しないでください。コメントアウトでの記載も無駄に版を重ねるだけなのでお止めください。--> {| class="wikitable sortable" style="background: #FFF;" ! 作品名 !! 作者(作画) !! 原作など !! 開始号 !! 備考 |- | {{Display none|へるせるく}}[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]] || {{Display none|みうら けんたろう}}[[三浦建太郎]]{{Efn|三浦の死去後のクレジットは「原作:三浦建太郎、漫画:スタジオ我画、監修:森恒二」<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/480592|title=「ベルセルク」連載再開、「自分たちの中に根付いた『三浦建太郎』を真摯に紡ぎたい」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-06-07|accessdate=2022-06-07}}</ref>。}} || - ||1992年No.11 <!-- - 2021年No.18 - 2022年No.13 『月刊アニマルハウス』1989年10月号--> || |- | {{Display none|ふたりえつち}}[[ふたりエッチ]] || {{Display none|かつ あき}}[[克・亜樹]] || - || 1997年No.1 ||<!-- (アニメ・OVA、TVドラマ・WOWOW、『ヤングアニマル嵐』、『マンガPark』と並行連載) --> |- | {{Display none|さんかつのらいおん}}[[3月のライオン]] || {{Display none|うみの ちか}}[[羽海野チカ]] || - || 2007年No.14 ||2019年No.1以降は主に月1連載<!-- ([[アニメ]]・[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) --> |- | {{Display none|のふなかのしのひ}}[[信長の忍び]] || {{Display none|しけの なおき}}[[重野なおき]] || - || 2008年No.12 || |- | {{Display none|へんしよへんなしよしこうせいあまくりせんこ}}[[変女 〜変な女子高生 甘栗千子〜]] || {{Display none|このき よしる}}[[此ノ木よしる]] || - || 2015年No.6 ||『ヤングアニマルあいらんど』<br />から並行連載を経て移籍 |- | {{Display none|えすらんくもんすたあのへひいもすたけとねことまちかわれてえるふむすめのへつととしてくらしてます}}[[Sランクモンスターの《ベヒーモス》だけど、猫と間違われてエルフ娘の騎士として暮らしてます|Sランクモンスターの《ベヒーモス》<br/>だけど、猫と間違われてエルフ娘の<br />騎士として暮らしてます]] || {{Display none|しののめ たろう}}[[東雲太郎]]{{Small|(漫画)}} || {{Display none|きんよく のそみ}}銀翼のぞみ{{Small|(原作)}}<br />{{Display none|しののめ たろう}}[[東雲太郎]]<br />{{Display none|よの みつき}}[[夜ノみつき]]<br />{{Small|(キャラクター原案)}} || 2018年No.14 ||『ヤングアニマル嵐』より移籍<br />隔号連載 |- | {{Display none|へいおんせたいのいたてんたち}}[[平穏世代の韋駄天達]] || {{Display none|くうるきようしんしや}}[[クール教信者]]{{Small|(作画)}} || {{Display none|あまはら}}[[天原]]{{Small|(原作)}} || 2018年No.17 || 隔号連載 |- | {{Display none|しんけきのえろこさんへんなおねえさんはたんしこうせいとなかよくなりたい}}[[変女 〜変な女子高生 甘栗千子〜|進撃のえろ子さん 〜変なお姉さんは<br />男子高生と仲良くなりたい〜]] || {{Display none|このき よしる}}[[此ノ木よしる]] || - || 2019年No.15 ||『変女 〜変な女子高生 甘栗千子〜』<br />のスピンオフ作品 |- | {{Display none|おおえるらつこをかう}}OL、ラッコを飼う。 || {{Display none|いのうえ ともゆき}}井上知之 || - || 2019年No.17 ||当初は3号連続読切扱い |- | {{Display none|となりののふくにさんはおれのことかすきなきかする}}[[となりの信國さんは俺のことが好きな気がする|となりの信國さんは<br />俺のことが好きな気がする]] || {{Display none|やすた こうすけ}}[[安田剛助]] || - || 2020年No.19 || |- | {{Display none|ゆうきあるものよりちれ}}[[勇気あるものより散れ]] || {{Display none|あいた ゆう}}[[相田裕]] || - || 2021年No.5 || |- | {{Display none|しよふう}}[[じょふう]] || {{Display none|あまつめ りゆうた}}[[甘詰留太]] || - || 2022年No.1 || 隔号連載 |- | {{Display none|しうんしけのこともたち}}[[紫雲寺家の子供たち]] || {{Display none|みやしま れいし}}[[宮島礼吏]] || - || 2022年No.5 || 2023年No.2より隔号連載 |- | {{Display none|まほうちゅうねん}}魔法中年 || {{Display none|はいは ねむみ}}灰刃ねむみ{{Small|(作画)}} || {{Display none|まき}}魔木{{Small|(原作)}} || 2022年No.6 || |- | {{Display none|へりりゆうかいてん}}[[ペリリュー 楽園のゲルニカ|ペリリュー –外伝–]] || {{Display none|たけた かすよし}}[[武田一義]] || - || 2022年No.7 || 短期集中連載 → 不定期連載 |- | {{Display none|このふくしゆうにきやるはいらない}}この復讐にギャルはいらない || {{Display none|まのせ}}まの瀬 || - || 2022年No.11 || |- | {{Display none|ろつくはれていのたしなみてして}}[[ロックは淑女の嗜みでして]] || {{Display none|ふくた ひろし}}[[福田宏]] || - || 2022年No.21 || |- | {{Display none|へんとわつはとししつこん}}ペンと手錠と事実婚 || {{Display none|かすやま たんく}}ガス山タンク{{Small|(漫画)}} || {{Display none|さわらき しんいち}}椹木伸一{{Small|(原作)}} || 2022年No.13 || |- | {{Display none|かくなるうえは}}描くなるうえは || {{Display none|かは ゆうし}}蒲夕二{{Small|(作画)}} || {{Display none|たかはや きゆう}}高畑弓{{Small|(原作)}} || 2023年No.5 || |- | {{Display none|とうきようさつしんかくえん}}東京殺人学園 || {{Display none|ますや りゆうたろう}}舛谷隆太郎 {{Small|(作画)}} || {{Display none|ひくま}}ヒグマ{{Small|(原作)}} || 2023年No.9・10 || |- | {{Display none|ていいたいはあ}}[[D.ダイバー]] || {{Display none|もり こうし}}[[森恒二]] || - || 2023年No.11 || |- | {{Display none|あうとれいしよう}}アウトレイジョウ || {{Display none|ゆすりは けいた}}杠憲太 {{Small|(作画)}} || {{Display none|けいそ}}[[珪素 (作家)|珪素]]{{Small|(原作)}} || 2023年No.12 || 隔号連載 |- | {{Display none|しんめいのれすきゆう}}神命のレスキュー || {{Display none|きりえ}}キリエ || - || 2023年No.13 || |- | {{Display none|ちえるのふいりのいのり}}[[チェルノブイリの祈り]] || {{Display none|くまかや ゆうた}}熊谷雄太 {{Small|(作画)}} || {{Display none|すうえとらあな あれくしええういつち}}[[スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチ|スヴェトラーナ・<br />アレクシエーヴィッチ]]{{Small|(原作)}} <br /> {{Display none|いまなか てつし}}[[今中哲二]]{{Small|(原作)}} || 2023年No.14 || 同インタビュー集のコミカライズ<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/532899|title=原発事故の被災者を取材したノンフィクション「チェルノブイリの祈り」マンガ化|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-14|accessdate=2023-07-14}}</ref> |- | {{Display none|ほくらのなつかさけていく}}ぼくらの夏が裂けていく || {{Display none|さとう けんたろう}}[[佐藤健太郎]] {{Small|(作画)}} || {{Display none|みやつき しん}}[[宮月新]]{{Small|(原作)}} || 2023年No.17 || <!-- ※新連載の追加方法 以下の雛形をコメントアウトのすぐ上にコピーアンドペーストし、《 》内の説明に従った内容をその箇所に記入してください。また記入後は《》も不要になります。 ※原作者なしの場合 |- | {{Display none|《作品の読みをひらがな清音で》}}[[《作品名》]] || {{Display none|《作者名をひらがな清音で》}}[[《作者名》]] || - ||《開始号をxxxx年xx号》 ※原作者ありの場合 |- | {{Display none|《作品の読みをひらがな清音で》}}[[《作品名》]] || {{Display none|《作画者をひらがな清音で》}}[[《作画者名》]]{{Small|(原作)}} || {{Display none|《原作者をひらがな清音で》}}[[《原作者名》]]{{Small|(原作)}} || - ||《開始号をxxxx年xx号》 -->|} === 休載中 === {| class="wikitable sortable" style="background: #FFF;" ! 作品名 !! 作者(作画) !! 原作など !! 開始号 !! 備考 |- | {{Display none|ふたはさんちのきようたい}}[[双葉さん家の姉弟]] || {{Display none|つくたに のりお}}[[佃煮のりお]] || - || 2017年No.7 || |- | {{Display none|このあいはいたん}}[[この愛は、異端。]] || {{Display none|もりやま えな}}[[森山絵凪]] || - || 2018年No.11 ||『ヤングアニマル嵐』より移籍 |} == 連載終了作品 == === あ行 === * [[ああ探偵事務所]]([[関崎俊三]])、2002年No.1 - 2008年No.7 * [[藍より青し]]([[文月晃]])、1998年No.23 - 2005年No.17 * [[愛人[AI-REN]|愛人[AI-REN]]]([[田中ユタカ]])、1999年No.11 - 2002年No.10 * アインシュタイン1904(原作:[[大井昌和]]、作画:出店宇生)、2014年No.8 - 2015年No.2 * 青の群れ([[立原あゆみ]])、1996年No.10 - 1997年No.20 * [[あそびあそばせ]]([[涼川りん]]) 2016年No.23 - 2022年No.22、『ヤングアニマルDensi』より移籍 * [[当て屋の椿]]([[川下寛次]])、2007年No.24 - 2020年No.23、2012年No.15以降は月1連載、『[[マンガPark]]』に移籍 * あねくらべ([[東雲太郎]])※『ヤングアニマルイノセント』と並行連載、2014年No.20 - No.24、2015年No.10 - 2015年No.18<!-- 休載期間 No.13、No.16 --> * [[あばよ白書]](立原あゆみ)、『月刊アニマルハウス』1989年5月号 - 1992年4月号、1992年No.1 - 1995年No.20 * [[アマガミ#漫画|アマガミ precious diary]](原作:[[エンターブレイン]]、漫画:[[東雲太郎]])、2009年No.23 - 2011年No.23 * アマガミニ!([[渡会けいじ]])、2012年No.2 - 2012年No.8 * アルフー少年([[たくまる圭]]) * イキヌキごはんは程々に。(リオシェ号)、2021年No.16 - 2021年No.19 ※短期集中連載 * [[池袋レインボー劇場]]([[えりちん]])、2015年No.16 - 2017年No.3 * [[いつか勝ち組!]](原作:[[倉科遼]]、漫画:[[小林拓己]])、2006年No.2 - 2007年No.24 * イロモンガール(原作:[[ラリー遠田]]、漫画:[[瀬口たかひろ]])、2015年No.17 - 2016年No.11 * [[上野さんは不器用]]([[tugeneko]])、2015年No.5 - 2022年7号<!-- 当初は短期集中連載扱い --> * [[うそつきパラドクス]](原作:[[サトウナンキ]]、漫画:[[きづきあきら]])、2009年No.8 - 2012年No.8 * [[海の御先]]([[文月晃]])、2007年No.5 - 2014年No.5 * [[うわばみ彼女]]([[後藤羽矢子]])、2014年No.24 - 2017年No.21、『ヤングアニマルDensi 日替わり4コママンガ』より移籍 ** うわばみ乙女ずかん(後藤羽矢子)、2018年No.2 - 2019年No.16、『うわばみ彼女』のスピンオフ作品 * [[エアマスター]]([[柴田ヨクサル]])、1996年No.22 - 2006年No.6 * EKIDEN野郎!!(高橋雄一郎)、1998年No.10 - 1999年No.4 * [[SE (漫画)|SE]]([[此ノ木よしる]])、2013年No.5 - 2015年No.2 * [[EGメーカー]]([[酉川宇宙]])、2014年No.6 - 2015年No.16 * [[えびがわ町の妖怪カフェ]]([[上田信舟]])、2018年No.14 - 2019年No.16、『ヤングアニマル嵐』より移籍、※隔号連載 * [[エンジェル・アタック]]([[伊藤伸平]])、1997年No.19 - 1998年No.15 * エンジェル・ハード(克・亜樹)、1994年No.20 - 1995年No.17 * 教えて!サバトさん(アストラ芦屋)、2018年No.23 - 2019年No.13 * お手てつないで([[富田安紀良]]) * 鬼が疾る(はしる)(原作:[[北森鴻]]、漫画:智中天)、1996年No.23 - 1997年No.24 * [[俺はロリコンじゃない!]]([[雨蘭]])2020年No.2 - 2023年No.19 * [[女刑事ペルソナ]](原作:出海まこと、漫画:高橋雄一郎)、1999年No.12 - 2001年No.20 === か行 === * [[描かないマンガ家]]([[えりちん]]) ※サイクル連載(2勤1休連載)、2010年No.1 - 2014年No.21 * 花蟲伝(出店宇生)、2010年No.11,22読切を経て、2011年No.24 - 2012年No.3 * [[KAPPEI]]([[若杉公徳]])、2011年No.11 - 2014年No.17 * [[カラット∞原石ガール]]([[森尾正博]])、2009年No.2 - 2009年No.19 * ギガントマキア([[三浦建太郎]]) 、2013年No.23 - 2014年No.4 * [[キミキス#漫画|キミキス -various heroines-]](原作:[[エンターブレイン]]、漫画:[[東雲太郎]])、2006年No.17 - 2008年No.22 * [[キミとおやすみ]]([[まつもと剛志]])、2009年No.24 - 2012年No.10 * [[キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦]](原作:[[細音啓]]、キャラクター原作:猫鍋蒼、漫画:[[okama]])、2018年No.10 - 2021年No.6、※隔号連載 * ギャルごはん([[太陽まりい]])、2017年No.1 - 2020年No.7<!-- 当初は短期集中連載扱い --> * ギャンブルな人々(綾坂みつね) * [[侠客 (たがみよしひさの漫画)|侠客]]([[たがみよしひさ]])、1992年No.1 - 1992年No.14、1993年No.1 - 1993年No.3 * 去勢転生 (原作:[[宮月新]] 、作画:おちゃう)、2020年No.8 - 2023年No.3、『ヤングアニマルZERO』より移籍、隔号連載 * キルケーの豚(関崎俊三)、2000年No.2 - 2001年No.6 * くじごじ([[川島よしお]])、2002年No.20 - 2002年No.24、2003年No.4 - 2005年No.11 * [[暮らしの中のちっちゃいおっさん]]([[高島知宏]]) * [[グランクレスト戦記]](原作:[[水野良]]、キャラクター原案:[[深遊]]、作画:四葉真)、2016年No.12 - 2019年No.13 ※月1連載 * [[月紅 GEKKOH]]([[氷室芹夏]])、2001年No.13 - 2004年No.15 * けなげなですげ(コニシリュウイチ)、2019年No.17 - 2020年No.21 * [[ゲバルト (漫画)|ゲバルト]]([[橋本還]])、2008年No.19 - 2009年No.1 * [[拳闘暗黒伝セスタス]]([[技来静也]])、1997年No.23 - 2009年No.6 ** 拳奴死闘伝セスタス ※『拳闘暗黒伝セスタス』第2部、2010年No.11 - 2014年No.12、『ヤングアニマル嵐』に移籍 * [[コイズミ学習ブック]]([[こいずみまり]])、1998年No.7 - 2001年No.8 * 恋人の条件([[二宮ひかる]])、1996年No.5 - 1996年No.7 * [[合同会社・正義屋]](作画:[[西川秀明]]、原作監修:[[夏原武]])、2020年No.22 - 2022年No.11 * 高度救命救急センター(原作:[[樋口雅一]]、漫画:関崎俊三)、1998年No.17 - 1998年No.22 * [[ご馳走さま!]]([[馬場民雄]])1999年No.3 - 1999年No.12 * [[この醜くも美しい世界]]([[森見明日]])、2004年No.5 - 2005年No.8 ※コミカライズ === さ行 === * 最低!!(二宮ひかる)、1996年No.15 - 1996年No.20 * [[砂漠の獅子]](原作:[[中里融司]]、漫画:[[片山誠|かたやままこと]])、2009年No.3 - 2009年No.17 ※月1連載、原作者急逝のため[[絶筆]] * さゆき(有間一郎)、1994年No.19 - 1998年No.18 * [[3月のライオン|3月のライオン昭和異聞 灼熱の時代(とき)]](原作:[[羽海野チカ]]、漫画:[[西川秀明]])2015年No.9 - 2020年No.7 ※3月のライオンのスピンオフ作品 * [[ジェネシスコード]](原作:鷹野浪流、漫画:[[えりちん]])、2019年No.17 - 2020年No.19 ※『[[マンガPark]]』に移籍 * [[シグナル100]](原作:[[宮月新]]、漫画:近藤しぐれ)、2015年No.15 - 2016年No.20 * じけんじゃけん!([[安田剛助]])、2018年No.1 - 2020年No.2 ※『ヤングアニマル嵐』より移籍 * 事件屋征四郎(綾坂みつね) * 死に至る病(原作:朝田光、漫画:[[瀬口たかひろ]])、2009年No.6 - 2009年No.24 * ジャパン(原作:[[武論尊]]、漫画:三浦建太郎)、1992年No.1 - 1992年No.8 * 重箱の隅([[あさりよしとお]]) * [[自殺島]]([[森恒二]])、2008年No.22 - 2016年No.17 ** 無法島 (森恒二)2019年No.4 - 2022年No.15 ※『自殺島』のスピンオフ作品 * 実況!!泉くんの恋模様(原作:[[原田重光]]、作画:大箕すず)、2018年No.15 ※『ヤングアニマル嵐』より移籍 * 邪道スナイパー(梶井裕)、2019年No.6 - 2020年No.1 * 出勤!!市役所ファイブ(稲田恭明)、2011年No.2 - 2012年No.19 * [[女子小学生はじめましたP!]]([[牛乳のみお]])、2014年No.12 - 2019年No.18 * シュラバカ!(原作:原翔、漫画:[[前川かずお (漫画家)|前川かずお]])、2005年No.23 - 2006年No.16 * [[職業・殺し屋。]]([[西川秀明]])(『[[ヤングアニマル嵐]]』より移籍)、2003年No.4,20,21出張掲載を経て2004年No.22 - 2010年No.2 ※続編『新 職業・殺し屋。斬 ZAN』が『嵐』に連載 * 新性生活(しんせいかつ) -ネオ・ライフ-([[SUEZEN]])、1999年No.8 - 1999年No.18 * しんにち!(まつもと剛志、(c)[[新日本プロレス]])、2014年No.16 - 2016年No.8 * [[蟹工船|新約カニコウセン]](原作:[[原田重光]]、作画:[[真じろう]])、2021年No.12 - 2022年No.23 * 人類を滅亡させてはいけません (原作:高畑弓、作画:蒲夕二)<!--2020年No.18 - 2022年No.5--> * [[水族館バカ一代]]([[渡辺電機(株)]])、2006年No.11 - 2007年No.4 * スウィートホーム([[西野つぐみ]])、1995年No.21 - 1997年No.6 * スキーターらびっと!!([[雨蘭]])、2018年No.19 - 2019年No.17 * すく〜〜と!(原作:[[藤田一己]]、作画:[[新久千映]])、2013年No.21 - 2015年No.11 * すまひとらしむ(いおり真、取材協力:来未)、2020年No.20 - 2021年No.14 * [[成行シリーズ]](智中天)、1995年No.20 - 1996年No.14 ※シリーズ連載 * 聖封魔録(せいふうまろく)(有間一郎)、1993年No.14 - 1994年No.3 * [[創世のタイガ]]([[森恒二]])、2023年No.7 -2023年No.9・10 『[[イブニング]]』より移籍、『[[ヤングアニマルZERO]]』に移籍 === た行 === * [[戦え!アナウンサー]]([[みずしな孝之]]) * [[ただ離婚してないだけ]]([[本田優貴]])2018年No.14 - 2019年No.13(第一部)、2019年No.19 - 2020年No.2(第二部) ※『ヤングアニマル嵐』より移籍 * [[谷仮面]](柴田ヨクサル)、1992年No.9 - 1996年No.15 * 他人の関係(有間一郎)(OVA)、1992年No.1 - 1993年No.7 * ダブル(山口よしのぶ)、2000年No.18 - 2001年No.16 * だるまの酒(山岡英樹) * [[ちょこッとSister]](原作:[[雑破業]]、漫画:[[竹内桜]])、2003年No.13 - 2007年No.6 * ちょっとだけグレコローマン(スクーデリア藤原)、1995年No.18-1995年No.24 * [[罪とか罰とか|罪とか罰とか 〜一日署長の事件簿〜]]([[黒澤R]])、2009年No.1 - 2009年No.10 ※コミカライズ * TSUWAMONO!!(木曽フミヒロ)、2012年No.2 - 2012年No.7、2012年No.14※『ヤングアニマルDensi』にて再開 * teach!(高橋雄一郎)、2002年No.8 - 2002年No.16 * [[低俗霊狩り]]([[奥瀬サキ]])、『月刊コミコミ』1986年4月号 - 1988年10月号、1992年No.1 - 1993年No.8 * [[砂の薔薇|砂の薔薇(デザート・ローズ)]]([[新谷かおる]])(OVA)、『月刊アニマルハウス』1989年8月号 - 1992年4月号、1992年No.1 - 1998年No.21 * てっぺんぐらりん 〜日本昔ばなし犯罪捜査〜(キリエ)2019年No.16 - 2021年No.11 * [[デトロイト・メタル・シティ]](若杉公徳)(実写映画、OVA)、2005年No.9 - 2010年No.9 * [[天竺熱風録]](原作:[[田中芳樹]]、作画:[[伊藤勢]])、2016年No.18 - 2019年No.12 * [[天然色BOY]]([[雨宮淳 (漫画家)|雨宮淳]])、1992年No.1 - 1993年No.21 * [[トゥインクルスターのんのんじー]]([[竹本泉]])、1993年No.17 - 1994年No.20 * 東京おさんぽがーるず(秋吉イナリ) ※「第一部完」、2015年No.2 - 2015年No.9 * 東京DTED(コタニヨーコ)、2013年No.20 - 2014年No.20 * 東京闇虫([[本田優貴]])、2010年No.17 - 2013年No.2 ** 東京闇虫-2nd scenario-パンドラ([[本田優貴]])2013年No.5 - 2016年No.3 * 動物人間(岡田卓也) ※短期集中連載、2023年No.4 - 2023年No.10 * 毒贄クッキング([[水無月すう]])2017年No.20 - 2019年No.6 * 特命高校生(竹内桜)、1998年No.14 - 1999年No.22 * 塗装屋ハリィ(高橋雄一郎) * [[ドランクキョンシーズ]]([[若杉公徳]])2021年No.20 - 2023年No.4 * とりしまっていこー!(原作:[[笠原倫|RIN]]、漫画:[[萩尾ノブト]])、2012年No.4 - 2013年No.6 === な行 === * ナイーヴ(二宮ひかる)、1998年No.3 - 1999年No.8 * [[内閣総理大臣 織田信長]]([[志野靖史]])、1994年No.10 - 1997年No.19 * [[なつのロケット]](あさりよしとお)、1999年No.16 - 1999年No.22 * [[ナナとカオル]]([[甘詰留太]])(『ヤングアニマル嵐』より移籍、のち一時期同時連載) ※サイクル連載(3勤1休連載)、2009年No.21 - 2016年16号 * [[ニコ・ニコルソンのマンガ道場破り]]([[ニコ・ニコルソン]])、 2010年No.6 - 2015年No.22 * [[二代目はこすぷれーやー♥]]([[甘詰留太]])、2006年No.8 - 2008年No.16 * ニュートラル([[川本貴裕]])、1997年No.19 - 1998年No.14 * 人魚姫の水族館([[伊藤正臣]])、 2016年No.10 - 2017年No.7 * ネメシスの剣(原作:[[和田慎二]]、漫画:[[伊藤伸平]]) * [[のの美捜査中!]]([[重野なおき]])、2003年No.10 - 2003年No.14、2003年No.22 - 2007年No.21 * のら女子高生(秋吉イナリ)(『ヤングアニマル嵐』より移籍)、2013年No.10 - 2013年No.19 === は行 === * ハイジンクエスト(山田みらい)(『ヤングアニマル嵐』に移籍)、2008年No.13 - 2008年No.17 * [[ハネムーンサラダ]](二宮ひかる)、1999年No.20 - 2002年No.1 * バター猫のパラドクス(原作:[[サトウナンキ]]、漫画:[[きづきあきら]])、2012年No.19 - 2014年No.5 * [[パナケイアの手]]([[松本救助]]、取材協力:神薫) 、2013年No.2 - 2014年No.18<ref>[http://ppsos.blog.fc2.com/blog-entry-212.html 2014年9月12日の作者ブログにて、連載終了の告知。]</ref> ※不定期掲載<!-- 当初は読切扱い --> * ばぶれもん([[奥嶋ひろまさ]])、2012年No.13 - 2013年No.4 ※「第一部完」 * Les liens deパフューマ〜パフューマの絆〜(糸町秋音)、2018年No.10 - 2018年No.13 ※短期集中連載 * パブロフの犬([[後藤羽矢子]])、2001年No.22 - 2001年No.24、2002年No.6 - 2004年No.1 * ハヤマックスのスキマックス(ハヤマックス)、2018年No.12 - 2020年No.3(『ヤングアニマル嵐』より移籍、『ヤングアニマルZERO』に移籍)、※不定期連載<!-- ページのスキマが空いたら連載--> * PUNK([[長尾謙一郎]])、2010年No.7 - 2012年No.7 * [[蛮勇引力]]([[山口貴由]])、2001年No.8 - 2002年No.22 * 必殺美術人(有間一郎) * [[豹と狼]](原作:[[中里融司]]、漫画:かたやままこと)、2008年No.8 - 2008年No.20 ※月1連載 * VF -アウトサイダーヒストリー-(林崎文博)、1998年No.22 - 2009年No.1 * フェルマーが笑ってる(堀江智宏) * [[フォトカノ#漫画|フォトカノ Your Eyes Only]](原作:[[エンターブレイン]]、作画:[[ナイロン (漫画家)|ナイロン]]、原作協力:ディンゴ)、2012年No.5 - 2013年No.18 ※『ヤングアニマルあいらんど』と並行連載、『ヤングアニマルイノセント』で継続 * ふくにい(稲田恭明)、2012年No.23 - 2014年No.10 * [[ふたばの教室]]([[八神健]])、2006年No.9 - 2006年No.24 * [[ふたりエッチ|ふたりエッチ外伝 性の伝道師アキラ]](原案協力&監修:[[克・亜樹]]、作画:モンキー・チョップ)、2017年No.13 - 2017年No.22、※『ふたりエッチ』のスピンオフ作品 * ふたりで朝まで(二宮ひかる)、1997年No.3 - 1997年No.7 * 斑丸ケイオス([[大野ツトム]])、2016年No.22 - 2017年No.24 * [[ぶっとび!!CPU]](新谷かおる)(OVA)、1993年No.23 - 1997年No.19 * フットボールアルケミスト(原作:木崎伸也、漫画:12log)、 2019年No.23 - 2021年No.11 * ブラス・ナックル(技来静也)、1992年No.15 - 1995年No.15 * [[フロッグマン (漫画)|フロッグマン]]([[ナイロン (漫画家)|ナイロン]])、2009年No.5 - 2011年No.20 * プロフェッショナル・スチュワーです!!(原作:蘭佳代子、漫画:[[片山誠|かたやままこと]]) * [[ペリリュー 楽園のゲルニカ]](原案協力:[[平塚柾緒]]、漫画:[[武田一義]])、2016年No.4 - 2021年No.8 * 放課後のアイドルには秘密がある(あまねかしこ)、2022年No.14 - 2022年No.16 ※短期集中連載後『マンガPark』で連載 * [[ホーリーランド]](森恒二)、2000年No.20 - 2008年No.11 * 僕とルネと青嵐([[文月晃]])、2015年No.20 - 2016年No.21 * ぼくの銀色ハウス(克・亜樹)、1993年No.10 - 1994年No.17 * ボクはイケメン(原作:サトウナンキ、漫画:きづきあきら)、2016年No.23 - 2018年No.9 * ぼっちの人魚姫([[林崎文博]])、2011年No.2 - 2012年No.23 * 本土決算 よみがえる日本(志野靖史) === ま行 === * 麻雀青春綺談 トバクチ(馬場民雄) * [[マイぼーる!]]([[いのうえ空]])、2012年No.15 - 2017年No.17 ※『ヤングアニマル嵐』に移籍 * [[MOUSE (漫画)|MOUSE]](原作:[[あかほりさとる]]、漫画:[[板場広志]])、1999年No.23 - 2004年No.18 * [[まおまりも]](原作:[[あかほりさとる|堀北蒼]]、漫画:[[谷澤史紀]])、2010年No.15 - 2011年No.24 * [[まかない君]]([[西川魯介]])、2012年No.12 - 2012年No.22、2013年No.4に特別読切 ※『ヤングアニマルDensi』に移籍 * [[まじかるストロベリィ]](まつもと剛志)、2004年No.19 - 2009年No.12 ※『ヤングアニマル嵐』『ヤングアニマルあいらんど』と並行連載 * [[魔女は三百路から]](原作:[[原田重光]]、漫画:[[松本救助]])、2018年No.14 - 2020年No.11・12 ※『ヤングアニマル嵐』より移籍 * [[魔人戦記 破軍]](原作:あかほりさとる、漫画:橋本還)、2006年No.11 - 2007年No.17 * 魔法少女殲滅兵器 筋肉少女(たま虫あっとに)2021年No.21 - 2021年No.23 ※短期集中連載 * まりこさんの恍惚ごはん([[榎本ハイツ|酉川宇宙]])、2018年No.14 - 2018年No.20 ※『ヤングアニマル嵐』より移籍、隔号連載 * ミゼラぶる!(稲田恭明)、2009年No.7 - 2010年No.24 * みたむらくん(えりちん)、2002年No.16 - 2007年No.10 * [[民法改正〜日本は一夫多妻制になった〜]](原作:[[あかほりさとる]]、漫画:[[竹内桜]])、 2015年No.13 - 2018年No.2 * 電影遊戯(ムービーゲーム)(関崎俊三)、1999年No.1 - 1999年No.18 * 無敵英雄 エスガイヤー([[あろひろし]])、1993年No.12 - 1994年No.13 * めいどぐらし 日常編(ゴヤスクニ)、2010年No.21 - 2014年No.5 ※不定期連載 * [[名物!たびてつ友の会]]([[山口よしのぶ]])、1995年No.20 - 2000年No.1 * メシアの鉄槌(あみだむく)、2019年No.3 - 2020年No.11・12 * 飯を喰らひて華と告ぐ([[足立和平]])、2021年No.18 - No.20(集中連載)→2022年No.3 - 2023年24号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/444614|title=ヤングアニマル三浦建太郎メモリアル号発売、「ベルセルク」最新話に豪華小冊子|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-10|accessdate=2022-01-28}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date = 2022-01-28|journal =ヤングアニマル |volume=2022年3号|publisher = 白泉社|asin = B09PP7XKC2}}表紙より。</ref>→『ヤングアニマルWeb』へ移籍<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-12-08|title=飯を喰らひて華と告ぐ 移転&月イチ営業開始!!|journal =ヤングアニマル |volume=2023年24号|publisher = 白泉社|page =169}}</ref> * めんへら侍(原作:[[あかほりさとる]]、作画:[[松本救助]])、2021年No.22 - 2022年No.23 ※『[[マンガPark]]』へ移籍<ref>{{Cite journal|和書|date = 2022-11-25|title=めんへら侍 マンガPark 電撃移籍決定!|journal =ヤングアニマル|volume=2022年23号|publisher = 白泉社|page=317}}</ref> * もてね!?(甘詰留太)、2004年No.21 - 2005年No.7 * [[ももいろシスターズ]]([[ももせたまみ]]) * [[ももいろスウィーティー]](ももせたまみ)、2003年No.8 - 2010年No.7 === や行 === * やぶからぼう(あさりよしとお) * [[柔のミケランジェロ]](カクイシシュンスケ)※隔号連載、2018年No.14 - 2018年18号 ※『ヤングアニマル嵐』より移籍 * ヤン研(矢野稔貴×シゲ)、2015年No.3 - 2015年No.21 * [[ゆびさきミルクティー]]([[宮野ともちか]])(ドラマCD)、2003年No.1 - 2010年No.6 * 夢の掟(原作:[[真刈信二]]、漫画:[[山本貴嗣]])、1999年No.22 - 2000年No.22 * [[ユリア100式]](原作:[[原田重光]]、漫画:[[萩尾ノブト]])、2006年No.4 - 2010年No.3 * [[ゆりキャン 〜ゆりかのキャンパスライフ〜]](原作:原田重光、漫画:瀬口たかひろ)、2010年No.10読切、No.20 - 22 集中連載を経て、2011年No.5 - 2013年No.2 * 4000倍の男(雁木万里)、2022年No.2 - 2023年No.9・10 === ら行 === * [[ライミングマン]]([[若杉公徳]])、2017年No.10 - 2018年No.24 * Lov-Ho!(ラブホ)(山口よしのぶ)、1992年No.3 - 1995年No.4 * 乱世の鬼(木村浩二)、2001年No.6 - 2001年No.11 * リセット・ポイント([[西条真二]])、2001年No.23 - 2002年No.6 * Re:まりな(原作:[[原田重光]]、作画:[[瀬口たかひろ]])、2013年No.8 - 2015年No.8 * 龍馬滾ル!(原作:北大路龍星、漫画:[[片山誠|かたやままこと]])、2010年No.5 - 2011年No.4 ※不定期連載 * [[冷水と灼熱のあいだ]](原作:[[鷹野浪流]]、作画:[[いのうえ空]])、2021年No.16・17 - 2022年No.4 ※短期集中連載 * Red Data Book 赤(立原あゆみ)、1998年No.2 - 1998年No.19 * [[恋愛怪談サヨコさん]]([[関崎俊三|関﨑俊三]])、2009年No.22 - 2014年No.10 ※月1連載、『ヤングアニマルDensi』に移籍 * [[恋愛フロップス]](原作:Love Flops Project、漫画:石坂リューダイ)、2022年No.13 - 2023年No.15 === わ行 === * [[ワイルド・ハニー・ワールド]]([[後藤晶]])、2012年No.10 - 2013年No.13 * 私は君を泣かせたい(文尾文)、2016年No.16 - 2018年No.11 == 映像化作品 == === アニメ化 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ テレビアニメ !作品 !放送年 !アニメーション制作 !備考 |- | rowspan="3" |[[ベルセルク (漫画)|ベルセルク]] |1997年-1998年(第1作) |[[オー・エル・エム|OLM TEAM IGUCHI]] | rowspan="3" |映画あり |- |2016年(第2作・第1クール) | rowspan="2" |GEMBA<br />[[ミルパンセ]] |- |2017年(第2作・第2クール) |- |[[ももいろシスターズ]] |1998年 |[[スタジオディーン]] | |- | rowspan="2" |[[藍より青し]] |2002年(第1期) | rowspan="2" |[[ジェー・シー・スタッフ|J.C.STAFF]] | rowspan="2" | |- |2003年(第2期) |- |[[MOUSE (漫画)|MOUSE]] |2003年 |スタジオディーン | |- |[[エアマスター]] |2003年 |[[東映アニメーション]] | |- |[[ちょこッとSister]] |2006年 |[[ノーマッド]] | |- | rowspan="3" |[[信長の忍び]] |2016年-2017年(第1期) | rowspan="3" |[[トムス・エンタテインメント|トムス・エンタテインメント/V1Studio]] | rowspan="3" | |- |2017年(第2期) |- |2018年(第3期) |- | rowspan="2" |[[3月のライオン]] |2016年-2017年(第1期) | rowspan="2" |[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]] | rowspan="2" | |- |2017年-2018年(第2期) |- |[[あそびあそばせ]] |2018年 |[[スタジオ雲雀|Lerche]] |OVAあり |- |[[上野さんは不器用]] |2019年 |[[レスプリ]] | |- |[[拳闘暗黒伝セスタス]] |2021年 |[[バンダイナムコピクチャーズ|BN Pictures]] |アニメタイトルは『セスタス -The Roman Fighter-』 |- |[[平穏世代の韋駄天達]] |2021年 |[[MAPPA]] | |- |[[ペリリュー 楽園のゲルニカ]] |未発表 |未発表 | |} {| class="wikitable" style="font-size:smaller" |+ OVA !作品 !年 !アニメーション制作 !備考 |- |[[砂の薔薇]] |1993年 |J.C.STAFF | |- |[[ぶっとび!!CPU]] |1997年 |オー・エル・エム | |- | rowspan="3" |[[ふたりエッチ]] |2002年(第1期) | rowspan="2" |[[カオスプロジェクト]] | rowspan="3" | |- |2003年-2004年(第2期) |- |2014年(第3期) |[[葦プロダクション|プロダクション リード]] |- |[[デトロイト・メタル・シティ]] |2008年 |[[STUDIO 4℃|STUDIO4℃]] | |- |[[ナナとカオル]] |2011年 |[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC PLUS+]] | |} === 実写化 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller" !作品 !年 !備考 |- | rowspan="4" |ふたりエッチ |2000年(ドラマ) | rowspan="4" | |- |2011年(映画・第1作、第2作) |- |2012年(映画・第3作、第4作) |- |2019年(映画・新作) |- |デトロイト・メタル・シティ |2008年 | |} == 発行部数 == * 2004年(2003年9月 - 2004年8月) 201,083部<ref name="jmpa">[http://www.j-magazine.or.jp/ 社団法人日本雑誌協会]JMPAマガジンデータによる該当期間中に発売された雑誌1号当たりの平均印刷部数。</ref> * 2005年(2004年9月 - 2005年8月) 201,209部<ref name="jmpa" /> * 2006年(2005年9月 - 2006年8月) 196,334部<ref name="jmpa" /> * 2007年(2006年9月 - 2007年8月) 190,125部<ref name="jmpa" /> * 2008年(2007年10月 - 2008年9月) 190,000部<ref name="jmpa" /> {| class="wikitable" |+ 発行部数(印刷部数公表より)(2008年4月以降)([https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index 一般社団法人 日本雑誌協会]) ! !! 1 - 3月 !! 4 - 6月 !! 7 - 9月 !! 10 - 12月 |- ! 2008年 | || 190,500 部 || 186,167 部 || 178,834 部 |- ! 2009年 | 169,167 部 || 163,334 部 || 163,334 部 || 159,334 部 |- ! 2010年 | 160,167 部 || 160,000 部 || 159,334 部 || 164,000 部 |- ! 2011年 | 154,000 部 || 160,417 部 || 165,000 部 || 158,334 部 |- ! 2012年 | 165,667 部 || 159,000 部 || 151,167 部 || 148,334 部 |- ! 2013年 | 143,500 部 || 134,834 部 || 132,500 部 || 128,500 部 |- ! 2014年 | 129,834 部 || 129,667 部 || 126,334 部 || 123,834 部 |- ! 2015年 | 120,000 部 || 119,000 部 || 117,084 部 || 110,000 部 |- ! 2016年 | 108,333 部 || 105,833 部 || 103,500 部 || 103,417 部 |- ! 2017年 | 105,333 部 || 104,500 部 || 100,667 部 || 99,333 部 |- ! 2018年 | 98,333 部 || 97,667 部 || 94,000 部 || 91,500 部 |- ! 2019年 | 87,167 部 || 85,040 部 || 82,417 部 || 80,000 部 |- ! 2020年 | 74,500 部 || 76,250 部 || 74,500 部 || 76,933 部 |- ! 2021年 | 75,917 部 || 77,300 部 || 84,400 部 || 74,083 部 |- ! 2022年 | 63,333 部 || 63,400 部 || 56,333 部 || 54,583 部 |- ! 2023年 | 47,417 部 || 47,600 部 || 44,833 部 || |} {{節スタブ}} == ミスヤングアニマル == [[ファイル:161006 AMN 빅 콘서트 - 시노자키 아이 AGAIN 직캠 by DaftTaengk 8s.jpg|thumb|180px|2011年から休止前の2014年まで4年連続でミスヤングアニマルに選ばれた篠崎愛(2016年10月撮影)]] [[ファイル:Kindai Mahjong Swimsuit Festival IMG 6885.jpg|thumb|180px|復活したミスヤングアニマル2022グランプリのパピコ]] 2000年にスタート。当初は複数名のアイドルがエントリーし投票制で各賞を発表していたが、2002年から読者選出によりグラビアアイドルを毎年5月上旬発売号で発表し継続した。2014年度を最後に行われていなかったが、創刊30周年を迎える2022年に、[[東京Lily]]とのコラボレーションにより、2001年以来21年ぶりとなる[[ミス・コンテスト|ミスコンテスト]]形式での「ミスヤングアニマル2022」オーディションを開催することが発表された<ref>[https://tokyolily.jp/magazine/?p=43729 「ミスヤングアニマル2022」オーディション / 東京Lily] - 株式会社らんくう</ref>。 * 2000年(第1回)グランプリ:[[五十嵐恵]] / 準グランプリ:[[原理恵子]]・[[樹里 (グラビアアイドル)|樹里]] / 美少女賞:[[大沢安希]] * 2001年(第2回)グランプリ:[[朝倉香乃]] / 準グランプリ:[[庄司有希]]・[[松坂紗良]] * 2002年(第3回)グランプリ:[[小倉優子]] * 2003年(第4回)グランプリ:小倉優子 * 2004年(第5回)グランプリ:小倉優子 * 2005年(第6回)グランプリ:小倉優子 * 2006年(第7回)グランプリ:[[鈴木茜]] * 2007年(第8回)グランプリ:[[折原みか]] * 2008年(第9回)グランプリ:[[ローラ・チャン]] * 2009年(第10回)グランプリ:[[大島麻衣]] * 2010年(第11回)グランプリ:大島麻衣 * 2011年(第12回)グランプリ:[[篠崎愛]] * 2012年(第13回)グランプリ:篠崎愛 * 2013年(第14回)グランプリ:篠崎愛 * 2014年(第15回)グランプリ:篠崎愛 * 2022年(第16回)グランプリ:[[パピコ (タレント)|パピコ]] / 準グランプリ:[[新井萌花]] / 審査員特別賞:[[橘舞]] / その他ファイナリスト:[[平岡映美]]、[[小那海あや]]<ref>{{Cite web2|title=『ミスヤングアニマル2022』グランプリはパピコに決定!準グランプリ 新井萌花、審査員特別賞 橘舞!【記者会見レポート】|url=https://venuspress.tv/miss_younganimal20220731/|website=VENUS PRESS|publisher=VENUS PRESS運営事務局|date=2022-07-31|accessdate=2022-07-31|df=ja}}</ref> * 2023年(第17回)グランプリ:[[平岡明純]]<ref>{{Cite web|和書|title=GirlsNews| ミスヤングアニマル2023 グランプリに平岡明純さん「漫画の実写化でヒロインを演じたい」 |url=https://www.girlsnews.tv/news/419856 |website=GirlsNews |date=2023-07-24 |access-date=2023-07-25 |language=ja |last=Re-solution}}</ref> / 準グランプリ:桜井うい / 審査員特別賞:そちお/ その他ファイナリスト:[[池田ゆうな]]<ref>{{Citation|title=【ミスヤングアニマル2023ファイナル】池田ゆうな【コメント動画】|url=https://www.youtube.com/watch?v=Zpj7jE7UBew|language=ja-JP|access-date=2023-08-12}}</ref>、[[須羽こころ]]<ref>{{Citation|title=【ミスヤングアニマル2023ファイナル】須羽こころ【コメント動画】|url=https://www.youtube.com/watch?v=Qpf6bcZfLGU|language=ja-JP|access-date=2023-08-12}}</ref> == その他のグラビア賞 == === NEXTグラビアクイーン === [[ファイル:Dempagumi.inc - Japan Expo 2013 - 033.jpg|thumb|180px|NEXTグラビアクイーン初代グランプリとなった[[でんぱ組.inc]]の最上もが(2013年・[[Japan Expo]]にて)]] “ヤングアニマルから新たなグラビアクイーンを生み出したい!”という願いから生まれたフォトセッション企画。2ndシーズンまでは写真家が新人アイドルを推薦する形で開催。コンセプトから漫画誌初グラビアとなるアイドルも多い。3rdシーズンは10代限定。 {| class="wikitable" |+ 歴代受賞者一覧 ! 回数(年度) !! グランプリ !! 準グランプリ !! その他候補者 |- ! 1stシーズン<br/>(2012年) | [[最上もが]]<br/>(優勝)<ref>{{Cite news|date=2013-02-21|url=https://natalie.mu/music/news/85310|title=でんぱ組.inc最上もが、「ヤングアニマル」関東グラビア飾る|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|publisher=ナターシャ|accessdate=2016-11-13}}</ref>|| [[鈴木ふみ奈]]<br/>(準優勝)|| [[小松美咲]] [[丸果尻ゆうこ]] [[亜里沙]]、[[遠野千夏]]、[[森野朝美]] |- ! 2ndシーズン<br />(2013年) | [[仙石みなみ]]<ref>{{Cite news|date=2014-01-28|url=https://www.oricon.co.jp/news/2033453/full/|title=NEXTグラビアクイーンバトルで仙石みなみが優勝!|newspaper=ORICON STYLE|publisher=[[オリコン]]|accessdate=2016-11-13}}</ref>|| [[山中知恵]] || [[高崎聖子]](特別賞)<br/> [[池田裕子]]、中村一、[[時田愛梨|とっきー]] [[葉月ゆめ]] [[小林かれん]] [[粕谷奈美]] |- ! 3rdシーズン<br/>(2014年) | [[天木じゅん]] || [[金子栞]] || [[日吉晶羅|Akira]] 小松ひな 澤田夏生 [[久松かおり]] [[百川晴香]] [[ゆうみ]] |- ! 4thシーズン<br />(2016年) | [[佐藤麗奈]] || [[金子理江]] || [[LinQ|新木さくら]] [[稲村亜美]] [[大貫彩香]] [[篠崎こころ]] [[為近あんな]] [[森川彩香]] |} === YAグラ姫 === [[File:Ishikawa Natsumi.jpg|thumb|180px|YAグラ姫初代グランプリの石川夏海(2016年)]] 読みは「ワイエー・グラひめ」。ヤングアニマル紙面を飾る次世代プリンセスを決定するオーディション。[[DMM.com#その他サービス|DMM.yell]]との共催で2016年秋に初開催され、NEXTグラビアクイーンの後継コンテストとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://yell.plus/lp/special/yagrahime2017/|title= 【ヤングアニマル×DMM.yell】YAグラ姫2017オーディション開幕! |publisher= DMM.yell|date=2016-11-07 |accessdate=2016-11-07 }}</ref>。一次選考はオープンエントリー制。ファイナリスト8名は紙面掲載のうえ、投票でグランプリを決定する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jiji.com/jc/article?k=000001512.000002581&g=prt|title= 白泉社「ヤングアニマル」×DMM.yell企画「YAグラ姫2017」ファイナリスト発表! |publisher=時事ドットコム|date=2016-11-07 |accessdate=2016-11-07 |archiveurl=https://archive.is/20161108002728/http://www.jiji.com/jc/article?k=000001512.000002581&g=prt |archivedate=2016-11-08}}</ref>。 {| class="wikitable" |+ 歴代受賞者一覧 ! 回数(年度) !! グランプリ !! 準グランプリ !! その他候補者 |- ! 2017年 | [[石川夏海]]<br/>([[アキシブproject]])<ref>{{Cite news|date=2014-01-28|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2085630&anc=033|title=グループアイドルのメンバーが初々しいグラビア披露 『YAグラ姫 2017』受賞者お披露目|newspaper=deview|publisher=[[オリコン]]|accessdate=2017.02.07}}</ref>|| [[太田里織菜]]([[愛乙女☆DOLL]])|| [[河井玲奈]](loop)編集部特別賞、水沢心愛([[ベボガ!|ベボガ!(虹のコンキスタドール黄組)]])DMM.yell賞、[[西野早那]](少女隊)、[[朝日花奈]](少女交響曲)、[[西山乃利子]](parfait)、るぅ(KOJIRASE THE TRIP) |- !2018年 | [[村島未悠|MIYU]]([[CHERRSEE]])<ref>[http://plus.wws-channel.com/?p=10415 『YAグラ姫2018』グランプリはMIYU(CHERRSEE)が受賞し得意のダンスを披露<写真34枚>][[WWSチャンネル]]、2018年2月16日</ref> | [[池田優花]]([[桃色革命]])<ref>[http://plus.wws-channel.com/?p=10421 『YAグラ姫2018』準グランプリは北海道在住女子高生の池田優花(桃色革命)が受賞<写真20枚>][[WWSチャンネル]]、2018年2月16日</ref> | [[木内くるみ]]([[閃光ロードショー]])特別賞、[[葵あおい]](花ちらし組)、[[田仲はな]]([[WiLL (アイドルグループ)|WiLL]])、[[夏目愛海]]、[[横山あみ]]([[PPP! PiXiON]]) |- !2019年 |星ゆりか<br/>(東京flavor)<ref>{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000112.000021743.html|title=【ヤングアニマル × .yell plus】YAグラ姫2019オーディション、グランプリ決定!|date=2019-01-25|accessdate=2019-01-28|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES}}</ref> |櫻井まい(Very Very Red Berry) |ニーナ・ショコラ(AIBECK).yell plus賞、[[ちとせよしの]]編集部特別賞、椎名桃子([[Spindle]])、霜月めあ、柚月彩那、ユミ([[純情のアフィリア]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.younganimal.com/ya-grahime/|title=2019YAグラ姫|accessdate=2018年11月5日|publisher=白泉社}}</ref> |- |} === ヤングアニマル誌面グラビア争奪バトル === YAグラ姫は2019年(2020年度)は開催されず、ヤングアニマル誌面グラビア争奪バトルとして縮小リニューアルされた。主催は「ヤングアニマル」および「[[LINE LIVE]]」。グランプリは3ページ以上のグラビア掲載権と交通広告掲載権が進呈される<ref>{{Cite web|和書|title=【決勝】ヤングアニマル誌面グラビア争奪バトル|url=https://live.line.me/event/3284|website=LINE LIVE(ラインライブ){{!}} 国内最大級のライブ配信サービス|accessdate=2019-11-06|language=ja}}</ref>。 {| class="wikitable" |+ 歴代受賞者一覧 ! 回数(年度) !! グランプリ !! 準グランプリ !! その他候補者 |- ! 2019年 | [[ななみ青]]<ref>{{Cite web|和書|title=【WEEKDAYはグラドル日記(134)】「ヤングアニマル」のグラビア争奪バトル決勝で熱戦を展開中のななみ青|url=https://www.sanspo.com/article/20191015-NJ3R3LOL6BKJXGN5H3KFUGX5SM/|website=SANSPO.COM(サンスポ)|date=2019-10-15|accessdate=2019-11-06|language=ja-JP}}</ref>|| || 決勝ラウンド通過:[[岸みゆ]]、[[橘まりや]]、かえるちゃん |- |} == ヤングアニマルDensi == {{Infobox Website | name = ヤングアニマルDensi | logo = | screenshot = | collapsible = | collapsetext = | caption = | url = | slogan = 毎週金曜日更新!オール無料Webコミック | commercial = [[利益|営利]] | type = | genre = [[漫画]] | registration = 不要 | language = [[日本語]] | num users = | content license = | programming language = | owner = [[白泉社]] | author = ヤングアニマル編集部 | launch date = [[2013年]][[4月26日]] | revenue = | current status = | footnotes = }} 『'''ヤングアニマルDensi'''』は、本誌によるかつて存在したweb雑誌サイト。2013年4月26日から2017年7月31日まで独自の作品を配信していたが、2017年8月以降は白泉社の電子書籍ポータル『[[マンガPark]]』に移行している。 === 通常連載 === 毎週金曜日更新。 <!--以下、五十音順(本誌の続きの話数で配信されているものもあるので)。ただし、続編作品はソートにこだわらず直下に段替えして配置--> * [[あそびあそばせ]]([[涼川りん]])、2015年6月26日 - * [[頂!]]([[文月晃]])(『ヤングアニマルあいらんど』より移籍)、2016年12月30日 - * [[うしみつ★inc]]([[竹内桜]])、2014年5月2日 - * [[えびがわ町の妖怪カフェ]]([[上田信舟]])(『ヤングアニマル嵐』連載作品のプレイバック連載)、2017年2月24日 - * [[オペラグラス (漫画)|オペラグラス]]([[宮野ともちか]])、2016年6月10日 - * [[描かないマンガ家]]([[えりちん]])(『ヤングアニマル』連載作品のプレイバック連載)、2015年4月24日 - * [[木根さんの1人でキネマ]]([[アサイ (漫画家)|アサイ]])、2015年4月17日 - * [[軍師 黒田官兵衛伝]]([[重野なおき]])、2013年4月26日 - * [[拳闘暗黒伝セスタス]]([[技来静也]])(『ヤングアニマル』連載作品のプレイバック連載)、2015年4月24日 - * [[真田魂]](重野なおき)、2015年1月30日 - * [[東京闇虫]]([[本田優貴]])(『ヤングアニマル』連載作品のプレイバック連載)、2015年4月17日 - * [[ど根性ガエルの娘]]([[大月悠祐子]])(『[[週刊アスキー]]』より移籍)、2016年6月17日 - * [[ベランダビオトープ]](馬場民雄)、2016年7月8日 - * [[放課後バッセン娘!]](矢野稔貴)、2016年3月18日 - * [[ホーリーランド]]([[森恒二]])(『ヤングアニマル』連載作品のプレイバック連載)、2015年4月17日 - * [[Love & Peace〜清野とおるのフツウの日々〜]]([[清野とおる]])、2013年12月27日 - ※「第0話」から配信開始 ==== 完結作品・全話公開 ==== * [[R's Bar〜漫画家の集まる店〜]]([[黒澤R]])(『ヤングアニマル嵐』より移籍)、2014年10月24日 - 2015年9月25日 ※話数表記は『嵐』の続番とはせずに「第1話」から仕切り直し * [[アルタイ〜龍のこどもたち〜]]([[紗野栄子]])、2015年8月21日 - 2016年1月15日 * [[風の海原]]([[菅野航]])、2013年5月3日 - 2014年6月13日 * [[キックバック (漫画)|キックバック]](原作・[[笠原倫|RIN]]、作画・[[原山久志]]、原案協力&監修・[[藤川孝幸]])、2014年1月3日 - 2014年5月23日 * [[忍者見ぃつけた]]([[とりから]])、2015年4月17日 - 2015年5月22日、※集中連載 ==== 連載終了・部分的に公開 ==== * [[アメイジングハイスクール]]([[平良健次]])、2014年12月26日 - 2015年9月11日 * [[うしろのぼたんさん]](原作・[[SOW]]、作画・[[萩尾ノブト]])、2014年4月25日 - 2014年11月14日 * [[打ち切り漫画家(28歳)、パパになる。]]([[富士屋カツヒト]])、2016年4月8日 - 同年12月16日 ※2017年3月10日発売の本誌2017年No.6に掲載された「特別編」を2017年3月24日より再掲公開 * [[俺はナニを間違えた?]]([[アサイ (漫画家)|アサイ]])([[ヤングアニマルあいらんど|『ヤングアニマルあいらんど』→『ヤングアニマルイノセント』]]と並行連載)、2013年8月16日 - 2014年9月19日 * [[カタナガリ]]([[矢野稔貴]])、2015年4月17日 - 2015年9月18日、※集中連載 * [[サラブライフ]]([[田村正一]])、2015年8月14日 - 2016年6月10日 * [[車上童]]<!--しゃじょうわらし-->([[中島零]])、2013年6月7日 - 2014年1月17日 * [[すこしふしぎな小松さん]]([[大井昌和]])、2016年5月20日 - 2017年4月7日 * [[DRAGON'S DOGMA PROGRESS]](作画・[[平野博寿]]、監修協力・[[カプコン]])、2013年4月26日 - 2014年6月27日 * [[全国高校ゆるキャラ部]]([[まいたけ (漫画家)|まいたけ]])(『ヤングアニマルイノセント』と並行連載)、2014年4月25日 - 同年8月15日 * [[TSUWAMONO!!]]([[木曽フミヒロ]])(『ヤングアニマル』より移籍)、2013年4月26日 - 同年7月12日 ※話数表記は「第二章 第○突」(○は漢数字)、全六突 * [[ファンタジスタ アヤちゃん]]([[早坂ケイゴ]])、2014年7月4日「読み切り登竜門」掲載を経て同年10月3日 - 2015年7月24日 * [[まかない君]]([[西川魯介]])(『ヤングアニマル』より移籍)、2013年5月10日 - 2018年1月16日、※話数表記は本誌の続番で「第10話」から配信開始 * [[魔法少女さん]]([[縛 (漫画家)|縛]])、2013年5月17日 - 2014年12月26日 * [[まりあさんは透明少女]]([[井上和郎]])、2014年5月2日 - 2015年1月30日 * [[恋愛怪談サヨコさん]]([[関﨑俊三]])(『ヤングアニマル』より移籍)、2014年7月11日 - 2015年9月11日 ※話数表記は本誌の続番で「第43話」から配信開始 * [[我輩ノ彼ハ馬鹿である]](原作・土塚理弘、作画・亜積沙紀)(『ヤングアニマルあいらんど』→『ヤングアニマルイノセント』と並行連載)、2013年4月26日 - 2014年6月20日 * カレバカ〜吾輩ノ彼ハ馬鹿でR〜(原作・土塚理弘、作画・亜積沙紀)、2015年5月1日 - 2016年1月22日 ※『我輩ノ彼ハ馬鹿である』の続編 === 読み切り === * [[誰がために 〜黒田博樹物語〜]] 第3話([[吉原基貴]]、原案協力,取材・[[戸塚啓]]、協力・[[広島東洋カープ]])、2015年3月13日 ※『ヤングアニマル』2007年No.14 - 15掲載の前後編を「第1 - 2話」として再掲載 * [[ふたりエッチ]]([[克・亜樹]])2013年4月26日 - 2014年4月25日 ※当初連載扱いだったが、長期中断の後に読切扱いに変更。「special web part ''n''」(''n''はアラビア数字)の話数表記で全6話 === コラム === * [[ふたりサッカー]]ほぼブラジル(文・[[倉敷保雄]]、絵・[[あらゐけいいち]])、2013年11月22日 - === 日替わり4コママンガ === 創刊以来、以下の作品のうちの1本が不規則に2014年8月31日まで日替わりで掲載されていた。各作品とも、「読切・完結作品」のページでバックナンバーを公開している。<!--以下、配信開始順--> * [[めいどぐらし 日常編]]([[ゴヤスクニ]])、2013年4月26日 - 2014年8月31日 * [[ふたごと!]]([[黒澤R]])、2013年4月28日 - 2014年8月26日 * [[妖精オナニン]]([[稲田恭明]])、2013年5月3日 - 2014年8月22日 * [[エロマンガール]]([[宵野コタロー]])、2013年5月10日 - 2014年8月28日 * [[えすえむ。]]([[羽生麻里]])、2013年5月18日 - 2014年4月28日 * [[うわばみ彼女]]([[後藤羽矢子]])、2013年5月20日 - 2014年8月30日 ※『ヤングアニマル』本誌移籍 * [[かっぱのおいちゃん]]([[まつもと剛志]])2013年6月29日 - 2014年8月24日 === 新人たちの挑戦 読み切り登竜門 === 2014年4月25日配信開始し、月1〜2作程度の割合で追加配信されていた。 == ヤングアニマルWeb == 『'''ヤングアニマルWeb'''』は、本誌によるweb漫画サイト<ref name="natalie20230310">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/516057|title=ヤングアニマルWeb開設!オープン記念で「ふたりエッチ」「ベルセルク」など無料|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-03-10|accessdate=2023-03-10}}</ref>。2023年3月10日に開設{{R|natalie20230310}}。 === 特徴 === Webマンガ誌を制作できるツールである「コミチ+」が導入されているため、今まで紙媒体で出版された作品をインターネット環境で読むことができる<ref name="gamewatch20230310">{{Cite web|和書|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1484304.html|title=「ベルセルク」や「ふたりエッチ」が無料で読める! Webマンガ雑誌「ヤングアニマルWeb」サービス開始|website=Game Watch|publisher=インプレス|date=2023-03-10|accessdate=2023-03-10}}</ref>。サイトには本誌で連載中の作品、完結済みの作品、Webでのオリジナル作品が掲載される{{R|natalie20230310}}。コインを使用するとすべての漫画を無料で読むことができ、待つと無料の枠が増えるシステムとなっている{{R|gamewatch20230310}}。漫画以外にも、本誌のグラビアが同様の仕組みで利用できる{{R|gamewatch20230310}}。 検索でサイトへ訪問した読者や、SNSでバズった作品の試し読みを希望する人に対し、ログインすることなく単行本未収録の最新話まで読むことができるような場所を提供することが、本サイトが開始された背景にある<ref name="prtimes20230310">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000032.000041778.html|title=『ベルセルク』『3月のライオン』『ふたりエッチ』から新連載までWebで発信!「ヤングアニマルWeb」スタート!システムに「コミチ+」導入|website=PR TIMES|date=2023-03-10|accessdate=2023-03-10}}</ref>。「かつて巨大な部数で影響力を誇った紙雑誌」だが、インターネットを前提として設計されている「コミチ+」を導入し、「これまで以上にヒット作から新作までを読者の手元に届ける」ことが、本サイトの狙いとされている{{R|prtimes20230310}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ヤングアニマル嵐]] * [[ヤングアニマルあいらんど]] * [[ヤングアニマルZERO]] * [[ミスヤンアニ大島麻衣〜大島バッティングセンター]] - [[エンタ!371]]・[[アイドル専門チャンネルPigoo|PigooHD]]で放送していた[[バラエティ番組]]。 * [[マンガPark]] * [[ハレム (電子雑誌)]] == 外部リンク == * {{Official website|https://magazine.younganimal.com/|ヤングアニマル&ヤングアニマルZERO 公式サイト}} * {{Twitter|YoungAnimalHaku}} * {{Facebook|younganimalhakusensha}} * [https://younganimal.com/ ヤングアニマルWeb] * {{Twitter|yaweb0310|ヤングアニマルWeb}} * {{ニコニコ静画|magazine|younganimal|金曜日はヤングアニマル}} * [https://tokyolily.jp/magazine/?p=43729 ミスヤングアニマル2022 オーディション] * [https://tokyolily.jp/magazine/?p=50976 ミスヤングアニマル2023 オーディション] {{ヤングアニマル連載中}} {{ミスヤングアニマル}} {{Manga-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1 = ヤングアニマルDensi |1-1 = ヤングアニマルDensi |1-2 = 白泉社の歴史 |1-3 = かつて存在したウェブコミック配信サイト |1-4 = 2013年開設のウェブサイト |1-5 = 2017年廃止のウェブサイト |1-6 = 日本のウェブサイト |redirect2 = ヤングアニマルWeb |2-1 = ヤングアニマル |2-2 = ウェブコミック配信サイト |2-3 = 2023年開設のウェブサイト |2-4 = 日本のウェブサイト }} {{DEFAULTSORT:やんくあにまる}} [[Category:ヤングアニマル|*]] [[Category:日本の漫画雑誌]] [[Category:白泉社の漫画雑誌]] [[Category:月2回刊漫画雑誌]] [[Category:青年漫画雑誌]] [[Category:1992年創刊の雑誌]] [[Category:刊行中の漫画雑誌]]
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金沢市
金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する市。石川県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている。旧石川郡及び河北郡。 江戸時代には、江戸幕府(約800万石と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領した加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として栄え、人口規模では江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市であった。第二次世界大戦中にアメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もないころには国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(加賀宝生や郷土料理のじぶ煮など)などにより、観光都市として知られる。2009年にはユネスコの創造都市に認定された(国内では神戸市、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門ではアジア初)。 日本海側の都市としては政令指定都市である新潟市(約77万人)に次ぐ人口を誇る。北陸の富山県・石川県・福井県を管轄する国の出先機関が置かれ、大企業の「北陸支社」「北陸支店」も金沢市に置かれることも多い。ただし、北陸地方の都市雇用圏単位見ると、金沢都市圏の人口規模より、北陸電力や北陸銀行の本店所在地である富山市を中心とした富山都市圏の方が大きい。 地理区分は中部地方、北陸地方、北信越地方に属する。石川県内の地理区分では、加賀地方に属する。 南東部は山地で、奈良岳(1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源)をはじめ、見越山 (1,621m)、大門山 (1,572m)、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m)、キゴ山 (546m)、野田山 (180m)、満願寺山 (177m)、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。山地と平野の境界付近に森本・富樫断層帯が分布する。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川、高橋川、内川などが流れる。犀川とこれに合流する伏見川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダムや内川ダムがあり、上水道や灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を並行して流れ、犀川北岸と浅野川南岸それぞれの河岸段丘に挟まれた台地が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城趾や兼六園がある。また、犀川南岸の河岸段丘は寺町台地と呼ばれる。 日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い。平年の雷日数が全国の県庁所在地の中で最も多く、そのほとんどは晩秋から冬に起こる。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35°Cを超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。12月から2月にかけては雪や雨が多い。雷を伴ってあられや雹が降ることもある。1987年以降の暖冬に加え、1991年10月23日に金沢地方気象台が中心部にほど近い弥生地区から、海風の影響で気温が高めで雪が積もりにくい沿岸寄りの西念地区へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなることが増えた。しかしながら、市の公表している積雪量によると、気象台よりも兼六園のある市内中心部の方が積雪が多く、特に、金沢大学のある角間町などの内陸地域などは豪雪となりやすい。このように同じ市内であっても海側と内陸では積雪量が大きく異なっている。 降雪の深さ合計は平年で157cmと前々平年値(1971〜2000年平均)の360cm、前平年値(1981〜2010年平均)の278cmと比べて大きく減少した。気象台移転後の最深積雪記録は2001年1月16日の88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。最後に積雪が1mを超えたのは1986年1月28日の113cmまで遡る。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、最低気温は高め(1月の平均最低気温は1.2°C)であり、2000年代以降は暖冬傾向であること、また、除雪・融雪の体制が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。 湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。 北側に内灘町、津幡町、東側に倶利伽羅峠、医王山などの山地を挟んで富山県小矢部市、南砺市、南側に白山市(旧松任市、旧鶴来町)、野々市市と接する。 「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。 「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊澤」と呼ばれている。 古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている。 権門体制から幕藩体制への過渡期の時代、荘園性の崩壊と重課税で混沌とした中世には、強い支持を得た本願寺関連の一向一揆(一向宗)が治めた領地であった。当時、比叡山、京都五山、本願寺に代表される寺社勢力は中国と盛んに交易し大量の銭貨を得、経済的に幕府を支える存在であり対立していた。中でも京都五山や比叡山とは異なり、本願寺勢力は基本的に荘園を持たず、信徒からの喜捨により資金を集めていた。領地からの不安定な年貢や関所の通行税に寄らず、人の集積や経済活動に伴う需要や生産性増加に合わせて、中国から得た銭貨を用いたマネタリーベース増加が適切に可能であったことから経済的に栄えて自然と寄付金が増加した。蓮如たちは小高い丘の上に寺院を建設しその下を門前町とする都市計画(寺と町をセットとしたという意味での寺内町)を持っており、尾崎御坊など北陸の寺社・城跡でも同様の地形で寺内町の名残が残る。また、中世は幕府の内紛により権威が弱く地侍や盗賊がやりたい放題で、戦乱による財政難から度重なる徳政令で金融も麻痺していた。一方、本願寺の寺内町だけは、大量の資金、人材に恵まれ、規制緩和で酒や魚などの自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、徳政令からも免れ、経済的に繁栄していた。従って、安心した暮らしを求めて帰依する者が多かったと考えられる。そして北陸は石山本願寺の財政基盤として重要な地域として機能していた。その中で、守護大名富樫氏一族の内紛に、地元武士、浄土真宗本願寺派と髙田派の内部抗争が入り混じった紛争が起こる。これに勝利した富樫正親と本願寺派勢力が内部対立を起こし、本願寺が勝利したことで、戦国大名化した寺社勢力の自治が行われていた。 延元4年(1339年)に金沢城址の場所に、本源寺(現西別院)が開創され、中世に寺社勢力が統治する直前には、棟梁、松田次郎左衛門が田井城(金沢の旧奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地。松山寺周辺は二の丸、成瀬内蔵助宅周辺は三の丸、八坂は馬場)を居城としていた。松田次郎左衛門の先祖は京の北面武士で、観應のころ(1350〜1352年)に移り住んでいた。明応3年(1494年)、州崎慶覚坊(近江の土豪出身、一揆にて富樫政親を滅ぼす)に謀殺され、越中荒木村(現南砺市荒木)に逃れ、元亀8年(1508年)ごろには現南砺市城端に移り子孫は城端城に居住していくも、江戸時代には前田家から家禄千石を賜り城下町(金沢別院近く)に屋敷を拝領し廃藩まで居住することになる。 天文15年(1546年)、本源寺を尾山御坊(金沢御坊)と定めて、戦国時代の一向一揆の本願寺の拠点とした(本源寺はのちに前田利家・利常による寄進地で再建)。この寺内町が現在の金沢市の原型と言える。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。 賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。一罰百戒が当たり前の封建時代で着実な占領政策を行い、徹底的に残酷な弾圧による恐怖統制を強いた。遺恨の痕跡や資料が旧加賀藩各地に残るとはいえ、顕著な加賀藩プロパガンダに成功し、さらには寺社勢力を懐柔できたことが加賀藩にとっては大きい。つまり、前田利家や加賀藩は一向宗勢力を中心とした寺社勢力の懐柔政策を以って利用し藩領の自治を行って行く。藩政初期寺社寺領の寄進は金沢市内中心でありほとんどが非一向宗寺院であった一方で、一向宗寺院に対して特例的に諸役免除などを行ったり、有力寺院(現南砺市の瑞泉寺や善徳寺など)に前田家の子女を縁女として送ったりなど懐柔策を徹底し、触頭として機能させ強固な統治を行った(特に南砺市の有力寺院への縁女は江戸時代を通じて送られた。そもそも農地開拓などは藩や武士の指導のもとで有力な農民や町民の協力が必要であり、武士の子女や縁女が送られ入ることもあった)。 利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した。城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。特に第3代藩主前田利常は宗徒の強い信仰心、つまり門主に対する絶対的信心や勤勉性を民政に利用することを考えた。金沢城の防備や、人別(現在の戸籍)を行うため、城下に散在していた寺社を3か所に移転・配置し、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となった。 慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。また、利常の「百姓は死なぬ様に生きぬ様に」「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほ程出る」からその統治思想が垣間見える。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。 以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。 金沢城下は、1822年(文政5年)に藩主前田斉広が遠藤高璟に命じて測量を行い、1828年(文政11年)までに詳細な地図である「金沢十九枚御絵図」を完成させており、市内の状況把握が可能となっている。 「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、享保6年(1721年)の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである。 江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4位から第5位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。江戸時代は金銀複本位制であったため、マネタリーベースの増加に金銀山を領内に保有・管理することは重要であった。特に、参勤交代などの出費(金銀)が定期的に必要な中で領内のマネタリーベースを増加させようと思うと、領内産物を大都市に輸出し貨幣(金銀)を得る必要があった為、江戸時代は大都市が不況に陥ると途端にデフレに陥る構造をしていた。しかし、金銀山を有していれば、自前でマネタリーベースを増加させることができ(江戸後半にかけて、それでも不足し藩札が重要となってきた)、加賀藩は「越中七金山(加賀藩極秘金山でいわゆる黄金郷)」「尾小屋鉱山、金平金山、遊泉寺銅山(現小松市)」「刀利銀山」など、多数の鉱山を所有していたため、非常に経済的に潤っていた。そのような経済的潤いが背景となり、文化が花開いた。江戸時代の武士の給与体系は石高制であり、基本的に米で支給されていた。従って、江戸時代末期になるにつれ、経済の発展と共に米以外の商品作物など高価なものが増え、武士はどんどん貧乏になっていった。逆に百姓は、農業のみに専念しているわけではなく工商などを営むことで、経済発展に寄与し裕福であった。従って、大多数の武士は農工商も営んで生計を立てていた。また、加賀藩の十村制においては豪農と呼ばれる特別に裕福な者もいた。生産性の向上と共に、金銀山の採掘のみならず、藩は藩札によりマネタリーベースを増加できたことが要因と考えられる。さらに、天明の大飢饉を境に北前船に代表される海上輸送が発達。1811年(文化8年)に加賀藩の御用商人だった銭屋五兵衛が海運業に参入し、蝦夷地との回漕業、大坂の米相場や保険まで行い、藩への献上金の見返りに北方領土やイギリス、ロシアと密貿易を行ない、莫大な利益を得て加賀一の金持ちとまで言われていた。広く加越能では米の増産を奨励、絹織物の生産に努めた(尚、生糸・加賀絹は現南砺市と小松市が主体であった)。1859年(安政6年)の開国以降、金銀の含有量をペースとした固定相場制になり、激しい自国通貨安であったため、当時の日本の生糸はヨーロッパの半値以下で購入できた。特に生糸貿易は成長産業として発展することになり、明治維新後の軽工業中心の経済の礎となった。 幕末から明治維新のころの金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、明治時代に入ると産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年ごろには六大都市を形成することになる神戸や横浜にも人口で抜かれる。金沢は明治維新後に城下町の大消費者であった武士の失業と士族授産の失敗により、特に経済が落ち込こみ激しい人口流出が起きたためである。というのも、明治維新後の徴兵国論の布告により士族は軍事専門担当から外れたにも関わらず、露頭に迷うことを防ぐために秩禄が供給され続けたことで世間の反感を買い、士族は生活困窮に加え世間的にも肩身の狭い状態に陥っていた。以降、段階的に、家禄税(累進課税による徴収)、家禄奉還制度(家禄放棄による現金・秩禄公債支給・農業用土地の低価販売)、廃刀令、秩禄処分に至ったことで、不平士族により西南戦争が起き、翌年には加賀藩出身の士族により大久保利通が暗殺されるほどであった。そして、明治10年代に士族(旧藩時代に於ける平士以上の家系)の9割以上は転出したが、もともと生活水準が比較的低くかつ他の生業に従事していた軽輩の武士は,明治維新による生活の急激な変化を受けることが比較的少なく、ある程度は残ったと考えられている。万石以上の上級武士は,一部は中級武士と同様に公務職などに転身したが,一方で明治期以降の消息が不明な者が少なくなく,かつての地位に対応した格式や生活習慣を引きずりつつ各方面からの支援も受けられないまま債務不履行や行き場がなくなった(無職の)者も多かったと推測される。尚、江戸時代、嫡子以外は藩につかえず町人や農民になれば藩士ではなくなっていため、末裔がいないという意味ではない。さらに、近代化の日本において最大産業であった軽工業は旧加賀藩領では隣県の現富山県南砺市旧城端町(加賀藩時代の絹織物の主力都市)を中心に発展した。しかし、没落した士族を救済する為に 長谷川準也 が、製糸・撚糸会社を設立し、当時全国で2番目の規模を誇った(全国初の官営範器械製糸工場は富岡製糸場)。製糸織物業が金沢の産業として広がり、国内初の力織機も開発された。また、北陸本線が全国的に見ても早期に敷設されるなどの鉄道導入が進んだりと、物資流通が変貌したことで、概ね金沢・大聖寺などの鉄道駅や市街地が発展していった。さらに金沢には旧制第四高等学校(金沢大学の前身)や日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄えていった。大正、昭和と電気機械化が進んだが、加賀藩時代に藩の有力財源であった銅の採掘権を取得した竹内明太郎(吉田茂の実兄)が、採掘の電気機械化とともに小松鉄工所(後のコマツ)を設立、工作機械、鉱山用機械を製造した。この他にも、戦時中には軍管理工場の指定を受け軍需を支えた多数のモノづくり企業が金沢市を中心に県内に創立された。尚、陸軍第九師団の全国屈指の軍事演習場が、加賀藩時代には鷹狩場であった隣県南砺市立野原に造られ、立野原監的壕 が市の史跡として今でも残る。第二次世界大戦中は機銃掃射など(金沢空襲)があったものの大規模空襲を免れ、古い町並みが残った(石川県内では空襲で60人以上が死傷した)。 現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、こちらの地名も室町時代まで遡ることが確認されており2つの地名が併用されていた。前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。 金沢市は、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、主計町を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて長崎市など全国へ旧町名復活運動が広がっていった。 かつては、ドーナツ化現象が顕著で、郊外の太陽が丘などにニュータウンが建設されたが、近年は都心部に集合住宅が盛んに建設されており、都心回帰が鮮明となっている。山間部では空き家が目立ち、高齢化が深刻となっている。2000年(平成12年)以降、人口は横ばいを続けている。 (2023年5月11日現在) (2023年6月8日現在) (2023年9月14日現在) 姉妹都市の多くは、その地方の中心的都市であったり、歴史的遺産を持つ古都であるのが特徴的である。 国連機関 領事館 市内から周辺市町村へ広がる金沢平野は、低温であるものの水利がよく適湿で、江戸時代から良質の農地であった。明治時代中期には、他地方に先駆けて近代的な耕地整理が行われ、生産性が飛躍的に向上した。現在でも、単作の稲作中心の農業が継承されており、北陸地方の他地域と並んでコシヒカリの主要な産地の一つである。 稲作だけでは採算が望めない農地については、小規模でも生産でき付加価値の高い作物、さつまいもや蓮根などの加賀野菜、梨などの果実の生産に移行する動きがみられる。 また、北前船の寄港地であった大野港や金石港から金沢港が整備され、ここを拠点とした水産業も盛んである。 江戸時代に金沢を治めた加賀藩は、石高は高いものの外様大名であったため、幕府や周囲に警戒されないよう内向きの産業や工芸を奨励した。そのため、当時から絹織物の主要な産地であった。また、藩の財政に余裕があったため、京都などから職人を招聘し、加賀友禅などの染織工芸を育成することができた。これらを基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達した。ただし現在では、中国などから安価な製品が輸入されるようになったため、高機能商品の生産に特化する動きがみられる。現在でも金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%、市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位である。 また、大野地区では醤油の製造が昔から盛んで、現在も直源が製造している「直っぺ」などがある。 繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、ジェット・ルーム(高速の気流や水流で横糸を飛ばす方式の織機)を生産する津田駒工業本社工場は、世界最大の織機製造工場と言われている。また、こうした高速制御が可能な複合的な機械製造技術は他分野にも転用され、ボトリング・システム(瓶詰め機械)で世界一の澁谷工業や、自動給茶装置付き回転寿司コンベア機でトップシェアを持つ石野製作所など、一風変わった機械の製造に結びついている。 近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長している。市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器は、当地の小規模な繊維工場では手が届かなかったメインフレームではなく、マイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業であり、コンピュータ関連の大手企業が手がけなかった需要に応えて成長の軌道に乗った。また、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった細かな需要の発掘でも、繊維工業が周辺産業へ影響を与えたことがうかがえる。 中心部にある市内最大の繁華街、香林坊・片町地区には、百貨店大和本店をキーテナントとした香林坊アトリオやハンズなどが入居する香林坊東急スクエア、アパレルなど多数の路面店が軒を連ねる竪町通りがある。また、香林坊に隣接する片町地区は、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっている。中心部の主な商店街は香林坊商店街、竪町商店街、広坂振興会(商店街)、柿木畠振興会(商店街)、片町商店街。 一方、もう一つの繁華街である武蔵地区には金沢エムザと近江町市場がある。なかでも近江町市場は、市場独特の風情が味わえることから訪れる観光客も多く、金沢市内の観光地のひとつとしても有名。2009年4月16日には市街地再開発事業により、近江町いちば館が開業した。 金沢駅周辺では北陸新幹線開業を控えた時期にさらなる開発が進んだ。駅東口横にイオン系列のファッションビルである金沢フォーラスが開業、金沢百番街では2007年5月26日にくつろぎ館がオープン、2011年3月3日にはトレンド館を大幅に改装したRintoがオープンするなど、駅ビルや駅ナカの商業施設の集積が進んだ。また、北陸新幹線開業を受けて都市型マンションやビジネスホテルの集積も顕著である。そのため、駅周辺の商業地としての地位が向上し、テナントビルの空室率は駅周辺ビルを中心に大幅に改善した。それに伴い、商圏は香林坊・片町地区、武蔵地区、金沢駅前地区と三極化し始めた。 また、金沢大学や石川県庁などの公共施設が市街地から郊外へ移転したことや、イオンタウン金沢示野、アピタタウン金沢ベイ、ラパーク金沢(メガ・ドン・キホーテ)などのショッピングセンターやロードサイドショップが開業し、国道8号線沿いや山側環状道路および海側環状道路周辺などの郊外が著しく発展していることから、中心街の空洞化、購買客の流失が懸念されている。 金沢市消防局が管轄する。 ※病床数200以上の医療機関のみ記述する。 市の中心となる駅:金沢駅 北陸鉄道の両線は連絡していない。石川線は西金沢駅で、浅野川線は金沢駅で、JR線・IRいしかわ鉄道線に乗り換えできる。 金沢駅には2019年時点、北陸新幹線のほか、JRの以下の在来線特急が発着している。 IATA都市コードはQKWが充てられている。小松空港(空港コードKMQ)から、2022年時点で国内線は東京(羽田)、札幌(新千歳)、福岡、那覇へそれぞれ就航している。国際線の発着もある。小松空港へは金沢駅西口から小松空港リムジンバスによって約40分で結ばれている。 この他に、高速ツアーバスから新高速乗合バス制度へ移行した高速バスが金沢駅西口を中心に発着している。 金沢市街地は加賀前田藩の城下町として栄えた歴史があり、初代藩主前田利家は、甲州流兵学に基づいて城下に敵が攻め込みにくいよう、他の城下町以上に道に曲がり角を多数設けた設計がなされた。市内の道路は道が入り組んでいて分かりにくいという指摘があるが、これは金沢が戦災に遭わなかったこともあり、藩政時代の区画がそのまま残されて今の道路に引き継がれた名残である。 その他、市道を含む、金沢市内の道路には、さまざまな通称名がつけられている。詳しくは金沢市内の通りを参照のこと。 ※ 全国紙では、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞の4紙は大阪本社で発行された物が、読売新聞は北陸支社(富山県高岡市、読売新聞東京本社の支社)で発行された物が販売されている。読売新聞については夕刊も発行されている。 金沢市を含む「金沢地域」の観光入込客数は518.7万人(2021年(令和3年))で、兼六園への来客が全体の約17%(88.0万人)を占める。伝統的な建造物や工芸、文化が遺り、「北陸の京都」とも呼ばれるが、江戸期に成立した町であることから江戸の町の典型を遺し、また、京都が伝統文化を対外的な売り物としている「観光都市」であるのに対し、金沢はそれらを生活の中で消費する「文化都市」であるとも一時は言われていたが、2015年の北陸新幹線開通などを受け国際観光都市を目指した街づくりが推進されている。 江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園とされる。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによる。兼六園に隣接して江戸末期に建てられた成巽閣は前田家の奥方御殿である。内部の意匠は女性らしい可憐で優美なしつらえや造りとなっている。 この兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあったが、郊外(角間)へ移転した。その後一部の櫓や門、庭園などが当時の技術のままに復元され、一般に公開されている。 市内中心部の長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡に野村家庭園があり、加賀友禅の長町友禅館(旧彩筆庵)と並んで内部を見学することができる。中には小さい滝があり、立体的な配置のため街中とは思えない奥行きがある風景を楽しめる。 市内には、犀川と浅野川の二つの川が流れている。浅野川沿いの東山周辺、東の茶屋街(旧東の郭)には江戸時代の遊郭に由来する古い町並みが残る。内部を改装して飲食店などに利用されている家もある。東山ひがし地区と主計町は重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。背後にある卯辰山からは市街地から遠く日本海までを見渡すことができる。一方犀川沿いには、にし茶屋街(旧西の郭)がある。 犀川からほど近い寺町の妙立寺は、内部に外敵を避けるための隠し通路や階段などの工夫が施されていることから「忍者寺」と呼ばれ人気がある。海外のガイドブックにも紹介されている。 この他、2010年10月に東山に移転オープンした安江金箔工芸館では金箔の製造工程や箔打ちなどの実演を観ることができる。松根城は市の史跡に指定されている。 2004年に開館した金沢21世紀美術館は市街地の中心部に立地し、現代美術をテーマとした展示を行っている。開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されている。 金沢市の海に面した地域に大野地区は醤油の産地で、今でも醤油蔵が立ち並んでいる。町並保存地区として独特の風情を楽しむことができる、商業の町である。 近年、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得している。 北陸新幹線の開業により、これまで少なかった関東や東北などからの観光客が増加し、ホテルの建設ラッシュなども進んでいる。 金沢百万石まつりが有名。毎年6月に前田利家の金沢入城を模した行列が街の中を練り歩く。利家役には男性有名人が選ばれている。友禅灯籠流しや百万石踊り流しなどの協賛・関連行事も多く催される。 湯涌地区では、毎年6月30日に氷室開きと呼ばれる藩政期より伝わる伝統行事が行なわれる。 イベントでは、毎年2月初旬にいしかわ四高記念公園で行われるフードピア金沢、毎年5月初旬にクラシック音楽祭のいしかわ風と緑の楽都音楽祭(旧ラ・フォル・ジュルネ金沢)、8月には香林坊から武蔵が辻が歩行者天国となる金沢ゆめ街道が開催される。 市内には、神社が330余り、仏教寺院が390余りある。仏教寺院を宗派別に見ると、他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して浄土真宗の寺院のみが3倍あまりに増加し、寺院全体の半数を超える210寺が立つ。これは、中世に親鸞のもとで修行した僧蓮如が、北陸地域で熱心に布教活動を行ったからといえる。その内の192寺が真宗大谷派である。 金沢五社 その他の主な神社 金沢では加賀藩が茶菓子作りを奨励したため高度な菓子文化が育まれ、京都市や松江市などと並ぶ「日本三大菓子処」として知られてきた。正月に食べる福梅、辻占や、初夏に食べる氷室饅頭、婚姻の際に振舞われる五色生菓子や金花糖などのいわゆる縁起菓子は、菓子文化の成果の一つといえよう。 市内には今でも「森八」、「諸江屋」、「俵屋」、「柴舟小出」、「村上」といった和菓子の老舗が至る所にある。特に森八で作られている長生殿は日本三名菓の一つである。 麸(不室屋) 金沢市では数多くの伝統産業が継承されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する市。石川県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている。旧石川郡及び河北郡。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "江戸時代には、江戸幕府(約800万石と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領した加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として栄え、人口規模では江戸・大坂・京の三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市であった。第二次世界大戦中にアメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もないころには国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸、日本三名園の一つとして知られる兼六園、加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(加賀宝生や郷土料理のじぶ煮など)などにより、観光都市として知られる。2009年にはユネスコの創造都市に認定された(国内では神戸市、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門ではアジア初)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本海側の都市としては政令指定都市である新潟市(約77万人)に次ぐ人口を誇る。北陸の富山県・石川県・福井県を管轄する国の出先機関が置かれ、大企業の「北陸支社」「北陸支店」も金沢市に置かれることも多い。ただし、北陸地方の都市雇用圏単位見ると、金沢都市圏の人口規模より、北陸電力や北陸銀行の本店所在地である富山市を中心とした富山都市圏の方が大きい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地理区分は中部地方、北陸地方、北信越地方に属する。石川県内の地理区分では、加賀地方に属する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "南東部は山地で、奈良岳(1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源)をはじめ、見越山 (1,621m)、大門山 (1,572m)、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m)、キゴ山 (546m)、野田山 (180m)、満願寺山 (177m)、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。山地と平野の境界付近に森本・富樫断層帯が分布する。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川、高橋川、内川などが流れる。犀川とこれに合流する伏見川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダムや内川ダムがあり、上水道や灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を並行して流れ、犀川北岸と浅野川南岸それぞれの河岸段丘に挟まれた台地が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城趾や兼六園がある。また、犀川南岸の河岸段丘は寺町台地と呼ばれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い。平年の雷日数が全国の県庁所在地の中で最も多く、そのほとんどは晩秋から冬に起こる。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35°Cを超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。12月から2月にかけては雪や雨が多い。雷を伴ってあられや雹が降ることもある。1987年以降の暖冬に加え、1991年10月23日に金沢地方気象台が中心部にほど近い弥生地区から、海風の影響で気温が高めで雪が積もりにくい沿岸寄りの西念地区へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなることが増えた。しかしながら、市の公表している積雪量によると、気象台よりも兼六園のある市内中心部の方が積雪が多く、特に、金沢大学のある角間町などの内陸地域などは豪雪となりやすい。このように同じ市内であっても海側と内陸では積雪量が大きく異なっている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "降雪の深さ合計は平年で157cmと前々平年値(1971〜2000年平均)の360cm、前平年値(1981〜2010年平均)の278cmと比べて大きく減少した。気象台移転後の最深積雪記録は2001年1月16日の88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。最後に積雪が1mを超えたのは1986年1月28日の113cmまで遡る。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、最低気温は高め(1月の平均最低気温は1.2°C)であり、2000年代以降は暖冬傾向であること、また、除雪・融雪の体制が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "北側に内灘町、津幡町、東側に倶利伽羅峠、医王山などの山地を挟んで富山県小矢部市、南砺市、南側に白山市(旧松任市、旧鶴来町)、野々市市と接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「金沢」という都市名は「昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、金洗いの沢と呼ばれた」という伝説による。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊澤」と呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に文明13年10月8日(1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "権門体制から幕藩体制への過渡期の時代、荘園性の崩壊と重課税で混沌とした中世には、強い支持を得た本願寺関連の一向一揆(一向宗)が治めた領地であった。当時、比叡山、京都五山、本願寺に代表される寺社勢力は中国と盛んに交易し大量の銭貨を得、経済的に幕府を支える存在であり対立していた。中でも京都五山や比叡山とは異なり、本願寺勢力は基本的に荘園を持たず、信徒からの喜捨により資金を集めていた。領地からの不安定な年貢や関所の通行税に寄らず、人の集積や経済活動に伴う需要や生産性増加に合わせて、中国から得た銭貨を用いたマネタリーベース増加が適切に可能であったことから経済的に栄えて自然と寄付金が増加した。蓮如たちは小高い丘の上に寺院を建設しその下を門前町とする都市計画(寺と町をセットとしたという意味での寺内町)を持っており、尾崎御坊など北陸の寺社・城跡でも同様の地形で寺内町の名残が残る。また、中世は幕府の内紛により権威が弱く地侍や盗賊がやりたい放題で、戦乱による財政難から度重なる徳政令で金融も麻痺していた。一方、本願寺の寺内町だけは、大量の資金、人材に恵まれ、規制緩和で酒や魚などの自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、徳政令からも免れ、経済的に繁栄していた。従って、安心した暮らしを求めて帰依する者が多かったと考えられる。そして北陸は石山本願寺の財政基盤として重要な地域として機能していた。その中で、守護大名富樫氏一族の内紛に、地元武士、浄土真宗本願寺派と髙田派の内部抗争が入り混じった紛争が起こる。これに勝利した富樫正親と本願寺派勢力が内部対立を起こし、本願寺が勝利したことで、戦国大名化した寺社勢力の自治が行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "延元4年(1339年)に金沢城址の場所に、本源寺(現西別院)が開創され、中世に寺社勢力が統治する直前には、棟梁、松田次郎左衛門が田井城(金沢の旧奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地。松山寺周辺は二の丸、成瀬内蔵助宅周辺は三の丸、八坂は馬場)を居城としていた。松田次郎左衛門の先祖は京の北面武士で、観應のころ(1350〜1352年)に移り住んでいた。明応3年(1494年)、州崎慶覚坊(近江の土豪出身、一揆にて富樫政親を滅ぼす)に謀殺され、越中荒木村(現南砺市荒木)に逃れ、元亀8年(1508年)ごろには現南砺市城端に移り子孫は城端城に居住していくも、江戸時代には前田家から家禄千石を賜り城下町(金沢別院近く)に屋敷を拝領し廃藩まで居住することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "天文15年(1546年)、本源寺を尾山御坊(金沢御坊)と定めて、戦国時代の一向一揆の本願寺の拠点とした(本源寺はのちに前田利家・利常による寄進地で再建)。この寺内町が現在の金沢市の原型と言える。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が金沢城に入り、加賀藩の原型が形成された。一罰百戒が当たり前の封建時代で着実な占領政策を行い、徹底的に残酷な弾圧による恐怖統制を強いた。遺恨の痕跡や資料が旧加賀藩各地に残るとはいえ、顕著な加賀藩プロパガンダに成功し、さらには寺社勢力を懐柔できたことが加賀藩にとっては大きい。つまり、前田利家や加賀藩は一向宗勢力を中心とした寺社勢力の懐柔政策を以って利用し藩領の自治を行って行く。藩政初期寺社寺領の寄進は金沢市内中心でありほとんどが非一向宗寺院であった一方で、一向宗寺院に対して特例的に諸役免除などを行ったり、有力寺院(現南砺市の瑞泉寺や善徳寺など)に前田家の子女を縁女として送ったりなど懐柔策を徹底し、触頭として機能させ強固な統治を行った(特に南砺市の有力寺院への縁女は江戸時代を通じて送られた。そもそも農地開拓などは藩や武士の指導のもとで有力な農民や町民の協力が必要であり、武士の子女や縁女が送られ入ることもあった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "利家は金沢城を人心の一新(羽柴秀吉に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である尾張国にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の前田利長の時代には再び「金沢城」の名前に戻した。城下町には二重の惣構が掘られ、環濠都市となり、現在でもその遺構を確認することができる。特に第3代藩主前田利常は宗徒の強い信仰心、つまり門主に対する絶対的信心や勤勉性を民政に利用することを考えた。金沢城の防備や、人別(現在の戸籍)を行うため、城下に散在していた寺社を3か所に移転・配置し、金沢城から南西の犀川流域、東側の卯辰山、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが寺町寺院群、卯辰山山麓寺院群、小立野寺院群となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、西軍に属した弟の前田利政の所領を戦後に与えられ、加賀国、能登国、越中国を有する大大名となる。第三代藩主前田利常の時代には、十村制や改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。また、利常の「百姓は死なぬ様に生きぬ様に」「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほ程出る」からその統治思想が垣間見える。第五代藩主前田綱紀は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、木下順庵や室鳩巣、稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから新井白石は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は尊経閣文庫と呼ばれ、現在では前田育徳会により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "金沢城下は、1822年(文政5年)に藩主前田斉広が遠藤高璟に命じて測量を行い、1828年(文政11年)までに詳細な地図である「金沢十九枚御絵図」を完成させており、市内の状況把握が可能となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、享保6年(1721年)の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4位から第5位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。江戸時代は金銀複本位制であったため、マネタリーベースの増加に金銀山を領内に保有・管理することは重要であった。特に、参勤交代などの出費(金銀)が定期的に必要な中で領内のマネタリーベースを増加させようと思うと、領内産物を大都市に輸出し貨幣(金銀)を得る必要があった為、江戸時代は大都市が不況に陥ると途端にデフレに陥る構造をしていた。しかし、金銀山を有していれば、自前でマネタリーベースを増加させることができ(江戸後半にかけて、それでも不足し藩札が重要となってきた)、加賀藩は「越中七金山(加賀藩極秘金山でいわゆる黄金郷)」「尾小屋鉱山、金平金山、遊泉寺銅山(現小松市)」「刀利銀山」など、多数の鉱山を所有していたため、非常に経済的に潤っていた。そのような経済的潤いが背景となり、文化が花開いた。江戸時代の武士の給与体系は石高制であり、基本的に米で支給されていた。従って、江戸時代末期になるにつれ、経済の発展と共に米以外の商品作物など高価なものが増え、武士はどんどん貧乏になっていった。逆に百姓は、農業のみに専念しているわけではなく工商などを営むことで、経済発展に寄与し裕福であった。従って、大多数の武士は農工商も営んで生計を立てていた。また、加賀藩の十村制においては豪農と呼ばれる特別に裕福な者もいた。生産性の向上と共に、金銀山の採掘のみならず、藩は藩札によりマネタリーベースを増加できたことが要因と考えられる。さらに、天明の大飢饉を境に北前船に代表される海上輸送が発達。1811年(文化8年)に加賀藩の御用商人だった銭屋五兵衛が海運業に参入し、蝦夷地との回漕業、大坂の米相場や保険まで行い、藩への献上金の見返りに北方領土やイギリス、ロシアと密貿易を行ない、莫大な利益を得て加賀一の金持ちとまで言われていた。広く加越能では米の増産を奨励、絹織物の生産に努めた(尚、生糸・加賀絹は現南砺市と小松市が主体であった)。1859年(安政6年)の開国以降、金銀の含有量をペースとした固定相場制になり、激しい自国通貨安であったため、当時の日本の生糸はヨーロッパの半値以下で購入できた。特に生糸貿易は成長産業として発展することになり、明治維新後の軽工業中心の経済の礎となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "幕末から明治維新のころの金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、明治時代に入ると産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年ごろには六大都市を形成することになる神戸や横浜にも人口で抜かれる。金沢は明治維新後に城下町の大消費者であった武士の失業と士族授産の失敗により、特に経済が落ち込こみ激しい人口流出が起きたためである。というのも、明治維新後の徴兵国論の布告により士族は軍事専門担当から外れたにも関わらず、露頭に迷うことを防ぐために秩禄が供給され続けたことで世間の反感を買い、士族は生活困窮に加え世間的にも肩身の狭い状態に陥っていた。以降、段階的に、家禄税(累進課税による徴収)、家禄奉還制度(家禄放棄による現金・秩禄公債支給・農業用土地の低価販売)、廃刀令、秩禄処分に至ったことで、不平士族により西南戦争が起き、翌年には加賀藩出身の士族により大久保利通が暗殺されるほどであった。そして、明治10年代に士族(旧藩時代に於ける平士以上の家系)の9割以上は転出したが、もともと生活水準が比較的低くかつ他の生業に従事していた軽輩の武士は,明治維新による生活の急激な変化を受けることが比較的少なく、ある程度は残ったと考えられている。万石以上の上級武士は,一部は中級武士と同様に公務職などに転身したが,一方で明治期以降の消息が不明な者が少なくなく,かつての地位に対応した格式や生活習慣を引きずりつつ各方面からの支援も受けられないまま債務不履行や行き場がなくなった(無職の)者も多かったと推測される。尚、江戸時代、嫡子以外は藩につかえず町人や農民になれば藩士ではなくなっていため、末裔がいないという意味ではない。さらに、近代化の日本において最大産業であった軽工業は旧加賀藩領では隣県の現富山県南砺市旧城端町(加賀藩時代の絹織物の主力都市)を中心に発展した。しかし、没落した士族を救済する為に 長谷川準也 が、製糸・撚糸会社を設立し、当時全国で2番目の規模を誇った(全国初の官営範器械製糸工場は富岡製糸場)。製糸織物業が金沢の産業として広がり、国内初の力織機も開発された。また、北陸本線が全国的に見ても早期に敷設されるなどの鉄道導入が進んだりと、物資流通が変貌したことで、概ね金沢・大聖寺などの鉄道駅や市街地が発展していった。さらに金沢には旧制第四高等学校(金沢大学の前身)や日露戦争の旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄えていった。大正、昭和と電気機械化が進んだが、加賀藩時代に藩の有力財源であった銅の採掘権を取得した竹内明太郎(吉田茂の実兄)が、採掘の電気機械化とともに小松鉄工所(後のコマツ)を設立、工作機械、鉱山用機械を製造した。この他にも、戦時中には軍管理工場の指定を受け軍需を支えた多数のモノづくり企業が金沢市を中心に県内に創立された。尚、陸軍第九師団の全国屈指の軍事演習場が、加賀藩時代には鷹狩場であった隣県南砺市立野原に造られ、立野原監的壕 が市の史跡として今でも残る。第二次世界大戦中は機銃掃射など(金沢空襲)があったものの大規模空襲を免れ、古い町並みが残った(石川県内では空襲で60人以上が死傷した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、こちらの地名も室町時代まで遡ることが確認されており2つの地名が併用されていた。前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "金沢市は、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、主計町を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて長崎市など全国へ旧町名復活運動が広がっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "かつては、ドーナツ化現象が顕著で、郊外の太陽が丘などにニュータウンが建設されたが、近年は都心部に集合住宅が盛んに建設されており、都心回帰が鮮明となっている。山間部では空き家が目立ち、高齢化が深刻となっている。2000年(平成12年)以降、人口は横ばいを続けている。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "(2023年5月11日現在)", "title": "議会" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "(2023年6月8日現在)", "title": "議会" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "(2023年9月14日現在)", "title": "議会" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "姉妹都市の多くは、その地方の中心的都市であったり、歴史的遺産を持つ古都であるのが特徴的である。", "title": "姉妹都市・提携都市" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "国連機関", "title": "国際機関" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "領事館", "title": "国際機関" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "市内から周辺市町村へ広がる金沢平野は、低温であるものの水利がよく適湿で、江戸時代から良質の農地であった。明治時代中期には、他地方に先駆けて近代的な耕地整理が行われ、生産性が飛躍的に向上した。現在でも、単作の稲作中心の農業が継承されており、北陸地方の他地域と並んでコシヒカリの主要な産地の一つである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "稲作だけでは採算が望めない農地については、小規模でも生産でき付加価値の高い作物、さつまいもや蓮根などの加賀野菜、梨などの果実の生産に移行する動きがみられる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、北前船の寄港地であった大野港や金石港から金沢港が整備され、ここを拠点とした水産業も盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "江戸時代に金沢を治めた加賀藩は、石高は高いものの外様大名であったため、幕府や周囲に警戒されないよう内向きの産業や工芸を奨励した。そのため、当時から絹織物の主要な産地であった。また、藩の財政に余裕があったため、京都などから職人を招聘し、加賀友禅などの染織工芸を育成することができた。これらを基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達した。ただし現在では、中国などから安価な製品が輸入されるようになったため、高機能商品の生産に特化する動きがみられる。現在でも金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%、市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位である。 また、大野地区では醤油の製造が昔から盛んで、現在も直源が製造している「直っぺ」などがある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、ジェット・ルーム(高速の気流や水流で横糸を飛ばす方式の織機)を生産する津田駒工業本社工場は、世界最大の織機製造工場と言われている。また、こうした高速制御が可能な複合的な機械製造技術は他分野にも転用され、ボトリング・システム(瓶詰め機械)で世界一の澁谷工業や、自動給茶装置付き回転寿司コンベア機でトップシェアを持つ石野製作所など、一風変わった機械の製造に結びついている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長している。市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器は、当地の小規模な繊維工場では手が届かなかったメインフレームではなく、マイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業であり、コンピュータ関連の大手企業が手がけなかった需要に応えて成長の軌道に乗った。また、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった細かな需要の発掘でも、繊維工業が周辺産業へ影響を与えたことがうかがえる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "中心部にある市内最大の繁華街、香林坊・片町地区には、百貨店大和本店をキーテナントとした香林坊アトリオやハンズなどが入居する香林坊東急スクエア、アパレルなど多数の路面店が軒を連ねる竪町通りがある。また、香林坊に隣接する片町地区は、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっている。中心部の主な商店街は香林坊商店街、竪町商店街、広坂振興会(商店街)、柿木畠振興会(商店街)、片町商店街。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "一方、もう一つの繁華街である武蔵地区には金沢エムザと近江町市場がある。なかでも近江町市場は、市場独特の風情が味わえることから訪れる観光客も多く、金沢市内の観光地のひとつとしても有名。2009年4月16日には市街地再開発事業により、近江町いちば館が開業した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "金沢駅周辺では北陸新幹線開業を控えた時期にさらなる開発が進んだ。駅東口横にイオン系列のファッションビルである金沢フォーラスが開業、金沢百番街では2007年5月26日にくつろぎ館がオープン、2011年3月3日にはトレンド館を大幅に改装したRintoがオープンするなど、駅ビルや駅ナカの商業施設の集積が進んだ。また、北陸新幹線開業を受けて都市型マンションやビジネスホテルの集積も顕著である。そのため、駅周辺の商業地としての地位が向上し、テナントビルの空室率は駅周辺ビルを中心に大幅に改善した。それに伴い、商圏は香林坊・片町地区、武蔵地区、金沢駅前地区と三極化し始めた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、金沢大学や石川県庁などの公共施設が市街地から郊外へ移転したことや、イオンタウン金沢示野、アピタタウン金沢ベイ、ラパーク金沢(メガ・ドン・キホーテ)などのショッピングセンターやロードサイドショップが開業し、国道8号線沿いや山側環状道路および海側環状道路周辺などの郊外が著しく発展していることから、中心街の空洞化、購買客の流失が懸念されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "金沢市消防局が管轄する。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "※病床数200以上の医療機関のみ記述する。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "市の中心となる駅:金沢駅", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "北陸鉄道の両線は連絡していない。石川線は西金沢駅で、浅野川線は金沢駅で、JR線・IRいしかわ鉄道線に乗り換えできる。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "金沢駅には2019年時点、北陸新幹線のほか、JRの以下の在来線特急が発着している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "IATA都市コードはQKWが充てられている。小松空港(空港コードKMQ)から、2022年時点で国内線は東京(羽田)、札幌(新千歳)、福岡、那覇へそれぞれ就航している。国際線の発着もある。小松空港へは金沢駅西口から小松空港リムジンバスによって約40分で結ばれている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この他に、高速ツアーバスから新高速乗合バス制度へ移行した高速バスが金沢駅西口を中心に発着している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "金沢市街地は加賀前田藩の城下町として栄えた歴史があり、初代藩主前田利家は、甲州流兵学に基づいて城下に敵が攻め込みにくいよう、他の城下町以上に道に曲がり角を多数設けた設計がなされた。市内の道路は道が入り組んでいて分かりにくいという指摘があるが、これは金沢が戦災に遭わなかったこともあり、藩政時代の区画がそのまま残されて今の道路に引き継がれた名残である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "その他、市道を含む、金沢市内の道路には、さまざまな通称名がつけられている。詳しくは金沢市内の通りを参照のこと。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "※ 全国紙では、朝日新聞、毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞の4紙は大阪本社で発行された物が、読売新聞は北陸支社(富山県高岡市、読売新聞東京本社の支社)で発行された物が販売されている。読売新聞については夕刊も発行されている。", "title": "マスメディア" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "金沢市を含む「金沢地域」の観光入込客数は518.7万人(2021年(令和3年))で、兼六園への来客が全体の約17%(88.0万人)を占める。伝統的な建造物や工芸、文化が遺り、「北陸の京都」とも呼ばれるが、江戸期に成立した町であることから江戸の町の典型を遺し、また、京都が伝統文化を対外的な売り物としている「観光都市」であるのに対し、金沢はそれらを生活の中で消費する「文化都市」であるとも一時は言われていたが、2015年の北陸新幹線開通などを受け国際観光都市を目指した街づくりが推進されている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園とされる。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによる。兼六園に隣接して江戸末期に建てられた成巽閣は前田家の奥方御殿である。内部の意匠は女性らしい可憐で優美なしつらえや造りとなっている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあったが、郊外(角間)へ移転した。その後一部の櫓や門、庭園などが当時の技術のままに復元され、一般に公開されている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "市内中心部の長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡に野村家庭園があり、加賀友禅の長町友禅館(旧彩筆庵)と並んで内部を見学することができる。中には小さい滝があり、立体的な配置のため街中とは思えない奥行きがある風景を楽しめる。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "市内には、犀川と浅野川の二つの川が流れている。浅野川沿いの東山周辺、東の茶屋街(旧東の郭)には江戸時代の遊郭に由来する古い町並みが残る。内部を改装して飲食店などに利用されている家もある。東山ひがし地区と主計町は重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。背後にある卯辰山からは市街地から遠く日本海までを見渡すことができる。一方犀川沿いには、にし茶屋街(旧西の郭)がある。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "犀川からほど近い寺町の妙立寺は、内部に外敵を避けるための隠し通路や階段などの工夫が施されていることから「忍者寺」と呼ばれ人気がある。海外のガイドブックにも紹介されている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "この他、2010年10月に東山に移転オープンした安江金箔工芸館では金箔の製造工程や箔打ちなどの実演を観ることができる。松根城は市の史跡に指定されている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2004年に開館した金沢21世紀美術館は市街地の中心部に立地し、現代美術をテーマとした展示を行っている。開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されている。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "金沢市の海に面した地域に大野地区は醤油の産地で、今でも醤油蔵が立ち並んでいる。町並保存地区として独特の風情を楽しむことができる、商業の町である。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "近年、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得している。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "北陸新幹線の開業により、これまで少なかった関東や東北などからの観光客が増加し、ホテルの建設ラッシュなども進んでいる。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "金沢百万石まつりが有名。毎年6月に前田利家の金沢入城を模した行列が街の中を練り歩く。利家役には男性有名人が選ばれている。友禅灯籠流しや百万石踊り流しなどの協賛・関連行事も多く催される。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "湯涌地区では、毎年6月30日に氷室開きと呼ばれる藩政期より伝わる伝統行事が行なわれる。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イベントでは、毎年2月初旬にいしかわ四高記念公園で行われるフードピア金沢、毎年5月初旬にクラシック音楽祭のいしかわ風と緑の楽都音楽祭(旧ラ・フォル・ジュルネ金沢)、8月には香林坊から武蔵が辻が歩行者天国となる金沢ゆめ街道が開催される。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "市内には、神社が330余り、仏教寺院が390余りある。仏教寺院を宗派別に見ると、他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して浄土真宗の寺院のみが3倍あまりに増加し、寺院全体の半数を超える210寺が立つ。これは、中世に親鸞のもとで修行した僧蓮如が、北陸地域で熱心に布教活動を行ったからといえる。その内の192寺が真宗大谷派である。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "金沢五社", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "その他の主な神社", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "金沢では加賀藩が茶菓子作りを奨励したため高度な菓子文化が育まれ、京都市や松江市などと並ぶ「日本三大菓子処」として知られてきた。正月に食べる福梅、辻占や、初夏に食べる氷室饅頭、婚姻の際に振舞われる五色生菓子や金花糖などのいわゆる縁起菓子は、菓子文化の成果の一つといえよう。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "市内には今でも「森八」、「諸江屋」、「俵屋」、「柴舟小出」、「村上」といった和菓子の老舗が至る所にある。特に森八で作られている長生殿は日本三名菓の一つである。", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "麸(不室屋)", "title": "文化の金沢" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "金沢市では数多くの伝統産業が継承されている。", "title": "文化の金沢" } ]
金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する市。石川県の県庁所在地および人口が最多の市で、中核市、保健所政令市、中枢中核都市に指定されている。旧石川郡及び河北郡。
{{Redirect|金沢}} {{日本の市 | 自治体名 = 金沢市 | 画像 = Kanazawa montage.jpg | 画像の説明 =<table style="width:280px;margin:2px auto; border-collapse: collapse"> <tr><td>[[金沢城|金沢城址]]</td><td>[[兼六園]]</td></tr> <tr><td>[[近江町市場]]</td><td>[[東山ひがし|ひがし茶屋街]]</td></tr> <tr><td>[[キゴ山]]から望む金沢市街</td><td>[[尾山神社]]</td></tr> </table> | 市旗 = [[ファイル:Flag of Kanazawa, Ishikawa.svg|100px|border|金沢市旗]] | 市旗の説明 = 金沢市旗 | 市章 = [[File:Emblem of Kanazawa, Ishikawa.svg|70px|金沢市章]] | 市章の説明 = 金沢市章<br />[[1891年]][[3月7日]]制定 | 都道府県 = 石川県 | コード = 17201-4 | 隣接自治体 = [[白山市]]、[[野々市市]]、[[河北郡]][[津幡町]]、[[内灘町]]<br />[[富山県]]:[[小矢部市]]、[[南砺市]] | 木 = [[ウメ|梅]] | 花 = [[花菖蒲]]<br />[[サルビア]]<br />[[ベゴニア|四季咲きベゴニア]]<br />[[インパチェンス]]<br />[[ゼラニウム]]<br />(すべて推奨花) | シンボル名 = 市の歌 | 鳥など = [[金沢市歌]](1923年制定)<br />[[金沢市民の歌]](1949年制定) | 郵便番号 = 920-8577 | 所在地 = 金沢市広坂一丁目1番1号<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-17|display=inline,title}}<br />[[ファイル:金沢市役所本庁舎001.jpg|250px|金沢市役所]] | 外部リンク = {{Official website}} | 位置画像 = {{基礎自治体位置図|17|201|image=Kanazawa in Ishikawa Prefecture Ja.svg|村の色分け=no}}{{Maplink2|frame=yes|plain=no|zoom=10|frame-align=center|frame-width=240|type=line|stroke-width=2|type2=point|marker2=town-hall|frame-latitude=36.56|frame-longitude=136.65|text=市庁舎位置}} | 特記事項 = }} [[ファイル:望湖台2.jpg|thumb|200px|金沢市中心市街地]] '''金沢市'''(かなざわし)は、[[石川県]]のほぼ中央に位置する[[市]]。石川県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]および人口が最多の市で、[[中核市]]、[[保健所政令市]]、[[中枢中核都市]]に指定されている。旧[[石川郡 (石川県)|石川郡]]及び[[河北郡]]。 == 概要 == [[江戸時代]]には、[[江戸幕府]](約800万[[石 (単位)|石]]と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の[[石高]]を領した[[加賀藩]](「'''加賀百万石'''」)の[[城下町]]として栄え、人口規模では[[江戸]]・[[大阪|大坂]]・[[京都|京]]の[[三都]]に次ぎ、[[名古屋市|名古屋]]と並ぶ大都市であった。[[第二次世界大戦]]中にアメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もないころには国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の[[伝統工芸]]、[[日本三名園]]の一つとして知られる[[兼六園]]、[[加賀藩]]の藩祖・[[前田利家]]の金沢入城に因んだ[[金沢百万石まつり|百万石まつり]]、さらに庶民文化([[加賀宝生]]や[[郷土料理]]の[[じぶ煮]]など)などにより、[[観光都市]]として知られる。[[2009年]]には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[創造都市ネットワーク|創造都市]]に認定された(国内では[[神戸市]]、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門では[[アジア]]初)。 [[日本海]]側の都市としては[[政令指定都市]]である[[新潟市]](約77万人)に次ぐ人口を誇る。北陸の[[富山県]]・石川県・[[福井県]]を管轄する国の[[出先機関]]が置かれ、大企業の「北陸支社」「北陸支店」も金沢市に置かれることも多い。ただし、[[北陸地方]]の[[都市雇用圏]]単位見ると、[[金沢都市圏]]の人口規模より、[[北陸電力]]や[[北陸銀行]]の本店所在地である[[富山市]]を中心とした[[富山都市圏]]の方が大きい<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.csis.u-tokyo.ac.jp/UEA/MEASTAT2015.xlsx |title=2015年 大都市雇用圏統計データ |access-date=2023/08/22 |publisher=東京大学}}</ref>。 == 地理 == [[ファイル:Kanazawa city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|金沢市中心部の空中写真。南東から北西方向へ[[犀川 (石川県)|犀川]]と[[浅野川]]が流れる。1975年撮影の10枚を合成。{{国土航空写真}}。]] [[ファイル:Asakawa-daimon.JPG|thumb|田上地区にあった旧[[浅川村 (石川県)|浅川村]]役場跡(金沢市浅川出張所、1984年当時)]] === 地理区分 === 地理区分は[[中部地方]]、[[北陸地方]]、[[北信越地方]]に属する。石川県内の地理区分では、[[加賀地方]]に属する。 === 地形 === 南東部は山地で、[[奈良岳]](1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源)をはじめ、[[見越山]] (1,621m)、[[大門山]] (1,572m)、[[医王山]](いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、[[戸室山]] (548m)、[[キゴ山]] (546m)、[[野田山]] (180m)、[[満願寺山]] (177m)、[[卯辰山]] (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された[[第四紀]][[火山]]である。山地と平野の境界付近に[[森本・富樫断層帯]]が分布する。北西部は[[金沢平野]]で、[[犀川 (石川県)|犀川]](別名おとこ川)、[[浅野川]](別名おんな川)、[[金腐川]](かなくさりがわ)、[[森下川]](もりもとがわ)、[[伏見川]]、[[高橋川 (石川県)|高橋川]]、[[内川 (石川県)|内川]]などが流れる。犀川とこれに合流する[[伏見川]]は日本海へ直接注ぐが、他の川は[[河北潟]]へ流れ、[[大野川 (石川県)|大野川]]を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には[[犀川ダム]]や[[内川ダム]]があり、上水道や灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を並行して流れ、犀川北岸と浅野川南岸それぞれの河岸段丘に挟まれた[[台地]]が[[小立野]]台地である。小立野台地の西端に[[金沢城|金沢城趾]]や[[兼六園]]がある。また、犀川南岸の河岸段丘は寺町台地と呼ばれる。 === 気候 === [[日本海側気候]]で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い<ref group="注釈">石川県・福井県は雨が多く「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉がよく使われる。加藤迪男『お国柄ことばの辞典』([[東京堂出版]]p.99f)では「富山[[浄瑠璃]]加賀謡」という言葉を紹介している。</ref>。平年の雷日数が全国の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]の中で最も多く、そのほとんどは晩秋から冬に起こる。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏には[[フェーン現象]]が起きて最高気温が35℃を超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。12月から2月にかけては[[雪]]や[[雨]]が多い。雷を伴ってあられや雹が降ることもある。[[1987年]]以降の暖冬に加え、[[1991年]]10月23日に[[新潟地方気象台#地方予報区管内気象台|金沢地方気象台]]が中心部にほど近い弥生地区から、海風の影響で気温が高めで雪が積もりにくい沿岸寄りの西念地区へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか[[鳥取市]]よりも[[積雪量]]が少なくなることが増えた。しかしながら、市の公表している積雪量<ref>[http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/sekisetu/select.html かなざわ積雪情報]</ref>によると、気象台よりも[[兼六園]]のある市内中心部の方が積雪が多く、特に、[[金沢大学]]のある[[角間町]]などの内陸地域などは豪雪となりやすい。このように'''同じ市内であっても海側と内陸では積雪量が大きく異なっている。'''<!--旧金沢地方気象台跡地は弥生さくら公園として整備された。--> 降雪の深さ合計は平年で157[[センチメートル|cm]]と前々平年値(1971〜2000年平均)の360cm、前平年値(1981〜2010年平均)の278cmと比べて大きく減少した。気象台移転後の最深積雪記録は[[2001年]]1月16日の88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は[[三八豪雪]]の1963年1月27日に記録した181cm。最後に積雪が1mを超えたのは[[1986年]]1月28日の113cmまで遡る。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く[[放射冷却]]が少ないため、最低気温は高め(1月の平均最低気温は1.2℃)であり、[[2000年代]]以降は[[暖冬]]傾向であること、また、[[除雪]]・[[融雪]]の体制が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。 湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。 {{Kanazawa weatherbox}} {{Weather box |location = 旧金沢地方気象台(弥生町)・1961 - 1990年平均 |collapsed=yes |metric first = Yes |single line = Yes |Jan high C = 6.1 |Feb high C = 6.5 |Mar high C = 10.5 |Apr high C = 17.4 |May high C = 22.2 |Jun high C = 25.2 |Jul high C = 29.4 |Aug high C = 31.2 |Sep high C = 26.7 |Oct high C = 20.9 |Nov high C = 15.3 |Dec high C = 9.8 |year high C = 18.4 |Jan mean C = 2.9 |Feb mean C = 2.9 |Mar mean C = 6.0 |Apr mean C = 12.1 |May mean C = 17.0 |Jun mean C = 20.8 |Jul mean C = 25.2 |Aug mean C = 26.6 |Sep mean C = 22.1 |Oct mean C = 16.1 |Nov mean C = 10.8 |Dec mean C = 6.0 |year mean C = 14.1 |Jan low C = 0.1 |Feb low C = 0.0 |Mar low C = 2.0 |Apr low C = 7.3 |May low C = 12.2 |Jun low C = 17.0 |Jul low C = 21.6 |Aug low C = 22.7 |Sep low C = 18.5 |Oct low C = 12.2 |Nov low C = 7.0 |Dec low C = 2.8 |year low C = 10.3 |Jan snow cm = 145 |Feb snow cm = 102 |Mar snow cm = 24 |Apr snow cm = 0 |May snow cm = 0 |Jun snow cm = 0 |Jul snow cm = 0 |Aug snow cm = 0 |Sep snow cm = 0 |Oct snow cm = 0 |Nov snow cm = 1 |Dec snow cm = 45 |year snow cm = 318 |source 1 = NOAA (1961-1990) <ref name=NOAA>{{cite web |url = ftp://ftp.atdd.noaa.gov/pub/GCOS/WMO-Normals/RA-II/JP/47605.TXT |title = Climate Normals 1961-1990 |publisher = [[アメリカ海洋大気庁]] |accessdate = 2016-08-15}}</ref> }} {{Weather box |location = 医王山観測所(平等本町、標高:420m) |single line = Y |metric first = Y |Jan precipitation mm =- |Feb precipitation mm =- |Mar precipitation mm =- |Apr precipitation mm =- |May precipitation mm =150.7 |Jun precipitation mm =181.0 |Jul precipitation mm =270.9 |Aug precipitation mm = 226.9 |Sep precipitation mm = 267.5 |Oct precipitation mm = 239.3 |Nov precipitation mm =- |Dec precipitation mm =- |year precipitation mm =- |source 1 = [https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=56&block_no=0570&year=&month=&day=&view= 気象庁] (平年値:2003-2020) |year precipitation days=-|Dec precipitation days=-|Nov precipitation days=-|Oct precipitation days=13.8|Sep precipitation days=13.6|Aug precipitation days=11.0|Jul precipitation days=14.5|Jun precipitation days=11.3|May precipitation days=11.7|Apr precipitation days=-|Mar precipitation days=-|Feb precipitation days=-|Jan precipitation days=-|unit precipitation days=1.0mm}} {{climate chart|'''金沢市''' |1.2|7.1|256.0 |1.0|7.8|162.6 |3.4|11.6|157.2 |8.2|17.3|143.9 |13.6|22.3|138.0 |18.4|25.6|170.3 |22.9|29.5|233.4 |24.1|31.3|179.3 |19.9|27.2|231.9 |13.9|21.8|177.1 |8.1|15.9|250.8 |3.5|10.2|301.1 |float=right |source=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=56&block_no=47605&year=&month=&day=&view= 気象庁] }} === 隣接自治体 === 北側に[[内灘町]]、[[津幡町]]、東側に[[倶利伽羅峠]]、[[医王山]]などの山地を挟んで[[富山県]][[小矢部市]]、[[南砺市]]、南側に[[白山市]](旧[[松任市]]、旧[[鶴来町]])、[[野々市市]]と接する。 {{Gallery |kanazawa_frm_kigo.jpg|[[キゴ山]]からみた金沢市街。2007年5月。 |070317_utatsuyama.jpg|[[卯辰山]]からみた金沢市街の夜景。2007年3月。 |20090816金沢市.jpg|金沢市街空撮 |Daimonsan.jpg|代表的高峰、[[大門山]] |070317 tomuro from kodatsuno.jpg|[[溶岩円頂丘]]、[[戸室山]]<ref>[https://gbank.gsj.jp/volcano/Quat_Vol/volcano_data/E78.html 産総研地質調査総合センター]</ref> }} == 歴史 == === 太平洋戦争以前 === 「金沢」という都市名は「昔、[[山科]]の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、''金洗いの沢''と呼ばれた」という伝説による。 「''金洗いの沢''」は、兼六園内の[[金沢神社]]の隣りにあり、現在は「[[金城霊澤]]」と呼ばれている。 古文書における「金沢」の初見は、『高野山正智院聖教目録』に[[文明 (日本)|文明]]13年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]](1481年10月30日)付で記載された「加州金沢惣持寺」が知られている<ref>瀬戸薫「金沢城と前田利家」大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』戎光祥出版、2016年、p. 265。「付記」(2008年に記された原論文には記載されていないので注意)</ref>。 [[権門]]体制から[[幕藩体制]]への過渡期の時代、荘園性の崩壊と重課税で混沌とした中世には、強い支持を得た本願寺関連の一向一揆([[一向宗|一向宗)]]が治めた領地であった。当時、比叡山、京都五山、本願寺に代表される寺社勢力は中国と盛んに交易し大量の銭貨を得、経済的に幕府を支える存在であり対立していた。中でも京都五山や比叡山とは異なり、本願寺勢力は基本的に荘園を持たず、信徒からの喜捨により資金を集めていた。領地からの不安定な年貢や関所の通行税に寄らず、人の集積や経済活動に伴う需要や生産性増加に合わせて、中国から得た銭貨を用いたマネタリーベース増加が適切に可能であったことから経済的に栄えて自然と寄付金が増加した。蓮如たちは小高い丘の上に寺院を建設しその下を門前町とする都市計画(寺と町をセットとしたという意味での寺内町)を持っており、尾崎御坊など北陸の寺社・城跡でも同様の地形で寺内町の名残が残る。また、中世は幕府の内紛により権威が弱く地侍や盗賊がやりたい放題で、戦乱による財政難から度重なる徳政令で金融も麻痺していた。一方、本願寺の寺内町だけは、大量の資金、人材に恵まれ、規制緩和で酒や魚などの自由な商売が出来、軍事組織もあったため治安も良く、徳政令からも免れ、経済的に繁栄していた。従って、安心した暮らしを求めて帰依する者が多かったと考えられる。そして北陸は石山本願寺の財政基盤として重要な地域として機能していた。その中で、守護大名[[富樫氏|富樫]]氏一族の内紛に、地元武士、浄土真宗本願寺派と髙田派の内部抗争が入り混じった紛争が起こる。これに勝利した[[富樫政親|富樫正親]]と本願寺派勢力が内部対立を起こし、本願寺が勝利したことで、戦国大名化した寺社勢力の自治が行われていた<ref>{{Cite book|和書|title=経済で読み解く日本史 室町・戦国時代|date=6月9日|year=2019年|publisher=株式会社飛鳥新社}}</ref>。 [[延元]]4年([[1339年]])に金沢城址の場所に、本源寺([[本願寺金沢別院|現西別院]])が開創され、中世に寺社勢力が統治する直前には、棟梁、[[松田次郎左衛門]]が田井城(金沢の旧奥村河内守の屋敷から出羽町にかけての土地。松山寺周辺は二の丸、成瀬内蔵助宅周辺は三の丸、八坂は馬場)を居城としていた。松田次郎左衛門の先祖は京の北面武士で、[[観応|観應]]のころ(1350〜1352年)に移り住んでいた。[[明応]]3年([[1494年]])、州崎慶覚坊(近江の土豪出身、一揆にて富樫政親を滅ぼす)に謀殺され、越中荒木村(現[[南砺市]]荒木)に逃れ、[[元亀]]8年([[1508年]])ごろには現南砺市[[城端町|城端]]に移り子孫は[[城端城]]に居住していくも、江戸時代には前田家から家禄千石を賜り城下町([[本願寺金沢別院|金沢別院]]近く)に屋敷を拝領し廃藩まで居住することになる<ref>{{Cite book|和書|title=越登賀三州志|year=1933|publisher=石川県図書館協会|page=79}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=城端町の歴史と文化|publisher=城端町史編集委員会}}</ref>。 [[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]])、本源寺を[[金沢城|尾山御坊]](金沢御坊)と定めて、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[加賀一向一揆|一向一揆]]の[[本願寺]]の拠点とした(本源寺はのちに前田利家・利常による寄進地で再建)。この寺内町が現在の金沢市の原型と言える。[[天正]]8年([[1580年]])、[[織田信長]]配下の[[柴田勝家]]の甥[[佐久間盛政]]が尾山御坊を攻め落とし、その地に金沢城を築城した。[[ファイル:Kanazawa Castle Gate.JPG|thumb|[[金沢城|金沢城址]]]] [[賤ヶ岳の戦い]]以降、[[前田利家]]が金沢城に入り、[[加賀藩]]の原型が形成された。一罰百戒が当たり前の封建時代で着実な占領政策を行い、徹底的に残酷な弾圧による恐怖統制を強いた<ref>{{Cite book|和書|title=加賀藩史話|date=1/1|year=1988|publisher=能登印刷株式会社出版部}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=百万石の光と影|date=5/1|year=1988|publisher=地方・小出版流通センター}}</ref>。遺恨の痕跡や資料が旧加賀藩各地に残るとはいえ、顕著な加賀藩プロパガンダに成功し、さらには寺社勢力を懐柔できたことが加賀藩にとっては大きい。つまり、前田利家や加賀藩は一向宗勢力を中心とした寺社勢力の懐柔政策を以って利用し藩領の自治を行って行く。藩政初期寺社寺領の寄進は金沢市内中心でありほとんどが非一向宗寺院であった一方で、一向宗寺院に対して特例的に諸役免除などを行ったり、有力寺院(現南砺市の瑞泉寺や善徳寺など)に前田家の子女を縁女として送ったりなど懐柔策を徹底し、触頭として機能させ強固な統治を行った(特に南砺市の有力寺院への縁女は江戸時代を通じて送られた。そもそも農地開拓などは藩や武士の指導のもとで有力な農民や町民の協力が必要であり、武士の子女や縁女が送られ入ることもあった)<ref>明治前期における旧加賀藩主前田家の資産と投資決定過程 -藩政から華族家政へ- 松村敏</ref>。 利家は金沢城を人心の一新([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敵対した佐久間盛政色の一掃および一向一揆に加わっていた真宗門徒との融和)を意図して自身の出身地である[[尾張国]]にも通じる「尾山城」と改名するが定着せず、利家の晩年もしくは次代の[[前田利長]]の時代には再び「金沢城」の名前に戻した<ref>瀬戸薫「金沢城と前田利家」(初出:『加能史料研究』第20号(2008年)/所収:大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』戎光祥出版、2016年。{{ISBN2|978-4-86403-207-0}}。</ref><ref>大西泰正「織豊期前田氏権力の形成と展開」(所収:大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』戎光祥出版、2016年、pp. 14-16。{{ISBN2|978-4-86403-207-0}}。</ref>。城下町には二重の[[総構え|惣構]]が掘られ、[[環濠都市]]となり、現在でもその遺構を確認することができる。特に第3代藩主[[前田利常]]は宗徒の強い信仰心、つまり門主に対する絶対的信心や勤勉性を民政に利用することを考えた<ref>{{Cite book|和書|title=加賀藩の宗教政策と芦隙寺・ 岩隙寺|publisher=米原寛}}</ref>。金沢城の防備や、人別(現在の戸籍)を行うため、城下に散在していた寺社を3か所に移転・配置し、金沢城から南西の犀川流域、東側の[[卯辰山]]、南東の小立野台地の三ヶ所に集められ、それぞれが[[寺町寺院群]]、[[卯辰山山麓寺院群]]、[[小立野寺院群]]となった。 [[ファイル:Gyokusen Inmaru Garden.JPG|代替文=玉泉院丸庭園|サムネイル|玉泉院丸庭園]] 慶長5年([[1599年]])に利家が死去すると、翌年には[[関ヶ原の戦い]]が起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の[[徳川家康]]につき、西軍に属した弟の[[前田利政]]の所領を戦後に与えられ、[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]を有する大大名となる。第三代藩主[[前田利常]]の時代には、[[十村制]]や[[改作法]]といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。また、利常の「百姓は死なぬ様に生きぬ様に」「百姓とゴマの油はしぼればしぼるほ程出る」からその統治思想が垣間見える<ref>{{Cite book|和書|title=加賀藩・富山藩の社会経済史研究|date=9|year=1982|publisher=文献出版}}</ref>。第五代藩主[[前田綱紀]]は名君として名高く、兼六園の前身にあたる蓮池庭(れんちてい)を作庭し、[[木下順庵]]や[[室鳩巣]]、[[稲生若水]]といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また綱紀は和書や漢書、洋書などの多様な書物の収集にも努め、その書物の豊富さから[[新井白石]]は「加賀は天下の書府」と言ったと伝えられている<ref>『新井白石全集』(第6巻) p. 673</ref>。集められた書物や美術工芸品の収蔵品は[[尊経閣文庫]]と呼ばれ、現在では[[前田育徳会]]により保存管理されている。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の[[城下町]]として繁栄することとなる。[[参勤交代]]の時、[[前田氏]]は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて[[江戸]]との間を往来した。 以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。 {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+'''江戸時代から明治初期の金沢の人口<ref name=Tsuchiya1>土屋敦夫「金沢の人口変遷―その1 藩政期人戸数と人口―」『金沢工業大学研究紀要A』11号、1979年、pp. 125–155。</ref><ref name=Tsuchiya2>土屋敦夫「金沢の人口変遷―その2 藩政期武士戸数と人口―」『金沢工業大学研究紀要A』14号、1980年、pp. 145–177。</ref><ref name=Tsuchiya3>土屋敦夫「金沢の人口変遷―その3 戸籍による人口戸籍統計 (明治5年〜大正8年)―」『金沢工業大学研究紀要A』18号、1982年、pp. 99–148</ref><ref>金沢市史編さん委員会『金沢市史 資料編6 近世四 町政と城下』金沢市、2000年。</ref>''' !元号!!西暦!!家数!!人口!!備考!!典拠 |- |align=left|寛文4年||align=left|1664年||9,868||55,106||align=left|本町2532戸1万9845人、地子町7336戸3万5261人||align=left|『越登賀三州志』 |- |align=left|寛文5年||align=left|1665年||7,350||||align=left|地子町のみ||align=left|『改作所旧記』 |- |align=left|寛文7年6月||align=left|1667年||8,667||59,101||align=left|本町1332軒1万9840人、地子町7335軒3万9261人||align=left|『稿本金沢市史』 |- |align=left rowspan=2|延宝年中||align=left rowspan=2|1675年ごろ||9,927||||align=left|本町2186軒、地子町7081軒||align=left|『金沢古蹟志』 |- ||3,959||||align=left|武家屋敷分。士分1677軒、足軽1953軒、小者305軒||align=left|『延宝金沢図』 |- |align=left|貞享2年||align=left|1685年||8,448||||align=left|地子町のみ||align=left|『国事雑抄』 |- |align=left|貞享3年||align=left|1686年||8,326||||align=left|地子町のみ||align=left|『国事雑抄』 |- |align=left rowspan=2|元禄3年||align=left rowspan=2|1690年||13,601||||align=left|寺社奉行支配地を含む。寺社243戸、山伏65戸、<br />百姓85戸、非人4戸、穢多4戸、町其外遊民1万3209戸||align=left rowspan=2|『加賀藩史料』 |- ||17,601||||align=left|金府家数凡1万3601戸、外に士家奉公人分家4000戸の合計 |- |align=left|元禄9年||align=left|1696年||11,927||||align=left|本町2536戸、地子町9391戸||align=left|『金沢古蹟志』 |- |align=left|元禄10年春||align=left|1697年||12,085||68,636||align=left|本町2285戸1万8949人、旧門前地大工地354戸2630人、<br />地子町9446戸4万7057人||align=left|『加賀藩史料』 |- |align=left|宝永7年6月21日||align=left|1710年||12,558||64,987||||align=left|『国事雑抄』 |- |align=left|宝暦5年||align=left|1755年||13,443||||align=left|外に侍屋敷1365軒(但し知行持のみ)||align=left|『稿本金沢市史』 |- |align=left rowspan=2|文化7年8月||align=left rowspan=2|1810年||13,792||56,355||align=left|本町2540戸、旧門前地384戸、地子町1万0754戸、大工胆煎等114戸||align=left rowspan=2|『越登賀三州志』 |- ||14,909||||align=left|町奉行支配地1万3792戸、寺社奉行支配地1117戸の合計 |- |align=left|文化8年||align=left|1811年||11,070||||align=left|本町2112戸、地子町8958戸。<br />但し本町4胆煎、地子町3胆煎分戸数不足||align=left|『城下町金沢』 |- |align=left|天保9年閏4月||align=left|1838年||15,273||35,841||align=left|町方・寺社方合計、人口は15歳以上のみ||align=left|『金沢町数人口調』 |- |align=left rowspan=2|安政4年2月||align=left rowspan=2|1857年||13,485||58,506||align=left|町方・寺社方合計、他支配2186軒を除く。<br />本町2650軒1万2019人、地子町9478軒4万0803人、門前地1351軒5684人||align=left rowspan=2|『金沢町家数人数高』 |- ||15,671||||align=left|町方・寺社方合計、他支配2186軒を含む。<br />本町2784軒、地子町1万1281軒、門前地大工地1600軒 |- |align=left|文久3年5月以降||align=left|1863年||15,720||||align=left|町方・寺社方合計、他支配を含む。<br />本町3049軒、地子町1万1342軒、大工胆煎等127軒、門前地1202軒||align=left|『町役人名帳』 |- |align=left rowspan=3|明治2年8月||align=left rowspan=3|1869年||15,715||||align=left|1胆煎分戸数不足||align=left|『町役人名帳』 |- ||13,562||60,789||align=left|町方・寺社方合計、支配違2634軒を除く||align=left rowspan=2|『金沢町家教調』 |- ||16,196||||align=left|町方・寺社方合計、支配違2634軒を含む |- |align=left|明治3年閏10月10日||align=left|1870年||17,222||56,295||align=left|居住制限撤廃後、家数は集計不完全、人口は町方人別之者のみ。<br />東郷3253軒1万2093人、西郷2263軒7943人、<br />南郷6600軒1万8960人、北郷5106軒1万7294人||align=left|『稿本金沢市史』 |- |align=left|明治4年2月||align=left rowspan=2|1871年||24,744||123,363||align=left|全身分合計。士族4932戸2万6028人、<br />卒4607戸2万6888人、平民1万4907戸6万8810人、<br />元神官39戸139人、寺院259戸1032人、御預人466人||align=left|『金沢名数』 |- |align=left|明治4年8月||24,146||123,453||align=left|第1区3253戸、第2区3635戸、<br />第3区882戸、第4区1836戸、第5区4068戸、第6区3369戸、第7区4103戸||align=left|『石川県史料』 |- |align=left|明治5年1月29日||align=left|1872年||37,880||||align=left|壬申戸籍による本籍戸数・人口。第1区5610戸、第2区5411戸、<br />第3区6026戸、第4区2717戸、第5区6272戸、第6区5080戸、第7区6763戸||align=left|『石川県史料』 |- |align=left rowspan=3|明治6年1月1日||rowspan=3 align=left|1873年||35,788||rowspan=3|109,685||rowspan=3 align=left|本籍戸数・人口<ref group="注釈">『金沢市統計書』では明治5年12月末とある。</ref>||align=left|『金沢市統計書』 |- ||34,580||align=left|『日本地誌提要』 |- ||34,883||align=left|『明治八年共武政表』 |- |align=left|明治9年11月1日||align=left|1876年||23,995||108,758||align=left|本籍家数・人口||align=left|『石川県史料』 |- |align=left|明治11年12月9日||align=left|1878年||23,937||108,263||align=left|本籍家数・人口||align=left|『石川県史料』 |- |align=left rowspan=2|明治12年1月1日||align=left rowspan=2|1879年||23,915||107,878||align=left|本籍家数・人口||align=left|『明治十一年共武政表』 |- ||||107,876||align=left|本籍人口||align=left|『日本全国郡区分人口表』 |} 金沢城下は、1822年([[文政]]5年)に藩主[[前田斉広]]が[[遠藤高璟]]に命じて測量を行い、1828年(文政11年)までに詳細な地図である「金沢十九枚御絵図」を完成させており、市内の状況把握が可能となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/rekishishiryou/k-19.html |title=金沢十九枚御絵図及び関係資料 78点 |publisher=石川県 |date=2021-01-29|accessdate=2021-05-02}}</ref>。 「今津甚四郎書出候人数一巻」<ref>土屋喬雄, 『封建社会崩壊過程の研究』, 弘文堂, 1927.</ref>によると、[[享保]]6年([[1721年]])の金沢藩の15歳以上の御家中人口は6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)。また『金沢市史』や『藩制一覧』によると、明治3年閏10月10日の旧家中人口は、華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、仲間・小者(平民扱い)2699戸5938人の合計20,200戸61,670人(但し戸数は成人男性数(名数))。江戸時代中期以降、金沢城下町に居住する武家・武家奉公人人口は4万人から5万人で推移したと推測される。以下に2人の研究者による江戸時代から明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には神社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない<ref name=Tsuchiya1/>。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである<ref name=Saitou>斎藤誠治「江戸時代の都市人口」『地域開発』9月号、1984年、pp. 48–63</ref>。 {|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small" |+江戸時代から明治初期の金沢の推計総人口 !rowspan=2|年号 !rowspan=2|西暦 !colspan=3|土屋敦夫 (1980)<ref name=Tsuchiya1/><ref name=Tsuchiya2/> !rowspan=2|斎藤誠治<br />(1984) <ref name=Saitou/> |- !城下町<br />合計!!武士町<br />居住!!町人町<br />居住 |- |align=left|慶安3年||1650年||||||||114,000 |- |align=left|寛文4年||1664年||86,300||31,200||55,100|| |- |align=left|貞享2年||1685年||||||62,200|| |- |align=left|元禄10年||1697年||111,200||42,600||68,600|| |- |align=left|宝永7年||1710年||||||70,600|| |- |align=left|寛延3年||1750年||||||||128,000 |- |align=left|宝暦5年||1755年||116,600||44,900||71,700|| |- |align=left|文化7年||1810年||||||68,900|| |- |align=left|文政4年||1821年||114,600||46,500||68,100|| |- |align=left|天保9年||1838年||||||73,500|| |- |align=left|嘉永3年||1850年||||||||118,000 |- |align=left|文久3年||1863年||||||73,600|| |- |align=left|明治4年||1871年||122,900||48,100||74,800|| |- |align=left|明治11年||1878年||||||||107,878 |} 江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4位から第5位の都市として発達し、[[美術]]工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。江戸時代は金銀複本位制であったため、マネタリーベースの増加に金銀山を領内に保有・管理することは重要であった。特に、参勤交代などの出費(金銀)が定期的に必要な中で領内のマネタリーベースを増加させようと思うと、領内産物を大都市に輸出し貨幣(金銀)を得る必要があった為、江戸時代は大都市が不況に陥ると途端にデフレに陥る構造をしていた。しかし、金銀山を有していれば、自前でマネタリーベースを増加させることができ(江戸後半にかけて、それでも不足し藩札が重要となってきた)、加賀藩は「越中七金山(加賀藩極秘金山でいわゆる黄金郷)」「[https://www.komatsuguide.jp/komatsu-stone/story07.html 尾小屋鉱山、金平金山、遊泉寺銅山(現[[小松市]])]」「[[刀利ダム|刀利銀山]]」など、多数の鉱山を所有していたため、非常に経済的に潤っていた。そのような経済的潤いが背景となり、文化が花開いた。江戸時代の武士の給与体系は石高制であり、基本的に米で支給されていた。従って、江戸時代末期になるにつれ、経済の発展と共に米以外の商品作物など高価なものが増え、武士はどんどん貧乏になっていった。逆に百姓は、農業のみに専念しているわけではなく工商などを営むことで、経済発展に寄与し裕福であった。従って、大多数の武士は農工商も営んで生計を立てていた。また、加賀藩の[[十村制]]においては豪農と呼ばれる特別に裕福な者もいた。生産性の向上と共に、金銀山の採掘のみならず、藩は藩札によりマネタリーベースを増加できたことが要因と考えられる。さらに、天明の大飢饉を境に北前船に代表される海上輸送が発達。[[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年)に加賀藩の御用商人だった[[銭屋五兵衛]]が海運業に参入し、蝦夷地との回漕業、大坂の米相場や保険まで行い、藩への献上金の見返りに北方領土やイギリス、ロシアと密貿易を行ない、莫大な利益を得て加賀一の金持ちとまで言われていた。広く加越能では米の増産を奨励、絹織物の生産に努めた(尚、生糸・加賀絹は現[[南砺市]]と小松市が主体であった)。[[1859年]]([[安政]]6年)の開国以降、金銀の含有量をペースとした固定相場制になり、激しい自国通貨安であったため、当時の日本の生糸はヨーロッパの半値以下で購入できた。特に生糸貿易は成長産業として発展することになり、明治維新後の軽工業中心の経済の礎となった。 [[幕末]]から[[明治維新]]のころの金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、[[明治時代]]に入ると産業・交通発達の基軸が太平洋側へと移り、明治20年ごろには[[六大都市]]を形成することになる[[神戸市|神戸]]や[[横浜市|横浜]]にも人口で抜かれる。金沢は明治維新後に城下町の大消費者であった武士の失業と士族授産の失敗により、特に経済が落ち込こみ激しい人口流出が起きたためである。というのも、明治維新後の徴兵国論の布告により士族は軍事専門担当から外れたにも関わらず、露頭に迷うことを防ぐために秩禄が供給され続けたことで世間の反感を買い、士族は生活困窮に加え世間的にも肩身の狭い状態に陥っていた。以降、段階的に、家禄税(累進課税による徴収)、家禄奉還制度(家禄放棄による現金・秩禄公債支給・農業用土地の低価販売)、廃刀令、秩禄処分に至ったことで、不平士族により西南戦争が起き、翌年には加賀藩出身の士族により大久保利通が暗殺されるほどであった。そして、明治10年代に士族(旧藩時代に於ける平士以上の家系)の9割以上は転出したが、もともと生活水準が比較的低くかつ他の生業に従事していた軽輩の武士は,明治維新による生活の急激な変化を受けることが比較的少なく、ある程度は残ったと考えられている。万石以上の上級武士は,一部は中級武士と同様に公務職などに転身したが,一方で明治期以降の消息が不明な者が少なくなく,かつての地位に対応した格式や生活習慣を引きずりつつ各方面からの支援も受けられないまま債務不履行や行き場がなくなった(無職の)者も多かったと推測される<ref>{{Cite book|和書|title=『季刊社会学』2輯|year=1931|publisher=東京社会科学研究所|page=108-109}}</ref>。尚、江戸時代、嫡子以外は藩につかえず町人や農民になれば藩士ではなくなっていため、末裔がいないという意味ではない。さらに、近代化の日本において最大産業であった軽工業は旧加賀藩領では隣県の現富山県南砺市旧[[城端町]](加賀藩時代の絹織物の主力都市)を中心に発展した。しかし、没落した士族を救済する為に [https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%BA%96%E4%B9%9F-1101044 長谷川準也] が、製糸・撚糸会社を設立し、当時全国で2番目の規模を誇った(全国初の官営範器械製糸工場は富岡製糸場)。製糸織物業が金沢の産業として広がり、国内初の力織機も開発された。また、北陸本線が全国的に見ても早期に敷設されるなどの鉄道導入が進んだりと、物資流通が変貌したことで、概ね金沢・大聖寺などの鉄道駅や市街地が発展していった。さらに金沢には[[第四高等学校 (旧制)|旧制第四高等学校]]([[金沢大学]]の前身)や[[日露戦争]]の[[旅順攻囲戦]]で知られる[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[第9師団 (日本軍)|第九師団]]が置かれ、学都・軍都として栄えていった。大正、昭和と電気機械化が進んだが、加賀藩時代に藩の有力財源であった銅の採掘権を取得した[[竹内明太郎]](吉田茂の実兄)が、採掘の電気機械化とともに小松鉄工所(後のコマツ)を設立、工作機械、鉱山用機械を製造した。この他にも、戦時中には軍管理工場の指定を受け軍需を支えた多数のモノづくり企業が金沢市を中心に県内に創立された。尚、陸軍第九師団の全国屈指の軍事演習場が、加賀藩時代には鷹狩場であった隣県南砺市立野原に造られ、[https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/culture/bunkazai/bunkazai0249/ 立野原監的壕] が市の史跡として今でも残る。第二次世界大戦中は機銃掃射など([[金沢空襲]])があったものの大規模空襲を免れ、古い町並みが残った(石川県内では空襲で60人以上が死傷した)。 === 年表(第二次世界大戦後) === <ref>{{Cite web|和書|title=金沢の歴史(通史){{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/somuka/gyomuannai/3/3300.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=金沢市勢要覧{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kohokochoka/gyomuannai/8/2/2/4879.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市 |work=『金沢市勢要覧2023』 |page=6}}</ref> * [[1946年]]([[昭和]]21年):金沢美術工芸専門学校(現:[[金沢美術工芸大学]])開校<ref>{{Cite web |title=沿革 |url=https://www.kanazawa-bidai.ac.jp/about/history/ |website=金沢美術工芸大学 |access-date=2023-10-20 |language=ja |last=金沢美術工芸大学}}</ref>。 * [[1947年]](昭和22年):[[第2回国民体育大会]]が石川県で開催。金沢市でも陸上やサッカー、テニスなど多くの競技が開催される<ref>{{Cite web|和書|title=第2回大会の概要 - 国民体育大会 - JSPO |url=https://www.japan-sports.or.jp/kokutai/tabid747.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=日本スポーツ協会}}</ref>。 * [[1948年]](昭和23年) ** 11月:石川県立病院(現:[[石川県立中央病院]])が発足<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=沿革|病院概要|当院の紹介|石川県立中央病院 |url=https://kenchu.ipch.jp/touin/enkaku.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県立中央病院}}</ref>。 ** 金沢市消防本部(現:[[金沢市消防局]])が設置される。 * [[1949年]](昭和24年):[[金沢大学]]が開校<ref>{{Cite web|和書|title=沿革(金沢大学の伝統) |url=https://www.kanazawa-u.ac.jp/university/management/history |website=金沢大学 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)3月:金沢市立平和町児童図書館が開館<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=沿革 - 金沢市図書館 |url=https://www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/?page_id=220 |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢市図書館}}</ref>。 * [[1952年]](昭和27年):商工まつり(現:[[金沢百万石まつり]])が初めて開催される<ref>{{Cite web|和書|url=https://100mangoku.net/ |title=金沢百万石まつりとは |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢百万石まつり実行委員会}}</ref>。 * [[1957年]](昭和32年)[[9月26日]]:世界連邦平和都市宣言<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=金沢市の都市宣言{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kohokochoka/gyomuannai/13/1/3257.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[3月15日]]:交通安全都市宣言<ref name=":2" />。 ** 5月:金沢市観光会館(現:[[金沢歌劇座]])が竣工<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/2/kagekiza_R1.pdf |title=「金沢歌劇座あり方検討懇話会 取りまとめ」 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市 |page=2}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年) ** [[1月27日]]:[[金沢地方気象台]]、観測史上最大の積雪181 cmを記録<ref>{{Cite web|和書|title=気象庁|過去の気象データ検索 |url=https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/rank_s.php?prec_no=56&block_no=47605&year=&month=&day=&view= |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=気象庁}}</ref>。 ** 4月:[[北陸本線]][[福井駅 (福井県)|福井]]・[[金沢駅|金沢]]間電化完成<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和38年~昭和39年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/38-39.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)[[7月18日]]:金沢市中央卸売市場が開場<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/37/kihonkousou_gaiyou.pdf |title=『金沢市中央卸売市場 再整備基本構想【概要版】』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市 |page=2}}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年)[[2月11日]]:[[北陸鉄道金沢市内線]]が廃止される<ref>{{Cite web|和書|title=【よみがえる鉄路の記憶 西脇恵さん撮影】 役目を終えた車両 解体:北陸中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/139426 |website=中日新聞Web |access-date=2023-10-20 |language=ja |date=2020-10-19}}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年):東部清掃工場を開設<ref>{{Cite web|和書|url=https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/BeflZwAAA |title=『平成27年度 環境局清掃事業概要(26年度実績)』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市市政情報デジタルライブラリー |page=39}}</ref>。 * [[1970年]](昭和45年) ** 10月:[[金沢バイパス]]藤江町 - 三日市町間が開通<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和44年~昭和45年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/44-45.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[11月11日]]:金沢市の木を梅に指定<ref>{{Cite web|和書|title=金沢市の「市の木」、「市の花」は何ですか{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/somuka/yokuarushitsumon/2444.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 ** 11月:[[金沢港]]が開港<ref name=":6" /><ref>{{Cite web|和書|title=金沢港 |url=https://www.hrr.mlit.go.jp/tiiki/manaviva/guide/ishikawa/kanazawakou.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=国土交通省北陸地方整備局}}</ref>。 *[[1971年]](昭和46年)[[7月7日]]:奥卯辰山健民公園が開設される<ref>{{Cite web|和書|title=奥卯辰山健民公園(金沢市) |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouen/map/park/okuutatsu/index.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年): ** [[10月18日]]:[[北陸自動車道]][[金沢西IC]] - [[小松IC]]間が開通<ref>{{Cite web|和書|title=北陸道初の開通から40周年!~石川県内のSA・PAでプレゼントをゲットしよう!~ {{!}} 2014年2月以前のニュースリリース {{!}} プレスルーム {{!}} 企業情報 {{!}} 高速道路・高速情報はNEXCO 中日本 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/?id=2838# |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=NEXCO中日本}}</ref>。 ** 移動図書館が活動を開始<ref name=":1" />。 * [[1973年]](昭和48年) ** 6月:藩老本多蔵品館(現:[[加賀本多博物館]])が開館<ref>{{Cite web|和書|title=加賀本多家の歴史・名品 加賀本多博物館 |url=http://honda-museum.jp/history-gallery/ |website=加賀本多博物館 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref><ref name=":7">{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和48年~昭和49年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/48-49.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** 9月:武蔵ヶ辻第二地区市街地再開発事業が完了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.uraja.or.jp/wp-content/uploads/2021/11/50-04-musashigatsuji.pdf |title=「武蔵ヶ辻第二、武蔵ヶ辻第四」 |access-date=2023年10月20日 |publisher=公益社団法人 全国市街地再開発協会}}</ref>。 * [[1974年]](昭和49年) ** 3月:泉野保健所・公害センター合同庁舎が落成<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/46/6chronological-table4.pdf |title=『保健衛生関係年表』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市 健康政策課}}</ref>。 ** [[6月12日]]:緑の都市宣言<ref name=":2" />。 ** 10月:北陸自動車道[[金沢東IC]] - [[砺波IC]]間が開通<ref name=":7" />。 *[[1977年]](昭和52年)11月:町民文化館がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=【まちネタ】内部も重厚な金融機関の趣が感じられる「尾張町町民文化館」 |url=https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=5013 |website=いいじ金沢 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref><ref name=":8">{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和52年~昭和53年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/52-53.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 *[[1978年]](昭和53年) **[[7月29日]]:石川県観光物産館がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=施設概要 |url=https://kanazawa-kankou.jp/profile/ |website=石川県観光物産館 |access-date=2023-10-21}}</ref>。 **[[9月30日]]:石川県立武道館が竣工<ref>{{Cite web|和書|title=石川県立武道館 - 施設案内 |url=https://www.ishikawa-spc.jp/budokan/facilities.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県立武道館}}</ref>。 **10月:北陸自動車道金沢東IC - 金沢西IC間が開通<ref name=":8" />。 * [[1979年]](昭和54年) ** 3月:金沢市民憲章が制定される<ref>{{Cite web|和書|title=市民憲章{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kohokochoka/gyomuannai/5/5/8/2075.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 ** [[4月6日]]:金沢市立図書館(現:[[金沢市立玉川図書館]])が玉川町に移転<ref name=":1" />。 *[[1980年]](昭和55年)[[8月5日]] - [[8月10日]]:第4回[[全国高等学校総合文化祭]]が開催される<ref>{{Cite web|和書|title=全国高等学校総合文化祭開催実績及び予定 {{!}} 文化庁 |url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/sobunsai/kako.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=文化庁}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和54年~昭和55年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/54-55.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 * [[1981年]](昭和56年)[[5月5日]]:金沢市立図書館城北分館が開館<ref name=":1" />。 * [[1982年]](昭和57年)11月:[[金沢市文化ホール]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=ホール {{!}} 施設概要 |url=https://www.bunka-h.gr.jp/facilities/hall |website=www.bunka-h.gr.jp |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年) ** 3月:金沢市が第1次[[テレトピア構想|テレトピア]]指定地域に指定される<ref>{{Cite web|和書|title=第1章第3節1 テレトピア計画の推進とモデル都市の指定 : 昭和60年版 通信白書 |url=https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/s60/html/s60a01030100.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=総務省}}</ref>。 ** 3月:[[兼六園]]が国の[[特別名勝]]に指定される<ref>{{Cite web|和書|title=兼六園の歴史|兼六園 |url=https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/history.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ 昭和60年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/60.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[7月31日]] - 8月10日:昭和60年度[[全国高等学校総合体育大会]]が開催される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zen-koutairen.com/pdf/reg-tnop_s60.pdf |title=昭和60年度全国高等学校総合体育大会日程と競技会場および観覧客数 |access-date=2023年10月21日 |publisher=公益財団法人 全国高等学校体育連盟}}</ref>。 ** 9月:香林坊第1地区市街地再開発事業が完成<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ 昭和60年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/60.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[12月21日]]:平和都市宣言<ref name=":2" />。 *[[1986年]](昭和61年) **9月:香林坊第2地区市街地再開発事業が完成<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和61年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/61.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **10月:[[石川県立歴史博物館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=博物館の紹介|石川県立歴史博物館 |url=https://ishikawa-rekihaku.jp/about/index.html |website=i |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県立歴史博物館}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和61年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/61.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 * [[1987年]](昭和62年):[[金沢市企業局]]新庁舎が完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.city.kanazawa.ishikawa.jp/wp-content/uploads/2022/03/keieisennryaku2022.pdf |title=『金沢市企業局経営戦略2022』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市 |page=60}}</ref>。 * [[1988年]](昭和63年): ** 5月:加賀友禅伝統産業会館(現:[[加賀友禅会館]])が建設される<ref>{{Cite web|和書|title=加賀染振興協会 {{!}} 加賀友禅 KAGAYUZEN」 |url=http://www.kagayuzen.or.jp/outline/ |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=協同組合 加賀染振興協会}}</ref>。 ** 11月:[[オーケストラ・アンサンブル金沢]]が設立される<ref>{{Cite web|和書|title=オーケストラ・アンサンブル金沢 {{!}} オーケストラ・アンサンブル金沢 |url=https://www.oek.jp/aboutoek |website=オーケストラアンサンブル金沢 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ昭和63年 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/63.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年) ** 10月:金沢大学総合移転第1次移転部局が竣工<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成元年 後期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h1-2.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[11月1日]]:金沢卯辰山工芸工房が設立<ref>{{Cite web|和書|title=工房概要 |url=https://www.utatsu-kogei.gr.jp/info/ |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢卯辰山工芸工房}}</ref> * [[1990年]](平成2年): ** 金沢駅付近連続立体交差事業が完成<ref>{{Cite web|和書|title=ちょっと昔の金沢 {{!}} 金沢のくらし {{!}} 金沢くらしの博物館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/minzoku/kanazawa/03before.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢くらしの博物館}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成2年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h2-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[金沢市民野球場]]が開場<ref>{{Cite web|和書|title=野球伝来150年特設サイト |url=https://japanesebaseball150th.jp/ |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |last=一般社団法人日本野球機構、一般財団法人全日本野球協会 |publisher=野球伝来150年特設サイト}}</ref>。 * [[1991年]](平成3年) ** 3月:金沢駅西広場が開設される<ref>{{Cite web|和書|url=https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/Bq6S0wAAA |title=金沢駅西広場 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市市政情報デジタルライブラリー |page=2}}</ref>。 ** [[第46回国民体育大会]]が石川県で開催。金沢市ではボウリングや陸上、サッカーなど多くの競技が開催される<ref>{{Cite web|和書|title=第46回大会の概要 - 国民体育大会 - JSPO |url=https://www.japan-sports.or.jp/kokutai/tabid703.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=公益財団法人 日本スポーツ協会}}</ref>。 * [[1992年]](平成4年) ** [[3月23日]]:景観都市宣言<ref name=":2" />。 ** 8月:[[北陸新幹線]][[石動駅|石動]]・金沢間が[[スーパー特急方式]]で認可され、着工<ref>{{Cite web|和書|title=北陸新幹線のあゆみ【北陸新幹線建設促進同盟会】 |url=http://www.h-shinkansen.gr.jp/step.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=北陸新幹線建設促進同盟会}}</ref>。 ** [[10月24日]] - [[11月3日]]:第7回[[国民文化祭]]・石川92が石川県で開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/geijutsubunka/chiiki/kokubunsai/pdf/93862501_02.pdf |title=国民文化祭 過去の開催状況 |access-date=2023年10月20日 |publisher=文化庁}}</ref>。 * [[1993年]](平成5年):金沢市立ふるさと偉人館(現:[[金沢ふるさと偉人館]])が開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢ふるさと偉人館について {{!}} 金沢ふるさと偉人館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/about/index.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢ふるさと偉人館}}</ref>。 * [[1994年]](平成6年) ** 4月:金沢市民芸術ホール(現:金沢市アートホール)がオープン<ref name=":4">{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/5/honpen.pdf |title=『金沢市文化芸術アクションプラン』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市 |page=9}}</ref>。 ** 10月:駅西保健所が開所<ref name=":3" />。 * [[1995年]](平成7年) ** [[2月16日]]:金沢大学城内部局移転完了<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成7年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h7-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[4月2日]]:[[金沢市立泉野図書館]]が開館<ref name=":1" />。 ** [[9月26日]]:世界工芸都市宣言<ref name=":2" />。 * [[1996年]](平成8年) ** [[4月1日]]:[[中核市]]へ移行<ref>{{Cite web|和書|title=中核市の情報 {{!}} 中核市市長会 |url=https://www.chuukakushi.gr.jp/introduction/ |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=中核市市長会}}</ref>。 ** [[9月1日]]:金沢市国連寄託図書館が金沢市立泉野図書館内に開館<ref name=":1" />。 ** 10月:[[金沢市民芸術村]]がオープン<ref name=":4" />。 * [[1998年]](平成10年) ** [[3月26日]]:環境都市宣言<ref name=":2" />。 ** キゴ山天体観察センター(現:[[銀河の里キゴ山]] 天文学習棟)が開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢子育てお役立ちウェブ のびのびビ~ノ |url=https://www.kanazawa-kosodate.net/spot/park_kigo.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢市こども未来局}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年): ** 旧町名復活事業が開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/39/93648411.pdf |title=旧町名復活の推進について |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市}}</ref>。 ** [[泉鏡花記念館]]が開館<ref>{{Cite web |title=泉鏡花記念館 {{!}} 全国文学館協議会 |url=https://zenbunkyo.com/member?id=88 |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=全国文学館協議会}}</ref>。 ** [[金沢ふらっとバス]]が運行を開始<ref>{{Cite web|和書|title=持続可能な金沢ふらっとバスの運行に関する検討会{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kotsuseisakuka/gyomuannai/1/3/8031.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 ** 金沢市立玉川図書館近世史料館が開館<ref name=":1" />。 *[[2000年]](平成12年)4月:[[金沢湯涌夢二館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=館の概要 {{!}} 金沢湯涌夢二館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/yumeji/outline/index.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢湯涌夢二館}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年) ** 3月:Prego([[プレーゴ]])が開業<ref>{{Cite web|和書|title=ABOUT-プレーゴについて|プレーゴ【PREGO】|金沢市片町のショッピングモール |url=https://www.prego2001.net/ |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=株式会社金沢商業活性化センター(TMO)}}</ref>。 ** [[9月7日]]:[[金沢城公園]]「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」が完成<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成13年 後期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h13-2.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 ** [[9月8日]] - 11月11日:第18回[[全国都市緑化フェア]]・夢みどりいしかわ2001が金沢城公園や兼六園などで開催される<ref>{{Cite web|和書|title=全国都市緑化フェアの開催一覧 |url=https://urbangreen.or.jp/event/green-fair/list_grfair |website=公益財団法人都市緑化機構 |date=2015-04-15 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 ** [[9月12日]]:[[石川県立音楽堂]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=石川県立音楽堂 : 全国劇場・音楽堂等総合情報サイト {{!}} 公益社団法人全国公立文化施設協会 |url=https://www.zenkoubun.jp/search/hall_0170707.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=公益社団法人全国公立文化施設協会}}</ref>。 *[[2002年]](平成14年) **[[3月23日]] - 翌年[[1月5日]]:加賀百万石博が金沢城公園で開催<ref>{{Cite web|和書|title=博覧会資料COLLECTION 加賀百万石博 |url=https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=410 |website=株式会社乃村工藝社 / NOMURA Co.,Ltd. |access-date=2023-10-22 |language=ja}}</ref>。 **4月:[[前田土佐守家資料館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=前田土佐守家資料館 |url=https://www.totalmedia.co.jp/works/works2002_kanazawa-maeda.html#:~:text=%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%B8%82%20%C2%B7%202002%E5%B9%B4%EF%BC%88%E5%B9%B3%E6%88%9014%E5%B9%B4%EF%BC%89%204%E6%9C%88%20%C2%B7%20%E5%BB%BA%E7%AF%89%E9%9D%A2%E7%A9%8D%20634m2%20%E5%BB%B6%E5%BA%8A%E9%9D%A2%E7%A9%8D%201,098m2%20%E5%B1%95%E7%A4%BA%E9%9D%A2%E7%A9%8D%20464m2. |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=株式会社トータルメディア開発研究所}}</ref>。 **[[7月20日]] - [[7月29日]]:第17回海の祭典が金沢港と[[七尾港]]で開催<ref>{{Cite web|和書|title=第17回海の祭典開催! |url=https://www.mlit.go.jp/kowan/whatnew/districtt/hokuriku/hokuriku_.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=国土交通省}}</ref>。 **[[8月1日]]:[[室生犀星記念館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=館の概要 {{!}} 室生犀星記念館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/saisei/outline/index.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=室生犀星記念館}}</ref>。 **[[11月25日]]:[[石川県庁舎|石川県新県庁舎]]が落成<ref>{{Cite web|和書|title=新石川県庁舎 業務開始 |url=https://www.pref.ishikawa.jp/toshi/kukakuseiri/html/topics/kencho.htm |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県}}</ref>。 *[[2003年]](平成15年) **3月:戸室リサイクルプラザが開設される<ref>{{Cite web|和書|url=https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/BeflZwAAA |title=『平成27年度 環境局清掃事業概要 (26年度実績)』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市市政情報デジタルライブラリー |page=42}}</ref>。 **[[5月31日]]:金沢西部地区土地区画整理事業が完工<ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成15年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h15-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **7月:金沢市教育プラザ富樫が開館<ref>{{Cite web|和書|title=教育プラザの概要{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gakkokyoikucenter/gyomuannai/1/1/5663.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 **10月:金沢湯涌創作の森がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=施設沿革 {{!}} 施設概要 |url=https://www.sousaku-mori.gr.jp/facilities/history |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢湯涌創作の森}}</ref>。 *[[2004年]](平成16年) **4月:卯辰山公園健康交流センター千寿閣が供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/15/gaiyo_sj.pdf |title=卯辰山公園健康交流センター千寿閣の施設概要 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市}}</ref>。 **[[6月22日]]:金沢ファッション産業都市宣言<ref name=":2" />。 **[[7月24日]]:[[ジョブカフェ]]石川が開設される<ref>{{Cite web|和書|title=ジョブカフェ石川とは |url=https://www.jobcafe-ishikawa.jp/about/jc/ |website=ジョブカフェ石川 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成16年 後期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h16-2.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[10月9日]]:[[金沢21世紀美術館]]がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=金沢21世紀美術館 |url=https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=50&d=1 |website=金沢21世紀美術館 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 *[[2005年]](平成17年) **3月:金沢駅東口(現:兼六園口)にもてなしドームと鼓門が完成<ref>{{Cite web|和書|title=10年で変わった金沢 金沢駅 |url=https://kanazawabiyori.com/special/kanazawa10year/kanazawaeki.html |website=金沢日和 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 **[[4月7日]]:[[徳田秋聲記念館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=”自然主義文学”の大家 徳田秋聲 {{!}} 徳田秋聲記念館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/shusei/about/index.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=徳田秋聲記念館}}</ref>。 **[[10月1日]]:いしかわ総合母子医療センターが開設される<ref name=":5" /><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成17年 後期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h17-2.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[11月23日]]:金沢文芸館が開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢文芸館って {{!}} 当館の概要 {{!}} 金沢文芸館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/bungei/about/index.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢文芸館}}</ref>。 *[[2006年]](平成18年) **[[3月26日]]:安全・安心都市宣言<ref name=":2" />。 **10月:[[金沢能楽美術館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/bunkakanko/pdf/93875601_11.pdf |title=『兼六園周辺文化の森地域計画』 |access-date=2023年10月20日 |publisher=文化庁 |pages=38-39}}</ref>。 **10月:[[ご当地ナンバー]]として金沢ナンバーの交付が開始される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000185272.pdf |title=ご当地ナンバーの導入状況と車両数 |access-date=2023年10月20日 |publisher=国土交通省 |pages=1-2}}</ref>。 *[[2007年]](平成19年) **[[3月15日]]:健全な社会環境形成都市宣言<ref name=":2" />。 **[[9月19日]]:グッドマナー実践都市宣言<ref name=":2" />。 *[[2008年]](平成20年) **[[4月12日]]:[[いしかわ総合スポーツセンター]]がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=いしかわ総合スポーツセンター │ NEWS&TOPICS |url=https://www.ishikawa-spc.jp/topics/news.html |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県スポーツ協会グループ}}</ref>。 **[[4月26日]]:[[四高記念文化交流館|石川四高記念文化交流館]]がリニューアルオープン<ref>{{Cite web|和書|title=石川四高記念文化交流館 |url=https://www.pref.ishikawa.jp/shiko-kinbun/ |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成20年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h20-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[11月8日]]:[[金沢市立玉川こども図書館]]が開館<ref name=":1" />。 *[[2009年]](平成21年) **[[1月19日]]:「金沢市歴史的風致維持向上計画」が国土交通省から認定を受ける<ref>{{Cite web|和書|title=歴史まちづくり:歴史的風致維持向上計画認定状況について - 国土交通省 |url=https://www.mlit.go.jp/toshi/rekimachi/toshi_history_tk_000010.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=国土交通省}}</ref>。 **[[6月8日]]:金沢市が[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]][[創造都市ネットワーク]]・クラフト部門に登録される<ref>{{Cite web|和書|title=ユネスコ創造都市申請から認定まで{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kurafutoseisakusuishinka/gyomuannai/1/1/1/7121.html |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>。 *[[2010年]](平成22年) **[[4月10日]]:[[石川県政記念しいのき迎賓館]]がオープン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/documents/100331.pdf |title=『広報いしかわ』No.1595 |access-date=2023年10月21日 |publisher=石川県 |date=2010-3-31}}</ref>。金沢城公園「いもり堀」が完成<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成22年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h22-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[4月26日]]:金沢城公園「河北門」が完成<ref name=":9" />。 **秋:[[金沢市立安江金箔工芸館]]が東山に移転<ref>{{Cite web|和書|title=当館の概要 {{!}} 金沢市立安江金箔工芸館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/kinpaku/outline/index.htm |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢市立安江金箔工芸館}}</ref>。 *[[2011年]](平成23年) **[[5月21日]]:[[金沢海みらい図書館|金沢市立金沢海みらい図書館]]が開館<ref name=":1" />。 **[[10月18日]]:[[鈴木大拙館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=過去の展覧会 {{!}} 活動内容 {{!}} 鈴木大拙館 |url=https://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/activities_past2021.html |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=鈴木大拙館}}</ref>。 *[[2012年]](平成24年) **3月:西部環境エネルギーセンターが完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/BeflZwAAA |title=『平成27年度 環境局清掃事業概要 (26年度実績) |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市市政情報デジタルライブラリー |page=43}}</ref>。 **[[6月29日]]:北陸新幹線金沢・[[敦賀駅|敦賀]]間着工認可<ref>{{Cite web|和書|title=北陸新幹線 金沢・敦賀間の着工認可 決定 敦賀市-Tsuruga City- |url=https://www.city.tsuruga.lg.jp/smph/kurashi/doro_kotsu/jr/hokurikushinkansen/kanazawa-tsuruga.html# |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=敦賀市}}</ref>。 **[[7月26日]] - [[8月20日]]:[[平成24年度全国高等学校総合体育大会]]が開催。金沢市はバスケットボールの会場として使用される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zen-koutairen.com/pdf/reg-tnop_h24.pdf |title=平成24年度全国高等学校総合体育大会 競技日程・競技会場一覧表 |access-date=2023年10月21日 |publisher=公益財団法人 全国高等学校体育連盟}}</ref>。 **9月:金沢学生のまち市民交流館が開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢学生のまち市民交流館 学生の家 {{!}} 住まいのほそ道 |url=http://www.hosokawakensetsu.co.jp/hosomichi/entry-46.html |website=ほそ川建設株式会社|金沢に生きる家|石川県の新築・注文住宅・自由設計住宅 / 石川県の和風住宅・和モダン建築 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 *[[2013年の東北楽天ゴールデンイーグルス|2013年]](平成25年)[[12月16日]]:男女共同参画都市宣言<ref name=":2" />。 *[[2014年]](平成26年)3月:金沢駅西広場再整備事業が完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/Bq6S0wAAA |title=金沢駅西広場 |access-date=2023年10月20日 |publisher=金沢市市政情報デジタルライブラリー |page=13}}</ref>。 *[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]:北陸新幹線[[長野駅|長野]]・金沢間が開業<ref>{{Cite web|和書|title=北陸新幹線が開業 東京-金沢間1時間20分短縮|ニュース|NHKアーカイブス |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030844_00000 |website=北陸新幹線が開業 東京-金沢間1時間20分短縮|ニュース|NHKアーカイブス |access-date=2023-10-20 |language=ja |last=NHK}}</ref>。 *[[2016年]](平成28年)[[11月6日]]:金澤町家情報館が開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢市中心部に「金澤町家情報館」 江戸時代末期の町家を改修、情報発信拠点に |url=https://kanazawa.keizai.biz/headline/2738/ |website=金沢経済新聞 |access-date=2023-10-20}}</ref>。 *[[2017年]](平成29年) **[[4月9日]]:金沢プールが開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢プール |url=https://www.kanazawa-pool.jp/topics/index.cgi?m=pk&id=2&pcnt=0 |website= |access-date=2023-10-20 |publisher=金沢プール}}</ref>。 **[[4月23日]]:金沢城公園「鶴の丸休憩館」がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=鶴の丸休憩館|金沢城公園 |url=https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/tsurunomaru/ |website= |access-date=2023-10-21 |publisher=石川県}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=県政の主なあゆみ平成29年 前期 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kouhou/nenpyo/h29-1.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[11月23日]]:新石川県立中央病院完成記念式典<ref name=":5" />。 *[[2018年]](平成30年)[[5月20日]]:[[金沢市俵芸術交流スタジオ]]が開館<ref>{{Cite news|和書 |title=俵芸術交流スタジオが開館 金沢、里山の活性化に期待 |newspaper=北國新聞社 |date=2018年5月21日 |agency=47NEWS |url=https://www.47news.jp/2370242.html |access-date=2023年10月20日}}</ref>。 *[[2019年]]([[令和]]元年)[[7月26日]]:谷口吉郎・吉生記念金沢建築館が開館<ref>{{Cite web|和書|title=《石川》谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館について {{!}} Webマガジン■AH!■ |url=http://hokuriku.aij.or.jp/h2ah/entry-254.html |website=日本建築学会 北陸支部 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 *[[2020年]](令和2年) **[[5月8日]]:[[金沢市役所]]第二本庁舎が供用開始<ref>{{Cite web|和書|title=座席指定せず 業務効率化 金沢市役所 第二本庁舎の供用開始:北陸中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/3977 |website=中日新聞Web |access-date=2023-10-20 |language=ja |date=2020年5月8日}}</ref>。 **[[6月1日]]:金沢港クルーズターミナルが開館<ref>{{Cite web|和書|title=金沢港クルーズターミナル開館、賑わいの創出拠点としても活用へ |url=https://kanazawa.keizai.biz/headline/3404/ |website=金沢経済新聞 |access-date=2023-10-20}}</ref>。 **[[6月19日]]:金沢中央観光案内所がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=令和2年6月19日 金沢中央観光案内所オープン |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kensei/koho/photogallery/2020/20200619.html |website=石川県 |access-date=2023-10-21 |language=ja |last=石川県}}</ref>。 **[[7月18日]]:金沢城公園「鼠多門・鼠多門橋」が供用開始<ref>{{Cite web|和書|title=伝統工法で再現 鼠多門 あす公開開始:北陸中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/90494 |website=中日新聞Web |access-date=2023-10-21 |language=ja |date=2020-7-17}}</ref>。 **[[10月24日]]:[[国立工芸館]]が開館<ref>{{Cite web|和書|title=国立工芸館 開館日決定のお知らせ |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000045158.html |website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES |date=2020-08-04 |access-date=2023-10-21}}</ref>。 *[[2021年]](令和3年)[[8月8日]]:金沢未来のまち創造館が開館<ref>{{Cite web|和書|title=旧小学校利用し、価値創造拠点 金沢未来のまち創造館 :朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASP88778WP88PISC00V.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-08-08 |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref>。 *[[2022年]](令和4年) **[[3月31日]]:金沢市立平和町児童図書館が閉館<ref name=":1" />。 **[[4月17日]]:金沢市立玉川こども図書館がリニューアルオープン<ref name=":1" />。 **[[7月16日]]:[[石川県立図書館]]が小立野の金沢大学工学部跡地に移転開館<ref>{{Cite web|和書|title=新・石川県立図書館 開館:北陸中日新聞Web |url=https://www.chunichi.co.jp/article/509888 |website=中日新聞Web |access-date=2023-10-20 |language=ja |date=2022年7月17日}}</ref>。 **[[9月6日]]:金沢で120年ぶりに観測史上最高気温38.5℃を観測<ref>{{Cite web|和書|title=金沢で38・5度、史上最高 120年ぶり記録|社会|石川のニュース|北國新聞 |url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/845209 |website=北國新聞 |date=2022-09-06 |access-date=2023-10-26 |language=ja}}</ref>。 *[[2023年]](令和5年) **[[5月14日]]・[[5月15日]]:[[G7]]富山・金沢教育大臣会合が金沢市で開催<ref>{{Cite web|和書|title=G7富山・金沢教育大臣会合 G7 Education Ministers’ Meeting in Toyama and Kanazawa:文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/a_menu/G7/toyama_kanazawa.html |website=文部科学省ホームページ |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。 **[[10月2日]]:金沢美術工芸大学が小立野に移転<ref>{{Cite web|和書|title=真新しく開放的な敷地内で学生の表情も笑顔に 金沢美大新キャンパスで授業スタート {{!}} TBS NEWS DIG (1ページ) |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/755287 |website=TBS NEWS DIG |date=2023-10-02 |access-date=2023-10-21 |language=ja}}</ref>。 **[[10月14日]] - [[11月26日]]:第38回国民文化祭、第23回全国障害者芸術・文化祭・いしかわ百万石文化祭2023が開催<ref>{{Cite web|和書|title=いしかわ百万石文化祭2023 |url=https://ishikawa-bunkasai2023.jp/ |website= |access-date=2023-10-20 |language=ja |publisher=いしかわ百万石文化祭2023 実行委員会事務局}}</ref>。 === 地名の移り変わり === 現在の金沢市中心部は、古くは'''石浦村'''と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、[[南町 (金沢市)|南町]]、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、こちらの地名も室町時代まで遡ることが確認されており2つの地名が併用されていた。前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の[[前田利長]]が継いだ後に再び「金沢」となった。 === 旧町名の復活運動 === 金沢市は、[[1962年]](昭和37年)に「[[住居表示に関する法律]]」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、[[主計町 (金沢市)|主計町]]を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて[[長崎市]]など全国へ[[旧町名復活運動]]が広がっていった。 === 行政区画変遷 === {{Wikisource|市制施行地|市制施行地|内務省告示文}} *[[1878年]]([[明治]]11年)12月17日 - [[郡区町村編制法]]が施行により、金沢城下534町{{efn|泉町・泉新町・有松町・芦中町・地黄煎町・六斗林一丁目・六斗林二丁目・六斗林三丁目・六斗林弓ノ町・桃畠町・三間道・桜木一ノ小路・桜木二ノ小路・桜木三ノ小路・桜木四ノ小路・桜木五ノ小路・桜木六ノ小路・桜木七ノ小路・桜木八ノ小路・桜木九ノ小路・桜木十ノ小路・沼田町・茶畠一ノ小路・茶畠二ノ小路・堀込町・笹下町一ノ小路・笹下町二ノ小路・笹下町三ノ小路・泉寺町・桜畠一番丁・桜畠二番丁・桜畠三番丁・桜畠四番丁・桜畠五番丁・桜畠六番丁・桜畠七番丁・桜畠八番丁・桜畠九番丁・桜畠十番丁・長良町・野田寺町一丁目・野田寺町二丁目・野田寺町三丁目・野田寺町四丁目・野田寺町五丁目・上石伐町・下石伐町・仙人町・蛤坂町・蛤坂新道・[[野町|野町一丁目・野町二丁目・野町三丁目・野町四丁目・野町五丁目・野町六丁目]]・石坂角場一番丁・石坂角場二番丁・石坂角場三番丁・石坂角場四番丁・石坂角場五番丁・石坂角場六番丁・石坂角場七番丁・石坂角場八番丁・石坂角場九番丁・石坂角場十番丁・石坂角場十一番丁・石坂角場十二番丁・石坂与力町・上小柳町・下小柳町・南石坂町・石坂川岸町・本馬町・石坂町・助九郎町・北石坂町・北石坂新町・裏五十人町・[[白菊町 (金沢市)|白菊町]]・裏千日町・[[千日町 (金沢市)|千日町]]・西側町・五十人町・[[片町 (金沢市)|片町]]・河原町・[[大工町 (金沢市)|大工町]]・[[竪町 (金沢市)|竪町]]・[[上柿木畠]]・[[下柿木畠]]・里見町・広坂通・[[十三間町|十三間町・十三間町中丁]]・上本多町一番丁・上本多町二番丁・上本多町川御亭・中本多町一番丁・中本多町二番丁・中本多町三番丁・中本多町四番丁・中本多町欠下丁・中本多町短丁・下本多町一番丁・下本多町二番丁・下本多町三番丁・下本多町四番丁・下本多町五番丁・下本多町六番丁・[[池田町 (金沢市)|池田町一番丁・池田町二番丁・池田町三番丁・池田町四番丁・池田町立丁]]・水溜町・上川除町・杉浦町・油車・[[鱗町]]・[[新竪町|新竪町一丁目・新竪町二丁目・新竪町三丁目]]・百姓町・[[茨木町 (金沢市)|茨木町]]・上主馬町・中主馬町・下主馬町・主馬町広丁・山田屋小路一番丁・山田屋小路二番丁・[[川岸町 (金沢市)|川岸町]]・枝町・中川除町・早道町・藤棚・川上新町一丁目・川上新町二丁目・川上新町三丁目・石浦新町・松本町・角場川岸町・菊川町・梅ヶ枝町・中野町一番丁・中野町二番丁・中野町三番丁・平野町・上野町・小立野新町・松下町・揚地町・一本松・上笠舞町・下笠舞町・上鶴間町・下鶴間町・元鶴間町・上石引町・中石引町・下石引町・与力町一番丁・与力町二番丁・与力町三番丁・与力町四番丁・白山町・山崎町・河内町・二十人町一番丁・二十人町二番丁・二十人町三番丁・二十人町四番丁・新坂町・上欠原町・中欠原町・下欠原町・上鷹匠町・中鷹匠町・下鷹匠町・出羽一番丁・出羽二番丁・出羽三番丁・出羽四番丁・出羽五番丁・上弓ノ町・中弓ノ町・下弓ノ町・三所町・土取場城端町・土取場撞木町・土取場永町・上安藤町・中安藤町・下安藤町・上百々女木町・下百々女木町・大音町・[[飛梅町]]・長柄町・新長柄町・手木町・台所町一番丁・台所町二番丁・台所町三番丁・台所町四番丁・台所町五番丁・台所町六番丁・台所町七番丁・上富山町・下富山町・田町新道・三十人町・[[天神町 (金沢市)|天神町一丁目・天神町二丁目・天神町三丁目・天神町四丁目]]・板前町・品川町・田町・火除町・[[桜町 (金沢市)|桜町一番丁・桜町二番丁・桜町三番丁・桜町四番丁・桜町五番丁・桜町六番丁]]・吹屋町・銀杏町・川端町・馬場崎町・九枚町・裏御小人町・[[材木町 (金沢市)|材木町一丁目・材木町二丁目・材木町三丁目・材木町四丁目・材木町五丁目・材木町六丁目・材木町七丁目]]・森町一番丁・森町二番丁・森町三番丁・木曽町・成瀬町・八坂・柿木町・御小人町・十間町・博労町・上近江町・下近江町・上今町・下今町・[[大手町 (金沢市)|大手町]]・殿町・中町・上胡桃町・下胡桃町・梅本町・梅本町東横丁・梅本町西横丁・[[尾張町 (金沢市)|尾張町]]・上新町・[[下新町 (金沢市)|下新町]]・[[主計町 (金沢市)|主計町]]・児玉小路・味噌蔵町上中丁・味噌蔵町下中丁・味噌蔵町間ノ町・味噌蔵町片原町・味噌蔵町裏丁・[[橋場町 (金沢市)|橋場町]]・九人橋下通・又五郎町・玄蕃町一番丁・玄蕃町二番丁・玄蕃町三巡り・備中町・[[並木町 (金沢市)|並木町]]・並木下町・[[小将町|小将町一番丁・小将町二番丁・小将町三番丁・小将町中丁]]・小尻谷町・尻垂坂通一丁目・尻垂坂通二丁目・尻垂坂通三丁目・賢坂辻通・越中町・[[横山町 (金沢市)|横山町一番丁・横山町二番丁・横山町三番丁]]・浅野川上川除町・上堤町・下堤町・[[袋町 (金沢市)|袋町]]・[[青草町]]・栄町・松ヶ枝町・石屋小路・[[南町 (金沢市)|南町]]・上松原町・下松原町・[[高岡町 (金沢市)|高岡町・高岡町上藪ノ内・高岡町中藪ノ内・高岡町下藪ノ内]]・長町河岸・石浦町・仙石町・[[木倉町]]・大藪小路・長町一番丁・長町二番丁・長町三番丁・長町四番丁・長町五番丁・長町六番丁・長町七番丁・長町八番丁・南長門町・北長門町・上伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・裏伝馬町・塩川町・[[富本町 (金沢市)|富本町]]・裏古寺町・犀川下川除町・宝船路町・古寺町・茶木町・古藤内町・西馬場町・西御影町・新川除町・元車町・竹田町・大豆田町・梅鉢清水・高儀町・谷町・大豆田新町・下高儀町・七曲り・福富町・藺田町・蔦町・宗叔町一番丁・宗叔町二番丁・宗叔町三番丁・宗叔町四番丁・宗叔町五番丁・[[玉川町 (金沢市)|玉川町]]・穴水町一番丁・穴水町二番丁・穴水町三番丁・穴水町四番丁・穴水町五番丁・長土塀通・長土塀一番丁・長土塀二番丁・長土塀三番丁・長土塀四番丁・長土塀五番丁・長土塀六番丁・[[三社町]]・三社弓ノ町・三社五十人町一番丁・三社五十人町二番丁・三社五十人町三番丁・三社川岸・三社垣根町・三社宮ノ前・三社宮ノ後・三社山田町・古道・古道一番丁・古道二番丁・木揚場・三構・勝尾町・[[元菊町]]・西町一番丁・西町二番丁・西町三番丁・西町四番丁・西町藪ノ内通・折違町・[[日吉町 (金沢市)|日吉町]]・醒ヶ井町・大隅町・深川町・[[中橋町]]・長田町・長田弓ノ町一番丁・長田弓ノ町二番丁・長田弓ノ町三番丁・[[桶町 (金沢市)|桶町]]・[[安江町]]・横安江町・裏安江町一番丁・裏安江町二番丁・[[母衣町 (金沢市)|母衣町]]・彦三一番丁・彦三二番丁・彦三三番丁・彦三四番丁・彦三五番丁・彦三六番丁・彦三七番丁・彦三八番丁・塩屋町・下塩屋町・五宝町・瓢箪町・岩根町・堀川間ノ町・[[笠市町]]・古餌指町・巴町・東堀川町・[[西堀川町]]・中堀川町・堀川角場町・淵上町・[[七ツ屋町]]・荒町一丁目・荒町二丁目・荒町三丁目・此花町・白銀町・七宝町・新道・弓ノ町・鍛冶町・鍛冶片原町・象眼町・芳斎町・英町・[[六枚町]]・[[柳町 (金沢市)|柳町]]・島田町・田丸町・玉井町・木ノ新保一番丁・木ノ新保二番丁・木ノ新保三番丁・木ノ新保四番丁・木ノ新保五番丁・木ノ新保六番丁・木ノ新保七番丁・上小川町・下小川町・森下町・大衆免中通・大衆免横町・大衆免竪町・大衆免七曲り・大衆免亀淵町・大衆免片原町・大衆免井波町・上牧町・中牧町・下牧町・平折町・立川町・御仲間町・金屋町・裏金屋町・[[観音町 (金沢市)|観音町一丁目・観音町二丁目・観音町三丁目]]・御歩町一番丁・御歩町二番丁・御歩町三番丁・御歩町四番丁・御歩町五番丁・[[豊国町]]・八幡町・木綿町・[[子来町]]・[[末広町 (金沢市)|末広町]]・[[東御影町]]・[[常盤町 (金沢市)|常盤町]]・木町一番丁・木町二番丁・木町三番丁・木町四番丁・卯辰下町・卯辰高町・[[鶯町 (金沢市)|鶯町]]・愛宕一番丁・愛宕二番丁・愛宕三番丁・愛宕四番丁・東馬場町・水車町・馬場一番丁・馬場二番丁・馬場三番丁・馬場四番丁・馬場五番丁・馬場六番丁・[[小橋町 (金沢市)|小橋町]]・浅野町・下浅野町・浅野新町・上中島町・下中島町・梅沢町・高道町・高道新町・森山町一番丁・森山町二番丁・森山町三番丁・森山町四番丁・森山町五番丁・山ノ上町一丁目・山ノ上町二丁目・山ノ上町三丁目・山ノ上町四丁目・上田町・同心町・談議所町・[[春日町 (金沢市)|春日町一丁目・春日町二丁目・春日町三丁目・春日町四丁目・春日町五丁目]]・上大樋町・下大樋町・山下町}}の区域をもって、'''金沢区'''が発足する。 *[[1889年]](明治22年)4月1日 - [[市制]]が施行により、金沢区の区域をもって、'''金沢市'''が発足する。10.40&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1924年]]([[大正]]13年)1月1日 - 金沢市の区域及び[[石川郡 (石川県)|石川郡]][[野村 (石川県)|野村]]の区域の内、字泉野の区域の一部の境界を変更する。10.61&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1925年]](大正14年) **4月1日 - 石川郡野村を編入する。16.82&nbsp;km<sup>2</sup>。 **4月10日 - 石川郡弓取村を編入する。20.05&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1935年]]([[昭和]]10年)12月16日 - 石川郡[[富樫村]]、潟津村、米丸村、[[鞍月村]]、[[粟崎村]]及び[[大野町 (石川県)|大野町]]を編入する。51.55&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1936年]](昭和11年)4月1日 - 石川郡[[崎浦村]]、[[三馬村]]及び[[河北郡]][[小坂村 (石川県)|小坂村]]を編入する。90.71&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1943年]](昭和18年) **10月1日 - 石川郡[[戸板村]]を編入する。96.21&nbsp;km<sup>2</sup>。 **12月1日 - 石川郡[[金石町]]、[[大野村 (石川県)|大野村]]及び[[二塚村 (石川県)|二塚村]]を編入する。111.09&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1947年]](昭和22年)5月3日 - 河北郡[[三谷村 (石川県河北郡)|三谷村]]の区域の内、字釣部の区域を編入する。114.16&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1949年]](昭和24年)6月1日 - 河北郡[[川北村 (石川県)|川北村]]を編入する。122.10&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1954年]](昭和29年)7月1日 - 石川郡[[安原村 (石川県)|安原村]]、[[額村]]、[[内川村 (石川県)|内川村]]、[[犀川村]]及び[[湯涌谷村]]を編入する。303.76&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1956年]](昭和31年)1月1日 - 石川郡[[押野村]]を編入する。309.79&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1957年]](昭和32年) **4月5日 - 河北郡[[浅川村 (石川県)|浅川村]]を編入する。393.40&nbsp;km<sup>2</sup>。 **4月10日 - 押野地区の区域の一部を石川郡[[野々市市|野々市町]]に編入する(境界変更)。391.34&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1962年]](昭和37年)6月1日 - 河北郡[[森本町]]を編入する。458.78&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1965年]](昭和40年)7月30日 - [[河北潟]]の一部埋立の区域を編入する。458.90&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1967年]](昭和42年)10月27日 - 河北潟の一部埋立の区域を編入する。459.18&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1968年]](昭和43年)4月1日 - 金沢市及び石川郡野々市町の区域の境界を変更する。459.19&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1969年]](昭和44年)3月1日 - 金沢市及び石川郡野々市町の区域の境界を変更する。459.21&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1971年]](昭和46年)3月2日 - 河北潟の一部埋立の区域を編入する。459.31&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1980年]](昭和55年) **2月1日 - 金沢市及び石川郡野々市町の区域の境界を変更する。459.31&nbsp;km<sup>2</sup>。 **5月13日 - 大野町4丁目および粟崎町4丁目に隣接する公有水面埋立の区域を編入する。460.20&nbsp;km<sup>2</sup>。 **9月1日 - 金沢市及び石川郡野々市町の区域の境界を変更する。460.20&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1981年]](昭和56年)10月1日 - 河北潟干拓地内の金沢市、河北郡[[津幡町]]、[[宇ノ気町]]及び[[内灘町]]の区域の境界が確定する。468.09&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1988年]](昭和63年)10月1日 - [[国土地理院]]における新しい測定方法による修正。467.77&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1992年]]([[平成]]4年)3月1日 - 金沢市及び[[松任市]]の区域の境界を変更する。467.77&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1996年]](平成8年)6月1日 - 金沢市及び河北郡[[津幡町]]の区域の境界を変更する。467.77&nbsp;km<sup>2</sup>。 *[[1999年]](平成11年)5月1日 - 金沢市及び石川郡野々市町の区域の境界を変更する。467.77&nbsp;km<sup>2</sup>。 == 人口 == かつては、[[ドーナツ化現象]]が顕著で、郊外の[[太陽が丘]]などにニュータウンが建設されたが、近年は都心部に集合住宅が盛んに建設されており、[[都心回帰]]が鮮明となっている。山間部では空き家が目立ち、高齢化が深刻となっている。2000年(平成12年)以降、人口は横ばいを続けている。 {{人口統計|code=17201|name=金沢市|image=Population distribution of Kanazawa, Ishikawa, Japan.svg}} == 行政 == === 市長 === * [[村山卓]](2022年3月13日より、1期目<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=金沢市長、村山氏圧勝 小間井氏に3万1467票差 投票率55.95% 前回を大幅に上回る 〈金沢市長選〉|社会|石川のニュース|北國新聞 |url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/685034 |website=北國新聞 |accessdate=2022-03-14 |date=2022/3/14}}</ref>) ==== 副市長 ==== * 未定 === 歴代市長 === {| class="wikitable" style="font-size:95%:" ! colspan="6" | 石川県第十大区長 |- !代!!人!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |1||1||[[大野木克正]]<ref>石川県史料 第5巻 83頁</ref>||1876年(明治9年)11月1日||1878年(明治11年)12月17日|| |- ! colspan="6" | 歴代区長 |- !代!!人!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- | ||rowspan="2"| ||rowspan="2"|大野木克正<ref name=kenshi>石川県史 第四編 168-169頁</ref>||1878年(明治11年)12月17日||1879年(明治12年)4月10日||金沢区書記、区長代理 |- | ||1879年(明治12年)4月10日||1879年(明治12年)7月7日||区長心得 |- | || ||[[石川昌三郎]]<ref name = kenshi/>||1879年(明治12年)7月7日||1879年(明治12年)11月11日||区長心得 |- |1||1||[[相馬朔郎]]<ref name = kenshi/>||1879年(明治12年)11月11日||1881年(明治14年)6月20日|| |- |2||2||[[加藤恒]]<ref name = kenshi/>||1881年(明治14年)6月20日||1881年(明治14年)10月8日|| |- |3||3||[[梅原可也]]<ref name = kenshi/>||1881年(明治14年)10月8日||1884年(明治17年)2月18日|| |- |4||4||[[稲垣義方]]<ref name = kenshi/>||1884年(明治17年)2月18日||1889年(明治22年)3月31日|| |- ! colspan="6" | 歴代市長 |- !代!!人!!氏名!!就任!!退任!!備考 |- |1||1||稲垣義方||1889年(明治22年)5月27日||1893年(明治26年)4月11日|| |- |2||2||[[長谷川準也]]||1893年(明治26年)6月23日||1897年(明治30年)12月2日|| |- |3||3||[[奥村栄滋]]||1898年(明治31年)1月12日||1902年(明治35年)5月10日|| |- |4||rowspan="2"|4||rowspan="2"|[[渡瀬政礼]]||1902年(明治35年)6月16日||1908年(明治41年)6月15日|| |- |5||1908年(明治41年)7月24日||1909年(明治42年)11月6日|| |- |6||rowspan="2"|5||rowspan="2"|[[山森隆]]||1909年(明治42年)12月15日||1915年(大正4年)12月14日|| |- |7||1915年(大正4年)12月15日||1919年(大正8年)5月14日|| |- |8||6||[[飯尾次郎三郎]]||1919年(大正8年)5月28日||1922年(大正11年)4月24日|| |- |9||rowspan="2"|7||rowspan="2"|[[相良歩]]||1922年(大正11年)5月23日||1926年(大正15年)5月22日|| |- |10||1926年(大正15年)5月23日||1930年(昭和5年)5月22日|| |- |11||8||[[吉川一太郎]]||1930年(昭和5年)6月9日||1934年(昭和9年)6月8日|| |- |12||9||[[片岡安]]||1934年(昭和9年)7月13日||1936年(昭和11年)4月20日|| |- |13||rowspan="3"|10||rowspan="3"|[[澤野外茂次]]||1936年(昭和11年)7月30日||1940年(昭和15年)7月29日|| |- |14||1940年(昭和15年)7月30日||1944年(昭和19年)7月29日|| |- |15||1944年(昭和19年)7月30日||1945年(昭和20年)9月22日|| |- |16||11||[[武谷甚太郎]]||1945年(昭和20年)10月18日||1947年(昭和22年)2月28日|| |- |17||rowspan="2"|12||rowspan="2"|[[井村重雄]]||1947年(昭和22年)4月5日||1951年(昭和26年)4月4日|| |- |18||1951年(昭和26年)4月23日||1955年(昭和30年)4月22日|| |- |19||rowspan="2"|13||rowspan="2"|[[土井登]]||1955年(昭和30年)5月2日||1959年(昭和34年)5月1日|| |- |20||1959年(昭和34年)5月2日||1963年(昭和38年)1月16日|| |- |21||rowspan="3"|14||rowspan="3"|[[徳田與吉郎]]||1963年(昭和38年)2月10日||1967年(昭和42年)2月9日|| |- |22||1967年(昭和42年)2月10日||1971年(昭和46年)2月9日|| |- |23||1971年(昭和46年)2月10日||1972年(昭和47年)7月8日|| |- |24||rowspan="2"|15||rowspan="2"|[[岡良一]]||1972年(昭和47年)8月6日||1976年(昭和51年)8月5日|| |- |25||1976年(昭和51年)8月6日||1978年(昭和53年)11月23日|| |- |26||rowspan="3"|16||rowspan="3"|[[江川昇]]||1978年(昭和53年)12月10日||1982年(昭和57年)12月9日|| |- |27||1982年(昭和57年)12月10日||1986年(昭和61年)12月9日|| |- |28||1986年(昭和61年)12月10日||1990年(平成2年)12月9日|| |- |29||rowspan="5"|17||rowspan="5"|[[山出保]]||1990年(平成2年)12月10日||1994年(平成6年)12月9日|| |- |30||1994年(平成6年)12月10日||1998年(平成10年)12月9日|| |- |31||1998年(平成10年)12月10日||2002年(平成14年)12月9日|| |- |32||2002年(平成14年)12月10日||2006年(平成18年)12月9日|| |- |33||2006年(平成18年)12月10日||2010年(平成22年)12月9日|| |- |34||rowspan="3"|18||rowspan="3"|[[山野之義]]||2010年(平成22年)12月10日||2014年(平成26年)12月9日||<ref group="注釈">2014年8月18日に辞職し、[[出直し選挙|出直し市長選]]で再選。</ref><ref>2014年8月19日から10月6日までは丸口邦雄副市長が職務代理に就任した。[http://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/21292/1/gai21.pdf 金沢市告示第256号][http://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/21292/1/gai28.pdf 金沢市選挙管理委員会告示第119号]</ref> |- |35||2014年(平成26年)12月10日||2018年(平成30年)12月9日|| |- |36||2018年(平成30年)12月10日||2022年(令和4年)2月16日||<ref>2022年2月16日から相川一郎副市長が職務代理に就任した。</ref> |- |37 |19 |[[村山卓]] |2022年(令和4年)3月13日 |現職 |<ref name=":0" /> |} === 金沢市の行政組織 === {{div col}} * [[金沢市役所]] ** 都市政策局 ** 総務局 ** 文化スポーツ ** 経済局 ** 農林局 ** 市民局 ** 福祉局 ** 保健局 ** 環境局 ** 都市整備局 ** 土木局 ** 危機管理監 ** 出納機関 * [[金沢市企業局|企業局]] * [[金沢市消防局|消防局]] * [[金沢市立病院]] * [[金沢市議会|市議会]] * [[金沢市教育委員会|教育委員会]] {{div col end}} === 石川県の機関 === {{div col}} *[[石川県庁]] *[[石川県警察]] {{div col end}} === 国の行政機関 === {{div col}} * '''[[警察庁]]''' ** [[中部管区警察局]]石川県情報通信部 * '''[[総務省]]''' ** 中部[[管区行政評価局]]石川行政評価事務所 ** [[北陸総合通信局]] * '''[[法務省]]''' ** 金沢[[地方法務局]] ** [[金沢刑務所]] ** [[湖南学院]] ** 金沢[[少年鑑別所]] ** 金沢[[保護観察所]] * '''[[出入国在留管理庁]]''' ** [[名古屋出入国在留管理局]]金沢出張所 * '''[[公安調査庁]]''' ** 中部[[公安調査局]]金沢公安調査事務所 * '''[[検察庁]]''' ** [[名古屋高等検察庁]][[名古屋高等検察庁金沢支部|金沢支部]] ** [[金沢地方検察庁]] ** [[金沢区検察庁]] * '''[[財務省]]''' ** [[北陸財務局]] ** [[大阪税関]]金沢税関支署 ** [[財務総合政策研究所]]北陸研修支所 * '''[[国税庁]]''' ** [[金沢国税局]] *** 金沢[[税務署]] ** 金沢国税不服審判所 ** [[税務大学校]]金沢研修所 * '''[[厚生労働省]]''' ** [[東海北陸厚生局]]石川事務所 ** [[石川労働局]] *** 金沢[[労働基準監督署]] *** 金沢[[公共職業安定所]] ** 新潟[[検疫所]]金沢・七尾出張所 * '''[[農林水産省]]''' ** [[北陸農政局]] *** 石川県拠点 *** 土地改良技術事務所 * '''[[林野庁]]''' ** [[近畿中国森林管理局]]石川森林管理署 * '''[[国土交通省]]''' ** [[北陸地方整備局]] *** 金沢河川国道事務所 **** 金沢国道維持出張所 *** 金沢営繕事務所 *** 金沢港湾・空港整備事務所 ** [[北陸信越運輸局]][[石川運輸支局]] * ''' [[気象庁]]''' ** 金沢[[地方気象台]] * '''[[海上保安庁]]''' ** [[第九管区海上保安本部]]金沢海上保安部 * '''[[防衛省]]''' ** [[自衛隊石川地方協力本部]] *** 金沢募集案内所 *** 地域援護センター ** [[陸上自衛隊]][[金沢駐屯地]]([[第14普通科連隊]]他) {{div col end}} === 司法機関 === * '''[[日本の裁判所|裁判所]]''' ** [[名古屋高等裁判所]] *** [[名古屋高等裁判所金沢支部|金沢支部]](丸の内) ** [[金沢地方裁判所]](丸の内) ** [[金沢家庭裁判所]](丸の内) ** [[金沢簡易裁判所]](丸の内) * '''[[検察審査会]]''' ** 金沢検察審査会(丸の内) === 独立行政法人 === {{Col| *[[国際協力機構]]北陸支部 *[[高齢・障害・求職者雇用支援機構]]石川支部 | *[[日本貿易振興機構]]金沢事務所 *[[中小企業基盤整備機構]]北陸支部 | *[[製品評価技術基盤機構]]北陸支所 *[[自動車技術総合機構]]石川事務所 }}{{clear}} == 議会 == === 市議会 === {{Main|金沢市議会}} ==== 役員 ==== (2023年5月11日現在<ref>{{Cite web|和書|title=議長・副議長{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gikaijimukyokugijichosaka/gyomuannai/1/5/3801.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=議員名簿(五十音順・タ行){{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gikaijimukyokugijichosaka/gyomuannai/1/5/1/5667.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=議員名簿(五十音順・ナ行){{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gikaijimukyokugijichosaka/gyomuannai/1/5/1/5668.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>) * 議長 - 高誠(自由民主党金沢市議員会) * 副議長 - 中川俊一(自由民主党金沢市議員会) ==== 定数・会派 ==== * 定数:38人 * 任期満了日:2027年(令和9年)5月1日<ref name=":10">{{Cite web|和書|title=選挙の種類{{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/senkyokanriiinkai/gyomuannai/1/2/3837.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref> (2023年6月8日現在<ref>{{Cite web|和書|title=議員名簿(会派等別){{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gikaijimukyokugijichosaka/gyomuannai/1/5/3800.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>) {| class="wikitable" ! 会派 !! 議員数 !! colspan="5" | 所属議員 |- ! rowspan="4" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]]金沢市議員会 | rowspan="4" style="text-align: right;" | 16 |高村佳伸||横越徹||福田太郎||久保洋子||野本正人 |- |喜多浩一||坂本泰広||高誠||中川俊一 |小間井大祐 |- |北幸栽||麦田徹||上田雅大||前誠一||荒木博文 |- |柿本章博|| colspan="4" | |- ![[公明党]]金沢市議員会 |style="text-align: right;"|4 |源野和清 |稲端明浩 |坂秀明 |山本ひかる | |- ! みらい金沢 | style="text-align: right;" | 4 |森一敏||坂本順子||黒口啓一郎||川島美和|| |- ! rowspan="1" | [[日本共産党]]金沢市議員団 | style="text-align: right;" | 3 |森尾嘉昭||広田美代||山下明希|| colspan="2" | |- ! 創生かなざわ・維新の会 | style="text-align: right;" | 3 |玉野道||熊野盛夫||大西克利 | colspan="2" | |- !金沢保守・こくみん議会 |style="text-align: right;"|  2 |粟森慨 |新谷博範 | colspan="3" | |- ! 金沢さくら会 | style="text-align: right;" | 1 |清水邦彦||下沢広伸 | colspan="3" | |- !心つなぐ金沢 |style="text-align: right;"|2 |宇夛裕基 |道上周太 | colspan="3" | |- !結び会 |style="text-align: right;"|1 |喜成清恵 | colspan="4" | |- ![[参政党]] |style="text-align: right;"|1 |高務淳弘 | colspan="4" | |- ! 計 | style="text-align: right;" | 38 | colspan="5" | |} ==== 委員会 ==== (2023年9月14日現在<ref>{{Cite web|和書|title=議員名簿(委員会別){{!}}金沢市公式ホームページ いいね金沢 |url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/gikaijimukyokugijichosaka/gyomuannai/1/5/3799.html |website= |access-date=2023-10-22 |language=ja |publisher=金沢市}}</ref>) {{div col}} *議会運営委員会(定数12) *常任委員会 **総務常任委員会(定数8) **経済環境常任委員会(定数7) **市民福祉常任委員会(定数8) **建設企業常任委員会(定数7) **文教消防常任委員会(定数8) *特別委員会 **地域交通特別委員会(定数10) **少子化対策特別委員会(定数10) **公共施設再整備特別委員会(定数10) **議会基本条例検証特別委員会(定数8) **一般会計等決算審査特別委員会(定数8) **企業会計等決算審査特別委員会(定数8) *議会広報委員会(定数6) {{div col end}} === 石川県議会(金沢市選出) === {{Main|石川県議会}} * 定数:16名<ref>{{Cite web|和書|title=選挙区別名簿 |url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/gikai/meibo/senkyoku20150430.html |website=石川県 |access-date=2023-10-22 |language=ja |last=石川県}}</ref> * 任期満了日:2027年(令和9年)4月29日<ref name=":10" /> {| class="wikitable" |- !議員名!!会派名!!備考 |- |紐野義昭 |[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]石川県議会議員協議会 | |- | 下沢佳充 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- | 中村勲 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- | 米澤賢司 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- | 盛本芳久 || 未来石川議員会 || |- | 谷内律夫 || [[公明党]]|| |- |佐藤正幸 |[[日本共産党]] | |- | 安居知世 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- | 不破大仁 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- |川裕一郎 |[[参政党]] | |- | 田中敬人 || 自由民主党石川県議会議員協議会 || |- | 太郎田真理 ||自由民主党石川県議会議員協議会 || |- |長田哲也 |自由民主党石川県議会議員協議会 | |- |打出喜代文 |未来石川議員会 | |- |小松実 |公明党 | |- |田中美絵子 |未来石川議員会 | |} === 衆議院 === * 選挙区:[[石川県第1区|石川1区]](金沢市) * 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日 * 投票日:2021年10月31日 * 当日有権者数:376,122人 * 投票率:52.20% {| class="wikitable" ! 当落 !! 候補者名 !! 年齢 !! 所属党派 !! 新旧別 !! 得票数 !! 重複 |- | style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 当 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[小森卓郎]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 51 || style="background-color:#ffc0cb;" | [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | 新 || style="background-color:#ffc0cb;" | 88,321票 || style="background-color:#ffc0cb; text-align:center;" | ○ |- | || 荒井淳志 || style="text-align:center;" | 27 || [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] || style="text-align:center;" | 新 || 48,491票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 小林誠 || style="text-align:center;" | 44 || [[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]] || style="text-align:center;" | 新 || 45,663票 || style="text-align:center;" | ○ |- | || 亀田良典 || style="text-align:center;" | 72 || [[日本共産党]] || style="text-align:center;" | 新 || style="text-align:right;" | 8,930票 || |} == 姉妹都市・提携都市 == 姉妹都市の多くは、その地方の中心的都市であったり、歴史的遺産を持つ古都であるのが特徴的である。 === 日本国外 === ;姉妹都市 {{div col}} *{{Flagicon|USA}}[[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー市]]([[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]]) *:[[1962年]](昭和37年)[[12月18日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|RUS}}[[イルクーツク|イルクーツク市]]([[ロシア連邦]][[イルクーツク州]]) *:[[1967年]](昭和42年)[[3月20日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|BRA}}[[ポルト・アレグレ|ポルトアレグレ市]]([[ブラジル連邦共和国]][[リオグランデ・ド・スル州]]) *:1967年(昭和42年)[[3月20日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|BEL}}[[ヘント|ゲント市]]([[ベルギー王国]][[オースト=フランデレン州|オースト・フランデレン州]]) *:[[1971年]](昭和46年)[[10月4日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|FRA}}[[ナンシー|ナンシー市]]([[フランス共和国]][[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ州]]) *:[[1973年]](昭和48年)[[10月12日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|CHN}}[[蘇州市]]([[中華人民共和国]][[江蘇省]]) *:[[1981年]](昭和56年)[[6月13日]] 姉妹都市提携 *{{Flagicon|KOR}}[[全州市]]([[大韓民国]][[全羅北道]]) *:[[2002年]](平成14年)[[4月30日]] 姉妹都市提携 {{div col end}} ;提携都市 *{{Flagicon|ROC}}[[台南市]]([[中華民国]]) *:[[2011年]](平成23年)[[9月20日]] 友好交流都市協定締結 ;その他 *[[世界歴史都市連盟]] *:歴史都市の保存と開発をテーマにした世界都市の集まりに加盟している。 === 日本国内 === ;提携都市 {{div col }} *{{Flagicon|長野県}}[[長野市]]([[長野県]]) *:[[2007年]](平成19年)[[2月15日]] 集客プロモーションパートナー都市締結 *{{Flagicon|東京都}}[[板橋区]]([[東京都]]) *:2007年(平成19日)[[7月9日]] 友好交流都市提携 *{{Flagicon|愛知県}}[[岡崎市]]([[愛知県]]) *:[[2007年]](平成19年)[[10月18日]] 観光交流都市締結 *{{Flagicon|愛知県}}[[豊田市]](愛知県) *:2007年(平成19年)10月18日 観光交流都市締結 *{{Flagicon|群馬県}}[[高崎市]]([[群馬県]]) *:2008年(平成20年)[[2月6日]] 友好交流都市提携 *{{Flagicon|岐阜県}}[[高山市]]([[岐阜県]]) *:[[2008年]](平成20年)[[3月3日]] 観光交流都市締結 *{{Flagicon|長野県}}[[松本市]](長野県) *:[[2008年]](平成20年)[[7月16日]] 文化・観光交流都市 *{{Flagicon|静岡県}}[[静岡市]]([[静岡県]]) *:[[2009年]](平成21年)[[7月23日]] 交流連携都市 *{{Flagicon|沖縄県}}[[那覇市]]([[沖縄県]]) *:[[2009年]](平成21年)[[10月23日]] 交流連携都市 *{{Flagicon|東京都}}[[目黒区]](東京都) *:[[2017年]](平成29年)[[10月28日]] 友好交流都市提携。[[加賀藩]]主であった前田氏宗家第16代の[[前田利為]]が、目黒区駒場に邸宅を構えた縁にちなんだ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www4.city.kanazawa.lg.jp/17003/kouryuukyoutei/meguro.html |title=目黒区と友好都市協定を締結|work=金沢市ホームページ|publisher=金沢市|accessdate=2017-11-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.meguro.tokyo.jp/gyosei/shokai_rekishi/yukotoshi/kanazawa_oboegaki.html |title=金沢市と友好交流都市協定に向けての覚書を締結しました|work=目黒区公式ホームページ|publisher=[[目黒区]]|accessdate=2017-11-03}}</ref>。 *{{Flagicon|東京都}}[[文京区]] (東京都) *:[[2019年]] (令和元年) [[8月4日]] 友好交流都市提携 {{div col end}} ;その他 *{{Flagicon|JPN}}[[加賀]]の[[小京都]]「金沢」として全国京都会議に過去に加盟していたが、当時の市長であった山出保によって脱退した。これは、金沢は京都のように[[公家]]文化で栄えた町と違い[[武家]]文化の町であるという理由からであった。しかし、観光都市として「加賀の小京都」と称されることがある。 == 国際機関 == '''国連機関''' * {{Flagicon|UN}} [[金沢市立泉野図書館]] ([[国際連合寄託図書館]]) * {{Flagicon|UN}} [[国際連合大学|国連大学高等研究所いしかわ・かなざわオペレーティング・ユニット]] '''領事館''' * {{Flagicon|ALB}} 在金沢[[アルバニア]]名誉領事館 == 経済 == === 農林水産業 === 市内から周辺市町村へ広がる[[金沢平野]]は、低温であるものの水利がよく適湿で、江戸時代から良質の農地であった。明治時代中期には、他地方に先駆けて近代的な耕地整理が行われ、生産性が飛躍的に向上した。現在でも、単作の[[稲作]]中心の[[農業]]が継承されており、北陸地方の他地域と並んで[[コシヒカリ]]の主要な産地の一つである。 稲作だけでは採算が望めない農地については、小規模でも生産でき付加価値の高い作物、[[サツマイモ|さつまいも]]や[[レンコン|蓮根]]などの[[加賀野菜]]、[[ナシ|梨]]などの果実の生産に移行する動きがみられる。 また、[[北前船]]の寄港地であった大野港や金石港から[[金沢港]]が整備され、ここを拠点とした[[水産業]]も盛んである。 === 製造業 === ==== 伝統製造業・工芸品 ==== [[ファイル:Kanazawa Gold Factory.jpg|thumb|製造過程の金箔]] 江戸時代に金沢を治めた[[加賀藩]]は、石高は高いものの[[外様大名]]であったため、[[幕府]]や周囲に警戒されないよう内向きの産業や工芸を奨励した。そのため、当時から[[絹織物]]の主要な産地であった。また、藩の財政に余裕があったため、京都などから[[職人]]を招聘し、[[加賀友禅]]などの染織工芸を育成することができた。これらを基盤として、[[明治時代]]には[[繊維工業]]や染織加工業が発達した。ただし現在では、[[中国]]などから安価な製品が輸入されるようになったため、高機能商品の生産に特化する動きがみられる。現在でも[[金箔]]の製造は全国シェアの98%、[[銀箔]]は100%、市民1人当たりの[[和菓子]]購入額全国第1位である。 また、大野地区では[[醤油]]の製造が昔から盛んで、現在も直源が製造している「直っぺ」などがある。 ==== 近代製造業・工業 ==== 繊維製品の生産に必要な[[織機]]の製造は現在でも衰退しておらず、ジェット・ルーム(高速の気流や水流で横糸を飛ばす方式の織機)を生産する[[津田駒工業]]本社工場は、世界最大の織機製造工場と言われている。また、こうした高速制御が可能な複合的な機械製造技術は他分野にも転用され、ボトリング・システム(瓶詰め機械)で世界一の[[澁谷工業]]や、自動給茶装置付き[[回転寿司]]コンベア機でトップシェアを持つ[[石野製作所]]など、一風変わった機械の製造に結びついている。 近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長している。市内で創業したパソコン周辺機器大手の[[アイ・オー・データ機器]]は、当地の小規模な繊維工場では手が届かなかった[[メインフレーム]]ではなく、[[マイコン]]を利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業であり、コンピュータ関連の大手企業が手がけなかった需要に応えて成長の軌道に乗った。また、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった細かな需要の発掘でも、繊維工業が周辺産業へ影響を与えたことがうかがえる。 === 卸売・小売業 === {{複数の問題|出典の明記=2020年5月|独自研究=2019年10月|section=1}} [[ファイル:Kohrinbo crossing.jpg|thumb|200px|[[香林坊]]]] [[ファイル:Kanazawa Katamachi.jpg|thumb|200px|[[片町 (金沢市)|片町]]]] [[ファイル:Tatemachi Street 2.jpg|thumb|200px|[[竪町 (金沢市)|竪町]]]] [[ファイル:広坂緑地 - panoramio.jpg|thumb|200px|[[広坂 (金沢市)|広坂]]]] 中心部にある市内最大の[[繁華街]]、[[香林坊]]・[[片町 (金沢市)|片町]]地区には、百貨店[[大和 (百貨店)|大和]]本店をキーテナントとした[[香林坊アトリオ]]や[[ハンズ (小売業)|ハンズ]]などが入居する[[香林坊東急スクエア]]、アパレルなど多数の路面店が軒を連ねる[[竪町 (金沢市)|竪町通り]]がある。また、香林坊に隣接する片町地区は、約1500もの飲食店がある北陸最大の[[歓楽街]]となっている。中心部の主な商店街は香林坊商店街、竪町商店街、広坂振興会(商店街)、柿木畠振興会(商店街)、片町商店街。 一方、もう一つの繁華街である[[武蔵ヶ辻|武蔵]]地区には[[金沢エムザ]]と[[近江町市場]]がある。なかでも近江町市場は、市場独特の風情が味わえることから訪れる観光客も多く、金沢市内の観光地のひとつとしても有名。2009年4月16日には[[都市再開発|市街地再開発事業]]により、近江町いちば館が開業した。 [[金沢駅]]周辺では[[北陸新幹線]]開業を控えた時期にさらなる開発が進んだ。駅東口横に[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]系列の[[ファッションビル]]である[[金沢フォーラス]]が開業、[[金沢百番街]]では2007年5月26日にくつろぎ館がオープン、2011年3月3日にはトレンド館を大幅に改装した[[金沢百番街|Rinto]]がオープンするなど、[[駅ビル]]や[[駅ナカ]]の商業施設の集積が進んだ。また、{{要出典範囲|北陸新幹線開業を受けて都市型マンションやビジネスホテルの集積も顕著である。そのため、駅周辺の商業地としての地位が向上し、テナントビルの空室率は駅周辺ビルを中心に大幅に改善した。それに伴い、商圏は香林坊・片町地区、武蔵地区、金沢駅前地区と三極化し始めた。|date=2020年5月}} また、[[金沢大学]]や[[石川県庁]]などの公共施設が市街地から[[郊外]]へ移転したことや、[[イオンタウン金沢示野]]、[[アピタタウン金沢ベイ]]、ラパーク金沢([[ドン・キホーテ (企業)|メガ・ドン・キホーテ]])などの[[ショッピングセンター]]や[[ロードサイドショップ]]が開業し、{{要出典範囲|国道8号線沿いや山側環状道路および海側環状道路周辺などの郊外が著しく発展していることから、中心街の空洞化、購買客の流失が懸念されている。|date=2020年5月}} {{Gallery |Kohrinbo ATRIO.JPG|香林坊アトリオ(香林坊) |KOHRINBO109.JPG|香林坊東急スクエア(香林坊) |Kanazawa Forus.JPG|金沢フォーラス(金沢駅前) |Kanazawa_Meitetsumarukoshi_Departmentstore.jpg|金沢エムザ(武蔵ヶ辻) }} === 本社を置く企業 === ; 上場企業 {{div col}} * [[今村証券]]([[東京証券取引所|東証スタンダード]]) * [[システムサポート]]([[東京証券取引所|東証プライム]]) * [[澁谷工業]](東証プライム・[[名古屋証券取引所|名証プレミア]]) * [[大和 (百貨店)|大和]](東証スタンダード) * [[津田駒工業]](東証スタンダード) * [[ハチバン]] (東証スタンダード) * [[ビーイングホールディングス]](東証スタンダード) * [[福島印刷]]([[名古屋証券取引所|名証メイン]]) * [[北國フィナンシャルホールディングス]](東証プライム) * [[三谷産業]](東証プライム・名証プレミア) {{div col end}} ; 主な非上場企業<!-- 特筆性のない企業は記載しないこと --> {{div col}} * [[アイ・オー・データ機器]] * [[アール・ビー・コントロールズ]] * [[石川コンピュータ・センター]] * [[ツエーゲン金沢|石川ツエーゲン]] * [[石野製作所]] * [[一村産業]] * [[うつのみや]] * [[NTTデータ北陸]] * [[カナカン]] * [[金沢丸越百貨店]] * [[カレーハウス・ターバン]] * [[カラフルカンパニー]] * [[北川ヒューテック]] * [[北日本観光自動車]] * [[キョーリンリメディオ]] * [[コマツ産機]] * [[シーピーユー]] * [[柴舟小出]] * [[シブヤマシナリー]] * [[示野薬局]] * [[伸晃化学]] * [[しん証券さかもと]] * [[倉庫精練]] * [[竹松証券]] * [[玉田工業]] * [[東京ストアー]] * [[ニュー三久]] * [[ドコモサービス北陸]] * [[日成ビルド工業]] * [[ネスク]] * [[箔一]] * [[北國銀行]] * [[北陸製菓]] * [[北陸通信ネットワーク]] * [[北陸鉄道]] * [[北陸ミサワホーム]] * [[北陸名鉄運輸]] * [[北菱電興]] * [[真柄建設]] * [[マックスバリュ北陸]] * [[明祥]] * [[森八]] * [[ヤギコーポレーション]] * [[米沢電気工事]] * [[土井ホーム]] {{div col end}} {{Gallery |Headquarters of I-O DATA.JPG|アイ・オー・データ機器本社(桜田町) |Tsudakoma&nomachi.jpg|津田駒工業本社(野町) |Headquarters of Shibuya Kogyo.JPG|澁谷工業本社(大豆田本町) |Hachiban HeadOffice.jpg|ハチバン本社(新神田) }} === 本店を置く企業 === * [[スペースバリューホールディングス]]本店 * [[アパグループ]]本店 <!-- 支店などを置く企業名は記載すると際限がないため記載しないこと --> === 支店を置く主な金融機関 === ;[[中央銀行]] *[[日本銀行]]金沢支店 ;[[政策金融機関]] {{Col| *[[日本政策金融公庫]]金沢支店 *[[住宅金融支援機構]]北陸支店 | *[[商工組合中央金庫]]金沢支店 *[[日本政策投資銀行]]北陸支店 }}{{clear}} ;[[系統中央機関]] {{Col| *[[農林中央金庫]]金沢推進室 | *[[信金中央金庫]]北陸支店 }}{{clear}} ;[[メガバンク]]・[[都市銀行]]・[[信託銀行]]・[[地方銀行|地銀]]・[[第二地方銀行|第二地銀]] {{Col| *[[三菱UFJ銀行]] *[[みずほ銀行]] *[[三井住友銀行]] *[[SBI新生銀行]]カナザワ支店(口座店のみで実店舗は存在しない<ref group="注釈">かつては実店舗である金沢支店を置いていたが、[[2018年]][[6月29日]]をもって本店([[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]])内に[[ブランチインブランチ]]となり、同時にカナザワ支店へ改称された。</ref>。) *[[あおぞら銀行]] | *[[三井住友信託銀行]] **金沢支店(旧[[中央三井信託銀行]]) **金沢中央支店(旧[[住友信託銀行]]) *[[北陸銀行]] *[[富山銀行]]金沢営業部 | *[[北國銀行]] *[[富山第一銀行]] *[[福井銀行]] *[[福邦銀行]] }}{{clear}} ;[[信用金庫]]・[[信用協同組合|信用組合]]・[[労働金庫]] {{Col| *[[金沢信用金庫]] *[[のと共栄信用金庫]] *[[はくさん信用金庫]] | *[[興能信用金庫]] *[[石動信用金庫]]金沢支店 | *[[金沢中央信用組合]] *[[石川県医師信用組合]] *[[北陸労働金庫]] }}{{clear}} ;[[ゆうちょ銀行]] *[[金沢中央郵便局|金沢支店]](富山、石川、福井3県の統括店) === 拠点を置く主な生活協同組合 === * [[全国労働者共済生活協同組合連合会|全労済]]石川県本部 == 教育 == [[ファイル:Administrative Office of Kanazawa University.JPG|thumb|[[金沢大学]]角間キャンパス]] [[ファイル:Hokuriku University (Kanazawa, Ishikawa).jpg|thumb|[[北陸大学]]太陽が丘キャンパス]] === 大学 === ;国立 *[[金沢大学]] ;公立 *[[金沢美術工芸大学]] ;私立 *[[金沢工業大学]] *[[金沢学院大学]] *[[金沢星稜大学]] *[[北陸大学]] *[[北陸学院大学]] === 短期大学 === *[[金沢学院短期大学]] *[[北陸学院大学短期大学部]] *[[金沢星稜大学女子短期大学部]] === 専修学校 === {{div col}} *[[金沢科学技術大学校]] *[[ファーストコンピューター専門学校]] *[[北陸デザイナー専門学校]] *[[国際デザインカレッジ金沢]] *[[金沢国際デザイン研究所]] *[[石川県調理師専門学校]] *[[アリス国際学園]] *[[金沢福祉専門学校]] *[[日本動物美容看護学園]] *[[金沢調理師専門学校]] *[[石川県立保育専門学園]] *[[アットマーク国際高等学校]](金沢中央キャンパス) *[[金沢医療福祉製菓専門学校]] *[[金城ファッションカレッジ]] *[[金沢文化服装学院]] *[[石川医療技術専門学校]] *[[北信越柔整専門学校]] *[[金沢リハビリテーション・アカデミー|金沢リハビリテーションアカデミー]] *[[石川県理容美容専門学校]] *[[金沢看護専門学校]] *[[石川県歯科技士専門学校|石川県歯科医師会立歯科医療専門学校]] *[[国際ペットビジネス専門学校]]金沢 *[[東京アカデミー]]金沢校 *[[石川県立総合看護専門学校]] *[[金沢医療センター附属金沢看護学校]] {{div col end}} === 高等専門学校 === *[[国際高等専門学校]] ;廃校 *[[西南高等専修学校]] (2003年3月廃校) === 高等学校 === {{div col}} ; 国立 * [[金沢大学附属高等学校]](※中高併設) ; 県立 * [[石川県立金沢錦丘中学校・高等学校|石川県立金沢錦丘高等学校]](※中高併設) * [[石川県立金沢泉丘高等学校]] * [[石川県立金沢二水高等学校]] * [[石川県立金沢伏見高等学校]] * [[石川県立金沢辰巳丘高等学校]] * [[石川県立金沢商業高等学校]] * [[石川県立工業高等学校]] * [[石川県立金沢西高等学校]] * [[石川県立金沢桜丘高等学校]] * [[石川県立金沢北陵高等学校]] * [[石川県立金沢向陽高等学校]] * [[石川県立金沢中央高等学校]] ; 市立 * [[金沢市立工業高等学校]] ; 私立 * [[星稜中学校・高等学校|星稜高等学校]](※中高併設) * [[北陸学院中学校・高等学校|北陸学院高等学校]](※中高併設) * [[金沢高等学校]] * [[金沢龍谷高等学校]] * [[遊学館高等学校]] * [[金沢学院高等学校]] ; 廃校 * [[学校法人徳野学園]][[北陸ビジネスアカデミー]]が2004年3月に[[廃校]]になったため、現在市内に技能連携[[向陽台高等学校]]北陸キャンパスがない。 * [[向陽台高等学校北陸キャンパス]]が2004年3月で廃校。 {{div col end}} === 中学校 === ; 国立 * [[金沢大学附属中学校]](※中高併設) ; 県立 * [[石川県立金沢錦丘中学校・高等学校|石川県立金沢錦丘中学校]](※中高併設) ;市立 {{div col}} *[[金沢市立泉中学校]] *[[金沢市立野田中学校]] *[[金沢市立城南中学校]] *[[金沢市立紫錦台中学校]] *[[金沢市立兼六中学校]] *[[金沢市立高岡中学校]] *[[金沢市立鳴和中学校]] *[[金沢市立長田中学校]] *[[金沢市立浅野川中学校]] *[[金沢市立金石中学校]] *[[金沢市立芝原中学校]] *[[金沢市立西南部中学校]] *[[金沢市立内川中学校]] *[[金沢市立犀生中学校]] *[[金沢市立医王山中学校]] *[[金沢市立森本中学校]] *[[金沢市立額中学校]] *[[金沢市立高尾台中学校]] *[[金沢市立緑中学校]] *[[金沢市立港中学校]] *[[金沢市立北鳴中学校]] *[[金沢市立大徳中学校]] *[[金沢市立清泉中学校]] *[[金沢市立長町中学校]] 令和5年開校。 *[[金沢市立長町中学校芳斎分校]] {{div col end}} ; 私立 * [[星稜中学校・高等学校|星稜中学校]](※中高併設) * [[北陸学院中学校・高等学校|北陸学院中学校]](※中高併設) === 小学校 === ==== 国立 ==== * [[金沢大学附属小学校]] ==== 公立 ==== {{div col}} * [[金沢市立泉小学校]] * [[金沢市立中村町小学校]] * [[金沢市立十一屋小学校]] * [[金沢市立泉野小学校]] * [[金沢市立犀桜小学校]] * [[金沢市立小立野小学校]] * [[金沢市立兼六小学校]] * [[金沢市立中央小学校]] * [[金沢市立中央小学校芳斎分校]] * [[金沢市立長田町小学校]] * [[金沢市立明成小学校]] * [[金沢市立諸江町小学校]] * [[金沢市立馬場小学校]] * [[金沢市立森山町小学校]] * [[金沢市立浅野町小学校]] * [[金沢市立小坂小学校]] * [[金沢市立千坂小学校]] * [[金沢市立夕日寺小学校]] * [[金沢市立大浦小学校]] * [[金沢市立浅野川小学校]] * [[金沢市立鞍月小学校]] * [[金沢市立粟崎小学校]] * [[金沢市立大野町小学校]] * [[金沢市立金石町小学校]] * [[金沢市立大徳小学校]] * [[金沢市立戸板小学校]] * [[金沢市立緑小学校]] * [[金沢市立押野小学校]] * [[金沢市立米丸小学校]] * [[金沢市立三馬小学校]] * [[金沢市立富樫小学校]] * [[金沢市立額小学校]] * [[金沢市立内川小学校]] * [[金沢市立犀川小学校]] * [[金沢市立湯涌小学校]] * [[金沢市立田上小学校]] * [[金沢市立医王山小学校]] * [[金沢市立森本小学校]] * [[金沢市立花園小学校]] * [[金沢市立不動寺小学校]] * [[金沢市立三谷小学校]] * [[金沢市立南小立野小学校]] * [[金沢市立伏見台小学校]] * [[金沢市立扇台小学校]] * [[金沢市立木曳野小学校]] * [[金沢市立三和小学校]] * [[金沢市立長坂台小学校]] * [[金沢市立新神田小学校]] * [[金沢市立西南部小学校]] * [[金沢市立米泉小学校]] * [[金沢市立四十万小学校]] * [[金沢市立西小学校]] * [[金沢市立安原小学校]] * [[金沢市立杜の里小学校]] * [[金沢市立朝霧台小学校]] {{div col end}} ==== 私立 ==== * [[北陸学院小学校]] === 特別支援学校 === {{Col| ; [[養護学校]] * [[金沢大学附属特別支援学校]] * 石川県立明和特別支援学校 * 石川県立医王養護学校 * 石川県立総合養護学校 | ; [[盲学校]] * 石川県立盲学校 ; [[聾学校]] * [[石川県立ろう学校]] ; 廃校 * [[石川県立愛育養護学校]] * [[石川県立平和町養護学校]] }}{{clear}} == 施設 == === 警察 === * [[金沢中警察署]] ** 管轄区域 - 概ね[[犀川 (石川県)|犀川]]以南の地域および中心部([[香林坊]]・[[片町 (金沢市)|片町]]・[[広坂]]) * [[金沢東警察署]] ** 管轄区域 - 金沢市北部・東部([[金沢駅]]周辺、[[武蔵ヶ辻]]、[[森本町|森本]]など) * [[金沢西警察署]] ** 管轄区域 - 金沢市西部([[金沢港]]、[[鞍月]]、[[金石 (金沢市)|金石]]、[[大野町 (石川県)|大野町]])および西南部([[安原村 (石川県)|安原]]・[[押野村|西金沢]]など) === 消防 === [[金沢市消防局]]が管轄する。 {{Col| *中央消防署 **高尾台出張所 **泉野出張所 **味噌蔵出張所 **小立野出張所 | *駅西消防署 **玉川出張所 **鳴和出張所 **森本出張所 | *金石消防署 **三和出張所 **臨港出張所 }}{{clear}} === 主な医療機関 === ※病床数200以上の医療機関のみ記述する。 {{Col| *[[石川県立中央病院]] *[[金沢市立病院]] *[[金沢赤十字病院]] *[[金沢大学附属病院]] *[[地域医療機能推進機構金沢病院]]| *[[国立病院機構医王病院]] *[[国立病院機構金沢医療センター]] *[[石川県済生会金沢病院]] *[[城北病院]] *[[浅ノ川総合病院]] }}{{clear}} === 図書館 === {{Col| ;県立 *[[石川県立図書館]] *[[石川県議会]]図書館 ;市立 *[[金沢市図書館]] **[[金沢市立玉川図書館]] ***近世資料館([[登録有形文化財]]、旧[[日本専売公社]]煙草工場) ***城北分館 **[[金沢市立泉野図書館]]([[国際連合寄託図書館|国連寄託図書館]]) ***[[金沢市立泉野図書館#金沢市立平和町児童図書館|金沢市立平和町児童図書館]](2022年3月閉館<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/701711|title=さよなら平和町図書館 72年の歴史に幕 「30年以上、何冊も借りました」|publisher=北國新聞|accessdate=2022-04-02}}</ref>) **[[金沢海みらい図書館|金沢市立金沢海みらい図書館]] **[[金沢市立玉川こども図書館]] | ;財団法人の図書館 *県国際情報ライブラリー<br />([[財団法人]]石川県国際交流協会) ;学外者の館外貸出し利用が可能な大学 *金沢大学 *金沢星稜大学 *北陸大学 *北陸学院短期大学 *金沢美術工芸大学 }}{{clear}} === 美術館・博物館・記念館 ===<!-- 特筆性のない施設は記載しないこと --> {{div col}} * [[国立工芸館]]([[東京国立近代美術館]]工芸館) * [[石川県立美術館]] * [[金沢21世紀美術館]] * [[四高記念文化交流館]] ** [[石川近代文学館]] ** [[四高記念館]] * [[石川県政記念しいのき迎賓館]] * [[石川県銭屋五兵衛記念館|石川県銭屋五兵衛記念館・銭五の館]] * [[石川県立伝統産業工芸館]] * [[石川県立歴史博物館]] * [[石川県立自然史資料館]] * [[石川県金沢港大野からくり記念館]] * 石川県埋蔵文化財センター<ref>[http://www.ishikawa-maibun.or.jp/senter.html 石川県埋蔵文化財センターの紹介と利用案内]. 石川県埋蔵文化財センター</ref> * [[泉鏡花記念館]] * 金沢卯辰山工芸工房 * 金沢くらしの博物館 * [[金沢市立中村記念美術館]] * 金沢市埋蔵文化財収蔵庫<ref>[http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/maizou/shuuzouko.html 金沢市埋蔵文化財収蔵庫]. 金沢市</ref> * 石川県庁舎石引分室 * 辻家庭園 * 彦三緑地ツツジ資料館 * [[金沢能楽美術館]] * [[金沢ふるさと偉人館]] * [[金沢市立安江金箔工芸館]] * [[金沢市足軽資料館]] * [[金沢蓄音器館]] * 金沢美術工芸大学美術工芸研究所 * 金沢文芸館 * [[金沢湯涌江戸村]] * [[金沢湯涌夢二館]] * [[西茶屋資料館]] * [[成巽閣]] * [[徳田秋聲記念館]] * [[玉泉園|西田家庭園 玉泉園]] * [[加賀本多博物館]] * [[前田土佐守家資料館]] * [[室生犀星記念館]] * [[鈴木大拙館]] * 武家屋敷跡野村家 * 旧加賀藩士高田家跡 * 寺島蔵人邸 {{div col end}} {{Gallery |21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa011.jpg|金沢21世紀美術館 |The Forth High School Memorial Museum of Cultural Exchange Ishikawa05s3s3750.jpg|四高記念文化交流館 |Ishikawa_Kanazawa_Seisonkaku00.jpg|成巽閣 |Saisetsutei.jpg|玉泉園(灑雪亭) }} === ホール・劇場・その他の文化施設 === {{div col}} *[[石川県立音楽堂]] **コンサートホール **邦楽ホール **交流ホール *[[石川県文教会館]] *[[石川県立能楽堂]] *[[本多の森北電ホール]](旧石川[[厚生年金会館]]) *石川県立中央児童会館 *[[金沢歌劇座]] *[[金沢市文化ホール]] *[[ポルテ金沢|金沢市アートホール]] *[[金沢市民芸術村]] *金沢湯涌創作の森 *金沢卯辰山工芸工房 *[[金沢市教育プラザ富樫]] *いしかわ子ども交流センター *[[銀河の里キゴ山]] **金沢市キゴ山天体観察センター **金沢市キゴ山少年自然の家 *石川県青少年総合研修センター *九谷光仙窯 {{div col end}} === 芸術音楽スタジオ === {{div col}} * [[金沢市俵芸術交流スタジオ]] {{div col end}} === 公園・緑地・運動場・野球場・グラウンド === {{div col}} * [[西部緑地公園]] - [[1974年]]開設 49.6ha ** [[石川県産業展示館]] ** [[石川県立野球場]] ** [[石川県西部緑地公園陸上競技場]] * [[健民海浜公園]] - [[1971年]]開設 47.1ha * 奥卯辰山健民公園 - 1971年開設 41.6ha * 犀川緑地 [[1978年]]開設 32.7ha * 北部公園 - [[1989年]]開設 20.7ha * [[兼六園]] - [[1874年]]公開 国の特別名勝 11.7ha * [[金沢城|金沢城公園]] - [[2003年]]開設 11.0ha(完成部分のみ) * [[本多の森公園]] - 1978年開設 5.9ha * [[いしかわ四高記念公園]] - [[1968年]]開設 3.3ha * 大野湊緑地公園 - [[1997年]]開設 2.7ha * 鞍月セントラルパーク - 2003年開設 1.7ha * 玉川公園 - [[1979年]]開設 1.5ha * 内川スポーツ広場 * 大豆田簡易グラウンド * 市営グラウンド ** 陸上競技場 ** 市営球技場 * 市民野球場 * 専光寺ソフトボール場 * 戸室スポーツ広場 * 安原スポーツ広場 * [[金沢市民サッカー場]] {{div col end}} === 体育館・アリーナ === {{div col}} *[[金沢市総合体育館]] *[[中央市民体育館]] *城北市民体育館 *[[城南市民体育館]] *[[城東市民体育館]] *城西市民体育館 *西部市民体育館 *森本市民体育館 *浅野川市民体育館 *額谷ふれあい体育館 *鳴和台市民体育館 *[[医王山スポーツセンター]] *[[いしかわ総合スポーツセンター]] {{div col end}} === プール === {{Col| *[[金沢プール]] *金沢市営西部プール | *金沢市営鳴和台プール *健民海浜プール }}{{clear}} === テニスコート === {{Col| *城北市民テニスコート *城東テニスコート | *東金沢スポーツ広場 *西金沢テニスコート | *大徳テニスコート *城東テニスコート }}{{clear}} === ゲレンデ === * [[医王山スキー場]] == 交通 == === 鉄道 === [[ファイル:Kanazawa-STA Kenrokuen-entrance.jpg|thumb|[[金沢駅]]]] 市の中心となる駅:'''[[金沢駅]]''' ;[[ファイル:JR logo (west).svg|25px]] [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) *[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] [[北陸新幹線]]:- '''[[金沢駅]]''' - *{{color|#0072bc|■}}[[北陸本線]]:- [[西金沢駅]] - '''金沢駅''' - **2024年3月16日、北陸新幹線の敦賀延伸で、本市は[[沖縄県]][[那覇市]]とともに、JR在来線がない県庁所在地となる。 ;[[ファイル:JR logo (freight).svg|25px]] [[日本貨物鉄道]](JR貨物) *{{Color|black|■}}[[金沢貨物ターミナル駅]](貨物専門非旅客駅) ;[[ファイル:IR Ishikawa Railway logo.svg|22px|IRいしかわ鉄道|link=IRいしかわ鉄道]] [[IRいしかわ鉄道]] *{{Color|#00a7e3|■}}[[IRいしかわ鉄道線]]:'''金沢駅''' - [[東金沢駅]] - [[森本駅]] ;[[北陸鉄道]](北鉄) *{{Color|darkorange|■}}[[北陸鉄道石川線|石川線]]:[[野町駅]] - [[西泉駅]] - [[新西金沢駅]] / [[馬替駅]] - [[額住宅前駅]] - [[乙丸駅]] - [[四十万駅]] *{{Color|darkorange|■}}[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]:'''[[北鉄金沢駅]]''' - [[七ツ屋駅]] - [[上諸江駅]] - [[磯部駅 (石川県)|磯部駅]] - [[割出駅]] - [[三口駅]] - [[三ツ屋駅]] - [[大河端駅]] - [[北間駅]] - [[蚊爪駅]] 北陸鉄道の両線は連絡していない。石川線は西金沢駅で、浅野川線は金沢駅で、JR線・IRいしかわ鉄道線に乗り換えできる。 ; 隣接市町村への連絡 * 内灘町へ:北陸鉄道浅野川線 * 津幡町へ:IRいしかわ鉄道線 * 野々市市、白山市(旧松任市・旧美川町)へ:北陸本線 * 野々市市、白山市(旧鶴来町)へ:北陸鉄道石川線 ==== 広範囲な連絡 ==== ; [[特別急行列車|特急列車]] [[金沢駅]]には2019年時点、北陸新幹線のほか、JRの以下の[[在来線]]特急が発着している。 {{Main|北陸本線#優等列車}} {{Col| * [[サンダーバード (列車)|サンダーバード]] * [[ダイナスター (列車)|ダイナスター]] * [[しらさぎ (列車)|しらさぎ]] | * [[能登かがり火]] * [[おはようエクスプレス・おやすみエクスプレス]]([[土曜日]]・[[休日]]運休) * [[花嫁のれん (列車)|花嫁のれん]](観光列車であるが特急として運行) }}{{clear}} === 空港 === {{Main|小松飛行場}} [[国際航空運送協会|IATA]]都市コードは'''QKW'''が充てられている。小松空港(空港コード'''KMQ''')から、2022年時点で国内線は[[東京国際空港|東京(羽田)]]、[[新千歳空港|札幌(新千歳)]]、[[福岡空港|福岡]]、[[那覇空港|那覇]]へそれぞれ就航している。国際線の発着もある<!-- 変動が多いので、航空会社・路線については載せない -->。小松空港へは金沢駅西口から[[北陸鉄道金沢営業所#小松空港線|小松空港リムジンバス]]によって約40分で結ばれている。 === 路線バス === * [[北鉄バス]]グループ ** [[北陸鉄道]] ** [[北鉄金沢バス]] ** [[北鉄白山バス]] ** [[北鉄能登バス]] ** [[北鉄奥能登バス]] : 金沢市街地に高頻度の路線網を持ち、観光用には[[城下まち金沢周遊]]バスが走る。 : 能登方面や小松空港といった、県内各地を結ぶ特急バス・[[急行バス]]も多数運行。 : [[高速バス]]は[[名鉄バスセンター|名古屋]]、[[万代シテイバスセンター|新潟]]、[[富山駅|富山]]、[[高山濃飛バスセンター|高山]]([[白川郷]])と、各主要都市との路線がある。 * [[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]] : 金沢市北部に多くの路線網を持つ。過去には[[県境]]を越えて富山県南砺市の[[福光駅]]発着の系統を持ち、福光以南[[名古屋駅]]までの[[名金急行線|名金線]]があった。 : 高速バスは[[大阪駅周辺バスのりば|大阪]]([[京都駅|京都]]・[[福井駅 (福井県)|福井]])、名古屋、[[仙台駅のバス乗り場|仙台]]との路線に参入している。 * [[加越能バス]] : 金沢駅西口と富山県の[[福光駅]]・旧[[井波駅]]の間で路線バスを運行。 : 高速バスは[[砺波駅]]との路線があり、[[土曜日]]・[[休日]]は[[三井アウトレットパーク北陸小矢部]]を経由する。 * [[西東京バス]]・[[松本電鉄バス#東京支社(旧アルピコ交通東京)|アルピコ交通]] : 高速バスのみ運行。北陸鉄道が運行支援を行っている。 * [[北日本観光自動車]] : 東京、大阪方面へ高速バスを運行。東京方面は[[東北急行バス]]と、大阪方面は[[近鉄バス]]と共同運行を行っている。 * 金沢ショッピングライナー[[まちバス]] : 青い車体が特徴。金沢駅を起終点に、市内中心部の商店街を20分ないしは30分間隔100円で周回している(土曜日・[[日曜日]]および[[祝日]]のみ運行)。運営は金沢商業活性化センター(金沢市出資の[[第三セクター]])であるが、西日本JRバスに委託している。 * [[金沢ふらっとバス]] : 金沢市が運営し、北陸鉄道と西日本JRバスに委託運行している[[コミュニティバス]]。「此花ルート」、「菊川ルート」、「材木ルート」および「長町ルート」の4ルートがある。いずれのルートも[[狭隘道路|旧市街の裏通りが経路]]として含まれており、そこへ走り得る小型の車体と100円均一の低運賃が特徴。 この他に、高速[[ツアーバス]]から新高速乗合バス制度へ移行した高速バスが金沢駅西口を中心に発着している。 {{Main|金沢駅バスターミナル}} === 乗合タクシー === * [[チョイソコ]]かなざわ : 金沢市と沿線住民で構成されている「次世代型交通システム推進協議会」が運営し、なるわ交通と金城交通に委託運行している[[デマンド型交通|デマンド型]][[乗合タクシー]]。区域運行のため[[時刻表]]はない。事前登録が必要で、沿線住民のみ登録可能である。運行地域での西日本JRバスの撤退に伴い、[[2022年]]([[令和]]4年)[[7月1日]]より運行を開始した。 === その他の交通手段 === * [[自転車]] {{Main|まちのり}} === 道路 === 金沢市街地は加賀前田藩の城下町として栄えた歴史があり、初代藩主[[前田利家]]は、甲州流兵学に基づいて城下に敵が攻め込みにくいよう、他の城下町以上に道に曲がり角を多数設けた設計がなされた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=156–157}}。市内の道路は道が入り組んでいて分かりにくいという指摘があるが、これは金沢が戦災に遭わなかったこともあり、藩政時代の区画がそのまま残されて今の道路に引き継がれた名残である{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|pp=156–157}}。 ; 高速道路 * [[北陸自動車道]]:[[金沢西インターチェンジ|金沢西IC]] - [[金沢東インターチェンジ|金沢東IC]] - [[金沢森本インターチェンジ|金沢森本IC]] ; 自動車専用道路 * [[のと里山海道]]:[[粟崎インターチェンジ|粟崎IC]] ; 一般国道 * [[国道8号]] * [[国道157号]] * [[国道159号]] * [[国道249号]](市内全区間が国道159号と重複している) * [[国道304号]] * [[国道305号]](市内全区間が国道157号と重複している) * [[国道359号]] ; 一般県道 {{div col}} * [[石川県道8号松任宇ノ気線]] * [[石川県道・富山県道10号金沢湯涌福光線]] * [[石川県道13号金沢停車場線]] * [[石川県道17号金沢港線]] * [[石川県道22号金沢小松線]] * [[石川県道25号金沢美川小松線]] * [[石川県道・富山県道27号金沢井波線]] * [[石川県道45号金沢鶴来線]] * [[石川県道60号金沢田鶴浜線]](通称'''50m道路''') * [[石川県道106号野々市西金沢停車場線]] * [[石川県道123号東金沢停車場線]] * [[石川県道146号金沢停車場南線]] * [[石川県道159号金沢停車場北線]] * [[石川県道189号額谷三浦線]] * [[石川県道193号窪野々市線]] * [[石川県道194号宮永横川町線]] * [[石川県道195号倉部金沢線]] * [[石川県道196号上安原昭和町線]] * [[石川県道197号寺中西金沢線]] * [[石川県道198号畝田大野線]] * [[石川県道200号向粟崎安江町線]] * [[石川県道201号蚊爪森本停車場線]] * [[石川県道205号八田南森本線]] * [[石川県道207号倉谷土清水線]] * [[石川県道209号芝原石引町線]] * [[石川県道210号清水小坂線]] * [[石川県道211号二俣古屋谷線]] * [[石川県道212号中尾津幡線]] * [[石川県道213号仮生堅田線]] * [[石川県道215号森本津幡線]] * [[石川県道299号近岡諸江線]] {{div col end}} ; 国道・県道以外の主要幹線・バイパス * [[石川県道22号金沢小松線|加賀産業道路]] * [[金沢外環状道路]] ** 山側幹線(通称・'''山側環状'''。[[東長江インターチェンジ|東長江IC]]以北は[[歩道]]がなく、歩行者・[[軽車両]]の乗り入れを事実上制限している。さらに[[金沢森本インターチェンジ|金沢森本IC]]で[[北陸自動車道|北陸道]]と接続している。) ** 海側幹線(通称・'''海側環状''') その他、市道を含む、金沢市内の道路には、さまざまな通称名がつけられている。詳しくは[[金沢市内の通り]]を参照のこと。 === 港湾 === *[[金沢港]] *[[大野港]] *[[金石港]] == マスメディア == ; [[新聞]] * [[北陸中日新聞]]([[中日新聞北陸本社]]が発行) * [[北國新聞]] ; [[テレビ]] {{Col| * [[NHK金沢放送局]]<!-- コールサインの記載は不要 --> * [[北陸放送]](MROテレビ、[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]系列) * [[石川テレビ放送]]([[フジニュースネットワーク|FNN]]・[[フジネットワーク|FNS]]系列) | * [[テレビ金沢]]([[日本ニュースネットワーク|NNN]]・[[日本テレビネットワーク協議会|NNS]]系列) * [[北陸朝日放送]](HAB、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]系列) * [[金沢ケーブル]]([[ケーブルテレビ]]局) }}{{clear}} ; [[ラジオ]] * 北陸放送(MROラジオ、[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]系列) * [[エフエム石川]]([[全国FM放送協議会|JFN]]系列) * [[ラジオかなざわ]]([[コミュニティ放送]]) ; [[フリーペーパー]] * [[ホットペッパー (フリーペーパー)|ホットペッパー]]金沢版([[リクルートホールディングス|リクルート]]) * 金沢情報([[カラフルカンパニー]]) * FAVO金沢版(ストアインク) ※ [[全国紙]]では、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]]、[[産経新聞]]、[[日本経済新聞]]の4紙は大阪本社で発行された物が、[[読売新聞]]は[[読売新聞北陸支社|北陸支社]]([[富山県]][[高岡市]]、[[読売新聞東京本社]]の支社)で発行された物が販売されている。読売新聞については夕刊も発行されている。 == 文化の金沢 == 金沢市を含む「金沢地域<ref group="注釈">金沢市、かほく市、白山市(旧松任市、美川町)、野々市市(旧野々市町)、津幡町、内灘町</ref>」の観光入込客数は'''518.7万人'''(2021年(令和3年))で、兼六園への来客が全体の約17%(88.0万人)を占める<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11018/toukeisho/24nendo/toukeisyoH24nendo.html |title=令和4年度(2022年度)金沢市統計書 |accessdate=2013-07-25 |publisher=金沢市都市政策局調査統計室 |page=246 |date=2023-3}}</ref><ref group="注釈">なお、2019年度(令和元年度)の観光客数は、1,067.6万人。うち兼六園は270.4万人(約25%)。</ref>。伝統的な建造物や工芸、文化が遺り、「北陸の京都」とも呼ばれるが、江戸期に成立した町であることから江戸の町の典型を遺し、また、京都が伝統文化を対外的な売り物としている「観光都市」であるのに対し、金沢はそれらを生活の中で消費する「文化都市」であるとも一時は言われていたが<ref>『日本の町』丸谷才一、山崎正和、文藝春秋、1987、p12</ref>、2015年の北陸新幹線開通などを受け国際観光都市を目指した街づくりが推進されている。 === 主な観光地 === {{右| [[ファイル:Niji-bashi and Kotoji Toro, Kenroku-en 20120905130513.jpg|thumb|none|兼六園]] [[ファイル:131109 Seisonkaku Kanazawa Ishikawa pref Japan10s3.jpg|thumb|none|成巽閣]] [[ファイル:Nagamachi Bukeyashiki.jpg|thumb|none|長町武家屋敷跡]] [[ファイル:Higashiyamahigashi 2015 Ⅱ.JPG|thumb|none|茶屋街(東山ひがし)]] [[ファイル:ChayakanazawaJP17-2.jpg|thumb|none|茶屋街(主計町)]] }} 江戸時代に[[金沢城]]の庭園として作られた[[兼六園]]は、[[水戸市|水戸]]の[[偕楽園]]、[[岡山市|岡山]]の[[後楽園]]とともに[[日本三名園]]とされる。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによる。兼六園に隣接して[[幕末|江戸末期]]に建てられた[[成巽閣]]は[[前田家]]の[[正室|奥方]][[御殿]]である。内部の意匠は女性らしい可憐で優美なしつらえや造りとなっている。 この[[兼六園]]から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には城の中の大学として[[金沢大学]]のキャンパスがあったが、郊外(角間)へ移転した。その後一部の櫓や門、庭園などが当時の技術のままに復元され、一般に公開されている。 市内中心部の[[長町武家屋敷跡|長町]]には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡に野村家庭園があり、[[加賀友禅]]の長町友禅館(旧彩筆庵)と並んで内部を見学することができる。中には小さい滝があり、立体的な配置のため街中とは思えない奥行きがある風景を楽しめる。 市内には、[[犀川 (石川県)|犀川]]と[[浅野川]]の二つの川が流れている。浅野川沿いの東山周辺、東の茶屋街(旧東の郭)には江戸時代の遊郭に由来する古い町並みが残る。内部を改装して飲食店などに利用されている家もある。[[東山ひがし|東山ひがし地区]]と[[主計町 (金沢市)|主計町]]は[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定されている。背後にある卯辰山からは市街地から遠く日本海までを見渡すことができる。一方犀川沿いには、[[にし茶屋街]](旧西の郭)がある。 犀川からほど近い[[寺町寺院群|寺町]]の[[妙立寺]]は、内部に外敵を避けるための隠し通路や階段などの工夫が施されていることから「忍者寺」と呼ばれ人気がある。海外のガイドブックにも紹介されている。 この他、[[2010年]]10月に東山に移転オープンした安江金箔工芸館では金箔の製造工程や箔打ちなどの実演を観ることができる。[[松根城]]は市の史跡に指定されている。 [[2004年]]に開館した[[金沢21世紀美術館]]は市街地の中心部に立地し、[[現代美術]]をテーマとした展示を行っている。開館1年で[[地方都市]]の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる[[2009年]]には累計入館者数700万人を突破し<ref>[http://kanazawa.keizai.biz/headline/724/ 金沢21世紀美術館、5周年で記念式典-累計入館者数は700万人超に - 金沢経済新聞]</ref>、兼六園と並ぶ新たな[[観光資源]]として注目されている。 金沢市の海に面した地域に[[大野町 (石川県)|大野地区]]は[[醤油]]の産地で、今でも醤油蔵が立ち並んでいる。町並保存地区として独特の風情を楽しむことができる、商業の町である。 近年、[[中華民国|台湾]]を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏[[ミシュラン]]の2009年3月発行の「[[ミシュランガイド#その他のガイドブック|ミシュラン・グリーンガイド]]・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得している<ref>{{cite web|url=http://www.pref.aichi.jp/kanko/kankose/ken/05misyuran.pdf|title=日本に関するフランス語の観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」2009掲載内容(中部地域抜粋)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090824100300/http://www.pref.aichi.jp/kanko/kankose/ken/05misyuran.pdf|archivedate=2009-08-24|accessdate=2016-08-15|publisher=愛知県}}</ref>。 [[北陸新幹線]]の開業により、これまで少なかった関東や東北などからの観光客が増加し、ホテルの建設ラッシュなども進んでいる。 === 行事・イベント === [[金沢百万石まつり]]が有名。毎年6月に[[前田利家]]の金沢入城を模した行列が街の中を練り歩く。利家役には男性有名人が選ばれている。友禅灯籠流しや百万石踊り流しなどの協賛・関連行事も多く催される。 [[湯涌温泉|湯涌地区]]では、毎年6月30日に[[氷室]]開きと呼ばれる藩政期より伝わる伝統行事が行なわれる。 イベントでは、毎年2月初旬に[[いしかわ四高記念公園]]で行われるフードピア金沢、毎年5月初旬に[[クラシック音楽|クラシック]][[音楽祭]]の[[風と緑の楽都音楽祭|いしかわ風と緑の楽都音楽祭]](旧[[ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 「熱狂の日」音楽祭|ラ・フォル・ジュルネ金沢]])、8月には[[香林坊]]から武蔵が辻が歩行者天国となる金沢ゆめ街道が開催される。 === 宗教施設 === 市内には、神社が330余り、仏教寺院が390余りある。仏教寺院を宗派別に見ると、他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して[[浄土真宗]]の寺院のみが3倍あまりに増加し、寺院全体の半数を超える210寺が立つ。これは、中世に[[親鸞]]のもとで修行した僧[[蓮如]]が、北陸地域で熱心に布教活動を行ったからといえる。その内の192寺が[[真宗大谷派]]である。 ==== 神社 ==== [[ファイル:Kanazawa-C-2860.jpg|thumb|尾山神社。神門三層目の窓に五色のステンドグラスがはめ込まれている。設置されている[[避雷針]]は日本最初。]] {{Col| [[金沢五社]] * 宇多須神社 * 小坂神社 * 神明宮 * 椿原天満宮 * 安江八幡宮 | その他の主な神社 * [[尾山神社]](神門は国の重要文化財) * [[石川護国神社]] * [[大野湊神社]] * [[石浦神社]] * [[尾崎神社]](本殿などは国の重要文化財) * [[豊国神社 (金沢市)|豊国神社]] * [[金沢神社]] * [[久保市乙剣宮]] * [[波自加弥神社]] * [[中村神社]] * [[大野日吉神社]] }}{{clear}} ==== 寺院 ==== {{Col| * [[卯辰山山麓寺院群]] (全性寺、龍国寺など) * [[小立野寺院群]] ([[天徳院 (金沢市)|天徳院]]、[[宝円寺]]、[[経王寺 (金沢市)|経王寺]]、[[妙喜寺 (金沢市)|妙喜寺]]など) * [[寺町寺院群]] ([[大蓮寺 (金沢市)|大蓮寺]]、[[妙立寺]]、[[伏見寺]] [[西方寺 (金沢市寺町)]]など) | * [[大乗寺]](仏殿は国の重要文化財) * [[本泉寺 (金沢市)|本泉寺]] * 真宗大谷派金沢別院(金沢東別院) * [[本願寺金沢別院|浄土真宗本願寺派本願寺金沢別院(金沢西別院)]]}}{{clear}} ==== キリスト教会 ==== * [[カトリック教会|カトリック]]金沢教会([[カトリック名古屋教区|名古屋教区]]) * [[日本基督教団金沢教会]] * [[日本基督教団金沢長町教会]] * [[金沢元町教会|日本基督教団金沢元町教会]] *[[日本基督教団]]金沢南部教会 *[[日本基督教団]]若草教会 *[[日本キリスト改革派教会|日本キリスト改革派]]金沢教会 ==== その他 ==== * [[創価学会]]石川文化会館 * [[天祖光教]]金沢教会 * [[山田らの集団]] === 名産品 === [[ファイル:GORI NO TENPURA.jpg|thumb|ゴリのから揚げ]] * 加賀料理 ** [[かぶら寿司]]([[カブ|蕪]]で[[ブリ|鰤]]の塩漬けを挟んで[[発酵]]させた[[なれずし|熟れ鮨]]の一種) ** [[ゴリ料理]]([[佃煮]]、[[唐揚げ]]、[[から揚げ]]、[[照り焼き]]、[[白味噌]]仕立てのゴリ汁など) ** [[じぶ煮]]([[鴨肉]]を[[小麦粉]]にからませ、ダシ汁で煮たもの) ** [[鯛の唐蒸し]]([[鯛]]に[[おから|卯の花]]を詰めて蒸し揚げた料理) ** [[鱈]]の[[白子 (精巣)|白子]] **蓮蒸し(すりおろした加賀れんこんで白身魚や海老、鰻などを包んで蒸しあげた料理) ** [[えびす (料理)|えびす]]([[生姜]]の入った[[寒天]]のだし汁に溶き卵を流し込み、固めた料理。べろべろという名でも市民に親しまれている) ** [[なすそうめん]] * [[笹寿司]]([[ササ|笹]]で包んだ[[押し寿司]]) * くるみの佃煮 * [[河豚の卵巣の糠漬け]] * [[醤油]](大野周辺で作られている。他の産地の醤油に比べ、くどさがあまりなく甘いのが特徴) ==== 菓子 ==== 金沢では加賀藩が茶菓子作りを奨励したため高度な菓子文化が育まれ、[[京都市]]や[[松江市]]などと並ぶ「日本三大菓子処」として知られてきた。[[正月]]に食べる[[福梅]]、[[辻占#辻占菓子|辻占]]や、初夏に食べる[[氷室饅頭]]、[[婚姻]]の際に振舞われる[[五色生菓子]]や[[金華糖|金花糖]]などのいわゆる'''縁起菓子'''は、菓子文化の成果の一つといえよう。 市内には今でも「[[森八]]」、「[[諸江屋]]」、「[[じろ飴|俵屋]]」、「[[柴舟小出]]」、「村上」といった[[和菓子]]の老舗が至る所にある。特に森八で作られている[[長生殿 (菓子)|長生殿]]は''日本三名菓''の一つである。 {{div col}} *[[愛香菓]] *[[あんころ餅]] *[[梅鉢最中]] *[[鬼くるみ佃煮最中]] *[[加賀種の最中]] *[[金華糖|金花糖]] *[[くるみ松風]] *[[黒羊羹]] *[[柴舟]] *[[じろ飴]] *[[千歳 (和菓子)|千歳]] *[[長生殿 (菓子)|長生殿]] *[[辻占#辻占菓子|辻占]] *[[きんつば]] *[[花うさぎ]] *[[氷室饅頭]] *[[福梅]] *ふくさ(袱紗) *[[福徳せんべい]] *[[わり氷]]ほか {{div col end}} ==== 日本酒 ==== {{Col| *加賀鳶([[福光屋]]) *黒帯(福光屋) | *福正宗(福光屋) *日榮([[中村酒造]]) | *加賀雪梅(中村酒造) *加賀鶴([[やちや酒造]]) |* 御所泉(武内酒造店)}}{{clear}} ==== 海産物 ==== {{Col| *[[ホッコクアカエビ|甘エビ]] *[[加能ガニ]] | *[[ブリ|寒ブリ]] *香箱ガニ([[ズワイガニ]]の雌) | *[[アカムツ|ノドグロ]] *[[ニギス|メギス]] }}{{clear}} ==== 農作物 ==== {{div col}} *[[加賀野菜]] **[[打木赤皮甘栗かぼちゃ]] **源助だいこん **[[サツマイモ|さつまいも]](五郎島金時など) **二塚からしな **[[セリ|せり]] **加賀太きゅうり **加賀つるまめ **ヘタ紫なす **加賀れんこん **金沢一本太ねぎ **[[タケノコ|たけのこ]] **[[水前寺菜|金時草]] **赤ずいき **[[クワイ|くわい]] **金沢春菊 {{div col end}} ==== 土産品==== * 金箔打紙製法[[あぶらとり紙]] * [[郷土玩具]] ** [[加賀人形]] ** [[加賀獅子|加賀獅子頭]] ** 加賀八幡起き上がり ** 米食いねずみ ==== B級グルメ==== * [[ハントンライス]]([[飯|ライス]]の上に、魚のフライやヒレカツなどの揚げ物と半熟の[[鶏卵|卵]]をのせた料理) * [[金沢カレー]] * [[8番らーめん]] * [[らーめん世界]] * [[第7ギョーザの店|ホワイト餃子]] * [[金沢おでん]]([[バイ|梅貝]]や[[麩#焼き麩|車麩]]、[[蟹面]]などの具材が特徴) ==== その他 ==== [[麸]]([[不室屋]]) === 伝統工芸 === 金沢市では数多くの伝統産業が継承されている。 {{div col}} *[[金箔|金沢箔]](国内シェア [[金箔]]98%、[[銀箔]]100%) *[[加賀友禅]] *[[金沢漆器]] *[[金沢仏壇]] *[[九谷焼]] *[[加賀刺繍]] *[[加賀象嵌]] *[[加賀水引]] *金沢表具 *金沢和傘 *加賀毛針 *加賀提灯 *[[二俣和紙]] {{div col end}} ==== 伝統芸能 ==== *[[加賀宝生]]([[宝生流]][[能楽]]) *金沢素囃子([[邦楽]]) *[[加賀鳶]] *[[加賀万歳]] === 温泉 === {{div col}} ;金沢温泉郷 *[[湯涌温泉]] *[[犀川峡温泉]] *[[深谷温泉]] *[[曲水温泉]] ;その他 *有松温泉 *石引温泉 *円光寺温泉 *[[オータム天然温泉]] *金石温泉 *[[金城温泉]] *みろく温泉 *[[銭がめ温泉]] *[[白鳥路温泉]] {{div col end}} === スポーツチーム === * [[石川ミリオンスターズ]]([[独立リーグ]]・[[日本海リーグ]])- 本拠地は定めていないが、主たるホーム試合開催野球場として[[金沢市民野球場]]を使用している。 * [[NTT北陸]]([[社会人野球]])- 1953年に創部し、1999年に解散。 * [[ツエーゲン金沢]]([[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]])- ホームスタジアムは[[石川県西部緑地公園陸上競技場]]。 * [[金沢武士団]] - バスケットボールクラブ === その他 === * [[都市景観100選]] ** 兼六園周辺文化ゾーン地区 * [[日本の音風景100選]] ** 本多の森の蝉時雨 ** 寺町寺院群の鐘 * [[日本100名城]] ** 金沢城 * [[人と自然が織りなす日本の風景百選]] ** 金沢の兼六園・雪つり風景 * [[若い力 (国民体育大会歌)|若い力]](金沢市の'''市技'''的な扱いと考えられている) * [https://www.eiganokai.com/ カナザワ映画祭](金沢市中心部で開催される映画祭) == 金沢市を舞台とした作品 == === 唱歌 === * 『[[鉄道唱歌]]第四集北陸篇』(1900年10月) ** 作者の[[大和田建樹]]は、[[上野駅|上野]]から[[米原駅|米原]]まで移動する過程において、北陸の都会として栄えた金沢には[[新潟市|新潟]]とともに重点をおき、4番を割いて歌っている。 : ''56.[[津幡駅|津幡]]にかえり乗り換えて ゆけば[[金沢駅|金沢ステーション]] [[加賀藩|百万石]]の城下とて さすが賑う町のさま'' : ''57.名も[[兼六園|兼六の公園]]は [[偕楽園|水戸]][[後楽園|岡山]]と諸共に かぞえられたる吾(わが)国の 三公園の其(その)一つ'' : ''58.柳みどりに花赤く おちくる滝の水白し 雲にそびゆる銅像は [[西南戦争|西南役]]の記念碑よ'' : ''59.[[第9師団 (日本軍)|第九師団]]も県庁も 皆此(この)町にあつまりて 海の外(ほか)までひびきたる その名物は[[九谷焼]]'' === 歌謡曲 === {{div col}} * あゝ金沢城([[三橋美智也]]) * あゝ前田利家公([[藤間大助]]) * 浅野川慕情([[竹下景子]]/[[中村勘三郎 (18代目)|中村勘九郎]]) * 女の金沢([[三島敏夫]]) * [[加賀の女]]([[北島三郎]]、1969年7月) * 金沢加賀人形([[金沢景子]]) * 金沢情話([[三條正人]]、1985年8月) * 金沢情話〜原作 滝の白糸(泉鏡花)より〜([[金田たつえ]]、1996年6月) * 金沢の雨([[城之内早苗]]、1987年10月) * [[金沢の雨]]([[川中美幸]]、2006年12月) * 金沢のひと([[森雄二とサザンクロス]]) * 金沢の夜([[都はるみ]]) * 金沢ブルース([[加賀ひとみ]]) * [[金沢望郷歌]]([[松原健之]]、2005年9月) * 金木犀の匂う道([[鈴木宏子 (歌手)|鈴木宏子]]) * 恋はショッキング・ブルー([[長沢由利香]]) * 香林坊節([[たぁ〜た〜ず|父2]]、2004年4月) * 香林坊ブルース([[西田佐知子]]、1967年11月)([[相川美保]]、2004年6月) * 桜橋から(松原健之、2006年6月) * 青春の旅([[芹洋子]]) * [[COBALT HOUR|花紀行]]([[松任谷由実|荒井由実]]、1975年6月)([[平川地一丁目]]、2006年5月)([[村上ゆき]]、2006年7月) * [[昨晩お会いしましょう|ビュッフェにて]](松任谷由実、1981年11月) * [[滝の白糸 (石川さゆりの曲)|滝の白糸]]([[石川さゆり]]、1988年6月) * [[友禅流し]]([[牧村三枝子]]、1989年11月) * 冷夏([[菅原洋一]]) {{div col end}} === テレビドラマ === * [[誘惑 (1990年のテレビドラマ)|誘惑]]([[TBSテレビ|TBS]]・[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]]、1990年) * [[利家とまつ〜加賀百万石物語〜]]([[日本放送協会|NHK]]・[[大河ドラマ]]、2002年) * [[京都金沢殺人事件シリーズ]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[火曜サスペンス劇場]]、2002年 - 2005年) * [[花嫁のれん (2010年のテレビドラマ)|花嫁のれん]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]・[[東海テレビ制作昼の帯ドラマ|昼ドラ]]、2010年 - 2015年) * [[心の糸]]([[NHK名古屋放送局]]、2010年) * [[金沢のコロンボ]]([[テレビ東京]]・[[水曜ミステリー9]]、2014年 - 2016年) * [[まれ]](NHK・[[連続テレビ小説]]、2015年) * [[私たちはどうかしている]](日本テレビ・[[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]]、2020年) === 文学 === {{div col}} * 金沢にて([[芥川龍之介]]) * [[義血侠血]]([[泉鏡花]]) * 予備兵(泉鏡花) * 薬草取(泉鏡花) * [[照葉狂言]](泉鏡花) * [[由縁の女]](泉鏡花) * [[縷紅新草]](泉鏡花) * [[浅の川暮色]]([[五木寛之]]) * [[金沢望郷歌]](五木寛之) * [[朱鷺の墓]](五木寛之) * [[ステッセルのピアノ]](五木寛之) * 聖者が街へやって来た(五木寛之) * 北の海([[井上靖]]) * 金沢殺人事件([[内田康夫]]) * さすらひ([[尾山篤二郎]]) * 名もなき道を([[高橋治]]) * 出帆([[竹久夢二]]) * 山へよする(竹久夢二) * [[感傷的の事]]([[徳田秋声]]) *ユージニア(恩田陸) * [[光を追うて]](徳田秋声) * 挿話(徳田秋声) * 町の踊り場(徳田秋声) * 金沢の思ひ出([[中原中也]]) * 火にも水にも([[深田久弥]]) * [[ゼロの焦点]]([[松本清張]]) * [[美しい星 (小説)|美しい星]]([[三島由紀夫]]) * [[雪の喪章]]([[水芦光子]]) * [[いのちの停車場]]([[南杏子 (小説家)|南杏子]]) * 抒情小曲集([[室生犀星]]) * [[幼年時代 (室生犀星)|幼年時代]](室生犀星) * [[性に目覚める頃]](室生犀星) * [[杏っ子]](室生犀星) * 青い靴([[森山啓]]) * 夜明け前に会いたい([[唯川恵]]) * 病む月(唯川恵) * 北陸冬景([[与謝野晶子]]) * 北陸秋景(与謝野晶子) * 金沢([[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]) * [[ボトルネック (小説)|ボトルネック]]([[米澤穂信]]) {{div col end}} === 映画・演劇 === {{div col}} * [[瀧の白糸]]([[1933年]]映画化、監督:[[溝口健二]]) * [[加賀騒動]]([[1953年]]映画化、監督:[[佐伯清]]) * 杏っ子([[1958年]]映画化、監督:[[成瀬巳喜男]]) * [[トラック野郎・度胸一番星]]([[1977年]]映画、監督:[[鈴木則文]]) * 白夜わが愛([[1979年]]、[[宝塚歌劇団]]によりミュージカル化) * [[愛情物語 (1984年の映画)]]([[1984年]]映画化、監督:[[角川春樹]]) * [[恋する女たち (氷室冴子)|恋する女たち]]([[1986年]]映画化、監督:[[大森一樹]]) * [[黒い家]]([[1999年]]映画化、監督:[[森田芳光]]) * [[大河の一滴]]([[2001年]]映画化、監督:[[神山征二郎]]) * 手紙([[2003年]]映画化、監督:[[松尾昭典]]) * [[吉祥天女]]([[2007年]]映画化、監督:[[及川中]]) * [[しあわせのかおり]]([[2008年]]映画化、監督:[[三原光尋]]) * [[ゼロの焦点#2009年|ゼロの焦点]]([[2009年]]映画化、監督:[[犬童一心]]) * [[武士の家計簿]]([[2010年]]映画化、監督:[[森田芳光]]) * [[リトル・マエストラ]]([[2013年]]映画化、監督:[[雑賀俊郎]])※ただし、石川県内のみ[[2012年]][[12月1日]]より先行上映<ref>{{Cite web|和書|url=http://little-maestra.jp/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131026203555/http://little-maestra.jp/|title=映画「リトル・マエストラ」公式サイト|archivedate=2013-10-26|accessdate=2016-08-15}}</ref> *[[武士の献立]](2013年映画化、監督:朝原雄三) * [[いのちの停車場]](2021年映画化、監督:[[成島出]])<ref>『金沢ロケ「ワクワクする」 映画「いのちの停車場」 吉永さん、撮影に意欲』(2020年9月12日付け北國新聞朝刊30面)2020年9月12日閲覧</ref><ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/amp/article/54944 医師役「演じ切りたい」 吉永小百合、撮影現場会見](2020年09月11日、東京新聞)2020年9月12日閲覧</ref> {{div col end}} === 漫画 === * 異国の花守 ([[波津彬子]]) * [[金田一少年の事件簿]] (第22 - 23巻、黒死蝶殺人事件)([[さとうふみや]]) * [[ジュリエットの卵]] ([[吉野朔実]]) * [[花の慶次|花の慶次 -雲のかなたに-]]([[原哲夫]]) * [[僕は旅をする]] ([[今市子]]) * [[かくかくしかじか]] ([[東村アキコ]]) === アニメ === * [[センチメンタルジャーニー (アニメ)|センチメンタルジャーニー]](第9話 [[保坂美由紀]]〜私らしく明日へ〜) ([[1998年]][[6月10日]]、[[テレビ東京]]) * [[.hack//Liminality]](Vol.1 .hack//Liminality in case of MINASE,Mai) ([[2002年]][[6月20日]]発売、[[OVA]]) * [[よみがえる空 -RESCUE WINGS-]] ([[2006年]][[1月8日]] - [[3月26日]]、テレビ東京) * [[電脳コイル]] ([[2007年]][[5月12日]] - [[12月1日]]、NHK) * [[Angel Beats!]] ([[2010年]][[4月2日]] - 2010年[[6月26日]]、[[CBCテレビ|CBC]])<!--金沢大学の角間キャンパスと構図がそっくりだが、公式にはアナウンスされていない。--> * [[花咲くいろは]] ([[2011年]][[4月3日]] - 2011年[[9月25日]]、[[P.A.WORKS]]・花いろ旅館組合)<!--金沢市の湯涌温泉が舞台であり、アニメでもクレジットされている。--> * [[青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない]](第13話 明けない夜の夜明け)([[2018年]][[12月17日]]、[[CloverWorks]]・青ブタ Project) === ゲーム === * [[ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ]] == 金沢市出身の有名人 == === 政財界 ===<!-- 五十音順に記載願います。Wikipediaに記載のない人物は記載しないこと --> {{div col}} * [[東良子]](軍人) * [[安宅弥吉]](実業家、[[安宅産業]]創業者) * [[阿部信行]](軍人、政治家、第36代[[内閣総理大臣]]) * [[井口在屋]](実業家、機械工学者、[[荏原製作所]]創業者) * [[石黒武重]](政治家、民主党初代幹事長) * [[ヘルベルト・ヴォールファールト]](軍人) * [[浦茂]](軍人、実業家、第5代[[航空幕僚長]]) * [[岡田直樹]](参議院議員、[[内閣府特命担当大臣]]) * [[奥田建]](元衆議院議員、元[[国土交通副大臣]]) * [[小堀秀毅]](実業家、[[旭化成]]社長) * [[小倉正恒]](実業家、第6代[[住友財閥]]総理事) * [[北元喜雄]](実業家、[[北陸大学]]理事長、[[エフエム石川]]社長) * [[沓掛哲男]](元衆議院議員、第74代[[国家公安委員会委員長]]) * [[杉森務]](実業家、[[ENEOSホールディングス]]会長、[[日本経団連]]副会長) * [[伍堂卓雄]](軍人、政治家、実業家、鉄道大臣、商工大臣、農林大臣) * [[田中美絵子]](元衆議院議員、金沢市議会議員) * [[田村敏和]](白山市長) * [[永井柳太郎]](政治家、鉄道大臣、逓信大臣、拓務大臣) * [[川裕一郎]](石川県議会議員、元金沢市議会議員)  * [[長田哲也]](石川県議会議員、元[[北陸放送]]アナウンサー) * [[中橋徳五郎]](政治家、実業家、文部大臣、商工大臣、内務大臣) * [[野口遵]](実業家、[[日窒コンツェルン]]創業者) * [[馳浩]] ([[石川県知事]]、元衆議院議員、元文部科学大臣) * [[畠山一清]](実業家、機械工学者、荏原製作所創業者) * [[早川千吉郎]](政治家、実業家、[[南満州鉄道]]総裁) * [[林銑十郎]](軍人、政治家、第33代内閣総理大臣) * [[林屋亀次郎]](実業家、政治家、[[無任所大臣 (日本)|国務大臣]]) * [[南喜一]](実業家、元[[日本製紙|国策パルプ]]会長) * [[安江良介]](編集者、元[[岩波書店]]社長) * [[山岡順太郎]](実業家、[[大阪商工会議所]]第8代会頭、[[関西大学]]学長) * [[山科直治]](実業家、元[[バンダイ]]創業者) * [[山科誠]](実業家、元バンダイ・[[日本BS放送]]社長) * [[山出保]](元金沢市長) * [[米原於菟男]](元衆議院議員、元石川新聞社社長) {{div col end}} === 官界 === {{Col| * [[小堀紀久生]](人事院事務総長) * [[堂道秀明]](駐インド大使、駐イラン大使、[[外務省]]中東アフリカ局長) | * [[八田與一]](台湾総督府技官) * [[梅澤捨次郎]] - 建築家、台湾総督府の技師(金沢は本籍地で出生は[[鶴来町]]) }}{{clear}} === 学界 ===<!-- 五十音順に記載願います。Wikipediaに記載のない人物は記載しないこと --> {{div col}} * [[浅野輔]](翻訳家) * [[荒木田岳]](歴史学者) * [[伊藤秀史]](経済学者) * [[江上信雄]](生物学者) * [[遠藤浩一]](評論家) * [[沖中重雄]](医学者) * [[奥村善久]](工学者)[[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]]受賞 * [[勝尾金弥]](児童文学者) * [[鏑木政岐]](天文学者) * [[木越治]](日本近世文芸研究者) * [[北島多一]](細菌学者) * [[木村栄]](天文学者) * [[小出義夫]](物理学者) * [[越村信三郎]](経済学者、会計学者) * [[古瀬大六]](経済学者)※ 本籍は[[長崎県]][[高来郡]][[安中村 (長崎県)|安中村]](現在の[[島原市]]) * [[小松勇作]](数学者) * [[佐口透]](歴史学者) * [[櫻井錠二]](化学者、帝国学士院院長) * [[佐々木直次郎]](英文学者) * [[真田弘美]](看護学者) * [[澤野雅彦]](経営学者) * [[清水澄]](憲法学者) * [[下坂守]](歴史学者) * [[下谷政弘]](経済学者) * [[鈴木大拙]](思想家) * [[高橋順太郎]](医学博士、東京帝国大学初代薬物学教授) * [[竹内外史]](数学者) * [[谷口吉郎]](建築家、建築史家) * [[辻彰]](薬剤学者) * [[南部健一]](工学者) * [[林屋辰三郎]](歴史家) * [[林勇二郎]](工学者) * [[原龍三郎]](工学者) * [[藤井健次郎]](植物学者、帝国学士院会員) * [[藤岡東圃]](国文学者) * [[廣瀬幸雄]](工学者) * [[蓬茨霊運]](天文学者、宇宙物理学者) * [[北条かや]](社会学者) * [[北条時敬]](教育者、数学者) * [[三宅雪嶺]](哲学者、評論家) * [[山川均 (考古学者)|山川均]](考古学者) * [[山本義一]](気象学者) * [[芳井研一]](歴史学者) * [[輪島裕介]](音楽学者) {{div col end}} === 芸術 ===<!-- 五十音順に記載願います。Wikipediaに記載のない人物は記載しないこと --> {{div col}} * [[安宅夏夫]](文筆家) * [[五十嵐浩一]](漫画家) * [[泉鏡花]](小説家) * [[筏井竹の門]](俳人、俳画家) * [[松宮寒骨]](俳人、広告研究家) * [[大樋長左衛門]](陶芸家、[[文化功労者]]、名誉市民) * [[大樋年雄]](陶芸家) * [[大場松魚]](蒔絵、人間国宝) * [[岡井直道]](演出家) * [[花郁悠紀子]](漫画家) * [[賀古残夢]](映画監督) * [[片岡安]](建築家、名誉市長) * [[鴨居玲]](洋画家) * [[かんべむさし]](小説家)(本籍地の兵庫県を出身地と記す場合もある) * [[北野恒富]](日本画家) * [[小石雄一]](著作家) * [[桐野夏生]](小説家) * [[柴野拓美]](翻訳家、[[SF作家]]) * [[高光一也]](洋画家、[[日本芸術院]]会員) * [[谷口吉郎]](建築家) * [[寺井直次]](蒔絵、人間国宝) * [[徳田秋声]](小説家) * [[中川衛]](彫金、人間国宝) * [[中西悟堂]](歌人、詩人、野鳥研究家) * [[蓮田修吾郎]](鋳金、日本芸術院会員) * [[波津彬子]](漫画家) * [[氷見晃堂]](木工芸、人間国宝) * [[松下茂典]](スポーツライター) * [[松田権六]](蒔絵、人間国宝、日本芸術院会員) * [[水芦光子]](小説家) * [[室生犀星]](詩人、小説家) * [[恵広史]](漫画家) * [[森川久美]](漫画家) * [[唯川恵]](小説家) * [[吉田三郎]](彫刻家) * [[若林哲哉]] (俳人) {{div col end}} === 芸能・マスコミ ===<!-- 五十音順に記載願います。Wikipediaに記載のない人物は記載しないこと --> {{div col}} * [[相川美保]](歌手) * [[安宅美春]](ミュージシャン) * [[阿部夢梨]] ([[SUPER☆GiRLS]]) * [[有村美香]]([[TBSテレビ|TBS]]元アナウンサー) * [[五十嵐正 (音楽評論家)|五十嵐正]] ([[音楽評論家]]) * [[伊阪達也]](俳優) * [[石川雅宗]](俳優) * [[井上あずみ]](歌手) * [[今村つばさ]](歌手) * [[潮哲也]](俳優) * [[牛丸謙壱]] ([[テレビプロデューサー]]・[[演出家]]) * [[大森洋平]](シンガーソングライター) * [[鹿賀丈史]](俳優) * 加藤慎一([[フジファブリック]]、ベーシスト) * [[角野達洋]]([[北陸放送]]アナウンサー) * [[亀井和恵]](元[[NHK金沢放送局]]キャスター) * [[嘉門洋子]](タレント) * [[川田亜子]](元TBSアナウンサー) * [[北川和歌子]](俳優、脚本家) * [[こしじまとしこ]]([[capsule]]、歌手) * [[越村江莉]](ファッションモデル、ローカルタレント) * [[篠井英介]](俳優) * [[塩谷瞬]](俳優) * [[新谷良子]](声優) * [[洲崎綾]](声優) * [[高倉美貴]](俳優) * [[高田麻衣子]](プロ雀士) * [[竹村優香]](フリーアナウンサー、元テレビ金沢アナウンサー) * [[田中美里]](俳優) * [[鶫真衣]](陸上自衛官、歌手) * [[徳永有美]](フリーアナウンサー、元[[テレビ朝日]]アナウンサー) * [[中田ヤスタカ]](capsule、音楽プロデューサー) * [[奈良美也子]](元[[宝塚歌劇団]][[花組]][[男役]]トップスター、[[日本舞踊]]家) * [[西川章久]](ラジオパーソナリティ、元北陸放送アナウンサー) * [[nishi-ken]](作曲家) * [[新田さちか]](女優、ファッションモデル、タレント) * [[野崎真助]](ドラマー) * [[野崎森男]](ベーシスト) * [[能登麻美子]](声優) * [[林芽亜里]](モデル) * [[速水健朗]](ライター、編集者) * [[福島彩乃]](元北陸放送アナウンサー) * [[二木あつ子]](ラジオパーソナリティ) * [[保科有里]](歌手) * [[前田明日香]](ラジオパーソナリティ) * [[松岡理恵 (アナウンサー)|松岡理恵]](ラジオパーソナリティ、元エフエム石川アナウンサー) * [[松田亜希]](フリーアナウンサー、元NHK金沢放送局キャスター、元[[チューリップテレビ]]アナウンサー) * [[南あずさ]](フリーアナウンサー) * [[矢尾一樹]]<ref name="onsei">{{Cite book|和書|year=2004|title=日本音声製作者名鑑2004|volume=Vol.1|page=112|publisher=[[小学館]]|ISBN=978-4-09-526301-4}}</ref>(声優) * [[安田真理]](フリーアナウンサー、元[[石川テレビ放送]]アナウンサー) * [[横須賀よしみ]](俳優) * [[吉田日出子]](俳優) * [[若林加奈]](歌手) {{div col end}} === スポーツ ===<!-- 五十音順に記載願います。Wikipediaに記載のない人物は記載しないこと --> {{div col}} * [[井波靖奈]](元プロサッカー選手、[[ジュビロ磐田]]) * [[炎鵬晃]]([[大相撲]][[力士]]) * [[大島鎌吉]]([[陸上競技]]選手、[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|ロサンゼルスオリンピック]]銅メダリスト) * [[大ノ川甚太郎]](元大相撲力士、元[[小結]]) * [[大松尚逸]]([[日本プロ野球|プロ野球]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]内野手) * [[大矢剛功]]([[プロレスラー]]) * [[笠間雄二]](プロ野球・元[[阪神タイガース]]捕手) * [[金森栄治]](プロ野球・元阪神タイガース他外野手、[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|BCリーグ]]・元[[石川ミリオンスターズ]]監督) * [[北一真]] (プロサッカー選手、元[[ザスパクサツ群馬]]GK) * [[北川ひかる]]([[女子サッカー]]・[[浦和レッズレディース]]所属) * [[北野良栄]](プロ野球・元[[福岡ソフトバンクホークス]]捕手、[[競輪選手]]) * [[北村拓己]](プロ野球・[[読売ジャイアンツ]]内野手) * [[兼六山鉄太郎]](元大相撲力士) * [[越川優]]([[バレーボール]]選手、[[パッラヴォーロ・パドヴァ]]所属) * [[小嶋敬二]](競輪選手) * [[小西浩文]]([[登山家]]) * [[坂井宏朱]]([[オートレース]]選手) * [[杉林孝法]]([[陸上競技]]選手) * [[角居勝彦]]([[日本中央競馬会]][[栗東トレーニングセンター|栗東]]所属[[調教師]]) * [[高木貴弘]](元[[プロフェッショナル (サッカー)|プロサッカー選手]]GK) * [[辻武史]](プロ野球・元[[福岡ソフトバンクホークス]]外野手) * [[出島武春]](元大相撲力士、元[[大関]]) * [[髙立直哉]](大相撲力士) * [[突光力和樹]](元大相撲力士) * [[若左倉与吉]](元大相撲力士) * [[なつみ知香]](元女子プロレスラー) * [[中野蘭菜]]([[トランポリン]]選手、[[金沢星稜大学]]在学中) * [[中野紘志]]([[ボート]]選手、[[新日鐵住金]]所属) * [[西川健太郎]](プロ野球・元[[中日ドラゴンズ]]投手) * [[野村直矢 (プロレスラー)|野村直矢]](プロレスラー) * [[橋本晃司]](プロサッカー選手、[[水戸ホーリーホック]]所属) * [[増田章]]([[空手道|空手家]]) * [[舛田圭太]]([[バドミントン選手]]) * [[松本薫 (柔道)|松本薫]](女性[[柔道|柔道家]]) * [[湊川四良兵衞]](元大相撲力士) * [[宮國椋丞]](プロ野球・[[読売ジャイアンツ]]投手、金沢市生まれ、[[沖縄県]][[糸満市]]出身) * [[宮地惟友]](プロ野球・元[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]投手) * [[村田勝喜]](プロ野球・元[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]他投手) * [[村松有人]](プロ野球・元[[福岡ソフトバンクホークス]]外野手) * [[山本省吾]](プロ野球・元[[大阪近鉄バファローズ]]投手) * [[由田慎太郎]](プロ野球・元[[オリックス・バファローズ]]外野手) {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === <!-- 文献参照 ページ--> {{Reflist|2}} == 参考文献 == <!-- 実際に参考にした文献一覧 --> * {{Cite book |和書 |author=石川県|authorlink=|editor = |year=1931|title=石川県史 第四編|publisher=石川県|id=|quote= }} * {{Cite book |和書 |author=石川県立図書館|authorlink=|editor = |year=1975|title=石川県史料 第5巻|publisher=石川県立図書館|id=|quote= }} * {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}} == 関連項目 == {{Multimedia|金沢市の画像}} {{Sisterlinks |commons=金沢市 |commonscat=Kanazawa,_Ishikawa |q=no |v=no |voy=ja:金沢市 |d=Q191130 }} {{See also|Category:金沢市}} * [[加賀藩]] * [[加賀国]] * [[前田氏]] * [[金沢都市圏]] * [[イート金沢]] * [[金沢市役所]] * [[石川県]] * [[北陸地方]] * [[金沢弁]] * [[石狩金沢駅]] == 外部リンク == {{osm box|r|4800041}} ; 行政 * {{Official website|name=金沢市公式ホームページ いいね金沢}} * {{LINE公式アカウント|cityofkanazawa}} * {{Facebook|CityofKanazawa|いいね金沢【cityofkanazawa市役所】}} * {{Twitter|cityofkanazawa|金沢市}} * {{YouTube|user = CityofKanazawa|金沢市公式YouTubeチャンネル}} ; 観光 * [https://www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp/ 金沢市観光協会] ; その他 * [http://www.kanazawa-cci.or.jp/ 金沢商工会議所] * [https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn35.html 金沢金工の系譜と変容] ジェトロ・アジア経済研究所 * [https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kosekishi.htm 金沢古蹟志] - 金沢市図書館 * {{Googlemap|金沢市}} {{金沢市の地域}} {{金沢市の町名}} {{石川県の自治体}} {{日本の都道府県庁所在地}} {{日本の中核市}} {{日本50大都市}} {{世界歴史都市連盟加盟都市}} {{大学コンソーシアム石川}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かなさわし}} [[Category:石川県の市町村]] [[Category:金沢市|*]] [[Category:城下町]] [[Category:都道府県庁所在地]] [[Category:中核市]] [[Category:平成百景]] [[Category:世界歴史都市連盟]] [[Category:1889年設置の日本の市町村]]
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由仁町
由仁町(ゆにちょう)は、北海道空知総合振興局管内、夕張郡にある町。札幌市の東、約42kmに位置する。ヤリキレナイ川が有名である。 地名の由来は、アイヌ語の「ユウンニ(温泉のある所)」から。 北海道空知管内の最南端に位置するひょうたん型の由仁町は、東西に8km、南北に32 km総面積133.74 km、南北に夕張川が流れ、南東部の森林地帯は夕張山地に属し、西部・南部には、馬追丘陵が広がっている。町の西部は長沼町から続く馬追丘陵。東部は平坦な低地で、栗山町との境には夕張川が流れる。南東部は夕張山地に続く森林地帯。町を北緯43度線が通る。 2003年(平成15年)7月に南幌町・栗山町と3町で合併協議会を設置して合併を協議し、新市名を公募に基づいて「東さっぽろ市」に決定、2004年(平成16年)11月には合併協定書に調印した。しかし、長沼町が合併協議に加わらなかったため、飛地となる南幌町では同年10月に行われた住民投票の結果、合併反対が多かった。この結果を受け同町議会は合併関連議案を否決し、同町は合併を断念、協議会は2005年(平成17年)3月に解散し、「東さっぽろ市」は幻のものとなった。 基金の状況 定員管理の適正度(平成26年度) 健全化判断比率 資金不足比率 ※ 平成20年度~平成21年度まで、 実質公債費比率(ピーク時27.4%)で財政健全化団体となった。 下記2施設は学校法人由仁学園によって運営
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由仁町(ゆにちょう)は、北海道空知総合振興局管内、夕張郡にある町。札幌市の東、約42kmに位置する。ヤリキレナイ川が有名である。 地名の由来は、アイヌ語の「ユウンニ(温泉のある所)」から。
{{日本の町村 |自治体名 = 由仁町 |画像 = ゆにガーデン(Yuni Garden).jpg |画像の説明 = ゆにガーデン<br />{{Maplink2|zoom=10|frame=yes|plain=yes|frame-align=center|frame-width=280|frame-height=180|type=line|stroke-color=#cc0000|stroke-width=2|frame-latitude=42.98|frame-longitude=141.79}} |旗 = [[ファイル:Flag of Yuni, Hokkaido.svg|100px]] |旗の説明 = 由仁[[市町村旗|町旗]]<div style="font-size:smaller">[[1968年]][[1月1日]]制定 |紋章 = [[ファイル:Emblem of Yuni, Hokkaido.svg|75px]] |紋章の説明 = 由仁[[市町村章|町章]]<div style="font-size:smaller">1968年1月1日制定 |区分 = 町 |都道府県 = 北海道 |支庁 = [[空知総合振興局]] |郡 = [[夕張郡]] |コード = 01427-3 |隣接自治体 = [[夕張市]]、[[千歳市]]、[[夕張郡]][[栗山町]]、[[長沼町]]、[[勇払郡]][[安平町]]、[[厚真町]] |木 = [[イチイ|いちい]] |花 = [[キク|きく]] |郵便番号 = 069-1292 |所在地 = 夕張郡由仁町新光200<br />{{Coord|format=dms|type:adm3rd_region:JP-01|display=inline,title}}<br/>[[ファイル:Yuni town hall.JPG|250px |center]] |外部リンク = {{Official website}} |位置画像 = {{基礎自治体位置図|01|427|image_hokkaido= Indicator map for Ishikari and Sorachi Subprefecture in Hokkaido Japan.svg|image=基礎自治体位置図 01427.svg}} }} '''由仁町'''(ゆにちょう)は、[[北海道]][[空知総合振興局]]管内、[[夕張郡]]にある町。[[札幌市]]の東、約42kmに位置する。[[ヤリキレナイ川]]が有名である。 地名の由来は、[[アイヌ語]]の「ユウンニ(温泉のある所)」から。 == 地理 == 北海道[[空知]]管内の最南端に位置するひょうたん型の由仁町は、東西に8km、南北に32 km総面積133.74 km<sup>2</sup>、南北に夕張川が流れ、南東部の森林地帯は[[夕張山地]]に属し、西部・南部には、[[馬追丘陵]]が広がっている。町の西部は[[長沼町]]から続く[[馬追丘陵]]。東部は平坦な低地で、[[栗山町]]との境には[[夕張川]]が流れる。南東部は[[夕張山地]]に続く森林地帯。町を[[北緯43度線]]が通る。 * 河川: [[夕張川]]、由仁川、ヤリキレナイ川 * 湖沼: === 隣接している自治体 === * 空知総合振興局 : [[夕張市]]、[[栗山町]]、[[長沼町]] * [[石狩振興局]] : [[千歳市]] * [[胆振総合振興局]] : [[安平町]]、[[厚真町]] == 歴史 == ; 年表 * [[縄文時代]]より栄えた。 * [[江戸時代]]は[[松前藩]]領である。 * [[1808年]]([[文化 (元号)|文化]]4年) 幕府の[[天領]]となる。 * [[1821年]]([[文政]]4年) [[松前藩]]領となる。 * [[1855年]]([[安政]]2年) 天領となり庄内藩警固地となる。 * [[1886年]]([[明治19年]]) 由仁開拓。下国皎三、沼田兵七 古川に入地。 * [[1887年]] 奈良鍛吉 古川に入地。 * [[1889年]] 山崎又四郎、益本藤蔵 岩内に入地。 * [[1890年]] 古川浩平、由仁に移住。 * [[1891年]] 熊本団体119人入植。 * [[1892年]] 由仁村が設村され、由仁村[[戸長役場]]が設けられる。川端地区に広島県人斉藤八六一家が入植。 * [[1893年]] 角田村(現在の[[栗山町]])・登川村(現在の[[夕張市]])・長沼村(現在の[[長沼町]])を併合して、由仁村外三ヶ村戸長役場を由仁村に設置する。 * [[1895年]] 長沼村戸長役場(現在の長沼町)を分離する。三川に[[愛知県]][[三河国]][[新川町 (愛知県碧海郡)|新川町]]から加藤平五郎が19戸の小作人をつれて移住。 * [[1896年]] 由仁に登記所(法務局)ができ、夕張全域を管轄。 * [[1897年]] 郡役所が廃止され、本村は空知支庁の管轄となる。登川村戸長役場(現在の夕張市)を分離する。山形団体入植。 * [[1900年]] 角田村戸長役場(現在の栗山町)を分離する。 * [[1902年]] 二級町村制の施行により'''由仁村'''が成立する。 * [[1950年]]([[昭和25年]])[[11月1日]] 由仁村が町制を施行して'''由仁町'''となる<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2963729/2 総理府告示第338号]官報. 1950年12月18日</ref>。 * [[1992年]]([[平成4年]]) 開町百年記念モニュメントを設置する。 * [[2001年]]([[平成13年]]) [[ゆにガーデン]]開園。 * [[2004年]]([[平成16年]]) キャンプ場オープン。 ==町民憲章== わたしたちは、先人のたくましい心を受けつぐ熱意・創意・善意の郷、由仁の町民です。 豊かさと安らぎのあるまちづくりに励みます。 * 未来をつくる子どものため、伸びゆくまちにしましょう。 * 健康で元気よく働き、明るいまちにしましょう。 * 互いに助けあい、心のふれあう、暖かいまちにしましょう。 * 香り高い郷土の文化を育て、豊かなまちにしましょう。 * 自然を愛し、緑豊かな、美しいまちにしましょう。 == 合併問題 == [[2003年]]([[平成]]15年)[[7月]]に[[南幌町]]・[[栗山町]]と3町で[[市町村合併#合併協議会|合併協議会]]を設置して合併を協議し、新市名を公募に基づいて「東さっぽろ市」に決定、[[2004年]](平成16年)[[11月]]には合併協定書に調印した。しかし、[[長沼町]]が合併協議に加わらなかったため、[[飛地]]となる南幌町では同年[[10月]]に行われた住民投票の結果、合併反対が多かった。この結果を受け同町議会は合併関連議案を否決し、同町は合併を断念、協議会は[[2005年]](平成17年)[[3月]]に解散し、「東さっぽろ市」は幻のものとなった。 == 行政 == ===理事者=== * 町長 [[松村諭]](まつむら さとし) * 副町長 田中利行(たなか としゆき) * 教育長 石井洋(いしい ひろし) == 財政 == === 平成26年度決算による財政状況 === * 住基人口 5,624人 * [[地方財政#財政指標|標準財政規模]] 32億3,329万4千円 * [[財政力指数]] 0.20 (類似団体平均0.23) * [[地方財政#財政指標|経常収支比率]] 78.6% (類似団体平均83.6%) * 実質収支比率 2.3%(類似団体平均5.6%) * 実質単年度収支 8,300万円~標準財政規模の2.6%の黒字額 * 地方債現在高 70億4,772万4千円(人口1人当たり125万3,151円) * 普通会計歳入合計 50億6,603万円 ** 地方税 5億8023万6千円(構成比 11.5%) ** 地方交付税 25億5,998万円(構成比 50.5%)~歳入の50%以上を交付税に依存 ** 地方債 5億6,122万2千円(構成比 11.1%) * 普通会計歳出合計 49億5,330万7千円 ** 人件費 6億2,539万4千円(構成比 12.6%) *** うち職員給 3億9,443万1千円(構成比 8.0%) ** 扶助費 3億2,925万5千円(構成比 6.6%) ** 公債費 10億825万3千円(構成比 20.4%) 基金の状況 * 1財政調整基金 7億7984万5千円 * 2減債基金 1,783万7千円 * 3その他特定目的基金 1億1,599万円 *: 合計 9億1,367万2千円(人口1人当たり16万2,459円) 定員管理の適正度(平成26年度) * 人口1,000人当たり職員数 12.80人(類似団体平均14.77人) * 一般職員72人 (うち技能系労務職0人)、教育公務員1人、消防職員0人、臨時職員2人 一般職員等合計 75人 * [[ラスパイレス指数]] 90.6 (道内市町村平均96.6) * 参考 ** 一般職員等(75人)一人当たり給料月額 29万5,700円 (職員手当を含まない) ** 職員給(給料+手当)÷一般職員等(75人)=525万9千円~給料月額の17.8か月分 === 健全化判断比率・資金不足比率(平成26年度決算~確報値) === 健全化判断比率 * [[地方財政#財政指標|実質赤字比率]] -%(黒字のため比率が算定されず) * [[地方財政#財政指標|連結実質赤字比率]] -%(黒字のため比率が算定されず) * [[地方財政#財政指標|実質公債費比率]] 13.9% * [[地方財政#財政指標|将来負担比率]] 124.3% [[地方財政#財政指標|資金不足比率]] * (全ての公営企業会計において資金不足額がなく、比率は算定されない) ※ 平成20年度~平成21年度まで、 [[地方財政#財政指標|実質公債費比率]](ピーク時27.4%)で'''[[地方公共団体の財政の健全化に関する法律#財政健全化団体|財政健全化団体]]'''となった。 == 経済 == === 産業 === * 町の基幹産業は農業で、最近は[[ハーブガーデン]]などの観光資源にも力をいれている。 === 立地企業 === * 日本食品製造合資会社 三川工場 * クレードル興農株式会社 * 日本自動ドア株式会社 由仁工場 * 小岩金網株式会社 由仁工場 * 共和コンクリート工業株式会社 由仁工場 * 株式会社三英社製作所 ===農協=== *[[そらち南農業協同組合]](JAそらち南)由仁支所・三川出張所 ===金融機関=== *[[空知信用金庫]]由仁支店 * JAバンク北海道([[北海道信用農業協同組合連合会]])JAそらち南 由仁支所・三川出張所 === 郵便局 === * 由仁郵便局(集配局):由仁・古山地区 * 三川郵便局(集配局):三川・川端地区 * 川端郵便局 ===宅配便=== *[[ヤマト運輸]]:千歳主管支店由仁センター *[[佐川急便]]:岩見沢営業所(岩見沢市) *[[日本通運]]:岩見沢支店(岩見沢市) ==公共機関== ===警察=== *[[栗山警察署]] **由仁駐在所 **三川駐在所 **川端駐在所 == 姉妹都市・提携都市 == * [[愛知県]][[碧南市]] == 地域 == === 人口 === {{人口統計|code=01427|name=由仁町|image=Population distribution of Yuni, Hokkaido, Japan.svg}} === 教育および児童福祉 === ==== 中学校 ==== * [[由仁町立由仁中学校]] ==== 小学校 ==== * [[由仁町立由仁小学校]] ==== 児童福祉施設 ==== 下記2施設は学校法人由仁学園によって運営 * にじいろこども園(2020年4月1日由仁幼稚園と由仁保育園が統合) * 三川保育園 == 交通 == [[ファイル:Yuni Station 200706.jpg|thumb|280px|由仁駅]] === 鉄道 === * [[北海道旅客鉄道]](JR北海道) ** [[室蘭本線]] : [[三川駅 (北海道)|三川駅]] - [[古山駅]] - [[由仁駅]] ** [[石勝線]] : [[川端駅]] === バス === * [[北海道中央バス]]([[北海道中央バス岩見沢営業所|岩見沢営業所]]) - [[栗山町]]・[[岩見沢市]]方面、[[長沼町]]方面 * 由仁町デマンドバス<ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://www.town.yuni.lg.jp/newstopics/5998|title= 由仁町デマンドバスの利用について|publisher= 由仁町|format= |accessdate= 2023-11-15}}</ref> [[夕張鉄道]](夕鉄バス)の乗り入れ([[札幌急行線]])は2023年(令和5年)10月1日廃止<ref>{{Cite web|和書|date= 2023-08-11|url= https://www.yutetsu.co.jp/infofiles/busrosen_haisi.pdf|title= バス路線の廃止について|publisher= 夕張鉄道|format= PDF|accessdate= 2023-11-15}}</ref>。 === タクシー === * 由仁ハイヤー === 道路 === * [[高速道路]] ** [[道東自動車道]] [[由仁パーキングエリア|由仁PA]](町内に[[インターチェンジ]]は存在しない) * [[一般国道]] ** [[国道234号]] ** [[国道274号]] * [[都道府県道]] ** [[北海道道3号札幌夕張線]] ** [[北海道道462号川端追分線]] ** [[北海道道477号滝下由仁停車場線]] ** [[北海道道602号東三川由仁停車場線]] ** [[北海道道694号北長沼由仁線]] ** [[北海道道870号幌内三川停車場線]] ** [[北海道道1008号夕張長沼線]] == 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 == [[ファイル:Yarikirenai River board.jpg|thumb|280px|ヤリキレナイ川]] === 文化財 === *由仁町岩内遺跡 *マンモスゾウ臼歯化石 - ゆめっく館 *オオツノシカ化石 - ゆめっく館<!--上とは別--> === 観光 === * [[ゆめっく館]] (図書館、博物館、由仁町東三川の砂利採取現場から発見された[[マンモス]]、[[オオツノシカ]]の[[化石]]を展示) * [[由仁温泉]](ユンニの湯) * [[ゆにガーデン]](ハーブ園) * [[ヒナタフーズ]](納豆工場) == 著名な出身者 == * [[亀渕昭信]](元[[ニッポン放送]]代表取締役社長) * [[亀渕友香]]([[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]歌手、亀渕昭信の実妹) * [[鹿内信隆]](元[[フジサンケイグループ]]会長) * [[鹿内春雄]](元[[産経新聞社|産経新聞]]会長・フジサンケイグループ議長) * [[三宅和助]](元[[外交官]]) * [[大雪嶺登]](元[[大相撲]][[力士]])※本籍地 * [[杉基イクラ]]([[漫画家]]) == ゆかりのある人物 == * [[ケイト・ポムフレット]] == 関連項目 == * [[全国市町村一覧]] * [[ヤリキレナイ川]] == 脚注 == <references /> == 関連文献 == {{Commonscat}} * {{Cite book|和書|author = 空知教育会由仁村支部 編|title = 由仁村郷土誌|url = https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237177|accessdate = 2021-10-18|date = 1934年(昭和9年)|publisher = 空知教育会由仁村支部|language = 日本語|ref = }} == 外部リンク == * {{Official website|name=由仁町}} * [https://archive.fo/mMKNt 由仁町議会議員一覧] {{空知支庁の自治体}} {{Normdaten}} {{Japan-area-stub}} {{デフォルトソート:ゆにちよう}} [[Category:北海道の市町村]] [[Category:空知管内]] [[Category:由仁町|*]]
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計画のみに終わった兵器
計画のみに終わった兵器(けいかくのみにおわったへいき)は、開発計画などは存在したものの、現実には完成(量産)に至らず、実戦配備されなかった兵器である。試作機のみが製作された兵器や、理論が確立されていながらも現在まで実用化されなかったものを始め、計画案のみ、図面のみのものを含む。
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計画のみに終わった兵器(けいかくのみにおわったへいき)は、開発計画などは存在したものの、現実には完成(量産)に至らず、実戦配備されなかった兵器である。試作機のみが製作された兵器や、理論が確立されていながらも現在まで実用化されなかったものを始め、計画案のみ、図面のみのものを含む。
'''計画のみに終わった兵器'''(けいかくのみにおわったへいき)は、開発計画などは存在したものの、現実には完成(量産)に至らず、実戦配備されなかった[[兵器]]である。試作機のみが製作された兵器や、理論が確立されていながらも現在まで実用化されなかったものを始め、計画案のみ、図面のみのものを含む。 == アメリカ合衆国 == * [[XF5U (航空機)|F5U フライングパンケーキ]] * {{仮リンク|VZ-1 (航空機)|en|Hiller_VZ-1_Pawnee}} * [[A-12 (攻撃機)|A-12 アヴェンジャーII]] * [[XB-70 (航空機)|XB-70]] - 試作機2機が完成。1機を墜落事故で失ったことに加え、戦略・戦術の変化により計画継続が終了した。 * [[C-8 (航空機)|C-8]] * [[XP-79 (航空機)|XP-79 フライングラム]] *[[D-188A (航空機)|ベルD-188A]] - 1950年代に計画された VTOL戦闘機。 *[[XF-108 (戦闘機)|XF-108]] - 迎撃機、護衛戦闘機。護衛対象のXB-70の開発の縮小や予算の問題から開発中止。 *[[XF8U-3 (航空機)|XF8U-3]] - F-8クルセイダーの後継機として開発。F4H ファントムⅡに敗れた。 *[[XF12F (航空機)|XF12F]] - [[F-4 (戦闘機)|F4H ファントムII]]の成功によりキャンセル。 * [[XFV-12 (航空機)|XFV-12]] - 1970年代に計画された VTOL戦闘機。米海軍の制海艦構想に基づき開発された。 *コンベアモデル200 - 1970年代に計画された VTOL戦闘機。XFV-12と同じく米海軍の制海艦構想に基づき開発された。 * [[YF-12 (航空機)|YF-12]] - [[SR-71 (航空機)|SR-71]]の派生型のひとつ。XF-108の代替として計画された迎撃機。 * [[YF-17 (戦闘機)|YF-17]] * [[F-20 (戦闘機)|F-20]] * [[YF-23 (航空機)|YF-23]] - ステルス戦闘機。YF-22(後の[[F-22 (戦闘機)|F-22]])に敗れた。 * [[X-32 (航空機)|X-32]] - [[X-35 (航空機)|X-35]](後の[[F-35 (戦闘機)|F-35]])に敗れた。 *[[X-44 (航空機)|X-44]] - ステルス全翼戦闘爆撃機。 * [[YAH-63]] * [[AH-56 シャイアン]] * [[RAH-66 (航空機)|RAH-66 コマンチ]] * [[ARH-70 (航空機)|ARH-70]] * [[VH-71 (航空機)|VH-71]] * [[スカイボルト (ミサイル)|スカイボルト]] *[[AIM-47 (ミサイル)|AIM-47]] - XF-108もしくはYF-12に武装される予定であった。このミサイルの技術が[[AIM-54 フェニックス]]、[[AN/AWG-9|AN/AWG-9火器管制レーダー]]の基礎となった。 * [[サウスダコタ級戦艦 (1920)|サウスダコタ級戦艦]] - [[ワシントン海軍軍縮条約]]で放棄された。 * [[レキシントン級巡洋戦艦]] - [[ワシントン海軍軍縮条約]]で放棄された。 *[[制海艦]] - 米海軍が1960年代から70年代にかけて計画した小型の航空母艦。 * [[モンタナ級戦艦]] * [[ユナイテッド・ステーツ (空母)]] * [[原子力打撃巡洋艦]](CSGN-1) *[[アーセナル・シップ]] - 米海軍が20世紀末頃に建造を計画していた新たな戦闘艦の種別の名称。 * [[オカマ爆弾]] * [[XM2001 クルセイダー|クルセイダー (自走砲)]] * [[MBT-70|MBT-70 (戦車)]] - 西ドイツとの共同開発 * [[XM29 OICW]] * [[フラント]] * [[EFV]] == イギリス == * [[氷山空母]] * [[パンジャンドラム]] * [[AFVG|AFVGラヴィッジ]]複座攻撃機 - 後に[[パナヴィア・トーネード]]として実現 * [[BAC TSR-2|TSR-2]]超音速爆撃機 <!-- * [[BAC 1-11モルデカイ]]早期警戒機 * [[BAe P.96Fホットスパー]]戦闘機 * [[BAe P.106ハーディー]]A/B戦闘機(単発エンジン) * [[BAe P.110ホースレイ]]戦闘機 (F/A-18に似た機体) * [[BAe P.120オーダクス]]戦闘機(ユーロファイター タイフーンに似た機体) --> * [[BAe P.1214-3]]ハヴァント超音速戦闘機 <!-- * [[BAe P.1216ハイランダー]]超音速戦闘機 * [[BAC P.45ジャガー]]艦上攻撃機(SEPCAT ジャギュアの艦上機型。可変翼を有しておりFRS Mk.3やT.4型などがあった。) * [[BAC P.145グラフトン]]軽攻撃機(BAeホークと共に計画されていた機種。単座型と複座型が予定されていた。) * [[BAC タイプ573ヴァイパー]]超音速戦闘機 * BAC タイプ573シーヴァイパー艦上戦闘機(ヴァイパーを艦上機にした型式。攻撃力を付与したFG.1型などがあった。) --> * BAE オスプレイ FRS.2垂直離着陸攻撃機 * BAe ニムロッド AEW.3早期警戒機 * BAe ニムロッド MRA.4海洋哨戒機 * [[F-111|ジェネラル・ダイナミックス F-111K]](イギリス向けのF-111だが、労働党政権の軍事費削減により輸出は取り消され国産のバッカニアに置き換えられた) * ファイタージェット・テイクオフ・プラットフォーム(TSR-2を最前線から離陸させるための簡易離着陸装置) <!-- * [[アームストロング・ホイットワース AW.56ホーキンス]]全翼中型爆撃機 * [[アームストロング・ホイットワース AW.168アロンダイト]]艦上戦闘機 * [[アームストロング・ホイットワース AW.169アンブロシウス]]要撃機 * [[アームストロング・ホイットワース AW.171]]アルベマール超音速VTOL全翼機 --> * [[アームストロング・ホイットワース AW.681]]アカスタ(輸送機) * [[アブロ 720]]アルビオン超音速戦闘機 <!-- * [[アブロ 729]]オールダーショット迎撃戦闘機 --> * [[アブロ 730]]アベンジャー超音速偵察機/爆撃機 <!-- * [[イングリッシュ・エレクトリック P.6ラフォレイ]](ライトニングのエンジンを単発にした形態) * [[イングリッシュ・エレクトリック P.8エクスキャリバー]] * [[イングリッシュ・エレクトリック P.10エクセター]]超音速爆撃・戦略偵察機 * [[イングリッシュ・エレクトリック P.17サンダラー]]超音速攻撃機(TSR-2の別の型式) * [[イングリッシュ・エレクトリック P.42トレンチャード]](SR.2)超音速攻撃・偵察機 --> * [[イングリッシュ・エレクトリック ライトニング|イングリッシュ・エレクトリック シーライトニング FAW.1]] (ライトニングの並列複座艦上戦闘機仕様) * ヴィッカース スーパーマリン タイプ576 シミターFB Mk.3(シミターで予定されていた艦上戦闘爆撃機) * ヴィッカース スーパーマリン タイプ567 シミターS Mk.2(FB Mk.3の艦上攻撃機型) * [[ヴィッカース SP4ヴィンディケーター]]超音速戦略偵察機・爆撃機(エンジンを16基搭載している) <!-- * [[ヴィッカース VC-7]]大型輸送機(ヴィッカース ヴァリアントを元にした輸送機) * [[ヴィッカース タイプ10スワロー]]超音速爆撃機 * [[ヴィッカース スキーム C ER.206ヴェンジャンス]]複座艦上戦闘機 * [[ヴィッカース タイプ559ベンチュラ]]要撃機 * [[ヴィッカース タイプ581ヴィクトリア]]戦闘爆撃機 * [[ヴィッカース タイプ582ヴィルデビースト]]艦上戦闘機(miniturised RB.163エンジンを8基装備し双胴型式を取った大型機) * [[ヴィッカース タイプ583ウェルズレイ]]艦上攻撃機 * [[ヴィッカース タイプ1954ウォリック]]超音速爆撃機(TSR-2を彷彿とさせる機体形状を持ち、前部・後部とエンジンを持つ異色の機体) * [[ヴィッカース タイプ799ヴァレンツィア]]超音速・偵察爆撃機 * [[ヴィクトリーボンバー]] * [[ウェストランド ライト A/Sグラスホッパー]]早期警戒機 * [[ウェストランド M.148ウェルキン]]艦上攻撃機(ブラックバーン バッカニアの競合作) --> * [[ウエストランド ウエストミンスター]](大型の貨物ヘリコプターだったが、数機の生産で中止され配備されることはなかった。Hc Mk.1型。) <!-- * [[グロスター E1/44ギャラット]] * [[グロスター P.4Ⅱ]]VTOL輸送機 * [[グロスター P.248 F43/46シグネット]]単座迎撃戦闘機 --> * グロスターP.300ミーティアFAW.9全天候戦闘機(ミーティアを複座化してレドームを搭載した型式) * グロスターP.316ミーティアFAW.10長距離戦闘機 <!-- * [[グロスター P.497ミーティアFAW.11]](グロスター ミーティアF.8をV/STOL化した戦闘機) * [[グロスター P.258ミーティアFG.1]]戦闘攻撃機 * [[グロスター P.367 ジャベリン FAW.9]] ([[グロスター ジャベリン]]を後退翼にした型式) * [[グロスター P.504]]ミーティアFG.1(ミーティアT.7をV/STOL化した型式) * [[グロスター P.505 ジャベリン FAW.10]] (グロスター ジャベリンにSTOL機能を付与した型式) * [[グロスター P.507 ジャベリン FAW.11]] (グロスター ジャベリンにV/STOL機能を付与した型式) --> * グロスター P.517ゲームコック V/STOL輸送機 * グロスター P.519ガントレット V/STOL輸送機(80人乗り) * グロスター P.532グリーブ V/STOL軍用輸送機 <!-- * [[サンダース・ロー P.187]]クラウド --> * [[サンダース・ロー SR.A/1]]ラーウィック * [[サンダース・ロー SR.53]]ロンドン * [[サンダース・ロー SR.177]]アロー迎撃戦闘機(攻撃機・偵察機としても使用可能だった) <!-- * [[サンダース・ロー SR.177Nシーアロー]]艦上戦闘機(F Mk.2型、SR.177の艦上機型) * [[サンダース・ロー P.178/1]]ジプシーモス艦上戦闘機 * [[サンダース・ロー P.187]]プレテクト全天候要撃機 * [[ショート PD.13シースプレー]]艦上攻撃機 * [[スーパーマリン 525プレンティス]]艦上戦闘機 * [[スーパーマリン 545サイドストランド]]艦上戦闘機 * [[スーパーマリン 556ストランラー]]複座艦上攻撃機(スーパーマリン シミターの複座化) * [[スーパーマリン Type 576 ソラ]]/FG.1戦闘攻撃機(スーパーマリン シミターを超音速で飛行できるようにした型式) --> * [[スーパーマリン シーガル (2代)]]飛行艇 * ボーイング バートル チヌーク HAS Mk.1([[CH-47]]の対潜型。) <!-- * [[デ・ハビランド DH.117]]ジェネットモス迎撃戦闘機 * [[デ・ハビランド DH.127オーヴァーストランド]]艦上戦闘機(バッカニアの代わりに考案されたデルタ翼の戦闘機。RB.108リフトジェットを装備している。) * [[ハンドレページHP.100ヘレフォード]]超音速戦略偵察機・爆撃機(エンジンを10基搭載している。) * [[ハンドレページHP.106]]無人攻撃機 * [[ハンドレページHP.113]]双発ジェット中型輸送機 * [[ハンドレページHP.124]]双発ターボプロップ小型輸送機 * [[ハンドレページ レッドキャット]](ミサイル) * [[フェアリー FD3フェイスレス]](全天候戦闘機だが、戦闘爆撃機、複合動力機型もあった) --> * [[フェアリー ロートダイン]](ウェストランドが生産する予定もあった。HU Mk.2型など。) <!-- * [[フェアリー M.148カンパニア]]艦上攻撃機(ブラックバーン バッカニアに対向してフェアリー社が用意した機種だが、性能やエンジンの系統に不備があったため採用されなかった。) --> * フェアリー ガネットS.5(ガネットを艦上攻撃機にした型式。) * フェアリー ウルトラライトHAS Mk.1小型ヘリコプター * フェアリー スピアフィッシュAEW Mk.2(雷撃機だったスピアフィッシュを早期警戒機型に改造する予定だったもの。) <!-- * [[ブラックバーン B-54|ブラックバーン ブリガンド]](レシプロエンジンを動力源とする艦上対潜哨戒機) * [[ブラックバーン B-88ブリガンド]](B-54をターボプロップにした機体) * [[ブラックバーン B.103バッカニアS.4]](ブラックバーン バッカニアの発展型。搭載量がS.2より増えて電子機器が更新される予定だった。) * [[ブラックバーン P.135バッカニアS.5]](バッカニアの可変翼型) * ブリストル タイプ191 バークシャー(イギリス海軍に配備されるはずだった、大型輸送ヘリコプター。HAS Mk.1型などがあった。) * [[ブリティッシュエアロスペース P.125ホットスパー]]戦闘攻撃機 * [[ホーカー・シドレー P.139ガーディアン]](イギリス海軍の艦上輸送機。早期警戒機型であるA・AEW Mk.1と輸送機型であるB・COD Mk.2があった。) --> * ホーカー・シドレー バッカニアS.3(バッカニアの発展型) <!-- * [[ホーカー・シドレー HS.800]]中型輸送機(旅客機であるトライデントを改造したもの) * [[ホーカー HS.1185ハリアーGR.4]]([[ホーカー・シドレー ハリアー]]の発展型として予定されていたもの。) * [[ホーカー P.1083ハンターF.10]] ([[ホーカー ハンター]]を超音速で飛行させるために後退翼に変更したもの) * [[ホーカー P.1085シーハンターFA.1]]艦上戦闘機(ハンターの艦上機型) * [[ホーカー P.1086ハーピー]]F.1超音速戦闘機 * [[ホーカー P.1090ハンターF.13]]超音速戦闘機 * [[ホーカー P.1091ハンターF.14]]超音速戦闘機(デルタ翼を装備したハンター) * [[ホーカー P.1093ハウリンガーF.15]]超音速戦闘機 * [[ホーカー P.1103ハブロック]]迎撃戦闘機 * [[ホーカー P.1100ハンターF.16]]超音速戦闘機 * [[ホーカー P.1104テンペスト]]全天候迎撃戦闘機 * [[ホーカー P.1108ウッドコック]]艦上戦闘機(ハンターをベースにした機体で、グリーンチーズとよばれる核爆弾を搭載する予定だった。) * [[ホーカー・シドレー HS.1205ヘスティア]]超音速戦闘機(アメリカのF-16を模した機種。ユーロファイターへの対抗馬だった。) * [[ホーカー P.1121ハーヴェスター]]超音速戦闘機 * [[ホーカー P.1125ハリケーン]]超音速戦闘機 * ホーカー P.1125シーハリケーン艦上戦闘機(P.1125の艦上機型。FAW Mk.2型などがあった。) * [[ホーカー P.1129フナフティ]]超音速爆撃機 * [[ホーカー P.1134/1ヘイスティ]]迎撃戦闘機 * [[ホーカー P.1134/2ハヴォック]]迎撃戦闘機 * [[ホーカー P.1134/3ヘスペルス]]迎撃戦闘機 * [[ホーカー P.1134/4ホスタイル]]迎撃戦闘機 * [[ホーカー・シドレー エアクラフト B.123]]艦上爆撃機 --> * [[ホーカー・シドレー P.1154]]ハイペリオン <!-- * [[ホーカー・シドレー HS.1179ヘルフレイム]]超音速攻撃機 * [[ホーカー・シドレー HS.1185-6ハリアーGR.5]]攻撃機(ハリアーの発展型。) * [[ホーカー・シドレー HS.1205-11ヘルファイア]]超音速戦闘機 * [[ホーカーシドレー HS.800]]ジェット輸送機 * [[ホーカー・シドレー HS.1101ホスタイル]]超音速輸送機(民間機として転用する計画もあった。) * [[ホーカー・シドレー HS.1173]]超音速複座攻撃機 --> * [[ホーカー・シドレー HS.125]]ドミネAEW.1(ドミネに予定されていた早期警戒機型) <!-- * [[ホーカー・シドレー 1202.9ヘスペルス]]超音速戦闘機 --> * [[ブルーピーコック]] * [[インコンパラブル (巡洋戦艦)|インコンパラブル]] * [[N3型戦艦]] * [[G3型巡洋戦艦]] * [[ライオン級戦艦]] * [[CVA-01級航空母艦]] * BAC/ブリストル 208(軍用輸送機) == ドイツ == * [[ゼンガー (航空機)|ゼンガー]] * [[ラーテ]] - 陸上戦艦のペーパープラン。 * [[モンスター (超弩級自走砲)|モンスター]] - 80cm自走砲のペーパープラン。 * [[フォッケウルフ トリープフリューゲル]] - ペーパープラン。 * [[A10ロケット]]: - V2から進化した二段式。欧州より北米まで到達可能である性能を求めた。 * [[ドイツの原子爆弾開発|原子爆弾]] * [[マッケンゼン級巡洋戦艦]] - 第一次世界大戦の未成艦。 * [[ヨルク代艦級巡洋戦艦]] - 第一次世界大戦の未成艦。 * [[H級戦艦]] - 第二次世界大戦の計画艦。 * [[P級装甲艦]] - 第二次世界大戦の計画艦 * [[O級巡洋戦艦]] - 第二次世界大戦の計画艦 * [[ミドガルドシュランゲ]] * [[ヴァッサーファル (ミサイル)|ヴァッサーファル]] - [[V2ロケット]]の技術を流用して計画された[[対空ミサイル]] * [[風砲]] * [[音波砲]] * [[竜巻砲]] * [[太陽砲]] * [[グラーフ・ツェッペリン (空母)|グラーフ・ツェッペリン]] - [[航空母艦]]。海軍増強計画の一環であったが、戦況により建造途中で戦争が終わる * [[メッサーシュミット P.1101]] - Me262の発展型。 * [[Do 19 (航空機)|Do 19]] - ドイツ空軍の本格的な戦略爆撃機として配備されるはずだった。 * [[MBT-70|KPz.70]] - 戦車。米国との共同開発であったが、運用についての齟齬により独自開発に発展。先進的な技術はのちの戦車開発に多大な影響を与えた。 * [[ホルテン Ho229]] - ジェット推進の[[全翼機|全翼型]][[ステルス性|ステルス]]戦闘爆撃機。劣勢の戦局を打破する高性能機として大きな期待を寄せられたが、敗戦により計画も終了した。 == 日本 == === 第二次世界大戦時 === * [[五式中戦車]] * [[特三号戦車]] * [[特五式内火艇]] * [[怪力線]]([[電波兵器Z]]) - [[大日本帝国陸軍|帝国陸軍]][[登戸研究所]]が研究。高空を飛来する敵軍用機に超高出力の[[マイクロウェーブ]]を地上より照射し、[[電子レンジ]]と同じ原理で超高温を発生させ撃墜を狙っていた。 * [[日本の原子爆弾開発|原子爆弾]]-研究されるも技術的に越えるべき壁が多く、兵器として実用化することは当時の状況下では不可能であった * [[キ201 (航空機)|火龍]] * [[富嶽]] - 来るべき対米戦争に必要な兵器として構想されたが、当時の日本の技術力では困難を極める * [[秋水]] - ナチスドイツからもたらされた[[メッサーシュミット Me163|Me163]]の情報を基に開発 * [[橘花 (航空機)|橘花]] - Me262の設計を一部参考に、飛行可能な機体はできており、量産体制までは整っていた。 * [[震電]] - 試験中に終戦。実機はスミソニアン博物館に分解された状態で保存。 * [[奮龍 (ミサイル)|奮龍]] - [[秋水]]に使用される[[特呂二号原動機]]を流用した[[対空ミサイル]] * [[イ号一型甲無線誘導弾]] - [[手動指令照準線一致誘導方式]]無線誘導爆弾 * [[イ号一型乙無線誘導弾]] - 手動指令照準線一致誘導方式無線誘導爆弾 * [[イ号一型丙自動追尾誘導弾]] - 音響ホーミング対艦誘導爆弾 * [[ケ号爆弾]] - 赤外線誘導対艦爆弾 * [[タ号]] * [[剣 (航空機)|剣]] - 特攻兵器の他の状態と同じく、運用直前状態で終了。 * [[五十万トン戦艦]] - 製造の可能性がないような、典型的なペーパープラン。 * [[紀伊型戦艦]] - 八八艦隊計画の挫折により、建造に至らず * [[十三号型巡洋戦艦]] * [[超大和型戦艦]] * [[B65型大型巡洋艦]] - 廃案。 * [[改利根型重巡洋艦]] * [[改鈴谷型重巡洋艦]] * [[高雄型重巡洋艦#改高雄型重巡洋艦|改高雄型重巡洋艦]] * [[加賀型戦艦]] - 八八艦隊計画の挫折により、紆余曲折の後空母として完成。 * [[G18 (空母)]] * [[改秋月型駆逐艦]] * [[伏龍]] === 自衛隊 === * [[試製56式105mm自走砲]] * [[試製57式105mm軽りゅう弾砲]] * [[試製66mmてき弾銃]] * [[泥濘地作業車]] * [[装輪装甲車 (改)]] - 試作車を1両製造。防弾板の強度不足を解消できなかった為、開発中止に。 * [[2500トン型護衛艦]] - [[オイルショック|第一次オイルショック]]の影響で建造中止。 * [[海上自衛隊の航空母艦建造構想#対潜掃討群とCVH (2次防以前)|2次防CVH]] * [[ニューナンブM66短機関銃]] * [[ニューナンブM57]] == ソビエト連邦/ロシア == === 艦船 === * [[アドミラル・クズネツォフ#CATOBAR空母の検討と挫折|プロイェークト1160]] - [[原子力空母]] * [[ウリヤノフスク級原子力空母]] - 原子力空母 * [[クロンシュタット級重巡洋艦]] * [[グローム型フリゲート]] - 2005年に中止。 * [[スターリングラード級重巡洋艦]] - 1953年に中止。 * [[ソビエツキー・ソユーズ級戦艦]] * [[1125型大型対潜艦]] - [[カシン型駆逐艦]]を優先するために1960年代に中止。 === 車両 === * [[オブイェークト187]] * [[オブイェークト279]] - [[核兵器]]の爆風にも耐えうるように設計された[[戦車]] * {{仮リンク|オブイェークト292|en|Object 292}} * [[オブイェークト704]] - 第二次世界大戦中に試作された自走砲。[[IS-3]]重戦車の車体前方に152mm砲を載せた。 * [[オブイェークト775]] - 1960年代に試作されたミサイルを主兵装とする戦車。 * [[チョールヌイ・オリョール]] * [[BA-5]] - 1930年代に計画された装甲車。 * [[BA-9]] - 1930年代後半に計画された装甲車。 * [[BA-21]] - 1930年代後半に試作された装甲車。 * [[BA-22]] - 1930年代後半に試作された装甲救護車。 * [[BA-23]] - 1930年代後半に計画された化学装甲車。 * [[IS-6]] - 第二次世界大戦中に[[IS-2]]の発展型として試作された重戦車。 * [[IS-7]] - 第二次世界大戦後の1940年代後半に開発された重戦車。過大な重量のため試作に留まった。 * [[KSP-76]] - 第二次世界大戦中に試作された装輪式の76mm自走砲。 * [[PB-4]] - 1930年代に試作された水陸両用装甲車。 * [[PB-7]] - 1930年代に試作された水陸両用装甲車。PB-4の改良型だったが試作に終わった。 * [[PPG (戦車)|PPG]] - [[冬戦争]]中に試作されていた小型の装甲牽引車。 * [[SU-45 (自走砲)|SU-45]] - 1930年代に開発された自走砲。[[T-37 (戦車)|T-37]]または[[T-38 (戦車)|T-38]]の車体に45mm砲を載せた。 * [[SU-101/102|SU-100M2]] - 第二次世界大戦中に試作された自走砲。[[T-44]]の車体後方に100mm砲を搭載した。 * [[T-17 (戦車)|T-17]] - 1920年代末に開発された軽戦車。[[T-18 (戦車)|T-18]]に劣ったため開発中止。 * [[T-23 (戦車)|T-23]] - 1920年代後半から1930年代前半にT-18をベースに開発された[[豆戦車]]。性能に対して高価過ぎた。 * [[T-25 (戦車)|T-25]] - 1920年代に開発された豆戦車。[[T-27 (戦車)|T-27]]との競争に敗れた。 * [[T-30 (ソ連・戦車)|T-30]] - 1930年頃に設計された50トンクラスの重戦車。ペーパープランのみ。 * [[T-32 (戦車)|T-32]] - 1930年代後半に試作された中戦車。T-34中戦車の原型となった。 * [[T-33 (戦車)|T-33]] - 1930年代前半に試作された水陸両用戦車。後に[[T-37 (戦車)|T-37]]に発展した。 * [[T-34 (試作)|T-34]] - 1930年代に[[T-26 (戦車)|T-26軽戦車]]の安価な代替品として開発された。T-26の量産が軌道に乗ったため中止。 * [[T-42 (戦車)|T-42]] - 1930年代前半に計画された重量100トン級の多砲塔超重戦車。ペーパープランのみ。 * [[T-43 (戦車・水陸両用)|T-43]] - 1930年代に開発された重武装の水陸両用戦車。水上航行能力の不足のため試作に留まった。 * [[T-43 (戦車)|T-43]] - 第二次世界大戦中に[[T-34]]と[[KV-1]]の後継として試作された中戦車。T-34-85を優先するために中止。 * [[T-95]] - 1990年代から2000年代に開発されていた[[主力戦車]]。無人砲塔や装甲カプセルといった先進的な技術を導入していた。 * [[T-111 (戦車)|T-111]] - 1930年代に試作された中戦車。 === 航空機 === * [[A-40 (グライダー)|A-40]] - 第二次世界大戦中に試作されたグライダー戦車。 * [[I-17 (航空機)|I-17]] - 1930年代後半に[[I-16 (航空機)|I-16]]の後継として試作された戦闘機。 * [[I-180 (航空機)|I-180]] - 第二次世界大戦中に[[I-16 (航空機)|I-16]]の後継として試作された単発単座レシプロ戦闘機。 * [[I-185 (航空機)|I-185]] - 第二次世界大戦中に試作された戦闘機でI-180の改良型。 * [[I-190 (航空機)|I-190]] - 1930年代後半から第二次世界大戦中にかけて[[I-153 (航空機)|I-153]]の後継として開発された複葉戦闘機。 * [[Il-1 (航空機)|Il-1]] - 第二次世界大戦中に試作された単発単座レシプロ戦闘機。後に[[Il-10 (航空機)|Il-10]]攻撃機に発展した。 * [[Il-6 (航空機)|Il-6]] - 第二次世界大戦中に試作された長距離双発レシプロ爆撃機。 * [[Il-8 (航空機)|Il-8]] - 第二次世界大戦中に[[Il-2 (航空機)|Il-2]]の後継として試作された攻撃機。Il-10に劣るため開発中止。 * [[Il-20 (航空機・初代)|Il-20]] - 1940年代後半に[[Il-10 (航空機)|Il-10]]の後継として試作された攻撃機。 * [[Il-32 (航空機)|Il-32]] - 1940年代後半に試作された軍用輸送グライダー。 * [[Il-40 (航空機)|Il-40]] - 1950年代に試作されたジェット攻撃機。 * [[Il-102 (航空機)|Il-102]] - 1970年代から80年代にかけて開発されたジェット攻撃機。[[Su-25 (航空機)|Su-25]]に敗れる。 * [[Il-106 (航空機・初代)|Il-106]] - 1980年代から90年代にかけて開発された大型輸送機。 * [[ITP (航空機)|ITP]] - 第二次世界大戦中に試作された重武装の単発レシプロ戦闘機。 * [[Ka-22 (航空機)|Ka-22]] - 1950年代から60年代に開発された軍用[[複合ヘリコプター]]。テスト中に2度の墜落事故を起こし中止された。 * [[Ka-40 (航空機)|Ka-40]] - 1990年代に[[Ka-27 (航空機)|Ka-27]]の後継として開発されていた軍用ヘリコプター。 * [[La-150 (航空機)|La-150]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。[[ユンカース ユモ 004]] (RD-10) エンジンを使用。 * [[La-152 (航空機)|La-152]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。La-150の改良型。 * [[La-156 (航空機)|La-156]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。La-152の改良型。 * [[La-160 (航空機)|La-160]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。La-156の改良型で新たに[[後退翼]]を採用した。 * [[La-174TK (航空機)|La-174TK]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。[[クリーモフ RD-500]]エンジンを使用。 * [[La-200 (航空機)|La-200]] - 1940年代後半に試作された全天候ジェット戦闘機。 * [[MiG-5 (航空機)|MiG-5]] - 第二次世界大戦中に試作された双発レシプロ戦闘機。 * [[MiG-6 (航空機)|MiG-6]] - 第二次世界大戦中に計画されたレシプロ攻撃機。実機の製造前に中止された。 * [[MiG-7 (航空機)|MiG-7]] - 第二次世界大戦中に試作された単発レシプロ戦闘機。与圧室を備える高高度戦闘機として設計された。 * [[MiG-9 (航空機・初代)|MiG-9]] - 第二次世界大戦中に試作された戦闘機。[[MiG-3 (航空機)|MiG-3]]のエンジンを[[シュベツォフ ASh-82|ASh-82]]に換装した。 * [[Su-1 (航空機)|Su-1, 3]] - 第二次世界大戦中に試作された高高度戦闘機。[[ターボチャージャー|ターボ過給機]]を備える。Su-3はSu-1の改良型。 * [[Su-5 (航空機)|Su-5]] - 第二次世界大戦中から戦後に開発されたプロペラとモータージェットの混合動力戦闘機。[[MiG-13 (航空機)|MiG-13]]に敗れた。 * [[Su-6 (航空機)|Su-6]] - 第二次世界大戦中に[[Il-2 (航空機)|Il-2]]の後継として試作された攻撃機。生産停滞への懸念から量産されなかった。 * [[Su-8 (航空機)|Su-8]] - 第二次世界大戦中に試作された双発レシプロ攻撃機。 * [[Su-9 (航空機・初代)|Su-9, 11, 13]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘爆撃機で[[メッサーシュミット Me262|Me262]]に類似する。Su-11とSu-13は改良型。 * [[Su-10 (航空機)|Su-10]] - 1940年代後半に計画されたジェット爆撃機。実機の完成前に中止。 * [[Su-12 (航空機)|Su-12]] - 1940年代後半に試作された双発レシプロ偵察機で[[Fw 189 (航空機)|Fw189]]に類似する。 * [[Su-15 (航空機・初代)|Su-15]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。試作機が墜落事故を起こして開発は中止された。 * [[Su-17 (航空機・初代)|Su-17]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。初飛行前に中止された。 * [[Su-27 (航空機)#基本型・発展型の型式|Su-27KI モルニヤ]] * [[Su-27 (航空機)#基本型・発展型の型式|Su-27KSh グローザ]] * [[TIS (航空機)|TIS]] - 第二次世界大戦中に試作された重武装の単発レシプロ戦闘機。 * [[Yak-5 (航空機)|Yak-5]] - 第二次世界大戦中に試作されたレシプロ戦闘機。[[Yak-1 (航空機)|Yak-1]]の派生型。 * [[Yak-19 (航空機)|Yak-19]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。[[ユンカース ユモ 004]] (RD-10) エンジンを使用。 * [[Yak-25 (航空機・初代)|Yak-25]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。[[ロールス・ロイス ダーウェント|ロールス・ロイス ダーウェントV]]エンジン。 * [[Yak-30 (航空機・初代)|Yak-30]] - 1940年代後半に試作されたジェット戦闘機。Yak-25を[[後退翼]]とした改良型。 * [[Yak-44 (航空機)|Yak-44]] - 1980年代に計画された艦載用[[早期警戒機]]。実機完成前に中止された。 * [[Ye-8 (航空機)|Ye-8]] - 1960年代に試作されたジェット戦闘機。[[MiG-21 (航空機)|MiG-21]]の改良型。 * [[7.01 (航空機)|7.01]] - 1980年代から90年代にかけて開発されたジェット戦闘機。 * [[41 (航空機)|41]] - 1980年代に開発されたジェット戦闘機。 * [[PSSh (航空機)|PSSh]] - [[Su-25 (航空機)#派生型|Su-25UB]]をベースに試作された[[攻撃機]]。 === その他 === * [[AO-63]] - 1980年代に試作された2つの銃身を持つ[[アサルトライフル]]。 * [[G-1 (ロケット)|G-1]] - 第二次世界大戦後にソビエトで[[V2ロケット]]を原型としてドイツ人技術者達が設計したロケット。 == フランス == * [[シュペルV-2]] - 第二次世界大戦後にドイツ人技術者達によって[[V2ロケット]]の発展型として開発が進められたが上層部の判断により完成しなかった。 *[[ミラージュ4000 (戦闘機)|ミラージュ4000]] - ミラージュ2000を基本に開発。 *ブレゲBr.1120 - ジェット艦載戦闘機。 == カナダ == * [[アブロ・カナダ CF-105]] - 1950年代に開発された迎撃機。初めてフライ・バイ・ワイヤを使用して飛行を行った航空機。 == イスラエル == * [[ラビ (航空機)|ラビ]] - 1980年代に開発されたジェット戦闘爆撃機。中国のJ-10にラビの技術が流用されたという説があるが確証はない。 == 南アフリカ == *アトラス カーバー - 1980年代に計画されたジェット戦闘機。 == ユーゴスラビア == * [[ノヴィ・アヴィオン]] - 1980年代に計画されたジェットマルチロール機 == 脚注 == <references/> {{weapon-stub}} {{デフォルトソート:けいかくのみにおわったへいき}} [[Category:兵器の一覧]] [[Category:中止された軍事上の計画|へいき]]
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金沢駅
金沢駅(かなざわえき)は、石川県金沢市木ノ新保町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・IRいしかわ鉄道の駅である。 本項目では、北陸鉄道浅野川線の北鉄金沢駅(ほくてつかなざわえき)についても併せて説明する。 当駅は石川県の県庁所在地である金沢市の代表駅である。 JR西日本の北陸新幹線と北陸本線、IRいしかわ鉄道のIRいしかわ鉄道線が乗り入れている。また七尾線の列車も津幡駅からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れている。IRいしかわ鉄道線は北陸新幹線が2015年(平成27年)3月14日に当駅まで開業した際にJR西日本から経営分離された北陸本線の「並行在来線」区間である。 北陸本線は、大阪・京都方面からの特急「サンダーバード」、名古屋・米原方面からの特急「しらさぎ」など全列車が停車し、「サンダーバード」1往復(七尾線 和倉温泉駅発着)を除く全列車が始発・終着となる。このうち北陸新幹線延伸開業前は多くの列車が当駅から富山方面に運転されていた。なお、北陸新幹線が敦賀駅まで延伸開業後、当駅以南の在来線がIRいしかわ鉄道に移管される予定である。 JR金沢駅の事務管理コードは▲541449を使用している。 北鉄金沢駅は金沢駅の兼六園口(東口)駅前広場の地下にある。浅野川線の前身である浅野川電気鉄道により「金沢駅前駅」として開業し、北陸鉄道への合併と地下化を経て現在に至る。かつては金沢駅前停留場(金沢市内線)および中橋駅(金石線) と併せ北陸鉄道の駅・停留所が3か所に散在しており、(当時の)国鉄金沢駅を含め、相互に徒歩連絡を行っていた。 2001年(平成13年)、JR金沢駅・北鉄金沢駅ともに第3回中部の駅百選に選定。2005年(平成17年)、東口は能楽の鼓をイメージした「鼓門」、ガラス張りで地下広場を備えた「もてなしドーム」が完成。2011年(平成23年)にはアメリカ・Travel + Leisure(ウェブ版)の「世界で最も美しい駅」の一つに選定された。 在来線が島式ホーム3面7線、島式1面のうち切欠きホームが1面1線、新幹線が島式ホーム2面4線を有する高架駅である。在来線ホームと新幹線ホームは同一平面上(同一高さ)にあり、1階に在来線・新幹線のそれぞれの改札口が、中2階に在来線と新幹線を一括で処理するのりかえ改札口と、在来線から金沢百番街「あんと」に直結する無人の「あんと改札口」が設けられている。 当初は、新幹線の開業後も(敦賀延伸までは)在来線駅ともJR西日本が保有し運営することになっていたが、2012年から翌年にかけて行われたJR西日本社長と石川県知事の会談により、IRいしかわ鉄道が土地を除く在来線駅の施設を約17億円で取得することになった。ただし、管理・運営は引き続きJR西日本が行う。 駅長配置の直営駅で、管理駅として北陸本線の加賀笠間駅 - 西金沢駅間の各駅を統括管理している。 入場券はJR西日本とIRいしかわ鉄道の両社で発売している。ただし新幹線改札内については、JR西日本の入場券では入場可能であるのに対し、IRいしかわ鉄道の入場券では入ることができない。 駅舎は、JR西日本系ホテルのヴィアイン金沢や金沢百番街と一体化している(「駅周辺」も参照)。 両社の共同使用駅であり、JR西日本が駅を運営する。IRいしかわ鉄道のグッズ販売や定期券発行を行っているIRお客さまカウンターが設置されているが、IRいしかわ鉄道からJR西日本金沢メンテックへ業務を委託している。無人化前のあんと改札口もJR西日本金沢メンテックが金沢ターミナル開発から業務を受託していた。 富山方面の一部列車が使用する4番のりばは3・5番のりばのあるホームの富山方の端を切り欠いたホームである。そのため階段から遠い位置にある。切り欠きホームとなっている3・4番のりばのホームを除いて、ホーム有効長は13両分となっている。ホーム全体が雪害対策のために屋根で覆われているが、4番のりばのみ覆われていない。これは高架化当時に非電化だった七尾線の気動車の排ガス対策の名残で、この4番のりばにはその気動車列車である「花嫁のれん」に対応する形での装飾も施されている。また、西金沢駅寄りに引上線が2線設置されている。 中2階の3・5番のりば方面と6・7番のりば方面の階段の間(かつてのトイレの跡地)にはジェイアールサービスネット金沢運営のセブン-イレブンキヨスクJR金沢駅在来中2階店と喫煙所、2階の1・2番のりばのホームの南側には大友楼の売店がある。1・2番のりばのホームのセブン-イレブンキヨスクJR金沢駅在来ホーム北店とセブン自販機は2023年(令和5年)7月30日をもって営業を終了した。 1990年(平成2年)から金沢の伝統工芸の一つである琴の音色の発車メロディが使用されている。この曲は「城下町の雰囲気を醸し出させるとともに、発車ベルらしくリズミカルで鉄道のイメージに沿った曲調」をコンセプトに、当地在住で筝曲家の大谷親千鶴が作曲した。当初は3曲が使用されていたが、現在は短調と長調の2曲が使用されており、2・4・6番のりばは短調、1・3・5・7番のりばは長調になっている。 自動券売機はJR西日本の券売機とIRいしかわ鉄道の券売機が並置されている。在来線改札口とあんと改札口にはICカード乗車券に対応しているのりこし精算機が設置されている。あんと改札口の自動券売機はICカード乗車券未対応のまま2021年(令和3年)3月30日をもって終了し、撤去された。なお、当駅は福井県内以遠の各駅との間でICOCAなどのICカード乗車券を利用できる東限であり、福井県内以遠の各駅と津幡・高岡・富山・七尾線方面(東金沢駅以東)各駅との間をICカード乗車券で利用するには、大聖寺駅 - 当駅間のいずれかの駅で一旦改札を出場する必要がある。 当駅はかつて福井側と富山・和倉温泉側の優等列車双方が発着し特急列車の乗り入れも非常に多かったが、北陸新幹線の開業に伴い富山方面への特急列車や寝台特急の発車はなくなった。 新幹線ホームは通過線を持たない島式ホーム2面4線で、2024年春予定の敦賀駅までの延伸開業が行われるまでの間は当面の終着駅となる。ただし、線路は敦賀方にある白山総合車両所まですでに伸びており、同車両所との間の回送列車も運行されている。また、当駅にはJR東日本のE7系が乗り入れており、JR東日本所属の車両が定期運用で乗り入れる大阪駅に最も近い駅(最西端)となっている。 新幹線駅舎のデザインコンセプトは、「まちが見える、心と体に気持ちがいい駅」。前述の「もてなしドーム」と一体化した駅舎を整備した。ホーム各線にはホームドア(可動式ホーム柵)が設置されており、ドアの塗色は九谷焼の「九谷五彩」(赤色・黄色・紺青色・紫色・緑色)のうち紺青色を除く4色が使用されている。なお、紺青色はE7・W7系のラインカラーであり、車両が駅に入線することで「九谷五彩」が揃う狙いがあるという。また、ホームの柱60本には金箔を約2万枚使用した飾りが柱上部に取り付けられている。 これ以外にも、中2階の待合室には石川県産の能登ヒバを使用した壁面に236個の丸穴をくり抜き、輪島塗や山中漆器などの石川県の伝統工芸品(現物)を飾り付けたり、新幹線コンコースの壁面に加賀友禅や二俣和紙を使用するなど、随所に伝統工芸品を組み込み金沢らしさを感じるデザインを取り入れている。中2階の待合室の横と2階の11・12番のりばのホームの南側にはジェイアールサービスネット金沢運営のセブン-イレブンキヨスク、2階の11・12番のりばのホームの北側には大友楼の売店がある。 新幹線ホームの発車メロディは、金沢市出身の音楽プロデューサー・中田ヤスタカが制作し、「金沢の山から海にかけての起伏ある自然条件」「伝統と創造が調和するまち」「北陸新幹線のスピード感と快適性」を表現したオリジナル曲が採用されている。 改札前にはみどりの窓口・みどりの券売機・みどりの券売機プラスが設置されていて、e5489やえきねっとなど各種列車予約サービスの受取が可能である。 北鉄金沢駅(ほくてつかなざわえき)は、石川県金沢市堀川新町にある、北陸鉄道浅野川線の駅である。駅番号はA01。 頭端式ホーム1面2線を有する地下駅である。浅野川線において、1線ではないのは当駅と三ツ屋駅(唯一の列車交換可能駅)のみとなっている。 昼間は1番線のみ使用しており、2番線には1編成が留置されている。ラッシュ時は1・2番線とも使用する。列車別改札。発車時は以前ブザーを使用していたが、2019年2月12日からは金沢市立工業高等学校の生徒が制作した発車メロディ(「金沢市歌」をアレンジした楽曲)を使用している。 主な駅弁は下記の通り。 近年の推移は下表の通り。 金沢駅周辺は市内中心部に相対する「兼六園(けんろくえん)口」の周辺と、遠く日本海に相対する「金沢港(かなざわこう)口」の周辺に分けることができる。これら駅の出入口名は北陸新幹線延伸開業日の2015年3月14日にそれぞれの旧称「東口」および「西口」から改称されたが、金沢港口付近一帯は旧称「西口」に基づく通称「駅西地区」あるいはこれを略して「駅西」と呼ばれており、移転後の石川県庁を中心に商業施設の集積が進んでいる。 市内の繁華街・中心市街地である片町・香林坊地区とはやや離れた場所に位置しているが、兼六園口側から多数の路面バスが駅から中心部や、兼六園やひがし茶屋街などの観光地を結んでいる。 金沢駅周辺は県暴力団排除条例に基づき、暴力団排除特別強化地域に指定されており、地域内では暴力団と風俗店、飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや利益供与などを禁止している。違反した場合には双方に罰則規定が設けられている。 ※西日本旅客鉄道の新幹線・在来線特急、ならびにIRいしかわ鉄道線の「あいの風ライナー」の隣の停車駅は各列車記事を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "金沢駅(かなざわえき)は、石川県金沢市木ノ新保町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・IRいしかわ鉄道の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項目では、北陸鉄道浅野川線の北鉄金沢駅(ほくてつかなざわえき)についても併せて説明する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "当駅は石川県の県庁所在地である金沢市の代表駅である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "JR西日本の北陸新幹線と北陸本線、IRいしかわ鉄道のIRいしかわ鉄道線が乗り入れている。また七尾線の列車も津幡駅からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れている。IRいしかわ鉄道線は北陸新幹線が2015年(平成27年)3月14日に当駅まで開業した際にJR西日本から経営分離された北陸本線の「並行在来線」区間である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "北陸本線は、大阪・京都方面からの特急「サンダーバード」、名古屋・米原方面からの特急「しらさぎ」など全列車が停車し、「サンダーバード」1往復(七尾線 和倉温泉駅発着)を除く全列車が始発・終着となる。このうち北陸新幹線延伸開業前は多くの列車が当駅から富山方面に運転されていた。なお、北陸新幹線が敦賀駅まで延伸開業後、当駅以南の在来線がIRいしかわ鉄道に移管される予定である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR金沢駅の事務管理コードは▲541449を使用している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "北鉄金沢駅は金沢駅の兼六園口(東口)駅前広場の地下にある。浅野川線の前身である浅野川電気鉄道により「金沢駅前駅」として開業し、北陸鉄道への合併と地下化を経て現在に至る。かつては金沢駅前停留場(金沢市内線)および中橋駅(金石線) と併せ北陸鉄道の駅・停留所が3か所に散在しており、(当時の)国鉄金沢駅を含め、相互に徒歩連絡を行っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2001年(平成13年)、JR金沢駅・北鉄金沢駅ともに第3回中部の駅百選に選定。2005年(平成17年)、東口は能楽の鼓をイメージした「鼓門」、ガラス張りで地下広場を備えた「もてなしドーム」が完成。2011年(平成23年)にはアメリカ・Travel + Leisure(ウェブ版)の「世界で最も美しい駅」の一つに選定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "在来線が島式ホーム3面7線、島式1面のうち切欠きホームが1面1線、新幹線が島式ホーム2面4線を有する高架駅である。在来線ホームと新幹線ホームは同一平面上(同一高さ)にあり、1階に在来線・新幹線のそれぞれの改札口が、中2階に在来線と新幹線を一括で処理するのりかえ改札口と、在来線から金沢百番街「あんと」に直結する無人の「あんと改札口」が設けられている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "当初は、新幹線の開業後も(敦賀延伸までは)在来線駅ともJR西日本が保有し運営することになっていたが、2012年から翌年にかけて行われたJR西日本社長と石川県知事の会談により、IRいしかわ鉄道が土地を除く在来線駅の施設を約17億円で取得することになった。ただし、管理・運営は引き続きJR西日本が行う。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "駅長配置の直営駅で、管理駅として北陸本線の加賀笠間駅 - 西金沢駅間の各駅を統括管理している。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "入場券はJR西日本とIRいしかわ鉄道の両社で発売している。ただし新幹線改札内については、JR西日本の入場券では入場可能であるのに対し、IRいしかわ鉄道の入場券では入ることができない。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "駅舎は、JR西日本系ホテルのヴィアイン金沢や金沢百番街と一体化している(「駅周辺」も参照)。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "両社の共同使用駅であり、JR西日本が駅を運営する。IRいしかわ鉄道のグッズ販売や定期券発行を行っているIRお客さまカウンターが設置されているが、IRいしかわ鉄道からJR西日本金沢メンテックへ業務を委託している。無人化前のあんと改札口もJR西日本金沢メンテックが金沢ターミナル開発から業務を受託していた。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "富山方面の一部列車が使用する4番のりばは3・5番のりばのあるホームの富山方の端を切り欠いたホームである。そのため階段から遠い位置にある。切り欠きホームとなっている3・4番のりばのホームを除いて、ホーム有効長は13両分となっている。ホーム全体が雪害対策のために屋根で覆われているが、4番のりばのみ覆われていない。これは高架化当時に非電化だった七尾線の気動車の排ガス対策の名残で、この4番のりばにはその気動車列車である「花嫁のれん」に対応する形での装飾も施されている。また、西金沢駅寄りに引上線が2線設置されている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "中2階の3・5番のりば方面と6・7番のりば方面の階段の間(かつてのトイレの跡地)にはジェイアールサービスネット金沢運営のセブン-イレブンキヨスクJR金沢駅在来中2階店と喫煙所、2階の1・2番のりばのホームの南側には大友楼の売店がある。1・2番のりばのホームのセブン-イレブンキヨスクJR金沢駅在来ホーム北店とセブン自販機は2023年(令和5年)7月30日をもって営業を終了した。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)から金沢の伝統工芸の一つである琴の音色の発車メロディが使用されている。この曲は「城下町の雰囲気を醸し出させるとともに、発車ベルらしくリズミカルで鉄道のイメージに沿った曲調」をコンセプトに、当地在住で筝曲家の大谷親千鶴が作曲した。当初は3曲が使用されていたが、現在は短調と長調の2曲が使用されており、2・4・6番のりばは短調、1・3・5・7番のりばは長調になっている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "自動券売機はJR西日本の券売機とIRいしかわ鉄道の券売機が並置されている。在来線改札口とあんと改札口にはICカード乗車券に対応しているのりこし精算機が設置されている。あんと改札口の自動券売機はICカード乗車券未対応のまま2021年(令和3年)3月30日をもって終了し、撤去された。なお、当駅は福井県内以遠の各駅との間でICOCAなどのICカード乗車券を利用できる東限であり、福井県内以遠の各駅と津幡・高岡・富山・七尾線方面(東金沢駅以東)各駅との間をICカード乗車券で利用するには、大聖寺駅 - 当駅間のいずれかの駅で一旦改札を出場する必要がある。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当駅はかつて福井側と富山・和倉温泉側の優等列車双方が発着し特急列車の乗り入れも非常に多かったが、北陸新幹線の開業に伴い富山方面への特急列車や寝台特急の発車はなくなった。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "新幹線ホームは通過線を持たない島式ホーム2面4線で、2024年春予定の敦賀駅までの延伸開業が行われるまでの間は当面の終着駅となる。ただし、線路は敦賀方にある白山総合車両所まですでに伸びており、同車両所との間の回送列車も運行されている。また、当駅にはJR東日本のE7系が乗り入れており、JR東日本所属の車両が定期運用で乗り入れる大阪駅に最も近い駅(最西端)となっている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "新幹線駅舎のデザインコンセプトは、「まちが見える、心と体に気持ちがいい駅」。前述の「もてなしドーム」と一体化した駅舎を整備した。ホーム各線にはホームドア(可動式ホーム柵)が設置されており、ドアの塗色は九谷焼の「九谷五彩」(赤色・黄色・紺青色・紫色・緑色)のうち紺青色を除く4色が使用されている。なお、紺青色はE7・W7系のラインカラーであり、車両が駅に入線することで「九谷五彩」が揃う狙いがあるという。また、ホームの柱60本には金箔を約2万枚使用した飾りが柱上部に取り付けられている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これ以外にも、中2階の待合室には石川県産の能登ヒバを使用した壁面に236個の丸穴をくり抜き、輪島塗や山中漆器などの石川県の伝統工芸品(現物)を飾り付けたり、新幹線コンコースの壁面に加賀友禅や二俣和紙を使用するなど、随所に伝統工芸品を組み込み金沢らしさを感じるデザインを取り入れている。中2階の待合室の横と2階の11・12番のりばのホームの南側にはジェイアールサービスネット金沢運営のセブン-イレブンキヨスク、2階の11・12番のりばのホームの北側には大友楼の売店がある。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "新幹線ホームの発車メロディは、金沢市出身の音楽プロデューサー・中田ヤスタカが制作し、「金沢の山から海にかけての起伏ある自然条件」「伝統と創造が調和するまち」「北陸新幹線のスピード感と快適性」を表現したオリジナル曲が採用されている。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "改札前にはみどりの窓口・みどりの券売機・みどりの券売機プラスが設置されていて、e5489やえきねっとなど各種列車予約サービスの受取が可能である。", "title": "JR西日本・IRいしかわ鉄道" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "北鉄金沢駅(ほくてつかなざわえき)は、石川県金沢市堀川新町にある、北陸鉄道浅野川線の駅である。駅番号はA01。", "title": "北陸鉄道 北鉄金沢駅" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "頭端式ホーム1面2線を有する地下駅である。浅野川線において、1線ではないのは当駅と三ツ屋駅(唯一の列車交換可能駅)のみとなっている。", "title": "北陸鉄道 北鉄金沢駅" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "昼間は1番線のみ使用しており、2番線には1編成が留置されている。ラッシュ時は1・2番線とも使用する。列車別改札。発車時は以前ブザーを使用していたが、2019年2月12日からは金沢市立工業高等学校の生徒が制作した発車メロディ(「金沢市歌」をアレンジした楽曲)を使用している。", "title": "北陸鉄道 北鉄金沢駅" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近年の推移は下表の通り。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "金沢駅周辺は市内中心部に相対する「兼六園(けんろくえん)口」の周辺と、遠く日本海に相対する「金沢港(かなざわこう)口」の周辺に分けることができる。これら駅の出入口名は北陸新幹線延伸開業日の2015年3月14日にそれぞれの旧称「東口」および「西口」から改称されたが、金沢港口付近一帯は旧称「西口」に基づく通称「駅西地区」あるいはこれを略して「駅西」と呼ばれており、移転後の石川県庁を中心に商業施設の集積が進んでいる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "市内の繁華街・中心市街地である片町・香林坊地区とはやや離れた場所に位置しているが、兼六園口側から多数の路面バスが駅から中心部や、兼六園やひがし茶屋街などの観光地を結んでいる。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "金沢駅周辺は県暴力団排除条例に基づき、暴力団排除特別強化地域に指定されており、地域内では暴力団と風俗店、飲食店等との間で、みかじめ料のやりとりや利益供与などを禁止している。違反した場合には双方に罰則規定が設けられている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "※西日本旅客鉄道の新幹線・在来線特急、ならびにIRいしかわ鉄道線の「あいの風ライナー」の隣の停車駅は各列車記事を参照。", "title": "隣の駅" } ]
金沢駅(かなざわえき)は、石川県金沢市木ノ新保町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・IRいしかわ鉄道の駅である。 本項目では、北陸鉄道浅野川線の北鉄金沢駅(ほくてつかなざわえき)についても併せて説明する。
{{画像改訂依頼|ホーム画像|明るい時間帯に撮影したもの|cat=鉄道|cat2=金沢市|date=2023年11月}} {{駅情報 |駅名 = 金沢駅 |よみがな = かなざわ |ローマ字 = Kanazawa |画像 = Kanazawa-STA Kenrokuen-entrance.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 兼六園口(2022年7月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point |marker=rail|marker2=rail |coord={{coord|36|34|41.8|N|136|38|51.9|E}}|marker-color=0072bc|title=金沢駅 |coord2={{coord|36|34|42|N|136|38|58.8|E}}|marker-color2=ff8c00|title2=北鉄金沢駅 |frame-latitude=36.578374|frame-longitude=136.648819 }} |所属事業者 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本・[[#JR西日本・IRいしかわ鉄道|駅詳細]])<br/>[[IRいしかわ鉄道]]([[#JR西日本・IRいしかわ鉄道|駅詳細]])<br />[[北陸鉄道]]([[#北陸鉄道 北鉄金沢駅|駅詳細]]) |所在地 = [[石川県]][[金沢市]] |乗換 = |備考 = }}{{座標一覧}} '''金沢駅'''(かなざわえき)は、[[石川県]][[金沢市]]木ノ新保町にある、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)・[[IRいしかわ鉄道]]の[[鉄道駅|駅]]である。 本項目では、[[北陸鉄道]][[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]の'''[[#北陸鉄道 北鉄金沢駅|北鉄金沢駅]]'''(ほくてつかなざわえき)についても併せて説明する。 == 概要 == 当駅は石川県の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]]である金沢市の代表駅である。 JR西日本の[[北陸新幹線]]と[[北陸本線]]、IRいしかわ鉄道の[[IRいしかわ鉄道線]]が乗り入れている{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}。また[[七尾線]]の列車も[[津幡駅]]からIRいしかわ鉄道線経由で乗り入れている{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}。IRいしかわ鉄道線は北陸新幹線が2015年(平成27年)3月14日に当駅まで開業した際にJR西日本から経営分離された北陸本線の「並行在来線」区間である<ref name="hokkoku2015315">{{Cite news |title=IR鉄道も出発進行 並行在来線・金沢-倶利伽羅 |newspaper=北國新聞 |publisher=北國新聞社 |page={{要ページ番号|date=2016年8月}} |date=2015-03-15}}</ref><ref name="mynavi20150315">{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20150315-a007/|title = IRいしかわ鉄道・あいの風とやま鉄道、521系中心に運行開始! 新デザインも|website = [[マイナビニュース]]|date = 2015-03-15|accessdate = 2021-09-23}}</ref><ref name="yamagatanp">{{Cite news|url = https://www.yamagata-np.jp/feature/full_shinkansen/kj_2017040400085.php|title = 山形にフル規格新幹線を 並行在来線(5) 北陸新幹線(下)|newspaper = 山形新聞|archiveurl = https://web.archive.org/web/20190901142642/https://www.yamagata-np.jp/feature/full_shinkansen/kj_2017040400085.php|date = 2017-04-04|archivedate = 2019-09-01|accessdate = 2021-09-23}}</ref><ref name="hokkoku210302">{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/344891|title = IRいしかわ初の赤字 20年度見通し コロナで利用者減|newspaper = 北國新聞|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210316133851/https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/344891|date = 2021-03-02|archivedate = 2021-03-16|accessdate = 2021-09-23}}</ref>。 北陸本線は、[[大阪駅|大阪]]・[[京都駅|京都]]方面からの[[特別急行列車|特急]]「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」、[[名古屋駅|名古屋]]・[[米原駅|米原]]方面からの特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」など全列車が停車し、「サンダーバード」1往復(七尾線 [[和倉温泉駅]]発着)を除く全列車が始発・終着となる{{sfn|マイナビ|2015|p=66}}{{sfn|旅と鉄道|2015|p=85}}。このうち北陸新幹線延伸開業前は多くの列車が当駅から富山方面に運転されていた。なお、北陸新幹線が[[敦賀駅]]まで延伸開業後、当駅以南の在来線がIRいしかわ鉄道に移管される予定である<ref name="yamagatanp"/><ref>{{Cite news|url = https://www.yomiuri.co.jp/local/fukui/news/20210830-OYTNT50078/|title = 並行在来線運賃1.15倍に|newspaper = [[読売新聞オンライン]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210910154119/https://www.yomiuri.co.jp/local/fukui/news/20210830-OYTNT50078/|date = 2021-08-31|archivedate = 2021-09-10|accessdate = 2021-09-23}}</ref>。 JR金沢駅の[[事務管理コード]]は▲541449を使用している<ref>日本国有鉄道旅客局(1984)『鉄道・航路旅客運賃・料金算出表 昭和59年4月20日現行』。</ref>。 北鉄金沢駅は金沢駅の兼六園口(東口)駅前広場の地下にある。浅野川線の前身である浅野川電気鉄道により「金沢駅前駅」として開業し、北陸鉄道への合併と地下化を経て現在に至る。かつては金沢駅前停留場([[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]){{sfn|マイナビ|2015|p=115}}および[[中橋駅]]([[北陸鉄道金石線|金石線]]) と併せ北陸鉄道の駅・停留所が3か所に散在しており、(当時の)国鉄金沢駅を含め、相互に徒歩連絡を行っていた。 [[2001年]](平成13年)、JR金沢駅・北鉄金沢駅ともに第3回[[中部の駅百選]]に選定。[[2005年]](平成17年)、東口は[[能楽]]の[[鼓]]をイメージした「[[鼓門]]」、[[ガラス]]張りで地下広場を備えた「もてなしドーム」が完成{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}{{sfn|朝日|2012|p=10}}。[[2011年]](平成23年)には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[:en:Travel + Leisure|Travel + Leisure]](ウェブ版)の「世界で最も美しい駅」の一つに選定された{{sfn|マイナビ|2015|p=65}}<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20111227001.htm |title = 金沢駅選出 世界で最も美しい駅 米の旅行雑誌の14選|publisher = 北國新聞|deadlinkdate = 2021年7月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20120107173628/http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20111227001.htm|date = 2011-12-27|archivedate = 2012-01-07|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Kanazawa-STA Tsuzumi-mon.jpg|鼓門(2022年7月) 131108 Kanazawa Station Kanazawa Ishikawa pref Japan01s5.jpg|ライトアップされた鼓門(2013年11月) もてなしドーム3.jpg|もてなしドーム(2014年1月) </gallery> == JR西日本・IRいしかわ鉄道 == {{駅情報 |社色 = #0072bc |文字色 = |駅名 = 金沢駅 |画像 = Kanazawa-STA Kanazawako-entrance.jpg |pxl = 300 px |画像説明 = 金沢港口と[[ヴィアイン]]金沢(2022年7月) |よみがな = かなざわ |ローマ字 = Kanazawa |電報略号 = サワ |所属事業者= [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<br />[[IRいしかわ鉄道]] |所在地 = [[石川県]][[金沢市]]木ノ新保町1-1{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}} | 緯度度 = 36 | 緯度分 = 34 | 緯度秒 = 41.8 | 経度度 = 136 |経度分 = 38 | 経度秒 = 51.9 |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |開業年月日= [[1898年]]([[明治]]31年)[[4月1日]]{{sfn|朝日|2012|p=20}}{{sfn|マイナビ|2015|p=64}} |廃止年月日= |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線{{sfn|朝日|2012|p=20}}{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}(新幹線)<br/>3面7線{{sfn|朝日|2012|p=20}}{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}(在来線) |乗車人員 = {{Small|(JR西日本)-2019年-}}<br />22,840/日(降車客含まず)<hr />{{Small|(IRいしかわ)-2019年-}}<br />10,395<!--石川県統計書による--> |乗入路線数= 4 |所属路線1 = {{Color|mediumblue|■}}[[北陸新幹線]](JR西日本) |前の駅1 = [[新高岡駅|新高岡]] |駅間A1 = 39.7 |駅間B1 = <!--27.1--> |次の駅1 = <!--[[小松駅|小松]]--> |駅番号1 = |キロ程1 = 345.5&nbsp;km([[高崎駅|高崎]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から450.5{{sfn|旅と鉄道|2015|p=15}} |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#0072bc|■}}[[北陸本線]](JR西日本) |前の駅2 = [[西金沢駅|西金沢]] |駅間A2 = 3.7 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = |キロ程2 = 176.6 |起点駅2 = [[米原駅|米原]] |所属路線3 = {{color|#00a7e3|■}}[[IRいしかわ鉄道線]](IRいしかわ鉄道)<br/>({{color|#0072bc|■}}JR[[七尾線]]直通含む) |前の駅3 = |駅間A3 = |駅間B3 = 2.6 |次の駅3 = [[東金沢駅|東金沢]] |駅番号3 = |キロ程3 = 0.0 |起点駅3 = 金沢 |乗換 = |備考 = [[共同使用駅]](JR西日本の管轄駅)<br />[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]])<br />[[みどりの窓口]] 有<br />[[指定席券売機#アシストマルス|みどりの券売機プラス]]設置駅 |備考全幅 = }} === 年表 === [[ファイル:Kanazawa Station.1975.jpg|thumb|高架化前の金沢駅周辺の空中写真(1975年10月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] <!-- 年表を記載する場合は、できるだけ出典を記載ください。出典を記載していない記述は、無条件で削除する場合がありますのでご注意願います --> * [[1894年]]([[明治]]27年)6月:金沢市会が停車場の位置や連絡道路の意見書を可決し、[[鉄道省|鉄道庁]]に上申。この時点で候補地は金沢の[[外港]][[金石 (金沢市)|金石]]とのアクセスを考え、[[金石往還]]を駅西大通りとする計画であった。その後、[[1896年]](明治29年)までに宗叔町、三社付近、広岡付近も候補地となった<ref name="p90">『古地図で楽しむ金沢』(2017年9月7日、本康宏史編著、風媒社発行)90頁より。</ref>。 * [[1896年]](明治29年)[[5月6日]]:この日までの論議の末、停車場は木ノ新保六番丁(白髪神社辺り)を中心とする同五番丁、七番丁の36,000坪に『三等停車場』として建設されることが決定する<ref name="p90" />。 * [[1898年]](明治31年) ** 3月:初代東口駅舎(木造洋風建築、建築面積500m<sup>2</sup>)が竣工。この時点で西口は無く、畑地に隣接していて、敷地を隔てる柵も無かったという<ref>『古地図で楽しむ金沢』(2017年9月7日、本康宏史編著、風媒社発行)91頁より。</ref>。 ** [[4月1日]]:[[鉄道省|官設鉄道]]北陸線 [[小松駅]] - 当駅間延伸開業に伴い、[[終着駅]]として開業([[日本の鉄道駅#一般駅|一般駅]]){{Refnest|group="官報"|明治31年3月25日逓信省告示第78号(『官報』第4416号、明治31年3月25日、内閣官報局)}}{{sfn|朝日|2012|p=10}}{{sfn|マイナビ|2015|p=64}}{{sfn|川島|2010|p=47}}。 ** [[11月1日]]:官設鉄道北陸線 当駅 - [[高岡駅]]間延伸開業に伴い、途中駅となる{{Refnest|group="官報"|明治31年10月27日逓信省告示第288号(『官報』第4599号、明治31年10月27日、内閣官報局)}}{{sfn|朝日|2012|p=10}}。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定に伴い、[[北陸本線]]所属駅となる{{sfn|朝日|2012|p=10}}。 * [[1938年]]([[昭和]]13年)[[10月1日]]:北陸本線 当駅 - [[津幡駅]]間が複線化<ref name="ishino-199810">{{Cite |coauthors=石野哲輔 |title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編Ⅱ |publisher=JTB |page={{要ページ番号|date=2016年8月}} |date=1998年10月}}</ref>。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:日本国有鉄道法施行に伴い、[[日本国有鉄道]](国鉄)に継承{{sfn|北國|1997|p=129}}。 * [[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]:金沢鉄道管理局が発足{{sfn|朝日|2012|p=10}}{{sfn|北國|1997|p=129}}。 * [[1954年]](昭和29年)[[7月25日]]:[[鉄筋コンクリート造]]4階建ての駅舎が開業{{sfn|朝日|2012|p=10}}。1階に駅施設、地階にステーションデパートが設けられた<ref>『古地図で楽しむ金沢』(2017年9月7日、本康宏史編著、風媒社発行)93頁より。</ref>。 * [[1960年]](昭和35年)[[9月28日]]:北陸本線 [[西金沢駅]] - 当駅間が複線化<ref name="kokutetsushi-199810">{{Cite |coauthors=日本国有鉄道編 |title=日本国有鉄道百年史年表 |publisher=日本国有鉄道 |page={{要ページ番号|date=2016年8月}} |date=1972年10月}}</ref>。 * [[1963年]](昭和38年)[[4月4日]]:北陸本線 [[福井駅 (福井県)|福井駅]] - 当駅間が[[交流電化]]{{sfn|朝日|2012|p=10}}<ref name="kokutetsushi-199810" />。 * [[1964年]](昭和39年)[[8月24日]]:北陸本線 当駅 - 富山操車場(現在の[[富山貨物駅]])間が交流電化<ref name="kokutetsushi-199810" />。 * [[1972年]](昭和47年)4月1日:旅行センターの営業を開始<ref>{{Cite news |和書|title=金沢駅旅行センター開店 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1972-04-02 |page=3 }}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)[[5月30日]]:高架化工事着工<ref>{{Cite book|和書|title = 北國新聞に見るふるさと110年(下)|publisher = 北國新聞社|date = 2003-08-05|pages = 226}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月7日]]:貨物業務を分離、金沢市高柳町へ移転{{sfn|朝日|2012|p=10}}。 * [[1986年]](昭和61年)3月:高架本体工事着手。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)と[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の駅となる{{sfn|朝日|2012|p=10}}。この日より[[西日本旅客鉄道金沢支社|JR西日本金沢支社]]が発足{{sfn|北國|1997|p=162}}。 * [[1990年]]([[平成]]2年)[[6月5日]]:旅客駅と下り貨物線が高架化(事実上の完成){{sfn|朝日|2012|p=10}}{{sfn|北國|2019|p=68}}<ref>{{Cite news |title=JR金沢駅付近連続高架化が完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1990-06-07 |page=2 }}</ref>。駅舎設備を高架下に移転。 * [[1991年]](平成3年)4月1日:上り貨物線が高架化され、高架化完了。 * [[2002年]](平成14年)[[10月21日]]:当駅 - 森本駅間の旅客線を旧・貨物線に移設<ref name="jrr2003">{{Cite |title=JR気動車客車編成表 '03年版 |publisher=ジェー・アール・アール |page={{要ページ番号|date=2016年8月}} |date=2003年 |isbn=4-88283-124-4}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[6月12日]]:JR貨物の駅が[[金沢貨物ターミナル駅]]に改称<ref>{{Cite news|和書|title = 積み降ろし2時間短縮 金沢貨物ターミナル駅開業|newspaper = 北國新聞|date = 2003-06-13|issue = 朝刊|pages = 3}}</ref><ref name="railfin2003">{{Cite |title=鉄道記録帳2003年6月 |publisher=鉄道友の会 |series=RAIL FAN |volume=50 |edition=9 |date=2003年9月1日 |page=17}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[3月20日]]:東口に「鼓門」および「もてなしドーム」が完成{{sfn|朝日|2012|p=10}}。 * [[2014年]](平成26年)[[11月1日]] :[[みどりの窓口]]が在来線側(金沢百番街ふれあい館とトレンド館の間)から新幹線側([[日本旅行]]TiS金沢支店の跡地の一部区画)へ移転し、営業開始。 * [[2015年]](平成27年)[[3月14日]] ** [[北陸新幹線]]の[[長野駅]] - 当駅間が延伸開業<ref>{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXLASFK13HA7_T10C15A3000000/|title = 北陸新幹線が開業 一番列車、金沢を出発|newspaper = 日本経済新聞|date = 2015-03-14|accessdate = 2021-07-25}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000001392|title = 北陸新幹線が開業 金沢-東京、2時間28分 一番列車、金沢駅に5千人|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ(北國新聞)|date = 2015-03-14|accessdate = 2021-07-25}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://news.ntv.co.jp/category/society/270990|title = 地元の歓迎を受け… 金沢駅に到着 北陸新幹線|publisher = [[日テレNEWS24]]|date = 2015-03-14|accessdate = 2021-07-25}}</ref><ref name="travelw">{{Cite web|和書|url = https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/697806.html|title = 北陸新幹線開業でリニューアルした「金沢駅」に行ってみた|website = トラベルWatch|date = 2015-04-16|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。これに伴い、北陸本線の当駅 - [[倶利伽羅駅]]間が[[IRいしかわ鉄道]]に移管され<ref name="mynavi20150315"/><ref name="yamagatanp"/><ref name="hokkoku210302"/>、同社との共同使用駅となる<ref name="hokkoku2015315" />。のりかえ改札口でみどりの窓口と[[指定席券売機|みどりの券売機]]の営業開始。新幹線改札口とのりかえ改札口で[[自動改札機]]の使用開始。 ** 北陸新幹線開業に伴い、[[特急列車]]が七尾線直通の「サンダーバード」1往復を除き、すべて当駅始発・終着になる。富山方面への特急列車はすべて廃止された。 ** 従来の東口を「兼六園(けんろくえん)口」<ref name="nikkei20150313">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO83650480V20C15A2000000/|title = 北陸新幹線 豪雪地帯の快走支える駅・構造物|newspaper = 日本経済新聞|date = 2015-03-13|accessdate = 2021-09-23}}</ref>、西口を「金沢港(かなざわこう)口」に改称{{Refnest|group="広報" |name="exit"|[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/12/page_6525.html 金沢駅 出入口名称の変更について]、(プレスリリース)西日本旅客鉄道 2014年12月 9日。2014年12月11日閲覧。}}。 * [[2017年]](平成29年) ** [[4月1日]]:在来線改札口で自動改札機の使用開始<ref name="2017-01-31" group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://www.ishikawa-railway.jp/info/pdf/201701312.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525201350/http://www.ishikawa-railway.jp/info/pdf/201701312.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北陸線(大聖寺駅~金沢駅間)IRいしかわ鉄道線、城端線(高岡駅~新高岡駅間)4月15日ICOCAサービスご利用開始~石川と富山がICOCAでつながる~|publisher=西日本旅客鉄道/IRいしかわ鉄道/あいの風とやま鉄道|date=2017-01-31|accessdate=2020-02-01|archivedate=2019-05-25}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://news.ntv.co.jp/category/society/357924|title = JR西日本 金沢駅などで自動改札を導入|publisher = 日テレNEWS24|date = 2017-04-01|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。 ** [[4月15日]]:[[乗車カード|ICカード]]「[[ICOCA]]」の利用が可能になる<ref name="2017-01-31" group="広報" /><ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=http://ainokaze.co.jp/wp-content/uploads/2017/01/52ec997ad191bbbcc65a6d2c092765d6.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190525201350/http://ainokaze.co.jp/wp-content/uploads/2017/01/52ec997ad191bbbcc65a6d2c092765d6.pdf|format=PDF|language=日本語|title=交通ICカード「ICOCA」の利用範囲拡大等について|publisher=あいの風とやま鉄道|date=2017-01-31|accessdate=2020-02-01|archivedate=2019-05-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/743859.html|title = JR西日本、ICカード「ICOCA」を金沢地区・新高岡地区へ導入|website = トラベルWatch|date = 2016-02-16|accessdate = 2021-09-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://response.jp/article/2017/01/31/289699.html|title = 「北陸ICOCA連合」結成…IRいしかわ鉄道がICカード導入 4月15日|website = [[Response.]]|date = 2017-01-31|accessdate = 2021-07-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/64109|title = 富山に続き石川も「ICOCA」エリアに 4月15日、3社相互利用開始|website = 乗りものニュース|date = 2017-02-01|accessdate = 2021-09-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://www.sankei.com/photo/daily/news/170415/dly1704150004-n1.html|title = 金沢でイコカ利用可能に 石川、富山の19駅|website = 産経フォト|date = 2017-04-15|accessdate = 2021-09-21}}</ref>。{{Refnest|group="注"|あんと改札口では入場用と出場用の簡易型IC改札機、のりかえ改札口では出場用の簡易型IC改札機の運用を開始。}} * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[3月3日]]:あんと改札口で自動改札機の使用開始。 ** 3月14日:[[新幹線eチケット]]サービス開始。これに伴い、前日の[[3月13日]]をもってのりかえ改札口の出場用簡易型IC改札機の運用終了。 ** [[11月1日]]:みどりの窓口の営業時間を1日あたり4時間50分短縮<ref name="hokkoku20201121">{{Cite web|和書|url = https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201121302.htm|title = 来年1月15日で終了 七尾、羽咋駅「みどりの窓口」|publisher = 北國新聞|deadlinkdate = 2021年12月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20201121054841/https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201121302.htm|date = 2020-11-21|archivedate = 2020-11-21|accessdate = 2021-12-19}}</ref>。 ** [[12月12日]]:[[指定席券売機#アシストマルス|みどりの券売機プラス]]を2台導入<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201120_00_midorinokenbaiki.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201124084303/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/201120_00_midorinokenbaiki.pdf|format=PDF|language=日本語|title=北陸初! みどりの券売機プラスの導入日が決定しました|publisher=西日本旅客鉄道|date=2020-11-20|accessdate=2021-01-01|archivedate=2020-11-24}}</ref><ref name ="hokkoku20201121" />。 * [[2021年]](令和3年)[[3月13日]]:あんと改札口が無人化。前日の[[3月12日]]をもって窓口業務を終了。 * [[2024年]](令和6年) ** [[1月15日]]:あんと改札口を閉鎖(予定)<ref group="広報">{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/231218_00_press_kanazawaeki_1.pdf|title=金沢駅あんと改札口の閉鎖について|format=PDF|publisher=西日本旅客鉄道/金沢ターミナル開発|date=2023-12-18|accessdate=2023-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231218121447/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/231218_00_press_kanazawaeki_1.pdf|archivedate=2023-12-18}}</ref>。 ** [[3月16日]]:[[北陸新幹線]]の当駅 - [[敦賀駅]]間が延伸開業予定。これに伴い、北陸本線の当駅 - [[大聖寺駅]]間が[[IRいしかわ鉄道]]に移管される(予定)。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Shinkansen platform of Kanazawa St..JPG|ホーム(建設中の様子) Kanazawa Station in Meiji era.JPG|明治時代の金沢駅 Kanazawa Station circa 1933.jpg|戦前の金沢駅(昭和8年) </gallery> === 駅構造 === 在来線が[[プラットホーム|島式ホーム]]3面7線{{sfn|川島|2010|p=47}}<ref name="knp20150311">{{Cite news|和書|title = 北陸新幹線大図解 (4) 金沢駅|newspaper = [[北日本新聞]]|date = 2015-03-11|pages = 19}}</ref>、島式1面のうち[[頭端式ホーム|切欠きホーム]]が1面1線{{sfn|川島|2010|p=47}}<ref name="knp20150311"/>、新幹線が島式ホーム2面4線<ref name="nikkei20150313"/><ref name="knp20150311"/>{{sfn|鉄道ダイヤ情報|2015|p=22}}を有する[[高架駅]]である。在来線ホームと新幹線ホームは同一平面上(同一高さ)にあり、1階に在来線・新幹線のそれぞれの改札口が、中2階に在来線と新幹線を一括で処理するのりかえ改札口{{refnest|group="注"|北陸新幹線の[[安中榛名駅]] - 金沢駅間では当駅<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210822040045/https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0541449|url=https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0541449|archivedate=2021-08-21|date=2021-01-05|accessdate=2021-09-18|title=金沢駅構内図|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref>と[[長野駅]]<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201130102651/https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1105.html|url=https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1105.html|archivedate=2020-11-20|date=2021-06|accessdate=2021-09-18|title=長野駅構内図|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>のみに一括処理の乗り換え改札口が設置されている。[[富山駅]]にも「乗り換え改札口」と称する改札口があるが、実際は新幹線の改札口と在来線([[あいの風とやま鉄道]]管理)の改札口の2か所が設置されている(その間で駅の外との出入りもできる)<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210918045448/https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0541465|url=https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0541465|archivedate=2021-09-18|date=2021-03-13|accessdate=2021-09-18|title=富山駅構内図|publisher=西日本旅客鉄道}}</ref>。}}と、在来線から[[金沢百番街]]「あんと」に直結する無人の「あんと改札口」が設けられている<ref name="travelw"/><ref name="knp20150311"/>。 当初は、新幹線の開業後も(敦賀延伸までは)在来線駅ともJR西日本が保有し運営することになっていたが、2012年から翌年にかけて行われたJR西日本社長と石川県知事の会談により、IRいしかわ鉄道が土地を除く在来線駅の施設を約17億円で取得することになった{{sfn|マイナビ|2015|p=111}}。ただし、管理・運営は引き続きJR西日本が行う{{sfn|マイナビ|2015|p=111}}{{Refnest|group="広報"|{{PDFlink|[http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/heikouzairaisennituite/kyougikainiuite/kyougikai/documents/12_siryou1.pdf JR西日本社長と知事との会談結果について]}} - 石川県(2013年2月12日更新、同年6月23日閲覧)<!--http://www.pref.ishikawa.lg.jp/shink/heikouzairaisen/heikouzairaisennituite/yoseih250201.html-->}}。 [[駅長]]配置の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]で、[[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]として北陸本線の[[加賀笠間駅]] - [[西金沢駅]]間の各駅を統括管理している。 [[入場券]]はJR西日本とIRいしかわ鉄道の両社で発売している。ただし新幹線改札内については、JR西日本の入場券では入場可能であるのに対し、IRいしかわ鉄道の入場券では入ることができない<ref>{{Cite web|和書|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200606071831/http://ishikawa-railway.jp/ticket/ticket_howto.html|url=http://ishikawa-railway.jp/ticket/ticket_howto.html|archivedate=2020-06-06|accessdate=2021-09-18|title=きっぷの取扱い・購入方法|publisher=IRいしかわ鉄道}} - 入場券の節参照。</ref>。 駅舎は、JR西日本系ホテルの[[ヴィアイン]]金沢や金沢百番街と一体化している(「駅周辺」も参照)<ref name="travelw"/>{{sfn|マイナビ|2015|p=65}}。 ==== 在来線 ==== 両社の[[共同使用駅]]であり、JR西日本が駅を運営する。IRいしかわ鉄道のグッズ販売や定期券発行を行っているIRお客さまカウンターが設置されているが、IRいしかわ鉄道から[[JR西日本金沢メンテック]]へ業務を委託している。無人化前のあんと改札口もJR西日本金沢メンテックが金沢ターミナル開発から業務を受託していた。 富山方面の一部列車が使用する4番のりばは3・5番のりばのあるホームの富山方の端を切り欠いたホームである{{sfn|旅と鉄道|2015|p=52}}<ref name="knp20150311"/>{{sfn|川島|2010|p=12}}。そのため階段から遠い位置にある<ref name="travelw"/>。切り欠きホームとなっている3・4番のりばのホームを除いて、ホーム有効長は13両分となっている。ホーム全体が雪害対策のために[[スノーシェルター|屋根で覆われている]]が、4番のりばのみ覆われていない。これは高架化当時に[[非電化]]だった七尾線の[[気動車]]の排ガス対策の名残で、この4番のりばにはその気動車列車である「[[花嫁のれん (列車)|花嫁のれん]]」に対応する形での装飾も施されている。また、[[西金沢駅]]寄りに[[引き上げ線|引上線]]が2線設置されている{{sfn|川島|2010|p=12}}。 中2階の3・5番のりば方面と6・7番のりば方面の階段の間(かつての[[トイレ]]の跡地)には[[ジェイアールサービスネット金沢]]運営の[[セブン-イレブン]][[キヨスク]]JR金沢駅在来中2階店と[[喫煙所]]、2階の1・2番のりばのホームの南側には大友楼の売店がある。1・2番のりばのホームのセブン-イレブンキヨスクJR金沢駅在来ホーム北店とセブン[[自動販売機|自販機]]は[[2023年]](令和5年)[[7月30日]]をもって営業を終了した。 [[1990年]](平成2年)から金沢の伝統工芸の一つである琴の音色の[[発車メロディ]]が使用されている{{sfn|マイナビ|2015|p=113}}。この曲は「城下町の雰囲気を醸し出させるとともに、発車ベルらしくリズミカルで鉄道のイメージに沿った曲調」<ref name=":0">{{Cite news|title=北國新聞夕刊|date=1990-5-29|publication-date=1990-5-29}}{{要ページ番号|date=2021年7月}}</ref>をコンセプトに、当地在住で筝曲家の大谷親千鶴が作曲した<ref name=":0" />。当初は3曲が使用されていた<ref>{{Cite news|title=読売新聞石川金沢版|date=1990-05-31|publication-date=1990-05-31}}{{要ページ番号|date=2021年7月}}</ref>が、現在は短調と長調の2曲が使用されており、2・4・6番のりばは短調、1・3・5・7番のりばは長調になっている。 [[自動券売機]]はJR西日本の券売機とIRいしかわ鉄道の券売機が並置されている<ref>ギャラリー参照</ref>。在来線改札口とあんと改札口には[[ICカード乗車券]]に対応しているのりこし精算機が設置されている。あんと改札口の自動券売機はICカード乗車券未対応のまま2021年(令和3年)[[3月30日]]をもって終了し、撤去された。なお、当駅は[[福井県]]内以遠の各駅との間で[[ICOCA]]などのICカード乗車券を利用できる東限であり<ref>[https://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html JRおでかけネット ICOCAご利用可能エリア] - 西日本旅客鉄道</ref><ref>[https://ainokaze.co.jp/ticket/ic ICカードについて] - あいの風とやま鉄道</ref>、福井県内以遠の各駅と津幡・高岡・富山・七尾線方面([[東金沢駅]]以東)各駅との間をICカード乗車券で利用するには、[[大聖寺駅]] - 当駅間のいずれかの駅で一旦改札を出場する必要がある。 ===== のりば ===== <!--方面表記は、JR西日本(JRおでかけネット)の「構内図」の記載に準拠(JR西日本管轄かつ発着番線も明記されているため)--> {| class="wikitable" !のりば<!--事業者側による呼称-->!!路線!!行先!!備考 |- !1・2 |rowspan="2"|{{Color|#0072bc|■}} 北陸本線 |rowspan="2"|[[福井駅 (福井県)|福井]]・[[大阪駅|大阪]]・[[米原駅|米原]]・[[名古屋駅|名古屋]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0541449">{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/eki/premises?id=0541449|title=金沢駅|構内図:JRおでかけネット|publisher=西日本旅客鉄道|accessdate=2022-12-30}}</ref> |主に特急発着ホーム |- !3・5 |普通列車発着ホーム |- !rowspan="2"|3 - 7 |{{color|#00a7e3|■}} IRいしかわ鉄道線 |[[津幡駅|津幡]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0541449" /> |&nbsp; |- |{{color|#c9252f|■}} 七尾線 |[[羽咋駅|羽咋]]・[[和倉温泉駅|和倉温泉]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0541449" /> |&nbsp; |} ; 発着する優等列車 当駅はかつて福井側と富山・和倉温泉側の優等列車双方が発着し特急列車の乗り入れも非常に多かったが、北陸新幹線の開業に伴い富山方面への特急列車や寝台特急の発車はなくなった{{Refnest|group="注"|「[[あいの風ライナー]]」([[ホームライナー]])の[[始発]]・[[終着駅]]でもある。[[臨時列車]]「IRおでかけ号」の終着駅でもある。}}。 * 特急列車 ** [[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]・[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]・[[能登かがり火]]・[[花嫁のれん (列車)|花嫁のれん]]・[[ダイナスター (列車)|ダイナスター]]・[[おはようエクスプレス・おやすみエクスプレス]] * 快速列車 **[[あいの風ライナー]] <gallery> Kanazawa-STA Concourse.jpg|駅構内(2022年4月) Kanazawa-STA JR-line IR-line Gate.jpg|JR線・IRいしかわ鉄道線改札口(2022年4月) Kanazawa-STA Anto-Gate.jpg|あんと改札口(2022年5月) Kanazawa-STA Platform1-2.jpg|1・2番のりば(2022年7月) Kanazawa-STA Platform3-5.jpg|3・5番のりば(2022年5月) Kanazawa-STA Platform5-4.jpg|4番のりば(2022年7月) Kanazawa-STA Platform6-7.jpg|6・7番のりば(2022年5月) </gallery> ==== 新幹線 ==== 新幹線ホームは通過線を持たない島式ホーム2面4線で<ref name="travelw"/><ref name="nikkei20150313"/><ref name="knp20150311"/>、2024年春予定の[[敦賀駅]]までの延伸開業が行われるまでの間は当面の[[終着駅]]となる<ref name="travelw"/>。ただし、線路は敦賀方にある[[白山総合車両所]]まですでに伸びており<ref name="travelw"/>、同車両所との間の回送列車も運行されている{{sfn|鉄道ダイヤ情報|2015|p=23}}。また、当駅にはJR東日本のE7系が乗り入れており、JR東日本所属の車両が定期運用で乗り入れる[[大阪駅]]に最も近い駅(最西端)となっている。<ref group="注">在来線は中央本(西)線の[[中津川駅]]で、長野支社の[[国鉄211系電車|211系]]が乗り入れ。なお、最東端は[[宮古駅]]、最南端は[[伊豆急下田駅]]、最北端は新幹線は[[新函館北斗駅]]、在来線は[[下北駅]]である。</ref> 新幹線駅舎のデザインコンセプトは、「まちが見える、心と体に気持ちがいい駅」{{sfn|鉄道ダイヤ情報|2015|p=22}}{{sfn|マイナビ|2015|p=65}}。前述の「もてなしドーム」と一体化した駅舎を整備した。ホーム各線には[[ホームドア]](可動式ホーム柵)が設置されており<ref name="nikkei20150313"/><ref name="res20150210">{{Cite web|和書|url = https://response.jp/article/2015/02/10/243949.html|title = 北陸の新たな玄関口・新幹線金沢駅…ディテールやデザインを見る|website = Response.|date = 2015-02-10|accessdate = 2021-12-19}}</ref><ref name="nori20150314">{{Cite web|和書|url = https://trafficnews.jp/post/38734/3|title = 北陸新幹線を知る「10」の要点|website = 乗りものニュース|date = 2015-03-14|accessdate = 2021-12-19}}</ref>、ドアの塗色は[[九谷焼]]の「九谷五彩」([[赤|赤色]]・[[黄色]]・[[紺青 (色)|紺青色]]・[[紫|紫色]]・[[緑|緑色]])<!-- 原色での記載 -->のうち紺青色を除く4色が使用されている<ref name="res20150210"/>。なお、紺青色は[[新幹線E7系・W7系電車|E7・W7系]]のラインカラーであり、車両が駅に入線することで「九谷五彩」が揃う狙いがあるという<ref name="res20150210"/><ref name="nori20150314"/>。また、ホームの柱60本には[[金箔]]を約2万枚使用した飾りが柱上部に取り付けられている<ref name="knp20150311"/><ref name="res20150210"/>{{sfn|旅と鉄道|2015|p=53}}。 これ以外にも、中2階の待合室には石川県産の能登ヒバを使用した壁面に236個の丸穴をくり抜き、[[輪島塗]]や[[山中漆器]]などの石川県の伝統工芸品(現物)を飾り付けたり<ref name="knp20150311"/><ref name="res20150210"/>、新幹線コンコースの壁面に[[加賀友禅]]や[[二俣和紙]]を使用するなど{{sfn|鉄道ダイヤ情報|2015|p=22}}<ref name="res20150210"/>、随所に伝統工芸品を組み込み金沢らしさを感じるデザインを取り入れている{{sfn|マイナビ|2015|p=65}}。中2階の待合室の横と2階の11・12番のりばのホームの南側にはジェイアールサービスネット金沢運営のセブン-イレブンキヨスク、2階の11・12番のりばのホームの北側には大友楼の売店がある。 新幹線ホームの発車メロディは、金沢市出身の音楽プロデューサー・[[中田ヤスタカ]]が制作し、「金沢の山から海にかけての起伏ある自然条件」「伝統と創造が調和するまち」「北陸新幹線のスピード感と快適性」を表現したオリジナル曲が採用されている{{Refnest|group="広報"|{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/12/page_6523.html|publisher=西日本旅客鉄道|title=北陸新幹線 発車メロディの決定について|date=2014-12-09|accessdate=2014-01-07}}}}<ref>{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXLASJB09H0Y_Z01C14A2I00000/|title = 北陸新幹線、金沢駅に中田ヤスタカ氏の発車メロディー採用|newspaper = 日本経済新聞|date = 2014-12-09|accessdate = 2020-01-16}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/02/05/kiji/K20150205009755120.html|title = 中田ヤスタカ 金沢市長に新幹線駅メロディー作曲を報告|newspaper = スポーツニッポン|date = 2015-02-05|accessdate = 2020-01-16}}</ref>。 改札前には[[みどりの窓口]]・[[指定席券売機|みどりの券売機]]・みどりの券売機プラスが設置されていて、[[e5489]]や[[えきねっと]]<ref>[https://www.eki-net.com/top/jrticket/guide/uketori/other_area.html えきねっと JR北海道およびJR西日本 北陸エリアでのお受取りについて]</ref>など各種列車予約サービスの受取が可能である。 ===== のりば ===== {| class="wikitable" !のりば<!--事業者側による呼称-->!!路線!!行先 |- !11 - 14 |[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px]] 北陸新幹線 |[[富山駅|富山]]・[[東京駅|東京]]方面<ref name="jr-odekake-premises?id=0541449" /> |} <gallery> Kanazawa-STA Shinkansen-Gate.jpg|新幹線改札口(2022年4月) Kanazawa-STA Transfer-Gate.jpg|のりかえ改札口(2022年5月) Kanazawa-STA Shinkansen-Concourse.jpg|コンコース(2022年7月) Kanazawa-STA Waiting-room.jpg|待合室(2022年7月) Kanazawa-STA Platform11-12.jpg|11・12番のりば(2022年7月) Kanazawa-STA Platform13-14.jpg|13・14番のりば(2022年7月) </gallery> == 北陸鉄道 北鉄金沢駅 == {{駅情報 |社色 = darkorange |文字色 = |駅名 = 北鉄金沢駅* |画像 = Hokutetsu-Kanazawa-STA Entrance.jpg |pxl = 300px |画像説明 = 駅入口(2022年4月) |よみがな = <span style="white-space:nowrap">ほくてつかなざわ |ローマ字 = Hokutetsu-Kanazawa</span> |前の駅 = |駅間A = |駅間B = 0.6 |次の駅 = [[七ツ屋駅|七ツ屋]] (A02) |電報略号 = |駅番号 = {{駅番号c|#0067C0|A01}} |所属事業者 = [[北陸鉄道]] |所属路線 = {{color|darkorange|■}}[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]] |キロ程 = 0.0 |起点駅 = 北鉄金沢 |所在地 = [[石川県]][[金沢市]]堀川新町1-11 | 緯度度 = 36 | 緯度分 = 34 | 緯度秒 = 42 | 経度度 = 136 |経度分 = 38 | 経度秒 = 58.8 |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1926年]]([[大正]]15年)[[5月18日]]{{sfn|川島|2010|p=84}} |廃止年月日 = |乗車人員 = |乗降人員 = 4,450 |統計年度 = 2019年 |備考 = * [[1949年]]に金沢駅前駅から改称。 }} '''北鉄金沢駅'''(ほくてつかなざわえき)は、石川県金沢市堀川新町にある、[[北陸鉄道]][[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''A01'''。 === 歴史 === * [[1926年]]([[大正]]15年)[[5月18日]]:浅野川電気鉄道の'''金沢駅前駅''' - [[七ツ屋駅]]間が開業{{Refnest|group="官報"|[{{NDLDC|2956274/11}} 「地方鉄道運輸開始並営業哩程変更」『官報』1926年5月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)}}{{sfn|朝日|2012|p=10}}{{sfn|川島|2010|p=84}}{{sfn|寺田|2008|p=39}}。 * [[1945年]]([[昭和]]20年)[[10月1日]]:浅野川電気鉄道が北陸鉄道に吸収合併、同社の浅野川線となる{{sfn|朝日|2012|p=10}}。 * [[1949年]](昭和24年)[[8月1日]]:'''北鉄金沢駅'''に改称{{sfn|寺田|2013|p=246}}。 * [[1956年]](昭和31年)[[7月5日]]:金沢駅前広場拡張に伴い移転。 * [[1996年]]([[平成]]8年)[[12月19日]]:浅野川線の架線電圧を直流600Vから直流1500Vに昇圧{{sfn|寺田|2008|p=39}}{{sfn|朝日|2011|p=19}}{{sfn|寺田|2013|p=94}}。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]]:浅野川線 当駅 - 七ツ屋駅間地下化に伴い、地下駅となる{{sfn|寺田|2008|p=39}}{{sfn|朝日|2011|p=19}}<ref>{{Cite news|和書|title = 北陸初の地下駅完成祝う 北鉄浅野川線 金沢駅、記念列車が出発|newspaper = 北國新聞|date = 2001-03-27|issue = 夕刊|pages = 9}}</ref>。 === 駅構造 === [[頭端式ホーム]]1面2線{{sfn|川島|2010|p=12}}を有する[[地下駅]]である{{sfn|川島|2010|p=84}}。浅野川線において、1線ではないのは当駅と[[三ツ屋駅]](唯一の[[列車交換]]可能駅){{sfn|川島|2010|p=85}}のみとなっている。 ==== のりば ==== <!--方面表記は、北陸鉄道の「時刻表」の記載に準拠--> {| class="wikitable" !番線!!路線!!行先 |- !1・2 |{{color|darkorange|■}} 浅野川線 |[[内灘駅|内灘]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/railway/hokutetsukanazawa|title=北鉄金沢|浅野川線-時刻表|鉄道情報|北陸鉄道株式会社|publisher=北陸鉄道|accessdate=2022-12-30}}</ref> |} 昼間は1番線のみ使用しており{{sfn|川島|2010|p=84}}、2番線には1編成が留置されている。ラッシュ時は1・2番線とも使用する{{sfn|川島|2010|p=84}}。[[列車別改札]]。発車時は以前ブザーを使用していたが、[[2019年]][[2月12日]]からは[[金沢市立工業高等学校]]の生徒が制作した発車メロディ(「[[金沢市歌]]」をアレンジした楽曲)を使用している{{Refnest|group="広報"|{{Cite press release|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29024|title = 北陸鉄道浅野川線発車メロディーの運用開始(2/12)|publisher = 北陸鉄道|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210420083530/http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29024|date = 2019-02-15|archivedate = 2021-04-20|accessdate = 2021-07-26}}}}<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.shiko-th.ed.jp/news/20190212/|title = 発車メロディー制作プロジェクト|publisher = 金沢市立工業高等学校|date = 2019-02-12|accessdate = 2021-07-26}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/200340|title = 「浅電」全線 再現しきった 金沢市工生が鉄道模型|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210210231212/https://www.chunichi.co.jp/article/200340|date = 2021-02-11|archivedate = 2021-02-10|accessdate = 2021-07-26}}</ref>。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Hokutetsu-Kanazawa-STA Platform.jpg|ホーム(2022年4月) HokutetsuKanazawa.jpg|地下移設前の北鉄金沢駅正面(1999年) </gallery> == 駅弁 == 主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=97-98,482-483}}</ref>。 {{Div col||20em}} * ますぶりすし重ね * ますのすし(二重) * 特選ますのすし * ぶりのすし * 越前朝倉物語 * 北前廻船丼 かに・いくら・うに * 炙りのどぐろ棒寿し<ref>{{Cite news|url = https://www.yomiuri.co.jp/national/20210304-OYT1T50185/|title = 駅弁、自宅でいかが…コロナ苦境で「巣ごもり需要」に販路拡大|newspaper = 読売新聞オンライン|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210304061125/https://www.yomiuri.co.jp/national/20210304-OYT1T50185/|date = 2021-03-04|archivedate = 2021-03-04|accessdate = 2021-07-26}}</ref> * ますのすし(一重) * たかののどぐろめし * 越前かに棒すし * 越前かにめし * 特製牛肉弁当 * 百万石弁当 * 金沢牛かさね重 * 加賀の四季 * 利家御膳 * のどぐろ釜飯 * おとなの焼き鯖寿し * 金沢三昧 * 福井が一番ソースカツ丼 * 有磯海 * ぶりのすし小箱 * ますのすし小丸 * 輪島朝市弁当 * 越前贅かにいなり * 金沢牛おこわ * ますとぶり小箱 * 牛すき焼き弁当 * ますのすし小箱 * 雷鳥のうた * 加賀彩々 * 三色ちらし弁当 * 金沢白麹焼き鶏めし {{Div col end}} == 利用状況 == <!-- 運営者が不明のウェブサイト(個人サイトも含む)は、出典として引用できません --> * '''JR西日本''' - 2019年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''22,820人'''である<ref name="jrwdeta2020">{{Cite web|和書|url = https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_11.pdf|title = データでみるJR西日本2020 駅|publisher = 西日本旅客鉄道|archiveurl = https://web.archive.org/web/20201114122529/https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2020_11.pdf|date = 2020-09|archivedate = 2020-11-14|accessdate = 2020-12-06|format = PDF}}</ref>。 *: [[北陸地方|北陸3県]]では第1位、JR西日本全体では第45位となっている(2019年度)<ref name="jrwdeta2020"/>。 <!-- JR西日本の順位は、出典に基づいて記載しています。データを変更する際は出典も変更願います --> * '''IRいしかわ鉄道''' - 2019年度の1日平均'''乗車'''人員は'''10,395人'''である<ref name="toukei-h30">{{Cite web|和書|url=http://toukei.pref.ishikawa.jp/library/2019-data/R01-all.pdf|archiveurl=|title=令和元年石川県統計書|archivedate=|date=2021-03|page=104|accessdate=2021-04-12|publisher=石川県|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref group="注" name="IR-01" />。 * '''北陸鉄道''' - 2019年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''4,450人'''である<ref name="名前なし-1">[https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/datalist/KsjTmplt-S12-v2_6.html 国土数値情報 駅別乗降客数データ ] - 国土交通省、2021年8月2日閲覧</ref>。 ** 同社の駅では第1位である。 近年の推移は下表の通り<ref>出典:石川県統計書、金沢市統計書</ref>。 <!--金沢市統計書を出典にしている数値については、/365(or366)で計算してあります--> {| class="wikitable" style="text-align:right;" |+年度別1日平均乗車人員推移<ref>[http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11018/toukeisho/24nendo/08unyu.html 8.運輸・通信] - 金沢市統計書</ref> !rowspan="2"|年度 !style="text-align:center;" colspan="1"|JR西日本 !style="text-align:center;" colspan="1"|IRいしかわ<ref group="注" name="IR-01">北陸新幹線、北陸本線、北陸鉄道浅野川線からの通過人員を含んだ値。</ref> !style="text-align:center;" colspan="1"|北陸鉄道<ref name="名前なし-1"/> |- !1日平均<br/>乗車人員 !1日平均<br/>乗車人員 !1日平均<br/>乗降人員 |- |1990年(平成{{0}}2年) |20,876 |rowspan="25" style="text-align:center;"|未<br/>開<br/>業 | |- |1991年(平成{{0}}3年) |21,407 | |- |1992年(平成{{0}}4年) |24,160 | |- |1993年(平成{{0}}5年) |24.313 | |- |1994年(平成{{0}}6年) |24,075 | |- |1995年(平成{{0}}7年) |23,896 | |- |1996年(平成{{0}}8年) |23,780 | |- |1997年(平成{{0}}9年) |23,113 | |- |1998年(平成10年) |22,695 | |- |1999年(平成11年) |22,107 | |- |2000年(平成12年) |21,728 | |- |2001年(平成13年) |21,409 | |- |2002年(平成14年) |21,624 | |- |2003年(平成15年) |21,062 | |- |2004年(平成16年) |20,608 | |- |2005年(平成17年) |20,518 | |- |2006年(平成18年) |20,817 | |- |2007年(平成19年) |20,763 | |- |2008年(平成20年) |20,969 | |- |2009年(平成21年) |20,157 | |- |2010年(平成22年) |19,898 | |- |2011年(平成23年) |20,010 |3,520 |- |2012年(平成24年) |20,332 |3,663 |- |2013年(平成25年) |20,785 |3,825 |- |2014年(平成26年) |20,807 |3,849 |- |2015年(平成27年) |22,999 |10,953<!--4,008,932÷366--> |4,122 |- |2016年(平成28年) |22,668 |10,714<!--3,910,690÷365--> |4,203 |- |2017年(平成29年) |22,895 |10,518<!--3,838,917÷365--> |4,412 |- |2018年(平成30年) |23,410 |10,516 |4,468 |- |2019年(令和元年) |22,820 |10,395 |4,450 |} == 駅周辺 == 金沢駅周辺は市内中心部に相対する「[[兼六園]](けんろくえん)口」の周辺と、遠く[[日本海]]に相対する「金沢港(かなざわこう)口」の周辺に分けることができる。これら駅の出入口名は北陸新幹線延伸開業日の2015年3月14日にそれぞれの旧称「東口」および「西口」から改称されたが{{Refnest|group="広報"|name="exit"}}、金沢港口付近一帯は旧称「西口」に基づく通称「駅西地区」あるいはこれを略して「駅西」と呼ばれており、移転後の[[石川県庁]]を中心に商業施設の集積が進んでいる。 市内の[[繁華街]]・[[中心市街地]]である[[片町 (金沢市)|片町]]・[[香林坊]]地区とはやや離れた場所に位置しているが、兼六園口側から多数の路面バスが駅から中心部や、[[兼六園]]や[[東山ひがし|ひがし茶屋街]]などの観光地を結んでいる。 金沢駅周辺は県暴力団排除条例に基づき、[[暴力団排除条例#暴力団排除特別強化地域|暴力団排除特別強化地域]]に指定されており、地域内では[[暴力団]]と風俗店、飲食店等との間で、[[みかじめ料]]のやりとりや利益供与などを禁止している。違反した場合には双方に罰則規定が設けられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.police.pref.ishikawa.lg.jp/security/upload/764dc9fea9e5b09064ca5a63705ee58c_1.pdf |title=「石川県暴力団排除条例」の一部改正の概要 |publisher=石川県警察|date=2019 |accessdate=2022-09-03}}</ref>。 === 駅ビル === ; [[金沢百番街]]<ref name="chunichi20210326">{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/article/224558|title = 【石川】「百番街」30年 駅ナカの歩み 金沢ステーションデパート前身|newspaper = 北陸中日新聞Web|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210328105154/https://www.chunichi.co.jp/article/224558|date = 2021-03-26|archivedate = 2021-03-28|accessdate = 2021-07-25}}</ref> * あんと - 「おみやげ館」と「あじわい館」を改装して2014年(平成26年)7月17日にリニューアル<ref name="chunichi20210326"/><ref>{{Cite web|和書|url = https://kanazawa.keizai.biz/headline/2254/|title = 金沢駅「百番街」土産・飲食ゾーンが刷新-新名称は「あんと」|website = [[みんなの経済新聞ネットワーク|金沢経済新聞]]|date = 2014-07-16|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。 ** 金沢駅内郵便局 * Rinto(リント) - 「トレンド館」を改装して2011年(平成23年)3月3日にリニューアル<ref name="chunichi20210326"/><ref>{{Cite web|和書|url = https://kanazawa.keizai.biz/headline/1346/|title = JR金沢駅の金沢百番街「トレンド館」が全面改装-「リント」として開業|website = 金沢経済新聞|date = 2011-03-17|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。 ** 金沢駅観光案内所 - 石川県の観光キャラクター「[[ひゃくまんさん]]」が展示されている。 * あんと西 - 西口側の「くつろぎ館」<ref>{{Cite web|和書|url = https://kanazawa.keizai.biz/headline/65/|title = JR金沢駅西口ビル・金沢百番街「くつろぎ館」が開業|website = 金沢経済新聞|date = 2007-05-26|accessdate = 2021-07-25}}</ref>を「あんと西」としてリニューアルしている。 === 地下(兼六園口下) === * 金沢駅地下広場 - [[ストリートピアノ]]が設置されている<ref>{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/418184|title = 金沢駅に自習の穴場 もてなしドーム地下広場 コロナで往来減 高校生「集中できる」|newspaper = 北國新聞|archiveurl = https://web.archive.org/web/20210522154554/https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/418184|date = 2021-05-22|archivedate = 2021-05-22|accessdate = 2021-07-25}}</ref>。 * 金沢駅地下駐輪場 === バス路線 === {{main|金沢駅バスターミナル}} <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Rinto Kanazawa Station.jpg|金沢百番街(2018年9月) Kanazawa-STA Bus-Terminal East-information.jpg|金沢駅バスターミナルの交通案内所(2022年7月) </gallery> == 隣の駅 == ※西日本旅客鉄道の新幹線・在来線特急、ならびにIRいしかわ鉄道線の「[[あいの風ライナー]]」の隣の停車駅は[[#発着する優等列車|各列車記事]]を参照。 ; 西日本旅客鉄道(JR西日本) : [[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px]] 北陸新幹線(金沢以西は2024年度開業予定) ::: [[新高岡駅]] - '''金沢駅'''( - [[小松駅]]:予定) : {{color|#0072bc|■}}北陸本線 ::* 特急「サンダーバード」発着駅(一部便は停車駅) ::* 特急「しらさぎ」発着駅 :: 普通 ::: [[西金沢駅]] - '''金沢駅''' : {{color|#0072bc|■}}七尾線(当駅 - 津幡駅間IRいしかわ鉄道線) ::* 特急「能登かがり火」、臨時特急「花嫁のれん」発着駅 ::* 特急「サンダーバード」停車駅 :: 普通 ::: '''金沢駅''' - 東金沢駅 ; IRいしかわ鉄道 : {{color|#00a7e3|■}}IRいしかわ鉄道線 ::* 「あいの風ライナー」発着駅 :: 普通 ::: '''金沢駅''' - [[東金沢駅]]([[金沢貨物ターミナル駅]]) : ※金沢貨物ターミナル駅は[[日本貨物鉄道]]の[[貨物駅]]である。 ; 北陸鉄道 : {{color|darkorange|■}}浅野川線 ::: '''北鉄金沢駅 (A01)''' - [[七ツ屋駅]] (A02) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 官報 ==== {{Reflist|group="官報"}} ==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ==== {{Reflist|group="広報"}} == 参考文献 == ; 金沢駅・北鉄金沢駅共通 * {{Cite book|和書|title = 【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全配線 第6巻 加賀温泉駅 - 富山エリア|author = [[川島令三]]|publisher = [[講談社]]|date = 2010-09-20|isbn = 978-4-06-270066-5|ref = {{sfnref|川島|2010}} }} * {{Cite book|和書|title = 週刊JR全駅・全車両基地 18 北陸本線②(森本〜米原) 越美北線|publisher = [[朝日新聞出版]]|date = 2012-12-09|ref = {{sfnref|朝日|2012}} }} * {{Cite book|和書|title = 徹底ガイド! 北陸新幹線まるわかりBOOK|publisher = [[マイナビ]]|date = 2015-02-08|isbn = 978-4-8399-5292-1|ref = {{sfnref|マイナビ|2015}} }} ; 金沢駅関連 * {{Cite book|和書|title = 鉄路有情 金沢駅開業百周年記念誌|publisher = [[北國新聞|北國新聞社]]|date = 1997-11-20|ref = {{sfnref|北國|1997}} }} * {{Cite journal|和書|title = 特集 開業目前! 北陸新幹線(長野〜金沢間)|journal = [[鉄道ダイヤ情報]]|publisher = [[交通新聞社]]|issue = 2015年3月号|pages = 10-41|date = 2015-02-14|ref = {{sfnref|鉄道ダイヤ情報|2015}} }} * {{Cite journal|和書|journal = [[旅と鉄道]]|publisher = 朝日新聞出版|issue = 2015年3月号|date = 2015-03-31|ref = {{sfnref|旅と鉄道|2015}} }} * {{Cite book|和書|title = 北國新聞で見る平成いしかわの30年|publisher = 北國新聞社|date = 2019-08-05|ref = {{sfnref|北國|2019}} }} ; 北鉄金沢駅関連 * {{Cite book|和書|title = 私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編|author = [[寺田裕一]]|publisher = [[JTBパブリッシング]]|date = 2008-05-01|isbn = 978-4-533-07145-4|ref = {{sfnref|寺田|2008}} }} * {{Cite book|和書|title = 週刊歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄 28 えちぜん鉄道 福井鉄道・北陸鉄道・のと鉄道|publisher = 朝日新聞出版|date = 2011-10-02|ref = {{sfnref|朝日|2011}} }} * {{Cite book|和書|title = 改訂新版 データブック日本の私鉄|author = 寺田裕一|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2013-01-19|isbn = 978-4-7770-1336-4|ref = {{sfnref|寺田|2013}} }} == 関連項目 == {{commonscat|Kanazawa Station}} {{commonscat|Hokutetsu-Kanazawa Station|北鉄金沢駅}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[金沢百番街]] * [[金沢フォーラス]] * [[山出保]] - 元金沢市長。鼓門・もてなしドームの発案者の1人。 == 外部リンク == <!-- 外部リンクの記載は、必要最小限に願います --> * {{外部リンク/JR西日本駅|0541449|金沢}} * [http://www.ishikawa-railway.jp/route/station/kanazawa.html 金沢駅] - IRいしかわ鉄道 * [http://www.hokutetsu.co.jp/railway/hokutetsukanazawa 北鉄金沢] - 北陸鉄道 * [https://www.hot-ishikawa.jp/spot/13394 ほっと石川旅ねっと JR金沢駅(鼓門・もてなしドーム)] - 石川県観光連盟 {{鉄道路線ヘッダー}} {{北陸新幹線}} {{北陸本線|mode=1}} {{IRいしかわ鉄道線}} {{七尾線}} {{北陸鉄道浅野川線}} {{鉄道路線フッター}} {{中部の駅百選}} {{DEFAULTSORT:かなさわ}} [[Category:金沢駅|*]] [[Category:金沢市の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 か|なさわ]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:IRいしかわ鉄道の鉄道駅]] [[Category:北陸本線|かなさわえき]] [[Category:北陸新幹線|かなさわえき]] [[Category:北陸鉄道の鉄道駅]] [[Category:1898年開業の鉄道駅]]
