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リリーカード
リリーカードとは、1988年から2003年まで名古屋市交通局で使われていた磁気式乗車カード(プリペイドカード)である。1988年(昭和63年)3月1日発売。名古屋市営地下鉄、名古屋市営バスで使用することができた。 1998年(平成10年)5月6日の「ユリカ」発売により販売終了、2003年(平成15年)から残額を移行したユリカへの交換を行っていたが、2006年(平成18年)に交換を終了した。2011年(平成23年)からはICカード「manaca」が導入され「ユリカ」も販売終了した。 名称は、名古屋市の花であるユリを意味する英語「リリー (lily) 」に由来する。なお「ユリカ」の名称も同様である。 なお本項では、名古屋市営地下鉄で発行されていた磁気式回数乗車券「回数券カード」についても触れる。 リリーカードは、名古屋市交通局の市バス・地下鉄で利用することができた。有効期限は設けられておらず、残額がある間は使用可能であった。 1988年(昭和63年)3月1日に発売され、同年4月1日から名古屋市営地下鉄全線で使用開始された。リリーカードで地下鉄に乗車する際は、カードが利用できる自動券売機にリリーカードを投入し、普通乗車券を購入して使用した。また、のりこし自動精算機では乗車券の不足金額の支払いにリリーカードを使用することもできた。ユリカとは異なり、カードを直接自動改札機に投入することはできなかった。 翌1989年(平成元年)9月10日 、市営地下鉄桜通線が開業。同時に地下鉄回数券が磁気カード化し「回数券カード」となった。これが名古屋市営地下鉄では初となる、自動改札機に直接投入できる乗車カードであった。 同1989年にはリリーカードの路線バスでの導入も開始され、10月2日より基幹バス1号系統に試験導入。バスに乗車する際は、運賃箱の磁気カードリーダーに直接投入して使用できた。 1991年(平成3年)10月1日、リリーカードが市営バス全線に導入された。翌1992年(平成4年)4月1日には、名鉄バスと共同運行する基幹バス2号系統で、リリーカードと名古屋鉄道の「パノラマカード」の共通利用が可能となった。 1998年(平成10年)5月5日に「リリーカード」および「回数券カード」の販売を終了し、翌5月6日から「ユリカ」によるストアードフェアシステムを導入した。 2003年3月のリリーカード使用停止後は、残高を移し替えたユリカと交換するサービスを行っていたが、2006年3月31日をもってユリカとの交換が終了し、以後は無効となった。 昼間割引券はなかった。通常柄のカードの他に、絵柄を指定できるものもあった。 また記念品などの贈答用として、メッセージやイラストを入れたオリジナルカードを注文作成できるサービスも行われていた。
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リリーカードとは、1988年から2003年まで名古屋市交通局で使われていた磁気式乗車カード(プリペイドカード)である。1988年(昭和63年)3月1日発売。名古屋市営地下鉄、名古屋市営バスで使用することができた。 1998年(平成10年)5月6日の「ユリカ」発売により販売終了、2003年(平成15年)から残額を移行したユリカへの交換を行っていたが、2006年(平成18年)に交換を終了した。2011年(平成23年)からはICカード「manaca」が導入され「ユリカ」も販売終了した。 名称は、名古屋市の花であるユリを意味する英語「リリー (lily) 」に由来する。なお「ユリカ」の名称も同様である。 なお本項では、名古屋市営地下鉄で発行されていた磁気式回数乗車券「回数券カード」についても触れる。
'''リリーカード'''とは、[[1988年]]から[[2003年]]まで[[名古屋市交通局]]で使われていた磁気式[[乗車カード]]([[プリペイドカード]])である。[[1988年]]([[昭和]]63年)3月1日発売。[[名古屋市営地下鉄]]、[[名古屋市営バス]]で使用することができた。 [[1998年]]([[平成]]10年)5月6日の「[[ユリカ]]」発売により販売終了、[[2003年]](平成15年)から残額を移行したユリカへの交換を行っていたが、[[2006年]](平成18年)に交換を終了した。[[2011年]](平成23年)からはICカード「manaca」が導入され「ユリカ」も販売終了した。 名称は、[[名古屋市]]の花である[[ユリ]]を意味する[[英語]]「リリー (lily) 」に由来する。なお「ユリカ」の名称も同様である。 なお本項では、名古屋市営地下鉄で発行されていた磁気式[[回数乗車券]]「'''回数券カード'''」についても触れる。 == 概要 == リリーカードは、名古屋市交通局の[[名古屋市営バス|市バス]]・[[名古屋市営地下鉄|地下鉄]]で利用することができた。有効期限は設けられておらず、残額がある間は使用可能であった<ref>『広報なごや No.508』(市バス地下鉄ガイド)には「たまにご利用される方へ リリーカードは、有効期限はありません。安心してご利用ください。」との記載がある。</ref><ref>『交通局ニュース No.118』には「有効期限はありませんので、残額がある間はご使用いただけます。」との記載がある。</ref>。 [[1988年]](昭和63年)[[3月1日]]に発売され、同年[[4月1日]]から[[名古屋市営地下鉄]]全線で使用開始された。リリーカードで地下鉄に乗車する際は、カードが利用できる[[自動券売機]]にリリーカードを投入し、普通乗車券を購入して使用した。また、[[自動精算機|のりこし自動精算機]]では乗車券の不足金額の支払いにリリーカードを使用することもできた。[[ユリカ]]とは異なり、カードを直接[[自動改札機]]に投入することはできなかった。 翌[[1989年]](平成元年)[[9月10日]] 、市営地下鉄[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]が開業。同時に地下鉄回数券が磁気カード化し「'''回数券カード'''」となった。これが名古屋市営地下鉄では初となる、自動改札機に直接投入できる乗車カードであった。 同1989年にはリリーカードの路線バスでの導入も開始され、[[10月2日]]より[[基幹バス (名古屋市)|基幹バス]]1号系統に試験導入。バスに乗車する際は、[[運賃箱]]の磁気カードリーダーに直接投入して使用できた。 [[1991年]](平成3年)[[10月1日]]、リリーカードが市営バス全線に導入された。翌[[1992年]](平成4年)4月1日には、[[名鉄バス]]と共同運行する基幹バス2号系統で、リリーカードと[[名古屋鉄道]]の「[[パノラマカード]]」の[[共通乗車制度|共通利用]]が可能となった。 [[1998年]](平成10年)[[5月5日]]に「リリーカード」および「回数券カード」の販売を終了し、翌[[5月6日]]から「[[ユリカ]]」によるストアードフェアシステムを導入した。 [[2003年]]3月のリリーカード使用停止後は、残高を移し替えたユリカと交換するサービスを行っていたが、[[2006年]][[3月31日]]をもってユリカとの交換が終了し、以後は無効となった。 == 歴史 == {{See also|乗車カード#歴史|ユリカ|manaca}} *[[1988年]](昭和63年) **[[3月1日]] - '''リリーカード'''発売。 **[[4月1日]] - リリーカードを[[名古屋市営地下鉄]]全線で使用開始。 *[[1989年]](平成元年) **[[9月10日]] : 地下鉄[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]開業。同時に地下鉄[[回数乗車券|回数券]]が磁気カード化し「'''回数券カード'''」となる。 **[[10月2日]] - リリーカードを[[基幹バス_(名古屋市)|基幹1号系統]]に試験導入。 *[[1991年]](平成3年)[[10月1日]] - [[名古屋市営バス]]全路線に導入。 *[[1992年]](平成4年)4月1日 - 基幹2号系統で名古屋市営バスと[[名鉄バス]]での共通乗車が可能になる。 *[[1998年]](平成10年) **[[5月5日]] - 「リリーカード」「回数券カード」販売終了。 **[[5月6日]] - 「ユリカ」によるストアードフェアシステム導入。 *[[2003年]](平成15年)[[3月27日]] **ユリカの一部を共通[[乗車カード]]システム「[[トランパス (交通プリペイドカード)|トランパス]]」対応とする。 **同時にリリーカードが使用不可となり、残額を同額のユリカと交換するサービスを開始。 *[[2006年]](平成18年)[[3月31日]] - この日をもってユリカとの交換を終了、以後無効となる。 *[[2011年]](平成23年) **[[2月10日]]:ユリカの販売を終了。 **[[2月11日]] : ICカード乗車券「[[manaca]]」を導入<ref>[http://www.kotsu.city.nagoya.jp/info/2007/iccard.html ICカード乗車券の名称とデザインを決定しました] 名古屋市交通局お知らせ 2010年4月16日</ref>。 ==カードの種類== *リリーカード500(発売額: 500円、500円分使用可能) *リリーカード1000(発売額: 1,000円、1,000円分使用可能) *リリーカード3200(発売額: 3,000円、3,200円分使用可能) *リリーカード5400(発売額: 5,000円、5,400円分使用可能) 昼間割引券はなかった。通常柄のカードの他に、絵柄を指定できるものもあった。 また記念品などの贈答用として、メッセージやイラストを入れたオリジナルカードを注文作成できるサービスも行われていた。 * モデルタイプ ** あらかじめ用意された絵柄のうち好きなものを選択し、自由にメッセージやイラストを入れることができた。最低50枚から印刷された。 * フリータイプ ** 絵柄や文字を自由にデザインすることができた。最低300枚から100枚単位で印刷された。 * 百合のカードにメッセージ印刷 ** 通常柄の「リリーカード500」に自由にメッセージを追加することができた。最低10枚から印刷された。 == 参考文献 == * 名古屋市 「市バス地下鉄ガイド」『広報なごや No.508 特集号』 1990年4月 * 名古屋市交通局 『交通局ニュース No.99』 1992年3月 * 名古屋市交通局 『交通局ニュース No.113』 1995年8月 * 名古屋市交通局 『交通局ニュース No.118』 1996年10月 * 名古屋市交通局 『市バス・地下鉄ニュース』 1998年5月 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[名古屋市交通局]] **[[名古屋市営地下鉄]] **[[名古屋市営バス]] *[[乗車カード]] **[[ユリカ]] - リリーカードの後継となる磁気式乗車カード。 **[[manaca]] - 名古屋市交通局が発行する交通系ICカード。ユリカの後継。 **[[パノラマカード]] - [[基幹バス (名古屋市)|基幹バス]]2号系統でリリーカードと相互利用できた、[[名古屋鉄道]]発行の乗車カード。 {{ICカード乗車券|co=[[名古屋市交通局]]|index=リリーカード}} [[Category:乗車カード|りりいかあと]] [[Category:名古屋市交通局|商りりいかあと]]
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おかあさんといっしょ
『おかあさんといっしょ』は、NHK教育テレビジョン(NHK Eテレ)および国際放送のNHKワールド・プレミアムで放送されている2 - 4歳児向け教育・音楽番組。日本のテレビ放送黎明期から現在まで続いており、日本とNHKを代表する番組のひとつ。1995年以降は、ハイビジョン制作を実施。 新聞テレビ欄などでは字数制限の都合上、「お母さんといっしょ」「お母さんと一緒」などと表記される場合があるが、本来は「おかあさんといっしょ」と全て平仮名で表記するのが正しい。略称は「おかいつ」。 本項では、2002年4月1日から2010年3月18日まで衛星第2テレビにて放送されていた『BSおかあさんといっしょ』と2005年4月9日から2008年3月29日まで毎週土曜に教育テレビにて放送されていた『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』についても記述する。 1959年10月5日に開始し、番組構成が変更されながらも現在に至るまで放送され続けている長寿テレビ番組で、NHK、また日本を代表する番組のひとつである。番組開始当初はその名の通り『母と子が一緒に楽しむエンターテイメント番組』というスタイルで、毎週月曜日、20分の生放送だった。1966年3月より同局の幼児番組『うたのえほん』が同番組の歌および体操のコーナーとして併合され、1976年に同コーナーが終了したことに伴い、1976年4月に放送内容が改変された。その後、朝の本放送は総合テレビで月 - 土曜日の朝9:30 - 9:55枠で放送され、夕方の再放送は教育テレビで(1984年度までは総合テレビでの放送)放送されていたが、1997年4月からは土曜日のみ本放送も教育テレビに移動され、1998年4月より平日の本放送も教育テレビに移動された。1995年9月収録、同年10月放送分よりハイビジョン制作開始。これはNHKを含め、子供番組で初めての事だった。2011年度までは有効走査線数の少ないアナログハイビジョンになっていたが、2012年度以降は過去のクリップを含めデジタルハイビジョン映像になった。 2002年4月1日から2010年3月18日まで衛星第2テレビにて『BSおかあさんといっしょ』が放送されていた。2010年度から2015年度まで土曜日の放送のみ『おかあさんといっしょ あつまれ!土曜日』のタイトルで放送されていた。番組出演者は通常放送と同じだが、進行をたいそうのおにいさんとたいそうのおねえさんが担当して、体を動かす事がメインとなった構成になっている。また、年に約10回前後地方での収録が行われていて、これには体操のお兄さん、体操(身体表現)のお姉さんのみが収録に参加する。また、海外向けのNHKワールド・プレミアムでも放送されている。また、国会中継や高校野球、大相撲放送等が延長された時のフィラー番組として「おかあさんといっしょmini」(放送時間5分もしくは10分)が不定期に放送されていた。 現在の主な番組内容は、歌のコーナー・着ぐるみ人形劇・短編アニメーション・生活習慣コーナー・体操のコーナーなどがある。歌のコーナーからは、「だんご3兄弟」や「ドンスカパンパンおうえんだん」などといったヒット曲も登場している。 現在の主な番組出演者は進行役となるうたのおにいさんとうたのおねえさん、たいそうのおにいさんとたいそうのおねえさん、および人形劇のメインキャラクターとなっている。 現在使用されている番組ロゴは、古くは1970年代から使用されている。「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」のものと「おかあさんと(改行)いっしょ」のものが存在し、前者はオープニングでは1992年10月3日まで使用され、エンディング(文字のみ)では2009年3月28日まで使用された。後者は雲の形をしており、基本的に赤地に白文字のものがよく使用される。オープニングでは1992年10月5日より使用されており、エンディングでは2009年3月30日より使用されている。BS版のロゴは後者のロゴの左上に「BS」のロゴ(1995年度から2010年度までNHKで使用された先代のロゴ)が付けられたものである。 スタジオ収録には公募抽選によって選ばれた一般の子供が参加し、番組進行そのままの形でノーカットで行われている。1998年度を以て地方収録は一旦終了したが、2010年度から2015年度の「あつまれ!土曜日」では、体操のおにいさん・身体表現のお姉さんのみが地方に行って収録が行われるようになった。2016年度からの土曜版はタイトルから「あつまれ!土曜日」がなくなり、地方での収録が大幅に削減されている。なお、BS版では開始から一貫して地方収録スタイルで全国47都道府県を巡回していた。地方発のときは土曜日にスタジオ以外のホールなどからの公開収録が放映されたこともあった。NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、同番組の制作費は1本につき約320万円。 スタジオ収録の公募は開始から長らく往復はがきでの申し込みによる抽選だったが、2010年3月26日以降の応募からは対象が保護者がNHKネットクラブプレミアム会員である場合に限られ、インターネット上で申し込む形式になった(1ヶ月間で応募できるのは1回だけ。また当選した場合、収録に参加する日や時間を選ぶ事はできない)。応募可能なのは、参加する子供が3歳の誕生月から4歳の誕生月までの計13回となっており(例えば、2019年4月に応募できるのは、2015年4月〜2016年4月生まれの子)、身体・知的等の障碍を持っている子でも番組収録に参加する事は可能。ただし、服装などで特定のブランド名や固有名詞などが前面に出ている服や、反射素材を含んだ物を出演する子供が着用する事は禁止されている。 2011年4月4日から4月30日の間は東日本大震災の影響により、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった。 2020年4月6日以降、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった。感染拡大を受けて、6月には「今月の歌」の披露が休止され、この時期としては異例の特別編成で「やぎさんゆうびんスペシャル」が放送された。8月1日放送の「ファミリーコンサートスペシャル」では、冒頭のトークで新型コロナウイルス感染拡大の現状について言及し、最後は視聴者に向けて感染予防を呼びかけ、コンサート再開を楽しみに待つ旨のメッセージで締めくくった。2021年度以降は、土曜日(地方収録がある週は金曜日)のみ少人数制・保護者同伴・ソーシャルディスタンス確保の条件付きでスタジオでの子供の参加が再開(緊急事態宣言発出時など見合わせた時期もあった)。地方収録も2022年1月から同様の形式で再開された。なお、新型コロナウイルスの感染法上の分類が2023年5月8日から5類に引き下がったことを受け、同年6月の収録募集分より放送センター回は親子参加から子供のみでの収録募集に戻り、同年11月10日よりそれまでの親子収録と同じ曜日に限定する形で従来の収録形式での放送が再開された。 番組開始当時の子供向けに作られたテレビ番組は、学校放送など教育や教養を扱うものやアメリカン・コミックスなどを題材にしたテレビ映画・漫画映画が主で娯楽性のある子供向け番組は少なかった。『おかあさんといっしょ』が開始以降の1960年代~1970年代に、日本テレビの『おはよう!こどもショー』やフジテレビの『ママとあそぼう!ピンポンパン』など、日替わりで10 - 20分程度のコーナーを1 - 2本放送する番組が多く制作された。 放送開始から10年を超え、『うたのえほん』開始からは10年たった1971年、新たにうたのおにいさんが設けられるなど、従来からの形を大きく変えることが多々あった時代である。特に1976年度の大幅リニューアルは、現在の番組スタイルの元となった。その一方、金・土は従来の形を維持した編成を取るなど、試行錯誤の跡が数多く見受けられる。また、視聴者の年齢が低年齢化し、番組の内容が現在の3歳児向けへとシフトチェンジしていった時代でもある。 1981年の身体表現のおねえさん登場、更に1983年度の改編で1979年度から1980年度以来となるうたのおにいさん・おねえさんのペアスタイルが取られたことで、おにいさん・おねえさん4人による番組進行のスタイルが確立する。また、ファミリーコンサートの開始、月替わりの歌の放送など、現在に至るまで続いている企画、イベントの多くが始動。1983年に土曜日に残っていた旧来の2コーナー編成による平日版との差別化が廃されて全曜日番組構成が統一化され、1985年には再放送が総合テレビから教育テレビに移動、翌1986年にはステレオ放送を開始するなど、時代に合わせた番組編成もこのころから見受けられている。また、出演者の長期出演、コーナーの長期放送が目立つようになる。 番組開始30年を超え、番組開始当時見ていた世代が親となり、子供とともに見るといったシチュエーションが増え、子供だけでなく大人の視聴者層が見受けられるようになった。子供番組の教育テレビ集約がきっかけになり、子供番組ゾーンが形成され、『おかあさんといっしょ』はその中心的役割を担うこととなった。1992年には『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ系列)のガチャピン&ムックとの共演、1995年にハイビジョン制作が開始、1999年の「だんご3兄弟」のヒットなど、特筆すべき出来事も多くあり、また、番組40周年時には大幅リニューアルが実施され、現在のスタイルと同じような形となり、放送時間が拡大された。 地上波版とは別に、BS2で『BSおかあさんといっしょ』が放送開始、土曜版が『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』として放送されるなど、従来の枠を超えた派生番組の制作が見られるようになった。またそれ以降、週末の公開収録型の子供番組に現役・歴代出演者がゲスト出演、テレビ放送開始50周年記念イベント開催など、時代・番組の枠を超えた形での共演も多く見られる。 2010年には、朝の本放送の放送時間が前倒しされた。2011年3月に発生した東日本大震災の影響で、番組収録が一時見合わせ、さらにファミリーコンサートの公演中止など、過去に例のない異常事態が発生。その一方で、地上波版では11年ぶりの地方収録が再開されている。また、2012年の大晦日には2時間枠で番組のリクエスト特番が放送された。 人形劇やコーナー編成が若干変更される一方で、うたのおにいさん・おねえさんの出演期間は1990年代から2000年代の5年前後から再び長期化の傾向が見られはじめ、横山だいすけの9年、三谷たくみの8年はうたのおにいさん・おねえさんにおける歴代最長出演記録となり、2005年から出演していた小林よしひさは2019年3月まで14年に渡って出演し、たいそうのおにいさんとしての歴代最長出演者となった。2018年には番組本編としては初の映画版が公開され、テレビ放送以外でも注目されるようになった。番組開始60周年を迎える2019年には、従来『○○(身体表現のコーナー名)』のおねえさんと呼ばれていた身体表現のおねえさんに代わる形でたいそうのおねえさんが登場し、番組内の体操がたいそうのおにいさん・おねえさん2人によって進行される形式がとられるようになる。 2020年には、2月に発生した新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響により、スタジオでの子供の参加が見合わせ、さらにファミリーコンサートまたスペシャルステージの公演中止などの異常事態が発生した。 2021年には朝の本放送の放送時間が前倒しされ、2022年には夕方の再放送が18時台に移動する。 国内放送(NHK教育テレビジョン) 国外放送(NHKワールドプレミアム) 2018年度以前は『たいそうのおねえさん』のポジションに、『身体表現のおねえさん』が設けられていた。2019年度より『たいそうのおねえさん』に改められ、現在に至る。 ※新旧交代日は旧メンバーのみとし新メンバーは正式就任日からとする。ただし旧メンバーがお別れの挨拶のみの登場で新メンバーメインでスタートの日は正式就任として新メンバーのみとし旧メンバーは前回放送日までとする。芸名は出演当時の名で記載する(「現:○○」の記載はしない)。また出演期間中に芸名が変わった出演者については別人(前任と後任)と誤解・イメージが無いよう卒業時点の名で記載する。 ※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。 1959年10月 - 1960年8月 1960年9月 - 1961年3月 1961年4月 - 1962年3月 1962年4月 - 9月 1962年10月 - 12月 1963年1月 - 3月 1963年4月 - 9月 1963年10月 - 12月 1964年1月 - 3月 1964年4月 - 9月 1964年10月 - 1965年4月 1965年4月 1965年5月 - 10月 1965年11月 - 1966年3月 1966年4月 1966年4月 - 1967年3月 1967年4月 - 7月 1967年8月 - 1968年3月 1968年4月 - 1969年4月 1969年5月 - 1969年9月 1969年10月 - 1970年3月 1970年4月 - 1971年3月 1971年4月 - 9月 1971年10月 1971年11月 - 1972年3月 1972年4月 - 9月 1972年10月 - 1973年3月 1973年4月 - 1974年3月 1974年4月 - 1975年3月 1975年4月 - 1976年3月 1976年4月 - 1976年9月 1976年10月 - 1977年3月 1977年4月 - 1977年9月 1977年10月 - 1978年3月 1978年4月 - 1979年3月 1979年4月 - 1980年3月 1980年4月 - 1981年3月 1981年4月6日 - 1982年4月3日 1982年4月5日 - 1983年4月2日 1983年4月4日 - 1984年3月31日 1984年4月1日 - 1985年4月1日 1985年4月2日 - 1987年4月6日 1987年4月7日 - 1992年10月3日 1992年10月5日 - 1993年4月5日 1993年4月6日 - 1994年4月2日 1994年4月4日 - 1996年3月30日 1996年4月1日 - 1999年4月3日 1999年4月5日 - 2000年4月1日 2000年4月3日 - 2003年4月5日 2003年4月7日 - 2005年4月2日 2005年4月4日 - 2007年3月30日 2007年4月2日 - 2008年3月28日 2008年3月31日 - 2009年3月28日 2009年3月30日 - 2011年3月26日 2011年3月28日 - 2012年3月31日 2012年4月2日 - 2014年3月29日 2014年3月31日 - 2016年4月2日 2016年4月4日 - 2017年4月1日 2017年4月3日 - 2019年3月30日 2019年4月1日 - 2022年4月2日 2022年4月4日 - 2023年4月1日 2023年4月3日 - 夏休み、冬休み、春休みの時期には通常編成とは異なる内容のものが放送されており、2011年度までの夏休みにはファミリーコンサートのダイジェスト版→特別編成→通常収録のローテーションが、7月最終週から2回放送されていた。2012年度は、【特別編成開始の週の月曜〜水曜で7月第1週の通常収録再放送→木曜〜翌週の金曜まで夏特集→ファミリーコンサート全国版→春のファミリーコンサート分割放送→夏特集からファミリーコンサート全国版→9月第1週】で放送され、2013年度は【7月最終週に第1週再放送とファミリーコンサート千葉公演→あつまれ!土曜日スペシャル→夏特集→春のファミリーコンサート分割放送→前年度夏特集再放送→夏特集再放送→8月最終週より通常編成】、2014年度は春のコンサートの分割放送がなくなるなど、編成が変化してきている。主な内容としては、スタジオを飛び出しての野外ロケ、通常収録で使うCT-103スタジオ、もしくはさらに広いCT-101スタジオでのスタジオライブが多い。 冬特集では、12月24〜25日前後にはクリスマス関連の特別版が放送され、年が明けた1月4日から6日ごろに新年第1回目の放送があるのがほとんどだったが、2012年度からは元日にお正月スペシャルを放送することとなった。春特集が放送される年度末の3月最終週には、ファミリーコンサート全国版の未放送部分(ミニミュージカル、初回放送時に未放送の歌など)や、その年に放送された今月の歌の総集編などが放送されることが多く、特にこの年度をもって卒業するおにいさんおねえさんがいる場合、3月最終週最終日には、卒業するおにいさん・おねえさんのあいさつと新しいおにいさんおねえさんとの引き継ぎも行われている。なお、クリスマス特集・スタジオライブなどは1990年代から放送の翌年にビデオ(DVD)で販売されることが多いほか、2009年度以降は毎年3月に発売されるDVD『最新ソングブック』の特典映像として、夏特集や冬特集で放送した映像が収録されるケースが増えている。 ※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。 1962年年始特集 1963年年始特集 1964年年始特集 1965年年始特集 1966年年始特集 1967年年始特集 1968年年始特集 1969年年始特集 1978年年始特集 1990年年始特集 1990年年末特集 1991年年始特集 1991年年末特集 1992年クリスマス特集 1993年冬特集 1995年夏特集 1996年冬特集 1997年冬特集 1998年冬特集 1999年春特集 以下、放送曲目を記載。(太字は本放送当時の今月の歌) 1999年夏特集 1999年クリスマス特集 2000年夏特集 2001年夏特集 2002年夏特集 2003年卒業特集 2003年夏特集 2004年春特集 2004年夏特集 2004年冬特集 2005年夏特集 2006年夏特集 2006年クリスマス特集 2007年春特集 2007年夏特集 2007年冬特集 2008年春特集 2008年夏特集 2008年冬特集 2009年春特集 2009年夏特集 2009年冬特集 ** 12月18日:ド!ド!ド!ドラゴン、魔法のピンク、ながぐっちゃん!!、夢の中のダンス、アルゴリズムたいそう〜おかあさんといっしょの歴代のお兄さんとお姉さんと一緒〜(ゲスト:いつもここから、坂田おさむ、神崎ゆう子、速水けんたろう、茂森あゆみ、杉田あきひろ、つのだりょうこ) 2010年春特集 2010年夏特集 2010年冬特集 2011年春特集 2011年夏特集 2011年冬特集 2012年春特集 2012年夏特集 2012年冬特集 また、冬特集ではないが2012年12月31日に『たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル「おかあさんといっしょ」』として、リクエストが多かった過去の放送の中からスタッフが厳選したものを構成した特別番組が放送された。 2013年年始特集 2013年春特集 2013年夏特集 2013年冬特集 2014年年始特集 2014年春特集 2014年夏特集 2014年冬特集 ※VTR編成の都合により三谷たくみと小林よしひさは登場しなかった。 2015年年始特集 2015年春特集 2015年夏特集 2015年冬特集 2016年年始特集 2016年春特集 2016年夏特集 2016年冬特集 2016年年末特集 2017年年始特集 2017年春特集 2017年夏特集 2017年冬特集 2017年年末特集 2018年年始特集 2018年春特集 2018年夏特集 2018年冬特集 2018年年末特集 2019年年始特集 2019年春特集 2019年夏特集 2019年冬特集 2019年年末特集 2020年年始特集 2020年春特集 2020年夏特集 2020年秋特集 先述通りスタジオでの子供の参加が見合わせになったため、秋にも特別版が放送された。 2020年冬特集 2022年春特集 番組内で初放送された歌は曲名の後に年・月が表記されている。五十音順に表記。 基本的にアニメーション映像が用いられ、概ね人形劇交代か番組構成の変更を伴う改編ごとに変更される。テーマ曲の作曲も原則として使用時期に放送中の人形劇の劇伴担当者が兼任。 最初期のOPは映像が残っていないため不明。 1986年より短編オリジナルアニメーション枠が設けられている。 以下は「志ん輔ショー(1984年度 - 1998年度)」→「スプーとガタラット(1999年度)」に代わって2000年度に開設された枠で曜日別に放送されているコーナー。 大半はうたのコーナーと同じスタジオで子供たちも参加する形で実施され、おにいさんとおねえさんや人形劇キャラクターが進行を担当する。ただし、「やぎさんゆうびん・リクエスト」や「なんだっけ?!」の様に通常の歌や体操などとは別撮り収録で制作されるコーナーもあり、特に後者の場合は本編が新作週でも過去に放送した内容が再放送されるケースも多い。また、『イチジョウマン』に関しては唯一スタジオ以外で収録されていた。 通常はスタジオに出演する一般の子供から1人が選ばれ、お姉さんと共に出演する。特別編成の時は、子供の代わりに人形劇のキャラクターが1体出演することもある。各身体表現とも数パターンが存在し、日替わりで放送される。 1981年から体操を集団で行うものに対して、1人で行うもう1つの体操として設けられた。2019年3月をもって、後述の体操に吸収される形で廃枠となった。 「ジンジンジム」以降の親子体操は毎週土曜日の放送。このうち「ジンジンジム」と「でかけよう!」は平日の放送で放送される身体表現(「パント!」など)は休止となる。2018年度は各月の最終週のみ「あそべんちゃ~」放送のため休止。 一時期は中盤に行われた事もあったが、基本的に終盤に行われエンディングと接続している。そのため、体操の最後はうたのおにいさん・おねえさんが登場して一緒に体操。概ね3分前後であり、毎回フルサイズで使用される。特別編成ではたいそうのおにいさんが単独で体操するバージョンや、おにいさん・おねえさん全員(人形劇キャラクターも加わるケースあり)で体操するバージョンが放送される。 番組の最後には人形劇のキャラクターを含めたほぼ全ての出演者が登場する。当初は体を動かして遊ぶ内容だったが、「さよならマーチ」以降「べるがなる」使用期間途中の2020年度第1週目まで、および「きんらきらぽん」使用開始2年目の2023年11月以降のエンディングでは人形劇キャラクター(『スプラッピスプラッパ』のみお兄さん・お姉さん)2名が手をつないだアーチの下を、エンディングテーマ曲が流れている間に子供たちがくぐり抜けるのが定番となった。このハンドゲート部分の長さは2004年度までは番組の余剰時間に応じて調整されていたが、2005年度からは自然映像や歌コーナーの曲数など他のコーナーによって時間調整されるようになったため、通常放送においては一定となった。終わりの合図でハンドゲートが終了し、月曜日のみ(初期は週の最終日)一週間分のスタッフロールが流れる。最後に天井から多数のカラフルな風船が降ってきて、番組は終了する(一部の地方収録を除く)。「まねっこぷん」以前は回によっては省略され、体操が終わってそのまま番組が終了したケースもあった。 「おかあさんといっしょ」で1999年4月5日 - 2009年3月28日で使用されていた、スプーが登場するCGとアニメーションを組み合わせた堀井勝美作曲のもの。 番組タイトル部分もそのまま使用し、上部に「BS」の文字が付加されている。 当時、「おかあさんといっしょ」でも使用されていた2つの体操をそれぞれ「おかあさんといっしょ」と同じ時期に使用。 スプラッピ・スプラッパ さみしくなんかないってば 1985年に「おかあさんといっしょ ファミリーステージ」として初開催。1989年以降は春と秋の年2回行われているほか、2000年代からはNHKの他番組も参加した大規模なコンサートも定期的に実施されている。 2018年より、親子で楽しめる「体験型ファミリー映画」として製作されている。いずれの作品も、親子での鑑賞や映画館に慣れていない子供に配慮して通常の映画に比べて照明は暗くならず、音量も控えめになっているという特徴がある。 2018年9月7日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第1作。2018年当時のレギュラー出演者とゲストの満島真之介による実写パートと、『ガラピコぷ〜』のアニメーション版の2部構成。『ガラピコぷ〜』のアニメーション版では、横山だいすけ(11代目うたのおにいさん)と関根麻里がゲスト声優として出演。 2020年1月24日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第2作。今作はおにいさん・おねえさんらの実写パートと『ガラピコぷ〜』のアニメーションパートでストーリーがリンクしており、劇中で随時両方の世界観を行き来する。2020年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、上原りさ、横山だいすけ、賀来賢人がゲストとして出演。興行収入は1億5100万円。 2021年9月10日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第3作。2021年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、横山だいすけ、小池徹平がゲストとして出演。興行収入は7200万円。 ファミリーコンサート以外にもおかあさんといっしょ関連のイベントが存在する。ファミリーコンサート開始以前の1980年代まではデパート等や各地の市民会館でのイベントが行われることもあった。 1990年代からは人形劇をメインに据えた地方巡回イベント「おかあさんといっしょ ○○がやってきた!