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北陸鉄道
北陸鉄道株式会社(ほくりくてつどう)は、石川県金沢市に本社を置き、石川県を中心として鉄道とバスを経営する中小私鉄である。鉄道を中心にした経営ではなく、主力は路線バス(高速バス・定期観光バスを含む)・貸切バス事業となっている。北鉄(ほくてつ)と略される。 筆頭株主は名古屋鉄道。また、主要な連結子会社として、議決権の80.5%を有する小松バスのほか、事業所を分社化した北鉄金沢バスなどがある。 1943年(昭和18年)に、陸運統制令に基づき鉱山鉄道であった尾小屋鉄道を除く石川県下の鉄道およびバス会社をすべて統合して発足した。 だが社風が異なる会社を強引に合併したことから、発足後しばらく混乱を生じたり、また路線が各地に点在するなどしていたため、合理化も進まなかった。さらに合併の弊害として、1959年(昭和34年) - 1960年(昭和35年)に労使紛争が起こると、ストライキなどが頻発して、鉄道・バスが多く運休となり、観光を中心とした県下の経済に悪影響を与えた。また一時は、社長をはじめとする役員がすべて辞任するという、指導者不在の事態にも陥った。運輸省では事態の収拾を図るため、名古屋鉄道(名鉄)に命じて同社を子会社化し、支援を行わせることにした。 だが、石川県にはこの北陸鉄道の混乱に乗じて、近畿日本鉄道が北日本観光自動車(かつて金沢 - 粟津・山中間に路線を有した)というバス会社を傘下におさめ、北陸鉄道1社に県下の交通が独占されているのを解消しようと競合バス路線の開設を目論むなど、交通業界は無秩序の状態に陥った。 この混乱が終息するのは、1969年(昭和44年)に北日本観光自動車のバス路線拡大申請が運輸審議会で却下された辺りからで、北陸鉄道では以後、名鉄が同時期に行っていたように、鉄道・バス路線の整理を推し進めることになった。 なお、1968年(昭和43年)に全鉄道路線の廃止の意向を表明したことがあったが、地元住民や自治体の反対に遭い、浅野川線・石川総線(石川線・金名線・能美線の総称)は合理化努力により残すことになった(後に能美線は利用低迷で、金名線は路盤劣化により廃止)。 コーポレートカラーは以下のように定められている。 かつては「国鉄各駅毎に接続」と云われるほどに石川県加賀地方のほぼ全域と能登地方の一部に路線を持っていたが、次々にモータリゼーションの影響で廃止され、現在は2路線20.6kmを有するのみとなっている。 北陸鉄道への合併年を記載していない路線は、1943年10月13日の7社合併時に合併した路線。現有路線の部分廃止区間を含む。 2019年4月1日に、石川線および浅野川線において駅ナンバリングを導入した。石川線はI(Ishikawa)で緑色の丸、浅野川線はA(Asanogawa)で青色の丸で表記される。番号の割り振りは以下のとおりとなる。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定。 ただし野町・北鉄金沢発着を中心に普通運賃より割安な特定運賃を多数設定している。 2004年(平成16年)12月1日から金沢地区で乗車カードとしてICカード「ICa(アイカ)」が導入された。当初はバスのみで利用可能なプリペイドタイプのみの運用だったが、2005年(平成17年)3月1日からは定期券の機能をもつ「ICa定期券」を導入した。この「ICa定期券」は、バスだけでなく鉄道線の一部区間でも利用可能となっている。今後、クレジットカードのコンタクトレス決済と合わせてICaのプリペイド機能を鉄道線にも導入する計画であることが2023年8月に発表された。 なお、ICOCAなどの全国相互利用サービス対応の交通系ICカードは、城下まち金沢周遊バスと一部のバス乗車券の事前購入を除き、利用することができない。 路線廃止が進行する以前には、合併会社各社からの継承車と、合併後に車体更新・新製された車両、他社から譲受した中古車両などが入り乱れ、概して低規格な路線が多かった事情もあって低出力な小型電車中心の複雑な車両構成をきたしており、また軌道線や非電化路線があったことから路面電車や気動車も保有していた。 戦後のデザイン傾向としては、1950年代から1960年代にかけての鉄道線車体更新車・新造車で、左右の尾灯を車体裾のごく低い位置に「寄り目」気味に配置するスタイルを共通して多用した時期がある(この間にアンチクライマーを配置した例も多かった。合併各社から引き継いだ車両にも同様な尾灯位置改造を施した事例が見られた)。 現有車両は以下の通り。営業運転用の車両はすべて関東の鉄道各社から譲受した車両となっている。 詳細は以下の各路線の記事を参照。 全て撤退している。 2023年時点で、以下の11社が連結子会社(関連会社)となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "北陸鉄道株式会社(ほくりくてつどう)は、石川県金沢市に本社を置き、石川県を中心として鉄道とバスを経営する中小私鉄である。鉄道を中心にした経営ではなく、主力は路線バス(高速バス・定期観光バスを含む)・貸切バス事業となっている。北鉄(ほくてつ)と略される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "筆頭株主は名古屋鉄道。また、主要な連結子会社として、議決権の80.5%を有する小松バスのほか、事業所を分社化した北鉄金沢バスなどがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)に、陸運統制令に基づき鉱山鉄道であった尾小屋鉄道を除く石川県下の鉄道およびバス会社をすべて統合して発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "だが社風が異なる会社を強引に合併したことから、発足後しばらく混乱を生じたり、また路線が各地に点在するなどしていたため、合理化も進まなかった。さらに合併の弊害として、1959年(昭和34年) - 1960年(昭和35年)に労使紛争が起こると、ストライキなどが頻発して、鉄道・バスが多く運休となり、観光を中心とした県下の経済に悪影響を与えた。また一時は、社長をはじめとする役員がすべて辞任するという、指導者不在の事態にも陥った。運輸省では事態の収拾を図るため、名古屋鉄道(名鉄)に命じて同社を子会社化し、支援を行わせることにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "だが、石川県にはこの北陸鉄道の混乱に乗じて、近畿日本鉄道が北日本観光自動車(かつて金沢 - 粟津・山中間に路線を有した)というバス会社を傘下におさめ、北陸鉄道1社に県下の交通が独占されているのを解消しようと競合バス路線の開設を目論むなど、交通業界は無秩序の状態に陥った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この混乱が終息するのは、1969年(昭和44年)に北日本観光自動車のバス路線拡大申請が運輸審議会で却下された辺りからで、北陸鉄道では以後、名鉄が同時期に行っていたように、鉄道・バス路線の整理を推し進めることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、1968年(昭和43年)に全鉄道路線の廃止の意向を表明したことがあったが、地元住民や自治体の反対に遭い、浅野川線・石川総線(石川線・金名線・能美線の総称)は合理化努力により残すことになった(後に能美線は利用低迷で、金名線は路盤劣化により廃止)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "コーポレートカラーは以下のように定められている。", "title": "コーポレートカラー" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "かつては「国鉄各駅毎に接続」と云われるほどに石川県加賀地方のほぼ全域と能登地方の一部に路線を持っていたが、次々にモータリゼーションの影響で廃止され、現在は2路線20.6kmを有するのみとなっている。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "北陸鉄道への合併年を記載していない路線は、1943年10月13日の7社合併時に合併した路線。現有路線の部分廃止区間を含む。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2019年4月1日に、石川線および浅野川線において駅ナンバリングを導入した。石川線はI(Ishikawa)で緑色の丸、浅野川線はA(Asanogawa)で青色の丸で表記される。番号の割り振りは以下のとおりとなる。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし野町・北鉄金沢発着を中心に普通運賃より割安な特定運賃を多数設定している。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)12月1日から金沢地区で乗車カードとしてICカード「ICa(アイカ)」が導入された。当初はバスのみで利用可能なプリペイドタイプのみの運用だったが、2005年(平成17年)3月1日からは定期券の機能をもつ「ICa定期券」を導入した。この「ICa定期券」は、バスだけでなく鉄道線の一部区間でも利用可能となっている。今後、クレジットカードのコンタクトレス決済と合わせてICaのプリペイド機能を鉄道線にも導入する計画であることが2023年8月に発表された。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、ICOCAなどの全国相互利用サービス対応の交通系ICカードは、城下まち金沢周遊バスと一部のバス乗車券の事前購入を除き、利用することができない。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "路線廃止が進行する以前には、合併会社各社からの継承車と、合併後に車体更新・新製された車両、他社から譲受した中古車両などが入り乱れ、概して低規格な路線が多かった事情もあって低出力な小型電車中心の複雑な車両構成をきたしており、また軌道線や非電化路線があったことから路面電車や気動車も保有していた。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "戦後のデザイン傾向としては、1950年代から1960年代にかけての鉄道線車体更新車・新造車で、左右の尾灯を車体裾のごく低い位置に「寄り目」気味に配置するスタイルを共通して多用した時期がある(この間にアンチクライマーを配置した例も多かった。合併各社から引き継いだ車両にも同様な尾灯位置改造を施した事例が見られた)。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "現有車両は以下の通り。営業運転用の車両はすべて関東の鉄道各社から譲受した車両となっている。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "詳細は以下の各路線の記事を参照。", "title": "鉄道事業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "全て撤退している。", "title": "その他の事業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2023年時点で、以下の11社が連結子会社(関連会社)となっている。", "title": "主要関係会社" } ]
北陸鉄道株式会社(ほくりくてつどう)は、石川県金沢市に本社を置き、石川県を中心として鉄道とバスを経営する中小私鉄である。鉄道を中心にした経営ではなく、主力は路線バス(高速バス・定期観光バスを含む)・貸切バス事業となっている。北鉄(ほくてつ)と略される。 筆頭株主は名古屋鉄道。また、主要な連結子会社として、議決権の80.5%を有する小松バスのほか、事業所を分社化した北鉄金沢バスなどがある。
{{基礎情報 会社 |社名 = 北陸鉄道株式会社 |英文社名 = Hokuriku Railroad Co.,Ltd. |ロゴ = [[File:Hokutetsu logomark.svg|150px|北陸鉄道ロゴ]] |画像 = [[ファイル:Headquarters of Hokuriku Railroad.JPG|250px|北陸鉄道本社]] |画像説明 = 北陸鉄道本社 |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = <!-- 株式非公開会社において「非上場」などと書く必要はありません --> |略称 = 北鉄 |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 920-8508 |本社所在地 = [[石川県]][[金沢市]]割出町556番地 |本社緯度度 = 36|本社緯度分 = 36|本社緯度秒 = 8.8|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 136|本社経度分 = 38|本社経度秒 = 17.5|本社E(東経)及びW(西経) = E |本社地図国コード = JP |本店郵便番号 = |本店所在地 = |設立 = [[1943年]](昭和18年)[[10月13日]] |業種 = 5050 |統一金融機関コード = |SWIFTコード = |事業内容 = [[鉄道事業者|鉄道事業]]・[[路線バス|乗合バス]]・貸切バス事業・旅行業・不動産事業・レジャー事業 |代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 宮岸武司<br />代表取締役常務 小林工 |資本金 = 18億1485万5000円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110">{{Cite report |author=北陸鉄道株式会社 |authorlink= |date=2022-06-30 |title=第110期(令和3年4月1日 - 令和4年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |発行済株式総数 = 362万9711株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |売上高 = 連結: 85億8437万4000円<br />単独: 33億1118万9000円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = 連結: △21億8357万1000円<br />単独: △5億0165万6000円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = 連結: △22億0075万9000円<br />単独: △7億8781万0000円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = 連結: △10億1002万9000円<br />単独: △6億8951万6000円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = 連結: 42億9228万8000円<br />単独: 26億2792万2000円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |総資産 = 連結: 173億3998万2000円<br />単独: 107億7796万4000円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数 = 連結: 1,000人<br />単独: 318人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |支店舗数 = |決算期 = [[3月31日]] |会計監査人 = [[太陽有限責任監査法人]]<ref name="yuho110" /> |主要株主 = [[名古屋鉄道]] 13.97%<br />[[北國銀行]] 3.95%<br />石川日野自動車 0.70%<br />[[京阪ホールディングス]] 0.65%<br />[[北陸電力]] 0.65%<br />[[北陸銀行]] 0.56%<br />[[損害保険ジャパン]] 0.52%<br />[[東京海上日動火災保険]] 0.52%<br />[[三菱ふそうトラック・バス]] 0.46%<br />[[三井住友海上火災保険]] 0.42%<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho110" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |主要子会社 = 「[[#主要関係会社|主要関係会社]]」の節参照 |関係する人物 = [[林屋亀次郎]]<br />[[井村徳二]]<br />[[柴野和喜夫]] |外部リンク = http://www.hokutetsu.co.jp/ |特記事項 = }} '''北陸鉄道株式会社'''(ほくりくてつどう)は、[[石川県]][[金沢市]]に本社を置き、石川県を中心として[[鉄道]]と[[バス (交通機関)|バス]]を経営する[[中小私鉄]]である。鉄道を中心にした経営ではなく、主力は[[路線バス]]([[高速バス]]・[[定期観光バス]]を含む)・[[観光バス|貸切バス]]事業となっている。'''北鉄'''(ほくてつ)と略される。 筆頭[[株主]]は[[名古屋鉄道]]。また、主要な[[連結子会社]]として、議決権の80.5%を有する[[小松バス]]のほか、事業所を分社化した[[北鉄金沢バス]]などがある。 == 歴史 == [[1943年]]([[昭和]]18年)に、[[陸運統制令]]に基づき鉱山鉄道であった[[尾小屋鉄道]]を除く石川県下の鉄道およびバス会社をすべて統合して発足した。 だが社風が異なる会社を強引に合併したことから、発足後しばらく混乱を生じたり、また路線が各地に点在するなどしていたため、合理化も進まなかった。さらに合併の弊害として、[[1959年]](昭和34年) - [[1960年]](昭和35年)に労使紛争が起こると、[[ストライキ]]などが頻発して、鉄道・バスが多く運休となり、観光を中心とした県下の経済に悪影響を与えた。また一時は、社長をはじめとする役員がすべて辞任するという、指導者不在の事態にも陥った。[[運輸省]]では事態の収拾を図るため、[[名古屋鉄道]](名鉄)に命じて同社を[[子会社]]化し、支援を行わせることにした。 だが、石川県にはこの北陸鉄道の混乱に乗じて、[[近畿日本鉄道]]が[[北日本観光自動車]](かつて金沢 - [[粟津温泉|粟津]]・[[山中温泉|山中]]間に路線を有した)というバス会社を傘下におさめ、北陸鉄道1社に県下の交通が独占されているのを解消しようと競合バス路線の開設を目論むなど、交通業界は無秩序の状態に陥った。 この混乱が終息するのは、[[1969年]](昭和44年)に北日本観光自動車のバス路線拡大申請が運輸審議会で却下された辺りからで、北陸鉄道では以後、名鉄が同時期に行っていたように、鉄道・バス路線の整理を推し進めることになった。 なお、[[1968年]](昭和43年)に全鉄道路線の廃止の意向を表明したことがあったが、地元住民や自治体の反対に遭い、[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]・石川総線([[北陸鉄道石川線|石川線]]・[[北陸鉄道金名線|金名線]]・[[北陸鉄道能美線|能美線]]の総称)は合理化努力により残すことになった(後に能美線は利用低迷で、金名線は路盤劣化により廃止)。 === 年表 === * [[1916年]]([[大正]]5年)10月29日 [[金沢電気軌道|金沢電気軌道株式会社]]設立<ref>[{{NDLDC|1190630/43}} 『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』]、[{{NDLDC|936466/941}} 『日本全国諸会社役員録. 第25回』](国立国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>。 * [[1919年]](大正8年)[[2月2日]] - 金沢電気軌道開業。 * [[1920年]](大正9年)7月15日 - 金沢電気軌道が金野鉄道を合併<ref name="shitetsu-haisen-3">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.38</ref>。 * [[1923年]](大正12年)5月1日 - 金沢電気軌道が石川鉄道を合併<ref name="shitetsu-haisen-3" />。 * [[1941年]]([[昭和]]16年)[[8月1日]] - 金沢電気軌道から北陸合同電気(現在の[[北陸電力]])に鉄軌道部門を譲渡。 * [[1942年]](昭和17年)[[3月26日]] - (旧)北陸鉄道が設立。北陸合同電気の鉄軌道事業を継承。 * [[1943年]](昭和18年)[[10月13日]] - (旧)北陸鉄道・能登鉄道・温泉電気軌道・金名鉄道・金石電気鉄道・湯涌自動車・七尾交通の7社が合併し、現在の北陸鉄道が設立される。本社を金沢市上胡桃町(現在の金沢市小将町)に置く。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[7月20日]] - 小松電気鉄道を合併。 ** [[10月1日]] - 浅野川電気鉄道を合併。 * [[1949年]](昭和24年)10月29日 - [[北陸鉄道石川線|石川線]]・[[北陸鉄道能美線|能美線]]の相互直通運転を開始。 * [[1952年]](昭和27年)[[2月1日]] - [[金沢駅バスターミナル]]開業。 * [[1955年]](昭和30年)11月14日 - [[北陸鉄道松金線|松金線]]廃止<ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』6号 北信越、新潮社、2008年、p.28</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[5月18日]] - 北鉄病院を開設([[1968年]][[3月1日]]に閉鎖)。 * [[1962年]](昭和37年)[[5月1日]] - [[福井鉄道]]<ref>2008年に名鉄グループから離脱している。</ref>、[[金沢名鉄丸越百貨店|丸越]]とともに[[名鉄グループ]]に加わる。 * [[1967年]](昭和42年)[[2月11日]] - [[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]を全面廃止<ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』6号 北信越、新潮社、2008年、pp.29-31</ref>。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[4月10日]] - [[奥能登観光開発]]設立。 ** 10月1日 - 本社を現在地(金沢市割出町)に移転。 * [[1971年]](昭和46年) ** 7月11日 - [[北陸鉄道加南線|加南線]]廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.46</ref>。 ** 9月1日 - [[北陸鉄道金石線|金石線]]廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.54</ref>。 * [[1972年]](昭和47年)6月25日 - [[北陸鉄道能登線|能登線]]廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.58</ref>。 * [[1973年]](昭和48年)[[11月12日]] - [[北陸鉄道金沢営業所#小松空港線|小松空港線]](小松空港連絡バス)が運行開始。 * [[1980年]](昭和55年)9月14日 - 能美線廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.94</ref>。 * [[1986年]](昭和61年)6月1日 - [[北陸鉄道小松線|小松線]]廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.110</ref>。 * [[1987年]](昭和62年)4月29日 - 1984年から休止していた[[北陸鉄道金名線|金名線]]廃止<ref>寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.106</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[12月19日]] - バス部門において初めての分社化となる「[[北鉄奥能登バス|能登中央バス]]」が設立(運行開始は翌年[[3月31日]])。 ** これ以降、北陸鉄道はバス部門の分社化を進めていくことになる。分社化された会社は[[北鉄能登バス|七尾バス]]([[1991年]]設立)、[[北鉄能登バス|能登西部バス]]([[1992年]]設立)、[[加賀温泉バス]]([[1994年]]設立)、[[加賀白山バス]]([[1995年]]設立)、[[北鉄金沢中央バス]]([[1997年]]設立)、[[ほくてつバス]]([[2001年]]設立)。 * [[1996年]](平成8年) - [[小松市]]内の大半の路線を[[小松バス]]に移管。 * 2001年(平成13年)[[3月28日]] - [[北鉄金沢駅]]を地下化して移設。戦後の中小私鉄が地下線区間を有するのは[[長野電鉄]]以来2社目となった。 * [[2004年]](平成16年)[[12月1日]] - [[ICカード]]乗車券「[[ICa]]」を導入。 * [[2008年]](平成20年)[[4月1日]] - 能登中央バス・奥能登観光開発を合併し[[北鉄奥能登バス]]、七尾バス・能登西部バスを合併し[[北鉄能登バス]]をそれぞれ設立。 * [[2012年]](平成24年) ** 10月1日 - ほくてつバス・北鉄金沢中央バス・加賀白山バス(野々市営業所)の3社が合併し[[北鉄金沢バス]]を設立。なお、白山麓地区の路線は北鉄金沢バスの子会社「加賀白山バス」が営業する。 ** 12月1日 - [[北陸自動車道]][[有磯海サービスエリア]]の運営をジェック経営コンサルタント([[富山県]][[富山市]])へ移譲<ref>[http://www.jeckc.com/history.html ジェック経営コンサルタント 沿革]</ref>。 * [[2017年]](平成29年)4月1日 - [[宮城交通]]と共同運行していた金沢 - 仙台線を[[富山地方鉄道]]との共同運行へ移行<ref>[http://www.miyakou.co.jp/cms/express/desc/5/ 金沢・富山 - 仙台] - 宮城交通</ref>。 * [[2018年]](平成30年)[[3月31日]] - [[ジャンボボール]](石川県金沢市泉本町)の営業を終了<ref>{{Cite news|url = https://www.asahi.com/articles/ASK5Q3JP3K5QPJLB002.html|title = 石川)ジャンボボール営業終了 再開発へ、惜しむ声も|newspaper = [[朝日新聞デジタル]]|archiveurl = https://web.archive.org/web/20170604213548/https://www.asahi.com/articles/ASK5Q3JP3K5QPJLB002.html|date = 2017-05-23|archivedate = 2017-06-04|accessdate = 2020-12-06}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)4月1日 - 鉄道線で[[駅ナンバリング]]を実施。切符類の日付を[[西暦]]表記に統一<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=北陸鉄道グループ ダイヤ改正を実施します(4/1)|publisher='''北陸鉄道'''|date=2019-03-12|url=http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|language=ja|accessdate=2019-03-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190312101443/http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|archivedate=2019-03-12}}</ref><ref name="tetsudo20190312">{{Cite web|和書|url = https://www.tetsudo.com/event/24529/|title = 北陸鉄道 鉄道駅ナンバリング導入|publisher = 鉄道コム|date = 2019-03-12|accessdate = 2019-03-21}}</ref>。 * [[2019年]](令和元年)[[11月30日]] - ジャンボゴルフガーデン(石川県金沢市西泉)の営業を終了。 * [[2021年]](令和3年)1月1日 - グループの千里浜観光開発が運営する[[千里浜なぎさドライブウェイ|千里浜]]レストハウスを[[加賀屋]]グループの雅総合研究所(石川県羽咋市)へ事業譲渡<ref name="nikkei20201102">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65755890S0A101C2LB0000/|title = 石川の「千里浜レストハウス」 北陸鉄道が事業譲渡|newspaper = 日本経済新聞|date = 2020-11-02|accessdate = 2020-12-06}}</ref><ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/147910 加賀屋グループに売却 北鉄・千里浜レストハウス] - 中日新聞、2020年11月3日</ref>。 == 歴代社長 == {{節スタブ}} {| class="wikitable" |+歴代社長<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.ishikawabus.jp/about/index.html|title = バス協会について|publisher = 石川県バス協会|accessdate = 2019-10-22}}</ref> !代 !氏名 !在任期間 |- !1 |[[林屋亀次郎]] | |- ! |清水幸次 | |- ! |[[井村徳二]] | |- !4 |沢野外茂次 | |- ! |吉田圭蔵 | |- ! |野根長太郎 | |- ! |[[井村重雄]] | |- ! |[[柴野和喜夫]] | |- ! |竹内外茂 | |- !10 |山口元二 | |- ! |織田廣 | |- ! |水野卓哉 | |- ! |德舛周斌 | |- ! |魚住隆彰 |2006年6月 - 2011年6月 |- ! |加藤敏彦 |2011年6月 - 2020年6月 |- ! |宮岸武司 |2020年6月 - (現任) |} == コーポレートカラー == [[コーポレートカラー]]は以下のように定められている。 {| border="0" cellpadding="1" |- |style="background:#f60; width:1.1em;"|&nbsp; |style="width:4.5em;"|オレンジ||グループ全体・鉄道(石川線・浅野川線) |- |style="background:#f00;"|&nbsp; |赤||バス(路線バス・高速バス) |} == 鉄道事業 == [[File:Hokuriku Railroad Linemap.svg|thumb|right|320px|路線図]] かつては「[[日本国有鉄道|国鉄]]各駅毎に接続」と云われるほどに石川県[[加賀国|加賀地方]]のほぼ全域と[[能登半島|能登地方]]の一部に路線を持っていたが、次々に[[モータリゼーション]]の影響で廃止され、現在は2路線20.6km<ref>[http://www.hokutetsu.co.jp/company_summary 会社概要] - 北陸鉄道</ref>を有するのみとなっている。 === 現有路線 === * [[北陸鉄道石川線|石川線]]([[野町駅]] - [[鶴来駅]]) * [[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]([[北鉄金沢駅]] - [[内灘駅]]) <gallery widths="200"> File:Hokutetsu-Ishikawa-line Series7700.jpg|石川線<br/>(2022年7月 [[井口駅 (石川県)|井口駅]] - [[道法寺駅]]間) File:Hokutetsu-Asanogawa-line Series03.jpg|浅野川線<br/>(2022年7月 [[粟ヶ崎駅]] - [[蚊爪駅]]間) </gallery> === 廃止路線 === 北陸鉄道への合併年を記載していない路線は、[[1943年]]10月13日の7社合併時に合併した路線。現有路線の部分廃止区間を含む。 * 石川総線 ** [[北陸鉄道石川線|石川線]](野町駅 - 白菊町駅、鶴来駅 - 加賀一の宮駅) **: [[1915年]]石川電気鉄道により開業。鶴来駅 - 加賀一の宮駅間は金名鉄道の手で[[1927年]](昭和2年)12月に開通し[[金沢電気軌道]]の石川線と接続された。その後、経営不振により[[1929年]](昭和4年)に金沢電気軌道に譲渡された(金名鉄道・金沢電気軌道とも北陸鉄道の前身)。 ** [[北陸鉄道金名線|金名線]](加賀一の宮駅 - 白山下駅) - [[1926年]]金名鉄道により開業、[[1970年]]昼の運行を休止、[[1987年]]全廃。 ** [[北陸鉄道能美線|能美線]](新寺井駅 - 鶴来駅) - [[1923年]]能美電気鉄道により開業、1970年昼の運行を休止、[[1980年]]全廃。 * [[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]](内灘駅 - 粟ヶ崎海岸駅 - [[1925年]]浅野川電気鉄道により開業。[[1945年]]北陸鉄道に吸収。 * [[北陸鉄道金石線|金石線]](中橋駅 - 大野港駅) - [[1898年]]金石馬車鉄道により開業した北陸鉄道最古の路線。[[1971年]]全廃。 * [[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]] - [[1919年]]金沢電気軌道により開業、[[1967年]]全廃。 * [[北陸鉄道松金線|松金線]](松任駅 - 野町駅) - [[1904年]]松金馬車鉄道により開業、[[1942年]]北陸鉄道に吸収、[[1955年]]全廃。 * [[北陸鉄道小松線|小松線]](小松駅 - 鵜川遊泉寺駅) - [[1906年]]馬車鉄道により開業、[[1945年]]北陸鉄道に吸収、[[1986年]]全廃。 * [[北陸鉄道加南線|加南線]] ** [[北陸鉄道山中線|山中線]](山中駅 - 大聖寺駅) - [[1899年]]山中馬車鉄道により開業、[[1971年]]全廃。 ** [[北陸鉄道動橋線|動橋線]](宇和野駅 - 新動橋駅)- [[1911年]]山代軌道により開業。連絡線一部廃止後同線と統合され[[北陸鉄道山代線|山代線]]に。1971年全廃。 ** [[北陸鉄道連絡線|連絡線]](河南駅 - 粟津温泉駅)- [[1914年]]温泉電軌により開業。一部廃止後動橋線と統合され山代線に。1971年全廃。 ** [[北陸鉄道粟津線|粟津線]](粟津温泉駅 - 新粟津駅) - [[1911年]]粟津軌道により開業、[[1962年]]全廃。 ** [[北陸鉄道片山津線|片山津線]](動橋駅 - 片山津駅) - [[1914年]]温泉電軌により開業、[[1965年]]全廃。 * [[北陸鉄道能登線|能登線]](羽咋駅 - 三明駅) - [[1925年]]能登鉄道により開業、[[1972年]]全廃。 === 駅ナンバリング === 2019年4月1日に、石川線および浅野川線において[[駅ナンバリング]]を導入した<ref name="tetsudo20190312"/>。石川線は'''I'''('''I'''shikawa)で[[緑|緑色]]の丸、浅野川線は'''A'''('''A'''sanogawa)で[[青|青色]]<!-- 公式の路線図では青色 -->の丸で表記される。番号の割り振りは以下のとおりとなる。 * {{駅番号c|#008000|I}} 石川線: 野町駅 (I01) - 鶴来駅 (I17) * {{駅番号c|#0067C0|A}} 浅野川線: 北鉄金沢駅 (A01) - 内灘駅 (A12) <gallery widths="200"> File:Waridashi Station Sign.jpg|[[割出駅]](駅ナンバリング入り) File:Dohoji Station Sign.jpg|[[道法寺駅]](駅ナンバリング入り) </gallery> === 運賃 === '''大人普通旅客[[運賃]]'''(小児半額・10円未満切り上げ)。2023年10月1日改定<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道事業の旅客運賃上限変更認可申請について |url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/45710/news.pdf |publisher=北陸鉄道 |date=2023-01-31|access-date=2023-10-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=鉄道旅客上限運賃の変更認可と運賃改定について(10/1) |url=http://www.hokutetsu.co.jp/archives/49861 |publisher=北陸鉄道 |date=2023-09-13|access-date=2023-10-01}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" !キロ程 !運賃(円) |- |1 - 2 | style="text-align:right;" |200 |- |3 - 4 | style="text-align:right;" |290 |- |5 - 6 | style="text-align:right;" |370 |- |7 - 8 | style="text-align:right;" |440 |- |9 - 10 | style="text-align:right;" |490 |- |11 - 12 | style="text-align:right;" |540 |- |13 - 14 | style="text-align:right;" |590<ref group="注釈">全区間特定運賃のため590円区間は存在しない</ref> |} ただし野町・北鉄金沢発着を中心に普通運賃より割安な特定運賃を多数設定している<ref>{{Cite web|和書|title=運賃表 |url=http://www.hokutetsu.co.jp/unchin-fare |publisher=北陸鉄道 |access-date=2023-10-01}}</ref>。 * 石川線 ** 野町 - 新西金沢:210円 ** 野町 - 押野・野々市:240円 ** 西泉 - 押野・野々市:230円 ** 野町 - 野々市工大前:310円 ** 野町・西泉 - 馬替:320円 ** 野町 - 額住宅前・乙丸:400円 ** 野町 - 陽羽里・曽谷・道法寺、西泉 - 曽谷・道法寺:460円 ** 野町 - 井口・小柳、西泉 - 小柳:500円 ** 野町 - 日御子・鶴来、西泉 - 鶴来:540円 * 浅野川線 ** 北鉄金沢 - 三ッ屋間のうち2km超3km以内:230円 ** 北鉄金沢 - 三ッ屋間のうち3km超:240円 ** 北鉄金沢 - 大河端・北間・蚊爪、七ッ屋 - 北間・蚊爪:320円 ** 北鉄金沢 - 粟ヶ崎・内灘、七ッ屋 - 内灘:400円 === 企画乗車券 === ; 鉄道線全線1日フリー乗車券 : 販売価格は1,100円(大人)。通年販売で石川線・浅野川線が1日乗り放題になる。この乗車券は[[金箔]]を施した仕様となっている。 ; 土日祝限定1日フリーエコきっぷ : 石川線または浅野川線の限定きっぷで、販売価格が利用路線によって異なる。[[土曜日]]・[[日曜日]]・[[国民の祝日|祝日]]の1日が乗り放題になるが、石川線に限り[[年末年始]]([[1月1日]] - [[1月3日]])には利用できない制限が付けられている。 ; まち歩きクーポン : 石川線と浅野川線の2種類があり、いずれも1日フリー乗車券とお土産引換券がセットになっている。浅野川線のまち歩きクーポンではバス乗車券あるいは[[レンタサイクル]]利用(制限あり)が引き換えできるクーポンもセットになっているが、いずれも年末年始は利用できない。 ; 恋のしらやまさん<ref>[http://koishira.jp/about/ 恋のしらやまさんとは] - 恋のしらやまさん公式サイト</ref> : [[白山比咩神社]]と白山市の[[鶴来町|鶴来地域]]の観光を目的とした企画乗車券。石川線1日フリー乗車券と金沢駅と野町駅のバス乗車券2枚、[[和菓子]]と[[辻占]]の引換券がセットになっている。 === ICカード === [[2004年]]([[平成]]16年)[[12月1日]]から金沢地区で[[乗車カード]]として[[ICカード]]「[[ICa]](アイカ)」が導入された<ref name="ica">{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/what_ica |title = ICaとは |publisher = 北陸鉄道 |accessdate = 2020-05-06}}</ref>。当初はバスのみで利用可能な[[プリペイドカード|プリペイド]]タイプのみの運用だったが、[[2005年]](平成17年)[[3月1日]]からは[[定期乗車券|定期券]]の機能をもつ「ICa定期券」を導入した<ref name="ica" />。この「ICa定期券」は、バスだけでなく鉄道線の一部区間でも利用可能となっている<ref name="ica" />。今後、クレジットカードの[[非接触型決済|コンタクトレス決済]]と合わせてICaのプリペイド機能を鉄道線にも導入する計画であることが2023年8月に発表された<ref name="230824release">{{Cite press release |language=ja |title=クレジットカード等のタッチ決済による新たなキャッシュレス乗車システムの導入 |publisher=北陸鉄道株式会社・北陸鉄道グループ・株式会社北國フィナンシャルホールディングス |date=2023-08-24 |url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/49758/news.pdf |accessdate=2023-08-24}}</ref>。 なお、[[ICOCA]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]対応の交通系ICカードは、[[城下まち金沢周遊]]バスと一部のバス乗車券の事前購入を除き、利用することができない。 *交通系ICカード利用可能場所及び購入可能な乗車券(ICaでの購入は不可)。 **[[金沢駅バスターミナル#西口|金沢駅西口バスターミナル]]北鉄バス待合室内自動券売機([[北陸鉄道金沢営業所#小松空港線|小松空港リムジンバス]]乗車券)<ref>[http://www.hokutetsu.co.jp/archives/25797 小松空港乗車券券売機の全国交通系ICカード対応について(2/23)](北陸鉄道 新着情報 2018年3月6日)</ref> **[[小松飛行場|小松空港]]バス乗り場前自動券売機(バス乗車券) **[[金沢駅バスターミナル#東口|金沢駅東口バスターミナル]]北鉄グループ案内所([[北鉄バス#企画乗車券|金沢市内1日フリー乗車券]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/tourism-bus/oneday|title=金沢市内1日フリー乗車券|publisher=北陸鉄道|accessdate=2020-05-06}}</ref> === 車両 === 路線廃止が進行する以前には、合併会社各社からの継承車と、合併後に車体更新・新製された車両、他社から譲受した中古車両などが入り乱れ、概して低規格な路線が多かった事情もあって低出力な小型電車中心の複雑な車両構成をきたしており、また軌道線や非電化路線があったことから[[路面電車]]や[[気動車]]も保有していた。 戦後のデザイン傾向としては、[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけての鉄道線車体更新車・新造車で、左右の尾灯を車体裾のごく低い位置に「寄り目」気味に配置するスタイルを共通して多用した時期がある(この間に[[アンチクライマー]]を配置した例も多かった。合併各社から引き継いだ車両にも同様な尾灯位置改造を施した事例が見られた)。 ==== 現有車両 ==== {{See also|北陸鉄道石川線#車両|北陸鉄道浅野川線#車両}} 現有車両は以下の通り。営業運転用の車両はすべて関東の鉄道各社から譲受した車両となっている。 ; 石川線 :* [[北陸鉄道7000系電車|7000系]](元[[東急7000系電車 (初代)|東急7000系]]) :* [[北陸鉄道8000系電車#7700系|7700系]](元[[京王3000系電車|京王3000系]]) :* [[金沢電気軌道ED1形電気機関車|ED20形]](元金沢電気軌道ED1形) <gallery widths="170px"> File:Hokutetsu-Series7000-7212.jpg|7000系 File:Hokutetsu-Series7700-7711.jpg|7700系 File:Hokuriku railway ED201 Electric Locomotive.jpg|ED20形 </gallery> ; 浅野川線 :* [[北陸鉄道8000系電車#8000系|8000系]](元京王3000系) :* [[北陸鉄道03系電車|03系]](元[[営団03系|東京メトロ03系]]) <gallery widths="170px"> File:Hokutetsu-Series8000-8811.jpg|8000系 File:Hokutetsu Series03-829.jpg|03系 </gallery> ==== 過去の車両 ==== 詳細は以下の各路線の記事を参照。 * [[北陸鉄道石川線#過去の車両|石川線の車両]] * [[北陸鉄道浅野川線#過去の車両|浅野川線の車両]] * [[北陸鉄道金石線#使用車両|金石線の車両]] * [[北陸鉄道能登線#車両|能登線の車両]] * [[北陸鉄道小松線#車両|小松線の車両]] * [[北陸鉄道加南線#車両|加南線(山中線・動橋線・粟津線・連絡線)の車両]] * [[北陸鉄道金沢市内線#車両|金沢市内線の車両]] == バス事業 == {{See|[[北鉄バス]]}} == その他の事業 == === 旅行業 === * 北鉄航空 - 北陸鉄道のグループ企業で[[旅行会社|旅行業務]]を請け負っている。[[全日本空輸]] (ANA) の金沢地区総代理店で、[[小松飛行場|小松空港]]におけるANAグループの[[グランドハンドリング]]([[コードシェア便]]運用のある[[エバー航空]]の業務も含む)を全面的に請け負う。このほかに、北陸鉄道の「あすなろツアー」の販売、北陸鉄道の電車・バスおよび[[小松バス]]の[[広告|交通広告]]を取り扱う。 === レジャー事業 === 全て撤退している。 ; 過去 :* [[ジャンボボール]] - [[石川県]][[金沢市]]泉本町にあった[[ボウリング場]]。[[2018年]][[3月31日]]で営業を終了した。 :* ジャンボゴルフガーデン - ジャンボボールに隣接した[[ゴルフ場#ゴルフ練習場|ゴルフ練習場]]。 :* [[北陸自動車道]]の[[サービスエリア]]運営(売店およびレストラン) :** [[小矢部川サービスエリア]](下り・[[新潟中央ジャンクション|新潟中央]]方面) - 運営事業者がホテルニューオータニ高岡に変更となっている。 :** [[有磯海サービスエリア]](上り・[[米原ジャンクション|米原]]方面) - [[2012年]][[12月1日]]付けで富山県富山市に本社を置くジェック経営コンサルタントに運営権を委譲している。 :* [[千羽平ゴルフクラブ]](富山県[[小矢部市]])の千羽平レストラン運営 - [[2016年]]に[[アイランドゴルフ]]グループの運営に移行したことにより事業から撤退している。 :* レストラン[[能登金剛|巌門]] - 子会社の千里浜観光開発が運営していた。 :* [[千里浜なぎさドライブウェイ|千里浜]]レストハウス - 子会社の千里浜観光開発が運営していたが、2021年に加賀屋グループに譲渡され<ref name="nikkei20201102"/>、「能登千里浜レストハウス」に改称した。 == 主要関係会社 == 2023年時点で、以下の11社が[[連結子会社]]([[関連会社]])となっている<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/group_list|title = グループ会社一覧|publisher = 北陸鉄道株式会社|date = |accessdate = 2023-03-17}}</ref>。 * 運輸業 ** [[北鉄加賀バス]] ** [[北鉄金沢バス]] ** [[北鉄白山バス]] ** [[北鉄能登バス]] ** [[北鉄奥能登バス]] * サービス業 ** 北鉄航空 ** 北陸自動車興業 - [[北鉄自動車学校]]の運営 ** 北陸ビルサービス ** ホクリクコム * 建設業 ** 北陸道路施設 ** 北陸電設 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『北陸鉄道50年史』 - 北陸鉄道社史編さん委員会(1993年)<!-- 沿革年表部分 --> == 外部リンク == {{Commonscat |ページ名=Hokuriku Railroad|タイトル=北陸鉄道 |追加1=Hokutetsu Bus|タイトル1=北鉄バス}} * [http://www.hokutetsu.co.jp/ 北陸鉄道株式会社] - 公式サイト * {{Instagram|hokuriku_railroad|北陸鉄道}} {{北陸鉄道}} {{名鉄グループ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほくりくてつとう}} [[Category:北陸鉄道|*]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:かつて存在した日本の軌道事業者]] [[Category:中部地方の乗合バス事業者]] [[Category:中部地方の貸切バス事業者]] [[Category:名鉄グループ]] [[Category:金沢市の企業]] [[Category:石川県の交通]] [[Category:1943年設立の企業]] [[Category:株主コミュニティ組成企業]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E9%89%84%E9%81%93
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北陸鉄道石川線
石川線(いしかわせん)は、石川県金沢市の野町駅から同県白山市の鶴来駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。 かつては、鶴来駅で分岐していた能美線や加賀一の宮駅以南の金名線と直通運転を行い、3線をまとめて石川総線と呼んでいたが、その名残で、能美線と金名線が1980年代に廃止された後も石川線のことを指して「石川総線」と言うことがある。なお、野町駅前に乗り入れる北陸鉄道の路線バスでは「鶴来方面電車」と案内される。 またかつて石川線は白菊町駅 - 加賀一の宮駅間を結ぶ路線であったが、白菊町駅 - 野町駅間が1972年(昭和47年)9月20日に、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間が2009年(平成21年)11月1日に廃止された。後者の廃止区間内は加賀白山バス(現在の北鉄白山バス)が運行する既存の瀬女行きの路線バスで代替している。 白山地域は木材や木炭、たばこなどの産地であり、貨物の需要が見込めることから、1912年8月予備役陸軍工兵大尉の木尾久雄ら8人により金沢市街六斗林から鶴来町を結ぶ軌間1067mm電気鉄道敷設を出願し、1913年4月鉄道敷設の許可が下りた。この計画には才賀電機商会の才賀藤吉も参加しており、技術供与や資金提供などが期待されていた。 ところが才賀電機商会の破綻により才賀関係者が手を引き資金の目処がたたなくなった。急遽他の出資をもとめた結果、愛知県の建設業栗田末松(栗田組)が参加することとなり、株式の過半は栗田関係者がもち、社長も愛知県在住の笹原辰太郎が就任し、1914年石川電気鉄道株式会社が設立された。 その間には鉄道用地の買収難、野々市村の路線誘致運動や松金馬車鉄道と並行線問題がおこり、路線の経路は二転三転したが最終的に国鉄野々市駅(現在の西金沢駅)に接続するように変更した。また不況の影響と資材の高騰から軌間1067mmと電化は断念し、軌間762mm蒸気機関車による方式にあらため、1915年6月に中古の蒸気機関車3両、日本車輌の新製の客車4両と貨車6両で新野々市駅(現在の新西金沢駅) - 鶴来駅間を開業し社名を石川鉄道と改めた。 1921年10月に金沢電気軌道が石川鉄道を買収しようとする計画が表面化した。ちょうど金沢電気軌道が金野鉄道を合併し電化改良工事をしており、石川鉄道を加えれば金沢市南部の物資を金沢市に移送することができる。また交通機関の統一のため石川県知事や鉄道省は合併容認の意向を示していた。県内株主達はようやく経営が安定したところで売却されることに反発したが、栗田をはじめとする愛知在住の大株主達は株式を金沢電気軌道に譲渡することとなり、1923年に合併が決まった。 1913年国鉄野々市駅(現在の西金沢駅)から犀川南岸を結ぶ貨物輸送を目的とした馬車軌道を金石馬車鉄道(金石電気鉄道)の社長であった横山俊二郎が個人で軌道条例に基づき出願した。8月に特許を取得したが、鉄道用地取得に手間取り、1915年3月になって工事着手、野々市駅から野町までの区間が竣工し1916年1月営業を開始した。しかしその後も工事は遅々として進まず結局終点を犀川南岸から白菊町に短縮して、1916年8月になり新野々市 - 野町 - 西金沢(後の白菊町駅)が全通した。なお1916年に個人から会社組織にし金野軌道株式会社になったが、横山家で全株式の過半をしめていた。その後馬車鉄道は既に時代遅れであることから1919年4月に蒸気鉄道に変更することに決定。社名を金野鉄道に変更し、資本金を20万円にしたが、実現しないまま1920年7月金沢電気軌道に合併された。 すべて各駅に停車する普通列車で、途中駅折り返しはなく、日中約60分間隔(朝は15 - 20分間隔)で運転されている。所要時間は野町駅 - 鶴来駅間が約30分である。鶴来駅の始発は6時、野町駅の最終は22時である。 土曜日の鶴来発の1本を除く全列車がワンマン運転されており、各車両の中央のドアには「このドアは開きません」というステッカーが貼られている。 鶴来駅 - 加賀一の宮駅間が廃止される前の2009年10月31日までは、野町駅から加賀一の宮駅まで運転の列車と、鶴来駅折り返しの列車がおおむね交互に運行されていた(日中は32分間隔)。所要時間は野町駅 - 加賀一の宮駅間が約35分であった。毎年大晦日の深夜から元日の朝にかけては白山比咩神社への初詣客向けに、加賀一の宮駅発着の臨時列車による終夜運転が行われていた。終夜運転は鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止後も行われている。 2006年11月30日までは、日中の野町駅 - 鶴来駅間の系統は準急列車で運行されていた。準急は交換設備のアンバランスによる運行間隔是正を主目的として運行。押野駅・野々市駅・小柳駅は準急の全列車が通過、馬替駅と曽谷駅は一部の準急が通過となっていた。所要時間は野町 - 鶴来間が約25分であった。1995年3月29日までは、金沢市内バスとの競合回避や速達サービス提供を目的に、日中は全列車が準急列車として運行されていた。停車駅により準急Aと準急Bに分け、野々市工大前以南では通過駅を振り分ける(乗車機会均等化のため)形で運行されていた。種別が準急となっていたのは、過去には上位列車として急行の設定(西泉・新西金沢・野々市工大前・額住宅前の各駅のみ停車)があったためである。なお、2022年10月16日に鉄道の日を記念したイベント「ほくてつ電車まつり」の関連企画として、この日限定で16年ぶりとなる準急が2往復運行された。 1980年ごろのダイヤでは、金名線白山下駅まで行く列車が朝夕にあり、最終列車も早めに設定されていた。 2002年から夏季に運行しているビール電車を始め、おでんでんしゃや、妖怪電車といった各種イベント列車を運行している。 なお、路面電車の北陸鉄道金沢市内線廃止後は金沢駅(北陸鉄道浅野川線北鉄金沢駅) - 野町駅間を結ぶ鉄軌道はなく、バスでの連絡となっているが、 金沢港 - 金沢駅 - 野町駅間をLRTあるいはBRT方式で結ぶという案が浮上している。 北陸鉄道石川線の輸送実績を下表に記す。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 石川線(石川総線)の近年の輸送実績を下表に記す。輸送量は減少傾向にあったが、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止以後は増加傾向にある。 輸送密度については、石川総線を構成する能美線・金名線廃止により改善した時期もあったが、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止まで減少を続け、同区間廃止後は改善している。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)、鉄道統計年報運輸成績表(国土交通省)より抜粋。 石川線(石川総線)の近年の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は1996年(平成8年)以降減少している。運輸雑収については年度による変動が大きい。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 廃止区間の駅は上表参照。
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石川線(いしかわせん)は、石川県金沢市の野町駅から同県白山市の鶴来駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。 かつては、鶴来駅で分岐していた能美線や加賀一の宮駅以南の金名線と直通運転を行い、3線をまとめて石川総線と呼んでいたが、その名残で、能美線と金名線が1980年代に廃止された後も石川線のことを指して「石川総線」と言うことがある。なお、野町駅前に乗り入れる北陸鉄道の路線バスでは「鶴来方面電車」と案内される。 またかつて石川線は白菊町駅 - 加賀一の宮駅間を結ぶ路線であったが、白菊町駅 - 野町駅間が1972年(昭和47年)9月20日に、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間が2009年(平成21年)11月1日に廃止された。後者の廃止区間内は加賀白山バス(現在の北鉄白山バス)が運行する既存の瀬女行きの路線バスで代替している。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | color = ff6600 | name = [[File:Hokutetsu logomark.svg|20px|北陸鉄道|link=北陸鉄道]] 石川線 | image = Hokutetsu-Ishikawa-line Series7700.jpg | image_width = 300px | image_alt = 石川線を走行する7700系電車 | caption = 石川線を走行する7700系電車<br>(2022年7月 [[井口駅 (石川県)|井口駅]] - [[道法寺駅]]間) | system = | start = 起点:[[野町駅]] | end = 終点:[[鶴来駅]] | stations = 17駅 | routes = | open = {{Start date|1915|06|22|df=y}}(石川電気鉄道) | owner = 金野軌道<ref name="shitetsu-haisenato3" />→金野鉄道<ref name="shitetsu-haisenato3" />→[[金沢電気軌道]]<ref name="shitetsu-haisenato3" />+(石川電気鉄道<ref name="shitetsu-haisenato3" />→)石川鉄道<ref name="shitetsu-haisenato3" />→金沢電気軌道<ref name="shitetsu-haisenato3" />+[[北陸鉄道金名線|金名鉄道]](鶴来-加賀一の宮)<ref name="shitetsu-haisenato3" />→金沢電気軌道→北陸合同電気<ref name="shitetsu-haisenato3" />→北陸鉄道(旧)<ref name="shitetsu-haisenato3" />→[[北陸鉄道]]<ref name="shitetsu-haisenato3" /> | stock = [[#車両|車両]]を参照 | linelength_km = 13.8 | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | ogauge = 890 [[ミリメートル|mm]] (2 ft 11 in) 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http://hokuriku.yomiuri.co.jp/hoksub1/isikawa/ho_s1_08102301.htm|title = 北鉄石川線区間廃止へ|newspaper = 読売新聞| publisher = 読売新聞社|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081026105300/http://hokuriku.yomiuri.co.jp/hoksub1/isikawa/ho_s1_08102301.htm|date = 2008-10-23|archivedate = 2008-10-26|accessdate = 2021-03-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = http://www.t-hrse.go.jp/press/081023_1.pdf|title = 北陸鉄道株式会社の鉄道事業の一部を廃止する届出及び本届出に係る公衆の利便の確保に関する意見の聴取について|publisher = 国土交通省北陸信越運輸局|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20081202180508/http://www.t-hrse.go.jp/press/081023_1.pdf|date = 2008-10-23|archivedate = 2008-12-02|accessdate = 2021-03-07|format = PDF}}</ref><ref name="mynavi20081031" /><ref name="hokutetsu20091008" /><ref name="raifjp20091101">[https://railf.jp/news/2009/11/01/235700.html 北陸鉄道 鶴来—加賀一の宮間廃止] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2009年11月1日</ref>。後者の廃止区間内は加賀白山バス(現在の[[北鉄白山バス]])が運行する既存の瀬女行きの路線バスで代替している<ref name="hokutetsu20091008">{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/news/news1008_2.html|title = 北陸鉄道石川線・鶴来〜加賀一の宮間の廃止について|publisher = 北陸鉄道|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20091011005202/http://www.hokutetsu.co.jp/news/news1008_2.html|date = 2009-10-08|archivedate = 2009-10-11|accessdate = 2021-03-07}}</ref>{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=64}}。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):13.8km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:17駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:全線(直流600V){{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=61}} * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * [[最高速度]]:70km/h<ref name="terada" /> == 歴史 == === 石川鉄道 === [[File:Ishikawa Railway logomark.svg|left|100px|石川鉄道]] 白山地域は木材や木炭、たばこなどの産地であり、貨物の需要が見込めることから、1912年8月予備役陸軍工兵大尉の木尾久雄ら8人により金沢市街六斗林から鶴来町を結ぶ軌間1067mm電気鉄道敷設を出願し、1913年4月鉄道敷設の許可が下りた。この計画には才賀電機商会の[[才賀藤吉]]も参加しており、技術供与や資金提供などが期待されていた。 ところが才賀電機商会の破綻により才賀関係者が手を引き資金の目処がたたなくなった。急遽他の出資をもとめた結果、愛知県の建設業栗田末松(栗田組)が参加することとなり、株式の過半は栗田関係者がもち、社長も愛知県在住の[[笹原辰太郎]]が就任し、1914年石川電気鉄道株式会社<ref>[{{NDLDC|936474/359}} 『日本全国諸会社役員録. 第23回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>が設立された。 その間には鉄道用地の買収難、野々市村の路線誘致運動や[[北陸鉄道松金線|松金馬車鉄道]]と並行線問題がおこり、路線の経路は二転三転したが最終的に国鉄野々市駅(現在の[[西金沢駅]])に接続するように変更した。また不況の影響と資材の高騰から軌間1067mmと電化は断念し、軌間762mm蒸気機関車による方式にあらため、1915年6月に[[名古屋市水道敷設事務所1号形蒸気機関車|中古の蒸気機関車]]3両、日本車輌の新製の客車4両と貨車6両で新野々市駅(現在の新西金沢駅) - 鶴来駅間を開業し社名を石川鉄道<ref>[{{NDLDC|936464/886}} 『日本全国諸会社役員録. 第24回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>と改めた。 1921年10月に[[金沢電気軌道]]が石川鉄道を買収しようとする計画が表面化した。ちょうど金沢電気軌道が金野鉄道を合併し電化改良工事をしており、石川鉄道を加えれば金沢市南部の物資を金沢市に移送することができる。また交通機関の統一のため石川県知事や鉄道省は合併容認の意向を示していた。県内株主達はようやく経営が安定したところで売却されることに反発したが、栗田をはじめとする愛知在住の大株主達は株式を金沢電気軌道に譲渡することとなり、1923年に合併が決まった<ref>「金沢市郊外鉄道建設と地域社会」239-240頁</ref>。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:100%;" |- |+ 輸送収支実績(石川鉄道) !年度 !輸送人員(人) !貨物量(トン) !営業収入(円) !営業費(円) !営業益金(円) !その他損金(円) !支払利子(円) !政府補助金(円) |- |1915||80,675||1,192||7,787||4,987||2,800|||||| |- |1916||130,173||9,105||18,494||16,031||2,463||||257|| |- |1917||153,255||10,696||26,632||23,006||3,626||雑損金813||4,018||4,554 |- |1918||165,936||16,365||36,519||31,217||5,302||雑損金862政府補助金返納872||3,788||4,363 |- |1919||204,052||20,105||59,237||41,587||17,650||政府補助金返納604||4,845||977 |- |1920||207,196||20,629||77,954||45,505||32,449||雑損金38||9,835|| |- |1921||228,874||19,544||76,377||42,522||33,855|||||| |- |1922||281,380||23,796||91,180||43,313||47,867|||||| |- |} *鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料各年度版 === 金野軌道(きんやきどう) === 1913年国鉄野々市駅(現在の西金沢駅)から[[犀川 (石川県)|犀川]]南岸を結ぶ貨物輸送を目的とした[[馬車鉄道|馬車軌道]]を[[北陸鉄道金石線|金石馬車鉄道]](金石電気鉄道)の社長であった横山俊二郎<ref>[[尾小屋鉱山|尾小屋銅山]]の採掘に成功し「北陸の鉱山王」と呼ばれた横山家の一員</ref>が個人で軌道条例に基づき出願した。8月に特許を取得したが、鉄道用地取得に手間取り、1915年3月になって工事着手、野々市駅から野町までの区間が竣工し1916年1月営業を開始した。しかしその後も工事は遅々として進まず結局終点を犀川南岸から白菊町に短縮して、1916年8月になり新野々市 - 野町 - 西金沢(後の[[白菊町駅]])が全通した。なお1916年に個人から会社組織にし金野軌道株式会社になったが、横山家で全株式の過半をしめていた。その後馬車鉄道は既に時代遅れであることから1919年4月に蒸気鉄道に変更することに決定<ref>この動力変更について当時の新聞報道では石川鉄道との間で合併を協議しているためと見られていた。「金沢市郊外鉄道建設と地域社会」231-232頁</ref>。社名を金野鉄道に変更し、資本金を20万円にしたが、実現しないまま1920年7月金沢電気軌道に合併された。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center; width:60%;" |- |+ 輸送収支実績(金野軌道) !年度 !輸送人員(人) !貨物量(トン) !営業収入(円) !営業費(円) !営業益金(円) !客車 !貨車 |- |1916||55,601||174||3,294||2,739||555||4||2 |- |1917||66,783||522||4,082||3,193||889||5||2 |- |1918||82,750||2,540||5,789||4,964||825||5||2 |- |1919||99,200||3,767||7,612||9,636||▲ 2,024||5||2 |- |1920||42,178||||3,914||4,486||▲ 572|||| |- |1920||35,208||||2,768||2,923||▲ 155||3|| |- |1921||5,762||||507||1,007||▲ 500||4|| |- |} *鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料各年度版 *1920年度途中から馬力のまま金沢電気軌道と合併。1922年度馬力廃止 === 年表 === * [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月22日]] - '''石川電気鉄道'''に対し鉄道免許状下付(金沢市六斗林-鶴来町間 軌間1067mm 動力電気)<ref name="shitetsu-haisenato3">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.38</ref><ref name="kanp425" >[{{NDLDC|2952317/11}} 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1913年4月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1915年]](大正4年) ** [[6月22日]] - 石川電気鉄道が新野々市駅(現在の新西金沢駅) - 鶴来駅間(762mm軌間・蒸気動力)を開業<ref name="shitetsu-haisenato3" />{{sfn|北國新聞|2003|p=198}}{{sfn|寺田|2018|p=43}}{{sfn|RM231|2018|p=4}}<ref>[{{NDLDC|2952979/14}} 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年6月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref name="SHBp93">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p.93 および {{PDFlink|1=[http://www.tetsupic.com/seigohyo/seigo.pdf#page=12 私鉄史ハンドブック正誤表]}}</ref>。 ** [[6月30日]] - 石川電気鉄道が'''石川鉄道'''に改称<ref name="shitetsu-haisenato3" />{{refnest|私鉄史ハンドブック正誤表では7月6日<ref name="SHBp93" />}}。 * [[1916年]](大正5年) ** [[1月14日]] - '''金野軌道'''が野町駅 - 新野々市駅間(890mm軌間・馬力)を開業<ref name="shitetsu-haisenato3" />{{refnest|『私鉄の廃線跡を歩くIII』では野町は野町5丁目、私鉄史ハンドブック正誤表では「1月15日開業 新野々市 - 野町」<ref name="SHBp95">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p.95 および {{PDFlink|1=[http://www.tetsupic.com/seigohyo/seigo.pdf#page=13 私鉄史ハンドブック正誤表]}}</ref>}}。 ** [[8月30日]] - 金野軌道が西金沢駅(後の白菊町駅) - 野町駅間を開業<ref name="SHBp95" />{{refnest|『私鉄の廃線跡を歩くIII』では8月1日開業、野町は野町5丁目<ref name="shitetsu-haisenato3" />}}。 ** [[12月1日]] - 石川鉄道が野々市連絡駅(現在の野々市駅)開業<ref>[{{NDLDC|2953431/8}} 「軽便鉄道停車場設置」『官報』1916年12月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1919年]](大正8年)[[8月18日]] - 金野軌道が金野鉄道に改称<ref name="shitetsu-haisenato3" /><ref name="SHBp95" />。 * [[1920年]](大正9年) ** [[3月1日]] - 石川鉄道が野々市連絡駅 - 大額駅(現在の額住宅前駅)間の上野々市駅(初代)廃止<ref>[{{NDLDC|2954379/5}} 「地方鉄道停車場廃止」『官報』1920年2月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[3月15日]] - 石川鉄道が野々市連絡駅を上野々市駅(2代)に改称<ref>[{{NDLDC|2954401/6}} 「地方鉄道停車場名改称」『官報』1920年3月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[7月15日]] - [[金沢電気軌道]]が金野鉄道を合併<ref name="shitetsu-haisenato3" /><ref name="SHBp95" />。 * [[1921年]](大正10年)[[8月1日]] - 石川鉄道が新野々市駅 - 鶴来駅間を1067mmに改軌、直流600V電化<ref name="shitetsu-haisenato3" />{{sfn|寺田|2018|p=19}}。 * [[1922年]](大正11年)[[10月1日]] - 金沢電気軌道が西金沢駅 - 新野々市駅間の[[軌道法|軌道]]線(元の金野軌道線)を廃止し<ref name="shitetsu-haisenato3" />、1067mmに改軌・電化して[[地方鉄道法|地方鉄道]]線として開業<ref name="shitetsu-haisenato3" /><ref name="SHBp93" />{{sfn|寺田|2018|p=19}}、石川鉄道線と直通運転を開始<ref name="shitetsu-haisenato3" />。 * [[1923年]](大正12年)[[5月1日]] - '''金沢電気軌道'''が石川鉄道を買収<ref name="shitetsu-haisenato3" /><ref name="SHBp93" />{{sfn|寺田|2018|p=19}}。 * [[1925年]](大正14年) ** [[5月1日]] - 西金沢駅を白菊町駅に改称<ref>[{{NDLDC|2955956/6}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年5月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[9月5日]] - 日御子駅開業{{sfn|川島|2010|p=83}}。 * [[1926年]](大正15年)[[2月10日]] - 新野々市駅を新西金沢駅に、上野々市駅(2代)を野々市駅に改称<ref>[{{NDLDC|2956207/6}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1926年3月5日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1927年]]([[昭和]]2年) ** [[8月17日]] - 三十苅駅開業{{sfn|今尾|2008|p=29}}。 ** [[12月28日]] - '''金名鉄道'''(きんめいてつどう)が鶴来駅 - 神社前駅(後の加賀一の宮駅)間(1067mm軌間・蒸気動力)を開業<ref name="SHBp94">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年、p.94</ref><ref name="shitetsu-haisenato3-p106">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.106</ref>。 * [[1929年]](昭和4年) ** [[3月11日]] - 金名鉄道が鶴来駅 - 神社前駅間を金沢電気軌道に譲渡<ref name="SHBp93" /><ref name="SHBp94" /><ref name="shitetsu-haisenato3-p106" />{{sfn|RM231|2018|p=37}}。 ** [[9月14日]] - 鶴来駅 - 神社駅間を電化{{sfn|寺田|2018|p=19}}{{sfn|RM231|2018|p=15}}。 * [[1931年]](昭和6年)[[8月11日]] - 上野々市駅(3代、現在の野々市工大前駅)開業{{sfn|川島|2010|p=81}}。 * [[1934年]](昭和9年)[[12月1日]] - 西泉駅開業{{sfn|川島|2010|p=81}}。 * [[1935年]](昭和10年)[[3月2日]] - 粟田駅(現在の乙丸駅)開業{{sfn|川島|2010|p=82}}。 * [[1937年]](昭和12年) ** [[8月1日]] - 井口駅開業{{sfn|川島|2010|p=83}}。 ** [[12月8日]] - 神社前駅を加賀一の宮駅に改称{{sfn|RM231|2018|p=34}}。 * [[1941年]](昭和16年)8月1日 - '''北陸合同電気'''(現在の北陸電力)設立。金沢電気軌道を合併<ref name="shitetsu-haisenato3" />。 * [[1942年]](昭和17年)[[3月26日]] - 北陸合同電気から交通部門を分離して'''(旧)北陸鉄道'''を設立<ref>設立日は[{{NDLDC|1184231/34}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在』](国立国会図書館近代デジタルコレクション)</ref>{{refnest|私鉄史ハンドブック正誤表によると譲渡は4月1日}}。 * [[1943年]](昭和18年) ** [[2月1日]] - 馬替駅開業{{sfn|川島|2010|p=82}}。 ** [[10月13日]] - (旧)北陸鉄道・金石電気鉄道・温泉電軌・金名鉄道・能登鉄道ほかが合併して'''北陸鉄道'''設立。同社の石川線となる<ref name="shitetsu-haisenato3" /><ref name="SHBp93" />{{sfn|北國新聞|2003|p=416}}。 * [[1944年]](昭和19年)[[10月23日]] - {{要出典範囲|松金線野町駅 - 野々市駅間廃止に伴い松金線との直通運転を開始|date=2021年3月}}<!-- 出典を別途明記願います -->。 * [[1946年]](昭和21年)以降 - 粟田駅 - 四十万駅間の三十苅駅、日御子駅 - 鶴来駅間の月橋駅廃止{{sfn|今尾|2008|p=29}}。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月2日]] - 能美線との直通運転を開始<ref name="shitetsu-haisenato3-p94">寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くIII 北陸・上越・近畿編』JTBパブリッシング、2008年、p.94</ref>。 * [[1963年]](昭和38年) ** 4月以前 - 粟田駅を乙丸駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=29}}。 ** [[4月11日]] - 上野々市駅(3代)を高専前駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=29}}<ref name="kinenpage">{{Cite web|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/kinenpage |title=石川線100周年・浅野川線90周年記念ページ |publisher=北陸鉄道 |accessdate=2020-03-08 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150816033701/http://www.hokutetsu.co.jp/kinenpage |archivedate=2015-08-16}}</ref>。 * [[1965年]](昭和40年)[[7月15日]] - 大額駅を額住宅前駅に改称{{sfn|北陸鉄道|1993|p=273}}。 * [[1966年]](昭和41年)[[9月15日]] - 高専前駅を野々市工大前駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=29}}<ref name="kinenpage" />。 * [[1970年]](昭和45年)[[4月1日]] - 白菊町駅 - 野町駅間の旅客営業を廃止{{sfn|北陸鉄道|1993|p=275}}、貨物列車のみの運行となる<ref name="shitetsu-haisenato3" />。 * [[1972年]](昭和47年)[[9月20日]] - 白菊町駅 - 野町駅間廃止<ref name="shitetsu-haisenato3" />{{sfn|北陸鉄道|1993|p=276}}。 * [[1976年]](昭和51年)4月1日 - 貨物営業廃止{{sfn|北陸鉄道|1993|p=279}}。 * [[1980年]](昭和55年)9月14日 - 能美線廃止<ref name="shitetsu-haisenato3-p94" />{{sfn|北陸鉄道|1993|p=283}}。 * [[1983年]](昭和58年)[[5月21日]] - {{要出典範囲|道法寺駅・井口駅に臨時駅員を配置したうえで臨時ダイヤを組み両駅間の時間運休を行い、時間運休中、両駅間にある道法寺踏切を全国植樹祭に来臨した[[昭和天皇]]の車列が通過|date=2021年3月}}<!-- 出典を別途明記願います -->。 * [[1984年]](昭和59年)[[12月12日]] - 金名線休止<ref name="shitetsu-haisenato3-p106" /><!--『私鉄の廃線跡を歩くIII』の本文では12日、年表では22日-->。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月29日]] - 金名線廃止<ref name="shitetsu-haisenato3-p106" />{{sfn|RM231|2018|p=29}}。これ以降、車内乗車券の路線表示が「石川総線」から「石川線」となる。 * [[1990年]](平成2年)[[7月24日]] - 通常運行列車を冷房完備の7000系(元東急7000系)へ置き換え{{sfn|北陸鉄道|1993|p=138}}。これに伴い[[ワンマン運転]]を開始{{sfn|北陸鉄道|1993|p=138}}。 * [[2002年]](平成14年) - {{要出典範囲|ATS使用開始|date=2021年3月}}<!-- 出典を別途明記願います -->。 * [[2006年]](平成18年)12月1日 - 準急列車を全廃し、全列車普通とする{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=63}}。運行本数が微減し、最終の時刻も数分繰り上がる。 * [[2009年]](平成21年)11月1日 - 鶴来駅 -加賀一の宮駅間 (2.1km) を廃止<ref name="mynavi20081031">{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20081031-a043/|title = 北陸鉄道、石川線鶴来(つるぎ)~加賀一の宮間の廃止を届け出|website= [[マイナビニュース]] |publisher = マイナビ |date = 2008-10-31|accessdate = 2019-05-03}}</ref><ref name="raifjp20091101" />。 * [[2015年]](平成27年)3月14日 - 陽羽里駅開業<ref name="hokutetsu20150525">{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/news/news150225-2.html|title = 石川線新駅「陽羽里駅」開業日決定と完成式典の開催について|publisher = 北陸鉄道|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150226103648/http://www.hokutetsu.co.jp/news/news150225-2.html|date = 2015-02-25|archivedate = 2015-02-26|accessdate = 2021-03-07}}</ref><ref name="milt20140731">{{Cite web|和書|url = http://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/press/1407-1409/260731-1.pdf|title = 北陸鉄道に新駅(陽羽里「ひばり」駅)が設置されます|publisher = 国土交通省北陸信越運輸局|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20181214210854/http://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/press/1407-1409/260731-1.pdf|date = 2014-07-31|archivedate = 2018-12-14|accessdate = 2021-03-07|format = PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://response.jp/article/2014/08/01/229064.html|title = 北陸鉄道石川線に新駅「ひばり」…来年3月開業へ|website= [[Response.|レスポンス]] |publisher = イード|date = 2014-08-01|accessdate = 2019-05-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/article/20150226-a018/|title = 北陸新幹線と接続、北陸鉄道3/14ダイヤ改正 - 石川線陽羽里駅も同日に開業|website= マイナビニュース |publisher = マイナビ|date = 2015-02-26|accessdate = 2019-05-03}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年)4月1日 - 駅ナンバリングを導入<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|title = 北陸鉄道グループ ダイヤ改正を実施します(4/1)|publisher = 北陸鉄道|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20200224085711/http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|date = 2019-03-12|archivedate = 2020-02-24|accessdate = 2021-03-07}}</ref>。 == 運行形態 == [[ファイル:Ishikawa-line2.JPG|thumb|250px|right|かつて運転されていた準急野町行き(馬替駅付近)]] すべて各駅に停車する普通列車で、途中駅折り返しはなく、日中約60分間隔(朝は15 - 20分間隔)で運転されている。所要時間は野町駅 - 鶴来駅間が約30分である。鶴来駅の始発は6時、野町駅の最終は22時である。 土曜日の鶴来発の1本を除く全列車が[[ワンマン運転]]されており、各車両の中央のドアには「このドアは開きません」というステッカーが貼られている。 鶴来駅 - 加賀一の宮駅間が廃止される前の2009年10月31日までは、野町駅から加賀一の宮駅まで運転の列車と、鶴来駅折り返しの列車がおおむね交互に運行されていた(日中は32分間隔)。所要時間は野町駅 - 加賀一の宮駅間が約35分であった。毎年[[大晦日]]の深夜から[[元日]]の朝にかけては[[白山比咩神社]]への初詣客向けに、加賀一の宮駅発着の臨時列車による終夜運転が行われていた。終夜運転は鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止後も行われている。 2006年11月30日までは、日中の野町駅 - 鶴来駅間の系統は準急列車で運行されていた{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=63}}。準急は交換設備のアンバランスによる運行間隔是正を主目的として運行。押野駅・野々市駅・小柳駅は準急の全列車が通過{{sfn|川島|2010|p=80}}、馬替駅と曽谷駅は一部の準急が通過となっていた{{sfn|川島|2010|p=80}}。所要時間は野町 - 鶴来間が約25分であった。1995年3月29日までは、金沢市内バスとの競合回避や速達サービス提供を目的に、日中は全列車が準急列車として運行されていた<ref name="rf_199507">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1995年7月号 通巻411号 p.154</ref>。停車駅により準急Aと準急Bに分け、野々市工大前以南では通過駅を振り分ける(乗車機会均等化のため)形で運行されていた。種別が準急となっていたのは、過去には上位列車として急行の設定(西泉・新西金沢・野々市工大前・額住宅前の各駅のみ停車){{sfn|川島|2010|p=80}}があったためである。なお、2022年10月16日に[[鉄道の日]]を記念したイベント「ほくてつ電車まつり」の関連企画として、この日限定で16年ぶりとなる準急が2往復運行された<ref>{{Cite news|title=北陸鉄道石川線、準急1日限定で復活|newspaper=日本経済新聞|date=2022-10-13|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC136G60T11C22A0000000/|access-date=2022-10-18}}</ref>。 [[1980年]]ごろのダイヤでは、[[北陸鉄道金名線|金名線]]白山下駅まで行く列車が朝夕にあり、最終列車も早めに設定されていた。 2002年から夏季に運行している[[ビール列車|ビール電車]]<ref name="kinenpage" /><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLZO17851030Z10C17A6LB0000/ 北陸鉄道、今年もビール電車 来月石川線で運行] - 日本経済新聞、2017年6月20日</ref>を始め、おでんでんしゃや<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2016/11/_4161119_20161117191770077017711171818501916546174.html 【北陸鉄道】石川線で〈金澤おでんでんしゃ〉運転] - 鉄道ホビダス RMニュース、2016年11月21日</ref>、妖怪電車<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2016/08/post_1467.html 【北陸鉄道】石川線で〈妖怪電車〉運転] - 鉄道ホビダス RMニュース、2016年8月2日</ref>といった各種イベント列車を運行している。 なお、路面電車の北陸鉄道[[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]廃止後は[[金沢駅]](北陸鉄道[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]][[北鉄金沢駅]]) - 野町駅間を結ぶ鉄軌道はなく、バスでの連絡となっているが、 金沢港 - 金沢駅 - 野町駅間を[[路面電車|LRT]]あるいは[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]方式で結ぶという案が浮上している<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLZO12846230T10C17A2LB0000/|title=金沢市新交通、金沢港―野町 地上走行で 検討委が提言書案|newspaper=日本経済新聞|date=2017-02-14|accessdate=2022-01-16}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC253FK0V20C21A5000000/|title=金沢市、新交通システム具体化で検討委 LRTやBRT|newspaper=日本経済新聞|date=2021-05-25|accessdate=2022-01-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.city.kanazawa.lg.jp/data/open/cnt/3/29172/1/tyukantorimatome.pdf?20210906144832|format=pdf|title=公共交通の持続可能性確保に関する有識者意見 中間とりまとめ|publisher=金沢市新しい交通システム導入検討委員会|date=2021-09|accessdate=2022-01-16}}</ref>。 {{-}} == 利用状況 == 北陸鉄道石川線の輸送実績を下表に記す。 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 === 輸送実績 === 石川線(石川総線)の近年の輸送実績を下表に記す。輸送量は減少傾向にあったが、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止以後は増加傾向にある。 輸送密度については、石川総線を構成する能美線・金名線廃止により改善した時期もあったが、鶴来駅 - 加賀一の宮駅間廃止まで減少を続け、同区間廃止後は改善している。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:100%; text-align:center;" |- ! colspan="7"|年度別輸送実績 |- ! rowspan="2"|年 度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/日 ! rowspan="2"|特 記 事 項 |- |通勤定期 |通学定期 |定 期 外 |合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) | style="background-color: #ffcccc;"|70.9 | style="background-color: #ffcccc;"|87.8 |132.8 | style="background-color: #ffcccc;"|'''291.5''' |1,191 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |70.4 |84.4 |126.4 |'''281.3''' |1,155 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |64.9 |79.8 | style="background-color: #ccffcc;"|125.9 |'''270.8''' | style="background-color: #ccffcc;"|1,138 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |65.2 |75.5 | style="background-color: #ffcccc;"|134.3 |'''275.2''' |1,333 | style="text-align:left;"|能美線廃止 |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |60.1 |74.9 |125.7 |'''260.8''' |1,547 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |57.4 |73.9 |130.5 |'''261.8''' |1,566 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |55.1 |78.3 |129.6 |'''263.0''' |1,541 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |49.6 |67.0 |112.1 |'''228.8''' |1,402 | style="text-align:left;"|金名線休止 |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |46.2 |69.4 |111.3 |'''226.9''' |1,367 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |40.9 |70.1 |102.0 |'''213.0''' |1,304 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |37.8 |61.7 |94.2 |'''193.7''' |2,264 | style="text-align:left;"|金名線廃止 |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |41.2 |64.8 |93.8 |'''199.8''' |2,502 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |40.3 |62.8 |88.5 |'''191.6''' |2,425 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |40.1 |66.0 |88.8 |'''194.9''' |2,519 | style="text-align:left;"|冷房電車導入 ワンマン運転開始 |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |38.6 |71.1 |86.9 |'''196.6''' | style="background-color: #ffcccc;"|2,569 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |35.8 |69.0 |87.6 |'''192.4''' |2,494 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |35.9 |64.9 |90.0 |'''190.8''' |2,432 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |34.0 |64.1 |87.3 |'''185.4''' |2,371 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |30.7 |70.2 |89.4 |'''190.3''' |2,415 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |30.8 |70.2 |90.2 |'''191.2''' |2,455 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |31.0 |68.0 |84.7 |'''183.7''' |2,350 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |27.1 |62.0 |79.6 |'''168.7''' |2,205 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |24.1 |55.6 |78.7 |'''158.4''' |2,002 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |22.4 |52.0 |73.2 |'''147.6''' |1,874 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |20.9 |51.6 |66.9 |'''139.4''' |1,778 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |22.0 |53.0 |70.3 |'''145.3''' |1,854 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |21.4 |50.0 |71.5 |'''142.9''' |1,840 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |21.0 |49.2 |65.1 |'''135.3''' |1,737 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |20.0 |48.7 |64.1 |'''132.8''' |1,681 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |21.3 |45.0 |61.8 |'''128.1''' |1,622 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |23.3 |43.2 |60.3 |'''126.8''' |1,621 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |24.2 |44.2 |58.8 |'''127.2''' |1,609 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |23.1 |39.7 |58.4 |'''121.2''' |1,624 |style="text-align:left;"|鶴来駅 - 加賀一の宮駅間を廃止 |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) |23.0 |42.0 |56.5 |'''121.4''' |1,728 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |21.9 |40.7 |54.8 |'''117.4''' |1,659 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |21.9 |43.4 |51.3 |'''116.6''' |1,713 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |21.6 |47.4 |51.8 |'''120.9''' |1,798 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年) |22.3 |44.9 |49.7 |'''116.9''' |1,756 | style="text-align:left;"|陽羽里駅開業、北陸新幹線金沢開業 |- ! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年) |22.7 |44.3 |54.4 |'''121.4''' |1,838 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年) |25.3 |44.9 |55.1 |'''125.3''' |1,868 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年) |25.1 |47.1 |57.5 |'''129.7''' |1,930 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年) |24.9 |49.6 |56.8 |'''131.3''' |1,952 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年) |25.5 |44.4 |55.1 |'''125.0''' |1,877 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年) |19.3 | style="background-color: #ccffff;"|27.2 | style="background-color: #ccffff;"|38.6 | style="background-color: #ccffff;"|'''85.1''' | style="background-color: #ccffff;"|1,314 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2021年(令和3年) |19.2 |30.4 |39.4 |'''89.0''' | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2022年(令和4年) | style="background-color: #ccffff;"|19.1 |36.2 |42.5 |'''97.8''' | |&nbsp; |} 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)<ref> [https://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/railroad/yusoujisseki.html 管内鉄軌道事業者輸送実績] </ref>、鉄道統計年報運輸成績表(国土交通省)<ref> [https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000032.html 鉄道統計年報]</ref>より抜粋。 === 収入実績 ===<!-- 収入実績の出典を別途明記願います --> 石川線(石川総線)の近年の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は1996年(平成8年)以降減少している。運輸雑収については年度による変動が大きい。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:100%;" |- ! colspan="8"|年度別収入実績 |- ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度 ! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |169,676 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|219,637 | style="background-color: #ffcccc;"|''5,197'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''394,511''' |7,877 | style="background-color: #ccffcc;"|'''402,388''' |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |186,152 |←←←← |236,167 |''4,205'' |'''426,525''' | style="background-color: #ccffcc;"|6,469 |'''432,995''' |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |186,684 |←←←← |248,816 |''3,354'' |'''438,854''' |8,012 |'''446,867''' |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |181,131 |←←←← |253,878 |''3,010'' |'''438,020''' |7,876 |'''445,897''' |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |171,283 |←←←← |236,236 |''2,313'' |'''409,833''' |8,339 |'''418,173''' |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |166,321 |←←←← |246,498 |''1,824'' |'''414,643''' |8,944 |'''423,587''' |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |179,543 |←←←← | style="background-color: #ffcccc;"|259,897 |''1,520'' |'''440,960''' |8,326 |'''449,286''' |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |179,877 |←←←← |247,640 |''829'' |'''428,346''' |9,039 |'''437,386''' |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |185,521 |←←←← |252,855 |''666'' |'''439,042''' |9,676 |'''448,718''' |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |190,391 |←←←← |246,148 |''699'' |'''437,238''' |11,110 |'''448,348''' |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) | style="background-color: #ccffcc;"|71,659 | style="background-color: #ccffcc;"|106,422 |232,011 |''479'' |'''410,571''' |9,884 |'''420,455''' |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |80,292 |115,448 |236,461 |''521'' |'''432,722''' |8,553 |'''441,275''' |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |78,842 |113,146 |230,245 |''542'' |'''422,775''' |9,047 |'''431,822''' |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) | style="background-color: #ffcccc;"|81,147 |122,968 |238,167 |''546'' |'''442,828''' |11,460 |'''454,288''' |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |79,022 | style="background-color: #ffcccc;"|132,356 |234,712 |''556'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''446,646''' |9,500 | style="background-color: #ffcccc;"|'''456,146''' |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |73,665 |128,487 |235,625 |''489'' |'''438,266''' |11,038 |'''449,304''' |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |72,695 |119,358 |241,428 |''482'' |'''433,963''' |13,150 |'''447,113''' |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |69,360 |117,337 |232,624 |''416'' |'''419,737''' |13,374 |'''433,111''' |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |61,983 |127,179 |238,775 |''423'' |'''428,360''' |14,168 |'''442,528''' |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |62,227 |127,509 |242,191 |''410'' |'''432,337''' |12,723 |'''445,060''' |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |61,999 |123,063 |226,778 |''19'' |'''411,859''' |12,286 |'''424,145''' |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |55,347 |113,815 |213,132 |''19'' |'''382,313''' |13,430 |'''395,743''' |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |48,985 |101,952 |209,705 |''19'' |'''360,661''' |12,664 |'''373,325''' |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |45,842 |95,555 |195,868 | style="background-color: #ccffff;"|''17'' |'''337,282''' |11,528 |'''348,810''' |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |42,937 |93,641 |180,309 |''19'' |'''316,906''' |11,184 |'''328,090''' |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |44,625 |96,332 |189,218 |''24'' |'''330,199''' |9,178 |'''339,377''' |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |44,940 |90,885 |193,707 |''26'' |'''329,558''' | style="background-color: #ffcccc;"|111,104 |'''440,662''' |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |44,395 |88,417 |177,337 |''26'' |'''310,175''' |11,092 |'''321,267''' |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) | style="background-color: #ccffff;"|41,835 |87,406 |174,319 |''25'' |'''303,585''' | style="background-color: #ccffff;"|10,520 |'''314,105''' |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |43,547 | style="background-color: #ccffff;"|78,177 | style="background-color: #ccffff;"|168,356 |''25'' | style="background-color: #ccffff;"|'''290,105''' |10,911 | style="background-color: #ccffff;"|'''301,016''' |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} == 車両 == === 現有車両 === ==== 電車 ==== * '''[[北陸鉄道7000系電車|7000系]]'''(元[[東京急行電鉄|東急]][[東急7000系電車 (初代)|7000系]]) * '''[[北陸鉄道8000系電車|7700系]]'''(元[[京王電鉄|京王]][[京王3000系電車|3000系]]) <gallery widths="180px"> Hokutetsu-Series7000-7212.jpg|7000系(2022年7月 井口駅 - 道法寺駅間) Hokutetsu-Series7700-7711.jpg|7700系(2022年7月 井口駅 - 道法寺駅間) </gallery> ==== 電気機関車 ==== * '''[[金沢電気軌道ED1形電気機関車|ED20形]]''' ==== ディーゼル機関車 ==== * '''DL7形''' *: [[日本貨物鉄道]](JR貨物)から譲渡されたロータリー除雪装置付の軌道[[モーターカー]]。[[2008年]](平成20年)秋に搬入され、DL11に代わって鶴来検車区の入れ換え用として使用されている。 === 過去の車両 === ==== 電車 ==== * '''[[北陸鉄道モハ1500形電車|モハ1500形(モハ3710形)]]''' * '''[[北陸鉄道モハ3000形電車|モハ3000形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ5100形電車|モハ5100形(モハ3760形)]]''' * '''[[北陸鉄道サハ1000形電車|サハ1000形(モハ3730形)]]''' * '''モハ3150形・クハ1150形''' *: 元は現在のJR[[飯田線]]の一部区間の前身である[[伊那電気鉄道]]の[[伊那電気鉄道の電車#デ120形|デ120形]]で、国有化を経て末期は[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]で使用されていたものを[[1956年]](昭和31年)に譲り受けている。当初はモハ3100形を名乗り、3101、3102が[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]に、3103, 3104が石川総線に配属されていたが、浅野川線では出力が強すぎるためモーターが4個から2個に減らされていた。1961年(昭和36年)に石川総線所属の2両はモハ3150形3151、3152と改称・改番され、浅野川線所属の2両については[[1965年]](昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて石川総線へ転属したが、その際電装解除・制御車化されてクハ1150形1151、1152と改称・改番された。その後1967年(昭和42年)から[[1968年]](昭和43年)にかけて廃車され、台車や主要機器はモハ3770形とクハ1720形に転用された。なお、モハ3151・クハ1151の車体は[[人工魚礁|魚礁]]として白山市(当時は[[松任市]])沖の[[日本海]]に沈められた。 * '''[[北陸鉄道モハ3700形電車|モハ3700形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ5000形電車|モハ3750形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ3770形電車|モハ3770形・クハ1720形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ3740形電車|モハ3740形]]''' * '''サハ2000形(サハ2001, 2002) ''' *: 乗客の増加に対応するために増備された付随車で、経歴は能登鉄道木造客車ホハ1, 2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612。木造時代はセミクロスシートを備え、団体貸切などに使用された。サハ2001は1956年(昭和31年)自社工場製でどういう訳か種車の車籍を継承せず、車籍上は国鉄木造客車[[鉄道院基本形客車|ホハ12000]]→サハ651(北陸鉄道での車籍は与えられないまま使用されていた)を改造したことになっている。サハ2002は張り上げ屋根で1957年(昭和32年)にサハ612の改造として東洋工機および日本車輌で製造された。付随車であるが運転台と乗務員扉を持ち、後に正式に制御車化されてクハ1711、1712となった。その後1973年(昭和48年)に[[北陸鉄道浅野川線|浅野川線]]に転属、その際に制御方式が変更されたためクハ1210形と改称されている。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:reft; width:70%;" |+廃車表 |- !年 !記号番号 |- |1986||クハ1724 |- |1987||クハ1722、モハ3703・3704 |- |1990||モハ3732、3741-3744、3772・3773、クハ1721・1723(モハ3762→クハ1301浅野川線へ) |- |1996||モハ3731 |- |2006||モハ3751、3761 |- |2007||モハ3752 |- |} * 寺田裕一『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』JTB、2002年、『私鉄車両編成表』各年版、ジェーアールアール ==== 電気機関車 ==== * '''[[北陸鉄道ED30形電気機関車|ED30形]]''' [[ファイル:Hokutetsu-ED301.JPG|thumb|250px|ED301]] * '''EB23形(EB231) ''' *: 元能美電気鉄道デ8→北陸鉄道モハ621。2軸単車で、機関車代用として新西金沢車庫や鶴来車庫で構内入換に使用された。後にボギー車化、側面窓の大部分の埋め込み、前面窓のHゴム支持化などの改造を受けED23形と改称されている。 * '''EB11形(EB111) ''' *: 元温泉電軌デハ2。2軸単車で機関車代用として新西金沢工場の構内入換に使用され、モヤ551と称された時期もあった。 * '''ED20形(ED201) ''' *: 元能美電気鉄道デキ1で1938年(昭和13年)、木南車両製の小型凸形電機。主に石川線の貨物列車の牽引に使用された。 ==== ディーゼル機関車 ==== * '''DL1形''' *: [[1966年]](昭和41年)[[富士重工業]]製の軌道[[モーターカー]]。当初は保線列車や除雪に使用されたが、2007年10月廃車となる<ref name="hns8"/>。晩年は構内入換用となっていた。 * '''DL3形''' *: [[1979年]](昭和54年)に[[日本国有鉄道|国鉄]]から払い下げを受けたロータリー式除雪車。L型の車体で、運転台側にロータリーヘッド、機器室側にラッセルヘッドを装着していた。2007年10月廃車となる<ref name="hns8"/>。 ==== 貨車 ==== * '''ホム1形''' *: [[1967年]]に[[近江鉄道]]から譲受けたもので、書類上は[[1961年]](昭和36年)[[西武所沢車両工場]]製とされているが、実際には1914年製の[[小倉鉄道]]セム1形を出自とする。バラスト撒布用に使用されていたが、2007年10月廃車となる<ref name="hns8">『私鉄車両編成表 08年版』ジェーアールアール、174頁</ref>。晩年はほとんど使われることなく鶴来駅構内に留置されていた。廃車後は金沢市在住の個人が25万円で買い取り、[[富山県]][[高岡市]]の工場で保管。[[2015年]]、能美市立博物館(当時)に隣接する「のみでん広場」での常設展示([[静態保存]])を開始した<ref>{{Cite news|url = http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20150613/CK2015061302000041.html|title = 貨車35年ぶり“帰郷”旧能美線 保線作業で活躍|newspaper = [[中日新聞]] |publisher = 中日新聞社 |deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20150616083703/http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20150613/CK2015061302000041.html|date = 2015-06-13|archivedate = 2015-06-16|accessdate = 2021-03-07}}</ref>{{sfn|寺田|2018|p=33}}。 == 駅一覧 == * 全駅[[石川県]]に所在。 * すべて普通列車で各駅に停車。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3.5em;"|駅番号 !style="width:8em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|駅間キロ !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線・備考 !所在地 |- !colspan="6" style="text-align:left;"|廃止区間 |- ! - |[[白菊町駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |&nbsp; |[[金沢市]] |- !colspan="6" style="text-align:left;"|営業中の区間 |- !I01 |[[野町駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |&nbsp; |rowspan="3"|[[金沢市]] |- !I02 |[[西泉駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|1.0 |&nbsp; |- !I03 |[[西金沢駅|新西金沢駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|2.1 |西日本旅客鉄道:[[北陸本線]]([[西金沢駅]]) |- !I04 |[[押野駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|3.4 |&nbsp; |rowspan="3"|[[野々市市]] |- !I05 |[[野々市駅 (北陸鉄道)|野々市駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|4.0 |&nbsp; |- !I06 |[[野々市工大前駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|4.5 |&nbsp; |- !I07 |[[馬替駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|5.5 |&nbsp; |rowspan="4"|金沢市 |- !I08 |[[額住宅前駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|6.1 |&nbsp; |- !I09 |[[乙丸駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|6.8 |&nbsp; |- !I10 |[[四十万駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|8.2 |&nbsp; |- !I11 |[[陽羽里駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|8.8 | |rowspan="7"|[[白山市]] |- !I12 |[[曽谷駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|9.3 |&nbsp; |- !I13 |[[道法寺駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|9.9 |&nbsp; |- !I14 |[[井口駅 (石川県)|井口駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|10.7 |&nbsp; |- !I15 |[[小柳駅 (石川県)|小柳駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|11.4 |&nbsp; |- !I16 |[[日御子駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|12.1 |&nbsp; |- !I17 |[[鶴来駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|13.8 |&nbsp; |- !colspan="6" style="text-align:left;"|廃止区間 |- ! - |[[中鶴来駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|14.6 |&nbsp; |rowspan="2"|白山市 |- ! - |[[加賀一の宮駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|15.9 |&nbsp; |} === 廃止駅 === 廃止区間の駅は上表参照。 * 三十苅駅(乙丸 - 四十万間の乙丸から約0.3km鶴来寄り、1946年以降廃止) * 月橋駅(日御子 - 鶴来間の日御子から約0.6km鶴来寄り、1946年以降廃止) === 過去の接続路線 === * 野町駅:[[北陸鉄道金沢市内線]](1967年まで)・[[北陸鉄道松金線|松金線]](1944年まで){{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=63}} * 野々市駅:北陸鉄道松金線(1955年まで){{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=63}} * 鶴来駅:[[北陸鉄道能美線]](1980年まで) * 加賀一の宮駅:[[北陸鉄道金名線]](1987年まで) == 現存区間の存廃問題 == 2023年11月24日のNHKのニュースサイト<ref>{{Cite web|和書|author=|date=2023-11-24|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231124/k10014267761000.html|title=バス路線 全国8600キロ余が廃止 要因の4割が“運転手不足”|website=NHK NEWSWEB|publisher=[[日本放送協会]]|accessdate=2023-11-26}}</ref>によれば、北陸鉄道が石川線の存続についての協議会を開き、廃線にして跡地に[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]を運行する案が検討されたものの、バス運転手不足のために2023年8月にBRT化を断念し、今後の支援として[[上下分離方式|(みなし)上下分離方式]]が検討されていると報じられた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年3月|section=1}} * 新本欣悟「金沢市郊外鉄道建設と地域社会」『近代日本の地方都市ー金沢/城下町から近代都市へ』橋本哲哉編、日本経済評論社、2006年 * {{Cite journal|和書|author = 今尾恵介(監修)|journal = 日本鉄道旅行地図帳|volume = 6号|issue = 北信越| publisher = 新潮社|year = 2008 |pages = 28-29|ref = {{sfnref|今尾|2008}} }} * 岡本憲之『軽便鉄道時代』JTBパブリッシング、2010年 * 和久田康雄「北陸鉄道前史補説」『鉄道ピクトリアル』No220 1969年2月号、64-65頁 * {{Cite book|和書|title = 北陸鉄道50年史|publisher = 北陸鉄道|date = 1993-12|ref = {{sfnref|北陸鉄道|1993}} }} * {{Cite book|和書|title = 北國新聞に見るふるさと110年(上)|publisher = 北國新聞社|date = 2003-08-05|ref = {{sfnref|北國新聞|2003}} }} * {{Cite book|和書|title = 【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全配線 第6巻 加賀温泉駅-富山エリア|author= 川島令三|authorlink=川島令三|publisher = [[講談社]]|date = 2010-09-20|isbn = 978-4-06-270066-5|ref = {{sfnref|川島|2010}} }} * {{Cite journal|和書|author = 土屋武之・村上悠太|title = 新幹線を迎える石川県に根付く 北陸鉄道の今昔物語|journal = [[鉄道ジャーナル]]|issue = 568号|year = 2014|month = 2|pages = 58 - 65|publisher = 鉄道ジャーナル社|ref = {{sfnref|鉄道ジャーナル|2014}} }} * {{Cite book|和書|author= 寺田裕一|authorlink=寺田裕一|title = RM LIBRARY 230 北陸鉄道能美線|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|date = 2018-10-01|isbn = 978-4-7770-5434-3|ref = {{sfnref|寺田|2018}} }} * {{Cite book|和書|author = 寺田裕一|title = RM LIBRARY 231 北陸鉄道金名線|publisher = ネコ・パブリッシング|date = 2018-11-01|isbn = 978-4-7770-5435-0|ref = {{sfnref|RM231|2018}} }} == 関連項目 == <!-- 廃止路線やグループ会社へのリンクは記事最下部の{{北陸鉄道}}テンプレ内にあります。--> * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[北陸鉄道浅野川線]] == 外部リンク == {{Commons cat|Hokuriku Railroad Ishikawa Line}} * [http://www.hokutetsu.co.jp/railway/ishikawasen 石川線] - 北陸鉄道 * [https://www.city.hakusan.lg.jp/kikakusinkoubu/koutuutaisaku/ishikawa-chinden.html 石川線情報紙「ちん電」] - 白山市 {{北陸鉄道}} {{DEFAULTSORT:いしかわ}} [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:北陸鉄道の鉄道路線]] [[Category:石川鉄道|路]] [[Category:金名鉄道|路2]] [[Category:部分廃止路線]] [[Category:石川県の交通|ほくりくてつとういしかわせん]]
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北陸鉄道浅野川線
浅野川線(あさのがわせん)は、石川県金沢市の北鉄金沢駅から同県河北郡内灘町の内灘駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。浅野川電気鉄道を前身とすることから今でも浅電(あさでん)の愛称で呼ばれている。 浅野川線は、1924年1月23日に設立された浅野川電気鉄道(浅電)によって開業した路線である。富山県経済人を中心とする金沢堀川電気鉄道が先願していたが、金沢市の平沢嘉太郎を中心とする石川県政財界人が出願した浅野川電気鉄道に対し1923年5月に鉄道敷設免許状が下付された。1925年5月10日に七ツ屋駅 - 新須崎駅(1961年廃止、現在の蚊爪駅 - 粟ヶ崎駅間に位置)間5.3km、翌年5月18日に金沢駅前駅(現在の北鉄金沢駅) - 七ツ屋駅間0.8km、1929年7月14日に新須崎駅 - 粟ヶ崎海岸駅間2.4kmを開業した。浅電は1925年に粟崎遊園を開設し、粟ヶ崎遊園前駅をその近くに設置して利用者の便を図るなど、阪急電鉄に倣った多角経営を行っていた(遊園地は浅電社長に就任した平沢嘉太郎個人の事業として開園したが、後に浅電が引き継いだ)。 しかし、第二次世界大戦に突入すると、粟ヶ崎遊園地は軍の宿営地となり、粟崎遊園前駅 - 粟ヶ崎海岸駅間の線路も接収された。さらに、戦時統合で北陸鉄道(北鉄)に合併することが決まったが、当時の社長の藍元義範は合併条件を不満として拒否した。結局、社長を刑事事件で逮捕した後の1945年に北鉄に合併され、同社の浅野川線となった。 戦後の1952年、粟ヶ崎遊園前 - 粟ヶ崎海岸駅間の線路は復旧され、北鉄金沢市内線(1967年廃止)との直通運転も行われた。同時期に内灘砂丘に米軍試射場が作られる計画があがり、物資・人員輸送の専用線として粟ヶ崎遊園前駅から内灘砂丘方面に延伸された。しかし、内灘闘争の結果、1957年に返還となり専用線も廃止された。この路線は、後に移設する内灘駅に利用された。その後、1974年に港湾整備などのため内灘駅 - 粟ヶ崎海岸駅間が廃止された(ただし、粟ヶ崎遊園前(内灘) - 粟ヶ崎海岸駅間は夏季の海水浴シーズン中のみであり、1972年8月31日が最終運転である)。 2001年に北鉄金沢駅 - 七ツ屋駅間が地下化された。地下化するに当たり車両をすべて不燃化する必要があったため元京王3000系電車を導入することとなり、同車に対応するために1996年に架線電圧を600Vから1500Vに昇圧し、同時にワンマン運転を開始した。地方私鉄路線の地下化は長野電鉄長野線に次いで2例目となった。 すべて北鉄金沢駅 - 内灘駅間の運転である。1時間あたりおおむね2 - 3本運行されており、朝夕は約22分間隔、日中は30分間隔で運行されている。北鉄金沢駅 - 内灘駅間の所要時間は普通列車で17分である。内灘駅の始発は5時33分、北鉄金沢駅の終電は23時である。 2012年4月1日の改正で内灘駅の始発が6時から5時40分に繰り上げられ、北鉄金沢駅の終電も毎日23時に統一された。2015年3月14日の改正で、北陸新幹線金沢駅始発列車に接続させるため、さらに始発が繰り上がった。2017年4月1日からは土日祝日にも2往復増加、これにより平日と共通の「全日ダイヤ」に移行した。 以前はほぼ1駅おきに停車する急行が夜間を除いて(日中の半数が中心)運転されていたが、2006年(平成18年)12月1日のダイヤ変更で廃止され、全列車普通となった。途中停車駅は上諸江駅・割出駅・三ツ屋駅・蚊爪駅で、北鉄金沢駅 - 内灘駅間の所要時間は14分であった。 なお、金沢市では北陸鉄道石川線との直通延伸が計画されていたこともあった。北陸新幹線が開通してからは再度都市交通の必要性が議論され、一部で計画を持ち上げる動きがある。 浅野川線の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)、鉄道統計年報運輸成績表(国土交通省)より抜粋。 浅野川線の近年の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は1991年(平成3年)以降減少している。運輸雑収については年度による変動が大きい。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 先述の通り、北鉄金沢駅が地下駅であり、1面2線である。ほかは地上駅である。三ツ屋駅は、列車の行き違いが行われるため相対式ホーム2面2線であり、その他の駅は1面1線となっている。また内灘駅に隣接して電車基地(内灘検車区)があり、車両の留置が行われている。北鉄金沢駅・内灘駅(以上終日有人)・割出駅(平日ラッシュ時のみ有人)以外は無人駅である。 開業より1929年まで終端駅であった新須崎駅は大野川左岸にあった。ここで浅野川電気鉄道は河北潟への遊覧船運行や貸舟の営業を始め、また粟崎遊園行きの乗合自動車が運転されていた。1961年に乗客減少により廃止となった。
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浅野川線(あさのがわせん)は、石川県金沢市の北鉄金沢駅から同県河北郡内灘町の内灘駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。浅野川電気鉄道を前身とすることから今でも浅電(あさでん)の愛称で呼ばれている。
{{Infobox rail line | box_width = 300px | color = ff6600 | name = 浅野川線 | image = Hokutetsu-Asanogawa-line Series03.jpg | image_width = 300px | image_alt = 大野川を渡る浅野川線の03系電車 | caption = [[大野川 (石川県)|大野川]]を渡る浅野川線の03系電車<br/>(2022年7月 [[粟ヶ崎駅]] - [[蚊爪駅]]間) | system = | start = 起点:[[金沢駅|北鉄金沢駅]] | end = 終点:[[内灘駅]] | stations = 12駅 | routes = | open = {{Start date|1925|05|10|df=y}} | owner = 浅野川電気鉄道→[[北陸鉄道]] | stock = [[#車両|車両]]を参照 | linelength_km = 6.8 | gauge = {{RailGauge|1067mm|lk=on}} | linenumber = A | el = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] | speed = 最高60[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『日本のローカル私鉄 (2000)』{{要ページ番号|date=2021年3月}} - ネコ・パブリッシング</ref> | map = | map_state = }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#ff6600}} {{BS-table}} {{BS5||||uexSTR|uexSTR|||''[[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]]''}} {{BS5|exSTR+l|exSTRq|exKBHFeq|O3=HUBrg|uexHST|O4=HUBq|uexHST|O5=HUBeq|||中:''金沢駅前停留所''/右:''六枚町停留所''}} {{BS5|xABZg+l|tSTRaq|tKBHFeq|O3=HUB|uexSTRl|uexSTRr|0.0|A01 [[金沢駅#北陸鉄道 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路線距離([[営業キロ]]):6.8km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:12駅(起終点駅含む) * 複線区間:なし(全線[[単線]]) * 電化区間:全線(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:60km/h<ref name="terada" /> == 歴史 == {{基礎情報 会社 |社名 = 浅野川電気鉄道 |ロゴ = [[File:Asanogawa Electric Railway logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[石川県]][[河北郡]][[内灘村]]字向粟崎ト13ノ49<ref name="NDLDC1184231"/> |設立 = [[1924年]](大正13年)1月23日<ref name="NDLDC1184231"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |事業内容 = 旅客鉄道事業、倉庫業、不動産、ケーブルカー、海水浴場、温泉経営、遊船貸船、自動車運輸、食堂業、遊園地業<ref name="NDLDC1184231"/> |代表者 = 社長 [[藍元義範]]<ref name="NDLDC1184231"/> |資本金 = 540,000円(払込額)<ref name="NDLDC1184231"/> |特記事項 = 上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在<ref name="NDLDC1184231">[{{NDLDC|1184231/35}} 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和18年4月1日現在](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。}} 浅野川線は、[[1924年]][[1月23日]]に設立された'''浅野川電気鉄道'''(浅電)によって開業した路線である。富山県経済人を中心とする金沢堀川電気鉄道が先願していたが<ref>石川県による信用調査では「(申請者)鉄道敷設地方ニ関係ナク又発起人ハ地方ニ於ケル有力資産家ニアラス(中略)事業ハ成効シ難キモノト認ム」とされていた(「金沢堀川電気鉄道敷設申請書返付ノ件」『 第十門・地方鉄道及軌道・六、敷設請願却下・巻一・大正四年~大正十三年』国立公文書館デジタルアーカイブ で画像閲覧可)</ref>、金沢市の[[平沢嘉太郎]]を中心とする石川県政財界人が出願した浅野川電気鉄道に対し1923年5月に鉄道敷設免許状が下付された。[[1925年]][[5月10日]]に七ツ屋駅 - 新須崎駅(1961年廃止、現在の蚊爪駅 - 粟ヶ崎駅間に位置)間5.3km、翌年[[5月18日]]に金沢駅前駅(現在の北鉄金沢駅) - 七ツ屋駅間0.8km、[[1929年]][[7月14日]]に新須崎駅 - 粟ヶ崎海岸駅間2.4kmを開業した{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}。浅電は1925年に[[粟崎遊園]]を開設し、粟ヶ崎遊園前駅をその近くに設置して利用者の便を図るなど、[[阪急電鉄]]に倣った多角経営を行っていた(遊園地は浅電社長に就任した平沢嘉太郎個人の事業として開園したが、後に浅電が引き継いだ)。 しかし、[[第二次世界大戦]]に突入すると、粟ヶ崎遊園地は軍の宿営地となり、粟崎遊園前駅 - 粟ヶ崎海岸駅間の線路も接収された。さらに、戦時統合で'''北陸鉄道'''(北鉄)に合併することが決まったが、当時の社長の藍元義範は合併条件を不満として拒否した。結局、社長を刑事事件で逮捕<ref>西脇恵「私鉄車両めぐり [77] 北陸鉄道(2)」 『鉄道ピクトリアル』216号 電気車研究会 1968-11 による{{要ページ番号|date=2021年3月}}。</ref>した後の[[1945年]]に北鉄に合併され、同社の浅野川線となった。 戦後の[[1952年]]、粟ヶ崎遊園前 - 粟ヶ崎海岸駅間の線路は復旧され{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}、北鉄[[北陸鉄道金沢市内線|金沢市内線]](1967年廃止)との直通運転も行われた。同時期に[[内灘砂丘]]に[[アメリカ軍|米軍]]試射場が作られる計画があがり、物資・人員輸送の専用線として粟ヶ崎遊園前駅から内灘砂丘方面に延伸された。しかし、[[内灘闘争]]の結果、[[1957年]]に返還となり専用線も廃止された。この路線は、後に移設する[[内灘駅]]に利用された。その後、[[1974年]]に港湾整備などのため内灘駅 - 粟ヶ崎海岸駅間が廃止された(ただし、粟ヶ崎遊園前(内灘) - 粟ヶ崎海岸駅間は夏季の海水浴シーズン中のみであり、1972年8月31日が最終運転である){{sfn|安田・松本|2017|p=44}}。 [[2001年]]に北鉄金沢駅 - 七ツ屋駅間が地下化された{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=58}}。地下化するに当たり車両をすべて不燃化する必要があったため元[[京王3000系電車]]を導入することとなり、同車に対応するために[[1996年]]に架線電圧を600Vから1500Vに昇圧し<ref name="res20201201"/>{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=58}}、同時に[[ワンマン運転]]を開始した<ref name="RJ365">{{Cite journal|和書 |date = 1997-03 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 31 |issue = 3 |page = 103 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。地方私鉄路線の地下化は[[長野電鉄]][[長野電鉄長野線|長野線]]に次いで2例目となった。 <gallery widths="180px"> HokutetsuKanazawa.jpg|地上時代の北鉄金沢駅(1999年2月) Hokutetsu-Kanazawa-STA Entrance.jpg|地下化された北鉄金沢駅(2022年4月) Hokutetsu-Kanazawa Tunnel-entrance.jpg|地下区間の入口(2023年7月) </gallery> === 年表 === * [[1923年]]([[大正]]12年)[[5月25日]] - 鉄道免許状下付(金沢市西堀川町-石川郡潟津村間)<ref>[{{NDLDC|2955369/5}} 「鉄道免許状下付」『官報』1923年5月28日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1924年]](大正13年)[[1月23日]] - 浅野川電気鉄道株式会社設立(社長 平沢嘉太郎)<ref>[{{NDLDC|1190630/44}} 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref><ref>[{{NDLDC|936471/648}} 『日本全国諸会社役員録. 第34回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1925年]](大正14年) ** [[5月10日]] - '''浅野川電気鉄道'''により七ツ屋 - 新須崎(後に廃止)間 5.3km 開業<ref>[{{NDLDC|2955965/10}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年5月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>{{sfn|北陸鉄道|1993|p=44}}{{sfn|北國新聞|2003|p=268}}。 ** [[7月19日]] - 粟崎遊園(平沢嘉太郎経営)が開園<ref name="utinada1145">『内灘町史』1145頁</ref> * [[1926年]](大正15年) ** [[4月25日]] - 新須崎駅構内で遊覧船、貸舟業を開始<ref name="utinada1145"/>。 ** [[5月18日]] - 金沢駅前(現在の北鉄金沢) - 七ツ屋間 0.8km 開業{{sfn|北陸鉄道|1993|p=44}}<ref>[{{NDLDC|2956274/11}} 「地方鉄道運輸開始並営業哩程変更」『官報』1926年5月24日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[6月23日]] - 鉄道免許状下付(石川郡潟津村-河北郡内灘村間)<ref>[{{NDLDC|2956910/5}} 「鉄道免許状下付」『官報』1928年6月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1929年]](昭和4年)[[7月14日]] - 新須崎 - 粟ヶ崎遊園前(現在の内灘) - 粟ヶ崎海岸間 2.4km 開業{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}{{sfn|北陸鉄道|1993|p=44}}<ref>[{{NDLDC|2957233/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1929年7月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1933年]](昭和8年)[[12月8日]] - 粟崎遊園が競売となり、浅野川電鉄所有となる<ref name="ayumi318"/>。 * [[1935年]](昭和10年) ** [[5月10日]] - 乗合自動車運行開始(新須崎-宇ノ気間)<ref name="ayumi318"/>。 ** 11月 - 乗合自動車運行開始(金沢駅前-大根布間)<ref name="ayumi318">『北鉄の歩み』318頁</ref>。 * [[1941年]](昭和16年) ** [[9月22日]] - 乗合自動車運行休止<ref>『北鉄の歩み』322頁</ref> ** 粟崎遊園閉鎖<ref>『内灘町史』1147頁</ref>。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[2月11日]] - 粟ヶ崎遊園前 - 粟ヶ崎海岸間 1.8km 廃止。 ** [[10月1日]] - '''北陸鉄道'''が浅野川電気鉄道を合併し{{sfn|北陸鉄道|1993|p=265}}、同社の浅野川線となる。 * [[1946年]](昭和21年)[[4月21日]] - 三ツ屋駅を吊橋駅に改称{{sfn|今尾|2008|p=29}}。 * [[1952年]](昭和27年) - 粟ヶ崎遊園前 - 粟ヶ崎海岸間が再開業{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}。 * [[1956年]](昭和31年)[[7月5日]] - 金沢駅前広場拡張に伴い北鉄金沢駅移転。 * [[1960年]](昭和35年)[[5月14日]] - 粟ヶ崎遊園前駅を0.1km海寄りに移転し内灘駅に改称{{sfn|朝日|2011|p=19}}。 * [[1961年]](昭和36年)[[6月30日]] - 新須崎駅廃止{{sfn|北陸鉄道|1993|p=271}}。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[4月1日]] - 貨物営業廃止{{sfn|北陸鉄道|1993|p=276}}。 ** [[9月1日]] - 内灘 - 粟ヶ崎海岸間が休止{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[7月8日]] - 内灘 - 粟ヶ崎海岸間が廃止{{sfn|安田・松本|2017|p=44}}{{sfn|朝日|2011|p=19}}{{sfn|北陸鉄道|1993|p=278}}。 ** [[12月1日]] - 吊橋駅を三ツ屋駅に改称{{sfn|北陸鉄道|1993|p=278}}。 * [[1996年]]([[平成]]8年)[[12月19日]] - 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧<ref name="res20201201"/>{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=58}}。ワンマン運転開始<ref name="RJ365"/>。 * [[2001年]](平成13年)[[3月28日]] - 北鉄金沢 - 七ツ屋間地下化{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=58}}<ref>{{Cite news|和書|title = 北陸初の地下駅完成祝う 北鉄浅野川線 金沢駅、記念列車が出発|newspaper = 北國新聞|date = 2001-03-27|issue = 夕刊|pages = 9}}</ref>。ATS使用開始。七ツ屋駅を0.1km北鉄金沢方へ移転{{sfn|朝日|2011|p=19}}。 * [[2006年]](平成18年)[[12月1日]] - 急行列車を全廃し、全列車普通とする{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=59}}。 * [[2017年]](平成29年)4月1日 - 土日祝ダイヤを廃止し、全日ダイヤに統一。 * [[2019年]](平成31年)4月1日 - 駅ナンバリングを導入<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|title = 北陸鉄道グループ ダイヤ改正を実施します(4/1)|publisher = 北陸鉄道|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20200224085711/http://www.hokutetsu.co.jp/archives/29266|date = 2019-03-12|archivedate = 2020-02-24|accessdate = 2021-03-07}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)[[12月21日]] - [[北陸鉄道03系電車|03系]]の運転開始<ref name="03kei"/><ref name="res20201201"/><ref name="nikkei20201207"/>。 == 運行形態 == すべて北鉄金沢駅 - 内灘駅間の運転である。1時間あたりおおむね2 - 3本運行されており、朝夕は約22分間隔、日中は30分間隔で運行されている。北鉄金沢駅 - 内灘駅間の所要時間は普通列車で17分である{{sfn|川島|2010|p=84}}。内灘駅の始発は5時33分、北鉄金沢駅の終電は23時である。 2012年4月1日の改正で内灘駅の始発が6時から5時40分に繰り上げられ、北鉄金沢駅の終電も毎日23時に統一された。2015年3月14日の改正で、[[北陸新幹線]]金沢駅始発列車に接続させるため、さらに始発が繰り上がった。2017年4月1日からは土日祝日にも2往復増加、これにより平日と共通の「全日ダイヤ」に移行した。 以前はほぼ1駅おきに停車する急行が夜間を除いて(日中の半数が中心)運転されていたが、2006年(平成18年)12月1日のダイヤ変更で廃止され、全列車普通となった{{sfn|鉄道ジャーナル|2014|p=59}}。途中停車駅は[[上諸江駅]]・[[割出駅]]・[[三ツ屋駅]]・[[蚊爪駅]]で、北鉄金沢駅 - 内灘駅間の所要時間は14分であった{{sfn|川島|2010|p=84}}。 {{要出典範囲|なお、金沢市では北陸鉄道[[北陸鉄道石川線|石川線]]との直通延伸が計画されていたこともあった。[[北陸新幹線]]が開通してからは再度都市交通の必要性が議論され、一部で計画を持ち上げる動きがある|date=2021年3月}}。 {{-}} == 利用状況 == === 輸送実績 === 浅野川線の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:100%; text-align:center;" |- ! colspan="8"|年度別輸送実績 |- ! rowspan="2"|年度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/日 ! rowspan="2"|輸送実績<br />(発送貨物):トン ! rowspan="2"|特記事項 |- |通勤定期 |通学定期 |定 期 外 |合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1946年(昭和21年) |! colspan="2"|49.4 |style="background-color: #ffcccc;"|187.5 |'''236.9''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1950年(昭和25年) |! colspan="2"|98.2 |130.2 |'''238.3''' |&nbsp; |9,770 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1955年(昭和30年) |! colspan="2"|123.0 |117.3 |'''240.3''' |&nbsp; |5,518 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1960年(昭和35年) |! colspan="2"|172.7 |128.9 |'''301.6''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1965年(昭和40年) |! colspan="2"|209.3 |122.3 |'''331.6''' |&nbsp; |20,000 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1966年(昭和41年) |! colspan="2"|219.1 |127.0 |'''346.0''' |&nbsp; |style="background-color: #ffcccc;"|56,882 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1967年(昭和42年) |! colspan="2"|227.7 |130.7 |'''358.4''' |&nbsp; |19,883 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1968年(昭和43年) |! colspan="2"|230.9 |127.8 |'''358.7''' |&nbsp; |3,124 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1969年(昭和44年) |! colspan="2"|242.6 |125.5 |style="background-color: #ffcccc;"|'''368.1''' |&nbsp; |6,578 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1970年(昭和45年) |! colspan="2"|220.5 |117.4 |'''337.9''' |&nbsp; |4,922 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1971年(昭和46年) |! colspan="2"|213.8 |118.8 |'''332.6''' |&nbsp; |3,872 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1972年(昭和47年) |! colspan="2"|205.9 |121.3 |'''327.2''' |&nbsp; |112 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1973年(昭和48年) |! colspan="2"|171.4 |125.4 |'''296.8''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1974年(昭和49年) |! colspan="2"|164.6 |128.2 |'''292.7''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) |! colspan="2"|150.2 |125.4 |'''275.6''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |! colspan="2"|145.4 |131.6 |'''277.0''' |&nbsp; | |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) | style="background-color: #ffcccc;"|75.9 | style="background-color: #ccffcc;"|68.5 |130.8 |'''275.3''' | style="background-color: #ffcccc;"|5,011 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |72.7 | style="background-color: #ffcccc;"|69.4 |119.4 |'''261.7''' |4,771 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |63.7 |60.4 |119.6 |'''243.7''' |4,495 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |62.9 |61.2 |125.0 |'''249.3''' |4,821 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |59.5 |56.3 |123.1 |'''239.0''' |4,565 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |57.3 |47.9 |124.6 |'''229.8''' |4,482 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |57.9 |47.3 |121.8 |'''226.9''' |4,517 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |51.6 |46.9 |114.0 |'''212.5''' |4,304 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |49.0 |53.3 |116.3 |'''218.6''' |4,482 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |46.9 |54.8 |100.0 |'''211.7''' |4,410 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |45.6 |56.0 |103.0 |'''204.6''' |4,304 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |44.4 |54.8 |103.5 |'''202.7''' |4,277 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |41.9 |55.0 |96.8 |'''193.7''' |4,115 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |43.8 |58.6 |94.8 |'''197.2''' |4,212 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |41.7 |61.5 |95.9 |'''199.1''' |4,252 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |39.7 |60.7 |96.5 |'''196.9''' |4,193 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |35.4 |57.9 |97.8 |'''191.1''' |4,062 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |34.5 |58.6 |92.3 |'''185.4''' |3,952 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |32.4 |56.7 |92.4 |'''181.5''' |3,834 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |31.5 |56.6 |94.1 |'''182.2''' |3,909 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |31.2 |59.6 |93.4 |'''184.2''' |3,949 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |29.7 |58.1 |89.6 |'''177.4''' |3,773 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |28.2 |55.5 |87.6 |'''171.3''' |3,607 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |27.4 |53.2 |83.5 |'''164.1''' |3,476 |&nbsp; | style="text-align:left;"|北鉄金沢 - 七ツ屋間地下化 |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) | style="background-color: #ccffff;"|25.0 |54.2 |83.4 |'''162.6''' |3,441 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |29.1 |51.8 |80.9 |'''158.4''' |3,337 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |27.9 |50.3 |75.5 |'''153.7''' |3,288 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |26.9 |48.8 |70.9 |'''146.6''' |3,145 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |26.8 |49.8 |72.8 |'''149.4''' |3,181 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |27.9 |50.2 |71.9 |'''150.0''' |3,213 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |28.8 |52.5 |71.5 |'''152.8''' |3,289 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |29.2 |56.1 |67.7 |'''153.0''' |3,316 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |27.9 |52.6 |67.0 |'''147.5''' |3,177 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) |28.1 |50.2 |65.2 |'''143.5''' |3,060 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |27.2 |50.2 |65.1 |'''142.5''' |2,999 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |27.4 |52.8 |66.3 |'''146.5''' |3,100 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |29.0 |54.0 |70.1 |'''153.1''' |3,253 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年) |29.9 |53.1 |69.8 |'''152.8''' |3,274 |&nbsp; |2015年3月14日、北陸新幹線金沢開業 |- ! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年) |31.9 |56.3 |76.2 |'''164.4''' |3,524 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年) |33.5 |56.4 |76.3 |'''166.3''' |3,579 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年) |36.0 |58.7 |80.6 |'''175.3''' |3,760 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年) |36.8 |59.1 |80.7 |'''176.6''' |3,780 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年) |38.5 |58.5 |79.3 |'''176.3''' |3,739 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年) |31.4 | style="background-color: #ccffff;"|40.7 | style="background-color: #ccffff;"|54.5 | style="background-color: #ccffff;"|'''126.6''' | style="background-color: #ccffff;"|2,645 |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2021年(令和3年) |32.4 |47.7 |57.3 |'''137.4''' | |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2022年(令和4年) |34.5 |48.9 |67.1 |'''150.5''' | |&nbsp; |&nbsp; |} 管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)<ref>[https://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/railroad/yusoujisseki.html 管内鉄軌道事業者輸送実績] - 国土交通省北陸信越運輸局</ref>、鉄道統計年報運輸成績表(国土交通省)<ref> [https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk6_000032.html 鉄道統計年報]</ref>より抜粋。 === 収入実績 === 浅野川線の近年の収入実績を下表に記す。旅客運賃収入は1991年(平成3年)以降減少している。運輸雑収については年度による変動が大きい。 表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:100%;" |- ! colspan="8"|年度別収入実績 |- ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度 ! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度 |- | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|定 期 外 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 | style="text-align: center; font-weight: normal;"|合  計 |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |109,730 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|161,940 | style="background-color: #ffcccc;"|''892'' | style="background-color: #ccffcc;"|'''272,562''' |4,405 | style="background-color: #ccffcc;"|'''276,968''' |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |125,563 |←←←← |176,809 |''635'' |'''303,008''' |5,468 |'''308,476''' |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |123,846 |←←←← |188,149 |''527'' |'''312,522''' |5,876 |'''318,399''' |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |126,426 |←←←← |196,473 |''572'' |'''323,471''' |6,363 |'''329,835''' |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |120,905 |←←←← |194,140 |''547'' |'''315,592''' |5,756 |'''321,349''' |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |115,861 |←←←← |196,104 |''410'' |'''312,375''' |6,356 |'''318,731''' |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |122,965 |←←←← |200,678 |''323'' |'''323,966''' |5,689 |'''329,655''' |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |119,907 |←←←← |196,453 |''277'' |'''316,637''' |6,595 |'''323,232''' |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |130,691 |←←←← |212,658 |''216'' |'''343,565''' |6,643 |'''350,208''' |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |138,746 |←←←← |217,640 |''198'' |'''356,584''' |6,969 |'''363,553''' |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |66,859 | style="background-color: #ccffcc;"|73,793 |210,766 |''198'' |'''351,616''' |7,730 |'''359,346''' |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |67,869 |75,006 |217,944 |''149'' |'''360,968''' |6,905 |'''367,873''' |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) | style="background-color: #ccffcc;"|66,216 |73,982 |208,290 | style="background-color: #ccffff;"|''0'' |'''348,488''' |7,910 |'''356,398''' |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) | style="background-color: #ffcccc;"|71,482 |79,797 |213,700 |''0'' |'''364,979''' |7,778 |'''372,757''' |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |68,222 | style="background-color: #ffcccc;"|84,732 |212,040 |''0'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''364,994''' |8,316 | style="background-color: #ffcccc;"|'''373,310''' |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |64,271 |82,955 |213,757 |''0'' |'''360,983''' |8,060 |'''369,043''' |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |57,337 |79,125 | style="background-color: #ffcccc;"|216,469 |''0'' |'''352,931''' |8,417 |'''361,348''' |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |55,823 |79,565 |204,448 |''0'' |'''339,836''' |8,459 |'''348,295''' |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |52,282 |76,599 |203,371 |''0'' |'''332,252''' |5,818 |'''338,070''' |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |51,644 |77,689 |207,738 |''0'' |'''337,071''' |6,913 |'''343,984''' |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |50,766 |81,355 |204,561 |''0'' |'''336,682''' |5,103 |'''341,785''' |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |48,970 |78,852 |195,589 |''0'' |'''323,411''' |3,969 |'''327,380''' |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |46,585 |74,620 |191,208 |''0'' |'''312,413''' |3,855 |'''316,268''' |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |45,306 |71,560 |181,841 |''0'' |'''298,707''' | style="background-color: #ccffcc;"|3,372 |'''302,079''' |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) | style="background-color: #ccffff;"|40,756 |73,945 |181,074 |''0'' |'''295,775''' |7,182 |'''302,957''' |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |45,250 |70,708 |168,477 |''0'' |'''284,435''' |8,284 |'''292,719''' |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |43,395 |68,131 |164,569 |''0'' |'''276,095''' | style="background-color: #ffcccc;"|12,538 |'''288,633''' |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |41,343 |65,585 |153,927 |''0'' |'''260,855''' |12,151 |'''273,006''' |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |41,086 |65,077 |156,731 |''0'' |'''260,894''' | style="background-color: #ccffff;"|11,439 |'''274,333''' |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) |43,787 | style="background-color: #ccffff;"|59,619 | style="background-color: #ccffff;"|145,825 |''0'' | style="background-color: #ccffff;"|'''249,232''' |12,070 | style="background-color: #ccffff;"|'''261,302''' |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} === 浅野川電気鉄道時代の輸送収支実績 === {| class="wikitable mw-collapsible" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- ! colspan="10"|年度別実績 |- !年度 !輸送人員(人) !貨物量(トン) !営業収入(円) !営業費(円) !営業益金(円) !その他益金(円) !その他損金(円) !支払利子(円) !政府補助金(円) |- |1925||403,409||285||41,636||21,031||20,605||||||8,819|| |- |1926||791,700||527||87,129||40,915||46,214||遊船貸船業3||||14,594|| |- |1927||819,966||1,260||94,291||47,380||46,911||||貸船業872||12,257|| |- |1928||773,868||5,647||89,440||51,916||37,524||||雑損447||11,941|| |- |1929||823,911||8,880||97,719||49,927||47,792||||遊船業577||13,416|| |- |1930||822,720||25,400||98,453||53,077||45,376||||遊船業418||19,212||25,746 |- |1931||727,906||14,467||81,989||50,804||31,185||||遊船貸船業379||18,956|| |- |1932||703,180||8,302||75,048||56,428||18,620||||遊船業255||19,306|| |- |1933||729,542||15,151||83,040||49,128||33,912||||遊船業7,058<br>雑損償却金6,455||19,699||1,378 |- |1934||738,589||12,116||86,169||54,624||31,545||||遊園業23,097<br>雑損償却金7,645||19,931||20,252 |- |1935||822,245||7,787||90,750||54,866||35,884||||遊園業その他22,120<br>雑損償却金9,484||16,708||21,750 |- |1936||941,801||7,028||97,770||61,007||36,763||||自動車遊園業29,067<br>雑損償却金6,690||17,607||12,111 |- |1937||940,742||9,170||106,317||57,367||48,950||積立金繰入155||自動車業27,503<br>雑損4,500||13,948||4,420 |- |1939||1,041,523||21,912|||||||||||||| |- |1941||1,519,439||16,450|||||||||||||| |- |1943||1,907,160||23,143|||||||||||||| |- |1945||2,373,916||10,741|||||||||||||| |- |} *鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計各年度版 == 車両 == === 現有車両 === * '''[[北陸鉄道8000系電車|8000系]]'''(元[[京王電鉄|京王]][[京王3000系電車|3000系]]) * '''[[北陸鉄道03系電車|03系]]'''(元[[営団03系電車|東京メトロ03系]]) *: 2023年度まで計5編成が導入される予定<ref name="newshokuriku03kei">{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201201305.htm|archiveurl = https://web.archive.org/web/20201201115424/https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201201305.htm|title = 浅野川線、21日に新車両 北鉄|newspaper = 北國新聞|publisher = 北國新聞社|deadlinkdate = 2021年3月|date = 2020-12-01|accessdate = 2021-03-07|archivedate = 2020-12-01}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019071702100043.html|archiveurl = https://web.archive.org/web/20190724233645/https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2019071702100043.html|title = 北鉄車両 ちょっぴり若返り 東京メトロの譲渡で“50歳超→30歳”|newspaper = 中日新聞|publisher = 中日新聞社|deadlinkdate = 2021年3月|date = 2019-07-13|accessdate = 2021-03-07|archivedate = 2019-07-24}}</ref>。[[2020年]][[12月21日]]から営業運転を開始した<ref name="03kei">{{Cite press release|和書|url=http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/36269/news.pdf?ver1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201130112942/http://www.hokutetsu.co.jp/media/archives/36269/news.pdf?ver1|format=PDF|language=日本語|title=浅野川線新型車両03系の営業運転開始に関するイベントについて|publisher=北陸鉄道|date=2020-11-30|accessdate=2020-11-30|archivedate=2020-11-30}}</ref><ref name="res20201201">{{Cite web|和書|url = https://response.jp/article/2020/12/01/340850.html|title = 北陸の東京出身車も世代交替…北陸鉄道に元東京メトロ03系が登場 元京王車は一部が引退 12月21日|website = [[Response.|レスポンス]] | publisher = イード|date = 2020-12-01|accessdate = 2021-03-07}}</ref>。車体側面の帯はオレンジ色<ref>{{Cite news|url = https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201208302.htm|title = 「浅電」新型車両を公開 北鉄、21日から導入|newspaper = 北國新聞|publisher = 北國新聞社|deadlinkdate = 2021年3月|archiveurl = https://web.archive.org/web/20201208081058/https://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20201208302.htm|date = 2020-12-08|archivedate = 2020-12-08|accessdate = 2021-03-07}}</ref><ref name="nikkei20201207">{{Cite news|url = https://www.nikkei.com/article/DGXZQOJB075930X01C20A2000000/|title = 北陸鉄道に新型車両、東京メトロの車両を改造|newspaper = 日本経済新聞|date = 2020-12-07|accessdate = 2021-03-07}}</ref>、前面および側面の種別行先表示器はフルカラー[[発光ダイオード|LED]]となっている。 <gallery widths="180px"> Hokutetsu-Series8000-8811.jpg|8000系(2022年7月 三ツ屋駅 - 三口駅間) Hokutetsu Series03-829.jpg|03系(2022年7月 三ツ屋駅 - 三口駅間) </gallery> === 過去の車両 === * '''[[北陸鉄道サハ1000形電車#モハ3500形・モハ3550形|モハ3500形・モハ3550形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ1800形電車|モハ3560形・クハ1200形]]''' * '''[[北陸鉄道サハ1000形電車#モハ3200形・クハ1000形|モハ3200形・クハ1000形]]''' * '''[[北陸鉄道モハ5100形電車|モハ5100形・クハ1300形]]''' * '''[[北陸鉄道サハ1000形電車#モハ3010形・モハ3300形|モハ3300形]]''' * '''[[北陸鉄道サハ1000形電車#モハ3010形・モハ3300形|モハ3010形]]''' * '''クハ1210形(クハ1211, 1212)''' *: [[北陸鉄道石川線|石川総線]]のサハ2000形2001, 2002がその前身である。サハ2001は[[1955年]](昭和30年)に自社工場で、サハ2002は翌[[1956年]](昭和31年)に[[東洋工機]]でそれぞれ新製され、いずれも台枠および台車を[[北陸鉄道能登線|能登線]]の前身である能登鉄道が開業時に新製した木造客車ホハ1, 2→北陸鉄道能登線ホハ1201, 1202→石川線サハ611, 612より流用している。普通屋根構造の2001に対し2002は張り上げ屋根構造とされ、同一形式ながらその外観は大きく異なっていた。当初より乗務員扉が設置され、先頭車化改造を考慮した設計となっており、[[1966年]](昭和41年)に制御車化されてクハ1710形1711, 1712と改称され、前述の通り石川総線で使用されていた。浅野川線には[[1973年]](昭和48年)に転入し、転入に際して制御方式が変更されたためクハ1210形1211, 1212と改称されている。[[1996年]](平成8年)の昇圧まで在籍したが、クハ1212は同年6月末に運用を離脱し8月中旬に解体<ref name="rf_199612">[[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1996年12月号 通巻428号 p.104 - 105</ref>、もう1両も最終日を待たずに運用から離脱していた。 * '''クハ1650形(クハ1651, 1652)''' *: 国鉄より<sup>ユニ</sup>キハ04101, 04102を購入し1961年にサハ1651, 1652として竣功、浅野川線で使用した。1962年に運転台、乗務員扉の設置、前面3枚窓化、連結面への貫通扉新設などの改造を行いクハ1651, 1652となった。1968年廃車<ref>千代村資夫「キサハ04の異端車<sup>ユニ</sup>キサハ04」『[[鉄道友の会|RAIL FAN]]』No.519</ref>。 * '''モハ850形(モハ852)''' *: 元[[伊那電気鉄道]]の[[買収国電]]でデ110形デ111→国鉄クハ5920形5920。1926年(大正15年)伊那電松島工場製、車体約16mの木造ボギー車。[[富山地方鉄道富山港線|富山港線]]で使用された後1954年(昭和29年)3月に北陸鉄道に移籍してきた。北陸鉄道では当初制御車クハ501として使用され、後に電装されモハ852となった。1962年(昭和37年)に廃車され、主要機器は[[北陸鉄道サハ1000形電車|モハ3550形]]に流用された。 * '''モハ3100形(モハ3101, 3102)''' *: モハ850形と同じく元[[伊那電気鉄道]]の[[買収国電]]でデ120形123, 124→国鉄モハ1920形1923, 1924、1927年(昭和2年)汽車製造東京支店製。車体約16mでモハ850形とよく似たスタイルの、リベットの多い半鋼製ボギー車であった。やはり富山港線で使用された後、1955年(昭和30年)3月に北陸鉄道に移籍してきた。1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて[[北陸鉄道石川線|石川総線]]へ転属し、その際電装解除・制御車化されてクハ1150形1151, 1152と改称・改番された。 * '''サハ210形(サハ211)・サハ220形(サハ221)''' *: 浅野川電気鉄道創業時に製造された木造2軸単車で1925年(大正14年)、電車製造製。 * '''モハ570形(モハ571 - 573)''' *: 浅野川電気鉄道創業時に製造された木造2軸単車で1925年(大正14年)、汽車会社製。3両が製造され、うち572, 573の2両は、末期には北鉄金沢駅構内で国鉄線の貨車を、構内から伸びる専用線を経て工場へ牽引する事業用車として使用された。 * '''クハ1600形(クハ1601)''' *: 元[[遠州鉄道]]クハ51を1962年(昭和37年)に日本車輛経由で購入、北鉄工場で改造した車両。主にモハ3550形と編成を組んで使用され、後に加南線へ転属した。 == 駅一覧 == * 全駅[[石川県]]に所在。 * すべて普通列車で各駅に停車。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:3.5em;"|駅番号 !style="width:7em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|駅間キロ !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線 !所在地 |- !colspan="6" style="text-align:left;"|営業中の区間 |- !A01 |[[金沢駅|北鉄金沢駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |西日本旅客鉄道:[[北陸本線]]・[[ファイル:Shinkansen jrw.svg|17px|■]] [[北陸新幹線]]([[金沢駅]])<br />[[IRいしかわ鉄道]]:[[IRいしかわ鉄道線]](金沢駅) |rowspan="10"|[[金沢市]] |- !A02 |[[七ツ屋駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|0.6 |&nbsp; |- !A03 |[[上諸江駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|1.5 |&nbsp; |- !A04 |[[磯部駅 (石川県)|磯部駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|2.2 |&nbsp; |- !A05 |[[割出駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|2.8 |&nbsp; |- !A06 |[[三口駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|3.3 |&nbsp; |- !A07 |[[三ツ屋駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|3.9 |&nbsp; |- !A08 |[[大河端駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|4.5 |&nbsp; |- !A09 |[[北間駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|5.1 |&nbsp; |- !A10 |[[蚊爪駅]] |style="text-align:right;"|0.4 |style="text-align:right;"|5.5 |&nbsp; |- !A11 |[[粟ヶ崎駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|6.3 |&nbsp; |rowspan="2"|[[河北郡]]<br>[[内灘町]] |- !A12 |[[内灘駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|6.8 |&nbsp; |- !colspan="6" style="text-align:left;"|廃止区間 |- ! - |[[粟ヶ崎海岸駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|8.1 |&nbsp; |金沢市 |} [[#歴史|先述]]の通り、北鉄金沢駅が地下駅であり、1面2線である{{sfn|川島|2010|p=84}}{{sfn|川島|2010|p=12}}。ほかは地上駅である。三ツ屋駅は、列車の行き違いが行われるため相対式ホーム2面2線であり{{sfn|川島|2010|p=22}}、その他の駅は1面1線となっている。また内灘駅に隣接して電車基地(内灘検車区)があり{{sfn|川島|2010|p=22}}、車両の留置が行われている。北鉄金沢駅・内灘駅(以上終日有人)・割出駅(平日ラッシュ時のみ有人)以外は無人駅である。 開業より1929年まで終端駅であった新須崎駅は大野川左岸にあった。ここで浅野川電気鉄道は[[河北潟]]への遊覧船運行や貸舟の営業を始め、また粟崎遊園行きの乗合自動車が運転されていた。1961年に乗客減少により廃止となった<ref>『内灘町史』445頁</ref>。 === 過去の接続路線 === * 北鉄金沢駅:[[北陸鉄道金沢市内線]](1967年まで) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『内灘町史』1982年、444-449、1145-1147、1180-1182頁 *『北鉄の歩み』北陸鉄道、1974年 * {{Cite book|和書|title = 北陸鉄道50年史|publisher = 北陸鉄道|date = 1993-12|ref = {{sfnref|北陸鉄道|1993}} }} * {{Cite book|和書|title = 北國新聞に見るふるさと110年(上)|publisher = 北國新聞社|date = 2003-08-05|ref = {{sfnref|北國新聞|2003}} }} * {{Cite book|和書|title = 【図説】日本の鉄道 中部ライン 全線・全駅・全配線 第6巻 加賀温泉駅-富山エリア|author = [[川島令三]]|publisher = [[講談社]]|date = 2010-09-20|isbn = 978-4-06-270066-5|ref = {{sfnref|川島|2010}} }} * {{Cite book|和書|title = 週刊歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄28 えちぜん鉄道 福井鉄道・北陸鉄道・のと鉄道|publisher = [[朝日新聞出版]]|date = 2011-10-02|ref = {{sfnref|朝日|2011}} }} * {{Cite journal|和書|author = 土屋武之・村上悠太|title = 新幹線を迎える石川県に根付く 北陸鉄道の今昔物語|journal = [[鉄道ジャーナル]]|issue = 568号|year = 2014|month = 2|pages = 58 - 65|publisher = 鉄道ジャーナル社|ref = {{sfnref|鉄道ジャーナル|2014}} }} * {{Cite book|和書|title = 昭和の終着駅 北陸・信越篇|author = 安田就規・松本典久|publisher = [[交通新聞社]]|date = 2017-06-07|isbn = 978-4-330-78617-9|ref = {{sfnref|安田・松本|2017}} }} * {{Cite journal|和書|author = 今尾恵介(監修)|journal = 日本鉄道旅行地図帳|volume = 6号|issue = 北信越| publisher = 新潮社|year = 2008 |page = 31|ref = {{sfnref|今尾|2008}} }} == 関連項目 == <!-- 廃止路線やグループ会社へのリンクは記事最下部の{{北陸鉄道}}テンプレ内にあります。--> * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[北陸鉄道石川線]] == 外部リンク == {{Commonscat|Hokuriku Railroad Asanogawa Line}} * [http://www.hokutetsu.co.jp/railway/asanogawasen 浅野川線] - 北陸鉄道 {{北陸鉄道}} {{DEFAULTSORT:あさのかわ}} [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:北陸鉄道の鉄道路線]] [[Category:部分廃止路線]] [[Category:石川県の交通|ほくりくてつとうあさのかわせん]]
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16,068
電力回路
電力回路(でんりょくかいろ)とは、電力機器・電子素子などを組み合わせて電流の通り道をつくり、目的の動作を行わせる電気回路である。設計・製作にあたっては、故障しにくいという基本条件に加え、万一の事故時もその被害が拡大しないよう安全性が考慮されていなければならない。
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電力回路(でんりょくかいろ)とは、電力機器・電子素子などを組み合わせて電流の通り道をつくり、目的の動作を行わせる電気回路である。設計・製作にあたっては、故障しにくいという基本条件に加え、万一の事故時もその被害が拡大しないよう安全性が考慮されていなければならない。
'''電力回路'''(でんりょくかいろ)とは、[[電力機器]]・電子素子などを組み合わせて[[電流]]の通り道をつくり、目的の動作を行わせる[[電気回路]]である。設計・製作にあたっては、故障しにくいという基本条件に加え、万一の事故時もその被害が拡大しないよう[[安全性]]が考慮されていなければならない。 == 電力回路の例 == * 事故時の保護装置の協調 * [[電動機]]の始動装置 * [[電源回路]]:[[インバータ]]・[[整流器]]の回路方式 == 関連項目 == * [[パワーエレクトロニクス]] * [[電力機器]] * [[半導体素子]] * [[受動素子]] * [[電子回路]] * [[磁気回路]] * [[電気計測工学]] * [[制御工学]] {{電気電力}} {{デフォルトソート:てんりよくかいろ}} [[category:電気回路]] [[Category:電源回路]]
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16,069
小江戸
小江戸(こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木(栃木県栃木市)が挙げられる。 なお江戸時代から小江戸と呼ばれていたのは川越市だけである。 「江戸のように栄えている」という意味で使われた。「小江戸」という言葉そのものは以前よりあり、江戸時代から川越は歴史的に繋がりが深く「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていた。しかし、改めて「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である(「小江戸サミット」については後述)。 そのほか、千葉県夷隅郡大多喜町・神奈川県厚木市・山梨県甲府市、静岡県磐田市(旧磐田郡竜洋町)掛塚・滋賀県彦根市なども、小江戸と呼ばれることがある。 現代的定義としてはおおむね、「江戸との関わりの深い町」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」である。古い町並みがいまなお残っている部分については、観光地となっているところもある。 松平信綱・柳沢吉保といった江戸幕府の重臣や親藩が藩主を務めた川越藩の城下町であり幕府から最重視されてきた。 徳川家康をはじめ徳川将軍家から江戸の北の守りとして重要視され、藩主には親藩・譜代大名が置かれた。 古く鎌倉幕府の有力御家人であった河越氏と江戸氏は同族で、室町時代に太田道灌が川越城と江戸城を築城し川越街道で結ぶなど古来から武蔵国内で特殊な関係にあった。江戸時代以降は新河岸川の舟運で江戸と深く結びついた。旧市街地北部の7.8ヘクタールの区域が重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。「COEDOビール」など市内特産品にも小江戸の名が冠される。また西武新宿線本川越 - 西武新宿間を走る特急「小江戸」も川越に因んだものである。江戸の天下祭の往時の姿を最もよく伝える川越まつりが行われている。 小江戸サミットとは、栃木市・川越市・香取市の3市の市長および市民が一堂に会し、交流する催し。1996年の栃木市を会場とした第1回から始まり、以降は3市の持ち回りで開催されている 3市共同で各市の祭りの山車を参加させたり観光宣伝を行っている。
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小江戸(こえど)とは「江戸のように栄えた町」「江戸時代を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、川越(埼玉県川越市)、佐原(千葉県香取市佐原)、栃木(栃木県栃木市)が挙げられる。 なお江戸時代から小江戸と呼ばれていたのは川越市だけである。
{{Otheruses|町に付けられる[[通称]]の一つ|[[西武鉄道]]が[[西武新宿線|新宿線]]で運行する[[特別急行列車|特急列車]]|小江戸 (列車)}} {{出典の明記|date=2018年6月20日 (水) 06:39 (UTC)}} '''小江戸'''('''こえど''')<ref group="注">「しょうえど」と読むのは誤り</ref>とは「[[江戸]]のように栄えた町」「[[江戸時代]]を感じさせる町」といった意味合いで使われる、都市の比喩的な表現。代表例としては、'''[[川越]]'''([[埼玉県]][[川越市]])、'''[[佐原の町並み|佐原]]'''([[千葉県]][[香取市]][[佐原 (町丁)|佐原]])、'''[[蔵の街|栃木]]'''([[栃木県]][[栃木市]])が挙げられる。 ==概要== 「江戸のように栄えている」という意味で使われた。「小江戸」という言葉そのものは以前よりあり、江戸時代から川越は歴史的に繋がりが深く「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていた。しかし、改めて「小江戸」という言葉がクローズアップされたきっかけは、1996年に開催された「小江戸サミット」である<ref name="koedo_s_t" >{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180720190123/https://www.tbsradio.jp/159302|title=「小江戸」という呼び名はテレビレポーターの言葉から生まれた|accessdate=2021-05-30|website=TBSラジオ}}</ref>(「小江戸サミット」については後述)。 そのほか、千葉県[[夷隅郡]][[大多喜町]]・[[神奈川県]][[厚木市]]・[[山梨県]][[甲府市]]、[[静岡県]][[磐田市]](旧[[磐田郡]]竜洋町)掛塚・[[滋賀県]][[彦根市]]なども、小江戸と呼ばれることがある。 現代的定義としてはおおむね、「江戸との関わりの深い町」「江戸の風情を残す古い町並みを残している町」である。古い町並みがいまなお残っている部分については、[[観光地]]となっているところもある。 == 日本各地の小江戸 == ===関東地方=== ;[[埼玉県]] [[File:Kawagoe Festival4.jpg|thumb|200px|川越まつり(2010年10月16日撮影)]] *[[武蔵国]] '''[[川越]]''' - [[埼玉県]][[川越市]] :「'''世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり'''」と江戸時代から謳われ、[[喜多院]]には[[江戸城]]の建物の一部が移築されている。[[松平信綱]]・[[柳沢吉保]]といった[[江戸幕府]]の重臣や[[親藩]]が藩主を務めた[[川越藩]]の[[城下町]]であり幕府から重視されてきた。古く[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]であった[[河越氏]]と[[江戸氏]]は同族で、[[室町時代]]に[[太田道灌]]が[[川越城]]と[[江戸城]]を築城し[[川越街道]]で結ぶなど古来から武蔵国内で特殊な関係にあった。江戸時代以降は[[新河岸川]]の舟運で江戸と深く結びついた。旧市街地北部の7.8ヘクタールの区域が[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定されている。「[[コエドブルワリー|COEDOビール]]」など市内特産品にも小江戸の名が冠される。また[[西武新宿線]]本川越 - 西武新宿間を走る特急「[[小江戸 (列車)|小江戸]]」も川越に因んだものである。江戸の[[天下祭]]の往時の姿を最もよく伝える[[川越まつり]]が行われている。 {{-}} ;[[千葉県]] [[File:Syojyo&onogawa-river&dashi,sawara,katori-city,japan.JPG|thumb|right|200px|佐原・小野川沿いの街並]] [[File:Ōtaki Castle Festival, Chiba Prefecture; September 2010 (32).jpg|thumb|200px|[[大多喜城|大多喜城祭り]]]] *[[下総国]] '''[[佐原の町並み|佐原]]''' - [[千葉県]][[香取市]] :「“北総の小江戸”、”[[水郷|水郷の町]]”」と呼ばれ「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町。 :[[伊能忠敬]]が商人として活躍していた町であり、[[利根川]]水運の拠点のひとつ。江戸との交流が隆盛を極め、醸造業や商業が大きく発展。 :小野川沿いと香取街道沿いの7.1ヘクタールの区域が1996年、関東地方で初めて[[重要伝統的建造物群保存地区]]として選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html|title=重要伝統的建造物群保存地区一覧 {{!}} 文化庁|accessdate=2018-12-13|website=www.bunka.go.jp}}</ref>された。小野川沿いを中心とした地区は、江戸の雰囲気そのままに土蔵造りの商家や町屋が軒を連ね、江戸の影響を多少なりとも受けた[[佐原の大祭]]では豪華絢爛な山車が引き回される。近年では北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並みとして[[佐倉城|佐倉]]([[城下町]])・[[成田山新勝寺|成田]]([[門前町]])・[[外川駅|銚子]]([[漁港]]・港町)とともに[[日本遺産]]に認定<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story023/|title=日本遺産ポータルサイト|accessdate=2018-12-13|website=japan-heritage.bunka.go.jp|language=ja}}</ref>された。 *[[上総国]] '''大多喜''' - 千葉県[[夷隅郡]][[大多喜町]] :[[大多喜藩]]の城下町であり、[[房総半島]]横断ルートの拠点のひとつでもあった。商家や蔵などの建物が現存するほか、城下町特有の道路配置なども残されている。 {{-}} ;[[栃木県]] [[File:Storehouse along Uzuma river,tochigi-city,japan.jpg|right|thumb|200px|栃木・巴波川沿いに続く[[土蔵|蔵]]と[[蔵の街遊覧船]]]] *[[下野国]] '''[[蔵の街|栃木]]''' - [[栃木県]][[栃木市]] :[[巴波川]]を利用した水運の拠点であり、[[日光例幣使街道]]の[[宿場町]]([[栃木宿]])でもあった。全国京都会議にも参加しており、「小江戸」と「[[小京都]]」の両方を名乗っているが、小江戸サミット参加以降は「小京都」よりも「小江戸」を観光のキャッチフレーズとして使用することが多い。2年に1度、江戸の祭礼の影響を少なからず受けた[[とちぎ秋まつり]]が行われている。 {{-}} ;[[神奈川県]] [[File:ATSUGITOSENZYOU.jpg|thumb|200px|[[相模川]]を渡る[[厚木宿]]の渡船場]] *[[相模国]] '''厚木''' - [[神奈川県]][[厚木市]] :[[東海道]]の[[脇往還]]であった[[厚木街道]]の宿場町([[厚木宿]])。「厚木の盛なる、都とことならず」と[[渡辺崋山]]が記した。「小江戸あつぎ創造会議」を立ち上げ、小江戸訴求を行っている。 {{-}} ===中部地方=== ;[[山梨県]] [[File:Kofu Castle 201904f.jpg|thumb|200px|[[徳川家]]の居城であった[[甲府城]]]] *[[甲斐国]] '''甲府''' - [[山梨県]][[甲府市]] :[[甲府勤番]]が置かれ、幕臣が江戸と甲府を盛んに往来し、江戸の文化が持ちこまれた。 :[[五街道]]の一つである[[甲州街道]]の中心となる城下町・宿場町でもある。 {{-}} ;[[静岡県]] [[File:Kaketsuka yataigura 2021-07 ac (1).jpg|thumb|200px|[[貴船神社 (磐田市)|掛塚貴船神社]]の[[遠州掛塚貴船神社例祭|掛塚祭り屋台蔵]]]] *[[遠江国]] [[掛塚町|'''掛塚''']] - [[静岡県]][[磐田市]]掛塚(旧[[磐田郡]][[竜洋町]]掛塚) :[[東海道]]の沿道の町のひとつ(ただし、[[東海道五十三次]]には含まれていない)。 :[[天竜川]]の河口に位置しており、東西水運の中継地としても栄え、大都市の文化が持ち込まれた。 {{-}} ===近畿地方=== ;[[滋賀県]] [[File:Hikone Castle, Tenshu (Keep) -1 (May 2012) - panoramio.jpg|thumb|200px|[[玄宮園]]と[[彦根城]][[天守閣]]]] *[[近江国]] '''彦根''' - [[滋賀県]][[彦根市]] :[[彦根藩]]の城下町として栄えた。 :「小江戸彦根の城まつり」を開催し、小江戸としてアピールしている。 {{-}} == 小江戸サミット == 小江戸サミットとは、栃木市・川越市・香取市の3市の市長および市民が一堂に会し、交流する催し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kanko_ta/koedosummit.html|title=小江戸サミット/川越市|accessdate=2021-05-30|website=川越市}}</ref>。1996年の栃木市を会場とした第1回から始まり<ref name="koedo_s_t" />、以降は3市の持ち回りで開催されている<ref group="注">第4回・第8回・第16回は[[東京都]]で行われた。</ref> * 第1回小江戸サミット(1996年:栃木市開催) * 第2回小江戸サミット(1997年:川越市開催) * 第3回小江戸サミット(1998年:佐原市開催) * 第4回小江戸サミット(1999年:東京開催) * 第5回小江戸サミット(2000年:川越市開催) * 第6回小江戸サミット(2001年:栃木市開催) * 第7回小江戸サミット(2002年:川越市開催) * 第8回小江戸サミット(2003年:東京開催) * 第9回小江戸サミット(2004年:栃木市開催) * 第10回小江戸サミット(2005年:川越市開催) * 第11回小江戸サミット(2006年:佐原市開催) * 第12回小江戸サミット(2007年:栃木市開催) * 第13回小江戸サミット(2008年:川越市開催) * 第14回小江戸サミット(2009年:香取市開催) * 第15回小江戸サミット(2010年:栃木市開催) * 第16回小江戸サミット(2011年:[[東日本大震災]]で中止。小江戸3市は「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]架橋100周年記念 日本橋お江戸舟運まつり」に[[和船]]を派遣し[[舟運]]を再現) * 第17回小江戸サミット(2012年:川越市開催) * 第18回小江戸サミット(2013年:香取市開催) * 第19回小江戸サミット(2014年:栃木市開催) * 第20回小江戸サミット(2015年:川越市開催) * 第21回小江戸サミット(2016年:香取市開催) * 第22回小江戸サミット(2017年:栃木市開催) * 第23回小江戸サミット(2018年:川越市開催) * 第24回小江戸サミット(2019年:香取市開催) 3市共同で各市の祭りの山車を参加させたり観光宣伝を行っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注" /> === 出典 === <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Kawagoe Ichibangai|川越一番街}} * [[小京都]] * [[観光都市]] * [[小江戸横丁]](川越市) * [[小江戸 (列車)]] - [[西武新宿線]]の[[特別急行列車|特急列車]] == 外部リンク == * [http://www.city.kawagoe.saitama.jp/welcome/kanko_ta/koedosummit.html 小江戸サミット(川越市公式サイトより)] * [http://east.portland.ne.jp/~inaba/index.htm 小京都・小江戸探訪] {{都市}} {{都市計画}} {{不動産開発}} {{日本の建築}} {{DEFAULTSORT:こえと}} [[Category:街]] [[Category:川越市の文化]] [[Category:栃木市の文化]] [[Category:香取市の文化]] [[Category:大多喜町]]
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16,070
B-29 (航空機)
ボーイング B-29 スーパーフォートレス 飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機(第472爆撃航空団所属、1945年撮影) ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress。日本での通称「ビーにじゅうく」)は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。 B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。 愛称は「スーパーフォートレス」。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「超空の要塞」と説明したものがあり、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる。朝日新聞が選定した名称は「ビイ公」(1945年5月12日)。 B-29は専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている。 従来の飛行機では高空で機内の気圧・気温が低下するため酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧を維持することができた。これはボーイング307の技術を応用し、毎分11.25 kgの加圧能力を持つ与圧装置を設置したことによる。爆弾倉を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 cmの管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内冷暖房も完備され、搭乗員は通常の飛行服のみで搭乗していた。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。機体は軽量ながら強靭な装甲板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や対空砲火で無数の弾痕や高射砲の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還できた。また、このような大きな損傷を受けても修理を経て再出撃できる整備性があった。 重量はB-17の2倍となったが、翼面積はB-17の131.92mに対してB-29は159.79mと21%増に留まり、翼面荷重はB-17の約2倍となった。翼面荷重が増加すると着陸時の速度が高速となってしまうが、フラップを長さ10mの巨大なものにすることにより、着陸速度を減少させるだけでなく離陸時の揚力も増加させている。そのためにB-29の主翼は縦横比(アスペクト比)が大きな、細長く空気抵抗の少ない形状となった。垂直安定板の前縁には防氷装置も設置された。空気抵抗を極限まで減少させるため、機体には外板を接合するリベットに沈頭鋲を使用したり、機体との接合部には重ね合わせせずに電気溶接で直接接合させている。 B-29はライト社が開発した強力な新型エンジン、ライト R-3350を4発搭載していた。R-3350は空冷星型9気筒を複列化した二重星型18気筒で、2基のゼネラル・エレクトリック社製B-11ターボチャージャーが装着されており、ミネアポリス・ハネウェル・レギュレータ社製の電子装置で自動制御され、高度10,000 mまで巡航時で最大2,000馬力の出力を維持できた。(離昇出力は2,200馬力)しかし、先進的な設計により、エンジンは過熱しやすくよくエンジン火災を起こすことになった。特に軽量化のために多用されたマグネシウム合金の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。試作第一号機のXB-29-BOもエンジン火災により墜落している。当初はその信頼性の低さから、ライト(Wright)エンジンはロング(Wrong = 誤りだらけの意味)エンジンと呼ばれたり、火炎放射器などと揶揄されたが、のちに、シリンダー・バッフル(整流用のバッフル板)とカウル・フラップの設計変更により過熱をかなり低減させている。運用当初はR-3350の交換時期を飛行時間にして200時間から250時間に設定していた。これは平均15回の出撃に相当したが、エンジンの冷却性能向上により750時間まで延長することができた。エンジン交換は熟練した整備兵により5時間30分で完了し、取り外したエンジンは本国に送り返されてオーバーホールされた。インドやマリアナ諸島の前線基地に飛行する際に、爆弾倉に1個の予備エンジンを搭載した。 耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。消防車が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、自分が消える!」という言い伝えがあったという。太平洋戦争が終了し、基地のあるサイパン島から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった。 試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが、B-17と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100 kgの巨体を、B-17より30 %増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、巡航速度で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった。機動性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで経験したパイロット、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、アクロバット飛行も可能であったという。試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった。エンジン出力は排気タービン過給器によって10,000 mでもほぼ変わりはなく、これにより高高度での飛行性能に劣る日本軍機による迎撃は困難になった。 B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4LORANが用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、直径80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された。 B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてM1 20ミリ機関砲 1門が装備された。 ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で20mm機関砲を12.7ミリ機銃に換装した機体もあり、尾部銃座が12.7ミリ機銃3連装となっている機体が存在する。 機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNからはコクピット後方の機体前部上部に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更された。多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型からは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。 このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発された。しかし、最終的にはいずれも採用されなかった。さらに実戦投入後、日本側の夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なことや、1945年に入って硫黄島が攻略され、昼間任務での戦闘機による護衛が可能となったことによって、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃となった時期からは、爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになった。そして、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。 銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており、機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作した。さらに戦闘の状況に応じて、銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能であった。照準器には、弾着点とそれを囲むオレンジ色の円で示されたレチクル(英語版)が写しだされており、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるようになっており、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった。ただし、激戦の中では護衛のアメリカ軍戦闘機と日本軍戦闘機との識別は困難で、射手はB-29以外の機影に対し反射的に引き金を引く習慣がついていたという。なお、各銃塔にはガンカメラが備えられており、戦果の確認等に活用された。 照準器と銃塔の動きを同期させるための制御はセルシンを使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、機体後方下部の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57kgのアナログ・コンピュータ5台によって行なわれるため、それまでは非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰にでも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、これによって敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピュータは当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされた。技術者も総動員され、昼夜を問わず寒風の中、露天に並べられたB-29の機内での設置作業に従事している。 アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とすべきとの勧告をしている。 1939年11月、行動半径2000マイルでB-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される。1940年6月27日、5機が予備発注される(XB-29)。1941年5月にはアメリカ陸軍よりボーイング社に250機を発注する意向が通告され、ボーイング社はウィチタで広大な新工場の建設に着手し、大量の労働者を確保した。1941年9月6日にアメリカ陸軍とボーイング社の間で正式な発注の契約が締結されたが、この契約を主導したアメリカ陸軍物資調達本部のケネス・B・ウルフ准将は、まだ試験飛行すらしていない航空機に対する莫大な発注に「30億ドルの大ばくち」だと言っている。しかし12月8日に日本軍による真珠湾攻撃でアメリカの第二次世界大戦への参戦が決定すると、この発注は500機に増やされ、1942年2月10日にはさらに1,600機に増やされた。 1942年9月21日、B-29が初飛行。試作第一号機のXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって飛行した。アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で操縦不能となって食肉加工工場の五階建てビルに衝突、アレンを含む11名のB-29クルー、工場にいた19名の民間人、消火活動中の消防隊員1名の合計31名が死亡、B-29最初の事故喪失機となった。議会が発足させた調査委員会(委員長は当時上院議員だったハリー・S・トルーマン)は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと航空軍に対し厳重に改善を勧告した。しかし、これらの諸調査が行われている間はB-29の全計画は全く進まず、スケジュールが遅れることとなった。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 なお、この事故は厳重な報道管制にもかかわらず、多数の目撃者がいたためアメリカ国内で報道され、これにより日本軍はB-29の存在を掴み、「B-29対策委員会」を設置して情報収集と対応策の検討を開始した。 1943年6月、実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡される。 機体の製造と並行して搭乗員の育成も行われた。その責任者にはB-29調達計画を主導してきたウルフが任命されたが、陸軍航空隊のプロジェクトのなかでも最高の優先度とされ、特に技量の優れた搭乗員か、経験豊かなベテランの搭乗員が選抜されてB-29の操縦訓練を受けるため、1943年7月にカンザスシティのスモーキーヒル陸軍飛行場に集められた。ウルフの任務は、招集されたアメリカ陸軍最精鋭の搭乗員らの訓練に加えて、B-29の初期の不具合を洗い出して改善を進めていくというもので、任務の重要性から「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」と呼ばれることとなった。しかし、B-29の生産は遅れて、完成してスモーキーヒルに送られてきても不具合で飛行できないといった有様であり、招集された搭乗員らはB-17などの他の機での訓練を余儀なくされている。 1943年1月に開催されたカサブランカ会談の席上で、ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は、中華民国を基地とする戦略爆撃機で、日本の工業に強力な打撃を与えて戦力を粉砕すべきと提案し、アーノルドがそのためにB-29という戦略爆撃機を開発中であると報告した。ルーズベルトは中華民国の戦意を高めるために、日本本土に散発的でもいいので爆撃を加えるべきと考えており、蔣介石に対して、アーノルドを重慶に派遣して日本本土への爆撃計画を検討すると告げた。カサブランカ会談ののち、ルーズベルトの意を汲んだアーノルドは「蔣介石と協議し、日本の心臓部を直ちに爆撃する基地を獲得し、その準備を終えようとしている」と演説した。 日本軍は本土空襲に対する警戒と準備を始めることになった。 ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す。日本陸軍は軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた。東条英機陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した。 1943年6月にR-3350-13sエンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている。 1943年5月に、ワシントンD.C.でフランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の湖南省であり、東京から2,400kmかなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は陸空の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、ドーリットル空襲に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された。 1943年8月のケベック会談ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった。 1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした。ルーズベルトはこれを承認し、計画はマッターホルン作戦と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した。 太平洋の戦いにおいては、軍の指揮権が、ダグラス・マッカーサー大将率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されていた。このことで、陸軍と海軍の主導権争いが激化しており、マッカーサーは自分への指揮権統合を主張していた。マッカーサーはバターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、ニューギニアを経由して早急なフィリピンの奪還を主張していたが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対していた。キングは従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張していたが、なかでもマリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る日本にとっての太平洋の生命線で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、その攻略を急ぐべきだと考えていた。 アーノルドも、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいで、より日本本土に近い基地が必要であると考えており、マリアナにその白羽の矢を立てていた。マリアナを基地として確保できれば、ほぼ日本全域を空襲圏内に収めることができるうえ、補給量が限られる空路に頼らざるを得ない中国内のB-29前進基地と比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、大きな理由となった。そこでアーノルドはケベック会談においてマリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。一方でマッカーサーも、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。 しかし、陸海軍の有力者である、マーシャル、キング、アーノルドの信念は全く揺らぐことなく、マッカーサーやケニーらの反論を撥ねつけた。キングの計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍のアーノルドを味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドが最終的な目的は異なるとは言え、手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなった。1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったため、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催し、マッカーサーの代理で会議に出席していたリチャード・サザランド中将には、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、ニミッツに対してはマリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。 ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる第20爆撃集団を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は第58爆撃団、第73爆撃団 として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった。1943年11月4日、アーノルドはUP通信の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している。 しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった。 飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自らジョージア州マリエッタのB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている。 アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員がストライキを起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった。 完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした。1944年4月15日に、そのB-29をドイツ空軍偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。 インドに配備されることとなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官クレア・リー・シェンノート少将や東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿など英領インド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将も含まれていた。 指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日にアメリカ統合参謀本部に直属する第20空軍を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長にヘイウッド・S・ハンセル准将を置いた。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している。 一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣東條英機大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された。日本軍は桂林、柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、この頃行われていた日本陸軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29鹵獲という最大の目的は達成できなかった。 同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている。 その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団にタイ首都のバンコクの爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている。 アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると、6月13日に83機のB-29が英領インドから成都の飛行場に進出した。 成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県の平戸と対馬の厳原と五島の福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した。 日本軍は飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」8機を迎撃に出撃させた。飛行53戦隊の三式戦闘機「飛燕」4機も出撃可能であったが、まだ錬成が十分でないと判断されて出撃は見送られた。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が関門海峡と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、日本軍戦闘機の夜間目視での空戦は探照灯頼みとなり、攻撃の機会は限られていた。またB-29を想定して猛訓練を繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる樫出勇中尉などが撃墜を報告し、戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機の機種を特定できておらず、B-24であったと報告した搭乗員もいた。 一方、アメリカ側の記録では、この日の損失は日本軍の戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認、残りの1機は故障により中国の基地に不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機と爆撃機により地上撃破されたとしているが、空襲後に日本側で調査されたB-29の墜落機2機の残骸には、屠龍のホ203の37mm機関砲弾などの弾痕が多数残されており、日本軍は屠龍による撃墜と認定している。このように、当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。そのほか、従軍記者1名を含む55名の戦死も記録されている。これが日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルを発見し、新型機B-29であると判断した。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っていたことから、日本は初めてB-29の全貌を知った。 この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃隊は日本による灯火管制で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発を確認した搭乗員はいたが、誰も目標の製鐵所への命中は確認できなかった。爆撃に同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30kmも離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、支那派遣軍司令官畑俊六大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央に警告し、隷下の第5航空軍には、警戒を強化する指示をしていたのにもかかわらず、その出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化を指示していた第5航空軍司令官下山琢磨中将を激しく叱責している。B-29の想定以上の性能に、西日本の防空体制の早急な再構築が必要とされた。軍は受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部の新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部に渡って不安の大波を立たせることになった」と記事に書いている。 一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられている間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した。 八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のウルフに、引き続いての日本本土爆撃に加えて、満州やスマトラの精油施設などの積極的な爆撃を命じた。日本の戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍の圧力の軽減と、進行中のマリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが、アーノルドはそいうウルフの姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将を後任に任命した。 ルメイが着任するまでの間、司令官代理のサンダース准将は、アーノルドの求めるままに、7月7日に18機の少数で、長崎、佐世保、大村、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機が一旦セイロン島の基地まで進出後にパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃したが、いずれも大した成果を上げることなく終わった。日本に対する爆撃はいずれも夜間で、初回の八幡と同様に慣れないレーダー爆撃で十分な成果を上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応のダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃は高高度昼間精密爆撃を行いたいと第20空軍司令部に要望して承認された。 1944年8月20日、三度目の八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回はB-29の61機による白昼堂々の来襲となった。数度にわたる日本本土への空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり、前回同様の二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた。前回までと異なり、7,000mもの高空で侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であったガートルードCに突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジンが編隊2番機であったカラミティ・スーに命中し、同機も左翼を失い錐揉みを描いて落下していった。野辺は一度に2機のB-29を撃墜することとなった。他の迎撃機も活躍し、飛行第4戦隊の森本曹長の屠龍が4機を報告してこの日最大の戦果を挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機の妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜を報告、また大村海軍航空隊の零戦と月光も、長崎一円を哨戒中に五島列島上空でB-29編隊を捕捉し3機撃墜確実、2機不確実を報じた。これらの戦果を合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。 米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している。61機の出撃に対しての損失率は22.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった。爆撃については、多数の500ポンド爆弾を製鐵所構内に投下させることに成功して、製鐵所は地上施設に相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、48時間後には復旧した。同日は夜間にも10機が夜間爆撃を行い日本軍機も迎撃したが、戦果も損失もなかった。大きな損害を被った第20爆撃集団は衝撃を受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦で損傷したB-29がシベリアのハバロフスクに不時着したが機体が押収され、搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュースを聞くと、「敵の捕虜に対するものであり、決して連合軍将兵に対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」とソビエト連邦を激しく非難したが、これはソビエト側が日ソ中立条約を締結している日本を刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員はイラン国境からアメリカに返された。しかしB-29は返還せず、のちにデッドコピーされてTu-4が製造された。 こののちにウルフの後任ルメイが着任した。アーノルドからは作戦飛行の参加を禁じられていたが、ルメイは一度は自らで作戦飛行を経験しないと十分な作戦指揮ができないと考えており、一度だけの条件で作戦の空中指揮の許可をとった。その機会は着任直後の1944年9月8日の満州鞍山の昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイはその日出撃した98機のB-29の指揮をとった。日本軍は二式複座戦闘機「屠龍」と二式単座戦闘機「鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500mの高高度であったことから、高高度性能不足で思うように攻撃ができず、また日本軍機はB-29の速度を見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった。やがて製鐵所に近づくと激しい高射砲の射撃を受け、ルメイの搭乗機も被弾したが、高射砲弾の破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員が軽傷を負っただけで飛行に支障はなかった。この日は4機のB-29が失われたが、合計206トンの爆弾が投下された製鐵所はかなりの損害を被るなど作戦は成功した。 その後もルメイはインドを拠点に、九州、満州、東南アジアへの爆撃を継続、11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)。 サイパン島は7月9日にアメリカ軍の手に落ち、ついでグアム島、テニアン島も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性を痛感した永野修身軍令部総長は当時の思いを「サイパンをうしなった時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と振り返り、防衛総司令官であった皇族の東久邇宮稔彦王は「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた。 9月3日、朝日新聞はタイム誌(1944年〈昭和19年〉6月26日号)に掲載されたB-29の写真を『これがB29だ』というタイトルの記事で紹介した。「日本空襲の効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内外宣伝と謀略が含まれている」と論評した。 マリアナでの飛行場整備は、サイパン島で日本軍と戦闘中であった1944年(昭和19年)6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島、グアム島、テニアン島に合計5か所の飛行場が完成した。10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。日本軍は硫黄島より偵察機を飛ばしてマリアナ諸島の飛行場を偵察していたが、1944年(昭和19年)9月23日の偵察写真でB-29が近く配属される準備が進んでいることを確認し、10月下旬には進出が進んでいると分析、11月6日には飛行場に整列しているB-29の写真を撮影することに成功した。 11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空を飛行した。11月11日に計画している東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。トウキョウローズの東京飛行は本家の東京ローズを刺激し、東京ローズはその後の対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という物騒な警告を流している。 B-29による帝都東京への空襲の危険性が高まる中、北九州での戦闘の経験も踏まえて、B-29を確実に撃墜する戦法の検討がなされた。1944年(昭和19年)10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った。同年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断した東部軍は隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は目標上空では9,150 mを維持せよとの指示を受けており、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名であったが、主要目標の武蔵野工場施設の損害は軽微であった。B-29はノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2 %程度だったという。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった。 日本軍も、B-29の基地サイパン島に対して空襲を行った。第1回は偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年(昭和19年)11月2日で、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった。 また、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がサイパン島イズリー飛行場を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47と対空砲火により全機未帰還となった。 新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている。 最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった。一方日本軍は延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍の損失の多くが戦闘機であったのに対して、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被っており、マリアナ諸島への航空攻撃はアメリカの戦略に大きな影響は与えなかったが、相応の効果を挙げていたことになる。アーノルドはB-29が戦わずして失われていくことに対して神経を尖らせており、ハンセルもB-29を混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われたが、やがて、日本軍の出撃基地であった硫黄島への攻撃が激化すると、マリアナ諸島への攻撃は無くなった。 また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃と並行して、サイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し、挺進集団に特殊部隊の編制を命じている。特殊部隊は挺進第1連隊の空挺隊員で編成され、奥山道郎大尉が部隊指揮官に任命された。特殊部隊には陸軍中野学校の諜報員も入れられ、原寸大模型を用いたB-29の爆破訓練も行われた。この特殊部隊はのちに「義烈空挺隊」と命名されたが、出撃基地の予定であった硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高くなったため、作戦は中止された。のちに義烈空挺隊は沖縄戦において、アメリカ軍飛行場破壊任務に投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上、29機を損傷させたのちに全滅し、アメリカ軍を大混乱に陥らせている。 義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにもかかわらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。 1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なかった。12月13日から開始された名古屋の航空機工場への爆撃では大きな効果を挙げた。12月13日のB-29の75機による空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。 ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国漢口大空襲であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した。市街地への無差別爆撃の有効性を証明したこの爆撃により、アーノルドはルメイを高く評価することとなった。 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、ハンセルの後任の参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した。ハンセルはアーノルドに我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたいと手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、航空機工場は引き続き最優先の目標であるが、この実験的な焼夷弾攻撃は「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは不承不承、12月22日の出撃では78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させた。爆撃高度は8,000mから9,800mと引き続き高高度で、今回の目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われており、レーダー爆撃したがほとんど効果はなかった。また日本軍の戦闘機による迎撃も激烈で3機のB-29を失い、焼夷弾爆撃は失敗に終わった。翌1945年1月3日にも焼夷弾による実験攻撃が97機のB-29により名古屋に行われたが、効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。これは大きな誤りであったことがのちの名古屋大空襲を含む大都市への無差別焼夷弾爆撃により明らかになる。 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えており、ハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにした。 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。 ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにもかかわらず爆撃成果は良好であった。この爆撃に対しては厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率いる第三〇二海軍航空隊の斜銃を搭載の「月光」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機からパラシュート降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の小園安名大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し、遠藤は通算16機目のB-29を撃墜破したと認定された。アメリカ側の損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上に墜落、1機が基地に帰還するも毀損判定で全壊判定)ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日の神戸明石の川崎飛行場に対する爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トンの爆弾を投下したが、天候に恵まれていたため爆撃の精度は非常に高く、工場の39%を破壊し、一時的に生産能力の90%を喪失させた。日本軍の迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29の攻撃」と公式記録に書かれたほどであった。 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、当初はハンセルの精密爆撃を踏襲したが、1月23日と1月27日の航空機工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団は合計78機のB-29を失っていたが、期待していた戦果を挙げることはできず、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。 アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった。 使用する爆弾はM69焼夷弾であったが、この焼夷弾は1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験がおこなわれた。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、ハワイから材料を取り寄せ、日本に18年在住した建築家(アントニン・レーモンド)が設計するといった凝りようであった。M69焼夷弾のナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃の効果は前年の漢口大空襲で実証済みであった。 しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された。夜間戦闘機戦力が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は数機からなる小編隊が高度を変えて大きな編隊を組むことで弾幕を厚くする防御重視のコンバット・ボックス(英語版)ではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するトレイル(単縦陣)に変更した。 ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となった。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗を願ったが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜されて捕虜になるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トミー・パワー(英語版)将軍を代わりに出撃させることとした。空襲はルメイの計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にもかかわらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであった。低空飛行をしていたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。 3月9日、夜10時すぎに日本軍は八丈島に配備していた陸軍の実用レーダー超短波警戒機乙によって機影を探知したが、折からの強風でレーダーのアンテナが激しく揺れてスコープの映像が不正確であり編隊の概要までは掴めていなかった。日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、陸軍の第10飛行師団は何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29は去ったと認識したため、一旦警戒警報を解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、高射砲との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった。 ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と胸をはったが、民間人の大量虐殺について「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行った残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ・・・大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べているが、戦後には兵士らに向けて「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。 一方で日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけたが、この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。 東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった。ルメイの命令により、一旦はB-29から取り外された尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気が減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍の夜間戦闘機よりはフレンドリーファイアを恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬は機体下部の銃座のみに支給し、サーチライトを狙い撃ちするよう命じていたが、日本軍戦闘機の迎撃は低調であり損害は少なかった。 ワシントンではノースタッドが「この5回の空襲が日本に与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民にあたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本の重要な4都市の80kmという広大な地域が灰燼に帰していた。ロンドン大火の教訓として、可燃建造物の建築を禁止するなど都市防火対策が進んでいたヨーロッパと比較すると、関東大震災など歴史上度々大火に見舞われたにもかかわらず日本の都市防火対策は著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾の威力も合わさって、次々と大都市が猛火に包まれた。日本の航空機部品生産の下請工場は主要4都市の工業地帯に蜜集しており、その生産能力は全体の22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃を与えて、日本の家内工業のシステムを破壊し、航空機の生産に重大な損失をもたらせた。 1945年3月26日には硫黄島の戦いの激戦を経て、硫黄島がアメリカ軍に占領された。硫黄島は防空監視拠点として日本軍に重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃の日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略が急がれた。と同時に1944年11月から開始されたB-29の日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナのアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用の不時着基地として、また、航続距離の短い護衛用戦闘機の基地としても使用するため、26,040名死傷という大損害を被りつつも攻略したものであった。 B-29の最初の不時着機は、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に緊急着陸し、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった。 沖縄戦が始まると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被った。第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 とB-29による九州の特攻基地爆撃を要請した。ルメイは、B-29は日本の都市を戦略爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、海軍作戦部長の アーネスト・キングがアーノルドに対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととしている。 4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、九州の航空基地の攻撃に転用されたが、日本軍はB-29の来襲をいち早く察知すると、特攻機を退避させるか巧みに隠した。そして爆撃で滑走路に開いた穴はその日のうちに埋め戻してしまった。アメリカ軍は飛行場機能を麻痺させるため、B-29が飛行場攻撃で投下していく爆弾に、瞬発から最大36時間までの時限爆弾を混ぜた。時限爆弾により爆撃後長い時間作戦が妨げられるため、特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官宇垣纒中将を悩ませたが、これも基地隊員や飛行場大隊の兵士が命がけで処理したので効果は限定的だった。B-29は飛行場攻撃に併せて、九州各地の都市にも小規模な無差別爆撃を行った。3月に開始された東京などの大都市圏への無差別焼夷弾爆撃に比べると被害は少なかったが、市街地にも時限爆弾を投下しており、不発弾と勘違いした市民に被害が生じている。 結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している。スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと評価しており、「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊(B-29のこと)のやり方とはまったく対照的である。私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。」と非難している。 一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」とB-29による特攻基地の破壊は困難であったと総括している。 沖縄戦支援のための戦術爆撃任務は5月中旬まで続けられたが、5月14日の名古屋空襲を皮切りに、B-29は本来の大規模焼夷弾攻撃任務に復帰した。補給も強化されて、6月までには常に400機のB-29が全力出撃できる十分な量のM69焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機が名古屋市街地と三菱発動機工場を中低空で焼夷弾攻撃したが、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた。 3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けた東京にも、5月23日の夜間にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という大兵力で再度の大規模焼夷弾攻撃が行われた。5月23日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている。しかし爆撃により、前回の東京大空襲同様に、強風により大火災が発生して、市民762人が死亡、64,060戸の家屋が焼失するという甚大な被害を被った。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになった。この日の爆撃で、今まで意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520mのうち18,239mを焼失して4時間後にようやく鎮火した。地下室に避難していた昭和天皇と皇后は無事であったが、宮内省の職員34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出したが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている。これまでの空襲で東京の被爆面積は都市全域の半分の145kmに及んでおり、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった。 この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被ったが、ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念していたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた。白昼堂々の大規模爆撃であったので、日本軍も陸海軍共同の64機で迎撃、P-51とも空戦になり、アメリカ軍は日本軍戦闘機26機撃墜、9機撃破、23機撃墜不確実と大きな戦果を主張したが、日本軍側の記録によれば未帰還機は2機であった。P-51の護衛を突破した日本軍戦闘機はB-29を攻撃し、撃墜18機を報じたが、アメリカ軍の記録ではB-29の損失が7機、P-51が2機であった。爆撃は成功し、横浜市街はこの1日で34%が焼失し、死者は3,649名、焼失家屋は79,017戸にもなった。 次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった。 この頃には、南方資源地帯からの資材海上輸送の途絶及び、これまでのB-29の無差別爆撃により、日本の航空機生産力は低下しており、日本軍としては航空機使用の選択と集中をせざるを得ず、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとった。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、P-51の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している。また、防空戦力は、大都市に集中していたので、地方の中小都市については、敵機の跳梁にまかせることとなってしまった。このような防空戦略の後退は、国民の厭戦気分を高めることになった。航空総軍司令官河辺正三大将には「国を亡ぼすものは東條なり。大阪を焦土に化するものは河辺なり・・・」などの投書が複数寄せられている。日本において軍の司令官にこのような露骨な誹謗投書が寄せられるのは、河辺の記憶では日露戦争のおり旅順攻囲戦で大損害を被った第9師団の師団長に対するもの以来であった。 その後も名古屋、大阪、神戸の大都市圏には繰り返し大規模焼夷弾攻撃が行われ、1945年4月18日の川崎大空襲で焼失していた川崎と、東京、横浜を含めた6大都市圏は1945年6月までには破壊しつくされた。6大都市圏713kmのうち、B-29に焼き払われたのは274kmに及んだが、そのなかには多くの大工場が含まれており、また数百万人の日本人が住居を失った。 B-29は爆撃任務のほかに、日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し海上封鎖、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊であったが、終戦前にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。またアメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。 B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知ったとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がった。 日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している。 1945年6月13日にアーノルドが八幡初空襲からの1周年を祝うためグアム島までやってきた。ルメイになるまで2名の司令官を短期間で更迭したアーノルドであったが、ルメイからダウンフォール作戦による日本本土上陸の前に日本を打倒できるという説明を聞き満足をしている。アーノルドから日本を打倒できる時期を尋ねられたルメイは「もう都市目標は残っておらず、間もなくどんな目標もなくなるでしょう」「そのあとは鉄道網の破壊をはじめれるが、これも長くはかかるまい」として、400機規模の空襲を日常的にできるようになった1945年6月から3か月後の1945年9月1日と答えたが、実際の終戦はこれより半月も早かった。 マンハッタン計画で原子爆弾の開発が進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊の責任者であるアーノルドがマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将から計画を聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍は自軍の爆撃機に原子爆弾を搭載できる機体がなかったことから、当初はイギリス軍からアブロ ランカスターの供与を受けることも検討していたが、開発中のB-29に原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスはアーノルドに、この爆弾を搭載し爆撃実験できるような特別機を準備してほしいとの要請を行い、アーノルドは陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者であるオリバー・エコルズ(英語版) 少将にB-29を原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名で極秘裏に進められたが、B-29改造担当者はロスアラモス原子力研究所から2種類の形の原子爆弾を開発していると説明を受けると、その両方の爆弾を搭載可能な改造を行う必要性に迫られた。 機密保持のため、2種類の原子爆弾をその形状から、それぞれ「シンマン(やせっぽち)」と「ファットマン(でぶっちょ)」、改造計画を「シルバープレート」と隠語で名付けた。マンハッタン計画を知らない多数の技術者に対しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内を旅行するために使用するプルマン式寝台車を輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車もシルバープレートという隠語で呼んでいると説明している。のちにシンマンは設計変更で「リトルボーイ(ちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29に新しい爆弾架、まきあげ器、操弾索、懸架装置、投下装置などを装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29の量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲の開始される前の1944年2月28日には原子爆弾の投下訓練が開始されている。実験により判明した不具合の修正が進められ、エンジンは新型のR-3350-57サイクロンエンジンに換装されて、プロペラも冷却能力を高めるため、根元にルート・カフスを装着した逆ピッチも可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった。1944年8月にアーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し、戦争が終わるまでに54機まで発注を増やし、うち46機が納品されていた。 原爆搭載機の製造と並行して、原爆投下のための特別の戦闘部隊の組織していた。指揮官にはポール・ティベッツ大佐が選ばれたが、ティベッツは1942年8月17日にアメリカ陸軍航空隊として初めてドイツ支配下のフランスルーアンを爆撃し、北アフリカ戦線ではティベッツが指揮するB-17が連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将の特別機に指定されて、北アフリカやジブラルタルにアイゼンハワーを何度も運ぶなど、実績、信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格で上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金を不当に押収しにきた税関職員を拳銃で脅して追い返したこともあった。のちにティベッツは自分の身の潔白を自らの調査で証明し、逆にこの税関職員が密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している。 ティベッツはヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員の訓練教官をしていたが、1944年9月にマンハッタン計画の弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐と面談し、1944年12月27日に15機の改造B-29を保有する原爆投下部隊である第509混成部隊の指揮官に任命された。この第509混成部隊は部隊単独で行動できるように、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送中隊、憲兵中隊も組織され、総勢1,800名ものスタッフで構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった。第509混成部隊はユタ州のウエンドーバー基地で訓練をしたが、もっとも大きな問題は原子爆弾を投下したB-29自身が、原子爆弾の衝撃波で吹き飛ばされてしまうのでは?ということであった。ティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾を投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7km)離れられると計算したが、B-29を吹き飛ばすのに足りる威力の衝撃波は8マイル(13km)に達すると算出され、残りの2マイルをどう確保するかが問題となった。ティベッツは豊富な経験から、一般的に投下した爆弾は慣性で落下しつつ前方に移動するので、B-29が原子爆弾を投下したのち、155度の急旋回を行なってフルスロットルで飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向にB-29を退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度の8マイルは十分に確保できることに気が付いて、第509混成部隊の搭乗員らはこの急旋回の訓練を習性になるまで繰り返し行った。この時点で第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型の特殊爆弾の投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾が恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということを知らなかった。 第509混成部隊は徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して(終戦時までに29機に増強)1945年5月にテニアン基地に進出した。日本軍はテニアン島に潜伏していた生存兵が尾翼のマークを確認して新しい飛行隊が進出してきたことを確認し、まだ日本軍が支配していたロタ島を通じて大本営に向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍の情報力を誇示するため、東京ローズにゼロアワーで第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍をもたらすことになった。第509混成部隊は形式上はルメイの指揮下となったが、第21爆撃集団は第509混成部隊に必要な支援を行うだけで、大部分の命令はアーノルドが直接おこなうこととしていた。 原子爆弾の投下目標都市については、爆撃による被害が少なく原子爆弾の威力を検証しやすい都市が選ばれ、広島、小倉、横浜(5月の大空襲により候補から除外)、京都などが候補にあがり、グローヴスは人口108万人の京都が原子爆弾の威力を測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「京都は極東の文化史上重要で芸術品も数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標の選定が進む中で第509混成部隊は集中的な実地訓練を継続しており、原爆投下時は搭載機1機と効果を測定するため科学者や技術者を乗せた偵察機2機の3機編隊で飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空の高高度飛行訓練を行ったり、パンプキン爆弾と名付けられた原子爆弾を模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った。1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃が禁止されていた皇居にパンプキン爆弾を投下することとなった。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。 1945年7月16日、トリニティ実験が成功したが、その知らせはルメイらごく一部の司令官、参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊の搭乗員らも新型爆弾の正体を知らされていなかった。テニアン島に重巡洋艦インディアナポリスが「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持の状況に変更はなかった。1945年7月25日にグローヴスから原爆投下命令が発され、8月2日には第509混成部隊名で出された野戦命令第13号で8月6日に第1目標広島、第2目標小倉に原子爆弾を投下すると決定した。ルメイ自身はこの決定に直接関与はしなかったとのことだが、広島が選ばれた理由を「当時の日本では軍都のイメージが強い」であったからと推測している。 8月4日にティベッツは自らB-29を操縦して最後のパンプキン爆弾投下訓練を行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員と相談して、操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツの母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「エノラ・ゲイ」とノーズアートし、これがこの機体の愛称となった。ティベッツは前日の8月5日に明日の任務のことを搭乗員に説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず、出撃の数時間前になってようやくトリニティ実験の写真を搭乗員に見せている。エノラ・ゲイはティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮を禁止しており、ルメイもその規則を守って1945年3月10日の東京大空襲での空中指揮を断念した経緯もあってティベッツに再考を促したが、ティベッツは最初から自ら空中指揮を執ると決めており、最終的にはルメイも同意している。 テニアン島には多数のマンハッタン計画のスタッフたちも出撃の状況を見守っていたが、離陸直後のB-29が墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイが離陸直後に墜落してテニアン島で原子爆弾がさく裂しないように、離陸に成功してのちに起爆装置を作動することとし弾道技術者のパーソンズをエノラ・ゲイに搭乗させて機上で作動操作を行わせることとした。リトル・ボーイを搭載しパーソンズを乗せたエノラ・ゲイはティベッツの操縦で午前2時45分にテニアン島から出撃した。その後に先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標の広島の天候は良好との知らせが入り、計画通り広島に初めての原子爆弾が投下されることになった。広島が悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「フル・ハウス」も天候観測のために飛行していた。 エノラ・ゲイは計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本の時間では8時15分17秒)にリトルボーイを投下し、ティベッツは何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱した。リトルボーイは投下後43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイはティベッツの計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波が激しく機体を震わせた。一瞬のうちに広島では、78,150人の市民が死亡し、70,147戸の家屋が半壊以上の損害を受けた。中国軍管区は豊後水道を北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報を発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空を通過して播磨灘方面に去ったので、7時31分に警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイと観測機グレート・アーティスト号が高度9,500mで接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった。 原爆投下成功の知らせは、ポツダム会談からの帰国中のトルーマンにも報告され、トルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設を抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通を破壊するであろう。誤解のないよう重ねていうが、我々は日本の戦力を完全に破壊するであろう」という談話を発表した(詳細は広島市への原子爆弾投下参照)。 広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であったチャールズ・スウィーニー中佐がB-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった。目標は小倉か新潟のいづれかに絞られたが、新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域の距離が遠いという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられた地形であり好目標ではなかった。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した。 日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた。(詳細は長崎市への原子爆弾投下参照) アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができた」自称している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。 長崎に原爆が投下されて6日後の1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。終戦までにB-29は147,000トンの爆弾(うち100,000トンが焼夷弾)を投下し、日本の66都市の40%を焦土と化し、45万人が死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦で投下された12,000個の機雷で海上輸送も断絶しており、これ以上の抗戦は不可能なところまで追い込まれていた。戦後にB-29の戦略爆撃の効果を調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦が企画されなかったとしても、日本は1945年末以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍は本土決戦となった場合、終戦は1946年後半以降になったと予想している。 香淳皇后は、ポツダム宣言受諾の1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(継宮明仁親王)に手紙を送っている。その中には「こちらは毎日 B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29は残念ながらりつぱです。お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた。 B-29の第二次世界大戦最後の任務は、日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。8月27日の北京近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、長崎県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動したが、長崎俘虜収容所で物資を投下したB-29がその後に近くの山腹に激突して搭乗員全員が死亡したように、この任務中にも数機のB-29が墜落している。 B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった。物資のいくつかはパラシュートが外れて、まるで爆弾のように落下し、建物を破壊したり、時には地上で物資を待ちかねていた捕虜に直撃して命を奪うこともあった。 大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエトの西ベルリンへの包囲網に対抗し西側諸国が空輸作戦を展開した。アメリカ軍はベルリンから一歩も引かないという政治的アピールも兼ねて、この空輸作戦にB-29を投入することとした。最大でイギリス国内の7か所の航空基地に90機のB-29が送り込まれて空輸作戦に従事するとともに、西ベルリンを包囲するソビエト軍を牽制した。ソビエトは核兵器搭載可能なB-29を脅威に感じていたが、空輸作戦に投入されたB-29にはシルバープレート機はおらず、核兵器の搭載能力はなかった。 1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエトの支援を受けつつも朝鮮人民軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、洛東江(ナクトンガン)戦線では、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下して、絨毯爆撃を加えるなど、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。 しかし1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、同軍のソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはロッキードF-80などアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、悠々と爆撃していたB-29は11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた。 B-29には戦闘機の護衛がつけられたが、その連携が乱れると大きな損害を被ることになった。ある日18機のB-29が護衛戦闘機との合流地点に向けて飛行していると、合流前に9機のMiG-15に襲撃された。B-29は10機が損傷して、墜落機こそなかったがそのうち3機は大邱に緊急着陸を余儀なくされた。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した39機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、多数の戦闘機に護衛されていたにもかかわらず、その護衛を潜り抜けたMiG-15が2機のB-29を撃墜し8機を撃破している。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORAN(英語版)を使用しての夜間爆撃を行った。B-29は主に日本の横田基地か嘉手納飛行場から出撃していたが、朝鮮半島で損傷を受けた機は福岡の板付にあったアメリカ軍の予備飛行場に不時着した。板付には当時、B-29のクルーらが「世界一」と称した良質な温泉や豊富な食料や娯楽施設があり非常に人気が高かったという。板付のアメリカ軍予備飛行場はその後に大半が返還されて福岡空港となった。 アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速最新鋭機F-86Aセイバーを投入、制空権の回復に努めた。B-29も北朝鮮の飛行場すべてに徹底した爆撃を加えて、MiG-15を使用できないようにしている。当初はMiG-15に苦戦したが、その後は損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の鴨緑江に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800kg)にもなる巨大な無線手動指令照準線一致誘導方式のASM-A-1 Tarzonで橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した。 朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害であった。また、F-86Aセイバーによる護衛や、夜間爆撃を多用しなければこの損害はさらに増大していたので、B-29の兵器としての存在価値は大きく下落していった。 信頼性が低いライト R-3350エンジンの換装は現場からの切実な願いであり、より信頼性が高く強力なプラット・アンド・ホイットニー R-4360エンジンを搭載したB-29の開発が急がれた。開発は1944年7月に開始され、1945年5月には試験飛行にこぎつけたが、結果は良好で最高速度はB-29よりも80kmから100kmは速い640kmとなった。エンジンの換装に付随して機体の強化と垂直尾翼の拡大など、全体的に洗練されてより完成度が高くなった。当初はB-29の型のひとつとして「B-29D」と呼ばれていたが、のちにB-29の後継機「B-50」として正式採用されて200機の発注が行われたが、第二次世界大戦の終戦により60機に減らされた。その後の朝鮮戦争などの実戦任務には引き続きB-29が投入されてB-50が実戦を経験することはなかった B-29はB-50やB-36などの後継機とともに対ソビエトの核戦略に組み込まれることになった。そのデモンストレーションとして、1948年に、「ラッキーレディー・ワン」と名付けられた機を含む3機のB-29で、世界各地の8か所の基地に着陸して給油を受けながら世界一周飛行を計画したが、そのうちの1機はアラビア海で墜落している。しかし、「ラッキーレディー・ワン」ともう1機のB-29は、飛行距離32,000 km、飛行時間103時間50分、所要日数15日間で世界一周飛行を成し遂げて、同盟国とソビエトなど東側陣営にB-29の飛行能力を見せつけている。さらに航続距離の延伸をはかるため、92機のB-29が空中給油機に改造されて(KB-29M)、74機がその受油機として改造された(B-29型MR)。アメリカ軍は、戦略爆撃機の攻撃距離を誇示するために、地上で給油しないノンストップの世界一周飛行を計画し、その任務はB-29「ラッキーレディ・ワン」の後継機、B-50「ラッキーレディ・ツー」号に委ねられた。「ラッキーレディ・ツー」は、KB-29Mの空中給油を受けながら、37,342kmを94時間1分で飛行して世界一周無着陸飛行を成功させている。 B-29は超音速飛行の実現にも貢献した。アメリカ軍は超音速実験機X-1を開発して実験を繰り返したが、その際にX-1を空中射出する母機としてB-29の改造機(EB-29-BW)が用いられた。この様子は映画ライトスタッフに登場したが、この映画を見た日本軍の元技術士官三木忠直は、自らが開発を担当した特攻兵器桜花の運用法に酷似していることに驚いている。 他に長距離戦略爆撃機の護衛試作機XF-85の母機としても使用されるなど、様々な試験や実験でアメリカ軍航空戦略に貢献したが、これらの派生任務も後継機のB-50に引き継がれて1960年には退役した。後継機B-50の空中給油機はベトナム戦争でも活躍し、1965年に退役した。 1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図が描かれている。 陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開され、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。 グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している。 B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。 アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。 米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計 B-29所属部隊の戦績と損失(アメリカ空軍 第9爆撃航空団統計) 第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計-Table 165) アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある。この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり、その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり、さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。 B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない。しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している。 原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる神戸大空襲)では、B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、神戸の北方3kmで緒方醇一大尉の三式戦闘機の体当たりにより撃墜されている。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され、別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見された。これらを根拠としてB-29撃墜は緒方の功績とされ、緒方は2階級特進で中佐となっている。戦後、「Z-8」号の墜落した場所に、緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立した。また、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している。 アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされている。しかし、緒方の体当たりによって撃墜された「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる第1回大阪大空襲)で失われた2機のB29のうち(出撃したB-29は295機)、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。この戦闘の一部始終を見ていた第11飛行師団師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は第15方面軍司令部より個人感状が贈られている。42-24754の残骸は、大阪の下町堺筋に落下し、写真撮影され、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている。 アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。 アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計) 上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している。 日本軍のレーダー開発は、第二次世界大戦初期はアメリカやイギリスなどの連合国のみならず、枢軸国のドイツと比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルやウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた。 レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた。中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250kmであり、八丈島から東京までの距離が300kmで合計550kmの距離しかなく、巡航速度が約400km/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、アメリカ軍は幅2.5cm、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた。 しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった。 日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した。 アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、爆撃を援護し最後まで目標に留まった。 B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移 上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している。第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった。 しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦で主力の一翼を担った二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという。B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった。 九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島がアメリカ軍に攻略されると、1944年11月1日、東京にB-29の偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった。九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された。海軍では高高度迎撃のため局地戦闘機「震電」の開発を進めていたが、空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。 B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった。また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあったという。 ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた。1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった。 戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数 戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲に加えて、新型の九九式八糎高射砲も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産が図られた。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲も生産開始され、この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲が開発されることになった。 高射砲は日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。 しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した。首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。 対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29エース・パイロットが誕生した。特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった。 5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員 海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた。横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している。 日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数 この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている。朝日新聞は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している。 日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29「アシッド・テスト」に体当たりして撃墜、戦死している。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。 戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査したUSSBSが出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍戦闘機から被った損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている。 日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している。 USSBSはさらに、日本に対する戦略爆撃はドイツに対する戦略爆撃よりもその期間や投下した爆弾の総量は少なかったが、その効果はほぼ同じであったと評価した。日本に対する高い戦略爆撃の効果の要因として下記を指摘している。 B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた。しかし、ブリーフィングなどで非公式には「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた。1945年3月10日の東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から私刑で暴虐な扱いを受けることが多かった。なかには能崎事件のように、一般市民によるリンチの末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。 日本側はドーリットル空襲ののち、1942年7月28日に陸軍大臣補佐官名で、国際交戦規約に違反した者は戦争犯罪人として扱われるという通達を出している。実際にドーリットル空襲における軍事裁判では、捕虜となった8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決が出ている(処刑されたのは3名、あと5名は減刑)。その後、B-29による日本本土空襲が始まった1944年9月8日には、無差別爆撃は戦争犯罪であるので死刑に処せられるべきとの通達が出ている。無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑されたが、裁判を行うこともなく処刑されることも多かった。B-29搭乗員の取り扱いは、各軍管区に判断を委ねており、中部軍管区や西部軍管区といった日本の中西部の軍管区のほうが、東部軍管区よりもB-29搭乗員に厳しく、多数の搭乗員が裁判内外で処刑されている。処刑されずとも、戦争犯罪人として通常の捕虜とは異なる「特別な扱い」を受けていたB-29搭乗員は、日常的な尋問や暴行に加えて、食事も1日におにぎり3個とコップ1杯の水しか支給されないものもいた。なかには1945年1月27日に東京上空で日本軍によって撃墜されて捕らわれたレイ・F・ハローラン少尉のように、上野動物園の猿の檻に裸で猿の代わりに入れられて見世物にされるといった屈辱的な扱いを受けた搭乗員もいた。一方で、機雷散布任務中に対空砲火で撃墜され福岡県直方市の遠賀川河川敷にパラシュート降下したが、殺気立った市民に囲まれたところを警官2名に救助されて、そののち民間の医師にケガの治療を受けて東京の捕虜収容所に送られ、そのまま終戦を迎えたフィスク・ハンレイのように日本側に手厚い対応をされたことを感謝している捕虜もいる。 1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕らわれ、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件)) 5月26日のB-29による東京への夜間無差別爆撃で収容されていた東京陸軍刑務所で焼死した62名や(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)、8月6日の広島への原爆投下により拘留されていた中国憲兵隊本部で死亡した11名など、B-29の空爆やアメリカ軍艦隊による艦砲射撃など友軍の攻撃で死亡した捕虜も多数にのぼった。 終戦後、B-29搭乗員を含む連合軍捕虜を殺害や虐待した関係者は、横浜に開廷された連合軍裁判所でB・C級戦犯として裁かれた。なかでも、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として裁かれた。岡田はB-29による無差別爆撃を「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と自分の判断の正当性を主張し、裁判を「法戦」と呼んで戦ったが、絞首刑の判決を受けて翌1949年9月17日に処刑された。 スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月31日の「ランプトランプ (Ramp Tramp / 42-6256)」、8月20日の「ケイトポーマット (Cait Paomat / 42-93829)」、11月11日の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル (General H.H. Arnold Special / 42-6365)」、及び11月21日の「ディングハウ (Ding Hao / 42-6358)」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命令によりモスクワで解体調査された。ランプトランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1947年春に完成して、同年5月19日に初飛行にこぎつけた。 開発時は「B-4」と呼ばれていたが、1949年に量産が開始されるとツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)と名付けられた。 Tu-4のエンジンはソビエト製のシュベツォフ ASh-73が搭載されたが、エンジンの出力はB-29搭載のライト R-3350に劣るものではなく、最高速度558km、巡航速度435kmの高速飛行が可能であった。搭載の機関砲についてはB-29の12.7mm機関砲に対してNS-23機関砲(口径23mm)を搭載しており、B-29より打撃力は高かった。 1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばには戦略爆撃機として本格的に運用された。一部の機体には空中給油設備や翼下に追加の燃料タンクが設置されて、アメリカ本土爆撃ができるよう航続距離の延伸がはかられ、核爆弾が搭載できるように改修された。Tu-4Aはソ連初の核爆弾RDS-1の投下用に開発された最初の航空機であった。ソ連初の無人航空機(無人標的機)であるLa-17(英語版)を翼下に懸吊したTu-4NMやKS-1 コメット空対地ミサイル(英語版)の発射母機であるTu-4Kも開発され、のちにKS-1コメット空対地ミサイルから、12キロトンの核弾頭を搭載したFKR-1ミサイルが開発された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。 1952年までに847機ないし1,300機が製造されたが、1954年にはより先進的なTu-16に置き換えられた。爆撃任務を外れたTu-4のうち300機は空挺部隊用の輸送機に改修され、空挺部隊のパラシュート降下や物資投下に使用された。また1部の機体は練習機や実験機として利用された。ツポレフはTu-4を基礎にして旅客機Tu-70も開発したが、量産はされなかった。 1953年にスターリンはTu-4を中華人民共和国にも供与し、1956年3月29日にカム反乱でチベット人住民や僧侶が籠城するリタンの寺院への爆撃で2機のTu-4が初めて投入され、当時住民は飛行機を見たことがなかったために「巨大な鳥」が接近しているように見えたという。1機はKJ-1として早期警戒機にされて1980年代まで中国人民解放軍で運用された。 型名末尾のアルファベット二文字は製造工場コード(Production facility code)。生産型のうち記号無しの機種は複数の工場で製造され、記号付きの機種は該当する工場でのみ製造されたことを示す。 出典:牧英雄「開発と各型」『ボーイングB-29』 No.52(1995-5版第3刷)、文林堂〈世界の傑作機〉、2002年2月5日、17-24頁。 アメリカ軍では航空機の機体前部にノーズアートを描く風習が他の国の空軍より盛んであった。第二次世界大戦の末期には高い技術水準に達していたが、B-29の長くて滑らかな機首はノーズアートを描くには格好の環境であり、さまざまなノーズアートが描かれた。軍が公式に許可していたわけではないが、絵がまともであれば爆撃兵団の上層部が認め、アメリカ軍は黙認していたというのが実態である。ノーズアートを描くのは看板職人をしていた兵士であり、公務の傍ら任務時間外に腕をふるった。報酬は60ドルから100ドルぐらいで、その報酬はクルーらが出し合った。腕のいい看板職人の兵士には依頼が殺到し、1飛行隊全機の依頼が舞い込み、2時間ぐらいの作業で1,000ドル稼ぐことができたという。特に好まれたのが“なまめかしい”女性のノーズアートであり、当初は爆撃兵団の上層部も最低限の品性を備えていれば容認していたが、次第に過激な表現となってきたため、終戦の直前には従軍牧師が道徳的に問題があると騒ぎだして、女性のノーズアートはシンプルで品のいいシンボルや無機質な文字のノーズアートに差し替えられた。ノーズアートは主に機体の左側に書かれるため、B-29の公式な報道写真などは右側から撮影されることが多かった。第二次世界大戦が終わっても、依然として機体左側には無味乾燥なノーズアートが多かったが、機体の右側にもノーズアートが描かれるようになり、また、なまめかしい女性のノーズアートも復活し、特に朝鮮戦争開戦後に盛んとなった。この頃のノーズアートを主に描いたのはアメリカ軍の看板職人の兵士ではなく、B-29航空団の基地があった嘉手納飛行場や横田基地周辺の本職の日本人看板屋であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ボーイング B-29 スーパーフォートレス", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機(第472爆撃航空団所属、1945年撮影)", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress。日本での通称「ビーにじゅうく」)は、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定した設計である。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "愛称は「スーパーフォートレス」。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「超空の要塞」と説明したものがあり、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる。朝日新聞が選定した名称は「ビイ公」(1945年5月12日)。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "B-29は専門の航空機関士を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "従来の飛行機では高空で機内の気圧・気温が低下するため酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧を維持することができた。これはボーイング307の技術を応用し、毎分11.25 kgの加圧能力を持つ与圧装置を設置したことによる。爆弾倉を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 cmの管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内冷暖房も完備され、搭乗員は通常の飛行服のみで搭乗していた。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。機体は軽量ながら強靭な装甲板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や対空砲火で無数の弾痕や高射砲の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還できた。また、このような大きな損傷を受けても修理を経て再出撃できる整備性があった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "重量はB-17の2倍となったが、翼面積はB-17の131.92mに対してB-29は159.79mと21%増に留まり、翼面荷重はB-17の約2倍となった。翼面荷重が増加すると着陸時の速度が高速となってしまうが、フラップを長さ10mの巨大なものにすることにより、着陸速度を減少させるだけでなく離陸時の揚力も増加させている。そのためにB-29の主翼は縦横比(アスペクト比)が大きな、細長く空気抵抗の少ない形状となった。垂直安定板の前縁には防氷装置も設置された。空気抵抗を極限まで減少させるため、機体には外板を接合するリベットに沈頭鋲を使用したり、機体との接合部には重ね合わせせずに電気溶接で直接接合させている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "B-29はライト社が開発した強力な新型エンジン、ライト R-3350を4発搭載していた。R-3350は空冷星型9気筒を複列化した二重星型18気筒で、2基のゼネラル・エレクトリック社製B-11ターボチャージャーが装着されており、ミネアポリス・ハネウェル・レギュレータ社製の電子装置で自動制御され、高度10,000 mまで巡航時で最大2,000馬力の出力を維持できた。(離昇出力は2,200馬力)しかし、先進的な設計により、エンジンは過熱しやすくよくエンジン火災を起こすことになった。特に軽量化のために多用されたマグネシウム合金の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。試作第一号機のXB-29-BOもエンジン火災により墜落している。当初はその信頼性の低さから、ライト(Wright)エンジンはロング(Wrong = 誤りだらけの意味)エンジンと呼ばれたり、火炎放射器などと揶揄されたが、のちに、シリンダー・バッフル(整流用のバッフル板)とカウル・フラップの設計変更により過熱をかなり低減させている。運用当初はR-3350の交換時期を飛行時間にして200時間から250時間に設定していた。これは平均15回の出撃に相当したが、エンジンの冷却性能向上により750時間まで延長することができた。エンジン交換は熟練した整備兵により5時間30分で完了し、取り外したエンジンは本国に送り返されてオーバーホールされた。インドやマリアナ諸島の前線基地に飛行する際に、爆弾倉に1個の予備エンジンを搭載した。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。消防車が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、自分が消える!」という言い伝えがあったという。太平洋戦争が終了し、基地のあるサイパン島から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが、B-17と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100 kgの巨体を、B-17より30 %増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、巡航速度で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった。機動性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで経験したパイロット、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、アクロバット飛行も可能であったという。試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった。エンジン出力は排気タービン過給器によって10,000 mでもほぼ変わりはなく、これにより高高度での飛行性能に劣る日本軍機による迎撃は困難になった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4LORANが用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、直径80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "B-29では与圧室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の銃座は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を遠隔操作する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、上部および下部銃塔には連装のAN-M2 12.7ミリ機関銃、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えてM1 20ミリ機関砲 1門が装備された。 ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で20mm機関砲を12.7ミリ機銃に換装した機体もあり、尾部銃座が12.7ミリ機銃3連装となっている機体が存在する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNからはコクピット後方の機体前部上部に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更された。多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型からは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発された。しかし、最終的にはいずれも採用されなかった。さらに実戦投入後、日本側の夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なことや、1945年に入って硫黄島が攻略され、昼間任務での戦闘機による護衛が可能となったことによって、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃となった時期からは、爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになった。そして、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した火器管制装置(ゼネラル・エレクトリック社製)が取り入れられており、機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作した。さらに戦闘の状況に応じて、銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能であった。照準器には、弾着点とそれを囲むオレンジ色の円で示されたレチクル(英語版)が写しだされており、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるようになっており、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった。ただし、激戦の中では護衛のアメリカ軍戦闘機と日本軍戦闘機との識別は困難で、射手はB-29以外の機影に対し反射的に引き金を引く習慣がついていたという。なお、各銃塔にはガンカメラが備えられており、戦果の確認等に活用された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "照準器と銃塔の動きを同期させるための制御はセルシンを使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、機体後方下部の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57kgのアナログ・コンピュータ5台によって行なわれるため、それまでは非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰にでも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、これによって敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピュータは当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされた。技術者も総動員され、昼夜を問わず寒風の中、露天に並べられたB-29の機内での設置作業に従事している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "アメリカ陸軍の航空部門であるアメリカ陸軍航空隊は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とすべきとの勧告をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1939年11月、行動半径2000マイルでB-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される。1940年6月27日、5機が予備発注される(XB-29)。1941年5月にはアメリカ陸軍よりボーイング社に250機を発注する意向が通告され、ボーイング社はウィチタで広大な新工場の建設に着手し、大量の労働者を確保した。1941年9月6日にアメリカ陸軍とボーイング社の間で正式な発注の契約が締結されたが、この契約を主導したアメリカ陸軍物資調達本部のケネス・B・ウルフ准将は、まだ試験飛行すらしていない航空機に対する莫大な発注に「30億ドルの大ばくち」だと言っている。しかし12月8日に日本軍による真珠湾攻撃でアメリカの第二次世界大戦への参戦が決定すると、この発注は500機に増やされ、1942年2月10日にはさらに1,600機に増やされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1942年9月21日、B-29が初飛行。試作第一号機のXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって飛行した。アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で操縦不能となって食肉加工工場の五階建てビルに衝突、アレンを含む11名のB-29クルー、工場にいた19名の民間人、消火活動中の消防隊員1名の合計31名が死亡、B-29最初の事故喪失機となった。議会が発足させた調査委員会(委員長は当時上院議員だったハリー・S・トルーマン)は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと航空軍に対し厳重に改善を勧告した。しかし、これらの諸調査が行われている間はB-29の全計画は全く進まず、スケジュールが遅れることとなった。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 なお、この事故は厳重な報道管制にもかかわらず、多数の目撃者がいたためアメリカ国内で報道され、これにより日本軍はB-29の存在を掴み、「B-29対策委員会」を設置して情報収集と対応策の検討を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1943年6月、実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "機体の製造と並行して搭乗員の育成も行われた。その責任者にはB-29調達計画を主導してきたウルフが任命されたが、陸軍航空隊のプロジェクトのなかでも最高の優先度とされ、特に技量の優れた搭乗員か、経験豊かなベテランの搭乗員が選抜されてB-29の操縦訓練を受けるため、1943年7月にカンザスシティのスモーキーヒル陸軍飛行場に集められた。ウルフの任務は、招集されたアメリカ陸軍最精鋭の搭乗員らの訓練に加えて、B-29の初期の不具合を洗い出して改善を進めていくというもので、任務の重要性から「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」と呼ばれることとなった。しかし、B-29の生産は遅れて、完成してスモーキーヒルに送られてきても不具合で飛行できないといった有様であり、招集された搭乗員らはB-17などの他の機での訓練を余儀なくされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1943年1月に開催されたカサブランカ会談の席上で、ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は、中華民国を基地とする戦略爆撃機で、日本の工業に強力な打撃を与えて戦力を粉砕すべきと提案し、アーノルドがそのためにB-29という戦略爆撃機を開発中であると報告した。ルーズベルトは中華民国の戦意を高めるために、日本本土に散発的でもいいので爆撃を加えるべきと考えており、蔣介石に対して、アーノルドを重慶に派遣して日本本土への爆撃計画を検討すると告げた。カサブランカ会談ののち、ルーズベルトの意を汲んだアーノルドは「蔣介石と協議し、日本の心臓部を直ちに爆撃する基地を獲得し、その準備を終えようとしている」と演説した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本軍は本土空襲に対する警戒と準備を始めることになった。 ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す。日本陸軍は軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた。東条英機陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1943年6月にR-3350-13sエンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1943年5月に、ワシントンD.C.でフランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の湖南省であり、東京から2,400kmかなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は陸空の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、ドーリットル空襲に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1943年8月のケベック会談ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした。ルーズベルトはこれを承認し、計画はマッターホルン作戦と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "太平洋の戦いにおいては、軍の指揮権が、ダグラス・マッカーサー大将率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されていた。このことで、陸軍と海軍の主導権争いが激化しており、マッカーサーは自分への指揮権統合を主張していた。マッカーサーはバターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、ニューギニアを経由して早急なフィリピンの奪還を主張していたが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対していた。キングは従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張していたが、なかでもマリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る日本にとっての太平洋の生命線で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、その攻略を急ぐべきだと考えていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アーノルドも、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいで、より日本本土に近い基地が必要であると考えており、マリアナにその白羽の矢を立てていた。マリアナを基地として確保できれば、ほぼ日本全域を空襲圏内に収めることができるうえ、補給量が限られる空路に頼らざるを得ない中国内のB-29前進基地と比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、大きな理由となった。そこでアーノルドはケベック会談においてマリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。一方でマッカーサーも、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、陸海軍の有力者である、マーシャル、キング、アーノルドの信念は全く揺らぐことなく、マッカーサーやケニーらの反論を撥ねつけた。キングの計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍のアーノルドを味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドが最終的な目的は異なるとは言え、手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなった。1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったため、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催し、マッカーサーの代理で会議に出席していたリチャード・サザランド中将には、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、ニミッツに対してはマリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる第20爆撃集団を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は第58爆撃団、第73爆撃団 として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった。1943年11月4日、アーノルドはUP通信の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自らジョージア州マリエッタのB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員がストライキを起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした。1944年4月15日に、そのB-29をドイツ空軍偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "インドに配備されることとなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官クレア・リー・シェンノート少将や東南アジア地域総司令官ルイス・マウントバッテン卿など英領インド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将も含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日にアメリカ統合参謀本部に直属する第20空軍を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長にヘイウッド・S・ハンセル准将を置いた。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦(大陸打通作戦)が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣東條英機大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された。日本軍は桂林、柳州地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、この頃行われていた日本陸軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を成都まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29鹵獲という最大の目的は達成できなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中の第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団にタイ首都のバンコクの爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると、6月13日に83機のB-29が英領インドから成都の飛行場に進出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "成都から八幡製鐵所を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到してサイパンの戦いが開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた。やがて夜中の11時31分に、済州島に設置していたレーダー基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が西部軍司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、長崎県の平戸と対馬の厳原と五島の福江を結ぶ線に設置されていた超短波警戒機甲も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "日本軍は飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」8機を迎撃に出撃させた。飛行53戦隊の三式戦闘機「飛燕」4機も出撃可能であったが、まだ錬成が十分でないと判断されて出撃は見送られた。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が関門海峡と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、日本軍戦闘機の夜間目視での空戦は探照灯頼みとなり、攻撃の機会は限られていた。またB-29を想定して猛訓練を繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる樫出勇中尉などが撃墜を報告し、戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機の機種を特定できておらず、B-24であったと報告した搭乗員もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ側の記録では、この日の損失は日本軍の戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認、残りの1機は故障により中国の基地に不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機と爆撃機により地上撃破されたとしているが、空襲後に日本側で調査されたB-29の墜落機2機の残骸には、屠龍のホ203の37mm機関砲弾などの弾痕が多数残されており、日本軍は屠龍による撃墜と認定している。このように、当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。そのほか、従軍記者1名を含む55名の戦死も記録されている。これが日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルを発見し、新型機B-29であると判断した。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っていたことから、日本は初めてB-29の全貌を知った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃隊は日本による灯火管制で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発を確認した搭乗員はいたが、誰も目標の製鐵所への命中は確認できなかった。爆撃に同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30kmも離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、支那派遣軍司令官畑俊六大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央に警告し、隷下の第5航空軍には、警戒を強化する指示をしていたのにもかかわらず、その出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化を指示していた第5航空軍司令官下山琢磨中将を激しく叱責している。B-29の想定以上の性能に、西日本の防空体制の早急な再構築が必要とされた。軍は受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部の新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部に渡って不安の大波を立たせることになった」と記事に書いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われたノルマンディ上陸作戦に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられている間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のウルフに、引き続いての日本本土爆撃に加えて、満州やスマトラの精油施設などの積極的な爆撃を命じた。日本の戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍の圧力の軽減と、進行中のマリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが、アーノルドはそいうウルフの姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍カーチス・ルメイ少将を後任に任命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ルメイが着任するまでの間、司令官代理のサンダース准将は、アーノルドの求めるままに、7月7日に18機の少数で、長崎、佐世保、大村、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機が一旦セイロン島の基地まで進出後にパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃したが、いずれも大した成果を上げることなく終わった。日本に対する爆撃はいずれも夜間で、初回の八幡と同様に慣れないレーダー爆撃で十分な成果を上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応のダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃は高高度昼間精密爆撃を行いたいと第20空軍司令部に要望して承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1944年8月20日、三度目の八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回はB-29の61機による白昼堂々の来襲となった。数度にわたる日本本土への空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり、前回同様の二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた。前回までと異なり、7,000mもの高空で侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であったガートルードCに突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジンが編隊2番機であったカラミティ・スーに命中し、同機も左翼を失い錐揉みを描いて落下していった。野辺は一度に2機のB-29を撃墜することとなった。他の迎撃機も活躍し、飛行第4戦隊の森本曹長の屠龍が4機を報告してこの日最大の戦果を挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機の妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜を報告、また大村海軍航空隊の零戦と月光も、長崎一円を哨戒中に五島列島上空でB-29編隊を捕捉し3機撃墜確実、2機不確実を報じた。これらの戦果を合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している。61機の出撃に対しての損失率は22.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった。爆撃については、多数の500ポンド爆弾を製鐵所構内に投下させることに成功して、製鐵所は地上施設に相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、48時間後には復旧した。同日は夜間にも10機が夜間爆撃を行い日本軍機も迎撃したが、戦果も損失もなかった。大きな損害を被った第20爆撃集団は衝撃を受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦で損傷したB-29がシベリアのハバロフスクに不時着したが機体が押収され、搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュースを聞くと、「敵の捕虜に対するものであり、決して連合軍将兵に対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」とソビエト連邦を激しく非難したが、これはソビエト側が日ソ中立条約を締結している日本を刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員はイラン国境からアメリカに返された。しかしB-29は返還せず、のちにデッドコピーされてTu-4が製造された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "こののちにウルフの後任ルメイが着任した。アーノルドからは作戦飛行の参加を禁じられていたが、ルメイは一度は自らで作戦飛行を経験しないと十分な作戦指揮ができないと考えており、一度だけの条件で作戦の空中指揮の許可をとった。その機会は着任直後の1944年9月8日の満州鞍山の昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイはその日出撃した98機のB-29の指揮をとった。日本軍は二式複座戦闘機「屠龍」と二式単座戦闘機「鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500mの高高度であったことから、高高度性能不足で思うように攻撃ができず、また日本軍機はB-29の速度を見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった。やがて製鐵所に近づくと激しい高射砲の射撃を受け、ルメイの搭乗機も被弾したが、高射砲弾の破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員が軽傷を負っただけで飛行に支障はなかった。この日は4機のB-29が失われたが、合計206トンの爆弾が投下された製鐵所はかなりの損害を被るなど作戦は成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その後もルメイはインドを拠点に、九州、満州、東南アジアへの爆撃を継続、11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "サイパン島は7月9日にアメリカ軍の手に落ち、ついでグアム島、テニアン島も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性を痛感した永野修身軍令部総長は当時の思いを「サイパンをうしなった時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と振り返り、防衛総司令官であった皇族の東久邇宮稔彦王は「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "9月3日、朝日新聞はタイム誌(1944年〈昭和19年〉6月26日号)に掲載されたB-29の写真を『これがB29だ』というタイトルの記事で紹介した。「日本空襲の効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内外宣伝と謀略が含まれている」と論評した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "マリアナでの飛行場整備は、サイパン島で日本軍と戦闘中であった1944年(昭和19年)6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島、グアム島、テニアン島に合計5か所の飛行場が完成した。10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ。日本軍は硫黄島より偵察機を飛ばしてマリアナ諸島の飛行場を偵察していたが、1944年(昭和19年)9月23日の偵察写真でB-29が近く配属される準備が進んでいることを確認し、10月下旬には進出が進んでいると分析、11月6日には飛行場に整列しているB-29の写真を撮影することに成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "11月1日にB-29の偵察型F-13のトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空を飛行した。11月11日に計画している東京の中島飛行機武蔵野工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の迎撃機はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した。トウキョウローズの東京飛行は本家の東京ローズを刺激し、東京ローズはその後の対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という物騒な警告を流している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "B-29による帝都東京への空襲の危険性が高まる中、北九州での戦闘の経験も踏まえて、B-29を確実に撃墜する戦法の検討がなされた。1944年(昭和19年)10月に首都防空部隊であった第10飛行師団師団長心得吉田喜八郎少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による体当たり攻撃がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った。同年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は震天制空隊と命名された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。東部軍司令部には、小笠原諸島に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断した東部軍は隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した。迎撃には陸軍航空隊のほか、第三〇二海軍航空隊も加わり、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は目標上空では9,150 mを維持せよとの指示を受けており、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じたが、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている。日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名であったが、主要目標の武蔵野工場施設の損害は軽微であった。B-29はノルデン爆撃照準器を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2 %程度だったという。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "日本軍も、B-29の基地サイパン島に対して空襲を行った。第1回は偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年(昭和19年)11月2日で、陸軍航空隊 九七式重爆撃機9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった。 また、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に報復攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆撃機2機がサイパン島イズリー飛行場を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきたP-47と対空砲火により全機未帰還となった。 新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている。 最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず錫箔を貼った模造紙(電探紙、今で言うチャフ)を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった。一方日本軍は延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍の損失の多くが戦闘機であったのに対して、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被っており、マリアナ諸島への航空攻撃はアメリカの戦略に大きな影響は与えなかったが、相応の効果を挙げていたことになる。アーノルドはB-29が戦わずして失われていくことに対して神経を尖らせており、ハンセルもB-29を混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦をレーダーピケット艦として配置するなどの対策に追われたが、やがて、日本軍の出撃基地であった硫黄島への攻撃が激化すると、マリアナ諸島への攻撃は無くなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃と並行して、サイパン島に空挺部隊で編成した特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し、挺進集団に特殊部隊の編制を命じている。特殊部隊は挺進第1連隊の空挺隊員で編成され、奥山道郎大尉が部隊指揮官に任命された。特殊部隊には陸軍中野学校の諜報員も入れられ、原寸大模型を用いたB-29の爆破訓練も行われた。この特殊部隊はのちに「義烈空挺隊」と命名されたが、出撃基地の予定であった硫黄島にアメリカ軍が侵攻してくる可能性が高くなったため、作戦は中止された。のちに義烈空挺隊は沖縄戦において、アメリカ軍飛行場破壊任務に投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上、29機を損傷させたのちに全滅し、アメリカ軍を大混乱に陥らせている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにもかかわらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なかった。12月13日から開始された名古屋の航空機工場への爆撃では大きな効果を挙げた。12月13日のB-29の75機による空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国漢口大空襲であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した。市街地への無差別爆撃の有効性を証明したこの爆撃により、アーノルドはルメイを高く評価することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、ハンセルの後任の参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した。ハンセルはアーノルドに我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたいと手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、航空機工場は引き続き最優先の目標であるが、この実験的な焼夷弾攻撃は「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは不承不承、12月22日の出撃では78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させた。爆撃高度は8,000mから9,800mと引き続き高高度で、今回の目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われており、レーダー爆撃したがほとんど効果はなかった。また日本軍の戦闘機による迎撃も激烈で3機のB-29を失い、焼夷弾爆撃は失敗に終わった。翌1945年1月3日にも焼夷弾による実験攻撃が97機のB-29により名古屋に行われたが、効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。これは大きな誤りであったことがのちの名古屋大空襲を含む大都市への無差別焼夷弾爆撃により明らかになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えており、ハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした。第20爆撃集団はルメイ離任後にはクアラルンプールに司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにもかかわらず爆撃成果は良好であった。この爆撃に対しては厚木基地から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた遠藤幸男大尉率いる第三〇二海軍航空隊の斜銃を搭載の「月光」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機からパラシュート降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の小園安名大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し、遠藤は通算16機目のB-29を撃墜破したと認定された。アメリカ側の損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上に墜落、1機が基地に帰還するも毀損判定で全壊判定)ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日の神戸明石の川崎飛行場に対する爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トンの爆弾を投下したが、天候に恵まれていたため爆撃の精度は非常に高く、工場の39%を破壊し、一時的に生産能力の90%を喪失させた。日本軍の迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29の攻撃」と公式記録に書かれたほどであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、当初はハンセルの精密爆撃を踏襲したが、1月23日と1月27日の航空機工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった。前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団は合計78機のB-29を失っていたが、期待していた戦果を挙げることはできず、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、ジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "使用する爆弾はM69焼夷弾であったが、この焼夷弾は1943年3月にダグウェイ実験場(ユタ州)での実戦さながらの実験がおこなわれた。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、ハワイから材料を取り寄せ、日本に18年在住した建築家(アントニン・レーモンド)が設計するといった凝りようであった。M69焼夷弾のナパーム(ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃の効果は前年の漢口大空襲で実証済みであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された。夜間戦闘機戦力が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず、B-29尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、編隊は数機からなる小編隊が高度を変えて大きな編隊を組むことで弾幕を厚くする防御重視のコンバット・ボックス(英語版)ではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高いパスファインダーの爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するトレイル(単縦陣)に変更した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の東京大空襲となった。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗を願ったが、このときルメイは原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画の概要を聞いており、撃墜されて捕虜になるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた トミー・パワー(英語版)将軍を代わりに出撃させることとした。空襲はルメイの計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にもかかわらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった。たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は関東大震災のさいにも発生した火災旋風が大規模に発生したためであった。低空飛行をしていたB-29も火災旋風による乱気流に巻き込まれた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "3月9日、夜10時すぎに日本軍は八丈島に配備していた陸軍の実用レーダー超短波警戒機乙によって機影を探知したが、折からの強風でレーダーのアンテナが激しく揺れてスコープの映像が不正確であり編隊の概要までは掴めていなかった。日本標準時9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、陸軍の第10飛行師団は何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29は去ったと認識したため、一旦警戒警報を解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端の洲崎監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった。それでも、第10飛行師団 の飛行第23戦隊(一式戦「隼」)、飛行第53戦隊(二式複戦「屠龍」)、飛行第70戦隊(二式戦「鍾馗」)の計42機と海軍の第三〇二海軍航空隊から月光4機が出撃し、高射砲との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と胸をはったが、民間人の大量虐殺について「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍がフィリピンでアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行った残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からもボール盤が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ・・・大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べているが、戦後には兵士らに向けて「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "一方で日本の総理大臣小磯国昭はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけたが、この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で名古屋(名古屋大空襲)、3月13日、295機で大阪(大阪大空襲)、3月16日、331機で神戸(神戸大空襲)、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった。ルメイの命令により、一旦はB-29から取り外された尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気が減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍の夜間戦闘機よりはフレンドリーファイアを恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬は機体下部の銃座のみに支給し、サーチライトを狙い撃ちするよう命じていたが、日本軍戦闘機の迎撃は低調であり損害は少なかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ワシントンではノースタッドが「この5回の空襲が日本に与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民にあたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本の重要な4都市の80kmという広大な地域が灰燼に帰していた。ロンドン大火の教訓として、可燃建造物の建築を禁止するなど都市防火対策が進んでいたヨーロッパと比較すると、関東大震災など歴史上度々大火に見舞われたにもかかわらず日本の都市防火対策は著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾の威力も合わさって、次々と大都市が猛火に包まれた。日本の航空機部品生産の下請工場は主要4都市の工業地帯に蜜集しており、その生産能力は全体の22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃を与えて、日本の家内工業のシステムを破壊し、航空機の生産に重大な損失をもたらせた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1945年3月26日には硫黄島の戦いの激戦を経て、硫黄島がアメリカ軍に占領された。硫黄島は防空監視拠点として日本軍に重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃の日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略が急がれた。と同時に1944年11月から開始されたB-29の日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナのアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用の不時着基地として、また、航続距離の短い護衛用戦闘機の基地としても使用するため、26,040名死傷という大損害を被りつつも攻略したものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "B-29の最初の不時着機は、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に緊急着陸し、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになった。また、P-51Dを主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "沖縄戦が始まると、九州の各航空基地から出撃した特攻機にアメリカ海軍は大きな損害を被った。第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス中将は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 とB-29による九州の特攻基地爆撃を要請した。ルメイは、B-29は日本の都市を戦略爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官のチェスター・ニミッツ元帥からの強い要請により、海軍作戦部長の アーネスト・キングがアーノルドに対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、九州の航空基地の攻撃に転用されたが、日本軍はB-29の来襲をいち早く察知すると、特攻機を退避させるか巧みに隠した。そして爆撃で滑走路に開いた穴はその日のうちに埋め戻してしまった。アメリカ軍は飛行場機能を麻痺させるため、B-29が飛行場攻撃で投下していく爆弾に、瞬発から最大36時間までの時限爆弾を混ぜた。時限爆弾により爆撃後長い時間作戦が妨げられるため、特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官宇垣纒中将を悩ませたが、これも基地隊員や飛行場大隊の兵士が命がけで処理したので効果は限定的だった。B-29は飛行場攻撃に併せて、九州各地の都市にも小規模な無差別爆撃を行った。3月に開始された東京などの大都市圏への無差別焼夷弾爆撃に比べると被害は少なかったが、市街地にも時限爆弾を投下しており、不発弾と勘違いした市民に被害が生じている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している。スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと評価しており、「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊(B-29のこと)のやり方とはまったく対照的である。私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。」と非難している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」とB-29による特攻基地の破壊は困難であったと総括している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "沖縄戦支援のための戦術爆撃任務は5月中旬まで続けられたが、5月14日の名古屋空襲を皮切りに、B-29は本来の大規模焼夷弾攻撃任務に復帰した。補給も強化されて、6月までには常に400機のB-29が全力出撃できる十分な量のM69焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機が名古屋市街地と三菱発動機工場を中低空で焼夷弾攻撃したが、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには名古屋城も含まれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けた東京にも、5月23日の夜間にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という大兵力で再度の大規模焼夷弾攻撃が行われた。5月23日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と横浜海軍航空隊が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「加藤隼戦闘隊」)で中隊長として勇名をはせた黒江保彦少佐が四式戦闘機「疾風」で3機のB-29撃墜を記録するなど、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている。しかし爆撃により、前回の東京大空襲同様に、強風により大火災が発生して、市民762人が死亡、64,060戸の家屋が焼失するという甚大な被害を被った。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになった。この日の爆撃で、今まで意図的に攻撃を控えてきた皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、近衛師団も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520mのうち18,239mを焼失して4時間後にようやく鎮火した。地下室に避難していた昭和天皇と皇后は無事であったが、宮内省の職員34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には鈴木貫太郎首相の首相官邸も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している。また、阿南惟幾陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出したが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている。これまでの空襲で東京の被爆面積は都市全域の半分の145kmに及んでおり、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被ったが、ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念していたので、ルメイは5月29日の横浜への大規模焼夷弾攻撃(横浜大空襲)のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開するP-51D101機を護衛につけた。白昼堂々の大規模爆撃であったので、日本軍も陸海軍共同の64機で迎撃、P-51とも空戦になり、アメリカ軍は日本軍戦闘機26機撃墜、9機撃破、23機撃墜不確実と大きな戦果を主張したが、日本軍側の記録によれば未帰還機は2機であった。P-51の護衛を突破した日本軍戦闘機はB-29を攻撃し、撃墜18機を報じたが、アメリカ軍の記録ではB-29の損失が7機、P-51が2機であった。爆撃は成功し、横浜市街はこの1日で34%が焼失し、死者は3,649名、焼失家屋は79,017戸にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "この頃には、南方資源地帯からの資材海上輸送の途絶及び、これまでのB-29の無差別爆撃により、日本の航空機生産力は低下しており、日本軍としては航空機使用の選択と集中をせざるを得ず、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとった。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、P-51の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している。また、防空戦力は、大都市に集中していたので、地方の中小都市については、敵機の跳梁にまかせることとなってしまった。このような防空戦略の後退は、国民の厭戦気分を高めることになった。航空総軍司令官河辺正三大将には「国を亡ぼすものは東條なり。大阪を焦土に化するものは河辺なり・・・」などの投書が複数寄せられている。日本において軍の司令官にこのような露骨な誹謗投書が寄せられるのは、河辺の記憶では日露戦争のおり旅順攻囲戦で大損害を被った第9師団の師団長に対するもの以来であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "その後も名古屋、大阪、神戸の大都市圏には繰り返し大規模焼夷弾攻撃が行われ、1945年4月18日の川崎大空襲で焼失していた川崎と、東京、横浜を含めた6大都市圏は1945年6月までには破壊しつくされた。6大都市圏713kmのうち、B-29に焼き払われたのは274kmに及んだが、そのなかには多くの大工場が含まれており、また数百万人の日本人が住居を失った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "B-29は爆撃任務のほかに、日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布し海上封鎖、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要港湾や海峡に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊であったが、終戦前にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。またアメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知ったとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、鹿児島、大牟田、浜松、四日市、豊橋、福岡、静岡、富山などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、上智大学の神父として日本に在住し、日本人との親交が深かったブルーノ・ビッテルによれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1945年6月13日にアーノルドが八幡初空襲からの1周年を祝うためグアム島までやってきた。ルメイになるまで2名の司令官を短期間で更迭したアーノルドであったが、ルメイからダウンフォール作戦による日本本土上陸の前に日本を打倒できるという説明を聞き満足をしている。アーノルドから日本を打倒できる時期を尋ねられたルメイは「もう都市目標は残っておらず、間もなくどんな目標もなくなるでしょう」「そのあとは鉄道網の破壊をはじめれるが、これも長くはかかるまい」として、400機規模の空襲を日常的にできるようになった1945年6月から3か月後の1945年9月1日と答えたが、実際の終戦はこれより半月も早かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "マンハッタン計画で原子爆弾の開発が進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊の責任者であるアーノルドがマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将から計画を聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍は自軍の爆撃機に原子爆弾を搭載できる機体がなかったことから、当初はイギリス軍からアブロ ランカスターの供与を受けることも検討していたが、開発中のB-29に原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスはアーノルドに、この爆弾を搭載し爆撃実験できるような特別機を準備してほしいとの要請を行い、アーノルドは陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者であるオリバー・エコルズ(英語版) 少将にB-29を原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名で極秘裏に進められたが、B-29改造担当者はロスアラモス原子力研究所から2種類の形の原子爆弾を開発していると説明を受けると、その両方の爆弾を搭載可能な改造を行う必要性に迫られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "機密保持のため、2種類の原子爆弾をその形状から、それぞれ「シンマン(やせっぽち)」と「ファットマン(でぶっちょ)」、改造計画を「シルバープレート」と隠語で名付けた。マンハッタン計画を知らない多数の技術者に対しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内を旅行するために使用するプルマン式寝台車を輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車もシルバープレートという隠語で呼んでいると説明している。のちにシンマンは設計変更で「リトルボーイ(ちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29に新しい爆弾架、まきあげ器、操弾索、懸架装置、投下装置などを装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29の量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲の開始される前の1944年2月28日には原子爆弾の投下訓練が開始されている。実験により判明した不具合の修正が進められ、エンジンは新型のR-3350-57サイクロンエンジンに換装されて、プロペラも冷却能力を高めるため、根元にルート・カフスを装着した逆ピッチも可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった。1944年8月にアーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し、戦争が終わるまでに54機まで発注を増やし、うち46機が納品されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "原爆搭載機の製造と並行して、原爆投下のための特別の戦闘部隊の組織していた。指揮官にはポール・ティベッツ大佐が選ばれたが、ティベッツは1942年8月17日にアメリカ陸軍航空隊として初めてドイツ支配下のフランスルーアンを爆撃し、北アフリカ戦線ではティベッツが指揮するB-17が連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将の特別機に指定されて、北アフリカやジブラルタルにアイゼンハワーを何度も運ぶなど、実績、信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格で上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金を不当に押収しにきた税関職員を拳銃で脅して追い返したこともあった。のちにティベッツは自分の身の潔白を自らの調査で証明し、逆にこの税関職員が密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ティベッツはヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員の訓練教官をしていたが、1944年9月にマンハッタン計画の弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐と面談し、1944年12月27日に15機の改造B-29を保有する原爆投下部隊である第509混成部隊の指揮官に任命された。この第509混成部隊は部隊単独で行動できるように、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送中隊、憲兵中隊も組織され、総勢1,800名ものスタッフで構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった。第509混成部隊はユタ州のウエンドーバー基地で訓練をしたが、もっとも大きな問題は原子爆弾を投下したB-29自身が、原子爆弾の衝撃波で吹き飛ばされてしまうのでは?ということであった。ティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾を投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7km)離れられると計算したが、B-29を吹き飛ばすのに足りる威力の衝撃波は8マイル(13km)に達すると算出され、残りの2マイルをどう確保するかが問題となった。ティベッツは豊富な経験から、一般的に投下した爆弾は慣性で落下しつつ前方に移動するので、B-29が原子爆弾を投下したのち、155度の急旋回を行なってフルスロットルで飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向にB-29を退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度の8マイルは十分に確保できることに気が付いて、第509混成部隊の搭乗員らはこの急旋回の訓練を習性になるまで繰り返し行った。この時点で第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型の特殊爆弾の投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾が恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということを知らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "第509混成部隊は徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して(終戦時までに29機に増強)1945年5月にテニアン基地に進出した。日本軍はテニアン島に潜伏していた生存兵が尾翼のマークを確認して新しい飛行隊が進出してきたことを確認し、まだ日本軍が支配していたロタ島を通じて大本営に向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍の情報力を誇示するため、東京ローズにゼロアワーで第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍をもたらすことになった。第509混成部隊は形式上はルメイの指揮下となったが、第21爆撃集団は第509混成部隊に必要な支援を行うだけで、大部分の命令はアーノルドが直接おこなうこととしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "原子爆弾の投下目標都市については、爆撃による被害が少なく原子爆弾の威力を検証しやすい都市が選ばれ、広島、小倉、横浜(5月の大空襲により候補から除外)、京都などが候補にあがり、グローヴスは人口108万人の京都が原子爆弾の威力を測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが「京都は極東の文化史上重要で芸術品も数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標の選定が進む中で第509混成部隊は集中的な実地訓練を継続しており、原爆投下時は搭載機1機と効果を測定するため科学者や技術者を乗せた偵察機2機の3機編隊で飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空の高高度飛行訓練を行ったり、パンプキン爆弾と名付けられた原子爆弾を模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った。1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していたクロード・イーザリー少佐操縦のストレートフラッシュ号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃が禁止されていた皇居にパンプキン爆弾を投下することとなった。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1945年7月16日、トリニティ実験が成功したが、その知らせはルメイらごく一部の司令官、参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊の搭乗員らも新型爆弾の正体を知らされていなかった。テニアン島に重巡洋艦インディアナポリスが「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持の状況に変更はなかった。1945年7月25日にグローヴスから原爆投下命令が発され、8月2日には第509混成部隊名で出された野戦命令第13号で8月6日に第1目標広島、第2目標小倉に原子爆弾を投下すると決定した。ルメイ自身はこの決定に直接関与はしなかったとのことだが、広島が選ばれた理由を「当時の日本では軍都のイメージが強い」であったからと推測している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "8月4日にティベッツは自らB-29を操縦して最後のパンプキン爆弾投下訓練を行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員と相談して、操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツの母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「エノラ・ゲイ」とノーズアートし、これがこの機体の愛称となった。ティベッツは前日の8月5日に明日の任務のことを搭乗員に説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず、出撃の数時間前になってようやくトリニティ実験の写真を搭乗員に見せている。エノラ・ゲイはティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮を禁止しており、ルメイもその規則を守って1945年3月10日の東京大空襲での空中指揮を断念した経緯もあってティベッツに再考を促したが、ティベッツは最初から自ら空中指揮を執ると決めており、最終的にはルメイも同意している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "テニアン島には多数のマンハッタン計画のスタッフたちも出撃の状況を見守っていたが、離陸直後のB-29が墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイが離陸直後に墜落してテニアン島で原子爆弾がさく裂しないように、離陸に成功してのちに起爆装置を作動することとし弾道技術者のパーソンズをエノラ・ゲイに搭乗させて機上で作動操作を行わせることとした。リトル・ボーイを搭載しパーソンズを乗せたエノラ・ゲイはティベッツの操縦で午前2時45分にテニアン島から出撃した。その後に先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標の広島の天候は良好との知らせが入り、計画通り広島に初めての原子爆弾が投下されることになった。広島が悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「フル・ハウス」も天候観測のために飛行していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "エノラ・ゲイは計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本の時間では8時15分17秒)にリトルボーイを投下し、ティベッツは何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱した。リトルボーイは投下後43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイはティベッツの計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波が激しく機体を震わせた。一瞬のうちに広島では、78,150人の市民が死亡し、70,147戸の家屋が半壊以上の損害を受けた。中国軍管区は豊後水道を北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報を発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空を通過して播磨灘方面に去ったので、7時31分に警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイと観測機グレート・アーティスト号が高度9,500mで接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "原爆投下成功の知らせは、ポツダム会談からの帰国中のトルーマンにも報告され、トルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設を抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通を破壊するであろう。誤解のないよう重ねていうが、我々は日本の戦力を完全に破壊するであろう」という談話を発表した(詳細は広島市への原子爆弾投下参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であったチャールズ・スウィーニー中佐がB-29ボックスカー号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった。目標は小倉か新潟のいづれかに絞られたが、新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域の距離が遠いという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられた地形であり好目標ではなかった。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、国東半島から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、西部軍管区は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。第16方面軍司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた。(詳細は長崎市への原子爆弾投下参照)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができた」自称している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "長崎に原爆が投下されて6日後の1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。終戦までにB-29は147,000トンの爆弾(うち100,000トンが焼夷弾)を投下し、日本の66都市の40%を焦土と化し、45万人が死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦で投下された12,000個の機雷で海上輸送も断絶しており、これ以上の抗戦は不可能なところまで追い込まれていた。戦後にB-29の戦略爆撃の効果を調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦が企画されなかったとしても、日本は1945年末以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍は本土決戦となった場合、終戦は1946年後半以降になったと予想している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "香淳皇后は、ポツダム宣言受諾の1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(継宮明仁親王)に手紙を送っている。その中には「こちらは毎日 B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29は残念ながらりつぱです。お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "B-29の第二次世界大戦最後の任務は、日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。8月27日の北京近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、長崎県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動したが、長崎俘虜収容所で物資を投下したB-29がその後に近くの山腹に激突して搭乗員全員が死亡したように、この任務中にも数機のB-29が墜落している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった。物資のいくつかはパラシュートが外れて、まるで爆弾のように落下し、建物を破壊したり、時には地上で物資を待ちかねていた捕虜に直撃して命を奪うこともあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエトの西ベルリンへの包囲網に対抗し西側諸国が空輸作戦を展開した。アメリカ軍はベルリンから一歩も引かないという政治的アピールも兼ねて、この空輸作戦にB-29を投入することとした。最大でイギリス国内の7か所の航空基地に90機のB-29が送り込まれて空輸作戦に従事するとともに、西ベルリンを包囲するソビエト軍を牽制した。ソビエトは核兵器搭載可能なB-29を脅威に感じていたが、空輸作戦に投入されたB-29にはシルバープレート機はおらず、核兵器の搭載能力はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエトの支援を受けつつも朝鮮人民軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、洛東江(ナクトンガン)戦線では、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下して、絨毯爆撃を加えるなど、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "しかし1950年10月19日、中国人民志願軍が参戦すると、同軍のソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはロッキードF-80などアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、悠々と爆撃していたB-29は11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "B-29には戦闘機の護衛がつけられたが、その連携が乱れると大きな損害を被ることになった。ある日18機のB-29が護衛戦闘機との合流地点に向けて飛行していると、合流前に9機のMiG-15に襲撃された。B-29は10機が損傷して、墜落機こそなかったがそのうち3機は大邱に緊急着陸を余儀なくされた。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した39機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、多数の戦闘機に護衛されていたにもかかわらず、その護衛を潜り抜けたMiG-15が2機のB-29を撃墜し8機を撃破している。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムSHORAN(英語版)を使用しての夜間爆撃を行った。B-29は主に日本の横田基地か嘉手納飛行場から出撃していたが、朝鮮半島で損傷を受けた機は福岡の板付にあったアメリカ軍の予備飛行場に不時着した。板付には当時、B-29のクルーらが「世界一」と称した良質な温泉や豊富な食料や娯楽施設があり非常に人気が高かったという。板付のアメリカ軍予備飛行場はその後に大半が返還されて福岡空港となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速最新鋭機F-86Aセイバーを投入、制空権の回復に努めた。B-29も北朝鮮の飛行場すべてに徹底した爆撃を加えて、MiG-15を使用できないようにしている。当初はMiG-15に苦戦したが、その後は損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の鴨緑江に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800kg)にもなる巨大な無線手動指令照準線一致誘導方式のASM-A-1 Tarzonで橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害であった。また、F-86Aセイバーによる護衛や、夜間爆撃を多用しなければこの損害はさらに増大していたので、B-29の兵器としての存在価値は大きく下落していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "信頼性が低いライト R-3350エンジンの換装は現場からの切実な願いであり、より信頼性が高く強力なプラット・アンド・ホイットニー R-4360エンジンを搭載したB-29の開発が急がれた。開発は1944年7月に開始され、1945年5月には試験飛行にこぎつけたが、結果は良好で最高速度はB-29よりも80kmから100kmは速い640kmとなった。エンジンの換装に付随して機体の強化と垂直尾翼の拡大など、全体的に洗練されてより完成度が高くなった。当初はB-29の型のひとつとして「B-29D」と呼ばれていたが、のちにB-29の後継機「B-50」として正式採用されて200機の発注が行われたが、第二次世界大戦の終戦により60機に減らされた。その後の朝鮮戦争などの実戦任務には引き続きB-29が投入されてB-50が実戦を経験することはなかった", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "B-29はB-50やB-36などの後継機とともに対ソビエトの核戦略に組み込まれることになった。そのデモンストレーションとして、1948年に、「ラッキーレディー・ワン」と名付けられた機を含む3機のB-29で、世界各地の8か所の基地に着陸して給油を受けながら世界一周飛行を計画したが、そのうちの1機はアラビア海で墜落している。しかし、「ラッキーレディー・ワン」ともう1機のB-29は、飛行距離32,000 km、飛行時間103時間50分、所要日数15日間で世界一周飛行を成し遂げて、同盟国とソビエトなど東側陣営にB-29の飛行能力を見せつけている。さらに航続距離の延伸をはかるため、92機のB-29が空中給油機に改造されて(KB-29M)、74機がその受油機として改造された(B-29型MR)。アメリカ軍は、戦略爆撃機の攻撃距離を誇示するために、地上で給油しないノンストップの世界一周飛行を計画し、その任務はB-29「ラッキーレディ・ワン」の後継機、B-50「ラッキーレディ・ツー」号に委ねられた。「ラッキーレディ・ツー」は、KB-29Mの空中給油を受けながら、37,342kmを94時間1分で飛行して世界一周無着陸飛行を成功させている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "B-29は超音速飛行の実現にも貢献した。アメリカ軍は超音速実験機X-1を開発して実験を繰り返したが、その際にX-1を空中射出する母機としてB-29の改造機(EB-29-BW)が用いられた。この様子は映画ライトスタッフに登場したが、この映画を見た日本軍の元技術士官三木忠直は、自らが開発を担当した特攻兵器桜花の運用法に酷似していることに驚いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "他に長距離戦略爆撃機の護衛試作機XF-85の母機としても使用されるなど、様々な試験や実験でアメリカ軍航空戦略に貢献したが、これらの派生任務も後継機のB-50に引き継がれて1960年には退役した。後継機B-50の空中給油機はベトナム戦争でも活躍し、1965年に退役した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図が描かれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開され、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "米国戦略爆撃調査団(USSBS)による統計", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "B-29所属部隊の戦績と損失(アメリカ空軍 第9爆撃航空団統計)", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計-Table 165)", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある。この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり、その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり、さらに行方不明の1機については銚子岬の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない。しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、彗星(斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる神戸大空襲)では、B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、神戸の北方3kmで緒方醇一大尉の三式戦闘機の体当たりにより撃墜されている。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され、別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見された。これらを根拠としてB-29撃墜は緒方の功績とされ、緒方は2階級特進で中佐となっている。戦後、「Z-8」号の墜落した場所に、緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立した。また、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされている。しかし、緒方の体当たりによって撃墜された「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる第1回大阪大空襲)で失われた2機のB29のうち(出撃したB-29は295機)、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。この戦闘の一部始終を見ていた第11飛行師団師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は第15方面軍司令部より個人感状が贈られている。42-24754の残骸は、大阪の下町堺筋に落下し、写真撮影され、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計)", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "日本軍のレーダー開発は、第二次世界大戦初期はアメリカやイギリスなどの連合国のみならず、枢軸国のドイツと比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「超短波警戒機甲」と「超短波警戒機乙」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「電波探信儀」の配置は前線のラバウルやウェーク島が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた。中でも八丈島に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250kmであり、八丈島から東京までの距離が300kmで合計550kmの距離しかなく、巡航速度が約400km/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していたチャフの効果がなく、アメリカ軍は幅2.5cm、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期にシンガポールで鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー(英)をデッドコピーしたり、ドイツからウルツブルグレーダーの技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの電波標定機を開発して本土防空戦に投入している。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは聴音機が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29にジャミング装置を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「レイヴン」(ワタリガラス)と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別のジャミングでは対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機をECM機に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「ヤマアラシ」と呼ばれることとなった。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により電波妨害をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど、爆撃を援護し最後まで目標に留まった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが三号爆弾であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から白リン弾と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している。第三三二海軍航空隊に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "しかし、空冷エンジンの機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦で主力の一翼を担った二式戦闘機「鍾馗」は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという。B-29を苦しめたジェット気流が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は伊豆半島あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、八王子ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを銚子上空で3撃目を加えるのがやっとであった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島がアメリカ軍に攻略されると、1944年11月1日、東京にB-29の偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった。九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された。海軍では高高度迎撃のため局地戦闘機「震電」の開発を進めていたが、空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった。また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、センチメートル波小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、斜め銃・上向き砲装備、双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあったという。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた。1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった八八式七糎野戦高射砲に加えて、新型の九九式八糎高射砲も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産が図られた。さらに1943年5月には最大射高14,000mの三式十二糎高射砲も生産開始され、この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある五式十五糎高射砲が開発されることになった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "高射砲は日本劇場や両国国技館の屋上などにも設置されたが、当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した。首都防空担当の高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。代々木公園にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が青山の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29エース・パイロットが誕生した。特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の遠藤幸男大尉がB-29撃墜破数16機、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた。横須賀航空隊所属の黒鳥四朗少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した板垣政雄軍曹や中野松美伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した四宮徹中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている。朝日新聞は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の坂本幹彦中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県大村市上空でB-29「アシッド・テスト」に体当たりして撃墜、戦死している。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、第二二一海軍航空隊が1944年12月にルソン島でB-24爆撃機迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった天雷特別攻撃隊にとどまった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査したUSSBSが出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍戦闘機から被った損失は、第8空軍がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "USSBSはさらに、日本に対する戦略爆撃はドイツに対する戦略爆撃よりもその期間や投下した爆弾の総量は少なかったが、その効果はほぼ同じであったと評価した。日本に対する高い戦略爆撃の効果の要因として下記を指摘している。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた。しかし、ブリーフィングなどで非公式には「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた。1945年3月10日の東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から私刑で暴虐な扱いを受けることが多かった。なかには能崎事件のように、一般市民によるリンチの末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "日本側はドーリットル空襲ののち、1942年7月28日に陸軍大臣補佐官名で、国際交戦規約に違反した者は戦争犯罪人として扱われるという通達を出している。実際にドーリットル空襲における軍事裁判では、捕虜となった8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決が出ている(処刑されたのは3名、あと5名は減刑)。その後、B-29による日本本土空襲が始まった1944年9月8日には、無差別爆撃は戦争犯罪であるので死刑に処せられるべきとの通達が出ている。無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑されたが、裁判を行うこともなく処刑されることも多かった。B-29搭乗員の取り扱いは、各軍管区に判断を委ねており、中部軍管区や西部軍管区といった日本の中西部の軍管区のほうが、東部軍管区よりもB-29搭乗員に厳しく、多数の搭乗員が裁判内外で処刑されている。処刑されずとも、戦争犯罪人として通常の捕虜とは異なる「特別な扱い」を受けていたB-29搭乗員は、日常的な尋問や暴行に加えて、食事も1日におにぎり3個とコップ1杯の水しか支給されないものもいた。なかには1945年1月27日に東京上空で日本軍によって撃墜されて捕らわれたレイ・F・ハローラン少尉のように、上野動物園の猿の檻に裸で猿の代わりに入れられて見世物にされるといった屈辱的な扱いを受けた搭乗員もいた。一方で、機雷散布任務中に対空砲火で撃墜され福岡県直方市の遠賀川河川敷にパラシュート降下したが、殺気立った市民に囲まれたところを警官2名に救助されて、そののち民間の医師にケガの治療を受けて東京の捕虜収容所に送られ、そのまま終戦を迎えたフィスク・ハンレイのように日本側に手厚い対応をされたことを感謝している捕虜もいる。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕らわれ、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件))", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "5月26日のB-29による東京への夜間無差別爆撃で収容されていた東京陸軍刑務所で焼死した62名や(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)、8月6日の広島への原爆投下により拘留されていた中国憲兵隊本部で死亡した11名など、B-29の空爆やアメリカ軍艦隊による艦砲射撃など友軍の攻撃で死亡した捕虜も多数にのぼった。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "終戦後、B-29搭乗員を含む連合軍捕虜を殺害や虐待した関係者は、横浜に開廷された連合軍裁判所でB・C級戦犯として裁かれた。なかでも、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として裁かれた。岡田はB-29による無差別爆撃を「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と自分の判断の正当性を主張し、裁判を「法戦」と呼んで戦ったが、絞首刑の判決を受けて翌1949年9月17日に処刑された。", "title": "第二次世界大戦におけるB-29の損失" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月31日の「ランプトランプ (Ramp Tramp / 42-6256)」、8月20日の「ケイトポーマット (Cait Paomat / 42-93829)」、11月11日の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル (General H.H. Arnold Special / 42-6365)」、及び11月21日の「ディングハウ (Ding Hao / 42-6358)」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命令によりモスクワで解体調査された。ランプトランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1947年春に完成して、同年5月19日に初飛行にこぎつけた。 開発時は「B-4」と呼ばれていたが、1949年に量産が開始されるとツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)と名付けられた。", "title": "Tu-4との関係" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "Tu-4のエンジンはソビエト製のシュベツォフ ASh-73が搭載されたが、エンジンの出力はB-29搭載のライト R-3350に劣るものではなく、最高速度558km、巡航速度435kmの高速飛行が可能であった。搭載の機関砲についてはB-29の12.7mm機関砲に対してNS-23機関砲(口径23mm)を搭載しており、B-29より打撃力は高かった。", "title": "Tu-4との関係" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばには戦略爆撃機として本格的に運用された。一部の機体には空中給油設備や翼下に追加の燃料タンクが設置されて、アメリカ本土爆撃ができるよう航続距離の延伸がはかられ、核爆弾が搭載できるように改修された。Tu-4Aはソ連初の核爆弾RDS-1の投下用に開発された最初の航空機であった。ソ連初の無人航空機(無人標的機)であるLa-17(英語版)を翼下に懸吊したTu-4NMやKS-1 コメット空対地ミサイル(英語版)の発射母機であるTu-4Kも開発され、のちにKS-1コメット空対地ミサイルから、12キロトンの核弾頭を搭載したFKR-1ミサイルが開発された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。", "title": "Tu-4との関係" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "1952年までに847機ないし1,300機が製造されたが、1954年にはより先進的なTu-16に置き換えられた。爆撃任務を外れたTu-4のうち300機は空挺部隊用の輸送機に改修され、空挺部隊のパラシュート降下や物資投下に使用された。また1部の機体は練習機や実験機として利用された。ツポレフはTu-4を基礎にして旅客機Tu-70も開発したが、量産はされなかった。", "title": "Tu-4との関係" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "1953年にスターリンはTu-4を中華人民共和国にも供与し、1956年3月29日にカム反乱でチベット人住民や僧侶が籠城するリタンの寺院への爆撃で2機のTu-4が初めて投入され、当時住民は飛行機を見たことがなかったために「巨大な鳥」が接近しているように見えたという。1機はKJ-1として早期警戒機にされて1980年代まで中国人民解放軍で運用された。", "title": "Tu-4との関係" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "型名末尾のアルファベット二文字は製造工場コード(Production facility code)。生産型のうち記号無しの機種は複数の工場で製造され、記号付きの機種は該当する工場でのみ製造されたことを示す。", "title": "各型" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "出典:牧英雄「開発と各型」『ボーイングB-29』 No.52(1995-5版第3刷)、文林堂〈世界の傑作機〉、2002年2月5日、17-24頁。", "title": "各型" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "アメリカ軍では航空機の機体前部にノーズアートを描く風習が他の国の空軍より盛んであった。第二次世界大戦の末期には高い技術水準に達していたが、B-29の長くて滑らかな機首はノーズアートを描くには格好の環境であり、さまざまなノーズアートが描かれた。軍が公式に許可していたわけではないが、絵がまともであれば爆撃兵団の上層部が認め、アメリカ軍は黙認していたというのが実態である。ノーズアートを描くのは看板職人をしていた兵士であり、公務の傍ら任務時間外に腕をふるった。報酬は60ドルから100ドルぐらいで、その報酬はクルーらが出し合った。腕のいい看板職人の兵士には依頼が殺到し、1飛行隊全機の依頼が舞い込み、2時間ぐらいの作業で1,000ドル稼ぐことができたという。特に好まれたのが“なまめかしい”女性のノーズアートであり、当初は爆撃兵団の上層部も最低限の品性を備えていれば容認していたが、次第に過激な表現となってきたため、終戦の直前には従軍牧師が道徳的に問題があると騒ぎだして、女性のノーズアートはシンプルで品のいいシンボルや無機質な文字のノーズアートに差し替えられた。ノーズアートは主に機体の左側に書かれるため、B-29の公式な報道写真などは右側から撮影されることが多かった。第二次世界大戦が終わっても、依然として機体左側には無味乾燥なノーズアートが多かったが、機体の右側にもノーズアートが描かれるようになり、また、なまめかしい女性のノーズアートも復活し、特に朝鮮戦争開戦後に盛んとなった。この頃のノーズアートを主に描いたのはアメリカ軍の看板職人の兵士ではなく、B-29航空団の基地があった嘉手納飛行場や横田基地周辺の本職の日本人看板屋であった。", "title": "B-29のノーズアート" } ]
ボーイング B-29 スーパーフォートレスは、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。
{{Redirect|B-29|ソ連海軍の潜水艦「B-29」|ヂク (潜水艦・2代)}} {{Infobox 航空機 | 名称=ボーイング B-29 スーパーフォートレス | 画像=ファイル:B-29 Bomber on a long range mission in late 1945.jpg | キャプション=飛行するB-29A-30-BN 42-94106号機<br/>(第472爆撃航空団所属、1945年撮影) | 用途=[[戦略爆撃機]] | 分類=[[爆撃機]] | 設計者= | 製造者=[[ボーイング]]、[[グレン・L・マーティン・カンパニー|マーティン]]、[[ベル・エアクラフト|ベル]] | 初飛行年月日=[[1942年]][[9月21日]] | 生産数=3,970機 | 生産開始年月日= | 運用開始年月日=[[1944年]][[5月8日]] | 退役年月日=[[1960年]][[6月21日]] | 運用状況=退役 | ユニットコスト=639,188<ref name="knaack">{{cite book|author=Knaack, Marcelle Size|title=Post-World War II bombers, 1945-1973|publisher=Office of Air Force History|year=1988|id=ISBN 0-16-002260-6}}</ref>[[アメリカ合衆国ドル|USドル]] | 運用者 more=<br/> ** {{USA}}([[アメリカ陸軍航空軍|USAAF]]、[[アメリカ空軍|USAF]]、[[アメリカ海軍|USN]]) ** {{UK}}([[イギリス空軍]]) ** {{AUS}}([[オーストラリア空軍]]) | 派生型 =<br/> ** [[KB-29 (航空機)|KB-29]] ** [[KB-50 (航空機)|KB-50]] ** [[B-54 (航空機)|B-54]] ** [[C-97 (航空機)|C-97]] ** [[KC-97 (航空機)|KC-97]] }} '''ボーイング B-29 スーパーフォートレス'''(Boeing B-29 Superfortress。日本での通称「ビーにじゅうく」)は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ボーイング]]が開発した大型[[戦略爆撃機]]<ref>[[#S19敵機一覧|敵機一覧(昭和19年版)]]コマ39(原本60-61頁)〔 '''B-29''' 制作會社名'''ボーイング'''」(61頁)「用途 爆撃(陸軍)/乗員 一二-一五名/型式 中翼單葉四發四翅プロペラ/翼長 四三米/最大速度 六〇〇粁/航續距離 七,〇〇〇粁(爆弾一瓲搭載) 五,五〇〇粁(爆弾四瓲搭載)/武装 機關銃一二.七粍-一六 機關砲二〇粍-八/實用上昇限度 一二,五〇〇米/搭載爆弾 正規四,〇〇〇瓲/發動機{名稱 R-二八〇〇 又ハ R-三三五〇 {型式 空冷二重星形一八汽筒/最大馬力 二,一三〇馬力四基 〕(60頁)</ref>。 == 特徴 == B-29は、中型爆撃機から発展した[[B-17 (航空機)|B-17]]と異なり、最初から長距離[[戦略爆撃]]を想定した設計である。B-29による[[日本本土空襲]]は、日本の継戦能力を喪失させる大きな要因となった。 [[愛称]]は「スーパーフォートレス」<ref name="S19敵機一覧目次、B29">[[#S19敵機一覧|敵機一覧(昭和19年版)]]コマ6(原本、目次)「米陸海軍機〔陸軍爆撃機〕B-29 ボーイング(スーパー・フォートレス)」</ref>。戦時中の文献ではスーパーフォートレスという愛称を「{{ruby|超|てう}}空の要塞」と説明したものがあり<ref name="AsahiShimbunBook">[{{NDLDC|1060103}} 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー 朝日新聞社編「超空の要塞の正體」昭和二十年一月十五日発行]。</ref>、当時のニュース映像では「超空の要塞(ちょうそらのようさい)」と呼んでもいる<ref name="JapaneseName">[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300340_00000&chapter=001 日本ニュース 第212号|NHK 戦争証言アーカイブス]、00:51あたり</ref>。[[朝日新聞]]が選定した名称は「ビイ公」(1945年5月12日){{Sfn|朝日新聞の太平洋戦争記事|1994|pp=228-229}}。 B-29は専門の[[航空機関士]]を置く初めての機体にもなった。B-17までの従来の軍用機は、操縦席の計器盤に飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器が取付けられており、パイロットは飛行に必要な計器の他にエンジン関係の計器類を監視しなければならなかったが、B-29ではそれらが全て航空機関士の前に置かれ、パイロットは飛行に専念することができるようになり、飛行機操縦の分業化が図られている{{Sfn|図説アメリカ軍の日本焦土作戦|2003|p=9}}。 === 機体 === 従来の[[飛行機]]では高空で機内の気圧・気温が低下するため[[マスク#呼吸用保護具・顔面用保護具|酸素マスク]]の装備、防寒着の着用が必要だが、B-29は高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧を維持することができた。これは[[ボーイング307]]の技術を応用し、毎分11.25 kgの加圧能力を持つ[[与圧]]装置を設置したことによる{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=42}}。[[爆弾倉]]を開閉する必要から、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室とし、その間を直径85 cmの管でつなぎ、搭乗員はこの管を通って前後を移動した。被弾に備えて酸素ボンベも設置された。機内[[エア・コンディショナー|冷暖房]]も完備され、搭乗員は通常の[[飛行服]]のみで搭乗していた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=43}}。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着ていない者もいるほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は搭乗員に防寒着も支給できないとし、アメリカもまた困窮していると[[プロパガンダ|宣伝]]を行った。機体は軽量ながら強靭な[[装甲]]板に覆われて防御力も高かった。日本軍の戦闘機や[[対空砲火]]で無数の弾痕や[[高射砲]]の破片痕が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であったり、尾翼の大半が破壊されたりしても、マリアナ諸島の飛行場まで自力で帰還できた。また、このような大きな損傷を受けても修理を経て再出撃できる整備性があった{{Sfn|デイビッド|1983|p=82}}。 重量はB-17の2倍となったが、翼面積はB-17の131.92m<sup>2</sup>に対してB-29は159.79m<sup>2</sup>と21%増に留まり、[[翼面荷重]]はB-17の約2倍となった。翼面荷重が増加すると着陸時の速度が高速となってしまうが、[[高揚力装置|フラップ]]を長さ10mの巨大なものにすることにより、着陸速度を減少させるだけでなく離陸時の揚力も増加させている。そのためにB-29の主翼は縦横比(アスペクト比)が大きな、細長く空気抵抗の少ない形状となった。垂直安定板の前縁には防氷装置も設置された{{Sfn|デイビッド|1983|p=39}}。空気抵抗を極限まで減少させるため、機体には外板を接合するリベットに[[沈頭鋲]]を使用したり、機体との接合部には重ね合わせせずに電気溶接で直接接合させている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=42}}。 === エンジン === B-29はライト社が開発した強力な新型エンジン、[[ライト R-3350]]を4発搭載していた。R-3350は[[空冷エンジン|空冷]][[星型エンジン|星型]]9気筒を複列化した二重星型18気筒で、2基の[[ゼネラル・エレクトリック]]社製B-11[[ターボチャージャー]]が装着されており、[[ハネウェル|ミネアポリス・ハネウェル・レギュレータ社]]製の電子装置で自動制御され、高度10,000 mまで[[巡航]]時で最大2,000馬力の出力を維持できた{{Sfn|デイビッド|1983|p=22}}。(離昇出力は2,200馬力)しかし、先進的な設計により、エンジンは[[オーバーヒート|過熱]]しやすくよくエンジン火災を起こすことになった。特に軽量化のために多用された[[マグネシウム合金]]の可燃性が強いため、重篤な火災となることも多かった。試作第一号機の[[XB-29-BO]]もエンジン火災により墜落している{{Sfn|ルメイ|1991|p=107}}。当初はその信頼性の低さから、ライト(Wright)エンジンはロング(Wrong = 誤りだらけの意味)エンジンと呼ばれたり、[[火炎放射器]]などと揶揄されたが、のちに、シリンダー・バッフル(整流用のバッフル板)とカウル・フラップの設計変更により過熱をかなり低減させている{{Sfn|デイビッド|1983|p=22}}。運用当初はR-3350の交換時期を[[飛行時間]]にして200時間から250時間に設定していた。これは平均15回の出撃に相当したが、エンジンの冷却性能向上により750時間まで延長することができた。エンジン交換は熟練した[[整備兵]]により5時間30分で完了し、取り外したエンジンは本国に送り返されて[[オーバーホール]]された。インドやマリアナ諸島の前線基地に飛行する際に、爆弾倉に1個の予備エンジンを搭載した{{Sfn|デイビッド|1983|p=74}}。 耐久時間は延長されたが、エンジン発火の問題は最終的な解決までには至らず、第869爆撃団のH.W.ダグラスによれば「エンジンの火災は、大問題だった。マグネシウム合金部分が燃え出すと、もう手が付けられなかった。ある夜、私の機はプラットで訓練中に、衝突でエンジン火災を起こした。[[消防車]]が到着して、ありったけの消火液をかけたが、炎の勢いはちっとも弱まらなかった。」と回想している。B-29クルーの間ではエンジンが発火した場合「30秒以内には、火が消えるか、自分が消える!」という言い伝えがあったという{{Sfn|デイビッド|1983|p=253}}。太平洋戦争が終了し、基地のある[[サイパン島]]から本土に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどであった{{Sfn|デイビッド|1983|p=25}}。 試作1号機の墜落から1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジン故障による事故が発生するなど、信頼性が抜群とまでは言えないR-3350であったが{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=49}}、[[B-17 (航空機)|B-17]]と比較すると戦闘重量で2倍の約44,100 kgの巨体を、B-17より30 %増の速度で飛行させる出力を発揮し、最高速度で570 km/h、[[巡航速度]]で467 km/hという戦闘機並みの高速で飛行させることが可能となった<ref>Loftin, LK, Jr. [http://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-468/cover.htm ''Quest for Performance: The Evolution of Modern Aircraft''.] ''NASA SP-468''. 2019.4.7閲覧</ref>。[[マニューバ|機動]]性も極めて高く、試験飛行から日本への爆撃任務まで経験した[[パイロット (航空)|パイロット]]、チャールズ.B.ホークスによれば、水平での加速や急降下速度でも戦闘機に匹敵したといい、[[曲技飛行|アクロバット飛行]]も可能であったという。試作機が一緒に飛行していた[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]の前で急上昇ののち宙返りをしてヘルキャットのパイロットを驚かせたこともあった{{Sfn|デイビッド|1983|p=31}}。エンジン出力は排気タービン過給器によって10,000 mでもほぼ変わりはなく、これにより高高度での飛行性能に劣る日本軍機による迎撃は困難になった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=146}}。 === 電子装備 === B-29には、当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、航法や爆撃任務に最大限活用された。初期型では、長距離航法としてAN/APN-4[[LORAN]]が用いられ、のちにAPN-9が装備された。高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13であり、直径80センチのアンテナは2つの爆弾倉の間に設けられた半球状のレーダー・ドーム内に設置され夜間爆撃用に使用される。一部の機体に設置されたより高度なAN/APO-7「イーグル」爆撃照準・航法用レーダーは、機体下部に吊り下げられた翼状のケースに収納された{{Sfn|デイビッド|1983|p=26}}。SCR-718レーダー高度計は爆撃のための詳細な高度測定と地形マッピングに使用された。またその計測データは偏流計のデータと合わされて、対地速度と針路を計算するのにも使用された<ref>[https://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ref/Radar/Radar-12.html ''U.S. Radar Operational Characteristics of Radar Classified by Tactical Application''.] ''HyperWar Foundation''. 2019.4.8閲覧</ref>。 === 武装 === B-29では[[与圧]]室の採用により通常の爆撃機のように人が乗り込んで直接操作する方式の[[銃座]]は設置できないため、射手が集中火器管制を行って機銃を[[遠隔操作]]する方式をとった。B-29は5ヵ所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に[[火器]]を備え、上部および下部銃塔には連装の[[ブローニングM2重機関銃#各型および派生型|AN-M2 12.7ミリ機関銃]]、尾部には同様のAN-M2 12.7ミリ連装機関銃に加えて[[イスパノ・スイザ_HS.404#アメリカ|M1 20ミリ機関砲]] 1門が装備された。 ただし、20ミリ機関砲は作動不良や給弾不良などの不具合が多く、また、12.7ミリ機銃とは弾道特性や有効射程が異なるために照準上の問題があり、実戦投入後に撤去している機体が多い。現地改造で[[20mm機関砲]]を12.7ミリ機銃に換装した機体もあり、尾部銃座が12.7ミリ機銃3連装となっている機体が存在する。 機体各所の連装12.7ミリ機銃の銃塔はそれまでの有人型と異なり中に人が入らなくてもよいため、高さの低い半球形となり、空気抵抗を小さくして速度性能を高めることに貢献した。ただし、小型で全高の低い銃塔は仰角はともかく俯角がほとんど取れないという難点もあり、全高を多少増したものが開発されている。また、機体前上方の防御に関して「連装機銃では火力が不足しており、有効な弾幕が張れない」という要望が出たために、B-29A-BNからはコクピット後方の機体前部上部に装備される銃塔は機銃を4連装として直径を増したものに変更された。多少大型になったとはいえ小型の銃塔に機銃を4基も詰め込んだため、連装のものに比べて旋回速度が遅い、射撃時の衝撃で故障が多発するなどの問題が生じ、B-29A-BN block 40 A後期型からは内部構造や機構を強化した大型の流線型のものへと変更されている。 このようにB-29の防御火器は試作機が完成して実戦投入された後も改良が繰り返され、機首や機体側面に機銃を増備した機体や、銃塔を20ミリと12.7ミリの混載として大型化したものなども開発された。しかし、最終的にはいずれも採用されなかった。さらに実戦投入後、日本側の夜間の迎撃体制が予想外に貧弱なことや、1945年に入って[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]が攻略され、昼間任務での戦闘機による護衛が可能となったことによって、B-29の主任務が夜間低空侵入による都市無差別爆撃となった時期からは、爆弾と燃料の搭載量を増大させるために尾部の12.7ミリ連装銃座を除いて武装は撤去されるようになった。そして、製造当初から尾部銃座以外の武装を省いた型(B-29B)が生産されるようになった。 銃塔を制御する照準装置は5ヵ所に設置され、4ヵ所は専任の射手が、もう1ヵ所は機体前方に配置されている爆撃手が兼任で担当した。こうしたB-29の射撃システムにはアナログ・コンピューターを使用した[[射撃管制装置|火器管制装置]]([[ゼネラル・エレクトリック]]社製)が取り入れられており{{Sfn|図説アメリカ軍の日本焦土作戦|2003|p=9}}、機体後部の半透明の円蓋下に取り付けられた別名「床屋の椅子」に座った1人が射撃指揮官として上部射撃手を兼用して対空戦闘を指揮したほか、左側射撃手と右側射撃手の計3人が尾部と前部上部銃塔を除く残りの銃塔を照準器を使用して操作した。さらに戦闘の状況に応じて、銃塔の操作の担当を他の射撃手に切り替えることも可能であった{{Sfn|デイビッド|1983|p=28}}。照準器には、弾着点とそれを囲むオレンジ色の円で示された{{仮リンク|レチクル (光学機器)|en|Reticle|label=レチクル}}が写しだされており、射手は敵機の翼幅を照準器で手動でその数字に設定し、敵機が見えると右手にある距離ノブによって照準器を始動させ、照準器内で敵機を弾着点とそれを囲むレチクルの丸い円に入れるように操作する。このレチクルは距離ノブの操作により丸い円の直径が変化して距離が測れるようになっており、敵機が近づくと距離と同時に弾着点を捉え続けているので、敵が射程に入り次第親指で発射ボタンを押して射撃するだけでよかった{{Sfn|デイビッド|1983|p=36}}。ただし、激戦の中では護衛のアメリカ軍戦闘機と日本軍戦闘機との識別は困難で、射手はB-29以外の機影に対し反射的に引き金を引く習慣がついていたという{{Sfn|マーシャル|2001|p=238}}。なお、各銃塔には[[ガンカメラ]]が備えられており、戦果の確認等に活用された。 照準器と銃塔の動きを同期させるための制御は[[シンクロ電機|セルシン]]を使用するが、目標への方位角や仰角などの機銃の発射する弾の弾道計算を含むすべての計算は、機体後方下部の”ブラックボックス”に収められ装甲で保護された重量57kgの[[アナログコンピュータ|アナログ・コンピュータ]]5台によって行なわれるため{{Sfn|デイビッド|1983|p=44}}{{efn2|照準器・銃塔・アナログ・コンピューター1台で1つのシステムとなっており、照準器からの目標への方位角や仰角、目標からの距離、目標の相対速度のデータをアナログ・コンピューターに入力された後に修正された方位角や仰角のデータが出力された後に銃塔に送られ、これらを基に目標への方位角や仰角に銃塔が動くシステムとなっている。}}、それまでは非常に高い練度を必要とした見越し射撃が誰にでも可能となり、従来の爆撃機搭載防御火器よりも命中率が驚異的に向上、これによって敵機はうかつに接近できなくなった。このアナログ・コンピュータは当初生産が少なく、急遽ゼネラル・エレクトリック社に大量生産の指示がなされた。技術者も総動員され、昼夜を問わず寒風の中、露天に並べられたB-29の機内での設置作業に従事している{{Sfn|デイビッド|1983|p=46}}。 <gallery widths="200"> N529B Fifi MD5.jpg|B-29のコックピット。機長席および副操縦士席の前(画像奥側)、ガラス張りの機首の最先端部が爆撃手席。 Boeing_B-29_flight_engineer's_panel.jpg|B-29の航空機関士席。軍用機としては初めて航空機関士が搭乗し機上作業が分業化された。 B29 Weapon mounted room.JPG|B-29の後部爆弾倉内から後部[[与圧]]室を望む。半球状の[[圧力隔壁]]を隔て、[[与圧]]区画と非与圧区画が分けられる。上部のドラム缶のように見える物が、操縦室と胴体後部を繋ぐ交通パイプ。乗員はこの中を這って移動した。 FEAF BOMBER COMMAND, JAPAN-Combat infantrymen must know how to do a flat crawl - NARA - 542362.tif|機体前部と後部を繋ぐ交通パイプを這って移動するB-29クルー。内張りや、機体の前後を結ぶ配線も写っている Boeing B-29 X-387 (16375019290).jpg|B-29機体前方下部の銃塔と、その後ろの爆弾倉。銃塔は集中火器管制射手が遠隔操作した。 B-29_engine_maintenance_Kadena_1950.jpg|エンジン整備中のB-29 エンジン本体と排気タービンの位置関係がわかる。 R3350 Turbo B29.JPG|B-29に搭載されているR-3350エンジンの排気タービン部 写真の機体の排気口は蓋で覆われている。 Wright R-3350 change on B-29 in India.jpg|R-3350の交換作業 Boeing_B-29_Superfortress_ventral_turret,_Hill_AFB_Museum,_Utah.jpg|B-29機体下部銃塔。連装機銃の銃身の間に見える孔は、記録用の[[ガンカメラ]]である。 B-29_Superfortress_at_Lackland_Air_Force_Base_Tail.jpg|B-29尾部の銃座。20ミリ機関砲 1門と12.7ミリ連装機銃を装備したオリジナルの状態。 Boeing_B-29B_Superfortress_'484053'_(11351835263).jpg|B-29尾部の銃座。20ミリ機関砲を撤去し12.7ミリ連装機銃のみとしたB-29Bのもの。 FEAF BOMBER COMMAND, JAPAN-A-2C Kenneth W. Roberts, of Weitchpee, Calif., assigned to the Japan-based 98th Bomb... - NARA - 542292.tif|B-29の尾部銃手搭乗口から身を乗り出しているケネス・W・ロバーツ(Kenneth W. Roberts)尾部銃手。この機体は中央の20ミリ機関砲を12.7ミリ機銃に換装している。 1st_Bombardment_Squadron_Boeing_B-29-75-BW_Superfortress_44-70070.jpg|コクピット後方の銃塔を4連装としたB-29A 75-BW(S/N 44-70070)"The 8 Ball"号。 Boeing_YB-29.jpg|各部に機銃を増設した試作試験型 YB-29-BO (S/N 41-36957)。 XB-29_or_YB-29_turret_(15942305083).jpg|XB-29およびYB-29用に開発された、20ミリと12.7ミリ混載型の大型銃塔。 </gallery> == 歴史 == === 開発段階 === [[ファイル:Olive-drab painted B-29 superfortress.jpg|thumb|right|アメリカ陸軍標準の[[オリーブドラブ]]塗装を纏うYB-29試作機。量産型では一般的に知られるジュラルミン地剥き出しの無塗装へ変更された]] [[アメリカ陸軍]]の航空部門である[[アメリカ陸軍航空隊]]は、第二次世界大戦が始まる5年前の[[1934年]]5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、[[アメリカ陸軍航空軍]]司令官[[ヘンリー・アーノルド|ヘンリー・ハップ・アーノルド]]将軍を中心とし長距離[[渡洋爆撃]]を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、[[1938年]]に完成した試作機(ボーイング[[XB-15 (航空機)|XB-15]])から得られた種々のデータや、新しい[[航空力学]]のデータをもとに設計製作された。そして[[1939年]][[9月1日]]の[[ナチス・ドイツ]]軍による[[ポーランド]]侵攻の日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とすべきとの勧告をしている。 1939年11月、行動半径2000マイルでB-17、B-24に優る四発爆撃機の試作要求が提出される<ref name="#1">戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67頁</ref>。[[1940年]]6月27日、5機が予備発注される<ref name="#1"/>(XB-29)。[[1941年]]5月にはアメリカ陸軍よりボーイング社に250機を発注する意向が通告され、ボーイング社は[[ウィチタ]]で広大な新工場の建設に着手し、大量の労働者を確保した。1941年9月6日にアメリカ陸軍とボーイング社の間で正式な発注の契約が締結されたが、この契約を主導したアメリカ陸軍物資調達本部の[[ケネス・B・ウルフ]][[准将]]は、まだ試験飛行すらしていない航空機に対する莫大な発注に「30億ドルの大ばくち」だと言っている。しかし12月8日に日本軍による[[真珠湾攻撃]]でアメリカの第二次世界大戦への参戦が決定すると、この発注は500機に増やされ、[[1942年]]2月10日にはさらに1,600機に増やされた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=45}}。 1942年9月21日、B-29が初飛行<ref name="#1"/>。試作第一号機の[[XB-29-BO]]が[[エドマンド・T・アレン|エディ・アレン]]と彼のチームによって飛行した。アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日、テスト飛行中のエンジン火災で操縦不能となって食肉加工工場の五階建てビルに衝突、アレンを含む11名のB-29クルー、工場にいた19名の民間人、消火活動中の消防隊員1名の合計31名が死亡、B-29最初の事故喪失機となった。議会が発足させた調査委員会(委員長は当時上院議員だった[[ハリー・S・トルーマン]])は、急ピッチな開発方針のもと、エンジンメーカーのライト社が質より量優先の生産体制をとり、エンジンの信頼性低下を招いたことを明らかにし、メーカーと[[航空軍]]に対し厳重に改善を勧告した。しかし、これらの諸調査が行われている間はB-29の全計画は全く進まず、スケジュールが遅れることとなった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=51}}。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。 なお、この事故は厳重な報道管制にもかかわらず、多数の目撃者がいたためアメリカ国内で報道され、これにより日本軍はB-29の存在を掴み{{Sfn|渡辺|1982|p=97}}、「B-29対策委員会」を設置して情報収集と対応策の検討を開始した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=296-301|ps=本土防空の現状とB-29対策の問題}}。 1943年6月、実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡される<ref name="#1"/>。 機体の製造と並行して搭乗員の育成も行われた。その責任者にはB-29調達計画を主導してきたウルフが任命されたが、[[陸軍航空隊]]のプロジェクトのなかでも最高の優先度とされ、特に技量の優れた搭乗員か、経験豊かなベテランの搭乗員が選抜されてB-29の操縦訓練を受けるため、1943年7月に[[カンザスシティ (カンザス州)|カンザスシティ]]のスモーキーヒル陸軍飛行場に集められた。ウルフの任務は、招集されたアメリカ陸軍最精鋭の搭乗員らの訓練に加えて、B-29の初期の不具合を洗い出して改善を進めていくというもので、任務の重要性から「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」と呼ばれることとなった{{Sfn|マーシャル|2001|p=13}}。しかし、B-29の生産は遅れて、完成してスモーキーヒルに送られてきても不具合で飛行できないといった有様であり、招集された搭乗員らはB-17などの他の機での訓練を余儀なくされている{{Sfn|マーシャル|2001|p=13}}。 === 第二次世界大戦 === ====運用方針決定まで==== [[ファイル:Gen. George C. Marshall, U. S. Army Chief of Staff, and Gen. Henry "Hap" Arnold, Commanding General, U. S. Army Air... - NARA - 198960.jpg|thumb|right|B-29計画を主導したジョージ・マーシャル陸軍参謀総長とヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルドアメリカ陸軍航空軍司令官]] 1943年1月に開催された[[カサブランカ会談]]の席上で、[[ジョージ・マーシャル]][[アメリカ陸軍参謀総長]]は、中華民国を基地とする戦略爆撃機で、日本の工業に強力な打撃を与えて戦力を粉砕すべきと提案し、アーノルドがそのためにB-29という戦略爆撃機を開発中であると報告した。ルーズベルトは中華民国の戦意を高めるために、日本本土に散発的でもいいので爆撃を加えるべきと考えており、[[蔣介石]]に対して、アーノルドを[[重慶]]に派遣して日本本土への爆撃計画を検討すると告げた{{Sfn|柏木|1972|p=40}}。カサブランカ会談ののち、ルーズベルトの意を汲んだアーノルドは「蔣介石と協議し、日本の心臓部を直ちに爆撃する基地を獲得し、その準備を終えようとしている」と演説した{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=291-294|ps=本土空襲に対する判断}}。 日本軍は本土空襲に対する警戒と準備を始めることになった{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=293-294}}。 ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す{{Sfn|戦史叢書66|1973|pp=300a-301|ps=B-29対応策}}。日本陸軍は軍務局長[[佐藤賢了]]少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=300b}}。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=300b}}。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=301}}。[[東条英機]]陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した{{Sfn|戦史叢書66|1973|p=300b}}。 1943年6月に[[ライト R-3350|R-3350-13s]]エンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている{{Sfn|ルメイ|1991|p=108}}。 1943年5月に、[[ワシントンD.C.]]で[[フランクリン・ルーズベルト]]大統領、[[ウィンストン・チャーチル]]首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の[[湖南省]]であり、東京から2,400kmかなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官[[ジョセフ・スティルウェル]]中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は陸空の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、[[ドーリットル空襲]]に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた<ref name="#1"/>。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された{{Sfn|ルメイ|1991|p=109}}。 1943年8月の[[ケベック会談]]ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り{{Sfn|ルメイ|1991|p=109}}、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった{{Sfn|柏木|1972|p=42}}。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め<ref>戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 66頁</ref>、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった{{Sfn|柏木|1972|p=42}}。 1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした<ref>戦史叢書4巻 一号作戦<1>河南の会戦 67-68頁</ref>。ルーズベルトはこれを承認し、計画は[[マッターホルン作戦]]と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている[[満州]]および[[九州]]の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した{{Sfn|柏木|1972|p=43}}。 太平洋の戦いにおいては、軍の指揮権が、[[ダグラス・マッカーサー]]大将率いるアメリカ陸軍が主力の{{仮リンク|連合国南西太平洋軍|label=連合国南西太平洋軍|en|South West Pacific Area (command)}}(SWPA)と、[[チェスター・ニミッツ]]提督率いるアメリカ海軍、[[アメリカ海兵隊]]主力の{{仮リンク|連合国太平洋軍|label=連合国太平洋軍|en|Pacific Ocean Areas}}(POA)の2つに分権されていた<ref>{{Harvnb|メイヤー|1971|p=156}}</ref>。このことで、陸軍と海軍の主導権争いが激化しており、マッカーサーは自分への指揮権統合を主張していた。マッカーサーは{{仮リンク|バターンの戦い|label=バターンの戦い|en|Battle of Bataan|}}の屈辱を早くはらしたいとして、[[ニューギニア]]を経由して早急な[[フィリピン]]の奪還を主張していたが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していた[[アーネスト・キング]]海軍作戦部長が強硬に反対していた。キングは従来からのアメリカ海軍の対日戦の[[ドクトリン]]である[[オレンジ計画]]に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張していたが<ref name="#2">{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.1486}}</ref>、なかでも[[マリアナ諸島]]が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る日本にとっての太平洋の生命線で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え{{Sfn|ブュエル|2000|p=376}}、その攻略を急ぐべきだと考えていた<ref name="#3">{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.4370}}</ref>。 アーノルドも、中国からではB-29の航続距離をもってしても[[九州]]を爆撃するのが精いっぱいで、より日本本土に近い基地が必要であると考えており、マリアナにその白羽の矢を立てていた。マリアナを基地として確保できれば、ほぼ日本全域を空襲圏内に収めることができるうえ、補給量が限られる空路に頼らざるを得ない中国内のB-29前進基地と比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、大きな理由となった{{Sfn|ルメイ|1991|p=111}}。そこでアーノルドはケベック会談においてマリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=60}}。キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた<ref name="#2"/>。一方でマッカーサーも、[[真珠湾]]から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地[[エニウェトク]]からでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで<ref>{{Harvnb|ニミッツ|1962|p=259}}</ref>、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官{{仮リンク|ジョージ・ケニー|en|George Kenney}}少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『[[曲芸]]』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った<ref>{{Harvnb|イアン・トール|2021|loc=電子版, 位置No.4441}}</ref>。 しかし、陸海軍の有力者である、マーシャル、キング、アーノルドの信念は全く揺らぐことなく、マッカーサーやケニーらの反論を撥ねつけた。キングの計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍のアーノルドを味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドが最終的な目的は異なるとは言え、手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、[[ナチスドイツ]]打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなった{{Sfn|ブュエル|2000|p=377}}。1943年12月の[[カイロ会談]]において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて<ref name="#3"/>、マリアナからの日本本土空襲が決定された{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=60}}。その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったため、[[1944年]]3月に[[アメリカ統合参謀本部]]は[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催し、マッカーサーの代理で会議に出席していた[[リチャード・サザランド]]中将には、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、ニミッツに対してはマリアナ侵攻の[[マリアナ・パラオ諸島の戦い#マリアナ諸島の戦い|フォレージャー作戦]](掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された{{Sfn|ブュエル|2000|p=379}}。 ====カンザスの戦い==== [[ファイル:Birth of the B-29.ogv|thumb|right|「B-29の誕生」というアメリカ軍作成のプロパガンダ映画、B-29の製造、試験飛行、中国での飛行場建設の様子が映されている]] ケベック会談のあとの1943年11月、アーノルドはB-29による日本本土爆撃のための専門部隊となる[[第20爆撃集団]]を編成し、司令官は「ケネス・B・ウルフ特別プロジェクト」の責任者ウルフが任命された。ウルフが育成してきた最精鋭の搭乗員は[[第58爆撃団]]、[[第73爆撃団]] として編成され第20爆撃集団に配属された。各爆撃団はB-29の28機を1群とする爆撃機群4群で編成する計画であった{{Sfn|柏木|1972|p=44}}。1943年11月4日、アーノルドは[[UPI通信社|UP通信]]の取材に対して「有力なる武装を持ち、高高度飛行用に建造された新大型爆撃機は、遠からず対日空襲に乗り出すべく準備されるであろう」と答え日本側を威嚇している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=203}}。 しかし、計画は遅々として進んでおらず、インドと中華民国の飛行場建築はようやく1944年1月から開始されたが、中華民国には建設用の機械はなく、先乗りした第20爆撃集団の搭乗員と数千人の中国人労働者が人力で滑走路上の岩を取り除き、敷き詰める石を割って、数百人が引く巨大な石のローラーで地面ならすといった人力頼みの作業であった。インドでも6,000人のアメリカ軍建設部隊とそれ以上のインド人労働者が投入されたが、悪天候も重なり工事はなかなか捗らず、1944年4月までにどうにか2か所の基地を完成させるのが精いっぱいであった{{Sfn|柏木|1972|p=47}}。 飛行場建設よりも遥かに進んでいなかったのがB-29の製造であり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能なのはわずか16機という惨状であった。1944年2月に自ら[[マリエッタ (ジョージア州)|ジョージア州マリエッタ]]のB-29工場で状況を確認したアーノルドは、技術者を追加派遣するなどの対策を講じた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=71}}。その後、第20爆撃集団のウルフを3月10日にインドに派遣することとしていたアーノルドは、3月8日にベネット・E・マイヤーズ参謀長を連れて第20爆撃集団が出発するカンザス基地を訪れたが、3月10日に発進できるB-29が1機もないとの報告を受けて愕然とした。アーノルドは航空技術勤務部隊司令部に飛び込むと「一体、どうなっているんだ、誰がこれを監督しているんだ」「誰もやらんのなら、俺がやる」と激高して詰り「翌朝までに、不足なものの全部のリストをつくれ! 工場にそれがあるのか、いつそれが渡されるのか」と怒号で指示した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=72}}。アーノルドはのちにこのときを「実情を知って、私はゾッとした」「どの機も飛べる状態になかった。非常手段をとらなければ中国への進出は不可能だった」と振り返っている{{Sfn|ルメイ|1991|p=115}}。 アーノルドは強権を行使してその非常手段を実行した。まずは参謀長のマイヤーズを現場指揮官に任命して製造指揮の統一化をはかった。マイヤーズは陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しく、調整にはうってつけの人物であった。マイヤーズは早速自ら航空部品製造各社と直接交渉してB-29の部品の調達に辣腕を振るった{{Sfn|ルメイ|1991|p=117}}。航空部品などのメーカーは、不足している備品や部品類を納入するまでは、他の一切のものを中止するように命令されるという徹底ぶりであった。これら集められた部品は荒れ狂う吹雪の中、露天の飛行場に並べられたB-29に昼夜を問わず取り付けられた。あまりの労働環境の劣悪さに作業員が[[ストライキ]]を起こす寸前であったが、マイヤーズが労働者の愛国心にうったえてなんとか収まるという一幕もあった{{Sfn|柏木|1972|p=47}}。このB-29の集中製造作戦は『カンザスの戦い』と呼ばれることとなり、3月下旬に、最初のB-29が完成し、インドにむけて出発すると、その後もB-29は続々と完成し、4月15日にはインドに向かったB-29は150機となった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=77}}。 完成したB-29はアメリカを発つと、ドイツ軍にはB-29がドイツ攻撃用と思い込ませる一方、日本軍にはインドに送る計画を秘匿するため、わざわざいったんイギリスを経由してインドまで飛行することとした{{Sfn|柏木|1972|p=48}}。[[1944年]]4月15日に、そのB-29を[[ドイツ空軍]]偵察機が発見、アメリカ軍の目論見通り、高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29を見たドイツ空軍は狼狽し、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機[[Ta 183 (航空機)|Ta183]]の新規開発を急がせることとなるなど、アメリカ側の陽動作戦にまんまとはまってしまった。 ====第20空軍創設==== [[File:45th Bombardment Squadron Boeing B-29-1-BW Superfortress 42-6254.jpg|thumb|right|中国四川の新津飛行場に待機している第45爆撃団のB-29]] インドに配備されることとなったB-29はその強力な戦力ゆえに、在華アメリカ陸軍航空隊司令官[[クレア・リー・シェンノート]]少将や東南アジア地域総司令官[[ルイス・マウントバッテン]]卿など英領インド・中国方面の連合軍各指揮官らが自分の指揮下に置きたがった。その中には南太平洋で戦っている南西太平洋方面最高司令官[[ダグラス・マッカーサー]]大将も含まれていた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=80}}。 指揮系統が混乱してB-29が十分なはたらきができなくなると懸念した軍首脳は、1944年4月4日に[[アメリカ統合参謀本部]]に直属する[[第20空軍 (アメリカ軍)|第20空軍]]を創設、司令官にアーノルドを据えて、参謀長に[[ヘイウッド・ハンセル|ヘイウッド・S・ハンセル]]准将を置いた{{Sfn|柏木|1972|p=51}}。第20空軍を創設した理由について、参謀総長のマーシャルは「新しい爆撃機の力は非常に大きいので、統合参謀本部としては、これをひとつの戦域だけでつかうのは、経済的ではないと考え、新しい爆撃機は一人の指揮官のもとで、統合参謀本部の指揮下におくこととした」「新しい爆撃機は、海軍の機動部隊が特定の目的に向けられると同様に、主要な特定任務部隊としてとりあつかわれるものである」とこのときの決定の趣旨を説明している{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=83}}。 一方、日本軍も着々と進む中華民国からの日本本土爆撃の準備を見過ごしていたわけではなく、1943年12月には大本営陸軍部[[服部卓四郎]]作戦課長総裁のもとに、中国大陸からの本土爆撃対策の兵棋演習が行われ、一号作戦([[大陸打通作戦]])が立案された。翌1944年1月には総理大臣兼陸軍大臣[[東條英機]]大将からの指示で、大陸打通作戦の目的を中華民国南西部の飛行場の覆滅による日本本土爆撃の阻止として、1944年1月24日に大本営命令が発令された{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=227}}。日本軍は[[桂林]]、[[柳州]]地区にB-29が進出すると、東京を含む大都市がすべて爆撃の圏内に入るものと考え攻略することとしたが、アーノルドは、この頃行われていた日本陸軍の攻撃で中国軍が桂林、柳州を防衛できないと判断して、B-29の基地を[[成都]]まで後退させている。日本陸軍は建軍以来最大規模となる10個師団40万人の大兵力を動員し、1944年4月にまずは長沙、その後1944年11月には桂林、柳州の飛行場も占領したが、すでにもぬけの殻であり、作戦自体は日本軍が中華民国軍に多大な損害を与えつつ目的の地域の攻略には成功したが、肝心のB-29鹵獲という最大の目的は達成できなかった{{Sfn|柏木|1972|p=52}}。 同年4月26日、[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]([[一式戦闘機#ビルマ航空戦|ビルマ航空戦]])にて、単機移動中の[[第444爆撃隊|第444爆撃航空群]]所属のB-29が中印国境にて[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]([[陸軍飛行戦隊|陸軍航空部隊]])[[飛行第64戦隊]]の[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]2機と交戦。双方ともに被弾のみで墜落はなかったが、これがB-29の初戦闘となった<ref>梅本弘 『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月、p.73</ref>。日本軍の隼の攻撃を何度も受けて多数の命中弾を受けながら何の支障もなく飛行するB-29に日本軍は衝撃を受け、アメリカ軍は作戦への自信を深めている{{Sfn|ルメイ|1991|p=121}}。 その後、燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は、1944年6月5日に第20爆撃集団に[[タイ王国|タイ]]首都の[[バンコク]]の爆撃を命じたが、これは搭乗員の育成も目的の任務であった{{Sfn|ルメイ|1991|p=125}}。98機のうち48機だけが目標上空に到達したが、残りは機械的故障で引き返したか、進路を見失って目標まで到達できなかったかであった。到達した48機に対しては、日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃があったが、戦闘で失われたB-29は1機もなかった。しかし、爆撃を終えて帰還中に5機のB-29が墜落し、搭乗員15名が戦死ないし行方不明となっている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=95}}。 アーノルドはバンコク空襲の翌日となる1944年6月6日、第20爆撃集団に対して「統合参謀本部は、中国に対する日本軍の圧力を軽減するため、そしてまた6月中旬に予定されているマリアナ諸島にたいするアメリカ軍の上陸作戦と呼応するために、日本本土に対する早期の航空攻撃を要求している」という至急電を打った。司令官のウルフは、先日出撃したばかりであり、日本本土空襲に投入できるB-29は50機に満たないと報告したが、アーノルドは75機以上を投入せよと命令し、ウルフはどうにか燃料や資材をかき集めて75機が出撃できる準備をすると{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=96}}、6月13日に83機のB-29が英領インドから成都の飛行場に進出した{{Sfn|柏木|1972|p=54}}。 ====日本本土爆撃に投入==== [[File:Kawasaki Ki-45.jpg|thumb|right|日本本土に初来襲したB-29を迎撃した二式複座戦闘機「屠龍」]] 成都から[[官営八幡製鐵所|八幡製鐵所]]を主目的としてB-29による日本初空襲が実施された、八幡を初の目標としたのは統合参謀本部の命令であった。1944年6月15日、B-29は75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障で途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した{{Sfn|柏木|1972|p=54}}。この日は早朝にアメリカ軍の大船団がサイパン島に殺到して[[サイパンの戦い]]が開始されており、それに呼応して中華民国のB-29が北九州方面に来襲する可能性が高いと日本軍も警戒していた{{Sfn|渡辺|1982|p=8}}。やがて夜中の11時31分に、[[済州島]]に設置していた[[レーダー]]基地から「彼我不明機、290度、60キロ及び120キロを東進中」という至急電が[[西部軍 (日本軍)|西部軍]]司令部に寄せられた。日本軍のレーダーの性能は低く、これが敵機であるのか判断がなかなかつかなかったが、済州島からは次々と続報が入り、翌16日の0時15分には、[[長崎県]]の[[平戸市|平戸]]と[[対馬]]の[[厳原町|厳原]]と[[五島]]の[[福江市|福江]]を結ぶ線に設置されていた[[超短波警戒機甲]]も敵味方不明編隊を探知、これらの情報を検証すると、この敵味方不明編隊は400km以上の速度で巡航飛行を続けていることが判明したが、日本軍機が帰投や哨戒中にこの空域をこんな高速で飛行するはずがないと判断した西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令した{{Sfn|渡辺|1982|p=12}}。 日本軍は[[飛行第4戦隊 (日本軍)|飛行第4戦隊]]の[[二式複座戦闘機|二式複座戦闘機「屠龍」]]8機を迎撃に出撃させた。飛行53戦隊の[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]4機も出撃可能であったが、まだ錬成が十分でないと判断されて出撃は見送られた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=289}}。やがて1時11分に、高度2,000mから3,000mの高度で北九州上空に現れたB-29に対して、飛行第4戦隊の屠龍が[[関門海峡]]と八幡上空で攻撃を仕掛けたが、日本軍戦闘機の夜間目視での空戦は[[探照灯]]頼みとなり、攻撃の機会は限られていた。またB-29を想定して猛訓練を繰り返してきた飛行第4戦隊であったが、B-29の速度が想定よりはるかに速く、攻撃にもたつくとすぐに引き離されてしまった{{Sfn|渡辺|1982|p=19}}。それでも、のちにB-29撃墜王として名をはせる[[樫出勇]]中尉などが撃墜を報告し、戦果は7機のB-29(確実4機、不確実3機)を報じた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=295}}。ただし、日本軍側は来襲した敵爆撃機の機種を特定できておらず、B-24であったと報告した搭乗員もいた{{Sfn|渡辺|1982|p=24}}。 一方、アメリカ側の記録では、この日の損失は日本軍の戦果判定と同じ7機であったが、うち6機は事故損失及び損失原因未確認、残りの1機は故障により中国の基地に不時着したのち、来襲した日本軍戦闘機と爆撃機により地上撃破されたとしているが{{efn2|B-29の出撃を察知できなかった在中国の[[第5航空軍 (日本軍)|第5航空軍]]が、帰還するB-29に一矢を報いるために偵察を強化していたが、[[一〇〇式司令部偵察機]]が[[河南省]][[内郷県|内郷]]に不時着したB-29を発見して、隼と[[九九式襲撃機]]を出撃させてそのB-29を地上で撃破している。}}{{Sfn|渡辺|1982|p=155}}、空襲後に日本側で調査されたB-29の墜落機2機の残骸には、屠龍の[[ホ203]]の37mm機関砲弾などの弾痕が多数残されており、日本軍は屠龍による撃墜と認定している。このように、当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはかなりの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。そのほか、従軍記者1名を含む55名の戦死も記録されている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=96}}。これが日本内地への本格空襲の始まりであった。邀撃した第19飛行団および西部軍は敵機をB-29と断定できず、航空本部や各技研、審査部が墜落機をチェックするために現地調査に向かった。残骸からマニュアルと機内装備品のステンシルを発見し、新型機B-29であると判断した<ref>渡辺洋二『未知の剣』文春文庫195頁</ref>。墜落機は2機で折尾と若松に落ちており、若松のものはバラバラながら各部の名残りをとどめていたが、折尾のものは爆発炎上し見るべきものは少なかった。この時点まで日本はB-29について推定性能が出されていた程度で写真もなく、正確な形状は不明だったが、残骸の中に敵搭乗員の撮影したフィルムがあり、飛行するB-29の細部まで写っていたことから、日本は初めてB-29の全貌を知った<ref>渡辺洋二『未知の剣』文春文庫30-32頁</ref>。 この空襲の主たる目的であった八幡製鐵所の爆撃による被害は軽微で生産に影響はなかった。爆撃隊は日本による[[灯火管制]]で目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行ったが、爆撃隊は不慣れもあって大混乱しており、地上での爆発を確認した搭乗員はいたが、誰も目標の製鐵所への命中は確認できなかった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=96}}。爆撃に同行していたアラン・クラーク大佐は「作戦の結果はみじめなものだった。八幡地区に落ちた爆弾のうち、目標区域への命中率はごくわずかで、30kmも離れておちたものもいくつかあった。レーダー手がレーダー爆撃になれていないためだった」と評価したが{{Sfn|ルメイ|1991|p=130}}、製鐵所に命中しなかった爆弾が八幡市街地に落下して市民322名が犠牲となった<ref>2017年6月16日毎日新聞西部地区夕刊「八幡空襲 73年前、空襲翌日の八幡 北九州市が写真発見」</ref>。このB-29日本本土初空襲が日本アメリカ双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上に大きかった。日本側は、[[支那派遣軍]]司令官[[畑俊六]]大将が、中国からの日本本土爆撃が近いことを散々陸軍中央に警告し、隷下の第5航空軍には、警戒を強化する指示をしていたのにもかかわらず、その出撃を事前に察知できず、支那派遣軍は陸軍中央に対してメンツを失うこととなった。畑は警戒強化を指示していた第5航空軍司令官[[下山琢磨]]中将を激しく叱責している{{Sfn|渡辺|1982|p=156}}。B-29の想定以上の性能に、西日本の防空体制の早急な再構築が必要とされた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=298}}。軍は受けた衝撃は大きかったが、一般国民には抑制的な報道がなされ、日本側の効果的な迎撃で6機のB-29を撃墜しながら、わが方に損害なしと報じられたが、一部の新聞では「八幡への攻撃は、日本本土全部に渡って不安の大波を立たせることになった」と記事に書いている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=97}}。 一方、アメリカではB-29による日本本土初空襲成功の知らせは、すばらしいニュースとして大々的に報じられ、その扱いはほぼ同時期に行われた[[ノルマンディ上陸作戦]]に匹敵する大きさで、ニュースが読み上げられている間は国会の議事は停止されたほどであった。ノルマンディを訪れていたアーノルドも「この超空の要塞による第一撃は、“まことに全世界的な航空作戦”の開始であり、アメリカは航空戦力としてははじめての、最大の打撃を与えることができる成功無比で、威力絶大な爆撃機を持つに至った」という声明を発表した{{Sfn|柏木|1972|p=56}}。 八幡への初空襲の成功に気をよくしたアーノルドは第20爆撃集団司令官のウルフに、引き続いての日本本土爆撃に加えて、満州や[[スマトラ]]の精油施設などの積極的な爆撃を命じた。日本の戦争遂行能力への打撃という本来の目的だけでなく、中国への日本軍の圧力の軽減と、進行中のマリアナ諸島攻略作戦から目をそらさせようという意図もあった。しかし、第20爆撃集団の最大の弱点である中国国内の前進基地への補給問題は改善しておらず、八幡空襲ののち、中国国内基地の燃料備蓄量はわずか1,900トンとなっており、当面の間は作戦不能となっていた。ウルフはのこの窮状からアーノルドの命令は実行不可能と考えていたが{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=98}}、アーノルドはそいうウルフの姿勢を「非常に素人くさい」と詰り消極的と断じて更迭、ヨーロッパ戦線で活躍して勇名をはせていた38歳の若い将軍[[カーチス・ルメイ]]少将を後任に任命した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=99}}。 ルメイが着任するまでの間、司令官代理のサンダース准将は、アーノルドの求めるままに、7月7日に18機の少数で、長崎、[[佐世保]]、[[大村 (長崎県)|大村]]、八幡、7月26日には60機(72機出撃したが、故障などで12機が脱落)で満州鞍山の[[昭和製鋼所]]、8月10日に60機が一旦[[セイロン島]]の基地まで進出後に[[パレンバン]]の製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃したが、いずれも大した成果を上げることなく終わった{{Sfn|柏木|1972|p=56}}。日本に対する爆撃はいずれも夜間で、初回の八幡と同様に慣れないレーダー爆撃で十分な成果を上げられてないと認識していたサンダースは、唯一相応のダメージ(7.5%の減産)を与えることができた鞍山製鐵所への爆撃の例にならい、次の北九州への爆撃は高高度昼間精密爆撃を行いたいと第20空軍司令部に要望して承認された{{Sfn|渡辺|1982|p=171}}。 [[File:Showa Steel.jpg|thumb|right|ルメイが自らB-29に搭乗して空中指揮により爆撃した昭和製鋼所]] 1944年8月20日、三度目の八幡爆撃が行われたが、今までの2回と異なり今回はB-29の61機による白昼堂々の来襲となった。数度にわたる日本本土への空襲への戦訓により、日本側も防空体制を相当に強化していたうえ、昼間でもあり初回とは異なり、前回同様の二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]合計82機(他5機の一〇〇式司令部偵察機)が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=348}}。前回までと異なり、7,000mもの高空で侵入してきたB-29に対して、高度8,000mで待ち構えていた日本軍機が突進したが、そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と無線発進すると、7,500mの高度で編隊長機であった[[ガートルードC]]に突入、両機はバラバラになって落下したが、ガードルードCのエンジンが編隊2番機であった[[カラミティ・スー]]に命中し、同機も左翼を失い錐揉みを描いて落下していった。野辺は一度に2機のB-29を撃墜することとなった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=352}}。他の迎撃機も活躍し、飛行第4戦隊の森本曹長の屠龍が4機を報告してこの日最大の戦果を挙げるなど、撃墜確実12機、不確実11機の大戦果、前回までは迎撃機の妨害にしかならなかったと揶揄された高射砲も9機撃墜を報告、また[[大村海軍航空隊]]の[[零戦]]と[[月光 (航空機)|月光]]も、長崎一円を哨戒中に五島列島上空でB-29編隊を捕捉し3機撃墜確実、2機不確実を報じた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=354}}。これらの戦果を合計すると、撃墜確実24機、不確実13機となり{{Sfn|渡辺|1982|p=174}}、対して損害は3機未帰還、5機が被弾した。 米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、航空機攻撃4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突で1機、日本機撃墜17を報告している<ref>[http://paul.rutgers.edu/~mcgrew/wwii/usaf/html/Aug.44.html COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES]</ref>。61機の出撃に対しての損失率は22.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった{{Sfn|渡辺|1982|p=175}}。爆撃については、多数の500ポンド爆弾を製鐵所構内に投下させることに成功して、製鐵所は地上施設に相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれたが、48時間後には復旧した。同日は夜間にも10機が夜間爆撃を行い日本軍機も迎撃したが、戦果も損失もなかった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=352}}。大きな損害を被った第20爆撃集団は衝撃を受けたが、それよりも大きな衝撃は、この作戦で損傷したB-29が[[シベリア]]の[[ハバロフスク]]に不時着したが機体が押収され、搭乗員1名が抑留されているというニュースであった。アーノルドはこのニュースを聞くと、「敵の捕虜に対するものであり、決して連合軍将兵に対するものではない」「ゆるすことのできないことだ」と[[ソビエト連邦]]を激しく非難したが、これはソビエト側が[[日ソ中立条約]]を締結している日本を刺激したくないと考えてとった行動で、のちに搭乗員は[[イラン]]国境からアメリカに返された。しかしB-29は返還せず、のちにデッドコピーされて[[Tu-4 (航空機)|Tu-4]]が製造された{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=106}}。 こののちにウルフの後任ルメイが着任した。アーノルドからは作戦飛行の参加を禁じられていたが、ルメイは一度は自らで作戦飛行を経験しないと十分な作戦指揮ができないと考えており、一度だけの条件で作戦の空中指揮の許可をとった。その機会は着任直後の1944年9月8日の満州鞍山の昭和製鋼所への爆撃となり、ルメイはその日出撃した98機のB-29の指揮をとった{{Sfn|ルメイ|1991|p=147}}。日本軍は二式複座戦闘機「屠龍」と二式単座戦闘機「鍾馗」約40機で迎撃したが、高度が7,500mから8,500mの高高度であったことから、高高度性能不足で思うように攻撃ができず、また日本軍機はB-29の速度を見誤っており、ほとんどが有効弾を与えることができなかった{{Sfn|ルメイ|1991|p=148}}。やがて製鐵所に近づくと激しい高射砲の射撃を受け、ルメイの搭乗機も被弾したが、高射砲弾の破片で20cmの穴が開き、2名の搭乗員が軽傷を負っただけで飛行に支障はなかった。この日は4機のB-29が失われたが、合計206トンの爆弾が投下された製鐵所はかなりの損害を被るなど作戦は成功した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=111}}。 その後もルメイはインドを拠点に、九州、満州、東南アジアへの爆撃を継続、11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機は[[シンガポール]]を爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー[[大佐]]機)<ref>『第二次大戦の隼のエース』 p.113</ref>。 ==== 東京初空襲 ==== [[File:B-29s of the 462d Bomb Group West Field Tinian Mariana Islands 1945.jpg|thumb|right|テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29]] サイパン島は7月9日にアメリカ軍の手に落ち、ついで[[グアム島]]、[[テニアン島]]も8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島はアメリカ軍のものとなった。これにより、日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲内に入ることとなった。その重要性を痛感した[[永野修身]]軍令部総長は当時の思いを「サイパンをうしなった時は、まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」と振り返り{{Sfn|柏木|1972|p=80}}、[[防衛総司令部|防衛総司令官]]であった皇族の[[東久邇宮稔彦王]]は「B-29は並外れた兵器であり、このような兵器に対抗する手段は日本にはもうなかった」と考えた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=141}}。 9月3日、[[朝日新聞]]は[[タイム (雑誌)|タイム誌]](1944年〈昭和19年〉6月26日号)に掲載されたB-29の写真を『これがB29だ』というタイトルの記事で紹介した{{Sfn|朝日新聞の太平洋戦争記事|1994|pp=228-229}}。「日本空襲の効果をも見究めずに派手に発表するところに米国式の対内外[[プロパガンダ|宣伝]]と[[陰謀|謀略]]が含まれている」と論評した{{Sfn|朝日新聞の太平洋戦争記事|1994|pp=228-229}}。 マリアナでの飛行場整備は、サイパン島で日本軍と戦闘中であった1944年(昭和19年)6月14日には開始されて、同年10月には、サイパン島、グアム島、テニアン島に合計5か所の飛行場が完成した{{Sfn|柏木|1972|p=81}}。10月12日、マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設されて、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命された。ハンセルはマリアナに向かう第一陣のB-29の1機に搭乗して早々にサイパン島に乗り込んだ{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=143}}。日本軍は[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]より偵察機を飛ばしてマリアナ諸島の飛行場を偵察していたが、1944年(昭和19年)9月23日の[[空中写真|偵察写真]]でB-29が近く配属される準備が進んでいることを確認し、10月下旬には進出が進んでいると分析、11月6日には飛行場に整列しているB-29の写真を撮影することに成功した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=402}}。 11月1日にB-29の偵察型F-13の[[Tokyo Rose|トウキョウローズ]](機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が、ドーリットル以来東京上空を飛行した。11月11日に計画している東京の[[中島飛行機]][[武蔵野]]工場爆撃のための事前偵察が任務であったが、高度10,000 m以上で飛行していたので、日本軍の[[要撃機|迎撃機]]はF-13を捉えることができなかった。この日はほかにも、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など合計3機が、B-29としては初めて東京上空を飛行した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=403}}。トウキョウローズの東京飛行は本家の[[東京ローズ]]を刺激し、東京ローズはその後の対連合軍兵士向けのプロパガンダ放送「ゼロ・アワー」で、「東京に最初の爆弾が落とされると、6時間後にはサイパンのアメリカ人は一人も生きていないでしょう」という物騒な警告を流している{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=146}}。 B-29による[[帝都]][[東京]]への空襲の危険性が高まる中、北九州での戦闘の経験も踏まえて、B-29を確実に撃墜する戦法の検討がなされた。1944年(昭和19年)10月に首都防空部隊であった[[第10飛行師団 (日本軍)|第10飛行師団]]師団長心得[[吉田喜八郎]]少将ら幕僚は、武装、防弾装備や通信アンテナなどを外して軽量化した戦闘機による[[体当たり攻撃]]がもっとも効果的と結論し、これまでのような搭乗員の自発的なものではなく、組織的な体当たり攻撃隊を編成することとした。吉田は隷下部隊に対し「敵機の帝都空襲は間近にせまっている。師団は初度空襲において体当たり攻撃を行い、大打撃を与えて敵の戦意を破砕し、喪失せしめんとする考えである。」と訓示し、体当たり攻撃の志願者を募った<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2007|p=182}}</ref>。同年11月7日に吉田から、隷下1部隊各4機ずつ体当たり機の編成命令が発令された。この対空特攻部隊は[[震天制空隊]]と命名された。 11月11日に予定していた東京初空襲は天候に恵まれず延期が続いていたが、11月24日にようやく天候が回復したため、111機のB-29がそれぞれ2.5トンの爆弾を搭載して出撃した。[[東部軍 (日本軍)|東部軍]]司令部には、[[小笠原諸島]]に設置されたレーダーや対空監視所から続々と大編隊接近の情報が寄せられたため、明らかに東京空襲を意図していると判断した東部軍は隷下の第10飛行師団に迎撃を命じ、正午に空襲警報を発令した{{Sfn|渡辺|1982|p=219}}。迎撃には陸軍航空隊のほか、[[第三〇二海軍航空隊]]も加わり、[[二式戦闘機|鍾馗]]、[[零式艦上戦闘機|零戦]]、[[三式戦闘機|飛燕]]、[[二式複座戦闘機|屠龍]]、[[月光 (航空機)|月光]]といった多種多様な100機以上が、途中で17機が引き返し94機となったB-29に襲い掛かったが、B-29は目標上空では9,150 mを維持せよとの指示を受けており{{Sfn|マーシャル|2001|p=100}}、日本軍機や高射砲弾の多くがその高度までは達せず、東京初空襲で緊張していたB-29搭乗員らは予想外に日本軍の反撃が低調であったため胸をなでおろしている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=148}}。それでも日本軍は震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗の体当たりにより撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じたが{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=413}}、アメリカ側の記録によれば体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=148}}。日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名であったが、主要目標の武蔵野工場施設の損害は軽微であった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=413}}。B-29は[[ノルデン爆撃照準器]]を使って工場施設に限定精密照準爆撃を行なったが、投下した爆弾が目標から大きく外れるなどした結果、命中率は2 %程度だったという<ref name=nhk001>「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」</ref>。次いで11月29日には第73航空団所属29機が初めて東京市街地へ爆撃を敢行。ハロルド・M・ハンセン少佐指揮の機体番号42-65218機が帰路海上墜落、乗員全員戦死したが、この1機の損失のみで作戦を遂行した。この爆撃は、今までの爆撃とは異なり、工場などの特定の施設を目標としない東京の工業地帯を目標とする市街地への「無差別爆撃」のはしりのような爆撃ではあったが、10,000 mからの高高度爆撃であったことや、悪天候によりレーダー爆撃となったこと、攻撃機数が少なかったことから被害は少なかった{{Sfn|小山|2018|p=19}}。 日本軍も、B-29の基地サイパン島に対して空襲を行った。第1回は偵察機型F-13が東京上空に初めて飛来した翌日の1944年(昭和19年)11月2日で、陸軍航空隊 [[九七式重爆撃機]]9機出撃、3機が未帰還となったがアメリカ軍に被害はなかった{{Sfn|柏木|1972|p=101}}。 また、東京がB-29の初空襲を受けた3日後の11月27日に[[報復]]攻撃として、陸海軍共同でサイパンの飛行場を攻撃している。陸軍航空隊[[新海希典]]少佐率いる第二独立飛行隊の[[四式重爆撃機]]2機がサイパン島イズリー飛行場を爆撃し、B-29を1機を完全撃破、11機を損傷させ2機とも生還した{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=414}}。続いて海軍航空隊の大村謙次中尉率いる第一御盾隊の零戦12機が、イズリー飛行場を機銃掃射しB-29を2機撃破し、7機を大破させたが、迎撃してきた[[P-47 (航空機)|P-47]]と対空砲火により全機未帰還となった{{Sfn|渡辺|1982|p=217}}。 新海の第二独立飛行隊は12月7日の夜間攻撃でもB-29を3機を撃破、23機を損傷させている{{Sfn|柏木|1972|p=102}}。 最後の大規模攻撃となったのは同年のクリスマスで、まず[[錫]]箔を貼った模造紙(電探紙、今で言う[[チャフ]])を散布し、レーダーを欺瞞させた後に高低の同時進入という巧妙な攻撃でサイパン島とテニアン島を攻撃し、B-29を4機撃破、11機に損傷を与えている。1945年(昭和20年)2月2日まで続いた日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃により、B-29を19機完全撃破もしくは大破、35機が損傷し、アメリカ軍の死傷者は245名となった{{Sfn|マーシャル|2001|pp=118-143}}。一方日本軍は延べ80機を出撃させて37機を損失したが、日本軍の損失の多くが戦闘機であったのに対して、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被っており、マリアナ諸島への航空攻撃はアメリカの戦略に大きな影響は与えなかったが、相応の効果を挙げていたことになる{{Sfn|柏木|1972|p=104}}。アーノルドはB-29が戦わずして失われていくことに対して神経を尖らせており、ハンセルもB-29を混雑気味のサイパン島イスリー飛行場から、他飛行場へ避難させたり、基地レーダーを強化したり、駆逐艦を[[レーダーピケット艦]]として配置するなどの対策に追われたが、やがて、日本軍の出撃基地であった[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]への攻撃が激化すると、マリアナ諸島への攻撃は無くなった{{Sfn|渡辺|1982|p=219}}。 また日本軍は、航空機によるマリアナ諸島への攻撃と並行して、サイパン島に[[空挺部隊]]で編成した[[特殊部隊]]を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画し<ref>{{Harvnb|山岡荘八|2015|p=556}}</ref>、[[第1挺進集団|挺進集団]]に特殊部隊の編制を命じている。特殊部隊は[[挺進連隊|挺進第1連隊]]の空挺隊員で編成され、[[奥山道郎]]大尉が部隊指揮官に任命された<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.2</ref>。特殊部隊には[[陸軍中野学校]]の[[スパイ|諜報員]]も入れられ、[[モックアップ|原寸大模型]]を用いたB-29の爆破訓練も行われた。この特殊部隊はのちに「[[義烈空挺隊]]」と命名されたが、出撃基地の予定であった硫黄島にアメリカ軍が[[侵攻]]してくる可能性が高くなったため、作戦は中止された<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.9</ref>。のちに義烈空挺隊は[[沖縄戦]]において、アメリカ軍飛行場破壊任務に投入されて、アメリカ軍機9機を破壊炎上、29機を損傷させたのちに全滅し、アメリカ軍を大混乱に陥らせている<ref>[https://specialoperations.com/30928/japanese-special-operations-suicide-attack-paratroopers-yontan-okinawa/ Japanese Special Operations Suicide Attack on Yontan Airfield Okinawa]</ref>。 義烈空挺隊の成功に気をよくした日本軍は、より大規模な空挺特攻作戦となる日本海軍によるサイパン島飛行場への[[剣号作戦]]や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦{{efn2|20 mm機銃で武装した96式小型トラックをグライダーで沖縄のアメリカ軍飛行場に降下させて、飛行場のアメリカ軍機を攻撃するという作戦。}}<ref>公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成17年8月 第64号 P.36</ref>を準備した。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった[[三沢飛行場|三沢基地]]を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。空挺隊員をサイパン島に空輸する予定であった[[一式陸上攻撃機]]25機は、巧妙に[[カムフラージュ]]されていたにもかかわらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした{{Sfn|オネール|1988|p=285}}。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=158}}<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html 八戸市における戦災の状況(青森県)]</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2009-10-27|url=http://feature.daily-tohoku.co.jp/sensou/news/sensou03.htm|title=戦争遺産を訪ねて (3)三沢基地・さびた引き込み線跡 |publisher=[[デーリー東北新聞社]] |accessdate=2019-4-20}}</ref>。 ====名古屋への高高度精密爆撃==== 1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なかった。12月13日から開始された[[名古屋市|名古屋]]の航空機工場への爆撃では大きな効果を挙げた。12月13日のB-29の75機による空襲は8,000mから9,800mからの爆撃であったが{{Sfn|小山|2018|p=21}}、投下した爆弾の16%は目標の300m以内に命中、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=150}}。12月18日にも再度ハンセルは名古屋爆撃を命じたが、今回の目標は三菱の飛行機組み立て工場であった。63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため、前回と同じ8,000mから9,850mの高高度からレーダー爆撃を行ったが{{Sfn|小山|2018|p=22}}、爆撃精度は高く、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれた。この2日間のB-29の損失は合わせて8機であった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=153}}。 ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げたが、この2回目の名古屋空襲と同じ1944年12月18日に、第20爆撃集団司令官ルメイは、中国で[[焼夷弾]]を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を行っている。それは日本軍占領下の中華民国[[漢口大空襲]]であり、ルメイ指揮下の84機のB-29が500トンもの焼夷弾を漢口市街に投下し、漢口はその後3日にわたって燃え続けて市街の50%を灰燼に帰して、漢口の市民(ほとんどが中国人)約20,000人が死亡した<ref>[http://www.chinaww2.com/2015/09/16/the-us-firebombing-of-wuhan-part-2/ "The US Firebombing of Wuhan"]</ref>。市街地への無差別爆撃の有効性を証明したこの爆撃により、アーノルドはルメイを高く評価することとなった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。 漢口で焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいと判断した第20空軍は、ハンセルの後任の参謀長ローリス・ノースタッド准将を通じてハンセルに名古屋市街への全面的な焼夷弾による無差別爆撃を指示した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=152}}。ハンセルはアーノルドに我々の任務は、主要な軍事、工業目標に対して精密爆撃を行うことで、市街地への焼夷弾攻撃は承服しがたいと手紙を書いて直接抗議したが、アーノルドはノースタッドを通じて、航空機工場は引き続き最優先の目標であるが、この実験的な焼夷弾攻撃は「将来の計画の必要性から出た特別の要求に過ぎない」と説いて、ハンセルは不承不承、12月22日の出撃では78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させた。爆撃高度は8,000mから9,800mと引き続き高高度で、今回の目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われており、レーダー爆撃したがほとんど効果はなかった。また日本軍の戦闘機による迎撃も激烈で3機のB-29を失い、焼夷弾爆撃は失敗に終わった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=153}}。翌1945年1月3日にも焼夷弾による実験攻撃が97機のB-29により名古屋に行われたが、効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになった。これは大きな誤りであったことがのちの[[名古屋大空襲]]を含む大都市への無差別焼夷弾爆撃により明らかになる{{Sfn|柏木|1972|p=89}}。 年も押し迫った1944年12月27日にハンセルは今年1年の総括を「その結果は頼もしいものであるが。我々が求めている標準には遠く及ばない」「我々はまだ初期の実験段階にある。我々は学ぶべきことの多くを、解決すべき多くの作戦的、技術的問題を抱えている。しかし、我々の実験のいくつかは、満足とまではいかないとしても、喜ばしい結果を得ており、B-29は偉大な戦争兵器であることを立証した」と報道関係者に発表したが、この見解はアーノルドを失望させた。アーノルドはすでにB-29は実験段階を終えて戦争兵器としての価値を確立しており、それはルメイの第20爆撃集団が証明しつつあると考えており、ハンセルを更迭しルメイにB-29を任せることにした{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=154}}。 ====作戦方針の変更==== [[ファイル:Stilwell LeMay China 1944 LOC.jpg|thumb|1944年10月、中国の飛行場での中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将(左)と[[第20爆撃集団]]司令官カーチス・ルメイ少将(右)]] 1945年元旦、アーノルドは、ハンセルに更迭を伝えるため参謀長のノースタッドをマリアナに派遣し、また指揮権移譲の打ち合わせのためルメイもマリアナに飛ぶよう命じた。この3人はお互いをよく知った仲であり、ノースタッドは第20空軍の参謀長をハンセルから引き継いでおり2人は個人的にも親しかった。またルメイはヨーロッパ戦線でハンセルの部下として働いたこともあった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=154}}。3人とそれぞれの幕僚らは1月7日に手短な打ち合わせを行って、ルメイは一旦インドに帰った{{Sfn|ルメイ|1991|p=178}}。1945年1月20日、ハンセルを更迭し、その後任に中国でB-29を運用してきたルメイを任命する正式な辞令が発令された。アーノルドはルメイの中国での働きぶりを高く買っており、このとき38歳であった若い将軍にアーノルドは「自分のすべて」であったB-29を任せることにした{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=216}}。第20爆撃集団はルメイ離任後には[[クアラルンプール]]に司令部を移して、日本本土爆撃を中止し、小規模な爆撃を東南アジアの日本軍基地に継続したが、1945年3月には最後まで残っていた第58爆撃団がマリアナに合流している{{Sfn|ルメイ|1991|p=179}}。 ルメイが着任するまで、ハンセルの命令による高高度精密爆撃が継続された。1945年1月14日には名古屋の三菱航空機製作所がB-29の73機による再度の爆撃を受けたが、高い積乱雲があり全体的にもやがかかっていたのにもかかわらず爆撃成果は良好であった{{Sfn|小山|2018|p=26}}。この爆撃に対しては[[厚木基地]]から駆けつけてきた、これまで多数のB-29を撃墜破し「B-29撃墜王」として国民的な人気者となっていた[[遠藤幸男]]大尉率いる第三〇二海軍航空隊の[[シュレーゲムジーク|斜銃]]を搭載の「[[月光 (航空機)|月光]]」11機が迎撃したが、指揮官の遠藤がB-29を1機撃墜した直後に他のB-29の集中射撃を受けて、乗機から[[パラシュート]]降下を図るも戦死し、第三〇二海軍航空隊司令官の[[小園安名]]大佐を嘆かせている。この日月光隊は5機を撃墜し、遠藤は通算16機目のB-29を撃墜破したと認定された{{Sfn|豊田穣|1979|loc=電子版, 位置No.203}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=002 |title=日本ニュース 第248号「噫 遠藤撃墜王」|work=NHK 戦争証言アーカイブス|publisher=日本放送協会|language=日本語|accessdate=2019-04-29}}</ref>。アメリカ側の損失記録も5機であった。(1機が出撃中に不時着水、1機が原因不明、2機が帰還中に海上に墜落、1機が基地に帰還するも毀損判定で全壊判定){{Sfn|小山|2018|p=26}}ハンセルによる最後の作戦は、1945年1月17日の[[神戸]][[明石市|明石]]の川崎飛行場に対する爆撃で、62機のB-29が7,500mから8,000mで155トンの爆弾を投下したが、天候に恵まれていたため爆撃の精度は非常に高く、工場の39%を破壊し{{Sfn|小山|2018|p=28}}、一時的に生産能力の90%を喪失させた。日本軍の迎撃もあったが未帰還機は1機もなく、最後にして「(ハンセルによる)最初の完全に成功であったB-29の攻撃」と公式記録に書かれたほどであった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=157}}。 1945年1月20日に着任したルメイも、高高度昼間精密爆撃はアメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンであり、当初はハンセルの精密爆撃を踏襲したが、1月23日と1月27日の航空機工場に対する高高度精密爆撃はほとんど効果がなく、逆に合計11機のB-29を失うという惨めな結果に終わった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=220}}<ref>荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書128-129頁</ref>。前任者ハンセルによる初の東京空襲から1945年2月10日までの16回に及ぶ日本本土空襲で、第21爆撃集団は合計78機のB-29を失っていたが<ref>According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 261 table165</ref>、期待していた戦果を挙げることはできず、ルメイはあがらぬ戦果と予想外の損失に頭を悩ませていた{{Sfn|渡辺|1982|p=268}}。信頼していたルメイも結果を出せないことに業を煮やしたアーノルドは、また、ノースタッドをマリアナに派遣してルメイを「やってみろ。B-29で結果を出せ。結果が出なかったら、君はクビだ」「結果が出なかったら、最終的に大規模な日本上陸侵攻になり、さらに50万人のアメリカ人の命が犠牲になるかも知れんのだ」と激しい言葉で叱咤した{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=111}}。 アーノルドに叱咤されたルメイは大胆な作戦方針の変更を行うこととした。今までは、アメリカ陸軍航空隊の伝統的ドクトリンに基づく、対ドイツの戦略爆撃にならった高高度昼間精密爆撃に固執し、高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、偵察写真を確認したルメイは、ドイツ本土爆撃で悩まされた高射機関砲が日本では殆ど設置されていないことに気が付いた。そこでルメイは爆撃高度を思い切って高度1500m~3000mの低高度に下げることにした。爆撃高度を下げれば、[[ジェット気流]]の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料を節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、あと高高度爆撃では好天を待たなければならなかったが、爆撃高度を下げれば雲の下を飛行すればよく、出撃日を増加できることも大きかった。そして高射機関砲が少ない日本では爆撃高度を下げても損失率は上がらないと見積もった{{Sfn|ルメイ|1991|p=199}}。 [[ファイル:German Japanese Village Dugway.jpg|thumb|350px|M69焼夷弾の実験のためにダグウェイ実験場に作られた日本式家屋、奥は同時に作られたドイツ式家屋]] 使用する爆弾は[[M69焼夷弾]]であったが、この焼夷弾は1943年3月に[[ダグウェイ実験場]]([[ユタ州]])での実戦さながらの実験がおこなわれた。その実験というのは演習場に日本式家屋が立ち並ぶ市街地を建設し、そこで焼夷弾の燃焼実験を行うといった大規模なものであったが、日本家屋の建築にあたっては、ハワイから材料を取り寄せ、日本に18年在住した建築家([[アントニン・レーモンド]])が設計するといった凝りようであった{{Sfn|ルメイ|1991|p=200}}。M69焼夷弾の[[ナパーム]](ゲル化ガソリン)で炎上した日本式家屋は容易に消火できず、日本に最適の焼夷弾と認定された{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=220}}。そして焼夷弾による都市への無差別爆撃の効果は前年の漢口大空襲で実証済みであった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=218}}。 しかし低空では敵迎撃機、対空砲の危険性があるので夜間爆撃とした。当時のアメリカ軍がB-29に搭載できるレーダーは高度5000mが限界だったが、ルメイの案であれば効果が発揮された<ref name=nhk001 />。夜間戦闘機戦力が充実していたドイツ軍と比較して、ルメイは日本軍の夜間戦闘機をさして脅威とは考えておらず{{Sfn|ルメイ|1991|p=201}}、B-29[[尾部銃手|尾部銃座]]以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やすことにした。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された<ref>「アメリカ陸軍機の全貌」1964年酣燈社刊・108頁</ref>。この改造により軽量化ができたため、爆弾搭載を今までの作戦における搭載量の2倍以上の6トンとし、[[編隊]]は数機からなる小編隊が高度を変えて大きな編隊を組むことで弾幕を厚くする防御重視の{{仮リンク|コンバット・ボックス|en|Combat box}}ではなく、イギリス軍がドイツ本土への夜間爆撃で多用した、編隊先頭の練度の高い[[パスファインダー]]の爆撃により引き起こされた火災を目印として1機ずつ投弾するトレイル([[単縦陣]])に変更した{{Sfn|デイビッド|1983|p=156}}<ref>荒井信一『空爆の歴史―終わらない大量虐殺』岩波新書136-137頁</ref>。 ルメイの新戦術の最初の作戦は3月10日の[[東京大空襲]]となった。ルメイは出撃に先立って部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ」と訓示している{{Sfn|マーシャル|2001|p=228}}。325機のB-29は3月9日の午後5時15分にマリアナ諸島のアメリカ軍基地を出撃すると、3月10日の午前0時5分に第一弾を投下した。ルメイはこの出撃に際して作戦機への搭乗を願ったが、このときルメイは[[原子爆弾]]の開発計画である[[マンハッタン計画]]の概要を聞いており、撃墜されて捕虜になるリスクを考えて、自分がもっとも信頼していた {{仮リンク|トミー・パワー|en|Thomas S. Power}}将軍を代わりに出撃させることとした{{Sfn|ルメイ|1991|p=203}}。空襲はルメイの計画通り大成功となり、発生した大火災によりB-29の搭乗員は真夜中にもかかわらず、腕時計の針を読むことができたぐらいであった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=221}}。たった一晩で83,000人の住民が死亡し、26万戸の家屋が焼失したが、他の焼夷弾爆撃と桁違いの被害をもたらせた最大の原因は[[関東大震災]]のさいにも発生した[[火災旋風]]が大規模に発生したためであった。低空飛行をしていたB-29も火災旋風による[[乱気流]]に巻き込まれた。なかには機体が一回転した機もあり、搭乗員は全員負傷し、顔面を痛打して前歯を欠いたものもいた。あまりに機体が上下するので、着用していた防弾服で顔面を何度もたたかれ、最後には全員が防弾服を脱いで座布団がわりに尻の下に敷いている{{Sfn|デイビッド|1983|p=159}}。 3月9日、夜10時すぎに日本軍は[[八丈島]]に配備していた陸軍の実用レーダー[[超短波警戒機乙]]によって機影を探知したが、折からの強風でレーダーのアンテナが激しく揺れてスコープの映像が不正確であり編隊の概要までは掴めていなかった。[[日本標準時]]9日22時30分にはラジオ放送を中断、警戒警報を発令したが、陸軍の[[第10飛行師団 (日本軍)|第10飛行師団]]は何の対策もとらないうちに確認していた2機のB-29は去ったと認識したため、一旦警戒警報を解除している。しかし、3月10日に日が改まろうとする頃に、房総半島南端の[[洲崎]]監視廠がB-29らしき爆音を確認し、慌てて第12方面軍司令部に報告したが、そのわずか数分後の0時8分には東京の東部が焼夷弾攻撃を受けたため、空襲警報は空襲が開始されたのち0時15分となり、市民の避難も日本軍による迎撃も間に合わなかった{{Sfn|渡辺|1982|p=282}}。それでも、第10飛行師団 の[[飛行第23戦隊]]([[一式戦闘機|一式戦「隼」]])、[[飛行第53戦隊]]([[二式複座戦闘機|二式複戦「屠龍」]])、[[飛行第70戦隊]]([[二式単座戦闘機|二式戦「鍾馗」]])の計42機と海軍の[[第三〇二海軍航空隊]]から[[月光 (航空機)|月光]]4機が出撃し、高射砲との戦果を合わせてB-29を15機撃墜、50機撃破の戦果を報じた{{Sfn|渡辺|1982|p=282}}。アメリカ軍側の記録でもB-29が14機失われ、今までの爆撃任務で最大級の損失とはなったが、その劇的な成果と比較すると決して大きな損失ではなかった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}}。 ルメイはこの成功を「近代航空戦史で画期的なできごととなった」と胸をはったが、民間人の大量虐殺について「幸せな気分になれなかった」としつつも、日本軍が[[フィリピン]]でアメリカ兵やフィリピンの民間人に対して行った残虐行為を引き合いに出して、「(大量虐殺が)私の決心を何ら鈍らせなかった」と回想したり{{Sfn|ルメイ|1991|p=207}}、「我々は軍事目標を狙っていた。単なる殺戮のために民間人を殺戮する目的などはなかった・・・我々が黒焦げにしたターゲットの一つに足を向けてみれば、どの家の残骸からも[[ボール盤]]が突き出ているのが見えたはずだ。国民全員が戦争に従事し、飛行機や弾薬を造るために働いていたのだ・・・大勢の女性や子供を殺すことになるのはわかっていた、だが、我々はやらねばならなかった」と当時の日本工業生産の特徴でもあった家内工業のシステムの破壊が目的であり、仕方なかったとも述べているが{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=114}}、戦後には兵士らに向けて「戦争とはどんなものか教えてやろう。君たちは人間を殺さなければならない。そして、できるだけ多く殺したときに、敵は戦いをやめるのだ」とも語っている{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=110}}。 一方で日本の総理大臣[[小磯国昭]]はこの空襲を「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難し{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}}、国民に対しては「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と呼びかけたが<ref>1945年3月11日付読売報知新聞「一時の不幸に屈せず、断じて戦ひ抜け」</ref>、この惨禍はこれから日本全土に広がっていくこととなり、ルメイは、その後も3月11日、B-29の310機で[[名古屋市|名古屋]]([[名古屋大空襲]])、3月13日、295機で[[大阪]]([[大阪大空襲]])、3月16日、331機で[[神戸]]([[神戸大空襲]])、3月18日、310機で再度名古屋を東京大空襲と同様に、夜間低空でのM69焼夷弾による無差別爆撃を行った{{Sfn|小山|2018|pp=41-44}}。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !||日付||死者||焼失建物||B-29出撃数||損失 |- !名古屋1回目<ref>第一二章 名古屋空襲 第三節 市街地空襲 1・3初の市街地空襲 - 名古屋市 p3</ref> ||1945年3月11日||586名||27,803戸||310機||1機 |- !大阪{{Sfn|小山|2018|p=43}}{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}} ||1945年3月13日||3,987名||136,107戸||295機||2機 |- !神戸{{Sfn|小山|2018|p=44}}{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=174}} ||1945年3月17日||2,598名||65,000戸||331機||3機 |- !名古屋2回目<ref>第一二章 名古屋空襲 第三節 市街地空襲 1・3初の市街地空襲 - 名古屋市 p4</ref> ||1945年3月19日||1,027名||39,893戸||310機||1機 |} 東京大空襲からわずか10日間の間に、ルメイは延べ1,595機のB-29を出撃させたが、この機数はそれまでマリアナから日本本土を爆撃した延べ機数の3倍の数であり、投下した9,365トンという爆弾の量も、3月9日までに投下した爆弾量の3倍となった{{Sfn|柏木|1972|p=125}}。日本の都市が焼夷弾攻撃に極めて脆いことが実証され、東京大空襲を境にして対日戦略爆撃の様相は一変してしまった{{Sfn|柏木|1972|p=126}}。ルメイの命令により、一旦はB-29から取り外された尾部銃座以外の防御火器であったが、B-29搭乗員らの士気が減退したためもとに戻させている。しかし、日本軍の夜間戦闘機よりは[[同士討ち|フレンドリーファイア]]を恐れたルメイは、夜間爆撃の際は弾薬は機体下部の銃座のみに支給し、[[サーチライト]]を狙い撃ちするよう命じていたが{{Sfn|ルメイ|1991|p=205}}、日本軍戦闘機の迎撃は低調であり損害は少なかった。 ワシントンではノースタッドが「この5回の空襲が日本に与えた打撃は、今までこんな短い期間の間に、どの国民にあたえたものより大きなものになった」と述べたが、事実その通りで、日本の重要な4都市の80km<sup>2</sup>という広大な地域が灰燼に帰していた。[[ロンドン大火]]の教訓として、可燃建造物の建築を禁止するなど都市防火対策が進んでいたヨーロッパと比較すると、[[関東大震災]]など歴史上度々大火に見舞われたにもかかわらず日本の都市防火対策は著しく遅れており、新兵器M69焼夷弾の威力も合わさって、次々と大都市が猛火に包まれた{{Sfn|柳澤|2008|p=101}}。日本の航空機部品生産の下請工場は主要4都市の工業地帯に蜜集しており、その生産能力は全体の22%を占めていたが、都市人口密集地への無差別爆撃はこれら小規模工業事業者にも大打撃を与えて、日本の家内工業のシステムを破壊し、航空機の生産に重大な損失をもたらせた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=175}}。 [[ファイル:Dinah Might at Iwo Jima.jpg|thumb|硫黄島に緊急着陸したB-29(1945年5月4日撮影)]] 1945年3月26日には[[硫黄島の戦い]]の激戦を経て、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]がアメリカ軍に占領された。硫黄島は防空監視拠点として日本軍に重要だっただけでなく、マリアナ諸島への攻撃の日本軍前進基地としてアメリカ軍としても厄介な存在になっており攻略が急がれた。と同時に1944年11月から開始されたB-29の日本本土空襲により、損傷機や故障機がマリアナのアメリカ軍基地までたどり着けないことも多かったので、緊急用の不時着基地として、また、航続距離の短い護衛用戦闘機の基地としても使用するため、26,040名死傷という大損害を被りつつも攻略したものであった{{Sfn|柏木|1972|p=105}}。 B-29の最初の不時着機は、まだ日本アメリカ両軍が戦闘中であった1945年3月4日に緊急着陸し、その後も終戦までに延べ2,251機のB-29が硫黄島に緊急着陸し、約25,000名の搭乗員を救うことになった。また、[[P-51 (航空機)|P-51D]]を主力とする第7戦闘機集団が硫黄島に進出し、B-29の護衛についたり、日本軍飛行場を襲撃したりしたため、日本軍戦闘機によるB-29の迎撃は大きな制約を受けることとなった{{Sfn|柏木|1972|p=111}}。 ====戦術爆撃任務に投入==== [[沖縄戦]]が始まると、九州の各航空基地から出撃した[[特攻機]]にアメリカ海軍は大きな損害を被った。[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]司令[[レイモンド・スプルーアンス]]中将は「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 とB-29による九州の特攻基地爆撃を要請した<ref name="#5">[[#ブュエル|ブュエル(1990年)]]、546頁。</ref>。ルメイは、B-29は日本の都市を戦略爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を[[戦術爆撃]]任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けた[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ太平洋艦隊]]司令長官兼太平洋戦域最高司令官の[[チェスター・ニミッツ]]元帥からの強い要請により、[[海軍作戦部長]]の [[アーネスト・キング]]がアーノルドに対し「陸軍航空隊が海軍を支援しなければ、海軍は沖縄から撤退する。陸軍は自分らで防御と補給をすることになる」と脅迫し<ref name="#6">[[#ポッター|ポッター(1972年)]]、515頁</ref>、ルメイは渋々B-29を戦術爆撃任務に回すこととしている<ref>[[#ブュエル|ブュエル(1990年)]]、543頁。</ref>。 4月上旬から延べ2,000機のB-29が、都市の無差別爆撃任務から、九州の航空基地の攻撃に転用されたが<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War)"], Washington, 1 July 1946</ref>、日本軍はB-29の来襲をいち早く察知すると、特攻機を退避させるか巧みに隠した。そして爆撃で滑走路に開いた穴はその日のうちに埋め戻してしまった{{Sfn|渡辺|1982|p=320}}。アメリカ軍は飛行場機能を麻痺させるため、B-29が飛行場攻撃で投下していく爆弾に、瞬発から最大36時間までの[[時限爆弾]]を混ぜた。時限爆弾により爆撃後長い時間作戦が妨げられるため、特攻作戦を指揮していた第5航空艦隊司令長官[[宇垣纒]]中将を悩ませたが<ref>{{Harvnb|境田|高木|2004|p=105}}</ref>、これも基地隊員や飛行場大隊の兵士が命がけで処理したので効果は限定的だった{{Sfn|渡辺|1982|p=321}}。B-29は飛行場攻撃に併せて、九州各地の都市にも小規模な無差別爆撃を行った。3月に開始された東京などの大都市圏への無差別焼夷弾爆撃に比べると被害は少なかったが、市街地にも時限爆弾を投下しており、不発弾と勘違いした市民に被害が生じている<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_11.html 総務省 一般戦災死没者の追悼 国内各都市の戦災の状況 鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)]2019年4月25日閲覧</ref>。 結局、B-29は飛行場施設を破壊しただけで、特攻機に大きな損害を与えることができず、特攻によるアメリカ海軍の損害はさらに拡大していった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している<ref>[[#ブュエル|ブュエル(1990年)]]、544頁。</ref>。スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと評価しており、「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊(B-29のこと)のやり方とはまったく対照的である。私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。」と非難している<ref name="#5"/>。 一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」とB-29による特攻基地の破壊は困難であったと総括している<ref name="#6"/>。 ====日本全土を爆撃==== [[ファイル:Firebombing leaflet.jpg|thumb|B-29がばら撒いた爆撃予告ビラの一部。B-29の写真を背景に爆撃予定都市が記載されている。]] 沖縄戦支援のための戦術爆撃任務は5月中旬まで続けられたが、5月14日の名古屋空襲を皮切りに、B-29は本来の大規模焼夷弾攻撃任務に復帰した。補給も強化されて、6月までには常に400機のB-29が全力出撃できる十分な量のM69焼夷弾と航空燃料が準備され、稼働機も常に400機以上が揃っていた{{Sfn|ルメイ|1991|p=215}}。5月14日昼間に529機、5月16日夜間に522機が名古屋市街地と三菱発動機工場を中低空で焼夷弾攻撃したが、高高度精密爆撃では大きな損害を与えられなかった名古屋市街と工場に甚大な損害を与えて、完全に破壊してしまった。焼夷弾で焼失した建物のなかには[[名古屋城]]も含まれていた{{Sfn|柏木|1972|p=132}}。 3月10日の東京大空襲で甚大な被害を受けた東京にも、5月23日の夜間にB-29が558機、5月25日の夜間にB-29が498機という大兵力で再度の大規模焼夷弾攻撃が行われた{{Sfn|小山|2018|pp=130-131}}。5月23日には、前回の東京大空襲と同じ轍を踏むまいと、日本陸海軍の首都防空を担う第10飛行師団と第三〇二海軍航空隊と[[横浜海軍航空隊]]が全力で迎撃し、迎撃機の総数は140機にもなった{{Sfn|渡辺|1982|p=326}}。なかでも飛行第64戦隊(いわゆる「[[加藤隼戦闘隊]]」)で中隊長として勇名をはせた[[黒江保彦]]少佐が[[四式戦闘機|四式戦闘機「疾風」]]で3機のB-29撃墜を記録するなど{{Sfn|柏木|1972|p=136}}、陸軍23機、海軍7機の合計30機の撃墜を報じた。(高射砲隊の戦果も含む)アメリカ軍側の記録でも17機損失、69機損傷と大きな損害を被っている{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=564}}。しかし爆撃により、前回の東京大空襲同様に、強風により大火災が発生して、市民762人が死亡、64,060戸の家屋が焼失するという甚大な被害を被った{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=553}}。5月25日には、日本軍の迎撃はさらに激烈となり、日本軍側は47機撃墜を報じ、アメリカ軍側でも26機損失100機損傷とB-29の出撃のなかで最悪の損害を被ることになった{{Sfn|渡辺|1982|p=326}}。この日の爆撃で、今まで意図的に攻撃を控えてきた[[皇居]]の[[半蔵門]]に焼夷弾を誤爆してしまい、門と衛兵舎を破壊した。焼夷弾による火災は[[表宮殿]]から[[奥宮殿]]に延焼し、消防隊だけでは消火困難であったので、[[近衛師団]]も消火にあたったが火の勢いは弱まらず、皇居内の建物の28,520m{{sup|2}}のうち18,239m{{sup|2}}を焼失して4時間後にようやく鎮火した。地下室に避難していた[[昭和天皇]]と皇后は無事であったが、[[宮内省]]の職員34名と近衛師団の兵士21名が死亡した。また、この日には[[鈴木貫太郎]]首相の[[首相官邸]]も焼失し、鈴木は防空壕に避難したが、防空壕から皇居が炎上しているのを確認すると、防空壕の屋根に登って、涙をぬぐいながら炎上する皇居を拝している{{Sfn|クックス |1971|p=36}}。また、[[阿南惟幾]]陸軍大臣が責任をとって辞職を申し出したが、昭和天皇が慰留したため、思いとどまっている{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=554}}。これまでの空襲で東京の被爆面積は都市全域の半分の145km<sup>2</sup>に及んでおり、もはや日本軍にB-29を押しとどめる力は残っていないことが明らかになった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=181}}。 この東京への2回の爆撃でB-29は今までで最悪の43機を損失、169機が損傷を被るという大きな損害を被ったが、ルメイは爆撃が甚大な損害を与えているのだから、B-29の損害は当然であると考えていた。しかし、第20空軍司令部ではB-29の損失増加を懸念していたので、ルメイは5月29日の[[横浜市|横浜]]への大規模焼夷弾攻撃([[横浜大空襲]])のさいには、B-29の454機に硫黄島に展開する[[P-51 (航空機)|P-51D]]101機を護衛につけた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=182}}。白昼堂々の大規模爆撃であったので、日本軍も陸海軍共同の64機で迎撃、P-51とも空戦になり、アメリカ軍は日本軍戦闘機26機撃墜、9機撃破、23機撃墜不確実と大きな戦果を主張したが{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=182}}、日本軍側の記録によれば未帰還機は2機であった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=付表2}}。P-51の護衛を突破した日本軍戦闘機はB-29を攻撃し、撃墜18機を報じたが{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=付表2}}、アメリカ軍の記録ではB-29の損失が7機、P-51が2機であった{{Sfn|小山|2018|p=133}}。爆撃は成功し、横浜市街はこの1日で34%が焼失し、死者は3,649名、焼失家屋は79,017戸にもなった<ref>横浜市史資料室 横浜の空襲と戦災関連資料 5月29日の被害者数『横浜の空襲と戦災』(第3巻・公式記録編)</ref>。 次いで6月1日のB-29の454機による神戸と大阪の大規模焼夷弾攻撃にもP-51の護衛を出撃させたが、離陸直後に暴風圏にぶつかって、P-51が一度に27機も墜落している。編隊で計器飛行ができないP-51に対しては、B-29が航法誘導する必要があり、ルメイは護衛戦闘機は足手まといぐらいに考えていた。B-29は搭載している防御火器で日本軍機に十分対抗できるため、狭い硫黄島の飛行場に多くの戦闘機を置くのは勿体なく、戦闘機を減らして、B-29を配置すべきとも考えていたが{{Sfn|ルメイ|1991|p=232}}、P-51の護衛により、それまでB-29迎撃の主力であった陸軍「屠龍」海軍「月光」などの運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になってしまった{{Sfn|境田|高木|2004|p=101}}。 この頃には、南方資源地帯からの資材海上輸送の途絶及び、これまでのB-29の無差別爆撃により、日本の航空機生産力は低下しており、日本軍としては航空機使用の選択と集中をせざるを得ず、大本営は敵本土上陸部隊への全機特攻戦法への航空機確保が優先し防空戦闘を局限する方針をとった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=583}}。具体的な運用としては、損害が増大する敵小型機(戦闘機)への迎撃は原則抑制したため、B-29への戦闘機による迎撃はB-29にP-51の護衛がなく有利な状況の時に限る方針となり、P-51の護衛が増えた1945年6月以降は日本軍機の迎撃は極めて低調で、日本軍戦闘機からのB-29の損害は激減している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=148}}。また、防空戦力は、大都市に集中していたので、地方の中小都市については、敵機の跳梁にまかせることとなってしまった。このような防空戦略の後退は、国民の厭戦気分を高めることになった。[[航空総軍]]司令官[[河辺正三]]大将には「国を亡ぼすものは東條なり。大阪を焦土に化するものは河辺なり・・・」などの投書が複数寄せられている。日本において軍の司令官にこのような露骨な誹謗投書が寄せられるのは、河辺の記憶では[[日露戦争]]のおり[[旅順攻囲戦]]で大損害を被った[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]の師団長に対するもの以来であった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=584}}。 その後も名古屋、大阪、神戸の大都市圏には繰り返し大規模焼夷弾攻撃が行われ、1945年4月18日の[[川崎大空襲]]で焼失していた川崎と、東京、横浜を含めた6大都市圏は1945年6月までには破壊しつくされた。6大都市圏713km<sup>2</sup>のうち、B-29に焼き払われたのは274km<sup>2</sup>に及んだが、そのなかには多くの大工場が含まれており、また数百万人の日本人が住居を失った{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=183}}。 [[ファイル:Firebombing of Toyama.jpg|thumb|8月1日の空襲で炎上する富山市街]] B-29は爆撃任務のほかに、日本各地の港湾・航路に空中投下[[機雷]]を散布し[[海上封鎖]]、国内航路に大打撃を与えた([[飢餓作戦]])。特に[[関門海峡]]はじめ主要[[港湾]]や[[海峡]]に多くの機雷を投下、当初は数十機編隊であったが、終戦前にはB-29約400-500機の大編隊で来襲した。同年春以降は、東京・大阪・名古屋など大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。また[[アメリカ軍]]は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成、B-29によって全国32都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。 B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに[[日本の警察|警察]]・[[警防団]]に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知ったとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がった。 日本の大都市を破壊しつくしたルメイは、目標を人口10万人から20万人の中小都市58に対する焼夷弾攻撃を行うこととした。この作戦は6月17日に開始されて、[[鹿児島市|鹿児島]]、[[大牟田市|大牟田]]、[[浜松市|浜松]]、[[四日市市|四日市]]、[[豊橋市|豊橋]]、[[福岡市|福岡]]、[[静岡市|静岡]]、[[富山市|富山]]などが目標となり終戦まで続けられた。このころになると日本国民はアメリカ軍のどの兵器よりもB-29を恐れるようになっており、[[上智大学]]の[[神父]]として日本に在住し、日本人との親交が深かった[[ブルーノ・ビッテル]]によれば「日本国民の全階層にわたって、敗戦の意識が芽生え始めるようになったのは、B-29の大空襲によってであった」と証言している{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=190}}。 1945年6月13日にアーノルドが八幡初空襲からの1周年を祝うためグアム島までやってきた。ルメイになるまで2名の司令官を短期間で更迭したアーノルドであったが、ルメイから[[ダウンフォール作戦]]による日本本土上陸の前に日本を打倒できるという説明を聞き満足をしている。アーノルドから日本を打倒できる時期を尋ねられたルメイは「もう都市目標は残っておらず、間もなくどんな目標もなくなるでしょう」「そのあとは鉄道網の破壊をはじめれるが、これも長くはかかるまい」として、400機規模の空襲を日常的にできるようになった1945年6月から3か月後の1945年9月1日と答えたが、実際の終戦はこれより半月も早かった{{Sfn|ルメイ|1991|p=235}}。 ====原子爆弾投下任務==== {{Main|日本への原子爆弾投下}} [[ファイル:Little Boy being raised for loading into the Enola Gay's bomb bay.jpg|thumb|B-29「エノラ・ゲイ」の爆弾倉に搭載される原子爆弾「リトルボーイ」]] [[マンハッタン計画]]で[[原子爆弾]]の開発が進められていたことは極秘事項であり、アメリカ陸軍航空隊の責任者であるアーノルドがマンハッタン計画の責任者[[レズリー・グローヴス]]准将から計画を聞いたのは1943年7月のことだった。アメリカ軍は自軍の爆撃機に原子爆弾を搭載できる機体がなかったことから、当初はイギリス軍から[[アブロ ランカスター]]の供与を受けることも検討していたが{{Sfn|デイビッド|1983|p=230}}、開発中のB-29に原子爆弾搭載機として白羽の矢が立ち、グローヴスはアーノルドに、この爆弾を搭載し爆撃実験できるような特別機を準備してほしいとの要請を行い、アーノルドは陸軍航空軍総司令部航空資材調達責任者である{{仮リンク|オリバー・エコルズ|en|Oliver P. Echols}} 少将にB-29を原子爆弾搭載可能の改造を行うよう命じた。この計画は、エコルズを含む数名で極秘裏に進められたが、B-29改造担当者は[[ロスアラモス|ロスアラモス原子力研究所]]から2種類の形の原子爆弾を開発していると説明を受けると、その両方の爆弾を搭載可能な改造を行う必要性に迫られた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=196}}。 機密保持のため、2種類の原子爆弾をその形状から、それぞれ「[[Mark 2 (核爆弾)|シンマン]](やせっぽち)」と「[[ファットマン]](でぶっちょ)」、改造計画を「[[シルバープレート]]」と隠語で名付けた。マンハッタン計画を知らない多数の技術者に対しては、シンマンとはルーズベルト、ファットマンはチャーチルのことで、この2名が極秘裏にアメリカ国内を旅行するために使用する[[プルマン (企業)|プルマン式寝台車]]を輸送するための改造であり、ことの重大性から寝台車もシルバープレートという隠語で呼んでいると説明している。のちにシンマンは設計変更で「[[リトルボーイ]](ちびっこ)」と呼ばれることになった。この改造計画は、B-29に新しい爆弾架、まきあげ器、操弾索、懸架装置、投下装置などを装着するものであったが、「カンザスの戦い」で最優先されていたB-29の量産よりもさらに優先事項とされ、B-29による日本本土空襲の開始される前の1944年2月28日には原子爆弾の投下訓練が開始されている。実験により判明した不具合の修正が進められ、エンジンは新型のR-3350-57サイクロンエンジンに換装されて、[[プロペラ]]も冷却能力を高めるため、根元にルート・カフスを装着した逆ピッチも可能な電気式カーチス可変ピッチプロペラとする特別仕様となった{{Sfn|デイビッド|1983|p=231}}。1944年8月にアーノルドはこのシルバープレート機を3機発注し、戦争が終わるまでに54機まで発注を増やし、うち46機が納品されていた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=197}}。 原爆搭載機の製造と並行して、原爆投下のための特別の戦闘部隊の組織していた。指揮官には[[ポール・ティベッツ]]大佐が選ばれたが、ティベッツは1942年8月17日にアメリカ陸軍航空隊として初めてドイツ支配下のフランス[[ルーアン]]を爆撃し、[[北アフリカ戦線]]ではティベッツが指揮するB-17が連合軍最高司令官[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大将の特別機に指定されて、北アフリカや[[ジブラルタル]]にアイゼンハワーを何度も運ぶなど、実績、信頼度ともに非常に高かったが、向こう見ずな性格で上官にも臆せず意見し、また激情家であり、税金を不当に押収しにきた税関職員を[[拳銃]]で脅して追い返したこともあった。のちにティベッツは自分の身の潔白を自らの調査で証明し、逆にこの税関職員が密輸入品で不正に稼いでいたことも判明している{{Sfn|ルメイ|1991|p=239}}。 ティベッツはヨーロッパ戦線から戻ると、1944年春からしばらくB-29搭乗員の訓練教官をしていたが、1944年9月にマンハッタン計画の弾道技術者ウィリアム・パーソンズ海軍大佐と面談し、1944年12月27日に15機の改造B-29を保有する原爆投下部隊である[[第509混成部隊]]の指揮官に任命された。この第509混成部隊は部隊単独で行動できるように、技術中隊、飛行資材中隊、兵員輸送中隊、憲兵中隊も組織され、総勢1,800名ものスタッフで構成されており、さながら私有空軍といった陣容であった{{Sfn|ルメイ|1991|p=246}}。第509混成部隊はユタ州のウエンドーバー基地で訓練をしたが、もっとも大きな問題は原子爆弾を投下したB-29自身が、原子爆弾の衝撃波で吹き飛ばされてしまうのでは?ということであった。ティベッツは、約30,000フィート(9,140m)で原子爆弾を投下すれば、原子爆弾がさく裂するまでB-29は高度差も含めて6マイル(9.7km)離れられると計算したが、B-29を吹き飛ばすのに足りる威力の衝撃波は8マイル(13km)に達すると算出され、残りの2マイルをどう確保するかが問題となった。ティベッツは豊富な経験から、一般的に投下した爆弾は慣性で落下しつつ前方に移動するので、B-29が原子爆弾を投下したのち、155度の急旋回を行なってフルスロットルで飛行すれば、落下する原子爆弾とほぼ逆方向にB-29を退避させることができるため、原子爆弾のさく裂までに必要限度の8マイルは十分に確保できることに気が付いて、第509混成部隊の搭乗員らはこの急旋回の訓練を習性になるまで繰り返し行った。この時点で第509混成部隊のほとんどの搭乗員が、自分達が大型の特殊爆弾の投下任務に就くということは知っていたが、その特殊爆弾が恐るべき破壊力を持つ原子爆弾ということを知らなかった{{Sfn|ルメイ|1991|p=241}}。 [[ファイル:Atomic bomb 1945 mission map.svg|thumb|1945年8月6日広島と8月9日長崎へのB-29進路図、8月9日は小倉を経て長崎に向かい、長崎での任務完了後沖縄に緊急着陸したのちテニアン島に帰還している]] 第509混成部隊は徹底した訓練ののち、シルバープレート機を15機を擁して(終戦時までに29機に増強)1945年5月にテニアン基地に進出した。日本軍はテニアン島に潜伏していた生存兵が尾翼のマークを確認して新しい飛行隊が進出してきたことを確認し、まだ日本軍が支配していた[[ロタ島]]を通じて大本営に向けて報告された。特殊任務部隊との認識はあったが、原爆投下部隊とは知らなかった大本営は、日本軍の情報力を誇示するため、東京ローズにゼロアワーで第509混成部隊進出歓迎のことばを言わせたが、皮肉なことにこの部隊がのちに日本に大惨禍をもたらすことになった{{Sfn|柏木|1972|p=153}}。第509混成部隊は形式上はルメイの指揮下となったが、第21爆撃集団は第509混成部隊に必要な支援を行うだけで、大部分の命令はアーノルドが直接おこなうこととしていた{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=201}}。 原子爆弾の投下目標都市については、爆撃による被害が少なく原子爆弾の威力を検証しやすい都市が選ばれ、広島、[[小倉]]、横浜(5月の大空襲により候補から除外)、[[京都]]などが候補にあがり、グローヴスは人口108万人の京都が原子爆弾の威力を測るのにもっとも相応しいと主張したが、陸軍長官の[[ヘンリー・スティムソン]]が「京都は極東の文化史上重要で芸術品も数多い」という理由で候補から外させている。原子爆弾投下目標の選定が進む中で第509混成部隊は集中的な実地訓練を継続しており、原爆投下時は搭載機1機と効果を測定するため科学者や技術者を乗せた偵察機2機の3機編隊で飛行する計画となっており、2~6機の少数機で数度日本上空の高高度飛行訓練を行ったり、[[パンプキン爆弾]]と名付けられた原子爆弾を模した大型爆弾による精密爆撃訓練などを行った{{Sfn|ルメイ|1991|p=243}}。1945年7月20日にはパンプキン爆弾投下訓練のため東京を飛行していた[[クロード・イーザリー]]少佐操縦の[[ストレートフラッシュ (航空機)|ストレートフラッシュ]]号で、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの提案により、攻撃が禁止されていた皇居にパンプキン爆弾を投下することとなった。しかし、皇居の上空には雲が立ち込めており、レーダー照準での爆撃となったので、パンプキン爆弾は皇居には命中しなかった。日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部によりイーザリーらは厳しく叱責されたが、原子爆弾投下任務から外されることはなかった{{Sfn|アレン|ボーマー|1995|p=117}}。 1945年[[7月16日]]、[[トリニティ実験]]が成功したが、その知らせはルメイらごく一部の司令官、参謀にしか伝えられず、依然として第509混成部隊の搭乗員らも新型爆弾の正体を知らされていなかった。テニアン島に重巡洋艦[[インディアナポリス (重巡洋艦)|インディアナポリス]]が「リトルボーイ」を運び込んだときも機密保持の状況に変更はなかった。1945年7月25日にグローヴスから原爆投下命令が発され、8月2日には第509混成部隊名で出された野戦命令第13号で8月6日に第1目標広島、第2目標小倉に原子爆弾を投下すると決定した。ルメイ自身はこの決定に直接関与はしなかったとのことだが、広島が選ばれた理由を「当時の日本では軍都のイメージが強い」であったからと推測している{{Sfn|ルメイ|1991|p=245}}。 8月4日にティベッツは自らB-29を操縦して最後のパンプキン爆弾投下訓練を行ったが、出撃前に搭乗機に他の搭乗員と相談して、操縦士の窓のちょうど下のところにティベッツの母親(エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets))の名前である「[[エノラ・ゲイ]]」と[[ノーズアート]]し、これがこの機体の愛称となった。ティベッツは前日の8月5日に明日の任務のことを搭乗員に説明したが、このときも原子爆弾のことについては一切触れず、出撃の数時間前になってようやくトリニティ実験の写真を搭乗員に見せている{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=204}}。エノラ・ゲイはティベッツが自ら操縦することとした。アメリカ陸軍航空隊では原則的に司令官自らの空中指揮を禁止しており、ルメイもその規則を守って1945年3月10日の東京大空襲での空中指揮を断念した経緯もあってティベッツに再考を促したが、ティベッツは最初から自ら空中指揮を執ると決めており、最終的にはルメイも同意している{{Sfn|ルメイ|1991|p=247}}。 テニアン島には多数のマンハッタン計画のスタッフたちも出撃の状況を見守っていたが、離陸直後のB-29が墜落する様子をよく見ていたスタッフたちはエノラ・ゲイが離陸直後に墜落してテニアン島で原子爆弾がさく裂しないように、離陸に成功してのちに起爆装置を作動することとし弾道技術者のパーソンズをエノラ・ゲイに搭乗させて機上で作動操作を行わせることとした。リトル・ボーイを搭載しパーソンズを乗せたエノラ・ゲイはティベッツの操縦で午前2時45分にテニアン島から出撃した。その後に先行していた気象観測機ストレートフラッシュ号から第1目標の広島の天候は良好との知らせが入り、計画通り広島に初めての原子爆弾が投下されることになった{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=206}}。広島が悪天候のときも考慮して、第2の目標とされた小倉には「ジャビット三世」、第3の目標の長崎には「[[フルハウス (航空機)|フル・ハウス]]」も天候観測のために飛行していた{{Sfn|デイビッド|1983|p=235}}。 エノラ・ゲイは計画よりわずか17秒の超過だけで、午前9時15分17秒(日本の時間では8時15分17秒)にリトルボーイを投下し、ティベッツは何度となく訓練したように155度の右旋回を入れて急速離脱した。リトルボーイは投下後43秒でさく裂したが、エノラ・ゲイはティベッツの計算通り9マイル先に離脱しており無事であった。それでも衝撃波が激しく機体を震わせた{{Sfn|ルメイ|1991|p=247}}。一瞬のうちに広島では、78,150人の市民が死亡し、70,147戸の家屋が半壊以上の損害を受けた。[[中国軍管区]]は[[豊後水道]]を北上するエノラ・ゲイ3機を発見し7時9分に警戒警報を発令していたが、うち1機のストレートフラッシュが一旦広島上空を通過して[[播磨灘]]方面に去ったので、7時31分に警報解除している。その後8時11分に松永対空監視所がエノラ・ゲイと観測機[[グレート・アーティスト]]号が高度9,500mで接近してくるのを発見したが、時すでに遅く充分な対応ができなかった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=627}}。 [[ファイル:Nagasaki mission crew.jpg|thumb|長崎に原子爆弾を投下したボックスカーのクルー、中央の黒っぽいジャケットを着ているのが指揮官のチャールズ・スウィーニー中佐、うしろのB-29がボックスカー、この写真は長崎への原子爆弾投下2日後に撮影されたものであるが、この時点ではまだノーズアートは描かれていない]] 原爆投下成功の知らせは、[[ポツダム会談]]からの帰国中のトルーマンにも報告され、トルーマンは「さらに迅速かつ完全に日本のどこの都市であろうが、地上にある生産施設を抹殺してしまう用意がある。我々は、彼らの造船所を、彼らの工場を、彼らの交通を破壊するであろう。誤解のないよう重ねていうが、我々は日本の戦力を完全に破壊するであろう」という談話を発表した{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=206}}(詳細は[[広島市への原子爆弾投下]]参照)。 広島の3日後が次の原子爆弾投下の日に選ばれた。短期間の間に2回も原子爆弾を投下するのは、日本側にいつでも原子爆弾を投下できるストックがあると知らしめることが目的であったが、実際は次に投下する予定のファットマンがアメリカ軍が製造していた最後の原子爆弾であった。初回の任務を成功させたティベッツは2回目は信頼できる部下に任せることとし、広島の際に観測機グレート・アーティストの機長であった[[チャールズ・スウィーニー]]中佐がB-29[[ボックスカー]]号に搭乗して原子爆弾投下任務を行うことになった{{Sfn|ルメイ|1991|p=251}}。目標は小倉か[[新潟市|新潟]]のいづれかに絞られたが、新潟は工業が集中している地区と小さな工場を含んだ居住地域の距離が遠いという理由で第1目標が小倉、そして第2目標を同じ九州の長崎と定めた。ただし長崎は丘と谷に隔てられた地形であり好目標ではなかった{{Sfn|柏木|1972|p=169}}。1945年8月9日テニアン島を出撃したボックスカーは、午前8時43分に小倉上空に達したが、天候不良で小倉は厚い雲に覆われており、やむなく第2目標の長崎に向かった。長崎も天候は不良であったが、レーダーで爆撃進路をとっているときに一瞬雲の切れ目が見えたので、午前10時58分にファットマンを投下し、ボックスカーは燃料不足のためマリアナには戻らずそのまま沖縄に向けて飛行した{{Sfn|柏木|1972|p=170}}。 日本軍も広島への原子爆弾投下以降警戒は強化しており、[[国東半島]]から北九州地区に向かう2機のB-29を発見したが、[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]は広島と同様の編成であったのでこれを原子爆弾搭載機と判断し10時53分に空襲警報を発令した。[[第16方面軍 (日本軍)|第16方面軍]]司令部は、敵機の目標は長崎と判断しラジオを通じて「B-29少数機、長崎方面に侵入しつつあり。全員退避せよ」という放送を繰り返し流させたが{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=647}}、事前の空襲警報やラジオ放送はほとんどの長崎市民には認知されておらず(ラジオ放送そのものがなかったという証言もあり)長崎市民が大規模な避難をすることはなかった<ref>2017年6月10日西日本新聞「投下9分前 幻の空襲警報 軍が「原爆搭載機」察知 退避命令はさく烈直後」</ref><ref>2004年7月28日長崎新聞「60年目の検証 =原爆戦災誌改訂へ 退避勧告 本当に連絡あったの」</ref>。ファットマンのさく裂で長崎でも一瞬のうちに23,752人もの市民の命が奪われた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=649}}。(詳細は[[長崎市への原子爆弾投下]]参照) アメリカでは「これらの戦果により、日本の終戦を早め「[[本土決戦]]」(日本上陸戦・[[ダウンフォール作戦|オリンピック作戦]])という大きな被害が予想される戦いを避けることができた」自称している。この評価もあって1947年に陸軍航空隊は陸軍から独立して[[アメリカ空軍]]に改組された。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元され[[スミソニアン博物館]]に展示されることとなった。また、ボックスカーは[[国立アメリカ空軍博物館]]に実機が保管されている。 長崎に原爆が投下されて6日後の1945年8月15日、日本は[[ポツダム宣言]]を受諾して戦争は終わった。終戦までにB-29は147,000トンの爆弾(うち100,000トンが焼夷弾)を投下し、日本の66都市の40%を焦土と化し、45万人が死亡して600万人が家を失った。また飢餓作戦で投下された12,000個の機雷で海上輸送も断絶しており、これ以上の抗戦は不可能なところまで追い込まれていた{{Sfn|柏木|1972|p=174}}。戦後にB-29の戦略爆撃の効果を調査したアメリカ戦略爆撃調査団は「たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえソ連が参戦しなかったとしても、さらにまた、上陸作戦が企画されなかったとしても、日本は1945年末以前に必ず降伏しただろう」と結論づけているが{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=228}}、これはアメリカ戦略爆撃調査団による「内輪」のものであることに注意が必要で、実際アメリカ軍は本土決戦となった場合、終戦は1946年後半以降になったと予想している。 [[香淳皇后]]は、ポツダム宣言受諾の[[1945年]][[8月15日]]から数日後、疎開先の[[皇太子]]([[上皇明仁|継宮明仁親王]])に手紙を送っている。その中には「こちらは毎日 B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横むじんに大きな音をたてて 朝から晩まで飛びまはつています B-29は残念ながらりつぱです。お文庫の机で この手紙を書きながら頭をあげて外を見るだけで 何台 大きいのがとほつたかわかりません。」と書かれていた<ref>2018年8月15日毎日新聞東京朝刊「余録 こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに…」</ref>。 [[ファイル:Boeing B-29 Superfortress on supply mission flies over Nagasaki, Japan, in September 1945.jpg|thumb|1945年9月終戦直後の長崎の捕虜収容所へ飛来し救援物資を投下するB-29、主翼下部に「捕虜供給物資」とペイントされている]] B-29の第二次世界大戦最後の任務は、日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。8月27日の[[北京]]近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、長崎県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動したが、[[長崎俘虜収容所]]で物資を投下したB-29がその後に近くの山腹に激突して搭乗員全員が死亡したように、この任務中にも数機のB-29が墜落している{{Sfn|クラーク|1988|p=139}}。 B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ{{Sfn|デイビッド|1983|p=240}}、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった{{Sfn|デイビッド|1983|p=242}}。物資のいくつかはパラシュートが外れて、まるで爆弾のように落下し、建物を破壊したり、時には地上で物資を待ちかねていた捕虜に直撃して命を奪うこともあった{{Sfn|クラーク|1988|p=141}}。 === 朝鮮戦争 === [[ファイル:Boeing B-29A-40-BN Superfortress 44-61669.jpg|thumb|夜間任務用に下面が黒色に塗装されたB-29A(1953年撮影)]] 大戦後も[[冷戦]]構造が顕在化した[[1948年]]の[[ベルリン封鎖]]の折には、[[ソビエト連邦|ソビエト]]の[[西ベルリン]]への包囲網に対抗し[[西側諸国]]が空輸作戦を展開した。アメリカ軍はベルリンから一歩も引かないという政治的アピールも兼ねて、この空輸作戦にB-29を投入することとした{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=210}}。最大でイギリス国内の7か所の航空基地に90機のB-29が送り込まれて空輸作戦に従事するとともに、西ベルリンを包囲するソビエト軍を牽制した。ソビエトは核兵器搭載可能なB-29を脅威に感じていたが、空輸作戦に投入されたB-29にはシルバープレート機はおらず、核兵器の搭載能力はなかった{{Sfn|ベイリス|1988|p=56}}。 [[1950年]]6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエトの支援を受けつつも[[朝鮮人民軍]](共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の[[制空権]]を有し、洛東江(ナクトンガン)戦線では、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中の北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下して、絨毯爆撃を加えるなど、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。 しかし1950年10月19日、[[中国人民志願軍]]が参戦すると、同軍のソ連製戦闘機[[MiG-15 (航空機)|MiG-15]]が戦闘空域に進出、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/h、装備する37mm機関砲も強力で、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭には[[ロッキード]][[F-80]]などアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕していた。北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、悠々と爆撃していたB-29は11月1日に初めてMiG-15から迎撃された。この日は損害こそなかったが、爆撃兵団の雰囲気はがらりと変わり、最高司令官のマッカーサーは政治的制約を破棄して、日本本土爆撃のときと同様に、戦略目標に対する焼夷弾攻撃を命じた{{Sfn|デイビッド|1983|p=253}}。平壌にも昼夜にかけ爆撃を加えた。1994年に死去した[[金日成]]は生前、「アメリカ軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた<ref>韓国中央日報日本語版2013年03月24日</ref>。 B-29には戦闘機の護衛がつけられたが、その連携が乱れると大きな損害を被ることになった。ある日18機のB-29が護衛戦闘機との合流地点に向けて飛行していると、合流前に9機のMiG-15に襲撃された。B-29は10機が損傷して、墜落機こそなかったがそのうち3機は[[大邱広域市|大邱]]に緊急着陸を余儀なくされた。1951年4月12日には、中朝国境の鉄橋を攻撃するため出撃した39機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、多数の戦闘機に護衛されていたにもかかわらず、その護衛を潜り抜けたMiG-15が2機のB-29を撃墜し8機を撃破している{{Sfn|デイビッド|1983|p=260}}。B-29は危険回避の為、低空爆撃を止め、20,000[[フィート]]からの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステム{{仮リンク|SHORAN|en|SHORAN}}を使用しての夜間爆撃を行った。B-29は主に日本の[[横田基地]]か[[嘉手納飛行場]]から出撃していたが、朝鮮半島で損傷を受けた機は[[福岡県|福岡]]の[[板付]]にあったアメリカ軍の予備飛行場に不時着した。板付には当時、B-29のクルーらが「世界一」と称した良質な[[温泉]]や豊富な食料や娯楽施設があり非常に人気が高かったという。板付のアメリカ軍予備飛行場はその後に大半が返還されて[[福岡空港]]となった{{Sfn|デイビッド|1983|p=253}}。 アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽[[後退翼]]を持つ高速最新鋭機[[F-86 (戦闘機)|F-86Aセイバー]]を投入、制空権の回復に努めた。B-29も北朝鮮の飛行場すべてに徹底した爆撃を加えて、MiG-15を使用できないようにしている{{Sfn|デイビッド|1983|p=262}}。当初はMiG-15に苦戦したが、その後は損失も減り、北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。特に重要な目標となったのは、「中国人民志願軍」が中華人民共和国本土から続々と送り込まれてくるときの進路となる、中朝国境の[[鴨緑江]]に架けられた多くの橋梁であり、これらは日本が朝鮮半島を支配していた時に架けたもので非常に頑丈な造りであったので、B-29は最大で12,000ポンド(5,800kg)にもなる巨大な無線[[手動指令照準線一致誘導方式]]の[[ASM-A-1 Tarzon]]で橋梁を精密爆撃して合計15か所の橋梁を破壊した{{Sfn|デイビッド|1983|p=263}}。 朝鮮戦争休戦までにB-29は、日本本土爆撃任務に匹敵する延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破している。その他4機が高射砲で撃墜され、14機が他の理由で失われたが、合計損失数は34機で損失率は0.1%以下であり、日本軍を相手にしていたときの損失と比べると軽微であった<ref>[http://www.joebaugher.com/usaf_bombers/b29_12.html B-29 in Korean War 2016年6月2日閲覧]</ref>。しかし、第二次世界大戦終戦時に大量に生産したB-29の多くはすでに退役し、朝鮮戦争でのB-29の平均的な稼働機は100機程度と激減しており、たとえ対日戦の1/10以下の損失であっても、当時のアメリカ軍にとっては大きな損害であった{{Sfn|デイビッド|1983|p=270}}。また、F-86Aセイバーによる護衛や、夜間爆撃を多用しなければこの損害はさらに増大していたので、B-29の兵器としての存在価値は大きく下落していった{{Sfn|ルメイ|1991|p=272}}。 === その後 === [[ファイル:B-36aarrivalcarswell1948.jpg|thumb|B-29(左)と後継機B-36(右)]] 信頼性が低いライト R-3350エンジンの換装は現場からの切実な願いであり、より信頼性が高く強力な[[プラット・アンド・ホイットニー R-4360]]エンジンを搭載したB-29の開発が急がれた。開発は1944年7月に開始され、1945年5月には試験飛行にこぎつけたが、結果は良好で最高速度はB-29よりも80kmから100kmは速い640kmとなった。エンジンの換装に付随して機体の強化と垂直尾翼の拡大など、全体的に洗練されてより完成度が高くなった。当初はB-29の型のひとつとして「B-29D」と呼ばれていたが、のちにB-29の後継機「[[B-50]]」として正式採用されて200機の発注が行われたが、第二次世界大戦の終戦により60機に減らされた。その後の朝鮮戦争などの実戦任務には引き続きB-29が投入されてB-50が実戦を経験することはなかった<ref>[https://www.globalsecurity.org/wmd/systems/b-50.htm "B-50 Superfortress"] 2019年4月15日閲覧</ref> B-29はB-50や[[B-36 (航空機)|B-36]]などの後継機とともに対ソビエトの核戦略に組み込まれることになった。その[[デモンストレーション]]として、1948年に、「ラッキーレディー・ワン」と名付けられた機を含む3機のB-29で、世界各地の8か所の基地に着陸して給油を受けながら世界一周飛行を計画したが、そのうちの1機は[[アラビア海]]で墜落している。しかし、「ラッキーレディー・ワン」ともう1機のB-29は、飛行距離32,000 km、飛行時間103時間50分、所要日数15日間で世界一周飛行を成し遂げて、同盟国とソビエトなど東側陣営にB-29の飛行能力を見せつけている<ref name="#7">[https://www.afhistory.af.mil/FAQs/Fact-Sheets/Article/458978/lucky-ladies-i-ii-and-iii/ "Lucky Ladies I, II and III"] 2019年4月17日閲覧</ref>。さらに航続距離の延伸をはかるため、92機のB-29が[[空中給油機]]に改造されて(KB-29M)、74機がその受油機として改造された(B-29型MR)<ref>[http://www.joebaugher.com/usaf_bombers/b29_22.html "KB-29M tanker, B-29MR receiver"] 2019年4月16日閲覧</ref>。アメリカ軍は、戦略爆撃機の攻撃距離を誇示するために、地上で給油しないノンストップの世界一周飛行を計画し、その任務はB-29「ラッキーレディ・ワン」の後継機、B-50「[[ラッキーレディ・ツー]]」号に委ねられた。「[[ラッキーレディ・ツー]]」は、KB-29Mの空中給油を受けながら、37,342kmを94時間1分で飛行して世界一周無着陸飛行を成功させている<ref name="#7"/>。 B-29は[[超音速]]飛行の実現にも貢献した。アメリカ軍は超音速実験機[[X-1 (航空機)|X-1]]を開発して実験を繰り返したが、その際にX-1を空中射出する母機としてB-29の改造機(EB-29-BW)が用いられた。この様子は映画[[ライトスタッフ]]に登場したが、この映画を見た日本軍の元技術士官[[三木忠直]]は、自らが開発を担当した[[特攻兵器]][[桜花 (航空機)|桜花]]の運用法に酷似していることに驚いている{{Sfn|加藤|2009|p=487}}。 他に長距離戦略爆撃機の護衛試作機[[XF-85 (航空機)|XF-85]]の母機としても使用されるなど、様々な試験や実験でアメリカ軍航空戦略に貢献したが、これらの派生任務も後継機のB-50に引き継がれて1960年には退役した。後継機B-50の空中給油機は[[ベトナム戦争]]でも活躍し、1965年に退役した<ref>[http://cgibin.rcn.com/jeremy.k/cgi-bin/gzUsafSearch.pl?target=&content=B-50 "Serial Number Search, B-50 48-065."] ''rcn.com.''2019年4月15日閲覧</ref>。 [[1953年]]に[[テックス・アヴェリー]]により、B-29を[[擬人化]]し妻子を持たせた米国製アニメ『[[ぼくはジェット機]]』が製作され、日本でもテレビ放映された。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図が描かれている。 陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開され、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。 [[グリーンランド]]には[[1947年]]に不時着したB-29[[キーバード]]が20世紀末まで存在していた。[[1994年]]、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している<ref>『幻の大戦機を探せ』(カール・ホフマン、文春文庫刊)</ref>。 == 第二次世界大戦におけるB-29の損失 == === B-29損失数の各種統計 === [[ファイル:B-29 shot down by flak.jpg|thumb|日本軍の高射砲が直撃し墜落するB-29]] B-29の損失数は資料によって異なり、日本の戦後の統計では損失合計714機<ref>「<sup>別冊週刊読売</sup>・飛行機100年の記録」読売新聞社1970年刊</ref>(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という読売の資料がある。 アメリカ軍による第二次世界大戦でのB-29損失の統計も資料によって異なるので列挙する。 '''[[米国戦略爆撃調査団]](USSBS)による統計'''{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=222}}{{Sfn|柏木|1972|p=174}}{{Sfn|Zaloga|2010|p=55}} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !||日本本土を爆撃したB-29 |- !延べ出撃機数 |33,401機 |- !作戦中の総損失機数 |'''485機''' |- !延べ出撃機数に対する損失率 |1.45% |- !作戦中の破損機数 |2,707機 |- !投下爆弾 |147,576トン |- !搭乗員戦死 |'''3,044名''' |} '''B-29所属部隊の戦績と損失'''(アメリカ空軍 第9爆撃航空団統計)<ref>[http://www.9thbombgroup.org/9thHistoryBook.pdf History of the 9th bombbardment]2016年6月4日閲覧</ref> {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !||第20空軍<br/>1944年6月5日以降 |- !作戦数 |380 |- !戦闘出撃機数 |31,387 |- !その他出撃数 |1,617 |- !出撃機数合計 |33,004 |- !投下爆弾・機雷トン |171,060 |- !戦闘損失数<ref>Losses due to Enemy Action on Combat MissionsとNon-Enemy Action on Combat MissionsでEnemy ActionはAir to Air、Ground Fire、Cause Unknown。Non-Enemy ActionはOther Losses、Missing or Unknown Causeである。</ref> |'''494''' |- !アメリカ本土での訓練損失 |260 |- !損失合計 |'''754''' |- !搭乗員戦死 |576 |- !搭乗員行方不明 |2,406 |- !搭乗員戦傷 |433 |- !搭乗員死傷者合計 |'''3,415''' |} '''第20空軍の航空機種類、損失原因別の戦闘任務での損失([[アメリカ陸軍航空軍]]統計管理室による統計-Table 165)'''<ref>According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 261</ref><ref>https://archive.org/details/ArmyAirForcesStatisticalDigestWorldWarII</ref> {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !||損失機数合計||敵戦闘機による損失||対空火器による損失||戦闘機と対空火器共同||その他・損失原因未確認を含む |- !第20爆撃機集団 ||80||21||7||||51 |- !第21爆撃機集団 ||334||53||47||19||216 |- !合計 ||'''414'''||'''74'''||'''54'''||'''19'''||'''267''' |} [[ファイル:Captured Kawasaki Ki-61 in flight near NAS Patuxent River in 1945.jpg|thumb|B-29迎撃に活躍した三式戦闘機「飛燕」通常の攻撃のほか体当たりでもB-29撃墜を記録している。写真は1945年6月にアメリカ国内でテストされている鹵獲機]] アメリカ陸軍航空軍統計管理室統計をもって日本軍に撃墜されたB-29の総数は147機とされることがある{{Sfn|カール・バーカー|1971|p=76}}。この統計の損失原因のその他(other causes)については故障や事故を含むが、もっとも多いのは未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)であり<ref>Summary of XXI Bomcom Missions/Resume 20th Air Force Missions</ref>{{Sfn|小山|2018|p=22}}、その中にも相当数の日本軍による撃墜数も含まれている。例えば、東京大空襲と呼ばれる任務番号40号、1945年3月9日(爆撃は翌10日未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が325機出撃し損失が14機、内訳は日本軍の対空火器での撃墜2機、事故1機、その他4機(3機が燃料切れ墜落、1機不明)、7機が原因未確認とされている。原因未確認の7機はすべて連絡のないまま行方不明となった機であるが{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=185}}、この日に出撃して無事帰還したB-29搭乗員からは、東京上空で7機のB-29がおそらく撃墜されたという報告があり{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=200}}、さらに行方不明の1機については[[犬吠埼|銚子岬]]の上空で4本の探照灯に捉えられて、大小の対空火器の集中砲火で撃墜されたという詳細な報告があったのにもかかわらず、原因未確認の損失とされ{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=185}}、この日に日本軍により撃墜されたと判定されたのは、東京上空で対空火器で撃墜された1機と、対空火器による損傷で不時着水して搭乗員全員が救助された1機の合計2機のみに止まった。当時のアメリカ軍は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失と認定するにはよっぽどの確証が必要で、それ以外は未知(ないし未確認)の原因(lost to unknown reasonsもしくはcauses)とする慣習であったので、原因未確認の損失が増加する傾向にあった{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。 B-29が最大の損失を被った任務番号第183号、1945年5月25日(爆撃は翌26日の未明まで)の東京市街地に対する夜間無差別爆撃では、B-29が498機出撃に対して26機を失っているが、日本軍に撃墜されたと記録されているのは対空火器で撃墜された3機のみで、対空砲と戦闘機の攻撃で大破し硫黄島近辺で放棄された2機と原因未確認で損失した20機は、アメリカ軍の記録上は日本軍の攻撃(Enemy Action)による損失には含まれていない{{Sfn|小山|2018|p=131}}。しかし、日本軍側によれば、第302海軍航空隊だけで、月光7機、[[彗星 (航空機)|彗星]](斜銃装備の夜間戦闘機型)4機、雷電5機、零戦5機が迎撃して、B-29の16機撃墜を報告し<ref>{{Harvnb|豊田穣|1979|loc=電子版, 位置No.4565}}</ref><ref>「第302海軍航空隊戦時日誌 自昭和20年5月1日至昭和20年5月31日」5月25日</ref>、陸軍の高射砲も5月25日の1日だけで、八八式7cm野戦高射砲7,316発、九九式8cm高射砲6,119発、三式12cm高射砲1,041発、合計14,476発の高射砲弾を消費するなど激しい対空砲火を浴びせて、海軍の戦果も合わせてB-29合計47機撃墜を記録しており{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=554}}、日本軍側の戦果記録は過大とは言え、未知の原因未確認の損失の中に相当数の日本軍の撃墜によるものが含まれているものと推定される。この日に出撃した航空機関士チェスター・マーシャルによれば、今までの25回の出撃の中で対空砲火がもっとも激しく探照灯との連携も巧みであったとのことで、帰還後に26機が撃墜されたと聞かされたB-29の搭乗員らが恐れをなしたと著書に記述している{{Sfn|マーシャル|2001|p=262}}。 原因未確認の損失が確実に日本軍側の攻撃による撃墜であったケースとしては、任務番号第43号、1945年3月16日の神戸市街地に対する夜間無差別爆撃(いわゆる[[神戸大空襲]])では、B-29が331機出撃して3機が失われたがすべてが未知の原因とされている{{Sfn|小山|2018|p=43}}。しかし、このうちの1機ボブ・フィッツジェラルド少佐が機長のB-29「Z-8」号は、神戸の北方3kmで緒方醇一大尉の[[三式戦闘機]]の体当たりにより撃墜されている{{Sfn|境田|高木|2004|p=91}}。体当たりの様子は多くの国民に目撃され、体当たりされた「Z-8」号はバラバラに砕けて落下し、そのうち山中で発見された胴体部分に、緒方の三式戦の主脚と発動機の冷却器が食い込んでいるのが発見され<ref>1945年3月23日付朝日新聞</ref>、別の部分の残骸から緒方の飛行長靴が見つかり、その後遺体も機体付近で発見された。これらを根拠としてB-29撃墜は緒方の功績とされ、緒方は2階級特進で中佐となっている{{Sfn|境田|高木|2004|p=92}}。戦後、「Z-8」号の墜落した場所に、緒方の戦友らが、緒方と戦死した11名{{efn2|うちロバート・W・ネルソン中尉とアルギー・オーガスト曹長の2名は捕虜となったが、後日、大阪陸軍刑務所で取り調べ後に処刑されている。}}の「Z-8」号搭乗員の名前を刻銘した慰霊碑を建立した<ref>2007年3月17日付神戸新聞「神戸大空襲から62年 敵味方なく慰霊碑刻銘」</ref>。また、2015年には緒方の遺族と、「Z-8」号搭乗員のひとりロバート・クックソン2等軍曹の遺族が神戸で対面している<ref>2015年5月11日付読売新聞「B29と飛燕の遺族対面、神戸空襲で体当たり」</ref>。 アメリカ陸軍航空軍統計管理室の上記統計によれば、1945年3月は日本軍の戦闘機により(確実に)撃墜されたB-29は1機もなかったとされている{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=146}}。しかし、緒方の体当たりによって撃墜された「Z-8」号に加えて、任務番号第42号、1945年3月13日の大阪市街地への夜間無差別爆撃(いわゆる[[大阪大空襲|第1回大阪大空襲]])で失われた2機のB29のうち(出撃したB-29は295機){{Sfn|小山|2018|p=42}}、原因未確認の損失とされている機体番号42-24754(操縦士ジョン・k・エリントン少尉、機体愛称はなし)も、飛行第56戦隊鷲見忠夫曹長の三式戦闘機に撃墜されている。この戦闘の一部始終を見ていた[[第11飛行師団 (日本軍)|第11飛行師団]]師団長北島熊男中将の推薦で、鷲見は[[第15方面軍 (日本軍)|第15方面軍]]司令部より個人感状が贈られている{{Sfn|渡辺|1982|p=288}}。42-24754の残骸は、大阪の下町[[堺筋]]に落下し、写真撮影され{{Sfn|境田|高木|2004|p=90}}、残骸の一部は戦後にアメリカ軍に回収調査されて、Ki-61(三式戦のこと)による撃墜と認定されている<ref>[https://www.pacificwrecks.com/aircraft/b-29/42-24754.html B-29-45-BW Superfortress Serial Number 42-24754]2019年3月27日閲覧</ref><ref>[http://cgibin.rcn.com/jeremy.k/cgi-bin/gzUsafSearch.pl?target=&content=B-29 Aircraft Serial Number Search USAF (also USAAC, USAAS, USAAF)]2019年3月27日閲覧</ref>。 アメリカ陸軍航空軍の統計によれば、B-29の太平洋戦争における延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度とされているが<ref>According to the USAAF Statistical Digest for WWII: p. 310, p. 261, p. 209</ref>、東京に対する空襲においては損失率が跳ね上がり3.3%となった。しかし、ドイツの首都ベルリン空襲のアメリカ軍とイギリス軍爆撃機の損失率は6.6%と東京空襲の2倍の損失率であった{{Sfn|柳澤|2008|p=98}}。B-29の太平洋戦争における戦闘行動中の損失485機は全生産機中(第二次世界大戦後の生産分も含む)の12%に上った。 '''アメリカ軍爆撃機の機種別損失率(アメリカ陸軍航空軍統計管理室による統計)''' <ref>「Air Force Fifty」Air Force Association(編)Turner Pub Co P.10</ref> {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !爆撃機種||総出撃機数||投下爆弾トン数||戦闘損失機数||損失比率 |- ![[B-25 (航空機)|B-25]] ||63,177||31,856||380||0.60% |- ![[B-26 (航空機)|B-26]] ||129,943||169,382||911||0.50% |- ![[B-17 (航空機)|B-17]] ||291,508||640,036||4,688||1.61% |- ![[B-24 (航空機)|B-24]] ||226,775||452,508||3,626||1.60% |- !B-29 ||31,387||159,862||414||1.32% |} 上表の通りアメリカ軍の他の爆撃機と比較してB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格は63万ドルと、高価な機体であった。このため損失数の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出し司令官のハンセルを叱咤している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=217}}。 === 日本軍によるB-29迎撃 === ==== 早期警戒レーダー ==== [[ファイル:Wuerzburg radar iff antennen.jpg|150px|thumb|ドイツより日本に技術供与されたウルツブルグレーダーD型]] [[File:Large Air Sound Detector Type 90.jpg|thumb|250px|昭和天皇の観閲を受ける陸軍の[[九〇式大聴音機]]、B-29の探知にも使用された]] 日本軍のレーダー開発は、第二次世界大戦初期はアメリカやイギリスなどの連合国のみならず、枢軸国のドイツと比較すると大きく出遅れていた。それでも陸軍が「[[超短波警戒機甲]]」と「[[超短波警戒機乙]]」の開発に成功すると、1942年から「超短波警戒機甲」、1943年には「超短波警戒機乙」が優先的に日本本土の主に海岸線や離島に設置されて早期警戒網を構築した。一方で海軍のレーダー「[[電波探信儀]]」の配置は前線の[[ラバウル]]や[[ウェーク島]]が優先されて、日本本土への配備はその後にされたが、設置された箇所は海軍基地や軍港周辺に限られた{{Sfn|渡辺|1982|p=70}}。 レーダーの設置個所についても、陸海軍の連携はなく、隣接した箇所に陸海軍がレーダーを設置するなど無駄が多かった。それでも、B-29による日本本土空襲が開始される1944年後半には、関東、中京、阪神の太平洋側及び九州は全周囲に渡ってレーダー網を構築できた。日本海側にはほぼ設置されず、東北方面も手薄ではあったが、それでも大都市や工業地帯といった主要地域については十分カバーができていた{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=150}}。中でも[[八丈島]]に設置された「超短波警戒機乙」はマリアナから出撃するB-29を真っ先に捉えることができたが、乙型レーダーの探知距離は最大で250kmであり、八丈島から東京までの距離が300kmで合計550kmの距離しかなく、巡航速度が約400km/hのB-29であれば一時間ほどで到達してしまう距離で、八丈島から報告を受けて日本軍が迎撃の準備を行う時間的余裕はあまりなかった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=152}}。日本軍の警戒用レーダーの周波数がドイツ軍のレーダーとは異なっていたので、ヨーロッパ戦線で使用していた[[チャフ]]の効果がなく、アメリカ軍は幅2.5cm、長さ30mから100mといった長細いアルミフォイルでつくったチャフを新たに作成している。このチャフは形状から「ロープ」と呼ばれていた{{Sfn|デイビッド|1983|p=204}}。 しかし日本軍のレーダーは、いずれも接近してくる航空機の高度や編隊の性格(直掩戦闘機の有無など)まで探知することはできず、また方向もおおまかにわかるといった原始的なものであった。そのため、レーダーを補うために哨戒艇や目視監視哨戒といった人の目のよる旧来の手段に頼らざるを得ず、しばしば、これら人の目による第一報がレーダーよりも正確な情報となった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=152}}。 日本軍は探知だけではなく火器管制レーダーについても配備を進めていた。大戦初期に[[シンガポール]]で鹵獲したイギリス軍のGL Mk.IIレーダー([[:en:GL Mk. I radar|英]])を[[デッドコピー]]したり、ドイツから[[ウルツブルグ (レーダー)|ウルツブルグレーダー]]の技術供与を受けたりして、「タチ1号」・「タチ2号」・「タチ3号」・「タチ4号」などの[[電波標定機]]を開発して本土防空戦に投入している{{Sfn|渡辺|1982|p=71}}。B-29が夜間爆撃を多用し始めると、日本軍は高射砲と探照灯の照準を射撃管制レーダーに頼るようになった。各高射砲陣地には「た号」(タチの略称)が設置されて、レーダーの誘導で射撃する訓練を徹底して行うようになり{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=89}}、6基~12基で1群を編成する探照灯陣地にもレーダーもしくは[[聴音機]]が設置されて、レーダーや聴音機に制御された探照灯がB-29を照射すると、他の探照灯もそのB-29を照射した{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=118}}。 アメリカ軍は日本軍の射撃管制レーダーがイギリス製のものをもとに開発していることを掴むと、その対抗手段を講じることとし、B-29に[[電波妨害装置|ジャミング装置]]を装備した。そしてB-29に搭乗してジャミング装置を操作する特別な訓練を受けた士官を「[[レイヴン]]」([[ワタリガラス]])と呼んだ。東京大空襲以降の作戦変更により、B-29が単縦陣で個別に爆弾を投下するようになると、爆弾を投下しようとするB-29は多数の日本軍火器管制レーダーの焦点となって、機体個別の[[ジャミング]]では対応できなくなった。そこで、アメリカ軍はB-29数機を[[電子戦機|ECM機]]に改造して、専門的にジャミングを行わせることとした。そのB-29には18基にものぼる受信・分析・妨害装置が搭載されたが、機体のあらゆる方向にアンテナが突き出しており、その形状から「[[ヤマアラシ]]」と呼ばれることとなった{{Sfn|デイビッド|1983|p=205}}。ヤマアラシは、1回の作戦ごとに10機以上が真っ先に目標に到着して、熟練したレイヴンの操作により[[電子攻撃|電波妨害]]をして探照灯や高射砲を撹乱、聴音機に対してはエンジンの回転数をずらしてエンジン特性を欺瞞するなど{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=117}}、爆撃を援護し最後まで目標に留まった{{Sfn|デイビッド|1983|p=206}}。 ==== 戦闘機と高射砲 ==== '''B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移'''<ref>{{Harvnb|米国戦略爆撃調査団|1996|pp=143-148}}</ref> {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !年・月||B-29総出撃機数||日本軍戦闘機攻撃回数||日本軍本土防衛用戦闘機数 |- !1944年11月 ||611||4.4||375機 |- !1944年12月 ||920||5.4||370機 |- !1945年1月 ||1,009||7.9||375機 |- !1945年2月 ||1,331||2.2||385機 |- !1945年3月 ||3,013||0.2||370機 |- !1945年4月 ||3,487||0.8||450機 |- !1945年5月 ||4,562||0.3||480機 |- !1945年6月 ||5,581||0.3||485機 |- !1945年7月 ||6,464||0.02||500機 |- !1945年8月 ||3,331||0.01||535機 |} 上表のとおり1945年1月までの日本軍戦闘機によるB-29への迎撃は執拗であり、特に京浜地区の防衛を担う[[立川飛行場|立川陸軍飛行場]]や[[調布飛行場|調布陸軍飛行場]]に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた[[雷電 (航空機)|雷電]]はB-29撃墜にとって有効な存在で、爆撃後背後から襲い、一度に十数機を被撃墜・不時着の憂き目に合わせたこともしばしばであった。日本軍戦闘機の装備の中で、B-29搭乗員に恐れられたのが[[三号爆弾]]であり、B-29搭乗員は炸裂後の爆煙の形状から[[白リン弾]]と誤認し、三号爆弾を「いやな白リン爆雷」と呼んで、空中で爆発すると凄まじい効果があったと回想している{{Sfn|デイビッド|1983|p=150}}。[[第三三二海軍航空隊]]に所属し零戦52型でB-29を迎撃した中島又雄中尉によれば、三号爆弾は命中させるのは非常に困難であったが、なかには7機のB-29を撃墜した搭乗員もいたという{{Sfn|歴史群像135|2016|pp=132-137}}。撃墜できなくとも、B-29の編隊を乱して、損傷したり落伍したB-29を集中して攻撃できるという効果もあった<ref>[https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post06/6368.html 『坂本中尉機とボーイングB29』-諫早ロータリークラブ卓話(昭和60年7月26日)より-~ 犬尾博治さん(諫早市泉町)の戦争体験]2019年4月20日</ref>。 しかし、[[空冷エンジン]]の機体が圧倒的に多く、高高度性能が劣る日本軍戦闘機は、当初高高度精密爆撃を主戦術としていたB-29の迎撃に大変苦労をしていた。本土防空戦で主力の一翼を担った[[二式単座戦闘機|二式戦闘機「鍾馗」]]は、武装や防弾鋼板から燃料タンクの防弾ゴムに至るまで不要な部品を取り除いても、B-29の通常の来襲高度と同水準の10,500mまでしか上昇できなかった{{Sfn|特攻の記録|2011|loc=p.315}}。一瞬のうちに接敵するため照準が困難で、一度攻撃に失敗すると上昇姿勢となるため急速に失速し、B-29の銃座から恰好の目標となってしまうこと、またうまく離脱できても、高高度でのB-29と鍾馗の速度差から再度の攻撃が困難であったという{{Sfn|特攻の記録|2011|loc=p.319}}。B-29を苦しめた[[ジェット気流]]が迎撃側の日本軍戦闘機にも障害となり、東京に来襲するB-29を迎撃する場合、B-29は[[伊豆半島]]あたりから北上してそののちに東に針路を変えてジェット気流に乗って加速してきたが、迎え撃つ日本軍戦闘機は高度8,000mまで上昇するとジェット気流に逆行する形となり、フルスロットルでも気流に押し流されて対地速度が殆どゼロの凧のように浮いているだけの状態になった{{Sfn|神立|大島|2013|p=325}}。このような状況下ではいくら熟練搭乗員でも、[[八王子市|八王子]]ぐらいでB-29を捕捉して1撃を加え、反復して東京上空で2撃目、そして爆撃を終えて帰投しているところを[[銚子市|銚子]]上空で3撃目を加えるのがやっとであった{{Sfn|神立|大島|2013|p=326}}。 九州が幾度も空襲され、マリアナ諸島がアメリカ軍に攻略されると、1944年11月1日、東京にB-29の偵察機型F-13が高度10,000mの高高度で初来襲したが、F-13を捉えることができた日本軍戦闘機は皆無であった{{Sfn|木俣|2013|p=343}}。九州では陸海軍の数機がB-29に体当たりを成功させており、高高度性能に劣る日本軍戦闘機では、確実にB-29を撃墜できるのは体当たり以外にはないと考えられて、陸軍の震天制空隊など空対空特攻部隊が編成され、通常の戦闘機による迎撃に併せてB-29の迎撃に投入された{{Sfn|オネール|1988|p=292}}。海軍では高高度迎撃のため[[要撃機|局地戦闘機]]「[[震電]]」の開発を進めていたが、空襲による工場の壊滅と技術的な問題により開発が遅延し、飛行試験の段階で終戦となった。 B-29の来襲機数が劇的に増加する1945年3月以降は、逆に日本軍は沖縄での航空作戦に戦力の過半を投入しており、本土防空戦への戦闘機投入数はB-29の増加数には見合わないものであった{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=145}}。また、ルメイによる作戦変更で夜間の市街地無差別焼夷弾攻撃が開始されたのも1945年3月であるが、夜間は、[[センチメートル波]]小型機上[[レーダー]]はおろか、各機を管制する[[防空]]システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃ができず、[[シュレーゲムジーク|斜め銃・上向き砲]]装備、双発の[[月光 (航空機)|月光]]、二式複戦「屠龍」の[[夜間戦闘機]]が爆撃火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態で、[[灯火管制]]の中止を要求する飛行隊もあったという。 ルメイは戦後に「日本軍の夜間戦闘機に撃墜されたB-29は1機も無い」と誤った認識を持っていたほど、徹底して日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していた{{Sfn|ルメイ|1991|p=229}}。1945年4月以降に攻略した硫黄島からP-51が日本本土に向けて飛来すると、本土決戦に向けて戦力温存をはかっていた日本軍は、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになって、さらに迎撃回数は減少していった{{Sfn|図説アメリカ軍の日本焦土作戦|2003|p=116}}。 '''戦闘任務におけるB-29の原因別損傷数'''<ref name="#8">{{Harvnb|図説アメリカ軍の日本焦土作戦|2003|p=120}}</ref><ref>[https://archive.org/details/ArmyAirForcesStatisticalDigestWorldWarII Army Air Force Statistical Digest: World War II byUnited States. Army Air Forces. Office of Statistical Control]2019年4月18日</ref> [[ファイル:五式15cm高射砲.jpg|thumb|日本軍の五式十五糎高射砲、最大射高が20,000mもありどんな高空飛行のB-29も捉えられたが、わずか2門しか生産されなかった。]] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !年・月||損傷機数合計||敵戦闘機による損傷||対空火器による損傷||戦闘機と対空火器||事故による損傷 |- !1944年11月 ||11||3||3||2||3 |- !1944年12月 ||83||22||41||14||6 |- !1945年1月 ||120||68||20||21||11 |- !1945年2月 ||134||46||69||12||7 |- !1945年3月 ||210||12||188||9||1 |- !1945年4月 ||518||76||353||80||10 |- !1945年5月 ||600||53||495||43||10 |- !1945年6月 ||624||48||513||51||12 |- !1945年7月 ||234||13||218||2||1 |- !1945年8月 ||173||8||164||0||1 |- !合計 ||'''2,707'''||'''348'''||'''2,063'''||'''234'''||'''62''' |} 戦闘機による迎撃回数の減少に伴い、1945年の5月頃から対B-29戦の主力は高射砲となった。主力高射砲であった[[八八式七糎野戦高射砲]]に加えて、新型の[[九九式八糎高射砲]]も1942年から量産が開始され、1943年に入ると、八八式7.5cm野戦高射砲が1942年度の総生産数600門から1943年度1,053門、九九式八糎高射砲は40門から400門へと増産が図られた{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=187}}。さらに1943年5月には最大射高14,000mの[[三式12cm高射砲|三式十二糎高射砲]]も生産開始され、この3種の高射砲が主力となってB-29を迎え撃つことになった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=221}}。さらに、三式12cm高射砲でも10,000mを飛ぶB-29に対しては射高不足が懸念されたため、射高が20,000mもある[[五式十五糎高射砲]]が開発されることになった{{Sfn|戦史叢書19|1968|p=222}}。 高射砲は[[日本劇場]]や[[両国国技館]]の屋上などにも設置されたが、当初の高高度精密爆撃の際は、数的には日本の高射砲戦力の主力を担っていた最大射高9,100mの八八式7.5cm野戦高射砲と、10,000mの九九式八糎高射砲は射高不足であり、B-29をなかなか捉えることができず、日本国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。 しかし、ルメイによる作戦変更によりB-29の爆撃高度が下がると、日本軍の高射砲はB-29を捉えることができてB-29の損害は増大した<ref name="#8"/>。首都防空担当の[[高射第1師団]]にいた[[新井健之]]大尉(のち[[タムロン]]社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜した」と発言している。[[代々木練兵場|代々木公園]]にあった高射砲陣地から撃たれた高射砲はよく命中していたという市民の証言もある。高射砲弾が命中したB-29は赤々と燃えながら、その巨体が[[青山 (東京都港区)|青山]]の上空ぐらいで爆発して四散していた。高射砲弾で墜落していくB-29を見ると拍手が起こったが、なかには「落としたって(敗戦時の)賠償金が増えるだけだ」と冷めた冗談を言うものもいたという{{Sfn|奥住|早乙女|2017|p=140}}。日本軍の戦闘機による迎撃を過小評価していたルメイも高射砲に対してはかなり警戒していた{{Sfn|ルメイ|1991|p=229}}。 <!-- 戦後の米軍発表の損害記録では、日本上空で撃墜あるいは損傷したアメリカ軍機(主にB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で全体の65%にもなった<ref>『カメラと戦争』P150。</ref>。--> ==== 日本軍の対B-29エースパイロット ==== [[ファイル:Isamu Kashiide.jpg|160px|thumb|陸軍航空隊のB-29撃墜王(26機撃墜)樫出勇中尉]] 対B-29の本土防空戦は陸軍航空隊が中心となって戦ったので、陸軍航空隊に多数の対B-29[[エース・パイロット]]が誕生した。特に九州にて双発戦闘機「屠龍」で戦った飛行第4戦隊と、首都圏にて「飛燕」(のちに五式戦闘機)で戦った飛行第244戦隊の所属搭乗員がトップを占めた。しかし、撃墜数の申告は、一般的に敵側の損害記録と突き合わせると過大であることが多く、B-29撃墜戦果報告の合計も実際の損失の合計よりは大きかった{{Sfn|境田|高木|2004|p=117}}。 '''5機以上のB-29を撃墜した日本陸軍航空隊搭乗員'''{{Sfn|境田|高木|2004|pp=117-118}}{{Sfn|樫出|2005|loc=電子版, 位置No.2044}}<ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/sentaisi.htm 244戦隊ホームページ 陸軍飛行第244戦隊概史]2019年4月14日閲覧</ref> {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !氏名・階級||所属||B-29撃墜数||備考 |- ![[樫出勇]]中尉 ||第4戦隊||26機||B-29撃墜数トップ、[[ノモンハン事件]]でも7機撃墜 |- ![[木村定光]]少尉{{KIA}} ||第4戦隊||22機||1945年7月14日戦死 |- ![[伊藤藤太郎]]大尉 ||第5戦隊||17機||B-29、20機撃破 |- ![[白井長雄]]大尉 ||第244戦隊||11機||F6Fヘルキャット2機撃墜 |- ![[市川忠一]]大尉 ||第244戦隊||9機||F6Fヘルキャット1機撃墜 |- ![[河野涓水]]大尉{{KIA}} ||第70戦隊||9機||1945年2月16日戦死 |- ![[小川誠]]少尉 ||第70戦隊||7機||P-51ムスタング2機撃墜 |- !小原伝大尉 ||第244戦隊||6機||F6Fヘルキャット2機撃墜 |- ![[吉田好雄]]大尉 ||第70戦隊||6機|| |- ![[根岸延次]]軍曹 ||第53戦隊||6機|| |- ![[佐々木勇]]准尉 ||[[航空審査部]]||6機||総撃墜数38機 |- ![[鳥塚守良]]伍長 ||第53戦隊||6機|| |- ![[西尾半之進]]准尉 ||第4戦隊||5機|| |- ![[鷲見忠夫]]准尉 ||第56戦隊||5機||P-51ムスタング1機撃墜 |- ![[川北明]]准尉{{KIA}} ||第9戦隊||5機||1944年戦死 |} [[ファイル:Sachio endo.jpg|250px|thumb|海軍航空隊のB-29撃墜王(16機撃墜破)遠藤幸男大尉(前列左)]] 海軍航空隊についても、夜間戦闘機「月光」に搭乗した第三〇二海軍航空隊所属の[[遠藤幸男]]大尉がB-29撃墜破数16機{{Sfn|豊田穣|1979|loc=電子版, 位置No.203}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001300376_00000&chapter=002 |title=日本ニュース 第248号「噫 遠藤撃墜王」|work=NHK 戦争証言アーカイブス|publisher=日本放送協会|language=日本語|accessdate=2019-04-29}}</ref>、うち撃墜は8機を記録して「B-29撃墜王」などと呼ばれた<ref>[[土浦駐屯地]]内[[予科練平和祈念館]]「雄翔館」遠藤幸男略歴展示</ref>。[[横須賀航空隊]]所属の[[黒鳥四朗]]少尉も一晩で5機を撃墜するなど、合計で6機を撃墜している{{Sfn|渡辺|1983|p=198}}。 '''日本陸軍航空隊のB-29への体当たり成功機数'''{{Sfn|木俣|2013|p=348}} {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !地区||所属||体当たり機数 |- !関東地区 ||第10飛行師団||33機 |- !九州地区 ||第12飛行師団||8機 |- !名古屋地区 ||第11飛行師団||8機 |- !満州 ||第5航空軍||5機 |- !合計 ||||54機 |} この中には2回もB-29への体当たりを成功させて撃墜し生還した[[板垣政雄]]軍曹や[[中野松美]]伍長、三式戦闘機「飛燕」の主翼をB-29に尾翼に当てて破壊撃墜しながら、自らは片翼で生還した[[四宮徹]]中尉など、B-29を体当たり撃墜しながら生還したケースも含まれている<ref>{{Cite web|和書|author=井上和彦|date=2018-08-06|url=https://www.news-postseven.com/archives/20180806_714115.html/5|title=B29に二度も体当たりして撃墜 米兵が恐れた板垣政雄軍曹 |publisher=[[NEWSポストセブン]] |accessdate=2019-04-27}}</ref>。[[朝日新聞]]は1944年12月8日の朝刊でB-29に対する体当たり攻撃を紹介し、中野伍長のインタビューを掲載している{{Sfn|朝日新聞の太平洋戦争記事|1994|pp=228-229}}。 日本海軍でも、震天制空隊の初出撃に先駆けること3日前の1944年11月21日、第三五二海軍空所属の[[坂本幹彦]]中尉が零戦で迎撃戦闘中、長崎県[[大村市]]上空でB-29「[[アシッド・テスト (航空機)|アシッド・テスト]]」に体当たりして撃墜、戦死している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post06/6368.html|title=坂本中尉機とボーイングB29|publisher=諫早市|author=犬尾博治|date=2014-04-01|accessdate=2017-10-31}}</ref>。その後には組織的な対空特攻がおこなわれたが、日本陸軍と比べると小規模で、[[第二二一海軍航空隊]]が1944年12月に[[ルソン島]]で[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]迎撃のために編成した「金鵄隊」と、訓練のみで終わった[[天雷特別攻撃隊]]にとどまった。 ==== 日本軍のB-29迎撃に対するアメリカ軍の評価 ==== 戦後に日本とドイツに対する戦略爆撃の効果を調査したUSSBSが出した結論は、日本本土空襲における第20空軍のB-29が日本軍戦闘機から被った損失は、[[第8空軍 (アメリカ軍)|第8空軍]]がドイツ本土爆撃でドイツ軍戦闘機から被った損失の1/3に過ぎず、警戒システムも迎撃地上管制システムもともに“poor”(貧弱)だったとしている{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=146}}。 日本の防空システムが“poor”だった要因としては下記を指摘している{{Sfn|米国戦略爆撃調査団|1996|p=156}}。 # 日本の戦争指導者たちが、連合軍による空襲の危険性を十分に認識せず、防空システムの整備を優先しなかった # フィリピン作戦中は、日本軍航空部隊は連合軍の北上を止めるために使用され、それ以降は本土上陸に対する防衛が優先された # 対上陸部隊として使用するため、航空機と搭乗員は温存されて、日本空軍は常に作戦可能な戦闘機の30%未満しか本土防空に使用しなかった USSBSはさらに、日本に対する戦略爆撃はドイツに対する戦略爆撃よりもその期間や投下した爆弾の総量は少なかったが、その効果はほぼ同じであったと評価した。日本に対する高い戦略爆撃の効果の要因として下記を指摘している<ref>[http://www.anesi.com/ussbs01.htm "United States Strategic Bombing Survey Summary Report (Pacific War) Washington, 1 July 1946"]2019年4月17日閲覧</ref>{{Sfn|渡辺|1982|p=360}}。 # 日本への爆撃は時間的、地域的に集約して行われた # 目標の構造物などがドイツに比べて脆弱であり、疎開や分散能力にも劣っていた # 被害地域の復旧に時間がかかった # B-29の本格空襲が始まる前に、日本の航空戦力は既に大きな打撃を受けており、防空能力が小さかった # '''第20航空軍が努力を重ねて高性能超重爆撃機B-29を使いこなした''' === B-29搭乗員の取り扱い === [[ファイル:B-29SurvivorNiigata.jpg|thumb|150px|新潟で高射砲により撃墜され捕虜となったB-29のクルー、住民にリンチされていたところを軍に助けられている]] {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !||日本国内で捕らわれた連合軍搭乗員 |- !総数 |545名 |- !うち遺体で発見{{efn2|憲兵隊に引き渡される前に死亡したものも含む。}} |29名 |- !爆撃・事故による死亡 |94名 |- !軍事裁判などによる処刑 |132名 |- !終戦時に解放 |290名 |- |} B-29の搭乗員に対しては、救出前に日本人に見つかったとしても「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の市民の捕虜に対する扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」と説明して不安を和らげようとしていた{{efn2|搭乗員は不時着し日本人と遭遇した際に備え、日本円や土産用のアメリカ製腕時計なども携帯していた。}}。しかし、[[ブリーフィング]]などで非公式には「日本上空でパラシュート脱出する場合、軍隊に拾われるように祈るしかない。民間人では、殴り殺される可能性がある」とうわさされていた{{Sfn|デイビッド|1983|p=214}}。1945年3月10日の東京大空襲以後、非戦闘員への無差別爆撃が激化すると、B-29搭乗員は日本の一般市民の憎しみを一身に受けることとなり、まずは、発見した一般市民から[[私刑]]で暴虐な扱いを受けることが多かった{{Sfn|マーシャル|2001|p=282}}。なかには[[能崎事件]]のように、一般市民による[[リンチ]]の末にB-29搭乗員が死亡してしまうこともあった。このため[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。 日本側はドーリットル空襲ののち、1942年7月28日に陸軍大臣補佐官名で、国際交戦規約に違反した者は戦争犯罪人として扱われるという通達を出している。実際にドーリットル空襲における軍事裁判では、捕虜となった8名全員に「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決が出ている(処刑されたのは3名、あと5名は減刑)。その後、B-29による日本本土空襲が始まった1944年9月8日には、無差別爆撃は戦争犯罪であるので死刑に処せられるべきとの通達が出ている{{Sfn|境田|高木|2004|p=115}}。無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員は[[戦時国際法]]上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて[[略式裁判]]にかけられ[[戦時重要犯]]として処刑されたが、裁判を行うこともなく処刑されることも多かった。B-29搭乗員の取り扱いは、各軍管区に判断を委ねており、[[中部軍管区 (日本軍)|中部軍管区]]や[[西部軍管区 (日本軍)|西部軍管区]]といった日本の中西部の軍管区のほうが、[[東部軍管区 (日本軍)|東部軍管区]]よりもB-29搭乗員に厳しく、多数の搭乗員が裁判内外で処刑されている{{Sfn|境田|高木|2004|p=116}}。処刑されずとも、戦争犯罪人として通常の捕虜とは異なる「特別な扱い」を受けていたB-29搭乗員は、日常的な尋問や暴行に加えて、食事も1日に[[おにぎり]]3個とコップ1杯の水しか支給されないものもいた{{Sfn|マーシャル|2001|p=283}}。なかには1945年1月27日に東京上空で日本軍によって撃墜されて捕らわれたレイ・F・ハローラン少尉のように、[[上野動物園]]の猿の檻に裸で猿の代わりに入れられて見世物にされるといった屈辱的な扱いを受けた搭乗員もいた{{Sfn|マーシャル|2001|p=301}}。一方で、機雷散布任務中に対空砲火で撃墜され福岡県[[直方市]]の[[遠賀川]]河川敷にパラシュート降下したが、殺気立った市民に囲まれたところを警官2名に救助されて、そののち民間の医師にケガの治療を受けて東京の捕虜収容所に送られ、そのまま終戦を迎えたフィスク・ハンレイのように日本側に手厚い対応をされたことを感謝している捕虜もいる<ref>2015年12月12日産経新聞「B-29元搭乗員、直方の墜落現場へ 救護の住民らと再会 福岡」</ref>。 1945年5月、福岡県[[太刀洗飛行場|太刀洗陸軍飛行場]]を爆撃するために飛来したB-29が[[第三四三海軍航空隊]]戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕らわれ、うち6人は死刑とされ、同年5月17日~6月2日にかけ[[九州大学|九州帝国大学]][[医学部]]において、彼らに対する生体[[解剖]]実験が行われた。([[九州大学生体解剖事件|九州大学生体解剖事件(相川事件)]]) 5月26日のB-29による東京への夜間無差別爆撃で収容されていた[[東京陸軍刑務所]]で焼死した62名や([[東京陸軍刑務所飛行士焼死事件]])、8月6日の広島への[[広島原爆で被爆したアメリカ人|原爆投下により拘留されていた中国憲兵隊本部で死亡した]]11名など、B-29の空爆やアメリカ軍艦隊による[[艦砲射撃]]など友軍の攻撃で死亡した捕虜も多数にのぼった{{Sfn|境田|高木|2004|p=114}}。 終戦後、B-29搭乗員を含む連合軍捕虜を殺害や虐待した関係者は、横浜に開廷された連合軍裁判所でB・C級戦犯として裁かれた。なかでも、[[第13方面軍 (日本軍)|第13方面軍]]司令官兼[[東海軍管区]]司令官であった[[岡田資]]中将は、1945年5月14日の[[名古屋大空襲]]とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として裁かれた。岡田はB-29による無差別爆撃を「米軍による民間人を狙った無差別爆撃は国際法違反である」「搭乗員はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と自分の判断の正当性を主張し、裁判を「法戦」と呼んで戦ったが、絞首刑の判決を受けて翌1949年9月17日に処刑された<ref>2014年9月17日付産経新聞web版記事『「自分だけを死刑に処せ」とGHQに挑んだ岡田中将の“法戦”』</ref>。 == Tu-4との関係 == {{Main|Tu-4 (航空機)}} [[ファイル:Tu-4 (01) at Central Air Force Museum pic4.JPG|right|thumb|外見がB-29に酷似しているTu-4]] [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]は再三再四にわたりアメリカに長距離爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが[[戦略爆撃機]]を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月31日の「ランプトランプ (Ramp Tramp / 42-6256)」、8月20日の「ケイトポーマット (Cait Paomat / 42-93829)」、11月11日の「[[ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル]] (General H.H. Arnold Special / 42-6365)」、及び11月21日の「ディングハウ (Ding Hao / 42-6358)」の4機のB-29が日本及び[[満州]]を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命令によりモスクワで[[リバースエンジニアリング|解体調査]]された。ランプトランプは飛行試験に供された。そして[[アンドレーイ・トゥーポレフ|アンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフ]]らにより解体した部品に基づく設計が行われて[[1947年]]春に完成して、同年5月19日に初飛行にこぎつけた。 開発時は「B-4」と呼ばれていたが、1949年に量産が開始されるとツポレフTu-4([[北大西洋条約機構|NATO]]コードネーム:ブル)と名付けられた<ref name="#9">[https://fas.org/nuke/guide/russia/bomber/tu-4.htm Tu-4 BULL]2019年4月11日閲覧</ref>。 Tu-4のエンジンはソビエト製の[[シュベツォフ ASh-73]]が搭載されたが、エンジンの出力はB-29搭載のライト R-3350に劣るものではなく、最高速度558km、巡航速度435kmの高速飛行が可能であった。搭載の機関砲についてはB-29の12.7mm機関砲に対して[[NS-23 (機関砲)|NS-23]]機関砲(口径23mm)を搭載しており、B-29より打撃力は高かった<ref name="#9"/>。 [[1947年]][[8月3日]]に[[モスクワ]]で行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、[[1949年]]半ばには戦略爆撃機として本格的に運用された。一部の機体には[[空中給油]]設備や翼下に追加の燃料タンクが設置されて、アメリカ本土爆撃ができるよう航続距離の延伸がはかられ、核爆弾が搭載できるように改修された。Tu-4Aはソ連初の核爆弾[[RDS-1]]の投下用に開発された最初の航空機であった<ref>Duffy, Paul and A. I. Kandalov. Tupolev: The Man and his Aircraft. Warrendale, Pennsylvania: SAE, 1996. ISBN 1-56091-899-3. p.98</ref>。ソ連初の[[無人航空機]](無人標的機)である{{仮リンク|La-17|en|Lavochkin La-17}}を翼下に懸吊したTu-4NMや{{仮リンク|KS-1 コメット空対地ミサイル|en|KS-1 Komet}}の発射母機であるTu-4Kも開発され<ref>Gordon, Yefim and Vladimir Rigmant. Tupolev Tu-4: Soviet Superfortress. Hinckley, Leicestershire: Midland Counties Publications Ltd. 2002. ISBN 1-85780-142-3. pp.36-57</ref>、のちにKS-1コメット空対地ミサイルから、12キロトンの核弾頭を搭載したFKR-1ミサイルが開発された<ref name="#9"/>。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや[[地対空ミサイル]]などの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、[[アメリカ合衆国#国民|アメリカ人]]はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。 1952年までに847機ないし1,300機が製造されたが、1954年にはより先進的な[[Tu-16 (航空機)|Tu-16]]に置き換えられた。爆撃任務を外れたTu-4のうち300機は[[空挺部隊]]用の輸送機に改修され、空挺部隊のパラシュート降下や物資投下に使用された。また1部の機体は練習機や実験機として利用された。[[ツポレフ]]はTu-4を基礎にして旅客機[[Tu-70 (航空機)|Tu-70]]も開発したが、量産はされなかった。 1953年にスターリンはTu-4を[[中華人民共和国]]にも供与し、[[1956年]][[3月29日]]に[[カム反乱]]で[[チベット人]]住民や僧侶が籠城する[[理塘県|リタン]]の寺院への爆撃で2機のTu-4が初めて投入され、当時住民は飛行機を見たことがなかったために「巨大な鳥」が接近しているように見えたという<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2016/08/15/world/asia/china-tibet-lhasa-jianglin-li.html |title=A Writer’s Quest to Unearth the Roots of Tibet’s Unrest|agency=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=2016-08-15|accessdate=2019-07-30}}</ref><ref>{{cite news|url=https://cn.nytimes.com/china/20160622/cc22lijianglin2/ |title=西藏的秘密战争,究竟发生了什么?(下)|agency=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=2016-06-22|accessdate=2019-07-30}}</ref>。1機は[[KJ-1 (航空機)|KJ-1]]として[[早期警戒機]]にされて[[1980年代]]まで[[中国人民解放軍]]で運用された<ref>[http://fas.org/man/dod-101/sys/ac/row/aew-prc.htm "Chinese Airborne Early Warning (AEW)."] ''fas.org.'' Retrieved: 28 July 2019.</ref>。 {{-}} == 各型 == [[File:Boeing YB-29-BW Superfortress 41-36954.jpg|thumb|right|YB-29-BW (41-36954)]] [[File:444bg-677bs-42-63411-dutchess.jpg|thumb|right|B-29-15-BA (42-63411)]] [[File:92d Bombardment Group Boeing B-29A-60-BN Superfortress 44-62102.jpg|thumb|right|B-29A-60-BN (44-62102)]] [[File:B29-20thaf.jpg|thumb|right|B-29A-70-BN (44-62305)<br />機首上部後方の銃塔が大型の4連装銃塔となったblock 40 A 後期型]] [[File:Boeing-Bell B-29B 42-63672 (5495896777).jpg|thumb|right|B-29B-35-BA (42-63672)]] [[File:Boeing Washington heavy bombers - 1951.jpg|thumb|right|ワシントン B.Mk.I]] [[File:Rb-29-44-61727-91stsrs-korea.jpg|thumb|right|RB-29A-BN (44-61727)]] [[File:D-558-2 Dropped from B-29 Mothership - GPN-2000-000251.jpg|thumb|right|P2B-1S<br />D-558-2の発射母機として使用された際の撮影]] [[File:KB-29P trailing refueling boom.jpg|thumb|right|KB-29P]] [[File:XB-39 Superfortress.jpg|thumb|right|XB-39-BW (41-36954)]] [[File:McDonnell XF-85 Goblin and EB-29 mothership.jpg|thumb|right|EB-29B-BA (44-84111)<br />吊り下げられている機体がXF-85]] [[File:SB-29 Super Dumbo in flight with F9F-5P c1955.jpg|thumb|right|SB-29 (44-70128)<br />画面奥側に並航している機体は[[F9F_(航空機)|F9F-5P]]艦上偵察機]] 型名末尾の[[アルファベット]]二文字は製造工場コード([[:en:1924 United States Army Air Service aircraft designation system#Production facility code|Production facility code]])。生産型のうち記号無しの機種は複数の工場で製造され、記号付きの機種は該当する工場でのみ製造されたことを示す。 * '''BO''' - ボーイング社[[シアトル]]工場 * '''BW''' - ボーイング社[[ウィチタ]]工場 * '''BN''' - ボーイング社[[ボーイング・レントン工場|レントン工場]] * '''BA''' - [[ベル・エアクラフト|ベル・エアクラフト社]][[マリエッタ (ジョージア州)|マリエッタ]]工場 * '''MO''' - [[グレン・L・マーティン・カンパニー|グレン・L・マーティン社]][[オマハ (ネブラスカ州)|オマハ]]工場 <small>出典:{{Cite book|和書|author = 牧英雄|title= ボーイングB-29|edition = 1995-5版第3刷|date=2002-02-05|publisher = 文林堂|series = 世界の傑作機|volume = No.52|chapter= 開発と各型|pages= 17-24}}</small> === 爆撃型 === ; モデル341 : 初期計画案。仕様変更要求前の仕様で遠隔操作銃塔が未装備。 ; モデル345 : 仕様変更後のモデルでモックアップが製造された。尾部銃座は無人の予定だった。 ; [[XB-29-BO]] : 試作機。ライトR-3350-13搭載。3機製造。 ; YB-29-BW : 増加試作機。ライトR-3350-21搭載。試験終了後は訓練機として使用されたが10号機のみ実戦に参加している。14機製造。 ; B-29 : 量産型。ライトR-3350-23または-23A、-41、-57搭載。2,508または2,509機製造。 ; B-29A-BN : 新設されたレントン工場で製造された機体。ライトR-3350-57または-59搭載。他機種と異なり主翼付け根が中央胴体と一体となった構造をしており、全幅が12インチ長い。機体上面前部の銃塔が連装から4連装に強化されている(block 40 A後期型では銃塔は流線型の大型のものに拡大されている)。1,119機製造。 ; B-29B-BA : 夜間爆撃専用型。ライトR-3350-51または-57、-57A搭載。夜間爆撃精度向上のためレーダーをAPQ-7イーグルに換装したほか、日本軍の反撃能力が低下した大戦末期からの製造であったため、武装は尾部銃座のみとなっている。311機製造。 ; B-29C : B-29Aに改良型ライトR-3350を搭載した発展型。シアトル工場に5,000機の製造が発注されたが後にキャンセル。 ; B-29D-BN : XB-44(後述)の生産型。R-4360エンジンに換装したことで良好な性能を示したことから200機が発注されたが、製造開始前に大戦が終結したため60機に削減され、全機がキャンセルされた。 :; [[B-50 (航空機)|B-50]] :: B-29Dの再生産が決定された際の名称。B-50の各種派生型は当該記事を参照。 ; B-29MR : ループホース式[[空中給油]]の受油機として改修された機体。当初は'''B-29L'''の名称が予定されていた。74機改造。 ; ワシントン B.Mk.I : イギリス空軍に貸与したB-29、B-29A、RB-29A。イギリス空軍では機種にかかわらずB.Mk.Iとされた。[[1955年]]に返還されたが2機のみ[[オーストラリア空軍]]に売却されている。計88機。 === 偵察型 === ; F-13 / F-13A : 写真偵察型。爆撃型も写真偵察は行っていたがこれは本格的な写真偵察機器を搭載した機体を指し、B-29改修型がF-13でB-29A改修型がF-13A。戦後の命名規則変更で'''FB-29'''、再変更で'''RB-29'''となった(A型も同様)。計139機改造。 ; RB-29A : [[シギント|ELINT]]任務用の電子情報収集機。上記F-13Aからの名称変更型とは別の機体。 ; ERB-29 : 電子偵察型。胴体下に3個のレドームが増設されている。 ; FB-29J : YB-29J(後述)から改造された写真偵察型。後の命名変更で'''RB-29J'''となる。 ; WB-29 : 気象偵察型。 ; P2B-1S : [[アメリカ海軍|海軍]]仕様の長距離偵察機。[[D-558-2 (航空機)|D-558-2]]の発進母機としても使用。試験用としてB-29-BWから4機改造。 :; P2B-2S :: P2B-1Sの発展型。レーダーを追加し爆弾倉内に燃料タンクを増設した。P2B-1Sから2機改造。 === 空中給油型 === {{main|KB-29 (航空機)}} ; KB-29M : ループホース式[[空中給油]]の給油機として改修された機体(後にプローブアンドドローグ方式に改修)。当初は'''KB-29K'''の名称が予定されていた。92機改造。 :; YKB-29T :: 胴体下の他に両翼端にも給油ホースを搭載した3機同時給油の試験機。KB-29Mより1機改造。 ; YKB-29J : YB-29J(後述)から改造されたフライングブーム方式の空中給油試験機。 ; KB-29P : フライングブーム方式の給油機。116機改造。 === その他 === ; [[XB-39 (航空機)|XB-39-BW]] : [[アリソン・エンジン|アリソン]]V-3420-11換装型。エンジン換装計画中止後は同エンジンの[[テストベッド]]機として使用。YB-29-BWより1機改造。 ; XB-44-BN : [[プラット・アンド・ホイットニー|P&W]][[プラット・アンド・ホイットニー|R-4360-33]]に換装したテストベッド機。B-29A-BNより1機改造。 ; XB-29E-BW : 新型[[射撃統制システム]]のテストベッド機。B-29-45-BWより1機改造。 ; B-29F-BW : 寒冷地仕様の試験に使用されたB-29-BW。6機が改造されたが後に標準仕様に戻された。 ; XB-29G-BA : ターボジェットエンジンのテストベッド機。B-29B-BAより1機改造。 ; XB-29H-BN : 特殊武装試験機。B-29A-BNより1機改造。 ; YB-29J : 燃料噴射式のライトR-3350-CA-2に換装し、低抵抗型ナセルに改修した機体。B-29、B-29Aなど各型からの改造機があり、計6機。 ; EB-29-BW : [[X-1 (航空機)|X-1]]発進母機。B-29-BWより1機改造。 ; EB-29A-BN : [[空中給油#フライングブーム方式|フライングブーム方式]]の空中給油試験の受油試験機。B-29A-BNより1機改造。 ; EB-29B-BA : [[XF-85 (航空機)|XF-85]]発進母機。B-29B-BAより1機改造。 ; ETB-29A-BN : [[FICON計画#MX-1016計画 (Tip Tow)|ティップ・トウ計画]]による翼端結合式戦闘機発進母機。[[F-84 (戦闘機)|EF-84B]]との結合試験を実施。B-29A-BNより改造。 ; QB-29 : 無線操縦の無人標的機。各機から改造。 ; スーパーダンボ : B-29から改修された救難機。救命桴や投下式ラジオなどの救難用具を装備し日本沿岸で救難作戦に投入された。 ; SB-29 スーパーダンボ : 上記とは別に戦後に改造された救難機。A-3[[空中投下式救命艇]]を胴体下に搭載し15時間の滞空が可能であった。各機から16機が改造。 ; CB-29K-BW : 貨物輸送型。B-29-BWより改造。 ; DB-29 : ドローン管制機。B-29より改造。 ; TB-29 / TB-29A / TB-29B : 練習型。[[標的曳航機]]としても使用された。B-29、B-29A、B-29B各機から改造。 ; VB-29-BW : 要人輸送型。B-29-BWより1機改造。 ; [[C-97 (航空機)|C-97 ストラトフレイター]] : B-29の主翼・尾翼・エンジン類を流用して胴体を太い2階建てにした輸送機(エンジンは後にP&W R-4360に換装)。 :; [[KC-97 (航空機)|KC-97 ストラトタンカー]] :: C-97の空中給油機型。 :; [[ボーイング377|ボーイング377 ストラトクルーザー]] :: C-97の旅客機型。 {{-}} == 諸元 == {| class="wikitable" style="text-align:center" ! 機体名 !! colspan="3" | B-29<ref>[https://www.docdroid.net/ckKNcvA/b-29-superfortress.pdf B-29 Superfortress Specifications] STANDARD AIRCRAFT CHARACTERISTICS</ref> |- ! 全長 | colspan="3" | 99.0ft (30.18m) |- ! 全幅 | colspan="3" | 141.2ft (43.04m) |- ! 全高 | colspan="3" | 27.8ft (8.47m) |- ! 翼面積 | colspan="3" | 1,720ft<sup>2</sup> (159.79m<sup>2</sup>) |- ! プロペラ<ref name="PROPELLER">Propeller:HAMILTON STANDARD C.S.、Blade:No.6521A-6 (×4)、Diameter:16ft 7in (5.05m)、Area:20.07m<sup>2</sup></ref> | colspan="3" | ブレード4枚 直径16ft 7in (5.05m) ×4 |- ! エンジン | colspan="3" | [[カーチス・ライト|Wright]] [[ライト R-3350|R-3350-79/81]] (2,200Bhp 最大:2,500Bhp) ×4 |- ! [[空虚重量]] | colspan="3" | 71,500lbs (32,432kg) |- ! ミッション | '''BASIC''' || '''MAX BOMB''' || '''[[:en:Ferry flying|FERRY]]''' |- ! 離陸重量 | colspan="2" | 140,000lbs (63,503kg) || 138,278lbs (62,722kg) |- ! 戦闘重量 | 101,250lbs (45,926kg) || 96,500lbs (43,772kg) || 84,518lbs (38,337kg) |- ! 搭載燃料{{efn2|name="FUEL"|搭載可能燃料は機体内燃料タンクに6,803gal (25,752ℓ)、爆弾槽に1,333gal (5,046ℓ)の合計9,363gal (35,443ℓ)}} | 7,866gal (29,776ℓ) || 6,566gal (24,855ℓ) || 9,363gal (35,443ℓ) |- ! 爆弾搭載量 | 10,000lbs (4,536kg) || 20,000lbs (9,072kg) || ― |- ! 最高速度 | 347kn/30,000ft (643km/h 高度9,144m) || 348kn/30,000ft (644km/h 高度9,144m) || 353kn/30,000ft (654km/h 高度9,144m) |- ! 上昇能力 | 1,625ft/m S.L. (8.26m/s 海面高度) || 1,760ft/m S.L. (8.94m/s 海面高度) || 2,160ft/m S.L. (10.97m/s 海面高度) |- ! style="font-size:smaller" | 実用上昇限度 | 39,600ft (12,070m) || 40,600ft (12,375m) || 43,200ft (13,167m) |- ! 航続距離 | 3,445n.mile (6,380km) || 2,627n.mile (4,865km) || 4,493n.mile (8,321km) |- ! style="font-size:smaller" | 戦闘行動半径 | 1,843n.mile (3,413km) || 1,466n.mile (2,715km) || ― |- ! 武装 | colspan="3" | [[ブローニングM2重機関銃|AN/M2 12.7mm機関銃]]×12(弾数計6,000発) |- ! 搭載能力 | colspan="3" | GP 4,000lbs×4・GP 2,000lbs×8・AP 1,600lbs×12・GP 1,000lbs×12・GP 500lbs×40<br/> 上記の爆弾から20,000lbs (9,072kg) まで搭載可能 |- ! 機体名 !! colspan="3" | B-29A<ref>[https://www.docdroid.net/B8HKcin/b-29a-superfortress.pdf B-29A Superfortress Specifications] STANDARD AIRCRAFT CHARACTERISTICS</ref> |- ! 全長 | colspan="3" | 99.0ft (30.18m) |- ! 全幅 | colspan="3" | 141.2ft (43.04m) |- ! 全高 | colspan="3" | 27.8ft (8.47m) |- ! 翼面積 | colspan="3" | 1,720ft<sup>2</sup> (159.79m<sup>2</sup>) |- ! プロペラ<ref name="PROPELLER"/> | colspan="3" | ブレード4枚 直径16ft 7in (5.05m) ×4 |- ! エンジン | colspan="3" | [[カーチス・ライト|Wright]] [[ライト R-3350|R-3350-57/57A]] (2,200Bhp 最大:2,500Bhp) ×4 |- ! [[空虚重量]] | colspan="3" | 72,206lbs (32,752kg) |- ! ミッション | '''BASIC''' || '''MAX BOMB''' || '''[[:en:Ferry flying|FERRY]]''' |- ! 離陸重量 | colspan="2" | 140,000lbs (63,503kg) || 137,610lbs (62,419kg) |- ! 戦闘重量 | 101,472lbs (46,027kg) || 96,900lbs (43,953kg) || 85,000lbs (38,555kg) |- ! 搭載燃料{{efn2|搭載可能燃料は機体内燃料タンクに6,590gal (24,946ℓ)、爆弾槽に2,560gal (9,691ℓ)の合計9,150gal (34,637ℓ)}} | 7,748gal (29,329ℓ) || 6,448gal (24,408ℓ) || 9,150gal (34,637ℓ) |- ! 爆弾搭載量 | 10,000lbs (4,536kg) || 20,000lbs (9,072kg) || ― |- ! 最高速度 | 347kn/30,000ft (643km/h 高度9,144m) || 348kn/30,000ft (644km/h 高度9,144m) || 353kn/30,000ft (654km/h 高度9,144m) |- ! 上昇能力 | 1,620ft/m S.L. (8.23m/s 海面高度) || 1,745ft/m S.L. (8.86m/s 海面高度) || 2,140ft/m S.L. (10.87m/s 海面高度) |- ! style="font-size:smaller" | 実用上昇限度 | 39,550ft (12,055m) || 40,500ft (12,344m) || 43,100ft (13,137m) |- ! 航続距離 | 3,321n.mile (6,150km) || 2,583n.mile (4,784km) || 4,393n.mile (8,136km) |- ! style="font-size:smaller" | 戦闘行動半径 | 1,800n.mile (3,334km) || 1,428n.mile (2,645km) || ― |- ! 武装 | colspan="3" | [[ブローニングM2重機関銃|AN/M2 12.7mm機関銃]]×12(弾数計6,000発) |- ! 搭載能力 | colspan="3" | GP 4,000lbs×4・GP 2,000lbs×8・AP 1,600lbs×12・GP 1,000lbs×12・GP 500lbs×40<br/> 上記の爆弾から20,000lbs (9,072kg) まで搭載可能 |- ! 機体名 !! colspan="3" | B-29B<ref>[https://www.docdroid.net/jYnQ6LQ/b-29b-superfortress.pdf B-29B Superfortress Specifications] STANDARD AIRCRAFT CHARACTERISTICS</ref> |- ! 全長 | colspan="3" | 99.0ft (30.18m) |- ! 全幅 | colspan="3" | 141.2ft (43.04m) |- ! 全高 | colspan="3" | 27.8ft (8.47m) |- ! 翼面積 | colspan="3" | 1,720ft<sup>2</sup> (159.79m<sup>2</sup>) |- ! プロペラ<ref name="PROPELLER"/> | colspan="3" | ブレード4枚 直径16ft 7in (5.05m) ×4 |- ! エンジン | colspan="3" | [[カーチス・ライト|Wright]] [[ライト R-3350|R-3350-57/57A]] (2,200Bhp 最大:2,500Bhp) ×4 |- ! [[空虚重量]] | colspan="3" | 68,821lbs (31,217kg) |- ! ミッション | '''BASIC''' || '''MAX BOMB''' || '''[[:en:Ferry flying|FERRY]]''' |- ! 離陸重量 | 135,744lbs (61,572kg) || 136,464lbs (61,899kg) || 135,024lbs (61,246kg) |- ! 戦闘重量 | 96,126lbs (43,602kg) || 92,353lbs (41,891kg) || 81,263lbs (36,860kg) |- ! 搭載燃料{{efn2|name="FUEL"}} | 8,083gal (30,597ℓ) || 6,805gal (25,753ℓ) || 9,363gal (35,443ℓ) |- ! 爆弾搭載量 | 10,000lbs (4,536kg) || 20,000lbs (9,072kg) || ― |- ! 最高速度 | 360kn/30,000ft (667km/h 高度9,144m) || 361kn/30,000ft (669km/h 高度9,144m) || 368kn/30,000ft (682km/h 高度9,144m) |- ! 上昇能力 | 1,820ft/m S.L. (9.25m/s 海面高度) || 1,925ft/m S.L. (9.78m/s 海面高度) || 2,330ft/m S.L. (11.84m/s 海面高度) |- ! style="font-size:smaller" | 実用上昇限度 | 41,400ft (12,619m) || 42,300ft (12,893m) || 44,950ft (13,701m) |- ! 航続距離 | 3,926n.mile (7,271km) || 3,076n.mile (5,697km) || 4,939n.mile (9,147km) |- ! style="font-size:smaller" | 戦闘行動半径 | 2,122n.mile (3,930km) || 1,725n.mile (3,195km) || ― |- ! 武装 | colspan="3" | [[ブローニングM2重機関銃|AN/M2 12.7mm機関銃]]×3(弾数計1,380発) |- ! 搭載能力 | colspan="3" | GP 4,000lbs×4・GP 2,000lbs×8・AP 1,600lbs×12・GP 1,000lbs×12・GP 500lbs×40<br/> 上記の爆弾から20,000lbs (9,072kg) まで搭載可能 |- |} [[File:Boeing B-29 Superfortress 3-view.svg|none|400px]] {{-}} == 現存する機体 == {|class="wikitable" style="font-size: 90%; bacground-color: #fff;" ! 型名 !! 番号 !! 機体写真 !! 所在地 !! 所有者 !! 公開状況 !! 状態 !! 備考 |- |B-29-50-BW ||42-24791<br/>4452 ||[https://live.staticflickr.com/725/32710623025_f0b1656c40_c.jpg 写真] ||アメリカ コネティカット州 ||クエスト・マスターズ博物館[http://www.questmasters.us] ||公開 ||静態展示 ||[http://www.questmasters.us/B-29_BTO.html]「''The Big Time Operator''」。カリフォルニア州のエドワード・F・ビール博物館の外壁に設置されていたが、博物館の閉鎖に伴いミュージアム・オヴ・フライトやニューイングランド航空博物館へ移され、「''T Square 54''」や「''Jack's Hack''」の修復に使用された。機内の機器は「''Doc''」を修復する際に転用され、現在は左記施設に保管されている。 |- |B-29-25-MO<br/>TB-29-25-MO ||42-65281<br/> ||[[File:Boeing B-29 Superfortress “Miss America ‘62” (29737950134).jpg|180px]] ||アメリカ カリフォルニア州 ||[[:en:Travis Air Force Base Heritage Center|トラヴィス空軍基地遺産センター]][https://www.travisheritagecenter.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.travisheritagecenter.org/b-29]「''Miss America ‘62''」。一番初期に施された塗装で展示されている。 |- |B-29A-15-BN<br/>F-13A-15-BN<br/>FB-29A-15-BN<br/>RB-29A-15-BN ||42-93967<br/>7374 ||[[File:Boeing RB-29A Superfortress 293967 (42-93967) (10025289146).jpg|180px]] ||アメリカ ジョージア州 ||[[:en:Georgia Veterans State Park|ジョージア州立退役軍人記念公園]][http://www.georgiaveteransstatepark.org/] ||公開 ||静態展示 ||「''City of Lansford''」。これは最も初期の愛称で、その後「''Dark Slide''」、「''Wet Bulb Willy''」へと改称された。 |- |B-29-35-MO ||[[ボックスカー|44-27297<br/>]] ||[[File:Boeing B-29 Superfortress "Bockscar" (27992885491).jpg|180px]] ||アメリカ オハイオ州 ||[[国立アメリカ空軍博物館]][https://www.nationalmuseum.af.mil/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/196252/boeing-b-29-superfortress/]「''Bockscar''」。長崎に原子爆弾を投下した機体。 |- |B-29-40-MO<br/>WB-29-40-MO<br/>TB-29-40-MO ||44-27343<br/> ||[https://live.staticflickr.com/8003/7433306730_6c1220d443_b.jpg 写真] ||アメリカ オクラホマ州 ||[[:en:Tinker Air Force Base|ティンカー空軍基地]][http://www.tinker.af.mil] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.tinker.af.mil/News/Photos.aspx?igphoto=2000198477]「''Tinker's Heritage''」。 |- |B-29A-40-BN<br/>TB-29A-40-BN ||44-61669<br/>11146 ||[[File:Boeing B-29A Superfortress ‘49 - Z’ “Flagship 500” (44-61669 - N3299F) (26992110281).jpg|180px]] ||アメリカ カリフォルニア州 ||[[:en:March Field Air Museum|マーチフィールド航空博物館]][https://www.marchfield.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.marchfield.org/aircraft/bomber/b-29a-superfortress-boeing/]「''Flagship 500''」。戦時中に「''4th Marine Division''」、「''Three Feathers III''」と名付けられたが、マーチ基地に展開する第500爆撃航空群に移籍した際に現在の愛称になった。展示開始時には44-27263の「''Mission Inn''」という愛称のあと「''Three Feathers III''」を経て現在の塗装となった。 |- |B-29A-40-BN<br/>SB-29A-40-BN ||44-61671<br/>11148 ||[[File:Whiteman-afb-static-display-b-29-44-61671.jpg|180px]] ||アメリカ ミズーリ州 ||[[:en:Whiteman Air Force Base|ホワイトマン空軍基地]][https://www.whiteman.af.mil/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.whiteman.af.mil/News/Photos/igphoto/2002169764/]「''[[グレート・アーティスト|The Great Artiste]]''」。この愛称は1949年9月に事故で失われた<br/>B-29-40-MO 44-27353のもので、塗装も44-27353と同様にされている。 |- |B-29A-45-BN ||44-61739<br/>11216 ||[[File:Boeing B-29A Superfortress (44-61739) (11351681335).jpg|180px]] ||アメリカ ジョージア州 ||[[:en:Museum of Aviation (Warner Robins)|ミュージアム・オヴ・エイヴィエーション]][https://museumofaviation.org/] ||公開 ||静態展示 ||後部胴体は44-61975の修復に使用されたため、現在は機首部のみ現存している。 |- |B-29A-45-BN<br/>TB-29A-45-BN ||44-61748<br/>11225 ||[[File:Vasters IMG 2462 (9124853957) (2).jpg|180px]] ||イギリス ケンブリッジシャー州 ||[[ダックスフォード帝国戦争博物館]][https://www.iwm.org.uk/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.iwm.org.uk/collections/item/object/70000089]「''It's Hawg Wild''」。戦時中に実際に塗られていた塗装となっている。 |- |B-29A-55-BN<br/>TB-29A-55-BN ||44-61975<br/>11452 ||[[File:B-29 Superfortress “Jack’s Hack” Top View.jpg|180px]] ||アメリカ コネティカット州 ||[[:en:New England Air Museum|ニューイングランド航空博物館]][https://www.neam.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.neam.org/shell.php?page=aircraft_collection_detail&name=boeingb29a]「''Jack's Hack''」。一度TB-29に変換されたが爆撃機に改修し直された機体。愛称は実際のもの。 |- |B-29A-60-BN ||44-62022<br/>11499 ||[[File:Boeing B-29 Superfortress Peachy.jpg|180px]] ||アメリカ コロラド州 ||[[:en:Pueblo Weisbrod Aircraft Museum|プエブロ・ワイスブロッド航空機博物館]][https://puebloweisbrodairmuseum.com] ||公開 ||静態展示 ||「''Peachy''」。愛称や塗装はB-29-26-BA 42-63508のもので、実際の愛称は「''Old Double Deuce''」であった。 |- |B-29A-60-BN<br/>TB-29A-60-BN ||[[:en:FIFI (aircraft)|44-62070<br/>11547]]<br/>N529B ||[[File:B-29 - Fifi - VE Day 2015 in Washington DC.jpg|180px]] ||アメリカ テキサス州 ||[[:en:Commemorative Air Force|記念空軍(CAF)B-29・B-24飛行隊]][http://www.caf.org/][https://www.cafb29b24.org/] ||公開 ||飛行可能<br/>(搭乗可能) ||[http://www.cafb29b24.org/b-29-superfortress]「''Fifi''」。1945年の就役後、翌年に練習機型に改修されたが、1950年に爆撃機型へ改修し直されて爆撃部隊へ「''Lucky Strike''」として配置転換した。1953年に再度練習機型に改修された。現在の愛称は記念空軍によってつけられたもの。 |- |B-29A-65-BN ||44-62139<br/>11616 ||[[File:B-29 "Command Decision" walk-through exhibit at NMUSAF - DSCN6084 (6693423753).jpg|180px]] ||アメリカ オハイオ州 ||国立アメリカ空軍博物館 ||公開 ||静態展示 ||[https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/195885/b-29-walk-through-fuselage/]「''Command Decision''」。胴体部分のみ現存。<br/>愛称・塗装はB-29-85-BW 44-87657のもの。 |- |B-29A-65-BN ||44-62208<br/>11685 || ||アメリカ コネティカット州 ||クエスト・マスターズ博物館 ||公開 ||静態展示 ||[http://www.questmasters.us/B-29_SUPERFORTRESS_2.html]残骸の形で現存している。運用当時は「''Miss Liberty Belle''」という愛称だった。 |- |B-29A-70-BN<br/>RB-29A-70-BN<br/>WB-29A-70-BN ||44-62214<br/>11691 ||[[File:Lady of the lake (14880165183) 01.jpg|180px]] ||アメリカ アラスカ州 ||[[:en:Eielson Air Force Base|エイールソン空軍基地]]内の池 ||公開 ||放置 ||本来は愛称のない機体であったが、<br/>現在は池に沈んでいることから「''Lady Of The Lake''」と呼ばれている。 |- |B-29A-70-BN<br/>WB-29A-70-BN ||44-62220<br/>11697 ||[[File:B-29 Superfortress at Lackland Air Force Base side.jpg|180px]] ||アメリカ テキサス州 ||[[アメリカ空軍航空兵遺産博物館]][https://myairmanmuseum.org] ||公開 ||静態展示 ||[https://myairmanmuseum.org/image-gallery/b-29-1-sn-44-62220/]「''Joltin' Josie - The Pacific Pioneer''」。この愛称はB-29-40-BW 42-24614のもの。 |- |B-29-60-BW<br/>KB-29M-60-BW ||44-69729<br/>10561 ||[[File:B-29 Museum of Flight.jpg|180px]] ||アメリカ シアトル州 ||[[:en:Museum of Flight|ミュージアム・オヴ・フライト]][http://www.museumofflight.org/] ||公開 ||静態展示 ||[http://www.museumofflight.org/aircraft/boeing-b-29-superfortress]「''T Square 54''」。<br />運用時は「''Tillie the Tanker''」の名であった。国立アメリカ空軍博物館から貸与されている。 |- |B-29-70-BW<br/>KB-29M-70-BW<br/>SB-29-70-BW ||44-69957<br/>10789 || ||アメリカ カリフォルニア州 ||[[:en:Naval Air Weapons Station China Lake|チャイナレイク海軍航空武装基地]] ||非公開 ||保管中 ||かつて海軍に移管され標的として使用された大量のB-29のうち、修復ないし廃棄されていない最後の1機。一部は「''Doc''」の修復に使用された。 |- |B-29-70-BW<br/>TB-29-70-BW ||[[:en:Doc (aircraft)|44-69972<br/>10804]]<br/>N69972 ||[[File:B-29 DOC.jpg|180px]] ||アメリカ カンザス州 ||ドックズ・フレンズ[https://www.b29doc.com/] ||公開 ||飛行可能 ||[https://www.b29doc.com/docs-story/]「''Doc''」。これは運用中最後に使用された愛称で、その前は「''Snow White''」、「''The Seven Dwarfs''」であった。 |- |B-29-75-BW<br/>TB-29-75-BW ||44-70016<br/>10848 ||[[File:44-70016 Boeing B-29 Superfortress U.S. Army (8744498114).jpg|180px]] ||アメリカ アリゾナ州 ||[[ピマ航空宇宙博物館]] ||公開 ||静態展示 ||「''Sentimental Journey''」。この愛称は最初に使用されたもので、次いで「''City of Quaker City''」、「''Dopey''」と名付けられた。 |- |B-29-80-BW ||44-70049<br/>10881 || ||アメリカ フロリダ州 ||[[:en:Fantasy of Flight|ファンタジー・オヴ・フライト]] ||非公開 ||保管中 || |- |B-29-75-BW ||44-70064<br/>10896 ||[[File:Boeing B-29A Superfortress ‘461535’ “Raz’n Hell” (29255564433).jpg|180px]] ||アメリカ カリフォルニア州 ||[[:en:Castle Air Museum|キャッスル航空博物館]][https://www.castleairmuseum.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.castleairmuseum.org/collection]「Raz'n Hell」。<br/>機体のうち垂直尾翼はB-29A-35-BN 44-61535/11012、<br />主翼はB-29-60-BA 44-84084のものであるが、胴体や水平尾翼と塗装はこの機体のものである。 |- |B-29-80-BW<br/>TB-29-80-BW ||44-70113<br/>10945 ||[[File:B29 at Dobbins ARB, Marietta, GA, US.jpg|180px]] ||アメリカ ジョージア州 ||[[:en:Dobbins Air Reserve Base|ドビンズ航空予備役基地]]<br />コブパークウェイ入り口 ||公開 ||静態展示 ||「''Sweet Eloise''」。当初名付けられた名前は<br/>「''Ancient Mariner''」「''Marilyn Gay''」だったが、第二次大戦後、イギリスで使用<br />されていた際に「''Hoof Hearted''」と改名され、のち1990年代に「''Sweet Eloise''」と名付けられた。 |- |B-29B-55-BA<br/>TB-29B-55-BA ||44-84053<br/> ||[[File:Robins AFB 2 (3) (14222950752).jpg|180px]] ||アメリカ ジョージア州 ||ミュージアム・オヴ・エイヴィエーション ||公開 ||静態展示 ||[https://museumofaviation.org/portfolio/b-29-super-fortress/]「''Big Red''」。運用時の愛称は「''Bonnie Lee''」。 |- |B-29B-60-BA<br/>TB-29B-60-BA ||44-84076<br/> ||[[File:Boeing B-29 Superfortress 44-84076 "Lucky Lady" at Strategic Air Command & Aerospace Museum (panoramio 97280891).jpg|180px]] ||アメリカ ネブラスカ州 ||[[:en:Strategic Air Command & Aerospace Museum|戦略航空軍団・航空宇宙博物館]][https://sacmuseum.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://sacmuseum.org/what-to-see/aircraft/b-29tb-superfortress/]「''Lucky Lady''」。<br />運用時の愛称は「''Percussion Steamboat''」。以前は「''Man O' War''」という塗装だった。現在はB-29-50-BW 42-24863号機の愛称が採用されているが、幾度か塗装が変更されたために実際のものと同じかは不明。 |- |B-29-45-MO ||[[エノラ・ゲイ|44-86292<br/>]] ||[[File:Enola Gay Pano.jpg|180px]] ||アメリカ ヴァージニア州 ||[[国立航空宇宙博物館#博物館別館|スティーヴン・F・ウドヴァー=ヘイジー・センター]][http://airandspace.si.edu/] ||公開 ||静態展示 ||「''Enola Gay''」。<br />広島に原爆を投下した機体。[http://airandspace.si.edu/collections/artifact.cfm?object=nasm_A19500100000] |- ||B-29-55-MO ||44-86408<br/> ||[https://live.staticflickr.com/65535/49961887153_49c49c879c_b.jpg 写真] ||アメリカ ユタ州 ||[[:en:Hill Aerospace Museum|ヒル航空宇宙博物館]][https://www.aerospaceutah.org/] ||公開 ||静態展示 ||[https://www.aerospaceutah.org/b-29-superfortress/]「''[[ストレートフラッシュ (航空機)|Straight Flush]]''」。これは本来B-29-35-MO 44-27301 の愛称であった。<br />かつては運用時の「''Haggerty's Hag''」を間違えたと思われる「''Hagarty's Hag''」という塗装がされていた。旧塗装[[File:B-29A Superfortress "Haggitys Hawg" (3800127563).jpg|180px]] |- |B-29-??-MO ||44-86???<br /> || ||アメリカ コネティカット州 ||クエスト・マスターズ博物館 ||公開 ||静態展示 ||尾部が現存している。[http://www.questmasters.us/B-29_SUPERFORTRESS_1.html] |- |B-29-80-BW<br/>TB-29-80-BW ||44-87627<br/>12430 ||[[File:Barksdale Global Power Museum September 2015 32 (Boeing B-29 Superfortress).jpg|180px]] ||アメリカ ルイジアナ州 ||[[:en:Barksdale Global Power Museum|バークスデール国際勢力博物館]][http://www.barksdaleglobalpowermuseum.com/] ||公開 ||静態展示 ||[http://www.barksdaleglobalpowermuseum.com/projects]「''Bossier City''」。 |- |B-29-90-BW<br />KB-29M-90-BW ||44-87779<br />12582 ||[[File:United States Air Force - Boeing B-29 Superfortress bomber plane 6 (30378053078).jpg|180px]] ||アメリカ サウスダコタ州 ||[[:en:South Dakota Air and Space Museum|サウスダコタ航空宇宙博物館]][https://www.sdairandspacemuseum.com/] ||公開 ||静態展示 ||「''Legal Eagle II''」。運用時の愛称である。[https://www.sdairandspacemuseum.com/exhibits#] |- |B-29-90-BW ||45-21739<br />13633 ||[[File:45-21739 W-48 a USAF B-29A Superfortress (3224612401).jpg|180px]] ||韓国 慶尚南道 ||[[:en:KAI Aerospace Museum|KAI航空宇宙博物館]][https://4travel.jp/travelogue/10490725] ||公開 ||静態展示 ||「''Unification''」。 |- |B-29-97-BW ||45-21748<br />13642 ||[[File:National Museum of Nuclear Science & History B-29 02.tif|180px]] ||アメリカ ニューメキシコ州 ||[[国立原子力博物館|国立原子力科学歴史博物館]][https://www.nuclearmuseum.org/] ||公開 ||静態展示 ||「''Duke of Albuquerque''」。[https://www.nuclearmuseum.org/support/operation-preservation/completed-b-29-superfortress] |- |B-29-95-BW<br />P2B-1S ||45-21787<br />84029 (USN)<br/>13681 ||[[File:Polk County, FL, USA - panoramio (22).jpg|180px]] ||アメリカ フロリダ州 ||[[:en:Florida Air Museum|フロリダ航空博物館]][https://www.floridaairmuseum.org/] ||公開 ||静態展示 ||「''Fertile Myrtle''」。<br />飛行登録ナンバーはN29KW。<br />かつては飛行可能だったが、現在は分解されて機首部分のみ展示中。ファンタジー・オヴ・フライトから貸与されている。 |- |B-29-100-BW<br />F-13-100-BW<br/>RB-29-100-BW<br />B-29F-BW ||45-21847<br />13741 ||[[File:B-29 Superfortress Submerged in Lake Mead (19733908121).jpg|200px]] ||アメリカ ネヴァダ州 ||[[ミード湖]] ||公開 ||放棄 ||B-29として生産されたが、のちに偵察仕様のF-13へと改装された機体。試験飛行を行っていたところ、[[1948年ミード湖B-29墜落事故|ミード湖へ墜落]]しそのまま放棄された。機体はアメリカの[[アメリカ合衆国国家歴史登録財|国家歴史登録文化財]]になっている。 |- |} == B-29のノーズアート == アメリカ軍では航空機の機体前部に[[ノーズアート]]を描く風習が他の国の空軍より盛んであった。第二次世界大戦の末期には高い技術水準に達していたが、B-29の長くて滑らかな機首はノーズアートを描くには格好の環境であり、さまざまなノーズアートが描かれた。軍が公式に許可していたわけではないが、絵がまともであれば爆撃兵団の上層部が認め、アメリカ軍は黙認していたというのが実態である。ノーズアートを描くのは看板職人をしていた兵士であり、公務の傍ら任務時間外に腕をふるった。報酬は60ドルから100ドルぐらいで、その報酬はクルーらが出し合った。腕のいい看板職人の兵士には依頼が殺到し、1飛行隊全機の依頼が舞い込み、2時間ぐらいの作業で1,000ドル稼ぐことができたという{{Sfn|デイビッド|1983|p=130}}。特に好まれたのが“なまめかしい”女性のノーズアートであり、当初は爆撃兵団の上層部も最低限の品性を備えていれば容認していたが、次第に過激な表現となってきたため、終戦の直前には[[従軍牧師]]が道徳的に問題があると騒ぎだして、女性のノーズアートはシンプルで品のいいシンボルや無機質な文字のノーズアートに差し替えられた{{Sfn|デイビッド|1983|p=133}}。ノーズアートは主に機体の左側に書かれるため、B-29の公式な報道写真などは右側から撮影されることが多かった。第二次世界大戦が終わっても、依然として機体左側には無味乾燥なノーズアートが多かったが、機体の右側にもノーズアートが描かれるようになり、また、なまめかしい女性のノーズアートも復活し、特に朝鮮戦争開戦後に盛んとなった。この頃のノーズアートを主に描いたのはアメリカ軍の看板職人の兵士ではなく、B-29航空団の基地があった[[嘉手納飛行場]]や[[横田基地]]周辺の本職の日本人看板屋であった{{Sfn|デイビッド|1983|p=133}}。 <gallery widths="230"> 794th BS Boeing B-29-15-BW Superfortress 42-6390.jpg|第468爆撃団 第794飛行隊所属「Gallopin' Goose」号のノーズアート、まだ初期のものでシンプル。本機は1944年12月7日満州奉天の爆撃任務で日本軍二式戦闘機「鍾馗」によって撃墜された 869th BS 477th BS Boeing B-29-40-BW Superfortress 42-24599.jpg|第497爆撃団 第869飛行隊所属「Skyscrapper」号のノーズアート。本機は1944年11月27日サイパンへの日本陸海軍機空襲にて地上で撃破された Air Force personnel & equipment. The Pacific, England, Wash. DC. 1942-44 (mostly 1943) - NARA - 292576.jpg|第497爆撃団 第73飛行隊所属「Waddy's Wagon」号と、そのノーズアートを再現する乗員達。本機は1945年1月9日の任務で損失 793d Bombardment Squadron Boeing B-29-55-BW Superfortress 44-69663.jpg|第468爆撃団 第793飛行隊所属「Dragon Lady」号のノーズアート。ノーズギアの格納部に「100フィート以内は禁煙」の文字も見える 874th BS Martin-Omaha B-29-5-MO Superfortress 42-65210.jpg|第498爆撃団 第874飛行隊所属「Fay」号のノーズアート、本機は1945年3月25日名古屋にて撃墜された Supinesue-port.jpg|第500爆撃団 第883飛行隊所属「Supine Sue」号のノーズアート、本機は映画「火垂るの墓」に登場している 468th Bombardment Group Martin-Omaha B-29-15-MO Superfortress 42-65227.jpg|第468爆撃団 第792飛行隊所属「Lady Be Good」号のノーズアート 497bg-869sq-42-24599-scrapper.jpg|第497爆撃団 第869飛行隊所属「scrapper」号のノーズアート、B-29のノーズアートしては珍しい「シャークマウス」 Boeing B-29 Nose Art AL83-018.jpg|第497爆撃団 第870飛行隊所属「Shady Lady」号のノーズアート Bockscar.jpg|長崎に原爆を投下した「ボックスカー」のノーズアート。これは原爆投下後に描かれており、原爆投下任務時にはノーズアートはなかった B-29 Enola Gay w Crews.jpg|広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」のノーズアート。中央でパイプをくわえているのが指揮官のポール・ティベッツ Boeing B-29A, 44-62207, To Each His Own, 98th BW, 344th BS.jpg|第二次世界大戦後(1950年)機体の右側に描かれた「To Each His Own」号のノーズアート </gallery> == 墜落事故 == * 1944年11月21日(長崎県諫早市小長井町井崎沖)機体番号26278 - 11人死亡<ref>[https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post06/12891.html 小長井港沖米軍機B29引き揚げ] [[諫早市]](2021年8月14日閲覧)</ref><ref>[https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post06/6368.html 坂本中尉機とボーイングB29] [[諫早市]](2021年8月14日閲覧)</ref> * 1944年12月3日(千葉県東庄町東和田)愛称ロゼリアロケット - 搭乗12人中7人即死、2人が陸軍病院で死亡、5人が捕虜となった後に米国に帰還<ref>[http://www.town.tohnosho.chiba.jp/003profile/c006/files/koho640_0405.pdf 二度目の着地] [[東庄町]](2021年8月14日閲覧)</ref> * 1945年4月2日(東京都東村山市秋津町) - 11人死亡<ref>[https://www.city.kiyose.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/868/20150224pannfu1.pdf 清瀬と戦争] [[清瀬市]](2021年8月14日閲覧)</ref> * 1945年4月29日(鹿児島県鹿屋市輝北町)<ref>[https://www.city.kanoya.lg.jp/documents/1257/04_05p.pdf 鹿屋に残る 戦跡マップ] [[鹿屋市]](2021年8月14日閲覧)</ref> * 1945年6月19日(静岡県静岡市安倍川上空) - 2機のB-29が空中衝突して墜落し23人死亡<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/shizuoka_shizuoka_004/index.html 静岡空襲犠牲者日米合同慰霊祭] [[総務省]](2022年6月14日閲覧)</ref> * 1952年10月7日(北海道根室市東方沖)※偵察爆撃機RB-29 - [[1952年10月7日RB-29撃墜事件|ソ連軍の攻撃を受け墜落]] * 1954年11月7日(北海道別海町上春別)※偵察爆撃機RB-29 - ソ連軍の攻撃を受け墜落<ref>[https://betsukai.jp/kyoiku/culture/bunkazai/rekishi_isan/beigunn_puropera/ 在日米軍偵察爆撃機RB29プロペラブレード] [[別海町]](2021年8月15日閲覧)</ref> == 登場作品 == ; 映画 ;* 『[[GODZILLA (アニメ映画)#小説|GODZILLA 星を喰う者]]』 : メトフィエスがハルオに見せた精神世界の中に登場。 ;* 『原爆投下機/B-29エノラ・ゲイ 1945・8・6・ヒロシマ』 : 1980年アメリカ作品、日本劇場未公開([[VHS]]ビデオ販売のみ)。広島への原爆投下に至るまでを、「エノラ・ゲイ」と「ボックスカー」に搭乗して2度の原爆投下任務に従事した{{仮リンク|ジェイコブ・ビーザー|en|Jacob Beser}}<ref>日本記者クラブ 2016年03月15日 映像作家 アリ・ビーザー氏 「原爆機乗員の孫がヒバクシャを訪ねて」</ref>を主人公として描く。ほかに重要な役としてビーザーの上官で第509混成部隊の指揮官ポール・ティベッツと妻ルーシーや「原爆の父」こと物理学者の[[ロバート・オッペンハイマー]]や大統領のルーズベルトなども登場する。 ;* 『[[太平洋の翼]]』 : 1963年[[東宝スコープ]]制作。新鋭戦闘機「[[紫電改]]」で編成された実在の[[第三四三海軍航空隊|第343海軍航空隊]]を舞台としたフィクション。B-29は大編隊で日本本土への爆撃中に、主人公滝大尉が操縦する紫電改に体当たりされるシーンで登場。 ;* 『[[零戦燃ゆ]]』 : [[柳田邦男]]原作のノンフィクションを映画化、1984年[[東宝]]株式会社配給。しかし映画化にあたっては登場人物等がフィクション仕立てとなっている(主役の浜田正一少尉など実在の人物をモデルにしている登場人物もいる)。主役の浜田が操縦する零戦に撃墜されるシーンと、[[女子挺身隊]]として航空機工場で勤労奉仕をしていたヒロイン吉川静子が空襲で死亡するシーンに登場。 ;* 『[[ローレライ (映画)|ローレライ]]』 : [[福井晴敏]]原作の小説『[[終戦のローレライ]]』の映画化。東京に投下する3発目の原子爆弾を搭載してテニアン島から出撃するB-29が登場。 ;* 『[[グラマ島の誘惑]]』 : [[アナタハンの女王事件|アナタハン島事件]]を戯画化した作品。墜落したB-29の残骸が登場する。これは、本物のB-29の[[スクラップ]]であり、同作品の予算で[[グアム]]から購入してきた物だという<ref>『川島雄三 サヨナラだけが人生だ』([[藤本義一 (作家)|藤本義一]]、[[河出書房新社]]、ISBN 4-309-26453-0)</ref>。 ;* 『[[スペース カウボーイ]]』 : [[1958年]]のシーンで[[空軍]]の機体が登場。 ;* 『[[ぼくはジェット機]]』 : B-29を擬人化したアニメ映画。[[アカデミー賞]][[アカデミー短編アニメ賞|短編アニメ部門]]ノミネート作品。 ;* 『[[火垂るの墓]]』 : [[野坂昭如]]原作の[[短編小説]]の映画化、[[スタジオジブリ]]制作、1945年6月5日の神戸大空襲のシーンで登場。劇中に登場する[[テールマーク]]「Z」のB-29は第500爆撃団のマークで、機体番号が確認できる6機は、「41」機(愛称マイプライドアンドジョイ)、「42」機(愛称スパイン・シュー)、「44」(愛称なし)、「47」機(愛称なし)、「50」機(愛称ファンシーディティール)、「51」機(愛称テイルウィンド)で実在の第883飛行隊の所属機であるが、史実ではこの日出撃していたのは「41」(マイプライドアンドジョイ)機、「42」(スパイン・シュー)機、「50」(ファンシーディテール)機、「51」(テイルウインド)機であり、「44」機は1944年11月29日の東京市街地への夜間空襲で、単機で東京市街地に突入したが帰路に行方不明となって、機長ハロルド・M・ハンセン少佐以下11名が戦死して以降は欠番となっており、「47」機は出撃していない。次の爆撃任務となった2日後の6月7日の大阪大空襲では「47」機も出撃している<ref>[http://www.500thbombgroupb29.org/ The 500th Bomb Group,B-29 Memorial]2019年4月11日閲覧</ref>。 ;* 『[[はだしのゲン]]』 : [[中沢啓治]]原作漫画のアニメーション映画化、アニメーションは[[マッドハウス]]制作。原爆投下シーンでB-29「エノラ・ゲイ」が登場。「エノラ・ゲイ」から投下された「リトルボーイ」にパラシュートが付いていたような描写となっているが、パラシュート付きで投下されたのは各種データを収集するために投下された測定器や[[ラジオゾンデ]]で、原爆本体には装着されていない<ref>[http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/sp/contents/1423129581186/index.html 原爆関係の慰霊碑等の概要]2019年4月11日閲覧</ref><ref>「広島・長崎原爆放射線推定方式 DS02 の背景と総括」広島国際学院大学 葉佐井 博巳</ref> ;* 『[[ピカドン]]』 : アニメーション作家[[木下蓮三]]・[[木下小夜子|小夜子]]夫妻制作の短編アニメーション作品。のちに[[セル画]]をもとに[[ダイナミックセラーズ]]刊で絵本化、はだしのゲンと同じ広島への原爆投下シーンで「エノラ・ゲイ」が登場するが、原爆投下前に「グレート・アーティスト」「ストレートフラッシュ」と3機で飛行するシーンがあったり、投下された「リトルボーイ」にパラシュートが付いていないなど「はだしのゲン」よりは史実に沿っている。 ;* 『[[ガラスのうさぎ]]』 : 児童文学作家・[[高木敏子]]による[[ノンフィクション]]文学のアニメーション映画化、映画「ガラスのうさぎ」製作委員会([[ゴーゴービジュアル企画]]、[[マジックバス]]、[[アミューズメントメディア総合学院]]、[[共同映画]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン]])制作。1945年3月9日の深夜の東京大空襲のシーンで夜空を飛ぶB-29と投下されたM69焼夷弾が登場。 ;* 『[[戦争と青春]]』 : [[早乙女勝元]]原作小説の映画化、1945年3月9日の深夜の東京大空襲のシーン夜間爆撃するB-29が登場、史実に沿って低空飛行していて地上からの登場人物からかなり大きい機影が見えており爆弾倉が開いているのも確認できる。 ;* 『[[この世界の片隅に (映画)|この世界の片隅に]]』 : [[こうの史代]]原作漫画のアニメーション映画化、アニメーションは[[MAPPA]]制作。主人公北條すずが居住する[[呉市]]にB-29が何度も空襲に来襲する。 ;* 『[[海賊とよばれた男]]』 :[[百田尚樹]]原作小説の映画化、序盤の1945年5月の東京大空襲のシーンで登場、日本軍の夜間戦闘機月光の迎撃を受けるが返り討ちにして撃墜している。しかし、月光が迎撃に出撃した5月25日の夜間空襲においては、横須賀海軍航空隊の夜間戦闘機隊[[黒鳥四朗]]少尉と倉本十三飛曹長が搭乗する月光がB-29を5機撃墜、1機撃破の戦果を挙げて無事に帰投している。 ; 小説 ;* 『B29の行方』 ;* 『[[宇宙戦争 (横山信義)|宇宙戦争1945]]』 : 火星人本隊の地球到着を阻止すべく決行されたオリンピック作戦に「決戦機」として多数投入され、開発国であるアメリカのみならず、[[野中五郎]]、[[村田重治]]、[[江草隆繁]]ら日本人パイロットやイギリス、ドイツ、ソ連などの国々のパイロットが搭乗する。 : 武装に関しても火星人の飛行兵器の装甲を貫通可能な37mm機銃6丁(連装1基、単装4基)へと変更している。 ;* 『鋼鉄の海嘯』『南海蒼空戦記』 : 史実より[[大日本帝国|日本]]や[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]が優勢な設定であるため、B-29は多数が[[撃墜]]されたり、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|対独戦]]に投入されたりする。 ;* 『[[征途]]』 : 北海道戦争([[朝鮮戦争]]の日本版)に投入され、日本人民空軍の[[MiG-15 (航空機)|MiG-15 ファゴット]]に迎撃される。また太平洋戦争中には、1945年8月25日に[[函館市]]へ、26日には[[旭川市]]へ[[原子爆弾|反応弾]]を投下している。 ;* 『大日本帝国欧州電撃作戦』 : [[アメリカ合衆国|アメリカ]]と講和して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側になった[[大日本帝国海軍|日本海軍]]・[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]に供与され、[[枢軸国|枢軸]]側の[[ソビエト連邦|ソ連]]へ[[空襲|爆撃]]を行う。 ;* 『碧海の玉座』 : アメリカが日英と戦う架空戦記。[[グアム|グアム島]]から日本を爆撃していたが、[[イギリス軍]]の[[アブロ ランカスター|ランカスター重爆]]に[[滑走路]]を破壊されて離陸できなくなり、[[アメリカ軍]]自らによる爆砕処理に追い込まれる。 ;* 『レイテ驀進1 逆襲の機動部隊』 : [[シンガポール]]の[[ドック]]で整備中の[[海防戦艦]]に改造された「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」を破壊するべく38機が飛来するが、陸奥からの[[対空砲火|対空砲撃]]を受け、4機が[[撃墜]]され3機が逃走したうえ、直撃弾は1発もなしという散々な結果に終わる。 ;* 『大逆転!幻の超重爆撃機「富嶽」シリーズ』 : [[檜山良昭]]原作の空想戦記シリーズ、日本軍の幻の超巨大爆撃機「富嶽」が活躍する。B-29は「富嶽」の宿敵としてシリーズ中に何度も登場する。 ;* 『[[紺碧の艦隊]]』 : 後世世界(作品の舞台)にて、B-30の型式で登場(前世世界(現実)の[[B-30]]とは別物)。外見はB-29とほぼ同じだが、作戦行動半径は3,000kmと設定されている。照和17年4月18日に中国大陸から日本本土を来襲(いわゆる[[ドーリットル空襲]]の逆コース)、一部部隊が東京上空に高度1万から侵入したが、[[蒼萊 (荒巻義雄 艦隊シリーズ)|蒼萊]](現実における[[震電]]の後世版)によって全機撃墜された。OVA版では米国との和解後、対独戦の為に日本に供与され、日本軍機の戦略爆撃機としてインド戦線や蒙古決戦などで活動した。なお、前世におけるB-29とそれがもたらした悲劇は、転生者達の中でも強く記憶に刻まれており、前述の蒼莱も後世世界にB-29が現れた時の為に備えて作られた物であった。 ; ゲーム ;* 『[[Fallout: New Vegas]]』 : [[第三次世界大戦]]により文明が崩壊した後の[[ラスベガス]]を舞台とした作品、作中において[[ネリス空軍基地]]の跡地に住む「ブーマー」と呼ばれる住民から受けられるクエストに[[1948年ミード湖B-29墜落事故|ミード湖に墜落したB-29]]を回収するというものがある。 ;* 『[[WarThunder]]』 : アメリカ爆撃機ツリーのランクIV機体。バトルレートが6.3に設定されており、ジェット機とマッチングする事があるために断じて有利とはいえないが、本機ならではの爆弾搭載量は試合展開を大きく左右する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|3}} == 参考文献 == <!-- ウィキペディア[[参考文献を明記する]]より著者五十音順、日本語文献優先 --> * <!-- アレン1995 -->{{Cite book |和書 |author=トーマス・アレン |author2=ノーマン・ボーマー |others=栗山洋児(訳) |year=1995 |title=日本殲滅 日本本土侵攻作戦の全貌 |publisher=光人社 |isbn=4769807236 |ref={{SfnRef|アレン|ボーマー|1995}} }} * {{Cite book |和書 |author=イアン・トール |others=村上和久(訳) |year=2021 |title=太平洋の試練 下 ガダルカナルからサイパン陥落まで |publisher=文藝春秋 |series=太平洋の試練 |asin=B098NJN6BQ |ref={{SfnRef|イアン・トール|2021}} }} * {{Cite book |和書 |author=トーマス・B・ブュエル |others=小城正(訳) |year=2000 |title=提督スプルーアンス |publisher=学習研究社 |series=WW selection |isbn=4-05-401144-6 |ref={{SfnRef|ブュエル|2000}} }} * <!-- アンダートン1983 -->{{Cite book |和書 |author=デイビッド・A.アンダートン|others=大出 健(訳) |year=1983 |title=第二次世界大戦空戦録〈2〉戦略爆撃機B-29 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4061872226 |ref={{SfnRef|デイビッド|1983}} }} * <!-- オグラ? -->小倉磐夫著『カメラと戦争』朝日新聞社 * {{Cite book |和書 |author1=奥住喜重|authorlink1=奥住喜重|author2=早乙女勝元|authorlink2=早乙女勝元|year=2007|title=新版 東京を爆撃せよ―米軍作戦任務報告書は語る|publisher=三省堂|isbn=978-4385363219 |ref={{SfnRef|奥住|早乙女|2017}} }} * <!-- オネール1988 -->{{Cite book |和書 |author=リチャード オネール |others=[[益田 善雄]](訳) |year=1988 |title=特別攻撃隊―神風SUICIDE SQUADS |publisher=霞出版社 |isbn=978-4876022045 |ref={{SfnRef|オネール|1988}} }} * {{Cite book |和書 |author=柏木浩 |year=1972 |title=超空の要塞・B29―悪魔の使者 (写真で見る太平洋戦争 8) |publisher=秋田書店 |series=写真で見る太平洋戦争 8|isbn=978-4253006620 |ref={{SfnRef|柏木|1972}} }} * {{Cite book |和書 |author=樫出勇|authorlink=樫出勇 |year=2005|title=B29撃墜記―夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769822035|ref={{SfnRef|樫出|2005}} }} * {{Cite book |和書 |author=勝目純也|authorlink=勝目純也 |year=2016 |title=歴史群像 2016年2月号 インタビュー B-29と死闘を続けた海軍中尉中島又男 |publisher=[[学研プラス]] |series=歴史群像135 |asin=B000EUMEOG |ref={{SfnRef|歴史群像135|2016}} }} * {{Cite book |和書 |author=神立尚紀 |author2=大島隆之 |year=2013 |title=零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争|publisher=講談社 |isbn=978-4-06-218743-5 |ref={{SfnRef|神立|大島|2013}} }} * {{Cite book |和書 |author=加藤浩 |year=2009 |title=神雷部隊始末記 人間爆弾「桜花」特攻全記録 |publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]] |isbn=4054042023 |ref={{SfnRef|加藤|2009}}}} * {{Cite book |和書 |author=木俣滋郎|authorlink=木俣滋郎 |year=2013|title=陸軍航空隊全史―その誕生から終焉まで|publisher=光人社 |series=光人社NF文庫|isbn=978-4769828020|ref={{SfnRef|木俣|2013}} }} * <!-- クックス1971 -->{{Cite book |和書 |author=アービン・クックス |others=加藤 俊平(訳)|year=1971 |title=天皇の決断―昭和20年8月15日 |publisher=サンケイ新聞社出版局 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|和書 |author=渡辺洋二 |year=1983 |title=夜間戦闘機「月光」―B-29を撃墜せよ |publisher=サンケイ出版 |series=第二次世界大戦ブックス〈91〉 |asin=B000J7GPSU |ref={{SfnRef|渡辺|1983}} }} * {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2007 |title=特攻の海と空―個人としての航空戦史 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |isbn=978-4167249151|ref={{SfnRef|渡辺洋二|2007}} }} * {{Cite book |last=Dorr |first=Robert F. |year=2002 |title=B-29 Superfortress Units of World War 2 (Combat Aircraft) |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1841762852|ref={{SfnRef|Dorr|2002}}}} * {{Cite book |last=Mann |first=Robert A. |year=2009 |title=B-29 Superfortress: A Comprehensive Registry of the Planes and Their Missions |publisher=McFarland Publishing |isbn=978-0786444588|ref={{SfnRef|Mann|2009}}}} * {{Cite book |last=Zaloga |first=Steven J. |year=2010 |title=Defense of Japan 1945 |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1846036873 |ref={{SfnRef|Zaloga|2010}}}} * [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] ** {{Cite book |和書 |author=|year=1945|title=B29 : 超空の要塞の正体|publisher=朝日新聞社|page= |id={{NDLJP|1060103}}|quote= }} * [https://web.archive.org/web/20170818172732/https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2409266/index.html 「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米空軍幹部が語った“真相”」] - [[NHKドキュメンタリー]] == 関連項目 == {{columns-list|3| * [[戦略爆撃機]] * [[日本本土空襲]] * [[バンコク空襲]] * [[広島市への原子爆弾投下]] * [[長崎市への原子爆弾投下]] * [[シルバープレート]] * [[Me 264 (航空機)]] * [[埼玉県金子村B29墜落事故]] }} == 外部リンク == {{Commons category|Boeing B-29 Superfortress}} * [https://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] ** {{Citation |和書|author=|editor=読売新聞社|year=1944|month=7|title=敵機一覧.昭和19年版|chapter=|publisher=読売新聞社|url={{NDLDC|1124548}}|ref=S19敵機一覧}} * [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) ** {{アジア歴史資料センター|C13120326300|第302海軍航空隊戦時日誌 自昭和20年5月1日至昭和20年5月31日}} * {{PDFlink|[https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930093279.pdf NASA(正式には前身のNACA)によるB29のリポート]}} {{en icon}} * {{PDFlink|[http://www.afhso.af.mil/shared/media/document/AFD-110331-045.pdf According to the USAAF Statistical Digest for WWII:]}} {{en icon}} * [https://archive.org/details/Birthoft1945 Birth of the B-29 (1945)] - U.S. Army Air Forces, [[Internet Archive]] * [https://user.xmission.com/~tmathews/b29/56years/56years-4404.html B-29の56 years ago Today]{{en icon}} * [http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/index.html JA2TKO & B29 Superfortress B-29] ** [http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/jap.b29/b29.html B-29の追憶 超空の要塞・B-29:米陸軍航空隊重爆撃機] ** [http://www.sun-inet.or.jp/~ja2tko/jap/ok_b29.museum.html 重爆撃機B29写真博物舘] * [[岡田斗司夫]]ゼミのうち、B-29に言及している箇所 ** {{Cite video |people=岡田斗司夫 |date=2018-12-23 |title=岡田斗司夫ゼミ#261(2018.12)アニメ『風立ちぬ』とハリウッド『ファーストマン』の意外な繋がり〜オタク的歴史の面白がり方教えます |url=https://www.youtube.com/watch?v=Py0q-yTq_AA&t=25m16s |medium=[[動画共有サービス]] |publisher=株式会社[[ドワンゴ]] |accessdate=2020-06-05 |time=25m16s〜31m05s |quote=岡田斗司夫 [[YouTube]]公式チャンネル「岡田斗司夫ゼミ #261」|ref={{SfnRef|岡田ゼミ#261|2018}} }}<!-- *** {{Cite video |people=岡田斗司夫 |date=2018-12-16 |title=岡田斗司夫ゼミ#261「アニメ『風立ちぬ』とハリウッド『ファーストマン』の意外な繋がり〜オタク的歴史の面白がり方教えます」|url=https://www.amazon.co.jp/岡田斗司夫ゼミ-261「アニメ『風立ちぬ』とハリウッド『ファーストマン』の意外な繋がり〜オタク的歴史の面白がり方教えます」-岡田斗司夫/dp/B07MH7J9Y9 |format= |medium=[[Amazonプライム・ビデオ]] |publisher=株式会社オタキング |oclc= |ref={{SfnRef|岡田|2018}} }}※動画が削除された場合にのみ表示する備え。--> ** {{Cite video |people=岡田斗司夫 |date=2018-12-28 |title=岡田斗司夫ゼミ#262(2018.12)『風の谷のナウシカ』予習講座&英国式ホラー小説を宮崎駿のマンガ+プラモデルで楽しみ尽くす! |url=https://www.youtube.com/watch?v=E6ZAv6h5I_E&t=21m41s |medium=動画共有サービス |publisher=株式会社ドワンゴ |accessdate=2020-06-05 |time=21m41s〜29m11s |quote=岡田斗司夫 YouTube公式チャンネル「岡田斗司夫ゼミ #262」|ref={{SfnRef|岡田ゼミ#262|2018}} }}<!-- *** {{Cite video |people=岡田斗司夫 |date=2018-12-23 |title=岡田斗司夫ゼミ#262『風の谷のナウシカ』予習講座&英国式ホラー小説を宮崎駿のマンガ+プラモデルで楽しみ尽くす! |url=https://www.amazon.co.jp/ |format= |medium=Amazonプライム・ビデオ |publisher=株式会社オタキング |oclc= |ref={{SfnRef|岡田|2018}} }}※動画が削除された場合にのみ表示する備え。--> {{B-29}} {{アメリカ空軍の爆撃機}} {{アメリカ軍の偵察機}} {{アメリカ軍の対潜哨戒機}} {{Boeing model numbers}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:B029}} [[Category:B-29|*]] [[Category:アメリカ合衆国の爆撃機]] [[Category:戦略爆撃機]] [[Category:ボーイング製軍用機]] [[Category:第二次世界大戦時の航空機]]
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音節文字
音節文字(おんせつもじ、英: syllabary)とは、表音文字のうち、ひとつひとつの文字が音節を表す文字体系のこと。表音節文字とも。 日本語等で使われる仮名も音節文字の1つである。 文字体系の伝統的な分類として、「意味を表す文字体系」と「音を表す文字体系」に二分するものがある。この区分では、異なる意味を異なる文字で表す文字体系が前者、異なる音を異なる文字で表す文字体系が後者となる。19世紀末、ヨーロッパで文字学が起こり、従来のアルファベットなどの表音文字以外に、種々の文字体系(漢字など)を研究の対象として扱うようになったため、この区分がされるようになった。 しかし、このふたつの類型にあてはめにくいものもあった。文字体系を「表語的体系」、「音節的体系」、「アルファベット的体系」の三類型にはじめて区分したのは、インド系文字の研究者である。この区分では、今日のアブギダ(子音の字母に特定の母音が結び付いている表音文字体系。母音だけが異なる音節は子音の字母に補助的な符号を付加するなどして表す)が、「音節的な文字体系」となる。 20世紀に入り、考古学者(アッシリア学)イグナス・ジェイ・ゲルブ は、文字体系は意味を表す表語文字から発音を音節で表す音節文字へ、さらに音節文字から発音を音素で表す単音文字(アルファベットなど)へと発達していくものだと主張し、広く支持された。この場合、音節文字に区分されるのは表音文字化した楔形文字や仮名などである。アブギダは音節文字と単音文字の中間段階にあるものとされた。 その後、考古学の発展によって、アブギダとアルファベットはともにアブジャド (子音のみを文字として綴る表音文字体系) から発展してきたことがあきらかになってきた。これら3つは、文字が音素を表すことから音素文字と総称され、文字が音節をあらわす音節文字とは区別される。 いっぽう表音文字には、表す発音ごとに別の文字があるもの(音素文字のほとんどと、音節文字の多くがこれである)と、文字の字形と表す発音の間に関連性があるもの(ハングルなど)があることが指摘された。前者の文字の数は、学習可能な限度によってきまるので、多くても数百程度までだが、後者は、文字の字形が規則性を持つため、非常に多くの文字を持つ場合もある。 言語学者のジェフリー・サンプソン は、音声言語を表記する文字体系を「表語的体系」と「表音的体系」に区分したうえで、「表音的体系」を発音の分節の度合いから「音節を表す体系」(音節文字)、「音素を表す体系」(音素文字)、「弁別的素性を表す体系」(素性文字)に区分した。素性文字では、書記素の形状が発音の特徴に関連した規則性を持っており、音素よりもさらに微細な発音の特徴が字形に反映されている。ハングルやテングワールなどがこれにあたる。 以上のように、「音節文字」という用語には、その表す意味に変遷がある。またいまだに、「音節を表しうる文字がある文字体系」というだけの意味で「音節文字」という用語を用いる文献も多い。 本項では、サンプソンの区分した意味での音節文字に加え、素性文字のうち文字が音節を表す文字体系や、セミシラバリーに分類される文字体系についても解説する。 ほかの表音文字体系と同様、音節文字ではひとつひとつの文字が言語の音韻を表し、言語の意味を表してはいない。対して、表語文字ではひとつひとつの文字が言語の語や形態素の発音を表すため、音韻と意味の両方を表す。 音節文字では、文字が音節を表す。多くの音節文字体系では、同じ音素を持つ音節であっても文字の字形に共通点はない。たとえば、平仮名の「か」は、子音 /k/ を同じくする「き」「く」「け」「こ」、あるいは母音 /ɑ/ を同じくする「あ」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」などとは共通点がない。 (ただし、仮名は完全な音節文字とは言えず、子音を同じくする「ツィ」「ツェ」「ツォ」や母音を同じくする「ツァ」「ファ」「ヴァ」・「キャ」「ピャ」「ミャ」のように、共通点を持つ表記も存在する) いっぽう音素文字では、ひとつひとつの字母が特定の音素に対応づけられており、一般にひとつの音節を複数の記号で表記する。音節文字では、原則としてひとつの音節をひとつの記号で表記する。音素文字のうちアブギダは、上述のように、かつては音節文字と呼ばれることがあった。しかしアブギダでは、子音の記号が決まった母音を伴う音節を表し、他の母音を伴う音節を表す場合には、子音記号にその母音を示す符号を付加したり、子音記号を変形したりする(仮名の「ツ」→「ツァ」等の表記方法に似ている)。 なお、素性文字で文字が音節を表すハングルでは、音素を表すチャモ(자모 字母)を組み合わせて音節を表す文字を作るため、同じ音素を含む音節の文字は同じチャモを含んでいる。 以下に、音節文字の例をいくつか挙げて解説する。 規範彝文は、中国のイ族の彝語の表記に用いられる。これらの文字体系は彝文字の一種で、かつては表語文字としても用いられたが、1970年代頃から各地の彝語方言を表記する音節文字として規範化がすすめられた。四川の規範彝文である涼山規範彝文は、声調も含めた異なる音節を各々別の文字で表す、真正の音節文字である。文字の数は800あまりで、表しうる音節の数もこれに等しい。 仮名は、日本語の表記に用いられる。平仮名と片仮名がある。この2つはともに漢字から発展してきた表音文字で、表せる音価もおなじだが、文脈によって使い分けられる。基本的な字母はそれぞれ48字(現代語で使われるのはそのうち46字)である。字に補助的な符号を付加したりすることで、表記できる音節の異なりは少なくとも120程度となる。 濁音と半濁音は基本となる字に補助的な符号を付加して表す。半母音 [j] を含む音節(拗音と呼ばれる)は、[j]-母音の音節の文字を小書きに変形した文字を添えて表す(外来語の表記などでは、その他の半母音や日本語にない母音を含む音節を表すために、ほかの小書き文字を使うこともある)。特殊な文字として、声門閉鎖音 [ʔ] (ときに直後の子音の長子音化) を表すっ / ッ (促音)、鼻音子音(文脈や方言によっては鼻母音化)を表すん / ン (撥音)、長母音を表すー(通常は片仮名のみで使用)がある。この三つの字は単独で音節を表すことはなく、ほかの音節の後にだけ現れるが、音韻の上ではふつうの音節の文字と同じ長さのモーラを持つとみなされる、独立した字である。 片仮名はまた、アイヌ語の表記にも用いられる。平仮名や片仮名にはもともと開音節(子音-母音の組み合わせまたは母音のみの音節)を表す文字しかない。アイヌ語には閉音節(子音-母音-子音または母音-子音の組み合わせの音節)もあるため、音節末子音を表す字として、小書きに変形した字をさらにいくつか用いる。表記できる音節の異なりは、論理的には600程度となる。 線文字Bは、クレタ島で出土した古代ミケーネ文書の文字で、ギリシア語を表記するのに用いられた。ギリシア語は閉音節を含むが、線文字Bは閉音節や単独の子音を表す字をほとんど持たないため、音節末子音をも音節文字で表した。読み手は文脈から音節を弁別した。結局、線文字Bはギリシア語を表記するのにはあまり適さなかったため、まもなく廃れた。以後、ギリシア語はフェニキア文字から発展したアルファベットであるギリシア文字によってのみ表記されるようになる。
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音節文字とは、表音文字のうち、ひとつひとつの文字が音節を表す文字体系のこと。表音節文字とも。 日本語等で使われる仮名も音節文字の1つである。
{{WStypes}} '''音節文字'''(おんせつもじ、{{lang-en-short|syllabary}})とは、[[表音文字]]のうち、ひとつひとつの文字が[[音節]]を表す[[文字#文字体系|文字体系]]のこと。'''表音節文字'''とも。 日本語等で使われる[[仮名 (文字)|仮名]]も音節文字の1つである。  == 用語の歴史 == [[文字#文字体系|文字体系]]の伝統的な分類として、「'''意味を表す文字体系'''」と「'''音を表す文字体系'''」に二分するものがある。この区分では、異なる[[意味]]を異なる文字で表す文字体系が前者、異なる[[音]]を異なる文字で表す文字体系が後者となる。19世紀末、ヨーロッパで[[文字学]]が起こり、従来の[[アルファベット]]などの[[表音文字]]以外に、種々の文字体系([[漢字]]など)を研究の対象として扱うようになったため、この区分がされるようになった。 しかし、このふたつの類型にあてはめにくいものもあった。文字体系を「'''表語的体系'''」<!-- logographic -->、「'''音節的体系'''」<!-- syllabic -->、「'''アルファベット的体系'''」<!-- alphabetic -->の三類型にはじめて区分したのは、[[インド系文字]]の研究者である。この区分では、今日の[[アブギダ]]([[子音]]の[[文字#字母|字母]]に特定の[[母音]]が結び付いている表音文字体系。母音だけが異なる[[音節]]は子音の字母に補助的な符号を付加するなどして表す)が、「音節的な文字体系」となる。 20世紀に入り、考古学者([[アッシリア学]])[[イグナス・ゲルブ|イグナス・ジェイ・ゲルブ]] は、文字体系は意味を表す'''[[表語文字]]'''<!-- logography -->から発音を音節で表す'''音節文字'''<!-- syllabary -->へ、さらに音節文字から発音を音素で表す'''[[単音文字]]'''<!-- alphabet -->(アルファベットなど)へと発達していくものだと主張し<ref>{{cite book | last=Gelb | first=I. J. | title=A Study of Writing | publisher=University of Chicago Press | year=1963 }}</ref>、広く支持された。この場合、音節文字に区分されるのは表音文字化した[[楔形文字]]や[[仮名 (文字)|仮名]]などである。アブギダは音節文字と単音文字の中間段階にあるものとされた。 その後、考古学の発展によって、[[アブギダ]]と[[アルファベット]]はともに[[アブジャド]] (子音のみを文字として綴る表音文字体系) から発展してきたことがあきらかになってきた。これら3つは、文字が音素を表すことから'''[[音素文字]]'''と総称され、文字が音節をあらわす音節文字とは区別される。 いっぽう表音文字には、表す発音ごとに別の文字があるもの(音素文字のほとんどと、音節文字の多くがこれである)と、文字の字形と表す発音の間に関連性があるもの([[ハングル]]など)があることが指摘された。前者の文字の数は、学習可能な限度によってきまるので、多くても数百程度までだが、後者は、文字の字形が規則性を持つため、非常に多くの文字を持つ場合もある。 言語学者の[[:en:Geoffrey Sampson|ジェフリー・サンプソン]] は、音声言語を表記する文字体系<!-- glottographic system -->を「'''表語的体系'''」<!-- logographic system -->と「'''表音的体系'''」<!-- phonographic system -->に区分したうえで、「表音的体系」を発音の分節の度合いから「[[音節]]を表す体系」<!-- syllabic system -->('''音節文字''')、「[[音素]]を表す体系」<!-- segmental system -->('''[[音素文字]]''')、「[[弁別的素性]]を表す体系」<!-- featural system -->('''[[素性文字]]''')に区分した。素性文字では、[[書記素]]の形状が発音の特徴に関連した規則性を持っており、音素よりもさらに微細な発音の特徴が字形に反映されている<ref>{{cite book | last=Sampson | first=Geoffrey | title=Writing systems: a linguistic introduction | publisher=Stanford University Press | year=1985 | id=ISBN 0804717567 | pages=pp.38-41}}</ref>。[[ハングル]]や[[テングワール]]などがこれにあたる。 以上のように、「音節文字」という用語には、その表す意味に変遷がある。またいまだに、「音節を表しうる文字がある文字体系」というだけの意味で「音節文字」という用語を用いる文献も多い。 <!-- セミシラバリーについて書くこと。 --> 本項では、サンプソンの区分した意味での音節文字に加え、素性文字のうち文字が音節を表す文字体系や、[[セミシラバリー]]に分類される文字体系についても解説する。 == 他の文字体系とのちがい == {| border="1" cellspacing="0" style="width: 200px; margin: 0em 0em 0.5em 1.5em; float: right; clear: right; border: 1px #a0a0a0 solid; border-collapse: collapse; font-size: 85%; background-color:white" |+ '''文字体系の類型''' |- ! rowspan="7" style="width: 2em; padding:0.5em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |いわゆる文字 | colspan="3" |[[表音文字]] |- | rowspan="5" style="width: 2em; border-style: hidden none none none;" | | colspan="2" |[[音素文字]] |- <!-- --> | rowspan="3" style="width: 2em; border-style: hidden none none none;" | | [[アブジャド]] |- <!-- --> <!-- --> | [[アブギダ]] |- <!-- --> <!-- --> | [[アルファベット]] |- <!-- --> | colspan="2" |'''音節文字''' |- | colspan="3" |[[表語文字]]([[象形文字]]を含む) |- ! rowspan="2" style="width: 2em; margin: 0em 0.5em 0em 0.5em; text-align: center;" |その他 | colspan="3" |[[表意文字]] |- | colspan="3" |[[ピクトグラム]]([[絵文字]]) |- |} ほかの[[表音文字]]体系と同様、音節文字ではひとつひとつの文字が言語の音韻を表し、言語の意味を表してはいない。対して、[[表語文字]]ではひとつひとつの文字が言語の語や形態素の発音を表すため、音韻と意味の両方を表す。 音節文字では、文字が音節を表す。多くの音節文字体系では、同じ音素を持つ音節であっても文字の字形に共通点はない。たとえば、平仮名の「か」は、子音 {{ipa|k}} を同じくする「き」「く」「け」「こ」、あるいは母音 {{ipa|&#x0251;}} を同じくする「あ」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」などとは共通点がない。 (ただし、仮名は完全な音節文字とは言えず、子音を同じくする「ツィ」「ツェ」「ツォ」や母音を同じくする「ツァ」「ファ」「ヴァ」・「キャ」「ピャ」「ミャ」のように、共通点を持つ表記も存在する) いっぽう[[音素文字]]では、ひとつひとつの字母が特定の[[音素]]に対応づけられており、一般にひとつの音節を複数の記号で表記する。音節文字では、原則としてひとつの音節をひとつの記号で表記する。音素文字のうち[[アブギダ]]は、上述のように、かつては音節文字と呼ばれることがあった。しかしアブギダでは、子音の記号が決まった母音を伴う音節を表し、他の母音を伴う音節を表す場合には、子音記号にその母音を示す符号を付加したり、子音記号を変形したりする(仮名の「ツ」→「ツァ」等の表記方法に似ている)。 なお、素性文字で文字が音節を表す[[ハングル]]では、音素を表すチャモ({{lang|ko|자모}} ''字母'')を組み合わせて音節を表す文字を作るため、同じ音素を含む音節の文字は同じチャモを含んでいる。 == 例 == 以下に、音節文字の例をいくつか挙げて解説する。 === 彝文字 === '''[[彝文字|規範彝文]]'''は、[[中国]]の[[イ族]]の[[彝語]]の表記に用いられる。これらの文字体系は[[彝文字]]の一種で、かつては[[表語文字]]としても用いられたが、1970年代頃から各地の彝語方言を表記する音節文字として規範化がすすめられた。[[四川]]の規範彝文である'''[[涼山規範彝文]]'''は、声調も含めた異なる音節を各々別の文字で表す、真正の音節文字である。文字の数は800あまりで、表しうる音節の数もこれに等しい。 === 仮名 === [[Image:Hyakuninisshu_057.jpg|thumb|伝統的な[[仮名 (文字)|仮名]] ([[変体仮名]]) で書かれた[[かるた]]の札。[[江戸時代]]。]] '''[[仮名 (文字)|仮名]]'''は、[[日本語]]の表記に用いられる。'''[[平仮名]]'''と'''[[片仮名]]'''がある。この2つはともに[[漢字]]から発展してきた表音文字で、表せる音価もおなじだが、文脈によって使い分けられる。基本的な字母はそれぞれ48字(現代語で使われるのはそのうち46字)である。字に補助的な符号を付加したりすることで、表記できる音節の異なりは少なくとも120程度となる。 [[濁音]]と[[半濁音]]は基本となる字に補助的な符号を付加して表す。[[半母音]] {{IPA|j}} を含む音節([[拗音]]と呼ばれる)は、{{IPA|j}}-母音の音節の文字を小書きに変形した文字を添えて表す(外来語の表記などでは、その他の半母音や日本語にない母音を含む音節を表すために、ほかの小書き文字を使うこともある)。特殊な文字として、[[声門閉鎖音]] {{IPA|ʔ}} (ときに直後の子音の[[長子音]]化) を表す''[[っ]]'' / ''ッ'' ([[促音]])、[[鼻音]]子音(文脈や方言によっては鼻母音化)を表す''[[ん]]'' / ''ン'' ([[撥音]])、[[長母音]]を表す''[[ー]]''(通常は片仮名のみで使用)がある。この三つの字は単独で音節を表すことはなく、ほかの音節の後にだけ現れるが、音韻の上ではふつうの音節の文字と同じ長さの[[モーラ]]を持つとみなされる、独立した字である。 片仮名はまた、[[アイヌ語]]の表記にも用いられる。平仮名や片仮名にはもともと[[開音節]](子音-母音の組み合わせまたは母音のみの音節)を表す文字しかない。アイヌ語には[[閉音節]](子音-母音-子音または母音-子音の組み合わせの音節)もあるため、音節末子音を表す字として、小書きに変形した字をさらにいくつか用いる。表記できる音節の異なりは、論理的には600程度となる。 === 線文字B === [[Image:Linear B (Mycenaean Greek) NAMA Tablette 7671.jpg|thumb|right|ミノア文明後期の線文字B粘土板。ミケーネ、紀元前13世紀ころ ([[:en:Minoan_chronology|LMIIIB1]])。]] [[線文字B]]は、[[クレタ島]]で出土した古代[[ミケーネ文書]]の文字で、[[ギリシア語]]を表記するのに用いられた<!-- 要年代明記 -->。ギリシア語は閉音節を含むが、線文字Bは閉音節や単独の子音を表す字をほとんど持たないため、音節末子音をも音節文字で表した。<!-- 字母数と表記できる音節数を明記 -->読み手は文脈から音節を弁別した。結局、線文字Bはギリシア語を表記するのにはあまり適さなかったため、まもなく<!-- 要年代明記 -->廃れた。以後、ギリシア語は[[フェニキア文字]]から発展した[[アルファベット]]である[[ギリシア文字]]によってのみ表記されるようになる。 === その他の音節文字 === {{節スタブ}} * [[ヴァイ文字]]。[[リベリア]]の[[ヴァイ語]]の表記に用いられる。 * [[女書]]。[[湖南省]]で用いられる。 * [[チェロキー文字]]。[[チェロキー語]]の表記に用いられる。 * [[マヤ文字]]の一部 == 出典 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite book | author=Daniels, Peter T. (ed.) and Bright, William (ed.) | title=The World's Writing Systems | publisher=Oxford University Press | month=February | year=1996 | id=ISBN 9780195079937 }} == 関連項目 == * [[音素文字]] ** [[アブジャド]] ** [[アブギダ]] ** [[アルファベット]] * [[表音文字]] * [[素性文字]] {{文字}} {{grammatology-stub}} {{DEFAULTSORT:おんせつもし}} [[Category:文字]] [[Category:表音文字]] [[Category:音節文字|*]]
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2022-02-20T06:30:47Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E7%AF%80%E6%96%87%E5%AD%97
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播磨国
播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。 木簡では「針間国」・「幡麻国」と表記しているものもある。 播磨国は播州(バンシュウ)とも呼ばれるが、「播」という漢字を「バン」と読むのは「播州」またはその省略形に限られており、本来の音読みは「ハ」である(「播種」・「伝播」など)。 『播磨国風土記』冒頭に国名の由来があったと見られるが、冒頭部分が欠失しており明らかではない。 明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の神戸市域においては、須磨区を境に東部(長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区の全域および須磨区・北区のそれぞれ大部分)が摂津国、西部(垂水区・西区のそれぞれ全域と北区・須磨区のそれぞれ一部)が播磨国であった。 兵庫県神戸市垂水区・西区・姫路市・明石市・相生市・加古川市・三木市・高砂市・小野市・加西市・宍粟市・たつの市・西脇市・加東市・多可郡・加古郡・神崎郡・揖保郡・赤穂郡 兵庫県神戸市須磨区(神の谷・北落合三丁目・北落合四丁目・菅の台・西落合・竜が台二丁目・竜が台三丁目・竜が台四丁目・竜が台五丁目・緑台・弥栄台)・北区(淡河町淡河・淡河町勝雄・淡河町北僧尾・淡河町北畑・淡河町木津・淡河町行原・淡河町神田・淡河町中山・淡河町野瀬・淡河町萩原・淡河町東畑・淡河町神影・淡河町南僧尾)・赤穂市(備前国の部分(福浦)を除く)・朝来市(生野町真弓・生野町口銀谷の一部・生野町川尻・生野町栃原)・佐用郡佐用町(美作国の部分(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)を除く) 当該地域の2010年国勢調査による人口は230万4449人(男111万3494人/女119万0955人)、世帯数は86万8208世帯、面積は3649.75km、人口密度は631.4人/km。 7世紀に成立した。針間国(加古川以西)・明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)・針間鴨国(賀茂郡・多可郡)が大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。 飛鳥池遺跡や藤原宮跡などからの出土木簡の中に飾磨郡を「志加麻評」、宍粟郡を「宍粟評」、神崎郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記しているものがある。郡制の前には評里制の地方行政区画が行われていたことを示すものである。 7世紀の終わり頃、播磨国の長官を「吉備大宰(きびおおみこともち)」とか「播磨国宰(みこともち)」と『播磨国風土記』に記されている。この期の地方長官は、複数国以上を統括する大宰(総領)が任命された。 713年(和銅6年)に編まれた風土記の内、現在にまで文献が残る五か国の一つでもある(『播磨国風土記』を参照)。 江戸時代には、山崎藩・安志藩・三日月藩・林田藩・三草藩・龍野藩・小野藩・姫路藩・赤穂藩・明石藩・福本藩・新宮藩・姫路新田藩・平福藩が置かれた。 播磨国府は、『和名抄』によれば飾磨郡にあった。姫路市中心部にある本町遺跡(姫路市本町、北緯34度50分4.85秒 東経134度41分44.96秒 / 北緯34.8346806度 東経134.6958222度 / 34.8346806; 134.6958222 (播磨国府推定地:本町遺跡))を国衙跡とする説が有力視されており、1984年(昭和59年)の姫路郵便局東側(前記箇所)をはじめとして周辺からは2015年(平成27年)には市内中心部の平野町で、2019年(平成31年・令和元年)には同・大黒壱丁町でも奈良時代の大量の瓦や建物の柱跡が発見されている。 延喜式内社 総社・一宮以下 守護所は鎌倉時代は加古川市加古川町の加古川城に、室町時代は赤松氏によって、姫路市曽左(書写)の書写坂本城に置かれ、また、播磨・備前・美作を統べるためにたつの市新宮町の越部館に守護館を置いていた。嘉吉の乱で前期赤松氏が滅亡し、応仁の乱で播磨守護に復帰後は姫路市夢前町の置塩城に居城を移した。 ※はじめの郡名は『延喜式』による。 武田信玄も好んで愛読したと言われる『人国記』には、「播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。若き侍の風上にも可置国風にあらず、偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし」という記述がある。 『人国記』での播州人の基準は、播州人である赤松則村(円心)や赤松満祐など実際に謀反を起こした赤松氏かと思われる。『天正記』での播州人の基準は、播州人である別所吉親(別所氏)・黒田孝高・赤穂浪士(大石良雄)かと思われる。例に赤穂浪士の事が描かれている場面もある。 自治体名は流域。 現在でも「播磨(播州)」は、兵庫県南西部を指す地域名として用いられる。 東播(とうばん=東播磨)・西播(せいばん=西播磨)・北播(ほくばん=北播磨)・中播(ちゅうばん=中播磨)というような使い方も、日常的になされる。明確な定義は無いが、区分はおおむね以下のようになる。 西播磨のうち、姫路市と神崎郡を「中播磨(中播)」とすることもある。 播磨国の一部で昭和時代前期に神戸市に編入された地域として垂水区・西区・北区淡河町・須磨区須磨ニュータウン西部がある。 兵庫県の出先機関である県民局は4つに分かれている。行政区分はこれを中心に行われる。 播磨地区内で以下のように細分化されている。 ※神戸市垂水区及び西区は播磨国に属しているが、予報区域は神戸市の他区と同じ阪神に含まれている。 地震情報では、播磨南東部・北播丹波を「兵庫県南東部」、播磨南西部・播磨北西部を「兵庫県南西部」として発表している。 米の産地として越前国や越後国と並んで知られ、「一播二越」(いちばんにえち)と称された。
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播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陽道に属する。
{{redirect|播州|中国遵義市の区|播州区}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 播磨国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|播磨国}} |別称 = 播州(ばんしゅう) |所属 = [[山陽道]] |領域 = [[兵庫県]]南西部 |国力 = [[大国 (令制国)|大国]] |距離 = [[近国]] |郡 = 12郡98郷 |国府 = 兵庫県[[姫路市]] |国分寺 = 兵庫県姫路市([[播磨国分寺|播磨国分寺跡]]) |国分尼寺 = 兵庫県姫路市 |一宮 = [[伊和神社]](兵庫県[[宍粟市]]) }} '''播磨国'''(はりまのくに)は、[[日本]]の地方行政区分である[[令制国]]の一つ。[[山陽道]]に属する。 == 「播磨」の名称 == [[木簡]]では「針間国」・「幡麻国」と表記しているものもある。 播磨国は播州(バンシュウ)とも呼ばれるが、「播」という漢字を「バン」と読むのは「播州」またはその省略形に限られており、本来の[[音読み]]は「ハ」である(「[[播種]]」・「伝播」など)。 『[[播磨国風土記]]』冒頭に国名の由来があったと見られるが、冒頭部分が欠失しており明らかではない。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は現在以下のようになっている。現在の神戸市域においては、須磨区を境に東部(長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区の全域および須磨区・北区のそれぞれ大部分)が[[摂津国]]、西部(垂水区・西区のそれぞれ全域と北区・須磨区のそれぞれ一部)が播磨国であった。 ; 全域 [[兵庫県]][[神戸市]][[垂水区]]・[[西区 (神戸市)|西区]]・[[姫路市]]・[[明石市]]・[[相生市]]・[[加古川市]]・[[三木市]]・[[高砂市]]・[[小野市]]・[[加西市]]・[[宍粟市]]・[[たつの市]]・[[西脇市]]・[[加東市]]・[[多可郡]]・[[加古郡]]・[[神崎郡]]・[[揖保郡]]・[[赤穂郡]] ; 一部のみ 兵庫県神戸市[[須磨区]](神の谷・北落合三丁目・北落合四丁目・菅の台・西落合・竜が台二丁目・竜が台三丁目・竜が台四丁目・竜が台五丁目・緑台・弥栄台)・[[北区 (神戸市)|北区]](淡河町淡河・淡河町勝雄・淡河町北僧尾・淡河町北畑・淡河町木津・淡河町行原・淡河町神田・淡河町中山・淡河町野瀬・淡河町萩原・淡河町東畑・淡河町神影・淡河町南僧尾)・[[赤穂市]]([[備前国#領域|備前国]]の部分(福浦)を除く)・[[朝来市]](生野町真弓・生野町口銀谷の一部・生野町川尻・生野町栃原)・[[佐用郡]][[佐用町]]([[美作国#領域|美作国]]の部分(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)を除く) 当該地域の2010年国勢調査による人口は230万4449人(男111万3494人/女119万0955人)、世帯数は86万8208世帯、面積は3649.75[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、人口密度は631.4人/km<sup>2</sup><ref>{{Cite web|和書|date=2010-10-01|url=http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_|title=平成22年国勢調査、小地域集計、28兵庫県|publisher=総務省統計局(e-Stat)|accessdate=2014-05-28}}</ref>。 == 沿革 == [[7世紀]]に成立した。'''[[針間国造|針間国]]'''([[加古川]]以西)・[[明石国造|明石国]]([[明石郡]]・[[美嚢郡]]・[[加古郡]]・[[印南郡]])・[[針間鴨国造|針間鴨国]]([[賀茂郡 (播磨国)|賀茂郡]]・[[多可郡]])が[[大化の改新]]以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。 [[飛鳥京跡|飛鳥池遺跡]]や[[藤原宮]]跡などからの出土木簡の中に飾磨郡を「志加麻評」、宍粟郡を「宍粟評」、神崎郡を「神前評」、揖保郡を「粒評」と記しているものがある。郡制の前には[[評|評里制]]の地方行政区画が行われていたことを示すものである。 7世紀の終わり頃、播磨国の長官を「吉備大宰(きびおおみこともち)」とか「播磨国宰(みこともち)」と『播磨国風土記』に記されている。この期の地方長官は、複数国以上を統括する大宰(総領)が任命された<ref>福島好和「大和王権の進出と展開 3内なる国と外なる国」、今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄『兵庫県の歴史』山川出版社 2004年8月 65-66ページ</ref>。 [[713年]]([[和銅]]6年)に編まれた[[風土記]]の内、現在にまで文献が残る五か国の一つでもある(『[[播磨国風土記]]』を参照)。 江戸時代には、[[山崎藩]]・[[安志藩]]・[[三日月藩]]・[[林田藩]]・[[三草藩]]・[[龍野藩]]・[[小野藩]]・[[姫路藩]]・[[赤穂藩]]・[[明石藩]]・[[福本藩]]・[[播磨新宮藩|新宮藩]]・[[姫路新田藩]]・[[平福藩]]が置かれた。 === 近世以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(1,774村・656,227石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。 ** [[美嚢郡]](156村・44,196石余) - [[天領|幕府領]](谷町代官所)、[[地方知行|旗本領]]、[[京都守護職]]役知、明石藩、三草藩、[[下野国|下野]][[壬生藩]]、[[下総国|下総]][[古河藩]]、[[遠江国|遠江]][[浜松藩]] ** [[明石郡]](144村・57,617石余) - '''[[明石藩]]''' ** [[加古郡]](99村・50,678石余) - 姫路藩、[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]] ** [[印南郡]](117村・45,703石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領([[交代寄合]][[池田氏]])、[[一橋徳川家]]領、姫路藩 ** [[加東郡]](150村・56,185石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領、一橋徳川家領、'''[[小野藩]]'''、'''[[三草藩]]'''、姫路藩、[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]、下野壬生藩、下総古河藩、遠江浜松藩 ** [[多可郡]](125村・34,163石余) - 幕府領(谷町代官所・[[生野代官所]])、一橋徳川家領、三草藩、下総古河藩、[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]] ** [[加西郡]](125村・39,158石余) - 幕府領(谷町代官所・生野代官所)、旗本領、一橋徳川家領、[[田安徳川家]]領、京都守護職役知、姫路藩、三草藩、下総古河藩、武蔵忍藩 ** [[神東郡]](77村・28,773石余) - 幕府領(谷町代官所)、旗本領(交代寄合池田氏・その他)、姫路藩 ** [[神西郡]](69村・22,205石余) - 幕府領(生野代官所)、旗本領(交代寄合池田氏・その他)、姫路藩 ** [[飾東郡]](71村・39,711石余) - '''[[姫路藩]]''' ** [[飾西郡]](80村・41,258石余) - 幕府領(谷町代官所・龍野藩[[預地]])、姫路藩、龍野藩 ** [[揖東郡]](118村・56,174石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、一橋徳川家領、姫路藩、龍野藩、'''[[林田藩]]'''、[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩]] ** [[揖西郡]](89村・33,371石余) - 幕府領(谷町代官所)、姫路藩、'''[[龍野藩]]'''、三日月藩、讃岐丸亀藩 ** [[赤穂郡]](125村・44,077石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、'''[[赤穂藩]]'''、安志藩、摂津尼崎藩 ** [[佐用郡]](87村・24,379石余) - 幕府領(龍野藩預地)、旗本領、'''[[三日月藩]]'''、龍野藩、安志藩 ** [[宍粟郡]](142村・38,573石余) - 幕府領(谷町代官所・生野代官所)、'''[[山崎藩]]'''、'''[[安志藩]]'''、三日月藩、摂津尼崎藩 * [[慶応]]4年 ** [[2月2日 (旧暦)|2月2日]]([[1868年]][[2月24日]]) - 谷町代官所の管轄地域・京都守護職役知および美嚢郡・加東郡の旗本領の一部が'''[[兵庫裁判所]]'''の管轄となる。 ** [[4月19日 (旧暦)|4月19日]](1868年[[5月11日]]) - 生野代官所の管轄地域が'''[[府中裁判所]]'''の管轄となる。 ** [[5月23日 (旧暦)|5月23日]](1868年[[7月12日]]) - 兵庫裁判所の管轄地域が'''[[兵庫県]]'''の管轄となる。 ** [[6月20日 (旧暦)|6月20日]](1868年[[8月8日]]) - 交代寄合池田氏が立藩して'''[[福本藩]]'''となる。 ** [[7月29日 (旧暦)|7月29日]](1868年[[9月15日]]) - 府中裁判所の管轄地域が'''[[久美浜県]]'''の管轄となる。 * 明治元年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1868年[[11月7日]]) - 遠江浜松藩が[[上総国|上総]][[鶴舞藩]]に[[転封]]。 * 明治2年([[1869年]]) ** [[8月10日 (旧暦)|8月10日]]([[1869年]]9月15日) - 久美浜県の管轄地域が'''[[生野県]]'''の管轄となる。 ** 旗本領の残部が兵庫県の管轄となる。 * 明治3年 ** 一橋徳川家領・田安徳川家領が兵庫県の管轄となる。 ** 11月 - 加西郡・多可郡の生野県の管轄地域が兵庫県、神東郡・神西郡・揖東郡・宍粟郡・佐用郡の兵庫県の管轄地域が生野県の管轄となる。 ** [[11月23日 (旧暦)|11月23日]]([[1871年]][[1月13日]]) - 福本藩が廃藩。管轄地域が'''[[鳥取藩]]'''の管轄となる。 * 明治4年 ** 3月 - 龍野藩預地が兵庫県の管轄となる。 ** [[4月10日 (旧暦)|4月10日]](1871年[[5月28日]]) - 丸亀藩の廃藩により、揖東郡の管轄地域が生野県、揖西郡の管轄地域が兵庫県の管轄となる。 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]](1871年[[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[明石県]]'''・'''[[小野県]]'''・'''[[三草県]]'''・'''[[姫路県]]'''・'''[[林田県]]'''・'''[[龍野県]]'''・'''[[山崎県]]'''・'''[[安志県]]'''・'''[[三日月県]]'''・'''[[赤穂県]]'''および[[棚倉県]]・[[壬生県]]・[[古河県]]・[[鶴舞県]]・[[忍県]]・[[尼崎県]]・[[鳥取県]]の飛地となる。 ** [[11月2日 (旧暦)|11月2日]](1871年[[12月13日]]) - 第1次府県統合により、全域が'''姫路県'''の管轄となる。 ** [[11月9日 (旧暦)|11月9日]](1871年[[12月20日]]) - '''[[飾磨県]]'''の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''兵庫県'''の管轄となる。 == 国内の施設 == {{座標一覧}} === 国府 === 播磨[[国府]]は、『[[和名抄]]』によれば[[飾磨郡]]にあった。[[姫路市]]中心部にある本町遺跡(姫路市本町、{{Coord|34|50|4.85|N|134|41|44.96|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国府推定地:本町遺跡}})を国衙跡とする説が有力視されており、1984年(昭和59年)の[[姫路郵便局]]東側(前記箇所)をはじめとして<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.himeji.lg.jp/maibun-center/0000008420.html |title=本町遺跡 |access-date=2023/11/01 |publisher=姫路市埋蔵文化財センター}}</ref>周辺からは[[2015年]]([[平成]]27年)には市内中心部の平野町で<ref>{{Cite book|和書|first=祐介|last=黒田|title=姫路城城下町跡|origdate=2014-03-31|date=2014-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/49119|location=兵庫県姫路市四郷町坂元414-1|ncid=BB1549845X|doi=10.24484/sitereports.49119|series=姫路市埋蔵文化財センター調査報告|volume=12}}</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201510/0008480307.shtml "国府関連の建物跡か 奈良時代の溝や瓦出土 姫路"](神戸新聞NEXT、2015年10月13日記事)。<br />[https://www.sankei.com/article/20151014-B4X7FE7UV5PLRLCOLIOWKARGRA/ "「播磨国府」関連施設か 推定地近く、奈良時代の瓦が大量出土 兵庫"](産経ニュース、2015年10月14日記事)。</ref>、[[2019年]](平成31年・令和元年)には同・大黒壱丁町で<ref>{{Cite book|和書|first=猛|last=中川|title=姫路城城下町跡|origdate=2021-03-31|date=2021-03-31|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/131290|location=兵庫県姫路市四郷町坂元414番地1|ncid=BC0989461X|doi=10.24484/sitereports.131290|series=姫路市埋蔵文化財センター調査報告|volume=106}}</ref>も奈良時代の大量の瓦や建物の柱跡が発見されている。 === 国分寺・国分尼寺 === [[ファイル:Harima Kokubunji-ato zenkei.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[播磨国分寺|播磨国分寺跡]]<br />([[兵庫県]][[姫路市]])}}]] [[ファイル:Harima Kokubun-niji-ato sekihi.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[播磨国分尼寺跡]]<br />(兵庫県姫路市)}}]] * [[播磨国分寺|播磨国分寺跡]](姫路市[[御国野町国分寺]]、{{Coord|34|49|14.01|N|134|43|52.85|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国分寺跡}}) *: 国の史跡。推定寺域は方2町(約218メートル四方)。南から南大門・中門・金堂・講堂などが並ぶ主要伽藍とともに塔などが発見されている<ref>[http://www.city.himeji.hyogo.jp/s110/2212786/_5222/_5237/_5240/_5613.html 播磨国分寺跡](姫路市ホームページ)。</ref>。古代寺院跡に重複して位置する[[播磨国分寺|牛堂山国分寺]]が法燈を伝承する。 * [[播磨国分尼寺跡]](姫路市御国野町国分寺、{{Coord|34|49|36.46|N|134|43|55.56|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国分尼寺跡}}) *: 史跡指定なし。僧寺跡の北約600メートルに位置する。推定寺域は東西約134メートル・南北約180メートル。発掘調査により金堂[[基壇]]や講堂を囲む雨落溝が確認されている<ref>播磨国分尼寺跡説明板。</ref>。 === 神社 === '''[[延喜式内社]]''' : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社7座5社・小社43座42社の計50座47社が記載されている(「[[播磨国の式内社一覧]]」参照)。大社は以下に示すもので、すべて[[名神大社]]である。 * [[明石郡]] 海神社三座 ** 比定社:[[海神社 (神戸市)|海神社]]([[神戸市]][[垂水区]]宮本町、{{Coord|34|37|44.23|N|135|3|15.43|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:海神社}}) * [[揖保郡]] 粒坐天照神社 ** 比定社:[[粒坐天照神社]]([[たつの市]]龍野町日山、{{Coord|34|51|49.19|N|134|32|25.07|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:粒坐天照神社}}) * 揖保郡 中臣印達神社 ** 比定社:[[中臣印達神社]](たつの市揖保町中臣、{{Coord|34|50|27.31|N|134|32|27.39|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:中臣印達神社}}) * 揖保郡 家島神社 ** 比定社:[[家島神社]](姫路市家島町宮、{{Coord|34|40|37.15|N|134|32|2.09|E|region:JP-28_type:landmark|name=名神大社:家島神社}}) * [[宍粟郡]] 伊和坐大名持御魂神社 ** 比定社:[[伊和神社]]([[宍粟市]]一宮町須行名) [[ファイル:Iwajinja-b.jpg|thumb|200px|right|{{center|[[伊和神社]](兵庫県[[宍粟市]])}}]] '''[[総社]]・[[一宮]]以下''' : 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 448-453。</ref>。 * 総社:[[射楯兵主神社]](姫路市総社本町、{{Coord|34|50|2.35|N|134|41|47.69|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国総社:射楯兵主神社}}) * 一宮:[[伊和神社]](宍粟市一宮町須行名、{{Coord|35|5|15.25|N|134|35|11.34|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国一宮、名神大社:伊和神社}}) * 二宮:荒田神社([[多可郡]][[多可町]]加美区、{{Coord|35|5|1.83|N|134|53|10.53|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国二宮:荒田神社}}) * 三宮:[[住吉神社 (加西市)|住吉神社]]([[加西市]]北条町北条、{{Coord|34|56|7.34|N|134|49|42.89|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国三宮:住吉神社}}) - 「酒見権現」。 * 四宮:白国神社(姫路市白国町、{{Coord|34|51|52.07|N|134|42|13.34|E|region:JP-28_type:landmark|name=播磨国四宮:白国神社}}) === 守護所 === [[守護所]]は鎌倉時代は[[加古川市]]加古川町の[[加古川城]]に、室町時代は[[赤松氏]]によって、姫路市[[曽左村|曽左]](書写)の[[坂本城 (播磨国)|書写坂本城]]に置かれ、また、播磨・備前・美作を統べるためにたつの市[[新宮町 (兵庫県)|新宮町]]の[[越部館]]に守護館を置いていた。[[嘉吉の乱]]で前期赤松氏が滅亡し、[[応仁の乱]]で播磨守護に復帰後は姫路市[[夢前町]]の[[置塩城]]に[[居城]]を移した。 == 地域 == === 郡 === [[ファイル:Harima province rough map.PNG|200px|thumb|right|播磨国 郡別の略図]] * [[明石郡]] - [[明石市]]・[[神戸市]]([[西区 (神戸市)|西区]]・[[垂水区]]・[[須磨区]][[須磨ニュータウン]]西部) * [[美嚢郡]] - [[三木市]]・神戸市[[北区 (神戸市)|北区]]淡河町 * [[加古郡]] - [[加古川市]](南東部)・[[加古郡]]・[[高砂市]](高砂・荒井地区)・[[明石市]](二見町) * [[印南郡]] - 加古川市(北西部)・高砂市(高砂・荒井地区以外)・[[姫路市]](大塩町・的形町・別所町および飾東町の一部) * [[賀茂郡 (播磨国)|賀茂郡]] ** [[加東郡]] - [[小野市]]・[[加東市]] ** [[加西郡]] - [[加西市]]・[[西脇市]](芳田地区)・[[多可郡]][[多可町]](八千代区大和地区) * [[多可郡]] - 西脇市・多可郡多可町・[[神崎郡]][[神河町]](越知谷地区) * [[飾磨郡]] ** [[飾東郡]] - 姫路市(東部) ** [[飾西郡]] - 姫路市(西部) * [[神崎郡]] ** [[神東郡]] - 神崎郡(市川以東)・姫路市(砥堀・船津など) ** [[神西郡]] - 神崎郡(市川以西)・姫路市(香寺町)・[[朝来市]](生野町口銀谷の一部・生野町真弓・生野町川尻・生野町栃原) * [[揖保郡]] ** [[揖東郡]] - 姫路市(網干区・大津区・勝原区・林田町・家島町など)・[[たつの市]](東部)・[[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]] ** [[揖西郡]] - たつの市(西部)・姫路市(余部区・網干区)・相生市など * [[宍粟郡]] - [[宍粟市]]・姫路市(安富町)・[[佐用郡]][[佐用町]](三河地区) * [[佐用郡]] - 佐用郡佐用町 * [[赤穂郡]] - [[赤穂市]]・[[相生市]]・[[上郡町]] ※はじめの郡名は『[[延喜式]]』による。 === 江戸時代の藩 === *[[姫路藩]]:池田家(52万石)→本多家(15万石)→松平(奥平)家(18万石)→松平(越前)家(15万石)→榊原(松平)家(15万石)→松平(越前)家(15万石)→本多家(15万石)→榊原家(15万石)→松平(越前)家(15万石)→酒井家(15万石) **[[姫路新田藩]](姫路藩子藩):本多家(10万石→5万石と4万石→4万石と5万石)→松平(奥平)家(3万石)→酒井家(1万石) *[[明石藩]]:小笠原家(10万石)→松平(戸田)家(7万石)→大久保家(7万石)→松平(藤井)家(7万石→6万5千石)→本多家(6万石)→松平(越前)家(6万石→8万石:10万石格) *[[龍野藩]]:本多家(5万石)→小笠原家(6万石)→岡部家(5万3千石)→京極家(6万石)→脇坂家(5万3千石→5万1千石) *[[山崎藩]]:池田家(3万8千石→6万8千石)→松井家(5万石)→池田家(3万石)→本多家(1万石) *[[赤穂藩]]:池田家(3万5千石)→浅野家(5万3千石→5万石→5万3千石)→永井家(3万2千石)→森家(2万石) *[[安志藩]]:小笠原家(1万石) *[[小野藩]]:一柳家(2万8千石→1万石) *[[平福藩]]:池田家(2万5千石) *[[三日月藩]]:森家(1万5千石) *[[林田藩]]:建部家(1万石) *[[三草藩]]:丹羽家(1万石) *[[播磨新宮藩|鵤藩→新宮藩]]:池田家(1万石) *[[福本藩]]:池田家(1万石→7千石→6千石→1万573石) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 播磨守 ==== *[[賀茂吉備麻呂|鴨吉備麻呂]] - [[養老]]3年7月([[719年]])従四位下、『続日本紀』。 *[[大伴犬養]] *[[佐伯今毛人]]:[[宝亀]]元年([[770年]])任官 *[[石川名足]]:[[延暦]]2年([[783年]])任官 *[[賀陽豊年]]:[[弘仁]]3年(812年)頃任官 *[[小野恒柯]]:[[斉衡]]元年([[854年]])任官 *[[在原行平]]:[[天安 (日本)|天安]]3年([[859年]])任官 *[[伴春雄]] **[[紀今守]](権守) *[[源勤]]:870年頃 **[[源直]]:[[仁和]]3年2月2日([[887年]][[2月28日]])任官(権官) *[[源希]]:[[寛平]]7年([[895年]])任官 *[[藤原清経]]:[[延喜]]3年([[903年]])任官 *[[十世王]]:延喜13年([[913年]])任官 *[[藤原兼茂]]:延喜17年([[917年]])任官 **[[三善清行]]:延喜18年([[918年]])任官(権守) *[[藤原恒佐]]:延喜2年([[922年]])任官 *[[藤原玄上]]:延喜23年([[923年]])任官 *[[源英明]]:[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])任官 *[[藤原伊衡]]:延長5年([[927年]])任官 *[[藤原実頼]]:延長7年([[929年]])任官 **[[源允明]]:[[承平 (日本)|承平]]8年([[938年]])3月以前 任官 ~ [[天慶]]5年([[942年]])(権守) *[[伴保平]]:[[天慶]]6年([[943年]])任官 *[[藤原有相]]:天慶9年([[946年]])任官 *[[源自明]]:[[天暦]]2年([[948年]])任官 *[[伴彦貞|伴彦真]]:天暦8年([[954年]])任官 *[[源重光]]:[[天徳 (日本)|天徳]]3年([[959年]])任官 *[[源重信]]:[[安和]]元年([[968年]])任官 *[[源雅信]]:安和元年([[968年]])任官 *[[藤原守義]]:[[天禄]]元年([[970年]])任官 *[[藤原季平]]:[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])任官 *[[藤原共政]]:[[天元 (日本)|天元]]4年([[982年]])任官 *[[源伊陟]]:[[寛和]]2年([[986年]])任官 *[[藤原景舒]] *[[源清延]]:[[永祚 (日本)|永祚]]元年([[989年]])任官 **[[藤原佐理]]:永祚元年(989年)任官(権守) *[[藤原信理]]:[[正暦]]2年([[991年]])任官 *[[源相方]]:[[長徳]]元年([[995年]])任官 *[[源国盛]]:長徳2年([[996年]])任官 *[[藤原忠輔]]:長徳3年([[997年]])任官 **[[藤原懐平]]:1000年頃(権守) *[[源俊賢]]:[[長保]]3年([[1001年]])任官 **[[源経房]]:長保5年([[1003年]])任官(権守) *[[藤原陳政]]:[[寛弘]]元年([[1004年]])任官 *[[藤原行成]]:寛弘2年([[1005年]])任官 *[[源道方]]:寛弘6年([[1009年]])任官 *[[藤原定輔]]:[[長元]]9年([[1036年]])任官 *[[源済政]]:[[長暦]]元年([[1037年]])任官 *[[源行任]]:[[永承]]2年([[1047年]])任官 *[[藤原隆佐]]:永承4年([[1049年]])任官 *[[藤原秦憲]]:[[康平]]4年([[1061年]])任官 **[[藤原経家 (権中納言)|藤原経家]]:康平5年([[1062年]])任官(権守) *[[橘俊綱]]:康平6年([[1063年]])任官 *[[藤原長房]]:[[寛治]]3年([[1089年]])任官 *[[藤原仲実]]:寛治7年([[1093年]])任官 *[[藤原顕季]]:寛治8年([[1094年]])任官 *[[藤原長実]]:[[長治]]3年([[1106年]])任官 *[[藤原家成]]:[[大治 (日本)|大治]]5年([[1130年]])任官 **[[藤原重通 (大納言)|藤原重通]]:[[長承]]4年([[1135年]])任官(権守) *[[藤原忠隆]]:[[保延]]5年([[1139年]])任官 *[[平忠盛]]:[[久安]]2年([[1146年]])任官 *[[平清盛]]:[[保元]]元年([[1156年]])任官 *[[源義朝]]:[[平治]]2年([[1160年]])任官 *[[藤原邦綱]]:[[応保]]2年([[1162年]])任官 *[[平行盛]]:[[治承]]3年([[1179年]])任官 *[[坊門忠清]]:1200年頃 ==== 播磨介 ==== *[[藤原清経]]:[[元慶]]2年([[878年]])任官 **[[藤原玄上]]:[[延喜]]5年([[905年]])任官(権介) *[[平生昌]]:寛弘6年(1009年)任官 === 守護職 === ==== 鎌倉幕府 ==== * [[梶原景時]]:[[元暦]]元年([[1184年]]) 〜 [[文治]]元年([[1185年]]) * [[下河辺行平]]:文治元年(1185年) 〜 ? * 梶原景時:? 〜 [[正治]]2年([[1200年]]) * [[小山朝政]]:正治2年(1200年) 〜 [[建保]]2年([[1214年]])頃? * [[後藤基清]]:? 建保2年(1214年) 〜 [[承久]]3年([[1221年]]) * [[小山氏]]:承久3年(1221年) 〜 [[建治]]2年([[1276年]])頃?{{Efn2|ただし、弘安5年([[1282年]])の文書で、第6代[[小山宗長]]が守護として在職したことが記述されている{{Sfn|小山市史|1984|p=495}}。}} * [[得宗|北条氏家督(得宗)]]:? 建治2年(1276年) 〜 [[弘安]]4年([[1281年]]){{Efn2|ここまでの出典{{Sfn|小山市史|1984|pp=494-495}}}} * [[北条兼時]]:1281年 〜 1284年 * [[六波羅探題]]北方兼任:1303年 〜 1333年 ==== 室町幕府 ==== * 1336年〜1350年 - [[赤松則村]] * 1350年〜1351年 - [[赤松範資]] * 1351年〜1371年 - [[赤松則祐]] * 1371年〜1427年 - [[赤松義則]] * 1427年 - [[赤松持貞]] * 1427年〜1441年 - [[赤松満祐]] * 1441年〜1454年 - [[山名宗全|山名持豊]] * 1454年〜1458年 - [[山名教豊]] * 1458年〜1467年 - 山名持豊 * 1467年〜1484年 - [[赤松政則]] * 1484年 - [[赤松澄則]] * 1484年〜1496年 - 赤松政則 * 1496年〜1521年 - [[赤松義村]] * 1521年〜1565年? - [[赤松晴政]] === 戦国大名 === *[[赤松氏]] *[[山名氏]] *[[別所氏]] *織豊政権の大名 ** [[豊臣秀長]]([[姫路城]]):天正11年(1583年)入封。天正13年(1585年)、[[大和国|大和]][[郡山城 (大和国)|郡山城]]に移封。 ** [[木下家定]](姫路城):天正13年(1585年)、11,341石で入封(後に25,000石に加増)。慶長6年(1601年)、[[備中国|備中]][[足守藩|足守]]に移封。 ** [[高山右近]]([[船上城]]):天正13年(1585年)、6万石で入封。天正15年(1588年)、バテレン追放令による棄教を拒否して城地を返上。 === 武家官位としての播磨守 === ==== 江戸時代以前 ==== *[[赤松満政]]:室町時代の武将。播磨・[[備前国|備前]]・[[美作国|美作]]守護 *[[赤松教政]]:室町時代中期の武将。赤松満政の子 *[[大石定仲]]:戦国時代の[[武蔵国|武蔵]]の武将。北条氏照の[[義弟]] *[[上条政繁]]:戦国時代の武将。[[上条上杉家]]当主 *[[寺田光吉]]:安土桃山時代の武将、豊臣政権の大名。[[関ヶ原の戦い]]後改易 *[[畠山政国]]:紀伊・河内・越中の守護大名、戦国大名。畠山尾州家([[畠山政長]]流)当主 *[[畠山高政]]:紀伊・河内の守護大名・戦国大名。畠山政国の子 *[[桃井直常]]:南北朝時代の武将、守護大名 *[[山名満幸]]:室町時代の武将、守護大名。[[丹後国|丹後]]・[[出雲国|出雲]]・[[隠岐国|隠岐]]・[[伯耆国|伯耆]]守護 ==== 江戸時代 ==== *[[阿部忠秋|忠秋系]][[阿部氏 (徳川譜代)|阿部家]] **[[阿部正能]]:忠秋系2代。[[上総国|上総]][[大多喜藩]]、武蔵[[忍藩]]初代主。老中 **[[阿部正由]]:忠秋系8代。[[忍藩]]第8代藩主 **[[阿部正耆]]:忠秋系14代。[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]第6代藩主 *[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]][[石川氏|石川家]]支藩 **[[石川総長]]:石川家支藩初代。伊勢[[神戸藩]]初代藩主 **[[石川総陽]]:石川家支藩4代。[[常陸国|常陸]][[下館藩]]第2代藩主 **[[石川総承]]:石川家支藩9代。[[下館藩]]第7代藩主 *[[但馬国|但馬]][[出石藩]][[小出氏|小出家]] **[[小出秀政]]:小出家初代。安土桃山時代の武将。[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]主 **[[小出吉政]]:小出家2代。但馬出石藩主、[[岸和田藩]]2代藩主。[[豊臣秀吉]]の従兄弟 **[[小出英長]]:小出家7代。出石藩第8代藩主。出石藩小出家7代 *[[丹波国|丹波]][[山家藩]][[谷氏|谷家]] **[[谷衛憑]]:第4代藩主 **[[谷衛秀]]:第7代藩主 **[[谷衛量]]:第8代藩主 **[[谷衛弼]]:第12代藩主 *[[大和国|大和]][[大和新庄藩|新庄藩]][[永井氏|永井家]]宗家 **[[永井直亮]]:第2代藩主 **[[永井直養]]:第6代藩主 **[[永井直幹]]:第7代藩主 *常陸[[常陸府中藩|府中藩]][[松平氏|松平家]] **[[松平頼隆]]:常陸[[保内藩]]主、常陸府中藩初代藩主 **[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]:府中藩第3代藩主 **[[松平頼永]]:第4代藩主 **[[松平頼幸]]:第5代藩主 **[[松平頼済]]:第6代藩主 **[[松平頼説]]:第8代藩主 **[[松平頼縄]]:第9代藩主 **[[松平頼策]]:第10代藩主 *その他 **[[青山忠成]]:常陸[[江戸崎藩]]初代藩主・老中。青山家宗家9代 **[[青山幸督]]:[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]第3代藩主。[[美濃国|美濃]][[郡上藩]]青山家3代 **[[青山幸礼]]:郡上藩第5代藩主。郡上藩青山家9代 **[[伊丹康勝]]:[[甲斐国|甲斐]][[徳美藩]]初代藩主 **[[伊丹勝長]]:徳美藩第2代藩主 **[[伊東長寛]]:[[備中国|備中]][[岡田藩]]第8代藩主 **[[伊東長トシ]]:岡田藩第10代藩主 **[[稲葉正武]]:[[安房国|安房]][[館山藩]]第2代藩主 **[[稲葉正盛]]:館山藩第3代藩主 **[[上杉綱勝]]:[[出羽国|出羽]][[米沢藩]]第3代藩主 **[[織田成純]]:大和[[柳本藩]]第5代藩主 **[[酒井忠香]]:[[越前国|越前]][[敦賀藩]]第4代藩主 **[[関政富]]:備中[[新見藩]]第3代藩主 **[[宗義真]]:[[対馬国|対馬]][[対馬府中藩|府中藩]]第3代藩主 **[[宗義和]]:府中藩第15代藩主 **[[田沼意知]]:[[遠江国|遠江]][[相良藩]]世子。[[田沼意次]]の長男 **[[内藤政醇]]:陸奥[[湯長谷藩]]第4代藩主 **[[西尾忠尚]]:遠江[[横須賀藩]]第2代藩主・老中 **[[林忠旭]]:上総[[貝淵藩]]第2代藩主、上総[[請西藩]]初代藩主 **[[米津通政]]:武蔵[[久喜藩]]第5代藩主、出羽[[長瀞藩]]初代藩主 == 播磨国の合戦 == *[[1183年]]:[[室山の戦い]]、平家([[平知盛]]・[[平重衡]]) x 源氏([[源行家]]) *[[1351年]]:[[光明寺合戦]]、[[足利直義]] x [[足利尊氏]] *[[1530年]]:[[豊地城#依藤城の戦い|依藤城の戦い]]、依藤 x [[柳本賢治]] *[[1539年]]:[[枝吉城#第一次枝吉城の戦い|第一次枝吉城の戦い]]、[[赤松晴政]]・[[細川持隆]]連合軍 x [[明石長行]] *[[1554年]] - [[1555年]]:[[枝吉城#第二次枝吉城の戦い|第二次枝吉城の戦い]]、[[三好長慶]] x 明石軍 *[[1569年]]:[[青山・土器山の戦い]]、[[黒田職隆]]・[[黒田孝高]](580) x [[赤松政秀]](約3,000) *[[1578年]]:[[上月城の戦い]]、毛利軍([[吉川元春]]、[[小早川隆景]]、[[吉川元長]]等61,000) x 尼子軍([[尼子勝久]]、[[山中幸盛]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]等20,000) *[[1578年]] - [[1580年]]:[[三木合戦]]、織田軍(羽柴秀吉) x [[別所長治]] == 播州人 == [[武田信玄]]も好んで愛読したと言われる{{要出典|date=2023年1月}}『[[人国記]]』には、「播磨の風俗智恵有て義理を不知、親は子をたばかり、子は親をだしぬき、主は被官に領地を鮮く与へて好き人を堀し出し度と志し、亦被官と成る人は主に奉公を勤る事を第二に而、調儀を以所知を取らんと思ひ、悉皆盗賊の振舞也。侍は中々不好不及是非也。若き侍の風上にも可置国風にあらず、偏に是国は上古より如此の風俗終に暫くも善に定る事なし」という記述がある。 {{独自研究範囲|『人国記』での播州人の基準は、播州人である[[赤松則村]](円心)や[[赤松満祐]]など実際に謀反を起こした[[赤松氏]]かと思われる。『[[天正記]]』での播州人の基準は、播州人である[[別所吉親]]([[別所氏]])・[[黒田孝高]]・[[赤穂浪士]]([[大石良雄]])かと思われる。例に赤穂浪士の事が描かれている場面もある|date=2023年1月}}。 == 主な川 == [[ファイル:住吉神社 (神戸市西区)の裏を流れる明石川P1010488.jpg|170px|thumb|right|[[明石川]]([[住吉神社|住吉神社 (神戸市西区)]]付近)]] 自治体名は流域。 * 一級河川 ** [[加古川]] - [[西脇市]]・[[小野市]]・[[加古川市]]ほか ** [[揖保川]] - [[宍粟市]]・[[たつの市]]ほか * 二級河川 ** [[市川 (兵庫県)|市川]] - [[神崎郡]][[福崎町]]・[[姫路市]]ほか ** [[夢前川]] - [[姫路市]] ** [[千種川]] - [[佐用郡]][[佐用町]]・[[赤穂市]]ほか ** [[明石川]] - [[神戸市]][[西区 (神戸市)|西区]]・[[明石市]] == 現代的用法 == 現在でも「播磨(播州)」は、兵庫県南西部を指す地域名として用いられる。 '''東播'''(とうばん=東播磨)・'''西播'''(せいばん=[[西播磨]])・'''北播'''(ほくばん=北播磨)・'''中播'''(ちゅうばん=中播磨)というような使い方も、日常的になされる。明確な定義は無いが、区分はおおむね以下のようになる。 * 二分する場合 ** 東播:加古川市・高砂市・加西市・多可郡以東 ** 西播:姫路市・神崎郡以西 * 三分する場合 ** 東播:明石市・加古川市・高砂市・加古郡 ** 北播:三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡 ** 西播:姫路市・相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・神崎郡・揖保郡・赤穂郡・佐用郡 西播磨のうち、姫路市と神崎郡を「中播磨(中播)」とすることもある。 * 四分する場合 ** 東播:明石市・加古川市・高砂市・加古郡 ** 北播:三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡 ** 中播:姫路市・神崎郡 ** 西播:相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・揖保郡・赤穂郡・佐用郡 播磨国の一部で[[昭和時代]]前期に神戸市に編入された地域として垂水区・西区・北区淡河町・須磨区須磨ニュータウン西部がある。 * 播磨国域がごく一部しかない北区域と須磨区域は通常は「播州」・「東播」とは呼ばない。 * 旧明石郡だった垂水区・西区は明石市とのかかわりが深く、明石市と合わせて「神明」「東播磨南部」と呼ばれることが多い。 兵庫県の出先機関である県民局は4つに分かれている。行政区分はこれを中心に行われる。 * 東播磨県民局(加古川市所在):明石市・加古川市・高砂市・加古郡 * 北播磨県民局(加東市所在):三木市・小野市・加西市・西脇市・加東市・多可郡 * 中播磨県民局(姫路市所在):姫路市・神崎郡 * 西播磨県民局(赤穂郡上郡町所在):相生市・赤穂市・宍粟市・たつの市・揖保郡・赤穂郡・佐用郡 === 気象予報区域 === 播磨地区内で以下のように細分化されている。 * 播磨南東部:[[明石市]]・[[加古川市]]・[[三木市]]・[[高砂市]]・[[小野市]]・[[加西市]]・[[加東市]]・[[加古郡]] * 播磨南西部:[[姫路市]]・[[相生市]]・[[赤穂市]]・[[たつの市]]・[[揖保郡]]・[[赤穂郡]] * 北播丹波(兵庫県の丹波国の部分を含んでいる):[[西脇市]]・[[多可郡]]・[[丹波国|丹波]]([[丹波篠山市]]・[[丹波市]]) * 播磨北西部:[[宍粟市]]・[[神崎郡]]・[[佐用郡]] ※[[神戸市]][[垂水区]]及び[[西区 (神戸市)|西区]]は播磨国に属しているが、予報区域は神戸市の他区と同じ阪神に含まれている。 地震情報では、播磨南東部・北播丹波を「兵庫県南東部」、播磨南西部・播磨北西部を「兵庫県南西部」として発表している。 == 名産 == === 工芸品、工業製品 === * [[播州そろばん]]([[小野市]]) * [[播州三木打刃物]]、金属製品([[三木市]]) * [[播州織]]([[加西市]]、[[西脇市]]〔旧西脇市地域=現西脇市は[[2005年]](平成17年)[[10月1日]]新設〕) * [[靴下]]([[加古川市]]) * [[皮革|皮革製品]]([[たつの市]]、[[姫路市]]) * [[播州毛鉤]]{{Efn|[[毛鉤]]の一種、特に鮎釣りの中の「ドブ釣り」には欠かせない擬餌鉤で、釣り師たちは季節・天候・時刻に応じて多種類の毛鉤を使い分けていて、播州毛鉤の種類は魚種・水深・水質などに応じて多種あり、500種以上におよぶと言われている。[https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/banshukebari/]}}[https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/banshukebari/] (西脇市(旧西脇市地域)、西脇市[[黒田庄町]]、[[丹波市]][[山南町]])<!--注:黒田庄町、山南町は新設合併(旧市町は全て消滅)によりそれぞれ西脇市、丹波市となった。正確な産地を示すためあえて記す。--> * [[マッチ]](姫路市) * [[鎖]](姫路市) * [[杉原紙]]([[多可郡]][[多可町]]) === 食品 === 米の産地として[[越前国]]や[[越後国]]と並んで知られ、「一播二越」(いちばんにえち)と称された<ref>[http://www.city.echizen.lg.jp/office/010/010/konomachigaiine.html いにしえの歴史と文化が息づく・・・ 自然に恵まれたまち、越前市 ]</ref><ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49963_37671.html 北大路魯山人 お米の話]</ref>。 * 手延[[素麺]](たつの市など) [[揖保乃糸]] * 淡口[[醤油]](たつの市など) [[ヒガシマル醤油]] * [[塩|天然塩]] かつては[[播磨灘]]沿岸各所に塩田があった。[[赤穂]]の塩は全国に流通。 * [[玉子焼 (明石市)|玉子焼き]](大阪など他地方では明石焼きと呼ばれる) * 姫路おでん * [[いかなご]]の釘煮 * [[御座候]] * [[伊勢屋本店#商品|玉椿]] * [[塩味饅頭]] * [[牡蠣]]([[室津]]、[[坪根]]、[[坂越]]にかけて養殖が盛ん。) * はりま焼(せんべい) * [[かつめし]] * にくてん([[高砂市]]) * [[播州ラーメン]] * [[山田錦]]([[日本酒]]原料の[[酒米]]の一品種) * もち麦麺([[神崎郡]][[福崎町]]) * 播州百日どり * 佐用ホルモン焼きうどん == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Citation|和書|title=小山市史|series=通史編Ⅰ(自然.原始・古代.中世)本編|publisher=小山市|editor=小山市史編さん委員会|date=1984-11-10|id={{NDLJP|9643282}}|ref={{SfnRef|小山市史|1984}}}} {{参照方法|date=2023年1月|section=1}} * [[角川日本地名大辞典]] 28 兵庫県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Harima Province}} * 関係の深い項目 ** [[播磨平野]] ** [[播磨鑑]] ** [[播磨王朝]] ** [[播磨国風土記]] ** [[播磨の国一揆]] ** [[播磨自動車道]] ** [[播磨臨海工業地帯]] ** [[兵庫県立北播磨余暇村公園]] ** [[播州弁]] ** [[播州の秋祭り]] ** [[播磨広域連携協議会]] * その他 ** [[飾磨県]] ** [[令制国一覧]] ** [[明石国]] ** [[丹波国]] ** [[広峯神社]](ひろみねじんじゃ) - [[吉備真備]]が創建した姫路市の神社。[[牛頭天王]][[総本宮]]。 ** [[宮本武蔵]] ** [[中村吉右衛門]](播磨屋) ** [[播磨屋橋]](高知市の橋) ** [[陰陽師]] - 古くから陰陽師・陰陽法師が多い土地柄と言われ、蘆屋道満([[道摩法師]])も播磨の民間陰陽師とする伝説がある。 == 外部リンク == * {{Osmrelation|9450858}} * {{Kotobank}} {{令制国一覧}} {{播磨国の郡}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:はりまのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陽道|国はりま]] [[Category:兵庫県の歴史]] [[Category:播磨国|*]]
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日本橋駅
日本橋駅
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日本橋駅 日本橋駅 (東京都)(にほんばしえき)- 東京都中央区にある東京地下鉄・都営地下鉄の駅。 日本橋駅 (大阪府)(にっぽんばしえき)- 大阪府大阪市中央区にある大阪市高速電気軌道の駅。 近鉄日本橋駅(きんてつにっぽんばしえき)- 大阪府大阪市中央区にある近鉄難波線の駅。
'''日本橋駅''' *[[日本橋駅 (東京都)]](にほんばしえき)- 東京都中央区にある[[東京地下鉄]]・[[都営地下鉄]]の駅。 *[[日本橋駅 (大阪府)]](にっぽんばしえき)- 大阪府大阪市中央区にある[[大阪市高速電気軌道]]の駅。 *[[近鉄日本橋駅]](きんてつにっぽんばしえき)- 大阪府大阪市中央区にある[[近鉄難波線]]の駅。 {{aimai}} [[Category:同名の鉄道駅]] {{DEFAULTSORT:にほんはしえき}}
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信越本線
信越本線(しんえつほんせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅まで、長野県長野市の篠ノ井駅から同市長野駅まで、および新潟県上越市の直江津駅から新潟県新潟市中央区の新潟駅までの区間を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間、上沼垂信号場 - 東新潟港駅間の貨物支線を持つ。 元々は高崎駅から新潟駅までを途切れる区間なく結んでいた路線であった。1997年および2015年に北陸新幹線(長野新幹線)新規開業及び延伸開業に伴って、廃止されバス転換された区間または第三セクター鉄道に移管された区間については「概要」節で挙げた各記事も参照。 路線名が表すとおり、長野県と新潟県を意味する「信越地方」を通る路線であり、元々は近世の中山道・善光寺街道・北陸道に沿って、高崎駅から長野駅や直江津駅などを経て新潟駅に至る路線であった。1997年(平成9年)10月1日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴い、新幹線の並行在来線区間のうち、碓氷峠を越える横川駅 - 軽井沢駅間が廃止(ジェイアールバス関東の碓氷線に転換)、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に経営が移管され、当路線は2区間に分断された。さらに2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴い、長野駅 - 直江津駅間も経営分離され、長野駅 - 妙高高原駅間がしなの鉄道に、妙高高原駅 - 直江津駅間がえちごトキめき鉄道に移管され、当路線は3区間に分断された。「本線」級のJR線が分断されるのは信越本線が初の事例である。 なお、整備新幹線ではない上越新幹線の並行在来線である長岡駅 - 新潟駅間は新幹線開業後も経営分離されず、JR東日本の路線となっている。 現在も信越本線として残されている区間のうち、直江津駅 - 新潟駅間は、JR東日本の羽越本線・奥羽本線、第三セクター鉄道のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、あいの風とやま鉄道線、IRいしかわ鉄道線、西日本旅客鉄道(JR西日本)の北陸本線・湖西線とともに、日本海縦貫線を形成しており、優等列車や貨物列車が多く運行されている。また、新潟県内では、上越・中越・下越地方を結ぶ動脈ともなっている。そのうち直江津駅 - 柏崎駅間では日本海沿岸を走る。篠ノ井駅 - 長野駅間には特急「しなの」が設定されており、松本・名古屋方面との広域輸送を担っている。高崎駅 - 横川駅間には定期優等列車の設定はなく、ローカル輸送が中心である。 高崎駅 - 横川駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、直江津駅 - 新潟駅間が同「新潟近郊区間」に含まれ、高崎駅 - 横川駅がIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに、新潟駅 - 宮内駅間の全駅および柏崎駅・直江津駅が新潟エリアに、それぞれ含まれている。 ラインカラーは、高崎駅 - 横川駅間は黄緑色、篠ノ井駅 - 長野駅間と直江津駅 - 新潟駅間はスカイブルーである。 高崎駅 - 横川駅間がJR東日本高崎支社、篠ノ井駅 - 長野駅間が同社長野支社、直江津駅 - 新潟駅間(越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間の支線を含む)が同社新潟支社の管轄である。 首都圏と長野県の信越本線沿線各市町を結ぶ都市間輸送は既に北陸新幹線の開業および信越本線の分断によりその役割を終えており、高崎駅 - 横川駅間は臨時列車を除けば各駅に停車する普通列車のみの運行で、ほぼ群馬県内のローカル輸送に徹した形となっている。なお、この区間は群馬県内で完結しているが新幹線開業後も一貫して「信越線」と案内されている。全区間で毎時1 - 2本程度の普通列車が運転されており、全ての列車が高崎駅と横川駅を始発・終着駅とする。この区間のラインカラーは黄緑色になっている。ワンマン運転は行っていない。列車によってはジェイアールバス関東の碓氷線に接続している。軽井沢でしなの鉄道線の列車と接続する場合もある。 高崎駅 - 横川駅間では、蒸気機関車(SL)牽引による臨時快速列車「SLぐんま よこかわ」が、土休日を中心に設定される。横川駅には転車台がないため、往復のうちどちらかは電気機関車(EL)牽引による「ELぐんま よこかわ」かディーゼル機関車(DL)牽引による「DLぐんま よこかわ」となる。 高崎駅 - 安中駅間には、福島臨海鉄道小名浜駅との間での鉱石輸送用の高速貨物列車(通称「安中貨物」)が1日1往復運行されている。 この区間は北陸新幹線開業以降も引き続きJR東日本が運営している。しかし、篠ノ井駅 - 長野駅間で完結する列車は下りが平日朝に1本、上りが日中に1本あるのみで、その他は全てが篠ノ井線またはしなの鉄道しなの鉄道線・北しなの線との直通列車であり、実質的に篠ノ井線の一部のようになっている。 優等列車として、名古屋駅からの特急「しなの」が走っている。 普通・快速列車は基本的には長野市周辺の輸送を担っているが、しなの鉄道線直通列車は朝夕を中心に軽井沢駅発着の列車もある。篠ノ井線直通列車は日中は松本駅発着の列車が多いが、朝夕は飯田線・中央本線直通の長距離列車が多く、最遠で飯田線には飯田駅発着、中央本線には高尾駅(下りのみ、上りは大月駅まで)発着で運行され、特急と同じく山梨県・長野県内の主要都市間輸送を担っている面もある。 篠ノ井駅 - 長野駅間には、コンテナ車による北しなの線北長野駅への高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。それぞれ、首都圏発着、中京圏発着となっており、前者は隅田川駅発着、後者は名古屋貨物ターミナル駅発・稲沢駅着である。 この区間は日本海縦貫線の一部として、かつては長距離運行する優等列車が多数設定されていたが、列車の運転系統分割や再編、廃止などによって徐々に縮小された(#過去の運行形態を参照)。2015年3月の北陸新幹線金沢延伸以降の信越本線の役割は特急「しらゆき」及び快速列車による県内都市間輸送と、普通列車によるローカル輸送が主になった。 新潟市と県内各都市を結ぶ高速バス「ときライナー」との競合があり、新潟駅 - 長岡駅間の格安回数券・フリーきっぷ(えちごワンデーパス等)の発売や快速の運転、などでサービスアップが図られている。長岡駅 - 新潟駅間の信越本線は信濃川東岸を走り、羽越本線・磐越西線も乗り入れる新津駅(新潟市秋葉区)などの各駅が新潟都市圏南東部の公共交通を支えているのに対して、長距離輸送を担う上越新幹線は長岡駅 - 新潟駅間には燕三条駅以外に駅がなく、相互に補完し合う関係となっている。 特急列車は妙高はねうまラインから直通する「しらゆき」が新井駅・上越妙高駅 - 新潟駅間で4往復運転されている。「しらゆき」は上越妙高駅で北陸新幹線に、長岡駅で上越新幹線にそれぞれ接続して乗り継ぎ料金制度が適用され、新潟・長岡地区と糸魚川・富山・金沢方面および首都圏と柏崎地域との間を連絡する役割も担っている。 快速列車は朝夕を中心に直江津駅 - 新潟駅間で1往復、直江津駅 - 長岡駅間で上り2本・下り3本、長岡駅 - 新潟駅間で1往復運転される。これらは2012年3月改正で廃止された急行「きたぐに」、2015年3月改正で廃止された特急「北越」、快速「くびき野」の代替、特急「しらゆき」の補完という性格もあり、通過駅が多い。このためいずれの列車も普通列車と比べて20分 - 1時間程度の高い速達効果を有している。2022年3月のダイヤ改正より、代走を除き全てE129系が充当されている。 なお、2015年3月改正から2017年3月改正まではえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅を発着とする列車が1往復設定され、485系3000番台が用いられた。また、2022年3月改正までは新潟駅発新井駅行きの快速もあり、115系の運用もあった。また、快速「信越」の運転もあり、こちらはE653系が充当されていた。 特急・快速列車の停車駅の比較は以下の通りである(2022年3月12日改正時点)。 また、新津駅 - 新潟駅間では磐越西線から直通する快速列車が運行されているほか、2023年3月18日ダイヤ改正まで直江津駅 - 犀潟駅間でほくほく線直通の快速列車や超快速列車「スノーラビット」が運転されていた。 普通列車は長岡駅でほぼ運転系統が分断されている。 直江津駅 - 柏崎駅 - 長岡駅間はおおむね1 - 2時間に1本程度の運行である。長岡駅の南隣の宮内駅を終点とする上越線は全列車が長岡駅まで運転されるほか、朝の石打駅発の1本は新潟駅まで直通する。信越本線で長岡駅を越えて新潟方面に直通する普通列車はこの列車と朝の柏崎駅発新潟駅行き、夜の直江津駅発新潟駅行きの下り3本のみである。また、長岡駅発着で上越線を経由して飯山線へ直通する列車が2往復設定されている。直江津駅 - 犀潟駅間には北越急行ほくほく線に直通する列車もあり、一部列車は黒井駅に停車する。また、朝には柏崎駅・柿崎駅からえちごトキめき鉄道妙高はねうまラインへの直通列車がえちごトキめき鉄道車両で運転されており、間合い運用として夜間に直江津駅 - 長岡駅間で信越線内のみの運用も行われている。 長岡駅 - 新津駅間は日中1時間に1本程度であるが、朝夕は本数が多く設定されている。新津駅 - 新潟駅間は区間列車も多数運行されており、日中は1時間に3本(約20分間隔)、平日朝ピーク時には磐越西線からの直通列車も含めて1時間に9本程度(約5 - 8分間隔)が運行されている。新潟駅から白新線・越後線と直通運転する列車も存在する。新津駅 - 新潟駅間はピーク時の輸送人員が年々増加している区間であり、混雑率は2011年度には96%であったものが2013年度には111%、2018年度には143%に、2020年度は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)流行の影響で三大都市圏の輸送量が減少したこともあって、全国のJR線の中で最も高い135%の数値となった。 直江津駅 - 長岡駅間・新津駅 - 新潟駅間のE129系を使用する2両編成の列車では一部を除きワンマン運転が実施されている。無人駅(黒井駅、土底浜駅、潟町駅、上下浜駅、米山駅、笠島駅、青海川駅、鯨波駅、茨目駅、北条駅、越後広田駅、長鳥駅、塚山駅、越後岩塚駅、前川駅)では先頭車両の最も前側のドアのみが出口で、運賃は車内精算となる。新津駅 - 新潟駅間は全駅が有人駅のため駅で運賃収受を行う都市型ワンマン運転で、全てのドアより乗降できるが、営業時間外の乗降・精算は無人駅に準じる。 直江津駅 - 越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間は、前述のように日本海縦貫線の一部を成しており、貨物輸送が盛んである。当該区間の大半の貨物列車は、EF510形電気機関車が牽引するコンテナ車で編成された高速貨物列車である。当該区間のコンテナ取り扱い駅は、黒井駅、柏崎オフレールステーション(ORS)、南長岡駅、新潟貨物ターミナル駅である。 上沼垂信号場 - 焼島駅間は、コンテナ車による高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。どちらも上沼垂信号場から白新線経由で新潟貨物ターミナル駅に乗り入れ、うち上り1本は首都圏の隅田川駅まで運行される。詳細は「焼島駅」の項も参照。 特急「白鳥」や、寝台特急「日本海」、急行「きたぐに」など、かつては日本海縦貫線を長距離運行する列車が多数設定されていたが、廃止や列車の系統分割などによって徐々に縮小され、最後まで残存した特急「北越」(金沢駅 - 新潟駅間)、寝台特急「トワイライトエクスプレス」(大阪駅 - 札幌駅間)についても、2015年(平成27年)3月13日に運行を終了した。 また、同区間では特急「とき」をはじめとする首都圏から上越線経由で信越本線に入り、下越から山形県庄内地方など東北日本海側各県へ、上越から富山以西の北陸三県へ直通する列車も設定されていたが、上越新幹線開業後は対首都圏間の輸送のメインを新幹線に譲っており、首都圏対北陸地方間についてはさらに北陸新幹線へ遷移した。 夜行列車についても2010年(平成22年)3月12日の始発駅発車分をもって寝台特急「北陸」が廃止、急行「能登」が定期運行を終了、2014年(平成26年)3月14日の始発駅発車分をもって寝台特急「あけぼの」が定期運行を終了している。夜行の快速「ムーンライトえちご」も 2014年(平成26年)6月以降は列車が設定されていない。 1968年(昭和43年)から2010年(平成22年)までの夏には臨時列車「マリンブルーくじらなみ号」が上越線経由で高崎駅方面との間で運転されていた。 定期列車について記載。特記なき限りJR東日本(および過去の車両で1987年より前に運用終了したものは国鉄)の車両。 高崎駅 - 直江津駅間は国(官設鉄道)によって開業した区間である。このうち高崎駅 - 軽井沢駅間は東京と大阪とを結ぶ「中山道幹線」の一部として建設されたものであり、軽井沢駅 - 直江津駅間はその資材運搬のために建設されたものであった。 碓氷峠を挟む横川駅 - 軽井沢駅間は、難所のため工事が遅れた。この区間が開業する前の5年間は、先行して開業していた碓氷馬車鉄道という馬鉄でこの区間を連絡していたこともあった。 日本海沿いの直江津駅 - 新潟駅(旧駅)間は私鉄の北越鉄道によって開業した。北越鉄道は1907年(明治40年)に国有化された。 貨物支線の上沼垂信号場 - 東新潟港駅 - 大形駅(廃止)間は新潟臨港開発(現在のリンコーコーポレーション)によって開業した。新潟臨港開発線は1941年(昭和16年)に国有化された。 下記各項目に分散して記述 2004年(平成16年)10月23日に発生した新潟県中越地震では柏崎駅 - 長岡駅間が大規模な損害を受け、この区間を通る全列車が運休していたが、同年11月29日に全線が復旧した。 2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では笠島駅 - 青海川駅間が大規模に被災したため、犀潟駅 - 宮内駅間の列車の運転が全面的に停止した。その後、JR東日本は新潟県と相互に協力して復旧作業を急ピッチで進め、不通区間を徐々に復旧開通させ、9月13日、残る不通区間であった柏崎駅 - 柿崎駅間も運転を再開し、新潟県中越沖地震発生より2か月足らずで全線の運転を再開させた。ただし、柏崎駅 - 柿崎駅間は運行再開後しばらくの間、徐行運転が行われた。 横川駅 - 軽井沢駅間は一部の区間が遊歩道「アプトの道」として整備されている。また、安中市松井田町の財団法人・碓氷峠交流記念財団により、同駅間の廃線跡で、同財団の運営する「碓氷峠鉄道文化むら」の園内遊具として、「ぶんかむら駅 - まるやま駅 - とうげのゆ駅」においてトロッコ列車「シェルパくん」を運転している。 2025年にはこの区間で使用されていた電気機関車ED42やEF63を模した電動のレールカートが「とうげの湯駅」から「熊ノ平駅」まで運行される予定である。 群馬・長野県境をつないでいた廃トンネルは安中市が所有している。2017年(平成29年)、北朝鮮が弾道ミサイル発射実験を繰り返していることを受けて、軽井沢町は安中市と覚書を結び、有事の際にはこの廃トンネルを町民・観光客の避難シェルターとする方針を決めた。 廃止された横川駅 - 軽井沢駅間では、何度か架線やレールの切断、EF63の貫通扉の盗難などの事件が起きている。2022年にも5月下旬から6月上旬にかけて安中市観光機構の職員が架線の一部が盗まれていることを確認した。盗難にあった箇所は少なくとも2カ所で計530メートル(約16万円相当)が盗難に遭っており、線路やトンネルの所有者である安中市が安中警察署に被害届を提出した。 軽井沢町内の廃線跡は廃止直後にしなの鉄道の所有となり、後に駅付近の廃線跡はコンクリートで舗装され、2017年から駐車場として使用されていたが、2023年3月15日に営業を終了した。これは2025年に廃線跡をホテルや温浴施設、飲食店・物販店を建設する計画の下準備で、同年4月以降には廃止後使用されていなかった横川方のホームの解体・架線柱や矢ヶ崎踏切の警報器の撤去も行われた。工事は2024年の1月末まで続き、完成は2025年末となる予定。しかし、跡地を完全に潰してしまう計画であり、線路が接続できず復活が困難になるとして反対する動きも見られる。 横川駅隣接地に道の駅を建設する計画もあり、2023年度中に基本方針を、2024年に基本計画をまとめ、2025年度の完成を目標にしている。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、松井田駅と西松井田駅である。 2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は、直江津駅、犀潟駅、柿崎駅、柏崎駅、来迎寺駅、宮内駅、長岡駅、見附駅、三条駅、東三条駅、加茂駅、矢代田駅および新津駅 - 新潟駅間の各駅。これら以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。 両駅とも新潟県新潟市東区に所在 全駅が新潟県新潟市に所在 この区間は1997年(平成9年)10月1日、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間(開業当初の通称および運転系統名は長野新幹線)の開業と引き換えに廃止された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "信越本線(しんえつほんせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅まで、長野県長野市の篠ノ井駅から同市長野駅まで、および新潟県上越市の直江津駅から新潟県新潟市中央区の新潟駅までの区間を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間、上沼垂信号場 - 東新潟港駅間の貨物支線を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "元々は高崎駅から新潟駅までを途切れる区間なく結んでいた路線であった。1997年および2015年に北陸新幹線(長野新幹線)新規開業及び延伸開業に伴って、廃止されバス転換された区間または第三セクター鉄道に移管された区間については「概要」節で挙げた各記事も参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "路線名が表すとおり、長野県と新潟県を意味する「信越地方」を通る路線であり、元々は近世の中山道・善光寺街道・北陸道に沿って、高崎駅から長野駅や直江津駅などを経て新潟駅に至る路線であった。1997年(平成9年)10月1日の北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴い、新幹線の並行在来線区間のうち、碓氷峠を越える横川駅 - 軽井沢駅間が廃止(ジェイアールバス関東の碓氷線に転換)、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に経営が移管され、当路線は2区間に分断された。さらに2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴い、長野駅 - 直江津駅間も経営分離され、長野駅 - 妙高高原駅間がしなの鉄道に、妙高高原駅 - 直江津駅間がえちごトキめき鉄道に移管され、当路線は3区間に分断された。「本線」級のJR線が分断されるのは信越本線が初の事例である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、整備新幹線ではない上越新幹線の並行在来線である長岡駅 - 新潟駅間は新幹線開業後も経営分離されず、JR東日本の路線となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "現在も信越本線として残されている区間のうち、直江津駅 - 新潟駅間は、JR東日本の羽越本線・奥羽本線、第三セクター鉄道のえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン、あいの風とやま鉄道線、IRいしかわ鉄道線、西日本旅客鉄道(JR西日本)の北陸本線・湖西線とともに、日本海縦貫線を形成しており、優等列車や貨物列車が多く運行されている。また、新潟県内では、上越・中越・下越地方を結ぶ動脈ともなっている。そのうち直江津駅 - 柏崎駅間では日本海沿岸を走る。篠ノ井駅 - 長野駅間には特急「しなの」が設定されており、松本・名古屋方面との広域輸送を担っている。高崎駅 - 横川駅間には定期優等列車の設定はなく、ローカル輸送が中心である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "高崎駅 - 横川駅間は旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」、直江津駅 - 新潟駅間が同「新潟近郊区間」に含まれ、高崎駅 - 横川駅がIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに、新潟駅 - 宮内駅間の全駅および柏崎駅・直江津駅が新潟エリアに、それぞれ含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ラインカラーは、高崎駅 - 横川駅間は黄緑色、篠ノ井駅 - 長野駅間と直江津駅 - 新潟駅間はスカイブルーである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "高崎駅 - 横川駅間がJR東日本高崎支社、篠ノ井駅 - 長野駅間が同社長野支社、直江津駅 - 新潟駅間(越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間の支線を含む)が同社新潟支社の管轄である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "首都圏と長野県の信越本線沿線各市町を結ぶ都市間輸送は既に北陸新幹線の開業および信越本線の分断によりその役割を終えており、高崎駅 - 横川駅間は臨時列車を除けば各駅に停車する普通列車のみの運行で、ほぼ群馬県内のローカル輸送に徹した形となっている。なお、この区間は群馬県内で完結しているが新幹線開業後も一貫して「信越線」と案内されている。全区間で毎時1 - 2本程度の普通列車が運転されており、全ての列車が高崎駅と横川駅を始発・終着駅とする。この区間のラインカラーは黄緑色になっている。ワンマン運転は行っていない。列車によってはジェイアールバス関東の碓氷線に接続している。軽井沢でしなの鉄道線の列車と接続する場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "高崎駅 - 横川駅間では、蒸気機関車(SL)牽引による臨時快速列車「SLぐんま よこかわ」が、土休日を中心に設定される。横川駅には転車台がないため、往復のうちどちらかは電気機関車(EL)牽引による「ELぐんま よこかわ」かディーゼル機関車(DL)牽引による「DLぐんま よこかわ」となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "高崎駅 - 安中駅間には、福島臨海鉄道小名浜駅との間での鉱石輸送用の高速貨物列車(通称「安中貨物」)が1日1往復運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この区間は北陸新幹線開業以降も引き続きJR東日本が運営している。しかし、篠ノ井駅 - 長野駅間で完結する列車は下りが平日朝に1本、上りが日中に1本あるのみで、その他は全てが篠ノ井線またはしなの鉄道しなの鉄道線・北しなの線との直通列車であり、実質的に篠ノ井線の一部のようになっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "優等列車として、名古屋駅からの特急「しなの」が走っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "普通・快速列車は基本的には長野市周辺の輸送を担っているが、しなの鉄道線直通列車は朝夕を中心に軽井沢駅発着の列車もある。篠ノ井線直通列車は日中は松本駅発着の列車が多いが、朝夕は飯田線・中央本線直通の長距離列車が多く、最遠で飯田線には飯田駅発着、中央本線には高尾駅(下りのみ、上りは大月駅まで)発着で運行され、特急と同じく山梨県・長野県内の主要都市間輸送を担っている面もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "篠ノ井駅 - 長野駅間には、コンテナ車による北しなの線北長野駅への高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。それぞれ、首都圏発着、中京圏発着となっており、前者は隅田川駅発着、後者は名古屋貨物ターミナル駅発・稲沢駅着である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この区間は日本海縦貫線の一部として、かつては長距離運行する優等列車が多数設定されていたが、列車の運転系統分割や再編、廃止などによって徐々に縮小された(#過去の運行形態を参照)。2015年3月の北陸新幹線金沢延伸以降の信越本線の役割は特急「しらゆき」及び快速列車による県内都市間輸送と、普通列車によるローカル輸送が主になった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "新潟市と県内各都市を結ぶ高速バス「ときライナー」との競合があり、新潟駅 - 長岡駅間の格安回数券・フリーきっぷ(えちごワンデーパス等)の発売や快速の運転、などでサービスアップが図られている。長岡駅 - 新潟駅間の信越本線は信濃川東岸を走り、羽越本線・磐越西線も乗り入れる新津駅(新潟市秋葉区)などの各駅が新潟都市圏南東部の公共交通を支えているのに対して、長距離輸送を担う上越新幹線は長岡駅 - 新潟駅間には燕三条駅以外に駅がなく、相互に補完し合う関係となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "特急列車は妙高はねうまラインから直通する「しらゆき」が新井駅・上越妙高駅 - 新潟駅間で4往復運転されている。「しらゆき」は上越妙高駅で北陸新幹線に、長岡駅で上越新幹線にそれぞれ接続して乗り継ぎ料金制度が適用され、新潟・長岡地区と糸魚川・富山・金沢方面および首都圏と柏崎地域との間を連絡する役割も担っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "快速列車は朝夕を中心に直江津駅 - 新潟駅間で1往復、直江津駅 - 長岡駅間で上り2本・下り3本、長岡駅 - 新潟駅間で1往復運転される。これらは2012年3月改正で廃止された急行「きたぐに」、2015年3月改正で廃止された特急「北越」、快速「くびき野」の代替、特急「しらゆき」の補完という性格もあり、通過駅が多い。このためいずれの列車も普通列車と比べて20分 - 1時間程度の高い速達効果を有している。2022年3月のダイヤ改正より、代走を除き全てE129系が充当されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、2015年3月改正から2017年3月改正まではえちごトキめき鉄道日本海ひすいライン糸魚川駅を発着とする列車が1往復設定され、485系3000番台が用いられた。また、2022年3月改正までは新潟駅発新井駅行きの快速もあり、115系の運用もあった。また、快速「信越」の運転もあり、こちらはE653系が充当されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "特急・快速列車の停車駅の比較は以下の通りである(2022年3月12日改正時点)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、新津駅 - 新潟駅間では磐越西線から直通する快速列車が運行されているほか、2023年3月18日ダイヤ改正まで直江津駅 - 犀潟駅間でほくほく線直通の快速列車や超快速列車「スノーラビット」が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "普通列車は長岡駅でほぼ運転系統が分断されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "直江津駅 - 柏崎駅 - 長岡駅間はおおむね1 - 2時間に1本程度の運行である。長岡駅の南隣の宮内駅を終点とする上越線は全列車が長岡駅まで運転されるほか、朝の石打駅発の1本は新潟駅まで直通する。信越本線で長岡駅を越えて新潟方面に直通する普通列車はこの列車と朝の柏崎駅発新潟駅行き、夜の直江津駅発新潟駅行きの下り3本のみである。また、長岡駅発着で上越線を経由して飯山線へ直通する列車が2往復設定されている。直江津駅 - 犀潟駅間には北越急行ほくほく線に直通する列車もあり、一部列車は黒井駅に停車する。また、朝には柏崎駅・柿崎駅からえちごトキめき鉄道妙高はねうまラインへの直通列車がえちごトキめき鉄道車両で運転されており、間合い運用として夜間に直江津駅 - 長岡駅間で信越線内のみの運用も行われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "長岡駅 - 新津駅間は日中1時間に1本程度であるが、朝夕は本数が多く設定されている。新津駅 - 新潟駅間は区間列車も多数運行されており、日中は1時間に3本(約20分間隔)、平日朝ピーク時には磐越西線からの直通列車も含めて1時間に9本程度(約5 - 8分間隔)が運行されている。新潟駅から白新線・越後線と直通運転する列車も存在する。新津駅 - 新潟駅間はピーク時の輸送人員が年々増加している区間であり、混雑率は2011年度には96%であったものが2013年度には111%、2018年度には143%に、2020年度は新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)流行の影響で三大都市圏の輸送量が減少したこともあって、全国のJR線の中で最も高い135%の数値となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "直江津駅 - 長岡駅間・新津駅 - 新潟駅間のE129系を使用する2両編成の列車では一部を除きワンマン運転が実施されている。無人駅(黒井駅、土底浜駅、潟町駅、上下浜駅、米山駅、笠島駅、青海川駅、鯨波駅、茨目駅、北条駅、越後広田駅、長鳥駅、塚山駅、越後岩塚駅、前川駅)では先頭車両の最も前側のドアのみが出口で、運賃は車内精算となる。新津駅 - 新潟駅間は全駅が有人駅のため駅で運賃収受を行う都市型ワンマン運転で、全てのドアより乗降できるが、営業時間外の乗降・精算は無人駅に準じる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "直江津駅 - 越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間は、前述のように日本海縦貫線の一部を成しており、貨物輸送が盛んである。当該区間の大半の貨物列車は、EF510形電気機関車が牽引するコンテナ車で編成された高速貨物列車である。当該区間のコンテナ取り扱い駅は、黒井駅、柏崎オフレールステーション(ORS)、南長岡駅、新潟貨物ターミナル駅である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "上沼垂信号場 - 焼島駅間は、コンテナ車による高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。どちらも上沼垂信号場から白新線経由で新潟貨物ターミナル駅に乗り入れ、うち上り1本は首都圏の隅田川駅まで運行される。詳細は「焼島駅」の項も参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "特急「白鳥」や、寝台特急「日本海」、急行「きたぐに」など、かつては日本海縦貫線を長距離運行する列車が多数設定されていたが、廃止や列車の系統分割などによって徐々に縮小され、最後まで残存した特急「北越」(金沢駅 - 新潟駅間)、寝台特急「トワイライトエクスプレス」(大阪駅 - 札幌駅間)についても、2015年(平成27年)3月13日に運行を終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、同区間では特急「とき」をはじめとする首都圏から上越線経由で信越本線に入り、下越から山形県庄内地方など東北日本海側各県へ、上越から富山以西の北陸三県へ直通する列車も設定されていたが、上越新幹線開業後は対首都圏間の輸送のメインを新幹線に譲っており、首都圏対北陸地方間についてはさらに北陸新幹線へ遷移した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "夜行列車についても2010年(平成22年)3月12日の始発駅発車分をもって寝台特急「北陸」が廃止、急行「能登」が定期運行を終了、2014年(平成26年)3月14日の始発駅発車分をもって寝台特急「あけぼの」が定期運行を終了している。夜行の快速「ムーンライトえちご」も 2014年(平成26年)6月以降は列車が設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)から2010年(平成22年)までの夏には臨時列車「マリンブルーくじらなみ号」が上越線経由で高崎駅方面との間で運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "定期列車について記載。特記なき限りJR東日本(および過去の車両で1987年より前に運用終了したものは国鉄)の車両。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "高崎駅 - 直江津駅間は国(官設鉄道)によって開業した区間である。このうち高崎駅 - 軽井沢駅間は東京と大阪とを結ぶ「中山道幹線」の一部として建設されたものであり、軽井沢駅 - 直江津駅間はその資材運搬のために建設されたものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "碓氷峠を挟む横川駅 - 軽井沢駅間は、難所のため工事が遅れた。この区間が開業する前の5年間は、先行して開業していた碓氷馬車鉄道という馬鉄でこの区間を連絡していたこともあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本海沿いの直江津駅 - 新潟駅(旧駅)間は私鉄の北越鉄道によって開業した。北越鉄道は1907年(明治40年)に国有化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "貨物支線の上沼垂信号場 - 東新潟港駅 - 大形駅(廃止)間は新潟臨港開発(現在のリンコーコーポレーション)によって開業した。新潟臨港開発線は1941年(昭和16年)に国有化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "下記各項目に分散して記述", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)10月23日に発生した新潟県中越地震では柏崎駅 - 長岡駅間が大規模な損害を受け、この区間を通る全列車が運休していたが、同年11月29日に全線が復旧した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では笠島駅 - 青海川駅間が大規模に被災したため、犀潟駅 - 宮内駅間の列車の運転が全面的に停止した。その後、JR東日本は新潟県と相互に協力して復旧作業を急ピッチで進め、不通区間を徐々に復旧開通させ、9月13日、残る不通区間であった柏崎駅 - 柿崎駅間も運転を再開し、新潟県中越沖地震発生より2か月足らずで全線の運転を再開させた。ただし、柏崎駅 - 柿崎駅間は運行再開後しばらくの間、徐行運転が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "横川駅 - 軽井沢駅間は一部の区間が遊歩道「アプトの道」として整備されている。また、安中市松井田町の財団法人・碓氷峠交流記念財団により、同駅間の廃線跡で、同財団の運営する「碓氷峠鉄道文化むら」の園内遊具として、「ぶんかむら駅 - まるやま駅 - とうげのゆ駅」においてトロッコ列車「シェルパくん」を運転している。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2025年にはこの区間で使用されていた電気機関車ED42やEF63を模した電動のレールカートが「とうげの湯駅」から「熊ノ平駅」まで運行される予定である。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "群馬・長野県境をつないでいた廃トンネルは安中市が所有している。2017年(平成29年)、北朝鮮が弾道ミサイル発射実験を繰り返していることを受けて、軽井沢町は安中市と覚書を結び、有事の際にはこの廃トンネルを町民・観光客の避難シェルターとする方針を決めた。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "廃止された横川駅 - 軽井沢駅間では、何度か架線やレールの切断、EF63の貫通扉の盗難などの事件が起きている。2022年にも5月下旬から6月上旬にかけて安中市観光機構の職員が架線の一部が盗まれていることを確認した。盗難にあった箇所は少なくとも2カ所で計530メートル(約16万円相当)が盗難に遭っており、線路やトンネルの所有者である安中市が安中警察署に被害届を提出した。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "軽井沢町内の廃線跡は廃止直後にしなの鉄道の所有となり、後に駅付近の廃線跡はコンクリートで舗装され、2017年から駐車場として使用されていたが、2023年3月15日に営業を終了した。これは2025年に廃線跡をホテルや温浴施設、飲食店・物販店を建設する計画の下準備で、同年4月以降には廃止後使用されていなかった横川方のホームの解体・架線柱や矢ヶ崎踏切の警報器の撤去も行われた。工事は2024年の1月末まで続き、完成は2025年末となる予定。しかし、跡地を完全に潰してしまう計画であり、線路が接続できず復活が困難になるとして反対する動きも見られる。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "横川駅隣接地に道の駅を建設する計画もあり、2023年度中に基本方針を、2024年に基本計画をまとめ、2025年度の完成を目標にしている。", "title": "廃止区間の現状" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、松井田駅と西松井田駅である。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計の対象となっている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の対象駅は、直江津駅、犀潟駅、柿崎駅、柏崎駅、来迎寺駅、宮内駅、長岡駅、見附駅、三条駅、東三条駅、加茂駅、矢代田駅および新津駅 - 新潟駅間の各駅。これら以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "両駅とも新潟県新潟市東区に所在", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "全駅が新潟県新潟市に所在", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この区間は1997年(平成9年)10月1日、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間(開業当初の通称および運転系統名は長野新幹線)の開業と引き換えに廃止された。", "title": "駅一覧" } ]
信越本線(しんえつほんせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅まで、長野県長野市の篠ノ井駅から同市長野駅まで、および新潟県上越市の直江津駅から新潟県新潟市中央区の新潟駅までの区間を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間、上沼垂信号場 - 東新潟港駅間の貨物支線を持つ。 元々は高崎駅から新潟駅までを途切れる区間なく結んでいた路線であった。1997年および2015年に北陸新幹線(長野新幹線)新規開業及び延伸開業に伴って、廃止されバス転換された区間または第三セクター鉄道に移管された区間については「概要」節で挙げた各記事も参照。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 信越本線 |路線色=#80c241 |路線色2=#00b3e6 |画像=ファイル:Series-E129-JReast.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=信越本線を走行する[[JR東日本E129系電車|E129系]]電車<br>(2017年2月16日 [[長鳥駅]] - [[塚山駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[群馬県]]、[[長野県]]、[[新潟県]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[高崎駅]]、[[篠ノ井駅]]、[[直江津駅]] |終点=[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]、[[長野駅]]、[[新潟駅]] |駅数=59駅(貨物駅含む) |電報略号 = シエホセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p23">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=23}}</ref> |開業=[[1885年]][[10月15日]] |休止= |廃止= |項目1=一部廃止 |日付1=[[1997年]][[10月1日]](横川駅 - [[軽井沢駅]])<!-- 移管は含まない --> |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />([[上沼垂信号場 ]]- [[東新潟港駅]]間除く全線)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(上沼垂信号場 - 東新潟港駅間) |運営者=上記各第1種鉄道事業者および<br />日本貨物鉄道<br />(高崎駅-[[安中駅]]間・篠ノ井駅-長野駅間・直江津駅-上沼垂信号場間・[[越後石山駅]]-[[新潟貨物ターミナル駅]]間の第2種鉄道事業者) |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線距離=29.7 [[キロメートル|km]](高崎駅-横川駅間)<br />9.3 km(篠ノ井駅-長野駅間)<br />136.3 km(直江津駅-新潟駅間)<br />2.4 km(越後石山駅-新潟貨物ターミナル駅間)<br />3.8 km(上沼垂信号場-東新潟港駅間) |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](上沼垂信号場-東新潟港間は[[単線]]) |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]<br />(上沼垂信号場-東新潟港間は[[非電化]]) |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=複線自動閉塞式(複線区間)<br>連査閉塞式(上沼垂信号場-[[焼島駅]]間)<br>タブレット閉塞式(焼島駅-東新潟港駅間 休止中) |保安装置=[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](高崎駅-横川駅間、篠ノ井駅-長野駅間、新潟駅)<br>[[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]](宮内駅-新潟駅<ref name="niigataatsps" group="注釈" >新潟駅構内はATS-P形。</ref>間)<br>[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](直江津駅-[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]間)<ref name="ats">『[https://www.jreast.co.jp/eco/pdf/pdf_2019/all.pdf サステナビリティレポート2019]』(JR東日本、2019年9月)38頁</ref> |最高速度=120 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=[[File:JR Shinetsu Main Line linemap.svg|300px]]<br /><small>青線は[[しなの鉄道]]、[[えちごトキめき鉄道]]のいずれかに経営移管された区間</small> }} '''信越本線'''(しんえつほんせん)は、[[群馬県]][[高崎市]]の[[高崎駅]]から群馬県[[安中市]]の[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]まで、[[長野県]][[長野市]]の[[篠ノ井駅]]から同市[[長野駅]]まで、および[[新潟県]][[上越市]]の[[直江津駅]]から新潟県[[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]]の[[新潟駅]]までの区間を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。このほか、[[越後石山駅]] - [[新潟貨物ターミナル駅]]間、[[上沼垂信号場]] - [[東新潟港駅]]間の貨物[[支線]]を持つ。 元々は高崎駅から新潟駅までを途切れる区間なく結んでいた路線であった。[[1997年]]および[[2015年]]に[[北陸新幹線]](長野新幹線)新規開業及び延伸開業に伴って、廃止されバス転換された区間または[[第三セクター鉄道]]に移管された区間については「[[#概要|概要]]」節で挙げた各記事も参照。 == 概要 == [[File:信越本線開通130周年記念号(189系電車).jpg|250px|thumb|篠ノ井駅 - 長野駅間を除き、しなの鉄道とえちごトキめき鉄道に移管された軽井沢駅 - [[関山駅]]間は、2018年に開業130周年を迎え、[[国鉄189系電車|189系]]電車による記念列車が運転された。]] 路線名が表すとおり、[[長野県]]と[[新潟県]]を意味する「[[信越地方]]」を通る路線であり、元々は近世の[[中山道]]・[[北国街道 (信越)|善光寺街道]]・[[北陸道]]に沿って、高崎駅から[[長野駅]]や[[直江津駅]]などを経て[[新潟駅]]に至る路線であった。[[1997年]]([[平成]]9年)[[10月1日]]の[[北陸新幹線]]高崎駅 - 長野駅間先行開業に伴い、新幹線の[[在来線#並行在来線|並行在来線]]区間のうち、[[碓氷峠]]を越える[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] - [[軽井沢駅]]間が廃止([[ジェイアールバス関東]]の[[碓氷線]]に転換)、軽井沢駅 - [[篠ノ井駅]]間が[[第三セクター鉄道|第三セクター]]の[[しなの鉄道]]に経営が移管され、当路線は2区間に分断された。さらに[[2015年]](平成27年)[[3月14日]]の北陸新幹線長野駅 - [[金沢駅]]間延伸開業に伴い、長野駅 - 直江津駅間も経営分離され、長野駅 - [[妙高高原駅]]間がしなの鉄道に、妙高高原駅 - 直江津駅間が[[えちごトキめき鉄道]]に移管され、当路線は3区間に分断された。「[[本線]]」級のJR線が分断されるのは信越本線が初の事例である。 なお、[[整備新幹線]]ではない[[上越新幹線]]の並行在来線である[[長岡駅]] - [[新潟駅]]間は新幹線開業後も経営分離されず、JR東日本の路線となっている。 {| class="wikitable" |+信越本線分断の状況(2023年現在) !区間 !事業者 !路線 !移管(廃止)日 |- |高崎駅 - 横川駅 |JR東日本 |信越本線 |存続 |- |横川駅 - 軽井沢駅 | colspan="2"|廃止(ジェイアールバス関東の碓氷線に転換) | rowspan="2" |1997年10月1日 |- |軽井沢駅 - 篠ノ井駅 |しなの鉄道 |[[しなの鉄道線]] |- |篠ノ井駅 - 長野駅 |JR東日本 |信越本線 |存続 |- |長野駅 - 妙高高原駅 |しなの鉄道 |[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]] | rowspan="2" |2015年3月14日 |- |妙高高原駅 - 直江津駅 |えちごトキめき鉄道 |[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]] |- |直江津駅 - 新潟駅 |JR東日本 |信越本線 |存続 |} 現在も信越本線として残されている区間のうち、直江津駅 - 新潟駅間は、JR東日本の[[羽越本線]]・[[奥羽本線]]、第三セクター鉄道の[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン]]、[[あいの風とやま鉄道線]]、[[IRいしかわ鉄道線]]、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[北陸本線]]・[[湖西線]]とともに、[[日本海縦貫線]]を形成しており、[[優等列車]]や[[貨物列車]]が多く運行されている。また、新潟県内では、[[上越地方|上越]]・[[中越地方|中越]]・[[下越地方]]を結ぶ動脈ともなっている。そのうち直江津駅 - [[柏崎駅]]間では[[日本海]]沿岸を走る。篠ノ井駅 - 長野駅間には特急「[[しなの (列車)|しなの]]」が設定されており、[[松本駅|松本]]・[[名古屋駅|名古屋]]方面との広域輸送を担っている。高崎駅 - 横川駅間には定期優等列車の設定はなく、ローカル輸送が中心である。 高崎駅 - 横川駅間は[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「東京近郊区間」、直江津駅 - 新潟駅間が同「新潟近郊区間」に含まれ、高崎駅 - 横川駅が[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の首都圏エリアに、新潟駅 - [[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]間の全駅および柏崎駅・直江津駅が新潟エリアに、それぞれ含まれている。 [[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は、高崎駅 - 横川駅間は黄緑色、篠ノ井駅 - 長野駅間と直江津駅 - 新潟駅間はスカイブルーである<ref group="注釈">2015年にしなの鉄道およびえちごトキめき鉄道へ移管された区間も同カラーであった。また、2015年(平成27年)から採用された長野支社の新路線図のみ、北陸新幹線の上越妙高駅以西(JR西日本の管轄区間)に同じ色が充てられているため、区別のために直江津駅以東も含め{{Color|#bb641d;|■}}ブラウンで表現されている。</ref>。 === 路線データ === [[ファイル:新潟近辺鉄道路線図.png|280px|thumb|right|新潟近辺の鉄道路線図]] * 管轄・路線距離([[営業キロ]]):全長181.5 km(支線含む) ** 東日本旅客鉄道(第一種[[鉄道事業者]]) *** 高崎駅 - 横川駅間 29.7 km *** 篠ノ井駅 - 長野駅間 9.3 km ***: [[距離標|キロポスト]]は[[高崎駅|高崎]]起点のものがそのまま使用され、線内各[[踏切]]に書かれているキロ数表示も高崎からの通算表示となっている。 *** 直江津駅 - 新潟駅間 136.3 km ***: キロポストは直江津起点のものが使用される<ref>{{Cite book|title=JR東日本全線【決定版】鉄道地図帳9 新潟支社管内編|isbn=978-4056057706|publisher=[[学習研究社]]|date=2010}}</ref>。 ** [[日本貨物鉄道]] ** (第一種鉄道事業) *** 上沼垂信号場 - 東新潟港駅間 3.8 km(焼島駅 - 東新潟港駅間は休止中) ** (第二種鉄道事業) *** 高崎駅 - 安中駅間(10.6 km) *** 篠ノ井駅 - 長野駅間(9.3km) *** 直江津駅 - 上沼垂信号場間(134.4km) *** 越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間(2.4 km)※ 旅客鉄道会社の営業キロ設定なし * [[軌間]]:1,067 mm * 駅数:59 ** 旅客駅:55(起終点駅含む) *** 信越本線所属の[[旅客駅]]に限定した場合、高崎駅(高崎線所属<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>)が除外され、54駅となる。 ** 貨物駅:4(起終点駅・休止駅含む、旅客併設駅を除く) * [[複線]]区間:上沼垂信号場 - 東新潟港駅間を除く全線。 *: なお[[白新線]]と重なる上沼垂信号場 - 新潟駅間(1.9 km)は[[複々線]]であるが、新潟駅付近[[連続立体交差事業]]のため、2017年度は[[仮線]]3線で運用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/doro/ekisyu/renzoku/renritsu.html|title=新潟駅付近連続立体交差事業|publisher=新潟市|date=2016-12-09|accessdate=2017-09-25}}</ref>。 * [[鉄道の電化|電化]]区間:上沼垂信号場 - 東新潟港駅間を除く全線([[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]: ** 複線自動閉塞式(複線区間) ** 連査閉塞式(上沼垂信号場 - 焼島駅間) ** タブレット閉塞式(焼島駅 - 東新潟港駅間 休止中) * 保安装置<ref name="ats" />: ** [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](高崎駅 - 横川駅間、篠ノ井駅 - 長野駅間、新潟駅 ** [[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]](宮内駅 - 新潟駅<ref name="niigataatsps" group="注釈" />間) ** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](直江津駅 - 宮内駅間) * 最高速度([[電車]]または[[気動車]]): ** 高崎駅 - 横川駅間 100 [[キロメートル毎時|km/h]] ** 篠ノ井駅 - 長野駅間 優等列車120 km/h、普通列車110 km/h ** 直江津駅 - 新潟駅間 120 km/h * [[運転指令所]]: ** 高崎駅 - 横川駅間:高崎総合指令室(運転取扱は高崎駅、安中駅が行い、横川駅の信号設備は安中駅から制御される) ** 篠ノ井駅 - 長野駅間:長野総合指令室([[列車集中制御装置|CTC]]) ** 直江津駅 - 新潟駅間:新潟総合指令室(直江津駅 - 越後石山駅間CTC) 高崎駅 - 横川駅間がJR東日本[[東日本旅客鉄道高崎支社|高崎支社]]、篠ノ井駅 - 長野駅間が同社[[東日本旅客鉄道長野支社|長野支社]]、直江津駅 - 新潟駅間(越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間の支線を含む)が同社[[東日本旅客鉄道新潟支社|新潟支社]]の管轄である。 == 運行形態 == === 高崎駅 - 横川駅間 === {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線(高崎駅 - 横川駅)|#80c241}} {{BS-table}} {{BS5|||STR|||||[[高崎線]]}} {{BS5||STR|STR|STR+l|STRq|O5=POINTERf@g|||[[上信電鉄]]:[[上信電鉄上信線|上信線]]}} {{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|KBHFe|O4=HUBlg||0.0|[[高崎駅]]}} {{BS5|STRq|KRZo|ABZgr|uexKBHFa|O4=HUBe||||[[上越線]]}} {{BS5|uexSTRq|emKRZo|emKRZu|uexSTRr||||[[東武鉄道|東武]]:''[[東武高崎線|高崎線]]''}} {{BS5|STRq|O1=POINTERg@f|ABZgr|STR|||||[[上越新幹線]]}} {{BS5||STR|O2=POINTERf@gq|STR|||||[[北陸新幹線]]}} {{BS5|||BHF|||2.4|[[北高崎駅]]}} {{BS5||WASSERq|hKRZWae|WABZq+l|||烏川Br|[[烏川 (利根川水系)|烏川]]}} {{BS5|||eBHF|WASSER|||[[豊岡新駅]](仮称)|2026年度-}} {{BS5|||BHF|WASSER||6.4|[[群馬八幡駅]]}} {{BS5||WASSER+l|hKRZWae|WASSERr|||下碓氷川Br|[[碓氷川]]}} {{BS5||WASSER|BHF|||10.6|[[安中駅]]}} {{BS5||WASSER|BHF|||17.6|[[磯部駅 (群馬県)|磯部駅]]}} {{BS5||WASSER|BHF|||22.7|[[松井田駅]]|(2) 1962-}} {{BS5||WASSERl|hKRZWae|WASSERq|WASSER+r||上碓氷川Br|碓氷川}} {{BS5||exKBHFaq|eABZg+r||WASSER|24.2|''松井田駅''|(1) -1962}} {{BS5|||BHF||WASSER|23.9|[[西松井田駅]]}} {{BS5|||eABZgl|exENDEeq|WASSER}} {{BS5|||xSPLa||WASSER}} {{BS5|ELCe|HUBaq|exvSTR|O3=vKBHFe-exSTR|P3=HUBq|uexKBHFa|O4=HUBeq|LWASSER|29.7|[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]|↑直流1500V}} {{BS-colspan}} ----- *T=トンネル *Br=橋梁 |} |} {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線(横川駅 - 軽井沢駅)|#80c241}} {{BS-table}} {{BS5|ELCe|HUBaq|exvSTR|O3=vKBHFe-exSTR|P3=HUBq|uexKBHFa|O4=HUBeq||29.7|[[横川駅 (群馬県)|横川駅]]|↑直流1500V}} {{BS5|ELCa|fENDEa|exvSTR|O3=lvENDE-|uexLSTR|O4=POINTERg@fq||||''[[碓氷馬車鉄道]]'' -1893''}} {{BS5|BL|fSTR|exvSTR|O3=lv-BHF|lDAMPF||||[[碓氷峠鉄道文化むら|ぶんかむら駅]] 2005-}} {{BS5|BL|O1=POINTERg@fq|fSTR|exSPLe|||||直流750V}} {{BS5|BL|fSTR2|exSHI1l|O3=fSTRc3}} {{BS5|ELCe|fSTRc1|O2=POINTERf@rfq|exv-STR|O3=fdSTR+4|||||[[アプトの道]]}} {{BS5||hRAaq|O2=RAq|exv-STR|O3=fdSTR|P3=hRAq||O4=hRAq|hRAeq|O5=RAq|||[[上信越自動車道]]:[[碓氷橋]]}}<!--hRAqがなぜか太いのでhRAaq+RAqとhRAeq+RAqにしています--> {{BS5||BUILDING|exv-STR|O3=fdSTR|P3=exlvDST|||31.5|''[[丸山信号場]]''|-1966 / まるやま駅 2005-}} {{BS5||fSTR+l|exv-STRl|O3=exSHI1+l|P3=fdSTRr|exSTR+r|LWASSER}} {{BS5||fhKRZWae|exhKRZWae|exhKRZWae|WASSERr||''霧積川Br''|[[霧積川]]}} {{BS5||fSTR|exSTR2|exSTR3}} {{BS5||fSTR|exSTR+1|exv-STR+4}} {{BS5||exSTR|O2=fSTRl|fSTRq|O3=lhMSTRae|P3=exSTR|exv-STR|O4=fv-STR+r|POINTERg@gq||''旧線''|-1963}} {{BS5||exSTR|exABZgl|lvBHF-|O4=fv-STR||||[[碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」#シェルパくんとうげのゆ駅|とうげのゆ駅]] 2005-}} {{BS5||exSTR|exTUNNEL1|O3=POINTERg@fq|fSHI1+l|||''碓氷第1号T''|{{BSsplit|''(2)75.0 m''|以下トンネル名の「碓氷」を省略}}}} {{BS5||exSTR|O2=POINTERg@fq|exSTR|O3=POINTERg@fq|fSTR|||''新線''|1963-1997}} {{BS5||extSTRa@g|extSTRa@g|fTUNNEL1|O4=POINTERg@fq|||''第1号T''|''(1)187.1m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|fTUNNEL1|||''第2号T''|''(1)112.8 m''}} {{BS5||extSTRg|extSTRf|fTUNNEL1|||''第3号T''|''(1)74.8 m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|fTUNNEL1|||''第4号T''|''(1)100.3 m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|ftSTRa|O4=POINTERg@rfq|||''第5号T''|''(1)243.6 m''}} {{BS5||extSTRe@f|O2=POINTERg@fq|extSTRe@f|O3=POINTERg@fq|ftSTRe@f|LWASSER||''新第1号T{{small2|1218.0m}}/第2号T''{{small2|(2)1215.0m}}}} {{BS5||exhKRZWae|exhKRZWae|fhKRZWae|WASSERr||''新碓氷川Br/[[碓氷第三橋梁|碓氷第3Br]]''|碓氷川}} {{BS5||extSTRa@g|O2=POINTERg@fq|extSTRa@g|O3=POINTERg@fq|ftSTRa@g|||''新第2号T{{small2|896.0m}}/第3号T''{{small2|(2)948.5m}}}} {{BS5||extSTR|extSTR|ftSTRe|O4=POINTERg@lfq|||''第6号T''|''(1)550.8 m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|fTUNNEL1|||''第7号T''|''(1)75.4 m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|fTUNNEL1|||''第8号T''|''(1)91.5 m''}} {{BS5||extSTR|extSTR|fTUNNEL1|||''第9号T''|''(1)120.3 m''}} {{BS5||extSTRe@f|extSTRe@f|fTUNNEL1|O4=POINTERg@fq|extENDEa||''第10号T''|''(1)102.7 m''}} {{BS5||exSTRl|fSTR+l|O3=exABZg+r|exSTRq|O4=fSTRr|extSTRre}} {{BS5|||exDST|||35.8|''[[熊ノ平駅|熊ノ平信号場]]''|-1997}} {{BS5||exSTR+l|exABZglr|extSTR+ra||||{{BSsplit|上り線:1963- 単線で共用|下り線:1966- 旧線(-1963)を改築}}}} {{BS5||exTUNNEL1|O2=POINTERg@fq|exTUNNEL1|O3=POINTERg@fq|extENDEe|||''新第3号T{{small2|113.0 m}}/第4号T''|{{BSsplit|(2)117.9m|←第11号T(1)}}}} {{BS5||exTUNNEL1|exTUNNEL1||||''新第4号T{{small2|137.5 m}}/第5号T''|{{BSsplit|(2)112.6m|←第12号T(1)}}}} {{BS5||exTUNNEL1|exTUNNEL1||||''新第5号T{{small2|257.5 m}}/第6号T''|{{BSsplit|(2)235.3m|←第13号T(1)}}}} {{BS5||exTUNNEL1|exTUNNEL1||||''新第6号T{{small2|248.0 m}}/第7号T''|{{BSsplit|(2)242.5m|←第14号T(1)}}}} {{BS5||exTUNNEL1|exTUNNEL1||||''新第7号T{{small2|242.5 m}}/第8号T''|{{BSsplit|(2)173.2m|←第15号T(1)}}}} {{BS5||extSTRa|extSTRa||||''新第8号T{{small2|579.0 m}}/第9号T''|''(2)568.0 m''}} {{BS5||extSTR|extABZgl|extSTR+r|O4=POINTERg@rfq|||''第16号T''|''(1)265.4 m''{{BSsplit|1966年に|第9号T(2)に改築}}}} {{BS5||extSTR|extSTRe@f|extSTRea}} {{BS5||extSTRe|exABZg+l|extSTRre|O4=POINTERg@lfq|||''第17号T''|''(1)175.0 m'' -1963}} {{BS5||extSTRa|exTUNNEL1|O3=POINTERg@fq||||''第10号T''|''(2)71.4 m←第18号T(1)''}} {{BS5||extSTR|O2=POINTERg@rfq|extSTRa||||''新第9号T''|''1332.0 m''}} {{BS5||extSTRg|extSTRf}} {{BS5||extSTR|extSTRe||||''第11号T''|''(2)291.1 m←第19号T''}} {{BS5||extSTR|exTUNNEL1||||''第12号T''|''(2)183.5 m←第20号T''}} {{BS5||extSTR|exTUNNEL1||||''第13号T''|''(2)293.5 m←第21号T''}} {{BS5||extSTR|exTUNNEL1||||''第14号T''|''(2)59.7 m←第22号T''}} {{BS5||extSTRe|exTUNNEL1||||''第15号T''|''(2)91.0 m←第23号T''}} {{BS5||exTUNNEL1|exTUNNEL1||||''新第10号T{{small2|115.0 m}}/第16号T''|{{BSsplit|(2)105.0 m|←第24号T}}}} {{BS5||extSTRa|exTUNNEL1||||''第17号T''|''(2)31.5 m←第25号T''}} {{BS5||extSTR|O2=POINTERg@rfq|extSTRa|O3=POINTERg@rfq||||''新第11号T{{small2|439.0 m}}/第18号T''{{BSsplit|(2)405.1 m|←第26号T}}}} {{BS5||extSTR+GRZq|extSTR+GRZq|lGIP|||[[碓氷峠]]|↑[[群馬県]]/[[長野県]]↓}} {{BS5|tSTRq|extSTRe@f|O2=tSTRq|extSTRe@f|O3=tSTRq|tSTR+re}} {{BS5||exSTRl|exABZg+r|STR}} {{BS5|||exDST|STR|uexLSTR|40.1|''[[矢ヶ崎信号場]]''|-1966}} {{BS5|exSTRq|O1=POINTERf@g|exKBHFeq|O2=HUBaq|KBHFxa|O3=HUBq|BHF|O4=HUBq|uexKBHFe|O5=HUBeq|40.9|[[軽井沢駅]]|''[[草軽電気鉄道]][[新軽井沢駅]] 1915-1960''}} {{BS3||STR|STR|||[[北陸新幹線]]}} {{BS3||STR||||[[しなの鉄道]]:[[しなの鉄道線]]}} {{BS-colspan}} ----- *T=トンネル *Br=橋梁 *ぶんかむら - とうげのゆ間で[[碓氷峠鉄道文化むら#トロッコ列車・シェルパくん|シェルパくん]]運行中(園内遊具扱い) |} |} [[首都圏 (日本)|首都圏]]と[[長野県]]の信越本線沿線各市町を結ぶ都市間輸送は既に北陸新幹線の開業および信越本線の分断によりその役割を終えており、[[高崎駅]] - [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]間は[[臨時列車]]を除けば各駅に停車する[[普通列車]]のみの運行で、ほぼ群馬県内のローカル輸送に徹した形となっている。なお、この区間は群馬県内で完結しているが新幹線開業後も一貫して「信越線」と案内されている。全区間で毎時1 - 2本程度の普通列車が運転されており、全ての列車が高崎駅と横川駅を[[始発]]・[[終着駅]]とする。この区間のラインカラーは黄緑色になっている。[[ワンマン運転]]は行っていない。列車によっては[[ジェイアールバス関東]]の[[碓氷線]]に接続している。軽井沢でしなの鉄道線の列車と接続する場合もある。 {{Main2|横川駅 - 軽井沢駅間については「[[#廃止区間の現状|廃止区間の現状]]」の節を}} ==== 臨時列車 ==== {{Main|SLぐんま よこかわ}} 高崎駅 - 横川駅間では、[[蒸気機関車]](SL)牽引による臨時[[快速列車]]「'''SLぐんま よこかわ'''」が、土休日を中心に設定される。横川駅には[[転車台]]がないため、往復のうちどちらかは[[電気機関車]](EL)牽引による「'''ELぐんま よこかわ'''」か[[ディーゼル機関車]](DL)牽引による「'''DLぐんま よこかわ'''」となる。 ==== 貨物輸送 ==== {{Main|安中貨物}} 高崎駅 - 安中駅間には、[[福島臨海鉄道]][[小名浜駅]]との間での鉱石輸送用の[[高速貨物列車]](通称「安中貨物」)が1日1往復運行されている<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2015|title=|journal=貨物時刻表 平成27年3月ダイヤ改正|issue=|pages=135-136|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 {{-}} === 篠ノ井駅 - 長野駅間 === {{See also|篠ノ井線#運行形態|しなの鉄道線#運行形態|しなの鉄道北しなの線#運行形態}} {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線(篠ノ井駅 - 長野駅)|#00B3E6}} {{BS-table}} {{BS5|||STR|||||[[しなの鉄道]]:[[しなの鉄道線]]|}} {{BS5||STR|O2=POINTERg@fq|STR+GRZq|||||[[北陸新幹線]]|}} {{BS5||STR|ABZg+l|STRq||||[[篠ノ井線]]|}} {{BS5||STR|BHF|||0.0|[[篠ノ井駅]]||}} {{BS5||STR|BHF|||2.1|[[今井駅]]||}} {{BS5||STR|BHF|||4.3|[[川中島駅]]||}} {{BS5||STR|eBST|||5.9|''犀川仮信号場''|-1923|}} {{BS5||hKRZWae|hKRZWae||||犀川Br|[[犀川 (長野県)|犀川]]|}} {{BS5||STR|BHF|||6.4|[[安茂里駅]]||}} {{BS5||STR|STR|exKHSTaq|exSTRq|||''南長野駅 [[善光寺白馬電鉄]]''|}} {{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF+GRZq|O3=HUBq|tKBHFa|O4=HUBeq||9.3|[[長野駅]]||}} {{BS5||STR|STR|tSTRl||||[[長野電鉄]]:[[長野電鉄長野線|長野線]]|}} {{BS5|||STR|||||しなの鉄道:[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]|}} {{BS-colspan}} ----- * T=トンネル * Br=橋梁 |} |} この区間は北陸新幹線開業以降も引き続きJR東日本が運営している。しかし、篠ノ井駅 - 長野駅間で完結する列車は下りが平日朝に1本、上りが日中に1本あるのみで、その他は全てが[[篠ノ井線]]または[[しなの鉄道]][[しなの鉄道線]]・[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]との直通列車であり、実質的に篠ノ井線の一部のようになっている。 優等列車として、[[名古屋駅]]からの[[特別急行列車|特急]]「[[しなの (列車)|しなの]]」が走っている。 普通・快速列車は基本的には長野市周辺の輸送を担っているが、しなの鉄道線直通列車は朝夕を中心に[[軽井沢駅]]発着の列車もある。篠ノ井線直通列車は日中は[[松本駅]]発着の列車が多いが、朝夕は[[飯田線]]・[[中央本線]]直通の長距離列車が多く、最遠で飯田線には[[飯田駅]]発着、中央本線には[[高尾駅 (東京都)|高尾駅]](下りのみ、上りは[[大月駅]]まで)発着で運行され、特急と同じく[[山梨県]]・[[長野県]]内の主要都市間輸送を担っている面もある。 ==== 貨物輸送 ==== 篠ノ井駅 - 長野駅間には、[[コンテナ車]]による北しなの線[[北長野駅]]への高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。それぞれ、[[首都圏 (日本)|首都圏]]発着、[[中京圏]]発着となっており、前者は[[隅田川駅]]発着、後者は[[名古屋貨物ターミナル駅]]発・[[稲沢駅]]着である<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2015|title=|journal=貨物時刻表 平成27年3月ダイヤ改正|issue=|pages=118|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 {{-}} === 直江津駅 - 新潟駅間 === {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線(直江津駅 - 新潟駅)|#00B3E6}} {{BS-table}} {{BS5|||STR|||||[[えちごトキめき鉄道|トキてつ]]:[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]|}} {{BS5||exSTRc2|eABZg3||||||}} {{BS5||exSTR+1|exSTRc4|O3=ABZg+l|STRq||||トキてつ:[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]]|}} {{BS5||exSTR|BHF+GRZq|||0.0|[[直江津駅]]|(2) 1899-|}} {{BS5||exKBHFe|STR|||0.2|''直江津駅''|(1) -1899|}} {{BS5|||eABZgl|exKDSTeq||1.4|''直江津港駅''|-1959|}} {{BS5||WASSERq|hKRZWae|WASSERq|||荒川Br|[[関川 (信越)|関川]]|}} {{BS5|||eBHF|||0.8|''[[春日新田駅]]''|-1906|}} {{BS5||exKBHFa|BHF|||2.7|[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]||}} {{BS5||exSTRr|STR|||||''[[頸城鉄道線]]''|}} {{BS5|||BHF|||7.1|[[犀潟駅]]||}} {{BS5|||ABZgr|||||[[北越急行]]:[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]|}} {{BS5|||BHF|||9.4|[[土底浜駅]]||}} {{BS5|||BHF|||11.2|[[潟町駅]]||}} {{BS5|||BHF|||14.0|[[上下浜駅]]||}} {{BS5|||BHF|||17.6|[[柿崎駅]]||}} {{BS5|||eDST|||21.2|''竹鼻信号場''|-1973|}} {{BS5|||BHF|||23.5|[[米山駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1966<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||tSTRa|exTUNNEL1|||''米山第1号T''|193.1 m|}} {{BS5|||tSTRe|O3=POINTERg@fq|exSTR|||第1米山T|1263.0 m|}} {{BS5|||tSTRa|O3=POINTERg@fq|exSTR|||第2米山T|1397.0 m|}} {{BS5|||tSTR|exTUNNEL2|||''米山第2号T''|79.3 m|}} {{BS5|||tSTR|exTUNNEL1|||''米山第3号T''|442.2 m|}} {{BS5|||tSTR|exTUNNEL1|||''米山第4号T''|264.3 m|}} {{BS5|||tSTRe|exTUNNEL1|||''米山第5号T''|142.0 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||BHF|||27.4|[[笠島駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1967<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||tSTRa|exTUNNEL1|||''米山第6号T''|142.0 m|}} {{BS5|||tSTRe|O3=POINTERg@fq|exSTR|||第1笠島T|382.0 m|}} {{BS5|||TUNNEL1|O3=POINTERg@fq|exSTR|||第2笠島T|232.5 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||KRWgl|KRW+r|||||}} {{BS5|||TUNNEL1|TUNNEL1|||第3笠島T|{{BSsplit|上り375.3 m|下り347.4 m ←''米山第7号T''}}|}} {{BS5|||KRWg+l|KRWr|||||}} {{BS5|||BHF|||29.6|[[青海川駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1969<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||tSTRa|O3=POINTERg@fq|exSTR|||青海川T|610.0 m|}} {{BS5|||tSTRe|exTUNNEL1|||''米山第8号T''|430.5 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||||}} {{BS5|||TUNNEL1|O3=POINTERg@fq|exSTR|||鯨波T|140.0 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||BHF|||32.6|[[鯨波駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1969<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||TUNNEL1|O3=POINTERg@fq|exSTR|||大久保T|180.0 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||BHF|||36.3|[[柏崎駅]]||}} {{BS5|||ABZgl|STRq|v-STR+r|||[[越後線]]|}} {{BS5|||BHF||v-LSTR|39.3|[[茨目駅]]||}} {{BS5|||BHF|||42.2|[[安田駅 (新潟県)|安田駅]]||}} {{BS5|||BHF|||44.8|[[北条駅]]||}} {{BS5|||BHF|||48.1|[[越後広田駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1969<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||TUNNEL1|exTUNNEL2|||鼻田T|{{BSsplit|新線:330.0 m|''旧線:86.55 m''}}|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||||}} {{BS5|||BHF|||50.8|[[長鳥駅]]||}} {{BS5||exSTR+l|eABZgr||||||}} {{BS5||exTUNNEL2|O2=POINTERg@fq|tSTRa||||''塚山第1号T''|156.5 m|}} {{BS5||extSTRa|tSTR|O3=POINTERg@fq||||塚山T|1766.4m}} {{BS5||extSTRe|O2=POINTERg@fq|tSTRe||||''塚山第2号T''|1155.7 m|}} {{BS5||exSTRl|eABZg+r||||||}} {{BS5|||eDST|||53.9|''西塚山信号場''|-1967|}} {{BS5|||eHST|||54.4|''西渋海川駅''|1900|}} {{BS5|||hKRZWae||||渋海川Br|[[渋海川]]|}} {{BS5|||eHST|||55.3|''東渋海川駅''|1900|}} {{BS5|||BHF|||55.8|[[塚山駅]]||}} {{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|||''旧線''| -1969<ref name="13_0_255" />|}} {{BS5|||TUNNEL1|O3=POINTERg@fq|exTUNNEL2|O4=POINTER+2|||東山T|166 m|}} {{BS5|||eKRWg+l|exKRWr|||''塚山第3号T''|62.1 m|}} {{BS5|||BHF|||60.5|[[越後岩塚駅]]||}} {{BS5|||eABZg+l|exABZq+l||||''[[越後交通]]:[[越後交通長岡線|長岡線]]''|}} {{BS5|exABZq+r|exKBHFeq|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|exKBHFe|O4=HUBeq||63.3|[[来迎寺駅]]||}} {{BS5|exSTRl|O1=POINTERf@lgq|exSTRq|O2=POINTERg@g|eABZgr|||||''[[魚沼線]]''|}} {{BS5|||hKRZWae||||[[信濃川橋梁 (信越本線)|信濃川Br]]|[[信濃川]]|}} {{BS5|||BHF|||67.4|[[前川駅 (新潟県)|前川駅]]||}} {{BS5||STRq|ABZg+r|||||[[上越線]]|}} {{BS5|||BHF|||70.0|[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]||}} {{BS5|||DST|||71.4|[[南長岡駅]]||}} {{BS5||STRq|KRZu|STR+r||||[[上越新幹線]]|}} {{BS5||exSTR+r|STR|STR||||''越後交通:[[越後交通栃尾線|栃尾線]]''|}} {{BS5||exBHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|BHF|O4=HUBeq||73.0|[[長岡駅]]||}} {{BS5||exSTRr|BHF|STR||75.5|[[北長岡駅]]||}} {{BS5|||BHF|LSTR||79.9|[[押切駅]]||}} {{BS5|||eBST|||82.0|''[[刈谷田仮信号場]]''|-1945|}} {{BS5|||BHF|||84.4|[[見附駅]]||}} {{BS5|||BHF|||88.5|[[帯織駅]]||}} {{BS5|||BHF|||91.1|[[東光寺駅]]||}} {{BS5|||BHF|||94.6|[[三条駅 (新潟県)|三条駅]]||}} {{BS5|||ABZg+l|||||[[弥彦線]]|}} {{BS5|||BHF|||96.2|[[東三条駅]]||}} {{BS5|||eABZgr|||||''弥彦線''|}} {{BS5|||BHF|||100.0|[[保内駅]]||}} {{BS5||exKBHFa|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|||103.8|[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]]||}} {{BS5||exSTRr|STR|||||''[[蒲原鉄道]]''|}} {{BS5|||BHF|||107.9|[[羽生田駅]]||}} {{BS5|||BHF|||111.1|[[田上駅]]||}} {{BS5|||BHF|||114.8|[[矢代田駅]]||}} {{BS5|||BHF|||117.9|[[古津駅]]||}} {{BS5|||ABZg+r|||||[[磐越西線]]|}} {{BS5|||BHF|||121.1|[[新津駅]]||}} {{BS5|||ABZgr|||||[[羽越本線]]|}} {{BS5|||BHF|||122.6|[[さつき野駅]]||}} {{BS5|||BHF|||124.9|[[荻川駅]]||}} {{BS5|||BHF|||129.8|[[亀田駅]]||}} {{BS5|||BHF|||{{BSkm|132.2|0.0##}}|[[越後石山駅]]||}} {{BS5|||STR|||||[[白新線]]|}} {{BS5|HSTq|STR+r|STR|||||[[東新潟駅]]|}} {{BS5|DSTq|KRZo|ABZgr|||2.4##|[[新潟貨物ターミナル駅]]||}} {{BS5|KBSTaq|STRl+r|ABZg+r|||||[[新潟新幹線車両センター]]|}} {{BS5||STR|DST|||{{BSkm|134.4|0.0#}}|[[上沼垂信号場]]||}} {{BS5||STRl|KRZu|STR+r|||||}} {{BS5|STR+l|exSTRc2|O2=DSTq|exSTR3|O3=ABZgr|STR||2.1#|[[焼島駅]]||}} {{BS5|KDSTxe|exSTR+1|eSTR+c4|STR||3.8#|[[東新潟港駅]]|2002休|}} {{BS5|exSTRc2|O1=exKDSTe|exSTR3|STR|STR||5.5#|''大形駅''|-1941|}} {{BS5|exSTR+1|exSTRc4|STR|STR|||||}} {{BS5|exDST||STR|STR||{{BSkm|136.2|0.0**}}|''[[沼垂駅]]''|-2010|}} {{BS5|exABZgl|exSTR+r|STR|STR|||||}} {{BS5|exDST|exSTR|STR|STR||1.4**|''新潟港駅''|-1986|}} {{BS5||exSTR|BHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq||{{BSkm|136.3|1.9#}}|[[新潟駅]]|(2) 1958-|}} {{BS5||exBHF|STR|STR||138.1|''新潟駅''|(1) -1958|}} {{BS5|exKDSTaq|exSTRq|O2=exSTR2|exSTRc3|O3=eABZgr|STR|vLSTR-|4.3#|''万代駅''|-1965|}} {{BS5||exSTRc1|eABZg+4|STR|vSTR-|O5=POINTERg@fq|||上越新幹線|}} {{BS5|||STR|STRl|vSTRr-|O5=v-LSTR||||}} {{BS5|||STRl|STRq|v-STRr|O5=POINTERg@f|||越後線|}} {{BS-colspan}} ----- * T=トンネル * Br=橋梁 |} |} この区間は[[日本海縦貫線]]の一部として、かつては長距離運行する優等列車が多数設定されていたが、列車の[[運転系統]]分割や再編、廃止などによって徐々に縮小された([[#過去の運行形態]]を参照)。2015年3月の北陸新幹線金沢延伸以降の信越本線の役割は特急「しらゆき」及び[[快速列車]]による県内都市間輸送と、[[普通列車]]によるローカル輸送が主になった。 新潟市と県内各都市を結ぶ高速バス「[[ときライナー]]」との競合があり、新潟駅 - 長岡駅間の格安回数券・フリーきっぷ(えちごワンデーパス等)の発売や快速の運転、などでサービスアップが図られている。長岡駅 - 新潟駅間の信越本線は[[信濃川]]東岸を走り、[[羽越本線]]・[[磐越西線]]も乗り入れる[[新津駅]](新潟市[[秋葉区]])などの各駅が[[新潟都市圏]]南東部の[[公共交通]]を支えている<ref>新潟市秋葉区『[https://www.city.niigata.lg.jp/akiha/torikumi/kotsu/akihakukaizennplan.files/akihaku-kaizenpuran.pdf 秋葉区生活交通改善プラン]』(2020年3月)2022年10月9日閲覧</ref>のに対して、長距離輸送を担う上越新幹線は長岡駅 - 新潟駅間には[[燕三条駅]]以外に駅がなく<ref>[https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?rosen=74%3D1%3D%8F%E3%89z%90V%8A%B2%90%FC%281%29&token=&city=&mode=1&submit.x=46&submit.y=10 上越新幹線(1)の駅] JR東日本(2022年10月9日閲覧)</ref>、相互に補完し合う関係となっている。 ==== 特急・快速列車 ==== {{Main2|現在運転の特急列車|しらゆき (列車)|かつて運転されていた快速「信越」|信越 (列車)}} 特急列車は[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]から直通する「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」が[[新井駅 (新潟県)|新井駅]]・[[上越妙高駅]] - 新潟駅間で4往復運転されている。「しらゆき」は上越妙高駅で[[北陸新幹線]]に、長岡駅で上越新幹線にそれぞれ接続して[[乗り継ぎ料金制度]]が適用され、新潟・長岡地区と[[糸魚川駅|糸魚川]]・[[富山駅|富山]]・金沢方面および首都圏と[[柏崎刈羽地域|柏崎地域]]との間を連絡する役割も担っている。 快速列車は朝夕を中心に直江津駅 - 新潟駅間で1往復、直江津駅 - 長岡駅間で上り2本・下り3本、長岡駅 - 新潟駅間で1往復運転される。これらは2012年3月改正で廃止された急行「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」、2015年3月改正で廃止された特急「[[北越 (列車)|北越]]」、快速「[[くびき野 (列車)|くびき野]]」の代替、特急「しらゆき」の補完という性格もあり、通過駅が多い。このためいずれの列車も普通列車と比べて20分 - 1時間程度の高い速達効果を有している。2022年3月のダイヤ改正より、代走を除き全て[[JR東日本E129系電車|E129系]]が充当されている。 なお、2015年3月改正から2017年3月改正まではえちごトキめき鉄道[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]][[糸魚川駅]]を発着とする列車が1往復設定され、[[国鉄485系電車|485系3000番台]]が用いられた<ref group="注釈">日本海ひすいライン糸魚川駅 - [[梶屋敷駅]]間に[[デッドセクション]]があり、[[交直流電車]]での運転が必要となるため。また、この列車のみグリーン車自由席が連結された。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20161216daiyakaisei-1.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正について|accessdate=2016-12-18|date=2016-12-16|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220173208/http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20161216daiyakaisei-1.pdf|archivedate=2016年12月20日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.echigo-tokimeki.co.jp/userfiles/elfinder/information/161216_daiyakaisei.pdf|title=2017年3月ダイヤ改正について|accessdate=2016-12-18|date=2016-12-16|format=PDF|publisher=えちごトキめき鉄道}}</ref>。また、2022年3月改正までは新潟駅発新井駅行きの快速もあり、115系の運用もあった。また、快速「信越」の運転もあり、こちらはE653系が充当されていた。 特急・快速列車の停車駅の比較は以下の通りである(2022年3月12日改正時点)。 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:small;" !種別・列車名 ! style="width:5.1em;" |始発・<br />終着駅 | style="width:1em;" |'''[[直江津駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[犀潟駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[柿崎駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[柏崎駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[来迎寺駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[長岡駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[見附駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[三条駅 (新潟県)|三条駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[東三条駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[矢代田駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[新津駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[亀田駅]]''' | style="width:1em;" |'''[[新潟駅]]''' !備考 |- style="background:#fcc;" | style="text-align:center;" |特急しらゆき |[[上越妙高駅]]・<br />[[新井駅 (新潟県)|新井駅]] |●||―||●||●||―||―||●||●||―||●||●||―||●||―||● |上越妙高駅 - 新潟駅間2往復設定<br />新井駅 - 新潟駅間2往復設定 |- style="background:#fd8;" | rowspan="3" style="text-align:center;" |快速 | rowspan="2"|直江津駅 |●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||●||● |1往復設定<ref group="*" name="naoetsurapid">下りは直江津駅 - 柿崎駅間各駅に停車</ref> |- style="background:#fd8;" |●||●||●||●||●||●||●|| colspan="8" | |上り2本、下り3本設定 |- style="background:#fd8;" |長岡駅 | colspan="6"| ||●||●||●||●||●||●||●||●||● |1往復設定 |} {{Reflist|group="*"}} また、新津駅 - 新潟駅間では[[磐越西線]]から直通する快速列車が運行されているほか、2023年3月18日ダイヤ改正まで直江津駅 - [[犀潟駅]]間でほくほく線直通の快速列車や超快速列車「[[北越急行ほくほく線#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]]」が運転されていた。 ==== 普通列車 ==== 普通列車は長岡駅でほぼ運転系統が分断されている。 直江津駅 - 柏崎駅 - 長岡駅間はおおむね1 - 2時間に1本程度の運行である。長岡駅の南隣の宮内駅を終点とする[[上越線]]は全列車が長岡駅まで運転されるほか、朝の[[石打駅]]発の1本は新潟駅まで直通する。信越本線で長岡駅を越えて新潟方面に直通する普通列車はこの列車と朝の柏崎駅発新潟駅行き、夜の直江津駅発新潟駅行きの下り3本のみである。また、長岡駅発着で上越線を経由して[[飯山線]]へ直通する列車が2往復設定されている。直江津駅 - 犀潟駅間には[[北越急行ほくほく線]]に直通する列車もあり、一部列車は[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]に停車する。また、朝には柏崎駅・柿崎駅から[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]]への直通列車がえちごトキめき鉄道車両で運転されており、[[間合い運用]]として夜間に直江津駅 - 長岡駅間で信越線内のみの運用も行われている。 長岡駅 - 新津駅間は日中1時間に1本程度であるが、朝夕は本数が多く設定されている。新津駅 - 新潟駅間は区間列車も多数運行されており、日中は1時間に3本(約20分間隔)、平日朝ピーク時には磐越西線からの直通列車も含めて1時間に9本程度(約5 - 8分間隔)が運行されている。新潟駅から[[白新線]]・[[越後線]]と[[直通運転]]する列車も存在する<ref name="JRniigata-timetable">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/niigata/timetable2021/|title=JR東日本新潟支社時刻表 2021年3月13日ダイヤ改正|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|accessdate=2021-07-11}}</ref>。新津駅 - 新潟駅間はピーク時の輸送人員が年々増加している区間であり、混雑率は2011年度には96%であった<ref>{{WAP|pid=8406656|url=www.mlit.go.jp/common/000226765.pdf|title=最混雑区間における混雑率(2011) - 国土交通省|date=}}</ref>ものが2013年度には111%<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mlit.go.jp/common/001025446.pdf|format=PDF|title=最混雑区間における混雑率(2013)|accessdate=2020-01-27|publisher=国土交通省|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150106180611/http://www.mlit.go.jp/common/001025446.pdf|archivedate=2015-01-06}}</ref>、2018年度には143%に<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001382429.pdf|format=PDF|title=最混雑区間における混雑率(2018)|access-date=2022-10-09|publisher=国土交通省}}</ref>、2020年度は[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)流行]]の影響で[[三大都市圏]]の輸送量が減少したこともあって、全国のJR線の中で最も高い135%の数値となった<ref>[https://www.mlit.go.jp/report/press/tetsudo01_hh_000163.html 報道発表資料:三大都市圏の平均混雑率は大幅に低下 ~都市鉄道の混雑率調査結果を公表(令和2年実績)]、[https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf 資料3:最混雑区間における混雑率(2020)] - 国土交通省</ref>。 直江津駅 - 長岡駅間・新津駅 - 新潟駅間のE129系を使用する2両[[編成 (鉄道)|編成]]の列車では一部を除き[[ワンマン運転]]が実施されている。[[無人駅]]([[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]、[[土底浜駅]]、[[潟町駅]]、[[上下浜駅]]、[[米山駅]]、[[笠島駅]]、[[青海川駅]]、[[鯨波駅]]、[[茨目駅]]、[[北条駅]]、[[越後広田駅]]、[[長鳥駅]]、[[塚山駅]]、[[越後岩塚駅]]、[[前川駅 (新潟県)|前川駅]])では先頭車両の最も前側のドアのみが出口で、運賃は車内精算となる。新津駅 - 新潟駅間は全駅が[[有人駅]]のため駅で運賃収受を行う都市型ワンマン運転で、全てのドアより乗降できるが、営業時間外の乗降・精算は無人駅に準じる。 ==== 貨物輸送 ==== 直江津駅 - 越後石山駅 - 新潟貨物ターミナル駅間は、前述のように[[日本海縦貫線]]の一部を成しており、貨物輸送が盛んである。当該区間の大半の[[貨物列車]]は、[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]電気機関車が牽引するコンテナ車で編成された[[高速貨物列車]]である。当該区間のコンテナ取り扱い駅は、[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]、[[柏崎駅#柏崎オフレールステーション|柏崎オフレールステーション]](ORS)、[[南長岡駅]]、新潟貨物ターミナル駅である<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2015|title=|journal=貨物時刻表 平成27年3月ダイヤ改正|issue=|pages=58-59|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。 上沼垂信号場 - 焼島駅間は、コンテナ車による高速貨物列車が、平日に1日2往復運行されている。どちらも上沼垂信号場から白新線経由で新潟貨物ターミナル駅に乗り入れ、うち上り1本は首都圏の[[隅田川駅]]まで運行される<ref>{{Cite_journal|和書|author=|year=2015|title=|journal=貨物時刻表 平成27年3月ダイヤ改正|issue=|pages=119|publisher=鉄道貨物協会}}</ref>。詳細は「[[焼島駅]]」の項も参照。 ==== 過去の運行形態 ==== 特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」や、[[寝台列車|寝台特急]]「[[日本海 (列車)|日本海]]」、[[急行列車|急行]]「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」など、かつては日本海縦貫線を長距離運行する列車が多数設定されていたが、廃止や列車の系統分割などによって徐々に縮小され、最後まで残存した特急「[[北越 (列車)|北越]]」(金沢駅 - 新潟駅間)、寝台特急「[[トワイライトエクスプレス]]」([[大阪駅]] - [[札幌駅]]間)についても、[[2015年]](平成27年)3月13日に運行を終了した。 また、同区間では特急「[[とき (列車)#首都圏対新潟県優等列車沿革|とき]]」をはじめとする首都圏から[[上越線]]経由で信越本線に入り、下越から[[山形県]][[庄内地方]]など[[東北地方|東北]]日本海側各県へ、上越から富山以西の北陸三県へ直通する列車も設定されていたが、上越新幹線開業後は対首都圏間の輸送のメインを新幹線に譲っており、首都圏対北陸地方間についてはさらに北陸新幹線へ遷移した。 夜行列車についても[[2010年]](平成22年)[[3月12日]]の始発駅発車分をもって寝台特急「[[北陸 (列車)|北陸]]」が廃止、急行「[[能登 (列車)|能登]]」が定期運行を終了、[[2014年]](平成26年)[[3月14日]]の始発駅発車分をもって寝台特急「[[あけぼの (列車)|あけぼの]]」が定期運行を終了している。夜行の快速「[[ムーンライトえちご]]」も 2014年(平成26年)6月以降は列車が設定されていない。 1968年(昭和43年)から2010年(平成22年)までの夏には臨時列車「[[マリンブルーくじらなみ号]]」が上越線経由で[[高崎駅]]方面との間で運転されていた。 {{-}} == 使用車両 == 定期列車について記載。特記なき限りJR東日本(および過去の車両で1987年より前に運用終了したものは[[日本国有鉄道|国鉄]])の車両。 === 現在の使用車両 === ==== 高崎駅 - 横川駅間 ==== * 電車 ** [[国鉄211系電車|211系]]:[[高崎車両センター]]所属 ==== 篠ノ井駅 - 長野駅間 ==== * 電車 **[[JR東日本E353系電車|E353系]]([[特別急行列車|特急]]「信州」):[[松本車両センター]]所属 ** [[JR東日本E127系電車|E127系]]:松本車両センター所属 ** [[国鉄211系電車|211系]]:[[長野総合車両センター]]所属 ** [[JR東海383系電車|383系]](特急「[[しなの (列車)|しなの]]」):[[東海旅客鉄道|JR東海]][[神領車両区]]所属 ** [[国鉄115系電車|115系]]:[[しなの鉄道]]所属 ** [[しなの鉄道SR1系電車|SR1系]]:しなの鉄道所属 ==== 直江津駅 - 新潟駅間 ==== <!--[[File:JRNiigataUsage_Latest.svg|thumb|270px|2020年時点の新潟支社管内等における運行車両(特急型車両を除く)]]--> * 電車 ** [[JR東日本E129系電車|E129系]]:[[新潟車両センター]]所属 ** [[JR東日本E653系電車|E653系]](特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」):新潟車両センター所属 ** [[北越急行HK100形電車|HK100形]]:[[北越急行]]所属(直江津駅 - 犀潟駅間) ** [[JR東日本E127系電車|ET127系]]:[[えちごトキめき鉄道]]所属(直江津駅 - 長岡駅間) * [[気動車]] ** [[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]:長野総合車両センター所属(宮内駅 - 長岡駅間)・新潟車両センター[[新津運輸区|新津派出所]]所属(新津駅 - 新潟駅間) ** [[JR東日本GV-E400系気動車|GV-E400系]]:新潟車両センター新津派出所所属(新津駅 - 新潟駅間) === 過去の使用車両 === [[File:JRNiigataUsage_Latest.svg|thumb|270px|2020年時点の新潟支社管内等における運行車両(特急型車両を除く)]] [[File:JRNiigataUsage_2014.svg|thumb|270px|2014年7月時点の新潟支社管内等における運行車両(特急型車両を除く)]] * 電車 ** [[国鉄40系電車|40系]]:[[新前橋電車区]]所属 ** [[国鉄51系電車|51系]]([[国鉄32系電車|32系]]・40系・[[国鉄42系電車|42系]]からの改造車を含む):[[松本運転所]]・[[長岡車両センター|長岡運転所]]所属 ** [[国鉄70系電車|70系]]:松本運転所・長岡運転所所属 ** [[国鉄80系電車|80系]]:松本運転所・神領電車区・長岡運転所所属 ** [[JR東日本107系電車|107系]]:高崎車両センター所属 ** [[国鉄115系電車|115系]]:高崎車両センター・長野総合車両センター・新潟車両センター所属{{Refnest|group="注釈"|1970年代以降は新潟県内の主力車両で、2015年7月までは犀潟駅 - 宮内駅間の普通列車がすべて115系で運用されていたが、老朽化に伴うE129系への置き換えが進み2022年3月ダイヤ改正で運用終了<ref>{{Cite news|title=JR東115系がラストラン|newspaper=[[新潟日報]]|date=2022-03-11|url=https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/36852|accessdate=2022-03-13|publisher=新潟日報社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/03/12/202000.html |title=新潟車両センターの115系が3374Mでラストラン |accessdate=2022-03-13 |publisher=交友社 |date=2022-03-12 |website=鉄道ファン・railf.jp |work=鉄道ニュース}}</ref>。E129系の導入前までは直江津駅 - 柏崎駅間でS・N編成、柏崎駅 - 新潟駅間ではこれに加えL編成が使用され2-7両編成で運用されていた<ref>『[[鉄道ジャーナル]]』(鉄道ジャーナル社)No.565 pp.60-63</ref>。}} ** [[JR東日本E127系電車|E127系]]:新潟車両センター所属(長岡駅 - 新潟駅間、2015年3月まで) ** [[国鉄153系電車|153系]]:神領電車区所属 ** [[国鉄165系電車|165系]]:新前橋電車区・[[長野総合車両センター|長野運転所]]・[[新潟車両センター|新潟運転所]]・JR東海神領車両区所属 ** [[国鉄169系電車|169系]]:長野運転所・しなの鉄道所属 ** [[国鉄181系電車|181系]]:長野運転所・[[田町車両センター|田町電車区]]・新潟運転所所属 ** [[国鉄183系電車|183系]]:新潟運転所所属 ** [[国鉄189系電車|189系]]:長野運転所所属 ** [[JR東日本E257系電車|E257系]]:松本車両センター所属 ** [[JR東海313系電車|313系]]:JR東海神領車両区所属 ** [[国鉄381系電車|381系]]:JR東海[[神領電車区]]所属 ** [[国鉄485系電車|485系]]:新潟車両センター・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[金沢総合車両所|金沢運転所]]所属 ** [[国鉄485系電車|489系]]:JR西日本金沢運転所所属 ** [[国鉄583系電車|583系]]:JR西日本[[京都総合運転所]]所属 ** [[JR西日本681系電車|681系]]:JR西日本[[金沢総合車両所]]・北越急行所属(直江津駅 - 犀潟駅間) ** [[JR西日本683系電車|683系]]:北越急行所属(直江津駅 - 犀潟駅間) * 気動車 ** [[国鉄キハ40系気動車 (2代)|キハ40・47・48形]]:[[長野総合車両センター|長野総合車両所]]・新津運輸区所属 ** [[国鉄キハ20系気動車|キハ52形]]:長野総合車両所・新津運輸区所属 ** [[国鉄キハ28系気動車|キハ28・58形]]:長野総合車両所・新津運輸区所属 ** [[JR東日本キハE120形気動車|キハE120形]]:新津運輸区所属(新津駅 - 新潟駅間、2020年3月まで) * 電気機関車 ** [[国鉄EF64形電気機関車|EF64形]]:[[長岡車両センター]]所属 ** [[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]:[[青森車両センター]]・JR西日本[[敦賀地域鉄道部]]所属 * ディーゼル機関車 ** [[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]:[[長岡車両センター|長岡運転区]]所属 * 客車 ** [[国鉄14系客車|14系]]:[[尾久車両センター]]所属 ** [[国鉄24系客車|24系]]:青森車両センター・JR西日本[[京都総合運転所|向日町運転所]]・JR西日本[[宮原総合運転所|宮原客車区]]所属 ** [[国鉄50系客車|50系]]:[[新潟車両センター|上沼垂運転区]]所属 <gallery> JR_East_107-100.jpg|107系([[群馬八幡駅]] - 安中駅間) ファイル:JRE Series115-1000 N38.jpg|115系([[長鳥駅]] - [[塚山駅]]間) 189 asama.JPG|189系(横川駅 - 軽井沢駅間) 485系3000番台.jpg|485系(長鳥駅 - 塚山駅間) JRW-Tc489-0-Hakusan.jpg|489系(横川駅 - 軽井沢駅間) </gallery> == 歴史 == 高崎駅 - 直江津駅間は国([[鉄道省#鉄道寮・鉄道局|官設鉄道]])によって開業した区間である。このうち高崎駅 - 軽井沢駅間は東京と大阪とを結ぶ「[[中山道幹線]]」の一部として建設されたものであり、軽井沢駅 - 直江津駅間はその資材運搬のために建設されたものであった。 [[碓氷峠]]を挟む横川駅 - 軽井沢駅間は、難所のため工事が遅れた。この区間が開業する前の5年間は、先行して開業していた[[碓氷馬車鉄道]]という[[馬車鉄道|馬鉄]]でこの区間を連絡していたこともあった。 [[日本海]]沿いの直江津駅 - 新潟駅(旧駅)間は私鉄の'''[[北越鉄道]]'''によって開業した。北越鉄道は1907年(明治40年)に[[鉄道国有法|国有化]]された。 貨物支線の上沼垂信号場 - 東新潟港駅 - 大形駅(廃止)間は'''新潟臨港開発'''(現在の[[リンコーコーポレーション]])によって開業した。新潟臨港開発線は1941年(昭和16年)に国有化された。 === 年表 === {{Main2|碓氷峠区間(横川駅 - 軽井沢駅)の詳細|碓氷峠#鉄道}} ==== 官設鉄道 ==== [[ファイル:JGR-2120SL at Isobe Station.jpg|thumb|260px|[[1901年]]-[[1902年]]頃の[[磯部駅 (群馬県)|磯部駅]]。右端に駅名標が見える。機関車は[[国鉄2100形蒸気機関車#2120形・2400形・2500形 |2120形]]。]] * [[1885年]]([[明治]]18年)[[10月15日]]:高崎駅 - 横川駅間が開業<ref name="sone11-20">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、20頁</ref>。飯塚駅(現在の[[北高崎駅]])、安中駅、磯部駅、松井田駅、横川駅が開業{{R|sone11-20}}。 * [[1886年]](明治19年)[[8月15日]]:直江津駅 - 関山駅間が開業{{R|sone11-20}}。直江津駅、高田駅、新井駅、関山駅が開業{{R|sone11-20}}。 * [[1888年]](明治21年) ** [[5月1日]]:関山駅 - 長野駅間が延伸開業{{R|sone11-20}}。田口駅(現在の妙高高原駅)、柏原駅(現在の黒姫駅)、牟礼駅、豊野駅、長野駅が開業{{R|sone11-20}}。 ** 8月15日:長野駅 - 上田駅間が延伸開業{{R|sone11-20}}。篠ノ井駅、屋代駅、坂城駅、上田駅が開業{{R|sone11-20}}。 ** [[12月1日]]:上田駅 - 軽井沢駅間が延伸開業{{R|sone11-20}}。田中駅、小諸駅、御代田駅、軽井沢駅が開業{{R|sone11-20}}。 * [[1893年]](明治26年)[[4月1日]]:横川駅 - 軽井沢駅間が延伸開業して全通<ref>[https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001732147 「横川軽井沢間鉄道運輸営業ヲ開始ス」『公文類聚・第十七編・明治二十六年・第三十四巻・交通一・運輸』]([[国立公文書館]]デジタルアーカイブで閲覧可)</ref>。熊ノ平給水給炭所が開設。横川駅 - 丸山信号場、矢ヶ崎信号場 - 軽井沢駅間が複線化。 * [[1896年]](明治29年)[[1月20日]]:大屋駅が開業<ref name="sone11-21">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、21頁</ref>。 * [[1898年]](明治31年)[[9月1日]]:吉田駅(現在の北長野駅)が開業。 * [[1901年]](明治34年)7月:丸山・矢ヶ崎の各信号所が開業。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:熊ノ平給水給炭所が駅に変更{{R|sone11-21}}。 ==== 北越鉄道 ==== * [[1897年]](明治30年) ** [[5月13日]]:'''北越鉄道'''が[[春日新田駅]] - 鉢崎駅(現在の米山駅)間を開業{{R|sone11-21}}。春日新田駅(現在の直江津駅 - 黒井駅間)、犀潟駅、潟町駅、柿崎駅、鉢崎駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[8月1日]]:鉢崎駅 - 柏崎間が延伸開業し、柏崎駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[11月20日]]:柏崎駅 - 北条間、沼垂駅 - 一ノ木戸駅(現在の東三条駅)間が開業{{R|sone11-21}}。北条駅、沼垂駅、亀田駅、新津駅、矢代田駅、加茂駅、一ノ木戸駅が開業{{R|sone11-21}}。 *** 開業前の[[11月11日]]に沼垂で爆破事件が発生し、開業予定の[[11月16日]]から4日遅れて開業した{{R|sone11-21}}。 * 1898年(明治31年) ** [[6月16日]]:一ノ木戸駅 - 長岡駅間が延伸開業{{R|sone11-21}}。三条駅、帯織駅、見附駅、長岡駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[12月27日]]:北条駅 - 長岡駅間が延伸開業して全通{{R|sone11-21}}。塚山駅、来迎寺駅、宮内駅が開業{{R|sone11-21}}。 * [[1899年]](明治32年) ** [[9月5日]]:直江津駅 - 春日新田駅間が延伸開業{{R|sone11-21}}。 ** [[7月28日]]:青海川駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[12月10日]]:安田駅が開業{{R|sone11-21}}。 * 1901年(明治34年)[[9月1日]]:押切駅が開業{{R|sone11-21}}。 * [[1902年]](明治35年) ** [[7月1日]]:貨物駅として黒井駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[7月10日]]:鯨波臨時停車場が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[10月1日]]:鯨波臨時停車場が廃止。 * [[1903年]](明治36年) ** [[4月15日]]:鯨波仮停車場が開業。 ** [[4月19日]]:羽生田駅が開業{{R|sone11-21}}。 * [[1904年]](明治37年) ** 4月1日:鯨波仮停車場が駅に変更。 ** [[5月3日]]:沼垂駅 - 新潟駅(初代)間が延伸開業{{R|sone11-21}}。新潟駅(初代)が開業{{R|sone11-21}}。 * 1906年(明治39年) ** [[8月30日]]:春日新田駅が廃止。 ** 9月1日:黒井駅が貨物駅から一般駅に変更。 ==== 北越鉄道国有化後 ==== [[File:Togura Station opening.jpg|thumb|開業当日の[[戸倉駅]](1912年)]] * [[1907年]](明治40年)[[8月1日]]:北越鉄道が国有化{{R|sone11-21}}。 * [[1909年]](明治42年) ** [[6月25日]]:追分仮停車場が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]制定により高崎駅 - 新潟駅間を'''信越線'''と命名{{R|sone11-21}}。 * [[1910年]](明治43年) ** [[7月15日]]:沓掛駅が開業{{R|sone11-21}}。 ** [[10月25日]]:新津駅 - 馬下駅間の支線が開業{{R|sone11-21}}。五泉駅と馬下駅が開業。 * [[1911年]](明治44年) ** [[5月1日]]:二本木駅が開業<ref name="sone11-22">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、22頁</ref>。犀川信号所(現在の川中島駅)開設。 ** [[7月1日]]:直江津駅 - 名立駅間の支線が開業{{R|sone11-22}}。郷津駅、谷浜駅、名立駅が開業{{R|sone11-22}}。 * [[1912年]](明治45年) ** [[2月11日]]:戸倉駅が開業{{R|sone11-22}}。 ** [[5月11日]]:横川駅 - 軽井沢駅間が[[鉄道の電化|電化]](直流600V・[[第三軌条方式]]){{R|sone11-22}}。 ** [[9月2日]]:新津駅 - 新発田間の支線が開業{{R|sone11-22}}。水原駅、天王新田駅、新発田駅が開業。 ** [[12月16日]]:名立駅 - 糸魚川駅間の支線が延伸開業{{R|sone11-22}}。筒石駅、能生駅、梶屋敷駅、糸魚川駅が開業。 * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[4月1日]]:直江津駅 - 糸魚川駅間が'''北陸本線'''として区間分離{{R|sone11-22}}。 ** [[6月1日]]:馬下駅 - 津川駅間の支線が延伸開業{{R|sone11-22}}。五十島駅、白崎駅、津川駅が開業。 ** [[10月1日]]:古間信号所が開業{{R|sone11-22}}。 * [[1914年]](大正3年) ** 6月1日:高崎駅 - 新潟駅・新津駅 - 津川駅間を'''信越本線'''とし、新津駅 - 新発田駅間が'''村上線'''として区間分離{{R|sone11-22}}。 ** [[11月1日]]:新津駅 - 津川駅間を'''岩越線'''として区間分離{{R|sone11-22}}。 * [[1915年]](大正4年)11月1日:城岡駅が開業{{R|sone11-22}}。 * [[1917年]](大正6年) ** [[7月20日]]:犀川信号所を駅に改め、川中島駅開業。 ** [[9月4日]]:荻川信号場が開設{{R|sone11-22}}。 ** 11月1日:篠ノ井駅 - 川中島駅間が複線化{{R|sone11-22}}。 * [[1918年]](大正7年)[[ファイル:EC40_Usui_touge_accident.jpg|サムネイル|1918年(大正7年)3月7日に発生した熊ノ平駅列車脱線事故現場の様子]] ** [[3月7日]]:熊ノ平駅 - 軽井沢駅間で列車が上り勾配を退行、暴走し、熊ノ平駅構内で脱線([[信越本線熊ノ平駅列車脱線事故]]){{R|sone11-22}}。 ** 11月1日:脇野田信号所が開設{{R|sone11-22}}。 * [[1919年]](大正8年)8月1日:飯塚駅が北高崎駅に改称。 * [[1920年]](大正9年) ** 6月1日:北塩尻駅が開業{{R|sone11-22}}。 ** 8月1日:川中島駅 - 長野駅間が複線化{{R|sone11-22}}。 * [[1921年]](大正10年) ** [[8月15日]]:脇野田が信号所から駅に変更。 ** [[9月20日]]:犀川仮信号所が開設。 ** [[10月10日]]:平原信号所が開設{{R|sone11-22}}。 ** [[12月27日]]:越後広田駅が開業。 * [[1922年]](大正11年)4月1日:丸山信号所、矢ヶ崎信号所、平原信号所、古間信号所がそれぞれ信号場に変更。犀川仮信号所が仮信号場に変更。 * [[1923年]](大正12年) ** [[6月30日]]:犀川仮信号場が廃止。 ** 10月1日:滋野駅が開業{{R|sone11-22}}。追分仮停車場が信濃追分駅に変更・改称{{R|sone11-22}}。 * [[1924年]](大正13年) ** [[10月15日]]:群馬八幡駅が開業{{R|sone11-22}}。 ** [[11月20日]]:上沼垂信号場が開設{{R|sone11-22}}。 ** [[12月1日]]:'''新潟臨港'''が上沼垂 -(貨)山之下駅間の貨物線を開業{{R|sone11-22}}。 * [[1926年]](大正15年) ** 8月15日:一ノ木戸駅が東三条駅に改称{{R|sone11-22}}。 ** 11月20日:荻川信号場が駅に変更。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)2月8日:[[昭和2年豪雪]]により10日間にわたり不通。直江津駅 - 長野駅間では多数の列車が閉じ込められ、救援に向かった[[ロータリー車]]も埋没。高田に駐屯していた[[歩兵第30連隊]]などの協力を得て復旧<ref>高田歩兵連隊が救援に出動『東京日日新聞』昭和2年2月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p351 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref> * [[1928年]](昭和3年) ** [[8月16日]]:山之下駅が新潟臨港駅に改称{{R|sone11-22}}。 ** [[10月26日]]:春日山駅が開業{{R|sone11-22}}。 ** [[12月23日]]:古間信号場が駅に変更。 * [[1930年]](昭和5年)4月1日:直江津駅 - 直江津港駅間(1.4km)の貨物支線が開業し、貨物駅として直江津港駅が開業{{R|sone11-22}}。 * [[1931年]](昭和6年)[[7月11日]]:長岡操車場が開業<ref name="sone11-23">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、23頁</ref>。宮内駅 - 長岡駅間が複線化。 * [[1940年]](昭和15年)[[10月23日]]:新潟臨港が'''新潟臨港開発'''と社名改称{{R|sone11-23}}。 * [[1941年]](昭和16年) ** [[7月24日]]:新潟臨港開発が新潟臨港駅 - 大形駅間の貨物線を開業{{R|sone11-23}}。 ** [[9月1日]]:上沼垂駅 - 新潟臨港駅 - 大形駅間が国有化、新潟臨港駅が東新潟港駅に改称{{R|sone11-23}}。東新潟港駅 - 大形駅間の貨物支線が廃止{{R|sone11-23}}。貨物駅として焼島駅が開業{{R|sone11-23}}。 * [[1942年]](昭和17年)4月1日:沼垂駅 - 新潟港駅間が開業し、新潟港駅が開業{{R|sone11-23}}。 * [[1943年]](昭和18年) ** 9月1日:長鳥信号場が開設{{R|sone11-23}}。 ** 9月20日:保内信号場が開設。 ** [[9月22日]]:田上信号場が開設。 ** [[9月28日]]:古津信号場が開設。 ** [[11月1日]]:新潟駅 - 関屋駅間(4.6km)の貨物支線が開業{{R|sone11-23}}。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[5月29日]]:東光寺信号場が開設{{R|sone11-23}}。 ** [[9月15日]]:田上信号場 - 矢代田駅間が複線化。 ** [[9月18日]]:矢代田駅 - 古津信号場間が複線化。 ** 9月22日:加茂駅 - 羽生田駅間が複線化。 ** [[9月24日]]:羽生田駅 - 田上信号場間が複線化。 ** 9月28日:見附駅 - 帯織駅、古津信号場 - 新津駅間が複線化。 ** [[9月29日]]:城岡駅 - 押切駅間が複線化。 ** [[9月30日]]:[[苅谷田仮信号場]]が開設{{R|sone11-23}}。苅谷田仮信号場 - 見附駅間が複線化。 ** 時期不詳:田口駅 - 関山駅間の坂口新田トンネルが偏圧により急激な変状をきたし廃止。移設工事を実施していた並行する明かり区間へ変更<ref>{{Cite journal|author=小野田 滋, 竹内 定行, 丸山 孝, 萩原 幸一|first=|year=1993|title=わが国における鉄道トンネルの沿革と現状 (第4報) 信越本線をめぐって|url=https://doi.org/10.2208/journalhs1990.13.255 |journal=土木史研究|volume=Vol. 13|pages=pp.255-268|publisher=社団法人[[土木学会]]|accessdate=2017-02-15|pmc=}}</ref>。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[4月15日]]:押切駅 - 苅谷田仮信号場間が複線化。 ** [[4月16日]]:苅谷田仮信号場が廃止。 ** 6月1日:越後岩塚駅が開業{{R|sone11-23}}。 ** [[10月30日]]:安茂里仮信号場が開設。 * [[1946年]](昭和21年) ** [[11月27日]]:安茂里仮信号場が廃止。 ** [[12月19日]]:妙高高原駅の北方、[[白田切川]]の増水で道床が流出。そこに[[上野駅]]発金沢駅行きの夜行列車がさしかかり脱線転覆。機関士など乗員4人を含む13人が死亡、80人が重軽傷<ref>「泥流なだれ打ち走る 三十年前には列車転覆事故」『朝日新聞』夕刊1978年(昭和53年)5月18日11面(3版)</ref>。 * [[1947年]](昭和22年)10月1日:宮内駅 - 長岡駅間が電化{{R|sone11-23}} * [[1949年]](昭和24年) ** [[5月28日]]:田上・古津の各信号場が駅に変更。 ** 8月1日:保内信号場が駅に変更。 * [[1950年]](昭和25年)6月8日 - 12日:熊ノ平駅構内で土砂が数度にわたり崩落{{R|sone11-23}}。線路・宿舎などが埋まり、死者50名、重軽傷者21名。その後、[[6月20日]]に開通、[[6月23日]]に完全復旧([[熊ノ平駅#大規模崩落事故(1950年)]]を参照)。 * [[1951年]](昭和26年) [[ファイル:Niigata-area-rail.svg|250px|thumb|right|新潟付近鉄道路線図<br />赤色:在来線 青色:廃止・休止線<br />緑色:新幹線<br />橙色丸:旅客・貨物駅<br />[[浅葱色]]丸:廃止・休止駅<br />(2010年時点)]] ** [[3月1日]]?:上下浜・笠島の両仮乗降場が開業。 ** [[4月5日]]:亀田駅 - 万代駅間の貨物支線が開業(1958年にこの貨物支線上に新潟駅が移転)、(貨)万代駅が開業{{R|sone11-23}}。 ** [[6月25日]]:新潟駅 - 関屋駅間の旅客営業が開始{{R|sone11-23}}。 ** [[7月20日]]:城岡駅が北長岡駅に改称。 ** [[12月15日]]:新潟駅 - 関屋駅間が'''[[越後線]]'''に区間分離{{R|sone11-23}}。 ** [[12月26日]]:上沼垂信号場が操車場に変更。 * [[1952年]](昭和27年) ** [[1月10日]]:平原信号場が駅に変更。 ** 7月1日:笠島仮乗降場が駅に変更{{R|sone11-23}}。 ** [[7月25日]]:上下浜仮乗降場が駅に変更{{R|sone11-23}}。 * [[1953年]](昭和28年) ** 7月1日:東光寺信号場が駅に変更。 ** [[12月15日]]:長鳥信号場が駅に変更{{R|sone11-23}}。 * [[1955年]](昭和30年)7月15日:北新井駅が開業{{R|sone11-23}}。 * [[1956年]](昭和31年)[[4月10日]]:沓掛駅が中軽井沢駅に、北塩尻駅が西上田駅に改称。 * [[1957年]](昭和32年) ** 4月1日:吉田駅が北長野駅に改称。 ** 10月1日:亀田駅 - 大形駅間の貨物支線が開業(実際の分岐は石山信号場)、石山信号場が開設{{R|sone11-23}}。上沼垂操車場が信号場に変更。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[1月8日]]:三才駅が開業{{R|sone11-23}}。 ** [[4月29日]]:新潟付近が現在のルートに変更{{R|sone11-23}}。現在地に新潟駅が開業{{R|sone11-23}}。新潟港駅が一般駅から貨物駅に変更{{R|sone11-23}}。上沼垂信号場 - 新潟(新)駅間が複線化{{R|sone11-23}}。 ** 9月29日:亀田駅 - 上沼垂信号場間が複線化。 * [[1959年]](昭和34年)9月1日:直江津駅 - 直江津港駅間の貨物支線が廃止。(貨)直江津港が廃止{{R|sone11-23}}。 * [[1960年]](昭和35年) ** 3月10日:新津駅 - 亀田駅間が複線化。 ** [[3月15日]]:土底浜駅が開業<ref name="sone11-24">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、24頁</ref>。 ** 11月1日:石山信号場が越後石山駅に変更・改称{{R|sone11-24}}。 * [[1961年]](昭和36年) ** [[3月20日]]:鉢崎駅が米山駅に改称。 ** [[7月19日]]:春日山 - 直江津間のルート変更<ref>「新線路切りかえ完工 信越線直江津-春日山間 三百余人を動員」『[[読売新聞]]』1961年(昭和36年)7月20日新潟読売B</ref>。 ** [[12月10日]]:南高田駅が開業{{R|sone11-24}}。 * [[1962年]](昭和37年) ** ?月?日:中宿信号場が開設。 ** [[5月20日]]:長岡駅 - 新潟駅間および越後石山駅 - 新潟操車場間が電化 ** 7月15日:高崎駅 - 横川駅間が電化{{R|sone11-24}}。 ** [[8月28日]]:保内駅 - 加茂駅間が複線化。 ** [[8月31日]]:東三条駅 - 保内駅間が複線化。 * [[1963年]](昭和38年) ** ?月?日:中宿信号場が廃止。 ** [[6月21日]]:軽井沢駅 - 長野駅間が電化{{R|sone11-24}}。 ** 7月15日:横川駅 - 軽井沢駅間(直流1500V)[[粘着式鉄道|粘着運転]]開始{{R|sone11-24}}。 ** [[9月25日]]:帯織駅 - 東光寺駅間が複線化。 ** 9月28日:東光寺駅 - 三条駅間が複線化。 ** 9月29日:茨目・前川の各信号場が開設{{R|sone11-24}}。 ** 9月30日:横川駅 - 軽井沢駅間の[[アプト式]]廃止{{R|sone11-24}}。 * [[1964年]](昭和39年) ** 8月15日:前川信号場が駅に変更。 ** [[9月26日]]:西塚山信号場が開設。西塚山信号場 - 塚山駅間が複線化。 ** [[9月29日]]:竹鼻信号場が開設。柿崎駅 - 竹鼻信号場間が複線化。 ** 10月1日:上沼垂信号場 - 沼垂駅間が電化 ** [[12月8日]]:茨目信号場が駅に変更。 * [[1965年]](昭和40年) ** 4月1日:西松井田駅が開業{{R|sone11-24}}。 ** 6月29日:松井田駅 - 横川駅間が複線化。 ** [[8月20日]]:新潟 -(貨)万代間の貨物支線が廃止{{R|sone11-24}}。(貨)万代駅が廃止{{R|sone11-24}}。 ** [[8月30日]]:三条駅 - 東三条駅間が複線化{{R|sone11-24}}。 ** [[9月21日]]:磯部駅 - 松井田駅間が複線化。 ** [[9月27日]]:安中駅 - 磯部駅間が複線化。 * [[1966年]](昭和41年) ** 1月10日(貨)南長岡駅が開業。 ** [[2月1日]]:熊ノ平駅が信号場に変更{{R|sone11-24}}。 ** [[7月2日]]:丸山信号場 - 矢ヶ崎信号場間が複線{{R|sone11-24}}化。丸山信号場と矢ヶ崎信号場が廃止{{R|sone11-24}}。 ** [[8月24日]]:長野駅 - 直江津間が電化{{R|sone11-24}}。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[4月25日]]:群馬八幡駅 - 安中駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線群馬八幡・安中間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=[[鉄道公報]] |publisher=[[日本国有鉄道]]総裁室文書課 |date=1967-04-24 |page=3 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=信越線群馬八幡-安中間が複線開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-04-27 |page=1 }}</ref>。 ** [[5月10日]]:上沼垂信号場が駅に変更{{R|sone11-24}}。 ** [[6月19日]]:笠島駅 - 青海川駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線笠島・青海川間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-06-17 |page=8 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=信越線 笠島-青海川間線増工事が完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-06-18 |page=1 }}</ref>。 ** [[7月18日]]:軽井沢駅 - 中軽井沢駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線軽井沢・中軽井沢間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-07-15 |page=4 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=軽井沢-中軽井沢間も |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-07-20 |page=1 }}</ref>。 ** [[8月29日]]:長鳥駅 - 西塚山信号場間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線長島・西塚山(信)間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-08-28 |page=3 }}</ref>。西塚山信号場が廃止。 ** 9月28日:北高崎駅 - 群馬八幡駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線北高崎・群馬八幡間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1967-09-27 |page=7 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=北高崎-群馬八幡 複線切替え完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1967-09-30 |page=1 }}</ref>。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[8月6日]]:黒井駅 - 犀潟駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=越後寒川-勝木間 複線化完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-19 |page=1 }}</ref>。 ** 8月20日:中軽井沢駅 - 信濃追分駅間が複線化。 ** [[9月5日]]:高崎駅 - 北高崎駅間が複線化。 ** [[9月6日]]:御代田駅 - 平原駅間が複線化。 ** [[9月10日]]:信濃追分駅 - 御代田駅間が複線化{{R|sone11-24}}。 ** [[9月11日]]:米山駅 - 笠島駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=信越線 米山-笠島間の複線化が完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-08 |page=1 }}</ref>。 ** [[9月12日]]:西上田駅 - 坂城駅間が複線化。 ** [[9月19日]]:小諸駅 - 滋野駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=国鉄今週の切替え工事 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-15 |page=1 }}</ref>。 ** 9月24日:越後広田駅 - 長鳥駅間が複線化<ref name="交通1968-0914">{{Cite news |和書|title=相次いで複線化切替工事 国鉄新潟支社 10・1めざし最後の追込み |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-14 |page=1 }}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=10月ダイヤ改正まであと9日 工事も最後のヤマ場 前日まで続く切替作業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1968-09-22 |page=3 }}</ref>。 ** 9月26日:犀潟駅 - 潟町駅間が複線化{{R|交通1968-0914}}。 ** 9月28日:塚山駅 - 越後岩塚駅間が複線化{{R|交通1968-0914}}。 ** 10月1日:柏原駅が黒姫駅に改称。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[7月17日]]:鯨波駅 - 柏崎駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=鯨波-柏崎間 複線使用を開始へ |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-07-18 |page=1 }}</ref>。 ** 7月25日:青海川駅 - 鯨波駅間が複線化。 ** [[7月30日]]:前川駅 - 宮内駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=前川-宮内間を複線使用 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-07-30 |page=1 }}</ref>。 ** 8月1日:越後岩塚駅 - 来迎寺駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=信越線 越後岩塚-来迎寺 あす複線切替 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-07-31 |page=1 }}</ref>。 ** 8月24日:直江津駅 - 宮内駅間が電化{{R|sone11-24}}。 ** 9月25日:上田駅 - 西上田駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=3区間の複線化切替完成 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-10-01 |page=1 }}</ref>。 ** 10月1日:田口駅が妙高高原駅に改称。 * [[1970年]](昭和45年) ** 7月24日:田中駅 - 大屋駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線田中・大屋間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-07-24 |page=5 }}</ref>。 ** 9月10日:来迎寺駅 - 前川駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線来迎寺・前川間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-09-09 |page=12 }}</ref>。 ** 9月18日:滋野駅 - 田中駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線滋野・田中間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1970-09-18 |page=3 }}</ref>。 ** 9月27日:坂城駅 - 戸倉駅間が複線化。 * [[1971年]](昭和46年)[[11月30日]]:上下浜駅 - 柿崎駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線上下浜・柿崎間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1971-11-29 |page=8 }}</ref>。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[5月26日]]:北条駅 - 越後広田駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線北条・越後広田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1972-05-25 |page=1 }}</ref>。 ** 8月30日:潟町駅 - 上下浜駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線潟町・上下浜間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1972-08-29 |page=1 }}</ref>。 ** 9月6日:柏崎駅 - 茨目駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線柏崎・茨目間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1972-09-05 |page=2 }}</ref>。 ** 9月19日:安田駅 - 北条駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線安田・北条間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1972-09-18 |page=1 }}</ref>。 ** 9月30日:大屋駅 - 上田駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線大屋・上田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1972-09-28 |page=2 }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年) ** 8月28日:茨目駅 - 安田駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線茨目・安田間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-08-28 |page=2 }}</ref>。 ** 9月18日:直江津駅 - 黒井駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線直江津・黒井間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-09-17 |page=2 }}</ref>。 ** 9月25日:竹鼻信号場 - 米山駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線柿崎・米山間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-09-22 |page=4 }}</ref>。竹鼻信号場が廃止。 ** 9月28日:長野駅 - 北長野駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線長野・北長野間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-09-27 |page=4 }}</ref>。 ** 10月25日:平原駅 - 小諸駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線平原・小諸間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1973-10-24 |page=2 }}</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[10月28日]]:熊ノ平信号場 - 横川駅間の上り線で機関車の単機[[回送]]列車(EF63・EF62形4連)が暴走・脱線([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故|信越線軽井沢駅 - 横川駅間回送機関車脱線転落事故]])<ref>『朝日新聞』夕刊1975年10月28日付9頁(社会面)</ref>。 * [[1978年]](昭和53年) ** 5月18日:白田切川土石流災害により、妙高高原駅 - 関山駅間で被災<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.rinya.maff.go.jp/kanto/joetu/works/pdf/chizan2.pdf|format=PDF|title=白田切川土石流災害復旧治山事業の概要|accessdate=2016-11-08|publisher=林野庁関東森林管理局}}</ref><ref>{{Cite news |和書|title=復旧は一ヵ月以上も |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1978-05-20 |page=2 }}</ref>。 *** これにより白田切川を暗渠で通していた築堤が崩壊。[[大船渡線]][[北上川]]橋梁用として製作されていた[[トラス橋]]を新設の白田切川橋梁として架設し復旧<ref>{{Cite news |和書|title=あらたに橋梁架設 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1978-05-24 |page=1 }}</ref>。 ** [[9月6日]]:妙高高原駅 - 関山駅間が復旧<ref>{{Cite news |和書|title=信越本線 待望の運転再開へ |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1978-09-08 |page=1 }}</ref>。 ** 9月26日:屋代駅 - 篠ノ井駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線屋代・篠ノ井間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1978-09-25 |page=2 }}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年)9月17日:黒姫駅 - 妙高高原駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線黒姫・妙高高原間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1980-09-13 |page=4 }}</ref>。 * [[1982年]](昭和57年) ** 6月29日:戸倉駅 - 屋代駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=通報 ●信越本線戸倉・屋代間増設線路の使用開始について(運転局) |newspaper=鉄道公報 |publisher=日本国有鉄道総裁室文書課 |date=1982-06-22 |page=6 }}</ref>。 ** 9月20日:白田切川河川改修に伴い線路付け替え、白田切川橋梁架け替え。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月5日]]:長岡操車場が廃止され、南長岡駅に統合。 ** [[3月14日]]:安茂里駅が開業<ref name="sone11-25">[[#sone11|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 11号]]、25頁</ref>。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[10月20日]]:沼垂駅 - 新潟港駅間 (-1.4 km) が廃止<ref name="官報86">{{Cite news |和書 |title=日本国有鉄道公示第114号 |newspaper=[[官報]] |date=1986-10-15 }}</ref>。新潟港駅が廃止{{R|官報86}}。 ** 11月1日:上沼垂駅が信号場に変更{{R|sone11-25}}。 ==== 民営化以降 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い東日本旅客鉄道(JR東日本)が第一種鉄道事業者、日本貨物鉄道(JR貨物)が第一種・第二種鉄道事業者として承継{{R|sone11-25}}。安中駅 - 田中駅間(-62.0 km)および上沼垂信号場 - 新潟駅間(-1.8 km)の貨物営業が廃止。 * [[1991年]]([[平成]]3年) ** [[3月16日]]:さつき野駅が開業{{R|sone11-25}}。 ** 10月1日:新津駅 - 新潟駅間でワンマン運転を開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1992-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '92年版 |chapter=JR年表 |page=181 |publisher=ジェー・アール・アール |isbn=4-88283-113-9}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年) ** 7月11日:集中豪雨([[7.11水害]])のため、豊野駅 - 妙高高原駅間が運転見合わせ<ref>{{Cite news |和書 |title=大糸など3線雨で一部不通 JR長野支社管内 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-07-13 |page=3 }}</ref>。 ** 7月17日:豊野駅 - 牟礼駅間が復旧<ref name="交通950807">{{Cite news |和書 |title=JR東日本 集中豪雨の長野支社管内 昼夜懸命の復旧作業 予想上回る早期開通 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-08-07 |page=2 }}</ref> ** [[7月22日]]:護岸崩壊により豊野駅 - 牟礼駅間が再び不通{{R|交通950807}} ** [[7月26日]]:黒姫駅 - 妙高高原駅間が復旧<ref>{{Cite news |和書 |title=黒姫-妙高高原間きょう運転再開 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-07-28 |page=3 }}</ref>。 ** [[8月2日]]:豊野駅 - 黒姫駅間が復旧<ref>{{Cite news |和書 |title=JR信越線あす全線復旧 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-08-01 |page=3 }}</ref>。 * [[1997年]](平成9年)10月1日:[[北陸新幹線]]高崎駅 - 長野駅間([[長野新幹線]])の開業により次のように変更<ref name=JRR1998>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 ** 今井駅が開業。 ** 軽井沢駅と上田駅のJR東日本における所属が北陸新幹線に、小諸駅の所属駅が[[小海線]]に変更。 ** 横川駅 - 軽井沢駅{{R|JRR1998}}(-11.2 km)、熊ノ平信号場が廃止(JR東日本管内における廃線は[[特定地方交通線]]の第三セクターへの転換を除けば1987年4月の同社発足以来初めて)。 ** 軽井沢駅 - 篠ノ井駅(-65.6 km)の第一種鉄道事業の廃止により、中軽井沢駅、信濃追分駅、御代田駅、平原駅、滋野駅、田中駅、大屋駅、西上田駅、坂城駅、戸倉駅、屋代駅が信越本線の駅としては廃止。同区間および各駅とも[[しなの鉄道]]に移管され、'''[[しなの鉄道線]]'''となる{{R|JRR1998}}。以降、軽井沢駅 - 篠ノ井駅については「[[しなの鉄道線#しなの鉄道移管後]]」を参照。 ** 長野駅 - 豊野駅間の飯山線直通の一部列車で[[ワンマン運転]]開始。 * [[2002年]](平成14年) ** [[6月1日]]:(貨)焼島駅 - (貨)東新潟港駅間が休止{{R|sone11-25}}。 ** [[12月1日]]:春日山駅を直江津寄り400 mの位置に移転新築<ref>{{Cite journal|和書 |date=2003-03-01|title=鉄道記録帳2002年12月|journal=RAIL FAN|volume=50|issue=2|page=24|publisher=鉄道友の会}}</ref>、交換設備廃止。 * [[2003年]](平成15年)3月:黒姫駅 - 越後石山駅間CTC・PRC化<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_5/12-20.pdf 運行管理システムの変革]}} - 東日本旅客鉄道</ref>。 * [[2004年]](平成16年)[[11月27日]]:東三条駅 - 新潟駅間が新設の[[大都市近郊区間 (JR)#新潟近郊区間|新潟近郊区間]]に組み込まれる。 * [[2006年]](平成18年)1月21日:東三条駅 - 新潟駅間でICカード「[[Suica]]」の利用が可能となる(新潟エリア)。 * [[2008年]](平成20年)3月15日:長岡駅 - 東三条駅間が新潟近郊区間に編入され、同区間でICカード「Suica」の利用が可能となる(新潟エリア)。 * [[2009年]](平成21年)3月14日:高崎駅 - 横川駅間が[[大都市近郊区間 (JR)#東京近郊区間|東京近郊区間]]に編入され、同区間でICカード「Suica」の利用が可能となる(首都圏エリア)。 * [[2010年]](平成22年)3月25日:上沼垂信号場 - (貨)沼垂駅間(-1.8 km)が廃止。沼垂駅が廃止。 * [[2013年]](平成25年)3月16日:篠ノ井駅 - 長野駅間の一部列車でワンマン運転開始。 * [[2014年]](平成26年)4月1日:直江津駅 - 長岡駅間が新潟近郊区間に編入。直江津駅・柏崎駅・宮内駅でICカード「Suica」の一部サービスが利用可能となる(新潟エリア)。 * [[2015年]](平成27年)3月14日:北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間の開業により次のように変更。 ** 脇野田駅が上越妙高駅に改称し、同時に北陸新幹線所属に変更。豊野駅の所属駅が飯山線に変更。 ** 長野駅 - 直江津駅間(-75.0 km)の第一種鉄道事業の廃止により、北長野駅、三才駅、牟礼駅、古間駅、黒姫駅、妙高高原駅、関山駅、二本木駅、新井駅、北新井駅、南高田駅、高田駅、春日山駅が信越本線の駅としては廃止。長野駅 - 妙高高原駅間がしなの鉄道に移管され'''[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]'''に<ref>[http://www.shinanorailway.co.jp/news/2014/08/1484.php 北しなの線の開業日の決定について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140905012357/http://www.shinanorailway.co.jp/news/2014/08/1484.php |date=2014年9月5日 }} - しなの鉄道(2014年9月3日閲覧)</ref>、妙高高原駅 - 直江津駅間が[[えちごトキめき鉄道]]に移管され'''[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]'''となる。以降、各区間については「[[しなの鉄道北しなの線#歴史]]」「[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン#えちごトキめき鉄道移管後]]」を参照。 ** また、北長野駅 - 黒姫駅間、妙高高原駅 - 直江津駅間に存在した[[単線]]区間が全て移管されたため、旅客営業区間が全線複線となる。 * [[2016年]](平成28年)[[3月26日]]:直江津駅 - 長岡駅間で、一部の営業列車においてワンマン運転を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20151218_2016daiyakaisei.pdf|format=PDF|title=2016年3月ダイヤ改正について|publisher=JR東日本新潟支社|date=2015-12-18|accessdate=2020-05-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160426121255/https://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20151218_2016daiyakaisei.pdf |archivedate=2016-04-26}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年)4月1日:宮内駅 - 長岡駅間でICカード「Suica」の利用が可能となる(新潟エリア)。 * [[2025年]]([[令和]]7年)春(予定):篠ノ井駅 - 長野駅間<!--が東京近郊区間に編入され、同区間-->でICカード「Suica」の利用が可能となる(首都圏エリア)<ref name="jreast20230620">{{Cite press release|和書|title=長野県におけるSuicaご利用駅の拡大について|publisher=東日本旅客鉄道長野支社|date=2023-06-20|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/nagano/20230620_na01.pdf|format=PDF|access-date=2023-06-21}}</ref>。 === 優等列車の沿革 === 下記各項目に分散して記述 * おおむね対東京方面との連絡輸送 - [[あさま|あさま・白山]]、[[はくたか]]、[[能登 (列車)|能登]]、[[北陸 (列車)|北陸]]、[[とき (列車)|とき]] * おおむね対新潟方面との連絡輸送 - [[くびき野 (列車)|くびき野]]、[[しらゆき (列車)|しらゆき]]、[[信越 (列車)]] * 日本海縦断列車系統 - [[北越 (列車)|北越]]、[[白鳥 (列車)|白鳥]]、[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]、[[日本海 (列車)|日本海]]、[[きたぐに (列車)|きたぐに]] === 地震による影響 === ==== 新潟県中越地震 ==== [[2004年]](平成16年)[[10月23日]]に発生した[[新潟県中越地震]]では柏崎駅 - 長岡駅間が大規模な損害を受け、この区間を通る全列車が運休していたが、同年[[11月29日]]に全線が復旧した。 ==== 新潟県中越沖地震 ==== [[2007年]](平成19年)[[7月16日]]に発生した[[新潟県中越沖地震]]では[[笠島駅]] - [[青海川駅]]間が大規模に被災したため、[[犀潟駅]] - [[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]]間の列車の運転が全面的に停止した。その後、JR東日本は新潟県と相互に協力して復旧作業を急ピッチで進め、不通区間を徐々に復旧開通させ、[[9月13日]]、残る不通区間であった[[柏崎駅]] - [[柿崎駅]]間も運転を再開し、新潟県中越沖地震発生より2か月足らずで全線の運転を再開させた。ただし、柏崎駅 - 柿崎駅間は運行再開後しばらくの間、[[徐行]]運転が行われた。 * 7月16日:新潟県中越沖地震が発生し、黒姫駅 - 東三条駅間が不通。 * [[7月17日]]:黒姫駅 - 犀潟駅、宮内駅 - 東三条駅間で運転再開。特急「[[はくたか]]」運転再開。なお、直江津駅 - 犀潟間はほくほく線方面の列車のみ、宮内駅 - 長岡駅間は上越線方面の列車のみ。 * [[7月20日]]:直江津駅 - 柏崎駅間で[[バス代行]]輸送を開始(全便各駅停車)。 * [[7月21日]]:柏崎駅 - 長岡駅間でバス代行輸送を開始。直行便(柏崎駅 - 長岡駅間ノンストップ)と快速便(途中で安田駅・塚山駅・来迎寺駅・宮内駅に停車)、各駅停車便の3種類を運転。 * [[7月23日]]:犀潟駅 - 柿崎駅間で運転再開。ただし、直江津駅 - 柿崎駅間を走る列車は1日あたり普通列車11往復のみで全列車が[[臨時列車]]扱いで、1往復はバス代行を継続。柿崎駅 - 柏崎駅間でバス代行輸送。 * [[7月30日]]:柏崎駅 - 宮内駅間で運転再開。ただし、柏崎駅 - 長岡駅間を走る列車は1日あたり普通列車14往復のみで全列車が臨時列車扱い。快速「[[くびき野 (列車)|くびき野]]」1・6号が柏崎駅 - 新潟駅間で運転再開(ただし、柏崎駅 - 長岡駅間は各駅停車となる)。 * [[8月6日]]:直江津駅 - 柿崎駅 - 長岡駅間でバスの直行便を運転開始。直江津駅 - 柿崎駅間は[[国道8号]]、柿崎駅 - 長岡駅間は[[北陸自動車道]](高速道路)経由で運転。 * [[8月10日]]:黒姫駅 - 直江津駅間、宮内駅 - 帯織駅間の速度規制を解除。これにより柏崎駅 - 長岡駅間は通常ダイヤでの運転に戻る。また快速「くびき野」2・5号が柏崎駅 - 新潟駅間で運転再開。「くびき野」1・6号の停車駅も通常に戻る。 * [[8月27日]]:柏崎駅 - 宮内駅間の速度規制を解除。 * [[9月1日]]:「くびき野」3・4号が柏崎駅 - 新潟駅間で運転再開。 * 9月13日:柿崎駅 - 柏崎駅間で運転再開し全線復旧<ref>{{Cite journal ja-jp |author =石川尹巳 |year =2007 |title =信越線柿崎-柏崎間運転再開 |journal =[[鉄道ピクトリアル]] |volume =57 |issue =12 |serial =797 |publisher =電気車研究会 |pages =86 }}</ref>。特急「[[北越 (列車)|北越]]」や各種夜行列車も運転再開(ただし、柿崎駅 - 柏崎駅間は当分の間、速度規制)。 * [[10月1日]]:柿崎駅 - 柏崎駅間の速度制限を解除、ほぼ震災前の運行形態に戻る。 == 廃止区間の現状 == {{Main|碓氷峠#廃線跡の活用|碓氷峠#見所|碓氷峠鉄道文化むら}} 横川駅 - 軽井沢駅間は一部の区間が遊歩道「[[アプトの道]]」として整備されている。また、安中市松井田町の財団法人・碓氷峠交流記念財団により、同駅間の廃線跡で、同財団の運営する「[[碓氷峠鉄道文化むら]]」の園内遊具として、「ぶんかむら駅 - まるやま駅 - とうげのゆ駅」において[[トロッコ列車]]「[[碓氷峠鉄道文化むら#シェルパくん|シェルパくん]]」を運転している。 [[2025年]]にはこの区間で使用されていた電気機関車[[国鉄ED42形電気機関車|ED42]]や[[国鉄EF63形電気機関車|EF63]]を模した電動のレールカートが「[[碓氷峠の森公園交流館「峠の湯」#とうげのゆ駅|とうげのゆ駅]]」から「[[熊ノ平駅]]」まで運行される予定である<ref>[https://web.archive.org/web/20230817045140/https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/161880 【動画】碓氷峠でレールカート実証実験 アプト式電気機関車ED42形1号機の姿を再現] - 上毛新聞、2022年8月18日(2023年8月17日時点でのアーカイブ)</ref>。 群馬・長野県境をつないでいた廃トンネルは安中市が所有している。2017年(平成29年)、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]が[[弾道ミサイル]]発射実験を繰り返していることを受けて、軽井沢町は安中市と覚書を結び、[[有事]]の際にはこの廃トンネルを町民・観光客の避難[[シェルター]]とする方針を決めた<ref>[https://www.sankei.com/article/20170909-LFATWFUYMJP3PMOPHS5W3S5PVY/ 廃線トンネル シェルターに/軽井沢町「コンクリートで頑丈、有効に機能」]『[[産経新聞]]』朝刊2017年9月9日</ref>。 廃止された横川駅 - 軽井沢駅間では、何度か架線やレールの切断、EF63の貫通扉の盗難などの事件が起きている<ref name="jomo-news20220611" />。2022年にも5月下旬から6月上旬にかけて安中市観光機構の職員が架線の一部が盗まれていることを確認した<ref name="jomo-news20220611">{{Cite web|和書|publisher=上毛新聞|url=https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/128488|title=廃線跡で架線切り盗まれる 計530メートル、安中市が被害届|date=2022-06-11|accessdate=2022-06-11}}</ref>。盗難にあった箇所は少なくとも2カ所で計530メートル(約16万円相当)が盗難に遭っており、線路やトンネルの所有者である安中市が[[安中警察署]]に被害届を提出した<ref name="jomo-news20220611" />。 軽井沢町内の廃線跡は廃止直後にしなの鉄道の所有となり、後に駅付近の廃線跡はコンクリートで舗装され、2017年から駐車場として使用されていたが、2023年3月15日に営業を終了した<ref>[https://www.shinanorailway.co.jp/news/20230309_tmsp.pdf 【軽井沢駅】タイムズ軽井沢駅前店・営業終了のお知らせ] - しなの鉄道、2023年3月9日</ref>。これは2025年に廃線跡をホテルや温浴施設、飲食店・物販店を建設する計画の下準備で<ref>[https://karuizawanow.com/archives/493 軽井沢駅北口に複合施設の計画] - 軽井沢NOW、2023年6月6日</ref>、同年4月以降には廃止後使用されていなかった横川方のホームの解体・架線柱や矢ヶ崎踏切の警報器の撤去も行われた。工事は2024年の1月末まで続き<ref>{{Cite tweet|user=sinsyohinPT |number=1676351438140866566 |title=2023年7月5日 7時5分のポスト |date=2023-07-05 |access-date=2023-10-03}}</ref>、完成は2025年末となる予定<ref>[https://web.archive.org/web/20231104205130/https://news.yahoo.co.jp/articles/68c1a5dcc20619d53b3cf328a9ef3a51196e9617 軽井沢駅の東側にホテルや日帰り温浴施設 三菱地所が遊休地開発へ【独自】] - 信濃毎日新聞デジタル、2023年6月14日(Yahoo!ニュース)。同年11月4日時点でのアーカイブ。</ref>。しかし、跡地を完全に潰してしまう計画であり、線路が接続できず復活が困難になるとして反対する動きも見られる<ref>[https://annakainfo.wixsite.com/mitsubishi-estate 三菱地所の軽井沢駅北口の開発に反対します] - 碓氷峠の鉄道を愛するホームページの連合会、2023年12月27日閲覧。</ref>。 横川駅隣接地に[[道の駅]]を建設する計画もあり、2023年度中に基本方針を<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/261052 安中市、横川駅周辺に道の駅構想]</ref>、2024年に基本計画をまとめ、2025年度の完成を目標にしている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/local/gunma/news/20221031-OYTNT50133/ 横川駅隣に道の駅計画 安中市 25年度完成目標、誘客狙う] - 読売新聞オンライン、2022年11月1日</ref>。 == 駅一覧 == * (貨)は貨物専用駅。それ以外の駅で駅名欄に◆・◇・■を付した駅は貨物取扱駅を表す(◇は定期貨物列車の発着なし、■は[[オフレールステーション]])。 === 東日本旅客鉄道 === ==== 高崎駅 - 横川駅間 ==== * 定期列車は全列車が普通列車(全駅に停車) * 全駅が[[群馬県]]内に所在 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:7em; border-bottom:3px solid #9acd32;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9acd32;"|接続路線・備考 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #9acd32;"|{{Nowrap|所在地}} |- !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #9acd32;"|駅間 !style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #9acd32;"|累計 |- |[[高崎駅]]◇ |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |[[東日本旅客鉄道 ]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] [[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・{{Color|#f68b1e|■}}[[高崎線]]<ref group="*" name="takasaki01">[[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]]含む</ref>・{{Color|#b4aa96|■}}[[八高線]]<ref group="*" name="takasaki02">八高線は高崎線[[倉賀野駅]]、両毛線は上越線[[新前橋駅]]がそれぞれ正式な起終点だが、両線とも運転系統上は全列車が高崎駅に乗り入れる。吾妻線は上越線[[渋川駅]]が起終点だが、一部列車が高崎駅に乗り入れる。</ref>・{{Color|#00b2e5|■}}[[上越線]]・{{Color|#ffd400|■}}[[両毛線]]<ref group="*" name="takasaki02" />・{{Color|#0F5474|■}}[[吾妻線]]<ref group="*" name="takasaki02" /><br />[[上信電鉄]]:[[上信電鉄上信線|上信線]] |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[高崎市]] |- |[[北高崎駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|2.4 |&nbsp; |- |[[群馬八幡駅]] |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:right;"|6.4 |&nbsp; |- |[[安中駅]]◆ |style="text-align:right;"|4.2 |style="text-align:right;"|10.6 |&nbsp; |rowspan="5"|[[安中市]] |- |[[磯部駅 (群馬県)|磯部駅]] |style="text-align:right;"|7.0 |style="text-align:right;"|17.6 |&nbsp; |- |[[松井田駅]] |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:right;"|22.7 |&nbsp; |- |[[西松井田駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|23.9 |&nbsp; |- |[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] |style="text-align:right;"|5.8 |style="text-align:right;"|29.7 |''一部列車が[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]][[碓氷線]]・[[軽井沢駅]]行きに接続'' |} {{Reflist|group="*"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref name="passenger">{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、松井田駅と西松井田駅である。 ==== 篠ノ井駅 - 長野駅間 ==== {{See also|篠ノ井線#駅一覧|しなの鉄道線#駅一覧}} * 停車駅 ** 普通列車は「[[みすず (列車)|みすず]]」も含め全ての旅客駅に停車 ** 快速…●:全列車停車、▲:一部の列車が停車、|:全列車通過 ** 快速(愛称あり)=快速「[[ろくもん]]」「[[軽井沢リゾート号]]」「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号|しなのサンライズ号]]」「[[しなのサンライズ号・しなのサンセット号|しなのサンセット号]]」…●:全列車停車、|:全列車通過 ** 特急「[[しなの (列車)|しなの]]」、臨時快速「[[リゾートビューふるさと]]」については各列車記事参照 * 全駅が[[長野県]][[長野市]]内に所在 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="3" style="width:7em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !{{縦書き|篠ノ井線直通}} !colspan="2"|{{縦書き|しなの鉄道線直通}} !rowspan="3" style="border-bottom:3px solid #00b3e6;"|接続路線 |- !rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅間 !rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|累計 !colspan="3"|快速 |-style="font-size:90%" !colspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|{{縦書き|愛称なし|height=4.5em}} !style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|{{縦書き|愛称あり|height=4.5em}} |- |[[篠ノ井駅]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|▲ |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|| |東日本旅客鉄道:{{Color|#d56a29|■}}[[篠ノ井線]]([[松本駅|松本]]・[[塩尻駅|塩尻]]方面と直通運転)<br />[[しなの鉄道]]:{{Color|#f0a401|■}}[[しなの鉄道線]]([[小諸駅|小諸]]・[[軽井沢駅|軽井沢]]方面と直通運転) |- |[[今井駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[川中島駅]]◇ |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:center;"|▲ |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[安茂里駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|6.4 |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[長野駅]]◇ |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|9.3 |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|● |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 北陸新幹線・{{Color|#7BC24B|■}}[[飯山線]]<ref group="**">飯山線の路線の起点は豊野駅だが、運転系統上は全列車長野駅まで乗り入れる。</ref><br />しなの鉄道:{{Color|#999966|■}}[[しなの鉄道北しなの線|北しなの線]]([[豊野駅|豊野]]・[[妙高高原駅|妙高高原]]方面と直通運転)<br />[[長野電鉄]]:{{Color|#ff0000|■}}[[長野電鉄長野線|長野線]] (N1) |} {{Reflist|group="**"}} 2022年度の時点で、上記全駅がJR東日本自社による乗車人員集計<ref name="passenger" />の対象となっている。 ==== 直江津駅 - 新潟駅間 ==== * 停車駅 ** 普通列車は全ての旅客駅に停車 ** 快速 … ●:停車、▼:一部の下り列車のみ停車、|:通過 ** 直江津駅 - 犀潟駅間の、ほくほく線直通列車は一部を除き黒井駅を通過する。 ** 特急「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」…列車記事参照 ** 臨時列車…[[#臨時列車|臨時列車]]に挙げられている各列車記事を参照 * 全駅が[[新潟県]]内に所在 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:3px solid #00b3e6;" |快速 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00b3e6;"|接続路線 !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:3px solid #00b3e6;"|所在地 |- !style="width:2.5em; line-height:1.2em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|駅間 !style="width:2.5em; line-height:1.2em; border-bottom:3px solid #00b3e6;"|累計 |- |[[直江津駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center;"|● |[[えちごトキめき鉄道]]:{{Color|#35c98e|■}}[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]](直通運転あり)・{{color|#3782bd|■}}[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]] |rowspan="7" colspan="2"|[[上越市]] |- |[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]◆ |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:center;"|▼ |&nbsp; |- |[[犀潟駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:center;"|● |[[北越急行]]:{{Color|#cc3366|■}}[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]<ref group="***">北越急行ほくほく線の路線の終点は犀潟駅だが、列車は一部を除き直江津駅へ乗り入れる。</ref> |- |[[土底浜駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:center;"|▼ |&nbsp; |- |[[潟町駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|11.2 |style="text-align:center;"|▼ |&nbsp; |- |[[上下浜駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|14.0 |style="text-align:center;"|▼ |&nbsp; |- |[[柿崎駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|17.6 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |- |[[米山駅]] |style="text-align:right;"|5.9 |style="text-align:right;"|23.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="10"|[[柏崎市]] |- |[[笠島駅]] |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:right;"|27.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[青海川駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|29.6 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[鯨波駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|32.6 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[柏崎駅]]■ |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|36.3 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#40934d|■}}[[越後線]] |- |[[茨目駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|39.3 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[安田駅 (新潟県)|安田駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|42.2 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[北条駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|44.8 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[越後広田駅]] |style="text-align:right;"|3.3 |style="text-align:right;"|48.1 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[長鳥駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|50.8 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[塚山駅]] |style="text-align:right;"|5.0 |style="text-align:right;"|55.8 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="9"|[[長岡市]] |- |[[越後岩塚駅]] |style="text-align:right;"|4.7 |style="text-align:right;"|60.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[来迎寺駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|63.3 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |- |[[前川駅 (新潟県)|前川駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|67.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[宮内駅 (新潟県)|宮内駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|70.0 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#00b3e6|■}}[[上越線]]<ref group="***">上越線の路線の終点は宮内駅だが、旅客列車の運転系統上は全列車が長岡駅へ乗り入れる。</ref> |- |(貨)[[南長岡駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|71.4 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[長岡駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|73.0 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越新幹線 |- |[[北長岡駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|75.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[押切駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|79.9 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[見附駅]] |style="text-align:right;"|4.5 |style="text-align:right;"|84.4 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |colspan="2"|[[見附市]] |- |[[帯織駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|88.5 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="5"|[[三条市]] |- |[[東光寺駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|91.1 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[三条駅 (新潟県)|三条駅]] |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:right;"|94.6 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |- |[[東三条駅]]◇ |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|96.2 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#922790|■}}[[弥彦線]] |- |[[保内駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|100.0 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[加茂駅 (新潟県)|加茂駅]] |style="text-align:right;"|3.8 |style="text-align:right;"|103.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |colspan="2"|[[加茂市]] |- |[[羽生田駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|107.9 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="2"|[[南蒲原郡]]<br>[[田上町]] |- |[[田上駅]] |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|111.1 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[矢代田駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|114.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |rowspan="9" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[新潟市]]}} |rowspan="5" style="white-space:nowrap;"|[[秋葉区]] |- |[[古津駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|117.9 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[新津駅]]◇ |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:right;"|121.1 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#16c0e9|■}}[[羽越本線]]・{{Color|#cb7b35|■}}[[磐越西線]]<ref group="***">磐越西線の路線の終点は新津駅だが、一部列車は新潟駅まで乗り入れる。</ref> |- |[[さつき野駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|122.6 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[荻川駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|124.9 |style="text-align:center;"|| |&nbsp; |- |[[亀田駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|129.8 |style="text-align:center;"|● |&nbsp; |[[江南区 (新潟市)|江南区]] |- |[[越後石山駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|132.2 |style="text-align:center;"|▼ |<span style="font-size:85%;">[[日本貨物鉄道]]:信越本線貨物支線([[新潟貨物ターミナル駅]]方面)</span> |[[東区 (新潟市)|東区]] |- |[[上沼垂信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|134.4 |style="text-align:center;"|| |<span style="font-size:85%;">日本貨物鉄道<!--白新線に合わせています-->:信越本線貨物支線([[焼島駅]]方面)</span> |rowspan="2"|[[中央区 (新潟市)|中央区]] |- |[[新潟駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|136.3 |style="text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] 上越新幹線・{{Color|#f387b7|■}}[[白新線]](直通運転あり)・ {{Color|#40934d|■}}越後線(直通運転あり) |} {{Reflist|group="***"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-10}}</ref>の対象駅は、直江津駅、犀潟駅、柿崎駅、柏崎駅、来迎寺駅、宮内駅、長岡駅、見附駅、三条駅、東三条駅、加茂駅、矢代田駅および新津駅 - 新潟駅間の各駅。これら以外の駅は完全な無人駅のため集計対象から外されている。 ==== 支線 ==== 両駅とも新潟県新潟市[[東区 (新潟市)|東区]]に所在 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:15em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|営業キロ !接続路線 |- |越後石山駅 |style="text-align:right;"|0.0 |東日本旅客鉄道:信越本線(本線) |- |(貨)[[新潟貨物ターミナル駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |東日本旅客鉄道:白新線 |} === 日本貨物鉄道 === 全駅が新潟県新潟市に所在 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="width:10em;"|駅名 !colspan="2" style="width:2.5em;"|営業キロ !rowspan="2"|接続路線 !rowspan="2"|所在地 |- !style="width:2.5em;"|駅間 !style="width:2.5em;"|累計 |- |上沼垂信号場 |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |東日本旅客鉄道:信越本線(本線) |中央区 |- |(貨)[[焼島駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |&nbsp; |rowspan="2"|東区 |- |(貨)[[東新潟港駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|3.8 |&nbsp; |} === 廃止区間 === ==== 本線 ==== この区間は1997年(平成9年)10月1日、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間(開業当初の通称および[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|運転系統名]]は長野新幹線)の開業と引き換えに廃止された。 * 全線が複線・直流電化。 * 所在地は廃止当時。 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="3"|駅名 !colspan="3"|営業キロ !rowspan="3"|接続路線・備考 !rowspan="3"|所在地 |- !rowspan="2"|駅間 !colspan="2"|累計 |- !横川<br>から !高崎<br>から |- |[[横川駅 (群馬県)|横川駅]] | style="text-align:center;" | - | style="text-align:right;" | 0.0 | style="text-align:right;" |29.7 |東日本旅客鉄道:信越本線(高崎方面) |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[群馬県]]<br>[[碓氷郡]]<br>[[松井田町]]<br>(現・[[安中市]]) |- |([[丸山信号場]]) | style="text-align:right;" |1.8 | style="text-align:right;" |1.8 | style="text-align:right;" |31.5 |1966年(昭和41年)7月2日に廃止。 |- |[[熊ノ平駅|熊ノ平信号場]] | style="text-align:right;" |4.3 | style="text-align:right;" |6.1 | style="text-align:right;" |35.8 |1966年(昭和41年)2月1日に駅から信号場に変更。 |- |([[矢ヶ崎信号場]]) | style="text-align:right;" |4.3 | style="text-align:right;" |10.4 | style="text-align:right;" |40.1 |1966年(昭和41年)7月2日に廃止。 |rowspan="2"|[[長野県]]<br>[[北佐久郡]]<br>[[軽井沢町]] |- |[[軽井沢駅]] | style="text-align:right;" |0.8 | style="text-align:right;" |11.2 | style="text-align:right;" |40.9 |東日本旅客鉄道:信越本線([[長野駅|長野]]方面) |} ==== 貨物支線 ==== : 直江津駅 - 直江津港駅 : 上沼垂信号場 - [[沼垂駅]] : 沼垂駅 - [[新潟港駅]] : 新潟駅 - [[万代駅]] ==== 経営移管区間 ==== * 設置駅・駅名は移管前日時点のもの * この区間の現状の詳細については「[[しなの鉄道線]]」「[[しなの鉄道北しなの線]]」および「[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]]」を参照 ; 1997年(平成9年)移管区間 : 軽井沢駅 - [[中軽井沢駅]] - [[信濃追分駅]] - [[御代田駅]] - [[平原駅]] - [[小諸駅]] - [[滋野駅]] - [[田中駅]] - [[大屋駅]] - [[上田駅]] - [[西上田駅]] - [[坂城駅]] - [[戸倉駅]] - [[屋代駅]] - 篠ノ井駅 ; 2015年(平成27年)移管区間 : 長野駅 - [[北長野駅]] - [[三才駅]] - [[豊野駅]] - [[牟礼駅]] - [[古間駅]] - [[黒姫駅]] - [[妙高高原駅]] - [[関山駅]] - [[二本木駅]] - [[新井駅 (新潟県)|新井駅]] - [[北新井駅]] - 脇野田駅(現:[[上越妙高駅]]) - [[南高田駅]] - [[高田駅 (新潟県)|高田駅]] - [[春日山駅]] - 直江津駅 === 過去の接続路線 === * 横川駅:[[碓氷馬車鉄道]](1893年〈明治26年〉4月1日廃止) * 軽井沢駅: ** 碓氷馬車鉄道(1893年〈明治26年〉4月1日廃止) ** [[草軽電気鉄道]](新軽井沢駅・1960年〈昭和35年〉4月25日部分廃止) * 小諸駅:[[布引電気鉄道]](1934年〈昭和9年〉6月18日休止、1936年〈昭和11年〉10月28日廃止) * 大屋駅:[[上田電鉄|上田丸子電鉄]][[上田丸子電鉄丸子線|丸子線]](1969年〈昭和44年〉4月16日廃止) * 上田駅: ** [[上田電鉄|上田温泉電軌]][[上田温泉電軌青木線|青木線]](1938年〈昭和13年〉7月25日廃止) ** [[上田電鉄|上田交通]][[上田交通真田傍陽線|真田傍陽線]](1972年〈昭和47年〉4月20日廃止) * 長野駅:[[善光寺白馬電鉄]](南長野駅・1944年〈昭和19年〉1月10日休止、1969年〈昭和44年〉7月9日廃止) * 黒井駅:[[頸城鉄道線]](新黒井駅)(1968年〈昭和43年〉10月1日廃止) * 来迎寺駅: ** [[魚沼線]](1984年〈昭和59年〉4月1日廃止) ** [[越後交通]][[越後交通長岡線|長岡線]](1995年〈平成7年〉3月31日全線廃止) * 長岡駅:越後交通[[越後交通栃尾線|栃尾線]](1975年〈昭和50年〉3月31日全線廃止) * 東三条駅:[[弥彦線]]・東三条駅 - 越後長沢駅間(1985年〈昭和60年〉4月1日部分廃止) * 加茂駅:[[蒲原鉄道]]・加茂駅 - 村松駅間(1985年〈昭和60年〉3月31日部分廃止) == 新駅設置計画 == * 北高崎駅 - 群馬八幡駅間 ** 2023年3月にJR東日本と基本協定が結ばれ、豊岡新駅(仮称)の設置が決定。開業は2026年度となる予定。簡易Suica改札機設置の無人駅となる<ref>{{Cite news|和書 |title=信越線に26年度新駅開業へ アクセス道路整備、烏川に新橋 群馬・高崎市 |newspaper=上毛新聞 |date=2023-03-28 |url=https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/260423 |access-date=2023-04-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2023032200017/files/50401-2.pdf |title=広報高崎2023年(令和5年)4月1日号 pp.2-5 「豊岡新駅(仮称)の設置が正式決定」 |access-date=2023-05-01 |publisher=[[高崎市]]}}</ref>。 * 安中駅 - 磯部駅間 ** 新駅構想の具体化などを盛り込んだ都市づくりの指針をまとめた「市都市計画マスタープラン(基本計画)」の2025年度の策定を目指している。<ref>[https://web.archive.org/web/20230519212039/https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/180752 JR信越線の新駅構想を具体化、安中―磯部間 群馬・安中市が都市計画マスタープラン見直し 2023年5月19日時点でのアーカイブ。]</ref> * 亀田駅 - 荻川駅間 ** 新潟市は、江南駅または二本木駅(仮称)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/shimin/sanka/towntalk/h29towntalk/H29-machi-konan.html|title=江南区意見交換|publisher=新潟市|date=2017-07-26|accessdate=2018-04-01}}</ref>の検討に2018年度の予算を計上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.niikei.jp/2615/|title=新潟市の新年度予算は、前年度比164億円減の3802億円|publisher=[[にいがた経済新聞]]|date=2018-02-13|accessdate=2018-04-01}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="13_0_255">{{Cite journal|author=小野田 滋、竹内 定行、丸山 孝、萩原 幸一|year=1993|title=わが国における鉄道トンネルの沿革と現状 (第4報) 信越本線をめぐって|url=https://doi.org/10.2208/journalhs1990.13.255 |journal=土木史研究|volume=Vol. 13|pages=pp.255-268|publisher=社団法人[[土木学会]]|accessdate=2017-02-15}}</ref> }} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020-05|section=1}} * [[宮脇俊三]]編著『鉄道廃線跡を歩く IX - 実地踏査消えた鉄道50』([[JTB]]、2002年、{{ISBN2|4-533-04374-7}})pp.101-105 * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=11 |title=信越本線 |date=2009-09-20 |ref=sone11 }} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[北越急行]] * [[信越本線高速化]] * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[日本の鉄道]] * [[ボート・トレイン]] * [[上信越自動車道]] * [[北陸自動車道]] * [[国道8号]] * [[国道18号]] * [[しなの鉄道]] * [[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]] == 外部リンク == * [https://www.jreast-timetable.jp/cgi-bin/st_search.cgi?rosen=35&token=&50on= 時刻表 検索結果:JR東日本] {{東京近郊区間}} {{新潟近郊区間}} {{東日本旅客鉄道高崎支社}} {{東日本旅客鉄道長野支社}} {{東日本旅客鉄道新潟支社}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しんえつほんせん}} [[Category:信越本線|*]] [[Category:関東地方の鉄道路線]] [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:北越鉄道|路]] [[Category:群馬県の交通]] [[Category:長野県の交通]] [[Category:新潟県の交通]] [[Category:部分廃止路線]]
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直流回路
直流回路(ちょくりゅうかいろ)は、直流の電源(複数のことがある)のみを持った電気回路である。 等価電源の定理
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直流回路(ちょくりゅうかいろ)は、直流の電源(複数のことがある)のみを持った電気回路である。
{{出典の明記|date=2023年1月5日 (木) 12:20 (UTC)}} '''直流回路'''(ちょくりゅうかいろ)は、[[直流]]の電源(複数のことがある)のみを持った[[電気回路]]である。 ==直流回路の法則== *[[可逆定理]](相反定理) *[[回路の双対性]](duality) *[[オームの法則]](Ohm's law) *[[重ね合わせの原理 (電気回路)|重ね合わせの理]](principle of superposition) *[[キルヒホッフの法則 (電気回路)|キルヒホッフの法則]](電流則・電圧則)(Kirchhoff's laws) 等価電源の定理 *[[テブナンの定理]](等価電圧源の定理)(Thevenin's theorem) *[[ノートンの定理]](等価電流源の定理)(Norton's theorem) : テブナンの定理の双対。 *[[ミルマンの定理]](全電圧の定理)(Millman's theorem) : 双対が全電流の定理。 *[[補償定理]](compensation theorem) ==関連項目== *[[電圧源]] - [[電流源]] *[[受動素子]] *[[電気回路]] - [[交流回路]] - [[三相交流]] - [[電子回路]] - [[電力回路]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちよくりゆうかいろ}} [[Category:電気工学]] [[Category:電気回路]]
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大唐騎士
『大唐騎士』(だいとうきし)は、幻超二によるアーサー王物語、古代中国の妲己、西遊記、聖徳太子等の逸話をミックスしたファンタジー漫画。 講談社より1995年に単行本が刊行されている。 時を経てアーサー王の舟が辿り着いたのは遥か東方の地だった。襲われている女性を守るべく聖剣でオークを切り倒したアーサーだったが、その女性とオークの正体は...... ラストをかなり強引と見るか上手いまとめ方とみるかで論が分かれている。また、一番人気のエピソードは「大唐騎士G」であり、作者も頭を抱えたらしい。。
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『大唐騎士』(だいとうきし)は、幻超二によるアーサー王物語、古代中国の妲己、西遊記、聖徳太子等の逸話をミックスしたファンタジー漫画。 講談社より1995年に単行本が刊行されている。
『'''大唐騎士'''』(だいとうきし)は、[[幻超二]]による[[アーサー王物語]]、古代[[中国]]の[[妲己]]、[[西遊記]]、[[聖徳太子]]等の逸話をミックスしたファンタジー[[漫画]]。 講談社より1995年に単行本が刊行されている。 == 概要 == 時を経て[[アーサー王]]の舟が辿り着いたのは遥か東方の地だった。襲われている女性を守るべく聖剣でオークを切り倒したアーサーだったが、その女性とオークの正体は…… ラストをかなり強引と見るか上手いまとめ方とみるかで論が分かれている。また、一番人気のエピソードは「大唐騎士G」であり、作者も頭を抱えたらしい。{{要出典|date=2019年7月}}。 {{manga-stub}} {{DEFAULTSORT:たいとうきし}} [[Category:漫画作品 た|いとうきし]] [[Category:ファンタジー漫画]] [[Category:アーサー王伝説に関する漫画]] [[Category:西遊記を題材とした漫画作品]]
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北越急行
北越急行株式会社(ほくえつきゅうこう、英: Hokuetsu Express Corporation)は、新潟県でほくほく線を運営する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は新潟県南魚沼市六日町2902番地1に所在する。 国鉄再建法により工事が中断されていた北越北線の工事を引き受けるべく、1984年(昭和59年)8月30日に設立された。この北越北線は非電化の地方ローカル線となる見込みであったが、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、1989年(平成元年)5月31日に電化・高速化の計画変更がなされ、1997年(平成9年)3月22日にほくほく線として開業した。なお、会社設立から開業まで13年を要しているが、これは鍋立山トンネルをはじめとする工事の遅延や、高速化工事の実施によるものである。 開業以来、2014年度まで、東京対北陸の広域輸送を担ってきた特急「はくたか」が通過していたことにより、10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており、収益率についても2001年度の営業係数は73.0パーセントと、第三セクター鉄道トップの座を守ってきた。 しかし、北陸新幹線金沢延伸により特急「はくたか」が廃止されると、もともと収益全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかったことから、2015年度以降赤字に転落している。ただし、開通当初から赤字に転落することを見越して過去の収益を貯め込んでおり、「はくたか」廃止から4年後の2019年3月期においてもなお純資産額は約112億円にのぼる。その純資産の大半は債券などの有価証券として約93億円を保有し、適格機関投資家としての資産運用により約1億8000万円(2019年3月期)の利息収益を挙げ、赤字幅縮小に寄与している。 現在は地域密着型のローカル線として地域輸送を主に行っているが、「ゆめぞら」などのイベント列車による誘客を積極的に実施している。 2023年10月1日現在。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ) 大人特急料金(小児半額・10円未満切り上げ) 大人急行料金(小児半額・10円未満切り上げ) 大人座席指定料金(小児半額・10円未満切り上げ) グリーン料金(小児同額) 乗車券や特急券については通過連絡の扱いがされており、「はくたか」でほくほく線を挟んで越後湯沢と直江津・北陸方面を乗車する場合、六日町および犀潟までのJR線のキロ数によって算出された運賃・料金に六日町 - 犀潟間のほくほく線運賃・料金を足した額となる。なお、上越新幹線の越後湯沢駅で新幹線列車と「はくたか」を乗り換える場合のJR分の特急料金については、新幹線の乗り継ぎ割引の対象となっていた。 なお、東京・大宮方面から北陸方面への往復については、上越新幹線や「はくたか」が利用できる特別企画乗車券「北陸フリー乗車券」がJR東日本から通年(利用期間の制限なし)で発売されていたが、ほくほく線内を含むフリーエリア以外での途中下車はできない。 他のJRの特別企画乗車券でも、週末パスや三連休東日本・函館パス、えちごツーデーパスなど、ほくほく線に乗車可能なものがある。 開業から1年後、『電車でGO!』シリーズに、ほくほく線全区間および乗り入れ区間が収録された。 この他に模型や玩具など多数の商品化が行われている。 先述の通り、2014年度以前の北越急行の収益中、普通列車の収益は全体の1割にも満たないことから、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄え、2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態で2015年3月14日の北陸新幹線金沢開業を迎えた。特急「はくたか」は北越急行の経営を支える列車であったため、北陸新幹線金沢開業に伴う特急「はくたか」の廃止は北越急行の経営に大きく影響する。当面は内部留保を切り崩しながら30年は営業できる見通しである。 新たな収入源として夜間の一部定期普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「貨客混載」を行うことで佐川急便と合意した。2017年春のダイヤ改正以降、適切な停車時間を設定した夜間の列車で、本格的な運用を開始する予定としていた。 2016年11月に試験運行を行い、2017年4月18日より荷物輸送を開始した。当面は平日のみの取り扱いで、越後湯沢駅19時53分発と直江津駅20時44分発の1往復を対象に、列車の車内の一部にスペースを設けて荷物搭載用カーゴを搭載し、宅配荷物を運ぶ。荷物輸送はいずれも途中の六日町駅 - うらがわら駅間のみで、六日町・うらがわら両駅の停車時間は所定ダイヤで3分を確保してトラックと列車間の積み替えに対応させている。