(○○はイベント実施当時放送中の人形劇タイトル)」が開始された。(スタート当初はドレミファ・どーなっつ!)出演者は人形劇キャラクターのほか、番組の歴代おにいさん・おねえさんや他番組やイベントで活躍するおにいさん・おねえさんである。また、出演当時、おかあさんといっしょの現役おにいさん・おねえさんが出演したケースもあり、卒業後に現役時代コンビだったおにいさん・おねえさんがそろって登場したケースもある。(このイベントのテレビ放送はなし) このほか、「○○小劇場(○○は開催当時放送中の人形劇タイトル)」として、さらに小規模なイベントも開催されている。 いずれのイベントも、開催地のある地域のNHKの放送局で告知されており、ファミリーコンサート同様に一定の人気がある。 1月・4月・7月・10月の各15日ごろに、『NHKのおかあさんといっしょ』が講談社から発売されている。今月の歌の歌詞や、いろいろな歌や、しつけなどが載っている。また、保護者向けに番組関連の特集コーナーや、ファミリーコンサートなどのイベント情報も掲載されている別冊ファミリースタジオがセットになっている(月刊誌時代は本誌から切り離し可能だった)。1 - 3歳児向け(創刊からしばらくは0歳児も対象であった)。 また、講談社の他の乳幼児向け雑誌にも番組関連のページが存在し、これらの雑誌と共同で1995年度(1996年1 - 3月)から2013年度まで毎年冬に「うたのビデオ(2006年度以降はDVD)」を応募者限定販売していた。 1985年9月に、同年の10月号として創刊。創刊号の表紙を飾ったのは坂田おさむ、森みゆき、瀬戸口清文と「にこにこぷん」のキャラクター(じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり)で、付録として2曲入りのソノシートがついていた。 なお、創刊から2014年9月号(同年8月15日発売)までは毎月発売の月刊誌であったが、発刊30年目となる2014年10・11月号からは奇数月発刊の隔月刊となり(偶数月発売の『いないいないばあっ!』と交互)、ファミリースタジオは合冊化された。 創刊以来、発刊ペースを変更しつつも定期発刊されていたが2016年8・9月号と10・11月号、2017年8・9月号は諸般の事情により休刊となり、2019年3月15日発売の2019年春号より、3月・6月・9月・12月の年4回、3ヶ月に1回発刊の季刊誌に移行した。更に2021年冬号からは上記のように発刊月が変更された。(発刊月調整の為、本来2020年冬号として発売される予定であった2021年冬号のみ、2020年秋号発売の4ヶ月後の発売となった) 50年以上の歴史があるゆえ、番組関連のソフトはレコードやVHSをはじめとした絶版になっているものを含め数多く存在する。 現在番組関連のCDおよびDVDを多く発売しているのはポニーキャニオンであり、前身のキャニオンレコード時代からLPレコードやCD・カセットテープを販売し、1990年春のファミリーコンサート以降は各種ビデオ・DVDを2016年現在に至るまで発売している。(ファミリーコンサートに関しては当初VHS、CD、カセットテープを発売していたが、2000年代以降DVDの販売を開始、2006年のものを持ってVHSの販売を終了している。)主にファミリーコンサートの映像/音源と、最新ベスト(CD)および最新ソングブック(DVD)を発売している。 その次に多いのが日本コロムビアである。NHKエンタープライズと関係があることからかつてはこちらからレコード・CDが多数発売されていた。主に番組内の人形劇関連のビデオ・CD・DVDをメインに販売している。近年は、上記のとおりポニーキャニオンにとってかわるようになったが、それでも番組の周年記念CDを出すなど現在もこちらから発売されるソフトは少なくない。 なお、DVDは2009年度までは画面比4:3サイズで制作されていたが、2010年度分よりアナログ放送のレターボックス放送移行に伴うテロップ類の位置移動などの関係で16:9サイズに変更された。ただし、DVDのスペック上画質は標準画質になっている。ブルーレイでリリースされた2013年版以降ののスペシャルステージは、特典映像ともどもハイビジョン画質で収録された。 この他、スペシャルステージの模様を収録したCDとDVDも販売されており、2013年度のスペシャルステージよりブルーレイディスクでも販売される。 1980年代後半以降は、番組映像が放映当時にVHSによる映像ソフト化が行われるようになった一方で、番組放送開始初期の1960年代から1980年代中盤までの番組映像は、後述の通りNHKに残る映像資料数自体が少なく、放送当時市販されていたVHS等の家庭用映像媒体の映像ソフトが無い事も多い為、一般に市販メディアでの入手は困難であるが、一部の映像は2004年にNHKエンタープライズが発売した「懐かしのこども番組グラフィティー 〜おかあさんといっしょクロニクル〜」に収録されており、比較的容易に視聴可能となっている。 テレビ黎明期の時代から続く長寿番組で、開始から1年間を除き帯番組として放送されている関係上、全部保存されていれば想定上莫大な数の映像が存在するが、NHKアーカイブスの保存番組検索で確認される限りにおいては、放送開始から1960年代前半の映像はほとんど残っていない(当時のテレビ番組の多くは使い回しが一般的だった2インチVTRで収録されていたため、NHK・民放とも現存数は少ない)。 1960年代に放送された番組の内、残っている映像で、テレビにおいて放送された実績(または番組ライブラリーで公開された実績)があるのは、1967年3月に放送されたブーフーウーの最終回とそのひとつ前の回、うたのえほんの中で放送された当時のうたのおねえさん中川順子が歌っている「アイアイ」の映像(モノクロ映像)や、初代たいそうのおにいさん砂川啓介が担当した「元気に一・二」の映像など数本である。この事から、番組開始から1970年代初頭までの出演者の一部については当時の映像が全く残っていないという結果を生み出している。特に「うたのえほん」以外のコーナーの多くは映像が残っておらず、当時の資料として台本や写真しかないケースもあり、その中で比較的多く残されている人形劇においても、黎明期の作品ではキネコ映像で最後の2回、及び広報番組用に撮影されたカラーフィルムが残っていた「ブーフーウー」、本編保存は無いが辛うじて広報番組用に撮影されていたカラーフィルム映像がある「ダットくん」があるのみで、「とんちんこぼうず」と「とんでけブッチー」はVTRどころかフィルムやキネコ映像も現存していない。 ビデオ映像として最も古い保存作品は、出演者の浜井都が家庭用ビデオで録画していた「うごけぼくのえ」9回分であり、続く「ゴロンタ劇場」から「ブンブンたいむ」、これらと並行して土曜日に放送されていた「ミューミューニャーニャー」までの作品は放送用VTRおよび家庭用ビデオで散発的に数回の保存がある。放送期間が長期に及び、放映期間中に放送用VTRの保管が始まった「にこにこぷん」ですら、最初の2年間の放送回に未保存回があり、1984年度以降も放送用VTRでは残っていない回がある。また、残っている映像においても、1960年代のものはほぼ全てキネコ形式での録画の為、本放送当時より映像・音声の質が低下している。2014年には、俳優の高橋元太郎がVHSにダビングして保管していた「うたいっぱい」の最終回(1967年3月放送)を提供している。 その後1970年代以降になると、視聴者提供を中心とした家庭用ビデオテープに録画されたものを含め保存本数も増え、1984年度からはNHKが総合テレビの1日の放送を送出状況の確認の為家庭用VTRで録画するようになり、そこから抜粋する形でほぼすべての回が保存されている(放送用VTRの形での完全保存開始時期は不明)。1998年度までは、番組が二部構成に分かれていたこと、さらに地方収録では後半から映像回線を収録担当局に切り替えて放送していた経緯から、人形劇など前半分テープと歌・体操など後半分テープとが別々に分かれたVTRが1回につき2本出てくることがあるが、保存時には1回分として1本のVTRにまとめて保存されている。 また、ハイビジョン化(MUSE方式)した1995年10月放送分〜2004年度ごろまでは、地上波用にサイドカットしたものと2002年度まで衛星放送で実施していたハイビジョン放送用に分けて(あるいはいずれか一方が)保存されている回があり、2012年7月15日に再放送された1999年10月4日の回は、ハイビジョン化後の回であるが、当時地上波で放送した標準画質版で放送されている。この他、1回分の放送テープとは別に番組内で放送した事前収録の歌クリップも別途保管されているケースがある。 『たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル』で放送された、再放送リクエスト特集。 「お願い! 編集長」枠で放送された、再放送リクエスト特集。 新型コロナウイルス感染拡大を受けて、特別編成にて放送された。視聴者だけでなく、おにいさん、おねえさんからのリクエストにこたえる歌・体操のコーナーと、平日通して放送の「しりとりれっしゃ」復活が主な内容。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『おかあさんといっしょ』は、NHK教育テレビジョン(NHK Eテレ)および国際放送のNHKワールド・プレミアムで放送されている2 - 4歳児向け教育・音楽番組。日本のテレビ放送黎明期から現在まで続いており、日本とNHKを代表する番組のひとつ。1995年以降は、ハイビジョン制作を実施。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "新聞テレビ欄などでは字数制限の都合上、「お母さんといっしょ」「お母さんと一緒」などと表記される場合があるが、本来は「おかあさんといっしょ」と全て平仮名で表記するのが正しい。略称は「おかいつ」。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "本項では、2002年4月1日から2010年3月18日まで衛星第2テレビにて放送されていた『BSおかあさんといっしょ』と2005年4月9日から2008年3月29日まで毎週土曜に教育テレビにて放送されていた『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』についても記述する。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1959年10月5日に開始し、番組構成が変更されながらも現在に至るまで放送され続けている長寿テレビ番組で、NHK、また日本を代表する番組のひとつである。番組開始当初はその名の通り『母と子が一緒に楽しむエンターテイメント番組』というスタイルで、毎週月曜日、20分の生放送だった。1966年3月より同局の幼児番組『うたのえほん』が同番組の歌および体操のコーナーとして併合され、1976年に同コーナーが終了したことに伴い、1976年4月に放送内容が改変された。その後、朝の本放送は総合テレビで月 - 土曜日の朝9:30 - 9:55枠で放送され、夕方の再放送は教育テレビで(1984年度までは総合テレビでの放送)放送されていたが、1997年4月からは土曜日のみ本放送も教育テレビに移動され、1998年4月より平日の本放送も教育テレビに移動された。1995年9月収録、同年10月放送分よりハイビジョン制作開始。これはNHKを含め、子供番組で初めての事だった。2011年度までは有効走査線数の少ないアナログハイビジョンになっていたが、2012年度以降は過去のクリップを含めデジタルハイビジョン映像になった。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2002年4月1日から2010年3月18日まで衛星第2テレビにて『BSおかあさんといっしょ』が放送されていた。2010年度から2015年度まで土曜日の放送のみ『おかあさんといっしょ あつまれ!土曜日』のタイトルで放送されていた。番組出演者は通常放送と同じだが、進行をたいそうのおにいさんとたいそうのおねえさんが担当して、体を動かす事がメインとなった構成になっている。また、年に約10回前後地方での収録が行われていて、これには体操のお兄さん、体操(身体表現)のお姉さんのみが収録に参加する。また、海外向けのNHKワールド・プレミアムでも放送されている。また、国会中継や高校野球、大相撲放送等が延長された時のフィラー番組として「おかあさんといっしょmini」(放送時間5分もしくは10分)が不定期に放送されていた。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在の主な番組内容は、歌のコーナー・着ぐるみ人形劇・短編アニメーション・生活習慣コーナー・体操のコーナーなどがある。歌のコーナーからは、「だんご3兄弟」や「ドンスカパンパンおうえんだん」などといったヒット曲も登場している。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "現在の主な番組出演者は進行役となるうたのおにいさんとうたのおねえさん、たいそうのおにいさんとたいそうのおねえさん、および人形劇のメインキャラクターとなっている。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "現在使用されている番組ロゴは、古くは1970年代から使用されている。「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」のものと「おかあさんと(改行)いっしょ」のものが存在し、前者はオープニングでは1992年10月3日まで使用され、エンディング(文字のみ)では2009年3月28日まで使用された。後者は雲の形をしており、基本的に赤地に白文字のものがよく使用される。オープニングでは1992年10月5日より使用されており、エンディングでは2009年3月30日より使用されている。BS版のロゴは後者のロゴの左上に「BS」のロゴ(1995年度から2010年度までNHKで使用された先代のロゴ)が付けられたものである。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "スタジオ収録には公募抽選によって選ばれた一般の子供が参加し、番組進行そのままの形でノーカットで行われている。1998年度を以て地方収録は一旦終了したが、2010年度から2015年度の「あつまれ!土曜日」では、体操のおにいさん・身体表現のお姉さんのみが地方に行って収録が行われるようになった。2016年度からの土曜版はタイトルから「あつまれ!土曜日」がなくなり、地方での収録が大幅に削減されている。なお、BS版では開始から一貫して地方収録スタイルで全国47都道府県を巡回していた。地方発のときは土曜日にスタジオ以外のホールなどからの公開収録が放映されたこともあった。NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、同番組の制作費は1本につき約320万円。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スタジオ収録の公募は開始から長らく往復はがきでの申し込みによる抽選だったが、2010年3月26日以降の応募からは対象が保護者がNHKネットクラブプレミアム会員である場合に限られ、インターネット上で申し込む形式になった(1ヶ月間で応募できるのは1回だけ。また当選した場合、収録に参加する日や時間を選ぶ事はできない)。応募可能なのは、参加する子供が3歳の誕生月から4歳の誕生月までの計13回となっており(例えば、2019年4月に応募できるのは、2015年4月〜2016年4月生まれの子)、身体・知的等の障碍を持っている子でも番組収録に参加する事は可能。ただし、服装などで特定のブランド名や固有名詞などが前面に出ている服や、反射素材を含んだ物を出演する子供が着用する事は禁止されている。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2011年4月4日から4月30日の間は東日本大震災の影響により、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2020年4月6日以降、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった。感染拡大を受けて、6月には「今月の歌」の披露が休止され、この時期としては異例の特別編成で「やぎさんゆうびんスペシャル」が放送された。8月1日放送の「ファミリーコンサートスペシャル」では、冒頭のトークで新型コロナウイルス感染拡大の現状について言及し、最後は視聴者に向けて感染予防を呼びかけ、コンサート再開を楽しみに待つ旨のメッセージで締めくくった。2021年度以降は、土曜日(地方収録がある週は金曜日)のみ少人数制・保護者同伴・ソーシャルディスタンス確保の条件付きでスタジオでの子供の参加が再開(緊急事態宣言発出時など見合わせた時期もあった)。地方収録も2022年1月から同様の形式で再開された。なお、新型コロナウイルスの感染法上の分類が2023年5月8日から5類に引き下がったことを受け、同年6月の収録募集分より放送センター回は親子参加から子供のみでの収録募集に戻り、同年11月10日よりそれまでの親子収録と同じ曜日に限定する形で従来の収録形式での放送が再開された。", "title": "番組概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "番組開始当時の子供向けに作られたテレビ番組は、学校放送など教育や教養を扱うものやアメリカン・コミックスなどを題材にしたテレビ映画・漫画映画が主で娯楽性のある子供向け番組は少なかった。『おかあさんといっしょ』が開始以降の1960年代~1970年代に、日本テレビの『おはよう!こどもショー』やフジテレビの『ママとあそぼう!ピンポンパン』など、日替わりで10 - 20分程度のコーナーを1 - 2本放送する番組が多く制作された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "放送開始から10年を超え、『うたのえほん』開始からは10年たった1971年、新たにうたのおにいさんが設けられるなど、従来からの形を大きく変えることが多々あった時代である。特に1976年度の大幅リニューアルは、現在の番組スタイルの元となった。その一方、金・土は従来の形を維持した編成を取るなど、試行錯誤の跡が数多く見受けられる。また、視聴者の年齢が低年齢化し、番組の内容が現在の3歳児向けへとシフトチェンジしていった時代でもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1981年の身体表現のおねえさん登場、更に1983年度の改編で1979年度から1980年度以来となるうたのおにいさん・おねえさんのペアスタイルが取られたことで、おにいさん・おねえさん4人による番組進行のスタイルが確立する。また、ファミリーコンサートの開始、月替わりの歌の放送など、現在に至るまで続いている企画、イベントの多くが始動。1983年に土曜日に残っていた旧来の2コーナー編成による平日版との差別化が廃されて全曜日番組構成が統一化され、1985年には再放送が総合テレビから教育テレビに移動、翌1986年にはステレオ放送を開始するなど、時代に合わせた番組編成もこのころから見受けられている。また、出演者の長期出演、コーナーの長期放送が目立つようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "番組開始30年を超え、番組開始当時見ていた世代が親となり、子供とともに見るといったシチュエーションが増え、子供だけでなく大人の視聴者層が見受けられるようになった。子供番組の教育テレビ集約がきっかけになり、子供番組ゾーンが形成され、『おかあさんといっしょ』はその中心的役割を担うこととなった。1992年には『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ系列)のガチャピン&ムックとの共演、1995年にハイビジョン制作が開始、1999年の「だんご3兄弟」のヒットなど、特筆すべき出来事も多くあり、また、番組40周年時には大幅リニューアルが実施され、現在のスタイルと同じような形となり、放送時間が拡大された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "地上波版とは別に、BS2で『BSおかあさんといっしょ』が放送開始、土曜版が『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』として放送されるなど、従来の枠を超えた派生番組の制作が見られるようになった。またそれ以降、週末の公開収録型の子供番組に現役・歴代出演者がゲスト出演、テレビ放送開始50周年記念イベント開催など、時代・番組の枠を超えた形での共演も多く見られる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年には、朝の本放送の放送時間が前倒しされた。2011年3月に発生した東日本大震災の影響で、番組収録が一時見合わせ、さらにファミリーコンサートの公演中止など、過去に例のない異常事態が発生。その一方で、地上波版では11年ぶりの地方収録が再開されている。また、2012年の大晦日には2時間枠で番組のリクエスト特番が放送された。 人形劇やコーナー編成が若干変更される一方で、うたのおにいさん・おねえさんの出演期間は1990年代から2000年代の5年前後から再び長期化の傾向が見られはじめ、横山だいすけの9年、三谷たくみの8年はうたのおにいさん・おねえさんにおける歴代最長出演記録となり、2005年から出演していた小林よしひさは2019年3月まで14年に渡って出演し、たいそうのおにいさんとしての歴代最長出演者となった。2018年には番組本編としては初の映画版が公開され、テレビ放送以外でも注目されるようになった。番組開始60周年を迎える2019年には、従来『○○(身体表現のコーナー名)』のおねえさんと呼ばれていた身体表現のおねえさんに代わる形でたいそうのおねえさんが登場し、番組内の体操がたいそうのおにいさん・おねえさん2人によって進行される形式がとられるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2020年には、2月に発生した新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響により、スタジオでの子供の参加が見合わせ、さらにファミリーコンサートまたスペシャルステージの公演中止などの異常事態が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2021年には朝の本放送の放送時間が前倒しされ、2022年には夕方の再放送が18時台に移動する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "国内放送(NHK教育テレビジョン)", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国外放送(NHKワールドプレミアム)", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2018年度以前は『たいそうのおねえさん』のポジションに、『身体表現のおねえさん』が設けられていた。2019年度より『たいそうのおねえさん』に改められ、現在に至る。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "※新旧交代日は旧メンバーのみとし新メンバーは正式就任日からとする。ただし旧メンバーがお別れの挨拶のみの登場で新メンバーメインでスタートの日は正式就任として新メンバーのみとし旧メンバーは前回放送日までとする。芸名は出演当時の名で記載する(「現:○○」の記載はしない)。また出演期間中に芸名が変わった出演者については別人(前任と後任)と誤解・イメージが無いよう卒業時点の名で記載する。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1959年10月 - 1960年8月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1960年9月 - 1961年3月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1961年4月 - 1962年3月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1962年4月 - 9月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1962年10月 - 12月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1963年1月 - 3月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1963年4月 - 9月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1963年10月 - 12月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1964年1月 - 3月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1964年4月 - 9月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1964年10月 - 1965年4月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1965年4月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1965年5月 - 10月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1965年11月 - 1966年3月", "title": "おかあさんといっしょ" }, { 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冬特集では、12月24〜25日前後にはクリスマス関連の特別版が放送され、年が明けた1月4日から6日ごろに新年第1回目の放送があるのがほとんどだったが、2012年度からは元日にお正月スペシャルを放送することとなった。春特集が放送される年度末の3月最終週には、ファミリーコンサート全国版の未放送部分(ミニミュージカル、初回放送時に未放送の歌など)や、その年に放送された今月の歌の総集編などが放送されることが多く、特にこの年度をもって卒業するおにいさんおねえさんがいる場合、3月最終週最終日には、卒業するおにいさん・おねえさんのあいさつと新しいおにいさんおねえさんとの引き継ぎも行われている。なお、クリスマス特集・スタジオライブなどは1990年代から放送の翌年にビデオ(DVD)で販売されることが多いほか、2009年度以降は毎年3月に発売されるDVD『最新ソングブック』の特典映像として、夏特集や冬特集で放送した映像が収録されるケースが増えている。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1962年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1963年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1964年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1965年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1966年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1967年年始特集", 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"paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1998年冬特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "1999年春特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "以下、放送曲目を記載。(太字は本放送当時の今月の歌)", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1999年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1999年クリスマス特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "2000年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "2001年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "2002年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "2003年卒業特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2003年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2004年春特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "2004年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 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"また、冬特集ではないが2012年12月31日に『たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル「おかあさんといっしょ」』として、リクエストが多かった過去の放送の中からスタッフが厳選したものを構成した特別番組が放送された。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2013年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2013年春特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "2013年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "2013年冬特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "2014年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2014年春特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "2014年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "2014年冬特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "※VTR編成の都合により三谷たくみと小林よしひさは登場しなかった。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "2015年年始特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 154, "tag": 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179, "tag": "p", "text": "2020年夏特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "2020年秋特集 先述通りスタジオでの子供の参加が見合わせになったため、秋にも特別版が放送された。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "2020年冬特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "2022年春特集", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "番組内で初放送された歌は曲名の後に年・月が表記されている。五十音順に表記。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "基本的にアニメーション映像が用いられ、概ね人形劇交代か番組構成の変更を伴う改編ごとに変更される。テーマ曲の作曲も原則として使用時期に放送中の人形劇の劇伴担当者が兼任。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "最初期のOPは映像が残っていないため不明。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "1986年より短編オリジナルアニメーション枠が設けられている。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "以下は「志ん輔ショー(1984年度 - 1998年度)」→「スプーとガタラット(1999年度)」に代わって2000年度に開設された枠で曜日別に放送されているコーナー。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "大半はうたのコーナーと同じスタジオで子供たちも参加する形で実施され、おにいさんとおねえさんや人形劇キャラクターが進行を担当する。ただし、「やぎさんゆうびん・リクエスト」や「なんだっけ?!」の様に通常の歌や体操などとは別撮り収録で制作されるコーナーもあり、特に後者の場合は本編が新作週でも過去に放送した内容が再放送されるケースも多い。また、『イチジョウマン』に関しては唯一スタジオ以外で収録されていた。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "通常はスタジオに出演する一般の子供から1人が選ばれ、お姉さんと共に出演する。特別編成の時は、子供の代わりに人形劇のキャラクターが1体出演することもある。各身体表現とも数パターンが存在し、日替わりで放送される。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "1981年から体操を集団で行うものに対して、1人で行うもう1つの体操として設けられた。2019年3月をもって、後述の体操に吸収される形で廃枠となった。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "「ジンジンジム」以降の親子体操は毎週土曜日の放送。このうち「ジンジンジム」と「でかけよう!」は平日の放送で放送される身体表現(「パント!」など)は休止となる。2018年度は各月の最終週のみ「あそべんちゃ~」放送のため休止。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "一時期は中盤に行われた事もあったが、基本的に終盤に行われエンディングと接続している。そのため、体操の最後はうたのおにいさん・おねえさんが登場して一緒に体操。概ね3分前後であり、毎回フルサイズで使用される。特別編成ではたいそうのおにいさんが単独で体操するバージョンや、おにいさん・おねえさん全員(人形劇キャラクターも加わるケースあり)で体操するバージョンが放送される。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "番組の最後には人形劇のキャラクターを含めたほぼ全ての出演者が登場する。当初は体を動かして遊ぶ内容だったが、「さよならマーチ」以降「べるがなる」使用期間途中の2020年度第1週目まで、および「きんらきらぽん」使用開始2年目の2023年11月以降のエンディングでは人形劇キャラクター(『スプラッピスプラッパ』のみお兄さん・お姉さん)2名が手をつないだアーチの下を、エンディングテーマ曲が流れている間に子供たちがくぐり抜けるのが定番となった。このハンドゲート部分の長さは2004年度までは番組の余剰時間に応じて調整されていたが、2005年度からは自然映像や歌コーナーの曲数など他のコーナーによって時間調整されるようになったため、通常放送においては一定となった。終わりの合図でハンドゲートが終了し、月曜日のみ(初期は週の最終日)一週間分のスタッフロールが流れる。最後に天井から多数のカラフルな風船が降ってきて、番組は終了する(一部の地方収録を除く)。