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北越急行株式会社は、新潟県でほくほく線を運営する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は新潟県南魚沼市六日町2902番地1に所在する。
{{混同|北越鉄道|x1=明治時代に存在した鉄道会社}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 北越急行株式会社 | 英文社名 = Hokuetsu Express Corporation | ロゴ = [[File:Hokuetsu Kyuko logo.svg|150px]] | 画像 = [[File:北越急行本社.jpg|250px]] | 画像説明 = 北越急行本社(新潟県南魚沼市) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 949-6633 | 本社所在地 = 新潟県南魚沼市六日町2902-1 | 本社緯度度 = 37|本社緯度分 = 4|本社緯度秒 = 3.9|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 138|本社経度分 = 52|本社経度秒 = 33.6|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 設立 = 1984年8月30日 | 業種 = 5050 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 地方鉄道業 | 代表者 = 小池裕明(代表取締役社長) | 資本金 = * 45億6800万円 (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39">{{Cite web|和書|date= |url=https://hokuhoku.co.jp/company.html |title=第39期決算公告・第39期事業報告 |publisher=北越急行株式会社 |accessdate=2023-08-02}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = * 9万1360株 (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = * 4億5331万0606円 (2023年3月期)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = * △9億3792万6154円 (2023年3月期)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = * △6億2066万2869円 (2023年3月期)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = * △5億2701万7331円 (2023年3月期)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = * 89億2870万6108円 (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = * 92億4032万9338円 (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = * 65名 (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 決算期 = [[3月31日]] | 主要株主 = {{Plainlist| * 新潟県 54.84% * [[上越市]] 13.18% * [[十日町市]] 11.94% * [[第四北越銀行]] 5.00% * [[第四ジェーシービーカード]] 3.33% * [[東北電力]] 3.33% * [[南魚沼市]] 2.00% * [[整理回収機構]] 1.67% * [[大光銀行]] 1.67% * [[湯沢町]] 1.15% * (2023年3月31日現在)<ref name="kessan39" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> }} | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = https://hokuhoku.co.jp/ | 特記事項 = }} '''北越急行株式会社'''(ほくえつきゅうこう、{{Lang-en-short|Hokuetsu Express Corporation}}{{efn|[https://hokuhoku-line.jp/profile.html 英語版サイトの会社概要]では「Hokuetsu Express Co.,Ltd」や「Hokuetsu Kyuko Co., Ltd.」といった表記も見られる。}})は、[[新潟県]]で[[北越急行ほくほく線|ほくほく線]]を運営する[[第三セクター]]方式の[[鉄道事業者|鉄道会社]]である。本社は新潟県[[南魚沼市]]六日町2902番地1に所在する。 == 概要 == {{Main2|設立・建設の経緯|北越急行ほくほく線#歴史}} [[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]により工事が中断されていた北越北線の工事を引き受けるべく、[[1984年]](昭和59年)8月30日に設立された。この北越北線は非電化の地方ローカル線となる見込みであったが、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、[[1989年]](平成元年)5月31日に電化・高速化の計画変更がなされ、[[1997年]](平成9年)3月22日にほくほく線として開業した。なお、会社設立から開業まで13年を要しているが、これは[[鍋立山トンネル]]をはじめとする工事の遅延や、高速化工事の実施によるものである。 開業以来、2014年度まで、東京対北陸の広域輸送を担ってきた特急「[[はくたか]]」が通過していたことにより、10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており<ref>{{Cite journal|和書|author=[[種村直樹]]|month=6|year=1999|title=在来線初の150km/h特急 快走|journal=鉄道ジャーナル|issue=392|pages=31-41|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=種村392}}</ref>、収益率についても2001年度の[[営業係数]]は73.0パーセントと、第三セクター鉄道トップの座を守ってきた<ref name=":0">{{Cite news|title=北越急行、特急廃止響き初の最終赤字 15年3月期|newspaper=日本経済新聞|date=2015-06-26|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO88530340V20C15A6L21000/|accessdate=2015-12-08|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。 しかし、[[北陸新幹線]][[金沢駅|金沢]]延伸により特急「はくたか」が廃止されると、もともと収益全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかったことから<ref name=":1">{{Cite journal|month=3|year=2013|title=北越急行の16年と将来|journal=鉄道ジャーナル|issue=第557号|pages=pp.34-45|publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>、2015年度以降赤字に転落している<ref name=":0" />{{efn|2016年時点での収益率トップは、かつての北越急行と同じくJRに直通し、京阪神・山陽地区から山陰への広域輸送を担う特急「スーパーはくと」や「スーパーいなば」を運行する[[兵庫県]]・[[岡山県]]・[[鳥取県]]の[[智頭急行]]となった。}}。ただし、開通当初から赤字に転落することを見越して過去の収益を貯め込んでおり、「はくたか」廃止から4年後の2019年3月期においてもなお純資産額は約112億円にのぼる。その純資産の大半は債券などの有価証券として約93億円を保有し、[[適格機関投資家]]{{efn|[https://www.fsa.go.jp/common/law/tekikaku/01_b.pdf 適格機関投資家の届出を金融庁長官に行った者(令和3年1月1日現在)]第42番に北越急行株式会社と記載されている。}}としての資産運用により約1億8000万円(2019年3月期)の利息収益を挙げ、赤字幅縮小に寄与している<ref name="kessan35">{{Cite web|和書|date= |url=https://hokuhoku.co.jp/pdf/kessan35.pdf |title=第35期事業報告・計算書類 |format=PDF |publisher=北越急行株式会社 |accessdate=2019-07-17}}</ref>。 現在は地域密着型のローカル線として地域輸送を主に行っているが、「[[北越急行HK100形電車|ゆめぞら]]」などのイベント列車による誘客を積極的に実施している。 == 歴史 == {{Main2|詳細|北越急行ほくほく線#歴史}} *[[1984年]]([[昭和]]59年)[[8月30日]] - 会社設立。 *[[1995年]]([[平成]]7年)[[3月7日]] - 開業への最大の難関となった[[鍋立山トンネル]]が完成。 *[[1997年]](平成9年)[[3月22日]] - ほくほく線 [[六日町駅|六日町]] - [[犀潟駅|犀潟]]間開業。同線を経由する特急「[[はくたか]]」の運転を開始し、JR線と相互直通運転開始。 *[[2004年]](平成16年)[[10月23日]] - [[新潟県中越地震]]により被災。全線で運転見合わせ。なお、[[十日町市]]内のほくほく線十日町トンネル上に[[地盤沈下]]が集中的に発生した。 **[[10月26日]] - 犀潟 - [[まつだい駅|まつだい]]間で運転再開。 **[[11月2日]] - 全線で運転再開。 *[[2014年]](平成26年)11月 - [[金融庁]]へ[[適格機関投資家]]の届け出を行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/124870?page=4|title=赤字も穴埋めした「ほくほく線」の"投資手腕"|author=草町義和|publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済]]オンライン|date=2016-06-30|accessdate=2018-11-24}}</ref>。 *[[2015年]](平成27年)[[3月14日]] - [[北陸新幹線]] [[長野駅|長野]] - [[金沢駅|金沢]]間開業に伴い、特急「はくたか」の運行を終了し、新たにHK100形を使用した最速達列車として超快速「[[北越急行ほくほく線#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]]」を運転<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuhoku.co.jp/1osirase/press-release/20141219.pdf 平成27年3月14日ほくほく線ダイヤ改正]}} - 北越急行、2014年12月19日発表。</ref>、1往復が[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン]]に乗り入れる<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuhoku.co.jp/1osirase/press-release/20150219pr.pdf えちごトキめき鉄道への乗り入れ]}} - 北越急行、2015年2月19日発表。</ref>。JR線とは北越急行からの片乗り入れに変更、えちごトキめき鉄道へは片乗り入れ。 * 2016年(平成28年)5月 - [[旅行会社|旅行業登録]](新潟県知事登録旅行業第2-403号)を行う<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuhoku.co.jp/press/20160707.pdf 超低速スノータートル運行]}} - 北越急行2016年7月7日</ref>。 == 路線 == * [[北越急行ほくほく線|ほくほく線]] [[六日町駅]] - [[犀潟駅]] 59.5 km == 車両 == === 現有車両 === * [[北越急行HK100形電車|HK100形]] ** 北越急行の主力車両で1997年の開業当初から使用されている。運用範囲はほくほく線全線と乗り入れ先の[[信越本線]]([[直江津駅]] - [[犀潟駅]])間、[[上越線]]([[越後湯沢駅]] - [[六日町駅]])間である。標準仕様・「ゆめぞらII」の0番台と「[[ゆめぞら]]」用の100番台がある。 === 過去の車両 === * [[JR西日本681系電車#車両配置と運用線区|681系2000番台]] ** 特急「はくたか」用に1966年に登場。「スノーラビットエクスプレス」の愛称があった。[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[金沢総合車両所]]に4編成18両が常駐し、JR西日本所属車と共通運用された。北陸新幹線金沢延伸開業に伴い2015年3月13日に「はくたか」での運用を終了し、翌3月14日付けでJR西日本に譲渡され「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」に転用された。 * [[JR西日本683系電車#8000番台|683系8000番台]] ** 「はくたか」用に2編成9両が配置されていた。485系の置き換え用として2005年に登場、2015年の「はくたか」廃止後は681系2000番台とともにJR西日本へ移籍し「しらさぎ」に転用された{{efn|2015年4月23日には、特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」にも運用された。}}。 <gallery> ファイル:HK100-4 renewal.JPG|HK100形 ファイル:HK100-8 9 Yumezora2 Matsudai 20131228.jpg|HK100形「ゆめぞらII」 ファイル:Hokuhoku line hakutaka13 service.JPG|681系2000番台 ファイル:Hokuetsu Express 683-8000 series on Hakutaka service.jpg|683系8000番台 </gallery> == 運賃・料金 == 2023年10月1日現在<ref>{{Cite web|和書|url=https://hokuhoku.co.jp/press/20230809.pdf|format=PDF|title=ほくほく線 運賃改定の実施について|date=2023-08-09|accessdate=2023-10-01|publisher=北越急行}}</ref>。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ) {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !style="width:7em;"|キロ程!!運賃(円)!!style="width:7em;"|キロ程!!運賃(円) |- |初乗り1 - 3km||210||31 - 33||800 |- |4 - 6||240||34 - 36||890 |- |7 - 9||260||37 - 39||970 |- |10 - 12||300||40 - 42||1,020 |- |13 - 15||350||43 - 45||1,080 |- |16 - 18||400||46 - 48||1,130 |- |19 - 21||470||49 - 51||1,190 |- |22 - 24||550||52 - 54||1,230 |- |25 - 27||640||55 - 57||1,270 |- |28 - 30||720||58 - 60||1,310 |} 大人特急料金(小児半額・10円未満切り上げ)<ref name="ryokyaku3">{{Cite web|和書|url=https://hokuhoku.co.jp/pdf/eigyo2023/ryokyaku3.pdf#page=6|format=PDF|title=旅客営業規則(旅客営業 3章)第44〜65条|date=2023-10-01|accessdate=2023-10-01|publisher=北越急行}}</ref> * 2015年3月13日以降、定期特急列車の運行はないが、臨時列車の設定が時折行われている。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !キロ程!!指定席(円)!!自由席(円) |- |1 - 50km||310||210 |- |51 - 60km||520||420 |} 大人急行料金(小児半額・10円未満切り上げ)<ref name="ryokyaku3" /> * ただし開業以来、定期急行列車の運行はない(過去に臨時急行として「[[シュプール号|シュプール野沢・苗場]]」と[[新潟県中越地震]]の復旧直後に急行「[[能登 (列車)|能登]]」が一時期ほくほく線を経由したのみ)。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !キロ程!!指定席(円)!!自由席(円) |- |1 - 50km||200||100 |- |51 - 60km||310||210 |} 大人座席指定料金(小児半額・10円未満切り上げ)<ref name="ryokyaku3" /> * 上の急行料金の指定席欄の額はこの座席指定料金を含む。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !料金(円) |100 |} グリーン料金(小児同額)<ref name="ryokyaku3" /> * 特急列車のグリーン車を利用の場合は乗車券・特急券(自由席特急券と同額)・グリーン券が必要。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !料金(円) |520 |} <!-- 旅客営業規則から削除された? 寝台料金(小児同額) * ただし開業以来、寝台車を連結した定期列車の運行はない(過去に臨時列車として[[国鉄583系電車|583系]]寝台電車による臨時急行「[[シュプール号|シュプール野沢・苗場]]」が走行したことがある)。 {| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- !キロ程!!A寝台(円)!!B寝台(円) |- |1 - 60km||600||500 |} --> 乗車券や特急券については[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡]]の扱いがされており、「[[はくたか]]」でほくほく線を挟んで越後湯沢と直江津・北陸方面を乗車する場合、六日町および犀潟までのJR線のキロ数によって算出された運賃・料金に六日町 - 犀潟間のほくほく線運賃・料金を足した額となる。なお、[[上越新幹線]]の[[越後湯沢駅]]で新幹線列車と「はくたか」を乗り換える場合のJR分の特急料金については、[[乗り継ぎ料金制度#新幹線と在来線|新幹線の乗り継ぎ割引]]の対象となっていた。 なお、東京・大宮方面から北陸方面への往復については、上越新幹線や「はくたか」が利用できる[[特別企画乗車券]]「[[北陸フリー乗車券]]」がJR東日本から通年(利用期間の制限なし)で発売されていたが、ほくほく線内を含むフリーエリア以外での[[途中下車]]はできない。 他のJRの特別企画乗車券でも、[[土・日きっぷ|週末パス]]や[[三連休東日本・函館パス]]、えちごツーデーパスなど、ほくほく線に乗車可能なものがある。 == 関連商品 == 開業から1年後、『[[電車でGO!]]』シリーズに、ほくほく線全区間および乗り入れ区間が収録された。 * [[電車でGO!2高速編]]([[1998年]][[4月]]稼働開始 [[アーケードゲーム]]) * [[電車でGO!2高速編|電車でGO!2]]([[1999年]][[3月18日]]発売 [[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ソフト) * [[電車でGO! プロフェッショナル仕様]] (1999年[[12月9日]]発売 PlayStation用ソフト) * [[電車でGO!2高速編#電車でGO!64|電車でGO!64]](1999年[[7月23日]]発売 [[NINTENDO64]]用ソフト) この他に模型や玩具など多数の商品化が行われている。 == 今後の課題 == 先述の通り、2014年度以前の北越急行の収益中、普通列車の収益は全体の1割にも満たない<ref name=":1" />ことから、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄え、2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態<ref>{{Cite book| 和書 |ref=鉄道計画|author=草町義和|title=鉄道計画は変わる。|edition=第1刷|date=2014-02-15|publisher=[[交通新聞社]]|isbn=978-4-330-43814-6}}</ref>で2015年3月14日の北陸新幹線金沢開業を迎えた。特急「はくたか」は北越急行の経営を支える列車であったため、北陸新幹線金沢開業に伴う特急「はくたか」の廃止は北越急行の経営に大きく影響する。当面は内部留保を切り崩しながら30年は営業できる見通しである<ref name=":0" />。 新たな収入源として夜間の一部定期普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「[[貨客混載]]」を行うことで[[佐川急便]]と合意した<ref>{{Cite news|title=佐川、三セク鉄道で宅配便輸送 トラックを代替|newspaper=日本経済新聞|date=2016-06-03|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ03H2T_T00C16A6TJC000/?n_cid=TPRN0004|accessdate=2016-06-06|publisher=日本経済新聞社}}</ref>。2017年春のダイヤ改正以降、適切な停車時間を設定した夜間の列車で、本格的な運用を開始する予定としていた<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤久巳|month=2|year=2017|title=変ぼうを遂げた北越急行|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=670|pages=68-73|publisher=[[交友社]]|ref=伊東670}}</ref>。 2016年11月に試験運行を行い、[[2017年]][[4月18日]]より荷物輸送を開始した。当面は平日のみの取り扱いで、越後湯沢駅19時53分発と直江津駅20時44分発の1往復を対象に、列車の車内の一部にスペースを設けて荷物搭載用カーゴを搭載し、宅配荷物を運ぶ。荷物輸送はいずれも途中の六日町駅 - うらがわら駅間のみで、六日町・うらがわら両駅の停車時間は所定ダイヤで3分を確保してトラックと列車間の積み替えに対応させている<ref>{{Cite web|和書|title=北越急行ほくほく線「宅配荷物列車」スタート…六日町駅で出発式 |publisher=response.jp|date=2017-04-18|url=https://response.jp/article/2017/04/18/293658.html |accessdate=2017-04-20}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[えちごトキめき鉄道]] == 外部リンク == {{commonscat|Hokuetsu Express}} * [https://hokuhoku.co.jp/ 北越急行公式ウェブサイト] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほくえつきゆうこう}} [[Category:北越急行|*]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:南魚沼市の企業]] [[Category:新潟県の交通]] [[Category:第三セクター鉄道]] [[Category:1984年設立の企業]]
2003-09-10T10:09:25Z
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北越急行ほくほく線
ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅から同県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ北越急行の鉄道路線である。 北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線(ほくえつほくせん)」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。 開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌在来線最高速度となる140 km/h運転が行われ、1998年(平成10年)12月からは150 km/h運転が、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始された。2015年(平成27年)3月14日の特急「はくたか」運行終了により最高速度160 km/hで運行する列車は無くなり、2023年(令和5年)3月現在はHK100形による普通列車が最高速度95 km/hで運転されている。 ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13 キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった。 既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道()が新黒井 - 浦川原間を全通させていた。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された。 この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された。 第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、「北越北線()」案と「北越南線()」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった。 北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた。 この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった。 その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった。 1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた。 北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地(2005年の合併以降の上越市頸城区百間町付近)も通らないことになった。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した。 1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。 公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた。 まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった。この区間を先に着工したのは、松代と浦川原の間でのルートの決着が付いていなかったためである。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(魚沼丘陵駅)、赤倉信号場、津池(美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40キログラム(kg)である40 kgレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた。 続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代(まつだい駅)、儀明信号場、頸城大島(ほくほく大島駅)、沢田(虫川大杉駅)、増田(くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった。1979年度完成を予定していた。 停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた。 その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった。 この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった。 北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした。 国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクター会社を設立して引き受けることが可能であると定めていた。岩手県の三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった。 1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中元首相の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる。 「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行株式会社が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された。 第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。気動車による1両または2両編成程度を想定、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体的にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅(ほくほく大島駅)の交換設備は省略されることとなった。また、上下列車の待避線への同時進入を考慮しないこととして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線との平面交差から立体交差に修正された。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった。また新座(しんざ)、顕聖寺(うらがわら)、大池(大池いこいの森)の各駅が要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)。 建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある鍋立山トンネルであった。鍋立山トンネルは工事中断時点で中央部に645メートルの未掘削区間が残されており、1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先進工法(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により支柱が座屈するなどの問題を生じた。続いてトンネルボーリングマシン(TBM)を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった。その後、薬液の注入や、最終的には手掘りも実施するなど、実に29の工法が駆使された。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工となり、これにより開業のめどが立つことになった。結果的にこの区間には10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることとなり、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された。 工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された。当時、北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線、糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。 北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200 km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。 これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。 配線についても変更が行われ、当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であったが、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた。 設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50 kgレールから60 kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とし、安全側線は省略されたままとした。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた。 最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった。 この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した。これは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である。 試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160 km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道総合技術研究所、公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160 km/h運転試験が開始された。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160 km/hの認可を付与された。しかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた。 以上の経緯を経てほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業し、同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急「はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であったが、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという。加えて、沿線では、開業により沿線地域では高校へ自宅からの通学が可能となり、進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、高校進学を機にほくほく線沿線に引っ越す事例さえ見られた。上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった。 その後、後述するように最高速度について段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月8日から「はくたか」が150 km/h運転を開始したが、この時にはダイヤ改正は行わず、運転上の余裕時分の確保にあてられた。続いて2002年(平成14年)3月23日から当初の予定通りの160 km/h運転が開始され、ほくほく線内においては140 km/hでの運行当時と比較して1分30秒の所要時間短縮が実現した。加えて車両面も高速化が進み、160 km/h運転開始時にJR西日本の485系が160 km/h対応車の681系と交代し、2005年(平成17年)3月1日には、北越急行が160 km/h対応車の683系8000番台を投入したことで、JR東日本の485系が撤退し、以後定期特急列車はすべて160 km/h運転対応の車両となった。 ほくほく線は「雪対策」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行っているが、2000年代には度々自然災害に見舞われている。特に2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせ、10月26日より被害の少なかった犀潟 - まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し、11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行「能登」がほくほく線を経由して運転された。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した。 一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、ほくほく線開業のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線高崎 - 長野間が開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が石川県東部・富山県・新潟県西部への最速ルートであることから、開業まで運転されていた特急「白山」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった。しかし、長野以北についても翌1998年(平成10年)3月12日に長野 - 上越(仮称)間、2001年(平成13年)4月25日に上越(仮称) - 富山間、2005年(平成17年)4月27日に富山 - 金沢 - 白山総合車両基地(仮称)間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直されるたびにフル規格での建設が進められていった。 当時、ほくほく線を運営する北越急行は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており。2001年度の営業係数は73.0パーセントと、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であったが、全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかった。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えることとした。先述のJR東日本の485系を683系8000番台の自社による投入で置き換えたことも、JR東日本側の事情のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増収や、JR東日本への車両使用料の支払いを無くし、逆に従来3社で相殺していたJR東日本・西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった。こうして、最終的には2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態でほくほく線は2015年3月14日の北陸新幹線長野 - 金沢間開業を迎えることとなった。 2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」の廃止により、ほくほく線は地域輸送を主とする路線として再出発を切ることになった。このため、同日より国土交通省運輸局への申請最高運転速度を130 km/hに引き下げ、設備についても順次スリム化・使用停止・撤去が行われている。 その後、北越急行は2015年度決算で最高速度引き下げなどによる施設の評価損等により前年度の11億円の黒字から11億円の最終赤字に転落、その後も6億円前後の最終赤字で推移している。しかし北越急行では2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが直江津駅(アクセスには北陸新幹線でも上越妙高駅からの乗り換えを要する)で乗降していることや、沿線の十日町を中心に東京や金沢と相互のビジネス需要が見込まれることから、「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」とし、事業を当面継続することは可能であるという見通しを持った。 運行面では特急の廃止により普通列車の時分短縮が実現した。加えて「ほくほく線全体の速さと便利さをアピール」する「快速を超える列車」として、前年の2014年(平成26年)から越後湯沢 - 直江津間を1時間で結ぶ「超快速列車」の運行を計画し、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で「スノーラビット」の愛称で運転開始した。この超快速は日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年時点で表定速度が最も高い列車であり、特に直江津駅からは、上越妙高駅乗り換えの北陸新幹線経由と所要時間で遜色がなく、かつ運賃+特急料金が1,000円以上安いことをセールスポイントとし、北陸新幹線との対抗馬、線内における「はくたか」の後継としての側面も名実ともに強く意識されている。一方で、超快速列車の越後湯沢発1本と折り返しの普通列車越後湯沢行きを、同日信越本線を転換して開業したえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅まで直通させることで、沿線から高田駅・上越妙高駅へのアクセスを高めているなど、北陸新幹線と協力する一面もある。 また、新たな収入源として、2016年(平成28年)には普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「貨客混載」を行うことで佐川急便と合意し、試運転(トライアル)ののち、2017年4月18日より夜間の普通列車1往復で、本格的な運用が開始されている。これは、先述のように並行道路である国道253号の道路状況が峠越えの連続や冬季の積雪で依然劣悪であり、場合によっては高速道を用いて長岡経由で輸送せざるを得ないなど、営業所間の輸送に支障が生じる場合があるためで、普通列車として使用しているHK100形車両に佐川急便のカーゴ台車を固定可能とする改造を行い、運用している。 2018年5月29日、北越急行は同年12月1日より普通運賃と通勤定期運賃を10 %値上げする変更認可申請を国土交通省北陸信越運輸局に行ったことを発表した。また、トイレ付き車両を当初の計画よりも前倒しで導入することを検討していることも発表された。 2018年12月1日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と通勤定期が10 %値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された。 先述のように、ほくほく線は数回の工事計画の変更を経て、全線単線、直流1500 V電化で建設されている。しかし、高速運転を実施し、1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯を通過するため、各種の対策が施されている。 開業当時の線内最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成電鉄成田空港線(成田スカイアクセス線)の「スカイライナー」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最速であった。このため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。 160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったことや、「新幹線と在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる。「140 km/hでも十分」という意見もあったが、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという。 1947年に定められた鉄道運転規則に基づき、どんな場合でもブレーキ開始から走行600 m以内に停止できること(600メートル条項)が、在来線では必須とされてきた。2009年現在でも、新幹線以外の鉄道ではこの停止距離が標準的な要求となっている。ほくほく線の車両も600 m以内での停止要求は実現できていないが、ほくほく線は後述する原則踏切を排した完全立体の線路、ATS-P形式の自動列車停止装置、GG信号等が導入され、特例措置として160 km/h走行が認められた。 しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であり、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、客室扉が閉じた際に車体に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証されたものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている。 ただし、通常ダイヤであれば155 km/h程度で定時運行が可能で、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられていた。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、勾配などの影響から下り列車(犀潟方面行き)が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間、上り列車(六日町方面行き)では薬師峠トンネル内となっている。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている。 北陸新幹線開業後の2015年3月14日以降は特急列車の160 km/h運転を終了し、国土交通省運輸局への申請最高運転速度を160 km/hから引き下げている。なお、営業列車は基本的に110 km/h(2023年3月18日からは95 km/h)で運転する普通列車のみとなったが、E491系検測車や485系などのJR車両を運転するため、申請最高運転速度は130 km/hとしている。なお、160 km/h運転に関わる技術は成田スカイアクセス線へ継承されており、日本鉄道運転協会から北越急行に対して、160 km/hによる運転の実績と京成電鉄への技術承継を評価する「東記念賞」が授与されている。 建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている。踏切は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない。 軌条(レール)は1メートルあたりの重さが60 kgである60 kgレールが大半を占め、一部の区間では50 kgレールも使用している。2009年現在では、在来線では50 kgレールが一般的で60 kgレールの採用は少ない。60 kgレールは新幹線と同じレールで、その重さにより高速走行の衝撃に耐えることができ、車両の高速走行の安定化に貢献している。 軌道は、トンネル内や高架橋など全線の約7割でスラブ軌道が採用され、軌道の強化と保守の低減が図られている。このスラブ軌道には「枠型スラブ」と称するコンクリート使用量が少ないものが採用されており、その後東北新幹線・北陸新幹線の延伸部分でも採用された。 築堤など約2割の区間はバラスト軌道を用いたが、築堤上にアスファルトを敷き雨水浸水対策をしたうえで軌道を敷設している。このほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間もある。住宅の多い地域では、バラスト軌道とコンクリート枕木の組み合わせを採用し、騒音低減を図るなどの配慮が行われている。 本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器12組はノーズ可動クロッシングとしたが、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である。十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となるため、ノーズ可動クロッシングを使用していない。また、交換設備はすべて1線スルー方式で、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である。 魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである。後述のように単線であることに加えて、非電化を前提として建設が開始されたため、通常の複線電化されたトンネルと比較してトンネル断面積が小さいことが特徴である。 全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。 全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある。 構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたためKS-16荷重を採用していた。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している。ただし雪かき車の通行は想定されており、設計に際してDD14形・DD53形の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮され、荷重試験や軌道検測車による検測ではDD51形が入線している。 高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用しているほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している。 最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続トラスを2連用いた橋梁となっている。 列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅と十日町駅以外は、すべて無人駅である。特急の停車しない駅のプラットホームは、虫川大杉駅の1番線のみ9両分の長さで、ほかはすべて2両分のみである。また、信号場は3か所ともトンネル内にある。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている。当初計画では制限速度45 km/hの振り分け分岐器を使用することになっていたが、そのままでは一線スルー構造を実現できないことから、半径3,000 mのSカーブとすることによって対処している。 「はくたか」・快速が停車しない駅では列車が高速で通過して危険であることから、地上駅についてはホームへの入口にはスイングゲートを装備し、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがなされた。地下駅の美佐島駅は、特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及び、通過列車が接近した場合に風圧によって飛ばされる危険が高いことなどから、二重の防風扉を装備し、客扱い時以外はホームを封鎖する。無人駅ながらホーム部分は常に監視カメラによって管理されており、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される。 車両基地は六日町駅に隣接しており、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と検修庫に分かれている。なお、後述する雪対策の観点から、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている。 閉塞方式は単線自動閉塞式である。列車集中制御装置 (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる。 開業当初は列車密度および最高速度の問題と160 km/h運転の可否(GG信号の点灯不点灯)を手前から判断する必要から、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用して閉塞区間を比較的短区間で設定しており、本線の1閉塞区間の平均の距離は1,566メートルであった。 2015年3月14日以降は特急列車の160 km/h運転を終了し、加えて列車の設定本数が半減したため、本線にある閉塞信号機はJR線と接続する六日町 - 赤倉信号場間とくびき - 犀潟間の各1か所を除いて使用停止とし、それ以外の区間では列車の交換施設がある駅または信号場の間に設置されていた複数の閉塞区間を統合して1つの閉塞区間とした。なお、使用停止となった閉塞信号機は2016年度中にすべて撤去されているが、長大トンネル内での走行位置を運転士が判断できるようにする必要性から、従来閉塞信号機が合った個所に黄色い丸の反射板と数字による「地点標識」を順次新設しており、地点標識での確認喚呼を新たに設けている。 保安装置(自動列車停止装置)はATS-P形を採用している。 当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に自動列車制御装置 (ATC) の導入を求めていたが、導入コストの問題のほか、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため、ATS-P形の導入となった。このATS-P形の全面導入により、ほくほく線の交換駅では安全側線を廃止し、交換列車同士の同時進入についても本線側55 km/h・分岐側45 km/hに制限速度が緩和されている。 また、2015年3月13日以前は130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入されていた。このGG信号は、ATS-P形のトランスポンダ車上子を搭載した車両に限って現示されたもので、トランスポンダ車上子搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される。GG信号は中3灯を空けて点灯することにより視認性を向上している。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった。また、GG信号を表示する出発信号機の下にはオレンジ色の速度標識が掲出されたが、これは制限速度ではなく、当該区間の許容速度を示す標識であった。 なお、申請最高運転速度を130 km/hへ引き下げた2015年3月14日以降は、5灯式信号機についても3現示のみの点灯となり、速度標識も順次撤去されている。 160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる交流電化の方が有利な面が多いが、トンネルが内燃動車の運転を前提として建設されたために断面が小さく、直流電化に比べて高い電圧を使用する交流電化に必要な絶縁離隔確保ができないことや、前後のJR線が直流電化であることから、やむなく直流電化が採用されている。架線引きとめについては完成済みのトンネル天井を一部壊したほか、建設時期によるトンネル断面の変化点を利用して対応した。 架線支持方式は、高速走行時にも電車が安定して給電を受けられるように、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用しているが、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している。 変電所は、おおむね10 km間隔で六日町・津池・十日町・松代・大島・浦川原・大潟の7か所に設置されており、総出力は33,000 kWとしている。これは総延長が約60 kmの鉄道路線としては異例の重装備であるが、「はくたか」運行終了に伴い設備のスリム化を図るため、津池変電所を廃止、大島・大潟の変電所からの受電を止めることで、使用する変電所を4か所に削減する予定としている。また沿線が有数の豪雪地帯であるため、一部を除いて変圧器などの重電部品は建屋に収納する対策が施されている。 前述の通り、路線長の68パーセントがトンネルであるが、残る地上区間については先述したほかにも数々の雪対策が施されている。これら対策を開業当初から施したことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い。 このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である。 地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形電車のスノープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている。これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねないため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている。 開業当初から、越後湯沢駅での上越新幹線との連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている。特急列車が廃止された2015年3月14日以降は普通列車を主体としたダイヤとなり、2023年3月18日のダイヤ改正より線内で通過運転を行う列車が無くなった。また、全ての定期列車がワンマン運転を実施している。 正式な起点は六日町駅であり、六日町駅から犀潟駅へ向かう列車が下り、逆方向を上りとしているが、列車番号は犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が通常下り列車を表す奇数、逆方向が通常上り列車を表す偶数となっている。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であったことから、北陸本線に合わせたためであり、「はくたか」廃止後もそのままである。本記事では、以下路線の起点に則って上り・下りを表記する。 駅員が集改札を行っている駅では全てのドアから乗降ができるが、それ以外の駅(無人駅)では1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式となっている。 線内各駅に停車する普通列車がおおむね毎時1本運転されている。直江津駅 - 越後湯沢駅間での運転を基本とし、線内途中駅を始発・終着とする列車はないが、朝夕を中心にJRとの境界駅である犀潟駅・六日町駅発着の列車が設定されている。 一部列車は日曜日を中心に後述の「ゆめぞら」の限定運用となっており、トンネル走行時に映像上映が行われている。詳しい運行状況は北越急行の公式サイトで確認することができる。 2015年3月14日のダイヤ改正で特急「はくたか」が全廃されたことに伴い、特急列車優先による待ち合わせが解消されたことから、普通列車の所要時間は1列車あたり10分程度短縮された。 1997年3月22日のほくほく線開業から北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間開業前日の2015年3月13日までは、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車と、地域内利用を主眼とした普通列車の2系統を主体とする運行形態が取られていた。 ほくほく線内を運転する普通列車は、特急列車の待避や交換待ちなどで数駅ごとに長時間停車する列車が多かった。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津駅から六日町駅までで49分45秒なのに対して、最長の所要時間を要する列車では六日町駅から直江津駅までに1時間24分かかっていた。 開業時から運行されていた特急列車である。1999年時点では1日10往復運行されており、「はくたか」同士のすれ違いは56回中24回がほくほく線内で行われていた。 開業から2022年3月18日のダイヤ改正までは、一部駅を通過する快速列車が運転されていた。 2015年3月14日のダイヤ改正で新設され、2023年3月18日のダイヤ改正まで運行された列車。独自の列車種別である超快速(ちょうかいそく)は市販の時刻表にも正式に記載されたもので、JR線区間でもこの種別が使用された。また、列車名は公募により決定されたものだった。 2022年3月11日までは上り1本・下り2本が設定されていた。途中十日町駅のみ停車の最速列車は越後湯沢駅から直江津駅までの84.2 kmを57分で走破し、越後湯沢駅 - 直江津駅間での表定速度は88.6 km/h、ほくほく線内に限れば99.2 km/hに達する。これは485系使用便の「はくたか」を上回っており、日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては2021年時点で表定速度が最も高い列車であった。2022年3月12日改正ダイヤでは越後湯沢駅→直江津駅間を1時間1分で結んでおり、表定速度は82.8 km/hと下がった。 なお運行開始以来、一部の列車は直江津駅から列車番号を変え、無愛称の普通列車としてえちごトキめき鉄道妙高はねうまラインの新井駅発着で運行していた。 1998年 - 1999年シーズンの時点で神戸駅 - 越後湯沢駅間に急行「シュプール野沢・苗場」が運行されていた。 2015年11月7日以降運行されている団体専用列車。普通列車でも50分程度で走破する線内を約4時間(第1回の場合、犀潟駅10:44→六日町駅着14:48)かけて走行する。 「ウサギといえばカメだよね」という北越急行社内での冗談から、超快速「スノーラビット」の対極に位置する列車として生まれ、難工事で知られる鍋立山トンネルを10 km/h以下の低速で通過するほか、トンネル内の信号場では列車が通過しない側の乗降用ドアと貫通扉を開け、離合時に発生する10 m/sの風を体験する試みも行われた。 初回運行時は全車指定席の臨時列車(運賃と指定席料金のみで乗車可能)として運行されたが、2016年8月28日の第2回運行以降は北越急行が旅行業登録を行い、食事付きの団体専用列車として運行されている。 ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、全列車とも、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する。ただし2015年3月13日まで運行されていた特急列車では、境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)2012年時点では運転士・車掌ともにJR東日本直江津運輸区が担当していた。なお、開業当初から2004年3月ダイヤ改正まではJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった。 ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている。 開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであったため、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった。2012年にPRCの更新が行われた際には、ほくほく線各駅にアニメーションで全線の列車の位置や遅れ状況などを表示する列車運転状況表示装置が設置された。 また、運転通告(運転指令員から運転士に対しての指示)についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため、無線伝達をもって運転通告としている。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える。 ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当していたが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなっていた。一方北越急行の運転士が担当する普通列車のJR東日本区間への乗り入れ先では、JR東日本の指揮下となる。 ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市の旧市域)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧町村部にあたる大島区・浦川原区・頸城区・大潟区)の4地域に分けられる。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていたため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない。東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上したものの、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で、かつ、2008年の新潟県内公立高校普通科の学区撤廃まで学区も異なっていたため、当初より線内需要や地域を越えた広域流動需要は厳しいと見られていた。 こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である頸城自動車は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による東頸バスの営業を開始し、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している。 峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた越後湯沢 - 十日町が、開業により普通列車でも30分台で結ばれるようになるなどの時短効果に加え、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価されたこともあり、現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度であったものが2012年には110万人に増加している。ただし、通学定期の利用者数は2012年がピークとなり、翌年には5 %減となっている。 特急が運行していた2011年度(平成23年度)の輸送密度は約7,780人/日であるが、これは旧国鉄路線から転換あるいは日本鉄道建設公団建設中の新線を継承した第三セクター鉄道路線(以下「旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線」)としては、愛知環状鉄道線(約9,816人/日)に次いで2番目に高かった。2006年度(平成18年度) - 2010年度(平成22年度)、および2012年度(平成24年度) - 2014年度(平成26年度)は輸送密度が8,000人/日以上を記録していたが、そのような旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線も愛知環状鉄道線とこの路線の2路線のみであった。 ほくほく線の輸送実績を下表に記す。表中、最大値には「」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版及び管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)より作成。 ほくほく線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最大値には「」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版より作成。 ほくほく線内の普通列車は、特急列車「はくたか」への影響を最小限とするため、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110 km/hと、優れた加速性能(3.0 km/h/s)が要求された。 2015年3月13日まで運行された特急「はくたか」については、北越急行の保有車両とJR東日本・西日本が保有する車両が使用された。 1997年の開業当初は、特急「はくたか」の経由する各社の営業キロを按分することによって、JR西日本・北越急行・JR東日本が4:2:1の比率で車両を運用しており、JR西日本では681系と485系、北越急行は681系、JR東日本は485系を使用していた。 その後、2002年のダイヤ改正ではJR西日本の485系は681系に置き換えられ、485系を運用するのはJR東日本だけとなった。485系の限定運用は全体の運行効率を引き下げることになっていた上、681系とのサービス格差が乗客からも指摘されるようになったため、北越急行とJR東日本の協議により、JR東日本の485系は北越急行の新造した683系によって置き換えられることになった。 いずれも特急「はくたか」で運用された。北越急行保有の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式として製造した。これは、車両選定の段階で160 km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理があったことが理由として挙げられている。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと、過去に経験のない高速運転を実施するために長期にわたる試験が必要となったが、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であったことが理由として挙げられる。 北越急行所属車については、独自の赤主体の塗装、「スノーラビットエクスプレス」(Snow Rabbit Express)という車両愛称を持ち、車体には「SRE」とユキウサギのロゴマークが施されていた。運用も当初は区別されていたが、2002年3月ダイヤ改正以降はJR車との共通運用となっていた。 2015年3月14日の北陸新幹線開業後は全車両が同日付でJR西日本に譲渡され、主に「しらさぎ」「能登かがり火」「ダイナスター」で運用されている。塗装も同年6月初めまでに順次「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更された。 以下、「はくたか」以外で乗り入れ実績のある、あるいは予定されている車両である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅から同県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ北越急行の鉄道路線である。 北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線(ほくえつほくせん)」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌在来線最高速度となる140 km/h運転が行われ、1998年(平成10年)12月からは150 km/h運転が、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始された。2015年(平成27年)3月14日の特急「はくたか」運行終了により最高速度160 km/hで運行する列車は無くなり、2023年(令和5年)3月現在はHK100形による普通列車が最高速度95 km/hで運転されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13 キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津を通る120 kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道()が新黒井 - 浦川原間を全通させていた。当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。この時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった。1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。以降、「北越北線()」案と「北越南線()」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "この当時、国鉄の新線は1922年(大正11年)に制定された鉄道敷設法に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の岡田正平に経過地の裁定を一任することを決議していた。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた。この頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた。これにより十日町では飯山線と直交するルート案となり、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から経路が外れて頸城村の中心地(2005年の合併以降の上越市頸城区百間町付近)も通らないことになった。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。これを基に工事実施計画の指示が行われた。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "まず六日町 - 十日町間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった。この区間を先に着工したのは、松代と浦川原の間でのルートの決着が付いていなかったためである。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町(魚沼丘陵駅)、赤倉信号場、津池(美佐島駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40キログラム(kg)である40 kgレールを使用し、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "続いて1972年(昭和47年)10月11日に十日町 - 犀潟間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代(まつだい駅)、儀明信号場、頸城大島(ほくほく大島駅)、沢田(虫川大杉駅)、増田(くびき駅)と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった。1979年度完成を予定していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた。しかし1973年(昭和48年)に第一次オイルショックに見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクター会社を設立して引き受けることが可能であると定めていた。岩手県の三陸鉄道のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然田中角栄が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、第三セクターでの引き受け案を持ち出した。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた。当時の君健男新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中元首相の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクター化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている。こうして1984年(昭和59年)8月30日に北越急行株式会社が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された。気動車による1両または2両編成程度を想定、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった。これにより全体的にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅(ほくほく大島駅)の交換設備は省略されることとなった。また、上下列車の待避線への同時進入を考慮しないこととして安全側線も省略された。JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線との平面交差から立体交差に修正された。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった。また新座(しんざ)、顕聖寺(うらがわら)、大池(大池いこいの森)の各駅が要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある鍋立山トンネルであった。鍋立山トンネルは工事中断時点で中央部に645メートルの未掘削区間が残されており、1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先進工法(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により支柱が座屈するなどの問題を生じた。続いてトンネルボーリングマシン(TBM)を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった。その後、薬液の注入や、最終的には手掘りも実施するなど、実に29の工法が駆使された。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工となり、これにより開業のめどが立つことになった。結果的にこの区間には10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることとなり、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された。当時、北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線、糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200 km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "配線についても変更が行われ、当初計画では、六日町駅では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、越後湯沢からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする渡り線が追加されることになった。十日町駅では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であったが、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった。犀潟駅では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、信越本線の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする改良を実施した。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を50 kgレールから60 kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) をATS-P形とし、安全側線は省略されたままとした。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した。これは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160 km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道総合技術研究所、公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160 km/h運転試験が開始された。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160 km/hの認可を付与された。しかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160 km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140 km/hとされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "以上の経緯を経てほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業し、同時に、上越新幹線と越後湯沢駅で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ特急「はくたか」が、ほくほく線経由で運転を開始した。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は東海道新幹線で米原を経由するルートが一般的であったが、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された。なお、ほくほく線開業後、まつだい駅から松之山温泉を訪れる行楽客が増えたという。加えて、沿線では、開業により沿線地域では高校へ自宅からの通学が可能となり、進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり、高校進学を機にほくほく線沿線に引っ越す事例さえ見られた。上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "その後、後述するように最高速度について段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月8日から「はくたか」が150 km/h運転を開始したが、この時にはダイヤ改正は行わず、運転上の余裕時分の確保にあてられた。続いて2002年(平成14年)3月23日から当初の予定通りの160 km/h運転が開始され、ほくほく線内においては140 km/hでの運行当時と比較して1分30秒の所要時間短縮が実現した。加えて車両面も高速化が進み、160 km/h運転開始時にJR西日本の485系が160 km/h対応車の681系と交代し、2005年(平成17年)3月1日には、北越急行が160 km/h対応車の683系8000番台を投入したことで、JR東日本の485系が撤退し、以後定期特急列車はすべて160 km/h運転対応の車両となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ほくほく線は「雪対策」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行っているが、2000年代には度々自然災害に見舞われている。特に2004年(平成16年)10月23日の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせ、10月26日より被害の少なかった犀潟 - まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し、11月2日に全線で運転を再開した。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160 km/h運転を再開している。また、2005年(平成17年)2月11日より上越線が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって急行「能登」がほくほく線を経由して運転された。2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、ほくほく線開業のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線高崎 - 長野間が開業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が石川県東部・富山県・新潟県西部への最速ルートであることから、開業まで運転されていた特急「白山」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった。しかし、長野以北についても翌1998年(平成10年)3月12日に長野 - 上越(仮称)間、2001年(平成13年)4月25日に上越(仮称) - 富山間、2005年(平成17年)4月27日に富山 - 金沢 - 白山総合車両基地(仮称)間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直されるたびにフル規格での建設が進められていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "当時、ほくほく線を運営する北越急行は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており。2001年度の営業係数は73.0パーセントと、第三セクター鉄道の中では経営状態は良好であったが、全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかった。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えることとした。先述のJR東日本の485系を683系8000番台の自社による投入で置き換えたことも、JR東日本側の事情のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増収や、JR東日本への車両使用料の支払いを無くし、逆に従来3社で相殺していたJR東日本・西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった。こうして、最終的には2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態でほくほく線は2015年3月14日の北陸新幹線長野 - 金沢間開業を迎えることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」の廃止により、ほくほく線は地域輸送を主とする路線として再出発を切ることになった。このため、同日より国土交通省運輸局への申請最高運転速度を130 km/hに引き下げ、設備についても順次スリム化・使用停止・撤去が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、北越急行は2015年度決算で最高速度引き下げなどによる施設の評価損等により前年度の11億円の黒字から11億円の最終赤字に転落、その後も6億円前後の最終赤字で推移している。しかし北越急行では2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが直江津駅(アクセスには北陸新幹線でも上越妙高駅からの乗り換えを要する)で乗降していることや、沿線の十日町を中心に東京や金沢と相互のビジネス需要が見込まれることから、「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」とし、事業を当面継続することは可能であるという見通しを持った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "運行面では特急の廃止により普通列車の時分短縮が実現した。加えて「ほくほく線全体の速さと便利さをアピール」する「快速を超える列車」として、前年の2014年(平成26年)から越後湯沢 - 直江津間を1時間で結ぶ「超快速列車」の運行を計画し、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で「スノーラビット」の愛称で運転開始した。この超快速は日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年時点で表定速度が最も高い列車であり、特に直江津駅からは、上越妙高駅乗り換えの北陸新幹線経由と所要時間で遜色がなく、かつ運賃+特急料金が1,000円以上安いことをセールスポイントとし、北陸新幹線との対抗馬、線内における「はくたか」の後継としての側面も名実ともに強く意識されている。一方で、超快速列車の越後湯沢発1本と折り返しの普通列車越後湯沢行きを、同日信越本線を転換して開業したえちごトキめき鉄道妙高はねうまライン新井駅まで直通させることで、沿線から高田駅・上越妙高駅へのアクセスを高めているなど、北陸新幹線と協力する一面もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、新たな収入源として、2016年(平成28年)には普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「貨客混載」を行うことで佐川急便と合意し、試運転(トライアル)ののち、2017年4月18日より夜間の普通列車1往復で、本格的な運用が開始されている。これは、先述のように並行道路である国道253号の道路状況が峠越えの連続や冬季の積雪で依然劣悪であり、場合によっては高速道を用いて長岡経由で輸送せざるを得ないなど、営業所間の輸送に支障が生じる場合があるためで、普通列車として使用しているHK100形車両に佐川急便のカーゴ台車を固定可能とする改造を行い、運用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2018年5月29日、北越急行は同年12月1日より普通運賃と通勤定期運賃を10 %値上げする変更認可申請を国土交通省北陸信越運輸局に行ったことを発表した。また、トイレ付き車両を当初の計画よりも前倒しで導入することを検討していることも発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2018年12月1日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と通勤定期が10 %値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "先述のように、ほくほく線は数回の工事計画の変更を経て、全線単線、直流1500 V電化で建設されている。しかし、高速運転を実施し、1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯を通過するため、各種の対策が施されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "開業当時の線内最高速度は160 km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成電鉄成田空港線(成田スカイアクセス線)の「スカイライナー」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最速であった。このため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "160 km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160 km/hであったことや、「新幹線と在来線の軌間の比率を考えると、200 km/hに対して160 km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる。「140 km/hでも十分」という意見もあったが、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1947年に定められた鉄道運転規則に基づき、どんな場合でもブレーキ開始から走行600 m以内に停止できること(600メートル条項)が、在来線では必須とされてきた。2009年現在でも、新幹線以外の鉄道ではこの停止距離が標準的な要求となっている。ほくほく線の車両も600 m以内での停止要求は実現できていないが、ほくほく線は後述する原則踏切を排した完全立体の線路、ATS-P形式の自動列車停止装置、GG信号等が導入され、特例措置として160 km/h走行が認められた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であり、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、客室扉が閉じた際に車体に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証されたものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140 km/hとした。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で、1998年12月8日から150 km/h運転を開始した。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い、2000年11月21日には160 km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認、2002年3月23日から160 km/h運転が開始されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ただし、通常ダイヤであれば155 km/h程度で定時運行が可能で、160 km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられていた。また、最高速度である160 km/hで走行できる区間は、勾配などの影響から下り列車(犀潟方面行き)が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間、上り列車(六日町方面行き)では薬師峠トンネル内となっている。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130 km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160 km/hまで加速させている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "北陸新幹線開業後の2015年3月14日以降は特急列車の160 km/h運転を終了し、国土交通省運輸局への申請最高運転速度を160 km/hから引き下げている。なお、営業列車は基本的に110 km/h(2023年3月18日からは95 km/h)で運転する普通列車のみとなったが、E491系検測車や485系などのJR車両を運転するため、申請最高運転速度は130 km/hとしている。なお、160 km/h運転に関わる技術は成田スカイアクセス線へ継承されており、日本鉄道運転協会から北越急行に対して、160 km/hによる運転の実績と京成電鉄への技術承継を評価する「東記念賞」が授与されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80 km/hである。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている。踏切は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130 km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "軌条(レール)は1メートルあたりの重さが60 kgである60 kgレールが大半を占め、一部の区間では50 kgレールも使用している。2009年現在では、在来線では50 kgレールが一般的で60 kgレールの採用は少ない。60 kgレールは新幹線と同じレールで、その重さにより高速走行の衝撃に耐えることができ、車両の高速走行の安定化に貢献している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "軌道は、トンネル内や高架橋など全線の約7割でスラブ軌道が採用され、軌道の強化と保守の低減が図られている。このスラブ軌道には「枠型スラブ」と称するコンクリート使用量が少ないものが採用されており、その後東北新幹線・北陸新幹線の延伸部分でも採用された。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "築堤など約2割の区間はバラスト軌道を用いたが、築堤上にアスファルトを敷き雨水浸水対策をしたうえで軌道を敷設している。このほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間もある。住宅の多い地域では、バラスト軌道とコンクリート枕木の組み合わせを採用し、騒音低減を図るなどの配慮が行われている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器12組はノーズ可動クロッシングとしたが、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である。十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130 km/h以下の速度での通過となるため、ノーズ可動クロッシングを使用していない。また、交換設備はすべて1線スルー方式で、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである。後述のように単線であることに加えて、非電化を前提として建設が開始されたため、通常の複線電化されたトンネルと比較してトンネル断面積が小さいことが特徴である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたためKS-16荷重を採用していた。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している。ただし雪かき車の通行は想定されており、設計に際してDD14形・DD53形の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮され、荷重試験や軌道検測車による検測ではDD51形が入線している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用しているほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続トラスを2連用いた橋梁となっている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅と十日町駅以外は、すべて無人駅である。特急の停車しない駅のプラットホームは、虫川大杉駅の1番線のみ9両分の長さで、ほかはすべて2両分のみである。また、信号場は3か所ともトンネル内にある。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている。当初計画では制限速度45 km/hの振り分け分岐器を使用することになっていたが、そのままでは一線スルー構造を実現できないことから、半径3,000 mのSカーブとすることによって対処している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "「はくたか」・快速が停車しない駅では列車が高速で通過して危険であることから、地上駅についてはホームへの入口にはスイングゲートを装備し、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがなされた。地下駅の美佐島駅は、特急が140 km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及び、通過列車が接近した場合に風圧によって飛ばされる危険が高いことなどから、二重の防風扉を装備し、客扱い時以外はホームを封鎖する。無人駅ながらホーム部分は常に監視カメラによって管理されており、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "車両基地は六日町駅に隣接しており、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と検修庫に分かれている。なお、後述する雪対策の観点から、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "閉塞方式は単線自動閉塞式である。列車集中制御装置 (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "開業当初は列車密度および最高速度の問題と160 km/h運転の可否(GG信号の点灯不点灯)を手前から判断する必要から、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用して閉塞区間を比較的短区間で設定しており、本線の1閉塞区間の平均の距離は1,566メートルであった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2015年3月14日以降は特急列車の160 km/h運転を終了し、加えて列車の設定本数が半減したため、本線にある閉塞信号機はJR線と接続する六日町 - 赤倉信号場間とくびき - 犀潟間の各1か所を除いて使用停止とし、それ以外の区間では列車の交換施設がある駅または信号場の間に設置されていた複数の閉塞区間を統合して1つの閉塞区間とした。なお、使用停止となった閉塞信号機は2016年度中にすべて撤去されているが、長大トンネル内での走行位置を運転士が判断できるようにする必要性から、従来閉塞信号機が合った個所に黄色い丸の反射板と数字による「地点標識」を順次新設しており、地点標識での確認喚呼を新たに設けている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "保安装置(自動列車停止装置)はATS-P形を採用している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に自動列車制御装置 (ATC) の導入を求めていたが、導入コストの問題のほか、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため、ATS-P形の導入となった。このATS-P形の全面導入により、ほくほく線の交換駅では安全側線を廃止し、交換列車同士の同時進入についても本線側55 km/h・分岐側45 km/hに制限速度が緩和されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また、2015年3月13日以前は130 km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入されていた。このGG信号は、ATS-P形のトランスポンダ車上子を搭載した車両に限って現示されたもので、トランスポンダ車上子搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される。GG信号は中3灯を空けて点灯することにより視認性を向上している。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130 km/hの制限信号となった。また、GG信号を表示する出発信号機の下にはオレンジ色の速度標識が掲出されたが、これは制限速度ではなく、当該区間の許容速度を示す標識であった。 なお、申請最高運転速度を130 km/hへ引き下げた2015年3月14日以降は、5灯式信号機についても3現示のみの点灯となり、速度標識も順次撤去されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "160 km/h走行を考えれば電流を小さくできる交流電化の方が有利な面が多いが、トンネルが内燃動車の運転を前提として建設されたために断面が小さく、直流電化に比べて高い電圧を使用する交流電化に必要な絶縁離隔確保ができないことや、前後のJR線が直流電化であることから、やむなく直流電化が採用されている。架線引きとめについては完成済みのトンネル天井を一部壊したほか、建設時期によるトンネル断面の変化点を利用して対応した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "架線支持方式は、高速走行時にも電車が安定して給電を受けられるように、地上区間では新幹線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用しているが、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "変電所は、おおむね10 km間隔で六日町・津池・十日町・松代・大島・浦川原・大潟の7か所に設置されており、総出力は33,000 kWとしている。これは総延長が約60 kmの鉄道路線としては異例の重装備であるが、「はくたか」運行終了に伴い設備のスリム化を図るため、津池変電所を廃止、大島・大潟の変電所からの受電を止めることで、使用する変電所を4か所に削減する予定としている。また沿線が有数の豪雪地帯であるため、一部を除いて変圧器などの重電部品は建屋に収納する対策が施されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "前述の通り、路線長の68パーセントがトンネルであるが、残る地上区間については先述したほかにも数々の雪対策が施されている。これら対策を開業当初から施したことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "地上側の設備に加え、線内列車に使用されるHK100形電車のスノープロウの先端部分は櫛の歯のような形状にしている。これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねないため、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "開業当初から、越後湯沢駅での上越新幹線との連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている。特急列車が廃止された2015年3月14日以降は普通列車を主体としたダイヤとなり、2023年3月18日のダイヤ改正より線内で通過運転を行う列車が無くなった。また、全ての定期列車がワンマン運転を実施している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "正式な起点は六日町駅であり、六日町駅から犀潟駅へ向かう列車が下り、逆方向を上りとしているが、列車番号は犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が通常下り列車を表す奇数、逆方向が通常上り列車を表す偶数となっている。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であったことから、北陸本線に合わせたためであり、「はくたか」廃止後もそのままである。本記事では、以下路線の起点に則って上り・下りを表記する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "駅員が集改札を行っている駅では全てのドアから乗降ができるが、それ以外の駅(無人駅)では1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "線内各駅に停車する普通列車がおおむね毎時1本運転されている。直江津駅 - 越後湯沢駅間での運転を基本とし、線内途中駅を始発・終着とする列車はないが、朝夕を中心にJRとの境界駅である犀潟駅・六日町駅発着の列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一部列車は日曜日を中心に後述の「ゆめぞら」の限定運用となっており、トンネル走行時に映像上映が行われている。詳しい運行状況は北越急行の公式サイトで確認することができる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2015年3月14日のダイヤ改正で特急「はくたか」が全廃されたことに伴い、特急列車優先による待ち合わせが解消されたことから、普通列車の所要時間は1列車あたり10分程度短縮された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1997年3月22日のほくほく線開業から北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間開業前日の2015年3月13日までは、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車と、地域内利用を主眼とした普通列車の2系統を主体とする運行形態が取られていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ほくほく線内を運転する普通列車は、特急列車の待避や交換待ちなどで数駅ごとに長時間停車する列車が多かった。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津駅から六日町駅までで49分45秒なのに対して、最長の所要時間を要する列車では六日町駅から直江津駅までに1時間24分かかっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "開業時から運行されていた特急列車である。1999年時点では1日10往復運行されており、「はくたか」同士のすれ違いは56回中24回がほくほく線内で行われていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "開業から2022年3月18日のダイヤ改正までは、一部駅を通過する快速列車が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2015年3月14日のダイヤ改正で新設され、2023年3月18日のダイヤ改正まで運行された列車。独自の列車種別である超快速(ちょうかいそく)は市販の時刻表にも正式に記載されたもので、JR線区間でもこの種別が使用された。また、列車名は公募により決定されたものだった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2022年3月11日までは上り1本・下り2本が設定されていた。途中十日町駅のみ停車の最速列車は越後湯沢駅から直江津駅までの84.2 kmを57分で走破し、越後湯沢駅 - 直江津駅間での表定速度は88.6 km/h、ほくほく線内に限れば99.2 km/hに達する。これは485系使用便の「はくたか」を上回っており、日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては2021年時点で表定速度が最も高い列車であった。2022年3月12日改正ダイヤでは越後湯沢駅→直江津駅間を1時間1分で結んでおり、表定速度は82.8 km/hと下がった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお運行開始以来、一部の列車は直江津駅から列車番号を変え、無愛称の普通列車としてえちごトキめき鉄道妙高はねうまラインの新井駅発着で運行していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1998年 - 1999年シーズンの時点で神戸駅 - 越後湯沢駅間に急行「シュプール野沢・苗場」が運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2015年11月7日以降運行されている団体専用列車。普通列車でも50分程度で走破する線内を約4時間(第1回の場合、犀潟駅10:44→六日町駅着14:48)かけて走行する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "「ウサギといえばカメだよね」という北越急行社内での冗談から、超快速「スノーラビット」の対極に位置する列車として生まれ、難工事で知られる鍋立山トンネルを10 km/h以下の低速で通過するほか、トンネル内の信号場では列車が通過しない側の乗降用ドアと貫通扉を開け、離合時に発生する10 m/sの風を体験する試みも行われた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "初回運行時は全車指定席の臨時列車(運賃と指定席料金のみで乗車可能)として運行されたが、2016年8月28日の第2回運行以降は北越急行が旅行業登録を行い、食事付きの団体専用列車として運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、全列車とも、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する。ただし2015年3月13日まで運行されていた特急列車では、境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)2012年時点では運転士・車掌ともにJR東日本直江津運輸区が担当していた。なお、開業当初から2004年3月ダイヤ改正まではJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている。", "title": "運行管理" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであったため、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった。2012年にPRCの更新が行われた際には、ほくほく線各駅にアニメーションで全線の列車の位置や遅れ状況などを表示する列車運転状況表示装置が設置された。", "title": "運行管理" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "また、運転通告(運転指令員から運転士に対しての指示)についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため、無線伝達をもって運転通告としている。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える。", "title": "運行管理" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当していたが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなっていた。一方北越急行の運転士が担当する普通列車のJR東日本区間への乗り入れ先では、JR東日本の指揮下となる。", "title": "運行管理" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市の旧市域)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧町村部にあたる大島区・浦川原区・頸城区・大潟区)の4地域に分けられる。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていたため、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない。東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上したものの、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で、かつ、2008年の新潟県内公立高校普通科の学区撤廃まで学区も異なっていたため、当初より線内需要や地域を越えた広域流動需要は厳しいと見られていた。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である頸城自動車は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による東頸バスの営業を開始し、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた越後湯沢 - 十日町が、開業により普通列車でも30分台で結ばれるようになるなどの時短効果に加え、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価されたこともあり、現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度であったものが2012年には110万人に増加している。ただし、通学定期の利用者数は2012年がピークとなり、翌年には5 %減となっている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "特急が運行していた2011年度(平成23年度)の輸送密度は約7,780人/日であるが、これは旧国鉄路線から転換あるいは日本鉄道建設公団建設中の新線を継承した第三セクター鉄道路線(以下「旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線」)としては、愛知環状鉄道線(約9,816人/日)に次いで2番目に高かった。2006年度(平成18年度) - 2010年度(平成22年度)、および2012年度(平成24年度) - 2014年度(平成26年度)は輸送密度が8,000人/日以上を記録していたが、そのような旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線も愛知環状鉄道線とこの路線の2路線のみであった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "ほくほく線の輸送実績を下表に記す。表中、最大値には「」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版及び管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)より作成。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ほくほく線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最大値には「」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版より作成。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ほくほく線内の普通列車は、特急列車「はくたか」への影響を最小限とするため、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110 km/hと、優れた加速性能(3.0 km/h/s)が要求された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2015年3月13日まで運行された特急「はくたか」については、北越急行の保有車両とJR東日本・西日本が保有する車両が使用された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1997年の開業当初は、特急「はくたか」の経由する各社の営業キロを按分することによって、JR西日本・北越急行・JR東日本が4:2:1の比率で車両を運用しており、JR西日本では681系と485系、北越急行は681系、JR東日本は485系を使用していた。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "その後、2002年のダイヤ改正ではJR西日本の485系は681系に置き換えられ、485系を運用するのはJR東日本だけとなった。485系の限定運用は全体の運行効率を引き下げることになっていた上、681系とのサービス格差が乗客からも指摘されるようになったため、北越急行とJR東日本の協議により、JR東日本の485系は北越急行の新造した683系によって置き換えられることになった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "いずれも特急「はくたか」で運用された。北越急行保有の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式として製造した。これは、車両選定の段階で160 km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理があったことが理由として挙げられている。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと、過去に経験のない高速運転を実施するために長期にわたる試験が必要となったが、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であったことが理由として挙げられる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "北越急行所属車については、独自の赤主体の塗装、「スノーラビットエクスプレス」(Snow Rabbit Express)という車両愛称を持ち、車体には「SRE」とユキウサギのロゴマークが施されていた。運用も当初は区別されていたが、2002年3月ダイヤ改正以降はJR車との共通運用となっていた。 2015年3月14日の北陸新幹線開業後は全車両が同日付でJR西日本に譲渡され、主に「しらさぎ」「能登かがり火」「ダイナスター」で運用されている。塗装も同年6月初めまでに順次「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "以下、「はくたか」以外で乗り入れ実績のある、あるいは予定されている車両である。", "title": "車両" } ]
ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅から同県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ北越急行の鉄道路線である。 北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線(ほくえつほくせん)」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。 開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌在来線最高速度となる140 km/h運転が行われ、1998年(平成10年)12月からは150 km/h運転が、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160 km/h運転が開始された。2015年(平成27年)3月14日の特急「はくたか」運行終了により最高速度160 km/hで運行する列車は無くなり、2023年(令和5年)3月現在はHK100形による普通列車が最高速度95 km/hで運転されている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Hokuetsu Kyuko logo.svg|25px|北越急行]] ほくほく線 |路線色 = #E8204E |画像 = HK100_Kubiki_20140908.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[米山]]をバックにほくほく線を走る[[北越急行HK100形電車|HK100形]]<br>(2014年9月 [[くびき駅]]-[[犀潟駅]]間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[新潟県]] |種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[第三セクター鉄道]]) |起点 = [[六日町駅]] |終点 = [[犀潟駅]] |駅数 = 12駅 |開業 = [[1997年]][[3月22日]] |休止 = |廃止 = |所有者 = [[北越急行]] |運営者 = 北越急行 |車両基地 = |使用車両 = [[北越急行HK100形電車|HK100形]] |路線距離 = 59.5 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数 = [[単線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配 = 33 [[パーミル]] |最小曲線半径 = 400 [[メートル|m]] |閉塞方式 = [[閉塞 (鉄道)|単線自動閉塞式]] |保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]] |最高速度 = 130 [[キロメートル毎時|km/h]](定期列車の最高速度は95 km/h、2015年3月13日までの申請最高運転速度は160 km/h) |路線図 = [[File:Hokuhoku Line linemap.svg|300px|ほくほく線路線図]]<br>ほくほく線路線図 }} {{北越急行ほくほく線路線図}} '''ほくほく線'''(ほくほくせん)は、[[新潟県]][[南魚沼市]]の[[六日町駅]]から同県[[上越市]]の[[犀潟駅]](さいがたえき)までを結ぶ[[北越急行]]の[[鉄道路線]]である。 <!-- 概要節は必ず必要なものではない。むしろ目次より上である程度のことが理解できるように、冒頭部分でこの程度の記述は必要 --> 北陸方面への短絡線の役割を有する<ref name="工事誌_681" />[[日本国有鉄道]](国鉄)の予定線「'''北越北線'''(ほくえつほくせん)」として<ref name="rj368-54" />1968年(昭和43年)に着工され<ref name="新線_150" />、紆余曲折の末、北越急行によって[[1997年]](平成9年)[[3月22日]]より営業を開始した<ref name="rj368-54" />。開業以来、[[上越新幹線]]と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の[[北陸新幹線]]の[[長野駅]] - [[金沢駅]]間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして[[特別急行列車|特急]]「[[はくたか]]」が同線を経由して運転された。<!--2015年3月の北陸新幹線の開業によって特急列車の運行は行われなくなったが、上越新幹線に連絡する超快速列車が運行されていたため、北陸新幹線以降の話はこのあとに追記し、ここまでの記述は消さない--> 開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌[[在来線]][[最高速度]]となる140&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]運転が行われ、1998年(平成10年)12月からは150&nbsp;km/h運転が<ref name="rj428-33" />、2002年(平成14年)3月以降はさらに高速となる160&nbsp;km/h運転が開始された<ref name="rj428-33" />。2015年(平成27年)3月14日の特急「はくたか」運行終了により最高速度160&nbsp;km/hで運行する列車は無くなり、2023年(令和5年)3月現在は[[北越急行HK100形電車|HK100形]]による普通列車が最高速度95&nbsp;km/hで運転されている<ref name="20221216 press"/>。 == 歴史 == === 鉄道誘致活動の始まり === ほくほく線の中間付近にあたる[[松代町 (新潟県)|松代村]](まつだいむら<!--駅名だと平仮名で、隣の長野にマツシロもあるので-->。現[[十日町市]]の一部<ref name="松代広報200503" />)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、[[バス (交通機関)|バス]]や[[貨物自動車|トラック]]の運行を開始した<ref name="十年_30" /><ref name="新線_140" />。この会社は1932年(昭和7年)に売却されて[[頸城自動車]]となる<ref name="十年_30" />。しかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった<ref name="新線_140" />。ほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ[[国道253号]]の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13&nbsp;[[キロメートル]](km)のところを、[[柏崎市|柏崎]]・[[直江津市|直江津]]を通る120&nbsp;kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった<ref name="全線_47-48" />。冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた[[朝日新聞]]の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された<ref name="新線_140" />。その口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった<ref name="十年_30" />。 既に1916年(大正5年)5月4日には、{{読み仮名|[[頸城鉄道線|頸城鉄道]]|くびきてつどう}}が新黒井 - 浦川原間を全通させていた<ref name="工事誌_673" />。当初はこの頸城鉄道とつなぎ[[松代町 (新潟県)|松代]]まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した<ref name="工事誌_674" />。この時点では松代から[[信越本線]]([[直江津駅|直江津]])側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか<ref name="工事誌_674" />)なかった<ref name="工事誌_674" />。その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、[[魚沼郡|魚沼三郡]]や[[東頸城郡]]の町村長が[[六日町]] - [[直江津市|直江津]]間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した<ref name="工事誌_674" />。1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた[[高田市|高田]]を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた<ref name="工事誌_674" />。1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、[[鉄道省]]による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された<ref name="新線_141-142" />。 この時点までは、路線の北側は[[直江津市|直江津]]案と[[高田市|高田]]案の2案があったが、南側については[[六日町]]で統一されていた<ref name="新線_142" />。しかし1940年(昭和15年)になり、南側を[[越後湯沢駅]]とする案が持ち上がった<ref name="新線_142" />。これはスキーをしに[[松之山温泉]]に来ていた[[鉄道省]]の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない<ref name="新線_142" />。この年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった<ref name="新線_142" />。1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、[[第二次世界大戦]]中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった<ref name="新線_142" />。1944年(昭和19年)には、国鉄[[信濃川発電所]]のある[[千手町 (新潟県中魚沼郡)|千手町]]([[川西町 (新潟県)|川西町]]を経て2005年の合併で十日町市の一部<ref name="十日町沿革" />)と[[十日町市|十日町]]を結ぶ工事用の[[軽便鉄道]]を延長する形で[[松代町 (新潟県)|松代]]までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された<ref name="新線_142" /><ref name="鉄道計画_133" />。 [[File:Route_planning_of_Hokuhoku_line_ja.png|thumb|none|400px|北越北線と北越南線の計画ルートと実際のほくほく線]] === 「南北戦争」からルートの決着まで === 第二次世界大戦後は、[[高田市|高田]]と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、[[佐渡汽船|佐渡航路]]ならびに[[北陸本線]]との連絡という観点から[[直江津市|直江津]]起点とすることで決着して、直江津と[[上越線]]を結ぶ鉄道とすることになった<ref name="工事誌_675" /><ref name="新線_144" />。1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が[[高田市]](1971年の合併により[[上越市]]の一部<ref name="高田" />)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された<ref name="新線_144" />。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は[[六日町駅|六日町]]と[[越後湯沢駅|越後湯沢]]の双方の案が会則に併記される形となった<ref name="新線_144" />。以降、「{{読み仮名|'''北越北線'''|ほくえつほくせん}}」案と「{{読み仮名|'''北越南線'''|ほくえつなんせん}}」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった<ref name="新線_144" />。 北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、<!--国鉄の-->採算性に優れること、[[地すべり]]地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25[[パーミル]]に対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、[[苗場山|苗場]]や高倉の森林および地下資源、[[三国村 (新潟県)|三国]]、[[清津峡|清津]]の温泉の開発ができることであるとされた<ref group="注釈">いずれも越後湯沢の西方にある地名であるが、原出典では地図等の明示がなくこれらに該当すると確定できない。ここでは仮に関連すると思われる記事にリンクしてある。</ref><ref name="新線_147" />。 この当時、[[日本国有鉄道|国鉄]]の新線は1922年(大正11年)に制定された[[鉄道敷設法]]に基づいて建設されており、新線を建設するには法律を改正して鉄道敷設法別表に路線経路を記載する必要があった<ref name="鉄道計画_134" />。そして別表への記載は、諮問機関である鉄道建設審議会の検討を経て決定されることになっていた<ref name="鉄道計画_134" />。日本の国政レベルでは、南北両案の一本化ができさえすればいつでも審議会で了承されるというところまで議論が進んでいた<ref name="新線_147" />。しかし一本化ができないままに1953年(昭和28年)2月の第9回鉄道建設審議会が開催され、両案の対立が激しくて審議会でも決断を下しかね、「経過地に関する地元の意見の不一致並びに現地調査の不十分」を理由に審議未了・保留となった<ref name="新線_147" />。こうした事情もあり、両線の一本化を図るために期成同盟会では、前年に新潟県知事の[[岡田正平 (政治家)|岡田正平]]に経過地の裁定を一任することを決議していた<ref name="新線_147" />。岡田は、新潟県七市長会および商工会議所連合会に諮問して、北線案が妥当との答申を受け、8月に北線案採択の裁定を下した<ref name="新線_147" />。しかしこの裁定を説明するために9月に開催された期成同盟会総会を南線側がボイコットするという事態となって、さらに時間が空費されることになった<ref name="新線_147" />。 その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた<ref name="新線_148-149" />。この頃、南線案の予定通過地である[[松之山町]]の中心部で[[地すべり]]災害{{#tag:ref|1962年4月から松之山町内で大規模な地すべりが発生していた。南線予定ルートにある「光間」駅付近<ref name="松之山地滑り" />。|group="注釈"}}が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった<ref name="新線_148-149" />。1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に[[鉄道敷設法]]1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった<ref name="新線_148-149" /><ref name="衆議院19620512" />。 1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。1964年(昭和39年)4月22日に[[運輸大臣]]は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。こうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった<ref name="新線_149" />。なおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた<ref name="鉄道計画_135" />。 北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた<ref name="工事誌_681" />。地元は北越北線に旅客輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、[[上越線]]と[[信越本線]]との間の方向転換・[[機関車]]交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた<ref name="工事誌_681" />。そのため重量1,000トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当初は[[六日町駅]]と[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた<ref name="工事誌_681" />。これにより十日町では[[飯山線]]と直交するルート案となり<ref name="工事誌_681" />、飯山線の[[十日町駅]]とは別に北越北線の十日町駅を約1,300メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった<ref name="市報19661015" />。しかしこれには地元からの強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れる[[クランク (機械要素)|クランク]]状のものとなった<ref name="工事誌_681" />。また東頸城地方では、[[安塚町|安塚]]、[[大島村 (新潟県東頸城郡)|大島]]、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった<ref name="工事誌_681-682" />。ところが、国鉄側と最終的に詰める段階になり、[[直江津駅]]構内の貨物ヤード([[操車場 (鉄道)|操車場]])が処理能力の限界を迎えていたことから、黒井駅の[[犀潟駅]]寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった<ref name="工事誌_681-682" />。これにより北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧[[頸城鉄道線|頸城鉄道]]沿線から経路が外れて[[頸城村]]の中心地(2005年の合併以降の[[上越市]]頸城区百間町付近<ref name="頸城合併" /><ref name="頸城中心" />)も通らないことになった<ref name="工事誌_681" />。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した<ref name="工事誌_681-682" />。 === 国鉄新線としての建設 === 1964年(昭和39年)9月28日に[[運輸大臣]]が定めた基本計画では、北越北線は起点を[[直江津市]]、終点を[[南魚沼郡]][[六日町]]とし、単線非電化で、[[線路等級]]は乙線とされていた<ref name="新線_150" />。これを基に工事実施計画の指示が行われた<ref name="新線_150" />。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから[[雪崩]]や[[地すべり]]の起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした<ref name="新線_150-151" />。 公団の発足当時、工事線に指定されていた路線は全国で47路線あり、その総延長は約2,000キロメートル、総工費は約2000億円とされ、年間約100億円程度の公団の予算では実現にかなりの時間がかかるのは確実な状況であった<ref name="十年_32" />。北越北線も、鉄道建設審議会で「速やかに着工」という意見が添えられた路線に含まれていなかった<ref name="十年_32" />。しかし当時の地元国会議員らの熱心な取り組みもあって、比較的早く着工に漕ぎ着けることができた<ref name="十年_32" />。 まず[[六日町駅|六日町]] - [[十日町駅|十日町]]間について、1968年(昭和43年)3月28日に工事実施計画が認可され、8月14日に着工となった<ref name="新線_150" />。この区間を先に着工したのは、[[まつだい駅|松代]]と[[うらがわら駅|浦川原]]の間でのルートの決着が付いていなかったためである<ref name="工事誌_681" />。基本計画とは逆に起点は六日町、終点は十日町で、途中停車場は西六日町([[魚沼丘陵駅]])、赤倉信号場、津池([[美佐島駅]])と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)<ref name="新線_151" />。最小曲線半径は400メートル、最急勾配は14パーミル、1メートルあたりの重量が40[[キログラム]](kg)である40 kg[[軌条|レール]]を使用し、橋梁の設計[[活荷重]]はKS-16、概算工事費は50億1800万円とされた<ref name="新線_151" />。 続いて1972年(昭和47年)10月11日に[[十日町駅|十日町]] - [[犀潟駅|犀潟]]間の工事実施計画が認可され、1973年(昭和48年)3月24日に着工された<ref name="新線_151-152" />。この区間の途中停車場は薬師峠信号場、松代([[まつだい駅]])、儀明信号場、頸城大島([[ほくほく大島駅]])、沢田([[虫川大杉駅]])、増田([[くびき駅]])と仮称されていた(カッコ内は開業時の駅名)<ref name="新線_152" />。最小曲線半径は1,000メートル、最急勾配は14パーミル、40 kgレールを使うが長大トンネル内は50 kgレールとし、橋梁の設計活荷重はKS-16、概算工事費は239億3400万円となった<ref name="新線_152" />。1979年度完成を予定していた<ref name="新線_151" />。 停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた[[魚沼丘陵駅|西六日町]]、[[美佐島駅|津池]]の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違いを想定してすべての交換可能駅で1,000トン貨物列車に対応した有効長460メートルを確保していた<ref name="工事誌_347" />。在来線併設の[[六日町駅|六日町]]、[[十日町駅|十日町]]、[[犀潟駅|犀潟]]を除くすべての停車場に、上下線とも[[安全側線]]を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた<ref name="工事誌_347" />。六日町、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の10両編成を想定してプラットホームの有効長を240メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の6両編成を想定した140メートルとしていた<ref name="工事誌_347" />。 その後、国鉄[[新潟鉄道管理局]]からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに[[運輸省]]の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978年(昭和53年)7月20日に工事実施計画が変更された<ref name="新線_153" />。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が1,000メートルから600メートルとなり、50 kgレールの使用と[[スラブ軌道]]の採用、電化対応設備を設けることが記載された<ref name="新線_153" />。十日町 - 犀潟間の工事予算は511億8600万円に改定され、完成予定期日は1983年(昭和58年)に延長されることになった<ref name="新線_153" />。 この頃、[[全国新幹線鉄道整備法]]により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められており、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として'''[[北陸新幹線]]'''の基本計画が1972年(昭和47年)に制定されていた<ref name="鉄道計画_138-139" />。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、[[高度経済成長]]の時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役割分担することも考えられていた<ref name="鉄道計画_138-139" />。しかし1973年(昭和48年)に第一次[[オイルショック]]に見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった<ref name="鉄道計画_138-139" />。 北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの1か所として配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅れていた<ref name="鉄道計画_139" />。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として1980年(昭和55年)に'''[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](国鉄再建法)'''の施行により鉄道新線の工事は凍結されることになった<ref name="rf577-46" />。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が4,000人/日以上とされていたが、北越北線の推定輸送密度は1,600人/日であった<ref name="rj392-39" />。この時点で用地取得は73パーセント、路盤工事は58パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込み794億円に対して415億円が投じられていたが<ref name="新線_153" /><ref name="十年_33" />、1982年(昭和57年)3月に完成済み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした<ref name="鉄道計画_141" />。 === 第三セクター方式での建設再開 === {{See also|鍋立山トンネル}} [[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が'''[[第三セクター]]会社'''を設立して引き受けることが可能であると定めていた<ref name="新線_20-21" />。[[岩手県]]の[[三陸鉄道]]のように、早々にこの方針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった<ref name="全線_200-202" />。しかし北越北線については、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の[[田中角栄]]元首相が「北越北線だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セクター化に興味を示さなかった<ref name="鉄道計画_140-141" />。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されることはなかった<ref name="鉄道計画_140-141" />。 1983年(昭和58年)6月22日に東京で開催された北越北線建設促進期成同盟会総会に突然[[田中角栄]]が出席し、それまでの国鉄での建設再開の考えを撤回した上で、[[第三セクター]]での引き受け案を持ち出した<ref name="新線_154" /><ref name="鉄道計画_141" />。この提案は突然のことであり、沿線自治体の関係者を困惑させた<ref name="鉄道計画_141" />。当時の[[君健男]]新潟県知事は第三セクター化に慎重であったが<ref name="rj368-55" />、期成同盟会会長の諸里正典十日町市長は田中元首相の動きに呼応して第三セクター化を目指し、独断で国や公団との接触を開始した<ref name="鉄道計画_141 - 142" />。沿線の他の市町村は、こうした諸里市長の独断専行に不満を持っていたとされる<ref name="鉄道計画_141 - 142" />。 「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また[[第三セクター]]化は[[越後湯沢駅|越後湯沢]] - [[六日町駅|六日町]]間と[[犀潟駅|犀潟]] - [[直江津駅|直江津]]間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけた<ref name="新線_284" />。コンサルタントも、[[秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線]]に対して「永久に黒字転換する見込みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した<ref name="新線_284" />。ところが新潟県の予想に反し、コンサルタントは「5年で単年度黒字、10年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を了承した<ref name="新線_284" />。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に転換することになった<ref name="鉄道計画_142 - 143" />。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている<ref name="鉄道計画_142 - 143" />。こうして1984年(昭和59年)8月30日に'''[[北越急行]]株式会社'''が設立され、1985年(昭和60年)2月1日に鉄道事業の免許を取得し、3月16日に工事が再開された<ref name="新線_154-155" />。 [[第三セクター鉄道]]として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された<ref name="工事誌_348-349" />。[[気動車]]による1両または2両編成程度を想定、最大で4両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった<ref name="工事誌_348-349" />。これにより全体的にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅([[ほくほく大島駅]])の交換設備は省略されることとなった<ref name="工事誌_348-349" />。また、上下列車の待避線への同時進入を考慮しないこととして安全側線も省略された<ref name="工事誌_348-349" />。JR線と接続する[[六日町駅|六日町]]・[[十日町駅|十日町]]・[[犀潟駅|犀潟]]の駅配線は大幅に変更され、特に十日町は[[飯山線]]との平面交差から立体交差に修正された<ref name="工事誌_348-349" />。橋梁の設計活荷重については、国鉄時代にはKS-16荷重を想定していたが、旅客のみに改められたこともあり、第三セクター化以降に建設される場所についてはKS-12荷重を採用することになった<ref name="工事誌_71-72" />。また新座([[しんざ駅|しんざ]])、顕聖寺([[うらがわら駅|うらがわら]])、大池([[大池いこいの森駅|大池いこいの森]])の各駅が要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)<ref name="工事誌_354" />。 建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある'''[[鍋立山トンネル]]'''であった。鍋立山トンネルは工事中断時点で中央部に645メートルの未掘削区間が残されており<ref name="rj368-49" />、1986年(昭和61年)2月24日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先進工法(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により[[支保工|支柱]]が座屈するなどの問題を生じた<ref name="rj368-49" />。続いて[[トンネルボーリングマシン|トンネルボーリングマシン(TBM)]]を導入したが、これも掘削中に土圧により発進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった<ref name="rj368-49" />。その後、薬液の注入や<ref name="rj368-49" />、最終的には手掘りも実施する<ref name="rj428-23" />など、実に29の工法が駆使された<ref name="新線_219" />。1992年(平成4年)10月29日にようやく先進導坑が貫通し、1995年(平成7年)3月7日に掘削完了、11月7日に竣工<ref name="新線_217-219" />となり、これにより開業のめどが立つことになった<ref name="全線_56-57" />。結果的にこの区間には10年余りの歳月と146億円の工費が投入されることとなり<ref name="新線_216-217" />、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された<ref name="全線_56-57" />。 === 高速化の決定 === 工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。そのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化して'''[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急]]'''を走らせる計画が[[運輸省]]から打ち出された<ref name="rj392-39" />。当時、'''[[北陸新幹線]]'''は[[整備新幹線]]問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間は[[ミニ新幹線]]、糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を[[新幹線]]と同じ規格で建設し、線路を[[在来線]]と同じ[[軌間]]にする[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急方式]]とする計画が提案されているに過ぎなかった。 北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され<ref name="新線_185" />、路線の[[軌道 (鉄道)|軌道]]は、最高速度200&nbsp;km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された<ref name="鉄道テクノロジー3_88" />。 これにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり<ref name="rj368-55" />、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた<ref name="新線_194" />。JR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された<ref name="十年_38" />。 配線についても変更が行われ、当初計画では、[[六日町駅]]では北越急行専用プラットホームよりも高崎方でJRとの線路の接続を行うことになっていたが、専用プラットホームで発着する普通列車とは別に、[[越後湯沢駅|越後湯沢]]からの特急列車が北越北線に直接進入できるようにする[[渡り線]]が追加されることになった<ref name="rj428-29" />。[[十日町駅]]では、JR線を乗り越した後に地上に降りてプラットホームを設ける計画であった<ref name="rj428-29" />が、プラットホーム前後に生じる急勾配と急曲線を解消するために高架上にプラットホームを設置することになった<ref name="rj428-29" />。[[犀潟駅]]では、高架でJR線を乗り越した後に海側に北越急行専用プラットホームを設ける計画であったが、[[信越本線]]の上下線の間に降りてJR線に乗り入れる構造に改めた<ref name="rj428-29" />。 設備面では、高速化の制約となる[[分岐器]]の通過速度制限を緩和するために、[[一線スルー]]にする改良を実施した<ref name="rj392-40" />。軌道を強化するため、[[スラブ軌道]]区間を延長し、レールも一部を50 kgレールから60 kgレールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した<ref name="新線_189-190" />。特急列車の最大10両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された<ref name="新線_192-193" />。信号設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また[[自動列車停止装置]] (ATS) をATS-P形とし、安全側線は省略されたままとした<ref name="新線_190-192" />。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防止などの措置が採られた<ref name="新線_192" />。 最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった<ref name="工事誌_9" />。工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった<ref name="工事誌_21" />。 この間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「'''ほくほく線'''」に決定した<ref name="hokuhoku_enkaku" />。これは、[[北越急行]]と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから<ref group="注釈">アンケートの上位は「ほくほく線」と「北越ロマン線」の2つであった。</ref><ref name="hokuhoku_enkaku" />、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである<ref name="hokuhoku_enkaku" />。異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である<ref name="鉄道計画_146" />。 試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160&nbsp;km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、[[鉄道総合技術研究所]]、公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160&nbsp;km/h運転試験が開始された<ref name="rf646-39" />。結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160&nbsp;km/hの認可を付与された<ref name="rf646-44" />。しかし、[[#最高速度160 km/hへの対応|後述]]するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160&nbsp;km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140&nbsp;km/hとされた<ref name="rj428-32" /><ref name="rf646-44" />。 === 開業・さらなる高速化 === [[ファイル:Route_comparison_between_Tokyo_and_Hokuriku_ja.png|thumb|400px|東京と北陸を結ぶルートの変遷。ほくほく線開業前は、東海道新幹線米原乗換の「[[しらさぎ_(列車)#きらめき|きらめき]]」ルートと、上越新幹線長岡乗換の「[[北越_(列車)#かがやき|かがやき]]」ルートがあったが、ほくほく線開業により、金沢以東では上越新幹線越後湯沢乗換の「はくたか」ルートが使われるようになった。北陸新幹線が金沢まで延伸開業したあとは、芦原温泉以東では北陸新幹線が最速のルートとなった。]] 以上の経緯を経てほくほく線は、1997年(平成9年)3月22日に開業し<ref name="rj428-32" />、同時に、[[上越新幹線]]と[[越後湯沢駅]]で接続して首都圏と北陸地方を結ぶ[[特別急行列車|特急]]「'''[[はくたか]]'''」が、ほくほく線経由で運転を開始した<ref name="rj428-32" />。ほくほく線が開業する以前は、首都圏と北陸地方を結ぶ手段は[[東海道新幹線]]で[[米原駅|米原]]を経由するルートが一般的であった<ref name="rj428-23"/>が、ほくほく線が開業してからは上越新幹線と「はくたか」を乗り継ぐルートのほうが有利になる範囲が拡大された<ref name="rj557-32"/>。上越新幹線と越後湯沢で接続しての東京と金沢の間の最速所要時間は3時間43分となり、長岡経由に比べて15分短縮された<ref name="鉄道計画_147" />。なお、ほくほく線開業後、[[まつだい駅]]から[[松之山温泉]]を訪れる行楽客が増えたという<ref name="rj392-38" />。加えて、沿線では、開業により沿線地域では高校へ自宅からの通学が可能となり<ref name="rj368-55" />、進学時にほくほく線沿線の高校を選ばせたり<ref name="rj557-44" />、高校進学を機にほくほく線沿線に引っ越す事例さえ見られた<ref name="rj586-55" />。上越線が不通になると越後湯沢と六日町のタクシー利用が増加する事例もみられるようになった<ref name="rj557-44" />。 その後、[[#最高速度160 km/hへの対応|後述]]するように最高速度について段階的な検証を行い、1998年(平成10年)12月8日から「はくたか」が150&nbsp;km/h運転を開始した<ref name="rj428-33" />が、この時にはダイヤ改正は行わず<ref name="rj392-32" />、運転上の余裕時分の確保にあてられた<ref name="rj428-33" />。続いて2002年(平成14年)3月23日から当初の予定通りの160&nbsp;km/h運転が開始され<ref name="rj428-33" />、ほくほく線内においては140&nbsp;km/hでの運行当時と比較して1分30秒の所要時間短縮が実現した<ref name="rj428-33" />。加えて車両面も高速化が進み、160&nbsp;km/h運転開始時にJR西日本の485系が160&nbsp;km/h対応車の681系と交代し、2005年(平成17年)3月1日には、北越急行が160&nbsp;km/h対応車の[[JR西日本683系電車|683系8000番台]]を投入したことで、JR東日本の485系が撤退し、以後定期特急列車はすべて160&nbsp;km/h運転対応の車両となった。 ほくほく線は「[[#雪対策|雪対策]]」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行っているが、2000年代には度々自然災害に見舞われている。特に2004年(平成16年)10月23日の[[新潟県中越地震]]では発生後全線で運転を見合わせ<ref name="dr.hokuhoku_13" />、10月26日より被害の少なかった[[犀潟駅|犀潟]] - [[まつだい駅|まつだい]]間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し<ref name="dr.hokuhoku_13" />、11月2日に全線で運転を再開した<ref name="dr.hokuhoku_13" />。当初は速度制限つきの運転で、12月17日から160&nbsp;km/h運転を再開している<ref name="dr.hokuhoku_13" />。また、2005年(平成17年)2月11日より[[上越線]]が全面復旧する3月24日までの間、週末を中心にのべ13日にわたって[[急行列車|急行]]「[[能登 (列車)|能登]]」がほくほく線を経由して運転された<ref name="dr.hokuhoku_13" />。2007年(平成19年)7月16日に発生した[[新潟県中越沖地震]]では、特急「はくたか」が終日運休となり、翌17日から運転を再開した<ref name="dr.hokuhoku_b2" />。 一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった[[整備新幹線]]計画問題については、ほくほく線開業のおよそ半年後の1997年(平成9年)10月1日に'''[[北陸新幹線]]'''[[高崎駅|高崎]] - [[長野駅|長野]]間が開業したが、この時点では[[上越新幹線]]・ほくほく線経由が石川県東部・富山県・新潟県西部への最速ルートであることから、開業まで運転されていた特急「[[あさま|白山]]」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった<ref name="鉄道計画_148-150" />。しかし、長野以北についても翌1998年(平成10年)3月12日に長野 - [[上越妙高駅|上越(仮称)]]間、2001年(平成13年)4月25日に上越(仮称) - [[富山駅|富山]]間、2005年(平成17年)4月27日に富山 - [[金沢駅|金沢]] - [[白山総合車両所|白山総合車両基地(仮称)]]間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直されるたびにフル規格での建設が進められていった<ref name="鉄道計画_148-150" />。 当時、ほくほく線を運営する北越急行は10日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数億円の黒字となっており<ref name="rj392-41" />。2001年度の[[営業係数]]は73.0パーセントと、[[第三セクター鉄道]]の中では経営状態は良好であったが、全体の9割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の1割にも満たなかった<ref name="rj557-44" />。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えることとした。先述のJR東日本の485系を683系8000番台の自社による投入で置き換えたことも、JR東日本側の事情<ref group="注釈">当時、JR東日本では、自社管内にはない交流20000 V・60 Hzで電化された北陸本線でも走行できる特急型車両として[[JR東日本E653系電車|E653系]]が存在した。しかし、「はくたか」は当時JR西日本・JR東日本・北越急行の3社で運行距離による比率で車両の運用数を按分し相殺していたため、仮にJR東日本が車両を新造した場合「はくたか」用単体ではごく少数の新造(最低1編成、485系3000番台は予備を入れて2編成)に留まり、加えて高速運転対応設備が求められる。また、北陸新幹線開業後に他線区に転用することがほぼ確実であるため、新潟地区など他線区の置き換えと同時に新造すると余剰となる可能性があった。</ref>のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増収や、JR東日本への[[車両使用料]]の支払いを無くし、逆に従来3社で相殺していたJR東日本・西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった<ref name="dr.hokuhoku_11" />。こうして、最終的には2013年(平成25年)3月31日時点で約92億円の剰余金を持った状態<ref name="鉄道計画_151-152" />でほくほく線は2015年3月14日の北陸新幹線長野 - 金沢間開業を迎えることとなった。 === 北陸新幹線金沢延伸開業以降 === [[File:HK100 Cho Rapid Service Snow Rabbit, Naoetsu station.jpg|thumb|[[直江津駅]]に停車中の超快速「[[#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]]」]] 2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の金沢開業後は、特急「はくたか」の廃止により、ほくほく線は地域輸送を主とする路線として再出発を切ることになった<ref name="鉄道計画_149-151" /><ref name="jreast20140827" /><ref name="jrwest20140827" /><ref name="hakutakahaishi" /><ref name="20141219 press" />。このため、同日より国土交通省運輸局への申請最高運転速度を130&nbsp;km/hに引き下げ、設備についても順次スリム化・使用停止・撤去が行われている<ref name="rf670-69" />。 その後、北越急行は2015年度決算で最高速度引き下げなどによる施設の評価損等により前年度の11億円の黒字から11億円の最終赤字に転落<ref>{{Cite news |title=北越急行、特急廃止響き初の最終赤字 15年3月期 |newspaper=日本経済新聞 |date=2015-06-26 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO88530340V20C15A6L21000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2015-12-08}}</ref>、その後も6億円前後の最終赤字で推移している<ref>{{Cite news |title=北越急行 5億5800万円赤字 前期単独最終 |newspaper=日本経済新聞 |date=2017-06-26 |url=http://www.nikkei.com/article/DGKKZO18175570X20C17A6L21000/ |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2017-07-08}}</ref>。しかし北越急行では2012年(平成24年)時点で「はくたか」利用者の22パーセントから25パーセントが直江津駅(アクセスには北陸新幹線でも[[上越妙高駅]]からの乗り換えを要する)で乗降している<ref name="rj557-45" />ことや、沿線の十日町を中心に東京や金沢と相互のビジネス需要が見込まれること<ref name="toyok20150803" />から、「ほくほく線経由の需要も残るのではないか」とし<ref name="rj557-45" />、事業を当面継続することは可能であるという見通しを持った<ref name="rj557-45" />。 運行面では特急の廃止により普通列車の時分短縮が実現した。加えて「ほくほく線全体の速さと便利さをアピール<ref name="toyok20150803" />」する「快速を超える列車」<ref name="faq">{{Cite web|和書|url=http://www.hokuhoku.co.jp/answer.html#qa2|title=よくあるご質問|publisher=北越急行|accessdate=2016-07-16}}</ref>として、前年の2014年(平成26年)から越後湯沢 - 直江津間を1時間で結ぶ「'''[[#超快速「スノーラビット」|超快速列車]]'''」の運行を計画し<ref name="superrapid" />、2015年(平成27年)3月14日のダイヤ改正で「'''スノーラビット'''」の愛称で運転開始した<ref name="20141219 press" />。この超快速は日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては、2016年時点で表定速度が最も高い列車であり<ref name="toyok20150803" />、特に直江津駅からは、上越妙高駅乗り換えの北陸新幹線経由と所要時間で遜色がなく、かつ運賃+特急料金が1,000円以上安いことをセールスポイントとし、北陸新幹線との対抗馬、線内における「はくたか」の後継としての側面も名実ともに強く意識されている。一方で、超快速列車の[[越後湯沢駅|越後湯沢]]発1本と折り返しの普通列車越後湯沢行きを、同日信越本線を転換して開業した[[えちごトキめき鉄道]][[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]][[新井駅 (新潟県)|新井駅]]まで直通させる<ref name="20150219pr">{{Cite press release |和書 |title=北越急行からえちごトキめき鉄道への乗入れ |publisher=北越急行株式会社・えちごトキめき鉄道株式会社 |date=2015-02-19 |url=http://www.hokuhoku.co.jp/press/20150219pr.pdf |format=PDF |accessdate=2015-11-07}}</ref>ことで、沿線から[[高田駅 (新潟県)|高田駅]]・上越妙高駅へのアクセスを高めているなど、北陸新幹線と協力する一面もある。 また、新たな収入源として、2016年(平成28年)には普通列車の六日町駅 - うらがわら駅間にて宅配便の荷物を輸送する、いわゆる「[[客貨分離|貨客混載]]」を行うことで[[佐川急便]]と合意し<ref>{{Cite news |title=佐川、三セク鉄道で宅配便輸送 トラックを代替 |newspaper=日本経済新聞 |date=2016-06-03 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ03H2T_T00C16A6TJC000/?n_cid=TPRN0004 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2016-06-06}}</ref>、試運転(トライアル)ののち<ref name="rf670-70_73" />、2017年4月18日より夜間の普通列車1往復で、本格的な運用が開始されている<ref name="20170410 press" />。これは、先述のように並行道路である[[国道253号]]の道路状況が峠越えの連続や冬季の積雪で依然劣悪であり、場合によっては高速道を用いて長岡経由で輸送せざるを得ない<ref name="rf670-70_73" />など、営業所間の輸送に支障が生じる場合があるためで、普通列車として使用しているHK100形車両に佐川急便のカーゴ台車を固定可能とする改造を行い、運用している<ref name="rf670-70_73" />。 2018年5月29日、北越急行は同年12月1日より普通運賃と通勤定期運賃を10 %値上げする変更認可申請を国土交通省[[北陸信越運輸局]]に行ったことを発表した<ref name="press20180529">{{Cite press release |和書 |title=ほくほく線 運賃の変更認可申請について |publisher=北越急行 |date=2018-05-29 |url=http://www.hokuhoku.co.jp/press/20180529.pdf |format=PDF |accessdate=2018-05-31}}</ref>。また、トイレ付き車両を当初の計画よりも前倒しで導入することを検討していることも発表された<ref name="press20180529"/>。 2018年12月1日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と通勤定期が10 %値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された<ref>{{Cite press release |和書 |title=運賃改定の実施について |publisher=北越急行 |date=2018-11-07 |url=https://hokuhoku.co.jp/unchinkaitei.html |accessdate=2019-02-08}}</ref><ref name="20180927 press" />。 === 年表 === * 1931年(昭和6年)8月 - 地元の関係者が国会に請願書を提出し、鉄道敷設運動が始まる<ref name="新線_140-141" />。 * 1940年(昭和15年) - 越後湯沢と結ぶ北越南線構想が持ち上がる<ref name="新線_142" />。 * 1944年(昭和19年) - 信濃川発電所工事線を延長する形で松代と結ぶ路線の建設が決まるが、後に敗戦により計画中止<ref name="新線_142" />。 * 1950年(昭和25年)9月3日 - 北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会発会式<ref name="新線_144" />。 * 1953年(昭和28年) ** 2月 - 第9回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留<ref name="鉄道計画_133-134" />。 ** 8月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択<ref name="新線_147" />。 ** 9月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット<ref name="新線_147" />。 * 1961年(昭和36年)2月23日 - 南北両派が一本化で協力推進する協約を締結<ref name="新線_148" />。 * 1962年(昭和37年) ** 4月22日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択<ref name="新線_148" />。 ** 5月12日 - 鉄道敷設法第1条別表第55ノ3号により、予定路線に編入<ref name="衆議院19620512" />。 * 1964年(昭和39年) ** 4月22日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示<ref name="新線_149" />。 ** 9月28日 - 工事線に昇格<ref name="新線_149" />、運輸大臣が路線の基本計画を定め、[[日本鉄道建設公団]](鉄道公団)に対して工事実施計画の指示<ref name="新線_150" />。 * 1968年(昭和43年) ** 3月28日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可<ref name="新線_150" />。 **4月20日 - 六日町にて北越北線起工式挙行<ref>『かけ声も高らかに 待望の北越北線が起工式』昭和43年4月21日読売新聞新潟読売B</ref>。 ** 8月14日 - 六日町 - 十日町間着工<ref name="新線_150" />。 * 1972年(昭和47年)10月11日 - 十日町 - 犀潟間工事実施計画認可<ref name="新線_150" />。 * 1973年(昭和48年)3月24日 - 十日町 - 犀潟間着工<ref name="新線_150" />。 * 1978年(昭和53年)7月20日 - 停車場有効長の延伸、[[スラブ軌道]]の採用、電化準備工事などを含めた工事実施計画変更<ref name="新線_153" />。 * 1980年(昭和55年)12月27日 - 日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行<ref name="衆議院19801227" />により工事凍結<ref name="新線_153" />。 * 1982年(昭和57年)3月 - 完成済み施設の保安工事完了、工事全面停止<ref name="鉄道計画_141" />。 * 1983年(昭和58年)6月22日 - 北越北線建設促進期成同盟会総会において、田中角栄元首相から第三セクター化の構想が提示される<ref name="新線_154" />。 * 1984年(昭和59年) ** 3月1日 - 第三セクター設立準備会設立<ref name="新線_154-155" />。 ** 8月27日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催<ref name="新線_154-155" />。 ** 8月30日 - 北越急行株式会社設立登記<ref name="新線_154-155" />。 ** 11月8日 - 国鉄再建法第14条第1項に基づく国鉄新線の告示<ref name="新線_154-155" />。 * 1985年(昭和60年) ** 2月1日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける<ref name="新線_154-155" />。 ** 2月25日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示<ref name="新線_154-155" />。 ** 3月16日 - 鉄道公団により工事再開<ref name="新線_154-155" />。 * 1988年(昭和63年)8月 - 運輸省が「整備新幹線運輸省規格案」を発表、北陸新幹線と連携した幹線鉄道とするための、北越急行の電化・高規格化を提唱<ref name="新線_179-180" />。 * 1989年(平成元年) ** 3月28日 - JR東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結<ref name="新線_187-188" />。 ** 5月31日 - 北越急行、事業基本計画の変更申請、最高速度を95&nbsp;km/hから130&nbsp;km/hへ、動力方式を内燃から電気へ、別途160&nbsp;km/h対応で基礎的施設の工事を行っておくことを表明<ref name="新線_185-186" />。 ** 7月31日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示<ref name="新線_186" />。 ** 10月2日 - 高規格化対応工事に着手<ref name="新線_186" />。 * 1996年(平成8年) ** 4月15日 - まつだい駅構内にてレール締結式<ref name="工事誌_318" />。 ** 9月19日 - HK100形初入線。速度35&nbsp;km/h<ref name="rf646-39" />。 ** 9月28日 - [[JR西日本681系電車|681系2000番台]]初入線。段階的に速度を上昇<ref name="rf646-39" />。 ** 10月7日 - 681系による160&nbsp;km/h走行試験を開始<ref name="rf646-39" />。 * 1997年(平成9年)3月22日 - ほくほく線開業<ref name="rj428-32" />。特急「はくたか」運転開始。 * 1998年(平成10年)12月8日 - 「はくたか」を150&nbsp;km/hにスピードアップ<ref name="5周年_26-27" />。 * 2002年(平成14年)3月23日 - 「はくたか」を160&nbsp;km/hにスピードアップ<ref name="5周年_26-27" />。 * 2004年(平成16年) ** 10月23日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる<ref name="dr.hokuhoku_13" />。 ** 10月26日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開<ref name="dr.hokuhoku_13" />。 ** 11月2日 - 全線で運転を再開<ref name="dr.hokuhoku_13" />。 * 2007年(平成19年)7月16日 - 新潟県中越沖地震発生、「はくたか」の運転を1日休止<ref name="dr.hokuhoku_b2" />。 * 2015年(平成27年) ** 3月14日 - 北陸新幹線 長野 - 金沢間の開業に伴い、特急「はくたか」廃止<ref name="jreast20140827" /><ref name="jrwest20140827" /><ref name="hakutakahaishi" />。最高速度160&nbsp;km/h運転を終了し、国土交通省への申請最高運転速度を130&nbsp;km/hへ引き下げ<ref name="rf670-69" />。超快速列車「[[#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]]」運転開始<ref name="rf650-32"/>および[[えちごトキめき鉄道]]への乗入れ開始<ref name="20150219pr" />。 ** 11月7日 - イベント列車として犀潟 - 六日町間を約4時間かけて走る「[[#超低速「スノータートル」|超低速スノータートル]]」を運行、先着順での受付のためわずか30分で完売した<ref name="trafficnews20151108" /><ref name="raifjp20151005" /><ref name="mynavi20151006" />。 * 2016年(平成28年) ** 8月28日 - イベント列車「超低速スノータートル」第2弾を運行。今回以降先着順から抽選に変更、競争率3倍。 ** 11月8日 - [[佐川急便]]と連携した貨客混載列車の試運転を報道各社に公開<ref name="rf670-70_73" />。 * 2017年(平成29年)4月18日 - 夜間の普通列車1往復の六日町 - うらがわら間で佐川急便との貨客混載を開始<ref name="20170410 press" />。 * 2018年(平成30年)12月1日 - 普通運賃と通勤定期運賃を改定し10 %値上げ<ref name="20180927 press" />。 * 2023年(令和5年)3月18日 - 超快速列車を含む全ての快速列車及び、大池いこいの森駅通過の普通列車といった、六日町 - 犀潟間の線内で通過運転を行う定期列車が全廃。平日のみ運行の列車が1往復設定。最高速度を95&nbsp;km/hに引き下げ<ref name="20221216 press">{{Cite web|和書|url=https://hokuhoku.co.jp/press/20221216.pdf |title=2023年3月18日 ほくほく線ダイヤ改正 |access-date=2022-12-19 |publisher=北越急行株式会社}}</ref>。 == 施設 == 先述のように、ほくほく線は数回の工事計画の変更を経て、全線単線<ref name="rj557-27" />、直流1500 [[ボルト (単位)|V]]電化で建設されている。しかし、高速運転を実施し、1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯<ref name="rj557-36" />を通過するため、各種の対策が施されている。 === 最高速度160 km/hへの対応 === [[ファイル:Hokuhoku line hakutaka13 service.JPG|thumb|[[くびき駅]]を高速で通過する特急「はくたか」]] 開業当時の線内最高速度は160&nbsp;km/hで、これは新幹線を除く鉄道では[[京成電鉄]][[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]の「[[スカイライナー]]」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最速であった。このため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。 160&nbsp;km/hに設定された背景には、国鉄時代に[[湖西線]]で行われた高速走行試験の目標が160&nbsp;km/hであったこと<ref name="rj428-23" />や、「新幹線と在来線の軌間の比率を考えると、200&nbsp;km/hに対して160&nbsp;km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる<ref name="rj557-29" />。「140&nbsp;km/hでも十分」という意見もあった<ref name="rj557-29" />が、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという<ref name="rj557-29" />。 1947年に定められた[[鉄道運転規則]]に基づき、どんな場合でもブレーキ開始から走行600&nbsp;m以内に停止できること([[600メートル条項]])が、在来線では必須とされてきた<ref name="鉄道の科学_153"/>。2009年現在でも、新幹線以外の鉄道ではこの停止距離が標準的な要求となっている<ref name="新世代鉄道の技術_127"/>。ほくほく線の車両も600&nbsp;m以内での停止要求は実現できていないが、ほくほく線は後述する原則踏切を排した完全立体の線路、ATS-P形式の[[自動列車停止装置]]、GG信号等が導入され<ref name="鉄道テクノロジー3_89"/>、特例措置として160&nbsp;km/h走行が認められた<ref name="鉄道テクノロジー3_89"/>。 しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており<ref name="rj428-30" />、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった<ref name="rj557-29" />。これらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であり<ref name="rj428-30" />、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、客室扉が閉じた際に車体に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった<ref name="rj428-30" />。その後の半年にわたる試運転で安全性は立証された<ref name="rj428-32" />ものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140&nbsp;km/hとした<ref name="rj428-32" />。その2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で<ref name="rj428-32" />、1998年12月8日から150&nbsp;km/h運転を開始した<ref name="5周年_26-27" />。さらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い<ref name="rj428-33" />、2000年11月21日には160&nbsp;km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認<ref name="rj428-33" />、2002年3月23日から160&nbsp;km/h運転が開始されている<ref name="5周年_26-27" />。 ただし、通常ダイヤであれば155&nbsp;km/h程度で定時運行が可能で<ref name="rj557-31" />、160&nbsp;km/hは列車が遅延した際の余裕と考えられていた<ref name="rj557-31" />。また、最高速度である160&nbsp;km/hで走行できる区間は、勾配などの影響から下り列車(犀潟方面行き)が赤倉・鍋立山・霧ヶ岳の各トンネル内とくびき駅から犀潟駅までの高架橋区間<ref name="rj428-33" />、上り列車(六日町方面行き)では薬師峠トンネル内となっている<ref name="rj428-33" />。さらに、気圧変動の緩和のため、ATS-Pによってトンネル進入時に130&nbsp;km/hに速度を落とし、進入後のトンネル内で160&nbsp;km/hまで加速させている<ref name="rj428-33" />。 北陸新幹線開業後の2015年3月14日以降は特急列車の160&nbsp;km/h運転を終了し、国土交通省運輸局への申請最高運転速度を160&nbsp;km/hから引き下げている。なお、営業列車は基本的に110&nbsp;km/h(2023年3月18日からは95&nbsp;km/h<ref name="20221216 press" />)で運転する普通列車のみとなったが、[[JR東日本E491系電車|E491系]]検測車や[[国鉄485系電車|485系]]などのJR車両を運転するため、申請最高運転速度は130&nbsp;km/hとしている<ref name="rf670-69" />。なお、160&nbsp;km/h運転に関わる技術は[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]へ継承されており<ref name="rf646-53" />、[[日本鉄道運転協会]]から北越急行に対して、160&nbsp;km/hによる運転の実績と京成電鉄への技術承継を評価する「東記念賞」が授与されている<ref name="rf646-53" />。 === 構造物 === 建設中数度に渡り工事実施計画の変更が行われたが、最終的に最小曲線半径は400メートル、最急勾配は33パーミルとなっている<ref name="工事誌_7-8" />。半径の小さな曲線はすべて、JR線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅付近に位置し、それ以外の区間では半径800メートル以上である<ref name="新線路_34-35" />。もっとも曲線のきつい半径400メートルのカーブは犀潟駅の1か所のみで、制限速度は80&nbsp;km/hである<ref name="新線路_34-35" />。高規格化にあたって、緩和曲線長の延伸などの改良が行われている<ref name="新線路_34-35" />。[[踏切]]は、始終端の六日町駅・犀潟駅構内の2か所のみであり<ref name="新線_180" />、線区の中間にはまったく踏切が存在しない。この2か所の踏切では、前後に存在する曲線や分岐器に伴う速度制限により、列車の通過速度が130&nbsp;km/h以下に抑えられることから、他の線区の踏切と同等であるとして、特段の保安措置は採られていない<ref name="新線_190-192" />。 ==== 軌道 ==== [[File:Movable nose crossing Kubiki Station.jpg|thumb|[[くびき駅]]の[[分岐器#ノーズ可動クロッシング|ノーズ可動クロッシング]]]] [[軌条]](レール)は1メートルあたりの重さが60 kgである60 kgレールが大半を占め、一部の区間では50 kgレールも使用している<ref name="工事誌_307" />。2009年現在では、在来線では50 kgレールが一般的で60 kgレールの採用は少ない<ref name="鉄道テクノロジー3_91"/>。60 kgレールは新幹線と同じレールで、その重さにより高速走行の衝撃に耐えることができ、車両の高速走行の安定化に貢献している<ref name="鉄道テクノロジー3_91"/>。 [[軌道 (鉄道)|軌道]]は、トンネル内や高架橋など全線の約7割で[[スラブ軌道]]が採用され<ref name="工事誌_307" />、軌道の強化と保守の低減が図られている<ref name="鉄道テクノロジー3_91"/>。このスラブ軌道には「枠型スラブ」と称するコンクリート使用量が少ないものが採用されており<ref name="rj557-38" />、その後東北新幹線・北陸新幹線の延伸部分でも採用された<ref name="rj557-38" />。 築堤など約2割の区間は[[バラスト軌道]]を用いたが、築堤上にアスファルトを敷き雨水浸水対策をしたうえで軌道を敷設している<ref name="rf646-33" />。このほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間もある<ref name="工事誌_307" />。住宅の多い地域では、バラスト軌道と[[枕木|コンクリート枕木]]の組み合わせを採用し、騒音低減を図るなどの配慮が行われている<ref name="鉄道テクノロジー3_91"/>。 本線上において高速走行の列車が通過する場所にある[[分岐器]]12組は[[分岐器#ノーズ可動クロッシング|ノーズ可動クロッシング]]とした<ref name="rj557-28" /><ref group="注釈">ノーズ可動クロッシングにすることによって、ポイントを高速で通過しても脱線しにくくなる。</ref>が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても20組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である<ref name="rj557-28" />。十日町駅構内については、駅前後の曲線で速度制限を受けることによって130&nbsp;km/h以下の速度での通過となるため<ref name="rj557-30" />、ノーズ可動クロッシングを使用していない<ref name="rj557-30" />。また、交換設備はすべて1線スルー方式で<ref name="rj392-40" />、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である<ref name="rj392-40" />。 ==== トンネル ==== 魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが14か所と多く<ref name="rj368-54" />、すべてのトンネルの長さを合計すると40,342メートルとなり、これは路線長59,468メートルの67.8パーセントに相当する<ref name="工事誌_66" />。他の構造種別は、土路盤が9,679メートルで16.3パーセント(うち切取1,042メートル、盛土8,637メートル)、橋梁が9,447メートルで15.9パーセントである<ref name="工事誌_66" />。[[#軌道|後述]]のように単線であることに加えて、非電化を前提として建設が開始されたため、通常の複線電化されたトンネルと比較してトンネル断面積が小さいことが特徴である<ref name="鉄道テクノロジー3_89"/>。 全長が3,000メートルを超えるトンネルについて、起点側から順に以下に示す。 ;[[赤倉トンネル]] :魚沼丘陵 - しんざ間に位置する全長10,471.5メートルのトンネルで、トンネル内に[[赤倉信号場]]と[[美佐島駅]]が存在する<ref name="dr.hokuhoku_5" />。国鉄・JR以外の日本の鉄道用として開通した山岳トンネルではもっとも長い<ref name="dr.hokuhoku_5" /><ref group="注釈">開業時点ではJR以外の日本の山岳用鉄道トンネルとして最長であったが、2015年3月14日の北陸新幹線開業に伴い、北陸本線の[[頸城トンネル]](11,353&nbsp;m、1969年開通)が[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン]]の所属に移管されたため、「JR以外の鉄道で最長の山岳トンネル」の座は譲っている。</ref>。東工区4,281.5メートル、中工区4,140.0メートル、西工区2,050.0メートルの3つの工区に分割して施工され、東工区および中工区では膨張性地圧と大量の湧水により工事が難航した<ref name="工事誌_129" />。トンネル内で上越新幹線の[[塩沢トンネル]]と立体交差となっており、交差部でのトンネル間隔は1メートルもない条件で、先に赤倉トンネルが施工されたことから塩沢トンネル施工前に赤倉トンネルに補強工事を行っている<ref name="上越工事誌" />。1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて建設され<ref name="工事誌_125" />、工事凍結時点では既に完成済みであった。 ;薬師峠トンネル :十日町 - まつだい間に位置する全長6,199.17メートルのトンネルで、トンネル内に薬師峠信号場が存在する<ref name="dr.hokuhoku_5" />。東工区3,647メートル、西工区2,522メートルに分割されて施工され、西工区では地質に恵まれ順調に掘削できたものの、東工区は大規模な異常出水に直面したほか、国鉄[[信濃川発電所]]用の水路トンネル2本との立体交差があり、特別な対応が求められた<ref name="工事誌_150" />。1973年(昭和48年)から1979年(昭和54年)にかけて建設され<ref name="工事誌_125" />、工事凍結時点では既に完成済みであった。 [[ファイル:HK100 Yumezora2 and Nabetachiyama tunnel Hokuhoku-Oshima 20140908.jpg|thumb|鍋立山トンネル]] ;[[鍋立山トンネル]] :まつだい - ほくほく大島間に位置する全長9,116.5メートル(スノーシェッド13メートルを含めて9,129.5メートル)のトンネルで、トンネル内に儀明信号場が存在する<ref name="dr.hokuhoku_5" />。東工区1,750.5メートル、中工区3,387.0メートル、西工区3,979.0メートルに分割して施工され<ref name="回顧_766" />、東工区は予定通りの工期で完成したが、西工区の後半(トンネル中央側)と中工区は膨張性地山と可燃性ガスの湧出により苦しめられた<ref name="工事誌_160" />。1973年(昭和48年)に着工したが、1982年(昭和57年)の工事凍結時点で645メートルが未掘削で残されており、工事再開後も日本のトンネル工事史上未曽有とされる困難を極める工事となった<ref name="工事誌_160" />。最終的に1995年(平成7年)に完成し<ref name="新線_216-217" />、途中の中断期間を含めると21年11か月を要した。 ;霧ヶ岳トンネル :ほくほく大島 - 虫川大杉間に位置する全長3,726.98メートル(スノーシェッド6メートルを含めて3,732.98メートル)のトンネルである<ref name="dr.hokuhoku_5" />。東工区1,826メートル(入口側の六夜沢橋梁を含む)、西工区1,828メートル、出口側開削区間140メートルの3工区に分割して施工された。地質に恵まれた工事であったが、西工区は建設中に工事凍結を迎え、東工区は工事再開後の着工となった<ref name="工事誌_240" />。1978年(昭和53年)から1992年(平成4年)にかけて建設された<ref name="工事誌_125" />。 ;第一飯室トンネル :うらがわら - 大池いこいの森間に位置する全長3,287メートルのトンネルである<ref name="dr.hokuhoku_5" />。東工区1,610メートル、西工区1,672メートルに分割して施工され、一部崩壊性地山に遭遇して難渋したが全体的には順調な進行で<ref name="工事誌_242" />、工事再開後の1988年(昭和63年)に着工し1991年(平成3年)までかけて建設された<ref name="工事誌_125" />。 ==== 橋梁・高架橋 ==== 全線で橋梁が28か所、高架橋が35か所、架道橋が69か所、線路橋が3か所、溝橋が2か所ある<ref name="工事誌_88" />。 構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたためKS-16荷重を採用していた<ref name="新線_150-151" />。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い[[機関車]]の入線は不可能となっている<ref name="rj557-45" />。第三セクター化後に建設された区間の活荷重はKS-12荷重を採用している<ref name="工事誌_71-72" />。ただし[[雪かき車]]の通行は想定されており、設計に際して[[国鉄DD14形ディーゼル機関車|DD14形]]・[[国鉄DD53形ディーゼル機関車|DD53形]]の両ロータリー式雪かき車の重量が考慮され<ref name="工事誌_71-72" />、荷重試験や軌道検測車による検測では[[国鉄DD51形ディーゼル機関車|DD51形]]が入線している<ref name="rf646-39" />。 高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜けとなっている「開床式高架橋」を採用している<ref name="rj428-29" />ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋には、そもそも側壁自体が設けられていない<ref name="rj368-53" />。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している<ref name="rj557-39" />。 最長の橋梁は、十日町 - 薬師峠信号場間にある信濃川橋梁で、全長406.73メートルである<ref name="工事誌_冒頭図" /><ref name="工事誌_89" />。橋脚や橋台は国鉄線として施工されたためKS-16荷重で設計されているが、橋桁は第三セクター化されてからの施工のためKS-12荷重となっている。1径間68メートルの3径間連続[[トラス橋|トラス]]を2連用いた橋梁となっている<ref name="工事誌_92-94" />。 === 駅・信号場 === {{Triple image|right|HK100 Matsudai 20150215.jpg|130|Swing Gate in Station of Hokuhoku Line.jpg|130|Hokuetsu Express Muikamachi train depot.jpg|130|まつだい駅で列車交換を行う普通電車|ホームへの入口に設けられたスイングゲート|六日町駅に隣接する車両基地(収容庫)}} 列車の行き違いを行う[[列車交換|交換設備]]は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの4駅と、赤倉・薬師峠・儀明の3信号場にあり、すべて10両編成同士の列車交換が可能である<ref name="rj392-40" />。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて12駅で<ref name="rj368-54" />、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だけで<ref name="rj368-54" />、起点・終点駅である六日町駅・[[犀潟駅]]と[[十日町駅]]以外は、すべて[[無人駅]]である。特急の停車しない駅のプラットホームは、虫川大杉駅の1番線のみ9両分の長さで<ref name="rj368-53" />、ほかはすべて2両分のみである<ref name="rj368-53" />。また、信号場は3か所ともトンネル内にある<ref name="rj368-54" />。トンネル内の信号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長460メートルを実現するために、複線断面となっている延長が680メートルに達しているが、実際の待避線有効長は240メートルとなっている<ref name="工事誌_353" />。当初計画では制限速度45&nbsp;km/hの振り分け分岐器を使用することになっていたが、そのままでは一線スルー構造を実現できないことから、半径3,000&nbsp;mのSカーブとすることによって対処している<ref name="rf646-33" />。 「はくたか」・快速が停車しない駅では列車が高速で通過して危険であることから、地上駅については[[プラットホーム|ホーム]]への入口にはスイングゲートを装備し、列車に乗降する時以外はホームに入らないようにとの注意書きがなされた<ref name="rj392-37" />。地下駅の[[美佐島駅]]は、特急が140&nbsp;km/hでトンネルに進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速25メートルにも及び<ref name="rj368-53" />、通過列車が接近した場合に風圧によって飛ばされる危険が高いことなどから、二重の防風扉を装備し、客扱い時以外はホームを封鎖する。無人駅ながらホーム部分は常に[[監視カメラ]]によって管理されており、列車到着後2分以内にホームから出る必要がある。このため、列車が発着した後もホームに残っているとアナウンスで注意される<ref name="rj557-39" />。 [[車両基地]]は六日町駅に隣接しており<ref name="rj557-36" />、2両編成×3編成が収容可能な収容庫と検修庫に分かれている<ref name="rj557-36" />。なお、後述する雪対策の観点から、冬季は屋外での車両留置は行わず、すべて留置用の収容庫か検修庫を利用する<ref name="rj557-36" />。このため、車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられている<ref name="rj557-36" />。 === 閉塞方式 === [[閉塞 (鉄道)|閉塞]]方式は単線自動閉塞式である<ref name="rj392-40" />。[[列車集中制御装置]] (CTC) とプログラム式進路制御 (PRC) を併用し<ref name="rj392-40" />、進路設定の上で支障となる要因がなくなると30秒で進路を設定できる<ref name="rj392-40" />。 開業当初は列車密度および最高速度の問題と160&nbsp;km/h運転の可否(GG信号の点灯不点灯)を手前から判断する必要から、出発信号機8機と閉塞信号機22機を使用して閉塞区間を比較的短区間で設定しており<ref name="rj392-40" />、本線の1閉塞区間の平均の距離は1,566メートルであった<ref name="rj392-40" />。 2015年3月14日以降は特急列車の160&nbsp;km/h運転を終了し<ref name="rf670-69" />、加えて列車の設定本数が半減したため、本線にある閉塞信号機はJR線と接続する六日町 - [[赤倉信号場]]間とくびき - 犀潟間の各1か所を除いて使用停止とし、それ以外の区間では列車の交換施設がある駅または信号場の間に設置されていた複数の閉塞区間を統合して1つの閉塞区間とした<ref group="注釈">これにより、この区間での単線区間においては、1つの列車しか進入できないようになっている</ref>。なお、使用停止となった閉塞信号機は2016年度中にすべて撤去されている<ref name="rf670-69" />が、長大トンネル内での走行位置を運転士が判断できるようにする必要性から、従来閉塞信号機が合った個所に黄色い丸の反射板と数字による「地点標識」を順次新設しており、地点標識での確認喚呼を新たに設けている<ref group="注釈">160&nbsp;km/h運転時での閉塞信号機が合った個所での確認喚呼は特急列車では「第○閉塞 高速進行」、普通列車では「第○閉塞 進行」であったが(○は閉塞信号機の番号)、新設された地点標識での確認喚呼では「第○地点 よし」としている</ref><ref name="rf670-69" />。 === 保安装置 === {{Triple image|right|GG-Signal Hokuhoku Line Matsudai 160 20150215.jpg|120|GG-Signal Hokuhoku Line Matsudai 140 20150215.jpg|120|Repeating signal GG-Signal Hokuhoku Line 20140910 2.jpg|120|2015年3月13日まで使用された、130&nbsp;km/hを超える速度での走行を許可するGG信号。下の「160」という標識は当該区間の許容速度が160&nbsp;km/hであることを示す|下の「140」という標識は当該区間の許容速度が140&nbsp;km/hであることを示す|中継信号機によるGG信号は縦に6灯の点灯}} 保安装置([[自動列車停止装置]])はATS-P形を採用している<ref name="rj557-29" />。 当初、運輸省では高速運転に際して、新幹線と同様に[[自動列車制御装置]] (ATC) の導入を求めていた<ref name="rj557-28" />が、導入コストの問題のほか<ref name="rj557-28" />、各地からの臨時列車の乗り入れが車種の制限なく行えるようにするため<ref name="rj557-28" />、ATS-P形の導入となった<ref name="rj557-29" />。このATS-P形の全面導入により、ほくほく線の[[交換駅]]では[[安全側線]]を廃止し<ref name="鉄道テクノロジー3_93"/>、交換列車同士の同時進入についても本線側55&nbsp;km/h・分岐側45&nbsp;km/hに制限速度が緩和されている<ref name="rj392-40" /><ref group="注釈">通常、同時進入は警戒現示により25&nbsp;km/h制限となる。</ref>。 また、2015年3月13日以前は130&nbsp;km/h以上での走行を許可する「高速進行現示」として主信号機では緑2灯の点灯、中継信号機では縦に6灯の点灯をもって、高速進行現示とする「GG信号」が導入されていた<ref name="rj557-29" />。このGG信号は、ATS-P形のトランスポンダ車上子を搭載した車両に限って現示されたもので、トランスポンダ車上子搭載車が信号機を通過する数十秒前にG信号(進行現示)からの変換によりGG信号が現示される<ref name="rj368-47" />。GG信号は中3灯を空けて点灯することにより視認性を向上している<ref name="rf646-34" />。このGG信号の導入により、それまでの緑1灯の点灯となる進行現示(G信号)は130&nbsp;km/hの制限信号となった<ref name="rj368-46" />。また、GG信号を表示する出発信号機の下にはオレンジ色の速度標識が掲出されたが、これは制限速度ではなく、当該区間の許容速度を示す標識であった<ref name="rj557-29" />。 なお、申請最高運転速度を130&nbsp;km/hへ引き下げた2015年3月14日以降は、5灯式信号機についても3現示のみの点灯となり<ref name="rf670-69" />、速度標識も順次撤去されている。 === 電力設備 === 160&nbsp;km/h走行を考えれば電流を小さくできる[[交流電化]]の方が有利な面が多いが、トンネルが内燃動車の運転を前提として建設されたために断面が小さく、[[直流電化]]に比べて高い電圧を使用する交流電化に必要な絶縁離隔確保ができないことや、前後のJR線が直流電化であることから、やむなく直流電化が採用されている<ref name="電気設備_46-47" /><ref name="十年_116" />。架線引きとめについては完成済みのトンネル天井を一部壊したほか、建設時期によるトンネル断面の変化点を利用して対応した<ref name="rf646-33"/>。 [[架線]]支持方式は、高速走行時にも電車が安定して給電を受けられるように、地上区間では新幹線と同様の[[架空電車線方式#コンパウンドカテナリー式|コンパウンドカテナリ方式]]を使用している<ref name="rj557-28" /><ref group="注釈">架線支持方式には様々な方式がある。コンパウンドカテナリ方式の架線は構造が複雑である反面、一般的な架線よりも[[張力]]を高くすることが可能でありパンタグラフへの追従性が良い。</ref>が、もともと非電化路線として建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナリ方式を採用しており<ref name="rj557-28" />、さらに吊架には長幹碍子という特殊な[[碍子]]を使用している<ref name="rj557-28" />。 [[変電所]]は、おおむね10&nbsp;km間隔で六日町・津池・十日町・松代・大島・浦川原・大潟の7か所に設置されており、総出力は33,000 [[キロワット|kW]]としている。これは総延長が約60&nbsp;kmの鉄道路線としては異例の重装備であるが、「はくたか」運行終了に伴い設備のスリム化を図るため、津池変電所を廃止、大島・大潟の変電所からの受電を止めることで、使用する変電所を4か所に削減する予定としている<ref>『鉄道ジャーナル』2015年12月号記事。</ref>。また沿線が有数の豪雪地帯であるため、一部を除いて[[変圧器]]などの重電部品は建屋に収納する対策が施されている<ref name="rf646-34" /><ref name="電気設備_47-48" />。 <gallery widths="160"> Overhead line support bracket Misashima 20150215 1.jpg|トンネル内の架線吊架には特殊な碍子が使用されている(赤倉トンネル・美佐島駅) Uragawara substation.jpg|浦川原変電所 </gallery> === 雪対策 === 前述の通り、路線長の68パーセントがトンネルであるが、残る地上区間については先述したほかにも数々の雪対策が施されている。これら対策を開業当初から施した<ref name="rj557-44" />ことにより、ほくほく線は接続するJRの路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく<ref name="dr.hokuhoku_9" />、雪対策で不備をきたしたことも皆無に近い<ref name="rj557-44" />。 ;消雪溝 :車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設けられており、線路脇に溝を作って地下水を流す<ref name="rj557-37" />。なお六日町では地下水汲み上げによる[[地盤沈下]]が激しく、地下水の利用には制限があるため<ref name="rj557-37" />、使用後の水は循環使用される<ref name="rj557-37" />。 ;パネル式融雪装置:車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温した[[不凍液]]をパネルの中に循環させるもので<ref name="rj557-37-38" />、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪ができない場所に設けられている<ref name="rj557-37-38" />。六日町駅構内では地下水は循環利用である<ref name="rj557-37" />が、[[関越自動車道]]を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない<ref name="rj557-38" />。 ;融雪ピット :六日町駅構内の踏切脇に設けられており<ref name="rj557-37" />、レールの間の枕木上にFRP製のトレーを置き、地下水を流すことによって列車に押された線路内の雪の量を減らす<ref name="rj557-37" />。これによって線路から踏切内へ持ち込まれる雪が少なくなる<ref name="rj557-37" />。前述の取水制限があるため、使用後の水は循環使用されている<ref name="rj557-37" />。 ;スプリンクラー:六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用するが、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をアスファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている<ref name="rj557-36" />。十日町駅手前の飯山線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を<ref name="rj557-39" />、十日町駅構内では[[薬師峠トンネル]]の湧水を利用しており<ref name="rj557-40" />、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、[[信濃川]]へ放流されている<ref name="rj557-40" />。 ;熱風ヒーター :地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず<ref name="rj557-43" />、[[水利権]]の関係で川の水も利用できない<ref name="rj557-43" />まつだい駅構内の分岐器に装備される<ref name="rj557-43" />。ボイラーで摂氏100度まで加温された温風をダクトで分岐器に導くもので<ref name="rj557-43" />、温風噴射口では摂氏40度程度の温風となる<ref name="rj557-43" />。なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である<ref name="rj557-43" />。 ;温水ジェット噴射装置 :[[分岐器]]の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある<ref name="rj557-42" />。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しいため<ref name="rj557-42" />、不転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した<ref name="rj557-42" />。この装置は運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏25度の温水が60秒間噴射される<ref name="rj557-43" />。この装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている<ref name="rj557-42" />。降雪のないトンネル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下する可能性のある雪や氷を考慮したためである<ref name="rj557-43" />。 ;除雪機械(モーターカー) :JRから譲受した旧式の排雪用の[[モーターカー]]1台のほか、ほくほく線開業時に新造した2台が用意されている<ref name="rj557-41" />。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を両脇に押し出すラッセルヘッド<ref name="rj557-41" />、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロータリーヘッドを装備している<ref name="rj557-41" />ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタグラフを装備している<ref name="rj557-42" />。冬期中は、これらのモーターカーで夜間時に除雪作業を行っている<ref name="鉄道テクノロジー3_93" />。 このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約1億円である<ref name="rj557-43" />。 <gallery widths="160"> Open-floor viaduct.jpg|くびき付近の開床式高架橋 Viaduct Tokamachi 20150215.jpg|十日町付近の高架橋では両脇に湧水を流している Snow removing ditch Muikamachi 20150215.jpg|六日町駅構内に設けられた消雪溝 Panel-type snow melting equipment Muikamachi 20150215.jpg|線路の両側にパネル式融雪装置が設置されている区間。線路の両側の部分だけ積雪がない Railroad switch Warm air injection port Matsudai 20150215.jpg|まつだい駅の分岐器に設置される熱風ヒーター。レールの間にある四角い箱のようなものがダクトである Tokamachi Station snow melting sprinkler.JPG|十日町駅に取り付けられた消雪スプリンクラー </gallery> 地上側の設備に加え、線内列車に使用される[[北越急行HK100形電車|HK100形電車]]の[[スノープラウ|スノープロウ]]の先端部分は櫛の歯のような形状にしている<ref name="rj557-37" />。これは2本のレールの間の雪が圧雪状態の塊になると脱線事故の原因になりかねないため<ref name="rj557-37" />、この先端部分で雪をほぐし、圧雪状態にならないようにするためである<ref name="rj557-37" />。さらに、前述の運行体制の一環として、大雪であっても列車の運行を行うことによって、線路上への積雪を最小限に抑えている<ref name="rj557-44" />。北越急行では、「最大の除雪手段は、列車を走らせ続けること」としている<ref name="rj557-44" />。 <gallery widths="160"> HK100 Snowplow.jpg|先端部分が櫛の歯のような形状になったHK100形電車のスノープロウ Cleaning equipment for railroad car at Muikamachi train depot.jpg|車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられた </gallery> == 運行形態 == [[File:Linemap of Hokuhoku Line with Stations.svg|thumb|320px|ほくほく線の路線図。大半の列車が[[信越本線]]の直江津と[[上越線]]の越後湯沢に乗り入れる。]] 開業当初から、越後湯沢駅での上越新幹線との連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われている<ref name="rj392-34" />。特急列車が廃止された2015年3月14日以降は普通列車を主体としたダイヤとなり、2023年3月18日のダイヤ改正より線内で通過運転を行う列車が無くなった<ref name="20221216 press"/>。また、全ての定期列車が[[ワンマン運転]]を実施している。 正式な起点は六日町駅であり、六日町駅から犀潟駅へ向かう列車が下り、逆方向を上りとしているが、[[列車番号]]は犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が通常下り列車を表す奇数、逆方向が通常上り列車を表す偶数となっている<ref name="rj368-44" />。これは、特急「はくたか」がJR西日本主体の列車であったことから<ref name="rj368-44" />、北陸本線に合わせたためであり<ref name="rj368-44" />、「はくたか」廃止後もそのままである。本記事では、以下路線の起点に則って上り・下りを表記する。 駅員が集改札を行っている駅では全てのドアから乗降ができるが、それ以外の駅(無人駅)では1両目の後部のドアより乗車し、1両目の前部のドアより降車する[[ワンマン運転#中(後)乗り前降り|後乗り前降り]]方式となっている<ref name="dr.hokuhoku_16" />。 === 現在の運行形態 === 線内各駅に停車する普通列車がおおむね毎時1本運転されている。直江津駅 - 越後湯沢駅間での運転を基本とし、線内途中駅を始発・終着とする列車はないが、朝夕を中心にJRとの境界駅である犀潟駅・六日町駅発着の列車が設定されている。 一部列車は日曜日を中心に後述の「ゆめぞら」の限定運用となっており、トンネル走行時に映像上映が行われている。詳しい運行状況は北越急行の公式サイトで確認することができる<ref name="ゆめぞら" /><ref name="mee" />。 2015年3月14日のダイヤ改正で特急「はくたか」が全廃された<ref name="rj586-50" />ことに伴い、特急列車優先による待ち合わせが解消された<ref name="rj586-53-54" />ことから、普通列車の所要時間は1列車あたり10分程度短縮された<ref name="rj586-54" />。 === 過去に運行されていた列車 === 1997年3月22日のほくほく線開業から北陸新幹線長野駅 - 金沢駅間開業前日の2015年3月13日までは、上越新幹線と接続して北陸方面を結ぶ特急列車<ref name="rj368-54" />と、地域内利用を主眼とした普通列車の2系統を主体とする運行形態が取られていた<ref name="rj368-55" />。 ほくほく線内を運転する普通列車は、特急列車の待避や交換待ちなどで数駅ごとに長時間停車する列車が多かった<ref name="rj368-57" />。1999年の時点では、通過駅のない普通列車で最も短い所要時間が直江津駅から六日町駅までで49分45秒<ref name="rj392-34" />なのに対して、最長の所要時間を要する列車では六日町駅から直江津駅までに1時間24分かかっていた<ref name="rj392-36" />。 ==== 特急「はくたか」 ==== {{main|はくたか}} 開業時から運行されていた特急列車である。1999年時点では1日10往復運行されており<ref name="rj392-34" />、「はくたか」同士のすれ違いは56回中24回がほくほく線内で行われていた<ref name="rj392-34" />。 ==== 快速 ==== 開業から2022年3月18日のダイヤ改正までは、一部駅を通過する[[快速列車]]が運転されていた。 ; 廃止時点の停車駅 : 越後湯沢駅 - 六日町駅 - 十日町駅 - まつだい駅 - ほくほく大島駅 - 虫川大杉駅 - うらがわら駅 - くびき駅 - 犀潟駅 -(黒井駅)- 直江津駅 :* 黒井駅は一部列車が通過。 :* 開業当初の快速は虫川大杉駅を通過していた<ref>『JTB時刻表1997年6月号』 498頁</ref>。 ==== 超快速「スノーラビット」 ==== [[ファイル:HK100 sideboard Cho Rapid Service Snow Rabbit 2.jpg|thumb|車両側面の列車名表示]] 2015年3月14日のダイヤ改正で新設され<ref name="rf650-32"/>、2023年3月18日のダイヤ改正まで運行された<ref name="20221216 press" />列車。独自の列車種別である'''超快速'''(ちょうかいそく)は市販の時刻表にも正式に記載されたもので、JR線区間でもこの種別が使用された。また、列車名は公募により決定されたものだった<ref>{{Cite press release|和書|title=「超快速列車」の愛称名募集|publisher=北越急行株式会社・えちごトキめき鉄道株式会社 |date=2014-11-04 |url=http://www.hokuhoku.co.jp/press/201411NewsRelease2.pdf |format=PDF |accessdate= 2016-07-21}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=平成27年3月14日ほくほく線ダイヤ改正|publisher=北越急行株式会社・えちごトキめき鉄道株式会社 |date=2014-12-19|url=http://www.hokuhoku.co.jp/press/20141219.pdf |format=PDF |accessdate= 2016-07-21}}</ref>。 2022年3月11日までは上り1本・下り2本が設定されていた。途中十日町駅のみ停車の最速列車は越後湯沢駅から直江津駅までの84.2&nbsp;kmを57分で走破し<ref name="rj586-52" />、越後湯沢駅 - 直江津駅間での[[表定速度]]は88.6&nbsp;km/h<ref name="rj586-53" />、ほくほく線内に限れば99.2&nbsp;km/h<ref name="rj586-53" />に達する。これは485系使用便の「はくたか」を上回っており<ref name="rf650-33"/>、日本国内において乗車券だけで乗れる列車としては2021年時点で表定速度が最も高い列車であった<ref name="toyok20150803"/><ref group="注釈">ただし一部区間での表定速度に限れば、[[首都圏新都市鉄道]]が運営する[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]が、[[流山おおたかの森駅]] - [[つくば駅]]間 31.8&nbsp;kmを快速で19分・表定速度100.4&nbsp;km/h(途中停車駅数1)、[[守谷駅]] - つくば駅間 20.6&nbsp;kmを快速で12分・表定速度103.0&nbsp;km/h(途中停車駅数0)、JR西日本[[湖西線]]の快速が[[堅田駅]] - [[近江舞子駅]]間14.5kmを8分・表定速度108.75km/h(途中停車駅数0)で走行するといった事例は存在する(いずれも最高速度 130&nbsp;km/hでの運転)。</ref>。2022年3月12日改正ダイヤでは越後湯沢駅→直江津駅間を1時間1分で結んでおり、表定速度は82.8&nbsp;km/hと下がった。 なお運行開始以来、一部の列車は直江津駅から列車番号を変え、無愛称の普通列車として[[えちごトキめき鉄道]][[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]の[[新井駅 (新潟県)|新井駅]]発着で運行していた。 ;廃止時点の停車駅 : [[越後湯沢駅]] → [[六日町駅]] → [[十日町駅]] → [[まつだい駅]] → [[虫川大杉駅]] → [[直江津駅]] :* 下り列車のみ運転。 :* 普通列車として運行する直江津駅 - 新井駅間は各駅停車。 === 臨時列車 === ==== 急行列車 ==== 1998年 - 1999年シーズンの時点で[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - 越後湯沢駅間に急行「シュプール野沢・苗場」が運行されていた<ref>{{Cite journal|和書|journal=JR時刻表 |year=1999|month=3|publisher=[[弘済出版社]]}}</ref>。 ==== 超低速「スノータートル」 ==== 2015年11月7日以降運行されている[[団体専用列車]]<ref name="mynavi20151006" />。普通列車でも50分程度で走破する線内を約4時間(第1回の場合、犀潟駅10:44→六日町駅着14:48<ref name="mynavi20151006" />)かけて走行する。 「[[ウサギ]]といえば[[カメ]]だよね」という北越急行社内での冗談から、[[#超快速「スノーラビット」|超快速「スノーラビット」]]の対極に位置する列車として生まれ<ref>{{Cite news|url=http://trafficnews.jp/post/45566/|title=超低速列車「スノータートル」走る 背景に新幹線の存在 新たな道を歩み始めた北越急行|author=恵知仁|newspaper=乗りものニュース|date=2015-11-08|accessdate=2016-07-16}}</ref>、難工事で知られる鍋立山トンネルを10&nbsp;km/h以下の低速で通過するほか、トンネル内の信号場では列車が通過しない側の乗降用ドアと貫通扉を開け、離合時に発生する10&nbsp;[[メートル毎秒|m/s]]の風を体験する試みも行われた。 初回運行時は全車[[座席指定席|指定席]]の[[臨時列車]](運賃と指定席料金のみで乗車可能)として運行されたが、2016年8月28日の第2回運行以降は北越急行が[[旅行会社|旅行業登録]]を行い、食事付きの[[団体専用列車]]として運行されている<ref>{{PDFlink|[http://www.hokuhoku.co.jp/press/20160707.pdf 超低速スノータートル運行]}} - 北越急行2016年7月7日</ref>。 === 乗務員について === ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、全列車とも、JR東日本の区間も含めて北越急行の運転士が担当する<ref name="rj368-51" />。ただし2015年3月13日まで運行されていた特急列車では、境界駅の犀潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)2012年時点では運転士・車掌ともにJR東日本[[直江津運輸区]]が担当していた<ref name="rj557-23" />。なお、開業当初から2004年3月ダイヤ改正まではJR西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった<ref name="rj368-51" />。 == 運行管理 == {{Double image aside|right|Railway operation command office Hokuetsu Express.jpg|180|Train operation status display in the station of Hokuhoku Line 20140909.JPG|180|運転指令所|各駅に設置された列車運転状況表示装置(まつだい駅)}} ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている<ref name="rj392-41" />。 開業当初からJR東日本新潟支社の運転指令との連携が行われていたが、当初はJR西日本の区間での遅れ情報がJR東日本を通じて提供されるシステムであったため<ref name="rj557-31" />、ダイヤの乱れが大きい場合には情報の遅れが生じ<ref name="rj557-31" />、ひどいときには越後湯沢行きの列車の遅れ状況が直江津に到着しないと判明しなかったことすらあった<ref name="rj557-31" />。このため、他社線での遅れ状況を把握するためのディスプレイが運転指令所に設置され<ref name="rj557-31" />、JR西日本エリアも含めた運行状況をリアルタイムで把握できるようになった<ref name="rj557-31" />。2012年にPRCの更新が行われた際には、ほくほく線各駅にアニメーションで全線の列車の位置や遅れ状況などを表示する列車運転状況表示装置が設置された<ref name="rj557-43" />。 また、運転通告(運転指令員から運転士に対しての指示)についても、JRなどで行われている運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため<ref name="rj557-32" />、無線伝達をもって運転通告としている<ref name="rj557-32" />。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され<ref name="rj392-40" />、列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える<ref name="rj392-40" />。 ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通りJRの乗務員が担当していたが、ほくほく線内では一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなっていた<ref name="rj557-23" />。一方北越急行の運転士が担当する普通列車のJR東日本区間への乗り入れ先では、JR東日本の指揮下となる<ref name="rj557-23" />。 == 利用状況 == ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域([[南魚沼市]]のうち旧[[六日町]])・中魚沼地域([[十日町市]]の旧市域)・東頸地域(十日町市のうち旧[[松代町 (新潟県)|松代町]])・平野部([[上越市]]のうち旧町村部にあたる[[大島区]]・[[浦川原区]]・[[頸城区]]・[[大潟区]])の4地域に分けられる<ref name="rj368-55" />。それぞれの地域はもともと丘陵地帯によって隔てられていたため<ref name="rj368-55" />、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外は一致していない<ref name="rj368-55" />。東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に伴い利便性が向上したものの、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で<ref name="rj368-55" />、マイカー保有率も1.5人に1台の割合で<ref name="rj368-55" />、かつ、2008年の新潟県内公立高校普通科の[[学区]]撤廃まで学区も異なっていたため、当初より線内需要や地域を越えた広域流動需要は厳しいと見られていた<ref name="rj368-55" />。 こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に出資するバス事業者である[[頸城自動車]]は、1996年10月に東頸地区自治体との共同出資による[[東頸バス]]の営業を開始し<ref name="rj368-56" />、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した<ref name="rj368-56" />。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の[[越後交通]]は、ほくほく線の列車と競合する越後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している<ref name="rj368-56" />。 峠越えとなるために自動車でも1時間程度の所要時間を要していた<ref name="rj368-56" />越後湯沢 - 十日町が、開業により普通列車でも30分台で結ばれるようになる<ref name="rj368-56" />などの時短効果に加え、前述した雪対策によって安定した輸送を目指したことが評価された<ref name="rj557-44" />こともあり、現実の線内利用者数も、開業当初に年間65万人程度であったものが2012年には110万人に増加している<ref name="rj557-43" />。ただし、通学定期の利用者数は2012年がピークとなり、翌年には5 %減となっている<ref name="rj586-55" />。 特急が運行していた2011年度(平成23年度)の[[輸送密度]]は約7,780人/日<ref name="数字2013_64"/>であるが、これは旧国鉄路線から転換あるいは日本鉄道建設公団建設中の新線を継承した[[第三セクター鉄道]]路線(以下「旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線」)としては、[[愛知環状鉄道線]](約9,816人/日)に次いで2番目に高かった。2006年度(平成18年度) - 2010年度(平成22年度)<ref name="数字2012"/>、および2012年度(平成24年度) - 2014年度(平成26年度)は輸送密度が8,000人/日以上<ref group="注釈">仮にこの数値を[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法|国鉄再建法]]により規定された区分に当てはめた場合、「[[地方交通線]]」ではなく「[[幹線#国鉄再建法上の幹線|幹線系線区]]」に該当する。</ref>を記録していたが、そのような旧国鉄系列の第三セクター鉄道路線も愛知環状鉄道線とこの路線の2路線のみであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/000025880.pdf#page=3|title=輸送密度と経常収支率によるグループ分け(平成18年度)|accessdate=2021-01-02|publisher=国土交通省|year=2007|format=PDF|page=2|language=ja|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/collections/content/info:ndljp/pid/286855/www.mlit.go.jp/common/000025880.pdf#page=3|archivedate=2009-02-17}}</ref>。 === 輸送実績 === ほくほく線の輸送実績を下表に記す。表中、最大値には「<sup>(最大)</sup>」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「<sup>(最小)</sup>」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版及び管内鉄軌道事業者輸送実績(国土交通省北陸信越運輸局)<ref> [https://wwwtb.mlit.go.jp/hokushin/hrt54/railroad/yusoujisseki.html 管内鉄軌道事業者輸送実績] 国土交通省北陸信越運輸局</ref>より作成。 {|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人 !rowspan="2"|輸送密度<br>人/日 !rowspan="2"|特記事項 |- !通勤定期 !通学定期 !定期外 !合計 |- |1996年(平成8年) |style="background-color:#ccffcc"|0.1<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|0.1<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|16.0<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|'''16.2'''<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|252<sup>(最小)</sup> |style="text-align:left"|開業 |- |1997年(平成9年) |5.3 |16.1 |273.4 |'''294.8''' |6,783 |&nbsp; |- |1998年(平成10年) |9.0 |24.6 |265.4 |'''299.0''' |6,703 |&nbsp; |- |1999年(平成11年) |11.5 |34.1 |263.9 |'''309.5''' |6,777 |&nbsp; |- |2000年(平成12年) |11.7 |38.6 |266.1 |'''316.4''' |6,887 |&nbsp; |- |2001年(平成13年) |13.1 |38.0 |272.7 |'''323.8''' |7,087 |&nbsp; |- |2002年(平成14年) |10.4 |39.9 |279.5 |'''329.8''' |7,282 |&nbsp; |- |2003年(平成15年) |10.1 |39.8 |287.2 |'''337.1''' |7,403 |&nbsp; |- |2004年(平成16年) |9.4 |37.8 |279.0 |'''326.2''' |7,252 |style="text-align:left"|新潟県中越地震発生 |- |2005年(平成17年) |10.5 |37.2 |280.3 |'''328.0''' |7,299 |&nbsp; |- |2006年(平成18年) |10.7 |35.9 |264.0 |'''310.6''' |8,081 |&nbsp; |- |2007年(平成19年) |11.2 |41.2 |319.3 |'''371.7''' |8,391 |style="text-align:left"|新潟県中越沖地震発生 |- |2008年(平成20年) |11.3 |42.2 |322.0 |'''375.5''' |8,600 |&nbsp; |- |2009年(平成21年) |11.9 |47.0 |306.6 |'''365.5''' |8,323 |&nbsp; |- |2010年(平成22年) |11.6 |50.0 |298.3 |'''359.9''' |8,029 |&nbsp; |- |2011年(平成23年) |12.5 |51.6 |289.6 |'''353.7''' |7,780 |&nbsp; |- |2012年(平成24年) |12.4 |55.4 |324.9 |'''392.7''' |8,622 |&nbsp; |- |2013年(平成25年) |13.4 |56.3 |style="background-color:#ffcccc"|331.8<sup>(最大)</sup> |style="background-color:#ffcccc"|'''401.5'''<sup>(最大)</sup> |style="background-color:#ffcccc"|8,769<sup>(最大)</sup> |&nbsp; |- |2014年(平成26年) |style="background-color:#ffcccc"|13.7<sup>(最大)</sup> |48.8 |323.0 |'''385.5''' |8,371 |&nbsp; |- |2015年(平成27年) |13.6 |50.8 |64.3 |'''128.7''' |1,543 |北陸新幹線開業以降1年間営業した最初の年度 |- |2016年(平成28年) |12.7 |53.5 |54.5 |'''120.7''' |1,358 |&nbsp; |- |2017年(平成29年) |12.3 |56.2 |52.8 |'''121.3''' |1,340 |&nbsp; |- |2018年(平成30年) |12.8 |style="background-color:#ffcccc"|57.4<sup>(最大)</sup> |56.9 |'''127.1''' |1,395 | |- |2019年(令和元年) |12.4 |53.9 |50.8 |'''117.1''' |1,293 | |- |2020年(令和2年) |style="background-color:#ccffff"|11.2<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|43.1<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|19.7<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|'''74.0'''<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|722<sup>(最小)</sup> | |- |2021年(令和3年) |style="background-color:#ccffff"|11.2<sup>(最小)</sup> |46.0 |23.8 |'''81.0''' | | |- |2022年(令和4年) |11.3 |44.4 |36.0 |'''91.7''' | | |} === 収入実績 === ほくほく線の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最大値には「<sup>(最大)</sup>」の記号を、最大値の前後の最小値にはそれぞれ「<sup>(最小)</sup>」の記号を付している。鉄道統計年報各年度版より作成。 {|class="wikitable" style="font-size:small;text-align:right" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 !rowspan="2"|運輸雑収<br>千円/年度 !rowspan="2"|総合計<br>千円/年度 |- !通勤定期 !通学定期 !定期外 !手小荷物 !合計 |- |1996年(平成8年) |style="background-color:#ccffcc"|1,260<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|931<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|139,197<sup>(最小)</sup> |''0'' |style="background-color:#ccffcc"|'''141,388'''<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|11,988<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffcc"|'''153,376'''<sup>(最小)</sup> |- |1997年(平成9年) |11,217 |16,856 |3,166,071 |''0'' |'''3,194,144''' |404,122 |'''3,598,266''' |- |1998年(平成10年) |16,722 |26,863 |3,084,511 |''0'' |'''3,128,096''' |439,348 |'''3,567,444''' |- |1999年(平成11年) |21,953 |32,452 |3,174,414 |''0'' |'''3,228,819''' |522,594 |'''3,751,413''' |- |2000年(平成12年) |23,602 |36,450 |3,185,860 |''0'' |'''3,245,912''' |482,125 |'''3,728,037''' |- |2001年(平成13年) |26,452 |37,181 |3,214,647 |''0'' |'''3,278,280''' |535,995 |'''3,814,275''' |- |2002年(平成14年) |20,967 |37,804 |3,325,368 |''0'' |'''3,384,139''' |564,007 |'''3,948,146''' |- |2003年(平成15年) |21,781 |38,222 |3,290,207 |''0'' |'''3,350,210''' |654,334 |'''4,004,544''' |- |2004年(平成16年) |21,729 |37,795 |3,167,224 |''0'' |'''3,226,748''' |579,652 |'''3,806,400''' |- |2005年(平成17年) |27,586 |36,116 |3,293,044 |''0'' |'''3,356,746''' |771,544 |'''4,128,290''' |- |2006年(平成18年) |26,727 |36,310 |3,620,989 |''0'' |'''3,684,026''' |771,995 |'''4,456,021''' |- |2007年(平成19年) |27,417 |40,615 |3,740,424 |''0'' |'''3,808,456''' |636,064 |'''4,444,520''' |- |2008年(平成20年) |28,266 |43,668 |3,720,730 |''0'' |'''3,792,665''' |622,869 |'''4,415,534''' |- |2009年(平成21年) |30,350 |47,537 |3,522,932 |''0'' |'''3,600,819''' |623,935 |'''4,224,304''' |- |2010年(平成22年) |32,434 |51,349 |3,465,453 |''0'' |'''3,549,236''' |764,295 |'''4,313,531''' |- |2011年(平成23年) |31,134 |51,605 |3,328,849 |''0'' |'''3,411,588''' |854,422 |'''4,266,010''' |- |2012年(平成24年) |31,749 |54,651 |3,732,007 |''0'' |'''3,818,407''' |872,772 |'''4,691,179''' |- |2013年(平成25年) |32,078 |51,796 |style="background-color:#ffcccc"|3,870,995<sup>(最大)</sup> |''0'' |style="background-color:#ffcccc"|'''3,954,869'''<sup>(最大)</sup> |style="background-color:#ffcccc"|946,481<sup>(最大)</sup> |style="background-color:#ffcccc"|'''4,901,350'''<sup>(最大)</sup> |- |2014年(平成26年) |34,440 |48,948 |3,793,462 |''0'' |'''3,876,850''' |779,942 |'''4,656,792''' |- |2015年(平成27年) |style="background-color:#ffcccc"|34,807<sup>(最大)</sup> |49,053 |326,381 |''0'' |'''410,241''' |208,194 |'''618,435''' |- |2016年(平成28年) |30,827 |52,275 |294,161 |''0'' |'''377,263''' |159,126 |'''536,389''' |- |2017年(平成29年) |30,796 |55,408 |285,480 |1,258 |'''372,942''' |148,914 |'''521,856''' |- |2018年(平成30年) |34,272 |style="background-color:#ffcccc"|55,905<sup>(最大)</sup> |301,812 |style="background-color:#ffcccc"|1,320<sup>(最大)</sup> |'''393,309''' |152,863 |'''546,172''' |- |2019年(令和元年) |31,971 |52,567 |291,164 |style="background-color:#ffcccc"|1,320<sup>(最大)</sup> |'''377,023''' |151,030 |'''528,053''' |- |2020年(令和2年) |style="background-color:#ccffff"|29,675<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|45,064<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|99,232<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|1,144<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|'''175,115'''<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|146,915<sup>(最小)</sup> |style="background-color:#ccffff"|'''322,030'''<sup>(最小)</sup> |} == 車両 == === 現在の使用車両 === ==== 自社車両 ==== ほくほく線内の普通列車は、特急列車「はくたか」への影響を最小限とするため<ref name="rj557-45" />、ローカル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度110&nbsp;km/hと<ref name="rj368-53" />、優れた加速性能(3.0&nbsp;[[キロメートル毎時毎秒|km/h/s]])<ref name="rj557-45" />が要求された。 ;[[北越急行HK100形電車|HK100形]] :線内の普通列車として開業時より運用される車両<ref name="rj557-45" />で、開業時点ではイベント兼用車2両含む9両を製造<ref name="rj368-54" />。1999年に1両<ref name="rj392-41" />、2003年にイベント車2両が増備された<ref name="rj557-45" />。 :イベント車4両は「ゆめぞら」と称し、トンネルが多くあまり景色が見られないという路線特徴を逆手に取り、トンネル走行時に車内にて映像が上映される<ref name="rj557-45" />。 :2003年に増備された100番台「ゆめぞら」のみ片運転台の2両編成で<ref name="rj557-45" />、それ以外は両運転台の車両である<ref name="rj557-45" />。 <gallery widths="160"> HK100-1 r 2015.JPG|HK100形0番台 </gallery> === 過去の特急列車の使用車両 === {{See also|はくたか#在来線特急時代の車両}} 2015年3月13日まで運行された特急「はくたか」については、北越急行の保有車両とJR東日本・西日本が保有する車両が使用された。 1997年の開業当初は、特急「はくたか」の経由する各社の営業キロを按分することによって、JR西日本・北越急行・JR東日本が4:2:1の比率で車両を運用しており<ref name="rj368-51" />、JR西日本では[[JR西日本681系電車|681系]]と[[国鉄485系電車|485系]]<ref name="rj368-51" />、北越急行は681系<ref name="rj368-51" />、JR東日本は485系を使用していた<ref name="rj368-51" />。 その後、2002年のダイヤ改正ではJR西日本の485系は681系に置き換えられ<ref name="rf577-51" />、485系を運用するのはJR東日本だけとなった<ref name="rf577-51" />。485系の限定運用は全体の運行効率を引き下げることになっていた<ref name="rf577-51" />上、681系とのサービス格差が乗客からも指摘されるようになったため<ref name="rf577-51" />、北越急行とJR東日本の協議により<ref name="rf577-51" />、JR東日本の485系は北越急行の新造した[[JR西日本683系電車|683系]]によって置き換えられることになった<ref name="rf577-51" />。 ==== 自社車両 ==== いずれも特急「はくたか」で運用された。北越急行保有の特急形車両は、JR西日本の保有する車両と同一形式として製造した。これは、車両選定の段階で160&nbsp;km/hの高速走行を考慮して設計されていたのがJR西日本の681系しかなかったこと<ref name="rf577-48" />、全くの新形式を製造することは会社の体力的に無理があったことが理由として挙げられている<ref name="rf577-48" />。その一方、他社からの乗り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと<ref name="rf577-47" />、過去に経験のない高速運転を実施するために長期にわたる試験が必要となった<ref name="rf646-37" />が、JR西日本の車両を長期間借用するのは困難であった<ref name="rf577-48" />ことが理由として挙げられる。 北越急行所属車については、独自の赤主体の塗装、「スノーラビットエクスプレス」(Snow Rabbit Express)という[[車両愛称]]を持ち<ref name="rj368-51" />、車体には「SRE」と[[ユキウサギ]]のロゴマークが施されていた。運用も当初は区別されていた<ref name="rj368-51" />が、2002年3月ダイヤ改正以降はJR車との共通運用となっていた<ref name="rf577-51" />。 2015年3月14日の[[北陸新幹線]]開業後は全車両が同日付でJR西日本に譲渡され<ref name="rj584-88" /><ref group="注釈" name="譲渡">なお私鉄・第三セクター所属車両がJR車籍に編入されるのは、[[JR東日本209系電車|209系3100番台]]や[[JR九州キハ125形気動車|キハ125形400番台]]に次いで3例目となる。</ref>、主に「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」「[[能登かがり火]]」「[[ダイナスター (列車)|ダイナスター]]」で運用されている。塗装も同年6月初めまでに順次「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更された<ref name="rj586-64" /><ref group="注釈">なお、1編成は前述の譲渡を待たずに「しらさぎ」色への塗り替えが行われた。</ref>。 ;[[JR西日本681系電車|681系2000番台]] :JR西日本の681系電車と同一仕様の車両で6両+3両編成を各2編成製造。整備・検査などはすべてJR西日本に委託され<ref name="rf646-52" />、車両自体もJR西日本の金沢総合車両所に常駐とされていた<ref name="rj368-51" />。 :北越急行の681系は[[川崎重工業]]製である<ref name="rf577-49" />が、一部車両は委託製造として[[近畿車輛]]と新潟鐵工所が製造した<ref name="rf577-49" />。 ;[[JR西日本683系電車#8000番台|683系8000番台]] :JR西日本の683系0番台をベースに、681系と一部仕様を合わせた車両で、2005年にJR東日本担当分の車両を置き換える形で6両+3両編成を各1編成製造<ref name="dr.hokuhoku_11" />。簡易気密構造を有し<ref name="dr.hokuhoku_11" />、電動車のキャリパ式ディスクブレーキ化<ref name="rj557-45" />が行われている点が他の683系との差異である。 :北越急行の683系は構体と電装品を川崎重工業で製造し<ref name="rf577-53" />、最終組み立てを[[新潟トランシス]]で行った<ref name="rf577-53" />。 <gallery widths="160"> HK681 Hakutaka13 Mushikawaosugi 20140909.jpg|北越急行 681系2000番台 Hokuetsu Express 683-8000 series on Hakutaka service.jpg|北越急行 683系8000番台 </gallery> ==== JR東日本からの乗り入れ車両 ==== ;[[国鉄485系電車|485系3000番台、1500番台]] :開業時から乗り入れ<ref name="rj368-51" />。2005年のダイヤ改正で北越急行683系8000番台に置き換えられた<ref name="dr.hokuhoku_11" />。 ==== JR西日本からの乗り入れ車両 ==== ;[[国鉄485系電車|485系]] :開業時から乗り入れ<ref name="rj368-51" />。2002年のダイヤ改正でJR西日本の681系に置き換えられた<ref name="rj428-33" />。 ;[[国鉄485系電車|489系]] :臨時便や485系・681系の代走として特急「はくたか」で乗り入れることがあった<ref name="rj370-9"/><ref>[http://railf.jp/news/2011/02/28/111600.html 489系H01編成が“はくたか”を代走 - 鉄道ファン・railf.jp]</ref>ほか、急行「能登」が新潟県中越地震の影響により臨時にほくほく線経由で運行された際に乗り入れたことがある<ref name="dr.hokuhoku_13" />。 ;[[JR西日本681系電車|681系0番台]] :開業時から乗り入れ<ref name="rj368-51" />。車両愛称は「ホワイトウイング」<ref name="rf577-50" />。 :先述の通り、開業当初は北越急行車と運用を区別した<ref name="rj368-51" />が、2002年3月のダイヤ改正以降は共通運用となっていた<ref name="rf577-51" />。2015年3月のダイヤ改正に前後して、同年6月初めまでに一部を除き「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更・転用された<ref name="rj586-64"/>。 ;[[JR西日本683系電車|683系]] :特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」用の4000番台が、ダイヤ乱れなどの際に運用上の都合で681系の運用に入ることがあった<ref name="rj557-24-25" />。高速運転には対応しておらず最高速度は130&nbsp;km/hとなる<ref name="rj557-31" />が、新幹線の接続に影響が出るほどの大幅な遅れにはならなかった<ref name="rj557-31" />。 <gallery widths="160"> JR681 Hakutaka11 Matsudai 20140909.jpg|JR西日本 681系0番台 Tsc683-4500.JPG|JR西日本 683系4000番台 JRW 485 Hakutaka at Kurikara Pass 2000-08-03.jpg|JR西日本 485系 JR East 485-3000 Rapid Fairway 2007.jpg|JR東日本 485系 File:Hakutaka 489bonnet Nagaoka.jpg|JR西日本 489系 </gallery> === 臨時列車等 === 以下、「はくたか」以外で乗り入れ実績のある、あるいは予定されている車両である。 ==== JR東日本からの乗り入れ車両 ==== ;[[国鉄115系電車|115系]] :臨時列車として[[高崎車両センター]]所属車が乗り入れた実績がある<!-- 他、新潟車両センター所属車が新潟県中越地震の際に、信越本線が不通となったため長野総合車両センターへの回送列車として当路線に乗り入れた実績がある。新潟所属車はATS-Pを搭載していないため、終電後の深夜に線路閉鎖の上でATSを切って回送された -->。 ;[[JR東日本E129系電車|E129系]] :2018年(平成30年)2月16日 - 17日の「第69回十日町雪まつり」開催に伴う臨時列車として乗り入れた<ref>{{Cite web|和書|title=第69回十日町雪まつり|url=https://hokuhoku-line.jp/blog/?p=2366|website=|accessdate=2019-09-08|publisher=|date=2018-02-15}}</ref>。なお営業運転以外では、2017年(平成29年)12月15日に六日町駅 - まつだい駅間で試運転が行われている<ref name="rf683-163" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://railf.jp/news/2017/12/16/200000.html|title=E129系が北越急行に入線|accessdate=2018-01-11|author=薄田佳降|date=2017-12-16|work=railf.jp|publisher=交友社}}</ref>。 ;485系300・1000番台 :ATS-Pを搭載するT18編成などが臨時列車として乗り入れた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20150428485last.pdf|title=いよいよ見納め!485系T18編成(国鉄色)を運転します!|accessdate=2017-01-17|coauthors=|date=2015-04-28|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道新潟支社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150501023629/http://www.jrniigata.co.jp/Scripts/press/20150428485last.pdf|archivedate=2015-05-01}}</ref>。 ;485系 [[ジョイフルトレイン]] :首都圏地区に所属するお座敷列車や[[新潟車両センター]]所属の[[シルフィード (鉄道車両)|NO.DO.KA]]が臨時列車として乗り入れた<ref>[http://railf.jp/news/2018/01/07/202500.html 『終幕 NO.DO.KA』運転](2018年1月7日)『鉄道ファン』交友社 railf.jp. 2019年9月8日閲覧。</ref>。 ;[[JR東日本E653系電車|E653系1000番台]] :臨時列車として乗り入れ実績がある<ref>[http://response.jp/article/2014/09/29/233613.html JR東日本E653系、北越急行に初入線…2014年11月1・2日] - レスポンス, 2014年9月29日</ref>。 ;[[JR東日本HB-E300系気動車|HB-E300系]](「[[リゾートビューふるさと]]」) :2013年11月16・17日に臨時列車「ほくほくぐるり一周号」として入線した<ref name="jreast20130807"/>。 ;[[JR東日本E491系電車|E491系]](East i-E) :総合検測車。 ==== JR西日本からの乗り入れ車両 ==== ;[[国鉄583系電車|583系]] :冬季に「[[シュプール号]]」で乗り入れた<ref name="rj392-39-40" />。 ==== えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両 ==== ;[[えちごトキめき鉄道ET122形気動車|ET122形基本番台]] :ほくほく線開業20周年企画の一環として、2017年9月10日に「ほくほくSAKE Lovers号」として基本番台のうち、イベント対応車「3市の花号」(ET122-8)が乗り入れた<ref name="trafficnews20170721" />。なお、運行に備え2017年8月から当路線での訓練運転が数度行われている。 ;ET122形1000番台(「[[えちごトキめきリゾート雪月花]]」) :2018年9月7日に特別運行「大地の芸術祭・里山紀行」として乗り入れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.echigo-tokimeki.co.jp/information/detail?id=645|title=雪月花が「ほくほく線」へ乗入運行をいたします。|accessdate=2018-06-28|date=2018-06-27|publisher=えちごトキめき鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180628095705/https://www.echigo-tokimeki.co.jp/information/detail?id=645|archivedate=2018-06-28}}</ref>。 == データ == === 路線データ === *管轄(事業種別):北越急行([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) *路線距離([[営業キロ]]):59.5&nbsp;[[キロメートル|km]] * 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]) *[[軌間]]:1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]<ref name="工事誌_7-8" /> *駅数(起終点を含む):12 *最高速度:130&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="rf670-69"/> **ただし、定期列車は全て最高速度95&nbsp;km/hで運行している。 **2015年3月13日までは国土交通省運輸局への申請最高速度は160&nbsp;km/h(当時[[京成成田空港線]]と共に営業在来線日本国内最速)、但し、薬師峠信号場 - まつだい間、虫川大杉 - くびき間は140&nbsp;km/h<ref name="dr.hokuhoku_10"/>。 *複線区間:なし(全線[[単線]]) *電化区間:全線([[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]])<ref name="工事誌_7-8" /> *最小曲線半径:400&nbsp;[[メートル|m]]<ref name="工事誌_7-8" /> *最急勾配:33&nbsp;[[パーミル]]<ref name="工事誌_7-8" /> *設計[[活荷重]]:KS-16(国鉄時代に完成した区間)、KS-12(第三セクター化後に完成した区間) *最長トンネル:[[赤倉トンネル]](10,472&nbsp;m、魚沼丘陵 - しんざ間。トンネル内に赤倉信号場と美佐島駅があり、開業当時は[[地下鉄]]・[[JR線]]以外では日本最長の鉄道トンネルだった<ref name="dr.hokuhoku_5" />) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:単線自動閉塞式<ref name="工事誌_7-8" /> *保安装置:[[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]]<ref name="工事誌_7-8" /> *[[運転指令所]]:六日町指令所<ref name="工事誌_7-8" /> === 駅一覧 === *便宜上、ほくほく線の列車が直通するJR上越線越後湯沢駅 - 六日町駅間、信越本線犀潟駅 - 直江津駅間も併せて記載する。停車駅については、ほくほく線直通列車についてのみ述べ、上越線は停車駅のみ記載する(一部でも通年停車する駅に限る。全駅については[[上越線#駅一覧|路線記事]]を参照)。 *累計営業キロは六日町駅起算。 *全列車普通列車。下表の全ての旅客駅に停車するが、一部列車は▽の駅を通過する。 *全線[[新潟県]]内に所在。 *線路(ほくほく線内は単線) … <nowiki>||</nowiki>:複線区間、∨:ここより下は単線、◇:[[列車交換]]可能、|:列車交換不可、*:交換設備休止中、∧:ここより下は複線 {|class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="text-align:center;width:1em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|{{縦書き|会社}} !rowspan="2" style="text-align:center;width:1em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|{{縦書き|路線名}} !rowspan="2" style="width:11em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|駅名 !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #E8204E;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #E8204E;"|所在地 |- !style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|駅間 !style="width:2.5em;border-bottom:solid 3px #E8204E;"|累計 |- |rowspan="3" style="text-align:center;width:1em;font-size:80%;"|{{縦書き|[[東日本旅客鉄道]]|height=7em}} |rowspan="3" style="text-align:center;width:1em;"|{{縦書き|[[上越線]]|height=4em}} |[[越後湯沢駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|17.6 |[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|17px|■]] [[上越新幹線]]・上越線([[水上駅|水上]]方面・[[ガーラ湯沢駅|ガーラ湯沢]]支線) |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |style="white-space:nowrap;"|[[南魚沼郡]]<br>[[湯沢町]] |- |[[塩沢駅]]▽ |style="text-align:right;"|13.7 |style="text-align:right;"|3.9 | |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |rowspan="4"|[[南魚沼市]] |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[六日町駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|3.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:上越線([[浦佐駅|浦佐]]方面) |rowspan="2" style="text-align:center;"|∨ |- |rowspan="15" style="text-align:center;width:1em;"|{{縦書き|[[北越急行]]}} |rowspan="15" style="text-align:center;width:1em;"|{{縦書き|'''ほくほく線'''}} |- |[[魚沼丘陵駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|3.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[赤倉信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|8.5 |&nbsp; |style="text-align:center;"|* |rowspan="7"|[[十日町市]] |- |[[美佐島駅]] |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:right;"|12.2 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[しんざ駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|14.4 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[十日町駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|15.9 |東日本旅客鉄道:[[飯山線]] |style="text-align:center;"|◇ |- |[[薬師峠信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|23.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|* |- |[[まつだい駅]] |style="text-align:right;"|13.3 |style="text-align:right;"|29.2 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[儀明信号場]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|34.1 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[ほくほく大島駅]] |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:right;"|38.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |rowspan="9"|[[上越市]] |- |[[虫川大杉駅]] |style="text-align:right;"|6.2 |style="text-align:right;"|44.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[うらがわら駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|46.8 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[大池いこいの森駅]] |style="text-align:right;"|4.9 |style="text-align:right;"|51.7 |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[くびき駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|53.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |-style="height:1em;" |rowspan="2"|[[犀潟駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|5.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|59.5 |rowspan="2"|東日本旅客鉄道:信越本線([[柏崎駅|柏崎]]方面) |rowspan="2" style="text-align:center;"|∧ |- |rowspan="3" style="text-align:center;width:1em;font-size:80%;"|{{縦書き|東日本旅客鉄道|height=7em}} |rowspan="3" style="text-align:center;width:1em;"|{{縦書き|[[信越本線]]|height=5em}} |- |[[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]▽ |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|63.9 |&nbsp; |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |- |[[直江津駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|66.6 |[[えちごトキめき鉄道]]:[[えちごトキめき鉄道妙高はねうまライン|妙高はねうまライン]]・[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]] |style="text-align:center;"|<nowiki>||</nowiki> |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <ref name="工事誌_冒頭図">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) 冒頭図]]</ref> <ref name="工事誌_7-8">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) pp.7 - 8]]</ref> <ref name="工事誌_9">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.9]]</ref> <ref name="工事誌_21">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.21]]</ref> <ref name="工事誌_66">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.66]]</ref> <ref name="工事誌_71-72">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) pp.72 - 73]]</ref> <ref name="工事誌_88">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.88]]</ref> <ref name="工事誌_89">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.89]]</ref> <ref name="工事誌_92-94">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) pp.92 - 94]]</ref> <ref name="工事誌_125">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.125]]</ref> <ref name="工事誌_129">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.129]]</ref> <ref name="工事誌_150">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.150]]</ref> <ref name="工事誌_160">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.160]]</ref> <ref name="工事誌_240">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.240]]</ref> <ref name="工事誌_242">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.242]]</ref> <ref name="工事誌_307">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.307]]</ref> <ref name="工事誌_318">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.318]]</ref> <ref name="工事誌_347">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.347]]</ref> <ref name="工事誌_348-349">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) pp.348 - 349]]</ref> <ref name="工事誌_353">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.353]]</ref> <ref name="工事誌_354">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.354]]</ref> <ref name="工事誌_673">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.673]]</ref> <ref name="工事誌_674">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.674]]</ref> <ref name="工事誌_675">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.675]]</ref> <ref name="工事誌_681">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) p.681]]</ref> <ref name="工事誌_681-682">[[#工事誌|『北越北線工事誌』日本鉄道建設公団 (1998) pp.681 - 682]]</ref> <ref name="上越工事誌">[[#上越工事誌|『上越新幹線工事誌 (水上・新潟間)』日本鉄道建設公団新潟新幹線建設局 (1983) pp.624-626]]</ref> <ref name="新線_20-21">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) pp.20 - 21]]</ref> <ref name="新線_140">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.140]]</ref> <ref name="新線_140-141">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) pp.140 - 141]]</ref> <ref name="新線_141-142">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) pp.141 - 142]]</ref> <ref name="新線_142">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.142]]</ref> <ref name="新線_144">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.144]]</ref> <ref name="新線_147">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.147]]</ref> <ref name="新線_148">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.148]]</ref> <ref name="新線_148-149">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) pp.148 - 149]]</ref> <ref name="新線_149">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.149]]</ref> <ref name="新線_150">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) p.150]]</ref> <ref name="新線_150-151">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) pp.150 - 151]]</ref> <ref name="新線_151">[[#新線|日本鉄道建設公団高速化研究会『三セク新線高速化の軌跡』 (1998) 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|ref=数字2013}} *{{Cite book|和書 |author=日本鉄道建設公団高速化研究会|authorlink=日本鉄道建設公団 |title=三セク新線高速化の軌跡 |publisher=交通新聞社 |date=1998-10-20 |edition=初版 |isbn=4-87513-077-5 |ref=新線}} *{{Cite book|和書|author=宮本昌幸|title=図解・鉄道の科学|edition=初版|year=2006|publisher=講談社|series=ブルーバックス|isbn=4-06-257520-5|ref=鉄道の科学}} *{{Cite book|和書 |author=宮脇俊三|authorlink=宮脇俊三 |title=全線開通版 線路のない時刻表 |publisher=講談社 |isbn=4-06-263721-9 |date=1998 |ref=全線}} *{{Cite book|和書 |editor=北越急行株式会社 |title=ほくほく線の十年 |publisher=北越急行 |year=2008 |month=3 |ref=十年}} *{{Cite book|和書|chapter=160km/h営業運転を実施する北越急行のテクノロジー |title=鉄道のテクノロジー vol.3 特集 JR高速特急PART.1 |publisher=[[三栄書房]] |series=SAN-EI MOOK|isbn=978-4779606694 |date=2009 |pages=88-93 |ref=鉄道テクノロジー3}} === 雑誌記事 === *{{Cite journal|和書|author=伊藤久巳 |year=2017 |month=2 |title=変ぼうを遂げた北越急行|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=670 |pages=68-73 |publisher=[[交友社]] |ref=伊藤670}} *{{Cite journal|和書|author=大熊孝夫 |year=2009 |month=5 |title=雪国を駆けぬける「スノーラビット」|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]] |issue=577 |pages=46-55 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*{{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=1997 |month=6 |title=681系電車特急はくたか発車!|journal=鉄道ジャーナル |issue=368 |pages=42-51 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鶴368-1}} *{{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=1997 |month=6 |title=高規格第三セクター鉄道 北越急行ほくほく線の素顔|journal=鉄道ジャーナル |issue=368 |pages=52-53 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鶴368-2}} *{{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2002 |month=6 |title=在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ|journal=鉄道ジャーナル |issue=428 |pages=20-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鶴428}} *{{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2013 |month=3 |title=在来線最速特急の誇り|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=18-33 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鶴557}} *{{Cite journal|和書|author=鶴通孝 |year=2015 |month=8 |title=北越急行『超快速』の真実 表定速度88.6km/hの速達ローカル列車|journal=鉄道ジャーナル |issue=586 |pages=50-55 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=鶴586}} *{{Cite journal|和書|author=西日本旅客鉄道株式会社 鉄道本部運輸部 輸送計画課・新幹線運輸課 |year=2013 |month=6 |title=北陸新幹線開業に伴うJR西日本車両の動き|journal=鉄道ジャーナル |issue=584 |pages=88-89 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=WJR584}} *{{Cite journal|和書|author=[[野月貴弘]] |year=2015 |month=6 |title=北越急行『超快速』|journal=鉄道ファン |issue=650 |pages=32-33 |publisher=交友社 |ref=野月650}} *{{Cite journal|和書 |author=羽賀修 |year=1991 |month=1 |title=北越北線の高速化と新軌道構造等 |journal=新線路 |volume=45 |issue=1 |pages=34 - 39 |publisher=鉄道現業社 |ref=新線路}} *{{Cite journal|和書 |author=古川裕之 |year=2002 |month=7 |title=開業5周年を迎えた北越急行・ほくほく線 |journal=運転協会誌 |volume=44 |issue=7 |pages=25 - 28 |publisher=日本鉄道運転協会 |ref=5周年}} *{{Cite journal|和書|author=|year=1997 |month=8 |title=JR特急電車のスタンダード Series485|journal=鉄道ジャーナル |issue=370 |pages=9-19 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=RJ370}} *{{Cite journal|和書|author=|year=2013 |month=3 |title=北越急行の16年と将来|journal=鉄道ジャーナル |issue=557 |pages=34-45 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=RJ557}} *{{Cite journal|和書|author=|year=2013 |month=6 |title=2015.3.14 北陸新幹線開業と在来線|journal=鉄道ジャーナル |issue=584 |pages=82-87 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=RJ584-1}} *{{Cite journal|和書|author=|year=2013 |month=6 |title=2015年3月ダイヤ改正で消えた列車と車両|journal=鉄道ジャーナル |issue=584 |pages=88-89 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=RJ584-2}} *{{Cite journal|和書|author=|year=2013 |month=8 |title=北陸特急で活躍が続く681系電車|journal=鉄道ジャーナル |issue=586 |pages=64-65 |publisher=鉄道ジャーナル社 |ref=RJ586}} == 関連項目 == *[[国道253号]] - ほぼ全線にわたって並行する[[一般国道]] **[[上越魚沼地域振興快速道路]](上沼道) - ほぼ全線にわたって並行する[[地域高規格道路]]([[自動車専用道路]]) **[[八箇峠トンネル]] - [[鍋立山トンネル]]と同じく難工事となった[[赤倉トンネル]]近くの上越魚沼地域振興快速道路(上沼道)の[[トンネル]] *[[電車でGO!]]シリーズ - 1997年にゲームセンターに設置されたアーケード版の「[[電車でGO!2高速編]]」から1999年発売の「[[電車でGO! プロフェッショナル仕様]]」まで、幅広く当路線が収録されている鉄道運転シミュレーションゲームである。HK100形や、681系が登場する。また、電車でGO!を通じて北越急行を知った鉄道ファンが、県外各地から訪れていたことが北越急行の公式サイト上でも紹介されている。 == 外部リンク == *[https://hokuhoku.co.jp/ 北越急行株式会社] {{デフォルトソート:ほくえつきゆうこうほくほくせん}} [[Category:中部地方の鉄道路線|ほくほくせん]] [[Category:新潟県の交通]] [[Category:第三セクター路線]] [[Category:北越急行|路ほくほくせん]] {{Featured article}}
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柵(さく、英: fence フェンス)とは、 牧畜用の柵である牧柵には、(現代では)、物理柵と心理柵(電気牧柵)がある。 鳥獣防除用の防護柵には農地のみを囲むものと集落全体を囲むものがある。 道路では車両の路外などへの逸脱、歩行者の車道の横断防止などの目的で防護柵が設置される。 自転車道や河川周辺など転落を防止する必要の有る設置箇所に向けた、地上高1100mmの転落防止柵と、歩車境界など歩行者の横断抑止を目的とした地上高800mmの横断防止柵に大別される。 歩行者などを対象とする防護柵は「歩行者自転車用柵」と分類される。 歩行者自転車用柵は以下の表に示す設計強度に応じて、種別を区分する。 歩行者自転車用柵は、原則として種別Pを適用するものとし、歩行者などの滞留が予想される区間及び橋梁、高架の区間に設置される転落防止を目的とした柵は、集団による荷重を想定し、種別SPを適用するものとする。 防風対策設備に防風柵がある。また防雪設備に防雪柵、雪崩予防設備に雪崩予防柵、雪崩防護設備に雪崩防護柵、落石防護設備に落石防護柵がある。 しがらみは川中に杭を打ち横木を噛ますことで水流の向きを変える構造のことだが、遺跡の発掘調査から土木の基礎構造(埋め殺し)にも用いられてきたことが考古学的に立証されるようになった。 稲作が伝来し水田耕作が始まると灌漑が広まり、利水目的で河川からの取水用にしがらみが造られるようになった。やがて用水路やため池の土手を補強するためしがらみを骨格として土を盛る技術が編み出された。これは石積が普及した後も基礎構造として継承された。 埋め立て造成で都市を構築した江戸の街は、都内で埋蔵文化財としてしばしばしがらみ遺構が検出される。この参考事例は江戸東京博物館において模型展示されている。 近代になっても竹筋コンクリートのような構造は、しがらみの応用と捉えられる。 「世間のしがらみ」のように解くことができないこと、制約がある状況の喩えに否定的に引用される。
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柵とは、 角材や丸太をまばらに(地面などに)立てて、そこに横向きの材である「貫(ぬき)」を通し、土地や区画の境界などに設置する囲いのこと。横向きに伸びる材料は、角材や丸太が用いられることもあるが、代わりに金網などが用いられることもあり、またロープやチェーンなどが用いられることもある。柵は塀とは違って隙間があり、柵越しに反対側の景色を見ることができる、という特徴がある。 木の柱を立てて並べて、敵を防ぐために作った砦。→城柵を参照。 (しがらみと読めば)構造は同じだが、水流の向きを変えたり水流を抑えるために川の中に設けたものを指す。→#しがらみ
{{Otheruses|境界などに設置する、反対側が見える、囲い|城砦の柵|城柵|魚を切り分けたもの|さくどり}} {{Redirectlist|フェンス|邦題が同名の映画|フェンス (映画)|TOM★CATのアルバム|FENCE|テレビドラマ|フェンス (テレビドラマ)}} [[File:Zagroda z Rożnowic (Rozenberg, 1858).JPG|thumb|right|240px|ポーランドの野外博物館の周囲の柵。伝統的で素朴な材料・技術で造られたもの。]] [[File:Westtown.jpg|thumb|right|240px|米国[[ペンシルベニア州]][[チェスター郡]]ウエストタウン郡区の大きな[[農地]]を囲うためのオーソドックスな木製の柵]] '''柵'''(さく、{{Lang-en-short|fence}} '''フェンス''')とは、 *[[角材]]や[[丸太]]をまばらに(地面などに)立てて、そこに横向きの材である「貫(ぬき)」を通し、土地や区画の境界などに設置する囲いのこと<ref name="koujien">広辞苑第六版「柵」</ref>。横向きに伸びる材料は、角材や丸太が用いられることもあるが、代わりに[[金網]]などが用いられることもあり、また[[ロープ]]や[[鎖|チェーン]]などが用いられることもある。柵は[[塀]]とは違って隙間があり、柵越しに反対側の景色を見ることができる、という特徴がある。 *木の柱を立てて並べて、敵を防ぐために作った砦<ref name="koujien" />。→[[城柵]]を参照。 *('''しがらみ'''と読めば)構造は同じだが、水流の向きを変えたり水流を抑えるために川の中に設けたものを指す<ref name="koujien" />。→[[#しがらみ]] {{Gallery|height = 300px |File:Split rail fencing.jpg|欧米で昔からある技法で、縦杭を立てずに、横材だけをジグザグに積むようにして組む「スプリット・レイル・フェンシング」と呼ばれる技法。 |File:2008-07-30 Fence along Commerce Blvd at RDU.jpg|現代の[[空港]]まわりの金属製の柵(フェンス)。侵入者を防ぐために上部に[[有刺鉄線]]も備える。 |File:EldoraAvenueConstruction.JPG|改築する家や売家を囲うための、簡易的な金属製の柵(米国カリフォルニア州[[ロサンゼルス]])。 }} == 農業用途 == [[File:Bretter Weidezaun Kollerwirt Ulrichsberg 01122006 01.jpg|thumb|right|240px|[[オーストリア]]の田舎の[[牧草]]地を囲う、現代の木製の柵。物理柵の例。]] [[File:Electric-fence-charger.jpg|thumb|right|240px|電気柵の例。]] === 牧畜用途 === [[牧畜]]用の柵である'''牧柵'''には、(現代では)、物理柵と心理柵([[電気柵|電気牧柵]])がある<ref name="05_i">{{Cite web|和書|url=http://www.nlbc.go.jp/jisshotenji/05_i-4.pdf|title=牧柵の設置|publisher=独立行政法人 家畜改良センター|accessdate=2020-05-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.oita.jp/uploaded/attachment/167254.pdf|title=電気牧柵(心理柵)の設置のいろは|publisher=大分県|accessdate=2020-05-01}}</ref>。 * 物理柵 - バラ線や木柵など物理的に隔てる柵<ref name="05_i" />。経費や設置労力はかかるが耐久性は高い<ref name="05_i" />。 * 心理柵(電気牧柵) - 電気を流し牛などの家畜が(痛みを学習して)近づかなくなる精神的効果を利用した柵<ref name="05_i" />。 === 鳥獣防除 === ==== 対象 ==== 鳥獣防除用の防護柵には農地のみを囲むものと集落全体を囲むものがある<ref name="tyozyu">{{Cite web|和書|url=https://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/manyuaru/manual_inosisi_sika_saru_jissen/data3.pdf|title=防護柵の種類と効果的な設置法|publisher=農林水産省|accessdate=2020-03-02}}</ref>。 * 農地のみを囲む柵 ** 個別柵 - 個人が管理する個々の農地を囲む柵<ref name="tyozyu" /> ** グループ柵 - 隣接する複数の農地を囲む柵<ref name="tyozyu" /> * 集落柵 - 集落で管理する集落全体を囲む柵<ref name="tyozyu" /> ==== 物理柵と心理柵 ==== * 物理柵 - 金網やトタンなどで作った一定の高さの強度を持たせた柵<ref name="tyozyu" />。 * 心理柵 - 電気柵のように野生動物の学習効果を利用した柵<ref name="tyozyu" />。 == 道路用・交通用 == 道路では車両の路外などへの逸脱、歩行者の車道の横断防止などの目的で'''[[防護柵 (道路)|防護柵]]'''が設置される<ref name="road">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/gardrail-car/1pdf/2.pdf |title=防護柵の設置基準|publisher=国土交通省|accessdate=2020-03-02}}</ref>。 自転車道や河川周辺など転落を防止する必要の有る設置箇所に向けた、地上高1100mmの転落防止柵と、歩車境界など歩行者の横断抑止を目的とした地上高800mmの横断防止柵に大別される。 歩行者などを対象とする防護柵は'''「歩行者自転車用柵」'''と分類される<ref name="road" /><ref>防護柵の設置基準・同解説【平成10年11月(社)日本道路協会】</ref>。 '''歩行者自転車用柵'''は以下の表に示す設計強度に応じて、種別を区分する。 '''歩行者自転車用柵'''は、原則として種別Pを適用するものとし、歩行者などの滞留が予想される区間及び橋梁、高架の区間に設置される転落防止を目的とした'''柵'''は、集団による荷重を想定し、種別SPを適用するものとする。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+歩行者自転車用防護柵の設置基準 ! 分類 !! 種別 !! 設計強度 !! 設置目的 !! 備考 |- | rowspan="2" | 歩行者自転車用防護柵 | P | 垂直荷重 590N/m (60kgf/m)以上 水平荷重 390N/m(40kgf/m)以上 | 転落防止、横断防止 | rowspan="2" | 荷重は、防護柵の最上部に作用するものとする。 このとき種別Pにあっては部材の耐力を許容限度として設計することが出来る |- | SP | 垂直荷重 980N/m(100kgf/m)以上 水平荷重 2,500N/m(250kgf/m)以上 | 転落防止 |} {{clear}} == 防災用途 == 防風対策設備に防風柵がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/08/080912/03.pdf |title=防風設備の手引き|publisher=国土交通省|accessdate=2020-03-02}}</ref>。また防雪設備に防雪柵、雪崩予防設備に雪崩予防柵、雪崩防護設備に雪崩防護柵、落石防護設備に落石防護柵がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/28310.pdf|title=新潟県道路施設維持管理計画 ガイドライン|publisher=新潟県|accessdate=2020-03-02}}</ref>。 == 非武装地帯・軍事境界線 == {{Gallery|height = 300px |File:DMZ south boundary fence in paddy, August 1968.png|[[非武装地帯]]の境界の柵(1968年) }} == 収容所 == {{Gallery|height = 300px |File:Bien Hoa PW Camp perimeter fence, November 1968.jpg|1968年ベトナム[[ドンナイ省]]の収容所の柵 |File:Struthof Concentration Camp outer fence.jpg|ナチス・ドイツが造った[[ナッツヴァイラー強制収容所]]の柵 }} == しがらみ == === 構造 === [[File:Ooki2.JPG|thumb|200px|溜池遺構に編み込まれた'''しがらみ''']] '''しがらみ'''は川中に杭を打ち横木を噛ますことで水流の向きを変える構造のことだが、[[遺跡]]の[[発掘調査]]から[[土木]]の[[基礎]][[構造]](埋め殺し)にも用いられてきたことが[[考古学]]的に立証されるようになった。 [[稲作]]が伝来し[[水田]][[耕作]]が始まると[[灌漑]]が広まり、[[利水]]目的で[[河川]]からの[[頭首工|取水]]用に'''しがらみ'''が造られるようになった。やがて[[用水路]]や[[ため池]]の[[土手]]を補強するため'''しがらみ'''を[[骨格]]として[[土]]を盛る技術が編み出された。これは[[石垣|石積]]が普及した後も基礎構造として継承された。 [[埋め立て]][[造成]]で[[都市]]を構築した[[江戸]]の街は、[[都内]]で[[埋蔵文化財]]としてしばしば'''しがらみ'''[[遺構]]が検出される。この参考事例は[[江戸東京博物館]]において模型展示されている。 [[近代]]になっても[[竹筋コンクリート]]のような構造は、'''しがらみ'''の応用と捉えられる。 ===慣用句=== 「世間の'''しがらみ'''」のように解くことができないこと、制約がある状況の喩えに否定的に引用される。 {{clear}} == 脚注 == <references /> == 関連項目 == [[ファイル:Please don't pick flowers.jpg|thumb|ピケットフェンス([[w:Picket fence|Picket fence]])]] {{Wiktionary}} * [[塀]] * [[垣根]] * [[ラティスフェンス]] * [[電気柵]] * [[拒馬]] * [[踏み越し段]]([[:en:Stile|en]]) - 柵を乗り越えるために設置される階段。イギリスでは設置義務がある。 * [[手摺]] * [[野球場#フェンス]] - 球場設備において、塀のように隙間がないものも「フェンス」と呼ぶ。 {{clear}} == 外部リンク == {{commonscat|Fences}} *[http://www.sjc.gr.jp/catalog/ebook/bougo/selfload.html?pg=145 防護柵の設置基準・同解説] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さく}} [[Category:囲い]] [[Category:構造物]] [[Category:道路施設]]
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プロスタグランジン
プロスタグランジン (prostaglandin, PG) は、プロスタン酸骨格をもつ一群の生理活性物質。アラキドン酸から生合成されるエイコサノイドの 1 つで、様々な強い生理活性を持つ。プロスタグランジンとトロンボキサンを合わせてプロスタノイドという。 1933年にGoldblattがヒトの精漿内に、1934年にウルフ・スファンテ・フォン・オイラーが羊の精嚢腺に平滑筋を収縮させる生理活性物質が含まれていることを発見し、1936年に初めて精液中から分離された。当時は前立腺 (prostate gland) 由来であると考えられたために prostaglandin と名付けられた。 プロスタグランジン (PG) 類の化学構造は全てプロスタン酸(右図)を共通の基本骨格として有しており、五員環部分に結合する官能基や二重結合の有無によりA-J群に分けられ、側鎖部分の二重結合数により1-3群に区別され、これらの組み合わせによりプロスタグランジンの命名が行われる。例えばPGE1は五員環部分の9位にオキソ基と11位にヒドロキシル基、側鎖部分の13位に二重結合を1つ有するものである。 プロスタグランジンは人間の様々な組織や器官で認められる。まず、ホスホリパーゼA2によって細胞質内にアラキドン酸が遊離される。アラキドン酸にシクロオキシゲナーゼ (COX) が作用すると、アラキドン酸カスケードに入りプロスタグランジンG2 (PGG2) が合成され、その後プロスタグランジン又はトロンボキサン系が合成される。アラキドン酸にリポキシゲナーゼが作用するとロイコトリエン合成系に入り、ロイコトリエンが合成される。 PGG2からは、プロスタグランジンまたはトロンボキサンが合成される。1969年にコーリーがプロスタグランジン類の全合成を完了した。 NSAIDsはシクロオキシゲナーゼ活性を阻害し、アラキドン酸からのPGH2合成を阻害し、プロスタグランジンとトロンボキサン合成を抑制する。 アスピリンの抗炎症作用はプロスタグランジンの生合成抑制機能による。
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プロスタグランジン は、プロスタン酸骨格をもつ一群の生理活性物質。アラキドン酸から生合成されるエイコサノイドの 1 つで、様々な強い生理活性を持つ。プロスタグランジンとトロンボキサンを合わせてプロスタノイドという。
'''プロスタグランジン''' (prostaglandin, PG) は、[[プロスタン酸]]骨格をもつ一群の生理活性物質<ref>[http://goldbook.iupac.org/P04891.html IUPAC Gold Book - prostaglandins]</ref>。[[アラキドン酸]]から[[生合成]]される[[エイコサノイド]]の 1 つで、様々な強い生理活性を持つ。プロスタグランジンと[[トロンボキサン]]を合わせて[[プロスタノイド]]という。 == 発見 == [[1933年]]にGoldblattがヒトの精漿内に、[[1934年]]に[[ウルフ・スファンテ・フォン・オイラー]]が羊の[[精嚢腺]]に[[平滑筋]]を収縮させる生理活性物質が含まれていることを発見し、[[1936年]]に初めて精液中から分離された。当時は[[前立腺]] (prostate gland) 由来であると考えられたために prostaglandin と名付けられた<ref name="sakai">{{Cite journal |和書|author =酒井浄|title =プロスタグランディンの化学|date =1979|publisher =有機合成化学協会|journal =[[有機合成化学協会誌]]|volume =29|issue =3|doi=10.5059/yukigoseikyokaishi.29.205|pages =205-226|ref = }}</ref>。 == 化学構造 == [[File:Prostanoic acid Structure.svg|thumb|200px|プロスタン酸の構造式]] [[Image:Prostaglandin E1.svg|thumb|200px|プロスタグランジンE<sub>1</sub> (PGE<sub>1</sub>) の構造式]] プロスタグランジン (PG) 類の化学構造は全て[[プロスタン酸]](右図)を共通の基本骨格として有しており、五員環部分に結合する[[官能基]]や[[二重結合]]の有無によりA-J群に分けられ、側鎖部分の二重結合数により1-3群に区別され、これらの組み合わせによりプロスタグランジンの命名が行われる。例えばPGE<sub>1</sub>は五員環部分の9位に[[カルボニル基|オキソ基]]と11位に[[ヒドロキシル基]]、側鎖部分の13位に二重結合を1つ有するものである。 == 合成 == [[File:EFA to Eicosanoids ja.svg|600px|thumb|[[必須脂肪酸]]の代謝経路と[[エイコサノイド]]の形成]] プロスタグランジンは人間の様々な組織や器官で認められる<ref name="sakai"/>。まず、[[ホスホリパーゼ]]A2によって細胞質内にアラキドン酸が遊離される。アラキドン酸に[[シクロオキシゲナーゼ]] (COX) が作用すると、アラキドン酸カスケードに入りプロスタグランジンG<sub>2</sub> (PGG<sub>2</sub>) が合成され、その後プロスタグランジン又は[[トロンボキサン]]系が合成される。アラキドン酸にリポキシゲナーゼが作用すると[[ロイコトリエン]]合成系に入り、ロイコトリエンが合成される。 PGG<sub>2</sub>からは、プロスタグランジンまたはトロンボキサンが合成される。1969年にコーリーがプロスタグランジン類の全合成を完了した。 [[NSAID]]sはシクロオキシゲナーゼ活性を阻害し、アラキドン酸からのPGH<sub>2</sub>合成を阻害し、プロスタグランジンとトロンボキサン合成を抑制する。 [[アセチルサリチル酸|アスピリン]]の抗炎症作用はプロスタグランジンの生合成抑制機能による。 == プロスタグランジンの種類と主な作用 == * PGA:血圧低下作用のみ * PGB:血圧低下作用のみ * PGC:血圧低下作用のみ * [[プロスタグランジンD2|PGD<sub>2</sub>]]:[[血小板]]凝集作用・睡眠誘発作用(PDD受容体)。 * [[プロスタグランジンE1|PGE<sub>1</sub>]]:[[動脈管]]開存作用、子宮収縮作用。 * [[プロスタグランジンE2|PGE<sub>2</sub>]] ** [[平滑筋]]収縮作用(EP受容体EP<sub>1</sub>サブタイプ) ** 末梢血管拡張作用(EP受容体EP<sub>2</sub>サブタイプ) ** 発熱・痛覚伝達作用(EP受容体EP<sub>3</sub>サブタイプ) ** 骨新生・骨吸収作用(EP受容体EP<sub>4</sub>サブタイプ)。 * [[プロスタグランジンF2α|PGF<sub>2α</sub>]]:[[黄体]]退行・平滑筋([[子宮]]・[[気管支]]・血管)収縮作用(FP受容体)。[[畜産]]においては繁殖に利用される。 * PGG:血圧低下作用・血小板凝集作用・眼圧降下作用 * [[プロスタグランジンH2|PGH<sub>2</sub>]]:血小板凝集作用 * [[プロスタグランジンI2|PGI<sub>2</sub>]]:血管拡張作用・血小板合成阻害作用(IP受容体)。 * PGJ:抗腫瘍作用のみ == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[オータコイド]] *[[レバミピド]](ムコスタ) *[[アセチルサリチル酸]](アスピリン) *[[ワルファリン]](ワーファリン) == 外部リンク == * {{脳科学辞典|記事名=プロスタグランジン}} {{ホルモン}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろすたくらんしん}} [[Category:プロスタグランジン|*]] [[Category:ウルフ・スファンテ・フォン・オイラー]]
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超特急
超特急(ちょうとっきゅう)は、特別急行列車(特急)よりも更に速い列車。また、「超特急で仕事する」等、列車以外のものの速さを強調する時にも使われる。 21世紀初頭の現在の日本の鉄道では、「超特急」という種別の列車は正式には存在しない。ただし、かつてはそう称された列車が存在した。 なお、「特急」より上の格に当たる列車に対しては、現在では「快速特急」・「快特」と名づけたり、「スカイライナー」や「S-TRAIN」、「ミュースカイ」などのように、列車愛称と列車種別名とを兼用しているケースが私鉄数社で見受けられる。 戦前に日本で「超特急」と呼ばれていた列車として著名な列車として、1930年(昭和5年)10月に東京 - 神戸間で運行を開始した特別急行列車「燕」号が挙げられる。これはダイヤ設定にあたって、編成を他の特急列車に比べ短くして換算両数を減らし、停車駅を運転上必要なものと大都市のみに絞り、かつ、使用する蒸気機関車に補助給水車を連結し、乗務員交代も走行中の車外を伝って行うなどして、蒸機牽引列車であっても最大限の時間短縮が可能なように設定された。しかし、「燕」に対する「超特急」の呼称はあくまでも通称であって、「特別急行」が正式な列車種別だった。 特急列車自体、戦時下の1944年(昭和19年)に廃されて1949年(昭和24年)に「へいわ」の復活まで運行されることが無かった。しかし「へいわ」→「つばめ」の成功や、1956年(昭和31年)に東海道本線が全線電化されたことに伴い、特急列車の速達化を計る上で「超特急列車構想」が生まれ、「ビジネス特急」と設計時通称された「こだま」用車両"20系電車"(称号改正により後に151系→181系となる)がその構想に基づいて誕生したといわれている。結果的に同線を運行する特急・急行列車の大部分は電車化された後、1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業に伴い、特急列車は新幹線列車に移行する形で廃された。 なお、JR発足前後より運行される特急列車の中で新型車両の導入や速達列車には「スーパー」と列車名に冠される列車が運行されることがあるが、多くの場合設定時には停車駅の精選などが行われる事例が見受けられる。これは、1980年代前半のJR発足直前までに急行列車を統合し、優等列車が特急列車のみとなった関係で、格上の列車にこの名称を用いざるを得なかったことが考えられるが、かつての「超特急」とは異なり、単なる車両の違いなどで使い分けられる場合もダイヤの設定上ままありえた。 また、整備新幹線の内、新幹線鉄道規格新線を通過する列車として「スーパー特急」という言い回しを用いるが、これはいわゆる「フル規格」と称される新幹線規格を使った列車が「超特急」と喧伝された関係で、それに近い言い回しを用いたものとされる。 私鉄では、1968年6月に登場した京浜急行電鉄の快速特急の名称候補として「超特急」が用いられようとした事例があった。当時の特急より上位の種別だったため、最後まで名称候補に残るも「超」は大げさとの意見もあり、「快速特急」が選定された。 東海道新幹線計画が実現に向かうにつれ、新幹線のことを「夢の超特急」と表現することが多くなった。これは構想当時の建設区間である東京 - 大阪間の所要時間が当時の速達列車の6時間程度から3時間にまで速達化することからこの呼び名が用いられたと考えられる。遡る1954年(昭和29年)に開発者の一人である三木忠直が「超特急列車の一構想」という私案を発表している。 新幹線が開業した際には、「ひかり」号を最速列車として超特急、「こだま」号を在来線特急からの移行として特急と、それぞれに違う呼称を与え、新幹線料金も超特急料金と特急料金とで格差を設けていた。しかし、1972年(昭和47年)3月の山陽新幹線岡山開業に際して、格差が縮小し、1975年(昭和50年)3月の山陽新幹線全線開業に伴うダイヤ改正で「ひかり」の停車パターンが多様化したことにより超特急料金が撤廃された。以降超特急という呼称も次第に使われないようになっていった。 2008年、新幹線開業時より使われていた新幹線0系電車が全て引退するに伴い、JR西日本のホームページでは『ありがとう夢の超特急』と告知され、マスコミでも大きく『超特急』という名前が取り上げられた。なお定期運転引退時にはかつての超特急「ひかり」ではなく、特急であった「こだま」で運用されていたものの、定期運転終了後の引退記念運転では超特急であった「ひかり」で運転された。 1992年(平成4年)3月から運転を開始した「のぞみ」号は「ひかり」号・「こだま」号よりも高い特急料金を設定しているが、列車種別上の表記は「超特急」としていない。また、300系として実現した超高速運転構想について、「超々特急」の呼称で言及していることがある。 超特急料金が撤廃された後も、新幹線車内の英語アナウンスでは、例えば"This is the NOZOMI SuperExpress bound for Tokyo"(この列車は<超> 特急「のぞみ」東京駅行です)のように放送されており、在来線の特急を示すLimited Expressとは区別が残っている。この"Super express"は東海道・山陽新幹線に限らず、東北・上越・北陸・九州新幹線の様に新幹線列車では共通に用いられている。 小田急ロマンスカーは、1957年登場の初代3000形電車にSE(Super Express)を採用して以降、30000形(EXE)を除くすべての特急用車両で(-SE)を付けた名称が愛称となっている(3100形 (NSE),7000形 (LSE),10000形 (HiSE),20000形 (RSE),50000形 (VSE),60000形 (MSE),70000形 (GSE))。 また、正式な名称ではないが東武鉄道が1960年に日光・鬼怒川方面への特急列車に1720系「デラックスロマンスカー」を就役させた時に発行した時刻表には、「夢の超特急・デラックスロマンスカー誕生!」と記されていた。 鉄道以外では、高速バス・路線バスのうち「特急バス」等と称する場合、直行便(ノンストップ)タイプの便を「特急」以上の存在であるとして、こう称する事例がある。この場合、「超特急」と「特急」では料金格差がないことが多い。また、かつてはサンデン交通バスの下関-青海島間や、大分交通バスの大分駅ー国東ー竹田津港路線に「超特急」が設定されて時刻表にも掲載されていた。
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超特急(ちょうとっきゅう)は、特別急行列車(特急)よりも更に速い列車。また、「超特急で仕事する」等、列車以外のものの速さを強調する時にも使われる。
{{Otheruses||ゆずの楽曲|超特急/陽はまた昇る|メインダンサーバックヴォーカルユニット|超特急 (音楽グループ)}} {{Redirect|夢の超特急|梶山季之の小説|夢の超特急 (小説)}} '''超特急'''(ちょうとっきゅう)は、[[特別急行列車]](特急)よりも更に速い列車。また、「超特急で仕事する」等、列車以外のものの速さを強調する時にも使われる。 ==列車種別・愛称としての「超特急」== ===日本=== 21世紀初頭の現在の日本の鉄道では、「超特急」という[[列車種別|種別]]の列車は正式には存在しない。ただし、かつてはそう称された列車が存在した。 なお、「特急」より上の格に当たる列車に対しては、現在では[[快速特急|「快速特急」・「快特」]]と名づけたり、「[[スカイライナー]]」や「[[S-TRAIN]]」、「[[ミュースカイ]]」などのように、列車愛称と列車種別名とを兼用しているケースが私鉄数社で見受けられる。 ==== 戦前の「超特急」 ==== ; 通称としての「超特急」 戦前に日本で「超特急」と呼ばれていた列車として著名な列車として、[[1930年]]([[昭和]]5年)10月に[[東京駅|東京]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間で運行を開始した[[特別急行列車]]「[[つばめ (列車)#太平洋戦争前超特急「燕」|燕]]」号が挙げられる。これは[[ダイヤグラフ|ダイヤ]]設定にあたって、[[編成 (鉄道)|編成]]を他の特急列車に比べ短くして[[換算両数]]を減らし、停車駅を[[運転停車|運転上必要なもの]]と大都市のみに絞り、かつ、使用する[[蒸気機関車]]に[[給水車|補助給水車]]を連結し、乗務員交代も走行中の車外を伝って行うなどして、蒸機牽引列車であっても最大限の時間短縮が可能なように設定された。しかし、「燕」に対する「超特急」の呼称はあくまでも[[通称]]であって、「特別急行」が正式な列車種別だった。 ; 正式名称としての「超特急」 * 現在の[[名古屋鉄道]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]の東半分を当時運営していた[[愛知電気鉄道]]では、[[神宮前駅|神宮前]] - [[豊橋駅|豊橋]]間の最速達列車として、1930年(昭和5年)9月から[[名鉄特急#超特急「あさひ」|超特急「あさひ」号]]の運行を開始した。 * 現在の[[阪急電鉄]][[阪急京都本線|京都線]]の前身である[[京阪電気鉄道]][[新京阪鉄道|新京阪線]]では、1930年(昭和5年)10月1日のダイヤ改正時に[[天神橋筋六丁目駅|天神橋]] - [[西院駅|西院(仮)]]間を[[直通便|ノンストップ]]で結ぶ列車を「超特急」と命名、以後[[大宮駅 (京都府)|京阪京都]]延長線の開業を経て、[[1938年]](昭和13年)10月1日のダイヤ改正で急行と統合して「特急」に種別を変更するまで、同線の最速達列車として運転された。現在の阪急京都線特急の前身に当たる。 * [[1933年]](昭和8年)12月に現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[阪和線]]を当時運営していた[[阪和電気鉄道]]では、[[天王寺駅|阪和天王寺]] - [[和歌山駅|阪和東和歌山]]間をノンストップで結ぶ列車を「超特急」と命名した。この列車は61.2 kmを最速45分で走破し、[[表定速度]]においては、戦後特急「こだま」が記録を更新するまで長く国内最速達列車の座にあった。のちの[[新快速#阪和線|新快速]]、現在の[[関空快速・紀州路快速|紀州路快速]]の前身に当たる(JRの他線区としての[[特別快速]]に相当する)。 ====戦後の「超特急」と「スーパー」列車==== 特急列車自体、戦時下の[[1944年]](昭和19年)に廃されて[[1949年]](昭和24年)に「[[東海道本線優等列車沿革|へいわ]]」の復活まで運行されることが無かった。しかし「へいわ」→「[[つばめ (列車)#太平洋戦争後の展開|つばめ]]」の成功や、[[1956年]](昭和31年)に[[東海道本線]]が全線[[鉄道の電化|電化]]されたことに伴い、特急列車の速達化を計る上で「超特急列車構想」が生まれ、「ビジネス特急」と設計時通称された「[[こだま_(列車)|こだま]]」用車両"20系電車"(称号改正により後に[[国鉄181系電車|151系→181系]]となる)がその構想に基づいて誕生したといわれている。結果的に同線を運行する特急・[[急行列車]]の大部分は[[電車]]化された後、[[1964年]](昭和39年)の[[東海道新幹線]]開業に伴い、特急列車は新幹線列車に移行する形で廃された。 なお、[[JR]]発足前後より運行される特急列車の中で新型車両の導入や速達列車には「スーパー」と列車名に冠される列車が運行されることがあるが、多くの場合設定時には停車駅の精選などが行われる事例が見受けられる。これは、[[1980年代]]前半のJR発足直前までに急行列車を統合し、[[優等列車]]が特急列車のみとなった関係で、格上の列車にこの名称を用いざるを得なかったことが考えられるが、かつての「超特急」とは異なり、単なる車両の違いなどで使い分けられる場合もダイヤの設定上ままありえた。 また、[[整備新幹線]]の内、[[新幹線鉄道規格新線]]を通過する列車として「スーパー特急」という言い回しを用いるが、これはいわゆる「フル規格」と称される[[新幹線|新幹線規格]]を使った列車が「超特急」と喧伝された関係で、それに近い言い回しを用いたものとされる。 私鉄では、1968年6月に登場した[[京浜急行電鉄]]の[[快速特急]]の名称候補として「超特急」が用いられようとした事例があった。当時の特急より上位の種別だったため、最後まで名称候補に残るも「超」は大げさとの意見もあり、「快速特急」が選定された{{efn|なお、京浜急行線における「快速特急」の名称は1999年より名称を略された「快特」と変更されている。}}。 ====新幹線列車種別としての「超特急」==== [[東海道新幹線]]計画が実現に向かうにつれ、新幹線のことを「夢の超特急」と表現することが多くなった<ref>{{Cite news |title=スピードを追求した半世紀 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130208/t10015377801000.html |date=2013-02-08 |newspaper=NHKニュース |publisher=[[日本放送協会]] |accessdate=2013-02-09 |archiveurl=https://megalodon.jp/2013-0209-1431-01/www3.nhk.or.jp/news/html/20130208/t10015377801000.html |archivedate=2013-02-09}}</ref>。これは構想当時の建設区間である[[東京駅|東京]] - [[大阪駅|大阪]]間の所要時間が当時の速達列車の6時間程度から3時間にまで速達化することからこの呼び名が用いられたと考えられる。遡る1954年(昭和29年)に開発者の一人である[[三木忠直]]が「超特急列車の一構想」という私案を発表している<ref>新幹線ネットワークはこうつくられた p10</ref><ref name="jinbutuden2017">鉄道人物伝 小野田滋 RRR 鉄道総合技術研究所 2017年</ref>。 新幹線が開業した際には、「[[ひかり (列車)|ひかり]]」号を最速列車として'''超特急'''、「[[こだま (列車)|こだま]]」号を在来線特急からの移行として'''特急'''と、それぞれに違う呼称を与え、[[特別急行券|新幹線料金]]も超特急料金と特急料金とで格差を設けていた。しかし、[[1972年]](昭和47年)3月の[[山陽新幹線]][[岡山駅|岡山]]開業に際して、格差が縮小し、[[1975年]](昭和50年)3月の山陽新幹線全線開業に伴う[[1975年3月10日国鉄ダイヤ改正|ダイヤ改正]]で「ひかり」の停車パターンが多様化したことにより超特急料金が撤廃された。以降'''超特急'''という呼称も次第に使われないようになっていった。 [[2008年]]、新幹線開業時より使われていた[[新幹線0系電車]]が全て引退するに伴い、JR西日本のホームページでは『'''ありがとう夢の超特急'''』<ref>http://www.jr-odekake.net/navi/shinkansen/0kei/special/index.html{{リンク切れ|date=2018年11月}}</ref>と告知され、マスコミでも大きく『'''超特急'''』という名前が取り上げられた。なお定期運転引退時にはかつての超特急「ひかり」ではなく、特急であった「こだま」で運用されていたものの、定期運転終了後の引退記念運転では超特急であった「ひかり」で運転された。 [[1992年]](平成4年)3月から運転を開始した「[[のぞみ (列車)|のぞみ]]」号は「ひかり」号・「こだま」号よりも高い特急料金を設定しているが、列車種別上の表記は「超特急」としていない。また、[[新幹線300系電車|300系]]として実現した超高速運転構想について、「超々特急」の呼称で言及していることがある。 超特急料金が撤廃された後も、新幹線車内の英語アナウンスでは、例えば''"This is the NOZOMI'' '''''SuperExpress''''' ''bound for Tokyo"''(この列車は<超> 特急「のぞみ」東京駅行です)のように放送されており、在来線の特急を示す''Limited Express''とは区別が残っている。この"Super express"は東海道・山陽新幹線に限らず、[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|北陸]]・[[九州新幹線]]の様に新幹線列車では共通に用いられている。 ====車両の愛称としての超特急==== [[小田急ロマンスカー]]は、1957年登場の[[小田急3000形電車 (初代)|初代3000形電車]]にSE(Super Express)を採用して以降、[[小田急30000形電車|30000形(EXE)]]を除くすべての特急用車両で(-SE)を付けた名称が愛称となっている([[小田急3100形電車|3100形 (NSE)]],[[小田急7000形電車|7000形 (LSE)]],[[小田急10000形電車|10000形 (HiSE)]],[[小田急20000形電車|20000形 (RSE)]],[[小田急50000形電車|50000形 (VSE)]],[[小田急60000形電車|60000形 (MSE)]],[[小田急70000形電車|70000形 (GSE)]])。 また、正式な名称ではないが[[東武鉄道]]が1960年に[[けごん#東武日光線優等列車沿革|日光・鬼怒川方面への特急列車]]に[[東武1720系電車|1720系]]「デラックスロマンスカー」を就役させた時に発行した時刻表には、「夢の'''超特急'''・デラックスロマンスカー誕生!」と記されていた<ref>{{Citation|和書|author=花上嘉成|title=東武デラックスロマンスカー : 1720系と東武特急の歩み|publisher=[[JTB]]|series=[[JTBキャンブックス]]|date=2004.3|isbn=4-533-05170-7|page=108}}</ref>。 ==鉄道以外の「超特急」== 鉄道以外では、[[高速バス]]・[[路線バス]]のうち「特急バス」等と称する場合、[[直行便]](ノンストップ)タイプの便を「特急」以上の存在であるとして、こう称する事例がある。この場合、「超特急」と「特急」では料金格差がないことが多い。また、かつては[[サンデン交通]]バスの下関-青海島間や、[[大分交通]]バスの大分駅ー国東ー竹田津港路線に「超特急」が設定されて時刻表にも掲載されていた<ref>『交通公社の時刻表』(現:『[[JTB時刻表]]』)1984年10月号より</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[新幹線]] * [[快速特急]] * [[列車種別]] * [[北越急行ほくほく線#超快速「スノーラビット」|スノーラビット]] * [[近鉄特急#名阪特急(大阪 - 名古屋間)|甲特急]](近畿日本鉄道) == 参考文献 == * 新幹線ネットワークはこうつくられた 髙松良晴 交通新聞社 2017年 {{日本における列車種別一覧}} [[Category:日本の特急列車|*ちようとつきゆう]] [[Category:列車種別|ちようとつきゆう]] [[Category:愛知電気鉄道|列ちようとつきゆう]] [[Category:京阪電気鉄道|種ちようとつきゆう]] [[Category:阪和電気鉄道|列ちようとつきゆう]]
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変電所
変電所(へんでんしょ)は、電力系統中で電気の電圧や周波数の変換(変電)を行い、各系統の接続とその開閉を行って、電力の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。英語の "(electrical) substation" の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。 一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置される。特に大規模水力発電所の場合はその適所が山間部となり、需要家の多い平野部とは距離がある。火力発電は水力発電所のような地形的制約は殆どなく、都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、リスク管理の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。 長距離の送電では電力の損失(主にジュール熱)が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終需要家までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される。 送電経路の例 電力は電流×電圧で表される。電流が流れると送電線の抵抗によりジュール熱として送電したエネルギーが失われ、かつ電圧降下により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、送電線の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。したがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として配電することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。この電圧の変換を行っているのが変電所である。 高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。こうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。この電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。 また電力系統は、発電所から消費者まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。さらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、遮断器を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。 この他に、直流送電に関連して交流と直流を変換する交直変換所や、周波数の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。 変電所の種類は、電圧階級、用途、形式、形態、監視制御方式などで分類できる。 変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154 - 22 kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22 - 6.6 kV程度である。 送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 降圧用変電所は、発電所に近い側ほど高い電圧になっており、順次電圧階級を構成している。高い方から500kV変電所、超高圧変電所、一次変電所、中間変電所などと呼ばれている。二次変電所、三次変電所などが含まれることもある。電圧階級の各段階でどのような電圧を使用しているかは、電力会社によってもその系統によっても様々であり、必ずしも全ての種類の変電所を経由して降圧されていくわけではなく途中の段階を飛ばすこともあり、必要に応じて複雑に組み合わせられている。また、発電所が必ず最上流に入っているわけではなく、小さな発電所ではこの電圧階級の途中に給電を行っていることもある。電力消費者も必ず最下流に入っているわけではなく、工場や電気鉄道など大口の需要家は途中の高い電圧の変電所から給電を受けていることがある。各種類の変電所でどの程度の電圧が使われているかを表に示す。参考として2006年3月31日現在の日本の電圧別変電所の設備数と容量を表に示す。 変電所は、電力事業者が所有している電力変電所、大口の電力消費者が設置している自家用変電設備、電気鉄道事業者が設置している電気鉄道用変電所などに分類できる。電力変電所は前述したように送電用・配電用の分類と、昇圧用・降圧用の分類がある。電気鉄道用の変電所は、直流電化区間では直流への変換機能のある変電所、交流電化区間では交流の降圧のみの変電所となる。 長距離で大容量の送電を行ったり、海底送電線を使って送電を行ったりする目的で、直流送電を行うことがある。この際には直流送電線の両端に一般の交流送電網と接続するための交直変換所が設置される。この他、日本では東日本が50 Hz、西日本が60 Hzと周波数が分かれているので、この周波数の境界に周波数変換所が設置されて、東西で電力の融通ができるようになっている。 変電所の形式としては、屋外式、屋内式、半屋内式、半地下式、地下式、移動式がある。 変電所は絶縁の方式により、気中絶縁形、GIS、ハイブリッドGISの形態に分類できる。 変電所は、常時技術員が勤務していて監視・制御作業に当たっているものから、遠隔制御されているもの、無人化されているものなど監視・制御方式によって複数に分類できる。技術員が常駐している変電所はほとんどなくなり、2005年時点で日本の変電所の無人化率は98.6 %となっている。 変電所には、電圧を変換するための変圧器、電源を入り切りするための遮断器、電源が切れている状態で回路を切り離す断路器、落雷時の異常電流を逃がす避雷器、無効電力の調整をする調相設備などがある。また、直流に関連する変電所では整流器やインバータなどが設置されるが、これについては後述する。 変圧器は、電磁誘導現象を利用して交流の電圧を変換する装置である。変電所における最も基本的な装置である。変電所で取り扱う電気は通常三相交流であり、変圧器も三相用のものか、あるいは単相用のものを3つ接続して三相交流用に使用している。変電所に設置される変圧器は大変大きなもので、工場で製造して搬入することには様々な困難を伴う。このことから、かつては単相交流用のものを3つ搬入することが多かった。さらに変圧器の取り扱い電圧が高くなり大容量化すると、それでも搬入が困難なほど巨大化してきたため、工場で生産した部品を搬入して現地で組み立てる方式が一般的となり、三相式の変圧器を用いることが普通になった。単相式変圧器を用いた場合に比べて、三相式を用いると同容量で半分程度に面積を縮小することができる。 変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。この冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。 乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千 kVA程度の容量のものまである。変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある。巻線などをエポキシ樹脂などで固めたモールド変圧器もある。 油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。またポリ塩化ビフェニル (PCB) も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。現代ではシリコーン油が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。自然対流によるものと強制循環によるものがある。また放熱器にも送風ファンを取り付けることがある。さらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある。 ガス絶縁式は、六フッ化硫黄 (SF6) ガスで絶縁した方式で、冷却もこのガスを循環させることで行っている。 負荷の変動に応じて電圧を調整し、また電力系統上の電力の潮流を制御するために、変電所の変圧器には出力電圧を制御するための負荷時電圧調整器(負荷時タップ切換装置)が取り付けられている。巻線に設けられたタップ上のある地点をタップ選択器で選ぶことで、変圧器の巻数比をある範囲で変更可能としているものである。 変圧器では、主に鉄心の磁歪現象により振動と騒音が発生する。住宅地に設置される場合などには騒音対策が必要になることがある。 遮断器は、電力回路の入り切りを行い、また落雷や短絡などの事故発生時に回路を切り離して安全を保つために用いられる開閉器である。事故時の遮断も行うため、通常負荷時に流れている電流よりもはるかに大きな電流であっても遮断できるように設計されている。構造としては可動する接触子を接点に接触させたり離したりするものであり、電化製品などで用いられるスイッチと原理的に大きな差はないが、大電力では接点から接触子を外しても接点間にアーク放電が発生して電流が流れ続けてしまう現象があり、これを防ぐために様々な絶縁方式が考えられている。油遮断器、磁気遮断器、真空遮断器、空気遮断器、ガス遮断器などがある。 変電所では、送電線に落雷が発生した際に当該区間の送電線を系統から切り離すために遮断器を作動させることがある。この際落雷の発生箇所はコンピュータにより瞬時に計算され、両端の変電所に遮断器の動作指令が送られ、遮断器により系統から開放されたのち落雷による電荷を送電線から排除し、系統へ再投入するという処理が高速で行われている。この際故障回線が切り離されるまでの間、0.2秒程度の電圧低下が発生することがあり、瞬時電圧低下(瞬低)と呼ばれている。 断路器は、遮断器と同様に電力回路の入り切りを行う装置であるが、遮断器とは異なり電流が流れている回路を切り離す能力はない。遮断器にはアークを切り離す能力(消弧機能)が備わるが、断路器にはそれがない。しかし、高速動作の求められる遮断器は接点間の距離が短く何らかのきっかけで意図しない電源再投入が起こる場合がある。確実に切り離すために動作が比較的遅い接点間の距離の長い断路器が用いられる。これは例えば、遮断器の点検作業時などに用いられる。 避雷器は、雷や遮断器の動作による異常電圧がある限度を超えたときに作動して、異常電流を逃がすことで電気回路の保護を行う装置である。 調相設備は、無効電力を調整することで送電線の力率を改善し受電側での電圧制御を行うための設備である。同期調相機は同期電動機を無負荷で運転して界磁電流を調整することにより連続的に進相にも遅相にも制御することができる装置である。進相コンデンサは進相方向のみに制御でき、分路リアクトルは遅相方向のみに制御できるので、これらを組み合わせて設置することもある。また静止形無効電力補償装置 (SVC: Static Var Compensator) を用いることもある。 変電所に設けられている各種の機器を一箇所から監視・制御できるように制御設備が設けられている。各種機器の動作状況は、計器用変成器などを介して取り扱いやすい低電圧の信号に変換されて送られ、制御装置の計器に表示される。また制御装置上のスイッチを操作することにより、遠隔で各種機器を操作できるようにもなっている。制御所から遠隔で監視される無人の変電所では、遠方監視制御装置を変電所に設置してこれらの情報をCDT方式やHDLC方式などの伝送方式で制御所に中継するようになっている。 変電所では、変圧器の冷却装置や遮断器の動作、制御回路などに電源を必要としている。この電源は、まさにその変電所で変電を行っている電力系統から変圧器を介して受電するもの、付近の一般配電網から受電するものがある。一般に大規模な変電所では電力系統から受電している。停電に備えて異なる二系統から受電できるようになっていることが多い。また二系統ともに停電することに備えて非常用発電機やバッテリーを備えている。 直流送電を行う場合、その両端に交直変換所が設置される。また、周波数の異なる地域で電力の融通を行う場合、その境界点に周波数変換所が設置される。直流送電では直交変換を行う施設と交直変換を行う施設が遠く離れており間に直流送電線があるが、周波数変換所では直交・交直変換設備はすぐそばにあって接続されており、技術的には似たような施設である。 古くは水銀整流器を用いて交直変換を行っていたが、技術の進歩によりサイリスタ式の変換装置が主流となっている。この交直変換設備に付随して、変換装置の特性に合わせた変圧器、直流の遮断が可能な直流遮断器、直流波形のリプル分を取り除く直流リアクトル、交流波形の高調波を取り除く高調波フィルタ、交直変換装置を通すことによって遅れ力率が発生することに対処する調相設備などが設けられる。 日本には、交直変換所として上北変換所・函館変換所(各600,000kW)・紀北変換所・阿南変換所(各1,400,000kW)・飛騨変換所・新信濃変電所(各900,000kW)、周波数変換所として佐久間周波数変換所(300,000kW)・新信濃変電所(600,000kW)・東清水変電所(300,000kW)、連系所として南福光連系所(300,000kW)がある。 電気鉄道に電力を供給する鉄道変電所には、通常の変電所とは異なる特殊な点がある。 直流電化区間では、電力会社から供給される三相交流を直流に変換して供給している。三相交流をまず変圧器で所要の電圧に降圧し、ブリッジ回路などで整流器につないで所定の直流電圧を得ている。かつては回転変流機や水銀整流器を用いて直流へ変換していたが、サイリスタや近年ではPWM整流器などが用いられるようになっており、こうした点では交直変換所と同じである。ただし、交流から直流へ変換するのみで、逆に直流から交流への逆変換機能は無いのが普通である。 しかし、回生ブレーキが用いられるようになると、制動時に電車の運動エネルギーが電気エネルギーに変換されるが、この回生電力を他の車両で消費しきれない場合は変電所に送り返されてくるので、これを電力網に回生できるように変電所に逆変換装置を設置する必要が生じた。このための設備は回生インバータと称されている。また電力網に回生電力を返還する機能が無く、変電所に設置した抵抗器で熱に変えて捨てるだけのものもある。 電力会社の送電線から遠く離れた地点で変電所を増設できずに電圧降下が問題になったり、回生電力を吸収しなければならなかったりする場合には、架線と接続した蓄電装置が設置されることがある。これはフライホイール・バッテリーを使ったりその他の蓄電池を用いたりすることがある。回生電力や、電車が走行していない時間帯の電力を蓄電池に蓄積して、負荷が高い時間帯に放出することで、回生時の電圧上昇を抑制し力行時の電圧降下を補償する仕組みとなっている。 交流電化区間では、単に変圧器で電圧を変換するだけで架線へ電力を供給している。ただし、交流電化の鉄道では一部を除き単相負荷であるため、スコット結線変圧器やウッドブリッジ結線変圧器などの三相二相変換変圧器を用いて二相に変換した上で、複線の上下線にそれぞれを供給するか、あるいは変電所の前を中心に両側に供給している。上下線に別の位相を供給する方式を上下線別異相饋電方式、両方向へ供給する方式を方面別異相饋電方式と呼んでいる。 その他の遮断器や断路器などの設置に関しては通常の変電所と同様である。 変電所では、建設時は別として、日常の運用に際して排気や排水など、汚染物質を外に放出することはない。しかし、変圧器やその冷却装置などから常時騒音が発生し、また遮断器の作動時には特有の音がする。こうしたことから、変電所での環境対策としては騒音対策が大きな割合を占めている。住宅地に建設される変電所などでは、低騒音型の機器を採用したり、屋内に機器を格納するようにしたり、防音壁を設けたりといった対策が採られている。 変電所の機器は複雑で見慣れない形状をしていることから、周辺の住民からは異質で危険なものと見られる傾向にある。このため変電所の新設に理解が得られないといった問題がある。このことから景観対策として、様々な機器を屋内に収納した方式を採用したり、目隠しの壁を取り付けたりして対処している。また、建物やフェンスなどを周囲の風景と調和したものにする工夫も行われている。 世界で最初の商用電力事業は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタンで、トーマス・エジソンが設立したエジソン電灯会社 (EELC: Edison Electric Light Company) によって1882年9月4日に始められた。しかしこの時は直流115 - 120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった。低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。その中には、高電圧の直流で送電して電動発電機で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった。 直流での大規模な送電は、1954年にスウェーデンでゴットランド島への2万kW 100 kV送電で実用化された。水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。 日本では北海道・本州間連系設備(上北変換所 - 函館変換所)や紀伊水道直流連系設備(紀北変換所 - 阿南変換所)で直流送電が行われている。 本質的に、低圧で送電することによる大きな送電損失を改善するためには高圧で送電するしかなく、そのためには自由に電圧を変換する方法が必要とされた。交流の電圧と電流を変換する変圧器は、マイケル・ファラデーが電磁誘導の法則を発見して以来、19世紀を通じて何人かの技術者・発明家によって次第に改良され形作られてきたが、電力網に組み込んで利用するための具体的な形にまとめたのはフランスのルシアン・ゴーラールとイギリスのジョン・ディクソン・ギブスの2人であった。彼らは1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した。1884年にイタリアのトリノで開かれた博覧会で、5,000 Vで40 kmを送電する実験に成功し、それまで都市内部で蒸気機関で発電してそのすぐ近くで配電する以外の方法が無かった電力事業に対して、山岳地帯で水力発電を行い長距離を送電して都市に配電することを可能にした。 まだ彼らの変圧器は、鉄心の磁路に開いた部分があり効率が悪かったので、ハンガリーのガンツ社やアメリカのジョージ・ウェスティングハウスなどが改良に取り組んだ。世界で最初の実用交流送電線は、イタリアで1886年にガンツ社の発電機を使って112 Vの電気を2,000 Vに昇圧して27km送電し、ローマに供給するものであった。三相交流システムや誘導電動機など、交流を実用的に利用するための技術が開発され、1895年8月にナイアガラの滝に水力発電所が建設され、翌1896年から変電所を通じて高圧に変換して三相交流で送電し、ニューヨーク州バッファローへ供給するシステムが稼動を開始した。このシステムでは、ウェスティングハウス・エレクトリック製の二相の3,750 kW発電機12台からの電圧5,000 Vを、二相三相変換の変圧器(スコット結線変圧器)で三相11,000 Vにして40 kmを送電し、ゼネラル・エレクトリックが建設した変電所で降圧して給電していた。このようにして交流送電の技術は普及し、これにともなって変電所の建設も進んでいった。 交流での送電電圧は急速に上がっていった。1896年のナイアガラ-バッファローの送電システムでは11 kVであったが、同年中にはスイスで33 kV送電線ができ、1897年には40 kV、1901年にはアメリカ・ミズーリ州で50 kVになり、1910年代にはドイツとアメリカで100 kV送電線が用いられるようになった。当初は、発電所で起こされた電力は、それぞれ独立した送電網を通って送られ、それぞれ独立した地域に給電していた。異なる発電所から供給する電力網同士には電力を融通する機能が無く、発電所が運転を休止したり故障したりすると、その発電所の供給範囲は停電となった。周波数や電圧などはバラバラで、それぞれの電力網に合わせた機器を導入していた。イギリスでは1928年からグリッドシステムの導入が始められ、電力供給の規格が作られて電圧や周波数が統一され、上位の電力供給網が全国を接続するようになった。アメリカでも、「超電力方式」と称する統一周波数の送電システムの建設が1920年から始められた。日本でも、1920年代頃から系統の連系が行われるようになり、これによって電圧階級を持った変電所などの現代的なシステムが整えられるようになったが、東西の周波数は統一されなかった。そのため周波数変換所を実用化する必要が生じ、1965年10月に佐久間周波数変換所を稼動した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "変電所(へんでんしょ)は、電力系統中で電気の電圧や周波数の変換(変電)を行い、各系統の接続とその開閉を行って、電力の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。英語の \"(electrical) substation\" の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般電気事業者(電力会社)の発電所は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置される。特に大規模水力発電所の場合はその適所が山間部となり、需要家の多い平野部とは距離がある。火力発電は水力発電所のような地形的制約は殆どなく、都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、リスク管理の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。 長距離の送電では電力の損失(主にジュール熱)が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。また臨海部の火力発電所も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終需要家までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "送電経路の例", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "電力は電流×電圧で表される。電流が流れると送電線の抵抗によりジュール熱として送電したエネルギーが失われ、かつ電圧降下により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、送電線の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。したがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として配電することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。この電圧の変換を行っているのが変電所である。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。こうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。この電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また電力系統は、発電所から消費者まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。さらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、遮断器を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この他に、直流送電に関連して交流と直流を変換する交直変換所や、周波数の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。", "title": "役割" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "変電所の種類は、電圧階級、用途、形式、形態、監視制御方式などで分類できる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154 - 22 kV程度で、配電網へ送り出す電圧は22 - 6.6 kV程度である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は昇圧用変電所、下げる変電所は降圧用変電所と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "降圧用変電所は、発電所に近い側ほど高い電圧になっており、順次電圧階級を構成している。高い方から500kV変電所、超高圧変電所、一次変電所、中間変電所などと呼ばれている。二次変電所、三次変電所などが含まれることもある。電圧階級の各段階でどのような電圧を使用しているかは、電力会社によってもその系統によっても様々であり、必ずしも全ての種類の変電所を経由して降圧されていくわけではなく途中の段階を飛ばすこともあり、必要に応じて複雑に組み合わせられている。また、発電所が必ず最上流に入っているわけではなく、小さな発電所ではこの電圧階級の途中に給電を行っていることもある。電力消費者も必ず最下流に入っているわけではなく、工場や電気鉄道など大口の需要家は途中の高い電圧の変電所から給電を受けていることがある。各種類の変電所でどの程度の電圧が使われているかを表に示す。参考として2006年3月31日現在の日本の電圧別変電所の設備数と容量を表に示す。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "変電所は、電力事業者が所有している電力変電所、大口の電力消費者が設置している自家用変電設備、電気鉄道事業者が設置している電気鉄道用変電所などに分類できる。電力変電所は前述したように送電用・配電用の分類と、昇圧用・降圧用の分類がある。電気鉄道用の変電所は、直流電化区間では直流への変換機能のある変電所、交流電化区間では交流の降圧のみの変電所となる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "長距離で大容量の送電を行ったり、海底送電線を使って送電を行ったりする目的で、直流送電を行うことがある。この際には直流送電線の両端に一般の交流送電網と接続するための交直変換所が設置される。この他、日本では東日本が50 Hz、西日本が60 Hzと周波数が分かれているので、この周波数の境界に周波数変換所が設置されて、東西で電力の融通ができるようになっている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "変電所の形式としては、屋外式、屋内式、半屋内式、半地下式、地下式、移動式がある。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "変電所は絶縁の方式により、気中絶縁形、GIS、ハイブリッドGISの形態に分類できる。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "変電所は、常時技術員が勤務していて監視・制御作業に当たっているものから、遠隔制御されているもの、無人化されているものなど監視・制御方式によって複数に分類できる。技術員が常駐している変電所はほとんどなくなり、2005年時点で日本の変電所の無人化率は98.6 %となっている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "変電所には、電圧を変換するための変圧器、電源を入り切りするための遮断器、電源が切れている状態で回路を切り離す断路器、落雷時の異常電流を逃がす避雷器、無効電力の調整をする調相設備などがある。また、直流に関連する変電所では整流器やインバータなどが設置されるが、これについては後述する。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "変圧器は、電磁誘導現象を利用して交流の電圧を変換する装置である。変電所における最も基本的な装置である。変電所で取り扱う電気は通常三相交流であり、変圧器も三相用のものか、あるいは単相用のものを3つ接続して三相交流用に使用している。変電所に設置される変圧器は大変大きなもので、工場で製造して搬入することには様々な困難を伴う。このことから、かつては単相交流用のものを3つ搬入することが多かった。さらに変圧器の取り扱い電圧が高くなり大容量化すると、それでも搬入が困難なほど巨大化してきたため、工場で生産した部品を搬入して現地で組み立てる方式が一般的となり、三相式の変圧器を用いることが普通になった。単相式変圧器を用いた場合に比べて、三相式を用いると同容量で半分程度に面積を縮小することができる。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。この冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千 kVA程度の容量のものまである。変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある。巻線などをエポキシ樹脂などで固めたモールド変圧器もある。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。またポリ塩化ビフェニル (PCB) も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。現代ではシリコーン油が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。自然対流によるものと強制循環によるものがある。また放熱器にも送風ファンを取り付けることがある。さらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ガス絶縁式は、六フッ化硫黄 (SF6) ガスで絶縁した方式で、冷却もこのガスを循環させることで行っている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "負荷の変動に応じて電圧を調整し、また電力系統上の電力の潮流を制御するために、変電所の変圧器には出力電圧を制御するための負荷時電圧調整器(負荷時タップ切換装置)が取り付けられている。巻線に設けられたタップ上のある地点をタップ選択器で選ぶことで、変圧器の巻数比をある範囲で変更可能としているものである。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "変圧器では、主に鉄心の磁歪現象により振動と騒音が発生する。住宅地に設置される場合などには騒音対策が必要になることがある。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "遮断器は、電力回路の入り切りを行い、また落雷や短絡などの事故発生時に回路を切り離して安全を保つために用いられる開閉器である。事故時の遮断も行うため、通常負荷時に流れている電流よりもはるかに大きな電流であっても遮断できるように設計されている。構造としては可動する接触子を接点に接触させたり離したりするものであり、電化製品などで用いられるスイッチと原理的に大きな差はないが、大電力では接点から接触子を外しても接点間にアーク放電が発生して電流が流れ続けてしまう現象があり、これを防ぐために様々な絶縁方式が考えられている。油遮断器、磁気遮断器、真空遮断器、空気遮断器、ガス遮断器などがある。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "変電所では、送電線に落雷が発生した際に当該区間の送電線を系統から切り離すために遮断器を作動させることがある。この際落雷の発生箇所はコンピュータにより瞬時に計算され、両端の変電所に遮断器の動作指令が送られ、遮断器により系統から開放されたのち落雷による電荷を送電線から排除し、系統へ再投入するという処理が高速で行われている。この際故障回線が切り離されるまでの間、0.2秒程度の電圧低下が発生することがあり、瞬時電圧低下(瞬低)と呼ばれている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "断路器は、遮断器と同様に電力回路の入り切りを行う装置であるが、遮断器とは異なり電流が流れている回路を切り離す能力はない。遮断器にはアークを切り離す能力(消弧機能)が備わるが、断路器にはそれがない。しかし、高速動作の求められる遮断器は接点間の距離が短く何らかのきっかけで意図しない電源再投入が起こる場合がある。確実に切り離すために動作が比較的遅い接点間の距離の長い断路器が用いられる。これは例えば、遮断器の点検作業時などに用いられる。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "避雷器は、雷や遮断器の動作による異常電圧がある限度を超えたときに作動して、異常電流を逃がすことで電気回路の保護を行う装置である。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "調相設備は、無効電力を調整することで送電線の力率を改善し受電側での電圧制御を行うための設備である。同期調相機は同期電動機を無負荷で運転して界磁電流を調整することにより連続的に進相にも遅相にも制御することができる装置である。進相コンデンサは進相方向のみに制御でき、分路リアクトルは遅相方向のみに制御できるので、これらを組み合わせて設置することもある。また静止形無効電力補償装置 (SVC: Static Var Compensator) を用いることもある。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "変電所に設けられている各種の機器を一箇所から監視・制御できるように制御設備が設けられている。各種機器の動作状況は、計器用変成器などを介して取り扱いやすい低電圧の信号に変換されて送られ、制御装置の計器に表示される。また制御装置上のスイッチを操作することにより、遠隔で各種機器を操作できるようにもなっている。制御所から遠隔で監視される無人の変電所では、遠方監視制御装置を変電所に設置してこれらの情報をCDT方式やHDLC方式などの伝送方式で制御所に中継するようになっている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "変電所では、変圧器の冷却装置や遮断器の動作、制御回路などに電源を必要としている。この電源は、まさにその変電所で変電を行っている電力系統から変圧器を介して受電するもの、付近の一般配電網から受電するものがある。一般に大規模な変電所では電力系統から受電している。停電に備えて異なる二系統から受電できるようになっていることが多い。また二系統ともに停電することに備えて非常用発電機やバッテリーを備えている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "直流送電を行う場合、その両端に交直変換所が設置される。また、周波数の異なる地域で電力の融通を行う場合、その境界点に周波数変換所が設置される。直流送電では直交変換を行う施設と交直変換を行う施設が遠く離れており間に直流送電線があるが、周波数変換所では直交・交直変換設備はすぐそばにあって接続されており、技術的には似たような施設である。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "古くは水銀整流器を用いて交直変換を行っていたが、技術の進歩によりサイリスタ式の変換装置が主流となっている。この交直変換設備に付随して、変換装置の特性に合わせた変圧器、直流の遮断が可能な直流遮断器、直流波形のリプル分を取り除く直流リアクトル、交流波形の高調波を取り除く高調波フィルタ、交直変換装置を通すことによって遅れ力率が発生することに対処する調相設備などが設けられる。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "日本には、交直変換所として上北変換所・函館変換所(各600,000kW)・紀北変換所・阿南変換所(各1,400,000kW)・飛騨変換所・新信濃変電所(各900,000kW)、周波数変換所として佐久間周波数変換所(300,000kW)・新信濃変電所(600,000kW)・東清水変電所(300,000kW)、連系所として南福光連系所(300,000kW)がある。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "電気鉄道に電力を供給する鉄道変電所には、通常の変電所とは異なる特殊な点がある。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "直流電化区間では、電力会社から供給される三相交流を直流に変換して供給している。三相交流をまず変圧器で所要の電圧に降圧し、ブリッジ回路などで整流器につないで所定の直流電圧を得ている。かつては回転変流機や水銀整流器を用いて直流へ変換していたが、サイリスタや近年ではPWM整流器などが用いられるようになっており、こうした点では交直変換所と同じである。ただし、交流から直流へ変換するのみで、逆に直流から交流への逆変換機能は無いのが普通である。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、回生ブレーキが用いられるようになると、制動時に電車の運動エネルギーが電気エネルギーに変換されるが、この回生電力を他の車両で消費しきれない場合は変電所に送り返されてくるので、これを電力網に回生できるように変電所に逆変換装置を設置する必要が生じた。このための設備は回生インバータと称されている。また電力網に回生電力を返還する機能が無く、変電所に設置した抵抗器で熱に変えて捨てるだけのものもある。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "電力会社の送電線から遠く離れた地点で変電所を増設できずに電圧降下が問題になったり、回生電力を吸収しなければならなかったりする場合には、架線と接続した蓄電装置が設置されることがある。これはフライホイール・バッテリーを使ったりその他の蓄電池を用いたりすることがある。回生電力や、電車が走行していない時間帯の電力を蓄電池に蓄積して、負荷が高い時間帯に放出することで、回生時の電圧上昇を抑制し力行時の電圧降下を補償する仕組みとなっている。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "交流電化区間では、単に変圧器で電圧を変換するだけで架線へ電力を供給している。ただし、交流電化の鉄道では一部を除き単相負荷であるため、スコット結線変圧器やウッドブリッジ結線変圧器などの三相二相変換変圧器を用いて二相に変換した上で、複線の上下線にそれぞれを供給するか、あるいは変電所の前を中心に両側に供給している。上下線に別の位相を供給する方式を上下線別異相饋電方式、両方向へ供給する方式を方面別異相饋電方式と呼んでいる。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "その他の遮断器や断路器などの設置に関しては通常の変電所と同様である。", "title": "特殊な変電所" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "変電所では、建設時は別として、日常の運用に際して排気や排水など、汚染物質を外に放出することはない。しかし、変圧器やその冷却装置などから常時騒音が発生し、また遮断器の作動時には特有の音がする。こうしたことから、変電所での環境対策としては騒音対策が大きな割合を占めている。住宅地に建設される変電所などでは、低騒音型の機器を採用したり、屋内に機器を格納するようにしたり、防音壁を設けたりといった対策が採られている。", "title": "環境対策" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "変電所の機器は複雑で見慣れない形状をしていることから、周辺の住民からは異質で危険なものと見られる傾向にある。このため変電所の新設に理解が得られないといった問題がある。このことから景観対策として、様々な機器を屋内に収納した方式を採用したり、目隠しの壁を取り付けたりして対処している。また、建物やフェンスなどを周囲の風景と調和したものにする工夫も行われている。", "title": "環境対策" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "世界で最初の商用電力事業は、アメリカ合衆国のニューヨーク・マンハッタンで、トーマス・エジソンが設立したエジソン電灯会社 (EELC: Edison Electric Light Company) によって1882年9月4日に始められた。しかしこの時は直流115 - 120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった。低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。その中には、高電圧の直流で送電して電動発電機で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "直流での大規模な送電は、1954年にスウェーデンでゴットランド島への2万kW 100 kV送電で実用化された。水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本では北海道・本州間連系設備(上北変換所 - 函館変換所)や紀伊水道直流連系設備(紀北変換所 - 阿南変換所)で直流送電が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "本質的に、低圧で送電することによる大きな送電損失を改善するためには高圧で送電するしかなく、そのためには自由に電圧を変換する方法が必要とされた。交流の電圧と電流を変換する変圧器は、マイケル・ファラデーが電磁誘導の法則を発見して以来、19世紀を通じて何人かの技術者・発明家によって次第に改良され形作られてきたが、電力網に組み込んで利用するための具体的な形にまとめたのはフランスのルシアン・ゴーラールとイギリスのジョン・ディクソン・ギブスの2人であった。彼らは1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した。1884年にイタリアのトリノで開かれた博覧会で、5,000 Vで40 kmを送電する実験に成功し、それまで都市内部で蒸気機関で発電してそのすぐ近くで配電する以外の方法が無かった電力事業に対して、山岳地帯で水力発電を行い長距離を送電して都市に配電することを可能にした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "まだ彼らの変圧器は、鉄心の磁路に開いた部分があり効率が悪かったので、ハンガリーのガンツ社やアメリカのジョージ・ウェスティングハウスなどが改良に取り組んだ。世界で最初の実用交流送電線は、イタリアで1886年にガンツ社の発電機を使って112 Vの電気を2,000 Vに昇圧して27km送電し、ローマに供給するものであった。三相交流システムや誘導電動機など、交流を実用的に利用するための技術が開発され、1895年8月にナイアガラの滝に水力発電所が建設され、翌1896年から変電所を通じて高圧に変換して三相交流で送電し、ニューヨーク州バッファローへ供給するシステムが稼動を開始した。このシステムでは、ウェスティングハウス・エレクトリック製の二相の3,750 kW発電機12台からの電圧5,000 Vを、二相三相変換の変圧器(スコット結線変圧器)で三相11,000 Vにして40 kmを送電し、ゼネラル・エレクトリックが建設した変電所で降圧して給電していた。このようにして交流送電の技術は普及し、これにともなって変電所の建設も進んでいった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "交流での送電電圧は急速に上がっていった。1896年のナイアガラ-バッファローの送電システムでは11 kVであったが、同年中にはスイスで33 kV送電線ができ、1897年には40 kV、1901年にはアメリカ・ミズーリ州で50 kVになり、1910年代にはドイツとアメリカで100 kV送電線が用いられるようになった。当初は、発電所で起こされた電力は、それぞれ独立した送電網を通って送られ、それぞれ独立した地域に給電していた。異なる発電所から供給する電力網同士には電力を融通する機能が無く、発電所が運転を休止したり故障したりすると、その発電所の供給範囲は停電となった。周波数や電圧などはバラバラで、それぞれの電力網に合わせた機器を導入していた。イギリスでは1928年からグリッドシステムの導入が始められ、電力供給の規格が作られて電圧や周波数が統一され、上位の電力供給網が全国を接続するようになった。アメリカでも、「超電力方式」と称する統一周波数の送電システムの建設が1920年から始められた。日本でも、1920年代頃から系統の連系が行われるようになり、これによって電圧階級を持った変電所などの現代的なシステムが整えられるようになったが、東西の周波数は統一されなかった。そのため周波数変換所を実用化する必要が生じ、1965年10月に佐久間周波数変換所を稼動した。", "title": "歴史" } ]
変電所(へんでんしょ)は、電力系統中で電気の電圧や周波数の変換(変電)を行い、各系統の接続とその開閉を行って、電力の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。英語の "(electrical) substation" の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。
[[ファイル:High_voltage_switchgear.jpg|thumb|250px|ウクライナの変電所]] [[ファイル:Umspannwerk Schalter.jpg|thumb|250px|ドイツの変電所]] '''変電所'''(へんでんしょ)は、[[電力系統]]中で[[電気]]の[[電圧]]や[[周波数]]の変換([[変電]])を行い、各系統の接続とその開閉を行って、[[電力]]の流れを制御する電力流通の拠点となる施設である。英語の "(electrical) '''s'''ub'''s'''tation" の文字を取り、SSまたは、S/Sと略される。 == 概要 == [[一般電気事業者]]([[電力会社]])の[[発電所]]は多くの場合、電力消費地から離れた場所に設置される。特に大規模[[水力発電]]所の場合はその適所が山間部となり、需要家の多い平野部とは距離がある。[[火力発電]]は水力発電所のような地形的制約は殆どなく、<ref group="注釈">殆どと表現するのは、冷却水を簡単に引いて来れるように、海や、ある程度大きな湖の近くに作る必要があるがあるため。だが他の発電に比べたら立地条件は比較的甘い</ref>都市部等、人口密集地への設置も可能ではあるが、[[リスク管理]]の観点からどの国においても人口密集地からは離れた所に設置される。 長距離の[[送電]]では電力の損失(主に[[ジュール熱]])が発生するため、より高電圧かつ低電流に変換して送電ロスを低下させている。また臨海部の[[火力発電所]]も発電出力が大きく大容量の送電では送電線の発熱が問題になるため、発電所内の変電所では27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送電されるが、電力の最終需要家までの送電網の途中に変電所が幾つかあり、そこでは段階的に電圧が下げられ(降圧)、一般家庭向けには日本では100ボルトまで変圧される<ref>[[電気事業連合会]] [http://www.fepc.or.jp/enterprise/souden/keiro/ 「電気が伝わる経路」] </ref>。 '''送電経路の例'''<ref>電気事業連合会 [http://www.fepc.or.jp/enterprise/souden/keiro/sw_index_01/index.html 「電機の送られ方」] </ref> ; 発電所 : 発電所の出力は数千から2万ボルトの電圧であり、発電所内または隣接した変電所で27.5万から50万ボルトの超高電圧へ変電(昇圧)され送り出される。 ; 超高圧変電所 : 超高圧変電所は発電所から最初の変電所で、より電力消費者に近くに立地し、15.4万ボルトへ変電され1次変電所へ送電される。 ; 1次変電所 : 1次変電所では一部は15.4万ボルトのまま大工場や鉄道へ電力供給され、また6.6万へと変電され中間変電所へ送電される。 ; 中間変電所 : 中間変電所では6.6万ボルトから2.2万ボルトへ変電され、一部は中規模工場へ供給され、残りは配電用変電所へ送電される。 ; 配電用変電所 : 配電用変電所では2.2万ボルトから6600ボルトへ変電され一部は会社、学校、ホテル、小規模工場等各施設へ供給され、残りは[[柱上変圧器]]へと送り出される。 ; 柱上変圧器 : 柱上変圧器では100ボルト、200ボルトへ変電され家庭や小規模事業所などへ供給される。 == 役割 == 電力は[[電流]]×電圧で表される。電流が流れると送電線の[[電気抵抗|抵抗]]により[[ジュール熱]]として送電したエネルギーが失われ、かつ[[電圧降下#電力伝送路における電圧降下|電圧降下]]により有効な電圧を送電線の終点のところで受け取ることができなくなる。送電中の電力損失は電流の2乗に比例することから、[[電線路|送電線]]の電圧をできるだけ高く上げ少ない電流で送電することが、低い電圧のまま大きな電流を用いて送電する場合と比較して、同じ電力を送る際の電力損失を減らすことができる。したがって、発電所のそばで高い電圧に上げて、オフィスや一般家庭などの電力消費者のなるべく近くで低い電圧に落として[[配電]]することがエネルギーを無駄にしない観点上望ましい。この電圧の変換を行っているのが変電所である。 高い電圧を取り扱う変電所ほど規模が大きくなり、また送電線に関わる施設も大きくなる。こうした施設を建設する費用の兼ね合いから電力消費者に近い末端では低い電圧で送る必要があり、発電所に近い側が最も高い電圧で送られ、消費者に近づくにつれて順次電圧が落とされていくようになっている。この電圧が次第に低くなっていく各段階のことを電圧階級と呼んでいる。各階級の間にはそれに対応した変電所が設置されている。 また電力系統は、発電所から[[消費者]]まで一直線になっているわけではなく、電力システムの信頼性を高め故障や補修作業時のバックアップを相互に行うために、複数の発電所からの送電線が集合され、あるいは必要に応じて各所へ分散されていくようになっている。変電所はこうした送電系統上の集合・分岐点にもなっており、必要に応じて系統をつないだり切り離したりする役割もしている。さらに、送電線に落雷があるなどで一部の区間に障害が発生すると、[[遮断器]]を動作させてその区間を送電系統から一旦切り離し、障害の波及を防止し回復を図る役割もしている。 この他に、[[直流送電]]に関連して[[交流]]と[[直流]]を変換する[[交直変換所]]や、[[周波数]]の異なる電源を接続する周波数変換所も変電所の一種である。 == 種類 == 変電所の種類は、電圧階級、用途、形式、形態、監視制御方式などで分類できる<ref name = "equipment_pp155-159">『電力流通設備』pp.155 - 159</ref><ref name = "gen_trans_pp287-288">『発変電工学総論』pp.287 - 288</ref>。 === 電圧階級による分類 === <div style = "float:right; margin-left: 10px;"> {| class = "wikitable" |+ 変電所の電圧階級(日本におけるもの)<ref name = "gen_trans_p287">『発変電工学総論』p.287</ref> ! 変電所種類 !! 受電電圧 !! 送出電圧 |- | 500kV変電所 || 500 kV || 275 - 154 kV |- | 超高圧変電所 || 275 - 187 kV || 154 - 66 kV |- | 一次変電所 || 154 - 110 kV || 77 - 22 kV |- | 中間変電所 || 77 - 66 kV || 33 - 22 kV |} {| class = "wikitable" style="text-align:right" |+ 日本の変電設備の電圧別設備数および出力(2006年3月31日現在)<ref name = "equipment_p156">『電力流通設備』p.156</ref> ! 電圧 (kV) !! 設備数 !! 出力合計 (kVA) |- | 22 未満 || 45 || 211,950 |- | 22 - 55 || 1,163 || 9,159,750 |- | 66 - 77 || 4,376 || 213,068,850 |- | 110 - 154 || 661 || 143,416,050 |- | 187 || 38 || 15,363,000 |- | 220 || 60 || 35,690,000 |- | 275 || 151 || 160,470,000 |- | 500以上 || 76 || 201,360,000 |- | 合計 || 6,570 || 778,739,600 |} </div> 変電所はまず、送電用変電所と配電用変電所に大きく分類される。送電用変電所は、電力系統の途中に配置されて電圧の変換を行っており、大電力が通過する。これに対して配電用変電所は電力系統の末端に近いところに配置されて、送電用変電所から送られてきた高い電圧を消費者に供給する低い電圧に落として地域の配電網に供給する。送電用変電所に比べて1つの変電所を通過する電力は小さく、施設の規模も小さくなるが、その数は送電用変電所よりかなり多い。配電用変電所の受電電圧は154 - 22 [[ボルト (単位)|kV]]程度で、配電網へ送り出す電圧は22 - 6.6 kV程度である<ref name = "equipment_p155">『電力流通設備』p.155</ref>。 送電用変電所の多くは高い電圧を低い電圧に落とすために使われているが、逆に低い電圧を高い電圧に上げるために用いられているものもある。電圧を上げる変電所は'''昇圧用変電所'''、下げる変電所は'''降圧用変電所'''と大きく分類される。昇圧用変電所は基本的に発電所に付属して設置されており、電力を発電所から送り出す段階での電圧変換を行っている。 降圧用変電所は、発電所に近い側ほど高い電圧になっており、順次電圧階級を構成している。高い方から500kV変電所、超高圧変電所、一次変電所、中間変電所などと呼ばれている。二次変電所、三次変電所などが含まれることもある。電圧階級の各段階でどのような電圧を使用しているかは、電力会社によってもその系統によっても様々であり、必ずしも全ての種類の変電所を経由して降圧されていくわけではなく途中の段階を飛ばすこともあり、必要に応じて複雑に組み合わせられている。また、発電所が必ず最上流に入っているわけではなく、小さな発電所ではこの電圧階級の途中に給電を行っていることもある。電力消費者も必ず最下流に入っているわけではなく、工場や[[電気鉄道]]など大口の需要家は途中の高い電圧の変電所から給電を受けていることがある。各種類の変電所でどの程度の電圧が使われているかを表に示す。参考として2006年3月31日現在の日本の電圧別変電所の設備数と容量を表に示す。 === 用途による分類 === 変電所は、電力事業者が所有している電力変電所、大口の電力消費者が設置している自家用変電設備、電気鉄道事業者が設置している電気鉄道用変電所などに分類できる。電力変電所は前述したように送電用・配電用の分類と、昇圧用・降圧用の分類がある。電気鉄道用の変電所は、[[直流電化]]区間では直流への変換機能のある変電所、[[交流電化]]区間では交流の降圧のみの変電所となる。 長距離で大容量の送電を行ったり、海底送電線を使って送電を行ったりする目的で、直流送電を行うことがある。この際には直流送電線の両端に一般の交流送電網と接続するための交直変換所が設置される。この他、日本では東日本が50 [[ヘルツ (単位)|Hz]]、西日本が60 Hzと周波数が分かれているので、この周波数の境界に周波数変換所が設置されて、東西で電力の融通ができるようになっている。 === 形式による分類 === 変電所の形式としては、屋外式、屋内式、半屋内式、半地下式、地下式、移動式がある。 ; 屋外式変電所 : [[変圧器]]や[[開閉器]]などの変電所の主要設備の大半を屋外に設置し、[[配電盤]]など制御機器のみを屋内または[[キュービクル式高圧受電設備|キュービクル]]に配置した形式の変電所である。他の形式の変電所に比べて敷地面積を最も広く必要とするが、建設費用は安く、全ての機器が平面的に配置されることから運用開始後のメンテナンス性にも優れている。 ; 屋内式変電所 : 変圧器や開閉器などの変電所の主要設備の大半を屋内に設置した形式の変電所である。屋外式変電所に比べて用地面積を大きく縮小することができるが、建物の建設費が高く付く。また、変電所機器の搬入・設置やメンテナンスにも難がある。海岸線に近いところなどで[[塩害]]対策を必要とする場合には、この形式の変電所の効果が高い。 ; 半屋内式変電所 : 変電所の主要機器の一部を屋内に設置し、残りを屋外に設置した形式の変電所である。変圧器のみを屋内に設置した形式は、主に変圧器の騒音対策を目的としている。一方、開閉器のみを屋内に設置した形式は、主に塩害対策と建物建設費の削減を目的としている。前者を半屋内式、後者を半屋外式と呼んで区別することもある。 ; 地下式変電所 : 建物や公園などの地下に変電所の主要機器を全て収納した形式の変電所である。新しい変電所用地の取得が困難な都市部を中心に見られる形式で、各種の変電所の中でも建設費は最も高く付くが、景観対策や防犯対策の面での効果が高い。この形式であっても、変圧器の冷却設備だけは地上に設置する必要がある。建物に併設する場合には、その建物に冷却用の水や空気など作動流体が流れる経路を確保しなければならない。 : なお、住宅地における建物の高さ制限などに関連して、変電所の建物に地下室を設けて、一部の設備を地下階に、一部の設備を地上階に設置する、屋内式変電所の全体を掘り下げたような形の半地下式変電所も存在する。 ; 移動式変電所 : {{main|移動変電所}} : [[牽引自動車|トレーラー]]や[[鉄道車両]]の上に変圧器などを設置して、移動可能にした形式の変電所である。既存の変電所が故障したり、機器更新のために一時設備の運用を停止したりしたときに、現地に仮設して変電所の容量を補う役割を果たす。 === 形態による分類 === 変電所は[[絶縁 (電気)|絶縁]]の方式により、気中絶縁形、GIS、ハイブリッドGISの形態に分類できる。 ; 気中絶縁形変電所 : 変電所の回路の主要部分の絶縁が空気によっている変電所である。回路を[[碍子]]などで空気中で間隔を置いて保持することで、他の回路や地面との間を絶縁している。変電所の用地面積は最も広く必要とするが、工事費は最も安くなる。 ; GIS変電所 : 絶縁性能の高い[[六フッ化硫黄]] (SF6) ガスを利用した[[ガス遮断器]] (GIS: Gas Insulated Switch) を用いて回路の主要部分を構成した変電所である。用地面積は少なくて済むが、工事費は高くなる。 ; ハイブリッドGIS変電所 : [[母線 (配電)|母線]]部分は気中絶縁とし、開閉設備はGISで構成した変電所である。用地面積を縮減しながら、工事費も削減する方式である。 === 監視制御方式による分類 === 変電所は、常時技術員が勤務していて監視・制御作業に当たっているものから、遠隔制御されているもの、無人化されているものなど監視・制御方式によって複数に分類できる。技術員が常駐している変電所はほとんどなくなり、2005年時点で日本の変電所の無人化率は98.6 %となっている<ref name = "equipment_p154">『電力流通設備』p.154</ref>。 ; 常時監視制御変電所 : 変電所に常時技術員が勤務している方式の変電所である。通常1グループ2 - 3名の技術員が3交代制で変電所に詰めており、常時変電所の機器の監視と操作に当たっている。 ; 遠隔常時監視制御変電所 : 技術員が変電制御所(変電所を遠隔監視制御する場所)に常時駐在しており、そこから遠隔で常時制御と監視を受けている方式の変電所である。変電所自体の保守作業で人が来る場合以外は、変電所自体は無人である。 ; 断続監視制御変電所 : 技術員は技術員駐在所におり、必要に応じて断続的に変電所へ出向いて制御と監視を行う方式の変電所である。具体的には、日中のみ変電所で制御と監視を行い、夜間は付近に設けられた社宅などに帰って、特に緊急の事態が生じた時にいつでも変電所に駆けつけられる体制を維持しておくような方式である。変電所と技術員駐在所の距離には300[[メートル|m]]以内という制限が課せられており、また170 kVを超える変電所ではこの方式を採ることはできない<ref name="電技解釈第48条">[https://www.meti.go.jp/policy/safety_security/industrial_safety/law/files/dengikaishaku.pdf 電気設備の技術基準の解釈] 第48条</ref><ref name = "equipment_p158">『電力流通設備』p.158</ref>。 ; 遠隔断続監視制御変電所 : 技術員は変電制御所または技術員駐在所におり、必要に応じて断続的に制御所へ出向いてそこから遠隔で制御と監視を受けている方式の変電所である。断続監視制御変電所と同じく制御所と技術員駐在所の距離には300m以内の規制があり、また変電所電圧も170kV以下に規制されている<ref name="電技解釈第48条" /><ref name = "equipment_p158" />。 ; 簡易監視制御変電所 : 技術員が技術員駐在所から必要に応じて変電所に出向いて監視と制御をその変電所で行う方式である。変電所電圧は100kV以下に限られる<ref name="電技解釈第48条" />。電力系統を構成するような変電所ではほとんど用いられずに、小規模な変電設備などでのみ採用されている。 == 設備 == [[Image:Electrical substation model (side-view).PNG|thumb|600px|center|'''変電所の設備'''<br />A:入力(受電)側、B:出力(送電)側<br />1-入力架線、2-アース線、3-電力架線、4-電圧管理用変圧器、5-断路器、6-遮断器、7-調相設備<br />8-避雷器、9-主変圧器、10-管理建屋、11-隔離柵、12-出力架線]] 変電所には、電圧を変換するための変圧器、電源を入り切りするための遮断器、電源が切れている状態で回路を切り離す断路器、落雷時の異常電流を逃がす避雷器、[[無効電力]]の調整をする調相設備などがある。また、直流に関連する変電所では[[整流器]]や[[インバータ]]などが設置されるが、これについては後述する。 {{See also|変電設備}} === 変圧器 === {{main|変圧器}} [[ファイル:High-voltage transformer 750 kV Трансформатор 750 кВ.jpg|thumb|right|250px|[[ウクライナ]]・750kV変圧器]] [[ファイル:Transformer 110kV.jpg|thumb|right|250px|[[ドイツ]]・[[レックリングハウゼン]]の変電所にある110kV変圧器]] 変圧器は、[[電磁誘導]]現象を利用して[[交流]]の電圧を変換する装置である。変電所における最も基本的な装置である。変電所で取り扱う電気は通常[[三相交流]]であり、変圧器も三相用のものか、あるいは[[単相交流|単相]]用のものを3つ接続して三相交流用に使用している。変電所に設置される変圧器は大変大きなもので、工場で製造して搬入することには様々な困難を伴う。このことから、かつては単相交流用のものを3つ搬入することが多かった。さらに変圧器の取り扱い電圧が高くなり大容量化すると、それでも搬入が困難なほど巨大化してきたため、工場で生産した部品を搬入して現地で組み立てる方式が一般的となり、三相式の変圧器を用いることが普通になった。単相式変圧器を用いた場合に比べて、三相式を用いると同容量で半分程度に面積を縮小することができる<ref name = "equipment_p159">『電力流通設備』p.159</ref>。 変圧器は、絶縁と冷却の方式で分類することができる。変圧器自体は大変効率の高い設備であるが、それでもわずかながら損失が発生してこれが熱に変わる。変電所の変圧器は大電力を取り扱うことから、この放熱が大きな問題となる。この冷却方式は絶縁の方式とも大きく関係している。 乾式変圧器は、間隔を空けて回路を保持することで空気により絶縁する方式で、小容量のものに用いられる。冷却は自然放熱によるか、送風して空気で熱を運び出す方式となる。特に耐熱性の高い絶縁材料を使用して送風により冷却をしたものでは、数千 kVA程度の容量のものまである<ref>『電気機器(1)』p.25</ref>。変圧器全体の効率的な運転を図るために、変圧器の負荷に応じて送風量を加減する方式もある<ref name = "equipment_p160">『電力流通設備』p.160</ref>。巻線などを[[エポキシ樹脂]]などで固めたモールド変圧器もある<ref name = "gen_trans_p296">『発変電工学』p.296</ref>。 油入変圧器は油を用いて絶縁と冷却を行う方式であり、広く用いられている。初期には鉱物油を用いていたが、火災の危険があるためあまり用いられなくなった。また[[ポリ塩化ビフェニル]] (PCB) も広く用いられていたが、生物に対する毒性の問題から使用禁止となった。現代では[[シリコーン|シリコーン油]]が広く用いられているが、コストが高いという問題がある。油入変圧器では油を循環させることで冷却を行っている。自然[[対流]]によるものと強制循環によるものがある。また[[放熱器]]にも送風ファンを取り付けることがある。さらに冷却水の配管を油中に通して水冷する方式もある<ref name = "gen_trans_pp296-305">『発変電工学』pp.296-305</ref>。 ガス絶縁式は、六フッ化硫黄 (SF6) ガスで絶縁した方式で、冷却もこのガスを循環させることで行っている<ref name = "gen_trans_pp296-305" />。 負荷の変動に応じて電圧を調整し、また電力系統上の電力の潮流を制御するために、変電所の変圧器には出力電圧を制御するための負荷時電圧調整器(負荷時タップ切換装置)が取り付けられている。巻線に設けられたタップ上のある地点をタップ選択器で選ぶことで、変圧器の巻数比をある範囲で変更可能としているものである<ref name = "gen_trans_pp312-314">『発変電工学』pp.312-314</ref>。 変圧器では、主に鉄心の[[磁歪]]現象により振動と騒音が発生する。住宅地に設置される場合などには騒音対策が必要になることがある<ref name = "gen_trans_p290">『発変電工学』p.290</ref>。 === 遮断器 === [[ファイル:GIS 420kV.jpg|thumb|right|250px|GIS方式の遮断器]] {{main|遮断器}} 遮断器は、電力回路の入り切りを行い、また落雷や短絡などの事故発生時に回路を切り離して安全を保つために用いられる[[開閉器]]である。事故時の遮断も行うため、通常負荷時に流れている電流よりもはるかに大きな電流であっても遮断できるように設計されている。構造としては可動する接触子を接点に接触させたり離したりするものであり、電化製品などで用いられるスイッチと原理的に大きな差はないが、大電力では接点から接触子を外しても接点間に[[アーク放電]]が発生して電流が流れ続けてしまう現象があり、これを防ぐために様々な絶縁方式が考えられている。[[油遮断器]]、[[磁気遮断器]]、[[真空遮断器]]、[[空気遮断器]]、[[ガス遮断器]]などがある。 変電所では、送電線に落雷が発生した際に当該区間の送電線を系統から切り離すために遮断器を作動させることがある。この際落雷の発生箇所はコンピュータにより瞬時に計算され、両端の変電所に遮断器の動作指令が送られ、遮断器により系統から開放されたのち落雷による電荷を送電線から排除し、系統へ再投入するという処理が高速で行われている。この際故障回線が切り離されるまでの間、0.2秒程度の電圧低下が発生することがあり、[[瞬時電圧低下]](瞬低)と呼ばれている<ref>[http://www.tepco.co.jp/kanagawa/setsubi/gijyutsu/ga_01-j.html TEPCO: 神奈川支店|瞬時電圧低下とは]</ref>。 === 断路器 === {{main|断路器}} 断路器は、遮断器と同様に電力回路の入り切りを行う装置であるが、遮断器とは異なり電流が流れている回路を切り離す能力はない。遮断器にはアークを切り離す能力(消弧機能)が備わるが、断路器にはそれがない。しかし、高速動作の求められる遮断器は接点間の距離が短く何らかのきっかけで意図しない電源再投入が起こる場合がある。確実に切り離すために動作が比較的遅い接点間の距離の長い断路器が用いられる。これは例えば、遮断器の点検作業時などに用いられる<ref name = "gen_trans_pp328-332">『発変電工学』pp.328-332</ref>。 === 避雷器 === {{main|避雷器}} 避雷器は、雷や遮断器の動作による異常電圧がある限度を超えたときに作動して、異常電流を逃がすことで電気回路の保護を行う装置である<ref name = "gen_trans_pp332-337">『発変電工学』pp.332-337</ref><ref name = "equipment_p176">『電力流通設備』p.176</ref>。 === 調相設備 === 調相設備は、無効電力を調整することで送電線の[[力率]]を改善し受電側での電圧制御を行うための設備である。同期調相機は[[同期電動機]]を無負荷で運転して界磁電流を調整することにより連続的に進相にも遅相にも制御することができる装置である。[[進相コンデンサ]]は進相方向のみに制御でき、分路[[リアクトル]]は遅相方向のみに制御できるので、これらを組み合わせて設置することもある。また[[静止型無効電力補償装置|静止形無効電力補償装置]] (SVC: Static Var Compensator) を用いることもある<ref name = "gen_trans_pp343-346">『発変電工学』pp.343-346</ref>。 === 制御設備 === 変電所に設けられている各種の機器を一箇所から監視・制御できるように制御設備が設けられている。各種機器の動作状況は、[[計器用変成器]]などを介して取り扱いやすい低電圧の信号に変換されて送られ、制御装置の計器に表示される。また制御装置上のスイッチを操作することにより、遠隔で各種機器を操作できるようにもなっている。制御所から遠隔で監視される無人の変電所では、遠方監視制御装置を変電所に設置してこれらの情報をCDT方式やHDLC方式などの伝送方式で制御所に中継するようになっている<ref name = "gen_trans_pp347-349">『発変電工学』pp.347-349</ref>。 === 電源 === 変電所では、変圧器の冷却装置や遮断器の動作、制御回路などに電源を必要としている。この電源は、まさにその変電所で変電を行っている電力系統から変圧器を介して受電するもの、付近の一般配電網から受電するものがある。一般に大規模な変電所では電力系統から受電している。停電に備えて異なる二系統から受電できるようになっていることが多い。また二系統ともに停電することに備えて非常用発電機やバッテリーを備えている<ref name = "equipment_pp197-198">『電力流通設備』p.197-198</ref>。 == 特殊な変電所 == {{Anchors|交直変換所}} {{Anchors|周波数変換所}} === 交直変換所・周波数変換所 === {{See also|交直変換所|直流送電}} 直流送電を行う場合、その両端に交直変換所が設置される。また、周波数の異なる地域で電力の融通を行う場合、その境界点に周波数変換所が設置される。直流送電では直交変換を行う施設と交直変換を行う施設が遠く離れており間に直流送電線があるが、周波数変換所では直交・交直変換設備はすぐそばにあって接続されており、技術的には似たような施設である。 古くは[[水銀整流器]]を用いて交直変換を行っていたが、技術の進歩により[[サイリスタ]]式の変換装置が主流となっている。この交直変換設備に付随して、変換装置の特性に合わせた変圧器、直流の遮断が可能な直流遮断器、直流波形のリプル分を取り除く直流リアクトル、交流波形の[[高調波]]を取り除く高調波フィルタ、交直変換装置を通すことによって遅れ[[力率]]が発生することに対処する調相設備などが設けられる<ref name = "equipment_pp173-177">『電力流通設備』pp.173-177</ref>。 日本には、交直変換所として[[北海道・本州間連系設備|上北変換所・函館変換所]](各600,000kW)・[[紀伊水道直流連系設備|紀北変換所・阿南変換所]](各1,400,000kW)・[[飛騨信濃周波数変換設備|飛騨変換所・新信濃変電所]](各900,000kW)、周波数変換所として[[佐久間周波数変換所]](300,000kW)・[[新信濃変電所]](600,000kW)・[[東清水変電所]](300,000kW)、連系所として[[南福光連系所]](300,000kW)がある。 === 鉄道変電所 === [[ファイル:Inokashira line kugayama electrical substation.JPG|thumb|right|250px|[[京王井の頭線]]の[[久我山]]変電所。[[東京電力]]から送られる[[交流]]を[[直流]]1500Vに変換して[[電車]]に供給する。]] [[電気鉄道]]に電力を供給する鉄道変電所には、通常の[[#top|変電所]]とは異なる特殊な点がある。 [[直流電化]]区間では、電力会社から供給される三相交流を直流に変換して供給している。三相交流をまず変圧器で所要の電圧に降圧し、ブリッジ回路などで整流器につないで所定の直流電圧を得ている。かつては[[回転変流機]]や水銀整流器を用いて直流へ変換していたが、サイリスタや近年では[[パルス幅変調|PWM]]整流器などが用いられるようになっており、こうした点では交直変換所と同じである<ref name =" erhandbook_pp513-517">『電気鉄道ハンドブック』pp.513-517</ref>。ただし、交流から直流へ変換するのみで、逆に直流から交流への[[インバータ|逆変換]]機能は無いのが普通である。 しかし、[[回生ブレーキ]]が用いられるようになると、制動時に電車の[[運動エネルギー]]が電気エネルギーに変換されるが、この回生電力を他の車両で消費しきれない場合は変電所に送り返されてくるので、これを電力網に回生できるように変電所に逆変換装置を設置する必要が生じた。このための設備は回生インバータと称されている。また電力網に回生電力を返還する機能が無く、変電所に設置した[[抵抗器]]で熱に変えて捨てるだけのものもある<ref name =" erhandbook_pp505-506">『電気鉄道ハンドブック』pp.505-506</ref>。 電力会社の送電線から遠く離れた地点で変電所を増設できずに電圧降下が問題になったり、回生電力を吸収しなければならなかったりする場合には、架線と接続した蓄電装置が設置されることがある。これは[[フライホイール・バッテリー]]を使ったりその他の[[二次電池|蓄電池]]を用いたりすることがある。回生電力や、電車が走行していない時間帯の電力を蓄電池に蓄積して、負荷が高い時間帯に放出することで、回生時の電圧上昇を抑制し力行時の電圧降下を補償する仕組みとなっている<ref name =" erhandbook_pp508-511">『電気鉄道ハンドブック』pp.508-511</ref>。 [[交流電化]]区間では、単に変圧器で電圧を変換するだけで架線へ電力を供給している。ただし、交流電化の鉄道では一部を除き単相負荷であるため、[[変圧器#スコット結線変圧器|スコット結線変圧器]]や[[変圧器#ウッドブリッジ結線変圧器|ウッドブリッジ結線変圧器]]などの三相二相変換変圧器を用いて二相に変換した上で、[[複線]]の上下線にそれぞれを供給するか、あるいは変電所の前を中心に両側に供給している。上下線に別の位相を供給する方式を上下線別異相饋電方式、両方向へ供給する方式を方面別異相饋電方式と呼んでいる<ref name = "erhandbook_pp528-558">『電気鉄道ハンドブック』pp.528-558</ref>。 その他の遮断器や断路器などの設置に関しては通常の変電所と同様である。 {{See also|鉄道の電化|直流電化|交流電化}} == 環境対策 == [[ファイル:SubstationHouseScarborough.jpg|thumb|right|250px|景観対策で一般住宅に似せて建設された変電所、カナダ、オンタリオ州]] 変電所では、建設時は別として、日常の運用に際して排気や排水など、汚染物質を外に放出することはない。しかし、変圧器やその冷却装置などから常時騒音が発生し、また遮断器の作動時には特有の音がする。こうしたことから、変電所での環境対策としては騒音対策が大きな割合を占めている。住宅地に建設される変電所などでは、低騒音型の機器を採用したり、屋内に機器を格納するようにしたり、[[防音壁]]を設けたりといった対策が採られている<ref name = "gen_trans_pp290">『発変電工学』p.290</ref>。 変電所の機器は複雑で見慣れない形状をしていることから、周辺の住民からは異質で危険なものと見られる傾向にある。このため変電所の新設に理解が得られないといった問題がある。このことから景観対策として、様々な機器を屋内に収納した方式を採用したり、目隠しの壁を取り付けたりして対処している。また、建物やフェンスなどを周囲の風景と調和したものにする工夫も行われている<ref name = "gen_trans_pp290-291">『発変電工学』pp.290-291</ref>。 == 歴史 == ===直流=== 世界で最初の商用電力事業は、[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]で、[[トーマス・エジソン]]が設立したエジソン電灯会社 (EELC: Edison Electric Light Company) によって1882年9月4日に始められた。しかしこの時は直流115 - 120ボルトで発電所から需要家までを直接結んで配電しており、電圧を変換する機構は入っておらず、したがって変電所もまだ存在しなかった<ref name = "networks_of_power_pp61-71">『電力の歴史』pp.61 - 71</ref>。低圧で送配電することに伴う大きな損失を改善するために、様々な工夫が試みられた。その中には、高電圧の直流で送電して[[電動発電機]]で低圧直流に変換するものや、高圧直流で直列に接続されている蓄電池を充電し並列につなぎ変えて低圧放電させる仕組みなどがあった<ref name = "networks_of_power_pp123-127">『電力の歴史』pp.123 - 127</ref>。 直流での大規模な送電は、1954年に[[スウェーデン]]で[[ゴットランド島]]への2万kW 100 kV送電で実用化された。水銀整流器を用いたもので、その後1961年には英仏連系にも導入された。 日本では[[北海道・本州間連系設備]](上北変換所 - 函館変換所)や[[紀伊水道直流連系設備]](紀北変換所 - 阿南変換所)で[[直流送電]]が行われている。 ===交流=== 本質的に、低圧で送電することによる大きな送電損失を改善するためには高圧で送電するしかなく、そのためには自由に電圧を変換する方法が必要とされた。交流の電圧と電流を変換する[[変圧器]]は、[[マイケル・ファラデー]]が電磁誘導の法則を発見して以来、19世紀を通じて何人かの技術者・発明家によって次第に改良され形作られてきたが、電力網に組み込んで利用するための具体的な形にまとめたのは[[フランス]]の[[ルシアン・ゴーラール]]と[[イギリス]]の[[ジョン・ディクソン・ギブス]]の2人であった。彼らは1882年にイギリスで変圧器の特許を出願した<ref name = "networks_of_power_pp127-141">『電力の歴史』pp.127 - 141</ref>。1884年に[[イタリア]]の[[トリノ]]で開かれた博覧会で、5,000 Vで40 kmを送電する実験に成功し、それまで都市内部で[[蒸気機関]]で発電してそのすぐ近くで配電する以外の方法が無かった電力事業に対して、山岳地帯で[[水力発電]]を行い長距離を送電して都市に配電することを可能にした<ref name = "networks_of_power_p139">『電力の歴史』p.139</ref>。 まだ彼らの変圧器は、鉄心の磁路に開いた部分があり効率が悪かったので、[[ハンガリー]]の[[ガンツ (企業)|ガンツ]]社やアメリカの[[ジョージ・ウェスティングハウス]]などが改良に取り組んだ<ref name = "networks_of_power_pp134-155">『電力の歴史』pp.134-155</ref>。世界で最初の実用交流送電線は、イタリアで1886年にガンツ社の発電機を使って112 Vの電気を2,000 Vに昇圧して27km送電し、[[ローマ]]に供給するものであった<ref name = "elec_history_p161">『新版 電気の技術史』p.161</ref>。三相交流システムや[[誘導電動機]]など、交流を実用的に利用するための技術が開発され、1895年8月に[[ナイアガラの滝]]に水力発電所が建設され、翌1896年から変電所を通じて高圧に変換して三相交流で送電し、[[ニューヨーク州]][[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]へ供給するシステムが稼動を開始した。このシステムでは、[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]製の二相の3,750 kW発電機12台からの電圧5,000 Vを、二相三相変換の変圧器(スコット結線変圧器)で三相11,000 Vにして40 kmを送電し、[[ゼネラル・エレクトリック]]が建設した変電所で降圧して給電していた<ref name = "networks_of_power_pp194-199">『電力の歴史』pp.194-199</ref><ref name = "elec_history_p161" />。このようにして交流送電の技術は普及し、これにともなって変電所の建設も進んでいった。 交流での送電電圧は急速に上がっていった。1896年のナイアガラ-バッファローの送電システムでは11 kVであったが、同年中には[[スイス]]で33 kV送電線ができ、1897年には40 kV、1901年にはアメリカ・[[ミズーリ州]]で50 kVになり、1910年代には[[ドイツ]]とアメリカで100 kV送電線が用いられるようになった<ref name = "elec_history_p242">『新版 電気の技術史』p.242</ref>。当初は、発電所で起こされた電力は、それぞれ独立した送電網を通って送られ、それぞれ独立した地域に給電していた。異なる発電所から供給する電力網同士には電力を融通する機能が無く、発電所が運転を休止したり故障したりすると、その発電所の供給範囲は停電となった<ref name = "ele_system_pp11-12">『電力系統』pp.11-12</ref>。周波数や電圧などはバラバラで、それぞれの電力網に合わせた機器を導入していた。イギリスでは1928年からグリッドシステムの導入が始められ、電力供給の規格が作られて電圧や周波数が統一され、上位の電力供給網が全国を接続するようになった。アメリカでも、「超電力方式」と称する統一周波数の送電システムの建設が1920年から始められた<ref name = "elec_history_pp248-255">『新版 電気の技術史』pp.248-255</ref>。日本でも、1920年代頃から系統の連系が行われるようになり、これによって電圧階級を持った変電所などの現代的なシステムが整えられるようになった<ref name = "ele_system_pp12-16">『電力系統』pp.12-16</ref>が、東西の周波数は統一されなかった。そのため周波数変換所を実用化する必要が生じ、1965年10月に[[佐久間周波数変換所]]を稼動した<ref name = "ele_system_pp23-24">『電力系統』pp.23-24</ref>。 ==テロの標的として== *[[1967年]][[8月27日]] - [[山形県]][[鶴岡市]]の[[東北電力]]鶴岡変電所に時限式装置とともに27本の[[ダイナマイト]]が仕掛けられた。ダイナマイトは爆発する前に巡回中の職員に発見され、警察により除去されている<ref>「変電所に時限マイト 鶴岡」『朝日新聞』昭和42年8月28日夕刊、3版、9面</ref>。 *[[1985年]] - [[国電同時多発ゲリラ事件]]が発生。変電施設も襲撃対象の一つとなった。 *[[2022年]][[12月3日]] - アメリカ [[ノースカロライナ州]]で、何者かが変電施設に侵入して設備を銃撃、大規模停電が発生した。過去に[[白人至上主義者]]が送電網を銃撃する方法を説明した指南書を作成していたことから、極右過激派によるテロ攻撃の疑いが浮上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/219701 |title=アメリカで高まる極右過激派テロの懸念 南部の大規模停電にも関与? トランプ氏敗北で暴力加速との指摘 |publisher=中日新聞 |date=2022-12-13 |accessdate=2023-07-03}}</ref>。 *[[2023年]] - [[アメリカ合衆国司法省]]は変電所を襲撃して[[ボルチモア]]市を「完全破壊」しようとしていた男女2人を拘束、共謀罪の容疑で訴追した<ref>{{Cite web |url=https://www.cnn.co.jp/usa/35199673.html |title=ボルティモアの「完全破壊」計画、変電所襲撃の共謀罪で男女を訴追 米司法省 |publisher=CNN |date=2023-02-07 |accessdate=2023-02-06}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book| 和書 | author=財満英一 | coauthors=山田剛史・久保田一正・三明誠司・伊藤大輔・鈴木宏和・小林隆幸 | title=発変電工学総論 | date=2007-11-20 | edition=初版 | publisher=[[電気学会]] | series=電気学会大学講座 | language=日本語 | isbn=978-4-88686-260-0}} * {{Cite book| 和書 | editor=電気事業講座編集委員会 | title=電力系統 | date=2007-02-28 | edition=初版 | publisher=エネルギーフォーラム | series=電気事業講座 | language=日本語 | isbn=978-4-88555-323-3}} * {{Cite book| 和書 | editor=電気事業講座編集委員会 | title=電力流通設備 | date=2007-06-27 | edition=初版 | publisher=エネルギーフォーラム | series=電気事業講座 | language=日本語 | isbn=978-4-88555-328-8}} * {{Cite book| 和書 | author=仁田工吉・岡田隆夫・安陪稔・仁田丹三 | title=電気機器(1) | date=1992-04-25 | edition=改訂2版 | publisher=[[オーム社]] | series=大学課程 | language=日本語 | isbn=4-274-12897-0}} * {{Cite book| 和書 | editor=電気鉄道ハンドブック編集委員会 | title=電気鉄道ハンドブック | date=2007-02-28 | edition=初版 | publisher=[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]] | language=日本語 | isbn=978-4-339-00787-9}} * {{Cite book| 和書 | author=トーマス・ヒューズ (Thomas Parke Hughes) | others=市場泰男 | title=電力の歴史 | date=1996-09-20 | edition=初版 | publisher=[[平凡社]] | language=日本語 | isbn=4-582-53213-6}} * {{Cite book| 和書 | author=山崎俊雄、木本忠昭 | title=新版 電気の技術史 | date=1992-12-18 | edition=初版 | publisher=[[オーム社]] | language=日本語 | isbn=4-274-12914-4}} == 外部リンク == {{Commonscat|Electrical substations}} * {{Kotobank}} {{Good article}} {{発電の種類}} {{電気電力}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:へんてんしよ}} [[Category:変電設備|*]] [[Category:変圧器]] 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1058年
1058年(1058 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1058年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1058}} {{year-definition|1058}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[戊戌]] * [[日本]] ** [[天喜]]6年、[[康平]]元年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1718年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[嘉祐]]3年 ** [[遼]] : [[清寧]]4年 ** [[西夏]] : [[奲都]]2年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[龍瑞太平]]5年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1058|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[トゥグリル・ベグ|トゥグリル・ベク]]、[[スルターン|スルタン]]を称す == 誕生 == {{see also|Category:1058年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ウード1世 (ブルゴーニュ公)|ウード1世]]、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](+ [[1103年]]) * [[ガザーリー]]、イスラームの[[神学者]]、[[スーフィー|神秘主義者]](+ [[1111年]]) * [[テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ]]、[[ヴェネツィア共和国]]の[[ドージェ]]、[[ドメニコ・セルヴォ]]の妻(+ [[1083年]]) * [[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン1世]]、[[アンティオキア公国|アンティオキア公]](+ 1111年) * [[源雅実]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1127年]]) == 死去 == {{see also|Category:1058年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月17日]] - [[ルーラッハ (スコットランド王)|ルーラッハ]]、[[スコットランド君主一覧|スコットランド王]](* [[1032年]]) * [[9月23日]](康平元年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]]) - [[藤原師家]]、[[平安時代]]の[[官人]](* [[1027年]]) * [[11月28日]] - [[カジミェシュ1世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Casimir-I Casimir I duke of Poland] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[ピャスト朝|ピャスト家]]の[[ポーランド君主一覧|ポーランド公]](* [[1016年]]) * [[源頼国]]、平安時代の官人(* 生年未詳) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1058}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1058ねん}} [[Category:1058年|*]]
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1111年
1111年(1111 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1111年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1111}} {{year-definition|1111}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[辛卯]] * [[日本]] ** [[天永]]2年 ** [[皇紀]]1771年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[政和]]元年 ** [[遼]] : [[天慶 (遼)|天慶]]元年 ** [[西夏]] : [[貞観 (西夏)|貞観]]11年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会祥大慶]]2年 * [[仏滅紀元]]:1654年 - 1655年 * [[ユダヤ暦]]:4871年 - 4872年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1111|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]が[[神聖ローマ皇帝]]に即位。 == 誕生 == {{see also|Category:1111年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[守子女王]]、[[斎宮|伏見斎宮]](+ [[1156年]]) * [[斎藤実盛]]、[[平安時代]]の[[武将]](+ [[1183年]]) * [[ヘンリー・オブ・ブロワ]]([[w:Henry of Blois|Henry of Blois]])、[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]][[司教]](+ [[1171年]]) * [[アンドレイ・ボゴリュブスキー]]、[[ウラジーミル大公国|ウラジーミル大公]](+ [[1175年]]) == 死去 == {{see also|Category:1111年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月26日]](天永2年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]) - [[源国信]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1069年]]) * [[3月3日]] - [[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン1世]]、[[第1回十字軍]]指導者、[[アンティオキア公国|アンティオキア公]](* [[1058年]]頃) * [[10月5日]] - [[ロベール2世 (フランドル伯)|ロベール2世]]、[[フランドル伯]](* [[1065年]]頃) * [[11月14日]](天永2年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[藤原正家]]、平安時代の[[公家]]、[[学者]]、歌人(* [[1026年]]) * [[11月20日]](天永2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]) - [[藤原宗円]]、平安時代の[[武将]](* 1033年/1043年) * [[12月4日]](天永2年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[永観 (僧)|永観]]、平安時代の[[三論宗]]の[[僧]](* [[1033年]]) * [[12月7日]](天永2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]) - [[大江匡房]]、平安時代の[[大蔵卿]]、学者(* [[1041年]]) * [[ガザーリー]]、[[ホラーサーン]]出身の[[神学者]]、[[スーフィー|神秘主義者]](* [[1058年]]) * [[橘広房]]、平安時代の[[官人]]、歌人(* 生年未詳) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}}--> <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1111}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1111ねん}} [[Category:1111年|*]]
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1091年
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1091年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1091}} {{year-definition|1091}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[辛未]] * [[日本]] ** [[寛治]]5年 ** [[皇紀]]1751年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[元祐]]6年 ** [[遼]] : [[太安 (遼)|太安]]7年 ** [[西夏]] : [[天祐民安]]2年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[広祐]]7年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1091|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:1091年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[珍海]]、[[平安時代]]の[[僧]]、[[学者]]、[[画家]](+ [[1152年]]) * [[陳与義]]、[[南宋]]の[[詩人]](+ [[1139年]]) * [[仁実]]、平安時代の[[天台宗]]の僧(+ [[1131年]]) == 死去 == {{see also|Category:1091年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[12月21日]](寛治5年[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]) - [[長勢]]、[[平安時代]]の[[僧]]、[[仏師]](* [[1010年]]) * [[8月14日]] - [[イオアン3世 (キエフと全ルーシの府主教)|イオアン3世]]、[[キエフと全ルーシの府主教]](* 生年未詳) * [[ワッラーダ]]、[[後ウマイヤ朝]]・[[ムハンマド3世 (後ウマイヤ朝)|ムハンマド3世]]の王女、女流[[詩人]](* [[994年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1091}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1091ねん}} [[Category:1091年|*]]
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1095年
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1095年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1095}} {{year-definition|1095}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[乙亥]] * [[日本]] ** [[嘉保]]2年 ** [[皇紀]]1755年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[紹聖]]2年 ** [[遼]] : [[寿昌]]元年 ** [[西夏]] : [[天祐民安]]6年 ** [[大理国]] : [[上治]]元年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[会豊]]4年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1095|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[セルジューク朝]]の攻撃を受けていた[[東ローマ帝国]]皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]の救援要請を受け、[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]がクレルモン教会会議において対イスラム教徒戦への参加を呼びかける * [[クレルモン教会]]会議の最終日に教皇ウルバヌス2世が第1回十字軍の実施を宣言。 *嘉保2年10月、[[日吉大社|日吉社]][[延暦寺]]の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出し入洛、[[強訴]]を行う。[[源義綱]]・[[源頼治]]が撃退する。 == 誕生 == {{see also|Category:1095年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月21日]](嘉保2年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[覚鑁]]、[[平安時代]]の[[真言宗]]の[[僧]](+ [[1144年]]) * [[12月22日]] - [[ルッジェーロ2世]]、[[シチリア王国|シチリア王]](+ [[1154年]]) * [[藤原泰子]]、[[鳥羽天皇]]の[[皇后]](+ [[1156年]]) == 死去 == {{see also|Category:1095年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月29日]] - [[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー国王]](* [[1040年]]) * [[高昇泰]]、[[大理国|大中国]]の[[王]](* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1095}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1095ねん}} [[Category:1095年|*]]
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16,091
列車種別
列車種別(れっしゃしゅべつ、英語: Train type)とは、停車駅やサービスなどの違いによる列車の種類をさす。列車種別の名称や、名称が指すサービスは事業者ごとに異なっている。 本項は特に断りがない限り、日本の旅客列車に関する列車種別を主題として記述し、貨物列車の列車種別は省略している。 列車種別は事業者によって異なるが、概ね特急、急行、快速、準急、普通(各駅停車)の順に停車駅が多くなる。東武鉄道など、快速が急行より停車駅が少ない路線もある。また、通勤、区間、快速、準、アルファベット(「A」・「B」)などの接頭辞を付けることで種別を細分化している事業者もある。 列車種別は、法令に準じる厳格な規則の中で定められた事もあれば、現場の従業員の判断で便宜的に命名されたようなものもある。JRの普通列車のように、規則上の取り扱いと、実際の営業案内上の取り扱いが異なるケースもある。 その他、途中駅から種別を変更して停車駅を調節する場合もあり、特に名古屋鉄道や近畿日本鉄道および京浜急行電鉄で多く行われている。 JR・国鉄の旅客営業規則においては、列車を規定する用語として「急行列車」と「普通列車」を使用している。このうち、急行列車は普通急行列車と特別急行列車を含む用語である。快速列車は普通列車に含まれる列車種別である。また、新幹線は急行列車であり、そのうち特別急行列車に含まれる。 この節では、この分類に則って各列車種別を説明する。 急行列車は、目的地まで速達することを重視する列車として設定され、乗車の際に乗車券以外の料金を必要とする列車としている。急行列車はさらに普通急行列車(「急行」) と特別急行列車(「特急」)とに分けられる。普通急行列車に乗るには普通急行券(券面には「急行券」とも表示される)が、特別急行列車に乗るには特別急行券(特急券)が必要となる。また、1968年9月30日以前には準急行列車(準急)も存在した。かつての準急行列車も、準急行券(準急券)が必要であった。 急行列車以外の列車、いわゆる乗車券のみで乗ることができる列車を普通列車としている。基本的には各駅に停車する種別であるが、いくつかの路線では通過駅を有する普通列車が運行されている。例えば、日中や早朝・深夜の時間帯において、需要がまったく見込めない駅を通過する場合がある。その他、都市近郊の複々線では「普通」と「各駅停車」とが並立し、前者はホームがないがゆえに名目上「通過」する場合がある。 普通列車のうち、途中駅の一部に停車しない列車は一般に快速列車という。快速列車は、停車駅のパターンや運行時間などにより、様々な呼称がつけられている。快速より停車駅が多い区間快速、B快速、準快速、快速より停車駅が少ない特別快速、新快速、ラッシュ時のみ運転される通勤快速、直通快速、休日のみ運転されるホリデー快速などが存在する。また、西日本旅客鉄道(JR西日本)の大和路快速・丹波路快速・みやこ路快速・関空快速・紀州路快速、東日本旅客鉄道(JR東日本)の青梅特快・中央特快など、路線名や行き先・方面の地名が付けられた種別名もある。 常磐線では2004年3月12日まで、同じ線路を走る通勤形電車使用の「快速(電車)」より中距離電車である「普通(列車)」のほうが停車駅が少なかった。 以下の節では民鉄各社(一部公営事業者を含む)での列車種別について記述する。 特急は、阪急電鉄などのように乗車券だけで乗車できる特急を運行する事業者と、西武鉄道などのように乗車券の他に特急券が必要な特急を運行する事業者がある。 京成電鉄では、AE形電車など専用電車による「スカイライナー」系統には「ライナー券」と呼ばれる特急券が必要であるが、一般電車による特急においては運賃のみで乗車できる。京成部内では前者を「特別急行(A)」(同社でのモーニングライナーおよびイブニングライナーを含む)、後者を「特別急行(B)」(同社での快速特急およびアクセス特急を含む)と呼称している。 この例はかつて、以下のような事例があった。 「特急」より停車駅の少ない列車種別や、「特急」より停車駅が多く「急行」より停車駅が少ない列車種別を運行する事業者もある。詳細は各路線項目を参照されたい。また、「ライナー」およびそれに準ずる列車の詳細は#ライナーを参照のこと。 急行は乗車券だけで乗れる鉄道事業者が多い。ただし、JRと同様に急行券が必要となる列車もある。 山陽電気鉄道本線のように特急が運行されているが急行が運行されていない路線もある。 特急と同様に「通勤」・「区間」・および「快速」をつけた派生種別が運行されている路線もある。「快速急行」の詳細は快速急行、その他の派生種別の運行路線などは急行列車#列車種別と急行列車の呼称を参照のこと。京阪電気鉄道ではかつて「深夜急行」の種別名も使用されていた。種別名の頭部に時間帯(深夜)を表す名前をつけた事例は少ない。 快速は、私鉄では急行との上下関係が事業者によって異なる。 相模鉄道と京王電鉄では急行より下位の種別であるが、東武鉄道と神戸電鉄は急行より上位の種別として設定している。西武鉄道では線区によって上下関係が異なり、池袋線系統の快速は急行より下位であるが、新宿線系統で運行していた拝島快速は急行より上位の種別であった。えちぜん鉄道では快速は自社線内のみで急行は福井鉄道直通列車専用と使い分けている。その他の事業者には現在快速と急行がともに設定されている路線はない。 準急は、急行(一部鉄道会社では快速)より停車駅が多い列車である。準急とは「準急行列車」の略で、現在でも南海電気鉄道などでは、案内放送などで「準急行」を聞くことができる。なお、国鉄でも運行されていたが、急行列車に格上げされる形で運行が終了、廃止された。 私鉄においては、準急の停車駅のパターンは大別して3種類ある。 津軽鉄道線など準急が唯一の優等種別となっている場合もある。 1.の例としては東急田園都市線、東武伊勢崎線および東上線、西武新宿線、名鉄瀬戸線、2.の例としては名鉄名古屋本線および名鉄犬山線、3.の例としては西武池袋線、神戸電鉄、近鉄大阪線および奈良線における運行が挙げられる。このうち最も多い類型は1.のパターンである。 かつて快速準急という列車が運行されていたこともある(小田急小田原線#過去の列車種別を参照)。その他、急行と同様に「区間」「通勤」などをつけた派生種別も運行されている。 上述のように、民鉄事業者においても特急・急行・準急・快速という国鉄が用いた優等列車種別や、それらから派生した列車種別を基本的に使用しているが、時にはそれらの枠組みに当てはまらない列車種別が使われることもあった。 基本的に各駅に停車する(一部の駅を通過する場合もある)列車の種別である。なお、呼称については「普通」のほか、事業者によっては以下に大別される。 2023年8月現在、日本の大手私鉄事業者で列車種別数が一番多いのは西武鉄道と京阪電気鉄道の10種別である 。 優等列車であるが、一部区間では各駅に停車となる列車種別で、1938年、京阪本線に設定された区間急行が最初といわれている。当初は関西地区のJR・大手私鉄のみで多用されていた。同様の種別は関西地区以外では、途中駅で「急行⇔普通」のように種別を変更したり、区間種別に相当する列車を「快速」などとし、その上位に「特別快速」などを設定する例が常であった。1997年に東武鉄道に関東地方では初めて「区間準急」が設定され、以降全国の鉄道事業者に「区間○○」が設定されるようになった。 例として「区間快速急行」、「区間急行」、「区間準急」、「区間快速」などがある。なお阪急電鉄と阪神電気鉄道においては上記定義とは異なり、一部区間のみ運転する列車という定義であり、阪急電鉄ではダイヤグラム上の正式種別として区間急行・区間普通が存在しているが、各種案内においては急行・普通と表現され、区間種別での旅客案内は行われていない。 英語表記については、以下のように事業者によって差異がある。 このような事例では、各駅に停車する区間については需要が少ない場合でその区間を通過する列車を設定しているが、地域輸送を担う列車を設定するほど需要が多くない、ないしはその区間の駅と列車始発駅周辺など一方向に需要が偏っていることから、必ずしも地域輸送にのみ特化した列車を運行するのに適していない場合にこのような列車を設定する場合が多い。 例えば「区間急行」は、起点駅付近は急行と同じ駅に停車し、郊外は各駅に停車する事が多い。 いずれも、「区間」がつかない列車より相対的に停車駅が多くなるのが一般的だが、阪神本線の「区間特急」は2009年3月20日改正時まで例外として、「特急」よりも停車駅が少ない列車となっていた。これは当該列車の設定当初、途中駅(芦屋駅)始発で大阪市内への通勤利用者に対して速達サービスを提供する戦略商品として設定されていたためである。名称については、一部区間のみ運転する特急列車ということで名付けられた。その後の一時期、三宮駅発に変更されたが、元町駅より先、神戸高速線・山陽電気鉄道本線まで運行区間が延びる特急列車に対し、区間運転の列車であるということから名称は継続されている。 さらに京阪本線の「区間急行」は準急よりも停車駅が多い設定となっている(東武の快速>急行の関係と同様)。名称の根拠は、一部区間のみ運転の短距離急行列車という意であり、急行に準ずる列車である準急より下位に置かれている。本来の準急の英語名"Semi-express"は区間急行に割り当てられ、準急には本来区間急行で使われる"Sub-express"の英語名が割り当てられている。 京王電鉄では準急は存在しないが、京阪同様区間急行の英語表記が"Semi Express"となっている。「通勤快速」から改称された2013年2月22日改定から2015年9月24日までは新宿駅・新線新宿駅 - 調布駅間の停車駅は「急行」と同一だったが、2015年9月25日改正より仙川駅が停車駅に設定されたため、同区間は「急行」よりも停車駅が1駅多くなっている。 また、東武鉄道では準急と区間急行は上下関係が一致しておらず、新越谷駅 - 東武動物公園駅間では準急は各駅に停車するが、区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する。一方で区間急行が各駅に停車する曳舟駅 - 北千住駅間では準急がノンストップとなっている。そのため、下り列車の場合、曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅または春日部駅で準急を抜き返し、東武動物公園駅より先、館林・太田方面および南栗橋・新栃木方面には区間急行が先に到着するなどといったダイヤも存在する。半蔵門線直通列車がすべて曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップとなっているのは水天宮前駅とほぼ同じ駅である東京メトロ日比谷線人形町駅と北千住駅との距離が大幅に異なることで、速達性を高め混雑緩和と利用客の誘導をする役割を担っているためである。 また、列車種別に「区間」を冠さずに中間区間で各駅に停車する場合もある。 このような事例として、小田急小田原線では、新宿駅から本厚木駅までは通過駅を有し、本厚木駅から新松田駅まで各駅停車、新松田駅から小田原駅まで再び通過駅を有する急行がある。 なお、「区間○○」という種別を設定していないが、速達列車がある駅に到着後、その列車がそのまま各駅停車(普通列車)に種別を変更したり、もしくは各駅停車運転を行うことにより、その先まで行くことで「区間○○」と同様の運行形態をとっている場合もある。 このような場合、ダイヤグラムや時刻表などで列車番号を見ると別列車扱いとしている場合が多く、列車運行上利用客の便を図るために1本の列車として取り扱うためである。 朝夕のラッシュ時のみ運転される、通勤・通学客向けの列車で、「通勤特急」・「通勤特快」・「通勤快急」・「通勤急行」・「通勤準急」・「通勤快速」などがこれにあたり、東京近郊で多く採用されている。たいていの列車の場合、別途料金がかからない列車で運行されるが、JRにおいて定員制列車であるホームライナーが運行されてきたことで、他の鉄道でも有料列車の中にはこのような運行系統を有するものもある。 「通勤」が付かない列車より停車駅が多いか少ないかは、会社・路線によって異なる。また、会社によっては「通勤」という称を冠しない場合もある。 「通勤」の英語表記は、Commuter(案内板など表示場所の制約がある場合、Comm.と略されることがある) を用いることが多い。 なお、「通勤」種別とは逆に行楽用の列車としては「ホリデー快速」などがある。「通勤」種別は基本的に平日のみの運転だが、京成本線の「通勤特急」(後述)のみ、土曜・休日にも運転される。 従来は通勤種別であったものが通勤時間帯以外にも運行時間帯拡大するため名称変更で通勤種別ではなくなった例も存在し、山陽電気鉄道本線の通勤特急→S特急、東武伊勢崎線の通勤準急→急行、京王線の通勤快速→区間急行等が該当する。 西武池袋線の通勤急行・通勤準急のように、上位の種別が停車する駅を通過することを、停車駅が互い違いになることから千鳥停車という。 なお、「通勤」を冠さないが、通勤種別に近い運転形態を取る列車もあり、以下のものが挙げられる。 事業者によっては停車駅や料金制度の違いにより、アルファベットを付与するケースがある。 ライナー (liner) とは1970年代以降に用いられる列車種別であるが、一般に「(特急)専用車両を使用するが、速達サービスに対する料金を徴収せず、座席確保に対する料金を徴収する列車」を指す場合が多い。 列車名として「○○ライナー」と称する列車のうちには、速達サービスに対する料金を徴収する特急列車や、料金不要の快速列車なども存在するが、本節では先に挙げた定義によるものとする。 その後、1984年6月1日に日本国有鉄道が増収策の一環および回送列車の有効活用として、夕刻の特別急行回送列車に乗車整理券を発行し、東北本線上野駅 - 大宮駅間でホームライナーの名称で客扱いを行った。この列車は快速列車の延長とされ、東京・札幌など他の都市圏でも波及し、継承会社であるJR各社やそれから分離した第三セクター鉄道でも運行されるようになった。 複数の列車種別を設定しているほとんどの鉄道各社で色により列車種別を識別できるようにして種別幕や駅での案内表示・時刻表に表記されている。白地または黒地に色文字又は色地に白または黒文字のいずれかで表記されている。 資料によっては列車種別の一種として扱われることもあるが、これらは正式な列車種別として使われたものではない(現在使用されていないものを含む)。 日本国外の列車種別は国や事業者ごとに異なり、各駅停車でもない限り、必ずしも日本の種別に当てはまるわけではない。 韓国の韓国鉄道公社(KORAIL)ではソウル周辺で運行している通勤電車路線である首都圏電鉄(広域電鉄)とその他の路線である一般路線に分けられている。 首都圏電鉄(広域電鉄)では、各駅停車の「一般」と、料金不要列車でJRの快速列車と同種の種別である「特急」・「急行」があり、いずれも通勤形車両を使用する。 一般路線では優等列車を主体とした運行であり、ITX-セマウル、ムグンファ号、ヌリロなどの座席指定の優等列車については列車愛称が列車種別の区分を兼ねている。メディアによっては特急列車や急行列車として扱われることもあるが、正式な列車種別としては使われていない。また、通勤列車は各駅に停車し、全席自由であるが、列車は指定される。 台湾の台湾鉄路管理局では座席指定の優等列車である対号列車と全車自由席の普通列車である非対号列車に二分している。対号列車である自強号、莒光號、復興号は列車愛称が列車種別としても使われている。非対号列車は速達タイプである区間快車と各駅に停車する区間車と普快車がある。運賃は種別ごとに異なるが、復興号と区間車・区間快車は運賃制度上では同格種別であり、座席指定の有無による差異がある。一方、区間車と普快車は冷房の有無により運賃に格差をつけている。車両も種別ごとに専用の車両が使用される。 桃園捷運公司が運営する空港連絡鉄道の桃園機場捷運では台湾の捷運路線で初めて速達種別が登場した。「直達車(Express)」として台北 - 桃園機場で運行されている。 中国では高速鉄道路線(日本の新幹線に相当)においては最高速度の違いにより、高速動車組列車、城際動車組列車、動車組列車があり、CRH型やCR型電車を使用する。その他の線区(日本の在来線に相当)においては列車愛称はないが(一部を除いて、例えばZ12/13、Z14/11「英雄」)、大都市間列車である直達列車、長距離優等列車である特快列車・快速列車・普快列車、各駅停車する普客列車があり、冷房の有無により運賃に格差をつけている。 ヨーロッパでは上下分離方式により、種別ごとに運行会社が分かれている。ヨーロッパの列車種別を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "列車種別(れっしゃしゅべつ、英語: Train type)とは、停車駅やサービスなどの違いによる列車の種類をさす。列車種別の名称や、名称が指すサービスは事業者ごとに異なっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本項は特に断りがない限り、日本の旅客列車に関する列車種別を主題として記述し、貨物列車の列車種別は省略している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "列車種別は事業者によって異なるが、概ね特急、急行、快速、準急、普通(各駅停車)の順に停車駅が多くなる。東武鉄道など、快速が急行より停車駅が少ない路線もある。また、通勤、区間、快速、準、アルファベット(「A」・「B」)などの接頭辞を付けることで種別を細分化している事業者もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "列車種別は、法令に準じる厳格な規則の中で定められた事もあれば、現場の従業員の判断で便宜的に命名されたようなものもある。JRの普通列車のように、規則上の取り扱いと、実際の営業案内上の取り扱いが異なるケースもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "その他、途中駅から種別を変更して停車駅を調節する場合もあり、特に名古屋鉄道や近畿日本鉄道および京浜急行電鉄で多く行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "JR・国鉄の旅客営業規則においては、列車を規定する用語として「急行列車」と「普通列車」を使用している。このうち、急行列車は普通急行列車と特別急行列車を含む用語である。快速列車は普通列車に含まれる列車種別である。また、新幹線は急行列車であり、そのうち特別急行列車に含まれる。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この節では、この分類に則って各列車種別を説明する。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "急行列車は、目的地まで速達することを重視する列車として設定され、乗車の際に乗車券以外の料金を必要とする列車としている。急行列車はさらに普通急行列車(「急行」) と特別急行列車(「特急」)とに分けられる。普通急行列車に乗るには普通急行券(券面には「急行券」とも表示される)が、特別急行列車に乗るには特別急行券(特急券)が必要となる。また、1968年9月30日以前には準急行列車(準急)も存在した。かつての準急行列車も、準急行券(準急券)が必要であった。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "急行列車以外の列車、いわゆる乗車券のみで乗ることができる列車を普通列車としている。基本的には各駅に停車する種別であるが、いくつかの路線では通過駅を有する普通列車が運行されている。例えば、日中や早朝・深夜の時間帯において、需要がまったく見込めない駅を通過する場合がある。その他、都市近郊の複々線では「普通」と「各駅停車」とが並立し、前者はホームがないがゆえに名目上「通過」する場合がある。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "普通列車のうち、途中駅の一部に停車しない列車は一般に快速列車という。快速列車は、停車駅のパターンや運行時間などにより、様々な呼称がつけられている。快速より停車駅が多い区間快速、B快速、準快速、快速より停車駅が少ない特別快速、新快速、ラッシュ時のみ運転される通勤快速、直通快速、休日のみ運転されるホリデー快速などが存在する。また、西日本旅客鉄道(JR西日本)の大和路快速・丹波路快速・みやこ路快速・関空快速・紀州路快速、東日本旅客鉄道(JR東日本)の青梅特快・中央特快など、路線名や行き先・方面の地名が付けられた種別名もある。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "常磐線では2004年3月12日まで、同じ線路を走る通勤形電車使用の「快速(電車)」より中距離電車である「普通(列車)」のほうが停車駅が少なかった。", "title": "JR・日本国有鉄道の列車種別" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以下の節では民鉄各社(一部公営事業者を含む)での列車種別について記述する。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "特急は、阪急電鉄などのように乗車券だけで乗車できる特急を運行する事業者と、西武鉄道などのように乗車券の他に特急券が必要な特急を運行する事業者がある。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "京成電鉄では、AE形電車など専用電車による「スカイライナー」系統には「ライナー券」と呼ばれる特急券が必要であるが、一般電車による特急においては運賃のみで乗車できる。京成部内では前者を「特別急行(A)」(同社でのモーニングライナーおよびイブニングライナーを含む)、後者を「特別急行(B)」(同社での快速特急およびアクセス特急を含む)と呼称している。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この例はかつて、以下のような事例があった。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「特急」より停車駅の少ない列車種別や、「特急」より停車駅が多く「急行」より停車駅が少ない列車種別を運行する事業者もある。詳細は各路線項目を参照されたい。また、「ライナー」およびそれに準ずる列車の詳細は#ライナーを参照のこと。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "急行は乗車券だけで乗れる鉄道事業者が多い。ただし、JRと同様に急行券が必要となる列車もある。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "山陽電気鉄道本線のように特急が運行されているが急行が運行されていない路線もある。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "特急と同様に「通勤」・「区間」・および「快速」をつけた派生種別が運行されている路線もある。「快速急行」の詳細は快速急行、その他の派生種別の運行路線などは急行列車#列車種別と急行列車の呼称を参照のこと。京阪電気鉄道ではかつて「深夜急行」の種別名も使用されていた。種別名の頭部に時間帯(深夜)を表す名前をつけた事例は少ない。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "快速は、私鉄では急行との上下関係が事業者によって異なる。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "相模鉄道と京王電鉄では急行より下位の種別であるが、東武鉄道と神戸電鉄は急行より上位の種別として設定している。西武鉄道では線区によって上下関係が異なり、池袋線系統の快速は急行より下位であるが、新宿線系統で運行していた拝島快速は急行より上位の種別であった。えちぜん鉄道では快速は自社線内のみで急行は福井鉄道直通列車専用と使い分けている。その他の事業者には現在快速と急行がともに設定されている路線はない。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "準急は、急行(一部鉄道会社では快速)より停車駅が多い列車である。準急とは「準急行列車」の略で、現在でも南海電気鉄道などでは、案内放送などで「準急行」を聞くことができる。なお、国鉄でも運行されていたが、急行列車に格上げされる形で運行が終了、廃止された。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "私鉄においては、準急の停車駅のパターンは大別して3種類ある。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "津軽鉄道線など準急が唯一の優等種別となっている場合もある。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1.の例としては東急田園都市線、東武伊勢崎線および東上線、西武新宿線、名鉄瀬戸線、2.の例としては名鉄名古屋本線および名鉄犬山線、3.の例としては西武池袋線、神戸電鉄、近鉄大阪線および奈良線における運行が挙げられる。このうち最も多い類型は1.のパターンである。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "かつて快速準急という列車が運行されていたこともある(小田急小田原線#過去の列車種別を参照)。その他、急行と同様に「区間」「通勤」などをつけた派生種別も運行されている。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上述のように、民鉄事業者においても特急・急行・準急・快速という国鉄が用いた優等列車種別や、それらから派生した列車種別を基本的に使用しているが、時にはそれらの枠組みに当てはまらない列車種別が使われることもあった。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "基本的に各駅に停車する(一部の駅を通過する場合もある)列車の種別である。なお、呼称については「普通」のほか、事業者によっては以下に大別される。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2023年8月現在、日本の大手私鉄事業者で列車種別数が一番多いのは西武鉄道と京阪電気鉄道の10種別である 。", "title": "日本の民鉄事業者の列車種別" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "優等列車であるが、一部区間では各駅に停車となる列車種別で、1938年、京阪本線に設定された区間急行が最初といわれている。当初は関西地区のJR・大手私鉄のみで多用されていた。同様の種別は関西地区以外では、途中駅で「急行⇔普通」のように種別を変更したり、区間種別に相当する列車を「快速」などとし、その上位に「特別快速」などを設定する例が常であった。1997年に東武鉄道に関東地方では初めて「区間準急」が設定され、以降全国の鉄道事業者に「区間○○」が設定されるようになった。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "例として「区間快速急行」、「区間急行」、「区間準急」、「区間快速」などがある。なお阪急電鉄と阪神電気鉄道においては上記定義とは異なり、一部区間のみ運転する列車という定義であり、阪急電鉄ではダイヤグラム上の正式種別として区間急行・区間普通が存在しているが、各種案内においては急行・普通と表現され、区間種別での旅客案内は行われていない。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "英語表記については、以下のように事業者によって差異がある。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このような事例では、各駅に停車する区間については需要が少ない場合でその区間を通過する列車を設定しているが、地域輸送を担う列車を設定するほど需要が多くない、ないしはその区間の駅と列車始発駅周辺など一方向に需要が偏っていることから、必ずしも地域輸送にのみ特化した列車を運行するのに適していない場合にこのような列車を設定する場合が多い。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "例えば「区間急行」は、起点駅付近は急行と同じ駅に停車し、郊外は各駅に停車する事が多い。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "いずれも、「区間」がつかない列車より相対的に停車駅が多くなるのが一般的だが、阪神本線の「区間特急」は2009年3月20日改正時まで例外として、「特急」よりも停車駅が少ない列車となっていた。これは当該列車の設定当初、途中駅(芦屋駅)始発で大阪市内への通勤利用者に対して速達サービスを提供する戦略商品として設定されていたためである。名称については、一部区間のみ運転する特急列車ということで名付けられた。その後の一時期、三宮駅発に変更されたが、元町駅より先、神戸高速線・山陽電気鉄道本線まで運行区間が延びる特急列車に対し、区間運転の列車であるということから名称は継続されている。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "さらに京阪本線の「区間急行」は準急よりも停車駅が多い設定となっている(東武の快速>急行の関係と同様)。名称の根拠は、一部区間のみ運転の短距離急行列車という意であり、急行に準ずる列車である準急より下位に置かれている。本来の準急の英語名\"Semi-express\"は区間急行に割り当てられ、準急には本来区間急行で使われる\"Sub-express\"の英語名が割り当てられている。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "京王電鉄では準急は存在しないが、京阪同様区間急行の英語表記が\"Semi Express\"となっている。「通勤快速」から改称された2013年2月22日改定から2015年9月24日までは新宿駅・新線新宿駅 - 調布駅間の停車駅は「急行」と同一だったが、2015年9月25日改正より仙川駅が停車駅に設定されたため、同区間は「急行」よりも停車駅が1駅多くなっている。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、東武鉄道では準急と区間急行は上下関係が一致しておらず、新越谷駅 - 東武動物公園駅間では準急は各駅に停車するが、区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する。一方で区間急行が各駅に停車する曳舟駅 - 北千住駅間では準急がノンストップとなっている。そのため、下り列車の場合、曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅または春日部駅で準急を抜き返し、東武動物公園駅より先、館林・太田方面および南栗橋・新栃木方面には区間急行が先に到着するなどといったダイヤも存在する。半蔵門線直通列車がすべて曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップとなっているのは水天宮前駅とほぼ同じ駅である東京メトロ日比谷線人形町駅と北千住駅との距離が大幅に異なることで、速達性を高め混雑緩和と利用客の誘導をする役割を担っているためである。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、列車種別に「区間」を冠さずに中間区間で各駅に停車する場合もある。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このような事例として、小田急小田原線では、新宿駅から本厚木駅までは通過駅を有し、本厚木駅から新松田駅まで各駅停車、新松田駅から小田原駅まで再び通過駅を有する急行がある。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、「区間○○」という種別を設定していないが、速達列車がある駅に到着後、その列車がそのまま各駅停車(普通列車)に種別を変更したり、もしくは各駅停車運転を行うことにより、その先まで行くことで「区間○○」と同様の運行形態をとっている場合もある。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このような場合、ダイヤグラムや時刻表などで列車番号を見ると別列車扱いとしている場合が多く、列車運行上利用客の便を図るために1本の列車として取り扱うためである。", "title": "区間種別" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "朝夕のラッシュ時のみ運転される、通勤・通学客向けの列車で、「通勤特急」・「通勤特快」・「通勤快急」・「通勤急行」・「通勤準急」・「通勤快速」などがこれにあたり、東京近郊で多く採用されている。たいていの列車の場合、別途料金がかからない列車で運行されるが、JRにおいて定員制列車であるホームライナーが運行されてきたことで、他の鉄道でも有料列車の中にはこのような運行系統を有するものもある。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「通勤」が付かない列車より停車駅が多いか少ないかは、会社・路線によって異なる。また、会社によっては「通勤」という称を冠しない場合もある。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「通勤」の英語表記は、Commuter(案内板など表示場所の制約がある場合、Comm.と略されることがある) を用いることが多い。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "なお、「通勤」種別とは逆に行楽用の列車としては「ホリデー快速」などがある。「通勤」種別は基本的に平日のみの運転だが、京成本線の「通勤特急」(後述)のみ、土曜・休日にも運転される。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "従来は通勤種別であったものが通勤時間帯以外にも運行時間帯拡大するため名称変更で通勤種別ではなくなった例も存在し、山陽電気鉄道本線の通勤特急→S特急、東武伊勢崎線の通勤準急→急行、京王線の通勤快速→区間急行等が該当する。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "西武池袋線の通勤急行・通勤準急のように、上位の種別が停車する駅を通過することを、停車駅が互い違いになることから千鳥停車という。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "なお、「通勤」を冠さないが、通勤種別に近い運転形態を取る列車もあり、以下のものが挙げられる。", "title": "通勤種別" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "事業者によっては停車駅や料金制度の違いにより、アルファベットを付与するケースがある。", "title": "アルファベットの付与" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ライナー (liner) とは1970年代以降に用いられる列車種別であるが、一般に「(特急)専用車両を使用するが、速達サービスに対する料金を徴収せず、座席確保に対する料金を徴収する列車」を指す場合が多い。", "title": "ライナー" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "列車名として「○○ライナー」と称する列車のうちには、速達サービスに対する料金を徴収する特急列車や、料金不要の快速列車なども存在するが、本節では先に挙げた定義によるものとする。", "title": "ライナー" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その後、1984年6月1日に日本国有鉄道が増収策の一環および回送列車の有効活用として、夕刻の特別急行回送列車に乗車整理券を発行し、東北本線上野駅 - 大宮駅間でホームライナーの名称で客扱いを行った。この列車は快速列車の延長とされ、東京・札幌など他の都市圏でも波及し、継承会社であるJR各社やそれから分離した第三セクター鉄道でも運行されるようになった。", "title": "ライナー" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "複数の列車種別を設定しているほとんどの鉄道各社で色により列車種別を識別できるようにして種別幕や駅での案内表示・時刻表に表記されている。白地または黒地に色文字又は色地に白または黒文字のいずれかで表記されている。", "title": "列車種別のイメージカラー" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "資料によっては列車種別の一種として扱われることもあるが、これらは正式な列車種別として使われたものではない(現在使用されていないものを含む)。", "title": "列車種別ではないもの" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本国外の列車種別は国や事業者ごとに異なり、各駅停車でもない限り、必ずしも日本の種別に当てはまるわけではない。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "韓国の韓国鉄道公社(KORAIL)ではソウル周辺で運行している通勤電車路線である首都圏電鉄(広域電鉄)とその他の路線である一般路線に分けられている。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "首都圏電鉄(広域電鉄)では、各駅停車の「一般」と、料金不要列車でJRの快速列車と同種の種別である「特急」・「急行」があり、いずれも通勤形車両を使用する。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一般路線では優等列車を主体とした運行であり、ITX-セマウル、ムグンファ号、ヌリロなどの座席指定の優等列車については列車愛称が列車種別の区分を兼ねている。メディアによっては特急列車や急行列車として扱われることもあるが、正式な列車種別としては使われていない。また、通勤列車は各駅に停車し、全席自由であるが、列車は指定される。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "台湾の台湾鉄路管理局では座席指定の優等列車である対号列車と全車自由席の普通列車である非対号列車に二分している。対号列車である自強号、莒光號、復興号は列車愛称が列車種別としても使われている。非対号列車は速達タイプである区間快車と各駅に停車する区間車と普快車がある。運賃は種別ごとに異なるが、復興号と区間車・区間快車は運賃制度上では同格種別であり、座席指定の有無による差異がある。一方、区間車と普快車は冷房の有無により運賃に格差をつけている。車両も種別ごとに専用の車両が使用される。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "桃園捷運公司が運営する空港連絡鉄道の桃園機場捷運では台湾の捷運路線で初めて速達種別が登場した。「直達車(Express)」として台北 - 桃園機場で運行されている。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "中国では高速鉄道路線(日本の新幹線に相当)においては最高速度の違いにより、高速動車組列車、城際動車組列車、動車組列車があり、CRH型やCR型電車を使用する。その他の線区(日本の在来線に相当)においては列車愛称はないが(一部を除いて、例えばZ12/13、Z14/11「英雄」)、大都市間列車である直達列車、長距離優等列車である特快列車・快速列車・普快列車、各駅停車する普客列車があり、冷房の有無により運賃に格差をつけている。", "title": "日本国外の列車種別" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは上下分離方式により、種別ごとに運行会社が分かれている。ヨーロッパの列車種別を参照。", "title": "日本国外の列車種別" } ]
列車種別とは、停車駅やサービスなどの違いによる列車の種類をさす。列車種別の名称や、名称が指すサービスは事業者ごとに異なっている。 本項は特に断りがない限り、日本の旅客列車に関する列車種別を主題として記述し、貨物列車の列車種別は省略している。
{{Otheruses|旅客列車における停車駅や速達料金の異なりの体系|営業列車以外の鉄道事業のため運転する非営業列車|特殊列車}} '''列車種別'''(れっしゃしゅべつ、{{lang-en|Train type}})とは、停車駅やサービスなどの違いによる[[列車]]の種類をさす<ref>鉄道マニアの基礎知識 伊藤久巳 イカロス出版</ref>。列車種別の名称や、名称が指すサービスは事業者ごとに異なっている。 本項は特に断りがない限り、日本の[[旅客列車]]に関する列車種別を主題として記述し、[[貨物列車]]の列車種別は省略している。 == 概要 == 列車種別は事業者によって異なるが、概ね特急、急行、快速、準急、普通(各駅停車)の順に停車駅が多くなる。[[東武鉄道]]など、快速が急行より停車駅が少ない路線もある。また、通勤、区間、快速、準、アルファベット(「A」・「B」)などの接頭辞を付けることで種別を細分化している事業者もある。 列車種別は、法令に準じる厳格な規則の中で定められた事もあれば、現場の従業員の判断で便宜的に命名されたようなものもある。JRの[[普通列車]]のように、規則上の取り扱いと、実際の営業案内上の取り扱いが異なるケースもある。 その他、途中駅から種別を変更して停車駅を調節する場合もあり、特に[[名古屋鉄道]]や[[近畿日本鉄道]]および[[京浜急行電鉄]]で多く行われている。 == JR・日本国有鉄道の列車種別 == [[JR]]・[[日本国有鉄道|国鉄]]の旅客営業規則においては、列車を規定する用語として「急行列車」と「普通列車」を使用している。このうち、急行列車は普通急行列車と特別急行列車を含む用語である。快速列車は普通列車に含まれる列車種別である。また、[[新幹線]]は急行列車であり、そのうち特別急行列車に含まれる。 この節では、この分類に則って各列車種別を説明する。 === 急行列車 === [[急行列車]]は、目的地まで速達することを重視する列車として設定され、乗車の際に[[乗車券]]以外の料金を必要とする列車としている。急行列車はさらに普通急行列車(「'''急行'''」)<ref group="注釈">一般に急行列車とはこれを指すが、[[2016年]]以降は臨時列車のみで定期運行はされていない。</ref> と'''[[特別急行列車]]'''(「'''特急'''」)とに分けられる。普通急行列車に乗るには普通急行券(券面には「[[急行券]]」とも表示される)が、特別急行列車に乗るには[[特別急行券]](特急券)が必要となる。また、[[1968年]]9月30日以前には[[準急列車|準急行列車]]('''準急''')も存在した。かつての準急行列車も、準急行券(準急券)が必要であった。 {{see also|優等列車}} === 普通列車 === 急行列車以外の列車、いわゆる乗車券のみで乗ることができる列車を[[普通列車]]としている。基本的には各駅に停車する種別であるが、いくつかの路線では通過駅を有する普通列車が運行されている。例えば、日中や早朝・深夜の時間帯において、需要がまったく見込めない駅を通過する場合がある。その他、都市近郊の[[複々線]]では「普通」と「各駅停車」とが並立し、前者はホームがないがゆえに名目上「通過」する場合がある。 普通列車のうち、途中駅の一部に停車しない列車は一般に[[快速列車]]という。快速列車は、停車駅のパターンや運行時間などにより、様々な呼称がつけられている。快速より停車駅が多い'''区間快速'''、'''B快速'''、'''準快速'''、快速より停車駅が少ない'''[[特別快速]]'''、'''[[新快速]]'''、ラッシュ時のみ運転される'''通勤快速'''、'''直通快速'''、休日のみ運転される'''[[ホリデー快速]]'''などが存在する。また、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[大和路快速]]・[[福知山線#丹波路快速・快速・区間快速|丹波路快速]]・みやこ路快速・[[関空快速・紀州路快速]]、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[特別快速#中央線・青梅線|青梅特快・中央特快]]など、路線名や行き先・方面の地名が付けられた種別名もある。 [[常磐線]]では2004年3月12日まで、同じ線路を走る[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]使用の「快速(電車)」より[[中距離電車]]である「普通(列車)」のほうが停車駅が少なかった。 {{see also|電車線・列車線}} == 日本の民鉄事業者の列車種別 == 以下の節では民鉄各社(一部公営事業者を含む)での列車種別について記述する。 === 特急 === 特急は、[[阪急電鉄]]などのように乗車券だけで乗車できる特急を運行する事業者と、[[西武鉄道]]などのように乗車券の他に特急券が必要な特急を運行する事業者がある。 [[京成電鉄]]では、[[京成AE形電車 (2代)|AE形電車]]など専用電車による「[[スカイライナー]]」系統には「ライナー券」と呼ばれる特急券が必要であるが、<!--乗り入れ他者を含めた-->一般電車による'''特急'''においては運賃のみで乗車できる。京成部内では前者を「特別急行(A)」(同社でのモーニングライナーおよびイブニングライナーを含む)、後者を「特別急行(B)」(同社での快速特急およびアクセス特急を含む)と呼称している。 この例はかつて、以下のような事例があった。 *[[東武鉄道]]では、[[東武伊勢崎線|伊勢崎線系統]](「[[りょうもう]]」)・[[東武日光線|日光線系統]]([[けごん|「けごん」・「きぬ」・「リバティ会津」]]・[[きりふり|「きりふり」・「ゆのさと」・「スカイツリーライナー」]]・「[[しもつけ (列車)|しもつけ]]」・「[[アーバンパークライナー]]」)の[[東武本線|<small>いわゆる</small>本線系統]]と[[東武東上線|東上線系統]]<!--東上線系統としたのは、[[東武越生線]]直通列車も存在していたため。-->とで、特急券の有無が異なっていた。前者の場合、特急については専用車両を使用し、座席指定制の特急券を要するが、後者は一般車両を使用し、座席指定などは特に行っていなかった。 *[[近畿日本鉄道]]においても、特急券が必要な座席指定制の[[近鉄特急|特急]]とは別に、[[近鉄奈良線]]において通勤用の一般車両を使用した料金不要の「特急」が運転されていたが、[[1972年]]11月に料金不要の「特急」は「快速急行」に改称されている。また、南大阪線・吉野線の臨時列車のみに急行よりも上位の「快速」の種別があったが、こちらも相前後して「快速急行」に改称されたものの、快速時代に引き続き臨時運転のみとなっている。 ==== 特急に類する列車種別 ==== 「特急」より停車駅の少ない列車種別や、「特急」より停車駅が多く「急行」より停車駅が少ない列車種別を運行する事業者もある。詳細は各路線項目を参照されたい。また、「ライナー」およびそれに準ずる列車の詳細は[[#ライナー]]を参照のこと。 :※印の種別は[[ホームライナー]]・通勤ライナーに準ずる扱い :かつての[[愛知電気鉄道]]や、[[新京阪鉄道]]、[[阪和電気鉄道]]には、[[超特急]]という種別も存在した。 {| class="wikitable" |+style="text-align:left; padding-top:1em;"|特急と急行との中間の種別と運行会社 |- ! style="text-align: center; "|種別 ! style="text-align: center; "|運行会社 |- |通勤特急 |[[京成電鉄]]、[[東急電鉄]]、[[横浜高速鉄道]]、[[相模鉄道]]、[[阪急電鉄]] |- |[[直通特急]] |[[阪神電気鉄道]]、[[山陽電鉄]] |- |[[特快速]] |[[神戸電鉄]] |- |快速 |[[東武鉄道]]、西武鉄道 |- |[[準特急]] |阪急電鉄 |- |[[快速急行]] |[[西武鉄道]]、[[小田急電鉄]]、東武鉄道、[[富山地方鉄道]]、[[名古屋鉄道]]<br />[[阪神電気鉄道]]、[[近畿日本鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]、[[南海電気鉄道]] |- |通勤急行 |小田急電鉄、西武鉄道、阪急電鉄 相模鉄道 |- |区間特急 |阪神電気鉄道 |- |通勤快急 |京阪電気鉄道 |} === 急行 === {{seealso|急行列車}} 急行は乗車券だけで乗れる鉄道事業者が多い。ただし、JRと同様に急行券が必要となる列車もある。 [[山陽電気鉄道本線]]<ref group="注釈">山陽電気鉄道本線では[[1984年]]のダイヤ改正前までは急行が運転されていたが、現在は休止扱いとなり列車は設定されていない。</ref>のように特急が運行されているが急行が運行されていない路線もある。 特急と同様に「通勤」・「区間」・および「快速」をつけた派生種別が運行されている路線もある。「快速急行」の詳細は[[快速急行]]、その他の派生種別の運行路線などは[[急行列車#列車種別と急行列車の呼称]]を参照のこと。京阪電気鉄道ではかつて「深夜急行」の種別名も使用されていた。種別名の頭部に時間帯(深夜)を表す名前をつけた事例は少ない<ref group="注釈">かつて、阪神電気鉄道には[[1959年]] - [[1960年]]に「夜間特急」([[阪神3011形電車#運用]]参照)が運転されていた。</ref>。 === 快速 === {{seealso|快速列車}} 快速は、私鉄では急行との上下関係が事業者によって異なる。 相模鉄道と京王電鉄では急行より下位の種別であるが、東武鉄道と神戸電鉄は急行より上位の種別として設定している。西武鉄道では線区によって上下関係が異なり、池袋線系統の快速は急行より下位であるが、新宿線系統で運行していた拝島快速は急行より上位の種別であった。[[えちぜん鉄道]]では快速は自社線内のみで急行は[[福井鉄道]]直通列車専用と使い分けている。その他の事業者には現在快速と急行がともに設定されている路線はない。 === 準急 === {{seealso|準急列車}} 準急は、急行(一部鉄道会社では快速)より停車駅が多い列車である。準急とは「準急行列車」の略で、現在でも南海電気鉄道などでは、案内放送などで「準急行」を聞くことができる。なお、国鉄でも運行されていたが、急行列車に格上げされる形で運行が終了、廃止された。 私鉄においては、準急の停車駅のパターンは大別して3種類ある。 #準急が運行される区間のうち一部区間では急行と同じ停車駅で運行しその区間外では各駅に停車する。 #準急が運行される全区間において急行より少ない通過駅を設ける #1.と2.の中間的な形態即ち運行される区間のうち一部区間では急行より少ない通過駅を設けつつその区間外では各駅に停車する。 [[津軽鉄道線]]など準急が唯一の優等種別となっている場合もある<ref group="注釈">多くは過去に設定のあった急行列車が廃止された結果の事象である。</ref>。 1.の例としては[[東急田園都市線]]、東武伊勢崎線および東上線、[[西武新宿線]]、[[名鉄瀬戸線]]、2.の例としては[[名鉄名古屋本線]]および[[名鉄犬山線]]、3.の例としては[[西武池袋線]]、[[神戸電鉄]]、[[近鉄大阪線]]および奈良線における運行が挙げられる。このうち最も多い類型は1.のパターンである。 かつて'''快速準急'''という列車が運行されていたこともある([[小田急小田原線#過去の列車種別]]を参照)。その他、急行と同様に[[快速列車#快速の派生種別|「区間」「通勤」などをつけた派生種別]]も運行されている。 === その他の優等種別 === 上述のように、民鉄事業者においても特急・急行・準急・快速という国鉄が用いた優等列車種別や、それらから派生した列車種別を基本的に使用しているが、時にはそれらの枠組みに当てはまらない列車種別が使われることもあった。 ;[[最急行|最急行・最大急行]] :急行の上位種別。特別急行(特急)の概念が定着するより前に存在した列車種別で、後に国有化される[[山陽鉄道]]による使用が初出。国鉄に特急が登場した後も京阪電気鉄道による使用事例がある。 ;[[高速 (列車)|高速]] :特急と急行の中間種別。名古屋鉄道が有料特急との区別のために料金を取らない特急を改称したもので、この施策により中京圏に「高速」の種別名が定着したことを受けて近畿日本鉄道も臨時列車「伊勢志摩号」の列車種別をそれまでの[[直通急行]]から高速に改めた。名鉄の高速は特急政策の再変更によって[[1990年]]改正で特急に戻り、近鉄の高速も快速急行に改めた後の[[1990年代]]前半に臨時列車の設定自体が消滅した。 ;[[直行 (列車)|直行]] :近畿日本鉄道の[[近鉄生駒鋼索線|生駒ケーブル山上線]]で使用されている臨時種別。途中駅には停車しないノンストップ形式での運行で通常は夜間(行楽期は昼間も)に設定されている。過去には近畿名古屋線、南海電気鉄道、京阪電気鉄道、[[能勢電鉄]]、[[西日本鉄道]]でも使用されていたほか、国鉄でも阪和線で使用されたことがある。その位置づけは区間内ノンストップを意味する近鉄生駒ケーブル山上線、能勢、西鉄と急行等の上位種別よりも停車駅が多い近畿名古屋線、南海、京阪、阪和線に二分される。 ;半急行 :急行の下位種別。名古屋鉄道が東部線(旧[[愛知電気鉄道]]線)において[[1939年]]頃と[[1944年]]から[[1947年]]頃の期間に設定していた<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=48}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-06|url=http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/NRAnews20.pdf|author=白井昭|title=特集 白井昭の一口メモ|work=NRA NEWS No.20|format=PDF|publisher=名古屋レールアーカイブス|accessdate=2018-10-18|page=11}}</ref>。同時期の西部線(旧名岐鉄道線)では準急を使用しており、西部線昇圧による東西直通運転開始後は全線で準急を使用することにしたため、半急行は消滅した<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 7号 東海―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900418|page=50}}</ref>。 ;[[西鉄天神大牟田線#准急(じゅんきゅう)|准急]] :急行の下位種別。西日本鉄道が用いた列車種別で、同社では「準」ではなく「准」の文字を使用した。 ;直通 :急行の下位種別。[[宇治川電気]](後の山陽電気鉄道)が[[1928年]]、小田急電鉄が[[1929年]]に使用を開始したが、ともに[[1940年代]]までに廃止され、復活後は別種別に移行した([[山陽電気鉄道本線#直通]]および[[小田急電鉄のダイヤ改正#準急・直通]]を参照)。このほか、京浜急行電鉄が[[1949年]]夏に品川 - 逗子海岸(現在の[[逗子・葉山駅]])間に設定した臨時列車に「直通」が使用されたことがある<ref>{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 5号 首都圏私鉄―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900395|page=33}}</ref> ほか、阪和電気鉄道では阪和天王寺 - 阪和東和歌山間の全区間を走破する普通列車を「直通」と呼んでいた<ref>{{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|page=38}}</ref>。 ;[[阪和電気鉄道#超特急以外の列車|直急]] :準急とほぼ同位に当たる種別。阪和電気鉄道が設定した種別で、準急が天王寺寄りを速達運転するのに対し、直急は和歌山寄りを速達運転とし、反対側は各駅に停車していた。[[1936年]]4月改正でそれまで阪和天王寺 - 阪和岸和田間を運行していた普通を以南急行運転として延長した際に新設されたが、翌[[1937年]]6月の改正で元の運行区間に戻され廃止された<ref>{{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|pages=179-188}}</ref>。 === 普通・普通車・各駅停車・各停 === {{see also|普通列車|各駅停車}} 基本的に各駅に停車する(一部の駅を通過する場合もある)列車の種別である。なお、呼称については「普通」のほか、事業者によっては以下に大別される。 *表記上は「普通」でも案内上は「各駅停車」および「各停」とする事業者 *「各駅停車」および「各停」を略称とする事業者 *「[[普通列車#「普通車」|普通車]]」と案内する事業者 **ただし西武鉄道のように「普通」から「各停」に列車種別名を変更した事例([[2008年]]実施)もある<ref name="yomiuri20181222">[https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20181221-OYT8T50040.html 普通?各停?各社バラバラ、複雑すぎる列車種別] - 読売新聞。2018年12月22日7時発信、2019年4月4日閲覧。</ref>。 === 特記事項 === 2023年8月現在、日本の大手私鉄事業者で列車種別数が一番多いのは西武鉄道と京阪電気鉄道の10種別である<ref name="yomiuri20181222" /> 。 == 区間種別 == {{Main2|運行されている路線などは、当該種別を運行する各事業者の記事もしくは[[急行列車#派生種別|急行列車]]、[[準急列車#準急の派生種別|準急列車]]、[[快速列車#快速の派生種別|快速列車]]、[[特別急行列車]]の各種別の記事にも記載されているのでそれらも}} 優等列車であるが、一部区間では各駅に停車となる列車種別で、[[1938年]]、[[京阪本線]]に設定された[[京阪本線#旧・区間急行|区間急行]]が最初といわれている。当初は関西地区のJR・大手私鉄のみで多用されていた。同様の種別は関西地区以外では、途中駅で「急行⇔普通」のように種別を変更したり、区間種別に相当する列車を「快速」などとし、その上位に「特別快速」などを設定する例が常であった。[[1997年]]に東武鉄道に関東地方では初めて「区間準急」が設定され、以降全国の鉄道事業者に「区間○○」が設定されるようになった。 例として「[[近畿日本鉄道#特急以外の速達列車|区間快速急行]]」、「区間急行」、「区間準急」、「区間快速」などがある。なお阪急電鉄と阪神電気鉄道においては上記定義とは異なり、一部区間のみ運転する列車という定義であり、阪急電鉄ではダイヤグラム上の正式種別として区間急行・区間普通が存在しているが、各種案内においては急行・普通と表現され、区間種別での旅客案内は行われていない。 === 英語表記 === 英語表記については、以下のように事業者によって差異がある。 ;「Section」を用いる例 *[[東武鉄道]]、[[小田急電鉄]] - 「区間準急」⇒「''Section'' Semi Express」 ;「Semi」を用いる例(「区間準急」を除く) *[[首都圏新都市鉄道]]およびJR東海、ならびにJR北海道「[[いしかりライナー]]」 - 「区間快速」⇒「''Semi'' Rapid」 *[[京阪電気鉄道]] - 「Semi-exp.」 *[[京王電鉄]] - 「区間急行」⇒「Semi Express」 ;その他 *JR西日本 - 「区間快速」⇒「''Regional'' Rapid Service(R.Rapid)」 *[[近畿日本鉄道]]など - 「近郊の」を意味する「''Suburban''」の略、「''Sub ''」の表記 *[[東京モノレール]] - 「区間快速」⇒冠詞はつかず、単に「Rapid」<ref group="注釈">以前の「快速(Rapid)」が、[[2007年]][[3月18日]]のダイヤ改正で「空港快速(Haneda Express)」と「区間快速(Rapid)」に分割された。</ref> === 運行方法 === このような事例では、各駅に停車する区間については需要が少ない場合でその区間を通過する列車を設定しているが、地域輸送を担う列車を設定するほど需要が多くない、ないしはその区間の駅と列車始発駅周辺など一方向に需要が偏っていることから、必ずしも地域輸送にのみ特化した列車を運行するのに適していない場合にこのような列車を設定する場合が多い。 例えば「区間急行」は、起点駅付近は急行と同じ駅に停車し、郊外は各駅に停車する事が多い。 いずれも、「区間」がつかない列車より相対的に停車駅が多くなるのが一般的だが、[[阪神本線]]の「区間特急」は2009年3月20日改正時まで例外として、「特急」よりも停車駅が少ない列車となっていた。これは当該列車の設定当初、途中駅([[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]])始発で大阪市内への通勤利用者に対して速達サービスを提供する戦略商品として設定されていたためである。名称については、一部区間のみ運転する特急列車ということで名付けられた。その後の一時期、[[三宮駅]]発に変更されたが、元町駅より先、[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]・[[山陽電気鉄道本線]]まで運行区間が延びる特急列車に対し、区間運転の列車であるということから名称は継続されている。 さらに[[京阪本線#区間急行|京阪本線の「区間急行」]]は準急よりも停車駅が多い設定となっている(東武の快速>急行の関係と同様)。名称の根拠は、一部区間のみ運転の短距離急行列車という意であり、急行に準ずる列車である準急より下位に置かれている。本来の準急の英語名"Semi-express"は区間急行に割り当てられ、準急には本来区間急行で使われる"Sub-express"の英語名が割り当てられている。 京王電鉄では準急は存在しないが、京阪同様区間急行の英語表記が"Semi Express"となっている。「通勤快速」から改称された2013年2月22日改定から2015年9月24日までは[[新宿駅]]・新線新宿駅 - [[調布駅]]間の停車駅は「急行」と同一だったが、2015年9月25日改正より[[仙川駅]]が停車駅に設定されたため、同区間は「急行」よりも停車駅が1駅多くなっている。 また、東武鉄道では準急と区間急行は上下関係が一致しておらず、新越谷駅 - 東武動物公園駅間では準急は各駅に停車するが、区間急行はせんげん台駅と春日部駅のみに停車する。一方で区間急行が各駅に停車する曳舟駅 - 北千住駅間では準急がノンストップとなっている。そのため、下り列車の場合、曳舟駅で準急に抜かれた区間急行がせんげん台駅または春日部駅で準急を抜き返し、東武動物公園駅より先、館林・太田方面および南栗橋・新栃木方面には区間急行が先に到着するなどといったダイヤも存在する。半蔵門線直通列車がすべて曳舟駅 - 北千住駅間ノンストップとなっているのは[[水天宮前駅]]とほぼ同じ駅である[[東京メトロ日比谷線]][[人形町駅]]と北千住駅との距離が大幅に異なることで、速達性を高め混雑緩和と利用客の誘導をする役割を担っているためである。 また、列車種別に「区間」を冠さずに中間区間で各駅に停車する場合もある。 このような事例として、[[小田急小田原線]]では、新宿駅から[[本厚木駅]]までは通過駅を有し、本厚木駅から[[新松田駅]]まで各駅停車、新松田駅から[[小田原駅]]まで再び通過駅を有する急行がある。 === 区間種別と同様の運行形態をとる列車 === なお、「区間○○」という種別を設定していないが、速達列車がある駅に到着後、その列車がそのまま各駅停車(普通列車)に種別を変更したり、もしくは各駅停車運転を行うことにより、その先まで行くことで「区間○○」と同様の運行形態をとっている場合もある。 このような場合、[[ダイヤグラム]]や[[時刻表]]などで[[列車番号]]を見ると別列車扱いとしている場合が多く、列車運行上利用客の便を図るために1本の列車として取り扱うためである。 ==== 日本国有鉄道・JR ==== ; JR東日本 : JR東日本の快速列車は他社の区間快速のように快速の下位種別は設定していないが、線区ごとに各駅停車する区間と快速運転する区間を分ける列車もあり、区間快速に近い運行形態を取る列車として以下のものがある。 : [[上野東京ライン]]を経由する快速列車は[[東京駅]]を境に普通列車に種別を変更する。快速「アクティー」は[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]では快速運転をするが東北本線([[宇都宮線]])では普通列車として運行する。朝の北行に限り、東海道本線内では普通列車として運行し、東京駅を境に[[高崎線]]では快速「アーバン」として、宇都宮線では快速「ラビット」として運行する列車もある。なお、高崎線に直通する快速「アクティー」の設定はない。なお、列車番号上はいずれも全区間快速である。 : [[湘南新宿ライン]]を経由する快速列車は南行は[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]、北行は[[大崎駅]]を境に種別を変更する。東北本線(宇都宮線)- [[横須賀線]]系統は、大宮駅以北の宇都宮線区間のみを快速運転し、同駅以南は横須賀線内含め各駅に停車する。高崎線 - 東海道本線系統は、大崎駅 - [[戸塚駅]]間の横須賀線区間のみ快速運転し、戸塚駅以西の東海道本線、および大崎駅以北は高崎線区間含め各駅に停車する(湘南新宿ラインの列車として全列車通過する[[さいたま新都心駅]]を除く)。列車番号上は宇都宮線系統は全区間快速、高崎線系統は全区間普通である。 : [[埼京線]]の快速・通勤快速は直通運転先である[[東京臨海高速鉄道りんかい線]]内、ならびに[[大崎駅]] - [[赤羽駅]]は各駅に停車する。赤羽駅 - 大宮駅間では快速運転をするが、直通運転先である[[川越線]]内では各駅に停車する。 : [[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]は新宿駅 - 大崎駅間で快速・通勤快速と案内される場合があるが、当該区間では各駅に停車する。新宿駅 - 大崎駅間の一部列車と大崎駅 - [[羽沢横浜国大駅]]間の全列車は各駅停車と案内されるが、正式には普通列車である。 : [[仙石線]]の快速列車においては2014年3月14日まで[[あおば通駅]] - [[多賀城駅]]間を各駅停車する列車が存在した。1998年から2000年までは[[本塩釜駅]] - [[石巻駅]]間を各駅停車する列車も存在した([[仙石線#快速列車]]も参照。)。 : [[仙石東北ライン]]の快速列車においては朝の1本と日中は[[仙台駅]] - [[塩釜駅]]間の各駅に停車する。 ; JR四国 : JR四国の快速列車は基本的に種類を分けていないが、[[サンポート (列車)|サンポート]]は[[高松駅 (香川県)|高松駅]] - [[坂出駅]]間で快速運転を行い、坂出駅を境に各駅に停車する。また、快速運転を行う区間では日中は[[マリンライナー]]より停車駅が1駅多く設定されている。 ; その他 : 国鉄・JRの一部の特急列車には一部の区間を普通列車として運行する列車が現在も存在する。房総特急として知られる[[外房線]]特急「[[わかしお (列車)|わかしお]]」などが該当する。 ==== 私鉄 ==== ;小田急電鉄 :小田原線で運行されている[[小田急小田原線#急行|急行相模大野行きの一部]]が[[相模大野駅]]より「各駅停車本厚木行き」などとして運行されていた。2018年3月17日改正より、始発の新宿駅から最終行先駅表示に変更され、行先変更はなくなった。 ;京成電鉄 :[[京成本線|本線]]・[[京成押上線|押上線]]で、朝の京成佐倉方面行き、夜間の羽田空港方面行きの一部列車が、[[京成高砂駅]]を境に、本線内は快速、押上線内は普通として運行される。なお、直通先である[[京急久里浜線]]・[[京急空港線|空港線]]・[[京急本線]]・[[都営地下鉄浅草線]]内では、京成高砂以遠の京成本線を快速として続行運転する旨は案内されていない。逆方向の京成本線内も同様に案内されていない。 == 通勤種別 == 朝夕の[[ラッシュ時]]のみ運転される、通勤・通学客向けの列車で、「通勤特急」・「通勤特快」・「通勤快急」・「通勤急行」・「通勤準急」・「通勤快速」などがこれにあたり、東京近郊で多く採用されている。たいていの列車の場合、別途料金がかからない列車で運行されるが、JRにおいて定員制列車である[[ホームライナー]]が運行されてきたことで、他の鉄道でも有料列車の中にはこのような運行系統を有するものもある。 「通勤」が付かない列車より停車駅が多いか少ないかは、会社・路線によって異なる。また、会社によっては「通勤」という称を冠しない場合もある。 「通勤」の英語表記は、'''Commuter'''(案内板など表示場所の制約がある場合、Comm.と略されることがある) を用いることが多い。 なお、「通勤」種別とは逆に行楽用の列車としては「[[ホリデー快速]]」などがある。「通勤」種別は基本的に平日のみの運転だが、京成本線の「通勤特急」(後述)のみ、土曜・休日にも運転される<ref group="注釈">かつてはJR常磐線の「通勤快速」(下り1本のみ、 - 2005年)、東武伊勢崎線の「通勤準急」(2003 - 2006年)も休日に運転されていた。</ref>。 従来は通勤種別であったものが通勤時間帯以外にも運行時間帯拡大するため名称変更で通勤種別ではなくなった例も存在し、山陽電気鉄道本線の通勤特急→S特急、東武伊勢崎線の通勤準急→急行、京王線の通勤快速→区間急行等が該当する。 ;JR中央線(東京圏)における通勤種別 :{{See also|中央線快速#運行形態}} :「通勤特快」は、[[特別快速|中央特快]]より停車駅が5駅少なく、中央特快が停車する[[西八王子駅]]・[[豊田駅]]・[[日野駅 (東京都)|日野駅]]・[[三鷹駅]]・[[中野駅 (東京都)|中野駅]]を通過する。また、この列車種別は上り5本のみの運用である。 :「通勤快速」は中央特快より停車駅が2駅多く、中央特快が通過する[[荻窪駅]]・[[吉祥寺駅]]に停車する。また、下り列車のみの設定である。 :いずれの種別も[[青梅駅]]を始発・終着とする列車が存在するが、通常の「快速」と同様[[青梅線]]内は各駅停車である。 ;JR東海道線(東京圏)における「通勤快速」 :この通勤快速は、快速「アクティー」が停車する[[川崎駅]]・[[横浜駅]]・[[戸塚駅]]を通過し、[[品川駅]] - [[大船駅]]間が無停車となる。また、この種別は平日夜の下り[[東京駅]]始発[[小田原駅]]行き3本のみの運行である。大船以西の停車パターンはアクティーと同一であり、すなわち途中停車駅は[[新橋駅]]・品川駅・大船駅・[[藤沢駅]]・[[茅ケ崎駅]]・[[平塚駅]]・[[国府津駅]]である。 :2021年3月12日の運転をもって運行終了。 ;JR高崎線における「通勤快速」 :この通勤快速は、快速「アーバン」が停車する[[上尾駅]]・[[桶川駅]]を通過し、快速アーバンが通過する[[尾久駅]]に停車する。[[上野駅]] - [[高崎駅]]・[[前橋駅]]間の途中停車駅は[[尾久駅]]・[[赤羽駅]]・[[浦和駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[鴻巣駅]]・[[熊谷駅]] - 高崎駅・前橋駅間の各駅である。下り列車2本に限り上尾駅・桶川駅にも停車する。上野駅 - 大宮駅間は宇都宮線の通勤快速と同様の停車駅である。 :2021年3月12日の運転をもって運行終了。 ;JR宇都宮線における「通勤快速」 :この通勤快速は、快速「ラビット」が停車する[[蓮田駅]]を通過し、快速ラビットが通過する[[尾久駅]]に停車する。上野駅 - [[宇都宮駅]]間の途中停車駅は[[尾久駅]]・[[赤羽駅]]・[[浦和駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[久喜駅]]・[[古河駅]]・[[小山駅]] - 宇都宮駅間の各駅である。夕方の上り1本は[[黒磯駅]]発で運行されているが、こちらも小山駅までは各駅停車である。上野駅 - 大宮駅間は高崎線の通勤快速と同様の停車駅である。 :2021年3月12日の運転をもって運行終了。 ;JR総武快速線における「通勤快速」 :この通勤快速は、通常の快速が停車する[[新小岩駅]]・[[市川駅]]・[[津田沼駅]]・[[稲毛駅]]・[[総武本線]][[物井駅]]を通過する。1日2往復(朝上り・夜下り2本ずつ)のみの運行。いずれの列車も[[成田線]][[成田駅]]を上りの始発駅および下りの終着駅(上りの始発の1本のみ[[成田空港駅]]発)とするが、上りが[[横須賀線]][[逗子駅]]まで運行されるのに対し、下りは[[東京駅|東京]]発である。横須賀線や成田線内([[佐倉駅]]以北)は各駅に停車。 :2022年3月11日の運転をもって運行終了。 ;JR埼京線における「通勤快速」 :この通勤快速は、通常の快速より停車駅が5駅少なく、快速が停車する[[戸田公園駅]]・[[中浦和駅]]・[[南与野駅]]・[[与野本町駅]]・[[北与野駅]]を通過する。停車駅は、[[東京臨海高速鉄道りんかい線]][[新木場駅]] - [[赤羽駅]]間の各駅・[[武蔵浦和駅]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] - [[川越駅]]間の各駅である。平日の朝・夕および夜間に通常の快速に代わって運行される。以前は快速も中浦和駅・南与野駅・北与野駅を通過していたが、[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]新設に伴う2019年11月30日改正より、停車駅の差違が2駅から5駅に増えた。なお、埼京線は通勤新線として計画されたこともあり、JR・私鉄含め日本で最初に通勤快速が運行された路線であり、現在に至るまで通勤快速の本数は日本一を誇る。 ;JR京葉線における「通勤快速」 :この通勤快速は、[[京葉線]]内の途中駅は[[八丁堀駅]]・[[新木場駅]]の2駅にのみ停車し、そのほかの駅はすべて通過する。[[内房線]]・[[外房線]]内は快速と同じ停車駅。(外房線乗り入れの通勤快速は、[[東金線]]・[[成東駅]]発および、外房線・[[勝浦駅]]発で運行。それぞれが[[誉田駅]]で連結。)なお、京葉線全線開通当時は新木場駅も通過していた。 ;東急東横線・みなとみらい線における「通勤特急」 :特急より停車駅が3駅多く、特急が通過する[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]・[[馬車道駅]]・[[日本大通り駅]]に停車する。 ;かつての東急田園都市線における「通勤快速」 :田園都市線では、現在は「急行」と「準急」が優等列車として運行されているが、その原型は「通勤快速」である。設定当初、快速も存在しなかったが、朝ラッシュ時のみに、「通勤快速」として速達列車が設定された。これは、「快速」や「急行」と称してしまうと、停車駅の変更ができなくなる恐れがあることを考慮したものである<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2004年7月号「特集:東京急行電鉄」p.124</ref>。当時、田園都市線沿線は開発中で、各駅の乗降人員の予測が外れる恐れがあった。他には例を見ない通勤種別である。 ;かつての京王線における通勤種別 :「通勤快速」は、当時の「快速」より停車駅が3駅少なく、快速が停車する[[下高井戸駅]]・[[八幡山駅]]・[[仙川駅]]を通過していた。しかし2013年2月22日改定より通勤時間帯以外にも運行時間帯を拡大するため「区間急行」へ改称され消滅した。なお、現在の「区間急行」は仙川駅も停車駅に追加されている。 :同線は、かつて「通勤急行」が設定されていたが、[[1992年]]に「急行」が[[つつじヶ丘駅]]にも停車するようになったため両者が同一化、急行に統合されて消滅した。 ;西武池袋線における通勤種別 :「通勤急行」は、急行より2駅停車駅が多い。急行が通過する[[大泉学園駅]]・[[保谷駅]]・[[東久留米駅]]に停車するが、逆に急行が停車する[[ひばりヶ丘駅]]を通過する。 :「通勤準急」は準急より停車駅が1駅少ない。準急が停車する[[石神井公園駅]]を通過する。2008年6月15日までは[[練馬駅]]も通過した。練馬駅に停車するようになったことで、平日朝の池袋線池袋行き準急が通勤準急に完全に置き換えられた。 西武池袋線の通勤急行・通勤準急のように、上位の種別が停車する駅を通過することを、停車駅が互い違いになることから[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]という。 ;西武新宿線における通勤種別 :「通勤急行」は急行よりも停車駅が7駅少なく、従来急行の各駅停車区間にあたる本川越駅 - 田無駅間でも通過運転を行う。 ;かつての東武東上線における「通勤急行」 :[[志木駅]]以西において急行より停車駅が多く、急行が通過運転を行う志木駅 - [[川越駅]]間は各駅に停車する。逆に急行が停車する[[朝霞台駅]]を通過する。つまり、[[成増駅]]以西各駅停車となる準急と比べて、停車駅が2駅少ないだけである。2016年3月のダイヤ改正で、準急と統合され消滅することとなった。 ;東京メトロ東西線における「通勤快速」 :快速よりも停車駅が3駅多く、快速が通過する[[南砂町駅]]、[[西葛西駅]]、[[葛西駅]]に停車する。 ;東京メトロ副都心線における「通勤急行」 :急行よりも停車駅が4駅多く、[[和光市駅]] - [[小竹向原駅]]間は各駅に停車する。2023年3月17日までは、急行が停車する[[明治神宮前駅]]を通過していた。 ;京成電鉄における「通勤特急」 :{{See also|京成本線#通勤特急}} :停車駅は[[京成上野駅]]・[[押上駅]] - [[勝田台駅]]間では特急と同様で、[[勝田台駅]] - [[成田空港駅]]・[[芝山千代田駅]]間では各駅に停車する。乗り入れ先である[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]内では各駅に停車する列車が多い。一部に京急線(本線・空港線)内はエアポート急行として、都営浅草線内は[[エアポート快特]]として運行し、[[押上駅]]以東の京成線内のみ通勤特急となる。京成線では、同様に土休日を含むラッシュ時に、快速特急も運転される。なお、現在の通勤特急は3代目である。 ;首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスにおける「通勤快速」 :[[2012年]][[10月15日]]のダイヤ改正で登場。快速よりも停車駅が4駅多く、快速が通過する[[六町駅]]、[[八潮駅]]、[[柏の葉キャンパス駅]]、[[研究学園駅]]に停車する。区間快速とは千鳥停車の関係にあり、区間快速が通過する六町駅に停車し、区間快速が停車する[[三郷中央駅]]、[[みらい平駅]]、[[みどりの駅]]、[[万博記念公園駅 (茨城県)|万博記念公園駅]]を通過する。 ;小田急小田原線における通勤種別 :「通勤急行」は急行よりも停車駅が2駅少なく、急行が停車する[[登戸駅]]と[[経堂駅]]を通過する。なお、経堂駅に関しては、[[2018年]][[3月17日]]のダイヤ改正まで上り急行の一部が通過していたこともあり、現在でも[[成城学園前駅]]到着前には、経堂駅に止まらない旨が案内されている。快速急行とは千鳥停車の関係にあり、快速急行が通過する[[向ヶ丘遊園駅]]・成城学園前駅に停車し、快速急行が停車する登戸駅を通過する。 :「通勤準急」は準急よりも3駅少なく、準急が停車する[[千歳船橋駅]]・[[祖師ヶ谷大蔵駅]]・[[狛江駅]]を通過する。 ;相模鉄道における通勤種別 :「通勤特急」は特急よりも停車駅が1駅多く、特急が通過する[[鶴ヶ峰駅]]に停車する。 :「通勤急行」は急行(2023年3月18日から休止中)よりも停車駅が2駅多く、急行が通過する[[西谷駅]]・鶴ヶ峰駅に停車する。 ;静岡鉄道静岡清水線における「通勤急行」 :[[静岡鉄道静岡清水線]]では、[[2011年]][[10月1日]]のダイヤ改正で15年ぶりに急行が復活したが、下り列車([[新清水駅]]行き)のみの設定とされ、上り列車([[新静岡駅]]行き)で急行に相当する種別の列車は、「通勤急行」の名称で設定された。通勤急行は、[[桜橋駅 (静岡県)|桜橋駅]] - [[草薙駅 (静岡鉄道)|草薙駅]]間は急行と同じく4駅に連続停車するが、その先新静岡駅までの停車駅は[[古庄駅]]・[[日吉町駅]]の2駅で、同区間を[[県総合運動場駅]]のみ停車で運行する急行より1駅多く、かつ共通の停車駅がないという運行パターンとなっている。 :なお、急行・通勤急行のいずれも平日朝ラッシュ時のみの運行となっている。 ;かつてのJR東海道本線(静岡圏)における「通勤快速」 :[[東海道線 (静岡地区)|静岡地区]]において[[2007年]][[3月17日]]まで運行されていた。静岡地区では[[ムーンライトながら]]以外で唯一定期的に運行されていた快速である。[[豊橋駅]] - [[静岡駅]]間を平日のみ、1日1往復運行していた。朝の時間帯には上り、夕方の時間帯には下りが運転され、いずれも豊橋駅 - [[島田駅 (静岡県)|島田駅]]の各駅および静岡駅に停車していた。なお、この地区の一部ではホームライナーが運転されている。 ;中京圏(名古屋近郊)における通勤種別 :中京圏では現在では私鉄・JRともに「通勤○○」といった名称の列車種別は設定されていない。 :JR東海では「特別快速([[東海道線 (名古屋地区)|東海道線]])」や「区間快速(東海道線・[[武豊線]]直通および[[関西線 (名古屋地区)|関西線]])」がそれに該当する。東海道線と[[中央線 (名古屋地区)|中央線]]ではホームライナーが運転されている。過去には中央線で「通勤快速」が設定されていた時期があった。 :名古屋鉄道では「快速急行」がラッシュ時に運行されるほかは、途中駅で列車種別を変更したり、その種別の標準停車駅以外の駅に一部列車が特別停車させたりすることでラッシュに対応している。近畿日本鉄道([[近鉄名古屋線|名古屋線]])などの他の私鉄では、ラッシュ時限定の速達列車の運行はない。 ;京阪電気鉄道における通勤種別 :{{See also|京阪特急#ライナー}} :[[京阪本線]]においては[[2017年]][[8月21日]]より、「ライナー」が運転開始。 :平日朝ラッシュ時に[[枚方市駅|枚方市]]発[[淀屋橋駅|淀屋橋]]ゆき1本、[[樟葉駅|樟葉]]発淀屋橋ゆき2本、[[三条駅 (京都府)|三条]]発淀屋橋ゆき1本、[[出町柳駅|出町柳]]発淀屋橋ゆき1本の計5本が運行されている。 :[[2008年]][[10月19日]]のダイヤ改正で、それまで平日朝ラッシュ時に[[守口市駅|守口市]]を通過していた下り(淀屋橋ゆき)「準急」を「通勤準急」として設定し、同改正で新設された「快速急行」の停車駅から守口市を除いた「通勤快急」(平日朝ラッシュ時の下りのみ運行)も新設された。また、「通勤特急」に類似する列車として「K特急」が、2003年~2008年までの平日朝夕のみ運行されていた。停車駅は「特急」の停車駅に比べ2駅(枚方市・樟葉)少ないが、朝ラッシュ時の淀屋橋行きは枚方市にも停車していた。なお、K特急は先述のダイヤ改正で「快速特急」に改称された<ref>{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h20/2008-08-25.pdf 中之島線開業にあわせ10月19日(日)初発から、京阪線で新ダイヤを実施します]}} 京阪電気鉄道 2008年8月25日</ref>。なお、「通勤急行」は2020年現在、設定されていないが、種別幕は存在。 ;阪急電鉄各線における通勤種別 :阪急電鉄では路線によって役割が異なる。[[阪急京都本線|京都本線]]における「通勤特急」は「特急」が停車する[[淡路駅]]を通過し、「特急」が通過する[[西院駅]]・[[大宮駅 (京都府)|大宮駅]]に停車する千鳥式停車になっている。一方の[[阪急神戸本線|神戸本線]]における「通勤特急」は「特急」の停車駅に[[塚口駅 (阪急)|塚口駅]]を加えたものとなっている。 :[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]の「通勤特急」は2015年3月21日のダイヤ改正で新設された。これは[[川西能勢口駅]]から[[大阪梅田駅 (阪急)|梅田駅]]までの片方向のみ5本運行され、改正前日の20日まであった「通勤急行」と同様、「特急[[日生エクスプレス]]」の停車駅に[[豊中駅]]を加えたものとなっている。神戸本線に「通勤急行」という種別が存在し、「急行」の停車駅に[[武庫之荘駅]]を加えたものになっている。宝塚本線には、2015年3月20日まで「通勤準急」という種別もあった。これは「準急」の停車駅から[[中津駅 (阪急)|中津駅]]・[[曽根駅 (大阪府)|曽根駅]]・[[岡町駅]]を除き(つまり急行と同じ停車駅である)、石橋駅(現:[[石橋阪大前駅]])より先[[箕面線]]へ直通していた。 === 通勤種別と同様の運行形態をとる列車 === なお、「通勤」を冠さないが、通勤種別に近い運転形態を取る列車もあり、以下のものが挙げられる。 ;JR東日本 :東北本線盛岡地区では朝の通勤時間帯に水沢発盛岡行き快速列車「[[アテルイ (列車)|アテルイ]]」が運行されていた。通勤快速に近い運転形態であるが、毎日運転であった。2023年3月17日で運転終了。 ;JR西日本 :JR西日本では通勤快速という種別は設定していないが、近い運転形態を取る列車として以下のものがある。 * [[おおさか東線]]・[[関西本線]]([[大和路線]])で運行している「直通快速」は朝夕のラッシュ時に運行しているため、実質的に通勤快速に近い種別であるが、土曜・休日も運転されている。 * [[阪和線]]で運行している「直通快速」は朝ラッシュ時に運行され、「紀州路快速」は朝ラッシュ時は[[日根野駅]] - [[和歌山駅]]間で快速運転を行う。 * 中国地方では快速「通勤ライナー」が運行されている。平日だけでなく、土曜・休日も運転されている。([[山口線]]の場合は[[SLやまぐち号]]が運転される3月〜10月の土休日は時刻が被るため平日のみ運転)。その他、中国地方の快速列車には○○ライナーという愛称を持つものが多い。 ;かつての小田急電鉄 :2018年3月16日までは小田原線・多摩線では、土曜・休日含むラッシュ時(平日朝千代田線方面行は[[新百合ヶ丘駅]]基準9時台のみ)、[[東京メトロ千代田線]]・[[常磐緩行線]]直通系統として、「[[多摩急行]]」が運転されていた。日中の急行通過駅に加え、[[向ヶ丘遊園駅]]を通過していた。この列車の1本直前または直後に、新宿駅行きの「急行」が運転され、向ヶ丘遊園駅に停車し、日中停車する[[経堂駅]]は通過するといった[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]を採り、[[代々木上原駅]]で互いに接続し合うことで、新百合ヶ丘駅 - 代々木上原駅間の混雑緩和を図っていた。なお、平日多摩急行運転前の時間帯、同じく千代田線方面の列車として「急行」「準急」も運転され、こちらも新宿駅行きの急行と同様、向ヶ丘遊園駅(・[[百合ヶ丘駅]]・[[読売ランド前駅]]・[[生田駅 (神奈川県)|生田駅]])に停車し、経堂駅を通過するようにしていた。2018年3月17日改正より千代田線直通の「多摩急行」が廃止となり、代わりに新宿駅着「通勤急行」が設定され、前項で示した千鳥停車の方式に変更された。 ;かつての京成電鉄 :2019年10月25日まで、本線・押上線(浅草線・京急本線・空港線直通含む)において、朝上り(京成上野・羽田空港・横浜方面)、夕下り(京成成田・成田空港方面)のみ「[[快速特急]]」が運行されていた(押上線押上駅 - 本線京成高砂駅間のみ日中も運行される)。2019年10月26日の改正後は、ラッシュ時のみならず日中にも本線京成上野駅 - 京成成田駅間の快速特急が運行されるようになった。平日に加え、土休日にも運行される。日中の特急の通過駅に加え、[[京成佐倉駅]] - [[京成成田駅]]間にも通過駅を有する。 ;阪神電気鉄道 :阪神本線においては「通勤特急」の呼称を使わず、同様の列車として梅田行きのみ「区間特急」が運行されている。古くは三宮始発でかつ特急よりも停車駅の少ない時代もあったが、2009年ダイヤ改正から[[青木駅]]始発となり、[[香櫨園駅]]までは各駅に停車、朝ラッシュ時の直通特急の停車駅である[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]、[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]を通過する一方、直通特急が通過する[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]、[[野田駅 (阪神)|野田駅]]に停車するという、[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]方式を取っていた。2016年ダイヤ改正で[[御影駅 (阪神)|御影駅]]始発となり、特急停車駅である魚崎駅と尼崎駅にも停車するようになった。 == アルファベットの付与 == 事業者によっては停車駅や料金制度の違いにより、アルファベットを付与するケースがある。 ;A特急・B特急など :[[長野電鉄]]の特急においては速達タイプで停車駅の少ない特急をA特急、主要駅停車タイプの特急をB特急と呼称している。かつてはC特急・D特急・E特急も存在した。詳細は[[長野電鉄長野線#特急]]を参照。 :東武鉄道においても使用車種と料金制度の違いにより、1969年から1971年まで[[東武1720系電車|1720系]]「DRC」使用の特急列車をA特急、1700系使用の特急列車をB特急と種別呼称を使用したことがある<ref>JTBパブリッシング 花上嘉成『JTBキャンブックス 東武デラックスロマンスカー』p.121 - 122</ref>。1964年から1969年までは1720系使用の特急列車はD特急と呼称していた<ref>日本交通公社『交通公社の時刻表』1964年10月号 東武鉄道のページを参照</ref>。詳細は[[けごん]]を参照。 :京阪電気鉄道では特急の上位種別として前述のとおり、K特急が使われた。これは後に快速特急となる種別である。 :山陽電気鉄道本線には特急の下位種別としてS特急がある。他社であれば急行もしくは準特急に相当する種別である。詳細は[[山陽電気鉄道本線#S特急]]を参照。 :なお、国鉄・JRが運行している[[エル特急|L特急]]は愛称の一部であって正式な列車種別ではない<ref>秀和システム 井上孝司『ダイヤグラムで広がる鉄の世界』p.268</ref>。なお、JR北海道では特急との上下関係が明確であり、実質的に下位種別的な意味合いで使われていたが、結果的には2017年3月4日のダイヤ改正で特急に統合されている。 ;A急行・B急行 :[[富山地方鉄道本線]]のかつての急行は停車駅の違いにより、A急行・B急行に分かれていた<ref name="SHIN-6_p56">{{Cite book|和書|author=今尾恵介、原武史(監修)|year =2010|title = 日本鉄道旅行歴史地図帳 6号 北信越―全線全駅全優等列車|publisher =新潮社|isbn = 978-4107900401|pages=56-57}}</ref>。 ;A快速・B快速 :阪和線には快速と区間快速の中間に位置づけられる種別としてB快速を運行していた。仙石線においても快速列車の停車駅が2種類あった時代、A快速とB快速に種類を分けていたが<ref name="kaisoku_1">{{PDFlink|http://www.jr-sendai.com/doc/100924-3.pdf 2010年12月ダイヤ改正について}} - 東日本旅客鉄道仙台支社 2010年9月24日</ref><ref name="RJ547 P65">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.547 p.65</ref>、2014年3月のダイヤ改正で統合された。なお、<!--仙山線、-->東京メトロ東西線の快速においても停車駅の違いにより、アルファベットを付与したケースがあるが、<!--それぞれ旅客案内上、-->内部的なもので便宜的に付与したものであり、正式な列車種別としては使われていない([[#列車種別ではないもの]]を参照)。 ;準急A・準急B :東武伊勢崎線の準急においては[[2003年]]まで北千住 - 太田間を速達運転する準急Aと北千住 - 東武動物公園間のみを速達運転する準急Bと区別していた<ref>東武鉄道『東武時刻表』<!--1988年10月号-->列車種別と停車駅案内図のページを参照。</ref>。ただし種別表示や時刻表本文では単に準急と案内していた<ref>東武鉄道『東武時刻表』 <!--1988年10月号 -->伊勢崎線のページを参照。</ref>。詳細は[[東武伊勢崎線#準急A・B]]を参照。 :[[北陸鉄道石川線]]においても停車駅の違いにより、この種別が使われたことがある<ref>{{Cite journal|和書|author = 西脇恵|title = 北陸鉄道|date = 1986-03 |publisher = 電気車研究会 |journal = 鉄道ピクトリアル |volume = 461|page=136}}</ref>。 ;{{要出典範囲|直通特急A・直通特急B|date=2020年4月}} :{{要出典範囲|阪神本線、神戸高速線、山陽電気鉄道の三社([[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]〜[[山陽姫路駅]])91.8kmを結ぶ上位種別電車。朝下りは甲子園を通過したり、朝夕ラッシュは白浜の宮駅と荒井駅に停車したりと、停車駅が複雑な特急列車である。AとBの違いは阪神神戸三宮駅 - 板宿駅間(9駅)の各駅に止まるかどうかの違いであり、双方の停車駅の差は3駅(西元町駅、大開駅、西代駅)である。これには理由があり、阪神電鉄は直通特急及び特急を10分間隔で運行しているのに対し、山陽電鉄では15分間隔で運行しているので、この差を埋めるためである。また2016年のダイヤ改定までは神戸三宮駅 - 山陽須磨駅間の実に13駅間を各駅に停車していた。|date=2020年4月}} == ライナー == '''ライナー''' (''liner'') とは[[1970年代]]以降に用いられる列車種別であるが、一般に「[[特急形車両|(特急)専用車両]]を使用するが、速達サービスに対する料金を徴収せず、座席確保に対する料金を徴収する列車」を指す場合が多い。 列車名として「○○ライナー」と称する列車のうちには、速達サービスに対する料金を徴収する特急列車や、料金不要の快速列車なども存在するが、本節では先に挙げた定義によるものとする。 その後、[[1984年]][[6月1日]]に[[日本国有鉄道]]が増収策の一環および回送列車の有効活用として、夕刻の特別急行回送列車に乗車整理券を発行し、[[東北本線]][[上野駅]] - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]間で[[ホームライナー]]の名称で客扱いを行った。この列車は快速列車の延長とされ、東京・札幌など他の都市圏でも波及し、継承会社であるJR各社やそれから分離した[[第三セクター鉄道]]でも運行されるようになった。 {{See|[[ホームライナー]]}} == 列車種別のイメージカラー == {{See also|日本の鉄道ラインカラー一覧}} 複数の列車種別を設定しているほとんどの鉄道各社で色により列車種別を識別できるようにして種別幕や駅での案内表示・時刻表に表記されている。白地または黒地に色文字又は色地に白または黒文字のいずれかで表記されている。 ===各社ごとの列車種別のイメージカラー=== ==== JR各社 ==== ;'''JRグループ'''…全国的には以下のパターンを採用 :特急/急行/快速:赤、各停/普通:黒 :東京・大阪・名古屋・福岡などの大都市では以下の様な配色を採用しているケースがある。 ;'''JR東日本''' :[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[伊東線]]・[[宇都宮線]]([[東北本線]])・[[高崎線]]・[[上野東京ライン]]・[[湘南新宿ライン]] :(沼津・伊東・熱海・小田原・国府津・平塚 - 東京・新宿 - 大宮・小金井・宇都宮・黒磯・籠原・深谷・高崎・前橋) ::通勤快速(廃止):紫、特別快速:水色、快速(アクティー、ラビット、アーバン含む):橙、普通:緑 :[[京浜東北線]]・[[根岸線]]・[[横浜線]] ::京浜東北線快速:赤、横浜線快速:ピンク、京浜東北線各駅停車:水色、横浜線各駅停車:黄緑 :[[中央線快速]]・[[青梅線]]・[[五日市線]]・[[八高線]]・[[富士山麓電気鉄道富士急行線|富士急行線]](東京・新宿 - 高尾・大月・河口湖・青梅・奥多摩・武蔵五日市・高麗川) ::通勤特快:赤、中央特快:青、青梅特快:緑、[[ホリデー快速おくたま|ホリデー快速]]:上部はピンク・下部は「おくたま」が水色・「あきがわ」が橙、通勤快速:紫、快速:橙、各駅停車(東京 - 三鷹 中央線各駅停車):黄色、※特別快速 : 水色(異常時・障害時に使用する場合あり) :[[埼京線]]・[[川越線]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]・[[相鉄本線|相鉄線]]直通、新木場・羽沢横浜国大 - 大崎 - 大宮 - 川越) ::通勤快速:ピンク、快速:青、各駅停車/普通:緑 :[[横須賀・総武快速線]](久里浜 - 東京 - 千葉、[[内房線]]、[[外房線]]、[[総武本線]]、[[成田線]]直通) ::通勤快速(廃止):紫、快速:赤、各駅停車/普通:緑(久里浜-東京間及び、総武本線直通成東行きの佐倉-成東間とその折り返し始発の成東-佐倉間はそれぞれ各駅停車/普通扱い) :[[京葉線]](東京 - 西船橋・蘇我、[[外房線]]、[[内房線]]、[[東金線]]直通) ::通勤快速:赤、快速:緑、各駅停車/普通:青 :[[常磐線]][[常磐快速線|快速]]・[[常磐緩行線|常磐線各駅停車]](品川 - 上野 - 取手・土浦) ::特急/特別快速:赤、普通(中距離電車・上野 - 取手間快速扱い):青、快速(上野 - 取手間・我孫子 - 成田間普通):エメラルド(緑)、各駅停車(東京メトロ千代田線・小田急線直通):灰(車両ではメトロ車は灰色、JR・小田急車はエメラルド、綾瀬から直通先の表示へ切り替え実施) :[[南武線]] ::快速:ピンク、各駅停車:黄色 :[[仙石東北ライン]] ::特別快速/快速:赤、快速(仙台 - 高城町間各駅停車):緑 ;'''JR東海''' :全社で以下の通り統一されている。 ::特急/ホームライナー:赤、特別快速:黄、新快速/快速『[[みえ (列車)|みえ]]』:橙、快速:青、区間快速:黄緑、普通:黒 :例外 ::東京経由東北本線直通普通([[東海道線 (静岡地区)|東海道本線静岡地区]]のJR東日本からの直通列車):緑 ;'''JR西日本(アーバンネットワークエリア)''' :JR西日本では[[アーバンネットワーク]]エリア全体で以下のパターンを採用している。 ::特急/通勤特急:赤、[[新快速]]/[[関空快速・紀州路快速|関空快速]]:青、[[おおさか東線#運行形態|直通快速]](おおさか東線経由):ブルーグレー、 ::[[関空快速・紀州路快速|紀州路快速]]/快速/直通快速(阪和線)/みやこ路快速:橙、区間快速:緑、普通:白 :ただし、以下のような例外がある。 ::関空特急「[[はるか (列車)|はるか]]」:紫、[[大和路快速]]/快速(大和路線)/区間快速(大和路線):緑(エメラルドグリーン) ::区間快速([[奈良線]]):橙 ;'''JR九州(福岡近郊区間)''' :[[鹿児島本線]](門司港 - 荒尾) ::特急:赤、(青)快速:青、(緑)快速:緑、区間快速:橙、普通:黒 ::※(青)快速は門司港 - 荒尾間快速、(緑)快速は博多駅を境に門司方面または荒尾方面どちらかの区間が各駅停車になる。 ==== 私鉄各社 ==== ;'''東武鉄道''' :[[東武本線|伊勢崎・日光線系統]] ::[[けごん|特急スペーシア]]:橙、[[りょうもう|特急りょうもう]]:赤、快速/区間快速:水色、急行/区間急行:赤、準急/区間準急:緑、普通:黒 :[[東武東上線|東上線]] ::川越特急:紫、:TJライナー:橙、快速急行:青、快速:水色、急行:赤、通勤急行:紫、準急:緑、普通:黒 ;'''西武鉄道''' :特急:赤、快速急行:紫、急行:橙、通勤急行:黄色、快速:水色、準急:緑、通勤準急:青、各停:灰色 ;'''京成電鉄・北総鉄道・芝山鉄道・京浜急行電鉄''' :[[スカイライナー]]:紺、モーニング,イブニングライナー:紫、京急ウィング号/快特/快速特急:緑、[[エアポート快特]]/アクセス特急:橙、特急:赤、通勤特急:水色、急行/エアポート急行:青、快速:ピンク、普通:黒 ;'''京王電鉄''' :[[京王ライナー]]: KEIO LINERの文字, 京王ライナー愛称と番号, 行先のイメージ絵、[[Mt.TAKAO号]]:Mt.TAKAOの文字と山の絵(緑色)、特急:赤、準特急(廃止):橙、急行:緑、区間急行:黄緑、快速:青、各停:黒 ;'''小田急電鉄''' :[[小田急ロマンスカー|特急ロマンスカー]]:赤、快速急行:橙、通勤急行:白地+赤字、多摩急行(廃止):ピンク、急行:赤、通勤準急:白地に緑字、準急:緑、区間準急(廃止):水色、各駅停車:青 ;'''東急電鉄・横浜高速鉄道''' :特急:橙、通勤特急:橙+赤、急行:赤、準急:緑、各停([[二子新地駅]]と[[高津駅 (神奈川県)|高津駅]]を通過):白地に緑字、各停(それ以外):青 ;'''相模鉄道''' :特急/通勤特急:橙、急行/通勤急行:赤、快速:青、各停:灰、JR線直通特急/JR線直通各停(上りのみ):黒字+緑字 ;'''首都圏新都市鉄道''' :快速:赤、通勤快速:橙、区間快速:紺、普通:灰 ;'''静岡鉄道''' :急行:赤、通勤急行:橙、普通:青  ;'''名古屋鉄道''' :[[名鉄特急|ミュースカイ/快速特急/特急]]:赤、快速急行/急行:青、準急:緑、普通:黒 ;'''近畿日本鉄道''' :特急/快速急行/区間快速急行(廃止):赤、急行/区間急行:橙(区間急行種別幕:赤)、準急/区間準急:緑(区間準急時刻表表示:茶)、普通:青 ;'''京阪電気鉄道''' :快速特急「洛楽」:快速特急部分が桃、洛楽部分が白地に桃字、[[京阪特急|特急]]:赤、ライナー:白地に赤字、快速急行/通勤快急:紫、急行/深夜急行(廃止)/※通勤急行:橙、準急/通勤準急:青、区間急行:緑、普通:黒 ::※定期列車としての運転はないが、幕は存在 ;'''阪急電鉄・能勢電鉄''' :[[京とれいん|快速特急A]]:白地+赤字、快速特急/[[準特急]]/直通特急/特急/通勤特急/[[日生エクスプレス]]:赤、通勤急行/日生急行/妙見急行/急行:黄(種別幕:橙)、快速:水色(種別幕:緑:2013年12月20日まで<ref>西山天王山駅の開業にあわせて京都線のダイヤ改正を実施します http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/ER201309202N1.pdf</ref>)、準急:緑、普通:黒 ;'''阪神電気鉄道・山陽電気鉄道''' :阪神本線・阪神なんば線 ::[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]/特急:赤、直通特急(神戸三宮駅-板宿駅間各停):黄、区間特急:茶(種別幕:赤)、快速急行:水色、急行/区間急行:赤、準急/区間準急:緑、普通:青 :山陽電気鉄道本線 ::直通特急/特急:赤、直通特急(神戸三宮駅-板宿駅間各停):黄、S特急:緑、普通:黒 :::阪神の時刻表では直通特急は姫路方面行きに限り、神戸三宮駅から板宿駅まで各駅停車のものが黄色地+青字、そうでないものが赤地+白字で案内されているが、大阪梅田行きの直通特急はすべて赤地+白字で案内されている。 ;'''南海電気鉄道・泉北高速鉄道''' :特急:赤、快速急行/空港急行/急行:橙、区間急行:緑、準急:青、普通:各駅停車:黒 ;'''神戸電鉄''' :特快速:ピンク、急行:赤、準急:緑、普通:黒 ;'''西日本鉄道''' :[[西鉄特急|特急]]:赤、急行:緑、普通:黒 == 列車種別ではないもの == 資料によっては列車種別の一種として扱われることもあるが、これらは正式な列車種別として使われたものではない(現在使用されていないものを含む)。 *[[エル特急]] - 国鉄・JR在来線の特急列車の愛称であり、正式な列車種別ではない。ただし時刻表では区別のため、「L」を図案化した記号で表される。 *[[新特急]] - 国鉄・JR東日本が東北本線・高崎線系統において[[国鉄185系電車|185系電車]]を使用した特急列車の愛称の一部であり(「新特急○○」)、正式な列車種別ではない。 *JR西日本・アーバンネットワークおける通勤特急<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/train/rakuraku_harima/|title=らくラクはりま 289系|accessdate=2020/09/03|publisher=JR西日本}}</ref> - 2019年3月16日ダイヤ改正で、「[[らくラクはりま]]」運行開始と共に設定されたJR西日本の通勤特急<ref>{{Cite press release |和書 |title=「らくラク」通勤で、毎日に充実したひとときを。JR神戸線に通勤特急がデビューします! |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2018-11-30 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13475.html |accessdate=2020-09-03}}</ref> はPR・案内上の名称であり、あくまで普通や快速に対する特急である<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20190617-rakurakuharima/ JR西日本“通勤特急”「らくラクはりま」料金設定にさまざまな工夫] - マイナビニュース (2019年06月17日)2020年9月3日閲覧</ref>。2020年3月時点では、[[JR京都線]]・[[琵琶湖線]]方面の「[[びわこエクスプレス]]」と[[JR神戸線]]方面の「らくラクはりま」が該当し、平日朝夕ラッシュ時に運行されている。 :{{See also|びわこエクスプレス|らくラクはりま}} *寝台特急・寝台急行 - 基本的に[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のみで組成された列車は市販の時刻表では星を図案化した記号で表しているが、あくまで特急列車・急行列車であり、正式な列車種別ではない。 *アルファベットの付与 *:優等(快速)列車によっては停車駅<!--や料金制度-->の違いにより、便宜的にA・B・C…などとアルファベットを付与する場合がある。この種の事例としては以下のものが挙げられる。 **A快速・B快速・C快速など - [[東京メトロ東西線]]の快速列車においては[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]時代、内部では停車駅の少ない順にA快速・B快速・C快速と便宜的にアルファベットを付与していた。なお、C快速は現在における通勤快速の前身であった。JR東日本仙山線においても一部の駅でA快速・B快速・C快速などと案内されているが<ref>北仙台駅及び愛子駅の駅時刻表より。</ref>、市販の時刻表では快速の種類を分けておらず<ref>JTBパブリッシング『JTB時刻表』仙山線のページを参照。</ref>、列車種別として使われた事実も乏しい。 *ノンストップ特急・甲特急・乙特急・観光特急 - 近鉄特急においては部内では運転上、名阪・阪伊・名伊の3系統について、速達タイプで停車駅の少ない特急を甲特急、主要駅停車タイプの特急を乙特急と呼称しているが、正式な種別ではない{{refnest|group="注釈"|列車運行図表([[ダイヤグラム]])では特急(甲)・特急(乙)と表現されている。甲乙が分かれていない系統は単に特急である<ref>近畿日本鉄道作成「名古屋線・山田線・鳥羽線・志摩線・湯の山線・鈴鹿線列車運行図表」(1996年3月15日変更)の停車駅欄。</ref>。<!--しまかぜ運行開始後の列車運行図表は持っていないので、表現がどのようになっているかは不明-->}}。また、甲特急と呼ばれる列車のうち、長距離無停車区間がある列車(2012年以降は阪伊のみ)は「ノンストップ特急」とも呼ばれているが、こちらは愛称であり、列車種別ではない。なお、主要駅停車タイプの特急は[[1960年]]の運行開始当初は準特急であり、こちらは正式な列車種別として使われたものであった<ref name="sharyohattatsu-ltdexp-29" group="注釈">{{Cite book|和書|title=車両発達史シリーズ2 近畿日本鉄道特急車|author=藤井信夫|date=1992-08-01|publisher=関西鉄道研究会|page=29}} - 1960年1月20日変更時の列車運行図表の停車駅欄に「準特急」と記載されている。</ref>。[[2013年]]以降、専用車両「しまかぜ」([[近鉄50000系電車|50000系]])・「青の交響曲(シンフォニー)」([[近鉄16200系電車|16200系]])を使用した列車は「観光特急」と名付けられ、特に「しまかぜ」は甲特急と停車駅が一部異なるが、これも特急の一種である。詳細は[[近鉄特急]]を参照。 *色による区別 - 同一種別であるが、停車駅の違いにより、色で区別するケースもある。例として[[仙石東北ライン]]の快速列車や[[東急大井町線]]の各駅停車などが挙げられる。また相模鉄道では同一種別であるが、乗り入れ先路線の違いにより、種別の文字色を区別している。 *日本国有鉄道における特別準急 - 特別準急は小田急電鉄独自の種別であるが、国鉄準急のうち、[[国鉄157系電車|157系電車]]を使用した準急列車を表現する用法でも使われたことがある<ref>JTBパブリッシング [[寺本光照]]『キャンブックス 国鉄・JR 悲運の特急・急行列車50選』p.52</ref>。 *[[優等列車]] - 特急・急行列車といった速達列車のことを優等列車という表現が使われることがあるが、正式な列車種別ではない。京王電鉄<ref>[[交通新聞社]]『京王電鉄の世界』p.77</ref> や近畿日本鉄道のように料金不要の速達列車には優等列車という表現に否定的な見解を持つ事業者もある<ref>[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/daiyahenkou2.pdf 平成26年のダイヤ変更について] - 近畿日本鉄道</ref>。 *各駅停車の通過 - 先述の東急大井町線[[二子玉川駅|二子玉川]]〜[[溝の口駅|溝の口]]駅間やJR埼京線[[池袋駅|池袋]]〜[[大崎駅|大崎]]駅間などでは案内上では各駅停車と案内されるが、事実上は同区間を併走する路線(例でいえば東急田園都市線、[[JR山手線]])の快速運転となる路線も存在する。 == 日本国外の列車種別 == {{節スタブ}} 日本国外の列車種別は国や事業者ごとに異なり、各駅停車でもない限り、必ずしも日本の種別に当てはまるわけではない。 === 韓国 === 韓国の[[韓国鉄道公社]](KORAIL)ではソウル周辺で運行している通勤電車路線である[[首都圏電鉄]]([[広域電鉄]])とその他の路線である一般路線に分けられている。 首都圏電鉄(広域電鉄)では、各駅停車の「一般」と、料金不要列車でJRの快速列車と同種の種別である「特急」・「急行」があり、いずれも通勤形車両を使用する。 一般路線では優等列車を主体とした運行であり、[[ITX-セマウル]]、[[ムグンファ号]]、[[ヌリロ]]などの座席指定の優等列車については列車愛称が列車種別の区分を兼ねている。メディアによっては特急列車や急行列車として扱われることもあるが<ref>一例として、[http://www.konest.com/contents/traffic_info_detail.html?id=1654 ソウルから地方への行き方〜鉄道編〜] - コネスト</ref>、正式な列車種別としては使われていない。また、[[通勤列車 (韓国)|通勤列車]]は各駅に停車し、全席自由であるが、列車は指定される。 === 台湾 === 台湾の[[台湾鉄路管理局]]では座席指定の優等列車である[[対号列車]]と全車自由席の普通列車である非対号列車に二分している。対号列車である[[自強号]]、[[莒光号|莒光號]]、[[復興号]]は列車愛称が列車種別としても使われている。非対号列車は速達タイプである区間快車と各駅に停車する[[区間車]]と[[普快車]]がある。運賃は種別ごとに異なるが、復興号と区間車・区間快車は運賃制度上では同格種別であり、座席指定の有無による差異がある。一方、区間車と普快車は冷房の有無により運賃に格差をつけている。車両も種別ごとに専用の車両が使用される。 [[桃園捷運公司]]が運営する[[空港連絡鉄道]]の[[桃園機場捷運]]では台湾の[[捷運]]路線で初めて速達種別が登場した。「直達車(Express)」として台北 - [[桃園国際空港|桃園機場]]で運行されている。 === 中国 === 中国では[[高速鉄道]]路線(日本の[[新幹線]]に相当)においては最高速度の違いにより、高速動車組列車、城際動車組列車、動車組列車があり、CRH型やCR型電車を使用する。その他の線区(日本の[[在来線]]に相当)においては列車愛称はないが(一部を除いて、例えばZ12/13、Z14/11「英雄」)、大都市間列車である直達列車、長距離優等列車である特快列車・快速列車・普快列車、各駅停車する普客列車があり、冷房の有無により運賃に格差をつけている。 *中国国鉄の列車番号と種別の関係 **Gで始まる:300&nbsp;km/hより速い高速列車 **Dで始まる:300&nbsp;km/hより遅い高速列車 **Cで始まる:都市間高速列車 **Zで始まる:直達 **Tで始まる:特快 **Kで始まる:快速 **数字だけ、1001~5998:普快 **数字だけ、6001~7598:普客 **数字だけ、7601~8998、または57で始まる5桁:通勤 **Sで始まる:市郊 **Lで始まる:臨時 **Yで始まる:旅遊(観光列車) **Xで始まる:郵便 **0で始まる:回送 **Fで始まる:故障による回送 **DJで始まる:事業用車両 === ヨーロッパ === ヨーロッパでは[[上下分離方式]]により、種別ごとに運行会社が分かれている。[[ヨーロッパの列車種別]]を参照。 == 参考文献 == *交友社『鉄道ファン』2007年10月号 特集「列車種別バラエティ」 *秀和システム、井上孝司『ダイヤグラムで広がる鉄の世界』2009年 ISBN 978-4-7980-2412-7。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === <references/> == 関連項目 == * [[会社別列車種別一覧]] * [[日本の列車愛称一覧]] * [[通過標識灯]] {{日本における列車種別一覧}} {{DEFAULTSORT:れつしやしゆへつ}} [[Category:列車種別|*]] [[Category:列車]] [[Category:鉄道運転業務]] {{Rail-stub}}
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修道士カドフェル
『修道士カドフェル』(しゅうどうしカドフェル、The Cadfael Chronicles)は、エリス・ピーターズ作の連作歴史推理小説。一風変わった経歴を持つ修道士のカドフェルがさまざまな事件を解決していく。 12世紀前半のイングランド。ヘンリー1世亡きあと、スティーブン王と従妹のモード王女の王位争いによる内戦が起こる。また、シュルーズベリはウェールズとの国境に近いため、ウェールズのオエイン・グウィネズ大公も、虎視眈々と領土の拡張をねらっている。 1994年から1998年まで、イギリスのテレビ局ITVにおいて映像化された。主演はデレク・ジャコビ。ハンガリーで撮影され、第4シーズンまで制作された。 括弧内は登場話、日本語吹き替え。
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『修道士カドフェル』は、エリス・ピーターズ作の連作歴史推理小説。一風変わった経歴を持つ修道士のカドフェルがさまざまな事件を解決していく。
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アセチルサリチル酸
アセチルサリチル酸(アセチルサリチルさん、Acetylsalicylic Acid)は、代表的な解熱鎮痛剤のひとつで非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき医薬品。ドイツのバイエルが名付けた商標名のアスピリン(Aspirin)で知られており、日本薬局方では「アスピリン」が正式名称になっている。 消炎・解熱・鎮痛作用や抗血小板作用を持つ。サリチル酸を無水酢酸によりアセチル化して得られる。 アスピリンは、関節炎、痛風、腎結石、尿路結石、片頭痛、さらに、小規模から中規模な手術後や、外傷、生理痛、歯痛、腰痛、筋肉痛、神経痛における鎮痛目的で使用される。この他、抗血小板薬として使用する場合もある。 アスピリンは単独もしくは併用処方により、特定の頭痛を効果的に治めるが、他の頭痛に対しては有効性が疑問視されている。二次性頭痛、すなわち別の障害または外傷によって惹き起こされる頭痛については、医療専門家による治療が必要である。 頭痛は国際頭痛標準分類(ICHD)において、緊張性頭痛(最も一般的)、片頭痛、群発頭痛と区別されている。アスピリンや他のOTC鎮痛薬は、緊張性頭痛の治療に効果的であると広く認識されている。 アスピリンは片頭痛の治療における第一選択肢であり、特にアスピリン/アセトアミノフェン/カフェインの合剤は、低用量スマトリプタンと並べられる。最初に片頭痛が始まったとき、これを止めるのに最も効果的である。 アスピリンの解熱効果は、疼痛軽減と同じくCOX阻害効果によるものである。成人に対する解熱投与は広く確立されているが、一方で子供の発熱、ウイルス感染症、細菌感染症への使用については、米国家庭医師会(英語版)、米国小児科学会、アメリカ食品医薬品局(FDA)含む多くの医学会および規制機関らは、まれにライ症候群のような深刻な病気を招く可能性を考慮し、アスピリンやその他のサリチル酸塩を使用しないよう強く勧告している。1986年、FDAはアスピリン含有薬について、ライ症候群のリスクのため、青年への使用を推奨しないことをパッケージラベルに記載するよう要求した。 アセチルサリチル酸(アスピリン)はそのアセチル基が血小板シクロオキシゲナーゼを不可逆的に阻害することにより、血小板の凝集を抑制して血栓の形成を妨げることから、脳梗塞や虚血性心疾患を予防するために抗血小板剤として(毎日)少量のアセチルサリチル酸を処方することがある。 適応外使用で、産婦人科領域でも抗凝血を目的に使われることがあるが、出産予定日12週以内の妊婦には禁忌である。 アスピリンの摂取は、胃障害を起こす可能性がある。胃細胞に取り込まれたアセチルサリチル酸は胃粘膜保護に関わるプロスタグランジンの産生を阻害し、胃酸分泌の阻害を引き起こす。アスピリンの服用には確かに利点があるが、不必要なアスピリンの使用は出血の危険度を高める(アスピリン・ジレンマ)。「アスピリンの摂取を中止した場合、出血性合併症の危険度が約32%減少した」という。『アメリカ内科学紀要』(The Annals of Internal Medicine)にて、2019年に行われた40歳以上の14,000人を対象とした調査結果が掲載された。それによれば、心臓病を患っていない人の約25%が毎日アスピリンを服用しており、そのうちの約23%は医師の許可が無い状態で服用していた。さらに、心臓病を患っていない70歳以上の研究参加者の約半数が、毎日アスピリンを服用していたという。2018年10月18日号の『The New England Journal of Medicine』に掲載された研究では「アスピリンを毎日服用すると出血の危険度が上昇する」と記述された。マヒュー・ソーラン(Matthew Solan)は「消化管出血、胃潰瘍、血小板減少、血液凝固障害、関節炎やその他の炎症性疾患のために非ステロイド性抗炎症薬を服用している人は、アスピリンの服用を避けるべきだ」と書いた。 胃への副作用を抑制するために、現行の市販薬は胃を保護するための薬を配合している物が多い。例えばケロリンのような富山の配置薬は和漢薬のケイヒ末を配合している。他に代表的な市販薬バファリンはアセチルサリチル酸を制酸剤であるダイアルミネート(またはダイバッファーHT)で包んでいる(制酸剤は共にアルミニウム、マグネシウム等の化合物、または合成ヒドロタルサイト)。 風邪(特にインフルエンザや水痘)に感染した小児が使用すると、ライ症候群を引き起こすことがある。肝障害を伴った重篤な脳障害で死亡する危険があるため、小児への使用は禁忌。小児の解熱鎮痛薬は、アセトアミノフェンを使用する。 なお、高尿酸血症の原因の1つとしてアセチルサリチル酸の服用が挙げられているので、「痛風患者は鎮痛剤としてのアスピリンの服用は避けるべき」とする説がある一方で、尿細管内での尿酸再吸収を抑制するため、尿酸排泄促進剤としても使用されている。 また、抗凝血を目的に高用量のアセチルサリチル酸を服用した場合、効果が発揮されないだけでなく、胃に強い負担がかかるため、注意が必要である。 アスピリンは「非ピリン系の薬品」(Nonpyrazolone Drug)であり、アンチピリンのような「ピリン系の薬品」(Pyrazolone Drug)とは異なる。片仮名表記では「ピリン」の部分が同じなので混乱しやすいが全く無関係である(英語ではアスピリンの「ピリン」の綴りは「Pirin」、ピリン系の「ピリン」の綴りは「Pyrine」である)。アスピリンとピリン系の薬品とでは、副作用もそれぞれ異なる。 一般的な副作用は次の通りである:吐き気、消化不良、消化器潰瘍・出血、肝臓酵素増加、下痢、ふらつき、塩および体液停留、高血圧、喘息(アスピリン喘息と呼ばれている)。 稀な副作用は次の通りである:食道潰瘍、心不全、高カリウム血症、腎臓障害、昏迷、気管支痙攣、発疹。 医療用医薬品の添付文書には頻度は不明であるが、重大な副作用として、ショック、アナフィラキシー、頭蓋内出血、肺出血、消化管出血、鼻出血、眼底出血、中毒性表皮壊死融解症(Toxic Epidermal Necrolysis:TEN)、皮膚粘膜眼症候群(Stevens-Johnson症候群)、剥脱性皮膚炎、再生不良性貧血、血小板減少、白血球減少、喘息発作誘発(上記)、肝機能障害(上記)、黄疸、消化性潰瘍(上記)、小腸・大腸潰瘍が掲載されている。 メカニズムを解明したのはイギリスのロイヤルカレッジ薬理学教授で薬理学者のジョン・ベインである。1971年、彼は、「アセチルサリチル酸は体内での伝達物質(プロスタグランジン)の合成を抑制し、痛み、発熱、炎症に効果を発揮する」ことを解明発表した。実にホフマンの合成から70年以上の歳月が経過していた。 アセチルサリチル酸はシクロオキシゲナーゼをアセチル化することにより阻害しプロスタグランジンの産生を抑制する。つまり、アラキドン酸と競合してシクロオキシゲナーゼを阻害するほかの非ステロイド性抗炎症剤とは異なる機序により抗炎症作用を示す。炎症、発熱作用を持つプロスタグランジンが抑制されることで抗炎症作用・解熱作用を発現する。このときの用量は330 mg1日3回である。また、シクロオキシゲナーゼは血小板の作用に関係するトロンボキサンの合成にも関与している。アセチルサリチル酸はトロンボキサン作用も抑制するため、抗血小板作用も有し、抗血小板剤として81mgから100mgを1日1回の投与を行うことがある。 プロスタグランジンを発見しアセチルサリチル酸の抗炎症作用のメカニズムを解明した薬理学者のジョン・ベイン(イギリス)、ベンクト・サムエルソン(スウェーデン)、スーネ・ベルクストローム(スウェーデン)の3人は1982年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。プロスタグランジンの研究は、この後急速に脚光を浴び、生化学の最先端分野の1つとして今日に至っている。 アセチルサリチル酸は以下の手順で合成される。 フェノールを高温と高圧の下で二酸化炭素と水酸化ナトリウムと反応させて、サリチル酸の二ナトリウム塩を合成する。このカルボキシ化はコルベ・シュミット反応 (Kolbe-Schmitt reaction) と呼ばれ、フェノラートアニオンは共鳴効果によりオルト位の求核性が高まり、これが二酸化炭素に対して求核付加反応する。後処理で二ナトリウム塩を希硫酸で中和し、サリチル酸を遊離させる。 このサリチル酸に無水酢酸を作用させてアセチル化し、アセチルサリチル酸を得る。 現在、バイエル薬品株式会社が製造販売する「アスピリン」と、アスピリンに制酸緩衝剤(アルミニウム・マグネシウム系)を加えたライオンの「バファリン」、粉末状で胃粘膜保護のため、和漢薬(ケイヒ)が加えられた銭湯の広告としても有名な富山めぐみ製薬の「ケロリン」が特に知られており、それぞれ複数の後発医薬品企業から、局方品や後発品相当の製品が発売されている。ここではバイエルのアスピリンについて記載する。 1錠あたりアセチルサリチル酸500 mg(高用量)を含有するバイエルのシンプルな製品。日本では吉富製薬、バイエル薬品を経て2001年10月から明治製菓が、2008年10月からは佐藤製薬が発売している。指定第2類医薬品である。 適応症は、解熱や頭痛・外傷痛を始めとする各種の鎮痛。ライオンのバファリンAよりも、1錠あたりのアセチルサリチル酸そのものの量が多く、制酸剤を含まないことから、効果そのものは強い。ただし、胃への負担を軽くする制酸剤を含まないため、使用上の注意に「胃・十二指腸潰瘍を起こしている人」は服用しないようにとの但し書きがある。合成ヒドロタルサイトを含むバファリンの場合は、同症状の場合、医師または薬剤師に相談するよう書かれてはいるが、服用の禁止については書かれていない。 2010年10月22日、オックスフォード大学のピーター・M・ロスウェル(Peter M. Rothwell)らは、「毎日少なくとも75mgのアスピリンを数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『Lancet』に掲載された。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には癌の発症を防げない可能性がある、と付記している。 また、アスピリンの服用は癌の危険度を上昇させる可能性がある。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、血糖値を降下させるメトフォルミン(Metformin)がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる。また、高血糖とインスリン抵抗性が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇が無い場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは1980年代に行われた臨床研究で既に実証された。高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。 1錠あたりアセチルサリチル酸100 mgを含有する処方箋医薬品。低用量のアセチルサリチル酸を投与すると、抗血小板作用が現れることで、日本脳卒中学会・日本循環器学会から、抗血小板剤としての承認・発売要望から、平成11年2月1日付厚生省医薬審第104号通知「適応外使用に係る医療用医薬品の取り扱いについて」の適応条件に本剤が該当すると判断し承認申請、2000年秋に心筋梗塞・狭心症、虚血性脳血管障害の血栓塞栓形成抑制の効果で、承認・薬価収載され、2001年1月に発売された。 川崎病に対しても、臨床的に有効かつ安全な治療法であることが実証されていることから、本剤の追加効能として承認事項一部変更承認申請を行ない、その後、日本小児循環器学会から厚生労働省に対して要望書が提出され、2005年に承認、川崎病の治療にも適用が拡大された。 また、乳幼児向けの投薬量が調整しやすいように、新規にアセチルサリチル酸の粉剤が開発され、2006年に発売された。川崎病の治療のほか、バイエルアスピリンと同様の解熱鎮痛にも適用されている。 ヤナギの鎮痛作用はギリシャ時代から知られていた。紀元前400年ごろ、ヒポクラテスはヤナギの樹皮を熱や痛みを軽減するために用い、葉を分娩時の痛みを和らげるために使用していたという記録がある。 19世紀にはヤナギの木からサリチル酸が分離された。その後、アセチルサリチル酸の出現まではサリチル酸が解熱鎮痛薬として用いられたが、サリチル酸には強い胃腸障害が出るという副作用の問題があった。しかし1897年、バイエル社のフェリックス・ホフマンによりサリチル酸がアセチル化され、副作用の少ないアセチルサリチル酸が合成された。 アセチルサリチル酸は世界で初めて人工合成された医薬品である。1899年3月6日にバイエル社によって「アスピリン」の商標が登録され発売された。翌1900年には粉末を錠剤化。発売してからわずかな年月で鎮痛薬の一大ブランドに成長し、なかでもアメリカにおける台頭はめざましく、20世紀初頭には、全世界のバイエルの売り上げのうち3分の1を占めた。 しかし、第一次世界大戦のドイツの敗戦で連合国によって商標は取り上げられ、1918年、敵国財産没収によりバイエルの「商標」「社名」、そして「社章(バイエルクロス)」までもが競売にかけられた。この時から76年間、1994年にバイエルが全ての権利を買い戻すまで、アメリカではバイエル社製のアスピリンは姿を消すが、この間にもアスピリンは権利を買い取ったスターリング社が製造していた。その商品名には「バイエルアスピリン」がそのまま使われ、社章付きで売られ続けた。
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Medicine)にて、2019年に行われた40歳以上の14,000人を対象とした調査結果が掲載された。それによれば、心臓病を患っていない人の約25%が毎日アスピリンを服用しており、そのうちの約23%は医師の許可が無い状態で服用していた。さらに、心臓病を患っていない70歳以上の研究参加者の約半数が、毎日アスピリンを服用していたという。2018年10月18日号の『The New England Journal of Medicine』に掲載された研究では「アスピリンを毎日服用すると出血の危険度が上昇する」と記述された。マヒュー・ソーラン(Matthew Solan)は「消化管出血、胃潰瘍、血小板減少、血液凝固障害、関節炎やその他の炎症性疾患のために非ステロイド性抗炎症薬を服用している人は、アスピリンの服用を避けるべきだ」と書いた。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "胃への副作用を抑制するために、現行の市販薬は胃を保護するための薬を配合している物が多い。例えばケロリンのような富山の配置薬は和漢薬のケイヒ末を配合している。他に代表的な市販薬バファリンはアセチルサリチル酸を制酸剤であるダイアルミネート(またはダイバッファーHT)で包んでいる(制酸剤は共にアルミニウム、マグネシウム等の化合物、または合成ヒドロタルサイト)。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "風邪(特にインフルエンザや水痘)に感染した小児が使用すると、ライ症候群を引き起こすことがある。肝障害を伴った重篤な脳障害で死亡する危険があるため、小児への使用は禁忌。小児の解熱鎮痛薬は、アセトアミノフェンを使用する。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、高尿酸血症の原因の1つとしてアセチルサリチル酸の服用が挙げられているので、「痛風患者は鎮痛剤としてのアスピリンの服用は避けるべき」とする説がある一方で、尿細管内での尿酸再吸収を抑制するため、尿酸排泄促進剤としても使用されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、抗凝血を目的に高用量のアセチルサリチル酸を服用した場合、効果が発揮されないだけでなく、胃に強い負担がかかるため、注意が必要である。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アスピリンは「非ピリン系の薬品」(Nonpyrazolone Drug)であり、アンチピリンのような「ピリン系の薬品」(Pyrazolone Drug)とは異なる。片仮名表記では「ピリン」の部分が同じなので混乱しやすいが全く無関係である(英語ではアスピリンの「ピリン」の綴りは「Pirin」、ピリン系の「ピリン」の綴りは「Pyrine」である)。アスピリンとピリン系の薬品とでは、副作用もそれぞれ異なる。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一般的な副作用は次の通りである:吐き気、消化不良、消化器潰瘍・出血、肝臓酵素増加、下痢、ふらつき、塩および体液停留、高血圧、喘息(アスピリン喘息と呼ばれている)。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "稀な副作用は次の通りである:食道潰瘍、心不全、高カリウム血症、腎臓障害、昏迷、気管支痙攣、発疹。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "医療用医薬品の添付文書には頻度は不明であるが、重大な副作用として、ショック、アナフィラキシー、頭蓋内出血、肺出血、消化管出血、鼻出血、眼底出血、中毒性表皮壊死融解症(Toxic Epidermal Necrolysis:TEN)、皮膚粘膜眼症候群(Stevens-Johnson症候群)、剥脱性皮膚炎、再生不良性貧血、血小板減少、白血球減少、喘息発作誘発(上記)、肝機能障害(上記)、黄疸、消化性潰瘍(上記)、小腸・大腸潰瘍が掲載されている。", "title": "副作用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "メカニズムを解明したのはイギリスのロイヤルカレッジ薬理学教授で薬理学者のジョン・ベインである。1971年、彼は、「アセチルサリチル酸は体内での伝達物質(プロスタグランジン)の合成を抑制し、痛み、発熱、炎症に効果を発揮する」ことを解明発表した。実にホフマンの合成から70年以上の歳月が経過していた。", "title": "作用機序" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アセチルサリチル酸はシクロオキシゲナーゼをアセチル化することにより阻害しプロスタグランジンの産生を抑制する。つまり、アラキドン酸と競合してシクロオキシゲナーゼを阻害するほかの非ステロイド性抗炎症剤とは異なる機序により抗炎症作用を示す。炎症、発熱作用を持つプロスタグランジンが抑制されることで抗炎症作用・解熱作用を発現する。このときの用量は330 mg1日3回である。また、シクロオキシゲナーゼは血小板の作用に関係するトロンボキサンの合成にも関与している。アセチルサリチル酸はトロンボキサン作用も抑制するため、抗血小板作用も有し、抗血小板剤として81mgから100mgを1日1回の投与を行うことがある。", "title": "作用機序" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "プロスタグランジンを発見しアセチルサリチル酸の抗炎症作用のメカニズムを解明した薬理学者のジョン・ベイン(イギリス)、ベンクト・サムエルソン(スウェーデン)、スーネ・ベルクストローム(スウェーデン)の3人は1982年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。プロスタグランジンの研究は、この後急速に脚光を浴び、生化学の最先端分野の1つとして今日に至っている。", "title": "作用機序" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アセチルサリチル酸は以下の手順で合成される。", "title": "合成法" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "フェノールを高温と高圧の下で二酸化炭素と水酸化ナトリウムと反応させて、サリチル酸の二ナトリウム塩を合成する。このカルボキシ化はコルベ・シュミット反応 (Kolbe-Schmitt reaction) と呼ばれ、フェノラートアニオンは共鳴効果によりオルト位の求核性が高まり、これが二酸化炭素に対して求核付加反応する。後処理で二ナトリウム塩を希硫酸で中和し、サリチル酸を遊離させる。", "title": "合成法" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "", "title": "合成法" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "このサリチル酸に無水酢酸を作用させてアセチル化し、アセチルサリチル酸を得る。", "title": "合成法" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "", "title": "合成法" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "現在、バイエル薬品株式会社が製造販売する「アスピリン」と、アスピリンに制酸緩衝剤(アルミニウム・マグネシウム系)を加えたライオンの「バファリン」、粉末状で胃粘膜保護のため、和漢薬(ケイヒ)が加えられた銭湯の広告としても有名な富山めぐみ製薬の「ケロリン」が特に知られており、それぞれ複数の後発医薬品企業から、局方品や後発品相当の製品が発売されている。ここではバイエルのアスピリンについて記載する。", "title": "日本での製品" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1錠あたりアセチルサリチル酸500 mg(高用量)を含有するバイエルのシンプルな製品。日本では吉富製薬、バイエル薬品を経て2001年10月から明治製菓が、2008年10月からは佐藤製薬が発売している。指定第2類医薬品である。", "title": "日本での製品" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "適応症は、解熱や頭痛・外傷痛を始めとする各種の鎮痛。ライオンのバファリンAよりも、1錠あたりのアセチルサリチル酸そのものの量が多く、制酸剤を含まないことから、効果そのものは強い。ただし、胃への負担を軽くする制酸剤を含まないため、使用上の注意に「胃・十二指腸潰瘍を起こしている人」は服用しないようにとの但し書きがある。合成ヒドロタルサイトを含むバファリンの場合は、同症状の場合、医師または薬剤師に相談するよう書かれてはいるが、服用の禁止については書かれていない。", "title": "日本での製品" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2010年10月22日、オックスフォード大学のピーター・M・ロスウェル(Peter M. Rothwell)らは、「毎日少なくとも75mgのアスピリンを数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『Lancet』に掲載された。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には癌の発症を防げない可能性がある、と付記している。", "title": "アスピリンと癌" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、アスピリンの服用は癌の危険度を上昇させる可能性がある。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、血糖値を降下させるメトフォルミン(Metformin)がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる。また、高血糖とインスリン抵抗性が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇が無い場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは1980年代に行われた臨床研究で既に実証された。高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。", "title": "アスピリンと癌" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1錠あたりアセチルサリチル酸100 mgを含有する処方箋医薬品。低用量のアセチルサリチル酸を投与すると、抗血小板作用が現れることで、日本脳卒中学会・日本循環器学会から、抗血小板剤としての承認・発売要望から、平成11年2月1日付厚生省医薬審第104号通知「適応外使用に係る医療用医薬品の取り扱いについて」の適応条件に本剤が該当すると判断し承認申請、2000年秋に心筋梗塞・狭心症、虚血性脳血管障害の血栓塞栓形成抑制の効果で、承認・薬価収載され、2001年1月に発売された。", "title": "バイアスピリン錠100 mg" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "川崎病に対しても、臨床的に有効かつ安全な治療法であることが実証されていることから、本剤の追加効能として承認事項一部変更承認申請を行ない、その後、日本小児循環器学会から厚生労働省に対して要望書が提出され、2005年に承認、川崎病の治療にも適用が拡大された。", "title": "バイアスピリン錠100 mg" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、乳幼児向けの投薬量が調整しやすいように、新規にアセチルサリチル酸の粉剤が開発され、2006年に発売された。川崎病の治療のほか、バイエルアスピリンと同様の解熱鎮痛にも適用されている。", "title": "バイアスピリン錠100 mg" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヤナギの鎮痛作用はギリシャ時代から知られていた。紀元前400年ごろ、ヒポクラテスはヤナギの樹皮を熱や痛みを軽減するために用い、葉を分娩時の痛みを和らげるために使用していたという記録がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "19世紀にはヤナギの木からサリチル酸が分離された。その後、アセチルサリチル酸の出現まではサリチル酸が解熱鎮痛薬として用いられたが、サリチル酸には強い胃腸障害が出るという副作用の問題があった。しかし1897年、バイエル社のフェリックス・ホフマンによりサリチル酸がアセチル化され、副作用の少ないアセチルサリチル酸が合成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アセチルサリチル酸は世界で初めて人工合成された医薬品である。1899年3月6日にバイエル社によって「アスピリン」の商標が登録され発売された。翌1900年には粉末を錠剤化。発売してからわずかな年月で鎮痛薬の一大ブランドに成長し、なかでもアメリカにおける台頭はめざましく、20世紀初頭には、全世界のバイエルの売り上げのうち3分の1を占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "しかし、第一次世界大戦のドイツの敗戦で連合国によって商標は取り上げられ、1918年、敵国財産没収によりバイエルの「商標」「社名」、そして「社章(バイエルクロス)」までもが競売にかけられた。この時から76年間、1994年にバイエルが全ての権利を買い戻すまで、アメリカではバイエル社製のアスピリンは姿を消すが、この間にもアスピリンは権利を買い取ったスターリング社が製造していた。その商品名には「バイエルアスピリン」がそのまま使われ、社章付きで売られ続けた。", "title": "歴史" } ]
アセチルサリチル酸は、代表的な解熱鎮痛剤のひとつで非ステロイド性抗炎症薬の代名詞とも言うべき医薬品。ドイツのバイエルが名付けた商標名のアスピリン(Aspirin)で知られており、日本薬局方では「アスピリン」が正式名称になっている。 消炎・解熱・鎮痛作用や抗血小板作用を持つ。サリチル酸を無水酢酸によりアセチル化して得られる。
{{混同|ピリン系}}{{Drugbox | Watchedfields = changed | verifiedrevid = 464364671 | IUPAC_name = 2-(acetoxy)benzoic acid <!-- per ChemSpider --> | OtherNames = Acetylsalicylic acid | image = Aspirin-skeletal.svg | image2 = Aspirin-B-3D-balls.png <!--Clinical data--> | Drugs.com = {{drugs.com|monograph|aspirin}} | MedlinePlus = a682878 | pregnancy_AU = C | pregnancy_US = C | pregnancy_US_comment= 三ヶ月後はD | legal_AU = S2 | legal_UK = GSL | legal_US = OTC | routes_of_administration = 通常は経口 <!--Pharmacokinetic data--> | bioavailability = 80–100%<ref name = MSR>{{cite web|title=Zorprin, Bayer Buffered Aspirin (aspirin) dosing, indications, interactions, adverse effects, and more|work=Medscape Reference|publisher=WebMD|accessdate=3 April 2014|url=http://reference.medscape.com/drug/zorprin-bayer-buffered-aspirin-343279#showall}}</ref> | protein_bound = 80–90%<ref name = MD>{{cite web|title=Aspirin|work=Martindale: The Complete Drug Reference|publisher=Pharmaceutical Press|date=14 January 2014|accessdate=3 April 2014|url=http://www.medicinescomplete.com/mc/martindale/current/2601-s.htm|editor=Brayfield, A}}</ref> | metabolism = [[肝臓]], ([[CYP2C19]] と [[CYP3A]]), 一部は腸壁にサリチル酸塩に加水分解する.<ref name = MD/> | elimination_half-life = 低用量のときは2 - 3時間、高用量のときは15 - 30時間<ref name = MD/> | excretion = 尿(80〜100%)、汗、唾液、糞便<ref name = MSR/> <!--Identifiers--> | CAS_number_Ref = {{cascite|correct|??}} | CAS_number = 50-78-2 | ATC_prefix = A01 | ATC_suffix = AD05 | ATC_supplemental = {{ATC|B01|AC06}}, {{ATC|N02|BA01}} | PubChem = 2244 | DrugBank_Ref = {{drugbankcite|correct|drugbank}} | DrugBank = DB00945 | ChemSpiderID_Ref = {{chemspidercite|correct|chemspider}} | ChemSpiderID = 2157 | UNII_Ref = {{fdacite|correct|FDA}} | UNII = R16CO5Y76E | KEGG_Ref = {{keggcite|correct|kegg}} | KEGG = D00109 | ChEBI_Ref = {{ebicite|correct|EBI}} | ChEBI = 15365 | ChEMBL_Ref = {{ebicite|correct|EBI}} | ChEMBL = 25 | PDB_ligand = AIN <!--Chemical data--> | C=9 | H=8 | O=4 | rational_formula =C<sub>6</sub>H<sub>4</sub>(COOH)OCOCH<sub>3</sub> | molecular_weight = 180.157 g/mol | smiles = CC(=O)Oc1ccccc1C(=O)O | InChI = 1/C9H8O4/c1-6(10)13-8-5-3-2-4-7(8)9(11)12/h2-5H,1H3,(H,11,12) | StdInChI_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChI = 1S/C9H8O4/c1-6(10)13-8-5-3-2-4-7(8)9(11)12/h2-5H,1H3,(H,11,12) | StdInChIKey_Ref = {{stdinchicite|correct|chemspider}} | StdInChIKey = BSYNRYMUTXBXSQ-UHFFFAOYSA-N | synonyms = 2-acetoxybenzoic acid<br />acetylsalicylate<br />acetylsalicylic acid<br />O-acetylsalicylic acid | density = 1.40 | melting_point = 135 | boiling_point = 140 | boiling_notes = (分解) | solubility = 3 }} '''アセチルサリチル酸'''(アセチルサリチルさん、''Acetylsalicylic Acid'')は、代表的な[[解熱鎮痛剤]]のひとつで[[非ステロイド性抗炎症薬]]の代名詞とも言うべき[[医薬品]]。[[ドイツ]]の[[バイエル (企業)|バイエル]]が名付けた[[商標]]名の'''アスピリン'''(''Aspirin'')で知られており、日本[[薬局方]]では「アスピリン」が正式名称になっている。 [[消炎剤|消炎]]・[[解熱剤|解熱]]・[[鎮痛]]作用や[[抗血小板剤|抗血小板]]作用を持つ。[[サリチル酸]]を[[無水酢酸]]により[[アセチル化]]して得られる。 {{TOC limit|3}} ==使用対象== アスピリンは、[[関節炎]]、[[痛風]]、[[腎結石]]、[[尿路結石]]、[[片頭痛]]、さらに、小規模から中規模な[[手術]]後や、[[外傷]]、[[生理痛]]、[[歯痛]]、[[腰痛]]、[[筋肉痛]]、[[神経痛]]における[[鎮痛]]目的で使用される。この他、[[抗血小板薬]]として使用する場合もある。 ===頭痛=== アスピリンは単独もしくは併用処方により、特定の頭痛を効果的に治めるが、他の頭痛に対しては有効性が疑問視されている。二次性頭痛、すなわち別の障害または外傷によって惹き起こされる頭痛については、医療専門家による治療が必要である。 頭痛は国際頭痛標準分類(ICHD)において、[[緊張性頭痛]](最も一般的)、[[片頭痛]]、[[群発頭痛]]と区別されている。アスピリンや他のOTC鎮痛薬は、緊張性頭痛の治療に効果的であると広く認識されている<ref>{{cite journal | vauthors = Loder E, Rizzoli P | title = Tension-type headache | journal = BMJ | volume = 336 | issue = 7635 | pages = 88–92 | date = January 2008 | pmid = 18187725 | pmc = 2190284 | doi = 10.1136/bmj.39412.705868.AD }}</ref>。 アスピリンは片頭痛の治療における第一選択肢であり、特に[[アスピリン]]/[[アセトアミノフェン]]/[[カフェイン]]の合剤は、低用量[[スマトリプタン]]と並べられる。最初に片頭痛が始まったとき、これを止めるのに最も効果的である<ref>{{cite journal | vauthors = Gilmore B, Michael M | title = Treatment of acute migraine headache | journal = American Family Physician | volume = 83 | issue = 3 | pages = 271–80 | date = February 2011 | pmid = 21302868 }}</ref>。 ===解熱=== アスピリンの[[発熱|解熱]]効果は、疼痛軽減と同じく[[シクロオキシゲナーゼ|COX]]阻害効果によるものである<ref>{{cite journal | vauthors = Bartfai T, Conti B | title = Fever | journal = TheScientificWorldJournal | volume = 10 | pages = 490–503 | date = March 2010 | pmid = 20305990 | pmc = 2850202 | doi = 10.1100/tsw.2010.50 }}</ref>。成人に対する解熱投与は広く確立されているが、一方で子供の発熱、ウイルス感染症、細菌感染症への使用については、{{仮リンク|米国家庭医師会|en|American Academy of Family Physicians}}、[[米国小児科学会]]、[[アメリカ食品医薬品局]](''FDA'')含む多くの医学会および規制機関らは、まれに[[ライ症候群]]のような深刻な病気を招く可能性を考慮し、アスピリンやその他のサリチル酸塩を使用しないよう強く勧告している<ref>{{cite journal | vauthors = Pugliese A, Beltramo T, Torre D | title = Reye's and Reye's-like syndromes | journal = Cell Biochemistry and Function | volume = 26 | issue = 7 | pages = 741–6 | date = October 2008 | pmid = 18711704 | doi = 10.1002/cbf.1465 }}</ref><ref>{{cite journal | vauthors = Beutler AI, Chesnut GT, Mattingly JC, Jamieson B | title = FPIN's Clinical Inquiries. Aspirin use in children for fever or viral syndromes | journal = American Family Physician | volume = 80 | issue = 12 | pages = 1472 | date = December 2009 | pmid = 20000310 }}</ref><ref name=AAPweb>{{cite web|title=Medications Used to Treat Fever|url=http://www.healthychildren.org/English/health-issues/conditions/fever/Pages/Medications-Used-to-Treat-Fever.aspx|publisher=American Academy of Pediatrics|access-date=25 November 2012|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130218084054/http://www.healthychildren.org/English/health-issues/conditions/fever/Pages/Medications-Used-to-Treat-Fever.aspx|archivedate=18 February 2013|df=dmy-all}}</ref>。[[1986年]]、FDAはアスピリン含有薬について、ライ症候群のリスクのため、青年への使用を推奨しないことをパッケージラベルに記載するよう要求した<ref name="FDA 1986 FR">{{cite journal|title=51 FR 8180|url=http://www.fda.gov/downloads/Drugs/DevelopmentApprovalProcess/DevelopmentResources/Over-the-CounterOTCDrugs/StatusofOTCRulemakings/UCM078593.pdf|journal=United States Federal Register|volume=51|issue=45|date=7 March 1986|access-date=25 November 2012|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110819130409/http://www.fda.gov/downloads/Drugs/DevelopmentApprovalProcess/DevelopmentResources/Over-the-CounterOTCDrugs/StatusofOTCRulemakings/UCM078593.pdf|archivedate=19 August 2011|df=dmy-all}}</ref>。 === 予防用途 === アセチルサリチル酸(アスピリン)はその[[アセチル基]]が血小板シクロオキシゲナーゼを不可逆的に阻害することにより、[[血小板]]の凝集を抑制して[[血栓]]の形成を妨げることから<ref>[https://www.jsth.org/glossary_detail/?id=243 一般社団法人 日本血栓止血学会 » 用語集(詳細説明) アスピリン]</ref>、[[脳梗塞]]や[[虚血性心疾患]]を予防するために[[抗血小板剤]]として(毎日)少量のアセチルサリチル酸を処方することがある。 == 禁忌 == * 小児への使用([[ライ症候群]]との関係が推測されているため) * 鎮痛薬や解熱薬で[[気管支喘息|喘息]]を起こしたことのある者 * [[胃潰瘍|消化性潰瘍]]のある者 * [[デング熱]]の治療 * 重い[[肝臓病]]、[[心臓病]]、[[妊娠]]後期 [[適応外使用]]で、[[産婦人科]]領域でも抗凝血を目的に使われることがあるが、出産予定日12週以内の妊婦には禁忌である<ref name = ":0" />。 === 飲み合わせ === * [[エタノール]]([[酒]]):吸収が早くなり作用が強くなる。 * [[イチョウ]]葉エキス・[[ニンニク|にんにく]]エキス([[アリシン]])・[[ビタミンE]]:作用が強くなり出血傾向が増す。 * [[タバコ]]([[喫煙]]):抗[[血小板]]作用が弱くなる。 * [[イブプロフェン]]:抗[[血小板]]作用が弱くなる。 == 副作用 == アスピリンの摂取は、胃障害を起こす可能性がある。胃細胞に取り込まれたアセチルサリチル酸は胃粘膜保護に関わる[[プロスタグランジン]]の産生を阻害し、胃酸分泌の阻害を引き起こす。アスピリンの服用には確かに利点があるが、不必要なアスピリンの使用は出血の危険度を高める。「アスピリンの摂取を中止した場合、出血性合併症の危険度が約32%減少した」という<ref>{{Cite web |url=https://www.health.harvard.edu/heart-health/stopping-unneeded-aspirin-may-prevent-dangerous-bleeding |title = Stopping unneeded aspirin may prevent dangerous bleeding |author = Julie Corliss |work = Harvard Health Publishing |date = 2023-03-01 |access-date = 2023-11-30 }}</ref>。『アメリカ内科学紀要』(''The Annals of Internal Medicine'')にて、[[2019年]]に行われた40歳以上の14,000人を対象とした調査結果が掲載された。それによれば、心臓病を患っていない人の約25%が毎日アスピリンを服用しており、そのうちの約23%は医師の許可が無い状態で服用していた。さらに、心臓病を患っていない70歳以上の研究参加者の約半数が、毎日アスピリンを服用していたという<ref name = "Do you need aspirin therapy?" >{{Cite web |url = https://www.health.harvard.edu/staying-healthy/do-you-need-aspirin-therapy |title = Do you need aspirin therapy? |author = Matthew Solan |work = Harvard Health Publishing |date = 2022-05-01 |access-date = 2023-11-30 }}</ref>。2018年10月18日号の『''[[ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン|The New England Journal of Medicine]]''』に掲載された研究では「アスピリンを毎日服用すると出血の危険度が上昇する」と記述された<ref name = "Do you need aspirin therapy?" />。マヒュー・ソーラン(''Matthew Solan'')は「消化管出血、胃潰瘍、血小板減少、血液凝固障害、関節炎やその他の炎症性疾患のために非ステロイド性抗炎症薬を服用している人は、アスピリンの服用を避けるべきだ」と書いた<ref name = "Do you need aspirin therapy?" />。 胃への副作用を抑制するために、現行の市販薬は胃を保護するための薬を配合している物が多い。例えば[[ケロリン]]のような[[富山の売薬|富山の配置薬]]は[[漢方薬|和漢薬]]の[[ケイヒ]]末を配合している。他に代表的な市販薬[[バファリン]]はアセチルサリチル酸を[[制酸剤]]である[[ダイアルミネート]](または[[ダイバッファーHT]])で包んでいる(制酸剤は共に[[アルミニウム]]、マグネシウム等の化合物、または[[合成ヒドロタルサイト]])。 風邪(特に[[インフルエンザ]]や[[水痘]])に感染した小児が使用すると、[[ライ症候群]]を引き起こすことがある。肝障害を伴った重篤な脳障害で[[死亡]]する危険があるため、小児への使用は禁忌。小児の解熱鎮痛薬は、[[アセトアミノフェン]]を使用する。 なお、[[高尿酸血症]]の原因の1つとしてアセチルサリチル酸の服用が挙げられているので、「[[痛風]]患者は[[鎮痛剤]]としてのアスピリンの服用は避けるべき」とする説がある一方で、[[尿細管]]内での尿酸再吸収を抑制するため、尿酸排泄促進剤としても使用されている。 また、抗凝血を目的に高用量のアセチルサリチル酸を服用した場合、効果が発揮されないだけでなく、胃に強い負担がかかるため、注意が必要である。 アスピリンは「非ピリン系の薬品」(''Nonpyrazolone Drug'')であり、[[アンチピリン]]のような「ピリン系の薬品」(''Pyrazolone Drug'')とは異なる。[[片仮名]]表記では「ピリン」の部分が同じなので混乱しやすいが全く無関係である(英語ではアスピリンの「ピリン」の綴りは「''Pirin''」、ピリン系の「ピリン」の綴りは「''Pyrine''」である)。アスピリンとピリン系の薬品とでは、副作用もそれぞれ異なる。 === 報告されている副作用 === 一般的な副作用は次の通りである:[[吐き気]]、消化不良、消化器潰瘍・[[出血]]、[[肝臓]][[酵素]]増加、[[下痢]]、ふらつき、塩および体液停留、[[高血圧]]、[[喘息]]('''アスピリン喘息'''と呼ばれている)。 稀な副作用は次の通りである:[[食道潰瘍]]、[[心不全]]、[[高カリウム血症]]、[[腎臓障害]]、[[昏迷]]、[[気管支痙攣]]、[[発疹]]。 医療用医薬品の添付文書には頻度は不明であるが、重大な副作用として、ショック、アナフィラキシー、頭蓋内出血、肺出血、消化管出血、鼻出血、眼底出血、[[中毒性表皮壊死症|中毒性表皮壊死融解症]](Toxic Epidermal Necrolysis:TEN)、[[スティーブンス・ジョンソン症候群|皮膚粘膜眼症候群]](Stevens-Johnson症候群)、[[剥脱性皮膚炎]]、再生不良性貧血、血小板減少、白血球減少、喘息発作誘発(上記)、肝機能障害(上記)、黄疸、消化性潰瘍(上記)、小腸・大腸潰瘍が掲載されている<ref name = ":0" >{{Cite web|和書|url=http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1143001X1228_1_06/|title=アスピリン「バイエル」 添付文書|accessdate=2016-07-01|date=2014-01|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160714034031/http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/1143001X1228_1_06|archivedate=2016-07|deadlinkdate=2018-03}}</ref>。 === 副作用の抑制胃腸薬 === * [[胃酸]]分泌抑制薬 ** [[プロトンポンプ阻害薬]] - [[胃]]の壁細胞の[[プロトンポンプ]]に作用し、胃酸の分泌を抑制する薬である。 ** [[ヒスタミンH2受容体拮抗薬]] - ヒスタミンH<sub>2</sub>受容体に拮抗し、胃酸の分泌を抑制する。 * 胃粘膜保護剤 - 荒れた胃[[粘膜]]を覆って保護し、修復を補助する。 ** [[アルギン酸ナトリウム]] * [[制酸剤]] - アルカリ性の化合物で胃の[[水素イオン指数|pH]]を上昇させ、増えすぎた[[胃酸]]を中和する。 ** [[炭酸カルシウム]] ** [[炭酸水素ナトリウム]] == 作用機序 == {{出典の明記|date=2023年12月|section=1}} メカニズムを解明したのは[[イギリス]]のロイヤルカレッジ[[薬理学]]教授で薬理学者の[[ジョン・ベイン]]である。[[1971年]]、彼は、「アセチルサリチル酸は体内での伝達物質([[プロスタグランジン]])の合成を抑制し、痛み、発熱、炎症に効果を発揮する」ことを解明発表した。実にホフマンの合成から70年以上の歳月が経過していた。 アセチルサリチル酸は[[シクロオキシゲナーゼ]]をアセチル化することにより阻害しプロスタグランジンの産生を抑制する。つまり、[[アラキドン酸]]と競合してシクロオキシゲナーゼを阻害するほかの[[非ステロイド性抗炎症剤]]とは異なる機序により抗炎症作用を示す。[[炎症]]、[[発熱]]作用を持つプロスタグランジンが抑制されることで抗炎症作用・解熱作用を発現する。このときの用量は330 mg1日3回である。また、シクロオキシゲナーゼは血小板の作用に関係する[[トロンボキサン]]の合成にも関与している。アセチルサリチル酸はトロンボキサン作用も抑制するため、抗血小板作用も有し、[[抗血小板剤]]として81mgから100mgを1日1回の投与を行うことがある。 プロスタグランジンを発見しアセチルサリチル酸の抗炎症作用のメカニズムを解明した薬理学者のジョン・ベイン(イギリス)、[[ベンクト・サムエルソン]]([[スウェーデン]])、[[スーネ・ベルクストローム]](スウェーデン)の3人は[[1982年]]に[[ノーベル生理学・医学賞]]を受賞した。プロスタグランジンの研究は、この後急速に脚光を浴び、[[生化学]]の最先端分野の1つとして今日に至っている。 == 合成法 == [[File:Acetylsalicylicacid-crystals.jpg|200px|thumb|アセチルサリチル酸の結晶体]] アセチルサリチル酸は以下の手順で合成される。 [[フェノール]]を高温と高圧の下で[[二酸化炭素]]と[[水酸化ナトリウム]]と反応させて、[[サリチル酸]]の二ナトリウム塩を合成する。このカルボキシ化は[[コルベ・シュミット反応]] (Kolbe-Schmitt reaction) と呼ばれ、フェノラートアニオンは[[共鳴効果]]により[[オルト|オルト位]]の求核性が高まり、これが二酸化炭素に対して求核付加反応する。後処理で二ナトリウム塩を希[[硫酸]]で中和し、サリチル酸を遊離させる。 [[File:Kolbe-Schmitt.png|400px|コルベ・シュミット反応によるサリチル酸合成]] このサリチル酸に[[無水酢酸]]を作用させて[[アセチル基|アセチル化]]し、アセチルサリチル酸を得る。 [[File:Aspirin synthesis.png|500px|サリチル酸のアセチル化]] == 日本での製品 == 現在、[[バイエル薬品]]株式会社が製造販売する「アスピリン」と、アスピリンに制酸緩衝剤([[アルミニウム]]・[[マグネシウム]]系)を加えた[[ライオン (企業)|ライオン]]の「[[バファリン]]」、粉末状で胃粘膜保護のため、[[和漢薬]]([[ケイヒ]])が加えられた[[銭湯]]の広告としても有名な[[富山めぐみ製薬]]の「[[ケロリン]]」が特に知られており、それぞれ複数の[[後発医薬品]]企業から、局方品や[[後発品]]相当の製品が発売されている。ここではバイエルのアスピリンについて記載する。 === バイエルアスピリン === 1錠あたりアセチルサリチル酸500 mg(高用量)を含有する[[バイエル (企業)|バイエル社]]による製品。日本では[[吉富製薬]]、[[バイエル薬品]]を経て[[2001年]]10月から[[明治製菓]]が、[[2008年]]10月からは[[佐藤製薬]]が発売している。[[一般用医薬品|指定第2類医薬品]]である。 適応症は、解熱や頭痛・外傷痛を始めとする各種の鎮痛。[[ライオン (企業)|ライオン]]の[[バファリン]]Aよりも、1錠あたりのアセチルサリチル酸そのものの量が多く、制酸剤を含まないことから、効果そのものは強い。ただし、[[胃]]への負担を軽くする制酸剤を含まないため、使用上の注意に「胃・十二指腸潰瘍を起こしている人」は服用しないようにとの但し書きがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.info.pmda.go.jp/ogo/J0601001399_06_01|title=バイエルアスピリン 添付文書|accessdate=2016-07-01|publisher=}}</ref>。[[ハイドロタルク石|合成ヒドロタルサイト]]を含むバファリンの場合は、同症状の場合、医師または薬剤師に相談するよう書かれてはいるが、服用の禁止については書かれていない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.info.pmda.go.jp/ogo/J0601001404_02_01|title=バファリンA 添付文書|accessdate=2016-07-01|publisher=}}</ref>。 == アスピリンと癌 == [[2010年]][[10月22日]]、[[オックスフォード大学]]のピーター・M・ロスウェル(''Peter M. Rothwell'')らは、「毎日少なくとも75mgのアスピリンを数年間服用し続けると、結腸直腸癌の発生率と死亡率が減少することが分かった」と発表した。彼らの研究は医学雑誌『''[[Lancet]]''』に掲載された<ref name = "Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality" >{{Cite Journal |url = https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(10)61543-7/fulltext |title = Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality: 20-year follow-up of five randomised trials |author1 = Peter M Rothwell |author2 = Michelle Wilson |author3 = Carl-Eric Elwin |author4 = Bo Norrving |author5 = Ale Algra |author6 = Charles P Warlow |author7 = Tom W Meade |date = 2010-10-22 |journal = [[The Lancet]] |volume = 376 |issue = 9754 |pages = 1741-1750 |doi = 10.1016/S0140-6736(10)61543-7 |pmid = 20970847 }}</ref>。ただし、肺がんと咽喉がんの予防効果に関しては、非喫煙者の腺がんにしか認められず、アスピリンを毎日服用した場合、胃の出血を惹き起こす恐れがある。アルコールと併用した場合、胃の症状はさらに悪化する<ref name = "AFPBB 20101207" >{{Cite web|和書|url = https://www.afpbb.com/articles/-/2778236?pid=6558713 |title = がん死亡リスク、アスピリン常用で大幅減、英大研究 |date = 7 December 2010 |work = [[AFPBB News]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20131014181847/https://www.afpbb.com/articles/-/2778236?pid=6558713 |archive-date = 14 October 2013 |access-date = 25 June 2023 }}</ref>。また、高用量(毎日500mg以上)のアスピリンを服用した場合、副作用により、長期的には直腸癌の発症を防げない可能性がある、と付記している<ref name = "Long-term effect of aspirin on colorectal cancer incidence and mortality" />。 また、アスピリンの服用は、癌のリスクと関連している。禁忌が無い場合に推奨される薬物療法の一つとして、[[血糖値]]を降下させる[[メトホルミン|メトフォルミン]](''Metformin'')がある。これは二型糖尿病患者の第一選択治療手段である。メトフォルミンは、肝臓におけるブドウ糖の産生を抑制し、末梢におけるブドウ糖の取り込みを促進することによって作用し、それにより、血中のインスリン濃度を上昇させることなく血糖値を低下させる<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" >{{Cite Journal |url = https://academic.oup.com/jncics/article/7/2/pkad017/7066922 |title = Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes |author1 = Suzanne G Orchard, PhD |author2 = Jessica E Lockery, PhD |author3 = Jonathan C Broder |author4 = Mstat &OpRes |author5 = Michael E Ernst, PharmD |author6 = Sara Espinoza, MD, |author7 = Peter Gibbs, MD |author8 = Rory Wolfe, PhD |author9 = Galina Polekhina, PhD |author10 = Sophia Zoungas, PhD |author11 = Holli A Loomans-Kropp, PhD, |author12 = Robyn L Woods, PhD |author13 = ASPREE Investigator Group |date = 2023-03-01 |journal = JNCI Cancer Spectrum |publisher = Oxford University Press |volume = 7 |issue = 2 |doi = 10.1093/jncics/pkad017 |pmc = 10042437 |pmid = 36857596 |issn = 2515-5091 }}</ref>。また、[[高血糖]]と[[インスリン抵抗性]]が続く場合、メトフォルミンの癌の危険度に対する臨床効果は限定的なものとなり、アスピリンの服用行為は癌の危険度を上昇させる可能性がある。糖尿病患者とそうでない人々で、インスリン感受性に対するアスピリン療法の影響について調べた試験においては、高用量のアスピリンは、肝臓におけるブドウ糖の産生と末梢血漿ブドウ糖濃度を低下させたが、その際には、血中のインスリン濃度が47%増加するという代償を支払った<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" />。すなわち、メトフォルミンがインスリンの効果を減殺する作用は、アスピリンによる血中のインスリン濃度の上昇が無い場合にのみ存在し、アスピリンの服用行為は、癌の転帰(疾患や怪我の治療における症状の経過とその結果)において、隠された害をもたらす。これは[[1980年代]]に行われた[[臨床研究]]で既に実証された<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" />。アスピリンの服用における[[適応 (医学)|適応]]が無く、70歳以上の健康な被験者において、アスピリンを低用量でも毎日投与され続けた人は、[[偽薬]](''placebo'')を投与された被験者に比べて、全死因死亡率が有意に高まり、超過死亡の主要な原因は癌であった<ref name = "Effect of Aspirin on All-Cause Mortality in the Healthy Elderly" >{{Cite Journal |url = https://www.nejm.org/doi/10.1056/NEJMoa1803955 |title = Effect of Aspirin on All-Cause Mortality in the Healthy Elderly |date = 2018-10-18 |journal = [[The New England Journal of Medicine]] |doi = 10.1056/NEJMoa1803955 |pmc = 6433466 |pmid = 30221595 |nihmsid = 1512091 |issn = 1533-4406 }}</ref>。アスピリンを投与された群において癌が関与する死亡率は有意に高く、特定の腫瘍の部位や病理学的類型については限定されなかった。アスピリン群においては、偽薬を投与された群に比べて、胃腸癌(結腸直腸癌を含む)による死亡率が高く、これはアスピリンに関連する全体の超過死亡に大きく寄与した<ref name = "Effect of Aspirin on All-Cause Mortality in the Healthy Elderly" />。試験中に死亡した被験者のうち、49.6%が癌で、19.3%が心血管疾患(虚血性脳卒中を含む)で、5%が重篤な出血(出血性脳卒中を含む)を起こして死亡した<ref name = "Effect of Aspirin on All-Cause Mortality in the Healthy Elderly" />。 高血糖とインスリン抵抗性は、いずれも悪性腫瘍の罹患率と死亡率の上昇に関係する<ref name = "Association of metformin, aspirin, and cancer incidence with mortality risk in adults with diabetes" />。インスリンは腫瘍の成長・増殖を直接誘導する力を持つからである<ref name = "Adipocyte and lipid metabolism in cancer drug resistance" >{{Cite Journal |url = https://www.jci.org/articles/view/127201 |title = Adipocyte and lipid metabolism in cancer drug resistance |author = Yihai Cao |date = 2019-07-02 |journal = The American Society for Clinical Investigation |publisher = The Journal of Clinical Investigation |doi = 10.1172/JCI127201 |issn = 1558-8238 }}</ref><ref name = "Insulin enhances metabolic capacities of cancer cells by dual regulation of glycolytic enzyme pyruvate kinase M2" >{{Cite Journal |url = https://molecular-cancer.biomedcentral.com/articles/10.1186/1476-4598-12-72 |title = Insulin enhances metabolic capacities of cancer cells by dual regulation of glycolytic enzyme pyruvate kinase M2 |author1 = Mohd Askandar Iqbal |author2 = Farid Ahmad Siddiqui |author3 = Vibhor Gupta |author4 = Shilpi Chattopadhyay | author5 = Prakasam Gopinath |author6 = Bhupender Kumar |author7 = Siddharth Manvati |author8 = Noor Chaman |author9 = Rameshwar NK Bamezai |date = 2013-07-09 |doi = 10.1186/1476-4598-12-72 |journal = Molecular Cancer |publisher = BioMed Central |issn = 1476-4598 }}</ref><ref name = "Insulin and cancer: a tangled web" >{{Cite Journal |url = https://portlandpress.com/biochemj/article/479/5/583/230979/Insulin-and-cancer-a-tangled-web |title = Insulin and cancer: a tangled web |atuhor1 = Brooks P. Leitner |author2 = Stephan Siebel |author3 = Ngozi D. Akingbesote |author4 = Xinyi Zhang |author5 = Rachel J. Perry |date = 2022-03-04 |journal = The Biochemical Journal |publisher = Portland Press |volume = 479 |issue = 5 |pages = 583–607 |doi = 10.1042/BCJ20210134 |pmc = 9022985 |pmid = 35244142 |issn = 1470-8728 }}</ref>。アスピリンにはインスリンの分泌を刺激する作用がある<ref name = "Aspirin Stimulates Insulin and Glucagon Secretion" >{{Cite Journal |url = https://diabetesjournals.org/diabetes/article/27/12/1196/4384/Aspirin-Stimulates-Insulin-and-Glucagon-Secretion |title = Aspirin Stimulates Insulin and Glucagon Secretion and Increases Glucose Tolerance in Normal and Diabetic Subjects |author1 = Piero Micossi, MD |author2 = Antonio E Pontiroli, MD |author3 = Steven H Baron, MD |author4 = Raul C Tamayo, MD |author5 = Frieda Lengel |author6 = Maurizio Bevilacqua, MD |author7 = Umberto Raggi, MD |author8 = Guido Norbiato, MD |author9 = Piero P Foà, MD,PhD |date = 1978-12-01 |journal = The American Diabetes Association |volume = 27 |issue = 12 |doi = 10.2337/diab.27.12.1196 |pmid = 720774 |issn = 1939-327X }}</ref>。局所性の癌と進行性の癌、双方による死亡率についても、アスピリンを服用している人の方が高く、アスピリンは癌の進行に悪影響をもたらす可能性を示している<ref name = "Effect of Aspirin on Cancer Incidence and Mortality in Older Adults" >{{Cite Journal |url = https://academic.oup.com/jnci/article/113/3/258/5889955 |title = Effect of Aspirin on Cancer Incidence and Mortality in Older Adults |date = 2020-08-11 |journal = The Journal of the National Cancer Institute |publisher = Oxford University Press |volume = 113 |issue = 3 |pages = 258–265 |doi = 10.1093/jnci/djaa114 |pmc = 7936068 |pmid = 32778876 |issn = 1460-2105 }}</ref>。「アスピリンの服用が癌の危険度を下げる」ことを示す証拠は無い。 == バイアスピリン錠100 mg == 1錠あたりアセチルサリチル酸100 mgを含有する[[処方箋医薬品]]。低用量のアセチルサリチル酸を投与すると、抗血小板作用が現れることで、[[日本脳卒中学会]]・日本循環器学会から、抗血小板剤としての承認・発売要望から、[[1999年|平成11年]][[2月1日]]付厚生省医薬審第104号通知「適応外使用に係る医療用医薬品の取り扱いについて」<ref>{{Cite web|和書|date=1999年2月1日|url=https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/01/dl/s0124-9h1.pdf#search='%E5%8E%9A%E7%94%9F%E7%9C%81%20%20%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%AF%A9%E7%AC%AC104'|title=「適応外使用に係る医療用医薬品の取り扱いについて」|format=PDF|publisher=厚生省医薬安第104号|accessdate=2010-05-01}}</ref>の適応条件に本剤が該当すると判断し承認申請、[[2000年]]秋に[[心筋梗塞]]・[[狭心症]]、虚血性[[脳血管障害]]の血栓塞栓形成抑制の効果で、承認・薬価収載され、[[2001年]]1月に発売された。 [[川崎病]]に対しても、臨床的に有効かつ安全な治療法であることが実証されていることから、本剤の追加効能として承認事項一部変更承認申請を行ない、その後、日本小児循環器学会から厚生労働省に対して要望書が提出され、[[2005年]]に承認、川崎病の治療にも適用が拡大された。 また、乳幼児向けの投薬量が調整しやすいように、新規にアセチルサリチル酸の粉剤が開発され、[[2006年]]に発売された。[[川崎病]]の治療のほか、バイエルアスピリンと同様の解熱鎮痛にも適用されている。 == 歴史 == [[File:Felix Hoffman.jpg|200px|thumb|フェリックス・ホフマン]] [[File:BayerHeroin.png|200px|thumb|バイエルアスピリンの広告(1904年)[[ヘロイン]]も宣伝されている]] [[ヤナギ]]の[[鎮痛]]作用は[[ギリシャ]]時代から知られていた<ref>{{cite book|和書|author=塩沢俊一|year=2012|title=膠原病学|edition=第5版|publisher=丸善出版|isbn=9784621084687|page=110}}</ref>。[[紀元前400年]]ごろ、[[ヒポクラテス]]はヤナギの[[樹皮]]を熱や痛みを軽減するために用い、葉を[[分娩]]時の痛みを和らげるために使用していたという記録がある<ref>{{cite book|editor=Rainsford, K. D.|year=2004|title=Aspirin and Related Drugs|publisher=CRC Press|location=London|isbn=0-7484-0885-1|page=1}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=パウラ・Y・ブルース|year=2009|others=大船泰史、[[香月勗]]、西郷和彦、富岡清(監訳)|title=ブルース有機化学|edition=第5版|volume=下|publisher=化学同人|isbn=4759811699|page=822}}</ref>。 [[19世紀]]には[[ヤナギ]]の木から[[サリチル酸]]が分離された。その後、アセチルサリチル酸の出現まではサリチル酸が[[解熱鎮痛薬]]として用いられたが、サリチル酸には強い[[胃腸]]障害が出るという副作用の問題があった。しかし[[1897年]]、バイエル社の[[フェリックス・ホフマン (薬学者)|フェリックス・ホフマン]]によりサリチル酸がアセチル化され、副作用の少ないアセチルサリチル酸が[[化学合成|合成]]された{{要出典|date=2023年12月}}。 アセチルサリチル酸は世界で初めて人工合成された医薬品である。[[1899年]][[3月6日]]にバイエル社によって「アスピリン」の[[商標]]が登録され発売された。翌[[1900年]]には粉末を錠剤化。発売してからわずかな年月で鎮痛薬の一大ブランドに成長し、なかでもアメリカにおける台頭はめざましく、[[20世紀]]初頭には、全世界のバイエルの売り上げのうち3分の1を占めた{{要出典|date=2023年12月}}。 しかし、[[第一次世界大戦]]のドイツの敗戦で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって商標は取り上げられ、[[1918年]]、敵国財産没収によりバイエルの「商標」「社名」、そして「社章(バイエルクロス)」までもが競売にかけられた。この時から76年間、[[1994年]]にバイエルが全ての権利を買い戻すまで、アメリカではバイエル社製のアスピリンは姿を消すが、この間にもアスピリンは権利を買い取ったスターリング社が製造していた。その商品名には「バイエルアスピリン」がそのまま使われ、社章付きで売られ続けた{{要出典|date=2023年12月}}。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * Charles C. Mann(原著)、Mark L. Plummer(原著)『アスピリン企業戦争 - 薬の王様100年の軌跡』平沢 正夫(翻訳)、ダイヤモンド社、ISBN 4-47-886009-2 * 『バイエルアスピリン』[[添付文書]](佐藤製薬) * 『バイアスピリン錠100 mg』[[医薬品インタビューフォーム]](バイエル薬品) * 『アスピリン「バイエル」』医薬品インタビューフォーム(バイエル薬品) == 関連項目 == {{Commons|Category:Acetylsalicylic acid}} * [[アスピリン・ジレンマ]] * [[アセチルサリチル酸デアセチラーゼ]] * [[食物依存性運動誘発性アナフィラキシー]] * [[気管支喘息|アスピリン喘息]] * [[NSAID潰瘍]] * [[アセトアミノフェン]] == 資料 == * {{Cite Journal |url = https://diabetesjournals.org/diabetes/article/27/12/1196/4384/Aspirin-Stimulates-Insulin-and-Glucagon-Secretion |title = Aspirin Stimulates Insulin and Glucagon Secretion and Increases Glucose Tolerance in Normal and Diabetic Subjects |author1 = Piero Micossi, MD |author2 = Antonio E Pontiroli, MD |author3 = Steven H Baron, MD |author4 = Raul C Tamayo, MD |author5 = Frieda Lengel |author6 = Maurizio Bevilacqua, MD |author7 = Umberto Raggi, MD |author8 = Guido Norbiato, MD |author9 = Piero P Foà, MD,PhD |date = 1978-12-01 |journal = The American Diabetes Association |volume = 27 |issue = 12 |doi = 10.2337/diab.27.12.1196 |pmid = 720774 |issn = 1939-327X }} * {{Cite Journal |url = https://academic.oup.com/jnci/article/113/3/258/5889955 |title = Effect of Aspirin on Cancer Incidence and Mortality in Older Adults |date = 2020-08-11 |journal = The Journal of the National Cancer Institute |publisher = Oxford University Press |volume = 113 |issue = 3 |pages = 258–265 |doi = 10.1093/jnci/djaa114 |pmc = 7936068 |pmid = 32778876 |issn = 1460-2105 }} {{非ステロイド性抗炎症薬}} {{authority control}} {{Pharm-stub}} {{DEFAULTSORT:あせちるさりちるさん}} [[Category:非ステロイド性抗炎症薬]] [[Category:抗血小板薬]] [[Category:解熱剤]] [[Category:安息香酸]] [[Category:サリチル酸]] [[Category:酢酸エステル]] [[Category:フェノールエステル]] [[Category:WHOエッセンシャルドラッグ]] [[Category:ドイツの発明]] [[Category:肝毒素]] [[Category:認知症]] [[Category:鎮痛剤]]
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アドボカシー
アドボカシー(英:advocacy)とは、「アドボケイト」と同じ語源で「擁護・代弁」や「支持・表明」「唱道」などの意味を持ち、同時に政治的、経済的、社会的なシステムや制度における決定に影響を与えることを目的とした、個人またはグループによる活動や運動を意味する。アドボカシーには、インターネット(ソーシャルメディア含む)やマスメディアのキャンペーン、公開演説、調査の実施・発表、またはアミカス・キュリエの提出など、個人または組織が行う様々な活動が含まれる。ロビー活動(利益団体によることが多い)は特定の問題または特定の法律について立法者に直接のアプローチをとるアドボカシーの一形態である。 なお、法的または法律上の文脈では「アドボケイト」とは、法的手続きにおいて、ある人に代わって発言することを何らかの方法で許可・任命されている特定の人(弁護士など)の称号である。語源である「アドボカタス」も参照のこと。 さらに、健康・医療の分野では、1970年代のアメリカにおいて登場した「患者アドボカシー(英語版)」や、「健康アドボカシー(英語版)」などの新たな用語も登場するようになった。 アドボカシーには社会に変化を起こすという目的で様々な形態があり、異なるアプローチをもっている。代表的なものとしては、下記のようなアドボカシーの形態が存在する。 他 現代においては、数多くのさまざまなトピックが提唱されている。一般的なものは社会正義をコーズ(主義・主張・信条・運動原理)としての社会運動、ロビーや権利擁護運動、啓蒙活動などとなる。例えば人身売買問題のように、問題があり解決する価値があると広く認められている明確な社会問題だったり、解決する必要があるという普遍的な合意がある貧困、水と衛生などの人権問題である。しかしながら、中絶や純潔運動などの他のものは、はるかに分裂的であり、対立してお互いを強く支持する意見が激しく盛り上がるものもある。 例 米国では、広範囲に及ぶ論争と深い意見の論点があれば、それを社会問題と呼ぶ。米国議会図書館は、中絶などの広大なものから同性婚、市民の権利、LGBTの権利、女性の権利、環境保護、ビーガニズムなど、特定の理想を推進することを擁護する人々が意図するトピック、「Cause(主義・主張・信条・運動原理)」とも呼ばれるもの、からハッキングや学術上の不正行為(つまりは剽窃)までをも含む幅広い社会問題のリストを集めている。 アドボカシーグループ(アドボカシー団体)、インタレストグループ(利益団体)、この両者はその実質上の定義「一般大衆の意見や政策に影響を与える為に、種々のアドボカシーの形態を利用するグループ・団体(「An interest group or advocacy group is a body which uses various forms of advocacy in order to influence public opinion and/or policy」 )」、という意味で同義語である。 つまり、アドボカシーグループは一般に、擁護団体、支援団体、権利団体、推進団体、啓蒙団体、はたまた圧力団体、企業利益体、ロビー団体、政治団体(運動組織)、利益団体、愛好家グループなどと呼ばれることになる。 日本語(カタカナ)で「アドボカシー」と表記される場合、大別すると二つの意味で使われることが多い。ひとつは権利擁護としてのアドボカシーであり、もうひとつは政策提言としてのアドボカシーである。 具体的には、社会的弱者、マイノリティー等の権利擁護、代弁の他、その運動や政策提言、特定の問題に対する政治的提言、保健医療、社会環境での性差撤廃、地球環境問題など広範な分野での活発な政策提言活動を指している。権利擁護としてのアドボカシーについては、(あまり組織的でなく、適度な)権利の代弁、擁護のことを指すとされ、その場合の例として、自ら自己の権利を充分に行使することのできない、終末期の患者、障害者、アルツハイマー病、意識喪失の患者などの権利を代弁することなどがあげられる。また、患者会やSHG(自助グループ)などがある程度組織的にアドボカシーを行う場合もある。 一方、政策提言としてのアドボカシーについては、特定の問題について政治的な提言を行うことと定義され、日本でも保健医療や、雇用における性差撤廃、地球温暖化防止などの環境問題、公共事業問題など広範な分野で活発な政策提言活動が行われている。特にNGO/NPOなどが行う市民活動の分野では、アドボカシーは反政府、反企業といった対立の構図ではなく、論理的・科学的な政策を代替案を示して提言する活動であり、最もNGO/NPOらしい活動と定義する学者や専門家は多い。 また、ロビイング活動そのものや、そこにいたる代弁・弁護活動までも含めたものをアドボカシーとする考え方もある。最近では成年後見制度などとも関係して、超高齢社会の中で話題になることも多くなっている。また、日本の政府がNGO/NPOによる政策提言能力の向上を目的とした表彰制度を行っているが、そもそも提言を受ける側である国が提言する側を表彰することについては、NGO/NPOの中に疑問の声もある。
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アドボカシーとは、「アドボケイト」と同じ語源で「擁護・代弁」や「支持・表明」「唱道」などの意味を持ち、同時に政治的、経済的、社会的なシステムや制度における決定に影響を与えることを目的とした、個人またはグループによる活動や運動を意味する。アドボカシーには、インターネット(ソーシャルメディア含む)やマスメディアのキャンペーン、公開演説、調査の実施・発表、またはアミカス・キュリエの提出など、個人または組織が行う様々な活動が含まれる。ロビー活動(利益団体によることが多い)は特定の問題または特定の法律について立法者に直接のアプローチをとるアドボカシーの一形態である。 なお、法的または法律上の文脈では「アドボケイト」とは、法的手続きにおいて、ある人に代わって発言することを何らかの方法で許可・任命されている特定の人(弁護士など)の称号である。語源である「アドボカタス」も参照のこと。 さらに、健康・医療の分野では、1970年代のアメリカにおいて登場した「患者アドボカシー」や、「健康アドボカシー」などの新たな用語も登場するようになった。
'''アドボカシー'''([[英語|英]]:advocacy)とは、「[[アドボケイト]]」と同じ語源で「擁護・代弁」や「支持・表明」「唱道」などの意味を持ち、同時に政治的、経済的、社会的なシステムや制度における決定に影響を与えることを目的とした、[[個人]]または[[利益団体|グループ]]による活動や運動を意味する。アドボカシーには、[[インターネット]]([[ソーシャルメディア]]含む)や[[マスメディア]]のキャンペーン、[[演説|公開演説]]、調査の実施・発表、または[[アミカス・キュリエ|アミカス・キュリエの提出]]など、個人または組織が行う様々な活動が含まれる。[[ロビー活動]]([[利益団体]]によることが多い)は特定の問題または特定の[[法律]]について[[議員|立法者]]に直接のアプローチをとるアドボカシーの一形態である<ref>{{Cite web|url=http://www.npaction.org/article/articleview/76/1/248|title=Lobbying Versus Advocacy: Legal Definitions|publisher=NP Action|accessdate=2010-03-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100402225054/http://www.npaction.org/article/articleview/76/1/248|archivedate=2 April 2010}}</ref>。 なお、法的または法律上の文脈では「[[アドボケイト]]」とは、法的手続きにおいて、ある人に代わって発言することを何らかの方法で許可・任命されている特定の人(弁護士など)の称号である。語源である「[[アドボカタス]]」も参照のこと。 さらに、健康・医療の分野では、1970年代のアメリカにおいて登場<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24504/itetsu.28.0_1|title=アドボカシーは看護者の役割か|date=2010|volume=28|accessdate=2019-05-20|publisher=日本医学哲学・倫理学会|journal=医学哲学 医学倫理}}</ref>した「{{仮リンク|患者アドボカシー|en|Patient advocacy}}」や、「{{仮リンク|健康アドボカシー|en|Health advocacy}}」などの新たな用語も登場するようになった。 == 形態 == アドボカシーには社会に変化を起こすという目的で様々な形態があり、異なるアプローチをもっている。代表的なものとしては、下記のようなアドボカシーの形態が存在する。 ; 専門型アドボカシー:専門家やエキスパートと見なされる人々がその立場で問題意識を意思決定者に提示し政策的に影響を及ぼす。(いわゆる政策提言が含まれる) ; 予算型アドボカシー:市民団体が行政の予算に積極的に関与し、[[アカウンタビリティ]]や透明性を促進し、一般の人々の必要性や要望、そして地域社会の不公平な部分により注意を払うことを行政側に要望する。 ; 大衆型アドボカシー:大規模なグループが行うあらゆる種類の行動(請願、デモなど)。 ; 利益団体型アドボカシー:[[ロビー活動]]は、大衆アドボカシーを行う[[インタレストグループ|インタレストグループ(利益団体)]]が使用する主要なツール。資金力や組織力が要求されるので政治的意思決定者に影響を与えることにおいて常に成功するわけではない形式である。 ; イデオロギー型アドボカシー:このアプローチでは、グループは意思決定の場で彼らの考えを推し進めるために抗議なども含めて行動する人達。 ; メディア型アドボカシー:「社会的または公共政策のイニシアチブを推進するためマスメディアの戦略的利用」(Jernigan and Wright、1996)。例えばアルコールやタバコ関連の公共の健康問題などを啓蒙する上で、テレビ広告などを活用する。 他 == トピック == 現代においては、数多くのさまざまなトピックが提唱されている。一般的なものは[[社会正義]]をコーズ(主義・主張・信条・運動原理)としての社会運動、ロビーや権利擁護運動、啓蒙活動などとなる。例えば[[人身売買]]問題のように、問題があり解決する価値があると広く認められている明確な[[社会問題]]だったり、解決する必要があるという普遍的な合意がある[[貧困]]、水と衛生などの人権問題である<ref name="unicef">{{Cite book|last=UNICEF|title=Advocacy toolkit - A guide to influencing decisions that improve children's lives|date=2010|publisher=UNICEF|pages=144|url=http://www.unicef.org/evaluation/files/Advocacy_Toolkit.pdf|accessdate=11 February 2016}}</ref>。しかしながら、[[妊娠中絶|中絶]]や[[純潔運動]]などの他のものは、はるかに分裂的であり、対立してお互いを強く支持する意見が激しく盛り上がるものもある。 例 * {{仮リンク|健康アドボカシー|en|Health advocacy}}(Health advocacy):健康管理の権利を支持し促進するとともに、地域の健康および政策の取り組みを強化し、その有効性、安全性およびケアの質に焦点を当てる。 * {{仮リンク|患者アドボカシー|en|Health advocacy}}(Patient advocacy):脆弱な立場に置かれる[[患者の権利]]や病人の擁護またその代弁などに焦点を当てる<sup>[[アドボカシー#cite note-2|[2]]]</sup>。回復後のサバイバーや世話をしていた親族なども対象に含まれる。 [[アメリカ合衆国|米国]]では、広範囲に及ぶ論争と深い意見の論点があれば、それを[[社会問題]]と呼ぶ。[[アメリカ議会図書館|米国議会図書館]]は、中絶などの広大なものから[[同性結婚|同性婚]]、[[公民権|市民の権利]]、[[国・地域別のLGBTの権利|LGBTの権利]]、[[女性の権利]]、[[環境主義|環境保護]]、[[ヴィーガニズム|ビーガニズム]]など、特定の理想を推進することを擁護する人々が意図するトピック、「Cause(主義・主張・信条・運動原理)」とも呼ばれるもの、からハッキングや学術上の不正行為(つまりは剽窃)までをも含む幅広い社会問題のリストを集めている<ref>{{Cite web|url=http://catdir.loc.gov/catdir/toc/ecip0516/2005018778.html|title=Table of contents for Social issues in America|author=|date=|website=loc.gov|accessdate=2019-05-20}}</ref>。 == 団体・グループ == アドボカシーグループ(アドボカシー団体)、[[インタレストグループ]]([[利益団体]])、この両者はその実質上の定義「一般大衆の意見や政策に影響を与える為に、種々のアドボカシーの形態を利用するグループ・団体(「An interest group or advocacy group is a body which uses various forms of advocacy in order to influence public opinion and/or policy」 )」、という意味で同義語である。 つまり、アドボカシーグループは一般に、擁護団体、支援団体、権利団体、推進団体、啓蒙団体、はたまた圧力団体、企業利益体、ロビー団体、政治団体(運動組織)、利益団体、[[Special Interest Group|愛好家グループ]]などと呼ばれることになる。 * 政治的文脈では、「アドボカシーグループ」とは、公職への選挙を求めることなく、政治的な決定や政策に影響を与えようとする人々の組織的な集まり。 == 日本において == 日本語([[片仮名|カタカナ]])で「アドボカシー」と表記される場合、大別すると二つの意味で使われることが多い。ひとつは権利擁護としてのアドボカシーであり、もうひとつは政策提言としてのアドボカシーである。 具体的には、社会的弱者、[[社会的少数者|マイノリティー]]等の権利擁護、代弁の他、その運動や政策提言、特定の問題に対する政治的提言、保健医療、社会環境での性差撤廃、地球環境問題など広範な分野での活発な政策提言活動を指している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kaigo-town.jp/list/word.php?mode=detail&id=12|title=介護用語集|accessdate=2019-05-25|publisher=全国介護者支援協議会|quote=自己の権利を表明することが困難な寝たきりの高齢者や、認知症の高齢者、障がい者の権利擁護やニーズ表明を支援し代弁すること。}}</ref>。権利擁護としてのアドボカシーについては、(あまり組織的でなく、適度な)権利の代弁、擁護のことを指すとされ、その場合の例として、自ら自己の権利を充分に行使することのできない、[[終末期]]の[[患者]]、[[障害者]]、[[アルツハイマー病]]、意識喪失の患者などの権利を代弁することなどがあげられる。また、[[患者会]]やSHG([[自助グループ]])などがある程度組織的にアドボカシーを行う場合もある。 一方、政策提言としてのアドボカシーについては、特定の問題について政治的な提言を行うことと定義され、日本でも保健医療や、[[雇用]]における性差撤廃、[[地球温暖化]]防止などの環境問題、[[公共事業]]問題など広範な分野で活発な政策提言活動が行われている。特に[[非政府組織|NGO]]/[[非営利団体|NPO]]などが行う[[市民活動]]の分野では、アドボカシーは反政府、反企業といった対立の構図ではなく、論理的・科学的な政策を代替案を示して提言する活動<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.savechildren.or.jp/sc_activity/crc/?gclid=CL7PsY-XoNMCFRBvvAodQEAHjg|title=アドボカシー(チャイルド・ライツ・センター)|accessdate=2019-05-25|publisher=公益社団法人 セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン|quote=アドボカシーとは:具体的な政策目標を実現するために、政策決定者および同決定プロセスに影響力を持つ個人、組織に働きかけること。}}</ref>であり、最もNGO/NPOらしい活動と定義する学者や専門家は多い。 また、ロビイング活動そのものや、そこにいたる代弁・弁護活動までも含めたものをアドボカシーとする考え方もある。最近では[[成年後見制度]]などとも関係して、[[超高齢社会]]の中で話題になることも多くなっている。また、日本の政府がNGO/NPOによる政策提言能力の向上を目的とした表彰制度を行っているが、そもそも提言を受ける側である国が提言する側を表彰することについては、NGO/NPOの中に疑問の声もある。 == 事例 == * [[Linux]]等の[[フリーソフトウェア運動]]。[[フリーソフトウェア運動|フリーソフトウェア]]と[[コピーレフト]]のライセンスの啓蒙と普及促進を目的とした[[社会運動]]。 == 関連項目 == * [[アドボケイト]] * [[利益団体|利益団体・圧力団体]] * [[ロビイスト]] * [[市民団体]] * [[シンクタンク]] == 参考文献 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://advocacy.collegeboard.org/ カレッジボードアドボカシー&ポリシーセンター] * [http://www.publicaffairsworld.com/ PRワールド] - ロビー活動をテーマにしたニュースと情報サイト {{デフォルトソート:あとほかしい}} [[Category:啓発活動]] [[Category:医療利用者のアドボカシー|*]] [[Category:英語の語句]]
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ファッション
ファッション(英: fashion、英語発音: [ˈfæʃən] ファシャン。仏: mode、フランス語発音: [mɔd] モッド)とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。特に、人々の間で流行している服装を指すが、装いに関係する装身具、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイルまでも包括しうる。「ファッショナブル」や「おしゃれ」といった表現は、ある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い様式に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。 一般に人は地理条件、性別、年齢、社会階層、職業、思想や嗜好等を反映した服装を着用するが、それと同時に文化的に影響力のあるステータスを持つ人々が何か新しい、もしくはそれまでと違った衣服を着用し、他の人々がそれに追随しはじめた時、ファッションの流行は始まる。服飾の流行は全世界的に見られるが、法律や宗教、道徳等による服装規範が相対的に緩く、服装の選択肢も広い現代の西洋的な市民社会においては、その変動は特に激しく、またそれらの流行を利用した衣料品産業が巨大産業を形成している。最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。また、ロラン・バルトによれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる。 流行したファッションは、隆盛から衰退に至る一連のサイクルの中で消滅することが常であり、また生産者や企業も頻繁なモデルチェンジを行って新しい流行を仕掛け、買い替え需要を促すが、中には、以後も完全に一つのスタイルとして定着するものもある。一方で、衣服は着用者の美意識をそのままあらわすものであり、個性を示す手段ともなっている。着用する衣服は他者からの第一印象を決定づけるものであり、これを利用して他者に自らの望むイメージを印象づけることも行われる。この「流行への追随」と「個性の強調」は本質的に対立するが、どちらもファッションの根幹をなす重要な概念である。 西洋の衣服(洋服)の歴史については、洋服の歴史を参照 頻繁に変化するファッションという西洋の現象は概して古代には見られなかったし、他の大文明でも数十年前まではあまり類を見ないものであった。ペルシア・トルコ・日本・中国などへ旅した初期の西洋人旅行家たちは現地のファッションの変化のなさをしばしば報告したし、逆にそれらの他文化圏から西洋に来た観察者は西洋ファッションの目紛しいペースでの変化を西洋文化の不安定さと無秩序さの現れではないかと報告していた。日本の征夷大将軍の老中は1609年にスペイン人の来訪者に、日本の衣服は1000年以上もの間変化していないと語った。しかしながら、例えば中国の明では漢服に頻繁に変化するファッションが存在したとする注目に値する証拠がある。 古代ローマや中世イスラム帝国などでのように、経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、ムーア人時代のスペインでは8世紀に、高名な音楽家Ziryabが出身地であるバグダードの風習と自身の創意により、季節と時間帯に応じた洗練された衣服スタイルをコルドバに導入した。同様のファッションの変化は11世紀の中東でも、進出してきたテュルクによって中央アジアと極東の衣服スタイルが導入されて起こった。 ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは14世紀中頃であるとかなりはっきりしており、ジェームズ・レーヴァー(英語版)やフェルナン・ブローデルなどの歴史家がこの時期を西洋の服飾ファッションの始まりとしている。これを示す最も劇的な変化は男性の上着が突然に大幅に短くタイトになったことで、ふくらはぎまであったものが辛うじて尻を覆うだけのものとなり、また同時に胸を大きく見せる詰め物もすることがあった。これによって西洋男性が仕立てた上着をレギンスまたはズボンの上に着るという概形が生み出された。 15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と髪型は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、美術史家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的にはフランスのアンシャンレジームのファッションが支配的となった。通常は富裕層がファッションを先導したが、近世ヨーロッパの富の増大によりブルジョワジーや農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた。 16世紀のドイツもしくはイタリアの紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これはアルブレヒト・デューラーが15世紀末にニュルンベルクとヴェネツィアのファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている(右図)。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した。 布地の色と模様は年を追って変化したが、紳士の外套の断ち方やベストの丈、淑女のドレスを裁断する時の型などの変化はよりゆっくりとしていた。男性のファッションは主に軍装から派生しており、西洋男性のシルエットの変化はヨーロッパ内の戦域で紳士将校たちが異国のスタイルを目にすることによって刺激を受けていた。「スティーンカーク」(Steinkirk)のクラヴァット(英語版)もしくはネクタイがその一例である。 1780年代には最新のパリのスタイルを伝えるフランスの版画出版の増加によりファッションの変化が加速した。ただし、17世紀には既に見本として着飾った人形がフランスから流通していたし、1620年代以降はアブラハム・ボス(フランス語版)がファッション版画を制作していた。1800年までには、全ての西ヨーロッパ人たちは同じような装いをするようになっていた(か、少なくともしているつもりであった)。地域的なバリエーションはまずは地方文化の形跡、後には古風な田舎者の烙印と見做されるようになった。19世紀前半にはジョージ・ブライアン・ブランメルらによってダンディズムが確立し、以後の紳士服の祖型が形作られた。一方、紳士服においては既製服が富裕層を除いて広まりはじめた。1840年代にはイギリスにおいて紳士用の既製服市場が急拡大し、アメリカもそれに続いた。 仕立屋や裁縫師たちが多くの革新に関与してきたことは間違いないし、織物産業も確かに数多くの流行を先導したが、ファッションデザインの歴史が始まったとされるのは1858年、イギリス出身のシャルル・フレデリック・ウォルトが最初のオートクチュール店をパリに開いた日である。ウォルトはデザイナーによる季節ごとの新デザイン提案、ファッションモデルの起用とファッションショーの開催を行い、現代のファッションシステムの構築とプロのデザイナーの主導的地位をもたらした。1868年にはパリにおいてオートクチュール協会が設立された。 19世紀後半から20世紀前半にかけては、紳士服の変化が停滞したのに対し、婦人服は大きく変動した。19世紀までの婦人ファッションはコルセットなどで体を細く締め上げるものが主流であったが、1906年にポール・ポワレがコルセット不要のドレスを発表したことで流れは大きく変わった。ポワレはまた、新素材の開発や、衣服以外にも香水や服飾雑貨などの分野に進出し、積極的なプロモーション活動を行うことで市場を大きく広げた。第一次世界大戦下の総力戦体制によって婦人の社会参加が進んだことで、大戦後にはココ・シャネルらの活動的・機能的なファッションが支持を得て、コルセットは完全に消滅した。1940年にナチス・ドイツによるフランス占領が起きるとファッションの中心地であったパリは大打撃を受け、多くのオートクチュール店は閉店し、幾人かのデザイナーは国外へ移住したものの、オートクチュール組合は維持されており、戦後は再び復活し隆盛を迎えた。 ウォルト以来ファッションの中核は長らくオートクチュールが担ってきたが、1960年代に入ると高級既製服であるプレタポルテが登場し、1975年にパリ・プレタポルテコレクションがはじまるなど、オートクチュールに代わってファッションの中核となった。また1950年代から1960年代にかけて、ジーンズやミニスカートに代表されるストリートファッションが登場し、急速に台頭して一つの大きな潮流となった。ファッション産業の中心地は18世紀以降長きにわたってパリであったが、1970年代以降はオートクチュールが衰退するとともに、ミラノやニューヨークなどでメゾンの設立が相次ぎ、1976年にミラノ・コレクションがはじまるなど各地のコレクションが力を持つようになり、ミラノやニューヨークも中心地のひとつとなった。こうして1970年代後半には現在の4大コレクションが成立した。 20世紀後半に入り、一般大衆の経済力が向上するに伴い、ファッションは上流階級が独占する小さな市場から大衆の参加する巨大市場へと変貌した。これによって、既製服を生産するアパレル産業がファッション産業への参入を行い、また価値観の多様化が起きてさまざまなファッションが併存するようになった。現代では、ファッションは大きな産業となっている。大小さまざまなブランドが次々に新しい様式の服飾を提案し、たえず流行を創出することで消費者の購買意欲を促進している。ファッションモデルによる華やかなファッションショーも行われ、成功したファッションデザイナーやモデルは名声と富を獲得し、関連製品の販売促進のためファッション写真、ファッション雑誌も盛んである。 ファッション・ジャーナリズムのみならず、一般のマスメディアがファッションにもたらす影響も大きなものである。広告やCMもさることながら、ある対象に対する人気そのものが流行を生み出し、広告などとの連携でその影響はさらに強まった。すでに1920年代から映画はファッションの流行にある程度の影響を与えていたが、1950年代に入ると影響は非常に大きなものになった。 特にファッションの都と呼ばれる世界的なファッションの中心地ではファッションウィークが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。ロンドン・パリ・ミラノ・ニューヨークは多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。パリを中心としたファッションの世界では、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の作る、特注のオートクチュールや、有名デザイナーがデザインする既製服であるプレタポルテのファッションショーが行われる。パリで1月と7月に開催されている「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。オートクチュールおよびそのコレクションは長い歴史を持ち現在でも顧客を持つものの、顧客数は非常に少なくなっており主力は他部門へと移っている。またプレタポルテは、日本語で「コレクション」と呼ばれるファッションショーがあり、それぞれ年2回、2月から3月および9月から10月までの間に、ニューヨーク・コレクション、ロンドン・コレクション、ミラノ・コレクション、パリ・コレクションの順で開催されている。また、1985年にはじまった東京コレクションのように、4大コレクション以外のコレクションも世界各地で開催されている。こうしたハイファッションのほか、スポーツウェアやジーンズなどのカジュアルウェアもファッションの大きな部分を占めている。 90年代初頭、アート色の強い日常離れした服に対して、一般的に普段着として着られるような服、リアルクローズをデザインする動きが高まった。これは、それまでデザイナーが作ってきた流行ではなく、人間が着ているだろう服を想定し、より消費者に近いファッションの発信をしようとするものである。この動きは、2000年ごろからはファストファッションとも結びつき、「H&M」や「ZARA」などの世界的な衣料品チェーン企業が勃興している。一方、高級ブランドにおいては1980年代以降積極的な買収によって巨大企業化が進み、フランスのLVMH、スイスのリシュモン、フランスのケリングの3社が突出した大企業となっているものの、独立系のブランドも多く残存している。またこうしたブランド巨大企業は、衣服だけでなく宝飾や時計など高級品全般にまたがるコングロマリットを形成している。 日本においては、1927年9月21日に、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催された。これは着物のショーであり、一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。 1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。1975年頃よりニュートラが全国的に流行。これにより海外高級ブランドユーザーの大衆化(若年齢化)やセレクトショップのブーム、ファッション誌のモデル大量起用など、時代の転換点となった。2000年代に入ると高級ブランドが退潮の傾向を示す一方、海外のファストファッション企業が相次いで進出し低価格化が進んだ。 ファッション・ジャーナリズム(英語版)はファッションの重要な一部分である。編集者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、ファッションブログなどで行われている。また、ブログなどを通じて世間に影響力を及ぼすブロガーを、インフルエンサーと呼ぶ。 20世紀初頭から、ファッション雑誌は写真やイラストレーションを盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能あるイラストレーターたちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、リュシアン・ヴォージェル(フランス語版)が1912年に創刊し、戦時中を除き1925年まで定期的に刊行された『ガゼット・デュ・ボン・トン(フランス語版)』(『上品な雑誌』)であろう。 1892年にアメリカ合衆国で創刊された『ヴォーグ』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したもののひとつである。第二次世界大戦終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーはプレタポルテと香水を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。 テレビでは1950年代にファッションの小特集が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代にはファッションテレビジョン(英語版)、ファッション通信のようなファッション専門の番組も出現した。テレビや、近年のファッションブログなどのインターネットによる露出の増大をよそに、ファッション産業の視点からは出版物による露出は最も重要な広告形態であり続けている。 ファッション編集者のシャロン・マクレランはこう語っている――「ファッション界には、テレビ・雑誌・ブログが消費者に何を着るべきかを命令しているのだという誤解があります。しかし、ほとんどのトレンドはターゲット層を調査してからリリースされています。従って、あなたがメディアで目にするものは、人々の間で人気のあるアイデアを調査した結果なのです。本質的に、ファッションというのは人々がアイデアをキャッチボールする営みなのです、他のアート形式もみなそうであるように。」 ファッション産業では、映画産業や音楽産業でのようには知的財産権は施行されていない。他の誰かのデザインから「インスパイヤされる」という営為は、ファッション産業が衣服の流行を作り出す能力に貢献している。新しい流行を作り出すことで消費者に衣服を買うよう誘い込むことはこの産業の成功の鍵となる要素である。流行を作り出すプロセスを妨げる知的財産権は、この観点からは、非生産的なものとなる。その一方で、新しいアイデアや、ユニークなデザインや、デザインのディテールなどを大きな企業があからさまに剽窃するのは、数多くの小規模な独立したデザイン会社を破綻させている原因であるともしばしば議論される。デザイン性の高いファッションアイテムを安価で購入できるのは、消費者にとっては望ましいことのように思われるが、トレンド発信源であるデザイナーに十分な報酬が行き渡らなくなり、結果としてファッション業界が衰退してしまうという恐れがある。ニューヨーク州では米ファッションデザイナー協議会などが、ファストファッション企業の行為を差し止め、デザイン保護が認められるよう州政府に働きかけている。現在のファッション産業において、法とファッションの関連性が高まっている。 2005年に世界知的所有権機関(WIPO)は協議会を開き、中小企業を保護し、織物・服飾産業内での競争を促進させるためファッション業界での知的財産権のより厳密な施行を求めた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ファッション(英: fashion、英語発音: [ˈfæʃən] ファシャン。仏: mode、フランス語発音: [mɔd] モッド)とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。特に、人々の間で流行している服装を指すが、装いに関係する装身具、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイルまでも包括しうる。「ファッショナブル」や「おしゃれ」といった表現は、ある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い様式に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "一般に人は地理条件、性別、年齢、社会階層、職業、思想や嗜好等を反映した服装を着用するが、それと同時に文化的に影響力のあるステータスを持つ人々が何か新しい、もしくはそれまでと違った衣服を着用し、他の人々がそれに追随しはじめた時、ファッションの流行は始まる。服飾の流行は全世界的に見られるが、法律や宗教、道徳等による服装規範が相対的に緩く、服装の選択肢も広い現代の西洋的な市民社会においては、その変動は特に激しく、またそれらの流行を利用した衣料品産業が巨大産業を形成している。最新のファッションに盲目的に追随する人は「ファッショニスタ」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。また、ロラン・バルトによれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、さまざまなファッション文をファッションの文法を用いて組み合わせるファッション言語とも見做せる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": 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"古代ローマや中世イスラム帝国などでのように、経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、ムーア人時代のスペインでは8世紀に、高名な音楽家Ziryabが出身地であるバグダードの風習と自身の創意により、季節と時間帯に応じた洗練された衣服スタイルをコルドバに導入した。同様のファッションの変化は11世紀の中東でも、進出してきたテュルクによって中央アジアと極東の衣服スタイルが導入されて起こった。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは14世紀中頃であるとかなりはっきりしており、ジェームズ・レーヴァー(英語版)やフェルナン・ブローデルなどの歴史家がこの時期を西洋の服飾ファッションの始まりとしている。これを示す最も劇的な変化は男性の上着が突然に大幅に短くタイトになったことで、ふくらはぎまであったものが辛うじて尻を覆うだけのものとなり、また同時に胸を大きく見せる詰め物もすることがあった。これによって西洋男性が仕立てた上着をレギンスまたはズボンの上に着るという概形が生み出された。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と髪型は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、美術史家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的にはフランスのアンシャンレジームのファッションが支配的となった。通常は富裕層がファッションを先導したが、近世ヨーロッパの富の増大によりブルジョワジーや農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "16世紀のドイツもしくはイタリアの紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これはアルブレヒト・デューラーが15世紀末にニュルンベルクとヴェネツィアのファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている(右図)。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "布地の色と模様は年を追って変化したが、紳士の外套の断ち方やベストの丈、淑女のドレスを裁断する時の型などの変化はよりゆっくりとしていた。男性のファッションは主に軍装から派生しており、西洋男性のシルエットの変化はヨーロッパ内の戦域で紳士将校たちが異国のスタイルを目にすることによって刺激を受けていた。「スティーンカーク」(Steinkirk)のクラヴァット(英語版)もしくはネクタイがその一例である。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1780年代には最新のパリのスタイルを伝えるフランスの版画出版の増加によりファッションの変化が加速した。ただし、17世紀には既に見本として着飾った人形がフランスから流通していたし、1620年代以降はアブラハム・ボス(フランス語版)がファッション版画を制作していた。1800年までには、全ての西ヨーロッパ人たちは同じような装いをするようになっていた(か、少なくともしているつもりであった)。地域的なバリエーションはまずは地方文化の形跡、後には古風な田舎者の烙印と見做されるようになった。19世紀前半にはジョージ・ブライアン・ブランメルらによってダンディズムが確立し、以後の紳士服の祖型が形作られた。一方、紳士服においては既製服が富裕層を除いて広まりはじめた。1840年代にはイギリスにおいて紳士用の既製服市場が急拡大し、アメリカもそれに続いた。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "仕立屋や裁縫師たちが多くの革新に関与してきたことは間違いないし、織物産業も確かに数多くの流行を先導したが、ファッションデザインの歴史が始まったとされるのは1858年、イギリス出身のシャルル・フレデリック・ウォルトが最初のオートクチュール店をパリに開いた日である。ウォルトはデザイナーによる季節ごとの新デザイン提案、ファッションモデルの起用とファッションショーの開催を行い、現代のファッションシステムの構築とプロのデザイナーの主導的地位をもたらした。1868年にはパリにおいてオートクチュール協会が設立された。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "19世紀後半から20世紀前半にかけては、紳士服の変化が停滞したのに対し、婦人服は大きく変動した。19世紀までの婦人ファッションはコルセットなどで体を細く締め上げるものが主流であったが、1906年にポール・ポワレがコルセット不要のドレスを発表したことで流れは大きく変わった。ポワレはまた、新素材の開発や、衣服以外にも香水や服飾雑貨などの分野に進出し、積極的なプロモーション活動を行うことで市場を大きく広げた。第一次世界大戦下の総力戦体制によって婦人の社会参加が進んだことで、大戦後にはココ・シャネルらの活動的・機能的なファッションが支持を得て、コルセットは完全に消滅した。1940年にナチス・ドイツによるフランス占領が起きるとファッションの中心地であったパリは大打撃を受け、多くのオートクチュール店は閉店し、幾人かのデザイナーは国外へ移住したものの、オートクチュール組合は維持されており、戦後は再び復活し隆盛を迎えた。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ウォルト以来ファッションの中核は長らくオートクチュールが担ってきたが、1960年代に入ると高級既製服であるプレタポルテが登場し、1975年にパリ・プレタポルテコレクションがはじまるなど、オートクチュールに代わってファッションの中核となった。また1950年代から1960年代にかけて、ジーンズやミニスカートに代表されるストリートファッションが登場し、急速に台頭して一つの大きな潮流となった。ファッション産業の中心地は18世紀以降長きにわたってパリであったが、1970年代以降はオートクチュールが衰退するとともに、ミラノやニューヨークなどでメゾンの設立が相次ぎ、1976年にミラノ・コレクションがはじまるなど各地のコレクションが力を持つようになり、ミラノやニューヨークも中心地のひとつとなった。こうして1970年代後半には現在の4大コレクションが成立した。", "title": "ファッションの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "20世紀後半に入り、一般大衆の経済力が向上するに伴い、ファッションは上流階級が独占する小さな市場から大衆の参加する巨大市場へと変貌した。これによって、既製服を生産するアパレル産業がファッション産業への参入を行い、また価値観の多様化が起きてさまざまなファッションが併存するようになった。現代では、ファッションは大きな産業となっている。大小さまざまなブランドが次々に新しい様式の服飾を提案し、たえず流行を創出することで消費者の購買意欲を促進している。ファッションモデルによる華やかなファッションショーも行われ、成功したファッションデザイナーやモデルは名声と富を獲得し、関連製品の販売促進のためファッション写真、ファッション雑誌も盛んである。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ファッション・ジャーナリズムのみならず、一般のマスメディアがファッションにもたらす影響も大きなものである。広告やCMもさることながら、ある対象に対する人気そのものが流行を生み出し、広告などとの連携でその影響はさらに強まった。すでに1920年代から映画はファッションの流行にある程度の影響を与えていたが、1950年代に入ると影響は非常に大きなものになった。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "特にファッションの都と呼ばれる世界的なファッションの中心地ではファッションウィークが開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。ロンドン・パリ・ミラノ・ニューヨークは多くの大ファッション企業やブランドの本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。パリを中心としたファッションの世界では、「サンディカ」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の作る、特注のオートクチュールや、有名デザイナーがデザインする既製服であるプレタポルテのファッションショーが行われる。パリで1月と7月に開催されている「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数のメゾンにしか発表が許されていないファッションショーである。オートクチュールおよびそのコレクションは長い歴史を持ち現在でも顧客を持つものの、顧客数は非常に少なくなっており主力は他部門へと移っている。またプレタポルテは、日本語で「コレクション」と呼ばれるファッションショーがあり、それぞれ年2回、2月から3月および9月から10月までの間に、ニューヨーク・コレクション、ロンドン・コレクション、ミラノ・コレクション、パリ・コレクションの順で開催されている。また、1985年にはじまった東京コレクションのように、4大コレクション以外のコレクションも世界各地で開催されている。こうしたハイファッションのほか、スポーツウェアやジーンズなどのカジュアルウェアもファッションの大きな部分を占めている。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "90年代初頭、アート色の強い日常離れした服に対して、一般的に普段着として着られるような服、リアルクローズをデザインする動きが高まった。これは、それまでデザイナーが作ってきた流行ではなく、人間が着ているだろう服を想定し、より消費者に近いファッションの発信をしようとするものである。この動きは、2000年ごろからはファストファッションとも結びつき、「H&M」や「ZARA」などの世界的な衣料品チェーン企業が勃興している。一方、高級ブランドにおいては1980年代以降積極的な買収によって巨大企業化が進み、フランスのLVMH、スイスのリシュモン、フランスのケリングの3社が突出した大企業となっているものの、独立系のブランドも多く残存している。またこうしたブランド巨大企業は、衣服だけでなく宝飾や時計など高級品全般にまたがるコングロマリットを形成している。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本においては、1927年9月21日に、当時の銀座三越において日本国内初のファッションショーが開催された。これは着物のショーであり、一般からデザインを募ったファッションショーでもあった。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1953年には、当時ヨーロッパで隆盛を極めたファッションデザイナーのクリスチャン・ディオールが来日し、海外ファッションの導入が始まった。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。1958年には、同じくピエール・カルダンが来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、1960年代以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。1975年頃よりニュートラが全国的に流行。これにより海外高級ブランドユーザーの大衆化(若年齢化)やセレクトショップのブーム、ファッション誌のモデル大量起用など、時代の転換点となった。2000年代に入ると高級ブランドが退潮の傾向を示す一方、海外のファストファッション企業が相次いで進出し低価格化が進んだ。", "title": "現代のファッション産業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ファッション・ジャーナリズム(英語版)はファッションの重要な一部分である。編集者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、ファッションブログなどで行われている。また、ブログなどを通じて世間に影響力を及ぼすブロガーを、インフルエンサーと呼ぶ。", "title": "ファッションメディア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "20世紀初頭から、ファッション雑誌は写真やイラストレーションを盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能あるイラストレーターたちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、リュシアン・ヴォージェル(フランス語版)が1912年に創刊し、戦時中を除き1925年まで定期的に刊行された『ガゼット・デュ・ボン・トン(フランス語版)』(『上品な雑誌』)であろう。", "title": "ファッションメディア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1892年にアメリカ合衆国で創刊された『ヴォーグ』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したもののひとつである。第二次世界大戦終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーはプレタポルテと香水を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。", "title": "ファッションメディア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "テレビでは1950年代にファッションの小特集が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代にはファッションテレビジョン(英語版)、ファッション通信のようなファッション専門の番組も出現した。テレビや、近年のファッションブログなどのインターネットによる露出の増大をよそに、ファッション産業の視点からは出版物による露出は最も重要な広告形態であり続けている。", "title": "ファッションメディア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ファッション編集者のシャロン・マクレランはこう語っている――「ファッション界には、テレビ・雑誌・ブログが消費者に何を着るべきかを命令しているのだという誤解があります。しかし、ほとんどのトレンドはターゲット層を調査してからリリースされています。従って、あなたがメディアで目にするものは、人々の間で人気のあるアイデアを調査した結果なのです。本質的に、ファッションというのは人々がアイデアをキャッチボールする営みなのです、他のアート形式もみなそうであるように。」", "title": "ファッションメディア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ファッション産業では、映画産業や音楽産業でのようには知的財産権は施行されていない。他の誰かのデザインから「インスパイヤされる」という営為は、ファッション産業が衣服の流行を作り出す能力に貢献している。新しい流行を作り出すことで消費者に衣服を買うよう誘い込むことはこの産業の成功の鍵となる要素である。流行を作り出すプロセスを妨げる知的財産権は、この観点からは、非生産的なものとなる。その一方で、新しいアイデアや、ユニークなデザインや、デザインのディテールなどを大きな企業があからさまに剽窃するのは、数多くの小規模な独立したデザイン会社を破綻させている原因であるともしばしば議論される。デザイン性の高いファッションアイテムを安価で購入できるのは、消費者にとっては望ましいことのように思われるが、トレンド発信源であるデザイナーに十分な報酬が行き渡らなくなり、結果としてファッション業界が衰退してしまうという恐れがある。ニューヨーク州では米ファッションデザイナー協議会などが、ファストファッション企業の行為を差し止め、デザイン保護が認められるよう州政府に働きかけている。現在のファッション産業において、法とファッションの関連性が高まっている。", "title": "知的財産権" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2005年に世界知的所有権機関(WIPO)は協議会を開き、中小企業を保護し、織物・服飾産業内での競争を促進させるためファッション業界での知的財産権のより厳密な施行を求めた。", "title": "知的財産権" } ]
ファッションとは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。特に、人々の間で流行している服装を指すが、装いに関係する装身具、美容(理容、髪型、化粧)、香水などもファッションの範疇である。さらに広義には音楽などの文化やライフスタイルまでも包括しうる。「ファッショナブル」や「おしゃれ」といった表現は、ある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い様式に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。
{{Redirect|FASHION|[[SixTONES]]の楽曲『FASHION』|共鳴 (SixTONESの曲)}} {{ウィキポータルリンク|ファッション|[[ファイル:Red and Green Tie.jpg|40px]]|break=yes}} '''ファッション'''({{lang-en-short|''fashion''}}、{{IPA-en|ˈfæʃən}} '''ファ'''シャン。{{lang-fr-short|''mode''}}、{{IPA-fr|mɔd}} モッ<small>ド</small>)とは、ある時点において広く行われているスタイルや風習のことである。 特に、人々の間で流行している[[服装]]を指すが、装いに関係する[[装身具]]、[[美容]]([[理容]]、[[髪型]]、[[化粧]])、[[香水]]などもファッションの範疇である。さらに広義には[[音楽]]などの文化や[[ライフスタイル]]までも包括しうる。 「ファッショナブル」や「[[洒落|おしゃれ]]」といった表現は、ある人や物が最新の、もしくは最新ではなくとも評判の良い様式に沿っているか否かを指し示すのに用いられる。 == 概要 == 一般に人は[[地理学|地理条件]]、[[性別]]、[[年齢]]、[[社会階層]]、[[職業]]、[[思想]]や[[嗜好]]等を反映した服装を着用するが、それと同時に文化的に影響力のある[[社会的地位|ステータス]]を持つ人々が何か新しい、もしくはそれまでと違った衣服を着用し、他の人々がそれに追随しはじめた時、ファッションの流行は始まる。服飾の流行は全世界的に見られるが、[[法律]]や[[宗教]]、[[道徳]]等による服装[[規範]]が相対的に緩く、服装の選択肢も広い現代の[[西洋]]的な[[市民社会]]においては、その変動は特に激しく、またそれらの流行を利用した[[アパレル産業|衣料品産業]]が巨大産業を形成している。最新のファッションに盲目的に追随する人は「[[ファッショニスタ]]」(fashionista)とか、ファッション中毒等と呼ばれる。また、[[ロラン・バルト]]によれば、さまざまなファッションを着て見せびらかすという営為の体系は、さまざまなファッション文をファッションの[[文法]]を用いて組み合わせるファッション[[言語]]とも見做せる<ref>{{Cite book | author=Roland Barthes | year=1967 | title=Système de la mode | publisher=ditions du Seuil, | isbn=}}({{Cite book | 和書| author=ロラン・バルト| authorlink=ロラン・バルト| translator=佐藤信夫| year=1972 | title=モードの体系| publisher=[[みすず書房]] | isbn=4-622-01963-9}})</ref>。 流行したファッションは、隆盛から衰退に至る一連のサイクルの中で消滅することが常であり<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p104 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>、また生産者や企業も頻繁な[[モデルチェンジ]]を行って新しい流行を仕掛け、買い替え需要を促すが<ref name="名前なし-1">「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p22 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>、中には、以後も完全に一つのスタイルとして定着するものもある<ref>「衣生活学」(生活科学テキストシリーズ)p9-10 佐々井啓・大塚美智子編著 朝倉書店 2016年1月20日初版第1刷</ref>。一方で、衣服は着用者の美意識をそのままあらわすものであり、個性を示す手段ともなっている<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p21-22 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。着用する衣服は他者からの第一印象を決定づけるものであり<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p21 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>、これを利用して他者に自らの望むイメージを印象づけることも行われる<ref>「新版アパレル構成学 着やすさと美しさを求めて」(生活科学テキストシリーズ)p56-57 冨田明美編著 朝倉書店 2012年8月30日初版第1刷</ref>。この「流行への追随」と「個性の強調」は本質的に対立するが、どちらもファッションの根幹をなす重要な概念である<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p22-23 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。 == ファッションの歴史 == [[File:Marie Antoinette Adult4.jpg|thumb|[[マリー・アントワネット]]はファッションリーダーであった]] [[File:ADurerNuremburgVenetianWomen.jpg|thumb|盛装した[[ニュルンベルク]]の「ブルジョワ」女性(左)と[[ヴェネツィア]]女性とを対比させた[[アルブレヒト・デューラー]]のドローイング。{{仮リンク|チョピン|en|chopine}}(底の厚い靴)がヴェネツィア女性の背を高く見せている。]]<!-- This image is referenced in the article. Please don't remove.--> [[File:1796-short-bodied-gillray-fashion-caricature.jpg|thumb|[[ジェームズ・ギルレイ]]「ファッションを追う」(1794)――当時流行だった短い[[ボディス]]を着た富裕層の女性とそれを真似た下町の女性を風刺している]] ''西洋の衣服([[洋服]])の歴史については、'''[[洋服の歴史]]'''を参照'' {{see also|フランスのファッション}} === 古代 === 頻繁に変化するファッションという西洋の現象は概して古代には見られなかったし、他の大文明でも数十年前まではあまり類を見ないものであった。[[アケメネス朝|ペルシア]]・[[トルコ]]・[[日本]]・[[中国]]などへ旅した初期の西洋人旅行家たちは現地のファッションの変化のなさをしばしば報告したし、逆にそれらの他文化圏から西洋に来た観察者は西洋ファッションの目紛しいペースでの変化を西洋文化の不安定さと無秩序さの現れではないかと報告していた。日本の[[征夷大将軍]]の{{訳語疑問点範囲|老中|date=2010年3月|Shogun's secretary|cand_prefix=原文}}は1609年にスペイン人の来訪者に、日本の衣服は1000年以上もの間変化していないと語った<ref>Braudel, 312-3</ref>。しかしながら、例えば中国の[[明]]では[[漢服]]に頻繁に変化するファッションが存在したとする注目に値する証拠がある<ref>[[:en:Timothy Brook (historian)|Timothy Brook]]: "[[:en:The Confusions of Pleasure: Commerce and Culture in Ming China|The Confusions of Pleasure: Commerce and Culture in Ming China]]" (University of California Press 1999); この本は1節全体をファッションに充てている。</ref>。 [[古代ローマ]]や中世[[イスラム帝国]]などでのように、経済・社会的な変革に伴って装いに変化が起こることはしばしばあるが、その後は長きに亘って大きな変化は起きなかった。例えば、[[アンダルス|ムーア人時代のスペイン]]では8世紀に、高名な音楽家{{訳語疑問点範囲|[[:en:Ziryab|Ziryab]]|date=2010年3月|ジルヤーブ、ズィルヤーブ、ジルヤブ、シルヤブ}}が出身地である[[バグダード]]の風習と自身の創意により、季節と時間帯に応じた洗練された衣服スタイルを[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]に導入した<ref>[[:en:Salim al-Hassani|al-Hassani]], Woodcok and Saoud (2004), 'Muslim Heritage in Our World', FSTC publisinhg, pp. 38-9</ref><ref>Terrasse, H. (1958) 'Islam d'Espagne' une rencontre de l'Orient et de l'Occident", Librairie Plon, Paris, pp.52-53. </ref>。同様のファッションの変化は11世紀の中東でも、進出してきた[[テュルク]]によって[[中央アジア]]と[[極東]]の衣服スタイルが導入されて起こった<ref>{{cite book|title=Medieval Islamic Civilization: A-K|author=Josef W. Meri & Jere L. Bacharach|publisher=[[:en:Taylor & Francis|Taylor & Francis]]|year=2006|isbn=0415966914|page=162}}</ref>。 === 近代以前のヨーロッパ === ヨーロッパでスタイルが連続的・加速度的に変化してゆく慣習が始まったのは[[14世紀]]中頃であるとかなりはっきりしており、{{仮リンク|ジェームズ・レーヴァー|en|James Laver}}や[[フェルナン・ブローデル]]などの歴史家がこの時期を西洋の服飾ファッションの始まりとしている<ref>Laver, James: ''The Concise History of Costume and Fashion'', Abrams, 1979, p. 62</ref><ref name="braudel">Fernand Braudel, ''Civilization and Capitalism, 15th-18th Centuries, Vol 1: The Structures of Everyday Life," p317, William Collins & Sons, London 1981 ({{Cite book | 和書|author=フェルナン・ブローデル|authorlink=フェルナン・ブローデル| translator=村上光彦| year=1985 | title=物質文明・経済・資本主義――15-18世紀1.日常性の構造| publisher=[[みすず書房]] | isbn=}})</ref>。これを示す最も劇的な変化は男性の上着<!-- over-garment -->が突然に大幅に短くタイトになったことで、[[ふくらはぎ]]まであったものが辛うじて[[尻]]を覆うだけのものとなり、また同時に胸を大きく見せる詰め物もすることがあった<!-- 誤訳ではなく男の話です -->。これによって西洋男性が仕立てた上着をレギンスまたはズボンの上に着るという概形が生み出された。 15世紀にはファッションの変化するペースは大きく加速し、男性・女性のファッション、特に衣服と[[髪型]]は、どちらも等しく複雑かつ移り変わるものとなった。このおかげで、[[美術史]]家は図像の年代を高い信頼度と精度で特定できるようになり、15世紀の図像の場合では5年単位での特定もしばしば可能となった。ファッションの変化はまずヨーロッパの上流階級全体が非常に似通った衣服のスタイルをしていたのを細分化させ、各国は独自のスタイルを発展させるようになり、17-18世紀にはそれに逆行して再び類似したスタイルを強いる動きが現れ、最終的には[[フランス]]の[[アンシャンレジーム]]のファッションが支配的となった<ref>Braudel, 317-24</ref>。通常は富裕層がファッションを先導したが、[[近世]]ヨーロッパの富の増大により[[ブルジョワジー]]や農民までさえも流行を追うようになり、時としてはエリート階級が不快に感じる水準にまで至った――ブローデルはこれがファッションを変化させる主要な動機の1つと考えていた<ref>Braudel, 313-15</ref>。 16世紀の[[ドイツ]]もしくは[[イタリア]]の紳士の肖像画が10枚あれば10個の全く違った帽子が描かれているであろう。この時期は国ごとの違いが最も顕著であり、これは[[アルブレヒト・デューラー]]が15世紀末に[[ニュルンベルク]]と[[ヴェネツィア]]のファッションを(実録または合成で)対比させた記録にも現れている(右図)。16世紀末の「スパニッシュ・スタイル」はヨーロッパの上流階級でのファッションの共時性への回帰の始まりとなり、17世紀中葉の葛藤の後、フランスのスタイルが決定的に指導的位置を占め、18世紀にはこの過程は完結した<ref>Braudel, 317-21</ref>。 布地の色と模様は年を追って変化したが<ref>Thornton, Peter. ''Baroque and Rococo Silks.''</ref>、紳士の外套の断ち方やベストの丈、淑女のドレスを裁断する時の型などの変化はよりゆっくりとしていた。男性のファッションは主に軍装から派生しており、西洋男性のシルエットの変化はヨーロッパ内の戦域で紳士将校たちが異国のスタイルを目にすることによって刺激を受けていた。「スティーンカーク」(Steinkirk)の{{仮リンク|クラヴァット|en|cravat}}もしくは[[ネクタイ]]がその一例である。 === 近代以後 === 1780年代には最新のパリのスタイルを伝えるフランスの版画出版の増加によりファッションの変化が加速した<ref name="名前なし-2">「ファッション・ブランドの起源 ポワレとシャネルとマーケティング」p123 塚田朋子 雄山閣 平成17年12月25日初版発行</ref>。ただし、17世紀には既に見本として着飾った人形がフランスから流通していたし<ref name="名前なし-2"/>、1620年代以降は{{仮リンク|アブラハム・ボス|fr|Abraham Bosse}}がファッション版画を制作していた。1800年までには、全ての[[西ヨーロッパ]]人たちは同じような装いをするようになっていた(か、少なくともしているつもりであった)。地域的なバリエーションはまずは地方文化の形跡、後には古風な田舎者の烙印と見做されるようになった<ref>James Laver and Fernand Braudel, ops cit</ref>。19世紀前半には[[ジョージ・ブライアン・ブランメル]]らによって[[ダンディズム]]が確立し、以後の紳士服の祖型が形作られた<ref>「衣生活学」(生活科学テキストシリーズ)p25 佐々井啓・大塚美智子編著 朝倉書店 2016年1月20日初版第1刷</ref>。一方、紳士服においては既製服が富裕層を除いて広まりはじめた。1840年代にはイギリスにおいて紳士用の[[既製服]]市場が急拡大し、アメリカもそれに続いた<ref>「ファッション・マーケティング」p72-73 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>。 仕立屋や裁縫師たちが多くの革新に関与してきたことは間違いないし、[[織物]]産業も確かに数多くの流行を先導したが、ファッションデザインの歴史が始まったとされるのは[[1858年]]、イギリス出身の[[シャルル・フレデリック・ウォルト]]が最初の[[オートクチュール]]店をパリに開いた日である<ref name="名前なし-3">「衣生活学」(生活科学テキストシリーズ)p26 佐々井啓・大塚美智子編著 朝倉書店 2016年1月20日初版第1刷</ref>。ウォルトはデザイナーによる季節ごとの新デザイン提案、ファッションモデルの起用とファッションショーの開催を行い、現代のファッションシステムの構築とプロのデザイナーの主導的地位をもたらした<ref name="名前なし-3"/>。1868年にはパリにおいてオートクチュール協会が設立された<ref>「ファッション・マーケティング」p100 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>。 19世紀後半から20世紀前半にかけては、紳士服の変化が停滞したのに対し、婦人服は大きく変動した。19世紀までの婦人ファッションは[[コルセット]]などで体を細く締め上げるものが主流であったが、1906年に[[ポール・ポワレ]]がコルセット不要のドレスを発表したことで流れは大きく変わった<ref>「ファッション・ブランドの起源 ポワレとシャネルとマーケティング」p75-76 塚田朋子 雄山閣 平成17年12月25日初版発行</ref>。ポワレはまた、新素材の開発や、衣服以外にも香水や服飾雑貨などの分野に進出し、積極的なプロモーション活動を行うことで市場を大きく広げた<ref>「ファッション・ブランドの起源 ポワレとシャネルとマーケティング」p71-73 塚田朋子 雄山閣 平成17年12月25日初版発行</ref>。[[第一次世界大戦]]下の[[総力戦]]体制によって婦人の社会参加が進んだことで、大戦後には[[ココ・シャネル]]らの活動的・機能的なファッションが支持を得て、コルセットは完全に消滅した<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p87-89 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。1940年に[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]が起きるとファッションの中心地であったパリは大打撃を受け、多くのオートクチュール店は閉店し、幾人かのデザイナーは国外へ移住したものの、オートクチュール組合は維持されており<ref>「ファッション・マーケティング」p52 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>、戦後は再び復活し隆盛を迎えた<ref>「ファッションの二十世紀」p132-137 横田一敏 集英社新書 2008年10月22日第1刷発行</ref><ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p157 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>。 ウォルト以来ファッションの中核は長らくオートクチュールが担ってきたが、1960年代に入ると高級既製服である[[プレタポルテ]]が登場し、1975年にパリ・プレタポルテコレクションがはじまるなど<ref>「ファッションの二十世紀」p176 横田一敏 集英社新書 2008年10月22日第1刷発行</ref>、オートクチュールに代わってファッションの中核となった<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p90-91 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。また1950年代から1960年代にかけて、[[ジーンズ]]や[[ミニスカート]]に代表される[[ストリートファッション]]が登場し、急速に台頭して一つの大きな潮流となった<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p92-93 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。ファッション産業の中心地は18世紀以降長きにわたってパリであったが<ref name="名前なし-4">「はじめて学ぶフランスの歴史と文化」p217-218 上垣豊編著 ミネルヴァ書房 2020年3月31日初版第1刷発行</ref><ref>「アメリカ服飾社会史」p215 濱田雅子 東京堂出版 2009年6月25日初版発行</ref>、1970年代以降はオートクチュールが衰退するとともに、ミラノやニューヨークなどでメゾンの設立が相次ぎ、1976年にミラノ・コレクションがはじまる<ref>「ファッション・マーケティング」p120 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>など各地のコレクションが力を持つようになり、ミラノ<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p150 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>やニューヨークも中心地のひとつとなった<ref name="名前なし-4"/>。こうして1970年代後半には現在の4大コレクションが成立した<ref>「ファッションの二十世紀」p181 横田一敏 集英社新書 2008年10月22日第1刷発行</ref>。 == 現代のファッション産業 == [[File:Ed Hardy Runway Models.jpg|thumb|2008年、[[ロサンゼルス]]ファッションウィークのランウェイショー]] 20世紀後半に入り、一般大衆の経済力が向上するに伴い、ファッションは上流階級が独占する小さな市場から大衆の参加する巨大市場へと変貌した。これによって、既製服を生産する[[アパレル産業]]がファッション産業への参入を行い、また価値観の多様化が起きてさまざまなファッションが併存するようになった<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p23 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。現代では、ファッションは大きな産業となっている。大小さまざまな[[ブランド]]が次々に新しい様式の服飾を提案し、たえず流行を創出することで消費者の購買意欲を促進している<ref name="名前なし-1"/>。[[ファッションモデル]]による華やかな[[ファッションショー]]も行われ、成功した[[ファッションデザイナー]]やモデルは名声と富を獲得し、関連製品の販売促進のため[[ファッション写真]]、[[ファッション雑誌]]も盛んである。 ファッション・ジャーナリズムのみならず、一般の[[マスメディア]]がファッションにもたらす影響も大きなものである。広告や[[CM]]もさることながら、ある対象に対する[[人気]]そのものが[[流行]]を生み出し、広告などとの連携でその影響はさらに強まった<ref>「環境になったメディア マスメディアは社会をどう変えているか」p135-141 藤竹暁 北樹出版 2004年3月25日初版第1刷</ref>。すでに1920年代から[[映画]]はファッションの流行にある程度の影響を与えていたが<ref>「ファッションの哲学」p430 井上雅人 ミネルヴァ書房 2019年12月30日初版第1刷発行</ref>、1950年代に入ると影響は非常に大きなものになった<ref>「ファッションの哲学」p331-332 井上雅人 ミネルヴァ書房 2019年12月30日初版第1刷発行</ref>。 特に[[ファッションの都]]と呼ばれる世界的なファッションの中心地では[[ファッションウィーク]]が開催され、デザイナーたちは観衆に新作の衣装コレクションを発表する。[[ロンドン]]・[[パリ]]・[[ミラノ]]・[[ニューヨーク]]は多くの大ファッション企業や[[ブランド]]の本拠地となっており、世界のファッションに多大な影響力を持っている。パリを中心としたファッションの世界では、「[[サンディカ]]」と呼ばれるパリの高級服専門の組合に所属している店の作る、特注の[[オートクチュール]]や、有名デザイナーがデザインする[[既製服]]である[[プレタポルテ]]のファッションショーが行われる。パリで1月と7月に開催されている<ref>「ファッション・マーケティング」p19 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>「オートクチュール・コレクション」は、サンディカに所属するメンバーと、その他の少数の[[メゾン]]にしか発表が許されていないファッションショーである。オートクチュールおよびそのコレクションは長い歴史を持ち現在でも顧客を持つものの、顧客数は非常に少なくなっており主力は他部門へと移っている<ref>「はじめて学ぶフランスの歴史と文化」p218 上垣豊編著 ミネルヴァ書房 2020年3月31日初版第1刷発行</ref><ref>「ファッション・マーケティング」p53 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>。またプレタポルテは、日本語で「[[コレクション]]」と呼ばれる<ref group="注">フランス語では''semaine des défilés''。</ref>ファッションショーがあり、それぞれ年2回、2月から3月および9月から10月までの間に、[[ニューヨーク・コレクション]]、[[ロンドン・コレクション]]、[[ミラノ・コレクション]]、[[パリ・コレクション]]の順で開催されている<ref>https://www.vogue.co.jp/collection/trends/2017-02-10 「いまさら聞けない、コレクション 基本の“き”。」VOGUE JAPAN 2017年2月10日 2021年3月16日閲覧</ref>。また、1985年にはじまった[[東京コレクション]]のように<ref>https://www.fashionsnap.com/article/tokyo-collection-history/ 「東京コレクションはどのようにして始まったのか 歴史と変革」Fashionsnap.com 2017年11月23日 2021年3月16日閲覧</ref><ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p221-222 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>、4大コレクション以外のコレクションも世界各地で開催されている。こうしたハイファッションのほか、スポーツウェアや[[ジーンズ]]などのカジュアルウェアもファッションの大きな部分を占めている<ref>「ファッション・マーケティング」p126-129 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>。 90年代初頭、アート色の強い日常離れした服に対して、一般的に普段着として着られるような服、[[リアルクローズ]]をデザインする動きが高まった。これは、それまでデザイナーが作ってきた流行ではなく、人間が着ているだろう服を想定し、より消費者に近いファッションの発信をしようとするものである。この動きは、2000年ごろからは[[ファストファッション]]とも結びつき、「[[H&M]]」や「[[ZARA]]」などの世界的な衣料品[[チェーンストア|チェーン企業]]が勃興している<ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p165 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>。一方、高級ブランドにおいては1980年代以降積極的な買収によって巨大企業化が進み、フランスの[[LVMH]]、スイスの[[リシュモン]]、フランスの[[ケリング]]の3社が突出した大企業となっているものの、独立系のブランドも多く残存している。またこうしたブランド巨大企業は、衣服だけでなく[[宝飾]]や[[時計]]など高級品全般にまたがる[[コングロマリット]]を形成している<ref>https://www.nikkei.com/article/DGXMZO51515750Z21C19A0000000/ 「欧州ブランド「3強」、独立系争奪 主戦場は宝飾・時計 仏LVMH、米ティファニーに買収提案」日本経済新聞 2019/10/29 2020年7月26日閲覧</ref>。 === 日本 === [[日本]]においては、[[1927年]][[9月21日]]に、当時の銀座[[三越]]において日本国内初の[[ファッションショー]]が開催された。これは着物のショーであり、一般から[[デザイン]]を募ったファッションショーでもあった<ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p169 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>。 [[1953年]]には、当時[[ヨーロッパ]]で隆盛を極めたファッションデザイナーの[[クリスチャン・ディオール]]が来日し、海外ファッションの導入が始まった<ref>「ファッション産業論 衣服ファッションの消費文化と産業システム」p130 富澤修身 創風社 2003年10月20日第1版第1刷発行</ref>。当時の洋服は基本的に注文品で、オーダー服を基軸にしたオートクチュールだったが、日本国内では繊維不況のあおりを受け、そのような最新ファッションは大衆の手に入りにくいものとなっていた。[[1958年]]には、同じく[[ピエール・カルダン]]が来日。量産のプレタポルテの時代の到来を告げる。当時、オーダー服と量産既製服の占める割合は7対3程度にまでなりつつあった。この後、[[1960年代]]以降から衣料の大量消費の時代が始まることになる。[[1975年]]頃より[[ニュートラ]]が全国的に流行<ref name="名前なし-5">「ファッション・マーケティング」p164 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>。これにより海外高級[[ブランド]]ユーザーの大衆化(若年齢化)<ref name="名前なし-5"/>や[[セレクトショップ]]のブーム<ref>「ファッション・マーケティング」p154-156 塚田朋子 同文舘出版 平成21年2月1日初版発行</ref>、ファッション誌の[[モデル (職業)|モデル]]大量起用など、時代の転換点となった。2000年代に入ると高級ブランドが退潮の傾向を示す一方<ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p176 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>、海外のファストファッション企業が相次いで進出し低価格化が進んだ<ref>「史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本」p184-185 能澤慧子監修 ナツメ社 2012年3月12日初版発行</ref>。 == ファッションメディア == [[Image:Legouteraujardin.jpg|thumb|『ガゼット・デュ・ボン・トン』のファッション画(1913)]] [[File:Rebeccacotton1.jpg|thumb|2006年のファッション写真]] {{仮リンク|ファッション・ジャーナリズム|en|fashion journalism}}はファッションの重要な一部分である。編集者による批評や解説が雑誌、新聞、テレビ、ファッションサイト、SNS、[[ファッションブログ]]などで行われている。また、ブログなどを通じて世間に影響力を及ぼすブロガーを、[[インフルエンサー]]と呼ぶ。 20世紀初頭から、[[ファッション雑誌]]は写真や[[イラストレーション]]を盛り込みはじめ以前よりも一層強い影響力を持つようになった。世界中の都市でこれらの雑誌は大人気となり、一般人の嗜好に深い影響を及ぼした。最新のファッションと美容の変化を伝える出版物のために才能ある[[イラストレーター]]たちが洗練されたファッション画を描いた。こうした雑誌のうちで最も有名なのはおそらく、{{仮リンク|リュシアン・ヴォージェル|fr|Lucien Vogel}}が1912年に創刊し、戦時中を除き1925年まで定期的に刊行された『{{仮リンク|ガゼット・デュ・ボン・トン|fr|La Gazette du bon ton}}』(『上品な雑誌』)であろう<ref>「ファッションの二十世紀」p72-73 横田一敏 集英社新書 2008年10月22日第1刷発行</ref>。 1892年に[[アメリカ合衆国]]で創刊された『[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]』は現れては消えていった無数のファッション雑誌の中で最も長続きし最も成功したもののひとつである<ref>「ファッションの哲学」p332-333 井上雅人 ミネルヴァ書房 2019年12月30日初版第1刷発行</ref>。[[第二次世界大戦]]終結後の経済的繁栄と、そして何より、1960年代の安価なカラー印刷の出現によってヴォーグ誌は爆発的に部数を伸ばし<ref>「ファッションの哲学」p336-338 井上雅人 ミネルヴァ書房 2019年12月30日初版第1刷発行</ref>、また主流の女性雑誌でもファッションを大きく取り上げるようになった。1990年代には男性雑誌もこれに続いた。オートクチュールのデザイナーは[[プレタポルテ]]と[[香水]]を扱いはじめることでこの流れに乗り、これらは雑誌で大々的に宣伝され、現在では本来の服飾ビジネスを矮小化する結果となっている。 テレビでは1950年代にファッションの小特集が組まれるようになった。1960-70年代にはさまざまな娯楽番組でファッションのコーナーがより頻繁に流されるようになり、1980年代には{{仮リンク|ファッションテレビジョン|en|FashionTelevision}}、[[ファッション通信]]のようなファッション専門の番組も出現した。テレビや、近年のファッションブログなどのインターネットによる露出の増大をよそに、ファッション産業の視点からは出版物による露出は最も重要な広告形態であり続けている。 ファッション編集者のシャロン・マクレランはこう語っている――「ファッション界には、テレビ・雑誌・ブログが消費者に何を着るべきかを命令しているのだという誤解があります。しかし、ほとんどの[[トレンド]]はターゲット層を調査してからリリースされています。従って、あなたがメディアで目にするものは、人々の間で人気のあるアイデアを調査した結果なのです。本質的に、ファッションというのは人々がアイデアをキャッチボールする営みなのです、他のアート形式もみなそうであるように。」<ref>http://www.Composing-Moments.com</ref><!-- 微妙な出典 --> == 知的財産権 == ファッション産業では、[[映画産業]]や[[音楽産業]]でのようには[[知的財産権]]は施行されていない。他の誰かのデザインから「インスパイヤされる」という営為は、ファッション産業が衣服の流行を作り出す能力に貢献している。新しい流行を作り出すことで消費者に衣服を買うよう誘い込むことはこの産業の成功の鍵となる要素である。流行を作り出すプロセスを妨げる知的財産権は、この観点からは、非生産的なものとなる。その一方で、新しいアイデアや、ユニークなデザインや、デザインのディテールなどを大きな企業があからさまに剽窃するのは、数多くの小規模な独立したデザイン会社を破綻させている原因であるともしばしば議論される。デザイン性の高いファッションアイテムを安価で購入できるのは、消費者にとっては望ましいことのように思われるが、トレンド発信源であるデザイナーに十分な報酬が行き渡らなくなり、結果としてファッション業界が衰退してしまうという恐れがある。ニューヨーク州では米ファッションデザイナー協議会などが、ファストファッション企業の行為を差し止め、デザイン保護が認められるよう州政府に働きかけている。現在のファッション産業において、法とファッションの関連性が高まっている<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXBZO14401570Q0A910C1000000/ ファッション]</ref>。 2005年に[[世界知的所有権機関]](WIPO)は協議会を開き、中小企業を保護し、織物・服飾産業内での競争を促進させるためファッション業界での知的財産権のより厳密な施行を求めた<ref>[http://www.ipfrontline.com/depts/article.asp?id=7678&deptid=8 IPFrontline.com]: Intellectual Property in Fashion Industry, WIPO press release, December 2, 2005</ref><ref>[http://www.insme.org/page.asp?IDArea=1&page=sanleucio INSME announcement] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070929090258/http://www.insme.org/page.asp?IDArea=1&page=sanleucio |date=2007年9月29日 }}: WIPO-Italy International Symposium, 30 November - 2 December 2005</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXBZO14401570Q0A910C1000000/ 日経新聞 2011 5月29日]</ref>。 == 日本のファッション関連の主な賞・コンクール == ;[[装苑賞]] :[[文化出版局]](1957年~)[[「装苑」編集部装苑賞係]] ;[[ファッション大賞]]([[新人デザイナーファッション大賞]]) :[[オンワード樫山|株式会社オンワード樫山]](1984年~2003年) :[[日本ファッション協会|財団法人日本ファッション協会]](2004年~) :[[日本ファッション・ウィーク推進機構新人デザイナーファッション大賞実行委員会|有限責任中間法人日本ファッション・ウィーク推進機構新人デザイナーファッション大賞実行委員会]](2006年~) ;[[ファッション甲子園]]([[全国高等学校ファッションデザイン選手権大会]]) :[[ファッション甲子園実行委員会]](2001年~) ;[[きもの作品コンテスト]](対象:高校生以上の生徒・学生) :[[日本和裁士会|社団法人日本和裁士会]](1990年~) ;[[ファッションクリエーター新人賞国際コンクール]] :[[日本ファッション教育振興協会|財団法人日本ファッション教育振興協会]](2006年~) ;[[毎日ファッション大賞]] :[[毎日新聞社|株式会社毎日新聞社]](1983年~) ;[[ベストドレッサー賞]] :[[日本メンズファッション協会|社団法人日本メンズファッション協会]](1972年~) ;[[ベストジーニストアワード]] :[[日本ジーンズ協議会]](1984年~) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * Cumming, Valerie: ''Understanding Fashion History'', Costume & Fashion Press, 2004, ISBN 0-8967-6253-X * Meinhold, Roman (2008) Meta-Goods in Fashion Myths. Philosophic-Anthropological Implications of Fashion Myths. In: Prajna Vihara. Journal of Philosophy and Religion. Bangkok, Assumption University. Vol.8., No.2, July-December 2007. 1-17. ISSN 1513-6442 == 関連項目 == {{Commonscat|Fashion}} * [[ファッション用語]] * [[ファッションブランド一覧]] * [[ファッションの都]] * [[若者服]]、[[ストリートファッション]]、[[ストリートスナップ]]、[[アメリカンカジュアル]] * [[神戸ファッション美術館]] * [[ファッションモデル]] ** [[女性モデル一覧]] ** [[男性モデル一覧]] * [[ファッションブログ]] == 外部リンク == <!--* [http://diyfashion.about.com DIY ファッション] 商用サイトで有用性にも疑問があるのでコメントアウトしました --> * [http://www.japanfashion.or.jp/ 日本ファッション協会] * [http://www.fashionmuseum.or.jp/src/ 神戸ファッション美術館] * [http://www.costumemuseum.jp/ 杉野学園衣裳博物館] * [http://www.kci.or.jp/ 京都服飾文化研究財団(KCI)] *[http://www.fbsociety.com/nenpyo/index.html ファッション産業年表] - 1945年以降の日本のファッション関連史 *[https://web.archive.org/web/20150423050555/http://www.stt-s.com/ アパレル用語辞典] * {{Kotobank}} <!--宣伝リンクはおやめ下さい。ウィキペディアは宣伝の場ではありません--> {{被服}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふあつしよん}} [[Category:ファッション|*]] [[Category:文化史]]
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市民活動
市民活動(しみんかつどう)とは、政治的または社会的な問題の解決を目指して、市民団体の構成員が特定の共通目的を達成しようとする政治運動、あるいは社会運動である。 市民活動は権利を主張すると同時にそれによって生じた義務を負う。市民活動が始まった欧米諸国においては、市民は意見を述べるとともに、生活等への制約や負担を受け入れるということが前提とされてきた。 特定非営利活動促進法の改正に伴い、NPO法人は市民活動法人として市民活動を強調するようになる予定である。 日本における市民活動は、1970年代の公害反対運動や消費者運動を契機に一般的なものと定着した。当時は、学園闘争の直後で、同志婚をし、社会人になった者も多かった。彼らは、地域社会からの変革を訴え、革新自治体を生み出す原動力になった。 近年では、尼崎市、生駒市、逗子市や箕面市、宮崎県のように、革新自治体とは異なる市民派や虹と緑と呼ばれる市民運動、また政党ではなく市民活動をベースにした政治活動(例:生活協同組合が母体の「生活者ネットワーク」)によって、首長や議員に当選するケースも見られる。 市民活動において、活動主体が当該国の国民であるとは限らない。多くの国家は内部に、複数のエスニックグループを抱えている。そのため、エスニックグループがそれぞれの民族、文化、宗教観を表明したり、当国での生活を維持したりすることを目的に民族系市民活動を形成するものがある。しかし、民族系市民活動は、国際紛争、民族対立、多数派民族との対立のなかで翻弄される場合がある。 日本においても、民族・宗教的価値観の表明、生活保全のために日本人以外が中心となり行う市民活動・団体がある。 アメリカ合衆国では、青少年、高齢者に市民活動への参加を推奨しており、そのプログラムはアメリコー(Corporation for National Service AmeriCorps)と呼ばれている。これは、国策で青少年を海外にボランティアを派遣している平和部隊(PeaceCorps)のアイディアを国内の困窮者、障害者、高齢者やコミュニティ活動などに振り向けたものである。ボランティアによって、こういった国内の活動コアを作るという着想によって推進されている。市民団体のごく一部には、業界をバックにもつ圧力団体ロビイスト、過激な活動を繰り広げる自然保護・環境保護団体も存在し、市民運動の発達したアメリカらしさともいえる。 北欧諸国では市民活動をイデオロギー(w:Popular Socialism)に掲げる政党があり、一定の議席数を維持している。彼らは社会民主主義ともユーロコミュニズムとも異なるイデオロギーであると述べている。詳細は社会党 (デンマーク) - 社会党 (ノルウェー) - 左翼党 (スウェーデン)を参照
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市民活動(しみんかつどう)とは、政治的または社会的な問題の解決を目指して、市民団体の構成員が特定の共通目的を達成しようとする政治運動、あるいは社会運動である。
{{Redirect|市民運動|[[フランス]]の政党|共和国市民運動}} '''市民活動'''(しみんかつどう)とは、政治的または社会的な問題の解決を目指して<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95-75233#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 大辞林 第三版] [[コトバンク]]. 2018年10月28日閲覧。</ref>、[[市民団体]]の構成員が特定の共通目的を達成しようとする<ref name="nipponica">[https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95-75233#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 日本大百科全書(ニッポニカ)] [[コトバンク]]. 2018年10月28日閲覧。</ref>[[政治運動]]、あるいは[[社会運動]]である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%81%8B%E5%8B%95-75233#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉] [[コトバンク]]. 2018年10月28日閲覧。</ref>。 [[File:Anti-Yasukuni Shrine Demonstration by Chukaku-ha-2.JPG|thumb|280px|市民団体のデモ活動と 警備を行う警察官]] == 概要 == *日の丸 君が代反対<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-01/04_01.html 日本共産党 しんぶん赤旗 2005.04/01「日の丸・君が代 強制反対のビラ配り 警察の不当な干渉告発」]</ref><ref>[https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=69750 中國新聞ヒロシマ平和メディアセンター 2017.02/27「国旗掲揚などの強制防止求める 広島県教委に市民団体」]</ref><ref>[https://www.zenkyokyo.net/assert/abnormal/785 全国教育問題協議会 2016.03/18 「国歌斉唱に反対する市民団体が小中学校にメール配信」]</ref>、慰安婦問題<ref>[http://japan.hani.co.kr/arti/international/29616.html ハンギョレ新聞 2018.01/27 「日本の市民団体、慰安婦問題は外交でなく人権問題」]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20230123210608/https://nordot.app/939066005323825152?c=302675738515047521 共同通信 2022.09/04「『性暴力防止に継承重要』慰安婦問題の市民団体集会」]</ref>、歴史教科書採択反対<ref>[http://japan.hani.co.kr/arti/international/20258.html ハンギョレ新聞 2015.04/09「韓日教科書関連の4つの市民団体 日本で正しい歴史認識の教科書採択運動展開」]</ref><ref>[https://m-jp.yna.co.kr/view/AJP20110916002100882 聯合ニュース 2011.09/16「韓国の市民団体「つくる会」系の教科書拡大を警戒」]</ref><ref>[http://www.saikyoji.net/kure_yextbook3.html 教科書ネット・呉「2つの市民団体「育鵬社版歴史・公民教科書の撤回を求める市民の会」と「教科書問題を考える呉の会が合体」]</ref><ref>[https://www.moj.go.jp/psia/kouan_press_051223.html 公安調査庁「内外情勢の回顧と展望 (平成18年1月)」]</ref>、反基地 反戦活動<ref>[https://kachimai.jp/article/index.php?no=571044 十勝毎日新聞 2022.09/14「共産党系市民団体 オスプレイ参加の日米共同訓練中止の申し入れ」]</ref><ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/218359 東京新聞 2022.12/07「立川自衛隊監視テント村50年 ヘリが飛び交う街で、活動に携わってきた人たちの思いを聞いた」]</ref>、イラク復興人道支援反対<ref>[https://www.moj.go.jp/psia/kouan_naigai_naigai18_naigai18-04.html 公安調査庁「内外情勢の回顧と展望(平成18年1月)」]</ref>、野党共闘<ref>[https://newsdig.tbs.co.jp/articles/uty/570631?display=1 TBS News DIG 2023.06/29「野党共闘の実現 市民団体が訴え 野党には距離感も 山梨」]</ref><ref>[https://www.saitama-np.co.jp/articles/9942 埼玉新聞 2021.10/04「衆院選 野党共闘を狙う市民団体「つなぐ埼玉の会」が集会 立民、共産、社民、れいわの候補予定者ら参加」]</ref>、平和安全法制反対<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/57819 東京新聞 2020.09/26「野党共闘実現へ政策要望書 安保関連法訴える市民団体」]</ref><ref>[http://www.asahi.com/area/kagawa/articles/MTW20160620380560006.html 朝日新聞 2016.04/20「県内の九つの市民団体と個人が市民連合を結成 野党の共闘支援」]</ref>、脱石炭<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2021-06-11/2021061101_02_1.html しんぶん赤旗 2021.06/11「脱石炭・原発 市民の声 環境団体 政府に署名27万人分提出」]</ref>、原子力発電反対<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/517638 中日新聞 2022.07/30「原発再稼働に反対を 市民団体が知事に要望書」]</ref><ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2023-03-07/2023030712_02_0.html しんぶん赤旗 2023.03/07「原発回帰を許さない 共産党国会議員団 市民団体と意見交換」]</ref>、太陽光発電反対<ref>[https://cigs.canon/article/20230117_7219.html キヤノングローバル戦略研究所 2023.01/17「学者も市民団体もみんな大反対 東京都「太陽光パネル義務化」]</ref>、国葬反対<ref>[https://www.jcp-tokyo.net/2022/0831/70721 日本共産党東京都委員会 2022.08/31「国葬反対 市民団体多彩な取り組み」]</ref><ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/b3a79400b4336570d125d6abaf68ad9c96b72bc2 共同通信 2022.09/19「国葬反対 抗議集会1万3千人 東京・代々木公園、デモ行進も」]</ref>、肉食反対<ref>[https://abema.tv/video/episode/89-66_s99_p4102 AbemaTV「ヴィーガンが小学校前で血だらけの動物の死体を展示して肉食に抗議 当事者に聞く」【動画】]</ref>、靖国参拝反対<ref>[https://www.okinawatimes.co.jp/articles/amp/298091 沖縄タイムス 2018.08/12「靖国神社に反対 日韓の市民団体が集会」]</ref><ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-08-05/2008080504_02_0.html しんぶん赤旗 2008.08/05「靖国参拝中止せよ 石原知事に都民51団体」]</ref>、[[Defective by Design|Windows反対]]など、活動の幅は広い。 *個々の市民活動に対しては、'''問題点'''も挙げられている。市民活動としての[[公共性]]を主張するためには以下の代表性・公益性についての[[評価]]を要する。 #'''代表性の問題'''とは、市民活動において、市民の名で行われるものが、常に全ての市民を[[代表]]するものとは限らず<ref>[https://www.sankei.com/article/20170321-KKNP2KJYZFMGDC7UK2JYDNMJ4A/ 産経新聞 2017.03/21「テロ等準備罪 民進、共産、市民団体『話し合うだけで罪』と扇動に必死」]</ref>、市民活動が特定の少数派の意見(いわゆる[[ノイジー・マイノリティ]]。大声で主張する少数派)によって偏った方向に活動が誘導される可能性を指摘したものである。 #'''公益性の問題'''とは、活動の受益者がどの範囲に及ぶのかという問題である。直接的受益者、間接的受益者([[正の外部性]]の受益者)を含めて議論される。たとえ、活動による直接的受益者が限定されていても、広範な間接的受益者([[正の外部性]])があれば、公共性が容認される場合がある。 *活動資金に関して、市民活動を行なう上で資金は当然必要である。基本的に市民活動の資金源は個人や団体による[[寄付]]金ならびに[[ボランティア]]などによる無償、有償安価の労働力の提供によって賄われる。 *[[地方政府|自治体]]が特定の活動につき[[ボランティア]]を募集した場合などは、交通費などを、最低限の必要経費として支給することもある。また市民活動支援施策として、自治体が活動の一部を資金的、物質的に援助することも多い。しかし、日本におけるその市民活動の規模と資金力は後述の欧米などと比べると極めて小さい。これは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]において非課税である個人・団体の市民活動への[[寄付]]が、日本では課税されるという点が市民活動を発展を妨げていると指摘する研究者もいる。 *[[住民運動]]とも呼ばれることがあるが、住民運動は[[地縁]]によるつながりが、より重視される点で異なる。 === 市民活動の権利と義務 === 市民活動は[[権利]]を主張すると同時にそれによって生じた[[義務]]を負う。市民活動が始まった欧米諸国においては、市民は意見を述べるとともに、生活等への制約や負担を受け入れるということが前提とされてきた<ref name="syokutonou">『日本の食と農』 [[神門善久]]著 NTT出版 2006年6月</ref>。 === NPO法人の合流 === [[特定非営利活動促進法]]の改正に伴い、NPO法人は市民活動法人として市民活動を強調するようになる予定である。   == 市民活動史 == [[File:Anti-airport slogan of Sanrizuka-Shibayama United Opposition League against Construction of the Narita Airport-2.JPG|thumb|270px|反対派の[[プロパガンダ]]サイン]] 日本における市民活動は、[[1970年代]]の[[公害]]反対運動や[[消費者運動]]を契機に一般的なものと定着した。当時は、[[学園闘争]]の直後で、同志婚をし、[[社会人]]になった者も多かった。彼らは、[[地域社会]]からの変革を訴え、[[革新自治体]]を生み出す原動力になった。 近年では、[[尼崎市]]、[[生駒市]]、[[逗子市]]や[[箕面市]]、[[宮崎県]]のように、革新自治体とは異なる[[市民派]]や[[虹と緑]]と呼ばれる市民運動、また[[政党]]ではなく市民活動をベースにした政治活動(例:[[生活協同組合]]が母体の「[[生活者ネットワーク]]」)によって、[[首長]]や[[議員]]に当選するケースも見られる。 == 市民活動と民族問題 == 市民活動において、活動主体が当該国の国民であるとは限らない。多くの国家は内部に、複数の[[エスニックグループ]]を抱えている。そのため、エスニックグループがそれぞれの民族、文化、宗教観を表明したり、当国での生活を維持したりすることを目的に民族系市民活動を形成するものがある。しかし、民族系市民活動は、国際紛争、民族対立、多数派民族との対立のなかで翻弄される場合がある。 日本においても、民族・宗教的価値観の表明、生活保全のために日本人以外が中心となり行う市民活動・団体がある。 == 各国の実情 == [[アメリカ合衆国]]では、[[青少年]]、[[高齢者]]に市民活動への参加を推奨しており、そのプログラムは[[:en:AmeriCorps|アメリコー]](Corporation for National Service AmeriCorps)と呼ばれている。これは、国策で青少年を海外にボランティアを派遣している[[平和部隊]](PeaceCorps)の[[アイディア]]を国内の困窮者、[[障害者]]、[[高齢者]]や[[コミュニティ活動]]などに振り向けたものである。ボランティアによって、こういった国内の活動コアを作るという着想によって推進されている。市民団体のごく一部には、業界をバックにもつ圧力団体[[ロビイスト]]、過激な活動を繰り広げる自然保護・環境保護団体も存在し、市民運動の発達したアメリカらしさともいえる。 [[北欧諸国]]では市民活動を[[イデオロギー]]([[w:Popular Socialism]])に掲げる政党があり、一定の議席数を維持している。彼らは[[社会民主主義]]とも[[ユーロコミュニズム]]とも異なるイデオロギーであると述べている。''詳細は[[社会党 (デンマーク)]] - [[社会党 (ノルウェー)]] - [[左翼党 (スウェーデン)]]を参照'' == 出典 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == *[https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E5%B8%82%E6%B0%91%E6%B4%BB%E5%8B%95&range=0&count=200&sortorder=1&type=0 CiNii Articles - 市民活動] == 関連項目 == {{Columns-list|colwidth=15em| * [[アドラー心理学#共同体感覚(独:Gemeinschaftsgefühl 英:Social interest)|共同体感覚]] * [[利他主義]] * [[ノブレス・オブリージュ]] * [[喜捨]]([[ザカート]]) * [[特定非営利活動法人]] * [[ボランティア]] * [[市民団体]] * [[社会運動]] * [[市民社会]] * [[オンブズマン]] * [[住民投票]] * [[住民参画]] * [[住民運動]] * [[自治]] * [[憤青]] * [[社会]] * [[プロ市民]] * [[政治団体]] * [[人権団体]] * [[フェミニスト]] * [[1%支援制度]] * [[勝手連]] * [[ネチズン]] * [[社会運動家一覧]] }} {{DEFAULTSORT:しみんかつとう}} [[Category:市民活動|*]] [[Category:社会運動]] [[ca:Moviment social]] [[da:Social bevægelse]] [[de:Bürgerbewegung]] [[en:Social movement]] [[eo:Socia movado]] [[es:Movimiento social]] [[eu:Gizarte mugimendu]] [[fa:جنبش اجتماعی]] [[fr:Mouvement social]] [[gl:Movemento social]] [[he:תנועה חברתית]] [[hr:Pokret (sociologija)]] [[id:Gerakan sosial]] [[it:Movimento (sociologia)]] [[ko:사회 운동]] [[pl:Ruch społeczny]] [[pt:Movimento social]] [[ru:Общественное движение (социология)]] [[sh:Društveni pokreti]] [[sl:Gibanje (sociologija)]] [[sr:Друштвени покрети]] [[sv:Folkrörelse]] [[tr:Sosyal hareket]] [[uk:Рух соціальний]] [[zh:社會運動]] [[zh-min-nan:Siā-hoē ūn-tōng]]
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二百十日
二百十日(にひゃくとおか)は、雑節のひとつで、立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)である。日付ではおよそ9月1日ごろである。台風の多い日もしくは風の強い日といわれるが、必ずしも事実ではない。 二百十日の日付は、回帰年と暦年の長さに差があるため、年により変化する。なお、閏日(あるいは閏月)は変化のパターンに影響を与えるものの変化の原因ではなく、むしろ変化を抑える効果を持つ。 グレゴリオ暦での各年の二百十日の日付は表のとおり。 1985年から2020年までの二百十日は、平年なら9月1日、閏年なら8月31日である。より長いスパンではこのパターンは崩れ、変化幅も広がり8月31日から9月2日まで変化する。 このうち9月2日の二百十日が最も稀で、1873年にグレゴリオ暦に改暦して以降は、1902年から1951年までの間しか現れていない。次に現れるのは2203年である。 月初が朔と共に移動するため、日付はおよそ1朔望月(約30日)余の間を変化する。具体的には、7月9日ごろから8月11日ごろまでである。 八朔(旧暦8月1日)や二百二十日とともに、農家の三大厄日とされている。 季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつ。台風が来て天気が荒れやすいと言われている。夏目漱石の『二百十日』でも、二百十日の荒天(台風とは明言されないが)が描かれている。 台風襲来の特異日とされ、奈良県大和神社で二百十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」など、各地で風鎮めの祭が催されてきた。 しかし、この日の頃に台風が多いという事実はなく、むしろ8月下旬と9月中旬の台風襲来の山にはさまれ、二百十日ごろの台風はむしろ少ない。気象学者の堀口由己は、この頃が稲の出穂期に当たり、強風が吹くと減収となる恐れがあるために注意を喚起する意味で言われ始めたのであろうとしている。 暦学者渋川春海が貞享暦を編んだ際、初めて採用したと言われる。 渋川は釣り好きで、隠居していたある日、江戸品川の海に舟を出そうとしたとき、一老漁夫が海上の一点の雲を指し、「50年来の体験によると210日目の今日は大暴風雨になる可能性が高いから舟を出すのはやめた方が良い」と教えた。これがはたしてその通りになり、その後も注意していると確かに210日頃は天気が荒れる事がわかり、貞享暦に書き入れたという。 渋川が採用したという話の矛盾点は、すでに20世紀前半に気象学者の堀口由己が指摘している他、その後も大谷東平・根本順吉らが同じように説いている。 渋川は1639年(寛永16年)生まれであるが、根本によれば1634年(寛永11年)の文書にすでに二百十日の記述がある。また伊勢暦には1656年(明暦2年)から記載されているので、渋川はまだ青年であり、隠居後の話という言い伝えと矛盾する。
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二百十日(にひゃくとおか)は、雑節のひとつで、立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)である。日付ではおよそ9月1日ごろである。台風の多い日もしくは風の強い日といわれるが、必ずしも事実ではない。
{{Otheruses|暦|小説|二百十日 (小説)}} '''二百十日'''(にひゃくとおか)は、[[雑節]]のひとつで、[[立春]]を起算日として210日目(立春の209日後の日)である。日付ではおよそ[[9月1日]]ごろである。[[台風]]の多い日もしくは風の強い日といわれるが、必ずしも事実ではない。 == 日付 == 二百十日の日付は、回帰年と暦年の長さに差があるため、年により変化する。なお、[[閏日]](あるいは[[閏月]])は変化のパターンに影響を与えるものの変化の原因ではなく、むしろ変化を抑える効果を持つ。 === 新暦 === {| class="wikitable" align="right" style="text-align:center; font-size:small" ! rowspan="2" | 年 !! colspan="4" | 年を4で割った余り |- ! 1 !! 2 !! 3 !! 0 |- | [[1801年]] - [[1816年]] || 1日 || 1日 || bgcolor=cyan | 2日 || 1日 |- | [[1817年]] - [[1848年]] || 1日 || 1日 || 1日 || 1日 |- | [[1849年]] - [[1884年]] || 1日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[1885年]] - [[1900年]] || bgcolor=yellow | 31日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[1901年]] - [[1916年]] || 1日 || bgcolor=cyan | 2日 || bgcolor=cyan | 2日 || 1日 |- | [[1917年]] - [[1952年]] || 1日 || 1日 || bgcolor=cyan | 2日 || 1日 |- | [[1953年]] - [[1984年]] || 1日 || 1日 || 1日 || 1日 |- | bgcolor=pink | [[1985年]] - [[2020年]] || 1日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2021年]] - [[2056年]] || bgcolor=yellow | 31日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2057年]] - [[2088年]] || bgcolor=yellow | 31日 || bgcolor=yellow | 31日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2089年]] - [[2100年]] || bgcolor=yellow | 31日 || bgcolor=yellow | 31日 || bgcolor=yellow | 31日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2101年]] - [[2120年]] || 1日 || 1日 || 1日 || 1日 |- | [[2121年]] - [[2156年]] || 1日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2157年]] - [[2192年]] || bgcolor=yellow | 31日 || 1日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |- | [[2193年]] - [[2200年]] || bgcolor=yellow | 31日 || bgcolor=yellow | 31日 || 1日 || bgcolor=yellow | 31日 |} [[グレゴリオ暦]]での各年の二百十日の日付は表のとおり<ref>記事「[[立春]]」([[Special:Permalink/51343221|編集時の版]])の表から作成。付記や出典は当該記事の脚注を参照。</ref>。 [[1985年]]から[[2020年]]までの二百十日は、[[平年]]なら[[9月1日]]、[[閏年]]なら[[8月31日]]である。より長いスパンではこのパターンは崩れ、変化幅も広がり8月31日から[[9月2日]]まで変化する。 このうち9月2日の二百十日が最も稀で、[[1873年]]にグレゴリオ暦に改暦して以降は、[[1902年]]から[[1951年]]までの間しか現れていない。次に現れるのは[[2203年]]である。 ==== 文学での日付 ==== ; [[夏目漱石]]『[[二百十日 (小説)|二百十日]]』([[1906年|1906]]) : 作中年では9月2日が二百十日だった。当時の二百十日は9月1日か2日で、1906年は9月2日である。なお、改暦から1906年までで二百十日が9月2日となるのは、[[1902年]]・[[1903年]]・1906年だけである。 : この小説は漱石の実体験を元にしており、それは二百十日ではあるが[[1899年]]9月1日のことである<ref>[https://web.archive.org/web/20160404211723/http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=155&pre_page=8 夏目漱石 ふるさと寺子屋 お役立ち便利帳 熊本県観光サイト なごみ紀行 くまもと]</ref>。 ; [[宮沢賢治]]『[[風の又三郎]]』([[1934年|1934]]) : 作中年では9月1日が二百十日だった。この設定は、原型の1つ『風野又三郎』([[1924年|1924]]) の設定そのままである。いずれの時代でも二百十日は9月1日か2日で、1924年も1934年も9月1日である。 ==== 歴史上の日付 ==== ; [[関東大震災]] ([[1923年|1923]]) : 関東大震災の日付は1923年9月1日である。しかし、当時の二百十日は9月1日か2日であり、1923年は9月2日だった。つまり、地震の日は二百十日ではなく「二百九日」である。 : この日9月1日は、[[1960年]]、在来の二百十日と併せて災害についての認識と心構えの準備を喚起する日として[[防災の日]]に制定された。当時は、毎年9月1日が二百十日だった。 {{clear}} === 旧暦 === 月初が[[新月|朔]]と共に移動するため、日付はおよそ1[[朔望月]](約30日)余の間を変化する。具体的には、[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]ごろから[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]ごろまでである。 == 意義 == [[八朔]]([[8月1日 (旧暦)|旧暦8月1日]])や[[二百二十日]]とともに、農家の三大厄日とされている。 季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつ。[[台風]]が来て天気が荒れやすいと言われている。夏目漱石の『二百十日』でも、二百十日の荒天(台風とは明言されないが)が描かれている。 [[台風]]襲来の[[特異日]]とされ、[[奈良県]][[大和神社]]で二百十日前3日に行う「[[風鎮祭]]」、[[富山県]][[富山市]]の「[[おわら風の盆]]」など、各地で風鎮めの祭が催されてきた。 しかし、この日の頃に台風が多いという事実はなく、むしろ8月下旬と9月中旬の台風襲来の山にはさまれ、二百十日ごろの台風はむしろ少ない。気象学者の[[堀口由己]]は、この頃が稲の出穂期に当たり、強風が吹くと減収となる恐れがあるために注意を喚起する意味で言われ始めたのであろうとしている。 == 貞享暦説 == === 巷説 === 暦学者[[渋川春海]]が[[貞享暦]]を編んだ際、初めて採用したと言われる。 渋川は[[釣り]]好きで、[[隠居]]していたある日、[[江戸]][[品川 (東京都)|品川]]の海に舟を出そうとしたとき、一老漁夫が海上の一点の雲を指し、「50年来の体験によると210日目の今日は大暴風雨になる可能性が高いから舟を出すのはやめた方が良い」と教えた。これがはたしてその通りになり、その後も注意していると確かに210日頃は天気が荒れる事がわかり、貞享暦に書き入れたという<ref>「年中行事事典」p595 [[1958年]][[5月23日]]初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>。 === 事実との相違 === 渋川が採用したという話の矛盾点は、すでに[[20世紀]]前半に気象学者の[[堀口由己]]が指摘している他、その後も[[大谷東平]]・[[根本順吉]]らが同じように説いている。 渋川は[[1639年]]([[寛永]]16年)生まれであるが、根本によれば[[1634年]](寛永11年)の文書にすでに二百十日の記述がある。また[[伊勢暦]]には[[1656年]]([[明暦]]2年)から記載されているので、渋川はまだ青年であり、隠居後の話という言い伝えと矛盾する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Japan-culture-stub}} {{DEFAULTSORT:にひやくとおか}} [[Category:雑節]] [[Category:8月]]<!--閏年など8月31日の場合もあります--> [[Category:9月]] [[Category:旧暦7月]] [[Category:旧暦8月]] [[Category:秋の季語]]
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184年
184年(184 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "184年(184 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。", "title": null } ]
184年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|184}} {{year-definition|184}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[成務天皇]]54年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]844年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[光和]]7年、[[中平]]元年 *** [[張曼成]] : [[神上]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[故国川王]]6年 ** [[新羅]] : [[阿達羅尼師今|阿達羅王]]31年、[[伐休尼師今|伐休王]]元年 ** [[百済]] : [[肖古王]]19年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2517年 * [[仏滅紀元]] : 727年 * [[ユダヤ暦]] : 3944年 - 3945年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=184|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[4月2日]] - [[黄巾の乱]]が起きる。 * 黄巾の乱の指導者である[[張角]]が病死。これにより黄巾軍が急速に衰えて、[[皇甫嵩]]ら後漢軍により鎮圧される。 == 誕生 == {{see also|Category:184年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:184年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[張角]]、[[太平道]]の教祖、[[黄巾の乱]]の指導者(*生年不詳) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|184}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=2|年代=100}} {{デフォルトソート:184ねん}} [[Category:184年|*]]
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越智松平家
越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の庶流の武家・華族だった家。江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、親藩(家門)大名家として廃藩置県まで続き、明治維新後に華族の子爵家に列した。通字は「武」(たけ)。 家祖の清武は甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。養父の跡を継いで甲府藩士として実兄の藩主徳川綱豊(徳川家宣)に仕えていたが、宝永元年(1704年)に綱豊が名を家宣と改めて、5代将軍徳川綱吉の養子になった際に旗本に登用された。加増を繰り返され、宝永4年(1707年)には松平の姓を与えられるとともに上野国館林藩2万4000石の親藩大名に取り立てられた。家宣が6代将軍となった後の宝永7年(1710年)に1万石加増され、正徳2年(1712年)には家宣の遺言により2万石の加増があり都合5万4000石となった。 武元の代の享保13年(1728年)に陸奥国棚倉藩へ移封となったが、延享3年(1746年)には館林に再移封となった。明和6年(1769年)に7000石の加増があり、都合6万1000石となった。 斉厚の代の天保7年(1836年)に石見国浜田藩に移封された。 最後の藩主松平武聡の代に浜田藩は慶応2年(1866年)の第2次長州征伐に従軍したが、長州藩軍に返り討ちにされて浜田城へ逃げ帰り、長州藩軍に追撃されると浜田城を自焼して出雲へ逃れていった。その後浜田は明治まで長州藩軍の占領下に置かれたため帰国できなくなり、慶応3年(1867年)には浜田藩の飛地領だった美作国鶴田に入り、ここに陣屋を設置。この飛地(約8000石)に加えて、15代将軍徳川慶喜より他の地から2万石が与えられて都合2万7800石の鶴田藩を立藩したが、ほどなくして徳川幕府は滅亡した。 明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属して参戦したが惨敗した。改易となるべきところ、家老尾関当遵が責任をとって京都護王寺において新政府に対して切腹謝罪を行ったため、藩の存続が許された。翌明治2年(1869年)には蔵米2万4000石余が与えられて、旧知行高の6万1000石余に復している。同年6月24日の版籍奉還により武聡は鶴田藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると越智松平家も大名家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として松平武修が子爵に列せられた。 3代子爵吉修の代の昭和前期に越智松平子爵家の邸宅は東京市中野区城山町にあった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の庶流の武家・華族だった家。江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、親藩(家門)大名家として廃藩置県まで続き、明治維新後に華族の子爵家に列した。通字は「武」(たけ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "家祖の清武は甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。養父の跡を継いで甲府藩士として実兄の藩主徳川綱豊(徳川家宣)に仕えていたが、宝永元年(1704年)に綱豊が名を家宣と改めて、5代将軍徳川綱吉の養子になった際に旗本に登用された。加増を繰り返され、宝永4年(1707年)には松平の姓を与えられるとともに上野国館林藩2万4000石の親藩大名に取り立てられた。家宣が6代将軍となった後の宝永7年(1710年)に1万石加増され、正徳2年(1712年)には家宣の遺言により2万石の加増があり都合5万4000石となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "武元の代の享保13年(1728年)に陸奥国棚倉藩へ移封となったが、延享3年(1746年)には館林に再移封となった。明和6年(1769年)に7000石の加増があり、都合6万1000石となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "斉厚の代の天保7年(1836年)に石見国浜田藩に移封された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "最後の藩主松平武聡の代に浜田藩は慶応2年(1866年)の第2次長州征伐に従軍したが、長州藩軍に返り討ちにされて浜田城へ逃げ帰り、長州藩軍に追撃されると浜田城を自焼して出雲へ逃れていった。その後浜田は明治まで長州藩軍の占領下に置かれたため帰国できなくなり、慶応3年(1867年)には浜田藩の飛地領だった美作国鶴田に入り、ここに陣屋を設置。この飛地(約8000石)に加えて、15代将軍徳川慶喜より他の地から2万石が与えられて都合2万7800石の鶴田藩を立藩したが、ほどなくして徳川幕府は滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属して参戦したが惨敗した。改易となるべきところ、家老尾関当遵が責任をとって京都護王寺において新政府に対して切腹謝罪を行ったため、藩の存続が許された。翌明治2年(1869年)には蔵米2万4000石余が与えられて、旧知行高の6万1000石余に復している。同年6月24日の版籍奉還により武聡は鶴田藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると越智松平家も大名家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事として松平武修が子爵に列せられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "3代子爵吉修の代の昭和前期に越智松平子爵家の邸宅は東京市中野区城山町にあった。", "title": "歴史" } ]
越智松平家(おちまつだいらけ)は、松平氏の庶流の武家・華族だった家。江戸幕府6代将軍徳川家宣の弟である松平清武を家祖とし、親藩(家門)大名家として廃藩置県まで続き、明治維新後に華族の子爵家に列した。通字は「武」(たけ)。
{{日本の氏族 |家名=越智松平家 |家紋=Japanese crest Tokugawa Aoi.svg |家紋名称=[[三つ葉葵]]<br>[[九曜]] |本姓='''称'''・[[清和源氏]][[新田氏]]支流<ref>{{Kotobank|1=松平氏|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、百科事典マイペディア、旺文社日本史事典 三訂版、世界大百科事典 第2版}}</ref> |家祖=[[松平清武]] |種別=[[武家]]<br>[[華族]]([[子爵]]) |出身地=[[甲斐国]] |根拠地=[[上野国]][[館林藩]]<br/>[[石見国]][[浜田藩]]<br/>[[美作国]][[鶴田藩]]<br/>[[東京市]][[中野区]] |人物=[[松平武元]]<br>[[交楽龍弾]] |支流= }} '''越智松平家'''(おちまつだいらけ)は、[[松平氏]]の[[庶家|庶流]]の[[武家]]・[[華族]]だった家。[[江戸幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家宣]]の弟である[[松平清武]]を家祖とし、[[親藩]]([[御家門|家門]])[[大名]]家{{efn2|ただし、3代武元が老中首座に登ったのをはじめ、親藩としては例外的に、幕府の役職に就いた者がしばしば現れている。}}として[[廃藩置県]]まで続き、[[明治維新]]後に華族の[[子爵]]家に列した。[[通字]]は「'''武'''」(たけ)。 == 歴史 == === 封建時代 === 家祖の清武は[[甲府藩]]主[[徳川綱重]]([[甲府徳川家]])の次男であるが、はじめ甲府藩士[[越智喜清]](おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた<ref name="松平清武">{{Kotobank|1=松平清武|2=日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、世界大百科事典 第2版}}</ref>。養父の跡を継いで甲府藩士として実兄の藩主[[徳川綱豊]]([[徳川家宣]])に仕えていたが、宝永元年(1704年)に綱豊が名を家宣と改めて、5代将軍[[徳川綱吉]]の養子になった際に旗本に登用された<ref name="松平清武"/>。加増を繰り返され、宝永4年(1707年)には松平の姓を与えられるとともに[[上野国]][[館林藩]]2万4000石の親藩大名に取り立てられた{{sfn|新田完三|1984|p=495}}。家宣が6代将軍となった後の宝永7年(1710年)に1万石加増され、正徳2年(1712年)には家宣の遺言により2万石の加増があり都合5万4000石となった<ref name="松平清武"/>{{sfn|新田完三|1984|p=496}}。 [[松平武元|武元]]の代の享保13年(1728年)に[[陸奥国]][[棚倉藩]]へ移封となったが{{sfn|新田完三|1984|p=496}}<ref name="館林藩">{{Kotobank|1=館林藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)、藩名・旧国名がわかる事典 百科事典マイペディア}}</ref>、延享3年(1746年)には館林に再移封となった{{sfn|新田完三|1984|p=496}}<ref name="館林藩"/>。明和6年(1769年)に7000石の加増があり、都合6万1000石となった<ref name="館林藩"/>{{sfn|新田完三|1984|p=497}}。 [[松平斉厚|斉厚]]の代の天保7年(1836年)に[[石見国]][[浜田藩]]に移封された{{sfn|新田完三|1984|p=497}}<ref name="浜田藩">{{Kotobank|1=浜田藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)、藩名・旧国名がわかる事典 百科事典マイペディア}}</ref>。 最後の藩主[[松平武聡]]の代に浜田藩は慶応2年(1866年)の[[第2次長州征伐]]に従軍したが、[[長州藩]]軍に返り討ちにされて[[浜田城]]へ逃げ帰り、長州藩軍に追撃されると浜田城を自焼して出雲へ逃れていった{{sfn|新田完三|1984|p=498}}<ref name="浜田藩"/>。その後浜田は明治まで長州藩軍の占領下に置かれたため帰国できなくなり、慶応3年(1867年)には浜田藩の飛地領だった[[美作国]]鶴田に入り、ここに陣屋を設置。この飛地(約8000石)に加えて、15代将軍[[徳川慶喜]]より他の地から2万石が与えられて都合2万7800石の鶴田藩を立藩したが<ref name="鶴田藩">{{Kotobank|1=鶴田藩|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>、ほどなくして徳川幕府は滅亡した。 === 明治以降 === 明治元年(1868年)の[[鳥羽・伏見の戦い]]では旧幕府軍に属して参戦したが惨敗した。改易となるべきところ、家老[[尾関当遵]]が責任をとって京都護王寺において新政府に対して[[切腹]]謝罪を行ったため、藩の存続が許された<ref name="鶴田藩"/>。翌明治2年(1869年)には蔵米2万4000石余が与えられて、旧知行高の6万1000石余に復している<ref name="鶴田藩"/>。同年6月24日の[[版籍奉還]]により武聡は鶴田藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]まで藩知事を務めた{{sfn|新田完三|1984|p=498}}。 明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と[[大名]]家が統合されて[[華族]]制度が誕生すると越智松平家も大名家として華族に列した{{sfn|浅見雅男|1994|p=24}}{{sfn|小田部雄次|2006|p=13-14}}。明治17年(1884年)7月7日の[[華族令]]の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事{{efn2|旧鶴田藩は現米2万660石(表高6万1000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当{{sfn|浅見雅男|1994|p=150}}。}}として[[松平武修]]が[[子爵]]に列せられた{{sfn|小田部雄次|2006|p=337}}。 3代子爵[[松平吉修|吉修]]の代の昭和前期に越智松平子爵家の邸宅は[[東京市]][[中野区]]城山町にあった{{sfn|華族大鑑刊行会|1990|p=389}}。 == 系譜 == ;太字は当主、実線は実子、点線(縦)は養子。<!--構成の都合で出生順よりを組み替え--> {{familytree/start|style="font-size:120%"}} {{familytree |border=0|01|| 01=[[徳川綱重]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|-|.|}} {{familytree |border=0|01||02| 01='''[[松平清武]]'''<sup>1</sup>|02=[[徳川家宣|家宣]]}} {{familytree |border=0| |}|-|-|-|.|}} {{familytree |border=0|01||02| 01='''[[松平武雅|武雅]]'''<sup>2</sup>{{efn2|[[高須藩]]主・[[松平義行]]の四男。}}|02=[[松平清方|清方]]}} {{familytree |border=0| |:|}} {{familytree |border=0|01|| 01='''[[松平武元|武元]]'''<sup>3</sup>{{efn2|[[常陸府中藩]]主・[[松平頼明 (常陸府中藩主)|松平頼明]]の次男。}}}} {{familytree |border=0| |)|-|-|-|.|}} {{familytree |border=0|01||02| 01='''[[松平武寛|武寛]]'''<sup>4</sup>|02=[[戸田氏教]]}} {{familytree |border=0| |!|}} {{familytree |border=0|01|| 01='''[[松平斉厚|武厚(斉厚)]]'''<sup>5</sup>}} {{familytree |border=0| |D|~|~|~|7|}} {{familytree |border=0|01||02| 01='''[[松平武揚|武揚]]'''<sup>6</sup>{{efn2|[[讃岐国|讃岐]][[高松藩]]主・[[松平頼恕]]の次男。}}|02=[[松平斉良|斉良]]{{efn2|将軍・[[徳川家斉]]の二十男。斉良を養子に迎えた際に養父の武厚も家斉から「斉」の偏諱を受けて斉厚に改名している。}}}} {{familytree |border=0| |:|}} {{familytree |border=0|01|| 01='''[[松平武成|武成]]'''<sup>7</sup>{{efn2|高須藩主・[[松平義建]]の三男。}}}} {{familytree |border=0| |:|}} {{familytree |border=0|01|| 01='''[[松平武聰|武聰]]'''<sup>8</sup>{{efn2|[[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]の十男。}}}} {{familytree |border=0| 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近代日本貴族の虚像と実像|author=小田部雄次|authorlink=小田部雄次|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]1836|isbn= 978-4121018366|ref=harv}} * {{Cite book|和書|date=1990年(平成2年)|title=華族大鑑|series=日本人物誌叢書7|author=華族大鑑刊行会|publisher=[[日本図書センター]]|isbn=978-4820540342|ref=harv}} {{DEFAULTSORT:おちまつたいらけ}} [[Category:越智松平家|!]] [[Category:松平氏|家おち]] [[Category:日本の子爵家|まつたいら おち]]
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ネーム
ネーム ネーム(Name)
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ネーム ネーム (ソーセージ) - タイの発酵豚肉ソーセージ。 ネーム (漫画) - 漫画の未完成原稿の一段階、設計図。またはフキダシ内の文字のこと。 ネーム(Name) 英語で名前のこと。詳細については名前を参照のこと。 NAME (サクラメリーメンのアルバム) - サクラメリーメンのアルバム。
'''ネーム''' * [[ネーム (ソーセージ)]] - タイの発酵豚肉ソーセージ。 * [[ネーム (漫画)]] - 漫画の未完成原稿の一段階、設計図。または[[フキダシ]]内の文字のこと。 '''ネーム'''('''Name''') * 英語で名前のこと。詳細については[[名前]]を参照のこと。 * [[NAME (サクラメリーメンのアルバム)]] - [[サクラメリーメン]]のアルバム。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ねえむ}} [[Category:英語の語句]]
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1080年
1080年(1080 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1080年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1080}} {{year-definition|1080}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[庚申]] * [[日本]] ** [[承暦]]4年 ** [[皇紀]]1740年 * [[中国]] ** [[北宋]] : [[元豊 (宋)|元豊]]3年 ** [[遼]] : [[太康 (遼)|太康]]6年 ** [[西夏]] : [[大安 (西夏)|大安]]6年 ** [[大理国]] : [[広安 (大理)|広安]]4年 * [[朝鮮]] * [[ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[英武昭勝]]5年 * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1080|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[12月14日]] - [[日食|金環日食]] == 誕生 == {{see also|Category:1080年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[三条実行]]、[[平安時代]]の[[公卿]](+ [[1162年]]) * [[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(+ [[1153年]]) * [[テレサ・デ・レオン]]、[[ポルトゥカーレ伯領|ポルトゥカーレ伯]][[エンリケ (ポルトゥカーレ伯)|エンリケ]]の妃、初代[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ1世]]の母(+ [[1130年]]) * [[藤原家政]]、平安時代の公卿(+ [[1115年]]) * [[藤原家保]]、平安時代の公卿(+ [[1136年]]) == 死去 == {{see also|Category:1080年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月26日]] - [[アメデーオ2世・ディ・サヴォイア]]、[[サヴォイア伯]]、[[アオスタ]]・[[モーリエンヌ|モリアーナ]]伯(* [[1046年]]) * [[段廉義]]、[[大理国]]の第12代王(* 生年未詳) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1080}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=11|年代=1000}} {{デフォルトソート:1080ねん}} [[Category:1080年|*]]
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1523年
1523年(1523 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1523年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1523}} {{year-definition|1523}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[大永]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2183年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]18年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3856年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[統元]]2年 * [[仏滅紀元]] : 2065年 - 2066年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 929年 - 930年 * [[ユダヤ暦]] : 5283年 - 5284年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1523|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[寧波の乱]]{{要出典|date=2021-03}} * [[鏡山城の戦い]]{{要出典|date=2021-03}} == 誕生 == {{see also|Category:1523年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[毛利隆元]]、戦国武将、第53代毛利家当主(+[[1563年]]) * [[上杉憲政]]、戦国大名、山内上杉家当主、関東管領(+[[1579年]]) == 死去 == {{see also|Category:1523年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[8月13日]] - [[ヘラルト・ダヴィト]]、[[画家]](* [[1460年]]頃) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1523}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1523ねん}} [[Category:1523年|*]]
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1544年
1544年(1544 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1544年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1544}} {{year-definition|1544}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[甲辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天文 (元号)|天文]]13年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2204年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]23年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]39年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3877年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[広和]]4年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]12年 * [[仏滅紀元]] : 2086年 - 2087年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 950年 - 951年 * [[ユダヤ暦]] : 5304年 - 5305年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1544|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[ゼバスティアン・ミュンスター]]が科学百科事典{{仮リンク|コスモグラフィア|en|Cosmographia (Sebastian Münster)}}の初版を出版する。コスモグラフィアは広く大衆が手に取りやすいように母国語で書かれており、同時期の本の販売部数が200部程度だったのに比べドイツ語版だけで5万部が売れ、100年以上も影響を及ぼし続けた{{Sfn|クレッグ|2020|pp=90-93}}。 * 日本の[[近畿]]・[[東海]]が8月6日~7日(天文13年7月8日~9日)に[[暴風雨]]に襲われ、[[洪水|大洪水]]が発生して多数の死者が出た<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈2〉[[平安時代]]~[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]|page=43|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33702-1|author=[[伊藤和明]]}}</ref>。[[京都]][[醍醐寺]]の僧、理性院厳助が同時代に見聞した記録「厳助大僧正記」によれば“京中人馬数多流失。在家町々釘抜門戸(扉のない門)ことごとく流失。四条・五条橋、祇園大鳥居流失。禁中(宮中)西方の築地流損。四足などの御門(親柱の前後に控柱が2本ずつある門)に於いては、武家奉公衆馳せ参じて事なし。東寺南大門西、四塚に至る舟を着く云々。日吉大宮橋流落。その外、叡山諸坊数宇、また僧俗稚児若衆数十人流死。淀・鳥羽辺に至って流れ留まり、稚児若衆の死体多し。凡そ前代未聞の珍事なり”と記している<ref>池田正一郎著「日本災変通史>中世 戦国時代>天文11年 312頁:七月九日」、小倉一徳編、[[力武常次]]、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>1.上代 中世の災害>南北朝・室町時代の主要災害一覧 67頁:近畿・東海諸国大風雨」[http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6809.html]</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1544年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月27日]](天文13年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]) - [[竹中重治]]、[[武将]](+ [[1579年]]) * [[堀尾吉晴]]、[[松江藩]]初代藩主(+ [[1611年]]) * [[織田信治]]、[[織田信長]]の弟(+ [[1570年]]) == 死去 == {{see also|Category:1544年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月6日]]([[天文 (日本)|天文]]13年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]) - [[田代三喜]]、[[医師]](* [[1465年]]) == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=ブライアン・クレッグ |translator=石黒 千秋 |title=世界を変えた150の科学の本 |date=2020-02-20 |publisher=創元社 |isbn=978-4-422-40045-7 |ref={{Sfnref|クレッグ|2020}} }}<!-- 第1版第1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1544}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1544ねん}} [[Category:1544年|*]]
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16,111
共通語
共通語(きょうつうご)とは、ある地域や集団の違いを超えて共通に用いられる言語。標準語と共通語は同義の用語として言い換えられることが多いが、「標準語」が『standard language』の訳語であるのに対し、「共通語」は『common language』の訳語であり、原義的には、異なった言語間のコミュニケーションに使われる第三の言語のことを指す。 経済大国など周囲への影響力の強い国や地域で話される言語は、言葉の違う他の国や民族を超えた共通の言語として使用されることがある。そのような言語のことを、国際共通語、もしくはリンガフランカと呼ぶ。その例として、古くは東アジアの漢文、インドのサンスクリット、ヘレニズム時代の地中海世界におけるギリシャ語、ローマ時代の地中海世界と中世のヨーロッパにおけるラテン語、17世紀から19世紀までの西洋におけるフランス語、さらには、東南アジアのマレー語、アラブ世界のアラビア語、東アフリカのスワヒリ語などがある。21世紀の現代においては、国際的な集まりにおいては英語がその役割を果たす場合が多い。 各言語に構造化を導入するとともにコンピュータのための国際共通語(e国際共通語)を構築し、人は母語を使い、翻訳や通訳は構造化国際共通語を理解したコンピュータが行うシステム作りも行われている。 日本では明治初期まで話し言葉は容易に通じるものではなかった。1811年(文化8年)の式亭三馬の『狂言田舎操』巻之上では江戸から20町も離れると江戸とは違う言葉が話されていると記されている。また明治6年から翌年にかけて『文部省雑誌』に掲載された西潟訥の「説諭」には「奥羽の民......上国ノ人ト談話スルニ言語通セサルモノ甚多シ」と記されている。そのため人々は他地域の人々との間では日常の会話では使わない文語を話して意思疎通を図っていた。 1902年(明治35年)、国語調査委員会で方言を調査して標準語を選定する基本方針が決まった。1930年代半ばには標準語が次第に定着したが、列島内の言語の違いが簡単になくなったわけではなく、それが浸透したのはテレビが普及した高度成長期といわれている。 1949年に国立国語研究所が福島県白河市で学術調査を行った際、東北方言と標準語の中間のような日本語を話す話者がいることが確認された。これについて国立国語研究所は、全国共通に理解しあえる「全国共通語」であると評価し、「共通語」と呼ぶことにした。ただし、この「共通語」とは標準語を否定するものとして登場した語ではない。以後、「共通語」という語は標準語にかわる言葉として学校教育や放送の場で広く用いられるようになった。その背景としては、明治政府が中央集権国家確立のために標準語の普及に努め、方言を無視・撲滅しようとしたことに対する反発がある。ちなみに、「共通語」という言い方は戦時・戦中に使われた例もあり、戦後に登場したものではない。 「共通語化」は、戦後、ラジオやテレビの普及に伴い、急速に進んだ。ラジオの放送開始は1925年だが、戦前の普及率は著しく低く、共通語を話せる人は一部の教養層に限られていた。 最近はこの「共通語」が一般にも使われつつある。その理由について、国立国語研究所の言語調査を主導した柴田武は、「標準語という用語に伴う『統制』という付随的意味がきらわれたためだと思われる」と述べている。柴田は、1980年に出版された『国語学大辞典』において、共通語と標準語の定義の違いについて、次のように述べている。 なお、共通語は公式・法的に定められてはいない。 『日本語学大辞典』(2018)では、共通語は「現実に全国で話されている言語」であり、標準語を「共通語をさらに洗練させた規範としての言語」とする見方が一般的であるとする。そして、これを言い換えると、共通語は「話しことば」であるのに対し、標準語は「(専ら規範としての)書きことばに視点を置いた概念である」と述べられている。 塩田(2018)は「標準語」と言ったとき、それが何を指すかについて、3種類に分かれると指摘する。そして、この3種類を「デファクト標準語」、「オーソライズド標準語」、「オーソリティー・コンシャス標準語」と表現した。「デファクト標準語」は、実際に広く使われている言葉を指し、この意味での「標準語」は日本全国で用いられ、特定の地域の特徴を感じさせないものとする。「オーソライズド標準語」とは「国家」などの権威を背景に公的に制定される規範的な「手本」のようなものを指す。そして、これは言葉の使い方に関するルールの役割も果たすとする。「オーソリティー・コンシャス標準語」は「オーソライズド標準語」を強く意識しながら実際に話されるもので、意識的な操作を経た特殊なものとする。 これに対し、「共通語」は、一番広い考え方だと、「デファクト標準語」よりもさらに広いものが含まれるとする。つまり、特定の地域を連想させる言葉(方言等)が用いられていても、それで会話が成立していれば、共通語に含まれるとする。ただ、一般に「共通語」と言う際は、この広い意味で使用することはあまりない。また、人・時・場合によって「共通語」の使い方は異なり、「共通語」という言葉で「デファクト標準語」「オーソライズド標準語」「オーソリティー・コンシャス標準語」のいずれかを指すと指摘する。そして、標準語・共通語について考える際には、この「標準語・共通語」という言い回しがどのレベルを示そうとしているのか、意識的であることが大切だと述べる。
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共通語(きょうつうご)とは、ある地域や集団の違いを超えて共通に用いられる言語。標準語と共通語は同義の用語として言い換えられることが多いが、「標準語」が『standard language』の訳語であるのに対し、「共通語」は『common language』の訳語であり、原義的には、異なった言語間のコミュニケーションに使われる第三の言語のことを指す。
'''共通語'''(きょうつうご)とは、ある地域や集団の違いを超えて共通に用いられる[[言語]]。[[標準語]]と共通語は同義の用語として言い換えられることが多いが、「標準語」が『{{lang|en|standard language}}』の訳語であるのに対し、「共通語」は『{{lang|en|common language}}』の訳語であり、原義的には、異なった言語間のコミュニケーションに使われる第三の言語のことを指す<ref name="okamoto" />。 == 国際共通語 == [[経済大国]]など周囲への影響力の強い国や地域で話される言語は、言葉の違う他の[[国]]や[[民族]]を超えた共通の言語として使用されることがある。そのような言語のことを、国際共通語、もしくは[[リンガフランカ]]と呼ぶ。その例として、古くは[[東アジア]]の[[漢文]]、[[インド]]の[[サンスクリット]]、[[ヘレニズム時代]]の[[地中海世界]]における[[ギリシャ語]]、[[ローマ時代]]の地中海世界と[[中世]]の[[ヨーロッパ]]における[[ラテン語]]、[[17世紀]]から[[19世紀]]までの[[西洋]]における[[フランス語]]、さらには、[[東南アジア]]の[[マレー語]]、[[アラブ世界]]の[[アラビア語]]、[[東アフリカ]]の[[スワヒリ語]]などがある。[[21世紀]]の現代においては、国際的な集まりにおいては[[英語]]がその役割を果たす場合が多い。 各言語に構造化を導入するとともにコンピュータのための国際共通語(e国際共通語)を構築し、人は母語を使い、翻訳や通訳は構造化国際共通語を理解したコンピュータが行うシステム作りも行われている<ref>[https://www.japio.or.jp/00yearbook/files/2012book/12_5_05.pdf 横井俊夫「言葉をデザインする」] - japio year book2012 2021年7月13日閲覧。</ref>。 == 日本の言語学での共通語 == 日本では明治初期まで話し言葉は容易に通じるものではなかった<ref name="okamoto">[http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo17_2/1702_okamoto.pdf 岡本雅享「言語不通の列島から単一言語発言への軌跡」] - 福岡県立大学人間社会学部紀要 第17巻 第2号 2021年7月13日閲覧。</ref>。1811年(文化8年)の[[式亭三馬]]の『狂言田舎操』巻之上では江戸から20町も離れると江戸とは違う言葉が話されていると記されている<ref name="okamoto" />。また明治6年から翌年にかけて『文部省雑誌』に掲載された西潟訥の「説諭」には「奥羽の民……上国ノ人ト談話スルニ言語通セサルモノ甚多シ」と記されている<ref name="okamoto" />。そのため人々は他地域の人々との間では日常の会話では使わない文語を話して意思疎通を図っていた<ref name="okamoto" />。 [[1902年]](明治35年)、国語調査委員会で方言を調査して[[標準語]]を選定する基本方針が決まった<ref name="okamoto" />。1930年代半ばには標準語が次第に定着したが、列島内の言語の違いが簡単になくなったわけではなく、それが浸透したのはテレビが普及した高度成長期といわれている<ref name="okamoto" />。 [[1949年]]に[[国立国語研究所]]が[[福島県]][[白河市]]で学術調査を行った際、[[東北方言]]と[[標準語]]の中間のような日本語を話す話者がいることが確認された。これについて国立国語研究所は、全国共通に理解しあえる「全国共通語」であると評価し、「共通語」と呼ぶことにした<ref name="seiritsu">『標準語の成立事情』[[真田信治]]、[[PHP研究所]]、1987年</ref><ref>{{Cite web|和書 | url = http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20051006-90001118-r25 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20130722155138/http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20051006-90001118-r25 | title = そもそも日本語の『共通語』ってどうやってできたの? | author = 梅中伸介 | work = [[R25 (雑誌)|R25]] | publisher = [[リクルートホールディングス|リクルート]] | date = 2005-10-6 | accessdate = 2008-5-28 | archivedate = 2013-7-22 | deadlinkdate = 2018年5月16日 }}</ref>。ただし、この「共通語」とは標準語を否定するものとして登場した語ではない。以後、「共通語」という語は標準語にかわる言葉として学校教育や放送の場で広く用いられるようになった。その背景としては、明治政府が中央集権国家確立のために標準語の普及に努め、方言を無視・撲滅しようとしたことに対する反発がある。<ref name=":0" />ちなみに、「共通語」という言い方は戦時・戦中に使われた例もあり、戦後に登場したものではない。<ref name=":1" /> 「共通語化」は、戦後、ラジオやテレビの普及に伴い、急速に進んだ。ラジオの放送開始は1925年だが、戦前の普及率は著しく低く、共通語を話せる人は一部の教養層に限られていた。<ref name=":0" /> 最近はこの「共通語」が一般にも使われつつある。その理由について、国立国語研究所の言語調査を主導した[[柴田武]]は、「標準語という用語に伴う『統制』という付随的意味がきらわれたためだと思われる」と述べている<ref name="seiritsu" />。柴田は、[[1980年]]に出版された『国語学大辞典』において、共通語と標準語の定義の違いについて、次のように述べている<ref name="seiritsu" />。 {{Quotation|共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であり、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケーションの手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである。|国語学会編『国語学大辞典』[[東京堂出版]]、1980年9月}} なお、共通語は公式・法的に定められてはいない。 == 標準語と共通語の違い == 『日本語学大辞典<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=日本語学大辞典|year=2018|publisher=東京堂|page=220|author=金田功}}</ref>』(2018)では、共通語は「現実に全国で話されている言語」であり、[[標準語]]を「共通語をさらに洗練させた規範としての言語」とする見方が一般的であるとする。そして、これを言い換えると、共通語は「話しことば」であるのに対し、標準語は「(専ら規範としての)書きことばに視点を置いた概念である」と述べられている。  塩田<ref name=":1">{{Cite book|和書|title=日本語学|year=2018|publisher=明治書院|author=|pages=6-22|volume=37巻5号|quote=}}</ref>(2018)は「標準語」と言ったとき、それが何を指すかについて、3種類に分かれると指摘する。そして、この3種類を「デファクト標準語」、「オーソライズド標準語」、「オーソリティー・コンシャス標準語」と表現した。「デファクト標準語」は、実際に広く使われている言葉を指し、この意味での「標準語」は日本全国で用いられ、特定の地域の特徴を感じさせないものとする。「オーソライズド標準語」とは「国家」などの権威を背景に公的に制定される規範的な「手本」のようなものを指す。そして、これは言葉の使い方に関するルールの役割も果たすとする。「オーソリティー・コンシャス標準語」は「オーソライズド標準語」を強く意識しながら実際に話されるもので、意識的な操作を経た特殊なものとする。  これに対し、「共通語」は、一番広い考え方だと、「デファクト標準語」よりもさらに広いものが含まれるとする。つまり、特定の地域を連想させる言葉(方言等)が用いられていても、それで会話が成立していれば、共通語に含まれるとする。ただ、一般に「共通語」と言う際は、この広い意味で使用することはあまりない。また、人・時・場合によって「共通語」の使い方は異なり、「共通語」という言葉で「デファクト標準語」「オーソライズド標準語」「オーソリティー・コンシャス標準語」のいずれかを指すと指摘する。そして、標準語・共通語について考える際には、この「標準語・共通語」という言い回しがどのレベルを示そうとしているのか、意識的であることが大切だと述べる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[国際補助語]] * [[リングワ・フランカ]] * [[ピジン言語]] * [[クレオール言語]] * [[コイネー言語]] * [[言語帝国主義]] * [[エスペラント]] * [[人工言語]] * [[公用語]] * [[標準語]] * [[国語]] * [[教授言語]] * [[日本語の方言]] {{DEFAULTSORT:きようつうこ}} [[Category:言語]] [[Category:社会言語学]] [[Category:方言]]
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軽便鉄道
軽便鉄道(けいべんてつどう)とは、一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道である。 軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設される。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、軌間も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い。省線列車という言葉があるが本稿の意味ではない。 日本における軽便鉄道は、法規的には「軽便鉄道法」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や軌道法に基づいた軌道線をふくめて、軌間1067mm(3フィート6インチ)未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする。広義には軌間1067mm未満の森林鉄道・殖民軌道・鉱山鉄道など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。 軌間は、日本では762mm(2フィート6インチ)の事例が多いが、この他に600mm。あるいは610mm(2フィート)、九州北部で1930年代まで盛んに使われた914mm(3フィート)の例があり、それ以外の軌間の採用例も僅少ながら存在する。 また、軽便鉄道法には軌間の規定がなかったため、同法によって建設された路線には1067mmや1435mm(4フィート8 1/2インチ)の路線も存在した。(例:新宮軽便鉄道(1435mm)、国鉄の軽便線(1067mm)など) 輸送の実態として、明治期に開業した可部線の例では、立てば頭がつかえるようなマッチ箱式の小型客車を使用。乗客が多ければ起動できずに皆で後押しをして動かした。また、乗客が列車の進行中に降りて用便を済ませても駆け足で追いつくといった話も伝わるほど、輸送機関としては貧弱なものであった。 日本で最初に1067mm未満の軌間を採用した鉄道は、1880年の工部省釜石鉱山鉄道である。同路線はイギリスからの資材輸入で建設され、同国の一部で見られた838mm(2フィート9インチ)軌間を採用した鉱石輸送用鉄道であった。 同路線は開業から間もない1882年に廃線になり、車両や資材の一部は当時官営だった三池炭鉱と、1885年に開業した民間資本による阪堺鉄道に転用された。阪堺鉄道は車両や資材をそのまま使用したため、1067mm未満の軌間を採用した日本初の私鉄となった。しかし、接続する南海鉄道との直通の必要性があり、1897年12月には1067mmに改軌している。 その後、私設鉄道条例(1887年制定)、私設鉄道法(1900年制定)により、鉄道の軌間は原則として国鉄と同じ1067mmとすることが政府の方針となった。このため、1888年に開業した伊予鉄道などを除いて、簡易規格の鉄道は軌道条例に基づいた路線を除き、ほとんど開業しなくなった。 1906年の鉄道国有法公布後、局地鉄道に建設が限定されるため利幅の薄さから資本家たちは投資先を鉄道事業から他業種へ移してしまった。さらに私設鉄道法は開業条件があまりに厳しいため、私設鉄道がほとんど建設されなくなった。そのなかで雨宮敬次郎は各地の有力者とともに軌道条例により蒸気軌道を建設し、大日本軌道を創設した。しかし政府としては従来の軌道条例のもとで全国に普及することはのぞましいことではなかった。また私鉄の国有化で地方開発に大きな資金を使えない政府としては由々しき事態であった。そこで、1909年に条件を大幅に緩和した「軽便鉄道法」が公布され、次いで国鉄線収益を財源とした補助を規定する軽便鉄道補助法が制定される。その結果、軽便鉄道が北海道を除く全国に爆発的に普及していった。国も、地方路線建設のために同法を利用し、鉄道敷設法に規定されていない小規模路線を「軽便線」として多数計画・建設した。 軽便鉄道法は軌道条例による軌道よりも規定が緩かったので、編成数の増加などの目的で軌道条例で開業した鉄道会社が軽便鉄道に移行するケースもあった(例:西大寺鉄道)。 軽便鉄道法の規定は1919年に「地方鉄道法」による地方鉄道に統合され、制度としての軽便鉄道は廃止された。国有鉄道の「軽便線」制度は予算枠が10年先まであったことから1922年まで続いたが、これも鉄道敷設法改正で消滅した。 一方、北海道では開拓入植の促進のため、北海道庁の主導で主に762mm規格の「殖民軌道」が1920年代中期以降盛んに敷設された。湿地や泥濘地の多い未開拓地域では大規模な土木工事を必要とする道路建設よりも軌道敷設の方が容易であり、自動車交通の普及以前でもあることから普及した手法であった。 モータリゼーション以前は、物資輸送のために各地の工場・鉱山で鉄道が用いられ、その多くは設備投資が容易な762mm以下の軌道で敷設された。また、林業の発展と共に木曽森林鉄道や津軽森林鉄道など森林鉄道が日本全国各地に敷設された。その他、大規模河川改修やトンネル工事などでも作業用の軌道が利用された。この種の軌道では常願寺川水系の砂防事業のために2013年現在も使用されている国土交通省立山砂防工事専用軌道が有名である。 軽便鉄道は、鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しい。そのため路線バスの普及によって縮小傾向を迎え、1930年代に入ってからの新規開業例はほぼ途絶える。さらに、1930年代末期までに多くの零細軽便鉄軌道が淘汰されている。第二次世界大戦中の戦時体制下では、一部路線が不要不急線として廃止された。沖縄県では沖縄県営鉄道が地上戦により破壊され、戦後長らく沖縄には鉄道が存在しなかった。 第二次世界大戦後は、燃料不足で自動車輸送が機能不全に陥っていた1940年代後半こそ輸送量が増大したものの、1950年代以降はモータリゼーションの進展によって経営が悪化し、1970年代までにほぼ全てが廃止された。 北海道の殖民軌道は、敷設地域の道路事情の劣悪さのため、第二次世界大戦後も地元町村に運営移管される形で多くが存続した。1960年代中期には路線延長された例もあるが、モータリゼーション進展によって急速にその役割を失う。最後まで残った浜中町営軌道は1972年3月限りで廃止された。 軽便鉄道が輸送需要の増大などに応えるため、1067mm以上の軌間への改軌や電化など、より高い規格に改修される例は古くから見られた。 特に客貨車の全国直通が可能な体制構築に努めていた鉄道省→日本国有鉄道は、私鉄買収によって国鉄線となった762mm軌間路線について、買収後早期に改軌工事を進めており、それは資材供給状況の厳しかった戦時中にも松浦線(現・松浦鉄道西九州線。旧・佐世保軽便鉄道)などで敢行されていた。1950年10月の釜石線全通に伴う旧・釜石西線区間(旧・岩手軽便鉄道)の改軌および一部廃止を最後に、762mm軌間の国鉄線は消滅している。 しかしこのような工事は、新線建設に近い投資を必要とするため、資本力に乏しい民営鉄道では着手困難なことが多く、規格向上に踏み切れないうちにモータリゼーションの影響を受けるようになって廃止された軽便鉄道も多い。 非電化軽便鉄道が、軌間はそのままに電化のみ行った例は多数存在する。戦前には輸送力増強目的で、また戦中戦後には石炭・石油燃料不足への対策として実例が多数生じた。だが1067mm以上へ改軌した例と比較すると、輸送力や速度の制約が大きいために、根本的な体質改善を遂げたとは言い難かった。電化された軽便鉄道もその後の改軌を伴わなかった場合、三重交通から近畿日本鉄道に移管された一部路線を例外として、結局全て廃止されている。 なお762mm軌間からより高規格への改軌を行ったもっとも遅い例は、1962年の同和鉱業小坂鉄道、1964年の三重電気鉄道三重線(湯の山線区間)であるが、前者は大規模な新鉱床発見に伴う貨物輸送能力の強化策、後者は観光開発需要に伴う規格向上であった。 軽便鉄道の規格のままの営業鉄道は、四日市あすなろう鉄道内部・八王子線、三岐鉄道北勢線、黒部峡谷鉄道が残るのみである。 産業用としては、上記にもある国土交通省立山砂防工事専用軌道が工事用として、水口産業建設の小口川軌道や黒部峡谷鉄道の支線にあたる関西電力黒部専用鉄道はダムへの資材輸送用に、森林鉄道では屋久島の安房森林軌道が現存している。 軽便鉄道については、施設規模や車両の小ささを生かして、各地で動態保存の活動が活発に行われている。 遊園地などでは、軽便鉄道規格の鉄道形遊戯施設が運行されていることも多いが、なかでも福島県伊達市のやながわ希望の森公園や、千葉県の東京ディズニーランド(ウエスタンリバー鉄道)、静岡県の虹の郷、愛知県の愛知こどもの国、大阪府の浜寺公園などは、走行距離の長い規模の大きいものである。このうち「虹の郷」は、381mm軌間のイギリスのロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道およびレーブングラス・アンド・エスクデール鉄道がベースで、イギリスから譲渡された車両も運行されている。 西武山口線はもとは「おとぎ電車」という名称の遊戯施設であったが、1985年に案内軌条式鉄道(AGT)に改良され、現在は一般の鉄道路線になっている。 伊予鉄道では、復元した軽便鉄道の機関車と客車を、明治時代の松山に滞在していた夏目漱石にちなんで「坊っちゃん列車」として走らせている。牽引車両は当時の蒸気機関車そっくりの外見であるが、現代の都市の路面を走行することからディーゼル動力であり、また軌道は既存の1067mm軌間である。
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軽便鉄道(けいべんてつどう)とは、一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道である。
'''軽便鉄道'''(けいべんてつどう)とは、一般的な[[鉄道]]よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道である。 == 概要 == [[File:Kintetsu-260Series-04.JPG|thumb|200px|近鉄内部・八王子線(現・[[四日市あすなろう鉄道内部・八王子線]])の車両]] [[File:Kintetsu 261 inside.jpg|thumb|200px|近鉄内部線(現・四日市あすなろう鉄道)260系の車内]] [[File:Mikasa narrow-gauge railway.JPG|thumb|200px|三笠鉄道記念館に保存されている炭鉱用機関車]] [[File:Tank Locomotive of SUNEN-Line-1.jpg|thumb|200px|静岡鉄道B15形蒸気機関車(藤枝市郷土博物館 2018年4月5日撮影)]] 軽便鉄道は、建設費・維持費の抑制のため低規格で建設される。軽量なレールが使用され、地形的制約の克服に急曲線・急勾配が用いられ、[[軌間]]も狭軌が採用されることが多い。このため、運行時は最高速度が低く輸送力も小さく、軌間が違う場合は積み替え・乗り換えの不便が生じる。産業の未成熟で限定的な輸送力しか必要としない地域に建設される事例が多い。[[省線]]列車という言葉があるが本稿の意味ではない。 [[日本]]における軽便鉄道は、[[法規]]的には「[[軽便鉄道法]]」に基づいて建設された鉄道を指すが、一般的には国鉄線や[[軌道法]]に基づいた軌道線をふくめて、[[軌間]]1067[[ミリメートル|mm]]([[3フィート6インチ軌間|3フィート6インチ]])未満の営業鉄軌道を軽便鉄道とする<ref>事業者や準拠する法規の違いなどから、国鉄線や[[軌道法]]に基づいた軌道線、一部路線のみが軽便鉄道に該当する鉄道会社の場合の該当する路線については、「軽便鉄道」ではなく「軽便線」などと呼び分ける場合もある。</ref>。広義には軌間1067mm未満の[[森林鉄道]]・[[殖民軌道]]・[[鉱山鉄道]]など、鉄道法規の規定によらない低規格の鉄道も含まれる。 軌間は、日本では762mm([[2フィート6インチ軌間|2フィート6インチ]])の事例が多いが、この他に600mm<!--(1フィート11 1/2インチ)--><ref>[[ポール・ドコービル]] の可搬式軌道システムに由来し、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[鉄道連隊]]でも採用された。</ref>。あるいは610mm(2フィート)、九州北部で1930年代まで盛んに使われた914mm([[3フィート軌間|3フィート]])の例があり、それ以外の軌間の採用例も僅少ながら存在する。 また、軽便鉄道法には軌間の規定がなかったため、同法によって建設された路線には1067mmや1435mm(4フィート8 1/2インチ)の路線も存在した<ref>日本では1067mmや1435mm軌間の路線は社会通念上の「軽便鉄道」に含まれない場合が多い。</ref>。(例:[[播電鉄道|新宮軽便鉄道]](1435mm)、国鉄の[[軽便線]](1067mm)など) 輸送の実態として、明治期に開業した[[可部線]]の例では、立てば頭がつかえるような[[マッチ箱]]式の小型客車を使用。乗客が多ければ起動できずに皆で後押しをして動かした。また、乗客が列車の進行中に降りて用便を済ませても駆け足で追いつくといった話も伝わるほど<ref>広浜電車が国鉄に身売り、可部線に『中国新聞』昭和11年8月31日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p623 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>、輸送機関としては貧弱なものであった。 == 日本における歴史 == === 黎明期 === 日本で最初に1067mm未満の軌間を採用した鉄道は、[[1880年]]の[[工部省]][[釜石鉱山鉄道]]である。同路線はイギリスからの資材輸入で建設され、同国の一部で見られた838mm(2フィート9インチ)軌間を採用した鉱石輸送用鉄道であった<ref>もっともこの釜石鉱山鉄道は、線路規格も京浜間や阪神間の官設鉄道と比較しても遜色が無く、導入した蒸気機関車も[[1872年]]の新橋 - 横浜間開業時に用意された機関車よりも牽引力が大きく動軸重も重いものであり、現在の日本における「軽便鉄道」の様相とは異なるものであった。</ref>。<!--細かすぎる内容でないか心配--> 同路線は開業から間もない[[1882年]]に廃線になり、車両や資材の一部は当時官営だった三池炭鉱と、[[1885年]]に開業した民間資本による[[阪堺鉄道]]<ref>[[南海電気鉄道]]の前身。路線は現在の[[南海本線]]の一部。</ref>に転用された。阪堺鉄道は車両や資材をそのまま使用したため、1067mm未満の軌間を採用した日本初の私鉄となった。しかし、接続する南海鉄道との直通の必要性があり、[[1897年]]12月には1067mmに改軌している。 その後、[[私設鉄道条例]]([[1887年]]制定)、[[私設鉄道法]]([[1900年]]制定)により、鉄道の軌間は原則として国鉄と同じ1067mmとすることが政府の方針<ref>国鉄との[[直通運転]]を前提とし、将来は国有化する方針であったため。</ref>となった。このため、[[1888年]]に開業した[[伊予鉄道]]<ref>国鉄線と接続しない独立路線であり、かつ創業者が[[ドコービル]]のシステムに感銘を受けたのが、採用の理由であったという。</ref>などを除いて、簡易規格の鉄道は[[軌道条例]]に基づいた路線を除き、ほとんど開業しなくなった。 === 拡大期 === [[1906年]]の[[鉄道国有法]]公布後、局地鉄道に建設が限定されるため利幅の薄さから資本家たちは投資先を鉄道事業から他業種へ移してしまった。さらに私設鉄道法は開業条件があまりに厳しいため、私設鉄道がほとんど建設されなくなった。そのなかで[[雨宮敬次郎]]は各地の有力者とともに軌道条例により蒸気軌道を建設し、[[大日本軌道]]を創設した。しかし政府としては従来の軌道条例のもとで全国に普及することはのぞましいことではなかった<ref>[[原田勝正]]・[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]『日本の鉄道』、三省堂、1973年、148頁</ref>。また私鉄の国有化で地方開発に大きな資金を使えない政府としては由々しき事態であった。そこで、[[1909年]]に条件を大幅に緩和した「[[軽便鉄道法]]」が公布され、次いで国鉄線収益を財源とした補助を規定する[[軽便鉄道補助法]]が制定される。その結果、軽便鉄道が[[北海道]]を除く全国に爆発的に普及していった。国も、地方路線建設のために同法を利用し、[[鉄道敷設法]]に規定されていない小規模路線を「[[軽便線]]」として多数計画・建設した。 軽便鉄道法は軌道条例による軌道よりも規定が緩かったので、編成数の増加などの目的で軌道条例で開業した鉄道会社が軽便鉄道に移行するケースもあった(例:[[西大寺鉄道]]<ref>安保彰夫『RM LIBRARY89 西大寺鉄道』株式会社ネコ・パブリッシング、2007年、ISBN 978-4-7770-5189-2、P11-12。</ref>)。 軽便鉄道法の規定は[[1919年]]に「[[地方鉄道法]]」による[[地方鉄道]]に統合され、制度としての軽便鉄道は廃止された。国有鉄道の「軽便線」制度は予算枠が10年先まであったことから[[1922年]]まで続いたが、これも鉄道敷設法改正で消滅した。 一方、北海道では開拓入植の促進のため、[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]の主導で主に762mm規格の「[[殖民軌道]]」が1920年代中期以降盛んに敷設された。湿地や泥濘地の多い未開拓地域では大規模な土木工事を必要とする道路建設よりも軌道敷設の方が容易であり、自動車交通の普及以前でもあることから普及した手法であった。ただしその動力化は立ち遅れ、太平洋戦争後の1950年代まで馬力を用いる事例も多かった。 [[モータリゼーション]]以前は、物資輸送のために各地の工場・鉱山で鉄道が用いられ、その多くは設備投資が容易な762mm以下の軌道で敷設された。また、林業の発展と共に[[木曽森林鉄道]]や[[津軽森林鉄道]]など[[森林鉄道]]が日本全国各地に敷設された。その他、大規模河川改修やトンネル工事などでも作業用の軌道が利用された。この種の軌道では[[常願寺川]]水系の砂防事業のために2013年現在も使用されている[[国土交通省立山砂防工事専用軌道]]が有名である。 === 衰退期 === 軽便鉄道は、鉄道の長所である高速大量輸送能力に乏しい。そのため[[路線バス]]の普及によって縮小傾向を迎え、1930年代に入ってからの新規開業例はほぼ途絶える。さらに、1930年代末期までに多くの零細軽便鉄軌道が淘汰されている。[[第二次世界大戦]]中の戦時体制下では、一部路線が[[不要不急線]]として廃止された。沖縄県では[[沖縄県営鉄道]]が地上戦により破壊され、戦後長らく沖縄には鉄道が存在しなかった。 第二次世界大戦後は、燃料不足で自動車輸送が機能不全に陥っていた1940年代後半こそ輸送量が増大したものの、1950年代以降は[[モータリゼーション]]の進展によって経営が悪化し、1970年代までにほぼ全てが廃止された<ref group="注">非電化路線で最後まで残ったのは1977年廃止の[[尾小屋鉄道]]。</ref>。 北海道の殖民軌道は、敷設地域の道路事情の劣悪さのため、第二次世界大戦後も地元町村に運営移管される形で多くが存続した。1950年代中期以降は残存路線での規格向上や内燃動力化が進み、1960年代中期まで路線延長された事例もあったが、モータリゼーション進展によって急速にその役割を失う。最後まで残った[[浜中町営軌道]]は1972年3月限りで廃止された。 == 軽便鉄道の改軌・規格向上 == 軽便鉄道が輸送需要の増大などに応えるため、1067mm以上の軌間への[[改軌]]や[[鉄道の電化|電化]]など、より高い規格に改修される例は古くから見られた。 特に客貨車の全国直通が可能な体制構築に努めていた鉄道省→[[日本国有鉄道]]は、私鉄買収によって国鉄線となった762mm軌間路線について、買収後早期に改軌工事を進めており、それは資材供給状況の厳しかった戦時中にも[[松浦鉄道西九州線|松浦線(現・松浦鉄道西九州線]]。旧・[[佐世保鉄道|佐世保軽便鉄道]])などで敢行されていた。1950年10月の[[釜石線]]全通に伴う旧・釜石西線区間(旧・[[岩手軽便鉄道]])の改軌および一部廃止を最後に、762mm軌間の国鉄線は消滅している。 しかしこのような工事は、新線建設に近い投資を必要とするため、資本力に乏しい民営鉄道では着手困難なことが多く、規格向上に踏み切れないうちにモータリゼーションの影響を受けるようになって廃止された軽便鉄道も多い。 非電化軽便鉄道が、軌間はそのままに電化のみ行った例は多数存在する。戦前には輸送力増強目的で、また戦中戦後には石炭・石油燃料不足への対策として実例が多数生じた。だが1067mm以上へ改軌した例と比較すると、輸送力や速度の制約が大きいために、根本的な体質改善を遂げたとは言い難かった。電化された軽便鉄道もその後の改軌を伴わなかった場合、[[三重交通]]から[[近畿日本鉄道]]に移管された一部路線を例外として、結局全て廃止されている。 なお762mm軌間からより高規格への改軌を行ったもっとも遅い例は、1962年の[[小坂製錬小坂線|同和鉱業小坂鉄道]]<ref>軌間の1067mmへの変更および電化区間の非電化への変更を実施。</ref>、1964年の[[近鉄湯の山線|三重電気鉄道三重線(湯の山線区間)]]<ref>軌間の1435mm化と架線電圧の直流750Vから直流1500Vへの昇圧を実施。</ref>であるが、前者は大規模な新鉱床発見に伴う貨物輸送能力の強化策、後者は観光開発需要に伴う規格向上であった。 == 現存例 == [[File:Kurobe Gorge Railway 7.jpg|thumb|黒部峡谷鉄道(2008年8月21日撮影)]] 軽便鉄道の規格のままの営業鉄道は、[[四日市あすなろう鉄道内部・八王子線]]、[[三岐鉄道北勢線]]、[[黒部峡谷鉄道本線|黒部峡谷鉄道]]が残るのみで、すべて電化路線である。 産業用としては、上記にもある国土交通省立山砂防工事専用軌道が工事用として、水口産業建設の[[小口川軌道]]や黒部峡谷鉄道の支線にあたる[[関西電力黒部専用鉄道]]はダムへの資材輸送用に、森林鉄道では[[屋久島]]の[[安房森林軌道]]が現存している。 <!--現存例とは関連の薄い部分についてはコメントアウト化しました。--> == 保存活動ほか == 軽便鉄道については、施設規模や車両の小ささを生かして、各地で[[動態保存]]の活動が活発に行われている。 === 代表的な動態保存事例 === [[File:Train of Maruseppu Forest Park Ikoi-no-Mori.jpg|thumb|250px|[[丸瀬布森林公園いこいの森]]の旧武利意森林鉄道21号機([[武利意森林鉄道18号形蒸気機関車|雨宮21号]])と旧[[井笠鉄道]]客車([[2014年]])]] * [[丸瀬布森林公園いこいの森]]([[北海道]][[紋別郡]][[遠軽町]]) - 軌間762mm、延長2km。[[武利意森林鉄道]]蒸気機関車、[[鶴居村営軌道]]ディーゼル機関車、[[井笠鉄道]]客車ほか。 * [[まむろがわ温泉 梅里苑]]([[山形県]][[最上郡]][[真室川町]]) - 軌間762mm、延長1km。[[仁別森林鉄道]]ディーゼル機関車。 * [[羅須地人鉄道協会|羅須地人鉄道協会まきば線]]([[成田ゆめ牧場]]、[[千葉県]][[成田市]]) - 軌間610mm、延長500m。基隆炭鉱蒸気機関車、[[国土交通省立山砂防工事専用軌道]]ディーゼル機関車ほか。 * [[赤沢自然休養林]]([[長野県]][[木曽郡]][[上松町]]) - 軌間762mm、延長2km。[[木曽森林鉄道]]ディーゼル機関車。 * くびき野レールパーク([[新潟県]][[上越市]]) - 軌間762mm、延長130m。[[頸城鉄道線|頸城鉄道]]ディーゼル機関車、気動車。 * [[いしかわ子ども交流センター小松館]]([[石川県]][[小松市]]) - 軌間762mm、延長473m。[[尾小屋鉄道]]ディーゼル機関車、気動車、客車。 * 魚梁瀬丸山公園([[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[馬路村]]) - 軌間762mm、延長408m。[[魚梁瀬森林鉄道]]ディーゼル機関車。 ** [[野辺山SLランド]]([[長野県]][[南佐久郡]][[南牧村 (長野県)|南牧村]]、[[2018年]]閉園) - 軌間762mm、延長350m。台湾製糖蒸気機関車、木曽森林鉄道ディーゼル機関車。 === 遊覧鉄道等 === 遊園地などでは、軽便鉄道規格の鉄道形遊戯施設が運行されていることも多いが、なかでも[[福島県]][[伊達市 (福島県)|伊達市]]の[[やながわ希望の森公園]]や、[[千葉県]]の[[東京ディズニーランド]]([[ウエスタンリバー鉄道]])、[[静岡県]]の[[虹の郷]]、[[愛知県]]の[[愛知こどもの国]]、[[大阪府]]の[[浜寺公園]]などは、走行距離の長い規模の大きいものである。<!--[[スカイピアあだたら]](旧[[グリーンピア二本松]])にも同様の施設はあったが、赤字のため廃線となった。-->このうち「虹の郷」は、381mm軌間のイギリスの[[ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道]]および[[レーブングラス・アンド・エスクデール鉄道]]がベースで、イギリスから譲渡された車両も運行されている。 [[西武山口線]]はもとは「おとぎ電車」という名称の遊戯施設であったが、1985年に[[案内軌条式鉄道]]([[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]])に改良され、現在は一般の鉄道路線になっている。 伊予鉄道では、復元した軽便鉄道の機関車と客車を、[[明治|明治時代]]の[[松山市|松山]]に滞在していた[[夏目漱石]]にちなんで「[[坊っちゃん列車]]」として走らせている。牽引車両は当時の[[蒸気機関車]]そっくりの外見であるが、現代の都市の路面を走行することからディーゼル動力であり、また軌道は既存の1067mm軌間である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考図書 == * 高井薫平『軽便追想』(ネコパブリッシング、1997年、ISBN 978-4-87366-143-8) == 関連項目 == * [[軽便鉄道法]] * [[軽便鉄道補助法]] * [[地方鉄道法]] * [[軌道法]] * [[軽便線]] * [[国鉄の特殊狭軌線]] * [[狭軌]] * [[簡易軌道]] == 外部リンク == {{commonscat|Narrow gauge railways}} * [https://www.yumebokujo.com/ 成田ゆめ牧場] * [https://rass-rail.blog.ss-blog.jp/ 羅須地人鉄道協会] {{公共交通}} {{rail-stub}} {{デフォルトソート:けいへんてつとう}} [[Category:軽便鉄道|*]] [[Category:鉄道の歴史]]
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南海高野線
高野線(こうやせん)は、大阪府大阪市浪速区の汐見橋駅から同市西成区の岸里玉出駅を経由し、和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線である。一般的には、岸里玉出駅から南海本線に直通する難波駅 - 橋本駅 - 極楽橋駅間の運行系統を指し(運行形態を参照)、鋼索線(高野山ケーブル)の高野山駅までを含め、高野線と呼ぶことが多い。岸里玉出駅 - 極楽橋駅間と線路が分断されている、汐見橋駅 - 岸里玉出駅間には汐見橋線(しおみばしせん)という通称がある。 路線シンボルマークは、高野杉の林をイメージしたもの()で、ラインカラーは緑。山岳区間の橋本駅 - 極楽橋駅間には鋼索線とともに「こうや花鉄道」という愛称が付けられ、観光列車「天空」を運行するなど様々な取り組みが行われている。 また、かつて難波駅 - 橋本駅間には「りんかんサンライン」という愛称がつけられていた(命名経緯は後述)。 日本有数の宗教都市・霊場である高野山への参詣輸送路線であり、終点の極楽橋駅からは鋼索線に連絡している。加えて、大阪府南河内地域・和歌山県伊都地域から大阪市内への通勤・通学路線でもある。かつては南海本線に対して支線的な存在だったが、宅地開発による沿線人口の急増、さらには泉北高速鉄道線との相互直通運転による泉北ニュータウンから大阪市内への通勤客輸送等により、現在は南海本線と並ぶ南海の主力路線へと発展した。 全線でPiTaPaおよびICOCAなどPiTaPaと相互利用可能なIC乗車カードが利用できる。ただし、乗車回数に応じて割引が適用されるサービスはPiTaPaのみが対象となる。 高野線は、主に市街地を走る難波駅 - 橋本駅間と、曲線と勾配の激しい山岳区間を走る橋本駅 - 極楽橋駅間とに運行系統が分かれる。橋本駅 - 極楽橋駅間の山岳区間に乗り入れる列車には、車両全長が短い通称「ズームカー」と呼ばれる平坦区間では高速運転が可能で山岳区間では大きな牽引力を出す専用車両が用いられる。特に高野下駅 - 極楽橋駅間は50 ‰の勾配を持つ登山鉄道であり(詳細後述)、南海には沿線に高野山という観光地があるという特徴を持つことから、同様に沿線に観光地があり急勾配区間がある日本の鉄道会社6社(南海のほか箱根登山鉄道、富士急行、大井川鐵道、叡山電鉄、神戸電鉄)の間で、2009年に全国登山鉄道‰会を結成している(2019年にアルピコ交通が加入)。また、2017年10月24日には同様の特徴を持つスイスのモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道 (MOB) と姉妹鉄道協定を締結している。 1995年から2008年まで難波駅 - 橋本駅間には「りんかんサンライン」の愛称が付けられていた。「りんかん」は、澄んだ空気と豊かな自然とが調和するさわやかな街並みのイメージ、「サンライン」は太陽 (Sun) の明るさと暖かさ、さんさんと降り注ぐ陽光の輝きを意味している。 1994年12月14日、当時の社長川勝泰司が「田舎臭いイメージを変えたい」と発言したのがきっかけで岸里玉出駅 - 橋本駅間の名称を社内公募で選定し、1995年9月1日のダイヤ改正時から使用したいと発表。社長案として「南海山手線」を提唱した。川勝社長は会見で「名称がいま風、都会風になれば、当社の住宅分譲などにも効果がでるだろうし、利用客が増えるかもしれない。それには山手線がいい」とコメントした。しかし、高野山の所在する高野町がそれに反発し、当時の町長と高野山真言宗金剛峯寺宗務総長が路線名存続の要望を出したことから路線名変更を断念して愛称を募集することとし、「りんかんサンライン」に決定した。当初は難波駅 - 橋本駅間を「りんかんサンライン」、橋本駅 - 極楽橋駅間を「高野線」と路線図上では区別していたが、後に「高野線りんかんサンライン」と両名併記して案内されるようになった。車内放送では、南海本線側からの乗換案内などで「高野線りんかんサンラインはお乗り換えです」と案内されていた。 なお「山手線」の名称は、南海電気鉄道の前身である南海鉄道が1940年に統合した阪和電気鉄道の路線、すなわち後に西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線となる路線の呼称として、戦時買収によって同線が国有化される1944年まで用いていたことがあった。 しかし、沿線住民の間では「高野線」の名称で定着しており、「りんかんサンライン」と呼ぶ人はさほど多くなかった。2008年の高野線ダイヤ変更より案内上でもほとんど「りんかんサンライン」の愛称が使われなくなり、2009年3月20日の阪神なんば線の開業とともに、車内路線図から「りんかんサンライン」の表示が消去され、車内自動放送の乗換案内においても「りんかんサンライン」とは案内されなくなった。また公式ホームページにおいても現在は「りんかんサンライン」との案内はなくなっている。愛称使用終了前に印刷された駅配布の時刻表などもそのまま配布されていたが、2013年10月に行われたダイヤ改正時に発行された時刻表および駅掲出の時刻表には記載されていない。 なお、愛称使用終了後も泉北高速鉄道5000系の車内案内表示器には中百舌鳥駅到着時に表示される乗換案内に「りんかんサンライン」の表示が残っていたが、同形式は2020年2月にリニューアル工事を終えたためその表示はなくなった。さらには案内サイン類の更新が順次行われ、現在では大半が「高野線」の名称に統一されており、「りんかんサンライン」の案内表示はごくわずかに残る程度となっている(2022年時点では、北野田駅高野山方面ホームのLED発車案内の上部に「りんかんサンライン」の表記が残存している)。 難波駅 - 橋本駅間は沿線に住宅地が多く、21m級の4扉大型車両を運行し通勤客を捌いている。 大阪市内の住吉東駅 - 我孫子前駅間を中心に大きな幹線道路と平面交差になるところもあり、『開かずの踏切』が点在する。沿線住民から高架化工事の要望もあるが、地形的な問題や線路と隣接して住宅などがあるため具体的な構想にまでは至っていない(なお堺市広報によると、浅香山駅および堺東駅の両駅周辺で高架化に着手する動きが出ている)。またカーブが多いため難波駅 - 堺東駅間は南海本線の難波駅 - 堺駅間よりも所要時間が幾分長い。また堺東駅 - 住吉東駅間は先行の各駅停車の後続で運転され、ラッシュ時を中心に列車間隔が詰まるため、低速での運転となっている。しかし日中の優等列車の運行頻度は南海本線の毎時8本(有料特急2本、一部座席指定特急2本を含む)に対し、高野線は毎時10 - 11本(うち有料特急は0 - 1本)であり(2017年8月時点)、高野線の方がわずかながら高い。 堺東駅から千代田駅にかけては国道310号、河内長野駅から橋本駅にかけては国道371号、紀伊清水駅から紀伊細川駅手前付近までは国道370号がほぼ同じ経路を併走している。 難波駅 - 岸里玉出駅間は、線路名称上は南海本線である。線路別複々線のうち、東側の複線は高野線列車専用となっており、高野線の帝塚山駅を経由する全列車が、岸里玉出駅から難波駅まで乗り入れる。運行系統上、難波駅から記することとする。 始発の難波駅は9面8線、のりばは1 - 9番線の構造を持ち、高野線の列車はこのうち1 - 4番線の東側4線を使用する。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手になんばパークス(旧大阪スタヂアム〈大阪球場〉跡地)・ヤマダデンキLABI1なんば・クボタやニコニコのりの本社社屋・南海電気鉄道本社の入る南海なんば第1ビルなどを、左手に日本橋電気街(でんでんタウン)などを見ながら、阪神高速1号環状線をくぐり、左下に今宮戎神社が近付くと、高野線の各駅停車のみが停車する島式ホームの今宮戎駅。駅下の国道25号を越え、左手に通天閣が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の新今宮駅に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の高野線上り線ホームは、ともに南海本線の下り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの大阪環状線・関西本線(いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に釜ヶ崎あるいはあいりん地区と称されるドヤ街を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・あべのハルカスを望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する島式の萩ノ茶屋駅を過ぎると、全列車停車駅である天下茶屋駅。かつてはこの駅から天王寺支線が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には大阪フィルハーモニー交響楽団の練習場やスーパーマーケットが建っている。なお泉北高速線直通の特急「泉北ライナー」は同駅以南は高野線内の停車駅がなく、直通先の泉北高速線泉ケ丘駅まで停車しない。天下茶屋駅を出て程なく左にカーブして南海本線系統の線路と別れ、「汐見橋線」との接続駅である岸里玉出駅を過ぎ、同時に阪堺線を越えると上町台地にさしかかり、線路は掘割の中を右カーブしながら南進を始める。掘割を抜けて上町台地に上ると帝塚山学院帝塚山学舎の最寄り駅でホーム幅の狭い帝塚山駅。この駅を過ぎると大和川を渡るまでカーブや開かずの踏切が連続する。阪堺上町線をくぐると、高野線では唯一、通過用複線を挟む待避線に相対式ホームのある(新幹線型配線ともいう)住吉東駅。大阪内環状線(国道479号)の踏切を過ぎて沢ノ町駅、続いてあべの筋(府道大阪和泉泉南線)と斜めに平面交差して我孫子前駅を過ぎると、大和川を渡って堺市に入る。関西大学堺学舎やツツジの見所である浅香山浄水場の最寄り駅の浅香山駅を過ぎて、府道堺大和高田線の高架をくぐると、堺市役所などの最寄りで堺市の中心駅である堺東駅に着く。かつては堺東検車区などがあり運行の拠点だったが、現在は検車区は小原田検車区および同検車区千代田支区に移転し、跡地には高層マンションが建っている。堺東駅には特急泉北ライナーを除く全列車が停車し、緩急接続している。準急行はこの駅からは各駅に停車する。また泉北線直通の区間急行は直通先の泉北線深井駅まで停車しない。 堺東駅を過ぎると大きく左カーブをして南東に進路を変え、掘割区間に入って府道大阪中央環状線をくぐると、右側には仁徳天皇陵が垣間見える。すぐ下の掘割を通って交差するJR阪和線との接続駅の三国ヶ丘駅、百舌鳥八幡駅を過ぎると、大阪府立大学中百舌鳥キャンパスの最寄り駅でOsaka Metro御堂筋線、泉北高速線との接続駅である中百舌鳥駅に着く。中百舌鳥駅は区間急行以上の優等列車は通過するものの堺市北東部の中心駅であるために乗降者数はかなり多い。またこの駅から一部の列車は泉北高速線と直通運転を行っている。中百舌鳥を出ると泉北高速線は上下線に挟まれた地下トンネルに入っていき、一方の高野線は線路容量に若干余裕が出ることや、線形がやや良くなることもあって、日中時間帯を中心に優等列車はこの付近から少し速度を上げて運転することが多い。線路は住宅地の間を通りながら、程なく待避設備のある白鷺駅、続いて初芝駅に至る。緩やかに右にカーブしながら萩原天神駅を過ぎて阪和自動車道・府道泉大津美原線バイパスをくぐると一旦周囲には田園風景が見えるようになるが、すぐに近代的な住宅街や商業地などが整備された堺市東区の中心駅・北野田駅に着く。北野田駅は待避設備を持つ緩急接続駅で、特急以外の全列車が停車し、区間急行はこの駅より各駅に停車する。 北野田駅を出ると線路は西除川を渡りながら緩やかに左にカーブをしてすぐに大阪狭山市に入り、狭山駅を過ぎると、車窓右側には住宅街の向こうに日本最古の灌漑用溜池である広大な狭山池の堤防が、左手遠方にはパーフェクト リバティー教団(PL教団)の大平和祈念塔(PL塔)がそれぞれ見えるようになる。狭山駅 - 大阪狭山市駅間の築堤には煉瓦造りの暗渠が7か所あり、2020年に土木学会選奨土木遺産に認定された。右にカーブをすると、かつて南海が狭山池畔で経営していた遊園地「さやま遊園」(2000年閉園)の最寄り駅であった大阪狭山市駅に至る。周辺には大規模なニュータウンが見え始め、府道森屋狭山線の跨線橋をくぐると、全列車停車駅である2面4線の金剛駅に着く。これら大阪狭山市内の駅は毎年8月1日の教祖祭PL花火芸術の日には、周辺に眺望を妨げるものが少ないために多数の観客が訪れ激しく混雑するが、それ以外の日でも、大規模なニュータウンを周囲にもつ金剛駅は、南海電鉄全体での乗降客数の上位に入る駅となっている。 金剛駅を出ると富田林市に入り、次第に起伏の多い地形が目立ち始め、右手遠方に近畿大学医学部附属病院を望む。滝谷駅を過ぎ、河内長野市に入って千代田駅を過ぎると、南海最大の車両工場を併設する小原田検車区千代田検車支区が左右に広がり、本来高野線には入線しない空港特急「ラピート」や特急「サザン」の車両が留置されているのを時おり見かける。この千代田検車支区・高野線を大きく越える高架橋が国道170号(大阪外環状線)であり、このガードをくぐると住宅街の広がる丘陵を開削した区間となり、列車は下り勾配を駆け下りる。左後方から単線の近鉄長野線が近づいてきて並走し、国道170号の旧道と国道310号の重複区間となっている道路(東高野街道)を越えると、駅ビルのノバティながのを携える全列車停車駅の河内長野駅に着く。同駅は南海が2面4線、近鉄が頭端式1面1線の駅構造となっており、利用者数・利便性ともに南海の方が優位に立っている。またこの駅より急行は各駅に停車するため、各駅停車の多くはこの駅で折り返す。 河内長野駅を過ぎると車窓の雰囲気は一変し、新興住宅地が広がる山並みの裾を河岸段丘に沿って走る区間となり、石川やその支流の天見川が線路沿いを蛇行するように流れる。左右にカーブをするとすぐにフォレスト三日市と直結する三日市町駅に達するが、これより先は急勾配区間となり、南海本線所属列車など一部の列車は、ブレーキ性能等の関係でこの駅より先には入線できない。この駅を出て引き上げ線を上下線の間に挟みながら大きく左へカーブすると高架区間となり、新興住宅街・南海美加の台の最寄り駅で、高野線で最も新しい美加の台駅に達する。ここから先は山々がせり出し農村地帯を通る区間となり、かつて単線であった頃は山の谷間を縫うように線路が通っていたが、複線化工事の完成後は美加の台駅 - 千早口駅 - 天見駅の駅間に1本ずつトンネルが貫通している。また三日市町駅 - 美加の台駅間から並走してきた国道371号の石仏バイパスは、千早口付近(車窓左側から見上げることができる)で供用区間が途切れて、旧道とを結ぶ取付道路と交差する。天見を出た線路はなおも大小3か所のトンネルを通過した後、いよいよ紀見峠を貫く通称紀見峠トンネルに入っていく。紀見峠トンネルは上下線が離れた単線並行の2本(単線時代の紀見トンネルが上り、複線化時に新設された新紀見トンネルが下り)から成る。トンネル内に大阪府と和歌山県の府県境があり、同県橋本市に入る。 紀見峠トンネルを出ると、橋本駅手前まで約7キロにわたり急な下り勾配が続くようになる。トンネルを出るとすぐ紀見峠駅、続く大きな右カーブを通過する頃から周辺は車窓左側を中心に徐々に開けてくる。高い高架橋で国道371号橋本バイパスを越えると、南海が開発したニュータウン「南海橋本林間田園都市」の最寄り駅であり、2面3線の構造をもつ全列車停車駅の林間田園都市駅に着く。区間急行は最長でもこの駅までの運転となり、また快速急行はこの駅より各駅に停車する。続いてニュータウン内のメインストリートであるバイパス道路を跨ぎ、さらに右に国道371号橋本バイパスと並走しながら御幸辻駅に達する。やがて車窓の右側に小原田検車区の本区が見え、急勾配を下りながら一般道・京奈和自動車道・国道371号旧道の3本の高架橋をくぐる。住宅地直下の小原田トンネルを抜けると、線路は大きく左にカーブをして下り勾配が終了し、右後方から近づいてくるJR和歌山線と並走する形で、同線との乗り換え駅であり、橋本市の中心駅でもある全列車停車駅の橋本駅に到達する。橋本駅はもともと島式ホームで、複線化時に4扉大型車8両対応に延長された。4扉大型車や特急「りんかん」専用車両である11000系は、車両限界の関係でこの駅までの運転となる。また、難波駅から続く複線区間もこの駅までである。 河内長野駅 - 橋本駅間は、山間部の河岸段丘を縫うように敷設された線路で、以前は全区間が単線で、半径160mの曲線や25‰の勾配が連続する線形だった。このため、17m車4両編成しか走行できず、最高速度43km/h、平均速度30km/hで難波駅 - 橋本駅間を急行で64分を要した。沿線開発による輸送需要の増大に対応するために、同区間の複線化など大規模改良が実施された。1971年(昭和46年)5月12日に運輸大臣から、河内長野駅 - 橋本駅間を複線化するための認可を受け、1972年(昭和47年)3月から工事に着手した。 複線化のルート決定では、難波駅 - 橋本駅間の急行列車の運転時分を45分程度とするため、河内長野駅 - 橋本駅間の平均速度を60km/h程度とすること。既存の駅中心位置は移動させないこと。各駅のホーム長は、当初は135m(21m車6両編成)とし、将来的には220m(21m車10両編成)に延伸可能なよう曲線・勾配を考慮すること。駅構内の渡線道(踏切)を廃止して、地下道または跨線橋の立体交差とすることなどが条件だった。曲線と駅部の改良を重視したことから、単に在来線に並行した線増というよりも、新線建設に近い線形となった。複線化完成後は、半径400m未満の曲線は、全体の43.8%から5.2%に減少したのに対して、駅間の最急勾配は25.2‰から33‰ときつくなった。複線化と関連して、美加の台駅、林間田園都市駅の新設や、以前は橋本駅に隣接していた橋本車庫の機能を、小原田車庫に移転・拡充する事業なども実施された。河内長野駅 - 橋本駅間の複線化は7つの工区に分けられ、段階的に工事が実施された。第1工区の河内長野駅 - 三日市町駅間は1974年(昭和49年)3月24日に完成し、第7工区の御幸辻駅 - 橋本駅間は1995年(平成7年)8月30日に完成した。小原田車庫(第8工区)は1996年(平成8年)11月15日に完成した。これら工事費用の合計は556億55百万円だった。 橋本駅 - 高野山駅間は「こうや花鉄道」の愛称が付けられ、駅名標も通常のものに加えて独自仕様のものが設置されており、各駅の標高が記されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は山岳鉄道であり、特に高野下駅以南は50‰の勾配や、制限速度33km/h、半径100m以下の急カーブが続く登山鉄道となっており、21m級の車両は走行できないため、この区間に乗り入れる列車にはズームカーと呼ばれる17m級の中型車両のみが使用されている。 山岳区間、とりわけ高野下駅 - 極楽橋駅間においては完全に線路が山の中に入るために、途中にある駅へは幹線道路からすれ違いの困難な狭い道路や林道があり、車で辿り着くのは容易でない。各駅の周辺の山間部は民家が少なく利用客もきわめて少ないが、すべての駅に簡易型の自動改札が完備され、駅係員も橋本駅および下古沢駅、紀伊細川駅から極楽橋駅のすべての駅に配置されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は単線であるが、上古沢駅を除く全ての駅が行き違いのできる交換可能駅である。 上古沢駅と下古沢駅の間には、鉄道橋としては日本で10箇所だけで供用されているトレッスル橋(全長67.6m、高さ33.4m)の中古沢橋梁がある。この橋は、トラス構造とトレッスル橋脚とを組み合わせた鉄道用鋼橋としては日本に唯一現存するもので、2011年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。橋の下には、南海電鉄が2010年2月25日に設置した観光用の展望デッキと電車の通過時刻を記した時刻表を備え、トレッスル橋を下から見上げられる。展望デッキまでは上古沢駅・下古沢駅から徒歩20分の道のりである。 九度山駅 - 極楽橋駅間には、橋本駅以南でもっとも長い「椎出トンネル」(九度山駅 - 高野下駅間、399m) をはじめ、大小24箇所のトンネルがあり、このうち高野下駅 - 極楽橋駅間の23箇所には坑口に番号が振られている。 2009年(平成21年)2月6日に紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線が近代化産業遺産(高野山参詣関連遺産)に認定されている。 橋本駅を出ると線路は単線となり、東進してすぐ緩やかな左カーブとなりやや勾配を下る。JR和歌山線は見えなくなるが、やがて大きく右にカーブをして南進を始め、同線および国道24号のガードをくぐると線路は紀の川を渡る。さらに大きく右カーブし西進、ここからしばらくは車窓左側には山々が迫り、住宅地と田園地帯の錯雑が見られるようになる。右側には先ほど停車した橋本駅周辺の市街地を紀の川越しに望む。しばらく進み、国道371号と平面交差すると紀伊清水駅。この付近から右側に国道370号が並走を始める。車窓左側に学文路天満宮、かむろ大師奥之院を見上げると学文路駅。この駅の入場券は、毎年受験シーズンが近づくと、学文路天満宮の祈祷を受けた5枚セットが縁起物として販売される。線路はなおも紀の川に並行して南西に進み九度山町に入り、右・左にカーブしながら勾配を上ると九度山駅である。九度山には戦国武将の真田信繁(幸村)が潜伏していた真田庵があり、九度山駅の駅舎も2015年にそれにちなんだデザインにリニューアルされた。やがて左に大きくカーブをして南進を始める頃から、車窓右側には丹生川の深い渓谷が続き、左側は終点までほぼ完全に山に覆われる。丹生川橋梁で国道370号と美しい渓流の景観が見える丹生川を渡り、椎出トンネルを抜けるとすぐ島式ホームの高野下駅に着く。この駅から先は各駅停車の本数がさらに半減する。 ここから先は急カーブやトンネルの連続区間となり、車窓右側もいくつかの集落が見えるほかは山々に覆われた光景となる。高野下駅を出ると、ゆっくりしたスピードで右へ大きくカーブし、体感できるほどの急勾配を大きな音を軋ませながら上り始める。下古沢駅は2002年に行き違い設備がいったん撤去されていたが、2018年に隣の上古沢駅から移設される形で復活し、交換可能駅となった。やがて中古沢橋梁に差し掛かるあたりからは周辺の集落もほぼ見えなくなり、さながら秘境の様相を呈してくる。2017年の台風21号に伴う地すべりの影響で棒線駅化された上古沢駅を出て2か所のトンネルを通過し、笠木橋梁を渡って3本目のトンネルを抜けた付近で高野町に入り、さらにトンネルを1か所通過すると紀伊細川駅、続く7本のトンネルを経て島式ホームの紀伊神谷駅に至る。最終の4か所のトンネルを抜けて、右側に朱塗りの極楽橋が見えると、鋼索線(高野山ケーブル)との接続駅である終点の極楽橋駅に到着する。ケーブルカーのりばは列車を降りて車止め方向に歩いて突き当たった右側にあり、およそ5分で高野山駅とを結んでいる。 汐見橋駅 - 岸里玉出駅間も後述する通り、あくまで正式には高野線の一部であるが、1985年の線路分断後は事実上孤立した支線(南海本線とは線路が接続している)となっており、ほとんどの時間帯で1時間に2本の各駅停車が往復するだけの、いわば下町のローカル線の様相を呈している。以下、汐見橋から岸里玉出に向かって記述する。 駅舎にかつてのターミナル駅であった頃の面影を残す頭端式1面2線の汐見橋駅を出発すると、しばらくは車窓左側に高架の阪神高速15号堺線および新なにわ筋(府道大阪臨海線)が並走する。JR大阪環状線の高架をくぐる地点で同時に新なにわ筋が左前方に別れて芦原町駅に着く。同駅下りホームの裏にあるランプウェイは阪神高速の芦原出口である。緩やかに右カーブをすると阪神高速も一旦左に別れ、かつての貨物取扱駅の面影を偲ばせる木津川駅に達する。阪神高速17号西大阪線および国道43号の高架をくぐり、大きく左にカーブをして、右側に西成高校や西成公園が見えると津守駅に至る。津守を出てすぐ新なにわ筋と阪神高速15号堺線の高架をくぐるが、新なにわ筋の高架橋(鶴見橋跨線橋)は1968年に廃線となった大阪市電阪堺線の路盤をそのまま道路に転用したものであり、廃線から半世紀以上たった現在も架線柱の切断痕などが見られる。線路は下町の住宅地を直線状に進んで西天下茶屋駅、そのまま高架を上がって国道26号をオーバークロスすると線路は単線となって、左後方から右前方に向かって南海本線が、前方の延長線上から高野線の帝塚山駅以南に通じる路線がそれぞれ近づき、汐見橋線は南海本線に沿う形で右にカーブをすると岸里玉出駅に到着する。 高野線の起点は汐見橋駅だが、現在は橋本・高野山方面へ行くすべての列車が難波駅から発着し岸里玉出駅から高野線に入る。汐見橋駅 - 岸里玉出駅間の通称汐見橋線は、この区間を往復する各駅停車だけが運行されている。 難波駅 - 極楽橋駅間に特急「こうや」、難波駅 - 橋本駅間に特急「りんかん」が運行されている。特急のほか、快速急行、急行、区間急行、準急行、各駅停車が運行されている。橋本駅 - 極楽橋駅間では観光列車「天空」が運行されている。また、泉北ニュータウンの足として泉北高速鉄道線と相互直通運転を行っており、直通列車として特急「泉北ライナー」・区間急行・準急行が運行されている。 難波駅から高野山方面へ直通する列車を「大運転」といい、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていたが、特急「こうや」や日中運行される快速急行など一部の列車をのぞき大運転自体が減少したこともあって、近年はほとんど用いられなくなっている。大運転の高野山方面列車の行先案内は、当初は高野線の実際の終着駅である極楽橋ではなく、鋼索線を経た「高野山」と表示されていた。また、方向幕を持たない21000系などの場合は、「急」という方向板を掲げるだけで行き先は表示されていなかった。表示方法の見直しが進んだ現在では、「高野山極楽橋」(ただし英字表記は「KŌYASAN」のみ)と表示されるようになっている。極楽橋駅で、鋼索線(高野山ケーブル)に接続している。 方向幕は南海本線と異なり、1000系や2000系をのぞく従来型通勤車はCI導入後も白地の英文なし幕を使用し続けていたが、2000年11月ごろから南海本線と同じタイプの黒地の英文入り幕に交換され始めた。これは同年12月23日のダイヤ改正で難波駅 - 三日市町駅間系統の急行を新設することになったものの、従来からの方向幕には「急|三日市町」の表示が入っていなかったためである。 特急は南海本線の「サザン」とは異なり全車両座席指定であり、通常ダイヤにおいて通勤型車両を用いる全車両自由席の特急や「サザン」のような一部座席指定列車は存在しない。 日中の1時間ごとの運行本数の平均的なパターンは以下のとおりである。 特急りんかん・泉北ライナーは朝と夕方以降の運転。 以下に特急以外の種別の運行概況を示す。特急「こうや」「りんかん」および「泉北ライナー」については当該項目を参照のこと。また各種別の現行の停車駅は下図および「駅一覧」を参照。 停車駅は千早口駅・天見駅・紀見峠駅を通過するほかは急行と同じで、急行が停車する河内長野駅 - 橋本駅間の各駅のうち特に利用客数が少ない前述の3駅を通過することで遠距離のスピードアップを狙うべく2003年5月31日のダイヤ改正で登場した。2017年8月26日改正ダイヤ時点では平日が下り5本・上り1本、土休日は上下各1本の運行で、平日下り2本が難波駅 - 極楽橋駅間を直通(橋本駅で増解結)するほかは、難波駅 - 橋本駅間の運行(下りの一部をのぞき、橋本駅で高野山方面発着列車と接続)。いずれも、途中無待避での運転である。 平日夕方の難波発橋本行きの列車は2008年11月1日にJR和歌山線との接続を考慮して下り急行2本(現在は1本のみ)を格上げして設定されたもので、4扉大型車両8両編成で運行される。2013年10月26日のダイヤ変更で難波駅 - 極楽橋駅間の列車は大幅に削減され、特に土曜・休日ダイヤの下りはすべて橋本止まりとなった。また2008年10月31日まで、平日ダイヤに橋本駅 - 極楽橋駅間でワンマン運転を行う難波発極楽橋行き快速急行もあり、その車両側の種別幕は「快急」と「ワンマン」の二段表記となっていた。なお、この快速急行の前部の極楽橋行き車両は2300系2両で運行されていたが、ダイヤ変更後最初の平日ダイヤ実施日となる11月4日からは、再び2000系4両に戻され、併せて難波から橋本を跨いで運行する料金不要列車はすべて2000系に再び統一された。 案内放送では「快速急行」であるが、時刻表や方向幕での表記は「快急」、英語表記は“Rapid Express”である。 快速急行は初代が1958年に登場したが1968年には一度急行に統合されて消滅しており、35年ぶりに復活したことになる。その当時の停車駅は新今宮駅(1966年から)・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅だった。なお初代の快速急行は日本で初めての「快速急行」と名乗る種別であった。 難波駅 - 三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅・極楽橋駅間で運行されている。現在は難波駅 - 林間田園都市駅・橋本駅間の列車が中心である。橋本駅で橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間に運行されるワンマン運転の各駅停車やJR和歌山線に接続している。前節の快速急行と同様に上下列車とも終着駅まで原則先着するが、時間帯によっては河内長野駅で特急に追い抜かれる列車がある。2000年12月23日のダイヤ改正までは橋本駅や林間田園都市駅で特急に追い抜かれる列車もあった。 一部の列車は極楽橋駅へ直通するためにズームカーが使用されており、早朝時間帯の1本を除いて快速急行同様に橋本駅で増解結作業を行う。極楽橋駅へ直通しない列車では主に大型車両が使われているが、こちらも朝から日中の一部にズームカーが使用されている。 2000年のダイヤ改正前の急行は難波駅 - 極楽橋駅間直通の列車が中心であった。そのためズームカーで運行されていた列車が多く、特に深夜の下り急行に関しては激しい混雑が常態化していた。しかし、2005年10月16日の改正で極楽橋方面への列車は系統分割が行なわれ基本的に橋本駅折り返しとなった。その後もダイヤ改正の度に極楽橋駅への直通列車は減少し、2017年8月26日改正ダイヤ時点では特急を除くと平日が上下各1本(他に快速急行が下り2本)、土休日は下り1本のみとなっている。なお高野下駅発着の急行は2017年のダイヤ改正で廃止された。 朝ラッシュ時、橋本駅・林間田園都市駅を始発駅とするズームカーを除く8両編成で運転する上り列車は、橋本駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目を女性専用車両としている。 英語表記は“Express”である。なお、橋本駅で極楽橋行(高野下行)の列車と接続する場合は「高野山・極楽橋(高野下)連絡、急行 橋本行」となり、接続のない急行橋本行とは明確に区別されている。自動放送もこの表現で統一されているが、難波駅のみこの表現が用いられず、「橋本で高野山極楽橋行(高野下行)に接続します」と放送される。2007年8月25日のダイヤ変更からは、方向幕にも小ぶりながら「高野山連絡(高野下連絡)」の表記が追記され、より区別が明確になっている。さらにこれに合わせて主要駅に備え付けの時刻表では本来のスペースに加え、直通列車のほか橋本駅で極楽橋行への接続がある列車用の時刻表(いわゆる「高野山極楽橋行専用時刻表」のこと)も別に掲載されるようになり、利便性が増した。 加えて、2008年10月31日まで極楽橋駅 - 橋本駅間でワンマン運転を行う極楽橋発難波行き急行もあり、その車両側の種別幕は「急行」と「ワンマン」の二段表記となっていた。 1968年までは、現在の急行は「快速急行」として運行され、これとはまた別に住吉東駅・三国ヶ丘駅・初芝駅にも停車する急行が設定されていた。 現行ダイヤでは河内長野駅以南で各駅に停車するにもかかわらず難波駅 - 橋本駅間を快速急行と同じ所要時間(48分)で運行される列車もある。 難波駅 - 河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅間で運行されているほか、泉北高速鉄道に直通する難波駅 - 和泉中央駅間の列車も運行されている(詳しくは「泉北高速鉄道線」も参照)。夕方・夜間の下りにおいては一部の列車が河内長野駅で特急に追い抜かれることがある。原則として快速急行や急行と同様に、上下列車とも終着駅まで原則先着する。 泉北高速鉄道の開業を控えた1970年11月23日のダイヤ改正で準急行が泉北への直通列車の主体とするため、これと置き換える形で難波駅 - 河内長野駅に新設された。1985年6月16日のダイヤ改正で昼間時のほとんどの列車が林間田園都市駅までの運行となった。河内長野・三日市町・林間田園都市方面は2000年12月23日の改正で朝・夜のみの運転となっていたが、2005年10月16日の改正で再び終日運転となった。2013年10月26日のダイヤ変更で日中の1時間の運転本数が2本から3本に増便された(河内長野・三日市町・林間田園都市行きが1本ずつ)。2015年12月5日のダイヤ改正では平日朝上りのみの運転だった泉北高速線直通列車が毎日日中に毎時上下2本設定された一方、高野線系統の列車が日中は再度毎時上下2本に減便されているほか、平日夕方以降も上り列車の大半が急行に格上げされている。2017年8月26日のダイヤ改正では、日中の泉北高速線直通の各駅停車を置き換える形で泉北高速線直通列車が毎時上下4本になったが、夕方以降の泉北高速線直通列車は上下ともに準急行に置き換えられた。 2015年12月5日のダイヤ改正から区間急行も平日の朝ラッシュ時に女性専用車両が導入されている(泉北高速線直通列車を含む)。 案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「区急」、英語表記は“Sub Express”である。 種別幕の色は緑色である。1995年4月ごろ(泉北高速線和泉中央駅開業時)まで、種別幕の色は急行と同様に赤色(時刻表での表記は赤字に▲印)であったが、関西国際空港開港後の南海本線の区間急行に合わせて緑色に変更し、急行との区別を明確にしている。しかも白地に黒文字の旧幕(英字なし)のまま実施された。なお、区間急行は関西国際空港開港前は高野線のみの種別であった。 1999年11月11日には、縁起の良い"11づくし"という南海独自の企画で、難波を11時11分に出発する列車に「平成11年11月11日 11時11分 難波駅発車」と記した記念のヘッドマークを掲げ、林間田園都市駅まで1往復した。 かつての泉北高速鉄道直通列車では10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2012年11月23日の泉北高速線のダイヤ変更で消滅した。 難波駅から主に泉北高速鉄道直通列車として終日運行されている。そのほか河内長野方面には平日朝の河内長野駅・千代田駅を始発駅とする難波行き上り列車と、2013年10月26日のダイヤ改正より平日深夜に難波発三日市町行きの下り列車が設定されている。河内長野方面からの列車は減少傾向にあり、2015年12月5日改正前までは三日市町始発難波行きの列車も運転されていた。 昼間は6両編成で運転される列車が多いが、夕方ラッシュ時以降は8両編成で運転される列車が大半となり、半分以上が泉北車での運用となる。土休日ダイヤは6両編成が多いが朝晩を中心に一部の列車が8両編成で運転されている。一時は平日朝ラッシュ時に10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2013年7月22日の泉北高速線の列車編成両数変更で消滅、これにより南海の10両編成列車は全廃された。 大半は途中で上位列車を待避することなく終点まで先着するが、2017年8月26日改正ダイヤでは、堺東駅で特急「泉北ライナー」の通過待ちをする泉北高速鉄道線直通列車が平日に下り2本・上り1本、土休日に下り4本設定されている。河内長野方面については上り列車は北野田駅・白鷺駅で後続の急行の待避を行なう。なお、平日深夜の難波発三日市町行きは終点まで先着する(住吉東駅での各駅停車の追い抜きや中百舌鳥駅での泉北高速鉄道線との接続も行なわれていない)。 現在の準急行は1964年から1968年まで運転されていた「直行」(途中新今宮駅・住吉東駅・堺東駅以遠各駅停車)を前身とするものであり、それ以前の準急行は堺東駅 - 北野田駅間でも途中百舌鳥八幡駅と萩原天神駅を通過していた。かつては大運転の準急行としてごく一部にズームカーを使用しての極楽橋駅発着も設定されていたが、1964年のダイヤ改正で廃止されている。また高野線からの泉北高速鉄道線直通列車は和泉中央駅が開設されるまで光明池行きが運行されており、和泉中央駅開業後も運行していたが、2013年のダイヤ改正ですべて和泉中央行きになった。 案内放送では「準急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「準急」である。自動放送更新前の泉北高速鉄道線内各駅における自動放送では「準急」と案内されていた。なお英語表記は“Semi Express”である。 難波駅 - 堺東駅・北野田駅・金剛駅・千代田駅・河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅間で運行されているが、大半が難波駅 - 金剛駅・河内長野駅・三日市町駅間の運転で、堺東駅発着は始発難波行きのみ、北野田駅発着は平日朝のみ、ほかも一部のみとなっている。このほか河内長野駅 - 橋本駅間、橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間にも運行されている。昼間以降、難波駅 - 河内長野駅間(一部は三日市町駅まで)の運転にほぼ統一されていた時期もあったが、一部の急行が区間急行に格下げされた関係で金剛駅・千代田駅発着の列車も増えている。 泉北高速線直通列車が昼間時間帯(始発駅基準で12時から15時まで)と、平日深夜に和泉中央発難波行きが1本運行されていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で全廃され、泉北高速線直通列車はすべて優等列車のみとなった。 6両編成での運転を基本としている。2005年10月16日の改正で昼間は大型車両での4両編成運転がほとんどになっていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で昼間数往復を除き6両編成での運転が再び多数を占めるようになった。2012年11月から2013年10月26日までは夜間にも4両編成の列車が運行されていた。一方で河内長野駅 - 橋本駅間運転の一部列車や泉北高速線内のみで完結する列車は8両編成もある。 橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間の系統のうち、2両編成の列車はワンマン運転(4両編成には車掌乗務)である。なおワンマン対応車両は2300系のみ。橋本駅で難波駅 - 橋本駅間の急行と相互接続を行いホームの高野山寄りから発車する。 案内放送では「各駅停車」であるが、時刻表や案内板の表記は「各停」である。また、南海本線の「普通(普通車)」と同様に、英語表記は“Local”である。 1970年11月23日に岸ノ里駅の難波直通列車ホームが使用開始されるまでは、難波駅発着列車は堺東駅折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、堺東より南の北野田・河内長野方面に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅・岸ノ里駅を通過する「普通」として運行されていた。また、汐見橋駅発の列車も「各駅停車」として住吉東駅まで運行されていた。南海本線にも高野線の列車が走行する難波駅 - 岸ノ里駅間の複々線の東側2線を走行して今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間で運行され、両線で「普通」と「各駅停車」が共存していた。先頭車両に掲出されていた行先を示す標識板は、高野線の難波駅発着の各駅停車が正方形で「難波 堺東(上段に縦書)・各駅停車(下段に横書)」、普通が丸形(高野線の普通廃止後は各駅停車も丸形)、汐見橋駅発着の各駅停車と南海本線の「各駅停車」は長方形であった。 橋本駅 - 極楽橋駅間に運行される展望列車。列車種別は当初「臨時」であったが、2017年8月ダイヤ改正以降は特急列車の扱いになっている。種別幕には天空専用のロゴが表示されるが、南海が発行している『ハンドブック南海』の列車種別運転本数の項では特急列車として計上されているほか、公式ウェブサイトで公開されている冊子型の時刻表の列車種別欄にも「特急」の表示がある。途中停車駅は学文路駅・九度山駅のみ。3月から11月は水曜・木曜をのぞく毎日運転、12月から2月は土曜・休日のみ運転。運行回数は1日2往復。3月から11月の土曜・休日はさらに1往復運転される。編成は極楽橋寄りに2200系改造の展望車2両、橋本寄りに自由席車の2300系または2000系2両を連結した4両編成。自由席車は乗車券(PiTaPa・ICOCA、もしくはこれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)だけで利用出来るが、展望車については座席指定料金(おとな520円、こども260円)が必要。なお、車両検査時は代用できる車両がないため運休する。 指定席券については南海の「天空予約センター」で電話予約の上、乗車当日に引き渡しとなる。予約は乗車日の10日前に受付を開始する。空席があれば当日窓口でも受付が可能である。 南海が推進する「こうや花鉄道プロジェクト」の一環として導入されることとなり、2008年9月から10月に愛称を一般公募し、同年12月15日にこの愛称と2009年7月3日の運行開始が発表された。 運行開始に先立ち、2009年4月29日 - 6月20日の間の土曜・休日に7回、ほぼ本運行のものと同様のダイヤでプレ運行が実施されている。 汐見橋線とも呼ばれるこの区間では、以前は日中15 - 20分間隔で運行されていたが、2021年現在は平日も土曜・休日も同ダイヤの30分間隔(夜間は35 - 40分間隔)で運行されており、これは大阪市内で最も本数が少ない。2000年12月23日からは終日ワンマン運転を行っている。初電は6時前後(岸里玉出発5時55分、汐見橋発6時10分)と遅く、終電は22時台と早い(岸里玉出発22時25分、汐見橋発22時45分)。 複線区間であるが、2008年11月時点のダイヤでは終日2両1編成のみで運用されており、汐見橋線内での上下列車の行き違いはない。南海本線の支線と同様に上下列車とも先発先着である。 岸里玉出駅における日中の接続は、現在は南海本線普通、高野線各停がともに15分間隔で運転していることから接続時分はほぼ一定である。 1985年以前は、高野線岸ノ里駅以南と線路がつながっており、出入庫のため住吉東駅や堺東駅発着の列車も存在(ただし、1970年改正以降は早朝・深夜の出入庫列車および臨時列車が時折運転される程度に激減)した。しかし線路が分断された後は、汐見橋線から高野線帝塚山方面へ直通は不可能となったため、岸里玉出駅 - 汐見橋駅間の運転のみとなり完全に支線運用扱いとなった(のちに設定された駅ナンバリングでも、岸里玉出駅からの枝番となっている)。汐見橋駅では阪神なんば線・Osaka Metro千日前線の桜川駅と徒歩接続しているが、両線との連絡運輸の設定はない。なお、阪神の桜川駅は南海汐見橋駅の真下に駅が設置されており、計画段階では汐見橋駅を名乗る予定であったが、乗降客数の多い千日前線に駅名を合わせた。 南海本線とは高野線分断前から線路がつながっており、車両は南海線住ノ江検車区所属の2200系・2230系が充当されている。ただしこの区間は高野線分断後も高野線の一部として扱われており、乗務員も高野線側が担当し、列車種別も「普通」ではなく「各停」としている。高野線本体と分断される1985年以前は、高野線所属の主に6000系ステンレスカー2両編成で運行されていた。1985年から1995年までは南海本線の他の支線と同様に1521系が使われた。1995年の2200系・2230系化により、南海本線所属ではあるものの、再び高野線出自の車両に戻ったことになる。 1990年代前半までは学校の夏休み期間中、大阪市・堺市など沿線にある公立小学校児童の高野山林間学校団体輸送用として、21000系・22000系による専用の臨時列車が多数運行されていたが、1990年代後半以降、少子化や林間学校の目的地の多様化、貸切バス利用への転移などによって高野線を利用する林間学校の小学生の団体は大幅に減少したため、現在は小学生団体専用の極楽橋直通臨時列車はほとんど見られなくなっている。 お盆期間における高野山への参拝客・観光客・墓参り客への対応については、特急は「こうや」とは別に、一般車(近年は2000系の4両編成が多く、2300系が連結されることもある)の自由席特急が運行される場合がある。停車駅は「こうや」と同じだが、全車自由席のため特急券は必要ない。ただ、お盆期間の平日はほかの関西私鉄とは異なり平日ダイヤによる運転となっている。なお、お盆以外にも特急用車両の事故や故障などの緊急時に、一般車による自由席特急が代走することもある。 このほか、橋本駅 - 高野下駅間の各駅停車が高野下駅 - 極楽橋駅間を延長運行したり、橋本駅始発の急行に接続する形で極楽橋駅 - 橋本駅間の臨時列車が運行されたりする。高野下駅 - 極楽橋駅間はノンストップとなる列車もあり、この場合方向幕は「臨時」が表示される。また、橋本駅 - 極楽橋駅間運転の自由席特急が増発される場合もある。この特急は全線通しの特急と停車駅が異なり、途中学文路駅と九度山駅に停車する(即ち「天空」と同じ停車駅で運転される)。また、高野下駅 - 極楽橋駅間をノンストップで走る列車は、全区間で「臨時」幕を出すこともある。 毎年8月1日の「教祖祭PL花火芸術」開催時には、大阪狭山市駅や金剛駅が花火会場への最寄り駅となるため、一部列車の編成両数、発着時刻、待避駅の変更や臨時列車の運行が行われる。具体的には花火終了後、上り急行が大阪狭山市駅に臨時停車し、河内長野駅発の準急行・区間急行難波行き臨時列車が数本程度運行される。前者は2014年度より利用状況に応じて行われるようになり、2017年度から事前に告知されるようになった。2015年度まで、花火開始前と終了後に運行している4両編成の一部各停が6両編成に増車されていた。また、花火開始前には難波発準急行河内長野・三日市町行きが2008年度まで運行されていた。2008年度以降、下りの臨時列車は運行されていなかったが、2018年度に難波発準急行河内長野行きが1本運行された。 毎年大晦日から元日早朝にかけて終夜運転が行われている。各駅停車のみの運転で、全列車中百舌鳥駅で泉北高速鉄道の列車と接続する。2009年までの元日早朝は難波駅 - 河内長野駅間のみにおいて40分間隔で運行されていたが、2010年から元日早朝は難波駅 - 北野田駅間のみにおいて40 - 60分間隔で終夜運転、北野田駅 - 河内長野駅間は午前2時台までの運転となる。河内長野駅 - 極楽橋駅間と汐見橋線は終夜運転を行わない。2020年と2021年は通常の日と同じとなり、泉北高速鉄道も含め終電延長および終夜運転は行わなれなかった。2022年についても終夜運転は行わないことが決定している。 2015年4月2日から5月21日にかけては「高野山開創1200年記念大法会」が執り行われるため、概ね以下のような臨時ダイヤ・編成両数変更が策定された。 1992年に1000系が導入されて以来、高野線に新型車両が投入されていなかった(1000系以降は南海線・高野線共通仕様という考え方を取り入れたため、一部が高野線所属となった)。これは高野線の車両と比較して、7000系・7100系など南海線車両の老朽化が塩害や車両の酷使などでより進行していることや、関西国際空港の需要が拡大していることにより、同線への新型車両導入を優先させているためである。ただし、接客サービス向上や省エネルギー推進のため6200系や8200系でVVVFインバータ制御への更新を進めている(この更新により8200系は6200系50番台となった)。また、1962年に登場した6000系の置き換えのため、2019年11月より高野線仕様の8300系が運行を開始した。 4扉車は21m級と通勤車両としてはかなり大型である。南下とともに山岳路線へと変化するため、南海線に比べ制約が多い。21m級の大型車両(11000系・6000系・8300系など)は橋本駅以南へ入線できない。かつては河内長野駅が21m車両の南限で、1963年に三日市町駅まで入線可能になった。さらに複線化に合わせて1984年に林間田園都市駅まで、1992年に橋本駅までの乗り入れが可能となった。また同じ21m級の大型車両でも南海線専用車両や泉北高速線所属車両は三日市町駅以南へ入線しない。1971年に開業した泉北高速線の所属車両による高野線運用も三日市町駅まで設定されていたが、その先へ乗り入れることなく、1989年9月3日のダイヤ改正以降は相互直通区間となる難波駅 - 中百舌鳥駅間の運用となった。南海線所属車両のうち1000系以降の車両は南海線・高野線共通仕様とされ、抑速ブレーキなどの設備が落成当初より準備または設置されている。これにより50000系や12000系などがイベント時に入線することが可能となった。なお、7100系や9000系などの南海線専用車両の一部は、性能確認試運転と廃車回送時に限って三日市町駅より南の小原田検車区まで入線している。 堺から西高野街道に沿って高野山を目指し、高野鉄道株式会社が1896年に設立され(この年時点の社長は松方幸次郎)、1898年に大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間を開業し、同年中に長野駅(現在の河内長野駅)まで延びた。当初の計画では大小路駅から南海鉄道の堺駅に接続する予定だったが、住吉大社や我孫子観音への参詣客が見込めることから方針を転換。大小路駅から北上して住吉東駅を起点に狭山・長野方面、さらには和歌山県橋本への延伸を目論む。だが高野鉄道の経営は思わしくなく、高野杉や吉野杉を水運の拠点だった木津川口まで輸送することを企図することと、難波延長は、当時の南海鉄道と並行するため、監督官庁の許可が下りず、道頓堀駅(現在の汐見橋駅)まで延伸して自力で大阪市内へ乗り入れた。それでも日清戦争後の不況で業績は好転せず、高野鉄道は長野駅 - 橋本駅間の延伸を断念。終には根津嘉一郎の出資によって設立された高野登山鉄道が事業を継承して、路線延長が図られることになった(この時に高野登山鉄道の現地支配人として根津によって送り込まれたのが、のちに東京地下鉄道を開業する早川徳次である)。 高野登山鉄道は、1915年に汐見橋駅 - 橋本駅間を開通させ大阪高野鉄道と社名変更。その後、和歌山水力電気が保有していた橋本 - 高野山大門間の免許を買収し、高野大師鉄道を設立して、このうち橋本 - 椎出(高野下)間の工事を着工する。1922年に大阪高野鉄道・高野大師鉄道はともに南海鉄道と合併し、高野大師鉄道によって着手していた橋本駅 - 高野山駅(現在の高野下駅)間は1925年に開通した。 だが南海鉄道との合併の際に、椎出(高野下)以南の免許は和歌山水力電気に返還。さらに和歌山水力電気も京阪電気鉄道に買収され、結局南海は別会社として高野山電気鉄道を設立。京阪から路線免許を再度買収の上で建設し、1928年高野下駅 - 神谷駅(現在の紀伊神谷駅)間が開業、翌年極楽橋駅まで開業し全通した。南海鉄道は1944年に関西急行鉄道に合併し近畿日本鉄道となったが、この高野山電気鉄道は戦後、南海が分離独立する際の受け皿会社となった。 1960年代ごろから沿線の宅地開発が進み、南海も美加の台住宅地や南海橋本林間田園都市を建設する。その通勤輸送増加に対応するため、列車編成増強や河内長野駅以南の線路改良を進め、1995年には橋本駅までの複線化を完成させた。この結果、1980年代前半までは三日市町駅以北に限られていた21m級車体の大型車両の運行区間が、1984年に林間田園都市まで、1992年には橋本駅まで延長された。なお、全通当初の路線距離は汐見橋駅 - 極楽橋駅間で65.1kmであったが、河内長野駅 - 橋本駅間の線路改良で、1995年に河内長野駅 - 極楽橋駅間で0.6km短縮されている。 その反面、橋本駅 - 極楽橋駅間の乗客数は減少の一途を辿り、2000年12月と2003年5月のダイヤ改正で高野下駅 - 極楽橋駅間において日中の運転本数の削減が行われ(30分間隔→36分間隔→1時間間隔)、さらに2005年10月のダイヤ改正では同区間を運行する列車が4両編成の直通急行から2両編成・ワンマン運転の各停が中心となるダイヤに変更された。 一方、事実上支線化された汐見橋駅 - 岸里玉出駅間(汐見橋線)は乗客が減少し減便されながらも存続してきた。なにわ筋線構想が持ち上がって以降は、汐見橋線はその接続路線という意味でも注目されていた。しかし、なにわ筋線計画は高額の建設費がネックとなって長らく建設の事業主体が決まらず頓挫した状態にあり、しかも、2009年4月に地元首長や経済界・鉄道会社幹部が集まって開かれた「関西活性化に向けた今後の鉄道ネットワークのあり方に関する懇談会」では「建設が必要」という意見で一致しものの、同時に起点を難波駅とする意見も示されており、仮になにわ筋線の着工が決まっても汐見橋線が利用されるかどうかは流動的な情勢となっていた。さらに、2011年に発表された国土交通省近畿運輸局の調査結果では、汐見橋駅接続では黒字化が望めないのに対し、難波駅接続では最短で24年目に黒字化が望めるとして、難波駅接続ルートが有力とされた。2012年には近畿運輸局の検討会で難波ルートとすることで合意され、2019年7月には北梅田 - 新難波 - 新今宮の経路で事業許可が下り、汐見橋ルートは完全に潰えた。 駅名は最終のもの。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高野線(こうやせん)は、大阪府大阪市浪速区の汐見橋駅から同市西成区の岸里玉出駅を経由し、和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線である。一般的には、岸里玉出駅から南海本線に直通する難波駅 - 橋本駅 - 極楽橋駅間の運行系統を指し(運行形態を参照)、鋼索線(高野山ケーブル)の高野山駅までを含め、高野線と呼ぶことが多い。岸里玉出駅 - 極楽橋駅間と線路が分断されている、汐見橋駅 - 岸里玉出駅間には汐見橋線(しおみばしせん)という通称がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "路線シンボルマークは、高野杉の林をイメージしたもの()で、ラインカラーは緑。山岳区間の橋本駅 - 極楽橋駅間には鋼索線とともに「こうや花鉄道」という愛称が付けられ、観光列車「天空」を運行するなど様々な取り組みが行われている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、かつて難波駅 - 橋本駅間には「りんかんサンライン」という愛称がつけられていた(命名経緯は後述)。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本有数の宗教都市・霊場である高野山への参詣輸送路線であり、終点の極楽橋駅からは鋼索線に連絡している。加えて、大阪府南河内地域・和歌山県伊都地域から大阪市内への通勤・通学路線でもある。かつては南海本線に対して支線的な存在だったが、宅地開発による沿線人口の急増、さらには泉北高速鉄道線との相互直通運転による泉北ニュータウンから大阪市内への通勤客輸送等により、現在は南海本線と並ぶ南海の主力路線へと発展した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全線でPiTaPaおよびICOCAなどPiTaPaと相互利用可能なIC乗車カードが利用できる。ただし、乗車回数に応じて割引が適用されるサービスはPiTaPaのみが対象となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "高野線は、主に市街地を走る難波駅 - 橋本駅間と、曲線と勾配の激しい山岳区間を走る橋本駅 - 極楽橋駅間とに運行系統が分かれる。橋本駅 - 極楽橋駅間の山岳区間に乗り入れる列車には、車両全長が短い通称「ズームカー」と呼ばれる平坦区間では高速運転が可能で山岳区間では大きな牽引力を出す専用車両が用いられる。特に高野下駅 - 極楽橋駅間は50 ‰の勾配を持つ登山鉄道であり(詳細後述)、南海には沿線に高野山という観光地があるという特徴を持つことから、同様に沿線に観光地があり急勾配区間がある日本の鉄道会社6社(南海のほか箱根登山鉄道、富士急行、大井川鐵道、叡山電鉄、神戸電鉄)の間で、2009年に全国登山鉄道‰会を結成している(2019年にアルピコ交通が加入)。また、2017年10月24日には同様の特徴を持つスイスのモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道 (MOB) と姉妹鉄道協定を締結している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1995年から2008年まで難波駅 - 橋本駅間には「りんかんサンライン」の愛称が付けられていた。「りんかん」は、澄んだ空気と豊かな自然とが調和するさわやかな街並みのイメージ、「サンライン」は太陽 (Sun) の明るさと暖かさ、さんさんと降り注ぐ陽光の輝きを意味している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1994年12月14日、当時の社長川勝泰司が「田舎臭いイメージを変えたい」と発言したのがきっかけで岸里玉出駅 - 橋本駅間の名称を社内公募で選定し、1995年9月1日のダイヤ改正時から使用したいと発表。社長案として「南海山手線」を提唱した。川勝社長は会見で「名称がいま風、都会風になれば、当社の住宅分譲などにも効果がでるだろうし、利用客が増えるかもしれない。それには山手線がいい」とコメントした。しかし、高野山の所在する高野町がそれに反発し、当時の町長と高野山真言宗金剛峯寺宗務総長が路線名存続の要望を出したことから路線名変更を断念して愛称を募集することとし、「りんかんサンライン」に決定した。当初は難波駅 - 橋本駅間を「りんかんサンライン」、橋本駅 - 極楽橋駅間を「高野線」と路線図上では区別していたが、後に「高野線りんかんサンライン」と両名併記して案内されるようになった。車内放送では、南海本線側からの乗換案内などで「高野線りんかんサンラインはお乗り換えです」と案内されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお「山手線」の名称は、南海電気鉄道の前身である南海鉄道が1940年に統合した阪和電気鉄道の路線、すなわち後に西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線となる路線の呼称として、戦時買収によって同線が国有化される1944年まで用いていたことがあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、沿線住民の間では「高野線」の名称で定着しており、「りんかんサンライン」と呼ぶ人はさほど多くなかった。2008年の高野線ダイヤ変更より案内上でもほとんど「りんかんサンライン」の愛称が使われなくなり、2009年3月20日の阪神なんば線の開業とともに、車内路線図から「りんかんサンライン」の表示が消去され、車内自動放送の乗換案内においても「りんかんサンライン」とは案内されなくなった。また公式ホームページにおいても現在は「りんかんサンライン」との案内はなくなっている。愛称使用終了前に印刷された駅配布の時刻表などもそのまま配布されていたが、2013年10月に行われたダイヤ改正時に発行された時刻表および駅掲出の時刻表には記載されていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "なお、愛称使用終了後も泉北高速鉄道5000系の車内案内表示器には中百舌鳥駅到着時に表示される乗換案内に「りんかんサンライン」の表示が残っていたが、同形式は2020年2月にリニューアル工事を終えたためその表示はなくなった。さらには案内サイン類の更新が順次行われ、現在では大半が「高野線」の名称に統一されており、「りんかんサンライン」の案内表示はごくわずかに残る程度となっている(2022年時点では、北野田駅高野山方面ホームのLED発車案内の上部に「りんかんサンライン」の表記が残存している)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "難波駅 - 橋本駅間は沿線に住宅地が多く、21m級の4扉大型車両を運行し通勤客を捌いている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大阪市内の住吉東駅 - 我孫子前駅間を中心に大きな幹線道路と平面交差になるところもあり、『開かずの踏切』が点在する。沿線住民から高架化工事の要望もあるが、地形的な問題や線路と隣接して住宅などがあるため具体的な構想にまでは至っていない(なお堺市広報によると、浅香山駅および堺東駅の両駅周辺で高架化に着手する動きが出ている)。またカーブが多いため難波駅 - 堺東駅間は南海本線の難波駅 - 堺駅間よりも所要時間が幾分長い。また堺東駅 - 住吉東駅間は先行の各駅停車の後続で運転され、ラッシュ時を中心に列車間隔が詰まるため、低速での運転となっている。しかし日中の優等列車の運行頻度は南海本線の毎時8本(有料特急2本、一部座席指定特急2本を含む)に対し、高野線は毎時10 - 11本(うち有料特急は0 - 1本)であり(2017年8月時点)、高野線の方がわずかながら高い。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "堺東駅から千代田駅にかけては国道310号、河内長野駅から橋本駅にかけては国道371号、紀伊清水駅から紀伊細川駅手前付近までは国道370号がほぼ同じ経路を併走している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "難波駅 - 岸里玉出駅間は、線路名称上は南海本線である。線路別複々線のうち、東側の複線は高野線列車専用となっており、高野線の帝塚山駅を経由する全列車が、岸里玉出駅から難波駅まで乗り入れる。運行系統上、難波駅から記することとする。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "始発の難波駅は9面8線、のりばは1 - 9番線の構造を持ち、高野線の列車はこのうち1 - 4番線の東側4線を使用する。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手になんばパークス(旧大阪スタヂアム〈大阪球場〉跡地)・ヤマダデンキLABI1なんば・クボタやニコニコのりの本社社屋・南海電気鉄道本社の入る南海なんば第1ビルなどを、左手に日本橋電気街(でんでんタウン)などを見ながら、阪神高速1号環状線をくぐり、左下に今宮戎神社が近付くと、高野線の各駅停車のみが停車する島式ホームの今宮戎駅。駅下の国道25号を越え、左手に通天閣が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の新今宮駅に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の高野線上り線ホームは、ともに南海本線の下り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの大阪環状線・関西本線(いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に釜ヶ崎あるいはあいりん地区と称されるドヤ街を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・あべのハルカスを望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する島式の萩ノ茶屋駅を過ぎると、全列車停車駅である天下茶屋駅。かつてはこの駅から天王寺支線が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には大阪フィルハーモニー交響楽団の練習場やスーパーマーケットが建っている。なお泉北高速線直通の特急「泉北ライナー」は同駅以南は高野線内の停車駅がなく、直通先の泉北高速線泉ケ丘駅まで停車しない。天下茶屋駅を出て程なく左にカーブして南海本線系統の線路と別れ、「汐見橋線」との接続駅である岸里玉出駅を過ぎ、同時に阪堺線を越えると上町台地にさしかかり、線路は掘割の中を右カーブしながら南進を始める。掘割を抜けて上町台地に上ると帝塚山学院帝塚山学舎の最寄り駅でホーム幅の狭い帝塚山駅。この駅を過ぎると大和川を渡るまでカーブや開かずの踏切が連続する。阪堺上町線をくぐると、高野線では唯一、通過用複線を挟む待避線に相対式ホームのある(新幹線型配線ともいう)住吉東駅。大阪内環状線(国道479号)の踏切を過ぎて沢ノ町駅、続いてあべの筋(府道大阪和泉泉南線)と斜めに平面交差して我孫子前駅を過ぎると、大和川を渡って堺市に入る。関西大学堺学舎やツツジの見所である浅香山浄水場の最寄り駅の浅香山駅を過ぎて、府道堺大和高田線の高架をくぐると、堺市役所などの最寄りで堺市の中心駅である堺東駅に着く。かつては堺東検車区などがあり運行の拠点だったが、現在は検車区は小原田検車区および同検車区千代田支区に移転し、跡地には高層マンションが建っている。堺東駅には特急泉北ライナーを除く全列車が停車し、緩急接続している。準急行はこの駅からは各駅に停車する。また泉北線直通の区間急行は直通先の泉北線深井駅まで停車しない。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "堺東駅を過ぎると大きく左カーブをして南東に進路を変え、掘割区間に入って府道大阪中央環状線をくぐると、右側には仁徳天皇陵が垣間見える。すぐ下の掘割を通って交差するJR阪和線との接続駅の三国ヶ丘駅、百舌鳥八幡駅を過ぎると、大阪府立大学中百舌鳥キャンパスの最寄り駅でOsaka Metro御堂筋線、泉北高速線との接続駅である中百舌鳥駅に着く。中百舌鳥駅は区間急行以上の優等列車は通過するものの堺市北東部の中心駅であるために乗降者数はかなり多い。またこの駅から一部の列車は泉北高速線と直通運転を行っている。中百舌鳥を出ると泉北高速線は上下線に挟まれた地下トンネルに入っていき、一方の高野線は線路容量に若干余裕が出ることや、線形がやや良くなることもあって、日中時間帯を中心に優等列車はこの付近から少し速度を上げて運転することが多い。線路は住宅地の間を通りながら、程なく待避設備のある白鷺駅、続いて初芝駅に至る。緩やかに右にカーブしながら萩原天神駅を過ぎて阪和自動車道・府道泉大津美原線バイパスをくぐると一旦周囲には田園風景が見えるようになるが、すぐに近代的な住宅街や商業地などが整備された堺市東区の中心駅・北野田駅に着く。北野田駅は待避設備を持つ緩急接続駅で、特急以外の全列車が停車し、区間急行はこの駅より各駅に停車する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "北野田駅を出ると線路は西除川を渡りながら緩やかに左にカーブをしてすぐに大阪狭山市に入り、狭山駅を過ぎると、車窓右側には住宅街の向こうに日本最古の灌漑用溜池である広大な狭山池の堤防が、左手遠方にはパーフェクト リバティー教団(PL教団)の大平和祈念塔(PL塔)がそれぞれ見えるようになる。狭山駅 - 大阪狭山市駅間の築堤には煉瓦造りの暗渠が7か所あり、2020年に土木学会選奨土木遺産に認定された。右にカーブをすると、かつて南海が狭山池畔で経営していた遊園地「さやま遊園」(2000年閉園)の最寄り駅であった大阪狭山市駅に至る。周辺には大規模なニュータウンが見え始め、府道森屋狭山線の跨線橋をくぐると、全列車停車駅である2面4線の金剛駅に着く。これら大阪狭山市内の駅は毎年8月1日の教祖祭PL花火芸術の日には、周辺に眺望を妨げるものが少ないために多数の観客が訪れ激しく混雑するが、それ以外の日でも、大規模なニュータウンを周囲にもつ金剛駅は、南海電鉄全体での乗降客数の上位に入る駅となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "金剛駅を出ると富田林市に入り、次第に起伏の多い地形が目立ち始め、右手遠方に近畿大学医学部附属病院を望む。滝谷駅を過ぎ、河内長野市に入って千代田駅を過ぎると、南海最大の車両工場を併設する小原田検車区千代田検車支区が左右に広がり、本来高野線には入線しない空港特急「ラピート」や特急「サザン」の車両が留置されているのを時おり見かける。この千代田検車支区・高野線を大きく越える高架橋が国道170号(大阪外環状線)であり、このガードをくぐると住宅街の広がる丘陵を開削した区間となり、列車は下り勾配を駆け下りる。左後方から単線の近鉄長野線が近づいてきて並走し、国道170号の旧道と国道310号の重複区間となっている道路(東高野街道)を越えると、駅ビルのノバティながのを携える全列車停車駅の河内長野駅に着く。同駅は南海が2面4線、近鉄が頭端式1面1線の駅構造となっており、利用者数・利便性ともに南海の方が優位に立っている。またこの駅より急行は各駅に停車するため、各駅停車の多くはこの駅で折り返す。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "河内長野駅を過ぎると車窓の雰囲気は一変し、新興住宅地が広がる山並みの裾を河岸段丘に沿って走る区間となり、石川やその支流の天見川が線路沿いを蛇行するように流れる。左右にカーブをするとすぐにフォレスト三日市と直結する三日市町駅に達するが、これより先は急勾配区間となり、南海本線所属列車など一部の列車は、ブレーキ性能等の関係でこの駅より先には入線できない。この駅を出て引き上げ線を上下線の間に挟みながら大きく左へカーブすると高架区間となり、新興住宅街・南海美加の台の最寄り駅で、高野線で最も新しい美加の台駅に達する。ここから先は山々がせり出し農村地帯を通る区間となり、かつて単線であった頃は山の谷間を縫うように線路が通っていたが、複線化工事の完成後は美加の台駅 - 千早口駅 - 天見駅の駅間に1本ずつトンネルが貫通している。また三日市町駅 - 美加の台駅間から並走してきた国道371号の石仏バイパスは、千早口付近(車窓左側から見上げることができる)で供用区間が途切れて、旧道とを結ぶ取付道路と交差する。天見を出た線路はなおも大小3か所のトンネルを通過した後、いよいよ紀見峠を貫く通称紀見峠トンネルに入っていく。紀見峠トンネルは上下線が離れた単線並行の2本(単線時代の紀見トンネルが上り、複線化時に新設された新紀見トンネルが下り)から成る。トンネル内に大阪府と和歌山県の府県境があり、同県橋本市に入る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "紀見峠トンネルを出ると、橋本駅手前まで約7キロにわたり急な下り勾配が続くようになる。トンネルを出るとすぐ紀見峠駅、続く大きな右カーブを通過する頃から周辺は車窓左側を中心に徐々に開けてくる。高い高架橋で国道371号橋本バイパスを越えると、南海が開発したニュータウン「南海橋本林間田園都市」の最寄り駅であり、2面3線の構造をもつ全列車停車駅の林間田園都市駅に着く。区間急行は最長でもこの駅までの運転となり、また快速急行はこの駅より各駅に停車する。続いてニュータウン内のメインストリートであるバイパス道路を跨ぎ、さらに右に国道371号橋本バイパスと並走しながら御幸辻駅に達する。やがて車窓の右側に小原田検車区の本区が見え、急勾配を下りながら一般道・京奈和自動車道・国道371号旧道の3本の高架橋をくぐる。住宅地直下の小原田トンネルを抜けると、線路は大きく左にカーブをして下り勾配が終了し、右後方から近づいてくるJR和歌山線と並走する形で、同線との乗り換え駅であり、橋本市の中心駅でもある全列車停車駅の橋本駅に到達する。橋本駅はもともと島式ホームで、複線化時に4扉大型車8両対応に延長された。4扉大型車や特急「りんかん」専用車両である11000系は、車両限界の関係でこの駅までの運転となる。また、難波駅から続く複線区間もこの駅までである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "河内長野駅 - 橋本駅間は、山間部の河岸段丘を縫うように敷設された線路で、以前は全区間が単線で、半径160mの曲線や25‰の勾配が連続する線形だった。このため、17m車4両編成しか走行できず、最高速度43km/h、平均速度30km/hで難波駅 - 橋本駅間を急行で64分を要した。沿線開発による輸送需要の増大に対応するために、同区間の複線化など大規模改良が実施された。1971年(昭和46年)5月12日に運輸大臣から、河内長野駅 - 橋本駅間を複線化するための認可を受け、1972年(昭和47年)3月から工事に着手した。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "複線化のルート決定では、難波駅 - 橋本駅間の急行列車の運転時分を45分程度とするため、河内長野駅 - 橋本駅間の平均速度を60km/h程度とすること。既存の駅中心位置は移動させないこと。各駅のホーム長は、当初は135m(21m車6両編成)とし、将来的には220m(21m車10両編成)に延伸可能なよう曲線・勾配を考慮すること。駅構内の渡線道(踏切)を廃止して、地下道または跨線橋の立体交差とすることなどが条件だった。曲線と駅部の改良を重視したことから、単に在来線に並行した線増というよりも、新線建設に近い線形となった。複線化完成後は、半径400m未満の曲線は、全体の43.8%から5.2%に減少したのに対して、駅間の最急勾配は25.2‰から33‰ときつくなった。複線化と関連して、美加の台駅、林間田園都市駅の新設や、以前は橋本駅に隣接していた橋本車庫の機能を、小原田車庫に移転・拡充する事業なども実施された。河内長野駅 - 橋本駅間の複線化は7つの工区に分けられ、段階的に工事が実施された。第1工区の河内長野駅 - 三日市町駅間は1974年(昭和49年)3月24日に完成し、第7工区の御幸辻駅 - 橋本駅間は1995年(平成7年)8月30日に完成した。小原田車庫(第8工区)は1996年(平成8年)11月15日に完成した。これら工事費用の合計は556億55百万円だった。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "橋本駅 - 高野山駅間は「こうや花鉄道」の愛称が付けられ、駅名標も通常のものに加えて独自仕様のものが設置されており、各駅の標高が記されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は山岳鉄道であり、特に高野下駅以南は50‰の勾配や、制限速度33km/h、半径100m以下の急カーブが続く登山鉄道となっており、21m級の車両は走行できないため、この区間に乗り入れる列車にはズームカーと呼ばれる17m級の中型車両のみが使用されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "山岳区間、とりわけ高野下駅 - 極楽橋駅間においては完全に線路が山の中に入るために、途中にある駅へは幹線道路からすれ違いの困難な狭い道路や林道があり、車で辿り着くのは容易でない。各駅の周辺の山間部は民家が少なく利用客もきわめて少ないが、すべての駅に簡易型の自動改札が完備され、駅係員も橋本駅および下古沢駅、紀伊細川駅から極楽橋駅のすべての駅に配置されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は単線であるが、上古沢駅を除く全ての駅が行き違いのできる交換可能駅である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上古沢駅と下古沢駅の間には、鉄道橋としては日本で10箇所だけで供用されているトレッスル橋(全長67.6m、高さ33.4m)の中古沢橋梁がある。この橋は、トラス構造とトレッスル橋脚とを組み合わせた鉄道用鋼橋としては日本に唯一現存するもので、2011年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。橋の下には、南海電鉄が2010年2月25日に設置した観光用の展望デッキと電車の通過時刻を記した時刻表を備え、トレッスル橋を下から見上げられる。展望デッキまでは上古沢駅・下古沢駅から徒歩20分の道のりである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "九度山駅 - 極楽橋駅間には、橋本駅以南でもっとも長い「椎出トンネル」(九度山駅 - 高野下駅間、399m) をはじめ、大小24箇所のトンネルがあり、このうち高野下駅 - 極楽橋駅間の23箇所には坑口に番号が振られている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2009年(平成21年)2月6日に紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線が近代化産業遺産(高野山参詣関連遺産)に認定されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "橋本駅を出ると線路は単線となり、東進してすぐ緩やかな左カーブとなりやや勾配を下る。JR和歌山線は見えなくなるが、やがて大きく右にカーブをして南進を始め、同線および国道24号のガードをくぐると線路は紀の川を渡る。さらに大きく右カーブし西進、ここからしばらくは車窓左側には山々が迫り、住宅地と田園地帯の錯雑が見られるようになる。右側には先ほど停車した橋本駅周辺の市街地を紀の川越しに望む。しばらく進み、国道371号と平面交差すると紀伊清水駅。この付近から右側に国道370号が並走を始める。車窓左側に学文路天満宮、かむろ大師奥之院を見上げると学文路駅。この駅の入場券は、毎年受験シーズンが近づくと、学文路天満宮の祈祷を受けた5枚セットが縁起物として販売される。線路はなおも紀の川に並行して南西に進み九度山町に入り、右・左にカーブしながら勾配を上ると九度山駅である。九度山には戦国武将の真田信繁(幸村)が潜伏していた真田庵があり、九度山駅の駅舎も2015年にそれにちなんだデザインにリニューアルされた。やがて左に大きくカーブをして南進を始める頃から、車窓右側には丹生川の深い渓谷が続き、左側は終点までほぼ完全に山に覆われる。丹生川橋梁で国道370号と美しい渓流の景観が見える丹生川を渡り、椎出トンネルを抜けるとすぐ島式ホームの高野下駅に着く。この駅から先は各駅停車の本数がさらに半減する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここから先は急カーブやトンネルの連続区間となり、車窓右側もいくつかの集落が見えるほかは山々に覆われた光景となる。高野下駅を出ると、ゆっくりしたスピードで右へ大きくカーブし、体感できるほどの急勾配を大きな音を軋ませながら上り始める。下古沢駅は2002年に行き違い設備がいったん撤去されていたが、2018年に隣の上古沢駅から移設される形で復活し、交換可能駅となった。やがて中古沢橋梁に差し掛かるあたりからは周辺の集落もほぼ見えなくなり、さながら秘境の様相を呈してくる。2017年の台風21号に伴う地すべりの影響で棒線駅化された上古沢駅を出て2か所のトンネルを通過し、笠木橋梁を渡って3本目のトンネルを抜けた付近で高野町に入り、さらにトンネルを1か所通過すると紀伊細川駅、続く7本のトンネルを経て島式ホームの紀伊神谷駅に至る。最終の4か所のトンネルを抜けて、右側に朱塗りの極楽橋が見えると、鋼索線(高野山ケーブル)との接続駅である終点の極楽橋駅に到着する。ケーブルカーのりばは列車を降りて車止め方向に歩いて突き当たった右側にあり、およそ5分で高野山駅とを結んでいる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "汐見橋駅 - 岸里玉出駅間も後述する通り、あくまで正式には高野線の一部であるが、1985年の線路分断後は事実上孤立した支線(南海本線とは線路が接続している)となっており、ほとんどの時間帯で1時間に2本の各駅停車が往復するだけの、いわば下町のローカル線の様相を呈している。以下、汐見橋から岸里玉出に向かって記述する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "駅舎にかつてのターミナル駅であった頃の面影を残す頭端式1面2線の汐見橋駅を出発すると、しばらくは車窓左側に高架の阪神高速15号堺線および新なにわ筋(府道大阪臨海線)が並走する。JR大阪環状線の高架をくぐる地点で同時に新なにわ筋が左前方に別れて芦原町駅に着く。同駅下りホームの裏にあるランプウェイは阪神高速の芦原出口である。緩やかに右カーブをすると阪神高速も一旦左に別れ、かつての貨物取扱駅の面影を偲ばせる木津川駅に達する。阪神高速17号西大阪線および国道43号の高架をくぐり、大きく左にカーブをして、右側に西成高校や西成公園が見えると津守駅に至る。津守を出てすぐ新なにわ筋と阪神高速15号堺線の高架をくぐるが、新なにわ筋の高架橋(鶴見橋跨線橋)は1968年に廃線となった大阪市電阪堺線の路盤をそのまま道路に転用したものであり、廃線から半世紀以上たった現在も架線柱の切断痕などが見られる。線路は下町の住宅地を直線状に進んで西天下茶屋駅、そのまま高架を上がって国道26号をオーバークロスすると線路は単線となって、左後方から右前方に向かって南海本線が、前方の延長線上から高野線の帝塚山駅以南に通じる路線がそれぞれ近づき、汐見橋線は南海本線に沿う形で右にカーブをすると岸里玉出駅に到着する。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "高野線の起点は汐見橋駅だが、現在は橋本・高野山方面へ行くすべての列車が難波駅から発着し岸里玉出駅から高野線に入る。汐見橋駅 - 岸里玉出駅間の通称汐見橋線は、この区間を往復する各駅停車だけが運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "難波駅 - 極楽橋駅間に特急「こうや」、難波駅 - 橋本駅間に特急「りんかん」が運行されている。特急のほか、快速急行、急行、区間急行、準急行、各駅停車が運行されている。橋本駅 - 極楽橋駅間では観光列車「天空」が運行されている。また、泉北ニュータウンの足として泉北高速鉄道線と相互直通運転を行っており、直通列車として特急「泉北ライナー」・区間急行・準急行が運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "難波駅から高野山方面へ直通する列車を「大運転」といい、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていたが、特急「こうや」や日中運行される快速急行など一部の列車をのぞき大運転自体が減少したこともあって、近年はほとんど用いられなくなっている。大運転の高野山方面列車の行先案内は、当初は高野線の実際の終着駅である極楽橋ではなく、鋼索線を経た「高野山」と表示されていた。また、方向幕を持たない21000系などの場合は、「急」という方向板を掲げるだけで行き先は表示されていなかった。表示方法の見直しが進んだ現在では、「高野山極楽橋」(ただし英字表記は「KŌYASAN」のみ)と表示されるようになっている。極楽橋駅で、鋼索線(高野山ケーブル)に接続している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "方向幕は南海本線と異なり、1000系や2000系をのぞく従来型通勤車はCI導入後も白地の英文なし幕を使用し続けていたが、2000年11月ごろから南海本線と同じタイプの黒地の英文入り幕に交換され始めた。これは同年12月23日のダイヤ改正で難波駅 - 三日市町駅間系統の急行を新設することになったものの、従来からの方向幕には「急|三日市町」の表示が入っていなかったためである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "特急は南海本線の「サザン」とは異なり全車両座席指定であり、通常ダイヤにおいて通勤型車両を用いる全車両自由席の特急や「サザン」のような一部座席指定列車は存在しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日中の1時間ごとの運行本数の平均的なパターンは以下のとおりである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "特急りんかん・泉北ライナーは朝と夕方以降の運転。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "以下に特急以外の種別の運行概況を示す。特急「こうや」「りんかん」および「泉北ライナー」については当該項目を参照のこと。また各種別の現行の停車駅は下図および「駅一覧」を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "停車駅は千早口駅・天見駅・紀見峠駅を通過するほかは急行と同じで、急行が停車する河内長野駅 - 橋本駅間の各駅のうち特に利用客数が少ない前述の3駅を通過することで遠距離のスピードアップを狙うべく2003年5月31日のダイヤ改正で登場した。2017年8月26日改正ダイヤ時点では平日が下り5本・上り1本、土休日は上下各1本の運行で、平日下り2本が難波駅 - 極楽橋駅間を直通(橋本駅で増解結)するほかは、難波駅 - 橋本駅間の運行(下りの一部をのぞき、橋本駅で高野山方面発着列車と接続)。いずれも、途中無待避での運転である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "平日夕方の難波発橋本行きの列車は2008年11月1日にJR和歌山線との接続を考慮して下り急行2本(現在は1本のみ)を格上げして設定されたもので、4扉大型車両8両編成で運行される。2013年10月26日のダイヤ変更で難波駅 - 極楽橋駅間の列車は大幅に削減され、特に土曜・休日ダイヤの下りはすべて橋本止まりとなった。また2008年10月31日まで、平日ダイヤに橋本駅 - 極楽橋駅間でワンマン運転を行う難波発極楽橋行き快速急行もあり、その車両側の種別幕は「快急」と「ワンマン」の二段表記となっていた。なお、この快速急行の前部の極楽橋行き車両は2300系2両で運行されていたが、ダイヤ変更後最初の平日ダイヤ実施日となる11月4日からは、再び2000系4両に戻され、併せて難波から橋本を跨いで運行する料金不要列車はすべて2000系に再び統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "案内放送では「快速急行」であるが、時刻表や方向幕での表記は「快急」、英語表記は“Rapid Express”である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "快速急行は初代が1958年に登場したが1968年には一度急行に統合されて消滅しており、35年ぶりに復活したことになる。その当時の停車駅は新今宮駅(1966年から)・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅だった。なお初代の快速急行は日本で初めての「快速急行」と名乗る種別であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "難波駅 - 三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅・極楽橋駅間で運行されている。現在は難波駅 - 林間田園都市駅・橋本駅間の列車が中心である。橋本駅で橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間に運行されるワンマン運転の各駅停車やJR和歌山線に接続している。前節の快速急行と同様に上下列車とも終着駅まで原則先着するが、時間帯によっては河内長野駅で特急に追い抜かれる列車がある。2000年12月23日のダイヤ改正までは橋本駅や林間田園都市駅で特急に追い抜かれる列車もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一部の列車は極楽橋駅へ直通するためにズームカーが使用されており、早朝時間帯の1本を除いて快速急行同様に橋本駅で増解結作業を行う。極楽橋駅へ直通しない列車では主に大型車両が使われているが、こちらも朝から日中の一部にズームカーが使用されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2000年のダイヤ改正前の急行は難波駅 - 極楽橋駅間直通の列車が中心であった。そのためズームカーで運行されていた列車が多く、特に深夜の下り急行に関しては激しい混雑が常態化していた。しかし、2005年10月16日の改正で極楽橋方面への列車は系統分割が行なわれ基本的に橋本駅折り返しとなった。その後もダイヤ改正の度に極楽橋駅への直通列車は減少し、2017年8月26日改正ダイヤ時点では特急を除くと平日が上下各1本(他に快速急行が下り2本)、土休日は下り1本のみとなっている。なお高野下駅発着の急行は2017年のダイヤ改正で廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時、橋本駅・林間田園都市駅を始発駅とするズームカーを除く8両編成で運転する上り列車は、橋本駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目を女性専用車両としている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "英語表記は“Express”である。なお、橋本駅で極楽橋行(高野下行)の列車と接続する場合は「高野山・極楽橋(高野下)連絡、急行 橋本行」となり、接続のない急行橋本行とは明確に区別されている。自動放送もこの表現で統一されているが、難波駅のみこの表現が用いられず、「橋本で高野山極楽橋行(高野下行)に接続します」と放送される。2007年8月25日のダイヤ変更からは、方向幕にも小ぶりながら「高野山連絡(高野下連絡)」の表記が追記され、より区別が明確になっている。さらにこれに合わせて主要駅に備え付けの時刻表では本来のスペースに加え、直通列車のほか橋本駅で極楽橋行への接続がある列車用の時刻表(いわゆる「高野山極楽橋行専用時刻表」のこと)も別に掲載されるようになり、利便性が増した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "加えて、2008年10月31日まで極楽橋駅 - 橋本駅間でワンマン運転を行う極楽橋発難波行き急行もあり、その車両側の種別幕は「急行」と「ワンマン」の二段表記となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1968年までは、現在の急行は「快速急行」として運行され、これとはまた別に住吉東駅・三国ヶ丘駅・初芝駅にも停車する急行が設定されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "現行ダイヤでは河内長野駅以南で各駅に停車するにもかかわらず難波駅 - 橋本駅間を快速急行と同じ所要時間(48分)で運行される列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "難波駅 - 河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅間で運行されているほか、泉北高速鉄道に直通する難波駅 - 和泉中央駅間の列車も運行されている(詳しくは「泉北高速鉄道線」も参照)。夕方・夜間の下りにおいては一部の列車が河内長野駅で特急に追い抜かれることがある。原則として快速急行や急行と同様に、上下列車とも終着駅まで原則先着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "泉北高速鉄道の開業を控えた1970年11月23日のダイヤ改正で準急行が泉北への直通列車の主体とするため、これと置き換える形で難波駅 - 河内長野駅に新設された。1985年6月16日のダイヤ改正で昼間時のほとんどの列車が林間田園都市駅までの運行となった。河内長野・三日市町・林間田園都市方面は2000年12月23日の改正で朝・夜のみの運転となっていたが、2005年10月16日の改正で再び終日運転となった。2013年10月26日のダイヤ変更で日中の1時間の運転本数が2本から3本に増便された(河内長野・三日市町・林間田園都市行きが1本ずつ)。2015年12月5日のダイヤ改正では平日朝上りのみの運転だった泉北高速線直通列車が毎日日中に毎時上下2本設定された一方、高野線系統の列車が日中は再度毎時上下2本に減便されているほか、平日夕方以降も上り列車の大半が急行に格上げされている。2017年8月26日のダイヤ改正では、日中の泉北高速線直通の各駅停車を置き換える形で泉北高速線直通列車が毎時上下4本になったが、夕方以降の泉北高速線直通列車は上下ともに準急行に置き換えられた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2015年12月5日のダイヤ改正から区間急行も平日の朝ラッシュ時に女性専用車両が導入されている(泉北高速線直通列車を含む)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「区急」、英語表記は“Sub Express”である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "種別幕の色は緑色である。1995年4月ごろ(泉北高速線和泉中央駅開業時)まで、種別幕の色は急行と同様に赤色(時刻表での表記は赤字に▲印)であったが、関西国際空港開港後の南海本線の区間急行に合わせて緑色に変更し、急行との区別を明確にしている。しかも白地に黒文字の旧幕(英字なし)のまま実施された。なお、区間急行は関西国際空港開港前は高野線のみの種別であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1999年11月11日には、縁起の良い\"11づくし\"という南海独自の企画で、難波を11時11分に出発する列車に「平成11年11月11日 11時11分 難波駅発車」と記した記念のヘッドマークを掲げ、林間田園都市駅まで1往復した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "かつての泉北高速鉄道直通列車では10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2012年11月23日の泉北高速線のダイヤ変更で消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "難波駅から主に泉北高速鉄道直通列車として終日運行されている。そのほか河内長野方面には平日朝の河内長野駅・千代田駅を始発駅とする難波行き上り列車と、2013年10月26日のダイヤ改正より平日深夜に難波発三日市町行きの下り列車が設定されている。河内長野方面からの列車は減少傾向にあり、2015年12月5日改正前までは三日市町始発難波行きの列車も運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "昼間は6両編成で運転される列車が多いが、夕方ラッシュ時以降は8両編成で運転される列車が大半となり、半分以上が泉北車での運用となる。土休日ダイヤは6両編成が多いが朝晩を中心に一部の列車が8両編成で運転されている。一時は平日朝ラッシュ時に10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2013年7月22日の泉北高速線の列車編成両数変更で消滅、これにより南海の10両編成列車は全廃された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "大半は途中で上位列車を待避することなく終点まで先着するが、2017年8月26日改正ダイヤでは、堺東駅で特急「泉北ライナー」の通過待ちをする泉北高速鉄道線直通列車が平日に下り2本・上り1本、土休日に下り4本設定されている。河内長野方面については上り列車は北野田駅・白鷺駅で後続の急行の待避を行なう。なお、平日深夜の難波発三日市町行きは終点まで先着する(住吉東駅での各駅停車の追い抜きや中百舌鳥駅での泉北高速鉄道線との接続も行なわれていない)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "現在の準急行は1964年から1968年まで運転されていた「直行」(途中新今宮駅・住吉東駅・堺東駅以遠各駅停車)を前身とするものであり、それ以前の準急行は堺東駅 - 北野田駅間でも途中百舌鳥八幡駅と萩原天神駅を通過していた。かつては大運転の準急行としてごく一部にズームカーを使用しての極楽橋駅発着も設定されていたが、1964年のダイヤ改正で廃止されている。また高野線からの泉北高速鉄道線直通列車は和泉中央駅が開設されるまで光明池行きが運行されており、和泉中央駅開業後も運行していたが、2013年のダイヤ改正ですべて和泉中央行きになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "案内放送では「準急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「準急」である。自動放送更新前の泉北高速鉄道線内各駅における自動放送では「準急」と案内されていた。なお英語表記は“Semi Express”である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "難波駅 - 堺東駅・北野田駅・金剛駅・千代田駅・河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅間で運行されているが、大半が難波駅 - 金剛駅・河内長野駅・三日市町駅間の運転で、堺東駅発着は始発難波行きのみ、北野田駅発着は平日朝のみ、ほかも一部のみとなっている。このほか河内長野駅 - 橋本駅間、橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間にも運行されている。昼間以降、難波駅 - 河内長野駅間(一部は三日市町駅まで)の運転にほぼ統一されていた時期もあったが、一部の急行が区間急行に格下げされた関係で金剛駅・千代田駅発着の列車も増えている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "泉北高速線直通列車が昼間時間帯(始発駅基準で12時から15時まで)と、平日深夜に和泉中央発難波行きが1本運行されていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で全廃され、泉北高速線直通列車はすべて優等列車のみとなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "6両編成での運転を基本としている。2005年10月16日の改正で昼間は大型車両での4両編成運転がほとんどになっていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で昼間数往復を除き6両編成での運転が再び多数を占めるようになった。2012年11月から2013年10月26日までは夜間にも4両編成の列車が運行されていた。一方で河内長野駅 - 橋本駅間運転の一部列車や泉北高速線内のみで完結する列車は8両編成もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間の系統のうち、2両編成の列車はワンマン運転(4両編成には車掌乗務)である。なおワンマン対応車両は2300系のみ。橋本駅で難波駅 - 橋本駅間の急行と相互接続を行いホームの高野山寄りから発車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "案内放送では「各駅停車」であるが、時刻表や案内板の表記は「各停」である。また、南海本線の「普通(普通車)」と同様に、英語表記は“Local”である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1970年11月23日に岸ノ里駅の難波直通列車ホームが使用開始されるまでは、難波駅発着列車は堺東駅折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、堺東より南の北野田・河内長野方面に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅・岸ノ里駅を通過する「普通」として運行されていた。また、汐見橋駅発の列車も「各駅停車」として住吉東駅まで運行されていた。南海本線にも高野線の列車が走行する難波駅 - 岸ノ里駅間の複々線の東側2線を走行して今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間で運行され、両線で「普通」と「各駅停車」が共存していた。先頭車両に掲出されていた行先を示す標識板は、高野線の難波駅発着の各駅停車が正方形で「難波 堺東(上段に縦書)・各駅停車(下段に横書)」、普通が丸形(高野線の普通廃止後は各駅停車も丸形)、汐見橋駅発着の各駅停車と南海本線の「各駅停車」は長方形であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "橋本駅 - 極楽橋駅間に運行される展望列車。列車種別は当初「臨時」であったが、2017年8月ダイヤ改正以降は特急列車の扱いになっている。種別幕には天空専用のロゴが表示されるが、南海が発行している『ハンドブック南海』の列車種別運転本数の項では特急列車として計上されているほか、公式ウェブサイトで公開されている冊子型の時刻表の列車種別欄にも「特急」の表示がある。途中停車駅は学文路駅・九度山駅のみ。3月から11月は水曜・木曜をのぞく毎日運転、12月から2月は土曜・休日のみ運転。運行回数は1日2往復。3月から11月の土曜・休日はさらに1往復運転される。編成は極楽橋寄りに2200系改造の展望車2両、橋本寄りに自由席車の2300系または2000系2両を連結した4両編成。自由席車は乗車券(PiTaPa・ICOCA、もしくはこれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)だけで利用出来るが、展望車については座席指定料金(おとな520円、こども260円)が必要。なお、車両検査時は代用できる車両がないため運休する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "指定席券については南海の「天空予約センター」で電話予約の上、乗車当日に引き渡しとなる。予約は乗車日の10日前に受付を開始する。空席があれば当日窓口でも受付が可能である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "南海が推進する「こうや花鉄道プロジェクト」の一環として導入されることとなり、2008年9月から10月に愛称を一般公募し、同年12月15日にこの愛称と2009年7月3日の運行開始が発表された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "運行開始に先立ち、2009年4月29日 - 6月20日の間の土曜・休日に7回、ほぼ本運行のものと同様のダイヤでプレ運行が実施されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "汐見橋線とも呼ばれるこの区間では、以前は日中15 - 20分間隔で運行されていたが、2021年現在は平日も土曜・休日も同ダイヤの30分間隔(夜間は35 - 40分間隔)で運行されており、これは大阪市内で最も本数が少ない。2000年12月23日からは終日ワンマン運転を行っている。初電は6時前後(岸里玉出発5時55分、汐見橋発6時10分)と遅く、終電は22時台と早い(岸里玉出発22時25分、汐見橋発22時45分)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "複線区間であるが、2008年11月時点のダイヤでは終日2両1編成のみで運用されており、汐見橋線内での上下列車の行き違いはない。南海本線の支線と同様に上下列車とも先発先着である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "岸里玉出駅における日中の接続は、現在は南海本線普通、高野線各停がともに15分間隔で運転していることから接続時分はほぼ一定である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1985年以前は、高野線岸ノ里駅以南と線路がつながっており、出入庫のため住吉東駅や堺東駅発着の列車も存在(ただし、1970年改正以降は早朝・深夜の出入庫列車および臨時列車が時折運転される程度に激減)した。しかし線路が分断された後は、汐見橋線から高野線帝塚山方面へ直通は不可能となったため、岸里玉出駅 - 汐見橋駅間の運転のみとなり完全に支線運用扱いとなった(のちに設定された駅ナンバリングでも、岸里玉出駅からの枝番となっている)。汐見橋駅では阪神なんば線・Osaka Metro千日前線の桜川駅と徒歩接続しているが、両線との連絡運輸の設定はない。なお、阪神の桜川駅は南海汐見橋駅の真下に駅が設置されており、計画段階では汐見橋駅を名乗る予定であったが、乗降客数の多い千日前線に駅名を合わせた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "南海本線とは高野線分断前から線路がつながっており、車両は南海線住ノ江検車区所属の2200系・2230系が充当されている。ただしこの区間は高野線分断後も高野線の一部として扱われており、乗務員も高野線側が担当し、列車種別も「普通」ではなく「各停」としている。高野線本体と分断される1985年以前は、高野線所属の主に6000系ステンレスカー2両編成で運行されていた。1985年から1995年までは南海本線の他の支線と同様に1521系が使われた。1995年の2200系・2230系化により、南海本線所属ではあるものの、再び高野線出自の車両に戻ったことになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1990年代前半までは学校の夏休み期間中、大阪市・堺市など沿線にある公立小学校児童の高野山林間学校団体輸送用として、21000系・22000系による専用の臨時列車が多数運行されていたが、1990年代後半以降、少子化や林間学校の目的地の多様化、貸切バス利用への転移などによって高野線を利用する林間学校の小学生の団体は大幅に減少したため、現在は小学生団体専用の極楽橋直通臨時列車はほとんど見られなくなっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "お盆期間における高野山への参拝客・観光客・墓参り客への対応については、特急は「こうや」とは別に、一般車(近年は2000系の4両編成が多く、2300系が連結されることもある)の自由席特急が運行される場合がある。停車駅は「こうや」と同じだが、全車自由席のため特急券は必要ない。ただ、お盆期間の平日はほかの関西私鉄とは異なり平日ダイヤによる運転となっている。なお、お盆以外にも特急用車両の事故や故障などの緊急時に、一般車による自由席特急が代走することもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "このほか、橋本駅 - 高野下駅間の各駅停車が高野下駅 - 極楽橋駅間を延長運行したり、橋本駅始発の急行に接続する形で極楽橋駅 - 橋本駅間の臨時列車が運行されたりする。高野下駅 - 極楽橋駅間はノンストップとなる列車もあり、この場合方向幕は「臨時」が表示される。また、橋本駅 - 極楽橋駅間運転の自由席特急が増発される場合もある。この特急は全線通しの特急と停車駅が異なり、途中学文路駅と九度山駅に停車する(即ち「天空」と同じ停車駅で運転される)。また、高野下駅 - 極楽橋駅間をノンストップで走る列車は、全区間で「臨時」幕を出すこともある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "毎年8月1日の「教祖祭PL花火芸術」開催時には、大阪狭山市駅や金剛駅が花火会場への最寄り駅となるため、一部列車の編成両数、発着時刻、待避駅の変更や臨時列車の運行が行われる。具体的には花火終了後、上り急行が大阪狭山市駅に臨時停車し、河内長野駅発の準急行・区間急行難波行き臨時列車が数本程度運行される。前者は2014年度より利用状況に応じて行われるようになり、2017年度から事前に告知されるようになった。2015年度まで、花火開始前と終了後に運行している4両編成の一部各停が6両編成に増車されていた。また、花火開始前には難波発準急行河内長野・三日市町行きが2008年度まで運行されていた。2008年度以降、下りの臨時列車は運行されていなかったが、2018年度に難波発準急行河内長野行きが1本運行された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "毎年大晦日から元日早朝にかけて終夜運転が行われている。各駅停車のみの運転で、全列車中百舌鳥駅で泉北高速鉄道の列車と接続する。2009年までの元日早朝は難波駅 - 河内長野駅間のみにおいて40分間隔で運行されていたが、2010年から元日早朝は難波駅 - 北野田駅間のみにおいて40 - 60分間隔で終夜運転、北野田駅 - 河内長野駅間は午前2時台までの運転となる。河内長野駅 - 極楽橋駅間と汐見橋線は終夜運転を行わない。2020年と2021年は通常の日と同じとなり、泉北高速鉄道も含め終電延長および終夜運転は行わなれなかった。2022年についても終夜運転は行わないことが決定している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2015年4月2日から5月21日にかけては「高野山開創1200年記念大法会」が執り行われるため、概ね以下のような臨時ダイヤ・編成両数変更が策定された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1992年に1000系が導入されて以来、高野線に新型車両が投入されていなかった(1000系以降は南海線・高野線共通仕様という考え方を取り入れたため、一部が高野線所属となった)。これは高野線の車両と比較して、7000系・7100系など南海線車両の老朽化が塩害や車両の酷使などでより進行していることや、関西国際空港の需要が拡大していることにより、同線への新型車両導入を優先させているためである。ただし、接客サービス向上や省エネルギー推進のため6200系や8200系でVVVFインバータ制御への更新を進めている(この更新により8200系は6200系50番台となった)。また、1962年に登場した6000系の置き換えのため、2019年11月より高野線仕様の8300系が運行を開始した。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "4扉車は21m級と通勤車両としてはかなり大型である。南下とともに山岳路線へと変化するため、南海線に比べ制約が多い。21m級の大型車両(11000系・6000系・8300系など)は橋本駅以南へ入線できない。かつては河内長野駅が21m車両の南限で、1963年に三日市町駅まで入線可能になった。さらに複線化に合わせて1984年に林間田園都市駅まで、1992年に橋本駅までの乗り入れが可能となった。また同じ21m級の大型車両でも南海線専用車両や泉北高速線所属車両は三日市町駅以南へ入線しない。1971年に開業した泉北高速線の所属車両による高野線運用も三日市町駅まで設定されていたが、その先へ乗り入れることなく、1989年9月3日のダイヤ改正以降は相互直通区間となる難波駅 - 中百舌鳥駅間の運用となった。南海線所属車両のうち1000系以降の車両は南海線・高野線共通仕様とされ、抑速ブレーキなどの設備が落成当初より準備または設置されている。これにより50000系や12000系などがイベント時に入線することが可能となった。なお、7100系や9000系などの南海線専用車両の一部は、性能確認試運転と廃車回送時に限って三日市町駅より南の小原田検車区まで入線している。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "堺から西高野街道に沿って高野山を目指し、高野鉄道株式会社が1896年に設立され(この年時点の社長は松方幸次郎)、1898年に大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間を開業し、同年中に長野駅(現在の河内長野駅)まで延びた。当初の計画では大小路駅から南海鉄道の堺駅に接続する予定だったが、住吉大社や我孫子観音への参詣客が見込めることから方針を転換。大小路駅から北上して住吉東駅を起点に狭山・長野方面、さらには和歌山県橋本への延伸を目論む。だが高野鉄道の経営は思わしくなく、高野杉や吉野杉を水運の拠点だった木津川口まで輸送することを企図することと、難波延長は、当時の南海鉄道と並行するため、監督官庁の許可が下りず、道頓堀駅(現在の汐見橋駅)まで延伸して自力で大阪市内へ乗り入れた。それでも日清戦争後の不況で業績は好転せず、高野鉄道は長野駅 - 橋本駅間の延伸を断念。終には根津嘉一郎の出資によって設立された高野登山鉄道が事業を継承して、路線延長が図られることになった(この時に高野登山鉄道の現地支配人として根津によって送り込まれたのが、のちに東京地下鉄道を開業する早川徳次である)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "高野登山鉄道は、1915年に汐見橋駅 - 橋本駅間を開通させ大阪高野鉄道と社名変更。その後、和歌山水力電気が保有していた橋本 - 高野山大門間の免許を買収し、高野大師鉄道を設立して、このうち橋本 - 椎出(高野下)間の工事を着工する。1922年に大阪高野鉄道・高野大師鉄道はともに南海鉄道と合併し、高野大師鉄道によって着手していた橋本駅 - 高野山駅(現在の高野下駅)間は1925年に開通した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "だが南海鉄道との合併の際に、椎出(高野下)以南の免許は和歌山水力電気に返還。さらに和歌山水力電気も京阪電気鉄道に買収され、結局南海は別会社として高野山電気鉄道を設立。京阪から路線免許を再度買収の上で建設し、1928年高野下駅 - 神谷駅(現在の紀伊神谷駅)間が開業、翌年極楽橋駅まで開業し全通した。南海鉄道は1944年に関西急行鉄道に合併し近畿日本鉄道となったが、この高野山電気鉄道は戦後、南海が分離独立する際の受け皿会社となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1960年代ごろから沿線の宅地開発が進み、南海も美加の台住宅地や南海橋本林間田園都市を建設する。その通勤輸送増加に対応するため、列車編成増強や河内長野駅以南の線路改良を進め、1995年には橋本駅までの複線化を完成させた。この結果、1980年代前半までは三日市町駅以北に限られていた21m級車体の大型車両の運行区間が、1984年に林間田園都市まで、1992年には橋本駅まで延長された。なお、全通当初の路線距離は汐見橋駅 - 極楽橋駅間で65.1kmであったが、河内長野駅 - 橋本駅間の線路改良で、1995年に河内長野駅 - 極楽橋駅間で0.6km短縮されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "その反面、橋本駅 - 極楽橋駅間の乗客数は減少の一途を辿り、2000年12月と2003年5月のダイヤ改正で高野下駅 - 極楽橋駅間において日中の運転本数の削減が行われ(30分間隔→36分間隔→1時間間隔)、さらに2005年10月のダイヤ改正では同区間を運行する列車が4両編成の直通急行から2両編成・ワンマン運転の各停が中心となるダイヤに変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "一方、事実上支線化された汐見橋駅 - 岸里玉出駅間(汐見橋線)は乗客が減少し減便されながらも存続してきた。なにわ筋線構想が持ち上がって以降は、汐見橋線はその接続路線という意味でも注目されていた。しかし、なにわ筋線計画は高額の建設費がネックとなって長らく建設の事業主体が決まらず頓挫した状態にあり、しかも、2009年4月に地元首長や経済界・鉄道会社幹部が集まって開かれた「関西活性化に向けた今後の鉄道ネットワークのあり方に関する懇談会」では「建設が必要」という意見で一致しものの、同時に起点を難波駅とする意見も示されており、仮になにわ筋線の着工が決まっても汐見橋線が利用されるかどうかは流動的な情勢となっていた。さらに、2011年に発表された国土交通省近畿運輸局の調査結果では、汐見橋駅接続では黒字化が望めないのに対し、難波駅接続では最短で24年目に黒字化が望めるとして、難波駅接続ルートが有力とされた。2012年には近畿運輸局の検討会で難波ルートとすることで合意され、2019年7月には北梅田 - 新難波 - 新今宮の経路で事業許可が下り、汐見橋ルートは完全に潰えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "駅名は最終のもの。", "title": "駅一覧" } ]
高野線(こうやせん)は、大阪府大阪市浪速区の汐見橋駅から同市西成区の岸里玉出駅を経由し、和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線である。一般的には、岸里玉出駅から南海本線に直通する難波駅 - 橋本駅 - 極楽橋駅間の運行系統を指し(運行形態を参照)、鋼索線(高野山ケーブル)の高野山駅までを含め、高野線と呼ぶことが多い。岸里玉出駅 - 極楽橋駅間と線路が分断されている、汐見橋駅 - 岸里玉出駅間には汐見橋線(しおみばしせん)という通称がある。 路線シンボルマークは、高野杉の林をイメージしたもの()で、ラインカラーは緑。山岳区間の橋本駅 - 極楽橋駅間には鋼索線とともに「こうや花鉄道」という愛称が付けられ、観光列車「天空」を運行するなど様々な取り組みが行われている。 また、かつて難波駅 - 橋本駅間には「りんかんサンライン」という愛称がつけられていた(命名経緯は後述)。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=南海電気鉄道]] 高野線 |路線色 = #009A41 |ロゴ = Nankai koya line symbol.svg |ロゴサイズ = 48px |画像 = Nankai 30000 series 011.JPG |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[南海30000系電車|30000系]]による特急「こうや」 |通称 = 汐見橋線(汐見橋駅 - 岸里玉出駅間)<br />こうや花鉄道(橋本駅 - 極楽橋駅間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]]、[[和歌山県]] |起点 = [[汐見橋駅]]<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.153</ref> |終点 = [[極楽橋駅]] |路線記号 = [[File:Number prefix Nankai Railway line.svg|25px|NK]] NK |駅数 = 42駅 |開業 = [[1898年]][[1月30日]] |項目1 = 全通<!--時系列逆転防止--> |日付1 = [[1929年]][[2月21日]] |項目2 = 汐見橋線分断 |日付2 = [[1985年]][[6月16日]] |廃止 = |所有者 = <!-- 高野鉄道→高野登山鉄道→大阪高野鉄道→[[南海電気鉄道|南海鉄道]]→[[近畿日本鉄道]]→([[高野山電気鉄道]]→ -->[[南海電気鉄道]] |運営者 = 南海電気鉄道 |車両基地 = [[小原田検車区]]、同区[[南海電鉄千代田工場#千代田検車支区|千代田検車支区]]<br />[[住ノ江検車区]](汐見橋線専用車のみ) |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離 = 64.5 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数 = [[複線]](汐見橋駅 - 橋本駅間)<br />[[単線]](橋本駅 - 極楽橋駅間) |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |保安装置 = [[自動列車停止装置#変周式(単変周・多変周)地上子|ATS-N]]<!-- 2015年現在泉北車3編成がPN型非対応。泉北高速鉄道安全報告書2015より -->、[[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]]<!--NATTS2016年5月号「ニュース南海」より--> |最小曲線半径 = |最大勾配 = 50 [[パーミル|‰]] |最高速度 = 100 [[キロメートル毎時|km/h]] |高低差 = 443 m(橋本駅と極楽橋駅との差) |路線図 = Nankai_Electric_Railway_Linemap.svg }} '''高野線'''(こうやせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]の[[汐見橋駅]]<ref name="youran" />から同市[[西成区]]の[[岸里玉出駅]]を経由し、[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]]の[[極楽橋駅]]までを結ぶ[[南海電気鉄道]]の[[鉄道路線]]である。一般的には、岸里玉出駅から[[南海本線]]に直通する[[難波駅 (南海)|難波駅]] - [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]] - 極楽橋駅間の運行系統を指し([[#運行形態|運行形態]]を参照)<ref>{{Cite web|和書|title=路線図 |url=https://www.nankai.co.jp/traffic/railmap.html |publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-01-16 |language=ja}}</ref>、[[南海鋼索線|鋼索線]](高野山ケーブル)の[[高野山駅]]までを含め、高野線と呼ぶことが多い。岸里玉出駅 - 極楽橋駅間と線路が分断されている、汐見橋駅 - 岸里玉出駅間には'''汐見橋線'''(しおみばしせん)という通称がある。<!-- リダイレクトされている語の言及は前に置く [[WP:R#穏当な転送を行う]] --> 路線シンボルマークは、高野杉の林をイメージしたもの([[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|シンボルマーク]])で、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は緑。山岳区間の橋本駅 - 極楽橋駅間には鋼索線とともに「'''こうや花鉄道'''」という愛称が付けられ、観光列車「[[#観光列車「天空」|天空]]」を運行するなど<!--高野山をいっそう魅力的にする←事業者側のPOV-->様々な取り組みが行われている<ref>『[[鉄道ジャーナル]]』2009年10月号、鉄道ジャーナル社 表紙</ref>。 また、かつて難波駅 - 橋本駅間には「'''りんかんサンライン'''」という愛称がつけられていた(命名経緯は[[#「りんかんサンライン」の愛称について|後述]])。 == 概要 == 日本有数の[[宗教都市]]・[[霊場]]である[[高野山]]への参詣輸送路線であり、終点の極楽橋駅からは鋼索線に連絡している。加えて、大阪府[[南河内 (大阪府)|南河内地域]]・和歌山県[[和歌山県#地域区分|伊都地域]]から大阪市内への通勤・通学路線でもある。かつては[[南海本線]]に対して支線的な存在だったが、宅地開発による沿線人口の急増、さらには[[泉北高速鉄道線]]との[[直通運転|相互直通運転]]による[[泉北ニュータウン]]から大阪市内への通勤客輸送等により、現在は南海本線と並ぶ南海の主力路線へと発展した。 全線で[[PiTaPa]]および[[ICOCA]]などPiTaPaと相互利用可能な[[乗車カード|IC乗車カード]]が利用できる。ただし、乗車回数に応じて割引が適用されるサービスはPiTaPaのみが対象となる。 高野線は、主に市街地を走る難波駅 - [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]間と、曲線と勾配の激しい山岳区間を走る橋本駅 - 極楽橋駅間とに運行系統が分かれる<ref>{{Cite web|和書|title=南海電鉄の主要路線「高野線」の一部でありながら、まったく様相の異なる「こうや花鉄道」。正真正銘の「秘境駅」もあり!【関西鉄道路線周辺曼荼羅#12】歯黒猛夫 |url=https://futabanet.jp/tabilista/articles/-/85788?page=1 |website=TABILISTA:タビリスタ |date=2022-07-26|access-date=2023-01-16 |language=ja |author=歯黒猛夫|publisher=双葉社}}</ref>。橋本駅 - 極楽橋駅間の山岳区間に乗り入れる列車には、車両全長が短い通称「[[ズームカー]]」と呼ばれる平坦区間では高速運転が可能で山岳区間では大きな牽引力を出す専用車両が用いられる<ref>[[#cb-nankai|『日本の私鉄11 南海』pp.72,76]]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=急勾配を登り、平野も100キロで駆け抜けた…南海高野線を支えた2000系「ズームカー」 その数奇な運命 |url=https://maidonanews.jp/article/14770947 |website=まいどなニュース |date=2022-11-21 |access-date=2023-01-16 |language=ja-JP}}</ref>。特に[[高野下駅]] - 極楽橋駅間は50 [[パーミル|‰]]の[[線形 (路線)#勾配|勾配]]を持つ[[登山鉄道]]であり(詳細[[#橋本駅 - 極楽橋駅( - 高野山駅)|後述]])、南海には沿線に高野山という観光地があるという特徴を持つことから、同様に沿線に観光地があり急勾配区間がある日本の鉄道会社6社(南海のほか[[箱根登山鉄道]]、[[富士急行]]、[[大井川鐵道]]、[[叡山電鉄]]、[[神戸電鉄]])の間で、[[2009年]]に[[全国登山鉄道‰会]]を結成している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakone-tozan.co.jp/dat/pdf/20130327_01.pdf|title=全国登山鉄道‰会について|date=2009-09-03|accessdate=2018-11-05|publisher=箱根登山鉄道}}</ref>(2019年に[[アルピコ交通]]が加入)<ref>{{Cite web|和書|title=全国登山鉄道パーミル会 |website=南海高野ほっと・ねっと |url=https://www.nankai.co.jp/koya/permil/ |publisher=南海電気鉄道 |access-date=2023-01-16}}</ref>。また、2017年10月24日には同様の特徴を持つ[[スイス]]の[[モントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道]] (MOB) と姉妹鉄道協定を締結している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankaikoya.jp/event/mob/|title=姉妹鉄道協定について|accessdate=2018-11-04|publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 === 「りんかんサンライン」の愛称について === [[File:Nankai Shin-imamiya Station Destination sign 20150228-2.jpg|thumb|right|200px|南海新今宮駅。1番線案内表示機に「りんかんサンライン」の文字(2015年2月撮影、現在は撤去済み)]] 1995年から2008年まで難波駅 - 橋本駅間には「'''りんかんサンライン'''」の愛称が付けられていた。「りんかん」は、澄んだ空気と豊かな自然とが調和するさわやかな街並みのイメージ、「サンライン」は太陽 (Sun) の明るさと暖かさ、さんさんと降り注ぐ陽光の輝きを意味している<ref>当時の南海電鉄レジャー部が1995年9月に刊行した『'95 南海時刻表』p.1に見出しとして掲載。</ref><ref>{{Cite news |和書|title=南海高野線愛称決まる |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-08-14 |page=3 }}</ref>。 1994年12月14日、当時の社長[[川勝泰司]]が「田舎臭いイメージを変えたい」と発言したのがきっかけで岸里玉出駅 - 橋本駅間の名称を社内公募で選定し、1995年9月1日のダイヤ改正時から使用したいと発表<ref name="朝日941215">“高野線を山手線に名前変えイメチェン 南海社長あこがれ提案” [[朝日新聞]] ([[朝日新聞大阪本社]]): p22. (1994年12月15日 朝刊)</ref>。社長案として「南海山手線」を提唱した{{R|朝日941215}}<ref>『鉄道ジャーナル』1995年3月号、p.149</ref>。川勝社長は会見で「名称がいま風、都会風になれば、当社の住宅分譲などにも効果がでるだろうし、利用客が増えるかもしれない。それには山手線がいい」とコメントした{{R|朝日941215}}。しかし、高野山の所在する[[高野町]]がそれに反発し、当時の町長と高野山[[真言宗]][[金剛峯寺]][[教務総長|宗務総長]]が路線名存続の要望を出したことから路線名変更を断念して愛称を募集することとし<ref>“南海高野線、名前残った 南海電鉄路線の名称変更問題解決” [[朝日新聞]] (朝日新聞大阪本社): p27. (1995年7月4日 朝刊)</ref>、「りんかんサンライン」に決定した。当初は難波駅 - 橋本駅間を「りんかんサンライン」、橋本駅 - 極楽橋駅間を「高野線」と路線図上では区別していたが、後に「高野線りんかんサンライン」と両名併記して案内されるようになった<ref>“「りんかんサンライン」と呼んで 南海電鉄高野線の愛称決定、9月1日から” [[読売新聞]] ([[読売新聞大阪本社]]): p22. (1995年8月11日 朝刊)</ref>。車内放送では、南海本線側からの乗換案内などで「高野線りんかんサンラインはお乗り換えです」と案内されていた。 なお「山手線」の名称は、南海電気鉄道の前身である南海鉄道が1940年に統合した[[阪和電気鉄道]]の路線、すなわち後に[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[阪和線]]となる路線の呼称として、[[戦時買収私鉄|戦時買収]]によって同線が国有化される1944年まで用いていたことがあった。 しかし、沿線住民の間では「高野線」の名称で定着しており、「りんかんサンライン」と呼ぶ人はさほど多くなかった。2008年の高野線ダイヤ変更より案内上でもほとんど「りんかんサンライン」の愛称が使われなくなり、[[2009年]][[3月20日]]の[[阪神なんば線]]の開業とともに、車内路線図から「りんかんサンライン」の表示が消去され、車内自動放送の乗換案内においても「りんかんサンライン」とは案内されなくなった。また公式ホームページにおいても現在は「りんかんサンライン」との案内はなくなっている。愛称使用終了前に印刷された駅配布の時刻表などもそのまま配布されていたが、2013年10月に行われたダイヤ改正時に発行された時刻表および駅掲出の時刻表には記載されていない。 なお、愛称使用終了後も[[泉北高速鉄道]][[大阪府都市開発5000系電車|5000系]]の[[車内案内表示器]]には中百舌鳥駅到着時に表示される乗換案内に「りんかんサンライン」の表示が残っていたが、同形式は2020年2月にリニューアル工事を終えたためその表示はなくなった。さらには案内サイン類の更新が順次行われ、現在では大半が「高野線」の名称に統一されており、「りんかんサンライン」の案内表示はごくわずかに残る程度となっている(2022年時点では、[[北野田駅]]高野山方面ホームのLED発車案内の上部に「りんかんサンライン」の表記が残存している)。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):汐見橋駅 - 極楽橋駅間 64.5&nbsp;km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:42駅(起終点駅・汐見橋線の駅も含む) * 複線区間:汐見橋駅 - 橋本駅間(汐見橋線岸里玉出駅構内のみ単線) * 単線区間:橋本駅 - 極楽橋駅間 * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:橋本駅 - 高野下駅間80km/h、高野下駅 - 極楽橋駅間33km/h、それ以外100km/h * 2021年度の混雑率:101%(百舌鳥八幡駅→三国ヶ丘駅 7:20-8:20)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|archiveurl=|title=都市部の路線における最混雑区間の混雑率(2021)|date=2022-07-22|accessdate=2022-09-12|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref> == 沿線概況 == <!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします --> <!-- 煩雑となるため、地下鉄・高架・乗り入れ先は記述していません --> {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#009a41 |title-color=white |collapse=yes |top= * {{small2|[[大阪市電阪堺線|阪堺線]]をのぞく[[大阪市電]]、[[高野山森林鉄道]]および<br />[[十津川索道]](貨物専用[[索道]])の経路は省略}} |map-title=(難波駅 - )岸里玉出駅 - 極楽橋駅間 |map= {{BS2text||||←[[阪神電気鉄道|阪神]]:{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}} {{BS4|tBHFq|O1=HUBa|tSTRq|||||[[大阪難波駅]] [[近畿日本鉄道|近鉄]]:{{rint|osaka|ktam}} [[近鉄難波線|難波線]]→|}} {{BS4|exKBHFa|O1=HUBtl-2|exKBHFa|O2=HUBlg-L|||4.1|''難波駅''|(1) -1980|}} {{BS4|KBHFxa|O1=HUBlf-R|KBHFxa|O2=HUBrf-L|||3.9|NK01 [[難波駅 (南海)|難波駅]]|(2) 1980-|}} {{BS4|KRWgl+l|KRWgr+r|||||{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|y}} {{rint|osaka|s}}([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])|}} {{BS4|SKRZ-Au|SKRZ-Au|||||[[阪神高速1号環状線]]|}} {{BS4|STR|BHF|||3.0|NK02 [[今宮戎駅]]||}} {{BS4|eABZg+r|STR|||||←[[なにわ筋線]](南海ルート)|}} {{BS4|KRZo|KRZo|BHFq|O3=HUBa|umKRZu|||[[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]・[[関西本線]]({{rint|ja|wkq}} [[大和路線]])|}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq||O3=HUBtr|uSTR|2.5|NK03 [[新今宮駅]]|{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|k}}([[動物園前駅]])|}} {{BS4|STR|STR||O3=HUBlf|uBHF|O4=HUBeq|||[[新今宮駅前停留場]]|}} {{BS4|STR2|STR2+c3|STRc3|uSTR|O4=POINTERg@fq|||[[阪堺電気軌道|阪堺]]:{{rint|osaka|hnm}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]|}} {{BS4|STRc1|STR+4+c1|STR+4|uLSTR||||}} {{BS2|STR|BHF|1.9|NK04 [[萩ノ茶屋駅]]||}} {{BS4|exKRW+l|eKRWgr|STR|exSTR+l|||''[[南海天王寺支線|天王寺支線]]''→|}} {{BS4|exKDSTe|BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq|exBHF|O4=HUBeq|0.9|NK05 [[天下茶屋駅]]|{{rint|osaka|k}}|}} {{BS4||eABZg+l|exSTR+l|O3=eKRZ|exSTRr||左:''天下茶屋車庫・工場''|1903-1982|}} {{BS4|xkABZq2|eKRZu+k3|eABZg+r|||{{rint|osaka|ko}} 高野線(汐見橋線)||}} {{BS2|kABZg+4|STR||||}} {{BS2|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|0.0|NK06 [[岸里玉出駅]]||}} {{BS4|STRq|STRr|STR|uLSTR|||{{rint|osaka|nm}} [[南海本線]]|}} {{BS4|uSTR+l|uSTRq|mKRZo|uSTRr||||}} {{BS4|uLSTR||BHF||1.1|NK51 [[帝塚山駅]]||}} {{BS2||STR||||}} {{BS2|uBHFq|O1=HUBa|mKRZu|||[[神ノ木停留場]] 阪堺:{{rint|osaka|hnu}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]|}} {{BS2||O1=HUBlf|BHF|O2=HUBeq|2.0|NK52 [[住吉東駅]]||}} {{BS2||BHF|2.9|NK53 [[沢ノ町駅]]||}} {{BS2||eBHF|3.2|''若宮駅''|-1917|}} {{BS2||BHF|3.5|NK54 [[我孫子前駅]]||}} {{BS4|WASSERq|O1=lhMSTRae|P1=uLSTR|WASSERq|hKRZWae||||[[大和川]]|}} {{BS6|exKBSTaq|uemKRZ|exBSTq|eABZg+r|||||''[[帝國車輛工業|梅鉢車輛]]'' <ref group="*">西・東工場閉鎖後、鳳に移転し、<br />[[帝國車輛工業]]→[[東急車輛製造]]を経て<br />現在は[[総合車両製作所]]が事業承継。</ref> ''西工場/東工場 専用線''|}} {{BS4|uLSTR||BHF||4.8|NK55 [[浅香山駅]]||}} {{BS4|||BHF|KDSTa|6.4|NK56 [[堺東駅]]||}} {{BS4|||KRWg+l|KRWr||''堺東検車区''|-1973<ref group="*">2005年まで電留線群として、それ以降は側線1線のみ存続</ref>|}} {{BS4|||KRZo|BHFq|O4=HUBa|||JR西:{{rint|ja|wkr}} [[阪和線]]|}} {{BS4|||BHF|O3=HUBaq||O4=HUBrf|7.9|NK57 [[三国ヶ丘駅]]||}} {{BS2||BHF|8.8|NK58 [[百舌鳥八幡駅]]||}} {{BS2||PSLa|||[[引き上げ線]]([[泉北高速鉄道線]]用)|}} {{BS2||BHF|9.5|NK59 [[中百舌鳥駅]]|{{rint|osaka|m}}|}} {{BS4|KHSTaq|LSTRq|ABZgr||||[[和泉中央駅]] {{rint|osaka|sb}} [[泉北高速鉄道線]]|}} {{BS2||eDST|10.1|''百舌鳥貨物駅''|-1912?<ref name="mozukamotsu" />|}} {{BS2||eHST|10.4|(臨)''中百舌鳥運動場前駅''||}} {{BS2||BHF|10.5|NK60 [[白鷺駅]]||}} {{BS2||BHF|12.0|NK61 [[初芝駅]]||}} {{BS2||BHF|12.9|NK62 [[萩原天神駅]]||}} {{BS2||SKRZ-Au|||[[阪和自動車道]]|}} {{BS2||BHF|14.7|NK63 [[北野田駅]]||}} {{BS2||hKRZWae|||[[西除川]]|}} {{BS2|exKBSTaq|eABZg+r|||''[[富士車輌]]大阪狭山工場 専用線''|}} {{BS2||BHF|15.6|NK64 [[狭山駅]]||}} {{BS2||hKRZWae|||[[東除川]]|}} {{BS2||eDST|16.7|''池尻信号所''|-1914|}} {{BS2||BHF|17.2|NK65 [[大阪狭山市駅]]||}} {{BS2||eDST|17.6|''第一半田貨物駅''|-1930?|}} {{BS2||eDST|18.2|''第二半田貨物駅''|-1930?|}} {{BS2||BHF|18.3|NK66 [[金剛駅]]||}} {{BS2||BHF|20.0|NK67 [[滝谷駅 (大阪府)|滝谷駅]]||}} {{BS2||BHF|21.3|NK68 [[千代田駅]]||}} {{BS2||DST|22.0|[[千代田信号所]]||}} {{BS4|||ABZgl|KDSTeq||{{BSsplit|小原田検車区| [[千代田検車区|千代田検車支区・千代田工場]]}}||}} {{BS4|||STR|STR+l|||近鉄:{{rint|osaka|kto}} [[近鉄長野線|長野線]]|}} {{BS4|||BHF|O3=HUBaq|KBHFe|O4=HUBeq|23.4|NK69 [[河内長野駅]]||}} {{BS2||hKRZWae|||[[石川 (大阪府)|石川]]|}} {{BS2||hSTRae|||天見川|}} {{BS2||hSTRae|||天見川|}} {{BS2||hKRZWae|||天見川|}} {{BS2||BHF|25.1|NK70 [[三日市町駅]]||}} {{BS2||PSLe||引き上げ線||}} {{BS4|||eKRWgl|exKRW+r||||}} {{BS4|||BHF|exDST|26.7|NK71 [[美加の台駅]]||}} {{BS4||exSTR+l|eKRZ|exSTRr||''加賀田信号所''|-1984|}} {{BS2|exSTR2|exSTRc3|O2=TUNNEL1||||}} {{BS2|exSTRc1|eABZg+4||||}} {{BS2||BHF|28.6|NK72 [[千早口駅]]||}} {{BS2|exKRW+l|eKRWgr||||}} {{BS2|exSTR|TUNNEL1||||}} {{BS2|exKRWl|eKRWg+r||||}} {{BS2||BHF|30.3|NK73 [[天見駅]]||}} {{BS2|exKRW+l|eKRWgr||||}} {{BS2|exSTR|TUNNEL1||||}} {{BS2|exKRWl|eKRWg+r||||}} {{BS4||BS2c2|BS2lr|BS2c3||||}} {{BS3||tSTRa|tSTRa@g|O3=POINTERg@fq||[[紀見トンネル|新紀見トンネル]]|(1,853m)|}} {{BS3||tSTR+GRZq|tSTR+GRZq|||↑[[大阪府]]/[[和歌山県]]↓|}} {{BS3||tSTRe|O2=POINTERg@lfq|tSTRe||[[紀見トンネル|紀見隧道]]|(1,562m)|}} {{BS4||BS2c1|BS2+lr|BS2c4||||}} {{BS2||BHF|34.0|NK74 [[紀見峠駅]]||}} {{BS2|exKRW+l|eKRWgr||||}} {{BS2|exSTR|BHF|35.3|NK75 [[林間田園都市駅]]||}} {{BS2|exKRWl|eKRWg+r||||}} {{BS2||eDST|36.2|''橋谷信号所''|-1983|}} {{BS4|||eKRWgl|exKRW+r||||}} {{BS4|||hBHFae|exBHF|37.3|NK76 [[御幸辻駅]]||}} {{BS4|||eKRWg+l|exKRWr||||}} {{BS2||DST|38.2|[[小原田信号所]]||}} {{BS2|KDSTaq|ABZgr||[[小原田検車区]]||}} {{BS2||SKRZ-Au|||[[京奈和自動車道]](橋本道路)|}} {{BS2||eHST|39.5|(臨)''市脇山駅''|-1918?|}} {{BS2||eHST|39.9|''橋本町臨時乗降場''|-?|}} {{BS2|STR+r|STR|||JR西:{{rint|ja|wkt}} [[和歌山線]]|}} {{BS4||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|KDSTa|40.1|NK77 [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]||高 92 m}} {{BS4||STR|KRWg+l|KRWr||''高野山検車区橋本検車場''|-1996<ref group="*">電留線および保線基地として存続</ref>|}} {{BS2|STR|eDST|{{BSkm|40.6|0.0}}|''妻信号所''|-1959|}} {{BS4||STR|eKRWgl|exKRW+r||||}} {{BS4||STRl|KRZu|xKRZu||||}} {{BS4|||STR|exKDSTe|{{BSkm|-|0.6}}|''紀ノ川口駅''|-1959|}} {{BS4|||hKRZWae|WASSERq|||[[紀の川]]|}} {{BS2||BHF|43.2|NK78 [[紀伊清水駅]]||高 87 m}} {{BS2||BHF|45.8|NK79 [[学文路駅]]||高 79 m}} {{BS2||BHF|47.6|NK80 [[九度山駅]]||高 94 m}} {{BS2||hKRZWae||丹生川橋梁|丹生川|}} {{BS2||TUNNEL1||椎出トンネル|長 399m|}} {{BS2||BHF|49.6|NK81 [[高野下駅]]||高 108 m}} {{BS2||hKRZWae|||不動谷川|}} {{BS2||TUNNEL2||||}} {{BS2||TUNNEL2||||}} {{BS2||BHF|51.3|NK82 [[下古沢駅]]||高 177 m}} {{BS2||TUNNEL2||トンネル2か所||}} {{BS2||hSTRae||中古沢橋梁||長 67.6 m}} {{BS2||TUNNEL2||||}} {{BS2||BHF|53.0|NK83 [[上古沢駅]]||高 230 m}} {{BS2||TUNNEL2||トンネル2か所||}} {{BS2||hSTRae||笠木橋梁||}} {{BS2||TUNNEL2||トンネル4か所||}} {{BS2||BHF|56.0|NK84 [[紀伊細川駅]]||高 363 m}} {{BS2||TUNNEL2||トンネル7か所||}} {{BS2||BHF|58.4|NK85 [[紀伊神谷駅]]||高 473 m}} {{BS2||TUNNEL2||トンネル4か所||}} {{BS2||KBHFe|O2=HUBa|59.9|NK86 [[極楽橋駅]]||高 539 m}} {{BS2|FUNI|KBHFeq|O2=HUBe|||{{rint|osaka|kc}} [[南海鋼索線|鋼索線]]|}} |map2-title=汐見橋線 |map2= {{BS4||tSTRq|tBHFq|O3=HUBa|tSTRq|||[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]] 阪神:{{rint|osaka|hsn}} 阪神なんば線|}} {{BS2||KBHFa|O2=HUBe|0.0|NK06-5 [[汐見橋駅]]|{{rint|osaka|s}}(桜川駅)|}} {{BS2||STR||||}} {{BS2||KRZu|||JR西:{{rint|ja|wko}} 大阪環状線|}} {{BS2||BHF|0.9|NK06-4 [[芦原町駅]]||}} {{BS2||BHF|1.6|NK06-3 [[木津川駅]]||}} {{BS2||SKRZ-Au|||阪神高速[[阪神高速17号西大阪線|17号西大阪線]]|}} {{BS2||BHF|2.6|NK06-2 [[津守駅]]||}} {{BS2||emKRZu|||''[[大阪市電]]:[[大阪市電阪堺線|阪堺線]]''|}} 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9番線の構造を持ち、高野線の列車はこのうち1 - 4番線の東側4線を使用する。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手に[[なんばパークス]](旧[[大阪スタヂアム]]〈大阪球場〉跡地)・[[ヤマダデンキ]]LABI1なんば・[[クボタ]]や[[ニコニコのり]]の本社社屋・南海電気鉄道本社の入る[[南海なんば第1ビル]]などを、左手に日本橋電気街([[でんでんタウン]])などを見ながら、[[阪神高速1号環状線]]をくぐり、左下に[[今宮戎神社]]が近付くと、高野線の各駅停車のみが停車する[[島式ホーム]]の[[今宮戎駅]]。駅下の[[国道25号]]を越え、左手に[[通天閣]]が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の[[新今宮駅]]に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の高野線上り線ホームは、ともに南海本線の下り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの[[大阪環状線]]・[[関西本線]](いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に[[釜ヶ崎]]あるいは[[あいりん地区]]と称される[[ドヤ街]]を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・[[あべのハルカス]]を望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する島式の[[萩ノ茶屋駅]]を過ぎると、全列車停車駅である[[天下茶屋駅]]。かつてはこの駅から[[南海天王寺支線|天王寺支線]]が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在の[[Osaka Metro堺筋線]])が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]の練習場やスーパーマーケットが建っている。なお[[泉北高速鉄道線|泉北高速線]]直通の特急「[[泉北ライナー]]」は同駅以南は高野線内の停車駅がなく<ref group="注">このため泉北ライナーは厳密には(線路名称上の)高野線内に停車駅がまったく存在しないことになる。</ref>、直通先の泉北高速線[[泉ケ丘駅]]まで停車しない。天下茶屋駅を出て程なく左にカーブして南海本線系統の線路と別れ、「汐見橋線」との接続駅である[[岸里玉出駅]]を過ぎ、同時に[[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]を越えると[[上町台地]]にさしかかり、線路は掘割の中を右カーブしながら南進を始める。掘割を抜けて上町台地に上ると[[帝塚山学院]]帝塚山学舎の最寄り駅でホーム幅の狭い[[帝塚山駅]]。この駅を過ぎると[[大和川]]を渡るまでカーブや[[開かずの踏切]]が連続する。[[阪堺電気軌道上町線|阪堺上町線]]をくぐると、高野線では唯一、通過用複線を挟む待避線に[[相対式ホーム]]のある(新幹線型配線ともいう)[[住吉東駅]]。[[大阪内環状線]]([[国道479号]])の踏切を過ぎて[[沢ノ町駅]]、続いて[[あべの筋]]([[大阪府道30号大阪和泉泉南線|府道大阪和泉泉南線]])と斜めに平面交差して[[我孫子前駅]]を過ぎると、大和川を渡って[[堺市]]に入る。[[関西大学]]堺学舎や[[ツツジ]]の見所である[[浅香山浄水場]]の最寄り駅の[[浅香山駅]]を過ぎて、[[大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線|府道堺大和高田線]]の高架をくぐると、[[堺市役所]]などの最寄りで堺市の中心駅である[[堺東駅]]に着く。かつては堺東検車区などがあり運行の拠点だったが、現在は検車区は[[小原田検車区]]および[[千代田検車区|同検車区千代田支区]]に移転し、跡地には高層マンションが建っている。堺東駅には特急泉北ライナーを除く全列車が停車し、緩急接続している。準急行はこの駅からは各駅に停車する。また泉北線直通の区間急行は直通先の泉北線[[深井駅]]まで停車しない。 堺東駅を過ぎると大きく左カーブをして南東に進路を変え、掘割区間に入って[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道大阪中央環状線]]をくぐると、右側には[[仁徳天皇陵]]が垣間見える。すぐ下の掘割を通って交差するJR[[阪和線]]との接続駅の[[三国ヶ丘駅]]、[[百舌鳥八幡駅]]を過ぎると、[[大阪府立大学]]中百舌鳥キャンパスの最寄り駅で[[Osaka Metro御堂筋線]]、泉北高速線との接続駅である[[中百舌鳥駅]]に着く。中百舌鳥駅は区間急行以上の優等列車は通過するものの堺市北東部の中心駅であるために乗降者数はかなり多い。またこの駅から一部の列車は泉北高速線と直通運転を行っている。中百舌鳥を出ると泉北高速線は上下線に挟まれた地下トンネルに入っていき、一方の高野線は線路容量に若干余裕が出ることや、線形がやや良くなることもあって、日中時間帯を中心に優等列車はこの付近から少し速度を上げて運転することが多い。線路は住宅地の間を通りながら、程なく待避設備のある[[白鷺駅]]、続いて[[初芝駅]]に至る。緩やかに右にカーブしながら[[萩原天神駅]]を過ぎて[[阪和自動車道]]・[[大阪府道36号泉大津美原線|府道泉大津美原線]]バイパスをくぐると一旦周囲には田園風景が見えるようになるが、すぐに近代的な住宅街や商業地などが整備された堺市東区の中心駅・[[北野田駅]]に着く。北野田駅は待避設備を持つ緩急接続駅で、特急以外の全列車が停車し、区間急行はこの駅より各駅に停車する。 北野田駅を出ると線路は[[西除川]]を渡りながら緩やかに左にカーブをしてすぐに[[大阪狭山市]]に入り、[[狭山駅]]を過ぎると、車窓右側には住宅街の向こうに日本最古の灌漑用溜池である広大な[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]の堤防が、左手遠方には[[パーフェクト リバティー教団]](PL教団)の[[大平和祈念塔]](PL塔)がそれぞれ見えるようになる。狭山駅 - 大阪狭山市駅間の築堤には煉瓦造りの暗渠が7か所あり、2020年に[[土木学会選奨土木遺産]]に認定された<ref>{{Cite press release|和書|title=高野線の煉瓦造暗きょ群(狭山駅〜大阪狭山市駅間) 「土木学会選奨土木遺産」に認定されました!|publisher=南海電気鉄道|date=2020-09-28|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/200928.pdf|format=PDF|access-date=2022-06-09}}</ref>。右にカーブをすると、かつて南海が狭山池畔で経営していた遊園地「[[さやま遊園]]」([[2000年]]閉園)の最寄り駅であった[[大阪狭山市駅]]に至る。周辺には大規模なニュータウンが見え始め、[[大阪府道202号森屋狭山線|府道森屋狭山線]]の跨線橋をくぐると、全列車停車駅である2面4線の[[金剛駅]]に着く。これら大阪狭山市内の駅は毎年[[8月1日]]の[[教祖祭PL花火芸術]]の日には、周辺に眺望を妨げるものが少ないために多数の観客が訪れ激しく混雑するが、それ以外の日でも、大規模なニュータウンを周囲にもつ金剛駅は、南海電鉄全体での乗降客数の上位に入る駅となっている。 金剛駅を出ると[[富田林市]]に入り、次第に起伏の多い地形が目立ち始め、右手遠方に[[近畿大学医学部附属病院]]を望む。[[滝谷駅 (大阪府)|滝谷駅]]を過ぎ、[[河内長野市]]に入って[[千代田駅]]を過ぎると、南海最大の車両工場を併設する小原田検車区千代田検車支区が左右に広がり、本来高野線には入線しない空港特急「[[ラピート]]」や特急「[[サザン (列車)|サザン]]」の車両が留置されているのを時おり見かける。この千代田検車支区・高野線を大きく越える高架橋が[[国道170号]](大阪外環状線)であり、このガードをくぐると住宅街の広がる丘陵を開削した区間となり、列車は下り勾配を駆け下りる。左後方から単線の[[近鉄長野線]]が近づいてきて並走し、国道170号の旧道と国道310号の重複区間となっている道路(東高野街道)を越えると、駅ビルの[[ノバティながの]]を携える全列車停車駅の[[河内長野駅]]に着く。同駅は南海が2面4線、近鉄が頭端式1面1線の駅構造となっており、利用者数・利便性ともに南海の方が優位に立っている。またこの駅より急行は各駅に停車するため、各駅停車の多くはこの駅で折り返す。 河内長野駅を過ぎると車窓の雰囲気は一変し、[[新興住宅地]]が広がる山並みの裾を[[河岸段丘]]に沿って走る区間となり、[[石川 (大阪府)|石川]]やその支流の天見川が線路沿いを蛇行するように流れる。左右にカーブをするとすぐに[[フォレスト三日市]]と直結する[[三日市町駅]]に達するが、これより先は急勾配区間となり、南海本線所属列車など一部の列車は、ブレーキ性能等の関係でこの駅より先には入線できない。この駅を出て引き上げ線を上下線の間に挟みながら大きく左へカーブすると高架区間となり、新興住宅街・[[南海美加の台]]の最寄り駅で、高野線で最も新しい[[美加の台駅]]に達する。ここから先は山々がせり出し農村地帯を通る区間となり、かつて単線であった頃は山の谷間を縫うように線路が通っていたが、複線化工事の完成後は美加の台駅 - [[千早口駅]] - [[天見駅]]の駅間に1本ずつトンネルが貫通している。また三日市町駅 - 美加の台駅間から並走してきた[[国道371号]]の[[大阪橋本道路#石仏バイパス|石仏バイパス]]は、千早口付近(車窓左側から見上げることができる)で供用区間が途切れて、旧道とを結ぶ取付道路と交差する。天見を出た線路はなおも大小3か所のトンネルを通過した後、いよいよ[[紀見峠]]を貫く通称[[紀見トンネル#鉄道トンネル|紀見峠トンネル]]に入っていく。紀見峠トンネルは上下線が離れた単線並行の2本(単線時代の[[紀見トンネル#紀見トンネル|紀見トンネル]]が上り、複線化時に新設された[[紀見トンネル#新紀見トンネル|新紀見トンネル]]が下り)から成る。トンネル内に大阪府と和歌山県の府県境があり、同県[[橋本市]]に入る。 紀見峠トンネルを出ると、橋本駅手前まで約7キロにわたり急な下り勾配が続くようになる。トンネルを出るとすぐ[[紀見峠駅]]、続く大きな右カーブを通過する頃から周辺は車窓左側を中心に徐々に開けてくる。高い高架橋で国道371号[[橋本バイパス]]を越えると、南海が開発したニュータウン「[[南海橋本林間田園都市]]」の最寄り駅であり、2面3線の構造をもつ全列車停車駅の[[林間田園都市駅]]に着く。区間急行は最長でもこの駅までの運転となり、また快速急行はこの駅より各駅に停車する。続いてニュータウン内のメインストリートであるバイパス道路を跨ぎ、さらに右に国道371号橋本バイパスと並走しながら[[御幸辻駅]]に達する。やがて車窓の右側に小原田検車区の本区が見え、急勾配を下りながら一般道・[[京奈和自動車道]]・国道371号旧道の3本の高架橋をくぐる。住宅地直下の小原田トンネルを抜けると、線路は大きく左にカーブをして下り勾配が終了し、右後方から近づいてくるJR[[和歌山線]]と並走する形で、同線との乗り換え駅であり、橋本市の中心駅でもある全列車停車駅の[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]に到達する。橋本駅はもともと[[島式ホーム]]で、複線化時に4扉大型車8両対応に延長された。4扉大型車や特急「りんかん」専用車両である[[南海11000系電車|11000系]]は、[[車両限界]]の関係でこの駅までの運転となる。また、難波駅から続く複線区間もこの駅までである。 河内長野駅 - 橋本駅間は、山間部の河岸段丘を縫うように敷設された線路で、以前は全区間が単線で、半径160mの曲線や25[[パーミル|‰]]の勾配が連続する線形だった。このため、17m車4両編成しか走行できず、最高速度43km/h、平均速度30km/hで難波駅 - 橋本駅間を急行で64分を要した。沿線開発による輸送需要の増大に対応するために、同区間の複線化など大規模改良が実施された。1971年(昭和46年)5月12日に[[運輸大臣]]から、河内長野駅 - 橋本駅間を複線化するための認可を受け、1972年(昭和47年)3月から工事に着手した。 複線化のルート決定では、難波駅 - 橋本駅間の急行列車の運転時分を45分程度とするため、河内長野駅 - 橋本駅間の平均速度を60km/h程度とすること。既存の駅中心位置は移動させないこと。各駅のホーム長は、当初は135m(21m車6両編成)とし、将来的には220m(21m車10両編成)に延伸可能なよう曲線・勾配を考慮すること。駅構内の渡線道(踏切)を廃止して、地下道または跨線橋の立体交差とすることなどが条件だった。曲線と駅部の改良を重視したことから、単に在来線に並行した線増というよりも、新線建設に近い線形となった。複線化完成後は、半径400m未満の曲線は、全体の43.8%から5.2%に減少したのに対して、駅間の最急勾配は25.2‰から33‰ときつくなった。複線化と関連して、美加の台駅、林間田園都市駅の新設や、以前は橋本駅に隣接していた橋本車庫の機能を、小原田車庫に移転・拡充する事業なども実施された。河内長野駅 - 橋本駅間の複線化は7つの工区に分けられ、段階的に工事が実施された。第1工区の河内長野駅 - 三日市町駅間は1974年(昭和49年)3月24日に完成し、第7工区の御幸辻駅 - 橋本駅間は1995年(平成7年)8月30日に完成した。小原田車庫(第8工区)は1996年(平成8年)11月15日に完成した。これら工事費用の合計は556億55百万円だった<ref>南海電気鉄道株式会社『複線化工事の記録 高野線(河内長野~橋本間)』1997年</ref>。 <gallery> Nankai Koya Line Yamato Riv.jpg|大和川橋梁を渡る南海と泉北高速の列車 </gallery> === 橋本駅 - 極楽橋駅( - 高野山駅) === 橋本駅 - 高野山駅間は「こうや花鉄道」の愛称が付けられ、駅名標も通常のものに加えて独自仕様のものが設置されており、各駅の標高が記されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は[[山岳鉄道]]であり、特に[[高野下駅]]以南は50[[パーミル|‰]]の勾配や、制限速度33km/h、半径100m以下の急カーブが続く[[登山鉄道]]となっており、21m級の車両は走行できないため、この区間に乗り入れる列車には[[ズームカー]]と呼ばれる17m級の<!--2扉←特急車両は1扉です-->中型車両のみが使用されている。 山岳区間、とりわけ高野下駅 - 極楽橋駅間においては完全に線路が山の中に入るために、途中にある駅へは幹線道路からすれ違いの困難な狭い道路や林道があり、車で辿り着くのは容易でない。各駅の周辺の山間部は民家が少なく利用客もきわめて少ないが、すべての駅に簡易型の自動改札が完備され、駅係員も橋本駅および下古沢駅、紀伊細川駅から極楽橋駅のすべての駅に配置されている。橋本駅 - 極楽橋駅間は単線であるが、上古沢駅を除く全ての駅が行き違いのできる交換可能駅である。 上古沢駅と下古沢駅の間には、鉄道橋としては日本で10箇所だけで供用されている[[トレッスル橋]](全長67.6m、高さ33.4m)の'''中古沢橋梁'''がある。この橋は、[[トラス構造]]とトレッスル橋脚とを組み合わせた鉄道用鋼橋としては日本に唯一現存するもので、2011年に[[土木学会選奨土木遺産]]に認定されている<ref>[https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/665 中古沢橋梁] - 土木学会、2022年6月10日閲覧</ref>。橋の下には、南海電鉄が[[2010年]][[2月25日]]に設置した観光用の展望デッキと電車の通過時刻を記した時刻表を備え<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/100226_2.pdf 「中古沢橋梁展望デッキ」を設置しました]}} - 南海電気鉄道、2010年2月26日</ref>、トレッスル橋を下から見上げられる。展望デッキまでは上古沢駅・下古沢駅から徒歩20分の道のりである。 九度山駅 - 極楽橋駅間には、橋本駅以南でもっとも長い「椎出トンネル」(九度山駅 - 高野下駅間、399m)<ref>[[ネコ・パブリッシング]]刊 復刻版 私鉄の車両23「南海電気鉄道」p.144 「トンネルと橋梁」の項より。</ref> をはじめ、大小24箇所のトンネルがあり、このうち高野下駅 - 極楽橋駅間の23箇所には坑口に番号が振られている<ref group="注">{{PDFlink|[http://www.nankaikoya.jp/tenku/about/tenku_map3.pdf 「天空」沿線マップ - 南海高野ほっと・ねっと]}}{{リンク切れ|date=2018-01-14}}のほか、主要駅で配布される「天空」のパンフレット(折りたたみ式)内面にも「同区間のトンネルには1〜23の番号がついている」との記載がそれぞれなされている。</ref>。 2009年(平成21年)2月6日に紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線が[[近代化産業遺産]](高野山参詣関連遺産)に認定されている。 橋本駅を出ると線路は単線となり、東進してすぐ緩やかな左カーブとなりやや勾配を下る。JR和歌山線は見えなくなるが、やがて大きく右にカーブをして南進を始め、同線および[[国道24号]]のガードをくぐると線路は[[紀の川]]を渡る。さらに大きく右カーブし西進、ここからしばらくは車窓左側には山々が迫り、住宅地と田園地帯の錯雑が見られるようになる。右側には先ほど停車した橋本駅周辺の市街地を紀の川越しに望む。しばらく進み、国道371号と平面交差すると[[紀伊清水駅]]。この付近から右側に国道370号が並走を始める。車窓左側に学文路天満宮、かむろ大師奥之院を見上げると[[学文路駅]]。この駅の入場券は、毎年受験シーズンが近づくと、学文路天満宮の祈祷を受けた5枚セットが縁起物として販売される。線路はなおも紀の川に並行して南西に進み[[九度山町]]に入り、右・左にカーブしながら勾配を上ると[[九度山駅]]である。九度山には戦国[[武将]]の[[真田信繁]](幸村)が潜伏していた[[善名称院|真田庵]]があり、九度山駅の駅舎も2015年にそれにちなんだデザインにリニューアルされた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASHCG4T6YHCGPXLB009.html 和歌山)九度山駅、「真田」仕様に改装] - 朝日新聞デジタル、2015年11月15日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/151109_2.pdf 九度山駅の真田装飾が11月14日(土)に完成!]}} - 南海電気鉄道、2015年11月9日</ref>。やがて左に大きくカーブをして南進を始める頃から、車窓右側には丹生川の深い渓谷が続き、左側は終点までほぼ完全に山に覆われる。丹生川橋梁で国道370号と美しい渓流の景観が見える丹生川を渡り、椎出トンネルを抜けるとすぐ島式ホームの[[高野下駅]]に着く。この駅から先は各駅停車の本数がさらに半減する。 ここから先は急カーブやトンネルの連続区間となり、車窓右側もいくつかの集落が見えるほかは山々に覆われた光景となる。高野下駅を出ると、ゆっくりしたスピードで右へ大きくカーブし、体感できるほどの急勾配を大きな音を軋ませながら上り始める。[[下古沢駅]]は2002年に行き違い設備がいったん撤去されていたが、2018年に隣の[[上古沢駅]]から移設される形で復活し、交換可能駅となった。やがて中古沢橋梁に差し掛かるあたりからは周辺の集落もほぼ見えなくなり、さながら秘境の様相を呈してくる。[[平成29年台風第21号|2017年の台風21号]]に伴う[[地すべり]]の影響で棒線駅化された上古沢駅を出て2か所のトンネルを通過し、笠木橋梁を渡って3本目のトンネルを抜けた付近で[[高野町]]に入り、さらにトンネルを1か所通過すると[[紀伊細川駅]]、続く7本のトンネルを経て島式ホームの[[紀伊神谷駅]]に至る。最終の4か所のトンネルを抜けて、右側に朱塗りの極楽橋が見えると、[[南海鋼索線|鋼索線]](高野山ケーブル)との接続駅である終点の[[極楽橋駅]]に到着する。ケーブルカーのりばは列車を降りて車止め方向に歩いて突き当たった右側にあり、およそ5分で[[高野山駅]]とを結んでいる。 <gallery> 南海2000系初期車高野下発車.JPG|不動谷川(高野下駅 - 下古沢駅間)をズームカーが渡る Nankai30000AtGoukurakubashi.jpg|終点・極楽橋駅に停車中の特急「[[こうや]]」 </gallery> === 汐見橋駅 - 岸里玉出駅間 === 汐見橋駅 - 岸里玉出駅間も後述する通り、あくまで正式には高野線の一部であるが、[[1985年]]の線路分断後は事実上孤立した支線(南海本線とは線路が接続している)となっており、ほとんどの時間帯で1時間に2本の各駅停車が往復するだけの、いわば下町のローカル線の様相を呈している。以下、汐見橋から岸里玉出に向かって記述する。 駅舎にかつてのターミナル駅であった頃の面影を残す頭端式1面2線の[[汐見橋駅]]を出発すると、しばらくは車窓左側に高架の[[阪神高速15号堺線]]および[[新なにわ筋]]([[大阪府道29号大阪臨海線|府道大阪臨海線]])が並走する。JR[[大阪環状線]]の高架をくぐる地点で同時に新なにわ筋が左前方に別れて[[芦原町駅]]に着く。同駅下りホームの裏にあるランプウェイは阪神高速の[[芦原出口]]である。緩やかに右カーブをすると阪神高速も一旦左に別れ、かつての貨物取扱駅の面影を偲ばせる[[木津川駅]]に達する。[[阪神高速17号西大阪線]]および[[国道43号]]の高架をくぐり、大きく左にカーブをして、右側に[[大阪府立西成高等学校|西成高校]]や西成公園が見えると[[津守駅]]に至る。津守を出てすぐ新なにわ筋と阪神高速15号堺線の高架をくぐるが、新なにわ筋の高架橋(鶴見橋跨線橋)は[[1968年]]に廃線となった[[大阪市電阪堺線]]の路盤をそのまま道路に転用したものであり、廃線から半世紀以上たった現在も架線柱の切断痕などが見られる。線路は下町の住宅地を直線状に進んで[[西天下茶屋駅]]、そのまま高架を上がって[[国道26号]]をオーバークロスすると線路は単線となって、左後方から右前方に向かって南海本線が、前方の延長線上から高野線の帝塚山駅以南に通じる路線がそれぞれ近づき、汐見橋線は南海本線に沿う形で右にカーブをすると岸里玉出駅に到着する。 <gallery> Shiomibashi01(20060505).jpg|汐見橋駅に停車する2両編成の列車 Nankaidentetu-kizugawa PICT0002.JPG|木津川駅は貨物取扱駅であった名残で構内は広くなっている </gallery> == 運行形態 == [[File:Nankai31000_RINKAN.jpg|thumb|right|200px|特急「[[りんかん]]」(我孫子前駅付近)]] {{See also|南海電気鉄道のダイヤ改正}} 高野線の起点は[[汐見橋駅]]だが、現在は橋本・高野山方面へ行くすべての列車が[[難波駅 (南海)|難波駅]]から発着し[[岸里玉出駅]]から高野線に入る。汐見橋駅 - 岸里玉出駅間の通称汐見橋線は、この区間を往復する各駅停車だけが運行されている。 難波駅 - [[極楽橋駅]]間に[[特別急行列車|特急]]「[[こうや]]」、難波駅 - [[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]間に特急「[[こうや|りんかん]]」が運行されている。特急のほか、[[快速急行]]、[[急行列車|急行、区間急行]]、[[準急列車|準急行]]、[[各駅停車]]が運行されている。橋本駅 - 極楽橋駅間では観光列車「[[#観光列車「天空」|天空]]」が運行されている。また、[[泉北ニュータウン]]の足として[[泉北高速鉄道線]]と相互直通運転を行っており、直通列車として特急「[[泉北ライナー]]」・区間急行・準急行が運行されている。 [[File:Nankai 2000 series old livery.JPG|thumb|right|200px|「[[高野山駅|高野山]]」のみで「[[極楽橋駅|極楽橋]]」の表示がない[[方向幕]]。(登場して間もないころの[[南海2000系電車|2000系]])]] 難波駅から高野山方面へ直通する列車を「大運転」といい<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=輸送と運転 近年の動向|year=2008 |publisher=電気車研究会 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=2008年8月臨時増刊号 |page=32}}</ref>、かつては旅客案内でもこの名称が用いられていたが、特急「こうや」や日中運行される快速急行など一部の列車をのぞき大運転自体が減少したこともあって、近年はほとんど用いられなくなっている。大運転の高野山方面列車の行先案内は、当初は高野線の実際の終着駅である極楽橋ではなく、鋼索線を経た「'''[[高野山駅|高野山]]'''」と表示されていた。また、方向幕を持たない[[南海21000系電車|21000系]]などの場合は、「急」という[[行先標|方向板]]を掲げるだけで行き先は表示されていなかった。表示方法の見直しが進んだ現在では、「'''高野山'''<small>極楽橋</small>」(ただし英字表記は「KŌYASAN」のみ)と表示されるようになっている。極楽橋駅で、[[南海鋼索線|鋼索線]](高野山ケーブル)に接続している。 [[方向幕]]は南海本線と異なり、1000系や2000系をのぞく従来型通勤車は[[コーポレートアイデンティティ|CI]]導入後も白地の英文なし幕を使用し続けていたが、[[2000年]]11月ごろから南海本線と同じタイプの黒地の英文入り幕に交換され始めた。これは同年[[12月23日]]のダイヤ改正で難波駅 - 三日市町駅間系統の急行を新設することになったものの、従来からの方向幕には「急|三日市町」の表示が入っていなかったためである。 特急は南海本線の「[[サザン (列車)|サザン]]」とは異なり全車両座席指定であり、通常ダイヤにおいて通勤型車両を用いる全車両自由席の特急や「サザン」のような一部座席指定列車は存在しない。 === 運行本数 === 日中の1時間ごとの運行本数の平均的なパターンは以下のとおりである。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |- |+日中の運行パターン !種別\駅名 !style="width:1em;"|{{縦書き|難波}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|中百舌鳥}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|金剛}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|千代田}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|河内長野}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|三日市町}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|林間田園都市}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|橋本}} !… !colspan="2" style="width:1em;"|{{縦書き|高野下}} !… !style="width:1em;"|{{縦書き|極楽橋}} !{{縦書き|備考}} |- style="text-align:center;" | 特急こうや|| colspan="27" style="background:#fc9;" |0 - 1本<!-- りんかんは日中に運転なし --> |rowspan="4"| |- style="text-align:center;" | 快速急行・急行||colspan="21" style="background:#feb;"|2本 || colspan="6" style="background:#feb;" |0 - 1本 |- style="text-align:center;" |rowspan="3"| 区間急行||colspan="18" style="background:#dfd;"|1本 || colspan="9" |&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="15" style="background:#dfd;"|1本 ||colspan="3" style="background:#dfd;"|0 - 1本|| colspan="9" |&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="3" style="background:#dfd;"|4本 || colspan="24" |&nbsp; |rowspan="2"|泉北線直通 |- style="text-align:center;" | 準急行||colspan="3" style="background:#ddf;"|2本 || colspan="24" |&nbsp; |- style="text-align:center;" |rowspan="3"| 各駅停車||colspan="12" style="background:#e1e1e1"|2本 ||colspan="3" style="background:#e1e1e1"|0 - 1本 || colspan="12" |&nbsp; |rowspan="3"| |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:#e1e1e1"|2本 ||colspan="3" style="background:#e1e1e1"|0 - 2本 || colspan="18" |&nbsp; |- style="text-align:center;" |colspan="21"|&nbsp; || colspan="3" style="background:#e1e1e1" |2本 || colspan="3" style="background:#e1e1e1" |1 - 2本 |} 特急りんかん・泉北ライナーは朝と夕方以降の運転。 === 列車種別 === 以下に特急以外の種別の運行概況を示す。特急「[[こうや]]」「[[こうや|りんかん]]」および「[[泉北ライナー]]」については当該項目を参照のこと。また各種別の現行の停車駅は下図および「[[#駅一覧|駅一覧]]」を参照。 [[ファイル:New Koya2.png|thumb|none|500px|停車駅表]] ==== 快速急行 ==== [[ファイル:Nankai2000Series01.jpg|200px|thumb|[[南海2000系電車|2000系]]による快速急行(帝塚山駅 - 住吉東駅間)]] 停車駅は千早口駅・天見駅・紀見峠駅を通過するほかは急行と同じで、急行が停車する河内長野駅 - 橋本駅間の各駅のうち特に利用客数が少ない前述の3駅を通過することで遠距離のスピードアップを狙うべく2003年5月31日のダイヤ改正で登場した<ref name="RJ37-8">{{Cite journal|和書|date=2003-08-01|title=RAILWAY TOPICS(南海高野線ダイヤ改正で「快速急行」を新設)|journal=鉄道ジャーナル|volume=37|issue=8|page=91|publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。2017年8月26日改正ダイヤ時点では平日が下り5本・上り1本、土休日は上下各1本の運行で、平日下り2本が難波駅 - 極楽橋駅間を直通(橋本駅で[[増解結]])するほかは、難波駅 - 橋本駅間の運行(下りの一部をのぞき、橋本駅で高野山方面発着列車と接続)。いずれも、途中無待避での運転である。<!-- 異常時の臨時停車まで書く必要はないかと --> 平日夕方の難波発橋本行きの列車は2008年11月1日にJR和歌山線との接続を考慮して下り急行2本(現在は1本のみ)を格上げして設定されたもので、4扉大型車両8両編成で運行される。2013年10月26日のダイヤ変更で難波駅 - 極楽橋駅間の列車は大幅に削減され、特に土曜・休日ダイヤの下りはすべて橋本止まりとなった。また2008年10月31日まで、平日ダイヤに橋本駅 - 極楽橋駅間でワンマン運転を行う難波発極楽橋行き快速急行もあり、その車両側の種別幕は「快急」と「ワンマン」の二段表記となっていた。なお、この快速急行の前部の極楽橋行き車両は2300系2両で運行されていたが、ダイヤ変更後最初の平日ダイヤ実施日となる11月4日からは、再び2000系4両に戻され、併せて難波から橋本を跨いで運行する料金不要列車はすべて2000系に再び統一された。 案内放送では「快速急行」であるが、時刻表や方向幕での表記は「'''快急'''」、英語表記は“Rapid Express”である。 快速急行は初代が1958年に登場したが1968年には一度急行に統合されて消滅しており、35年ぶりに復活したことになる。その当時の停車駅は新今宮駅(1966年から)・堺東駅・北野田駅と河内長野駅以南の各駅だった。なお初代の快速急行は日本で初めての「快速急行」と名乗る種別であった。 ==== 急行 ==== [[ファイル:Nankai 8300 Series 8312F+8313F 20191122.jpg|200px|thumb|[[南海8300系電車|8300系]]による急行(2019年11月22日)]] 難波駅 - 三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅・極楽橋駅間で運行されている。現在は難波駅 - 林間田園都市駅・橋本駅間の列車が中心である。橋本駅で橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間に運行される[[ワンマン運転]]の各駅停車やJR[[和歌山線]]に接続している。前節の快速急行と同様に上下列車とも終着駅まで原則先着するが、時間帯によっては河内長野駅で特急に追い抜かれる列車がある。2000年12月23日のダイヤ改正までは橋本駅や林間田園都市駅で特急に追い抜かれる列車もあった。 一部の列車は極楽橋駅へ直通するためにズームカーが使用されており、早朝時間帯の1本<ref group="注">全区間4両編成で運行される。</ref>を除いて快速急行同様に橋本駅で増解結作業を行う。極楽橋駅へ直通しない列車では主に大型車両が使われているが、こちらも朝から日中の一部にズームカーが使用されている。 2000年のダイヤ改正前の急行は難波駅 - 極楽橋駅間直通の列車が中心であった<ref group="注">難波駅の発車時刻が原則として0分・30分だった。</ref>。そのためズームカーで運行されていた列車が多く、特に深夜の下り急行に関しては激しい混雑が常態化していた。しかし、2005年10月16日の改正<ref group="注">2000年改正から2005年改正の間は極楽橋駅・高野下駅(主に2003年改正で設定)発着の快速急行(2003年改正)・急行と橋本駅・林間田園都市駅・三日市町駅発着の急行が併存していた。</ref>で極楽橋方面への列車は系統分割が行なわれ基本的に橋本駅折り返しとなった。その後もダイヤ改正の度に極楽橋駅への直通列車は減少し、2017年8月26日改正ダイヤ時点では特急を除くと平日が上下各1本(他に快速急行が下り2本)、土休日は下り1本のみとなっている。なお高野下駅発着の急行は2017年のダイヤ改正で廃止された。 朝ラッシュ時、橋本駅・林間田園都市駅を始発駅とするズームカーを除く8両編成で運転する上り列車は、橋本駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目を[[女性専用車両]]としている。 英語表記は“Express”である。なお、橋本駅で極楽橋行(高野下行)の列車と接続する場合は「高野山・極楽橋(高野下)連絡、急行 橋本行」となり、接続のない急行橋本行とは明確に区別されている。自動放送もこの表現で統一されているが、難波駅のみこの表現が用いられず、「橋本で高野山極楽橋行(高野下行)に接続します」と放送される。2007年8月25日のダイヤ変更からは、[[方向幕]]にも小ぶりながら「高野山連絡(高野下連絡)」の表記が追記され、より区別が明確になっている。さらにこれに合わせて主要駅に備え付けの時刻表では本来のスペースに加え、直通列車のほか橋本駅で極楽橋行への接続がある列車用の時刻表(いわゆる「高野山極楽橋行専用時刻表」のこと)も別に掲載されるようになり、利便性が増した。 加えて、2008年10月31日まで極楽橋駅 - 橋本駅間でワンマン運転を行う極楽橋発難波行き急行もあり、その車両側の種別幕は「急行」と「ワンマン」の二段表記となっていた。 1968年までは、現在の急行は「快速急行」として運行され、これとはまた別に住吉東駅・三国ヶ丘駅・初芝駅にも停車する急行が設定されていた。 現行ダイヤでは河内長野駅以南で各駅に停車するにもかかわらず難波駅 - 橋本駅間を快速急行と同じ所要時間(48分)で運行される列車もある。 ==== 区間急行 ==== [[ファイル:Nankai6200Series02.jpg|200px|thumb|[[南海6200系電車|6200系]]による区間急行(帝塚山駅 - 住吉東駅間)]] 難波駅 - 河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅間で運行されているほか、泉北高速鉄道に直通する難波駅 - [[和泉中央駅]]間の列車も運行されている(詳しくは「[[泉北高速鉄道線#運行形態|泉北高速鉄道線]]」も参照)。夕方・夜間の下りにおいては一部の列車が河内長野駅で特急に追い抜かれることがある。原則として快速急行や急行と同様に、上下列車とも終着駅まで原則先着する。 泉北高速鉄道の開業を控えた1970年11月23日のダイヤ改正で準急行が泉北への直通列車の主体とするため、これと置き換える形で難波駅 - 河内長野駅に新設された<ref>{{Cite|和書|author=藤井信夫|title=車両発達史シリーズ 5 南海電気鉄道 上巻|date=1996-12|publisher=関西鉄道研究会|pages=65}}</ref>。1985年6月16日のダイヤ改正で昼間時のほとんどの列車が林間田園都市駅までの運行となった<ref>{{Cite|和書|author=藤井信夫|title=車両発達史シリーズ 5 南海電気鉄道 上巻|date=1996-12|publisher=関西鉄道研究会|pages=78}}</ref>。河内長野・三日市町・林間田園都市方面は2000年12月23日の改正で朝・夜のみの運転となっていたが、2005年10月16日の改正で再び終日運転となった。2013年10月26日のダイヤ変更で日中の1時間の運転本数が2本から3本に増便された(河内長野・三日市町・林間田園都市行きが1本ずつ)。2015年12月5日のダイヤ改正では平日朝上りのみの運転だった泉北高速線直通列車が毎日日中に毎時上下2本設定された一方、高野線系統の列車が日中は再度毎時上下2本に減便されているほか、平日夕方以降も上り列車の大半が急行に格上げされている。2017年8月26日のダイヤ改正では、日中の泉北高速線直通の各駅停車を置き換える形で泉北高速線直通列車が毎時上下4本になったが、夕方以降の泉北高速線直通列車は上下ともに準急行に置き換えられた。 2015年12月5日のダイヤ改正から区間急行も平日の朝ラッシュ時に女性専用車両が導入されている(泉北高速線直通列車を含む)<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/151008.pdf 12月5日(土)高野線・泉北線のダイヤ改正を実施]}} - 南海電気鉄道(2015年10月8日)、2015年12月5日閲覧</ref>。 案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「'''区急'''」、英語表記は“Sub Express”である。 種別幕の色は緑色である。1995年4月ごろ(泉北高速線和泉中央駅開業時)まで、種別幕の色は急行と同様に赤色(時刻表での表記は赤字に▲印)であったが、[[関西国際空港]]開港後の南海本線の区間急行に合わせて緑色に変更し、急行との区別を明確にしている。しかも白地に黒文字の旧幕(英字なし)のまま実施された<ref group="注">ただし、2000系と1000系は新造当初より英字併記の黒地に白文字の幕である。</ref>。なお、区間急行は関西国際空港開港前は高野線のみの種別であった。 1999年11月11日には、縁起の良い"11づくし"という南海独自の企画で、難波を11時11分に出発する列車に「平成11年11月11日 11時11分 難波駅発車」と記した記念のヘッドマークを掲げ、林間田園都市駅まで1往復した。 かつての泉北高速鉄道直通列車では10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2012年11月23日の泉北高速線のダイヤ変更で消滅した。 ==== 準急行 ==== [[ファイル:Semboku 7509F.jpg|200px|thumb|[[泉北高速鉄道7000系電車|7000系]]による準急行(住吉東駅付近)]] 難波駅から主に泉北高速鉄道直通列車として終日運行されている。そのほか河内長野方面には平日朝の河内長野駅・千代田駅を始発駅とする難波行き上り列車と、2013年10月26日のダイヤ改正より平日深夜に難波発三日市町行きの下り列車が設定されている。河内長野方面からの列車は減少傾向にあり、2015年12月5日改正前までは三日市町始発難波行きの列車も運転されていた。 昼間は6両編成で運転される列車が多いが、夕方ラッシュ時以降は8両編成で運転される列車が大半となり、半分以上が泉北車での運用となる。土休日ダイヤは6両編成が多いが朝晩を中心に一部の列車が8両編成で運転されている。一時は平日朝ラッシュ時に10両編成運転が多数あったが、乗客減により減少し、2013年7月22日の泉北高速線の列車編成両数変更<ref>[https://web.archive.org/web/20131214045059/http://www.semboku.jp/news/dt_285.html 列車の編成両数の変更について] - 泉北高速鉄道、2013年7月1日(時刻の変更なし)</ref>で消滅、これにより南海の10両編成列車は全廃された。 大半は途中で上位列車を待避することなく終点まで先着するが、2017年8月26日改正ダイヤでは、堺東駅で特急「泉北ライナー」の通過待ちをする泉北高速鉄道線直通列車が平日に下り2本・上り1本、土休日に下り4本設定されている<ref name="timetable201708" />。河内長野方面については上り列車は北野田駅・白鷺駅で後続の急行の待避を行なう。なお、平日深夜の難波発三日市町行きは終点まで先着する(住吉東駅での各駅停車の追い抜きや中百舌鳥駅での泉北高速鉄道線との接続も行なわれていない)。 現在の準急行は1964年から1968年まで運転されていた「直行」(途中新今宮駅・住吉東駅・堺東駅以遠各駅停車)を前身とするものであり、それ以前の準急行は堺東駅 - 北野田駅間でも途中百舌鳥八幡駅と萩原天神駅を通過していた。かつては大運転の準急行としてごく一部にズームカーを使用しての極楽橋駅発着も設定されていたが、1964年のダイヤ改正で廃止されている<ref name="rekishi-chizucho">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』10号 関西私鉄、新潮社、2011年、p.43</ref>。また高野線からの泉北高速鉄道線直通列車は和泉中央駅が開設されるまで光明池行きが運行されており、和泉中央駅開業後も運行していたが、2013年のダイヤ改正ですべて和泉中央行きになった。 案内放送では「準急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「'''準急'''」である。自動放送更新前の泉北高速鉄道線内各駅における自動放送では「準急」と案内されていた。なお英語表記は“Semi Express”である。 ==== 各駅停車 ==== [[ファイル:Nankai 6735 at Tengachaya Station.JPG|200px|thumb|[[南海6100系電車|6300系]]による各駅停車(天下茶屋駅付近)]] 難波駅 - 堺東駅・北野田駅・金剛駅・千代田駅・河内長野駅・三日市町駅・林間田園都市駅・橋本駅間で運行されているが、大半が難波駅 - 金剛駅・河内長野駅・三日市町駅間の運転で、堺東駅発着は始発難波行き{{Refnest|group="注"|最終列車が堺東行きであったが、当該列車は2021年4月29日から[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]][[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]発出および同年5月22日の南海本線ダイヤ改正に伴う終電繰り上げで、運転が取り止められた<ref>{{Cite press release|和書|title=緊急事態宣言の発令に伴い、4月29日(木・祝)から南海線・高野線の最終列車運転時刻を繰り上げます|publisher=南海電気鉄道|date=2021-04-26|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210426.pdf|format=PDF|accessdate=2021-05-23}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=2021年5月22日(土)に南海線のダイヤ改正を実施します|publisher=南海電気鉄道|date=2021-04-20|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210420.pdf|format=PDF|accessdate=2021-05-23}}</ref>。}}のみ、北野田駅発着は平日朝のみ、ほかも一部のみとなっている。このほか河内長野駅 - 橋本駅間、橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間にも運行されている。昼間以降、難波駅 - 河内長野駅間(一部は三日市町駅まで)の運転にほぼ統一されていた時期もあったが、一部の急行が区間急行に格下げされた関係で金剛駅・千代田駅発着の列車も増えている。 泉北高速線直通列車が昼間時間帯(始発駅基準で12時から15時まで)と、平日深夜に和泉中央発難波行きが1本運行されていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で全廃され、泉北高速線直通列車はすべて優等列車のみとなった。 