「まねっこぷん」以前は回によっては省略され、体操が終わってそのまま番組が終了したケースもあった。", "title": "おかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "「おかあさんといっしょ」で1999年4月5日 - 2009年3月28日で使用されていた、スプーが登場するCGとアニメーションを組み合わせた堀井勝美作曲のもの。", "title": "BSおかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "番組タイトル部分もそのまま使用し、上部に「BS」の文字が付加されている。", "title": "BSおかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "当時、「おかあさんといっしょ」でも使用されていた2つの体操をそれぞれ「おかあさんといっしょ」と同じ時期に使用。", "title": "BSおかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "スプラッピ・スプラッパ", "title": "BSおかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "さみしくなんかないってば", "title": "BSおかあさんといっしょ" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "1985年に「おかあさんといっしょ ファミリーステージ」として初開催。1989年以降は春と秋の年2回行われているほか、2000年代からはNHKの他番組も参加した大規模なコンサートも定期的に実施されている。", "title": "ファミリーコンサート" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "2018年より、親子で楽しめる「体験型ファミリー映画」として製作されている。いずれの作品も、親子での鑑賞や映画館に慣れていない子供に配慮して通常の映画に比べて照明は暗くならず、音量も控えめになっているという特徴がある。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "2018年9月7日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第1作。2018年当時のレギュラー出演者とゲストの満島真之介による実写パートと、『ガラピコぷ〜』のアニメーション版の2部構成。『ガラピコぷ〜』のアニメーション版では、横山だいすけ(11代目うたのおにいさん)と関根麻里がゲスト声優として出演。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "2020年1月24日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第2作。今作はおにいさん・おねえさんらの実写パートと『ガラピコぷ〜』のアニメーションパートでストーリーがリンクしており、劇中で随時両方の世界観を行き来する。2020年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、上原りさ、横山だいすけ、賀来賢人がゲストとして出演。興行収入は1億5100万円。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "2021年9月10日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第3作。2021年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、横山だいすけ、小池徹平がゲストとして出演。興行収入は7200万円。", "title": "映画" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "ファミリーコンサート以外にもおかあさんといっしょ関連のイベントが存在する。ファミリーコンサート開始以前の1980年代まではデパート等や各地の市民会館でのイベントが行われることもあった。", "title": "番組関連イベント" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "1990年代からは人形劇をメインに据えた地方巡回イベント「おかあさんといっしょ ○○がやってきた!(○○はイベント実施当時放送中の人形劇タイトル)」が開始された。(スタート当初はドレミファ・どーなっつ!)出演者は人形劇キャラクターのほか、番組の歴代おにいさん・おねえさんや他番組やイベントで活躍するおにいさん・おねえさんである。また、出演当時、おかあさんといっしょの現役おにいさん・おねえさんが出演したケースもあり、卒業後に現役時代コンビだったおにいさん・おねえさんがそろって登場したケースもある。(このイベントのテレビ放送はなし)", "title": "番組関連イベント" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "このほか、「○○小劇場(○○は開催当時放送中の人形劇タイトル)」として、さらに小規模なイベントも開催されている。 いずれのイベントも、開催地のある地域のNHKの放送局で告知されており、ファミリーコンサート同様に一定の人気がある。", "title": "番組関連イベント" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "1月・4月・7月・10月の各15日ごろに、『NHKのおかあさんといっしょ』が講談社から発売されている。今月の歌の歌詞や、いろいろな歌や、しつけなどが載っている。また、保護者向けに番組関連の特集コーナーや、ファミリーコンサートなどのイベント情報も掲載されている別冊ファミリースタジオがセットになっている(月刊誌時代は本誌から切り離し可能だった)。1 - 3歳児向け(創刊からしばらくは0歳児も対象であった)。 また、講談社の他の乳幼児向け雑誌にも番組関連のページが存在し、これらの雑誌と共同で1995年度(1996年1 - 3月)から2013年度まで毎年冬に「うたのビデオ(2006年度以降はDVD)」を応募者限定販売していた。", "title": "雑誌" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "1985年9月に、同年の10月号として創刊。創刊号の表紙を飾ったのは坂田おさむ、森みゆき、瀬戸口清文と「にこにこぷん」のキャラクター(じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり)で、付録として2曲入りのソノシートがついていた。", "title": "雑誌" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "なお、創刊から2014年9月号(同年8月15日発売)までは毎月発売の月刊誌であったが、発刊30年目となる2014年10・11月号からは奇数月発刊の隔月刊となり(偶数月発売の『いないいないばあっ!』と交互)、ファミリースタジオは合冊化された。 創刊以来、発刊ペースを変更しつつも定期発刊されていたが2016年8・9月号と10・11月号、2017年8・9月号は諸般の事情により休刊となり、2019年3月15日発売の2019年春号より、3月・6月・9月・12月の年4回、3ヶ月に1回発刊の季刊誌に移行した。更に2021年冬号からは上記のように発刊月が変更された。(発刊月調整の為、本来2020年冬号として発売される予定であった2021年冬号のみ、2020年秋号発売の4ヶ月後の発売となった)", "title": "雑誌" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "50年以上の歴史があるゆえ、番組関連のソフトはレコードやVHSをはじめとした絶版になっているものを含め数多く存在する。 現在番組関連のCDおよびDVDを多く発売しているのはポニーキャニオンであり、前身のキャニオンレコード時代からLPレコードやCD・カセットテープを販売し、1990年春のファミリーコンサート以降は各種ビデオ・DVDを2016年現在に至るまで発売している。(ファミリーコンサートに関しては当初VHS、CD、カセットテープを発売していたが、2000年代以降DVDの販売を開始、2006年のものを持ってVHSの販売を終了している。)主にファミリーコンサートの映像/音源と、最新ベスト(CD)および最新ソングブック(DVD)を発売している。 その次に多いのが日本コロムビアである。NHKエンタープライズと関係があることからかつてはこちらからレコード・CDが多数発売されていた。主に番組内の人形劇関連のビデオ・CD・DVDをメインに販売している。近年は、上記のとおりポニーキャニオンにとってかわるようになったが、それでも番組の周年記念CDを出すなど現在もこちらから発売されるソフトは少なくない。 なお、DVDは2009年度までは画面比4:3サイズで制作されていたが、2010年度分よりアナログ放送のレターボックス放送移行に伴うテロップ類の位置移動などの関係で16:9サイズに変更された。ただし、DVDのスペック上画質は標準画質になっている。ブルーレイでリリースされた2013年版以降ののスペシャルステージは、特典映像ともどもハイビジョン画質で収録された。", "title": "番組関連映像・音源販売" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "この他、スペシャルステージの模様を収録したCDとDVDも販売されており、2013年度のスペシャルステージよりブルーレイディスクでも販売される。", "title": "番組関連映像・音源販売" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "1980年代後半以降は、番組映像が放映当時にVHSによる映像ソフト化が行われるようになった一方で、番組放送開始初期の1960年代から1980年代中盤までの番組映像は、後述の通りNHKに残る映像資料数自体が少なく、放送当時市販されていたVHS等の家庭用映像媒体の映像ソフトが無い事も多い為、一般に市販メディアでの入手は困難であるが、一部の映像は2004年にNHKエンタープライズが発売した「懐かしのこども番組グラフィティー 〜おかあさんといっしょクロニクル〜」に収録されており、比較的容易に視聴可能となっている。", "title": "番組関連映像・音源販売" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "テレビ黎明期の時代から続く長寿番組で、開始から1年間を除き帯番組として放送されている関係上、全部保存されていれば想定上莫大な数の映像が存在するが、NHKアーカイブスの保存番組検索で確認される限りにおいては、放送開始から1960年代前半の映像はほとんど残っていない(当時のテレビ番組の多くは使い回しが一般的だった2インチVTRで収録されていたため、NHK・民放とも現存数は少ない)。", "title": "番組の保存状況" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "1960年代に放送された番組の内、残っている映像で、テレビにおいて放送された実績(または番組ライブラリーで公開された実績)があるのは、1967年3月に放送されたブーフーウーの最終回とそのひとつ前の回、うたのえほんの中で放送された当時のうたのおねえさん中川順子が歌っている「アイアイ」の映像(モノクロ映像)や、初代たいそうのおにいさん砂川啓介が担当した「元気に一・二」の映像など数本である。この事から、番組開始から1970年代初頭までの出演者の一部については当時の映像が全く残っていないという結果を生み出している。特に「うたのえほん」以外のコーナーの多くは映像が残っておらず、当時の資料として台本や写真しかないケースもあり、その中で比較的多く残されている人形劇においても、黎明期の作品ではキネコ映像で最後の2回、及び広報番組用に撮影されたカラーフィルムが残っていた「ブーフーウー」、本編保存は無いが辛うじて広報番組用に撮影されていたカラーフィルム映像がある「ダットくん」があるのみで、「とんちんこぼうず」と「とんでけブッチー」はVTRどころかフィルムやキネコ映像も現存していない。", "title": "番組の保存状況" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "ビデオ映像として最も古い保存作品は、出演者の浜井都が家庭用ビデオで録画していた「うごけぼくのえ」9回分であり、続く「ゴロンタ劇場」から「ブンブンたいむ」、これらと並行して土曜日に放送されていた「ミューミューニャーニャー」までの作品は放送用VTRおよび家庭用ビデオで散発的に数回の保存がある。放送期間が長期に及び、放映期間中に放送用VTRの保管が始まった「にこにこぷん」ですら、最初の2年間の放送回に未保存回があり、1984年度以降も放送用VTRでは残っていない回がある。また、残っている映像においても、1960年代のものはほぼ全てキネコ形式での録画の為、本放送当時より映像・音声の質が低下している。2014年には、俳優の高橋元太郎がVHSにダビングして保管していた「うたいっぱい」の最終回(1967年3月放送)を提供している。", "title": "番組の保存状況" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "その後1970年代以降になると、視聴者提供を中心とした家庭用ビデオテープに録画されたものを含め保存本数も増え、1984年度からはNHKが総合テレビの1日の放送を送出状況の確認の為家庭用VTRで録画するようになり、そこから抜粋する形でほぼすべての回が保存されている(放送用VTRの形での完全保存開始時期は不明)。1998年度までは、番組が二部構成に分かれていたこと、さらに地方収録では後半から映像回線を収録担当局に切り替えて放送していた経緯から、人形劇など前半分テープと歌・体操など後半分テープとが別々に分かれたVTRが1回につき2本出てくることがあるが、保存時には1回分として1本のVTRにまとめて保存されている。", "title": "番組の保存状況" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "また、ハイビジョン化(MUSE方式)した1995年10月放送分〜2004年度ごろまでは、地上波用にサイドカットしたものと2002年度まで衛星放送で実施していたハイビジョン放送用に分けて(あるいはいずれか一方が)保存されている回があり、2012年7月15日に再放送された1999年10月4日の回は、ハイビジョン化後の回であるが、当時地上波で放送した標準画質版で放送されている。この他、1回分の放送テープとは別に番組内で放送した事前収録の歌クリップも別途保管されているケースがある。", "title": "番組の保存状況" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "『たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル』で放送された、再放送リクエスト特集。", "title": "歌って踊って「おかあさんといっしょ」名シーン集" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "「お願い! 編集長」枠で放送された、再放送リクエスト特集。", "title": "おかあさんといっしょ リクエストスペシャル" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染拡大を受けて、特別編成にて放送された。視聴者だけでなく、おにいさん、おねえさんからのリクエストにこたえる歌・体操のコーナーと、平日通して放送の「しりとりれっしゃ」復活が主な内容。", "title": "やぎさんゆうびんスペシャル" } ]
『おかあさんといっしょ』は、NHK教育テレビジョンおよび国際放送のNHKワールド・プレミアムで放送されている2 - 4歳児向け教育・音楽番組。日本のテレビ放送黎明期から現在まで続いており、日本とNHKを代表する番組のひとつ。1995年以降は、ハイビジョン制作を実施。 新聞テレビ欄などでは字数制限の都合上、「お母さんといっしょ」「お母さんと一緒」などと表記される場合があるが、本来は「おかあさんといっしょ」と全て平仮名で表記するのが正しい。略称は「おかいつ」。 本項では、2002年4月1日から2010年3月18日まで衛星第2テレビにて放送されていた『BSおかあさんといっしょ』と2005年4月9日から2008年3月29日まで毎週土曜に教育テレビにて放送されていた『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』についても記述する。
{{半保護}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2013年3月 | 雑多な内容の箇条書き = 2013年3月 | 内容過剰 = 2013年3月 }} {{ファンサイト的|date=2019年8月}} {{TVWATCH|date=2019年8月}} {{告知|提案|日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|プロジェクト‐ノート:放送または配信の番組#日本国内のバラエティ・情報・報道番組などの記事の放送リスト・ネット局の記述添削(テレビアニメ・ドラマは除く)による改訂案|date=2023年12月}} {{基礎情報 テレビ番組 | 番組名 = おかあさんといっしょ | 画像 = File:Logo okaasantoissho theme.png | 画像説明 = | ジャンル = [[教育番組]]/[[音楽番組]] | 放送時間 = [[月曜日|月]] - [[土曜日]] 7:45 - 8:09<br />[[月曜日|月]] - [[金曜日]] 18:00 - 18:24 [[土曜日]] 17:00 - 17:24(再放送) | 放送分 = 24 | 放送枠 = | 放送期間 = [[1959年]][[10月5日]] - | 放送回数 = | 放送国 = {{JPN}} | 制作局 = [[日本放送協会|NHK]](日本放送協会) | 企画 = | 製作総指揮 = | 監督 = | 演出 = | 原作 = | 脚本 = | プロデューサー = | 出演者 = [[花田ゆういちろう]]<br />[[ながたまや]]<br />[[佐久本和夢]]<br />[[秋元杏月]] 他 | 音声 = [[ステレオ放送]](1986年4月〜) | 字幕 = [[文字多重放送]](2012年10月1日より) | 放送 = ハイビジョン制作(1995年~) | データ放送 = | OPテーマ = | EDテーマ = きんらきらぽん | 外部リンク = https://www.nhk.jp/p/okaasan/ts/ZPW9W9XN42/ | 外部リンク名 = 公式サイト | 関連番組 = [[おとうさんといっしょ]] | 特記事項 = }} 『'''おかあさんといっしょ'''』は、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビジョン(NHK Eテレ)]]および国際放送の[[NHKワールド・プレミアム]]で放送されている<ref group="注釈">かつては、[[NHK総合テレビジョン]]、[[NHK衛星第2テレビジョン]]、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン]]でも放送されていた。</ref>2 - 4歳児向け[[教育番組|教育]]・[[音楽番組]]。日本のテレビ放送黎明期から現在まで続いており、日本と[[日本放送協会|NHK]]を代表する番組のひとつ。1995年以降は、[[ハイビジョン]]制作を実施。 新聞テレビ欄などでは字数制限の都合上、「'''お母さんといっしょ'''」「'''お母さんと一緒'''」などと表記される場合があるが、本来は「'''おかあさんといっしょ'''」と全て平仮名で表記するのが正しい。略称は「'''おかいつ'''」。 本項では、[[2002年]][[4月1日]]から[[2010年]][[3月18日]]まで衛星第2テレビにて放送されていた『'''BSおかあさんといっしょ'''』と[[2005年]]4月9日から2008年3月29日まで毎週土曜に教育テレビにて放送されていた『'''おかあさんといっしょ あそびだいすき!'''』についても記述する。  == 番組概要 == [[1959年]][[10月5日]]に開始し、番組構成が変更されながらも現在に至るまで放送され続けている[[長寿番組の一覧|長寿テレビ番組]]で、[[日本放送協会|NHK]]、また日本を代表する番組のひとつである。番組開始当初はその名の通り『母と子が一緒に楽しむエンターテイメント番組』というスタイルで<ref>{{Cite book|和書|editor=[[日本放送協会]]|date=1960-12-25|title=NHK年鑑1961|url={{NDLDC|2474357}}|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=210|id={{NDLJP|2474357/187}}}}</ref>、毎週月曜日、20分の[[生放送]]だった。1966年3月より同局の幼児番組『[[うたのえほん]]』が同番組の歌および体操のコーナーとして併合され、[[1976年]]に同コーナーが終了したことに伴い、1976年4月に放送内容が改変された。その後、朝の本放送は総合テレビで月 - 土曜日の朝9:30 - 9:55枠で放送され、夕方の再放送は教育テレビで(1984年度までは総合テレビでの放送)放送されていたが、[[1997年]][[4月]]からは土曜日のみ本放送も教育テレビに移動され、[[1998年]]4月より平日の本放送も教育テレビに移動された。[[1995年]]9月収録、同年10月放送分よりハイビジョン制作開始。これはNHKを含め、子供番組で初めての事だった。2011年度までは有効走査線数の少ないアナログハイビジョンになっていた<ref>[http://nijinone.net/t003.html にじのね「おかあさんといっしょ」がHD製作し始めたのはいつから?]</ref>が、2012年度以降は過去のクリップを含めデジタルハイビジョン映像になった<ref group="注釈">アナログハイビジョン時代に制作された映像に関しては、デジタルハイビジョンにリサイズして放送。</ref><ref group="注釈">なお[[NHKホール]]でのファミリーコンサートでは、NHKホールが比較的早期に設備を導入したので、1991年秋公演から使用されている。2010年7月にアナログ放送で16:9レターボックスサイズでの放送に変更。</ref><ref group="注釈">ハイビジョン制作開始後から地上デジタル放送開始までに地上波の総合テレビもしくは教育テレビで放送された映像に関して、当時の放送でサイドカットされた映像は2003年12月以降のNHKにおける何らかの形での再放送ではサイドカット無しで放送されている。また、1990年代から2000年代初頭に放送された作品が収録された映像ソフトに関してもVHSでは4:3サイズ、DVDでは一部のアニメーションを16:9サイズにコンバートして販売していたものもある。</ref>。 [[2002年]]4月1日から[[2010年]][[3月18日]]まで[[NHK衛星第2テレビジョン|衛星第2テレビ]]にて『'''BSおかあさんといっしょ'''』が放送されていた。2010年度から2015年度まで土曜日の放送のみ『'''おかあさんといっしょ あつまれ!土曜日'''』のタイトルで放送されていた。番組出演者は通常放送と同じだが、進行をたいそうのおにいさんとたいそうのおねえさんが担当して、体を動かす事がメインとなった構成になっている。また、年に約10回前後地方での収録が行われていて、これには体操のお兄さん、体操(身体表現)のお姉さんのみが収録に参加する。また、海外向けのNHKワールド・プレミアムでも放送されている。また、国会中継や高校野球、大相撲放送等が延長された時の[[つなぎ番組|フィラー]]番組として「'''おかあさんといっしょmini'''」(放送時間5分もしくは10分)が不定期に放送されていた。 現在の主な番組内容は、歌のコーナー・着ぐるみ人形劇・短編アニメーション・生活習慣コーナー・体操のコーナーなどがある。歌のコーナーからは、「[[だんご3兄弟]]」や「[[ドンスカパンパンおうえんだん]]」などといったヒット曲も登場している。 現在の主な番組出演者は進行役となる[[うたのおにいさん]]と[[うたのおねえさん]]、[[たいそうのおにいさん]]と[[たいそうのおねえさん]]、および人形劇のメインキャラクターとなっている。 現在使用されている番組ロゴは、古くは[[1970年代]]から使用されている。「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」のものと「おかあさんと(改行)いっしょ」のものが存在し、前者はオープニングでは[[1992年]][[10月3日]]まで使用され、エンディング(文字のみ)では[[2009年]][[3月28日]]まで使用された。後者は雲の形をしており、基本的に赤地に白文字のものがよく使用される。オープニングでは1992年10月5日より使用されており<ref group="注釈">2022年4月2日までは白地にカラフルな文字のロゴを使用していたが、2022年4月4日からはエンディングと同じく赤地に白文字となっている。</ref>、エンディングでは2009年[[3月30日]]より使用されている。BS版のロゴは後者のロゴの左上に「BS」のロゴ(1995年度から2010年度までNHKで使用された先代のロゴ)が付けられたものである<ref group="注釈">現在使用されている後者の番組ロゴに関しては、雲の形、番組タイトル部分の書体に数パターンほど存在し、特にCD・DVD等では時代、発売元のレコード会社によって用いられるバージョンが異なっている。</ref>。 スタジオ収録には公募抽選によって選ばれた一般の子供が参加し、番組進行そのままの形でノーカットで行われている。1998年度を以て地方収録は一旦終了したが、2010年度から2015年度の「あつまれ!土曜日」では、体操のおにいさん・身体表現のお姉さんのみが地方に行って収録が行われるようになった。2016年度からの土曜版はタイトルから「あつまれ!土曜日」がなくなり、地方での収録が大幅に削減されている。なお、BS版では開始から一貫して地方収録スタイルで全国47都道府県を巡回していた。地方発のときは土曜日にスタジオ以外のホールなどからの公開収録が放映されたこともあった。NHKが2006年に公開した「ジャンル別番組制作費」によると、同番組の制作費は1本につき約320万円。 スタジオ収録の公募は開始から長らく往復はがきでの申し込みによる抽選だったが、2010年3月26日以降の応募からは対象が保護者がNHKネットクラブプレミアム会員である場合に限られ、インターネット上で申し込む形式になった(1ヶ月間で応募できるのは1回だけ<ref group="注釈">1世帯当たり。よって、双生児をはじめとした多胎児で生まれた兄弟姉妹、抽選対象期間が重複する年子など同一世帯に応募資格のある子供が複数ある場合は1度の応募で同時に応募可能であり、当選すれば揃って出演することが可能なよう配慮されている。</ref>。また当選した場合、収録に参加する日や時間を選ぶ事はできない)。応募可能なのは、参加する子供が3歳の誕生月から4歳の誕生月までの計13回となっており(例えば、2019年4月に応募できるのは、2015年4月〜2016年4月生まれの子)、身体・知的等の障碍を持っている子でも番組収録に参加する事は可能。ただし、服装などで特定のブランド名や固有名詞などが前面に出ている服や、反射素材を含んだ物を出演する子供が着用する事は禁止されている<ref>[http://www.nhk.or.jp/css/faq/index.html みなさまの声にお応えします | 特に多くいただくご質問]</ref>。 2011年4月4日から4月30日の間は[[東日本大震災]]の影響により、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった<ref group="注釈">公式なアナウンスはないが、震災に伴う計画停電の影響とされている。これにより、スタジオの歌のコーナーにポコポッテイトのキャラクターが代わりに参加。また子供が参加する形式の「すりかえ仮面」と「お絵かきブギウギ」は休止され、ビデオクリップの歌を増やして時間を調整。「ゴッチャ」と「ぱわわぷたいそう」は特集期間向けのビデオクリップを使用していた。</ref>。 2020年4月6日以降、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]の感染拡大防止のため、スタジオでの子供の参加が一時的に見合わせとなった<ref group="注釈">スタジオの歌のコーナーはガラピコぷ〜のキャラクターが代わりに参加するが、おにいさん、おねえさんのみで進行する場合もある。子供が参加する形式の「ガラピコにんじゃしゅぎょう」、「シルエットはかせ」、「プリンセス・ミミィ」は、その日コーナー担当ではないおにいさん、おねえさんが子供に代わって参加。体操は、特集期間向けのビデオクリップか子供不在のスタジオ収録映像のいずれかを使用、スタジオ収録分にはカメラ1台によるフルショットのみの映像もある。事態の長期化に伴い、2020年冬特集からは子供がリモートで体操に参加する「みんなで からだ☆ダンダン」も放送される。</ref>。感染拡大を受けて、6月には「今月の歌」の披露が休止され、この時期としては異例の特別編成で「やぎさんゆうびんスペシャル」が放送された。8月1日放送の「ファミリーコンサートスペシャル」では、冒頭のトークで新型コロナウイルス感染拡大の現状について言及し、最後は視聴者に向けて感染予防を呼びかけ、コンサート再開を楽しみに待つ旨のメッセージで締めくくった<ref group="注釈">2017年春以降のNHKホール開催分の総集編。卒業メンバーの横山だいすけ・小林よしひさ・上原りさとの共演シーンが放送された。</ref>。2021年度以降は、土曜日(地方収録がある週は金曜日)のみ少人数制・保護者同伴・ソーシャルディスタンス確保の条件付きでスタジオでの子供の参加が再開(緊急事態宣言発出時など見合わせた時期もあった)。地方収録も2022年1月から同様の形式で再開された。なお、新型コロナウイルスの感染法上の分類が2023年5月8日から5類に引き下がったことを受け、同年6月の収録募集分より放送センター回は親子参加から子供のみでの収録募集に戻り、同年11月10日よりそれまでの親子収録と同じ曜日に限定する形で従来の収録形式での放送が再開された。 == 歴史 == === 放送開始〜1960年代 === ==== 概要 ==== 番組開始当時の子供向けに作られたテレビ番組は、[[学校放送]]など教育や教養を扱うものや[[アメリカン・コミックス]]などを題材にした[[テレビ映画]]・[[アニメーション映画|漫画映画]]が主で娯楽性のある子供向け番組は少なかった。『おかあさんといっしょ』が開始以降の[[1960年代の日本|1960年代]]~[[1970年代の日本|1970年代]]に、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[おはよう!こどもショー]]』や[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』など、日替わりで10 - 20分程度のコーナーを1 - 2本放送する番組が多く制作された。 ==== 年表 ==== *[[1959年]]10月5日 [[NHK総合テレビジョン]]で放送開始。当時の放送時間は毎週月曜日13:40 - 14:00で、週1回の放送。当時は今のような純粋な幼児番組ではなく、「母と子が一緒に楽しむエンターテイメント番組」だった<ref>[http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=83 テレビコ - 制作者インタビュー:おかあさんといっしょ]</ref>。レギュラーとして[[旗照夫]]、[[宮崎恭子]]、[[島田多江|島田妙子]]の3名が交代で出演しており、ゲスト枠には[[長岡輝子]]、[[中村メイコ]]などが出演していた。 *[[1960年]]9月 放送開始1年を機に月曜日から土曜日までの週6日の帯番組に変更。放送時間が午前に移り10:05 - 10:30に変更される。この時は以下の通りのコーナーで構成されていた。 **月曜日・火曜日:[[ブーフーウー]](初代人形劇) **水曜日・木曜日:うたってあそんで **金曜日:いいものつくろ **土曜日:なかよしおばさん *[[1961年]]4月 現在の歌のコーナーの前身となる『[[うたのえほん]]』が月曜~土曜の8:30 - 8:40の10分間の独立番組として始まる。この時点では[[うたのおねえさん]]と[[たいそうのおにいさん]]のみの登場で、おねえさんは隔週交替で出演していた([[眞理ヨシコ|真理ヨシコ]]と[[中野慶子]]が初代のおねえさんとなる。初代たいそうのおにいさんは[[砂川啓介]])。 *[[1963年]]10月 たいそうのおにいさんが砂川と[[佐久間俊直]]の2人体制となる。 *[[1964年]]10月 放送5周年。 *[[1966年]]4月 独立して放送されていた『うたのえほん』が番組内の1コーナーとして番組に内包される(以後1976年3月まで放送される)。 *[[1969年]] 『うたのえほん』でシンセサイザー伴奏が用いられる(以後1995年度まで26年間、スタジオでの歌で用いられ続けた)。 *1969年10月 放送10周年。カラー放送を開始。 === 1970年代 === ==== 概要 ==== 放送開始から10年を超え、『うたのえほん』開始からは10年たった1971年、新たにうたのおにいさんが設けられるなど、従来からの形を大きく変えることが多々あった時代である。特に1976年度の大幅リニューアルは、現在の番組スタイルの元となった。その一方、金・土は従来の形を維持した編成を取るなど、試行錯誤の跡が数多く見受けられる。また、視聴者の年齢が低年齢化し、番組の内容が現在の3歳児向けへとシフトチェンジしていった時代でもある。 ==== 年表==== *[[1971年]]11月 うたのえほん開始から10年のこの年、8代目[[うたのおねえさん]]だった[[森晴美]]の後任に男性を起用する形で[[うたのおにいさん]]が登場し、同じく8代目うたのおねえさんだった[[斉藤昌子]]と交互に出演した。初代うたのおにいさんは[[田中星児]]。 *[[1974年]]4月 うたのおねえさん11代目として[[斉藤伸子]]と[[松熊由紀]]が同時に登場し、田中星児を含めた3人で交代で出演する。 *[[1974年]]10月 放送15周年。 *[[1976年]]4月 『うたのえほん』他各曜日別で放送していたコーナーが金曜日・土曜日を除いて終了し、歌・人形劇・体操の3つを3本柱にした現在とほぼ同様のスタイルにリニューアル。同時に放送時間を9:30 - 9:55(再放送は1974年から17:30 - 17:55)に変更。2代目うたのおにいさん[[水木一郎]]が登場し、すべてのおにいさん・おねえさんが2人いる体制となったため、交代で登場するスタイルをとった(田中星児が卒業し、3代目うたのおにいさん[[たいらいさお]]が登場した1977年度も同様)。人形劇も『ゴロンタ・トムトム・チャムチャムと遊ぶ』(1977年度より『[[ゴロンタ劇場]]』に改題)に変更した。 *1976年12月31日 [[第27回NHK紅白歌合戦]]に田中星児が出場、自身のヒット曲『[[ビューティフル・サンデー]]』を歌唱。『ゴロンタ・トムトム・チャムチャム』が客席通路でうたのおにいさんを応援した。 *[[1977年]]10月 エンディングテーマを導入し、「ゴロンタ音頭」が使用開始。 *[[1979年]]4月 人形劇『[[ミューミューニャーニャー]]』が放送開始。後の『[[ぐ〜チョコランタン]]』のプロローグとなった『スプーとガタラット』を除き、単体の作品としては唯一他の人形劇作品(『ゴロンタ劇場』『ブンブンたいむ』『にこにこぷん』)と並立して[[1983年]]3月まで放送された。同時に一部リニューアルが行われ、3月まで6代目たいそうのおにいさんだった[[輪島直幸]]が、たいそうのおにいさんとしての出演から番組の総合司会のポジションに移動し、たいそうのおにいさんは[[瀬戸口清文]]1人になる。よって、{{要出典|この年は交代制をなくし、おにいさん・おねえさん全員が毎週出演した。|date=2020-07}} *[[1979年]]4月 『ゴロンタ劇場』に替わり『[[ブンブンたいむ]]』がスタートすると同時に、一部リニューアル。うたのおにいさんとおねえさんが[[宮内良]]と[[奈々瀬ひとみ]]に交代し、うたのおにいさんとおねえさんが1人ずつという形となった。この改編によって、現在の形に近いスタイルとなった。また、『パジャマでおじゃま』と『はみがきじょうずかな』が放送開始。2年間の休止を挟みつつ現在も放送されている最長寿コーナーとなっている。オープニングとエンディングが同時に変更され、エンディングは「ブンブンホイ」に変更。さらに、体操が「パラランたいそう」に変更された。 *1979年10月 放送20周年。 *1979年12月31日 [[第30回NHK紅白歌合戦]]に『ブンブンたいむ』のキャラクターがゲスト出演。[[西城秀樹]]が『[[YOUNG MAN (Y.M.C.A.)]]』を歌う中、客席通路で同曲を踊った。 === 1980年代 === ==== 概要 ==== 1981年の身体表現のおねえさん登場、更に1983年度の改編で1979年度から1980年度以来となるうたのおにいさん・おねえさんのペアスタイルが取られたことで、おにいさん・おねえさん4人による番組進行のスタイルが確立する。また、ファミリーコンサートの開始、月替わりの歌の放送など、現在に至るまで続いている企画、イベントの多くが始動。1983年に土曜日に残っていた旧来の2コーナー編成による平日版との差別化が廃されて全曜日番組構成が統一化され、1985年には再放送が総合テレビから教育テレビに移動、翌1986年にはステレオ放送を開始するなど、時代に合わせた番組編成もこのころから見受けられている。また、出演者の長期出演、コーナーの長期放送が目立つようになる。 ==== 年表 ==== *[[1980年]]4月 体操が「コケコッコたいそう Part1」に変更。 *1980年12月31日 [[第31回NHK紅白歌合戦]]に、[[榊原郁恵]]の「ROBOT(ロボット)」という曲で『ブンブンたいむ』がゲスト出演者として、バックダンサーで出場した。 *[[1981年]]4月 司会だった輪島直幸が卒業し、前年からパイロット版が放映されていたもうひとつのたいそう(身体表現)として「ハイ☆ポーズ!」がレギュラー放映開始、初代[[たいそうのおねえさん|身体表現のおねえさん]][[馮智英]]が登場。また、うたのおにいさんは宮内良が卒業し、[[かしわ哲]]と[[林アキラ]]に交代、うたのおねえさんは奈々瀬ひとみが卒業し、[[しゅうさえこ]]に交代、お兄さん2人にお姉さん1人という形となる。歌のコーナーでは、ギター:かしわ哲、ピアノ・エレクトーン:林アキラ、パーカッション:しゅうさえこのセッションスタイルで歌うケースが多かった。体操も「コケコッコたいそう Part2」に変更。 *[[1982年]]4月 人形劇『[[にこにこぷん]]』が放送開始、体操は「ぞうさんのあくび」に変更。『にこにこぷん』・「ぞうさんのあくび」の2つは、歴代人形劇と歴代体操の各コーナーの放送期間において、それぞれ最長記録を持つ。『にこにこぷん』開始と同時にオープニングとエンディングも変更され、オープニングはスタジオでオープニングテーマを歌った後に人形劇が始まる形となり、エンディングは「まねっこぷん」に変更された。 *[[1983年]]4月 オープニングが1999年4月まで人形劇と接続する形に変更となり、[[おかあさんといっしょの今月の歌|今月の歌]]が不定期な形で設けられる(1986年に、現在のようにほぼ毎月替わるようになる)。うたのおにいさんはかしわ哲が卒業し、林アキラ1人に。うたのおねえさんはしゅうさえこが卒業し、[[森みゆき]]に交代した。土曜日のみ残っていたコーナー2本形式の放送が終了し、人形劇・各種コーナーの前半部分と、うたとたいそうの後半部分の2部構成が確立する。また、前半部分には、翌年より始まる「朝太ショー」の源流となる[[伊庭隆]]進行の「四つのへや」というコーナーが設けられた。 *[[1984年]]4月 エンディングが「さよならマーチ」に変更。現在のハンドゲートを行うエンディングが定着する。[[古今亭志ん輔]](当時は古今亭朝太)出演の「朝太ショー」(1985年度以降は「志ん輔ショー」)が放送開始<ref name="名前なし-1">[http://www.0874sinsuke.com/about/ 古今亭志ん輔オフィシャルサイト.プロフィール]</ref>。1999年3月まで15年間続く長寿コーナーとなり、志ん輔は番組出演者として最長記録を持つ。 *[[1984年]]10月 放送25周年。 *[[1985年]]4月 夕方の再放送が[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]に移行。以後土曜日は12年、平日は13年に渡って朝と夕方で放送されるチャンネルが異なる状態が生じる。うたのおにいさんは林アキラが卒業し、[[坂田おさむ]]に交代する。この交代の際、前年度最終日(1985年3月最終放送日)に交代する新旧の出演者が共演し引き継ぎを行うという形の番組内での卒業発表がはじめて行われた。<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://blog.livedoor.jp/akirakiablog/archives/581089.html|title=お疲れ様、そしてこんにちは|work=林アキラのAKIRAKIA|author=林アキラ|publisher=[[livedoor Blog]]|accessdate=2017-03-19 18:37}}</ref><!--NHKの過去の番組表によると、1967年4月3日放送分に4代目うたのおねえさんの水谷玲子と6代目うたのおねえさんの片桐和子が出演しており、引き継ぎ共演を行っている可能性がある。-->以降、1994年4月と2012年3月に実施した身体表現のおねえさんの交代と、1999年4月に実施したうたのおにいさん・おねえさん、身体表現のおねえさんの交代を除いてこの形をおおむね踏襲している<ref group="注">このうち、1999年の場合は新年度1回目放送の冒頭で卒業のあいさつを行った後、新体制での放送に接続したため番組内での共演はなかったが、同年5月のファミリーコンサートで新旧共演が実現し、最後に改めて引き継ぎが行われている。</ref>。 *1985年8月 [[NHKホール]]で「おかあさんといっしょファミリーステージ」を開催(翌年には[[日本武道館]]で同様のイベントを開催。1987年からNHKホールでファミリーコンサートとして11月に開催し、1989年から5月にも行われるようになった)。 *1985年9月 同年10月号として「NHKのおかあさんといっしょ」が[[講談社]]から創刊。 *[[1986年]]4月 総合テレビでの本放送時において、ステレオ放送を開始(再放送でのステレオ放送は、東名阪の教育テレビで1990年10月、残る各地の教育テレビで1991年3月21日の春分の日から)。同年度より、『[[おかあさんといっしょの今月の歌|今月の歌]]』が本格的に設けられる。ショートアニメ枠が開設され、『[[こんなこいるかな]]』が放送開始。 *[[1987年]]4月 森みゆきと瀬戸口清文が卒業し、[[神崎ゆう子]]と[[天野勝弘]]に交代する。以降、『にこにこぷん』が終了する1992年10月3日までの5年半は同一のメンバー構成で継続。 *1987年12月31日 [[第38回NHK紅白歌合戦]]に、『にこにこぷん』がゲスト出演。 *[[1989年]]3月 [[タイ王国|タイ]]の国営テレビ局NBTのチャンネル11において、初の海外版となるタイ版の『おかあさんといっしょ』の製作が開始。人形劇や『志ん輔ショー』などは、現地語に翻訳、タイ仕様にアレンジして放送し、スタジオパートは現地にて新規制作し、放送した。タイ版の番組は後述の30周年記念コンサートや、40周年のときの特別番組でも取り上げられている。なお、タイ版の番組は放送終了しているが、2007年~2008年頃には[[中華民国|台湾]]で、「YOYO新樂園」のタイトルで台湾版が作られている。 *[[1989年]]5月・11月 放送開始30周年を記念して「[[おかあさんといっしょ30周年記念ファミリーコンサート おかあさんといっしょ30年]]」と「[[おかあさんといっしょ30周年記念 キャラクター・オン・ステージ|キャラクター・オン・ステージ]]」を開催。 *1989年7月 日本初の本格的なテレビの幼児番組がスタート以来30年に及ぶ制作の歴史、実績が評価され、『おかあさんといっしょ』が第12回[[巖谷小波文芸賞|巖谷小波賞]]を受賞。 *1989年10月 放送30周年。 === 1990年代 === ==== 概要 ==== 番組開始30年を超え、番組開始当時見ていた世代が親となり、子供とともに見るといったシチュエーションが増え、子供だけでなく大人の視聴者層が見受けられるようになった。子供番組の教育テレビ集約がきっかけになり、子供番組ゾーンが形成され、『おかあさんといっしょ』はその中心的役割を担うこととなった。1992年には『[[ひらけ!ポンキッキ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列)の[[ガチャピン]]&[[ムック (キャラクター)|ムック]]との共演、1995年にハイビジョン制作が開始、1999年の「[[だんご3兄弟]]」のヒットなど、特筆すべき出来事も多くあり、また、番組40周年時には大幅リニューアルが実施され、現在のスタイルと同じような形となり、放送時間が拡大された。 ==== 年表 ==== *[[1990年]]4月 番組初の派生番組として『[[母と子のテレビ絵本]]』が放送開始(テレビ絵本の主題歌として「夢のなか」を当時現役のおにいさん・おねえさんの[[坂田おさむ]]と[[神崎ゆう子]]が歌ったほか、当時存在した歌のコーナーにしばしば出演するなどの関連性があったが、2003年にてれび絵本に改題されると同時に関連性が無くなった。)<ref group="注">「夢のなか」はのちに、おかあさんといっしょ内でも1998年11月の歌として放送され、坂田と神崎の後任のおにいさん・おねえさんの[[速水けんたろう]]と[[茂森あゆみ]]が歌った。</ref>。また、教育テレビにおいて子供番組ゾーン『[[母と子のテレビタイム]]』が放送開始、夕方の再放送がこちらに内包される。 *[[1991年]]4月 ショートアニメを変更。『こんなこいるかな』に代わり、『[[ふたりはなかよし]]』が放送開始。 *[[1991年]]11月 [[うたいっぱいコンサート|秋のファミリーコンサート]]で番組初のハイビジョン収録を実施(ハイビジョン試験放送で放送され、現在もNHKでハイビジョンソースの映像が保存されている。翌1992年春のコンサートでは、地上波でも16:9レターボックスサイズで放送)。 *[[1992年]]5月 春のファミリーコンサート「[[みんなともだち]]」に、当時[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送していた『[[ひらけ!ポンキッキ]]』からゲストとして[[ガチャピン]]と[[ムック (キャラクター)|ムック]]が登場し、当時のうたのおにいさん・おねえさんの[[坂田おさむ]]と[[神崎ゆう子]]、当時番組レギュラーの[[古今亭志ん輔]]と共演し、ポンキッキの楽曲である「このみちどんどん」を歌った。今でこそNHKと民放によるコラボレーションは幾例かあるが、当時としては珍しい両局を代表する子供番組の共演が実現した。 **このコンサートも前回に引き続いてハイビジョン収録を実施したが、2016年には「お願い!編集長」のリクエストに応える形でこのハイビジョン素材を使用した再放送が実施された。 *1992年10月2日 この日、春のコンサートにゲスト出演したガチャピンとムックが出演する『ひらけ!ポンキッキ』が放送開始5000回を迎え、今度は逆に『[[にこにこぷん]]』のじゃじゃまる・ぴっころ・ぽろりが同番組にお祝いに駆けつけた。この結果、NHKに続き今度はフジテレビ系列局で5か月ぶりに2番組の共演が実現した。 *1992年10月3日 放送期間10年半、全2229話にわたって放送された『にこにこぷん』がこの日をもって終了。 *1992年10月5日 人形劇『[[ドレミファ・どーなっつ!]]』が放送開始<ref>{{Cite journal|和書|title=NHKトピックス|journal=放送教育|volume=47|issue=7|publisher=日本放送教育協会|date=1992-10-01|pages=79|id={{NDLJP|2341131/40}}}}</ref>。同時にオープニング映像とBGMが変更され、CGアニメーションと現行の番組ロゴが初めて使用された。エンディングも「ドレミファ列車」に変更。 *1992年12月31日 [[第43回NHK紅白歌合戦]]の企画「テレビ40年思い出の主役たち」に、『ブンブンたいむ』・『にこにこぷん』・『ドレミファ・どーなっつ!』が出演。他番組のキャラクター<ref group="注">ドン・ガバチョ、トラヒゲ、博士、チャッピ、ガラクータ(『[[ひょっこりひょうたん島]]』)、モンタ、ソラミ、ゴロリ、ヒョロリ(『[[ともだちいっぱい]]』)、はに丸(『[[おーい!はに丸]]』)。</ref>と共に「ひょっこりひょうたん島」を披露した。 *[[1993年]]4月 坂田おさむ、神崎ゆう子、天野勝弘が卒業し、[[速水けんたろう]]、[[茂森あゆみ]]、[[佐藤弘道]]に交代する。 *[[1994年]]3月 15年続いていた「パジャマでおじゃま」と「はみがきじょうずかな」が同月を以って一旦終了した。 *1994年4月 「ハイ☆ポーズ」のおねえさんの馮智英が卒業し、[[松野ちか]]に交代。「ハイ☆ポーズ」の後継コーナーとして「トライ!トライ!トライ!」が放送開始。同時に、1985年以来9年ぶりにスタジオセットを一新。『ドレミファ・どーなっつ!』登場から1年半がかりで番組の雰囲気が大きく変わり、1998年度まで継続する体制が完成した。クレイアニメとして『[[もんぴー]]』と『[[パクシ]]』を日替わりで放送、翌5月からは、『ふたりはなかよし』に代わって『[[ふしぎなあのこはすてきなこのこ]]』が放送開始。 *1994年4月 [[NHK衛星第2テレビジョン]]で、姉妹番組『[[あさごはんだいすき]]』が放送開始。前年に番組を卒業した坂田おさむが出演した他、この番組から、にこにこぷんが番組メインキャラクターとして全国を巡回する公開収録型番組が始まる事になった。 *1994年8月 [[幕張メッセ]]で開催されていた「アメリカンフェスティバル'94」の一環でアメリカコンサートを同所で開催。 *1994年10月 放送35周年。 *1994年11月 この年の秋のファミリーコンサート「[[世界のうた こんにちは]]」に、当時『[[えいごであそぼ|英語であそぼ]]』に出演していた[[クロイ・マリー・マクナマラ]]がゲスト出演した。 *[[1995年]]4月 NHK衛星第2テレビジョンの『あさごはんだいすき』に代わって同じく衛星第2で『[[にこにこぷんがやってきた!]]』がスタート。 *1995年9月 東京での収録時における番組全編において[[ハイビジョン制作|ハイビジョン製作]]をスタート。同年10月から[[ハイビジョン実用化試験放送]]においてハイビジョン放送を開始。これに伴い、テロップ類が一部リニューアル(氏名テロップが、ナール体のシンプルなものから、同フォントに色つきの帯がついたものに変更。衛星波でのハイビジョン放送は[[NHK衛星ハイビジョン]]になった後も2001年度まで継続し、その後、ハイビジョン放送空白期間もハイビジョン機材での収録は継続、ただし、映像保管時は4:3サイズにサイドカットされていた)。同時にオープニングも同一のBGMのまま映像のみ変更となった。 *1995年12月 「NHKのおかあさんといっしょ」他講談社の乳幼児向け雑誌と共同で「うたのビデオ」の応募者販売を開始。初年度は「おかあさんといっしょ&ブルーナ うたのビデオ」として販売し、翌年度以降は「おかあさんといっしょ」単独で継続。後にDVDに移行して、2013年度まで毎年新作を制作していた。 *1995年12月31日 [[第46回NHK紅白歌合戦]]に、『ブーフーウー』・『ブンブンたいむ』・『にこにこぷん』・『ドレミファ・どーなっつ!』が、子どもキャラクターショーとして、出場した。 *[[1996年]]4月 小規模なリニューアルを実施。体操が「ぞうさんのあくび」から「あ・い・うー」に、「トライ!トライ!トライ!」が大幅にリニューアル。さらに『ドレミファ・どーなっつ!』のキャラクターデザインがマイナーチェンジ。このほか、スタジオの歌でのエレクトーン使用が廃止され、1993年度を最後に終了したコーナー「パジャマでおじゃま」・「はみがきじょうずかな」がBGMを一新して復活。また、この月から1年間『ふたりはなかよし』が『ふしぎなあのこはすてきなこのこ』と並行する形で再放送された。 *[[1997年]]4月 土曜日の本放送が教育テレビに移行(8:35 - 9:00)。また親子体操コーナー「ジンジンジム」が放送開始。アニメ『[[スプーンひめのスイングキッチン]]』が放送開始。アニメ枠が初めてハイビジョン制作作品になった。また『ドレミファ・どーなっつ!』のアニメ版が土曜日に放送されるようになり、平日と土曜日で内容の一部差別化がみられるようになった。 *[[1998年]]4月 平日の本放送も教育テレビに移行。放送時間は前年度土曜日と同じ8:35 - 9:00。 *[[1999年]]1月 当時のうたのおにいさん・おねえさんの[[速水けんたろう]]と[[茂森あゆみ]]が歌った「[[だんご3兄弟]]」が番組の[[おかあさんといっしょの今月の歌|今月の歌]]として登場。放送時及び放送後の反響の大きさから同年3月に8cmシングルCDでリリースされ、ミリオンヒットとなった。 *1999年3月 [[北九州メディアドーム]]と[[幕張メッセ]]で、「[[おかあさんといっしょとゆかいななかま〜わくわく大行進〜]]」を開催。当時のNHKの子供番組の出演者が多数出演した。後年には2003年に「[[テレビまつりだ! ぐ〜チョコランタンとともだちいっぱいオンステージ|ぐ〜チョコランタンとともだちいっぱいオンステージ]]」、2009年に「[[キャラクター大集合 とどけ!みんなの元気パワー]]」といった同規模のイベントが開催されている。 *1999年3月 名古屋放送局での収録放送分を最後に、地方収録が一旦終了。これ以降、2010年3月までの11年間は、すべてのスタジオパートが東京のみでの収録となる。 *1999年3月17日 『にこにこぷんがやってきた!』が終了し、17年に渡る『[[にこにこぷん]]』のテレビ番組レギュラー出演が終了。 *1999年3月 翌週からのリニューアルや速水らの卒業に従い、3月29日から4月3日の6日にかけて、1994年から1999年までの放送をそれぞれ1回ずつ再放送が実施された。 *1999年4月 大規模なリニューアルが行われ、番組の構成を1976年以来23年ぶりに大幅に変更した。 **番組放送時間が拡大・延長。これまで長らく25分だったのが29分間(8:30 - 8:59)となった。また、平日夕方の放送時間が16:20 - 16:49に移動した。 **後半に集中していた歌のコーナーを、番組の前半と後半に拡大(当初は前半に3~4曲放送し、後半に1~2曲放送。2000年度以降は後半部分に今月の歌を配置)<ref group="注">リニューアル当初は体操も番組中盤に移動しており、たいそうのおにいさんの歌コーナーへの出演もなくなっていたが、1か月ほどでに従来の形に戻った。</ref>。 **ミニ人形劇『[[ぐ〜チョコランタン|スプーとガタラット]]』が放送開始。同作のスプーが、おにいさん・おねえさんと共に歌のコーナーに参加。同時に5年ぶりにスタジオセットが大幅リニューアル。オープニングとエンディングも変更され、オープニングから引き続いて番組冒頭に放送していた人形劇(当時は『ドレミファ・どーなっつ!』を放送)が番組中盤に移動。同時にエンディングテーマが「ドレミファ列車」からスプーがメインの「スプラッピ スプラッパ」に変更され、『ドレミファ・どーなっつ!』のメンバーがエンディングに登場しなくなった。 **15年続いた「[[志ん輔ショー]]」が終了し、古今亭志ん輔、速水けんたろう、茂森あゆみ、松野ちかが卒業。[[杉田あきひろ]]、[[つのだりょうこ]]、[[きよこ|タリキヨコ]]が就任。4月5日の初回放送分冒頭で志ん輔、速水、茂森、松野が卒業の挨拶を行ってから新体制の放送が開始した。 **新アニメ『[[やんちゃるモンちゃ]]』が放送開始。たいそう前の余剰時間を利用した自然映像のコーナー「ふしぎ大自然」も同時に開設された。 *1999年10月 放送40周年。 *1999年11月 放送開始40周年記念ファミリーコンサート「[[40周年 うたのパーティ]]」を開催。 *1999年12月31日 [[第50回NHK紅白歌合戦]]に、3月に番組を卒業した速水けんたろうと茂森あゆみが、紅組から「だんご3兄弟」で出場した。『にこにこぷん』、『ドレミファ・どーなっつ!』のメンバーとスプーが、バックダンサーとして出演。 ===2000年代=== ==== 概要 ==== 地上波版とは別に、[[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]で『BSおかあさんといっしょ』が放送開始、土曜版が『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』として放送されるなど、従来の枠を超えた派生番組の制作が見られるようになった。またそれ以降、週末の公開収録型の子供番組に現役・歴代出演者がゲスト出演、テレビ放送開始50周年記念イベント開催など、時代・番組の枠を超えた形での共演も多く見られる。 ==== 年表 ==== *[[2000年]]4月 『ドレミファ・どーなっつ!』が放送終了。ミニ人形劇『スプーとガタラット』の続編として、『[[ぐ〜チョコランタン]]』が放送開始。この年からおにいさん・おねえさん進行の日替わりコーナーが設けられる。土曜日の夕方に『[[みんなの広場だ!わんパーク]]』が放送開始したことにより、その後週末夕方の子供番組が再編され、『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』として再開する2005年4月まで単独番組としての土曜日の再放送枠が廃止された<ref group="注">『ぐ〜チョコランタン』、歌のコーナー、体操のコーナーなど一部のコーナーは『[[あつまれ!わんパーク]]』の週末版およびその後継番組『[[ニャンちゅう|ニャンちゅうといっしょ]]』内で別々に放送。</ref>。 **この日替わりコーナーの中でも、視聴者からのイラストとリクエストを紹介する「やぎさんゆうびん」のコーナーは現在まで続く長寿コーナーとなっている。 *2000年12月 21世紀を迎える記念として[[東京国際フォーラム]]で「[[歌のファンタジーランド〜ようこそ21世紀〜|おかあさんといっしょファミリーステージ『歌のファンタジーランド〜ようこそ21世紀〜』]]」が開催された。代わりに、この年に限りNHKホールでの秋のファミリーコンサートは実施されなかった。 *[[2001年]]4月 平日の放送時間が1分繰り下げ、本放送は8:31 - 9:00(再放送は16:21 - 16:50)になる。 *[[2002年]]4月 [[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]で『BSおかあさんといっしょ』が放送開始。1998年度まで地上波で実施していた地方収録スタイルで、全国を巡回していった。同日、アニメ『[[でこぼこフレンズ]]』が放送開始。2010年度までアニメ枠最長の9年間放送された。 *2002年5月 ファミリーコンサート「[[元気いっぱい!たまたまご]]」に、当時[[日本体育大学]]生の[[小林よしひさ]](後の11代目[[たいそうのおにいさん]])がエキストラの1人として出演。 *2002年12月31日 [[第53回NHK紅白歌合戦]]に、『ぐ〜チョコランタン』が、憧れのTVヒーロー&ヒロイン50年ショーとして、出場した。 *[[2003年]]4月 平日の放送時間が1分繰り上げ、杉田あきひろとつのだりょうこが卒業し、[[今井ゆうぞう]]と[[はいだしょうこ]]に交代する。『イチジョウマン』が放送開始。当番組で2005年4月9日、『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』に移行後2008年3月29日まで放送され、後に派生番組『[[おとうさんといっしょ]]』において続編の「遊び戦士 イチジョウマン7」→「イチジョウマン8」が放送されている。 *2003年12月1日 東名阪で地上デジタル放送が始まり、同日の再放送分よりアナログ放送とデジタル放送でサイマル放送が実施されるようになった。 *[[2004年]]4月5日 アニメ『[[パンツぱんくろう]]』が放送開始(2007年度まで放送)。 *2004年10月 放送45周年。 *[[2005年]]2月-3月 スペシャルステージ「[[弘道おにいさんとあそぼ!夢のビッグパレード ぐ〜チョコランタンとゆかいな仲間たち]]」が開催。 *2005年4月 [[佐藤弘道]]と[[きよこ|タリキヨコ]]が卒業し、小林よしひさと[[いとうまゆ]]に交代するのと同時に、体操が「ぱわわぷたいそう」、身体表現が「ズーズーダンス」に変更。また放送時間が25分に短縮され、前年度までスタジオの歌やその他クリップの歌を放送する前半と、今月の歌を放送する後半に分けられていた歌のコーナーが番組前半にまとめられる。また、地上デジタル放送でハイビジョン放送をスタート。これによって、3年ぶりにハイビジョンサイズで番組が視聴可能となった。 *2005年4月9日 派生番組として土曜日に『[[おかあさんといっしょ #おかあさんといっしょ あそびだいすき!|おかあさんといっしょ あそびだいすき]]』が放送開始、番組を卒業した佐藤弘道、きよこが同番組のおにいさん・おねえさんとして出演。平日の日替わりコーナーだった「イチジョウマン」はこの番組に移行。 *[[2006年]]4月4日 『[[小林よしひさ#すりかえかめん|すりかえかめん]]』が放送開始(2007年度までは水曜日放送、2008年度から2018年度は火曜日放送)。 *[[2007年]]4月2日 身体表現のコーナーが「ズーズーダンス」から「ゴッチャ!」に変更。同一の在任者が複数の身体表現を担当した唯一のケースである。 *[[2008年]]3月31日 今井ゆうぞうとはいだしょうこが卒業し、[[横山だいすけ]]と[[三谷たくみ]]に交代。「これなあに?」が放送開始、コーナーキャラ「ナーニくん」が初登場。 *2008年4月2日 『[[パンツぱんくろう]]』のキャラクターを起用した『パンツぱんくろうのたためるかな?』が放送開始。2009年には『パンツぱんくろうのいってきます!』、2010年には『パンツぱんくろうのいただきます!』も開設され、2010年度まで『パジャマでおじゃま』『はみがきじょうずかな』等と日替わりで放送、2011年度以降も登場キャラクターを変更して継続している。 *2008年4月5日 『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』が放送終了し、土曜日の放送枠が3年ぶりに復活。夕方の再放送枠も8年ぶりに再開された。親子体操「でかけよう!」が放送開始。 *[[2009年]]3月19日 『[[ぐ〜チョコランタン]]』の最終回が放送され、『スプーとガタラット』時代から10年に渡るストーリーに終止符を打った。その後は長編の再放送が行われ、3月28日を以て放送終了した。 *2009年3月30日 人形劇『[[モノランモノラン]]』が放送開始。10年ぶりにスタジオセットが大幅にリニューアル。オープニングも変更し、エンディングも「あしたてんきにな〜れ!」に変更。番組構成が若干変更され、1998年度以来11年ぶりに番組序盤に人形劇コーナーが設置、それに従い歌のコーナーを人形劇終了後に移動。オープニング後・『モノランモノラン』の前に、おにいさん・おねえさんの短いトークコーナーを設けられた。スプーが卒業したことに従い、この時期から2013年3月までは再び歌のコーナーがおにいさん・おねえさんのみの出演となっている。 ** 『ぐ〜チョコランタン』は『BSおかあさんといっしょ』での再放送のみとなり、同日より2010年3月18日の放送終了までの期間、『BSおかあさんといっしょ』は『BSおかあさんといっしょ スプーとあそぼ』に改題。 *2009年7月20日-7月24日 「おかあさんといっしょ」の当時通常放送で50周年特集が組まれた。20日は歴代うたのおにいさん・うたのおねえさん・人形劇の紹介、21日は佐藤弘道をゲストに招き、歴代たいそうのおにいさんと体操の紹介、22日はかしわ哲・林アキラ・しゅうさえこをゲストに招き、3人がそれぞれ作詞・作曲した歌の紹介、23日はきよこをゲストに招き、歴代身体表現のおねえさんと身体表現のコーナー・「あそびだいすき!」の歌の紹介、24日は坂田おさむ・森みゆきをゲストに招き、「おかあさんといっしょ」で昔から歌われてきた歌・坂田が作った歌などが歌われた。 *2009年10月 放送50周年。 *2009年11月 NHKホールで「[[星空のメリーゴーラウンド〜50周年記念コンサート〜]]」を開催。 === 2010年代 === ==== 概要 ==== 2010年には、朝の本放送の放送時間が前倒しされた。2011年3月に発生した[[東日本大震災]]の影響で、番組収録が一時見合わせ、さらにファミリーコンサートの公演中止など、過去に例のない異常事態が発生。その一方で、地上波版では11年ぶりの地方収録が再開されている。また、2012年の大晦日には2時間枠で番組のリクエスト特番が放送された。 人形劇やコーナー編成が若干変更される一方で、うたのおにいさん・おねえさんの出演期間は1990年代から2000年代の5年前後から再び長期化の傾向が見られはじめ、横山だいすけの9年、三谷たくみの8年はうたのおにいさん・おねえさんにおける歴代最長出演記録となり、2005年から出演していた小林よしひさは2019年3月まで14年に渡って出演し、たいそうのおにいさんとしての歴代最長出演者となった。2018年には番組本編としては初の映画版が公開され、テレビ放送以外でも注目されるようになった。番組開始60周年を迎える2019年には、従来『○○(身体表現のコーナー名)』のおねえさんと呼ばれていた身体表現のおねえさんに代わる形でたいそうのおねえさんが登場し、番組内の体操がたいそうのおにいさん・おねえさん2人によって進行される形式がとられるようになる。 ==== 年表 ==== *[[2010年]]3月29日 本放送の時間が35分繰り上げ、8:00 - 8:25になる。2009年度に一度変更された番組構成がほぼ元に戻り、歌のコーナーが番組冒頭、『モノランモノラン』が番組中盤に移動。これにより、『ドレミファ・どーなっつ!』最末期から続いたおにいさん・おねえさんによる人形劇コーナーへの前振りが廃止され、曜日別コーナーが番組後半に据え置かれた事を除いて2008年度以前の形式に戻った。過去に放送されていたアニメ『[[パンツぱんくろう]]』・『[[ふしぎなあのこはすてきなこのこ]]』・『[[スプーンひめのスイングキッチン]]』の3作の再放送を開始し、当時放送されていた『でこぼこフレンズ』と共に曜日別に放送される形式となった。 *2010年[[4月3日]] 土曜日の放送タイトルが『おかあさんといっしょ あつまれ!土曜日』に改題。『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』のように体で遊ぶ内容が主体であり、地方収録が11年ぶりに再開された(ただし、この場合地方に行くのはたいそうのおにいさん・たいそう(身体表現)のおねえさんのみで、うたのおにいさん・おねえさんは収録に参加しない。この為、開始当初は人形劇キャラクターとともに東京のスタジオから冒頭とエンディングに別撮りパートが設けられていたが2013年3月を最後に廃止され、以後は後半の歌コーナーのクリップ映像のみの出演となった)。また、土曜日の放送のみ、歌のコーナー、遊び歌が番組前半に、クリップの歌と今月の歌が番組後半に配置される。 *2010年7月5日の放送分より、アナログ放送のレターボックス化に伴い、番組で使用されるテロップ類のフォントがナール体から[[スーラ (書体)|スーラ]]体に順次変更され、表示位置もハイビジョンサイズに準じた位置に移動した。 *2010年12月31日 [[第61回NHK紅白歌合戦]]に、当時のおにいさん・おねえさん4人・『モノランモノラン』が、キャラクター紅白歌合戦として、紅組から「ドコノコノキノコ」で出場した。 *[[2011年]][[3月11日]]、東日本大震災が発生。このため番組にも影響が及び、3月中の番組収録が一時見合わせとなり、3月11日午後の再放送、3月12日分の本放送と再放送が休止。さらに、被災地の一つである[[宮城県]][[名取市]]で翌年3月に予定していたファミリーコンサートが、会場の被災により中止となった。 *2011年3月21日 [[NHKラジオ第1放送]]の『[[つながるラジオ]]』に、当時のおにいさん・おねえさん4人が出演した。 *2011年3月28日 『モノランモノラン』が終了し、『[[ポコポッテイト]]』が放送スタート。概ね人形劇ごとに変更されていたスタジオセットやオープニング、エンディングは変更されなかった。また、『[[パッコロリン]]』および『[[いないいないばあっ!]]』と『[[みいつけた!]]』との共通ゾーンタイトルスタートに伴い平日は23分、土曜日は24分に放送時間を短縮・縮小。『パッコロリン』からリンが一部のコーナーに登場するようになり、『パンツぱんくろう』のキャラクターによる日替わりコーナーもリンが登場するものに変更。スタジオの歌の曲名表示が黒縁白文字の表示から灰縁カラー表示に変更される。ショートアニメは『[[ともだち8にん]]』が放送スタートし、それに伴い『でこぼこフレンズ』や過去のアニメ作品の再放送が終了。 *2011年4月 東日本大震災の影響で3月に行われる予定だった収録が延期になったため、第2週~第4週の3週間分のスタジオコーナーは一般の子供たちの出演なしの状態でおにいさん・おねえさんと『ポコポッテイト』のメンバーだけが出演する形態で放送した(日替わりコーナーのうち、子供たちも参加する「すりかえかめん」と「おえかきブギウギ」はこの間休止となり、歌の本数を増やして対応。同じく子供1人が参加するダンス「ゴッチャ!」はいとうが単独で出演する映像を放送、「ぱわわぷたいそう」は「ポコポッテイト」のキャラクターも参加したレギュラー出演者全員によるバージョンが放送された。)。 *[[2012年]]4月2日 [[たいそうのおねえさん|身体表現のおねえさん]]の[[いとうまゆ]]が卒業し、[[上原りさ]]に交代。番組放送がデジタルハイビジョンサイズとなった(それまでは、ファミリーコンサート等を除き有効走査線数の少ないアナログハイビジョンで放送。ただし制作自体は既にデジタルハイビジョンになっている(過去のアナログハイビジョン映像は、デジタルハイビジョンサイズに拡大し部分的に映像をカットして使用している)ため、この変更によってオンエア中に有効走査線数が増減することはない)。また、平日14時台に、ワンセグ放送のみの再放送枠を新設。地上波における1日の放送回数が最大で3回になる(2013年3月で終了)。 *2012年10月1日 [[文字多重放送|字幕放送]]を開始<ref group="注">字幕の色分けは、うたのおにいさん(2023年現在は[[花田ゆういちろう]]):{{color|yellow|黄色}}、うたのおねえさん(2023年現在は[[ながたまや]]):{{color|aqua|水色}}、たいそうのおにいさん(2023年現在は[[佐久本和夢]]):{{color|green|緑色}}、それ以外(たいそうのおねえさん(2023年現在は[[秋元杏月]])含む。):白色。また、出演者が演じているキャラクター(すりかえかめん、かぞえてんぐ、シルエットはかせ、プリンセス・ミミィなど)も別人扱いのため白色。</ref>。 *[[2013年]]1月4日 古今亭志ん輔がお正月特集で14年ぶりにゲスト出演し、「[[志ん輔ショー]]」でおなじみだったヘビくん、ブタくんも久々に登場した。 *2013年4月1日 小規模な改編を実施。オープニングの尺が短縮・縮小されたほか、歌のコーナーに『ポコポッテイト』のムテ吉が加わって4年ぶりに人形劇キャラクターが歌のコーナーにも登場する体制となり、ミーニャやメーコブもスタジオコーナーに参加するようになった。「パジャマでおじゃま」のテーマ[[BGM]]に2度目のリニューアルが行われた。 **これに伴い日替わりのスタジオコーナーを大幅に刷新し、「[[横山だいすけ#かぞえてんぐ|かぞえてんぐ]]」がスタート、「これなあに?」と「おえかきブギウギ」はそれぞれ「なんだっけ?!」「[[ポコポッテイト#本コーナー以外での出演|メーコブのおえかききぶん]]」に改題の上、リニューアルされた。 *2013年4月7日 派生番組『[[おとうさんといっしょ]]』が[[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]]で放送スタート。 *2013年8月 さいたまスーパーアリーナでのスペシャルステージ「[[みんないっしょに!空までとどけ!みんなの想い!]]」で番組初となる、全国のシネマコンプレックスで公演を生中継するパブリックビューイングを開催。派生番組『おとうさんといっしょ』と初の合同イベントでもあり、以降毎年8月には同番組と合同でスペシャルステージ行われている。 *[[2014年]]3月31日 ゾーンタイトル廃止に伴い、平日の放送時間が1分拡大・延長し、土曜日と同じ8:00 - 8:24に、平日の再放送は16:35 - 16:59になる。体操が「ぱわわぷたいそう」から「[[おかあさんといっしょ#ブンバ・ボーン!|ブンバ・ボーン!]]」に変更され、『もじもじおばけ ばけまつ』が放送開始。『ポコポッテイト』と『[[ともだち8にん]]』の放送順が入れ替わる。 *2014年4月3日「メーコブのおえかききぶん」に替わり、「[[ポコポッテイト#本コーナー以外での出演|め〜しゃしんかん]]」がスタート。進行は引き続きメーコブと[[三谷たくみ]]が担当。 *2014年10月 放送55周年。 *[[2015年]]1月 『[[みんなのうた]]』と初めてのコラボレーション企画として、『みんなのうた』で2014年12月 - 2015年1月に放送される歌「[[ゆきだるまかぞく]]」に出てくる子供の雪だるまを題材にした、「ゆきだるまのルー」が1月の歌として放送<ref>[http://www.cdjournal.com/main/news/chiku-toshiaki/61941 NHK『みんなのうた』12月~1月放送の新曲が決定、知久寿焼が歌う『おかあさんといっしょ』との初コラボ曲も (CDジャーナル)]</ref>。 *2015年3月30日 平日の再放送の時間が16:30 - 16:54になる。また、平日の放送の今月の歌が番組後半に配置され、[[おかあさんといっしょの今週の歌|今週の歌]]を新設。代わりに平日のアニメ枠が廃止され、『ともだち8にん』が土曜日のみの放送となる。 *2016年3月31日 [[うたのおねえさん]]の[[三谷たくみ]]が卒業に従い、後任の[[小野あつこ]]が出演し交代の挨拶が行われ、1987年以来、29年ぶりとなる「うたのおにいさん、もしくはおねえさんが”片方(一人)だけ”交代した」メンバーチェンジが行われる。同時に『[[ポコポッテイト]]』が放送終了。 *2016年4月4日 三谷に代わり[[小野あつこ]]がうたのおねえさんに就任。人形劇『[[ガラピコぷ〜]]』が放送スタート。これに伴い以下のリニューアルを実施。 **スタジオセットが7年ぶりに変更。オープニングも7年ぶりに刷新された。 **一部の日替わりコーナーを刷新。「しりとりれっしゃ」と「ガラピコパズル」がスタート。「なんだっけ?!」は土曜日に移動。 **「リンちゃんのたためるかな?」等のしつけ指導のコーナーの登場キャラクターが、『パッコロリン』のリンから『ガラピコぷ〜』のメインキャラクターに交代。これにより、リンの『おかあさんといっしょ』への出演が無くなった。 **歌のコーナーはムテ吉の卒業に伴い、再三度おにいさん・おねえさんのみの出演。また、2015年度に設置された今週の歌は廃止された。 **土曜日の放送が6年ぶりに通常の『おかあさんといっしょ』名義に戻る。番組編成も一部改変され、『なんだっけ?!』の移動に加え、新アニメ『ひとくちどうわ』がスタート、『ともだち8にん』の放送枠が2回に増加、ばけまつの弟として『もじもじおばけ てんてんまる』がばけまつと隔週で放送スタート。代わりに人形劇の放送枠を廃止した。 *2016年6月 ばけまつの妹として『もじもじおばけ おぎゃく』がばけまつ、てんてんまると隔週で放送スタート。 *2016年9月 8月の夏特集で放送された『げんしじんちゃん』のレギュラー放送がスタート。 *2017年3月15日 「かぞえてんぐ」が終了(翌週の3月22日に再放送)。 *2017年3月30日 [[うたのおにいさん]]の[[横山だいすけ]]が卒業に従い、後任の[[花田ゆういちろう]]が出演し交代の挨拶が行われる。 *2017年4月3日 横山に代わり[[花田ゆういちろう]]がうたのおにいさんに就任。 これと同時にエンディングが8年ぶりにリニューアルし、「べるがなる」に変更。平日の再放送の時間が16:20 - 16:44となる。土曜日の人形劇の放送が復活し、これに従い『ガラピコぷ〜』が土曜日にも放送されるようになる。さらに、『ともだち8にん』が2年ぶりに平日での放送を再開した。 *2017年4月5日 新しい水曜日コーナーとして、「シルエットはかせ」がスタート。 *[[2018年]]2月15日 番組本編としては初めて、個別コーナーを含めると『にこにこぷん』の劇場アニメ化以来29年ぶりの劇場公開映画『映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険』が制作される事が発表された<ref name="eiga-okaasan">[http://eiga-okaasan.jp/ 映画おかあさんといっしょ公式サイト]</ref>。 *2018年4月2日 新アニメ「へんてこライオン」がスタート(月曜日のみ放送)。生活習慣コーナーが火曜〜金曜の週4日放送に短縮された。さらに、「ともだち8にん」が再び土曜日のみの放送となる。 *2018年4月5日 新しい木曜日コーナーとして、「プリンセス・ミミィ」がスタート。また、前年度まで月・木・金でコーナーごとに放送曜日が固定されていたガラピコぷ〜のキャラクターが登場する生活習慣コーナーが、この日から木・金でランダムに放送される形に変更された。 *2018年[[4月27日]] 新しい生活習慣コーナーとして、「きょうのびっくりしんぶん」がスタート。再放送の前の週に放送されている。既存の『ガラピコぷ〜』キャラクターによる生活習慣コーナーの枠に組み込まれたため、4コーナーから毎週2コーナーがランダム放送される形になった。 *2018年4月28日 「あそべんちゃー」が土曜日のみスタート(元々は、2018年3月の春特集で放送されていたコーナー)。再放送の前の週に放送されていた。また、当該週では遊び歌・「でかけよう!」・体操がスタジオ収録ではなく、公園や体育館といった屋外・屋内でのロケ収録となり、地方収録と同様にうたのおにいさんとおねえさんは収録済コーナーのみへの出演となった。 *2018年9月7日 『[[おかあさんといっしょ#映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険|映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険]]』が公開された<ref name="eiga-okaasan" />。 *2018年12月31日 [[第69回NHK紅白歌合戦]]に、当時のおにいさん・おねえさん4人・『ガラピコぷ〜』が、企画コーナー「夢のキッズショー~平成、その先へ~」に出場した。 *[[2019年]]1月5日 『ともだち8にん』が終了し、歴代アニメーションは同作品をもって終了となった。 *2019年3月25日-3月27日 「すりかえかめん」のスペシャル版「すりかえ美術館」を3日間にかけて放送。「すりかえかめん」は3月27日をもって13年に渡る放送を終了した。 *2019年3月29日 たいそうのおにいさんの小林よしひさ・身体表現のおねえさんの上原りさが卒業。後任の[[福尾誠]]・[[秋元杏月]]が出演し交代の挨拶が行われ、2005年以来、14年ぶりとなる「たいそうのおにいさんと身体表現のおねえさんが二人同時に交代した」メンバーチェンジが行われる。秋元は「初代たいそうのおねえさん」として福尾と共に体操を担当する事に従い、上原の卒業と共に『ハイ・ポーズ』から続いた身体表現コーナーが『パント!』を以て体操に吸収される形で、廃枠となった。 ** 小林と上原の卒業に伴い、3月25日に「でかけよう!」、3月27日に「あそべんちゃー」がそれぞれ終了。 *2019年4月1日 たいそうのおにいさん・おねえさんの福尾誠・秋元杏月が就任、体操「[[おかあさんといっしょ#からだ☆ダンダン|からだ☆ダンダン]]」がスタート。番組編成も一部変更され、身体表現コーナーが廃枠となった関係で歌コーナーの曲数が増え、『ガラピコぷ〜』の後に今月の歌と生活習慣コーナーが放送されてから日替わりコーナーへ続く形式となった。生活習慣コーナーは土曜日を含む全曜日での放送となり、『ガラピコぷ〜』キャラクターによる生活習慣コーナーは水曜〜土曜の放送に変更、曜日ごとに放送コーナーが再び固定される。また、氏名テロップが2017年度以来2年ぶりに刷新された。 *2019年4月2日 新しい火曜日コーナーとして、「ガラピコにんじゃしゅぎょう」がスタート。 *2019年4月6日 「あ・そ・ぎゅ~」が土曜日のみスタート。「きょうのびっくりしんぶん」が毎週土曜日の放送に固定される。 *2019年4月25日 番組本編としては2作目の劇場公開映画『映画 おかあさんといっしょ』が制作される事が発表され、後にタイトルが『[[おかあさんといっしょ#映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!|映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!]]』に決定した<ref name="eiga-okaasan" />。 *2019年8月12日-8月17日 「おかあさんといっしょ」の当時通常放送で60周年特集が組まれた。12日は歴代のうたのおねえさん特集として、しゅうさえこ・森みゆき・つのだりょうこ・はいだしょうこがゲストに招かれた。13日は歴代うたのおにいさん特集として、かしわ哲・林アキラ・今井ゆうぞう、横山だいすけがゲストに招かれた。14日は歴代たいそうのおにいさん特集として、天野勝弘・佐藤弘道・小林よしひさがゲストに招かれた。アニメ「スプーンひめのスイングキッチン」が8年ぶりに1日だけ復活。再放送に、15日は歴代身体表現のおねえさん特集として、タリキヨコ・いとうまゆ・上原りさがゲストに招かれた。16日は歴代の人形劇特集&やぎさんゆうびんスペシャルとして放送された。17日は歴代の生活習慣コーナー特集として、すりかえかめん・かぞえてんぐ・シルエットはかせ・プリンセス・ミミィがゲストに招かれた。この放送間毎日日替わりで歴代の人形劇特集として1話分と歴代のショートアニメが放送された。毎週番組の最後には日替わりで1曲ずつ歴代のおにいさん・おねえさんの歌が放送された(16日はやぎさんゆうびん内で3曲程多く放送された)。進行役に[[浜野謙太]]が亀の役になりきり登場した。 *2019年10月 放送60周年<ref>[https://web.archive.org/web/20191113130422/https://www.nhk.or.jp/program/okaasan/ayumi60.pdf おかあさんといっしょ60年の歩み]</ref>。 *2019年10月7日 『[[おかあさんといっしょ#コーナー|はみがきじょうずかな]]』のテーマ[[BGM]]に2度目のリニューアルが行われた<ref>[https://natalie.mu/music/news/349669 Perfumeが歌う「はみがきじょうずかな」がEテレ「おかあさんといっしょ」でオンエア] 音楽ナタリー、2019年10月1日 0:55閲覧。</ref>。 *2019年10月18日 日本の本格的なテレビの幼児番組がスタート以来60年に及び、制作の歴史、実績が評価され、『おかあさんといっしょ』が第67回[[菊池寛賞]]を受賞<ref>[https://news.infoseek.co.jp/article/mynavi_1974887/ 『おかあさんといっしょ』菊池寛賞に決定「情操を育み続ける」] Infoseekニュース、2019年10月18日 15:20閲覧。</ref>。 *2019年11月 NHKホールで「[[ふしぎな汽車でいこう〜60周年記念コンサート〜]]」を開催。 *2019年11月5日 『[[おかあさんといっしょ#コーナー|パジャマでおじゃま]]』のテーマBGMに3度目のリニューアルが行われた。 === 2020年代 === ==== 概要 ==== 2020年には、2月に発生した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]の[[パンデミック]]の影響により、スタジオでの子供の参加が見合わせ、さらにファミリーコンサートまたスペシャルステージの公演中止などの異常事態が発生した。 2021年には朝の本放送の放送時間が前倒しされ、2022年には夕方の再放送が18時台に移動する。 ==== 年表 ==== *[[2020年]]1月24日 『[[おかあさんといっしょ#映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!|映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!]]』が公開された<ref name="eiga-okaasan" />。 *2020年3月2日 [[NHKプラス]]での同時ネット配信と見逃し配信が開始された。 *2020年3月25日 「しりとりれっしゃ」が終了。 *2020年3月30日 スタジオのマットが一新される。また、新しい月曜日コーナーとして、「そうぞうのへや」がスタート。 *2020年3月31日 2019年の夏特集で放送されたアニメ『どれどれせんせい』のレギュラー放送が開始。 *2020年4月6日 新型コロナウイルス肺炎の感染拡大防止の為、スタジオコーナーは一般の子供たちの出演なしの状態でおにいさん・おねえさんと『ガラピコぷ〜』のメンバーだけが出演する形態で放送した(日替わりコーナーも子供たちなしで放送された)。 *2020年5月 新型コロナウイルス肺炎の感染拡大防止の為、2020年のスペシャルステージの開催中止が発表された<ref>[https://www.sukusuku.com/contents/264895 「おかあさんといっしょスペシャルステージ2020」 開催中止のお知らせ]</ref>。 *2020年6月1日 この日からの1週間はやぎさんゆうびんスペシャルと題して放送。この時期としては異例の特別編成が組まれた。通常のリクエストに加え、おにいさん・おねえさんからのリクエストに応えるという形で新規クリップの放送や、過去の体操から「ブンバ・ボーン!」と「あ・い・うー」を現メンバーで踊るなど特別編成形式で放送された。また、この一週間限定で「しりとりれっしゃ」が復活したが、レギュラー当時と異なり、5両編成だった列車が3両編成に短縮されて真ん中に入るものを選ぶミニバージョンとなった。今回はレギュラー当時の進行役である花田・小野だけでなく福尾・秋元も運転手・車掌役として参加し、日替わりで進行する形式で放送された。本スペシャル以降、通常8月・12〜1月・3月に放送される特別編成形式での放送がこれらの月以外でも不定期に設けられている。 *2020年7月 新型コロナウイルス肺炎の感染拡大防止の為、2020年度の地方公演及びファミリーコンサートなどのイベント全てを中止すると発表された。 *2020年7月4日-9月27日までNHK放送博物館3階企画展示室にて期間限定で「~パパもママもみていた!~おかあさんといっしょ」企画展を開催。 *2020年10月 スタジオ収録参加募集の内容変更が発表された。これは、新型コロナウイルス感染防止対策の為、2020年度に予定していた子供が参加しての通常収録が見合わせられ大幅に回数が減った事による対応となる。収録見合わせ期間中に募集対象年齢を超えてしまい、募集対象から外れてしまった子供達が発生している事から、2020年11月からの募集については2021年12月までの期間に限って暫定的に対象年齢を1歳引き上げて5歳の誕生月まで応募可能とした。また、2021年度放送分からはスタジオ収録に子供達だけではなく同伴の保護者も参加する形式に変更される事も併せて発表されている。 *2020年12月17日 番組本編としては3作目の劇場公開映画『映画 おかあさんといっしょ』が制作される事が発表され、タイトルが『映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!』に決定した<ref name="eiga-okaasan" />。 *2021年2月4日 新しい生活習慣コーナーとして「ムームーのてをあらおう!」がスタート。 *2021年3月29日 本放送の時間が15分繰り上げ、7:45 - 8:09になる。8時台の放送から変更されるのは1998年以来23年ぶりとなり、7時台から放送されるのは初である。また、番組終了時に表示される「おわり 制作:著作 NHK」の「おわり」の部分が廃止された。 *2021年4月3日 土曜日のみ1年ぶりにスタジオに子供が参加する形式が復活、前述通り保護者同伴で参加する形になり、「医療専門家の監修のもと収録しています」のテロップが番組内で表示される。番組構成は2019年度までの土曜日地方収録版に近く、着ぐるみキャラクターはスタジオに登場せず「べるがなる」は行わない。 *2021年5月15日 緊急事態宣言発出により親子を入れてのスタジオ収録がこれ以降しばらく中断となり、土曜日もスタジオコーナーは一般の子供たちの出演なしの状態でおにいさん・おねえさんと『ガラピコぷ〜』のメンバーだけが出演する形態で放送した。 *2021年9月10日 『[[おかあさんといっしょ#映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!|映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!]]』が公開された。 *2021年12月20日 7か月ぶりにスタジオに子供が参加する形式を再開。新たに「べるがなる」もハンドゲートを行わない形で実施された。この週のみ月〜木の4日連続で放送した(翌月以降は土曜日(地方収録がある週は金曜日)の放送となる)。 *2022年3月24日「プリンセス・ミミィ」が終了。 *2022年3月30日『[[ガラピコぷ〜]]』が放送終了。 *2022年4月2日 [[小野あつこ]]と『ガラピコぷ〜』が卒業。小野の後任となる[[ながたまや]]が出演し、交代の挨拶が行われた。 **4月2日のスタジオライブパートではでは林アキラがピアノ奏者として出演した。 *2022年4月4日 小野に代わり[[ながたまや]]がうたのおねえさんに就任し、人形劇『[[ファンターネ!]]』が放送開始。また、再放送の時間を18:00 - 18:24に変更。NHKは枠移動に関して「保育園児の帰宅時間のピークである時間帯に合わせる」としており、本番組が18時台に放送されるのは史上初となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/415443|title=Eテレ「おかあさんといっしょ」春から午後6時台に NHK「保育園児の帰宅時間のピークである時間帯に」|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2022-02-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/info/pr/hensei/assets/pdf/2022_jikokuhyo-kokunai.pdf|title=2022年度(前半期)放送番組時刻表 |publisher=NHK |accessdate=2022-02-10}}</ref><ref group="注">単発特番では2021年6月29日と2021年9月23日に「歌のリクエストスペシャル」を18時台に編成した実績がある。</ref>。これに伴い、以下のリニューアルを実施。 **スタジオセットとオープニングを6年ぶりに一新。 **エンディングも5年ぶりに変更され、「きんらきらぽん」が使用開始。 **一部の日替わりコーナーを刷新。「ガラピコにんじゃしゅぎょう」が「ニンニンにんじゃしゅぎょう」にリニューアルされ、新たな木曜日コーナーとして「しりたガエルのけけちゃま」がスタート。 **一部のしつけ指導のコーナーの登場キャラクターが『ガラピコぷ〜』から『ファンターネ!』のキャラクターに交代。また、2021年1月に終了した「ムームーのいただきます!」は「みもものいただきます!」として1年2か月ぶりに復活。 **土曜日の構成が若干変更。2016年度以来に人形劇の放送枠が廃止され、代わって新コーナーとして「おはなししよう!」と「ファンキーマーキーチャンネル」が開始。また、『どれどれせんせい』が火曜日から土曜日に移動。 *2022年11月8日 『[[おかあさんといっしょ#コーナー|パジャマでおじゃま]]』のテーマBGMが2019年10月以前のものに戻る。 *2023年4月1日 [[福尾誠]]が卒業。福尾の後任となる[[佐久本和夢]]が出演し、交代の挨拶が行われた。 *2023年4月3日 福尾に代わり[[佐久本和夢]]がたいそうのおにいさんに就任。また、新たな月曜日コーナーとして「おえかきクレッピー」がスタート。 *2023年4月4日 新たな火曜日コーナーとして「きらぴかハッケンジャー」がスタート。 *2023年9月 この月から新型コロナウィルス5類移行に伴い「あそぎゅ〜」、「きらぴかハッケンジャー」の収録体制が変更。ハッケンジャーでは出演者のマスク着用が廃止され、あそぎゅ〜では2020年以前の体制に戻る。 *2023年11月10日 この日の放送から放送センターでのスタジオ収録回が子供のみ参加の2019年以前の体制が復活した。再開初日の時点では参加人数はコロナ前の半分程度となっている。また、エンディングの「きんらきらぽん」ではトンネルアーチが復活した。 *2023年11月13日-16日 [[セサミストリート]]とのコラボが行われ、エルモ、ジュリア、クッキーモンスターが登場した。 == おかあさんといっしょ == === 放送時間 === * 時間は[[日本標準時|JST]] '''国内放送(NHK教育テレビジョン)''' : 2022年度〜 * 月 - 土曜日7:45 - 8:09(再放送:月 - 金曜日18:00 - 18:24、土曜日17:00 - 17:24) '''国外放送([[NHKワールドプレミアム]])''' * 月 - 金曜日17:36 - 18:00 土曜日17:30 - 17:54(再放送:火 - 日曜日5:00 - 5:24) ==== 放送時間の変遷 ==== *放送開始時の放送時間は、総合テレビで毎週月曜13:40 - 14:00で翌年の9月に月 - 土の10:05 - 10:30の帯番組に、現在の歌と体操のコーナーにあたる1961年放送開始のうたのえほんは月 - 土の8:30 - 8:40だった。66年にうたのえほんがおかあさんといっしょに内包され10:10 - 10:30になる。このころの再放送は、1961年は、14:00 - 14:17、それ以後は14:25 - 14:35にうたのえほん、14:35 - 15:00におかあさんといっしょという編成をしていた、74年に17:30 - 17:55の夕方枠に移行。 *76年に番組編成をリニューアルすると同時に、9:30 - 9:55の放送に移行、84年に夕方の放送が前倒しされて17:05 - 17:30になり、翌85年に教育テレビで17:00 - 17:25の放送に移行。以後、しばらくの間朝夕ともこの時間帯で収まる。そして、97年度から土曜日が、翌98年度には全曜日が、教育テレビ8:35 - 9:00に移動する。 *99年度にリニューアルで放送時間が拡大して29分番組になり、朝は全曜日8:30 - 8:59<ref group="注釈" name="wanpark">「[[あつまれ!わんパーク]]」のオープニングの影響で厳密には8:31スタートの時期(01年度〜02年度)がある。夕方も先述の理由で、16:21スタートのときあり。</ref>、夕方は月 - 金16:20 - 16:49<ref group="注釈" name="wanpark"/>、土17:00 - 17:30になった。2000年 - 2004年度は土曜再放送は休止され、本番組のコーナーは2002年度まで「[[あつまれ!わんパーク]]」の週末版、2003年度からは「[[ニャンちゅう|ニャンちゅうといっしょ]]」の中で別々に放送された。 *2005年度に再び25分番組に戻り、月 - 金8:35 - 9:00、夕方は、月 - 金16:20 - 16:45になる。土8:35 - 9:00、17:00 - 17:25には2007年度まで「おかあさんといっしょあそびだいすき!」を放送し、2008年度からは8年ぶりに土曜の再放送枠が復活した。 *2010年度に8時台前半に移動する。 *2011年度は、「[[Eテレキッズ]]」ゾーンタイトルとアニメ「[[パッコロリン]]」の開始に伴い、月 - 金が、8:01 - 8:24(再放送は16:36 - 16:59)の23分間に、土曜日は8:00 - 8:24(再放送は17:00 - 17:24)の24分間に短縮。 *2014年度は、ゾーンタイトルがなくなったことにより平日の放送が1分拡大。全曜日の放送時間が統一される。 *2017年度は、再放送の放送時間が2010年度以来7年ぶりに16:20 -となる。 *2021年度に朝の放送時間が7:45 - 8:09に移動、途中で8時を跨ぐ編成となる。 *2022年度に再放送の放送時間を18:00 - 18:24に変更。なお、[[全国高等学校野球選手権大会]]期間中は25分繰り下げられ18:25 - 18:49に放送(中継延長時は放送休止)。 ===== 総合テレビ ===== * 全て[[日本標準時|日本時間]]で表す * '''太字'''=開始 or 時間変更 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !colspan="5"|1959.10.05 - 1960.08.29 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''13:40''' - '''14:00'''('''20分''')||(放送なし)||(放送なし)||(放送なし)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1960.09.05 - 1961.04.01 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''10:05''' - '''10:30'''('''25分''')||'''10:05''' - '''10:30'''('''25分''')||'''10:05''' - '''10:30'''('''25分''')||(放送なし)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1961.04.03 - 1962.03.31 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||'''14:00''' - '''14:17'''('''17分''')||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1962.04.02 - 1966.04.02 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||'''14:35''' - '''15:00'''('''25分''')||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1966.04.04 - 1974.03.30 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||'''15:05''' - '''15:30'''(25分)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1974.04.01 - 1976.04.03 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||10:05 - 10:30(25分)||'''17:30''' - '''17:55'''(25分)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1976.04.05 - 1977.04.02 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''09:30''' - '''09:55'''(25分)||'''09:30''' - '''09:55'''(25分)||'''09:30''' - '''09:55'''(25分)||17:30 - 17:55(25分)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1977.04.04 - 1979.03.31 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||17:30 - 17:55(25分)||'''17:30''' - '''17:55'''('''25分''') |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1979.04.02 - 1983.03.30 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||09:30 - '''10:00'''('''30分''')||17:30 - 17:55(25分)||17:30 - '''18:00'''('''30分''') |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1983.04.01 - 1984.03.31 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||09:30 - '''09:55'''('''25分''')||'''17:20''' - '''17:45'''(25分)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1984.04.02 - 1985.03.30 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||'''17:05''' - '''17:30'''(25分)||'''17:05''' - '''17:30'''('''25分''') |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1985.04.01 - 1997.03.29 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||(放送なし)||(放送なし) |- !colspan="5"| |- !colspan="5"|1997.03.31 - 1998.03.28 |- !colspan="3"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜!!火曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |09:30 - 09:55(25分)||09:30 - 09:55(25分)||(放送なし)||(放送なし)||(放送なし) |} ===== 教育テレビ ===== * 全て[[日本標準時|日本時間]]で表す * '''太字'''=開始 or 時間変更 {| class="wikitable" style="font-size:small" |- !colspan="4"|1985.04.01 - 1992.04.04 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||(放送なし)||'''17:00''' - '''17:25'''('''25分''')||'''17:00''' - '''17:25'''('''25分''') |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1992.04.06 - 1993.04.03 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||(放送なし)||17:00 - 17:25(25分)||(内包番組) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1993.04.05 - 1994.04.02 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||(放送なし)||17:00 - 17:25(25分)||'''17:00''' - '''17:25'''('''25分''') |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1994.04.04 - 1995.04.01 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||(放送なし)||17:00 - 17:25(25分)||'''17:05''' - '''17:30'''(25分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1995.04.03 - 1997.03.29 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||(放送なし)||17:00 - 17:25(25分)||'''17:00''' - '''17:25'''(25分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1997.03.31 - 1998.03.28 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |(放送なし)||'''08:35''' - '''09:00'''('''25分''')||17:00 - 17:25(25分)||17:00 - 17:25(25分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1998.03.30 - 1999.04.03 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:35''' - '''09:00'''('''25分''')||08:35 - 09:00(25分)||17:00 - 17:25(25分)||17:00 - 17:25(25分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|1999.04.05 - 2000.04.01 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:30''' - '''08:59'''('''29分''')||'''08:30''' - '''08:59'''('''29分''')||'''16:20''' - '''16:49'''('''29分''')||17:00 - '''17:29'''('''29分''') |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2000.04.03 - 2001.03.31 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |08:30 - 08:59(29分)||08:30 - 08:59(29分)||16:20 - 16:49(29分)||(放送なし) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2001.04.02 - 2003.04.05 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:31''' - 08:59('''28分''')||08:30 - 08:59(29分)||'''16:21''' - 16:49('''28分''')||(放送なし) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2003.04.07 - 2005.04.02 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:30''' - 08:59('''29分''')||08:30 - 08:59(29分)||'''16:20''' - 16:49('''29分''')||(放送なし) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2005.04.04 - 2008.03.28 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:35''' - '''09:00'''('''25分''')||(放送なし)||16:20 - '''16:45'''('''25分''')||(放送なし) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2008.03.31 - 2010.03.27 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |08:35 - 09:00(25分)||'''08:35''' - '''09:00'''('''25分''')||16:20 - 16:45(25分)||'''17:00''' - '''17:25'''('''25分''') |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2010.03.29 - 2011.03.26 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:00''' - '''08:25'''(25分)||'''08:00''' - '''08:25'''(25分)||16:20 - 16:45(25分)||17:00 - 17:25(25分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2011.03.28 - 2014.03.29 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:01''' - '''08:24'''('''23分''')||08:00 - '''08:24'''('''24分''')||'''16:36''' - '''16:59'''('''23分''')||17:00 - '''17:24'''('''24分''') |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2014.03.31 - 2015.03.28 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''08:00''' - 08:24('''24分''')||08:00 - 08:24(24分)||'''16:35''' - 16:59('''24分''')||17:00 - 17:24(24分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2015.03.30 - 2017.4.1 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |08:00 - 08:24(24分)||08:00 - 08:24(24分)||'''16:30''' - '''16:54'''(24分)||17:00 - 17:24(24分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2017.4.3 - 2021.3.27 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |08:00 - 08:24(24分)||08:00 - 08:24(24分)||'''16:20''' - '''16:44'''(24分)||17:00 - 17:24(24分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2021.3.29 - 2022.4.2 |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |'''07:45''' - '''08:09'''(24分)||'''07:45''' - '''08:09'''(24分)||16:20 - 16:44(24分)||17:00 - 17:24(24分) |- !colspan="4"| |- !colspan="4"|2022.4.4 - |- !colspan="2"|本放送!!colspan="2"|再放送 |- !