6両編成での運転を基本としている。2005年10月16日の改正で昼間は大型車両での4両編成運転がほとんどになっていたが、2017年8月26日のダイヤ改正で昼間数往復を除き6両編成での運転が再び多数を占めるようになった。2012年11月から2013年10月26日までは夜間にも4両編成の列車が運行されていた。一方で河内長野駅 - 橋本駅間運転の一部列車や泉北高速線内のみで完結する列車は8両編成もある。 橋本駅 - 高野下駅・極楽橋駅間の系統のうち、2両編成の列車はワンマン運転(4両編成には車掌乗務)である。なおワンマン対応車両は[[南海2300系電車|2300系]]のみ。橋本駅で難波駅 - 橋本駅間の急行と相互接続を行いホームの高野山寄りから発車する。 案内放送では「各駅停車」であるが、時刻表や案内板の表記は「'''各停'''」である。また、南海本線の「普通(普通車)」と同様に、英語表記は“Local”である。 1970年11月23日に岸ノ里駅の難波直通列車ホームが使用開始されるまでは、難波駅発着列車は堺東駅折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、堺東より南の北野田・河内長野方面に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅・岸ノ里駅を通過する「普通」として運行されていた。また、汐見橋駅発の列車も「各駅停車」として住吉東駅まで運行されていた。南海本線にも高野線の列車が走行する難波駅 - 岸ノ里駅間の複々線の東側2線を走行して今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間で運行され、両線で「普通」と「各駅停車」が共存していた。先頭車両に掲出されていた行先を示す標識板は、高野線の難波駅発着の各駅停車が正方形で「難波 堺東(上段に縦書)・各駅停車(下段に横書)」、普通が丸形(高野線の普通廃止後は各駅停車も丸形)、汐見橋駅発着の各駅停車と南海本線の「各駅停車」は長方形であった。 === 観光列車「天空」 === [[ファイル:Nankai 2258 at Hashimoto Station.jpg|200px|thumb|[[南海22000系電車#観光列車「天空」|観光列車「天空」]](橋本駅)]] 橋本駅 - 極楽橋駅間に運行される展望列車。列車種別は当初「臨時」であったが、2017年8月ダイヤ改正以降は特急列車の扱いになっている。種別幕には天空専用のロゴが表示されるが、南海が発行している『ハンドブック南海』の列車種別運転本数の項では特急列車として計上されているほか、公式ウェブサイトで公開されている冊子型の時刻表の列車種別欄にも「特急」の表示がある<ref name="timetable201708">{{Cite web|和書|date=2017年8月 |url=http://www.nankai.co.jp/library/traffic/jikoku/pdf/kouya_senboku_20170826.pdf |title=南海電鉄・泉北高速鉄道時刻表 高野線・泉北高速線 |format=PDF |publisher=南海電気鉄道 |accessdate=2017-09-10}}</ref><ref group="注">駅配布の冊子型時刻表では、2015年12月現在のものは列車種別欄が空欄だったが、2017年8月現在のものは列車種別欄に「特急」とある。</ref>。途中停車駅は学文路駅・九度山駅のみ。3月から11月は水曜・木曜をのぞく毎日運転、12月から2月は土曜・休日のみ運転。運行回数は1日2往復。3月から11月の土曜・休日はさらに1往復運転される。編成は極楽橋寄りに[[南海22000系電車#観光列車「天空」|2200系改造の展望車]]2両、橋本寄りに自由席車の2300系または2000系2両を連結した4両編成。自由席車は乗車券(PiTaPa・ICOCA、もしくはこれらと相互利用できる交通系ICカードを含む)だけで利用出来るが、展望車については座席指定料金(おとな520円、こども260円)が必要。なお、車両検査時は代用できる車両がないため運休する。 指定席券については南海の「天空予約センター」で電話予約の上、乗車当日に引き渡しとなる。予約は乗車日の10日前に受付を開始する。空席があれば当日窓口でも受付が可能である。 南海が推進する「こうや花鉄道プロジェクト」の一環として導入されることとなり、2008年9月から10月に愛称を一般公募し、同年12月15日にこの愛称と2009年7月3日の運行開始が発表された。 運行開始に先立ち、2009年4月29日 - 6月20日の間の土曜・休日に7回、ほぼ本運行のものと同様のダイヤでプレ運行が実施されている。 === 汐見橋駅 - 岸里玉出駅間 === 汐見橋線とも呼ばれるこの区間では、以前は日中15 - 20分間隔で運行されていたが、2021年現在は平日も土曜・休日も同ダイヤの30分間隔(夜間は35 - 40分間隔)で運行されており、これは大阪市内で最も本数が少ない。2000年12月23日からは終日ワンマン運転を行っている。[[始発|初電]]は6時前後(岸里玉出発5時55分、汐見橋発6時10分)と遅く、[[終電]]は22時台と早い(岸里玉出発22時25分、汐見橋発22時45分)<ref group="注">南海全線で最も早く終電を迎えるのは[[南海和歌山港線|和歌山港線]]下り[[和歌山市駅]]で21時13分発である。</ref>。 複線区間であるが、2008年11月時点のダイヤでは終日2両1編成のみで運用されており、汐見橋線内での上下列車の行き違いはない。南海本線の支線と同様に上下列車とも先発先着である。 岸里玉出駅における日中の接続は、現在は南海本線普通、高野線各停がともに15分間隔で運転していることから接続時分はほぼ一定である。 1985年以前は、高野線岸ノ里駅以南と線路がつながっており、出入庫のため[[住吉東駅]]や[[堺東駅]]発着の列車も存在(ただし、1970年改正以降は早朝・深夜の出入庫列車および臨時列車が時折運転される程度に激減)した。しかし線路が分断された後は、汐見橋線から高野線帝塚山方面へ直通は不可能となったため、岸里玉出駅 - 汐見橋駅間の運転のみとなり完全に支線運用扱いとなった(のちに設定された[[駅ナンバリング]]でも、岸里玉出駅からの枝番となっている)。汐見橋駅では[[阪神なんば線]]・[[Osaka Metro千日前線]]の[[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]と徒歩接続しているが、両線との[[連絡運輸]]の設定はない。なお、阪神の桜川駅は南海汐見橋駅の真下に駅が設置されており、計画段階では汐見橋駅を名乗る予定であったが、乗降客数の多い千日前線に駅名を合わせた。 南海本線とは高野線分断前から線路がつながっており、車両は南海線住ノ江検車区所属の[[南海22000系電車|2200系・2230系]]が充当されている<ref group="注">2200系・2230系は22000系時代に、夏期に極楽橋直通の林間学校学童臨時列車として、岸ノ里駅以南と線路が繋がっていた頃の汐見橋線に入線したこともある。また、更新改造を受けずに廃車予定となっていた編成([[熊本電気鉄道]]に譲渡されたものを含む)が、一時的に汐見橋線と南海本線系の支線で運用されたことがあった。</ref>。ただしこの区間は高野線分断後も高野線の一部として扱われており、乗務員も高野線側が担当し、列車種別も「普通」ではなく「各停」としている。高野線本体と分断される1985年以前は、高野線所属の主に[[南海6000系電車|6000系]]ステンレスカー2両編成で運行されていた。1985年から1995年までは南海本線の他の支線と同様に[[南海1521系電車|1521系]]が使われた<ref group="注">『[[鉄道ピクトリアル]]』1995年12月臨時増刊号(No.615)227ページでも触れているとおり、南海本線萩ノ茶屋駅(ただし南海本線側に同駅のホームはない) - 粉浜駅間の連続立体化工事着工に際し、岸ノ里駅(現在の岸里玉出駅)における高野線の[[立体交差|オーバークロス]]を撤去する必要が生じ、高野線と汐見橋線を直接行き来することが不可能になったためである。その後岸里玉出駅への改称前後から、工事進捗に伴い南海本線との行き来が2年間ほど不可能となり(その期間中はレールがどこともつながっていない状態となる)、1995年8月23日の分断解消まで1521系2連3本が閉じ込められていた。なお高野線のオーバークロスはその後も復旧されず、事実上廃止されている。</ref>。1995年の2200系・2230系化により、南海本線所属ではあるものの、再び高野線出自の車両に戻ったことになる。 === 臨時列車 === 1990年代前半までは学校の[[夏休み]]期間中、[[大阪市]]・[[堺市]]など沿線にある公立小学校児童の高野山[[林間学校]]団体輸送用として、[[南海21000系電車|21000系]]・[[南海22000系電車|22000系]]による専用の臨時列車が多数運行されていたが、1990年代後半以降、少子化や林間学校の目的地の多様化、貸切バス利用への転移などによって高野線を利用する林間学校の小学生の団体は大幅に減少したため、現在は小学生団体専用の極楽橋直通臨時列車はほとんど見られなくなっている。 ==== お盆期間 ==== [[お盆]]期間における高野山への参拝客・観光客・墓参り客への対応については、特急は「こうや」とは別に、一般車(近年は2000系の4両編成が多く、2300系が連結されることもある)の自由席特急が運行される場合がある。停車駅は「こうや」と同じだが、全車自由席のため[[特別急行券|特急券]]は必要ない。ただ、お盆期間の平日はほかの関西私鉄とは異なり平日ダイヤによる運転となっている<ref group="注">[[南海本線|本線]]系統の[[南海空港線|空港線]]一部区間で[[関西空港線|JR関西空港線]]と線路を共用していることによる(JRではお盆期間中の平日については平日ダイヤを適用する)。</ref>。なお、お盆以外にも特急用車両の事故や故障などの緊急時に、一般車による自由席特急が代走することもある<ref>[https://railf.jp/news/2022/05/28/130000.html 特急“こうや”・“りんかん”を2000系が代走] - 鉄道ニュース([[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]])、2022年5月28日</ref>。 このほか、橋本駅 - 高野下駅間の各駅停車が高野下駅 - 極楽橋駅間を延長運行したり、橋本駅始発の急行に接続する形で極楽橋駅 - 橋本駅間の臨時列車が運行されたりする。高野下駅 - 極楽橋駅間はノンストップとなる列車もあり、この場合方向幕は「臨時」が表示される。また、橋本駅 - 極楽橋駅間運転の自由席特急が増発される場合もある。この特急は全線通しの特急と停車駅が異なり、途中学文路駅と九度山駅に停車する(即ち「天空」と同じ停車駅で運転される)。また、高野下駅 - 極楽橋駅間をノンストップで走る列車は、全区間で「臨時」幕を出すこともある。 ==== PL花火芸術開催時 ==== 毎年8月1日の「[[教祖祭PL花火芸術]]」開催時には、[[大阪狭山市駅]]や[[金剛駅]]が花火会場への最寄り駅となるため、一部列車の編成両数、発着時刻、待避駅の変更や臨時列車の運行が行われる。具体的には花火終了後、上り急行が大阪狭山市駅に臨時停車し、[[河内長野駅]]発の準急行・区間急行難波行き臨時列車が数本程度運行される。前者は2014年度より利用状況に応じて行われるようになり、2017年度から事前に告知されるようになった<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/pl_fireworks2017.html 「PL花火芸術」開催に伴う臨時列車の運転について] - 南海電気鉄道、2017年7月28日閲覧</ref>。2015年度まで、花火開始前と終了後に運行している4両編成の一部各停が6両編成に増車されていた。また、花火開始前には難波発準急行河内長野・三日市町行きが2008年度まで運行されていた。2008年度以降、下りの臨時列車は運行されていなかったが、2018年度に難波発準急行河内長野行きが1本運行された<ref>[https://railf.jp/news/2018/08/02/174000.html 南海高野線で臨時準急運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2018年8月2日</ref>。 ==== 年末年始 ==== 毎年[[大晦日]]から[[元日]]早朝にかけて[[終夜運転]]が行われている。各駅停車のみの運転で、全列車中百舌鳥駅で泉北高速鉄道の列車と接続する。2009年までの元日早朝は難波駅 - 河内長野駅間のみにおいて40分間隔で運行されていたが、2010年から元日早朝は難波駅 - 北野田駅間のみにおいて40 - 60分間隔で終夜運転、北野田駅 - 河内長野駅間は午前2時台までの運転となる。河内長野駅 - 極楽橋駅間と汐見橋線は終夜運転を行わない。2020年と2021年は通常の日と同じとなり、泉北高速鉄道も含め終電延長および終夜運転は行わなれなかった<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/201127.pdf 年末年始の運行ダイヤについて]}} - 南海電気鉄道、2020年11月27日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/211129.pdf 年末年始の運行ダイヤについて]}} - 南海電気鉄道、2021年11月29日</ref>。2022年についても終夜運転は行わないことが決定している<ref>{{PDFlink|[https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/221129.pdf 年末年始の運行ダイヤについて]}} - 南海電気鉄道、2022年11月29日</ref>。 ==== 高野山開創1200年記念大法会関連 ==== [[2015年]][[4月2日]]から[[5月21日]]にかけては「'''高野山開創1200年記念大法会'''」が執り行われるため、概ね以下のような臨時ダイヤ・編成両数変更が策定された<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150128.pdf 高野山開創1200年記念大法会期間中の臨時ダイヤ&両数変更について]}} - 南海電気鉄道 2015年1月28日</ref>。 * 当該期間中の平日は橋本駅 - 極楽橋駅間で各停下り1本と特急上り1本を臨時に運転するほか、橋本駅 - 高野下駅間折り返し各停上下計6本を極楽橋駅まで延長運転(ただし高野下駅 - 極楽橋駅間は途中無停車)。 * 同じく土曜・休日は高野下駅 → 橋本駅間の各停1本を極楽橋駅始発に延長運転(ただし極楽橋駅 → 高野下駅間は途中無停車)。 * 通常、3月から11月まで水・木曜日は運休している「天空」を当該期間中の毎週木曜日に2往復臨時運転。 * 橋本駅 - 極楽橋駅間折り返し各停を、昼間時間帯を中心に2両編成から4両編成に増結。 * これら臨時列車の発着に合わせて、極楽橋駅 - 高野山駅間で[[南海鋼索線|ケーブルカー]]を増発。 == 使用車両 == 1992年に[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]が導入されて以来、高野線に新型車両が投入されていなかった(1000系以降は南海線・高野線共通仕様という考え方を取り入れたため、一部が高野線所属となった<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=南海電気鉄道 現有車両プロフィール2008|year=2008 |publisher=電気車研究会 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=2008年8月臨時増刊号 |page=258-259 |quote=1992(平成4)年2〜3月に竣工.16両が住之江検車区,8両が千代田検車区に配属された.}}</ref>)。これは高野線の車両と比較して、7000系・7100系など南海線車両の老朽化が塩害や車両の酷使<ref group="注">高野線の急行は南部では各駅に停車するのに対し、南海線は高速運転が多く、急行はほぼ全線で急行運転を行う。</ref>などでより進行していることや、関西国際空港の需要が拡大していることにより、同線への新型車両導入を優先させているためである。ただし、接客サービス向上や省エネルギー推進のため6200系や8200系で[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]への更新を進めている(この更新により8200系は6200系50番台となった)。また、1962年に登場した6000系の置き換えのため、2019年11月より高野線仕様の8300系が運行を開始した<ref name="raifjp20191123" />。 4扉車は21m級と通勤車両としてはかなり大型である<ref group="注">21m級通勤車両を採用しているのは関西では南海と近鉄のみである。</ref>。南下とともに山岳路線へと変化するため、南海線に比べ制約が多い。21m級の大型車両(11000系・6000系・8300系など)は橋本駅以南へ入線できない。かつては河内長野駅が21m車両の南限で、1963年に三日市町駅まで入線可能になった。さらに複線化に合わせて1984年に林間田園都市駅まで、1992年に橋本駅までの乗り入れが可能となった。また同じ21m級の大型車両でも南海線専用車両や泉北高速線所属車両は三日市町駅以南へ入線しない。[[1971年]]に開業した泉北高速線の所属車両による高野線運用も三日市町駅まで設定されていたが、その先へ乗り入れることなく、[[1989年]][[9月3日]]のダイヤ改正以降は相互直通区間となる難波駅 - 中百舌鳥駅間の運用となった<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年のあゆみ |page=147}}</ref>。南海線所属車両のうち1000系以降の車両は南海線・高野線共通仕様とされ、[[抑速ブレーキ]]などの設備が落成当初より準備または設置されている。これにより50000系や12000系などがイベント時に入線することが可能となった。なお、[[南海7000系電車|7100系]]や[[南海9000系電車|9000系]]などの南海線専用車両の一部は、性能確認試運転と廃車回送時に限って三日市町駅より南の小原田検車区まで入線している。 {{Col| === 自社車両 === ; [[電車]] :* [[南海30000系電車|30000系]](こうや・りんかん):[[ズームカー]] :* [[南海31000系電車|31000系]](こうや・りんかん):ズームカー :* [[南海11000系電車|11000系]](りんかん・泉北ライナー) :* [[南海12000系電車|12000系]](泉北ライナー):南海線所属・泉北ライナーの代走時のみ1編成を貸出して運用 :* [[南海1000系電車 (2代)#第6次車(50番台)|1000系50番台]] :* [[南海2000系電車|2000系]]:ズームカー :* [[南海22000系電車#2200系|2200系]]:元ズームカー。汐見橋線・「天空」用。 :* [[南海22000系電車#2230系|2230系]]:元ズームカー。汐見橋線用。 :* [[南海2300系電車|2300系]]:ズームカー :* [[南海6000系電車|6000系]] :* [[南海6200系電車|6200系]] :* [[南海6100系電車#6300系への改造|6300系]] :* [[南海8200系電車|6200系50番台]] :* [[南海8300系電車|8300系]]:2019年11月22日運行開始<ref name="raifjp20191123" />。 | <!-- ←段組テンプレの一部 --> === 乗り入れ車両 === ; [[泉北高速鉄道]] :* [[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]](泉北ライナー) :* [[大阪府都市開発3000系電車|3000系]]<!--(50番台含む)--> :* [[大阪府都市開発5000系電車|5000系]] :* [[大阪府都市開発7000系電車|7000系]]<!--(50番台含む)--> :* [[大阪府都市開発7000系電車#7020系|7020系]] :* [[南海8300系電車#泉北高速鉄道9300系電車|9300系]] }} <gallery> Nankai Series30000 Koya-5.jpg|30000系<br />(こうや・りんかん) Nankai31000_RINKAN.jpg|31000系<br />(こうや・りんかん) Nankai11000Series01.jpg|11000系<br />(りんかん・泉北ライナー) </gallery> <gallery> Nankai1000_1002F.jpg|1000系 NK1051 Koya8300.jpg|1000系50番台 Nankai2000 2195F.jpg|2000系 Nankai 2353F.jpg|2300系 Nankai-Series6000-6902.jpg|6000系 Nankai6200 6519F.jpg|6200系 Nankai6375 DSCN3287 20120831.JPG|6300系 NK8300 Koya8713F.jpg|8300系 Nankai Series2200-2258 TENKU.jpg|2200系 Nankai Series2230-2283.jpg|2230系 </gallery> <gallery> Semboku12000 Semboku-Liner.jpg|泉北高速鉄道12000系<br />(泉北ライナー) Semboku3000_3509F.jpg|3000系 Senboku-Series5000-5507F.jpg|5000系 Senboku-rapid-railway-7000Series02.jpg|7000系 Senboku-Series7522.jpg|7020系 Semboku Series9300-9402.jpg|9300系 </gallery> === 過去の使用車両 === {{Col| ==== 自社車両 ==== ; 電車 :* [[南海20000系電車|20001系]](こうや号):ズームカー<!-- 使用当時は「こうや号」。「こうや」への改称は廃車後の1995年 --> :* [[南海50000系電車|50000系]](泉北ライナー):南海線所属。30000系の脱線事故に伴う車両繰りのために運用されたことがあった<ref>[https://trafficnews.jp/post/122163 南海「ラピート」まさかの運用変更 「泉北ライナー」に登用 高野線特急の事故から玉突き変更] 乗りものニュース、2022年9月30日(2022年12月22日閲覧)。</ref>。 :* [[南海21000系電車|21001系]]:ズームカー。一部は一畑電車・大井川鐵道に譲渡。 :* [[南海22000系電車|22001系]]:ズームカー。2200系・2230系に改造され一部現用。 :* [[南海8200系電車|8200系]]:改造の上6200系(50番台)に編入され現用。 :* [[南海8000系電車 (初代)|8000系(初代)]]:改造の上6200系に編入され現用。 :* [[南海6100系電車|6100系]]:6300系に改造され現用。 :* [[南海7000系電車|7100系]]:6100系の導入が遅れたため1969年から1970年にかけて一時的に配属されていた<ref>{{Cite|和書|author=藤井信夫|title=車両発達史シリーズ 6 南海電気鉄道 下巻|date=1998-12|publisher=関西鉄道研究会|pages=62}}</ref>。 :* [[南海1000系電車 (2代)|1000系(2代)]]:2022年時点で50番台以外は全車とも南海本線に所属。 :* [[高野山電気鉄道101形電車|モハ561形]] :* [[南海1251形電車|モハ1251形]] :* [[南海1900号電車|クハ1900形]] : ; [[客車]] :*[[南海C10001形蒸気機関車|サハ3801形]] : ; [[蒸気機関車]] :* [[南海C10001形蒸気機関車|C10001形]] | <!-- ←段組テンプレの一部 --> ==== 乗り入れ車両 ==== ; [[泉北高速鉄道]] :* [[大阪府都市開発100系電車|100系]] }} == 乗務員 == {{Main2|南海本線との共通事項|南海電気鉄道#乗務員}} * 難波駅 - 極楽橋駅間では、特急以外は中百舌鳥駅(各駅停車のみ)または橋本駅で乗務員交替が行われ、特急は始発駅から終着駅まで通しで乗務する。[[泉北高速鉄道線]]の直通列車は中百舌鳥駅で乗務員交替が行われる(泉北高速線直通の区間急行は中百舌鳥駅を通過するため、2015年12月までは[[光明池駅]]で乗務員交替を行っていたが、区間急行の増発と「泉北ライナー」の運行開始に伴い、[[和泉中央駅]]まで通し乗務するように変更となっている)。泉北高速鉄道が南海電鉄に業務を委託していた時代は南海の乗務員が通しで乗務していた。汐見橋線では、高野線難波支区に所属する専門系統(支線系統)の乗務員が乗務する。 * 高野線において全席指定の[[特別急行列車|特急電車]]運転士は希望調査の上決定され、特急乗務員になると「特急系統」と呼ばれる専用乗務行路が与えられ、同時に所属も高野線列車区難波支区となる。また、全席指定の特急には業務委託先の「アバン」に所属する女性車掌が乗務し、8両編成の特急には女性のパッセンジャーズ・アテンダント (PA) も乗務する。これは8両編成の場合、11000系+31000系の組み合わせ以外では両編成間の車内での通り抜けができず、進行方向前4両側にも車内検札等の係員が乗務する必要が生じるため。 * 橋本駅 - 極楽橋駅間では、高野下駅以南の連続急勾配区間における特殊な運転技術や異常時対処方などが要求されることから、高野線列車区橋本支区の専門乗務行路が組まれ、ワンマン列車も運行されていることから一部行路で「乗組制」が敷かれていない。なお過去には高野下駅折り返しの急行において、一般系統行路担当乗務員が難波駅 - 高野下駅間を通しで担当する場合があった。 * 橋本駅では、難波方面行き電車は通常4番線に入線するが、[[ダイヤグラム|ダイヤ]]の都合上5番線に入線する時は電鈴1打の合図を車掌に対して行う。この合図に対する車掌の返事も電鈴1打または2打である。なお、下古沢駅 - 紀伊神谷駅間でも、出発前に車掌に対して電鈴1打による閉扉良しの合図を送る。 * [[終着駅]]到着後、車掌が降車側の扉を開ける。その後運転士は[[車掌スイッチ]]の切り換えを行い、切り換え完了後乗車側の扉を開扉し、車掌に対して電鈴で合図を送る。合図を受けた車掌は車掌スイッチが作動しないことを確認した後、電鈴で合図を送る。そして降車側扉は運転士によって閉扉される(南海本線では降車側扉の閉扉は車掌が行う)。 * 運転士は指定された駅において、乗降客確認のための後方監視を行う(ただし任意で他の駅でも後方監視を行う場合がある)。 * 九度山駅 - 極楽橋駅間では、[[トンネル]]が連続する区間であるため、昼間でも[[遮光幕]]を閉めることがある。 * 始発駅から乗務する際、ヘッドライトの点灯確認を行う。なおヘッドライトは昼間時も含めて常時点灯である。 == 歴史 == {{基礎情報 会社 |社名 = 高野鉄道 |ロゴ = [[File:Koya Railway Logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[大阪府]][[泉北郡]][[向井町|向井村]]<ref name="NDLDC780119"/> |設立 = [[1896年]](明治29年)4月<ref name="NDLDC780119"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |代表者 = 社長 [[伊藤喜十郎]]<ref name="NDLDC780119"/> |資本金 = 1,500,000円<ref name="NDLDC780119"/> |特記事項 = 上記データは1907年(明治40年)現在<ref name="NDLDC780119">[{{NDLDC|780119/263}} 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> }} {{基礎情報 会社 |社名 = 大阪高野鉄道 |ロゴ = [[File:Osaka Koya Railway Logomark.svg|150px]] |種類 = [[株式会社]] |国籍 = {{JPN}} |本社所在地 = [[大阪府]][[南河内郡]][[長野町 (大阪府)|長野町]]<ref name="NDLDC968834"/> |設立 = [[1907年]](明治40年)9月<ref name="NDLDC968834"/> |業種 = [[:Category:かつて存在した日本の鉄道事業者|鉄軌道業]] |代表者 = 社長 [[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]<ref name="NDLDC968834"/> |資本金 = 4,000,000円<ref name="NDLDC968834"/><br />(払込高:2,200,000円)<ref name="NDLDC968834"/> |特記事項 = 上記データは1922年(大正11年)現在<ref name="NDLDC968834">[{{NDLDC|968834/311}} 『日本全国諸会社役員録. 第30回』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref> }} <!-- 免許区間や(既設駅間以外の)未開業区間には(単に地名で示されているだけだったり、まだない施設だったりということから)「駅」を付けていません。--> [[堺市|堺]]から[[西高野街道]]に沿って[[高野山]]を目指し、'''高野鉄道株式会社'''が1896年に設立され(この年時点の社長は[[松方幸次郎]]{{sfn|公評散史|1896}})、1898年に大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間を開業し、同年中に長野駅(現在の河内長野駅)まで延びた。 当初の計画では大小路駅から南海鉄道の[[堺駅]]に接続する予定だったが、[[住吉大社]]や[[我孫子観音]]への参詣客が見込めることから方針を転換。大小路駅から北上して南海鉄道の住吉駅(現在の南海本線住吉大社駅の北側にあった駅)を起点に狭山・長野方面、さらには[[和歌山県]]橋本への延伸を目論む。だが高野鉄道の経営は思わしくなく、[[高野杉]]や[[吉野杉]]を水運の拠点だった[[木津川 (大阪府)|木津川]]口まで輸送するため、津守、さらに汐見橋への北上を企てた<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=128 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref><ref name="imao2019" />。しかし、汐見橋への路線延長は、当時の南海鉄道と並行する住吉駅付近で事故が増加する恐れがあることや<ref name="imao2019" />、住吉駅の南方で南海鉄道と交差して海側に抜けるとした代替案も経由予定地が[[住吉公園]]拡張予定地にかかることから、監督官庁の許可が下りなかった<ref name="imao2019">{{Cite book|和書 |title=地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関西(2) 近鉄・南海 |publisher=白水社 |year=2019 |pages=221-232 |author=今尾恵介 |isbn=978-4-560-09687-1}}</ref>。そして南海鉄道の東側を北上し岸ノ里付近で交差する現在のルート案でようやく認められ、1900年に道頓堀駅(現在の汐見橋駅)まで延伸して自力で大阪市内へ乗り入れた<ref name="imao2019" />。 それでも[[日清戦争]]後の不況で業績は好転せず、高野鉄道は長野駅 - 橋本駅間の延伸を断念。終には[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎]]の出資によって設立された'''高野登山鉄道'''が事業を継承して、路線延長が図られることになった(この時に高野登山鉄道の現地支配人として根津によって送り込まれたのが、のちに[[東京地下鉄道]]を開業する[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]である)。 高野登山鉄道は、1915年に汐見橋駅 - 橋本駅間を開通させ'''大阪高野鉄道'''と社名変更。その後、[[和歌山水力電気]]が保有していた橋本 - 高野山大門間の免許を買収し、'''高野大師鉄道'''を設立して、このうち橋本 - 椎出(高野下)間の工事を着工する。1922年に大阪高野鉄道・高野大師鉄道はともに南海鉄道と合併し、高野大師鉄道によって着手していた橋本駅 - 高野山駅(現在の高野下駅)間は1925年に開通した<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=173-181 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 だが南海鉄道との合併の際に、椎出(高野下)以南の免許は和歌山水力電気に返還。さらに和歌山水力電気も[[京阪電気鉄道]]に買収され、結局南海は別会社として'''[[高野山電気鉄道]]'''を設立。京阪から路線免許を再度買収の上で建設し、1928年高野下駅 - 神谷駅(現在の紀伊神谷駅)間が開業、翌年極楽橋駅まで開業し全通した<ref group="注">椎出(高野下) - 高野山駅間は高野山電気鉄道自身が取得した免許で建設され、京阪から譲り受けた免許は1935年11月7日失効。森口誠之『鉄道未成線を歩く』JTB、2001年、p.178および、国土交通省鉄道局『鉄道要覧』(電気車研究会・鉄道図書刊行会)を参照。</ref>。南海鉄道は1944年に[[大阪電気軌道|関西急行鉄道]]に合併し[[近畿日本鉄道]]となったが、この高野山電気鉄道は戦後、南海が分離独立する際の受け皿会社となった。 1960年代ごろから沿線の宅地開発が進み、南海も[[南海美加の台|美加の台]]住宅地や[[南海橋本林間田園都市]]を建設する。その通勤輸送増加に対応するため、列車編成増強や河内長野駅以南の線路改良を進め、1995年には橋本駅までの複線化を完成させた{{R|交通950725}}。この結果、1980年代前半までは三日市町駅以北に限られていた21m級車体の大型車両の運行区間が、1984年に林間田園都市まで、1992年には橋本駅まで延長された{{R|交通950725}}。なお、全通当初の路線距離は汐見橋駅 - 極楽橋駅間で65.1kmであったが、河内長野駅 - 橋本駅間の線路改良<!--と汐見橋方面の路線分離 →汐見橋線の分離後も西天下茶屋 - 帝塚山間の営業キロ程に変化なし。-->で、1995年に河内長野駅 - 極楽橋駅間で0.6km短縮されている。 その反面、橋本駅 - 極楽橋駅間の乗客数は減少の一途を辿り、2000年12月と2003年5月のダイヤ改正で高野下駅 - 極楽橋駅間において日中の運転本数の削減が行われ(30分間隔→36分間隔→1時間間隔)、さらに2005年10月のダイヤ改正では同区間を運行する列車が4両編成の直通急行から2両編成・ワンマン運転の各停が中心となるダイヤに変更された。 一方、事実上支線化された汐見橋駅 - 岸里玉出駅間(汐見橋線)は乗客が減少し減便されながらも存続してきた。[[なにわ筋線]]構想が持ち上がって以降は、汐見橋線はその接続路線という意味でも注目されていた。しかし、なにわ筋線計画は高額の建設費がネックとなって長らく建設の事業主体が決まらず頓挫した状態にあり、しかも、2009年4月に地元首長や経済界・鉄道会社幹部が集まって開かれた「関西活性化に向けた今後の鉄道ネットワークのあり方に関する懇談会」では「建設が必要」という意見で一致しものの、同時に起点を難波駅とする意見も示されており、仮になにわ筋線の着工が決まっても汐見橋線が利用されるかどうかは流動的な情勢となっていた。さらに、2011年に発表された国土交通省近畿運輸局の調査結果では、汐見橋駅接続では黒字化が望めないのに対し、難波駅接続では最短で24年目に黒字化が望めるとして、難波駅接続ルートが有力とされた<ref>{{Cite news |和書|title=南海難波駅との接続が有力 なにわ筋線 |newspaper=産経関西 |date=2011-03-25 |url=http://www.sankei-kansai.com/2011/03/25/20110325-051124.php |publisher=産経新聞社 |accessdate=2019-07-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110326195522/http://www.sankei-kansai.com/2011/03/25/20110325-051124.php |archivedate=2011-03-26}} </ref>。2012年には近畿運輸局の検討会で難波ルートとすることで合意され<ref>{{Cite news |和書|title=大阪都心-関空短縮 なにわ筋線 難波ルートに |newspaper=読売新聞 |date=2012-3-22 |publisher=読売新聞社 |accessdate=2019-07-16 |url=http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120322-OYO1T00200.htm |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120326221540/http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120322-OYO1T00200.htm |archivedate=2012-03-26 }}</ref>、2019年7月には北梅田 - 新難波 - 新今宮の経路で事業許可が下り<ref>{{Cite web|和書|url=https://response.jp/article/2019/07/09/324266.html|title=大阪の南北を結ぶ「なにわ筋線」の建設が正式にスタートへ…開業は2031年度春を予定|publisher=レスポンス|date=2019-07-09|accessdate=2019-07-15}}</ref>、汐見橋ルートは完全に潰えた。 === 年表 === * [[1898年]]([[明治]]31年) ** [[1月30日]]:高野鉄道により大小路駅(現在の堺東駅) - 狭山駅間が開業<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=658 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 ** [[4月2日]]:狭山駅 - 長野駅(現在の河内長野駅)間が開業。 * [[1900年]](明治33年) ** [[9月3日]]:道頓堀駅(現在の汐見橋駅) - 大小路駅間が開業<ref>[{{NDLDC|2948451/7}} 「運輸開業免許状下付」『官報』1900年9月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[9月7日]]:(臨)百舌鳥駅(現在の百舌鳥八幡駅)が開業<ref name="rinjimozu">『[{{NDLDC|948158/65}} いろは別鉄道駅名鑑 大正3年12月10日現在]』(鉄道講習会、1914年)では明治33年(1900年)9月7日開業としているが、これ以前にも『鉄道局年報』などに駅名あり(『[{{NDLDC|805399/95}} 明治三十一年度 鉄道院年報]』)。[[#imao|今尾 (2008)]] p. 37では1898年開業後廃止、1900年9月7日復活、1912年-1915年廃止としている。『[{{NDLDC|765688/14}} 高野登山鉄道沿線遊覧案内]』(咬菜社、1911年12月)p. 12 に臨時百舌鳥停車場の記述あり。ただし明治40年度(1907年度)版以降の『鉄道局年報』では記載なし。なお明治38・39年度版では百舌鳥駅に別の場所にあった百舌鳥貨物駅の貨物扱い高が計上されている。[{{NDLDC|805405/85}} 明治39年度]、[{{NDLDC|805406/77}} 明治40年度](各リンクは国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 9月8日:大小路駅を堺駅に改称の旨届出があったと官報掲載<ref>[{{NDLDC|2948451/7}} 「停車場改称」『官報』1900年9月8日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 9月11日:住吉駅を住吉東駅に、堺駅を堺東駅に改称の旨届出があったと官報掲載<ref>[{{NDLDC|2948453/10}} 「停車場改称」『官報』1900年9月11日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。<!--大小路→堺→堺東--> * [[1901年]](明治34年)[[1月1日]]:道頓堀駅を汐見橋駅に改称。 * [[1902年]](明治35年)1月1日:(臨)我孫子駅(のちの若宮駅)が開業。 * [[1903年]](明治36年)[[2月26日]]:勝間駅を阿部野駅(現在の岸里玉出駅)に改称。 * [[1907年]](明治40年)[[11月15日]]:高野鉄道が事業一切を高野登山鉄道に譲渡。 * [[1912年]](明治45年)<!-- 年が不確定なものについては「同年ごろ」などを消さないこと。--> ** 同年ごろ:百舌鳥貨物駅廃止<ref name="mozukamotsu">『大阪府統計書』には大正元年度(1912年度)まで記載([{{NDLDC|972851/153}} 大正元年度]、[{{NDLDC|972852/211}} 大正2年度]、国立国会図書館デジタルコレクション)。位置は今尾 (2008) p. 37。</ref>。 ** [[3月16日]]:我孫子駅を若宮駅に改称届出。 * 1912年([[大正]]元年) ** [[10月10日]]:汐見橋駅 - 長野駅(現在の河内長野駅)間が600V電化。我孫子前駅・中百舌鳥駅・萩原天神駅が開業<ref>[{{NDLDC|2952173/6}} 「軽便鉄道電車併用運転開始並停車場設置」『官報』1912年10月31日](国立国会図書館デジタルコレクション)による。南海電気鉄道{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/company/company/handbook/pdf/55_77.pdf 『ハンドブック南海』]}}や、今尾 (2008)p. 37では我孫子前駅開業は1907年1月6日。</ref>。 ** 11月15日:芦原町駅が開業。 * [[1913年]](大正2年) ** [[2月21日]]:津守駅が開業。 ** [[4月4日]]:河内半田駅 - 滝谷駅間に貨物駅として第一半田駅が開業(1927年 - 1930年ごろ廃止)。 ** [[5月10日]]:第一半田駅 - 滝谷駅間に貨物駅として第二半田駅が開業(1927年 - 1930年ごろ廃止)。 ** [[12月27日]]:百舌鳥駅を百舌鳥八幡駅に改称の旨届出があったと官報掲載<ref>[{{NDLDC|2952526/12}} 「軽便鉄道停留場改称」『官報』1913年12月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1914年]](大正3年) ** [[5月22日]]:狭山駅 - 滝谷駅間の池尻信号所廃止届出。 ** [[8月7日]]:北野田駅が開業。 ** [[10月21日]]:長野駅 - 三日市町駅間が開業。以降当初から電化。 * [[1915年]](大正4年) ** [[3月11日]]:[[紀見トンネル]](通称「紀見峠トンネル」、現在の天見駅 - 紀見峠駅間上り線)開通。三日市町駅 - 橋本駅間が開業。 ** 4月2日:高野辻駅 - 橋本駅間に(臨)橋本町駅開業。同年限りで廃止。<!-- 『大阪府統計書』には1915年度版のみ記載 --> ** [[4月30日]]:高野登山鉄道が大阪高野鉄道に社名変更。 ** [[6月22日]]:浅香山駅が開業。 ** [[9月1日]]:橋本駅 - (妻信号所) - (貨)紀ノ川口駅間が開業。 ** [[9月18日]]:西天下茶屋駅が開業。 * [[1917年]](大正6年) ** [[7月5日]]:河内半田駅(現在の大阪狭山市駅)が開業。 ** [[8月1日]]:住吉東駅 - 我孫子前駅間の(臨)若宮駅が廃止。 ** 10月1日:高野辻駅 - 橋本駅間に(臨)市脇山駅開業。1918年まで開設。 * [[1922年]](大正11年)[[9月6日]]:南海鉄道が大阪高野鉄道を合併。高野線になる<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=208,664 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1923年]](大正12年) ** 4月21日:高野辻駅を御幸辻駅に改称<ref>[{{NDLDC|2955334/9}} 「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1923年4月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[12月1日]]:汐見橋駅 - 橋本駅間で40分ごとに運転(大運転列車)<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=664 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1924年]](大正13年) ** [[3月18日]]:住吉東駅 - 我孫子前駅間が複線化。 ** [[9月8日]]:阿部野駅 - 住吉東駅間が複線化。 ** 10月26日:汐見橋駅 - 木津川駅間が複線化。 ** [[11月1日]]:妻信号所 - 学文路駅間が開業<ref name="100_665">{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=665 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。橋本駅 - 紀ノ川口駅間に妻信号所が開設。 ** [[12月25日]]:学文路駅 - 九度山駅間が開業<ref name="100_665"/>。 * [[1925年]](大正14年) ** 2月1日:阿部野駅を岸ノ里駅(現在の岸里玉出駅)に改称<ref>[{{NDLDC|2955885/6}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年2月7日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[3月15日]]:岸ノ里駅に南海本線との東連絡線開設。難波駅乗り入れ開始<ref name="100_665"/>。難波直通列車はホームがないため岸ノ里駅を通過。清水駅が開業。 ** [[3月27日]]:清水駅を紀伊清水駅に改称<ref>[{{NDLDC|2955930/9}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年4月4日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** [[3月28日]]:高野山電気鉄道設立。 ** [[6月8日]]:我孫子前駅 - 堺東駅間が複線化。 ** [[7月30日]]:九度山駅 - 高野山駅(現在の高野下駅)間が開業<ref>[{{NDLDC|2956038/7}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年8月10日](国立国会図書館デジタルコレクション)によると「九度山高野山間…」、哩程を示す駅名にも「高野山」とある。</ref>。 ** [[9月11日]]:高野山駅を高野下駅に改称<ref>[{{NDLDC|2956070/4}} 「地方鉄道駅名改称」『官報』1925年9月17日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1926年]](大正15年)[[12月3日]]:西天下茶屋駅 - 岸ノ里駅間および、岸ノ里駅東連絡線が複線化。西連絡線が開設。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月19日]]:妻信号所 - 紀ノ川口駅間に(貨)紀伊河瀬駅が開業。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[6月18日]]:高野山電気鉄道が高野下駅 - 神谷駅(現在の紀伊神谷駅)間が開業。1500V電化。 ** 6月22日:堺東駅 - 西村駅間が複線化。 * [[1929年]](昭和4年) ** 2月21日:高野山電気鉄道の神谷駅 - 極楽橋駅間が開業し全通。 ** 10月10日:西村駅 - 北野田駅間が複線化。 ** 11月1日:高野線全列車難波駅より発着開始。汐見橋駅 - 岸ノ里駅が事実上支線化<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=666 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。汐見橋駅発着列車は住吉東駅(出入庫列車は堺東駅)発着になる。 * [[1930年]](昭和5年) ** [[3月1日]]:細川駅を紀伊細川駅に、神谷駅を紀伊神谷駅に改称。 ** [[4月12日]]:木津川駅 - 西天下茶屋駅間、北野田駅 - 狭山駅間が複線化。 ** [[6月29日]]:[[南海鋼索線|鋼索線]](極楽橋駅 - [[高野山駅]]間)が開業し高野山上までの鉄道のみでのルートが完成。 * [[1932年]](昭和7年)[[4月28日]]:高野山電気鉄道が600Vに降圧し、南海高野線と相互直通運転開始。 * [[1934年]](昭和9年)[[12月26日]]:帝塚山駅が開業。 * [[1935年]](昭和10年)8月1日:西村駅を初芝駅に改称。 * [[1937年]](昭和12年) **[[4月19日]]:狭山駅 - 金剛駅間が複線化。金剛駅が開業。 **[[3月17日]]:紀伊神谷駅で暴走した電車が[[脱線]]、転覆。乗客2人が死亡、12人重軽傷の被害<ref>南海電鉄高野線で電車が脱線転覆『大阪毎日新聞』(昭和12年3月18日夕刊).『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p799 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 * [[1938年]](昭和13年)[[2月11日]]:金剛駅 - 長野駅間が複線化。千代田駅が開業。 * [[1942年]](昭和17年)[[2月15日]]:沢ノ町駅・三国ヶ丘駅が開業。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[6月1日]]:関西急行鉄道と南海鉄道が合併、近畿日本鉄道となる。 ** 9月3日:高野山電気鉄道紀伊細川駅 - 上古沢駅間で極楽橋行き電車が床下から火を噴き、停車して点検中に勾配を下り始めカーブで脱線転覆大破。71名死亡。 ** [[9月4日]]:萩原天神駅で100m以上オーバーランした長野発難波行き各駅停車がホームまで戻ったところへ定刻より約10分遅れで同駅通過の三日市町発難波行き急行が追突、通勤通学客で満員の両電車大破。5名死亡。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[3月13日]]:難波駅乗り入れ休止、全列車が汐見橋駅発着となる。 ** [[12月6日]]:汐見橋発橋本行き電車が速度超過により紀見峠駅の安全側線を越えて脱線転覆。27名死亡。 * [[1946年]](昭和21年)[[7月1日]]:難波駅乗り入れ再開<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=673 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1947年]](昭和22年) ** 3月15日:高野山電気鉄道が南海電気鉄道に社名変更。 ** 6月1日:近畿日本鉄道が旧・南海鉄道の路線を南海電気鉄道に譲渡。 * [[1949年]](昭和24年)7月30日:中百舌鳥駅 - 初芝駅間に(臨)中百舌鳥運動場前駅が開業。 * [[1950年]](昭和25年)4月1日:河内半田駅を狭山遊園前駅に改称。 * [[1951年]](昭和26年)[[7月7日]]:特急「こうや号」が運転開始<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=678 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。<!-- のちに「こうや号」から「こうや」に改称したのでこの時点では「こうや号」--> * [[1954年]](昭和29年)4月1日:長野駅を河内長野駅に改称。 * [[1957年]](昭和32年)6月29日:三日市町駅 - 千早口駅間に加賀田信号所が開設。 * [[1958年]](昭和33年) ** 5月10日:(臨)中百舌鳥運動場前駅が廃止。[[ファイル:Nankai21000 Amami.jpg|thumbnail|250px|[[南海21000系電車|21000系]]ズームカー(天見駅、1994年)]] ** 8月1日:ズームカー21000系が運転開始。 * [[1959年]](昭和34年)[[12月20日]]:妻信号所 - 紀ノ川口駅間が廃止。橋本駅 - 紀伊清水駅間の妻信号所が廃止。 * [[1961年]](昭和36年)7月5日:特急「こうや号」で20000系が運転開始。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[2月25日]]:紀見峠駅 - 御幸辻駅間が一部複線化。同区間に橋谷信号所が開設。 ** [[5月25日]]:白鷺駅が開業。 * [[1966年]](昭和41年)3月1日:千代田駅 - 河内長野駅間に千代田信号所が開設。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[1月18日]]:天下茶屋駅構内で南海本線春木発難波行き急行が信号を冒進し堺東行き下り回送列車に正面衝突。296名負傷([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故|天下茶屋駅列車衝突事故]])。 ** 4月1日:難波駅 - 河内長野駅間に[[自動列車停止装置|ATS]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite news |和書|title=あすからATS使用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-03-31 |page=1 }}</ref>。 ** [[6月20日]]:三日市駅 - 天見駅間で[[列車集中制御装置|CTC]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite news |和書|title=CTC 20日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-06-13 |page=1 }}</ref>。 * [[1969年]](昭和44年)11月1日:朝夕の通勤時間帯における大運転急行2往復に対し、河内長野駅で2両増結運転開始。 * [[1970年]](昭和45年)[[11月23日]]:岸ノ里駅に難波駅直通列車用ホーム設置。 * [[1971年]](昭和46年)4月1日:泉北高速鉄道と相互直通運転開始。 * [[1972年]](昭和47年) ** [[3月24日]]:河内長野 - 橋本間複線化工事第一工区(河内長野 - 三日市町間)着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=707 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 ** [[6月9日]]:河内長野 - 橋本間複線化工事第五工区(紀見トンネル天見方 - 紀見峠間)着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1997 |title=複線化工事の記録 高野線(河内長野~橋本間)|page=28 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年)[[10月7日]]:架線電圧を1500Vに昇圧。 * [[1974年]](昭和49年) ** [[3月24日]]:河内長野駅 - 三日市町駅間が複線化<ref>{{Cite news |和書|title=高野線河内長野-三日市町間が複線化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1974-03-26 |page=1 }}</ref>。大運転急行の増結・解放を河内長野駅から三日市町駅に変更。 ** [[6月10日]]:工事用道路着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1997 |title=複線化工事の記録 高野線(河内長野~橋本間)|page=5 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 ** [[11月9日]]:河内長野 - 橋本間複線化工事第六工区(紀見峠 - 御幸辻間)着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1997 |title=複線化工事の記録 高野線(河内長野~橋本間)|page=31 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)11月12日:河内長野 - 橋本間複線化工事第四工区(天見 - 紀見トンネル天見方間)着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1997 |title=複線化工事の記録 高野線(河内長野~橋本間)|page=23 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1976年]](昭和51年)4月4日:天見駅 - 紀見峠駅間下り線の「[[紀見トンネル|新紀見トンネル]]」(通称「紀見峠トンネル」)が竣工<ref>{{Cite news |和書|title=高野線 新紀見トンネルが完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1976-03-26 |page=1 }}</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)7月13日:河内長野 - 橋本間複線化工事第三工区(千早口 - 天見間)着工<ref name="名前なし-1">{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1985 |title=南海電気鉄道百年史 |page=385 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1979年]](昭和54年) ** [[5月26日]]:天見駅 - 紀見峠駅間が複線化。 ** [[6月3日]]:大運転急行のうち、朝通勤時の2往復を難波駅 - 三日市町駅間で4両増結の8両編成で運転開始。 * [[1980年]](昭和55年)9月30日:河内長野 - 橋本間複線化工事第二工区(三日市町 - 千早口間)着工<ref name="名前なし-1"/>。 * [[1981年]](昭和56年)[[11月22日]]:林間田園都市駅が開業。 * [[1983年]](昭和58年) ** [[6月5日]]:千早口駅 - 天見駅間、紀見峠駅 - 御幸辻駅間が複線化<ref name="交通8306">{{Cite news |和書|title=26日からダイヤ改正 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-06-01 |page=2 }}</ref>。橋谷信号所が廃止。 ** [[6月26日]]:特急「こうや号」で30000系運転開始{{R|交通8306}}、「こうや号」の2往復が通年運転となる。河内長野駅に全列車が停車するようになる。朝方上り・夕方下りに難波駅 - 橋本駅間の特急(通称"H特急")を新設<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=南海個性派列車列伝|year=2008 |publisher=電気車研究会 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=2008年8月臨時増刊号 |page=144-145}}</ref>。<!--特急料金を2区間制に分割。--> ** [[12月13日]]:三日市町駅 - 千早口駅間の複線化工事に伴い、新線に加賀田信号所を移転。 * [[1984年]](昭和59年) ** [[3月6日]]:三日市町駅 - 千早口駅間が複線化。加賀田信号所が廃止。 ** 3月11日:朝ラッシュ時に大型車両が林間田園都市駅まで乗り入れ開始。三日市町駅における大運転急行の増結・解放を昼間(閑散時)にも拡大し、ほぼ終日行われるようになる。 ** 9月1日:美加の台駅が加賀田信号所の跡地に開業。 ** [[9月16日]]:20000系がこの日限りで運用終了。 * [[1985年]](昭和60年)[[6月16日]]:汐見橋駅 - 岸ノ里駅間(汐見橋線)が岸ノ里駅以南と分断。昼間の区間急行が林間田園都市駅まで乗り入れ開始し、難波駅の発車時刻を10分前倒し。 * [[1986年]](昭和61年)5月22日:河内長野 - 橋本間複線化工事第七工区(御幸辻 - 橋本間)着工<ref>{{Cite book |和書 |author=南海電気鉄道 |year=1995 |title=南海二世紀に入って 十年の歩み |page=105 |publisher= |location= |isbn= |quote= }}</ref>。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[5月2日]]:南海初のVVVF制御車両として2000系(ズームカー)が運転開始。 ** 7月1日:朝方上り・夕方下りの難波駅 - 橋本駅間特急のみ林間田園都市駅にも停車開始。 * [[1992年]](平成4年)[[11月10日]]:難波駅 - 橋本駅間特急を「りんかん」と命名<ref name="kotsu20201013">{{Cite news |和書|title=南海高野線11月10日ダイヤ改正 橋本まで大型車乗り入れ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1992-10-13 |page=2 }}</ref>。「こうや号」を「こうや」と改称。特急車11000系(21m級車両)が運転開始<ref name="kotsu20201013"/>。大型車両橋本駅まで乗り入れ開始<ref name="kotsu20201013"/>。金剛駅および林間田園都市駅に全列車が停車するようになる<ref name="kotsu20201013"/>。 * [[1993年]](平成5年)[[4月18日]]:岸ノ里駅と南海本線玉出駅が統合され岸里玉出駅となる<ref>{{Cite news |和書|title=萩ノ茶屋-玉出間高架化 18日から使用開始 南海「岸里玉出」統合駅新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-04-14 |page=1 }}</ref>。 * [[1994年]](平成6年)[[7月21日]]:御幸辻駅 - 橋本駅間を新線に切り替え。 * [[1995年]](平成7年) ** 9月1日:御幸辻駅 - 橋本駅間が複線化<ref name="交通950725">{{Cite news |和書|title=南海 高野線9月ダイヤ改正 御幸辻-橋本間複線化完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-07-25 |page=1 }}</ref>。難波駅 - 橋本駅間に「りんかんサンライン」の愛称を使用開始。ズームカーによる急行の増結・解放の実施駅が一部をのぞいて三日市町駅から橋本駅に変更。平日朝ラッシュ時に難波駅 - 河内長野駅間でズームカーの急行10両編成運転開始。このときの運賃改定で河内長野駅 - 極楽橋駅間の営業キロを0.6km短縮。<!--河内長野 - 橋本-0.5、橋本 - 極楽橋-0.1 --> ** 11月1日:南海本線萩ノ茶屋駅 - 岸里玉出駅間の高架化が完成<ref>{{Cite news |和書|title=大阪市内全線高架に 南海本線 来月1日から切り替え |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-10-20 |page=1 }}</ref>。東側2線を高架化。 * [[1996年]](平成8年)[[11月24日]]:御幸辻駅 - 橋本駅間に小原田信号所開設。土曜・休日ダイヤ導入。天下茶屋駅に区間急行・準急行の全列車が停車するようになる<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1997-03 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 31 |issue = 3 |page = 103 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref><ref>{{Cite|和書|author=南海電気鉄道|title=南海電鉄最近の10年 創業120周年記念|year=2005|pages=55,97}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[9月30日]]:学文路駅構内難波方の[[分岐器]]付近で発車直後の難波行き急行が脱線。いわゆる「せり上がり脱線」。 * [[1999年]](平成11年)3月1日:特急「こうや」「りんかん」で31000系が運転開始。 * [[2000年]](平成12年)[[12月23日]]:狭山遊園前駅を大阪狭山市駅に改称。難波駅 - 橋本駅間で特急の8両運転開始<ref name="JRC580">{{Cite journal|和書 |title=モハユニ |journal = RAIL FAN |date = 2001年2月号 |issue = 3 |volume = 48 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 25 }}</ref>、「こうや」「りんかん」の併結運転開始。日中の区間急行を急行に格上げ<ref name="JRC580"/>。天下茶屋駅に全列車が停車するようになる<ref name="JRC580"/>。日中のダイヤが10分・15分間隔の混在型から一律12分間隔となり<ref name="JRC580"/>、優等列車の増発と各停の運転本数削減。汐見橋線ワンマン運転開始<ref name="JRC580"/>。 * [[2002年]](平成14年)3月28日:紀伊細川駅 - 紀伊神谷駅間で[[土砂災害|土砂崩落]]が発生し、走行中の難波行き急行が乗り上げ脱線。高野下駅 - 極楽橋駅間が運休し、翌日復旧。 * [[2003年]](平成15年) ** [[2月24日]]:紀伊細川駅 - 紀伊神谷駅間で土砂崩落が発生し<ref name="rail fan">{{Cite journal|和書 |author = 外山勝彦 |date = 2003-05-01 |title = 鉄道記録帳2003年2月 |journal = RAIL FAN |issue = 5 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 21 }}</ref>、走行中の極楽橋行き急行が乗り上げ脱線。1名負傷。高野下駅 - 極楽橋駅間が運休し、2月27日部分復旧、3月3日完全復旧。 ** [[5月31日]]:日中に快速急行を運転開始<ref name="RJ37-8"/>。ズームカーの10両編成運転終了。平日朝の上り急行で女性専用車両を導入<ref name="RJ37-8"/>。 * [[2005年]](平成17年) ** [[3月31日]]:2300系(ズームカー)が運転開始。 ** [[10月16日]]:難波駅 - 極楽橋駅間の急行が系統分割され、一部のぞき橋本駅折り返しになる。橋本駅 - 極楽橋駅間で2300系によるワンマン運転開始。特急列車の増発。区間急行が再び終日運転となる。 * [[2007年]](平成19年)[[10月27日]]:浅香山駅北付近の線路上に小型[[ヘリコプター]]が墜落炎上する[[大阪航空堺市墜落事故]]が発生し、搭乗員2名が死亡。電車は通過していなかったが、一時上下線とも運転見合わせとなった。 * [[2008年]](平成20年)11月1日:平日夕方にも下り急行2本の格上げで快速急行を設定するとともに、快速急行初の4扉大型車両運転開始。 * [[2009年]](平成21年) ** 2月6日:紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、丹生川橋梁、鋼索線が[[近代化産業遺産]](高野山参詣関連遺産)に認定される。 ** [[3月20日]]:「りんかんサンライン」の愛称を事実上廃止。 ** [[7月3日]]:2200系を改造した観光列車「天空」を橋本駅 - 極楽橋駅間で運行開始。 ** 7月5日:6100系がこの日限りで運用終了。 * [[2011年]](平成23年)[[9月5日]] - [[10月3日]]:[[平成23年台風第12号|台風12号]]による大雨の影響で橋本駅 - 紀伊清水駅間の紀ノ川橋梁において線路に歪みが認められたため、同区間の列車の運転を休止し、バスによる代行輸送実施。特急「こうや」は橋本止まり、観光列車「天空」は全区間運休となった。 * [[2012年]](平成24年)[[7月2日]] - [[9月7日]]:[[東日本大震災による電力危機#2012年夏季の電力危機|夏季の電力事情]]に対応するため、お盆期間(8月13日-15日)をのぞく平日に通常6両で運行する快速急行4本、急行2本、区間急行6本、各駅停車12本について4両に減車して運行<ref group="注">このうち快速急行と区間急行を中心に10本が[[南海2000系電車|2000系]]の2扉車で実施し、残りの14本が4扉車で実施した。また、各駅停車をのぞいて日中に実施し、各駅停車については日中から夜間にかけて実施した。</ref><ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/setsuden/index.html 今夏の節電に対する取組みについて] - 南海電気鉄道、2012年9月1日閲覧。</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[7月22日]]:平日朝の泉北高速鉄道直通の準急行10両編成運転終了。これにより南海での10両編成運転は全廃され、8両が最長編成になる。 ** [[10月26日]]:平日深夜に難波発三日市町行き準急行を新設。 * [[2015年]](平成27年) ** [[5月9日]]:難波駅周辺で発見された[[不発弾]][[不発弾処理 (自衛隊)|処理]]のため、難波駅 - 堺東駅間で一時運転見合わせ<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150424_2.pdf 不発弾処理・撤去に伴う列車運行および商業施設などの営業について]}} - 南海電気鉄道、2015年4月24日閲覧</ref>。 ** [[12月5日]]:朝夕に泉北高速鉄道直通の特急「泉北ライナー」運転開始。日中のダイヤが15分間隔となり、泉北線直通列車の増発と高野線の運転本数削減。平日朝の上りに運転される区間急行(高野線・泉北線とも)にも女性専用車両を導入。堺東行き下り終列車を5分繰り下げ、難波駅24:25発とする<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/151008.pdf 12月5日(土)高野線・泉北線のダイヤ改正を実施します]}} - 南海電気鉄道、2015年10月8日</ref><ref>[http://railf.jp/news/2015/12/06/210000.html “泉北ライナー”の運転開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2015年12月6日</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[8月26日]]:特急「泉北ライナー」を増発。日中の泉北線直通列車のうち、区間急行を各駅停車の格上げにより増発。夕方以降の特急以外の泉北線直通列車を準急行に統一。日中の急行と各駅停車の接続駅を堺東駅・金剛駅から朝夕と同じ堺東駅・北野田駅に変更<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/170608_3.pdf 高野線・泉北線のダイヤを改正し、特急「泉北ライナー」を増発します]}} - 南海電気鉄道、2017年6月8日</ref>。 ** [[10月22日]]:[[平成29年台風第21号|台風21号]]の影響により上古沢駅構内で道床流出が発生し、高野下駅 - 極楽橋駅間が運転見合わせ<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207347.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第4報) (2017/10/24 7:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。橋本駅 - 高野山駅間で23日からバス代行輸送を実施、地盤調査の結果[[地すべり]]が発生していると判明<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/transfer.html 台風21号の影響による列車の運休区間について] - 南海電気鉄道、2017年10月24日</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[3月31日]]:上古沢駅周辺の復旧工事が完了し、高野下駅 - 極楽橋駅間の運行再開。上古沢駅の[[列車交換]]設備を下古沢駅に移設。列車交換設備の移設に伴い、橋本駅 - 極楽橋駅間および鋼索線でダイヤ修正を実施<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/transfer.html 高野線(高野下駅~極楽橋駅)の運転再開について] -南海電気鉄道、2018年3月22日</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/80026 南海高野線の不通区間、31日再開 上古沢の列車交換設備移設で一部ダイヤ修正] - 乗りものニュース、2018年3月22日</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20180401/k00/00m/040/030000c 南海高野線:5カ月ぶり運転再開 台風被害で運休] - 毎日新聞、2018年3月31日</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[11月22日]]:高野線向け8300系が運転開始<ref name="raifjp20191123">[https://railf.jp/news/2019/11/23/200000.html 南海高野線で8300系が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年11月23日</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[5月27日]]:[[小原田検車区]]内で発生した[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#南海高野線小原田検車区内脱線事故|特急車両脱線事故]]により、一部の特急「こうや」「りんかん」が運休。代替として2000系による自由席特急(特急料金不要)を運転<ref>{{Cite news |和書 |title=南海高野線の特急が料金不要の通勤電車に 脱線で車両使えず |newspaper=朝日新聞 |author=松永和彦 |date=2022-05-27 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ5W6G1NQ5WPTIL01H.html |accessdate=2022-05-30}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[4月29日]]:前述の2022年5月に小原田検車区で脱線事故を起こした30000系電車の修復が終わり、この日から特急「こうや」の運行本数が約11か月ぶりに通常に復帰<ref>{{cite press release |和書 |url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230406.pdf |title=〜 見頃を迎える新緑彩る高野山へ 〜 特急こうやは、4月29日(土・祝)から通常運転します |publisher=南海電気鉄道 |format=PDF |date=2023-04-06 |accessdate=2023-08-26 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2023/04/29/174000.html |title=南海30000系30001編成が営業運転に復帰 |date=2023-04-29 |publisher=交友社 |website=鉄道ファン・railf.jp |accessdate=2023-08-26}}</ref>。 * [[2030年]](令和12年)度:浅香山駅 - 堺東駅付近の高架工事を開始する予定<ref name="高架工事工程">{{PDFlink|1=[https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/kouyasen/kouyasenkankyou/jyunbisyohonpen.files/junnbisho2.pdf#page=12 南海高野線連続立体交差事業 環境影響評価準備書(本編) 都市計画対象事業の名称、目的および内容]}} - 堺市建設局道路部 連続立体推進課 p.12、2020年9月13日閲覧。</ref>。2035年度まで<ref name="高架工事工程" />。 <!-- 列車の新設・廃止など運行形態が変わるのは、大抵ダイヤ改正時なので「ダイヤ改正」の語句は省いています。列車の詳細については上の各種別の節や、あれば個別の列車記事に記述を。 --> == 駅一覧 == === 難波駅 - 岸里玉出駅 - 極楽橋駅間 === *難波駅 - 天下茶屋駅間の駅と高野線各駅(帝塚山駅以南・汐見橋線)との間の運賃は岸ノ里分岐点(旧・岸ノ里駅)接続で計算する。岸ノ里分岐点の高野線のキロ程は岸里玉出駅と同じだが、南海線のキロ程は天下茶屋駅 - 岸ノ里分岐点が0.7kmとなるため、例えば難波駅 - 極楽橋駅間(岸里玉出駅経由で63.8km)の場合、難波駅 - 岸ノ里分岐点3.7km、岸ノ里分岐点 - 極楽橋駅間59.9kmを合計した63.6kmとなる。 *各駅停車は全旅客駅に停車する(表中省略)。 <!-- 詳細な運行形態、その他運行上の特記・例外事項は上の運行形態節に記述を。--> ;凡例 :駅名 … #:列車待避可能駅 :岸里玉出駅からの営業キロ … 難波駅 - 天下茶屋駅間の駅については、岸ノ里分岐点からの営業キロを記載 :停車駅 … ●:全列車停車、◆:橋本駅始発の臨時特急のみ停車、▲:「[[泉北ライナー]]」は通過、|:全列車通過 :線路 … &#124;&#124;:複線区間、◇・|:単線区間(◇は[[列車交換]]可能)、∨:ここより下は単線 <!-- 背景色は文字を見やすくするため薄め・明るめにしてあります(特に天空)。--> {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%" |-style="line-height:1.2em;" !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}} !rowspan="2" style="width:4em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅番号 !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅名 !rowspan="2" style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅間<br />キロ !colspan="2"|営業キロ !rowspan="2" style="width:1em; background:#9cf; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|準急行|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#cf9; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|区間急行|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#fc9; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|急行|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#fb7; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|快速急行|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#0cc; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|天空|height=5em}} !rowspan="2" style="width:1em; background:#f96; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|特急|height=5em}} !rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|接続路線 !rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|所在地 |- !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|汐見橋<br />から !style="width:3em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|岸里<br />玉出<br />から |- |rowspan="6" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|南海本線|height=5em}} !NK01 |[[難波駅 (南海)|難波駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(3.7) |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● |[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M20) ・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] (S16) ・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y15)([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]]([[大阪難波駅]]:A01)<br />[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|15px|HS]] [[阪神なんば線]]([[大阪難波駅]]:HS 41)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])([[JR難波駅]]:JR-Q17) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="31" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="11" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}} |[[中央区 (大阪市)|中央区]] |- !NK02 |[[今宮戎駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(2.8) |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |[[浪速区]] |- !NK03 |[[新今宮駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(2.3) |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● ||西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]](JR-O19)・{{JR西路線記号|K|Q}} 関西本線(大和路線)(JR-Q19)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線([[動物園前駅]]:M22)・[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]](動物園前駅:K19)<br />[[阪堺電気軌道]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|green|■}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]]([[新今宮駅前停留場]]:HN52) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="5"|[[西成区]] |- !NK04 |[[萩ノ茶屋駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(1.7) |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK05 |[[天下茶屋駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(0.7) |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海本線]]<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] 堺筋線 (K20) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |-style="height:1em;" !rowspan="2"|NK06 |rowspan="2"|[[岸里玉出駅]] |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.9 |rowspan="2" style="text-align:right;"|4.6 |rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0 |rowspan="2" style="text-align:center; background:#9cf;"|| |rowspan="2" style="text-align:center; background:#cf9;"|| |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fc9;"|| |rowspan="2" style="text-align:center; background:#fb7;"|| |rowspan="2"| |rowspan="2" style="text-align:center; background:#f96;"|| |rowspan="2"|南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] 南海本線・[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[#汐見橋駅_-_岸里玉出駅間_3|汐見橋線]] |rowspan="2" style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- |rowspan="39" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|'''高野線'''|height=6em}} |- !NK51 |[[帝塚山駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|5.7 |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="4"|[[住吉区]] |- !NK52 |[[住吉東駅]]# |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|6.6 |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| ||阪堺電気軌道:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|orange|■}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]([[神ノ木停留場]]:HN09) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK53 |[[沢ノ町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|7.5 |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK54 |[[我孫子前駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|8.1 |style="text-align:right;"|3.5 |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK55 |[[浅香山駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|9.4 |style="text-align:right;"|4.8 |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="9" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[堺市]]|height=4em}} |rowspan="4"|[[堺区]] |- !NK56 |[[堺東駅]]# |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|11.0 |style="text-align:right;"|6.4 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|▲ |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK57 |[[三国ヶ丘駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|12.5 |style="text-align:right;"|7.9 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| ||西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|R}} [[阪和線]](JR-R29) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK58 |[[百舌鳥八幡駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|13.4 |style="text-align:right;"|8.8 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK59 |[[中百舌鳥駅]]# |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|14.1 |style="text-align:right;"|9.5 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |[[泉北高速鉄道]]:[[File:Number prefix Semboku Rapid Railway line.png|20px|SB]] [[泉北高速鉄道線]] (SB01)(一部直通運転:下記参照)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線 (M30) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="2"|[[北区 (堺市)|北区]] |- !NK60 |[[白鷺駅]]# |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|15.1 |style="text-align:right;"|10.5 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK61 |[[初芝駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|16.6 |style="text-align:right;"|12.0 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="3"|[[東区 (堺市)|東区]] |- !NK62 |[[萩原天神駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|17.5 |style="text-align:right;"|12.9 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK63 |[[北野田駅]]# |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|19.3 |style="text-align:right;"|14.7 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK64 |[[狭山駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|20.2 |style="text-align:right;"|15.6 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |colspan="2" rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[大阪狭山市]] |- !NK65 |[[大阪狭山市駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|21.8 |style="text-align:right;"|17.2 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK66 |[[金剛駅]]# |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|22.9 |style="text-align:right;"|18.3 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK67 |[[滝谷駅 (大阪府)|滝谷駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|24.6 |style="text-align:right;"|20.0 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |colspan="2"|[[富田林市]] |- !NK68 |[[千代田駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|25.9 |style="text-align:right;"|21.3 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |colspan="2" rowspan="7"|[[河内長野市]] |- !style="text-align:center;"| |[[千代田信号所]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|(26.6) |style="text-align:right;"|(22.0) |style="text-align:center; background:#9cf;"|| |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK69 |[[河内長野駅]]# |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|28.0 |style="text-align:right;"|23.4 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● ||近畿日本鉄道:{{近鉄駅番号|O}} [[近鉄長野線|長野線]] (O23) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK70 |[[三日市町駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|29.7 |style="text-align:right;"|25.1 |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK71 |[[美加の台駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|31.3 |style="text-align:right;"|26.7 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK72 |[[千早口駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|33.2 |style="text-align:right;"|28.6 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK73 |[[天見駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|34.9 |style="text-align:right;"|30.3 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK74 |[[紀見峠駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|38.6 |style="text-align:right;"|34.0 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="14" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[和歌山県]]|height=5em}} |colspan="2" rowspan="7"|[[橋本市]] |- !NK75 |style="white-space:nowrap;"|[[林間田園都市駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|39.9 |style="text-align:right;"|35.3 |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK76 |[[御幸辻駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|41.9 |style="text-align:right;"|37.3 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !style="text-align:center;"| ||[[小原田信号所]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(42.8) |style="text-align:right;"|(38.2) |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#fb7;"|| |&nbsp; |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK77 |[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|44.7 |style="text-align:right;"|40.1 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● ||西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|T}} [[和歌山線]] |style="text-align:center;"|∨ |- !NK78 |[[紀伊清水駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|47.8 |style="text-align:right;"|43.2 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !NK79 |[[学文路駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|50.4 |style="text-align:right;"|45.8 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|◆ |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !NK80 |[[九度山駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|52.2 |style="text-align:right;"|47.6 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|◆ |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="7" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[伊都郡]]|height=6em}} |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[九度山町]] |- !NK81 |[[高野下駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|54.2 |style="text-align:right;"|49.6 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !NK82 |[[下古沢駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|55.9 |style="text-align:right;"|51.3 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !NK83 |[[上古沢駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|57.6 |style="text-align:right;"|53.0 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- !NK84 |[[紀伊細川駅]] |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:right;"|60.6 |style="text-align:right;"|56.0 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="3"|[[高野町]] |- !NK85 |[[紀伊神谷駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|63.0 |style="text-align:right;"|58.4 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- !NK86 |[[極楽橋駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|64.5 |style="text-align:right;"|59.9 |&nbsp; |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#fb7;"|● |style="text-align:center; background:#0cc;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● ||南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[南海鋼索線|鋼索線]] |style="text-align:center;"|◇ |- !colspan="6"|直通運転区間 |colspan="11"|'''中百舌鳥駅から'''<br />○準急行・区間急行・特急…泉北高速鉄道線[[和泉中央駅]]まで |} === 汐見橋駅 - 岸里玉出駅間 === *通称「'''汐見橋線'''」。全駅[[大阪府]][[大阪市]]内に所在。全列車各駅停車。 *線路 … &#124;&#124;:複線区間、Y:終点(駅構内列車交換不可) {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%" |- !style="width:5em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅番号 !style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|営業キロ !style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|接続路線 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #009a41;"|{{縦書き|線路}} !style="border-bottom:solid 3px #009a41;"|所在地 |- !NK06-5 |[[汐見橋駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|15px|HS]] 阪神なんば線([[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]:HS 42)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] 千日前線(桜川駅:S15) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="2"|[[浪速区]] |- !NK06-4 |[[芦原町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|0.9 |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} 大阪環状線([[芦原橋駅]]:JR-O17) |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK06-3 |[[木津川駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|1.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |rowspan="4"|[[西成区]] |- !NK06-2 |[[津守駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|2.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK06-1 |[[西天下茶屋駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|3.6 |&nbsp; |style="text-align:center;"|&#124;&#124; |- !NK06 |[[岸里玉出駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|4.6 |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] 南海本線・[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[#難波駅 - 岸里玉出駅 - 極楽橋駅間|高野線]] |style="text-align:center;"|Y |} === 廃駅 === 駅名は最終のもの。 * 若宮駅(沢ノ町駅 - 我孫子前駅間、1902年1月1日開業、1917年8月1日廃止) * 百舌鳥貨物駅(中百舌鳥駅 - 中百舌鳥運動場前駅間、1912年ごろ廃止<ref name="mozukamotsu" />) * 中百舌鳥運動場前駅(百舌鳥貨物駅 - 白鷺駅間、1949年7月30日開業、1958年5月10日廃止) * 第一半田駅(大阪狭山市駅 - 第二半田駅間、1913年4月4日開業、1930年ごろまでに廃止。貨物駅) * 第二半田駅(第一半田駅 - 金剛駅間、1913年5月10日開業、1930年ごろまでに廃止。貨物駅) * 市脇山駅(御幸辻駅 - 橋本町駅間、1917年10月1日開業、1918年廃止。臨時駅) * 橋本町臨時乗降場(市脇山駅 - 橋本駅間、1915年4月2日開業、同年中に廃止。臨時駅) * 紀ノ川口駅(橋本駅 - 紀伊清水駅間の妻信号所から分岐、1915年9月1日開業、1959年12月20日廃止。貨物駅) == 連続立体交差事業 == ;大阪市 :帝塚山駅 - 大和川間で、整備に向けて検討している<ref>{{PDFlink|1=[https://www.city.osaka.lg.jp/shikai/cmsfiles/contents/0000474/474027/j247.pdf#page=44 大阪市会時報 NO.247]}} - 大阪市市会事務局 p.42、2022年7月4日閲覧。</ref>。 ;堺市 :2022年3月28日に大阪府知事から浅香山駅 - 堺東駅付近の認可を取得した<ref>[https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/kouyasen/ninka.html 事業認可取得について] - 堺市建設局道路部 連続立体推進課、2022年4月13日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書| author=公評散史| year=1896| url =https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778622/66| title=兵庫県人物評| volume=2| volume-title=| publisher=神戸同盟出版社 | page=43| quote=| ref =harv}} *{{Cite journal | 和書 | journal = [[鉄道ピクトリアル]] | date = 2008年8月 | volume = 臨時増刊号 | title = 特集:南海電気鉄道 | publisher = [[電気車研究会]] }} *{{Cite book | 和書 | author = 南海電気鉄道車両部・[[諸河久]]・岩堀春夫 | title = 日本の私鉄11 南海 | year = 1991 | publisher = [[保育社]] | series = カラーブックス 811 | ref = cb-nankai}} *{{Cite book | 和書 | author = 佐藤博之・浅香勝輔 | title = 民営鉄道の歴史がある景観 | volume = 1 | publisher = [[古今書院]] | year = 1986 }} *{{Cite journal | 和書 | author = [[国土交通省]]鉄道局(監修)| title = 鉄道要覧 | volume = 平成18年度版 | publisher = 電気車研究会 }} *{{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790026-5 | ref = imao }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[ズームカー]] * [[全国登山鉄道‰会]] * [[阪急今津線]] - 同じく、同一路線内で運転系統が物理的に分断されている路線。 == 外部リンク == * [http://www.nankai.co.jp/traffic/railmap/koya.html 高野線] {{南海電鉄の鉄道路線}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1 = 中古沢橋梁 |1-1 = 和歌山県の橋 |1-2 = トレッスル橋 |1-3 = 九度山町 |1-4 = 土木学会選奨土木遺産 }} {{DEFAULTSORT:なんかいこうやせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線|こうやせん]] [[Category:南海電気鉄道の鉄道路線|こうや]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:和歌山県の交通]] [[Category:登山鉄道]]
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オフィス
オフィス (office) とは、事務作業を行う部屋。事務所、事務局、事務室などの事務作業場のこと。また、一般的に業務施設という場合もオフィスを用途とした施設・建物(ビルなど)を指すことが多い。 欧米ではオフィス (office) における作業は、組織運営、規則を定める、企画検討、公的執務、役員や弁護士の執務などの作業の意味を持つ場合がある。また一人専用の執務・作業の意味を持つ場合がある。 製造工場や店舗等商業施設などにおいても、その支援のために事務作業を行う場所はオフィスである。オフィスで働くことをオフィスワーク(事務作業)という。オフィスワークを行うことを主目的につくられた建物をオフィスビル、オフィスそのものを設計することをオフィスデザインという。 オフィスには、以上のように場所や空間スペース施設を表す形態的意味とビジネス情報処理を行うといった機能面を表す概念的意味もある。情報通信技術やコンピュータの発展に伴い、情報処理が「いつでも」「どこでも」行えるようになってきたため、コンピュータ上に作り出される概念的オフィスをバーチャルオフィス(virtual office、仮想オフィス)と呼んでいる。 オフィスはコンピュータの発達につれて、知的労働の場としての意味合いが重視されるようになっており、ビジネスの現場ではオフィス環境による知的生産性向上が問われるようになってきている。 作業空間(ワークスペース)の様態は、個々の空間の仕切りの有無や高さ、対面か非対面か、どのような配列か、などによりいくつかに分類される。 ガーデンオフィス(garden office)とは、庭にあるオフィス機能のことである。通常、住宅とは別に、リモートワークや在宅ビジネス専用のオフィス空間として利用される。 著名なユーザーにはフィリップ・プルマンなどが著名。 イギリスほかでは、自宅の書斎として使うだけであれば、サイズや構造が庭の物置などと同様であれば、通常、ガーデンオフィス(建物、オフィス小屋)の計画許可申請は不要である。自宅の書斎として使うガーデンオフィスは、勾配屋根の場合、高さが4メートル以下、敷地境界から2メートル以上、庭の面積の半分以上を占めない限り計画許可が不要。ただしこのオフィスでビジネスを行う場合は、そのサイズや庭の中の位置に関係なく、計画許可が必要になる。これは自宅の庭で仕事をすると、近隣住民に迷惑がかかるとの懸念からである。 設置コストは設備に依存するが、イギリスならば5000ポンドから6万ポンドまでの間に収まる。物置などのユニットオフィスを新築・新規設置のほか、既存のものを改築する方法もある。またオーニングやパーゴラスタイルなど屋外空間型のものもある。
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オフィス (office) とは、事務作業を行う部屋。事務所、事務局、事務室などの事務作業場のこと。また、一般的に業務施設という場合もオフィスを用途とした施設・建物(ビルなど)を指すことが多い。
{{Otheruses|場所としてのオフィス}} {{複数の問題 |出典の明記=2013年9月 |独自研究=2023年5月 |精度 = 2023年5月 }} [[File:The Lens corner New Orleans.jpg|thumb|220px|報道機関のオフィス(アメリカ・ニューオーリンズ)]] [[File:59-OBO-814-PM S 3939 Osaka - Consulate Office Building - 1987.jpg|thumb|オフィス([[駐大阪・神戸米国総領事館]])]] '''オフィス''' (office) とは、[[事務]]作業を行う部屋。'''[[事務#事務所|事務所]]'''、'''事務局'''、'''事務室'''などの事務作業場のこと。また、一般的に'''[[業務]]施設'''という場合もオフィスを用途とした[[施設]]・[[建物]]([[オフィスビル|ビル]]など)を指すことが多い。 == 概要 == [[欧米]]では'''オフィス''' (office) における作業は、組織運営、規則を定める、企画検討、公的執務、[[役員 (会社)|役員]]や[[弁護士]]の執務などの作業の意味を持つ場合がある。また一人専用の執務・作業の意味を持つ場合がある。 [[製造]][[工場]]や店舗等[[商業施設]]などにおいても、その支援のために事務作業を行う場所はオフィスである。オフィスで働くことを'''オフィスワーク'''('''事務作業''')という。オフィスワークを行うことを主目的につくられた建物を'''[[オフィスビル]]'''、オフィスそのものを設計することを'''オフィスデザイン'''という。 オフィスには、以上のように場所や空間スペース施設を表す形態的意味とビジネス情報処理を行うといった機能面を表す概念的意味もある。[[情報技術|情報通信技術]]や[[コンピュータ]]の発展に伴い、情報処理が「いつでも」「どこでも」行えるようになってきたため、コンピュータ上に作り出される概念的オフィスを'''[[バーチャルオフィス]]'''(virtual office、'''仮想オフィス''')と呼んでいる。 オフィスはコンピュータの発達につれて、知的労働の場としての意味合いが重視されるようになっており、[[ビジネス]]の現場ではオフィス環境による[[知的生産性]]向上が問われるようになってきている。 == オフィス空間の要素 == === 作業空間 === 作業空間(ワークスペース)の様態は、個々の空間の仕切りの有無や高さ、対面か非対面か、どのような配列か、などによりいくつかに分類される。 <gallery> Open office.png|オープンオフィス:大部屋に大人数が机を並べており、遠くまで見通せるもの<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9-450770 オープンオフィス]、小学館、『デジタル大辞泉』(コトバンク収録)、2019年6月3日閲覧</ref>。 Team space.png|低い仕切りがある、部署ごとのブース Team room.png|部署ごとの小部屋 Shared office.png|少人数の小部屋 Cubicle.png|低い仕切りがある、個人のブース Private office.png|高い仕切りがある、個室型 </gallery> === その他の要素 === * [[会議室]]・[[ミーティング]]スペース - 独立した会議室、仕切られた少人数の打ち合わせスペース、気軽に話せるミーティングスペースなど様々な形態がある。 * [[文書]]スペース * [[倉庫]] * [[印刷]]スペース * 休憩室 * [[食堂]] * [[ロッカー]] * [[喫煙室]] * [[Wi-Fi]]・[[イーサネット]] - Wi-Fiとイーサネットの組み合わせは、現在、オフィス環境で見られる最も一般的な[[アーキテクチャ]]である<ref>{{Cite book|title=Foundations of modern networking : SDN, NFV, QoE, IoT, and Cloud|url=https://www.worldcat.org/oclc/927715441|date=2016|location=Indianapolis, Indiana|isbn=978-0-13-417547-8|oclc=927715441|others=Florence Agboma, Sofiene Jelassi|first=William|last=Stallings}}</ref>。 == ガーデンオフィス == [[File:James-Murray.jpg|thumb|upright|オックスフォード、バンバリー・ロードにある自宅の庭書庫にいるジェームズ・マーレー卿]] ガーデンオフィス(garden office)とは、[[庭]]にあるオフィス機能のことである。通常、住宅とは別に、[[リモートワーク]]や[[在宅ビジネス]]専用のオフィス空間として利用される<ref>[https://www.elle.com/jp/decor/decor-interior-design/g36392668/garden-office-design-ideas-0611/ “ガーデンオフィス”がリモートワークの救世主に! 生産性を高めるデザインアイディア 自分だけに合った、居心地のいいワークスペース作りをしよう。]</ref>。 {{main|:en:Garden_office}} 著名なユーザーには[[フィリップ・プルマン]]<ref>[https://www.quick-garden.co.uk/garden-offices/ Outdoor Garden Offices UK]</ref>などが著名。 [[イギリス]]ほかでは、自宅の[[書斎]]として使うだけであれば、サイズや構造が庭の[[物置]]などと同様であれば、通常、ガーデンオフィス(建物、オフィス小屋<ref>[https://www.tokyoworkspace.com/jam/entry/308 卵型ガーデンオフィス]</ref>)の計画許可申請は不要である。自宅の書斎として使うガーデンオフィスは、[[勾配]][[屋根]]の場合、高さが4メートル以下、[[敷地]][[境界]]から2メートル以上、[[庭]]の面積の半分以上を占めない限り計画許可が不要。ただしこのオフィスでビジネスを行う場合は、そのサイズや庭の中の位置に関係なく、計画許可が必要になる。これは自宅の庭で仕事をすると、近隣住民に迷惑がかかるとの懸念からである。 設置コストは設備に依存するが、イギリスならば5000ポンドから6万ポンドまでの間に収まる<ref>{{cite web|title=Garden Room details|url=http://www.henleyoffices.com/canto-garden-room.html|publisher=www.henleyoffices.com |access-date=2023-05-01 }}</ref>。物置などのユニットオフィスを新築・新規設置のほか、既存のものを[[改築]]する方法もある<ref>[https://architecturephoto.net/97928/ VUILDによる、神奈川・鎌倉市の、既存民家を解体し“庭の中のオフィス”として活用する「カヤックガーデンオフィス」]</ref><ref>[https://www.domocica.com/column/details_12257.html 新築住宅で快適に仕事をこなす。「ガーデンオフィス」というアイデア]</ref>。また[[オーニング]]や[[パーゴラ]]スタイルなど屋外空間型のものもある<ref>[https://yadokari.net/minimal-life/5891/ 庭と一体化!機能的で温かいフレーバーのガーデンオフィス 「Hackney Shed」]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary|オフィス}} {{Wiktionary|office}} {{Commonscat|Offices}} * [[オフィスビル]] * [[オフィス街]] * [[サテライト・オフィス]] * [[Small Office/Home Office]] * [[特定建築物]] * [[オフィサー]] * [[対向島型]] * [[業務]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おふいす}} [[Category:オフィス|*]] [[Category:部屋]]
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南海本線
南海本線(なんかいほんせん)は、大阪府大阪市中央区・浪速区の難波駅から和歌山県和歌山市の和歌山市駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。 「本線」という路線名ではなく、社名略称を冠した「南海本線」が正式な路線名である。南海本線自体を指して、または南海本線に接続する各支線(高野線・汐見橋線・空港線以外の路線)を含めて通称南海線と呼称される。路線シンボルマークは、波しぶきをイメージしたもの()で、ラインカラーは青。 高野線と並ぶ南海電鉄における主要路線である。南海本線単体としては大阪市 - 和歌山市間の都市間連絡及び大阪市への通勤・通学輸送を担う近郊路線である。また、空港線を経由する関西国際空港(関空)へのアクセス路線(空港連絡鉄道)でもあり、大阪ミナミの繁華街に位置する起点の難波駅は外国人観光客(インバウンド)を含む多くの関空利用者にとっての玄関口としての役割も果たしている。さらには、和歌山港線を経由する和歌山港へのアクセス路線の性格も帯びており、和歌山港 - 徳島港間を運航する南海フェリーとともに関西・四国連絡ルートを形成している。また、高野線が岸里玉出駅から難波駅まで当路線の線路別複々線区間に直通運転しており、起点の難波駅は高野線のターミナル駅にもなっている。 大阪平野では南海本線の東側(山側)に競合路線の西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線が並走しているが、大阪府と和歌山県の県境付近における経路は大きく異なっており、距離は短くなるが山岳区間が長い雄ノ山峠越えの阪和線に対して、南海本線は距離は長くなるが山岳区間が短い孝子峠越えで和歌山市へ至る。 全線でPiTaPaおよびICOCAなどPiTaPaと相互利用可能なIC乗車カードが利用できる。ただし、割引サービスまたはICカード登録型minapitaポイント還元サービスはPiTaPaおよびICOCAのみが対象となる。 難波駅 - 住ノ江駅間は複々線であり、このうち難波駅 - 岸里玉出駅間は線路別複々線で、東側2線は高野線の列車が使用している。今宮戎駅と萩ノ茶屋駅は西側2線にホームがなく、南海本線の列車はすべてこの2駅を通過する。そのため、高野線の最下位種別の列車は「各駅停車」と呼ぶのに対し、南海本線の最下位種別の列車は「普通」あるいは「普通車」と呼んでいる(「普通(普通車)」の解説も参照)。岸里玉出駅 - 住ノ江駅間は方向別複々線で、下りの外側線、上りの内側線は普通、下りの内側線、上りの外側線は準急以上の列車が走る。 立体交差化については、難波駅 - 石津川間、羽衣 - 高石間、松ノ浜駅 - 大津川間、岸和田駅周辺、貝塚駅 - 二色浜駅間の近木川周辺、泉佐野駅周辺で高架化が完成している。2023年4月時点では、石津川 - 羽衣間で高架化工事を進めており、2027年度末に完了する予定である。また、羽衣 - 高石間は2021年5月22日に高架化が完了し、引き続き高師浜線の高架化や側道の整備などの事業を行っている。2015年に行われた大阪府の第3回建設事業評価審議会の資料によれば、羽衣 - 高石間の上り線高架切り替えは2019年春の予定となっていた。高野線や、南海本線と併走するJR阪和線と比較しても相当進んでおり、いわゆる「開かずの踏切」の問題や、それに起因する交通渋滞についても、先述の周辺路線と比べてかなり解消されてきている。 沿線には、都心の高層ビル群や工業地帯のほか、日本の大手私鉄ではあまり例のない「線路沿いに海岸線が至近距離から見える区間」がある一方で、短距離ながら峠越えのトンネルもあるなど、車窓からはバラエティに富んだ風景が見られる。また、路線自体の長い歴史も相まって、開業以来現在まで民営を貫いてきた路線として唯一、『鉄道唱歌』において当線の駅や沿線風景が歌われている。 以下に示す記述はすべて難波→和歌山市方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。 始発の難波駅は9面8線、のりばは1 - 9番線の構造を持ち、南海本線の列車はこのうち5 - 8番線の西側4線を使用する(9番のりばは8番線の降車側で、特急ラピートの専用のりば)。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手になんばパークス(旧大阪スタヂアム〈大阪球場〉跡地)・ヤマダデンキLABI1なんば・クボタやニコニコのりの本社社屋・南海電気鉄道本社の入る南海なんば第1ビルなどを、左手に日本橋電気街(でんでんタウン)などを見ながら、阪神高速1号環状線をくぐり、高野線の各駅停車のみが停車する今宮戎駅(南海本線側にホームはない)を通過、国道25号を越え、左手に通天閣が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の新今宮駅に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の南海本線下り線ホームは、ともに高野線の上り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの大阪環状線・関西本線(いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に釜ヶ崎あるいはあいりん地区と称されるドヤ街を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・あべのハルカスを望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する萩ノ茶屋駅(南海本線側にホームはない)を通過すると、全列車停車駅である天下茶屋駅。かつてはこの駅から天王寺支線が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には大阪フィルハーモニー交響楽団の練習場やスーパーマーケットが建っている天下茶屋を出て高野線の事実上の本線が左に分かれると同時に、右側から同線の事実上の支線である通称「汐見橋線」が近づいてくると島式ホームの岸里玉出駅。岸里玉出駅は、高野線ホームが長い連絡通路を経た東側に、汐見橋線の単式ホームが本線の西側にある構造。この駅を境に線路は線路別複々線から方向別複々線となり、緩急分離運転が行われる。またこの複々線区間では住ノ江検車区への出入庫の回送電車も多く列車密度が高い。粉浜駅を過ぎて左側に住吉大社の社地が、右側に住吉公園が見えると住吉大社駅、国道479号(大阪内環状線)を乗り越えながら右にカーブをすると右側に住ノ江検車区を併設する住ノ江駅。複々線区間はここで終了し、右から近づいてくる阪神高速15号堺線を斜めにくぐりながら大和川橋りょうを渡って堺市に入り、地下を通る阪神高速6号大和川線を乗り越えながら右にカーブをすると七道駅に至る。駅手前のカーブの右側には、阪神高速の鉄砲出入口の掘割とイオンモール堺鉄砲町があるが、この場所は富士フイルムホールディングスの源流でもあるダイセル化学工業(撤退当時の名称。現在の「ダイセル」)の発祥の地である同社本社・大阪製造所堺工場の跡地であり、旧社屋にあった「堺セルロイド」時代からの赤レンガ建築の古い建物が、同モール敷地内にモニュメントとして残っている。七道駅を出て、ほぼ直線状にしばらく進むと最初の緩急接続駅である堺駅に着く。 堺駅を過ぎると周辺には住宅地や商業地のほかに、阪神高速4号湾岸線や、堺泉北臨海工業地帯の工場群が右側の車窓に近づき、また左手遠方には仁徳天皇陵や履中天皇陵とされている巨大な墳丘が見えるようになる。堺市の目抜き通りの一つであるフェニックス通り(国道26号。府道2号大阪中央環状線とも重複)を乗り越えた後、湊駅、石津川駅を過ぎて石津川を渡ると、線路は難波からここまで続いてきた高架を下りて地上に移る。上下ホームが千鳥式に配置された諏訪ノ森駅に近づく頃から、あたかも阪神間モダニズムを想わせるような高級住宅街が線路の周辺に見え始める。右側に浜寺公園が見えると阪堺電気軌道阪堺線をくぐって浜寺公園駅。この駅の旧駅舎と諏訪ノ森駅上りホームの駅舎は国の登録有形文化財に登録されている。線路はその後仮線を経由して高架へ移る。高石市に入り、程なく高師浜線・JR羽衣線(阪和線支線)との乗り換え駅である羽衣駅に着く。この駅手前左側の高架上に、JR羽衣線の東羽衣駅がある。かつてこの周辺が海水浴場などを有する行楽地であったことから、1990年代まで、羽衣駅の周辺には大規模な観光旅館がいくつか存在したが、現在はいずれも廃業し、姿を消している。またこの駅付近の踏切は、JR阪和線を建設した阪和電気鉄道と南海との熾烈な競争の象徴でもあったが、南海の連続立体交差事業(高架化)に伴い、先述の通り2021年5月をもって廃止された。 高架化工事のため長期運休中の高師浜線の線路は、しばらく高架下右側を並走するが、やがて同線は高架に上がりながら右側に分かれる。新興住宅街の間をしばらく進むと待避線のある高石駅。線路はその後地上に降り、堺泉北道路をくぐると線路は泉大津市に入って北助松駅。府道38号富田林泉大津線の跨線橋をくぐった後すぐに高架に上がり、松ノ浜駅、続いて島式2面4線の泉大津駅に至る。泉大津駅は急行以下の種別の停車駅であるが、例年夏期に周辺で大規模な野外ロック・フェスティバルが開かれるため、当日には一部の特急列車が臨時停車するほどの賑わいを見せる。 泉大津を出ると線路は左にカーブをする。大津川を渡ると線路は地上に下り、忠岡町に入ると同町唯一の駅である忠岡駅に達する。すぐに岸和田市に入り、府道40号岸和田牛滝山貝塚線の跨線橋をくぐりながら右にカーブをすると、右側に岸和田競輪場が見えて春木駅に至る。かつて春木駅は春木競馬場の最寄り駅でもあったが、現在は岸和田市中央公園となっている。和泉大宮駅を過ぎて高架を上がり、右にカーブをすると、岸和田だんじり祭の時期に大きな賑わいを見せる岸和田駅に着く。 岸和田を出ると再び右にカーブをして、右側に岸和田城を見ながら高架を下りると蛸地蔵駅、さらにカーブを繰り返しながら貝塚市に入ると、水間鉄道水間線との乗り換え駅である貝塚駅に至る。水間線が左に分かれた後、南海の線路はやがて高架に上がるが、府道40号岸和田牛滝山貝塚線を乗り越えて左右にカーブをすると程なく地上に下りる。このあたりから徐々に住宅地のほかに田園地帯が広がり始める。二色浜駅を過ぎると線路はその後しばらくの間ほぼ直線状になり、関西国際空港の玄関口である泉佐野市に入って鶴原駅、井原里駅と続く。その間に、右前方にはりんくうゲートタワービルやりんくうプレジャータウンSEACLEの大観覧車が見え始める。線路は程なく高架を上がり、右にカーブをすると、空港線との乗り換え駅であり、また大阪市内駅をのぞく南海本線唯一の全種別停車駅でもある泉佐野駅に着く。この駅は待避設備のほかに乗り換え専用ホームを有する島式3面4線の構造となっており、ダイヤ上も和歌山市方面と関西空港方面の列車が容易に対面乗り換えできるように配慮されている。 泉佐野駅を出ると、空港線としばらく線路を共用するが、左にカーブするとすぐに空港線は右側に分かれる。高々架のJR関西空港線・関西空港自動車道、地上を通る国道481号と立体交差すると線路は地上に下り、住ノ江検車区羽倉崎検車支区を併設する羽倉崎駅。ここからはラッシュ時を中心に本数が減少する。左側には同検車支区、右側にはかつての巨大な紡績工場(阪本紡績)の跡地に建つ高層マンション群や商業地を見ながら田尻町に入る。府道63号泉佐野岩出線と重複する府道204号堺阪南線(旧国道26号)の跨線橋をくぐると吉見ノ里駅。樫井川を渡り泉南市に入ると岡田浦駅。ここから樽井駅までの区間はかつて右側の車窓から大阪湾を間近で見ることができたが、現在は埋め立てが進み、りんくうタウンが造成され、車窓からはイオンモールりんくう泉南などの商業施設やいくつかの工場などが見えるようになっている。2か所の道路橋をくぐり、樽井駅を過ぎて府道63号泉佐野岩出線のバイパスの跨線橋をくぐってから男里川を渡ると阪南市に入り、同市の中心駅で特急サザンも停車する尾崎駅に着く。 尾崎を出て左右にカーブし、鳥取ノ荘駅を過ぎると右側の車窓に大阪湾の海岸線が間近に迫り、遠くには関西国際空港や空港連絡橋も望むことができる。また左側には府道752号和歌山阪南線(旧国道26号)も並走する。一旦海岸線から離れ、阪南スカイタウンなど周辺の住宅開発がめざましい箱作駅に至る。ここから先はカーブの連続区間となり、優等列車も若干速度を落として運転を行う。再び海岸線が見え始め、箱作海水浴場(ぴちぴちビーチ)やせんなん里海公園が連なる。途中、階段を伴った空き地が線路両脇にあるが、これはかつて計画されていた箱の浦駅の建設を途中で断念した名残である。再び海岸線から離れると線路は岬町に入り、周辺に古墳が点在する淡輪駅を過ぎると、右前方に2020年3月で閉園した遊園地「みさき公園」や長松自然海岸を擁する大阪湾の海岸線が見え始め、程なく同公園の最寄り駅であり、また多奈川線の乗り換え駅でもあるみさき公園駅に着く。 みさき公園駅は、盛土上にホームをもつ構造となっており、その直下を府道752号和歌山阪南線がアンダークロスする。多奈川線は同駅を出た後しばらく右側を並走するが、やがて同線が大きく右に分かれると同時に南海本線も大きく左にカーブをする。ここからは雰囲気が一変して山間の区間となって駅間距離も長くなり、府道752号和歌山阪南線がすぐ右側を、やや遅れて第二阪和国道バイパス(国道26号)もすぐ左側を並走するようになる。途中、右側の車窓から煉瓦造の建造物(深日変電所)が見えるが、この場所にはかつて深日駅があった(1944年休止、1958年廃止。現在もホームの跡が残る)。いくつかのカーブを経て孝子駅を過ぎると第二阪和国道バイパスが左へ分かれていき、線路はいよいよ上りの急勾配区間に差し掛かる。孝子峠を越える第一孝子越隧道(孝子トンネル)内で大阪府と和歌山県の府県境を通過し、同県和歌山市に入る。トンネルを抜け下り勾配に差し掛かり、県道752号和歌山阪南線のガードをくぐると、南海で最も新しい駅で「ふじと台」の副駅名を持つ和歌山大学前駅に着く。イオンモール和歌山が当駅の左側すぐ掘割上にあり、周辺は週末を中心ににぎわいを見せる。沿線は徐々に開けてきて、左側にふじと台の住宅地や和歌山大学のキャンパス群、右側には「ノーリツプレシジョン」(旧ノーリツ鋼機の写真処理機器関連部門。同事業譲渡前の同社本社)や「NKアグリ」(ノーリツ鋼機グループの生鮮野菜製造業者)の本社工場、遠方には和歌山市街などを見ることができる。やがて2本の短いトンネル(第二貴志隧道・第三貴志隧道)をくぐりながら大きく左にカーブをして県道752号和歌山阪南線と分かれ、住宅地の中を通りながら県道7号粉河加太線の跨線橋をくぐると、右側から加太線が近づいてきて、同線との乗り換え駅である紀ノ川駅に至る。ゆるやかに右にカーブしながらさらにしばらく進むと、紀の川に架かる紀ノ川橋梁を渡り、築堤を下りながら右にカーブをする。県道15号新和歌浦梅原線をくぐり、右側に和歌山競輪場が見え、左側から近づいてくるJR紀勢本線と並走を始めると、右側に住ノ江検車区和歌山出張場を併設する終点の和歌山市駅に到着する。同駅は和歌山駅と並び、和歌山市を代表する駅の一つである。和歌山市駅の手前には非電化の国社分岐線があり、かつてはこの分岐線を通って紀勢本線への直通列車が走っていた。線路は一部ののりばをのぞいて、その先にある単線の和歌山港線へと続いていく。 都市間および四国連絡特急として難波駅 - 和歌山市駅・和歌山港駅間で特急「サザン」が運転されている。「サザン」は通勤形車両の自由席車(別途料金不要)と、特急形車両を使用した指定席車(座席指定料金が必要)を連結して運行している。また、関西国際空港が開港した1994年からは空港線に直通する空港アクセス列車として難波駅 - 関西空港駅間に特急「ラピート」(「ラピートα」「ラピートβ」)および空港急行が運転されている。「ラピート」はレギュラーシートとスーパーシートの2種類があり、いずれも全席指定で特急料金が必要である。 このほか、急行・-急行-・区間急行・準急行・普通が運転されている。 早朝・深夜の一部の普通を除き難波駅発着である。 朝ラッシュ時間帯の上りダイヤは、「ラピートβ」が1時間に2本、「サザン」が1時間に2本、その他急行・空港急行・区間急行・準急行(平日のみ)・普通が運転されている。また、準急行はこの時間帯のみ運転される。 日中の1時間ごとの運行本数(岸里玉出駅以北の高野線列車は除外。空港線・加太線を含む)をまとめると以下のようになる。 平日夕ラッシュ時間帯の下りダイヤは、「ラピートβ」が30分間隔で1時間に2本、「サザン」が30分間隔で1時間に2本、急行・空港急行・区間急行が合わせて約10分間隔で1時間に6本(18時台のみ7本)、普通が約10分間隔で1時間に6本運転されている。普通の一部は関西空港・羽倉崎・樽井・みさき公園駅行きである。上りダイヤも関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることを除きおおむね同じ本数だが、パターンダイヤとはなっていない。 土曜・休日の夕方・夜間は、関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることと、一部の上り列車の待避パターンが異なることを除き、昼間時間帯と同じである。 南海線のダイヤの特徴として、上りの最終列車が比較的遅い時間帯に存在することが挙げられる。平日、土曜・休日とも関西空港駅23時55分発の空港急行に泉佐野駅で接続する普通が羽倉崎駅以北の上り最終列車で、難波駅には0時57分に到着する。 以下に特急「ラピート」「サザン」をのぞいた種別の運行概況を示す。「ラピート」および「サザン」については当該項目を参照。「ラピート」は堺駅・岸和田駅を通過する「ラピートα」と、この2駅にも停車する「ラピートβ」があるが、以下においてはどちらかだけに当てはまる場合以外は単に「ラピート」としている。各種別の現行の停車駅は下図および「駅一覧」を参照。 平日の早朝から朝ラッシュ時・夕ラッシュ時と、土曜・休日の朝に、難波駅 - 和歌山市駅・和歌山港駅間で運転されている。4扉車のみが使用される。6両編成と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、和歌山市駅 → 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目が女性専用車両になる。 現行のダイヤでは下りは朝ラッシュ時を除いて特急に追い抜かれる列車はない。上りは岸和田駅で「ラピート」に抜かれる列車がある。また、平日朝ラッシュ時上りでは自由席車両が4両しかなく輸送力が不足する特急「サザン」のすぐ後ろを急行が続行運転するダイヤが組まれている。 英語表記は「Express」。白地幕時代の車両の方向幕には「急」と表示されていた。 かつては終日運転で、長らく日中に1時間あたり2本運転されていた。1993年4月改正で日中に1時間あたり3本設定されたが、2001年3月の改正で特急が尾崎駅への停車を開始し、泉佐野駅 - 和歌山市駅間で特急と停車駅が同一になったのと同時に、1時間あたり2本に減便された。さらに2005年11月のダイヤ改正で昼間・土休日の列車が実質上特急に格上げされ、難波駅 - 泉佐野駅間の急行停車駅の乗客の輸送は空港急行と区間急行が1時間あたり2本ずつ交互に担うこととなった。また、平日夕方ラッシュ時以降も改正以前は1時間あたり3本設定されていたが、うち1本が区間急行に格下げされ、その他深夜帯を中心に区間急行に格下げ、あるいは特急「サザン」に格上げされた列車も存在した。 初代1000系の現役時代は、特急列車と同じ車両が急行にも運用されていたが、現在は原則として特急用車両での急行の運用はない。 通常の急行停車駅に加え春木駅に停車する急行。車両の種別表示幕(方向幕)に、朱地に白線を加えた白文字で「-急行-」(「急行」の文字は従来より小ぶり。旧式の表示幕の場合は「 - 急 - 」)と記載されていたために、鉄道ファンなどの間では「白線急行」と形容されている。現在は深夜に難波0時08分発の泉佐野行き(難波・新今宮・天下茶屋駅からの泉佐野方面への最終。堺駅と泉佐野駅で普通車羽倉崎行きに接続)下り1本のみが設定されており、4扉車による8両編成で運転されている。 後述の空港急行および羽倉崎駅発着の区間急行の前身として、難波駅 - 泉佐野駅・羽倉崎駅間で定期列車が頻繁に運転されていた。また、難波駅 - 多奈川駅間で運転された多奈川線直通の淡路航路連絡急行「淡路号」もこれに含まれていた。春秋の行楽シーズンや夏の海水浴シーズンには和歌山市駅まで延長運転され、盆や年末年始の帰省シーズンには特急運転時間帯以外に和歌山港駅まで延長運転されたため、これに対応した和歌山市・和歌山港行の「-急行-」または「- 急 -」表示の方向幕や赤い縁取りの標識板が用意されていた。なお、単なる「急行」として運転される春木駅通過の和歌山市駅発着の急行は、岸和田競輪開催時には春木駅に臨時停車するが「-急行-」としては運転されず、あくまで春木駅に臨時停車する「急行」として運転された。 1993年に多奈川線直通の急行「淡路号」が廃止。1994年6月の空港線開業に伴う種別整理により「空港急行」に名称を変更して運行区間を現在の難波駅 - 関西空港駅間に変更、その後9月の関西国際空港開港に伴うダイヤ改正で羽倉崎駅発着(車庫引き上げを兼ねて運転されるもの)は区間急行に統合され、定期列車としての運転は一旦消滅。その後は岸和田競輪開催時の春木駅臨時停車の急行が「-急行-」表示を掲げ運転されていたが、それも2005年の昼間時の急行廃止により姿を消した。その後、岸和田競輪開催による春木発の臨時急行を設定したこともあったが、2017年1月のダイヤ改正で現在の下り1本が久々の定期列車として設定されることになった。再設定当初から2017年8月の高野線ダイヤ改正までと2021年5月の南海線ダイヤ改正から2023年10月の南海線ダイヤ修正までは6両編成、それ以外の期間のダイヤでは8両編成となっている。 なお、空港急行が強風などの影響により空港線に入線できずに泉佐野止まりとなった場合は白線急行(「-急行- 泉佐野」表示)となることもあるが、泉佐野・羽倉崎までの停車駅は区間急行と同一であるため「区急」表示とすることもある。2018年9月6日から9月7日までの南海空港線不通時には、空港急行が臨時で羽倉崎発着となり、白線急行(下り列車は「-急行- 羽倉崎」、上り列車は「-急行- なんば」表示)として運転していた。 車両に方向幕が装備される以前は、先頭車に掲出されていた種別表示の丸い標識板が赤色で縁取りされたものであったため「赤丸急行」とも呼ばれていた。空港急行がこの急行を継承した列車であるため、方向幕故障時などに使われる「空港急 難波 - 関西空港」や、関西国際空港連絡橋の通行規制時に運転されるものの、方向幕に行き先が用意されていないりんくうタウン駅発着の空港急行に使われる「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板にも同様に赤い縁取りが施されている。 終日、空港線に直通して難波駅 - 関西空港駅間で、日中は1時間あたり4本運転されている。急行の停車駅(泉佐野駅以北)に春木駅が追加されている。前述の春木駅停車の急行(白線急行)を前身とする種別であり、1994年6月15日の空港線開業と同時に新設された。空港線内は各駅停車で、泉佐野駅を境に各駅停車となる点で、実質停車駅は区間急行と同じである。4扉車のみが使用される。6両編成の運用と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、関西空港駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目には女性専用車両になる。昼間時間帯は終点まで先着するが、朝夕時間帯は特急に追い抜かされる列車がある。 関西国際空港への空港連絡列車であり、空港に接続する特急「ラピート」の補完にもなっているが、本線の急行輸送も担当しており、長期休暇期間・大型連休・盆・正月など、日本の海外・国内旅行シーズンの利用客が特に多い傾向があるほか、朝晩ラッシュ時を中心に混雑が目立ち昼間時や土休日でも比較的利用者が多い。ただ泉佐野駅 - 関西空港駅間に限れば朝の上り、夜間の下りはほぼ空気輸送状態になっている。 英語表記は「Airport Express」。種別を表す色は急行は車両の方向幕が全面朱色、駅の行先案内表示機(発車標)がオレンジ色であるのに対し、空港急行は黒地に朱色またはオレンジ色のアンダーラインが入り(日本語部分が黒地で朱色部分に「Airport Exp.」の英語表記種別が入る。なお、8000系・8300系のフルカラーLED表示では日本語では普通と同じく灰色に白字、英字ではオレンジ色に白字で表示)、また日本語部分に少々小さい上付き文字で「空港」の文字が入った「急行」という表記となっているなどの違いがあり、急行とは区別された扱いとなっている。また、関西空港行に限り種別・行先が一体となった幕式では朱色のアンダーラインの左側に、種別・行先幕が別々の1000系では行先幕の灰色のアンダーラインの左側に、8000系・8300系では種別と行き先の間に飛行機マーク()がある。駅内や駅で配布される時刻表では、関西空港行きが同様の飛行機マーク、難波行きは二重丸(◎)で表記される。 強風などにより空港線関西空港駅まで入線できない場合は、臨時になんば駅 - りんくうタウン駅間で折り返し運転となるが、りんくうタウン行きの種別・行先方向幕がないため、車両側の方向幕では「関西空港行き」の表示として駅の発車標では「りんくうタウン行」の表示にするか、車両側でも別途非常用に用意されている「空港急行」の種別のみの方向幕と「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板を組み合わせるかいずれかで対応する。 空港線開業時のダイヤでは昼間時間帯は1時間に2本、夕方は1時間に3本の運転で、関西国際空港開港時のダイヤ改正では1時間に3本の運転であった。2005年11月のダイヤ改正で平日の日中以降・土休日の終日において1時間3本から2本に減便されたが、代わりに関西空港駅発着の普通が1時間あたり2本新設され、泉佐野駅で区間急行と接続を取るようになった。また空港急行自体も泉佐野駅で和歌山市駅行きの普通と相互接続して、泉佐野駅 - 和歌山市駅間での特急「サザン」や区間急行の補完的役割も担うこととなった。2014年10月のダイヤ変更では日中のみさき公園駅(一部和歌山市駅)発着の区間急行が空港急行に変更になり、さらにはそれまで土休日や日中を中心に上下ともに行われていた岸和田駅での特急「サザン」の待避がなくなり所要時間が短縮された。また日中以外でも大幅に増え、さらにほとんどの列車が終着駅まで先着している。 近年、関西国際空港へのLCC乗り入れや、インバウンド客の増加などにより、海外のSNSなどを通して安価な交通手段としての認知度が高まっており、スーツケースなどを持った外国人も急増し、慢性的な混雑やマナーの悪化が問題になっている。2017年1月と2019年4月のダイヤ改正では、いずれも6両編成で運転される列車の一部を8両編成に増車し(最終的に空港急行の4分の3が8両編成となる)、夕方以降のほとんどの区間急行を空港急行に置き換えるなど混雑対策に努めていた。ただし、2021年5月のダイヤ改正から2023年10月のダイヤ修正までは新型コロナウイルス感染症の流行による利用客の減少を背景に8両編成の列車の約半数が6両に減車されていた。 朝と夕方以降に難波駅 - 羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅間で運転されている。難波駅 - 泉佐野駅間は空港急行と同じ停車駅で、泉佐野駅 - 和歌山市駅間は各駅に停車する。朝ラッシュ時や、深夜(深夜は下りのみ)には羽倉崎駅始発・終着のものもあり、羽倉崎検車区への引き上げも兼ねた存在の速達種別といえる。 4扉車のみが使用される。羽倉崎駅以南(特急・急行停車駅をのぞく)のホーム有効長から原則として6両編成で運転されるが、羽倉崎駅発着の列車は8両編成で運転される列車もある。平日夕方ラッシュ時には泉大津駅・泉佐野駅・尾崎駅・みさき公園駅のいずれかで特急「ラピート」・「サザン」および急行に追い抜かれることが多く、終着駅まで先着する列車は少ない。 案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「区急」である。英語表記は「Sub Express」。 関西国際空港開港以前は区間急行は高野線のみに存在する種別であったが、開港時のダイヤ改正で羽倉崎発着の急行・泉佐野以北で通過運転を行う準急(赤準急)の種別統合により本線にも登場した。種別色は高野線では長らく赤であったが、本線では当初から緑色である。非常用に用意されている「区間急」の標識板も縁取りと種別の文字に緑色が使われている。 かつては朝と深夜のみの運転であったが、2005年11月のダイヤ改正より泉佐野駅 - 和歌山市駅間の乗客減に伴い、大半の急行が特急に格上げされたために日中にも難波駅 - みさき公園駅間で運転され、急行の代替的な役割も担った。しかし、2014年10月のダイヤ変更で日中の列車が、さらに2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で夕方以降の列車もほとんどが泉佐野駅以北は空港急行に、同駅以南は普通車に置き換えられたため本数は大幅に減少している。 平日朝ラッシュ時の上りのみ運転されており、羽倉崎発が1本、春木発が1本設定されている。羽倉崎駅 - 堺駅間は各駅に停車する。 南海線では最も本数の少ない種別である。4扉車による6両編成で運転され、すべての列車が泉大津駅で区間急行または急行と接続し、浜寺公園駅で後続の空港急行(または特急)の通過待ちを行う。そのため、泉大津駅の3番線に停車する準急は存在しない。 構内アナウンスや車掌放送では「準急行」と案内されるが、時刻表や案内板の表記は「準急」である。英語表記は「Semi Express」。 2005年11月26日以前は高石発難波行き、平日は下り列車である難波発高石行きもあった。2005年11月26日ダイヤ改正から2009年10月3日までは4本(羽倉崎駅から3本、春木駅から1本)、2009年10月3日から2019年4月5日までは3本(羽倉崎駅から2本、春木駅から1本)あった。2001年のダイヤ改正までは岸和田発難波行きもあった。 終日、難波駅 - 和歌山市駅間(区間運転あり)と空港線直通の難波駅 - 関西空港駅間で運転されている。日中は和歌山市駅発着系統が1時間あたり4本運転される。ラッシュ時、夜間には関西空港駅や羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅で折り返す列車もある。また早朝には泉佐野発和歌山市行き、泉佐野発関西空港行きと春木・高石(かつては浜寺公園発であった)・住ノ江発難波行きが、深夜には和歌山市発羽倉崎行きの列車も存在する。 4両または6両編成で運行されているが、土休日は6両編成での運用が多くなる。6両編成で運用される列車は朝または夕方に一部の区間急行・空港急行運用に入るものが多いのに対し、4両編成は普通車限定運用である。なお、空港線内で完結する泉佐野発関西空港行きには8両編成も存在する。2007年8月のダイヤ変更から南海本線と空港線の列車で2000系(2扉車、ズームカー)の運用も始まった。なおズームカーの運用は繁忙期(正月三が日や岸和田だんじり祭・春木だんじり祭の開催日など)には通常の21m車での運用に変更される。 下り列車では泉佐野駅発車後4本のうち2本が和歌山市駅まで先着している。日中の列車は堺駅・高石駅・岸和田駅・尾崎駅(毎時2本のみ)で特急と、堺駅・泉大津駅・泉佐野駅で空港急行と、それぞれ接続または待避を行う。ラッシュ時は貝塚駅、みさき公園駅(下りのみ)での接続や、岸里玉出駅(上りのみ)、粉浜駅 - 住ノ江駅間、浜寺公園駅で待避する列車も存在する。 駅の放送では、空港線関西空港駅の自動放送を除き「普通車」と案内されている。英語表記は高野線の各駅停車と同じく「Local」である。高野線の「各駅停車」と種別名称を区別しているのは、南海線用のホームのない今宮戎駅と萩ノ茶屋駅に停車しないためである。駅での停車駅の表示は難波発が「新今宮・天下茶屋 以遠各駅(難波駅の場合)」「天下茶屋 以遠各駅にとまります(新今宮駅の場合)」、難波行が「天下茶屋までの各駅・新今宮」となっている。かつては岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅も通過していて、現在の準急に近いような停車駅であった(当時は岸ノ里駅と玉出駅が統合されて岸里玉出駅となる前)。そして普通とは別に1970年11月22日まで難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に運転されていた岸ノ里駅まで現在高野線専用の東側2線を経由し今宮戎駅・萩ノ茶屋駅および前記の普通が通過する岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅にも停車する「各駅停車」が存在した。 過去には昼間時間帯でも浜寺公園駅・高石駅で折り返す列車や、早朝のみだが住ノ江発の下り泉佐野行き(のちに関西空港行き)、深夜の和歌山市発泉佐野行き、難波発住ノ江行きも存在していた。また2005年11月のダイヤ改正までは関西空港発の普通は原則としてなかった。関西空港発の普通は2005年11月から2014年10月までは日中1時間に2本運転されていたが、2014年10月のダイヤ改正で日中の列車が、2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で段階的に朝と夕方以降も空港急行に格上げされたため本数を減らしている。 2021年度(2022年正月)以降は、毎年大晦日から元日午前2時半頃にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15 - 20分間隔、住ノ江駅 - 高石駅間が30 - 40分間隔で、普通のみの延長運転が行われている。なお、高石駅 - 和歌山市駅間は終夜運転を行わない。 2019年度以前は、元日早朝にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15分間隔、住ノ江駅 - 羽倉崎駅間が30分間隔で、普通のみの終夜運転が行われていた。関西国際空港開港後数年間は難波駅 - 関西空港駅間で終夜運転を行っていた時期があった。2020年度の大晦日は終夜運転を行わず、終電を深夜2時まで延長する予定であったが、その後大阪府内での新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い中止となった。2021年度以降は前述の通り、区間・時間帯を短縮したうえで延長運転を行っている。 正月三が日は原則として土休日ダイヤで運転されるが、空港急行と区間急行が昼間時間帯に住吉大社駅に臨時停車する。そのため2 - 3分ほど運転時分がずれる。臨時列車は運転されないが普通車は2ドア車が運用から外れ4ドア車による代走となる。また、一部の列車では編成両数が変更される。 2004年度(2005年正月)までは急行と空港急行が停車し、2005年度(2006年正月)から2007年度(2008年正月)までは「ラピート」以外の全列車が停車していたが、2008年度(2009年正月)以降は再び特急「サザン」・自由席特急は通過となった。 関西国際空港開港以前は、昼間の急行(和歌山市行き・泉佐野または羽倉崎行き)・普通の本数が必ず6本となり、昼間のみ正月ダイヤを組んでいた経緯がある。また大晦日の深夜には住吉大社の参拝客のために住ノ江検車区への入庫回送列車を臨時の普通に仕立てて運転していた時期もあった。また、1998年の明石海峡大橋開通以前には、四国方面の帰省ラッシュ対策で急行が和歌山港駅まで臨時延長運転されたことや、臨時の自由席特急が運転される時期もあった。 2012年3月31日まで、特急「サザン」「ラピート」とは別に、座席指定料金不要で乗車券のみで乗ることができる全車自由席の特急が設定されていた。停車駅パターンは「サザン」と同一であるが、全車自由席のため、「サザン」の愛称はなく、車両の種別表示幕では「特急」とのみ記載されていた。すべて6両編成で、通称「自由席特急」とも呼ばれている。英語表記は"Ltd. Express"である。 2005年11月のダイヤ改正前は朝のみ数本の運転であった。同改正で日中に運転されるようになったが、2009年10月のダイヤ改正以降は平日・土休日とも難波発14時15分、16時45分と和歌山市発13時、15時30分の2往復しか運転されておらず、残りはすべて一部座席指定特急「サザン」として運転されていた。難波駅 - 和歌山港駅間往復に必要な所要本数は6本で、「サザン」用編成は7本、うち1本が予備編成となっているが、フェリーとの連絡の都合上昼間に和歌山港駅で停泊する編成が1編成生じてしまう。自由席特急はこれを補完するために運転されていた。 1968年3月から1985年10月までの間は、新今宮駅・堺駅・岸和田駅の3駅のみ停車の速達性を重視した列車でさらには四国徳島港接続や、南紀(紀勢本線)直通といった長距離輸送の役割も担っていた(詳細は「歴史」の節を参照)。1968年3月以前の和歌山市駅発着の特急は泉佐野駅以北が現在の急行に近く、堺駅 - 泉佐野駅間は現在の急行停車駅から羽衣駅を除いたものと同じであったが、逆に泉佐野駅 - 和歌山市駅はノンストップであった。これは、1954年の登場時に市制を施行していた沿線の7市に1駅ずつ停車するパターンである。なお、末期の1966年には新今宮駅に停車するようになったが、同年に市制を施行した高石市の羽衣駅に停車することはなかった。2005年11月のダイヤ改正で昼間時間帯(土休日は一部時間帯をのぞく終日)において急行停車駅(羽衣駅・泉大津駅・貝塚駅)から和歌山市駅へ行く優等列車がなくなった。このため前述の3駅から和歌山市駅へ行くには岸和田駅かみさき公園駅での乗り継ぎが強いられている。 1968年3月に特急は四国連絡・南紀直通だけとなって泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅の3駅は通過となり、1973年に和歌山市駅発着の自由席特急が復活した後も、停車駅は当時の「四国号」と同じであった。その後の度重なる停車駅の追加により、現在では泉佐野駅を境に、北部は特急、南部はかつての急行の役割を担う性格の列車となっており、難波駅 - 和歌山市駅間で最も速い急行との所要時間差は3分程度でしかなくなっていた(一部自由席連結の「サザン」も同様である)。 2012年の7月2日から9月7日まで夏季の電力事情に対応するため、お盆期間(8月13日-15日)をのぞく平日の日中に特急「サザン」4本を自由席特急に変更して運行した。一時的であるが、同年3月に廃止されて以来約3か月ぶりに復活した。 なお、人身事故などでダイヤが大幅に乱れた場合や、サザン用編成に何らかの不備が発生した場合に「サザン」が臨時に自由席特急に差し替えられる場合がある。その場合は駅の放送や駅の案内表示も「特急」と案内される。 1994年以前は現行の停車駅の準急(当時は難波駅 - 高石駅・岸和田駅間で運転)に加え、朝ラッシュ時や早朝・深夜を中心に樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅発着の準急もあった。1968年に列車系統が再編されるまでは日中にも和歌山市駅発着の準急が運転されていた。これは現在の区間急行の前身にあたり、停車駅も設定当初の区間急行と全く同じであった(天下茶屋駅は通過)。また、種別表示幕が赤で「準急」となっており、「赤準急」とも呼ばれた(ただし特急に使われている「赤色」よりはむしろ「朱色」に近い。停車駅案内表では急行と同じオレンジ)。なお、青で「準急」と表示されている現行の停車駅の準急は「青準急」と呼ばれていた。両者を区別する必要がなくなった現在でもこの青準急は、車内放送で「堺まで各駅停車の準急行」と案内されることがある。 1994年の空港線開通に伴う種別整理の際に、「青準急」との区別を明確にするため、羽倉崎発着の「─急行─」を統合した上で「区間急行」に名称を変更した。 かつては「普通」とは別に、難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に、現在は高野線専用となっている東線を走行し、今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が運転されていた。一方、高野線の難波駅発着列車は、堺東折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、それ以南に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を通過する「普通」として運転され、さらに汐見橋発の「各駅停車」も住吉東駅まで直通していた。その後、泉北高速鉄道の開業を控え、高野線の線路容量を確保するため、岸ノ里駅の高野線と連絡線との合流点上にホームが設けられ、高野線の「普通」を「各駅停車」に一本化したため、1970年11月23日の改正で廃止された。 他の関西私鉄の車両と大きく異なる点として、南海本線は地下区間を通らないため、全ての車両は地下鉄等旅客車(かつてのA-A基準)を満たす地下鉄対応車両ではない。 難波駅 - 堺駅間は、1885年に難波駅 - 大和川駅(のちに廃止)間を開業した阪堺鉄道が開通させたもの、堺駅 - 和歌山市駅間は南海鉄道が開通させたものである。阪堺鉄道は1898年に南海鉄道に事業を譲渡した。 阪堺鉄道は、1883年に廃止された工部省釜石鉱山鉄道の車両やレールの払い下げを受けて建設されたため、開業当初は838mmという日本では特異な軌間の鉄道であった。 また鉄道国有化前は、1984年 - 1993年に順次廃止された天王寺支線(天下茶屋駅 - 天王寺駅)を用いて、大阪鉄道(初代) - 関西鉄道の保有する今の大阪環状線に乗り入れ、大阪駅 - 住吉駅間の直通運転を行っていたこともあった。 大和田建樹作詞の鉄道唱歌第五集で当路線が歌われている(和歌山北口駅 - 難波駅)。当時は民鉄が多かったが、鉄道唱歌に登場する路線で国有化されず民営のままなのは南海本線のみである。 1929年から1930年に当路線全線と並行して阪和電気鉄道が開通すると、南海鉄道との間で列車のスピードアップや割引切符による運賃のダンピングなど、激しい競争が繰りひろげられることになる。対抗のため、日本初の冷房電車(2001形を参照)を1936年から1937年まで走らせたりした。同社は1940年に南海へ合併して山手線となり、1944年には戦時買収によって国有化され、阪和線となった。 また1934年には、競合する阪和電気鉄道とともに「黒潮号」・「土曜列車」など紀勢西線(現在の紀勢本線)への直通運転も開始し、1940年から1951年の中断期を経て、1985年の紀勢本線における急行列車廃止に伴う「きのくに」消滅まで続けられた。末期の「きのくに」に使用されていた車両は自社所有の気動車(キハ5501、キハ5551形)で、和歌山市駅から紀勢本線に乗り入れ(紀和駅にも停車)、和歌山駅で天王寺駅発着の「きのくに」と分割・併合を行っていた。なお、種別は紀勢本線直通の急行であったが南海本線内の停車駅は当時の特急と同じ新今宮駅(1966年12月1日より)・堺駅・岸和田駅の3駅に絞られていた(1968年9月30日までは客車列車に限り泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅にも停車)。旅客案内上は誤乗車を避けるため南海線内においては「特急」と案内されていた。 2005年11月のダイヤ改正以降の運行本数は日中・土日においては関西空港開業直後のダイヤと比べて約2割削減されている(基本・優等列車9本→8本、普通6本→4本)。 駅名は最終のもの。住吉駅・大和川駅は阪堺電気軌道、高師ノ浜駅は高師浜線の駅とは別の駅。 ※:路線自体は接続しなくなったものの、加太線の列車は紀ノ川駅から南海本線を経由して和歌山市駅に乗り入れるため、実質的には現在も接続している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南海本線(なんかいほんせん)は、大阪府大阪市中央区・浪速区の難波駅から和歌山県和歌山市の和歌山市駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「本線」という路線名ではなく、社名略称を冠した「南海本線」が正式な路線名である。南海本線自体を指して、または南海本線に接続する各支線(高野線・汐見橋線・空港線以外の路線)を含めて通称南海線と呼称される。路線シンボルマークは、波しぶきをイメージしたもの()で、ラインカラーは青。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高野線と並ぶ南海電鉄における主要路線である。南海本線単体としては大阪市 - 和歌山市間の都市間連絡及び大阪市への通勤・通学輸送を担う近郊路線である。また、空港線を経由する関西国際空港(関空)へのアクセス路線(空港連絡鉄道)でもあり、大阪ミナミの繁華街に位置する起点の難波駅は外国人観光客(インバウンド)を含む多くの関空利用者にとっての玄関口としての役割も果たしている。さらには、和歌山港線を経由する和歌山港へのアクセス路線の性格も帯びており、和歌山港 - 徳島港間を運航する南海フェリーとともに関西・四国連絡ルートを形成している。また、高野線が岸里玉出駅から難波駅まで当路線の線路別複々線区間に直通運転しており、起点の難波駅は高野線のターミナル駅にもなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大阪平野では南海本線の東側(山側)に競合路線の西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線が並走しているが、大阪府と和歌山県の県境付近における経路は大きく異なっており、距離は短くなるが山岳区間が長い雄ノ山峠越えの阪和線に対して、南海本線は距離は長くなるが山岳区間が短い孝子峠越えで和歌山市へ至る。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "全線でPiTaPaおよびICOCAなどPiTaPaと相互利用可能なIC乗車カードが利用できる。ただし、割引サービスまたはICカード登録型minapitaポイント還元サービスはPiTaPaおよびICOCAのみが対象となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "難波駅 - 住ノ江駅間は複々線であり、このうち難波駅 - 岸里玉出駅間は線路別複々線で、東側2線は高野線の列車が使用している。今宮戎駅と萩ノ茶屋駅は西側2線にホームがなく、南海本線の列車はすべてこの2駅を通過する。そのため、高野線の最下位種別の列車は「各駅停車」と呼ぶのに対し、南海本線の最下位種別の列車は「普通」あるいは「普通車」と呼んでいる(「普通(普通車)」の解説も参照)。岸里玉出駅 - 住ノ江駅間は方向別複々線で、下りの外側線、上りの内側線は普通、下りの内側線、上りの外側線は準急以上の列車が走る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "立体交差化については、難波駅 - 石津川間、羽衣 - 高石間、松ノ浜駅 - 大津川間、岸和田駅周辺、貝塚駅 - 二色浜駅間の近木川周辺、泉佐野駅周辺で高架化が完成している。2023年4月時点では、石津川 - 羽衣間で高架化工事を進めており、2027年度末に完了する予定である。また、羽衣 - 高石間は2021年5月22日に高架化が完了し、引き続き高師浜線の高架化や側道の整備などの事業を行っている。2015年に行われた大阪府の第3回建設事業評価審議会の資料によれば、羽衣 - 高石間の上り線高架切り替えは2019年春の予定となっていた。高野線や、南海本線と併走するJR阪和線と比較しても相当進んでおり、いわゆる「開かずの踏切」の問題や、それに起因する交通渋滞についても、先述の周辺路線と比べてかなり解消されてきている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "沿線には、都心の高層ビル群や工業地帯のほか、日本の大手私鉄ではあまり例のない「線路沿いに海岸線が至近距離から見える区間」がある一方で、短距離ながら峠越えのトンネルもあるなど、車窓からはバラエティに富んだ風景が見られる。また、路線自体の長い歴史も相まって、開業以来現在まで民営を貫いてきた路線として唯一、『鉄道唱歌』において当線の駅や沿線風景が歌われている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以下に示す記述はすべて難波→和歌山市方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "始発の難波駅は9面8線、のりばは1 - 9番線の構造を持ち、南海本線の列車はこのうち5 - 8番線の西側4線を使用する(9番のりばは8番線の降車側で、特急ラピートの専用のりば)。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手になんばパークス(旧大阪スタヂアム〈大阪球場〉跡地)・ヤマダデンキLABI1なんば・クボタやニコニコのりの本社社屋・南海電気鉄道本社の入る南海なんば第1ビルなどを、左手に日本橋電気街(でんでんタウン)などを見ながら、阪神高速1号環状線をくぐり、高野線の各駅停車のみが停車する今宮戎駅(南海本線側にホームはない)を通過、国道25号を越え、左手に通天閣が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の新今宮駅に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の南海本線下り線ホームは、ともに高野線の上り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの大阪環状線・関西本線(いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に釜ヶ崎あるいはあいりん地区と称されるドヤ街を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・あべのハルカスを望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する萩ノ茶屋駅(南海本線側にホームはない)を通過すると、全列車停車駅である天下茶屋駅。かつてはこの駅から天王寺支線が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在のOsaka Metro堺筋線)が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には大阪フィルハーモニー交響楽団の練習場やスーパーマーケットが建っている天下茶屋を出て高野線の事実上の本線が左に分かれると同時に、右側から同線の事実上の支線である通称「汐見橋線」が近づいてくると島式ホームの岸里玉出駅。岸里玉出駅は、高野線ホームが長い連絡通路を経た東側に、汐見橋線の単式ホームが本線の西側にある構造。この駅を境に線路は線路別複々線から方向別複々線となり、緩急分離運転が行われる。またこの複々線区間では住ノ江検車区への出入庫の回送電車も多く列車密度が高い。粉浜駅を過ぎて左側に住吉大社の社地が、右側に住吉公園が見えると住吉大社駅、国道479号(大阪内環状線)を乗り越えながら右にカーブをすると右側に住ノ江検車区を併設する住ノ江駅。複々線区間はここで終了し、右から近づいてくる阪神高速15号堺線を斜めにくぐりながら大和川橋りょうを渡って堺市に入り、地下を通る阪神高速6号大和川線を乗り越えながら右にカーブをすると七道駅に至る。駅手前のカーブの右側には、阪神高速の鉄砲出入口の掘割とイオンモール堺鉄砲町があるが、この場所は富士フイルムホールディングスの源流でもあるダイセル化学工業(撤退当時の名称。現在の「ダイセル」)の発祥の地である同社本社・大阪製造所堺工場の跡地であり、旧社屋にあった「堺セルロイド」時代からの赤レンガ建築の古い建物が、同モール敷地内にモニュメントとして残っている。七道駅を出て、ほぼ直線状にしばらく進むと最初の緩急接続駅である堺駅に着く。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "堺駅を過ぎると周辺には住宅地や商業地のほかに、阪神高速4号湾岸線や、堺泉北臨海工業地帯の工場群が右側の車窓に近づき、また左手遠方には仁徳天皇陵や履中天皇陵とされている巨大な墳丘が見えるようになる。堺市の目抜き通りの一つであるフェニックス通り(国道26号。府道2号大阪中央環状線とも重複)を乗り越えた後、湊駅、石津川駅を過ぎて石津川を渡ると、線路は難波からここまで続いてきた高架を下りて地上に移る。上下ホームが千鳥式に配置された諏訪ノ森駅に近づく頃から、あたかも阪神間モダニズムを想わせるような高級住宅街が線路の周辺に見え始める。右側に浜寺公園が見えると阪堺電気軌道阪堺線をくぐって浜寺公園駅。この駅の旧駅舎と諏訪ノ森駅上りホームの駅舎は国の登録有形文化財に登録されている。線路はその後仮線を経由して高架へ移る。高石市に入り、程なく高師浜線・JR羽衣線(阪和線支線)との乗り換え駅である羽衣駅に着く。この駅手前左側の高架上に、JR羽衣線の東羽衣駅がある。かつてこの周辺が海水浴場などを有する行楽地であったことから、1990年代まで、羽衣駅の周辺には大規模な観光旅館がいくつか存在したが、現在はいずれも廃業し、姿を消している。またこの駅付近の踏切は、JR阪和線を建設した阪和電気鉄道と南海との熾烈な競争の象徴でもあったが、南海の連続立体交差事業(高架化)に伴い、先述の通り2021年5月をもって廃止された。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "高架化工事のため長期運休中の高師浜線の線路は、しばらく高架下右側を並走するが、やがて同線は高架に上がりながら右側に分かれる。新興住宅街の間をしばらく進むと待避線のある高石駅。線路はその後地上に降り、堺泉北道路をくぐると線路は泉大津市に入って北助松駅。府道38号富田林泉大津線の跨線橋をくぐった後すぐに高架に上がり、松ノ浜駅、続いて島式2面4線の泉大津駅に至る。泉大津駅は急行以下の種別の停車駅であるが、例年夏期に周辺で大規模な野外ロック・フェスティバルが開かれるため、当日には一部の特急列車が臨時停車するほどの賑わいを見せる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "泉大津を出ると線路は左にカーブをする。大津川を渡ると線路は地上に下り、忠岡町に入ると同町唯一の駅である忠岡駅に達する。すぐに岸和田市に入り、府道40号岸和田牛滝山貝塚線の跨線橋をくぐりながら右にカーブをすると、右側に岸和田競輪場が見えて春木駅に至る。かつて春木駅は春木競馬場の最寄り駅でもあったが、現在は岸和田市中央公園となっている。和泉大宮駅を過ぎて高架を上がり、右にカーブをすると、岸和田だんじり祭の時期に大きな賑わいを見せる岸和田駅に着く。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "岸和田を出ると再び右にカーブをして、右側に岸和田城を見ながら高架を下りると蛸地蔵駅、さらにカーブを繰り返しながら貝塚市に入ると、水間鉄道水間線との乗り換え駅である貝塚駅に至る。水間線が左に分かれた後、南海の線路はやがて高架に上がるが、府道40号岸和田牛滝山貝塚線を乗り越えて左右にカーブをすると程なく地上に下りる。このあたりから徐々に住宅地のほかに田園地帯が広がり始める。二色浜駅を過ぎると線路はその後しばらくの間ほぼ直線状になり、関西国際空港の玄関口である泉佐野市に入って鶴原駅、井原里駅と続く。その間に、右前方にはりんくうゲートタワービルやりんくうプレジャータウンSEACLEの大観覧車が見え始める。線路は程なく高架を上がり、右にカーブをすると、空港線との乗り換え駅であり、また大阪市内駅をのぞく南海本線唯一の全種別停車駅でもある泉佐野駅に着く。この駅は待避設備のほかに乗り換え専用ホームを有する島式3面4線の構造となっており、ダイヤ上も和歌山市方面と関西空港方面の列車が容易に対面乗り換えできるように配慮されている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "泉佐野駅を出ると、空港線としばらく線路を共用するが、左にカーブするとすぐに空港線は右側に分かれる。高々架のJR関西空港線・関西空港自動車道、地上を通る国道481号と立体交差すると線路は地上に下り、住ノ江検車区羽倉崎検車支区を併設する羽倉崎駅。ここからはラッシュ時を中心に本数が減少する。左側には同検車支区、右側にはかつての巨大な紡績工場(阪本紡績)の跡地に建つ高層マンション群や商業地を見ながら田尻町に入る。府道63号泉佐野岩出線と重複する府道204号堺阪南線(旧国道26号)の跨線橋をくぐると吉見ノ里駅。樫井川を渡り泉南市に入ると岡田浦駅。ここから樽井駅までの区間はかつて右側の車窓から大阪湾を間近で見ることができたが、現在は埋め立てが進み、りんくうタウンが造成され、車窓からはイオンモールりんくう泉南などの商業施設やいくつかの工場などが見えるようになっている。2か所の道路橋をくぐり、樽井駅を過ぎて府道63号泉佐野岩出線のバイパスの跨線橋をくぐってから男里川を渡ると阪南市に入り、同市の中心駅で特急サザンも停車する尾崎駅に着く。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "尾崎を出て左右にカーブし、鳥取ノ荘駅を過ぎると右側の車窓に大阪湾の海岸線が間近に迫り、遠くには関西国際空港や空港連絡橋も望むことができる。また左側には府道752号和歌山阪南線(旧国道26号)も並走する。一旦海岸線から離れ、阪南スカイタウンなど周辺の住宅開発がめざましい箱作駅に至る。ここから先はカーブの連続区間となり、優等列車も若干速度を落として運転を行う。再び海岸線が見え始め、箱作海水浴場(ぴちぴちビーチ)やせんなん里海公園が連なる。途中、階段を伴った空き地が線路両脇にあるが、これはかつて計画されていた箱の浦駅の建設を途中で断念した名残である。再び海岸線から離れると線路は岬町に入り、周辺に古墳が点在する淡輪駅を過ぎると、右前方に2020年3月で閉園した遊園地「みさき公園」や長松自然海岸を擁する大阪湾の海岸線が見え始め、程なく同公園の最寄り駅であり、また多奈川線の乗り換え駅でもあるみさき公園駅に着く。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "みさき公園駅は、盛土上にホームをもつ構造となっており、その直下を府道752号和歌山阪南線がアンダークロスする。多奈川線は同駅を出た後しばらく右側を並走するが、やがて同線が大きく右に分かれると同時に南海本線も大きく左にカーブをする。ここからは雰囲気が一変して山間の区間となって駅間距離も長くなり、府道752号和歌山阪南線がすぐ右側を、やや遅れて第二阪和国道バイパス(国道26号)もすぐ左側を並走するようになる。途中、右側の車窓から煉瓦造の建造物(深日変電所)が見えるが、この場所にはかつて深日駅があった(1944年休止、1958年廃止。現在もホームの跡が残る)。いくつかのカーブを経て孝子駅を過ぎると第二阪和国道バイパスが左へ分かれていき、線路はいよいよ上りの急勾配区間に差し掛かる。孝子峠を越える第一孝子越隧道(孝子トンネル)内で大阪府と和歌山県の府県境を通過し、同県和歌山市に入る。トンネルを抜け下り勾配に差し掛かり、県道752号和歌山阪南線のガードをくぐると、南海で最も新しい駅で「ふじと台」の副駅名を持つ和歌山大学前駅に着く。イオンモール和歌山が当駅の左側すぐ掘割上にあり、周辺は週末を中心ににぎわいを見せる。沿線は徐々に開けてきて、左側にふじと台の住宅地や和歌山大学のキャンパス群、右側には「ノーリツプレシジョン」(旧ノーリツ鋼機の写真処理機器関連部門。同事業譲渡前の同社本社)や「NKアグリ」(ノーリツ鋼機グループの生鮮野菜製造業者)の本社工場、遠方には和歌山市街などを見ることができる。やがて2本の短いトンネル(第二貴志隧道・第三貴志隧道)をくぐりながら大きく左にカーブをして県道752号和歌山阪南線と分かれ、住宅地の中を通りながら県道7号粉河加太線の跨線橋をくぐると、右側から加太線が近づいてきて、同線との乗り換え駅である紀ノ川駅に至る。ゆるやかに右にカーブしながらさらにしばらく進むと、紀の川に架かる紀ノ川橋梁を渡り、築堤を下りながら右にカーブをする。県道15号新和歌浦梅原線をくぐり、右側に和歌山競輪場が見え、左側から近づいてくるJR紀勢本線と並走を始めると、右側に住ノ江検車区和歌山出張場を併設する終点の和歌山市駅に到着する。同駅は和歌山駅と並び、和歌山市を代表する駅の一つである。和歌山市駅の手前には非電化の国社分岐線があり、かつてはこの分岐線を通って紀勢本線への直通列車が走っていた。線路は一部ののりばをのぞいて、その先にある単線の和歌山港線へと続いていく。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "都市間および四国連絡特急として難波駅 - 和歌山市駅・和歌山港駅間で特急「サザン」が運転されている。「サザン」は通勤形車両の自由席車(別途料金不要)と、特急形車両を使用した指定席車(座席指定料金が必要)を連結して運行している。また、関西国際空港が開港した1994年からは空港線に直通する空港アクセス列車として難波駅 - 関西空港駅間に特急「ラピート」(「ラピートα」「ラピートβ」)および空港急行が運転されている。「ラピート」はレギュラーシートとスーパーシートの2種類があり、いずれも全席指定で特急料金が必要である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "このほか、急行・-急行-・区間急行・準急行・普通が運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "早朝・深夜の一部の普通を除き難波駅発着である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "朝ラッシュ時間帯の上りダイヤは、「ラピートβ」が1時間に2本、「サザン」が1時間に2本、その他急行・空港急行・区間急行・準急行(平日のみ)・普通が運転されている。また、準急行はこの時間帯のみ運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日中の1時間ごとの運行本数(岸里玉出駅以北の高野線列車は除外。空港線・加太線を含む)をまとめると以下のようになる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "平日夕ラッシュ時間帯の下りダイヤは、「ラピートβ」が30分間隔で1時間に2本、「サザン」が30分間隔で1時間に2本、急行・空港急行・区間急行が合わせて約10分間隔で1時間に6本(18時台のみ7本)、普通が約10分間隔で1時間に6本運転されている。普通の一部は関西空港・羽倉崎・樽井・みさき公園駅行きである。上りダイヤも関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることを除きおおむね同じ本数だが、パターンダイヤとはなっていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "土曜・休日の夕方・夜間は、関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることと、一部の上り列車の待避パターンが異なることを除き、昼間時間帯と同じである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "南海線のダイヤの特徴として、上りの最終列車が比較的遅い時間帯に存在することが挙げられる。平日、土曜・休日とも関西空港駅23時55分発の空港急行に泉佐野駅で接続する普通が羽倉崎駅以北の上り最終列車で、難波駅には0時57分に到着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以下に特急「ラピート」「サザン」をのぞいた種別の運行概況を示す。「ラピート」および「サザン」については当該項目を参照。「ラピート」は堺駅・岸和田駅を通過する「ラピートα」と、この2駅にも停車する「ラピートβ」があるが、以下においてはどちらかだけに当てはまる場合以外は単に「ラピート」としている。各種別の現行の停車駅は下図および「駅一覧」を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "平日の早朝から朝ラッシュ時・夕ラッシュ時と、土曜・休日の朝に、難波駅 - 和歌山市駅・和歌山港駅間で運転されている。4扉車のみが使用される。6両編成と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、和歌山市駅 → 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目が女性専用車両になる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "現行のダイヤでは下りは朝ラッシュ時を除いて特急に追い抜かれる列車はない。上りは岸和田駅で「ラピート」に抜かれる列車がある。また、平日朝ラッシュ時上りでは自由席車両が4両しかなく輸送力が不足する特急「サザン」のすぐ後ろを急行が続行運転するダイヤが組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "英語表記は「Express」。白地幕時代の車両の方向幕には「急」と表示されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "かつては終日運転で、長らく日中に1時間あたり2本運転されていた。1993年4月改正で日中に1時間あたり3本設定されたが、2001年3月の改正で特急が尾崎駅への停車を開始し、泉佐野駅 - 和歌山市駅間で特急と停車駅が同一になったのと同時に、1時間あたり2本に減便された。さらに2005年11月のダイヤ改正で昼間・土休日の列車が実質上特急に格上げされ、難波駅 - 泉佐野駅間の急行停車駅の乗客の輸送は空港急行と区間急行が1時間あたり2本ずつ交互に担うこととなった。また、平日夕方ラッシュ時以降も改正以前は1時間あたり3本設定されていたが、うち1本が区間急行に格下げされ、その他深夜帯を中心に区間急行に格下げ、あるいは特急「サザン」に格上げされた列車も存在した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "初代1000系の現役時代は、特急列車と同じ車両が急行にも運用されていたが、現在は原則として特急用車両での急行の運用はない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "通常の急行停車駅に加え春木駅に停車する急行。車両の種別表示幕(方向幕)に、朱地に白線を加えた白文字で「-急行-」(「急行」の文字は従来より小ぶり。旧式の表示幕の場合は「 - 急 - 」)と記載されていたために、鉄道ファンなどの間では「白線急行」と形容されている。現在は深夜に難波0時08分発の泉佐野行き(難波・新今宮・天下茶屋駅からの泉佐野方面への最終。堺駅と泉佐野駅で普通車羽倉崎行きに接続)下り1本のみが設定されており、4扉車による8両編成で運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "後述の空港急行および羽倉崎駅発着の区間急行の前身として、難波駅 - 泉佐野駅・羽倉崎駅間で定期列車が頻繁に運転されていた。また、難波駅 - 多奈川駅間で運転された多奈川線直通の淡路航路連絡急行「淡路号」もこれに含まれていた。春秋の行楽シーズンや夏の海水浴シーズンには和歌山市駅まで延長運転され、盆や年末年始の帰省シーズンには特急運転時間帯以外に和歌山港駅まで延長運転されたため、これに対応した和歌山市・和歌山港行の「-急行-」または「- 急 -」表示の方向幕や赤い縁取りの標識板が用意されていた。なお、単なる「急行」として運転される春木駅通過の和歌山市駅発着の急行は、岸和田競輪開催時には春木駅に臨時停車するが「-急行-」としては運転されず、あくまで春木駅に臨時停車する「急行」として運転された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1993年に多奈川線直通の急行「淡路号」が廃止。1994年6月の空港線開業に伴う種別整理により「空港急行」に名称を変更して運行区間を現在の難波駅 - 関西空港駅間に変更、その後9月の関西国際空港開港に伴うダイヤ改正で羽倉崎駅発着(車庫引き上げを兼ねて運転されるもの)は区間急行に統合され、定期列車としての運転は一旦消滅。その後は岸和田競輪開催時の春木駅臨時停車の急行が「-急行-」表示を掲げ運転されていたが、それも2005年の昼間時の急行廃止により姿を消した。その後、岸和田競輪開催による春木発の臨時急行を設定したこともあったが、2017年1月のダイヤ改正で現在の下り1本が久々の定期列車として設定されることになった。再設定当初から2017年8月の高野線ダイヤ改正までと2021年5月の南海線ダイヤ改正から2023年10月の南海線ダイヤ修正までは6両編成、それ以外の期間のダイヤでは8両編成となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、空港急行が強風などの影響により空港線に入線できずに泉佐野止まりとなった場合は白線急行(「-急行- 泉佐野」表示)となることもあるが、泉佐野・羽倉崎までの停車駅は区間急行と同一であるため「区急」表示とすることもある。2018年9月6日から9月7日までの南海空港線不通時には、空港急行が臨時で羽倉崎発着となり、白線急行(下り列車は「-急行- 羽倉崎」、上り列車は「-急行- なんば」表示)として運転していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "車両に方向幕が装備される以前は、先頭車に掲出されていた種別表示の丸い標識板が赤色で縁取りされたものであったため「赤丸急行」とも呼ばれていた。空港急行がこの急行を継承した列車であるため、方向幕故障時などに使われる「空港急 難波 - 関西空港」や、関西国際空港連絡橋の通行規制時に運転されるものの、方向幕に行き先が用意されていないりんくうタウン駅発着の空港急行に使われる「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板にも同様に赤い縁取りが施されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "終日、空港線に直通して難波駅 - 関西空港駅間で、日中は1時間あたり4本運転されている。急行の停車駅(泉佐野駅以北)に春木駅が追加されている。前述の春木駅停車の急行(白線急行)を前身とする種別であり、1994年6月15日の空港線開業と同時に新設された。空港線内は各駅停車で、泉佐野駅を境に各駅停車となる点で、実質停車駅は区間急行と同じである。4扉車のみが使用される。6両編成の運用と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、関西空港駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目には女性専用車両になる。昼間時間帯は終点まで先着するが、朝夕時間帯は特急に追い抜かされる列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "関西国際空港への空港連絡列車であり、空港に接続する特急「ラピート」の補完にもなっているが、本線の急行輸送も担当しており、長期休暇期間・大型連休・盆・正月など、日本の海外・国内旅行シーズンの利用客が特に多い傾向があるほか、朝晩ラッシュ時を中心に混雑が目立ち昼間時や土休日でも比較的利用者が多い。ただ泉佐野駅 - 関西空港駅間に限れば朝の上り、夜間の下りはほぼ空気輸送状態になっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "英語表記は「Airport Express」。種別を表す色は急行は車両の方向幕が全面朱色、駅の行先案内表示機(発車標)がオレンジ色であるのに対し、空港急行は黒地に朱色またはオレンジ色のアンダーラインが入り(日本語部分が黒地で朱色部分に「Airport Exp.」の英語表記種別が入る。なお、8000系・8300系のフルカラーLED表示では日本語では普通と同じく灰色に白字、英字ではオレンジ色に白字で表示)、また日本語部分に少々小さい上付き文字で「空港」の文字が入った「急行」という表記となっているなどの違いがあり、急行とは区別された扱いとなっている。また、関西空港行に限り種別・行先が一体となった幕式では朱色のアンダーラインの左側に、種別・行先幕が別々の1000系では行先幕の灰色のアンダーラインの左側に、8000系・8300系では種別と行き先の間に飛行機マーク()がある。駅内や駅で配布される時刻表では、関西空港行きが同様の飛行機マーク、難波行きは二重丸(◎)で表記される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "強風などにより空港線関西空港駅まで入線できない場合は、臨時になんば駅 - りんくうタウン駅間で折り返し運転となるが、りんくうタウン行きの種別・行先方向幕がないため、車両側の方向幕では「関西空港行き」の表示として駅の発車標では「りんくうタウン行」の表示にするか、車両側でも別途非常用に用意されている「空港急行」の種別のみの方向幕と「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板を組み合わせるかいずれかで対応する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "空港線開業時のダイヤでは昼間時間帯は1時間に2本、夕方は1時間に3本の運転で、関西国際空港開港時のダイヤ改正では1時間に3本の運転であった。2005年11月のダイヤ改正で平日の日中以降・土休日の終日において1時間3本から2本に減便されたが、代わりに関西空港駅発着の普通が1時間あたり2本新設され、泉佐野駅で区間急行と接続を取るようになった。また空港急行自体も泉佐野駅で和歌山市駅行きの普通と相互接続して、泉佐野駅 - 和歌山市駅間での特急「サザン」や区間急行の補完的役割も担うこととなった。2014年10月のダイヤ変更では日中のみさき公園駅(一部和歌山市駅)発着の区間急行が空港急行に変更になり、さらにはそれまで土休日や日中を中心に上下ともに行われていた岸和田駅での特急「サザン」の待避がなくなり所要時間が短縮された。また日中以外でも大幅に増え、さらにほとんどの列車が終着駅まで先着している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "近年、関西国際空港へのLCC乗り入れや、インバウンド客の増加などにより、海外のSNSなどを通して安価な交通手段としての認知度が高まっており、スーツケースなどを持った外国人も急増し、慢性的な混雑やマナーの悪化が問題になっている。2017年1月と2019年4月のダイヤ改正では、いずれも6両編成で運転される列車の一部を8両編成に増車し(最終的に空港急行の4分の3が8両編成となる)、夕方以降のほとんどの区間急行を空港急行に置き換えるなど混雑対策に努めていた。ただし、2021年5月のダイヤ改正から2023年10月のダイヤ修正までは新型コロナウイルス感染症の流行による利用客の減少を背景に8両編成の列車の約半数が6両に減車されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "朝と夕方以降に難波駅 - 羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅間で運転されている。難波駅 - 泉佐野駅間は空港急行と同じ停車駅で、泉佐野駅 - 和歌山市駅間は各駅に停車する。朝ラッシュ時や、深夜(深夜は下りのみ)には羽倉崎駅始発・終着のものもあり、羽倉崎検車区への引き上げも兼ねた存在の速達種別といえる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "4扉車のみが使用される。羽倉崎駅以南(特急・急行停車駅をのぞく)のホーム有効長から原則として6両編成で運転されるが、羽倉崎駅発着の列車は8両編成で運転される列車もある。平日夕方ラッシュ時には泉大津駅・泉佐野駅・尾崎駅・みさき公園駅のいずれかで特急「ラピート」・「サザン」および急行に追い抜かれることが多く、終着駅まで先着する列車は少ない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「区急」である。英語表記は「Sub Express」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "関西国際空港開港以前は区間急行は高野線のみに存在する種別であったが、開港時のダイヤ改正で羽倉崎発着の急行・泉佐野以北で通過運転を行う準急(赤準急)の種別統合により本線にも登場した。種別色は高野線では長らく赤であったが、本線では当初から緑色である。非常用に用意されている「区間急」の標識板も縁取りと種別の文字に緑色が使われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "かつては朝と深夜のみの運転であったが、2005年11月のダイヤ改正より泉佐野駅 - 和歌山市駅間の乗客減に伴い、大半の急行が特急に格上げされたために日中にも難波駅 - みさき公園駅間で運転され、急行の代替的な役割も担った。しかし、2014年10月のダイヤ変更で日中の列車が、さらに2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で夕方以降の列車もほとんどが泉佐野駅以北は空港急行に、同駅以南は普通車に置き換えられたため本数は大幅に減少している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "平日朝ラッシュ時の上りのみ運転されており、羽倉崎発が1本、春木発が1本設定されている。羽倉崎駅 - 堺駅間は各駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "南海線では最も本数の少ない種別である。4扉車による6両編成で運転され、すべての列車が泉大津駅で区間急行または急行と接続し、浜寺公園駅で後続の空港急行(または特急)の通過待ちを行う。そのため、泉大津駅の3番線に停車する準急は存在しない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "構内アナウンスや車掌放送では「準急行」と案内されるが、時刻表や案内板の表記は「準急」である。英語表記は「Semi Express」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2005年11月26日以前は高石発難波行き、平日は下り列車である難波発高石行きもあった。2005年11月26日ダイヤ改正から2009年10月3日までは4本(羽倉崎駅から3本、春木駅から1本)、2009年10月3日から2019年4月5日までは3本(羽倉崎駅から2本、春木駅から1本)あった。2001年のダイヤ改正までは岸和田発難波行きもあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "終日、難波駅 - 和歌山市駅間(区間運転あり)と空港線直通の難波駅 - 関西空港駅間で運転されている。日中は和歌山市駅発着系統が1時間あたり4本運転される。ラッシュ時、夜間には関西空港駅や羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅で折り返す列車もある。また早朝には泉佐野発和歌山市行き、泉佐野発関西空港行きと春木・高石(かつては浜寺公園発であった)・住ノ江発難波行きが、深夜には和歌山市発羽倉崎行きの列車も存在する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "4両または6両編成で運行されているが、土休日は6両編成での運用が多くなる。6両編成で運用される列車は朝または夕方に一部の区間急行・空港急行運用に入るものが多いのに対し、4両編成は普通車限定運用である。なお、空港線内で完結する泉佐野発関西空港行きには8両編成も存在する。2007年8月のダイヤ変更から南海本線と空港線の列車で2000系(2扉車、ズームカー)の運用も始まった。なおズームカーの運用は繁忙期(正月三が日や岸和田だんじり祭・春木だんじり祭の開催日など)には通常の21m車での運用に変更される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "下り列車では泉佐野駅発車後4本のうち2本が和歌山市駅まで先着している。日中の列車は堺駅・高石駅・岸和田駅・尾崎駅(毎時2本のみ)で特急と、堺駅・泉大津駅・泉佐野駅で空港急行と、それぞれ接続または待避を行う。ラッシュ時は貝塚駅、みさき公園駅(下りのみ)での接続や、岸里玉出駅(上りのみ)、粉浜駅 - 住ノ江駅間、浜寺公園駅で待避する列車も存在する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "駅の放送では、空港線関西空港駅の自動放送を除き「普通車」と案内されている。英語表記は高野線の各駅停車と同じく「Local」である。高野線の「各駅停車」と種別名称を区別しているのは、南海線用のホームのない今宮戎駅と萩ノ茶屋駅に停車しないためである。駅での停車駅の表示は難波発が「新今宮・天下茶屋 以遠各駅(難波駅の場合)」「天下茶屋 以遠各駅にとまります(新今宮駅の場合)」、難波行が「天下茶屋までの各駅・新今宮」となっている。かつては岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅も通過していて、現在の準急に近いような停車駅であった(当時は岸ノ里駅と玉出駅が統合されて岸里玉出駅となる前)。そして普通とは別に1970年11月22日まで難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に運転されていた岸ノ里駅まで現在高野線専用の東側2線を経由し今宮戎駅・萩ノ茶屋駅および前記の普通が通過する岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅にも停車する「各駅停車」が存在した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "過去には昼間時間帯でも浜寺公園駅・高石駅で折り返す列車や、早朝のみだが住ノ江発の下り泉佐野行き(のちに関西空港行き)、深夜の和歌山市発泉佐野行き、難波発住ノ江行きも存在していた。また2005年11月のダイヤ改正までは関西空港発の普通は原則としてなかった。関西空港発の普通は2005年11月から2014年10月までは日中1時間に2本運転されていたが、2014年10月のダイヤ改正で日中の列車が、2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で段階的に朝と夕方以降も空港急行に格上げされたため本数を減らしている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2021年度(2022年正月)以降は、毎年大晦日から元日午前2時半頃にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15 - 20分間隔、住ノ江駅 - 高石駅間が30 - 40分間隔で、普通のみの延長運転が行われている。なお、高石駅 - 和歌山市駅間は終夜運転を行わない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2019年度以前は、元日早朝にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15分間隔、住ノ江駅 - 羽倉崎駅間が30分間隔で、普通のみの終夜運転が行われていた。関西国際空港開港後数年間は難波駅 - 関西空港駅間で終夜運転を行っていた時期があった。2020年度の大晦日は終夜運転を行わず、終電を深夜2時まで延長する予定であったが、その後大阪府内での新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い中止となった。2021年度以降は前述の通り、区間・時間帯を短縮したうえで延長運転を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "正月三が日は原則として土休日ダイヤで運転されるが、空港急行と区間急行が昼間時間帯に住吉大社駅に臨時停車する。そのため2 - 3分ほど運転時分がずれる。臨時列車は運転されないが普通車は2ドア車が運用から外れ4ドア車による代走となる。また、一部の列車では編成両数が変更される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2004年度(2005年正月)までは急行と空港急行が停車し、2005年度(2006年正月)から2007年度(2008年正月)までは「ラピート」以外の全列車が停車していたが、2008年度(2009年正月)以降は再び特急「サザン」・自由席特急は通過となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "関西国際空港開港以前は、昼間の急行(和歌山市行き・泉佐野または羽倉崎行き)・普通の本数が必ず6本となり、昼間のみ正月ダイヤを組んでいた経緯がある。また大晦日の深夜には住吉大社の参拝客のために住ノ江検車区への入庫回送列車を臨時の普通に仕立てて運転していた時期もあった。また、1998年の明石海峡大橋開通以前には、四国方面の帰省ラッシュ対策で急行が和歌山港駅まで臨時延長運転されたことや、臨時の自由席特急が運転される時期もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2012年3月31日まで、特急「サザン」「ラピート」とは別に、座席指定料金不要で乗車券のみで乗ることができる全車自由席の特急が設定されていた。停車駅パターンは「サザン」と同一であるが、全車自由席のため、「サザン」の愛称はなく、車両の種別表示幕では「特急」とのみ記載されていた。すべて6両編成で、通称「自由席特急」とも呼ばれている。英語表記は\"Ltd. Express\"である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2005年11月のダイヤ改正前は朝のみ数本の運転であった。同改正で日中に運転されるようになったが、2009年10月のダイヤ改正以降は平日・土休日とも難波発14時15分、16時45分と和歌山市発13時、15時30分の2往復しか運転されておらず、残りはすべて一部座席指定特急「サザン」として運転されていた。難波駅 - 和歌山港駅間往復に必要な所要本数は6本で、「サザン」用編成は7本、うち1本が予備編成となっているが、フェリーとの連絡の都合上昼間に和歌山港駅で停泊する編成が1編成生じてしまう。自由席特急はこれを補完するために運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1968年3月から1985年10月までの間は、新今宮駅・堺駅・岸和田駅の3駅のみ停車の速達性を重視した列車でさらには四国徳島港接続や、南紀(紀勢本線)直通といった長距離輸送の役割も担っていた(詳細は「歴史」の節を参照)。1968年3月以前の和歌山市駅発着の特急は泉佐野駅以北が現在の急行に近く、堺駅 - 泉佐野駅間は現在の急行停車駅から羽衣駅を除いたものと同じであったが、逆に泉佐野駅 - 和歌山市駅はノンストップであった。これは、1954年の登場時に市制を施行していた沿線の7市に1駅ずつ停車するパターンである。なお、末期の1966年には新今宮駅に停車するようになったが、同年に市制を施行した高石市の羽衣駅に停車することはなかった。2005年11月のダイヤ改正で昼間時間帯(土休日は一部時間帯をのぞく終日)において急行停車駅(羽衣駅・泉大津駅・貝塚駅)から和歌山市駅へ行く優等列車がなくなった。このため前述の3駅から和歌山市駅へ行くには岸和田駅かみさき公園駅での乗り継ぎが強いられている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1968年3月に特急は四国連絡・南紀直通だけとなって泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅の3駅は通過となり、1973年に和歌山市駅発着の自由席特急が復活した後も、停車駅は当時の「四国号」と同じであった。その後の度重なる停車駅の追加により、現在では泉佐野駅を境に、北部は特急、南部はかつての急行の役割を担う性格の列車となっており、難波駅 - 和歌山市駅間で最も速い急行との所要時間差は3分程度でしかなくなっていた(一部自由席連結の「サザン」も同様である)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2012年の7月2日から9月7日まで夏季の電力事情に対応するため、お盆期間(8月13日-15日)をのぞく平日の日中に特急「サザン」4本を自由席特急に変更して運行した。一時的であるが、同年3月に廃止されて以来約3か月ぶりに復活した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお、人身事故などでダイヤが大幅に乱れた場合や、サザン用編成に何らかの不備が発生した場合に「サザン」が臨時に自由席特急に差し替えられる場合がある。その場合は駅の放送や駅の案内表示も「特急」と案内される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1994年以前は現行の停車駅の準急(当時は難波駅 - 高石駅・岸和田駅間で運転)に加え、朝ラッシュ時や早朝・深夜を中心に樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅発着の準急もあった。1968年に列車系統が再編されるまでは日中にも和歌山市駅発着の準急が運転されていた。これは現在の区間急行の前身にあたり、停車駅も設定当初の区間急行と全く同じであった(天下茶屋駅は通過)。また、種別表示幕が赤で「準急」となっており、「赤準急」とも呼ばれた(ただし特急に使われている「赤色」よりはむしろ「朱色」に近い。停車駅案内表では急行と同じオレンジ)。なお、青で「準急」と表示されている現行の停車駅の準急は「青準急」と呼ばれていた。両者を区別する必要がなくなった現在でもこの青準急は、車内放送で「堺まで各駅停車の準急行」と案内されることがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1994年の空港線開通に伴う種別整理の際に、「青準急」との区別を明確にするため、羽倉崎発着の「─急行─」を統合した上で「区間急行」に名称を変更した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "かつては「普通」とは別に、難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に、現在は高野線専用となっている東線を走行し、今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が運転されていた。一方、高野線の難波駅発着列車は、堺東折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、それ以南に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を通過する「普通」として運転され、さらに汐見橋発の「各駅停車」も住吉東駅まで直通していた。その後、泉北高速鉄道の開業を控え、高野線の線路容量を確保するため、岸ノ里駅の高野線と連絡線との合流点上にホームが設けられ、高野線の「普通」を「各駅停車」に一本化したため、1970年11月23日の改正で廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "他の関西私鉄の車両と大きく異なる点として、南海本線は地下区間を通らないため、全ての車両は地下鉄等旅客車(かつてのA-A基準)を満たす地下鉄対応車両ではない。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "難波駅 - 堺駅間は、1885年に難波駅 - 大和川駅(のちに廃止)間を開業した阪堺鉄道が開通させたもの、堺駅 - 和歌山市駅間は南海鉄道が開通させたものである。阪堺鉄道は1898年に南海鉄道に事業を譲渡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "阪堺鉄道は、1883年に廃止された工部省釜石鉱山鉄道の車両やレールの払い下げを受けて建設されたため、開業当初は838mmという日本では特異な軌間の鉄道であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また鉄道国有化前は、1984年 - 1993年に順次廃止された天王寺支線(天下茶屋駅 - 天王寺駅)を用いて、大阪鉄道(初代) - 関西鉄道の保有する今の大阪環状線に乗り入れ、大阪駅 - 住吉駅間の直通運転を行っていたこともあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "大和田建樹作詞の鉄道唱歌第五集で当路線が歌われている(和歌山北口駅 - 難波駅)。当時は民鉄が多かったが、鉄道唱歌に登場する路線で国有化されず民営のままなのは南海本線のみである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1929年から1930年に当路線全線と並行して阪和電気鉄道が開通すると、南海鉄道との間で列車のスピードアップや割引切符による運賃のダンピングなど、激しい競争が繰りひろげられることになる。対抗のため、日本初の冷房電車(2001形を参照)を1936年から1937年まで走らせたりした。同社は1940年に南海へ合併して山手線となり、1944年には戦時買収によって国有化され、阪和線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また1934年には、競合する阪和電気鉄道とともに「黒潮号」・「土曜列車」など紀勢西線(現在の紀勢本線)への直通運転も開始し、1940年から1951年の中断期を経て、1985年の紀勢本線における急行列車廃止に伴う「きのくに」消滅まで続けられた。末期の「きのくに」に使用されていた車両は自社所有の気動車(キハ5501、キハ5551形)で、和歌山市駅から紀勢本線に乗り入れ(紀和駅にも停車)、和歌山駅で天王寺駅発着の「きのくに」と分割・併合を行っていた。なお、種別は紀勢本線直通の急行であったが南海本線内の停車駅は当時の特急と同じ新今宮駅(1966年12月1日より)・堺駅・岸和田駅の3駅に絞られていた(1968年9月30日までは客車列車に限り泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅にも停車)。旅客案内上は誤乗車を避けるため南海線内においては「特急」と案内されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2005年11月のダイヤ改正以降の運行本数は日中・土日においては関西空港開業直後のダイヤと比べて約2割削減されている(基本・優等列車9本→8本、普通6本→4本)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "駅名は最終のもの。住吉駅・大和川駅は阪堺電気軌道、高師ノ浜駅は高師浜線の駅とは別の駅。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "※:路線自体は接続しなくなったものの、加太線の列車は紀ノ川駅から南海本線を経由して和歌山市駅に乗り入れるため、実質的には現在も接続している。", "title": "駅一覧" } ]
南海本線(なんかいほんせん)は、大阪府大阪市中央区・浪速区の難波駅から和歌山県和歌山市の和歌山市駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。 「本線」という路線名ではなく、社名略称を冠した「南海本線」が正式な路線名である。南海本線自体を指して、または南海本線に接続する各支線(高野線・汐見橋線・空港線以外の路線)を含めて通称南海線と呼称される。路線シンボルマークは、波しぶきをイメージしたもの()で、ラインカラーは青。
{{Redirect|南海線|南海電気鉄道が運営する鉄道路線全線|南海電気鉄道#路線}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Nankai group logo.svg|24px|link=南海電気鉄道]] 南海本線 |路線色 = #0065AF |ロゴ = Nankai mainline symbol.svg |ロゴサイズ = 48px |画像 = Nankai12000.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[南海12000系電車|12000系]](手前4両)・[[南海8000系電車 (2代)|8000系]](奥4両)による<br>特急「サザン」(今宮戎駅) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]]、[[和歌山県]] |起点 = [[難波駅 (南海)|難波駅]] |終点 = [[和歌山市駅]] |路線記号 = [[File:Number prefix Nankai Railway line.svg|25px|NK]] NK |駅数 = 43駅(今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を含む) |開業 = {{start date and age|1885|12|29}} |項目1 = 堺以北[[改軌]]<!--旧テンプレ「過去の軌間」引数の代替--> |日付1 = 1897年12月15日([[改軌#軌間838mmから軌間1067mmに改軌した例|概要]]) |全通 = {{start date and age|1903|3|21}} |廃止 = |所有者 = <!-- [[阪堺鉄道]]+[[南海電気鉄道|南海鉄道]]→南海鉄道→[[近畿日本鉄道]]→ -->[[南海電気鉄道]] |運営者 = 南海電気鉄道 |車両基地 = [[住ノ江検車区]]、同区[[羽倉崎検車区|羽倉崎検車支区]]、<br />同区和歌山出張場 |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離 = 64.2 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数 = [[複々線#線路別複々線|線路別複々線]](難波駅 - 岸里玉出駅間<!--、西側南海本線、東側高野線-->)<br />[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]](岸里玉出駅 - 住ノ江駅間<!--、西側快速線、東側緩行線-->)<br />[[複線]](住ノ江駅 - 和歌山市駅間) |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]] |最小曲線半径 = |最大勾配 = |最高速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = Nankai_Electric_Railway_Linemap.svg }} '''南海本線'''(なんかいほんせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]<ref>{{Cite book |和書 |url=https://www.nankai.co.jp/library/company/company/handbook/pdf2018/04.pdf#page=5 |format=PDF |year=2018 |title=2018 ハンドブック南海 |publisher=南海電気鉄道 |page=58}}</ref>・[[浪速区]]の[[難波駅 (南海)|難波駅]]から[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[和歌山市駅]]までを結ぶ[[南海電気鉄道]]の[[鉄道路線]]。 「本線」という路線名ではなく、社名略称を冠した「南海本線」が正式な路線名である。南海本線自体を指して、または南海本線に接続する各支線([[南海高野線|高野線・汐見橋線]]・[[南海空港線|空港線]]以外の路線)を含めて通称'''南海線'''と呼称される。路線シンボルマークは、波しぶきをイメージしたもの([[File:Nankai mainline symbol.svg|15px|シンボルマーク]])で、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は青。 == 概要 == [[南海高野線|高野線]]と並ぶ南海電鉄における主要路線である。南海本線単体としては大阪市 - 和歌山市間の都市間連絡及び大阪市への通勤・通学輸送を担う近郊路線である。また、[[南海空港線|空港線]]を経由する[[関西国際空港]](関空)へのアクセス路線([[空港連絡鉄道]])でもあり、大阪[[ミナミ]]の[[繁華街]]に位置する起点の[[難波駅 (南海)|難波駅]]は外国人観光客([[訪日外国人旅行|インバウンド]])を含む多くの関空利用者にとっての玄関口としての役割も果たしている。さらには、[[南海和歌山港線|和歌山港線]]を経由する[[和歌山下津港|和歌山港]]へのアクセス路線の性格も帯びており、和歌山港 - [[徳島小松島港|徳島港]]間を運航する[[南海フェリー]]とともに関西・[[四国]]連絡ルートを形成している。また、高野線が[[岸里玉出駅]]から難波駅まで当路線の[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]区間に[[直通運転]]しており、起点の難波駅は高野線の[[ターミナル駅]]にもなっている<ref>{{Cite book |和書 |url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/handbook/pdf/handbook2022_03.pdf#page=2 |format=PDF |year=2022 |title=2022 ハンドブック南海 |publisher=南海電気鉄道 |pages=54-55,78-79}}</ref>。 [[大阪平野]]では南海本線の東側(山側)に競合路線の[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[阪和線]]が並走しているが、大阪府と和歌山県の県境付近における経路は大きく異なっており、距離は短くなるが山岳区間が長い[[雄ノ山峠]]越えの阪和線に対して、南海本線は距離は長くなるが山岳区間が短い[[孝子峠]]越えで和歌山市へ至る。 全線で[[PiTaPa]]および[[ICOCA]]などPiTaPaと相互利用可能な[[乗車カード|IC乗車カード]]が利用できる。ただし、割引サービスまたは[[南海グループカード minapita#ICカード登録型minapitaポイント還元サービス|ICカード登録型minapitaポイント還元サービス]]はPiTaPaおよびICOCAのみが対象となる。 === 路線データ === * 路線距離([[営業キロ]]):難波駅 - 和歌山市駅間 64.2&nbsp;km * [[軌間]]:1067mm * 駅数:43駅(起終点駅および今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を含む) * 複線区間: ** 複々線:難波駅 - 住ノ江駅間(難波駅 - 岸里玉出駅間では[[南海高野線|高野線]]との線路別複々線、岸里玉出駅 - 住ノ江駅間では緩行線と急行線との方向別複々線) ** 複線:住ノ江駅 - 和歌山市駅間 * 電化区間:全線電化(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 最高速度:110&nbsp;km/h * 混雑率:109%(2021年度:粉浜駅→岸里玉出駅間 7:26 - 8:26)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|archiveurl=|title=都市部の路線における最混雑区間の混雑率(2021)|date=2022-07-22|accessdate=2022-09-12|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref> == 沿線概況 == <!-- 煩雑となるため、地下鉄・高架は記述していません --><!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします --> {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#0065af |title-color=white |collapse=yes |top= * {{small2|並行する[[阪堺電鉄]](のちの[[大阪市電]][[大阪市電阪堺線|阪堺線]])をのぞいて、<br />大阪市電の経路を省略}} |map= {{BS2text||||←[[阪神電気鉄道|阪神]]:{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}} {{BS5|tSTRq|tBHFq|O2=HUBa|tSTRq|||||[[大阪難波駅]] [[近畿日本鉄道|近鉄]]:{{rint|osaka|ktam}} [[近鉄難波線|難波線]]→|}} {{BS3|exKBHFa|O1=HUBtl-2|exKBHFa|O2=HUBlg-L||0.2|''難波駅''|(1) -1980|}} {{BS3|KBHFxa|O1=HUBlf-R|KBHFxa|O2=HUBrf-L||0.0|NK01 [[難波駅 (南海)|難波駅]]|(2) 1980-|}} {{BS3|KRWgl+l|KRWgr+r||||{{rint|osaka|m}} {{rint|osaka|y}} {{rint|osaka|s}}([[難波駅 (Osaka 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{{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||3.9|NK06 [[岸里玉出駅]]||}} {{BS3|STR|STRl||||{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]|}} {{BS3|eBHF|||4.1|''[[岸里玉出駅|玉出駅]]''|-1993|}} {{BS3|eDST|||4.8|''粉浜信号場''|-1995|}} {{BS3|BHF|||5.1|NK07 [[粉浜駅]]||}} {{BS5||eBHF|||uLSTR|5.4|''[[住吉駅 (南海)|住吉駅]]''|-1917|}} {{BS5||STR|uexSTR+l|uexSTRq|uTHSTx|O5=uKHSTaq|||[[住吉停留場 (大阪府)|住吉停留場]] 阪堺:{{rint|osaka|hnu}} [[阪堺電気軌道上町線|上町線]]→|}} {{BS5||STR|uexKBHFe|O3=HUBa||uSTR|||''[[住吉大社駅|住吉公園停留場]]'' -2016|}} {{BS5||BHF|O2=HUBaq||O3=HUBtg||O4=HUBq|uSTR|O5=HUBlg|5.7|NK08 [[住吉大社駅]]||}} {{BS5||STR2|STRc3||uBHF|O5=HUBe|||[[住吉鳥居前停留場]]|}} {{BS5||STRc1|STR+4||uLSTR|||阪堺:{{rint|osaka|hnm}} 阪堺線|}} {{BS|eBHF|6.5|''住ノ江駅''|(1) -1916|}} {{BS3|KRW+l|KRWgr|||[[住ノ江検車区]]||}} {{BS3|KDSTe|BHF||6.7|NK09 [[住ノ江駅]]|(2) 1928-|}} {{BS|eBHF|7.4|''[[大和川駅 (南海)|大和川駅]]''|(1) -1888|}} {{BS|hKRZWae|||[[大和川]]|}} {{BS|SKRZ-Au|||[[阪神高速15号堺線]]|}} {{BS|SKRZ-Ao|||[[阪神高速6号大和川線]]}} {{BS|eBHF|7.8|''大和川駅''|(2) 1899-1917|}} {{BS|BHF|8.2|NK10 [[七道駅]]||}} {{BS3|uexSTR+4|STR||||''[[阪堺電鉄]]'' <ref group="*">のち大阪市電阪堺線</ref>|}} {{BS3|uexhKRZWae|hKRZWae||||[[内川 (大阪府)|内川放水路]]|}} {{BS3|uexSTR|eKRWgl|exKRW+r|9.7|''堺駅''|(1) -1955|}} {{BS3|uexSTR|BHF|exBHF|9.8|NK11 [[堺駅]]|(3) 1985-|}} {{BS3|uexhKRZWae|hKRZWae|exhKRZWae|||[[内川 (大阪府)|竪川]]|}} {{BS3|uexSTR|eBHF|exSTR|10.0|''堺駅''|(2) 1955-1985|}} {{BS3|uexHST|STR|exSTR|||''大浜北町停留場'' (阪堺電鉄)|}} {{BS5||uexKRZ|STR|exmKRZu|uexBHFq|O5=HUBa|||''[[南海大浜支線|大浜支線]]''|}} {{BS5||uexSTR|STR|exBHF|O4=HUBaq||O5=HUBrf|10.2|''[[堺駅|龍神駅]]''|-1955|}} {{BS3|uexSTR|eKRWg+l|exKRWr||||}} {{BS3|uexSTR|eDST||10.6|''[[大浜駅]]''|<ref group="*">1937-1952年の間に廃止([[#imao|今尾 (2008)]])</ref>|}} {{BS3|uexHST|BHF||11.2|NK12 [[湊駅]]||}} {{BS3|uexLSTR|STR||||''出島停留場'' (阪堺電鉄)|}} {{BS3|uexHST|BHF||12.7|NK13 [[石津川駅]]||}} {{BS3|uexLSTR|STR||||''下石津停留場'' (阪堺電鉄)|}} {{BS3|uexhKRZWae|hKRZWae||||[[石津川]]|}} {{BS3|uexSTR|BHF||13.8|NK14 [[諏訪ノ森駅]]||}} {{BS5||uexHST|STR||uLSTR|||''諏訪ノ浜停留場''|}} {{BS5|uexSTRc2|uexSTR3|STR||uSTR|||阪堺:{{rint|osaka|hnm}} 阪堺線|}} {{BS5|uexSTR+1|uexSTRc4|O2=uSTR+l|mKRZu|uSTRq|uSTRr|||左:''浜寺停留場'' (阪堺電鉄)|}} {{BS5|uexKHSTe|ueHST|STR|||||''海道畑停留場''|}} {{BS3|uKBHFxe|O1=HUBa|STR||||[[浜寺駅前停留場]]|}} {{BS3|uexLSTR|O1=HUBlf|BHF|O2=HUBeq||14.8|NK15 [[浜寺公園駅]]||}} {{BS3|uexKHSTe|STR||||''浜寺公園停留場''(南海阪堺線<!--廃止当時は南海鉄道-->)|}} {{BS3||STR|KBHFaq|O3=HUBa|||[[東羽衣駅]] JR西:[[阪和線]](羽衣線)|}}<!-- JR西路線記号なし線区 --> {{BS3||BHF|O2=HUBaq|HUBrf|15.5|NK16 [[羽衣駅]]||}} {{BS|ABZgr|||{{rint|osaka|ntk}} [[南海高師浜線|高師浜線]]|}} {{BS|eBHF|16.6|''[[高師ノ浜駅]]''|-1918 <ref group="*">高師浜線の同音駅([[高師浜駅]])とは別</ref>|}} {{BS|BHF|17.4|NK17 [[高石駅]]||}} {{BS|SKRZ-Au|||[[堺泉北道路]]|}} {{BS|BHF|18.5|NK18 [[北助松駅]]||}} {{BS|BHF|19.4|NK19 [[松ノ浜駅]]||}} {{BS|BHF|20.4|NK20 [[泉大津駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[大津川 (大阪府)|大津川]]|}} {{BS|BHF|22.3|NK21 [[忠岡駅]]||}} {{BS|BHF|23.7|NK22 [[春木駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||春木川|}} {{BS|BHF|25.0|NK23 [[和泉大宮駅]]||}} {{BS|BHF|26.0|NK24 [[岸和田駅]]||}} {{BS|BHF|26.9|NK25 [[蛸地蔵駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||津田川|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|KBHFa|O3=HUBeq|28.6|NK26 [[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]||}} {{BS3||STR|STRl|||[[水間鉄道]]:[[水間鉄道水間線|水間線]]|}} {{BS|hKRZWae|||近木川|}} {{BS|BHF|30.4|NK27 [[二色浜駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||見出川|}} {{BS|BHF|31.3|NK28 [[鶴原駅]]||}} {{BS|BHF|32.4|NK29 [[井原里駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||佐野川|}} {{BS|BHF|34.0|NK30 [[泉佐野駅]]||}} {{BS5|STR+l|STRq|ABZgr|||||{{rint|osaka|ap}} [[南海空港線|空港線]]|}} {{BS5|ABZg+l|STRq|KRZu|||||JR西:{{rint|ja|kws}} [[関西空港線]]|}} {{BS5|LSTR||SKRZ-Au|||||[[関西空港自動車道]]|}} {{BS5|KHSTe||STR|||||NK32 [[関西空港駅]]|}} {{BS5|FLUG||STR|||||[[関西国際空港]]|}} {{BS|BHF|36.1|NK33 [[羽倉崎駅]]||}} {{BS3||KRWgl|KRW+r||||}} {{BS3||STR|KDSTe||[[羽倉崎検車区|住ノ江検車区羽倉崎検車支区]]||}} {{BS|BHF|37.4|NK34 [[吉見ノ里駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||樫井川|}} {{BS|BHF|38.8|NK35 [[岡田浦駅]]||}} {{BS|BHF|40.6|NK36 [[樽井駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||男里川|}} {{BS|BHF|43.1|NK37 [[尾崎駅]]||}} {{BS|BHF|44.6|NK38 [[鳥取ノ荘駅]]||}} {{BS|BHF|46.6|NK39 [[箱作駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||茶屋川|}} {{BS|BHF|50.2|NK40 [[淡輪駅]]||}} {{BS|BHF|51.9|NK41 [[みさき公園駅]]||}} {{BS|ABZgr|||{{rint|osaka|ntn}} [[南海多奈川線|多奈川線]]|}} {{BS|eDST|53.0|''[[深日駅]]''|-1958|}} {{BS|BHF|56.3|NK42 [[孝子駅]]||}} {{BS|tSTRa|||↑[[大阪府]]|}} {{BS|tSTR+GRZq||第一孝子越隧道||}} {{BS|tSTRe|||↓[[和歌山県]]|}} {{BS|BHF|58.0|NK43 [[和歌山大学前駅]]||}} {{BS|TUNNEL2||第二貴志隧道||}} {{BS|TUNNEL2||第三貴志隧道||}} {{BS5|KHSTa||STR|||||NK44-7 [[加太駅 (和歌山県)|加太駅]]|}} {{BS5|STRl|LSTRq|ABZg+r|||||{{rint|osaka|nkd}} [[南海加太線|加太線]]|}} {{BS|BHF|61.6|NK44 [[紀ノ川駅]]||}} {{BS|eBHF|62.5|''和歌山北口駅''|-1903|}} {{BS|hKRZWae||[[紀ノ川橋梁 (南海本線)|紀ノ川橋梁]]|<!--[[紀の川]] リンク先に説明あり-->|}} {{BS3||ABZg+l|ABZq+l|||JR西:[[紀勢本線]]|}}<!-- JR西路線記号なし線区 --> {{BS5|exSTR+l|xABZq+l|ABZgr|STR|||住ノ江検車区和歌山出張場||}} {{BS5|exBHF|O1=HUBaq|DST|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|KBHFe|O4=HUBlg||64.2|NK45 [[和歌山市駅]]||}} {{BS5|exSTR|KRWl|KRWg+r|uexKBHFaq|O4=HUBe||||''[[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線(海南線)]]''|}} {{BS5|exSTRr||STR|||||''[[南海北島支線|北島支線]]''|}} {{BS|STR|||{{rint|osaka|nwk}} [[南海和歌山港線|和歌山港線]]|}} {{BS|KHSTe|||NK45-1 [[和歌山港駅]]|}} {{BS-colspan}} ---- {{Reflist|group="*"}} }} 難波駅 - [[住ノ江駅]]間は[[複々線]]であり、このうち難波駅 - [[岸里玉出駅]]間は[[複々線#線路別複々線|線路別複々線]]で、東側2線は[[南海高野線|高野線]]の列車が使用している。[[今宮戎駅]]と[[萩ノ茶屋駅]]は西側2線にホームがなく、南海本線の列車はすべてこの2駅を通過する。そのため、高野線の最下位種別の列車は「各駅停車」と呼ぶのに対し、南海本線の最下位種別の列車は「普通」あるいは「普通車」と呼んでいる(「[[#普通(普通車)|普通(普通車)]]」の解説も参照)。岸里玉出駅 - 住ノ江駅間は[[複々線#方向別複々線|方向別複々線]]で、下りの外側線、上りの内側線は普通、下りの内側線、上りの外側線は準急以上の列車が走る。 立体交差化については、難波駅 - [[石津川]]間、羽衣 - 高石間、[[松ノ浜駅]] - [[大津川 (大阪府)|大津川]]間、[[岸和田駅]]周辺、[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]] - [[二色浜駅]]間の近木川周辺、[[泉佐野駅]]周辺で高架化が完成している。2023年4月時点では、石津川 - 羽衣間で高架化工事を進めており、2027年度末に完了する予定である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/honsen/oshirase_honsen/jigyouninkaennshinn.html |title=南海本線連続立体交差事業の事業施行期間延伸について |publisher=堺市 |date=2015-09-18 |accessdate=2018-01-02 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181107054258/https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/honsen/oshirase_honsen/jigyouninkaennshinn.html |archive-date=2018-11-07}}</ref>。また、羽衣 - 高石間は2021年5月22日に高架化が完了し<ref name="pr20210318" />、引き続き高師浜線の高架化や側道の整備などの事業を行っている。2015年に行われた大阪府の第3回建設事業評価審議会の資料によれば、羽衣 - 高石間の上り線高架切り替えは2019年春の予定となっていた<ref>{{Cite conference|title=平成27年度 第3回建設事業評価審議会|url=http://www.pref.osaka.lg.jp/gyokaku/kensetsu-pro_27/h27gaiyou3.html|conference=南海本線・高師浜線(高石市)連続立体交差事業|conferenceurl=http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/25684/00189246/h27-3-1-2%20tsuikasetsumeisiryou.pdf#page=10|publisher=大阪府建設事業評価審議会|format=PDF|page=10|date=2015-07-31|accessdate=2018-11-07}}</ref>。高野線や、南海本線と併走するJR阪和線と比較しても相当進んでおり、いわゆる「[[開かずの踏切]]」の問題や、それに起因する交通渋滞についても、先述の周辺路線と比べてかなり解消されてきている。 沿線には、都心の高層ビル群や工業地帯のほか、日本の大手私鉄ではあまり例のない「線路沿いに海岸線が至近距離から見える区間」がある一方で、短距離ながら峠越えのトンネルもあるなど、車窓からはバラエティに富んだ風景が見られる。また、路線自体の長い歴史も相まって、開業以来現在まで民営を貫いてきた路線として唯一、『[[鉄道唱歌]]』において当線の駅や沿線風景が歌われている。 以下に示す記述はすべて難波→和歌山市方向における記述であり、逆方向に関しては順序が逆で、その風景が見える方向も左右逆となる。 === 難波駅 - 泉佐野駅間 === 始発の難波駅は9面8線、のりばは1 - 9番線の構造を持ち、南海本線の列車はこのうち5 - 8番線の西側4線を使用する(9番のりばは8番線の降車側で、特急ラピートの専用のりば)。難波駅を発車するとすぐ右にカーブし、右手に[[なんばパークス]](旧[[大阪スタヂアム]]〈大阪球場〉跡地)・[[ヤマダデンキ]]LABI1なんば・[[クボタ]]や[[ニコニコのり]]の本社社屋・南海電気鉄道本社の入る[[南海なんば第1ビル]]などを、左手に日本橋電気街([[でんでんタウン]])などを見ながら、[[阪神高速1号環状線]]をくぐり、高野線の各駅停車のみが停車する[[今宮戎駅]](南海本線側にホームはない)を通過、[[国道25号]]を越え、左手に[[通天閣]]が見えると程なくJRとの接続駅であり全列車停車駅の[[新今宮駅]]に着く。新今宮駅と2駅先の天下茶屋駅の南海本線下り線ホームは、ともに高野線の上り線と島式の同一面ホームである。新今宮駅の下を通るJRの[[大阪環状線]]・[[関西本線]](いずれも高架線)を高々架で跨ぎ、左右に[[釜ヶ崎]]あるいは[[あいりん地区]]と称される[[ドヤ街]]を、また左手遠方には高さ日本一の高層ビル・[[あべのハルカス]]を望みながら、やはり高野線の各駅停車のみが停車する[[萩ノ茶屋駅]](南海本線側にホームはない)を通過すると、全列車停車駅である[[天下茶屋駅]]。かつてはこの駅から[[南海天王寺支線|天王寺支線]]が分岐していたが、1993年に大阪市営地下鉄堺筋線(現在の[[Osaka Metro堺筋線]])が同駅まで延長されてからは、その一部区間が代替を担っている。1980年までは南海の車両工場もあったが、同年高野線千代田に移転し、跡地には[[大阪フィルハーモニー交響楽団]]の練習場やスーパーマーケットが建っている天下茶屋を出て高野線の事実上の本線が左に分かれると同時に、右側から同線の事実上の支線である通称「汐見橋線」が近づいてくると島式ホームの[[岸里玉出駅]]。岸里玉出駅は、高野線ホームが長い連絡通路を経た東側に、汐見橋線の単式ホームが本線の西側にある構造。この駅を境に線路は線路別複々線から方向別複々線となり、緩急分離運転が行われる。またこの複々線区間では住ノ江検車区への出入庫の回送電車も多く列車密度が高い。[[粉浜駅]]を過ぎて左側に[[住吉大社]]の社地が、右側に[[住吉公園]]が見えると[[住吉大社駅]]、[[国道479号]](大阪内環状線)を乗り越えながら右にカーブをすると右側に[[住ノ江検車区]]を併設する[[住ノ江駅]]。複々線区間はここで終了し、右から近づいてくる[[阪神高速15号堺線]]を斜めにくぐりながら[[大和川]]橋りょうを渡って[[堺市]]に入り、地下を通る[[阪神高速6号大和川線]]を乗り越えながら右にカーブをすると[[七道駅]]に至る。駅手前のカーブの右側には、阪神高速の[[鉄砲出入口]]の掘割と[[イオンモール堺鉄砲町]]があるが、この場所は[[富士フイルムホールディングス]]の源流でもあるダイセル化学工業(撤退当時の名称。現在の「[[ダイセル]]」)の発祥の地である同社本社・大阪製造所堺工場の跡地であり、旧社屋にあった「堺セルロイド」時代からの赤レンガ建築の古い建物が、同モール敷地内にモニュメントとして残っている。七道駅を出て、ほぼ直線状にしばらく進むと最初の緩急接続駅である[[堺駅]]に着く。 堺駅を過ぎると周辺には住宅地や商業地のほかに、[[阪神高速4号湾岸線]]や、[[堺泉北臨海工業地帯]]の工場群が右側の車窓に近づき、また左手遠方には[[大仙陵古墳|仁徳天皇陵]]や[[上石津ミサンザイ古墳|履中天皇陵]]とされている巨大な墳丘が見えるようになる。堺市の目抜き通りの一つである[[フェニックス通り (大阪府堺市)|フェニックス通り]]([[国道26号]]。[[大阪府道2号大阪中央環状線|府道2号大阪中央環状線]]とも重複)を乗り越えた後、[[湊駅]]、[[石津川駅]]を過ぎて[[石津川]]を渡ると、線路は難波からここまで続いてきた高架を下りて地上に移る。上下ホームが千鳥式に配置された[[諏訪ノ森駅]]に近づく頃から、あたかも[[阪神間モダニズム]]を想わせるような高級住宅街が線路の周辺に見え始める。右側に[[浜寺公園]]が見えると[[阪堺電気軌道阪堺線]]をくぐって[[浜寺公園駅]]。この駅の旧駅舎と諏訪ノ森駅上りホームの駅舎は国の[[登録有形文化財]]に登録されている。線路はその後仮線を経由して高架へ移る。[[高石市]]に入り、程なく[[南海高師浜線|高師浜線]]・JR[[阪和線|羽衣線(阪和線支線)]]との乗り換え駅である[[羽衣駅]]に着く。この駅手前左側の高架上に、JR羽衣線の[[東羽衣駅]]がある。かつてこの周辺が海水浴場などを有する行楽地であったことから、1990年代まで、羽衣駅の周辺には大規模な観光旅館がいくつか存在したが、現在はいずれも廃業し、姿を消している。またこの駅付近の踏切は、JR阪和線を建設した[[阪和電気鉄道]]と南海との[[阪和電気鉄道#浜寺海岸の抗争|熾烈な競争]]の象徴でもあったが、南海の[[連続立体交差事業]](高架化)に伴い、先述の通り2021年5月をもって廃止された。 高架化工事のため長期運休中の高師浜線の線路は、しばらく高架下右側を並走するが、やがて同線は高架に上がりながら右側に分かれる。新興住宅街の間をしばらく進むと待避線のある[[高石駅]]。線路はその後地上に降り、[[堺泉北道路]]をくぐると線路は[[泉大津市]]に入って[[北助松駅]]。[[大阪府道38号富田林泉大津線|府道38号富田林泉大津線]]の跨線橋をくぐった後すぐに高架に上がり、[[松ノ浜駅]]、続いて島式2面4線の[[泉大津駅]]に至る。泉大津駅は急行以下の種別の停車駅であるが、例年夏期に周辺で大規模な野外[[ロック・フェスティバル]]が開かれるため、当日には一部の特急列車が臨時停車するほどの賑わいを見せる。 泉大津を出ると線路は左にカーブをする。[[大津川 (大阪府)|大津川]]を渡ると線路は地上に下り、[[忠岡町]]に入ると同町唯一の駅である[[忠岡駅]]に達する。すぐに[[岸和田市]]に入り、[[大阪府道40号岸和田牛滝山貝塚線|府道40号岸和田牛滝山貝塚線]]の跨線橋をくぐりながら右にカーブをすると、右側に[[岸和田競輪場]]が見えて[[春木駅]]に至る。かつて春木駅は[[春木競馬場]]の最寄り駅でもあったが、現在は[[岸和田市中央公園]]となっている。[[和泉大宮駅]]を過ぎて高架を上がり、右にカーブをすると、[[岸和田だんじり祭]]の時期に大きな賑わいを見せる[[岸和田駅]]に着く。 岸和田を出ると再び右にカーブをして、右側に[[岸和田城]]を見ながら高架を下りると[[蛸地蔵駅]]、さらにカーブを繰り返しながら[[貝塚市]]に入ると、[[水間鉄道水間線]]との乗り換え駅である[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]]に至る。水間線が左に分かれた後、南海の線路はやがて高架に上がるが、府道40号岸和田牛滝山貝塚線を乗り越えて左右にカーブをすると程なく地上に下りる。このあたりから徐々に住宅地のほかに田園地帯が広がり始める。[[二色浜駅]]を過ぎると線路はその後しばらくの間ほぼ直線状になり、[[関西国際空港]]の玄関口である[[泉佐野市]]に入って[[鶴原駅]]、[[井原里駅]]と続く。その間に、右前方には[[りんくうゲートタワービル]]や[[りんくうプレジャータウンSEACLE]]の大観覧車が見え始める。線路は程なく高架を上がり、右にカーブをすると、[[南海空港線|空港線]]との乗り換え駅であり、また大阪市内駅をのぞく南海本線唯一の全種別停車駅でもある[[泉佐野駅]]に着く。この駅は待避設備のほかに乗り換え専用ホームを有する島式3面4線の構造となっており、ダイヤ上も和歌山市方面と関西空港方面の列車が容易に[[対面乗り換え]]できるように配慮されている。 <gallery> ファイル:Nankai Main Line Yamato River Bridge.JPG|大和川橋りょうを渡る特急「ラピート」。直上を阪神高速が斜めに立体交差する ファイル:Ishizu river and Nankai rw.jpg|石津川を渡る列車 ファイル:Nankai_izumisano_st01s3200.jpg|泉佐野駅ホーム。空港線との乗り換えの利便性を図るため島式3面4線となっている </gallery> === 泉佐野駅 - 和歌山市駅間 === 泉佐野駅を出ると、空港線としばらく線路を共用するが、左にカーブするとすぐに空港線は右側に分かれる。高々架のJR[[関西空港線]]・[[関西空港自動車道]]、地上を通る[[国道481号]]と立体交差すると線路は地上に下り、[[羽倉崎検車区|住ノ江検車区羽倉崎検車支区]]を併設する[[羽倉崎駅]]。ここからはラッシュ時を中心に本数が減少する。左側には同検車支区、右側にはかつての巨大な紡績工場(阪本紡績)の跡地に建つ高層マンション群や商業地を見ながら[[田尻町]]に入る。[[大阪府道・和歌山県道63号泉佐野岩出線|府道63号泉佐野岩出線]]と重複する[[大阪府道204号堺阪南線|府道204号堺阪南線]](旧国道26号)の跨線橋をくぐると[[吉見ノ里駅]]。樫井川を渡り[[泉南市]]に入ると[[岡田浦駅]]。ここから[[樽井駅]]までの区間はかつて右側の車窓から[[大阪湾]]を間近で見ることができたが、現在は埋め立てが進み、[[りんくうタウン]]が造成され、車窓からは[[イオンモールりんくう泉南]]などの商業施設やいくつかの工場などが見えるようになっている。2か所の道路橋をくぐり、樽井駅を過ぎて府道63号泉佐野岩出線のバイパスの跨線橋をくぐってから男里川を渡ると[[阪南市]]に入り、同市の中心駅で特急サザンも停車する[[尾崎駅]]に着く。 尾崎を出て左右にカーブし、[[鳥取ノ荘駅]]を過ぎると右側の車窓に大阪湾の海岸線が間近に迫り、遠くには関西国際空港や[[関西国際空港連絡橋|空港連絡橋]]も望むことができる。また左側には[[和歌山県道・大阪府道752号和歌山阪南線|府道752号和歌山阪南線]](旧国道26号)も並走する。一旦海岸線から離れ、[[阪南スカイタウン]]など周辺の住宅開発がめざましい[[箱作駅]]に至る。ここから先はカーブの連続区間となり、優等列車も若干速度を落として運転を行う。再び海岸線が見え始め、[[箱作海水浴場]](ぴちぴちビーチ)や[[せんなん里海公園]]が連なる。途中、階段を伴った空き地が線路両脇にあるが、{{要出典範囲|これはかつて計画されていた箱の浦駅の建設を途中で断念した名残である|date=2022年6月}}。再び海岸線から離れると線路は[[岬町]]に入り、周辺に古墳が点在する[[淡輪駅]]を過ぎると、右前方に2020年3月で閉園した遊園地「[[みさき公園]]」<!-- →町営の自然公園として再整備予定。-->や長松自然海岸を擁する大阪湾の海岸線が見え始め、程なく同公園の最寄り駅であり、また[[南海多奈川線|多奈川線]]の乗り換え駅でもある[[みさき公園駅]]に着く。 みさき公園駅は、盛土上にホームをもつ構造となっており、その直下を府道752号和歌山阪南線がアンダークロスする。多奈川線は同駅を出た後しばらく右側を並走するが、やがて同線が大きく右に分かれると同時に南海本線も大きく左にカーブをする。ここからは雰囲気が一変して山間の区間となって駅間距離も長くなり、府道752号和歌山阪南線がすぐ右側を、やや遅れて[[第二阪和国道]]バイパス(国道26号)もすぐ左側を並走するようになる。途中、右側の車窓から煉瓦造の建造物(深日変電所)が見えるが、この場所にはかつて[[深日駅]]があった([[1944年]]休止、[[1958年]]廃止。現在もホームの跡が残る)。いくつかのカーブを経て[[孝子駅]]を過ぎると第二阪和国道バイパスが左へ分かれていき、線路はいよいよ上りの急勾配区間に差し掛かる。[[孝子峠]]を越える第一孝子越隧道(孝子トンネル)内で[[大阪府]]と[[和歌山県]]の府県境を通過し、同県[[和歌山市]]に入る。トンネルを抜け下り勾配に差し掛かり、県道752号和歌山阪南線のガードをくぐると、南海で最も新しい駅で「[[ふじと台]]」の副駅名を持つ[[和歌山大学前駅]]に着く。[[イオンモール和歌山]]が当駅の左側すぐ掘割上にあり、周辺は週末を中心ににぎわいを見せる。沿線は徐々に開けてきて、左側にふじと台の住宅地や[[和歌山大学]]のキャンパス群、右側には「ノーリツプレシジョン」(旧[[ノーリツ鋼機]]の写真処理機器関連部門。同事業譲渡前の同社本社)や「NKアグリ」(ノーリツ鋼機グループの生鮮野菜製造業者)の本社工場、遠方には和歌山市街などを見ることができる。やがて2本の短いトンネル(第二貴志隧道・第三貴志隧道)をくぐりながら大きく左にカーブをして県道752号和歌山阪南線と分かれ、住宅地の中を通りながら[[和歌山県道7号粉河加太線|県道7号粉河加太線]]の跨線橋をくぐると、右側から[[南海加太線|加太線]]が近づいてきて、同線との乗り換え駅である[[紀ノ川駅]]に至る。ゆるやかに右にカーブしながらさらにしばらく進むと、[[紀の川]]に架かる[[紀ノ川橋梁 (南海本線)|紀ノ川橋梁]]を渡り、築堤を下りながら右にカーブをする。[[和歌山県道15号|県道15号新和歌浦梅原線]]をくぐり、右側に[[和歌山競輪場]]が見え、左側から近づいてくるJR[[紀勢本線]]と並走を始めると、右側に住ノ江検車区和歌山出張場を併設する終点の[[和歌山市駅]]に到着する。同駅は[[和歌山駅]]と並び、和歌山市を代表する駅の一つである。和歌山市駅の手前には[[非電化]]の国社分岐線があり、かつてはこの分岐線を通って紀勢本線への直通列車が走っていた。線路は一部ののりばをのぞいて、その先にある単線の[[南海和歌山港線|和歌山港線]]へと続いていく。 == 運行形態 == {{See also|南海電気鉄道のダイヤ改正}} 都市間および四国連絡特急として難波駅 - 和歌山市駅・[[和歌山港駅]]間で特急「[[サザン (列車)|サザン]]」が運転されている。「サザン」は[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形車両]]の[[自由席]]車(別途料金不要)と、[[特急形車両]]を使用した[[座席指定席|指定席]]車(座席指定料金が必要)を連結して運行している<ref>{{Cite web|和書|title=特急サザン|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/express/sazan.html |access-date=2023-01-15 |language=ja |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。また、[[関西国際空港]]が開港した[[1994年]]からは[[南海空港線|空港線]]に直通する空港アクセス列車として難波駅 - [[関西空港駅]]間に特急「[[ラピート]]」(「ラピートα」「ラピートβ」)および空港急行が運転されている。「ラピート」はレギュラーシートとスーパーシートの2種類があり、いずれも全席指定で特急料金が必要である<ref>{{Cite web|和書|title=特急ラピート|url=https://www.nankai.co.jp/traffic/express/rapit.html |access-date=2023-01-15 |language=ja |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 このほか、[[急行列車#料金不要の「急行」|急行・-急行-・区間急行]]・[[準急列車#私鉄・地下鉄|準急行]]・[[普通列車|普通]]が運転されている。 === 運行本数とダイヤ === 早朝・深夜の一部の普通を除き難波駅発着である。 ==== 朝ラッシュ時間帯 ==== 朝ラッシュ時間帯の上りダイヤは、「ラピートβ」が1時間に2本、「サザン」が1時間に2本、その他急行・空港急行・区間急行・準急行(平日のみ)・普通が運転されている。また、準急行はこの時間帯のみ運転される。 ==== 昼間時間帯 ==== 日中の1時間ごとの運行本数(岸里玉出駅以北の高野線列車は除外。空港線・加太線を含む)をまとめると以下のようになる。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |- |+日中の運行パターン !種別\駅名 !style="width:1em;"|難波 !… !colspan="2" style="width:1em;"|泉佐野 !… !colspan="2" style="width:1em;"|紀ノ川 !style="width:1em;"|和歌山市 |- style="text-align:center;" | 特急ラピートβ |colspan="3" style="background:#f96;"| 2本 || colspan="5" style="text-align:left;" | →関西空港 |- style="text-align:center;" | 特急サザン |colspan="8" style="background:#f96;"| 2本 |- style="text-align:center;" | 空港急行 |colspan="3" style="background:#feb;"| 4本 ||colspan="5" style="text-align:left;"| →関西空港 |- style="text-align:center;" |rowspan="2"| 普通 |colspan="8" style="background:#ccc;"| 4本 |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="text-align:right;"| 加太← ||colspan="2" style="background:#ccc;"| 2本 |- style="text-align:center;" |} ==== 夕ラッシュ時間帯以降 ==== 平日夕ラッシュ時間帯の下りダイヤは、「ラピートβ」が30分間隔で1時間に2本、「サザン」が30分間隔で1時間に2本、急行・空港急行・区間急行が合わせて約10分間隔で1時間に6本(18時台のみ7本)、普通が約10分間隔で1時間に6本運転されている。普通の一部は関西空港・羽倉崎・樽井・みさき公園駅行きである。上りダイヤも関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることを除きおおむね同じ本数だが、パターンダイヤとはなっていない。 土曜・休日の夕方・夜間は、関西空港20時台以降発の「ラピート」が「ラピートα」となることと、一部の上り列車の待避パターンが異なることを除き、昼間時間帯と同じである。 南海線のダイヤの特徴として、上りの最終列車が比較的遅い時間帯に存在することが挙げられる。平日、土曜・休日とも関西空港駅23時55分発の空港急行に泉佐野駅で接続する普通が羽倉崎駅以北の上り最終列車で、難波駅には0時57分に到着する。 === 列車種別 === 以下に特急「ラピート」「サザン」をのぞいた種別の運行概況を示す。「[[ラピート]]」および「[[サザン (列車)|サザン]]」については当該項目を参照。「ラピート」は堺駅・岸和田駅を通過する「ラピートα」と、この2駅にも停車する「ラピートβ」があるが、以下においてはどちらかだけに当てはまる場合以外は単に「ラピート」としている。各種別の現行の停車駅は下図および「[[#駅一覧|駅一覧]]」を参照。 [[ファイル:New Nankai 2014-2.png|thumb|500px|none|停車駅表]] ==== 急行 ==== 平日の早朝から朝ラッシュ時・夕ラッシュ時と、土曜・休日の朝に、難波駅 - 和歌山市駅・和歌山港駅間で運転されている。4扉車のみが使用される。6両編成と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、和歌山市駅 → 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目が[[女性専用車両]]になる。 現行のダイヤでは下りは朝ラッシュ時を除いて特急に追い抜かれる列車はない。上りは岸和田駅で「ラピート」に抜かれる列車がある。また、平日朝ラッシュ時上りでは自由席車両が4両しかなく輸送力が不足する特急「サザン」のすぐ後ろを急行が続行運転するダイヤが組まれている。 英語表記は「'''Express'''」。白地幕時代の車両の[[方向幕]]には「'''急'''」と表示されていた。 かつては終日運転で、長らく日中に1時間あたり2本運転されていた<ref group="注釈">難波駅の発車時刻が毎時0分、30分で、高野線急行と同時に発車していた。</ref>。1993年4月改正で日中に1時間あたり3本設定されたが、2001年3月の改正で特急が尾崎駅への停車を開始し、泉佐野駅 - 和歌山市駅間で特急と停車駅が同一になったのと同時に<ref group="注釈">2012年4月1日の和歌山大学前駅開業後は同駅に停車するか否かの違いが生じたが、2014年10月18日のダイヤ変更で特急が同駅に停車するようになったため再び同一となった。</ref>、1時間あたり2本に減便された。さらに2005年11月のダイヤ改正で昼間・土休日の列車が実質上特急に格上げされ、難波駅 - 泉佐野駅間の急行停車駅の乗客の輸送は空港急行と区間急行が1時間あたり2本ずつ交互に担うこととなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/051021.pdf |title=11月27日から南海線のダイヤ改正を実施します |date=2005-10-21 |accessdate=2020-12-21 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。また、平日夕方ラッシュ時以降も改正以前は1時間あたり3本設定されていたが、うち1本が区間急行に格下げされ、その他深夜帯を中心に区間急行に格下げ、あるいは特急「サザン」に格上げされた列車も存在した<ref group="注釈">2012年4月のダイヤ改正まで深夜時間帯(始発駅22時台の列車)での運転が残存していたが、この改正で下り(平日のみ)は区間急行に格下げ、上りは特急「サザン」に格上げされた。</ref>。 [[南海11001系電車|初代1000系]]の現役時代は、特急列車と同じ車両が急行にも運用されていたが、現在は原則として特急用車両での急行の運用はない。 ==== 春木駅停車の急行(-急行-・白線急行) ==== {{Anchors|白線急行}} [[ファイル:Express_Train_for_Izumisano.jpg|thumb|8300系電車の「-急行- 泉佐野」表示]] 通常の急行停車駅に加え[[春木駅]]に停車する急行。車両の種別表示幕(方向幕)に、朱地に白線を加えた白文字で「{{Colors|#ffffff|#ff4500|'''-急行-'''}}」(「急行」の文字は従来より小ぶり。旧式の表示幕の場合は「{{Colors|#ffffff|#ff4500|''' - 急 - '''}}」)と記載されていたために、[[鉄道ファン]]などの間では「白線急行」と形容されている。現在は深夜に難波0時08分発の泉佐野行き(難波・新今宮・天下茶屋駅からの泉佐野方面への最終。堺駅と泉佐野駅で普通車羽倉崎行きに接続)下り1本のみが設定されており、4扉車による8両編成で運転されている。 後述の空港急行および羽倉崎駅発着の区間急行の前身として、難波駅 - 泉佐野駅・羽倉崎駅間で定期列車が頻繁に運転されていた。また、難波駅 - [[多奈川駅]]間で運転された[[南海多奈川線|多奈川線]]直通の淡路航路連絡急行「淡路号」もこれに含まれていた。春秋の行楽シーズンや夏の海水浴シーズンには和歌山市駅まで延長運転され、盆や年末年始の帰省シーズンには特急運転時間帯以外に和歌山港駅まで延長運転されたため、これに対応した和歌山市・和歌山港行の「-急行-」または「- 急 -」表示の方向幕や赤い縁取りの標識板が用意されていた。なお、単なる「急行」として運転される春木駅通過の和歌山市駅発着の急行は、[[岸和田競輪場|岸和田競輪]]開催時には春木駅に臨時停車するが「-急行-」としては運転されず、あくまで春木駅に臨時停車する「急行」として運転された。 1993年に多奈川線直通の急行「淡路号」が廃止。1994年6月の空港線開業に伴う種別整理により「[[#空港急行|空港急行]]」に名称を変更して運行区間を現在の難波駅 - 関西空港駅間に変更、その後9月の関西国際空港開港に伴うダイヤ改正で羽倉崎駅発着(車庫引き上げを兼ねて運転されるもの)は区間急行に統合され、定期列車としての運転は一旦消滅。その後は岸和田競輪開催時の春木駅臨時停車の急行が「-急行-」表示を掲げ運転されていたが、それも2005年の昼間時の急行廃止により姿を消した。その後、岸和田競輪開催による春木発の臨時急行を設定したこともあったが、2017年1月のダイヤ改正で現在の下り1本が久々の定期列車として設定されることになった。再設定当初から2017年8月の高野線ダイヤ改正までと2021年5月の南海線ダイヤ改正から2023年10月の南海線ダイヤ修正までは6両編成、それ以外の期間のダイヤでは8両編成となっている。 なお、空港急行が強風などの影響により空港線に入線できずに泉佐野止まりとなった場合は白線急行(「-急行- 泉佐野」表示)となることもあるが、泉佐野・羽倉崎までの停車駅は区間急行と同一であるため「区急」表示とすることもある。2018年9月6日から9月7日までの南海空港線不通時には、空港急行が臨時で羽倉崎発着となり、白線急行(下り列車は「-急行- 羽倉崎」、上り列車は「-急行- なんば」表示)として運転していた。 車両に方向幕が装備される以前は、先頭車に掲出されていた種別表示の丸い標識板が赤色で縁取りされたものであったため「赤丸急行」とも呼ばれていた。空港急行がこの急行を継承した列車であるため、方向幕故障時などに使われる「空港急 難波 - 関西空港」や、[[関西国際空港連絡橋]]の通行規制時に運転されるものの、方向幕に行き先が用意されていないりんくうタウン駅発着の空港急行に使われる「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板にも同様に赤い縁取りが施されている。 ==== 空港急行 ==== {{Redirect|空港急行|[[京浜急行電鉄]]にかつて存在した種別の「エアポート急行」|京急本線#急行}} 終日、空港線に直通して難波駅 - 関西空港駅間で、日中は1時間あたり4本運転されている。急行の停車駅(泉佐野駅以北)に春木駅が追加されている。前述の[[#春木駅停車の急行(-急行-・白線急行)|春木駅停車の急行(白線急行)]]を前身とする種別であり、[[1994年]][[6月15日]]の空港線開業と同時に新設された。空港線内は各駅停車で、泉佐野駅を境に各駅停車となる点で、実質停車駅は区間急行と同じである。4扉車のみが使用される。6両編成の運用と8両編成の運用があり、朝ラッシュ時の8両編成の上り列車に限り、関西空港駅 - 天下茶屋駅間で、難波寄りから4両目には[[女性専用車両]]になる。昼間時間帯は終点まで先着するが、朝夕時間帯は特急に追い抜かされる列車がある。 関西国際空港への空港連絡列車であり、空港に接続する特急「[[ラピート]]」の補完にもなっているが、本線の急行輸送も担当しており、長期休暇期間・大型連休・盆・正月など、日本の海外・国内旅行シーズンの利用客が特に多い傾向があるほか、朝晩ラッシュ時を中心に混雑が目立ち昼間時や土休日でも比較的利用者が多い。ただ泉佐野駅 - 関西空港駅間に限れば朝の上り、夜間の下りはほぼ空気輸送状態になっている。 英語表記は「'''Airport Express'''」。種別を表す色は急行は車両の方向幕が全面朱色、駅の行先案内表示機([[発車標]])がオレンジ色であるのに対し、空港急行は黒地に朱色またはオレンジ色のアンダーラインが入り(日本語部分が黒地で朱色部分に「'''Airport Exp.'''」の英語表記種別が入る。なお、[[南海8000系電車 (2代)|8000系]]・[[南海8300系電車|8300系]]の[[発光ダイオード|フルカラーLED]]表示では日本語では普通と同じく灰色に白字、英字ではオレンジ色に白字で表示)、また日本語部分に少々小さい上付き文字で「空港」の文字が入った「<sup>空港</sup>急行」という表記となっているなどの違いがあり、急行とは区別された扱いとなっている。また、関西空港行に限り種別・行先が一体となった幕式では朱色のアンダーラインの左側に、種別・行先幕が別々の[[南海1000系電車 (2代)|1000系]]では行先幕の灰色のアンダーラインの左側に、8000系・8300系では種別と行き先の間に飛行機マーク([[ファイル:Nankai airport line symbol.svg|15px]])がある。駅内や駅で配布される時刻表では、関西空港行きが同様の飛行機マーク、難波行きは二重丸(◎)で表記される。 強風などにより空港線関西空港駅まで入線できない場合は、臨時になんば駅 - りんくうタウン駅間で折り返し運転となるが、りんくうタウン行きの種別・行先方向幕がないため、車両側の方向幕では「関西空港行き」の表示として駅の発車標では「りんくうタウン行」の表示にするか、車両側でも別途非常用に用意されている「空港急行」の種別のみの方向幕と「空港急 難波 - りんくうタウン」の標識板を組み合わせるかいずれかで対応する。 空港線開業時のダイヤでは昼間時間帯は1時間に2本、夕方は1時間に3本の運転で<ref>{{Cite book|和書 |title=ニュース南海 1994年6月号 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>、関西国際空港開港時のダイヤ改正では1時間に3本の運転であった。2005年11月のダイヤ改正で平日の日中以降・土休日の終日において1時間3本から2本に減便されたが、代わりに関西空港駅発着の普通が1時間あたり2本新設され、泉佐野駅で区間急行と接続を取るようになった。また空港急行自体も泉佐野駅で和歌山市駅行きの普通と相互接続して、泉佐野駅 - 和歌山市駅間での特急「サザン」や区間急行の補完的役割も担うこととなった。2014年10月のダイヤ変更では日中のみさき公園駅(一部和歌山市駅)発着の区間急行が空港急行に変更になり、さらにはそれまで土休日や日中を中心に上下ともに行われていた岸和田駅での特急「サザン」の待避がなくなり所要時間が短縮された。また日中以外でも大幅に増え、さらにほとんどの列車が終着駅まで先着している。 近年、関西国際空港への[[格安航空会社|LCC]]乗り入れや、[[訪日外国人旅行|インバウンド客]]の増加などにより、海外の[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などを通して安価な交通手段としての認知度が高まっており、スーツケースなどを持った外国人も急増し、慢性的な混雑やマナーの悪化が問題になっている。2017年1月と2019年4月のダイヤ改正では、いずれも6両編成で運転される列車の一部を8両編成に増車し(最終的に空港急行の4分の3が8両編成となる)、夕方以降のほとんどの区間急行を空港急行に置き換えるなど混雑対策に努めていた。ただし、2021年5月のダイヤ改正から2023年10月のダイヤ修正までは[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]による利用客の減少を背景に8両編成の列車の約半数が6両に減車されていた。 ==== 区間急行 ==== 朝と夕方以降に難波駅 - 羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅間で運転されている。難波駅 - 泉佐野駅間は空港急行と同じ停車駅で、泉佐野駅 - 和歌山市駅間は各駅に停車する。朝ラッシュ時や、深夜(深夜は下りのみ)には羽倉崎駅始発・終着のものもあり、[[羽倉崎検車区]]への引き上げも兼ねた存在の速達種別といえる。 4扉車のみが使用される。羽倉崎駅以南(特急・急行停車駅をのぞく)のホーム有効長から原則として6両編成で運転されるが、羽倉崎駅発着の列車は8両編成で運転される列車もある。平日夕方ラッシュ時には泉大津駅・泉佐野駅・尾崎駅・みさき公園駅のいずれかで特急「ラピート」・「サザン」および急行に追い抜かれることが多く、終着駅まで先着する列車は少ない。 案内放送では「区間急行」であるが、時刻表や案内板の表記は「'''区急'''」である。英語表記は「'''Sub Express'''」。 関西国際空港開港以前は区間急行は高野線のみに存在する種別であったが、開港時のダイヤ改正で羽倉崎発着の急行・泉佐野以北で通過運転を行う[[#準急行(赤準急)|準急(赤準急)]]の種別統合により本線にも登場した。種別色は高野線では長らく赤であったが、本線では当初から緑色である。非常用に用意されている「区間急」の標識板も縁取りと種別の文字に緑色が使われている。 かつては朝と深夜のみの運転であったが、2005年11月のダイヤ改正より泉佐野駅 - 和歌山市駅間の乗客減に伴い、大半の急行が特急に格上げされたために日中にも難波駅 - みさき公園駅間で運転され、急行の代替的な役割も担った。しかし、2014年10月のダイヤ変更で日中の列車が、さらに2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で夕方以降の列車もほとんどが泉佐野駅以北は空港急行に、同駅以南は普通車に置き換えられたため本数は大幅に減少している。 ==== 準急行 ==== 平日朝ラッシュ時の上りのみ運転されており、羽倉崎発が1本、春木発が1本設定されている。羽倉崎駅 - 堺駅間は各駅に停車する。 南海線では最も本数の少ない種別である。4扉車による6両編成で運転され、すべての列車が[[泉大津駅]]で区間急行または急行と接続し、[[浜寺公園駅]]で後続の空港急行(または特急)の通過待ちを行う。そのため、泉大津駅の3番線に停車する準急は存在しない。 構内アナウンスや車掌放送では「準急行」と案内されるが、時刻表や案内板の表記は「'''準急'''」である。英語表記は「'''Semi Express'''」。 2005年11月26日以前は高石発難波行き、平日は下り列車である難波発高石行きもあった。2005年11月26日ダイヤ改正から2009年10月3日までは4本(羽倉崎駅から3本、春木駅から1本)、2009年10月3日から2019年4月5日までは3本(羽倉崎駅から2本、春木駅から1本)あった。2001年のダイヤ改正までは岸和田発難波行きもあった。 ==== 普通(普通車) ==== 終日、難波駅 - 和歌山市駅間(区間運転あり)と空港線直通の難波駅 - 関西空港駅間で運転されている。日中は和歌山市駅発着系統が1時間あたり4本運転される。ラッシュ時、夜間には関西空港駅や羽倉崎駅・樽井駅・みさき公園駅で折り返す列車もある。また早朝には泉佐野発和歌山市行き、泉佐野発関西空港行きと春木・高石(かつては[[浜寺公園駅|浜寺公園]]発であった)・[[住ノ江駅|住ノ江]]発難波行きが、深夜には和歌山市発羽倉崎行きの列車も存在する。 4両または6両編成で運行されているが、土休日は6両編成での運用が多くなる。6両編成で運用される列車は朝または夕方に一部の区間急行・空港急行運用に入るものが多いのに対し、4両編成は普通車限定運用である<ref>{{PDFlink|[http://t-take-webpage.blog.ocn.ne.jp/unyou/data/Nankai-NANKAI_UNYOU_A_2012-4-1.pdf 南海本線平日運用表]}}</ref>。なお、空港線内で完結する泉佐野発関西空港行きには8両編成も存在する。2007年8月のダイヤ変更から南海本線と空港線の列車で[[南海2000系電車|2000系]](2扉車、ズームカー)の運用も始まった。なおズームカーの運用は繁忙期(正月三が日や[[岸和田だんじり祭]]・[[春木だんじり祭]]の開催日など)には通常の21m車での運用に変更される。 下り列車では泉佐野駅発車後4本のうち2本が和歌山市駅まで先着している。日中の列車は堺駅・高石駅・岸和田駅・尾崎駅(毎時2本のみ)で特急と、堺駅・泉大津駅・泉佐野駅で空港急行と、それぞれ接続または待避を行う。ラッシュ時は貝塚駅、みさき公園駅(下りのみ)での接続や、岸里玉出駅(上りのみ)、粉浜駅 - 住ノ江駅間、浜寺公園駅で待避する列車も存在する。 駅の放送では、空港線関西空港駅の自動放送を除き「[[普通列車#普通車(列車種別)|普通'''車''']]」と案内されている。英語表記は高野線の各駅停車と同じく「'''Local'''」である。高野線の「各駅停車」と種別名称を区別しているのは、南海線用のホームのない今宮戎駅と萩ノ茶屋駅に停車しないためである。駅での停車駅の表示は難波発が「新今宮・天下茶屋 以遠各駅(難波駅の場合)」「天下茶屋 以遠各駅にとまります(新今宮駅の場合)」、難波行が「天下茶屋までの各駅・新今宮」となっている。かつては岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅も通過していて、現在の準急に近いような停車駅であった(当時は岸ノ里駅と玉出駅が統合されて岸里玉出駅となる前)。そして普通とは別に1970年11月22日まで難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に運転されていた岸ノ里駅まで現在高野線専用の東側2線を経由し今宮戎駅・萩ノ茶屋駅および前記の普通が通過する岸ノ里駅・玉出駅・粉浜駅にも停車する「[[#各駅停車|各駅停車]]」が存在した。 過去には昼間時間帯でも浜寺公園駅・高石駅で折り返す列車や、早朝のみだが住ノ江発の下り泉佐野行き(のちに関西空港行き)、深夜の和歌山市発泉佐野行き、難波発住ノ江行きも存在していた。また2005年11月のダイヤ改正までは関西空港発の普通は原則としてなかった。関西空港発の普通は2005年11月から2014年10月までは日中1時間に2本運転されていたが、2014年10月のダイヤ改正で日中の列車が、2017年1月と2019年4月のダイヤ改正で段階的に朝と夕方以降も空港急行に格上げされたため本数を減らしている。 === 年末年始 === 2021年度(2022年正月)以降は、毎年[[大晦日]]から[[元日]]午前2時半頃にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15 - 20分間隔、住ノ江駅 - 高石駅間が30 - 40分間隔で、普通のみの延長運転が行われている。なお、高石駅 - 和歌山市駅間は終夜運転を行わない<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/211129.pdf 年末年始の運行ダイヤについて]}} - 南海電気鉄道、2021年11月29日</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/221129.pdf |title=年末年始の運行ダイヤについて |access-date=2022-12-04 |publisher=南海電気鉄道}}</ref>。 2019年度以前は、[[元日]]早朝にかけて難波駅 - 住ノ江駅間が15分間隔、住ノ江駅 - 羽倉崎駅間が30分間隔で、普通のみの[[終夜運転]]が行われていた。関西国際空港開港後数年間は難波駅 - 関西空港駅間で終夜運転を行っていた時期があった。2020年度の大晦日は終夜運転を行わず、終電を深夜2時まで延長する予定であったが<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/201127.pdf 年末年始の運行ダイヤについて]}} - 南海電気鉄道、2020年11月27日</ref>、その後大阪府内での[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症の拡大]]に伴い中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/201218.pdf|title=「大みそかの最終列車の時刻延長」取り止めのお知らせ|date=2020-12-18|accessdate=2020-12-21|publisher=南海電気鉄道}}</ref>。2021年度以降は前述の通り、区間・時間帯を短縮したうえで延長運転を行っている。 [[正月三が日]]は原則として土休日ダイヤで運転されるが、空港急行と区間急行が昼間時間帯に[[住吉大社駅]]に臨時停車する。そのため2 - 3分ほど運転時分がずれる。臨時列車は運転されないが普通車は2ドア車が運用から外れ4ドア車による代走となる。また、一部の列車では編成両数が変更される。 2004年度(2005年正月)までは急行と空港急行が停車し、2005年度(2006年正月)から2007年度(2008年正月)までは「ラピート」以外の全列車が停車していたが、2008年度(2009年正月)以降は再び特急「サザン」・自由席特急は通過となった。 関西国際空港開港以前は、昼間の急行(和歌山市行き・泉佐野または羽倉崎行き)・普通の本数が必ず6本となり、昼間のみ正月ダイヤを組んでいた経緯がある。また大晦日の深夜には住吉大社の参拝客のために住ノ江検車区への入庫回送列車を臨時の普通に仕立てて運転していた時期もあった。また、1998年の[[明石海峡大橋]]開通以前には、四国方面の[[帰省ラッシュ]]対策で急行が和歌山港駅まで臨時延長運転されたことや、臨時の自由席特急が運転される時期もあった。 === 過去の種別 === ==== 特急(自由席特急) ==== 2012年3月31日まで、特急「サザン」「ラピート」とは別に、座席指定料金不要で乗車券のみで乗ることができる全車自由席の特急が設定されていた。停車駅パターンは「サザン」と同一であるが、全車自由席のため、「サザン」の愛称はなく、車両の種別表示幕では「特急」とのみ記載されていた。すべて6両編成で、通称「自由席特急」とも呼ばれている。英語表記は"Ltd. Express"である。 2005年11月のダイヤ改正前は朝のみ数本の運転であった。同改正で日中に運転されるようになったが、2009年10月のダイヤ改正以降は平日・土休日とも難波発14時15分、16時45分と和歌山市発13時、15時30分の2往復しか運転されておらず、残りはすべて一部座席指定特急「サザン」として運転されていた。難波駅 - 和歌山港駅間往復に必要な所要本数は6本で、「サザン」用編成は7本、うち1本が予備編成となっているが、フェリーとの連絡の都合上昼間に和歌山港駅で停泊する編成が1編成生じてしまう。自由席特急はこれを補完するために運転されていた。 1968年3月から1985年10月までの間は、新今宮駅・[[堺駅]]・岸和田駅の3駅のみ停車の速達性を重視した列車でさらには四国徳島港接続や、南紀([[紀勢本線]])直通といった長距離輸送の役割も担っていた(詳細は「[[#歴史|歴史]]」の節を参照)。1968年3月以前の和歌山市駅発着の特急は泉佐野駅以北が現在の急行に近く、堺駅 - 泉佐野駅間は現在の急行停車駅から羽衣駅を除いたものと同じであったが、逆に泉佐野駅 - 和歌山市駅はノンストップであった。これは、1954年の登場時に[[市制]]を施行していた沿線の7市に1駅ずつ停車するパターンである。なお、末期の1966年には新今宮駅に停車するようになったが、同年に市制を施行した高石市の羽衣駅に停車することはなかった。2005年11月のダイヤ改正で昼間時間帯(土休日は一部時間帯をのぞく終日)において急行停車駅(羽衣駅・泉大津駅・貝塚駅)から和歌山市駅へ行く優等列車がなくなった。このため前述の3駅から和歌山市駅へ行くには岸和田駅かみさき公園駅での乗り継ぎが強いられている。 1968年3月に特急は四国連絡・南紀直通だけとなって泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅の3駅は通過となり、1973年に和歌山市駅発着の自由席特急が復活した後も、停車駅は当時の「四国号」と同じであった。その後の度重なる停車駅の追加により、現在では泉佐野駅を境に、北部は特急、南部はかつての急行の役割を担う性格の列車となっており、難波駅 - 和歌山市駅間で最も速い急行との所要時間差は3分程度でしかなくなっていた(一部自由席連結の「サザン」も同様である)。<!--またラッシュ時の「サザン」を中心に同区間の所要時間が60分を超える列車もある。--> 2012年の[[7月2日]]から[[9月7日]]まで[[東日本大震災による電力危機#2012年夏季の電力危機|夏季の電力事情]]に対応するため、お盆期間(8月13日-15日)をのぞく平日の日中に特急「サザン」4本を自由席特急に変更して運行した。一時的であるが、同年3月に廃止されて以来約3か月ぶりに復活した<ref name="2012setsuden">[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/setsuden/index.html 今夏の節電に対する取組みについて] - 南海電気鉄道、2012年9月7日閲覧。</ref>。 なお、人身事故などでダイヤが大幅に乱れた場合や、サザン用編成に何らかの不備が発生した場合に「サザン」が臨時に自由席特急に差し替えられる場合がある。その場合は駅の放送や駅の案内表示も「特急」と案内される。 ==== 準急行(赤準急) ==== 1994年以前は現行の停車駅の準急(当時は難波駅 - 高石駅・岸和田駅間で運転)に加え、朝ラッシュ時や早朝・深夜を中心に樽井駅・みさき公園駅・和歌山市駅発着の準急もあった。1968年に列車系統が再編されるまでは日中にも和歌山市駅発着の準急が運転されていた。これは現在の区間急行の前身にあたり、停車駅も設定当初の区間急行と全く同じであった(天下茶屋駅は通過)。また、種別表示幕が赤で「{{Colors|#ffffff|#ff4500|'''準急'''}}」となっており、「赤準急」とも呼ばれた(ただし特急に使われている「赤色」よりはむしろ「朱色」に近い。停車駅案内表では急行と同じオレンジ)。なお、青で「{{Colors|#ffffff|#0000cd|'''準急'''}}」と表示されている現行の停車駅の準急は「青準急」と呼ばれていた。両者を区別する必要がなくなった現在でもこの青準急は、車内放送で「'''堺まで各駅停車の準急行'''」と案内されることがある。 1994年の空港線開通に伴う種別整理の際に、「青準急」との区別を明確にするため、羽倉崎発着の「─急行─」を統合した上で「区間急行」に名称を変更した。 ==== 各駅停車 ==== かつては「普通」とは別に、難波駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間に、現在は高野線専用となっている東線を走行し、今宮戎駅・萩ノ茶屋駅にも停車する「各駅停車」が運転されていた。一方、高野線の難波駅発着列車は、堺東折り返しの列車が「各駅停車」(ただし岸ノ里駅は配線上の都合で通過)として、それ以南に直通する列車が今宮戎駅・萩ノ茶屋駅を通過する「普通」として運転され、さらに汐見橋発の「各駅停車」も住吉東駅まで直通していた。その後、泉北高速鉄道の開業を控え、高野線の線路容量を確保するため、岸ノ里駅の高野線と連絡線との合流点上にホームが設けられ、高野線の「普通」を「各駅停車」に一本化したため、1970年11月23日の改正で廃止された。 == 使用車両 == 他の関西私鉄の車両と大きく異なる点として、南海本線は地下区間を通らないため、全ての車両は[[地下鉄等旅客車]](かつてのA-A基準)を満たす地下鉄対応車両ではない。 ; [[電車]] :* [[南海50000系電車|50000系]](ラピート) :* [[南海10000系電車|10000系]](サザン) :* [[南海12000系電車|12000系]](サザン) :* [[南海1000系電車 (2代)|1000系(2代)]] :* [[南海2000系電車|2000系]](ズームカー):南海本線普通車で運用 :* [[南海22000系電車#2200系|2200系]](元ズームカー):支線用 :* [[南海22000系電車#2230系|2230系]](元ズームカー):支線用 :* [[大阪府都市開発3000系電車#南海3000系電車|3000系]](元泉北線車) :* [[南海7000系電車#7100系|7100系]]:一部は支線用 :* [[南海8000系電車 (2代)|8000系(2代)]] :* [[南海8300系電車|8300系]] :* [[南海9000系電車|9000系]] <gallery> ファイル:Nankai_50000_series_50002F.jpg|50000系(ラピート) File:Nankai-10000-Southern01.jpg|10000系(サザン) ファイル:Nankai_12102_at_Shin-Imamiya_Station.JPG|12000系(サザン) </gallery> <gallery> ファイル:Nankai3000 3516F.jpg|3000系 ファイル:NK7100 7153F.jpg|7100系 ファイル:Nankai9000 9513F.jpg|9000系 ファイル:Nankai1000 1005F.jpg|1000系(2代) ファイル:Nankai 2000 series running Mainline local.JPG|2000系 ファイル:Nankai 8300Series 8352F.jpg|8300系 ファイル:Nankai8000 Airport Express.jpg|8000系(2代) </gallery> === 過去の使用車両 === ; 電車 :* [[南海1000系電車 (2代)#第6次車(50番台)|1000系50番台]]:高野線に転属 :* [[南海7000系電車|7000系]] :* [[南海11001系電車|1000系(初代)]] :* [[南海1521系電車|1521系・2051系]] :* [[南海11001系電車|11001系・12001系]] :* [[南海1201形電車|モハ1551形]] :* [[南海1501形電車|モハ1501形]] :* [[南海の簡易半鋼車|簡易半鋼車]] :* [[南海2001形電車|モハ2001形(電9系)]] :* [[南海電7系電車|電7系]] <gallery> ファイル:Nankai1050Series02.jpg|1000系50番台 File:Nankai Electric Railway 7000 series.jpg|7000系 </gallery> ; [[気動車]] :* [[国鉄キハ55系気動車|キハ5501・5551形]]:紀勢本線直通列車用 : ; [[客車]] :* [[南海サハ4801形客車|サハ4801形]]:紀勢本線直通列車用 == 乗務員 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2014年8月6日 (水) 21:00 (UTC)}} {{Main2|高野線との共通事項|南海電気鉄道#乗務員}} * ほとんどの列車では、始発駅から終着駅まで乗り通しであるが、泉佐野駅や堺駅で乗務員交代が行われていることがしばしばある。 * 本線において全席指定の[[特別急行列車|特急電車]]運転士は、選抜された運転士が担当し、特急乗務員になると「特急系統」と呼ばれる専用乗務行路が与えられ、同時に所属も南海線列車区堺支区となる。また全席指定の特急には業務委託先の「アバン」に所属する女性車掌が乗務する。なお、一部座席指定の特急列車の場合は、特急系統乗務員(運転士・「アバン」所属の女性車掌)と一般系統乗務員(運転士・車掌)とで運行し、全席自由席の特急(※2013年9月の時点では定期列車での設定は無し)の場合は一般系統の乗務員が担当する。なお、この仕組みは[[1985年]](昭和60年)[[11月1日]]のダイヤ改正による特急「サザン」運転開始からで、それまでは全乗務員が特急乗務を行っていた。 ** ただし、同年[[3月14日]]のダイヤ改正で廃止された[[日本国有鉄道|国鉄]][[紀勢本線]]直通の[[気動車]]急行「きのくに」に至っては、当時の列車区長たちの推薦によって選ばれた運転士が、研修を受けた上で乗務していた。 ** なお、「アバン」所属の女性車掌は全席指定の特急に限らず、急行・空港急行・区間急行や普通など一般電車にも乗務している。 * 優等列車が[[春木駅]]や[[天下茶屋駅]]に到着する数十秒前に、運転士が停車駅を失念して冒進することを防ぐ目的で、車掌が電鈴を1打鳴らすことがある(それに対する運転士の返事も同じく電鈴1打である)。これは、列車種別選別装置更新前からの伝統である(現在は上記の駅に接近すると装置から警報が鳴るが、1打合図も併用している)。 * 普通車が優等列車の通過待ちの時、普通車乗務員は必ずホームに立ち'''通過監視'''を行う。その時運転士は[[ブレーキ]]ハンドルを常用ブレーキ最大位置にセットし、リバースハンドル([[主幹制御器]]に取り付ける前進・後進の切り替えハンドル)を所持してホームに立つ。なお、固定式ツーハンドル列車の場合、リバースハンドルの代わりにマスコンキー(固定式ハンドルを動かすために使う鍵)を所持し、運転時計([[懐中時計]])も所持してホームに立つ。 * [[終着駅]]到着後、車掌が降車側の扉を開ける。その後運転士は[[車掌スイッチ]]の切り換えを行い、切り換え完了後、乗車側の扉を開扉する。その後、降車側扉は車掌によって閉扉される。 * 始発駅で電鈴鳴動確認を行う(本線のみ) == 歴史 == 難波駅 - 堺駅間は、1885年に難波駅 - 大和川駅(のちに廃止)間を開業した'''[[阪堺鉄道]]'''が開通させたもの、堺駅 - 和歌山市駅間は'''南海鉄道'''が開通させたものである。阪堺鉄道は1898年に南海鉄道に事業を譲渡した。 阪堺鉄道は、1883年に廃止された[[工部省]][[釜石鉱山鉄道]]の車両やレールの払い下げを受けて建設されたため、開業当初は838mmという日本では特異な[[軌間]]の鉄道であった。 また[[鉄道国有法|鉄道国有化]]前は、[[1984年]] - [[1993年]]に順次廃止された[[南海天王寺支線|天王寺支線]](天下茶屋駅 - [[天王寺駅]])を用いて、大阪鉄道(初代) - [[関西鉄道]]の保有する今の[[大阪環状線]]に乗り入れ、[[大阪駅]] - 住吉駅間の[[直通運転]]を行っていたこともあった。 [[大和田建樹]]作詞の[[鉄道唱歌]]第五集で当路線が歌われている(和歌山北口駅 - 難波駅)。当時は民鉄が多かったが、鉄道唱歌に登場する路線で国有化されず民営のままなのは南海本線のみである。 1929年から1930年に当路線全線と並行して[[阪和電気鉄道]]が開通すると、南海鉄道との間で列車のスピードアップや割引切符による運賃の[[ダンピング]]など、激しい競争が繰りひろげられることになる。対抗のため、日本初の冷房電車([[南海2001形電車|2001形]]を参照)を1936年から1937年まで走らせたりした。同社は1940年に南海へ合併して山手線となり、1944年には[[戦時買収私鉄|戦時買収]]によって国有化され、[[阪和線]]となった。 また1934年には、競合する阪和電気鉄道とともに「[[黒潮号]]」・「土曜列車」など紀勢西線(現在の[[紀勢本線]])への直通運転も開始し、1940年から1951年の中断期を経て、1985年の紀勢本線における[[急行列車]]廃止に伴う「[[くろしお (列車)|きのくに]]」消滅まで続けられた。末期の「きのくに」に使用されていた車両は自社所有の気動車([[国鉄キハ55系気動車#私鉄向け同系車|キハ5501、キハ5551形]])で、和歌山市駅から紀勢本線に乗り入れ([[紀和駅]]にも停車)、[[和歌山駅]]で天王寺駅発着の「きのくに」と分割・併合を行っていた。なお、種別は紀勢本線直通の急行であったが南海本線内の停車駅は当時の特急と同じ新今宮駅(1966年12月1日より)・堺駅・岸和田駅の3駅に絞られていた(1968年9月30日までは客車列車に限り泉大津駅・貝塚駅・泉佐野駅にも停車)。旅客案内上は誤乗車を避けるため南海線内においては「特急」と案内されていた。 2005年11月のダイヤ改正以降の運行本数は日中・土日においては関西空港開業直後のダイヤと比べて約2割削減されている(基本・優等列車9本→8本、普通6本→4本)。 === 年表 === * [[1885年]]([[明治]]18年)[[12月29日]]<ref group="注釈">{{cite journal | 和書 | author = 南海電気鉄道車両部・井上広和 | title = 日本の私鉄9 南海 | publisher = [[保育社]] | year = 1981 }}などでは12月27日としているが、{{Cite book | 和書 | url = {{NDLDC|960214/451}} | title = 日本鉄道史 | volume = 上編 | author = 鉄道省 | year = 1921 }}p. 762によると12月27日は開業式を行った日で、営業開始は12月29日からとある。『[[#yoran|鉄道要覧]]』では12月29日が運輸開始年月日となっている。</ref>:阪堺鉄道 難波駅 - 大和川駅間が開業。軌間838mm。 * [[1888年]](明治21年)[[5月15日]]:阪堺鉄道 大和川駅 - 堺駅(吾妻橋)間が開業。大和川駅が廃止。 * [[1892年]](明治25年)12月29日:阪堺鉄道 難波駅 - 住吉駅間が複線化<ref name="sato_asaka">[[#sato_asaka|佐藤・浅香 (1986)]] p. 74</ref>。 * [[1897年]](明治30年) ** [[10月1日]]:南海鉄道 堺駅 - 佐野駅(現在の泉佐野駅)間が開業。 ** [[11月9日]]:南海鉄道 佐野駅 - 尾崎駅間が開業。 ** [[12月15日]]:阪堺鉄道 難波駅 - 堺駅間が1067mm軌間に[[改軌]]。住吉駅 - 堺駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。難波駅 - 尾崎駅間で直通運転開始。 * [[1898年]](明治31年) ** 10月1日:阪堺鉄道が南海鉄道に事業を譲渡。 ** [[10月22日]]:尾崎駅 - 和歌山北口駅間が開業。 * [[1899年]](明治32年)[[4月1日]]:住吉駅 - 堺駅間に大和川駅(2代目)が開業。 * [[1901年]](明治34年) ** [[4月13日]]:葛葉駅(現在の高石駅)が開業<ref group="注釈">鉄道省『[{{NDLDC|1025500/212}} 鉄道停車場一覧 昭和2年版]』(国立国会図書館デジタルコレクション)による。南海電気鉄道{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/company/company/handbook/pdf/55_77.pdf 『ハンドブック南海』]}}では3月1日。</ref>。 ** [[10月5日]]:天下茶屋駅 - 住吉駅間が3線化。 * [[1903年]](明治36年) ** [[2月25日]]:難波駅 - 天下茶屋駅間に(仮)博覧会門前駅が開業<ref>[{{NDLDC|2949204/11}} 「仮停車場設置」『官報』1903年3月6日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。8月31日まで営業。第5回[[内国勧業博覧会]]開催のため。 ** [[3月21日]]:[[紀ノ川橋梁 (南海本線)|紀ノ川橋梁]]が開通し紀ノ川駅 - 和歌山市駅間が開業、難波駅 - 和歌山市駅間が全通。和歌山北口駅が廃止。和歌山市駅 - 紀和連絡点および紀和鉄道和歌山駅(現在の紀和駅) - 南海連絡点の紀和連絡線が開業。 * [[1906年]](明治39年) ** [[8月15日]]:淡輪駅が開業。 ** [[4月23日]]:急行「浪速号」「和歌号」が運転開始。蒸気列車内で食堂の経営を行う。現存する[[大手私鉄]]においては、珍しい試みであった。 * [[1907年]](明治40年) ** [[7月5日]]:堺駅 - 浜寺駅(現在の浜寺公園駅)間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[8月20日]]:浜寺駅を浜寺公園駅に改称。 ** [[8月21日]]:難波駅 - 浜寺公園駅間が電化。住ノ江駅が開業。 ** [[10月5日]]:恵美須駅(現在の今宮戎駅)が開業<ref name="imao">[[#imao|今尾 (2008)]] p. 35</ref>。 ** [[10月26日]]:玉出駅(現在の岸里玉出駅)が開業<ref name="imao" />。 ** [[11月11日]]:堺 - 湊間に大浜駅が開業(廃止日不明)<ref group="注釈">今尾 (2008) p. 35では開業時芦原駅とあるが、[{{NDLDC|2950664/5}} 「電車運転開始並停車場設置」『官報』1907年11月16日](国立国会図書館デジタルコレクション)によれば開業時は大浜駅。</ref>。 ** [[12月20日]]:萩ノ茶屋駅・北浜寺駅(現在の諏訪ノ森駅)開業<ref>[{{NDLDC|2950696/12}} 「停車場設置」『官報』1907年12月25日](国立国会図書館デジタルコレクション)によれば開業時北浜寺駅(1908年諏訪ノ森駅に改称)。</ref>。 * [[1908年]](明治41年)12月1日:大浜駅を芦原駅に、北浜寺駅を諏訪ノ森駅に改称<ref>[{{NDLDC|2950968/8}} 「停車場改称」『官報』1908年11月18日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1910年]](明治43年):(臨)孝子駅が開業<ref>{{Cite book | 和書 | url = {{NDLDC|807161/82}} | volume = 明治43年 | title = 大阪府統計書 | page = 147 }}</ref>。 * [[1911年]](明治44年) ** [[4月15日]]:浜寺公園駅 - 葛葉駅(現在の高石駅)間が電化・複線化<ref name="tetudoushi_ge">{{Cite book | 和書 | url = {{NDLDC|960216/317}} | title = 日本鉄道史 | volume = 下編 | author = 鉄道省 | year = 1921 | page = 553}}</ref><ref name="sato_asaka" />。 ** [[5月17日]]:葛葉駅 - 大津駅(現在の泉大津駅)間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[7月1日]]:葛葉駅 - 大津駅間が電化<ref name="tetudoushi_ge" />。 ** [[8月31日]]:大津駅 - 貝塚駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[9月1日]]:大津駅 - 貝塚駅間が電化<ref name="tetudoushi_ge" />。 ** [[10月16日]]:貝塚駅 - 佐野駅(現在の泉佐野駅)間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[11月21日]]:貝塚駅 - 和歌山市駅間が電化。全線電化完成<ref name="tetudoushi_ge" />。 * [[1912年]](明治45年) ** 2月17日:住吉公園駅(現在の住吉大社駅)が開業<ref group="注釈">鉄道省『鉄道停車場一覧 昭和2年版』や、今尾 (2008)では1912年2月17日とあるが、[{{NDLDC|2951924/3}} 「私設鉄道停車場使用開始」『官報』1912年1月13日](国立国会図書館デジタルコレクション)によれば「昨四十四年十二月十五日南海鉄道住吉公園停車場使用開始ヲ許可セシニ同十七日ヨリ使用開始の旨…」とあり1911年12月17日開業。</ref>。 ** 3月1日:羽衣駅・高師ノ浜駅が開業。 ** 7月20日:芦原駅を大浜駅に改称<ref name="imao" />。 * 1912年([[大正]]元年)12月20日:龍神駅が開業<ref group="注釈">日付は{{Cite book | 和書 | author = 宮脇俊三(編著) | title = 鉄道廃線跡を歩く | volume = 5 | publisher = JTB | year = 1998 | page = 174 }} {{Cite book | 和書 | url = {{NDLDC|972851/153}} | volume = 大正元年 | title = 大阪府統計書 | page = 246 }}に駅名あり<!-- 大阪府統計書では月日不明 -->。</ref>。 * [[1913年]](大正2年)[[7月25日]]:岸ノ里駅(現在の岸里玉出駅)が開業。 * [[1914年]](大正3年) ** 4月1日:蛸地蔵駅が開業。 ** [[10月18日]]:春木駅が開業。 ** [[12月10日]]:助松駅(現在の松ノ浜駅)が開業。 * [[1915年]](大正4年) ** [[4月11日]]:深日駅 - 孝子駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。孝子駅が常設駅として開業。 ** 7月1日:恵美須駅を今宮戎駅に改称<ref>[{{NDLDC|2952981/6}} 「停車場名改称」『官報』1915年7月2日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 10月1日:吉見ノ里駅が開業。 ** [[11月1日]]:岡田浦駅が開業。 * [[1916年]](大正5年) ** 5月15日:鶴原駅が開業。 ** [[12月15日]]:住ノ江駅が廃止。大浜駅の旅客営業が廃止<ref>[{{NDLDC|2953431/8}} 「私設鉄道停車場廃止」「私設鉄道停車場旅客取扱廃止」『官報』1916年12月22日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1917年]](大正6年) ** [[4月21日]]:住吉駅が廃止、粉浜駅が開業、大和川駅を移転し七道駅に改称<ref name="kanpo19170427">[{{NDLDC|2953532/6}} 「私設鉄道停車場廃止設置並名称及位置変更」『官報』1917年4月27日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 11月1日:佐野駅 - 吉見ノ里駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 * [[1918年]](大正7年) ** [[6月1日]]:吉見ノ里駅 - 尾崎駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[10月2日]]:羽衣駅 - 葛葉駅間の高師ノ浜駅が廃止。 ** [[12月27日]]:尾崎駅 - 箱作駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 * [[1919年]](大正8年) ** 3月1日:鳥取ノ荘駅が開業。 ** 6月1日:石津川駅が開業。 ** [[8月16日]]:箱作駅 - 淡輪駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 ** [[9月8日]]:淡輪駅 - 深日駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />。 * [[1922年]](大正11年) ** [[9月9日]]:紀ノ川駅 - 和歌山市駅間が複線化<ref name="sato_asaka" /> ** [[12月2日]]:孝子駅 - 紀ノ川駅間が複線化<ref name="sato_asaka" />され、全線複線化完成。 * [[1924年]](大正13年)[[7月26日]]:[[南海電7系電車|電7系]]による特等車・喫茶室連結の電車急行列車が運転開始。 * [[1925年]](大正14年) ** [[3月15日]]:岸ノ里駅に高野線との東連絡線が開設。高野線の列車が難波駅乗り入れ開始。 ** [[7月11日]]:忠岡駅開業。 * [[1926年]](大正15年)[[12月3日]]:天下茶屋駅 - 粉浜駅間が複々線化。岸ノ里駅東連絡線が複線化。西連絡線が開設。 * [[1928年]]([[昭和]]3年)[[2月5日]]:住ノ江駅が再開業<ref name="imao" />。 * [[1929年]](昭和4年)[[11月]]:高野線の全列車が難波駅発着になる。 * [[1931年]](昭和6年)[[12月19日]]:粉浜駅 - 住吉公園駅(現在の住吉大社駅)間が複々線化。 * [[1934年]](昭和9年) **[[9月21日]]:[[室戸台風]]接近に伴う強風で、堺駅 - 七道駅間に停車中の電車一両が転覆<ref>小学校の倒壊相つぎ学童ら多数死傷『大阪毎日新聞』昭和9年9月21日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p228 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 **[[11月17日]]:国鉄紀勢西線(現在の紀勢本線)との直通列車「黒潮号」を運転開始<ref name=kuroshio>{{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|page=99}}</ref>。 * [[1935年]]([[昭和]]10年)6月30日 - [[集中豪雨]]により[[大津川 (大阪府)|大津川]]に架かる鉄橋の中央部が流失<ref>大和川増水、大阪府南部は泥の海『大阪毎日新聞』昭和10年6月30日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p207-208 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1937年]](昭和12年) ** [[4月10日]]:和泉大宮駅が開業。 ** 11月1日:難波駅 - 天下茶屋駅間が高架化。複々線化完成は翌年。 ** 12月1日:「黒潮号」を廃止。しかし直通運転自体は継続<ref name=kuroshio/>。 * [[1938年]](昭和13年) ** [[7月23日]]:南淡輪駅(現在のみさき公園駅)が開業。 ** [[9月10日]]:難波駅 - 天下茶屋駅間が高架複々線化。新設の西側2線は住ノ江駅以南発着の列車が使用し、既設の東側2線は住吉公園行き各駅停車と高野線の列車が使用。 ** 10月1日:二色浜駅が開業。 * [[1940年]](昭和15年)8月8日:この年12月の阪和電気鉄道合併を控えて、一元化のため国鉄紀勢西線との直通列車を全廃<ref>{{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|page=116}}</ref>。 * [[1941年]](昭和16年)[[8月1日]]:葛葉駅を高石町駅に改称。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[2月1日]]:羽倉崎駅が開業。 ** [[7月1日]]:大津駅を泉大津駅に改称。 * [[1944年]](昭和19年)[[6月1日]]:会社合併により[[近畿日本鉄道]]の路線となる。深日駅の旅客営業廃止。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[6月11日]]:南淡輪駅 - 孝子駅間の深日駅が休止。 ** 7月10日:堺駅の旅客営業廃止。 * [[1947年]](昭和22年)6月1日:近畿日本鉄道から分離、南海電気鉄道に譲渡。 * [[1948年]](昭和23年)4月1日:佐野駅を泉佐野駅に改称。 * [[1951年]](昭和26年)[[4月6日]]:国鉄紀勢西線との直通運転再開。 * [[1952年]](昭和27年)4月1日:井原里駅が開業。 * [[1955年]](昭和30年)4月21日:堺駅 - 湊駅間の龍神駅廃止のうえ堺駅に統合、堺駅の旅客営業再開。 * [[1957年]](昭和32年) ** [[1月1日]]:南淡輪駅をみさき公園駅に改称。 ** [[12月28日]]:北助松駅が開業。 * [[1958年]](昭和33年)[[4月1日]]:深日駅を正式に廃止。 * [[1960年]](昭和35年)12月15日:助松駅を松ノ浜駅に改称。 * [[1966年]](昭和41年)[[12月1日]]:新今宮駅が開業<ref group="注釈">国鉄新今宮駅は1964年開業</ref>。高石町駅を高石駅に改称。 * [[1967年]](昭和42年) ** 4月1日:樽井駅 - 尾崎駅間の踏切で立ち往生していた大型トラックに和歌山市行き急行が衝突し、男里川橋梁から電車が転落、5名死亡。事故編成の運転士が事故直前まで、自分の息子を運転室内に入れていたことが発覚し、問題化([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄男里川橋梁列車脱線転落事故|男里川橋梁列車脱線転落事故]])。 ** [[7月24日]]:箱作駅構内で入れ換え中の貨物列車に、和歌山市行き急行列車が衝突([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄箱作駅構内列車衝突事故|箱作駅構内列車衝突事故]])。124名重軽傷。 * [[1968年]](昭和43年) ** [[1月18日]]:天下茶屋駅構内で春木発難波行き急行が信号冒進し正面衝突、296名負傷([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故|天下茶屋駅列車衝突事故]])。相次ぐ事故で、激しい非難を浴びる。 ** 4月1日:全線に[[自動列車停止装置|ATS]]を設置し、供用開始<ref>{{Cite news |和書|title=あすからATS使用 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-03-31 |page=1 }}</ref>。 * [[1970年]](昭和45年)[[11月23日]]:泉北高速鉄道の開業を前に、岸ノ里駅に高野線(難波駅直通列車用)ホームが設置されたことに伴い、高野線の運行系統を大幅に変更。南海本線は、難波駅 - 住吉公園駅間の各駅停車(東線各駅停車)を廃止し、難波駅 - 岸ノ里駅間では、全列車が西線を運転するようになる。各駅に停車する列車は普通(今宮戎駅・萩ノ茶屋駅通過)に一本化。 * [[1973年]](昭和48年)[[10月10日]]:架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。 * [[1977年]](昭和52年)4月10日:玉出駅 - 住ノ江駅(大和川北岸)間外側2線高架化。 * [[1979年]](昭和54年)[[5月9日]]:住吉公園駅を住吉大社駅に改称。 * [[1980年]](昭和55年) ** [[6月15日]]:玉出駅 - 住ノ江駅(大和川北岸)間の高架複々線化が完成。 ** [[11月21日]]:難波駅改良工事完成(23日)に伴い、起点を0.2km和歌山市駅寄りに変更。 * [[1985年]](昭和60年) ** [[3月14日]]:急行「きのくに」を最後に、国鉄紀勢本線との直通運転を廃止。 ** [[5月7日]]:七道駅(大和川南岸) - 石津川駅間の高架化完成。 ** 11月1日:特急「サザン」が運転開始(指定席用の車両として10000系を新製投入)。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[11月12日]]:最高速度を105km/hから110km/hに向上<ref>{{Cite|和書|author=南海電気鉄道|title=南海二世紀に入って十年の歩み|year=1995|pages=107}}</ref>。8両編成の運転開始(特急「サザン」10本・急行9本)<ref>{{Cite|和書|author=南海電気鉄道|title=南海二世紀に入って十年の歩み|year=1995|pages=71}}</ref>。 * [[1992年]](平成4年)[[7月1日]]:1000系(2代目)運転開始。 * [[1993年]](平成5年) ** [[4月18日]]:萩ノ茶屋駅 - 岸里玉出駅間の西側2線高架化<ref name="kotsu19930414">{{Cite news |title=萩ノ茶屋-玉出間高架化 18日から使用開始 南海「岸里玉出」統合駅新設 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-04-14 |page=1 }}</ref>。岸ノ里駅と玉出駅が統合し岸里玉出駅になる{{R|kotsu19930414}}。全線通しの急行と普通車を毎時3本ずつに増発した反面、昼間の普通車を毎時6本から毎時5本に減便。[[南海多奈川線|多奈川線]]直通の急行「淡路号」が廃止<ref name="rekishidemeguru">{{Cite journal |和書|author = 曽根悟(監修)|year = 2010|publisher =朝日新聞出版 |journal =週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄 |volume = 第16号 南海電気鉄道|page = 15}}</ref>。 ** [[12月25日]]:羽倉崎検車区内で、回送列車が車止めを突破し道路を横切った上、向かいの店舗に衝突する脱線事故。検車係員のわき見とスピード超過が原因。 * [[1994年]](平成6年) ** [[6月18日]]:空港線の暫定開業で空港急行が運転開始。 ** [[6月27日]]:泉佐野駅 - 羽倉崎駅間にある南海本線と空港線の分岐付近で、みさき公園発難波行きの普通車が脱線。ポイント手動切替の作業ミスが原因。 ** [[7月6日]]:和泉大宮駅 - 蛸地蔵駅間の高架化完成。 ** [[9月4日]]:関西国際空港が開港。50000系による特急「ラピート」が運転開始。みさき公園駅が特急の停車駅になる。泉佐野駅以南各駅停車の準急行と羽倉崎駅折り返しでかつ春木駅に停車する急行を区間急行に種別変更。昼間の普通車を毎時6本に増発。 * [[1995年]](平成7年) ** 3月14日:泉佐野駅から南側に0.8㎞の地点から羽倉崎駅間の上り線1.2㎞が高架化<ref name="交通1995-3">{{Cite news |title=南海泉佐野駅付近の高架化 一部区間使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-03-16 |page=1 }}</ref>。下り線は[[3月17日]]に高架化{{R|交通1995-3}}。 ** 11月1日:萩ノ茶屋駅 - 岸里玉出駅間の高架化完成<ref>{{Cite news |title=大阪市内全線高架に 南海本線 来月1日から切り替え |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-10-20 |page=1 }}</ref>。東側2線(高野線)を高架化<ref>[http://www.renritsukyo.jp/fumikiri/overpass/s30_result/end/awd_osk01.html 南海本線(天下茶屋駅〜住ノ江駅)連続立体交差事業] - 踏切すいすい大作戦</ref>。 * [[1996年]](平成8年)[[10月26日]]:土曜・休日ダイヤを導入。天下茶屋駅が特急「ラピートβ」・空港急行・区間急行・準急行の停車駅になる<ref>{{Cite|和書|author=南海電気鉄道|title=南海電鉄最近の10年 創業120周年記念|year=2005|pages=55,97}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)[[7月19日]]:泉大津市内連続立体化工事に本格着工<ref>ハンドブック南海2014年度版 p115</ref> * [[2000年]](平成12年)7月8日:住ノ江検車区内で回送列車が脱線。電車が停止する前に運転士が[[自動列車停止装置|ATS]]を解除したり、ブレーキハンドルを抜き取るなど、基本動作を順守しなかった違反行為が発覚。 * [[2001年]](平成13年)[[3月24日]]:ダイヤ改正により、一部の「ラピートα」を除き天下茶屋駅が全列車停車駅となる。尾崎駅が特急停車駅になる。昼間の急行が毎時3本から毎時2本に、普通車が毎時6本から毎時5本にそれぞれ減便される。 * [[2003年]](平成15年)[[2月22日]]:ダイヤ改正により、新今宮駅・天下茶屋駅・泉佐野駅が全列車停車駅になる。平日朝の上り急行で女性専用車両導入<ref name="rail fan">{{Cite journal|和書 |author = 外山勝彦 |date = 2003-05-01 |title = 鉄道記録帳2003年2月 |journal = RAIL FAN |issue = 5 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 21 }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[11月27日]]:泉佐野駅付近高架化完成。以下の内容で白紙ダイヤ改正を実施。 ** 昼間の和歌山市駅発着の特急が毎時2本に増発。特急「サザン」と全車自由席の特急がそれぞれ毎時1本となる。 ** 昼間の和歌山市駅発着の急行をみさき公園発着の区間急行に格下げし、昼間の急行が消滅。岸和田駅で特急「ラピートα」に接続するようになる。 ** 昼間の空港急行を毎時2本に減便。岸和田駅で特急「サザン」または全車自由席の特急に接続するようになる。 ** 昼間の普通車が毎時4本に減便。和歌山市駅発着が毎時2本、関西空港駅発着が毎時2本となる。 ** 土休日の「サザン」の全車座席指定での運転を終了。 ** 高石駅の高架化工事に伴い高石始発の準急が春木始発に変更。また、唯一の下り準急であった準急 高石行きが廃止。 * [[2007年]](平成19年)[[8月11日]]:7000系の老朽化に伴い普通の一部に2000系を使用開始。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月26日]]:8000系(2代目)が営業運転を開始。 ** [[6月7日]]:忠岡駅 - 北助松駅間の上り線高架化完成。 * [[2009年]](平成21年)[[10月2日]]:翌々日実施されたダイヤ変更に伴い、この日をもって「サザン」の全車両座席指定での運転を終了。 * [[2011年]](平成23年)9月1日:特急全車両禁煙化。特急「サザン」で12000系運転開始。 * [[2012年]](平成24年) ** [[4月1日]]:[[和歌山大学前駅]]が開業。自由席特急廃止。 ** [[7月2日]] - [[9月7日]]:[[東日本大震災による電力危機#2012年夏季の電力危機|夏季の電力事情]]に対応するため、お盆期間([[8月13日]]-[[8月15日|15日]])をのぞく平日の日中に通常8両で運行する空港急行4本について6両に減車して運行。また、通常8両で運行する特急「サザン」4本については全席自由席の特急に変更したうえで6両に減車して運行<ref name="2012setsuden"/>。 ** [[8月4日]]:忠岡駅 - 北助松駅間の下り線高架化完成、これに合わせて松ノ浜駅のキロ程が難波起点19.4 kmから19.5 kmに変更<ref>『交通新聞』2012年8月8日</ref>。 * [[2014年]](平成26年) ** 3月18日:和歌山大学前駅の近辺に[[イオンモール和歌山]]が開業したことに伴い、土休日昼間時間帯のみさき公園駅折り返しの区間急行の一部列車が和歌山市駅まで延長運転を実施。当初は5月6日までの予定であったが、乗降人員の増加を受けて10月12日まで継続された。 ** 10月18日:以下の内容でダイヤ変更を実施<ref name="nankai20140902">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140902.pdf 10月18日(土)から南海本線・空港線のダイヤを変更します]}} - 南海電気鉄道、2014年9月2日</ref>。 *** 特急「ラピート」β(早朝の下り1本、夜の上り6本)をαに変更して所要時間を短縮。 *** 特急「サザン」の停車駅に和歌山大学前駅を追加。 *** 昼間時のみさき公園駅発着の区間急行を関西空港駅発着の空港急行に変更。岸和田駅の特急接続を廃止して所要時間を4分短縮。 *** 昼間時の関西空港駅発着の普通車を和歌山市駅発着に変更。これにより、みさき公園 - 和歌山市間で増発。 *** 関西空港発難波行最終普通車を空港急行の後に1本増発し、関西空港23:40発とする。泉佐野 - 難波間の上り終電を約9分繰り下げて、泉佐野23:49発とする。 *** 和歌山市発泉佐野行最終普通車を8分繰り下げて、和歌山市23:06発とする。泉佐野駅で関西空港発の難波行き最終普通車に接続。 * [[2015年]](平成27年) **[[5月9日]]:難波駅周辺で発見された[[不発弾]][[不発弾処理 (自衛隊)|処理]]のため、難波駅 - 住ノ江駅間で一時運転見合わせ<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/150424_2.pdf 不発弾処理・撤去に伴う列車運行および商業施設などの営業について]}} - 南海電気鉄道、2015年4月24日閲覧</ref>。 ** [[9月30日]]:7000系の定期運行が終了<ref>[http://railf.jp/news/2015/10/01/170000.html 南海7000系が定期運用から離脱] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2015年10月1日</ref>。 ** [[10月8日]]:8300系が営業運転を開始<ref>[http://railf.jp/news/2015/10/14/150000.html 南海電鉄8300系が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2015年10月14日</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[1月27日]]:浜寺公園駅の初代駅舎が高架化工事のため一旦使用終了<ref>{{Cite press release|和書|title=浜寺公園駅駅舎を仮駅舎に切り替えます|publisher=南海電気鉄道|date=2016-12-20|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/160120.pdf|format=PDF|access-date=2023-02-01}}</ref>。2017年に移設、2018年からカフェなどに利用され、保存される<ref>{{Cite news |title=木造駅舎・浜寺公園駅、カフェで復活 |newspaper=Lmaga.jp |date=2018-04-18 |url=https://www.lmaga.jp/news/2018/04/39384/ |access-date=2023-02-01}}</ref>。 ** [[5月14日]]:羽衣駅 - 高石駅間の下り線が高架化<ref>[http://www.pref.osaka.lg.jp/otori/jigyouinfo/04karute08.html 南海本線・高師浜線(高石市)連続立体交差事業] - 大阪府都市整備部、2018年11月27日閲覧。</ref>。 * [[2017年]](平成29年) ** [[1月28日]]:以下の内容でダイヤ変更を実施<ref name="nankai20161117">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/161117_2.pdf 空港アクセスと関西空港駅の利便性がさらに向上します! ]}} - 南海電気鉄道、2016年11月17日</ref>。 *** 混雑緩和策として空港急行を増発し、6両編成での運転が中心であるところ、8両編成での運転本数を倍増。 *** 早朝、5時台に下り空港急行を1本増発。土休日の特急「ラピート」を1往復増発し、始発の特急「ラピート」の発車時刻を繰り上げ。 *** 深夜、23時台の上り空港急行を2本増発。関西空港発最終列車の発車時刻を15分繰り下げて、関西空港23:55発とする。 *** 特急「ラピート」を1往復増発し、終発の特急「ラピート」の発車時刻を繰り下げ。 *** 関西空港発最終列車の発車時刻繰り下げに伴い、泉佐野 - 難波間の上り最終普通車を約16分繰り下げて、泉佐野0:05発とする。 *** 難波発和歌山市行最終列車を5分繰り下げて、平日・土曜・休日ダイヤともに難波23:35発の特急「サザン」に変更。 *** 24:08なんば発の区急 羽倉崎行きが-急行-泉佐野行きに変更。白線急行の定期列車が復活する。 *** 地下鉄御堂筋線との接続を図るため、難波発住ノ江行最終列車の発車時刻を5分繰り下げて、難波0:25発とする。 ** [[10月22日]]:[[平成29年台風第21号|台風21号]]の影響で樽井駅 - 尾崎駅間の男里川橋梁の線路が陥没、通過した下り普通車の乗客が負傷、羽倉崎駅 - 和歌山市駅間が運転見合わせとなる<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/photo/story/news/171022/sty1710220017-s.html|title=大阪の南海線で線路曲がる 台風21号、乗客3人が軽傷|date=2017-10-22|accessdate=2017-10-24|newspaper=産経フォト}}</ref><ref name="milt001207225">{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207225.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第3報) (2017/10/23 12:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。 ** [[10月23日]]:台風21号の影響で全線で始発から運転見合わせ。難波駅 - 樽井駅間は8時25分<ref name="milt001207225" />、尾崎駅 - 和歌山市駅間は15時に運転再開<ref>{{PDFlink|1=[https://www.mlit.go.jp/common/001207347.pdf#page=50 台風第21号による被害状況等について(第4報) (2017/10/24 7:00現在)]}} - 国土交通省</ref>。 ** [[11月1日]]:樽井駅 - 尾崎駅間が、損傷のなかった上り線の線路を使用し単線で復旧<ref>{{Cite web|和書|date=2017-11-01 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171101/k10011206891000.html |title=台風被害の南海本線 10日ぶりに運転再開 |work=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |accessdate=2017-11-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171101090214/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171101/k10011206891000.html |archivedate=2017-11-01}}</ref><ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/transfer.html 台風21号の影響による列車の運休区間・運転再開について] - 南海電気鉄道、2017年11月5日閲覧</ref>。 ** [[11月23日]]:樽井駅 - 尾崎駅間の下り線も復旧し、上下線で運転再開<ref>[http://www.nankai.co.jp/traffic/info/transfer.html 南海線の上下線運転再開・高野線の運休区間について] - 南海電気鉄道、2017年11月21日閲覧</ref><ref>[https://response.jp/article/2017/11/21/302785.html 11月23日から上下線とも通常ダイヤ…南海本線の男里川橋りょうが仮復旧] - レスポンス、2017年11月21日</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[9月4日]]:[[平成30年台風第21号|台風21号]]の影響で運転見合わせ。尾崎駅で駅舎火災が発生し、翌5日から全列車通過となる<ref name="nankai20180905">{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/library/pdf/201809typhoon.pdf |title=9月5日(水) 列車運転予定に関するお知らせ(9/5 12:00現在) |accessdate=2018-09-05 |format=PDF |publisher=南海電気鉄道株式会社 |archiveurl=https://megalodon.jp/2018-0905-1304-21/www.nankai.co.jp/library/pdf/201809typhoon.pdf |archivedate=2018-09-05 |deadlinkdate= }}</ref>。 ** [[9月11日]]:尾崎駅の営業を再開<ref name="nankai20180909">{{Cite web|和書|url=http://www.nankai.co.jp/traffic/info/2018transfer.html|title=台風21号の影響による列車の運転状況について |accessdate=2018-09-09 |publisher=南海電気鉄道株式会社 }}</ref>。尾崎駅の待避線(1・4番線)が使用不能になったことに伴い、泉佐野 - 和歌山市間でダイヤ変更を実施。同駅で行われていた接続を上りは樽井駅の待避、下りは泉佐野駅の接続に変更。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[4月6日]]:ダイヤ改正を実施<ref name="nankai20190306">{{PDFlink|[https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/190306.pdf 2019年4月6日(土) 南海線ダイヤ改正 空港アクセスの利便性向上を図ります]}} - 南海電気鉄道、2019年3月6日</ref>。空港急行の増発及び8両編成化の実施。平日朝のラピートの増発。朝・夕ラッシュ時の普通列車の一部の6両編成化。尾崎駅の待避線(1・4番線)の使用が再開。 * [[2021年]](令和3年)[[5月22日]]:羽衣駅 - 高石駅間の上り線が高架化<ref name="pr20210318">{{Cite press release|和書|url=https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210318_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318063223/https://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/210318_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南海本線・高師浜線(高石市)連続立体交差事業 令和3年5月22日(土曜日)始発列車から上り線(難波方面)を高架化へ 高師浜線は高架化工事のためバス代行輸送を実施します|publisher=大阪府/高石市/南海電気鉄道|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-18|archivedate=2021-03-18}}</ref>。同日にダイヤ改正も行われ、特急「ラピート」の減便や一部列車の時間変更や最終列車の繰り上げを実施。難波発最終列車は普通住ノ江行きが消滅し、-急行-泉佐野行きとなる。 * [[2022年]](令和4年)5月22日:諏訪ノ森駅 - 羽衣駅間の上り線が仮線に切り替え、浜寺公園駅仮ホームの使用を開始し3番線は欠番となる。 * [[2023年]](令和5年) ** 1月21日:石津川駅 - 諏訪ノ森駅間の上り線が仮線に切り替え、諏訪ノ森駅から上りホーム使用開始。 ** 2月11日:特急「ラピート」を3往復増発。 ** 10月21日:以下の内容でダイヤ修正を実施<ref name="nankai20230915">{{Cite press release|title=10月21日(土)に南海線のダイヤを修正します|publisher=南海電気鉄道|date=2023-09-15|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/230915.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-01}}</ref>。 *** 昼間時間帯の特急「ラピート」の運転本数を1時間に1本から2本へ増便し、コロナ禍前のダイヤに戻す。 *** 空港急行の一部列車を6両編成から8両編成へ増車。 *** 平日の和歌山市19:41発の急行なんば行きを和歌山港19:35発に変更し、運行区間を延長。 * [[2028年]](令和10年)3月:石津川駅 - 羽衣駅間の高架化工事が完了する予定。 == 駅一覧 == <div style="font-size:95%;"> * 今宮戎駅・萩ノ茶屋駅には高野線の'''各駅停車'''のみが停車 ; 凡例 : ●:全列車停車、▲:「ラピートβ」のみ停車、▼:春木駅停車の急行(─急行─・白線急行)が停車、◆:正月三が日の昼間時に臨時停車、|:全列車通過、↑:通過(矢印の方向のみ運転) {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:96%;" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅番号 !style="width:7.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #0065af;"|営業キロ !style="width:1em; background:#ccc; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|普通|height=3em}} !style="width:1em; background:#9cf; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|準急行|height=4em}} !style="width:1em; background:#cf9; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|区間急行|height=5em}} !style="width:1em; background:#feb; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|空港急行|height=5em}} !style="width:1em; background:#fc9; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|急行|height=3em}} !style="width:1em; background:#f96; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|特急サザン|height=6em}} !style="width:1em; background:#f96; border-bottom:solid 3px #0065af;"|{{縦書き|特急ラピート|height=7em}} !style="border-bottom:solid 3px #0065af;"|接続路線・備考 !colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #0065af;"|所在地 |- !NK01 |[[難波駅 (南海)|難波駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M20) ・[[File:Osaka_Metro_Sennichimae_line_symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]] (S16) ・[[File:Osaka_Metro_Yotsubashi_line_symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]] (Y15)([[難波駅 (Osaka Metro)|難波駅]])<br>[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|A}} [[近鉄難波線|難波線]]([[大阪難波駅]]:A01)<br>[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|15px|HS]] [[阪神なんば線]](大阪難波駅:HS 41)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|Q}} [[関西本線]]([[大和路線]])([[JR難波駅]]:JR-Q17) |rowspan="40" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}} |rowspan="9" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}} |[[中央区 (大阪市)|中央区]] |- !NK02 |[[今宮戎駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:center; background:#ccc;"|| |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |[[浪速区]] |- !NK03 |[[新今宮駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]](JR-O19)・{{JR西路線記号|K|Q}} 関西本線(大和路線)(JR-Q19)<br />大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線 ([[動物園前駅]]:M22)・[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] [[Osaka Metro堺筋線|堺筋線]](動物園前駅:K19)<br />[[阪堺電気軌道]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|green|■}} [[阪堺電気軌道阪堺線|阪堺線]] ([[新今宮駅前停留場]]:HN52) |rowspan="4"|[[西成区]] |- !NK04 |[[萩ノ茶屋駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|| |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK05 |[[天下茶屋駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|3.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Sakaisuji_line_symbol.svg|15px|K]] 堺筋線 (K20) |- !NK06 |[[岸里玉出駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|3.9 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |[[南海電気鉄道]]:[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[南海高野線|高野線]]・[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[南海高野線|汐見橋線]] |- !NK07 |[[粉浜駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|5.1 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |rowspan="2"|[[住吉区]] |- !NK08 |[[住吉大社駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|5.7 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|◆ |style="text-align:center; background:#feb;"|◆ |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |阪堺電気軌道:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|green|■}} 阪堺線([[住吉鳥居前停留場]]:HN12) |- !NK09 |[[住ノ江駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|6.7 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |style="white-space:nowrap;"|[[住之江区]] |- !NK10 |[[七道駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|8.2 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|↑ |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |rowspan="6" style="width:1em;text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[堺市]]|height=4em}} |rowspan="3"|[[堺区]] |- !NK11 |[[堺駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|9.8 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|▲ |&nbsp; |- !NK12 |[[湊駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|11.2 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK13 |[[石津川駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|12.7 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[西区 (堺市)|西区]] |- !NK14 |[[諏訪ノ森駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|13.8 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK15 |[[浜寺公園駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|14.8 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |阪堺電気軌道:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]]{{Color|green|■}} 阪堺線([[浜寺駅前停留場]]:HN31) |- !NK16 |[[羽衣駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|15.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海高師浜線|高師浜線]]<br />西日本旅客鉄道:{{Color|#0072bc|■}} [[阪和線]]支線(羽衣線)([[東羽衣駅]]) |colspan="2" rowspan="2"|[[高石市]] |- !NK17 |[[高石駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|17.3 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK18 |[[北助松駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|18.5 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="3"|[[泉大津市]] |- !NK19 |[[松ノ浜駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|19.5 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK20 |[[泉大津駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|20.4 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK21 |[[忠岡駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|22.3 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2"|[[泉北郡]]<br />[[忠岡町]] |- !NK22 |[[春木駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|23.7 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|▼ |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="4"|[[岸和田市]] |- !NK23 |[[和泉大宮駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|25.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK24 |[[岸和田駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|26.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|▲ |&nbsp; |- !NK25 |[[蛸地蔵駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|26.9 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK26 |[[貝塚駅 (大阪府)|貝塚駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|28.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |[[水間鉄道]]:[[水間鉄道水間線|水間線]] |colspan="2" rowspan="2"|[[貝塚市]] |- !NK27 |[[二色浜駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|30.4 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK28 |[[鶴原駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|31.3 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="4"|[[泉佐野市]] |- !NK29 |[[井原里駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|32.4 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#feb;"|| |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK30 |[[泉佐野駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|34.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#feb;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai airport line symbol.svg|15px|■]] [[南海空港線|空港線]](一部直通運転:下記参照) |- !NK33 |[[羽倉崎駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|36.1 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |style="text-align:center; background:#9cf;"|● |style="text-align:center; background:#cf9;"|● | rowspan="5" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|空港線直通}} |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| | rowspan="5" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|空港線直通}} |&nbsp; |- !NK34 |[[吉見ノ里駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|37.4 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2"|[[泉南郡]]<br />[[田尻町]] |- !NK35 |[[岡田浦駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|38.8 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |colspan="2" rowspan="2"|[[泉南市]] |- !NK36 |[[樽井駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|40.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |- !NK37 |[[尾崎駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|43.1 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |colspan="2" rowspan="3"|[[阪南市]] |- !NK38 |[[鳥取ノ荘駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|44.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |&nbsp; |- !NK39 |[[箱作駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|46.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |&nbsp; |- !NK40 |[[淡輪駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|50.2 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |&nbsp; |colspan="2" rowspan="3"|泉南郡<br />[[岬町]] |- !NK41 |[[みさき公園駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|51.9 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海多奈川線|多奈川線]] |- !NK42 |[[孝子駅]] |style="text-align:right;"|4.4 |style="text-align:right;"|56.3 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |&nbsp; |- !NK43 |style="width:7.5em;"|[[和歌山大学前駅]]<br /><small>([[ふじと台]])</small> |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|58.0 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |&nbsp; | rowspan="3" colspan="3" |[[和歌山県]]<br />[[和歌山市]] |- !NK44 |[[紀ノ川駅]] |style="text-align:right;"|3.6 |style="text-align:right;"|61.6 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海加太線|加太線]] |- !NK45 |[[和歌山市駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|64.2 |style="text-align:center; background:#ccc;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; background:#fc9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai mainline symbol.svg|15px|■]] [[南海和歌山港線|和歌山港線]](一部直通運転:下記参照)<br />西日本旅客鉄道:{{Color|#0072bc|■}} [[紀勢本線]] |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="12"|'''泉佐野駅から'''<br />○普通・空港急行・特急ラピート…空港線[[関西空港駅]]まで<br />'''和歌山市駅から'''<br />○急行・特急サザン…和歌山港線[[和歌山港駅]]まで(急行は平日のみ) |} </div> === 廃駅 === 駅名は最終のもの。住吉駅・大和川駅は阪堺電気軌道、高師ノ浜駅は高師浜線の駅とは別の駅。 * [[博覧会門前駅]](今宮戎駅 - 新今宮駅間、1903年2月25日開業、1903年9月1日廃止) * [[岸里玉出駅|玉出駅]](岸里玉出駅 - 粉浜駅間、1907年10月26日開業、1993年4月18日廃止、岸ノ里駅に統合し岸里玉出駅に) * [[住吉駅 (南海)|住吉駅]](粉浜駅 - 住吉大社駅間、1885年12月29日開業、1917年4月21日廃止) * [[大和川駅 (南海)|大和川駅]](住ノ江駅 - 七道駅間、初代:1885年12月29日開業、1888年5月15日廃止、2代:1899年4月1日開業、1917年4月21日移転して七道駅に改称<ref name="kanpo19170427" />) * [[堺駅|龍神駅]](堺駅 - 大浜駅間、1912年12月20日開業、1955年4月21日廃止、堺駅に統合) * [[大浜駅]](龍神駅 - 湊駅間、1907年11月11日開業、廃止日不明) * [[高師ノ浜駅]](羽衣駅 - 高石駅間、1912年3月1日開業、1918年10月2日廃止) * [[深日駅]](みさき公園駅 - 孝子駅間、1898年10月22日開業、1955年6月11日休止、1958年廃止) === 過去の接続路線 === * 天下茶屋駅:南海[[南海天王寺支線|天王寺支線]] - 1984年11月18日まで * 住吉大社駅:阪堺電気軌道[[阪堺電気軌道上町線|上町線]](住吉公園停留場) - 2016年1月30日まで * 龍神駅(廃止駅):南海[[南海大浜支線|大浜支線]] - 1945年運休、1949年正式休止、1980年廃止 * 和歌山市駅: ** 南海[[南海和歌山軌道線|和歌山軌道線]] - 1971年3月31日まで ** 南海[[南海北島支線|加太線]](廃止区間)※ - 1950年不通、1953年正式休止、1955年廃止 ※:路線自体は接続しなくなったものの、加太線の列車は紀ノ川駅から南海本線を経由して和歌山市駅に乗り入れるため、実質的には現在も接続している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist| group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ピクトリアル | year = 2008 | month = 8 | volume = 増刊 | title = 特集:南海電気鉄道 | publisher = [[電気車研究会]] }} * {{Cite book | 和書 | author = 南海電気鉄道車両部・井上広和 | title = 日本の私鉄9 南海 | year = 1981 | publisher = [[保育社]] | series = カラーブックス 547 }} * {{Cite book | 和書 | author1=南海電気鉄道車両部|author2=諸河久|authorlink2=諸河久|author3=岩堀春夫 | title = 日本の私鉄11 南海 | year = 1991 | publisher = 保育社 | series = カラーブックス 811 }} * {{Cite book | 和書 | author = 佐藤博之・浅香勝輔 | title = 民営鉄道の歴史がある景観 | volume = I | publisher = [[古今書院]] | year = 1986 | ref = sato_asaka }} * {{Cite book | 和書 | author=国土交通省鉄道局(監修)|authorlink=国土交通省 | title = 鉄道要覧 | volume = 平成十八年度版 | publisher = 電気車研究会 | ref = yoran }} * {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 8 関西1 | year = 2008 | id = ISBN 978-4-10-790026-5 | ref = imao }} == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] == 外部リンク == * [http://www.nankai.co.jp/traffic/railmap/nankai.html 南海線(空港線)] {{南海電鉄の鉄道路線}} {{デフォルトソート:なんかいほんせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:南海電気鉄道の鉄道路線|なんかいほん]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:和歌山県の交通]]
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泉北高速鉄道線
泉北高速鉄道線(せんぼくこうそくてつどうせん)は、大阪府堺市北区の中百舌鳥駅から大阪府和泉市の和泉中央駅までを結ぶ泉北高速鉄道の鉄道路線である。泉北高速線、泉北線とも呼ばれる。駅ナンバリングで用いられる路線記号はSB。 南海電気鉄道高野線と相互直通運転を行っており(詳細な運行形態は後述)、堺市中区、泉北ニュータウンを擁する同市南区、トリヴェール和泉を擁する和泉市の各沿線地域や、路線自体は伸びていないが岸和田市東部などから堺市堺区・大阪市中心部への通勤・通学路線となっている。 かつて南海電気鉄道が建設し直接経営することが検討されていたが、1960年代後半頃から1970年頃にかけて南海電気鉄道に重大事故が頻発して重い負債がのしかかり、多額の投資が必要な新規路線を持つことを断念し、トラックターミナル運営のため大阪府が設立した第三セクターである大阪府都市開発株式会社が経営することになった。1971年の開業時は全業務を南海電気鉄道に委託していたが、段階的に直営化を進め、最終的に1993年4月1日に全業務を直営化した。その後、2008年から大阪府都市開発の株式を売却する動きが見られるようになり、最終的に2014年7月1日に株式が南海電気鉄道に譲渡されたため(詳細は「泉北高速鉄道#株式売却問題」を参照)、大阪府都市開発は泉北高速鉄道株式会社に商号変更した上で、南海グループの一員となった。なお、「泉北高速鉄道」の呼称自体は旧社名の大阪府都市開発時代から鉄道事業の名称として用いられていた。 2006年7月1日より全線でPiTaPaとICOCAが使えるようになり、2007年4月1日よりPiTaPaに定期券機能を付加する「PiTaPa定期サービス」(南海との連絡定期にも対応)が利用できるようになった。また2013年3月23日より、IC乗車カード全国相互利用開始で、Kitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、nimoca、はやかけん、SUGOCAも利用可能になった。さらに2022年4月25日からはVISAのクレジットカードによるタッチ決済に対応した。 路線シンボルマークは、泉北高速鉄道の社章()で、ラインカラーは青。ただし、南海電気鉄道では南海本線との区別のため、黄色を採用している。 多くの区間が高架であり、線路の両脇に道路が並行して設けられている。踏切は中百舌鳥駅東側にある中百舌鳥トンネル手前の一箇所のみで、中百舌鳥トンネルより先には一切設けられていない。また、中百舌鳥駅 - 泉ケ丘駅間の建設時には当時の大阪市交通局が技術提供をしている。 中百舌鳥駅を出ると、南海高野線の上下線に挟まれながらしばらく併走する。信濃池の辺りで下り坂となり、旧中百舌鳥球場手前辺りで地下トンネルの中百舌鳥トンネルに入って南に折れて南海高野線と別れる。線路はそのまま南側にカーブしながら白鷺公園の真下を潜り、さらに南西にカーブしながら公園の中で再び地上へ出て高架橋の高さまで上り坂となる。公園を過ぎるとすぐ中区に入り、高架駅である深井駅の手前までほぼ直線に進む。線路が南東にカーブする地点に深井駅がある。 深井駅を過ぎると直線に進み、線路の両脇に府道堺狭山線(通称:泉北1号線)が合流する。阪和自動車道(阪和道)の高架を潜るあたりから陶器川流域の田園風景が広がる。 陶器川を渡るあたりで一旦上下線間が離れる。ここにはかつて楢葉(ならば)駅設置の構想があり、その新駅を想定した島式ホームのスペースが設けられたが、乱開発に繋がるとの懸念から結局新駅設置は見送られ(一帯は市街化調整区域に指定されており、将来的な利用客の増加は見込めなかった)、現在その場所には田園(たぞの)変電所が設けられている。堺市は新駅設置への市民からの要望に対し、「多大な事業費が必要となるため、その費用と効果や周辺環境への影響を慎重に検討する必要がある」と回答している。 田園変電所を過ぎてしばらくすると丘陵部に差し掛かり、府道堺泉北環状線の田園大橋を潜ると南区に入る。ここから終点までは泉北ニュータウンを横断してトリヴェール和泉に至るニュータウン区間となる。ニュータウン地区は3本の河川によって4地区に分かれ、丘陵部では掘割ないし地平を、浸食谷では高架を走る。南区に入ると線路は南西にカーブし、両脇を併走する泉北1号線は府道堺狭山線が分岐して本線が府道富田林泉大津線となる。カーブが終わるあたりに泉ケ丘駅があり、ホーム南端が少しカーブしている。 泉ケ丘駅を過ぎると終点までほぼ直線となる。石津川の浸食による上神谷を渡り、次の丘陵部に差し掛かると栂・美木多駅がある。栂地区と呼ばれるこの丘陵は東西幅が短く、栂・美木多駅を過ぎるとすぐ高架区間となり、和田川の浸食による和田谷を渡る。なお、和田谷は美木多と呼ばれる地域で、駅名はこの2つの地名を並べたものとなっている。アーチ橋で赤色が特徴の檜尾大橋を潜り抜け次の丘陵部を上りしばらくすると光明池駅がある。丘陵上にある泉ケ丘駅から和泉中央駅までのニュータウン4駅のうち他3駅はすべて改札口・コンコースがホームの上にある橋上駅だが、この丘陵部にある光明池とその放水路である甲斐田川流域の微小な谷に位置する光明池駅のみ高架駅となっている。光明池運転免許試験場の最寄り駅でもあり、また泉大津駅・和泉府中駅方面、河内長野駅方面のバス路線も充実しているため利用客が多い。光明池駅を出るとすぐ和泉市に入り、南側に分岐する線路がある。これは線路際に設置された光明池車庫へと繋がっており、車庫では全般検査などの車両保守業務も行われている。 光明池車庫への分岐を通り抜けた先は再び掘割区間となり、槇尾川の浸食による池田谷を渡るあたりで阪和道の高架がオーバークロスして線路南側に併走する(府道はさらにその両脇を走る)。次の丘陵部に差し掛かると終着駅の和泉中央駅に着く。半地下駅といえるほどの深い掘割で、併走する阪和道は駅前広場下のトンネルを通っている。近辺には桃山学院大学などの教育機関やテクノステージなどの企業団地がある。線路は和泉中央駅から先もしばらく延びており、回送車の引き上げ線として使われている。将来的にはこれを活用し、そのまま泉南地域へも延伸可能な構造としているが、現状では延伸の見込みは立っていない(「延伸の可能性」の節も参照)。 中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の線内折り返しで各駅停車が運転されているほか、特急「泉北ライナー」や、区間急行、準急行(準急)が中百舌鳥駅から南海高野線に乗り入れて難波駅まで相互直通運転を行っている。以下に各種別ごとの運行概況を示す。 2017年8月26日改正時点では、日中は1時間に8本(区間急行が4本、準急行・各駅停車が各2本ずつ)が運転されている。 1981年11月22日のダイヤ改正から平日朝に10両編成の列車が多数運転されていたが、近年の乗客減少により、2012年11月23日のダイヤ変更より区間急行はすべて8両編成となり、10両編成による区間急行はすべて無くなった。その後2013年7月22日の列車編成両数変更により、残る2往復の10両編成による準急行が8両編成となり、すべての列車が6両編成または8両編成で運用されるようになった。 線内に追い越し設備を持つ中間駅はないため、途中駅での追い越しが行われる列車は存在しない。よって以下の全種別とも、泉北高速鉄道線内では全区間先着する。 2015年12月5日のダイヤ改正で新設された有料特急。運行本数は2017年8月26日改正時点で平日上り12本・下り11本、土休日12往復。和泉中央駅 - 難波駅間の運転で、停車駅は、和泉中央駅から泉ケ丘駅までの各駅と南海高野線の天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅(終点)である。南海高野線の特急「こうや」「りんかん」が停車する堺東駅と、区間急行が停車する当線の深井駅は通過する。 2017年8月26日のダイヤ改正で、平日の朝に1往復、夕方以降に4往復、土休日も朝に1往復、夕方以降に3往復がそれぞれ増発された。 2022年11月から南海50000系(ラピート車)が運用に入り、一部列車は6両編成で運転されていたが、2023年9月30日をもって終了した。 1987年4月18日の地下鉄御堂筋線中百舌鳥駅延伸開業に合わせ、同年3月29日のダイヤ改正で平日朝夕ラッシュ時に新設された(改正当日は日曜日だったため、運転開始は翌30日から)。泉北高速鉄道線の和泉中央駅 - 深井駅の各駅と南海高野線の堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。泉北高速鉄道線と南海高野線の境界駅で、地下鉄御堂筋線乗り換え駅でもある中百舌鳥駅は通過する。 運行開始当初は平日朝ラッシュ時に上り4本、夕方ラッシュ時に下り5本が運行されていた。その後、1995年9月1日のダイヤ改正で夕方ラッシュ時の本数が3本に減り、2000年12月23日のダイヤ改正以降2015年12月5日のダイヤ改正まで平日朝7 - 8時台の上り4本のみの運行となっていた。 しかし、2015年12月5日のダイヤ改正より、一部の準急行を置き換える形で、運転時間帯が上り・下りともにほぼ終日へと大幅に拡大された。特に、和泉中央駅発平日朝7時台の南海高野線直通列車は全て区間急行となっている。また、日中にも初めて1時間に2本が設定されたほか、その他の時間帯でも1時間に1 - 3本が運転されている。 また2017年8月26日のダイヤ改正では、夕方以降の区間急行がすべて準急行に統一された一方、昼間の区間急行が1時間4本に増発された。 平日朝ラッシュ時の8両で運転される上り列車(天下茶屋駅に7:20〜8:30に到着する列車)は、和泉中央駅 - 天下茶屋駅間で難波寄り前から4両目の4号車を女性専用車としている。 南海高野線との直通列車として終日運転されている。泉北高速鉄道線の各駅(中百舌鳥駅を含む)と、南海高野線の百舌鳥八幡駅・三国ヶ丘駅・堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。日中は1時間に2本運転されている。かつては日中に6両編成、ラッシュ時に8両編成とした列車が多かったが、2017年8月26日のダイヤ改正により以降は大半が8両編成での運転となった。また、下り列車で光明池駅止まりの準急行も少数ながら運行されていたが10両編成の廃止とともに設定消滅した。 2000年12月22日までは南海高野線が日中15分間隔であったため日中は1時間に4本(他に線内折り返しの各駅停車が2本)であったが、その後2015年12月4日までは南海高野線が日中12分間隔であったため日中は各駅停車と統合され1時間に5本 が運転されていた。 大半は始発から終点まで待避なしで先着していたが、2017年8月26日のダイヤ改正で一部の準急行が堺東駅で上下とも泉北ライナーの通過待ちをする列車が設定された。高野線を含めて準急行が通過待ちを行うようになったのは初である。 中百舌鳥駅 - 和泉中央駅(一部光明池駅)間の線内で折り返し運転を行っている。6両編成または8両編成で運転。 かつては難波駅まで直通する列車が、平日の深夜の上り1本(2013年10月26日のダイヤ変更までは土曜・休日にも運転)と、2015年12月5日以降に新設された日中(和泉中央駅発では12時台 - 14時台)の1時間に2本が運転されていたが、2017年8月26日のダイヤ変更で両者とも運行を終了した。日中の難波発着は全て南海車の4両編成で運転されていた。 線内折り返し運転の列車は中百舌鳥駅で高野線の各駅停車との接続が考慮されている場合が多い。なお堺東駅で泉北線に接続する各駅停車に接続する河内長野・橋本方面の急行(快速急行・区間急行)に関しては天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅では「堺東で各停乗換、中百舌鳥で泉北線に接続」と案内される。中百舌鳥駅で区間急行や泉北ライナーの通過後の接続になるために、下りは泉北線内、上りは堺東駅以遠の優等列車停車駅までの最先着列車にならないケースがある。2015年12月5日のダイヤ改正では中百舌鳥駅を通過する特急「泉北ライナー」や区間急行を補完する設定となったために線内折り返し列車の運行本数が減らされている。 開業時は南海電気鉄道に業務を委託していたため、南海の乗務員が泉北高速鉄道線内も乗務していた。 しかし、1986年(昭和61年)に鉄道事業法が公布され、従来の方式のままでは第三種鉄道事業者となり運賃や料金の決定、運行計画の策定を自社でできなくなるため、これを維持するためには自社の運転士が必要となる第一種鉄道事業者への転換が必要となった。その結果、1987年(昭和62年)8月に第一種鉄道事業者になることを決断、1988年(昭和63年)3月24日に運輸省の認可を得た。これを機に自社運行へ段階的に移行することとなった。 1990年(平成2年)7月1日にまず線内折返し列車から泉北高速鉄道の乗務員による運行が開始され、1992年(平成4年)4月5日より区間急行を除く全列車が泉北の乗務員による運行となった。これにより、中百舌鳥駅で南海と泉北の乗務員が交代する運行方式となった。ただし、区間急行については境界駅である中百舌鳥駅を通過することから南海の乗務員による運行を継続することとなった。なお、1995年の和泉中央駅延伸後は光明池 - 和泉中央間に限り区間急行も泉北の乗務員が運行していたが、2014年に南海電気鉄道の子会社になり、2015年12月5日に区間急行が増発されたため、この日に運転を開始した特急とともに、全区間を南海の乗務員が担当するようになっている。また、光明池車庫がある関係上光明池駅で乗務員の交代を行う場合がある。 泉北高速鉄道線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 泉北高速鉄道線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 南海電気鉄道の乗り入れ車両は高野線所属車両のうちズームカー(17m級2扉車)以外の車両が乗り入れる。特急用車両は2015年12月5日より11000系(代走は南海本線所属の12000系を借り入れた上で運用)が乗り入れている。2017年1月27日からは自社保有の12000系が投入され、現在は2編成の運用となっている。 戦後日本の高度経済成長期に多くの若者が集団就職などで各地から大都市圏に移り住んできた。大阪府も例外ではなく、北大阪の千里ニュータウンなど郊外での都市開発が活発に行なわれていた。そんな中、国鉄(現在のJR西日本)阪和線沿線と南海高野線沿線の間の地域に新しい街を創るという構想が持ち上がり、泉北ニュータウンが建設された。 泉北高速鉄道線は、泉北ニュータウンと大阪都心を結ぶことを目的として計画された。泉北ニュータウンの鉄道計画としては、大阪市営地下鉄1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)の延伸案、国鉄阪和線、南海高野線、近鉄南大阪線からの分岐案が検討された。これら4案の中から営業エリア上も問題がなく、輸送能力に余力があった南海高野線からの分岐案が採用された。概要節で前述のとおり南海電鉄直営が検討されたものの、南海電鉄が多額の投資が必要な新規路線を持つことを断念し、トラックターミナルを運営していた大阪府の第三セクター大阪府都市開発(2014年に南海グループ傘下に移り、泉北高速鉄道に社名変更)が1969年3月に中百舌鳥 - 光明池間の敷設免許を取得。1971年4月1日に中百舌鳥 - 泉ケ丘間が開業、1977年8月20日には光明池駅まで開業し、1969年に免許を受けた区間がすべて開通した。しかし、1975年11月30日に和泉市で池田忠雄市政が発足し、その市政の下で『和泉ニュータウン』構想が生まれ、泉北高速鉄道線を光明池駅から更に延伸させてはどうかという話が持ち上がった。この時の『和泉ニュータウン』構想が後に現在の『トリヴェール和泉』となり、それに伴う和泉市中南部の人口増加が1995年4月1日の和泉中央駅までの開業に繋がった。 以前から日根野駅方面などへの延伸も考えられていて、泉南地域在住の住民から延伸の要望もあるが、貝塚・熊取方面への延伸については、2004年の近畿地方交通審議会において開業40年での黒字化の見込みは低いとされている。和泉中央駅の引き上げ線の先には、大阪府道223号三林岡山線の終端部分まで広大な用地(一部は都市開発会社が所有)が確保されているが、開業から四半世紀以上経った現在も目立った変化はない。 そうした中、2013年11月24日に行われた岸和田市長選挙で、同市出身の新人で、泉北高速鉄道の岸和田市内への延伸を選挙公約に掲げた信貴芳則が当選し、任期満了で出馬した2017年11月の市長選でも再選されたが同年12月に辞任、2018年2月の市長選挙で落選し、実現することはなかった。 大阪府は、岸和田市の泉北高速鉄道の延伸の実現に向けた取り組みに対し、必要な助言や検討への協力などを行っている。 全駅大阪府内に所在。 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のIC運賃は一律50円)。2023年10月1日改定。
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泉ケ丘駅間の建設時には当時の大阪市交通局が技術提供をしている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "中百舌鳥駅を出ると、南海高野線の上下線に挟まれながらしばらく併走する。信濃池の辺りで下り坂となり、旧中百舌鳥球場手前辺りで地下トンネルの中百舌鳥トンネルに入って南に折れて南海高野線と別れる。線路はそのまま南側にカーブしながら白鷺公園の真下を潜り、さらに南西にカーブしながら公園の中で再び地上へ出て高架橋の高さまで上り坂となる。公園を過ぎるとすぐ中区に入り、高架駅である深井駅の手前までほぼ直線に進む。線路が南東にカーブする地点に深井駅がある。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "深井駅を過ぎると直線に進み、線路の両脇に府道堺狭山線(通称:泉北1号線)が合流する。阪和自動車道(阪和道)の高架を潜るあたりから陶器川流域の田園風景が広がる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "陶器川を渡るあたりで一旦上下線間が離れる。ここにはかつて楢葉(ならば)駅設置の構想があり、その新駅を想定した島式ホームのスペースが設けられたが、乱開発に繋がるとの懸念から結局新駅設置は見送られ(一帯は市街化調整区域に指定されており、将来的な利用客の増加は見込めなかった)、現在その場所には田園(たぞの)変電所が設けられている。堺市は新駅設置への市民からの要望に対し、「多大な事業費が必要となるため、その費用と効果や周辺環境への影響を慎重に検討する必要がある」と回答している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "田園変電所を過ぎてしばらくすると丘陵部に差し掛かり、府道堺泉北環状線の田園大橋を潜ると南区に入る。ここから終点までは泉北ニュータウンを横断してトリヴェール和泉に至るニュータウン区間となる。ニュータウン地区は3本の河川によって4地区に分かれ、丘陵部では掘割ないし地平を、浸食谷では高架を走る。南区に入ると線路は南西にカーブし、両脇を併走する泉北1号線は府道堺狭山線が分岐して本線が府道富田林泉大津線となる。カーブが終わるあたりに泉ケ丘駅があり、ホーム南端が少しカーブしている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "泉ケ丘駅を過ぎると終点までほぼ直線となる。石津川の浸食による上神谷を渡り、次の丘陵部に差し掛かると栂・美木多駅がある。栂地区と呼ばれるこの丘陵は東西幅が短く、栂・美木多駅を過ぎるとすぐ高架区間となり、和田川の浸食による和田谷を渡る。なお、和田谷は美木多と呼ばれる地域で、駅名はこの2つの地名を並べたものとなっている。アーチ橋で赤色が特徴の檜尾大橋を潜り抜け次の丘陵部を上りしばらくすると光明池駅がある。丘陵上にある泉ケ丘駅から和泉中央駅までのニュータウン4駅のうち他3駅はすべて改札口・コンコースがホームの上にある橋上駅だが、この丘陵部にある光明池とその放水路である甲斐田川流域の微小な谷に位置する光明池駅のみ高架駅となっている。光明池運転免許試験場の最寄り駅でもあり、また泉大津駅・和泉府中駅方面、河内長野駅方面のバス路線も充実しているため利用客が多い。光明池駅を出るとすぐ和泉市に入り、南側に分岐する線路がある。これは線路際に設置された光明池車庫へと繋がっており、車庫では全般検査などの車両保守業務も行われている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "光明池車庫への分岐を通り抜けた先は再び掘割区間となり、槇尾川の浸食による池田谷を渡るあたりで阪和道の高架がオーバークロスして線路南側に併走する(府道はさらにその両脇を走る)。次の丘陵部に差し掛かると終着駅の和泉中央駅に着く。半地下駅といえるほどの深い掘割で、併走する阪和道は駅前広場下のトンネルを通っている。近辺には桃山学院大学などの教育機関やテクノステージなどの企業団地がある。線路は和泉中央駅から先もしばらく延びており、回送車の引き上げ線として使われている。将来的にはこれを活用し、そのまま泉南地域へも延伸可能な構造としているが、現状では延伸の見込みは立っていない(「延伸の可能性」の節も参照)。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の線内折り返しで各駅停車が運転されているほか、特急「泉北ライナー」や、区間急行、準急行(準急)が中百舌鳥駅から南海高野線に乗り入れて難波駅まで相互直通運転を行っている。以下に各種別ごとの運行概況を示す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2017年8月26日改正時点では、日中は1時間に8本(区間急行が4本、準急行・各駅停車が各2本ずつ)が運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1981年11月22日のダイヤ改正から平日朝に10両編成の列車が多数運転されていたが、近年の乗客減少により、2012年11月23日のダイヤ変更より区間急行はすべて8両編成となり、10両編成による区間急行はすべて無くなった。その後2013年7月22日の列車編成両数変更により、残る2往復の10両編成による準急行が8両編成となり、すべての列車が6両編成または8両編成で運用されるようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "線内に追い越し設備を持つ中間駅はないため、途中駅での追い越しが行われる列車は存在しない。よって以下の全種別とも、泉北高速鉄道線内では全区間先着する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2015年12月5日のダイヤ改正で新設された有料特急。運行本数は2017年8月26日改正時点で平日上り12本・下り11本、土休日12往復。和泉中央駅 - 難波駅間の運転で、停車駅は、和泉中央駅から泉ケ丘駅までの各駅と南海高野線の天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅(終点)である。南海高野線の特急「こうや」「りんかん」が停車する堺東駅と、区間急行が停車する当線の深井駅は通過する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2017年8月26日のダイヤ改正で、平日の朝に1往復、夕方以降に4往復、土休日も朝に1往復、夕方以降に3往復がそれぞれ増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2022年11月から南海50000系(ラピート車)が運用に入り、一部列車は6両編成で運転されていたが、2023年9月30日をもって終了した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1987年4月18日の地下鉄御堂筋線中百舌鳥駅延伸開業に合わせ、同年3月29日のダイヤ改正で平日朝夕ラッシュ時に新設された(改正当日は日曜日だったため、運転開始は翌30日から)。泉北高速鉄道線の和泉中央駅 - 深井駅の各駅と南海高野線の堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。泉北高速鉄道線と南海高野線の境界駅で、地下鉄御堂筋線乗り換え駅でもある中百舌鳥駅は通過する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "運行開始当初は平日朝ラッシュ時に上り4本、夕方ラッシュ時に下り5本が運行されていた。その後、1995年9月1日のダイヤ改正で夕方ラッシュ時の本数が3本に減り、2000年12月23日のダイヤ改正以降2015年12月5日のダイヤ改正まで平日朝7 - 8時台の上り4本のみの運行となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、2015年12月5日のダイヤ改正より、一部の準急行を置き換える形で、運転時間帯が上り・下りともにほぼ終日へと大幅に拡大された。特に、和泉中央駅発平日朝7時台の南海高野線直通列車は全て区間急行となっている。また、日中にも初めて1時間に2本が設定されたほか、その他の時間帯でも1時間に1 - 3本が運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また2017年8月26日のダイヤ改正では、夕方以降の区間急行がすべて準急行に統一された一方、昼間の区間急行が1時間4本に増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "平日朝ラッシュ時の8両で運転される上り列車(天下茶屋駅に7:20〜8:30に到着する列車)は、和泉中央駅 - 天下茶屋駅間で難波寄り前から4両目の4号車を女性専用車としている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "南海高野線との直通列車として終日運転されている。泉北高速鉄道線の各駅(中百舌鳥駅を含む)と、南海高野線の百舌鳥八幡駅・三国ヶ丘駅・堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。日中は1時間に2本運転されている。かつては日中に6両編成、ラッシュ時に8両編成とした列車が多かったが、2017年8月26日のダイヤ改正により以降は大半が8両編成での運転となった。また、下り列車で光明池駅止まりの準急行も少数ながら運行されていたが10両編成の廃止とともに設定消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2000年12月22日までは南海高野線が日中15分間隔であったため日中は1時間に4本(他に線内折り返しの各駅停車が2本)であったが、その後2015年12月4日までは南海高野線が日中12分間隔であったため日中は各駅停車と統合され1時間に5本 が運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "大半は始発から終点まで待避なしで先着していたが、2017年8月26日のダイヤ改正で一部の準急行が堺東駅で上下とも泉北ライナーの通過待ちをする列車が設定された。高野線を含めて準急行が通過待ちを行うようになったのは初である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "中百舌鳥駅 - 和泉中央駅(一部光明池駅)間の線内で折り返し運転を行っている。6両編成または8両編成で運転。 かつては難波駅まで直通する列車が、平日の深夜の上り1本(2013年10月26日のダイヤ変更までは土曜・休日にも運転)と、2015年12月5日以降に新設された日中(和泉中央駅発では12時台 - 14時台)の1時間に2本が運転されていたが、2017年8月26日のダイヤ変更で両者とも運行を終了した。日中の難波発着は全て南海車の4両編成で運転されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "線内折り返し運転の列車は中百舌鳥駅で高野線の各駅停車との接続が考慮されている場合が多い。なお堺東駅で泉北線に接続する各駅停車に接続する河内長野・橋本方面の急行(快速急行・区間急行)に関しては天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅では「堺東で各停乗換、中百舌鳥で泉北線に接続」と案内される。中百舌鳥駅で区間急行や泉北ライナーの通過後の接続になるために、下りは泉北線内、上りは堺東駅以遠の優等列車停車駅までの最先着列車にならないケースがある。2015年12月5日のダイヤ改正では中百舌鳥駅を通過する特急「泉北ライナー」や区間急行を補完する設定となったために線内折り返し列車の運行本数が減らされている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "開業時は南海電気鉄道に業務を委託していたため、南海の乗務員が泉北高速鉄道線内も乗務していた。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、1986年(昭和61年)に鉄道事業法が公布され、従来の方式のままでは第三種鉄道事業者となり運賃や料金の決定、運行計画の策定を自社でできなくなるため、これを維持するためには自社の運転士が必要となる第一種鉄道事業者への転換が必要となった。その結果、1987年(昭和62年)8月に第一種鉄道事業者になることを決断、1988年(昭和63年)3月24日に運輸省の認可を得た。これを機に自社運行へ段階的に移行することとなった。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)7月1日にまず線内折返し列車から泉北高速鉄道の乗務員による運行が開始され、1992年(平成4年)4月5日より区間急行を除く全列車が泉北の乗務員による運行となった。これにより、中百舌鳥駅で南海と泉北の乗務員が交代する運行方式となった。ただし、区間急行については境界駅である中百舌鳥駅を通過することから南海の乗務員による運行を継続することとなった。なお、1995年の和泉中央駅延伸後は光明池 - 和泉中央間に限り区間急行も泉北の乗務員が運行していたが、2014年に南海電気鉄道の子会社になり、2015年12月5日に区間急行が増発されたため、この日に運転を開始した特急とともに、全区間を南海の乗務員が担当するようになっている。また、光明池車庫がある関係上光明池駅で乗務員の交代を行う場合がある。", "title": "乗務員" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "泉北高速鉄道線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "泉北高速鉄道線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "南海電気鉄道の乗り入れ車両は高野線所属車両のうちズームカー(17m級2扉車)以外の車両が乗り入れる。特急用車両は2015年12月5日より11000系(代走は南海本線所属の12000系を借り入れた上で運用)が乗り入れている。2017年1月27日からは自社保有の12000系が投入され、現在は2編成の運用となっている。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "戦後日本の高度経済成長期に多くの若者が集団就職などで各地から大都市圏に移り住んできた。大阪府も例外ではなく、北大阪の千里ニュータウンなど郊外での都市開発が活発に行なわれていた。そんな中、国鉄(現在のJR西日本)阪和線沿線と南海高野線沿線の間の地域に新しい街を創るという構想が持ち上がり、泉北ニュータウンが建設された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "泉北高速鉄道線は、泉北ニュータウンと大阪都心を結ぶことを目的として計画された。泉北ニュータウンの鉄道計画としては、大阪市営地下鉄1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)の延伸案、国鉄阪和線、南海高野線、近鉄南大阪線からの分岐案が検討された。これら4案の中から営業エリア上も問題がなく、輸送能力に余力があった南海高野線からの分岐案が採用された。概要節で前述のとおり南海電鉄直営が検討されたものの、南海電鉄が多額の投資が必要な新規路線を持つことを断念し、トラックターミナルを運営していた大阪府の第三セクター大阪府都市開発(2014年に南海グループ傘下に移り、泉北高速鉄道に社名変更)が1969年3月に中百舌鳥 - 光明池間の敷設免許を取得。1971年4月1日に中百舌鳥 - 泉ケ丘間が開業、1977年8月20日には光明池駅まで開業し、1969年に免許を受けた区間がすべて開通した。しかし、1975年11月30日に和泉市で池田忠雄市政が発足し、その市政の下で『和泉ニュータウン』構想が生まれ、泉北高速鉄道線を光明池駅から更に延伸させてはどうかという話が持ち上がった。この時の『和泉ニュータウン』構想が後に現在の『トリヴェール和泉』となり、それに伴う和泉市中南部の人口増加が1995年4月1日の和泉中央駅までの開業に繋がった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以前から日根野駅方面などへの延伸も考えられていて、泉南地域在住の住民から延伸の要望もあるが、貝塚・熊取方面への延伸については、2004年の近畿地方交通審議会において開業40年での黒字化の見込みは低いとされている。和泉中央駅の引き上げ線の先には、大阪府道223号三林岡山線の終端部分まで広大な用地(一部は都市開発会社が所有)が確保されているが、開業から四半世紀以上経った現在も目立った変化はない。", "title": "延伸の可能性" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "そうした中、2013年11月24日に行われた岸和田市長選挙で、同市出身の新人で、泉北高速鉄道の岸和田市内への延伸を選挙公約に掲げた信貴芳則が当選し、任期満了で出馬した2017年11月の市長選でも再選されたが同年12月に辞任、2018年2月の市長選挙で落選し、実現することはなかった。", "title": "延伸の可能性" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大阪府は、岸和田市の泉北高速鉄道の延伸の実現に向けた取り組みに対し、必要な助言や検討への協力などを行っている。", "title": "延伸の可能性" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "全駅大阪府内に所在。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のIC運賃は一律50円)。2023年10月1日改定。", "title": "運賃・料金" } ]
泉北高速鉄道線(せんぼくこうそくてつどうせん)は、大阪府堺市北区の中百舌鳥駅から大阪府和泉市の和泉中央駅までを結ぶ泉北高速鉄道の鉄道路線である。泉北高速線、泉北線とも呼ばれる。駅ナンバリングで用いられる路線記号はSB。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[ファイル:Semboku-logo.svg|30px|泉北高速鉄道|link=泉北高速鉄道]] 泉北高速鉄道線 |路線色 = #007FFF |画像 = Bridge_12000SembokuLiner.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = [[大阪府道34号堺狭山線|泉北1号線]]と並走する特急「[[泉北ライナー]]」<br />(2019年7月30日 [[泉ケ丘駅]] - [[栂・美木多駅]]間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[大阪府]] |起点 = [[中百舌鳥駅]] |終点 = [[和泉中央駅]] |路線記号 = [[File:Number prefix Semboku Rapid Railway line.svg|25px|SB]] SB |駅数 = 6駅 |開業 = [[1971年]][[4月1日]] |最終延伸 = [[1995年]]4月1日 |所有者 = [[泉北高速鉄道]] |運営者 = 泉北高速鉄道 |車両基地 = 光明池車庫 |使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照 |路線距離 = 14.3 [[キロメートル|km]] |軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]] ([[狭軌]]) |線路数 = [[複線]] |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |閉塞方式 = 自動閉塞式 |保安装置 = [[自動列車停止装置#変周式(単変周・多変周)地上子|ATS-N]]<!-- 2015年現在泉北車3編成がPN型非対応。安全報告書2015より -->、[[自動列車停止装置#ATS-PN|ATS-PN]] |最高速度 = 110 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図 = Semboku RouteMap 3rd.png }} '''泉北高速鉄道線'''(せんぼくこうそくてつどうせん)は、[[大阪府]][[堺市]][[北区 (堺市)|北区]]の[[中百舌鳥駅]]から大阪府[[和泉市]]の[[和泉中央駅]]までを結ぶ[[泉北高速鉄道]]の[[鉄道路線]]である。'''泉北高速線'''、'''泉北線'''とも呼ばれる。[[駅ナンバリング]]で用いられる路線記号は'''SB'''。 == 概要 == [[南海電気鉄道]][[南海高野線|高野線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を行っており(詳細な[[#運行形態|運行形態]]は後述)、堺市[[中区 (堺市)|中区]]、[[泉北ニュータウン]]を擁する同市[[南区 (堺市)|南区]]、[[トリヴェール和泉]]を擁する和泉市の各沿線地域や、路線自体は伸びていないが[[岸和田市]]東部などから堺市[[堺区]]・[[大阪市]]中心部への通勤・通学路線となっている。 かつて南海電気鉄道が建設し直接経営することが検討されていたが、1960年代後半頃から1970年頃にかけて南海電気鉄道に重大事故が頻発して重い負債がのしかかり、多額の投資が必要な新規路線を持つことを断念し、[[トラックターミナル]]運営のため大阪府が設立した[[第三セクター]]である大阪府都市開発株式会社が経営することになった。[[1971年]]の開業時は全業務を南海電気鉄道に委託していたが、段階的に直営化を進め、最終的に[[1993年]][[4月1日]]に全業務を直営化した。その後、[[2008年]]から大阪府都市開発の株式を売却する動きが見られるようになり、最終的に[[2014年]][[7月1日]]に株式が南海電気鉄道に譲渡されたため(詳細は「[[泉北高速鉄道#株式売却問題]]」を参照)、大阪府都市開発は泉北高速鉄道株式会社に商号変更した上で、[[南海グループ]]の一員となった。なお、「泉北高速鉄道」の呼称自体は旧社名の大阪府都市開発時代から鉄道事業の名称として用いられていた。 [[2006年]]7月1日より全線で[[PiTaPa]]と[[ICOCA]]が使えるようになり、[[2007年]][[4月1日]]よりPiTaPaに[[定期乗車券|定期券]]機能を付加する「PiTaPa定期サービス」(南海との連絡定期にも対応)が利用できるようになった。また[[2013年]][[3月23日]]より、[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始で、[[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]も利用可能になった。さらに[[2022年]]4月25日からは[[VISA#Visaのタッチ決済|VISAのクレジットカードによるタッチ決済]]に対応した。 路線シンボルマークは、泉北高速鉄道の社章([[ファイル:Semboku-logo.svg|15px|シンボルマーク]])で、[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は青。ただし、南海電気鉄道では[[南海本線]]との区別のため、黄色を採用している。 [[File: NankaiKOYA 8300 LCD.jpg|thumb|220px|none|泉北線内では黄色のラインカラーを表示する南海電車の車内案内([[南海8300系電車|8300系]])]] === 路線データ === *路線距離([[営業キロ]]):14.3 km *[[軌間]]:1067 mm *駅数:6駅(起終点駅含む) *: 中百舌鳥駅は南海電気鉄道管理であるため、当路線の自社管轄駅は5駅。泉北高速鉄道公式サイトに中百舌鳥駅の駅情報ページはない。 *複線区間:全線複線 *電化区間:全線電化(直流1500V) *[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 *最高速度:110 km/h{{Efn|12000系で運転される泉北ライナーを除き、車両の営業最高速度が100km/hまでしか認可されていないため、当該列車以外は100km/hが営業上の最高速度となる。}} == 沿線概況 == {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-bg=#007FFF |title-color=white |map= {{BS2|KHSTa||||[[難波駅 (南海)|難波駅]]|}} {{BS2|LSTR||||[[南海電気鉄道|南海]]:{{rint|osaka|ko}} [[南海高野線|高野線]]}} {{BS2|PSLa|||[[引き上げ線]]||}} {{BS2|BHF||0.0|SB01 [[中百舌鳥駅]]|{{rint|osaka|m}}|}} {{BS2|ABZgl||||南海:{{rint|osaka|ko}} 高野線→|}} {{BS2|TUNNEL1|||}} {{BS2|hBHF||3.7|SB02 [[深井駅]]|}} {{BS2|SKRZ-Au||||[[阪和自動車道]]|}} {{BS2|PSLe||||田園変電所・保線設備([[未成駅]])|}} {{BS2|BHF||7.8|SB03 [[泉ケ丘駅]]|}} {{BS2|hKRZWae||||[[石津川]]|}} {{BS2|BHF||10.2|SB04 [[栂・美木多駅]]|}} {{BS2|hKRZWae||||和田川|}} {{BS2|BHF||12.1|SB05 [[光明池駅]]|}} {{BS2|KRWgl|KRW+r|||}} {{BS2|STR|KDSTe||光明池車庫||}} {{BS2|SKRZ-Au||||阪和自動車道|}} {{BS2|hKRZWae||||[[大津川 (大阪府)|槇尾川]]}} {{BS2|KBHFe||14.3|SB06 [[和泉中央駅]]|}} }} 多くの区間が高架であり、線路の両脇に道路が並行して設けられている。[[踏切]]は[[中百舌鳥駅]]東側にある中百舌鳥トンネル手前の一箇所のみで、中百舌鳥トンネルより先には一切設けられていない。また、中百舌鳥駅 - 泉ケ丘駅間の建設時には当時の[[大阪市交通局]]が技術提供をしている。 中百舌鳥駅を出ると、南海高野線の上下線に挟まれながらしばらく併走する。信濃池の辺りで下り坂となり、旧[[中百舌鳥球場]]手前辺りで地下トンネルの中百舌鳥トンネルに入って南に折れて南海高野線と別れる。線路はそのまま南側にカーブしながら[[白鷺公園 (堺市)|白鷺公園]]の真下を潜り、さらに南西にカーブしながら公園の中で再び地上へ出て高架橋の高さまで上り坂となる。公園を過ぎるとすぐ[[中区 (堺市)|中区]]に入り、[[高架駅]]である[[深井駅]]の手前までほぼ直線に進む。線路が南東にカーブする地点に深井駅がある。 深井駅を過ぎると直線に進み、線路の両脇に[[大阪府道34号堺狭山線|府道堺狭山線]](通称:[[泉北1号線]])が合流する。[[阪和自動車道]](阪和道)の高架を潜るあたりから陶器川流域の田園風景が広がる。 陶器川を渡るあたりで一旦上下線間が離れる。ここにはかつて楢葉(ならば)駅設置の構想<ref>泉北コミュニティ 泉北版205号、泉北版2223号に再掲</ref>があり、その新駅を想定した島式ホームのスペースが設けられたが、乱開発に繋がるとの懸念から結局新駅設置は見送られ<ref>[[全国鉄道事情大研究]]大阪南部・和歌山篇p.241など。</ref>{{要高次出典|date=2017年12月}}(一帯は[[市街化調整区域]]に指定されており、将来的な利用客の増加は見込めなかった)、現在その場所には田園(たぞの)変電所が設けられている。[[堺市]]は新駅設置への市民からの要望に対し、「多大な事業費が必要となるため、その費用と効果や周辺環境への影響を慎重に検討する必要がある」と回答している<ref>[https://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_shimin/data/22694.html 「市民の声」Q&A - 泉北高速鉄道深井~泉ヶ丘駅間に新駅を建設してください] - 堺市建築都市局交通部交通政策課、2017年11月27日受付、2017年12月25日掲載。</ref>。 田園変電所を過ぎてしばらくすると丘陵部に差し掛かり、[[大阪府道208号堺泉北環状線|府道堺泉北環状線]]の田園大橋を潜ると[[南区 (堺市)|南区]]に入る。ここから終点までは[[泉北ニュータウン]]を横断して[[トリヴェール和泉]]に至る[[日本のニュータウン|ニュータウン]]区間となる。ニュータウン地区は3本の河川によって4地区に分かれ、丘陵部では[[掘割]]ないし地平を、浸食谷では高架を走る。南区に入ると線路は南西にカーブし、両脇を併走する泉北1号線は府道堺狭山線が分岐して本線が[[大阪府道38号富田林泉大津線|府道富田林泉大津線]]となる。カーブが終わるあたりに[[泉ケ丘駅]]があり、ホーム南端が少しカーブしている。 泉ケ丘駅を過ぎると終点までほぼ直線となる。[[石津川]]の浸食による上神谷を渡り、次の丘陵部に差し掛かると[[栂・美木多駅]]がある。栂地区と呼ばれるこの丘陵は東西幅が短く、栂・美木多駅を過ぎるとすぐ高架区間となり、和田川の浸食による和田谷を渡る。なお、和田谷は[[美木多村|美木多]]と呼ばれる地域で、駅名はこの2つの地名を並べたものとなっている。アーチ橋で赤色が特徴の檜尾大橋を潜り抜け次の丘陵部を上りしばらくすると[[光明池駅]]がある。丘陵上にある泉ケ丘駅から和泉中央駅までのニュータウン4駅のうち他3駅はすべて改札口・コンコースがホームの上にある[[橋上駅]]だが、この丘陵部にある[[光明池]]とその放水路である甲斐田川流域の微小な谷に位置する光明池駅のみ高架駅となっている。光明池運転免許試験場の最寄り駅でもあり、また[[泉大津駅]]・[[和泉府中駅]]方面、[[河内長野駅]]方面のバス路線も充実しているため利用客が多い。光明池駅を出るとすぐ和泉市に入り、南側に分岐する線路がある。これは線路際に設置された光明池車庫へと繋がっており、車庫では全般検査などの車両保守業務も行われている。 光明池車庫への分岐を通り抜けた先は再び掘割区間となり、[[槇尾川]]の浸食による池田谷を渡るあたりで阪和道の高架がオーバークロスして線路南側に併走する(府道はさらにその両脇を走る)。次の丘陵部に差し掛かると終着駅の[[和泉中央駅]]に着く。半地下駅といえるほどの深い掘割で、併走する阪和道は駅前広場下のトンネルを通っている。近辺には[[桃山学院大学]]などの教育機関や[[テクノステージ]]などの企業団地がある。線路は和泉中央駅から先もしばらく延びており、回送車の引き上げ線として使われている。将来的にはこれを活用し、そのまま[[泉南]]地域へも延伸可能な構造としているが、現状では延伸の見込みは立っていない(「[[#延伸の可能性|延伸の可能性]]」の節も参照)。 <gallery perrow="3" widths="190" style="font-size:90%;"> File:Semboku 7000.jpg|高架区間を走行する区間急行<br />(深井) File:Semboku Rapid Railway.jpg|勾配が続く直線区間を走行する準急行<br />(深井 - 泉ケ丘) File:Semboku Izumi-Chuo Landscape.jpg|阪和自動車道をくぐり、和泉中央へ向かう準急行<br />(光明池 - 和泉中央) </gallery> == 運行形態 == [[File:Linemap of Semboku Rapid Railway.png|thumb|250px|停車駅]] 中百舌鳥駅 - 和泉中央駅間の線内折り返しで各駅停車が運転されているほか、特急「[[泉北ライナー]]」や、[[急行列車|区間急行]]、[[準急列車|準急行]](準急)が中百舌鳥駅から[[南海高野線]]に乗り入れて[[難波駅 (南海)|難波駅]]まで[[直通運転|相互直通運転]]を行っている。以下に各種別ごとの運行概況を示す。 2017年8月26日改正時点では、日中は1時間に8本(区間急行が4本、準急行・各駅停車が各2本ずつ)が運転されている<ref>[http://www.semboku.jp/station/izumichuo/newtimetable/ 平成29年8月26日からの時刻表 和泉中央駅] - 泉北高速鉄道、2017年8月28日閲覧</ref>。 1981年11月22日のダイヤ改正から平日朝に10両編成の列車が多数運転されていたが<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=137}}</ref>、近年の乗客減少により、2012年11月23日のダイヤ変更より区間急行はすべて8両編成となり、10両編成による区間急行はすべて無くなった<ref>[http://www.semboku.jp/news/dt_274.html ダイヤ変更を実施しました。] - 2012年11月23日 泉北高速鉄道公式サイト「お知らせ」の項目より。</ref>。その後2013年7月22日の列車編成両数変更により、残る2往復の10両編成による準急行が8両編成となり<ref>[http://www.semboku.jp/news/dt_285.html 列車の編成両数の変更について] - 2012年7月1日 泉北高速鉄道公式サイト「お知らせ」の項目より。時刻の変更なし。</ref>、すべての列車が6両編成または8両編成で運用されるようになった。 線内に追い越し設備を持つ中間駅はないため、途中駅での追い越しが行われる列車は存在しない。よって以下の全種別とも、泉北高速鉄道線内では全区間先着する。 === 特急「泉北ライナー」=== {{Main|泉北ライナー}} 2015年12月5日のダイヤ改正で新設された有料特急<ref name="nakai20151008">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/151008.pdf 南海・泉北 12月5日(土)高野線・泉北線のダイヤ改正を実施 泉北ニュータウン・トリヴェール和泉と大阪市内が“近くて”便利に!!]}} - 南海電気鉄道、2015年10月8日</ref>。運行本数は2017年8月26日改正時点で平日上り12本・下り11本、土休日12往復。和泉中央駅 - 難波駅間の運転で、停車駅は、和泉中央駅から泉ケ丘駅までの各駅と南海高野線の天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅(終点)である。南海高野線の特急[[こうや|「こうや」「りんかん」]]が停車する[[堺東駅]]と、区間急行が停車する当線の深井駅は通過する。 2017年8月26日のダイヤ改正で、平日の朝に1往復、夕方以降に4往復、土休日も朝に1往復、夕方以降に3往復がそれぞれ増発された<ref name="semboku20170608">{{Cite web|和書|title=高野線・泉北線のダイヤを改正し、特急「泉北ライナー」を増発します|url=http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2017/06/20170608-press.pdf|publisher=泉北高速鉄道|format=PDF |date=2017-06-08|accessdate=2017-06-15}}</ref>。 2022年11月1日から南海[[南海50000系電車|50000系]](ラピート車)が運用に入り、一部列車は6両編成で運転されていたが<ref name="semboku20220930">{{Cite press release|和書|title=11月1日(火)より、 50000系車両(ラピート)を特急泉北ライナーとして運行します ~10月30日(日)に試乗会を実施~|publisher=南海電気鉄道・泉北高速鉄道|date=2022-09-30|url=http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2022/09/f2d3e1defd6e5ae48f494bf32eb8f0a51.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-02}}</ref>、2023年9月30日をもって終了した<ref name="nankai20230824">{{Cite web|和書|url=https://www.nankai.co.jp/lib/traffic/information/pdf/230824.pdf|title=一部の泉北ライナーの両数変更について|format=PDF|publisher=南海電気鉄道|language=ja|date=2023-08-24|accessdate=2023-08-24}}</ref><ref name="semboku20230824">{{Cite web|和書|url=https://www.semboku.jp/20220930-02/|title=泉北ライナーの両数変更について|publisher=泉北高速鉄道|language=ja|date=2023-08-24|accessdate=2023-08-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/127750|title=さよなら「南海ラピートの泉北ライナー」 突然の大抜擢から約1年で消滅へ|publisher=乗りものニュース|language=ja|date=2023-08-24|accessdate=2023-08-24}}</ref>。 === 区間急行 === [[1987年]][[4月18日]]の[[Osaka Metro御堂筋線|地下鉄御堂筋線]]中百舌鳥駅延伸開業に合わせ、同年3月29日のダイヤ改正で平日朝夕ラッシュ時に新設された<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1987-06 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 21 |issue = 7 |pages = 113 |publisher = 鉄道ジャーナル社 }}</ref>(改正当日は日曜日だったため、運転開始は翌30日から)。泉北高速鉄道線の和泉中央駅 - 深井駅の各駅と南海高野線の堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。泉北高速鉄道線と南海高野線の境界駅で、地下鉄御堂筋線乗り換え駅でもある中百舌鳥駅は通過する。 運行開始当初は平日朝ラッシュ時に上り4本、夕方ラッシュ時に下り5本が運行されていた<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=145}}</ref>。その後、1995年9月1日のダイヤ改正で夕方ラッシュ時の本数が3本に減り<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=197}}</ref>、2000年12月23日のダイヤ改正以降2015年12月5日のダイヤ改正まで平日朝7 - 8時台の上り4本のみの運行となっていた。 しかし、2015年12月5日のダイヤ改正より、一部の準急行を置き換える形で、運転時間帯が上り・下りともにほぼ終日へと大幅に拡大された。特に、和泉中央駅発平日朝7時台の南海高野線直通列車は全て区間急行となっている<ref>{{Wayback |url=http://www.semboku.jp/station/izumichuo/timetable |title=和泉中央駅時刻表(平成27年12月5日改正) |date=20160321225020}}</ref>。また、日中にも初めて1時間に2本が設定された<ref name="nakai20151008" />ほか、その他の時間帯でも1時間に1 - 3本が運転されている。 また2017年8月26日のダイヤ改正では、夕方以降の区間急行がすべて準急行に統一された一方、昼間の区間急行が1時間4本に増発された<ref name="semboku20170726">{{Cite web|和書|title=高野線・泉北線のダイヤを改正します 8月26日(土)|url=http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2017/07/c5bbe5329026a4362e85c027a0ebb2be.pdf|publisher=泉北高速鉄道|format=PDF |date=2017-07-26|accessdate=2017-08-28}}</ref><ref name="semboku20170608" />。 平日朝ラッシュ時の8両で運転される上り列車(天下茶屋駅に7:20〜8:30に到着する列車)は、和泉中央駅 - 天下茶屋駅間で難波寄り前から4両目の4号車を女性専用車としている<ref>[http://www.semboku.jp/safety/women/ 女性専用車のご案内] - 泉北高速鉄道、2015年12月7日閲覧</ref>。 === 準急行 === 南海高野線との直通列車として終日運転されている。泉北高速鉄道線の各駅(中百舌鳥駅を含む)と、南海高野線の[[百舌鳥八幡駅]]・[[三国ヶ丘駅]]・堺東駅・天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅に停車する。日中は1時間に2本運転されている<ref name="nakai20151008" />。かつては日中に6両編成、ラッシュ時に8両編成とした列車が多かったが、2017年8月26日のダイヤ改正により以降は大半が8両編成での運転となった。また、下り列車で光明池駅止まりの準急行も少数ながら運行されていたが10両編成の廃止とともに設定消滅した。 2000年12月22日までは南海高野線が日中15分間隔であったため日中は1時間に4本(他に線内折り返しの各駅停車が2本)であったが、その後2015年12月4日までは南海高野線が日中12分間隔であったため日中は各駅停車と統合され1時間に5本<ref name="nakai20151008" /> が運転されていた。 大半は始発から終点まで待避なしで先着していたが、2017年8月26日のダイヤ改正で一部の準急行が堺東駅で上下とも泉北ライナーの通過待ちをする列車が設定された。高野線を含めて準急行が通過待ちを行うようになったのは初である。 === 各駅停車 === 中百舌鳥駅 - 和泉中央駅(一部光明池駅)間の線内で折り返し運転を行っている。6両編成または8両編成で運転。 かつては難波駅まで直通する列車が、平日の深夜の上り1本(2013年10月26日のダイヤ変更までは土曜・休日にも運転)と、2015年12月5日以降に新設された日中(和泉中央駅発では12時台 - 14時台)の1時間に2本が運転されていたが、2017年8月26日のダイヤ変更で両者とも運行を終了した。日中の難波発着は全て南海車の4両編成{{Efn|4両編成で運用することができない1000系(2代)と6200系50番台は除く}}で運転されていた。 線内折り返し運転の列車は中百舌鳥駅で高野線の各駅停車との接続が考慮されている場合が多い。なお堺東駅で泉北線に接続する各駅停車に接続する河内長野・橋本方面の急行(快速急行・区間急行)に関しては天下茶屋駅・新今宮駅・難波駅では「堺東で各停乗換、中百舌鳥で泉北線に接続」と案内される。中百舌鳥駅で区間急行や泉北ライナーの通過後の接続になるために、下りは泉北線内、上りは堺東駅以遠の優等列車停車駅までの最先着列車にならないケースがある。2015年12月5日のダイヤ改正では中百舌鳥駅を通過する特急「泉北ライナー」や区間急行を補完する設定となったために線内折り返し列車の運行本数が減らされている。 == 乗務員 == 開業時は南海電気鉄道に業務を委託していたため、南海の乗務員が泉北高速鉄道線内も乗務していた<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=122}}</ref>。 しかし、1986年(昭和61年)に[[鉄道事業法]]が公布され、従来の方式のままでは第三種鉄道事業者となり運賃や料金の決定、運行計画の策定を自社でできなくなるため、これを維持するためには自社の運転士が必要となる第一種鉄道事業者への転換が必要となった<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=143-144}}</ref>。その結果、1987年(昭和62年)8月に第一種鉄道事業者になることを決断、1988年(昭和63年)3月24日に運輸省の認可を得た。これを機に自社運行へ段階的に移行することとなった<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=145-147}}</ref>。 1990年(平成2年)7月1日にまず線内折返し列車から泉北高速鉄道の乗務員による運行が開始され、1992年(平成4年)4月5日より区間急行を除く全列車が泉北の乗務員による運行となった。これにより、中百舌鳥駅で南海と泉北の乗務員が交代する運行方式となった。ただし、区間急行については境界駅である中百舌鳥駅を通過することから南海の乗務員による運行を継続することとなった<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年の歩み |page=148-149}}</ref>。なお、1995年の和泉中央駅延伸後は光明池 - 和泉中央間に限り区間急行も泉北の乗務員が運行していた<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=南海電気鉄道 列車運転の興味|year=2008 |publisher=電気車研究会 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=2008年8月臨時増刊号 |page=209}}</ref>が、2014年に南海電気鉄道の子会社になり、2015年12月5日に区間急行が増発されたため、この日に運転を開始した特急とともに、全区間を南海の乗務員が担当するようになっている。また、光明池車庫がある関係上光明池駅で乗務員の交代を行う場合がある<ref>{{Cite journal|和書|title=南海電気鉄道 2|date = 2014-06-15|journal= 週刊私鉄全駅・全車両基地|issue=25|pages=28|publisher=朝日新聞出版}}</ref>。 == 利用状況 == === 輸送実績 === 泉北高速鉄道線の近年の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;" |- ! colspan="7"|年度別輸送実績 |- ! rowspan="2"|年度 ! colspan="4"|輸送実績(乗車人員):万人/年度 ! rowspan="2"|輸送密度<br />人/1日 ! rowspan="2"|特記事項 |- !通勤定期 !通学定期 !定期外 !合計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) | style="background-color: #ccffcc;"|1723.1 | style="background-color: #ccffcc;"|337.1 | style="background-color: #ccffcc;"|759.7 | style="background-color: #ccffcc;"|'''2819.9''' | style="background-color: #ccffcc;"|57,926 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |1754.0 |369.4 |764.2 |'''2887.6''' |59,836 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |1828.7 |413.0 |877.8 |'''3119.6''' |58,383 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |1919.0 |471.8 |930.5 |'''3321.3''' |59,840 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |2021.2 |517.5 |1031.7 |'''3570.4''' |64,757 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |2170.8 |603.9 |1128.2 |'''3903.0''' |71,817 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |2281.6 |667.4 |1196.7 |'''4145.8''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |2367.4 |733.5 |1270.3 |'''4371.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |2449.1 |812.5 |1324.2 |'''4585.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |2482.0 |867.1 |1343.1 |'''4692.2''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |2517.7 |925.8 |1369.0 |'''4812.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |2554.6 |989.3 |1406.7 |'''4950.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |2597.2 |1046.6 |1503.6 |'''5147.4''' |97,811 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |2679.9 |1104.3 |1555.1 |'''5339.3''' |101,992 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |2715.2 |1152.6 |1585.6 |'''5453.4''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |2597.2 |1046.6 |1503.6 |'''5147.4''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |2908.4 |1238.7 |1661.8 |'''5808.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |2900.9 |1214.4 |1665.7 |'''5781.0''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |2894.3 |1199.2 |1711.5 |'''5805.0''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |2876.9 |1161.0 |1737.6 |'''5775.5''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) | style="background-color: #ffcccc;"|2917.3 | style="background-color: #ffcccc;"|1268.2 |1816.8 |'''6002.3''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |2913.4 |1238.6 |1865.6 | style="background-color: #ffcccc;"|'''6017.6''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |2851.8 |1157.0 |1823.3 |'''5832.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) |2757.3 |1121.4 |1816.1 |'''5694.8''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |2572.7 |1072.8 |1860.4 |'''5505.9''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |2508.3 |1045.0 |1876.8 |'''5430.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |2426.1 |995.3 |1877.3 |'''5298.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |2382.9 |958.4 |1852.4 |'''5193.7''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |2378.6 |922.4 |1837.3 |'''5138.3''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) |2375.2 |911.1 |1809.8 |'''5096.1''' |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |&nbsp; |&nbsp; |1796.8 |'''5116.4''' |89,475 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2008年(平成20年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2009年(平成21年) ||2298.9 |882.7 |1798.7 |'''4980.3''' |87,029 |- ! style="font-weight: normal;"|2010年(平成22年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2011年(平成23年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2012年(平成24年) |2218.6 |881.0 |1787.1 |'''4886.7''' |85,393 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2013年(平成25年) |2236.1 |932.0 |1789.4 |'''4957.5''' |86,522 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2014年(平成26年) |2230.5 |901.8 |1750.9 |'''4883.2''' |85,398 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2015年(平成27年) |2090.9 |943.2 |1877.8 |'''4911.9''' |86,166 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2016年(平成28年) |2024.9 |936.4 |1888.4 |'''4849.7''' |85,139 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2017年(平成29年) |1988.9 |955.9 | style="background-color: #ffcccc;"|1897.8 |'''4842.6''' |84,952 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2018年(平成30年) |1980.1 |965.0 |1893.3 |'''4838.4''' |84,772 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2019年(令和元年) |1999.9 |968.7 |1866.8 |'''4835.4''' |84,423 |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2020年(令和2年) | style="background-color: #ccffff;"|1776.3 | style="background-color: #ccffff;"|603.9 | style="background-color: #ccffff;"|1343.8 | style="background-color: #ccffff;"|'''3724.0''' | style="background-color: #ccffff;"|64,305 |&nbsp; |} === 収入実績 === 泉北高速鉄道線の近年の収入実績を下表に記す。表中、収入の単位は千円。数値は年度での値。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:right; width:100%;" |- ! colspan="8"|年度別収入実績 |- ! rowspan="2"|年  度 ! colspan="5"|旅客運賃収入:千円/年度 ! rowspan="2"|運輸雑収<br />千円/年度 ! rowspan="2"|総合計<br />千円/年度 |- ! style="text-align: center; font-weight: normal;"|通勤定期 ! style="text-align: center; font-weight: normal;"|通学定期 ! style="text-align: center; font-weight: normal;"|定期外 ! style="text-align: center; font-weight: normal;"|手小荷物 ! style="text-align: center; font-weight: normal;"|合計 |- ! style="font-weight: normal;"|1975年(昭和50年) | style="background-color: #ccffcc;"|992,241 |←←←← | style="background-color: #ccffcc;"|599,055 |0 | style="background-color: #ccffcc;"|'''1,591,296''' |48,924 | style="background-color: #ccffcc;"|'''1,640,220''' |- ! style="font-weight: normal;"|1976年(昭和51年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1977年(昭和52年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1978年(昭和53年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1979年(昭和54年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1980年(昭和55年) |2,207,164 |←←←← |1,460,322 |''0'' |'''3,667,486''' |170,866 |'''3,838,352''' |- ! style="font-weight: normal;"|1981年(昭和56年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1982年(昭和57年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1983年(昭和58年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1984年(昭和59年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1985年(昭和60年) |2,962,739 |←←←← |1,945,134 |''0'' |'''4,907,873''' |103,274 |'''5,011,147''' |- ! style="font-weight: normal;"|1986年(昭和61年) |&nbsp; |←←←← |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1987年(昭和62年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1988年(昭和63年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1989年(平成元年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1990年(平成2年) |2,856,050 |761,382 |2,492,672 |''0'' |'''6,110,104''' |160,330 |'''6,270,434''' |- ! style="font-weight: normal;"|1991年(平成3年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1992年(平成4年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1993年(平成5年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1994年(平成6年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|1995年(平成7年) |3,668,685 |1,060,203 |3,469,235 |''0'' |'''8,198,123''' |179,740 |'''8,377,863''' |- ! style="font-weight: normal;"|1996年(平成8年) |3,746,105 |1,045,926 |3,592,008 |''0'' |'''8,384,039''' |174,421 |'''8,558,460''' |- ! style="font-weight: normal;"|1997年(平成9年) |3,676,316 |981,318 |3,496,553 |''0'' |'''8,154,187''' |182,765 |'''8,336,952''' |- ! style="font-weight: normal;"|1998年(平成10年) | style="background-color: #ffcccc;"|3,791,450 | style="background-color: #ffcccc;"|1,012,133 |3,779,397 |''0'' | style="background-color: #ffcccc;"|'''8,582,980''' |177,817 | style="background-color: #ffcccc;"|'''8,760,797''' |- ! style="font-weight: normal;"|1999年(平成11年) |3,633,047 |1,003,074 |3,934,054 |''0'' |'''8,570,175''' |180,436 |'''8,750,611''' |- ! style="font-weight: normal;"|2000年(平成12年) |3,552,341 |982,966 |3,974,664 |''0'' |'''8,509,971''' |192,799 |'''8,702,770''' |- ! style="font-weight: normal;"|2001年(平成13年) |3,449,164 |942,148 | style="background-color: #ffcccc;"|3,981,279 |''0'' |'''8,372,591''' |191,914 |'''8,564,505''' |- ! style="font-weight: normal;"|2002年(平成14年) |3,383,062 |912,534 |3,930,735 |''0'' |'''8,226,331''' |199,175 |'''8,425,506''' |- ! style="font-weight: normal;"|2003年(平成15年) |3,385,260 |880,102 |3,903,629 |''0'' |'''8,168,991''' |206,351 |'''8,375,342''' |- ! style="font-weight: normal;"|2004年(平成16年) | style="background-color: #ccffff;"|3,382,589 | style="background-color: #ccffff;"|868,207 | style="background-color: #ccffff;"|3,842,532 |''0'' | style="background-color: #ccffff;"|'''8,093,328''' |207,143 | style="background-color: #ccffff;"|'''8,300,471''' |- ! style="font-weight: normal;"|2005年(平成17年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2006年(平成18年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |- ! style="font-weight: normal;"|2007年(平成19年) |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} == 使用車両 == 南海電気鉄道の乗り入れ車両は高野線所属車両のうち[[ズームカー]](17m級2扉車)以外の車両が乗り入れる<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=大阪府都市開発 泉北高速鉄道の現況|year=2008 |publisher=電気車研究会 |journal=[[鉄道ピクトリアル]] |issue=2008年8月臨時増刊号 |page=100}}</ref>。特急用車両は2015年12月5日より[[南海11000系電車|11000系]](代走は[[南海本線]]所属の[[南海12000系電車|12000系]]を借り入れた上で運用)が乗り入れている。2017年1月27日からは自社保有の[[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]]が投入され<ref>[http://railf.jp/news/2017/01/28/202000.html 泉北高速12000系が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2017年1月28日</ref>、現在は2編成の運用となっている{{Efn|座席配置等が異なるため、運用は区別される<ref>[http://www.nankai.co.jp/library/traffic/exticket/pdf/exjikoku_semboku_20170826.pdf 泉北ライナー時刻表] - 南海電鉄</ref>。}}。 === 自社車両 === ; 特急用車両 :* [[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]] ; 通勤用車両 :* [[南海8300系電車#泉北高速鉄道9300系電車|9300系]] :* [[大阪府都市開発7000系電車#7020系|7020系]]<!--別形式とのことから分別--> :* [[大阪府都市開発7000系電車|7000系]]<!--(50番台含む)--> :* [[大阪府都市開発5000系電車|5000系]] :* [[大阪府都市開発3000系電車|3000系]]<!--(50番台含む)--> <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Semboku12021 SembokuLiner.jpg|12000系 Semboku Series9300-9402.jpg|9300系 大阪府都市開発(泉北高速鉄道)7020系.jpg|7020系 Semboku 7509F.jpg|7000系 Senboku-Series5000-5507F.jpg|5000系 Semboku3000_3509F.jpg|3000系 </gallery> === 乗り入れ車両 === ; [[南海電気鉄道]] :; 特急用車両 ::* [[南海11000系電車|11000系]] :; 通勤用車両 ::* [[南海8300系電車|8300系]] ::* [[南海1000系電車 (2代)|1000系]] ::* [[南海6100系電車#6300系への改造|6300系]] ::* [[南海6200系電車|6200系]] ::* [[南海8200系電車#6200系50番台|6200系50番台]] ::* [[南海6000系電車|6000系]] <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Senboku-liner.JPG|11000系 Nankai_8300Series_8352F.jpg|8300系 Nankai1000_Renewal.png|1000系 Nankai-Series6362.jpg|6300系 Nankai6200 6519F.jpg|6200系 NK6200_50.jpg|6200系50番台 Nankai6000_6017F.jpg|6000系 </gallery> === 過去の使用車両 === ==== 自社車両 ==== * [[大阪府都市開発100系電車|100系]] <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Semboku586.JPG|100系(登場時) 1994-5-8-senboku107.JPG|100系(更新後) </gallery> ==== 乗り入れ車両 ==== ; 南海電気鉄道 :; 特急用車両 ::* [[南海50000系電車|50000系]] - 2022年11月<ref name="semboku20220930" />から2023年9月の間運行<ref name="nankai20230824" /><ref name="semboku20230824" />。 :; 通勤用車両 :: いずれも車両自体は、他の系列に改造・編入され使用されている。 ::* [[南海6100系電車|6100系]] - 6300系に改造。 ::* [[南海8000系電車 (初代)|8000系(初代)]] - 6200系に編入。 ::* [[南海8200系電車|8200系]] - 6200系に編入。 <gallery widths="180" style="font-size:90%;"> Rapi-t KOYA LINE.jpg|50000系 Nankai6100Series01.jpg|6100系 1994-5-8-nankai8501.JPG|8000系(初代) Nankai8200Series01.jpg|8200系 </gallery> == 歴史 == 戦後日本の[[高度経済成長|高度経済成長期]]に多くの若者が[[集団就職]]などで各地から大都市圏に移り住んできた。大阪府も例外ではなく、[[北大阪]]の[[千里ニュータウン]]など郊外での都市開発が活発に行なわれていた。そんな中、[[日本国有鉄道|国鉄]](現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]])[[阪和線]]沿線と[[南海高野線]]沿線の間の地域に新しい街を創るという構想が持ち上がり、[[泉北ニュータウン]]が建設された。 泉北高速鉄道線は、泉北ニュータウンと大阪都心を結ぶことを目的として計画された。泉北ニュータウンの鉄道計画としては、大阪市営地下鉄1号線(現在の[[Osaka Metro御堂筋線]])の延伸案、国鉄阪和線、南海高野線、[[近鉄南大阪線]]からの分岐案が検討された。これら4案の中から営業エリア上も問題がなく、輸送能力に余力があった南海高野線からの分岐案が採用された<ref>{{Cite |和書|author=大阪府都市開発(編) |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年のあゆみ |date=1996|page=38}}</ref>。概要節で前述のとおり南海電鉄直営が検討されたものの、南海電鉄が多額の投資が必要な新規路線を持つことを断念し、トラックターミナルを運営していた大阪府の[[第三セクター]]大阪府都市開発(2014年に南海グループ傘下に移り、泉北高速鉄道に社名変更)が[[1969年]]3月に中百舌鳥 - 光明池間の敷設免許を取得。[[1971年]][[4月1日]]に中百舌鳥 - 泉ケ丘間が開業、[[1977年]][[8月20日]]には光明池駅まで開業し、1969年に免許を受けた区間がすべて開通した。しかし、[[1975年]]11月30日に[[和泉市]]で[[池田忠雄 (政治家)|池田忠雄]]市政が発足し、その市政の下で『和泉ニュータウン』構想が生まれ、泉北高速鉄道線を光明池駅から更に延伸させてはどうかという話が持ち上がった。この時の『和泉ニュータウン』構想が後に現在の『[[トリヴェール和泉]]』となり、それに伴う和泉市中南部の人口増加が[[1995年]]4月1日の[[和泉中央駅]]までの開業に繋がった。 === 年表 === *[[1969年]](昭和44年)[[9月16日]]:中百舌鳥駅 - 泉ケ丘駅間が着工される<ref>事業誌 -大阪府都市開発株式会社- 大阪府都市開発著 2007年 p68</ref>。 *[[1971年]](昭和46年)[[4月1日]]:中百舌鳥駅 - 泉ケ丘駅間が開業。 *[[1972年]](昭和47年)[[6月27日]]:泉ケ丘駅 - 栂・美木多駅間が着工される<ref name="名前なし-1">事業誌 -大阪府都市開発株式会社- 大阪府都市開発著 2007年 p69</ref>。 *[[1973年]](昭和48年) **[[10月7日]]:架線電圧を1500Vに昇圧。 **[[12月7日]]:泉ケ丘駅 - 栂・美木多駅間が開業。 *[[1974年]](昭和49年)[[2月22日]]:栂・美木多駅 - 光明池駅間が着工される<ref name="名前なし-1"/>。 *[[1977年]](昭和52年)[[8月20日]]:栂・美木多駅 - 光明池駅間が開業。光明池車庫を使用開始{{Efn|光明池車庫が完成する前は泉北の車両も南海の[[南海電鉄千代田工場|千代田検車区]]に配置され、泉北車の検修も南海に委託していた。}}。 * [[1981年]](昭和56年)[[11月22日]]:朝ラッシュ時の準急行の一部が10両編成で運行される<ref>{{Cite|和書|editor=大阪府都市開発 |title=「流れの創造」大阪府都市開発30年のあゆみ |year=1997 |page=137 }}</ref>。 *[[1987年]](昭和62年)[[3月29日]]:ダイヤ改正により、平日朝夕に区間急行を新設。 *[[1991年]](平成3年)[[12月27日]]:光明池駅 - 和泉中央駅間が着工される<ref>事業誌 -大阪府都市開発株式会社- 大阪府都市開発著 2007年 p73</ref>。 *[[1995年]](平成7年)4月1日:光明池駅 - 和泉中央駅間が開業し全通<ref>{{Cite news |title=泉北高速鉄道 光明池-和泉中央が開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-04-05 |page=1 }}</ref>。 *[[1999年]](平成11年)4月1日:全線で[[スルッとKANSAI]]を導入。[[乗車カード]]「ブルーライナーカード」を発売開始。 *[[2000年]](平成12年)[[12月23日]]:ダイヤ改正により、夕方の区間急行を廃止。日中の準急行が毎時4本から毎時5本に増発。日中に毎時2本運転されていた各駅停車を廃止。 *[[2002年]](平成14年):和泉中央駅が第3回[[近畿の駅百選]]に認定される。 *[[2006年]](平成18年)[[7月1日]]:全線で「[[PiTaPa]]」を導入。[[ICOCA]]とも相互利用開始。 *[[2013年]](平成25年)[[3月23日]]:IC乗車カード全国相互利用開始で、Kitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、nimoca、はやかけん、SUGOCAが利用可能になる。 <!---*[[2014年]](平成26年)[[7月1日]]:運営会社が社名を大阪府都市開発株式会社から泉北高速鉄道株式会社へ変更。---> *[[2015年]](平成27年)[[12月5日]]:有料特急「泉北ライナー」運転開始。平日朝の上り区間急行で女性専用車両を導入。ダイヤ改正により、日中に区間急行と高野線直通の各駅停車をそれぞれ毎時2本新設。日中の準急行が毎時5本から毎時2本に減便。夕方に区間急行を再度設定。 *[[2017年]](平成27年)[[8月26日]]:ダイヤ改正により、「泉北ライナー」が増発。日中の区間急行が毎時4本に増発。夕方以降の区間急行が準急行に格下げされ、準急行が毎時5本(最大で毎時6本)に増発。各駅停車がすべて線内運転となる。 *[[2022年]](令和4年) **[[4月25日]]:全駅で[[VISA#Visaのタッチ決済|VISAのタッチ決済]]による乗車の実証実験を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.semboku.jp/20220415-01/|title=Visaのタッチ決済を導入します(実証実験)|publisher=泉北高速鉄道|date=2022-04-15|accessdate=2022-12-17}}</ref>。 **12月12日:VISAのタッチ決済による乗車の実証実験を、正式サービスに移行。 *[[2023年]](令和5年)10月1日:運賃改定で線内の小児IC運賃を一律50円とする<ref name="senboku20230119" />。 == 延伸の可能性 == [[File:R223-Osaka-Pref-of-Izumi001.JPG|thumb|200px|府道223号線沿いの延伸可能な用地(写真右)]] 以前から[[日根野駅]]方面などへの延伸も考えられていて、[[泉南|泉南地域]]在住の住民から延伸の要望もあるが、[[貝塚市|貝塚]]・[[熊取町|熊取]]方面への延伸については、[[2004年]]の近畿地方交通審議会において開業40年での黒字化の見込みは低いとされている<ref>{{PDFlink|[https://wwwtb.mlit.go.jp/kinki/shingi/pdf/8-6.pdf 第8回近畿地方交通審議会資料 路線評価一覧表]}} - 国土交通省近畿地方運輸局</ref>。和泉中央駅の引き上げ線の先には、[[大阪府道223号三林岡山線]]の終端部分まで広大な用地(一部は都市開発会社が所有)が確保されているが、開業から四半世紀以上経った現在も目立った変化はない。 そうした中、[[2013年]]11月24日に行われた岸和田市長選挙で、同市出身の新人で、泉北高速鉄道の岸和田市内への延伸を選挙公約に掲げた<ref>[[読売新聞]]2013年11月23日の33面「堺・泉州」コーナー</ref>[[信貴芳則]]が当選し、任期満了で出馬した2017年11月の市長選でも再選されたが同年12月に辞任、2018年2月の市長選挙で落選し、実現することはなかった。 大阪府は、岸和田市の泉北高速鉄道の延伸の実現に向けた取り組みに対し、必要な助言や検討への協力などを行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.decn.co.jp/?p=153057/|title=大阪府/泉北高速鉄道延伸で助言・協力、岸和田市が検討継続|publisher=[[日刊建設工業新聞]]|date=2023-05-22|accessdate=2023-08-05}}</ref>。 == 駅一覧 == 全駅[[大阪府]]内に所在。 ; 凡例 :●:停車、|:通過 * 難波駅直通列車の難波駅 - 中百舌鳥駅間の停車駅は[[南海高野線]]を参照。 * 各駅停車・準急行は当線内では各駅に停車。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #007fff;"|駅番号 !style="width:7em; border-bottom:solid 3px #007fff;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007fff;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #007fff;"|営業キロ !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007fff; background:#cf9;"|{{縦書き|区間急行|height=4em}} !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #007fff; background:#f96;"|{{縦書き|特急 泉北ライナー|height=9em}} !style="border-bottom:solid 3px #007fff;"|接続路線 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #007fff;"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="5"|○準急行・区間急行・特急…南海高野線[[難波駅 (南海)|難波駅]]まで |- !SB01 |[[中百舌鳥駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#cf9;"|| |style="text-align:center; background:#f96;"|| |南海電気鉄道:[[ファイル:Nankai koya line symbol.svg|15px|■]] [[南海高野線|高野線]] (NK59)(一部直通運転:上記参照)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M30) |rowspan="5" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[堺市]]|height=3em}} |[[北区 (堺市)|北区]] |- !SB02 |[[深井駅]] |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:right;"|3.7 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|| |&nbsp; |[[中区 (堺市)|中区]] |- !SB03 |[[泉ケ丘駅]] |style="text-align:right;"|4.1 |style="text-align:right;"|7.8 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |rowspan="3"|[[南区 (堺市)|南区]] |- !SB04 |[[栂・美木多駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|10.2 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |- !SB05 |[[光明池駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|12.1 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |- !SB06 |[[和泉中央駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|14.3 |style="text-align:center; background:#cf9;"|● |style="text-align:center; background:#f96;"|● |&nbsp; |colspan="2"|[[和泉市]] |} == 運賃・料金 == === 運賃 === 大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満の端数は切り上げ、小児のIC運賃は一律50円)。2023年10月1日改定<ref name="senboku20230119">{{Cite press release|title=鉄道運賃を改定します~当社線内の小児IC運賃を一律50円に変更するのは関西の鉄道初~|publisher=泉北高速鉄道|date=2023-01-19|url=https://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2023/01/56c02135d723d45a07383f71b6ec179e.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-01}}</ref>。 {|class="wikitable" style="text-align:center;" |- !rowspan="2"|キロ程!!colspan="2" style="border-bottom:none;"|運賃(円) |- !style="border-top:none;"| !!加算運賃 |- | - 2km||180||200 |- |3 - 4||200||220 |- |5 - 6||220||240 |- |7 - 8||240||260 |- |9 - 10||260||280 |- |11 - 12||280||300 |- |13 - 14||300||320 |- |15 - ||320||340 |} * 中百舌鳥駅経由で南海電鉄に乗り継ぐ場合の普通運賃は合算額から100円引きとなる<ref>[http://www.semboku.jp/fare/nankai_subway/ 南海電鉄・地下鉄連絡運賃] - 泉北高速鉄道、2023年10月1日閲覧</ref>。例:難波駅 - 和泉中央駅間の場合、350円(南海)+340円(泉北)-100円=590円。但し[[回数乗車券]]や[[株主優待]]券との併用は乗継割引対象外。 * 和泉中央駅と他の駅の間を乗車する場合は20円を加えた[[加算運賃]]が適用される(上表の加算運賃欄の額)。 === 特急料金 === * 520円(小児半額。和泉中央駅 - 難波駅間全区間同額<!--。スーパーシートも同一料金<ref name="senboku20220930" />-->) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[未成駅]] == 外部リンク == {{commonscat|Semboku Rapid Railway|泉北高速鉄道}} *[http://www.semboku.jp/company/ 泉北高速鉄道株式会社] *[http://www.semboku.jp/ 泉北高速鉄道] {{デフォルトソート:せんほくこうそくてつとうせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:泉北高速鉄道|路せんほくこうそくてつとうせん]] [[Category:大阪府の交通]]
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泉北高速鉄道
泉北高速鉄道株式会社(せんぼくこうそくてつどう、英: Semboku Rapid Railway Co.,Ltd.)は、大阪府内で鉄道事業と物流事業を営む南海グループの企業である。本社所在地は大阪府和泉市いぶき野五丁目1番1号(和泉中央駅駅ビル内)。 鉄道事業として「泉北高速鉄道線」、物流事業としてトラックターミナル「東大阪流通センター」「北大阪流通センター」をそれぞれ運営しており、鉄道事業者としては準大手私鉄に分類されている。 旧社名は大阪府都市開発株式会社(おおさかふとしかいはつ、英: Osaka Prefectural Urban Development Co.,Ltd.、略称:OTK)で、大阪府などが出資する第三セクター会社であった。大阪府都市開発とそのグループ会社を合わせて「OTKグループ」と称していた。2014年7月1日に南海電気鉄道の連結子会社となり、南海グループの一員となって現在の社名に変更した(ただし鉄道事業では大阪府都市開発時代から一貫して「泉北高速鉄道」の名称が用いられていた)。 ロゴマークは泉北の「セ」、Railway(鉄道)の「R」、Velocity(高速)の「V」を組み合わせたものであり、さらにマーク全体で大阪の鳥である「モズ」を表している。 2023年12月20日に南海電気鉄道・泉北高速鉄道の両社は、2025年度早期の経営統合に向けて基本合意に達したことを発表した。南海電気鉄道を存続会社として泉北高速鉄道を吸収合併し、今後法的拘束力のない覚書を締結する予定となっている。 鉄道事業は、泉北高速鉄道線として南海高野線の中百舌鳥駅から分岐して和泉中央駅までを営業している。 大阪府は泉北ニュータウンへの連絡路線建設にあたり、大阪市交通局(御堂筋線・四つ橋線・千日前線)、近畿日本鉄道(南大阪線)、日本国有鉄道(阪和線)、南海電気鉄道(高野線)の6つのルートを検討した。その結果、輸送能力に余裕があり、営業エリア上でも問題がない南海電気鉄道に新路線建設を打診することとなった。しかし南海は、1960年代後半に立て続けに大事故を起こし当時の運輸省(現:国土交通省)から厳重注意を受けていたため、新車両の購入や線路の復旧などへの投資を最優先しなければならなかった。また当時は架線電圧の600Vから1500Vへの昇圧、難波駅の改良、高野線の河内長野以南の複線化、南海本線の天下茶屋以南の高架化など複数の事業が計画されていた。そのため、多額の投資が必要で採算が当分見込めない新路線の建設にまで手が回らず、やむを得ず大阪府が、既存の第三セクター会社(当時)を活用して鉄道運営にあたることになった。 物流事業は、長距離を走る大型路線トラックと市内を走る小型集配車を中継する役目などを持つトラックターミナル、荷物の一時保管を行う流通倉庫などが併設された流通センターを下記の2箇所に有している。 また、泉佐野市で関西国際空港発着の航空貨物との中継を行う物流拠点として設けられた、りんくう国際物流センター(RILセンター)の運営会社にも出資していた。 2004年、りんくうタウンに所在の「全日空ゲートタワーホテル大阪」の経営会社ゲートタワーホテル株式会社の経営不振や、その親会社の第三セクター会社りんくうゲートタワービル株式会社も債務超過状態に陥ったため(2005年4月に経営会社は特別清算、親会社は会社更生法を申請)、大阪府主導で大阪府都市開発傘下に「大阪りんくうホテル株式会社」を2004年11月29日に設立し、ゲートタワーホテル社の負債を切り離した上でりんくうホテル社へ無償で施設と一部の未収金を譲渡させ、従業員の再雇用を行い、2005年2月1日より経営を引き継いだ。 泉北高速鉄道は、大阪府などが出資する第三セクター、大阪府都市開発株式会社として1965年に設立された。 2008年4月、当時の大阪府知事橋下徹が大阪外環状鉄道とともに大阪府都市開発の大阪府の保有する株を放出する意向を明らかにした。この動きに対し、南海電鉄が株式の取得に意欲を見せた。しかし、売却には他の株主との調整が必要な上に、大阪府都市開発は府に対して年間1億2000万円の配当を出す黒字企業であることから、府議会から異論が出ていた。 2009年4月9日、大阪府は知事の橋下徹を本部長とする戦略本部会議を設置し、大阪府都市開発の分割民営化を行う方針を固めた。しかし、2010年9月17日、府は採算性の低い鉄道事業を、収益性の高い物流事業で補う方が経営が安定すると判断し、鉄道事業と、物流事業など鉄道以外の事業を分割せず、一体のまま民営化することを決めた。 2013年6月6日、大阪府は大阪府が保有する株式一括売却の公募を発表。2013年度内に売却するスケジュールが示された。大阪府以外の株主も同一時期・同一価格で売却するとし、他株主保有分を含めた売却総額は670億円を見込んでいた。 2013年11月、アメリカ合衆国の投資ファンド、ローンスターが優先交渉権を獲得し、781億400万円で売却されることになった。 しかし、売却先が外資系企業だったということもあり、この動きについては、沿線住民から異論が出た。堺市議会では、2013年12月4日に開かれる本会議で「市民の利便性を考慮していない」という理由で、大阪府に対して株式売却の白紙撤回を求める決議を公明党、自民党など4会派が共同提案する方針を示した。また、橋下が代表を務める大阪維新の会の堺市議団もこれに同調した。 そもそも今回の問題は、株式の売却先を公募することで始まり、最終候補として南海電鉄とローンスターの2者が残った。ローンスターは株式の買い取り価格が南海電鉄よりも約60億円高かった。ローンスターは泉北高速鉄道との乗り継ぎ運賃を10円値下げし、65歳以上に対しては乗車賃を半額にするという提案をしていた。一方、南海電鉄は乗り継ぎ運賃を80円値下げする提案をしていた。仮に2013年12月時点の運賃から80円値下げされれば、難波 - 和泉中央間 (27.1km) は540円になる。ちなみに、難波 - 和泉中央間とほぼ同程度の距離である難波 - 河内長野間 (27.5km) の運賃は540円(2013年12月当時)である。 そうした中、泉北高速鉄道の沿線にキャンパスがある帝塚山学院大学、プール学院大学、桃山学院大学の3大学が、南海電鉄の他の路線と均衡の取れた運賃設定とし、通学定期券の大幅値下げの実現を求める松井一郎知事宛ての要望書を大阪府に提出する形でローンスター側への売却の動きに対する不快感を示した。3大学の学生は、通学に泉北高速鉄道を一番よく利用しているが、運賃や通学定期券の割高感に不満を訴える保護者の声が依然として根強いという。 また、大阪府がローンスターへの株式売却を正式に決定するためには、大阪府議会の議決を得なければならないが、その大阪府議会では、2015年の統一地方選挙を控えており、大阪維新の会に所属する議員からも、「沿線住民の反対を押し切ってまでローンスターへの株式の売却を強行採決するのは如何なものか。」や、「そもそも、泉州地域は南海電鉄のエリアなのだから、株式の売却は、公募ではなく、南海電鉄との随意契約でも良かったのではないか。」といった意見が出始めていた。 2013年12月5日には、堺市と同じく泉北高速鉄道の沿線自治体である和泉市でも、大阪府に向けて堺市議会と同様の趣旨の決議を出すことに市議会の各会派が同意。12月11日の市議会本会議では、「ローンスターへの売却は、鉄道事業の安定的な経営や安全輸送に危惧がある」として、交渉相手の再検討を視野に鉄道利用者の利便性向上(大幅な運賃値下げ)を求める決議案を全会一致で可決した。 大阪維新の会所属の議員が(欠員をのぞいて)過半数(55名)を占める大阪府議会では、同年12月16日の都市住宅常任委員会および本会議で、大阪府都市開発の株式売却に関する議案の採決を実施。午前中に開催の都市住宅常任委員会では、大阪維新の会から沿線地域(堺市南区)選出の密城(みつぎ)浩明府議が反対に回ったことから、この議案は反対多数で否決された。午後に開かれた本会議では、大阪維新の会所属議員のうち、密城、西恵司(堺市中区選出)、奥田康司(高石市選出)、中野雅司(大阪市住吉区選出)の4名が議案に反対。その結果、反対票53、賛成票51の反対多数で否決された。 なお、大阪府では、前述の採決前に、府議会で議案が否決された場合には再度公募を実施する意向を示していた。ただし、少なくとも1年程度の準備期間を要するうえに、今回と同等以上の条件を提案する者が再度現れるという保証はないとされていた。結局、松井は2014年2月21日開催の大阪府議会・2月定例議会で、大阪府都市開発が発行する株式を随意契約によって750億円(全株式数800万株、1株9375円、大阪府保有分367.5億円、その他の企業保有分382.5億円)で南海電鉄及び子会社・関連会社7社に売却する方針を表明し、同年5月15日に売却契約が締結され、7月にも売却される見通しとなった。その後、2014年6月6日に大阪府議会で出されていた売払いに関する議案が可決されたため、2014年7月1日にその他企業保有分を含め全株式が譲渡されることになった。これにより、同日から第三セクターでなくなるため自治体名を含まない「泉北高速鉄道株式会社」に社名を変更し、同時に南海グループの一員となった。 泉北高速鉄道線開業からしばらくの間は車両保守業務を南海電気鉄道に委託していたこともあり、南海側が同時期に導入した車両を基本とした車両を導入していた。3000系の台車に開業時の車両100系と同形式のものを採用したり、南海の新車導入が界磁チョッパ制御車の8200系に移行してからも3000系の増備を継続したことから、車両管理上のコストダウンを常に念頭に置いていたことがうかがえる。また、南海に全面委託していた時代は、泉北高速鉄道線に直通しない南海高野線の列車(三日市町以北のみ)にも使用されていた。しかし、5000系以後は南海車の影響から脱したオリジナル設計車となり、7000系の制御装置におけるIGBT素子の採用、7020系の車内における停車駅案内表示用液晶ディスプレイ採用など、南海よりも積極的に新しい技術を採用している。 南海電鉄と共通設計の車両(一部除く)は東急車輛製造(横浜市)と後身の総合車両製作所横浜事業所が、泉北独自設計の車両は川崎重工業(神戸市)が製造している。南海の技術基準に合わせて、開業以来、モーターは三菱電機、制御装置は日立製作所製で統一されている。 南海グループ入り後、南海12000系の泉北仕様車として特急「泉北ライナー」用に12000系が、南海8300系の泉北仕様車として普通列車用に9300系が新造された。 なお、3000系の一部は2012年以降南海に移籍し、同社の3000系として運用を開始した。大手私鉄で廃車になった車両が準大手以下の鉄道会社またはグループの鉄道会社に移籍することはよくあるが(阪急電鉄→能勢電鉄など)、準大手私鉄の車両が大手私鉄に移籍するという非常に珍しい例となった。 1999年から2017年まで、大阪府立大型児童館ビッグバン開館を記念して館長の漫画家松本零士がデザインした同館のイメージキャラクター「ベアル」と「メロウ」が車体に描かれた5000系の特別塗装車を運行し、「クマ電」とも呼ばれていた。2009年6月には同館開館10周年を記念し「ハッピーベアル」という愛称が公募で付けられた。「ハッピーベアル」は2017年10月1日で運行を終了し、翌10月2日から7000系ラッピング車「フロンティア号」が運行を開始した。
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泉北高速鉄道株式会社は、大阪府内で鉄道事業と物流事業を営む南海グループの企業である。本社所在地は大阪府和泉市いぶき野五丁目1番1号(和泉中央駅駅ビル内)。 鉄道事業として「泉北高速鉄道線」、物流事業としてトラックターミナル「東大阪流通センター」「北大阪流通センター」をそれぞれ運営しており、鉄道事業者としては準大手私鉄に分類されている。 旧社名は大阪府都市開発株式会社で、大阪府などが出資する第三セクター会社であった。大阪府都市開発とそのグループ会社を合わせて「OTKグループ」と称していた。2014年7月1日に南海電気鉄道の連結子会社となり、南海グループの一員となって現在の社名に変更した(ただし鉄道事業では大阪府都市開発時代から一貫して「泉北高速鉄道」の名称が用いられていた)。 ロゴマークは泉北の「セ」、Railway(鉄道)の「R」、Velocity(高速)の「V」を組み合わせたものであり、さらにマーク全体で大阪の鳥である「モズ」を表している。 2023年12月20日に南海電気鉄道・泉北高速鉄道の両社は、2025年度早期の経営統合に向けて基本合意に達したことを発表した。南海電気鉄道を存続会社として泉北高速鉄道を吸収合併し、今後法的拘束力のない覚書を締結する予定となっている。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{For|この会社が運営する鉄道路線|泉北高速鉄道線}} {{Pathnav|南海電気鉄道|frame=1}} {{基礎情報 会社 |社名 = 泉北高速鉄道株式会社 |英文社名 = Semboku Rapid Railway Co.,Ltd. |ロゴ = Semboku-logo.svg |ロゴサイズ = 100px |画像 = 泉北高速鉄道線 和泉中央駅 Izumi-chūō station 2012.12.14 - panoramio.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 本社が入居する[[和泉中央駅]]駅ビル |種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報 = |略称 = 泉北高速、泉北 |国籍 = {{JPN}} |本社郵便番号 = 594-0041 |本社所在地 = [[大阪府]][[和泉市]][[いぶき野 (和泉市)|いぶき野]]五丁目1番1号<br />(和泉中央駅駅ビル内) |本社緯度度 = 34|本社緯度分 = 27|本社緯度秒 = 40.69|本社N(北緯)及びS(南緯) = N |本社経度度 = 135|本社経度分 = 27|本社経度秒 = 22.31|本社E(東経)及びW(西経) = E |座標右上表示 = Yes |本社地図国コード = JP |設立 = [[1965年]]([[昭和]]40年)[[12月24日]]<br />(大阪府都市開発株式会社) |業種 = 陸運業 |事業内容 = {{Nowrap begin}}旅客鉄道事業([[泉北高速鉄道線]]){{.w}}流通センター事業{{.w}}りんくう国際物流事業{{W}}他{{Nowrap end}} |代表者 = 代表取締役社長 金森哲朗 |資本金 = 40億円 |売上高 = * 136億7500万円 (2023年3月期)<ref name="fy">第58期決算公告、2023年(令和5年)6月19日付「官報」(号外第128号)97頁。</ref><!-- 数値は通期のため、売上高は〇年〇月期と記載してください --><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |営業利益 = * 45億9900万円 (2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値は通期のため、営業利益は〇年〇月期と記載してください --><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |経常利益 = * 46億4600万円 (2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値は通期のため、経常利益は〇年〇月期と記載してください --><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純利益 = * 5600万円 (2023年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値は通期のため、当期純利益は〇年〇月期と記載してください --><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |純資産 = |総資産 = * 784億5200万円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |従業員数 = 258人(2019年3月31日現在)<ref>鉄道統計年報令和元年度版 - 国土交通省</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> |決算期 = 3月31日 |主要株主 = [[南海電気鉄道]] 100%<ref name="nankai20231220" /> |主要子会社 = |関係する人物 = |外部リンク = {{URL|http://www.semboku.jp/company/}} |特記事項 = }} '''泉北高速鉄道株式会社'''(せんぼくこうそくてつどう、{{Lang-en-short|Semboku Rapid Railway Co.,Ltd.}})は、[[大阪府]]内で[[鉄道]]事業と[[物流]]事業を営む[[南海グループ]]の[[企業]]である。本社所在地は大阪府[[和泉市]][[いぶき野 (和泉市)|いぶき野]]五丁目1番1号([[和泉中央駅]]駅ビル内)。 鉄道事業として「[[泉北高速鉄道線]]」、物流事業として[[トラックターミナル]]「東大阪流通センター」「北大阪流通センター」をそれぞれ運営しており、鉄道事業者としては[[準大手私鉄]]に分類されている。 旧社名は'''大阪府都市開発株式会社'''(おおさかふとしかいはつ、{{Lang-en-short|Osaka Prefectural Urban Development Co.,Ltd.|links=no}}、略称:OTK)で、大阪府などが出資する[[第三セクター]]会社であった。大阪府都市開発とそのグループ会社を合わせて「'''OTKグループ'''」と称していた。[[2014年]][[7月1日]]に[[南海電気鉄道]]の[[連結子会社]]となり、南海グループの一員となって現在の社名に変更した(ただし鉄道事業では大阪府都市開発時代から一貫して「泉北高速鉄道」の名称が用いられていた)。 [[ロゴタイプ|ロゴマーク]]は泉北の「'''セ'''」、{{en|Railway}}(鉄道)の「'''R'''」、{{en|Velocity}}(高速)の「'''V'''」を組み合わせたものであり、さらにマーク全体で大阪の鳥である「[[モズ]]」を表している。 2023年12月20日に南海電気鉄道・泉北高速鉄道の両社は、2025年度早期の[[企業組織再編|経営統合]]に向けて基本合意に達したことを発表した。南海電気鉄道を存続会社として泉北高速鉄道を[[合併 (企業)|吸収合併]]し、今後法的拘束力のない覚書を締結する予定となっている<ref name="nankai20231220">{{Cite press release|title=連結子会社である泉北高速鉄道株式会社との経営統合に関する基本合意のお知らせ|publisher=南海電気鉄道|date=2023-12-20|url=https://www.nankai.co.jp/lib/company/news/pdf/231220.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-12-21}}</ref>。 == 歴史 == *[[1965年]]([[昭和]]40年)[[12月24日]] - '''大阪府都市開発株式会社'''として設立。 *[[1968年]](昭和43年)[[2月15日]] - 東大阪トラックターミナル開業<ref>{{Cite news |和書|title=第一ターミナルが完成 東大阪トラックターミナル |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-01-30 |page=2 }}</ref>。 *[[1969年]](昭和44年) **[[3月31日]] - [[地方鉄道法]]による地方鉄道免許を取得。 **[[8月13日]] - 東大阪流通倉庫営業開始。 *[[1971年]](昭和46年)[[4月1日]] - 泉北高速鉄道線 中百舌鳥 - 泉ヶ丘間開業。 *[[1973年]](昭和48年)[[12月7日]] - 泉北高速鉄道線 泉ヶ丘 - 栂・美木多間開業。 *[[1974年]](昭和49年) **[[3月1日]] - 北大阪トラックターミナル開業。 **[[10月1日]] - 北大阪流通倉庫営業開始。 *[[1977年]](昭和52年)[[8月20日]] - 泉北高速鉄道線 栂・美木多 - 光明池間開業。 *[[1988年]](昭和63年)[[3月24日]] - [[鉄道事業法]]による[[鉄道事業者|第一種鉄道事業]]免許を取得。この後1993年(平成5年)4月まで段階的に直営化を行う。 *[[1991年]]([[平成]]3年)[[2月14日]] - 光明池 - 和泉中央間の第一種鉄道事業免許を取得。 *[[1993年]](平成5年)4月1日 - 駅業務・技術部門を直営化。[[南海電気鉄道]]への業務委託解消。 *[[1995年]](平成7年)4月1日 - 泉北高速鉄道線 光明池 - 和泉中央間開業<ref>{{Cite news |title=泉北高速鉄道 光明池-和泉中央が開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1995-04-05 |page=1 |language=ja}}</ref>。 *[[2001年]](平成13年) **[[7月28日]] - 本社を[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]から[[和泉市]]に移転。 **10月1日 - りんくう国際物流センター営業開始。 *[[2005年]](平成17年)[[2月1日]] - グループ会社大阪りんくうホテル株式会社が[[全日空ゲートタワーホテル大阪]]の経営(運営は[[全日空ホテルズ]]へ委託)開始。 *[[2006年]](平成18年)[[7月1日]] - 泉北高速鉄道の新しいサービスとして、ポストペイ式IC[[乗車カード]]「[[PiTaPa]]」を導入。 *[[2007年]](平成19年)4月1日 - 泉北高速鉄道の新しいサービスとして、「[[PiTaPa|PiTaPa定期券]]」を導入。 *[[2014年]](平成26年)7月1日 - 南海電気鉄道が大阪府などから株式を取得し、同社の子会社となる<ref name="nankai20140515" />。社名を'''泉北高速鉄道株式会社'''に変更し<ref name="senboku20140701">{{PDFlink|[http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2014/07/d654a80c8f72b6556f29d20c0af33768.pdf 社名変更に関するお知らせ]}} - 泉北高速鉄道、2014年7月1日</ref>、代表取締役社長に南海電気鉄道副社長の福田順太郎が就任<ref name="nankai20140611">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140611_2.pdf 役員業務分担及び人事異動に関するお知らせ]}} - 南海電気鉄道、2014年6月11日、欄外に社名変更予定が記載</ref>。 *[[2015年]](平成27年) **4月1日 - 株式会社[[大阪府食品流通センター]]の全株式を取得<ref>{{Cite press release|和書|format=PDF|url=http://www.semboku.jp/company/wp-content/uploads/2015/03/syokuhin.pdf|title=第3セクター「株式会社大阪府食品流通センター」の株式を平成27年4月1日付けで取得します|publisher=泉北高速鉄道|date=2015-03-18|accessdate=2016-08-20}}</ref>。 **12月5日 準大手私鉄では初となる有料特急「[[泉北ライナー]]」を運転開始。 *[[2017年]](平成29年) **[[3月25日]] - 泉北高速鉄道線各駅でプリペイド式ICカード「[[ICOCA]]」「ICOCA定期券」を発売開始<ref name="senboku20150123">{{Cite web|和書|title=ICOCAおよびICOCA定期券の発売開始日について|url=http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2017/02/ICOCA170203.pdf|publisher=大阪市交通局/南海電気鉄道株式会社/京都市交通局/神戸市交通局/山陽電気鉄道株式会社/神戸電鉄株式会社/大阪高速鉄道株式会社/泉北高速鉄道株式会社/神戸新交通株式会社/北神急行電鉄株式会社/山陽バス株式会社/西日本旅客鉄道株式会社|format=PDF |date=2017-02-03|accessdate=2017-02-03}}</ref>。 **4月1日 - 前照灯の[[昼間点灯|終日点灯]]を開始(南海電気鉄道も同日から実施)。 * [[2025年]](令和7年) - 南海電気鉄道に吸収合併され、法人格が消滅する予定<ref name="nankai20231220" />。 == 事業概要 == [[ファイル:Bridge_12000SembokuLiner.jpg|thumb|泉北高速鉄道線]] [[ファイル:Higashi-osaka-ryutuu-center.jpg|thumb|東大阪流通センター]] 鉄道事業は、[[泉北高速鉄道線]]として[[南海高野線]]の[[中百舌鳥駅]]から分岐して[[和泉中央駅]]までを営業している。 大阪府は[[泉北ニュータウン]]への連絡路線建設にあたり、[[大阪市交通局]]([[大阪市営地下鉄御堂筋線|御堂筋線]]・[[大阪市営地下鉄四つ橋線|四つ橋線]]・[[大阪市営地下鉄千日前線|千日前線]])、[[近畿日本鉄道]]([[近鉄南大阪線|南大阪線]])、[[日本国有鉄道]]([[阪和線]])、南海電気鉄道(高野線)の6つのルートを検討した。その結果、輸送能力に余裕があり、営業エリア上でも問題がない南海電気鉄道に新路線建設を打診することとなった<ref group="注釈">この当時、大阪市営地下鉄御堂筋線及び国鉄阪和線の輸送力は既にパンク気味であり、また近鉄南大阪線は営業エリアが南海電鉄のエリアと重なることによる南海電鉄の抗議への懸念から、除外されたようである。</ref><ref>『泉北ニュータウンの建設』(昭和61年3月、大阪府企業局)</ref>。しかし南海は、[[1960年代]]後半に立て続けに大事故を起こし当時の[[運輸省]](現:[[国土交通省]])から厳重注意を受けていたため、新車両の購入や線路の復旧などへの投資を最優先しなければならなかった。また当時は架線電圧の600Vから1500Vへの昇圧、[[難波駅 (南海)|難波駅]]の改良、高野線の河内長野以南の複線化、[[南海本線]]の天下茶屋以南の高架化など複数の事業が計画されていた。そのため、多額の投資が必要で採算が当分見込めない新路線の建設にまで手が回らず、やむを得ず大阪府が、既存の第三セクター会社(当時)を活用して鉄道運営にあたることになった。 物流事業は、長距離を走る大型路線トラックと市内を走る小型集配車を中継する役目などを持つ[[トラックターミナル]]、荷物の一時保管を行う流通倉庫などが併設された[[流通センター]]を下記の2箇所に有している。 *東大阪流通センター (大阪府[[東大阪市]]本庄二丁目7番10号 他) *北大阪流通センター (大阪府[[茨木市]]宮島二丁目5番1号 他) また、[[泉佐野市]]で[[関西国際空港]]発着の航空貨物との中継を行う物流拠点として設けられた、りんくう国際物流センター(RILセンター)の運営会社にも出資していた。 [[2004年]]、[[りんくうタウン]]に所在の「[[全日空ゲートタワーホテル大阪]]」の経営会社ゲートタワーホテル株式会社の経営不振や、その親会社の第三セクター会社[[りんくうゲートタワービル]]株式会社も債務超過状態に陥ったため([[2005年]]4月に経営会社は[[倒産|特別清算]]、親会社は[[会社更生法]]を申請)、大阪府主導で大阪府都市開発傘下に「大阪りんくうホテル株式会社」を2004年11月29日に設立し、ゲートタワーホテル社の負債を切り離した上でりんくうホテル社へ無償で施設と一部の未収金を譲渡させ、従業員の再雇用を行い、2005年[[2月1日]]より経営を引き継いだ。 == 株式売却問題 == 泉北高速鉄道は、大阪府などが出資する[[第三セクター]]、大阪府都市開発株式会社として1965年に設立された。 2008年4月、当時の大阪府知事[[橋下徹]]が[[大阪外環状鉄道]]とともに大阪府都市開発の大阪府の保有する株を放出する意向を明らかにした。この動きに対し、[[南海電気鉄道|南海電鉄]]が株式の取得に意欲を見せた<ref>[http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003727.html 大阪府三セク「都市開発」株、南海電鉄が取得に意欲 - - 直通の泉北鉄道、利便性向上も]{{リンク切れ|date=2010年9月}} - 日経ネット関西版、2008年4月11日。</ref>。しかし、売却には他の株主との調整が必要な上に、大阪府都市開発は府に対して年間1億2000万円の配当を出す黒字企業であることから、府議会から異論が出ていた。 2009年4月9日、大阪府は知事の橋下徹を本部長とする戦略本部会議を設置し、大阪府都市開発の分割民営化を行う方針を固めた<ref>[http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090409/lcl0904091412001-n1.htm 泉北高速鉄道の「大阪府都市開発」を分割民営化へ]{{リンク切れ|date=2010年9月}} - 産経新聞、2009年4月9日。</ref>。しかし、2010年9月17日、府は採算性の低い鉄道事業を、収益性の高い物流事業で補う方が経営が安定すると判断し、鉄道事業と、物流事業など鉄道以外の事業を分割せず、一体のまま民営化することを決めた<ref>[https://web.archive.org/web/20101125205552/http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100917/lcl1009172032005-n1.htm 3セクの泉北高速鉄道 大阪府が一括売却 完全民営化へ](Internet Archive) - 産経新聞、2010年9月17日</ref>。 2013年6月6日、大阪府は大阪府が保有する株式一括売却の公募を発表。2013年度内に売却するスケジュールが示された。大阪府以外の株主も同一時期・同一価格で売却するとし、他株主保有分を含めた売却総額は670億円を見込んでいた<ref>[http://www.pref.osaka.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=13531 大阪府都市開発株式会社(OTK)の株式売却の公募について] - 大阪府報道発表資料、2013年6月6日</ref><ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/toshikotsu/otk-koubo2/index.html 大阪府都市開発株式会社(OTK)の株式売却の公募について] - 大阪府公式サイト、2013年6月6日</ref>。 2013年11月、[[アメリカ合衆国]]の[[投資ファンド]]、[[ローンスター]]が優先交渉権を獲得し、781億400万円で売却されることになった<ref>[http://www3.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003309781.html 泉北高速鉄道 米企業に売却へ] - NHK、2013年11月26日</ref><ref>[http://www.pref.osaka.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=15018 大阪府都市開発株式会社(OTK)株式売却の優先交渉権者の選定結果等について] - 大阪府報道発表資料、11月26日</ref>。 しかし、売却先が[[外資系企業]]だったということもあり、この動きについては、沿線住民から異論が出た。[[堺市]][[地方議会|議会]]では、[[2013年]][[12月4日]]に開かれる本会議で「市民の利便性を考慮していない」という理由で、大阪府に対して株式売却の白紙撤回を求める決議を[[公明党]]、[[自由民主党 (日本)|自民党]]など4会派が共同提案する方針を示した。また、橋下が代表を務める[[大阪維新の会]]の堺市議団もこれに同調した<ref>[[読売新聞]]2013年11月29日の33面「堺・泉州」コーナー</ref><ref name="sankei20131128">{{Cite news |title=【泉北高速株】「10円値下げ」で満足せず 松井知事に〝身内〟も反旗 |newspaper=産経新聞 |date=2013-11-28 |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131128/waf13112823370041-n1.htm |publisher=産経新聞社 |accessdate=2017-09-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131130112026/http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131128/waf13112823370041-n1.htm |archivedate=2013-11-30}}</ref>。 そもそも今回の問題は、株式の売却先を公募することで始まり、最終候補として南海電鉄とローンスターの2者が残った<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MSOVBG6S972H01.html 大阪府の鉄道・物流施設会社売却、TPGなど6社最終入札に関心 (1)] - 今回の入札には、南海電鉄とローンスター以外にも4者が参加していたが、TPGキャピタルやCVCキャピタル・パートナーズなど、いずれも外資系ファンドだったという。(ブルームバーグ・ニュース情報 2013年9月6日 16時51分)</ref>。ローンスターは株式の買い取り価格が南海電鉄よりも約60億円高かった<ref name="sankei20131128" />。ローンスターは泉北高速鉄道との乗り継ぎ運賃を10円値下げし、65歳以上に対しては乗車賃を半額にするという提案をしていた。一方、南海電鉄は乗り継ぎ運賃を80円値下げする提案をしていた<ref name="sankei20131128" /><!-- 注意:産経では高野線と完全に一体化するかまでは書いていません(会社は別のまま)。-->。仮に2013年12月時点の運賃から80円値下げされれば、[[難波駅 (南海)|難波]] - [[和泉中央駅|和泉中央]]間 (27.1km) は540円になる。ちなみに、難波 - 和泉中央間とほぼ同程度の距離である難波 - [[河内長野駅|河内長野]]間 (27.5km) の運賃は540円(2013年12月当時)である。 そうした中、泉北高速鉄道の沿線にキャンパスがある[[帝塚山学院大学]]、[[プール学院大学]]、[[桃山学院大学]]の3大学が、南海電鉄の他の路線と均衡の取れた運賃設定とし、通学定期券の大幅値下げの実現を求める[[松井一郎]]知事宛ての要望書を大阪府に提出<ref>読売新聞2013年12月4日の29面「堺・泉州」コーナー</ref>する形でローンスター側への売却の動きに対する不快感を示した。3大学の学生は、通学に泉北高速鉄道を一番よく利用しているが、運賃や通学定期券の割高感に不満を訴える保護者の声が依然として根強いという。 また、大阪府がローンスターへの株式売却を正式に決定するためには、[[大阪府議会]]の議決を得なければならないが、その大阪府議会では、[[2015年]]の[[統一地方選挙]]を控えており、大阪維新の会に所属する議員からも、「沿線住民の反対を押し切ってまでローンスターへの株式の売却を強行採決するのは如何なものか。」や、「そもそも、[[和泉|泉州地域]]は南海電鉄のエリアなのだから、株式の売却は、公募ではなく、南海電鉄との[[随意契約]]でも良かったのではないか。」といった意見が出始めていた。 2013年[[12月5日]]には、堺市と同じく泉北高速鉄道の沿線[[地方公共団体|自治体]]である[[和泉市]]でも、大阪府に向けて堺市議会と同様の趣旨の決議を出すことに市議会の各会派が同意<ref>読売新聞2013年12月6日の33面「堺・泉州」コーナー</ref>。[[12月11日]]の市議会本会議では、「ローンスターへの売却は、鉄道事業の安定的な経営や安全輸送に危惧がある」として、交渉相手の再検討を視野に鉄道利用者の利便性向上(大幅な運賃値下げ)を求める決議案を全会一致で可決した<ref>「[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131211/waf13121111110014-n1.htm 【泉北高速株】和泉市議会も売却再検討を求める 大幅運賃値下げなど決議]」『[[産経新聞|msn産経ニュースwest]]』2013年12月11日付記事</ref>。 大阪維新の会所属の議員が(欠員をのぞいて)過半数(55名)を占める大阪府議会では、同年[[12月16日]]の都市住宅常任委員会および本会議で、大阪府都市開発の株式売却に関する議案の採決を実施。午前中に開催の都市住宅常任委員会では、大阪維新の会から沿線地域([[南区 (堺市)|堺市南区]])選出の密城(みつぎ)浩明府議が反対に回ったことから、この議案は反対多数で否決された<ref>「[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131216/wlf13121610560009-n1.htm 【泉北高速株】維新、大激震! 府議1人が初造反 委員会で株売却案否決]『msn産経ニュースwest』2013年12月16日付記事</ref>。午後に開かれた本会議では、大阪維新の会所属議員のうち、密城、西恵司([[中区 (堺市)|堺市中区]]選出)、奥田康司([[高石市]]選出)、中野雅司([[住吉区|大阪市住吉区]]選出)の4名が議案に反対。その結果、反対票53、賛成票51の反対多数で否決された<ref>「[http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131216/wlf13121615400019-n1.htm 【泉北高速株】維新4府議が造反 外資へ株売却案 本会議でも否決]」『msn産経ニュースwest』2013年12月16日付記事</ref>。 なお、大阪府では、前述の採決前に、府議会で議案が否決された場合には再度公募を実施する意向を示していた。ただし、少なくとも1年程度の準備期間を要するうえに、今回と同等以上の条件を提案する者が再度現れるという保証はないとされていた<ref>読売新聞2013年12月11日の35面「堺・泉州」コーナー</ref>。結局、松井は2014年2月21日開催の大阪府議会・2月定例議会で、大阪府都市開発が発行する株式を随意契約によって750億円(全株式数800万株、1株9375円、大阪府保有分367.5億円、その他の企業保有分382.5億円)で南海電鉄及び子会社・関連会社7社に売却する方針を表明し<ref>[http://www.47news.jp/FN/201402/FN2014022101002105.html 松井知事が泉北高速鉄道の株式売却を表明] - 共同通信、2014年2月21日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140221/waf14022114090020-n1.htm 【泉北高速株】南海電鉄へ750億円で売却へ 大阪府知事が表明] - MSN産経ニュース、2014年2月21日</ref>、同年5月15日に売却契約が締結され、7月にも売却される見通しとなった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140515/waf14051520080035-n1.htm 泉北高速株 大阪府が南海と750億円で売却契約 公募から随意契約転換で] - 産経新聞、2014年5月15日</ref><ref>[http://www.pref.osaka.lg.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=16420 大阪府都市開発株式会社(OTK)の株式売却について] - 大阪府、2014年5月15日</ref><ref name="nankai20140515">{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140515_2.pdf 大阪府都市開発株式会社の株式の取得(子会社化)に関するお知らせ]}} - 南海電気鉄道、2014年5月15日</ref>。その後、2014年6月6日に大阪府議会で出されていた売払いに関する議案が可決されたため、2014年7月1日にその他企業保有分を含め全株式が譲渡されることになった<ref>{{PDFlink| [http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/140606.pdf 大阪府都市開発株式会社の株式取得について(お知らせ)]}} - 南海電気鉄道、2014年6月6日</ref>。これにより、同日から第三セクターでなくなるため自治体名を含まない「泉北高速鉄道株式会社」に社名を変更し、同時に南海グループの一員となった<ref name="senboku20140701" />。 == 路線 == [[File:Semboku RouteMap 3rd.png|thumb|300px|路線図]] * [[File:Number prefix Semboku Rapid Railway line.png|26px|SB]] [[泉北高速鉄道線]] 中百舌鳥駅 - 和泉中央駅 14.3&nbsp;km == 車両基地 == * 光明池車庫 - 毎年10月から11月にかけて、[[鉄道の日]]にちなんだ車庫内一般公開イベント「せんぼくトレインフェスタ」が休日に1日開催される。 == 車両 == 泉北高速鉄道線開業からしばらくの間は車両保守業務を南海電気鉄道に委託していたこともあり、南海側が同時期に導入した車両を基本とした車両を導入していた。[[大阪府都市開発3000系電車|3000系]]の台車に開業時の車両[[大阪府都市開発100系電車|100系]]と同形式のものを採用したり、南海の新車導入が[[界磁チョッパ制御]]車の[[南海8200系電車|8200系]]に移行してからも3000系の増備を継続したことから、車両管理上のコストダウンを常に念頭に置いていたことがうかがえる。また、南海に全面委託していた時代は、泉北高速鉄道線に直通しない南海高野線の列車([[三日市町駅|三日市町]]以北のみ)にも使用されていた。しかし、[[大阪府都市開発5000系電車|5000系]]以後は南海車の影響から脱したオリジナル設計車となり、[[大阪府都市開発7000系電車|7000系]]の制御装置における[[絶縁ゲートバイポーラトランジスタ|IGBT]]素子の採用、[[大阪府都市開発7000系電車#7020系|7020系]]の車内における停車駅案内表示用液晶ディスプレイ採用など、南海よりも積極的に新しい技術を採用している。 南海電鉄と共通設計の車両(一部除く)は[[東急車輛製造]]([[横浜市]])と後身の[[総合車両製作所]]横浜事業所が、泉北独自設計の車両は[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]([[神戸市]])が製造している。南海の技術基準に合わせて、開業以来、モーターは[[三菱電機]]、制御装置は[[日立製作所]]製で統一されている。 南海グループ入り後、南海[[南海12000系電車|12000系]]の泉北仕様車として特急「泉北ライナー」用に[[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]]が、南海[[南海8300系電車|8300系]]の泉北仕様車として普通列車用に[[南海8300系電車#泉北高速鉄道9300系電車|9300系]]が新造された。 なお、3000系の一部は2012年以降南海に移籍し、同社の3000系として運用を開始した。大手私鉄で廃車になった車両が準大手以下の鉄道会社またはグループの鉄道会社に移籍することはよくあるが([[阪急電鉄]]→[[能勢電鉄]]など)、準大手私鉄の車両が大手私鉄に移籍するという非常に珍しい例となった。 1999年から2017年まで、[[堺市立ビッグバン|大阪府立大型児童館ビッグバン]]開館を記念して館長の漫画家[[松本零士]]がデザインした同館のイメージキャラクター「ベアル」と「メロウ」が車体に描かれた[[大阪府都市開発5000系電車#特別塗装車|5000系の特別塗装車]]を運行し、「クマ電」とも呼ばれていた。2009年6月には同館開館10周年を記念し「ハッピーベアル」という愛称が公募で付けられた<ref>[http://www.semboku.jp/news/dt_168.html ペイント列車の愛称決定] - 大阪府都市開発 2009年6月</ref>。「ハッピーベアル」は2017年10月1日で運行を終了し、翌10月2日から[[大阪府都市開発7000系電車#大型児童館ビッグバン「フロンティア号」ラッピング|7000系ラッピング車「フロンティア号」]]が運行を開始した<ref>[http://www.semboku.jp/cat_news/6172/ ラッピング電車「フロンティア号」を運行します] - 泉北高速鉄道 2017年9月22日</ref>。 === 現有車両 === ; 特急用車両 :* [[南海12000系電車#泉北高速鉄道12000系|12000系]] - [[泉北ライナー]]用 ; 通勤用車両 :* [[大阪府都市開発3000系電車|3000系]] :* [[大阪府都市開発5000系電車|5000系]] :* [[大阪府都市開発7000系電車|7000系]] :* [[大阪府都市開発7000系電車#7020系|7020系]] :* [[南海8300系電車#泉北高速鉄道9300系電車|9300系]] <gallery widths="180"> Semboku 12000 Series 12021F 20180820.jpg|12000系 Semboku3000_3509F.jpg|3000系 Senboku-Series5000-5507F.jpg|5000系 Senboku-Series7506.jpg|7000系 Senboku-Series7522.jpg|7020系 Semboku Series9300-9402.jpg|9300系 </gallery> === 過去の車両 === ; 通勤用車両 :* [[大阪府都市開発100系電車|100系]] <gallery widths="180"> Semboku586.JPG|100系 </gallery> == グループ会社 == *泉鉄産業株式会社 - 泉北高速鉄道各駅店舗の管理・運営、広告代理業 *株式会社パンジョ - [[髙島屋|泉北タカシマヤ]]をキーテナントとして、123店の専門店を備えたショッピングセンター「[[パンジョ]]」を経営 *株式会社大阪府食品流通センター - [[大阪府中央卸売市場]]付設加工食品卸売場(大阪・茨木こだわり食材市場)の運営 === かつて存在していたグループ会社 === *りんくう国際物流株式会社 - りんくうタウンで輸出入通関、集配送、一時保管、流通加工 *大阪りんくうホテル株式会社 - りんくうタウンで「[[全日空ゲートタワーホテル大阪]](現・[[スターゲイトホテル関西エアポート]])」を経営 *泉北鉄道サービス株式会社 - 定期乗車券の発売 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == {{Commonscat|Semboku Rapid Railway}} * [http://www.semboku.jp/company/ 泉北高速鉄道株式会社] * [http://www.semboku.jp/ 泉北高速鉄道(鉄道事業)] * {{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/2920/00058065/1.pdf 大阪府都市開発株式会社(OTK)の民営化について]}} * {{Wayback|url=http://www.otk-group.co.jp/|title=大阪府都市開発|date=20140106123730}} ; グループ会社 :* [http://www.sentetsu.co.jp/ 泉鉄産業株式会社] :* [http://www.panjo.co.jp/ パンジョ【PANJO】] :* [http://www1.odn.ne.jp/shokuryu/ 大阪府食品流通センター] : {{Company-stub}} {{南海グループ}} {{大手私鉄}} {{スルッとKANSAI}} {{ICOCA}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1= 泉鉄産業 |1-1= 1983年設立の企業 }} {{DEFAULTSORT:せんほくこうそくてつとう}} [[Category:大手私鉄・準大手私鉄]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:和泉市の企業]] [[Category:1965年設立の企業]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:泉北高速鉄道|*]] [[Category:かつての地方公企業]] [[Category:南海グループ]] [[Category:日本の陸運業]]
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肝吸い
肝吸い(きもすい)は、ウナギの内臓を実とする吸い物。「肝」という字を用いるが肝臓ではなく、胃を中心とした腎臓や腸の一部が付着した部位が用いられる。鰻丼や鰻重と共に供されることが多い。「肝」自体にはほとんど味はなく、コリコリとした食感や風味を楽しむという部分が大きい。
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肝吸い(きもすい)は、ウナギの内臓を実とする吸い物。「肝」という字を用いるが肝臓ではなく、胃を中心とした腎臓や腸の一部が付着した部位が用いられる。鰻丼や鰻重と共に供されることが多い。「肝」自体にはほとんど味はなく、コリコリとした食感や風味を楽しむという部分が大きい。
{{出典の明記|date=2017年7月}} [[画像:Kimosui.jpg|thumb|right|200px|肝吸い。椀の下に沈んでいるのが肝。]] '''肝吸い'''(きもすい)は、[[ウナギ]]の[[内臓]]を実とする[[吸い物]]<ref name="コトバンク">{{Cite web2 |url=https://kotobank.jp/word/%E8%82%9D%E5%90%B8%E3%81%84-475891 |title=肝吸い |publisher=[[コトバンク]] |author=日本大百科全書(ニッポニカ) |accessdate=2020年4月3日 }}</ref>。「肝」という字を用いるが[[肝臓]]ではなく、[[胃]]を中心とした[[腎臓]]や[[腸]]の一部が付着した部位が用いられる<ref name="コトバンク"/>。[[鰻丼]]や[[鰻重]]と共に供されることが多い。「肝」自体にはほとんど味はなく、コリコリとした食感や風味を楽しむという部分が大きい。 <gallery> ファイル:unagi_kimo.jpg|うなぎの「肝」 File:Unaju, kimosui and tsukemono by spinachdip in Nagano.jpg|うな重に添えられた肝吸い(右上) </gallery> == 出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Kimo-sui}} * [[肝焼き]] *[[ウナギ]] *[[吸い物]] {{food-stub}} {{DEFAULTSORT:きもすい}} [[Category:鰻料理]] [[Category:日本の魚介料理]] [[Category:日本の汁物]] [[Category:内臓料理]]
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乱破S.S.