月曜 - 金曜!!土曜!!月曜 - 金曜!!土曜 |- |07:45 - 08:09(24分)||07:45 - 08:09(24分)||'''18:00 - 18:24'''(24分)||17:00 - 17:24(24分) |- |} === 出演者 === ==== 現在 ==== *[[花田ゆういちろう]](12代目[[うたのおにいさん]]:2017年4月3日 - ) *[[ながたまや]](21代目[[うたのおねえさん]]:2022年4月4日 - ) *[[佐久本和夢]](13代目[[たいそうのおにいさん]]:2023年4月3日 - ) *[[秋元杏月]](初代[[たいそうのおねえさん]]:2019年4月1日 - ) 2018年度以前は『たいそうのおねえさん』のポジションに、『身体表現のおねえさん』<ref group="注釈">番組では一貫して『○○のおねえさん(○○は担当するコーナー。例:上原りさは「パント!」のおねえさん)』と呼ばれる。</ref>が設けられていた。2019年度より『たいそうのおねえさん』に改められ、現在に至る。 ==== 過去 ==== *過去の出演者ならびにメンバー変遷については「[[うたのおにいさん]]」、「[[うたのおねえさん]]」、「[[たいそうのおにいさん]]」、「[[たいそうのおねえさん]]」の各項目を参照。 *おにいさん・おねえさん以外のレギュラー出演者(コーナーレギュラー等)については後述。 ==== 人形劇 ==== * 現在の人形劇:[[ファンターネ!]](14作目:2022年4月4日 - ) **みもも (声:[[平田真菜]])、やころ(声:[[折笠富美子]])、ルチータ(声:[[入江玲於奈]]) ==== 補足 ==== *歴代おにいさん・おねえさんの代数は、前述の『うたのえほん』(独立番組時代・内包コーナー時代とも含む)から通しでカウントされる。但し、例外的に2018年度まで設けられていた身体表現のおねえさんに関しては、それぞれが『○○(コーナー名)のおねえさん』と呼ばれて代数が付けられていない。 *うたのおにいさんとうたのおねえさんは、現役歌手や音楽大学などで声楽を学んだ経験のある者や現役の音大生から主に抜擢されるが、近年は劇団に所属していた者や舞台・ミュージカル等の経験者も多く抜擢されている<ref group="注釈">[[今井ゆうぞう]]と[[横山だいすけ]]は[[劇団四季]]出身、[[花田ゆういちろう]]は[[文学座]]付属演劇研究所出身、[[はいだしょうこ]]は[[宝塚歌劇団]]出身で入団以前は童謡歌手、[[杉田あきひろ]]は元々はミュージカル俳優。</ref>。最近ではコンサートなどの公開イベントがかつての歌中心からミュージカル、劇仕立ての内容に変わってきたこともあり、歌のみならず演技やダンスといった技能も必要とされる傾向にある。 ** また、歴代うたのおにいさんにおいては就任以前からの経歴や経験を活かして在任中から卒業後にかけて番組のために楽曲を提供している者もおり、初代の[[田中星児]]の他、5代目の[[かしわ哲]]から8代目の[[速水けんたろう]]までは4代連続で楽曲提供実績がある<ref group="注釈">その他の出演者では、[[しゅうさえこ]]、[[神崎ゆう子]]、[[いとうまゆ]]など、歴代おねえさんにおいても楽曲提供の実績がある。</ref>。特に7代目の[[坂田おさむ]]に関しては、おにいさん就任前に番組へ何度か楽曲提供した事がきっかけでオーディション参加を勧められ、うたのおにいさんを務めることに繋がっている。 *たいそうのおにいさんとたいそう・身体表現のおねえさんの場合、役柄的に体を動かす場面やアクロバティックな演技をするケースが多い事もあり、体操経験者(体育大学出身)やダンス経験者、俳優といった経歴を持つ者が起用されてきている。特に[[日本体育大学]]からは、[[向井忠義]]、[[輪島直幸]]、[[瀬戸口清文]]、[[佐藤弘道]]、[[小林よしひさ]]の5人がこれまでたいそうのおにいさんに起用された。 *『うたのえほん』時代から、うたのおにいさん・おねえさんは平均して約2~4年、たいそうのおにいさんは約4~6年程度の間隔で交代することが多かったが、1980年代以降はおにいさん・おねえさんの長期出演が目立ち始め、中には10年以上にわたる長期出演のケースもある。<ref group="注釈">2021年9月時点での歴代出演者の出演期間最長記録保持者は、うたのおにいさんが[[横山だいすけ]]の9年、うたのおねえさんが[[三谷たくみ]]と[[かまだみき]](BS版)の8年、たいそうのおにいさんが[[小林よしひさ]]の14年、身体表現のおねえさんが[[馮智英]]の約14年(パイロット版時代を含む)。また、総合的には古今亭志ん輔(志ん輔ショー)と佐藤弘道(あそびだいすき出演も含む)の15年が最長となる。</ref> *出演者であるおにいさん・おねえさんは「'''NHKの契約社員'''」という形での1年毎の契約(年俸制)となっており、たいそうのおにいさんを務めた[[佐藤弘道]]によると、その金額は「同年代の一般的な会社員が貰う金額よりも少し多い程度」とのこと。1990年代末頃までは他のテレビ局への番組出演や、「おかあさんといっしょ」と直接関係ない単独でのレコードやCDを出すことも一定の制限下で可能だった<ref group="注釈">直近では8代目うたのおにいさんである[[速水けんたろう]]がこれに該当し、番組出演中も番組出演前から用いていた『谷本憲彦』名義での歌唱を含め、アニメや特撮の楽曲での歌手活動を並行し、番組とは別に個人でもファミリーコンサートを開催していた。</ref>が、2023年現在では現役で番組に出演している間は「おかあさんといっしょ」以外の番組への出演は原則として禁止されている。特例が適用された場合でもNHKの番組に限定され、それも同じく教育テレビで放送されている番組へのゲスト出演<ref group="注釈">例としては、2000年度から2002年度にかけて放送された「[[みんなの広場だ!わんパーク]]」に、番組OB・OGに加えて当時の現役出演者が定期的にゲスト出演していたケースがある。</ref>、それ以外ではVTRやメッセージ収録(例:[[NHK-FM放送|NHK-FM]]で2014年から毎年5月5日に放送される『今日は一日家族三世代 NHKキッズソング三昧』では、毎年(2018年を除く)放送年度の現役おにいさん・おねえさんが春のファミリーコンサートのテレビ放送の告知を兼ねて事前録音で出演している。)等での事前収録という形式に限られる<ref group="注釈">例外として、[[東日本大震災]]直後にNHKのラジオ放送に2011年当時の出演者がゲストで生出演した事がある他、[[NHK紅白歌合戦]]には、[[第61回NHK紅白歌合戦|第61回(2010年)]]や[[第69回NHK紅白歌合戦|第69回(2018年)]]で企画コーナーに放送当時のレギュラー出演者が出演したケースがある。</ref>。 ===メンバー変遷=== <!-- この項目「歴代メンバー変遷」でのリンク表示は「今期が新規」という意味がメインであり、ページの有無・ページ作成の必要不要などにかかわらず各期間での新規はリンク表示で記載してます。また1つの表にまとめないのは、1つの表にまとめてしまうと下に行くごとにどういう順番に(どの位置にどの担当の人を)表記してるのか分からなくなるため、それが無いよう常に担当名が見れるように期間別の箇条書きとしています。また、番組の大幅リニューアルが行われた76年度以降とを分割します。75年度以前は曜日別コーナーをメインにします。--> ※新旧交代日は旧メンバーのみとし新メンバーは正式就任日からとする。ただし旧メンバーがお別れの挨拶のみの登場で新メンバーメインでスタートの日は正式就任として新メンバーのみとし旧メンバーは前回放送日までとする。芸名は出演当時の名で記載する(「現:○○」の記載はしない)。また出演期間中に芸名が変わった出演者については別人(前任と後任)と誤解・イメージが無いよう卒業時点の名で記載する。 ※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead">1975年度以前</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> <!--この項目は、NHKのホームページで公開されている過去の番組表の内容を元に作成してあります--> 1959年10月 - 1960年8月 *'''レギュラー・準レギュラー''' **[[旗照夫]] / [[島田多江|島田妙子]] / [[宮崎恭子]] / [[アンサンブル・デリカ]] *'''主なゲスト''' **[[長岡輝子]] / [[小池朝雄]] / [[スリー・グレイセス]] / [[三谷昇]] / [[フォー・コインズ]] / [[牟田悌三]] / [[中村メイコ]] / [[劇団かかし座]] / [[沢村みつ子]] 1960年9月 - 1961年3月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***[[ブーフーウー]] ****[[荻昱子]] **'''水曜日・木曜日''' ***[[うたってあそんで]] ****旗照夫 / 島田妙子 / アンサンブル・デリカ **'''金曜日''' ***[[いいものつくろ]] ****[[上田次郎 (おかあさんといっしょ出演者)|上田次郎]] / [[里見京子]] / [[劇団ロバ]] **'''土曜日''' ***[[なかよしおばさん]] ****[[轟夕起子]] / [http://hitomiza.com/ 人形劇団ひとみ座] 1961年4月 - 1962年3月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子(ただし1961年夏の一時期は[[荒木道子]]が代役) **'''水曜日・木曜日''' ***うたってあそんで ****旗照夫 / 島田妙子 / アンサンブル・デリカ **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****上田次郎 / 里見京子 / 劇団ロバ *'''[[うたのえほん]]''' **'''うたのおねえさん''' ***[[眞理ヨシコ|真理ヨシコ]] / [[中野慶子]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***[[砂川啓介]]「[[#元気に一、二|元気に一、二]]」 1962年4月 - 9月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***[[おはなしのもり]] ****旗照夫 / 島田妙子 **'''木曜日''' ***[[こんな絵もらった]] ****[[大友純]] **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****上田次郎 / 里見京子 / 劇団ロバ *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***真理ヨシコ / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」 1962年10月 - 12月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***おはなしのもり ****旗照夫 / 島田妙子 **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****[[牟田悌三]] **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****[[古賀伸一]] / [[沢多佳子]] / [[安田章子]] *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***[[竹前文子]] / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」 1963年1月 - 3月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***おはなしのもり ****旗照夫 / 島田妙子 / [[眞理ヨシコ|真理ヨシコ]] **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****古賀伸一 / 沢多佳子 / 安田章子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***竹前文子 / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」 1963年4月 - 9月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***おはなしのもり ****旗照夫 / 島田妙子 / 真理ヨシコ **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / [[高橋和枝]] **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****古賀伸一 / 沢多佳子 / 安田章子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***竹前文子 / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」 1963年10月 - 12月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***おはなしのもり ****旗照夫 / 島田妙子 / 真理ヨシコ **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****[[西村正平]] / 安田章子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***竹前文子 / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / [[佐久間俊直]]「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1964年1月 - 3月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***おはなしのもり ****旗照夫 / 島田妙子 / 真理ヨシコ / [[高島稔]] **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 **'''金曜日''' ***なかよしおばさん ****轟夕起子 / 人形劇団ひとみ座 **'''土曜日''' ***いいものつくろ ****西村正平 / [[円木紀久実]] / [[三浦美子]] *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***竹前文子 / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1964年4月 - 9月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***[[どうぶつさんこんにちは]] ****[[高橋征郎]] / [[延原暁子]] **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 **'''金曜日''' ***いいものつくろ ****西村正平 / 円木紀久実 / 三浦美子 **'''土曜日''' ***[[みんなあつまれ]] ****[[新克利]] / [[北川恭子]] / [[丸山みつ子]] *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***[[水谷玲子]] / 中野慶子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1964年10月 - 1965年4月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 / [[上田敏也]] **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 **'''金曜日''' ***いいものつくろ ****西村正平 / 円木紀久実 / 三浦美子 / [[佐々木伊都子]] **'''土曜日''' ***みんなあつまれ ****新克利 / 北川恭子 / 丸山みつ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / [[中川順子]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1965年4月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***[[うたいっぱい]] ****[[高橋元太郎]]<ref name="hakkutsu015">[https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail015.html NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト]</ref> / 真理ヨシコ<ref name="hakkutsu015" /> / [[ボーカル・ショップ]]<ref name="hakkutsu015" /> **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 / [[松島ミノリ]] **'''金曜日''' ***いいものつくろ ****佐々木伊都子 / [[はせさん治|はせさんじ]] / [[香山ユリ]] **'''土曜日''' ***みんなあつまれ ****新克利 / 北川恭子 / [[中村礼子 (女優)|中村礼子]] **'''毎日放送''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1965年5月 - 10月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****荻昱子 **'''水曜日''' ***うたいっぱい ****高橋元太郎 / 真理ヨシコ / ボーカル・ショップ **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 / 松島ミノリ **'''金曜日''' ***いいものつくろ ****佐々木伊都子 / [[加藤晃 (俳優)|加藤晃]] / はせさんじ / 香山ユリ **'''土曜日''' ***みんなあつまれ ****新克利 / 北川恭子 / [[市橋比呂美]] **'''毎日放送''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1965年11月 - 1966年3月 *'''おかあさんといっしょ''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****[[里見京子]] **'''水曜日''' ***うたいっぱい ****高橋元太郎 / 真理ヨシコ / ボーカル・ショップ **'''木曜日''' ***こんな絵もらった ****牟田悌三 / 高橋和枝 / 松島ミノリ **'''金曜日''' ***いいものつくろ ****佐々木伊都子 / 加藤晃 / はせさんじ / 香山ユリ **'''土曜日''' ***みんなあつまれ ****新克利 / 北川恭子 / [[平島杏子]] / [[江戸家猫八 (3代目)]] **'''毎日放送''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1966年4月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****里見京子 **'''水曜日''' ***うたいっぱい ****高橋元太郎 / 真理ヨシコ / ボーカル・ショップ **'''木曜日''' ***[[おはなしいっぱい]] ****真理ヨシコ / 牟田悌三 / ボーカル・ショップ **'''金曜日''' ***[[なんにもないくに]] ****[[早野寿郎]] / [[佐藤香り]] / [[金子皓江]] / [[カワナ・カオル]] / [[佐藤徳枝]] **'''土曜日''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1966年4月 - 1967年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ブーフーウー ****里見京子 **'''水曜日''' ***うたいっぱい ****高橋元太郎 / 真理ヨシコ / ボーカル・ショップ **'''木曜日''' ***おはなしいっぱい ****真理ヨシコ / 牟田悌三 / ボーカル・ショップ **'''金曜日''' ***なんにもないくに ****早野寿郎 / 佐藤香り / [[岩崎龍爾]] / 金子皓江 / カワナ・カオル / 佐藤徳枝 **'''土曜日''' ***どうぶつさんこんにちは ****高橋征郎 / 延原暁子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***水谷玲子 / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 佐久間俊直「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1967年4月 - 7月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***[[ダットくん]] ****[[吉田珠江]] **'''水曜日''' ***[[らっぽんぽん]] ****[[旗照夫]] / 真理ヨシコ **'''木曜日''' ***[[きみだあれ]] ****[[白坂道子]] / [[永久勲雄]] **'''金曜日''' ***[[おはなしこんにちは]] ****[[吉行和子]] **'''土曜日''' ***[[てをつなごう]] ****[[佐久間俊直]] *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***[[片桐和子 (うたのおねえさん)|片桐和子]] / 中川順子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / [[岡田祥造]]「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1967年8月 - 1968年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ダットくん ****吉田珠江 **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****旗照夫 / 真理ヨシコ **'''木曜日''' ***きみだあれ ****白坂道子 / 永久勲雄 **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****吉行和子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***片桐和子 / [[瀬端優美子]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 岡田祥造「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1968年4月 - 1969年4月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ダットくん ****吉田珠江 **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***きみだあれ ****白坂道子 / 永久勲雄 **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****吉行和子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***片桐和子 / 瀬端優美子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 岡田祥造「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1969年5月 - 1969年9月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日・火曜日''' ***ダットくん ****吉田珠江 **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***きみだあれ ****白坂道子 / 永久勲雄 **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****[[神保共子]] **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / [[葉村エツ子]] *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***片桐和子 / 瀬端優美子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***砂川啓介「元気に一、二」(月曜日 - 水曜日) / 岡田祥造「同左」(木曜日 - 金曜日)「おもちゃのラッパ」(土曜日) 1969年10月 - 1970年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***[[とんちんこぼうず]] **'''火曜日''' ***[[どうぶつくん]] ****[[西尾徳]] **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***[[これは……です]] ****[[熊倉一雄]](熊おじさん) / [[沼田爆]] / [[高見映]] / [[植木まり子|植木まりこ]] / [[かもまさる]] **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****神保共子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***片桐和子 / 瀬端優美子(片桐の出演は3/11まで) **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***[[向井忠義]]「[[#ジャンポンポン|ジャンポンポン]]」 / [[大佳央|小西幸男]]「同左」 1970年4月 - 1971年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんちんこぼうず **'''火曜日''' ***どうぶつくん ****西尾徳 **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***これは……です ****熊倉一雄 / 沼田爆 / 高見映 / 植木まりこ / かもまさる **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****神保共子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***[[斉藤昌子]] / [[森晴美]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / 小西幸男「同左」 1971年4月 - 9月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***[[とんでけブッチー]] **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***[[これなあに?]] ****熊倉一雄 / 沼田爆 / 高見映 / 植木まりこ / かもまさる **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****神保共子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***斉藤昌子 / 森晴美 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / [[輪島直幸]]「同左」 1971年10月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんでけブッチー **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***これなあに? ****熊倉一雄 / 沼田爆 / 高見映 / 植木まりこ / かもまさる **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****[[田島令子]] **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおねえさん''' ***斉藤昌子 / 森晴美 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / 輪島直幸「同左」 1971年11月 - 1972年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんでけブッチー **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***これなあに? ****熊倉一雄 / 沼田爆 / 高見映 / 植木まりこ / かもまさる **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****田島令子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****佐久間俊直 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***[[田中星児]] **'''うたのおねえさん''' ***斉藤昌子 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / 輪島直幸「同左」 1972年4月 - 9月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんでけブッチー **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***[[わからん島]] ****[[多々良純]] / [[渡辺美知子]] / [[山下啓介]] **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****田島令子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****[[竹内伸司]] / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 **'''うたのおねえさん''' ***[[鷲津名都江|小鳩くるみ]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / 輪島直幸「同左」 1972年10月 - 1973年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんでけブッチー **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***らっぽんぽん ****真理ヨシコ **'''木曜日''' ***[[いちにのさんにん]] ****[[一城みゆ希]] / [[桂菊丸]] / [[古賀伸一]] / [[加藤恒喜]] / [[前沢保美]] **'''金曜日''' ***おはなしこんにちは ****田島令子 **'''土曜日''' ***てをつなごう ****竹内伸司 / 葉村エツ子 *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 **'''うたのおねえさん''' ***小鳩くるみ **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***向井忠義「ジャンポンポン」 / 輪島直幸「同左」 1973年4月 - 1974年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***とんでけブッチー **'''火曜日''' ***どうぶつくん **'''水曜日''' ***おはなしこんにちは **'''木曜日''' ***いちにのさんにん ****一城みゆ希 / 桂菊丸 / 古賀伸一 / 加藤恒喜 / 前沢保美 **'''金曜日''' ***てをつなごう ****葉村エツ子 **'''土曜日''' ***[[ヤンヤンムウくん]] ****真理ヨシコ / はせさん治 / [[岡本高政]] / 沼田爆 *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 **'''うたのおねえさん''' ***小鳩くるみ **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***[[川原洋一郎]]「ジャンポンポン」 / 輪島直幸「同左」 1974年4月 - 1975年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***[[うごけぼくのえ]] ****[[浜井都]] **'''火曜日''' ***みてごらん **'''水曜日''' ***おはなしこんにちは **'''木曜日''' ***いちにのさんにん ****一城みゆ希 / 桂菊丸 / 古賀伸一 / 加藤恒喜 / 前沢保美 **'''金曜日''' ***てをつなごう ****葉村エツ子 **'''土曜日''' ***ヤンヤンムウくん ****真理ヨシコ *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 **'''うたのおねえさん''' ***[[斉藤伸子]] / [[松熊由紀]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「[[#地球をどんどん|地球をどんどん]]」 / [[瀬戸口清文]]「同左」 1975年4月 - 1976年3月 *'''曜日別コーナー''' **'''月曜日''' ***うごけぼくのえ ****浜井都 **'''火曜日''' ***[[はいスタート]] ****[[小原乃梨子]](声) / [[馬場のぼる]](絵) **'''水曜日''' ***おはなしこんにちは **'''木曜日''' ***[[いそがしおじさん]] ****[[一城みゆ希]] / [[谷啓]] **'''金曜日''' ***てをつなごう ****[[米田和正]] / [[大杉久美子]] **'''土曜日''' ***ヤンヤンムウくん ****真理ヨシコ *'''うたのえほん''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「地球をどんどん」 / 瀬戸口清文「同左」 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead">1976年度以降</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> <!