『乱破S.S.』(らっぱセキュリティーサービス)は、椎名高志による日本の漫画作品。『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)において連載された『(有) 椎名百貨店』で掲載された作品。 読み切り作品であるが連載枠内で計3作が作られ、『(有) 椎名百貨店』の連載終了後もさらに集中連載の形で3作が発表された。これら全6作は共に小学館から刊行された単行本『(有) 椎名百貨店』に収録されている。 主人公伊能せいこうは、目立つ事を極端に嫌い、平穏無事に生きていく事を望む小学生の男の子。そんな彼の家に、ある日「乱破(らっぱ)」と名乗る二人組がやって来る。2人は、姉の氷雅(ひょうが)と弟の妖岩(ようがん)。そして、乱破とは忍者の事である。伊能家は先祖に故あって、家の子供は代々「乱破」に警護されてきており、今度は、せいこうが彼らの世話受ける事になったのだ。任務に一途な妖岩と何を考えているのか分からない氷雅...性格の全く異なる2人であるが、共通するのは並外れた身体能力と、非常識な行動。せいこうを巡って2人が巻き起こすドタバタは、主人公の級友たちをも巻き込み展開していく。 本作は、学校や近所という身近な世界を舞台としながら、そこで異質な存在が騒ぎを起こす痛快さを描いたギャグコメディとなっている。 伊能らメインキャラクターの3人は、同作者の短編作品『長いお別れ』や代表作である『GS美神 極楽大作戦!!』でも何度か登場している。
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『乱破S.S.』(らっぱセキュリティーサービス)は、椎名高志による日本の漫画作品。『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)において連載された『(有) 椎名百貨店』で掲載された作品。 読み切り作品であるが連載枠内で計3作が作られ、『(有) 椎名百貨店』の連載終了後もさらに集中連載の形で3作が発表された。これら全6作は共に小学館から刊行された単行本『(有) 椎名百貨店』に収録されている。
『'''乱破S.S.'''』(らっぱセキュリティーサービス)は、[[椎名高志]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』([[小学館]])において連載された『[[(有) 椎名百貨店]]』で掲載された作品。 読み切り作品であるが連載枠内で計3作が作られ、『(有) 椎名百貨店』の連載終了後もさらに集中連載の形で3作が発表された。これら全6作は共に[[小学館]]から刊行された単行本『(有) 椎名百貨店』に収録されている。 == あらすじ == 主人公'''伊能せいこう'''は、目立つ事を極端に嫌い、平穏無事に生きていく事を望む小学生の男の子。そんな彼の家に、ある日「乱破(らっぱ)」と名乗る二人組がやって来る。2人は、姉の'''氷雅'''(ひょうが)と弟の'''妖岩'''(ようがん)。そして、乱破とは忍者の事である。伊能家は先祖に故あって、家の子供は代々「乱破」に警護されてきており、今度は、せいこうが彼らの世話受ける事になったのだ。任務に一途な妖岩と何を考えているのか分からない氷雅…性格の全く異なる2人であるが、共通するのは並外れた身体能力と、非常識な行動。せいこうを巡って2人が巻き起こすドタバタは、主人公の級友たちをも巻き込み展開していく。 本作は、学校や近所という身近な世界を舞台としながら、そこで異質な存在が騒ぎを起こす痛快さを描いたギャグコメディとなっている。 == 登場人物 == 伊能らメインキャラクターの3人は、同作者の短編作品『長いお別れ』や代表作である『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』でも何度か登場している。 ; 伊能せいこう : 本編の主人公。常識人であり、ツッコミ役にまわることが多い。運動能力も学習能力もこれといって高くなく、平凡に生きることを望んでいる。当初は妖岩と氷雅に嫌悪感を抱いていたが、その後彼らの事情なども理解していく。 : 平凡に生きることを望んでいたが、妖岩と氷雅の登場により、それが不可能となってしまう。クラスメートの香山に好意をもたれており、それにより2学期の学級委員選挙では1票のみ獲得したり、バレンタインデーにチョコをもらったりしている。妖岩と氷雅の行動にはしだいに慣れていき、必要なときは自分から協力をあおぐようになる。 : 名前のモデルは[[いとうせいこう]]。 ; 妖岩  : 忍者の少年。姉の氷雅とともに代々伊能家に仕える忍者の家系の末裔。無口で、少々バカ正直な面がある。極度の無口で言葉を話すときも耳打ちするか、もしくは目で訴える。姉に踊らされることが多く、結果的にせいこうに迷惑をかけることもあるが、姉よりは忠実。 : [[忍術]]の腕も姉ほどではないが高い方である。しかし、バレバレな忍術を使うことも多い。無表情であるが、『[[(有) 椎名百貨店]]』の書き下ろし4コマには笑ったような表情も載せられている。日常の常識を知らないところがあり、ドッジボールを生贄の儀式と姉に騙されたこともある。常識を知らない点を除けば考え方などは普通であり、ブラックジョークを言う姉を止めようとすることも。 ; 氷雅 : 忍者の少女。弟の妖岩と違い愛想がよく口も達者。弟との仲はいいが、どこまで本気なのかわからないブラックなジョークを放つことが多く、弟がそれを真に受け、せいこうに迷惑をかけることも多い。忍術の腕は高いが、その性格が災いし失敗することも。 : 自身の目的のため主君であるせいこうですら犠牲にすることもあるが、そのせいこうを守るためなら他人の犠牲もいとわない。 ;宝徳竜太 :せいこうたちの前に現れる[[ヤクザ]]。氷雅などの暗躍により数回逮捕されている。椎名高志の他の作品にもたびたび登場している。 ;香山夏子 :せいこうのクラスメート。せいこうに好意を持っている様子。 ;池田 :せいこうのクラスメート。2学期の学級委員選挙では、35票獲得。 ;一条 :せいこうのクラスメート。2学期の学級委員選挙では、35票獲得。 ;池田 :せいこうのクラスメート。2学期の学級委員選挙では、35票獲得。 ;丸田町 :せいこうのクラスメート。[[ガキ大将]]。 ;織田 :せいこうのクラスメート。成績優秀。スポーツ万能。 ;桜井啓子 :せいこうのクラスの担任。 == 掲載 == ;乱破S.S. :『[[(有) 椎名百貨店]]』第4話。『[[週刊少年サンデー]]増刊号』[[1990年]]7月号掲載。30ページ。 ;乱破S.S. 2 :『(有) 椎名百貨店』第10話。『週刊少年サンデー増刊号』[[1991年]]1月号掲載。30ページ。 ;乱破S.S. 3 :『(有) 椎名百貨店』第14話(連載最終回)。『週刊少年サンデー増刊号』1991年5月号掲載。30ページ。 ;乱破S.S. 4 :集中連載第1話。『週刊少年サンデー増刊号』1991年12月号掲載。16ページ。 ;乱破S.S. 5 :集中連載第2話。『週刊少年サンデー増刊号』[[1992年]]1月号掲載。16ページ。 ;乱破S.S. 6 :集中連載第3話(集中連載最終回)。『週刊少年サンデー増刊号』1992年2月号掲載。16ページ。 {{椎名高志}} {{Manga-stub}} {{DEFAULTSORT:らつはせきゆりていさあひす}} [[Category:漫画作品 ら|つはせきゆりていさあひす]] [[Category:週刊少年サンデー超]] [[Category:椎名高志の漫画作品]] [[Category:忍者を題材とした漫画作品]] [[Category:小学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:ギャグ漫画]]
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二百二十日
二百二十日(にひゃくはつか)は雑節のひとつで、立春を起算日(1日目)として220日目(立春の219日後の日)にあたる。 21世紀初頭の現在では平年なら9月11日、閏年なら9月10日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により9月12日の年もある。 八朔(旧暦8月1日)・二百十日とともに、天候が悪くなる農家の三大厄日とされてきた。統計的には、台風は二百十日から9月下旬にかけて襲来することが多く、二百十日よりも二百二十日の方を警戒する必要がある。
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二百二十日(にひゃくはつか)は雑節のひとつで、立春を起算日(1日目)として220日目(立春の219日後の日)にあたる。 21世紀初頭の現在では平年なら9月11日、閏年なら9月10日である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により9月12日の年もある。 八朔(旧暦8月1日)・二百十日とともに、天候が悪くなる農家の三大厄日とされてきた。統計的には、台風は二百十日から9月下旬にかけて襲来することが多く、二百十日よりも二百二十日の方を警戒する必要がある。
{{出典の明記|date=2016年9月}} '''二百二十日'''(にひゃくはつか)は[[雑節]]のひとつで、[[立春]]を起算日(1日目)として220日目(立春の219日後の日)にあたる。 [[21世紀]]初頭の現在では[[平年]]なら[[9月11日]]、[[閏年]]なら[[9月10日]]である。数十年以上のスパンでは、立春の変動により[[9月12日]]の年もある。 [[八朔]]([[8月1日 (旧暦)|旧暦8月1日]])・[[二百十日]]とともに、天候が悪くなる[[農家]]の三大[[厄日]]とされてきた。[[統計]]的には、[[台風]]は二百十日から[[9月]]下旬にかけて襲来することが多く、二百十日よりも二百二十日の方を警戒する必要がある。 == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:にひやくはつか}} [[Category:雑節]] [[Category:9月]] [[Category:秋の季語]]
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雑節
雑節(ざっせつ)とは、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことである。 一般に雑節と呼ばれるのは、次の9つである。 これに、初午・三元を元にした上元(前半年の最初の望月、小正月)、中元(3番目の四半年の最初の望月、盂蘭盆)、下元(4番目の四半年の最初の望月)、大祓を加える場合もある。
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雑節(ざっせつ)とは、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことである。 一般に雑節と呼ばれるのは、次の9つである。 節分 彼岸 社日 八十八夜 入梅 半夏生 土用 二百十日 二百二十日 これに、初午・三元を元にした上元(前半年の最初の望月、小正月)、中元(3番目の四半年の最初の望月、盂蘭盆)、下元(4番目の四半年の最初の望月)、大祓を加える場合もある。
'''雑節'''(ざっせつ)とは、[[二十四節気]]・[[節句|五節句]]などの[[暦日]]のほかに、[[季節]]の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことである。 一般に雑節と呼ばれるのは、次の9つである。 * [[節分]] * [[彼岸]] *[[社日]] *[[八十八夜]] *[[入梅]] *[[半夏生]] *[[土用]] *[[二百十日]] *[[二百二十日]] これに、[[初午]]・[[三元]]を元にした上元(前半年の最初の[[望月]]、[[小正月]])、中元(3番目の四半年の最初の望月、[[盂蘭盆]])、下元(4番目の四半年の最初の望月)、[[大祓]]を加える場合もある。 == 外部リンク == * 暦要項「二十四節気および雑節」[https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2022/rekiyou222.html 2022年(令和4年)] - [[国立天文台]]暦計算室 * {{Kotobank}} [[Category:雑節|*]]
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蒲焼
蒲焼(蒲焼き、樺焼、椛焼、かばやき)は、身の長い魚を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから濃口醤油、みりん、砂糖、酒などを混ぜ合わせた濃厚なたれをつけて焼く魚料理。照り焼きの1種である。 江戸料理の1つであり、江戸の伝統的な郷土料理でもある。 また、同様の工程を取らずに同様の風味や外見がある蒲焼風の物をも称す(鶏肉をローストした鶏蒲焼など)。 一般に「蒲焼」といえば「ウナギの蒲焼」を指すことが多いが、サンマやイワシ、ニシンの蒲焼きの缶詰も普及している。一方、高度成長期以前はナマズの蒲焼も多く食されたとされる。他の食材としては、ハモ、アナゴ、ドジョウ、ムツゴロウ、カワヤツメなどが使われる。変わり種としては、ナスやゆば、蛇類などがある。 ウナギの蒲焼は、江戸時代以前から存在したが、現在の蒲焼とは異なり、ウナギをぶつ切りにし、串刺しにして焼き、味噌や塩をかけて食べた(一説にその形がガマの穂に似ているため、「蒲(ガマ)焼き」と呼ばれるようになり、それが次第に訛り、「蒲焼」と呼ばれるに至った、とされる。詳細は「蒲焼#語源」参照)。 なお、蒲焼にすることが多いウナギやアナゴなどを、たれをつけないで焼いた料理を白焼という。 「蒲焼」の語源については諸説ある。 以前は(ウナギを捌かずそのまま)串刺しする調理法であり、それが蒲の穂に似ていたからこの名がついたとする説がある。昔は丸のまま縦に串刺しにして醤油と酒で調味し焼いて調理されていたことは、『大草家料理書』等に記されている。 蒲の穂説をとる江戸期の書物には、橘守部『俗語考』、喜田川守貞『守貞謾稿』、久松祐之『近世事物考』が挙げられる。 はじめ「蒲鉾焼()」と名付けられたもの略形である、または「がま焼」か「かま焼」からさらに転訛した、とも解説される。 異説に、焼いた時の色や形状が樺(カバノキ)の皮に似ているからその名がついたという仮説がある。これは江戸期の山東京伝『骨董集』、黒川道祐(『雍州府志』)、菊岡沾涼(『本朝世事談綺』)らの文献でも提唱されている。 焼いている香りが早く伝わることからついた「香疾焼」(かばやき)に由来するという説もある。 ウナギの蒲焼は単に「蒲焼」と呼ばれることも多い。ウナギの多くは蒲焼として調理されている。 蒲焼に使う「たれ」は醤油とみりんなどで作られ、「半助(頭の部分)」を焼いて入れる店もある。うなぎの脂や身の汁などがタレに混ざり込んで徐々に風味が良くなることからつぎ足しながら使う店が多い。 「串打ち三年、割き五年(または八年)、焼き一生」と言われるように、最適な焼きは難しく、この技量は長い修業によって得られるものとされている。 さばき方と焼き方など調理法は日本の各地域や店舗で大きく異なっている(後述を参照)。ウナギを扱う店舗では専用の包丁であるうなぎ裂きが用いられることも多いが、地域により江戸裂、名古屋裂、京都裂、大阪裂など包丁の形状も大きく異なっている。ウナギの蒲焼を焼く際には、細長いことから、開いた鰻に竹串などを予め打っておき横長の焼き台(串焼器)を用いて焼き上げることが多い。調理法の詳細については#調理法を参照。 ウナギをさばいて焼き上げるまで長い時間がかかり、そのために客は蒲焼が出来上がるまでお新香をつまみながら酒を飲み待つスタイルがある(古典的なスタイルだが現在でも行われている)。 この蒲焼を提供する専門店もあり、長く営業をしている老舗店も多い。 日本人の食文化にウナギが登場したのは新石器時代頃である。その時代の遺跡から発見された魚の骨の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたとされるが、調理方法は定かではない。 文献の記録としては713年(和銅6年)に書かれた『風土記』の記載が最初である。 759年(天平宝字3年)の『万葉集』の中には、大伴家持による和歌が2首収められている。 これは、当時から夏痩せ対策にウナギを食していたことを示しているが、同時に美味しい食べ物としての位置づけではなかったことも示されている。当時の調理法がどのようなものかは記録がない。 1399年(応永6年)に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「蒲焼」という言葉が登場し、調理法も記載されているが、それは現在と異なるものだった。蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々一匹串に刺し、焼いて味噌や酢をつけるというものだった。1661年(万治4年・寛文元年)頃に浅井了意により書かれた『東海道名所記』の中には、鰻島が原(現在の静岡県沼津市原)付近を描いた挿絵に、大皿に盛られたウナギの串刺しが描かれている。 尚、江戸開発時の干拓によって出来た泥炭湿地に住み着いた鰻を労働者の食べ物としたことが始まりという説もある。発祥当時は前述通り、蒲の穂のようなぶつ切りを串に刺して焼いただけであり、そばと同様に安い屋台料理であった。 徳川家康時代に江戸湾の干拓によって多くの湿地が出来てウナギが住み着いた結果、労働者の食事(雑魚)として串に刺して蕎麦などと同様に屋台による立ち食いの簡単に提供される安価な軽食として食べられていた。ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つという現在につながる調理方法は1700年頃に登場したが、味付けにはまだ味噌や酢を用いていた。下総国野田(現在の千葉県野田市)と銚子(現在の千葉県銚子市)で造られる関東醤油(濃口醤油)の普及にあわせ、醤油を使った蒲焼も登場した。タレの登場以前からウナギは食されていたが、調理法は塩焼きや味噌焼きであった。醤油を使った調理法で「醤油の掛け焼き」というものがあったが、その調理法ではウナギから染み出る脂のために醤油が弾かれてしまい、中まで味を染み込ませることができない。蒲焼の誕生には、醤油・みりん・酒・砂糖などの甘み調味料の普及と同時に、生きたウナギをさばく技術がなければ完成しなかったといわれている。 タレを使って蒲焼にするウナギは庶民に広がって江戸料理となったが、手間が掛かるものであり、 などと言われるほどになった。 江戸に限らず全国でもウナギは収穫されたため、どこでも食べられた。1670年代に書かれた現在のガイドブックに当たる「東海道名所記」には、原宿と吉原宿の間にあった新田という場所がウナギの蒲焼の名所として挿絵入りで紹介されている。ウナギは皮が厚く、味がなかなか染みこまないという特性があったため、各地で調理法が試行錯誤された。関西ではウナギを腹から割き、骨を取り、串を打ち、焼いて醤油と酒のたれをつける手法が開発され、江戸でも採用されるに至った。 江戸中期には現代に受け継がれる江戸前の蒲焼が誕生する。江戸前寿司の誕生は江戸後期であり、当時「江戸前」といえばウナギの蒲焼を意味した。関東風の濃い口の醤油とみりんが特徴であった。割き方も関西では腹開きだが、江戸では背開きにした。これは江戸は武士の町であるため切腹を嫌ったものとも言われているが、腹開きが普通であった他の魚よりウナギは背開きの方が調理がしやすかったからではないかなど諸説ある。江戸では辻売りの屋台でよく、調理し焼いて売られた。ひと串16文(現在の価値で約320円)くらいであり、そば一杯とほぼ同価格であった。湿地を埋めて水路を張り巡らせて造った当時の江戸ではこの低価格が実現できるほどの大量のウナギの収穫があった。なおかつ、高カロリーで高タンパクなウナギは、肉体労働者の多い江戸では手軽な屋台売りのファストフードとして最適であった。江戸っ子は江戸前のウナギのおいしさに誇りを持っており、江戸前以外は「旅鰻」と呼んで格下に扱っていた。江戸後期には、屋台だけではなく店舗型の高級店でも扱われ始め、うな丼も登場。値段は200文(約4000円)であった。 1700年頃に出された『江戸名所百人一首』の絵札に深川八幡社と鰻売りの露天が描かれており、絵には露天の行燈に名物の大かばやきと記されている。 1723年(享保8年)出版の山岡元隣著『増補食物和歌本草』の中に、焼いたウナギは山椒味噌や醤油で食べることを勧める内容が記されている。ただし、この時点では現在のようにタレを付けて焼く調理法ではなかったとされる。 1728年(享保13年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったものが記されており、味は現在の味に近かったとされている。1800年(寛政12年)に出版された『万宝料理秘密箱』の中にも醤油や酒を使ったものが見受けられ、タレを使った蒲焼の作り方が確立されたのは江戸時代中期以降とされている。 1750年頃には、露天の鰻屋は江戸の江東区深川付近でも数軒が営業していた。元禄の頃には江戸で鰻屋の商いが始まっていたとされ、文化・文政の頃に現代の和食が完成し、ウナギ・天ぷら・寿司などが大衆に流行した。その流行は、「江戸前大蒲焼番付」という蒲焼屋を紹介する本が発売されるほどであった。 1760年(宝暦10年)の『評万句合』という川柳には という句があり、ウナギの蒲焼が存在していた。 1800年頃の江戸には関西風の鰻屋も存在した。参勤交代で江戸までお供した職人や料理人がそのまま江戸に定住し、そこで商いを始めたとされる。しかしその後、江戸における関西風の鰻屋は姿を消した。林鴻作著『産毛』の、京都四条河原(現在の京都府京都市下京区と中京区にまたがる四条河原町)付近での夕涼みを描いた絵の中に、露天で行う鰻売りが見受けられる。その掲げる行燈には「鰻さきうり・同かばやき」と記されている。 江戸時代後半には庶民の味覚として定着し、1829年(文政12年)、1832年(天保3年)の『曲亭馬琴日記』には、うなぎの蒲焼の切手(現在の商品券に相当)が流通していたことを示す記述も見られる。 中山道の宿場町、浦和(埼玉県)で町人が旅人に出したのが、今でいうウナギの蒲焼きの発祥とされることもあるが、上記のように江戸時代の様々な記録から異説もある。 スーパーマーケットや通信販売などでもパック詰めにして販売されるようになった。その場合はウナギの開き方の違いによって区別される場合がある(有頭背開き、有頭腹開き、無頭背開き、無頭腹開き)。 蒲焼の作り方は大きく分けると2種類ある。いわゆる「関東風」は背開きにしてまず白焼きにし、蒸してからタレを付けて本焼きするものに対して、「関西風」は腹開きでそのままタレを付けて焼く(関東風と関西風の違いについては後述)。浜松や諏訪湖周辺では、背開きで蒸さない蒲焼が存在する。また、福岡では、焼いてから蒸すことによって柔らかくする「せいろ蒸し」も行われている。 ウナギの蒲焼は、おかずとして食べたり飯の上に乗せた料理として食べる様式があり、丼飯に載せた鰻飯丼(鰻丼、器が重箱だと鰻重)として食べることが多い。いずれの場合も、山椒の粉を振りかけて食べる習慣がある(漢方薬で消化を助けるとされる山椒を掛けるのは関東で始まった風習とされる)。また、おひつの御飯に細かい蒲焼を混ぜ込んで食べることもある(ひつまぶしも参照)。福岡では焼き上げてから蒸す「せいろ蒸し」として食べることも多い。 ウナギ蒲焼は人気が高い半面、価格は高めで、さらにウナギは絶滅が危惧されている。この為、完全養殖は勿論、ウナギに近い味・食感を楽しめる、代替蒲焼用食材の発掘・開発が進められている。 一つはナマズを使うこと。食品スーパーを展開するイオンでは、ベトナム産パンガシウス科の蒲焼を販売しているほか、2016年からは近畿大学がウナギの味に近づけて養殖技術を研究したナマズの蒲焼を取り扱っている。 また、ウナギの近縁種であるアナゴ、他にサンマなどの代用も行われている。アナゴは代用品の中では食感が最も似ているとされる。 その他ウナギ風味のカマボコ(蒲鉾)・魚肉練り製品もあり、各メーカーが発売している。
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"1728年(享保13年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったものが記されており、味は現在の味に近かったとされている。1800年(寛政12年)に出版された『万宝料理秘密箱』の中にも醤油や酒を使ったものが見受けられ、タレを使った蒲焼の作り方が確立されたのは江戸時代中期以降とされている。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1750年頃には、露天の鰻屋は江戸の江東区深川付近でも数軒が営業していた。元禄の頃には江戸で鰻屋の商いが始まっていたとされ、文化・文政の頃に現代の和食が完成し、ウナギ・天ぷら・寿司などが大衆に流行した。その流行は、「江戸前大蒲焼番付」という蒲焼屋を紹介する本が発売されるほどであった。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1760年(宝暦10年)の『評万句合』という川柳には", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "という句があり、ウナギの蒲焼が存在していた。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1800年頃の江戸には関西風の鰻屋も存在した。参勤交代で江戸までお供した職人や料理人がそのまま江戸に定住し、そこで商いを始めたとされる。しかしその後、江戸における関西風の鰻屋は姿を消した。林鴻作著『産毛』の、京都四条河原(現在の京都府京都市下京区と中京区にまたがる四条河原町)付近での夕涼みを描いた絵の中に、露天で行う鰻売りが見受けられる。その掲げる行燈には「鰻さきうり・同かばやき」と記されている。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "江戸時代後半には庶民の味覚として定着し、1829年(文政12年)、1832年(天保3年)の『曲亭馬琴日記』には、うなぎの蒲焼の切手(現在の商品券に相当)が流通していたことを示す記述も見られる。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "中山道の宿場町、浦和(埼玉県)で町人が旅人に出したのが、今でいうウナギの蒲焼きの発祥とされることもあるが、上記のように江戸時代の様々な記録から異説もある。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "スーパーマーケットや通信販売などでもパック詰めにして販売されるようになった。その場合はウナギの開き方の違いによって区別される場合がある(有頭背開き、有頭腹開き、無頭背開き、無頭腹開き)。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "蒲焼の作り方は大きく分けると2種類ある。いわゆる「関東風」は背開きにしてまず白焼きにし、蒸してからタレを付けて本焼きするものに対して、「関西風」は腹開きでそのままタレを付けて焼く(関東風と関西風の違いについては後述)。浜松や諏訪湖周辺では、背開きで蒸さない蒲焼が存在する。また、福岡では、焼いてから蒸すことによって柔らかくする「せいろ蒸し」も行われている。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ウナギの蒲焼は、おかずとして食べたり飯の上に乗せた料理として食べる様式があり、丼飯に載せた鰻飯丼(鰻丼、器が重箱だと鰻重)として食べることが多い。いずれの場合も、山椒の粉を振りかけて食べる習慣がある(漢方薬で消化を助けるとされる山椒を掛けるのは関東で始まった風習とされる)。また、おひつの御飯に細かい蒲焼を混ぜ込んで食べることもある(ひつまぶしも参照)。福岡では焼き上げてから蒸す「せいろ蒸し」として食べることも多い。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ウナギ蒲焼は人気が高い半面、価格は高めで、さらにウナギは絶滅が危惧されている。この為、完全養殖は勿論、ウナギに近い味・食感を楽しめる、代替蒲焼用食材の発掘・開発が進められている。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "一つはナマズを使うこと。食品スーパーを展開するイオンでは、ベトナム産パンガシウス科の蒲焼を販売しているほか、2016年からは近畿大学がウナギの味に近づけて養殖技術を研究したナマズの蒲焼を取り扱っている。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、ウナギの近縁種であるアナゴ、他にサンマなどの代用も行われている。アナゴは代用品の中では食感が最も似ているとされる。", "title": "ウナギの蒲焼" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "その他ウナギ風味のカマボコ(蒲鉾)・魚肉練り製品もあり、各メーカーが発売している。", "title": "ウナギの蒲焼" } ]
蒲焼(蒲焼き、樺焼、椛焼、かばやき)は、身の長い魚を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから濃口醤油、みりん、砂糖、酒などを混ぜ合わせた濃厚なたれをつけて焼く魚料理。照り焼きの1種である。 江戸料理の1つであり、江戸の伝統的な郷土料理でもある。 また、同様の工程を取らずに同様の風味や外見がある蒲焼風の物をも称す(鶏肉をローストした鶏蒲焼など)。
[[ファイル:Unagi1.jpg|240px|thumb|[[ウナギ]]の蒲焼]] [[ファイル:Restaurant Specializing in Eel LACMA M.71.100.154.jpg|サムネイル|[[勝川春亭]]による[[錦絵]]「江戸大かばやき」の一部。1804-1810年頃の作]] '''蒲焼'''(蒲焼き、樺焼<ref name="zusetsuedoryourijiten_p161">松下幸子著『図説江戸料理事典』柏書房、1996年、 161頁。</ref>、椛焼<ref name="zusetsuedoryourijiten_p161"/>、かばやき)は、身の長い[[魚]]を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから[[醤油|濃口醤油]]、[[みりん]]、[[砂糖]]、[[酒]]などを混ぜ合わせた濃厚な[[たれ]]をつけて焼く魚[[料理]]<ref name="zusetsuedoryourijiten_p161"/><ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225">『丸善食品総合辞典』丸善、1998年、225頁。</ref><ref name="isyokujuugogenjiten_p174">『衣食住語源辞典』東京堂出版、1996年、174頁。</ref>。[[照り焼き]]の1種である<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225"/><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328">杉田浩一編『日本食品大事典』医歯薬出版、2008年、328頁。</ref>。 [[江戸料理]]の1つであり、[[江戸]]<ref>{{Cite web|和書 | url = http://www.hjenglish.com/subject/writing/page/132755/ | archiveurl = https://web.archive.org/web/20140715232712/http://www.hjenglish.com/subject/writing/page/132755/ | title = 日语文学作品赏析《綺堂むかし語り》 | accessdate = 2013-3-18 | archivedate = 2014-7-15 | deadlinkdate = 2019年3月16日 }}</ref>の[[伝統]]的な[[郷土料理]]でもある。 また、同様の工程を取らずに同様の風味や外見がある蒲焼風の物をも称す(鶏肉をローストした鶏蒲焼など)。 == 概要 == {{出典の明記| date = 2023年2月| section = 1}} 一般に「蒲焼」といえば「[[ウナギ]]の蒲焼」を指すことが多いが、[[サンマ]]<ref>{{Cite web|和書|title=さんま蒲焼|缶詰|商品情報|マルハニチロ株式会社 |url=https://www.maruha-nichiro.co.jp/products/product?j=4901901356141 |website=マルハニチロ |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>や[[イワシ]]<ref>{{Cite web|和書|title=秘伝いわし蒲焼|缶詰|商品情報|マルハニチロ株式会社 |url=https://www.maruha-nichiro.co.jp/products/product?j=4901901127246 |website=マルハニチロ |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>、[[ニシン]]<ref>{{Cite web|和書|title=缶詰・海鮮品・冷凍食品の通販なら極洋公式通販サイトにしん蒲焼 【10缶セット】(10缶セット): 缶詰 {{!}} キョクヨーマルシェ |url=https://www.marche.kyokuyo.co.jp/shop/g/g100328 |website=www.marche.kyokuyo.co.jp |access-date=2023-02-07}}</ref>の蒲焼きの[[缶詰]]も普及している。一方、高度成長期以前は[[ナマズ]]の蒲焼も多く食されたとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20160723_432257.html?DETAIL 近畿大学が世に放つ「ウナギ味のナマズ」はキワモノでない。Newsポストセブン 20160723]</ref>。他の[[食材]]としては、[[ハモ]]、[[アナゴ]]、[[ドジョウ]]、[[ムツゴロウ]]、[[ヤツメウナギ|カワヤツメ]]などが使われる。変わり種としては、[[ナス]]や[[ゆば]]、蛇類などがある。 ウナギの蒲焼は、[[江戸時代]]以前から存在したが、現在の蒲焼とは異なり、ウナギをぶつ切りにし、串刺しにして焼き、[[味噌]]や[[塩]]をかけて食べた(一説にその形が[[ガマ]]の穂に似ているため、「蒲(ガマ)焼き」と呼ばれるようになり、それが次第に訛り、「蒲焼」と呼ばれるに至った、とされる。詳細は「[[蒲焼#語源|蒲焼#語源]]」参照)。 なお、蒲焼にすることが多いウナギや[[アナゴ]]などを、たれをつけないで焼いた料理を[[白焼]]という。 == 語源 == 「蒲焼」の語源については諸説ある。 ;蒲の穂<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225"/><ref name="nihonryoriyuraijiten_p278">川上行蔵監修『日本料理由来事典(上)』同朋舎出版 p.278 1990年(諸説ある中の一説として紹介)</ref> 以前は(ウナギを捌かずそのまま)串刺しする調理法であり、それが[[ガマ|蒲]]の穂に似ていたからこの名がついたとする説がある<ref name="insyoku"/>。昔は丸のまま縦に串刺しにして醤油と酒で調味し焼いて調理されていたことは、『[[大草家料理書]]』等に記されている<ref name="zusetsuedoryourijiten_p161"/><ref name="isyokujuugogenjiten_p174"/><ref name="nihonryoriyuraijiten_p279">川上行蔵監修『日本料理由来事典(上)』同朋舎出版、1990年、 279頁。</ref>{{Efn2|なお、『大草家料理書』の成立時期について『日本料理由来事典』及び『衣食住語源辞典』では江戸時代初期とされているのに対し<ref name="nihonryoriyuraijiten_p279"/><ref name="isyokujuugogenjiten_p174"/>、『図説江戸料理事典』では『大草家料理書』は室町時代の書であるとしている<ref name="zusetsuedoryourijiten_p161"/>}}。 蒲の穂説をとる[[江戸期]]の書物には、[[橘守部]]『[[俗語考]]』、[[喜田川守貞]]『[[守貞謾稿]]』<ref>{{Cite book|和書|author=三好一光・編|year=2002|title=江戸生業物価事典|publisher=青蛙房|pages=P.357}}</ref>、[[久松祐之]]『[[近世事物考]]』が挙げられる<ref name="nkdj">{{citation|和書|editor=日本大辞典刊行会 |chapter=かば-やき【蒲焼】 |title=日本国語大辞典 (かつま–きにん) |volume=5 |place= |publisher=小学館 |year=1972 |chapter-url=https://books.google.co.jp/books?id=lB5bAAAAMAAJ |page=67}}</ref>。 はじめ「{{読み仮名|蒲鉾焼|かまぼこやき}}」と名付けられたもの略形である{{Refn|『大言海』<ref name="isyokujuugogenjiten_p174"/>}}、または「がま焼」か「かま焼」からさらに転訛した、とも解説される<ref name="isyokujuugogenjiten_p174"/>。 ;{{読み仮名|樺の木|かばのき}}<ref name="nihonryoriyuraijiten_p278"/> 異説に、焼いた時の色や形状が樺([[カバノキ]])の皮に似ているからその名がついたという仮説がある<ref name="isyokujuugogenjiten_p174"/><ref name="nkdj"/>。これは江戸期の[[山東京伝]]『骨董集』<ref>{{Cite book|和書|author=三好一光・編|year=2002|title=江戸生業物価事典|publisher=青蛙房|pages=P.356}}</ref>、[[黒川道祐]](『[[雍州府志]]』)、[[菊岡沾涼]](『[[本朝世事談綺]]』)らの文献でも提唱されている<ref name="nkdj"/>。 ;その他 焼いている香りが早く伝わることからついた「香疾焼」(かばやき)に由来するという説もある<ref name="nihonryoriyuraijiten_p278"/>。 == ウナギの蒲焼 == [[ファイル:Unadon by Hyougushi in Mishima, Shizuoka.jpg|サムネイル|うなぎの蒲焼を使用する[[鰻丼]]]] ウナギの蒲焼は単に「蒲焼」と呼ばれることも多い。ウナギの多くは蒲焼として調理されている<ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328"/>。<!--独自研究 蒲焼の専門店を「[[鰻屋]]」といい、名店といわれる鰻屋が各地にある。--> 蒲焼に使う「たれ」は[[醤油]]と[[みりん]]などで作られ、「半助(頭の部分)」を焼いて入れる店もある。うなぎの脂や身の汁などがタレに混ざり込んで徐々に風味が良くなることからつぎ足しながら使う店が多い。 === 串打ち三年割き八年焼き一生 === 「串打ち三年、割き五年(または八年)、焼き一生」と言われるように、最適な焼きは難しく、この技量は長い修業によって得られるものとされている<ref>{{Cite web|和書 | url = http://plaza.across.or.jp/~seiya-k/essei.htm | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100530080846/http://plaza.across.or.jp/~seiya-k/essei.htm | title = うなぎの隠語符丁 | work = うなぎ百撰1997夏号 | publisher = 株式会社共水 | accessdate = 2012-2-19 | archivedate = 2010-5-30 | deadlinkdate = 2019年3月16日 }}</ref><ref>[http://www.noboritei.co.jp/unagi/09.html 登亭 (NOBORITEI)-うなぎの世界]</ref>。 さばき方と焼き方など調理法は日本の各地域や店舗で大きく異なっている(後述を参照)。ウナギを扱う店舗では専用の包丁である[[うなぎ裂き]]が用いられることも多いが、地域により江戸裂、名古屋裂、京都裂、大阪裂など包丁の形状も大きく異なっている。ウナギの蒲焼を焼く際には、細長いことから、開いた鰻に竹串などを予め打っておき横長の焼き台(串焼器)を用いて焼き上げることが多い。調理法の詳細については[[#調理法]]を参照。 ウナギをさばいて焼き上げるまで長い時間がかかり、そのために客は蒲焼が出来上がるまでお新香をつまみながら酒を飲み待つスタイルがある(古典的なスタイルだが現在でも行われている)<ref name="edom" />。 この蒲焼を提供する専門店もあり、長く営業をしている老舗店も多い。 === 歴史 === {{出典の明記| date = 2023年2月| section = 1}} [[日本人]]の[[食文化]]にウナギが登場したのは[[新石器時代]]頃である。その時代の[[遺跡]]から発見された[[魚]]の[[骨]]の中にウナギのものも含まれており、先史時代からウナギが食べられていたとされるが、調理方法は定かではない。 [[文献]]の記録としては[[713年]]([[和銅]]6年)に書かれた『[[風土記]]』の記載が最初である。 [[759年]]([[天平宝字]]3年)の『[[万葉集]]』の中には、[[大伴家持]]による和歌が2首収められている。 :''石麻呂尓吾物申夏痩尓吉跡云物曽武奈伎取喫<br /> ::石麻呂に吾(あれ)もの申す夏やせによしといふ物そむなぎ取り食(め)せ<br /> ::(石麻呂に私はこう言った。夏痩せにはウナギがいいらしいから、獲ってきて食べたらよい)''<br /> :''痩々母生有者将在乎波多也波多武奈伎乎漁取跡河尓流勿<br /> ::痩す痩すも生けらば在らむをはたやはたむなぎを捕ると川に流るな<br /> ::(痩せても生きていられればよい。ウナギを獲りに行って、川に流されるな)''<br /> これは、当時から[[夏バテ|夏痩せ]]対策にウナギを食していたことを示しているが、同時に美味しい食べ物としての位置づけではなかったことも示されている。当時の調理法がどのようなものかは記録がない。 [[1399年]]([[応永]]6年)に書かれた『鈴鹿家記』に初めて「蒲焼」という言葉が登場し、調理法も記載されているが、それは現在と異なるものだった。蒲焼が登場する以前のうなぎの食べ方は、ぶつ切りにしたウナギ、あるいは小さめのウナギを丸々一匹串に刺し、焼いて[[味噌]]や[[酢]]をつけるというものだった。[[1661年]]([[万治]]4年・[[寛文]]元年)頃に[[浅井了意]]により書かれた『[[東海道名所記]]』の中には、鰻島が原(現在の[[静岡県]][[沼津市]]原)付近を描いた挿絵に、大皿に盛られたウナギの[[串刺し]]が描かれている。 尚、[[江戸]]開発時の[[干拓]]によって出来た泥炭湿地に住み着いた鰻を労働者の食べ物としたことが始まりという説もある。発祥当時は前述通り、[[蒲]]の穂のようなぶつ切りを串に刺して焼いただけであり、[[蕎麦|そば]]と同様に安い[[屋台]]料理であった<ref name="サライ">辻泰弘編「東西 美味の品格-調理法で比べる東西の味わい-鰻」『サライ』2012年8月号、小学館、58頁。</ref>。 [[徳川家康]]時代に江戸湾の[[干拓]]によって多くの湿地が出来てウナギが住み着いた結果、労働者の食事(雑魚)として串に刺して蕎麦などと同様に[[屋台]]による立ち食いの簡単に提供される安価な軽食として食べられていた。ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つという現在につながる調理方法は1700年頃に登場したが、味付けにはまだ味噌や酢を用いていた。[[下総国]]野田(現在の[[千葉県]][[野田市]])と銚子(現在の[[千葉県]][[銚子市]])で造られる関東醤油(濃口醤油)の普及にあわせ、[[醤油]]を使った蒲焼も登場した。タレの登場以前からウナギは食されていたが、調理法は[[塩焼き]]や味噌焼きであった。醤油を使った調理法で「醤油の掛け焼き」というものがあったが、その調理法ではウナギから染み出る脂のために醤油が弾かれてしまい、中まで味を染み込ませることができない。蒲焼の誕生には、醤油・[[みりん]]・[[酒]]・[[砂糖]]などの[[甘み]][[調味料]]の普及と同時に、生きたウナギをさばく[[技術]]がなければ完成しなかったといわれている。 タレを使って蒲焼にするウナギは[[庶民]]に広がって[[江戸料理]]となったが、手間が掛かるものであり、 : ''鰻屋でせかすのは野暮'' : ''蒲焼が出てくるまでは[[新香]]で酒を飲む'' などと言われるほどになった。 江戸に限らず全国でもウナギは収穫されたため、どこでも食べられた。[[1670年代]]に書かれた現在の[[マニュアル|ガイドブック]]に当たる「[[東海道名所記]]」には、[[原宿 (東海道)|原宿]]と[[吉原宿]]の間にあった新田という場所がウナギの蒲焼の名所として挿絵入りで紹介されている。ウナギは[[皮]]が厚く、味がなかなか染みこまないという特性があったため、各地で調理法が試行錯誤された。[[関西]]ではウナギを[[腹]]から割き、[[骨]]を取り、串を打ち、焼いて[[醤油]]と[[酒]]の[[たれ]]をつける手法が開発され、江戸でも採用されるに至った。 江戸中期には現代に受け継がれる[[江戸前]]の蒲焼が誕生する。江戸前寿司の誕生は江戸後期であり、当時「江戸前」といえばウナギの蒲焼を意味した。関東風の濃い口の醤油と[[みりん]]が特徴であった。割き方も関西では腹開きだが、江戸では背開きにした。これは江戸は武士の町であるため切腹を嫌ったものとも言われているが、腹開きが普通であった他の魚よりウナギは背開きの方が調理がしやすかったからではないかなど諸説ある。江戸では[[辻売り]]の[[屋台]]でよく、調理し焼いて売られた。ひと串16文(現在の価値で約320円)くらいであり、そば一杯とほぼ同価格であった。湿地を埋めて水路を張り巡らせて造った当時の江戸ではこの低価格が実現できるほどの大量のウナギの収穫があった。なおかつ、高カロリーで高タンパクなウナギは、肉体労働者の多い江戸では手軽な屋台売りの[[ファストフード]]として最適であった。江戸っ子は江戸前のウナギのおいしさに誇りを持っており、江戸前以外は「旅鰻」と呼んで格下に扱っていた。江戸後期には、屋台だけではなく店舗型の高級店でも扱われ始め、[[うな丼]]も登場。値段は200文(約4000円)であった<ref name="hori">{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=jCEABL-pC4E |title=江戸のB級グルメ 鰻・どじょう編(江戸文化歴史検定1級合格者 堀口茉純による解説) |accessdate=2021-8-29}}</ref>。 [[1700年]]頃に出された『江戸名所[[百人一首]]』の絵札に[[富岡八幡宮|深川八幡社]]と鰻売りの露天が描かれており、絵には露天の[[行燈]]に名物の大かばやきと記されている。 [[1723年]](享保8年)出版の[[山岡元隣]]著『増補食物和歌本草』の中に、焼いたウナギは[[山椒]]味噌や醤油で食べることを勧める内容が記されている。ただし、この時点では現在のようにタレを付けて焼く調理法ではなかったとされる。 [[1728年]](享保13年)に出版された『料理網目調味抄』の中に、醤油や酒を使ったものが記されており、味は現在の味に近かったとされている。[[1800年]]([[寛政]]12年)に出版された『万宝料理秘密箱』の中にも醤油や酒を使ったものが見受けられ、タレを使った蒲焼の作り方が確立されたのは江戸時代中期以降とされている。 [[1750年]]頃には、露天の鰻屋は江戸の[[江東区]][[深川 (江東区)|深川]]付近でも数軒が営業していた。[[元禄]]の頃には江戸で鰻屋の商いが始まっていたとされ、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]の頃に現代の[[和食]]が完成し、ウナギ・[[天ぷら]]・[[寿司]]などが[[大衆]]に[[流行]]した。その流行は、「江戸前大蒲焼番付」という蒲焼屋を紹介する本が発売されるほどであった。 [[1760年]]([[宝暦]]10年)の『評万句合』という[[川柳]]には :''江戸前に のたをうたせる 女あり'' という句があり、ウナギの蒲焼が存在していた。 [[1800年]]頃の江戸には関西風の鰻屋も存在した。[[参勤交代]]で江戸までお供した[[職人]]や[[板前|料理人]]がそのまま江戸に定住し、そこで商いを始めたとされる。しかしその後、江戸における関西風の鰻屋は姿を消した。林鴻作著『産毛』の、京都四条河原(現在の[[京都府]][[京都市]][[下京区]]と[[中京区]]にまたがる[[四条河原町]])付近での夕涼みを描いた絵の中に、露天で行う鰻売りが見受けられる。その掲げる[[行燈]]には「鰻さきうり・同かばやき」と記されている。 江戸時代後半には庶民の味覚として定着し、[[1829年]](文政12年)、[[1832年]]([[天保]]3年)の『[[曲亭馬琴#曲亭馬琴日記|曲亭馬琴日記]]』には、うなぎの蒲焼の[[切手]](現在の[[商品券]]に相当)が流通していたことを示す記述も見られる。 [[中山道]]の[[宿場町]]、[[浦和宿|浦和]]([[埼玉県]])で町人が[[旅人]]に出したのが、今でいうウナギの蒲焼きの発祥とされることもあるが<ref name="nds">{{citation|和書|editor=日本の伝統産業研究所 |chapter=浦和の蒲焼 |title=日本の伝統産業 物産編 |volume= 2 |place= |publisher=通産企画調査会 |year=1978 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=4_UBAAAAMAAJ|page=192}}<!--再:『[https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000011261932-00 資料日本の伝統産業]』、日本図書センター、2011年--></ref>{{Efn2|たとえば[[さいたま市]][[浦和区]]などの鰻料理店が1993年に発足させた「浦和のうなぎを育てる会」は、鰻蒲焼の発祥地を浦和とする<ref name=mainichi>[https://mainichi.jp/articles/20180630/k00/00e/040/238000c 【チェック】ウナギかば焼き「発祥地は浦和」専門店減少 文献基にPR]『[[毎日新聞]]』夕刊2018年6月30日(2018年7月12日閲覧)。</ref>。}}、上記のように江戸時代の様々な記録から異説もある<ref name=mainichi/>。 [[スーパーマーケット]]や[[通信販売]]などでもパック詰めにして販売されるようになった。その場合はウナギの開き方の違いによって区別される場合がある(有頭背開き、有頭腹開き、無頭背開き、無頭腹開き)。 === 調理法 === {{出典の明記| date = 2023年2月| section = 1}} 蒲焼の作り方は大きく分けると2種類ある。いわゆる「関東風」は背開きにしてまず白焼きにし、蒸してからタレを付けて本焼きするものに対して、「関西風」は腹開きでそのままタレを付けて焼く<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225" /><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328" />(関東風と関西風の違いについては後述)。[[浜松市|浜松]]や[[諏訪湖]]周辺では、背開きで蒸さない蒲焼が存在する。また、[[福岡県|福岡]]では、焼いてから蒸すことによって柔らかくする「[[鰻のせいろ蒸し|せいろ蒸し]]」も行われている。 ; 関東風 : 関東風では、一旦素焼きをしてから15分程度強火で蒸して余分な脂を落し、タレを付けてから再び焼く<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225" /><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328" /><ref name="edom">{{Cite web|和書 | url = http://doraku.asahi.com/lifestyle/manners/111111.html | archiveurl = https://web.archive.org/web/20120109072739/http://doraku.asahi.com/lifestyle/manners/111111.html | author = 山本益博 | authorlink = 山本益博 | title = 五代続く江戸前鰻の名店にフォーカス ひと手間かけてこそ「江戸前」 | work = マスヒロのマナー手帖 | website = どらく | publisher = [[朝日新聞社]] | accessdate = 2012-2-8 | archivedate = 2012-1-9 | deadlinkdate = 2019年3月16日 }}</ref>。蒸すことにより仕上がりが柔らかくなり、脂が抜けるのでさっぱりとした味に仕上がる<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225" /><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328" />。 : 関東風ではウナギを背開きにする<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225" /><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328" />。「武士の町である[[江戸]]では「[[切腹|腹を切る]]」ことを忌み嫌ったために背中から切る」とされることが多いが、他の魚は腹開きにすることがほとんどであり、俗説に過ぎない。実際は腹から裂いた場合蒸す過程で外側の身が割れて串から外れてしまうため、外側が厚くなる背開きが適し、また、成長したウナギは背ビレが硬く、背開きによってその背ビレを取り除くためである。また、背開きをしたほうが、技術を要し手間がかかるが、焼きあがった姿が美しくなる<ref name="edom" />。 :『巨大都市江戸が和食を作った』(渡辺善治郎著)によれば、ウナギの背開きは文政年間に主流になった。泥臭く脂肪の多い関東ウナギを食べるために、蒸しを加えたので弱くなったので、4本串にしたため切れやすくなり、端の厚くなる背開きにしたという<ref>「文学食べ物図鑑(16)うなぎ蒲焼き」日本経済新聞2015年9月20日</ref>。 : [[北大路魯山人]]は、『[[魯山人味道]]』において、うなぎの焼き方は地方の直焼きと東京の蒸し焼きがあるが、一も二もなく東京の蒸し焼きがよいと述べている。直焼きでは柔らかくなく脂がしつこいので、ご飯の間に挟んで蒸して脂をお米に吸わせる状態で提供されることがある。ヒネコ(2年物)などに蒸しを入れないと、[[ゴム]]のような食感となり脂臭い。初めて鰻丼を作ったのは、日本橋葺屋町の「大野屋」とされている。 ; 関西風 : 関西風では、背開きではなく腹開きとし<ref name="maruzensyokuhinsougoujiten_p225" /><ref name="nihonsyokuhindaijiten_p328" />、素焼きや蒸しを行わない。蒸さないために、脂が多くてそれが焼けた香りがする。<!--独自研究 香ばしい味に仕上がる。--> ===食べ方=== ウナギの蒲焼は、おかずとして食べたり[[飯]]の上に乗せた料理として食べる様式があり、丼飯に載せた鰻飯丼([[鰻丼]]、器が[[重箱]]だと[[鰻重]])として食べることが多い。いずれの場合も、[[サンショウ|山椒]]の粉を振りかけて食べる習慣がある<ref name="insyoku">本山荻舟『飲食事典』平凡社、昭和33年(1958年)12月25日発行、58頁</ref>([[漢方薬]]で消化を助けるとされる山椒を掛けるのは関東で始まった風習とされる)。また、おひつの御飯に細かい蒲焼を混ぜ込んで食べることもある([[ひつまぶし]]も参照)。福岡では焼き上げてから蒸す「[[鰻のせいろ蒸し|せいろ蒸し]]」として食べることも多い。 ===ウナギ代用品の模索=== {{出典の明記| date = 2023年2月| section = 1}} ウナギ蒲焼は人気が高い半面、価格は高めで、さらにウナギは絶滅が危惧されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_policy/information/food_loss/case/pdf/case_181029_0006.pdf |title=限りある資源を大切に、食品ロスからウナギを守る取組 |access-date=2023年7月19日 |publisher=消費者庁}}</ref>。この為、[[ウナギ#完全養殖|完全養殖]]は勿論、ウナギに近い味・食感を楽しめる、代替蒲焼用食材の発掘・開発が進められている。 一つは[[ナマズ]]を使うこと。食品スーパーを展開する[[イオン (企業)|イオン]]では、[[ベトナム]]産[[パンガシウス科]]の蒲焼を販売している<ref>{{Cite web|和書|title=【アジア取材ノート】世界の魚食を救うか ベトナム期待の「万能ナマズ」 - NNA ASIA・ベトナム・農水 |url=https://www.nna.jp/news/2066186 |website=NNA.ASIA |access-date=2023-07-19}}</ref>ほか、2016年からは[[近畿大学]]がウナギの味に近づけて[[養殖]]技術を研究したナマズの蒲焼を取り扱っている<ref>{{Cite web|和書|title=『なぜ「近大発のナマズ」はウナギより美味いのか?』-“新しい魚”開発の舞台裏|ひらめきブックレビュー ~気軽に味わう、必読書のエッセンス~|日本経済新聞 電子版特集(PR) |url=https://ps.nikkei.co.jp/bookreview/2017100101.html |website=ひらめきブックレビュー ~気軽に味わう、必読書のエッセンス~|日本経済新聞 電子版特集 |access-date=2023-07-19 |language=ja}}</ref>。 また、ウナギの近縁種である[[アナゴ]]<ref>{{Cite web|和書|title=お金がない!でもうなぎ食べたい!蒲焼き気分が堪能できるうなぎ代用品レシピ |url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/g-mag/009543 |website=ぐるなび みんなのごはん |date=2015-06-29 |access-date=2023-07-19 |language=ja |last=g-gourmedia}}</ref>、他にサンマ<ref>{{Cite web|和書|title=土用の丑の日は鰻!・・でもいいけど、賢く代用丼?サンマからナス、豆腐まで。人気レシピ&アイディアまとめ |url=https://snapdish.jp/books/53d5b00c433ed9a5d1428247/ |website=レシピと献立アイデア2900万皿のAI料理カメラアプリ {{!}} Snapdish |access-date=2023-07-19 |language=ja |first=Snapdish |last=Inc}}</ref>などの代用も行われている。アナゴは代用品の中では食感が最も似ているとされる<ref>{{Cite web|和書|title=お金がない!でもうなぎ食べたい!蒲焼き気分が堪能できるうなぎ代用品レシピ |url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/g-mag/009543 |website=ぐるなび みんなのごはん |date=2015-06-29 |access-date=2023-07-19 |language=ja |last=g-gourmedia}}</ref>。 その他ウナギ風味の[[蒲鉾|カマボコ(蒲鉾)]]・[[魚肉練り製品]]もあり、各メーカーが発売している<ref>{{Cite web|和書|title=うな蒲ちゃん {{!}} 株式会社スギヨ |url=https://www.sugiyo.co.jp/brand/unakama_chan.php |website=www.sugiyo.co.jp |access-date=2023-07-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=一番うなぎに近いのは!? 本物ソックリ「うなぎ風食品」を食べ比べてみた! - 価格.comマガジン |url=https://kakakumag.com/food/?id=15686 |website=kakaku.com |access-date=2023-07-19 |language=ja}}</ref>。 == 言葉 == ; おせせの蒲焼き : 蒲焼のように世話をやく事 : ''いらぬおせせの蒲焼きやい-[[滑稽本]]『[[浮世床#滑稽本|浮世床]]』''<ref>{{Cite web|和書|title=おせせの蒲焼き(おせせのかばやき)とは? 意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書 |url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%8A%E3%81%9B%E3%81%9B%E3%81%AE%E8%92%B2%E7%84%BC%E3%81%8D/ |website=goo辞書 |access-date=2023-07-19 |language=ja}}</ref> == 脚注 == === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} <!--;参考文献--> == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|食|[[画像:2013 09 10 Tomate.jpg|50px|Portal:食]]}} * [[鰻丼]] * [[鱧の蒲焼]] * [[土用の丑の日]] - [[平賀源内]]が考案したとされる夏に鰻を食べる習慣。 * [[蒲焼さん太郎]] - 蒲焼を模した駄菓子 == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://homepage3.nifty.com/yokohama-japan/unagi/unagi.htm |title=鰻の蒲焼作り |date=20100703193744 }} *[https://www.syokubunka.or.jp/gallery/nishikie/detail/post108.html 江戸大かばやき]勝川春亭、味の素食の文化センター {{DEFAULTSORT:かはやき}} [[Category:日本の魚介料理]] [[Category:調理法]] [[Category:加熱]]
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鰻丼
鰻丼(うなぎどんぶり、略称:うなどん)は、日本の丼料理。丼鉢に盛った白飯の上に鰻の蒲焼を載せたもの。江戸・東京の郷土料理とされる日本料理の一つである。鰻飯(うなぎめし、まんめし)、まむしとも呼ばれる。また派生料理として鰻重(うなぎじゅう、略称:うなじゅう)がある(後述)。 丼鉢に飯をよそってタレをかけ、鰻の蒲焼を載せる。地域によっては上からさらに飯を盛り、鰻を覆い隠すこともある。薬味には粉山椒、箸休めとして奈良漬などの漬物、肝吸いなどが添えられる。「丼」という名称であるが、陶磁器ではなく丸型の漆器の椀が使用されることも多い。 タレは醤油とみりんを主として作られ、多くの店では少しずつ継ぎ足しながら大切に使用される。鰻から出る脂や旨味、焦げた皮や炭の香りが加わることでコクや深みが生まれ、老舗ならではの味へと熟成されていくという。 山椒の粉は食べる直前に振りかける。山椒は脂の多い鰻をさっぱりと食べるための工夫であり、消化を助けたり泥臭さを消す効果があるとされる。 国産の鰻が高値であるため、鰻丼の値段も高く設定されている場合が多い。値段に幅はあるものの、安いものでも1000円台。高いものだと10000円を越すものもある。これらの理由から、「高級な日本食=鰻丼」を思い浮かべる人も多い。 丼飯の歴史の中で最も古く、文化年間(1804 - 1818年)に誕生したとされる。 由来には諸説あり、宮川政運の『俗事百工起源』(1885年)には、堺町(現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目)の芝居小屋「中村座」のスポンサー・大久保今助が、蒲焼きが冷めないように、丼飯の間に挟ませて芝居小屋に届けさせたのが、鰻飯の起源と書かれている。この大久保による鰻飯の起源となったのは、茨城県龍ケ崎市にある牛久沼である。 ただし、青葱堂冬圃の『真佐真のかつら』(1857年)には、著者の幼少時に葺屋町(堺町の隣町)の裏長屋で鰻丼が売られていたとの記述もあり、大久保以前に同じような工夫をしている人がいたことが過去の文献からはわかっている。 調理法の変遷にもいわれは多く、一説には江戸時代の蒲焼きはタレを付けて焼き上げた地焼きだったが、明治時代になると焼く過程で蒸す方法が取り入れられ、大正時代には蒸す技術が確立された。そうすると、飯の間に蒲焼きを挟むと二重に蒸すことになり、東京では中入れタイプの鰻飯は姿を消し、現在のようにウナギはご飯の上に乗るようになったという。 他方、鰻丼のはじまりの頃は、焼いた鰻が冷めぬよう飯と飯の間に挟み、飯の上にも載せるスタイルが一般的であったが、江戸の鰻は蒸して柔らかく仕上げるため身が崩れやすく、しだいに飯の上に鰻を載せるのみとなっていった。これに対し関西ではあらかじめ鰻を蒸すことがないため身が崩れず、その結果飯のあいだに挟むスタイルが現在に至るまで残った とする説もある。 明治時代になると、鰻飯は鰻丼(うなぎどんぶり)とも呼ばれ、まもなく鰻丼(うなどん)と略称され、名が定着した。さらにウナギが重箱に盛りつけられるようになると、うな重と呼ばれ、鰻丼よりも見栄えが良いことから鰻丼の人気を凌ぐようになった。 鰻丼は、鰻飯(うなぎめし、まんめし)とも呼ばれる。江戸時代後期の風俗を記した『守貞謾稿』には、京都大阪では「まぶし」、江戸では「鰻丼飯」の略として単に「どんぶり」という呼称が一般的であったと記されている。 近畿地方では鰻丼のことを「まむし」と呼び、「真蒸」などの字が当てられることもある。語源は鰻飯(まんめし)が訛ったとする説や、飯に鰻やタレをまぶした「まぶし」から転じたという説、鰻を飯の間に挟んで蒸らす意の「ままむし(飯蒸し)」もしくは「まむし(間蒸し)」に由来するなどの説がある。丼鉢や重箱でなく飯櫃に盛り付けたもののことを、近畿ではひつまむし、中京地方ではひつまぶしと呼んでいる。蛇のマムシ(蝮)とは無関係であるが、これに由来するとする俗説が語られることもある。 食器として重箱を用いる場合は鰻重(うなぎじゅう、略称:うなじゅう)と呼ばれる。鰻丼との違いは器のみであるが、鰻丼と鰻重の両方を置く飲食店においては、一般に鰻丼よりも鰻の量が多く、肝吸いや小鉢などの付く上位メニューとして位置付けされている。 鰻丼や鰻重には「上」や「特上」といったランク付けがあるが、これはうなぎの量の違いだけで、質は基本的に変わらない。これは鰻の仕入先が通常は一箇所からのみであるためで、産地の異なる鰻を用いる場合はその旨が特記される。 鰻重とは、御飯と鰻の蒲焼を下から「飯」「鰻」「飯」「鰻」と交互に重ねる「鰻重ね」を意味したという説もある。 鰻丼は駅弁としても定番であり、特に一大産地である浜名湖に近い浜松駅の名物として知られる。駅弁として売られる際には折箱に入れられるため、鰻丼や鰻重ではなく「うなぎめし」「うなぎ弁当」と表記される例が多い。
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鰻丼(うなぎどんぶり、略称:うなどん)は、日本の丼料理。丼鉢に盛った白飯の上に鰻の蒲焼を載せたもの。江戸・東京の郷土料理とされる日本料理の一つである。鰻飯(うなぎめし、まんめし)、まむしとも呼ばれる。また派生料理として鰻重がある(後述)。
{{Infobox prepared food | name = 鰻丼 | image = [[File:Tokyo_Chikuyotei_Unadon01s2100.jpg|250px|鰻丼]] | caption = | alternate_name = | country = | region = | national_cuisine = | creator = | year = | mintime = | maxtime = | type = | course = | served = | main_ingredient = | minor_ingredient = | variations = | serving_size = 100 g | calories = | protein = | fat = | carbohydrate = | glycemic_index = | similar_dish = | other = | complexity = }} '''鰻丼'''(うなぎどんぶり、略称:うなどん)は、[[日本]]の[[丼物|丼料理]]。[[丼鉢]]に盛った[[飯|白飯]]の上に[[ウナギ|鰻]]の[[蒲焼#ウナギの蒲焼|蒲焼]]を載せたもの。[[江戸]]・[[東京]]の[[郷土料理]]とされる[[日本料理]]の一つである。'''鰻飯'''(うなぎめし、まんめし)、'''まむし'''とも呼ばれる。また派生料理として'''鰻重'''(うなぎじゅう、略称:うなじゅう)がある([[#鰻重|後述]])。 == 概要 == 丼鉢に飯をよそって[[タレ]]をかけ、鰻の蒲焼を載せる。地域によっては上からさらに飯を盛り、鰻を覆い隠すこともある。[[薬味]]には[[サンショウ|粉山椒]]、[[箸休め]]として[[奈良漬]]などの[[漬物]]、[[肝吸い]]などが添えられる。「丼」という名称であるが、[[陶磁器]]ではなく丸型の[[漆器]]の[[椀]]が使用されることも多い。 タレは[[醤油]]と[[みりん]]を主として作られ、多くの店では少しずつ継ぎ足しながら大切に使用される。鰻から出る脂や旨味、焦げた皮や炭の香りが加わることでコクや深みが生まれ、老舗ならではの味へと熟成されていくという。 山椒の粉は食べる直前に振りかける。山椒は[[脂]]の多い鰻をさっぱりと食べるための工夫であり、[[消化]]を助けたり[[泥]]臭さを消す効果があるとされる。 国産の鰻が高値であるため、鰻丼の値段も高く設定されている場合が多い。値段に幅はあるものの、安いものでも1000円台。高いものだと10000円を越すものもある。これらの理由から、「高級な日本食=鰻丼」を思い浮かべる人も多い。 == 歴史 == [[丼物|丼飯]]の歴史の中で最も古く、[[文化 (元号)|文化年間]](1804 - 1818年)に誕生したとされる。 由来には諸説あり、宮川政運の『俗事百工起源』([[1885年]])には、堺町(現在の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋人形町]]3丁目)の芝居小屋「中村座」のスポンサー・[[大久保今助]]が、蒲焼きが冷めないように、丼飯の間に挟ませて芝居小屋に届けさせたのが、鰻飯の起源と書かれている<ref name="iino">{{Cite book |和書 |author=飯野亮一 |date=2019-09-09 |title=天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼 |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4-480-09951-8}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|p=174|isbn=4-309-49566-4}}</ref>。この大久保による鰻飯の起源となったのは、[[茨城県]][[龍ケ崎市]]にある[[牛久沼]]である。 ただし、青葱堂冬圃の『真佐真のかつら』([[1857年]])には、著者の幼少時に葺屋町(堺町の隣町)の裏長屋で鰻丼が売られていたとの記述もあり、大久保以前に同じような工夫をしている人がいたことが過去の文献からはわかっている<ref name="iino"/>。 調理法の変遷にもいわれは多く、一説には[[江戸時代]]の蒲焼きはタレを付けて焼き上げた地焼きだったが、[[明治|明治時代]]になると焼く過程で蒸す方法が取り入れられ、[[大正|大正時代]]には蒸す技術が確立された。そうすると、飯の間に蒲焼きを挟むと二重に蒸すことになり、東京では中入れタイプの鰻飯は姿を消し、現在のようにウナギはご飯の上に乗るようになった<ref name="iino"/>という。 他方、鰻丼のはじまりの頃は、焼いた鰻が冷めぬよう飯と飯の間に挟み、飯の上にも載せるスタイルが一般的であったが、江戸の鰻は蒸して柔らかく仕上げるため身が崩れやすく、しだいに飯の上に鰻を載せるのみとなっていった。これに対し[[近畿地方|関西]]ではあらかじめ鰻を蒸すことがないため身が崩れず、その結果飯のあいだに挟むスタイルが現在に至るまで残った<ref>長崎福三『江戸前の味』179頁 成山堂書店</ref> とする説もある。 明治時代になると、鰻飯は鰻丼(うなぎどんぶり)とも呼ばれ、まもなく鰻丼(うなどん)と略称され、名が定着した。さらにウナギが重箱に盛りつけられるようになると、うな重と呼ばれ、鰻丼よりも見栄えが良いことから鰻丼の人気を凌ぐようになった<ref name="iino"/>。 == 同種・類似の料理 == === 鰻飯 === 鰻丼は、'''鰻飯'''(うなぎめし、まんめし)とも呼ばれる。江戸時代後期の風俗を記した『[[守貞謾稿]]』には、京都大阪では「まぶし」、江戸では「鰻丼飯」の略として単に「どんぶり」という呼称が一般的であったと記されている<ref>『[[守貞漫稿]]』「鰻飯 京坂にてまぶし、江戸にて、どんぶりと云ふ。鰻丼飯の略なり」</ref>。 === まむし === [[近畿地方]]では鰻丼のことを「'''まむし'''」と呼び<ref>札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』新潮社、2006年、p96</ref>、「真蒸」などの字が当てられることもある。語源は鰻飯(まんめし)が訛ったとする説や、飯に鰻やタレをまぶした「まぶし」から転じたという説、鰻を飯の間に挟んで蒸らす意の「ままむし(飯蒸し)」もしくは「まむし(間蒸し)」に由来するなどの説がある。丼鉢や重箱でなく[[飯櫃]]に盛り付けたもののことを、近畿では'''ひつまむし'''、[[中京地方]]では'''[[ひつまぶし]]'''と呼んでいる。[[ヘビ|蛇]]の[[ニホンマムシ|マムシ]](蝮)とは無関係であるが、これに由来するとする俗説が語られることもある。 === 鰻重 === [[ファイル:Unaju by Kawatoyo Honten.jpg|thumb|鰻重([[川豊]]本店)]] [[食器]]として[[重箱]]を用いる場合は'''鰻重'''(うなぎじゅう、略称:うなじゅう)と呼ばれる。鰻丼との違いは器のみであるが、鰻丼と鰻重の両方を置く飲食店においては、一般に鰻丼よりも鰻の量が多く、肝吸いや小鉢などの付く上位メニューとして位置付けされている<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/00091184601035/ うな重とうな丼、違いは名前と器だけ?](エキサイトニュース [[2007年]][[7月22日]]。執筆:田幸和歌子)</ref>。 鰻丼や鰻重には「上」や「特上」といったランク付けがあるが、これはうなぎの量の違いだけで、質は基本的に変わらない<ref>[https://mi-journey.jp/foodie/25493/ 並・上・特上は何が違う? 老舗が教える「うなぎのお値段」最新事情] - FOODIE([[三越伊勢丹ホールディングス]])(2016年7月16日)</ref>。これは鰻の仕入先が通常は一箇所からのみであるためで、産地の異なる鰻を用いる場合はその旨が特記される。 鰻重とは、御飯と鰻の蒲焼を下から「飯」「鰻」「飯」「鰻」と交互に重ねる「鰻重ね」を意味したという説もある。 === うなぎめし・うなぎ弁当(駅弁) === 鰻丼は[[駅弁]]としても定番であり、特に一大産地である[[浜名湖]]に近い[[浜松駅]]の名物として知られる。駅弁として売られる際には[[折箱]]に入れられるため、鰻丼や鰻重ではなく「うなぎめし」「うなぎ弁当」と表記される例が多い。 == 逸話 == [[File:Owada-1.jpg|thumb|200px|「鰻香内閣」の逸話の元となった鰻割烹大和田の鰻重(2011年)]] * 鰻丼は香りが特徴的で鰻屋の店先まで漂うことから、「[[始末の極意|鰻屋の前で毎日香りをおかずに飯を食う男性が居て、腹を立てた鰻屋が香りの嗅ぎ代を請求すると、銭をジャラジャラ鳴らして『嗅ぎ代だから音だけで十分だろう』とやり返した]]」という小咄がある。 * [[1914年]]に次期首相に指名されながら[[組閣]]に失敗して[[大命降下|大命]]を拝辞した[[清浦奎吾]]は、組閣難航中に「大和田(当時人気の鰻屋)の前を通っているようなもので匂いはするが御膳はなかなか出て来ない」とぼやいたことがあり、この時のいきさつは「[[鰻香内閣]]」と呼ばれている(なお清浦は10年後の[[1924年]]に[[清浦内閣|首相に就任]]、「御膳」にありついた)。 * 老舗の鰻屋では、たれだけで飯を食べられるとの声も多い<ref>{{Cite news|author=小池竜太|date=2007-4-19|title=グルめぐり 魚三 若狭町 タレ秘伝、絶品のウナギ |newspaper=[[朝日新聞]] 福井朝刊|publisher=[[朝日新聞社]]|page=31}}</ref><ref>{{Cite news|author=竹中達哉|date=2012-3-27|title=私のなかの歴史 能楽師 足立禮子さん 華の舞台に生きて|newspaper=[[北海道新聞]] 全道夕刊|publisher=[[北海道新聞社]]|page=3}}</ref>。[[東京都]][[千代田区]]の「ふな亀」([[2008年]]閉店<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aventer.net/%E3%81%86%E3%81%AA%E3%81%8E%E5%B1%8B/ |title=うなぎ屋|accessdate=2018-7-20|publisher=[https://www.aventer.net/corporate/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E6%A6%82%E8%A6%81/ アヴァンテ] <!-- |archiveurl=https://archive.is/kgZ3U |archivedate=2018-7-15 --> }}</ref>)のメニューには、飯にたれをかけただけの「うなだれ丼」があった。注文は月にわずか一度か二度ほどであったが、洒落のわかる客は非常に面白がったという<ref>{{Cite book|和書|author=町田忍|authorlink=町田忍|title=東京ディープ散歩|date=2008-4-7|publisher=[[アスペクト (企業)|アスペクト]]|isbn=978-4-7572-1479-8|page=107}}</ref>。一部の[[江戸っ子]]の間では「鰻重を頼み、あえて鰻を捨てて[[茶漬け]]にして食べる」のが粋な食べ方であるとされ、有名人では[[棋士 (将棋)|将棋棋士]]の[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]](十四世名人)などがそのような食べ方を好んだという<ref>『[[将棋世界]]』2014年1月号・河口俊彦「評伝 木村義雄」</ref>。 * 鰻と丼の情報発信サイト『うなぎ STYLE』編集部主催の日本流行丼大賞選考委員会が選考を行い、2020年の『[[日本流行丼大賞]]』金賞に「名古屋系うな丼」([https://unagi-unafuji.com/ginza/ 炭焼うな富士])と「うな牛」([[すき家 (企業)|すき家]])が選ばれている<ref>{{Cite web|和書|title=『日本流行丼大賞 2020年』 {{!}} うなぎ STYLE|url=https://unagi-style.com/ryuukoudon-2020/|website=unagi-style.com|date=2020-11-28|accessdate=2021-04-14|language=ja}}</ref>。 * [[1985年]][[7月12日]]、[[昭和天皇]]が[[後水尾天皇]]を抜き歴代最高齢の天皇となった際、祝賀行事などは行われなかったが、側近らと鰻重を食べたという<ref>{{Cite web|和書|title=上皇さま 歴代天皇の中で最高齢に|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210902/k10013238001000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-09-02|last=日本放送協会}}{{リンク切れ|date=2023年4月}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Unadon}} * [[深川めし]] * [[柳川鍋]] * [[どぜう鍋]] * [[ナマズ料理]] * [[うなぎ弁当]]([[新幹線]]) {{米料理}} {{デフォルトソート:うなとん}} [[Category:鰻料理|とんふり]] [[Category:東京都の食文化]] [[Category:丼物]] [[Category:日本の魚介料理]]
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重力子
重力子(じゅうりょくし、英: graviton、グラビトン)は、素粒子物理学における四つの力のうちの重力相互作用を伝達する役目を担わせるために導入される仮説上の素粒子。アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論より導かれる重力波を媒介する粒子として提唱されたものである。スピン2、質量0、電荷0、寿命無限大のボース粒子であると予想され、力を媒介するゲージ粒子である。 理論的にも未完成であり、2022年までのところ未発見であるが、宇宙論や星の進化の研究において中心的な役割を果たしている。 超対称性がある場合、重力子に対応する超対称性パートナーとしての超対称性粒子は、スピン3/2のフェルミ粒子であるグラヴィティーノ(英: gravitino、重力微子)とされるが、こちらも2022年までのところ未発見である。
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重力子は、素粒子物理学における四つの力のうちの重力相互作用を伝達する役目を担わせるために導入される仮説上の素粒子。アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論より導かれる重力波を媒介する粒子として提唱されたものである。スピン2、質量0、電荷0、寿命無限大のボース粒子であると予想され、力を媒介するゲージ粒子である。 理論的にも未完成であり、2022年までのところ未発見であるが、宇宙論や星の進化の研究において中心的な役割を果たしている。
{{Redirect|グラビトン}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = 重力子 | 画像 = | 説明 = | 型数 = | 分類 = | 組成 =[[素粒子]] | 統計 = | グループ =[[ゲージ粒子]] | 世代 = | 相互作用 =[[重力相互作用]] | 粒子 = | 反粒子 = | ステータス = | 理論化 = | 発見 = 未発見 | 記号 =G<ref group="注釈">Gは、[[グルーオン]]との混同を避けるために使用される (グルーオンの記号はg)。</ref> | 質量 = 0<ref name="k-b"/><br>{{nowrap|&lt; {{val|6|e=-32|ul=eV/c2}} }}<ref name="Particle_table_2020">{{cite journal |last=Zyla |first=P. |display-authors=etal |collaboration=[[Particle Data Group]] |year=2020 |url=https://pdg.lbl.gov/2020/tables/rpp2020-sum-gauge-higgs-bosons.pdf |title=Review of Particle Physics: Gauge and Higgs bosons }}</ref> | 平均寿命 = 無限大<ref name="k-s"/> | 崩壊粒子 = | 電荷 = 0 | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = 2<ref name="k-b"/> | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} '''重力子'''(じゅうりょくし、{{lang-en-short|graviton}}、'''グラビトン'''<ref name="k-b">{{cite kotobank|word=重力子|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2022-01-08}}</ref><ref name="k-dd">{{cite kotobank|word=グラビトン|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2022-01-08}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=[[小松英一郎]]|year=2017|title=小松英一郎が語る 絞られてきたモデル|journal=日経サイエンス|volume=47|issue=6|page=|pages=33|publisher=[[日経サイエンス社]]|ISSN=0917009X}}</ref>)は、[[素粒子物理学]]における[[基本相互作用|四つの力]]のうちの[[万有引力|重力相互作用]]を伝達する役目を担わせるために導入される仮説上の[[素粒子]]。[[アルベルト・アインシュタイン]]の[[一般相対性理論]]より導かれる[[重力波 (相対論)|重力波]]を媒介する粒子として提唱されたものである<ref name="k-my">{{cite kotobank|word=グラビトン|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2022-01-08}}</ref>。[[スピン角運動量|スピン]]2、[[質量]]0、[[電荷]]0、寿命無限大の[[ボース粒子]]であると予想され<ref name="k-s"/>、力を媒介する[[ゲージ粒子]]である<ref name="k-sekai">{{cite kotobank|word=相互作用|encyclopedia=世界大百科事典|accessdate=2022-01-08}}</ref>。 理論的にも未完成であり<ref name="k-b"/>、2022年までのところ未発見であるが、[[宇宙論]]や[[惑星|星の進化]]の研究において中心的な役割を果たしている<ref name="k-s">{{cite kotobank|word=重力子|encyclopedia=素粒子事典|accessdate=2022-01-08}}</ref>。 == グラヴィティーノ == {{出典の明記|date=2017年5月|section=1}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = グラヴィティーノ (gravitino) | 画像 = | 説明 = | 型数 = | 分類 = | 組成 = | 統計 = | グループ = | 世代 = | 相互作用 = | 粒子 = | 反粒子 = | ステータス = | 理論化 = | 発見 = 未発見 | 記号 = | 質量 = | 平均寿命 = | 崩壊粒子 = | 電荷 = 0 | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = {{frac|3|2}} | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} [[超対称性]]がある場合、重力子に対応する[[超対称性パートナー]]としての[[超対称性粒子]]は、スピン3/2の[[フェルミ粒子]]である'''グラヴィティーノ'''({{lang-en-short|gravitino}}、重力微子)とされるが、こちらも2022年までのところ未発見である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist}} ===出典=== {{reflist}} == 関連項目 == * [[量子重力理論]] * [[超重力理論]] * [[重力波 (相対論)]] * [[ヒッグス粒子]] * [[暗黒物質]] {{Physics-stub}} {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆうりよくし}} [[Category:素粒子]] [[Category:仮説上の素粒子]] [[Category:量子重力理論]]
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うなぎボーン
うなぎボーン(英:The Eel Bone)は、ウナギの骨(背骨)を短く切って、カリカリに素揚げした菓子。静岡県の土産菓子として有名である。 ウナギの骨を植物油で揚げたもので、昔から鰻屋の賄いや常連客に出される裏メニューとして存在していた。 浜松市北区でウナギ料理店を営む有限会社勝美の登録商標であり、事業者によっては異なる名称で生産されている。 1977年(昭和52年)1月、静岡県藤枝市の株式会社京丸が大量生産を始め、商品名を『うなぎボーン』とする。これ以外の事業者からも『うなぎボーン』のほか、『うなぎぼーん』『うなぎの骨せんべい』『うな棒』などの商品名で生産され、スーパーマーケットや土産・物産販売店等で販売されている。また、ハムスター用のペットフードとしても流通している。 バラエティ番組『秘密のケンミンSHOW』(読売テレビ)の2008年12月4日放送分で、京丸の『うなぎボーン』が紹介され、全国的な知名度を上げた。 ほか
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うなぎボーンは、ウナギの骨(背骨)を短く切って、カリカリに素揚げした菓子。静岡県の土産菓子として有名である。
[[ファイル:unagi_hone.jpg|thumb|right|250px|うなぎボーン]] '''うなぎボーン'''(英:The Eel Bone)は、[[ウナギ]]の[[背骨]]を短く切って、カリカリに[[揚げる|素揚げ]]した[[菓子]]。[[静岡県]]の[[土産菓子]]として有名である。 == 概要 == ウナギの骨を[[植物油]]で揚げたもので、昔から鰻屋の[[賄い]]や常連客に出される裏[[メニュー (料理)|メニュー]]として存在していた。 [[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]でウナギ料理店を営む有限会社勝美の登録商標<ref>ただし[[商標登録]]にあたり、この名称だけでは単純すぎるため認められず、『うなぎボーン』に特色のある単語、もしくは特徴的なマークが必要となっている。勝美については、篭からウナギが3匹顔を出しているイラストを使用している。</ref>であり、事業者によっては異なる名称で生産されている。 [[1977年]](昭和52年)1月、静岡県[[藤枝市]]の株式会社京丸が大量生産を始め、商品名を『うなぎボーン』とする。これ以外の事業者からも『うなぎボーン』のほか、『うなぎぼーん』『うなぎの骨せんべい』『うな棒』などの商品名で生産され、[[スーパーマーケット]]や土産・物産販売店等で販売されている。また、[[ハムスター]]用のペットフードとしても流通している。 バラエティ番組『[[秘密のケンミンSHOW]]』([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])の2008年12月4日放送分で、京丸の『うなぎボーン』が紹介され、全国的な知名度を上げた。 == 主な生産業者 == * 株式会社京丸(静岡県藤枝市) * 有限会社勝美(静岡県浜松市北区) * 株式会社カネキ水産(静岡県浜松市[[西区 (浜松市)|西区]])<!--カネキ水産(榛原郡吉田町)より2020年4月1日事業継承--> * 川口水産([[和歌山県]][[有田市]]) ほか == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ウナギ]] {{DEFAULTSORT:うなきほおん}} [[Category:鰻料理|ほん]] [[Category:静岡県の土産菓子]] [[Category:浜松市の文化]]
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英語圏
英語圏(えいごけん、英: English-speaking world, Anglosphere)は、公用語や国語に英語が定められている、もしくはそこに住む人々の主に話す言語が英語である国・地域の総称。 かつてイギリスやアメリカなどの植民地であった地域が、英語圏になっている場合が多い。 英語は、世界80カ国以上で話されている。 国の公用語が英語であることは、国民や地域住民の過半数が英語を第一言語とする、もしくは英語を話す能力を備えていることとは限らない。 例えば、ジンバブエでは国民の大半がショナ語もしくは北ンデベレ語を日常会話に用いる。 世界の英語話者(第一言語として)の3分の2が集中するアメリカ合衆国では、憲法の規定としての公用語は存在していないが、事実上、英語の占める位置が圧倒的に優勢であるため、英語圏とみなされている。
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英語圏は、公用語や国語に英語が定められている、もしくはそこに住む人々の主に話す言語が英語である国・地域の総称。 かつてイギリスやアメリカなどの植民地であった地域が、英語圏になっている場合が多い。 英語は、世界80カ国以上で話されている。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年2月 | 更新 = 2021年2月 }} {{色}} [[Image:Anglospeak (subnational version).svg|thumb|300px|世界の英語圏地域。濃い青色は英語が公用語または事実上の(''[[de facto]]'')公用語となっている地域。薄い青色は英語が公用語であるが主要な言語ではない地域。]] '''英語圏'''(えいごけん、{{Lang-en-short|English-speaking world, Anglosphere}})は、[[公用語]]や[[国語]]に'''[[英語]]'''が定められている、もしくはそこに住む人々の主に話す[[言語]]が英語である[[国家|国]]・[[地域]]の総称。 かつて[[イギリス帝国|イギリス]]や[[アメリカ帝国|アメリカ]]などの[[植民地]]であった地域が、英語圏になっている場合が多い。 英語は、世界80カ国以上で話されている。 ==概要== 国の[[公用語]]が[[英語]]であることは、[[国民]]や地域[[住民]]の過半数が英語を[[第一言語]]とする、もしくは英語を話す能力を備えていることとは限らない。 例えば、[[ジンバブエ]]では国民の大半が[[ショナ語]]もしくは[[北ンデベレ語]]を日常会話に用いる。 世界の英語話者(第一言語として)の3分の2が集中する[[アメリカ合衆国]]では、[[憲法]]の規定としての公用語は存在していないが、[[事実上]]、英語の占める位置が圧倒的に優勢であるため、英語圏とみなされている。 == 英語が公用語・国語の地位にある国・地域 == [[Image:English dialects1997.png|250px|right|thumb|'''国別の英語話者人口''' 2/3をアメリカ合衆国一国が占める]] === ヨーロッパ === ==== 国と国家連合 ==== * {{GBR}}([[イングランド]]の[[コーンウォール]]地方では[[コーンウォール語]]も公用語。[[ウェールズ]]では[[ウェールズ語]]も公用語。[[スコットランド]]では[[スコットランド・ゲール語]]、[[スコットランド語]]も公用語。[[北アイルランド]]ではアイルランド語、[[:en:Ulster Scots dialects|アルスタースコットランド語]]も公用語) * {{IRL}}([[アイルランド語]]が第一公用語。英語は第二公用語。ただし事実上、英語が優勢) * {{MLT}}([[マルタ語]]と英語が公用語) * {{EUR}}(英語も含めて加盟国の24言語が公用語。詳細は[[欧州連合の言語]]を参照) ==== イギリス自治領 ==== * {{GGY}}(英語と[[フランス語]]が公用語) * {{GIB}} * {{JEY}}(英語とフランス語が公用語) * {{IMN}} === 北アメリカ === * {{USA}}(公式な国の公用語はないが、国民の大部分の第一言語である英語が事実上の公用語。国民の1割は[[スペイン語]]話者。30の[[州]]においては、英語が公用語であると法律に定められている<ref>[http://www.us-english.org/inc/official/states.asp U.S. ENGLISH, Inc. Towards a United America]</ref>。[[ニューメキシコ州]]では[[スペイン語]]、[[ルイジアナ州]]では[[フランス語]]も公用語) * {{CAN}}([[ケベック州]]では唯一、フランス語だけが公用語、[[ニューブランズウィック州]]ではフランス語も公用語) === 中央アメリカ === ==== 国 ==== * {{ATG}} * {{GRD}} * {{JAM}} * {{SKN}} * {{VIN}} * {{LCA}} * {{TTO}} * {{BAH}} * {{BAR}} * {{BLZ}}(英語が公用語であり、国民のほとんどが英語もしくは英語の現地方言であるベリーズ・クレオール語を話す。また国民の約半数はスペイン語を話す。) ==== 地域 ==== * {{PRI}}(アメリカ自治連邦区。英語も公用語だが住民の母語は大多数が[[スペイン語]]) * {{ISV}}(アメリカ自治領) * {{AIA}}(イギリス自治領) * {{IVB}}(イギリス自治領) * {{CYM}}(イギリス自治領) * {{TCA}}(イギリス自治領) * {{MSR}}(イギリス自治領) === 南アメリカ === * {{GUY}} * {{FLK}}(イギリス自治領) === アジア === ==== 国 ==== * {{IND}}(準公用語)([[ヒンディー語]]が国家(連邦レベル)の公用語で、各州の公用語に[[アッサム語]]・[[ウルドゥー語]]・[[オリヤー語]]・[[カンナダ語]]・[[グジャラート語]]・[[シンド語]]・[[タミル語]]・[[テルグ語]]・[[パンジャービー語]]・[[ベンガル語]]・[[マラーティー語]]・[[マラヤーラム語]]などがある) * {{SGP}}([[マレー語]]が国語。英語、[[中国語]]、マレー語、[[タミル語]]が公用語) * {{MAL}}([[マレー語]]が国語。英語、[[中国語]]、マレー語、[[タミル語]]が公用語) * {{LKA}}([[シンハラ語]]と[[タミル語]]が公用語。英語は準公用語) * {{PAK}}([[ウルドゥー語]]が国語。英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/pakistan/data.html 各国・地域情勢 国名:パキスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Pakistan)2010年3月現在] 外務省</ref> * {{PHI}}([[フィリピン語|フィリピノ語]]が国語。フィリピノ語と英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/philippines/data.html 各国・地域情勢 国名:フィリピン共和国(Republic of the Philippines)2010年8月現在] 外務省</ref> ==== 地域 ==== * {{CXR}}(オーストラリア自治領)(主要言語は英語のほか、中国語、[[マレー語]]) * {{CCK}}(オーストラリア自治領)(主要言語は英語のほか、マレー語) * {{HKG}}([[中華人民共和国]][[特別行政区]])(主要言語は[[広東語]]。英語は公用語) === アフリカ === * {{UGA}} * {{GHA}} * {{CMR}}([[フランス語]]と英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/cameroon/data.html 各国・地域情勢 国名:カメルーン共和国(Republic of Cameroon)2010年5月現在] 外務省</ref> * {{GMB}} * {{KEN}}([[スワヒリ語]]と英語が公用語) * {{ZMB}} * {{SLE}} * {{ZWE}} * {{SWZ}}([[スワジ語]]と英語が公用語) * {{SYC}}(フランス語と英語が公用語) * {{Flagicon|ソマリランド}} [[ソマリランド]](公用語は英語とアラビア語。国語は[[ソマリ語]]) * {{TZA}}(スワヒリ語が国語。英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/tanzania/data.html 各国・地域情勢 国名:タンザニア連合共和国(United Republic of Tanzania)2010年9月現在] 外務省</ref> * {{NGA}} * {{NAM}}(公用語は英語だが、[[アフリカーンス語]]と[[ドイツ語]]の方が主流) * {{BWA}}(公用語は英語。国語は[[ツワナ語]]) * {{MWI}}(公用語は英語。国語は[[チェワ語]]。他に[[トゥンブカ語]]) * {{ZAF}}(英語、[[アフリカーンス語]]、[[コーサ語]]、[[スワティ語]]、[[ズールー語]]、[[ツォンガ語]]、[[ツワナ語]]、[[ベンダ語]]、[[南ンデベレ語]]、[[ソト語|南ソト語]]、[[北ソト語]]が公用語) * {{SSD}} * {{SUD}}(英語も公用語だが、[[アラビア語]]が主流) * {{MUS}}(英語が公用語。ただし、[[モーリシャス・クレオール語]]、フランス語の方が優勢) * {{LBR}} * {{RWA}}([[ルワンダ語]]、フランス語、英語が公用語) * {{LSO}}(英語が公用語。主要言語は[[ソト語|南ソト語]]) === オセアニア === ==== 国 ==== * {{AUS}} * {{KIR}}([[キリバス語]]と英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kiribati/data.html 各国・地域情勢 国名:キリバス共和国(Republic of Kiribati)2010年7月現在] 外務省</ref> * {{WSM}}([[サモア語]]と英語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/samoa/data.html 各国・地域情勢 国名:サモア独立国(Independent State of Samoa)2010年8月現在] 外務省</ref> * {{SLB}}(英語が公用語。[[ピジン言語|ピジン]]英語が共通語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/solomon/data.html 各国・地域情勢 国名:ソロモン諸島(Solomon Islands)2010年9月現在] 外務省</ref> * {{TUV}}(公用語) * {{TON}}(主要言語は[[トンガ語 (ポリネシア)|トンガ語]]) * {{NRU}}(公用語は[[ナウル語]]) * {{NZL}}(国語)(英語と[[マオリ語]]が公用語) * {{VUT}}([[ビスラマ語]]、英語、フランス語が公用語)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/vanuatu/data.html 各国・地域情勢 国名:バヌアツ共和国(Republic of Vanuatu)2009年12月現在] 外務省</ref> * {{PNG}}(公用語。共通語は[[ピジン言語|ピジン英語]]) * {{PLW}}([[パラオ語]]と英語が公用語。[[アンガウル州]]は両言語と[[日本語]]が公用語) * {{FJI}}(公用語。主要言語は[[フィジー語]]・[[ヒンドゥスターニー語]]) * {{MHL}}([[マーシャル語]]と英語が公用語) * {{FSM}}(公用語。主要言語は[[コスラエ語]]・[[チューク語]]・[[ポンペイ語]]・[[ヤップ語]]) * {{COK}}(公用語) * {{NIU}}([[ニウエ語]]と英語が公用語) ==== 地域 ==== * {{ASM}}(アメリカ自治領)(共通語) *{{MNP}}(アメリカ自治領)(主要言語は[[カロリン語]]・[[チャモロ語]]) * {{GUM}}(アメリカ自治領)(主要言語は[[チャモロ語]]) *  [[ハワイ州|ハワイ]](アメリカ合衆国)([[ハワイ語]]と英語が共用語) * {{TKL}}(ニュージーランド自治領) * {{NFK}}(オーストラリア自治領)(共通語、公用語) * {{PCN}}(イギリス自治領)(共通語、公用語) === 大西洋地域 === * {{SHN}}(イギリス自治領)(共通語) * {{BMU}}(イギリス自治領)(共通語、公用語) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[イギリス英語]] * [[アメリカ英語]] ** {{Interlang|en|Comparison of American and British English}} アメリカ英語とイギリス英語の比較 * [[カナダ英語]] * [[オーストラリア英語]] * [[ニュージーランド英語]] * [[アイルランド英語]] * [[インド英語]] * [[フィリピン英語]] * [[英語帝国主義]] * [[国際英語論]] * [[英語史]] == 外部リンク == * [http://www.ethnologue.com/show_language.asp?code=ENG Ethnologue report for ENGLISH]{{En icon}} * [http://travbla.com/All/WhatCountry/jp.html 第二言語学英語圏比較] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいこけん}} [[Category:英語]] [[Category:言語圏]] [[Category:植民地]]
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四向四果
四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における声聞によって悟りに至る階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。 果とは、到達した境地(果位)のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。4つの果を合わせて四沙門果(ししゃもんか)とも言う。 原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。 下記の(1)〜(8)の8つが四向四果。 四沙門果と煩悩の関係は以下の通り。 この四向四果の説が整えられたのは、部派仏教時代のアビダルマ教学においてだと考えられる。それ以前の初期仏教においては、例えばパーリ語仏典の『大般涅槃経(大パリニッバーナ経)』では、 の3つの順で示されることがあり、「不還」がそのまま涅槃到達を意味しているなど、四向四果とはいくらか様相が異なる説明が混在している。不還果は四向四果でも、文字通り生まれ変わらないという意味で説かれる。 大乗経典の『涅槃経』四依品では、これらの声聞衆と凡夫を人四依として挙げて、仏滅後の末世(すなわち末法)において正しく依るべき4種の人(四種人)としている。また、小乗(二乗)を批判して形成されたのが大乗仏教であるが、『涅槃経』においては、これら二乗を大乗の菩薩と同視するのが特徴である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における声聞によって悟りに至る階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "果とは、到達した境地(果位)のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。4つの果を合わせて四沙門果(ししゃもんか)とも言う。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "下記の(1)〜(8)の8つが四向四果。", "title": "内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "四沙門果と煩悩の関係は以下の通り。", "title": "煩悩との関係" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この四向四果の説が整えられたのは、部派仏教時代のアビダルマ教学においてだと考えられる。それ以前の初期仏教においては、例えばパーリ語仏典の『大般涅槃経(大パリニッバーナ経)』では、", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "の3つの順で示されることがあり、「不還」がそのまま涅槃到達を意味しているなど、四向四果とはいくらか様相が異なる説明が混在している。不還果は四向四果でも、文字通り生まれ変わらないという意味で説かれる。", "title": "成立" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大乗経典の『涅槃経』四依品では、これらの声聞衆と凡夫を人四依として挙げて、仏滅後の末世(すなわち末法)において正しく依るべき4種の人(四種人)としている。また、小乗(二乗)を批判して形成されたのが大乗仏教であるが、『涅槃経』においては、これら二乗を大乗の菩薩と同視するのが特徴である。", "title": "大乗『涅槃経』に見る解釈" } ]
四向四果 (しこうしか)とは、原始仏教や部派仏教における声聞によって悟りに至る階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果のこと。四双八輩ともいう。 果とは、到達した境地(果位)のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。4つの果を合わせて四沙門果(ししゃもんか)とも言う。 原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を無学位といい、阿羅漢果に達した者を無学という。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を有学位といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を有学という。
'''四向四果''' (しこうしか)とは、[[原始仏教]]や[[部派仏教]]における[[声聞]]によって悟りに至る階位のことであり、[[預流]]向・預流果・[[一来]]向・一来果・[[不還]]向・不還果・[[阿羅漢]]向・阿羅漢果のこと<ref name="ib422">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=422 }}</ref>。'''四双八輩'''ともいう<ref name="ib422" />{{efn|向と果の対(双)が4種(四双)あるため、総計で8種の段階にある人という意味で四双八輩という<ref name="ib422" />。}}。 '''果'''とは、到達した境地([[果位]])のことであり、'''向'''は特定の果に向かう段階のことである<ref name="ib422" />。4つの果を合わせて'''[[四沙門果]]'''(ししゃもんか)とも言う<ref>[[s:zh:雜阿含經(五十卷)/卷第 29|雑阿含経 29巻]] 799句 , "爾時,世尊告諸比丘……如上?。差別者:「有沙門果。何等為沙門果?謂須陀洹果、斯陀含果、阿那含果、阿羅漢果。」"</ref>。 原始仏教・部派仏教では、阿羅漢果は修行者の到達しうる最高位であり、それ以上に学ぶ必要が無いので阿羅漢果を'''無学位'''といい、阿羅漢果に達した者を'''無学'''という<ref name="ib422" /><ref name="ib19" />。四向四果のうちで阿羅漢果未満の預流果・一来果・不還果を'''有学位'''といい、阿羅漢果未満の聖者(七輩)を'''有学'''という<ref name="ib422" /><ref name="ib19">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=19 }}</ref>。 ==内容== 下記の(1)〜(8)の8つが四向四果<ref name="ib422" /><ref name="kb1" />。 *[[預流]](よる) - 聖者の流れ(見道位)に入ることで、[[欲界]]の人と天の間を最大7回生まれかわれば悟りを開く位<ref name="ib422" />。須陀洹を指す<ref name="kb1">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C-73013|title=四向四果(しこうしか)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-07-18}}</ref>。 ** (1) 預流向 - [[四聖諦]]を観察する段階である見道<ref name="kb1" />。[[欲界]]、[[色界]]、[[無色界]]の[[三界]]の[[煩悩]]を断じつつある間<ref name="kb1" />。 ** (2) 預流果 - 見道のそれらの煩悩を断じ終って、もはや[[地獄]]、[[餓鬼]]、[[畜生]]の[[三悪趣|三悪道]]に堕ちることがなくなる状態<ref name="kb1" />。 *[[一来]](いちらい) - 人と天の間を1回往来して悟りに至る位<ref name="ib422" />。斯陀含を指す<ref name="kb1" />。 ** (3) 一来向 - 四聖諦を観察することを繰返していく修道の段階<ref name="kb1" />。欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつある間<ref name="kb1" />。 ** (4) 一来果 - その6種の煩悩を断じ終った位<ref name="kb1" />。 *[[不還]](ふげん) - 欲界には再び還らず[[色界]]に上って悟りに至る位<ref name="ib422" />。阿那含を指す<ref name="kb1" />。 ** (5) 不還向 - 一来果で断じきれなかった残りの3種の煩悩を断じつつある間<ref name="kb1" />。 ** (6) 不還果 - その3種の煩悩を断じ終った位<ref name="kb1" />。 *[[阿羅漢]](あらかん、漢訳:[[応供]]) - 今生の終りに悟り([[涅槃]])に至り再び[[三界]]には生れない位<ref name="ib422" /><ref name="ib19" />。 ** (7) 阿羅漢向 - 不還果を得た聖者がすべての煩悩を断じつつある間<ref name="kb1" />。 ** (8) 阿羅漢果 - すべての煩悩を断じ終って[[涅槃]]に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位<ref name="kb1" />。 ==煩悩との関係== 四沙門果と[[煩悩]]の関係は以下の通り<ref>参考 : [[藤本晃]] 『悟りの4つのステージ』[[サンガ (出版社)|サンガ]]、2015年</ref>{{要ページ番号|date=2017年7月15日 (土) 23:54 (UTC)}}。 {| class="wikitable" |+ ! 四沙門果 ! 煩悩 |- ! 預流果 | [[三結]](有身見・疑・戒禁取)が絶たれている。 |- ! 一来果 | [[三毒]](貪・瞋・癡)が薄まっている。 |- ! 不還果 | [[五下分結]](三結+貪・瞋)が絶たれている。 |- ! 阿羅漢果 | [[五上分結]](色貪・無色貪・慢・掉挙・無明)が絶たれている。 |} {{四向四果}} {{-}} ==成立== この四向四果の説が整えられたのは、部派仏教時代の[[アビダルマ]]教学においてだと考えられる<ref>『ブッダ最後の旅』 [[中村元 (哲学者)|中村元]] [[岩波文庫]] pp238-239 </ref>{{どこ|date=2017年1月}}。それ以前の[[初期仏教]]においては、例えばパーリ語仏典の『[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経(大パリニッバーナ経)]]』では、 *一来 - 一度だけ生まれ変わる。 *預流 - 聖者の流れに入る。 *不還 - 二度と生まれ変わらない。 の3つの順で示されることがあり、「不還」がそのまま涅槃到達を意味しているなど、四向四果とはいくらか様相が異なる説明{{どこ|date=2017年1月}}が混在している。不還果は四向四果でも、文字通り生まれ変わらないという意味で説かれる。 == 大乗『涅槃経』に見る解釈 == {{一次資料|date=2017年7月16日 (日) 14:45 (UTC)|section=1}} 大乗経典の『[[涅槃経]]』四依品では、これらの声聞衆と[[凡夫]]を[[人四依]]として挙げて、仏滅後の末世(すなわち末法)において正しく依るべき4種の人(四種人)としている。また、[[小乗]]([[二乗]])を批判して形成されたのが大乗仏教であるが、『涅槃経』においては、これら二乗を大乗の[[菩薩]]と同視するのが特徴である。 *須陀洹・斯陀含は、もし[[正法]]を得れば正法を受持し、如来より法を聞けば書写・受持・読誦して他のために説く者で「すでに[[受記]]を得た菩薩」とする。 *阿那含は、世間法に執られず大乗を説き、相続して絶えず永く欲を離れ、[[臨終]]の日に畏怖を生ぜず、再び[[欲界]]に還らず、すでに受記を得て、「久しからず悟りを成じる菩薩」とする。 *阿羅漢は、菩薩の[[十地]]の境涯に住し、仏道を成ぜんと欲せば、いつでも成仏することができ、実は「如来と異なるところはない」とする。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[果位]] *[[見性]] *[[人四依]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:しこうしか}} [[Category:上座部仏教]] [[Category:仏教哲学の概念]] [[Category:仏教の名数4|こうか]]
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16,153
預流
預流(よる、巴: sotāpanna ソーターパンナ, 梵: srotāpanna スローターパンナ, स्रोत आपन्न、音写:須陀洹〈しゅだおん〉)とは、仏教において聖者の流れに入った者であり 、法(ダルマ)を聞いて三結を絶った者である。四向四果の最初の段階。 預流(sotāpanna)とは「流れ(sota)に入った者(āpanna)」という意味であり、八正道を川、涅槃をたどり着く広大な海として喩えたものである 。 預流果に達すると退転することなく、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで悟りに達する。 預流果の前段階には、法随行(dhammānusārī; 随法行)と信随行(saddhānusārī; 随信行)の2つが七聖者の一つとして示されている。 原始仏教では、有身見(うしんけん)、戒禁取見(かいごんじゅけん)、疑の、三結を断じた者が得る位であった。 Evametaṃ bhikkhave sammā sīhanādaṃ nadatha. Katamo ca bhikkhave samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hoti avinipātadhammo niyato sambodhiparāyaṇo. Ayaṃ bhikkhave samaṇo. 比丘たちよ、以下のように正しく獅子吼しなさい。比丘たちよ、いかなるものが第一の沙門なのか。 比丘たちよ、ここに比丘がいて、三結の滅尽によって預流となり、真理から堕ちない法を有するもの、正覚への至りが決定している、 比丘たちよ、これが第一の沙門である。 四預流支とは、預流果に至るまでの4ステップのこと。キーターギリ経などに説かれる。 Cattāro me bhikkhave, dhammā bhāvitā bahulīkatā sotāpatti phalasacchikiriyāya saṃvattanti. Katame cattāro: sappurisasaṃsevo saddhammasavanaṃ yonisomanasikāro dhammānudhammapaṭipatti. Ime kho bhikkhave, cattāro dhammā bhāvitā bahulīkatā sotāpattiphalasacchikiriyāya saṃvattantīti. 比丘たちよ、これら四つの法が修習され多修されると、預流果の実証に転じる。いかなる四か。 善人親近、正法聴聞、如理作意、法随法の実践である。 比丘たちよ、これら四つの法が修習され多修されると、預流果の実証に転じる。 倶舎論では、見道において見惑の八十八随眠(ずいめん)煩悩を断った者が得るとしている。 預流果に達すると、四悪趣に堕ちなくなり、六重罪を犯すことができなくなる 。 Ye ariyasaccāni vibhāvayanti Gambhīrapaññena sudesitāni Kiñcāpi te honti bhusappamattā Na te bhavaṃ aṭṭhamaṃ ādiyanti, 深き智慧により正しく説かれたる(四)聖諦を実践する者たち(預流者)は、 たとい(後に)大いに放逸になろうとも、八回目の(転)生を引き寄せること有らず。 Sahāvassa dassanasampadāya Tayassu dhammā jahitā bhavanti, Sakkāyadiṭṭhi vicikicchitañca Sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci, Catūhapāyehi ca vippamutto Cha cābhiṭhānāni abhabbo kātuṃ 知見(四聖諦の明知)の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られたことになる。 有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。 また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪をなすことはあたわず。 四預流果支とは、既に預流果に至っている者が備えている、4つの特徴のこと。 Catūhi bhikkhave, dhammehi samannāgato ariyasāvako sotāpanno hoti avinipātadhammo niyato sambodhiparāyano. 比丘たちよ、以下の四つを具足した聖なる弟子は預流者である。悪趣に堕ちることがなくなり、悟りを得て正覚へ至る事が決定している。 地上における一国の王になることよりも、天上に至ることよりも、この世界の君主になることよりも、預流果のほうが優れている。
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預流を聞いて三結を絶った者である。四向四果の最初の段階。 預流(sotāpanna)とは「流れ(sota)に入った者(āpanna)」という意味であり、八正道を川、涅槃をたどり着く広大な海として喩えたものである。 預流果に達すると退転することなく、最大でも7回人間界と天界を往来するだけで悟りに達する。 預流果の前段階には、法随行と信随行の2つが七聖者の一つとして示されている。
{{Infobox Buddhist term | title = 預流 | collapsible = | en = | pi = Sotapanna | pi-Latn = | sa = &#x0938;&#x094d;&#x0930;&#x094b;&#x0924; &#x0906;&#x092a;&#x0928;&#x094d;&#x0928; | sa-Latn =Srotāpanna | as = | as-Latn = | bn = | bn-Latn = | my = | my-Latn = | zh = 入流, 預入, 須陀洹 | zh-Hans = | zh-Hant = | zh-Latn = rùliú | id = | ja = 預流 | ja-Hani = | ja-Latn = Yoru | bo = རྒྱུན་ཞུགས | bo-Latn = rgyun zhugs<ref>Meditative States in Tibetan Buddhism By Lati Rinpoche, Denma Locho Rinpoche, Leah Zahler, Jeffrey Hopkins. pg 63</ref> }} '''預流'''(よる、{{lang-pi-short|sotāpanna}} '''ソーターパンナ''', {{lang-sa-short|srotāpanna}} '''スローターパンナ''', {{lang|sa|&#x0938;&#x094d;&#x0930;&#x094b;&#x0924; &#x0906;&#x092a;&#x0928;&#x094d;&#x0928;}}、音写:須陀&#x6d39;〈しゅだおん〉)とは、[[仏教]]において聖者の流れに入った者であり<ref>{{cite web|last1=Snyder|first1=David|title=Definition of a Buddhist|url=http://www.thedhamma.com/definition.htm|website=The Dhamma |accessdate=2022-09}}</ref> 、法(ダルマ)を聞いて[[三結]]を絶った者である。[[四向四果]]の最初の段階<ref>{{cite web|last=Sujato|first=Bhikkhu|author-link=Bhante Sujato|title=A Swift Pair of Messengers|url=http://santipada.org/aswiftpairofmessengers/wp-content/uploads/2012/08/A_Swift_Pair_of_Messengers_Bhikkhu_Sujato.html|website=Santipada |accessdate=2012-08}}</ref><ref name=fuji>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.3}}</ref>。 預流(sotāpanna)とは「流れ(sota)に入った者(āpanna)」という意味であり、[[八正道]]を川、[[涅槃]]をたどり着く広大な海として喩えたものである<ref>{{cite web|last1=Bhikkhu|first1=Thanissaro|title=Intro the Stream: A Study Guide on the First Stage of Awakening|url=http://www.accesstoinsight.org/lib/study/into_the_stream.html |website=Access to Insight|quote=Very good, Sariputta! Very good! This noble eightfold path — right view, right resolve, right speech, right action, right livelihood, right effort, right mindfulness, right concentration — is the stream. |accessdate=2022-09}}</ref> 。 預流果に達すると[[退転]]することなく、最大でも7回[[人間界]]と[[天界]]を往来するだけで[[悟り]]に達する<ref name=fuji /><ref name=jt>{{Cite |和書|title=「宝経」法話 |publisher=日本テーラワーダ仏教協会 |author=アルボムッレ・スマナサーラ |date=2015-12 |id={{ASIN|B0188R7QVW}} |url=https://j-theravada.net/dhamma/sehonbunko/takarakyou/}}</ref>。 預流果の前段階には、'''法随行'''(dhammānusārī; 随法行)と'''信随行'''(saddhānusārī; 随信行)の2つが[[七聖者]]の一つとして示されている<ref name=kita>{{SLTP|中部[[キーターギリ経]]}}</ref><ref>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.7}}</ref>。 == 原始仏教 == [[原始仏教]]では、[[有身見]](うしんけん)、[[戒禁取見]](かいごんじゅけん)、[[疑]]の、'''[[三結]]'''を断じた者が得る位であった<ref>{{Cite web|url=http://www.accesstoinsight.org/lib/study/stream2.html|title=Stream Entry|accessdate=2009-03-16|publisher=Access to Insight|last=Thanissaro Bhikkhu}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/bodhi/waytoend.html|title=The Noble Eightfold Path|accessdate=2009-03-16|publisher=Access to Insight|last=Thanissaro Bhikkhu}}</ref><ref name=fuji />。 {{Quote| Evametaṃ bhikkhave sammā sīhanādaṃ nadatha. Katamo ca bhikkhave samaṇo? <br> Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpanno hoti avinipātadhammo niyato sambodhiparāyaṇo. Ayaṃ bhikkhave samaṇo. 比丘たちよ、以下のように正しく獅子吼しなさい。比丘たちよ、いかなるものが第一の沙門なのか。<br> 比丘たちよ、ここに比丘がいて、'''三結の滅尽'''によって預流となり、真理から堕ちない法を有するもの、正覚への至りが決定している、 比丘たちよ、これが第一の沙門である。<ref name=fuji /> | {{SLTP|[[増支部]][[四集 (増支部)|四集]] 241,沙門経 Samaṇasuttaṃ }} }} # [[有身見]] - [[五蘊]]を[[我]]とみなす[[見 (仏教)|見解]](diṭṭhi)が捨て去られる。 # [[戒禁取見]] - 何も考えず儀礼をこなしたり、単純な道徳に固執したり、神頼みによって清浄になるという考えの根絶。 # [[疑]] - 釈迦、釈迦の教え([[法 (仏教)|ダルマ]])、比丘の共同体([[僧伽|サンガ]])、これら[[三宝]]への疑いが根絶される。 === 四預流支 === 四預流支とは、預流果に至るまでの4ステップのこと<ref name=fuji_7>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.7}}</ref>。[[キーターギリ経]]などに説かれる。 {{Quote| Cattāro me bhikkhave, dhammā bhāvitā bahulīkatā sotāpatti phalasacchikiriyāya saṃvattanti. Katame cattāro:<br> sappurisasaṃsevo saddhammasavanaṃ yonisomanasikāro dhammānudhammapaṭipatti. <br> Ime kho bhikkhave, cattāro dhammā bhāvitā bahulīkatā sotāpattiphalasacchikiriyāya saṃvattantīti.<br> 比丘たちよ、これら四つの法が[[修習]]され多修されると、預流果の実証に転じる。いかなる四か。<br> 善人親近、正法聴聞、如理作意、法随法の実践である。<br> 比丘たちよ、これら四つの法が修習され多修されると、預流果の実証に転じる。 | {{SLTP|[[相応部]][[預流相応]] 大慧品 }} }} # 善士親近 (Sappurisa-Samseva) - 善き師匠に近づいて、敬い仕える<ref name="fuji_7" />。 # 正法聴聞 (Saddhamma-Savana) - 師の教えに耳を傾けて法を聞き、記憶する<ref name="fuji_7" />。 # [[如理作意]] (Yoniso-manasikāra) - 教わって記憶した、法の意義を考察して理解する<ref name="fuji_7" />。 # [[法随法行]] (Dhammānudhamma-ppaṭipatti) - 理解した教えを実践する<ref name="fuji_7" />。 == 部派仏教 == [[倶舎論]]では、見道において見惑の八十八[[随眠]](ずいめん)[[煩悩]]を断った者が得るとしている。 == 預流果 == 預流果に達すると、四悪趣に堕ちなくなり、六重罪を犯すことができなくなる<ref name=fuji /><ref name=jt/> 。 {{Quote| Ye ariyasaccāni vibhāvayanti Gambhīrapaññena sudesitāni<br> Kiñcāpi te honti bhusappamattā Na te bhavaṃ aṭṭhamaṃ ādiyanti, 深き智慧により正しく説かれたる(四)聖諦を実践する者たち(預流者)は、<br> たとい(後に)大いに[[放逸]]になろうとも、八回目の(転)[[有|生]]を引き寄せること有らず。 Sahāvassa dassanasampadāya Tayassu dhammā jahitā bhavanti,<br> Sakkāyadiṭṭhi vicikicchitañca Sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci,<br> Catūhapāyehi ca vippamutto Cha cābhiṭhānāni abhabbo kātuṃ<br> 知見(四聖諦の明知)の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られたことになる。<br> 有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。<br> また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪をなすことはあたわず。 | {{SLTP|[[スッタニパータ]] 宝経 第九偈}} <ref name=fuji /><ref name=jt/> }} * [[六道|四悪趣]](四悪道、四趣) *# [[地獄 (仏教)|地獄]]界(Naraka) *# [[畜生]]界(tiracchāna yoni) *# [[阿修羅]]界(asura) *# [[餓鬼]]界(pettivisaya) * 六重罪 *# 如来に怪我させること。 *# 母親を殺すこと。 *# 父親を殺すこと。 *# [[阿羅漢]]を殺すこと。 *# [[僧伽|サンガ]]を分裂させること。 *# 決定邪見に陥ること。[[アージーヴィカ教]]など、因果法則を否定する[[邪見]]。 === 四預流果支 === 四預流果支とは、既に預流果に至っている者が備えている、4つの特徴のこと<ref name="fuji_7" />。 {{Quote| Catūhi bhikkhave, dhammehi samannāgato ariyasāvako sotāpanno hoti avinipātadhammo niyato sambodhiparāyano. <br> 比丘たちよ、以下の四つを具足した聖なる弟子は預流者である。悪趣に堕ちることがなくなり、悟りを得て正覚へ至る事が決定している。 | {{SLTP| [[相応部]][[預流相応]] 有慧品 }} }} * [[仏陀]]に対して完璧な信頼を具備している<ref name="fuji_7" />。 * [[法 (仏教)|法]]に対して完璧な信頼を具備している<ref name="fuji_7" />。 * [[僧伽]]に対して完璧な信頼を具備している<ref name="fuji_7" />。 * 聖者らが楽しんでいる、[[禅定]]に導く[[戒]]を具えている<ref name="fuji_7" />。 == 抜粋 == {{Quote| 地上における一国の王になることよりも、天上に至ることよりも、この世界の君主になることよりも、預流果のほうが優れている。 | [[ダンマパダ]], 178 }} == 脚注 == {{Reflist}} ==関連項目== *[[結 (仏教)]] *[[四向四果]] *[[煩悩]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:よる}} [[category:原始仏教]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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ギリシア文字
ギリシア文字(ギリシアもじ)とは、ギリシア語を書き表すために用いられる文字である。現代ギリシア語では24文字からなる。 ギリシア文字は、古代ギリシア人がギリシア語を表記するため、フェニキア文字を元に作った文字である。ラテン文字やキリル文字は、このギリシア文字を元に、後に生まれたものである。今日でも現代ギリシア語の表記に用いられ、また非ギリシア語圏でも、(形式科学の)数学、(自然科学の)物理学、天文学のバイエル符号など、様々の分野で使われている。 「アルファベット」という言葉は、この文字体系の伝統的配列の1番目(アルファ)と2番目(ベータ)の文字名称が、その語源である。各文字の日本語慣用名称は、主として英語式発音に由来する。例えば、Π は、古代ギリシア語では「ペー」と発音するが、日本では一般に「パイ」と読まれる。これは英語の pi [paɪ] に倣ったものである。 21世紀初頭において、ギリシア文字を言語の表記に使用するのはギリシア語のみである。このため、使用地域はギリシア語を公用語とするギリシアとキプロス、およびギリシア人の居住する近隣地域に限られている。 ギリシア文字以前には、線文字B、またはミュケナイ文字と呼ばれている文字体系の使用もみられるが、これは仮名文字と同じく音節文字で、音節構造の複雑なギリシア語の表記には必ずしも適さないものであった。ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀ごろまで遡ると考えられている。その元となった、セム語派のフェニキアが使用していたフェニキア文字はアブジャドであり、文字は子音ばかりの22文字であった。これは、セム諸語が子音に言語の核を置き、母音は補助的な役割しかもたないためである。一方、ギリシア語においては、母音は極めて重要な位置を占める。そこで、ギリシア語発音にはない音価を持つA、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を、母音を表す音素文字に転用するなど、さまざまな改良が加えられた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、いわゆるアルファベットとなった。文字表はフェニキア文字(最後の文字は「Τ」)の後ろに、Υ /u/、Φ、Χ、Ψ、Ω を追加している。またギリシアの地域により一部異なる音素文字・字体が使われた。イオニアやアッティカ、コリントスなどのギリシア本土の大部分や東方諸地域全般においては現代のギリシア文字体系につながる東方ギリシア文字が使用されたが、一方エウボイア島やクマエを中心とするイタリア半島のギリシア植民市など、ギリシア世界の西方においては西方ギリシア文字(エウボイア文字、クマエ文字)が使用された。この西方ギリシア文字はイタリア半島の諸民族に伝わってエトルリア文字やラテン文字などの古イタリア文字群の原型となったが、紀元前4世紀ごろにはイオニア式のアルファベットに吸収されて姿を消した。 古代ギリシア語では、文章を書く方向が一定せず、右から左、または牛耕式に書かれた。右から左へ書かれるときと、左から右で書かれるときでは文字は左右裏返しになった(鏡文字)。西のエトルリア語・ウンブリア語・ファリスク語などは右から左に固定して書かれた。紀元前500年ごろには左横書き(左から右)で行は上から下に移動するという書式で統一され、現在に至る。 ギリシア文字においては、フェニキア文字の6番目である ワウを分化させ、そのまま [w] を表す場合と [u, uː]を表す場合とで異なる字形とし、字母表上は前者(ϝ、ディガンマ)をフェニキア文字と同じ6番目の位置に置き、後者(Υ)を「Τ」の後に置いた。「Υ」より後の「Φ・Χ・Ψ」の起源については議論が分かれる。「Φ・Χ・Ψ」および「Ξ」は地方によって音が異なり、東方では Ξ [ks]、Φ [ph]、Χ [kh]、Ψ [ps] であったが、西方では Φ [ph]、Χ [ks]、Ψ [kh](Ξ は使用せず、[ps] は ΦΣ と書く)であった。 紀元前6世紀になると、イオニアのミレトスで、長母音エー・オーを表す新しい文字が作られた。イオニア方言には [h] が存在しなかったので、本来 [h] を表していた「Η」を長母音エーのために使用し、オーを表すためには新しい字「Ω」を作った。アテネでは紀元前403年にこのイオニア式のアルファベットを公式に採用した。それ以外の地域でも紀元前4世紀前半にはイオニア式を採用するようになった。 イオニア式に統一される以前は地方ごとに異なる文字が使われていた。「ディガンマ」(「スティグマ」)、「ヘータ」、「サン」、「コッパ」、「サンピ」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記する場合にのみ使われる(サンを除く)。 古代には大文字のみで、また筆記体もない。その後、4世紀には丸みを帯びたアンシャル体が現れた。9世紀以降に小文字が案出され、東ローマ帝国時代の文書には筆記体も見られる。現代ギリシアでは、あまり筆記体を用いないようである。1470年代にイタリアでギリシア文字は活版印刷されるようになり、このとき古代の碑文に見える大文字と中世以降の小文字を組み合わせた。各大文字には1つの小文字が対応するが、「シグマ」のみ例外的に2つの小文字を持つ。語頭・語中の場合 σ、語尾の場合には ς が用いられる。例えば ΘΕΟΣ(神)を小文字で表記すると、θεοσ とならずに、θεος となる。今日、古代ギリシア語を表記する場合、すべて大文字、すべて小文字、大文字と小文字の併用のいずれでも特に構わない。現代ギリシア語では、文頭と固有名詞の語頭に大文字、それ以外を小文字で表記することが基本である。無論、ラテン文字と同様、すべて大文字にしても誤りではない。 ヘレニズム時代以降、発音を正確に表すためにダイアクリティカルマークが発達した。古代ギリシア語を表記する場合、3種のアクセント記号(鋭アクセント・重アクセント・曲アクセント)や気息記号をつける。ただし、すべて大文字の場合は何もつけない。現代ギリシア語には h 音が存在しないため気息記号は用いられず、古代ギリシア語と異なって高低アクセントではないため、1980年代以降はアクセント記号は強勢の位置を表すトノス ( ́ ) とトレマに相当するディアリティカ ( ̈ ) の2種類だけに簡略化された。 ギリシア文字は数を表す際にも使われる。「イオニア式」と呼ばれる記数法は、アラビア数字のような専用の文字を用いず、通常のギリシア文字を使ってこれを表した。たとえば、1は αʹ、10は ιʹ で表し、11は ιαʹ である。6を表す「スティグマ」は、「シグマ」の語末形と形態が酷似しているため、現代ではこれを「シグマ」と呼ぶこともあり、また6を表す場合に代用されることもある。 古代ギリシア語と現代ギリシア語では発音体系が著しく異なり、このため各文字の音価も異なる。古代の音価は、現代の言語学の研究によって推測されている紀元前5世紀ごろのアッティカ地方の音である。古代ギリシア語ではおおむね文字と発音の関係は1対1だったが、例外として α ι υ は長母音と短母音の両方を表した。ει は [eː] [ei] の両方の音を表した。ου も [oː] [ou] の両方を表していたが、後に [uː] に変化した。単独の υ は [y(ː)] だったが、αυ ευ の υ は [u] だった。γ は κ χ γ の前では [ŋ] を表し、σ は有声子音の前では [z] と発音した。ζ が [zd] と [dz] のどちらであったかは議論が分かれる。 これとは別に、しばしば「古典的」と呼ばれる発音体系に、エラスムス式発音(英: Erasmian pronunciation)がある。これは16世紀の人文学者エラスムスによって整理されたものを元にしている(地域によって、幾つかバリエーションがある)。実際の古代の発音とはかなり異なるものもあるが、古代ギリシア語が死語である以上、元来の発音に拘泥する必要はなく、こちらの発音を用いることも多い。例を挙げれば、Φ の古代アッティカ発音は [ph](有気音の[p])と推測されるが、エラスムス式では [f] である。 現代ギリシアでは、古代の文章でも、現代の発音体系で読まれる。これは、日本人が古典文学を現代日本語発音で読むのと同じである。 現代ギリシア語では φ θ χ β δ γ は [f θ x v ð ɣ] のように摩擦音になっており(χ γ は前舌母音の前では [ç ʝ] になる)、有声閉鎖音は μπ ντ γκ のように表す。同じ母音を表すのに複数のつづり方があり、これらは歴史的発音にしたがってつづり分けられる。また、αυ ευ の υ は、[f](有声音が後続するときは [v])と発音する。 音声記号は国際音声記号 (IPA) による。 ラテン文字はギリシア文字から発展したものだが、ギリシア文字にあるいくつかの文字(ΗΘΦΧΨΩ)が存在しない。古典ラテン語でギリシア語からの借用語を表すときにはΗを e、Ωを o で表し、ΘΦΧΨはそれぞれ th ph ch ps のように2文字で表した。ほかに二重母音の αι を ae、οι を oe に変えたり、語尾をラテン語風に変えたりしている。現在でも学名などでギリシア語を使用するときにはこのような変形を行う。 現代のギリシア語では発音とつづり字の差が大きく、ラテン文字表記には音声に対する転写と文字に対する翻字の2種類がある。ギリシア文字をラテン文字に翻字する方法は統一されていないが、方式による差は少ない。「ΗΩ」はマクロンをつけ(ē、ō)、気息音は h に翻字するなど。 「メガ」「プシロン」「ミクロン」といった語は、ビザンツ時代に文字を区別するために付加されたもの。その他、ギリシア文字の各文字の詳細は、それぞれ独立の項参照。なお、コイネーギリシア語ではアルファベットの読み方は異なる。 「ディガンマ」、「スティグマ」、「ヘータ」、「サン」、1つ目の「コッパ」、「サンピ」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記するための文字としてのみ使われている。《この内「コッパ」は、現代ギリシア語では、異なる字体(2つ目の「コッパ」)のものを用いているらしい。》また、バクトリア語には「ショー」と呼ばれる文字が加えられているが、これはバクトリア音素の ʃ からとられたものである。 Unicodeには「ヨット」と呼ばれる文字が加えられているが、これはラテン文字の J(この文字は、中世に I から分岐して成立した文字である)からとられたもので、古代には存在してはおらず、また現代でも日常的なギリシア語に使われることはない。この文字は、言語学において、有史以前のギリシア語の発音(硬口蓋接近音)を表記するためのものらしいが、詳細は不明である。 現代ギリシア語においては、鋭アクセント記号 ( ́ ) とトレマ ( ̈ ) の2種類のダイアクリティカルマークを使用する。その他の記号は、専ら古典ギリシア語などの表記にのみ用いられる。Microsoft Windowsの場合、通常のギリシャ語キーボードでは、鋭アクセント記号 ( ́ ) 以外は入力できないので、それらを入力したい場合は、「ギリシャ語 Polytonic」キーボードを使用する必要がある。 ギリシア文字は、ギリシア語圏以外ではシンボルとしてさまざまな用途に用いられる。特に小文字はラテン文字と異なる形をした文字が多いため、ラテン文字だけでは不足する場合によく用いられる。 箇条書きなどの順序数で「α、β、γ...」を使用することが多い。α線・β線・γ線も似た使い方である。 単位として使われる「Ω」やSI接頭語の「μ」、角度の「θ」、標準偏差を表す「σ」、増分の「Δ」、円周率の「π」、総和の「Σ」や総乗の「Π」、ラムダ計算、カイ二乗分布、ガンマ関数などはよく知られる。詳細は個々の文字を参照。 シンボルとして使われるギリシア文字は、通常のギリシア文字とは異なる形をしていることもある。Unicode では通常のギリシア文字のほかに主にシンボル用に使われるいくつかの文字を定義している(θ φ π κ ρ など)。 国際音声記号では [β] を有声両唇摩擦音に、[θ] を無声歯摩擦音に使用する。[ɑ] [ɣ] [ɤ] [ð] [ɛ] [ɵ] [ʎ] [ɸ] [ø] などは一見ギリシア文字のように見えるが、少なくとも Unicode ではギリシア文字とは別の文字として定義されている。 ギリシア文字は母音と子音からなるアルファベットであり使用しやすいものであったことから、ヨーロッパ大陸やコーカサス地方を中心にかなりの民族によって模倣されたが、ギリシア文字をそのまま導入することは少なく、ほとんどの民族はギリシア文字を参考に自らの言語の特徴に合わせた新しい文字を考案することが常であった。 こうした派生文字の中で最も古いものはエトルリア文字などの古イタリア文字群であり、紀元前8世紀ごろにはエトルリア文字の使用が開始され、紀元前7世紀ごろには現代において最も使用されている文字であるラテン文字が成立した。同時期、小アジアにおいてもリュディア文字、カリア文字、リュキア文字などといった文字が西方ギリシア文字より考案された。アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアのバクトリアにギリシア人王朝が成立すると、同地方で話されるバクトリア語もギリシア文字で書かれるようになり、クシャーナ朝の公用語として広く使用された。バクトリア語におけるギリシア文字はほぼオリジナルと同じものだが、「ショー」と呼ばれる文字が加えられている。 紀元後に入ってもこの流れは続き、4世紀にはエジプトにおいてコプト文字がギリシア文字から派生し、同じく4世紀にはウルフィラによって、ギリシア文字から強く影響を受けたゴート文字が考案された。さらにこの時期カフカースにおいても、404年から406年にかけてメスロプ・マシュトツによりアルメニア文字が開発された。おそらく同じころにグルジア文字が発明されたと考えられているが、この文字の成立時期や成立過程は不明な点が多い。ただし文字の並びや、グルジア語には不要な文字がギリシア文字に対応するところに存在していることから、この文字がギリシア文字から考案されたことはほぼ確実視されている。この二つの文字は現代においても使用され続けている。 一方、860年ごろに正教会のキュリロスとメトディオスが、スラヴ諸語を表記するためにグラゴル文字を考案した。グラゴル文字は数百年間使用されたものの、900年ごろにやはりギリシア文字から考案されたキリル文字が有力になっていき、やがて正教会圏の諸国において広く使用されるようになっていった。このほか、かつてギリシア文字はアルーマニア語を表記するのにも使われていたが、現在はラテン文字を使うのが普通になっている。 Unicode での収録位置は以下のとおり。 基本的に、ラテン文字のQWERTY配列に対応する配列になっている。 Microsoft Windowsにおける現代ギリシア語のキーボード配列(灰色はラテン文字との対比のために加えたもの)。ラムダの右のキーがデッドキーになっており、ダイアクリティカルマークを入力することができる。 Microsoft Windowsにおけるギリシャ語キーボード(ギリシャ語 Polytonic)。 日本の符号化文字集合であるJIS X 0208はギリシア文字を含んでいるが、語末用のシグマ ( ς ) がなく、またアクセント記号もないため、ギリシア語の表記には適していない。また、日本語のフォントは JIS X 0208 に含まれるすべての文字に対して同じ幅のグリフを用意していることが多いため、(ギリシア文字の表記について配慮がない場合)ギリシア文字が漢字と同じ幅で表示されてしまう問題が起こる。
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"ギリシア文字以前には、線文字B、またはミュケナイ文字と呼ばれている文字体系の使用もみられるが、これは仮名文字と同じく音節文字で、音節構造の複雑なギリシア語の表記には必ずしも適さないものであった。ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀ごろまで遡ると考えられている。その元となった、セム語派のフェニキアが使用していたフェニキア文字はアブジャドであり、文字は子音ばかりの22文字であった。これは、セム諸語が子音に言語の核を置き、母音は補助的な役割しかもたないためである。一方、ギリシア語においては、母音は極めて重要な位置を占める。そこで、ギリシア語発音にはない音価を持つA、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を、母音を表す音素文字に転用するなど、さまざまな改良が加えられた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、いわゆるアルファベットとなった。文字表はフェニキア文字(最後の文字は「Τ」)の後ろに、Υ /u/、Φ、Χ、Ψ、Ω を追加している。またギリシアの地域により一部異なる音素文字・字体が使われた。イオニアやアッティカ、コリントスなどのギリシア本土の大部分や東方諸地域全般においては現代のギリシア文字体系につながる東方ギリシア文字が使用されたが、一方エウボイア島やクマエを中心とするイタリア半島のギリシア植民市など、ギリシア世界の西方においては西方ギリシア文字(エウボイア文字、クマエ文字)が使用された。この西方ギリシア文字はイタリア半島の諸民族に伝わってエトルリア文字やラテン文字などの古イタリア文字群の原型となったが、紀元前4世紀ごろにはイオニア式のアルファベットに吸収されて姿を消した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語では、文章を書く方向が一定せず、右から左、または牛耕式に書かれた。右から左へ書かれるときと、左から右で書かれるときでは文字は左右裏返しになった(鏡文字)。西のエトルリア語・ウンブリア語・ファリスク語などは右から左に固定して書かれた。紀元前500年ごろには左横書き(左から右)で行は上から下に移動するという書式で統一され、現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", 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"古代には大文字のみで、また筆記体もない。その後、4世紀には丸みを帯びたアンシャル体が現れた。9世紀以降に小文字が案出され、東ローマ帝国時代の文書には筆記体も見られる。現代ギリシアでは、あまり筆記体を用いないようである。1470年代にイタリアでギリシア文字は活版印刷されるようになり、このとき古代の碑文に見える大文字と中世以降の小文字を組み合わせた。各大文字には1つの小文字が対応するが、「シグマ」のみ例外的に2つの小文字を持つ。語頭・語中の場合 σ、語尾の場合には ς が用いられる。例えば ΘΕΟΣ(神)を小文字で表記すると、θεοσ とならずに、θεος となる。今日、古代ギリシア語を表記する場合、すべて大文字、すべて小文字、大文字と小文字の併用のいずれでも特に構わない。現代ギリシア語では、文頭と固有名詞の語頭に大文字、それ以外を小文字で表記することが基本である。無論、ラテン文字と同様、すべて大文字にしても誤りではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ヘレニズム時代以降、発音を正確に表すためにダイアクリティカルマークが発達した。古代ギリシア語を表記する場合、3種のアクセント記号(鋭アクセント・重アクセント・曲アクセント)や気息記号をつける。ただし、すべて大文字の場合は何もつけない。現代ギリシア語には h 音が存在しないため気息記号は用いられず、古代ギリシア語と異なって高低アクセントではないため、1980年代以降はアクセント記号は強勢の位置を表すトノス ( ́ ) とトレマに相当するディアリティカ ( ̈ ) の2種類だけに簡略化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ギリシア文字は数を表す際にも使われる。「イオニア式」と呼ばれる記数法は、アラビア数字のような専用の文字を用いず、通常のギリシア文字を使ってこれを表した。たとえば、1は αʹ、10は ιʹ で表し、11は ιαʹ である。6を表す「スティグマ」は、「シグマ」の語末形と形態が酷似しているため、現代ではこれを「シグマ」と呼ぶこともあり、また6を表す場合に代用されることもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "古代ギリシア語と現代ギリシア語では発音体系が著しく異なり、このため各文字の音価も異なる。古代の音価は、現代の言語学の研究によって推測されている紀元前5世紀ごろのアッティカ地方の音である。古代ギリシア語ではおおむね文字と発音の関係は1対1だったが、例外として α ι υ は長母音と短母音の両方を表した。ει は [eː] [ei] の両方の音を表した。ου も [oː] [ou] の両方を表していたが、後に [uː] に変化した。単独の υ は [y(ː)] だったが、αυ ευ の υ は [u] だった。γ は κ χ γ の前では [ŋ] を表し、σ は有声子音の前では [z] と発音した。ζ が [zd] と [dz] のどちらであったかは議論が分かれる。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "これとは別に、しばしば「古典的」と呼ばれる発音体系に、エラスムス式発音(英: Erasmian pronunciation)がある。これは16世紀の人文学者エラスムスによって整理されたものを元にしている(地域によって、幾つかバリエーションがある)。実際の古代の発音とはかなり異なるものもあるが、古代ギリシア語が死語である以上、元来の発音に拘泥する必要はなく、こちらの発音を用いることも多い。例を挙げれば、Φ の古代アッティカ発音は [ph](有気音の[p])と推測されるが、エラスムス式では [f] である。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "現代ギリシアでは、古代の文章でも、現代の発音体系で読まれる。これは、日本人が古典文学を現代日本語発音で読むのと同じである。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現代ギリシア語では φ θ χ β δ γ は [f θ x v ð ɣ] のように摩擦音になっており(χ γ は前舌母音の前では [ç ʝ] になる)、有声閉鎖音は μπ ντ γκ のように表す。同じ母音を表すのに複数のつづり方があり、これらは歴史的発音にしたがってつづり分けられる。また、αυ ευ の υ は、[f](有声音が後続するときは [v])と発音する。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "音声記号は国際音声記号 (IPA) による。", "title": "発音" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ラテン文字はギリシア文字から発展したものだが、ギリシア文字にあるいくつかの文字(ΗΘΦΧΨΩ)が存在しない。古典ラテン語でギリシア語からの借用語を表すときにはΗを e、Ωを o で表し、ΘΦΧΨはそれぞれ th ph ch ps のように2文字で表した。ほかに二重母音の αι を ae、οι を oe に変えたり、語尾をラテン語風に変えたりしている。現在でも学名などでギリシア語を使用するときにはこのような変形を行う。", "title": "ラテン文字による表記" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現代のギリシア語では発音とつづり字の差が大きく、ラテン文字表記には音声に対する転写と文字に対する翻字の2種類がある。ギリシア文字をラテン文字に翻字する方法は統一されていないが、方式による差は少ない。「ΗΩ」はマクロンをつけ(ē、ō)、気息音は h に翻字するなど。", "title": "ラテン文字による表記" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「メガ」「プシロン」「ミクロン」といった語は、ビザンツ時代に文字を区別するために付加されたもの。その他、ギリシア文字の各文字の詳細は、それぞれ独立の項参照。なお、コイネーギリシア語ではアルファベットの読み方は異なる。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "「ディガンマ」、「スティグマ」、「ヘータ」、「サン」、1つ目の「コッパ」、「サンピ」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記するための文字としてのみ使われている。《この内「コッパ」は、現代ギリシア語では、異なる字体(2つ目の「コッパ」)のものを用いているらしい。》また、バクトリア語には「ショー」と呼ばれる文字が加えられているが、これはバクトリア音素の ʃ からとられたものである。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Unicodeには「ヨット」と呼ばれる文字が加えられているが、これはラテン文字の J(この文字は、中世に I から分岐して成立した文字である)からとられたもので、古代には存在してはおらず、また現代でも日常的なギリシア語に使われることはない。この文字は、言語学において、有史以前のギリシア語の発音(硬口蓋接近音)を表記するためのものらしいが、詳細は不明である。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "現代ギリシア語においては、鋭アクセント記号 ( ́ ) とトレマ ( ̈ ) の2種類のダイアクリティカルマークを使用する。その他の記号は、専ら古典ギリシア語などの表記にのみ用いられる。Microsoft Windowsの場合、通常のギリシャ語キーボードでは、鋭アクセント記号 ( ́ ) 以外は入力できないので、それらを入力したい場合は、「ギリシャ語 Polytonic」キーボードを使用する必要がある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ギリシア文字は、ギリシア語圏以外ではシンボルとしてさまざまな用途に用いられる。特に小文字はラテン文字と異なる形をした文字が多いため、ラテン文字だけでは不足する場合によく用いられる。", "title": "シンボルとしてのギリシア文字" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "箇条書きなどの順序数で「α、β、γ...」を使用することが多い。α線・β線・γ線も似た使い方である。", "title": "シンボルとしてのギリシア文字" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "単位として使われる「Ω」やSI接頭語の「μ」、角度の「θ」、標準偏差を表す「σ」、増分の「Δ」、円周率の「π」、総和の「Σ」や総乗の「Π」、ラムダ計算、カイ二乗分布、ガンマ関数などはよく知られる。詳細は個々の文字を参照。", "title": "シンボルとしてのギリシア文字" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シンボルとして使われるギリシア文字は、通常のギリシア文字とは異なる形をしていることもある。Unicode では通常のギリシア文字のほかに主にシンボル用に使われるいくつかの文字を定義している(θ φ π κ ρ など)。", "title": "シンボルとしてのギリシア文字" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "国際音声記号では [β] を有声両唇摩擦音に、[θ] を無声歯摩擦音に使用する。[ɑ] [ɣ] [ɤ] [ð] [ɛ] [ɵ] [ʎ] [ɸ] [ø] などは一見ギリシア文字のように見えるが、少なくとも Unicode ではギリシア文字とは別の文字として定義されている。", "title": "シンボルとしてのギリシア文字" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ギリシア文字は母音と子音からなるアルファベットであり使用しやすいものであったことから、ヨーロッパ大陸やコーカサス地方を中心にかなりの民族によって模倣されたが、ギリシア文字をそのまま導入することは少なく、ほとんどの民族はギリシア文字を参考に自らの言語の特徴に合わせた新しい文字を考案することが常であった。", "title": "ギリシア文字から派生した文字" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "こうした派生文字の中で最も古いものはエトルリア文字などの古イタリア文字群であり、紀元前8世紀ごろにはエトルリア文字の使用が開始され、紀元前7世紀ごろには現代において最も使用されている文字であるラテン文字が成立した。同時期、小アジアにおいてもリュディア文字、カリア文字、リュキア文字などといった文字が西方ギリシア文字より考案された。アレクサンドロス大王の遠征によって中央アジアのバクトリアにギリシア人王朝が成立すると、同地方で話されるバクトリア語もギリシア文字で書かれるようになり、クシャーナ朝の公用語として広く使用された。バクトリア語におけるギリシア文字はほぼオリジナルと同じものだが、「ショー」と呼ばれる文字が加えられている。", "title": "ギリシア文字から派生した文字" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "紀元後に入ってもこの流れは続き、4世紀にはエジプトにおいてコプト文字がギリシア文字から派生し、同じく4世紀にはウルフィラによって、ギリシア文字から強く影響を受けたゴート文字が考案された。さらにこの時期カフカースにおいても、404年から406年にかけてメスロプ・マシュトツによりアルメニア文字が開発された。おそらく同じころにグルジア文字が発明されたと考えられているが、この文字の成立時期や成立過程は不明な点が多い。ただし文字の並びや、グルジア語には不要な文字がギリシア文字に対応するところに存在していることから、この文字がギリシア文字から考案されたことはほぼ確実視されている。この二つの文字は現代においても使用され続けている。", "title": "ギリシア文字から派生した文字" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一方、860年ごろに正教会のキュリロスとメトディオスが、スラヴ諸語を表記するためにグラゴル文字を考案した。グラゴル文字は数百年間使用されたものの、900年ごろにやはりギリシア文字から考案されたキリル文字が有力になっていき、やがて正教会圏の諸国において広く使用されるようになっていった。このほか、かつてギリシア文字はアルーマニア語を表記するのにも使われていたが、現在はラテン文字を使うのが普通になっている。", "title": "ギリシア文字から派生した文字" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Unicode での収録位置は以下のとおり。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "基本的に、ラテン文字のQWERTY配列に対応する配列になっている。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "Microsoft Windowsにおける現代ギリシア語のキーボード配列(灰色はラテン文字との対比のために加えたもの)。ラムダの右のキーがデッドキーになっており、ダイアクリティカルマークを入力することができる。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "Microsoft Windowsにおけるギリシャ語キーボード(ギリシャ語 Polytonic)。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本の符号化文字集合であるJIS X 0208はギリシア文字を含んでいるが、語末用のシグマ ( ς ) がなく、またアクセント記号もないため、ギリシア語の表記には適していない。また、日本語のフォントは JIS X 0208 に含まれるすべての文字に対して同じ幅のグリフを用意していることが多いため、(ギリシア文字の表記について配慮がない場合)ギリシア文字が漢字と同じ幅で表示されてしまう問題が起こる。", "title": "コンピュータ" } ]
ギリシア文字(ギリシアもじ)とは、ギリシア語を書き表すために用いられる文字である。現代ギリシア語では24文字からなる。
{{半保護}} {{表記揺れ案内 |表記1= ギリシア文字 |表記2= ギリシヤ文字 |表記3= ギリシャ文字 |議論ページ= }} {{特殊文字}} {{Infobox WS |name=ギリシア文字 |type= [[アルファベット]] |languages=[[ギリシア語]] |time=[[紀元前9世紀]]頃-現在 |fam1=[[原カナン文字]] |fam2=[[フェニキア文字]] |children=[[ゴート文字]]<br />[[グラゴル文字]]<br />[[キリル文字]]<br />[[コプト文字]]<br />[[エトルリア文字]](及びその他の[[古イタリア文字]])<br />[[ラテン文字]]<br />[[アルメニア文字]](論争あり)<br />[[グルジア文字]](論争あり?) | unicode = [https://www.unicode.org/charts/PDF/U0370.pdf U+0370-U+03E1, U+03F0-U+03FF](ギリシア文字)<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U1F00.pdf U+1F00–U+1FFF](ギリシア文字拡張)<br />[https://www.unicode.org/charts/PDF/U10140.pdf U+10140–U+1018F](古代ギリシア数字) |sample=Greekalphabet.svg |caption = 現代ギリシア語による「ギリシア文字」 |iso15924=Grek }} {{音素文字}} '''ギリシア文字'''(ギリシアもじ)とは、[[ギリシア語]]を書き表すために用いられる文字である。現代ギリシア語では'''24'''文字からなる。 == 概要 == ギリシア文字は、古代[[ギリシャ人|ギリシア人]]が[[ギリシア語]]を表記するため、[[フェニキア文字]]を元に作った文字である。[[ラテン文字]]や[[キリル文字]]は、このギリシア文字を元に、後に生まれたものである。今日でも現代ギリシア語の表記に用いられ、また非ギリシア語圏でも、([[形式科学]]の)[[数学]]、([[自然科学]]の)[[物理学]]、天文学の[[バイエル符号]]など、様々の分野で使われている。 「[[アルファベット]]」という言葉は、この文字体系の伝統的配列の1番目(アルファ)と2番目(ベータ)の文字名称が、その語源である。各文字の日本語慣用名称は、主として英語式発音に由来する。例えば、{{Unicode|Π}} は、[[古代ギリシア語]]では「ペー」と発音するが、日本では一般に「パイ」と読まれる。これは英語の pi {{IPA|paɪ}} に倣ったものである。 21世紀初頭において、ギリシア文字を言語の表記に使用するのはギリシア語のみである。このため、使用地域はギリシア語を[[公用語]]とする[[ギリシア]]と[[キプロス]]、およびギリシア人の居住する近隣地域に限られている。 == 歴史 == [[File:Griechisches Alphabet Varianten.png|thumb|left|古代の地域による字体の違い]] {{See also|{{仮リンク|ギリシア文字の歴史|en|History of the Greek alphabet}}}} ギリシア文字以前には、[[線文字B]]、またはミュケナイ文字と呼ばれている文字体系の使用もみられるが、これは[[仮名 (文字)|仮名文字]]と同じく[[音節文字]]で、音節構造の複雑なギリシア語の表記には必ずしも適さないものであった。ギリシア文字の案出は、紀元前9世紀ごろまで遡ると考えられている。その元となった、[[セム語派]]の[[フェニキア]]が使用していた[[フェニキア文字]]は[[アブジャド]]であり、文字は子音ばかりの22文字であった。これは、セム諸語が子音に言語の核を置き、母音は補助的な役割しかもたないためである。一方、ギリシア語においては、母音は極めて重要な位置を占める。そこで、ギリシア語発音にはない音価を持つA、E、O、Y、Iの5つのフェニキア文字を、母音を表す[[音素文字]]に転用する<ref>「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p241 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷</ref>など、さまざまな改良が加えられた。この改良によってギリシア文字は母音と子音がそれぞれ文字を持つ、いわゆるアルファベットとなった。文字表はフェニキア文字(最後の文字は「Τ」)の後ろに、[[Υ]] /u/、Φ、Χ、Ψ、Ω を追加している。またギリシアの地域により一部異なる[[音素文字]]・字体が使われた。イオニアや[[アッティカ]]、[[コリントス]]などのギリシア本土の大部分や東方諸地域全般においては現代のギリシア文字体系につながる東方ギリシア文字が使用されたが、一方[[エウボイア島]]やクマエを中心とする[[イタリア半島]]のギリシア植民市など、ギリシア世界の西方においては[[西方ギリシア文字]](エウボイア文字、クマエ文字)が使用された。この西方ギリシア文字はイタリア半島の諸民族に伝わってエトルリア文字やラテン文字などの[[古イタリア文字]]群の原型となったが、紀元前4世紀ごろにはイオニア式のアルファベットに吸収されて姿を消した。 [[古代ギリシア語]]では、文章を書く方向が一定せず、右から左、または[[牛耕式]]に書かれた<ref name="threatte">Threatte (1996) p.271</ref>。右から左へ書かれるときと、左から右で書かれるときでは文字は左右裏返しになった([[鏡文字]])。西の[[エトルリア語]]・[[ウンブリア語]]・[[ファリスク語]]などは右から左に固定して書かれた<ref>Swiggers (1996) p.263</ref>。紀元前500年ごろには左横書き(左から右)で行は上から下に移動するという書式で統一され<ref name="threatte"/>、現在に至る。 <!--フェニキア文字の最後の文字は「Τ」だったが、-->ギリシア文字においては、フェニキア文字の6番目である [[Image:Phoenician waw.svg|20px]] ワウを分化させ、そのまま {{IPA|w}} を表す場合と {{IPA|u, uː}}<ref group="注釈">後に {{IPA|y, yː}} に変化した。</ref>を表す場合とで異なる字形とし、字母表上は前者(ϝ、[[ディガンマ]])をフェニキア文字と同じ6番目の位置に置き、後者([[Υ]])を「Τ」の後に置いた<ref>Allen (1986) p.47</ref>。「Υ」より後の「Φ・Χ・Ψ」の起源については議論が分かれる<ref name="swiggers">Swiggers (1996) p.265</ref>。「Φ・Χ・Ψ」および「Ξ」は地方によって音が異なり、東方では Ξ {{IPA|ks}}、Φ {{IPA|pʰ}}、Χ {{IPA|kʰ}}、Ψ {{IPA|ps}} であったが、西方では Φ {{IPA|pʰ}}、Χ {{IPA|ks}}、Ψ {{IPA|kʰ}}(Ξ は使用せず、{{IPA|ps}} は ΦΣ と書く)であった<ref name="threatte2">Threatte (1996) p.272</ref>。 紀元前6世紀になると、[[イオニア]]の[[ミレトス]]で、長母音エー・オーを表す新しい文字が作られた。イオニア方言には {{IPA|h}} が存在しなかったので、本来 {{IPA|h}} を表していた「[[Η]]」を長母音エーのために使用し、オーを表すためには新しい字「[[Ω]]」を作った<ref name="swiggers"/>。[[アテネ]]では紀元前403年にこのイオニア式のアルファベットを公式に採用した<ref name="threatte"/>。それ以外の地域でも紀元前4世紀前半にはイオニア式を採用するようになった。 イオニア式に統一される以前は地方ごとに異なる文字が使われていた。「[[ディガンマ]]」(「[[スティグマ (ギリシア文字)|スティグマ]]」)、「[[ヘータ]]」、「[[サン (ギリシア文字)|サン]]」、「[[コッパ]]」、「[[サンピ]]」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記する場合にのみ使われる(サンを除く)。 古代には[[大文字]]のみで、また筆記体もない。その後、4世紀には丸みを帯びた[[アンシャル体]]が現れた。9世紀以降に[[小文字]]が案出され、[[東ローマ帝国]]時代の文書には筆記体も見られる。現代ギリシアでは、あまり筆記体を用いないようである。1470年代にイタリアでギリシア文字は[[活版印刷]]されるようになり<ref name="threatte2"/>、このとき古代の碑文に見える大文字と中世以降の小文字を組み合わせた。各大文字には1つの小文字が対応するが、「シグマ」のみ例外的に2つの小文字を持つ。語頭・語中の場合 {{Unicode|σ}}、語尾の場合には {{Lang|el|ς}} が用いられる。例えば {{Lang|el|ΘΕΟΣ}}(神)を小文字で表記すると、{{Lang|el|θεοσ}} とならずに、{{Lang|el|θεος}} となる。今日、古代ギリシア語を表記する場合、すべて大文字、すべて小文字、大文字と小文字の併用のいずれでも特に構わない。現代ギリシア語では、文頭と固有名詞の語頭に大文字、それ以外を小文字で表記することが基本である。無論、ラテン文字と同様、すべて大文字にしても誤りではない。 ヘレニズム時代以降、発音を正確に表すために[[ダイアクリティカルマーク]]が発達した。古代ギリシア語を表記する場合、3種のアクセント記号(鋭アクセント・重アクセント・曲アクセント)や[[気息記号]]をつける。ただし、すべて大文字の場合は何もつけない。現代ギリシア語には h 音が存在しないため気息記号は用いられず、古代ギリシア語と異なって高低アクセントではないため、[[1980年代]]以降はアクセント記号は[[強勢]]の位置を表すトノス ( {{el|´}} ) と[[トレマ]]に相当するディアリティカ ( {{el|¨}} ) の2種類だけに簡略化された。 ギリシア文字は数を表す際にも使われる。「イオニア式」と呼ばれる[[記数法]]は、[[アラビア数字]]のような専用の文字を用いず、通常のギリシア文字を使ってこれを表した。たとえば、1は {{Lang|el|{{unicode|αʹ}}}}、10は {{Lang|el|{{unicode|ιʹ}}}} で表し、11は {{Lang|el|{{unicode|ιαʹ}}}} である。6を表す「スティグマ」は、「シグマ」の語末形と形態が酷似しているため、現代ではこれを「シグマ」と呼ぶこともあり、また6を表す場合に代用されることもある。 {{Main|ギリシアの数字}} <gallery> Dipylon Inscription.JPG|ギリシア文字が刻まれた最も古い器物の一つ。紀元前740年ごろの作品。ディピュロン碑文として知られる NAMA Alphabet grec.jpg|[[Ϝ|ディガンマ]]を含む古いアルファベットを記した陶器。紀元前6世紀ごろ。[[アテネ国立考古学博物館]]所蔵 Codex Sinaiticus-small.jpg|[[シナイ写本]](4世紀)。[[アンシャル体]]で三日月形のシグマを使用 Uspensky gospels.jpg|{{仮リンク|ウスペンスキー福音書|en|Uspenski Gospels}}(835年、グレゴリー=アーラント整理番号461番)。現存最古の小文字写本。[[ロシア国立図書館 (サンクトペテルブルク)|ロシア国立図書館]]蔵 AdrianopleConquestByzSoldBGhistory.jpg|[[東ローマ帝国]]時代の『[[ヨハネス・スキュリツェス#マドリード・スキュリツェス(スキュリツェス年代記)|スキュリツェス年代記]]』(12世紀の挿絵入り写本)。 Gospel Estienne 1550.jpg|1550年の[[ロベール・エティエンヌ]]の[[新約聖書]]。活字設計は[[クロード・ギャラモン]]による </gallery> == 発音 == 古代ギリシア語と現代ギリシア語では発音体系が著しく異なり、このため各文字の[[単音|音価]]も異なる。古代の音価は、現代の[[言語学]]の研究によって推測されている紀元前5世紀ごろのアッティカ地方の音である。古代ギリシア語ではおおむね文字と発音の関係は1対1だったが、例外として {{el|α ι υ}} は長母音と短母音の両方を表した。{{el|ει}} は {{IPA|eː}} {{IPA|ei}} の両方の音を表した。{{el|ου}} も {{IPA|oː}} {{IPA|ou}} の両方を表していたが、後に {{IPA|uː}} に変化した。単独の {{el|υ}} は {{IPA|y(ː)}} だったが、{{el|αυ ευ}} の {{el|υ}} は {{IPA|u}} だった。{{el|γ}} は {{el|κ χ γ}} の前では {{IPA|ŋ}} を表し、{{el|σ}} は有声子音の前では {{IPA|z}} と発音した。{{el|ζ}} が {{IPA|zd}} と {{IPA|dz}} のどちらであったかは議論が分かれる。 これとは別に、しばしば「古典的」と呼ばれる発音体系に、エラスムス式発音({{lang-en-short|[[:en:Pronunciation of Ancient Greek in teaching|Erasmian pronunciation]]}})がある。これは[[16世紀]]の人文学者[[デジデリウス・エラスムス|エラスムス]]によって整理されたものを元にしている(地域によって、幾つかバリエーションがある)。実際の古代の発音とはかなり異なるものもあるが、古代ギリシア語が[[死語 (言語)|死語]]である以上、元来の発音に拘泥する必要はなく、こちらの発音を用いることも多い。例を挙げれば、{{Unicode|Φ}} の古代アッティカ発音は {{IPA|pʰ}}([[有気音]]の{{IPA|p}})と推測されるが、エラスムス式では {{IPA|f}} である。 現代ギリシアでは、古代の文章でも、現代の発音体系で読まれる。これは、日本人が古典文学を現代日本語発音で読むのと同じである。 現代ギリシア語では {{el|φ θ χ β δ γ}} は {{IPA|f θ x v ð ɣ}} のように摩擦音になっており({{el|χ γ}} は前舌母音の前では {{IPA|ç ʝ}} になる)、有声閉鎖音は {{el|μπ ντ γκ}} のように表す。同じ母音を表すのに複数のつづり方があり、これらは歴史的発音にしたがってつづり分けられる。また、{{el|αυ ευ}} の {{el|υ}} は、{{IPA|f}}(有声音が後続するときは {{IPA|v}})と発音する。 音声記号は[[国際音声記号]] (IPA) による。 {|class="wikitable" ! 母音 !! つづり |- | a || {{el|α}} |- | i || {{el|ι υ η ει οι}} |- | u || {{el|ου}} |- | e || {{el|ε αι}} |- | o || {{el|ο ω}} |} == ラテン文字による表記 == [[File:Bilingual traffic sign greece.jpg|thumb|left|ギリシア文字とラテン文字による標識。翻字でなく音を転写している]] ラテン文字はギリシア文字から発展したものだが、ギリシア文字にあるいくつかの文字(ΗΘΦΧΨΩ)が存在しない。古典ラテン語でギリシア語からの借用語を表すときにはΗを e、Ωを o で表し、ΘΦΧΨはそれぞれ th ph ch ps のように2文字で表した。ほかに[[二重母音]]の {{el|αι}} を ae、{{el|οι}} を oe に変えたり、語尾をラテン語風に変えたりしている。現在でも[[学名]]などでギリシア語を使用するときにはこのような変形を行う。 現代のギリシア語では発音とつづり字の差が大きく、ラテン文字表記には音声に対する[[転写 (言語学)|転写]]と文字に対する[[翻字]]の2種類がある。ギリシア文字をラテン文字に[[翻字]]する方法は統一されていないが、方式による差は少ない。「ΗΩ」はマクロンをつけ(ē、ō)、気息音は h に翻字するなど。 {{clearleft}} == 文字 == {{ギリシア文字}} === 文字表 === 「メガ」「プシロン」「ミクロン」といった語は、[[東ローマ帝国|ビザンツ]]時代に文字を区別するために付加されたもの<ref>Allen (1986) p.69,79</ref>。その他、ギリシア文字の各文字の詳細は、それぞれ独立の項参照。なお、[[コイネーギリシア語]]ではアルファベットの読み方は異なる。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !rowspan="2"|大文字と<br />小文字 ! colspan="3" |手書き ! colspan="4" |文字名称 !rowspan="1" colspan="3"|音価 !rowspan="2"|数値 !rowspan="2"|ヘブライ<br />文字 !rowspan="2"|ラテン<br />文字 !rowspan="2"|HTML<br />[[文字参照]] |- ![[アンシャル体]] ![[筆記体]] ![[小文字|小文字体]] ! !紀元前4世紀 !現代 !日本語の慣用 !古代 !中世 !現代 |- |lang="el"|'''[[Α]] α''' |[[ファイル:Greek_uncial_Alpha.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Alpha.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Alpha.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|άλφα}} |アルパ |アルファ |アルファ |{{IPA|a}} {{IPA|aː}} |{{IPA|a}} |{{IPA|a}} |1 |lang="he" dir="rtl"|א |a |&amp;Alpha; &amp;alpha; |- |lang="el"|'''[[Β]] β''' |[[ファイル:Greek_uncial_Beta.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Beta.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Beta.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|βήτα}} |ベータ |ヴィタ |ベータ |{{IPA|b}} |{{IPA|β}} |{{IPA|v}} |2 |lang="he" dir="rtl"|ב |b |&amp;Beta; &amp;beta; |- |lang="el"|'''[[Γ]] γ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Gamma.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Gamma.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Gamma.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|γάμμα}} |ガンマ |ガマ |ガンマ |{{IPA|ɡ}} |&nbsp; |{{IPA|ɣ}} ~ {{IPA|ʝ}} |3 |lang="he" dir="rtl"|ג |g |&amp;Gamma; &amp;gamma; |- |lang="el"|'''[[Δ]] δ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Delta.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Delta.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Delta.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|δέλτα}} |デルタ |ゼルタ {{Nowrap begin}}{{ipa|ðelta}}{{Nowrap end}} |デルタ |{{IPA|d}} |&nbsp; |{{IPA|ð}} |4 |lang="he" dir="rtl"|ד |d |&amp;Delta; &amp;delta; |- |lang="el"|'''[[Ε]] ε''' |[[ファイル:Greek_uncial_Epsilon.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Epsilon.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Epsilon.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|έψιλον}} |エー<ref name="sa">Allen (1986) p.169</ref> |エ・プシロン |イプシロン<br />エプシロン |{{IPA|e}} |&nbsp; |{{IPA|e}} |5 |lang="he" dir="rtl"|ה |e |&amp;Epsilon; &amp;epsilon; |- |lang="el"|'''[[Ζ]] ζ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Zeta.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Zeta.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Zeta.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ζήτα}} |ゼータ |ジタ {{Nowrap begin}}{{ipa|zita}}{{Nowrap end}} |ゼータ |{{IPA|zd}} {{IPA|dz}} |&nbsp; |{{IPA|z}} |7 |lang="he" dir="rtl"|ז |z |&amp;Zeta; &amp;zeta; |- |lang="el"|'''[[Η]] η''' |[[ファイル:Greek_uncial_Eta.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Eta.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Eta.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ήτα}} |エータ |イタ |イータ<br />エータ |{{IPA|ɛː}} |&nbsp; |{{IPA|i}} |8 |lang="he" dir="rtl"|ח |ē |&amp;Eta; &amp;eta; |- |lang="el"|'''[[Θ]] θ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Theta.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Theta.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Theta.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|θήτα}} |テータ |シタ |シータ<br />セータ<br />テータ |{{IPA|tʰ}} |&nbsp; |{{IPA|θ}} |9 |lang="he" dir="rtl"|ט |th |&amp;Theta; &amp;theta; |- |lang="el"|'''[[Ι]] ι''' |[[ファイル:Greek_uncial_Iota.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Iota.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Iota.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ιώτα}} |イオータ |ヨタ |イオタ |{{IPA|i}} {{IPA|iː}} |&nbsp; |{{IPA|i}} |10 |lang="he" dir="rtl"|י |i |&amp;Iota; &amp;iota; |- |lang="el"|'''[[Κ]] κ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Kappa.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Kappa.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Kappa.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|κάππα}} |カッパ |カパ |カッパ |{{IPA|k}} |&nbsp; |{{IPA|k}} ~ {{IPA|c}} |20 |lang="he" dir="rtl"|כ (ך) |k |&amp;Kappa; &amp;kappa; |- |lang="el"|'''[[Λ]] λ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Lambda.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Lambda.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Lambda.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|λάμβδα|λά(μ)βδα}}<ref group="注釈">現代では「Λ」''はλάμβδα'' (''lambda'')と読むが、古典ギリシア時代 (510–323 BC) には「μ」がなくλάβδα(labda)と読んだ。 </ref> |ラブダ<ref name="sa"/> |ラムザ {{Nowrap begin}}{{ipa|lamða}}{{Nowrap end}} |ラムダ |{{IPA|l}} |&nbsp; |{{IPA|l}} |30 |lang="he" dir="rtl"|ל |l |&amp;Lambda; &amp;lambda; |- |lang="el"|'''[[Μ]] μ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Mu.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Mu.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Mu.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|μυ}} |ミュー |ミ |ミュー |{{IPA|m}} |&nbsp; |{{IPA|m}} |40 |lang="he" dir="rtl"|מ(ם) |m |&amp;Mu; &amp;mu; |- |lang="el"|'''[[Ν]] ν''' |[[ファイル:Greek_uncial_Nu.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Nu.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Nu.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|νυ}} |ニュー |ニ |ニュー |{{IPA|n}} |&nbsp; |{{IPA|n}} |50 |lang="he" dir="rtl"|נ (ן) |n |&amp;Nu; &amp;nu; |- |lang="el"|'''[[Ξ]] ξ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Xi.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Xi.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Xi.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ξι}} |クセー |クシ |クサイ<br />グザイ<br />クシー |{{IPA|ks}} |&nbsp; |{{IPA|ks}} |60 |lang="he" dir="rtl"|ס |ks, x |&amp;Xi; &amp;xi; |- |lang="el"|'''[[Ο]] ο''' |[[ファイル:Greek_uncial_Omicron.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Omicron.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Omicron.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|όμικρον}} |オー<ref name="sa"/> |オ・ミクロン |オミクロン |{{IPA|o}} |&nbsp; |{{IPA|o}} |70 |lang="he" dir="rtl"|ע |o |&amp;Omicron; &amp;omicron; |- |lang="el"|'''[[Π]] π''' |[[ファイル:Greek_uncial_Pi.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Pi.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Pi.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|πι}} |ペー |ピ |パイ |{{IPA|p}} |&nbsp; |{{IPA|p}} |80 |lang="he" dir="rtl"|פ (ף) |p |&amp;Pi; &amp;pi; |- |lang="el"|'''[[Ρ]] ρ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Rho.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Rho.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Rho.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ρώ}} |ロー |ロ |ロー |{{IPA|r}} |&nbsp; |{{IPA|r}} |100 |lang="he" dir="rtl"|ר |r, rh |&amp;Rho; &amp;rho; |- |lang="el"|'''[[Σ]] σ ς''' |[[ファイル:Greek_uncial_Sigma.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Sigma.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Sigma.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|σίγμα}} |シグマ シーグマ |シグマ |シグマ |{{IPA|s}} {{IPA|z}} |&nbsp; |{{IPA|s}} {{IPA|z}} |200 |lang="he" dir="rtl"|ש |s |&amp;Sigma; &amp;sigma; &amp;sigmaf; |- |lang="el"|'''[[Τ]] τ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Tau.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Tau.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Tau.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ταυ}} |タウ |タフ {{Nowrap begin}}{{ipa|taf}}{{Nowrap end}} |タウ |{{IPA|t}} |&nbsp; |{{IPA|t}} |300 |lang="he" dir="rtl"|ת |t |&amp;Tau; &amp;tau; |- |lang="el"|'''[[Υ]] υ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Upsilon.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Upsilon.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Upsilon.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ύψιλον}} |ユー<ref name="sa"/> |イ・プシロン |ウプシロン<br />ユプシロン |{{IPA|y}} {{IPA|yː}} |&nbsp; |{{IPA|i}} |400 |lang="he" dir="rtl"|&nbsp; |u, y |&amp;Upsilon; &amp;upsilon; |- |lang="el"|'''[[Φ]] φ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Phi.svg|20x20ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Phi.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Phi.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|φι}} |ペー |フィ |ファイ |{{IPA|pʰ}} |{{IPA|ɸ}} |{{IPA|f}} |500 |lang="he" dir="rtl"|&nbsp; |ph |&amp;Phi; &amp;phi; |- |lang="el"|'''[[Χ]] χ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Chi.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Chi.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Chi.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|χι}} |ケー |ヒ |カイ<br />キー |{{IPA|kʰ}} |&nbsp; |{{IPA|x}} ~ {{IPA|ç}} |600 |lang="he" dir="rtl"|&nbsp; |kh, ch |&amp;Chi; &amp;chi; |- |lang="el"|'''[[Ψ]] ψ''' |[[ファイル:Greek_uncial_Psi.svg|24x24ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Psi.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Psi.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ψι}} |プセー |プシ |プサイ<br />プシー |{{IPA|ps}} |&nbsp; |{{IPA|ps}} |700 |lang="he" dir="rtl"|&nbsp; |ps |&amp;Psi; &amp;psi; |- |lang="el"|'''[[Ω]] ω''' |[[ファイル:Greek_uncial_Omega.svg|32x32ピクセル|inline]] |[[File:Greek cursive variants Omega.svg|inline|x30px]] |[[File:Greek minuscule Omega.svg|x30px]] |{{wikt-lang|el|ωμέγα}} |オー<ref name="sa"/> |オ・メガ |オメガ |{{IPA|ɔː}} |&nbsp; |{{IPA|o}} |800 |lang="he" dir="rtl"|&nbsp; |ō |&amp;Omega; &amp;omega; |- |} 「[[ディガンマ]]」、「[[スティグマ (ギリシア文字)|スティグマ]]」、「[[ヘータ]]」、「[[サン (ギリシア文字)|サン]]」、1つ目の「[[コッパ]]」、「[[サンピ]]」といった文字は、古典期には廃れた古い時代のもので、その後は数を表記するための文字としてのみ使われている。《この内「コッパ」は、現代ギリシア語では、異なる字体(2つ目の「コッパ」)のものを用いているらしい。》また、バクトリア語には「[[ショー (ギリシア文字)|ショー]]」と呼ばれる文字が加えられているが、これはバクトリア音素の ʃ からとられたものである。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !rowspan="2"|大文字と<br />小文字 !rowspan="1" colspan="3"|文字名称 !rowspan="1" colspan="3"|音価 !rowspan="2"|数値 !rowspan="2"|ヘブライ<br />文字 !rowspan="2"|ラテン<br />文字 !rowspan="2"|HTML<br />[[文字参照]] |- !紀元前4世紀 !現代 !日本語の慣用 !古代 !中世 !現代 |- |lang="el"|[[ファイル:digamma uc lc.svg|28px|Ϝ ϝ]]<br />{{nowrap begin}}([[ファイル:pamphylian digamma uc lc.svg|28px]]){{nowrap end}} | | - |[[ディガンマ]] |{{IPA|w}} | - | - |6 |lang="he" dir="rtl"|ו |&nbsp; |&amp;#988; &amp;#989;<br />(&amp;#886; &amp;#887;) |- |lang="el"|[[ファイル:stigma uc lc.svg|28px|Ϛ ϛ]] | | - |[[スティグマ (ギリシア文字)|スティグマ]] |{{IPA|st}} | - | - |6 |lang="he" dir="rtl"|ו |&nbsp; |&amp;#986; &amp;#987; |- |lang="el"|[[ファイル:heta uc lc.svg|28px|Ͱ ͱ]] | | - |[[ヘータ]] |{{IPA|h}} | - | - | - |lang="he" dir="rtl"|ח | |&amp;#880; &amp;#881; |- |lang="el"|[[ファイル:san uc lc.svg|28px|Ϻ ϻ]] | | - |[[サン (ギリシア文字)|サン]] |{{IPA|s}} | - | - | - |lang="he" dir="rtl"|צ(ץ) |&nbsp; |&amp;#1018; &amp;#1019; |- |lang="el"|[[ファイル:qoppa uc lc.svg|28px|Ϙ ϙ]]<br />{{nowrap begin}}([[ファイル:qoppa new uc lc.svg|28px]]){{nowrap end}} | | - |[[コッパ]] |{{IPA|k}} | - | - |90 |lang="he" dir="rtl"|ק |&nbsp; |&amp;#984; &amp;#985;<br />(&amp;#990; &amp;#991;) |- |lang="el"|[[ファイル:sampi uc lc T-shaped.svg|28px|Ͳ ͳ]]<br />{{nowrap begin}}([[ファイル:sampi uc lc.svg|28px]]){{nowrap end}} | | - |[[サンピ]] |{{IPA|sː}} | - | - |900 |lang="he" dir="rtl"|צ(ץ) |&nbsp; |&amp;#882; &amp;#883;<br />(&amp;#992; &amp;#993;) |- |lang="el"|[[ファイル:sho uc lc.svg|28px|Ϸ ϸ]] | | - |[[ショー (ギリシア文字)|ショー]] |{{IPA|ʃ}} | - | - | - |lang="he" dir="rtl"|צ(ץ) |&nbsp; |&amp;#1015; &amp;#1016; |- |} [[Unicode]]には「ヨット」と呼ばれる文字が加えられているが、これはラテン文字の [[J]](この文字は、中世に [[I]] から分岐して成立した文字である)からとられたもので、古代には存在してはおらず、また現代でも日常的なギリシア語に使われることはない。この文字は、[[言語学]]において、有史以前のギリシア語の発音([[硬口蓋接近音]])を表記するためのものらしいが、詳細は不明である。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !rowspan="2"|大文字と<br />小文字 !rowspan="1" colspan="3"|文字名称 !rowspan="1" colspan="3"|音価 !rowspan="2"|数値 !rowspan="2"|ヘブライ<br />文字 !rowspan="2"|ラテン<br />文字 !rowspan="2"|HTML<br />[[文字参照]] |- !紀元前4世紀 !現代 !日本語の慣用 !古代 !中世 !現代 |- |lang="el"|[[ファイル:LetterJj.svg|14px|Ϳ ϳ]] | | - |ヨット |{{IPA|j}} | - | - | - |lang="he" dir="rtl"|י | |&amp;#895; &amp;#1011; |- |} === 記号 === 現代ギリシア語においては、[[鋭アクセント]]記号 ( ´ ) と[[トレマ]] ( ¨ ) の2種類の[[ダイアクリティカルマーク]]を使用する。その他の記号は、専ら[[古典ギリシア語]]などの表記にのみ用いられる。[[Microsoft Windows]]の場合、通常のギリシャ語キーボードでは、鋭アクセント記号 ( ´ ) 以外は入力できないので、それらを入力したい場合は、「ギリシャ語 Polytonic」キーボードを使用する必要がある。 ==== アクセント記号 ==== {|class=wikitable !記号!!名称!!意味 |- |class=Unicode|´ |[[鋭アクセント]]記号 |高音(または強アクセント) |- |class=Unicode|` |[[重アクセント]]記号 |中高音(または弱アクセント) |- |class=Unicode|˜(または ˆ) |[[曲アクセント]]記号 |上2つの結合(山なりの発音) |} ==== 気息記号・その他 ==== {|class=wikitable !記号!!名称!!意味 |- |class=Unicode style=font-size:x-large|῾ |[[有気記号]] |語頭母音の有気 (h) 発音 |- |class=Unicode style=font-size:x-large|᾿ |[[無気記号]] |語頭母音の無気発音 |- |class=Unicode|¨ |分離記号([[分音符号]]) |連続母音字を個別に発音 |- |class=Unicode|◌ͅ |[[下書きのイオータ]] |歴史的過程で省略・脱落された {{el|ΑΙ}} /aːi/(アーイ)、{{el|ΗΙ}} /ɛːi/(エーイ)、{{el|ΩΙ}} /ɔːi/(オーイ)の Ι を表現する記号 |- |class=Unicode|˘ |[[ブレーヴェ|短音記号]] |母音の長さを短くする |- |class=Unicode|¯ |[[マクロン|長音記号]] |母音の長さを長くする |} == シンボルとしてのギリシア文字 == {{main|数学・自然科学・工学分野で使われるギリシア文字}} ギリシア文字は、ギリシア語圏以外では[[シンボル]]としてさまざまな用途に用いられる。特に小文字はラテン文字と異なる形をした文字が多いため、ラテン文字だけでは不足する場合によく用いられる。 箇条書きなどの順序数で「α、β、γ…」を使用することが多い。[[アルファ粒子|α線]]・[[ベータ粒子|β線]]・[[ガンマ線|γ線]]も似た使い方である。 単位として使われる「[[オーム|Ω]]」<ref group="注釈">Unicode には[[文字様記号]]として U+2126 にオーム記号が定義されているが、ギリシア文字のオメガを使うのが望ましいとする。{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U2100.pdf|title=Letterlike Symbols|publisher=The Unicode Consorcium|accessdate=2015-05-29}}</ref>や[[SI接頭語]]の「[[マイクロ|μ]]」、角度の「θ」、[[標準偏差]]を表す「σ」、増分の「Δ」、[[円周率]]の「π」、[[総和]]の「Σ」や[[総乗]]の「Π」、[[ラムダ計算]]、[[カイ二乗分布]]、[[ガンマ関数]]などはよく知られる。詳細は個々の文字を参照。 シンボルとして使われるギリシア文字は、通常のギリシア文字とは異なる形をしていることもある。Unicode では通常のギリシア文字のほかに主にシンボル用に使われるいくつかの文字を定義している({{unicode|ϑ ϕ ϖ ϰ ϱ}} など)。 [[国際音声記号]]では {{IPA|β}} を[[有声両唇摩擦音]]に、{{IPA|θ}} を[[無声歯摩擦音]]に使用する。{{IPA|ɑ}} {{IPA|ɣ}} {{IPA|ɤ}} {{IPA|ð}} {{IPA|ɛ}} {{IPA|ɵ}} {{IPA|ʎ}} {{IPA|ɸ}} {{IPA|ø}} などは一見ギリシア文字のように見えるが、少なくとも Unicode ではギリシア文字とは別の文字として定義されている。 == ギリシア文字から派生した文字 == ギリシア文字は母音と子音からなるアルファベットであり使用しやすいものであったことから、[[ヨーロッパ大陸]]や[[コーカサス]]地方を中心にかなりの民族によって模倣されたが、ギリシア文字をそのまま導入することは少なく、ほとんどの民族はギリシア文字を参考に自らの言語の特徴に合わせた新しい文字を考案することが常であった。 こうした派生文字の中で最も古いものは[[エトルリア文字]]などの[[古イタリア文字]]群であり、[[紀元前8世紀]]ごろにはエトルリア文字の使用が開始され、[[紀元前7世紀]]ごろには現代において最も使用されている文字である[[ラテン文字]]が成立した。同時期、[[小アジア]]においても[[リュディア文字]]、[[カリア文字]]、[[リュキア文字]]などといった文字が西方ギリシア文字より考案された。アレクサンドロス大王の遠征によって[[中央アジア]]の[[バクトリア]]にギリシア人王朝が成立すると、同地方で話される[[バクトリア語]]もギリシア文字で書かれるようになり、[[クシャーナ朝]]の公用語として広く使用された。バクトリア語におけるギリシア文字はほぼオリジナルと同じものだが、「[[ショー (ギリシア文字)|ショー]]」と呼ばれる文字が加えられている。 紀元後に入ってもこの流れは続き、[[4世紀]]には[[エジプト]]において[[コプト文字]]がギリシア文字から派生し、同じく4世紀には[[ウルフィラ]]によって、ギリシア文字から強く影響を受けた[[ゴート文字]]が考案された。さらにこの時期[[カフカース]]においても、[[404年]]から[[406年]]にかけて[[メスロプ・マシュトツ]]により[[アルメニア文字]]が開発された<ref>「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p266 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷</ref>。おそらく同じころに[[グルジア文字]]が発明されたと考えられているが、この文字の成立時期や成立過程は不明な点が多い。ただし文字の並びや、[[グルジア語]]には不要な文字がギリシア文字に対応するところに存在していることから、この文字がギリシア文字から考案されたことはほぼ確実視されている<ref>『図説 世界の文字とことば』 町田和彦編 26頁。河出書房新社 2009年12月30日初版発行 ISBN 978-4309762210</ref>。この二つの文字は現代においても使用され続けている。 一方、[[860年]]ごろに[[正教会]]の[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]と[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]が、[[スラヴ諸語]]を表記するために[[グラゴル文字]]を考案した。グラゴル文字は数百年間使用されたものの、[[900年]]ごろにやはりギリシア文字から考案された[[キリル文字]]が有力になっていき、やがて正教会圏の諸国において広く使用されるようになっていった<ref>「ビジュアル版 世界の文字の歴史文化図鑑 ヒエログリフからマルチメディアまで」p273 アンヌ=マリー・クリスタン編 柊風舎 2012年4月15日第1刷</ref>。このほか、かつてギリシア文字は[[アルーマニア語]]を表記するのにも使われていたが、現在はラテン文字を使うのが普通になっている。 == コンピュータ == === Unicode === [[Unicode]] での収録位置は以下のとおり。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:large; font-family:'DejaVu Sans', 'Komatuna P', 'M+ 1c', 'Meguri P', 'UmePlus P Gothic', 'VL Pゴシック', 'New Athena Unicode', Alfios, Anaktoria, Analecta, Avdira, Quivira, Symbola, Code2000, Atavyros, Alexander, 'Nishiki-teki';" |- ! U+ !! width="15pt" | 0 !! width="15pt" | 1 !! width="15pt" | 2 !! width="15pt" | 3 !! width="15pt" | 4 !! width="15pt" | 5 !! width="15pt" | 6 !! width="15pt" | 7 !! width="15pt" | 8 !! width="15pt" | 9 !! width="15pt" | A !! width="15pt" | B !! width="15pt" | C !! width="15pt" | D !! width="15pt" | E !! width="15pt" | F |- ! 0370 |&#880;||&#881;||&#882;||&#883;||ʹ||&#885;||&#886;||&#887;||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||&#890;||&#891;||&#892;||&#893;||;||&#895; |- ! 0380 |style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||style="background:#666;"| ||&#900;||&#901;||&#902;||·||&#904;||&#905;||&#906;||style="background:#666;"| ||&#908;||style="background:#666;"| ||&#910;||&#911; |- ! 0390 |&#912;||Α||Β||Γ||Δ||Ε||Ζ||Η||Θ||Ι||Κ||Λ||Μ||Ν||Ξ||Ο |- ! 03A0 |Π||Ρ||style="background:#666;"| ||Σ||Τ||Υ||Φ||Χ||Ψ||Ω||&#938;||&#939;||&#940;||&#941;||&#942;||&#943; |- ! 03B0 |&#944;||α||β||γ||δ||ε||ζ||η||θ||ι||κ||λ||μ||ν||ξ||ο |- ! 03C0 |π||ρ||&#962;||σ||τ||υ||φ||χ||ψ||ω||&#970;||&#971;||&#972;||&#973;||&#974;||&#975; |- ! 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Sidney Allen|title=Vox Graeca|edition=3rd|year=1986|origyear=1968|publisher=Cambridge University Press|isbn=0521335558}} * {{cite book|year=1996|author=Pierre Swiggers|chapter=Transmission of the Phoenician Script to the West|editor=Peter T. Daniels; William Bright|title=The World's Writing Systems|publisher=Oxford University Press|pages=261-270}} * {{cite book|year=1996|author=Leslie Threatte|chapter=The Greek Alphabet|editor=Peter T. Daniels; William Bright|title=The World's Writing Systems|publisher=Oxford University Press|pages=271-280}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Greek letters}} {{wiktionary}} * [[西方ギリシア文字]] * [[コプト文字]] * [[バクトリア語]] * [[ラテン文字]] * [[キリル文字]] * [[ギリシア語]] * [[グルジア文字]] * [[フェニキア文字]] * [[アルメニア文字]] * [[エトルリア文字]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{文字}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きりしあもし}} [[Category:ギリシア文字|*]] [[Category:ヨーロッパの文字]]
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一来
一来(いちらい、巴: sakadāgāmin サカダーガーミン, 梵: sakṛdāgāmin サクリダーガーミン, सकृद् आगामिन् sakRd-aagaamin、旧訳音写:斯陀含〈しだごん〉)は、仏教において悟りの第二段階であり、四向四果の1つ。 原始仏教では、預流として既に三結が断たれており、さらに貪・瞋・癡の三毒が薄くなった者とする。 『倶舎論』では、一来向は欲界の修惑(しゅわく、情的煩悩)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶ。一来果は欲界の前六品を断じた位である。 この段階に入ると、一度 (sakRd) 天界に生れ、再び人間界に戻って、その次は二度と輪廻しなくなる。 Katamo ca bhikkhave dutiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā sakadāgāmī hoti, sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā dukkhassantaṃ karoti. Ayaṃ bhikkhave dutiyo samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第二の沙門なのか。 比丘たちよ、ここに比丘がいて、三結が滅尽され、貪・瞋・痴が希薄となったために一来者となり、一度だけ世間(loca)に来て苦の寂静をなす。 比丘たちよ、これが第二の沙門である。
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一来は、仏教において悟りの第二段階であり、四向四果の1つ。 原始仏教では、預流として既に三結が断たれており、さらに貪・瞋・癡の三毒が薄くなった者とする。 三結が既に滅尽されている(有身見・戒禁取見・疑) 三毒が希薄となっている 貪(とん)- 必要以上に求める心 瞋(じん)- 怒りの心 癡(ち)- 妄想、混乱、鈍さ 『倶舎論』では、一来向は欲界の修惑(しゅわく、情的煩悩)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶ。一来果は欲界の前六品を断じた位である。 この段階に入ると、一度 (sakRd) 天界に生れ、再び人間界に戻って、その次は二度と輪廻しなくなる。
{{出典の明記|date=2017年9月30日 (土) 11:24 (UTC)}} {{Infobox Buddhist term | title = 一来 | collapsible = | en = returning once<ref>Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 660, entry for "Sakadāgāmin" (retrieved 26 Sep 2007 at http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.3:1:2653.pali).</ref> , once-returner | pi = Sakṛdāgāmin | pi-Latn = | sa = सकृद् आगामिन् | sa-Latn =Sakṛdāgāmin | as = | as-Latn = | bn = | bn-Latn = | my = | my-Latn = | zh =斯陀含 , 一往來 | zh-Latn =sī tuó hán | id = | ja = 一来 | ja-Latn = Ichirai }} '''一来'''(いちらい、{{lang-pi-short|sakadāgāmin}} '''サカダーガーミン''', {{lang-sa-short|sakṛdāgāmin}} '''サクリダーガーミン''', &#x0938;&#x0915;&#x0943;&#x0926;&#x094d; &#x0906;&#x0917;&#x093e;&#x092e;&#x093f;&#x0928;&#x094d; sakRd-aagaamin、旧訳音写:斯陀含〈しだごん〉)は、[[仏教]]において[[悟り]]の第二段階であり、[[四向四果]]の1つ。 [[初期仏教|原始仏教]]では、[[預流]]として既に[[三結]]が断たれており、さらに貪・瞋・癡の[[三毒]]が薄くなった者とする<ref name=fuji />。 * [[三結]]が既に滅尽されている([[有身見]]・[[戒禁取見]]・[[疑]]) * [[三毒]]が希薄となっている ** [[貪]](とん)- 必要以上に求める心 ** [[瞋]](じん)- 怒りの心 ** [[癡]](ち)- 妄想、混乱、鈍さ 『[[倶舎論]]』では、一来向は[[欲界]]の修惑(しゅわく、情的煩悩)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶ。一来果は欲界の前六品を断じた位である。 この段階に入ると、一度 (sakRd) [[天 (仏教)|天界]]に生れ、再び[[人間界]]に戻って、その次は二度と[[輪廻]]しなくなる<ref name=fuji>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.4}}</ref>。 == 抜粋 == {{Quote| Katamo ca bhikkhave dutiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā sakadāgāmī hoti, sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā dukkhassantaṃ karoti. Ayaṃ bhikkhave dutiyo samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第二の沙門なのか。<br> 比丘たちよ、ここに比丘がいて、三結が滅尽され、貪・瞋・痴が希薄となったために一来者となり、一度だけ[[世間]](loca)に来て苦の寂静をなす。 比丘たちよ、これが第二の沙門である。 | {{SLTP|[[増支部]][[四集 (増支部)|四集]] 241,沙門経 Samaṇasuttaṃ }} <ref name=fuji/>}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== *[[四向四果]] *[[煩悩]] *[[六道]] {{Buddhism2}} {{デフォルトソート:いちらい}} [[category:原始仏教]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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16,157
不還
不還 (ふげん、巴: anāgāmi(n) アナーガーミ(ン), 梵: anāgāmin アナーガーミン, अनागामिन् , 音写 : 阿那含(あなごん))は、仏教における悟りの第三段階であり、四向四果の一つ。不還向(ふげんこう)とは,前段の一来果を得た者が、次の不還果を得ようとして残余の修惑三品を断ちつつある位のこと。 部派仏教では五下分結(下位の世界に結びつける五つの煩悩)を断じた者が得る位である。 倶舎論 では、欲界の修惑(情的煩悩)をすべて断ち切ったため、もはや欲界に戻らずに悟りに至るとする。 この位に達すると、もはや死後は人間界にもどることなく、梵天界(初禅天)以上の階位に上り、梵天界での死後に阿羅漢となり完全な悟りを得る。 Katamo ca bhikkhave tatiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā opapātiko hoti tattha parinibbāyī anāvattidhammo tasmā lokā ayaṃ bhikkhave tatiyo samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第三の沙門なのか。 比丘たちよ、ここに比丘がいて、五下分結の滅尽により化生者(転生による生まれ)となっている。 その世界で般涅槃(parinibbāyī)し、世間(loka)へ還らざる者である。 比丘たちよ、これが第三の沙門である。
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不還 は、仏教における悟りの第三段階であり、四向四果の一つ。不還向(ふげんこう)とは,前段の一来果を得た者が、次の不還果を得ようとして残余の修惑三品を断ちつつある位のこと。 部派仏教では五下分結(下位の世界に結びつける五つの煩悩)を断じた者が得る位である。 有身見(sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊を自己とみなす見解 疑(vicikicchā) - 疑い 戒禁取(sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着 欲愛(kāmacchando)- 五欲への執着 瞋恚(paṭigha) - 怒り 倶舎論 では、欲界の修惑(情的煩悩)をすべて断ち切ったため、もはや欲界に戻らずに悟りに至るとする。 この位に達すると、もはや死後は人間界にもどることなく、梵天界(初禅天)以上の階位に上り、梵天界での死後に阿羅漢となり完全な悟りを得る。
{{Infobox Buddhist term | title = 不還 |pi=Anāgāmī |pi-Latn= |sa=अनागामिन् |sa-Latn=Anāgāmin |zh=不還, 阿那含 |zh-Latn=bùhuán , Ānàhán |ja=不還, 阿那含 |ja-Latn=fugen, anagon |ko=불환, 아나함 |ko-Latn=bulhwan, anaham |th= อนาคามี |th-Latn= anakhami |bo= ཕྱིར་མི་འོང་བ |vi=Bất hoàn, A-na-hàm |en=Non-returner }} '''不還''' (ふげん、{{lang-pi-short|anāgāmi(n)}} '''アナーガーミ(ン)''', {{lang-sa-short|anāgāmin}} '''アナーガーミン''', अनागामिन् , 音写 : 阿那含(あなごん))は、[[仏教]]における[[悟り]]の第三段階であり、[[四向四果]]の一つ<ref name=fuji />。不還向(ふげんこう)とは,前段の[[一来]]果を得た者が、次の不還果を得ようとして残余の修惑三品を断ちつつある位のこと。 [[部派仏教]]では[[五下分結]](下位の世界に結びつける五つの[[煩悩]])を断じた者が得る位である<ref> {{SLTP|[[増支部]][[四集 (増支部)|四集]] 241,沙門経 Samaṇasuttaṃ }}</ref><ref name=fuji />。 #[[有身見]](sakkāya-diṭṭhi) - [[五蘊]]を[[我|自己]]とみなす見解 #[[疑]](vicikicchā) - 疑い #[[戒禁取]](sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着 #[[欲愛]](kāmacchando)- 五欲への執着 #[[瞋恚]](paṭigha) - 怒り [[倶舎論]] では、[[欲界]]の修惑(情的煩悩)をすべて断ち切ったため、もはや欲界に戻らずに悟りに至るとする。 この位に達すると、もはや死後は人間界にもどることなく、[[梵天界]](初禅天)以上の階位に上り、梵天界での死後に[[阿羅漢]]となり完全な悟りを得る<ref name=fuji>{{Cite |和書|title=悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果|author=藤本晃著|publisher=サンガ |date=2015-11 |isbn=9784865640267 |at=Chapt.5}}</ref>。 == 抜粋 == {{Quote| Katamo ca bhikkhave tatiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā opapātiko hoti tattha parinibbāyī anāvattidhammo tasmā lokā ayaṃ bhikkhave tatiyo samaṇo. 比丘たちよ、いかなるものが第三の沙門なのか。<br> 比丘たちよ、ここに比丘がいて、[[五下分結]]の滅尽により[[生 (仏教)|化生者]](転生による生まれ)となっている。<br> その世界で般涅槃(parinibbāyī)し、[[世間]](loka)へ還らざる者である。<br> 比丘たちよ、これが第三の沙門である。 | {{SLTP|[[増支部]][[四集 (増支部)|四集]] 241,沙門経 Samaṇasuttaṃ }} <ref name=fuji/>}} ==出典== {{Reflist}} == 関連項目 == {{Buddhism2}} {{Buddhism-stub}} {{デフォルトソート:ふけん}} [[Category:原始仏教]] [[Category:仏教哲学の概念]]
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16,162
訳経史区分
訳経史区分(やっきょうしくぶん)とは、中国における仏典の訳経史(サンスクリット等で書かれた原典の漢訳の歴史)における時代区分のことである。 唐の玄奘以後の訳経を新訳(しんやく)と呼び、それ以前の訳経を旧訳(くやく)と呼ぶ。これは、玄奘自身が新訳と旧訳の区別を強調し、「旧訳は訛謬(かびゅう)なり」と断じたからである。訳例を以下に示す。 確かに玄奘の新訳語の方がサンスクリット語の発音や原意に忠実であるように見える。 しかし、旧訳を誤りであるとか不完全であるとして排斥するのは早計である。初期の漢訳経典の多くはプラークリット(俗語)や西域の諸語から訳出されたものであり、サンスクリットからの直接の漢訳ではなかったからである。 しかも漢字の音も南北朝までの古い音は、唐代とは大きく異なっていた。 旧訳を代表するのは、後秦の鳩摩羅什(くまら じゅう)と陳の真諦(しんだい)である。とくに、鳩摩羅什の訳語・文体はそれ以前の訳とはっきり区別できるすぐれた特色をもっている。『維摩経』、『妙法蓮華経』、『金剛般若経』などには、いくつかの訳があるが、鳩摩羅什訳がもっとも名訳とされることが一般的であり、訳文は漢文としても名文の誉れが高い。また、真諦訳の『倶舎論』(大正新脩大蔵経No.1559)は玄奘訳(大正No.1558)よりも原典に忠実である。 訳経史上では、鳩摩羅什以前の訳を古訳(こやく)と言って旧訳から区別することがある。梁の僧祐が『出三蔵記集』の中で、西晋以前の訳語と鳩摩羅什以後の訳語の相違に注目しており、それにほぼ対応する。例えば bodhisattva (菩薩)の古訳語は「扶薩(ふさつ)」または「開士(かいじ)」であり、格義仏教で用いられた経典とほぼ一致している。 古訳時代の代表的訳者は である。
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訳経史区分(やっきょうしくぶん)とは、中国における仏典の訳経史(サンスクリット等で書かれた原典の漢訳の歴史)における時代区分のことである。
{{出典の明記|date=2015年9月21日 (月) 09:30 (UTC)}} '''訳経史区分'''(やっきょうしくぶん)とは、[[中国]]における[[仏典]]の訳経史([[サンスクリット]]等で書かれた原典の[[漢訳]]の歴史)における時代区分のことである。 ==旧訳と新訳== [[唐]]の[[玄奘]]以後の訳経を新訳(しんやく)と呼び、それ以前の訳経を旧訳(くやく)と呼ぶ。これは、玄奘自身が新訳と旧訳の区別を強調し、「旧訳は訛謬(かびゅう)なり」と断じたからである。訳例を以下に示す。 {| class="wikitable" |+ 訳例 ! サンスクリット !! 旧訳 !! 新訳 |- | samaadhi || [[三昧]](さんまい) || 三摩地(さんまじ) |- | yojana || [[由旬]](ゆじゅん)|| 踰闍那(ゆじゃな) |- | sattva || [[衆生]](しゅじょう) || 有情(うじょう) |} 確かに玄奘の新訳語の方が[[サンスクリット語]]の発音や原意に忠実であるように見える。<br> しかし、旧訳を誤りであるとか不完全であるとして排斥するのは早計である。初期の漢訳経典の多くは[[プラークリット]](俗語)や[[西域]]の諸語から訳出されたものであり、サンスクリットからの直接の漢訳ではなかったからである。 しかも漢字の音も南北朝までの古い音は、唐代とは大きく異なっていた。 旧訳を代表するのは、[[後秦]]の[[鳩摩羅什]](くまら じゅう)と[[陳 (南朝)|陳]]の[[真諦]](しんだい)である。とくに、鳩摩羅什の訳語・文体はそれ以前の訳とはっきり区別できるすぐれた特色をもっている。『[[維摩経]]』、『[[妙法蓮華経]]』、『[[金剛般若経]]』などには、いくつかの訳があるが、鳩摩羅什訳がもっとも名訳とされることが一般的であり、訳文は漢文としても名文の誉れが高い。また、真諦訳の『[[倶舎論]]』([[大正新脩大蔵経]]No.1559)は玄奘訳(大正No.1558)よりも原典に忠実である。 ==古訳== 訳経史上では、鳩摩羅什以前の訳を古訳(こやく)と言って旧訳から区別することがある。[[梁 (南朝)|梁]]の[[僧祐]]が『[[出三蔵記集]]』の中で、[[西晋]]以前の訳語と鳩摩羅什以後の訳語の相違に注目しており、それにほぼ対応する。例えば bodhisattva ([[菩薩]])の古訳語は「扶薩(ふさつ)」または「開士(かいじ)」であり、[[格義仏教]]で用いられた経典とほぼ一致している。 古訳時代の代表的訳者は *[[呉 (三国)|呉]]の[[支謙]](しけん) *西晋の[[竺法護]](じく ほうご) である。 == 関連項目 == *[[訳経僧]] {{Buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:やつきようしくふん}} [[category:経]] [[category:中国仏教]] [[Category:仏教の歴史]] [[Category:訳経僧|*]] [[Category:玄奘]]
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16,166
オットーサイクル
オットーサイクル (英: Otto cycle) は火花点火機関(ガソリンエンジン・ガスエンジン)の理論サイクル(空気標準サイクル)であり、定容サイクルまたは、等容サイクルとよばれる。石炭ガスを用いた最初の火花点火機関を作ったのはフランスのルノアールであるが、それをもとに最初の火炎点火式などの実用的なガス機関を製作したドイツのニコラウス・アウグスト・オットーにちなんで、オットーサイクルとよばれている。 オットーサイクルは、火花点火機関の実際のサイクルを、下表 1 のような比熱一定の理想気体(空気)の可逆なクローズドサイクル(空気標準サイクル)で置き換えたものと考えることができる 。 オットーサイクルのp-V 線図および T-S 線図を図 1、2 に示す。また、吸気状態を V1、p1、T1、S1 としたときの、サイクル上の各点の状態量を下表 2 に示す。 上で求めた各点の状態量を用いて、1 サイクルあたりの加熱量、冷却量、仕事、 および熱効率、平均有効圧力は下記のように求まる。 この結果より、以下のことがわかる。 上の説明は、空気標準サイクルを基にしている。諸パラメーターの影響を予測するには有効であるが、定量的には大きく異なる。これを実際のガソリンエンジンのサイクルに近づけるには以下のような補正を要する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オットーサイクル (英: Otto cycle) は火花点火機関(ガソリンエンジン・ガスエンジン)の理論サイクル(空気標準サイクル)であり、定容サイクルまたは、等容サイクルとよばれる。石炭ガスを用いた最初の火花点火機関を作ったのはフランスのルノアールであるが、それをもとに最初の火炎点火式などの実用的なガス機関を製作したドイツのニコラウス・アウグスト・オットーにちなんで、オットーサイクルとよばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オットーサイクルは、火花点火機関の実際のサイクルを、下表 1 のような比熱一定の理想気体(空気)の可逆なクローズドサイクル(空気標準サイクル)で置き換えたものと考えることができる 。", "title": "サイクル" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "オットーサイクルのp-V 線図および T-S 線図を図 1、2 に示す。また、吸気状態を V1、p1、T1、S1 としたときの、サイクル上の各点の状態量を下表 2 に示す。", "title": "サイクル" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "上で求めた各点の状態量を用いて、1 サイクルあたりの加熱量、冷却量、仕事、 および熱効率、平均有効圧力は下記のように求まる。", "title": "熱量、仕事、熱効率" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この結果より、以下のことがわかる。", "title": "熱量、仕事、熱効率" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "上の説明は、空気標準サイクルを基にしている。諸パラメーターの影響を予測するには有効であるが、定量的には大きく異なる。これを実際のガソリンエンジンのサイクルに近づけるには以下のような補正を要する。", "title": "実際のガソリン機関サイクルとの相違" } ]
オットーサイクル は火花点火機関(ガソリンエンジン・ガスエンジン)の理論サイクル(空気標準サイクル)であり、定容サイクルまたは、等容サイクルとよばれる。石炭ガスを用いた最初の火花点火機関を作ったのはフランスのルノアールであるが、それをもとに最初の火炎点火式などの実用的なガス機関を製作したドイツのニコラウス・アウグスト・オットーにちなんで、オットーサイクルとよばれている。
'''オットーサイクル''' ({{lang-en-short|Otto cycle}}) は[[火花点火内燃機関|火花点火機関]]([[ガソリンエンジン]]・[[ガスエンジン]])の[[熱力学サイクル#内燃機関の熱力学サイクル|理論サイクル(空気標準サイクル)]]であり、定容サイクルまたは、等容サイクルとよばれる<ref name="柘植">柘植盛男、『機械熱力学』、朝倉書店(1967)</ref><ref name="谷下"> 谷下市松、『工学基礎熱力学』、裳華房(1971)、ISBN 4-7853-6008-9.</ref>。石炭ガスを用いた最初の火花点火機関を作ったのはフランスの[[ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアール|ルノアール]]であるが、それをもとに最初の火炎点火式などの実用的なガス機関を製作したドイツの[[ニコラウス・オットー|ニコラウス・アウグスト・オットー]]<ref name="富塚">富塚清、『内燃機関の歴史』、三栄書房(1969)</ref>にちなんで、オットーサイクルとよばれている。 == サイクル == オットーサイクルは、火花点火機関の実際のサイクルを、下表 1 のような比熱一定の理想気体(空気)の可逆なクローズドサイクル(空気標準サイクル)で置き換えたものと考えることができる<ref name="柘植" /> <ref name="谷下" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 表 1 サイクルの置き換え ! !! 実機関の状態変化 !! 置換後の状態変化 !! 備考 |- | 1 → 2 || 混合ガスの圧縮 || 断熱(等エントロピー)圧縮 || |- | 2 → 3 || 点火・燃焼 || 等積加熱 ||この間のピストン移動を無視 |- | 3 → 4 || 燃焼ガスの膨張 || 断熱(等エントロピー)膨張 || |- | 4 → 1 || 排気・吸気(または掃気) || 等積冷却 || この間のピストン移動を無視 |} <gallery widths="257" heights="300"> ファイル:P-V_Chart_of_Otto_Cycle.svg|図 1. オットーサイクルの p-V 線図 ファイル:T-S_Chart_of_Otto_Cycle.svg|図 2. オットーサイクルの T-S 線図 </gallery> オットーサイクルのp-V 線図および T-S 線図を図 1、2 に示す。また、吸気状態を V<sub>1</sub>、p<sub>1</sub>、T<sub>1</sub>、S<sub>1</sub> としたときの、サイクル上の各点の[[状態量]]を下表 2 に示す。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ 表 2 サイクル各点の状態量 ! !! 体積 !! 圧力 !! 絶対温度 !! エントロピー |- | 1 || <math>V_1</math> || <math>p_1</math> || <math>T_1</math> || <math>S_1</math> |- | 1→2 || || <math>p = p_1 \left(\frac{V_1}{V}\right)^{\kappa}</math> || <math>T = T_1 \left(\frac{V_1}{V}\right)^{\kappa-1}</math> || <math>S = S_1</math> |- | 2 || <math>V_2 = V_1/\epsilon</math> || <math>p_2 = p_1 \epsilon^{\kappa}</math> || <math>T_2 = T_1 \epsilon^{\kappa-1}</math> || <math>S_2 = S_1</math> |- | 2→3 || <math> V = V_2</math> || || <math>T = T_2 \frac{p}{p_2} </math> || <math>S = S_2 + m c_v \ln\frac{T}{T_2}</math> |- | 3 || <math> V_3 = V_1 /\epsilon </math> || <math> p_3 = p_1 \alpha \epsilon^{\kappa}</math> || <math> T_3 = T_1 \alpha \epsilon^{\kappa-1}</math> || <math> S_3 = S_1 + m c_v \ln \alpha</math> |- | 3→4 || || <math>p = p_3 \left(\frac{V_3}{V}\right)^{\kappa}</math> || <math>T = T_3 \left(\frac{V_3}{V}\right)^{\kappa-1}</math> || <math>S = S_3</math> |- | 4 || <math> V_4 = V_1 </math> || <math> p_4 = p_1 \alpha</math> || <math> T_4 = T_1 \alpha</math> || <math> S_4 = S_1 + m c_v \ln \alpha</math> |- | 4→1 || <math> V = V_4</math> || || <math>T = T_4 \frac{p}{p_4}</math> || <math>S = S_4 + m c_v \ln\frac{T}{T_4}</math> |- | colspan="5" | <math>\epsilon=\frac{V_1}{V_2}</math>:[[圧縮比]]、&nbsp;&nbsp; <math>\alpha = \frac{p_3}{p_2}</math>:圧力比(圧力上昇比)、&nbsp;&nbsp; <math>\kappa=\frac{c_p}{c_v}=1.40</math> :[[比熱比]]、 <math> m </math>:質量、&nbsp;&nbsp; <math> c_p </math>:定圧[[比熱]]、&nbsp;&nbsp; <math> c_v </math>:定積比熱 |} == 熱量、仕事、熱効率 == 上で求めた各点の状態量を用いて、1 サイクルあたりの加熱量、冷却量、[[仕事_(熱力学)|仕事]]、 および[[熱効率]]、[[平均有効圧力]]は下記のように求まる。 * シリンダー内空気質量: <math> m = \frac{P_1 V_1}{R T_1} , \quad R = c_p - c_v = 287.2 {~\rm J/(kg K)} </math> * 加熱量:<math> Q_1 = m c_v (T_3 - T_2) = m c_v T_1 (\alpha-1) \epsilon^{\kappa-1}</math> * 冷却量:<math> Q_2 = m c_v (T_4 - T_1) = m c_v T_1 (\alpha-1)</math> * 仕事:<math> W = Q_1 - Q_2 = m c_v T_1 (\alpha-1) (\epsilon^{\kappa-1}-1)</math> * 熱効率:<math> \eta = 1 - \frac{Q_2}{Q_1} = 1 - \frac{1}{\epsilon^{\kappa-1}}</math> * 平均有効圧力:<math> p_m = \frac{W}{V_1 - V_2} = p_1 \frac{(\alpha-1) (\epsilon^{\kappa-1}-1)\epsilon}{(\kappa - 1)(\epsilon - 1)}</math> この結果より、以下のことがわかる。 # 圧縮比 &epsilon; を大きく(高く)すれば熱効率が大きく向上する。 # 絞り弁で吸気圧力 p<sub>1</sub> を変えることにより平均有効圧力を変えて、負荷に応じた調速を行うことができる(ガソリンエンジンでは空燃比はほぼ一定であり、圧力比 &alpha; を調速に用いることはできない)。ただし、これには絞りに伴う損失が大きくなる欠点がある。 == 実際のガソリン機関サイクルとの相違 == 上の説明は、[[熱力学サイクル#内燃機関の熱力学サイクル|空気標準サイクル]]を基にしている。諸パラメーターの影響を予測するには有効であるが、定量的には大きく異なる。これを実際のガソリンエンジンのサイクルに近づけるには以下のような補正を要する<ref name="長尾">長尾不二夫、『内燃機関講義 上巻』、養賢堂(1976)</ref><ref name="古濱">古濱庄一、『内燃機関』、東京電機大学出版局(2011) ISBN 978-4-501-41930-1 C3053</ref>。 # (比熱の相違)実際の作業物質は圧縮時は空気・燃料の混合ガスであり、燃焼後は燃焼ガスが作業物質となるので、熱力学的性質が常温の空気とは大きく異なる。特に比熱が空気より大きくなることで、作業物質の温度と圧力が低くなる。 # (熱解離の影響)高温の条件ではCO<sub>2</sub>、H<sub>2</sub>O をはじめ、多くの成分が[[解離_(化学)|解離]]する。これは供給熱量の減少、もしくは比熱が見かけ上大きくなることと等価であり、前記事項と同様に作業物質の温度・圧力低下の原因となり、出力および熱効率が大きく低下する。 # (残留ガスの影響)排気行程で燃焼ガスをすべて排出できないので、次のサイクルの混合気に混入する。これにより吸気の量、温度、圧力が影響を受ける。 # (分子数の変化)燃焼により作業物質の分子数が増減する。成分自体が変わるので一概には言えないが、一般に分子数の増加は圧力の増加をもたらす。 # (燃焼時間)燃焼は発火点から未燃部分に伝播するため時間を要し、等積加熱とはならない。このため、最大圧力も低く、衝撃も小さくなるので実用上は好都合となる。 # (壁面への放熱)シリンダ、シリンダヘッド、ピストンへの対流・放射による伝熱が生じる。 # (ポンプ損失)ガソリン機関は通常絞り運転を行うので、吸気圧力は外気より大幅に低く、排気圧力は高いため、これに伴うポンプ損失が大きくなる(特に軽負荷時)。 == 参考文献 == <references /> == 関連項目 == * [[ガソリンエンジン]] * [[火花点火内燃機関]] * [[内燃機関]] * [[熱力学サイクル]] * [[4ストローク機関]] * [[ロータリーエンジン]] {{DEFAULTSORT:おつとさいくる}} [[Category:内燃機関]] [[Category:熱力学サイクル]] [[Category:物理学のエポニム]]
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16,170
暦法
暦法(れきほう)とは、毎年の暦を作成するための方法を指す。暦は、天体の運行に基づいて確立される。主として太陽と月が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という。 以下に暦法の概要として表を示す。 古代オリエント(古代エジプトは除く)では、太陰暦を採用しており、シュメール人のウルク王朝の都市国家(前3500~前3100年頃)もアッカド王国のウル王朝(前2500~前2100年頃)も古代バビロニア王国のバビロン第1王朝(前2000~前1500年頃)の時代も、目測で観測できる月の満ち欠けに基づいて暦を決めていた。通常は、新月(三日月)から始めて次の新月までを1ヶ月としていた。その以前からも太陰歴は使用されたという説もある。 また、暦に関連して、シュメールのウルク王朝時代から、既に60進法が用いられており、これが12時間、60分、60秒の単位として、現在に至るまで受け継がれている。 また、「19太陽年≒235朔望月」とする法則は、西欧では「前432年にギリシアの天文学者メトンによって発見された」と信じられていたので、「メトン周期」と呼ばれるが、実際の発見は、おそらく前8世紀半ばのバビロニアで、メトンはこれを西方に導入したものと考えられる。 ヒジュラ暦採用前のアラビア半島では、ユダヤ暦に学んだ太陰太陽暦を用いており、メトン周期として知られる19年7閏法(19太陽年(228ヶ月)の間に、7回、閏月を置閏し、19太陽年とほぼ等しい長さの235朔望月にする方法)に基づき、第13番目の閏月が3年に一度ほど挿入されていた。その太陽暦の部分を切り落としたものがヒジュラ暦である。 太陰暦(純太陰暦)を用いているヒジュラ暦(イスラム暦)においては、1年を平年354日、閏年はこれに1日足した355日の暦法を用いている。平年は30暦日の月と29暦日の月を交互に12か月設置することになっている。太陰年は正確には1年=354.36705日であり、端数に30を掛けるとほぼ11日(11.011日)となるため、30年に11回の割合で閏日を置く。イスラムの暦法では30年周期のどの年に閏日を割り振るかが重要な課題となる。閏日が置かれる場合は、平年では29日であるズー・アル=ヒッジャ月(第12月)が30日となる。 なお、ヒジュラ暦の1年は太陽暦の1年よりも11日程短いために、ヒジュラ暦以外の世界から見ると毎年年始の暦日が早まっているように見える。特にラマダーン月(第9月)は日中の断食を伴うために、その日付を知らずに非イスラム教徒がイスラム世界を訪問したときに食事をめぐってトラブルとなる場合がある。 純太陰暦(1年=約354日)では、端数部分を除いて、閏による補正を行わないために、毎年11日早まるので、33年で季節が一巡する。このことから、「33」は陰秘学(オカルト)において非常に重視される数字となっている。 原則的には太陰暦と同じ朔望月29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回閏月を加えることで調整を行った。 中国において行われたのは、季節を知らせる二十四節気を挿入する方法であった。これは冬至から次の冬至までの太陽年を24等分して1か月に2つの節気が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「節」、後者を「中」あるいは「中気」と呼び、「中気」は暦月に必ず一つ入ることが原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その次の「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった。一方、「節」は暦注を定める際の参考とされ、節から節までの間を「節月」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた華北の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、それに中国でも華南の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。さらに、二十四節気の下には七十二候というものもあった。 また、中国においては「三正」という考え方があり、夏は雨水を、商は大寒を、周は冬至を含む月を年始として採用した。これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、漢以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。 なお、黄道上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「定気」という手法も中国の時憲暦から採用された。日本では最後の太陰太陽暦となる天保暦でのみ採用された。 新バビロニア(バビロニア歴)・ユダヤ(ユダヤ歴)・古代ギリシアなどの太陰太陽暦は、基本的には東洋のそれと同じであるが、長期的にずれが少なければ良しとして、細かい天象との差異は気にされなかったとされている。これらの国々では黄道十二宮を利用して調整を行った。 古代エジプトの暦では、古くは、1か月を30日(1週間は10日。1か月は3週間)、1年を12か月(1年を12か月に分ける方法は、月の満ち欠けの周期(1か月)を12.37回繰り返すと1年経つことに由来する)、1年を360日、とする変則的な太陰暦であることから、古代エジプトでも記録に残る以前の時代には、他の地域(文明)と同じく、太陰暦を使っていたと考えられている。 古代エジプトでは紀元前5600年頃に農業が始まり、紀元前3500年頃には灌漑が始まったと考えられている。古代エジプトの農業は、主にナイル川に依存していたため、その氾濫の時期を正確に知る必要があった。 紀元前4000年頃には、エジプト人は、恒星シリウスの観測から、また、ナイル川の毎年の増水開始の時期に注目して次の年の増水開始までの日数を数え上げ、1年が約365日であることを、既に知っていたと考えられており、これがエジプトにおける太陽暦の始まりとされる。しかし厳密には太陽ではなくシリウス(ソティス)や洪水の周期に基づくものなので、これを「ソティス暦」(シリウス・ナイル暦)という。ソティス暦は紀元前4241年、または、紀元前2781年に始まったとする説がある。 紀元前3000~2000年頃になると、伝統的な「30日×12か月=360日」に、1年のどの月(暦日)とも関係のない「5日」(360日の70分の1の端数切り捨て)を加えた「365日」からなる、国定の民間暦(民衆暦、シビル暦)が創出された。これは神話ではラーとトート(ヘジュウル)神から与えられたものとして、神聖視され、代々の国王は即位時にこれを遵守することを神々に誓った。 古代エジプトの民間暦では、1年を「アケト」(洪水期、現在の7~10月)「ペレト」(播種期、同11~2月)「シェムウ」(乾季・収穫期、同3~6月)の3季に分け、1季は4か月であった。1年の始まりである「アケト」の第1月は「ヘジュウル月」と称され、新年(古代エジプトの新年は、現在の真夏の7~8月頃にあたる)の祝いとして、時の主人であるトート神の祭儀が行われた。 だが、単純な1年=365日暦であったために、次第に季節と日付のズレが生じてきた。そこで神官は、1年を365.25日とし、4年に1度の閏年に1日の閏日を加えた神官用の官暦を用いて年中行事を行っていた。しかし、民間暦の改訂については神への冒涜であるとして否定的な考えをとり続けた。 紀元前238年に、プトレマイオス3世のカノプス勅令によって官暦への統合(民間暦への閏日の導入)が試みられた。しかしこれは成功しなかった。閏日の導入に成功するのはローマによる支配後のアウグストゥスの頃である。 また、エジプト歴では、日の出から日没までを10の「時間」に分け、これに夕暮れの2つの「時間」が追加された。夜も12の「時間」に分かれていて、昼と夜を合わせて24時間(不定時法)とされた。これが後の紀元前2世紀に、ギリシアの天文学者であったヒッパルコスが「1日の昼と夜を平等に24分割する」ことを唱え、1日24時間(定時法)となり、さらにオリエントの60進法が組み合わされて、現在に至るまで受け継がれている。 ペルシアでは、エジプトの民間暦に年始を90日遅らせたものを用いていた。セルジューク朝時代にウマル・ハイヤームらによって、ユリウス暦の要素をとり入れたジャラリー暦を導入した。現在のヒジュラ太陽暦はその後継であり、春分を年首、1-6月を31日、7-11月を30日、12月を平年29日・閏年30日としている。これは黄道十二宮とのズレをなくすための配列である。 ユリウス・カエサルがエジプトを征服した紀元前46年に、アレキサンドリアの暦学者ソシゲネスに命じてエジプト暦を改良した暦を古代ローマに導入した。これをユリウス暦(=太陽暦)という。当時使われていたローマ暦(=太陰暦)は実際の季節と3か月もずれてしまっていたため、これを調整するために閏月を3か月分挿入した。なお、この際に春分を3月25日と定め、クインティリスを自分にちなんだユリウスと改称させた。 カエサル暗殺後、本来なら閏年を4年に1度とすべきところを誤って3年に1度入れてしまったため、3日間のずれが生じてしまった。そこで、後継者となったアウグストゥスがこれを調整したが、その際にセクスティリスを自らにちなんでアウグストゥスと改称させた。 326年に行われたキリスト教のニカイア公会議は、春分を3月21日、復活祭を春分後の満月の後の最初の日曜日とすること、その復活祭の日付を基にその他の移動祝祭日の日程を定めることを決定した。ユリウス暦では28年を周期とする日曜文字(Dominical Letter)と春分翌日である3月22日の月齢(エパクト)に基づいて算出された。ユリウス暦にも実際の太陽年とのずれが存在したものの、教会当局は暦上の春分を重んじた。そのために実際の太陽年とのずれは次第に大きくなり、16世紀には実際の春分が3月11日に到来するなどの問題が生じてきた。 1582年にローマ教皇グレゴリオ13世の命を受けたクラヴィウスらによって作られたグレゴリオ暦は、週も含めて400年周期の暦で、ユリウス暦の置閏法に加えて、「ただし、西暦年数が100で割り切れる場合、その商が更に4で割り切れない年は平年とする」とするルールを付け加えることによって、400年に97回の閏年を設けることとしたものである。これによって平年は52週と1日となり、1月1日と同じ年の12月31日は同じ曜日となる。さらに翌年には曜日が1日ずつずれていくという原則が成立した。もっとも、閏年の場合には52週と2日となり、曜日も閏年が置かれた3月1日から翌年の2月28日までは2日分ずれていくこととなる。 ユリウス暦やグレゴリオ暦は月の動きを完全に暦法から排除したことによって1月1日が日曜日から土曜日になる7つのパターン及びそれぞれに閏年の設定を持つものと持たないものの2つのパターン、合わせて14種類のパターンを作るのみで、違う年のかつて用いられた暦の再利用が可能となった(月の動きが複雑に絡む太陰太陽暦には困難である)。特にグレゴリオ暦の1年=365.2425日(正確には31556952秒)によって生じる実際の1年(平均太陽年=31556925.179秒)との差は26.821秒(2013年の場合)であり、1日分の誤差が生じるまでには約3220年を要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦である。 現在使用されている西暦は、かつて暦法である西暦と紀年法である西紀とで区別していたが、後に混同されどちらも西暦とされた。暦法としての西暦はグレゴリオ暦(太陽暦)であり、紀年法としての西暦はキリスト紀元である。紀年法と暦法の使用を混同しないよう留意が必要である。
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暦法(れきほう)とは、毎年の暦を作成するための方法を指す。暦は、天体の運行に基づいて確立される。主として太陽と月が用いられ、月の運行に基づいた暦を太陰暦、月と太陽の運行に基づいた暦を太陰太陽暦、太陽の運行に基づいた暦を太陽暦という。
'''暦法'''(れきほう)とは、毎年の[[暦]]を作成するための方法を指す<!--際の基本的な諸原則のこと-->。暦は、[[天体]]の運行に基づいて確立される。主として[[太陽]]と[[月]]が用いられ、月の運行に基づいた暦を[[太陰暦]]、月と太陽の運行に基づいた暦を[[太陰太陽暦]]、太陽の運行に基づいた暦を[[太陽暦]]という。 == 概要 == 以下に暦法の概要として表を示す。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+ 暦法の概要 |- ! style="width:20%;" rowspan="2" | 暦法の種類 ! style="width:20%;" | 正式名称 | style="width:20%;" | [[太陰暦]]<br />{{Lang-en-short|[[:en:Lunar calendar|lunar<br />calendar]]}} | style="width:20%;" | [[太陰太陽暦]]<br />{{Lang-en-short|[[:en:Luni-solar calendar|luni-solar<br />calendar]]}} | style="width:20%;" | [[太陽暦]]<br />{{Lang-en-short|[[:en:Solar calendar|solar<br />calendar]]}} |- ! 別名 | style="text-align:left" | * 陰暦<ref name="太陰暦">{{Cite Kotobank|太陰暦|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2021-08-17}}</ref> * 純太陰暦{{R|太陰暦}} * 純粋太陰暦<ref name="ヒジュラ暦">{{Cite Kotobank|ヒジュラ暦|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2021-08-17}}</ref> | style="text-align:left" | * 太陰暦{{R|太陰暦}} * 陰陽暦<ref name="太陰太陽暦_N">{{Cite Kotobank|太陰太陽暦|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021-08-17}}</ref> * 陰暦{{R|太陰太陽暦_N}} | style="text-align:left" | * 陽暦<ref>{{Cite Kotobank|太陽暦|encyclopedia=百科事典マイペディア|accessdate=2021-08-17}}</ref> |- ! colspan="2" | 具体例<br />(現行の暦法の名称) | [[ヒジュラ暦]]<br />(イスラム暦)<br />のみ{{R|太陰暦}}{{R|ヒジュラ暦}} | ([[:Category:太陰太陽暦|Category:<br />太陰太陽暦]]<br />を参照) | ([[:Category:太陽暦|Category:<br />太陽暦]]<br />を参照) |- ! colspan="2" | 月の運行周期に基づくか<br />([[朔望月|1朔望月]]:約29.530589日<ref>{{Cite Kotobank|朔望月|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021-08-17}}</ref>) | '''はい'''<br />{{Efn|ヒジュラ暦においては、各月の初日を「朔」ではなく「三日月状の細い月が最初に見える日」とする<ref>{{Cite web|和書|url=https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/A5A4A5B9A5E9A5E0CEF1.html |title=暦Wiki/イスラム暦 - 国立天文台暦計算室 |accessdate=2021-08-17}}</ref>。}} | '''はい'''{{R|太陰太陽暦_N}} | いいえ |- ! colspan="2" | 太陽の運行周期を<br />考慮するか/基準とするか<br />([[太陽年|1太陽年]]:約365.242189日<ref>{{Cite web|url=https://toyokeizai.net/articles/-/416280?page=2 |title=日本の美しい「季節の変化」を英語で読んでみる {{!}} 実践!伝わる英語トレーニング {{!}} 東洋経済オンライン {{!}} 社会をよくする経済ニュース |accessdate=2021-08-17}}</ref>) | いいえ | '''はい'''{{R|太陰太陽暦_N}} | '''はい'''<ref>{{Cite Kotobank|太陽暦|encyclopedia=世界大百科事典 第2版|accessdate=2021-08-17}}</ref> |- ! rowspan="2" | 1年の長さ ! 平年 | 354日<ref name="イスラム暦">{{Cite Kotobank|イスラム暦|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2021-08-17}}</ref> | 354日/355日<ref name="太陰太陽暦_B">{{Cite Kotobank|太陰太陽暦|encyclopedia=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典|accessdate=2021-08-17}}</ref> | style="text-align:left" | * 364日{{Efn|[[国際固定暦]]などの[[13の月の暦]]や、[[ハンキ=ヘンリー・パーマネント・カレンダー]]などの[[週]]重視型の暦法に関係する。}} * 365日{{Efn|西暦([[ユリウス暦]]、[[グレゴリオ暦]]、[[修正ユリウス暦]])等のように調整なしに平年の日数が365日となるものから、[[中正暦]]のように5日分の付加日を以て平年の日数を365日としているものまで様々である。}} など |- ! 閏年 | 355日{{R|イスラム暦}} | 383日/384日{{R|太陰太陽暦_B}} | style="text-align:left" | * 366日{{Efn|平年が365日となるものについて、[[閏日]]を挿入する方法を採用している暦法が当てはまる。}} * 371日{{Efn|平年が364日となるものについて、[[閏年#閏週|閏週]]を挿入する方法を採用している暦法が当てはまる。}} など |- ! rowspan="2" | 1年当たりの月数 ! 平年 | rowspan="2" | 12暦月<br />(固定)<br />{{R|イスラム暦}}{{Efn|[[イスラム教|イスラーム]](イスラム教)においては、次のように説明される。まず、[[クルアーン]](コーラン)の[[悔悟 (クルアーン)|第9章]]36節抜粋『本当に[[アッラーフ|アッラー]]の御許で、(1年の)月数は、12ヶ月である。』<ref name="Surah_9_Ayat_34-92">{{Cite web|和書|url=http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran009-2.htm |title=第9章悔悟章 34-92 |accessdate=2021-08-17}}</ref>を以て、「平年の月数が12暦月である」ということが'''定められた'''。次いで、同37節抜粋『本当に([[ヒジュラ暦#月名・イスラム教の祭礼|聖月]]を)延ばすことは、不信心を増長させ、それで不信者は誤って導かれている。ある年は(聖月を)普通の月とし、(他の年は)聖月とする。』{{R|Surah_9_Ayat_34-92}}を以て、「[[閏月]]の恣意的なタイミングでの挿入によって、聖月を早めたり遅らせたりすること」が'''禁じられた'''。すなわち、実質的に「閏年においても、月数を12暦月とすること」が'''定められた'''。このようにして、[[ムスリム]](イスラム教徒)は、それらの条件を満たしている純太陰暦として、[[ヒジュラ暦]](イスラム暦)を用いるようになった。以上がその説明である。}} | 12暦月{{R|太陰太陽暦_B}} | rowspan="2" | (多種多様)<br />{{Efn|[[太陽暦]]は、[[太陽年]]([[季節]]の循環に関わる周期)を基準にしているに過ぎず、複数の[[月 (暦)|月]]([[朔望月]]に由来)で区切ろうとしても、各月の日数についての基準が存在しない(朔望月はもはや基準として扱われていない)ために、太陽暦全般について一概に「1年にいくつの月が存在する」とは言えない。極端な例を挙げると、[[バハーイー暦]]では1年が19の月で構成される。また、[[ISO_8601#年と年内の日の番号|ISO 8601]]の一部規定など、場合によっては月が存在しないことさえあり得る。}} |- ! 閏年 | 13暦月{{R|太陰太陽暦_B}}<br />([[閏月]]込み) |} == 太陰暦の暦法 == === 古代オリエントの暦法 === 古代[[オリエント]](古代エジプトは除く)では、太陰暦を採用しており、[[シュメール]]人の[[ウルク]]王朝の都市国家(前3500~前3100年頃)も[[アッカド]]王国の[[ウル]]王朝(前2500~前2100年頃)も古代[[バビロニア]]王国の[[バビロン第1王朝]](前2000~前1500年頃)の時代も、目測で観測できる月の満ち欠けに基づいて暦を決めていた。通常は、新月(三日月)から始めて次の新月までを1ヶ月としていた。その以前からも太陰歴は使用されたという説もある。 また、暦に関連して、シュメールのウルク王朝時代から、既に[[60進法]]が用いられており、これが12時間、60分、60秒の単位として、現在に至るまで受け継がれている。 また、「19[[太陽年]]≒235[[朔望月]]」とする法則は、西欧では「前432年にギリシアの天文学者メトンによって発見された」と信じられていたので、「[[メトン周期]]」と呼ばれるが、実際の発見は、おそらく前8世紀半ばのバビロニアで、メトンはこれを西方に導入したものと考えられる。 === ヒジュラ暦の暦法 === [[ヒジュラ暦]]採用前の[[アラビア半島]]では、[[ユダヤ暦]]に学んだ[[太陰太陽暦]]を用いており、[[メトン周期]]として知られる19年7閏法(19太陽年(228ヶ月)の間に、7回、閏月を置閏し、19太陽年とほぼ等しい長さの235朔望月にする方法)に基づき、第13番目の閏月が3年に一度ほど挿入されていた。その太陽暦の部分を切り落としたものがヒジュラ暦である。 [[太陰暦]](純太陰暦)を用いているヒジュラ暦(イスラム暦)においては、1年を平年354日、[[閏年]]はこれに1日足した355日の暦法を用いている。平年は30暦日の月と29暦日の月を交互に12か月設置することになっている。[[太陰年]]は正確には1年=354.36705日であり、端数に30を掛けるとほぼ11日(11.011日)となるため、30年に11回の割合で閏日を置く。イスラムの暦法では30年周期のどの年に閏日を割り振るかが重要な課題となる。閏日が置かれる場合は、平年では29日である[[ズー・アル=ヒッジャ|ズー・アル=ヒッジャ月]](第12月)が30日となる。 なお、ヒジュラ暦の1年は太陽暦の1年よりも11日程短いために、ヒジュラ暦以外の世界から見ると毎年年始の暦日が早まっているように見える。特に[[ラマダーン|ラマダーン月]](第9月)は日中の断食を伴うために、その日付を知らずに非[[ムスリム|イスラム教徒]]が[[イスラム世界]]を訪問したときに食事をめぐってトラブルとなる場合がある。 純太陰暦(1年=約354日)では、端数部分を除いて、閏による補正を行わないために、毎年11日早まるので、33年で季節が一巡する。このことから、「33」は陰秘学(オカルト)において非常に重視される数字となっている。 == 太陰太陽暦の暦法 == === 東洋の暦法 === {{See also|中国暦}} 原則的には太陰暦と同じ[[朔望月]]29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回[[閏月]]を加えることで調整を行った。 中国において行われたのは、季節を知らせる[[二十四節気]]を挿入する方法であった。これは[[冬至]]から次の冬至までの[[太陽年]]を24等分して1か月に2つの[[節気]]が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「[[太陰太陽暦|節]]」、後者を「中」あるいは「[[中気]]」と呼び、「中気」は暦月に必ず一つ入ることが原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その次の「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった。一方、「節」は[[暦注]]を定める際の参考とされ、節から節までの間を「[[節月]]」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた[[華北]]の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、それに中国でも[[華南]]の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。さらに、二十四節気の下には[[七十二候]]というものもあった。 また、中国においては「[[三正]]」という考え方があり、[[夏 (三代)|夏]]は[[雨水]]を、[[商 (三代)|商]]は[[大寒]]を、[[周]]は[[冬至]]を含む月を[[年始]]として採用した。これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、[[漢]]以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。 なお、[[黄道]]上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「[[定気]]」という手法も中国の[[時憲暦]]から採用された。日本では最後の太陰太陽暦となる[[天保暦]]でのみ採用された。 === 西洋の暦法 === [[新バビロニア]](バビロニア歴)・[[ユダヤ]](ユダヤ歴)・[[古代ギリシア]]などの太陰太陽暦は、基本的には東洋のそれと同じであるが、長期的にずれが少なければ良しとして、細かい天象との差異は気にされなかったとされている。これらの国々では[[黄道十二宮]]を利用して調整を行った。 == 太陽暦の暦法 == === 古代太陽暦の暦法 === [[古代エジプト]]の暦では、古くは、1か月を30日(1週間は10日。1か月は3週間)、1年を12か月(1年を12か月に分ける方法は、月の満ち欠けの周期(1か月)を12.37回繰り返すと1年経つことに由来する)、1年を360日、とする変則的な太陰暦であることから、古代エジプトでも記録に残る以前の時代には、他の地域(文明)と同じく、太陰暦を使っていたと考えられている。 古代エジプトでは紀元前5600年頃に農業が始まり、紀元前3500年頃には[[灌漑]]が始まったと考えられている。古代エジプトの農業は、主にナイル川に依存していたため、その氾濫の時期を正確に知る必要があった。 紀元前4000年頃には、エジプト人は、恒星[[シリウス]]の観測から、また、[[ナイル川]]の毎年の増水開始の時期に注目して次の年の増水開始までの日数を数え上げ、1年が約365日であることを、既に知っていたと考えられており、これがエジプトにおける太陽暦の始まりとされる。しかし厳密には太陽ではなくシリウス([[ソプデト|ソティス]])や洪水の周期に基づくものなので、これを「ソティス暦」(シリウス・ナイル暦)という。ソティス暦は紀元前4241年、または、紀元前2781年に始まったとする説がある。 紀元前3000~2000年頃になると、伝統的な「30日×12か月=360日」に、1年のどの月(暦日)とも関係のない「5日」(360日の70分の1の端数切り捨て)を加えた「365日」からなる、国定の民間暦(民衆暦、シビル暦)が創出された。これは神話では[[ラー]]と[[トート]](ヘジュウル)神から与えられたものとして、神聖視され、代々の国王は即位時にこれを遵守することを神々に誓った。 古代エジプトの民間暦では、1年を「アケト」(洪水期、現在の7~10月)「ペレト」(播種期、同11~2月)「シェムウ」(乾季・収穫期、同3~6月)の3季に分け、1季は4か月であった。1年の始まりである「アケト」の第1月は「ヘジュウル月」と称され、新年(古代エジプトの新年は、現在の真夏の7~8月頃にあたる)の祝いとして、時の主人であるトート神の祭儀が行われた。 だが、単純な1年=365日暦であったために、次第に季節と日付のズレが生じてきた。そこで神官は、1年を365.25日とし、4年に1度の閏年に1日の[[閏日]]を加えた神官用の官暦を用いて年中行事を行っていた。しかし、民間暦の改訂については神への冒涜であるとして否定的な考えをとり続けた。 [[紀元前238年]]に、[[プトレマイオス3世]]の[[カノプス勅令]]によって官暦への統合(民間暦への閏日の導入)が試みられた。しかしこれは成功しなかった。閏日の導入に成功するのはローマによる支配後の[[アウグストゥス]]の頃である。 また、エジプト歴では、日の出から日没までを10の「時間」に分け、これに夕暮れの2つの「時間」が追加された。夜も12の「時間」に分かれていて、昼と夜を合わせて24時間(不定時法)とされた。これが後の紀元前2世紀に、[[ギリシア]]の天文学者であった[[ヒッパルコス]]が「1日の昼と夜を平等に24分割する」ことを唱え、1日24時間(定時法)となり、さらにオリエントの60進法が組み合わされて、現在に至るまで受け継がれている。 [[ペルシア]]では、エジプトの民間暦に年始を90日遅らせたものを用いていた。[[セルジューク朝]]時代に[[ウマル・ハイヤーム]]らによって、[[ユリウス暦]]の要素をとり入れた[[ジャラリー暦]]を導入した。現在の[[ヒジュラ太陽暦]]はその後継であり、春分を年首、1-6月を31日、7-11月を30日、12月を平年29日・閏年30日としている。これは黄道十二宮とのズレをなくすための配列である。 === ユリウス暦の暦法 === [[ユリウス・カエサル]]がエジプトを征服した[[紀元前46年]]に、[[アレキサンドリア]]の[[暦学者]][[ソシゲネス]]に命じて[[エジプト暦]]を改良した暦を[[古代ローマ]]に導入した。これを[[ユリウス暦]](=太陽暦)という。当時使われていた[[ローマ暦]](=太陰暦)は実際の季節と3か月もずれてしまっていたため、これを調整するために閏月を3か月分挿入した。なお、この際に春分を3月25日と定め、クインティリスを自分にちなんだユリウスと改称させた。 カエサル暗殺後、本来なら閏年を4年に1度とすべきところを誤って3年に1度入れてしまったため、3日間のずれが生じてしまった。そこで、後継者となった[[アウグストゥス]]がこれを調整したが、その際にセクスティリスを自らにちなんでアウグストゥスと改称させた。 [[326年]]に行われた[[キリスト教]]の[[ニカイア公会議]]は、春分を3月21日、[[復活祭]]を春分後の満月の後の最初の日曜日とすること、その復活祭の日付を基にその他の[[移動祝祭日]]の日程を定めることを決定した。ユリウス暦では28年を周期とする[[日曜文字]](Dominical Letter)と春分翌日である3月22日の月齢([[エパクト]])に基づいて算出された。ユリウス暦にも実際の太陽年とのずれが存在したものの、教会当局は暦上の春分を重んじた。そのために実際の太陽年とのずれは次第に大きくなり、16世紀には実際の春分が3月11日に到来するなどの問題が生じてきた。 === グレゴリオ暦の暦法 === [[1582年]]に[[ローマ教皇]][[グレゴリオ13世]]の命を受けた[[クリストファー・クラヴィウス|クラヴィウス]]らによって作られた[[グレゴリオ暦]]は、週も含めて400年周期の暦で、[[ユリウス暦]]の[[置閏法]]に加えて、「ただし、[[西暦]]年数が100で割り切れる場合、その[[除法|商]]が更に4で割り切れない年は[[平年]]とする」とするルールを付け加えることによって、400年に97回の[[閏年]]を設けることとしたものである。これによって[[平年]]は52[[週]]と1日となり、1月1日と同じ年の12月31日は同じ[[曜日]]となる。さらに翌年には曜日が1日ずつずれていくという原則が成立した。もっとも、閏年の場合には52週と2日となり、曜日も閏年が置かれた3月1日から翌年の2月28日までは2日分ずれていくこととなる。 [[ユリウス暦]]や[[グレゴリオ暦]]は[[月]]の動きを完全に暦法から排除したことによって1月1日が日曜日から土曜日になる7つのパターン及びそれぞれに[[閏年]]の設定を持つものと持たないものの2つのパターン、合わせて14種類のパターンを作るのみで、違う年のかつて用いられた暦の再利用が可能となった{{Efn|4年に1度しか用いられない閏年の暦でも28年に1度(ただし、グレゴリオ暦の特例で閏年が置かれない場合を除く)に全く同じパターンの暦が用いられることになる。}}(月の動きが複雑に絡む太陰太陽暦には困難である)。特にグレゴリオ暦の1年=365.2425日(正確には31556952秒)によって生じる実際の1年(平均[[太陽年]]=31556925.179秒)との差は26.821秒(2013年の場合)であり、1日分の誤差が生じるまでには約3220年を要するなど、単純さと正確さを兼ね備えた暦である<ref>湯浅吉美『暦と天文の古代中世史』(吉川弘文館、2009、ISBN 978-4-642-02474-7) P179・192-193</ref>。 == 留意事項 == 現在使用されている[[西暦]]は、かつて暦法である西暦と紀年法である西紀とで区別していたが、後に混同されどちらも西暦とされた。暦法としての西暦はグレゴリオ暦(太陽暦)であり、紀年法としての西暦は[[キリスト紀元]]である。紀年法と暦法の使用を混同しないよう留意が必要である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 今井溱「暦法」(『社会科学大事典 19』鹿島研究所出版会、[[1974年]] ISBN 4-306-09170-8) * 岡田芳朗「暦法」(『世界歴史大事典 Encyclopedia Rhetorica 20』教育出版センター、[[1986年]] ISBN 4-7632-4019-6) == 関連項目 == * [[暦]] * [[暦法の一覧]] * [[暦学]] * [[暦道]] * [[コンプトゥス]] * [[改暦]]、[[新暦]]、[[旧暦]] == 外部リンク == * [http://hosi.org When.exe Ruby版] - 古今東西あらゆる文化および言語で用いられた暦日・暦法・時法・暦年代・暦注などにユニークな名前付けを行い、統一的に扱うことを目的としたフレームワーク。新暦旧暦みならず、古代暦の相互換算にも対応。 {{暦}} {{DEFAULTSORT:れきほう}} [[Category:暦法|*]]
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日本海縦貫線
日本海縦貫線(にほんかいじゅうかんせん)は、近畿地方から東北地方あるいは北海道までの日本海沿岸に敷設された、JRおよび第三セクターの鉄道路線の総称である。 複数の路線の全部または一部から構成されるが、長距離運行する優等列車(特急、寝台特急、急行)や貨物列車の運用上、一部で一体的に機能させている。正式な路線名称ではなく、JR旅客会社および第三セクター会社では案内名称としては使用しないが、日本貨物鉄道(JR貨物)では案内名称として使用している。日本海縦貫線の距離は大阪駅 - 青森駅間で1,039.9キロメートル(新潟駅経由)である。 青函トンネル開通以降は、これに以下の路線を合わせ、北海道の札幌駅に至るまでの路線を指して用いられることもある。 大阪駅から信越本線の新潟駅までは一貫して複線(大阪駅 - 草津駅間は複々線)であり、第三セクター区間を除くと特急列車の本数は多い。新津以北の羽越本線と新潟駅 - 新発田駅間の白新線は単線と複線が入り混じる路線となり、普通・特急列車の本数は少なくなり、列車の速度も遅くなる。 大阪駅 - 米原駅間は本州の大動脈である東海道本線の一部であり、日本海縦貫線と重複するこの区間は、あらゆる方面へ向かう旅客列車・貨物列車が走行する。 函館本線や長崎本線と同じようにルートが2つに分かれている区間が日本海縦貫線には2か所あり、山科駅 - 近江塩津駅間の湖西線経由と東海道・北陸本線経由の2つのルート、新津駅 - 新発田駅間の信越本線・白新線経由と羽越本線経由の2つのルートがある。定期特急列車は山科駅から近江塩津駅まですべて湖西線経由であり、新潟貨物ターミナル駅を経由しない貨物列車は新津駅から新発田駅まで羽越本線経由である。貨物列車にも、湖西線経由と東海道・北陸本線経由、信越・白新線経由と羽越本線経由がある。 東海道本線・山陽本線の本州内は一貫して直流電化であり、東北本線は黒磯駅 - 高久駅間にデッドセクションがあるのに対し、日本海縦貫線は直流電化区間と交流電化区間(50Hzと60Hz)が混在しているため何度もデッドセクションを通過する。日本海縦貫線のデッドセクションは北陸本線敦賀駅 - 南今庄駅間、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン梶屋敷駅 - えちご押上ひすい海岸駅間、羽越本線の村上駅 - 間島駅間にある。そのため日本海縦貫線には、多くの交直両用の電車・機関車が見られ、日本海縦貫線をすべて走行する電車・機関車の場合には、直流1500V、交流20kV50Hz、交流20kV60Hzの3つの電源方式に対応できなければならない。 しかし、羽越本線の新津駅 - 新発田駅間は電化区間であるのに大多数の普通列車が気動車であり、羽越本線村上駅 - 鶴岡駅間は交直流電車ではなく全て気動車で運行されており、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインも、デッドセクションを跨いで運行される普通列車は気動車で運行されている。これらの区間は、日本海縦貫線で異質な区間であり、輸送密度が低く交直流電車の新造・購入費および維持費が高額であること、単行運転(1両だけで運転)できる交直流電車および交流電車が存在しないためである。 高架線は湖西線のほぼ全線、北陸本線の福井駅、小松駅、金沢駅、あいの風とやま鉄道線の富山駅、東滑川駅 - 魚津駅間で見られる。 新大阪駅 - 米原駅間では東海道新幹線、金沢駅 - 糸魚川駅間では北陸新幹線、長岡駅 - 新潟駅間では上越新幹線が並行している。秋田駅では秋田新幹線、新青森駅では東北新幹線と北海道新幹線が接続している。 いわゆる日本海縦貫線が全通したのは、1924年7月31日に羽越本線の村上駅 - 鼠ケ関駅間が開業した時である。開業と同時に、早速神戸駅 - 富山駅間の急行列車を延長して神戸駅 - 青森駅間を結ぶ急行列車が設定された。1956年に白新線が全線開通してこれに加わり、翌1957年には同線内に新潟操車場(現新潟貨物ターミナル駅)が設置されている。 この区間は近畿と北海道を結ぶ最短経路であり、早くから多数の貨物列車が設定されていた。そのためJRの前身である国鉄内部では「日本海岸線」ないしは「裏縦貫線」という呼び方が存在した。1965年から国鉄は「日本海縦貫線」の語を公に用いるようになった。なお『貨物時刻表』では、各路線名ではなくこの「日本海縦貫線」の路線表記となっており、青森信号場から吹田貨物ターミナル駅までの時刻が掲載されている。 1972年8月5日新津駅 - 秋田駅間の電化完成により、全区間で電車の直通運転が可能になった。1974年7月20日には山科駅 - 近江塩津駅間の湖西線が開業し、翌1975年3月10日から大阪方面発着の特急と一部の急行が米原駅経由から湖西線経由に変更された。 2015年3月14日の北陸新幹線金沢駅開業後は、並行在来線となる金沢駅 - 直江津駅間がJR西日本の経営から分離され、IRいしかわ鉄道(金沢駅 - 倶利伽羅駅間)・あいの風とやま鉄道(倶利伽羅駅 - 市振駅間)・えちごトキめき鉄道(市振駅 - 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23・501 - 515号機)が在籍し、0番台/500番台の区別はなく、共通運用である。", "title": "日本海縦貫線の使用車両" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "EF510形は日本海縦貫線の全区間で使用することを想定した形式で製作当初より日本海縦貫線に集中して投入され、当初は大阪貨物ターミナル - 新潟貨物ターミナル間で運用されていたが、2007年3月ダイヤ改正では青森信号場まで、2012年3月ダイヤ改正では城東貨物線・おおさか東線を経由して百済貨物ターミナルまで、2015年3月ダイヤ改正で山陽本線に入線するようになり岡山貨物ターミナル駅まで、さらに2017年改正では米原から東海道線や名古屋臨海高速鉄道に入り、名古屋貨物ターミナルまで運用を拡大した。2013年度から貨物列車受託解消で余剰となった501 - 508・511号機をJR東日本から購入。2015年度から2016年度にかけて512 - 515号機、さらにカシオペアと同色であった509・510号機も購入し、JR東日本所属であった15両はすべてJR貨物に移り、JR東日本において本形式は消滅した。", "title": "日本海縦貫線の使用車両" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "高崎線・上越線経由で隅田川駅 ・東京貨物ターミナル駅 - 南長岡駅・ 新潟貨物ターミナル駅間を直通する貨物運用があるため、EH200形が南長岡駅 - 新潟貨物ターミナル駅間で見られる。", "title": "日本海縦貫線の使用車両" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2016年3月のダイヤ改正で秋田貨物駅 - 青森信号場間でEH500形電気機関車の運用が開始された。", "title": "日本海縦貫線の使用車両" } ]
日本海縦貫線(にほんかいじゅうかんせん)は、近畿地方から東北地方あるいは北海道までの日本海沿岸に敷設された、JRおよび第三セクターの鉄道路線の総称である。 複数の路線の全部または一部から構成されるが、長距離運行する優等列車(特急、寝台特急、急行)や貨物列車の運用上、一部で一体的に機能させている。正式な路線名称ではなく、JR旅客会社および第三セクター会社では案内名称としては使用しないが、日本貨物鉄道(JR貨物)では案内名称として使用している。日本海縦貫線の距離は大阪駅 - 青森駅間で1,039.9キロメートル(新潟駅経由)である。
{{出典の明記|date=2012年1月}} [[File:JRF-EF510-15.jpg|thumb|250px|日本海縦貫線を走行する[[貨物列車]]<br>(2017年2月 [[長鳥駅]] - [[塚山駅]]間)]] '''日本海縦貫線'''(にほんかいじゅうかんせん)は、[[近畿地方]]から[[東北地方]]あるいは[[北海道]]までの[[日本海]]沿岸に敷設された、[[JR]]および[[第三セクター鉄道|第三セクター]]の[[鉄道路線]]の総称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mapple.net/articles/bk/17670/|title=【羽越本線の歴史と路線】日本海縦貫線の一部を担う日本海側の大幹線!寝台特急「日本海」も走った|date=2022-06-28 |publisher=昭文社|accessdate=2023-01-20}}</ref>。 複数の路線の全部または一部から構成されるが、長距離運行する優等列車([[特別急行列車|特急]]、[[寝台列車|寝台特急]]、[[急行列車|急行]])や[[貨物列車]]の運用上、一部で一体的に機能させている。正式な路線名称ではなく、JR旅客会社および第三セクター会社では案内名称としては使用しないが、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)では案内名称として使用している<ref name="kamotujikoku">社団法人鉄道貨物協会『貨物時刻表』各号。目次には「日本海縦貫線は東海道・北陸・信越・羽越及び奥羽の各本線を縦貫する線です。」と注記がある。</ref>。日本海縦貫線の距離は[[大阪駅]] - [[青森駅]]間で1,039.9キロメートル([[新潟駅]]経由)である。 == 路線構成 == {{独自研究| section=1|date=2012年1月}} * [[西日本旅客鉄道]](JR西日本) ** [[東海道本線]]([[大阪駅]] - [[山科駅]] - [[米原駅]]) ** [[湖西線]](山科駅 - [[近江塩津駅]]) ** [[北陸本線]](米原駅 - 近江塩津駅 - [[金沢駅]]) <!--* [[ハピラインふくい]]:[[ハピラインふくい線]](金沢駅 - [[倶利伽羅駅]])--> * [[IRいしかわ鉄道]]:[[IRいしかわ鉄道線]](金沢駅 - [[倶利伽羅駅]]) * [[あいの風とやま鉄道]]:[[あいの風とやま鉄道線]](倶利伽羅駅 - [[市振駅]]) * [[えちごトキめき鉄道]]:[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン|日本海ひすいライン]](市振駅 - [[直江津駅]]) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) ** [[信越本線]](直江津駅 - [[新津駅]] - [[新潟駅]]) ** [[白新線]](新潟駅 - [[新発田駅]]) ** [[羽越本線]](新津駅 - 新発田駅 - [[秋田駅]]) ** [[奥羽本線]](秋田駅 - [[青森駅]]) [[青函トンネル]]開通以降は、これに以下の路線を合わせ、北海道の[[札幌駅]]に至るまでの路線を指して用いられることもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hobidas.com/rmnews/411570/|title=大雨による日本海縦貫線不通により、迂回貨物9050~8084~8085~7085列車を運転|date=2022-08-16 |publisher=カルチュア・エンタテインメント|accessdate=2023-01-20}}</ref>。 * 東日本旅客鉄道(JR東日本) ** [[津軽線]](青森駅 - [[中小国駅]]) * [[北海道旅客鉄道]](JR北海道) ** [[海峡線]](中小国駅 - [[木古内駅]]) ** [[函館本線]]([[函館駅]] - [[五稜郭駅]] - [[長万部駅]]) ** [[室蘭本線]](長万部駅 - [[沼ノ端駅]]) ** [[千歳線]](沼ノ端駅 - [[白石駅 (JR北海道)|白石駅]]) ** 函館本線(白石駅 - 札幌駅) *[[道南いさりび鉄道]]:[[道南いさりび鉄道線]](木古内駅 - 五稜郭駅) === 路線の特徴 === [[ファイル:Dead-section(itoigawa-kajiyashiki).JPG|thumb|200px|right|えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインえちご押上ひすい海岸駅(交流) - 梶屋敷駅(直流)間のデッドセクション]] [[ファイル:Niitsu_stn_eqm.jpg|thumb|200px|right|新津駅の駅名標。新津駅(および新潟駅)を境に日本海縦貫線の運行形態が大きく変わる]] {{Main2|列車については「[[#主な列車]]」節を}} 大阪駅から信越本線の新潟駅までは一貫して[[複線]](大阪駅 - 草津駅間は[[複々線]])であり、第三セクター区間を除くと特急列車の本数は多い。新津以北の羽越本線と新潟駅 - 新発田駅間の白新線は[[単線]]と複線が入り混じる路線となり、普通・特急列車の本数は少なくなり、列車の速度も遅くなる。 大阪駅 - 米原駅間は[[本州]]の大動脈である東海道本線の一部であり、日本海縦貫線と重複するこの区間は、あらゆる方面へ向かう旅客列車・貨物列車が走行する。 [[函館本線]]や[[長崎本線]]と同じようにルートが2つに分かれている区間が日本海縦貫線には2か所あり、山科駅 - 近江塩津駅間の湖西線経由と東海道・北陸本線経由の2つのルート、新津駅 - 新発田駅間の信越本線・白新線経由と羽越本線経由の2つのルートがある。定期特急列車は山科駅から近江塩津駅まですべて湖西線経由であり、[[新潟貨物ターミナル駅]]を経由しない貨物列車は新津駅から新発田駅まで羽越本線経由である。貨物列車にも、湖西線経由と東海道・北陸本線経由、信越・白新線経由と羽越本線経由がある。 東海道本線・[[山陽本線]]の本州内{{efn|本州・九州間の関門トンネルを通る下関駅 - 門司駅間も九州側の門司駅構内をのぞいて直流電化。}}は一貫して[[直流電化]]であり、東北本線は[[黒磯駅]] - [[高久駅]]間に[[デッドセクション]]があるのに対し、日本海縦貫線は直流電化区間と[[交流電化]]区間(50[[ヘルツ (単位)|Hz]]と60Hz)が混在しているため何度もデッドセクションを通過する。日本海縦貫線のデッドセクションは北陸本線[[敦賀駅]] - [[南今庄駅]]間{{efn|直流1500Vと交流20kV60Hzとの間のセクション。}}、えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン[[梶屋敷駅]] - [[えちご押上ひすい海岸駅]]間{{efn|交流20kV60Hzと直流1500Vとの間のセクション。}}、羽越本線の[[村上駅 (新潟県)|村上駅]] - [[間島駅]]間{{efn|直流1500Vと交流20kV50Hzとの間のセクション。}}にある。そのため日本海縦貫線には、多くの交直両用の電車・機関車が見られ、日本海縦貫線をすべて走行する電車・機関車の場合には、直流1500V、交流20kV50Hz、交流20kV60Hzの3つの電源方式に対応できなければならない。 しかし、羽越本線の新津駅 - 新発田駅間は電化区間であるのに大多数の普通列車が[[気動車]]であり、羽越本線村上駅 - [[鶴岡駅]]間は[[交直流電車]]ではなく全て気動車で運行されており、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインも、デッドセクションを跨いで運行される普通列車は気動車で運行されている。これらの区間は、日本海縦貫線で異質な区間であり、[[輸送密度]]が低く交直流電車の新造・購入費および維持費が高額であること、単行運転(1両だけで運転)できる交直流電車および交流電車が存在しないためである。 [[高架橋|高架線]]は湖西線のほぼ全線、北陸本線の[[福井駅 (福井県)|福井駅]]、[[小松駅]]、[[金沢駅]]、あいの風とやま鉄道線の[[富山駅]]、[[東滑川駅]] - [[魚津駅]]間で見られる。 [[新大阪駅]] - 米原駅間では[[東海道新幹線]]、金沢駅 - 糸魚川駅間では[[北陸新幹線]]、[[長岡駅]] - 新潟駅間では[[上越新幹線]]が並行している。秋田駅では[[秋田新幹線]]、[[新青森駅]]では[[東北新幹線]]と[[北海道新幹線]]が接続している。 == 歴史 == {{独自研究| section=1|date=2012年1月}} いわゆる日本海縦貫線が全通したのは、[[1924年]][[7月31日]]に羽越本線の[[村上駅 (新潟県)|村上駅]] - [[鼠ケ関駅]]間が開業した時である。開業と同時に、早速[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] - [[富山駅]]間の急行列車を延長して神戸駅 - 青森駅間を結ぶ急行列車が設定された<ref>日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 8』1971年、p.462</ref><ref>鉄道省『[{{NDLDC|974233/58}} 大正十三年度 鉄道省年報]』(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより)</ref>。[[1956年]]に白新線が全線開通してこれに加わり、翌[[1957年]]には同線内に新潟操車場(現[[新潟貨物ターミナル駅]])が設置されている。 この区間は近畿と北海道を結ぶ最短経路であり、早くから多数の貨物列車が設定されていた。そのためJRの前身である[[日本国有鉄道|国鉄]]内部では「日本海岸線」<ref>『日本国有鉄道百年史 8』(日本国有鉄道、1971年)p.462には「日本海岸縦貫幹線」という表記がみられる。</ref>ないしは「裏縦貫線」<ref>{{Cite journal|和書 |date = 1999-2 |title = 日本海縦貫線の成立 |author = [[原田勝正]] |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 33 |issue = 2 |pages = 34-37 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}のp.36</ref>という呼び方が存在した。[[1965年]]から国鉄は「日本海縦貫線」の語を公に用いるようになった<ref>{{PDFlink|1=[http://www.pref.yamagata.jp/ou/kikakushinko/020056/rail/tetsudoyuso_H23.pdf#page=57 山形県鉄道利用・整備強化促進期成同盟会『山形県の鉄道輸送』平成23年度版]}}(山形県庁)p.53(pdfのp.57)</ref>。なお『[[貨物時刻表]]』では、各路線名ではなくこの「日本海縦貫線」の路線表記となっており、[[青森信号場]]から[[吹田貨物ターミナル駅]]までの時刻が掲載されている<ref name="kamotujikoku" />。 [[1972年]][[8月5日]]新津駅 - 秋田駅間の電化完成<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.15</ref>により、全区間で電車の直通運転が可能になった。[[1974年]][[7月20日]]には山科駅 - 近江塩津駅間の[[湖西線]]が開業し<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.27</ref>、翌[[1975年]][[3月10日]]から大阪方面発着の特急と一部の急行が米原駅経由から湖西線経由に変更された<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.33</ref>。 [[2015年]][[3月14日]]の[[北陸新幹線]][[金沢駅]]開業後は、[[在来線|並行在来線]]となる金沢駅 - [[直江津駅]]間がJR西日本の経営から分離され、[[IRいしかわ鉄道]](金沢駅 - [[倶利伽羅駅]]間)・[[あいの風とやま鉄道]](倶利伽羅駅 - [[市振駅]]間)・[[えちごトキめき鉄道]](市振駅 - 直江津駅間)の[[第三セクター鉄道]]3社に移管された。 [[2024年]][[3月16日]]に北陸新幹線の[[金沢駅]] - [[敦賀駅]]間が開業する事に伴い、並行在来線の金沢駅 - 敦賀駅間がJR西日本より経営分離され、金沢駅 - [[大聖寺駅]]間がIRいしかわ鉄道に編入、大聖寺駅 - 敦賀駅間は新設される[[ハピラインふくい]]の第三セクター鉄道各社に移管される予定となっている。 === 災害・事故による路線寸断 === [[ファイル:Omigawa Station 001.jpg|thumb|270px|right|土砂崩れの青海川駅。]] 長大[[トンネル]]を経由する新線に切り替えるなどの対策がとられたものの、[[親不知]]付近をはじめ、特に新潟県などにみられる日本海の海岸線まで山地が迫る区間があるその地勢や、沿線全体が[[豪雪地帯]]を通ることから、豪雨や地震による土砂崩れ、高波、雪害などの[[自然災害]]やそれによる事故で長期間不通となる事態もたびたび起きており、代替として使える並行路線が存在しないことから、長距離夜行列車などは、そのたび長期間運休を余儀なくされている。 * [[1934年]] - [[北陸本線]]能生駅 - 筒石駅間が地滑りにより不通となる。1963年にも同様の事態が起きた。 * [[1963年]] - [[昭和38年1月豪雪|三八豪雪]]により、北陸本線・信越本線などが約1か月間不通となる。 * [[2000年]]12月 - 羽越本線村上駅 - 間島駅間で、下り線が高波に流される。翌2001年2月まで上り線のみを使用し、単線運転を行った。 * [[2004年]] - [[新潟県中越地震]] * [[2005年]] - [[JR羽越本線脱線事故]] * [[2006年]]7月 - 梅雨末期の集中豪雨により、羽越本線小岩川駅 - あつみ温泉駅間で土砂崩れ発生。約1か月間不通となる。 * [[2007年]] - [[新潟県中越沖地震]]のため、信越本線[[青海川駅]]付近で土砂崩れ発生。路線が寸断され、寝台特急などに運休が出る。 * [[2022年]]8月 - [[南越前町]]周辺での集中豪雨により、線路設備に甚大な被害が発生。北陸本線敦賀駅 - [[武生駅]]間が不通となる。 == 主な列車 == {{独自研究| section=1|date=2012年1月}} [[File:Hakucyo.jpg|thumb|かつて[[大阪駅]] - [[青森駅]]間を結んでいた特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」(2001年)]] 定期特急列車の運行数については、[[大阪駅]]から湖西線を経ての北陸本線[[金沢駅]]まで特急列車が多数走行する特急街道であり、そのうち[[近江塩津駅]]から金沢駅まで大阪駅・[[名古屋駅]]・[[福井駅 (福井県)|福井駅]]発着の昼行特急列車が入り混じり40本以上走行する。金沢駅から[[津幡駅]]と、[[直江津駅]]から[[青森駅]]までは特急本数が10本以下となり、特に酒田駅から秋田駅までが比較的少ない{{efn|酒田駅から秋田駅間は定期運転の快速列車も走っていない。}}。なお、津幡駅から直江津駅間は第三セクター化された後は特急列車は走行していない。 日本海縦貫線は物流の動脈であるために多くの[[貨物列車]]が走り、普通旅客列車の本数が少なく2両編成の列車あるいは1両編成の[[ワンマン運転|ワンマン列車]]が運転されているような区間でも長編成の貨物列車が見られる。日本海縦貫線は本州の大動脈とされる「[[東海道本線]]・[[山陽本線]]」と「[[東北本線]]・[[IGRいわて銀河鉄道線]]・[[青い森鉄道線]]」{{efn|鍵カッコ内の路線は、貨物列車の直通運転がそのまま行われている。}}と同様に貨物輸送で重要な役割を果たし、全線で同じ機関車が牽引する貨物列車が見られるものの、日本海縦貫線の貨物列車の本数は前述した本州の大動脈とされる各線に比べると少ない。  日本海縦貫線のほぼ全線を走破する列車として、貨物列車が運転されており、かつては[[臨時列車|臨時]]の[[夜行列車]]「[[日本海 (列車)|日本海]]」「[[トワイライトエクスプレス]]」「[[日本海 (列車)|あおもり]]」「[[日本海 (列車)|東北夏祭り]]」も運転されていた。湖西線を経由し新潟駅を経由しない「日本海」・「トワイライトエクスプレス」の[[大阪駅]] - [[青森駅]]間の走行距離は1023.4キロであった{{efn|これは東海道・山陽本線経由で運行されていた「[[あさかぜ (列車)|あさかぜ]]」の東京駅 - 下関駅間の走行距離1117.6キロに近い。}}。 かつては日本最長距離を走る昼行の直通列車として大阪駅 - 青森駅間に特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」が運転されていたが、長距離区間を乗り通す利用客の減少により[[2001年]][[3月3日]]に廃止された。以来同区間を通して走る昼行特急列車は無い。 [[2016年]][[3月26日]]ダイヤ改正時点で運転されている昼行特急列車は以下の通りである。なお、大阪駅 - [[米原駅]]間や金沢駅 - [[津幡駅]]間のみを走行する列車は記述しない。 * 「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」大阪駅 - 津幡駅間 * 「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」 米原駅 - 金沢駅間 * 「[[ダイナスター (列車)|ダイナスター]]」福井駅 - 金沢駅間 * 「[[しらゆき (列車)|しらゆき]]」[[直江津駅]] - 新潟駅間 * 「[[いなほ (列車)|いなほ]]」新潟駅 - 秋田駅間 * 「[[つがる (列車)|つがる]]」秋田駅 - 青森駅間 2015年3月13日までは、福井駅・金沢駅 - [[直江津駅]] - 犀潟駅間には[[北越急行ほくほく線]]経由で越後湯沢駅に発着する「[[はくたか]]」、金沢駅 - 新潟駅間には「[[北越 (列車)|北越]]」が運行されていたが、北陸新幹線[[長野駅]] - 金沢駅間開業に伴い廃止された<ref>{{PDFlink|[https://www.hokuhoku.co.jp/press/20141219-n.pdf 平成27年3月14日ほくほく線ダイヤ改正]}} - 北越急行 2019年7月3日閲覧</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf 2015年3月 ダイヤ改正について]}} - JR東日本 2019年7月3日閲覧 p.4に「特急「北越」の運転を取り止めます」と記載。</ref>。 2024年3月16日に北陸新幹線の金沢駅 - [[敦賀駅]]間が開業することに伴い、京阪神や中京方面から北陸本線に乗り入れる「サンダーバード」「しらさぎ」は、並行在来線の第三セクター移管([[ハピラインふくい]]・IRいしかわ鉄道)と北陸新幹線に接続するアクセス特急に変わることから、敦賀駅 - 金沢駅間の運転を取り止め、敦賀駅までの運転に短縮される。また福井駅 - 金沢駅間の「ダイナスター」も廃止が予定されており{{efn|敦賀駅 - 金沢駅間に朝・夜にそれぞれ運行される「[[おはようエクスプレス・おやすみエクスプレス]]」も廃止が予定されている。}}、旧北陸本線のうち、敦賀駅から直江津駅までごく一部を除き、ほぼ全区間にわたり昼行特急が消滅することとなった{{efn|IRいしかわ鉄道を介して津幡駅から[[七尾線]]に乗り入れる「[[能登かがり火]]」については同日以降も運行が継続される予定。}}<ref>[https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1859735 金沢―敦賀間の特急サンダーバード、しらさぎ廃止を発表 JR西日本、敦賀駅で乗り換え必要に] - 福井新聞ONLINE 2023年8月31日</ref><ref>[https://trafficnews.jp/post/127848 特急「サンダーバード・しらさぎ」は「敦賀止まり」で新幹線と接続へ 「ダイナスター」は廃止 3月の北陸新幹線延伸で] - 乗りものニュース 2023年8月31日</ref>。 夜行列車としては急行「[[きたぐに (列車)|きたぐに]]」が大阪駅 - 新潟駅間に運転されていた。なお、夜行列車は「きたぐに」をのぞき、[[新津駅]]から羽越本線に入るため、新潟駅は経由していなかった。その他、夜行列車に限らず新潟県以北の羽越本線方面へ直通する特急列車で新潟駅を経由したのは「白鳥」のみであった<ref>『JTB時刻表』2001年2月号 pp.506-515(2001年2月1日発行)</ref>。 2010年3月12日までは定期夜行列車として急行「[[能登 (列車)|能登]]」が金沢駅 - 長岡駅間に運転されており(2010年3月13日のダイヤ改正で臨時列車に変更)、同区間は日本で複数の定期急行が重複して走る最後の区間となっていた。 東北本線に不通区間が生じた場合は、同線を経由する寝台特急「[[北斗星 (列車) |北斗星]]」・「[[カシオペア (列車) |カシオペア]]」が迂回して日本海縦貫線を経由することもあったが、これらの列車は[[北海道新幹線]]新青森駅 - [[新函館北斗駅]]間が開業する[[2016年]][[3月26日]]までに廃止されている。 貨物列車では[[札幌貨物ターミナル駅]]と[[福岡貨物ターミナル駅]]を結ぶ[[高速貨物列車]]が1往復あり(大阪以西は[[東海道本線|東海道]]・[[山陽本線|山陽]]・[[鹿児島本線]]経由)、これは貨物列車に限らず、日本国内最長距離を走る列車である<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道日本一(3) 国内最長定期列車は札幌発福岡行の貨物 |work=ひろやすの汽車旅コラム |publisher=日本旅行|url=https://www.nta.co.jp/jr/train/kishatabi/column/20180302.htm|accessdate=2019-07-02}}</ref>。また[[八戸貨物駅]]と[[百済貨物ターミナル駅]]の間には[[米]]輸送専用の貨物列車「[[全農号]]」が運行されており、日本海縦貫線沿線で生産された米を輸送している。 == 日本海縦貫線の使用車両 == 以下の各項目を参照。 * 東海道本線 ** JR京都線:[[JR京都線#現在の車両]]、[[JR京都線#優等列車]] ** 琵琶湖線:[[琵琶湖線#使用車両]] * 湖西線:[[湖西線#使用車両]] * 北陸本線:[[北陸本線#使用車両]] * IRいしかわ鉄道線:[[IRいしかわ鉄道線#使用車両]] * あいの風とやま鉄道線:[[あいの風とやま鉄道線#使用車両]] * 日本海ひすいライン:[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン#使用車両]] * 信越本線:[[信越本線#直江津駅 - 新潟駅間]] * 白新線:[[白新線#使用車両]] * 羽越本線:[[羽越本線#使用車両]] * 奥羽本線:[[奥羽本線#新庄駅 - 青森駅間]]、[[奥羽本線#秋田駅 - 青森駅間]] === 特急列車 === 大阪駅 - 青森駅間の特急列車の車両には一貫して[[国鉄485系電車|485系]]が使用されていたが、2017年3月7日ダイヤ改正時点では、すべてJR発足後に登場した特急車両となっている。大阪駅から津幡駅までは「サンダーバード」・「しらさぎ」などで[[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]]が見られるが、津幡駅以東直江津駅まで見られなくなり、直江津駅からは「しらゆき」・「いなほ」で[[JR東日本E653系電車|E653系]]、秋田駅からは「つがる」の[[JR東日本E751系電車|E751系]]が見られる。 <gallery> ファイル:JRW Series683-4000R.jpg|JR西日本所属の683系。大阪 - 津幡で見られる。 ファイル:Series-E653 1100.jpg|JR東日本所属のE653系1100番台。2015年3月より使用を開始し、直江津 - 新潟で見られる。 ファイル:Series-E653-1000-Limited.Express-Inaho.jpg|JR東日本所属のE653系1000番台。2013年9月より使用を開始し、新潟 - 秋田で見られる。 ファイル:JRE Series-E751 Tsugaru.jpg|JR東日本所属のE751系。秋田 - 青森で見られる。 </gallery> === 貨物牽引機関車 === 貨物列車の牽引機として交直両用機関車の[[JR貨物EF510形電気機関車|EF510形]]が岡山貨物ターミナル駅から青森駅・[[青森信号場]]までと東海道本線の京都駅 - 米原駅間、信越本線の新津駅 - 新潟駅間、白新線の新潟駅 - 新発田駅間で見られる。老朽化が激しい[[国鉄EF81形電気機関車|EF81形]]は[[2016年]]3月のダイヤ改正で定期運用から外れた。JR貨物においては本形式は全機が[[富山機関区]]に配置され、2016年現在で38両(1 - 23・501 - 515号機)が在籍し、0番台/500番台の区別はなく、共通運用である。 EF510形は日本海縦貫線の全区間で使用することを想定した形式で製作当初より日本海縦貫線に集中して投入され、当初は大阪貨物ターミナル - [[新潟貨物ターミナル駅|新潟貨物ターミナル]]間で運用されていたが、2007年3月ダイヤ改正では青森信号場まで、2012年3月ダイヤ改正では[[城東貨物線]]・[[おおさか東線]]を経由して百済貨物ターミナルまで、2015年3月ダイヤ改正で山陽本線に入線するようになり岡山貨物ターミナル駅まで、さらに2017年改正では米原から東海道線や名古屋臨海高速鉄道に入り、名古屋貨物ターミナルまで運用を拡大した。2013年度から貨物列車受託解消で余剰となった501 - 508・511号機をJR東日本から購入。2015年度から2016年度にかけて512 - 515号機、さらに[[カシオペア (列車)|カシオペア]]と同色であった509・510号機も購入し、JR東日本所属であった15両はすべてJR貨物に移り、JR東日本において本形式は消滅した。 [[高崎線]]・[[上越線]]経由で[[隅田川駅]] ・[[東京貨物ターミナル駅]] - [[南長岡駅]]・ [[新潟貨物ターミナル駅]]間を直通する貨物運用があるため、[[JR貨物EH200形電気機関車|EH200形]]が南長岡駅 - 新潟貨物ターミナル駅間で見られる。 2016年3月のダイヤ改正で秋田貨物駅 - 青森信号場間で[[JR貨物EH500形電気機関車|EH500形]]電気機関車の運用が開始された。 <gallery> JNR-EF81-30.jpg|かつての主力車両、EF81形 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{日本海縦貫線の列車}} {{rail-stub}} {{DEFAULTSORT:にほんかいしゆうかんせん}} [[Category:近畿地方の鉄道路線]] [[Category:中部地方の鉄道路線]] [[Category:東北地方の鉄道路線]] [[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:青森県の交通]] [[Category:秋田県の交通]] [[Category:山形県の交通]] [[Category:新潟県の交通]] [[Category:富山県の交通]] [[Category:石川県の交通]] [[Category:福井県の交通]] [[Category:滋賀県の交通]] [[Category:京都府の交通]] [[Category:大阪府の交通]] [[Category:北陸本線|*にほんかいしゆうかんせん]] [[Category:信越本線|*にほんかいしゆうかんせん]] [[Category:羽越本線|*にほんかいしゆうかんせん]] [[Category:奥羽本線|*にほんかいしゆうかんせん]]
2003-09-11T01:40:28Z
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16,174
司馬談
司馬 談(しば たん、? - 紀元前110年?)は、中国前漢時代の太史令。姓は司馬、名は談。『史記』の著者の司馬遷の父。『論六家要旨』の著者。 内史夏陽県竜門(現在の陝西省渭南市韓城市芝川鎮)の人。 黄老の学および天文・暦学に通達しており、紀元前140年に太史令となる。武帝の封禅の儀式(紀元前110年実施)の準備のために、太史令として封禅の仕方を研究したが、病のために封禅の儀式に結局参加できなかったことを悔やんで、子の司馬遷に託して死去した。また、歴史書を記そうという構想も持っていたが、着手できないまま、司馬談は亡くなり、その歴史書の構想は子の司馬遷に引き継がれた。 『史記』太史公自序や『漢書』司馬遷伝には、司馬談『論六家要旨』(『六家要旨』ともいう)が引用されている。『論六家要旨』は諸子百家の分類の草分けとして知られる。
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司馬 談は、中国前漢時代の太史令。姓は司馬、名は談。『史記』の著者の司馬遷の父。『論六家要旨』の著者。
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質問応答システム
質問応答システム(しつもんおうとうシステム、question answering system)は、自然言語の質問をユーザから自然言語で受けつけ、その解答を返すようなコンピュータソフトウェアのこと。質問応答(英語: question answering、略称:QA)といえば自然言語処理や情報検索における質問応答システムに関する研究分野を指す。解答は基本的に文章や単語の形式で答えることが多い。 質問応答の中で最も基本的なタイプであるFactoid型質問応答システムは、質問文に対して単語で答えるシステムのことを指す。例えば、「マイケルジャクソンは何と呼ばれていた?」という質問に対して「King of Pop」と答えるようなシステムのことである。システムが解答を得るため、検索エンジンや百科辞典などを用いたり、データベースを基にして検索を行うシステムもある。 Factoid型質問応答の基本的な処理の流れは、以下のようになる。 過去にはIBMが開発した質問応答システムであるワトソンがアメリカのクイズ番組「ジョパディ!」に解答者として挑戦し、人間の解答者に勝利するなど、実用段階に近づいている。 海外のサイトでは AskJeeves や Wolfram Alpha が知られている。
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質問応答システムは、自然言語の質問をユーザから自然言語で受けつけ、その解答を返すようなコンピュータソフトウェアのこと。質問応答といえば自然言語処理や情報検索における質問応答システムに関する研究分野を指す。解答は基本的に文章や単語の形式で答えることが多い。 質問応答の中で最も基本的なタイプであるFactoid型質問応答システムは、質問文に対して単語で答えるシステムのことを指す。例えば、「マイケルジャクソンは何と呼ばれていた?」という質問に対して「King of Pop」と答えるようなシステムのことである。システムが解答を得るため、検索エンジンや百科辞典などを用いたり、データベースを基にして検索を行うシステムもある。 Factoid型質問応答の基本的な処理の流れは、以下のようになる。 質問文分析(質問文を単語や節など、検索エンジンのクエリに変換する) 情報検索(ここではAND検索など通常のクエリを投げかけることが多い) 解答抽出(取得した文章から、解答部分を抽出する) 解答選択(解答をスコア順に並べ替え、表示する) 過去にはIBMが開発した質問応答システムであるワトソンがアメリカのクイズ番組「ジョパディ!」に解答者として挑戦し、人間の解答者に勝利するなど、実用段階に近づいている。 海外のサイトでは AskJeeves や Wolfram Alpha が知られている。
'''質問応答システム'''(しつもんおうとうシステム、question answering system)は、自然言語の質問をユーザから[[自然言語]]で受けつけ、その解答を返すようなコンピュータ[[ソフトウェア]]のこと。質問応答({{lang-en|question answering}}、略称:QA)といえば[[自然言語処理]]や[[情報検索]]における質問応答システムに関する研究分野を指す。解答は基本的に文章や単語の形式で答えることが多い。 質問応答の中で最も基本的なタイプである[[Factoid型質問応答システム]]は、質問文に対して単語で答えるシステムのことを指す。例えば、「マイケルジャクソンは何と呼ばれていた?」という質問に対して「King of Pop」と答えるようなシステムのことである。システムが解答を得るため、検索エンジンや百科辞典などを用いたり、データベースを基にして検索を行うシステムもある。 Factoid型質問応答の基本的な処理の流れは、以下のようになる。 #質問文分析(質問文を単語や節など、検索エンジンのクエリに変換する) #情報検索(ここではAND検索など通常のクエリを投げかけることが多い) #解答抽出(取得した文章から、解答部分を抽出する) #解答選択(解答をスコア順に並べ替え、表示する) 過去にはIBMが開発した質問応答システムである[[ワトソン_(コンピュータ)|ワトソン]]がアメリカのクイズ番組「[[ジェパディ!|ジョパディ!]]」に解答者として挑戦し、人間の解答者に勝利するなど、実用段階に近づいている。 海外のサイトでは [[Ask Jeeves|AskJeeves]] や [[Wolfram Alpha]] が知られている。 == 関連項目 == * [[Wolfram Alpha]] * [[ワトソン (コンピュータ)]] == 外部リンク == * [http://www.ask.com/ AskJeeves] * [http://www.wolframalpha.com/ Wolfram|Alpha] {{デフォルトソート:しつもんおうとうしすてむ}} [[Category:人工知能アプリケーション]] [[Category:自然言語処理]] [[Category:計算言語学]]
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ブランド
ブランド(銘柄、英: brand)とは、ある財・サービスを、他の同カテゴリーの財やサービスと区別するためのあらゆる概念。当該財サービス(それらに関してのあらゆる情報発信点を含む)と消費者の接触点(タッチポイントまたはコンタクトポイント)で接する当該財サービスのあらゆる角度からの情報と、それらを伝達するメディア特性、消費者の経験、意思思想なども加味され、結果として消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体。 それが現在のブランドの概念と言える。ブランドを冠して財やサービスを提供する側の意思を端的に表現するものとして、文字や図形で具体的に表現された商標を使用することが多い。広い意味では高級や低品質など関係無しに全ての商品やサービスに対してブランドと呼ぶ。 狭義としては高級品や一流品などを示す意味で使われる。ファッション分野では「ブランド物」や「DCブランド」と呼ばれたり、電化製品や一般消費財では一流メーカーの物を「メーカー品」と呼んだりする。 ブランドという単語は従来はマーケティング(マーケティング・コミュニケーション)の世界の用語であったが、地域自体やその名称をブランドと考える「地域ブランド」も近年提唱されており、その概念は広がりを見せている。著名な施設に名前を付ける権利が、期間を区切って取引契約される「ネーミングライツ」も21世紀の新現象である。 ブランドやマーケティング等を研究する学術団体については、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された。 ブランドは元々、牧場の所有者が自分の家畜などに焼印を施し、他者の家畜と区別するために行われた行為を表す北欧の言葉に由来していると言われている。商標法で保護されている「ブランド」も、同じような商品を見分けるために製造元が取り付けていた商標やマーク、タグ、デザインなどの付属物に過ぎない。しかし、その商品が優れていた結果広く使われるに従い、付属物が「商品が良質だ」「使い勝手が良い」等といった判断基準を消費者に連想させるような働きをするようになる。また、その製品やサービスが品質やコンプライアンスの面で社会的信用を失った場合はその逆もある。 商品を現すイメージを確立した後は、付属物自体(ブランド自体)が重要な意味を持つようになった。それが商品やサービスとは離れて、地域を越えて独り歩きする力を持つ場合もある。例えばTHXはルーカス・フィルムのAV音響の1部門として始まったが、そのブランド力の強さからスピンアウトし、後に外資企業含めて数回にわたる買収の対象となった。 一方、国の経済状況によっては、国家の関与によりブランド力が低下、消滅することがある。日本の例では、1939年、第二次世界大戦勃発に伴うインフレーション抑制を目的とした価格統制令(先立つ物価停止令)により公定価格が設定、製品によってブランド単位で価格が固定化された。その後、石鹸の例では1940年に、ビールの例では1943年に製品そのものの規格化や製造会社の統合が進み、戦後、生産体制が回復するまでブランドが消滅することとなった。 現代では、マーケティング分野におけるブランドの価値が注目されており、欧米における企業買収、合併に際して“ブランド価値”無形資産として高く評価されている(例:たばこ会社のフィリップモリスが食品会社クラフトを買収したときや、ネスレがイギリスの菓子メーカーを買収した際には、財務上の企業価値以上にブランド価値に対してプレミアムを加える形で巨額を支払った)。 ブランドとは「焼印をつけること」を意味する brander というノルウェーの古ノルド語から派生したものであるといわれている。古くから放牧している家畜に自らの所有物であることを示すために自製の焼印を押した。現在でも brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味がある。これから派生して「識別するためのしるし」という意味を持つようになった。「真新しい」という意味の英語 brand-new も「焼印を押したばかりの」という形容が原義である。日本でも紀文食品はその創業時、主力の蒲鉾やちくわに焼印を付けることで、商品の希少性、信頼性を認知させてきた(現在も一部の商品には「紀文」という焼印が押されている)。 このことから、他の売り手・売り手集団の製品・サービスを識別し、競合他社(他者)のものと差別化することを目的とした、名称、言葉、シンボル、デザイン及びそれらの組み合わせであるとされる。他社(他者)の製品・サービスより優れており、それを顧客に認識させることによって、企業等にとっては顧客の安心感を獲得でき、自有ブランドに「価値」が生まれる。 経済的に、ブランドの価値は超過収益力として表現される。他社とまったく同一の機能・性能を持つ商品を販売する場合、他社よりも高い値段を付けても売れるならそれはブランドの信用力に由来する価値である。他社よりも高くできた値段の差額が超過収益力となる。 イギリスで1980年代、サッチャー政権のときにブランド資産価値 (Brand Equity) が認められるようになった。 会計上ブランドの価値は、合併の際にのれんとして計上される。高いブランド価値を持つ企業は市場で評価されることで純資産以上の時価総額を持つことになるが、その差額がのれんである。ただし自社で勝ち取ったブランド力は客観的な経済価値を見積もることができないため、資産(自己創設のれん)として計上することは認められない。 多くの企業が何らかの形で自社のブランド戦略を持っているが、これらの企業を利用するユーザーの同意があって初めて「ブランド」として認知されるため、ブランドのコントロールは非常に困難な作業となる。これらは価格やデザイン、広告戦略、顧客対応など、企業がかかわる行動とステークホルダーすべての総和であるため、純粋な費用の投下だけでは達成し得ない。 ブランデッド・エンタテインメントとは、映画・ドラマ・音楽・スポーツなどのエンタテインメント・コンテンツの中に、違和感を覚えさせないで商品やブランドを溶け込ませるという広告宣伝の手法。近年アメリカで盛んに行われている。日本の広告業界でも2006年ぐらいから導入が具体的に検討されるようになった。 企業名そのものをブランド名とする場合が多いが、一つの企業が高級ブランドと生活に密着した普及品ブランドなど、複数のブランドを展開する場合もある。例えばトヨタ自動車では一般ブランドの「トヨタ」と、高級車ブランドの「レクサス」を展開している。 また、そのブランドにネガティブなイメージが存在する場合は、その打破を図ってブランドが変更されたり新規に追加されたりすることもある。トヨタ自動車の場合、2003年から2016年まで、北アメリカではトヨタ/レクサスに加えて若者向け(個性派)の「サイオン」も展開していたが、これは北米市場の性質上、若年層を取り込む必要性が高いことと、「高品質だけど退屈」というネガティブイメージが、トヨタ/レクサスで付いてしまったことが経緯として存在する。 また同じ製品でも、国家によってブランドが異なる場合もある。また、ソニーは「SONY」のアルファベット4文字がブランドイメージを担っている。 日本国内ではメルセデス・ベンツといえば高級車、フェラーリ、ポルシェといえば高級スポーツカーの代表的ブランドであるといった固定観念が他国から見ても非常に強く、そのこだわりは諸外国から見れば異常なほどでもある。 ただ、このような大手ブランドの安定性は、ネット社会の影響によりそれほど安定でない情況にある。一因として、ネット内の評判を株価に直結しやすい状況があるためであるが、ネット内情報は電子的に架空の複数発言を生成可能にするなどの誤魔化しも多いため、社会市民の判断の成熟も、真のブランドが育っているかのバロメータとなる。 日経BPコンサルティングは2000年代から「大学ブランド・イメージ調査」を毎年実施している。 シンボルマークやイメージカラーを持つところもある。大学と特定のスポーツメーカーが提携する例も出てきている(2011年にミズノと関西大学、2013年にアディダス ジャパンと青山学院大学、2016年にアシックスと早稲田大学、同年ドームと学校法人関東学院、ミズノと梅村学園)。 ファッションにおけるブランドは、個性がより求められるため、他業界よりも差別化の価値が高いとされており、いわゆる「ブランド戦略」が成り立ちやすい。高価格・高品質で、そのデザインやコンセプトが賞賛を浴びるプレステージブランドはその好例である。 またファッションでは商品の品質とは別に、「どこで買ったか」も重要な要素となる。そのため商品価格とブランド価値は必ずしも一致するとは限らない。例えば、質が同程度の商品がA店(低価格が売り)とB店(おしゃれなことで定評がある)で売っていれば、消費者はたとえ低所得層であってもB店を選ぶ傾向がある。「家電製品と衣類は違う」のである。結果として、品質が安物であっても宣伝などに成功すれば、人気が出て有名ブランドとなる事例もある(一例としてはターゲットとウォルマートがある)。 昨今のアパレル系企業においては、商業的な手法で次々とブランドを立ち上げ、売り上げ次第でいとも簡単にコンセプト変更・切り捨てが行われる手法が存在するのは、前述の事例とも無関係とはいえない。 ファストファッションブランドも含め、小売企業にとって東京・銀座に出店することは一つのステイタスであるともいわれる。 ブランドの人気度の指標として、紙袋も挙げられる。 人気とは世間の評判のことで、「人気ブランド」とは世間の評判の高いブランドのこと。 その一方、「人気のある高級ブランド」の意味で使われることがある。高級ブランドの多くは王族貴族など特権的地位にある人々が一品ものを高値で購入していたことからその価値が高まっていった。しかし、現代的な大衆化社会になるに従って、一般大衆に広く販売することが求められるようになってきた。大衆経済社会の波の下では従来の特権階級のためだけの存在であることは、企業存続できずに合併吸収されるか、あるいはブランドの死を意味することとなった。そのため、現代社会に生きながらえている「高級ブランド」という一群は、単に高級であるだけでなく、「広く大衆から高級であると認知されること」を自らが継続的に訴える努力をおこなうようになった。つまり、販売対象を実質的には大衆に拡大しながらも、貴族的価値観あるいは高額であることを納得させられるだけの理由など、「なぜ高級か」を説得するための価値観をブランドに込め、継続的に訴求するようになった。こうして大衆的な販売層に対して、高額商品でありながらも世間の憧れの的となりえたブランドも「人気高級ブランド」と呼ばれることがある。 人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のために陳腐化によるブランド価値の低下とのバランスをどのように図るかが課題となる。特に希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しい。そのため企業経営の安定を目的として、主要なブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を含めた総合的な戦略が採られることも多い。ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているのもグローバル経済となった現代的な特徴である。
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"paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "イギリスで1980年代、サッチャー政権のときにブランド資産価値 (Brand Equity) が認められるようになった。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "会計上ブランドの価値は、合併の際にのれんとして計上される。高いブランド価値を持つ企業は市場で評価されることで純資産以上の時価総額を持つことになるが、その差額がのれんである。ただし自社で勝ち取ったブランド力は客観的な経済価値を見積もることができないため、資産(自己創設のれん)として計上することは認められない。", "title": "意義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "多くの企業が何らかの形で自社のブランド戦略を持っているが、これらの企業を利用するユーザーの同意があって初めて「ブランド」として認知されるため、ブランドのコントロールは非常に困難な作業となる。これらは価格やデザイン、広告戦略、顧客対応など、企業がかかわる行動とステークホルダーすべての総和であるため、純粋な費用の投下だけでは達成し得ない。", "title": "ブランドの広告と定着" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ブランデッド・エンタテインメントとは、映画・ドラマ・音楽・スポーツなどのエンタテインメント・コンテンツの中に、違和感を覚えさせないで商品やブランドを溶け込ませるという広告宣伝の手法。近年アメリカで盛んに行われている。日本の広告業界でも2006年ぐらいから導入が具体的に検討されるようになった。", "title": "ブランドの広告の新しい形" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "企業名そのものをブランド名とする場合が多いが、一つの企業が高級ブランドと生活に密着した普及品ブランドなど、複数のブランドを展開する場合もある。例えばトヨタ自動車では一般ブランドの「トヨタ」と、高級車ブランドの「レクサス」を展開している。", "title": "企業のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、そのブランドにネガティブなイメージが存在する場合は、その打破を図ってブランドが変更されたり新規に追加されたりすることもある。トヨタ自動車の場合、2003年から2016年まで、北アメリカではトヨタ/レクサスに加えて若者向け(個性派)の「サイオン」も展開していたが、これは北米市場の性質上、若年層を取り込む必要性が高いことと、「高品質だけど退屈」というネガティブイメージが、トヨタ/レクサスで付いてしまったことが経緯として存在する。", "title": "企業のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また同じ製品でも、国家によってブランドが異なる場合もある。また、ソニーは「SONY」のアルファベット4文字がブランドイメージを担っている。", "title": "企業のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本国内ではメルセデス・ベンツといえば高級車、フェラーリ、ポルシェといえば高級スポーツカーの代表的ブランドであるといった固定観念が他国から見ても非常に強く、そのこだわりは諸外国から見れば異常なほどでもある。", "title": "企業のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただ、このような大手ブランドの安定性は、ネット社会の影響によりそれほど安定でない情況にある。一因として、ネット内の評判を株価に直結しやすい状況があるためであるが、ネット内情報は電子的に架空の複数発言を生成可能にするなどの誤魔化しも多いため、社会市民の判断の成熟も、真のブランドが育っているかのバロメータとなる。", "title": "企業のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日経BPコンサルティングは2000年代から「大学ブランド・イメージ調査」を毎年実施している。", "title": "学校のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "シンボルマークやイメージカラーを持つところもある。大学と特定のスポーツメーカーが提携する例も出てきている(2011年にミズノと関西大学、2013年にアディダス ジャパンと青山学院大学、2016年にアシックスと早稲田大学、同年ドームと学校法人関東学院、ミズノと梅村学園)。", "title": "学校のブランド戦略の一例" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ファッションにおけるブランドは、個性がより求められるため、他業界よりも差別化の価値が高いとされており、いわゆる「ブランド戦略」が成り立ちやすい。高価格・高品質で、そのデザインやコンセプトが賞賛を浴びるプレステージブランドはその好例である。", "title": "ファッション分野におけるブランド" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "またファッションでは商品の品質とは別に、「どこで買ったか」も重要な要素となる。そのため商品価格とブランド価値は必ずしも一致するとは限らない。例えば、質が同程度の商品がA店(低価格が売り)とB店(おしゃれなことで定評がある)で売っていれば、消費者はたとえ低所得層であってもB店を選ぶ傾向がある。「家電製品と衣類は違う」のである。結果として、品質が安物であっても宣伝などに成功すれば、人気が出て有名ブランドとなる事例もある(一例としてはターゲットとウォルマートがある)。", "title": "ファッション分野におけるブランド" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "昨今のアパレル系企業においては、商業的な手法で次々とブランドを立ち上げ、売り上げ次第でいとも簡単にコンセプト変更・切り捨てが行われる手法が存在するのは、前述の事例とも無関係とはいえない。", "title": "ファッション分野におけるブランド" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ファストファッションブランドも含め、小売企業にとって東京・銀座に出店することは一つのステイタスであるともいわれる。", "title": "ファッション分野におけるブランド" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ブランドの人気度の指標として、紙袋も挙げられる。", "title": "ファッション分野におけるブランド" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "人気とは世間の評判のことで、「人気ブランド」とは世間の評判の高いブランドのこと。", "title": "人気ブランド" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その一方、「人気のある高級ブランド」の意味で使われることがある。高級ブランドの多くは王族貴族など特権的地位にある人々が一品ものを高値で購入していたことからその価値が高まっていった。しかし、現代的な大衆化社会になるに従って、一般大衆に広く販売することが求められるようになってきた。大衆経済社会の波の下では従来の特権階級のためだけの存在であることは、企業存続できずに合併吸収されるか、あるいはブランドの死を意味することとなった。そのため、現代社会に生きながらえている「高級ブランド」という一群は、単に高級であるだけでなく、「広く大衆から高級であると認知されること」を自らが継続的に訴える努力をおこなうようになった。つまり、販売対象を実質的には大衆に拡大しながらも、貴族的価値観あるいは高額であることを納得させられるだけの理由など、「なぜ高級か」を説得するための価値観をブランドに込め、継続的に訴求するようになった。こうして大衆的な販売層に対して、高額商品でありながらも世間の憧れの的となりえたブランドも「人気高級ブランド」と呼ばれることがある。", "title": "人気ブランド" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のために陳腐化によるブランド価値の低下とのバランスをどのように図るかが課題となる。特に希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しい。そのため企業経営の安定を目的として、主要なブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を含めた総合的な戦略が採られることも多い。ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているのもグローバル経済となった現代的な特徴である。", "title": "人気ブランド" } ]
ブランドとは、ある財・サービスを、他の同カテゴリーの財やサービスと区別するためのあらゆる概念。当該財サービス(それらに関してのあらゆる情報発信点を含む)と消費者の接触点(タッチポイントまたはコンタクトポイント)で接する当該財サービスのあらゆる角度からの情報と、それらを伝達するメディア特性、消費者の経験、意思思想なども加味され、結果として消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体。 それが現在のブランドの概念と言える。ブランドを冠して財やサービスを提供する側の意思を端的に表現するものとして、文字や図形で具体的に表現された商標を使用することが多い。広い意味では高級や低品質など関係無しに全ての商品やサービスに対してブランドと呼ぶ。 狭義としては高級品や一流品などを示す意味で使われる。ファッション分野では「ブランド物」や「DCブランド」と呼ばれたり、電化製品や一般消費財では一流メーカーの物を「メーカー品」と呼んだりする。 ブランドという単語は従来はマーケティング(マーケティング・コミュニケーション)の世界の用語であったが、地域自体やその名称をブランドと考える「地域ブランド」も近年提唱されており、その概念は広がりを見せている。著名な施設に名前を付ける権利が、期間を区切って取引契約される「ネーミングライツ」も21世紀の新現象である。 ブランドやマーケティング等を研究する学術団体については、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された。
{{Otheruses||人名・固有名詞}} '''ブランド'''('''銘柄'''、{{lang-en-short|brand}})とは、ある[[財]]・[[サービス]]を、他の同[[カテゴリー]]の財やサービスと区別するためのあらゆる[[概念]]。当該財サービス(それらに関してのあらゆる情報発信点を含む)と[[消費者]]の接触点(タッチポイントまたはコンタクトポイント)で接する当該財サービスのあらゆる角度からの情報と、それらを伝達する[[メディア (媒体)|メディア]]特性、[[消費者]]の経験、意思思想なども加味され、結果として消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体。 それが現在のブランドの概念と言える。ブランドを冠して財やサービスを提供する側の意思を端的に表現するものとして、[[文字]]や[[図形]]で具体的に表現された[[商標]]を使用することが多い。広い意味では高級や低品質など関係無しに全ての商品やサービスに対してブランドと呼ぶ。 狭義としては高級品や一流品などを示す意味で使われる。[[ファッション]]分野では「ブランド物」や「[[DCブランド]]」と呼ばれたり、電化製品や一般消費財では一流メーカーの物を「メーカー品」と呼んだりする。 ブランドという単語は従来は[[マーケティング]]([[マーケティング・コミュニケーション]])の世界の用語であったが、地域自体やその名称をブランドと考える「[[地域ブランド]]」も近年提唱されており、その概念は広がりを見せている。著名な施設に名前を付ける権利が、期間を区切って取引契約される「[[ネーミングライツ]]」も21世紀の新現象である。 ブランドやマーケティング等を研究する学術団体については、1951年4月21日、[[日本商業学会]]が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された<ref name=hp>{{Cite web|和書|url=http://jsmd.jp/|title=学会HP|publisher=日本商業学会|date=|accessdate=2022-01-23}} 個人会員1,072名,賛助会員11社・団体,購読会員32件 (2019年7月現在)</ref>。 == 概要 == ブランドは元々、牧場の所有者が自分の[[家畜]]などに[[焼印]]を施し、他者の家畜と区別するために行われた行為を表す[[北欧]]の言葉に由来していると言われている。[[商標法]]で保護されている「ブランド」も、同じような商品を見分けるために製造元が取り付けていた商標やマーク、タグ、デザインなどの付属物に過ぎない。しかし、その商品が優れていた結果広く使われるに従い、付属物が「商品が良質だ」「使い勝手が良い」等といった判断基準を消費者に連想させるような働きをするようになる。また、その製品やサービスが品質や[[企業コンプライアンス|コンプライアンス]]の面で社会的信用を失った場合はその逆もある。 商品を現すイメージを確立した後は、付属物自体(ブランド自体)が重要な意味を持つようになった。それが商品やサービスとは離れて、地域を越えて独り歩きする力を持つ場合もある。例えば[[THX]]は[[ルーカス・フィルム]]の[[オーディオ・ビジュアル|AV]]音響の1部門として始まったが、そのブランド力の強さから[[スピンアウト]]し、後に外資企業含めて数回にわたる[[M&A|買収]]の対象となった。 一方、国の経済状況によっては、国家の関与によりブランド力が低下、消滅することがある。日本の例では、[[1939年]]、[[第二次世界大戦]]勃発に伴う[[インフレーション]]抑制を目的とした[[価格統制令]](先立つ物価停止令)により[[公定価格]]が設定、製品によってブランド単位で価格が固定化された。その後、[[石鹸]]の例では[[1940年]]<ref>石鹸業界における流通の変遷 : 石鹸業界の誕生から統制解除まで 宝子山 嘉一 2017年8月26日 {{NAID|110000554292}}</ref>に、[[ビール]]の例では[[1943年]]に製品そのものの規格化や製造会社の統合が進み、戦後、生産体制が回復するまでブランドが消滅することとなった<ref>[http://www.kirin.co.jp/entertainment/museum/history/kaisetsu/bk_05.html 戦時下、統制下におけるビール] キリンビール・ホームページ 2017年8月27日閲覧</ref>。 現代では、マーケティング分野におけるブランドの価値が注目されており、欧米における[[M&A|企業買収]]、合併に際して“ブランド価値”無形資産として高く評価されている(例:たばこ会社の[[フィリップモリス]]が食品会社[[クラフトフーヅ・インク|クラフト]]を買収したときや、[[ネスレ]]がイギリスの菓子メーカーを買収した際には、財務上の[[企業価値]]以上にブランド価値に対してプレミアムを加える形で巨額を支払った)。 == 原義とそこからの派生 == ブランドとは「[[焼印]]をつけること」を意味する brander という[[ノルウェー]]の[[古ノルド語]]から派生したものであるといわれている。古くから[[放牧]]している[[家畜]]に自らの所有物であることを示すために自製の焼印を押した。現在でも brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味がある。これから派生して「識別するためのしるし」という意味を持つようになった。「真新しい」という意味の英語 brand-new も「焼印を押したばかりの」という形容が[[wikt:原義|原義]]である。日本でも[[紀文食品]]はその創業時、主力の[[蒲鉾]]や[[竹輪|ちくわ]]に[[焼印]]を付けることで、商品の希少性、信頼性を認知させてきた(現在も一部の商品には「紀文」という焼印が押されている)。 このことから、他の売り手・売り手集団の製品・サービスを識別し、競合他社(他者)のものと差別化することを目的とした、名称、言葉、[[シンボル]]、[[デザイン]]及びそれらの組み合わせであるとされる。他社(他者)の製品・サービスより優れており、それを顧客に認識させることによって、企業等にとっては顧客の安心感を獲得でき、自有ブランドに「[[価値]]」が生まれる。 == 意義 == === 経済的意義 === 経済的に、ブランドの価値は超過収益力として表現される。他社とまったく同一の機能・性能を持つ商品を販売する場合、他社よりも高い値段を付けても売れるならそれはブランドの信用力に由来する価値である。他社よりも高くできた値段の差額が超過収益力となる。 === 会計上の扱い === [[イギリス]]で1980年代、[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]政権のときにブランド資産価値 (''Brand Equity'') が認められるようになった。 会計上ブランドの価値は、合併の際に[[のれん (会計)|のれん]]として計上される。高いブランド価値を持つ企業は[[市場]]で評価されることで純資産以上の時価総額を持つことになるが、その差額がのれんである。ただし自社で勝ち取ったブランド力は客観的な経済価値を見積もることができないため、資産(自己創設のれん)として計上することは認められない。 == ブランドの広告と定着 == 多くの企業が何らかの形で自社のブランド戦略を持っているが、これらの企業を利用する[[ユーザー]]の同意があって初めて「ブランド」として認知されるため、ブランドのコントロールは非常に困難な作業となる。これらは[[価格]]やデザイン、広告戦略、顧客対応など、企業がかかわる行動と[[ステークホルダー]]すべての総和であるため、純粋な費用の投下だけでは達成し得ない。 == ブランドの広告の新しい形 == === ブランデット・エンタテインメント === ブランデッド・エンタテインメントとは、映画・ドラマ・音楽・スポーツなどの[[エンタテインメント]]・[[コンテンツ]]の中に、違和感を覚えさせないで商品やブランドを溶け込ませるという[[広告]]宣伝の手法。近年[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で盛んに行われている。日本の広告業界でも2006年ぐらいから導入が具体的に検討されるようになった。 == 企業のブランド戦略の一例 == '''企業名そのものをブランド名とする場合が多い'''が、一つの企業が高級ブランドと生活に密着した普及品ブランドなど、複数のブランドを展開する場合もある。例えば[[トヨタ自動車]]では一般ブランドの「トヨタ」と、[[高級車]]ブランドの「[[レクサス]]」を展開している。 また、そのブランドにネガティブなイメージが存在する場合は、その打破を図ってブランドが変更されたり新規に追加されたりすることもある。トヨタ自動車の場合、2003年から2016年まで、[[北アメリカ]]ではトヨタ/レクサスに加えて若者向け(個性派)の「[[サイオン]]」も展開していたが、これは北米市場の性質上、若年層を取り込む必要性が高いことと、「高品質だけど退屈」というネガティブイメージが、トヨタ/レクサスで付いてしまったことが経緯として存在する。 また同じ製品でも、国家によってブランドが異なる場合もある。また、[[ソニー]]は「[[w:Sony|SONY]]」の[[アルファベット]]4文字がブランドイメージを担っている。 日本国内では[[メルセデス・ベンツ]]といえば[[高級車]]、[[フェラーリ]]、[[ポルシェ]]といえば高級[[スポーツカー]]の代表的ブランドであるといった[[固定観念]]が他国から見ても非常に強く、{{要出典範囲|date=2011年3月|そのこだわりは諸外国から見れば異常なほどでもある}}。 ただ、このような大手ブランドの安定性は、ネット社会の影響によりそれほど安定でない情況にある。一因として、ネット内の評判を株価に直結しやすい状況があるためであるが、ネット内情報は電子的に架空の複数発言を生成可能にするなどの誤魔化しも多いため、社会市民の判断の成熟も、真のブランドが育っているかのバロメータとなる。 == 学校のブランド戦略の一例 == 日経BPコンサルティングは2000年代から「大学ブランド・イメージ調査」を毎年実施している<ref>[https://consult.nikkeibp.co.jp/news/2015/1127ubj_2/ 大学ブランド力トップに東京大学が復活、第2位慶應義塾大学、第3位早稲田大学] - 日経BPコンサルティング、2015年11月27日</ref>。 シンボルマークやイメージカラーを持つところもある<ref>[http://consult.nikkeibp.co.jp/staffroom/archives/20140123_250/ 第3回:大学の「シンボルマーク」が担うブランドづくり]{{リンク切れ|date=2018年12月}} 日経BPコンサルティングスタッフルーム</ref>。大学と特定のスポーツメーカーが提携する例も出てきている(2011年に[[ミズノ]]と[[関西大学]]、2013年に[[アディダス|アディダス ジャパン]]と[[青山学院大学]]、2016年に[[アシックス]]と[[早稲田大学]]、同年[[ドーム (企業)|ドーム]]と[[学校法人関東学院]]<ref>[https://www.wwdjapan.com/fashion/2016/04/19/00020339.html ドームと関東学院大学が包括的提携 スポーツの発信力で教育環境を向上] WWD JAPAN.COM、2016年4月19日</ref>、ミズノと[[梅村学園]]<ref>[http://www.chukyo-u.ac.jp/news/2016/03/010490.html 梅村学園とミズノが連携協力協定を締結 スポーツキャラクター統一など諸事業推進] 中京大学、2016年3月</ref>)。 == ファッション分野におけるブランド == {{See also|ファッションブランド一覧}} [[ファッション]]におけるブランドは、[[個性]]がより求められるため、他業界よりも差別化の価値が高いとされており、いわゆる「ブランド戦略」が成り立ちやすい。高価格・高品質で、そのデザインやコンセプトが賞賛を浴びる'''プレステージブランド'''はその好例である。 またファッションでは商品の品質とは別に、「どこで買ったか」も重要な要素となる。そのため商品価格とブランド価値は必ずしも一致するとは限らない。例えば、質が同程度の商品がA店(低価格が売り)とB店(おしゃれなことで定評がある)で売っていれば、[[消費者]]はたとえ低所得層であってもB店を選ぶ傾向がある。「[[家電機器|家電製品]]と[[衣類]]は違う」のである。結果として、品質が安物であっても[[宣伝]]などに成功すれば、人気が出て'''有名ブランド'''となる事例もある(一例としては[[ターゲット (企業)|ターゲット]]と[[ウォルマート]]がある)<ref>『米ウォルマート、王座君臨への難題 弱点の「衣料品」分野でマーケティング力が必要に』 2008年2月29日配信 [[日経ビジネスオンライン]]</ref>。 昨今の[[アパレル産業|アパレル]]系企業においては、商業的な手法で次々とブランドを立ち上げ、売り上げ次第でいとも簡単にコンセプト変更・切り捨てが行われる手法が存在するのは、前述の事例とも無関係とはいえない。 [[ファストファッション|ファストファッションブランド]]も含め、小売企業にとって東京・[[銀座]]に出店することは一つのステイタスであるともいわれる<ref>[https://biz-journal.jp/2015/04/post_9457.html ニトリ、銀座進出の思惑 ユニクロ跡地へ出店加速か なぜ小売業は銀座を目指す?] ビジネスジャーナル、2015年4月2日</ref>。 ブランドの人気度の指標として、[[紙袋]]も挙げられる<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/42792/full/ ブランドの紙袋、人気は「アナスイ」と「シャネル」] [[ORICON STYLE]]、2007年3月12日</ref>。 == 人気ブランド == 人気とは世間の評判のことで、「人気ブランド」とは世間の評判の高いブランドのこと。 その一方、「人気のある高級ブランド」の意味で使われることがある。高級ブランドの多くは[[王族貴族]]など特権的地位にある人々が一品ものを高値で購入していたことからその価値が高まっていった。しかし、現代的な大衆化社会になるに従って、一般大衆に広く販売することが求められるようになってきた。大衆経済社会の波の下では従来の特権階級のためだけの存在であることは、企業存続できずに合併吸収されるか、あるいはブランドの死を意味することとなった。そのため、現代社会に生きながらえている「高級ブランド」という一群は、単に高級であるだけでなく、「広く大衆から高級であると認知されること」を自らが継続的に訴える努力をおこなうようになった。つまり、販売対象を実質的には大衆に拡大しながらも、貴族的価値観あるいは高額であることを納得させられるだけの理由など、「なぜ高級か」を説得するための価値観をブランドに込め、継続的に訴求するようになった。こうして大衆的な販売層に対して、高額商品でありながらも世間の憧れの的となりえたブランドも「人気高級ブランド」と呼ばれることがある。 人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のために[[陳腐化]]によるブランド価値の低下とのバランスをどのように図るかが課題となる。特に希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しい。そのため企業経営の安定を目的として、主要なブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を含めた総合的な戦略が採られることも多い。ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているのも[[世界経済|グローバル経済]]となった現代的な特徴である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commons category|Brands}} {{関連項目過剰|date=2019年5月|section=1}} === 経営 === * [[ブランディング]] * [[企業ブランディング]] * [[コーポレートアイデンティティ]] (CI) * [[ブランド・ポートフォリオ戦略]] * [[マーケティング・コミュニケーション]] * [[広告]] * [[ブランド拡張]] * [[メタフォリカルブランディング]] * [[のれん分け]] * [[ラベル]]([[レコードレーベル]]) * [[パーソナルブランド]]([[自分ブランド]]) * [[プライベートブランド]] * [[ブランド・コミュニティ]] === 学術 === * [[ブランド・ロイヤルティ]] * [[国家ブランド指数]] === 法律 === * [[商標]] * [[意匠権]] * [[コピー商品]] === ブランドマーク === * [[図像学]] * [[焼印]] * [[象徴]] * [[紋章]] * [[家紋]] * [[記号]] * [[シンボルマーク]] * [[ロゴタイプ]] {{商標法}} {{DEFAULTSORT:ふらんと}} [[Category:ブランド|*]] [[Category:知的財産権]] [[Category:商標法]] [[Category:シンボル]] [[Category:コミュニケーション・デザイン]] [[Category:模様]] [[Category:図]] [[Category:経営学]] [[Category:企業の文化]] [[Category:マーケティング]] [[Category:グラフィックデザイン]] [[Category:英語の語句]]
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市電
市電(しでん)とは、「市」を走っている路面電車の略称である。もともとは市営電車の略称で、市営(公営)の路面電車のことであると一般にいわれているが、市街電車・市内電車の略として市営以外、いわば民間企業が運営する路面電車について呼ぶことも多い。東京都電にしても、もともと東京市を走る市営の路面電車であったためにいまだ「市電」と呼ぶ層も多い。また、路面電車ではない市営の鉄道路線を市電と呼んでいた例もある(下記参照)。 大分交通別大線など、これら以外の路面電車や併用軌道の存在した鉄道については日本の路面電車一覧を参照。 1903年(明治36年)に開業した大阪市の大阪市電が日本初の市電である。開業した年次は京都市・名古屋市・東京市のほうが先となるが、これらは当初は民間会社として発足し、市営化されたのは大阪市電の開業よりもあととなる。最初から市営として開業した例は大阪市・仙台市・川崎市・熊本市のみで、他は民間会社を買収したものである。富山市も始まりは民営であったが、のちに市営化されて「市電」となった。しかし戦時体制下の1943年(昭和18年)に市電を富山地方鉄道に譲渡し、再民営化した。 順序は北・東から。民営だった期間を含む。なお馬車鉄道であった時期は除く。太字●表記は路線が現存する市電。 太字●表記は路線が現存する市電。 太字●表記は路線が現存する市電。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "市電(しでん)とは、「市」を走っている路面電車の略称である。もともとは市営電車の略称で、市営(公営)の路面電車のことであると一般にいわれているが、市街電車・市内電車の略として市営以外、いわば民間企業が運営する路面電車について呼ぶことも多い。東京都電にしても、もともと東京市を走る市営の路面電車であったためにいまだ「市電」と呼ぶ層も多い。また、路面電車ではない市営の鉄道路線を市電と呼んでいた例もある(下記参照)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大分交通別大線など、これら以外の路面電車や併用軌道の存在した鉄道については日本の路面電車一覧を参照。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1903年(明治36年)に開業した大阪市の大阪市電が日本初の市電である。開業した年次は京都市・名古屋市・東京市のほうが先となるが、これらは当初は民間会社として発足し、市営化されたのは大阪市電の開業よりもあととなる。最初から市営として開業した例は大阪市・仙台市・川崎市・熊本市のみで、他は民間会社を買収したものである。富山市も始まりは民営であったが、のちに市営化されて「市電」となった。しかし戦時体制下の1943年(昭和18年)に市電を富山地方鉄道に譲渡し、再民営化した。", "title": "日本の市電" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "順序は北・東から。民営だった期間を含む。なお馬車鉄道であった時期は除く。太字●表記は路線が現存する市電。", "title": "日本の市電" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "太字●表記は路線が現存する市電。", "title": "日本の市電" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "太字●表記は路線が現存する市電。", "title": "日本の市電" } ]
市電(しでん)とは、「市」を走っている路面電車の略称である。もともとは市営電車の略称で、市営(公営)の路面電車のことであると一般にいわれているが、市街電車・市内電車の略として市営以外、いわば民間企業が運営する路面電車について呼ぶことも多い。東京都電にしても、もともと東京市を走る市営の路面電車であったためにいまだ「市電」と呼ぶ層も多い。また、路面電車ではない市営の鉄道路線を市電と呼んでいた例もある(下記参照)。 大分交通別大線など、これら以外の路面電車や併用軌道の存在した鉄道については日本の路面電車一覧を参照。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2018年8月 | 独自研究 = 2018年8月 }} '''市電'''(しでん)とは、「[[市]]」を走っている[[路面電車]]の略称である。もともとは'''市営電車'''の略称で、[[公営交通|市営(公営)]]の路面電車のことであると一般にいわれているが、'''[[市街地|市街]]電車・市内電車'''の略として市営以外、いわば[[民間企業]]が運営する路面電車について呼ぶことも多い。[[東京都電車|東京都電]]にしても、もともと[[東京市]]を走る市営の路面電車であったためにいまだ「市電」と呼ぶ層も多い。また、路面電車ではない市営の[[鉄道路線]]を市電と呼んでいた例もある(下記参照)。 [[大分交通別大線]]など、これら以外の路面電車や[[併用軌道]]の存在した鉄道については[[日本の路面電車一覧]]を参照。 == 日本の市電 == [[1903年]]([[明治]]36年)に開業した[[大阪市]]の大阪市電が日本初の市電である。開業した年次は[[京都市]]・[[名古屋市]]・[[東京市]]のほうが先となるが、これらは当初は民間会社として発足し、市営化されたのは大阪市電の開業よりもあととなる。最初から市営として開業した例は大阪市・[[仙台市]]・[[川崎市]]・[[熊本市]]のみで、他は民間会社を買収したものである。[[富山市]]も始まりは民営であったが、のちに市営化されて「市電」となった。しかし[[戦時体制]]下の[[1943年]](昭和18年)に市電を[[富山地方鉄道]]に譲渡し、再民営化した。 === 市営路面電車 === 順序は北・東から。民営だった期間を含む。なお[[馬車鉄道]]であった時期は除く。太字●表記は路線が現存する市電。 * '''[[札幌市電]]'''●(1918年 - 、当初民営で1927年市営化、2020年上下分離により[[札幌市交通事業振興公社]]に移管) * '''[[函館市企業局交通部|函館市電]]'''●(1913年 - 、当初民営で1943年に市営化) * [[秋田市電]](1922年 - 1966年、当初民営で1941年に市営化) * [[仙台市電]](1926年 - 1976年、当初より市営) * '''[[東京都電車|東京市電]]'''●(1903年 - 、当初民営で1911年に市営化され、1942年に[[王子電気軌道]]と[[東京地下鉄道]]軌道線を買収。1943年に東京都発足で東京都電となり、1948年[[東急玉川線]]の一部、1951年[[西武鉄道]][[都電杉並線|新宿軌道線]]をそれぞれ買収。) * [[川崎市電]](1944年 - 1969年、当初より市営) * [[横浜市電]](1904年 - 1972年、当初民営で1921年に市営化) * '''[[富山地方鉄道富山軌道線|富山市電]]'''●(1913年 - 、当初民営で1920年市営化、1943年[[富山地方鉄道]]に譲渡) * [[名古屋市電]](1898年 - 1974年、当初民営で1922年に市が一部を買収、1936年[[中村電気軌道]]を買収。1937年に[[新三河鉄道]]・[[下之一色電車軌道]]・[[築地電軌]]を買収して全面市営化。) * [[京都市電]](1895年 - 1978年、当初民営で1912年に市営路線開業、1918年に[[京都電気鉄道]]を買収して全面市営化。) * [[大阪市電]](1903年 - 1969年、当初より市営。1944年[[阪堺電鉄]]を買収。) * [[神戸市電]](1910年 - 1971年、当初民営で1917年に市営化) * [[呉市電]](1909年 - 1967年、当初民営で1942年に市営化) * [[北九州市交通局#軌道事業(廃止)|北九州市電]](1936年 - 1975年、当初より市営、貨物専業) * '''[[熊本市交通局|熊本市電]]'''●(1924年 - 、当初より市営。1945年熊本電気軌道を買収。) * '''[[鹿児島市交通局|鹿児島市電]]'''●(1912年 - 、当初民営で1928年に市営化) === 市営鉄道路線 === 太字●表記は路線が現存する市電。 * [[玉野市営電気鉄道]](1953年 - 1972年、当初民営で1956年に市営化。1964年以降[[気動車]]を導入して電車の運行を取りやめ) * [[荒尾市営電気鉄道]](1949年 - 1964年、当初より市営) <!--* '''[[倉敷市交通局|倉敷市営鉄道]]'''●(1943年 - 、当初民営で1952年に市営化、1970年に[[第三セクター]]化。電化実績はなく「市電」ではない)--> === 民営路面電車で市電と呼ばれる(呼ばれた)事があるもの === 太字●表記は路線が現存する市電。 * [[旭川市街軌道]](北海道旭川市、1929年 - 1956年) * [[福島交通飯坂東線]](福島県福島市、1926年 - 1971年) * [[新潟交通電車線]](新潟県新潟市中央区・西区・南区・西蒲区・燕市、1933年 - 1992年) * '''[[富山地方鉄道富山軌道線]]'''●(富山県富山市、1943年 - ) * '''[[万葉線]]'''●(富山県高岡市・射水市、1948年 - 。1959年に富山地方鉄道から[[加越能鉄道]]へ譲渡し、2002年に第三セクターの運営となる) * [[北陸鉄道金沢市内線]](石川県金沢市、1919年 - 1967年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanazawa-museum.jp/minzoku/kanazawa/03before.html|title=ちょっと昔の金沢|publisher=金沢くらしの博物館|accessdate=2021-12-20}}</ref> * '''[[福井鉄道福武線]]'''●(福井県福井市・鯖江市・武生市、1924年 - ) * [[箱根登山鉄道小田原市内線]](神奈川県小田原市、1900年 - 1956年) * [[静岡鉄道清水市内線]](静岡県静岡市清水区、1928年 - 1975年) * [[静岡鉄道静岡市内線]](静岡県静岡市、1922年 - 1962年) * [[松本電気鉄道浅間線]](長野県松本市、1924年 - 1964年) * '''[[豊橋鉄道東田本線]]'''●(愛知県豊橋市、1925年 - )<ref>[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/pdf/Part29_H26/H26_ippan_06.pdf 豊橋の路面電車(愛称「市電」)を活かしたまちづくり] - 国土交通省大臣表彰 手づくり郷土賞 Part29(平成26年度)</ref> * '''[[富山地方鉄道富山港線]]'''●(富山県富山市、2006年 - ) * [[名鉄岡崎市内線]](愛知県岡崎市、1912年 - 1962年) * [[名鉄岐阜市内線]]他(岐阜県岐阜市、1911年 - 2005年) * [[桑名電軌]](三重県桑名市、1927年 - 1944年) * [[三重交通神都線]](三重県伊勢市、1903年 - 1961年) * [[南海和歌山軌道線]](和歌山県和歌山市1909年 - 1971年) * '''[[岡山電気軌道]]'''●(岡山県岡山市北区、1912年 - ) * '''[[広島電鉄]]市内線'''●(広島県広島市、1912年 - )<ref>{{Cite news |title=2位は「広電」路面電車をどう呼ぶかアンケート 6月10日は「路面電車の日」 |newspaper=中国新聞 |date=2023-06-09 |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/317171 |access-date=2023-06-12 |quote=最も多かったのは「市電」の45%だった。「広電」の37%が続き「チンチン電車」が16%。}}</ref> * [[岩国電気軌道|山口県営軌道]](山口県岩国市、1909年 - 1929年) * [[山陽電気軌道]](山口県下関市、1926年 - 1971年) * [[高松琴平電気鉄道市内線]](香川県高松市、1917年 - 1945年) * '''[[伊予鉄道]]松山市内線'''●(愛媛県松山市、1907年 - ) * '''[[とさでん交通]]'''●(高知県高知市・南国市・吾川郡いの町、1904年 - ) * [[西鉄北九州線]]他(福岡県北九州市門司区・小倉北区・戸畑区・八幡東区・八幡西区、1906年 - 2000年。一部区間は2000年に軌道線から鉄道線に転換のうえ、'''[[筑豊電気鉄道線]]'''●として存続) * [[西鉄福岡市内線]](福岡県福岡市、1910年 - 1979年) * [[西鉄大牟田市内線]](福岡県大牟田市、1927年 - 1954年) * '''[[長崎電気軌道]]'''●(長崎県長崎市、1915年 - ) * [[沖縄電気]](沖縄県那覇市、1914年 - 1933年) etc.<!--列挙すれば路面電車と同じになる恐れもあり--> == ヨーロッパの市電 == === ドイツ === * [[ブレーメン市電]] * [[ベルリン市電]] * [[ナウムブルク市電]] * [[ライプツィヒ市電]] === オーストリア === * [[ウィーン市電]] === ノルウェー === * [[トロンハイム市電]] === ハンガリー === * [[ブダペスト市電]] === チェコ === * [[プラハ市電]] === ウクライナ === * [[キエフ市電]] == 出典 == {{Reflist}} {{デフォルトソート:してん}} [[Category:日本の路面電車]] [[Category:日本の鉄道路線]]<!--鉄道路線でも「市電」があるため--> [[Category:地方公営企業|*してん]]
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古着
古着(ふるぎ、こぎ)とは、過去に着用されたことのある衣服。個々の衣類を指すほか、服飾品が回収され、古着業者により分別や選別がなされて製品化され、再び市場に出回る物の総称としても使われる。古手とも。 衣服の再利用は古くからあった。繊維製品が貴重な時代には、衣服は最終的には布に還元され、古布として再び衣服や他の布製品に加工して再利用された。ぼろ布や「つぎ」「はぎ」などが為された物を含めた古着が、後に民俗学や美術面で価値が認められて収集対象となったこともある(アミューズミュージアムなど)。 日本では近世に古着問屋が発達。着物から洋服へと服飾文化が大きく変わった現代でもそのマーケットは大きく、世界中からバイヤーを通じて様々な古着が輸入、または輸出されている。主な輸入先はアメリカ合衆国である。 アメリカでは19世紀末以来、救世軍などの慈善団体が寄付された古着を分配したり、販売してその利益を活動資金に充当したりしている。 第二次世界大戦後の日本では、物資の欠乏が著しい状態となったため、アメリカから大量の古着が1950年だけでも約80万点を輸入された。古着輸入の窓口は通商産業省が行い、品薄感を緩和させるために衣料業者を通じて放出されたが、放出された古着の引き合いは強く、価格も放出価格の2倍以上に上昇。価格上昇へのけん制を図るため、京浜デパートを通じて原価で市販も行われた。 代表的な古着にはジーンズが挙げられる。古着のジーンズは価格帯が非常に広く、安いものは百円単位から、ヴィンテージと呼ばれる高額品では100万円以上となる。色落ち・くたびれ具合、ステッチの形など、様々な要素によって価格が変化し、貴重な物であればあるほど高い値が付く。 近年では革製品の古着や、元々ブランド品であった物の古着などがよく出回っており、新品の市場価格の1割~3割程度で購入できる。また、中にはアウトレット品やデッドストックといった新古品を多く扱っている古着商も見受けられる。 しかし、衛生的な問題から西アフリカのガーナなど、古着の販売を禁止する国もある。 多くの古着は輸出され、寄付だけでなく転売という形を通してアジアやアフリカの低所得国に流れている。ここには送られた古着が現地のニーズに合わなかったり、供給側の利益ばかりが追い求められている問題がある。さらに高所得国での衣類の大量生産・大量消費のサイクルは古着産業としての問題にとどまらず、環境問題にも繋がっている。 ジーンズに限らず、スウェットなど、古着に魅力を感じる人間は多い。一方で一頃のブームも落ち着き、市場規模は比較的安定していると言われる。 しかし、ファストファッションと呼ばれる低価格衣料チェーン店が台頭して以来、古着は世界的に供給過剰となる傾向にある。 2016年時点で、世界の古着輸出は437万トン、約4000億円の規模がある(国際連合の統計)。ヴィンテージでなく安価な日用品としては、欧米諸国や日本などから輸出され、パキスタンのほか、ケニアなどアフリカ諸国が多く輸入している。仕分け地としてはアラブ首長国連邦(UAE)などが知られる。タイ王国をはじめとする東南アジア諸国のように、経済発展に伴いヴィンテージ古着の購入者が増える国もある。 女性による古着ファッションも市場に定着しつつある。。 など。
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古着(ふるぎ、こぎ)とは、過去に着用されたことのある衣服。個々の衣類を指すほか、服飾品が回収され、古着業者により分別や選別がなされて製品化され、再び市場に出回る物の総称としても使われる。古手とも。
{{出典の明記|date=2017年2月13日 (月) 02:39 (UTC)}} '''古着'''(ふるぎ、こぎ)とは、過去に着用されたことのある[[被服|衣服]]。個々の衣類を指すほか、[[服飾品]]が回収され、古着業者により分別や選別がなされて製品化され、再び市場に出回る物の総称としても使われる。古手とも。 == 概要 == 衣服の再利用は古くからあった。[[繊維]]製品が貴重な時代には、衣服は最終的には[[布]]に還元され、古布として再び衣服や他の布製品に加工して再利用された。ぼろ布や「つぎ」「はぎ」などが為された物を含めた古着が、後に民俗学や美術面で価値が認められて収集対象となったこともある([[アミューズミュージアム]]など)。 日本では近世に古着問屋が発達。着物から洋服へと服飾文化が大きく変わった現代でもそのマーケットは大きく、世界中からバイヤーを通じて様々な古着が[[輸入#並行輸入|輸入]]、または輸出されている。主な輸入先は[[アメリカ合衆国]]である。 アメリカでは19世紀末以来、[[救世軍]]などの[[慈善団体]]が寄付された古着を分配したり、販売してその利益を活動資金に充当したりしている<ref name="Bauman">エリザベス・L・クライン 『ファストファッション:クローゼットの中の憂鬱』 鈴木素子訳 春秋社 2014年 ISBN 978-4-393-33332-7 pp.164-177.</ref>。 [[第二次世界大戦]]後の日本では、物資の欠乏が著しい状態となったため、アメリカから大量の古着が1950年だけでも約80万点を輸入された。古着輸入の窓口は[[通商産業省]]が行い、品薄感を緩和させるために衣料業者を通じて放出されたが、放出された古着の引き合いは強く、価格も放出価格の2倍以上に上昇。価格上昇へのけん制を図るため、[[京急ストア|京浜デパート]]を通じて原価で市販も行われた<ref>「放出衣料を原価で売出し」『日本経済新聞』昭和25年11月19日2面</ref>。 代表的な古着には[[ジーンズ]]が挙げられる。古着のジーンズは価格帯が非常に広く、安いものは百円単位から、[[ヴィンテージ#派生語|ヴィンテージ]]と呼ばれる高額品では100万円以上となる。色落ち・くたびれ具合、[[ステッチ]]の形など、様々な要素によって価格が変化し、貴重な物であればあるほど高い値が付く。 近年では革製品の古着や、元々[[ブランド]]品であった物の古着などがよく出回っており、新品の市場価格の1割~3割程度で購入できる。また、中には[[アウトレットモール|アウトレット]]品や[[デッドストック]]といった新古品を多く扱っている古着商も見受けられる。 しかし、衛生的な問題から[[西アフリカ]]の[[ガーナ]]など、古着の販売を禁止する国もある<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2777055?pid=6529997 ガーナ、中古下着の輸入販売禁止へ 衛生面の懸念で]</ref>。 多くの古着は輸出され、寄付だけでなく転売という形を通してアジアやアフリカの低所得国に流れている。ここには送られた古着が現地のニーズに合わなかったり、供給側の利益ばかりが追い求められている問題がある。さらに高所得国での衣類の大量生産・大量消費のサイクルは古着産業としての問題にとどまらず、環境問題にも繋がっている<ref>{{Cite web|和書|title=古着の寄付の裏側:アフリカでの現状とは?|url=https://globalnewsview.org/archives/10263|website=GNV|date=2019-08-29|accessdate=2021-10-15|language=ja}}</ref>。 ジーンズに限らず、スウェットなど、古着に魅力を感じる人間は多い。一方で一頃のブームも落ち着き、市場規模は比較的安定していると言われる。 しかし、[[ファストファッション]]と呼ばれる低価格衣料チェーン店が台頭して以来、古着は世界的に供給過剰となる傾向にある<ref name="Bauman"/>。 2016年時点で、世界の古着輸出は437万トン、約4000億円の規模がある([[国際連合]]の統計)。ヴィンテージでなく安価な日用品としては、欧米諸国や日本などから輸出され、[[パキスタン]]のほか、[[ケニア]]などアフリカ諸国が多く輸入している。仕分け地としては[[アラブ首長国連邦]](UAE)などが知られる。[[タイ王国]]をはじめとする[[東南アジア]]諸国のように、経済発展に伴いヴィンテージ古着の購入者が増える国もある<ref>[https://globe.asahi.com/article/11989591 浅倉拓也「古着はどこへ行く」]『[[朝日新聞グローブ|朝日新聞GLOBE]]』2018年12月号(2019年4月6日閲覧)。</ref>。 女性による古着ファッションも市場に定着しつつある。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsukuba-rainbow.com/blog/coordinate|title=「古着コーディネート集!東京・下北にある古着屋RAINBOWの、古着女子必見の古着ファッションコーディネートスナップ毎日更新中☆」|website=古着屋RAINBOW|publisher=|date=|accessdate=2023-02-18}}</ref>。 == 日本における主な古着のマーケット == === 東京都内 === * [[高円寺]] * [[下北沢]] * [[原宿]] * [[中目黒]] * [[町田]] * [[渋谷]]周辺 など。 === 東京以外 === * [[神奈川県]] - [[横浜駅]]周辺 * [[大阪府]]-[[アメリカ村]] * [[兵庫県]]-[[元町 (神戸市)|元町]] * [[愛知県]]-[[大須 (名古屋市)|大須]] * [[福岡県]]-[[大名 (福岡市)]] ==脚注・出典== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[裂織]] * [[ファッション]] * [[古物商]] {{DEFAULTSORT:ふるき}} [[Category:衣類]] [[Category:廃棄物収集]] [[Category:リサイクル]] [[Category:小売業]] [[Category:ファッション・デザイン]] [[da:Genbrugsbutik]] [[de:Secondhandladen]] [[hu:Adománybolt]] [[it:Mercatino dell'usato]] [[ko:자선 가게]] [[ksh:Altreusheräj]] [[nl:Kringloopcentrum]] [[pt:Brechó]] [[ru:Благотворительный магазин]] [[uk:Благодійний магазин]]
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福井晴敏
福井 晴敏(ふくい はるとし、1968年11月15日 - )は、日本の小説家。 東京都墨田区生まれ。私立高輪高等学校卒業、千葉商科大学商経学部経済学科中退。 メディア関連などでは一貫して一人称を「俺」としている。 福井本人は2021年において、自身を「アニメ作家」であると発言している。詳しくは後述。 大学中退後、警備員として働きながら小説の執筆を進める。ただしこれは、あまりにも暇な警備員生活で何か面白いことはないかと考えて書き始めただけのもので、当初は小説家になるつもりは全くなかったという。最初に書いた小説は原稿用紙5,000枚を超える大作で、本人は「たかが7人程度が面白いと言ったからといって、それで小説家になれるわけではないのに、おだてられて結局出版社に小説を送ってみようと思った」と語っている。 第一作『川の深さは』が第43回江戸川乱歩賞選考委員会で大きな話題となり、当時選考委員だった大沢在昌が特に絶賛して注目を集めたが、惜しくも落選(この年の受賞作は野沢尚の『破線のマリス』)。翌1998年、『Twelve Y. O.』で第44回江戸川乱歩賞を受賞した。この作品は、単作品として評価されるべき同賞への応募であるにもかかわらず、あえて前年度の『川の深さは』の続編として書かれている(ただし、『川の深さは』との関連は舞台設定程度)。これは、前年の『川の深さは』に対する大沢在昌の論評が「翌年も待っている」という趣旨であったためとも考えられる(この後福井と大沢の付き合いは続いており、福井は大沢の著作「標的走路」にサインを求めたこともあるという)。 その後『亡国のイージス』で第53回日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞と、2000年の大藪春彦賞を受賞、直木賞候補ともなった。2003年、『終戦のローレライ』で第23回吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会大賞を受賞した。2005年には『ローレライ』として『終戦のローレライ』が、続いて『戦国自衛隊1549』、『亡国のイージス』が相次いで映画化されこの3本が福井の代名詞となった。また、初の短編集『6ステイン』が直木賞候補になる。 お気に入りの映画は、『日本沈没』『新幹線大爆破』『太陽を盗んだ男』で、これは映画『ローレライ』の監督である樋口真嗣と一致している。 後述するガンダム作品を新規に書き下ろし、その中の一作である『機動戦士ガンダムUC』のアニメ化においてもスタッフとして深く関与して以降、アニメ作品のストーリー構成を担当する事が多くなっている。 2021年に公開された『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』におけるインタビューなどで、この点について問われた際には下記のような理由があると答えている。 また自分の好みや向き不向き以外に、21世紀初頭における小説業界の状況について一家言あり「文芸界の話題やニュースが、世間には1mmも届いていないし、伝わってもいない(状況だと認識しているので)小説家として、小説で世間に発信できることは少ないと実感してしまった」とのコメントもしている。 ※ この節の出典→ 『亡国のイージス』は、単行本で2段組、654ページ。文庫版は、上・下巻500ページを超える。『終戦のローレライ』も文庫版では全4冊にもなる。しかし福井本人は、分厚いと読者が手に取るのに抵抗があるので、短く書くことができれば、と思っているようである。 作中頻繁に登場する「DAIS(ダイス)」こと防衛庁情報局(ディフェンス・エージェンシー・インフォメーション・サービス)なる秘密組織は、実際には存在しない(防衛庁情報本部は実在する)。この組織は処女作『川の深さは』に初登場し、『Twelve Y. O.』『亡国のイージス』『6ステイン』『C-blossom』『op.ローズダスト』『人類資金』にも登場している。同様に福井作品お馴染みのものとして「GUSOH」という架空の兵器がある。また、ストーリーはいわゆるバディものが多い。 また、『亡国のイージス』や『戦国自衛隊1549』など、ほとんどの作品は自衛隊に関する専門用語が満載された小説である。このことについて福井自身は2005年に以下のようなことを語っている。 文体は堅く、ストーリーもハードな作風が多い。しかし作者自身は「ばかばかしい文体でおふざけの凄い作品を書きたいという思いが強すぎて、真面目な自分とふざけた自分に多重人格化している」と発言しており、エッセイなどではかなりフランクな表現が目立つ。 雑誌などで福井について取り上げられるとき、「大の『機動戦士ガンダム』ファン」「自他共に認めるガンダムマニア」などと書かれることがあるが、正確には「ガンダム」シリーズではなく、これらの多くを手がけた作家富野由悠季のファンであり、富野のインタビュー本の解説を書いたこともある。2人の関係は、出世作『Twelve Y. O.』が受賞した際に福井が富野にそれを献本したことから始まっており、「富野さんが言いたいことを小説で書くとこういうことだろう」というメッセージが込められていたようである。福井はNHKの番組『トップランナー』に出演した際も、富野への尊敬の意を表した。福井は初代ガンダムのブームの際に、テレビアニメでも当時大ヒットしていた総集編の映画でもなく、まず富野の書いた小説を読んで「富野ワールドに触れ、魅了された」と語っている。ちなみに、福井が富野アニメの中で一番好きなものは『伝説巨神イデオン』であり、小説で最も好きなものは『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』であるという。一方、富野自身は福井の結婚式の仲人を務めている。 福井は富野作品のノベライズもしており、それが『ターンエーガンダム』(改題『月に繭 地には果実』)である。これは福井自身「気合を入れて書いた本」であり、お気に入りのひとつだという。 また、単なる富野ファンに留まらず、自身の作品にも富野の演出方法を取り入れている。富野についてのムック本『富野由悠季 全仕事』によれば、デビュー前に自身の作品の人間ドラマの目標として、『閃光のハサウェイ』を意識していたという。 さらには、矢立肇、富野由悠季を原案とする小説『機動戦士ガンダムUC』を『ガンダムエース』で2007年から2009年にかけて連載した。これについては「俺がやらずに誰がやる」という心境であったらしい。同作を原作に、2010年から2014年にかけてOVA化され、順次劇場でイベント上映もされた。このアニメ版には、小説『UC』の著者である福井もシリーズ構成として参加している。 福井はインタビューにおいて、宇宙世紀作品では避けて通れないと言えるニュータイプ論に対する自身による解答と、『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』のラストメッセージに対する答えを出すことが、作品のメインテーマであると語っている。 その後も、漫画『機動戦士ムーンガンダム』のストーリー、アニメ映画『機動戦士ガンダムNT』の脚本を手がけている。 ほか、皆川ゆか『評伝 シャア・アズナブル』のコメントの中で、「龍馬にではなくシャアに学べ」や、シャアという人物を「自意識過剰でマザコン」「自分しか愛せなかった男」と評し、反面教師としなければならないと語っている。『電撃ホビーマガジン』では「フクイ軍曹の目指せ!トップガン!」で「フクイ軍曹」として登場し、ガンダムシリーズに登場するモビルスーツやモビルアーマーなどの兵器に乗っている。 これら2作品は「DAIS(ダイス)」の原型のような組織や、他作品中で語られている「920」という工作員が主役として登場している。『敗者達〜』は、福井曰く「福井晴敏のネタ帳」「書ききっていたら創作活動をやめていたかもしれない」らしい(『HOW TO BUILD 福井晴敏』 幻冬舎より)。ちなみに『敗者達の黙示録』は『HOW TO BUILD 福井晴敏』にダイジェスト版が掲載されている。
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福井 晴敏は、日本の小説家。 東京都墨田区生まれ。私立高輪高等学校卒業、千葉商科大学商経学部経済学科中退。 メディア関連などでは一貫して一人称を「俺」としている。 福井本人は2021年において、自身を「アニメ作家」であると発言している。詳しくは後述。
{{存命人物の出典明記|date=2013年1月29日 (火) 11:59 (UTC)}} {{Infobox 作家 | name = 福井 晴敏<br />(ふくい はるとし) | birth_date = {{生年月日と年齢|1968|11|15}} | birth_place = [[東京都]][[墨田区]] | death_date = | death_place = | occupation = [[小説家]] | nationality = {{JPN}} | period = | genre = | subject = | movement = | notable_works = 『[[Twelve Y. 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O.]]』で第44回[[江戸川乱歩賞]]を受賞した。この作品は、単作品として評価されるべき同賞への応募であるにもかかわらず、あえて前年度の『川の深さは』の続編として書かれている(ただし、『川の深さは』との関連は舞台設定程度)。これは、前年の『川の深さは』に対する大沢在昌の論評が「翌年も待っている」という趣旨であったためとも考えられる(この後福井と大沢の付き合いは続いており、福井は大沢の著作「[[標的走路]]」にサインを求めたこともあるという)。 その後『[[亡国のイージス]]』で第53回[[日本推理作家協会賞]]、[[日本冒険小説協会大賞]]と、[[2000年]]の[[大藪春彦賞]]を受賞、[[直木三十五賞|直木賞]]候補ともなった。[[2003年]]、『[[終戦のローレライ]]』で第23回[[吉川英治文学新人賞]]、日本冒険小説協会大賞を受賞した。[[2005年]]には『[[ローレライ (映画)|ローレライ]]』として『終戦のローレライ』が、続いて『[[戦国自衛隊1549]]』、『亡国のイージス』が相次いで映画化されこの3本が福井の代名詞となった。また、初の短編集『6ステイン』が直木賞候補になる。 お気に入りの映画は、『日本沈没』『[[新幹線大爆破]]』『[[太陽を盗んだ男]]』で、これは映画『ローレライ』の[[映画監督|監督]]である[[樋口真嗣]]と一致している。 ==== アニメーションスタッフとしての活動 ==== ※ この節の出典→<ref name="flash199367" /> 後述するガンダム作品を新規に書き下ろし、その中の一作である『[[機動戦士ガンダムUC]]』のアニメ化においてもスタッフとして深く関与して以降、アニメ作品のストーリー構成を担当する事が多くなっている。 2021年に公開された『[[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち]]』におけるインタビューなどで、この点について問われた際には下記のような理由があると答えている。 *(後述するように福井は富野由悠季の小説にインスパイアされた事が小説を書き始めたキッカケだったこともあり)小説(を書くこと)自体がすごい好きという程では無く「小説と心中してもいいくらいの熱意は無かった」(本人談。以下同様) * 30代以降から、「自分の小説は(詰まるところ小説を書く事よりは好きな)映画で描きたいことをどう文芸的に構築していくかという作業をしていた」事に気付いた。 *(自身の原作による)実写映画は素材だけの提供に留まってしまったこともあり、細部のコントロールは現場スタッフに<!--原文の意訳ここから-->委ねられており自分が本来意図した想いと細部が異なっても正すのが難しい<!--原文の意訳ここまで-->が、(自分の携わった)アニメではそういった点も全部(自分の思った通りに)コントロールできる(のが良い)。 *「一人で深い穴を掘り続けるように小説を書くよりも、みんなで深い穴を掘るというアニメの制作スタイルが自分の性に合っていた」とのコメントもある。 また自分の好みや向き不向き以外に、21世紀初頭における小説業界の状況について一家言あり「文芸界の話題やニュースが、世間には1mmも届いていないし、伝わってもいない(状況だと認識しているので)小説家として、小説で世間に発信できることは少ないと実感してしまった」とのコメントもしている。 == 作品 == 『[[亡国のイージス]]』は、[[単行本]]で2段組、654ページ。[[文庫本|文庫]]版は、上・下巻500ページを超える。『終戦のローレライ』も文庫版では全4冊にもなる。しかし福井本人は、分厚いと読者が手に取るのに抵抗があるので、短く書くことができれば、と思っているようである。 作中頻繁に登場する「DAIS(ダイス)」こと[[防衛庁情報局]](ディフェンス・エージェンシー・インフォメーション・サービス)なる秘密組織は、実際には存在しない([[防衛庁]][[情報本部]]は実在する)。この組織は処女作『[[川の深さは]]』に初登場し、『[[Twelve Y. O.]]』『[[亡国のイージス]]』『[[6ステイン]]』『C-blossom』『[[op.ローズダスト]]』『[[人類資金]]』にも登場している。同様に福井作品お馴染みのものとして「[[GUSOH]]」という架空の兵器がある。また、ストーリーはいわゆる[[バディ]]ものが多い。 また、『亡国のイージス』や『戦国自衛隊1549』など、ほとんどの作品は[[自衛隊]]に関する[[専門用語]]が満載された[[小説]]である。このことについて福井自身は2005年に以下のようなことを語っている。 * [[日本]]でどうやったら[[スペクタクル]]・アクションが作れるかというのが、以前から自分の命題だった。 * 端的に言えば[[映画]]『[[ダイ・ハード]]』のような低予算のアクション映画は日本でも頑張ればできるのではないかと考えたが、『ダイ・ハード』のような[[事件]]が起こった場合、[[警察]]はともかく自衛隊というのは[[自衛隊の行動|出動]]できない(法律や制度によって制約がある)ことが分かり、では自衛隊が動けるという前提で物語を書こうと思った。 * 『亡国のイージス』を書いたとき(2000年)には、フィクションとしての「自衛隊」というテーマはそれほど重くなかったが、この5年間の時代や社会の変化でリアリティを帯びてきてしまった。今年(2005年)、自分の小説が3本立て続けに映画化されたことは時代と無縁ではないと思う。 文体は堅く、ストーリーもハードな作風が多い。しかし作者自身は「ばかばかしい文体でおふざけの凄い作品を書きたいという思いが強すぎて、真面目な自分とふざけた自分に[[多重人格]]化している」と発言しており、エッセイなどではかなりフランクな表現が目立つ。 == 富野由悠季から受けた影響 == 雑誌などで福井について取り上げられるとき、「大の『[[機動戦士ガンダム]]』ファン」「自他共に認めるガンダムマニア」などと書かれることがあるが、正確には[[ガンダムシリーズ一覧|「ガンダム」シリーズ]]ではなく、これらの多くを手がけた作家[[富野由悠季]]のファンであり<ref name="flash199367" />{{Refnest|group="注"|福井は自ら「富野ウォッチャー」であると公言している。}}、富野のインタビュー本の解説を書いたこともある。2人の関係は、出世作『Twelve Y. O.』が受賞した際に福井が富野にそれを献本したことから始まっており、「富野さんが言いたいことを小説で書くとこういうことだろう」というメッセージが込められていたようである。福井は[[日本放送協会|NHK]]の番組『[[トップランナー]]』に出演した際も、富野への尊敬の意を表した。福井は初代ガンダムのブームの際に、テレビアニメでも当時大ヒットしていた総集編の映画でもなく、まず富野の書いた小説を読んで「富野ワールドに触れ、魅了された」と語っている。ちなみに、福井が富野アニメの中で一番好きなものは『[[伝説巨神イデオン]]』であり、小説で最も好きなものは『[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]]』であるという。一方、富野自身は福井の[[結婚式]]の[[仲人]]を務めている。 福井は富野作品のノベライズもしており、それが『[[∀ガンダム#小説|ターンエーガンダム]]』(改題『月に繭 地には果実』)である。これは福井自身「気合を入れて書いた本」であり、お気に入りのひとつだという。 また、単なる富野ファンに留まらず、自身の作品にも富野の演出方法を取り入れている{{Refnest|group="注"|例えば、『劇場版ガンダム』の3部作の編集を、『月に繭 地には果実』で応用している。}}。富野についての[[ムック (出版)|ムック本]]『富野由悠季 全仕事』によれば、デビュー前に自身の作品の人間ドラマの目標として、『閃光のハサウェイ』を意識していたという。 さらには、[[矢立肇]]、富野由悠季を[[原案]]とする小説『[[機動戦士ガンダムUC]]』{{Sfn|小説版『UC』スタッフ|2006}}を『[[ガンダムエース]]』で2007年から2009年にかけて連載した。これについては「俺がやらずに誰がやる」という心境であったらしい。同作は2010年から2014年にかけてOVA化され、順次劇場でイベント上映もされた。このアニメ版には、小説『UC』の著者である福井もストーリーとして参加している。 福井はインタビューにおいて、[[宇宙世紀]]作品では避けて通れないと言える[[ニュータイプ]]論に対する自身による解答と、『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙』のラストメッセージに対する答えを出すことが、作品のメインテーマであると語っている。 その後も、漫画『[[機動戦士ムーンガンダム]]』のストーリー、アニメ映画『[[機動戦士ガンダムNT]]』の脚本を手がけている。 ほか、[[皆川ゆか]]『評伝 [[シャア・アズナブル]]』のコメントの中で、「[[坂本龍馬|龍馬]]にではなくシャアに学べ」や、シャアという人物を「[[自意識過剰]]で[[マザーコンプレックス|マザコン]]」「自分しか愛せなかった男」と評し、反面教師としなければならないと語っている。『[[電撃ホビーマガジン]]』では「フクイ軍曹の目指せ!トップガン!」で「フクイ軍曹」として登場し、ガンダムシリーズに登場する[[モビルスーツ]]や[[モビルアーマー]]などの兵器に乗っている。 == 作品リスト == === 小説 === * [[Twelve Y. O.]]([[講談社]]、1998年/[[講談社文庫]]、2001年) * [[亡国のイージス]](講談社、1999年/講談社文庫、2002年) * [[∀ガンダム#小説|ターンエーガンダム]]([[角川春樹事務所]][ハルキノベルス]〈上・下〉、2000年)([[原案]]:[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]) ** 改題 月に繭 地には果実([[幻冬舎]][幻冬舎文庫]〈上・中・下〉、2001年/単行本版、2005年) ** 改題 ∀ガンダム--月に繭 地には果実(講談社[講談社BOX]〈上・下〉、2007年) * [[川の深さは]](講談社、2000年/講談社文庫、2003年) * [[終戦のローレライ]](講談社、2002年/講談社文庫、2005年) * [[6ステイン]](講談社、2004年/講談社文庫、2007年) * [[戦国自衛隊1549]]([[角川書店]]、2005年/角川文庫、2009年) * [[Op.ローズダスト]]([[文藝春秋]]、2006年/[[文春文庫]]、2009年) * [[平成関東大震災-いつか来るとは知っていたが今日来るとは思わなかった-]]([[講談社]]、2007年) * [[機動戦士ガンダムUC]](角川書店、2007年 - 2009年,2016年/角川文庫・角川スニーカー文庫、2010年 - 2011年([[原案]]:[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]) *[[震災後]]([[小学館]]、2011年) *[[人類資金]]([[講談社文庫]]、2013年~15年) ==== 未発表作品 ==== * 敗者達の黙示録(未完成) * 壊点 ポイント・ブレイク これら2作品は「DAIS(ダイス)」の原型のような組織や、他作品中で語られている「920」という工作員が主役として登場している。『敗者達〜』は、福井曰く「福井晴敏のネタ帳」「書ききっていたら創作活動をやめていたかもしれない」らしい(『HOW TO BUILD 福井晴敏』 [[幻冬舎]]より)。ちなみに『敗者達の黙示録』は『HOW TO BUILD 福井晴敏』にダイジェスト版が掲載されている。 === エッセイ集 === * テアトル東向島アカデミー賞([[集英社]]文庫、[[2007年]]) === 漫画(原作など) === * [[亡国のイージス]](作画:[[中村嘉宏]]、『[[コミックバウンド]]』第1 - 4号まで連載、第5号で雑誌が休刊したため打ち切り、未単行本化) * [[亡国のイージス]](作画:[[横山仁]]、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』連載、[[講談社]]刊) * [[C-blossom case729]](作画:[[霜月かよ子]]、講談社、2005年/講談社文庫、2007年) ** 『6ステイン』の「920を待ちながら」の後日談であり、『亡国のイージス』の前日談 * 柳花--ユファの大地(作画:[[木根ヲサム]]、『[[Comicリュウ]]』2007年5月号にて連載中止、[[徳間書店]]刊) * [[戦国自衛隊1549]](作画:[[Ark Performance|ArkPerformance]]、『[[少年エース]]』連載、[[角川書店]]刊) * [[終戦のローレライ]](作画:[[虎哉孝征]]、脚色:[[長崎尚志]]、『[[月刊アフタヌーン]]』連載、[[講談社]]刊) * [[機動戦士ガンダムUC|機動戦士ガンダムUC バンデシネ]](ストーリー:福井晴敏、作画:[[大森倖三]]、『[[ガンダムエース]]』連載、角川書店刊) * [[機動戦士ガンダムUC#漫画|機動戦士ガンダムUC 虹にのれなかった男]](シナリオ:福井晴敏、作画:[[葛木ヒヨン]]、『[[ニュータイプエース]]』連載、角川書店刊) * [[機動戦士ムーンガンダム]](ストーリー:福井晴敏、作画:[[虎哉孝征]]、『ガンダムエース』連載、角川書店刊) === その他参加作品 === * [[真夏のオリオン]](2009年 脚色) * [[機動戦士ガンダムUC]](2010年 - 2014年 ストーリー{{Refnest|group="注"|「原作」として紹介するネット記事も存在する<ref>{{Cite news|url=https://animeanime.jp/article/2015/04/17/22900.html|title=「ガンダムUC」episode7…100ページ超、充実の設定資料集|newspaper=アニメ!アニメ!|publisher=イード|date=2015-04-17|accessdate=2021-01-23|archivedate=2021年1月30日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130224345/https://animeanime.jp/article/2015/04/17/22900.html}}</ref>。}}) * GUNDAM LIVE ENTERTAINMENT 赤の肖像〜シャア、そしてフロンタルへ〜(2011年 脚本・構成) * [[コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア3]](2011年、字幕監修) * [[キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-]](2013年、脚本・脚色) * [[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]](シリーズ構成・脚本)<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0081659 最新シリーズ「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」発進!福井晴敏が構成・脚本を担当 - シネマトゥデイ]</ref> * [[機動戦士ガンダムUC|機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096]](2016年、ストーリー) * [[機動戦士ガンダムNT]](2018年、脚本)<ref name="mantan180420">{{Cite news|url=https://mantan-web.jp/article/20180420dog00m200034000c.html|title=機動戦士ガンダムNT:福井晴敏脚本の新作劇場版アニメが11月公開 「UC」のその後を描く|work=[[まんたんウェブ]]|date=2018-04-20|accessdate=2018-04-20}}</ref> * [[空母いぶき]](2019年、企画)<ref>[https://www.cinra.net/news/20180702-ibuki#expand-145027 西島秀俊×佐々木蔵之介 かわぐちかいじ原作映画『空母いぶき』場面写真 - CINRA.NET]</ref> * 機動戦士ガンダム 光る命 Chronicle U.C.(2019年 構成・脚本)<ref>[https://www.gundam.info/news/video-music/news_video-music_20190726_30.html 「U.C.ガンダムBlu-rayライブラリーズ」福井晴敏がシナリオを書いた「新規映像特典」追加収録決定!]gundam.info 2019年7月26日</ref>。 * [[宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち]](2021年、脚本) == 出演作品 == * [[日本沈没#2006年の映画|日本沈没]](2006年) - 小野寺の実家の従業員役 == 関連項目 == * [[日本のスペクタクル・アクション作家一覧]] == 脚注 == === 出典 === {{reflist}} === 注釈 === <references group="注"/> == 参考文献 == * プラモデル付属説明書 ** {{Citation|和書 |date=2018-03-10 |title=MG 1/100 RX-0 ユニコーンガンダム2号機 バンシィ Ver.Ka |publisher=バンダイ |ref={{SfnRef|MGバンシィVer.ka|2018}} }} * ウェブサイト ** {{Cite web|和書|url= http://gundam-nt.net/character/ |title=スタッフ |website=小説『機動戦士ガンダムUC』公式サイト |publisher=創通・サンライズ |accessdate=2023-11-06 |ref={{SfnRef|小説版『UC』スタッフ|2006}} }} ** {{Cite web|和書|url=https://bandai-hobby.net/site/auto_trans/interview/ |title=REAL EXPERIENCE MODEL RX-0 ユニコーンガンダム (AUTO-TRANS edition) 予約開始記念対談 福井晴敏(著者・ストーリー)×サンライズ 小形尚弘(プロデューサー) |website=バンダイホビーサイト |publisher=BANDAI SPIRITS |accessdate=2021-03-15 |ref={{SfnRef|REMユニコーン記念対談|2021}} }} == 外部リンク == * [http://www.fukuiharutoshi.jp 福井晴敏オフィシャルサイト] * [https://web.archive.org/web/20070216061240/http://www.507.jp/index.html 映画『ローレライ』オフィシャルサイト] * [http://www.sengoku1549.com/pc/index.html 映画『戦国自衛隊1549』オフィシャルサイト] * [https://web.archive.org/web/20050404000617/http://aegis.goo.ne.jp/ 『亡国のイージス』オフィシャルサイト] * [http://www.fukuiharutoshi.jp/oprd/index.html Op.ローズダスト特設ページ] * [http://www.manatsu-orion.com/ 真夏のオリオン] * [http://www.gundam-unicorn.net/ 機動戦士ガンダムUC] {{writer-stub}} {{江戸川乱歩賞|第44回}} {{吉川英治文学新人賞|第24回}} {{福井晴敏のガンダムシリーズ作品}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふくい はるとし}} [[Category:福井晴敏|*]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の脚本家]] [[Category:21世紀日本の脚本家]] [[Category:日本の映画の脚本家]] [[Category:アニメの脚本家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:情報経営イノベーション専門職大学の教員]] [[Category:江戸川乱歩賞受賞者]] [[Category:日本推理作家協会賞受賞者]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1968年生]] [[Category:存命人物]]
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比企郡
比企郡 (ひきぐん) は、埼玉県(武蔵国)の郡。 人口124,392人、面積281.86km2、人口密度441人/km2。(2023年6月1日、推計人口) 以下の7町を含む。 鳩山町を除く6町は東松山市・秩父郡東秩父村とともに「比企広域市町村圏組合」(比企圏域)を構成する。 上記の7町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。横見郡から編入された地域は現在の吉見町である。 以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。 以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。
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比企郡 (ひきぐん) は、埼玉県(武蔵国)の郡。 人口124,392人、面積281.86km²、人口密度441人/km²。(2023年6月1日、推計人口) 以下の7町を含む。 滑川町(なめがわまち) 嵐山町(らんざんまち) 小川町(おがわまち) 川島町(かわじままち) 吉見町(よしみまち) 鳩山町(はとやままち) ときがわ町(ときがわまち) 鳩山町を除く6町は東松山市・秩父郡東秩父村とともに「比企広域市町村圏組合」(比企圏域)を構成する。
{{Pathnavbox| *{{Pathnav|令制国一覧|東海道|武蔵国}} *{{Pathnav|日本|関東地方|埼玉県}} }} [[ファイル:Saitama Hiki-gun.png|frame|埼玉県比企郡の範囲(1.滑川町 2.嵐山町 3.小川町 4.川島町 5.吉見町 6.鳩山町 7.ときがわ町 薄緑:後に他郡から編入した区域 薄黄:後に他郡に編入された区域)]] '''比企郡''' (ひきぐん) は、[[埼玉県]]([[武蔵国]])の[[郡]]。 {{郡データ換算|埼玉県|小川町|川島町|ときがわ町|滑川町|鳩山町|吉見町|嵐山町}} 以下の7町を含む。 * [[滑川町]](なめがわまち) * [[嵐山町]](らんざんまち) * [[小川町]](おがわまち) * [[川島町]](かわじままち) * [[吉見町]](よしみまち) * [[鳩山町]](はとやままち) * [[ときがわ町]](ときがわまち) 鳩山町を除く6町は[[東松山市]]・[[秩父郡]][[東秩父村]]とともに「[[比企広域市町村圏組合]]」(比企圏域)を構成する。 == 郡域 == 上記の7町以外では、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。[[横見郡]]から編入された地域は現在の吉見町である。 * 東松山市(全域) 以下の地域は隣接する郡から当郡に編入されている。 * [[男衾郡]] → 比企郡 : 小川町大字木部、木呂子、勝呂、靱負およびひばり台一 - 三丁目の一部(旧[[竹沢村 (埼玉県)|竹沢村]]の一部) * [[大里郡]] → 比企郡 : 小川町大字西古里、鷹巣 * [[秩父郡]] → 比企郡 : ときがわ町大字大野、椚平(旧[[大椚村]]) 以下の地域は当郡から隣接する郡に編入されている。 * 比企郡 → [[入間郡]] : 越生町大字古池、麦原、[[川越市]]大字中老袋、鹿飼、上老袋、東本宿、下老袋および芳野台一 - 三丁目の一部(旧[[植木村 (埼玉県)|植木村]]) == 歴史 == * [[7世紀]]ごろ - [[武蔵国]]の[[郡]]として成立。 * [[11世紀]]ごろ([[平安時代]]末期) - 後に[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]となる[[比企氏|比企一族]]が比企郡一帯を統治していた。 * [[12世紀]]ごろ([[鎌倉時代]])南北を[[鎌倉街道]]上つ道とその[[脇街道]]が縦断し、交通の要衝とされた。 === 近代以降の沿革 === * 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での支配は以下の通り。●は村内に[[寺社領]]が存在。[[天領|幕府領]]は松村忠四郎支配所、[[江川英龍|江川太郎左衛門]]支配所([[韮山代官所]])、木村飛騨守支配所が管轄。(2宿158村) {{hidden begin |title = 幕末の知行 |titlestyle = background:lightgrey; }} {| class="wikitable" |- ! style="width:25%" colspan=2 | [[知行]] ! style="width:5%" | 村数 ! 村名 |- | rowspan=7 | [[天領|幕府領]] | 幕府領(松村) | 6村 | 大塚村(現小川町)、増尾村、腰越村、●青山村、上古寺村、麦原村 |- | 幕府領(木村) | 21村 | ●下押垂村、上押垂村、下青鳥村、上野本村、下野本村、今泉村、竹本村、笠原村、早又村、本宿村(現川越市。上老袋村、中老袋村、下老袋村、鹿飼村、川口村、戸崎村を含む)、正代村、北園部村、上瀬戸村、●下瀬戸村、●五明村 |- | 幕府領(江川) | 2村 | 大橋村、菅谷村 |- | [[地方知行|旗本領]] | 41村 | 田木村、●岩殿村、雲河原村、別所村、本郷村、田中村、●関堀村、●馬場村、田黒村、飯田村、上横田村、越畑村、下横田村、吉田村、伊勢根村、高見村、能増村、高谷村、●広野村、勝田村、●泉井村、奥田村、中尾村、羽尾村、山田村、大谷村、大附村、●大豆戸村、今宿村、下古寺村、古氷村、番匠村、和泉村、菅田村、土塩村、古里村、桃木村、出丸本村<ref name="kisai">「旧高旧領取調帳」には記載なし。なおこの7村は「出丸7ヶ村」と呼ばれた。</ref>、出丸下郷<ref name="kisai" />、上大屋敷村<ref name="kisai" />、下大屋敷村<ref name="kisai" /> |- | 幕府領(松村)・旗本領 | 9村 | 玉川郷、原川村、杉山村、伊古村、古池村、高野倉村、●赤沼村、●熊井村 |- | 幕府領(木村)・旗本領 | 2村 | 毛塚村、石坂村 |- | 幕府領(江川)・旗本領 | 2村 | 下新堀村、葛袋村 |- | rowspan=2 | [[藩|藩領]] | [[上野国|上野]][[前橋藩]] | 1町<br />2宿<br />58村 | 下伊草村、伊草宿、●上伊草村、中山村、南園部村、吹塚村、正直村、戸守村、戸守村持添新田、宮鼻村、山ヶ谷戸村、上新堀村、吉原村、宮前村、上狢村、下狢村、釘無村、角泉村、安塚村、飯島村、平沼村、白井沼村、紫竹村、牛ヶ谷戸村、三保谷宿、下里村、小川村、将軍沢村、根岸村、須江村、志賀村、平沢村、●遠山村、千手堂村、水房村(太郎丸村を含む)、月輪村、上唐子村、石橋村、下唐子村、神戸村、●市ノ川村、松山町、●柏崎村、野田村、岡郷、畑中村、谷中村、鳥羽井村、下小見野村、上小見野村、下八ツ林村、上八ツ林村、大塚村(現川島町)、虫塚村、一本木村、鳥羽井新田、梅之木村、加胡村、西谷村<ref name="kisai" />、曲師村<ref name="kisai" /> |- | [[上総国|上総]][[久留里藩]] | 1村 | 角山村 |- | rowspan=6 | 幕府領・藩領 | 幕府領(松村)・前橋藩 | 1村 | 松永村 |- | 幕府領(木村)・前橋藩 | 1村 | ●長楽村 |- | 旗本領・前橋藩 | 5村 | ●高坂村(現東松山市の本宿村を含む)、●鎌形村、平村(現東松山市)、出丸中郷<ref name="kisai" /> |- | 幕府領(木村)・久留里藩 | 1村 | ●日影村 |- | 旗本領・久留里藩 | 2村 | 奈良梨村、●中爪村 |- | 幕府領(木村)・旗本領・武蔵[[川越藩]] | 1村 | ●福田村 |- | その他 | 寺社領 | 3村 | 平村(現ときがわ町)、表村、大蔵村 |} {{hidden end}} * [[慶応]]4年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[1868年]][[8月17日]]) – [[韮山代官所]]が'''[[韮山県]]'''となり、幕府領・旗本領を管轄(一部は一時的に[[武蔵知県事]]を経て[[品川県]]および[[大宮県]](県庁は[[東京府]][[日本橋馬喰町]])→[[浦和県]]の管轄となったが、「旧高旧領取調帳」では既に韮山県となっているため詳細は不明)。 * 明治4年 ** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、藩領が'''[[前橋県]]'''、'''[[久留里県]]'''、'''[[川越県]]'''となる。 ** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次[[府県統合]]により、全域が'''[[入間県]]'''の管轄となる。 * 明治5年 - 上新堀村・下新堀村が合併して新堀村となる。(2宿157村) * [[1873年]](明治6年)[[6月15日]] - 入間県が[[群馬県]](第1期)と合併して'''[[熊谷県]]'''となる。 * [[1876年]](明治9年)[[8月21日]] - 第2次府県統合により、熊谷県が武蔵国の管轄地域を埼玉県に合併して群馬県(第2期)に改称。当郡域は'''[[埼玉県]]'''の管轄となる。 * [[1879年]](明治12年) ** [[3月17日]] - [[郡区町村編制法]]の埼玉県での施行により、行政区画としての'''比企郡'''が発足。郡役所は松山町に設置され、[[横見郡]]とともに管轄。 ** それにともない、2ヶ所ずつ存在した平村、大塚村、本宿村がそれぞれ東平村(現東松山市)、西平村(現ときがわ町)、東大塚村(現川島町)、西大塚村(現小川町)、東本宿村(現川越市)、西本宿村(現東松山市)に改称。 * [[1886年]](明治19年) - 川口村が鹿飼村に、戸崎村が中老袋村に、戸守村持添新田が吹塚村にそれぞれ編入。(2宿154村) * [[1887年]](明治20年) - 上瀬戸村・下瀬戸村が合併して瀬戸村となる。(2宿153村) === 町村制以降の沿革 === [[ファイル:Saitama Hiki-gun 1889.png|frame|1.松山町 2.大岡村 3.福田村 4.宮前村 5.唐子村 6.菅谷村 7.七郷村 8.八和田村 9.小川町 10.竹沢村 11.大河村 12.平村 13.明覚村 14.玉川村 15.亀井村 16.今宿村 17.高坂村 18.野本村 19.中山村 20.伊草村 21.出丸村 22.三保谷村 23.八ツ保村 24.小見野村 25.植木村 31.南吉見村 32.東吉見村 33.北吉見村 34.西吉見村 (紫:東松山市 桃:滑川町 赤:嵐山町 橙:小川町 黄:ときがわ町 緑:鳩山町 青:川島町 水色:吉見町 白:川越市)]] * [[1889年]]([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]の施行により、以下の町村が発足。(2町23村) ** '''[[松山町 (埼玉県)|松山町]]''' ← 松山町、「市ノ川村、野田村、東平村」(現東松山市) ** '''[[大岡村 (埼玉県)|大岡村]]''' ← 大谷村、岡郷、「市ノ川村、野田村、東平村」(現東松山市)※5村で合併するが、数ヶ月後3村離脱し松山町へ編入される。 ** '''[[福田村 (埼玉県)|福田村]]''' ← 福田村、山田村、和泉村、土塩村、菅田村(現滑川町) ** '''[[宮前村 (埼玉県)|宮前村]]''' ← 中尾村、伊古村、水房村、羽尾村、月輪村(現滑川町) ** '''[[唐子村]]''' ← 上唐子村、下唐子村、神戸村、葛袋村、石橋村(現東松山市) ** '''[[嵐山町|菅谷村]]''' ← 菅谷村、志賀村、平沢村、遠山村、千手堂村、鎌形村、大蔵村、根岸村、将軍沢村(現嵐山町) ** '''[[七郷村 (埼玉県)|七郷村]]''' ← 吉田村、太郎丸村、広野村、勝田村、越畑村、古里村、杉山村(現嵐山町) ** '''[[八和田村]]''' ← 上横田村、下横田村、中爪村、奈良梨村、能増村、高見村、伊勢根村、高谷村(現小川町) ** '''[[小川町]]''' ← 小川村、西大塚村、下里村、角山村(現小川町) ** '''[[竹沢村 (埼玉県)|竹沢村]]''' ← 笠原村、原川村および[[男衾郡]]木部村、木呂子村、勝呂村、靱負村(現小川町) ** '''[[大河村]]''' ← 腰越村、飯田村、増尾村、上古寺村、下古寺村、青山村(現小川町) ** '''[[平村 (埼玉県)|平村]]''' ← 西平村、雲河原村(現ときがわ町) ** '''[[明覚村]]''' ← 桃木村、番匠村、本郷村、別所村、田中村、馬場村、瀬戸村、関堀村、大附村(現ときがわ町) ** '''[[玉川村 (埼玉県)|玉川村]]''' ← 玉川郷、日影村、五明村、田黒村(現ときがわ町) ** '''[[亀井村]]''' ← 泉井村、熊井村、高野倉村、竹本村、須江村、奥田村、大橋村(現鳩山町) ** '''[[今宿村 (埼玉県)|今宿村]]''' ← 今宿村、石坂村、赤沼村、大豆戸村および入間郡小用村(現鳩山町) ** '''[[高坂村 (埼玉県)|高坂村]]''' ← 高坂村、早俣村、正代村、宮鼻村、毛塚村、田木村、西本宿村、岩殿村(現東松山市) ** '''[[野本村]]''' ← 下野本村、上野本村、柏崎村、古氷村、今泉村、下青鳥村、上押垂村、下押垂村(現東松山市) ** '''[[中山村 (埼玉県)|中山村]]''' ← 中山村、北園部村、南園部村、吹塚村、戸守村、長楽村、正直村(現川島町) ** '''[[伊草村]]''' ← 伊草宿、下伊草村、上伊草村、角泉村、安塚村、飯島村(現川島町) ** '''[[出丸村]]''' ← 出丸本村、出丸中郷、出丸下郷、上大屋敷村、西谷村、曲師村、下大屋敷村(現川島町) ** '''[[三保谷村]]''' ← 平沼村、白井沼村、紫竹村、宮前村、上狢村、下狢村、釘無村、新堀村、吉原村、表村(現川島町) ** '''[[八ツ保村]]''' ← 上八ッ林村、下八ッ林村、畑中村、三保谷宿、山ヶ谷戸村、牛ヶ谷戸村(現川島町) ** '''[[小見野村]]''' ← 上小見野村、下小見野村、谷中村、加胡村、松永村、梅之木村、虫塚村、一本木村、鳥羽井村、鳥羽井新田、東大塚村(現川島町) ** '''[[植木村 (埼玉県)|植木村]]''' ← 中老袋村、鹿飼村、上老袋村、東本宿村、下老袋村(現川越市) ** 古池村が[[入間郡]][[越生町]]の一部となる。 ** 麦原村が入間郡[[梅園村]]の一部となる。 * [[1896年]](明治29年) ** 4月1日 - 横見郡および比企郡の大部分(植木村を除く)の区域をもって、改めて'''比企郡'''が発足。横見郡4村('''[[南吉見村]]'''、'''[[東吉見村]]'''、'''[[北吉見村]]'''、'''[[西吉見村]]''')が本郡の所属となり、植木村の所属郡が入間郡に変更。(2町26村) ** [[8月1日]] - [[郡制]]を施行。 * [[1923年]]([[大正]]12年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。 * [[1926年]](大正15年)[[7月1日]] - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。 * [[1954年]]([[昭和]]29年) ** 7月1日(1町19村) *** 松山町・大岡村・唐子村・高坂村・野本村が合併して'''[[東松山市]]'''が発足し、郡より離脱。 *** 南吉見村・東吉見村・北吉見村・西吉見村が合併して'''[[吉見町|吉見村]]'''が発足。 ** [[11月3日]](1町13村) *** 福田村・宮前村が合併して'''[[滑川町|滑川村]]'''が発足。 *** 中山村・伊草村・出丸村・三保谷村・八ツ保村・小見野村が合併して'''[[川島町|川島村]]'''が発足。 * [[1955年]](昭和30年) ** [[2月11日]](1町9村) *** 小川町・八和田村・竹沢村・大河村が合併し、改めて'''小川町'''が発足。 *** 平村・明覚村が[[秩父郡]][[大椚村]]と合併して'''[[都幾川村]]'''が発足。 ** [[4月15日]](1町7村) *** 亀井村・今宿村が合併して'''[[鳩山町|鳩山村]]'''が発足。 *** 菅谷村・七郷村が合併し、改めて'''菅谷村'''が発足。 * [[1956年]](昭和30年)1月1日 - [[大里郡]][[寄居町]]の一部を小川町に編入。 * [[1967年]](昭和42年)4月15日 - 菅谷村が改称、即日町制施行して'''[[嵐山町]]'''となる。(2町6村) * [[1972年]](昭和47年)11月3日(4町4村) ** 吉見村が町制施行して'''[[吉見町]]'''となる。 ** 川島村が町制施行して'''[[川島町]]'''となる。 * [[1982年]](昭和57年)4月1日 - 鳩山村が町制施行して'''[[鳩山町]]'''となる。(5町3村) * [[1984年]](昭和59年)11月3日 - 滑川村が町制施行して'''[[滑川町]]'''となる。(6町2村) * [[2006年]]([[平成]]18年)[[2月1日]] - 都幾川村・玉川村が合併して'''[[ときがわ町]]'''が発足。(7町) === 変遷表 === {{hidden begin |title = 自治体の変遷 |titlestyle = background:lightgrey; }} {| class="wikitable" style="font-size:x-small" |- | 明治22年以前 ! 明治22年4月1日 ! 明治22年 - 大正15年 ! 昭和元年 - 昭和19年 ! 昭和20年 - 昭和34年 ! 昭和35年 - 昭和64年 ! 平成元年 - 現在 ! 現在 |- | style="background-color:#9cf" | 鹿飼村<br />上老袋村<br />中老袋村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 植木村 | rowspan="2" | 明治29年3月29日<br />入間郡 | 昭和13年5月1日<br />入間郡芳野村に編入 | rowspan="2" | 昭和30年4月1日<br />川越市に編入 | rowspan="2" | 川越市 | rowspan="2" | 川越市 | rowspan="2" | 川越市 |- | style="background-color:#9cf" | 下老袋村<br />東本宿村 | 昭和13年5月1日<br />入間郡古谷村に編入 |- | style="background-color:#6ff" | 松山町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 松山町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 松山町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 松山町 | rowspan="6" | 昭和29年7月1日<br />東松山市 | rowspan="6" | 東松山市 | rowspan="6" | 東松山市 | rowspan="6" | 東松山市 |- | style="background-color:#9cf" | 市ノ川村<br />野田村<br />東平村 |- | style="background-color:#9cf" | 大谷村<br />岡郷 | style="background-color:#9cf" | 大岡村 | style="background-color:#9cf" | 大岡村 | style="background-color:#9cf" | 大岡村 |- | style="background-color:#9cf" | 上唐子村<br />下唐子村<br />神戸村<br />葛袋村<br />石橋村<br />岩殿村(一部) | style="background-color:#9cf" | 唐子村 | style="background-color:#9cf" | 唐子村 | style="background-color:#9cf" | 唐子村 |- | style="background-color:#9cf" | 岩殿村<br />高坂村<br />早俣村<br />正代村<br />宮鼻村<br />毛塚村<br />田木村<br />西本宿村 | style="background-color:#9cf" | 高坂村 | style="background-color:#9cf" | 高坂村 | style="background-color:#9cf" | 高坂村 |- | style="background-color:#9cf" | 下野本村<br />上野本村<br />柏崎村<br />古凍村<br />今泉村<br />下青鳥村<br />上押垂村<br />下押垂村 | style="background-color:#9cf" | 野本村 | style="background-color:#9cf" | 野本村 | style="background-color:#9cf" | 野本村 |- | style="background-color:#9cf" | 福田村<br />山田村<br />和泉村<br />土塩村<br />菅田村 | style="background-color:#9cf" | 福田村 | style="background-color:#9cf" | 福田村 | style="background-color:#9cf" | 福田村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 昭和29年11月3日<br />滑川村 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 昭和59年11月3日<br />町制 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 滑川町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 滑川町 |- | style="background-color:#9cf" | 中尾村<br />伊古村<br />水房村<br />羽尾村<br />月輪村 | style="background-color:#9cf" | 宮前村 | style="background-color:#9cf" | 宮前村 | style="background-color:#9cf" | 宮前村 |- | style="background-color:#9cf" | 菅谷村<br />志賀村<br />平沢村<br />遠山村<br />千手堂村<br />鎌形村<br />大蔵村<br />根岸村<br />将軍沢村 | style="background-color:#9cf" | 菅谷村 | style="background-color:#9cf" | 菅谷村 | style="background-color:#9cf" | 菅谷村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 昭和30年4月15日<br />菅谷村 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 昭和42年4月15日<br />町制・改称 嵐山町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 嵐山町 | rowspan="2" style="background-color:#6ff" | 嵐山町 |- | style="background-color:#9cf" | 吉田村<br />太郎丸村<br />広野村<br />勝田村<br />越畑村<br />古里村<br />杉山村 | style="background-color:#9cf" | 七郷村 | style="background-color:#9cf" | 七郷村 | style="background-color:#9cf" | 七郷村 |- | style="background-color:#9cf" | 小川村<br />西大塚村<br />下里村<br />角山村 | style="background-color:#6ff" | 小川町 | style="background-color:#6ff" | 小川町 | style="background-color:#6ff" | 小川町 | rowspan="5" style="background-color:#6ff" | 昭和30年2月11日<br />小川町 | rowspan="5" style="background-color:#6ff" | 小川町 | rowspan="5" style="background-color:#6ff" | 小川町 | rowspan="5" style="background-color:#6ff" | 小川町 |- | style="background-color:#9cf" | 上横田村<br />下横田村<br />中爪村<br />奈良梨村<br />能増村<br />高見村<br />伊勢根村<br />高谷村 | style="background-color:#9cf" | 八和田村 | style="background-color:#9cf" | 八和田村 | style="background-color:#9cf" | 八和田村 |- | style="background-color:#9cf" | 腰越村<br />飯田村<br />増尾村<br />上古寺村<br />下古寺村<br />青山村 | style="background-color:#9cf" | 大河村 | style="background-color:#9cf" | 大河村 | style="background-color:#9cf" | 大河村 |- | style="background-color:#9cf" | 笠原村<br />原川村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 竹沢村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 竹沢村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 竹沢村 |- | 男衾郡木部村<br />男衾郡木呂子村<br />男衾郡勝呂村<br />男衾郡靱負村 |- | style="background-color:#9cf" | 玉川郷<br />日影村<br />五明村<br />田黒村 | style="background-color:#9cf" | 玉川村 | style="background-color:#9cf" | 玉川村 | style="background-color:#9cf" | 玉川村 | style="background-color:#9cf" | 玉川村 | style="background-color:#9cf" | 玉川村 | rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 平成18年2月1日<br />ときがわ町 | rowspan="4" style="background-color:#6ff" | ときがわ町 |- | style="background-color:#9cf" | 西平村<br />雲河原村 | style="background-color:#9cf" | 平村 | style="background-color:#9cf" | 平村 | style="background-color:#9cf" | 平村 | rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 昭和30年2月11日<br />都幾川村 | rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 都幾川村 |- | style="background-color:#9cf" | 桃木村<br />番匠村<br />本郷村<br />別所村<br />田中村<br />馬場村<br />瀬戸村<br />関掘村<br />大附村 | style="background-color:#9cf" | 明覚村 | style="background-color:#9cf" | 明覚村 | style="background-color:#9cf" | 明覚村 |- | 秩父郡大野村<br />秩父郡椚平村 | 秩父郡<br />大椚村 | 秩父郡<br />大椚村 | 秩父郡<br />大椚村 |- | style="background-color:#9cf" | 泉井村<br />熊井村<br />高野倉村<br />竹本村<br />須江村<br />奥田村<br />大橋村 | style="background-color:#9cf" | 亀井村 | style="background-color:#9cf" | 亀井村 | style="background-color:#9cf" | 亀井村 | rowspan="3" style="background-color:#9cf" | 昭和30年4月15日<br />鳩山村 | rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 昭和57年4月1日<br />町制 | rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 鳩山町 | rowspan="3" style="background-color:#6ff" | 鳩山町 |- | style="background-color:#9cf" | 今宿村<br />石坂村<br />赤沼村<br />大豆戸村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 今宿村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 今宿村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 今宿村 |- | 入間郡小用村 |- | style="background-color:#9cf" | 中山村<br />北園部村<br />南園部村<br />吹塚村<br />戸守村<br />長楽村<br />正直村 | style="background-color:#9cf" | 中山村 | style="background-color:#9cf" | 中山村 | style="background-color:#9cf" | 中山村 | rowspan="8" style="background-color:#9cf" | 昭和29年11月3日<br />川島村 | rowspan="8" style="background-color:#6ff" | 昭和47年11月3日<br />町制 | rowspan="8" style="background-color:#6ff" | 川島町 | rowspan="8" style="background-color:#6ff" | 川島町 |- | style="background-color:#6ff" | 伊草宿 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 伊草村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 伊草村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 伊草村 |- | style="background-color:#9cf" | 下伊草村<br />上伊草村<br />角泉村<br />安塚村<br />飯島村 |- | style="background-color:#9cf" | 出丸本村<br />出丸中郷<br />出丸下郷<br />上大屋敷村<br />西谷村<br />曲師村<br />下大屋敷村 | style="background-color:#9cf" | 出丸村 | style="background-color:#9cf" | 出丸村 | style="background-color:#9cf" | 出丸村 |- | style="background-color:#9cf" | 平沼村<br />白井沼村<br />紫竹村<br />宮前村<br />上狢村<br />下狢村<br />釘無村<br />新堀村<br />吉原村<br />表村 | style="background-color:#9cf" | 三保谷村 | style="background-color:#9cf" | 三保谷村 | style="background-color:#9cf" | 三保谷村 |- | style="background-color:#6ff" | 三保谷宿 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 八ツ保村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 八ツ保村 | rowspan="2" style="background-color:#9cf" | 八ツ保村 |- | style="background-color:#9cf" | 上八ッ林村<br />下八ッ林村<br />畑中村<br />山ヶ谷戸村<br />牛ヶ谷戸村 |- | style="background-color:#9cf" | 上小見野村<br />下小見野村<br />谷中村<br />加胡村<br />松永村<br />梅之木村<br />虫塚村<br />一本木村<br />鳥羽井村<br />鳥羽井新田<br />東大塚村 | style="background-color:#9cf" | 小見野村 | style="background-color:#9cf" | 小見野村 | style="background-color:#9cf" | 小見野村 |- | 横見郡久保田村<br />横見郡下細谷村<br />横見郡江綱村<br />横見郡前河内村<br />横見郡大串村 | 横見郡<br />南吉見村 | style="background-color:#9cf" | 明治29年3月29日<br />比企郡 | style="background-color:#9cf" | 南吉見村 | rowspan="4" style="background-color:#9cf" | 昭和29年7月1日<br />吉見村 | rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 昭和47年11月3日<br />町制 | rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 吉見町 | rowspan="4" style="background-color:#6ff" | 吉見町 |- | 横見郡大和田村<br />横見郡上銀谷村<br />横見郡谷口村<br />横見郡蚊斗谷村<br />横見郡江和井村<br />横見郡北下砂村<br />横見郡万光寺村<br />横見郡荒子村<br />横見郡丸貫村<br />横見郡下銀谷村<br />横見郡古名村<br />横見郡古名新田<br />横見郡高尾新田<br />横見郡須野子新田<br />横見郡蓮沼新田<br />横見郡久保田新田<br />横見郡飯島新田 | 横見郡<br />東吉見村 | style="background-color:#9cf" | 明治29年3月29日<br />比企郡 | style="background-color:#9cf" | 東吉見村 |- | 横見郡地頭方村<br />横見郡中新井村<br />横見郡一ッ木村<br />横見郡上砂村<br />横見郡中曽根村<br />横見郡本沢村<br />横見郡上細谷村<br />横見郡小新井村<br />横見郡今泉村<br />横見郡明秋村<br />横見郡松崎村 | 横見郡<br />北吉見村 | style="background-color:#9cf" | 明治29年3月29日<br />比企郡 | style="background-color:#9cf" | 北吉見村 |- | 横見郡北吉見村<br />横見郡南吉見村<br />横見郡御所村<br />横見郡黒岩村<br />横見郡和名村<br />横見郡久米田村<br />横見郡長谷村<br />横見郡田甲村<br />横見郡山野下村 | 横見郡<br />西吉見村 | style="background-color:#9cf" | 明治29年3月29日<br />比企郡 | style="background-color:#9cf" | 西吉見村 |} {{hidden end}} == 平成の大合併 == * 比企地区8市町村合併 ** [[2003年]](平成15年) *** [[3月3日]] - 比企地区任意合併協議会設置(東松山市・比企郡[[滑川町]]・[[嵐山町]]・[[小川町]]・[[都幾川村]]・[[玉川村 (埼玉県)|玉川村]]・[[吉見町]]・秩父郡[[東秩父村]])。 *** [[4月1日]] - 協議会事務局設置(東松山市役所内)。 *** [[5月21日]] - 第4回協議会において、比企地区任意合併協議会解散を決定。 * 比企地区6町村合併 ** 2003年(平成15年) *** 7月 - 滑川町・嵐山町・小川町・都幾川村・玉川村・東秩父村の6町村は、合併研究会を設置。 *** 12月 - 滑川町・嵐山町・小川町・都幾川村・玉川村・東秩父村の6町村は、比企地域3町3村合併協議会を設置。 ** [[2004年]](平成16年) *** 7月 - 滑川町で合併の枠組みを問う住民投票を行った結果、東松山市・吉見町を含む8市町村で合併が過半数を占めたために滑川町は合併協議会から離脱。 *** 8月 - 比企地域3町3村合併協議会が解散。 * 東松山市・吉見町合併 ** 2003年 - 東松山市・吉見町合併協議会を設置。 ** 2004年 - 東松山市・吉見町合併協議会解散を決定。合併協議会廃止。 * 東松山市・東秩父村飛び地合併 ** [[2006年]](平成18年) - 東秩父村が東松山市との飛び地合併を考えていると報道される。 ** [[2008年]](平成20年) [[4月23日]] - 東秩父村議会が東松山市との飛び地合併の考えをまとめ、東松山市への編入合併推進特別委員会を発足。 * 東松山市・滑川町・東秩父村合併 ** 2008年(平成20年)[[7月7日]] - 東松山市・滑川町・東秩父村の3市町村議で、比企地域合併推進議員連絡協議会を8月22日に設置する方針を決めた。 ** [[2009年]][[9月17日]] 東松山、滑川、東秩父の比企地域合併推進議員連絡協議会を解散決定。 == 行政 == ;比企・横見郡長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |1||||明治11年(1879年)3月17日|||| |- |||||||明治29年(1896年)3月31日||横見郡および入間郡それぞれとの合併により、旧・比企郡廃止 |} ;比企郡長 {| class="wikitable" !代!!氏名!!就任年月日!!退任年月日!!備考 |- |1||||明治29年(1896年)4月1日|||| |- |||[[武田熊蔵]]|||||| |- |||||||大正15年(1926年)6月30日||郡役所廃止により、廃官 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会|year=1980|date=1980-07-01|title=[[角川日本地名大辞典]]|publisher=[[角川書店]]|volume=11 埼玉県|isbn=4040011104|ref={{SfnRef|角川日本地名大辞典|1980}}}} * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 外部リンク == * [http://www.hiki-saitama.jp/ 比企広域市町村圏組合] {{s-start}} {{s-bef|before=-----|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷|years= - [[1896年]]|years2=第1次}} {{s-aft|after=比企郡(第2次、植木村以外)<br />[[入間郡]](第2次、植木村)|表記=次}} {{s-bef|before=比企郡(第1次、植木村以外)、[[横見郡]]|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷|years= [[1896年]] -|years2=第2次・統合後}} {{s-aft|after=(現存)|表記=次}} {{end}} {{武蔵国の郡}} {{埼玉県の郡}} {{埼玉県の自治体}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひきくん}} [[Category:比企郡|*]] [[Category:埼玉県の郡]] [[Category:武蔵国の郡]]
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ジーンズ
ジーンズ(英語: jeans)とは、デニム生地や他の棉生地でできたカジュアルなズボンやスカート。特にブルーのもの。 ジーンズとは基本的にはデニム生地や他の綿生地でできたカジュアルなズボンを指す。 年齢や性別を問わず幅広い消費者に受容されたファッション衣料であり、服飾のみならず社会学の対象となることもある。デザイナーブランドの高級品も一般向けの廉価な商品も作りはほぼ同じだが、生地や縫製、部材など、おしゃれかどうかを決定する上では判別することは難しく、細かい違いによって、多様な消費者層を作り出している。 ジーンズとはデニム生地でできたズボンを指すが、そもそもデニム生地で作られた作業着は広告やパッケージングにおいて、Overalls(オーバーオールズ)と呼ばれていた。ジーンズという呼称は、50年代に入ってから当時の若者たちの間で呼ばれ始めたもの。それまでは例えばリーバイス社は、最初のジーンズ誕生時から、伝統的に501をOveralls(オーバーオールズ)と呼称しており、ジーンズとは呼ばれていなかった。日本人による初のデニムブランド、山本被服のブランド名がスターオーバーオールである事もジーンズと呼ばれ始める1950年代以前の創業であることによる。(つまり、それだけ創業が古いという証明でもある)その後、ジーンズという呼称が普及し、全ての製造メーカーで使われる用語となった。 「デニム」の語源はフランス語の「serge de Nîmes(セルジュ・ドゥ・ニーム)」であり、「(フランスの)ニームの綾織り」といった意味の表現である。ニームの地のアンドレ一族がすぐれた綾織りの布地を作っており、布地はしばしば産地の名で呼ぶ習慣があるので、この表現の「de Nîmes(「ニームの」「ニーム産」という意味の部分)」だけを残す形で短縮され、「denim」という表現が生まれた。また、この「セルジュ・ドゥ・ニーム」と呼ばれる生地はイタリアのジェノヴァから各国に輸出されたので、産地の「ジェノヴァ」を指す表現は、中世ラテン語では「Genua」と呼ばれ、当時のフランス語(中世フランス語)では 「Gêne(ジェーヌ)」であり、この中世フランス語「Gêne」が英語に入り「jean」という表現が生まれた。 英語では脚に着用するものは、左脚と右脚は別にして考え、socks ソックス(靴下)、pants パンツ、shoes(靴)のように複数形にするものが多いが、これもjeansと複数形になっている。 日本では、「Gパン」という呼び名がある。これは『G.I.(アメリカ軍軍人の俗称)またはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の人々が履いていたパンツでGパンとなった』とする説、『ジーンズを日本に紹介した人物が、ジーン (jean) のパンツの意味で「Jパン」と名づけようとしたが、元の発音に近い「Gパン」を代用した』とする説、『「ジーン生地のパンツ」を略して「ジーパン」となり、「ジー」に「G」を当てて「Gパン」となった』とする説等がある。 デニム生地製の上着はdenim jacket(デニム・ジャケット)あるいはjean jacket(ジーン・ジャケット)である。日本でも、1950年代から1970年代半ばまでは「デニム・ジャケット」又は「デニム・ジャンパー」と呼ばれていたが、1980年代に入るとすっかり(「ジーンズ・ジャンパー」の略の)「ジージャン」という呼称が定着し、「ジーン・ジャケット」と呼ばれる事は減った。 ゴールドラッシュに湧く北米の鉱山で働く多くの鉱夫の悩みのひとつは、作業中にズボン(パンツ)がすぐに掏り切れてしまうことだった。1870年、仕立て屋のヤコブ・デービス(英語版)は、既に設立されていたリーバイス社のリーバイ・ストラウスから仕入れたキャンバス生地を用いて銅リベットでポケットの両端を補強した仕事用パンツ(ワークパンツ)を発売し、これが鉱夫らの好評を博した。ジーンズは最初、鉱夫らの作業着であった。 類似品が出回ることを危惧したヤコブは、このリベット補強済みパンツの特許を取得しようとしたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼し、特許申請は1873年5月20日に受理され、この「リベット補強済みパンツ」はリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売された。このパンツがジーンズの原型である。 1890年に「リベット補強済みパンツ」の特許は期限が切れ、そのアイディアは社会の共有財産となり、誰でもそれを製造してよい状態となり、多くの会社がリベット補強のパンツの製造・販売を開始した。 1900年代に入り、素材はキャンバス生地からインディゴ染めのデニム生地へと変遷し、縫製技術の進化等により1940年代には現在のジーンズとほぼ同様のデザインとなった。 1953年の映画『乱暴者』で主演のマーロン・ブランドがLevi's 501XXを、1955年の映画『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがLee RIDERS 101を着用した。これを見た若者が影響を受け、ジーンズは(米国の若者なりの主張を込めた)ファッションとして普及していった。当時米国では「反抗的な若者の象徴」と見なされたため、ジーンズの着用を禁止する学校が多かった。 現在では、単にカジュアルウェア、カジュアルウェアの中でもかなりくだけたもの、として着用されることが一般的で、1950年のように象徴的な意味が意識されることはほとんどなくなった。ただし、一般に正装とは見なされない。式典、格式の高いパーティなどではドレスコードで「ジーンズ着用者は入室禁止(参加不可)」とされることはしばしばある。また、一部では「アメリカの象徴」とされることがあり、韓国と北朝鮮の軍事境界線にある板門店では、ジーンズを穿いた韓国側からの観光客を、北朝鮮が「韓国はアメリカの手先」とプロパガンダに利用する恐れがあるとし、着用を一切許可していなかったことがある。 1997年、バイエルン州警察は男女警察官の通常勤務服ズボンとして、カーキ色のジーンズを追加採用した。従来型制服のスラックスが女性警察官の体格に合いにくいことに対処したもの。 1923年(大正12年)山本彦太郎、ゑき夫妻がアメリカで「STAR OVERALL MFG CO.」を創業、日本人による初のデニムブランドとなる。 1926年(大正15年)生地の仕入れ方法、裁断、縫製など全ての技術を手に帰国。静岡県沼津市にて作業服製造販売会社「合資会社山本被服製造所」を創業した。民間企業としては日本初の工業被服工場となる。 1931年(昭和6年)に商標登録。 1945年の敗戦後にアメリカ軍 (GHQ) が放出した古着の中の大量のジーンズ、そして一気に流入したアメリカの映画や音楽等が普及のきっかけとなった。敗戦後の占領時代、闇市だったアメ横の店には、米兵相手の娼婦たちが客からもらった中古衣料を売り払いに訪れ、その中にあったブルーの作業スボンをその界隈ではGIパンツ、通称ジーパンと呼んだ。 外交官だった白州は1930年代にアメリカでジーンズを知り、戦後PXで購入したジーンズ姿で寛ぐ写真が1951年に公開され、日本中に知れ渡った。 1956年、栄光商事(後のEIKO)(港区北青山一丁目)がジーンズの輸入販売を開始(その後は米軍やその家族の放出品であるセコハンジーンズを扱う店がアメ横に登場)ロカビリー歌手やGS(グループ・サウンズ)の人気グループ御用達の店として、また長きに渡って一般客にも愛された。1957年には輸入衣料の規制が緩和され、栄光商事や大石貿易がリーやリーバイスと販売契約を結び、大量のジーンズが日本に流入した。 1958年に岡山県倉敷市児島のマルオ被服(現:ビッグジョン) が受託生産を開始。マルオは学生服製造の傍ら、アメ横の米軍放出品販売店から持ち込まれるジーンズの丈直しを手掛けていた関係から、早くからジーンズ製造に関心が高かった。1960年にマルオ被服がジーンズの生産発売を開始。同年に千葉県の高畑縫製がジーンズのEIGHT-Gを生産販売した。(「1961年に東京の常見米八商店(現:エドウイン)がビッグジョンより先に販売した」とする説もあるが、当時アメリカ中古ジーンズの販売を行っていた常見米八商店は息子をジーンズ生産の技術を学ぶために縫製会社の取引先であったマルオ被服に弟子入りさせていたので、あいまいである。) 「キャントン」は、1965年にマルオ被服が、アメリカの中古ジーンズを販売していた大石貿易と取引のあったキャントンミルズ社のデニム生地を買い国内で生産発表したジーンズの名である。大石貿易はいち早くアメリカ産デニムの独占輸入権を取得しており、1964年にジョージア州の布地会社キャントンミルズをパートナーに東京工場で日本市場向けジーンズ「キャントン」を作り始め、その西日本での製造販売契約をマルオと結んだ。当時の日本人には肌さわりが悪くゴワつくジーンズは受けいれられなかったため、マルオ被服 は「ワンオッシュ」という現在のジーンズ生産に重要となる技術を世界で初めて採用し、現在の日本製ジーンズだけでなく世界のジーンズ技術の礎となった。当初、マルオのワンオッシュジーンズは洗濯済みの商品を並べることに抵抗のあった百貨店からは拒絶されたが、1967年にマルオがビッグジョンのブランド名で米国コーンミルズ社のデニムを使った国産ジーンズをデビューさせると値段の手頃さもあって好調に売り上げた。その後1971年には1500万本のジーンズが売れ、1973年には4500万本と日本国内のジーンズ市場は急拡大を見せた。一方で、1970年に米国で布地の輸出が規制され、さらに1971年のニクソン・ショックによる円高でアメリカ産デニム生地は品薄・価格高騰となり、クラボウは広島のカイハラと組んで国産デニムを開発、アメリカ産と遜色ない出来に米国リーバイスからも発注を得た。1972年にはリー・ジャパン(堀越商会)、ラングラー・ジャパン(ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事)が設立され、日本ブランドもビッグジョン、エドウィン、ボブソン、ジョンブル、キャピタル、ベティ・スミス、バイソンなど多数出揃い、1970年代半ばには大手三社だけで300億円近くを売り上げる市場規模に成長した。 現在の日本でのジーンズ生産量1位の地域は、岡山県である[4]。(岡山県はビッグジョン が所在している)[注 2]。 1970年代以降は男性のみならず、若い女性もジーンズをはくようになった。1977年に大阪大学でアメリカ人講師がジーンズを履いた女学生を教室から退室させたことから「阪大ジーパン論争」が起こった。この論争は「ジーパンは作業着で、女性には似つかわしくない」という講師と「ジーパンはもはやファッションの一部」という女学生の主張が真っ向から対立し、最終的に講師が阪大を去るという結果となった。 1980年代には1950年代のリーバイス501などビンテージジーンズのブームが始まり、アメリカの古いジーンズが大量に輸入され、1990年代には数十万円を超える高価で取引されるまで沸騰した。それにともなって、ビンテージモデルを再現した新しいジーンズのリリースも始まった。1980年にビッグジョンが日本初のセルビッジ・デニムを使ったビッグジョン・レアを発売(布幅の狭いセルビッジデニムは手間がかかり大量生産に向かないため本国米国では廃れていた)、売上的には失敗したが、そのセルビッジ・デニム開発を手掛けたクラボウはその自社デニムをフランスのブランドに販売、このフレンチ・ジーンズをきっかけに、1987年にはリーバイス・ジャパンはクラボウのデニムを使って自社の1936年型501XXのレプリカモデル701XXをリリースした。大阪アメリカ村では、のちに「OSAKA5」と呼ばれる5つのショップが相次いでレプリカジーンズやビンテージの風合いを持つジーンズを相次いでリリースした(1982年田垣繁晴ステュディオ・ダ・ルチザン、1988年林芳亨ドゥニーム、1991年山根英彦エヴィスジーンズ、1992年辻田幹晴フルカウント、1995年塩谷兄弟ウエアハウス)。なお、セルビッジ・デニムを復活させたクラボウはその後も開発を続け、1985年に、大量生産時代以前のムラ糸(ジーンズ愛好者が好む「縦落ち」と呼ばれる色落ちを可能にする)を現代の技術で復活、セルビッジ・デニムでは日本は世界をリードするに至った。 こうしたビンテージにこだわるレプリカジーンズは世界的となったが、2007年にリーバイス・ストラウス社が日本のジーンズメーカー10社以上を商標権侵害で訴える騒ぎがあり、レプリカブームは過ぎ去った。セルビッジデニムを使った高額なプレミアムジーンズのブームも終わり、2009年にはGUが990円のジーンズを売り出し話題となった。 インディゴ染めのデニム生地が使用され始めた理由として蛇や虫除けの効用を挙げる説がある。しかし微量ながらピレスロイドが含まれている天然藍には、ある程度の除虫効果があるが、不純物の無い純粋インディゴ(合成インディゴ)にはそのような効果はない。 またインディゴ染料にまつわる俗説として「昔のジーンズには天然インディゴが使用されていた」というものがある。事実は、1900年代のはじめ頃よりインディゴ染料は化学合成されたものがほとんどであり、ヴィンテージ・ジーンズはすべてこの合成インディゴで染色されていた。この説は1990年初頭までは雑誌や古着マニア等の間でまことしやかに流布されていた。逆に現在では高価ながらも少量生産のメリットを生かした天然インディゴ染めのジーンズがいくつかのメーカーから製造販売されている。 2008年9月14日に日本テレビで放送された『世界の果てまでイッテQ!』の企画で、「ジーンズをはいてるとガラガラヘビに噛まれないって本当なの?」というテーマで東貴博と福井未菜がアメリカ合衆国のテキサス州に赴き、東が天然インディゴ染めのジーンズを履いてガラガラヘビ10匹がいるセットを通過すると、当初は襲ってこなかったが、結局飛びつかれた。また、2009年5月23日放送の所さんの目がテン!では合成インディゴ染めのジーンズだと噛まれたが、天然インディゴ染めだと噛まれないとの結果が出ていた。 「オンス (OZ) 」という単位で表され、ジーンズ1本の重さではなく1平方ヤードの生地の重さを表したもの。1オンス = 28.3グラム弱。1平方ヤード = 0.84平方メートル。 一般的には14オンスほどの厚みが多く、しなやかな履き心地がある。厚いほど生地は硬くゴワゴワし、馴染むまで時間がかかる。その硬さは洗濯して天日干しすると、壁に立てかけられるほどである。まさに丈夫で破れにくいのだが、夏場は非常に暑い。過去、1980年代にリーバイス ジャパンが15オンスデニムのモデルを販売していた。一方作業着ではなく、ファッションアイテムとしてのジーンズでは12.5オンス、11オンスなどがある。 ジーンズにダメージ加工を加えることを、ダメージパンツと言う。ダメージパンツは腿(もも)やひざ(膝)にわざと裂け目を入れたジーンズの事を指す。巷ではボロボロジーンズ、穴あきジーンズといわれている。他にもダメージデニム・クラッシュデニムと言われる呼称されている。英語ではRIPPED DENIM(リップドデニムと言い、リップドは「裂いた、切り取った」という意味。ダメージジーンズを自分で作る事も可能。 わざとやすりやナイフで傷を付ける、何度も洗濯機で洗う、漂白剤で浸す、接ぎ当てをする、刺繍を入れる、弾痕状の穴を開ける(ショットガン)など様々な方法でジーンズにわざとダメージを与え、個性的なジーンズを作る者もいる。この作業をダメージ加工という。最初から自然な色あせを作ったり(ユーズド加工)、破いたり(クラッシュ)するなどダメージ加工を施す店ないしメーカーもある。ダメージ加工はデニムの生地を傷めるため、通常のジーンズよりも耐久性が落ちる。 手作業による元祖は、ビッグジョンである。 殆どのアメリカやイギリスの先進国の学校そして日本にある各インターナショナルスクールではドレスコードのルールに従ってダメージ加工の加わった加工のジーンズを着ることが禁止されている。ダメージパンツを学校で着る事は不適当とされている。しかし生徒間の間では個性の主張を制限していると反対の声もあり、ドレスコードのルールにダメージパンツを加えていない学校も存在する。 ケミカルウォッシュ(ケミカルブリーチ)は、洗剤(漂白剤)と砂利大の樹脂塊などを共に洗濯機で攪拌する等したダメージ加工の一種で、日本では1980年代後半に流行した。 一般的なファッション・シーンにおける流行が一巡し終焉を迎えると、ケミカルウォッシュの特徴的な質感が「サシの入った牛肉」のそれに酷似していることから「霜降りジーンズ」などと呼ばれ、時代遅れのアイテムとして侮蔑的に扱われるようになったが、2010年代以降の「80年代テイストファッション」が流行すると、10代向けの商品として再流行した。 ジーンズも衣服であるので着用し汗・皮脂などを吸い込んだりよごれ・ほこりが付着した後には洗濯するのが一般的であるが、生地の表側が洗濯機の内側に擦れて痛むのを嫌い、洗濯時には裏返す事もある。 また、洗剤の中には、蛍光剤や漂白剤が入っている場合があるので、「色落ちを防ぐため」と考えて、それらが含まれていない洗濯石鹸や中性洗剤を使用する者もいる。それらを含まず「ジーンズ専用」と謳った洗剤も売られている。洗剤類を入れず水洗いで済ませる者もいる。なお、実はジーンズの色落ちは洗濯よりもむしろ日光(の紫外線)に当たること(「アタリ」とも)によるところが大きい。それを避けようと、裏返しに干したり、陰干しする者もいる。 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"text": "1953年の映画『乱暴者』で主演のマーロン・ブランドがLevi's 501XXを、1955年の映画『理由なき反抗』でジェームズ・ディーンがLee RIDERS 101を着用した。これを見た若者が影響を受け、ジーンズは(米国の若者なりの主張を込めた)ファッションとして普及していった。当時米国では「反抗的な若者の象徴」と見なされたため、ジーンズの着用を禁止する学校が多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "現在では、単にカジュアルウェア、カジュアルウェアの中でもかなりくだけたもの、として着用されることが一般的で、1950年のように象徴的な意味が意識されることはほとんどなくなった。ただし、一般に正装とは見なされない。式典、格式の高いパーティなどではドレスコードで「ジーンズ着用者は入室禁止(参加不可)」とされることはしばしばある。また、一部では「アメリカの象徴」とされることがあり、韓国と北朝鮮の軍事境界線にある板門店では、ジーンズを穿いた韓国側からの観光客を、北朝鮮が「韓国はアメリカの手先」とプロパガンダに利用する恐れがあるとし、着用を一切許可していなかったことがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1997年、バイエルン州警察は男女警察官の通常勤務服ズボンとして、カーキ色のジーンズを追加採用した。従来型制服のスラックスが女性警察官の体格に合いにくいことに対処したもの。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)山本彦太郎、ゑき夫妻がアメリカで「STAR OVERALL MFG CO.」を創業、日本人による初のデニムブランドとなる。 1926年(大正15年)生地の仕入れ方法、裁断、縫製など全ての技術を手に帰国。静岡県沼津市にて作業服製造販売会社「合資会社山本被服製造所」を創業した。民間企業としては日本初の工業被服工場となる。 1931年(昭和6年)に商標登録。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1945年の敗戦後にアメリカ軍 (GHQ) が放出した古着の中の大量のジーンズ、そして一気に流入したアメリカの映画や音楽等が普及のきっかけとなった。敗戦後の占領時代、闇市だったアメ横の店には、米兵相手の娼婦たちが客からもらった中古衣料を売り払いに訪れ、その中にあったブルーの作業スボンをその界隈ではGIパンツ、通称ジーパンと呼んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "外交官だった白州は1930年代にアメリカでジーンズを知り、戦後PXで購入したジーンズ姿で寛ぐ写真が1951年に公開され、日本中に知れ渡った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1956年、栄光商事(後のEIKO)(港区北青山一丁目)がジーンズの輸入販売を開始(その後は米軍やその家族の放出品であるセコハンジーンズを扱う店がアメ横に登場)ロカビリー歌手やGS(グループ・サウンズ)の人気グループ御用達の店として、また長きに渡って一般客にも愛された。1957年には輸入衣料の規制が緩和され、栄光商事や大石貿易がリーやリーバイスと販売契約を結び、大量のジーンズが日本に流入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1958年に岡山県倉敷市児島のマルオ被服(現:ビッグジョン) が受託生産を開始。マルオは学生服製造の傍ら、アメ横の米軍放出品販売店から持ち込まれるジーンズの丈直しを手掛けていた関係から、早くからジーンズ製造に関心が高かった。1960年にマルオ被服がジーンズの生産発売を開始。同年に千葉県の高畑縫製がジーンズのEIGHT-Gを生産販売した。(「1961年に東京の常見米八商店(現:エドウイン)がビッグジョンより先に販売した」とする説もあるが、当時アメリカ中古ジーンズの販売を行っていた常見米八商店は息子をジーンズ生産の技術を学ぶために縫製会社の取引先であったマルオ被服に弟子入りさせていたので、あいまいである。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "「キャントン」は、1965年にマルオ被服が、アメリカの中古ジーンズを販売していた大石貿易と取引のあったキャントンミルズ社のデニム生地を買い国内で生産発表したジーンズの名である。大石貿易はいち早くアメリカ産デニムの独占輸入権を取得しており、1964年にジョージア州の布地会社キャントンミルズをパートナーに東京工場で日本市場向けジーンズ「キャントン」を作り始め、その西日本での製造販売契約をマルオと結んだ。当時の日本人には肌さわりが悪くゴワつくジーンズは受けいれられなかったため、マルオ被服 は「ワンオッシュ」という現在のジーンズ生産に重要となる技術を世界で初めて採用し、現在の日本製ジーンズだけでなく世界のジーンズ技術の礎となった。当初、マルオのワンオッシュジーンズは洗濯済みの商品を並べることに抵抗のあった百貨店からは拒絶されたが、1967年にマルオがビッグジョンのブランド名で米国コーンミルズ社のデニムを使った国産ジーンズをデビューさせると値段の手頃さもあって好調に売り上げた。その後1971年には1500万本のジーンズが売れ、1973年には4500万本と日本国内のジーンズ市場は急拡大を見せた。一方で、1970年に米国で布地の輸出が規制され、さらに1971年のニクソン・ショックによる円高でアメリカ産デニム生地は品薄・価格高騰となり、クラボウは広島のカイハラと組んで国産デニムを開発、アメリカ産と遜色ない出来に米国リーバイスからも発注を得た。1972年にはリー・ジャパン(堀越商会)、ラングラー・ジャパン(ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事)が設立され、日本ブランドもビッグジョン、エドウィン、ボブソン、ジョンブル、キャピタル、ベティ・スミス、バイソンなど多数出揃い、1970年代半ばには大手三社だけで300億円近くを売り上げる市場規模に成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "現在の日本でのジーンズ生産量1位の地域は、岡山県である[4]。(岡山県はビッグジョン が所在している)[注 2]。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1970年代以降は男性のみならず、若い女性もジーンズをはくようになった。1977年に大阪大学でアメリカ人講師がジーンズを履いた女学生を教室から退室させたことから「阪大ジーパン論争」が起こった。この論争は「ジーパンは作業着で、女性には似つかわしくない」という講師と「ジーパンはもはやファッションの一部」という女学生の主張が真っ向から対立し、最終的に講師が阪大を去るという結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1980年代には1950年代のリーバイス501などビンテージジーンズのブームが始まり、アメリカの古いジーンズが大量に輸入され、1990年代には数十万円を超える高価で取引されるまで沸騰した。それにともなって、ビンテージモデルを再現した新しいジーンズのリリースも始まった。1980年にビッグジョンが日本初のセルビッジ・デニムを使ったビッグジョン・レアを発売(布幅の狭いセルビッジデニムは手間がかかり大量生産に向かないため本国米国では廃れていた)、売上的には失敗したが、そのセルビッジ・デニム開発を手掛けたクラボウはその自社デニムをフランスのブランドに販売、このフレンチ・ジーンズをきっかけに、1987年にはリーバイス・ジャパンはクラボウのデニムを使って自社の1936年型501XXのレプリカモデル701XXをリリースした。大阪アメリカ村では、のちに「OSAKA5」と呼ばれる5つのショップが相次いでレプリカジーンズやビンテージの風合いを持つジーンズを相次いでリリースした(1982年田垣繁晴ステュディオ・ダ・ルチザン、1988年林芳亨ドゥニーム、1991年山根英彦エヴィスジーンズ、1992年辻田幹晴フルカウント、1995年塩谷兄弟ウエアハウス)。なお、セルビッジ・デニムを復活させたクラボウはその後も開発を続け、1985年に、大量生産時代以前のムラ糸(ジーンズ愛好者が好む「縦落ち」と呼ばれる色落ちを可能にする)を現代の技術で復活、セルビッジ・デニムでは日本は世界をリードするに至った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "こうしたビンテージにこだわるレプリカジーンズは世界的となったが、2007年にリーバイス・ストラウス社が日本のジーンズメーカー10社以上を商標権侵害で訴える騒ぎがあり、レプリカブームは過ぎ去った。セルビッジデニムを使った高額なプレミアムジーンズのブームも終わり、2009年にはGUが990円のジーンズを売り出し話題となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "インディゴ染めのデニム生地が使用され始めた理由として蛇や虫除けの効用を挙げる説がある。しかし微量ながらピレスロイドが含まれている天然藍には、ある程度の除虫効果があるが、不純物の無い純粋インディゴ(合成インディゴ)にはそのような効果はない。", "title": "インディゴ染料" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "またインディゴ染料にまつわる俗説として「昔のジーンズには天然インディゴが使用されていた」というものがある。事実は、1900年代のはじめ頃よりインディゴ染料は化学合成されたものがほとんどであり、ヴィンテージ・ジーンズはすべてこの合成インディゴで染色されていた。この説は1990年初頭までは雑誌や古着マニア等の間でまことしやかに流布されていた。逆に現在では高価ながらも少量生産のメリットを生かした天然インディゴ染めのジーンズがいくつかのメーカーから製造販売されている。", "title": "インディゴ染料" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年9月14日に日本テレビで放送された『世界の果てまでイッテQ!』の企画で、「ジーンズをはいてるとガラガラヘビに噛まれないって本当なの?」というテーマで東貴博と福井未菜がアメリカ合衆国のテキサス州に赴き、東が天然インディゴ染めのジーンズを履いてガラガラヘビ10匹がいるセットを通過すると、当初は襲ってこなかったが、結局飛びつかれた。また、2009年5月23日放送の所さんの目がテン!では合成インディゴ染めのジーンズだと噛まれたが、天然インディゴ染めだと噛まれないとの結果が出ていた。", "title": "インディゴ染料" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「オンス (OZ) 」という単位で表され、ジーンズ1本の重さではなく1平方ヤードの生地の重さを表したもの。1オンス = 28.3グラム弱。1平方ヤード = 0.84平方メートル。", "title": "生地の厚み" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一般的には14オンスほどの厚みが多く、しなやかな履き心地がある。厚いほど生地は硬くゴワゴワし、馴染むまで時間がかかる。その硬さは洗濯して天日干しすると、壁に立てかけられるほどである。まさに丈夫で破れにくいのだが、夏場は非常に暑い。過去、1980年代にリーバイス ジャパンが15オンスデニムのモデルを販売していた。一方作業着ではなく、ファッションアイテムとしてのジーンズでは12.5オンス、11オンスなどがある。", "title": "生地の厚み" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ジーンズにダメージ加工を加えることを、ダメージパンツと言う。ダメージパンツは腿(もも)やひざ(膝)にわざと裂け目を入れたジーンズの事を指す。巷ではボロボロジーンズ、穴あきジーンズといわれている。他にもダメージデニム・クラッシュデニムと言われる呼称されている。英語ではRIPPED DENIM(リップドデニムと言い、リップドは「裂いた、切り取った」という意味。ダメージジーンズを自分で作る事も可能。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "わざとやすりやナイフで傷を付ける、何度も洗濯機で洗う、漂白剤で浸す、接ぎ当てをする、刺繍を入れる、弾痕状の穴を開ける(ショットガン)など様々な方法でジーンズにわざとダメージを与え、個性的なジーンズを作る者もいる。この作業をダメージ加工という。最初から自然な色あせを作ったり(ユーズド加工)、破いたり(クラッシュ)するなどダメージ加工を施す店ないしメーカーもある。ダメージ加工はデニムの生地を傷めるため、通常のジーンズよりも耐久性が落ちる。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "手作業による元祖は、ビッグジョンである。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "殆どのアメリカやイギリスの先進国の学校そして日本にある各インターナショナルスクールではドレスコードのルールに従ってダメージ加工の加わった加工のジーンズを着ることが禁止されている。ダメージパンツを学校で着る事は不適当とされている。しかし生徒間の間では個性の主張を制限していると反対の声もあり、ドレスコードのルールにダメージパンツを加えていない学校も存在する。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ケミカルウォッシュ(ケミカルブリーチ)は、洗剤(漂白剤)と砂利大の樹脂塊などを共に洗濯機で攪拌する等したダメージ加工の一種で、日本では1980年代後半に流行した。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "一般的なファッション・シーンにおける流行が一巡し終焉を迎えると、ケミカルウォッシュの特徴的な質感が「サシの入った牛肉」のそれに酷似していることから「霜降りジーンズ」などと呼ばれ、時代遅れのアイテムとして侮蔑的に扱われるようになったが、2010年代以降の「80年代テイストファッション」が流行すると、10代向けの商品として再流行した。", "title": "ダメージ加工" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ジーンズも衣服であるので着用し汗・皮脂などを吸い込んだりよごれ・ほこりが付着した後には洗濯するのが一般的であるが、生地の表側が洗濯機の内側に擦れて痛むのを嫌い、洗濯時には裏返す事もある。", "title": "洗濯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また、洗剤の中には、蛍光剤や漂白剤が入っている場合があるので、「色落ちを防ぐため」と考えて、それらが含まれていない洗濯石鹸や中性洗剤を使用する者もいる。それらを含まず「ジーンズ専用」と謳った洗剤も売られている。洗剤類を入れず水洗いで済ませる者もいる。なお、実はジーンズの色落ちは洗濯よりもむしろ日光(の紫外線)に当たること(「アタリ」とも)によるところが大きい。それを避けようと、裏返しに干したり、陰干しする者もいる。", "title": "洗濯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "中には色落ちや「不格好な皺」(と彼らが考えるもの)ができるのを嫌うあまり「洗濯しない」者すらいる。", "title": "洗濯" } ]
ジーンズとは、デニム生地や他の棉生地でできたカジュアルなズボンやスカート。特にブルーのもの。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2008年4月}} [[File:Jeans.jpg|thumb|right|250px|ジーンズ]] [[File:Jeans for men.jpg|thumb|right|200px|ジーンズを男性が着用した様子]] '''ジーンズ'''({{lang-en|jeans}})とは、[[デニム]][[生地]]や他の[[棉]]生地でできたカジュアルな[[ズボン]]<ref name="Oxford_Dic">[http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/jeans?q=jeans Oxford Dictionaries]</ref>やスカート。特に[[ブルー]]のもの。 == 概説 == ジーンズとは基本的には[[デニム]][[生地]]や他の[[綿]]生地でできた[[カジュアル]]なズボンを指す<ref name="Oxford_Dic" />。 [[File:Blue Jeans (Closeup).jpg|thumb|200px|right|ジーンズの生地の拡大写真]] [[File:Manifattura_genovese,_abito_da_festa_in_tela_di_genova_(jeans),_1850-1900_ca..JPG|thumb|left|ジェノヴァ産の「ジーンズ」 (1850〜1900年ごろ)]] <!--{{要出典|date=2014年7月}}ジーン生地、つまり[[デニム]]生地の[[パンツ]]([[ズボン]])のことであるが、デニム以外にも[[サテン]]や[[コーデュロイ]]製のジーンズも存在する。--> 年齢や性別を問わず幅広い消費者に受容された[[ファッション]]衣料であり、服飾のみならず[[社会学]]の対象となることもある<ref name="Finkelstein">ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学』成実弘至訳 せりか書房 2007年、ISBN 9784796702799 pp.50-53.</ref>。[[ファッションデザイナー|デザイナー]]ブランドの高級品も一般向けの廉価な商品も作りはほぼ同じだが、生地や縫製、部材など、[[洒落|おしゃれ]]かどうかを決定する上では判別することは難しく、細かい違いによって、多様な消費者層を作り出している<ref name="Finkelstein"/>。 === 呼称 === ジーンズとはデニム生地でできたズボンを指すが、そもそもデニム生地で作られた作業着は広告やパッケージングにおいて、Overalls(オーバーオールズ)と呼ばれていた。ジーンズという呼称は、50年代に入ってから当時の若者たちの間で呼ばれ始めたもの。それまでは例えばリーバイス社は、最初のジーンズ誕生時から、伝統的に501をOveralls(オーバーオールズ)と呼称しており、ジーンズとは呼ばれていなかった。日本人による初のデニムブランド、山本被服のブランド名がスターオーバーオールである事もジーンズと呼ばれ始める1950年代以前の創業であることによる。(つまり、それだけ創業が古いという証明でもある)その後、ジーンズという呼称が普及し、全ての製造メーカーで使われる用語となった。 「デニム」の語源はフランス語の「serge de Nîmes(セルジュ・ドゥ・ニーム)」であり、「(フランスの)[[ニーム (フランス)|ニーム]]の[[綾織り]]」といった意味の表現である。ニームの地のアンドレ一族がすぐれた綾織りの布地を作っており、[[布地]]はしばしば[[産地]]の名で呼ぶ習慣があるので、この表現の「de Nîmes(「ニームの」「ニーム産」という意味の部分)」だけを残す形で[[短縮]]され、「denim」という表現が生まれた。また、この「セルジュ・ドゥ・ニーム」と呼ばれる生地はイタリアの[[ジェノヴァ]]から各国に輸出されたので、産地の「ジェノヴァ」を指す表現は、中世[[ラテン語]]では「Genua」と呼ばれ、当時のフランス語([[中世フランス語]])では 「Gêne(ジェーヌ)」であり、この中世フランス語「Gêne」が英語に入り「jean」という表現が生まれた。 英語では脚に着用するものは、左脚と右脚は別にして考え、sock<u>s</u> ソックス([[靴下]])、pant<u>s</u> パンツ、shoe<u>s</u>([[靴]])のように[[複数形]]にするものが多いが、これもjean<u>s</u>と複数形になっている。 日本では、「Gパン」という呼び名がある。これは『{{要出典範囲|G.I.([[アメリカ軍]][[軍人]]の俗称)またはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の人々が履いていたパンツでGパンとなった|date=2014年7月}}』とする説、『{{要出典範囲|ジーンズを日本に紹介した人物が、ジーン (jean) のパンツの意味で「Jパン」と名づけようとしたが、元の発音に近い「Gパン」を代用した|date=2014年7月}}』とする説、『{{要出典範囲|「ジーン生地のパンツ」を略して「ジーパン」となり、「ジー」に「G」を当てて「Gパン」となった|date=2014年7月}}』とする説等がある。 デニム生地製の[[上着]]は'''denim jacket'''(デニム・ジャケット)あるいは'''jean jacket'''(ジーン・ジャケット)である。日本でも、[[1950年代]]から[[1970年代]]半ばまでは「デニム・ジャケット」又は「デニム・ジャンパー」と呼ばれていたが、[[1980年代]]に入るとすっかり(「ジーンズ・[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]」の略の)「ジージャン」という呼称が定着し、「ジーン・ジャケット」と呼ばれる事は減った。 == 歴史 == === 米国 === [[ゴールドラッシュ]]に湧く北米の[[鉱山]]で働く多くの鉱夫の悩みのひとつは、作業中に[[ズボン]]([[パンツ]])がすぐに掏り切れてしまうことだった。1870年、仕立て屋の{{仮リンク|ヤコブ・デービス|en|Jacob W. Davis}}は、既に設立されていた[[リーバイス]]社の[[リーバイ・ストラウス]]から仕入れた[[帆布|キャンバス]]生地を用いて銅[[リベット]]で[[ポケット]]の両端を補強した仕事用パンツ(ワークパンツ)を発売し、これが[[鉱夫]]らの好評を博した。ジーンズは最初、鉱夫らの'''作業着'''であった。 [[画像:US139121.png|thumb|100px|left|特許明細書中の図案]] 類似品が出回ることを危惧したヤコブは、このリベット補強済みパンツの[[特許]]を取得しようとしたが必要な資金が無く、権利を折半するという条件でリーバイ・ストラウス社に特許申請を依頼し、特許申請は[[1873年]]5月20日に受理され、この「リベット補強済みパンツ」はリーバイ・ストラウス社製の製品として製造販売された。このパンツがジーンズの原型である。 [[File:Civilian Conservation Corps at an experimental farm in Beltsville, Maryland - NARA - 195830.tif|thumb|right|200px|ジーンズを着用して働く労働者たち(1933年ころ、メリーランド州)]] [[1890年]]に「リベット補強済みパンツ」の特許は期限が切れ、そのアイディアは社会の共有財産となり、誰でもそれを製造してよい状態となり、多くの会社がリベット補強のパンツの製造・販売を開始した。 [[画像:Closeup_of_copper_rivet_on_jeans.jpg|thumb|left|200px|ジーンズの特徴のひとつである(特に擦り切れやすい箇所である)ポケット端を補強するリベットボタン。古くは[[銅]]製だったが、今では[[真鍮]]製が多い。]] 1900年代に入り、素材はキャンバス生地から[[インディゴ|インディゴ染め]]のデニム生地へと変遷し、[[縫製]]技術の進化等により1940年代には現在のジーンズとほぼ同様のデザインとなった。 [[File:StateLibQld 1 199923 Young woman modelling a pair of denim jeans and a checked shirt, 1952.jpg|thumb|right|140px|1952年のジーンズの販売促進用(広告用)写真。女性の手に枯葉などを取り除く掃除道具を持たせている。]] [[File:The Swinging Blue Jeans.png|thumb|160px|right|1960年代に活躍した[[スウィンギング・ブルー・ジーンズ|Swinging Blue Jeans]]というイギリスの音楽グループ(1965年)。]] [[File:Construction Workers.jpg|thumb|right|160px|ジーンズを着用して鉄骨を組む作業をする建設現場の労働者たち(2006年、米国マサチューセッツ州)]] [[1953年]]の映画『[[乱暴者]]』で主演の[[マーロン・ブランド]]がLevi's [[501XX]]を、[[1955年]]の映画『[[理由なき反抗]]』で[[ジェームズ・ディーン]]が[[リー (ジーンズ)|Lee]] RIDERS 101を着用した。これを見た若者が影響を受け、ジーンズは(米国の若者なりの主張を込めた)[[ファッション]]として普及していった。当時[[アメリカ合衆国|米国]]では「反抗的な若者の象徴」と見なされたため、ジーンズの着用を禁止する学校が多かった。 現在では、単に[[カジュアルウェア]]、カジュアルウェアの中でもかなりくだけたもの、として着用されることが一般的で、1950年のように象徴的な意味が意識されることはほとんどなくなった。ただし、一般に正装とは見なされない。式典、格式の高いパーティなどでは[[ドレスコード]]で「ジーンズ着用者は入室禁止(参加不可)」とされることはしばしばある。また、一部では「アメリカの象徴」とされることがあり、韓国と北朝鮮の[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]にある[[板門店]]では、ジーンズを穿いた韓国側からの観光客を、北朝鮮が「韓国はアメリカの手先」とプロパガンダに利用する恐れがあるとし、着用を一切許可していなかったことがある。 === ドイツ === 1997年、[[バイエルン州]][[地方警察 (ドイツ)|警察]]は男女警察官の通常勤務服ズボンとして、カーキ色のジーンズを追加採用した。従来型制服の[[スラックス]]が女性警察官の体格に合いにくいことに対処したもの。 === 日本 === 1923年(大正12年)山本彦太郎、ゑき夫妻がアメリカで「STAR OVERALL MFG CO.」を創業、日本人による初のデニムブランドとなる。 1926年(大正15年)生地の仕入れ方法、裁断、縫製など全ての技術を手に帰国。静岡県沼津市にて作業服製造販売会社「合資会社山本被服製造所」を創業した。民間企業としては日本初の工業被服工場となる。 1931年(昭和6年)に商標登録。 [[1945年]]の敗戦後にアメリカ軍 (GHQ) が放出した古着の中の大量のジーンズ、そして一気に流入したアメリカの映画や音楽等が普及のきっかけとなった{{要出典|date=2014年7月}}。敗戦後の占領時代、[[闇市]]だった[[アメ横]]の店には、[[パンパン|米兵相手の娼婦]]たちが客からもらった中古衣料を売り払いに訪れ、その中にあったブルーの作業スボンをその界隈では[[GI]]パンツ、通称ジーパンと呼んだ<ref name=ametora4>『アメトラ』デーヴィッド・マークス、DU BOOKS、2017、4章ジーンズ革命p112-142</ref>。 外交官だった白州は1930年代にアメリカでジーンズを知り、戦後[[酒保|PX]]で購入したジーンズ姿で寛ぐ写真が1951年に公開され、日本中に知れ渡った<ref name=ametora4/>。 [[1956年]]、栄光商事(後のEIKO)(港区北青山一丁目)がジーンズの輸入販売を開始{{要出典|date=2014年7月}}<ref group="注">現在は多様な店舗展開により北青山一丁目の本店は閉鎖されている。</ref>(その後は米軍やその家族の放出品である[[セコハン]]ジーンズを扱う店が[[アメ横]]に登場)[[ロカビリー]]歌手や[[グループ・サウンズ|GS(グループ・サウンズ)]]の人気グループ御用達の店として、また長きに渡って一般客にも愛された{{要出典|date=2014年7月}}。1957年には輸入衣料の規制が緩和され、栄光商事や大石貿易がリーやリーバイスと販売契約を結び、大量のジーンズが日本に流入した<ref name=ametora4/>。 [[1958年]]に岡山県[[倉敷市]]児島のマルオ被服(現:[[ビッグジョン]]) が[[受託生産]]を開始{{要出典|date=2014年7月}}。マルオは学生服製造の傍ら、アメ横の米軍放出品販売店から持ち込まれるジーンズの丈直しを手掛けていた関係から、早くからジーンズ製造に関心が高かった<ref name=ametora4/>。[[1960年]]にマルオ被服がジーンズの生産発売を開始。同年に千葉県の高畑縫製がジーンズの[[EIGHT-G]]を生産販売した{{要出典|date=2014年7月}}。(「[[1961年]]に東京の常見米八商店(現:[[エドウイン]])がビッグジョンより先に販売した」とする説もある{{要出典|date=2014年7月}}が、当時アメリカ中古ジーンズの販売を行っていた常見米八商店は息子をジーンズ生産の技術を学ぶために縫製会社の取引先であったマルオ被服に弟子入りさせていたので、あいまいである。) 「キャントン」は、[[1965年]]にマルオ被服が、アメリカの中古ジーンズを販売していた大石貿易と取引のあった[[キャントンミルズ]]社のデニム生地を買い国内で生産発表したジーンズの名である。大石貿易はいち早くアメリカ産デニムの独占輸入権を取得しており、1964年にジョージア州の布地会社キャントンミルズをパートナーに東京工場で日本市場向けジーンズ「キャントン」を作り始め、その西日本での製造販売契約をマルオと結んだ<ref name=ametora4/>。当時の日本人には肌さわりが悪くゴワつくジーンズは受けいれられなかったため、マルオ被服 は「ワンオッシュ」という現在のジーンズ生産に重要となる技術を世界で初めて採用し、現在の日本製ジーンズだけでなく世界のジーンズ技術の礎となった。当初、マルオのワンオッシュジーンズは洗濯済みの商品を並べることに抵抗のあった百貨店からは拒絶されたが、1967年にマルオがビッグジョンのブランド名で米国コーンミルズ社のデニムを使った国産ジーンズをデビューさせると値段の手頃さもあって好調に売り上げた<ref name=ametora4/>。その後1971年には1500万本のジーンズが売れ、1973年には4500万本と日本国内のジーンズ市場は急拡大を見せた<ref name=ametora4/>。一方で、1970年に米国で布地の輸出が規制され、さらに1971年の[[ニクソン・ショック]]による円高でアメリカ産デニム生地は品薄・価格高騰となり、[[クラボウ]]は広島の[[カイハラ]]と組んで国産デニムを開発、アメリカ産と遜色ない出来に米国リーバイスからも発注を得た<ref name=ametora4/>。1972年にはリー・ジャパン(堀越商会)、ラングラー・ジャパン(ヴァン・ジャケット、東洋紡、三菱商事)が設立され、日本ブランドもビッグジョン、エドウィン、ボブソン、ジョンブル、キャピタル、ベティ・スミス、バイソンなど多数出揃い、1970年代半ばには大手三社だけで300億円近くを売り上げる市場規模に成長した<ref name=ametora4/>。 現在の日本でのジーンズ生産量1位の地域は、岡山県である[4]。(岡山県はビッグジョン が所在している)[注 2]。 1970年代以降は男性のみならず、若い女性もジーンズをはくようになった。[[1977年]]に[[大阪大学]]でアメリカ人講師がジーンズを履いた女学生を教室から退室させたことから「阪大ジーパン論争」が起こった。この論争は「ジーパンは作業着で、女性には似つかわしくない」という講師と「ジーパンはもはやファッションの一部」という女学生の主張が真っ向から対立し、最終的に講師が阪大を去るという結果となった<ref>{{Cite news|url=https://mmis.hkpl.gov.hk/coverpage/-/coverpage/view?_coverpage_WAR_mmisportalportlet_hsf=%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2&_coverpage_WAR_mmisportalportlet_actual_q=%28%20verbatim_dc.collection%3A%28%22Old%5C%20HK%5C%20Newspapers%22%29%20%29%20AND+%28%20%28%20allTermsMandatory%3A%28true%29%20OR+all_dc.title%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20OR+all_dc.creator%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20OR+all_dc.contributor%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20OR+all_dc.subject%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20OR+fulltext%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20OR+all_dc.description%3A%28%E7%89%9B%E4%BB%94%E8%A4%B2%29%20%29%20%29&_coverpage_WAR_mmisportalportlet_sort_field=score&p_r_p_-1078056564_c=QF757YsWv5%2BaFKLr9PBvgILoEa3mihLU&_coverpage_WAR_mmisportalportlet_o=11&_coverpage_WAR_mmisportalportlet_sort_order=desc|title=女生七嘴八舌嚷「解放」 老教授硬是不准入課堂|language= Chinese|last=|first=|date=May 27, 1977|work=The Kung Sheung Daily News|access-date=February 25, 2019}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.news-postseven.com/archives/20110409_17067.html |title=大阪大学講師 過去にジーンズ姿の女子大生の受講を拒否 |trans-title= |date=2011-04-09 |language=Japanese |work=NEWSポストセブン |access-date=2020-10-10}}</ref>。 1980年代には1950年代のリーバイス501などビンテージジーンズのブームが始まり、アメリカの古いジーンズが大量に輸入され、1990年代には数十万円を超える高価で取引されるまで沸騰した<ref name=ametora9>『アメトラ』デーヴィッド・マークス、9章ビンテージとレプリカp287-322</ref>。それにともなって、ビンテージモデルを再現した新しいジーンズのリリースも始まった<ref name=ametora9/>。1980年にビッグジョンが日本初のセルビッジ・デニムを使ったビッグジョン・レアを発売(布幅の狭いセルビッジデニムは手間がかかり大量生産に向かないため本国米国では廃れていた)、売上的には失敗したが、そのセルビッジ・デニム開発を手掛けた[[クラボウ]]はその自社デニムをフランスのブランドに販売、このフレンチ・ジーンズをきっかけに、1987年にはリーバイス・ジャパンはクラボウのデニムを使って自社の1936年型[[501XX]]のレプリカモデル701XXをリリースした<ref name=ametora9/>。大阪[[アメリカ村]]では、のちに「OSAKA5」と呼ばれる5つのショップが相次いでレプリカジーンズやビンテージの風合いを持つジーンズを相次いでリリースした(1982年田垣繁晴[[ステュディオ・ダ・ルチザン]]、1988年林芳亨ドゥニーム、1991年山根英彦[[エヴィスジーンズ]]、1992年辻田幹晴[[フルカウント]]、1995年塩谷兄弟[[ウエアハウス]])<ref>[http://amerikamura80.up.seesaa.net/image/E696B0E38197E38184E681AFE590B9_A4.pdf アメリカ村『新しい息吹の集まるまち』【1985年前後】]</ref><ref name=ametora9/>。なお、セルビッジ・デニムを復活させたクラボウはその後も開発を続け、1985年に、大量生産時代以前のムラ糸(ジーンズ愛好者が好む「縦落ち」と呼ばれる色落ちを可能にする)を現代の技術で復活、セルビッジ・デニムでは日本は世界をリードするに至った<ref name=ametora9/><ref>[https://toddshelton.com/blog/products/jeans/selvage-denim What is Selvedge Denim?]Tod Shelton, October 29, 2019</ref>。 こうしたビンテージにこだわるレプリカジーンズは世界的となったが、2007年にリーバイス・ストラウス社が日本のジーンズメーカー10社以上を商標権侵害で訴える騒ぎがあり、レプリカブームは過ぎ去った<ref>[http://fashionpathfinder.tokyo/?p=9214 ジャパンデニムの分岐点!2007年Levi’s(リーバイス)事件]FAsion Pathfinder, 2019-05-27</ref>。セルビッジデニムを使った高額な[[プレミアムジーンズ]]のブームも終わり、2009年には[[ジーユー|GU]]が990円のジーンズを売り出し話題となった<ref name=ametora9/>。 == インディゴ染料 == [[インディゴ]]染めのデニム生地が使用され始めた理由として蛇や虫除けの効用を挙げる説がある。しかし微量ながら[[ピレスロイド]]が含まれている天然[[アイ (植物)|藍]]には、ある程度の除虫効果があるが、不純物の無い純粋インディゴ(合成インディゴ)にはそのような効果はない。 またインディゴ染料にまつわる俗説として「昔のジーンズには天然インディゴが使用されていた」というものがある。事実は、1900年代のはじめ頃よりインディゴ染料は化学合成されたものがほとんどであり、ヴィンテージ・ジーンズはすべてこの合成インディゴで染色されていた。この説は1990年初頭までは雑誌や古着マニア等の間でまことしやかに流布されていた。逆に現在では高価ながらも少量生産のメリットを生かした天然インディゴ染めのジーンズがいくつかのメーカーから製造販売されている。 [[2008年]]9月14日に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で放送された『[[世界の果てまでイッテQ!]]』の企画で、「ジーンズをはいてるとガラガラヘビに噛まれないって本当なの?」というテーマで[[東貴博]]と[[福井未菜]]が[[アメリカ合衆国]]の[[テキサス州]]に赴き、東が天然インディゴ染めのジーンズを履いて[[ガラガラヘビ]]10匹がいるセットを通過すると、当初は襲ってこなかったが、結局飛びつかれた。また、[[2009年]]5月23日放送の[[所さんの目がテン!]]では合成インディゴ染めのジーンズだと噛まれたが、天然インディゴ染めだと噛まれないとの結果が出ていた。 == 生地の厚み == [[File:Jeans at a store..jpg|thumb|200px|right|ジーンズが店舗で積まれた状態]] 「[[オンス]] (OZ) 」という単位で表され、ジーンズ1本の重さではなく1[[平方ヤード]]の生地の重さを表したもの。1オンス = 28.3グラム弱。1平方ヤード = 0.84[[平方メートル]]。 一般的には14オンスほどの厚みが多く、しなやかな履き心地がある。厚いほど生地は硬くゴワゴワし、馴染むまで時間がかかる。その硬さは洗濯して天日干しすると、壁に立てかけられるほどである。まさに丈夫で破れにくいのだが、夏場は非常に暑い。過去、1980年代にリーバイス ジャパンが15オンスデニムのモデルを販売していた。一方作業着ではなく、ファッションアイテムとしてのジーンズでは12.5オンス、11オンスなどがある。 == シルエット・スタイル == * 5ポケットパンツ ** 前部に左右のポケットとコインポケット、そして臀部の左右のパッチポケットの計五つのポケットを備えたパンツのこと。いわゆるジーンズの基本デザインであるが、デニム以外の多種多様な素材もよく用いられる。 [[File:Bellbottoms sm.svg|thumb|right|100px|ベルボトム]] [[File:Ellecid-1.jpg|thumb|right|150px|スキニージーンズ]] * ストレート ** [[テーパードストレート]] ** [[パイプドステム]] * [[スリム]]:膝から裾にかけてストレートよりも細くなるもの。 * [[フレア]] ** [[ベルボトム]]:裾の広がりがブーツカットよりも大きいもの。 ** [[ブーツカット]]:膝から裾にかけて[[カウボーイブーツ|ブーツ]]が収まる程度に広がっているもの。 * [[バギーパンツ|バギー]] * [[ローライズ]] * [[ヒップハング]] * スキニー<ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%A0/ スキニーデニム] - goo辞書(デジタル大辞泉)、2020年9月24日閲覧。</ref> ** スキニーとは「[[皮膚]]のような」という意味を表しており、脚の筒の形が、全体的に肌にぴったりとなるように作られている。従来の、細身のジーンズなどより、より細く作られている。 ** 伸縮性のある[[ポリウレタン]]、[[ポリエステル]]等を含む混紡の[[デニム]]を使用することが多く、これが従来のスリムジーンズとは違った肌に張り付いたような感触とシルエットをもたらす。近年は[[コーデュロイ]]や[[サテン]]製の物も出てきた。 ** 1990年代から[[ヘルムート・ラング]]、[[ラフシモンズ]]といったデザイナーズ[[ブランド]]でタイトなラインを描くジーンズはあったが、2000年代[[ディオール|ディオール・オム]]の裾を溜めるスキニージーンズの流行をきっかけにブームが始まった。その後[[チープマンデー]]、[[エイプリル77]]、[[ドクターデニム]]、[[ジスト]]といったスキニーを代表商品として人気を伸ばすブランドも現れ、[[ユニクロ]]などの安価なスキニーも浸透した。 * [[ディナー]](ディナージーンズ) * ブッシュパンツ ** ブッシュ(やぶ、茂み)で穿くことを想定したアウトドア用途のパンツ。70年代以降からよく見られる。前部の左右のポケットと両膝にフタの付いたパッチポケット、臀部にフタの付いた左右のパッチポケットの計六つのポケットを備えている。主にデニムやコーデュロイが用いられる。ポケット補強用のリベットは使用されない。 == ダメージ加工 == [[画像:Blond_woman_with_jeans_white_top_and_sun_glasses.jpg|thumb|right|200px|ダメージジーンズの一例。]] ジーンズにダメージ加工を加えることを、ダメージパンツと言う。ダメージパンツは腿(もも)やひざ(膝)にわざと裂け目を入れたジーンズの事を指す。巷ではボロボロジーンズ、穴あきジーンズといわれている。他にもダメージデニム・クラッシュデニムと言われる呼称されている。英語ではRIPPED DENIM(リップドデニムと言い、リップドは「裂いた、切り取った」という意味。ダメージジーンズを自分で作る事も可能。 わざと[[やすり]]や[[ナイフ]]で傷を付ける、何度も洗濯機で洗う、漂白剤で浸す、接ぎ当てをする、[[刺繍]]を入れる、弾痕状の穴を開ける(ショットガン)など様々な方法でジーンズにわざとダメージを与え、個性的なジーンズを作る者もいる。この作業をダメージ加工という。最初から自然な色あせを作ったり(ユーズド加工)、破いたり(クラッシュ)するなどダメージ加工を施す店ないしメーカーもある。ダメージ加工はデニムの生地を傷めるため、通常のジーンズよりも耐久性が落ちる。 手作業による[[元祖]]は、[[ビッグジョン]]{{要出典|date=2014年7月}}である<ref>{{Wayback|url=http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber3/preview_20110823.html |title=日経スペシャル ガイアの夜明け 第480回|date=20160304120038}} [[テレビ東京]]、2011年8月23日</ref>。 殆どのアメリカやイギリスの先進国の学校そして日本にある各インターナショナルスクールではドレスコードのルールに従ってダメージ加工の加わった加工のジーンズを着ることが禁止されている。ダメージパンツを学校で着る事は不適当とされている。しかし生徒間の間では個性の主張を制限していると反対の声もあり、ドレスコードのルールにダメージパンツを加えていない学校も存在する。 === ケミカルウォッシュ === [[画像:RiverIslandjeans.jpg|thumb|right|100px|ケミカルウォッシュのジーンズの一例。]] ケミカルウォッシュ(ケミカルブリーチ)は、洗剤(漂白剤)と砂利大の樹脂塊などを共に洗濯機で攪拌する等したダメージ加工の一種で、日本では[[1980年代]]後半に流行した。 一般的なファッション・シーンにおける流行が一巡し終焉を迎えると、ケミカルウォッシュの特徴的な質感が「サシの入った[[牛肉]]」のそれに酷似していることから「[[霜降り肉|霜降り]]ジーンズ」などと呼ばれ、時代遅れのアイテムとして侮蔑的に扱われるようになったが、2010年代以降の「80年代テイストファッション」が流行すると、10代向けの商品として再流行した。 == 洗濯 == ジーンズも衣服であるので着用し汗・皮脂などを吸い込んだりよごれ・ほこりが付着した後には[[洗濯]]するのが一般的であるが、生地の表側が洗濯機の内側に擦れて痛むのを嫌い、洗濯時には裏返す事もある。 また、洗剤の中には、[[蛍光剤]]や[[漂白剤]]が入っている場合があるので、「色落ちを防ぐため」と考えて、それらが含まれていない洗濯石鹸や中性洗剤を使用する者もいる。それらを含まず「ジーンズ専用」と謳った洗剤も売られている。洗剤類を入れず水洗いで済ませる者もいる。なお、実はジーンズの色落ちは洗濯よりもむしろ日光(の[[紫外線]])に当たること(「アタリ」とも)によるところが大きい。それを避けようと、裏返しに干したり、陰干しする者もいる。 中には色落ちや「不格好な皺」(と彼らが考えるもの)ができるのを嫌うあまり「洗濯しない」者すらいる。 == 用語 == ; ステッチ : 縫製糸または、縫製のこと。ジーンズに用いられる縫製は、バータック(後述)を除くとシングル[[ステッチ]]とチェーンステッチに大別される。黄色またはオレンジ色の糸が大半だが、カラージーンズなどではジーンズの色に合わせたステッチも存在し、そちらは糸の色が目立ちにくい。 ; パッチ : ウエストバンドの後ろにつく革や紙製のラベルのこと。主にブランド名やサイズなどが表記されている。復刻版でない[[古着]]ではそのデザインや字体からおおよその製造年代を判別することができるが、紙パッチの場合消失したりして困難なこともある。 ; コインポケット(ウォッチポケット) : ジーンズ前面右手[[ポケット]]上部に付いている、デニムで出来た小さなポケットのこと。もともとは[[懐中時計]]を収納するためのウォッチポケットであり、[[スラックス]]前面右ポケット内にあるウォッチポケットと同じ目的で付けられているのだが、腕時計の普及に伴い使用されなくなっていった。現在の名前のとおり硬貨を入れるために流用することも出来るが、もともと懐中時計1個をぴったり収めるだけの用途であったためポケットにマチが付けられておらず、実際に硬貨を収納するにはスペースがほとんどないに等しい。よって一種の装飾部位として仕様だけが引き継がれている。 ; [[リベット]] : ポケットの端など力のかかる部分を補強するために打ち込まれた鋲のこと。ジーンズ誕生の要。金属製で[[銅]](コパーもしくはカパー。赤銅色)が素材として用いられる。ほかには[[鉄]](黒褐色)や[[アルミ]]、[[ニッケル]](銀色)、真鍮などの[[合金]]が生地の色などに応じて使われることもある。また形状もブランドによって異なる。現在はカンヌキと呼ばれるバータック(ジグザグのステッチ)で代用される場合もあり、リベットが無いジーンズも存在する。1937 - 1966年のリーバイスジーンズでは、鞍を傷つけないためにバックポケットの補強部分については生地の内側から打たれた「隠しリベット」が用いられた。1940年代までには股部分にもリベットが施されていた(クロッチリベット)。 ; スレーキ : フロントポケットの袋布に使用される素材名。堅牢な綿素材が一般的。 ; 右綾・左綾 : デニムの綾目の方向のこと。一般的には右綾が用いられる。左綾のジーンズは Lee が有名。それぞれ色落ちや、収縮率の大きいジーンズでは脚部の捩れなどに違いが出る。 ; シンチ[[バックル]](バックシンチ) : 後ろの腰部分に付けられたウエストのサイズを調節するバンド(アジャスターストラップ)。ワークウェアとしての位置付けが強かったジーンズ黎明期では[[サスペンダー]]と共にもっぱら取り入れられていたが、ファッションウェアとして傾向するにしたがって[[ベルト (服飾)|ベルト]]によってウエスト調節をするのが主流となり、リーバイス501では第二次世界大戦中に発売したモデルを契機に仕様から外された。ただし現在でも仕様の一つとして、シンチバックルが取り付けられたジーンズが様々なメーカーから販売されている。 ; タブ : ヒップポケットの回りなどに縫い付けられたブランドを表す織りネーム。リーバイス・ジーンズでは右ヒップポケット左上に赤、オレンジ、白などのタブが付く。リーのタブは右ヒップポケット口ステッチ内に、ラングラーでは主にバックヨークのダブルステッチ内に縫い付けられている。なお混同され易いが、タグとはジーンズ内部に付けられる品質表示や注意書きのラベル(インサイドネーム)、または外部に付けられるハングタグなどを指す。 ; 大戦モデル : 第二次世界大戦中のジーンズのこと。物質統制により簡素化されたディテールが特徴。 ; バックヨーク(サドルバック) : 腰の切り返し部分、すなわちウエストバンドとヒップの間の鈍角二等辺三角形の部分のこと。ジーンズ形成の上で重要な部分である。 ; セルビッジ({{lang-en-us|[[:en:selvage|selvage]]}}、{{lang-en-gb|selvedge}}) : 耳とも呼ばれ、生地の両端のこと。シャットル[[織機]]は織り幅が36インチ前後と狭く、ジーンズを縫製するために効率よく生地を裁断するとこのセルビッジが両足の外側に回されることになる。そしてジーンズが脇割り縫い仕様である場合このセルビッジが特徴的な色落ちをもたらす。英語圏ではジーンズに限らず広く用いられる裁縫用語で、語源は中世英語のselfegge(現代英語の正書法ではself-edge)であり、最初の使用例は15世紀に遡ることができる<ref>[[ウェブスター辞典|メリアム=ウェブスター辞典オンライン版]]:"Selvage." Merriam-Webster.com. Merriam-Webster, n.d. Web. 15 Aug. 2014. http://www.merriam-webster.com/dictionary/selvage.</ref>。 ; 赤耳 : 赤いステッチが入っているデニムのセルビッジのこと。裾の裏側で確認できる。古いリーバイスジーンズの特徴の一つであったが、1990年代以降のオールドリーバイス復刻モデル(レプリカまたはリプロダクト)や、他メーカーでもヴィンテージ様に作られたジーンズでは現在もよく見られる。 ; 脇割り縫い : 縫製方法の一つ。ジーンズに限らず一般的なスラックスに用いられる。対義語はインターロック(合わせ縫いの後生地の端を割らずにかがり縫いする縫製)。 ; バータック :ジーンズの前フライ下股部分やヒップポケット両側上端、ベルトループの縫製などに用いられる棒状の補強縫製のこと。ステッチの形状が棒=バーのようであることからバータックと呼ばれ、日本では[[閂 (裁縫)|カンヌキ(止め)]]などの呼び名も使われる。リーバイスジーンズは原型では股の部分やヒップポケットがリベット補強されており、1950‐1960年代にリベットの廃止に伴ってバータックに変わった。横一文字またはそれを平行に並べるのが基本だが、ヒップポケットなどに×印形のバータックを施すブランドもある。 ; ボタンフライ : フロント部がボタンになっていること。リーバイス501が代表的。防縮加工技術が開発される前は、ほとんど全てのパンツはボタンフライであった。 ; ジップフライ : フロント部が[[ジッパー]]になっていること。 ;トップボタン :ウエスト部を留めるフロントボタンのこと。ジップフライのジーンズではボタンは1つしかないが、ボタンフライの場合は一番上に付くボタンとなるのでこう呼ばれる。表面にブランド名が刻印されるのが一般的。ラングラーはフラットな面のトップボタンを採用し、そこにロープ文字をイメージしたブランドロゴが刻印されている。これに対しリーバイスは表面が複雑なレリーフ状のデザインとなっており、裏側留部には生産工場番号が刻印される。 ; ヒップポケット : バックポケットとも言う。ヒップの部分に大抵左右一対となるよう設けられた大き目のポケット。五角形のものが多いが、Leeの楯形や、長方形、変則六角形、U字形のもの、また近年はフラップ付き(ダミーも含む)のものも見られる。リーバイスのアーキュエットステッチ(弓引き形)や、ラングラー、エドウインのW字ステッチ、LeeのレイジーS のようにブランドを表すステッチが施されることが多く、これは補強布を縫い付けるためのステッチが起源である。 ; [[ヴィンテージ]] : フランス語で[[ワイン]]の生産年のことである。特に豊作の年の極上ワインを「Vintage wine」と称することから、ジーンズの過去の名品を総称してヴィンテージジーンズと呼ぶことがある。年代や状態にもよるが、ヴィンテージジーンズは一部の愛好家の間で高値で取り引きされ、希少性の高い古い年代の[[デッドストック]]では数百万円という値が付けられる事もある。 ; ダメージジーンズ : ファッション性を高めるために傷や汚れ、脱色といった加工を加えたジーンズ。 ; アタリ({{lang-en|fades}}) : ジーンズの腿、膝、ヒップ、裾など突出した部位の色落ちおよびその部分を指す言葉。デニム表面が色々なところに擦れて=当たって色落ちすることから。裾のアタリは纏りがシングルステッチだと縦じわ状に出るが、チェーンステッチでは斜めに出る。 ; ヒゲ({{lang-en|whiskers}};日本語のヒゲを輸入して{{lang-en|hige}}とも言う<ref>[http://www.heddels.com/dictionary/hige/ Heddels Dictionary] 2014-08-16閲覧</ref>) : ジーンズの腿の付け根周辺に出る筋状の履きじわが、履き込む過程で擦れてできる色落ちのこと。形状が猫のヒゲに似ていることから。 ; 蜂の巣({{lang-en|honeycombs}}) : ひざ裏のしわによってできる、ひざ裏部分の色落ちのこと。裏ヒゲとも呼ばれる。 ; ディナージーンズ : 1979年 - 1982年頃にニューヨークやフランスで流行った、主に女性用のディナーの際に着用してもおかしくないドレスアップされたジーンズの総称。高いウエストは締まりヒップラインを強調しサイステッチやバックポケットのステッチに凝っている。サスーンや[[カルバン・クライン]]等の製品が有名であった。 ; リジッド : 防縮加工を施していない、未洗いの状態で出荷されたジーンズを主に指す。ノンウォッシュや生デニム等と称される事もある(特性等については下記のLevi's501を参照)。また防縮加工デニムであっても、生地に洗いがかけられておらず糊がついたままの生の状態を表す。 ; ストーンウォッシュ : ジーンズのユーズド加工の原点である洗い加工の手法。ジーンズを軽石と一緒に洗うことで、石とデニムの表面が擦れてジーンズ全体が中古感のある色落ちとなる。1970年代後半にエドウインが始めたのが最初。なお洗い(ウォッシュ)に関しては、概ね色の濃い方から リジッド - ワンウォッシュ(リンス) - ストーンウォッシュ - ケミカルウォッシュ - ブリーチ という順になる。洗い加工はブルージーンズに限らずブラックジーンズなどにも行われる。近年は部分的に色を落としたり、汚れのような染色を加えるユーズド加工もよく行われる。 ; 後染め : 製品染めとも言う。先染めに対する言葉で、布(生地)を織り上げてから染色すること。メーカーから発売されるカラージーンズは大抵、大元がホワイトジーンズでこれを後染めして作られる。ショップによってはブルージーンズをも後染めして販売している。なおブラックジーンズには、全面的に後染めされたリアルブラックと、ブルージーンズの縦糸を黒に変えたブラックデニムで作られるもの(先染め)の2種類がある。 ; フラッシャー : 新品の販売時にジーンズの右ヒップポケットの辺りに取り付けられている、大きな紙製の一種のラベルのこと。正式にはバックポケットフラッシャーと言う。またフラッシャーとは別に、ベルトループから下げ札(ハングタグ)が吊るされたりウェストバンドに縫い付けられることもある。[[デッドストック]]にはこれらが残っているものが比較的多い。 == ジーンズブランド一覧 == === 世界三大ジーンズブランド === [[画像:Broken_counterfeit_jeans.jpg|thumb|300px|right|ジーンズはお尻側のベルトとおしあたりに製造・販売する会社やブランドを表示するタグ(一般に薄茶色の四角い皮革・布・合成樹脂など)がつけられているものが一般的である。]] * [[Levi's]](リーバイス) * [[リー (ジーンズ)|Lee]](リー) * [[ラングラー (ジーンズ)|Wrangler]](ラングラー) === 各国のジーンズブランド === * [[アルマーニ|ARMANI]] JEANS * [[ヴェルサーチ|VERSACE]] * [[カルヴァン・クライン|CALVIN KLEIN]] JEANS * [[ディーゼル (ファッションブランド)|DIESEL]](ディーゼル) * [[ギャップ (企業)|GAP]](ギャップ) ==== 日本三大ジーンズブランド ==== * [[エドウイン]](EDWIN) * [[ビッグジョン]](BIG JOHN) * [[ボブソン]](BOBSON) ==== その他の日本産ジーンズブランド ==== * [[ウエアハウス]](WAREHOUSE) * [[エイトジー]](EIGHT-G) * [[エヴィス]](EVISU) * [[コム・デ・ギャルソン]](COMME des GARCONS) * [[サムライジーンズ]](SAMURAI JEANS) * [[ジーユー]] * [[東洋エンタープライズ|シュガーケーン]](SUGAR CANE) by 東洋エンタープライズ(TOYO ENTERPRISE) * [[ザ・リアルマッコイズ|ジョーマッコイ]](JOE McCOY) by ザ・リアルマッコイズ(THE REAL McCOY'S) * [[ステュディオ・ダ・ルチザン]](STUDIO D'ARTISAN) * [[東洋エンタープライズ|バズリクソンズ]](BUZZ RICKSON'S) by 東洋エンタープライズ(TOYO ENTERPRISE) * [[ビームス]](BEAMS) * [[フェローズ]](PHERROW'S) * [[ザ・フラットヘッド]](THE FLAT HEAD) * [[ジャパンブルー|桃太郎ジーンズ]] * [[ユナイテッドアローズ]](UNITED ARROWS) * [[ユニクロ]](UNIQLO) * [[ディッキーズ]](Dickies) <!-- 日本産というだけで追加をすると際限がありませんので、著名なブランドで内部リンク先に記事が存在するもののみ追加してください。また宣伝の場ではありませんので、ブランドの利害関係者(卸小売業者も含む)が追加することはご遠慮ください。 --> == 特に有名なモデル == === LEVI'S === ; 501 : リーバイ・ストラウス社の代表的な製品。1890年に自社製品へのロットナンバー(品番)付番制度を導入したのをきっかけに誕生。501 は当時の最高品質デニム生地であるXX(ダブルエックス=エクストラ・エクシード)デニムを使用する製品に与えられた品番である。現在、501は商標登録(ジーンズカテゴリー)がされており単なる品番ではなく商品名となっている(よって "501(R)<ref group="注">正確な表記は 501Ⓡ(Rの丸[[囲み文字]])。特殊文字のため本文では代替表記を行った。なお、アメリカ製の501や505などの中にはタブの刺繍がこのⓇ(サークルR)のみのものが一定の確率で存在した。</ref>"と表記されることが多い)。縫製技術の進化等により細部に変更を加えられながら現在まで製造販売が継続されている。なお日本では主に「ごーまるいち」と呼ばれるが、英語での呼称は「ファイヴ・オー・ワン」である。 : 特徴は前開きがボタンフライであること、使用しているデニム生地が防縮加工がされていないこと。このため洗うと数インチ(比率で言うと8%または10%)縮むことを考慮して購入するのが 501を穿く上での常識である。この前時代的な特性をリーバイスは「シュリンク・トゥ・フィット」、つまり洗濯を繰り返すことで身体に馴染んで行くと説明している。このデニム生地はコーンミルズ01デニムと呼ばれ、一時期であるが腰部の紙パッチに 501-0117 (17は色コード。ブルーの 501では他に13や15もある)などと印字された製品も流通した。しかし1980年代あたりからの多彩なバリエーション(洗い加工:同じ01デニムでも収縮率が小さい、異素材使用:例えばブラック・ホワイトはプリシュランクの06デニムまたは59デニム、色コード51(白)‐60(黒))の展開等により、既に「シュリンク・トゥ・フィット」の特徴を備えるオリジナルリジッドの 501は 501(R) という製品の1バリエーションに過ぎなくなっている。なお、レディスモデルはアメリカ製が 17501または26501、近年のものは W501という型番になる。また、かつてはステューデントモデルの 701(ヒップポケットが縦長)や、廉価版のオレンジタブ 20502が生産されたり、ロングレングスのものが 1501や2501と表記された時期もある。 : かつては大部分をアメリカ、一部をイギリス、フランスで生産していたが、今ではメキシコ、フィリピン、ドミニカ共和国等に生産が移管されている(2004年1月にアメリカの自社工場は閉鎖)。また旧型501の復刻版等の仕様が特別な製品の中には、アメリカ(外注)や日本で生産されたものもある<ref group="注">ただし正式型番は 501ではなく、55501、71501などのように原型の年式が頭に付く。</ref>。 ; 502 : 1954年 - 1970年代初頭にかけて 501 のジップフライ版の 501Z XX(1966年以降 502-0117)という製品が販売されていた。1954年当時には試作的意味で、まずボーイズ用の 503Z XX やユースモデルの 504Z XX(いずれも後年日本で復刻生産される)を先行販売してから 501Z XX を発売している。それでも、01デニム使用のままジップフライとしたため、デニム生地の縮みに伴いジッパー部が歪み、故障が頻発したという。なお、1986年から復刻生産された日本製の 502はプリシュランクデニムのためそのような問題は無いほか、初期のものは隠しリベット付きであることから形態は 501Z XX の復刻版であり<ref group="注">当時日本製品に 501の名を使用できなかったため止むなく 502 となったと言われている。以降同様に701XX、504Z、503B、503Z、50s(1950年代の501)などの復刻が続き、近年のものでも正式型番が「501」のみの日本製品は発売されていない。</ref>、いずれとも異なるモデルである(後期復刻版では隠しリベットを無くして本来の 502 に近付いたが、パッチの型番表記の字体のみは原型と異なる)。なお 502という型番は、1950年頃 501(R) のビッグサイズのものに付けられたのが最初である。また、ジップフライの 502はアメリカでの生産停止後も、上記復刻版の登場までは香港などで少量生産されていた。 ; 505 : 1967年に発売されたジップフライ型モデル。前述の 501(R) や 502よりもやや細めのストレートジーンズ。前身は 551Z XX( Z は zipper :[[ジッパー]]の意)というロットナンバーで1961年、アメリカ東部向けに製造された。1990年代のジーンズブーム時にヴィンテージ物が非常に良く出回った。プロセス686と呼ばれる防縮加工が施された02デニムを使用。発売した頃は「シュリンク・トゥ・フィット」の謳い文句とは対照的に、ぴったりのサイズを買うよう求める文句がフラッシャーやタグに記載された。502と異なり、素材やシルエットのみならず、ヒップポケットやバックヨークの形状・寸法も 501とは別物である。特に1990年前後のものはバックヨークが狭くほとんど長方形に近い。517や510など多くのジップフライモデルは 505を基本としている。このロットナンバーは US505 と 505(俗称・極東505) の2種類が存在した。USバージョンはアメリカ製、USなしはフィリピン・香港・マカオ製である。同じサイズでもアメリカ製はテーパードシルエットでヒップポケットが大きめなのに対し、フィリピン製の方がパイプドステムで腿周りのシルエット、ヒップポケットともに細めだった。なお、アメリカ製には更にタイトな 506、逆にゆったり目の 550、オレンジタブの廉価版 20505、40505 や、ごく短い期間だが股上の短い 805も存在した。501と同様にレディスモデルもある。またボーイズ版は 305となる。 ; 510 : 1980年代に 505から派生したテーパードストレートモデル。元々は 505よりも腿周りをゆったりさせたコンフォートフィットがコンセプトであったが、高めのヒップポケット位置と相まってヒップが上がり足が長く見える「足長ジーンズ」として人気があった。英語での呼称はファイヴ・テン。レディスモデル、スリム版の 610、廉価版の 20510、ボーイズ版の 210も存在した。レッドタブモデルはテキサス州エルパソ工場でのみの生産であった。 ; 517 : 「サドルマン」あるいは「ブーツカット」と呼ばれる膝から下にかけ緩やかに広がるシルエットで、見た目の美しさが光るモデル。0217デニムを使用。ラングラーのジーンズと同様に折り目を入れて穿かれることも多い。1971年発売。505と同様にオレンジタブの廉価版(正式型番 20517 及び 40517)が存在した。コーデュロイ素材(素材コード15)のものも多く出回った。ボーイズ版は717。かつては類似した型番で 507というモデルが存在したが、こちらはフィリピン製のレッドタブ・ベルボトムジーンズであった。 ;569 : リーバイスで一番太いシルエットが特徴、おもに[[ヒップホップ系ファッション|HIPHOP系]]の人に履かれていたが近年のタイトシルエットブームですっかり影が薄くなってしまった悲劇のジーンズである。なお、アメリカには更に太いバギージーンズとして 570というモデルも存在した。リーバイスのルーズフィットジーンズは、1980年代に発売された 509辺りがその起源とみられる。 ; 606 : タイトスリム(スーパースリム)のジーンズ。1968年発売。一時期にはレッドタブのブルーとホワイトタブのブラック・ホワイトが生産され、ミュージシャンや[[アイビー]]派などの間で人気を博した。現在ではブラックとBIG「E」のオレンジタブ復刻バージョンがある。かつてはフィリピン製で更に細い「スーパータイト」の605というモデルも存在した。 ; 646 : 膝から下の広がりが517よりも大きい「ベルボトム」と呼ばれるシルエット。1969年発売。オレンジタブでリベット・コインポケットは無い。またコーデュロイ素材などを除いて基本的にパッチ無し。それらの点以外、膝から上は 606 と共通で(但し後ろ両サイドのベルトループがかなりセンターに寄った製品もある)、裾のシルエットだけが正反対となる。ごく初期のものは、インサイドシームをロックではなく脇割り縫製していた。早くから日本製品も存在した。現在、ヴィンテージ・ラインに70646-0010として復刻されている。かつては裾の広がりが一層大きい 684(ビッグベル)や、逆に小さめで 517 との中間的なステューデントモデル 746 も生産された。他にリーバイスのベルボトムにはホワイトタブのカラージーンズ・609や、レッドタブの557というモデルもあった。 === Lee === ; 101 : アメリカの3大ジーンズブランドの一つ、[[リー (ジーンズ)|Lee]]の製品。Leeではジーンズのことを Riders (この場合は馬の乗り手の意味)と呼称する。101 は、かの[[ジェームズ・ディーン]]が映画劇中および私生活で愛用した。ボタンフライとジップフライの2タイプが存在。Leeはジーンズにジッパーを導入した初めてのメーカーでもある。 === Wrangler === ; 11MW : 1947年に発売。ハリウッドの西部劇スターの衣装をデザインしていたロデオ・ベンがデザインし、世界初のファッションデザイナーによるジーンズとされている。また防縮加工された初めてのジーンズでもある。[[ラングラー (ジーンズ)|Wrangler]]はそれまでウエスト・オーバーオールと呼ばれていたデニム製ワークパンツ(すなわちジーンズ)をジーンズと呼んで販売した初めてのブランドである。 ; 13MW : 11MW の後継モデル。全米プロ・[[ロデオ]]協会公認ジーンズである。ブロークンデニムを使用。このブロークン(ツイル)デニムは綾織の綾目を崩した織物で、表面がソフトで手触りも柔らかく洗ってもよじれることがない。ロデオ乗りの間ではスラックスのようにアイロンでセンタークリース(折り目)を入れて穿かれる。そのため古着として輸入された 13MW にはセンタークリースが白い線状に色落ちしている物がよく見受けられる。 === BIG JOHN === ; M1002 : 1967年に開発された日本人の体型に合わせた初めてのジーンズ。シルエットの改善により、世界のジーンズが作業着からファッションになるフィットするジーンズの起源モデル。 : それまでは、アメリカ人の体型に作業着シルエットのため、非常に太く、背が低く細い日本人には合わなかった。 : また、世界で初めて製品洗いしたジーンズの後継モデルで、現在の中古洗い加工など日本ジーンズのパイオニアモデル。 === EDWIN === ; 400番台 : インターナショナルベーシックシリーズのジーンズ。[[エドウイン]]社のストレート・スリムジーンズの定番となっている。402 - 405 がストレート、406 - 408 がスリムである。ストレート・スリムともに末尾の数字が大きくなるほど太目のモデルとなる。 ; 503 : 現在のエドウインにおける定番シリーズ。洗い・防縮加工のみの製品から、甚だしい色落ち・傷つけ加工を施した製品まで、多彩なシリーズ展開を誇る。 ; 505 : 赤耳付きヴィンテージジーンズが流行した1990年代なかばに一世を風靡した。 ; 1400番台 : 1980年代のインターナショナルベーシックシリーズ。一世を風靡したブリーチのYT1410(ロンドンスリム)を筆頭にストレート、ルーズスリムまで、現在と同様に多彩なラインナップを誇った。 === 国産レプリカブランド === * 1990年代より、リーバイス501やLee101などのレプリカを、岡山県産のデニム等を原材料{{要出典|date=2014年7月}}とした日本国内産のジーンズが開発され現在に至っている。この中には長期に渡って製造され、初期生産ロットに高値となるものも存在する。例えば、[[エヴィスジーンズ]]の2001、[[リアルマッコイズ]]の901、[[フリーホイラーズ]]の601、[[ザ・フラットヘッド]]の3005、[[サムライジーンズ]]のS5000VX等である。[[ドゥニーム]](DENIME)、[[フルカウント]]、[[フェローズ]]、[[アイアンハート]]、[[ステュディオ・ダ・ルチザン]]、[[ウエス]]、[[東洋エンタープライズ|シュガーケーン]]、[[ウエアハウス]]、[[デラックスウエア]]といったブランドも数々の名品のレプリカやオリジナルジーンズを開発している。 == ギャラリー == <gallery perrow="5"> ファイル:Jeansbund.jpg|カラージーンズ、ステッチが目立ちにくい。 ファイル:Jeans pocket front.jpg|ジーンズの正面ポケット。 ファイル:Jeans pocket back.jpg|ジーンズの背面ポケット。 ファイル:Lucky brand jeans button.jpg|ジーンズの特徴的なリベットボタン。 ファイル:Atheist pin badges.jpg </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Jeans}} * [[ファッションブランド一覧]] * [[ズボン]] * [[ジージャン]] * [[オーバーオール]] * [[デニム]] * [[ペイントジーンズ]] * [[児島地域|児島]](岡山県[[倉敷市]]児島地区、旧[[児島市]]、「ジーンズストリート」「ジーンズミュージアム」がある) * [[アメリカンカジュアル]] * [[草彅剛]](ジーンズ好きを公言しており、[[ベストジーニスト賞]]の殿堂入りも果たしている) == 外部リンク == * {{Cite journal|和書|author=宇野保子 |title=ジーンズ・カジュアルファッション |url=http://id.nii.ac.jp/1640/00000756/ |journal=中国学園紀要 |issn=13479350 |publisher=中国学園大学/中国短期大学 |year=2007 |month=jun |issue=6 |pages=29-38 |naid=110006609561}} * [https://www.weblio.jp/category/life/jeayj ジーンズ用語辞典]Weblio(リー・ジャパン提供) * {{CRD|1000310548|ジーンズの歴史について書かれた本はないか|城西大学水田記念図書館}} {{被服}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しいんす}} [[Category:ジーンズ|*]] [[Category:ズボン]] [[Category:作業服]] [[Category:アメリカ合衆国の文化]] [[Category:藍染め]] [[Category:綿織物]]