--この項目は、NHKの過去の番組表の内容を元に作成してあります--> 1976年4月 - 1976年9月 *'''月~木曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 / [[水木一郎]] **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「地球をどんどん」 / 瀬戸口清文「同左」 **'''人形劇''' ***[[ゴロンタ劇場]] *'''金曜日''' ** てをつなごう ***米田和正 / 一城みゆ希 *'''土曜日''' **[[大どろぼう ホッツェンプロッツ]] 1976年10月 - 1977年3月 *'''月~木曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***田中星児 / 水木一郎 **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「地球をどんどん」 / 瀬戸口清文「同左」 **'''人形劇''' ***ゴロンタ劇場 *'''金曜日''' ** てをつなごう ***米田和正 / 一城みゆ希 *'''土曜日''' **[[ペリカンおばさん]] ***[[小野栄一]] 1977年4月 - 1977年9月 *'''月~木曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***水木一郎 / [[たいらいさお]] **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「地球をどんどん」 / 瀬戸口清文「[[#ようじ体操・スイッチオン|ようじ体操・スイッチオン]]」 **'''人形劇''' ***ゴロンタ劇場 *'''金曜日''' ** てをつなごう ***米田和正 / 一城みゆ希 *'''土曜日''' **ペリカンおばさん ***小野栄一 1977年10月 - 1978年3月 *'''月~木曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***水木一郎 / たいらいさお **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***輪島直幸「地球をどんどん」 / 瀬戸口清文「ようじ体操・スイッチオン」 **'''人形劇''' ***ゴロンタ劇場 *'''金曜日''' ** てをつなごう ***米田和正 / 一城みゆ希 *'''土曜日''' **[[おはなしややや!!]] ***[[犬塚弘]] / [[クニ河内]] 1978年4月 - 1979年3月 *'''月~木曜日''' **'''総合司会''' ***輪島直幸 **'''うたのおにいさん''' ***水木一郎 / たいらいさお **'''うたのおねえさん''' ***斉藤伸子 / 松熊由紀 **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***瀬戸口清文「地球をどんどん」「ようじ体操・スイッチオン」 **'''人形劇''' ***ゴロンタ劇場 *'''金曜日''' ** てをつなごう ***一城みゆ希 / [[猪浦宏昌]] *'''土曜日''' **おもちゃおじさん ***[[有馬昌彦]] 1979年4月 - 1980年3月 *'''月~金曜日''' **'''総合司会''' ***輪島直幸 **'''うたのおにいさん''' ***[[宮内良]] **'''うたのおねえさん''' ***[[奈々瀬ひとみ]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***瀬戸口清文「[[#パラランたいそう|パラランたいそう]]」 **'''人形劇''' ***[[ブンブンたいむ]] *'''土曜日''' **[[ミューミューニャーニャー]] **[[どんどんどん]] ***[[三笑亭夢之助]] / [[もりみやこ]] 1980年4月 - 1981年3月 *'''月~金曜日''' **'''総合司会''' ***輪島直幸 **'''うたのおにいさん''' ***宮内良 **'''うたのおねえさん''' ***奈々瀬ひとみ **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***瀬戸口清文「[[#コケコッコたいそう part 1/part 2|コケコッコたいそう]][[#コケコッコたいそう part 1/part 2|part 1]]」 **'''[[#ハイ・ポーズ|ハイ・ポーズ]](パイロット版)''' ***吉田貢 / [[馮智英]] **'''人形劇''' ***ブンブンたいむ *'''土曜日''' **ミューミューニャーニャー **どんどんどん ***[[山田隆夫]] / [[小泉裕美子]] 1981年4月6日 - 1982年4月3日 *'''月~金曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***[[かしわ哲]] / [[林アキラ]] **'''うたのおねえさん''' ***[[しゅうさえこ]] **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***瀬戸口清文「コケコッコたいそう[[#コケコッコたいそう part 1/part 2|part 2]]」 **'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' ***馮智英 **'''人形劇''' ***ブンブンたいむ *'''土曜日''' **ミューミューニャーニャー **どんどんどん ***[[木幡研二]] / 小泉裕美子 1982年4月5日 - 1983年4月2日 *'''月~金曜日''' **'''うたのおにいさん''' ***かしわ哲 / 林アキラ **'''うたのおねえさん''' ***しゅうさえこ **'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' ***瀬戸口清文「[[#ぞうさんのあくび|ぞうさんのあくび]]」 **'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' ***馮智英 **'''人形劇''' ***[[にこにこぷん]] *'''土曜日''' **ミューミューニャーニャー **どんどんどん ***[[柴田進]] 1983年4月4日 - 1984年3月31日 *'''うたのおにいさん''' **林アキラ *'''うたのおねえさん''' **[[森みゆき]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **瀬戸口清文「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **にこにこぷん *'''四つのへや''' ** [[伊庭隆]] 1984年4月1日 - 1985年4月1日 *'''うたのおにいさん''' **林アキラ *'''うたのおねえさん''' **森みゆき *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **瀬戸口清文「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **にこにこぷん *'''[[志ん輔ショー]]'''(当時は'''朝太ショー''') **[[古今亭志ん輔]](当時は'''古今亭朝太'''の高座名で出演)<ref name="名前なし-1"/> 1985年4月2日 - 1987年4月6日 *'''うたのおにいさん''' **[[坂田おさむ]] *'''うたのおねえさん''' **森みゆき *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **瀬戸口清文「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **にこにこぷん *'''志ん輔ショー'''(1985年8月以前は'''朝太ショー''') **古今亭志ん輔(1985年8月まで、'''古今亭朝太'''の高座名で出演) 1987年4月7日 - 1992年10月3日 *'''うたのおにいさん''' **坂田おさむ *'''うたのおねえさん''' **[[神崎ゆう子]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **[[天野勝弘]]「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **にこにこぷん *'''志ん輔ショー''' **古今亭志ん輔 1992年10月5日 - 1993年4月5日 *'''うたのおにいさん''' **坂田おさむ *'''うたのおねえさん''' **神崎ゆう子 *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **天野勝弘「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **[[ドレミファ・どーなっつ!]] *'''志ん輔ショー''' **古今亭志ん輔 1993年4月6日 - 1994年4月2日 *'''うたのおにいさん''' **[[速水けんたろう]] *'''うたのおねえさん''' **[[茂森あゆみ]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **[[佐藤弘道]]「ぞうさんのあくび」 *'''「ハイ・ポーズ」のおねえさん''' **馮智英 *'''人形劇''' **ドレミファ・どーなっつ! *'''志ん輔ショー''' **古今亭志ん輔 1994年4月4日 - 1996年3月30日 *'''うたのおにいさん''' **速水けんたろう *'''うたのおねえさん''' **茂森あゆみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **佐藤弘道「ぞうさんのあくび」 *'''「[[#トライ!トライ!トライ!|トライ!トライ!トライ!]]」のおねえさん''' **[[松野ちか]] *'''人形劇''' **ドレミファ・どーなっつ! *'''志ん輔ショー''' **古今亭志ん輔 1996年4月1日 - 1999年4月3日 *'''うたのおにいさん''' **速水けんたろう *'''うたのおねえさん''' **茂森あゆみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **佐藤弘道「[[#あ・い・うー|あ・い・うー]]」 *'''「トライ!トライ!トライ!」のおねえさん''' **松野ちか *'''人形劇''' **ドレミファ・どーなっつ! *'''志ん輔ショー''' **古今亭志ん輔 1999年4月5日 - 2000年4月1日 *'''うたのおにいさん''' **[[杉田あきひろ]] *'''うたのおねえさん''' **[[つのだりょうこ]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **佐藤弘道「あ・い・うー」 *'''「[[#デ・ポン!|デ・ポン!]]」のおねえさん''' **[[タリキヨコ]] *'''人形劇''' **ドレミファ・どーなっつ! / [[スプーとガタラット]] 2000年4月3日 - 2003年4月5日 *'''うたのおにいさん''' **杉田あきひろ *'''うたのおねえさん''' **つのだりょうこ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **佐藤弘道「あ・い・うー」 *'''「デ・ポン!」のおねえさん''' **タリキヨコ *'''人形劇''' **[[ぐ〜チョコランタン]] 2003年4月7日 - 2005年4月2日 *'''うたのおにいさん''' **[[今井ゆうぞう]] *'''うたのおねえさん''' **[[はいだしょうこ]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **佐藤弘道「あ・い・うー」 *'''「デ・ポン!」のおねえさん''' **タリキヨコ *'''人形劇''' **ぐ〜チョコランタン 2005年4月4日 - 2007年3月30日 *'''うたのおにいさん''' **今井ゆうぞう *'''うたのおねえさん''' **はいだしょうこ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **[[小林よしひさ]]「[[#ぱわわぷたいそう|ぱわわぷたいそう]]」 *'''「[[#ズーズーダンス|ズーズーダンス]]」のおねえさん''' **[[いとうまゆ]] *'''人形劇''' **ぐ〜チョコランタン *'''[[#おかあさんといっしょあそびだいすき|おかあさんといっしょあそびだいすき]]''' **佐藤弘道 **きよこ(タリキヨコより改名) 2007年4月2日 - 2008年3月28日 *'''うたのおにいさん''' **今井ゆうぞう *'''うたのおねえさん''' **はいだしょうこ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ぱわわぷたいそう」 *'''「[[#ゴッチャ!|ゴッチャ!]]」のおねえさん''' **いとうまゆ *'''人形劇''' **ぐ〜チョコランタン *'''おかあさんといっしょあそびだいすき''' **佐藤弘道 **きよこ 2008年3月31日 - 2009年3月28日 *'''うたのおにいさん''' **[[横山だいすけ]] *'''うたのおねえさん''' **[[三谷たくみ]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ぱわわぷたいそう」 *'''「ゴッチャ!」のおねえさん''' **いとうまゆ *'''人形劇''' **ぐ〜チョコランタン 2009年3月30日 - 2011年3月26日 *'''うたのおにいさん''' **横山だいすけ *'''うたのおねえさん''' **三谷たくみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ぱわわぷたいそう」 *'''「ゴッチャ!」のおねえさん''' **いとうまゆ *'''人形劇''' **[[モノランモノラン]] 2011年3月28日 - 2012年3月31日 *'''うたのおにいさん''' **横山だいすけ *'''うたのおねえさん''' **三谷たくみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ぱわわぷたいそう」 *'''「ゴッチャ!」のおねえさん''' **いとうまゆ *'''人形劇''' **[[ポコポッテイト]] 2012年4月2日 - 2014年3月29日 *'''うたのおにいさん''' **横山だいすけ *'''うたのおねえさん''' **三谷たくみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ぱわわぷたいそう」 *'''「[[#パント!|パント!]]」のおねえさん''' **[[上原りさ]] *'''人形劇''' **ポコポッテイト 2014年3月31日 - 2016年4月2日 *'''うたのおにいさん''' **横山だいすけ *'''うたのおねえさん''' **三谷たくみ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「[[#ブンバ・ボーン!|ブンバ・ボーン!]]<ref name="jrr_96">{{Cite press release |和書 |title=「おかあさんといっしょ」“体操”をリニューアル!! |publisher=日本放送協会 |date=2014-02-28 |url=http://www2.nhk.or.jp/pr-movie/detail/index.cgi?id=01_0003 |accessdate=2014-03-02}}</ref>」 *'''「パント!」のおねえさん''' **上原りさ *'''人形劇''' **ポコポッテイト<ref group="注釈">コーナーの放送終了日は[[2016年]][[3月31日]]、番組卒業日は[[4月2日]]。三谷たくみ共々、通常放送の出演は3月31日をもって終了。</ref> 2016年4月4日 - 2017年4月1日 *'''うたのおにいさん''' **横山だいすけ *'''うたのおねえさん''' **[[小野あつこ]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ブンバ・ボーン!」 *'''「パント!」のおねえさん''' **上原りさ *'''人形劇''' **[[ガラピコぷ〜]]<ref group="注釈">ガラピコのみ番組初出演は[[2016年]][[4月6日]]。</ref> 2017年4月3日 - 2019年3月30日 *'''うたのおにいさん''' **[[花田ゆういちろう]] *'''うたのおねえさん''' **小野あつこ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **小林よしひさ「ブンバ・ボーン!」 *'''「パント!」のおねえさん''' **上原りさ *'''人形劇''' **ガラピコぷ〜 2019年4月1日 - 2022年4月2日 *'''うたのおにいさん''' **花田ゆういちろう *'''うたのおねえさん''' **小野あつこ *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **[[福尾誠]]「[[#からだ☆ダンダン|からだ☆ダンダン]]」 *'''たいそうのおねえさん「担当した体操」''' **[[秋元杏月]]「からだ☆ダンダン」 *'''人形劇''' **ガラピコぷ〜<ref group="注釈">コーナー自体は[[2022年]][[3月30日]]をもって放送終了。</ref> 2022年4月4日 - 2023年4月1日 *'''うたのおにいさん''' **花田ゆういちろう *'''うたのおねえさん''' **[[ながたまや]] *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **福尾誠「からだ☆ダンダン」 *'''たいそうのおねえさん「担当した体操」''' **秋元杏月「からだ☆ダンダン」 *'''人形劇''' **[[ファンターネ!]] 2023年4月3日 - *'''うたのおにいさん''' **花田ゆういちろう *'''うたのおねえさん''' **ながたまや *'''たいそうのおにいさん「担当した体操」''' **[[佐久本和夢]]「からだ☆ダンダン」 *'''たいそうのおねえさん''' **秋元杏月「からだ☆ダンダン」 *'''人形劇''' **ファンターネ! </div></div> === 特別編成 === 夏休み、冬休み、春休みの時期には通常編成とは異なる内容のものが放送されており、2011年度までの夏休みにはファミリーコンサートのダイジェスト版→特別編成→通常収録のローテーションが、7月最終週から2回放送されていた。2012年度は、【特別編成開始の週の月曜〜水曜で7月第1週の通常収録再放送→木曜〜翌週の金曜まで夏特集→ファミリーコンサート全国版→春のファミリーコンサート分割放送→夏特集からファミリーコンサート全国版→9月第1週】で放送され、2013年度は【7月最終週に第1週再放送とファミリーコンサート千葉公演→あつまれ!土曜日スペシャル→夏特集→春のファミリーコンサート分割放送→前年度夏特集再放送→夏特集再放送→8月最終週より通常編成】、2014年度は春のコンサートの分割放送がなくなるなど、編成が変化してきている。主な内容としては、スタジオを飛び出しての野外ロケ、通常収録で使うCT-103スタジオ、もしくはさらに広いCT-101スタジオでのスタジオライブが多い。 冬特集では、12月24〜25日前後にはクリスマス関連の特別版が放送され、年が明けた1月4日から6日ごろに新年第1回目の放送<ref group="注釈">基本的に通常収録で新年のあいさつを述べる場合と、お正月テイストの特別編成の場合とがある。</ref>があるのがほとんどだったが、2012年度からは元日にお正月スペシャルを放送することとなった。春特集が放送される年度末の3月最終週には、ファミリーコンサート全国版の未放送部分(ミニミュージカル、初回放送時に未放送の歌など)や、その年に放送された今月の歌の総集編などが放送されることが多く、特にこの年度をもって卒業するおにいさんおねえさんがいる場合、3月最終週最終日には、卒業するおにいさん・おねえさんのあいさつと新しいおにいさんおねえさんとの引き継ぎも行われている<ref group="注釈">ただし、3月最終土曜日は全国版ファミリーコンサートの当該年度最終公演の放送が行われる事が多い為、最終週の木曜日または金曜日に行われることが多く、場合によっては、翌週の新年度第1回目で引き継ぐケースもある。また、引き継ぎなしで卒業するおにいさん・おねえさんの挨拶のみにとどめる場合もある。</ref>。なお、クリスマス特集・スタジオライブなどは1990年代から放送の翌年にビデオ(DVD)で販売されることが多いほか、2009年度以降は毎年3月に発売されるDVD『最新ソングブック』の特典映像として、夏特集や冬特集で放送した映像が収録されるケースが増えている。 ※ 数が多いため、伸縮型のメニューとして掲載する。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead">特別編成リスト</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> 1962年年始特集 * 1月1日「うたうびっくり箱 ―ちいさなおともだちへの贈り物―」 1963年年始特集 * 1月1日「ブーフーウーのお正月」「ハタハタ先生とうさぎくん」 1964年年始特集 * 1月1日「うたのお正月」 1965年年始特集 *1月1日「うたのえほん ~みんないっしょに~」 *1月2日「うたのえほん ―ゆきのはらっぱで― 」 1966年年始特集 * 1月1日「うたのお正月」 * 1月2日「うたのお正月」 * 1月3日「うたのお正月」 1967年年始特集 * 1月1日「おめでとう うたのえほん」 * 1月3日「うたのお正月」 1968年年始特集 * 1月1日「お猿のアイアイはうたがすき」 1969年年始特集 * 1月1日「うたのお正月」 1978年年始特集 * 1月3日「爆笑ゴロンタの初夢」 1990年年始特集 * 1月4日「のびのび村のにこにこぷん」 1990年年末特集 * 12月31日「おおみそか子ども特集 母と子のファミリーコンサート」(同年5月のファミリーコンサートの再放送) 1991年年始特集 * 1月4日「歌いっぱいコンサート」 * 1月5日「ヘビくんブタくんの大冒険」 1991年年末特集 * 12月24日「にこにこ島のクリスマス」 * 12月30日 - 12月31日「にこぷんアドベンチャー」 1992年クリスマス特集 * 12月24日「おかあさんといっしょのクリスマス 」 1993年冬特集 * 12月20日 - 12月24日「にこぷんオーストラリア」 1995年夏特集 * 7月17日 - 7月21日「うたのリクエスト」 1996年冬特集 * 12月10日 - 12月13日「ドレミファ・どーなっつ!歌スペシャル&アニメスペシャル」 1997年冬特集 * 12月18日 - 22日「ドレミファ・どーなっつ!うたスペシャル」 ** 12月18日:ミニミュージカル ** 12月19日:志ん輔おじさんの名作 ** 12月20日:ヘビ君・ブタ君 ** 12月22日:手あそびしよう 1998年冬特集 * 1月8日 - 1月9日「ドレミファ・どーなっつ!うたスペシャル」 1999年春特集 *3月29日 - 4月3日「卒業特集:94年〜99年までの再放送」<ref group="注釈">「トライ!トライ!トライ!」の中で放送時間の変更や5日からのリニューアルの告知、およびこれまでを振り返って再放送をしている旨といつ放送されたものかが字幕で流れた。卒業のあいさつは、新年度1回目の4月5日放送の冒頭で[[古今亭志ん輔]]及び[[速水けんたろう]]・[[茂森あゆみ]]・[[松野ちか]]が出て行われ、その後新しいOPが放送されて新体制の放送へと接続した。内容の再編集は行わなかったため、OPが29日まではアスペクト比4:3サイズ収録のもの、体操も30日まで「ぞうさんのあくび」、さらに29日・30日の「トライ!トライ!トライ!」も1994・95年度放送分のため旧バージョンという状態で放送された。</ref> 以下、放送曲目を記載。(太字は本放送当時の今月の歌) *3月29日(本放送:1994年4月):おべんとうばこ、おはながわらった、たんぽぽちゃんとつくしくん、春の子うーら、'''アップルパイひとつ''' *3月30日(本放送:1995年4月):あひるの行列、はるのかぜ、ふうせんはプン、'''はるかぜかくれんぼ ''' *3月31日(本放送:1996年4月):チューリップ、ちいさなおふね、ポップンポップコーン、'''にじのむこうに ''' *4月1日(本放送:1997年10月):アイアイ、'''ないてたらね'''、すずめがサンバ、ホ!ホ!ホ! *4月2日(本放送:1998年6月):手をたたきましょう、リズム君・メロディーちゃん、'''ぴしゃん'''、公園にいきましょう *4月3日(本放送:1999年3月):おおきなくちあけて、だんご3兄弟、'''あしたははれる''' 1999年夏特集 * 7月22日 - 7月24日「絵かきうた」 * 8月2日 - 8月7日「リクエスト特集」 1999年クリスマス特集 * 12月24日「銀の星ひろった〜お客さまはサンタクロース」(ゲスト:[[ロビー・ラカトシュ]]) 2000年夏特集 * 8月17日 - 8月19日「チョコランタン見聞録」 ** デ・ポンはぐ〜チョコランタンのメンバーが日替わりで登場 * 8月21日 - 8月25日「おしかけてあ・い・うー」(沖縄) 2001年夏特集 * 7月26日 - 7月27日「動物園に行こう!」 ** ペンギン探検隊 * 7月30日 - 7月31日「ゲストと遊ぼう!」(ゲスト:[[ロバの音楽座]]) * 8月1日 - 8月4日「お兄さん・お姉さんがやってきた!」 2002年夏特集 * 7月24日 - 7月26日「お兄さん・お姉さんとあそぼう!」 * 7月29日 - 8月3日「外であそぼう!おかあさんといっしょ」(静岡 伊豆半島) 2003年卒業特集 * 3月31日「あきひろ兄&りょうこ姉、思い出の映像特集」 * 4月5日「お兄さん・お姉さん新旧引継ぎ」 2003年夏特集 * 7月25日 - 8月1日 2004年春特集 * 3月29日 - 4月3日 2004年夏特集 * 7月26日 - 7月29日「むかしの町でポンチャラリン」<ref group="注釈">当時のお兄さん、お姉さん、ぐ〜チョコランタン出演の時代劇風ドラマである。26日から29日に4部構成で放送。ストーリー終了後の体操「あ・い・うー」は舞台を背景に、子供達も昔の衣装を着て行った。</ref> 2004年冬特集 * 12月27日 - 12月30日「イチジョウマン特集」 2005年夏特集 * 7月25日 - 7月29日「森の音楽会」 ** 7月25日:[[赤坂東児]] ** 7月26日:ロバの音楽座 ** 7月27日:[[坂田おさむ]] ** 7月28日:大竹創作、[[乙三]] ** 7月29日:[[中川ひろたか]]、マジスカ軽音楽同好会 2006年夏特集 * 7月27日 - 7月28日「ぐ〜チョコランタンショー」 * 7月31日 - 8月4日「夏の音楽会」 ** 7月31日:[[谷山浩子]]、[[小室等]] ** 8月1日:[[堀井勝美]] ** 8月2日:[[坂田おさむ]] ** 8月3日:[[福田和禾子]] ** 8月4日:[[赤坂東児]] 2006年クリスマス特集 * 12月22日 2007年春特集 * 3月26日 - 3月27日「コンサート特集」 2007年夏特集 * 7月19日 - 7月20日「ぐ〜チョコランタンショー」 * 7月23日 - 7月27日「おしごとたんけんたい」 ** 7月23日:動物園の飼育員さん ** 7月24日:電車の運転手さん ** 7月25日:お花屋さん ** 7月26日:消防士さん ** 7月27日:お菓子職人 2007年冬特集 * 12月20日 - 12月21日 ** 12月20日:ふゆっていいな、むすんでひらいて、おひさまクリーム、おしりフリフリ、雪だるまのたいそう ** 12月21日:やぎさん郵便ランキング、ぼくときみ、ロックンロールパン 2008年春特集 * 3月24日 - 3月28日「コンサート特集」 ** 3月24日:ファミリーコンサート未公開 ** 3月25日:名古屋公演、仙台公演、長野公演 ** 3月26日:山口県周南公演、北海道旭川公演、鹿児島公演、千葉県松戸公演 ** 3月27日:大阪公演、さいたま公演 ** 3月28日:佐世保公演、奈良公演、新旧引継ぎ 2008年夏特集 * 7月17日 - 7月26日「夏うた特集」 ** 7月17日:忍者特集 ** 7月18日:たぬき特集 ** 7月19日:たいけつはりきってゲーム(たいそう系)特集 ** 7月21日:夏うた特集 ** 7月22日:うみ特集 ** 7月23日:うみ特集(浦島太郎) ** 7月24日:イルカ特集 ** 7月25日:カレー特集 ** 7月26日:たんけん特集 2008年冬特集 * 12月18日 - 12月19日「スプーと話そう」 ** 12月18日:ひぐらしやまのふしぎなかさ、おてんきじどうはんばいき、うたうぼうし、たまごまごまご ** 12月19日:おおきなくちあけて、さいしゅうれっしゃのあとで、ゆき、ふゆのプレゼント 2009年春特集 * 3月26日 - 3月28日「月歌特集」 ** 3月26日:はじめてはじめまして、フ〜ララ ホアロハ ラ〜、まんまるスマイル ** 3月27日:ながぐっちゃん!!、魔法のピンク、あっちこっちマーチ、ドンスカパンパンおうえんだん ** 3月28日:青い空を見あげて、ちきゅうにおえかき、ぐ〜チョコランタンラスト<ref group="注釈">「ぐ〜チョコランタン」自体の最終話は3月19日に放送。この日は2008年夏に放送された長編が再放送された。</ref>、スプーからの手紙、ゆめいっぱい、モノランモノランPV **:3月28日放送回の編成については[[ぐ〜チョコランタン#備考|こちら]]も参照。[[モノランモノラン]]PVはエンドクレジット(「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」ロゴの最終使用)の直後に放送。 2009年夏特集 * 7月16日 - 7月18日「モノランモノランとあそぼ」(たいそうは4人全員でのクリップ、ダンスはモノランモノランが日替わり) ** 7月16日:おはながわらった、はしるよはしる、ゴリラのおんがくかい、おなかのへるうた、アップルパイひとつ ** 7月17日:キラキラ夏、タコクロナイズドスイミング、むしとりあそび、手のひらを太陽に、虹色かき氷 ** 7月18日:わっしょい、きんぎょのひるね、わ!綿アメ、月夜のポンチャラリン、おまつりすんだはらっぱに * 7月20日 - 7月24日「50周年特集」 ** 7月20日:50周年を映像で振り返る(歴代の歌のおにいさん、おねえさん&人形劇) ** 7月21日:たいそう特集&イチジョウマン(ゲスト:[[佐藤弘道]]) ** 7月22日:ゲストのおにいさんおねえさんが作ったうた特集&エンディング当時と現在(ゲスト:[[かしわ哲]]、[[林アキラ]]、[[しゅうさえこ]]) ** 7月23日:ダンス特集&あそびだいすき!特集(ゲスト:[[きよこ]]) ** 7月24日:昔から歌い継がれているうた特集&ゲストのおにいさんが作ったうた特集(ゲスト:[[坂田おさむ]]、[[森みゆき]]) 2009年冬特集 * 12月17日 - 12月18日 ** 12月17日:チキンダンス、シンデレラのスープ、おかしなおかしなカーニバル、やまびこごっこ、あわてんぼうのサンタクロース、赤鼻のトナカイ、ジングルベル(ゲスト:[[ひなたおさむ]]、[[かまだみき]]、[[恵畑ゆう]]) ** 12月18日:ド!ド!ド!ドラゴン、魔法のピンク、ながぐっちゃん!!、夢の中のダンス、アルゴリズムたいそう〜おかあさんといっしょの歴代のお兄さんとお姉さんと一緒〜<ref group="注釈" name=pitagora>同局で放送されている『[[ピタゴラスイッチ]]』とのコレボレーション企画であり、後に本家『ピタゴラ』の方でも放送された。</ref>(ゲスト:[[いつもここから]]、[[坂田おさむ]]、[[神崎ゆう子]]、[[速水けんたろう]]、[[茂森あゆみ]]、[[杉田あきひろ]]、[[つのだりょうこ]]) 2010年春特集 * 3月26日 - 3月27日「月歌特集」(ボロボロロケットに乗って、宇宙を旅するという内容。) ** 3月26日:ボロボロロケット、ド!ド!ド!ドラゴン、ごめんください、めんください。、ほっとけーきはすてき、ママのたからもの ** 3月27日:ぼくらのうた、ひみつのパレード、でんきの子ビリー、ありがとうの花 2010年夏特集 * 7月22日 - 7月24日「あつまれ!土曜日特集」(大阪での地方収録) ** 7月22日:むしとりあそび、バスに乗って公園へ、スルメイカ、ブラブラせいじん、し・し・しのびあし、そよそよの木の上で ** 7月23日:ドン・チュー!、くるくる ヘリコプター、かえるのおやこ、ブラブラせいじん、くる くる くるっ、そよそよの木の上で ** 7月24日:タコクロナイズドスイミング、みんなのせんたくもの、ひっつき もっつき、ブラブラせいじん、ガマン ガマン!、そよそよの木の上で * 7月26日 - 7月30日「はてな探偵社」 ** 7月26日:「牛乳はどうやってできるの?」、歌:モーモーフラダンス ** 7月27日:「象の鼻はなぜ長いの?」、歌:ぞうさん ** 7月28日:「川の始まりはどこから?」、歌:あっちこっちマーチ ** 7月29日:「かまぼこは何でできてるの?」、歌:かわいい魚屋さん ** 7月30日:「どうやったら宇宙飛行士になれるの?」、歌:ボロボロロケット 2010年冬特集 * 12月16日 - 12月18日「あつまれ!土曜日特集」(愛知県名古屋市での地方収録) **12月16日:しゅりけんにんじゃ、ひっつき もっつき、バスにのって・サバンナへ、かおのてんらんかい、おしょうがつ、くりとくり、すずめがサンバ **12月17日:ブラブラせいじん、おすしすしすし、みんなのせんたくもの、やぎさんゆうびんリクエスト、ふたりでひとつ、くりとくり **12月18日:ドン・チュー!、コチョコチョむしのコチョたろう、かえるのおやこ、くりとくり、ぴぴハピー、すりかえかめん * 12月23日 - 12月24日「クリスマススペシャル」 **12月23日:ウインターワンダーランド、おきゃくさまはサンタクロース、冬のないない気のいい王さまのおはなし、ブーツをはいたぞうさん、ハロー 雪だるま、雪だるまのたいそう、くんくんりんりんクリスマス、ふたりのクリスマス **12月24日:ジングル ベル、ドコノコノキノコ、ペチカ、もみの木、きよし この夜☆、ポリーセット - 仔象のダンス、もぐらのおくりもの(朗読)、ひいらぎかざろう、サンタが街にやってくる、おめでとうクリスマス(ゲスト:[[ザッハトルテ (バンド)|ザッハトルテ]]) 2011年春特集 * 3月25日 - 3月26日「月歌特集」(あっぱれ!たまてばこを発展させた内容) ** 3月25日:リンゴントウ、コロンパッ、まほうのとびら、きらきらきらりんみゅーじかる ** 3月26日:くりとくり、そよそよの木の上で、ドコノコノキノコ、ジューキーズこうじちゅう、モノランモノラン最終回<ref group="注釈">最終回放送後、「モノランモノラン」の放送終了告知と主人公3人からの挨拶があった。</ref>、みんなみんなみんな **: 3月26日放送回のエンディングの構成については[[モノランモノラン#備考|こちら]]を参照。 