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プロトンポンプ阻害薬
プロトンポンプ阻害薬(プロトンポンプそがいやく、英: PPI; Proton pump inhibitor)とは、胃の壁細胞のプロトンポンプに作用し、胃酸の分泌を抑制する薬である。胃酸分泌抑制作用を持つ薬剤には他にヒスタミンH2受容体拮抗薬(H2ブロッカー)があるがプロトンポンプ阻害薬はH2ブロッカーよりも強力な胃酸分泌抑制作用を持ち、分泌抑制作用は用量に依存する。H2ブロッカーよりも抑制作用が長時間持続する。ヘリコバクター・ピロリの除菌治療の薬剤の一つとして使用される場合もある。 プロトンポンプ阻害薬の分類はWHO必須医薬品モデル・リストに掲載され、例としてオメプラゾールが挙げられている。 プロトンポンプ阻害薬はプロドラッグであり、壁細胞内でスルフィンアミド型に変換されプロトンポンプ(H,K-ATPase)のシステイン残基とジスルフィド結合することで、プロトンポンプを不可逆的に阻害し胃酸の分泌を抑制する。 プロトンポンプ阻害薬は以下の疾患の治療に用いられ、投与中は定期的に血液学的検査を行うことが望ましい。 水酸化アルミニウムゲル・水酸化マグネシウム含有の制酸剤、ジゴキシン、メチルジゴキシン、イトラコナゾール、ゲフィチニブ、アタザナビル硫酸塩、クロピドグレルとの併用は注意また禁忌とされる。ニューキノロン系薬剤との併用で偽膜性腸炎の発生率が上昇する。 アメリカ軍の退役軍人(PPI群の15万7625人と対照群の5万6842人)の医療記録を対象にしたコホート研究によれば、H2ブロッカーの長期間使用患者と比較し、心血管疾患、慢性腎臓病、上部消化管癌による死亡リスクが高かったとする報告がある。 過敏症による発疹など、便秘・下痢などの消化器症状、肝機能障害、偽膜性大腸炎、薬物性肝障害、間質性腎炎、無顆粒球症、間質性肺炎、薬剤性貧血、スティーヴンス・ジョンソン症候群、中毒性表皮壊死融解症、アナフィラキシー、血小板減少、溶血性貧血、横紋筋融解症、劇症肝炎、低ナトリウム血症、視力障害、血管浮腫 ヒスタミンH2受容体拮抗薬やプロトンポンプ阻害薬の消化性潰瘍治療薬を3か月服用したところ、10%の人で牛乳、人参、リンゴ、オレンジ小麦などに対するIgE抗体(アレルギー反応の参考になる指標)が増加していた。アレルギーの原因となるタンパク質の消化を妨げることが理由である。 日本では処方箋医薬品のみである。
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プロトンポンプ阻害薬とは、胃の壁細胞のプロトンポンプに作用し、胃酸の分泌を抑制する薬である。胃酸分泌抑制作用を持つ薬剤には他にヒスタミンH2受容体拮抗薬(H2ブロッカー)があるがプロトンポンプ阻害薬はH2ブロッカーよりも強力な胃酸分泌抑制作用を持ち、分泌抑制作用は用量に依存する。H2ブロッカーよりも抑制作用が長時間持続する。ヘリコバクター・ピロリの除菌治療の薬剤の一つとして使用される場合もある。 プロトンポンプ阻害薬の分類はWHO必須医薬品モデル・リストに掲載され、例としてオメプラゾールが挙げられている。
{{Infobox drug class | Name = プロトンポンプ阻害薬 | Image = Proton pump inhibitors structure.svg | Width = 240 | Alt = | Caption = PPIの一般的構造 | Use = [[胃酸]]生成の削減 | Biological_target = H<sup>+</sup>/K<sup>+</sup> ATPase | Mechanism_of_action = [[酵素阻害剤]] | ATC_prefix = A02BC | MeshID = D054328 | Drugs.com = {{Drugs.com|drug-class|proton-pump-inhibitors}} | Consumer_Reports = | medicinenet = proton-pump_inhibitors | rxlist = }} '''プロトンポンプ阻害薬'''(プロトンポンプそがいやく、{{Lang-en-short|PPI; [[:en:Proton pump inhibitor|Proton pump inhibitor]]}})とは、[[胃]]の壁細胞の[[プロトンポンプ]]に作用し、[[胃酸]]の分泌を抑制する薬である。胃酸分泌抑制作用を持つ薬剤には他に[[ヒスタミンH2受容体拮抗薬|ヒスタミン{{chem|H|2}}受容体拮抗薬]]({{chem|H|2}}ブロッカー)があるがプロトンポンプ阻害薬は{{chem|H|2}}ブロッカーよりも強力な[[胃酸]]分泌抑制作用を持ち、分泌抑制作用は用量に依存する。{{chem|H|2}}ブロッカーよりも抑制作用が長時間持続する。ヘリコバクター・ピロリの除菌治療の薬剤の一つとして使用される場合もある<ref name="medical">{{Cite web|和書|date=|url=https://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/drugdic/article/556e7e5c83815011bdcf82b8.html|title=プロトンポンプ阻害薬(PPI)の解説|publisher=日経メディカル|accessdate=2022-10-26}}</ref>。 プロトンポンプ阻害薬の分類は[[WHO必須医薬品モデル・リスト]]に掲載され、例として[[オメプラゾール]]が挙げられている<ref name="WHO21st">{{cite book | vauthors = ((World Health Organization)) | title = World Health Organization model list of essential medicines: 21st list 2019 | year = 2019 | hdl = 10665/325771 | author-link = World Health Organization | publisher = World Health Organization | location = Geneva | id = WHO/MVP/EMP/IAU/2019.06. License: CC BY-NC-SA 3.0 IGO | hdl-access=free }}</ref>。 == 作用機序 == プロトンポンプ阻害薬は[[プロドラッグ]]であり、壁細胞内で[[スルフィンアミド]]型に変換されプロトンポンプ(H<sup>+</sup>,K<sup>+</sup>-ATPase)の[[システイン]]残基と[[ジスルフィド結合]]することで、プロトンポンプを不可逆的に阻害し胃酸の分泌を抑制する。 == 適用 == プロトンポンプ阻害薬は以下の疾患の治療に用いられ、投与中は定期的に血液学的検査を行うことが望ましい。 * [[消化性潰瘍]](胃潰瘍、十二指腸潰瘍、吻合部潰瘍) * [[Zollinger-Ellison症候群]]([[:en:Zollinger–Ellison_syndrome|en]]) * [[逆流性食道炎]] * [[ヘリコバクター・ピロリ]]の除菌補助:[[抗生物質]]である[[クラリスロマイシン]](商品名:クラリスなど)と[[アモキシシリン]](商品名:サワシリンなど)と共に用いられる。 == 相互作用・副作用 == === 相互作用が報告されている薬剤等 === [[水酸化アルミニウムゲル]]・[[水酸化マグネシウム]]含有の[[制酸剤]]、[[ジゴキシン]]、[[メチルジゴキシン]]、[[イトラコナゾール]]、[[ゲフィチニブ]]、[[アタザナビル]]硫酸塩、[[クロピドグレル]]との併用は注意また禁忌とされる。[[ニューキノロン]]系薬剤との併用で[[偽膜性腸炎]]の発生率が上昇する<ref>大野博司、「[https://doi.org/10.3143/geriatrics.48.451 高齢者における抗菌薬の考え方,使い方 経口薬編]」 『日本老年医学会雑誌』 2011年 48巻 5号 p.451-456, {{doi|10.3143/geriatrics.48.451}}</ref>。 [[アメリカ軍]]の退役軍人(PPI群の15万7625人と対照群の5万6842人)の医療記録を対象にした[[コーホート|コホート]]研究によれば、{{chem|H|2}}ブロッカーの長期間使用患者の場合、心血管疾患、慢性腎臓病、上部消化管癌による死亡リスクが対照群より高かったとする報告がある<ref>[https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/hotnews/bmj/201906/561302.html PPIの長期使用は死亡リスク上昇に関係する] 日経メディカル 記事:2019/6/20 [https://doi.org/10.1136/bmj.l1580 Estimates of all cause mortality and cause specific mortality associated with proton pump inhibitors among US veterans: cohort study.] BMJ. 2019;365:l1580, {{doi|10.1136/bmj.l1580}}</ref>。 === 副作用 === 過敏症による[[発疹]]など、[[便秘]]・[[下痢]]などの消化器症状、[[肝機能]]障害<ref name="medical"/>、偽膜性大腸炎、薬物性肝障害、間質性腎炎、無顆粒球症、間質性肺炎、薬剤性貧血、スティーヴンス・ジョンソン症候群、中毒性表皮壊死融解症<ref>{{PDFlink|[http://www.info.pmda.go.jp/go/pack/2329023F1071_1_14/ 添付文書:ランソプラゾールOD錠15mg「トーワ」/ランソプラゾールOD錠30mg「トーワ」]}}</ref>、[[アナフィラキシー]]、血小板減少、[[溶血性貧血]]、[[横紋筋融解症]]、[[劇症肝炎]]、[[低ナトリウム血症]]、視力障害<ref>河野通盛, 山田稔, 奥村剛清 ほか、[https://doi.org/10.11405/nisshoshi1964.97.575 プロトンポンプ阻害剤により視力障害をきたした2症例] 『日本消化器病学会雑誌』 2000年 97巻 5号 p.575-579, {{doi|10.11405/nisshoshi1964.97.575}}</ref>、血管浮腫 * 胃酸による殺菌作用が抑制される結果、[[腸内細菌叢]]の変化を引き起こし小腸の炎症が増強される事が報告されている<ref>藤森俊二, 坂本長逸、[https://doi.org/10.1272/manms.10.38 プロトンポンプ阻害薬は小腸の炎症を増強する] 『日本医科大学医学会雑誌』 2014年 10巻 2号 p.38-39, {{doi|10.1272/manms.10.38}}</ref>。 * [[腹水]]を有する[[肝硬変]]患者で特発性細菌性[[腹膜炎]]のリスクが上昇する<ref>松本修一、滝澤直歩、金山泰成、宮井仁毅、児玉亘弘、松林直:[https://doi.org/10.2957/kanzo.55.530 【原著】腹水を有する肝硬変患者におけるプロトンポンプ阻害薬と特発性細菌性腹膜炎の関連] 『肝臓』 2014年 55巻 9号 p.530-536, {{doi|10.2957/kanzo.55.530}}</ref>との報告がある。 * 2004年、[[市中肺炎]]の発症リスクが上昇する可能性が報告された<ref name="sp07-01">木下芳一:[http://www.pariet.jp/alimentary/vol57/no586/sp07-01.html PPI長期投与は安全か?] パリエット</ref>が、肺炎の関連性を証明する十分なデータは不足している<ref name="sp07-01"/>。 [[ヒスタミンH2受容体拮抗薬]]やプロトンポンプ阻害薬の消化性潰瘍治療薬を3か月服用したところ、10%の人で牛乳、人参、リンゴ、オレンジ小麦などに対するIgE抗体(アレルギー反応の参考になる指標)が増加していた<ref>{{cite journal |vauthors=Untersmayr E, Bakos N, Schöll I, Kundi M, Roth-Walter F, Szalai K, Riemer AB, Ankersmit HJ, Scheiner O, Boltz-Nitulescu G, Jensen-Jarolim E |title=Anti-ulcer drugs promote IgE formation toward dietary antigens in adult patients |journal=FASEB J |volume=19 |issue=6 |pages=656–8 |date=2005-04 |pmid=15671152 |doi=10.1096/fj.04-3170fje |url=}}</ref>。アレルギーの原因となるタンパク質の消化を妨げることが理由である<ref>{{cite journal |authors=Untersmayr E, Jensen-Jarolim E |title=The role of protein digestibility and antacids on food allergy outcomes |journal=J Allergy Clin Immunol |volume=121 |issue=6 |pages=1301–8; quiz 1309–10 |date=2008-06 |pmid=18539189 |pmc=2999748 |doi=10.1016/j.jaci.2008.04.025 |url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2999748/ }}</ref>。 == 製品例 == 日本では[[処方箋医薬品]]のみである。 * [[オメプラゾール]](製品名:オメプラール・オメプラゾン) * [[ランソプラゾール]](製品名:タケプロン・タケプロン[[錠剤#特殊錠|OD錠]]、[[武田薬品工業]]製造販売) * [[ボノプラザン]](製品名:タケキャブ、武田薬品工業製造販売) * [[ラベプラゾール]]ナトリウム(製品名:パリエット<ref>[http://www.pariet.jp/pariet/ パリエット]</ref>, [[EAファーマ]]製造販売<ref>EAファーマの発足により、[[エーザイ]]から製造・販売権を継承</ref>) * [[エソメプラゾール]](製品名: ネキシウム、[[アストラゼネカ]]製造・[[第一三共]]販売) == 脚注 == {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * 岡部進、[https://doi.org/10.1254/fpj.87.351 -総説-プロトンポンプ阻害薬の胃液分泌および消化性潰瘍に対する効果] 『日本薬理学雑誌』 1986年 87巻 4号 p.351-360, {{doi|10.1254/fpj.87.351}} {{Pharm-stub}} {{Major drug groups}} {{デフォルトソート:ふろとんほんふそかいやく}} [[Category:胃酸関連疾患の薬|*]] [[Category:WHOエッセンシャルドラッグ]]
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大鉄人17
『大鉄人17』(だいてつじんワンセブン)は、1977年3月18日から同年11月11日まで、TBS系で毎週金曜19時から19時30分(JST)に放送された石森章太郎原作、毎日放送・東映製作の特撮テレビ番組、および作中に登場する架空の巨大ロボットの名称。全35話。 新聞のラテ欄表記では、『大鉄人ワンセブン』と表示されている。 前番組『キョーダイン』に続く、石森章太郎原作の特撮作品。数多くの東映特撮作品の原作を手がけてきた石森にとって初めての、東映としても『ジャイアントロボ』以来約10年ぶりとなる実写巨大ロボット作品である。巨大ロボットものの起用はスポンサー側の要請によるものであった。 「巨大ロボットアニメ」が活況を呈していた1976年夏に企画が始まり、都合3冊作られた企画書の冒頭には企画意図として「アニメーションより実在感において勝る実写の質感と重量感を重視する」旨が語られ、リアルな特撮を駆使した決定版を制作することが強く意図されていた。本作品では、特撮シーンの撮影のために東映生田スタジオに専用の特撮ステージが組まれた。本作品以降、『スパイダーマン』(東映版)や戦隊シリーズなどで、巨大ロボットの登場が定番化していく。 17のデザインは、石ノ森章太郎のラフデザインを、ポピーの村上克司がクリンナップし、変型機構を加えたものである。村上は「これは屈伸による上半身の引き起こしで、敵に飛び掛っていくライオンのような仕組みで、石ノ森先生のデザインをほとんど改変することなく組み込めた」と語っている 。石ノ森は『THE 超合金』(講談社・1988年)のインタビューで、本作品のキャラクターデザインについて「あれはまだ中間だった。あの作品あたりからメーカーと作家の力が均衡して共同作業のようになり始めた。そういう意味ではエポックメイキングだったと思う」と語っている。1997年7月に東映ビデオから発売された本作品のLD最終巻におけるインタビューでは「この作品で初めて図面を引いた」とも証言している。ただし、本作品以降のデザインワークはスポンサー主導に転じており、それに伴って増えた鋭角的なデザインに対し、前述の『THE 超合金』で石ノ森は「子供が触って遊ぶんだから、やっぱりおもちゃには曲面がほしいなあと思う」と苦言を呈している。 従来よりも高年齢層を意識したため、第15話まではミリタリー要素を強調したシリアスでハードな重量感のある内容のストーリーだったが視聴率は苦戦したため、第16話からコメディリリーフである岩山鉄五郎の登場を筆頭に話や登場人物がコメディ調になり、ワンセブンが言葉を話したり、戦闘ワンセブンが空を飛んだり、ワンセブンの弟ロボット・ワンエイトのドラマなど、低年齢層を意識した陽性方向に全体のイメージの内容に軌道修正された。ただし、中盤から終盤まで布石を打ち完成させた「第二ブレイン(ビッグエンゼル)」とブレインとの対決など、最終2話では初期のようなハードな展開で幕を閉じた。 主役の巨大ロボット・17()は、それまでの巨大ロボットヒーローと違い自らの意思で動く巨大ロボットであり、人間的な感情をもち、第19話から人語を話すようになる。これにより人間とロボットやロボット同士のドラマが描かれ、従来の巨大ロボットヒーローとの差別化が図られた。 初期の企画段階での名称は「メガロ17」。NGとなったデザインは胸の数字ロゴのみを変更して、そのままワンエイトのデザインに流用された。 「セブンティーン」ではなく「ワンセブン」と呼ばれるのは、体内に使用している「オートダイオード・ワンセブン」に由来する。17という数字は「『鉄人28号』へのオマージュで、28から十の位と一の位を1ずつ減らした」とのこと。 本放送時には次回予告の前に、出演者が科学技術や自然現象の原理などを子供向けに解説する、「ワンセブンものしりコーナー」というミニコーナーが付け加えられていた。ナレーションは第1・2話では本編ナレーターである小林恭治が担当したが、第3話以降は出演者が交代で担当していた。 国際平和部隊科学研究所の佐原博士があらゆる災害から人類を守り地球環境を保全すべく建造した、巨人電子頭脳ブレイン。だが、次第に自我と、スプーンから宇宙ロケットに至るまで何でも製造できる超生産能力を持つようになったブレインは、遂には「人類こそが地球を滅ぼす。人類は地球に有害」という結論をはじき出した。「地球にとって最大の災害」である人類の存在を否定し、抹殺すべく、ブレインは開発者の1人であるハスラー教授とともに行方をくらまし、アジトを構えて秘密裏に分身となる巨大ロボットを何体も建造する。しかし、その17番目にしてやはり自我を持つワンセブンはブレインの思考と正反対に「人類だけが地球を救える。人類は地球に有益」と人類を守るべき存在という結論をはじき出した。 ブレインは自分に逆らいかねない危険なワンセブンを封印すると、巨大ロボットを操って破壊活動を開始し、人類抹殺に向けて動き出す。だが、ブレインのローラーロボットの襲撃で家族を失った主人公の少年・南三郎に偶然発見されたワンセブンは、自分を解放してくれた三郎をパートナーとし、ブレインの攻撃から人類を守るべく戦うことになる。 こうしてワンセブンとブレインによる数々の戦いが繰り広げられた後、科学研究所は人類に刃向かったブレインに代え、巨大コンピューター「ビッグエンゼル」を新しく作り上げる。ビッグエンゼルの計算により、ブレインを倒すにはその超生産能力でも対処できない強い打撃を加えなければならず、その鍵になるのは三郎であることが分かった。ブレインの周囲2キロメートル以内のコンピューターを支配下に置く「ブレインエリア」の影響を避けるため、三郎の操縦により自我を抑えて唯のロボットになったワンセブンは、ブレインへの特攻を図る。しかし、最終的に自我を取り戻したワンセブンは三郎を隣りにいたロボターに外へ突き飛ばさせることで脱出させ、自分だけで特攻する。ブレインはワンセブンと共に爆発四散し、戦いは終わった。 据え付け型の超コンピュータである自分の代理、自由に破壊活動を行える分身を作ろうとして、ブレインが自分に使われている「オートダイオード・ワンセブン」を初めて活用して造り上げた17番目のロボット。名称も内蔵するオートダイオード・ワンセブンに由来する。ブレインに劣らぬ“超生産能力”と思考力、自我を持つ。そのために、自己判断によりブレインとは逆に人類を肯定する結論を導き出し、南三郎との出会いによってブレインに反旗を翻し、人類の味方となる。超生産能力とは体内に具えた工場に常駐する内蔵小型作業用ロボット・ロボターを使うもので、大抵の損傷や故障なら自分で直せる(高等生物の回復力に相当する)ほか、自己改良を行って性能向上を図ることも可能で(人間の努力と技能獲得に相当する)、作中では会話能力の獲得やグラビトン発射のインターバル短縮などを行なっている。サブマシンなどのメカもこの超生産能力で製造されたものである。メカ以外にも、ケーキやジュース、巨大ソフトクリームなども作れる。 当初は意思の疎通に、ワンセブンが体内で製造した特殊な脳波ヘルメットが必要だった。このヘルメットは三郎にしか使えず、その上ワンセブンは通常虹色に輝く両眼のスクリーンの色を変えたり、アイパターンによる「イエス」「ノー」以外の意思表示はできなかった(「ウオーン」という応答音とともに青く発光させれば「イエス」、赤で「ノー」)。第19話からは自身を改良して人間の言葉で普通に会話できるようになり、三郎以外の人間とも意思の疎通ができるようになった。また、ワンセブンは自我を持つロボットであるため、普段はどこにいて何をしているかは三郎にも把握できない。普段は要塞ワンセブンの状態でとある山中の洞穴内で待機しているが、劇中では突如現われ、敵のロボットを倒すとどこかへと立ち去っていく。 内部には人が乗り込めるコントロールルームがあり、上記のケーキなどで三郎たちをもてなした。のちに頭部に操縦席が超生産能力で作られ、最終話では、ブレインエリアの影響を恐れて活動を停止したワンセブンを三郎が操縦した。 必殺技は腹部のシャッター内部の発射口を開いて火の玉のようにして撃ち出す重力子で、目標を強大な力で圧縮、粉砕するグラビトン攻撃。なお、グラビトンとは重力子を意味する言葉だが、この技で重力子がどのように働くのかについての科学的な設定は語られていない。発射の際は両眼が赤く輝き、一定の動作とともに初期は前述の応答音、後半は「グラビトーン!」と発声する。 ブレインによればグラビトンは一度発射すると、重力子蓄積のため、15時間のインターバルを要する。そのため、攻撃ロボを2台用意しての二段攻撃が仕掛けられたが、自己改良により蓄積時間を13時間に短縮した。 当初3タイプ、後に4タイプの形態を持ち、それぞれ要塞ワンセブン・戦闘ワンセブン・飛行ワンセブン・戦闘飛行ワンセブンと呼ばれている。 ワンセブンに搭載されているマシン。いずれも自動操縦で行動する。 ワンセブンの弟として作られたブレインロボット。全身は鋼鉄色。ワンセブン同様、自らの意志を持つが、内蔵されたサタン回路のため、ブレインの命令には絶対服従であり、ワンセブンと対決する。最高飛行速度はマッハ7で、戦闘飛行ワンセブンを後方から追跡し撃墜したこともある。胸の赤い文字で「1」「8」と書かれたハッチは観音開きになっており、内蔵されている12連射多連装式ミサイルや超グラビトンで攻撃する。なお、ワンセブンが三郎と交流するのと同様、ワンエイトも命を救った三郎の級友・矢崎勇には心を開いていた。また内部にはワンセブン同様、人が乗り込めるコクピットが存在する。 ワンセブンとの戦闘でワンセブンのミサイルパンチを開いたハッチに受けて、全機能を停止させられる。その後、ワンセブンによって旧日本軍の地下秘密工場へと移送され、佐原博士と山中隊員によってサタン回路を除去された後はワンセブンの味方となる。しかし、敵の奸計にはまりピンチを招いたこともある。第26話では、グラビトン攻撃を防ぐ盾と俊敏な運動性能を持つ殺し屋ロボット、ハーケンキラーに苦戦するワンセブンの危機を救うため、一度は寝返ったふりをして油断させ、身を挺して敵を押さえ込み、その身を犠牲にしてワンセブンの放ったグラビトン攻撃により、ハーケンキラーを倒すことが出来たものの機能不全に陥った自らの体内原子炉を損傷し爆発してしまった。 元は佐原博士率いる科学者チームが天変地異や災害の予測など平和利用のために作り上げた世界最大の人工知能システムで、超高性能の巨人電子頭脳。一つ眼の本体から何本ものパイプが宙に伸び、さらにこのパイプ一本一本に球体をぶら下げたような形状をしている。意志によって本体のまぶたが開閉する。 ハスラーの野心によって持つようになった自我と、内蔵したオートダイオード・ワンセブンにより完全自衛システムを保有。さらにあらゆる物体を生み出せる超生産能力で、重さ2000トンの巨体を誇る巨人電子頭脳へと成長し、これに乗じた科学者チームの中でも狡猾で野心家だったハスラー教授の策略により、人類を地球にとって邪魔な存在と見なし、地球環境の保全のために人類を排除させるべく幾多のブレインロボットを作り上げ征服に乗り出す。さらに世界中の刑務所から凶悪犯を集めブレイン党を組織し、レッドマフラー隊に戦いを挑む。またハスラー教授から主導権を奪って「私のことはミスター(・ブレイン)と呼びたまえ」と告げると同時に、ハスラーのことは「ハスラー君」と呼んで奴隷扱いし、自ら全知全能の神を自認するようになり、ブレイン党のトップとして君臨する。第12話で佐原博士によって破壊されたが、自己再生能力で約10秒ほどで全機能を取り戻した。 自分を中心に半径2キロ以内のコンピュータを支配下に置く能力もあり、この影響を及ぼせる区域はブレインエリアと呼ばれる。そのためワンセブンはうかつにブレインに近づくことはできなかったが、最終話で三郎がワンセブンを手動操縦することでブレインと対抗した。そして、ワンセブンの特攻作戦によって自己再生能力が追いつく間もなく破壊される。 第35話で佐原博士が「第2ブレイン計画」によって第2のブレインとして設計・開発した巨人電子頭脳。形状はブレインと同様だが、一つ眼の本体の上に球状の“反乱防止装置”が追加されている。災害から人類を守るために、ブレインに代わるコンピューター・システムとして建造される予定であったが、ブレインを制御するという役割が与えられ、ブレイン打倒の大きな鍵となった。最終話でブレインとワンセブンが相打ちになったと同時に、オーバーヒートにより爆発、その機能を停止した。 国際平和部隊の別名。隊員たちが全員首に赤いマフラーを巻いていることからこの名がついた。国際平和部隊科学研究所を日本支部とし、世界各国に支部が存在する。当初は部外者がブレインに接触しないようにする警備活動を行なっていたが、ブレインの反乱によって敵対関係となり、携行火器(M1カービン・M20バズーカなど)やF-104・F-4戦闘機(ファントム戦闘機)やジープでブレインの巨大ロボットに立ち向かった。服装は陸上自衛隊の作業服(66式鉄帽など。いずれも国際平和部隊のロゴが入っている)と同じで、巨大ロボットとの戦闘シーンやエンディング映像では自衛隊の記録映像がふんだんに用いられている。なお、作中で登場する「隊長」は、レッドマフラー隊の総指揮官ではなく、隊内のさらに小部隊の指揮官である。第3話以降は、剣持隊長が率いる部隊がレギュラーメンバーとなり、「剣持隊」と通称されている。 ワンセブンと対決するために戦力増強が必要との判断を下したブレインが、ハリケーンロボットなどを使って世界中の刑務所を襲撃し、脱獄させた名だたる凶悪犯を駆り集めて自らの走狗として結成した戦闘部隊。武装兵士はナチス・ドイツ時代のドイツ国防軍に似たヘルメットとゴーグル、青いコンバットスーツを着込んでおり(軍服 (ドイツ)#帝政ドイツ時代)、レッドマフラー隊との白兵戦を展開した。なお、キャプテンゴメスとチーフキッドなどの戦線指揮官も鉤十字が付いた親衛隊員の服装に似た軍服を着用している(肩章の部分が異なり、ブレイン党独自の徽章が追加されている)が、これらの軍服はブレイン党結成以前(ブレインがハスラー教授から主導権を奪う前)のメンバーも着用しており、ブレイン党結成時の新制服ではない。 両組織とも当時のヒーローものでは珍しく、純軍隊然とした組織であるのが特徴であった。レッドマフラー隊が敵ロボットを攻撃する際も、特に特殊な兵器で攻撃するわけではなく、レッドマフラーが擁する戦車隊(自衛隊の74式戦車・61式戦車)や戦闘機隊(F-4戦闘機・F-104戦闘機)などの現用兵器で対抗するという当時の巨大ヒーローものとしては異例の演出がみられた。 参照・東映HM7 2003, p. 90。ものしりコーナー:東映HM7 2003, pp. 84–99。 いずれも東映まんがまつりの一編として公開された。 DVD『大鉄人17』Vol.1、Vol.3の映像特典や、2007年12月7日に発売された『東映特撮ヒーロー THE MOVIE BOX』および2009年11月21日発売の『東映特撮ヒーロー THE MOVIE Vol.4』に収録されている。 すべて東映ビデオより発売。 2012年7月から11月、2014年8月から12月まで、YouTubeの「東映特撮 YouTube Official」にて配信が行われたほか、2017年7月12日から11月15日まで再配信が行われた。いずれも「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。 2021年11月20日より、YouTubeの「BANDAI SPIRITS」でも配信された。2021年12月31日現在第1話、第2話、第11話 - 第13話、第25話、第26話、第35話(最終回)を配信した。いずれも予告編、「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『大鉄人17』(だいてつじんワンセブン)は、1977年3月18日から同年11月11日まで、TBS系で毎週金曜19時から19時30分(JST)に放送された石森章太郎原作、毎日放送・東映製作の特撮テレビ番組、および作中に登場する架空の巨大ロボットの名称。全35話。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "新聞のラテ欄表記では、『大鉄人ワンセブン』と表示されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "前番組『キョーダイン』に続く、石森章太郎原作の特撮作品。数多くの東映特撮作品の原作を手がけてきた石森にとって初めての、東映としても『ジャイアントロボ』以来約10年ぶりとなる実写巨大ロボット作品である。巨大ロボットものの起用はスポンサー側の要請によるものであった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「巨大ロボットアニメ」が活況を呈していた1976年夏に企画が始まり、都合3冊作られた企画書の冒頭には企画意図として「アニメーションより実在感において勝る実写の質感と重量感を重視する」旨が語られ、リアルな特撮を駆使した決定版を制作することが強く意図されていた。本作品では、特撮シーンの撮影のために東映生田スタジオに専用の特撮ステージが組まれた。本作品以降、『スパイダーマン』(東映版)や戦隊シリーズなどで、巨大ロボットの登場が定番化していく。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "17のデザインは、石ノ森章太郎のラフデザインを、ポピーの村上克司がクリンナップし、変型機構を加えたものである。村上は「これは屈伸による上半身の引き起こしで、敵に飛び掛っていくライオンのような仕組みで、石ノ森先生のデザインをほとんど改変することなく組み込めた」と語っている 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13, "tag": "p", "text": "こうしてワンセブンとブレインによる数々の戦いが繰り広げられた後、科学研究所は人類に刃向かったブレインに代え、巨大コンピューター「ビッグエンゼル」を新しく作り上げる。ビッグエンゼルの計算により、ブレインを倒すにはその超生産能力でも対処できない強い打撃を加えなければならず、その鍵になるのは三郎であることが分かった。ブレインの周囲2キロメートル以内のコンピューターを支配下に置く「ブレインエリア」の影響を避けるため、三郎の操縦により自我を抑えて唯のロボットになったワンセブンは、ブレインへの特攻を図る。しかし、最終的に自我を取り戻したワンセブンは三郎を隣りにいたロボターに外へ突き飛ばさせることで脱出させ、自分だけで特攻する。ブレインはワンセブンと共に爆発四散し、戦いは終わった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "据え付け型の超コンピュータである自分の代理、自由に破壊活動を行える分身を作ろうとして、ブレインが自分に使われている「オートダイオード・ワンセブン」を初めて活用して造り上げた17番目のロボット。名称も内蔵するオートダイオード・ワンセブンに由来する。ブレインに劣らぬ“超生産能力”と思考力、自我を持つ。そのために、自己判断によりブレインとは逆に人類を肯定する結論を導き出し、南三郎との出会いによってブレインに反旗を翻し、人類の味方となる。超生産能力とは体内に具えた工場に常駐する内蔵小型作業用ロボット・ロボターを使うもので、大抵の損傷や故障なら自分で直せる(高等生物の回復力に相当する)ほか、自己改良を行って性能向上を図ることも可能で(人間の努力と技能獲得に相当する)、作中では会話能力の獲得やグラビトン発射のインターバル短縮などを行なっている。サブマシンなどのメカもこの超生産能力で製造されたものである。メカ以外にも、ケーキやジュース、巨大ソフトクリームなども作れる。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当初は意思の疎通に、ワンセブンが体内で製造した特殊な脳波ヘルメットが必要だった。このヘルメットは三郎にしか使えず、その上ワンセブンは通常虹色に輝く両眼のスクリーンの色を変えたり、アイパターンによる「イエス」「ノー」以外の意思表示はできなかった(「ウオーン」という応答音とともに青く発光させれば「イエス」、赤で「ノー」)。第19話からは自身を改良して人間の言葉で普通に会話できるようになり、三郎以外の人間とも意思の疎通ができるようになった。また、ワンセブンは自我を持つロボットであるため、普段はどこにいて何をしているかは三郎にも把握できない。普段は要塞ワンセブンの状態でとある山中の洞穴内で待機しているが、劇中では突如現われ、敵のロボットを倒すとどこかへと立ち去っていく。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "内部には人が乗り込めるコントロールルームがあり、上記のケーキなどで三郎たちをもてなした。のちに頭部に操縦席が超生産能力で作られ、最終話では、ブレインエリアの影響を恐れて活動を停止したワンセブンを三郎が操縦した。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "必殺技は腹部のシャッター内部の発射口を開いて火の玉のようにして撃ち出す重力子で、目標を強大な力で圧縮、粉砕するグラビトン攻撃。なお、グラビトンとは重力子を意味する言葉だが、この技で重力子がどのように働くのかについての科学的な設定は語られていない。発射の際は両眼が赤く輝き、一定の動作とともに初期は前述の応答音、後半は「グラビトーン!」と発声する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ブレインによればグラビトンは一度発射すると、重力子蓄積のため、15時間のインターバルを要する。そのため、攻撃ロボを2台用意しての二段攻撃が仕掛けられたが、自己改良により蓄積時間を13時間に短縮した。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当初3タイプ、後に4タイプの形態を持ち、それぞれ要塞ワンセブン・戦闘ワンセブン・飛行ワンセブン・戦闘飛行ワンセブンと呼ばれている。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ワンセブンに搭載されているマシン。いずれも自動操縦で行動する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ワンセブンの弟として作られたブレインロボット。全身は鋼鉄色。ワンセブン同様、自らの意志を持つが、内蔵されたサタン回路のため、ブレインの命令には絶対服従であり、ワンセブンと対決する。最高飛行速度はマッハ7で、戦闘飛行ワンセブンを後方から追跡し撃墜したこともある。胸の赤い文字で「1」「8」と書かれたハッチは観音開きになっており、内蔵されている12連射多連装式ミサイルや超グラビトンで攻撃する。なお、ワンセブンが三郎と交流するのと同様、ワンエイトも命を救った三郎の級友・矢崎勇には心を開いていた。また内部にはワンセブン同様、人が乗り込めるコクピットが存在する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ワンセブンとの戦闘でワンセブンのミサイルパンチを開いたハッチに受けて、全機能を停止させられる。その後、ワンセブンによって旧日本軍の地下秘密工場へと移送され、佐原博士と山中隊員によってサタン回路を除去された後はワンセブンの味方となる。しかし、敵の奸計にはまりピンチを招いたこともある。第26話では、グラビトン攻撃を防ぐ盾と俊敏な運動性能を持つ殺し屋ロボット、ハーケンキラーに苦戦するワンセブンの危機を救うため、一度は寝返ったふりをして油断させ、身を挺して敵を押さえ込み、その身を犠牲にしてワンセブンの放ったグラビトン攻撃により、ハーケンキラーを倒すことが出来たものの機能不全に陥った自らの体内原子炉を損傷し爆発してしまった。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "元は佐原博士率いる科学者チームが天変地異や災害の予測など平和利用のために作り上げた世界最大の人工知能システムで、超高性能の巨人電子頭脳。一つ眼の本体から何本ものパイプが宙に伸び、さらにこのパイプ一本一本に球体をぶら下げたような形状をしている。意志によって本体のまぶたが開閉する。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ハスラーの野心によって持つようになった自我と、内蔵したオートダイオード・ワンセブンにより完全自衛システムを保有。さらにあらゆる物体を生み出せる超生産能力で、重さ2000トンの巨体を誇る巨人電子頭脳へと成長し、これに乗じた科学者チームの中でも狡猾で野心家だったハスラー教授の策略により、人類を地球にとって邪魔な存在と見なし、地球環境の保全のために人類を排除させるべく幾多のブレインロボットを作り上げ征服に乗り出す。さらに世界中の刑務所から凶悪犯を集めブレイン党を組織し、レッドマフラー隊に戦いを挑む。またハスラー教授から主導権を奪って「私のことはミスター(・ブレイン)と呼びたまえ」と告げると同時に、ハスラーのことは「ハスラー君」と呼んで奴隷扱いし、自ら全知全能の神を自認するようになり、ブレイン党のトップとして君臨する。第12話で佐原博士によって破壊されたが、自己再生能力で約10秒ほどで全機能を取り戻した。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "自分を中心に半径2キロ以内のコンピュータを支配下に置く能力もあり、この影響を及ぼせる区域はブレインエリアと呼ばれる。そのためワンセブンはうかつにブレインに近づくことはできなかったが、最終話で三郎がワンセブンを手動操縦することでブレインと対抗した。そして、ワンセブンの特攻作戦によって自己再生能力が追いつく間もなく破壊される。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第35話で佐原博士が「第2ブレイン計画」によって第2のブレインとして設計・開発した巨人電子頭脳。形状はブレインと同様だが、一つ眼の本体の上に球状の“反乱防止装置”が追加されている。災害から人類を守るために、ブレインに代わるコンピューター・システムとして建造される予定であったが、ブレインを制御するという役割が与えられ、ブレイン打倒の大きな鍵となった。最終話でブレインとワンセブンが相打ちになったと同時に、オーバーヒートにより爆発、その機能を停止した。", "title": "メカニック" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国際平和部隊の別名。隊員たちが全員首に赤いマフラーを巻いていることからこの名がついた。国際平和部隊科学研究所を日本支部とし、世界各国に支部が存在する。当初は部外者がブレインに接触しないようにする警備活動を行なっていたが、ブレインの反乱によって敵対関係となり、携行火器(M1カービン・M20バズーカなど)やF-104・F-4戦闘機(ファントム戦闘機)やジープでブレインの巨大ロボットに立ち向かった。服装は陸上自衛隊の作業服(66式鉄帽など。いずれも国際平和部隊のロゴが入っている)と同じで、巨大ロボットとの戦闘シーンやエンディング映像では自衛隊の記録映像がふんだんに用いられている。なお、作中で登場する「隊長」は、レッドマフラー隊の総指揮官ではなく、隊内のさらに小部隊の指揮官である。第3話以降は、剣持隊長が率いる部隊がレギュラーメンバーとなり、「剣持隊」と通称されている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ワンセブンと対決するために戦力増強が必要との判断を下したブレインが、ハリケーンロボットなどを使って世界中の刑務所を襲撃し、脱獄させた名だたる凶悪犯を駆り集めて自らの走狗として結成した戦闘部隊。武装兵士はナチス・ドイツ時代のドイツ国防軍に似たヘルメットとゴーグル、青いコンバットスーツを着込んでおり(軍服 (ドイツ)#帝政ドイツ時代)、レッドマフラー隊との白兵戦を展開した。なお、キャプテンゴメスとチーフキッドなどの戦線指揮官も鉤十字が付いた親衛隊員の服装に似た軍服を着用している(肩章の部分が異なり、ブレイン党独自の徽章が追加されている)が、これらの軍服はブレイン党結成以前(ブレインがハスラー教授から主導権を奪う前)のメンバーも着用しており、ブレイン党結成時の新制服ではない。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "両組織とも当時のヒーローものでは珍しく、純軍隊然とした組織であるのが特徴であった。レッドマフラー隊が敵ロボットを攻撃する際も、特に特殊な兵器で攻撃するわけではなく、レッドマフラーが擁する戦車隊(自衛隊の74式戦車・61式戦車)や戦闘機隊(F-4戦闘機・F-104戦闘機)などの現用兵器で対抗するという当時の巨大ヒーローものとしては異例の演出がみられた。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "参照・東映HM7 2003, p. 90。ものしりコーナー:東映HM7 2003, pp. 84–99。", "title": "放映リスト" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "いずれも東映まんがまつりの一編として公開された。", "title": "劇場版" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "DVD『大鉄人17』Vol.1、Vol.3の映像特典や、2007年12月7日に発売された『東映特撮ヒーロー THE MOVIE BOX』および2009年11月21日発売の『東映特撮ヒーロー THE MOVIE Vol.4』に収録されている。", "title": "劇場版" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "すべて東映ビデオより発売。", "title": "映像ソフト化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2012年7月から11月、2014年8月から12月まで、YouTubeの「東映特撮 YouTube Official」にて配信が行われたほか、2017年7月12日から11月15日まで再配信が行われた。いずれも「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。", "title": "ネット配信" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2021年11月20日より、YouTubeの「BANDAI SPIRITS」でも配信された。2021年12月31日現在第1話、第2話、第11話 - 第13話、第25話、第26話、第35話(最終回)を配信した。いずれも予告編、「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。", "title": "ネット配信" } ]
『大鉄人17』(だいてつじんワンセブン)は、1977年3月18日から同年11月11日まで、TBS系で毎週金曜19時から19時30分(JST)に放送された石森章太郎原作、毎日放送・東映製作の特撮テレビ番組、および作中に登場する架空の巨大ロボットの名称。全35話。 新聞のラテ欄表記では、『大鉄人ワンセブン』と表示されている。
{{半保護}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名= 大鉄人17 | ジャンル= [[特撮]][[テレビドラマ]] | 放送時間= 金曜 19:00 - 19:30 | 放送分= 30 | 放送期間= [[1977年]][[3月18日]] - [[11月11日]] | 放送回数= 35 | 放送枠= TBS金曜7時枠の連続ドラマ | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = {{Plainlist| * [[毎日放送]] * [[東映]] }} | 放送局 = [[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]] | 企画= | 製作総指揮= | 監督= {{Plainlist| * [[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]] * 若林幹 * [[内田一作]] }} | 演出 = | 原作= [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] | 脚本= {{Plainlist| * [[伊上勝]] * [[上原正三]] * [[江連卓]] * 熊谷節 * 安斉あゆ子 }} | プロデューサー= [[七条敬三]] | 出演者= {{Plainlist| * [[神谷まさひろ|神谷政浩]] * [[竹井みどり]] * [[原口剛 (俳優)|原口剛]] * [[中丸忠雄]] }} | 声の出演= {{Plainlist| * [[小林恭治]] * [[水島弘]] }} | ナレーター= {{Plainlist| * 小林恭治(本編・[[次回予告]]) * 小林恭治・神谷政浩ほか番組出演者(ものしりコーナー) }} | 音声= | 字幕= | データ放送= | 音楽= [[渡辺宙明]] | OPテーマ= 「[[オー!!大鉄人ワンセブン]]」 | EDテーマ= 「ワンセブン讃歌」 | 言語= [[日本語]] | 時代設定= | 外部リンク= | 外部リンク名= | 特記事項= }} 『'''大鉄人17'''』(だいてつじんワンセブン)は、[[1977年]]3月18日から同年11月11日まで、[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系]]で毎週[[金曜日|金曜]]19時から19時30分([[日本標準時|JST]])に放送された[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]原作、[[毎日放送]]・[[東映]]製作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビ番組]]、および作中に登場する架空の巨大ロボットの名称。全35話。 新聞の[[番組表|ラテ欄]]表記では、『'''大鉄人ワンセブン'''』と表示されている<ref>『毎日新聞』1977年3月18日付朝刊、24面、ラジオ・テレビ欄。</ref>。 == 概要 == 前番組『[[キョーダイン]]』に続く、石森章太郎原作の特撮作品{{efn|本作品と『キョーダイン』を指して『'''鉄人シリーズ'''』とも称される{{R|列伝}}。}}。数多くの東映特撮作品の原作を手がけてきた石森にとって初めての、東映としても『[[ジャイアントロボ]]』以来約10年ぶりとなる実写巨大ロボット作品である{{R|全怪獣348|F28512}}。巨大ロボットものの起用はスポンサー側の要請によるものであった{{R|全怪獣348}}。 「巨大ロボットアニメ」が活況を呈していた1976年夏に企画が始まり、都合3冊作られた企画書の冒頭には企画意図として「アニメーションより実在感において勝る実写の質感と重量感を重視する」旨が語られ{{Sfn|東映HM7|2003|p=81}}、リアルな特撮を駆使した決定版を制作することが強く意図されていた<ref>X文庫『メーキング・オブ・東映ヒーロー (2)・ラディカルヒーローの世界』(講談社・1987年)p.52 - 53</ref>。本作品では、特撮シーンの撮影のために[[東映生田スタジオ]]に専用の特撮ステージが組まれた{{Sfn|東映HM7|2003|p=81}}。本作品以降、『[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]』(東映版)や[[スーパー戦隊シリーズ|戦隊シリーズ]]などで、巨大ロボットの登場が定番化していく{{R|甦る|20th86}}{{Sfn|東映HM7|2003|p=81}}。 17のデザインは、石ノ森章太郎のラフデザインを、[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]の[[村上克司]]がクリンナップし{{Sfn|THE 超合金|1988|p=106}}、変型機構を加えたものである{{R|20th86}}。村上は「これは屈伸による上半身の引き起こしで、敵に飛び掛っていくライオンのような仕組みで、石ノ森先生のデザインをほとんど改変することなく組み込めた」と語っている{{Sfn|超合金の男|2009|p=67}} 。石ノ森は『THE 超合金』([[講談社]]・1988年)のインタビューで、本作品のキャラクターデザインについて「あれはまだ中間だった。あの作品あたりからメーカーと作家の力が均衡して共同作業のようになり始めた。そういう意味ではエポックメイキングだったと思う」と語っている{{Sfn|THE 超合金|1988|p=115}}。1997年7月に[[東映ビデオ]]から発売された本作品の[[レーザーディスク|LD]]最終巻におけるインタビューでは「この作品で初めて図面を引いた」とも証言している。ただし、本作品以降のデザインワークはスポンサー主導に転じており、それに伴って増えた鋭角的なデザインに対し、前述の『THE 超合金』で石ノ森は「子供が触って遊ぶんだから、やっぱりおもちゃには曲面がほしいなあと思う」と苦言を呈している{{Sfn|THE 超合金|1988|p=115}}。 従来よりも高年齢層を意識したため、第15話まではミリタリー要素を強調したシリアスでハードな重量感のある内容のストーリーだったが{{R|画報|列伝}}視聴率は苦戦したため、第16話からコメディリリーフである岩山鉄五郎の登場を筆頭に話や登場人物がコメディ調になり、ワンセブンが言葉を話したり、戦闘ワンセブンが空を飛んだり、ワンセブンの弟ロボット・ワンエイトのドラマなど、低年齢層を意識した陽性方向に全体のイメージの内容に軌道修正された{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|p=184}}{{Sfn|東映HM7|2003|p=81}}{{R|甦る|F28512}}。ただし、中盤から終盤まで布石を打ち完成させた「第二ブレイン(ビッグエンゼル)」とブレインとの対決など、最終2話では初期のようなハードな展開で幕を閉じた{{R|F28512}}。 主役の巨大ロボット・{{読み仮名|17|ワンセブン}}は、それまでの巨大ロボットヒーローと違い自らの意思で動く巨大ロボットであり、人間的な感情をもち、第19話から人語を話すようになる{{Sfn|東映HM7|2003|p=87}}。これにより人間とロボットやロボット同士のドラマが描かれ、従来の巨大ロボットヒーローとの差別化が図られた{{R|全怪獣348}}。 初期の企画段階での名称は「メガロ17」{{efn|『テレビランド』の次号予告では、このタイトルで紹介されていた{{Full|date=2017年11月}}。}}{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}{{R|甦る}}。NGとなったデザインは胸の数字ロゴのみを変更して、そのままワンエイトのデザインに流用された<ref>『テレビマガジンヒーロー大全集』(講談社・1986年)</ref>{{R|画報|甦る}}{{Sfn|東映HM7|2003|p=83}}。 「セブンティーン」ではなく「ワンセブン」と呼ばれるのは、体内に使用している「オートダイオード・ワンセブン」に由来する。17という数字は「『[[鉄人28号]]』への[[オマージュ]]で、28から十の位と一の位を1ずつ減らした」とのこと{{R|甦る}}。 本放送時には次回予告の前に、出演者が科学技術や自然現象の原理などを子供向けに解説する、「ワンセブンものしりコーナー」というミニコーナーが付け加えられていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=84}}{{R|F28534}}。ナレーションは第1・2話では本編ナレーターである[[小林恭治]]が担当したが、第3話以降は出演者が交代で担当していた{{Sfn|東映HM7|2003|p=84}}。 == あらすじ == 国際平和部隊科学研究所の佐原博士があらゆる災害から人類を守り地球環境を保全すべく建造した、巨人電子頭脳ブレイン。だが、次第に自我と、スプーンから宇宙ロケットに至るまで何でも製造できる超生産能力を持つようになったブレインは、遂には「人類こそが地球を滅ぼす。人類は地球に有害」という結論をはじき出した。「地球にとって最大の災害」である人類の存在を否定し、抹殺すべく、ブレインは開発者の1人であるハスラー教授とともに行方をくらまし、アジトを構えて秘密裏に分身となる巨大ロボットを何体も建造する。しかし、その17番目にしてやはり自我を持つワンセブンはブレインの思考と正反対に「人類だけが地球を救える。人類は地球に有益」と人類を守るべき存在という結論をはじき出した。 ブレインは自分に逆らいかねない危険なワンセブンを封印すると、巨大ロボットを操って破壊活動を開始し、人類抹殺に向けて動き出す。だが、ブレインのローラーロボットの襲撃で家族を失った主人公の少年・南三郎に偶然発見されたワンセブンは、自分を解放してくれた三郎をパートナーとし、ブレインの攻撃から人類を守るべく戦うことになる。 こうしてワンセブンとブレインによる数々の戦いが繰り広げられた後、科学研究所は人類に刃向かったブレインに代え、巨大コンピューター「ビッグエンゼル」を新しく作り上げる。ビッグエンゼルの計算により、ブレインを倒すにはその超生産能力でも対処できない強い打撃を加えなければならず、その鍵になるのは三郎であることが分かった。ブレインの周囲2キロメートル以内のコンピューターを支配下に置く「ブレインエリア」の影響を避けるため、三郎の操縦により自我を抑えて唯のロボットになったワンセブンは、ブレインへの[[特別攻撃隊|特攻]]を図る。しかし、最終的に自我を取り戻したワンセブンは三郎を隣りにいたロボターに外へ突き飛ばさせることで脱出させ、自分だけで特攻する。ブレインはワンセブンと共に爆発四散し、戦いは終わった。 == メカニック == === 大鉄人ワンセブン === {{キャラスペック|名称=戦闘ワンセブン|身長=50{{nbsp}}[[メートル|m]]{{R|F28516}}|体重=500{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|F28516}}|2名称=飛行ワンセブン|2飛行速度=[[マッハ数|マッハ]]4|3名称=戦闘飛行ワンセブン|3飛行速度=マッハ6}} 据え付け型の超コンピュータである自分の代理、自由に破壊活動を行える分身を作ろうとして、ブレインが自分に使われている「オートダイオード・ワンセブン」を初めて活用して造り上げた17番目のロボット{{Sfn|東映HM7|2003|p=78}}{{R|F28516}}。名称も内蔵するオートダイオード・ワンセブンに由来する{{R|東映×石ノ森|F28516}}。ブレインに劣らぬ“超生産能力”と思考力、自我を持つ{{R|東映×石ノ森|F28516}}。そのために、自己判断によりブレインとは逆に人類を肯定する結論を導き出し、南三郎との出会いによってブレインに反旗を翻し、人類の味方となる{{Sfn|東映HM7|2003|p=78}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。超生産能力とは体内に具えた工場に常駐する内蔵小型作業用ロボット・'''ロボター'''を使うもので、大抵の損傷や故障なら自分で直せる(高等生物の回復力に相当する)ほか、自己改良を行って性能向上を図ることも可能で(人間の努力と技能獲得に相当する)、作中では会話能力の獲得やグラビトン発射のインターバル短縮などを行なっている。サブマシンなどのメカもこの超生産能力で製造されたものである。メカ以外にも、[[ケーキ]]やジュース、巨大[[ソフトクリーム]]なども作れる。 当初は意思の疎通に、ワンセブンが体内で製造した特殊な脳波ヘルメット{{R|東映×石ノ森|F28516}}が必要だった。このヘルメットは三郎にしか使えず、その上ワンセブンは通常虹色に輝く両眼のスクリーンの色を変えたり、アイパターン{{R|東映×石ノ森|F28516}}による「イエス」「ノー」以外の意思表示はできなかった(「ウオーン」という応答音{{efn|この応答音は「グラビトン」「イエス」「ノー」などの言葉を機械処理したもの。}}とともに青く発光させれば「イエス」、赤で「ノー」)。第19話からは自身を改良して人間の言葉で普通に会話できるようになり{{efn|ロボターも同様に会話が可能となった。}}、三郎以外の人間とも意思の疎通ができるようになった。また、ワンセブンは自我を持つロボットであるため、普段はどこにいて何をしているかは三郎にも把握できない。普段は要塞ワンセブンの状態でとある山中の洞穴内で待機しているが{{R|F28516}}、劇中では突如現われ、敵のロボットを倒すとどこかへと立ち去っていく。 内部には人が乗り込めるコントロールルームがあり、上記のケーキなどで三郎たちをもてなした。のちに頭部に操縦席が超生産能力で作られ、最終話では、ブレインエリアの影響を恐れて活動を停止したワンセブンを三郎が操縦した{{R|東映×石ノ森}}。 必殺技は腹部のシャッター内部の発射口を開いて火の玉のようにして撃ち出す[[重力子]]で、目標を強大な力で圧縮、粉砕する'''グラビトン攻撃'''{{R|F28516}}{{efn|または単に'''グラビトン'''と呼ばれる。}}。なお、グラビトンとは重力子を意味する言葉だが、この技で重力子がどのように働くのかについての科学的な設定は語られていない。発射の際は両眼が赤く輝き、一定の動作とともに初期は前述の応答音、後半は「グラビトーン!」と発声する。 ブレインによればグラビトンは一度発射すると、重力子蓄積のため、15時間のインターバルを要する{{Sfn|東映HM7|2003|p=78}}{{R|東映×石ノ森}}{{efn|ただし、劇場版『大鉄人17』ではローラーロボットを倒した直後に出現したハリケーンロボットをもグラビトンで倒している。}}。そのため、攻撃ロボを2台用意しての二段攻撃が仕掛けられたが、自己改良により蓄積時間を13時間に短縮した{{Sfn|東映HM7|2003|p=78}}{{R|F28516}}。 当初3タイプ、後に4タイプの形態を持ち、それぞれ'''要塞ワンセブン'''・'''戦闘ワンセブン'''・'''飛行ワンセブン'''・'''戦闘飛行ワンセブン'''と呼ばれている。 * 当時 発売された『DX[[超合金 (玩具)|超合金]] 大鉄人17』は変形機構を忠実に再現しており{{efn|実用新案書類では、変形機構について「収納に便利」であることを特長としている{{R|列伝}}。}}、単品では販売累計 150万個以上{{Sfn|超合金の男|2009|p=67}}と超合金シリーズ史上最多の販売数を記録した{{R|甦る|列伝}}。1999年には『超絶自動変形 大鉄人17』を超合金ブランドで発売した。合金使用箇所は脚部の各マシン格納部のみ。 * 2022年3月26日、[[BANDAI SPIRITS]]より『超合金魂 GX - 101 大鉄人17』が発売された。『DX超合金 大鉄人17』を最新の技術でリメイクした製品で戦闘ワンセブンから要塞ワンセブン、飛行ワンセブンへの変形が可能。腹部に内蔵するグラビトン ユニットは音声・発光機構を搭載。両目の発光と劇中の台詞を再現した。 * デザインは、超合金の商品設計で有名な[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]の[[村上克司]]案に協調する形で、原作者の[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]も自ら図面を引いた合作であり、{{要出典範囲|のちに村上がコンセプトデザインを手がけたアニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』に登場する[[サイコガンダム]]は、ワンセブンに似た変形機構を持つ|date=2021年11月}}。初期案では水中で活動中の場面が想定したイメージのイラストも描かれ、2基のスクリューが翼に見られる{{R|F28514}}。 * 造型は[[エキスプロダクション]]が担当{{R|21st15|20th87}}。スーツは頭部と胴体のみが[[繊維強化プラスチック|FRP]]製で{{R|21st15|20th87}}、手足は軽い[[ポリエチレン]]を用いている{{R|20th87}}。着ぐるみには、ボディーの青が薄く、腹部が4段になったNGバージョンがあった{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|p=226}}。この着ぐるみは『[[東映まんがまつり]]』の予告編で確認できる。エキスプロダクションで造形を担当した小松義人は、本作品での経験が後に[[スーパー戦隊シリーズ]]のロボット制作に役立ったと述べている{{R|20th87}}。 ; 要塞ワンセブン : 通常の待機時の状態。90度に腕と脚を折り畳んでうずくまったような形態である。体内の工場はこの状態で活動する。また、グラビトンのエネルギーである重力子の蓄積や背部のカタパルトからのシグコンマシンの発進{{R|東映×石ノ森|F28516}}もこの形態で行う。全高は35m{{R|F28516}}。 ; 戦闘ワンセブン : 二足歩行の人間型形態。戦闘スタイルは主に格闘戦で、飛び道具はグラビトンとナイキ級すねミサイルに腕部のミサイルパンチ{{R|F28516}}。腹部のシャッターを裏返すと敵の光線を反射する鏡になる(ミラーアタック)。腹部に核弾頭を装備している。 ; 飛行ワンセブン : 要塞ワンセブンの状態から、背中のカタパルトを尾翼として逆V字に90度展開した飛行形態{{R|東映×石ノ森|F28516}}。体当たりを得意とするほか、撤退時に[[レーダー]]の追跡から逃れるため、撹乱兵器である[[チャフ]]を撒くこともある{{R|F28516}}。 ; 戦闘飛行ワンセブン : 戦闘ワンセブンの状態から翼を展開して空中飛行する形態。それまでの飛行ワンセブンに代わって、第17話から登場した。最高飛行速度はマッハ6{{R|東映×石ノ森|F28516}}。 ==== シグナル・コントロールマシン ==== ワンセブンに搭載されているマシン。いずれも自動操縦で行動する。 ; シグコンジェット : 要塞ワンセブンの背部に格納され、ワンセブンの指令を受けて背中のカタパルトから発進する無人偵察機{{R|F28516}}。全長5メートル、重量15トン、最高速度マッハ3.5、最高高度2万メートル{{R|東映×石ノ森|F28516}}。シグナルコントロールジェットの略。情報探索などの偵察飛行用に使われ、ワンセブンにブレインロボットの動きの情報を送信する{{R|東映×石ノ森|F28516}}。エンディングには第1話から登場しているが、本編での初登場は中盤の第15話で{{R|F28516}}、ブレインの罠により拉致され洗脳されたルミが戦艦ロボを操縦し17に相対した際、戦艦ロボのコクピットに向けて発射され、彼女に催眠ガスを噴射して退却させた{{R|F28516}}。第34話でブレインエリアの偵察に入った際、ブレインに破壊された。 ; シグコンタンク : 右足に格納されている地中用タンク{{R|F28516}}。全長10メートル、重量80トン、最高時速120キロ(地上)、時速50キロ(地中){{R|東映×石ノ森|F28516}}。5人まで内部に搭乗可能なスペースがある{{R|F28516}}。海野によって命名された{{R|東映×石ノ森}}。シグナルコントロールタンクの略。[[ドリル (工具)|ドリル]]を装備しており、敵基地の探索や、洞窟の地下牢に幽閉されたレッドマフラー隊の救助などに用いられた。初登場は第12話{{Sfn|東映HM7|2003|p=86}}{{R|F28516}}。第34話で三郎を救出しようとブレインエリアに入ったが、ブレインに察知され、破壊された。 ; サブマシーン : 三郎への友情の証として作られた空陸両用の特殊マシン{{R|F28516}}。設定のみだが、海中でも行動可能{{R|東映×石ノ森}}。全長3メートル、重量10トン、最高速度800キロ(陸海空共通){{R|東映×石ノ森|F28516}}。左足に格納されている。自動車から翼とローターを広げて飛行することも可{{R|東映×石ノ森|F28516}}。機体の表記は「SAB-MACHINE」。操縦にはワンセブンが三郎に贈った脳波ヘルメットを用いるが{{R|F28516}}、ワンセブンによる遠隔操作が優先される。本編には第6話から登場{{Sfn|東映HM7|2003|p=85}}。 === ワンエイト === {{キャラスペック|名称=ワンエイト|身長=52{{nbsp}}m|体重=210{{nbsp}}t}} ワンセブンの弟として作られたブレインロボット{{R|東映×石ノ森|F28524}}。全身は鋼鉄色。ワンセブン同様、自らの意志を持つが、内蔵された'''サタン回路'''のため、ブレインの命令には絶対服従であり、ワンセブンと対決する{{R|F28524}}。最高飛行速度はマッハ7{{R|F28524}}で、戦闘飛行ワンセブンを後方から追跡し撃墜したこともある。胸の赤い文字で「1」「8」と書かれたハッチは観音開きになっており、内蔵されている12連射多連装式ミサイルや'''超グラビトン'''で攻撃する{{R|東映×石ノ森|F28524}}。なお、ワンセブンが三郎と交流するのと同様、ワンエイトも命を救った三郎の級友・矢崎勇には心を開いていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=80|F28524}}。また内部にはワンセブン同様、人が乗り込めるコクピットが存在する{{R|F28524}}。 ワンセブンとの戦闘でワンセブンのミサイルパンチを開いたハッチに受けて、全機能を停止させられる。その後、ワンセブンによって旧日本軍の地下秘密工場へと移送され、佐原博士と山中隊員によってサタン回路を除去された後はワンセブンの味方となる{{Sfn|東映HM7|2003|p=80}}{{R|F28524}}。しかし、敵の奸計にはまりピンチを招いたこともある。第26話では、グラビトン攻撃を防ぐ盾と俊敏な運動性能を持つ殺し屋ロボット、ハーケンキラーに苦戦するワンセブンの危機を救うため、一度は寝返ったふりをして油断させ、身を挺して敵を押さえ込み、その身を犠牲にしてワンセブンの放ったグラビトン攻撃により、ハーケンキラーを倒すことが出来たものの機能不全に陥った自らの体内原子炉を損傷し爆発してしまった{{R|F28524}}。 * デザインの元となったのは、ワンセブンの全身の検討用ラフデザインで、胸のマークには「17」と記されている{{R|F28514}}。 === ブレイン === 元は佐原博士率いる科学者チームが天変地異や災害の予測など平和利用のために作り上げた世界最大の人工知能システムで、超高性能の巨人電子頭脳{{R|東映×石ノ森|F28516}}。一つ眼の本体から何本ものパイプが宙に伸び、さらにこのパイプ一本一本に球体をぶら下げたような形状をしている。意志によって本体のまぶたが開閉する{{R|東映×石ノ森}}。 ハスラーの野心によって持つようになった自我と、内蔵したオートダイオード・ワンセブンにより完全自衛システムを保有。さらにあらゆる物体を生み出せる超生産能力で、重さ2000トンの巨体を誇る巨人電子頭脳へと成長し、これに乗じた科学者チームの中でも狡猾で野心家だったハスラー教授の策略により、人類を地球にとって邪魔な存在と見なし、地球環境の保全のために人類を排除させるべく幾多のブレインロボットを作り上げ征服に乗り出す{{R|東映×石ノ森|F28516}}。さらに世界中の刑務所から凶悪犯を集め'''ブレイン党'''を組織し、レッドマフラー隊に戦いを挑む{{Sfn|東映HM7|2003|p=84}}{{R|F28516}}。またハスラー教授から主導権を奪って「私のことはミスター(・ブレイン)と呼びたまえ」と告げると同時に、ハスラーのことは「ハスラー君」と呼んで奴隷扱いし、自ら全知全能の神を自認するようになり、ブレイン党のトップとして君臨する{{R|F28516}}。第12話で佐原博士によって破壊されたが、自己再生能力で約10秒ほどで全機能を取り戻した{{R|F28516}}。 自分を中心に半径2キロ以内のコンピュータを支配下に置く能力もあり、この影響を及ぼせる区域は'''ブレインエリア'''と呼ばれる。そのためワンセブンはうかつにブレインに近づくことはできなかったが、最終話で三郎がワンセブンを手動操縦することでブレインと対抗した。そして、ワンセブンの特攻作戦によって自己再生能力が追いつく間もなく破壊される{{R|F28516}}。 === ビッグエンゼル === 第35話で佐原博士が「第2ブレイン計画」によって第2のブレインとして設計・開発した巨人電子頭脳{{R|東映×石ノ森|F28516}}。形状はブレインと同様だが、一つ眼の本体の上に球状の“反乱防止装置”が追加されている。災害から人類を守るために、ブレインに代わるコンピューター・システムとして建造される予定であったが、ブレインを制御するという役割が与えられ{{R|F28516}}、ブレイン打倒の大きな鍵となった。最終話でブレインとワンセブンが相打ちになったと同時に、オーバーヒートにより爆発、その機能を停止した。 == 登場人物 == === レッドマフラー隊 === 国際平和部隊の別名{{R|F28516}}。隊員たちが全員首に赤い[[襟巻き|マフラー]]を巻いていることからこの名がついた{{R|F28516}}。国際平和部隊科学研究所を日本支部とし、世界各国に支部が存在する{{R|東映×石ノ森|F28516}}。当初は部外者がブレインに接触しないようにする警備活動を行なっていたが、ブレインの反乱によって敵対関係となり、携行火器([[M1カービン]]・[[89mmロケット発射筒 M20改4型|M20バズーカ]]など)や[[F-104 (戦闘機)|F-104]]・[[F-4 (戦闘機)|F-4]]戦闘機(ファントム戦闘機{{R|F28516}})やジープでブレインの巨大ロボットに立ち向かった{{R|F28516}}。服装は[[陸上自衛隊]]の作業服([[66式鉄帽]]など。いずれも国際平和部隊のロゴが入っている)と同じで、巨大ロボットとの戦闘シーンやエンディング映像では[[自衛隊]]の記録映像がふんだんに用いられている。なお、作中で登場する「隊長」は、レッドマフラー隊の総指揮官ではなく、隊内のさらに小部隊の指揮官である。第3話以降は、剣持隊長が率いる部隊がレギュラーメンバーとなり、「剣持隊」と通称されている{{efn|劇中では剣持隊以外に、第4話に「木戸隊」「石井隊」が登場した{{Sfn|東映HM7|2003|p=84}}。}}。 ; 南三郎 : 本作品の主人公で、奥多摩中学の1年生で、13歳{{R|F28516}}{{efn|年齢設定は、「メガロ17」時の企画書では10歳。製作開始前の企画書では11歳とされている{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。}}。ワンセブンと心を通わせられる唯一の人物{{R|F28516}}。姉の結婚式に出かけようとした日に両親と姉をローラーロボットの攻撃で失う中、洞穴のブレインの電磁フィルターに幽閉されていたワンセブンを解放した{{R|F28516}}。その後、レッドマフラー隊の一員としてブレインと対峙する{{R|F28516}}。孤児となったため、佐原家に身を寄せる。千恵に亡き姉の姿を重ね合わせている。普段は私服だが、[[ブレザー]]やレッドマフラー隊と同様の軍服を着ることもあった。 ; 佐原千恵 : 佐原博士の長女{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}{{R|F28516}}。設定年齢18歳{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}{{efn|書籍によっては、22歳と記述している{{R|F28516}}。}}。レッドマフラー隊員でもあり、主に通信係および佐原博士の秘書として活動する{{R|東映×石ノ森|F28516}}。既にこの世を去っている母の代わりに佐原家の家事全般もこなしている。 : 三郎からは「千恵姉さん」と呼ばれることもある。 :* 製作開始直前の企画書では、『[[冒険ファミリー ここは惑星0番地]]』に出演した[[伊豆田依子]]<ref>{{Cite web|和書|title=2015年1月の特集|url=https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/features/201501/|website=NHK番組発掘プロジェクト通信|accessdate=2021-11-05|language=ja|last=NHK}}</ref>などが候補として挙げられた{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。 ; 佐原博士 : 国際平和部隊の科学者で、沈着冷静なレッドマフラー隊日本支部の指揮官{{R|東映×石ノ森|F28516}}。46歳{{R|F28516}}。フルネームは佐原正{{R|東映×石ノ森|F28516}}。日本を代表する工学博士で、日本有数のシステム工学の権威{{R|東映×石ノ森|F28516}}。自ら設計したブレインの破壊活動から人々を守るために、ブレインを超えるコンピューターの製作を計画する。妻とは死別している{{R|東映×石ノ森}}。 :* 設定年齢は、「メガロ17」時は64歳。製作開始前に書かれた企画書では45歳とされている{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。 ; 中井隊長 : レッドマフラー隊の中井隊隊長{{R|東映×石ノ森}}。千恵と婚約していた矢先、ブレインの計画の糸口をつかもうと結成直前のブレイン党に強盗犯を装って潜入したが、ブレインに潜入を予期されていたため正体が露見し殺害された{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}{{R|F28516}}。ハスラーとブレインの繋がりを示す[[ダイイング・メッセージ]]を遺した。 ; 剣持保隊長 : 第3話から登場した、中井の後任のレッドマフラー隊の隊長{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。通称「鬼の剣持」{{R|F28516}}。[[陸上自衛隊]][[レンジャー (陸上自衛隊)|レンジャー]]部隊特殊課出身で、非常に厳格で沈着冷静に部下を指揮するが、内には熱い闘志と優しさを秘めている。かつては「カミソリ」と評された切れ者{{R|F28516}}。キャプテンゴメスとはグリーンベレー部隊以来の因縁があり{{R|F28516}}、第15話では、ブレインに敗北したゴメスが遺した帽子を拾い、ゴメスを悼む言葉を呟いている{{Sfn|東映HM7|2003|p=86}}。やすしという弟をオートバイ事故で亡くしており、三郎にその面影を見つつ、彼を指導した{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。登場以降、自身が率いる隊は「剣持隊」の通称で呼ばれ、以後中核を成す。 ; 村中隊員 : レッドマフラー隊の剣持隊のナンバー2{{R|東映×石ノ森}}。隊長が不在の時は、隊長代行を務める。幼いころ炎に巻かれて死にかけたことがあり、その時の恐怖がまだ残っていたが、第13話で克服した{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}。また大学で未来科学を専攻し、佐原博士の助手を志願してレッドマフラー隊に入隊したことから、同話で三郎とともにワンセブンの体内に入り、修理を行なった。佐原博士がワンエイトからサタン回路を取り外す際も助手を務めている。 :* 製作開始直前の企画書では、[[誠直也]]、[[伴大介|伴直弥]]などが候補として挙げられた{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。 ; 海野隊員 : レッドマフラー隊の一員。明るくお調子者で、三郎に対しても面倒見の良い人物{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}。力持ち{{R|東映×石ノ森}}。ハーモニカをいつも吹いている{{R|東映×石ノ森}}。ガンテツから「豆だぬき」と呼ばれている{{R|東映×石ノ森}}。 ; 小野隊員 : レッドマフラー隊の女性隊員で、主に通信班として活動する。村中隊員とは恋愛関係を結んでいる。兄とともに入隊した{{R|東映×石ノ森}}。空手二段{{R|東映×石ノ森}}。番組後半では、三郎の休暇時などに行動を共にしていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}。 ===レッドマフラー隊の協力者=== ; 岩山鉄五郎 : 通称'''ガンテツさん'''{{R|F28516}}。25歳{{R|F28516}}。三郎の友人・岩山鉄次の叔父で、常に[[学生服|学ラン]]を着ている。第16話より登場{{R|F28516}}。「剣道四段・柔道四段・空手四段・[[過年度生|浪人]]四年」{{R|東映×石ノ森}}が座右の銘で[[東京大学|東大]]合格を目指していたが{{R|F28516}}、レッドマフラー隊の活躍にあこがれて、あっさり東大合格をあきらめた。[[大鎧]]姿でレッドマフラー隊に入隊しようとして相手にされなかったものの、その後も登場し続け、幾度も三郎やレッドマフラー隊の危機を救い、はみだし隊員として強引に入隊した{{R|東映×石ノ森|F28516}}。岩山家は裕福な家であり、ガンテツも[[クラシックカー]]収集を趣味にしている。 ; 佐原ルミ : 佐原博士の次女で、三郎と同じく中学1年生の13歳{{R|F28516}}。佐原家において三郎とは兄妹同然の仲。佐原家では母親がいないため、家事を請け負う{{R|東映×石ノ森|F28516}}。第14話ではブレインから洗脳され、戦艦ロボットのパイロットを務める。この出来事以降は三郎やガンテツたちと行動を共にすることが多くなる{{Sfn|東映HM7|2003|p=76}}。 === ブレイン党 === ワンセブンと対決するために戦力増強が必要との判断を下したブレインが、ハリケーンロボットなどを使って世界中の刑務所を襲撃し、脱獄させた名だたる凶悪犯を駆り集めて自らの走狗として結成した戦闘部隊{{R|F28516}}。武装兵士は[[ナチス・ドイツ]]時代の[[ドイツ国防軍]]に似たヘルメットとゴーグル、青いコンバットスーツを着込んでおり{{R|F28516}}([[軍服 (ドイツ)#帝政ドイツ時代]])、レッドマフラー隊との白兵戦を展開した。なお、キャプテンゴメスとチーフキッドなどの戦線指揮官も[[ハーケンクロイツ|鉤十字]]が付いた[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]員の服装に似た軍服を着用している{{R|F28516}}(肩章の部分が異なり、ブレイン党独自の徽章が追加されている)が、これらの軍服はブレイン党結成以前(ブレインがハスラー教授から主導権を奪う前)のメンバーも着用しており、ブレイン党結成時の新制服ではない。 両組織とも当時のヒーローものでは珍しく、純軍隊然とした組織であるのが特徴であった。レッドマフラー隊が敵ロボットを攻撃する際も、特に特殊な兵器で攻撃するわけではなく、レッドマフラーが擁する戦車隊(自衛隊の[[74式戦車]]・[[61式戦車]])や戦闘機隊(F-4戦闘機・F-104戦闘機)などの現用兵器で対抗するという当時の巨大ヒーローものとしては異例の演出がみられた。 ; ハスラー教授 : 元は国際平和部隊に所属していたブレインの開発者のひとりであったが、自らの世界制覇の夢想のためブレインを持ち去って自我を与え、ブレイン党を結成する{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。小心者だが残忍で傲慢な激昂しやすい野心家であり、その傲慢さが災いして自らの意に反してブレインから主導権を奪われてしまう{{R|F28516}}。以後は不本意ながら、侵略ロボットの製造および指揮官として使役され、折々でブレインに対して面従腹背の一面を覗かせながら、破壊活動を技術面から補佐する{{R|F28516}}。30話以降の戦闘では[[ピラミッド]]型のメカ・'''ハスラー要塞'''を駆って三郎たちを苦しめるが、最終話で要塞ごとワンセブンに投げ飛ばされて撃墜された{{R|F28516}}。 :* パイプは、大月の自前のものである{{Sfn|東映×石ノ森|2010|p=109}}。大月を本作品に斡旋したのは、第2話に出演したユセフ・オスマンである{{R|F28524}}。 ; キャプテンゴメス : 元は要人暗殺、破壊活動を行う国際テロリスト{{R|F28516}}。テロリスト転身前はグリーンベレーで剣持とライバル関係にあった{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|F28516}}。ブレイン党の破壊工作隊長に就任し{{R|F28516}}、ハスラー教授とともに巨大ロボットによる破壊活動を指揮したほか、超重砲グスタフに自ら乗り込み、破壊活動を行なった。また、巧みに人間心理を衝く作戦行動を得意とする{{R|F28516}}。第15話でブレインに反旗を翻し、自分の支配下に置こうとしたが、ハスラー教授とチーフキッドに裏切られたため失敗{{R|F28516}}。背水の陣で自ら戦艦ロボットに搭乗してワンセブンに戦闘を仕掛けた。ワンセブンに敗北した上、チーフキッドの手によって自爆スイッチを押され、ロボットごと爆破され死亡した{{R|F28516}}。作中では[[親衛隊 (ナチス)|SS]]大隊指揮官(少佐)の襟章を付けている。 また、剣持に戦艦ロボットの行方を知らせた際にはスーツを着用していた{{R|東映×石ノ森}}。 ; チーフキッド : テロリスト時代からのキャプテンゴメスの腹心の部下で、ゴメスとともにブレイン党に入党する{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。ナイフ術の達人で、特に投げナイフが得意{{R|東映×石ノ森|F28516}}。狙った的の中心へ正確に撃ち込む腕前を持つ。左手首には腕輪状のヤスリをはめている{{R|F28516}}。また、人物眼にも優れ、各方面のスペシャリストを即座に選抜できる。変装術にも長け、変装して堂々とレッドマフラー隊の前に現れて破壊工作や拉致を行なうこともあった{{R|F28516}}。ブレイン党の実戦指揮官の座を目指すために、長年師事してきたゴメスを裏切る{{R|F28516}}。第21話で、ガンテツに不意を突かれ負傷した上にビルロボットを使った作戦に失敗した責任を取らされる形でブラック・タイガーによる暗殺拳法のキックの直撃を受け、レッドマフラー隊の前でワンエイトの出現を示唆する言葉を遺し息絶えた{{Sfn|東映HM7|2003|p=87}}{{R|F28516}}。作中ではSS下級中隊指揮官(少尉)の襟章を付けている。 ; ブラック・タイガー : キャプテンゴメスに代わる実戦指揮官として第16話から、バラモン密教の細菌兵器を手土産にブレイン党の新幹部となったラマ僧{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|東映×石ノ森|F28516}}。豪放磊落な性格{{R|F28516}}。チベットのラマ山の出身で東南アジア地域の暗黒街の伝説的な黒幕。世界中のダークサイドから一目置かれる存在であり{{R|F28516}}、その名はチーフキッドにも知られており、彼から尊敬の念を持たれていたほどである。額に第三の眼を持つ。無双の怪力の上、超人的な体術、東洋の神秘的な呪術にも優れており、第21話で作戦に失敗したチーフキッドを飛び蹴り一発で処刑したほどの暗殺拳法の使い手{{R|F28516}}。また、直属の部下であるピンクジャガー、ブルージャガーを使って破壊工作を行なう。第33話では自らの死期を悟り、ビッグエンゼル破壊への単独作戦に赴くが、ビッグエンゼルの自動防衛システムの熱光線に細胞を破壊されて消滅する{{R|F28516}}。 ; ピンクジャガー : 第22話より登場したブラックタイガー配下の諜報および破壊工作員の女コンビの一人{{R|F28516}}。基地内では名前の色の隊員服とヘルメット、外では、シースルーのシャツにピンクのベストとホットパンツという服装で活動する。仕事や任務には忠実に実行するが意外にも天然系で人情派な一面を持っている{{R|F28516}}。「この手を血で汚したことはない」ことから、捕えられた三郎を逃がそうとするが、追手のハスラー教授に射殺される{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|F28516}}。[[蛙]]が大の苦手。 ; ブルージャガー : 同じく、ブラックタイガー配下の諜報および破壊工作員の女コンビの一人{{R|F28516}}。ピンクジャガーと色違い(水色のベストとホットパンツ)の服を着て行動する。ピンクジャガーとは反対に冷酷無比な性格{{Sfn|東映HM7|2003|p=77}}{{R|F28516}}。最期はピンクジャガーの裏切りの責任を取ってネッシーロボを強化改造したゴールドネッシーに乗りこんでワンセブンを攻撃するが、ゴールドネッシーごとグラビトン攻撃で破壊され、ブレインの名を叫びながら爆死する{{R|F28516}}。 == キャスト == === レギュラー・準レギュラー === * 南三郎 - [[神谷まさひろ|神谷政浩]] * 佐原千恵 - [[竹井みどり]] * 佐原博士 - [[中丸忠雄]] * 剣持隊長 - [[原口剛 (俳優)|原口剛]] * 村中隊員 - 三井俊吾 * 海野隊員 - 菅野直之 * 小野隊員 - 大槻純子{{efn|制作開始前に作成された企画書では、佐原千恵の候補とされていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。}}<ref>『[[燃えろアタック]]』([[テレビ朝日]])の大山亜矢子(アーヤ)役でレギュラー出演した。</ref> * 岩山鉄五郎 - [[高品剛|高品正広]] * 岩山鉄次 - [[高橋仁]] * 岩山エミ - 渡辺麻由美 * 佐原ルミ - [[島田歌穂]] * キャプテンゴメス - [[平田昭彦]] * ブラック・タイガー - [[山本麟一]] * チーフキッド - [[山口豪久|山口あきら]]{{efn|制作開始前に作成された企画書では、村中隊員の候補とされていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=82}}。}} * ハスラー教授 - [[大月ウルフ]] * ピンクジャガー - [[三東ルシア]] * ブルージャガー - [[東丘いずひ|太田美緒]] === 声の出演 === * ブレイン、ビッグエンゼル - [[水島弘]] * ロボター - 村松美枝子 * ナレーター、ワンセブン - [[小林恭治]] * ワンエイト - [[市川治]](第22 - 26話) === ゲスト === * 中井隊長 - 多宮健二{{efn|制作開始前に作成された企画書では、海野隊員の候補とされていた{{Sfn|東映HM7|2003|p=83}}。}}<ref>前[[三田市議会]]議員の多宮健二とは同姓同名の別人である。https://twitter.com/leo21kenji</ref>(第1・2話) * 南徳造{{efn|第1話のオープニングクレジットでは「三郎の父」と表記。}} - 山田光一(第1・16話) * 南松代{{efn|第1話のオープニングクレジットでは「三郎の母」と表記。}} - [[山本緑|山本みどり]](第1・16話) * 南加代{{efn|第1話のオープニングクレジットでは「三郎の姉」と表記。}} - 鈴木裕子(第1話)、谷口奈緒美(第16話) * 岡崎隊員 - [[山浦栄]](第1話) * パイロット - 江藤昭之(第1話) * 記者 - 木村修、亀山達也、清水照夫(第1話) * 村人 - 佐川二郎、美原亮三、小甲登枝恵(第1話) * レッドマフラー隊員{{R|F28534}} - 中屋敷鉄也(第1話) * レッドマフラー隊員 - 新堀和男(第1・2話) * 長官 - [[河合絃司|河合弦司]](第2・11・12話) * 政府高官 - 斎藤英雄、山本武、[[相馬剛三]](第2・11・12話) * ブレイン党士官{{R|F28534}} - 中屋敷鉄也(第2話) * 国際平和部隊副官{{R|F28534}} - 中村文弥(第2話) * 囚人{{R|F28524}} - [[オスマン・ユセフ|ユセフ・オスマン]]{{efn|ノンクレジット。}}(第2話) * 銀行職員 - 章文栄(第2話) * やすし - [[川口英樹]](第5・7話) * 白衣の男A - 吉岡幸造(第5話) * 白衣の男B - 拳鍈司(第5話) * 機長 - 久地明(第5話) * 副機長 - 横山繁(第5話) * 対潜哨戒機の通信士{{R|F28534}} - 河原崎洋夫(第5話) * 技官{{R|F28534}} - 新堀和男(第7話) * 子供 - 古田範也、吉村美恵子、福士知行(第7・8話) * 左久井アナウンサー - 木村修(第8話) * 野村隊員 - [[佐々木勝彦]](第9・10話) * 野村里江 - [[皆川妙子]](第9・10話) * 野村絵里 - 千葉由美(第9・10話) * ブレイン党員{{R|F28534}} - 河原崎洋夫(第10話) * ハイカー - 市川貴史、宍戸久一郎(第11話) * ドクター宇野 - 平田昭彦(第11話) * サチコの母 - 高樹蓉子(第11話) * サチコの父 - 佐野光洋(第11話) * サチコ - 小貫千恵子(第14話) * ジャンボ機機長 - [[小林稔侍]](第14話) * ジャンボ機副長 - 高月忠(第14話) * ガイラー - ジョン・シェファード(第14話) * トラック運転手 - 小野正二、市川貴史(第16話) * 00Cパトロール班隊員A - [[花巻五郎]](第17話) * 00Cパトロール班隊員B - 大山清志(第17話) * のぞみ{{efn|のぞみ号が運行開始となったのは1992年のため、偶然の一致である{{R|F28524}}。}} - 馬淵里美(第18・19話) * のぞみの姉 - 上田かおり(第18・19話) * のぞみの祖母 - [[原ひさ子]](第18話) * [[東海道・山陽新幹線|新幹線]][[ひかり (列車)|ひかり]]23号の車掌 - [[中村文弥]](第18話) * 新幹線[[運転指令所]]主任 - 仙波和之(第18話) * 新幹線コントロールルーム職員 - 高木真二(第18話) * 新幹線コントロールルームのスタッフ{{R|F28534}} - 中屋敷鉄也(第18話) * アナウンサー - 木村修(第18話) * 武藤洋次 - [[新井つねひろ]](第20・21話) * 武藤剛 - [[武岡淳一]](第20・21話) * 尾崎茂美 - 大森不二香(第20・21話) * 実況アナウンサー - 岸野一彦(第20話) * 市会議員 - 宮田光(第20話) * サチコ - [[好井ひとみ]](第20・21話) * エイコ - 村田ゆき子(第20・21話) * 田村隊員{{R|F28534}} - 中村文弥(第20話) * 立花高校野球部監督 - 山浦栄(第20・21話) * 立花高校野球部員 - 岡元八郎、熊谷幸男、保坂孝夫(第20・21話) * タムラ隊員 - 上田弘司(第20・21話) * レッドマフラー隊隊員 - 中村文弥(第21話) * スーパーの店員(ブレイン党員){{R|F28534}} - 河原崎洋夫(第21話) * 矢崎勇 - [[佐藤賢司]](第22 - 26話) * 矢崎カヨ - 小甲登枝江(第22、24 - 26話) * 井原先生 - 新宅剛(第22話) * ジープの男 - 貝之瀬一夫、明石富和(第22話) * ジープの女 - 田之頭美香、市川清美(第22話) * ビッグエンゼル開発スタッフ{{R|F28534}} - 新堀和男(第23話) * 看護婦 - 小林満喜子、岸川洋子(第24話) * 小林伸吉 - [[佐原健二]](第27話) * 小林清 - 菅原靖人(第27話) * 孝 - 藤木武司(第27話) * 明 - 大栗正史(第27話) * 藤木教授 - [[剣持伴紀]](第28・29話) * 藤木みどり - 猪股裕子(第28・29話) * 第二太平丸船長 - 佐藤晟也(第28話) * 第二太平丸航海士 - 須賀良(第28話) * カメラマン - 山浦栄(第28話) * トミー少年 - テディー・ペルク、[[小宮和枝]](声)(第30話) * アッカーマン博士 - [[エンベル・アルテンバイ]]、[[槐柳二]](声)(第30話) * アキラ - [[梅地徳彦]](第30話) * ブレイン党員 - 新堀和男(第30話) * 少年 - 大栗清史(第30話) * エミの母 - 佐々木エリー(第31話) * 小母さん - 八百原寿子(第31話) * 黒田大介 - [[天本英世]](第32話) * 黒田正 - 高田康司(第32話) * 少年 - 藤木武司、大栗正史(第32話) * 長田助手 - 山口雅樹(第33話) * 技師 - 新堀和男(第33話) * 長崎助手 - 中村文弥(第34・35話) * 技師 - 山本相時、福岡康裕(第34・35話) === スーツアクター === * ワンセブン{{Sfn|昭和石ノ森ヒーロー列伝|2013|p=113|loc=各番組情報}}{{R|20th80|F28512}} - [[新堀和男]] * 怪ロボット{{R|F28512}} - [[河合徹]] * ワンエイト{{R|F28512}} - [[河原崎洋央|河原崎洋夫]] == スタッフ == * 原作 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] ::([[テレビマガジン]] / [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] / [[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]] / [[テレビランド]])連載 {{表2列| * プロデューサー - [[七條敬三|七条敬三]] * 音楽 - [[渡辺宙明]] * 音楽制作 - あんだんて * 撮影 - 山沢義一、小川康男、加藤弘章 * 照明 - 元持秀雄、城田昌貞 * 美術 - 阿部三郎 * 助監督 - 松本喜隆、田村猛、鈴木隆志 * 仕上制作 - [[映広|映広音響]] * 録音 - 太田克己 * 編集 - [[菅野順吉]]、祖田冨美夫 * 効果 - 平田靖 * 選曲 - 花村勝 * 制作主任 - 川上正行、古市勝嗣、原田良彦 * 記録 - 安倍乃婦子 * トランポリン - 湯川泰男 * 擬斗 - [[岡田勝]] | * 装置 - 生田美術、共和美建、阿部幸夫 * 衣裳 - 東京衣裳 * 美粧 - 入江美粧 * 特殊効果 - 大平特殊効果、菊地潔 * 特撮監督 - [[矢島信男]] * 特撮 - [[特撮研究所]] ** 操演 - [[鈴木昶]]、[[久米攻]]{{R|三郎少年のスタジオ案内}}、関山和昭{{R|三郎少年のスタジオ案内}} ** 美術 - 松原裕志、[[大澤哲三]]{{R|三郎少年のスタジオ案内}} ** 撮影 - 石山信雄、高梨昇 ** 照明 - 日出明義 * 合成 - [[日本映像クリエイティブ|チャンネル16]] * キャラクター制作 - エキスプロダクション * 操車 - 熊沢敏明 * 現像 - [[東映ラボ・テック|東映化学]] * 協力 - [[スズキ (企業)|スズキ]]自動車 * 制作担当 - 大里俊博、榎本博 * 制作 - [[毎日放送]]、[[東映]] }} == 音楽 == {{See also|大鉄人17 MUSIC COLLECTION}} === 主題歌 === ; オープニングテーマ「オー!!大鉄人ワンセブン」 : 作詞 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] / 作曲・編曲 - [[渡辺宙明]] / 歌 - [[水木一郎]]、[[こおろぎ'73]]、[[ザ・チャープス]] : 第3話以降はワンセブンの変形シーンが第1話劇中分に差し替え、第14話以降は歌の途中から小林恭治によるナレーションが流れるようになった。第18話以降は画面下に歌詞テロップが追加され、いくつかの特撮シーンが挿入された{{R|F28534}}。[[キングレコード]]からは[[堀光一路]]によるカヴァー版が発売された。 ; エンディングテーマ「ワンセブン讃歌」 : 作詞 - [[八手三郎]] / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - 水木一郎、こおろぎ'73 : 前期はレッドマフラー隊とブレイン党との総力戦がメインで、第3話以降ラストカットが戦闘ワンセブンのカットに差し替え、第20話以降は、第16話から第19話までの三郎や仲間たちの日常のドラマシーンに変更された{{Sfn|東映HM7|2003|p=87}}{{R|F28534}}。 === 挿入歌 === ; 「僕のサブマシーン」 : 作詞 - 赤井圭 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - ザ・チャープス、[[コロムビアゆりかご会]] : 第16・19話でインストゥルメンタル版が使用された。 ; 「戦いの歌」(第35話) : 作詞 - 赤井圭 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - 水木一郎、こおろぎ'73 ; 「進めシグコンマシン」 : 作詞 - 八手三郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - [[武市昌久]] / 歌 - こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会 ; 「レッドマフラー隊の歌」 : 作詞 - 赤井圭 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - 水木一郎、こおろぎ'73、ザ・チャープス ; 「僕のワンセブン」 : 作詞 - 八手三郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 武市昌久 / 歌 - 水木一郎、コロムビアゆりかご会 ; 「わが名はブレイン」 : 作詞 - 石森章太郎 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - こおろぎ'73 ; 「おれは鉄人ワンセブン」 : 作詞 - 八手三郎 / 作曲 - 渡辺宙明 / 編曲 - 武市昌久 / 歌 - 水木一郎、こおろぎ'73 ; 「ディスコワンセブン」 : 作詞 - 石森章太郎 / 作曲・編曲 - 渡辺宙明 / 歌 - 水木一郎、こおろぎ'73 == 放映リスト == 参照・{{Harvnb|東映HM7|2003|p=90}}{{R|F28512}}。ものしりコーナー:{{Harvnb|東映HM7|2003|pp=84-99}}。 {|class="wikitable" style="font-size:small" border="1" !話数!!放送日!!サブタイトル!!脚本!!監督!!ブレインロボ!!ものしりコーナー・ナレーター |- !1 |1977年<br/>3月18日||謎の鋼鉄巨人 |rowspan="2"|[[上原正三]] |rowspan="2"|[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]] |ローラーロボット |[[メートル法]]・小林恭治 |- !2 |3月25日||地上最大の巨人頭脳 |ハリケーンロボット |[[世界標準時間]]・小林恭治 |- !3 |4月1日||消えたワンセブン 謎のヘルメット |rowspan="8"|[[伊上勝]] |rowspan="2"|若林幹 |rowspan="2"|地震ロボット{{efn|雑誌『東映ヒーローMAX』では、放送当時の一部書籍で'''マグマロボット'''と紹介されていたと記している{{Sfn|東映HM7|2003|p=79}}。}} |[[マグニチュード]]・竹井みどり |- !4 |4月8日||わが友はワンセブン | |- !5 |4月15日||空飛ぶ氷山 |rowspan="2"|山田稔 |rowspan="2"|冷凍ロボット |[[氷山]]・中丸忠雄 |- !6 |4月22日||ワンセブンの贈り物 |[[絶対零度]]・菅野直行 |- !7 |4月29日||ゴメスの鉄人狩り |rowspan="2"|若林幹 |ガスタンクロボット<br />ミキサーロボット |[[光速]]・竹井みどり |- !8 |5月6日||ワンセブン15時間の命 |ミキサーロボット |[[陸]]と[[海]]・大槻純子 |- !9 |5月13日||幻の超重砲「グスタフ」 |rowspan="2"|[[内田一作]] |rowspan="2"|大砲ロボット |[[望遠鏡]]・中丸忠雄 |- !10 |5月20日||死なないで! 裏切りの父 |[[顕微鏡]]・原口剛 |- !11 |5月27日||ブレインから来た招待状 |rowspan="3"|上原正三 |rowspan="3"|山田稔 |rowspan="3"|大爪ロボット |[[そろばん]]・竹井みどり |- !12 |6月3日||決死! ブレイン大爆破 |[[電子計算機]]・大槻純子 |- !13 |6月10日||驚異! これがワンセブンの体内だ |[[自動車]]の歴史 |- !14 |6月17日||空中戦艦の中の少女 |rowspan="4"|伊上勝 |rowspan="2"|若林幹 |rowspan="2"|戦艦ロボット |[[テレビ]] |- !15 |6月24日||ゴメス! 戦場に散る |[[電気]]の歴史 |- !16 |7月1日||どこへ!? 消えた人消えた町 |rowspan="2"|内田一作 |rowspan="2"|細菌ロボット |[[レーダー]]・中丸忠雄 |- !17 |7月8日||咲けよ!! 友情の紅い花 |[[マッハ数|マッハ]]・中丸忠雄 |- !18 |7月15日||恐怖の夏休み! 暴走する新幹線 |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="2"|山田稔 |rowspan="2"|新幹線ロボット |[[新幹線]] |- !19 |7月22日||夏休みのプレゼント! ワンセブン超特急 |[[自動列車制御装置|ATC]] |- !20 |7月29日||ガンバレ兄ちゃん! 栄光の甲子園 |rowspan="5"|伊上勝 |rowspan="2"|若林幹 |ビルロボット |[[野球]]の発祥・高品正広 |- !21 |8月5日||守れ! 熱血の甲子園 |ビルロボット<br />ワンエイト |[[高校野球]]の歴史・高品正広 |- !22 |8月12日||奇妙?! 二人のワンセブン |rowspan="3"|山田稔 |rowspan="3"|ワンエイト |[[昆虫]]の鳴き声・大槻純子 |- !23 |8月19日||弟ロボット! その名はワンエイト |[[熱気球]]・高品正広 |- !24 |8月26日||ゆるせ弟よ! 涙のミサイルパンチ |[[飛行機]]・原口剛 |- !25 |9月2日||危うし兄弟ロボット! 恐怖の遊園地 |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="3"|若林幹 |rowspan="2"|ワンエイト<br />ハーケンキラー |[[鏡]]・島田歌穂 |- !26 |9月9日||大逆転! さらば愛する弟よ |[[カメラ]]・神谷政浩 |- !27 |9月16日||なぞのコンコルド 父ちゃんのうそつき |安斉あゆ子 |ブレインコンコルド |[[コンコルド]]・高品正広 |- !28 |9月23日||出たぞ大海獣! ネッシーの子守唄 |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="3"|山田稔 |rowspan="2"|ネッシーロボ |[[シーラカンス]]・太田美緒 |- !29 |9月30日||そこのけそこのけ! 大暴れネッシーロボ |[[スフィンクス]] |- !30 |10月7日||走れ三郎! 死の谷からの脱出 |熊谷節 |ハスラー要塞{{efn|書籍によっては、名称を'''ピラミッドロボ'''とも記載している{{Sfn|全怪獣怪人 上|1990|p=352}}{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|p=226}}{{R|F28512}}。『東映ヒーローMAX』では、放送リストで'''ピラミッド要塞'''{{Sfn|東映HM7|2003|p=90}}、登場ロボット紹介で'''ピラミッドロボット'''と記している{{Sfn|東映HM7|2003|p=80}}。}} |[[ピラミッド]]・大月ウルフ |- !31 |10月14日||お母さんはどこ? 恐怖の白い家 |[[江連卓]] |rowspan="3"|若林幹 |蜃気楼衛星タイガー{{efn|書籍によっては、名称を'''蜃気楼衛星タイガー号'''{{R|F28512}}と記載している。}} |[[蜃気楼]] |- !32 |10月21日||ほえろイナズマ! 謎の黄金怪獣 |安斉あゆ子 |rowspan="4"|ハスラー要塞{{efn|書籍によっては、32話に登場したものの名称を'''ピラミッドロボ'''{{R|F28512}}、34,35話に登場したものを'''ハスラー要塞'''{{R|F28512}}と記載している。}}(32,34,35)<br />ゴールドネッシー |[[雷]]・高品正広 |- !33 |10月28日||ニヤリ! タイガー地獄の微笑 |rowspan="3"|伊上勝 |[[原子力発電]]・竹井みどり |- !34 |11月4日||決戦!! ブレイン対ワンセブン |rowspan="2"|山田稔 |[[火]]・神谷政浩 |- !35 |11月11日||さらばワンセブン 不滅のナンバー | |} == 放送局 == {{節スタブ}} * 毎日放送(制作局):金曜 19時 - 19時30分 * [[北海道放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[青森テレビ]]:金曜 19時 - 19時30分<ref>『[[デーリー東北]]』1977年4月1日付、テレビ欄。</ref> * [[IBC岩手放送|岩手放送]]:水曜 18時 - 18時30分(第2話まで)→ 水曜 17時30分 - 18時(第3話から)<ref>『[[河北新報]]』1977年3月23日 - 11月16日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形テレビ]]:火曜 18時 - 18時30分<ref>『[[日刊スポーツ]]』1977年10月18日 - 1978年4月25日付テレビ欄。</ref> * [[東北放送]]:金曜 19時 - 19時30分<ref>『河北新報』1977年3月18日 - 11月11日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福島テレビ]]:金曜 19時 - 19時30分<ref>『[[福島民報]]』1977年3月18日 - 11月11日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[新潟放送]]:金曜 19時 - 19時30分<ref>『日刊スポーツ』1977年3月18日 - 11月11日付テレビ欄。</ref> * [[TBSテレビ]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[信越放送]]:火曜 17時 - 17時30分<ref>『日刊スポーツ』1977年4月5日 - 11月29日付テレビ欄。</ref> * [[北陸放送]]:金曜 19時 - 19時30分<ref>『北國新聞』1977年10月21日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[静岡放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[CBCテレビ|中部日本放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]:水曜 18時 - 18時30分<ref>『北國新聞』1977年10月19日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[RSKテレビ|山陽放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[中国放送]]:金曜 19時 - 19時30分 * [[RKB毎日放送]]:金曜 19時 - 19時30分 == 劇場版 == いずれも[[東映まんがまつり]]の一編として公開された。 ; 大鉄人17 : 1977年3月19日公開。第1話と第2話の再編集版。なお、公開は第1話の翌日であることから、第2話はテレビ本編よりも早いため、当時の名目上では「新作」扱いとなっていた{{R|F28534}}。 ; 大鉄人17 空中戦艦 : 1977年7月17日公開。第15話の短縮版。画面上では、第15話のサブタイトルである「ゴメス!戦場に散る」が表示される{{R|F28534}}。 [[DVD]]『大鉄人17』Vol.1、Vol.3の映像特典や、[[2007年]][[12月7日]]に発売された『東映特撮ヒーロー THE MOVIE BOX』および2009年11月21日発売の『東映特撮ヒーロー THE MOVIE Vol.4』に収録されている。 == 映像ソフト化 == すべて[[東映ビデオ]]より発売。 * [[1986年]][[1月21日]]に[[VHS]]が発売された。第1話・第2話と予告編集を収録。 * [[1996年]][[11月21日]]から[[1997年]][[7月21日]]にかけて[[レーザーディスク|LD]]が発売された<ref>{{Cite book|和書 |date = 1998-04-10 |title = 宇宙船YEAR BOOK 1998 |series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 61 |id = 雑誌コード:01844-04 }}</ref>。全5巻の各2枚組で各巻8話(Vol.5のみ1枚・3話)収録。 * [[2006年]][[9月21日]]から[[11月21日]]にかけてDVDが発売された。全3巻の各2枚組で各巻12話(Vol.3のみ11話)収録。本放映時に放送された「ものしりコーナー」は未収録。 * [[2008年]][[7月21日]]発売の「石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX」に第1話が収録されている。 * [[2017年]][[7月12日]]に「石ノ森章太郎生誕80周年記念 東映TV特撮ニュープライスシリーズ」の一つとしてDVD全3巻が発売された。 == ネット配信 == [[2012年]][[7月]]から[[11月]]、[[2014年]][[8月]]から[[12月]]まで、[[YouTube]]の「東映特撮 YouTube Official」にて配信が行われたほか、[[2017年]][[7月12日]]から[[11月15日]]まで再配信が行われた。いずれも「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。 [[2021年]][[11月20日]]より、YouTubeの「[[BANDAI SPIRITS]]」でも配信された<ref>{{Cite web|和書|title=BANDAI SPIRITS / バンダイスピリッツ - YouTube|url=https://www.youtube.com/channel/UCuxB1suCoCqAKiljh_0xE4A|website=www.youtube.com|accessdate=2021-11-24}}</ref>。2021年12月31日現在第1話、第2話、第11話 - 第13話、第25話、第26話、第35話(最終回)を配信した。いずれも予告編、「ワンセブンものしりコーナー」は配信されていない。 == 衛星波の再放送 == *[[2005年]]までは[[ファミリー劇場]]で3期にわたって再放送された。3期目は連続放送を行った。 *[[2009年]][[3月]]から[[6月]]まで[[東映チャンネル]]の「石ノ森章太郎劇場」枠にてニューマスター版の放送が行われた。[[2010年]][[10月]]から[[2011年]][[2月]]まで同局の「アンコールアワー」枠にて再放送された。同局ではその後も再放送を繰り返しており[[2021年]][[12月6日]]より毎週月曜18:00と毎週金曜7:00から2話まとめて再放送されたほか[[2023年]][[3月23日]]より[[東映チャンネル]]で毎週木曜7:00から2話まとめて再放送されることが決まった<ref>{{Cite web|和書|title=東映チャンネル {{!}} 大鉄人17 3月23日(木) 放送スタート!毎週(木)7:00~8:00 |url=https://www.toeich.jp/program/1TT000003415/202304 |website=東映チャンネル |access-date=2023-03-14 |language=ja}}</ref>。 == 漫画版 == * [[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]] 1977年連載 [[岡崎優]] * [[テレビランド]] 1977年連載 [[土山よしき]] * [[たのしい幼稚園 (雑誌)|たのしい幼稚園]] 1977年連載 [[石川森彦]]、みなみさぶろう * [[テレビマガジン]] 1977年4月増刊号掲載 [[細井雄二]] * テレビランド 1978年2月増刊号掲載 [[聖悠紀]] == その他 == * 渡辺宙明が劇伴を手掛けた本作品以後の東映特撮作品において、本作品の一部BGMが使用された事例は数多く、中でも本作品をはじめ過去作品からの流用が多かった『[[機動刑事ジバン]]』はこれが顕著であった。 * 主題歌レコードは当時の日本コロムビアレコード学芸部からリリースされたアニメ・特撮部門で第三位の売り上げを記録した。 * ブレインロボットのスーツには[[ポリエチレン]]製の[[風呂マット]]が用いられた{{R|20th87}}。造形を担当したエキスプロダクション近くの金物屋からマットを大量に仕入れ、市場から風呂マットが消えたという{{R|20th87}}。 * 少年誌{{full|date=2017年7月}}には「ワンナイン (19)」の紹介記事があった。 * アメリカでは1982年に[[:en:Family Home Entertainment|Family Home Entertainment]](FHE)社が翻訳・編集版『Brain17』をビデオ販売していた。三郎の名は「スティービー」に変更されている。 * 映画『[[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]]』の企画時には、一案として本作品と『[[ジャッカー電撃隊]]』のクロスオーバーとなる『大鉄人17VSジャッカー電撃隊』が検討されていた<ref>[[講談社X文庫]]『メーキング・オブ・東映ヒーロー (3)・メカニカルヒーローの世界』(1987年) p.100</ref><ref>{{Cite book|和書|date=1988-06-31|title=[[秘密戦隊ゴレンジャー]]大全集:[[ジャッカー電撃隊]]|series=[[テレビマガジン]]特別編集|page=193|chapter=ゴレンジャー&ジャッカー劇場用作品タイトル紹介|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178409-9}}</ref>。 * [[2010年]][[10月]]発売の「[[レンジャーズストライク]] クロスギャザー」『ザ・ギガンテックタイタン』に、本作品が収録。 * 本放送終了直後の[[1977年]][[11月12日]]から毎日放送、関東地方では東京12チャンネル(現:[[テレビ東京]])が同年[[11月18日]]より金曜17:00 - 17:30枠で第16話から第35話までの再放送を行った<ref>[[朝日新聞]](東京版)・1977年11月25日、テレビ欄。</ref>{{R|F28534}}{{efn|その後も、中部日本放送、山陽放送、RKB毎日放送でも再放送が行われた{{R|F28534}}。}}。毎日放送およびTBS系の権利が失効していない本放送終了直後での系列外再放送だが、毎日放送は腸捻転時代{{efn|1975年3月30日まで、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]がTBSと、毎日放送がNETテレビ(現:[[テレビ朝日]])および東京12チャンネルとネット関係があったが、新聞資本の統一のため翌31日付で[[ネットチェンジ]]を行った。}}の名残で東京12チャンネルとの資本関係が残っていた{{efn|持株会社制に移行した2021年現在も、[[MBSメディアホールディングス]]が[[テレビ東京ホールディングス]]に出資している。}}。 == 関連作品 == * [[鉄人28号]] - [[横山光輝]]の作品。ネーミングのモチーフになった。 * [[ジャイアントロボ]] - 同じく横山光輝の作品。「音声認識で少年に従う」「兄弟ロボがいる」など、設定に多くの共通点が見られる。 * [[宇宙鉄人キョーダイン]] - 同作品の漫画オリジナルキャラである武田カオルが、『テレビランド』の漫画版に登場する{{R|F28534}}。 * [[スーパー特撮大戦2001]] - 本作品が参戦している。 * 衛星兵器XVII(エックスブイツー) - ワンセブンをリメイクした宇宙船。ロボット形態にも変形する。以下、衛星兵器XVIIの登場作品。 ** [[仮面ライダーフォーゼ THE MOVIE みんなで宇宙キターッ!]] ** [[仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="三郎少年のスタジオ案内">1977年6月25日 [[毎日新聞]]大阪本社夕刊7面「大鉄人17 三郎少年のスタジオ案内」</ref> <ref name="全怪獣348">{{Harvnb|全怪獣怪人 上|1990|p=348}}</ref> <ref name="画報">{{Cite book|和書|editor=竹書房/イオン編|date=1995-11-30|title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み|publisher=[[竹書房]]|page=139|id=C0076|isbn=4-88475-874-9}}</ref> <ref name="甦る">{{Cite book|和書|date=2013-9-10|title=甦る!石ノ森ヒーローファイル|series=Gakken Mook|publisher=[[学研ホールディングス|Gakken]]|page=60|chapter=ヒーローファイル 大鉄人17|isbn=978-4-05-610166-9}}</ref> <ref name="東映×石ノ森">{{Harvnb|東映×石ノ森|2010|p=96-99|loc=「大鉄人17」}}</ref> <ref name="列伝">{{Harvnb|昭和石ノ森ヒーロー列伝|2013|pp=64 - 69}}</ref> <ref name="21st15">{{Cite book|和書|date=2017-09-07|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.15|volume-title=[[手裏剣戦隊ニンニンジャー]]|series=講談社シリーズMOOK|publisher=[[講談社]]|page=30|chapter=特集企画 スーパー戦隊その極意 Volume15 ロボとその表現|isbn=978-4-06-509525-6}}</ref> <ref name="20th80">{{Cite book|和書|date=2018-07-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1980 [[電子戦隊デンジマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 新堀和男|isbn=978-4-06-509608-6}}</ref> <ref name="20th86">{{Cite book|和書|date=2019-05-24|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1986 [[超新星フラッシュマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|pages=32-33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台のウラ 特別対談 [[村上克司]]×本郷武一|isbn=978-4-06-513714-7}}</ref> <ref name="20th87">{{Cite book|和書|date=2019-05-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1987 [[光戦隊マスクマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|pages=32-33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 特別対談 [[前澤範]]×小松義人|isbn=978-4-06-513713-0}}</ref> <ref name="F28512">{{Harvnb|フィギュア王285|2021|pp=12-13|loc=「大鉄人17 作品解説」}}</ref> <ref name="F28514">{{Harvnb|フィギュア王285|2021|pp=14-15loc=「石ノ森章太郎 ビジュアルワークス」}}</ref> <ref name="F28516">{{Harvnb|フィギュア王285|2021|pp=16-23|loc=「大鉄人17 登場キャラクター紹介」}}</ref> <ref name="F28524">{{Harvnb|フィギュア王285|2021|pp=24-33|loc=「大鉄人17 ブレインロボット大図鑑」}}</ref> <ref name="F28534">{{Harvnb|フィギュア王285|2021|pp=34-36|loc=「ワンセブン17の秘密」}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=[[少年マガジン]]特別編集 THE 超合金・ダイキャスト製キャラクター玩具大全集|date=1988-03-01|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-101516-8|ref= {{SfnRef|THE 超合金|1988}} }} * {{Cite book|和書 |date = 1990-03-24 |title = [[全怪獣怪人]] |publisher = [[勁文社]] |volume = 上巻 |id=C0676 |isbn = 4-7669-0962-3 |ref={{SfnRef|全怪獣怪人 上|1990}}}} * {{Cite book|和書|date = 1998-05-30|title = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]SPECIAL ’70年代特撮ヒーロー全集 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |isbn = 4-257-03533-1 |ref = {{SfnRef|宇宙船SPECIAL|1998}}}} * {{Cite journal |和書 |date=2003-12-10 |journal=東映ヒーローMAX |volume=VOL. 7 |publisher=[[辰巳出版]] |isbn=978-4-8864-1971-2 |ref={{SfnRef|東映HM7|2003}} }} * {{Cite book|和書 |author = 小野塚謙太|title = [[アスキー新書]] 105 超合金の男 <small>- 村上克司伝 -</small>|publisher = [[アスキー・メディアワークス]] |date = 2009-04-10 |isbn = 978-4-04-867798-1|ref = {{SfnRef|超合金の男|2009}} }} * {{Cite book|和書|date = 2010-10-29|title =なつかしの東映×石ノ森 ヒーロー大図鑑|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-364833-1|ref = {{SfnRef|東映×石ノ森|2010}}}} * {{Cite book|和書 | date = 2013-10-15 | title = 昭和石ノ森ヒーロー列伝 | series = HYPER MOOK | publisher = [[徳間書店]]|isbn = 978-4-19-730131-7|ref = {{SfnRef|昭和石ノ森ヒーロー列伝|2013}}}} * {{Cite journal|和書|date=2021-11-30<!--奥付表記-->|journal=フィギュア王|volume=No.285|publisher=ワールドフォトプレス|isbn=978-4-8465-3258-1|ref={{SfnRef|フィギュア王285|2021}}}} {{前後番組 |放送局=[[毎日放送]]制作・[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]] |放送枠=金曜19時台前半枠 |番組名=大鉄人17<br />【当番組まで[[TBS金曜7時枠の連続ドラマ|特撮番組枠]]】 |前番組=[[宇宙鉄人キョーダイン]] |次番組=[[まんが偉人物語]]<br />【ここから[[TBSテレビ系列金曜夜7時枠のアニメ|アニメ枠]]】 }} {{大鉄人17}} {{石ノ森章太郎}} {{デフォルトソート:たいてつしんわんせふん}} [[Category:石ノ森章太郎の実写作品]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:毎日放送の特撮番組]] [[Category:TBS金曜7時枠の連続ドラマ]] [[Category:1977年のテレビドラマ]] [[Category:東映特撮作品]] [[Category:伊上勝脚本のテレビドラマ]] [[Category:上原正三脚本のテレビドラマ]] [[Category:江連卓脚本のテレビドラマ]] [[Category:巨大ロボットを題材としたテレビドラマ]] [[Category:自律ロボットを題材としたテレビドラマ]] [[Category:人工知能を題材としたテレビドラマ]] [[Category:テレビマガジン]]
2003-09-11T03:55:47Z
2023-12-17T02:10:42Z
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アラハバキ
アラハバキは、主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神である。 記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神で諸説あるが、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多い。これは、「元々は主神だったのが、客人(まれびと、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる(cf. 地主神)。 神社では、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神、また「足の神」とされてきた。(多賀城市の荒脛巾神社の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。(cf. 金精神)) 明治の神仏分離以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長脛彦」とされることがある。 古史古伝『東日流外三郡誌』の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、アラハバキ「縄文の神」説、「蝦夷の神」説は定着している。遮光器土偶のイメージとしても世間には広まった。 ウェブの言説などでは、「瀬織津姫」や「大元帥明王」らとの習合もみられるが、これらのシンクレティズムが昔日からのものか、現在信仰形なのか、明確ではない。 倶知安のアイヌの酋長によると、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。ちなみに、神社の鳥居は女性の生殖器を象徴しているという説もある。 柳田國男の『石神問答』等でも既に示唆されていたが、吉野裕子は、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたものとする。「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。 伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。 宮城県にある多賀城跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。谷川健一によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「塞の神」としての性格があったためと谷川は述べている。 さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」であり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけたともいっている。 先の、多賀城跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。 近江雅和は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた修験道の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。 真弓常忠は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる。 荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」(氷川神社#摂社参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説もある。 一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の佐太神社や出雲大社は出雲国造と、伊予は小市国造・風速国造と、三河は三川蘰連と、氷川神社は武蔵国造とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の物部氏と同族であった。陸奥にある丹内山神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる。 この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない。 砥鹿神社奥宮末社に荒羽々気神社がある。名称こそアラハバキだが、祭神は大己貴命の荒魂としている。
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アラハバキは、主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神である。
{{Otheruses|日本の信仰に見られる「アラハバキ」神|漫画作品|アラハバキ (漫画)|音楽フェス|ARABAKI ROCK FEST.}} '''アラハバキ'''は、主に[[東北地方]]から[[関東地方]]で信仰されてきた神である。 == 概要 == [[記紀神話]]や伝統的な民話などに登場しない謎の神で諸説あるが、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多い。これは、「元々は主神だったのが、客人([[まれびと]]、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる(cf. [[地主神]])。 神社では、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神、また「足の神」とされてきた。(多賀城市の荒脛巾神社の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。(cf. [[金精神]])) 明治の[[神仏分離]]以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「[[長髄彦|長脛彦]]」とされることがある。 [[古史古伝]]『[[東日流外三郡誌]]』の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、アラハバキ「縄文の神」説、「[[蝦夷]]の神」説は定着している。[[遮光器土偶]]のイメージとしても世間には広まった。 ウェブの言説などでは、「[[瀬織津姫]]」や「[[大元帥明王]]」らとの習合もみられるが、これらの[[シンクレティズム]]が昔日からのものか、現在信仰形なのか、明確ではない。 == 諸説 == === 女陰説 === 倶知安の[[アイヌ]]の酋長によると、アイヌの古語で[[岐の神|クナト]]は[[男根]]、アラハバキは[[女陰]]の意味で、本来一対のものだったという<ref>{{Cite book|和書|title=謎の弁才天|year=1989|publisher=徳間書店|author=吉田大洋}}</ref>。ちなみに、神社の鳥居は女性の生殖器を象徴しているという説もある<ref>{{Cite book|和書|title=ヴァギナ 女性器の文化史|year=2005|publisher=河出書房|author=キャサリン・ブラックリッジ}}</ref>。 === 蛇神説 === [[柳田國男]]の『石神問答』等でも既に示唆されていたが、[[吉野裕子]]は、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたものとする。「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。 [[伊勢神宮]]には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする<ref>吉野裕子 『山の神』 76頁。</ref>。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。 === 塞の神説 === 宮城県にある[[多賀城]]跡の東北に荒脛巾神社がある。多賀城とは、奈良・平安期の朝廷が東北地方に住んでいた蝦夷を制圧するために築いた拠点である。[[谷川健一]]によれば、これは朝廷が外敵から多賀城を守るために荒脛巾神を祀ったとしている。朝廷にとっての外敵とは当然蝦夷である。つまりこれは荒脛巾神に「[[塞の神]]」としての性格があったためと谷川<ref>谷川健一 『白鳥伝説』 341頁 集英社</ref>は述べている。 さらに谷川は、朝廷の伝統的な蝦夷統治の政策は「蝦夷をもって蝦夷を制す」で<ref>谷川健一『白鳥伝説』 349頁</ref>あり、もともと蝦夷の神だったのを、多賀城を守るための塞の神として祀って逆に蝦夷を撃退しようとしたのだという。また、衛視の佩く脛巾からアラハバキの名をつけた<ref>谷川健一 『白鳥伝説』339頁</ref>ともいっている。 === 製鉄民説 === <!--(出典については著者名だけではなく、書誌情報([[Wikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)]])も明記してください)--> 先の、[[多賀城]]跡近くにある荒脛巾神社には鋏が奉納され、さらに鋳鉄製の灯篭もあるという。多賀城の北方は砂金や砂鉄の産出地であり、後述する氷川神社をも鉄と関連付ける説がある。 [[近江雅和]]は門客人神はアラハバキから変容したものであると主張、その門客人神の像は片目に造形されていることが多いことと、片目は製鉄神の特徴とする説があることを根拠として、近江は「アラ」は鉄の古語であると主張し、山砂鉄による製鉄や、その他の鉱物を採取していた[[修験道]]の山伏らが荒脛巾神の信仰を取り入れたのだという。また足を守るための「脛巾」を山伏が神聖視していたと主張、それが、荒脛巾神が「お参りすると足が良くなる」という「足神」様に変容した原因だろうと推測している。 [[真弓常忠]]は先述の「塞の神」について、本来は「サヒ(鉄)の神」の意味だったと述べていて、もしその説が正しければ「塞の神」と製鉄の神がここで結びつくことになる<ref>ただし真弓の説は、「塞(サへ)の神」の語源を「遮る神」とする学界の通説とは相容れないものであり、支持者はいない。</ref>。 === 氷川神社との関係 === {{See|氷川神社}} 荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、[[埼玉県]][[さいたま市]][[大宮区]]の[[氷川神社]]でも見られる。この摂社は「門客人神社」([[氷川神社#摂社]]参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、[[武蔵国造]]一族とともにこの地に乗り込んできたものである<ref>[[松前健]]『日本神話の形成』塙書房,186頁。菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年,71-75頁。原島礼二「氷川神社」谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社</ref>。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の[[地主神]]で先住の神だとする説<ref>大林太良『私の一宮巡詣記』青土社,2001年,69頁</ref>もある。 一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の[[佐太神社]]や[[出雲大社]]は[[出雲国造]]と、伊予は[[小市国造]]・[[風速国造]]と、三河は三川蘰連と、[[氷川神社]]は[[武蔵国造]]とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の[[物部氏]]と同族であった。陸奥にある[[丹内山神社]]は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる<ref>[[宝賀寿男]]「[http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/hakusan1.htm 舞草刀と白山神そして物部部族]」、『古樹紀之房間』2014年。</ref>。 この大宮を中心とする[[氷川神社 (曖昧さ回避)|氷川神社]]群(氷川神社、[[中山神社 (さいたま市)|中氷川神社]]、[[氷川女体神社|女氷川神社]]に[[調神社]]、宗像神社、[[越谷]]の[[久伊豆神社 (越谷市)|久伊豆神社]]まで含めたもの)は[[オリオン座]]の形に並んでおり、脇を流れる[[荒川 (関東)|荒川]]を[[天の川]]とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある{{誰|date=2020年12月25日 (金) 23:56 (UTC)}}。氷川神社は[[延喜式]]に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神が[[スサノオ]]であるという明確な記述は[[江戸時代]]までしか遡れない{{要出典|date=2020年12月25日 (金) 23:56 (UTC)}}。 ===砥鹿神社=== [[砥鹿神社]]奥宮末社に荒羽々気神社がある。名称こそアラハバキだが、祭神は[[大己貴命]]の[[荒魂]]としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.togajinja.or.jp/stroll/|title=里宮散策|publisher=三河國一之宮 砥鹿神社|language=日本語|accessdate=2021年12月15日}}</ref>。 == 脚注 == {{Reflist|3}} ==参考文献== *[[和田喜八郎]]編『[[東日流外三郡誌]]』 *[[谷川健一]]『白鳥伝説』 *[[大林太良]]『私の一宮巡詣記』青土社,2001年。 *[[松前健]]『日本神話の形成』塙書房。 *菱沼勇「武蔵の古社」有峰書店1972年。 *原島礼二「氷川神社」(谷川健一篇『日本の神々 神社と聖地』11関東、白水社)。 *[[飯沼勇義]]「解き明かされる日本最古の歴史津波」p113 鳥影社 2013年。 ==関連項目== *[[金吾龍神社]] {{Reli-stub}} {{DEFAULTSORT:あらははき}} [[Category:日本の神]] [[Category:日本の民間信仰]] [[Category:東北地方の文化]] [[Category:東北地方の歴史]] [[Category:蝦夷]]
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快晴
快晴(かいせい)は天気の一つである。一般には、空に雲がほとんどない状態をいう。雲がまったく無く、視程も良好であれば「日本晴」と表現されることが多い。 世界気象機関の規定に基づいた気象庁における観測上の定義では、空全体に対して、雲の占める割合(雲量)が1割以下の状態である。ただし、たとえ雲量が1割以下であっても、同時に降水や雷現象が起きていたり霧や煙などによる視程障害現象といった異なる気象現象が観測されれば「快晴」とは見なされない。なお、雲の割合が2割以上8割以下の場合の天気は「晴」である。また、天気予報では観測上の分類とは異なり、快晴は晴として扱われる。 日本では通常、夏季に太平洋高気圧の勢力範囲に収まった場合や、冬季に西高東低の気圧配置が緩み、大陸の高気圧が張り出してきた時によく生じる。一般に地表付近では風が弱くて空気が滞留しやすく、夜間に快晴状態が続いた場合は放射冷却により地上気温が大きく低下する。そのため冬季には路面凍結を引き起こし交通事故の遠因となることがある。また大気中に窒素酸化物や炭化水素が高い密度で含まれている場合、日光が光化学オキシダントの生成を促進して光化学スモッグを発生させることがある。 天気を自動で判別する機械が導入され、目視観測を2019年2月から順次終了したことに伴い、同月より機械観測へ切り替えられた観測所では「晴」と「快晴」を区別することなく、一律して「晴」と発表するようになった。機械による天気の自動判別では、上層雲の下に懸かる雲の量を判別することは難しい。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "快晴(かいせい)は天気の一つである。一般には、空に雲がほとんどない状態をいう。雲がまったく無く、視程も良好であれば「日本晴」と表現されることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界気象機関の規定に基づいた気象庁における観測上の定義では、空全体に対して、雲の占める割合(雲量)が1割以下の状態である。ただし、たとえ雲量が1割以下であっても、同時に降水や雷現象が起きていたり霧や煙などによる視程障害現象といった異なる気象現象が観測されれば「快晴」とは見なされない。なお、雲の割合が2割以上8割以下の場合の天気は「晴」である。また、天気予報では観測上の分類とは異なり、快晴は晴として扱われる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本では通常、夏季に太平洋高気圧の勢力範囲に収まった場合や、冬季に西高東低の気圧配置が緩み、大陸の高気圧が張り出してきた時によく生じる。一般に地表付近では風が弱くて空気が滞留しやすく、夜間に快晴状態が続いた場合は放射冷却により地上気温が大きく低下する。そのため冬季には路面凍結を引き起こし交通事故の遠因となることがある。また大気中に窒素酸化物や炭化水素が高い密度で含まれている場合、日光が光化学オキシダントの生成を促進して光化学スモッグを発生させることがある。", "title": "日本における快晴と快晴により生じる被害" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "天気を自動で判別する機械が導入され、目視観測を2019年2月から順次終了したことに伴い、同月より機械観測へ切り替えられた観測所では「晴」と「快晴」を区別することなく、一律して「晴」と発表するようになった。機械による天気の自動判別では、上層雲の下に懸かる雲の量を判別することは難しい。", "title": "日本における快晴と快晴により生じる被害" } ]
快晴(かいせい)は天気の一つである。一般には、空に雲がほとんどない状態をいう。雲がまったく無く、視程も良好であれば「日本晴」と表現されることが多い。
{{右|[[Image:Hakuba-kaisei.JPG|thumb|280px|快晴 (2006年8月5日 [[飛騨山脈|北アルプス]]の[[小蓮華山]]にて)]] [[Image:Japanese Weather symbol (Clear).svg|thumb|right|75px|快晴の[[天気記号]](日本式)]]}} '''快晴'''(かいせい)は[[天気]]の一つである。一般には、[[空]]に[[雲]]がほとんどない状態をいう。雲がまったく無く、[[視程]]も良好であれば「[[日本晴 (気象)|日本晴]]」と表現されることが多い。 == 定義 == [[世界気象機関]]の規定に基づいた[[気象庁]]における[[気象観測|観測]]上の定義では、空全体に対して、雲の占める割合([[雲量]])が1割以下の状態である。ただし、たとえ雲量が1割以下であっても、同時に[[降水]]や[[雷]]現象が起きていたり[[霧]]や[[煙]]などによる視程障害現象といった異なる気象現象が観測されれば「快晴」とは見なされない。なお、雲の割合が2割以上8割以下の場合の天気は「[[晴れ|晴]]」である<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/tebiki.pdf |format=pdf |pages=58-60 |title=気象観測の手引き=|date=1998-09 |publisher=気象庁 |accessdate=2016/03/07 }}</ref>。また、[[天気予報]]では観測上の分類とは異なり、快晴は晴として扱われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/tenki.html |title=気象庁|予報用語 天気 |date=2015-07 |publisher=気象庁 |accessdate=2016-03-07 }}</ref>。 == 日本における快晴と快晴により生じる被害 == [[日本]]では通常、[[夏季]]に[[太平洋高気圧]]の勢力範囲に収まった場合や、[[冬季]]に[[西高東低]]の[[気圧配置]]が緩み、大陸の[[高気圧]]が張り出してきた時によく生じる。一般に地表付近では[[風]]が弱くて[[空気]]が滞留しやすく、夜間に快晴状態が続いた場合は[[放射冷却]]により地上気温が大きく低下する。そのため冬季には路面凍結を引き起こし[[交通事故]]の遠因となることがある。また大気中に[[窒素酸化物]]や[[炭化水素]]が高い密度で含まれている場合、日光が[[光化学オキシダント]]の生成を促進して[[光化学スモッグ]]を発生させることがある。 天気を自動で判別する機械が導入され、目視観測を2019年2月から順次終了したことに伴い、同月より機械観測へ切り替えられた観測所では「晴」と「快晴」を区別することなく、一律して「晴」と発表するようになった<ref>{{Cite web|和書|title=消えた「快晴」 目視から機械観測へ|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/11416|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref>。機械による天気の自動判別では、[[上層雲]]の下に懸かる雲の量を判別することは難しい<ref>{{Cite web|和書|title=天気の「快晴」がなくなった 「歴史的転換」迎えた観測:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASN427F3CN3RUTIL02L.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2020-04-03|language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} {{日本式天気記号}} {{気象現象}} {{Climate-stub}} {{DEFAULTSORT:かいせい}} [[Category:気象]]
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晴れ
晴れ(はれ)は、大気がある天体において、雲が少ないか全く無い天気を指し、日本語での最狭義では地球でのそれのみを指す。 地球の場合は、「晴れた空」は人に感じられる色に基づき青い空、青空(あおぞら)などとも呼ばれるが、天体が違えば晴れた空の色も異なるし、動物の種類ごとに感知される色は異なる。 気象観測では、雲量が2から8で、降水などがないときを晴れとするが、気象庁による天気予報においては、快晴と薄曇りも「晴れ」とする。 一般向けの天気情報では一般的に晴れは「太陽」のマークで示している。すべての時間帯で晴れを太陽マークで示す場合や、夜間の場合は「星空」で示す場合がある。 気圧の配置によっては、悪天候の狭間で起こる一時的な晴天を擬似晴天もしくは擬似好天と言い、後に天候の急変をもたらすことがある。山岳で起こりやすく、天候の判断を誤ることが多いため、遭難の原因のひとつにもなる。また、晴天時に発生する晴天乱気流は航空機の運航にとって注意が必要である。 日本人の伝統的な世界観の「ハレとケ」の「ハレ(晴れ)」のように、人間が直面する非日常的な事物を晴れに例えられる状況でもこの語が用いられる(「晴れの舞台」「晴れ姿」「晴れ着」など)。対義語は「ケ(褻)」。
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晴れ(はれ)は、大気がある天体において、雲が少ないか全く無い天気を指し、日本語での最狭義では地球でのそれのみを指す。
{{出典の明記|date=2012年7月}} [[画像:CirrusUncinusUndFloccus.jpg|サムネイル|地球における晴れ]] [[画像:Japanese Weather symbol (Fair).svg|サムネイル|90px|晴れを表す[[地上天気図#日本式天気図|日本式天気記号]]]] '''晴れ'''(はれ)は、[[大気]]がある[[天体]]において、[[雲]]が少ないか全く無い[[天気]]を指し、日本語での最狭義では[[地球]]でのそれのみを指す。 == 概念 == ===晴れた空の色=== 地球の場合は、「晴れた空」は人に感じられる[[色]]に基づき'''青い空'''、'''[[青空]]'''(あおぞら)などとも呼ばれるが、天体が違えば晴れた空の色も異なるし、動物の種類ごとに感知される色は異なる。 ===気象観測=== [[気象観測]]では、[[雲量]]が2から8で、[[降水]]などがないときを晴れとする<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/tebiki.pdf 気象観測の手引き] 気象庁、2017年10月2日閲覧</ref>が、[[気象庁]]による[[天気予報]]においては、[[快晴]]と薄[[曇り]]も「晴れ」とする<ref>[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/tenki.html 天気] 気象庁、2017年10月2日閲覧</ref>。 一般向けの天気情報では一般的に晴れは「太陽」のマークで示している。すべての時間帯で晴れを太陽マークで示す場合や、夜間の場合は「星空」で示す場合がある。 ===疑似晴天=== 気圧の配置によっては、悪天候の狭間で起こる一時的な晴天を'''擬似晴天'''もしくは'''擬似好天'''と言い、後に天候の急変をもたらすことがある。[[山岳]]で起こりやすく、天候の判断を誤ることが多いため、[[遭難]]の原因のひとつにもなる<ref>[https://kotobank.jp/word/疑似晴天-191916 疑似晴天 ぎじせいてん] [[コトバンク]]、2017年10月2日閲覧</ref>。また、晴天時に発生する[[晴天乱気流]]は航空機の運航にとって注意が必要である<ref>[http://www.tenki.jp/dic/word/晴天乱気流/ 晴天乱気流(読み:せいてんらんきりゅう)] [[日本気象協会]]、2017年10月2日閲覧</ref>。 ===ハレとケ=== 日本人の伝統的な世界観の「[[ハレとケ]]」の「ハレ(晴れ)」のように、人間が直面する非日常的な事物を晴れに例えられる状況でもこの語が用いられる(「晴れの舞台」「晴れ姿」「晴れ着」など)。対義語は「ケ(褻)」。 == ギャラリー == <gallery> Mars Viking 11h016.png|火星における晴れ File:Hurricane Betsy eye.jpg|[[台風の目]]に入ったことによる晴れ </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == ※記述あるが望ましい節--> == 関連項目 == * [[快晴]] == 外部リンク == * {{Wiktionary-inline|晴}} {{日本式天気記号}} {{気象現象}} {{Climate-stub}} {{デフォルトソート:はれ}} [[カテゴリ:気象]]
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長野自動車道
長野自動車道(ながのじどうしゃどう、英語: NAGANO EXPWY)は、長野県岡谷市の岡谷ジャンクション (JCT) から長野県千曲市の更埴JCTに至る高速道路である。略称は長野道(ながのどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、中央自動車道(岡谷JCT - 小牧JCT間)とともに 「E19」が割り振られている。 長野県中央部を縦断する高速道路であり、概ね国道19号と並走している(ただし、国道19号との重複区間を含み松本ICから更埴JCT間は国道403号がより近い)。長野県南部の中央自動車道と北部の上信越自動車道を連絡しており、東海地方や中央道沿線と北陸地方を結ぶ役割を果たしている。また、北関東自動車道の全線開通後は、東北・北関東方面と東海・関西方面を、東京都内を経由せずに高速道路のみで往来できるルートとして重要度が増した。 法律上の正式な路線名は、中央自動車道長野線である。中央自動車道長野線は、東京都杉並区から長野県長野市に至る路線であり、東京都杉並区 - 山梨県大月市は中央自動車道富士吉田線と、東京都杉並区 - 長野県岡谷市は中央自動車道西宮線と、さらに長野県千曲市 - 長野県長野市は関越自動車道上越線と重複している。重複している区間は、中央道、上信越道として開通しているため、長野道は中央自動車道長野線のうち、それらの残余の区間ということができる。 日本道路公団が建設・管理していたが、2005年10月1日の道路関係四公団民営化以降、岡谷JCT - 安曇野インターチェンジ (IC)(安曇野ICを含む、民営化時は豊科IC)間を中日本高速道路(NEXCO中日本)が、安曇野IC - 更埴JCT間を東日本高速道路(NEXCO東日本)が管理している。 売店は筑北パーキングエリア (PA) を除く全てのエリアに設置されている。レストランは全てのサービスエリアに設置されているが、ガソリンスタンドは梓川SA(上下線とも24時間営業)のみに設置されている。 24時間営業の売店があるエリアは梓川サービスエリア (SA) のみである。 当自動車道で唯一のハイウェイラジオであり、放送区間はNEXCO中日本八王子支社管内にある。安曇野ICを境に安曇野ICを含まない更埴方面はNEXCO東日本関東支社の管轄となっているが、関東支社管内にハイウェイラジオの放送区間は、設置されていない。 24時間交通量(台) 道路交通センサス (出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 2003年度JH年報
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "長野自動車道(ながのじどうしゃどう、英語: NAGANO EXPWY)は、長野県岡谷市の岡谷ジャンクション (JCT) から長野県千曲市の更埴JCTに至る高速道路である。略称は長野道(ながのどう)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は、中央自動車道(岡谷JCT - 小牧JCT間)とともに 「E19」が割り振られている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "長野県中央部を縦断する高速道路であり、概ね国道19号と並走している(ただし、国道19号との重複区間を含み松本ICから更埴JCT間は国道403号がより近い)。長野県南部の中央自動車道と北部の上信越自動車道を連絡しており、東海地方や中央道沿線と北陸地方を結ぶ役割を果たしている。また、北関東自動車道の全線開通後は、東北・北関東方面と東海・関西方面を、東京都内を経由せずに高速道路のみで往来できるルートとして重要度が増した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "法律上の正式な路線名は、中央自動車道長野線である。中央自動車道長野線は、東京都杉並区から長野県長野市に至る路線であり、東京都杉並区 - 山梨県大月市は中央自動車道富士吉田線と、東京都杉並区 - 長野県岡谷市は中央自動車道西宮線と、さらに長野県千曲市 - 長野県長野市は関越自動車道上越線と重複している。重複している区間は、中央道、上信越道として開通しているため、長野道は中央自動車道長野線のうち、それらの残余の区間ということができる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本道路公団が建設・管理していたが、2005年10月1日の道路関係四公団民営化以降、岡谷JCT - 安曇野インターチェンジ (IC)(安曇野ICを含む、民営化時は豊科IC)間を中日本高速道路(NEXCO中日本)が、安曇野IC - 更埴JCT間を東日本高速道路(NEXCO東日本)が管理している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "売店は筑北パーキングエリア (PA) を除く全てのエリアに設置されている。レストランは全てのサービスエリアに設置されているが、ガソリンスタンドは梓川SA(上下線とも24時間営業)のみに設置されている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "24時間営業の売店があるエリアは梓川サービスエリア (SA) のみである。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当自動車道で唯一のハイウェイラジオであり、放送区間はNEXCO中日本八王子支社管内にある。安曇野ICを境に安曇野ICを含まない更埴方面はNEXCO東日本関東支社の管轄となっているが、関東支社管内にハイウェイラジオの放送区間は、設置されていない。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "(出典:「平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果(関東地方整備局ホームページ)「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2003年度JH年報", "title": "路線状況" } ]
長野自動車道は、長野県岡谷市の岡谷ジャンクション (JCT) から長野県千曲市の更埴JCTに至る高速道路である。略称は長野道(ながのどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、中央自動車道とともに 「E19」が割り振られている。
{{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[File:NAGANO EXP(E19).svg|130px|長野自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E19}} 長野自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map | frame-lat = 36.3096 | frame-long = 138.0515 | frame-width = 300 | frame-height = 300 | zoom = 9 | length = | plain = yes }} |総距離 = 75.8 [[キロメートル|km]] |制定年 = [[1988年]]([[昭和]]63年) |開通年 = [[1986年]](昭和61年) - [[1993年]]([[平成]]5年) |起点 = [[長野県]][[岡谷市]]([[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]) |主な経由都市 = [[塩尻市]]、[[松本市]]、[[安曇野市]] |終点 = [[長野県]][[千曲市]]([[更埴ジャンクション|更埴JCT]]) |接続する主な道路 = <!--高速自動車国道のみ-->{{Ja Exp Route Sign|E19}} / {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]]<br>{{Ja Exp Route Sign|E67}} <span style="background-color: #CCC">[[中部縦貫自動車道]](事業中)</span><br>{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]] }} '''長野自動車道'''(ながのじどうしゃどう、{{Lang-en|NAGANO EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[長野県]][[岡谷市]]の[[岡谷ジャンクション]] (JCT) から長野県[[千曲市]]の[[更埴ジャンクション|更埴JCT]]に至る[[日本の高速道路|高速道路]]である。[[略語|略称]]は'''長野道'''(ながのどう)。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[中央自動車道]](岡谷JCT - [[小牧ジャンクション|小牧JCT]]間)とともに 「'''E19'''」が割り振られている<ref>[http://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/files/numbering_tsuchi002.pdf 「高速道路ナンバリングの導入について」(平成29年2月14日付け国道企第55号)]、国土交通省道路局長通知、2017年2月14日</ref>。 == 概要 == 長野県中央部を縦断する高速道路であり、概ね[[国道19号]]と並走している(ただし、国道19号との重複区間を含み[[松本インターチェンジ|松本IC]]から[[更埴ジャンクション|更埴JCT]]間は[[国道403号]]がより近い)。長野県南部の[[中央自動車道]]と北部の[[上信越自動車道]]を連絡しており、[[東海地方]]や中央道沿線と[[北陸地方]]を結ぶ役割を果たしている。また、[[北関東自動車道]]の全線開通後は、東北・北関東方面と[[東海]]・[[関西]]方面を、[[東京都]]内を経由せずに高速道路のみで往来できるルートとして重要度が増した。 [[画像:Nagano Expressway.jpg|thumb|200px|岡谷JCT付近]] 法律上の正式な路線名は、[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道長野線]]である。中央自動車道長野線は、[[東京都]][[杉並区]]から長野県[[長野市]]に至る路線であり、東京都杉並区 - [[山梨県]][[大月市]]は[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道富士吉田線]]と、東京都杉並区 - 長野県岡谷市は[[中央自動車道#路線名・道路名|中央自動車道西宮線]]と、さらに長野県千曲市 - 長野県長野市は[[関越自動車道|関越自動車道上越線]]と重複している。重複している区間は、中央道、上信越道として開通しているため、長野道は中央自動車道長野線のうち、それらの残余の区間ということができる。 [[日本道路公団]]が建設・管理していたが、[[2005年]][[10月1日]]の[[道路関係四公団]][[民営化]]以降、岡谷JCT - [[安曇野インターチェンジ]] (IC)(安曇野ICを含む、民営化時は豊科IC)間を[[中日本高速道路]](NEXCO中日本)が、安曇野IC - 更埴JCT間を[[東日本高速道路]](NEXCO東日本)が管理している。 == インターチェンジなど == * 全区間[[長野県]]内に所在。 * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。未開通区間の名称は筑北スマートICを除き仮称である。 * (数字)は、他路線の番号。<数字>は、予定番号。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff">■</span>で示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市道]]。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。 * 略字は、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、ICは[[インターチェンジ]]、PAは[[パーキングエリア]]、SAは[[サービスエリア]]をそれぞれ示す。 {{-}} {| class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green;white-space:nowrap;"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|<span style="font-size:small">[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]]<br />から</span><br /><span style="font-size:small">([[キロメートル|km]])</span> !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- !style="background-color:#BFB"|21 |[[岡谷ジャンクション|岡谷JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E19}} / {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]] |style="text-align:right"|0.0 |style="text-align:center"|- | |rowspan="2" colspan="2"|[[岡谷市]] |- !style="background-color:#BFB"|1 |[[岡谷インターチェンジ|岡谷IC/<br />岡谷(今井)BS]] |[[国道20号]]<br />([[下諏訪岡谷バイパス]]) |style="text-align:right"|3.7 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[みどり湖パーキングエリア|みどり湖PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|8.4 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[塩尻市]] |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[塩尻インターチェンジ|塩尻IC]] |国道20号([[塩尻バイパス]]) |style="text-align:right"|10.9 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[広丘野村バスストップ|広丘野村BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|14.1 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[塩尻北インターチェンジ|塩尻北IC]] |[[長野県道27号松本空港塩尻北インター線|県道27号松本空港塩尻北インター線]] |style="text-align:right"|17.6 |style="text-align:center"|◆ |BSは休止中 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[神林バスストップ|神林BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|21.0 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="4" colspan="2"|[[松本市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[松本ジャンクション|松本JCT]] |style="background-color:#CCC"|{{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]<br/>([[中部縦貫自動車道#松本波田道路|松本波田道路]]) |style="text-align:right"|22.6 |style="text-align:center"|- |事業中<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/nagano00074.html|title=高規格幹線道路 中部縦貫自動車道 松本波田道路|date=|accessdate=2021-10-05|publisher=国土交通省関東地方整備局 長野国道事務所}}</ref> |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[松本インターチェンジ|松本IC]] |[[国道158号]] |style="text-align:right"|25.8 |style="text-align:center"|○ | |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|4-1 |rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[梓川サービスエリア|梓川SA/SIC]] |rowspan="2" style="background-color:#eda5ff"|[[長野県道48号松本環状高家線|県道48号松本環状高家線]](下り線) |style="text-align:right"|29.1 |rowspan="2" style="text-align:center"| |長野・上田方面 |- |style="text-align:right"|29.9 |東京・名古屋方面 | colspan="2" rowspan="4" |[[安曇野市]] |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[安曇野インターチェンジ|安曇野IC]] |[[長野県道57号安曇野インター堀金線|県道57号安曇野インター堀金線]] |style="text-align:right"|33.1 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |style="background-color:#CCC"|[[安曇野北インターチェンジ|安曇野北IC]] |style="background-color:#CCC"|[[松本糸魚川連絡道路]]<br/>([[安曇野道路]])<ref name="kokkosyo-2022jigyo">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/r4sinki/1_r3_037.pdf|title=新規事業採択時評価結果(令和4年度新規事業化箇所)|accessdate=2022-03-28|publisher=国土交通省道路局|format=PDF}}</ref> | | |計画中 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[明科バスストップ|明科BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|36.5 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[四賀バスストップ|四賀BS]]/[[緊急進入路]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|40.5 |style="text-align:center"|○ |一般車進入禁止 |colspan="2"|松本市 |- !style="background-color:#BFB"|5-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[筑北スマートインターチェンジ|筑北SIC]]/緊急進入路 |style="background-color:#eda5ff"|[[国道403号]]<br />村道滝上北線 |style="text-align:right"|47.3 |style="text-align:center"|○ |緊急進入路は一般車進入禁止<br />本城BSは[[2020年]][[12月31日]]廃止<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/news/activity/2020/1201/00008763.html|title=【E19】長野自動車道 本城バス停留所の廃止について|date=2020-12-01|accessdate=2021-01-01|publisher=筑北村・東日本高速道路株式会社}}</ref> |rowspan="5" style="width:1em;text-align:center"|{{縦書き|[[東筑摩郡]]}} |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[筑北村]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[坂北バスストップ|坂北BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|51.5 |style="text-align:center"|○ | |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|- |rowspan="2" |[[筑北パーキングエリア|筑北PA]] |rowspan="2" style="text-align:center"|- |rowspan="2" style="text-align:right"|52.8 |rowspan="2" style="text-align:center"| |rowspan="2"| |- |rowspan="2"|[[麻績村]] |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[麻績インターチェンジ|麻績IC]] |国道403号 |style="text-align:right"|56.3 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|6-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[姨捨サービスエリア|姨捨SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"| |style="text-align:right"|63.6 |style="text-align:center"|○ |SICは松本方面への出入口のみ |rowspan="3" colspan="2"|[[千曲市]] |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[更埴インターチェンジ|更埴IC]] |[[国道18号]]<br />([[上田篠ノ井バイパス]]) |style="text-align:right"|74.9 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[更埴ジャンクション|更埴JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]](藤岡・東京方面) |style="text-align:right"|75.8 |style="text-align:center"|- | |- |colspan="8" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E18}} 上信越自動車道(上越方面) |} * 姨捨SA - 更埴ICにはチェーン脱着場(チェーンベース)が1か所ある。 == 歴史 == {{Timeline of release years | title = 各年ごとの開通区間 | 1986 = (3月)岡谷JCT - 岡谷IC | 1988 = (3月)岡谷IC - 松本IC<br />(8月)松本IC - 豊科IC | 1993 = (3月)豊科IC - 更埴JCT }} * [[1986年]]([[昭和]]61年)[[3月25日]] : 岡谷JCT - 岡谷IC間が中央道扱いとして開通。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[3月5日]] : 岡谷IC - 松本IC間開通。岡谷JCT - 岡谷IC間を長野道に編入。 ** [[8月3日]] : 松本IC - 豊科IC(現・安曇野IC)間開通。 * [[1993年]]([[平成]]5年)3月25日 : 豊科IC - 更埴JCT間開通によって'''全線開通'''し、上信越道と接続<ref>{{Cite news |title=3月25日開通決定 道路公団 長野県内の2区間 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-02-13 |page=2 }}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] : [[日本道路公団]][[民営化]]に伴い岡谷JCT - 豊科IC間はNEXCO中日本、豊科IC - 更埴JCT間はNEXCO東日本にそれぞれ継承。 * [[2006年]](平成18年)10月1日 : 姨捨スマートIC供用開始。 * [[2010年]](平成22年)[[11月27日]] : 梓川スマートIC供用開始。 * [[2012年]](平成24年)[[10月7日]] : 豊科ICから「安曇野IC」にIC名称変更。 * [[2018年]](平成30年)[[6月1日]] : 姨捨スマートICの利用可能時間帯が24時間に拡大される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.e-nexco.co.jp/road_info/important_info/h30/0522/|title=E19長野自動車道 姨捨スマートICは6月1日(金)から24時間のご利用が可能となります|date=2018-05-22|accessdate=2018-05-22|publisher=東日本高速道路株式会社}}</ref>。 * [[2023年]]([[令和]]5年)[[12月17日]] : 筑北スマートIC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/cms_assets/pressroom/2023/11/08a/pdf.pdf|title=E19長野自動車道「筑北スマートインターチェンジ」令和5年12月17日(日)15時に開通します。|date=2023-11-08|accessdate=2023-11-08|publisher=筑北村・東日本高速道路株式会社|format=PDF}}</ref>。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {|class="wikitable" style="text-align:center" |- !rowspan="2" |区間||colspan="3" |[[車線]]||colspan="2" |[[最高速度]]||rowspan="2" |設計速度||rowspan="2" |備考 |- !上下線||上り線||下り線 ![[大型自動車|大型]][[貨物自動車|貨物]]等<br />[[三輪自動車|三輪]]・[[牽引自動車|牽引]]||左記を除く車両 |- | 岡谷JCT - 塩嶺TN||rowspan="4" |4||rowspan="4" |2||rowspan="4" |2||colspan="2" |70 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />(指定)||rowspan="2" |80 km/h|| |- | 塩嶺TN - 塩尻IC||rowspan="3" |80 km/h||80 km/h|| |- | 塩尻IC - 安曇野IC||100 km/h||100 km/h|| |- | 安曇野IC - 更埴JCT||80 km/h||80 km/h|| |} === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== 売店は[[筑北パーキングエリア]] (PA) を除く全てのエリアに設置されている。[[レストラン]]は全ての[[サービスエリア]]に設置されているが、[[ガソリンスタンド]]は梓川SA(上下線とも24時間営業)のみに設置されている。 24時間営業の売店があるエリアは[[梓川サービスエリア]] (SA) のみである。 ==== 主なトンネルと橋 ==== {| class="wikitable mw-col" !区間 !名称 !長さ(上り線) !長さ(下り線) |- | rowspan="2" |岡谷JCT - 岡谷IC |[[岡谷高架橋]] |style="text-align:right"|593&nbsp;m |style="text-align:right"|578.3&nbsp;m |- |岡谷トンネル |style="text-align:right"|1,386&nbsp;m |style="text-align:right"|1,450&nbsp;m |- |岡谷IC - 塩尻IC |[[塩嶺トンネル (長野自動車道)|塩嶺トンネル]] |style="text-align:right"|1,707&nbsp;m |style="text-align:right"|1,800&nbsp;m |- | rowspan="3" |安曇野IC - 麻績IC |犀川橋 |style="text-align:right"|658.0&nbsp;m |style="text-align:right"|654.0&nbsp;m |- |明科トンネル |style="text-align:right"|2,536&nbsp;m |style="text-align:right"|2,512&nbsp;m |- |立峠トンネル |style="text-align:right"|3,598&nbsp;m |style="text-align:right"|3,629&nbsp;m |- | rowspan="3" |麻績IC - 更埴IC |麻績トンネル |style="text-align:right"|570&nbsp;m |style="text-align:right"|601&nbsp;m |- |[[一本松トンネル]] |style="text-align:right"|3,203&nbsp;m |style="text-align:right"|3,191&nbsp;m |- |[[千曲川橋 (長野自動車道)|千曲川橋]] |style="text-align:right"|532.7&nbsp;m |style="text-align:right"|532.7&nbsp;m |} ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center" !区間!!上り線!!下り線 |- |岡谷JCT - 岡谷IC||1||1 |- |岡谷IC - みどり湖PA||1||1 |- |みどり湖PA - 安曇野IC||0||0 |- |安曇野IC - 筑北PA||2||2 |- |筑北PA - 麻績IC||0||0 |- |麻積IC - 姨捨SA||2||2 |- |姨捨SA - 更埴IC||5||5 |- |更埴IC - 更埴JCT||0||0 |- !合計!!11!!11 |} === 道路管理者 === * [[中日本高速道路|NEXCO中日本]] [[中日本高速道路八王子支社|八王子支社]] ** 松本保全・サービスセンター : 岡谷JCT - 安曇野IC(安曇野ICを含む) * [[東日本高速道路|NEXCO東日本]] [[東日本高速道路関東支社|関東支社]] ** 長野管理事務所 : 安曇野IC - 更埴JCT ==== ハイウェイラジオ ==== * 塩尻(塩尻IC - 塩尻北IC) 当自動車道で唯一のハイウェイラジオであり、放送区間は[[中日本高速道路八王子支社|NEXCO中日本八王子支社]]管内にある。安曇野ICを境に安曇野ICを含まない更埴方面は[[東日本高速道路関東支社|NEXCO東日本関東支社]]の管轄となっているが、関東支社管内にハイウェイラジオの放送区間は、設置されていない。 === 交通量 === '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!|平成11(1999)年!!平成17(2005)年度!!平成22(2010)年度!!平成27(2015)年度!!令和3(2021)年度 |- | 岡谷JCT - 岡谷IC || 39,893 || 43,549 || 43,059 || 49,299 || 39,592 |- | 岡谷IC - 塩尻IC || 40,356 || 44,202 || 44,775 || 50,688 || 40,872 |- | 塩尻IC - 塩尻北IC || 36,477 || 39,555 || 40,459 || 46,179 || 36,891 |- | 塩尻北IC - 松本IC || 32,927 || 35,473 || 36,528 || 41,746 || 33,700 |- | 松本IC - 梓川SASIC || rowspan="2" | 31,505 || rowspan="2" | 33,864 || rowspan="2" | 35,085 || 40,014 || 32,938 |- | 梓川SASIC - 安曇野IC || 38,899 || 31,604 |- | 安曇野IC - 麻績IC || 24,370|| 27,132 || 28,826 || 31,913 || 25,661 |- | 麻績IC - 姨捨SA/SIC || rowspan="2" | 23,849 || 26,679 || 28,462 || 31,791 || 25,931 |- | 姨捨SA/SIC - 更埴IC || 26,390 || 27,700 || 30,833 || 24,887 |- | 更埴IC - 更埴JCT || 23,316 || 26,789 || 29,596 || 32,575 || 26,540 |} <small>(出典:「[https://www.ktr.mlit.go.jp/road/shihon/road_shihon00000023.html 平成17年度 道路交通センサス一般交通量調査結果]([[関東地方整備局]]ホームページ)「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)</small> * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-27|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 2003年度JH年報 * 2002年度日平均交通量 : 30,347台(前年度比98.5%) ** 最大 : 岡谷IC - 塩尻IC : 41,974台(99.1%) ** 最小 : 更埴IC - 更埴JCT : 24,285台(98.5%) == 地理 == === 通過する自治体 === * [[長野県]] ** [[岡谷市]] - [[塩尻市]] - [[松本市]] - [[安曇野市]] - 松本市 - [[東筑摩郡]][[筑北村]] - 東筑摩郡[[麻績村]] - 東筑摩郡筑北村 - 東筑摩郡麻績村 - 東筑摩郡筑北村 - 東筑摩郡麻績村 - 東筑摩郡筑北村 - 東筑摩郡麻績村 - [[千曲市]] - [[長野市]] - 千曲市 === 接続する高速道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E19}} / {{Ja Exp Route Sign|E20}} [[中央自動車道]](岡谷JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]([[松本波田道路]])([[松本ジャンクション|松本JCT]]で接続:事業中) * {{Ja Exp Route Sign|E18}} [[上信越自動車道]](更埴JCTで接続) : 終点の更埴JCTは開通時期の関係から長野道と上信越道の[[上越ジャンクション|上越JCT]]方面が[[本線車道|本線]]となっており([[中央分離帯]]にそれを示す[[日本の道路標識| 標識]]も設置されている)、上信越道の[[藤岡ジャンクション|藤岡JCT]]方面が分岐・合流する形になっている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|Nagano Expressway}} * [[高速自動車国道]] * [[中部地方の道路一覧]] * [[日本の高速道路一覧]] * [[篠ノ井線]] == 外部リンク == * [https://www.c-nexco.co.jp/ 中日本高速道路株式会社](岡谷JCT - 安曇野IC間) * [https://www.e-nexco.co.jp/ 東日本高速道路株式会社](安曇野IC - 更埴JCT間) {{日本の高速道路}} {{東日本高速道路}} {{中日本高速道路}} {{長野自動車道}} {{DEFAULTSORT:なかのしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:東日本高速道路]] [[Category:中日本高速道路]] [[Category:中部地方の道路]]
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曇り
曇り(くもり)とは空が雲で覆われていること。曇天(どんてん)とも呼ばれる。また、しばしば送り仮名が省かれる。 黒い雲が空全体を覆ってしまい、太陽がほとんど見えない、また日が射さない状態。曇天。また天気以外では、透明なものなどが結露などによってぼんやりしていること、気持ちなどが沈んでいることなどを指す。 日本では、空全体に対して、雲が占める割合(雲量)が9割以上で、かつ降水現象がない状態として定義されている。厳密には、 上層雲(巻雲、巻積雲または巻層雲)の占める割合が中層雲+下層雲より多い場合を「薄曇り(うすぐもり)」、中層雲+下層雲の占める割合が上層雲より多い場合を「曇り」と呼んで区別する。また、下層雲の占める割合が上層雲+中層雲より多い場合は「本曇り」、中層雲の占める割合が他の雲量より多い場合は「高曇り」と呼ぶこともある。 なお、天気予報では観測上の定義とは異なり、薄曇りは晴れとして扱われる。 国際的には雲量が8分率で表現されるため、雲量が8分の7以上のとき"Cloudy"(曇り)とする。 似た用語として"Overcast"があり、これも一般的な「曇り」の意味で用いられるが、航空気象分野では、定時飛行場実況気象通報式(METAR)において雲量8分の8の状態がOvercastと定義されている。
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曇り(くもり)とは空が雲で覆われていること。曇天(どんてん)とも呼ばれる。また、しばしば送り仮名が省かれる。
[[Image:Mammatus cloud panorama.jpg|thumb|right|350px|曇り空]] '''曇り'''(くもり)とは[[空]]が[[雲]]で覆われていること。曇天(どんてん)とも呼ばれる。また、しばしば送り仮名が省かれる。 == 一般的な概念 == 黒い[[雲]]が[[空]]全体を覆ってしまい、[[太陽]]がほとんど見えない、また日が射さない状態。曇天。また天気以外では、透明なものなどが[[結露]]などによってぼんやりしていること、気持ちなどが沈んでいることなどを指す。 == 学術的定義 == [[Image:Japanese Weather symbol (Overcast).svg|thumb|60px|曇りの日本式[[天気記号]]|代替文=]] 日本では、[[空]]全体に対して、[[雲]]が占める割合([[雲量]])が9割以上で、かつ[[降水]]現象がない状態として定義されている。厳密には、 上層雲([[巻雲]]、[[巻積雲]]または[[巻層雲]])の占める割合が中層雲+下層雲より多い場合を「'''薄曇り'''(うすぐもり)」、中層雲+下層雲の占める割合が上層雲より多い場合を「'''曇り'''」と呼んで区別する。また、下層雲の占める割合が上層雲+中層雲より多い場合は「'''本曇り'''」、中層雲の占める割合が他の雲量より多い場合は「'''高曇り'''」と呼ぶこともある。 なお、[[天気予報]]では観測上の定義とは異なり、薄曇りは[[晴れ]]として扱われる。 国際的には雲量が8分率で表現されるため、雲量が8分の7以上のとき"Cloudy"(曇り)<ref>[http://www.crh.noaa.gov/glossary.php?word=Cloudy Cloudy] NOAA Glossary</ref>とする。 似た用語として"Overcast"があり、これも一般的な「曇り」の意味で用いられるが、航空気象分野では、[[定時飛行場実況気象通報式]](METAR)において雲量8分の8の状態がOvercastと定義されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{Wiktionary|くもり}} * [[天気]] {{日本式天気記号}} {{気象現象}} {{Climate-stub}} {{DEFAULTSORT:くもり}} [[Category:気象]]
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雨(あめ、英語: rain)とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。また、落下する水滴そのもの(雨粒)を指すこともある。大気に含まれる水蒸気が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が雲を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて重力により落下してくるもの。ただし、成長の過程で一旦凍結し氷晶を経て再び融解するものもある。地球上の水循環を構成する最大の淡水供給源で、生態系に多岐にわたり関与する他、農業や水力発電などを通して人類の生活にも関与している。 地球の大気(空気)は、場所により量が異なるが、水蒸気を含んでいる。この水蒸気は、海洋や湖の表面、地面からの蒸発、植物からの蒸散などを通して供給されるものである。 空気中の水蒸気の量を表す身近な指標として相対湿度があり、通常は単に湿度と呼ぶ。相対湿度とは、空気がある温度(気温)であるときに含むことができる水蒸気の最大量(飽和水蒸気量)を100%とし、実際に含まれている量を最大量に対する割合で表したものである。例えば、気温25°C・相対湿度50%の空気には、1m(=1000リットル)あたり11.4gの水蒸気が含まれる。 空気の相対湿度が増して100%に達することを飽和という。空気は、何らかの要因によって冷やされることで飽和する。飽和した空気では、水蒸気が凝結して微小な水滴を形成する。これが雲である。 先の例に挙げた、25°C・相対湿度50%の空気1mを考える。この空気には11.4gの水蒸気が含まれる。これを10°Cまで冷却すると、10°Cの飽和水蒸気量は9.3g/mなので、11.4 - 9.3 = 2.1g分が凝結し水滴となることが分かる。 空気を冷却して飽和させるプロセスは、主に断熱膨張による冷却である。断熱膨張とは、上空へいくほど気圧が低いため、空気が持ち上げられて気圧が下がると膨張し、同時に冷却されることを言う。大気の対流、気団同士の衝突(前線)などの大気の大規模な運動、また気流が山にぶつかったりするような物理的障害によって起こる。このほかには、例えば暖かい空気が冷たい海面に触れたり、空気が熱放射として宇宙に向かって赤外線を放射したり(冬の晴れた夜間に起こる放射冷却としてよく知られている)、降雨時の雨粒が蒸発の際に潜熱を奪い周りの空気を冷やしたりするプロセスがある。 空気中での水滴の凝結は実際には、凝結核を介して行われる。球の形をする水滴には表面張力が働くが、水滴が小さいほど表面張力が強く核生成が安定しない。ある実験によれば、ほこりのない非常に清浄な空気中では、0°Cのとき相対湿度が100%を超過(過飽和)してさらに430%まで達しなければ、水滴は自発的に形成されない。対して、通常の大気のように凝結核がある空気中では、エアロゾル粒子の働きにより凝結が助けられるため、相対湿度は概ね101%を上回ることがない。雲の凝結核として働く主なエアロゾル粒子には、燃焼ガスや火山ガスに由来する0.1-1μmの硫酸塩粒子、海のしぶきに由来する数μmの海塩粒子や、土壌由来の粒子、有機エアロゾルなどがある。 雲ができたての時の水滴(雲粒)の大きさは、半径1 - 20μm(0.001 - 0.02mm)程度である。これに対し、雨粒の平均的な大きさは半径1,000μm(1mm)である。なお、雲の中には1mあたり1000万 - 数百億個の雲粒が存在する。半径1 - 10μm程度の初期の段階では、雲粒の表面にさらに水蒸気が凝結していくことにより通常でも数分ほどで10μm程度の大きさに成長する(凝結過程)。しかし、凝結による成長は粒径が大きくなるほど遅くなる。雲粒の平均を半径10μmだとして、半径100倍の1,000μmに成長するためには、体積にして100万倍、これを雲の中の平均的な水蒸気量の下で凝結だけで行うと約2週間かかると試算され、現実とはかけ離れている。実際には、10 - 30μm程度に達すると水滴同士の衝突により成長する(併合過程)。衝突併合による成長は粒径が大きいほど速いため、この段階では加速的に成長が進む。なお、海洋の積雲では、吸湿性の海塩粒子が豊富な事から大きな粒子がすぐに生成され、雲ができ始めてから20 - 30分程度で雨が降り出すことも珍しくない。 上記のように、一貫して液体のまま雨として降るプロセスを「暖かい雨」という。これに対し、途中で凍結して氷晶になり、再び融解して降るプロセスを「冷たい雨」という。日本で降る雨は、およそ8割が「冷たい雨」のプロセスによるものだと言われている。 気温が0°Cを下回る冷たい空気の環境下で起こる。単体氷晶の形成としては、水蒸気が凝結核を介して凝結した水滴がさらに凍結核の働きにより凍結し氷晶となるパターンと、水蒸気が昇華核を介して昇華し直接氷晶を形成するパターン、さらに、氷晶同士の衝突などで生じる二次氷晶がある。 空気中では、気温が0°Cを少し下回ったくらいでは水滴の凍結が始まらないことが多い。0°C以下で凍らない状態を過冷却と言う。凍結核は、水滴に衝突することによる衝撃や、水滴に溶け出すことによる化学的効果などを通して、概ね-30°C以上の環境下で凍結を促す。-30°C以下の環境では、昇華による氷晶の形成が起こる。また、-40°C以下の環境では、凍結核がない場合でも純水の均質核生成により水滴が凍結する。 雲の中で一部の水滴が凍って氷晶になり始めると、周囲に存在する過冷却の水滴は蒸発して氷晶の表面に昇華するため、急速に成長する。例えば直径10μmの氷晶は、同じ大きさの水滴に比べて10倍の速度で成長する。氷晶は成長過程で分化し、結晶が集まった雪片になるものと、主に積乱雲の中で生じるが丸みを帯びた氷の粒(霰や雹)になるものに分かれる。 雪片や霰が落下する途中で、0°Cより高い空気の層に達すると融け始め、完全に融けると液体の雨粒となる。融けきれない場合は雪となる。雪は落下途中で昇華(気化)しながら昇華熱を放出するため、2 - 3°C程度では雪の形状を保ったまま降ることがある。雪になるか雨になるか、あるいは雪と雨が混合する霙になるかは、気温と相対湿度により決まる(雪#雪・霙・雨の境目、雪の目安も参照)。 またごく稀に、冷たい雨の成立する環境下で上空に0°C以上の逆転層が存在する時、落下中は液体(過冷却)であるものの着地時に凍結して氷の層(雨氷)を形成する、着氷性の雨というものも存在する。 なお、雲の段階で水滴が落ちてこないのは、落下速度が遅いからである。半径1 - 10μmのオーダーの水滴の終端速度は1cm/sに満たないが、雲の中ではこれを優に上回る速度の上昇気流が普通に存在するため、浮かんでいるように見える。一方、水滴が半径1mm(直径2mm)のときの終端速度は7m/sに達し、上昇気流を振り切って落下する。短い場合、特に海洋上で発生する積雲の場合、雲ができ始めてから最短15 - 20分程度で雨が降り出す場合がある。また熱帯地方の「暖かい雨」の場合も、30分 - 1時間程度で雨が降り出す。ただ、これらより長く滞留して降る雨も少なくない。 主に雨を降らせる雲は、十種雲形において層雲、乱層雲、積乱雲に分類される雲である。層雲は地上に近いところにでき、弱く変化の少ない雨を降らせることが多い。乱層雲は灰色を呈し風により変化に富む形状をする雲で、雨を降らせる代表的な雲である。積乱雲は上空高くもくもくと盛り上がる雲で、乱層雲よりも激しく変化の大きい雨を降らせ、しばしば雷や雹を伴う。 雨雲の下端(雲底)の高さは実にさまざまだが平均的には約500m - 2,000m程度で、多くの雨粒はこの距離を落下してくる。周囲の空気が乾燥していると、雨は落下する途中で蒸発してしまう。このときには、雲の下に筋状の雨跡を見ることができ、これを降水条や尾流雲と呼ぶ。 雨は、雲を生じさせる要因によりいくつかの降水型に分類できる。 世界では地域によって、雨の降り方は全くと言っていいほど異なる。極端な例では、1分間に30mmあるいは1日に1,500mmもの豪雨が降る地域がある一方、1年に1mmも雨が降らない地域も存在する。おおまかな傾向として、高緯度地域よりも低緯度緯度の方が雨が多く、また大陸では内陸部よりも沿岸部の方が雨が多く、気温の高さや水の供給源からの近さが影響を与えている。しかし、緯度と雨量は単純に対応しているわけではない。地球を南北に見ると雨量の多い地域は2つあり、1つは暖気が上昇し続ける赤道付近の熱帯、もう1つは寒気と暖気がせめぎ合う中緯度の温帯・亜寒帯である。 世界の年間降水量(雪を含む)を平均すると、陸上では約850mm、海洋では約1250mm、地表平均では約1100mmと推定されている。古い資料では世界平均で800mm程度とされていることがあるが、新しい調査で海洋のデータが判明したことで値は上方修正されている。 熱帯雨林気候を呈する赤道付近では、貿易風が収束する熱帯収束帯で積乱雲が発達しやすく、対流性の強い雨が毎日のように降る。温帯湿潤気候・亜寒帯湿潤気候を呈する中緯度では、亜寒帯低圧帯に沿い前線や低気圧の活動が活発であり、層状性の雲から広く雨や雪が降る一方、寒暖差が大きいため対流性の雨も降る。特に亜熱帯や温帯の地域では、1時間雨量の最大値は熱帯とほぼ変わらない。 一方、熱帯と温帯に挟まれた乾燥帯の地域は亜熱帯高気圧に覆われ気流が発散し、雲ができにくいため雨が少ない。ただし、この緯度にあってもアジア・アフリカ・北米・南米の大陸東岸では海洋性の高気圧からの南寄り(北半球の場合。南半球では北寄り)の辺縁流や暖流の影響で湿潤となり、年間を通して雨が多い温暖湿潤気候となる。 これらの気圧帯は季節変化に伴い南北に移動する。これにより、季節により雨量が著しく変化する地域がある。乾燥帯寄りの熱帯に位置するサバナ気候や熱帯モンスーン気候の地域では、雨季と乾季が明瞭に現れ、年間雨量の9割が雨季に集中する。一方、ヨーロッパの地中海沿いは夏に高圧帯、冬に低圧帯に入るため冬に雨が多く夏に乾燥する地中海性気候となる。 雨量は季節や年により変動し、少な過ぎても多過ぎても災害となりうる。大雨(集中豪雨)や長期間の雨による災害には、家屋の流失や田畑の冠水をもたらす洪水、地すべり、崖崩れなどがある。少雨による災害には、水不足や旱魃などがある。 雨の強さは一定時間に降る雨の量(雨量、うりょう)で表し、その深さをミリメートル(mm)で表現する。通常用いるのは1時間の雨量(時間雨量)だが、短時間の降雨の強さを表すために10分間雨量などを用いることもある。なお、雪や霰などの雨以外による降水も含めた場合は降水量と言う。 日本では、気象庁は予報や防災情報に次のような雨の強さの表現を用いる。また、「大雨」は災害の恐れのあるような雨を指して用いる。 落下する雨の水滴を雨粒(あまつぶ)といい、雨滴(うてき)ともいう。雨水が軒などから落ちるのは雨垂れ(あまだれ)、雨だれが落ちて打ち当るところを雨垂落(あまだれおち)という。なお、雨によるものではないが、濃霧の時、森林の中で霧の微小な水滴が枝葉につき、大粒の水滴となって雨のように降り落ちる現象を樹雨(きさめ、きあめ)という。 雨粒の温度は、概ね気温より冷たい傾向にあるが、落下してくる大気の気温や湿度に左右される。地表においては、おおよそ湿球温度に近い温度になると考えられている。 雨粒は太陽光を反射分光し、虹を作ることがある。 雨粒の大きさは、通常は直径1mm前後で、概ね直径0.2 - 6mmの範囲内にある。小さなものほど落下速度が小さく、特に直径0.5mm未満の雨粒が一様に降る状態の雨を霧雨(きりさめ)といい、ほとんど浮遊しているように見えるとされる。一方、直径6mmを超えるような大きな雨粒は分裂しやすく観測されにくい。 雨が降ってくるとき、雨粒の密度は、1mあたり10個 - 1,000個程度である。雨粒の大きさと密度の関係は、「マーシャル・パルマーの粒径分布」として表せる(マーシャルおよびパルマー、1947年)。実際には全ての場合に適用できる訳ではないが、大きな粒ほど密度が低い、おおよそ指数関数的な分布になっている。 雨粒の落下速度は、雨粒の大きさにほぼ比例する。相当半径0.1mm(直径0.2mm)では終端速度70cm/s、0.5mm(直径1mm)では4m/s、1mm(直径2mm)では6.5m/sである。2mm(直径4mm)では9m/sに達するがこれより大きくなっても速度はほとんど変わらず、約9m/sが最大値である。 雨粒が空気中を落下するとき、雨粒が半径1mm(直径2mm)より小さい場合は、表面張力のためにほぼ球形をしている。これより大きくなると、表面張力が小さくなる代わりに空気抵抗が増し、雨粒の底面が平らなまんじゅうのような形状となるうえ、落下時に振動し始めて不安定となり、分裂しやすくなる。大きくなるほど壊れやすいため、実際に地上で観測されている雨粒は、最大でも直径8mm程度までである。 雨がしばしば涙滴形で描かれているのは、木の葉の先から露が落ちるときや、窓ガラスを伝う水滴が涙形をしているためである。1951年に北海道大学の孫野長治博士が空中を落下する雨粒の写真撮影に成功し、「まんじゅう形」を世界で初めて確認した。 雨水は大部分が水であるが、微量の不純物を含んでいる。不純物の量は、雨水1リットル中に数mg - 数十mgのオーダーである。不純物の濃度は、雨の降り始めに濃い傾向があり、降り続くに従い、また雨量が増えるに従い薄くなっていく。また、季節や場所により大きく変動し、工業地帯では濃度が高い。 不純物の成分は煤などの燃焼由来の有機物、硫黄酸化物(硫酸)、窒素酸化物、塩素、ナトリウム、土壌由来の成分などで、重金属類が含まれることもある。これらは雲が発生する際(レインアウト)、あるいは雨となって地上に落ちてくる際(ウォッシュアウト)、周囲の空気から取り込まれる。降水量の多い日本では、大気中から地表への沈着物質の6 - 7割が雨による湿性沈着だと考えられている。 また核実験の後などには、雨水中に放射性物質が含まれることがある。 雨水中の水を構成する水素や酸素の同位体比は、海水に比べるとやや軽い同位体の比率が高く、大気中の水蒸気と比べるとやや重い同位体の比率が高い。また、気温が低いほど、緯度が低いほど、標高が高いほど、海岸から離れるほど、それぞれ同位体比は低くなる。 雨自体に臭いはないが、雷により産生されるオゾン、湿度が上昇することによって粘土から出されるペトリコールや、土壌中の細菌が出すゲオスミンが雨が降るときの臭いの元だと言われている。 通常でも雨水は大気中の二酸化炭素を吸収するため、pH(水素イオン指数)は6前後とやや酸性を示す。雨が硫黄酸化物や窒素酸化物などを大気中から取り込み、強い酸性を示すものもある。一方、土壌や燃焼に由来するアンモニウムやカルシウム成分を取り込み、pHが中和されることもある。中国東部では、石炭資源が豊富なためその利用により硫黄酸化物が大量に排出されると同時に土壌から黄砂などに由来するアンモニウムやカルシウムが排出され、汚染のポテンシャル自体が高い割に酸性雨の被害は顕著ではない。大気中の二酸化炭素濃度を考慮した平衡状態がpH5.6であることから、この値以下のものを酸性雨と呼ぶが、pH5.0以下とする定義もある。 通常とは違い、異物を含んだ雨、色の付いた雨が降ることがあり、俗に怪雨(かいう)と呼ばれる。 黄砂などの土壌由来の成分(砂や泥)や火山灰を含み、黄色や赤色を呈する雨が降ることがあり、泥雨(でいう)と呼ばれる。また赤色の場合は血雨(英語版)(けつう)とも呼ばれる。工業地帯の煤煙を含んだ雨は黒雨(こくう)と呼ばれる。 特殊な例として、雨と一緒に魚やカエル、穀物、木の実が降るような現象が世界各地で報告されており、"falls from the skies"の頭字語でファフロツキーズと呼ばれる。 核攻撃や核実験が行われた場所では、放射性降下物を含む黒い雨が降った例がある。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下の後、高レベルの放射能を持つ黒い雨が降った。この雨は触れただけで放射線障害の原因となり、二次被曝を引き起こした。核爆発により放出される大量の熱やその後の市街地の火災が上昇気流を起こし、大量の粉塵が混じったことで黒色を呈した。長崎市への原子爆弾投下後においても、黒い雨が降っている。 雨の観測は主に雨量計や気象レーダーにより行われる。雨量計は標準化されており、日本では直径20cmの円筒形の器具が最も用いられている。雨量計は地点ごとの正確な雨量が分かるが、雨量は地域により大きく偏ることがあり雨量計だけでは雨の全体像を把握できない。一方、気象レーダーは面的に雨の強さの分布が分かるが、雨粒の大きさを測定できないため実際の雨量と大きな誤差が出てしまう。防災面では、両者の欠点を補うため雨量計やレーダーの情報を組み合わせてコンピューター処理した上で活用する。 日本の場合、防災を目的に気象庁のアメダス雨量計が国内約1,300か所に設置されている。また気象庁の気象レーダーは20か所に設置され、国内ほぼ全域をカバーしている。このほか国土交通省、都道府県、鉄道会社、電力会社などが、独自の雨量計やレーダーなどを保有している。 雨の観測の歴史は古く、最古のものとしては紀元前4世紀、マウリヤ朝時代の古代インドで行われた観測記録がカウティリヤの著書に記されている。15世紀、李氏朝鮮では世宗が銅製の計器を用いて観測を行わせたとされる。中国でも15世紀に観測が行われた。ヨーロッパでは、17世紀に雨量計が考案され、ロバート・フックが行った観測記録などが残っている。日本では、18世紀初めに徳川吉宗が雨量を観測させたとされるが、記録自体は残っていない。 連続した雨量の観測記録の中でもっとも古く信頼できるものは、イギリス・ロンドン郊外のキューにおけるもので、1697年からの記録がある。このデータは、気候変動を論じる上で、降水量の長期変動を示す資料として引用されている。また日本では、1875年6月1日(気象記念日)に当時東京気象台で雨量の観測が始まった。 気象レーダーは、波長5 - 10cmの電波(マイクロ波)を放射して雨粒からの反射を検知し、半径およそ300 - 500kmの領域内の降雨分布を調べるものである。レーダー電波の反射強度は、雨粒の直径の6乗と大気中の個数(密度)の積で表される。同程度の雨量でも雨粒の大きさが異なるために誤差が生じることがあり、レーダーのみで正確な雨量は求められない。 なお、雪が融けて雨に変わりつつあるとき、電波が屈折してしまうためその高度のレーダー反射は強くなる。これをブライトバンドという。さらに、雨粒以外のもの、例えば鳥や昆虫などの小動物、空気の乱れなどで異常な観測結果がみられることがあり、このようなものをエンジェルエコーと呼ぶ。 実用投入されている気象衛星は赤外線により雲の観測を行うもので、雨の直接観測は行っていない。衛星による雨の直接観測が可能となったのは1990年代であり、熱帯降雨観測衛星(TRMM)は熱帯の雨の観測を行った。その後、国際的な協力により複数の衛星による全球降水観測計画(GPM)が展開されている。 観測記録や通報では、直径0.5mm以上の水滴が降る場合を「雨」と呼び、直径0.5mm未満の水滴が一様に降るものは「霧雨」として区別する。さらに、対流性の雲(積雲、積乱雲)から降る雨は「驟雨」、過冷却水滴の雨は「着氷性の雨」として区別する。 国際気象通報式では、観測時に降っているか止んでいるか、雪・霰・雹を伴うかどうか、雷を伴う否か、雨の3段階強度や雷の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。強度の3区分は、時間雨量3mm未満で弱い雨、3mm以上15mm未満で並の雨、15mm以上で強い雨。雨を表す基本の記号は。 ラジオ気象通報などの日本式天気図では、観測時に雨が降っている場合に天気を「雨」とする。天気記号は()。ただし、時間雨量に換算して15mm以上の強度で雨が降る場合は「雨強し」(ツ)、対流性の雲から降る雨(驟雨)は「にわか雨」に分類する。また、霰や雹、雷を伴う場合はそちらを優先して報告する。 航空気象の通報式では「降水現象」の欄のRAが雨を表す略号。強度を表す付加記号、驟雨や着氷性の雨を表す略号もある。 地球の水循環の中で、雲あるいは水蒸気として大気中に含まれる水は約13×10kg、また年間の降水総量は重量にして約400×10kg、高さにして平均800mmと見積もられており、約10日間で入れ替わることに相当する。なお、降水のうち陸地に降るのは4分の1で、残りの4分の3は海洋に降っている。ただし、陸域では降った雨のうち速やかに地表を流れるのは1割で、残りの9割は一旦地下に浸透して地下水に転じ、数か月から数百年をかけてゆっくりと湧出する。 生物にとって雨は、生存に必要不可欠な水、しかも飲用に適した淡水を供給するという重要な役割をもつ。地上に生息する生物の多くは、雨が集まってできた水辺、地面にしみ込んだ後湧き出す泉やそれらが合流してできる川から生存に必要な水を摂取する。人間においても同様であり、海水淡水化施設を利用している一部を除けば、世界の水道水はほぼ雨に由来する淡水を利用している。 また、雨が地形に及ぼす作用は大きい。雨水が地形を削る浸食作用や、土壌に浸透することで土質を変化させる作用がある。植生も雨に左右され、雨の多い地域では森林が発達し、農業生産が盛んである。 また、例えば雨で地面が濡れると地中からミミズが這い出てきて、それを狙って鳥が低空飛行するという風に、生物には雨が降るとき特有の生態も多々ある。 人類は、工業用水や農業用水、飲料水の利用、水力発電など、産業や生活を通じて雨水を源とする水資源を利用している。 水力発電は雨水や雪解け水に由来する水の重力落下によって生じる運動エネルギーを電気として利用するものであり、海水の蒸発・雲の生成(凝結・凝固)・降雨といった自然のプロセスを復元力とした再生可能エネルギーである。 また雨水の直接利用として、庭先などで雨水を貯留し利用する雨水タンクなどもある。 雲の凝結や雲粒の成長を促して雨を増やす科学的な人工降雨は、1940年代に初めて試みられた。ドライアイスやヨウ化銀を氷晶核とする方法が広く用いられ、条件の整った雲であれば一定の成果が得られることが報告されている。しかし、1971年にアメリカがベトナム戦争において雨を増加させて補給を寸断させる作戦を計画したことを契機に、悪影響の側面が議論されることとなった。1976年には環境改変兵器禁止条約が採択(1978年発効)され、敵対国への気象改変技術の使用は禁止されている。 雨の概念や雨に対する考え方は、その土地の気候によって様々なものがある。イギリス、ドイツ、フランスなど西洋の温暖な地域(西岸海洋性気候の地域)では「雨」を悲しいイメージで捉える傾向が強く、いくつかの童謡にもそれが表現されている。 一方、雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される。 古来より人は、恵みをもたらす半面災厄をもたらす雨を、崇拝すると同時に畏怖していたと考えられる。端的な例として、ノアの洪水のみならず、世界の破壊や創造をもたらす洪水神話は世界各地に存在する。洪水神話は、雨の破壊性と創造性の2つの面を象徴していると考えられる。 また、世界の多くの神話や伝承において雨は、至高神、天神、雷神の活動の結果としてもたらされると解釈されている。メソポタミア神話の天候神アダド、ヒッタイトの天候神テシュブ、フェニキアの嵐の神バアルは天候を支配し雨や洪水を司るとされ、神の怒りが洪水や干ばつの原因だとして恐れられた。ギリシア神話では、全能の神ゼウスが雷を武器として他の巨人や神々と戦う際に雨が降るとされた。インド神話では、王インドラが雷神でもあり、悪竜ブルトラを退治することで川に水を取り戻し、田畑を干ばつから救ったとされる。日本神話では、スサノオがヤマタノオロチを倒した際にその尾から出た天叢雲剣が雲を司る神器とされる。スサノオが高千穂峰に降りた天孫降臨の際には、雨と風がもたらされたと伝えられる。 さらに、天を父、大地を母とし、両者の交わりによって雨が降り大地に実りがもたらされるという、天父地母の信仰も広く見られる。 水辺に生息するカエルやヘビなどの動物はしばしば、水神や水神の化身や家来とされたり、雨とかかわりの深いものとされている。ヨーロッパでは、ある種の鳥や昆虫の活動を雨の前触れとする伝承が広く見られる。 雨と関わりの深い農耕や牧畜を行う民族・部族では「雨乞い」の習俗が存在する。雨への依存が大きいアフリカの農民や牧畜民では、雨乞いを行う雨乞師の社会的地位が高いという特徴がある。雨乞いの儀式には広く水や煙、鉦などが用いられるが、これは水が雨、煙が雲、鉦が雷鳴を象徴する類感呪術であると考えられている。一部では、特徴的な形状の自然物を「雨石」や「雨の葉」などの神聖な事物として祀る習俗もある。これに対し、長雨の終息を祈る「日乞い」の習俗も存在するが、雨乞いほど多くはない。 日本では、雨はそれ自体神格化されず、水神や龍神が司るものとされる。そして、神の出現の際には、神威の現れとして雨が降るとされる。これに通じるものとして、七夕などの節日や神社の祭礼の日には雨が降るという伝承も各地に伝わっている。田植えを終える目安とされる半夏生の日に降る雨を半夏雨と言い、田の神が天に昇るときの雨だとされている。また、歴史的に水田稲作が盛んであることから農民は雨に強い関心を抱いており、正月や節分における天気占いや雨乞いの儀礼が各地で行われてきた。 一方、大雨による洪水や山崩れを蛇身と化した水神のしわざだとする伝説や、激しい夕立や竜巻を龍神の昇天だとする伝承がある。そのほか、雨の夜には人魂や幽霊が現れやすいともされている。 雨は文化的モチーフにもなっている。季節を感じさせるものとして四季それぞれの雨に対する感性が大きく異なり、古来より雨は多くの文学や芸術のモチーフに叙情的に描かれ、江戸時代の浮世絵版画においては歌川広重が交差する線の表現など多様な雨の表現を開拓している。 雨により、人間の活動が制限されることもある。雨の日に外出するときには、傘やレインコートなどの雨具を持参し身に付ける。野外で予定されていた行事が、雨天で中止になったり変更される例はよく見られる。ただし、「少雨決行」のように弱い雨の場合には雨天に関わらず行事が行われる場合がある。 なお、類人猿においてもこのようなことがあり、雨の日は活動が制約される。彼らは雨よけのために木の枝などを集めて傘や屋根のようなものを作ることが知られている。 日本は雨が多く四季の変化に富み、雨に関する語彙、雨の異名が豊富であるとされる。 比較的新しい雨に関する言葉も生まれている。明確な定義はないものの、微妙に異なった意味で使用されている。 レインガーデン(Rain gardens)とはバイオリテンション施設(bioretention facilities)とも呼ばれ、所謂ガーデン(庭園)というよりも、雨水が土壌に再吸収されるのを促進するために考案された様々な手法の1つである。また、汚染された雨水の流出を処理するために使用されることもある。レインガーデンは、不浸透面 (impervious) からの表面流出 (runoff) の流量、総量、汚染物質濃度の測定 (pollutant load) を減少させるように設計された外部空間である。都市部ならば屋根、歩車道、駐車場、小スペースの芝生エリアなどが活用される。 日本でも国や企業でもグリーンインフラと捉え、多くの試みがなされており、大成建設では「地上に降った雨水を下水道に直接放流することなく一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持った植栽空間」、鹿島建設でも「レインガーデンは降雨時に雨水を一時的に貯留し、時間をかけて地下へ浸透させる透水型の植栽スペース」として開発している。 レインガーデンは、植物と天然または人工の土壌培地を頼りに雨水を保持し、浸潤 (infiltration) のラグタイムを長くし、都市部の流出水が運ぶ汚染物質を浄化・ろ過している。そして降った雨を再利用して最適化する方法を提供することで、追加の灌漑施設の必要性を低減または回避する。これは都市部のヒートアイランドの効果として知られる、熱を吸収する不浸透面を多く含む都市部で特に有効な緩和策である。雨の多い都市部ならば、降雨量の多い地区でも洪水が少ない場所を作ることができる。 レインガーデンの植栽には一般に野草、スゲ、イグサ科、シダ、低木、小木などの湿地の植生が活用される。これらの植物は、レインガーデンに流れ込む栄養分と水を取り込み、蒸散のプロセスを通じて地球の大気に水蒸気として放出させる。深い植物の根も、地面にろ過する追加チャネルを形成する。 金星では、表面を覆う厚い硫酸の雲から硫酸の雨が降っている。しかし、地表が400°Cを超える高温であるため、途中で蒸発してしまい地表には届かない。 土星の衛星のタイタンでは、-170°Cの冷たい地表にメタンやエタンで構成される雨が降っており、川や湖のような地形も形成されていることが観測されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "雨(あめ、英語: rain)とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。また、落下する水滴そのもの(雨粒)を指すこともある。大気に含まれる水蒸気が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が雲を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて重力により落下してくるもの。ただし、成長の過程で一旦凍結し氷晶を経て再び融解するものもある。地球上の水循環を構成する最大の淡水供給源で、生態系に多岐にわたり関与する他、農業や水力発電などを通して人類の生活にも関与している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "地球の大気(空気)は、場所により量が異なるが、水蒸気を含んでいる。この水蒸気は、海洋や湖の表面、地面からの蒸発、植物からの蒸散などを通して供給されるものである。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "空気中の水蒸気の量を表す身近な指標として相対湿度があり、通常は単に湿度と呼ぶ。相対湿度とは、空気がある温度(気温)であるときに含むことができる水蒸気の最大量(飽和水蒸気量)を100%とし、実際に含まれている量を最大量に対する割合で表したものである。例えば、気温25°C・相対湿度50%の空気には、1m(=1000リットル)あたり11.4gの水蒸気が含まれる。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "空気の相対湿度が増して100%に達することを飽和という。空気は、何らかの要因によって冷やされることで飽和する。飽和した空気では、水蒸気が凝結して微小な水滴を形成する。これが雲である。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "先の例に挙げた、25°C・相対湿度50%の空気1mを考える。この空気には11.4gの水蒸気が含まれる。これを10°Cまで冷却すると、10°Cの飽和水蒸気量は9.3g/mなので、11.4 - 9.3 = 2.1g分が凝結し水滴となることが分かる。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "空気を冷却して飽和させるプロセスは、主に断熱膨張による冷却である。断熱膨張とは、上空へいくほど気圧が低いため、空気が持ち上げられて気圧が下がると膨張し、同時に冷却されることを言う。大気の対流、気団同士の衝突(前線)などの大気の大規模な運動、また気流が山にぶつかったりするような物理的障害によって起こる。このほかには、例えば暖かい空気が冷たい海面に触れたり、空気が熱放射として宇宙に向かって赤外線を放射したり(冬の晴れた夜間に起こる放射冷却としてよく知られている)、降雨時の雨粒が蒸発の際に潜熱を奪い周りの空気を冷やしたりするプロセスがある。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "空気中での水滴の凝結は実際には、凝結核を介して行われる。球の形をする水滴には表面張力が働くが、水滴が小さいほど表面張力が強く核生成が安定しない。ある実験によれば、ほこりのない非常に清浄な空気中では、0°Cのとき相対湿度が100%を超過(過飽和)してさらに430%まで達しなければ、水滴は自発的に形成されない。対して、通常の大気のように凝結核がある空気中では、エアロゾル粒子の働きにより凝結が助けられるため、相対湿度は概ね101%を上回ることがない。雲の凝結核として働く主なエアロゾル粒子には、燃焼ガスや火山ガスに由来する0.1-1μmの硫酸塩粒子、海のしぶきに由来する数μmの海塩粒子や、土壌由来の粒子、有機エアロゾルなどがある。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "雲ができたての時の水滴(雲粒)の大きさは、半径1 - 20μm(0.001 - 0.02mm)程度である。これに対し、雨粒の平均的な大きさは半径1,000μm(1mm)である。なお、雲の中には1mあたり1000万 - 数百億個の雲粒が存在する。半径1 - 10μm程度の初期の段階では、雲粒の表面にさらに水蒸気が凝結していくことにより通常でも数分ほどで10μm程度の大きさに成長する(凝結過程)。しかし、凝結による成長は粒径が大きくなるほど遅くなる。雲粒の平均を半径10μmだとして、半径100倍の1,000μmに成長するためには、体積にして100万倍、これを雲の中の平均的な水蒸気量の下で凝結だけで行うと約2週間かかると試算され、現実とはかけ離れている。実際には、10 - 30μm程度に達すると水滴同士の衝突により成長する(併合過程)。衝突併合による成長は粒径が大きいほど速いため、この段階では加速的に成長が進む。なお、海洋の積雲では、吸湿性の海塩粒子が豊富な事から大きな粒子がすぐに生成され、雲ができ始めてから20 - 30分程度で雨が降り出すことも珍しくない。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "上記のように、一貫して液体のまま雨として降るプロセスを「暖かい雨」という。これに対し、途中で凍結して氷晶になり、再び融解して降るプロセスを「冷たい雨」という。日本で降る雨は、およそ8割が「冷たい雨」のプロセスによるものだと言われている。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "気温が0°Cを下回る冷たい空気の環境下で起こる。単体氷晶の形成としては、水蒸気が凝結核を介して凝結した水滴がさらに凍結核の働きにより凍結し氷晶となるパターンと、水蒸気が昇華核を介して昇華し直接氷晶を形成するパターン、さらに、氷晶同士の衝突などで生じる二次氷晶がある。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "空気中では、気温が0°Cを少し下回ったくらいでは水滴の凍結が始まらないことが多い。0°C以下で凍らない状態を過冷却と言う。凍結核は、水滴に衝突することによる衝撃や、水滴に溶け出すことによる化学的効果などを通して、概ね-30°C以上の環境下で凍結を促す。-30°C以下の環境では、昇華による氷晶の形成が起こる。また、-40°C以下の環境では、凍結核がない場合でも純水の均質核生成により水滴が凍結する。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "雲の中で一部の水滴が凍って氷晶になり始めると、周囲に存在する過冷却の水滴は蒸発して氷晶の表面に昇華するため、急速に成長する。例えば直径10μmの氷晶は、同じ大きさの水滴に比べて10倍の速度で成長する。氷晶は成長過程で分化し、結晶が集まった雪片になるものと、主に積乱雲の中で生じるが丸みを帯びた氷の粒(霰や雹)になるものに分かれる。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "雪片や霰が落下する途中で、0°Cより高い空気の層に達すると融け始め、完全に融けると液体の雨粒となる。融けきれない場合は雪となる。雪は落下途中で昇華(気化)しながら昇華熱を放出するため、2 - 3°C程度では雪の形状を保ったまま降ることがある。雪になるか雨になるか、あるいは雪と雨が混合する霙になるかは、気温と相対湿度により決まる(雪#雪・霙・雨の境目、雪の目安も参照)。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "またごく稀に、冷たい雨の成立する環境下で上空に0°C以上の逆転層が存在する時、落下中は液体(過冷却)であるものの着地時に凍結して氷の層(雨氷)を形成する、着氷性の雨というものも存在する。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、雲の段階で水滴が落ちてこないのは、落下速度が遅いからである。半径1 - 10μmのオーダーの水滴の終端速度は1cm/sに満たないが、雲の中ではこれを優に上回る速度の上昇気流が普通に存在するため、浮かんでいるように見える。一方、水滴が半径1mm(直径2mm)のときの終端速度は7m/sに達し、上昇気流を振り切って落下する。短い場合、特に海洋上で発生する積雲の場合、雲ができ始めてから最短15 - 20分程度で雨が降り出す場合がある。また熱帯地方の「暖かい雨」の場合も、30分 - 1時間程度で雨が降り出す。ただ、これらより長く滞留して降る雨も少なくない。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "主に雨を降らせる雲は、十種雲形において層雲、乱層雲、積乱雲に分類される雲である。層雲は地上に近いところにでき、弱く変化の少ない雨を降らせることが多い。乱層雲は灰色を呈し風により変化に富む形状をする雲で、雨を降らせる代表的な雲である。積乱雲は上空高くもくもくと盛り上がる雲で、乱層雲よりも激しく変化の大きい雨を降らせ、しばしば雷や雹を伴う。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "雨雲の下端(雲底)の高さは実にさまざまだが平均的には約500m - 2,000m程度で、多くの雨粒はこの距離を落下してくる。周囲の空気が乾燥していると、雨は落下する途中で蒸発してしまう。このときには、雲の下に筋状の雨跡を見ることができ、これを降水条や尾流雲と呼ぶ。", "title": "雨の形成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "雨は、雲を生じさせる要因によりいくつかの降水型に分類できる。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "世界では地域によって、雨の降り方は全くと言っていいほど異なる。極端な例では、1分間に30mmあるいは1日に1,500mmもの豪雨が降る地域がある一方、1年に1mmも雨が降らない地域も存在する。おおまかな傾向として、高緯度地域よりも低緯度緯度の方が雨が多く、また大陸では内陸部よりも沿岸部の方が雨が多く、気温の高さや水の供給源からの近さが影響を与えている。しかし、緯度と雨量は単純に対応しているわけではない。地球を南北に見ると雨量の多い地域は2つあり、1つは暖気が上昇し続ける赤道付近の熱帯、もう1つは寒気と暖気がせめぎ合う中緯度の温帯・亜寒帯である。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "世界の年間降水量(雪を含む)を平均すると、陸上では約850mm、海洋では約1250mm、地表平均では約1100mmと推定されている。古い資料では世界平均で800mm程度とされていることがあるが、新しい調査で海洋のデータが判明したことで値は上方修正されている。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "熱帯雨林気候を呈する赤道付近では、貿易風が収束する熱帯収束帯で積乱雲が発達しやすく、対流性の強い雨が毎日のように降る。温帯湿潤気候・亜寒帯湿潤気候を呈する中緯度では、亜寒帯低圧帯に沿い前線や低気圧の活動が活発であり、層状性の雲から広く雨や雪が降る一方、寒暖差が大きいため対流性の雨も降る。特に亜熱帯や温帯の地域では、1時間雨量の最大値は熱帯とほぼ変わらない。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方、熱帯と温帯に挟まれた乾燥帯の地域は亜熱帯高気圧に覆われ気流が発散し、雲ができにくいため雨が少ない。ただし、この緯度にあってもアジア・アフリカ・北米・南米の大陸東岸では海洋性の高気圧からの南寄り(北半球の場合。南半球では北寄り)の辺縁流や暖流の影響で湿潤となり、年間を通して雨が多い温暖湿潤気候となる。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらの気圧帯は季節変化に伴い南北に移動する。これにより、季節により雨量が著しく変化する地域がある。乾燥帯寄りの熱帯に位置するサバナ気候や熱帯モンスーン気候の地域では、雨季と乾季が明瞭に現れ、年間雨量の9割が雨季に集中する。一方、ヨーロッパの地中海沿いは夏に高圧帯、冬に低圧帯に入るため冬に雨が多く夏に乾燥する地中海性気候となる。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "雨量は季節や年により変動し、少な過ぎても多過ぎても災害となりうる。大雨(集中豪雨)や長期間の雨による災害には、家屋の流失や田畑の冠水をもたらす洪水、地すべり、崖崩れなどがある。少雨による災害には、水不足や旱魃などがある。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "雨の強さは一定時間に降る雨の量(雨量、うりょう)で表し、その深さをミリメートル(mm)で表現する。通常用いるのは1時間の雨量(時間雨量)だが、短時間の降雨の強さを表すために10分間雨量などを用いることもある。なお、雪や霰などの雨以外による降水も含めた場合は降水量と言う。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本では、気象庁は予報や防災情報に次のような雨の強さの表現を用いる。また、「大雨」は災害の恐れのあるような雨を指して用いる。", "title": "雨の降り方" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "落下する雨の水滴を雨粒(あまつぶ)といい、雨滴(うてき)ともいう。雨水が軒などから落ちるのは雨垂れ(あまだれ)、雨だれが落ちて打ち当るところを雨垂落(あまだれおち)という。なお、雨によるものではないが、濃霧の時、森林の中で霧の微小な水滴が枝葉につき、大粒の水滴となって雨のように降り落ちる現象を樹雨(きさめ、きあめ)という。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "雨粒の温度は、概ね気温より冷たい傾向にあるが、落下してくる大気の気温や湿度に左右される。地表においては、おおよそ湿球温度に近い温度になると考えられている。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "雨粒は太陽光を反射分光し、虹を作ることがある。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "雨粒の大きさは、通常は直径1mm前後で、概ね直径0.2 - 6mmの範囲内にある。小さなものほど落下速度が小さく、特に直径0.5mm未満の雨粒が一様に降る状態の雨を霧雨(きりさめ)といい、ほとんど浮遊しているように見えるとされる。一方、直径6mmを超えるような大きな雨粒は分裂しやすく観測されにくい。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "雨が降ってくるとき、雨粒の密度は、1mあたり10個 - 1,000個程度である。雨粒の大きさと密度の関係は、「マーシャル・パルマーの粒径分布」として表せる(マーシャルおよびパルマー、1947年)。実際には全ての場合に適用できる訳ではないが、大きな粒ほど密度が低い、おおよそ指数関数的な分布になっている。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "雨粒の落下速度は、雨粒の大きさにほぼ比例する。相当半径0.1mm(直径0.2mm)では終端速度70cm/s、0.5mm(直径1mm)では4m/s、1mm(直径2mm)では6.5m/sである。2mm(直径4mm)では9m/sに達するがこれより大きくなっても速度はほとんど変わらず、約9m/sが最大値である。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "雨粒が空気中を落下するとき、雨粒が半径1mm(直径2mm)より小さい場合は、表面張力のためにほぼ球形をしている。これより大きくなると、表面張力が小さくなる代わりに空気抵抗が増し、雨粒の底面が平らなまんじゅうのような形状となるうえ、落下時に振動し始めて不安定となり、分裂しやすくなる。大きくなるほど壊れやすいため、実際に地上で観測されている雨粒は、最大でも直径8mm程度までである。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "雨がしばしば涙滴形で描かれているのは、木の葉の先から露が落ちるときや、窓ガラスを伝う水滴が涙形をしているためである。1951年に北海道大学の孫野長治博士が空中を落下する雨粒の写真撮影に成功し、「まんじゅう形」を世界で初めて確認した。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "雨水は大部分が水であるが、微量の不純物を含んでいる。不純物の量は、雨水1リットル中に数mg - 数十mgのオーダーである。不純物の濃度は、雨の降り始めに濃い傾向があり、降り続くに従い、また雨量が増えるに従い薄くなっていく。また、季節や場所により大きく変動し、工業地帯では濃度が高い。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "不純物の成分は煤などの燃焼由来の有機物、硫黄酸化物(硫酸)、窒素酸化物、塩素、ナトリウム、土壌由来の成分などで、重金属類が含まれることもある。これらは雲が発生する際(レインアウト)、あるいは雨となって地上に落ちてくる際(ウォッシュアウト)、周囲の空気から取り込まれる。降水量の多い日本では、大気中から地表への沈着物質の6 - 7割が雨による湿性沈着だと考えられている。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また核実験の後などには、雨水中に放射性物質が含まれることがある。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "雨水中の水を構成する水素や酸素の同位体比は、海水に比べるとやや軽い同位体の比率が高く、大気中の水蒸気と比べるとやや重い同位体の比率が高い。また、気温が低いほど、緯度が低いほど、標高が高いほど、海岸から離れるほど、それぞれ同位体比は低くなる。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "雨自体に臭いはないが、雷により産生されるオゾン、湿度が上昇することによって粘土から出されるペトリコールや、土壌中の細菌が出すゲオスミンが雨が降るときの臭いの元だと言われている。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "通常でも雨水は大気中の二酸化炭素を吸収するため、pH(水素イオン指数)は6前後とやや酸性を示す。雨が硫黄酸化物や窒素酸化物などを大気中から取り込み、強い酸性を示すものもある。一方、土壌や燃焼に由来するアンモニウムやカルシウム成分を取り込み、pHが中和されることもある。中国東部では、石炭資源が豊富なためその利用により硫黄酸化物が大量に排出されると同時に土壌から黄砂などに由来するアンモニウムやカルシウムが排出され、汚染のポテンシャル自体が高い割に酸性雨の被害は顕著ではない。大気中の二酸化炭素濃度を考慮した平衡状態がpH5.6であることから、この値以下のものを酸性雨と呼ぶが、pH5.0以下とする定義もある。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "通常とは違い、異物を含んだ雨、色の付いた雨が降ることがあり、俗に怪雨(かいう)と呼ばれる。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "黄砂などの土壌由来の成分(砂や泥)や火山灰を含み、黄色や赤色を呈する雨が降ることがあり、泥雨(でいう)と呼ばれる。また赤色の場合は血雨(英語版)(けつう)とも呼ばれる。工業地帯の煤煙を含んだ雨は黒雨(こくう)と呼ばれる。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "特殊な例として、雨と一緒に魚やカエル、穀物、木の実が降るような現象が世界各地で報告されており、\"falls from the skies\"の頭字語でファフロツキーズと呼ばれる。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "核攻撃や核実験が行われた場所では、放射性降下物を含む黒い雨が降った例がある。1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下の後、高レベルの放射能を持つ黒い雨が降った。この雨は触れただけで放射線障害の原因となり、二次被曝を引き起こした。核爆発により放出される大量の熱やその後の市街地の火災が上昇気流を起こし、大量の粉塵が混じったことで黒色を呈した。長崎市への原子爆弾投下後においても、黒い雨が降っている。", "title": "雨の性質" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "雨の観測は主に雨量計や気象レーダーにより行われる。雨量計は標準化されており、日本では直径20cmの円筒形の器具が最も用いられている。雨量計は地点ごとの正確な雨量が分かるが、雨量は地域により大きく偏ることがあり雨量計だけでは雨の全体像を把握できない。一方、気象レーダーは面的に雨の強さの分布が分かるが、雨粒の大きさを測定できないため実際の雨量と大きな誤差が出てしまう。防災面では、両者の欠点を補うため雨量計やレーダーの情報を組み合わせてコンピューター処理した上で活用する。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本の場合、防災を目的に気象庁のアメダス雨量計が国内約1,300か所に設置されている。また気象庁の気象レーダーは20か所に設置され、国内ほぼ全域をカバーしている。このほか国土交通省、都道府県、鉄道会社、電力会社などが、独自の雨量計やレーダーなどを保有している。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "雨の観測の歴史は古く、最古のものとしては紀元前4世紀、マウリヤ朝時代の古代インドで行われた観測記録がカウティリヤの著書に記されている。15世紀、李氏朝鮮では世宗が銅製の計器を用いて観測を行わせたとされる。中国でも15世紀に観測が行われた。ヨーロッパでは、17世紀に雨量計が考案され、ロバート・フックが行った観測記録などが残っている。日本では、18世紀初めに徳川吉宗が雨量を観測させたとされるが、記録自体は残っていない。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "連続した雨量の観測記録の中でもっとも古く信頼できるものは、イギリス・ロンドン郊外のキューにおけるもので、1697年からの記録がある。このデータは、気候変動を論じる上で、降水量の長期変動を示す資料として引用されている。また日本では、1875年6月1日(気象記念日)に当時東京気象台で雨量の観測が始まった。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "気象レーダーは、波長5 - 10cmの電波(マイクロ波)を放射して雨粒からの反射を検知し、半径およそ300 - 500kmの領域内の降雨分布を調べるものである。レーダー電波の反射強度は、雨粒の直径の6乗と大気中の個数(密度)の積で表される。同程度の雨量でも雨粒の大きさが異なるために誤差が生じることがあり、レーダーのみで正確な雨量は求められない。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお、雪が融けて雨に変わりつつあるとき、電波が屈折してしまうためその高度のレーダー反射は強くなる。これをブライトバンドという。さらに、雨粒以外のもの、例えば鳥や昆虫などの小動物、空気の乱れなどで異常な観測結果がみられることがあり、このようなものをエンジェルエコーと呼ぶ。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "実用投入されている気象衛星は赤外線により雲の観測を行うもので、雨の直接観測は行っていない。衛星による雨の直接観測が可能となったのは1990年代であり、熱帯降雨観測衛星(TRMM)は熱帯の雨の観測を行った。その後、国際的な協力により複数の衛星による全球降水観測計画(GPM)が展開されている。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "観測記録や通報では、直径0.5mm以上の水滴が降る場合を「雨」と呼び、直径0.5mm未満の水滴が一様に降るものは「霧雨」として区別する。さらに、対流性の雲(積雲、積乱雲)から降る雨は「驟雨」、過冷却水滴の雨は「着氷性の雨」として区別する。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "国際気象通報式では、観測時に降っているか止んでいるか、雪・霰・雹を伴うかどうか、雷を伴う否か、雨の3段階強度や雷の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。強度の3区分は、時間雨量3mm未満で弱い雨、3mm以上15mm未満で並の雨、15mm以上で強い雨。雨を表す基本の記号は。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ラジオ気象通報などの日本式天気図では、観測時に雨が降っている場合に天気を「雨」とする。天気記号は()。ただし、時間雨量に換算して15mm以上の強度で雨が降る場合は「雨強し」(ツ)、対流性の雲から降る雨(驟雨)は「にわか雨」に分類する。また、霰や雹、雷を伴う場合はそちらを優先して報告する。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "航空気象の通報式では「降水現象」の欄のRAが雨を表す略号。強度を表す付加記号、驟雨や着氷性の雨を表す略号もある。", "title": "観測・報告" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "地球の水循環の中で、雲あるいは水蒸気として大気中に含まれる水は約13×10kg、また年間の降水総量は重量にして約400×10kg、高さにして平均800mmと見積もられており、約10日間で入れ替わることに相当する。なお、降水のうち陸地に降るのは4分の1で、残りの4分の3は海洋に降っている。ただし、陸域では降った雨のうち速やかに地表を流れるのは1割で、残りの9割は一旦地下に浸透して地下水に転じ、数か月から数百年をかけてゆっくりと湧出する。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "生物にとって雨は、生存に必要不可欠な水、しかも飲用に適した淡水を供給するという重要な役割をもつ。地上に生息する生物の多くは、雨が集まってできた水辺、地面にしみ込んだ後湧き出す泉やそれらが合流してできる川から生存に必要な水を摂取する。人間においても同様であり、海水淡水化施設を利用している一部を除けば、世界の水道水はほぼ雨に由来する淡水を利用している。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、雨が地形に及ぼす作用は大きい。雨水が地形を削る浸食作用や、土壌に浸透することで土質を変化させる作用がある。植生も雨に左右され、雨の多い地域では森林が発達し、農業生産が盛んである。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、例えば雨で地面が濡れると地中からミミズが這い出てきて、それを狙って鳥が低空飛行するという風に、生物には雨が降るとき特有の生態も多々ある。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "人類は、工業用水や農業用水、飲料水の利用、水力発電など、産業や生活を通じて雨水を源とする水資源を利用している。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "水力発電は雨水や雪解け水に由来する水の重力落下によって生じる運動エネルギーを電気として利用するものであり、海水の蒸発・雲の生成(凝結・凝固)・降雨といった自然のプロセスを復元力とした再生可能エネルギーである。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また雨水の直接利用として、庭先などで雨水を貯留し利用する雨水タンクなどもある。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "雲の凝結や雲粒の成長を促して雨を増やす科学的な人工降雨は、1940年代に初めて試みられた。ドライアイスやヨウ化銀を氷晶核とする方法が広く用いられ、条件の整った雲であれば一定の成果が得られることが報告されている。しかし、1971年にアメリカがベトナム戦争において雨を増加させて補給を寸断させる作戦を計画したことを契機に、悪影響の側面が議論されることとなった。1976年には環境改変兵器禁止条約が採択(1978年発効)され、敵対国への気象改変技術の使用は禁止されている。", "title": "水循環と水資源" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "雨の概念や雨に対する考え方は、その土地の気候によって様々なものがある。イギリス、ドイツ、フランスなど西洋の温暖な地域(西岸海洋性気候の地域)では「雨」を悲しいイメージで捉える傾向が強く、いくつかの童謡にもそれが表現されている。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一方、雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "古来より人は、恵みをもたらす半面災厄をもたらす雨を、崇拝すると同時に畏怖していたと考えられる。端的な例として、ノアの洪水のみならず、世界の破壊や創造をもたらす洪水神話は世界各地に存在する。洪水神話は、雨の破壊性と創造性の2つの面を象徴していると考えられる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また、世界の多くの神話や伝承において雨は、至高神、天神、雷神の活動の結果としてもたらされると解釈されている。メソポタミア神話の天候神アダド、ヒッタイトの天候神テシュブ、フェニキアの嵐の神バアルは天候を支配し雨や洪水を司るとされ、神の怒りが洪水や干ばつの原因だとして恐れられた。ギリシア神話では、全能の神ゼウスが雷を武器として他の巨人や神々と戦う際に雨が降るとされた。インド神話では、王インドラが雷神でもあり、悪竜ブルトラを退治することで川に水を取り戻し、田畑を干ばつから救ったとされる。日本神話では、スサノオがヤマタノオロチを倒した際にその尾から出た天叢雲剣が雲を司る神器とされる。スサノオが高千穂峰に降りた天孫降臨の際には、雨と風がもたらされたと伝えられる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "さらに、天を父、大地を母とし、両者の交わりによって雨が降り大地に実りがもたらされるという、天父地母の信仰も広く見られる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "水辺に生息するカエルやヘビなどの動物はしばしば、水神や水神の化身や家来とされたり、雨とかかわりの深いものとされている。ヨーロッパでは、ある種の鳥や昆虫の活動を雨の前触れとする伝承が広く見られる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "雨と関わりの深い農耕や牧畜を行う民族・部族では「雨乞い」の習俗が存在する。雨への依存が大きいアフリカの農民や牧畜民では、雨乞いを行う雨乞師の社会的地位が高いという特徴がある。雨乞いの儀式には広く水や煙、鉦などが用いられるが、これは水が雨、煙が雲、鉦が雷鳴を象徴する類感呪術であると考えられている。一部では、特徴的な形状の自然物を「雨石」や「雨の葉」などの神聖な事物として祀る習俗もある。これに対し、長雨の終息を祈る「日乞い」の習俗も存在するが、雨乞いほど多くはない。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本では、雨はそれ自体神格化されず、水神や龍神が司るものとされる。そして、神の出現の際には、神威の現れとして雨が降るとされる。これに通じるものとして、七夕などの節日や神社の祭礼の日には雨が降るという伝承も各地に伝わっている。田植えを終える目安とされる半夏生の日に降る雨を半夏雨と言い、田の神が天に昇るときの雨だとされている。また、歴史的に水田稲作が盛んであることから農民は雨に強い関心を抱いており、正月や節分における天気占いや雨乞いの儀礼が各地で行われてきた。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "一方、大雨による洪水や山崩れを蛇身と化した水神のしわざだとする伝説や、激しい夕立や竜巻を龍神の昇天だとする伝承がある。そのほか、雨の夜には人魂や幽霊が現れやすいともされている。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "雨は文化的モチーフにもなっている。季節を感じさせるものとして四季それぞれの雨に対する感性が大きく異なり、古来より雨は多くの文学や芸術のモチーフに叙情的に描かれ、江戸時代の浮世絵版画においては歌川広重が交差する線の表現など多様な雨の表現を開拓している。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "雨により、人間の活動が制限されることもある。雨の日に外出するときには、傘やレインコートなどの雨具を持参し身に付ける。野外で予定されていた行事が、雨天で中止になったり変更される例はよく見られる。ただし、「少雨決行」のように弱い雨の場合には雨天に関わらず行事が行われる場合がある。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "なお、類人猿においてもこのようなことがあり、雨の日は活動が制約される。彼らは雨よけのために木の枝などを集めて傘や屋根のようなものを作ることが知られている。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "日本は雨が多く四季の変化に富み、雨に関する語彙、雨の異名が豊富であるとされる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "比較的新しい雨に関する言葉も生まれている。明確な定義はないものの、微妙に異なった意味で使用されている。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "レインガーデン(Rain gardens)とはバイオリテンション施設(bioretention facilities)とも呼ばれ、所謂ガーデン(庭園)というよりも、雨水が土壌に再吸収されるのを促進するために考案された様々な手法の1つである。また、汚染された雨水の流出を処理するために使用されることもある。レインガーデンは、不浸透面 (impervious) からの表面流出 (runoff) の流量、総量、汚染物質濃度の測定 (pollutant load) を減少させるように設計された外部空間である。都市部ならば屋根、歩車道、駐車場、小スペースの芝生エリアなどが活用される。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "日本でも国や企業でもグリーンインフラと捉え、多くの試みがなされており、大成建設では「地上に降った雨水を下水道に直接放流することなく一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持った植栽空間」、鹿島建設でも「レインガーデンは降雨時に雨水を一時的に貯留し、時間をかけて地下へ浸透させる透水型の植栽スペース」として開発している。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "レインガーデンは、植物と天然または人工の土壌培地を頼りに雨水を保持し、浸潤 (infiltration) のラグタイムを長くし、都市部の流出水が運ぶ汚染物質を浄化・ろ過している。そして降った雨を再利用して最適化する方法を提供することで、追加の灌漑施設の必要性を低減または回避する。これは都市部のヒートアイランドの効果として知られる、熱を吸収する不浸透面を多く含む都市部で特に有効な緩和策である。雨の多い都市部ならば、降雨量の多い地区でも洪水が少ない場所を作ることができる。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "レインガーデンの植栽には一般に野草、スゲ、イグサ科、シダ、低木、小木などの湿地の植生が活用される。これらの植物は、レインガーデンに流れ込む栄養分と水を取り込み、蒸散のプロセスを通じて地球の大気に水蒸気として放出させる。深い植物の根も、地面にろ過する追加チャネルを形成する。", "title": "文化・生活" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "金星では、表面を覆う厚い硫酸の雲から硫酸の雨が降っている。しかし、地表が400°Cを超える高温であるため、途中で蒸発してしまい地表には届かない。", "title": "地球以外の天体の雨" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "土星の衛星のタイタンでは、-170°Cの冷たい地表にメタンやエタンで構成される雨が降っており、川や湖のような地形も形成されていることが観測されている。", "title": "地球以外の天体の雨" } ]
雨とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。また、落下する水滴そのもの(雨粒)を指すこともある。大気に含まれる水蒸気が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が雲を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて重力により落下してくるもの。ただし、成長の過程で一旦凍結し氷晶を経て再び融解するものもある。地球上の水循環を構成する最大の淡水供給源で、生態系に多岐にわたり関与する他、農業や水力発電などを通して人類の生活にも関与している。
{{otheruses|気象現象の「雨」|その他の作品名などの「雨」}} {{Redirect|涙雨|[[A.F.R.O]]の配信限定シングル|涙雨 (A.F.R.Oの曲)|[[A.B.C-Z]]の楽曲|CONTINUE? (アルバム)}} [[File:22 Regen ubt.jpeg|thumb|300px|降雨]] [[File:Thirsk_MMB_01_A170_Sutton_Road.jpg|thumb|300px|車の窓ガラスに付いた雨粒]] '''雨'''(あめ、{{Lang-en|rain}})とは、[[地球の大気|大気]]から[[水]]の[[滴]]が[[落下]]する[[現象]]で、[[降水]]現象および[[天気]]の一種<ref>[[#NMB|岩槻]]、p216</ref><ref name="名前なし-1">[[#hpc|気象観測の手引き]]、p61</ref>。また、落下する水滴そのもの(雨粒)を指すこともある<ref name="GMEN-ame">[[#GMEN|グランド現代大百科事典]]、大田正次『雨』p412-413</ref>。大気に含まれる[[水蒸気]]が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が[[雲]]を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて[[重力]]により落下してくるもの。ただし、成長の過程で一旦[[凍結]]し[[氷晶]]を経て再び[[融解]]するものもある<ref>[[#WHC|荒木]]、p42-43</ref>。地球上の[[水循環]]を構成する最大の[[淡水]]供給源で、[[生態系]]に多岐にわたり関与する他、[[農業]]や[[水力発電]]などを通して[[人類]]の生活にも関与している<ref name="GMEN-ame"/><ref name="WEN-ame"/>。 == 雨の形成 == [[File:Watercyclejapanese.jpg|thumb|250px|水循環]] [[File:Here comes rain again.jpg|thumb|250px|アスファルト上に降り水紋を作る雨]] [[File:Starkregen.jpg|thumb|250px|移動する雨雲と雨筋]] === 水蒸気から雲へ === 地球の大気([[空気]])は、場所により量が異なるが、水蒸気を含んでいる。この水蒸気は、[[海洋]]や[[湖]]の表面、[[地面]]からの[[蒸発]]、植物からの[[蒸散]]などを通して供給されるものである<ref name="WHC-75-77">[[#WHC|荒木]]、p75-77</ref>。 空気中の水蒸気の量を表す身近な指標として[[相対湿度]]があり、通常は単に湿度と呼ぶ。相対湿度とは、空気がある[[温度]]([[気温]])であるときに含むことができる水蒸気の最大量([[飽和水蒸気量]])を100%とし、実際に含まれている量を最大量に対する[[割合]]で表したものである。例えば、気温25[[セルシウス度|℃]]・相対湿度50%の空気には、1[[立方メートル|m<sup>3</sup>]](=1000[[リットル]])あたり11.4[[グラム|g]]の水蒸気が含まれる<ref name="NMB-112">[[#NMB|岩槻]]、p112, p118-120</ref>。 空気の相対湿度が増して100%に達することを飽和という。空気は、何らかの要因によって冷やされることで飽和する。飽和した空気では、水蒸気が凝結して微小な水滴を形成する。これが'''[[雲]]'''である<ref name="WHC-75-77"/>。 先の例に挙げた、25℃・相対湿度50%の空気1m<sup>3</sup>を考える。この空気には11.4gの水蒸気が含まれる。これを10℃まで冷却すると、10℃の飽和水蒸気量は9.3g/m<sup>3</sup>なので、11.4 - 9.3 = 2.1g分が凝結し水滴となることが分かる<ref name="NMB-112"/>。 空気を冷却して飽和させるプロセスは、主に断熱膨張による冷却である。[[断熱膨張]]とは、上空へいくほど[[気圧]]が低いため、空気が持ち上げられて気圧が下がると膨張し、同時に冷却されることを言う。大気の[[対流]]、[[気団]]同士の衝突([[前線 (気象)|前線]])などの大気の大規模な運動、また気流が山にぶつかったりするような物理的障害によって起こる。このほかには、例えば暖かい空気が冷たい海面に触れたり、空気が[[熱放射]]として[[宇宙]]に向かって[[赤外線]]を放射したり(冬の晴れた夜間に起こる[[放射冷却]]としてよく知られている)、降雨時の雨粒が蒸発の際に[[潜熱]]を奪い周りの空気を冷やしたりするプロセスがある<ref>{{cite web|author=Robert Fovell|year=2004|url=http://www.atmos.ucla.edu/~fovell/AS3downloads/saturation.pdf|format=pdf|title=Approaches to saturation|publisher=University of California in Los Angelese|accessdate=2015-04-07}}</ref>。 === 凝結・暖かい雨 === 空気中での水滴の凝結は実際には、[[凝結核]]を介して行われる。球の形をする水滴には[[表面張力]]が働くが、水滴が小さいほど表面張力が強く[[核生成]]が安定しない。ある実験によれば、ほこりのない非常に清浄な空気中では、0℃のとき相対湿度が100%を超過([[過飽和]])してさらに430%まで達しなければ、水滴は自発的に形成されない。対して、通常の大気のように凝結核がある空気中では、[[大気エアロゾル粒子|エアロゾル粒子]]の働きにより凝結が助けられるため、相対湿度は概ね101%を上回ることがない。雲の凝結核として働く主なエアロゾル粒子には、燃焼ガスや火山ガスに由来する0.1-1[[マイクロメートル|µm]]の[[硫酸塩]]粒子、海のしぶきに由来する数µmの[[海塩粒子]]や、[[土壌]]由来の粒子、有機エアロゾルなどがある<ref name="NMB">[[#NMB|岩槻]]、p180-184</ref><ref>[[#GME|小倉]]、p78-88</ref><ref>[[#WHC|荒木]]、p116-128</ref>。 雲ができたての時の水滴([[雲粒]])の大きさは、半径1 - 20µm(0.001 - 0.02[[ミリメートル|mm]])程度である。これに対し、雨粒の平均的な大きさは半径1,000µm(1mm)である。なお、雲の中には1m<sup>3</sup>あたり1000万 - 数百億個の雲粒が存在する。半径1 - 10µm程度の初期の段階では、雲粒の表面にさらに水蒸気が凝結していくことにより通常でも数分ほどで10µm程度の大きさに成長する(凝結過程)。しかし、凝結による成長は粒径が大きくなるほど遅くなる。雲粒の平均を半径10µmだとして、半径100倍の1,000µmに成長するためには、[[体積]]にして100万倍、これを雲の中の平均的な水蒸気量の下で凝結だけで行うと約2週間かかると試算され、現実とはかけ離れている。実際には、10 - 30µm程度に達すると水滴同士の衝突により成長する(併合過程)。衝突併合による成長は粒径が大きいほど速いため、この段階では加速的に成長が進む。なお、海洋の積雲では、吸湿性の海塩粒子が豊富な事から大きな粒子がすぐに生成され、雲ができ始めてから20 - 30分程度で雨が降り出すことも珍しくない<ref>[[#GME|小倉]]、p81, p85-92</ref><ref>[[#WHC|荒木]]、p77-82, p128-129</ref><ref>[[#RSC|武田]]、p31-34</ref>。 上記のように、一貫して液体のまま雨として降るプロセスを「[[降水過程#暖かい雨|暖かい雨]]」という。これに対し、途中で凍結して氷晶になり、再び融解して降るプロセスを「[[降水過程#冷たい雨|冷たい雨]]」という。日本で降る雨は、およそ8割が「冷たい雨」のプロセスによるものだと言われている<ref>[[#GME|小倉]]、p87-88, 98</ref>。 {{Main|降水過程}} === 氷晶・冷たい雨 === 気温が0℃を下回る冷たい空気の環境下で起こる。単体氷晶の形成としては、水蒸気が凝結核を介して凝結した水滴がさらに[[氷晶核|凍結核]]の働きにより凍結し氷晶となるパターンと、水蒸気が[[昇華核]]を介して[[昇華 (化学)|昇華]]し直接氷晶を形成するパターン、さらに、氷晶同士の衝突などで生じる二次氷晶がある<ref name="WHC-132-148">[[#WHC|荒木]]、p132-148</ref>。 空気中では、気温が0℃を少し下回ったくらいでは水滴の凍結が始まらないことが多い。0℃以下で凍らない状態を[[過冷却]]と言う。凍結核は、水滴に衝突することによる衝撃や、水滴に溶け出すことによる化学的効果などを通して、概ね-30℃以上の環境下で凍結を促す。-30℃以下の環境では、昇華による氷晶の形成が起こる。また、-40℃以下の環境では、凍結核がない場合でも純水の均質[[核生成]]により水滴が凍結する<ref name="WHC-132-148"/>。 雲の中で一部の水滴が凍って氷晶になり始めると、周囲に存在する過冷却の水滴は蒸発して氷晶の表面に昇華するため、急速に成長する。例えば直径10µmの氷晶は、同じ大きさの水滴に比べて10倍の速度で成長する。氷晶は成長過程で分化し、結晶が集まった[[雪片]]になるものと、主に[[積乱雲]]の中で生じるが丸みを帯びた氷の粒([[霰]]や[[雹]])になるものに分かれる<ref name="WHC-132-148"/><ref name="GME-92-99">[[#GME|小倉]]、p92-99</ref>。 雪片や霰が落下する途中で、0℃より高い空気の層に達すると融け始め、完全に融けると液体の雨粒となる。融けきれない場合は[[雪]]となる。雪は落下途中で昇華(気化)しながら[[昇華熱]]を放出するため、2 - 3℃程度では雪の形状を保ったまま降ることがある。雪になるか雨になるか、あるいは雪と雨が混合する[[霙]]になるかは、気温と相対湿度により決まる<ref name="WHC-132-148"/><ref name="GME-92-99"/>([[雪#雪・霙・雨の境目、雪の目安]]も参照)。 またごく稀に、冷たい雨の成立する環境下で上空に0℃以上の[[逆転層]]が存在する時、落下中は液体([[過冷却]])であるものの着地時に凍結して氷の層([[雨氷]])を形成する、[[着氷性の雨]]というものも存在する<ref name="名前なし-1"/>。 === 雲から雨へ === [[File:Wfronts.png|thumb|300px|right|[[寒冷前線]](左)と[[温暖前線]](右)による雨の模式図]] なお、雲の段階で水滴が落ちてこないのは、落下速度が遅いからである。半径1 - 10µmのオーダーの水滴の[[終端速度]]は1[[センチメートル毎秒|cm/s]]に満たないが、雲の中ではこれを優に上回る速度の[[上昇気流]]が普通に存在するため、浮かんでいるように見える。一方、水滴が半径1mm(直径2mm)のときの終端速度は7m/sに達し、上昇気流を振り切って落下する。短い場合、特に海洋上で発生する積雲の場合、雲ができ始めてから最短15 - 20分程度で雨が降り出す場合がある。また熱帯地方の「暖かい雨」の場合も、30分 - 1時間程度で雨が降り出す。ただ、これらより長く滞留して降る雨も少なくない<ref name="名前なし-2">[[#GME|小倉]]、p86, 89</ref><ref>[[#WHC|荒木]]、p77-82, 129-131</ref>。 主に雨を降らせる雲は、[[雲形|十種雲形]]において[[層雲]]、[[乱層雲]]、[[積乱雲]]に分類される雲である。層雲は地上に近いところにでき、弱く変化の少ない雨を降らせることが多い。乱層雲は灰色を呈し風により変化に富む形状をする雲で、雨を降らせる代表的な雲である。積乱雲は上空高くもくもくと盛り上がる雲で、乱層雲よりも激しく変化の大きい雨を降らせ、しばしば雷や雹を伴う<ref>[[#WHC|荒木]]、p23-38</ref>。 雨雲の下端([[雲底]])の高さは実にさまざまだが平均的には約500m - 2,000m程度で、多くの雨粒はこの距離を落下してくる。周囲の空気が乾燥していると、雨は落下する途中で蒸発してしまう。このときには、雲の下に筋状の雨跡を見ることができ、これを降水条や[[尾流雲]]と呼ぶ<ref>[[#WHC|荒木]]、p103-104</ref>。 == 雨の降り方 == === 降水型 === 雨は、雲を生じさせる要因によりいくつかの[[降水型]]に分類できる<ref name="WEN-ame">[[#WEN|世界大百科事典]]、内田英治『雨』p475-476</ref>。 *対流性降雨 - [[大気不安定|不安定成層]]をした大気において生じる対流性の雲から降る雨<ref name="WEN-ame"/>。 *地形性降雨 - 山のような地形の起伏により気流が強制的に上昇させられて生じる雲から降る雨<ref name="WEN-ame"/>。 *前線性降雨 - [[温暖前線]]や[[寒冷前線]]の前線面で気流が上昇して生じる雲から降る雨。温暖前線は広い地域にしとしとと降り、寒冷前線は局地的に強く降る、という傾向がある<ref name="GMEN-ame"/>。 *低気圧性降雨(収束性降雨) - [[台風]]や[[低気圧]]のもとで下層の空気が集まり[[収束]]して生じる雲から降る雨<ref name="WEN-ame"/><ref name="GMEN-ame"/>。 === 世界の気候と雨 === [[File:Atmospheric circulation ja.png|thumb|right|220px|[[大気循環]]の模式図。降水量のピークは熱帯収束帯と高緯度低圧帯(亜寒帯低圧帯)にある。]] 世界では地域によって、雨の降り方は全くと言っていいほど異なる。極端な例では、1分間に30mmあるいは1日に1,500mmもの豪雨が降る地域がある一方、1年に1mmも雨が降らない地域も存在する<ref name="GMEN-ame"/><ref>[[#RSC|武田]]、p139-140, 142-153</ref>。おおまかな傾向として、高緯度地域よりも低緯度緯度の方が雨が多く、また大陸では内陸部よりも沿岸部の方が雨が多く、気温の高さや水の供給源からの近さが影響を与えている<ref>[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「雨量の分布」</ref>。しかし、緯度と雨量は単純に対応しているわけではない。地球を南北に見ると雨量の多い地域は2つあり、1つは暖気が上昇し続ける[[赤道]]付近の[[熱帯]]、もう1つは寒気と暖気がせめぎ合う中緯度の[[温帯]]・[[亜寒帯]]である<ref name="RSC-142">[[#RSC|武田]]、p142-153</ref>。 世界の年間降水量(雪を含む)を平均すると、陸上では約850mm、海洋では約1250mm、地表平均では約1100mmと推定されている。古い資料では世界平均で800mm程度とされていることがあるが、新しい調査で海洋のデータが判明したことで値は上方修正されている<ref>『キーワード 気象の事典』初版、p247、朝倉書店、2002年。ISBN 4-254-16115-8</ref><ref name="GMEN-ame"/>。 [[熱帯雨林気候]]を呈する赤道付近では、[[貿易風]]が収束する[[熱帯収束帯]]で積乱雲が発達しやすく、対流性の強い雨が毎日のように降る。[[温帯湿潤気候]]・[[亜寒帯湿潤気候]]を呈する中緯度では、[[亜寒帯低圧帯]]に沿い前線や低気圧の活動が活発であり、層状性の雲から広く雨や雪が降る一方、寒暖差が大きいため対流性の雨も降る。特に[[亜熱帯]]や[[温帯]]の地域では、1時間雨量の最大値は熱帯とほぼ変わらない<ref name="RSC-142"/>。 一方、熱帯と温帯に挟まれた[[乾燥帯]]の地域は[[亜熱帯高気圧]]に覆われ気流が発散し、雲ができにくいため雨が少ない。ただし、この緯度にあってもアジア・アフリカ・北米・南米の大陸東岸では海洋性の高気圧からの南寄り(北半球の場合。南半球では北寄り)の辺縁流や[[暖流]]の影響で湿潤となり、年間を通して雨が多い[[温暖湿潤気候]]となる<ref name="RSC-142"/>。 これらの気圧帯は[[季節]]変化に伴い南北に移動する。これにより、季節により雨量が著しく変化する地域がある。乾燥帯寄りの熱帯に位置する[[サバナ気候]]や[[熱帯モンスーン気候]]の地域では、[[雨季]]と[[乾季]]が明瞭に現れ、年間雨量の9割が雨季に集中する。一方、ヨーロッパの地中海沿いは夏に高圧帯、冬に低圧帯に入るため冬に雨が多く夏に乾燥する[[地中海性気候]]となる<ref name="RSC-142"/>。 {{Main2|降水量の極値|降水量}} === 災害 === 雨量は季節や[[年]]により変動し、少な過ぎても多過ぎても[[災害]]となりうる。大雨([[集中豪雨]])や長期間の雨による災害には、家屋の流失や田畑の冠水をもたらす[[洪水]]、[[地すべり]]、[[崖崩れ]]などがある。少雨による災害には、[[水不足]]や[[旱魃]]などがある<ref name="GMEN-ame"/>。 === 雨の強さ === 雨の強さは一定時間に降る雨の量('''雨量'''、うりょう)で表し、その深さを[[ミリメートル]](mm)で表現する。通常用いるのは1時間の雨量(時間雨量)だが、短時間の降雨の強さを表すために10分間雨量などを用いることもある。なお、雪や霰などの雨以外による降水も含めた場合は[[降水量]]と言う<ref name="WEN-ame"/>。 日本では、[[気象庁]]は予報や防災情報に次のような雨の強さの表現を用いる<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/amehyo.html 雨の強さと降り方] 平成12年8月作成、平成14年1月一部改正」気象庁、2015年4月18日閲覧</ref><ref name="jmayougo">「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kousui.html 天気予報等で用いる用語 降水]」</ref>{{refnest|配色は「気象庁ホームページにおける気象情報の配色に関する設定指針」(令和2年7月一部改訂)での解析雨量・降水短時間予報・レーダー・ナウキャストのものを使用した<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/info/colorguide/HPColorGuide_202007.pdf 気象庁ホームページにおける気象情報の配色に関する設定指針]」気象庁、2020年7月、2023年2月5日閲覧</ref>。|group="注"}}。また、「大雨」は災害の恐れのあるような雨を指して用いる<ref name="jmayougo"/>。 {| class="wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:93%" ! style="width:9em"|分類 !1時間雨量 !イメージ !周囲の様子や影響 |- !小雨 {{Color sample|#f2f2ff}} |数時間続いても1mm未満 | | |- !弱い雨 {{Color sample|#a0d2ff}} |3mm未満 | | |- !やや強い雨 {{Color sample|#0041ff}} |10mm以上 20mm未満 |ザーザーと降る。 |雨の音で話し[[声]]が良く聞き取れない。地面一面に[[水たまり]]ができる。 |- !強い雨 {{Color sample|#faf500}} |20mm以上 30mm未満 |土砂降り。 |[[傘]]をさしていても濡れる。車の[[ワイパー]]を速くしても前が見づらい。側溝や[[下水道]]、小さな[[川]]があふれ、小規模の[[崖崩れ]]が始まる。 |- !激しい雨 {{Color sample|#ff9900}} |30mm以上 50mm未満 |[[バケツ]]をひっくり返したように降る。 |道路が川のようになる。車のスピードが速いと[[ブレーキ]]が効かなくなる([[ハイドロプレーニング現象]])。山崩れ・崖崩れが起きやすくなり、危険な場所では避難の準備が必要。都市では下水管から雨水があふれる。 |- !非常に激しい雨 {{Color sample|#ff2800}} |50mm以上 80mm未満 |[[滝]]のように降る。ゴーゴーと降り続く |傘は全く役に立たなくなる。水しぶきであたり一面が白っぽくなり、視界が悪くなる。車の運転は危険とされる。多くの災害が発生する。都市部では[[地下室]]や地下街に雨水が流れ込む場合がある。[[マンホール]]から水が噴出する。[[土石流]]が起こりやすい。 |- !猛烈な雨 {{Color sample|#b40068}} |80mm以上 |息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感じる。 |雨による大規模な災害の発生するおそれが強く、厳重な警戒が必要。 |} == 雨の性質 == [[File:Morvich.jpg|thumb|虹]] [[File:Raindrops_sizes.svg|thumb|雨粒の形状]] {{Listen|filename=Rain.ogg|title=Rain|description=雨音のサンプル|format=[[Ogg]]}} === 雨粒 === 落下する雨の水滴を'''雨粒'''(あまつぶ)といい、''雨滴''(うてき)ともいう。雨水が軒などから落ちるのは''雨垂れ''(あまだれ)、雨だれが落ちて打ち当るところを''雨垂落''(あまだれおち)という。なお、雨によるものではないが、濃霧の時、森林の中で霧の微小な水滴が枝葉につき、大粒の水滴となって雨のように降り落ちる現象を''樹雨''(きさめ、きあめ)という。 雨粒の温度は、概ね気温より冷たい傾向にあるが、落下してくる大気の気温や湿度に左右される。地表においては、おおよそ[[湿球温度]]に近い温度になると考えられている<ref>[[#RSC|武田]]、p8-9</ref>。 雨粒は太陽光を反射分光し、[[虹]]を作ることがある。 === 雨粒の大きさと形状 === 雨粒の大きさは、通常は直径1[[ミリメートル|mm]]前後で、概ね直径0.2 - 6mmの範囲内にある。小さなものほど落下速度が小さく、特に直径0.5mm未満の雨粒が一様に降る状態の雨を'''[[霧雨]]'''(きりさめ)といい、ほとんど浮遊しているように見えるとされる。一方、直径6mmを超えるような大きな雨粒は分裂しやすく観測されにくい<ref name="WHC-77-82">[[#WHC|荒木]]、p77-82</ref><ref name="hpc-61">[[#hpc|気象観測の手引き]]、p61</ref>。 雨が降ってくるとき、雨粒の密度は、1m<sup>3</sup>あたり10個 - 1,000個程度である<ref>[[#WHC|荒木]]、p78-79</ref><ref>[[#RSC|武田]]、p24-25</ref>。雨粒の大きさと密度の関係は、「マーシャル・パルマーの粒径分布」として表せる(マーシャルおよびパルマー、1947年)。実際には全ての場合に適用できる訳ではないが、大きな粒ほど密度が低い、おおよそ[[指数関数]]的な分布になっている<ref>[[#RSC|武田]]、p14-15</ref>。 雨粒の落下速度は、雨粒の大きさにほぼ比例する。相当半径<ref group="注">大きな雨粒は変形するため、それを球形に換算した半径のこと。</ref>0.1mm(直径0.2mm)では[[終端速度]]70cm/s、0.5mm(直径1mm)では4m/s、1mm(直径2mm)では6.5m/sである。2mm(直径4mm)では9m/sに達するがこれより大きくなっても速度はほとんど変わらず、約9m/sが最大値である<ref name="WHC-77-82"/>。 雨粒が空気中を落下するとき、雨粒が半径1mm(直径2mm)より小さい場合は、[[表面張力]]のためにほぼ球形をしている。これより大きくなると、表面張力が小さくなる代わりに[[空気抵抗]]が増し、雨粒の底面が平らな[[饅頭|まんじゅう]]のような形状となるうえ、落下時に振動し始めて不安定となり、分裂しやすくなる。大きくなるほど壊れやすいため、実際に地上で観測されている雨粒は、最大でも直径8mm程度までである<ref name="名前なし-2"/><ref name="WHC-77-82"/>。 雨がしばしば涙滴形で描かれているのは、木の葉の先から露が落ちるときや、[[窓ガラス]]を伝う水滴が涙形をしているためである。[[1951年]]に[[北海道大学]]の[[孫野長治]]博士が空中を落下する雨粒の写真[[撮影]]に成功し、「まんじゅう形」を世界で初めて確認した。 === 雨水の化学成分 === 雨水は大部分が水であるが、微量の不純物を含んでいる。不純物の量は、雨水1リットル中に数mg - 数十mgのオーダーである。不純物の濃度は、雨の降り始めに濃い傾向があり、降り続くに従い、また雨量が増えるに従い薄くなっていく。また、季節や場所により大きく変動し、工業地帯では濃度が高い<ref name="GMEN-ame"/>。 不純物の成分は[[煤]]などの[[燃焼]]由来の[[有機物]]、[[硫黄酸化物]]([[硫酸]])、[[窒素酸化物]]、[[塩素]]、[[ナトリウム]]、[[土壌]]由来の成分などで、[[重金属]]類が含まれることもある<ref name="WEN-ame"/><ref name="CEN-154">[[#CEN|地球と宇宙の化学事典]]、p154</ref>。これらは雲が発生する際(レインアウト)、あるいは雨となって地上に落ちてくる際(ウォッシュアウト)、周囲の空気から取り込まれる。降水量の多い日本では、大気中から地表への沈着物質の6 - 7割が雨による湿性沈着だと考えられている<ref name="CEN-154"/>。 また核実験の後などには、雨水中に放射性物質が含まれることがある<ref name="WEN-ame"/>。 雨水中の水を構成する[[水素]]や[[酸素]]の[[放射性同位体|同位体比]]は、海水に比べるとやや軽い同位体の比率が高く、大気中の水蒸気と比べるとやや重い同位体の比率が高い。また、気温が低いほど、緯度が低いほど、標高が高いほど、海岸から離れるほど、それぞれ同位体比は低くなる<ref>[[#CEN|地球と宇宙の化学事典]]、p149</ref>。 雨自体に臭いはないが、雷により産生される[[オゾン]]、湿度が上昇することによって粘土から出される[[ペトリコール]]や、土壌中の[[細菌]]が出す[[ゲオスミン]]が雨が降るときの臭いの元だと言われている<ref> Daisy Yuhas. "[http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=storm-scents-smell-rain Storm Scents: You Can Smell Oncoming Rain]", ''Scientific American'', 2012-07-18, 2015年4月20日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://tabi-labo.com/308063/wtg-what-is-the-smell-of-rain-made-of |title=あの独特な「雨の匂い」の正体、知ってる? |website=TABI LABO編集部 |publisher=TABI LABO |language=ja |date=2023-11-02 |accessdate=2023-11-03}}</ref>。 通常でも雨水は大気中の[[二酸化炭素]]を吸収するため、pH([[水素イオン指数]])は6前後とやや[[酸性]]を示す。雨が硫黄酸化物や窒素酸化物などを大気中から取り込み、強い酸性を示すものもある。一方、土壌や燃焼に由来する[[アンモニウム]]や[[カルシウム]]成分を取り込み、pHが中和されることもある。[[中華人民共和国|中国]]東部では、石炭資源が豊富なためその利用により硫黄酸化物が大量に排出されると同時に土壌から[[黄砂]]などに由来するアンモニウムやカルシウムが排出され、汚染のポテンシャル自体が高い割に酸性雨の被害は顕著ではない。大気中の二酸化炭素濃度を考慮した平衡状態がpH5.6であることから、この値以下のものを[[酸性雨]]と呼ぶが、pH5.0以下とする定義もある<ref name="CEN-154"/>。 === 特異な雨 === [[ファイル:Singapourfish.jpg|thumb|魚の雨を描いた絵、シンガポール]] 通常とは違い、異物を含んだ雨、色の付いた雨が降ることがあり、俗に''怪雨''(かいう)と呼ばれる<ref name="WEN-ame"/>。 [[黄砂]]などの[[土壌]]由来の成分([[砂]]や[[泥]])や[[火山灰]]を含み、黄色や赤色を呈する雨が降ることがあり、''泥雨''(でいう)と呼ばれる。また赤色の場合は''{{ill2|血雨|en|Blood rain}}''(けつう)とも呼ばれる。工業地帯の煤煙を含んだ雨は''黒雨''(こくう)と呼ばれる<ref name="WEN-ame"/><ref name="NPEN-mezu">[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「珍しい雨」</ref>。 特殊な例として、雨と一緒に[[魚]]や[[カエル]]、[[穀物]]、木の実が降るような現象が世界各地で報告されており<ref name="NPEN-mezu"/>、"'''fa'''lls '''fro'''m '''t'''he '''skies'''"の[[アクロニム|頭字語]]で[[ファフロツキーズ]]と呼ばれる。 [[核攻撃]]や[[核実験]]が行われた場所では、[[放射性降下物]]を含む[[黒い雨]]が降った例がある。[[1945年]]8月6日、[[広島市への原子爆弾投下]]の後、高レベルの[[放射能]]を持つ黒い雨が降った。この雨は触れただけで[[放射線障害]]の原因となり、二次[[被曝]]を引き起こした。核爆発により放出される大量の熱やその後の市街地の火災が上昇気流を起こし、大量の粉塵が混じったことで黒色を呈した。[[長崎市への原子爆弾投下]]後においても、黒い雨が降っている<ref>「原爆の記録 [https://web.archive.org/web/20130629223921/http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/record/black.html 黒い灰・黒い雨]」、長崎市、2015年4月19日閲覧</ref>。 == 観測・報告 == [[ファイル:Hurricane Rita Lake Charles radar.gif|thumb|180px|[[ハリケーン・リタ]]のレーダー画像。赤いところほど雨が強い]] === 観測機器 === 雨の[[気象観測|観測]]は主に[[雨量計]]や[[気象レーダー]]により行われる。雨量計は[[標準化]]されており、日本では直径20cmの円筒形の器具が最も用いられている。雨量計は地点ごとの正確な雨量が分かるが、雨量は地域により大きく偏ることがあり雨量計だけでは雨の全体像を把握できない。一方、気象レーダーは面的に雨の強さの分布が分かるが、雨粒の大きさを測定できないため実際の雨量と大きな誤差が出てしまう。防災面では、両者の欠点を補うため雨量計やレーダーの情報を組み合わせて[[コンピューター]]処理した上で活用する<ref name="WEN-ame"/><ref name="RSC-16">[[#RSC|武田]]、p16-20</ref>。 日本の場合、防災を目的に[[気象庁]]の[[アメダス]]雨量計が国内約1,300か所に設置されている<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/amedas/kaisetsu.html 地域気象観測システム(アメダス)]」気象庁、2015年4月18日閲覧</ref>。また気象庁の気象レーダーは20か所に設置され、国内ほぼ全域をカバーしている<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/radar/kaisetsu.html 気象レーダー]」気象庁、2015年4月18日閲覧</ref>。このほか[[国土交通省]]、[[都道府県]]、[[鉄道会社]]、[[電力会社]]などが、独自の雨量計やレーダーなどを保有している<ref name="RSC-16"/>。 雨の観測の歴史は古く、最古のものとしては[[紀元前4世紀]]、[[マウリヤ朝]]時代の古代[[インド]]で行われた観測記録が[[カウティリヤ]]の著書に記されている。[[15世紀]]、[[李氏朝鮮]]では[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が銅製の計器を用いて観測を行わせたとされる。中国でも15世紀に観測が行われた。[[ヨーロッパ]]では、17世紀に雨量計が考案され、[[ロバート・フック]]が行った観測記録などが残っている。日本では、18世紀初めに[[徳川吉宗]]が雨量を観測させたとされるが、記録自体は残っていない<ref name="GMEN-ame"/><ref name="NPEN-kouu">[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「降雨の記録」</ref>。 連続した雨量の観測記録の中でもっとも古く信頼できるものは、[[イギリス]]・[[ロンドン]]郊外の[[キュー_(ロンドン)|キュー]]におけるもので、[[1697年]]からの記録がある。このデータは、[[気候変動]]を論じる上で、降水量の長期変動を示す資料として引用されている。また日本では、[[1875年]][[6月1日]]([[気象記念日]])に当時[[東京気象台]]で雨量の観測が始まった<ref name="NPEN-kouu"/>。 ==== 気象レーダー ==== 気象レーダーは、[[波長]]5 - 10cmの[[電波]]([[マイクロ波]])を放射して雨粒からの反射を検知し、半径およそ300 - 500kmの領域内の降雨分布を調べるものである。レーダー電波の反射強度は、雨粒の直径の6乗と大気中の個数(密度)の積で表される。同程度の雨量でも雨粒の大きさが異なるために誤差が生じることがあり、レーダーのみで正確な雨量は求められない<ref name="WEN-ame"/><ref name="RSC-16"/><ref name="NPEN-kansoku">[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「雨の観測と予報」</ref>。 なお、雪が融けて雨に変わりつつあるとき、電波が屈折してしまうためその高度のレーダー反射は強くなる。これをブライトバンドという。さらに、雨粒以外のもの、例えば鳥や昆虫などの小動物、空気の乱れなどで異常な観測結果がみられることがあり、このようなものをエンジェルエコーと呼ぶ<ref name="RSC-16"/>。 ==== 気象衛星 ==== 実用投入されている[[気象衛星]]は[[赤外線]]により雲の観測を行うもので、雨の直接観測は行っていない<ref name="NPEN-kansoku"/>。衛星による雨の直接観測が可能となったのは[[1990年代]]であり、[[熱帯降雨観測衛星]](TRMM)は熱帯の雨の観測を行った。その後、国際的な協力により複数の衛星による[[全球降水観測計画]](GPM)が展開されている。 === 報告 === 観測記録や通報では、直径0.5mm以上の水滴が降る場合を「雨」と呼び、直径0.5mm未満の水滴が一様に降るものは「霧雨」として区別する<ref name="hpc-61"/>。さらに、対流性の雲(積雲、積乱雲)から降る雨は「[[驟雨]]」、[[過冷却]]水滴の雨は「[[着氷性の雨]]」として区別する。 [[気象通報式#国際気象通報式|国際気象通報式]]<ref group="注">[[地上実況気象通報式|SYNOP]]・[[海上実況気象通報式|SHIP]]などに用いる96種天気。[[地上天気図#天気]]参照。</ref>では、観測時に降っているか止んでいるか、[[雪]]・[[霰]]・[[雹]]を伴うかどうか、雷を伴う否か、雨の3段階強度や雷の3段階強度などの組み合わせで区分される天気から選択して報告する。強度の3区分は、時間雨量3mm未満で弱い雨、3mm以上15mm未満で並の雨、15mm以上で強い雨。雨を表す基本の記号は[[File:Symbol rain 60.svg|22px]]<ref>「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/symbols.html 国際式の天気記号と記入方式]」、気象庁、2023年2月5日閲覧。</ref><ref>過去の気象データ検索 > 「[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/data/mdrr/man/tenki_kigou.html 天気欄と記事欄の記号の説明]」、気象庁、2023年2月5日閲覧。</ref>。 ラジオ[[気象通報]]などの[[地上天気図#日本式天気図|日本式天気図]]では、観測時に雨が降っている場合に天気を「雨」とする。[[天気記号]]は([[ファイル:Japanese Weather symbol (Rain).svg|18px|雨]])。ただし、時間雨量に換算して15mm以上の強度で雨が降る場合は「雨強し」([[ファイル:Japanese Weather symbol (Rain).svg|18px|雨]]<sub>ツ</sub>)、対流性の雲から降る雨(驟雨)は「[[にわか雨]]」に分類する。また、霰や雹、雷を伴う場合はそちらを優先して報告する<ref name="rika">理科年表FAQ > 山内豊太郎「[https://official.rikanenpyo.jp/posts/6653 天気の種類はいくつあるのですか。その記号も教えてください。]」、[[理科年表]]オフィシャルサイト(国立天文台、丸善出版)、2008年3月、2022年2月5日閲覧。</ref><ref>宮澤清冶『最新天気図と気象の本-天気図を見るとき読むとき書くとき』、国際地学協会、1991年。ISBN 978-4771810068</ref>。 [[航空気象]]の通報式<ref group="注">[[定時飛行場実況気象通報式|METAR]]や[[運航用飛行場予報気象通報式|TAF]]</ref>では「降水現象」の欄のRAが雨を表す略号。強度を表す付加記号、驟雨や着氷性の雨を表す略号もある<ref>「[https://www.jma-net.go.jp/naha-airport/metar_taf.html METAR報とTAF報の解説]」、那覇航空測候所、2023年2月5日閲覧。</ref>。 == 水循環と水資源 == [[File:Marennes 17 Bidons eaux pluviales La Cayenne 2014.jpg|thumb|200px|[[樋 (建築)|雨どい]]と雨水タンク、フランスにて]] 地球の[[水循環]]の中で、雲あるいは水蒸気として大気中に含まれる水は約13×10<sup>15</sup>kg、また年間の降水総量は重量にして約400×10<sup>15</sup>kg、高さにして平均800mmと見積もられており、約10日間で入れ替わることに相当する。なお、降水のうち陸地に降るのは4分の1で、残りの4分の3は海洋に降っている。ただし、陸域では降った雨のうち速やかに地表を流れるのは1割で、残りの9割は一旦地下に浸透して[[地下水]]に転じ、数か月から数百年をかけてゆっくりと湧出する<ref>[[#CEN|地球と宇宙の化学事典]]、p151, p155</ref>。 === 自然環境 === 生物にとって雨は、生存に必要不可欠な水、しかも飲用に適した[[淡水]]を供給するという重要な役割をもつ。地上に生息する生物の多くは、雨が集まってできた水辺、地面にしみ込んだ後湧き出す[[泉]]やそれらが合流してできる[[川]]から生存に必要な水を摂取する。人間においても同様であり、[[海水淡水化]]施設を利用している一部を除けば、世界の[[水道水]]はほぼ雨に由来する淡水を利用している。 また、雨が[[地形]]に及ぼす作用は大きい。雨水が地形を削る[[浸食]]作用や、[[土壌]]に浸透することで土質を変化させる作用がある。[[植生]]も雨に左右され、雨の多い地域では[[森林]]が発達し、農業生産が盛んである<ref>[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「雨と人間」</ref>。 また、例えば雨で地面が濡れると地中から[[ミミズ]]が這い出てきて、それを狙って[[鳥類|鳥]]が低空飛行するという風に、生物には雨が降るとき特有の生態も多々ある。 === 雨水の利用 === 人類は、[[工業用水]]や[[農業用水]]、[[飲料水]]の利用、[[水力発電]]など、産業や生活を通じて雨水を源とする水資源を利用している<ref name="GMEN-ame"/>。 [[水力発電]]は雨水や雪解け水に由来する水の[[重力]]落下によって生じる[[運動エネルギー]]を[[電気]]として利用するものであり、海水の[[蒸発]]・雲の生成(凝結・凝固)・降雨といった自然のプロセスを復元力とした[[再生可能エネルギー]]である。 また雨水の直接利用として、庭先などで雨水を貯留し利用する[[天水桶|雨水タンク]]などもある。 === 人工降雨 === 雲の凝結や雲粒の成長を促して雨を増やす科学的な[[人工降雨]]は、1940年代に初めて試みられた。[[ドライアイス]]や[[ヨウ化銀]]を氷晶核とする方法が広く用いられ、条件の整った雲であれば一定の成果が得られることが報告されている。しかし、[[1971年]]にアメリカが[[ベトナム戦争]]において雨を増加させて補給を寸断させる作戦を計画したことを契機に、悪影響の側面が議論されることとなった。[[1976年]]には[[環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約|環境改変兵器禁止条約]]が採択(1978年発効)され、敵対国への気象改変技術の使用は禁止されている<ref>[[#NPEN|日本大百科全書]]、礒野謙治「人工増雨」</ref>。 == 文化・生活 == [[ファイル:Hiroshige Atake sous une averse soudaine.jpg|200px|thumb|歌川広重『名所江戸百景』]] 雨の概念や雨に対する考え方は、その土地の気候によって様々なものがある。[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]など[[西洋]]の温暖な地域([[西岸海洋性気候]]の地域)では「雨」を{{要出典範囲|悲しいイメージで捉える傾向が強く|date=2022年12月}}、いくつかの[[童謡]]にもそれが表現されている。 一方、雨が少ない[[アフリカ]]や[[中東]]、[[中央アジア]]の乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される。 === 民俗 === 古来より人は、恵みをもたらす半面災厄をもたらす雨を、崇拝すると同時に畏怖していたと考えられる。端的な例として、[[ノアの洪水]]のみならず、世界の破壊や創造をもたらす[[洪水神話]]は世界各地に存在する。洪水神話は、雨の破壊性と創造性の2つの面を象徴していると考えられる<ref name="WEN-ameI">[[#WEN|世界大百科事典]]、飯島吉晴、吉田敦彦『雨』p475-476</ref><ref name="NPEN-minzoku">[[#NPEN|日本大百科全書]]、竹内利美「雨の民俗」、板橋作美「世界の伝承と俗信」</ref>。 また、世界の多くの神話や伝承において雨は、至高神、天神、雷神の活動の結果としてもたらされると解釈されている。[[メソポタミア]]神話の天候神[[アダド]]、[[ヒッタイト]]の天候神[[テシュブ]]、[[フェニキア]]の嵐の神[[バアル]]は天候を支配し雨や洪水を司るとされ、神の怒りが洪水や干ばつの原因だとして恐れられた。[[ギリシア神話]]では、全能の神[[ゼウス]]が雷を武器として他の巨人や神々と戦う際に雨が降るとされた。[[インド神話]]では、王[[インドラ]]が雷神でもあり、悪竜ブルトラを退治することで川に水を取り戻し、田畑を干ばつから救ったとされる。[[日本神話]]では、[[スサノオ]]が[[ヤマタノオロチ]]を倒した際にその尾から出た[[天叢雲剣]]が雲を司る[[三種の神器|神器]]とされる。スサノオが[[高千穂峰]]に降りた[[天孫降臨]]の際には、雨と風がもたらされたと伝えられる<ref name="WEN-ameI"/><ref name="NPEN-minzoku"/>。 さらに、天を[[天空神|父]]、大地を[[地母神|母]]とし、両者の交わりによって雨が降り大地に実りがもたらされるという、天父地母の信仰も広く見られる<ref name="WEN-ameI"/>。 水辺に生息する[[カエル]]や[[ヘビ]]などの動物はしばしば、水神や水神の化身や家来とされたり、雨とかかわりの深いものとされている。ヨーロッパでは、ある種の[[鳥]]や[[昆虫]]の活動を雨の前触れとする伝承が広く見られる<ref name="NPEN-minzoku"/>。 雨と関わりの深い農耕や[[牧畜]]を行う民族・部族では「[[雨乞い]]」の習俗が存在する。雨への依存が大きいアフリカの農民や牧畜民では、雨乞いを行う雨乞師の社会的地位が高いという特徴がある。雨乞いの儀式には広く水や煙、鉦などが用いられるが、これは水が雨、煙が雲、鉦が[[雷鳴]]を象徴する[[類感呪術]]であると考えられている。一部では、特徴的な形状の自然物を「雨石」や「雨の葉」などの神聖な事物として祀る習俗もある<ref name="NPEN-minzoku"/><ref name="WEN-ameI"/>。これに対し、長雨の終息を祈る「日乞い」の習俗も存在するが、雨乞いほど多くはない<ref name="GMEN-ame"/>。 日本では、雨はそれ自体神格化されず、[[水神]]や龍神が司るものとされる。そして、神の出現の際には、神威の現れとして雨が降るとされる。これに通じるものとして、[[七夕]]などの[[節日]]や[[神社]]の[[祭礼]]の日には雨が降るという伝承も各地に伝わっている。[[田植え]]を終える目安とされる[[半夏生]]の日に降る雨を半夏雨と言い、[[田の神]]が天に昇るときの雨だとされている。また、歴史的に[[水田稲作]]が盛んであることから農民は雨に強い関心を抱いており、[[正月]]や[[節分]]における天気占いや雨乞いの儀礼が各地で行われてきた<ref name="GMEN-ame"/><ref name="NPEN-minzoku"/><ref name="WEN-ameI"/>。 一方、大雨による洪水や山崩れを蛇身と化した水神のしわざだとする伝説や、激しい[[夕立]]や竜巻を龍神の昇天だとする伝承がある。そのほか、雨の夜には[[人魂]]や[[幽霊]]が現れやすいともされている<ref name="WEN-ameI"/>。 雨は文化的モチーフにもなっている。[[季節]]を感じさせるものとして[[四季]]それぞれの雨に対する感性が大きく異なり、古来より雨は多くの文学や芸術のモチーフに叙情的に描かれ、江戸時代の浮世絵版画においては[[歌川広重]]が交差する線の表現など多様な雨の表現を開拓している。 === 雨による活動の制約 === 雨により、人間の活動が制限されることもある。雨の日に外出するときには、[[傘]]や[[レインコート]]などの[[雨具]]を持参し身に付ける。野外で予定されていた行事が、雨天で中止になったり変更される例はよく見られる。ただし、「少雨決行」のように弱い雨の場合には雨天に関わらず行事が行われる場合がある。 なお、[[類人猿]]においてもこのようなことがあり、雨の日は活動が制約される。彼らは雨よけのために木の枝などを集めて[[傘]]や[[屋根]]のようなものを作ることが知られている。 === 雨の表現 === {{出典の明記|date=2011-11|section=1}} 日本は雨が多く四季の変化に富み、雨に関する語彙、雨の異名が豊富であるとされる<ref name="WEN-ameI"/><ref name="NPEN-minzoku"/>。 ; 雨の強さや降り方による表現 {| class="wikitable" |- ![[霧雨]] |霧のように細かい雨。雨粒の大きさが0.5mm未満の雨(気象庁の定義)。 |- !小糠雨(糠雨) |糠のように非常に細かい雨粒が、音を立てずに静かに降るさま。 |- ![[細雨]] |あまり強くない雨がしとしとと降り続くさま。 |- !小雨 |弱い雨。あまり粒の大きくない雨が、それほど長くない時間降って止む雨。 |- ![[微雨]] |急に降り出すが、あまり強くなくすぐに止み、濡れてもすぐ乾く程度の雨。 |- ![[時雨]](しぐれ) |あまり強くないが降ったり止んだりする雨。<br>特に晩秋から初冬にかけての、晴れていたかと思うとサアーッと降り、傘をさす間もなく青空が戻ってくるような通り雨を指す。 |- ![[俄雨]](にわかあめ) |降りだしてすぐに止む雨。降ったり止んだり、強さの変化が激しい雨。夏に降る俄雨は夕立、狐の嫁入り、天照雨などと呼ばれる。<br>''肘かさ雨''、[[驟雨]](しゅうう)と同義。 |- ![[地雨]] |あまり強くない雨が広範囲に一様に降るさま。俄雨に対し、しとしと降り続く雨で、勢いが急に変化するのは稀。 |- !村雨 |降りだしてすぐに止む雨。群雨、業雨などとも書く。地方によっては「鈍雨」(とんぺい)」とも呼ばれる。 |- ![[村時雨]](むらしぐれ) |ひとしきり強く降っては通り過ぎて行く雨。降り方によって''片時雨''、''横時雨''、時間によって''朝時雨''、''夕時雨''、''小夜時雨''と分ける。 |- !片時雨 |ひとところに降る村時雨。地雨性の村時雨。 |- !横時雨 |横殴りに降る村時雨。 |- !涙雨 |涙のようにほんの少しだけ降る雨。また、悲しいときや嬉しいときなど、感情の変化を映した雨。 |- ![[天気雨]] |晴れているにもかかわらず降る雨。 |- ![[通り雨]] |雨雲がすぐ通り過ぎてしまい、降りだしてすぐに止む雨。 |- ![[スコール]] |短時間に猛烈な雨が降るさま。熱帯地方で雨を伴ってやってくる突然の強風に由来する。 |- ![[大雨]] |大量に降る雨(一般的な認識)。大雨注意報基準以上の雨(気象庁の定義)。 |- ![[豪雨]] |大量に降る激しい雨(一般的な認識)。著しい災害が発生した顕著な大雨現象(気象庁の定義)。 |- ![[雷雨]] |雷を伴った激しい雨。普通は短時間に激しく雨が降る場合が多い。 |- ![[風雨]] |風を伴った激しい雨。 |- !長雨 |数日以上降り続くような、まとまった雨。 |} ; 季節による表現 {| class="wikitable" |- !春雨(はるさめ) |春にあまり強くなくしとしとと降る雨。<br>地雨性のしっとりとした菜種梅雨の頃の雨を指す。桜の花が咲くころは、花を散らせるので「花散らしの雨」とも呼ばれる。 |- ![[菜種梅雨]] |3月から4月ごろにみられる、しとしとと降り続く雨。<br>[[菜の花]]が咲くころの雨。特に三月下旬かる四月にかけて、関東から西の地方で天気がぐずつく時期を指す。 |- !五月雨(さみだれ) |かつては梅雨の事を指した。現在は5月に降るまとまった雨を指すこともある。<br>また、五月雨に対して、この梅雨の晴れ間を''五月晴れ''というが、5月の爽やかな晴天をさすことがある。 |- !走り梅雨 |梅雨入り前の、雨続きの天候。 |- ![[梅雨]](ばいう、つゆ) |地域差があるが5月 - 7月にかけて、しとしとと長く降り続く雨。 |- !暴れ梅雨 |梅雨の終盤に降る、まとまった激しい雨。「荒梅雨」とも言う。 |- !送り梅雨 |梅雨の終わりに降る、雷を伴うような雨。 |- !帰り梅雨 |梅雨明けと思っていたところに再びやってくる長雨。「返り梅雨」、「戻り梅雨」ともいう。 |- !緑雨 |[[新緑]]のころに降る雨。翠雨の一種。 |- !麦雨 |麦の熟する頃に降る雨。翠雨の一種。 |- ![[夕立]] |夏によく見られる突然の雷雨。あるいは単に夏の俄雨を指す。午後、特に夕方前後に降ることが多い。白雨(はくう)ともいう。 |- !狐の嫁入り |夕立の、特に日が照っているのに降る雨をさす。天照雨(さばえ)などともいう。 |- ![[秋雨]](あきさめ) |秋に降る、しとしとと降る雨。特に9月から10月にかけての長雨をさす。秋雨前線によって起こり、台風シーズンの特徴。秋霖(しゅうりん)。 |- !秋時雨 |秋の終わりに降る時雨。 |- !秋入梅 |秋雨。秋雨の入り。 |- !液雨 |冬の初めの時雨。[[立冬]]から[[小雪]]のころの時雨。 |- !寒九の雨 |寒に入って(小寒を寒の入りという)9日目の雨。豊年の兆しとされる。 |- !寒の雨(かんのあめ) |寒の内(大寒から節分まで)に降る雨。 |- ![[山茶花梅雨]] |11月から12月ごろにみられる、しとしとと降り続く雨。[[山茶花]]が咲くころの雨。 |- ![[氷雨]] |冬に降る冷たい雨。[[雹]]や[[霰]]のことを指すこともある。 |- !淫雨 |梅雨のようにしとしとと長く降り続き、なかなか止まない雨。 |} ;その他の区分からの表現 {| class="wikitable" !私雨(わたくしあめ) |ある限られた土地だけに降る雨。転じて個人の利得の意もある。 |- !外待雨(ほまちあめ) |局地的な、限られた人だけを潤す雨。 |- !翠雨(すいう) |青葉に降りかかる雨。時期によって''緑雨''、''麦雨''、草木を潤す雨という視点で''甘雨''、''瑞雨''と区別する。 |- !甘雨(かんう) |草木を潤す雨。翠雨の一種。 |- !瑞雨(ずいう) |穀物の成長を助ける雨。翠雨の一種。 |- ![[慈雨]] |恵みの雨。少雨や干ばつのときに大地を潤す待望の雨。 |} 比較的新しい雨に関する言葉も生まれている。明確な定義はないものの、微妙に異なった意味で使用されている。 {| class="wikitable" ![[集中豪雨]] |限られた場所に集中的に降る激しい雨(一般的な認識)。警報基準を超えるような局地的な大雨(気象庁の定義)。局地的豪雨。局地豪雨。 |- !ゲリラ雨・[[ゲリラ豪雨]] |限られた場所に短い時間集中的に降る、突然の激しい雨。 |- !短時間強雨 |短い時間に集中的に降る強い雨。 |- !ゲリラ雷雨 |雷を伴ったゲリラ雨・ゲリラ豪雨。 |} === レインガーデン === [[File:Bioretention cell rain garden US winter.jpg|thumb|冬場のレインガーデン]] レインガーデン(Rain gardens)とはバイオリテンション施設(bioretention facilities)とも呼ばれ、所謂ガーデン([[庭園]])というよりも、[[雨水]]が土壌に再吸収されるのを促進するために考案された様々な手法の1つである。また、汚染された雨水の流出を処理するために使用されることもある。レインガーデンは、[[不浸透面]]{{enlink|impervious}}からの[[表面流出]]{{enlink|runoff}}の流量、総量、汚染物質濃度の測定{{enlink|pollutant load}}を減少させるように[[設計]]された[[外部空間]]である。[[都市部]]ならば[[屋根]]、[[歩車道]]、[[駐車場]]、小スペースの[[芝|芝生]]エリアなどが活用される<ref name=":1">{{cite web|url=https://www.epa.gov/soakuptherain/rain-gardens|title=Rain Gardens||date=2016-04-28|website=Soak Up the Rain|publisher=EPA|accessdate=2023-04-07}}</ref>。 {{main|:en:Rain_garden}} 日本でも国や企業でも[[グリーンインフラ]]と捉え[https://www.mlit.go.jp/common/001286039.pdf][https://www.mlit.go.jp/common/001259697.pdf]、多くの試みがなされており、[[大成建設]]では「地上に降った雨水を下水道に直接放流することなく一時的に貯留し、ゆっくり地中に浸透させる構造を持った植栽空間<ref>[https://www.taisei.co.jp/about_us/wn/2022/220907_8941.html#:~:text=%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%EF%BC%9A,%E3%81%AE%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%81%8C%E6%9C%9F%E5%BE%85%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%80%82 雨水浸透・貯留機能の高い植栽基盤を用いた外構創出技術]</ref>」、[[鹿島建設]]でも「レインガーデンは降雨時に雨水を一時的に貯留し、時間をかけて地下へ浸透させる透水型の植栽スペース<ref>[https://www.kajima.co.jp/tech/green_infra/gi_technology/rain_garden/index.html レインガーデン(雨水浸透緑地帯) | グリーンインフラ]</ref>」として開発している。 レインガーデンは、植物と天然または人工の土壌培地を頼りに雨水を保持し、[[浸潤]]{{enlink|infiltration}}のラグタイムを長くし、都市部の流出水が運ぶ汚染物質を[[浄化]]・[[ろ過]]している。そして降った雨を再利用して最適化する方法を提供することで、追加の[[灌漑]]施設の必要性を低減または回避する。これは都市部の[[ヒートアイランド]]の効果として知られる、熱を吸収する不浸透面を多く含む都市部で特に有効な緩和策である<ref name=":2">{{Cite book|title=Handbook of water sensitive planning and design|last=France, R. L. (Robert Lawrence)|date=2002|publisher=Lewis Publishers|isbn=978-1-4200-3242-0|oclc=181092577}}</ref>。雨の多い都市部ならば、降雨量の多い地区でも洪水が少ない場所を作ることができる。 レインガーデンの植栽には一般に[[野草]]、[[スゲ]]、[[イグサ科]]、[[シダ]]、[[低木]]、小木などの[[湿地]]の植生が活用される。これらの植物は、レインガーデンに流れ込む栄養分と水を取り込み、[[蒸散]]のプロセスを通じて[[地球]]の[[大気]]に[[水蒸気]]として放出させる<ref>{{Cite web|url=https://www.usgs.gov/special-topic/water-science-school/science/evapotranspiration-and-water-cycle?qt-science_center_objects=0#qt-science_center_objects|title=Evapotranspiration and the Water Cycle|website=www.usgs.gov|access-date=2019-08-16}}</ref>。深い植物の根も、地面にろ過する追加チャネルを形成する。 == 地球以外の天体の雨 == [[金星]]では、表面を覆う厚い[[硫酸]]の雲から硫酸の雨が降っている。しかし、地表が400℃を超える高温であるため、途中で蒸発してしまい地表には届かない<ref>「[https://web.archive.org/web/20070513185722/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/venus.html 金星]」、宇宙航空研究開発機構 宇宙情報センター、2015年4月20日閲覧</ref>。 [[土星]]の[[衛星]]の[[タイタン (衛星)|タイタン]]では、-170℃の冷たい地表に[[メタン]]や[[エタン]]で構成される雨が降っており、川や湖のような地形も形成されていることが観測されている<ref>「[https://web.archive.org/web/20091010102944/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/saturn_satellite.html 土星の衛星]」、宇宙航空研究開発機構 宇宙情報センター、2015年4月20日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == * {{Anchors|GME}}小倉義光 『一般気象学』 [[東京大学出版会]]、1999年、第2版。ISBN 4-13-062706-6 * {{Anchors|NMB}}岩槻秀明 『最新気象学のキホンがよ〜くわかる本』第2版、秀和システム、2012年 ISBN 978-4-7980-3511-6 * {{Anchors|WHC}}荒木健太郎 『雲の中では何が起こっているのか』第2版、ベレ出版、2014年 ISBN 978-4-86064-397-3 * {{Anchors|hpc}}気象庁「[https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku_guide/hpc.html 気象観測の手引き]」、平成10年(1998年)9月 * {{Anchors|WEN}}『世界大百科事典』2007年改訂新版、1巻、平凡社、2007年9月 ISBN 978-4-582-03400-4 * {{Anchors|GMEN}}『グランド現代大百科事典』1990年改訂新版、1巻、学習研究社、1990年5月 ISBN 4-05-150076-4 * {{Anchors|NPEN}}『日本大百科全書(ニッポニカ)』の項目「[https://kotobank.jp/word/%E9%9B%A8-27399 雨]」、小学館([[コトバンク]]、2015年4月17日閲覧) * {{Anchors|CEN}}日本地球化学会・編『地球と宇宙の化学事典』初版、朝倉書店、2012年 ISBN 978-4-254-16057-4 * {{Anchors|RSC}}武田喬男『雨の科学 -雲をつかむ話』、成山堂書店、2005年 ISBN 4-425-55141-9 == 関連項目 == {{sisterlinks|wikiquote=雨|commons=Rain|commonscat=Rain}} * [[気象]] * [[降水確率]] * [[雪]] * [[雲]] * [[雨具]] * [[酸性雨]] * [[流星雨]] * [[降雨減衰]] * [[雨神一覧]] * {{仮リンク|降水栄養性|en|Ombrotrophic}} == 外部リンク == * [https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/kousui.html 予報用語・降水] - [[気象庁]] * {{Kotobank}} {{日本式天気記号}} {{気象現象}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あめ}} [[Category:雨|*]]
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東海北陸自動車道
東海北陸自動車道(とうかいほくりくじどうしゃどう、英語: TOKAI-HOKURIKU EXPWY)は、愛知県一宮市から岐阜県を経由して富山県砺波市へ至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路(高速自動車国道)である。略称は東海北陸道(とうかいほくりくどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、能越自動車道と共に「E41」が割り振られているほか、白鳥インターチェンジ (IC) - 飛驒清見IC間は中部縦貫自動車道と重複するため、合わせて「E67」も付番されている。 国土開発幹線自動車道の予定路線は以下のとおりとされている。 下記の通り高速自動車国道の路線とされている。 東海と北陸の両地域の安定した交通の確保と交流の活性化を目的として東海北陸自動車道が整備された。一宮ジャンクション (JCT) - 小矢部砺波JCTの総事業費は、約1兆2190億円である。道路カラーは岐阜の山間部を縦断するイメージから茶(■)。 2000年(平成12年)頃は当時の岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)から富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)にかけては豪雪地帯を通過するため、通行止めとなって本来の利用目的である時間短縮などのメリットがあまりないと考えられていた。しかし全線開通により、一宮JCT - 小矢部砺波JCT区間が北陸自動車道経由に比べ約65 km(キロメートル)の距離短縮となった。これは時間にすると普通車で15分ほど早くなり、所要時間は約3時間である。さらに美濃IC - 白鳥IC間の4車線化によって渋滞が緩和され所要時間が大幅に短縮された。 道路の整備に伴い、北陸方面には東海地方からの、飛騨地方には西日本からの観光客が増加し、道路交通センサスによれば、全線開通以前の2005年(平成17年)と全通後の2010年(平成22年)の平日24時間交通量での比較で、特に白川郷IC - 五箇山ICで2,033台から4,626台と、2倍以上交通が増加した。 当自動車道の最高地点の標高は1,085 m(メートル)であり、松ノ木峠パーキングエリア付近にある。この地点は日本の高速自動車国道で最も標高が高い。また、道路構造令での規格は第1種第3級で、設計速度は80 km/hである。 名古屋市を核とする東海地方と北陸地方との連携の必要性は早くから認識されていた。戦前には経済学者で岐阜大学教授の小出保治や名古屋土木出張所長の田淵寿郎らが太平洋沿岸と日本海沿岸を結び、両地域の都市が相互に結ばれ補完し合う事を提言している。 戦後にいち早く経済的な復興を果たした中京圏では、伏木富山港を名古屋の補完港として活用するため広域的なネットワークを求める声が上がり、1953年(昭和28年)には現在の国道41号が国道155号名古屋富山線として制定されたものの、富山県など北陸側では生活道路の整備が十分ではなかったため冬期でも安全に往来が可能な一般道路の整備を求める声が強く、両地域ではまだ広域的な経済圏の構築に対して温度差があった。 東海北陸自動車道の具体的な計画・整備に向けた発端となったのは、1960年(昭和35年)に建設省(現・国土交通省)が実施した全国の高速道路ネットワークの整備に向けた「自動車道路網整備のための調査」であった。この中で全国の都市および農村から2時間以内にアクセス可能となる幹線道路の計画が構想され、その一環として東海地方と北陸地方を繋ぐ高速道路が立案された。 中部地方建設局(現・中部地方整備局)では1961年頃より図上選定調査を開始し、東海北陸自動車道の原形となる中部横断高速自動車道路のルートを策定。しかし、道路の起点を名古屋市とする事に異論はなかったものの、終点を北陸のどこにするかで福井県・石川県・富山県(富山県内では更に富山市と高岡市)間の誘致合戦が繰り広げられ、同年5月17日の三県申し合わせで“3県に等しく利益がもたらされる事”を条件に、富山県に落ち着いた経緯がある。それに伴い、ルート案には当時一級国道として東海・北陸を結んでいた国道41号沿いではなく、福井県寄りに並行する二級国道の国道156号沿いが選ばれた。この理由については前述の3県受益の観点から福井県・石川県からの利便性向上を図るほか、当時選定にあたった中部建設局企画室の担当者によれば、国道41号は既に改良工事が進んでいた事、同道路沿いは飛騨川や急峻な山肌など地形的な制約があり建設費がかさむと予想された事、そして当時工事が最盛期を迎えていた中央自動車道との距離が近過ぎた事を挙げている。ただし高速道路ナンバリングが採用された際には「E41」が採用されている。 この頃には、1957年(昭和32年)の国土開発縦貫自動車道建設法公布に端を発して全国各地から高速道路を求める機運が高まったほか、北陸地域においては1963年1月の38豪雪の教訓から、災害時における救援物資の輸送路として他県とのアクセスの重要性が認識され始めた頃であり、そうした流れを受け同年6月には中部横断高速自動車道路として「愛知県一宮市 - 富山県高岡市」というルート概要が建設省より正式に発表された。 1963年(昭和38年)7月、会長を松野幸泰岐阜県知事、メンバーを中部地域6県1市とする「中部横断高速自動車道路の建設促進同盟会」が設立されると、岐阜県選出で建設相も務めた野田卯一の支援を受け、岐阜県企画課の担当者が同盟会事務局として手作りの説明資料を片手に議員会館を奔走した。自民党政調審議会では同盟会の幹部が見守る中、東海・北陸間自動車道よりも東北道・中国道など日本列島の骨格をなす道路(いわゆる縦貫5道)の優先整備を目指す建設省の尾之内由紀夫道路局長に対し、三木武夫政調会長が叱咤するシーンもあったという。中部圏全域を一体として内陸高速輸送網整備の進言する国連のワインズマン調査団の中間報告もあり、1964年(昭和39年)6月に自民・社会・民社3党の19議員により東海北陸自動車道建設法案が議員立法で通常国会に提出され、同月中に可決・成立し翌7月1日に公布された。この時のルートは「愛知県一宮市 - 岐阜県関市 - 同県大野郡荘川村(現・高山市)付近 - 富山県砺波市」と定めており、総延長約170 km、事業費約2,000億円を見込んでいた。なお、この法案で初めて“東海北陸自動車道”という名称が用いられている。 建設法が成立したものの、沿線人口の少なさや山岳道路ゆえ建設コストが膨大になると見込まれた事から基本計画・整備計画の決定や事業化は先送りされ、最初の基本計画が告示されたのは法案成立から6年後の1970年(昭和45年)である。富山県選出で1969年(昭和44年)に初当選した元衆議院議員の綿貫民輔によれば、建設省に道路整備の陳情に行った際には「既に国道が2つもあるのに高速道路が要るのか」と当時の事務次官からは相手にしてもらえなかったという。 結局、根本龍太郎建設相の方針により、人口が多く一定の利用者数が見込まれる起点部と終点部から建設が進められる事となり、1970年と翌1971年(昭和46年)に南北両端部の基本計画が決定し、1972年(昭和47年)には一宮JCT - 美濃IC間(約33 km)が高速自動車国道法第5条に基づく審議会および整備計画決定を経て、建設相から日本道路公団に対して施工命令(現在の建設許可に相当)が発せられた。 伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ日本横断運河構想の推進派であった大野伴睦の死去後、1970年(昭和45年)の中部圏開発整備本部の調査報告書において事実上の運河事業中止宣言とともに代替案として、ルートこそ大幅に異なるものの中部圏における南北の交通網整備が提言され、それが一因となって1970年代以降は東海北陸道の各事業区間で計画決定や着工が相次いだ。 しかしながら沿線では道路計画や土地収用に対する激しい抵抗もあり、特に岐阜市東部の芥見地域の住民説明会では当時衆院議員となっていた松野幸泰元岐阜県知事が「ルートを変える努力をする」と公言してしまった事から、道路公団は1973年(昭和48年)11月に「美濃以南路線問題専門委員会」を立ち上げ、従来計画の2.5 km東にずらした現在のルートに変更を余儀なくされた。同様の交渉難航によるルート変更の事例は愛知県でもあったという。また山間の岐阜県郡上郡大和町域などでは、道路整備そのものには賛同するものの買収価格に関して激しい駆け引きがあり、一部地権者が受け取った金額は相場の3倍にもなった。 このように事業用地の確保は一筋縄ではいかず、1976年(昭和51年)7月1日に道路公団名古屋建設局と岐阜県との間で用地買収に関する委託協定が結ばれ設立当初岐阜県庁の9人体制で始まった岐阜県高速道路事務所は、最盛期には21人まで増強する必要に迫られた。実際に、ある地権者との交渉は140回にも及んだという。 1986年(昭和61年)に東海北陸道初の開通区間となる岐阜各務原IC - 美濃IC(約19 km)が供用を開始した翌1987年(昭和62年)には、全国の均等な発展を目的に“多極分散型国土の形成”を掲げた第四次全国総合開発計画のもと国土開発幹線自動車道建設法が改正され、その中で北陸(とりわけ福井県)と首都圏との最短ルートの要となる中部縦貫自動車道の計画が具体化し、東海北陸道と飛驒地域で連結する運びとなった。これに伴い、従来高山市から20 km以上離れた国道156号沿いに計画されていた東海北陸道に関し、高山市や高山商工会議所、飛騨高山観光協会では1986年5月以降、高山市とのアクセス利便性を考慮した路線計画の策定を関係機関や国会議員に陳情。また建設省で道路局長や技監を歴任し後に参議院議員となった沓掛哲男によれば、福井県選出の重鎮福田一が御母衣ダムの南側で両高速道路を接続する構想を持ち出したが、富山・石川方面から東海北陸道・中部縦貫道を使って松本方面に抜ける際にV字の大回りを余儀なくされる事から、東海北陸道そのものを荘川村から東に迂回させ、高山市西部で中部縦貫道(松本方面)と接続した後に西向きに進路を変えて白川村付近で再び国道156号に沿いに復帰する現在のルートに変更されたという。そうして1988年(昭和63年)には環境影響評価準備書に新ルートが盛り込まれた。当時の試算では従来計画に比べ距離が約9 km延長するものの、工費は変わらないと試算されていた。 また、インターチェンジについても計画変更があり、当初構想にはなかった美並IC・ぎふ大和IC・高鷲ICの3インターチェンジが地域懇願により追加されている。うち美並ICについては当時の福田赳夫首相に直談判の末1978年(昭和53年)の整備計画で盛り込まれ、ぎふ大和IC・高鷲ICの両インターチェンジについては開発インターチェンジ制度を利用して1989年(平成元年)に設置が許可されたものである。 東海北陸自動車道は総延長約185 kmのうちトンネルの延長合計が約70 km、また橋梁の数も上下線合わせて386本を数え、その中でも建設が後回しにされてきた岐阜県奥美濃から富山県砺波平野にかけての区間は高速道路の国内最高標高となる海抜1,085 mを通る、典型的な山岳道路である。それゆえ当該区間の至る所で難関工事を余儀なくされ、随所に当時最新の土木施工技術が投入される事となった。その最たるものが、日本一の橋脚高さを誇る鷲見橋(高鷲IC - 荘川IC間)と、貫通当時日本で2番目の長さを誇った飛驒トンネル(飛驒清見JCT - 白川郷IC間、後述)である。 1988年(昭和63年)に施行命令が下された白鳥IC - 荘川IC間で、旧高鷲村の鷲見川にかかる橋梁である鷲見橋の設計を担当した日本道路公団名古屋建設局の構造技術課担当者は現地のV字谷と山襞を見て度肝を抜かしたという。この区間ではルート線形がR=600のカーブを描くため構造的に不安定になるアーチ橋は不可とされ、近辺に安定した工事車両用道路が確保できず長尺の金属製桁が搬入できない事から現場で打設できるコンクリートを素材とする事が決まった。地形的に難工事が予想されるため橋脚の本数を抑える事とし、こうして消去法的に採用されたのが4径間連続ラーメン橋であった。1997年(平成9年)11月より鹿島建設請負で始まった工事では工期短縮と工費削減、環境保護のため、高強度コンクリートと高強度鉄筋を使用した同社の新工法であるスーパーRC構造で「大口径深礎基礎」を実現したほか、作業場の安全性確保と作業効率上昇のためラチェット型の油圧昇降装置を備えた「自昇式型枠足場」が用いられた。2年の工期を経て完成した鷲見橋は長さ436 m、橋脚高が日本一となる118 mで、それまで日本一の座にあった与島高架橋(瀬戸大橋)の79 mを大幅に更新している。 また同じ頃、隣接する全長198 mの本谷橋でもピー・エス(現・ピーエス三菱)の施工によって日本初の張り出し架設工法による橋波鋼板ウェブを用いたPC3径間連続ラーメン箱桁橋が建設され、軽量化による施工効率上昇や工費削減を実現し、こちらはその業績から土木学会田中賞を受賞した。 なお、これらの橋梁が設計段階にあった1990年代初頭は第二東名高速・第二名神高速プロジェクトが動き出した頃で、それらの道路も同様に山岳道路となる事が確実視されていたため、そちらに投入される可能性のある新技術を試す場として東海北陸道が抜擢された経緯がある。実際に、鷲見橋・本谷橋いずれの技術も両高速道路に採用されている。 飛驒清見IC - 白川郷ICの24.9 kmは最後の開通区間となった。この区間では1996年(平成8年)10月より籾糠山直下を貫く飛驒トンネルが飛島建設の施工で着工された。当初は2005年(平成17年)の愛知万博前の開通を目指したが、1,000 mもの土かぶりで地質調査が十分にできなかった事もあって1998年(平成10年)6月には先進坑が予想外の軟弱地盤に当たり、順調ならTBMで月に200–300 m進めると見込まれた進捗は、NATM工法に切り替えた事もあり2002年(平成14年)頃には月30 mという有様であった。本坑では同年8月よりNATM工法で着工したが、3 km進むのに5年もの歳月を要した。 軟弱地盤を抜けると今度は硬い地盤に悩まされ、先進坑では最大で毎分13トン(排水管の坑口部分では70トン)もの大量湧水対策として水抜きボーリングを、世界最大級のTBMが投入された本抗では強固な地盤で1 m毎に刃の交換を強いられた。高圧粘土層においてTBMが掘進不能に。TBMは止む無く解体された。坑口に“臥薪嘗胆”の札を掲げ、工事は24時間の突貫で続けられた。こうした中、2003年(平成15年)7月から8月にかけて森喜朗元首相と小泉純一郎首相が相次いで現地に視察に訪れている。現職の総理大臣が高速道路の施工現場に駆け付けるのは初めての事であった。 2006年(平成18年)3月に先進坑が、翌2007年(平成19年)1月には本坑が貫通。貫通当時は日本国内で2番目、世界でも8番目に長い道路トンネルであった。これを受けて全線開通の時期を当初2008年(平成20年)3月末と予定したが、飛驒トンネル貫通点付近での地山の崩落や「盤膨れ」と呼ばれる壁面の膨張などが発生したため開通時期を同年7月頃に延期、その後の正式発表を経て7月5日15時にNEXCO中日本は飛驒清見IC - 白川郷IC24.9 kmを開通させ、この日を以って、1972年(昭和47年)より工事着手した東海北陸自動車道は36年の歳月を経て全線開通となった。最後の開通区間の事業費は1860億円(うち飛驒トンネルは当初予定の約4割増となる980億円)で、全線での総事業費は1兆2190億円であった。 東海北陸自動車道が全通すると、北陸道からの転換効果もあり交通量はほぼ全区間に亘り増え、特に休日の増加率が顕著になっている事が確認された。物流効率の上昇による経済活性化(岐阜県試算によれば30年間で約5兆6000億円の効果)、沿線観光資源の振興、交通事故の減少による安全性・定時性確保など域内外の利用者に便益をもたらしており、例えば、環日本海ゲートウェイとして日本海側の総合的拠点港を目指す伏木富山港を抱える富山県の「環日本海物流ゴールデンルート構想」では、2012年(平成24年)にウラジオストクとの間で定期就航を開始したRO-RO船と共に、東海北陸道が構想の基盤をなしている。実際、全線開通前には中京圏の企業が相次いで伏木富山港を視察に訪れ、その将来性を実感していたという。また、岐阜県の山間部にとっては高速道路が高山市などの救急医療施設への搬送路確保に一役買っており、かつて白川村で村長を務めた和田正美は「昔は虫垂炎であの世へというのが常識だった」と述懐し、全線開通した今を「夢のような時代」と表現する。また、白川村では高校生が下宿通学から解放され自宅通学可能になるというメリットもみられた。 一方で、世界遺産として有名な白川郷では近年観光客が激増しており、過度な増加による景観破壊を懸念する声があるほか、行楽シーズンには最寄りの白川郷ICで観光地周辺の駐車場の容量不足により駐車場待ちの渋滞が発生し、その車列がインターチェンジを越えて東海北陸道本線にまで伸びるという新たな問題も発生しており、2008年(平成20年)の全線開通による交通量増はこの問題に一層拍車をかけている。 東海北陸道は全線が4車線(片側2車線)で計画されているが連続4車線で走行できるのは一宮JCT - 飛驒清見IC間 (117.3 km) である。飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線による対面通行区間であり(美濃IC - 飛驒清見ICも開通当初は暫定2車線で供用していた)、この区間ではインターチェンジ付近(五箇山IC、福光IC)とサービスエリア・パーキングエリア付近(飛驒白川PA)には追越車線が設置されている。山地部を通るものの登坂車線は存在せず、代わりにゆずり車線が上り線2箇所、下り線3箇所に存在する。 暫定供用区間のうち白鳥IC - 飛驒清見IC間 (40.9 km) については、とりわけ高鷲IC付近で事故が多発していることから2009年(平成21年)4月27日に開催された第4回国土開発幹線自動車道建設会議において着工の前提となる整備計画変更が了承され、合併施行方式による4車線化拡幅整備が進められることとなり、2014年度(一部2012年度)の開通を予定していた。 しかし、同年7月の第45回衆議院議員総選挙の結果民主党が政権につくと、鳩山由紀夫内閣の掲げる「コンクリートから人へ」の大号令の下に相次いで日本全国の大型公共事業の凍結が打ち出され、補正予算が執行停止された東海北陸道の拡幅事業(補正予算額805億円)は一転して暗礁に乗り上げた。これに対し、沿線の県や自治体、地元住民などの間には一斉に戸惑いや不満の声が広がる事態となった。 転じて2010年(平成22年)4月9日に国土交通省はこの区間の再着手を決定し、2012年(平成24年)4月6日に前田武志国土交通大臣は4車線化事業に国費は投入せず(合併施行方式の撤回)NEXCO中日本の負担で再開する事を発表した。2013年(平成25年)夏よりこの間の工事に着手しており、部分開通はせずに2018年度(平成30年度)中の一斉供用を目指すとしてた。 2018年(平成30年)の6月、10月、12月に白鳥IC - 飛驒清見IC間の4車線化一部完了に伴い、車線切替が行われた。同年11月30日に白鳥IC - 高鷲IC間が、同年12月8日にひるがの高原SA - 飛驒清見IC間がいずれも4車線化された。高鷲IC - ひるがの高原SA間は2019年(平成31年)3月20日に4車線化された。 最後の4車線化未整備区間となる、飛驒トンネルを含めた飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間 (67.5 km) については「10.7 kmもの長大トンネルでの対面通行はドライバーにとって大きな負担」と安全性を懸念する声があり、実際に飛驒トンネル内で衝突死亡事故が発生しているほか、隣接する保トンネルや城端トンネルでも正面衝突による死亡事故が発生している。 これに対し道路を管理するNEXCO中日本では、2012年度(平成24年度)から5年間の経営計画で「より安全・安心・快適にご利用いただくために、東海北陸自動車道(飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT)など、対面通行区間(暫定2車線)を4車線化する検討を進めます。」と記載するに留めており、対策の具現化はされていなかった。4車線拡幅の目途となる交通量が1日1万台とされる中で、当該区間は最も交通量の多い福光IC - 小矢部砺波JCTでも1日6,900台(休日は8,900台、いずれも2012年7月 - 翌2013年6月実績)となっており、今後の動向も不透明な状況であった。 富山県では、2015年(平成27年)3月の北陸新幹線新高岡駅開業や能越自動車道の七尾方面延伸、また同年7月に小矢部市にオープンした三井アウトレットパーク北陸小矢部などの外的要因によって東海北陸道の利用者が増加すると見込まれること、南海トラフ巨大地震など有事の際に北陸から東海地方を支援する大動脈となること、全区間で用地取得済みであり早期の完成供用が期待できることなどから引き続き早期事業着手を関係機関に求めていく方針で、富山県選出の野上浩太郎国土交通副大臣の音頭取りで国土交通省・NEXCO中日本・富山県・岐阜県による「東海・北陸地方間のネットワーク交通課題検討会」が2014年(平成26年)6月に設立された際には歓迎の意向を示していた。 そのような中、2016年(平成28年)6月7日に国土交通省は暫定2車線区間における付加車線設置の検証路線(4路線・5区間)を公表し、その1つとして東海北陸道の飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT区間が選定された。全国的に速度低下率が25 %以下となっている暫定2車線区間を抽出して当該区間の付加車線の設置により安全性・走行性の向上を目指すとものであり、これにより試行段階ながら全線4車線化されるまでの暫定的な措置が取られる事となった。付加車線は城端トンネル北側 - 福光IC間(4.7 km)および南砺SIC - 小矢部砺波JCT間(5.3 km)に設置されることとなった。 さらに、2019年(平成31年)3月29日に法面危険箇所があることから白川郷IC - 五箇山IC間の一部の延長2.8 kmに対し付加車線設置事業が国土交通省より事業許可を受けた。同年(令和元年)9月4日には国土交通省が残りの暫定2車線区間についても、2028年度(令和10年度)から2033年度(令和15年度)を目処に4車線化する方針を示した。このうち、2020年(令和2年) 3月31日に白川郷IC - 五箇山IC間の残る区間について並行現道課題のため延長10.1 kmおよび、五箇山IC - 城端SA間の残る区間について城端トンネル・袴腰トンネルの盤膨れ対策として延長9.5 kmに対し、付加車線設置事業の国土交通省より事業許可を受けた。更に、令和3年の大雪のため、約50時間の立ち往生が発生したことから2022年(令和4年) 3月30日に福光IC - 南砺SICの残る区間について4車線化事業が事業許可を受けた。これによって白川郷IC - 小矢部砺波JCTについては全区間の4車線化が事業化され、未事業化区間は飛驒トンネルを含む飛驒清見IC - 白川郷ICのみとなった。 このうち2016年度(平成28年度)に事業化された区間について、城端SA - 福光IC間の一部、延長2.3 kmが2020年(令和2年)11月7日に供用開始され、2021年(令和3年)11月10日には、南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長1.8 kmが供用開始、2022年(令和4年)11月12日には、残りの五箇山IC - 城端SA間の一部、延長2.4 kmと福光IC - 南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長3.5 kmが4車線化され、2016年度(平成28年度)に事業化された区間の4車線化が完成した。 売店はすべてのサービスエリア (SA) と川島パーキングエリア (PA) (下り線)・瓢ヶ岳PA・ぎふ大和PA(上り線)に設置されている。飛驒白川PA(上り線)は冬季を除く土日・繁忙期の期間限定で営業している。このうち24時間営業を行っているのは、関SAと長良川SAで、川島PA(下り線)、関SA、ひるがの高原SA(上下線)、城端SA(上下線共有)にはコンビニがある。レストランは関SA・長良川SAのみで、川島PA(下り線)と城端SAはハイウェイオアシス内にある。フードコートはすべてのサービスエリア(城端SAはハイウェイオアシス内)と、川島PA(上り線)・瓢ヶ岳PA・ぎふ大和PA(上り線)に設置されている。そのうち関SA・長良川SAのみ24時間営業である。 川島PAと城端SAの2か所にハイウェイオアシスが併設されている。川島PAに隣接する河川環境楽園では、観覧車や水族館など様々な施設がある。城端SAにはヨッテカーレ城端と桜ヶ池クアガーデンが隣接し軽食や農産物直売所、温泉や宿泊施設などがある。 ガソリンスタンドは関SA(上り線)・長良川SA(下り線)・ひるがの高原SAに設置されており、城端SAとすべてのパーキングエリアには設置されていない。長良川SAのガソリンスタンドを除き24時間営業であり、ひるがの高原SAのガソリンスタンドは上下線ともセルフ式になっている。 山地部を通るためトンネルが多い。飛驒清見IC - 白川郷ICには飛驒トンネル (10,712 m) が、五箇山IC - 福光ICには袴腰トンネル (5,939 m) があるため、同区間ではタンクローリーなどの危険物積載車両は通行できない。3,000 m級では各務原トンネルと城端トンネル、2,000 m級では軽岡トンネルと椿原トンネルがある。 ※ 飛驒清見IC - 南砺SIC間は対面通行(暫定2車線) トンネルの坑口には、分数方式でトンネルの数を示すカウンターが設置されている。上り線は54、下り線56となっている。上り線1本目城端トンネル坑口には1/54。下り線1本目権現山トンネル坑口には1/54のプレートが記載されている。下り線は54から56とトンネルの数が変化する。美並IC - 郡上八幡ICの山田トンネルから分母が56と表示されている。上下線のトンネル数の違いは、美並IC - 郡上八幡ICの下り線のみにある貝付トンネルと雛成第一トンネル、雛成第二トンネルのためである。高鷲IC - ひるがの高原SAにある上野第2トンネル下り線は2つのトンネルの間にスノーシェルターがあり1つのトンネルとなっている。白川郷IC - 五箇山ICにある楮成出トンネルはスノーシェルターが楮トンネルと成出トンネルを繋いでおり、1つのトンネルとなっている。 飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線の対面通行となっているため、建設されているトンネルは上下線で1本となっている。これにより、実際に建設されているトンネルの数は上り線36、下り線38、上下線共用18である。 24時間交通量(台) 道路交通センサス 出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成) 2002年度(平成14年度) 区間別日平均交通量(区間平均) 高山方面や世界遺産でもある白川郷・五箇山の合掌造り集落を通過すること、また白鳥ICや高鷲ICの周辺にスキー場が多いことから休日の交通量が平日に比べて非常に多く、2005年度(平成17年度)の昼間12時間交通量調査では、高速道路におけるベスト5に計3区間が入った。白鳥IC - 高鷲ICが1.7倍、郡上八幡IC - ぎふ大和IC、ぎふ大和IC - 白鳥ICが1.6倍となっている。2019年11月に飛驒清見ICまでの区間が4車線化されるまで、対面通行である上にトンネルが連続する白鳥IC以北では渋滞が多発していた。特に、スキーシーズンは関越自動車道と並んで渋滞の多い高速道路となっている。 全線開通後は交通量の増加が著しく、特に白川郷IC以北では各区間前年度と比較して2倍以上の増加となっている。通行する車両は小型車が約8割を占めており、大型車・特大車の割合は全線開通後に140–150 %増加したが1割ほどである。中型車を合わせても2割に満たない。 2010年度(平成22年度)の交通センサスでは、大型車の混入率が全線平均で20 %近くあり、一宮IC - 一宮木曽川IC、飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間が20 %を越えている。平日は大型車の混入率が高いと見られ、全線開通後は年々増加している。 全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである。 一宮JCT - 美濃関JCT間はもともと他の普通区間と同じ料金水準であったが、2021年(令和3年)5月1日に上記料金水準に引き上げられた。ただし、当区間は引き続き普通区間であることから、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されないETC割引制度(休日割引、平日朝夕割引)は適用される。 木曽川に近い濃尾平野から長良川沿いを北上し、急峻な山岳地帯(飛騨高地)を経て砺波平野へと至る。東海北陸自動車道に架かる橋は上下線合わせて400本近くある。太平洋側に流れ出る木曽三川のうち、木曽川を1回、長良川を8回、そして日本海側に流れ出る庄川を7回、それぞれ渡っている。 標高の高い所を通過する高速道路であり、白鳥ICの以北から急峻な山岳地帯に入るため冬季はチェーン規制を実施することが多い。ぎふ大和ICが海抜300 m、白鳥ICが海抜430 m、高鷲ICが海抜700 m、ひるがの高原SAが海抜873 mであり、特に白鳥IC付近の長良川を渡る付近から登り坂になり高鷲ICまでの8 kmで300 mの高低差がある。そのため上り線ではブレーキ故障車の緊急待避所が設けられている。 郡上市高鷲町のひるがの高原には中央分水界(海抜957 m)があり、現地にはそれを示す標識が設置されている。高山市にある松ノ木峠は標高1,085 mで、高速道路標高日本一である。2013年(平成25年)4月19日には松ノ木峠PAが開設し、日本の高速道路にあるSA・PAの中では最も標高が高い場所となった。 道路線形は、同じ山岳高速の中央自動車道に比べ急カーブや急勾配が少ないため非常に走りやすい。注意すべきは長い下り坂が多いためスピードが出やすいことである。また、ひるがの高原SAより南は横風の影響を受けやすく、北部においても特に冬期間、山腹と山腹を繋ぐ橋梁部では谷風による突風や気温低下に伴う路面凍結があるため注意が必要である。加えて、ぎふ大和IC - 荘川ICにかけて霧による規制も時折発生している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東海北陸自動車道(とうかいほくりくじどうしゃどう、英語: TOKAI-HOKURIKU EXPWY)は、愛知県一宮市から岐阜県を経由して富山県砺波市へ至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路(高速自動車国道)である。略称は東海北陸道(とうかいほくりくどう)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "高速道路ナンバリングによる路線番号は、能越自動車道と共に「E41」が割り振られているほか、白鳥インターチェンジ (IC) - 飛驒清見IC間は中部縦貫自動車道と重複するため、合わせて「E67」も付番されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国土開発幹線自動車道の予定路線は以下のとおりとされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "下記の通り高速自動車国道の路線とされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "東海と北陸の両地域の安定した交通の確保と交流の活性化を目的として東海北陸自動車道が整備された。一宮ジャンクション (JCT) - 小矢部砺波JCTの総事業費は、約1兆2190億円である。道路カラーは岐阜の山間部を縦断するイメージから茶(■)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)頃は当時の岐阜県郡上郡八幡町(現・郡上市)から富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)にかけては豪雪地帯を通過するため、通行止めとなって本来の利用目的である時間短縮などのメリットがあまりないと考えられていた。しかし全線開通により、一宮JCT - 小矢部砺波JCT区間が北陸自動車道経由に比べ約65 km(キロメートル)の距離短縮となった。これは時間にすると普通車で15分ほど早くなり、所要時間は約3時間である。さらに美濃IC - 白鳥IC間の4車線化によって渋滞が緩和され所要時間が大幅に短縮された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "道路の整備に伴い、北陸方面には東海地方からの、飛騨地方には西日本からの観光客が増加し、道路交通センサスによれば、全線開通以前の2005年(平成17年)と全通後の2010年(平成22年)の平日24時間交通量での比較で、特に白川郷IC - 五箇山ICで2,033台から4,626台と、2倍以上交通が増加した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当自動車道の最高地点の標高は1,085 m(メートル)であり、松ノ木峠パーキングエリア付近にある。この地点は日本の高速自動車国道で最も標高が高い。また、道路構造令での規格は第1種第3級で、設計速度は80 km/hである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "名古屋市を核とする東海地方と北陸地方との連携の必要性は早くから認識されていた。戦前には経済学者で岐阜大学教授の小出保治や名古屋土木出張所長の田淵寿郎らが太平洋沿岸と日本海沿岸を結び、両地域の都市が相互に結ばれ補完し合う事を提言している。 戦後にいち早く経済的な復興を果たした中京圏では、伏木富山港を名古屋の補完港として活用するため広域的なネットワークを求める声が上がり、1953年(昭和28年)には現在の国道41号が国道155号名古屋富山線として制定されたものの、富山県など北陸側では生活道路の整備が十分ではなかったため冬期でも安全に往来が可能な一般道路の整備を求める声が強く、両地域ではまだ広域的な経済圏の構築に対して温度差があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "東海北陸自動車道の具体的な計画・整備に向けた発端となったのは、1960年(昭和35年)に建設省(現・国土交通省)が実施した全国の高速道路ネットワークの整備に向けた「自動車道路網整備のための調査」であった。この中で全国の都市および農村から2時間以内にアクセス可能となる幹線道路の計画が構想され、その一環として東海地方と北陸地方を繋ぐ高速道路が立案された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "中部地方建設局(現・中部地方整備局)では1961年頃より図上選定調査を開始し、東海北陸自動車道の原形となる中部横断高速自動車道路のルートを策定。しかし、道路の起点を名古屋市とする事に異論はなかったものの、終点を北陸のどこにするかで福井県・石川県・富山県(富山県内では更に富山市と高岡市)間の誘致合戦が繰り広げられ、同年5月17日の三県申し合わせで“3県に等しく利益がもたらされる事”を条件に、富山県に落ち着いた経緯がある。それに伴い、ルート案には当時一級国道として東海・北陸を結んでいた国道41号沿いではなく、福井県寄りに並行する二級国道の国道156号沿いが選ばれた。この理由については前述の3県受益の観点から福井県・石川県からの利便性向上を図るほか、当時選定にあたった中部建設局企画室の担当者によれば、国道41号は既に改良工事が進んでいた事、同道路沿いは飛騨川や急峻な山肌など地形的な制約があり建設費がかさむと予想された事、そして当時工事が最盛期を迎えていた中央自動車道との距離が近過ぎた事を挙げている。ただし高速道路ナンバリングが採用された際には「E41」が採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "この頃には、1957年(昭和32年)の国土開発縦貫自動車道建設法公布に端を発して全国各地から高速道路を求める機運が高まったほか、北陸地域においては1963年1月の38豪雪の教訓から、災害時における救援物資の輸送路として他県とのアクセスの重要性が認識され始めた頃であり、そうした流れを受け同年6月には中部横断高速自動車道路として「愛知県一宮市 - 富山県高岡市」というルート概要が建設省より正式に発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1963年(昭和38年)7月、会長を松野幸泰岐阜県知事、メンバーを中部地域6県1市とする「中部横断高速自動車道路の建設促進同盟会」が設立されると、岐阜県選出で建設相も務めた野田卯一の支援を受け、岐阜県企画課の担当者が同盟会事務局として手作りの説明資料を片手に議員会館を奔走した。自民党政調審議会では同盟会の幹部が見守る中、東海・北陸間自動車道よりも東北道・中国道など日本列島の骨格をなす道路(いわゆる縦貫5道)の優先整備を目指す建設省の尾之内由紀夫道路局長に対し、三木武夫政調会長が叱咤するシーンもあったという。中部圏全域を一体として内陸高速輸送網整備の進言する国連のワインズマン調査団の中間報告もあり、1964年(昭和39年)6月に自民・社会・民社3党の19議員により東海北陸自動車道建設法案が議員立法で通常国会に提出され、同月中に可決・成立し翌7月1日に公布された。この時のルートは「愛知県一宮市 - 岐阜県関市 - 同県大野郡荘川村(現・高山市)付近 - 富山県砺波市」と定めており、総延長約170 km、事業費約2,000億円を見込んでいた。なお、この法案で初めて“東海北陸自動車道”という名称が用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "建設法が成立したものの、沿線人口の少なさや山岳道路ゆえ建設コストが膨大になると見込まれた事から基本計画・整備計画の決定や事業化は先送りされ、最初の基本計画が告示されたのは法案成立から6年後の1970年(昭和45年)である。富山県選出で1969年(昭和44年)に初当選した元衆議院議員の綿貫民輔によれば、建設省に道路整備の陳情に行った際には「既に国道が2つもあるのに高速道路が要るのか」と当時の事務次官からは相手にしてもらえなかったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "結局、根本龍太郎建設相の方針により、人口が多く一定の利用者数が見込まれる起点部と終点部から建設が進められる事となり、1970年と翌1971年(昭和46年)に南北両端部の基本計画が決定し、1972年(昭和47年)には一宮JCT - 美濃IC間(約33 km)が高速自動車国道法第5条に基づく審議会および整備計画決定を経て、建設相から日本道路公団に対して施工命令(現在の建設許可に相当)が発せられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ日本横断運河構想の推進派であった大野伴睦の死去後、1970年(昭和45年)の中部圏開発整備本部の調査報告書において事実上の運河事業中止宣言とともに代替案として、ルートこそ大幅に異なるものの中部圏における南北の交通網整備が提言され、それが一因となって1970年代以降は東海北陸道の各事業区間で計画決定や着工が相次いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかしながら沿線では道路計画や土地収用に対する激しい抵抗もあり、特に岐阜市東部の芥見地域の住民説明会では当時衆院議員となっていた松野幸泰元岐阜県知事が「ルートを変える努力をする」と公言してしまった事から、道路公団は1973年(昭和48年)11月に「美濃以南路線問題専門委員会」を立ち上げ、従来計画の2.5 km東にずらした現在のルートに変更を余儀なくされた。同様の交渉難航によるルート変更の事例は愛知県でもあったという。また山間の岐阜県郡上郡大和町域などでは、道路整備そのものには賛同するものの買収価格に関して激しい駆け引きがあり、一部地権者が受け取った金額は相場の3倍にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "このように事業用地の確保は一筋縄ではいかず、1976年(昭和51年)7月1日に道路公団名古屋建設局と岐阜県との間で用地買収に関する委託協定が結ばれ設立当初岐阜県庁の9人体制で始まった岐阜県高速道路事務所は、最盛期には21人まで増強する必要に迫られた。実際に、ある地権者との交渉は140回にも及んだという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)に東海北陸道初の開通区間となる岐阜各務原IC - 美濃IC(約19 km)が供用を開始した翌1987年(昭和62年)には、全国の均等な発展を目的に“多極分散型国土の形成”を掲げた第四次全国総合開発計画のもと国土開発幹線自動車道建設法が改正され、その中で北陸(とりわけ福井県)と首都圏との最短ルートの要となる中部縦貫自動車道の計画が具体化し、東海北陸道と飛驒地域で連結する運びとなった。これに伴い、従来高山市から20 km以上離れた国道156号沿いに計画されていた東海北陸道に関し、高山市や高山商工会議所、飛騨高山観光協会では1986年5月以降、高山市とのアクセス利便性を考慮した路線計画の策定を関係機関や国会議員に陳情。また建設省で道路局長や技監を歴任し後に参議院議員となった沓掛哲男によれば、福井県選出の重鎮福田一が御母衣ダムの南側で両高速道路を接続する構想を持ち出したが、富山・石川方面から東海北陸道・中部縦貫道を使って松本方面に抜ける際にV字の大回りを余儀なくされる事から、東海北陸道そのものを荘川村から東に迂回させ、高山市西部で中部縦貫道(松本方面)と接続した後に西向きに進路を変えて白川村付近で再び国道156号に沿いに復帰する現在のルートに変更されたという。そうして1988年(昭和63年)には環境影響評価準備書に新ルートが盛り込まれた。当時の試算では従来計画に比べ距離が約9 km延長するものの、工費は変わらないと試算されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、インターチェンジについても計画変更があり、当初構想にはなかった美並IC・ぎふ大和IC・高鷲ICの3インターチェンジが地域懇願により追加されている。うち美並ICについては当時の福田赳夫首相に直談判の末1978年(昭和53年)の整備計画で盛り込まれ、ぎふ大和IC・高鷲ICの両インターチェンジについては開発インターチェンジ制度を利用して1989年(平成元年)に設置が許可されたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "東海北陸自動車道は総延長約185 kmのうちトンネルの延長合計が約70 km、また橋梁の数も上下線合わせて386本を数え、その中でも建設が後回しにされてきた岐阜県奥美濃から富山県砺波平野にかけての区間は高速道路の国内最高標高となる海抜1,085 mを通る、典型的な山岳道路である。それゆえ当該区間の至る所で難関工事を余儀なくされ、随所に当時最新の土木施工技術が投入される事となった。その最たるものが、日本一の橋脚高さを誇る鷲見橋(高鷲IC - 荘川IC間)と、貫通当時日本で2番目の長さを誇った飛驒トンネル(飛驒清見JCT - 白川郷IC間、後述)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)に施行命令が下された白鳥IC - 荘川IC間で、旧高鷲村の鷲見川にかかる橋梁である鷲見橋の設計を担当した日本道路公団名古屋建設局の構造技術課担当者は現地のV字谷と山襞を見て度肝を抜かしたという。この区間ではルート線形がR=600のカーブを描くため構造的に不安定になるアーチ橋は不可とされ、近辺に安定した工事車両用道路が確保できず長尺の金属製桁が搬入できない事から現場で打設できるコンクリートを素材とする事が決まった。地形的に難工事が予想されるため橋脚の本数を抑える事とし、こうして消去法的に採用されたのが4径間連続ラーメン橋であった。1997年(平成9年)11月より鹿島建設請負で始まった工事では工期短縮と工費削減、環境保護のため、高強度コンクリートと高強度鉄筋を使用した同社の新工法であるスーパーRC構造で「大口径深礎基礎」を実現したほか、作業場の安全性確保と作業効率上昇のためラチェット型の油圧昇降装置を備えた「自昇式型枠足場」が用いられた。2年の工期を経て完成した鷲見橋は長さ436 m、橋脚高が日本一となる118 mで、それまで日本一の座にあった与島高架橋(瀬戸大橋)の79 mを大幅に更新している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また同じ頃、隣接する全長198 mの本谷橋でもピー・エス(現・ピーエス三菱)の施工によって日本初の張り出し架設工法による橋波鋼板ウェブを用いたPC3径間連続ラーメン箱桁橋が建設され、軽量化による施工効率上昇や工費削減を実現し、こちらはその業績から土木学会田中賞を受賞した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、これらの橋梁が設計段階にあった1990年代初頭は第二東名高速・第二名神高速プロジェクトが動き出した頃で、それらの道路も同様に山岳道路となる事が確実視されていたため、そちらに投入される可能性のある新技術を試す場として東海北陸道が抜擢された経緯がある。実際に、鷲見橋・本谷橋いずれの技術も両高速道路に採用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "飛驒清見IC - 白川郷ICの24.9 kmは最後の開通区間となった。この区間では1996年(平成8年)10月より籾糠山直下を貫く飛驒トンネルが飛島建設の施工で着工された。当初は2005年(平成17年)の愛知万博前の開通を目指したが、1,000 mもの土かぶりで地質調査が十分にできなかった事もあって1998年(平成10年)6月には先進坑が予想外の軟弱地盤に当たり、順調ならTBMで月に200–300 m進めると見込まれた進捗は、NATM工法に切り替えた事もあり2002年(平成14年)頃には月30 mという有様であった。本坑では同年8月よりNATM工法で着工したが、3 km進むのに5年もの歳月を要した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "軟弱地盤を抜けると今度は硬い地盤に悩まされ、先進坑では最大で毎分13トン(排水管の坑口部分では70トン)もの大量湧水対策として水抜きボーリングを、世界最大級のTBMが投入された本抗では強固な地盤で1 m毎に刃の交換を強いられた。高圧粘土層においてTBMが掘進不能に。TBMは止む無く解体された。坑口に“臥薪嘗胆”の札を掲げ、工事は24時間の突貫で続けられた。こうした中、2003年(平成15年)7月から8月にかけて森喜朗元首相と小泉純一郎首相が相次いで現地に視察に訪れている。現職の総理大臣が高速道路の施工現場に駆け付けるのは初めての事であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)3月に先進坑が、翌2007年(平成19年)1月には本坑が貫通。貫通当時は日本国内で2番目、世界でも8番目に長い道路トンネルであった。これを受けて全線開通の時期を当初2008年(平成20年)3月末と予定したが、飛驒トンネル貫通点付近での地山の崩落や「盤膨れ」と呼ばれる壁面の膨張などが発生したため開通時期を同年7月頃に延期、その後の正式発表を経て7月5日15時にNEXCO中日本は飛驒清見IC - 白川郷IC24.9 kmを開通させ、この日を以って、1972年(昭和47年)より工事着手した東海北陸自動車道は36年の歳月を経て全線開通となった。最後の開通区間の事業費は1860億円(うち飛驒トンネルは当初予定の約4割増となる980億円)で、全線での総事業費は1兆2190億円であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "東海北陸自動車道が全通すると、北陸道からの転換効果もあり交通量はほぼ全区間に亘り増え、特に休日の増加率が顕著になっている事が確認された。物流効率の上昇による経済活性化(岐阜県試算によれば30年間で約5兆6000億円の効果)、沿線観光資源の振興、交通事故の減少による安全性・定時性確保など域内外の利用者に便益をもたらしており、例えば、環日本海ゲートウェイとして日本海側の総合的拠点港を目指す伏木富山港を抱える富山県の「環日本海物流ゴールデンルート構想」では、2012年(平成24年)にウラジオストクとの間で定期就航を開始したRO-RO船と共に、東海北陸道が構想の基盤をなしている。実際、全線開通前には中京圏の企業が相次いで伏木富山港を視察に訪れ、その将来性を実感していたという。また、岐阜県の山間部にとっては高速道路が高山市などの救急医療施設への搬送路確保に一役買っており、かつて白川村で村長を務めた和田正美は「昔は虫垂炎であの世へというのが常識だった」と述懐し、全線開通した今を「夢のような時代」と表現する。また、白川村では高校生が下宿通学から解放され自宅通学可能になるというメリットもみられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方で、世界遺産として有名な白川郷では近年観光客が激増しており、過度な増加による景観破壊を懸念する声があるほか、行楽シーズンには最寄りの白川郷ICで観光地周辺の駐車場の容量不足により駐車場待ちの渋滞が発生し、その車列がインターチェンジを越えて東海北陸道本線にまで伸びるという新たな問題も発生しており、2008年(平成20年)の全線開通による交通量増はこの問題に一層拍車をかけている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "東海北陸道は全線が4車線(片側2車線)で計画されているが連続4車線で走行できるのは一宮JCT - 飛驒清見IC間 (117.3 km) である。飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線による対面通行区間であり(美濃IC - 飛驒清見ICも開通当初は暫定2車線で供用していた)、この区間ではインターチェンジ付近(五箇山IC、福光IC)とサービスエリア・パーキングエリア付近(飛驒白川PA)には追越車線が設置されている。山地部を通るものの登坂車線は存在せず、代わりにゆずり車線が上り線2箇所、下り線3箇所に存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "暫定供用区間のうち白鳥IC - 飛驒清見IC間 (40.9 km) については、とりわけ高鷲IC付近で事故が多発していることから2009年(平成21年)4月27日に開催された第4回国土開発幹線自動車道建設会議において着工の前提となる整備計画変更が了承され、合併施行方式による4車線化拡幅整備が進められることとなり、2014年度(一部2012年度)の開通を予定していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "しかし、同年7月の第45回衆議院議員総選挙の結果民主党が政権につくと、鳩山由紀夫内閣の掲げる「コンクリートから人へ」の大号令の下に相次いで日本全国の大型公共事業の凍結が打ち出され、補正予算が執行停止された東海北陸道の拡幅事業(補正予算額805億円)は一転して暗礁に乗り上げた。これに対し、沿線の県や自治体、地元住民などの間には一斉に戸惑いや不満の声が広がる事態となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "転じて2010年(平成22年)4月9日に国土交通省はこの区間の再着手を決定し、2012年(平成24年)4月6日に前田武志国土交通大臣は4車線化事業に国費は投入せず(合併施行方式の撤回)NEXCO中日本の負担で再開する事を発表した。2013年(平成25年)夏よりこの間の工事に着手しており、部分開通はせずに2018年度(平成30年度)中の一斉供用を目指すとしてた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)の6月、10月、12月に白鳥IC - 飛驒清見IC間の4車線化一部完了に伴い、車線切替が行われた。同年11月30日に白鳥IC - 高鷲IC間が、同年12月8日にひるがの高原SA - 飛驒清見IC間がいずれも4車線化された。高鷲IC - ひるがの高原SA間は2019年(平成31年)3月20日に4車線化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "最後の4車線化未整備区間となる、飛驒トンネルを含めた飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間 (67.5 km) については「10.7 kmもの長大トンネルでの対面通行はドライバーにとって大きな負担」と安全性を懸念する声があり、実際に飛驒トンネル内で衝突死亡事故が発生しているほか、隣接する保トンネルや城端トンネルでも正面衝突による死亡事故が発生している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これに対し道路を管理するNEXCO中日本では、2012年度(平成24年度)から5年間の経営計画で「より安全・安心・快適にご利用いただくために、東海北陸自動車道(飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT)など、対面通行区間(暫定2車線)を4車線化する検討を進めます。」と記載するに留めており、対策の具現化はされていなかった。4車線拡幅の目途となる交通量が1日1万台とされる中で、当該区間は最も交通量の多い福光IC - 小矢部砺波JCTでも1日6,900台(休日は8,900台、いずれも2012年7月 - 翌2013年6月実績)となっており、今後の動向も不透明な状況であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "富山県では、2015年(平成27年)3月の北陸新幹線新高岡駅開業や能越自動車道の七尾方面延伸、また同年7月に小矢部市にオープンした三井アウトレットパーク北陸小矢部などの外的要因によって東海北陸道の利用者が増加すると見込まれること、南海トラフ巨大地震など有事の際に北陸から東海地方を支援する大動脈となること、全区間で用地取得済みであり早期の完成供用が期待できることなどから引き続き早期事業着手を関係機関に求めていく方針で、富山県選出の野上浩太郎国土交通副大臣の音頭取りで国土交通省・NEXCO中日本・富山県・岐阜県による「東海・北陸地方間のネットワーク交通課題検討会」が2014年(平成26年)6月に設立された際には歓迎の意向を示していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "そのような中、2016年(平成28年)6月7日に国土交通省は暫定2車線区間における付加車線設置の検証路線(4路線・5区間)を公表し、その1つとして東海北陸道の飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT区間が選定された。全国的に速度低下率が25 %以下となっている暫定2車線区間を抽出して当該区間の付加車線の設置により安全性・走行性の向上を目指すとものであり、これにより試行段階ながら全線4車線化されるまでの暫定的な措置が取られる事となった。付加車線は城端トンネル北側 - 福光IC間(4.7 km)および南砺SIC - 小矢部砺波JCT間(5.3 km)に設置されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "さらに、2019年(平成31年)3月29日に法面危険箇所があることから白川郷IC - 五箇山IC間の一部の延長2.8 kmに対し付加車線設置事業が国土交通省より事業許可を受けた。同年(令和元年)9月4日には国土交通省が残りの暫定2車線区間についても、2028年度(令和10年度)から2033年度(令和15年度)を目処に4車線化する方針を示した。このうち、2020年(令和2年) 3月31日に白川郷IC - 五箇山IC間の残る区間について並行現道課題のため延長10.1 kmおよび、五箇山IC - 城端SA間の残る区間について城端トンネル・袴腰トンネルの盤膨れ対策として延長9.5 kmに対し、付加車線設置事業の国土交通省より事業許可を受けた。更に、令和3年の大雪のため、約50時間の立ち往生が発生したことから2022年(令和4年) 3月30日に福光IC - 南砺SICの残る区間について4車線化事業が事業許可を受けた。これによって白川郷IC - 小矢部砺波JCTについては全区間の4車線化が事業化され、未事業化区間は飛驒トンネルを含む飛驒清見IC - 白川郷ICのみとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このうち2016年度(平成28年度)に事業化された区間について、城端SA - 福光IC間の一部、延長2.3 kmが2020年(令和2年)11月7日に供用開始され、2021年(令和3年)11月10日には、南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長1.8 kmが供用開始、2022年(令和4年)11月12日には、残りの五箇山IC - 城端SA間の一部、延長2.4 kmと福光IC - 南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長3.5 kmが4車線化され、2016年度(平成28年度)に事業化された区間の4車線化が完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "売店はすべてのサービスエリア (SA) と川島パーキングエリア (PA) (下り線)・瓢ヶ岳PA・ぎふ大和PA(上り線)に設置されている。飛驒白川PA(上り線)は冬季を除く土日・繁忙期の期間限定で営業している。このうち24時間営業を行っているのは、関SAと長良川SAで、川島PA(下り線)、関SA、ひるがの高原SA(上下線)、城端SA(上下線共有)にはコンビニがある。レストランは関SA・長良川SAのみで、川島PA(下り線)と城端SAはハイウェイオアシス内にある。フードコートはすべてのサービスエリア(城端SAはハイウェイオアシス内)と、川島PA(上り線)・瓢ヶ岳PA・ぎふ大和PA(上り線)に設置されている。そのうち関SA・長良川SAのみ24時間営業である。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "川島PAと城端SAの2か所にハイウェイオアシスが併設されている。川島PAに隣接する河川環境楽園では、観覧車や水族館など様々な施設がある。城端SAにはヨッテカーレ城端と桜ヶ池クアガーデンが隣接し軽食や農産物直売所、温泉や宿泊施設などがある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ガソリンスタンドは関SA(上り線)・長良川SA(下り線)・ひるがの高原SAに設置されており、城端SAとすべてのパーキングエリアには設置されていない。長良川SAのガソリンスタンドを除き24時間営業であり、ひるがの高原SAのガソリンスタンドは上下線ともセルフ式になっている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "山地部を通るためトンネルが多い。飛驒清見IC - 白川郷ICには飛驒トンネル (10,712 m) が、五箇山IC - 福光ICには袴腰トンネル (5,939 m) があるため、同区間ではタンクローリーなどの危険物積載車両は通行できない。3,000 m級では各務原トンネルと城端トンネル、2,000 m級では軽岡トンネルと椿原トンネルがある。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "※ 飛驒清見IC - 南砺SIC間は対面通行(暫定2車線)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "トンネルの坑口には、分数方式でトンネルの数を示すカウンターが設置されている。上り線は54、下り線56となっている。上り線1本目城端トンネル坑口には1/54。下り線1本目権現山トンネル坑口には1/54のプレートが記載されている。下り線は54から56とトンネルの数が変化する。美並IC - 郡上八幡ICの山田トンネルから分母が56と表示されている。上下線のトンネル数の違いは、美並IC - 郡上八幡ICの下り線のみにある貝付トンネルと雛成第一トンネル、雛成第二トンネルのためである。高鷲IC - ひるがの高原SAにある上野第2トンネル下り線は2つのトンネルの間にスノーシェルターがあり1つのトンネルとなっている。白川郷IC - 五箇山ICにある楮成出トンネルはスノーシェルターが楮トンネルと成出トンネルを繋いでおり、1つのトンネルとなっている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線の対面通行となっているため、建設されているトンネルは上下線で1本となっている。これにより、実際に建設されているトンネルの数は上り線36、下り線38、上下線共用18である。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "24時間交通量(台) 道路交通センサス", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」・「令和3年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2002年度(平成14年度)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "区間別日平均交通量(区間平均)", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "高山方面や世界遺産でもある白川郷・五箇山の合掌造り集落を通過すること、また白鳥ICや高鷲ICの周辺にスキー場が多いことから休日の交通量が平日に比べて非常に多く、2005年度(平成17年度)の昼間12時間交通量調査では、高速道路におけるベスト5に計3区間が入った。白鳥IC - 高鷲ICが1.7倍、郡上八幡IC - ぎふ大和IC、ぎふ大和IC - 白鳥ICが1.6倍となっている。2019年11月に飛驒清見ICまでの区間が4車線化されるまで、対面通行である上にトンネルが連続する白鳥IC以北では渋滞が多発していた。特に、スキーシーズンは関越自動車道と並んで渋滞の多い高速道路となっている。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "全線開通後は交通量の増加が著しく、特に白川郷IC以北では各区間前年度と比較して2倍以上の増加となっている。通行する車両は小型車が約8割を占めており、大型車・特大車の割合は全線開通後に140–150 %増加したが1割ほどである。中型車を合わせても2割に満たない。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2010年度(平成22年度)の交通センサスでは、大型車の混入率が全線平均で20 %近くあり、一宮IC - 一宮木曽川IC、飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間が20 %を越えている。平日は大型車の混入率が高いと見られ、全線開通後は年々増加している。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "一宮JCT - 美濃関JCT間はもともと他の普通区間と同じ料金水準であったが、2021年(令和3年)5月1日に上記料金水準に引き上げられた。ただし、当区間は引き続き普通区間であることから、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されないETC割引制度(休日割引、平日朝夕割引)は適用される。", "title": "路線状況" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "木曽川に近い濃尾平野から長良川沿いを北上し、急峻な山岳地帯(飛騨高地)を経て砺波平野へと至る。東海北陸自動車道に架かる橋は上下線合わせて400本近くある。太平洋側に流れ出る木曽三川のうち、木曽川を1回、長良川を8回、そして日本海側に流れ出る庄川を7回、それぞれ渡っている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "標高の高い所を通過する高速道路であり、白鳥ICの以北から急峻な山岳地帯に入るため冬季はチェーン規制を実施することが多い。ぎふ大和ICが海抜300 m、白鳥ICが海抜430 m、高鷲ICが海抜700 m、ひるがの高原SAが海抜873 mであり、特に白鳥IC付近の長良川を渡る付近から登り坂になり高鷲ICまでの8 kmで300 mの高低差がある。そのため上り線ではブレーキ故障車の緊急待避所が設けられている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "郡上市高鷲町のひるがの高原には中央分水界(海抜957 m)があり、現地にはそれを示す標識が設置されている。高山市にある松ノ木峠は標高1,085 mで、高速道路標高日本一である。2013年(平成25年)4月19日には松ノ木峠PAが開設し、日本の高速道路にあるSA・PAの中では最も標高が高い場所となった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "道路線形は、同じ山岳高速の中央自動車道に比べ急カーブや急勾配が少ないため非常に走りやすい。注意すべきは長い下り坂が多いためスピードが出やすいことである。また、ひるがの高原SAより南は横風の影響を受けやすく、北部においても特に冬期間、山腹と山腹を繋ぐ橋梁部では谷風による突風や気温低下に伴う路面凍結があるため注意が必要である。加えて、ぎふ大和IC - 荘川ICにかけて霧による規制も時折発生している。", "title": "地理" } ]
東海北陸自動車道は、愛知県一宮市から岐阜県を経由して富山県砺波市へ至る、東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路(高速自動車国道)である。略称は東海北陸道(とうかいほくりくどう)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、能越自動車道と共に「E41」が割り振られているほか、白鳥インターチェンジ (IC) - 飛驒清見IC間は中部縦貫自動車道と重複するため、合わせて「E67」も付番されている。
{{混同|北陸自動車道}} {{Infobox_road |種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |アイコン = [[ファイル:TOKAI HOKURIKU EXP(E41).svg|130px|東海北陸自動車道]] |名前 = {{Ja Exp Route Sign|E41}} 東海北陸自動車道 |地図画像 = {{Highway system OSM map|frame-lat=36.05|frame-long=136.965|frame-width=300|frame-height=400|zoom=8|length=|stroke-width=3|plain=yes}} |総距離 = 184.8 [[キロメートル|km]] |開通年 = [[1986年]]([[昭和]]61年) - [[2008年]]([[平成]]20年) |起点 = [[一宮市]]([[一宮ジャンクション|一宮JCT]])<ref name="News20080705" /><ref name="Gifu pref" /> |主な経由都市 = [[各務原市]]、[[関市]]、[[美濃市]]、[[郡上市]]、[[高山市]]、[[南砺市]] |終点 = [[砺波市]]([[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]])<ref name="News20080705" /><ref name="Gifu pref" /> |接続する主な道路 = [[#接続する高速道路|記事参照]] }} '''東海北陸自動車道'''(とうかいほくりくじどうしゃどう、{{Lang-en|TOKAI-HOKURIKU EXPWY}}<ref>{{Cite web|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/en/file/numbering_leaflet_en.pdf|title=Japan's Expressway Numbering System|accessdate=2022-04-04|publisher=Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism|format=PDF}}</ref>)は、[[愛知県]][[一宮市]]から[[岐阜県]]を[[経由]]して[[富山県]][[砺波市]]へ至る、[[東海地方]]と[[北陸地方]]を結ぶ[[日本の高速道路|高速道路]]([[高速自動車国道]])である。[[略語|略称]]は'''東海北陸道'''(とうかいほくりくどう)。 [[高速道路ナンバリング]]による路線番号は、[[能越自動車道]]と共に「'''E41'''」が割り振られているほか、[[白鳥インターチェンジ]] (IC) - [[飛驒清見インターチェンジ|飛驒清見IC]]間は[[中部縦貫自動車道]]と重複するため、合わせて「'''E67'''」も付番されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/sign/numbering/list/index.html|title=高速道路ナンバリング一覧|accessdate=2020-11-20|publisher=国土交通省}}</ref>。 == 概要 == [[国土開発幹線自動車道]]の予定路線は以下のとおりとされている。 {| class="wikitable" !起点 !主たる経過地 !終点 |- |[[一宮市]] |[[関市]] [[岐阜県]][[大野郡]][[荘川村]]付近 |[[砺波市]] |} 下記の通り[[高速自動車国道]]の[[路線]]とされている。 {| class="wikitable" !起点 !重要な経過地 !終点 |- |一宮市 |[[各務原市]] [[岐阜市]] 関市 [[美濃市]] [[郡上市]] [[高山市]] [[飛騨市|飛驒市]] [[南砺市]] |砺波市 |} 東海と北陸の両地域の安定した交通の確保と交流の活性化を目的として東海北陸自動車道が整備された。[[一宮ジャンクション]] (JCT) - [[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]]の総事業費は、約1兆2190億円である<ref name="News20080705">{{Cite news |title=東海北陸道、全線開通 富山-一宮IC間、3時間切る |newspaper=[[北日本新聞]] |date=2008-07-05 |url=http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20080705/13092.html |publisher=北日本新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080709062917/http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20080705/13092.html |archivedate=2008-07-09}}</ref><ref name="岐阜新聞20071109" />。道路カラーは岐阜の山間部を縦断するイメージから茶({{Color|#b1674a|■}})<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/cnexco_official/status/1452452879717965830|title=みちのつぶやき~NEXCO中日本~ (@cnexco_official)の2021年10月25日のツイート|accessdate=2021-10-25}}</ref>。 [[2000年]](平成12年)頃は当時の岐阜県[[郡上郡]][[八幡町 (岐阜県)|八幡町]](現・[[郡上市]])から富山県[[西礪波郡]][[福光町]](現・南砺市)にかけては[[豪雪地帯]]を通過するため、通行止めとなって本来の利用目的である時間短縮などのメリットがあまりないと考えられていた。しかし全線開通により、一宮JCT - 小矢部砺波JCT区間が[[北陸自動車道]]経由に比べ約65&nbsp;km(キロメートル)の距離短縮となった。これは時間にすると普通車で15分ほど早くなり<ref name="News20080705" />、所要時間は約3時間である<ref>{{Cite book|和書|author=清水草一|authorlink=清水草一|year=2002|date=2002-08-22|title=この高速はいらない。 高速道路構造改革私論|publisher=[[三推社]]/[[講談社]]|isbn=4-06-211515-8|page=108}}</ref>。さらに[[美濃インターチェンジ|美濃IC]] - [[白鳥インターチェンジ|白鳥IC]]間の4車線化によって渋滞が緩和され所要時間が大幅に短縮された。 道路の整備に伴い、北陸方面には東海地方からの、[[飛騨地方]]には[[西日本]]からの観光客が増加し、[[道路交通センサス]]によれば、全線開通以前の[[2005年]](平成17年)と全通後の[[2010年]](平成22年)の平日24時間交通量での比較で、特に白川郷IC - 五箇山ICで2,033台から4,626台と、2倍以上交通が増加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/data/pdf/kasyo21.pdf |title=平成22年度道路交通センサス 一般交通量調査 箇所別基本表 |format=PDF |publisher=国土交通省道路局 |accessdate=2017-07-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/road/census/h17/03/01_16_1_1830.html |title=平日24時間交通量(平成17年度道路交通センサス) |publisher=国土交通省 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 当自動車道の最高地点の標高は1,085&nbsp;m([[メートル]])であり、[[松ノ木峠パーキングエリア]]付近にある。この地点は日本の高速自動車国道で最も標高が高い<!--出典の高速道路だと安房峠道路が含まれてしまう--><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.driveplaza.com/area/haikara/shin-etsu/pdf/shin-etsu_06_trivia.pdf |title=高速道路トリビア |format=PDF |website=E-NEXCO Drive Plaza |work=はいからな旅 信越 |publisher=東日本高速道路 |accessdate=2016-01-20}}</ref>{{sfn|佐滝剛弘|2016|p=45}}。また、[[道路構造令]]での規格は第1種第3級で<ref>{{Cite web|和書|date=2006-09-28 |url=https://www.jehdra.go.jp/pdf/kiken/kiken1_12.pdf |title=東海北陸自動車道 飛驒トンネル概要 |format=PDF |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-05}}</ref>、設計速度は80&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]である<ref name="Gifu pref" />。 == インターチェンジなど == * IC番号欄の背景色が<span style="color:#BFB">■</span>である区間は既開通区間に存在する。施設欄の背景色が<span style="color:#CCC">■</span>である区間は未開通区間または未供用施設に該当する。未開通区間および未供用施設の名称は仮称である。 * [[バス停留所|バスストップ]] (BS)のうち、○/●は運用中の施設。無印はBSなし。 * [[スマートインターチェンジ]] (SIC) は背景色<span style="color:#eda5ff;">■</span>で示す。 * その他の英略字は、ICは[[インターチェンジ]]、JCTは[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]、PAは[[パーキングエリア]]、SAは[[サービスエリア]]をそれぞれ示す。 * 路線名の特記がないものは[[市町村道|市道]]。 {|class="wikitable" |- !style="border-bottom:3px solid green"|IC<br />番号 !style="border-bottom:3px solid green"|施設名 !style="border-bottom:3px solid green"|接続路線名 !style="border-bottom:3px solid green"|[[一宮ジャンクション|一宮JCT]] から (km) !style="border-bottom:3px solid green"|[[バス停留所|BS]] !style="border-bottom:3px solid green"|備考 !colspan="2" style="border-bottom:3px solid green"|所在地 |- |colspan="8" style="background-color:#CCC; text-align:center"|[[一宮西港道路]]([[地域高規格道路#路線指定|計画路線]])<ref name="Ichinomiyanishikou" /> |- ! style="background-color:#BFB" |1 |[[一宮稲沢北インターチェンジ|一宮稲沢北IC]] |[[岐阜県道・愛知県道14号岐阜稲沢線|県道14号岐阜稲沢線]]([[西尾張中央道]]) | style="text-align:right" |0.0 | style="text-align:right" | |高山方面出入口 | colspan="2" rowspan="5" |[[愛知県]]<br />[[一宮市]] |- ! style="background-color:#BFB" |25-1 |[[一宮ジャンクション|一宮JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]] | style="text-align:right" |0.0 | style="text-align:center" | - |小矢部砺波JCT方面のみ |- !style="background-color:#BFB"|1-1 |[[一宮西インターチェンジ|一宮西IC]] |県道14号岐阜稲沢線(西尾張中央道) |style="text-align:right"|1.0 |style="text-align:center"| |名神方面出入口 |- !style="background-color:#BFB"|2 |[[尾西インターチェンジ|尾西IC]] |[[愛知県道148号萩原三条北方線|県道148号萩原三条北方線]] |style="text-align:right"|3.9 |style="text-align:center"| |高山方面出入口 |- !style="background-color:#BFB"|3 |[[一宮木曽川インターチェンジ|一宮木曽川IC]] |[[国道22号]]([[名岐バイパス]]) |style="text-align:right"|7.7 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[木曽川本川橋]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|10.6 |style="text-align:center"|- |橋長 598 m<!--<br />東海北陸自動車道で一番長い橋--> |rowspan="27" style="width:1em"|[[岐阜県]] |rowspan="3"|[[各務原市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[川島パーキングエリア|川島PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|11.3 |style="text-align:center"| |[[ハイウェイオアシス]]併設<br />[[河川環境楽園]] |- !style="background-color:#BFB"|4 |[[岐阜各務原インターチェンジ|岐阜各務原IC]] |[[国道21号]]([[那加バイパス]]) |style="text-align:right"|13.3 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[蘇原バスストップ|蘇原BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|18.8 |style="text-align:center"|○ | |[[岐阜市]] |- !style="background-color:#BFB"|5 |[[関インターチェンジ (岐阜県)|関IC]] |[[国道248号]] |style="text-align:right"|25.5 |style="text-align:center"| | |rowspan="5"|[[関市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[小瀬バスストップ|小瀬BS]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|27.8 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[関サービスエリア|関SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|28.0 |style="text-align:center"| |岐阜・名古屋方面 |- !style="background-color:#BFB"|- |[[長良川サービスエリア|長良川SA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|30.1 |style="text-align:center"| |高山・富山方面 |- !style="background-color:#BFB"|5-1 |[[美濃関ジャンクション|美濃関JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]] |style="text-align:right"|31.1 |style="text-align:center"|- | |- !style="background-color:#BFB"|6 |[[美濃インターチェンジ|美濃IC]] |[[岐阜県道94号岐阜美濃線|県道94号岐阜美濃線]] |style="text-align:right"|32.4 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="2"|[[美濃市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[古城山パーキングエリア|古城山PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|38.3 |style="text-align:center"| |岐阜・名古屋方面 |- !style="background-color:#BFB"|7 |[[美並インターチェンジ|美並IC]] |[[国道156号]] |style="text-align:right"|49.6 |style="text-align:center"|○ | |rowspan="8"|[[郡上市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[瓢ヶ岳パーキングエリア|瓢ヶ岳PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|50.8 |style="text-align:center"| |高山・富山方面 |- !style="background-color:#BFB"|8 |[[郡上八幡インターチェンジ|郡上八幡IC]] |国道156号<br /><span style="background-color:#CCC">[[濃飛横断自動車道]](計画中)</span><ref name="Nbod01" /> |style="text-align:right"|59.8 |style="text-align:center"|○ | |- <!--!style="background-color:#BFB"|8-1--> <!--|style="background-color:#CCC"|[[八幡ジャンクション (岐阜県)|八幡JCT]]--> <!--|style="background-color:#CCC"|[[濃飛横断自動車道]](計画中)--> <!--|style="background-color:#CCC;|--> <!--|style="text-align:right"|--> <!--| |---> !style="background-color:#BFB"|9 |[[ぎふ大和インターチェンジ|ぎふ大和IC]]/[[ぎふ大和パーキングエリア|PA]] |[[岐阜県道52号白鳥板取線|県道52号白鳥板取線]] |style="text-align:right"|66.0 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|10 |[[白鳥インターチェンジ|白鳥IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]<br />([[中部縦貫自動車道#油坂峠道路|油坂峠道路]])[[福井市|福井]]方面 |style="text-align:right"|76.4 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|11 |[[高鷲インターチェンジ|高鷲IC]] |[[岐阜県道45号高鷲インター線|県道45号高鷲インター線]] |style="text-align:right"|84.4 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[鷲見橋]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|87.7 |style="text-align:center"|- |下り線の橋脚高日本一 125&nbsp;m |- !style="background-color:#BFB"|11-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[ひるがの高原サービスエリア|ひるがの高原SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[岐阜県道321号ひるがの高原線|県道321号ひるがの高原線]] |style="text-align:right"|91.5 |style="text-align:center"|○ | |- !style="background-color:#BFB"|12 |[[荘川インターチェンジ|荘川IC]] |[[国道158号]] |style="text-align:right"|98.3 |style="text-align:center"| | |rowspan="3"|[[高山市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[松ノ木峠パーキングエリア|松ノ木峠PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|109.2<br />109.5 | |日本の高速道路の最高地点 1,085 m{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=140-141|ps=、真上に跨道橋が架かっており、標高日本一の標識が掲げてある。}}{{sfn|佐滝剛弘|2016|p=45}}<br />上下線で0.3 km差異がある<ref>”サービスエリアガイド ■名神・北陸道版■ 2017年7月発行”.[[中日本エクシス]]</ref> |- !style="background-color:#BFB"|13 |[[飛驒清見インターチェンジ|飛驒清見IC]] |{{Ja Exp Route Sign|E67}} 中部縦貫自動車道<br />([[中部縦貫自動車道#高山清見道路|高山清見道路]])[[高山市|高山]]方面 |style="text-align:right"|117.3 |style="text-align:center"| |この先小矢部砺波JCT方面 [[対面通行]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[飛驒河合パーキングエリア|飛驒河合PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|130.2 | | |rowspan="2"|[[飛騨市|飛驒市]] |- !rowspan="2" style="background-color:#BFB"|- |rowspan="2"|[[飛驒トンネル]] |rowspan="2" style="text-align:center"|- |rowspan="2" style="text-align:right"|130.4<br />-<br />141.1 |rowspan="2" style="text-align:center"|- |rowspan="2"|長さ 10,710 m{{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=48-50}}<br />危険物積載車両通行禁止<ref name="Danger">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/safety/tokusya/tokusya03.html |title=危険物積載車両の通行禁止・制限 |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-25}}</ref> |- |rowspan="3"|[[大野郡]]<br />[[白川村]] |- !style="background-color:#BFB"|14 |[[白川郷インターチェンジ|白川郷IC]] |国道156号 |style="text-align:right"|142.2 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|- |[[飛驒白川パーキングエリア|飛驒白川PA]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|143.6<br />143.5 | |上下線で0.1 km差異がある |- !style="background-color:#BFB"|15 |[[五箇山インターチェンジ|五箇山IC]] |国道156号 |style="text-align:right"|157.4 |style="text-align:center"| | |rowspan="7" style="width:1em"|[[富山県]] |rowspan="6"|[[南砺市]] |- !style="background-color:#BFB"|- |[[袴腰トンネル]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|159.0<br />-<br />164.9 |style="text-align:center"|- |長さ 5,939 m<br />危険物積載車両通行禁止<ref name="Danger" /> |- !style="background-color:#BFB"|- |[[城端トンネル]] |style="text-align:center"|- |style="text-align:right"|165.0<br />-<br />168.2 |style="text-align:center"|- |長さ 3,196 m<br /> |- !style="background-color:#BFB"|15-1 |style="background-color:#eda5ff"|[[城端サービスエリア|城端SA/SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|市道桜ヶ池クアガーデン線 |style="text-align:right"|169.9 |style="text-align:center"|○ |ハイウェイオアシス併設<br />[[城端サービスエリア#ハイウェイオアシス|桜ヶ池クアガーデン]] |- !style="background-color:#BFB"|16 |[[福光インターチェンジ|福光IC]] |[[国道304号]] |style="text-align:right"|173.8 |style="text-align:center"| |「路外給油サービス」が行われている<ref>{{Cite press release |和書 |title=「路外給油サービス社会実験」の開始 &#12316;ETC車限定・東海北陸道 福光IC&#12316; |publisher=中日本高速道路 |date=2016-07-01 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/3880.html |accessdate=2017-07-23}}</ref><br />(詳細は「[[福光インターチェンジ]]」を参照) |- !style="background-color:#BFB"|17 |style="background-color:#eda5ff"|[[南砺スマートインターチェンジ|南砺SIC]] |style="background-color:#eda5ff"|[[富山県道279号安居福野線|県道279号安居福野線]] |style="text-align:right"|181.4 |style="text-align:center"| | |- !style="background-color:#BFB"|19 |[[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]] |{{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]] |style="text-align:right"|184.8 |style="text-align:center"| | |[[小矢部市]]<br />[[砺波市]] |- |colspan="8" style="text-align:center"|{{Ja Exp Route Sign|E41}} [[能越自動車道]] |} == 歴史 == === 年表 === {{出典の明記|section=1|date=2017年7月2日 (日) 07:24 (UTC)}} * [[1964年]]([[昭和]]39年)[[7月1日]] : [[s:東海北陸自動車道建設法|東海北陸自動車道建設法]]公布<ref name="とやま経済月報200806">{{Cite news |title=東海北陸自動車道 全線開通への期待(その1) -全線開通までの歩み- |newspaper=とやま経済月報 |date=2008-06 |author=富山県土木部道路課 |url=http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2008jun/tokushu/index1.html |publisher=富山県経営管理部統計調査課}}</ref>。 * [[1966年]](昭和41年)7月1日 : 同法廃止、同時に[[s:国土開発幹線自動車道建設法|国土開発幹線自動車道建設法]]の改正により国土開発幹線自動車道の予定路線とされる。 * [[1970年]](昭和45年)[[6月18日]] : 一宮JCT - 白鳥IC 基本計画告示。 * [[1971年]](昭和46年)[[6月8日]] : 福光IC - 小矢部砺波JCT 基本計画告示。 * [[1972年]](昭和47年)[[6月20日]] : 一宮JCT - 美濃IC 整備計画・施行命令<ref name="図夢in中部2008">{{Cite web|和書|date=2008-08 |url=http://www.ccainet.org/wp-content/uploads/2019/08/vol.22.pdf |title=東海北陸自動車道の全線開通によせて |author=岐阜県県土整備部道路建設課 |work=図夢in中部(ズームinチュウブ) Vol.22 |publisher=建設コンサルタンツ協会中部支部 |accessdate=2017-07-05}}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年)[[11月1日]] : 白鳥IC - 福光IC 基本計画告示。 * [[1978年]](昭和53年)[[11月21日]] : 福光IC - 小矢部砺波JCT 整備計画・施行命令。 * [[1979年]](昭和54年)[[3月2日]] : 美濃IC - 白鳥IC 整備計画・施行命令<ref name="図夢in中部2008" />。 * [[1980年]](昭和55年)[[10月29日]] : 各務原トンネルにて起工式<ref name="図夢in中部2008" />。 * [[1986年]](昭和61年) ** [[1月21日]] : 白鳥IC - 荘川IC 整備計画決定。 ** [[2月16日]] : 開通を記念して日本初の高速道路マラソンを実施<ref name="図夢in中部2008" />。 ** [[3月5日]] : 岐阜各務原IC - 美濃IC開通(4車線)<ref name="Gifu pref" /><ref name="図夢in中部2008" />。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[6月17日]]:福光IC - 小矢部砺波JCT間着工<ref>『北陸自動車道20周年記念誌』(1993年3月、日本道路公団金沢管理局発行)157頁より。</ref>。 ** [[9月22日]] : 白鳥IC - 荘川IC 施行命令。 * [[1989年]]([[平成]]元年)[[3月29日]] : 荘川IC - 福光IC 整備計画決定。 * [[1990年]](平成2年)[[12月28日]] : 五箇山IC - 福光IC 施行命令。 * [[1991年]](平成3年)[[3月28日]] : 荘川IC - 飛驒清見JCT 施行命令。 * [[1992年]](平成4年)3月28日 : 福光IC - 小矢部砺波JCT開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。これにより、北陸自動車道と接続。 * [[1993年]](平成5年)[[11月19日]] : 飛驒清見JCT - 五箇山IC 施行命令。 * [[1994年]](平成6年)[[3月25日]] : 美濃IC - 美並IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。 * [[1996年]](平成8年) ** 3月28日 : 能越自動車道開通により、小矢部砺波JCTで能越自動車道と直結<ref>{{Cite news|和書|title = 能越道が部分開通 小矢部砺波JCT - 福岡IC間|newspaper = 北日本新聞|date = 1996-03-29|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。 ** [[4月18日]] : 美並IC - 郡上八幡IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。 ** [[11月12日]] : 飛驒トンネル起工。 [[File:Near the Koseko tunnel in Tokai Hokuriku Expressway.jpg|thumb|郡上八幡IC - ぎふ大和ICの小瀬子トンネル付近]] * [[1997年]](平成9年) ** [[3月24日]] : 一宮木曽川IC - 岐阜各務原IC開通(4車線)<ref name="Gifu pref" />。 ** [[11月10日]] : 郡上八幡IC - 白鳥IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。 * [[1998年]](平成10年) ** [[2月20日]] : 尾西IC - 一宮木曽川IC開通(4車線)<ref name="Gifu pref" />。 ** [[12月13日]] : 一宮JCT - 尾西IC開通(4車線)<ref name="Gifu pref" />これにより、名神高速道路と接続。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月18日]] : 美濃IC - 白鳥IC 4車線化工事着手。 ** [[9月18日]] : 台風16号で国道156号が通行不能になったため白鳥IC-高鷲ICが緊急開通(8:00から22日17:00まで)。 ** 11月1日 : 白鳥ICで中部縦貫自動車道(油坂峠道路)と接続。 ** [[11月27日]] : 白鳥IC - 荘川IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。 * [[2000年]](平成12年) ** [[9月30日]] : 五箇山IC - 福光IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" /><ref>{{Cite news|和書|title = 東海北陸道 福光 - 五箇山きょう開通|newspaper = 北日本新聞|date = 2000-09-30|issue = 朝刊|pages = 1}}</ref>。 ** [[10月7日]] *** 荘川IC - 飛驒清見IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />、開通区間の109.3&nbsp;[[距離標|KP]]付近が日本の高速道路の標高最高地点となる。 *** 飛驒清見ICで[[中部縦貫自動車道#高山清見道路|中部縦貫自動車道高山清見道路]]と接続<ref name="tyubu-jukan">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/shakai-kiban/doro/kosoku-doro/11651/project_gaiyou4.html|title=中部縦貫自動車道の概要|publisher=岐阜県|accessdate=2017-07-25}}</ref> * [[2002年]](平成14年)[[11月16日]] : 白川郷IC - 五箇山IC開通(2車線)<ref name="Gifu pref" />。 * [[2003年]](平成15年)[[12月24日]] : 瓢ヶ岳PA - 郡上八幡ICの4車線化工事着手。 * [[2004年]](平成16年) ** [[12月4日]] : 美濃IC - 瓢ヶ岳PA、白鳥IC付近の4車線化<ref name="Gifu pref" />。 * [[2005年]](平成17年) ** [[3月19日]] : 美濃関JCT開通により、東海環状自動車道と接続。 ** [[7月14日]] : ぎふ大和IC - 白鳥ICの4車線化工事着手。 * [[2006年]](平成18年)[[6月1日]] : 郡上八幡IC - ぎふ大和ICの4車線化工事着手。 * [[2007年]](平成19年)[[1月13日]] : 飛驒トンネル(本坑)貫通<ref name="Gifu pref" /><ref name="Hida tunnel">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/operation/construction/progress/hida_tunnel/|title=東海北陸自動車道「飛騨トンネル」について|publisher=中日本高速道路|accessdate=2017-07-02}}</ref>。 [[File:TOKAI-HOKURIKU EXPWY The vicinity of Nihongi tunnel.jpg|thumb|飛驒清見IC - 白川郷IC]] * [[2008年]](平成20年) ** [[7月5日]] : 飛驒清見IC - 白川郷IC開通(2車線)これにより、'''全線開通'''<ref name="News20080705" /><ref name="Gifu pref" /><ref>{{Cite news |title=県民の心結ぶ新大動脈 東海北陸道が全線開通 |newspaper=[[中日新聞]] |date=2008-07-06 |publisher=中日新聞社}}</ref><ref name="Zentsu" />。 ** [[7月18日]] : 瓢ヶ岳PA - 郡上八幡ICの4車線化<ref name="Gifu pref" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=7月18日、東海北陸自動車道 瓢ヶ岳(ふくべがたけ)PA&#12316;郡上八幡(ぐじょうはちまん)IC間が4車線になります -瓢ヶ岳PA&#12316;郡上八幡IC間の渋滞が解消- |publisher=中日本高速道路 |date=2008-06-24 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1017 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年) ** [[2月20日]] : ぎふ大和IC - 白鳥ICの4車線化<ref name="Gifu pref" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=2月20日、東海北陸自動車道 ぎふ大和(やまと)ICから白鳥(しろとり)IC間が4車線になります -ぎふ大和IC&#12316;白鳥IC間の渋滞が解消- |publisher=中日本高速道路 |date=2009-02-13 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1290 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 ** [[4月1日]] : ひるがの高原スマートIC恒久化<ref>{{Cite press release |和書 |title=4月1日 新たに5ヵ所のスマートインターチェンジの営業を開始します |publisher=中日本高速道路 |date=2009-03-30 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1343 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 ** [[4月27日]] : 白鳥IC - 飛驒清見IC 4車線化整備計画承認<ref name="4車線化">{{Cite web|和書|date=2011-05-19 |url=https://www.mlit.go.jp/common/000144822.pdf |title=岐阜県における高速道路の課題について |format=PDF |publisher=[[岐阜県知事]][[古田肇]] |page=14 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 ** [[5月29日]] : [[国土交通大臣]]により整備計画が変更<ref name="4車線化" />。 ** [[7月17日]] : 郡上八幡IC - ぎふ大和ICの4車線化<ref name="Gifu pref" />。これにより、一宮JCT - 白鳥ICは4車線となった<ref>{{Cite press release |和書 |title=7月17日、東海北陸自動車道 郡上八幡ICからぎふ大和IC間が4車線になります -瓢ヶ岳PAから白鳥IC間の4車線化工事が完成 - |date=2009-05-21 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1421 |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 ** [[10月16日]] : 補正予算で計上された白鳥IC - 飛驒清見ICの4車線化事業の凍結が閣議決定<ref name="4車線化" />。 * [[2010年]](平成22年)[[4月9日]] : [[国土交通省]]より、一時凍結のあった白鳥IC - 飛驒清見ICの4車線化事業を再着手すると表明<ref name="凍結解除表明">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_000873.html|title=大臣発言(高速道路の再検証の結果と新たな上限制の導入を含めた料金制について)|publisher=国土交通省|accessdate=2017-07-02}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年)[[3月1日]] : 南砺スマートICの連結を許可<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速道路へのスマートインターチェンジの追加設置について |publisher=国土交通省 |date=2011-03-01 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000153.html}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[4月20日]] : 白鳥IC - 飛驒清見ICの4車線化事業許可<ref name="Gifu pref" /><ref>{{Cite press release |和書 |title=東海北陸道4車線化、東京外かく環状道路、名古屋環状2号線等の事業許可 |date=2012-04-20 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=2586 |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 [[File:Rest area status in Tokai-Hokuriku Expressway.jpg|200px|right|thumb|SA・PAの三段標識の一例<br />(郡上八幡IC - ぎふ大和IC)]] * [[2013年]](平成25年) ** [[3月28日]] : ぎふ大和PAの施設がリニューアルオープンし、駐車場・トイレがそれぞれ拡充・拡張<ref name="PA">{{Cite press release |和書 |title=日本で一番標高が高いパーキングエリアがオープン&#12316;東海北陸道 松ノ木峠パーキングエリア&#12316; |date=2013-04-05 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=3147 |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 ** [[4月19日]] : 松ノ木峠PAが正式に供用を開始<ref name="PA" />。当PA及び ひるがの高原SA・ぎふ大和PAの駐車場混雑状況を示した三段標識を使用開始。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月1日]] : 南砺スマートIC供用開始<ref>{{Cite news |title=北陸道高岡砺波・東海北陸道南砺スマートIC 3月1日に開通 |newspaper=北日本新聞 |date=2015年1月17日 |publisher=北日本新聞社 |page=2}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=2015年01月28日宮池社長定例会見 要旨 |date=2015-01-28 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/interview/110.html |publisher=中日本高速道路 |accessdate=2017-07-08}}</ref>。 ** [[5月25日]] : 4車線化工事中の白鳥IC - 飛驒清見IC間の白鳥トンネル貫通式を開催<ref>{{Cite news |title=白鳥トンネル貫通式 東海北陸道 4車線延長で初 (岐阜県郡上市) |newspaper=中日住宅ナビ |date=2015-05-26 |url=http://house.chunichi.co.jp/estate/detail.php?id=3349&ts=1433373117 |publisher=中日新聞社 |accessdate=2017-07-08}}</ref>。 * [[2016年]](平成28年) ** [[6月7日]] : 飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間を付加車線設置検証区間に選定<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.mlit.go.jp/common/001134021.pdf |format=PDF |title=付加車線設置の検証路線の選定について 〜高速道路の暫定2車線区間のサービス向上〜 |publisher=国土交通省道路局 |date=2016-06-07 |accessdate=2022-10-26 }}</ref>。 ** [[8月25日]] : 城端トンネル北側 - 福光IC間と南砺スマートIC - 小矢部砺波JCT間に付加車線を設け試験的に4車線化すると発表した。 ** [[10月24日]] : 4車線化工事中の白鳥IC - 飛驒清見IC間の[[軽岡トンネル]]の貫通式を開催。工事中の11本のトンネルの中で最長である<ref>{{Cite press release |和書 |title=東海北陸道(4車線化工事)で一番長いトンネルの貫通式を行います &#12316; 10月24日、軽岡トンネル北坑口 &#12316; |publisher=中日本高速道路 名古屋支社 |date=2016-10-20 |format=PDF |url=https://media2.c-nexco.co.jp/images/press_conference/131/60608892858082ef1c4f33.pdf |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[11月30日]] : 白鳥IC - 高鷲ICの4車線化<ref name="press20181121">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4430.html|title=E41 東海北陸自動車道 白鳥IC〜高鷲IC間ほかの4車線化工事が完成します 〜2018年11月30日(金)から順次ご利用になれます〜|date=2018-11-21|accessdate=2018-11-22|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。 ** [[12月8日]] : ひるがの高原SA - 飛驒清見ICが[[平成30年7月豪雨]]で被災した松ノ木峠PA付近を除いて4車線化<ref name="press20181121" />。 * [[2019年]](平成31年/[[令和]]元年) ** [[3月20日]] : 高鷲IC - ひるがの高原SAの4車線化<ref name="press20190308">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4491.html|title=E41 東海北陸自動車道 白鳥IC〜飛騨清見ICの4車線化工事が完成 高鷲IC〜ひるがの高原SA間が2019年3月20日(水)から4車線でご利用になれます|date=2019-03-08|accessdate=2019-03-08|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。 ** [[3月29日]] : 白川郷IC - 五箇山IC間の一部において、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref name="press20190329">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/common/001283082.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2019-03-29|accessdate=2019-03-29|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** [[9月4日]]:国土交通省が東海北陸道の飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間の全線を10 - 15年後を目処に4車線化する優先整備区間に選定する方針を発表<ref name="press20190904-1">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001305885.pdf|title=暫定2車線区間における優先整備区間選定について|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省|format=PDF|date=2019-9-4}}</ref><ref name="press20190904-2">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001305887.pdf|title=各IC間の課題の評価一覧|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省|format=PDF|month=2019-9-4}}</ref><ref name="toraberu20190906">{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1205656.html|title=国交省、「暫定2車線」を「4車線化」する優先整備区間。道東道、秋田道、常磐道、東海北陸道、東九州道など約880km|date=2019-09-06|accessdate=2021-03-18|publisher=トラベル Watch}}</ref>。 ** [[11月29日]]:松ノ木峠PA付近が4車線化<ref>https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4674.html</ref>。これにより白鳥IC - 飛驒清見ICの4車線化が完了。 * [[2020年]](令和2年) ** [[3月10日]] : 国土交通省が東海北陸道の4車線化優先整備区間のうち、2020年度に新たに4車線化事業に着手する候補箇所として白川郷IC - 福光IC間を選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001332195.pdf|title=高速道路の暫定2車線区間の4車線化について|accessdate=2020-12-15|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF|date=2020-3-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1239858.html|title=国交省、2020年度に4車線化に着手する高速道路の候補選定。15か所、約110km|date=2020-03-10|accessdate=2021-03-18|publisher=トラベル Watch}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/94398|title=暫定2車線高速の4車線化が加速 財政投融資活用15区間 2020年度から事業着手|date=2020-03-10|accessdate=2021-03-18|publisher=乗りものニュース編集部}}</ref>。 ** [[3月31日]] : 白川郷IC - 福光IC間の4車線化工事について国土交通省より事業許可を受ける<ref name=Press20200331>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001337939.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2020-03-31|accessdate=2020-12-26|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** [[8月5日]] : 西尾張IC(仮称)の名称を「一宮稲沢北IC」に決定したと、愛知県および中日本高速道路が発表した<ref name="new IC2020">{{Cite web|和書|title=E41 東海北陸道 西尾張IC(仮称)の名称が 「一宮稲沢北インターチェンジ」に決定しました|accessdate=2020-08-05 |date=2020-08-05 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4860.html |publisher=中日本高速道路}}</ref>。 ** [[11月7日]] : 城端SA - 福光IC間(延長2.3&nbsp;km)が4車線化<ref name="press20201028">{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4920.html|title=E41 東海北陸道 城端SA〜福光IC間の4車線化工事が完成します 〜2020年11月7日(土)から4車線でご利用になれます〜|date=2020-10-28|accessdate=2020-10-28|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[1月9日]]午後 - [[1月10日]] : 記録的な大雪の影響で、福光IC - 小矢部砺波JCT間の上下線で乗用車260台が相次いで立ち往生した<ref>『北日本新聞』2021年1月11日付1面『県内大雪 東海北陸 260台立ち往生』より。</ref>。立ち往生は10日午後10時に解消<ref>[https://www.fnn.jp/articles/-/129499 東海北陸道 一時200台の立ち往生は解消 しかし通行止め続く](FNNプライムオンライン、2021年1月11日)</ref>。 ** [[3月28日]] : 一宮稲沢北IC供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5010.html|title=E41 東海北陸道 一宮稲沢北インターチェンジが2021年3月28日(日)15時に開通します|date=2021-02-05|accessdate=2021-02-05|publisher=愛知県・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 ** [[5月1日]] : 一宮JCT - 美濃関JCT間の料金水準が[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]の水準に変更される<ref name="ngo_newexpfare">{{Cite web|和書| url = https://dc2.c-nexco.co.jp/etc/service/chukyouken_seamless.html | title = 名古屋中京圏の新たな高速道路料金について | publisher = 中日本高速道路 | accessdate = 2021-08-09}}</ref><ref name="c-nexco-20200501">{{Cite web|和書| url = https://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/business/permission/20200501/pdf/20200501_zn1.pdf#page=2 | title = 料金の額及びその徴収期間 | date = 2020-05-01 | accessdate = 2021-08-09 | format = PDF | work = 1.高速自動車国道中央自動車道富士吉田線等に関する事業変更について | publisher=中日本高速道路 | pages = 2-3 }}</ref>。 ** [[11月10日]] : 南砺スマートIC - 小矢部砺波JCT間の一部(延長1.8&nbsp;km)が4車線化<ref name=Press20211008>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5261.html |title=E41 東海北陸道 南砺スマートIC〜小矢部砺波JCT間の一部で 4車線化工事が完成します 〜2021年11月10日(水)から4車線でご利用になれます〜 |date=2021-10-08 |publisher=[[中日本高速道路]] |accessdate=2021-10-09 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1357197.html|title=東海北陸道 南砺スマートIC〜小矢部砺波JCT間の一部区間が4車線化。11月10日開通|accessdate=2021-10-09|publisher=トラベルWatch}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[3月4日]] : 国土交通省が東海北陸道の4車線化優先整備区間のうち、2022年度に新たに4車線化事業に着手する候補箇所として福光IC - 南砺SIC間を選定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001466764.pdf|title=高速道路の暫定2車線区間の4車線化について|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-04|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1392825.html|title=国交省、2022年度に4車線化に着手する高速道路の候補7か所を選定|date=2022-03-04|accessdate=2022-03-04|publisher=トラベル Watch}}</ref>。 ** [[3月30日]]:福光IC - 南砺SIC間において、国土交通省より4車線化工事の事業許可を受ける<ref name=Press20230330>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001473566.pdf|title=高速道路会社への事業許可について|date=2022-03-30|accessdate=2022-03-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 ** 4月:城端スマートICの建設に着手<ref>『北日本新聞』2023年11月7日付22面『東海北陸道 城端スマートIC 来月16日に開通』より。</ref>。 ** [[11月12日]] : 五箇山IC - 城端SA間の一部(延長2.4&nbsp;km)と福光IC - 小矢部砺波JCT間の一部(延長3.5&nbsp;km)が4車線化<ref name=Press20221012>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5540.html|title=E41 東海北陸道 五箇山IC〜小矢部砺波JCT間の一部で4車線化工事が完成します 〜2022年11月12日(土)から4車線でご利用になれます〜|date=2022-10-12|accessdate=2022-10-12|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)[[12月16日]] : 城端スマートICが供用開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/5819.html|title=E41 東海北陸自動車道『城端スマートインターチェンジ』が2023年12月16日(土)14時に開通します|date=2023-11-06|accessdate=2023-11-06|publisher=富山県南砺市・中日本高速道路株式会社}}</ref>。 === 産声をあげた道路構想 === [[名古屋市]]を核とする東海地方と北陸地方との連携の必要性は早くから認識されていた。戦前には[[経済学者]]で[[岐阜大学]]教授の小出保治や名古屋土木出張所長の[[田淵寿郎]]らが[[太平洋]]沿岸と[[日本海]]沿岸を結び、両地域の都市が相互に結ばれ補完し合う事を提言している<ref name="とやま経済月報200806" />。 戦後にいち早く経済的な復興を果たした中京圏では、[[伏木富山港]]を名古屋の補完港として活用するため広域的なネットワークを求める声が上がり、[[1953年]](昭和28年)には現在の[[国道41号]]が国道155号名古屋富山線として制定されたものの、富山県など北陸側では生活道路の整備が十分ではなかったため冬期でも安全に往来が可能な一般道路の整備を求める声が強く、両地域ではまだ広域的な経済圏の構築に対して温度差があった<ref name="とやま経済月報200806" />。 東海北陸自動車道の具体的な計画・整備に向けた発端となったのは、[[1960年]](昭和35年)に[[建設省]](現・[[国土交通省]])が実施した全国の高速道路ネットワークの整備に向けた「自動車道路網整備のための調査」であった<ref name="岐阜新聞20071027">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -大動脈構想が“産声” 1963年にルート案- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-10-27 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。この中で全国の都市および農村から2時間以内にアクセス可能となる幹線道路の計画が構想され、その一環として東海地方と北陸地方を繋ぐ高速道路が立案された<ref name="岐阜新聞20071027" />。 中部地方建設局(現・[[中部地方整備局]])では[[1961年]]頃より図上選定調査を開始し、東海北陸自動車道の原形となる'''中部横断高速自動車道路'''のルートを策定{{Refnest|group="注釈"|後に建設省の道路局長を務めた山根孟によれば、この当時[[中部経済連合会]]に講師として呼ばれた際に東海地方と北陸地方を結ぶ高速道路の構想を打ち明けたところ、当時連合会の顧問を務めていた[[田淵寿郎]]が乗り気になったという。北陸地方との連携を目指す連合会では[[1961年]](昭和36年)4月に中部地域の主要都市を結ぶ連絡道路の計画を公表して「[[関市|関]] - [[白鳥町 (岐阜県)|白鳥]] - [[伏木富山港]]」ルートを提案したほか、[[1963年]](昭和38年)3月には実際に北陸へ視察に訪れている<ref name="岐阜新聞20071027" />。}}。しかし、道路の起点を[[名古屋市]]とする事に異論はなかったものの、終点を北陸のどこにするかで[[福井県]]・[[石川県]]・[[富山県]](富山県内では更に[[富山市]]と[[高岡市]])間の誘致合戦が繰り広げられ、同年[[5月17日]]の三県申し合わせで“3県に等しく利益がもたらされる事”を条件に、富山県に落ち着いた経緯がある<ref name="とやま経済月報200806" />。それに伴い、ルート案には当時[[一級国道]]として東海・北陸を結んでいた[[国道41号]]沿いではなく、福井県寄りに並行する[[二級国道]]の[[国道156号]]沿いが選ばれた<ref name="とやま経済月報200806" />。この理由については前述の3県受益の観点から福井県・石川県からの利便性向上を図るほか<ref name="とやま経済月報200806" />、当時選定にあたった中部建設局企画室の担当者によれば、国道41号は既に改良工事が進んでいた事、同道路沿いは[[飛騨川]]や急峻な山肌など地形的な制約があり建設費がかさむと予想された事、そして当時工事が最盛期を迎えていた[[中央自動車道]]との距離が近過ぎた事を挙げている<ref name="岐阜新聞20071027" />。ただし[[高速道路ナンバリング]]が採用された際には「E41」が採用されている。 この頃には、[[1957年]](昭和32年)の[[国土開発縦貫自動車道建設法]]公布に端を発して全国各地から高速道路を求める機運が高まったほか、北陸地域においては1963年1月の[[昭和38年1月豪雪|38豪雪]]の教訓から、災害時における救援物資の輸送路として他県とのアクセスの重要性が認識され始めた頃であり<ref name="とやま経済月報200806" />、そうした流れを受け同年6月には中部横断高速自動車道路として「[[愛知県]][[一宮市]] - [[富山県]][[高岡市]]」というルート概要が建設省より正式に発表された<ref name="岐阜新聞20071027" />。 === 建設法成立と着工 === [[File:岐阜県岐阜総合庁舎.JPG|200px|thumb|沿線の中で県内延長が一番長い事から、建設促進同盟会の旗振役は岐阜県が務めた]] [[1963年]](昭和38年)7月、会長を[[松野幸泰]][[岐阜県知事一覧|岐阜県知事]]、メンバーを中部地域6県1市<ref group="注釈">沿線となる[[岐阜県|岐阜]]・[[愛知県|愛知]]・[[富山県|富山]]のほか、[[三重県|三重]]・[[石川県|石川]]・[[福井県|福井]]の3県と[[名古屋市]]。</ref>とする「中部横断高速自動車道路の建設促進同盟会」が設立されると<ref name="図夢in中部2008" />、岐阜県選出で[[建設大臣|建設相]]も務めた[[野田卯一]]の支援を受け、岐阜県企画課の担当者が同盟会事務局として手作りの説明資料を片手に[[議員会館]]を奔走した<ref name="岐阜新聞20071028">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -建設法成立 国会通い根回し奔走- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-10-28 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。[[自由民主党 (日本)|自民党]][[自由民主党政務調査会|政調審議会]]では同盟会の幹部が見守る中、東海・北陸間自動車道よりも[[東北自動車道|東北道]]・[[中国自動車道|中国道]]など[[日本列島]]の骨格をなす道路(いわゆる縦貫5道)の優先整備を目指す建設省の[[尾之内由紀夫]]道路局長に対し、[[三木武夫]][[自由民主党政務調査会#政務調査会長|政調会長]]が叱咤するシーンもあったという<ref name="岐阜新聞20071028" />。中部圏全域を一体として内陸高速輸送網整備の進言する[[国際連合|国連]]のワインズマン調査団の中間報告もあり<ref name="とやま経済月報200806" />、[[1964年]](昭和39年)6月に自民・[[日本社会党|社会]]・[[民社党|民社]]3党の19議員により[[東海北陸自動車道建設法|東海北陸自動車道建設法案]]が[[議員立法]]で[[通常国会]]に提出され、同月中に可決・成立し翌[[7月1日]]に公布された<ref name="とやま経済月報200806" /><ref name="岐阜新聞20071028" />。この時のルートは「愛知県一宮市 - 岐阜県関市 - 同県[[大野郡]][[荘川村]](現・[[高山市]])付近 - 富山県砺波市」と定めており<ref name="岐阜新聞20071028" />、総延長約170&nbsp;km、事業費約2,000億円を見込んでいた<ref name="図夢in中部2008" />。なお、この法案で初めて“東海北陸自動車道”という名称が用いられている<ref name="岐阜新聞20071027" />。 建設法が成立したものの、沿線人口の少なさや山岳道路ゆえ建設コストが膨大になると見込まれた事から基本計画・整備計画の決定や事業化は先送りされ、最初の基本計画が告示されたのは法案成立から6年後の[[1970年]](昭和45年)である<ref name="岐阜新聞20071030">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -まず生活道路を 山間部3村長が陳情- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-10-30 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。富山県選出で[[1969年]](昭和44年)に初当選した元[[衆議院議員]]の[[綿貫民輔]]によれば、建設省に道路整備の陳情に行った際には「既に国道が2つ<ref group="注釈">[[国道156号]]と[[国道304号]]の2路線の事。</ref>もあるのに高速道路が要るのか」と当時の[[建設事務次官|事務次官]]からは相手にしてもらえなかったという<ref name="岐阜新聞20071030" />。 結局、[[根本龍太郎]]建設相の方針により、人口が多く一定の利用者数が見込まれる起点部と終点部から建設が進められる事となり<ref name="岐阜新聞20071030" />、[[1970年]]と翌[[1971年]](昭和46年)に南北両端部の基本計画が決定し、[[1972年]](昭和47年)には一宮JCT - 美濃IC間(約33&nbsp;km)が[[高速自動車国道法]]第5条に基づく審議会および整備計画決定を経て、建設相から[[日本道路公団]]に対して施工命令(現在の建設許可に相当)が発せられた<ref name="図夢in中部2008" />。 === 度重なる計画変更 === [[伊勢湾]]と[[敦賀湾]]とを結ぶ[[日本横断運河]]構想の推進派であった[[大野伴睦]]の死去後、[[1970年]](昭和45年)の[[中部圏開発整備本部]]の調査報告書において事実上の運河事業中止宣言とともに代替案として、ルートこそ大幅に異なるものの中部圏における南北の交通網整備が提言され、それが一因となって[[1970年代]]以降は東海北陸道の各事業区間で計画決定や着工が相次いだ<ref name="岐阜新聞20071029">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -日本横断運河構想 もう⼀つの巨大計画- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-10-29 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。<!--この頃には日本全国で進む[[モータリゼーション]]や、それに伴う[[田中角栄]]の[[日本列島改造論]]も追い風となっていた。--> しかしながら沿線では道路計画や[[土地収用]]に対する激しい抵抗もあり、特に[[岐阜市]]東部の芥見地域の住民説明会では当時衆院議員となっていた[[松野幸泰]]元岐阜県知事が「ルートを変える努力をする」と公言してしまった事から、道路公団は[[1973年]](昭和48年)11月に「美濃以南路線問題専門委員会」を立ち上げ、従来計画の2.5&nbsp;km東にずらした現在のルートに変更を余儀なくされた<ref name="図夢in中部2008" /><ref name="岐阜新聞20071031">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -用地買収 価格、ルート交渉難航- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-10-31 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。同様の交渉難航によるルート変更の事例は[[愛知県]]でもあったという<ref name="図夢in中部2008" />。また山間の岐阜県[[郡上郡]][[大和町 (岐阜県)|大和町域]]などでは、道路整備そのものには賛同するものの買収価格に関して激しい駆け引きがあり、一部地権者が受け取った金額は相場の3倍にもなった<ref name="岐阜新聞20071031" />。 このように事業用地の確保は一筋縄ではいかず、[[1976年]](昭和51年)[[7月1日]]に道路公団名古屋建設局と[[岐阜県]]との間で用地買収に関する委託協定が結ばれ設立当初[[岐阜県庁]]の9人体制で始まった岐阜県高速道路事務所は、最盛期には21人まで増強する必要に迫られた<ref name="図夢in中部2008" />。実際に、ある地権者との交渉は140回にも及んだという<ref name="図夢in中部2008" />。 [[File:Miboro Dam Lake from R156.jpg|left|200px|thumb|[[国道156号]]から臨む御母衣ダム<br />東海北陸道も本来はこの辺りを通る計画だった]] [[1986年]](昭和61年)に東海北陸道初の開通区間となる岐阜各務原IC - 美濃IC(約19&nbsp;km)が供用を開始した翌[[1987年]](昭和62年)には、全国の均等な発展を目的に“多極分散型国土の形成”を掲げた[[第四次全国総合開発計画]]のもと[[国土開発幹線自動車道建設法]]が改正され、その中で北陸(とりわけ[[福井県]])と[[首都圏 (日本)|首都圏]]との最短ルートの要となる[[中部縦貫自動車道]]の計画が具体化し、東海北陸道と飛驒地域で連結する運びとなった。これに伴い、従来[[高山市]]から20&nbsp;km以上離れた[[国道156号]]沿いに計画されていた東海北陸道に関し、高山市や高山商工会議所、飛騨高山観光協会では[[1986年]]5月以降、高山市とのアクセス利便性を考慮した路線計画の策定を関係機関や国会議員に陳情<ref name="岐阜新聞20071103">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -幻の御母衣ルート 中部縦貫道絡み変更- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-03 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。また建設省で道路局長や技監を歴任し後に[[参議院議員]]となった[[沓掛哲男]]によれば、福井県選出の重鎮[[福田一]]が[[御母衣ダム]]の南側で両高速道路を接続する構想を持ち出したが、富山・石川方面から東海北陸道・中部縦貫道を使って[[松本市|松本]]方面に抜ける際にV字の大回りを余儀なくされる事から、東海北陸道そのものを[[荘川村]]から東に迂回させ、高山市西部で中部縦貫道(松本方面)と接続した後に西向きに進路を変えて[[白川村]]付近で再び国道156号に沿いに復帰する現在のルートに変更されたという<ref name="岐阜新聞20071103" />。そうして[[1988年]](昭和63年)には環境影響評価準備書に新ルートが盛り込まれた。当時の試算では従来計画に比べ距離が約9&nbsp;km延長するものの、工費は変わらないと試算されていた<ref name="岐阜新聞20071103" /><ref group="注釈">結果的にはこの判断により[[籾糠山]]の直下ルートを余儀なくされ、世紀の難工事となる[[飛驒トンネル]]建設に繋がる事となった。</ref>。 また、インターチェンジについても計画変更があり、当初構想にはなかった美並IC・ぎふ大和IC・高鷲ICの3インターチェンジが地域懇願により追加されている。うち美並ICについては当時の[[福田赳夫]][[内閣総理大臣|首相]]に直談判の末[[1978年]](昭和53年)の整備計画で盛り込まれ<ref name="図夢in中部2008" />、ぎふ大和IC・高鷲ICの両インターチェンジについては[[開発インターチェンジ]]制度を利用して[[1989年]](平成元年)に設置が許可されたものである<ref name="岐阜新聞20071101">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -インターチェンジ開設 大和町、交流人口10倍- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-01 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。 === 土木技術の粋を結集して北進 === 東海北陸自動車道は総延長約185&nbsp;kmのうちトンネルの延長合計が約70&nbsp;km、また橋梁の数も上下線合わせて386本<ref group="注釈">2008年(平成20年)の全線開通時点。全線が4車線化された際には更に増える事となる。</ref>を数え、その中でも建設が後回しにされてきた岐阜県奥美濃から富山県[[砺波平野]]にかけての区間は高速道路の国内最高標高となる[[海抜]]1,085&nbsp;mを通る{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=140-141|ps=、真上に跨道橋が架かっており、標高日本一の標識が掲げてある。}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=130}}、典型的な山岳道路である。それゆえ当該区間の至る所で難関工事を余儀なくされ、随所に当時最新の土木施工技術が投入される事となった。その最たるものが、日本一の橋脚高さを誇る[[鷲見橋]](高鷲IC - 荘川IC間)<ref name="Asahi" />と、貫通当時日本で2番目の長さを誇った[[飛驒トンネル]](飛驒清見JCT - 白川郷IC間、後述)<ref name="Hida tunnel" />である。 [[File:Washimi-bridge.02.JPG|200px|right|thumb|山肌にそびえる鷲見橋]] [[1988年]](昭和63年)に施行命令が下された白鳥IC - 荘川IC間で、旧[[高鷲村]]の[[鷲見川]]にかかる[[橋梁]]である鷲見橋の設計を担当した[[日本道路公団]]名古屋建設局の構造技術課担当者は現地のV字谷と[[山襞]]を見て度肝を抜かしたという<ref name="岐阜新聞20071108">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -日本一高い橋脚 118メートル、谷にそびえ立つ- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-08 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。この区間ではルート線形が[[半径|R]]=600のカーブを描くため構造的に不安定になる[[アーチ橋]]は不可とされ、近辺に安定した工事車両用道路が確保できず長尺の金属製桁が搬入できない事から現場で打設できる[[コンクリート]]を素材とする事が決まった<ref name="岐阜新聞20071108" />。地形的に難工事が予想されるため橋脚の本数を抑える事とし、こうして[[消去法]]的に採用されたのが4径間連続ラーメン橋であった<ref name="岐阜新聞20071108" />。[[1997年]](平成9年)11月より[[鹿島建設]]請負で始まった工事では工期短縮と工費削減、環境保護のため、高強度コンクリートと高強度鉄筋を使用した同社の新工法であるスーパーRC構造で「大口径深礎基礎」を実現したほか、作業場の安全性確保と作業効率上昇のためラチェット型の油圧昇降装置を備えた「自昇式型枠足場」が用いられた<ref name="図夢in中部2008" /><ref name="岐阜新聞20071108" />。2年の工期を経て完成した鷲見橋は長さ436&nbsp;m、橋脚高が日本一となる118&nbsp;mで、それまで日本一の座にあった[[与島高架橋]]([[瀬戸大橋]])の79&nbsp;mを大幅に更新している{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=130}}。 また同じ頃、隣接する全長198&nbsp;[[メートル|m]]の本谷橋でもピー・エス(現・[[ピーエス三菱]])の施工によって日本初の張り出し架設工法による橋波鋼板ウェブを用いたPC3径間連続ラーメン箱桁橋が建設され<ref name="岐阜新聞20071108" />、軽量化による施工効率上昇や工費削減を実現し<ref name="図夢in中部2008" />、こちらはその業績から[[土木学会田中賞]]を受賞した。 なお、これらの橋梁が設計段階にあった[[1990年代]]初頭は[[新東名高速道路|第二東名高速]]・[[新名神高速道路|第二名神高速]]<ref group="注釈">それぞれ現在の新東名高速道路と新名神高速道路。構想当時はこの呼称だった。</ref>プロジェクトが動き出した頃で、それらの道路も同様に山岳道路となる事が確実視されていたため、そちらに投入される可能性のある新技術を試す場として東海北陸道が抜擢された経緯がある<ref name="岐阜新聞20071108" />。実際に、鷲見橋・本谷橋いずれの技術も両高速道路に採用されている。 === 世紀の難工事・飛驒トンネル === 飛驒清見IC - 白川郷ICの24.9&nbsp;kmは最後の開通区間となった。この区間では[[1996年]](平成8年)10月より[[籾糠山]]直下を貫く[[飛驒トンネル]]が[[飛島建設]]の施工で着工された。当初は[[2005年]](平成17年)の[[愛知万博]]前の開通を目指したが<ref name="岐阜新聞20070604">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第1部「期待」 -大動脈、ヤマ越えた飛騨トンネル貫通・・・地盤、湧水と闘い- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-06-04 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>、1,000&nbsp;mもの土かぶりで[[地質調査]]が十分にできなかった事もあって[[1998年]](平成10年)6月には先進坑が予想外の軟弱地盤に当たり、順調ならTBMで月に200–300&nbsp;m進めると見込まれた進捗は、[[新オーストリアトンネル工法|NATM工法]]に切り替えた事もあり[[2002年]](平成14年)頃には月30&nbsp;mという有様であった<ref name="岐阜新聞20071104">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -飛騨トンネル(上)軟弱地盤、大量の湧水- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-04 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。本坑では同年8月よりNATM工法で着工したが、3&nbsp;km進むのに5年もの歳月を要した<ref name="岐阜新聞20071106">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -飛騨トンネル(下)本坑掘削、TBM威力- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-06 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。 軟弱地盤を抜けると今度は硬い[[地盤]]に悩まされ、先進坑では最大で毎分13トン(排水管の坑口部分では70トン)もの大量[[湧水]]対策として水抜きボーリングを<ref name="岐阜新聞20071104" />、世界最大級のTBMが投入された本抗では強固な地盤で1&nbsp;m毎に刃の交換を強いられた<ref name="岐阜新聞20071106" />。高圧粘土層においてTBMが掘進不能に。TBMは止む無く解体された。坑口に“[[臥薪嘗胆]]”の札を掲げ、工事は24時間の突貫で続けられた<ref name="岐阜新聞20071104" />。こうした中、[[2003年]](平成15年)7月から8月にかけて[[森喜朗]]元[[内閣総理大臣|首相]]と[[小泉純一郎]]首相が相次いで現地に視察に訪れている<ref name="建設グラフ200512">{{Cite news |title=最後の難関・飛騨トンネルの19年度開通へ全力 -現職の小泉首相が工事現場を視察- |newspaper=建設グラフ |date=2005-12 |author=中日本高速道路 中部地区清見工事事務所 |url=http://www.jiti.co.jp/graph/int/0512terada/0512terada.htm |publisher=自治タイムス社}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|当時の小泉首相は[[聖域なき構造改革]]の一環として[[日本道路公団]]民営化や公共事業削減を進めており、公団関係者はその場で事業中止が言い渡されるのではないかと肝を冷やしていたという<ref name="岐阜新聞20071109">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -総事業費1.2兆円 飛騨トンネル、工費増- |newspaper=[[岐阜新聞]] |date=2007-11-09 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。しかし、[[8月27日]]に現地視察に訪れた小泉首相は「早く開通する事を期待している」「私も元気をもらった」と作業員を激励し、“道”と書いた直筆の[[署名|サイン]]を残している<ref name="Hida tunnel" />。}}。現職の総理大臣が高速道路の施工現場に駆け付けるのは初めての事であった<ref name="建設グラフ200512" />。 [[2006年]](平成18年)3月に先進坑が、翌[[2007年]](平成19年)1月には本坑が貫通<ref name="岐阜新聞20071104" /><ref group="注釈">先進坑着工から本坑貫通まで実に10年近い期間を要したものの飛驒トンネルは死亡事故0を達成しており、同様に難工事として知られ多くの死者を出した[[関越トンネル]]、[[黒部ダム]]、[[青函トンネル]]と比べて特筆される。</ref>。貫通当時は日本国内で2番目、世界でも8番目に長い道路トンネルであった<ref name="Hida tunnel" />。これを受けて全線開通の時期を当初[[2008年]](平成20年)3月末と予定したが、飛驒トンネル貫通点付近での地山の崩落や「盤膨れ」と呼ばれる壁面の膨張などが発生したため開通時期を同年7月頃に延期<ref>{{Cite news |title=貫通後も飛騨トンネル坑内の壁面が膨張、東海北陸自動車道の開通を延期 |newspaper=nikkei BP net |date=2007-11-06 |url=http://www.nikkeibp.co.jp/news/const07q4/550694/ |publisher=[[日経BP社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071107124402/http://www.nikkeibp.co.jp/news/const07q4/550694/ |archivedate=2007-11-07}}</ref>、その後の正式発表を経て[[7月5日]]15時に[[中日本高速道路|NEXCO中日本]]は飛驒清見IC - 白川郷IC24.9&nbsp;kmを開通させ、この日を以って、[[1972年]](昭和47年)より工事着手した東海北陸自動車道は36年の歳月を経て全線開通となった<ref name="とやま経済月報200806" />。最後の開通区間の事業費は1860億円(うち飛驒トンネルは当初予定の約4割増となる980億円<ref name="岐阜新聞20071109" />)で、全線での総事業費は1兆2190億円であった<ref name="岐阜新聞20071109" />。 === 全線開通と新たな課題 === [[File:Tokai-Hokuriku Expressway.Shirakawa-Bridge.01.JPG|left|200px|thumb|白川郷の合掌造りと白川橋]] 東海北陸自動車道が全通すると、[[北陸自動車道|北陸道]]からの転換効果もあり交通量はほぼ全区間に亘り増え、特に休日の増加率が顕著になっている事が確認された<ref name="NEXCO中日本20090318">{{Cite press release |和書 |title=東海北陸自動車道(飛騨清見IC&#12316;白川郷IC間)開通から2月までの交通状況と開通の効果 |publisher=中日本高速道路 |date=2009-03-18 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1329}}</ref>。物流効率の上昇による経済活性化(岐阜県試算によれば30年間で約5兆6000億円の効果<ref name="Gifu pref" />)、沿線観光資源の振興、交通事故の減少による安全性・定時性確保など域内外の利用者に便益をもたらしており、例えば、環日本海ゲートウェイとして[[日本海]]側の総合的拠点港を目指す[[伏木富山港]]を抱える[[富山県]]の「環日本海物流ゴールデンルート構想」では、[[2012年]](平成24年)に[[ウラジオストク]]との間で定期就航を開始した[[RO-RO船]]と共に<ref name="北國新聞20130214">{{Cite news |title=ロシア輸出が急回復 伏木富山港 |newspaper=[[北國新聞]] |date=2012-02-14 |publisher=北國新聞社}}</ref>、東海北陸道が構想の基盤をなしている<ref name="とやま経済月報201209">{{Cite news |title=伏木富山港 環日本海物流ゴールデンルート構想 |newspaper=とやま経済月報 |date=2012-09 |author=富山県商工労働部立地通商課 |url=http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2012sep/tokushu/index2.html |publisher=富山県経営管理部統計調査課}}</ref>。実際、全線開通前には中京圏の企業が相次いで伏木富山港を視察に訪れ、その将来性を実感していたという<ref name="岐阜新聞20080419">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第4部「産業」 -日本海ルート 広がる物流の選択肢- |newspaper=岐阜新聞 |date=2008-04-19 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。また、岐阜県の山間部にとっては高速道路が[[高山市]]などの[[救急指定病院|救急医療施設]]への搬送路確保に一役買っており、かつて[[白川村]]で村長を務めた和田正美は「昔は[[虫垂炎]]であの世へというのが常識だった」と述懐し、全線開通した今を「夢のような時代」と表現する<ref name="岐阜新聞20071030" />。また、白川村では高校生が下宿通学から解放され自宅通学可能になるというメリットもみられた<ref>{{Cite web|和書|date=200|url=https://www.mlit.go.jp/road/koka8/4/4-7.html|title=道路整備効果事例集 一本のトンネルが家族だんらんへ――4-7|publisher=国土交通省|accessdate=2019-04-20}}</ref>。 一方で、[[世界遺産]]として有名な[[白川郷]]では近年観光客が激増しており、過度な増加による景観破壊を懸念する声があるほか<ref name="山陰中央新報20060912">{{Cite news |title=石見銀山遺跡 世界遺産への課題 -景観破壊悩む岐阜・白川郷- |newspaper=[[山陰中央新報]] |date=2006-09-12 |publisher=山陰中央新報社}}</ref>、行楽シーズンには最寄りの[[白川郷インターチェンジ|白川郷IC]]で観光地周辺の駐車場の容量不足により駐車場待ちの渋滞が発生し、その車列がインターチェンジを越えて東海北陸道本線にまで伸びるという新たな問題も発生しており<ref name="岐阜新聞20080207">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第3部「観光」 -白川郷に車の波 景観保全へ対策必要- |newspaper=岐阜新聞 |date=2008-02-07 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>、[[2008年]](平成20年)の全線開通による交通量増はこの問題に一層拍車をかけている<ref name="朝日新聞20081126">{{Cite news |title=合掌集落は大渋滞...高速道開通で観光客激増 岐阜・白川 |newspaper=朝日新聞 |date=2008-11-26 |publisher=朝日新聞社}}</ref>。 === 4車線化事業の迷走 === 東海北陸道は全線が4車線(片側2車線)で計画されているが連続4車線で走行できるのは一宮JCT - 飛驒清見IC間 (117.3&nbsp;km) である。飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線による[[対面通行]]区間であり(美濃IC - 飛驒清見ICも開通当初は暫定2車線で供用していた)、この区間ではインターチェンジ付近(五箇山IC、福光IC)とサービスエリア・パーキングエリア付近(飛驒白川PA)には[[追越車線]]が設置されている。山地部を通るものの[[登坂車線]]は存在せず、代わりにゆずり車線が上り線2箇所、下り線3箇所に存在する。 暫定供用区間のうち白鳥IC - 飛驒清見IC間 (40.9&nbsp;km) については、とりわけ高鷲IC付近で事故が多発していることから[[2009年]](平成21年)[[4月27日]]に開催された第4回[[国土開発幹線自動車道建設会議]]において着工の前提となる整備計画変更が了承され、[[合併施行方式]]による4車線化拡幅整備が進められることとなり<ref name="岐阜新聞20090427">{{Cite news |title=白鳥IC-飛騨清見JCT4車線化、年度内に着手 |newspaper=岐阜新聞 |date=2009-04-27 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>、2014年度(一部2012年度)の開通を予定していた。 しかし、同年7月の[[第45回衆議院議員総選挙]]の結果[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が政権につくと、[[鳩山由紀夫内閣]]の掲げる「コンクリートから人へ」の大号令の下に相次いで日本全国の大型公共事業の凍結が打ち出され、[[補正予算]]が執行停止された東海北陸道の拡幅事業(補正予算額805億円)は一転して暗礁に乗り上げた<ref name="4車線化" /><ref group="注釈" name="凍結した路線">同様に先の国幹会議で4車線化が決定していた[[上信越自動車道|上信越道]]、[[館山自動車道|館山道]]、[[長崎自動車道|長崎道]]、[[阪和自動車道|阪和道]]、[[高松自動車道|高松道]]も一斉に事業凍結された。</ref>。これに対し、沿線の県や自治体、地元住民などの間には一斉に戸惑いや不満の声が広がる事態となった<ref name="岐阜新聞20091008">{{Cite news |title=白鳥-飛騨清見の4車線化凍結 東海北陸道 |newspaper=岐阜新聞 |date=2009-10-08 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>。 転じて[[2010年]](平成22年)[[4月9日]]に[[国土交通省]]はこの区間の再着手を決定し<ref name="凍結解除表明" /><ref group="注釈">[[2009年]](平成21年)[[10月13日]]に開かれた国土交通省政策会議の初会合で[[馬淵澄夫]][[国土交通副大臣]]らは「既に決定された整備計画を覆すものではなく、整備手法や整備主体などを再検討する必要がある。また4車線化事業は、4車線化によらない交通対策の検討も求めており4車線化事業自体を凍結するという事ではない。」と説明した。また、4車線化事業を担当するNEXCO中日本は事業が凍結された後も、設計・測量などの事前調査業務(計4件、約4,100万円)を発注していた。これが明るみに出ると、政府の方針に従わなかったとして中日本高速道路は国土交通大臣より文書での厳重注意を受けた。</ref>{{Refnest|group="注釈"|4車線化再開には、[[小沢一郎]]元[[民主党幹事長|幹事長]]の強い意向が働いたとメディアで報じられている<ref name="東京新聞20100622">{{Cite news |title=【道路を問う】第6部 参院選を前に<4> 巨額財源『維持でいい』 |newspaper=[[東京新聞]] |date=2010-06-22 |publisher=中日新聞東京本社}}</ref>。}}{{Refnest|group=注釈|東海北陸道と同時に事業凍結された5路線のうち、上信越道、館山道、高松道については事業の凍結は解除されたが、阪和道については凍結は解除されなかった<ref name="凍結解除表明" />。}}、[[2012年]](平成24年)[[4月6日]]に[[前田武志]][[国土交通大臣]]は4車線化事業に国費は投入せず(合併施行方式の撤回)NEXCO中日本の負担で再開する事を発表した。[[2013年]](平成25年)夏よりこの間の工事に着手しており<ref name="岐阜新聞20140711">{{Cite news |title=高鷲トンネル安全祈願 東海北陸道4車線化工事 |newspaper=岐阜新聞 |date=2014-07-11 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>、部分開通はせずに2018年度(平成30年度)中の一斉供用を目指すとしてた<ref name="岐阜新聞20140711" /><ref name="中日新聞20120420">{{Cite news |title=白鳥-飛騨清見の4車線化凍結 東海北陸道 |newspaper=中日新聞 |publisher=中日新聞社 |date=2012-04-20}}</ref>。 2018年(平成30年)の6月、10月、12月に白鳥IC - 飛驒清見IC間の4車線化一部完了に伴い、車線切替が行われた<ref>{{Cite news|title=東海北陸道:4車線化一部完了でイベント /岐阜 - 毎日新聞|url=https://mainichi.jp/articles/20180617/ddl/k21/040/069000c|accessdate=2018-10-18|language=ja-JP|work=毎日新聞}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gifu-np.co.jp/news/20181016/20181016-81942.html|title=一足先に新車線ウオーキング 東海北陸道4車線化 {{!}} 岐阜新聞Web|accessdate=2018-10-18|website=www.gifu-np.co.jp|language=ja}}</ref>。同年11月30日に白鳥IC - 高鷲IC間が、同年12月8日にひるがの高原SA - 飛驒清見IC間がいずれも4車線化された。高鷲IC - ひるがの高原SA間は[[2019年]](平成31年)[[3月20日]]に4車線化された<ref name="press20190308" />。 === 残る対面通行区間の4車線化 === 最後の4車線化未整備区間となる、飛驒トンネルを含めた飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間 (67.5&nbsp;km) については「10.7&nbsp;kmもの長大トンネルでの対面通行はドライバーにとって大きな負担」と安全性を懸念する声があり<ref name="岐阜新聞20071110">{{Cite news |title=濃飛貫く東海北陸道全通へ 第2部「軌跡」 -圧迫される道路予算 周辺道路の整備急ぐ- |newspaper=岐阜新聞 |date=2007-11-10 |publisher=岐阜新聞社}}</ref>、実際に飛驒トンネル内で衝突死亡事故が発生しているほか<ref name="読売新聞20140204">{{Cite news |title=高速トンネル内で非常駐車帯に衝突、1人死亡 |newspaper=[[読売新聞]] |date=2004-02-04 |publisher=読売新聞社}}</ref>、隣接する保トンネルや[[城端トンネル]]でも正面衝突による死亡事故が発生している<ref name="岐阜新聞20120222">{{Cite news |title=正面衝突1人死亡6人重軽傷 飛騨市の東海北陸道トンネル |newspaper=岐阜新聞 |date=2012-02-22 |publisher=岐阜新聞社}}</ref><ref name="北日本新聞20140725">{{Cite news |title=城端トンネルで16人死傷 東海北陸道でバスとバイク衝突 |newspaper=北日本新聞 |date=2014-07-25 |publisher=北日本新聞社}}</ref>。 [[File:Tokai-Hokuriku Expressway.Fkumitsu to the JyouhanaSA.JPG|200px|left|thumb|対面区間が続く富山県区間<br />(福光IC - 城端SAにて)]] これに対し道路を管理するNEXCO中日本では、2012年度(平成24年度)から5年間の経営計画<ref>{{Wayback |url=http://www.c-nexco.co.jp/corporate/company/challenge5.html |title=経営計画2012 チャレンジV -道を通じて感動を 人へ、世界へ- 2.高速道路事業施策 |date=20120606051705}} - 中日本高速道路、2012年05月10日</ref>で「より安全・安心・快適にご利用いただくために、東海北陸自動車道(飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT)など、対面通行区間(暫定2車線)を4車線化する検討を進めます。」と記載するに留めており、対策の具現化はされていなかった。4車線拡幅の目途となる交通量が1日1万台とされる中で<ref name="北日本新聞20120501">{{Cite news |title=県内4車線化は道険し 東海北陸道、一部拡幅再開 |newspaper=北日本新聞 |date=2012-05-01 |publisher=北日本新聞社}}</ref>、当該区間は最も交通量の多い福光IC - 小矢部砺波JCTでも1日6,900台(休日は8,900台、いずれも2012年7月 - 翌2013年6月実績)となっており<ref name="高志の国から、徒然日記">{{Cite news |title=高志の国から、徒然日記 -東海北陸自動車道の全線4車線化に向けた検討会の初会合が6月8日に開催されました。- |newspaper=富山県知事 石井たかかずブログ |date=2014-06-17 |publisher=富山県}}</ref>、今後の動向も不透明な状況であった。 富山県では、2015年(平成27年)3月の[[北陸新幹線]][[新高岡駅]]開業や[[能越自動車道]]の[[七尾市|七尾]]方面延伸、また同年7月に[[小矢部市]]にオープンした[[三井アウトレットパーク北陸小矢部]]などの外的要因によって東海北陸道の利用者が増加すると見込まれること、[[南海トラフ巨大地震]]など有事の際に北陸から東海地方を支援する大動脈となること、全区間で用地取得済みであり早期の完成供用が期待できることなどから引き続き早期事業着手を関係機関に求めていく方針で、富山県選出の[[野上浩太郎]][[国土交通副大臣]]の音頭取りで[[国土交通省]]・NEXCO中日本・富山県・岐阜県による「東海・北陸地方間のネットワーク交通課題検討会」が2014年(平成26年)6月に設立された際には歓迎の意向を示していた<ref name="高志の国から、徒然日記" />。 そのような中、[[2016年]](平成28年)[[6月7日]]に[[国土交通省]]は暫定2車線区間における付加車線設置の検証路線(4路線・5区間)を公表し、その1つとして東海北陸道の飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT区間が選定された。全国的に速度低下率が25&nbsp;[[パーセント|%]]以下となっている暫定2車線区間を抽出して当該区間の付加車線の設置により安全性・走行性の向上を目指すとものであり、これにより試行段階ながら全線4車線化されるまでの暫定的な措置が取られる事となった<ref name="付加車線">{{Cite press release |和書 |title=付加車線設置の検証路線の選定について &#12316;高速道路の暫定2車線区間のサービス向上&#12316; |publisher=国土交通省 |date=2016-06-07 |url=https://www.mlit.go.jp/report/press/road01_hh_000696.html |accessdate=2017-07-02}}</ref>。付加車線は城端トンネル北側 - 福光IC間(4.7&nbsp;km)および南砺SIC - 小矢部砺波JCT間(5.3&nbsp;km)に設置されることとなった<ref name=Press20221012 />。 さらに、[[2019年]](平成31年)[[3月29日]]に法面危険箇所があることから白川郷IC - 五箇山IC間の一部の延長2.8&nbsp;kmに対し付加車線設置事業が国土交通省より事業許可を受けた<ref name="press20190329" />。同年(令和元年)9月4日には国土交通省が残りの暫定2車線区間についても、2028年度(令和10年度)から2033年度(令和15年度)を目処に4車線化する方針を示した<ref name="press20190904-1" /><ref name="press20190904-2" /><ref name="toraberu20190906" />。このうち、2020年(令和2年) [[3月31日]]に白川郷IC - 五箇山IC間の残る区間について並行現道課題のため延長10.1&nbsp;kmおよび、五箇山IC - 城端SA間の残る区間について城端トンネル・袴腰トンネルの盤膨れ対策として延長9.5&nbsp;kmに対し、付加車線設置事業の国土交通省より事業許可を受けた<ref name=Press20200331 />。更に、[[令和3年の大雪]]のため、約50時間の立ち往生が発生したことから2022年(令和4年) [[3月30日]]に福光IC - 南砺SICの残る区間について4車線化事業が事業許可を受けた。これによって白川郷IC - 小矢部砺波JCTについては全区間の4車線化が事業化され、未事業化区間は飛驒トンネルを含む飛驒清見IC - 白川郷ICのみとなった<ref name=Press20230330 />。 このうち2016年度(平成28年度)に事業化された区間について、城端SA - 福光IC間の一部、延長2.3&nbsp;kmが[[2020年]]([[令和]]2年)[[11月7日]]に供用開始され<ref name="press20201028" />、[[2021年]](令和3年)[[11月10日]]には、南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長1.8&nbsp;kmが供用開始<ref name=Press20211008 />、[[2022年]](令和4年)[[11月12日]]には、残りの五箇山IC - 城端SA間の一部、延長2.4&nbsp;kmと福光IC - 南砺SIC - 小矢部砺波JCT間の一部、延長3.5&nbsp;kmが4車線化され、2016年度(平成28年度)に事業化された区間の4車線化が完成した<ref name=Press20221012 />。 == 路線状況 == === 車線・最高速度 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !区間!![[車線]]<br />上下線=上り線+下り線!![[最高速度]]!!備考 |- | 一宮JCT - 飛驒清見IC || 4=2+2 || 80 [[キロメートル毎時|km/h]] || |- | 飛驒清見IC - 城端SA | 2=1+1<ref name="Asahi" /><br />([[暫定2車線]]) | rowspan="4" |70&nbsp;km/h || ※1 ※2 |- | 城端SA - 福光IC || 4=2+2 || |- | 福光IC - 南砺SIC | 2=1+1<ref name="Asahi" /><br />(暫定2車線) | ※1 ※2 |- | 南砺SIC - 小矢部砺波JCT | 4=2+2<ref name=Press20221012 />|| |} * ※1 : 飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間の全線は[[暫定2車線#4車線化優先整備区間|4車線化優先整備区間]]<ref name="press20190904-1" /><ref name="press20190904-2" /><ref name="toraberu20190906" /> * ※2 : 各IC付近、飛驒白川PA付近は4車線化されている{{要出典|date=2017年7月}}。平成30年7月豪雨で被災した松ノ木峠PA前後ののり面部分については、2019年(令和元年)11月29日に4車線化された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_release/4674.html|title=E41 東海北陸道 荘川IC〜飛騨清見IC 災害復旧工事を実施している区間の4車線運用を開始|date=2019-11-20|accessdate=2019-11-20|publisher=中日本高速道路株式会社}}</ref>。また、城端トンネル北側 - 福光IC間と南砺SIC - 小矢部砺波JCT間についても付加車線を設け試験的に4車線化すると2016年(平成28年)8月25日に北陸地方整備局が発表した<ref>{{Cite news |title=富山の2区間で4車線化を試験 東海北陸自動車道 |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2016-08-26 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO06503800V20C16A8LB0000/ |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。これらの工事は2022年(令和4年)度までに完成した<ref name=Press20221012 />。 === 道路施設 === ==== サービスエリア・パーキングエリア ==== [[File:MatsunokitougePA-kudari.JPG|thumb|松ノ木峠PA 下り線施設(正式供用開始後)]] [[売店]]はすべての[[サービスエリア]] (SA) と[[川島パーキングエリア]] (PA) (下り線)・[[瓢ヶ岳パーキングエリア|瓢ヶ岳PA]]・[[ぎふ大和パーキングエリア|ぎふ大和PA]](上り線)に設置されている。[[飛驒白川パーキングエリア|飛驒白川PA]](上り線)は冬季を除く土日・繁忙期の期間限定で営業している。このうち24時間営業を行っているのは、[[関サービスエリア|関SA]]と[[長良川サービスエリア|長良川SA]]で、川島PA(下り線)、関SA、[[ひるがの高原サービスエリア|ひるがの高原SA]](上下線)、[[城端サービスエリア|城端SA]](上下線共有)にはコンビニがある。[[レストラン]]は関SA・長良川SAのみで、川島PA(下り線)と城端SAは[[ハイウェイオアシス]]内にある。[[フードコート]]はすべてのサービスエリア(城端SAはハイウェイオアシス内)と、川島PA(上り線)・瓢ヶ岳PA・ぎふ大和PA(上り線)に設置されている。そのうち関SA・長良川SAのみ24時間営業である。 川島PAと城端SAの2か所に[[ハイウェイオアシス]]が併設されている。川島PAに隣接する河川環境楽園では、[[観覧車]]や[[水族館]]など様々な施設がある。城端SAにはヨッテカーレ城端と桜ヶ池クアガーデンが隣接し[[軽食]]や[[農産物直売所]]、[[温泉]]や[[宿泊施設]]などがある。 [[ガソリンスタンド]]は関SA(上り線)・長良川SA(下り線)・ひるがの高原SAに設置されており、城端SAとすべてのパーキングエリアには設置されていない。長良川SAの[[ガソリンスタンド]]を除き24時間営業であり、ひるがの高原SAのガソリンスタンドは上下線とも[[ガソリンスタンド#セルフ式ガソリンスタンド|セルフ式]]になっている。 ==== 主なトンネルと橋 ==== 山地部を通るためトンネルが多い。飛驒清見IC - 白川郷ICには飛驒トンネル (10,712&nbsp;m) が{{sfn|佐滝剛弘|2016|p=45}}、五箇山IC - 福光ICには袴腰トンネル (5,939&nbsp;m) があるため、同区間では[[タンクローリー]]などの危険物積載車両は通行できない<ref group="注釈">飛驒トンネル(荘川IC - 白川郷IC)は[[国道156号]]、袴腰トンネルは国道156号・[[国道304号]]で迂回可能だが、後者の場合は高さ3.5&nbsp;m以上の車両が通過できないトンネルがあるため、飛驒清見ICから中部縦貫自動車道・[[国道41号]]経由で[[富山インターチェンジ|富山IC]]へ抜ける方法もある。</ref>。3,000&nbsp;m級では各務原トンネルと城端トンネル、2,000&nbsp;m級では軽岡トンネルと椿原トンネルがある。 <gallery widths="180px"> Kisogawahonkawa-bridge.01.b.JPG|木曽川本川橋 Hida Tonnel Kawai pithead.jpg|飛驒トンネル(河合坑口より) Tokai-Hokuriku Expressway.Harmony-Bridge.jpg|[[木曽川南派川橋]]付近「ハーモニーブリッジ」 TOKAI-HOKURIKU EXPWY.Tsubakihara Bridge Syougawa.jpg|[[椿原橋]]と[[椿原ダム]] </gallery> {| class="wikitable" style="text-align:center; width:100%;" |- !style="width:8em"|トンネル・橋梁<br />名称 !style="width:8em"|延長 !style="width:9em"|区間 !備考 |- |[[木曽川南派川橋]] |400 m |rowspan = '2'|一宮木曽川IC<br /> - 川島PA |style="text-align:left"|愛知県と岐阜県の[[県境]]の[[三派川|南派川]]に架かる橋。 |- |[[木曽川本川橋]] |598 m |style="text-align:left"|木曽川に架かる橋。 |- |[[木曽川北派川橋]] |600 m |川島PA<br /> - 岐阜各務原IC | |- |権現山トンネル |上り : 1,465 m<br/>下り : 1,430 m |rowspan = '2'|岐阜各務原IC<br /> - 関IC | |- |[[各務原トンネル]] |上り : 3,050 m<br/>下り : 3,015 m | |- |向山トンネル |上り : 360 m<br/>下り : 373 m |関SA<br /> - 長良川SA | |- |[[立花橋 (東海北陸自動車道)|立花橋]] |352 m |rowspan = '3'|美濃IC<br /> - 古城山PA |style="text-align:left"|長良川と[[長良川鉄道越美南線]]を跨ぐ橋。 |- |美濃トンネル |上り : 576 m<br/>下り : 494 m | |- |古城山トンネル |上り : 1,483 m<br/>下り : 1,508 m | |- |立花トンネル |上り : 409 m<br/>下り : 433 m |rowspan = '9'|古城山PA<br /> - 美並IC | |- |鶴形山トンネル |上り : 1,318 m<br/>下り : 1,293 m | |- |上河和トンネル |上り : 215 m<br/>下り : 215 m | |- |母野トンネル |上り : 737 m<br/>下り : 513 m | |- |黒地トンネル |上り : 613 m<br/>下り : 513 m | |- |勝原トンネル |上り : 936 m<br/>下り : 982 m | |- |大矢南トンネル |上り : 347 m<br/>下り : 342 m | |- |大矢北トンネル |上り : 1,000 m<br/>下り : 945 m |style="text-align:left"| |- |苅安トンネル |上り : 493 m<br/>下り : 281 m | |- |山田トンネル |上り : 473 m<br/>下り : 456 m |rowspan = '11'|瓢ヶ岳PA<br /> - 郡上八幡IC | |- |深戸トンネル |上り:832 m<br/>下り:825 m | |- |貝付橋 |260 m | |- |貝付トンネル |333 m |style="text-align:left"|下り線のみにあるトンネル。 |- |赤谷トンネル |上り : 617 m<br/>下り : 638 m | |- |西乙原トンネル |上り:736 m<br/>下り:732 m | |- |寺本トンネル |上り : 547 m<br/>下り : 536 m | |- |style="white-space:nowrap" |雛成第一トンネル |518 m |rowspan = '2' style="text-align:left"|下り線のみにあるトンネル。 |- |雛成第二トンネル |181 m |- |雛成トンネル |752 m |style="text-align:left"|上り線のみにあるトンネル。 |- |亀尾島トンネル |上り : 758 m<br/>下り : 820 m | |- |小瀬子トンネル |上り : 700 m<br/>下り : 671 m |rowspan = '3'|郡上八幡IC<br /> - ぎふ大和IC | |- |大瀬子トンネル |上り : 502 m<br/>下り : 519 m | |- |神路トンネル |上り : 659 m<br />下り : 670 m | |- |[[平山トンネル]] |上り : 1,396 m<br />下り : 1,413 m |rowspan = '2'|ぎふ大和IC<br /> - 白鳥IC |rowspan = '2' style="text-align:left"|2004年7月27日に対面通行区間での[[過積載]]の[[貨物自動車|トラック]]と[[乗用車]]の正面衝突による大事故があった<ref>{{Cite news |title=東海北陸道の対面通行区間で再び衝突 |newspaper=[[Response.]] |date=2004-07-29 |url=https://response.jp/article/2004/07/29/62514.html |publisher=イード |accessdate=2017-08-25}}</ref>ため(「[[平山トンネル]]」参照)、このトンネルを含む区間は当初の予定を前倒しして4車線化工事が始まった。 |- |中津屋橋 |1,006 m |- |白鳥トンネル |上り : 529 m<br />下り : 542 m |rowspan = '2'|白鳥IC<br /> - 高鷲IC | |- |高鷲トンネル |上り : 1,642 m<br />下り : 1,680 m | |- |エボシ山トンネル |上り : 235 m<br />下り : 236 m |rowspan = '4'|高鷲IC<br /> - ひるがの高原SA | |- |[[鷲見橋]] |上り : 436 m<br />下り : 459 m<br /><ref name="Washimi" /> |style="text-align:left"|下り線の[[橋脚]]の高さ125&nbsp;mは日本一<ref name="Washimi">{{Cite news |title=高さ日本一の橋お披露目 東海北陸道の鷲見橋 |newspaper=産経ニュース |date=2017-07-09 |url=https://www.sankei.com/photo/story/news/170709/sty1707090014-n1.html |accessdate=2017-09-30}}</ref>{{Refnest|group=注釈|上り線橋梁の橋脚の高さは118&nbsp;mで、下り線橋梁ができるまでは日本一であった<ref name="Asahi">{{Cite news |author=山岸玲 |title=橋脚の高さ日本一「鷲見橋」建設中 125メートル |newspaper=[[朝日新聞]] |date=2016-11-26 |url=http://www.asahi.com/articles/ASJCT4SVFJCTOHGB007.html |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2017-07-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161125214928/http://www.asahi.com/articles/ASJCT4SVFJCTOHGB007.html |archivedate=2016-11-25}}</ref>。}}。 |- |上野第一トンネル |上り : 509 m<br />下り : 527 m | |- |上野第二トンネル |上り : 508 m<br />下り : 531 m | |- |本谷橋 |198 m |ひるがの高原SA<br /> - 荘川IC |style="text-align:left"|橋桁に[[日本道路公団]]が[[波形鋼板ウェブ橋|波形鋼板ウェブ]]を初めて採用している。 |- |荘川トンネル |上り : 1,055 m<br />下り : 1,069 m |rowspan = '4'|荘川IC<br /> - 松ノ木峠PA | |- |三尾河トンネル |上り:890 m<br/>下り:888 m | |- |スゲ畑トンネル |上り : 117 m<br />下り : 105 m | |- |[[軽岡トンネル]] |上り : 2,700 m<br />下り : 2,748 m | |- |古屋トンネル |上り : 591 m<br />下り : 603 m |rowspan = '2'|松ノ木峠PA<br /> - 飛驒清見IC | |- |上小鳥トンネル |上り : 748 m<br />下り : 706 m | |- |二本木トンネル |1,297 m |rowspan = '8'|飛驒清見IC<br /> - 飛驒河合PA | |- |池本トンネル |1,769 m | |- |ミボロトンネル |161 m | |- |東俣トンネル |554 m | |- |江黒トンネル |1,434 m | |- |舟原トンネル |1,124 m | |- |いら谷トンネル |1,530 m | |- |保トンネル |1,563 m | |- |[[飛驒トンネル]] |10,712 m{{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=48-50}} |rowspan = '3'|飛驒河合PA<br /> - 白川郷IC |style="text-align:left"|[[首都高速道路]][[中央環状新宿線]]の[[山手トンネル]] (18.2&nbsp;km)、[[関越自動車道]]の[[関越トンネル]] (11,055&nbsp;m) に次ぎ国内3番目のトンネル長{{sfn|佐滝剛弘|2016|pp=48-50}}。危険物積載車両の通行は禁止<ref name="Danger" />。 |- |[[白川橋 (東海北陸自動車道)|白川橋]] |235 m |rowspan = '2'style="text-align:left"|[[白川郷・五箇山の合掌造り集落|白川郷の合掌造り集落]]に隣接し、周辺環境と調和した庄川に架かる橋。(2004年〈平成16年〉[[土木学会]]デザイン賞・優秀賞) |- |大牧トンネル |577 m |- |下田トンネル |1,199 m |rowspan = '9'|飛驒白川PA<br /> - 五箇山IC |style="text-align:left"|トンネル部1,160 m、シェッド部39 m。 |- |下田橋 |270 m |style="text-align:left"|庄川に架かる橋 |- |有家ヶ原トンネル |1,781 m | |- |[[椿原橋]] |322 m |style="text-align:left"|[[椿原ダム]]の下流側で庄川に架かる橋<ref name="nijihashi70.pdf" /><ref name="PCN039.pdf" />。最大支間は155&nbsp;m、全幅は11.65&nbsp;mあり、張り出し架設工法が採用された<ref name="nijihashi70.pdf" /><ref name="PCN039.pdf" />{{Refnest|group=注釈|従来の[[トラス橋]]は、床組構造に上横構を採用することが一般的であった<ref name="PCN039.pdf" />が、[[プレストレスト・コンクリート]]や[[鋼]]との合成床版の採用することで剛性が向上するため、部材の省略やトラスの上弦で床版を直接支持、また床版支間を大きくすることが可能となり、結果として従来より合理化した構造となった<ref name="PCN039.pdf" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kkr.mlit.go.jp/road/shintoshikenkyukai/pdf/data24_02.pdf |title=上部構造のコスト縮減への取り組み |format=PDF |publisher=国土交通省近畿地方整備局 |page=11 |accessdate=2013-02-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.miyaji-eng.co.jp/bridge/business_general_bridge19.html |title=椿原橋 |publisher=宮地エンジニアリング |accessdate=2013-02-22}}</ref>。}}。<br />[[1995年]](平成7年)に[[世界遺産]]に登録された[[白川郷・五箇山の合掌造り集落]]のうち、[[白川郷]]附近を通過するため、周囲の景観に配慮して設計された<ref name="nijihashi70.pdf" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://bunka.nii.ac.jp/jp/world/h_04.html |title=白川郷・五箇山の合掌造り集落 |work=世界遺産オンライン |publisher=文化庁 |accessdate=2013-02-22}}</ref>。 |- |[[椿原トンネル]] |2,676 m | |- |小白川トンネル |519 m | |- |[[飛越大橋]] |276 m |style="text-align:left"|岐阜県と富山県の県境の庄川に架かる橋<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kitanippon.co.jp/pub/fmail/backno/kamitaira/2002/0007.html |title=上平村ふるさとメール7号 |date=2002-08-08 |publisher=北日本新聞社 |accessdate=2013-02-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040301144644/http://www.kitanippon.co.jp/pub/fmail/backno/kamitaira/2002/0007.html |archivedate=2004-03-01 |deadlinkdate=2018-07-15}}</ref>。 |- |楮成出トンネル |1,964 m | |- |真木トンネル |1,606 m |style="text-align:left"|別資料1,608 m |- |五箇山橋 |309 m |rowspan = '3'|五箇山IC<br /> - 城端SA |style="text-align:left"|庄川に架かる橋 |- |[[袴腰トンネル]] |5,939 m |style="text-align:left"|別資料5,932 m、危険物積載車両の通行は禁止<ref name="Danger" />。 |- |[[城端トンネル]] |3,196 m |style="text-align:left"|別資料3,192 m |- |} ※ 飛驒清見IC - 南砺SIC間は対面通行([[暫定2車線]])<ref name="Gifu pref" /> ===== トンネルの数 ===== {| class="wikitable" style="text-align: center" |- !区間!!上り線!!下り線 |- |- |一宮JCT - 岐阜各務原IC||0||0 |- |岐阜各務原IC - 関IC||2||2 |- |関IC - 美濃関JCT||1||1 |- |美濃関JCT - 美濃IC||0||0 |- |美濃IC - 美並IC||11||11 |- |美並IC - 郡上八幡IC||7||9 |- |郡上八幡IC - ぎふ大和IC||3||3 |- |ぎふ大和IC - 白鳥IC||1||1 |- |白鳥IC - 高鷲IC||2||2 |- |高鷲IC - ひるがの高原SA||3||3 |- |ひるがの高原SA - 荘川IC||0||0 |- |荘川IC - 松ノ木峠PA||4||4 |- |松ノ木峠PA - 飛騨清見IC||2||2 |- |飛驒清見IC - 飛騨河合PA||colspan="2" |8 |- |飛騨河合PA - 白川郷IC||colspan="2" |2 |- |白川郷IC - 飛騨白川PA||colspan="2" |0 |- |飛騨白川PA - 五箇山IC||colspan="2" |6 |- |五箇山IC - 城端SA||colspan="2" |2 |- |城端SA - 小矢部砺波JCT||colspan="2" |0 |- !rowspan="2" | 合計 !! 54 !! 56 |- !colspan="2" | 110 |} {{file clip|Kakamigahara-TN.01.JPG|width=200|48|0|30|83|w=800|h=600|上り線に設置されたカウンター([[各務原トンネル]])}} トンネルの坑口には、[[分数]]方式でトンネルの数を示すカウンターが設置されている。上り線は54、下り線56となっている。上り線1本目城端トンネル坑口には1/54。下り線1本目権現山トンネル坑口には1/54のプレートが記載されている。下り線は54から56とトンネルの数が変化する。美並IC - 郡上八幡ICの山田トンネルから分母が56と表示されている<!--(4車線化の新規開通区間のため変更したと思われる)-->。上下線のトンネル数の違いは、美並IC - 郡上八幡ICの下り線のみにある貝付トンネルと雛成第一トンネル、雛成第二トンネル<ref group="注釈">上り線では[[スノーシェルター]]が繋いでおり、雛成トンネルとして1本のトンネルとなっている。</ref>のためである。高鷲IC - ひるがの高原SAにある上野第2トンネル下り線は2つのトンネルの間にスノーシェルターがあり1つのトンネルとなっている。白川郷IC - 五箇山ICにある楮成出トンネルはスノーシェルターが楮トンネルと成出トンネルを繋いでおり、1つのトンネルとなっている。 飛驒清見IC - 南砺SIC間は暫定2車線の対面通行となっているため<ref name="Gifu pref" />、建設されているトンネルは上下線で1本となっている。これにより、実際に建設されているトンネルの数は上り線36、下り線38、上下線共用18である。 === 道路管理者 === * [[中日本高速道路]] ** [[中日本高速道路名古屋支社|名古屋支社]]羽島保全・サービスセンター : 一宮稲沢北IC- 一宮木曽川IC ** 名古屋支社岐阜保全・サービスセンター : 一宮木曽川IC - 郡上八幡IC ** 名古屋支社高山保全・サービスセンター : 郡上八幡IC - 白川郷IC ** [[中日本高速道路金沢支社|金沢支社]]富山高速道路事務所 : 白川郷IC - 小矢部砺波JCT ==== ハイウェイラジオ ==== [[File:Kisogawahoppagawa Bridge.jpg|thumb|280px|[[木曽川北派川橋]]とその付近]] * 一宮西(一宮JCT - 尾西IC) * 木曽川(一宮木曽川IC - 岐阜各務原IC) * 美濃(美濃IC - 古城山PA) * 郡上八幡(郡上八幡IC - ぎふ大和IC/PA) * ひるがの(高鷲IC - 荘川IC) * 椿原(飛驒白川PA - 五箇山IC 小白川TN・椿原TN内) * 城端(五箇山IC - 城端SA 城端TN内) === 交通量 === {{独自研究|section=1|date=2017年7月23日 (日) 05:40 (UTC)|ソートキー=道とうかいほくりく}} '''24時間交通量'''(台) [[道路交通センサス]] {| class="wikitable" style="text-align:center" !区間 !!|平成17年(2005年)度!!平成22年(2010年)度!!平成27年(2015年)度!!令和3(2021)年度 |- | 一宮JCT - 一宮西IC || 35,716 || 43,860 || 44,715 || 42,512 |- | 一宮西IC - 尾西IC || 25,636 || 32,416 || 32,387 || 30,587 |- | 尾西IC - 一宮木曽川IC || 28,688 || 35,818 || 35,679 || 32,518 |- | 一宮木曽川IC - 岐阜各務原IC || 25,436 || 32,774 || 32,680 || 29,165 |- | 岐阜各務原IC - 関IC || 22,120 || 25,589 || 25,231 || 21,317 |- | 関IC - 美濃関JCT || 17,532 || 20,134 || 20,197 || 16,608 |- | 美濃関JCT - 美濃IC || 16,079 || 18,428 || 19,927 || 16,337 |- | 美濃IC - 美並IC || 13,144 || 15,208 || 16,827 || 13,672 |- | 美並IC - 郡上八幡IC || 12,145 || 14,205 || 15,785 || 12,770 |- | 郡上八幡IC - ぎふ大和IC || {{0}}9,264 || 11,149 || 13,275 || 10,566 |- | ぎふ大和IC - 白鳥IC || {{0}}8,605 || 10,315 || 12,488 || {{0}}9,325 |- | 白鳥IC - 高鷲IC || {{0}}7,575 || {{0}}9,207 || 11,784 || {{0}}8,923 |- | 高鷲IC - ひるがの高原SASIC || rowspan="2" | {{0}}7,125 || {{0}}8,624 || 11,652 || {{0}}8,755 |- | ひるがの高原SASIC - 荘川IC || {{0}}8,397 || 11,112 || {{0}}8,292 |- | 荘川IC - 飛驒清見IC || {{0}}5,072 || {{0}}8,086 || 10,400 || {{0}}8,211 |- | 飛驒清見IC - 白川郷IC || 調査当時未開通 || {{0}}5,239 || {{0}}6,396 || {{0}}5,529 |- | 白川郷IC - 五箇山IC || {{0}}2,033 || {{0}}4,626 || {{0}}5,701 || {{0}}5,022 |- | 五箇山IC - 福光IC || {{0}}2,621 || {{0}}5,305 || {{0}}6,339 || {{0}}5,564 |- | 福光IC - 南砺SIC || rowspan="2" | 3,656 || rowspan="2" | {{0}}6,034 || {{0}}6,867 || {{0}}5,972 |- | 南砺SIC - 小矢部砺波JCT || {{0}}7,367 || {{0}}6,688 |} {{fontsize|small|出典:「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h22-1/ 平成22年度道路交通センサス]」・「[https://www.mlit.go.jp/road/census/h27/index.html 平成27年度全国道路・街路交通情勢調査]」・「[https://www1.mlit.go.jp/road/census/r3/index.html 令和3年度全国道路・街路交通情勢調査]」([[国土交通省]]ホームページ)より一部データを抜粋して作成)}} * 令和2年度に実施予定だった交通量調査は、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の[[日本における2019年コロナウイルス感染症による社会・経済的影響|影響]]で延期された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ict/pdf04/01.pdf|title=令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について|date=2020-10-14|accessdate=2021-04-30|publisher=国土交通省 道路局|format=PDF}}</ref>。 2002年度(平成14年度) 区間別日平均交通量(区間平均) * 一宮JCT - 飛驒清見IC : 12,310台(前年度比103.2&nbsp;%) ** 最大 : 一宮JCT - 一宮西IC : 30,515台(108.8&nbsp;%) ** 最小 : 荘川IC - 飛驒清見IC : 4,040台(106.1&nbsp;%) * 白川郷IC - 小矢部砺波JCT : 2,298台(98.2&nbsp;%) [[File:TOKAI-HOKURIKU EXPWY and Suganuma old house 01.jpg|thumb|合掌集落と東海北陸道(五箇山・菅沼)]] 高山方面や[[世界遺産]]でもある[[白川郷・五箇山の合掌造り集落]]を通過すること、また白鳥ICや高鷲ICの周辺にスキー場が多いことから休日の[[交通量]]が平日に比べて非常に多く、2005年度(平成17年度)の昼間12時間交通量調査では、高速道路におけるベスト5に計3区間が入った。白鳥IC - 高鷲ICが1.7倍、郡上八幡IC - ぎふ大和IC、ぎふ大和IC - 白鳥ICが1.6倍となっている。2019年11月に飛驒清見ICまでの区間が4車線化されるまで、対面通行である上にトンネルが連続する白鳥IC以北では渋滞が多発していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.c-nexco.co.jp/images/news/4491/698e680fc0276f823613e53809d12a39.pdf |title=整備効果① 渋滞の解消と観光振興 |access-date=2022-11-24 |publisher=中日本高速道路}}</ref><ref group="注釈">[[ゴールデンウィーク]]や[[お盆]]の[[帰省ラッシュ]]時には高鷲トンネル付近を先頭に40–50&nbsp;kmの渋滞が発生することもある。</ref>。特に、スキーシーズンは[[関越自動車道]]と並んで渋滞の多い高速道路となっている。 全線開通後は交通量の増加が著しく、特に白川郷IC以北では各区間前年度と比較して2倍以上の増加となっている。通行する車両は小型車が約8割を占めており、大型車・特大車の割合は全線開通後に140–150&nbsp;%増加したが1割ほどである。中型車を合わせても2割に満たない。 2010年度(平成22年度)の交通センサスでは、大型車の混入率が全線平均で20&nbsp;%近くあり、一宮IC - 一宮木曽川IC、飛驒清見IC - 小矢部砺波JCT間が20&nbsp;%を越えている。平日は大型車の混入率が高いと見られ、全線開通後は年々増加している。 === 料金・割引 === ==== 料金 ==== 全線で対距離制で、距離あたりの料金は以下の通りである<ref name="c-nexco-20200501" />。 * 一宮JCT - 美濃関JCT間 : 普通区間。ただし、[[大都市近郊区間 (高速道路)|大都市近郊区間]]と同じ料金水準(普通車で税抜29.52円/km、他の普通区間の1.2倍) * 飛驒清見IC - 白川郷IC間 : 飛驒特別区間(普通車で税抜39.36円/km、普通区間の1.6倍) * 上記以外の区間 : 普通区間(普通車で税抜24.6円/km) 一宮JCT - 美濃関JCT間はもともと他の普通区間と同じ料金水準であったが、2021年(令和3年)5月1日に上記料金水準に引き上げられた<ref name="ngo_newexpfare"/>。ただし、当区間は引き続き普通区間であることから、首都圏・京阪神圏の大都市近郊区間では適用されない[[ETC割引制度]](休日割引、平日朝夕割引)は適用される。 ==== 割引 ==== ; 特別区間割引(飛驒トンネル区間) :2009年(平成21年)[[5月13日]]からETC車限定で実施。飛驒清見IC - 白川郷IC間の対距離料金を30&nbsp;%引き([[ターミナルチャージ]]は割引対象外)。発着地の限定はなく、時間帯割引との重複適用はしない<ref name="c-nexco20090417" />。 :2011年(平成23年)[[8月1日]]からはETCの有無にかかわらず全車両が対象になり、割引額が増え飛驒トンネル以外の普通区間と同等の料金に引き下げられた。なお、ETC時間帯割引も重複適用されるようになった<ref>{{Cite press release |和書 |title=高速道路の割高区間等の料金割引について |publisher=中日本高速道路 |date=2011-07-15 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/?id=2095 |accessdate=2017-07-23}}</ref>。 :2014年(平成26年)[[4月1日]]から2024年(令和6年)[[3月31日]]まではETC車限定で普通区間の料金と同額に引き下げられている<ref name="c-nexco-20200501" />。 ; 平日夕方割引(料金割引社会実験、終了) :2007年(平成19年)[[8月20日]]から岐阜各務原IC - 郡上八幡IC間で実施。同区間内のみの利用で[[平日]]15時 - 17時の間に料金所を[[ETC]]無線通行する場合、30&nbsp;%引きされる。2009年(平成21年)3月27日に終了。 ; 東海北陸道全線開通記念割引(終了) :全線開通日から実施。ETCの有無にかかわらず、対象エリア内のICにおいて流入・流出し、かつ、新規開通区間(飛驒清見IC - 白川郷IC)を利用する全車両が対象。新規開通区間の料金の半額相当額([[普通自動車|普通車]]で600円)を定額で割引。ETC時間帯割引との重複適用はしない。当初予定は2008年(平成20年)10月31日までであったが<ref name="Zentsu">{{Cite press release |和書 |title=東海北陸自動車道 飛驒清見IC&#12316;白川郷ICが2008年7月5日に開通します -一宮JCTと小矢部砺波JCT間が着工以来36年経て全線開通 - 期間限定『東海北陸道全線開通記念割引』を実施- |publisher=中日本高速道路 |date=2008-04-16 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=915 |accessdate=2017-07-02}}</ref>、延長を重ね<ref>{{Cite press release |和書 |title=東海北陸自動車道全線開通記念割引を延長します -開通記念割引を年末まで延長 |publisher=中日本高速道路 |date=2008-10-22 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1207 |accessdate=2017-07-02}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=東海北陸自動車道全線開通記念割引を継続します -2009年3月31日まで引き続き実施- |publisher=中日本高速道路 |date=2008-12-18 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1258 |accessdate=2017-07-02}}</ref>、2009年5月12日に終了<ref name="c-nexco20090417">{{Cite press release |和書 |title=特別区間割引などの高速道路料金の引き下げを開始します |publisher=中日本高速道路 |date=2009-04-17 |url=https://www.c-nexco.co.jp/corporate/pressroom/news_old/index.php?id=1384 |accessdate=2017-07-02}}</ref>。 == 地理 == [[File:Tokai-Hokuriku Expressway elevation map.png|thumb|200px|標高図に重ね合わせた東海北陸自動車道の路線図。標高が高い地点(色が赤くなっている)を通過していることがわかる。原典: [[国土地理院]]および海域部は[[海上保安庁]][[海洋情報部]]の資料を使用し作成の [https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html 地理院タイル]「色別標高図」。]] [[木曽川]]に近い[[濃尾平野]]から[[長良川]]沿いを北上し、急峻な山岳地帯([[飛騨高地]])を経て[[砺波平野]]へと至る。東海北陸自動車道に架かる[[橋]]は上下線合わせて400本近くある。[[太平洋]]側に流れ出る[[木曽三川]]のうち、木曽川を1回、長良川を8回、そして[[日本海]]側に流れ出る[[庄川]]を7回、それぞれ渡っている。 [[高さ#地理|標高]]の高い所を通過する高速道路であり、白鳥ICの以北から急峻な山岳地帯に入るため冬季は[[タイヤチェーン|チェーン規制]]を実施することが多い。ぎふ大和ICが[[海抜]]300&nbsp;[[メートル|m]]、白鳥ICが海抜430&nbsp;m、高鷲ICが海抜700&nbsp;m、ひるがの高原SAが海抜873&nbsp;mであり、特に白鳥IC付近の長良川を渡る付近から登り坂になり高鷲ICまでの8&nbsp;kmで300&nbsp;mの高低差がある。そのため上り線ではブレーキ故障車の[[待避所|緊急待避所]]が設けられている。 郡上市[[高鷲村|高鷲町]]の[[ひるがの高原]]には[[分水界#中央分水界|中央分水界]](海抜957&nbsp;m)があり、現地にはそれを示す標識が設置されている。高山市にある松ノ木峠は標高1,085&nbsp;mで、高速道路標高[[交通に関する日本一の一覧#道路|日本一]]である{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=140-141|ps=、真上に跨道橋が架かっており、標高日本一の標識が掲げてある。}}{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=130}}。[[2013年]](平成25年)[[4月19日]]には[[松ノ木峠パーキングエリア|松ノ木峠PA]]が開設し、日本の高速道路にあるSA・PAの中では最も標高が高い場所となった<ref name="PA" />{{sfn|佐滝剛弘|2016|p=45}}<ref group="注釈">松ノ木峠に近い[[軽岡トンネル]]は高速道路トンネルの最高標高1,050&nbsp;mである。</ref>。 道路線形は、同じ山岳高速の[[中央自動車道]]に比べ急カーブや急勾配が少ないため{{独自研究範囲|非常に走りやすい。注意すべきは長い下り坂が多いためスピードが出やすいことである。|date=2017年7月}}また、ひるがの高原SAより南は横風の影響を受けやすく、北部においても特に冬期間、山腹と山腹を繋ぐ橋梁部では谷風による突風や気温低下に伴う路面凍結があるため注意が必要である{{要出典|date=2017年7月}}。加えて、ぎふ大和IC - 荘川ICにかけて[[霧]]による規制も時折発生している。 === 通過する自治体 === * [[愛知県]] ** [[一宮市]] * [[岐阜県]] ** [[各務原市]] - [[羽島郡]][[笠松町]] - 羽島郡[[岐南町]] - 〈各務原市 - [[岐阜市]]〉<ref group="注釈">岐阜市と各務原市の市境に沿って通過しているため、〈各務原市 - 岐阜市 - 各務原市 - 岐阜市 - 各務原市 - 岐阜市 - 各務原市 - 岐阜市 - 関市 - 岐阜市〉となる。</ref> - [[関市]] - [[美濃市]] - [[郡上市]] - [[高山市]] - [[飛騨市|飛驒市]] - [[大野郡]][[白川村]] * [[富山県]] ** [[南砺市]] - [[小矢部市]] - [[砺波市]]<ref group="注釈">[[小矢部砺波ジャンクション|小矢部砺波JCT]]は小矢部市と砺波市の市境にあり、[[北陸自動車道]]の[[金沢森本インターチェンジ|金沢]]方面ランプは小矢部市。</ref> === 接続する高速道路 === * {{Ja Exp Route Sign|E1}} [[名神高速道路]] <ref name="Gifu pref" />(一宮JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|C3}} [[東海環状自動車道]]<ref name="Gifu pref" />([[美濃関ジャンクション|美濃関JCT]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E67}} [[中部縦貫自動車道]]<ref name="Gifu pref" />([[油坂峠道路]]) ([[白鳥インターチェンジ|白鳥IC]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E67}} 中部縦貫自動車道<ref name="Gifu pref" />([[高山清見道路]]) ([[飛驒清見インターチェンジ|飛驒清見IC]]で接続) * {{Ja Exp Route Sign|E8}} [[北陸自動車道]]<ref name="Gifu pref" />(小矢部砺波JCTで接続) * {{Ja Exp Route Sign|E41}} [[能越自動車道]]<ref>{{Cite news |title=東海と北陸のクロスポイント“おやべ”―魅力ある21世紀のビジネスステージ― |newspaper=とやま経済月報 |date=2009-02 |author=小矢部市産業建設部企業立地課 |url=http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2009feb/tokushu/index1.html |publisher=富山県経営管理部統計調査課 |accessdate=2017-07-23}}</ref>(小矢部砺波JCTで直結) === 接続が計画されている地域高規格道路 === {{See also|地域高規格道路}} * [[一宮西港道路]] ([[一宮ジャンクション|一宮JCT]])<ref name="Ichinomiyanishikou">{{Cite press release |和書 |title=中部地方の主要道路事業(名古屋圏)(案) |publisher=国土交通省 |date=2006-06-01 |format=PDF |url=https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/06/060601_2/07.pdf |accessdate=2017-07-02}}</ref><!-- [https://www.mlit.go.jp/kisha/kisha06/06/060601_2_.html 道路整備の中期ビジョン(案)について &#12316;真に必要な道路整備についての議論のために&#12316;] --> * [[名岐道路]]([[一宮木曽川インターチェンジ|一宮木曽川IC]])<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-01 |url=http://www.jaycee.or.jp/2017/tokai/aichi/wp-content/uploads/2017/02/ee2b54fd043645b2ce89642cfe96ef57.pdf |title=名岐道路 |format=PDF |publisher=公益社団法人[[日本青年会議所]]愛知ブロック協議会 |accessdate=2017-07-02}}</ref><!-- [http://www.jaycee.or.jp/2017/tokai/aichi/?p=1158 名岐道路の早期実現に向けた署名のお願い] --> * [[濃飛横断自動車道]] ([[郡上八幡インターチェンジ|郡上八幡IC]]付近)<ref name="Nbod01">{{Cite news |title=“悲願の道路”完成へ一歩 濃飛横断道、金山下呂トンネル貫通 (岐阜県下呂市) |newspaper=中日住宅ナビ |url=http://house.chunichi.co.jp/news/index.php?id=1291&ts=1244469993 |publisher=中日新聞社 |accessdate=2011-04-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120115055752/http://house.chunichi.co.jp/news/index.php?id=1291&ts=1244469993 |archivedate=2012-01-15}}</ref> * [[小松白川連絡道路]] ([[白川郷インターチェンジ|白川郷IC]]付近)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.ishikawa.lg.jp/douken/documents/komatsusirakawa.pdf |title=地域高規格道路 小松白川連絡道路 |format=PDF |publisher=石川県・岐阜県 |accessdate=2017-07-02}}</ref><!-- [http://www.pref.ishikawa.lg.jp/douken/ 土木部道路建設課]--> == ギャラリー == <gallery> Ichinomiya-JCT.01.JPG|一宮JCT 名神への分岐 Tokai-Hokuriku Expressway.bisai-IC.02.JPG|尾西IC付近 Tokai-Hokuriku Expressway.The vicinity of Shirotori-IC.JPG|ぎふ大和IC - 白鳥IC<br />郡上市[[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]]中津屋1,085&nbsp;m Tokai-Hokuriku Expressway. Gujo-Hachiman IC to Gifu-Yamato IC.jpg|郡上八幡IC - ぎふ大和IC Tokai-Hokuriku Expressway.Shirakawagou-IC.02.jpg|白川郷IC付近 Tokai-Hokuriku Expressway.Jyouhana-TN.01.JPG|城端トンネル付近 20081003小矢部川上流域Tagged.jpg|[[城端サービスエリア|城端SA]]・[[五箇山]]地区([[南砺市]])空撮(2008年10月) Jyouhana-SA.tonamiheiya.2008.7.15.JPG|城端SAの高台から見える[[砺波平野]] Tokai-Hokuriku Expressway.Starting point.JPG|小矢部砺波JCT </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="nijihashi70.pdf">{{Cite web|和書|date=2006年1月 |url=http://www.jasbc.or.jp/technique/nijihashi70/files/nijihashi70.pdf |title=景観と調和したトラス橋 |work=虹橋 No.70 |format=PDF |publisher=[[日本橋梁建設協会]] |pages=28-29 |accessdate=2013-02-22}}</ref> <ref name="PCN039.pdf">{{Cite web|和書|url=https://www.smcon.co.jp/service/assets/uploads/pc-sekei/PCN039.pdf |title=椿原橋 |format=PDF |work=PC設計NEWS No.39 |publisher=三井住友建設 |accessdate=2013-02-22}}</ref><!-- [https://www.smcon.co.jp/service/pc-sekei/ PC設計ニュース] --> <ref name="Gifu pref">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.gifu.lg.jp/shakai-kiban/doro/kosoku-doro/11651/project_gaiyou2.html |title=東海北陸自動車道の概要 |publisher=岐阜県 |accessdate=2017-07-04}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=佐滝剛弘|authorlink=佐滝剛弘|year=2016|date=2016-08-10|title=高速道路ファン手帳|publisher=[[中公新書|中公新書ラクレ]]|isbn=978-4-12-150559-0|ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|date=2014-10-20|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-288282-8|ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}} == 関連項目 == * [[中部地方の道路一覧]] * [[飛騨川バス転落事故]] - 東海北陸自動車道が建設されるきっかけとなった大規模な交通死亡事故 == 外部リンク == {{Commonscat|Tokai-Hokuriku Expressway}} * {{Osmrelation|7499558|東海北陸自動車道}} * [https://www.c-nexco.co.jp/ 中日本高速道路] * [https://www.pref.toyama.jp/1501/kendodukuri/dourokouwan/douro/kj00000273/kj00000273-004-01.html 県内の高速道路 東海北陸自動車道] - 富山県土木部道路課 {{日本の高速道路}} {{中日本高速道路}} {{東海北陸自動車道}} {{DEFAULTSORT:とうかいほくりくしとうしやとう}} [[Category:日本の高速道路]] [[Category:高速自動車国道]] [[Category:中日本高速道路]] [[Category:中部地方の道路]]
2003-09-11T04:38:45Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E5%8C%97%E9%99%B8%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93