2011年夏特集 *7月28日 - 30日「あつまれ!土曜日」特集(大阪での地方収録) **7月28日:むしとりあそび、くるくるくるっ、コチョコチョむしのコチョたろう、へんしんロボット☆マックス、それがともだち **7月29日:ブラブラせいじん、イェイ イェイ イェイ!、くるくるヘリコプター、げんきタッチ!、それがともだち **7月30日:タコクロナイズドスイミング、かえるのおやこ、おすしすしすし、すりかえかめん、それがともだち *8月1日 - 5日「[[東日本大震災]]、被災地を回る」(たいそうは現地での収録、ダンスはポコポッテイトが日替わり) **8月1日:宮城県南三陸町 歌:ぼよよん行進曲、どんな色がすき、それがともだち **8月2日:青森県八戸市 歌:バナナのおやこ、おしりフリフリ、おふろじゃぶじゃぶ、それがともだち **8月3日:福島県いわき市 歌:てをたたこ、キッチンオーケストラ、それがともだち **8月4日:茨城県鹿嶋市 歌:ドンスカパンパンおうえんだん、はしるよはしる、おかしなおかしのカーニバル、それがともだち **8月5日:岩手県宮古市 歌:おーい!、ありがとうの花、かわいいかくれんぼ、それがともだち 2011年冬特集 *12月15日「さぁクイズなんじゃらほい!」 *12月16日「おえかきブギウギすぺしゃる」 *12月22日 - 23日「年末歌合戦」 **12月22日:ホ!ホ!ホ!、こまったくんとこまったちゃん、いっしょならへいきだよ、げんきおんど、おかしなおかしのカーニバル、ララパの歌、北風小僧の寒太郎、あしたははれる **12月23日:ボログツブギ、おもちゃのチャチャチャ、ふたりはなかよし、雪だるまのたいそう、あわてんぼうのサンタクロース、そらからのプレゼント、おうちにかえろう 2012年春特集 *3月30日 - 31日「まゆおねえさん卒業特集」(宮城・福島・岩手でのアナログ放送による最後の放送分) **3月30日:ファミリーコンサートハイライト(ミニミュージカルと市川ファミリーコンサート未公開映像集) **3月31日:あつまれ!土曜日スペシャル in 名取(宮城県名取市での収録)<ref group="注釈">当初、名取市では2011年度最後のファミリーコンサートが行われる予定だったが、東日本大震災の影響で使用予定であった会場が損壊し、復旧のめどがつかなかったため中止となり、その代用企画としてこの収録が実施された。また、2012年9月22日に1年越しに昨年予定していた会場でのコンサートも開催された。</ref>、みんなだれかがすきになる、まゆおねえさん卒業挨拶、ゴッチャ!(ポコポッテイトのキャラを含む出演者全員) 2012年夏特集 *8月2日 - 4日(再放送:8月16日 - 18日、2013年8月14日 - 16日)「ふしぎなテント」(ナレーション:[[龍田直樹]]、「パント!」はポコポッテイトが日替わり、太字は今月の歌) **8月2日(16日):だんだんだんだん、げんきひゃっぱい、黒ネコダンス(以上ダンス&ジャグリングコーナー)、'''ショキ ショキ チョン'''、のりものだいすき、しゃぼんだまいっぱい(しゃぼんだまコーナー)、ジャバ・ジャバ・ビバ・ドゥー(フィナーレ、ゲスト:[[Power Bomb]]、[[杉山兄弟]]) **8月3日(17日):パントマイムコーナー、'''ショキ ショキ チョン'''、しまうまグルグル、カニダンス、ぞうさん、ブレーメンのおんがくたい(以上影絵コーナー、ゲスト:[[カンジヤマ・マイム]]、[[劇団かかし座]]) **8月4日(18日):シュビ・ドゥビ・パパヤ、五匹のこぶたとチャールストン、ドコノコノキノコ(以上、演奏:ファンファーレ・ロマンギャルド)、'''ショキ ショキ チョン'''、ぼくのミックスジュース、夢のなか(以上、演奏:渋谷毅トリオ)、じっとまったくん(フィナーレ、ゲスト:[[渋谷毅トリオ]]([[渋谷毅]]、[[かわいしのぶ]]、[[藤ノ木みか]])、[[ファンファーレ・ロマンギャルド]]) *8月6日 - 8日(再放送:8月20日 - 22日)「北海道特集」(たいそうは現地での収録で、3日目のみ放送。太字は今月の歌。) **8月6日(20日):ぴかぴかじてんしゃ、風のおはなし、'''ショキ ショキ チョン'''、牛乳節、アイアイアイスクリーム、それがともだち **8月7日(21日):すごいぞ!じゃがいも、歌うピザはいかが?、'''ショキ ショキ チョン'''、おうま、ずんずんあるいて、ハオハオ **8月8日(22日):ふしぎはすてき、のんびり・のびのび、'''ショキ ショキ チョン'''、ほしぞらカーニバル、くじらのバス、アイスクリームのうた、パフ *8月9日(再放送8月23日)・24日「[[ポコポッテイト]]アンコール特集」(歌・体操などのスタジオ部分は、7月までに放送した通常収録のものなどを再構成して放送) **8月9日:「アイスクリーム屋さんごっこ」、「ぽていじま肝試し」 **8月24日:「むしむし大変身」、「ぽていじま夏祭り」<ref group="注釈">本来は8月10日の夕方(朝の放送は、もともと予定されていた高校野球中継放送のため休止)に初回放送される予定だったが、この日夕方に参議院本会議にて社会保障と税の一体改革法案の採決があり、18:00まで高校野球中継を放送する予定だった総合テレビが急遽16:00より臨時ニュースを放送したため、高校野球はEテレに移動して放送し夕方の放送も休止となった。翌週はファミリーコンサート分割放送後再び夏特集再放送が予定されていたため、8月24日に改めて放送された。</ref> 2012年冬特集 *12月20日 - 21日「ぽていじまクイズ さあ、なんじゃらほい」(歌・体操などのスタジオ部分は、11月までに放送した通常収録のものなどを再構成して放送) *12月24日 - 25日「クリスマススペシャル」(「ポコポッテイト」は前年度冬特集の再放送。) **12月24日(〜サンタはいまごろ〜):ジングル ベル、あわてんぼうのサンタクロース、夏のサンタさん、ペチカ、サンタはいまごろ、きらきらのイブ **12月25日(〜すてきなプレゼント〜):クリスマス☆パント!〜クリスマスケーキ〜(パントマイム:上原りさ)、ふゆのプレゼント〜クリスマス体操〜(歌:横山だいすけ、三谷たくみ、体操:小林よしひさ他5名)、「くるみ割り人形」より〜行進曲、花のワルツ〜、そらからのプレゼント、おめでとうクリスマス(歌:ポコポッテイトのキャラクター全員)、クリスマス・ソング☆ また、冬特集ではないが2012年12月31日に『たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル「おかあさんといっしょ」』として、リクエストが多かった過去の放送の中からスタッフが厳選したものを構成した特別番組が放送された。 2013年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(平日の放送時間より2分、土曜日の放送時間より1分長い放送) **歌:まねきネコネコ、はぴねす特急、魔法のピンク(やぎさんゆうびんリクエスト曲) *1月4日 - 5日「お正月特集」 **1月4日:新春!初笑いスペシャル(ゲスト:[[古今亭志ん輔]]、[[志ん輔ショー|ヘビくん、ブタくん]]、[[マギー審司]]) **:日本テレビ系列の長寿番組「[[笑点]]」のパロディ企画を実施。2013年が巳年だった事にちなんで、「志ん輔ショー」より志ん輔(司会を担当)、ヘビくん、ブタくんが約13年ぶりにゲスト出演。この他、マギー審司によるマジックショーが行われた。 **1月5日:ふしぎなふしぎな地球儀(歌:オー・シャンゼリゼ、トロイカ、マクドナルドじいさんかっている、チム・チム・チェリー、エーデルワイス、いえ イェイ!!、それがともだち) 2013年春特集 *3月28日 2012年度ファミリーコンサート全国版ミニミュージカル『南の島で冒険だい!』 *3月29日 - 3月30日「うたの題名でしりとりゲーム」 **3月29日:ちびっこカウボーイ、いちごはいちご、ゴリラのおんがくかい、いっぽんばしこちょこちょ、ちょんまげマーチ、ちきゅうにおえかき、きしゃぽっぽ、ポコポッテイト、とけいのうた **3月30日:ヤッホ・ホー、ホ!ホ!ホ!、ほっとけーきはすてき、きらきら星、新幹線でゴー!ゴ・ゴー!、コロンパッ、ぱわわぷたいそう 2013年夏特集 *7月29日 - 31日「あつまれ!土曜日」スペシャル(愛知県名古屋市での地方収録) **7月29日:むしとりあそび、くるくるヘリコプター、スルメイカ、すきすき!ナットウスキー、ポップンポップコーン、しわしわしわわ **7月30日:タコクロナイズドスイミング、おさんぽペンギン、イェイ イェイ イェイ!、へんしんロボット☆マックス、おふろじゃぶじゃぶ、しわしわしわわ **7月31日:ガマン ガマン、げんきタッチ!、ピンポン、すきすき!ナットウスキー、くじらのとけい、しわしわしわわ *8月1日 - 3日「あつまれ!土曜日」スペシャル(大阪での地方収録) **8月1日:し・し・しのびあし、バスにのって、みんなのせんたくもの、へんしんロボット☆マックス、おつかいありさん、しわしわしわわ **8月2日:ふらふらさばく、コチョコチョむしのコチョたろう、ひっつきもっつき、すきすき!ナットウスキー、プールたいそう、しわしわしわわ **8月3日:しゅりけんにんじゃ、かえるのおやこ、おすしすしすし、へんしんロボット☆マックス、アイスクリームのうた、しわしわしわわ *8月5日 - 9日「はてな探偵社」(2010年以来3年ぶりの放送) **8月5日:「飛行機はどうやって飛ぶの?」、歌:とべ!紙ひこうき **8月6日:「鮪ってどうやってお寿司になるの?」、歌:おすしすしすし **8月7日:「風鈴はどうやって作るの?」、歌:そよそよの木の上で **8月8日:「おすもうさんってどんな人?」、歌:おっとっとのオットセイ **8月9日:「パンはどうやって作るの?」、歌:こねこのパンやさん *8月10日「[[ともだち8にん]]」特集 **歌:ともだち8にん かぞえ歌、ワックンたいそう(歌:ワックン、横山だいすけ、三谷たくみ)、ふしぎなポシェットのタンゴ、トッピィのゆめのいえ(歌:三谷たくみ)、おこってないぜ、マーシャはアイドル、ゴンチャでマンボ!、ヤァヤのものしりラップ、ここにいるよ(歌:横山だいすけ)<ref group="注釈">ボッチ版にはない2番の歌詞が存在する。</ref>、ユルリのゆっくりフラダンス(歌:ユルリ、横山だいすけ、三谷たくみ)、それがともだち 2013年冬特集 *12月23日 - 25日「クリスマススペシャル〜うたうカフェ〜」(「かぞえてんぐ」はスペシャル版を放送) **12月23日:ぱわわぷたいそう、まんまるスマイル、赤鼻のトナカイ、ぼよよん行進曲(ゲスト:[[中西圭三]]) **12月24日:もぐらトンネル、おきゃくさまはサンタクロース、くりとくり〜クリスマスバージョン〜、そらからのプレゼント、おめでとうクリスマス(ゲスト:[[濱田理恵]]) **12月25日:ジングルベル、みんなでクリスマス、にじのむこうに、トロイカ、夢の中のダンス、あしたははれる(ゲスト:[[坂田おさむ]]) 2014年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常の放送時間とは異なり、午前8時10分から8時35分まで放送。) **歌:おめでとうを100回、北風小僧の寒太郎、いえイェイ!!、なすビーナス、ふゆっていいな、魔法のピンク、新幹線でゴー!ゴ・ゴー! *1月4日「やぎさんゆうびん特集」 **歌:ジューキーズこうじちゅう!、ようかいしりとり、おっとっとのオットセイ、ムテ吉 えかきうた、冬の娘リッカロッカ 2014年春特集 *3月21日「ともだち8にんあそびスペシャル」 **歌:公園にいきましょう、ぶんぶんブランコ、ほっぺっぺ、おおきなわがあれば、それがともだち *3月27日「うたの題名でしりとりゲーム」 **歌:キッチンオーケストラ、ラリルレロボット、トマト、どんなかお、おおきなかぶ、ふたりでひとつ、つくっちゃオー!、おもちゃのチャチャチャ 2014年夏特集 *8月4日 - 5日「ともだち8にん特集」 **8月4日:ともだち8にんうたスペシャル(2013年8月10日放送分の再放送) **8月5日:ともだち8にんあそびスペシャル(2014年3月21日放送分に「ともだち8にん」本編を1本追加) *8月6日 - 8日「夏の旅 in 東北」(たいそうは現地での収録) **8月6日:岩手県大船渡市 歌:線路は続くよどこまでも、ヤッホ・ホー **8月7日:宮城県南三陸町 歌:おおきなくちあけて、タコクロナイズドスイミング **8月8日:福島県伊達市 歌:歩けばほらね歌ってる、どんな色がすき *8月11日 - 13日「はてな探偵社(再放送)」(2013年の全5回の中から3回分を再放送。たいそうは「ブンバ・ボーン!」に差し替え。) **8月11日:2013年8月7日放送分(本編)と、2013年8月5日放送分(ポコポッテイト)の再編集。 **8月12日:2013年8月6日放送分(本編、ポコポッテイト共)の再編集。 **8月13日:2013年8月9日放送分(本編)と、2013年8月7日放送分(ポコポッテイト)と、2013年8月5日及び8月8日放送分(どっこいしょ)の再編集。 *8月14日 - 16日「北海道特集(再放送)」(2012年の再放送のためOPはフルバージョン、「ともだち8にん」のOPは旧バージョンという状態で放送。現地収録の「ぱわわぷたいそう」もそのまま放送(3日目のみ)された。また、初放送時と放送時間の長さが変わっているため、新たにアニメや歌を追加して時間調整している) **8月14日:2012年8月6日放送分に、「よわむしモンスターズ」と「もじもじおばけ ばけまつ」を1本ずつと「おかしなおかしのカーニバル」を追加。 **8月15日:2012年8月7日放送分に、「よわむしモンスターズ」と「もじもじおばけ ばけまつ」を1本ずつ追加。 **8月16日:2012年8月8日放送分に、「よわむしモンスターズ」と「もじもじおばけ ばけまつ」を1本ずつ追加。 2014年冬特集 *12月22日「ポコポッテイト冬特集」(「ポコポッテイト」は2014年8月6日〜8月8日放送分を一挙放送。本編は出演者によるトークやスタジオ場面はなく全編コーナーVTR。2015年12月29日に再放送。) **ポコポッテイト〜温泉宿で修行だい!その1〜(ムテ吉、ララパ)、パント!〜雪バージョン〜(上原りさ、ムテ吉)、ポコポッテイト〜温泉宿で修行だい!その2〜(ムテ吉、ララパ)、ちょんまげマーチ(横山だいすけ、ムテ吉、メーコブ)、ポコポッテイト〜温泉宿で修行だい!その3〜(ムテ吉、ララパ)、ふしぎ大自然([[ラーテル]]=ムテ吉のモデル)、デッキブラシロック(ムテ吉、ミーニャ、メーコブ、ララパ) ※VTR編成の都合により三谷たくみと小林よしひさは登場しなかった。 *12月23日 - 12月25日「クリスマス☆ふねのたび」(船長はナーニくん、ポコポッテイトは屋外ロケ) **12月23日:ウィンターワンダーランド、ぼくはキャプテン、あわてんぼうのサンタクロース、歌うクジラ、おお!せんべい(歌:ムテ吉、コーラス:ミーニャ、メーコブ)、ブーツをはいたぞうさん **12月24日:ジングルベル、赤鼻のトナカイ(歌:かぞえてんぐ&三谷たくみ、小林よしひさと上原りさも映像出演)、クリスマス☆パント!〜クリスマスケーキ〜(パントマイム:上原りさ)、きよしこの夜(ハンドベル演奏)、シルバー・ベルズ、ひみつのパレード **12月25日:おめでとうクリスマス、夢の中のダンス、ぼくはひつじのプリンス(歌:メーコブ、演奏:[[NHK交響楽団]])、おうま(歌:メーコブ、演奏:NHK交響楽団)、ブンバ・ボーン!(みんなでいっしょ編)、ザ・クリスマス・ソング☆ 2015年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常の放送時間とは異なり、午前9時25分から9時50分まで放送) **すてきな言葉、パント!〜ロープバージョン〜(上原りさ、ムテ吉)、ハートがいっぱい、パンダ うさぎ コアラ、げんこつやまのたぬきさん、パンパパ・パン、ゴロプポジャカジャカ!、カオカオカ〜オ、ブンバ・ボーン!(みんなでいっしょ編) 2015年春特集 *3月20日「ポコポッテイト特集」(2014年12月23日 - 12月25日放送分を一挙放送。ぽてい島放送局と「ゆかげん いかが?」は新規映像) **おお!せんべい(ムテ吉パート)、(ミーニャパートは、歌なし)、ぼくはひつじのプリンス(メーコブパート)、おうま(メーコブパート)、ゆかげん いかが? *3月23日 - 25日「あつまれ!土曜日」スペシャル(愛知県名古屋市での地方収録) **3月23日:ドン・チュー!、おすしすしすし、げんきタッチ!、ショキ ショキ チョン、ふたりでひとつ、パパの背広 **3月24日:し・し・しのびあし、おさんぽペンギン、たからさがし、キッチンオーケストラ、にじ・そら・ほし・せかい、メリーさんのひつじ **3月25日:ブラブラせいじん、いちごろりん りんごろりん、バスにのって・サバンナへ、クレヨンロケット、かんづめあけたら、またあそぼ *3月26日「うたの題名でしりとりゲーム」(再放送:5月16日) **歌:みつばちはどこへ、へんしんロボット☆マックス、すうじのうた、たのしいね、ねことめだか、カレーライスのうた(ポコポッテイトVer.)、たからものみつけた、タンポポ団にはいろう!! 2015年夏特集 *8月10日 - 12日「ミニコンサート」(たいそうと「パント!」は現地収録。他に通常は土曜日に放送されているアニメーションコーナー(「ともだち8にん」、「もじもじおばけ ばけまつ」(1日目のみ))を放送) **8月10日:お〜い!、パンダ うさぎ コアラ、グー チョキ パーでなにつくろう、バスにのって、パンパパ・パン、おひさまーち(会場:[[あいち小児保健医療総合センター]]) **8月11日:ヤッホ・ホー、こぶたぬきつねこ、むすんでひらいて、どんな色がすき、あ・い・う・え・おにぎり、ドンスカパンパンおうえんだん、ありがとうの花(会場:[[自治医科大学 とちぎ子ども医療センター]]) **8月12日:こんにちは、いぬのおまわりさん、おもちゃのチャチャチャ、カラスのかっくん、おおきなくちあけて、新幹線でゴー!ゴ・ゴー!、魔法のピンク(会場:[[静岡県立子ども病院]]) *8月13日 - 15日「やぎさんゆうびんスペシャル」(たいそうコーナー「ビーチでブンバ・ボーン!」も放送) **8月13日:あの子をさそって海へ行こう、タコクロナイズドスイミング、歌うクジラ、ようかいしりとり、じゃくじゃくあまのじゃく **8月14日:南の島でフーラフラ、モラモラマンボウ、すずめがサンバ、さるさるさ **8月15日:アイアイアイスクリーム、しまうまグルグル、地球ぴょんぴょん *8月17日 - 22日「動物園」(たいそうコーナー「ブンバ・ボーン!」に登場する動物の生態をクイズ形式で紹介。「ブンバ・ボーン!」も通常通り実施。「パント!」はポコポッテイトが日替わり。また、現在放送中のものや過去の曜日別コーナー、アニメーションコーナーなどもある。) **8月17日:トカゲ(グリーンイグアナ ロケ地:[[長崎バイオパーク]]) **8月18日:パンダ(ロケ地:[[上野動物園]]) **8月19日:アルパカ(ロケ地:[[マザー牧場]]) **8月20日:オカピ(ロケ地:[[よこはま動物園ズーラシア]]) **8月21日:ミーアキャット(ロケ地:長崎バイオパーク) **8月22日:フラミンゴ(ロケ地:長崎バイオパーク) 2015年冬特集 *12月21日 - 22日、26日「あつまれ!土曜日」スペシャル(沖縄での地方収録) **12月21日:すきすき!ナットウスキー、コチョコチョむしのコチョたろう、たからさがし、クレヨンロケット、黒ネコダンス、あかいとりことり **12月22日:ガマン ガマン、げんきタッチ!、おすしすしすし、どんがらどんどんどらやき!、おかあさん、なまムギ なまゴメ なまタマゴ **12月26日:へんしんロボット☆マックス、ひっつき もっつき、くる くる くるっ、ふたりでひとつ、ぐいーん・ぱっ!、あっちっちのフライパン *12月23日 - 25日「クリスマススペシャル」ゲスト:[[コング桑田]] **12月23日:ふゆのプレゼント(1コーラスハーフ)、パンツがツンパ、わらの中の七面鳥、ゆりかごのうた、あわてんぼうのサンタクロース、なんだっけ?! **12月24日:おおきくなるなるたいそう(歌:横山だいすけ、三谷たくみ)、げんきひゃっぱい、し・し・しのびあし、夏のサンタさん、雪だるまのたいそう、白いいき、カオカオカ〜オ、サンタクロースがやってくる **12月25日:おめでとうクリスマス、赤鼻のトナカイ(歌:コング桑田、三谷たくみ)、かぞえてんぐ、かぞえてんぐスペシャル、パント!〜雪バージョン〜、そらからのプレゼント、ブンバ・ボーン!(エンディングとして使用、終盤で[[スタッフロール]]が流れる) 2016年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常の放送時間とは異なり、午前9時6分から9時36分まで放送) **歌:まねきネコネコ、パント!〜ロボットバージョン〜、ゆきだるまのルー、いえ イェイ!!、もちつきペッタン、お猿と鏡、ホ!ホ!ホ!、ブンバ・ボーン!(みんなでいっしょ編) 2016年春特集 *3月21日 - 24日「ポコポッテイト」特集(「ぽていじま放送局」と題し、全編VTR映像で構成、過去の話や歌をテーマ別に再放送。「パント!」はポコポッテイトのメンバーが日替わり、「ふしぎ大自然」はポコポッテイトのキャラクターのモデル動物。お兄さん・お姉さんの出番は基本的に「パント!」と「ブンバ・ボーン!」のみ。午後の再放送は21日を除いて[[第88回選抜高等学校野球大会]]の中継のため休止し、朝のみの放送。) **3月21日 テーマ「はじめて」(この日のみ選抜高校野球中継が予定より早く終了したため、夕方にも放送) **3月22日 テーマ「ぽていじまのはるなつあきふゆ」 **3月23日 テーマ「へんしん」 **3月24日 テーマ「ともだち」(この日は「パント!」無し、最後に4日分の[[スタッフロール]]とエピローグが流れる。) *3月25日 - 26日「ともだち8にん」特集(3月25日のみ午後の再放送は選抜高校野球の中継のため休止) **3月25日:ともだち8にんうたスペシャル(2013年8月10日放送分の再々放送) **3月26日:ともだち8にんあそびスペシャル(2014年3月21日放送分に「ともだち8にん」本編を1本追加。2014年8月5日放送分の再放送) *3月28日 - 4月2日 たくみおねえさん&「ポコポッテイト」卒業特集 **3月28日 - 3月30日:基本的に通常放送と同じだが、ビデオクリップの歌は一部を除き[[三谷たくみ]]の就任時期(2008年度 - 2015年度)に放送された今月の歌より選曲。ポコポッテイトのオープニングは通常とは異なり特集用のバージョン(短縮版)となっている。 **3月31日:ポコポッテイト最終回、新旧うたのおねえさん引継ぎ、ありがとうの花 **:3月31日放送回の編成については[[ポコポッテイト#放送終了とその後|こちら]]も参照。 **4月1日:ファミリーコンサートからミニミュージカル『もりのランランレストラン』 **4月2日:ファミリーコンサート(石川県金沢市・[[本多の森ホール]]で3月12日に行われた、三谷とポコポッテイトのレギュラー時代最後のファミリーコンサート。) 2016年夏特集 *8月1日 - 5日「ガラピコぷ〜と歌おう!」(「パント!」はガラピコぷ〜が日替わり、たいそうは特集用の映像。) **8月1日:ヤッホ・ホー **8月2日:おしりふりふり、やぎさんゆうびん **8月3日:げんき・元気、おどりのすきなウンパッパ、くものしま **8月4日:アイアイ、ホ!ホ!ホ! **8月5日:おおきなかぶ *8月15日 - 20日「はてな探偵社」(2013年以来3年ぶりの放送。) **8月15日:「ハチミツってどうやってとれるの?」、歌:ぶん ぶん ぶん **8月16日:「大きなシャボン玉はどうやって作るの?」、歌:しゃぼんだま **8月17日:「お豆腐はどうやってできるの?」、歌:そーっと・そっと **8月18日:「どうしたら消防士さんになれるの?」、歌:ドンスカパンパンおうえんだん **8月19日:「人のお手伝いをする犬っているの?」、歌:いぬのおまわりさん **8月20日:「イルカは魚なの?」、歌:イカイカ イルカ 2016年冬特集 *12月19日 - 21日「沖縄スペシャル」(沖縄県での地方収録) **12月19日:はしるよ はしる、コチョコチョむしのコチョたろう、イエイ イエイ イエイ!、イカイカイルカ、おおきなかぶ、どうしてしらんぷり、くじらのとけい **12月20日:くるくるくるっ、コチョコチョむしのコチョたろう、バスにのって、しゃぼんだまいっぱい、ホ!ホ!ホ!、バンジョーのジョー、ぴぴハピー **12月21日:ブラブラせいじん、コチョコチョむしのコチョたろう、ピンポン、おしりフリフリ、虹の色とお星さま、夏のサンタさん、かにのおじさん *12月22日「ガラピコぷ〜歌スペシャル」 **歌:ガラピコぷ〜のテーマ、チョロミーの歌、ワクワクがとまらない、ムームーの歌、ガラピコの歌、ガラピコサイズ、ビューティフル賛歌、グースー急便の社歌、ショーバイハンジョー、ときめきダンサー、ホシノキのテーマ *12月23日 - 24日「クリスマススペシャル」 **12月23日:くんくんりんりんクリスマス、おかしなおかしのカーニバル、つくっちゃオー!、シルバー・ベルズ、いちごはいちご、モグモグほっぺ、ドロップスのうた **12月24日:リンゴントウ、ジングルベル、おめでとうクリスマス、ゆきだるまのルー、ちいさなキタキツネ、やぎさんゆうびん、パパの背広 2016年年末特集 *12月30日「ファミリーコンサート未公開映像特集」 **歌:パフ、ぼくときみ(以上、松戸公演)、銀ちゃんのラブレター、ツッピンとびうお、わらうおばけ(以上、北見公演)、くる くる くるっ、たのしいね、くものしま(以上、和歌山公演)、おもちゃのチャチャチャ、なんでもあらいぐま(以上、松山公演)、ブンバ・ボーン! 2017年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常の放送時間とは異なり、午前8時20分から8時45分まで放送。また、日曜日に放送。) **歌:まねきネコネコ、おしゃれフルーツ、しゅりけんにんじゃ、おにのパンツ、なんだっけ!?、チキンダンス、ブンバ・ボーン! 2017年春特集 *3月27日 - 28日「春のうた特集」(たいそうは特集用の映像だが、1日目と2日目で映像が異なっている。) **3月27日:はるかぜ電話、ぴぴハピー、おしりフリフリ、シェイク シェイク げんき!、赤鬼と青鬼のタンゴ、おおきなかぶ、くじらのとけい、みんなみんなみんな、ブンバ・ボーン! **3月28日:ニャニュニョのてんきよほう、ぼくはキャプテン、菜の花畑で思い出す、ドロップスのうた、たこやきなんぼマンボ、ブンバ・ボーン!、かぞえてんぐがやってきた、すうじのうた、やくそくハーイ! *3月29日 - 4月1日「ファミリーコンサート未公開映像&だいすけおにいさん卒業特集」 **3月29日:大きな栗の木の下で、ピンポン、シュビ・ドゥビ・パパヤ、ちきゅうにおえかき(以上刈谷公演)、ドンスカパンパンおうえんだん、コチョコチョむしのコチョたろう、ぴかぴかマーチ、ふゆっていいな、あわてんぼうのサンタクロース(以上大阪公演)、いとまき、ブラブラせいじん、ともタッチの歌、ぼよよん行進曲(以上仙台公演) **3月30日:歩いて行こう、虹の色とお星さま、おにのパンツ(以上足利公演)、リンゴントウ、パンパパ・パン、バスにのって(以上福岡公演)、むすんでひらいて、くる くる くるっ、夢のなか、新幹線でゴー!ゴゴ-!(以上函館公演)、新旧うたのおにいさん引継ぎ、にじのむこうに **3月31日:ファミリーコンサートからミニミュージカル『天才よしナルド・大ピンチ!』 **4月1日:ファミリーコンサート(島根県益田市・[[島根県芸術文化センター グラントワ]]で3月11日に行われた、横山のレギュラー時代最後のファミリーコンサート。) 2017年夏特集 *7月31日 - 8月4日「夏だ!ガラピコぷ〜とあそぼう」(たいそうは特集用の映像、「パント!」は「ガラピコぷ〜」が日替わり、曜日別コーナーは過去の再放送、アニメーションコーナーは「パクシ」、ふしぎ大自然はごりらの映像、エンディングはフルバージョン。) **7月31日:はしるよ はしる、ガマン ガマン!、バナナのおやこ、パクシのうた **8月1日:ドンスカパンパンおうえんだん、あ・い・う・え・おにぎり、どんがらどんどんどらやき!、ぞうさん **8月2日:チョロミーのばっちりダンス、だんご3兄弟、ひげをはやしたい **8月3日:へんしんロボット☆マックス、すごいぞ!じゃがいも、ちょんまげマーチ、やぎさんゆうびん **8月4日:どっこいしょ、トマト、ドロップスのうた、下の前歯がぬけちゃった、すうじのうた(やぎさんゆうびんリクエスト曲) *8月14日 - 8月19日「山の家のなつやすみ」(たいそうは特集用の映像、アニメーションコーナーは「パクシ」、エンディングはフルバージョン。) **8月14日:シュビ・ドゥビ・パパヤ、キラキラ夏、夏のサンタさん、やまびこごっこ、たこやきなんぼマンボ、くものしま **8月15日:あの子をさそって海へ行こう、歌うクジラ、モラモラマンボウ、かにのおじさん、ちいさなおふね **8月16日:むしとりあそび、かえるのがっしょう、山の音楽家、ほしぞらカーニバル、ぴぴハピー(やぎさんゆうびんリクエスト曲) **8月17日:サラダでラップ、アイスクリームのうた、カレーライスのうた、おばけなんてないさ、おもちゃのブルース **8月18日:げんき・元気、おひるねしましょう、ゆりかごのうた、どこでねるの **8月19日:タコクロナイズドスイミング、やまのワルツ、おうちにかえろう 2017年冬特集 *12月18日 - 20日「鳥取スペシャル」(鳥取県での地方収録) **12月18日:はしるよ はしる、バスにのって、イエイ イエイ イエイ!、ドロップスのうた、大きな古時計、ジューキーズこうじちゅう! **12月19日:コチョコチョむしのコチョたろう、バスにのって、おすしすしすし、すごいぞ!じゃがいも、たこやきなんぼマンボ **12月20日:くるくるくるっ、バスにのって、くるくるヘリコプター、ジャングルポケット、ドンスカパンパンおうえんだん *12月21日 - 23日「たんけん ふしぎなびじゅつかん」(シルエットはかせが3日間通して登場、体操は特集用の映像、エンディングはフルバージョン。) **12月21日:ふしぎはすてき、ゆきふるるん、かげはともだち シルエットはかせのうた、夏のサンタさん **12月22日:黒ネコダンス、おおきなくちあけて、地球ぴょんぴょん、かげはともだち シルエットはかせのうた **12月23日:ふたごのタンゴ、サンタはいまごろ、かげはともだち シルエットはかせのうた 2017年年末特集 *12月30日「ファミリーコンサートハイライト特集」 **歌:とり、くものしま(以上、桐生公演)、あめのひドキドキ、きょうはえんそく、おしゃれフルーツ(以上、橿原公演)、大きな栗の木の下で、ぱんぱかぱんぱんぱーん、銀ちゃんのラブレター(以上、帯広公演)、コチョコチョむしのコチョたろう、にんじゃ きりん、虹の色とお星さま(以上、福島公演)、べるがなる(フルバージョン) 2018年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常よりも1分長い放送。) **歌:まねきネコネコ、もちつきペッタン、おまめ戦隊ビビンビ〜ン、なんだっけ?!(桃太郎編)、ちょんまげマーチ、ブンバ・ボーン!、おめでとうを100回 2018年春特集 *3月26日 - 27日「朗読&ロケ特集」(体操は特集用の映像、エンディングはフルバージョン。ゲスト:いつもここから) **3月26日:おかあさんといっしょの「にんじん だいこん ごぼう」〜日本の昔話より〜、おしゃれなやさい、おおきなかぶ、おまめ戦隊ビビンビ〜ン、アルゴリスムたいそう<ref group="注釈" name=pitagora/>、あそべんちゃー(魔法の糊)、ふしぎ大自然(ごりら)、ブンバ・ボーン!、べるがなる(フルバージョン) **3月27日:はるねこ、はるのかぜ、とり、ほしぞらカーニバル、アルゴリズムこうしん<ref group="注釈" name=pitagora/>、あそべんちゃー(スカーフ)、ふしぎ大自然(てんとうむし)、ブンバ・ボーン!、べるがなる(フルバージョン) *3月28日 - 30日「ファミリーコンサートハイライト特集」 **3月28日:いぬのおまわりさん、くる くる くるっ、オカリナのリーナ、ともタッチの歌、ぼよよん行進曲(以上、高知公演)、いとまき、バスにのって、たのしいね、ほしぞらカーニバル(以上、津公演)、おにのパンツ、げんきタッチ!、ゆきだるまのルー、ふゆのあいだ(以上、秋田公演) **3月29日:コチョコチョむしのコチョたろう、おまめ戦隊ビビンビ〜ン、歩いて行こう、じっとまったくん、きみのこえ、あわてんぼうのサンタクロース(以上、大阪公演)、おべんとうばこ、ブラブラせいじん、もくもくふゆーん、ぴかぴかマーチ、ふしぎはすてき(以上、宇佐公演) **3月30日:あめふりりんちゃん、おはよう!(以上、福山公演)、ミニミュージカル『お菓子の家のおかしなひみつ』歌:シンデレラのスープ、まほうのくつ、魔法のピンク 2018年夏特集 *7月30日 - 8月3日「ガラピコぷ〜とお祭りにいこう」(たいそうは夏祭りバージョン。) **7月30日:こんやこんにゃく、たこやきなんぼマンボ、おかしなおかしのカーニバル **7月31日:クシカツはいっぽん、バナナのおやこ、トマト、モグモグほっぺ **8月1日:かっぱなにさま!かっぱさま?、おまめ戦隊ビビンビ〜ン、だんご3兄弟 **8月2日:わらうおばけ、ようかいしりとり **8月3日:ぼよよん行進曲 -ロングバージョン-、おおきなたいこ *8月13日 - 8月18日「おにいさんおねえさん夏の挑戦」(全編、沖縄ロケ。たいそうは特集用の映像) **8月13日:シュビ・ドゥビ・パパヤ、おおきなくちあけて **8月14日:唐船(とうしん)ドーイ、モウモウフラダンス **8月15日:赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)、コチョコチョむしのコチョたろう **8月16日:おんまはみんな、ツッピンとびうお、やぎさんゆうびん **8月17日:たんけんたいマーチ、しゃぼんだまいっぱい、あさごはんマーチ **8月18日:みなみのしまのこどもたち、とり、かにのおじさん 2018年冬特集 *12月24日 - 26日「ねがいかなえーる社」(たいそうはこの特集のために撮影された映像。) **12月24日:サンタはいまごろ、かたっぽちゃんとかたっぽちゃん、えんとつをつくろう、ひげをはやしたい **12月25日:ジングルベル、プリンセスミミィのワルツ、シルバー・ベルズ、おめでとうクリスマス **12月26日:ハロー雪だるま、まねきネコネコ、ひみつのパレード、ウィンターワンダーランド 2018年年末特集 *12月29日「ファミリーコンサートハイライト特集」 **歌:コチョコチョむしのコチョたろう、バスにのって、みなみのしまのこどもたち、ゾクゾクうんどうかい(以上、那須塩原公演)、げんきタッチ、くるくるくるっ、あさごはんマーチ、ありがとうの花(以上、北九州公演)、てをたたこ、うみ、ひっつきもっつき、ぱんぱかぱんぱんぱーん、おめでとうを100回(以上、富山公演) 2019年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(通常よりも1分長い放送。) **歌:おはよう!、世界中パレード、ゆきだるまのルー、ブンバ・ボーン!、カオカオカ〜オ 2019年春特集 *3月25日 - 27日「おうちであそべんちゃー」&「すりかえ仮面スペシャル」(すりかえ仮面が、3日間通しで登場。たいそうは特集用の映像だが、3日間違う映像が放送された。「でかけよう!」(月曜のみ)と、「パント!」(火曜、水曜)も、特集用映像。「きょうのびっくりしんぶん」は、3日間通して放送。エンディングは、フルバージョン。) **3月25日:おうちであそべんちゃー(うちわ&新聞紙)、ガラピコぷ〜、すりかえ仮面スペシャル(1)、でかけよう!、ゾクゾクうんどうかい、きょうのびっくりしんぶん、ふしぎ大自然(パンダ)、ブンバ・ボーン!(宇宙バージョン)、べるがなる(フルバージョン) **3月26日:おうちであそべんちゃー(クッション&タオル)、ガラピコぷ〜、すりかえ仮面スペシャル(2)、パント!(タオル(ムームー))、おまめ戦隊ビビンビ〜ン、きょうのびっくりしんぶん、ふしぎ大自然(てんじくだい)、ブンバ・ボーン!(沖縄バージョン)、べるがなる(フルバージョン) **3月27日:おうちであそべんちゃー(しんぶんバランスゲーム&タオルおかたづけリレー)、ガラピコぷ〜、すりかえ仮面スペシャル(3)、パント!(ロープ(ガラピコ))、きょうのびっくりしんぶん、ふしぎ大自然(トカゲ)、ブンバ・ボーン!(夏祭りバージョン)、べるがなる(フルバージョン) *3月28日 - 29日「ファミリーコンサート未公開映像&よしおにいさん、りさおねえさん卒業特集」 **3月28日:おひるねしましょう、ぼよよん行進曲 -ロングバージョン-、(以上、鳥取公演)、ぱんぱかぱんぱんぱーん(以上、大阪公演)、赤鬼と青鬼のタンゴ(以上、蒲郡公演)、なかよしありがとう、ほしぞらカーニバル(以上、伊那公演)、すてきな言葉、ゆきだるまのルー(以上、奥州公演)、おはよう!(以上、舞鶴公演)、メダルあげます(以上、高松公演) **3月29日:ミニミュージカル『さかさま団がやってきた!』、新旧たいそうのおにいさん・おねえさん引継ぎ、ブンバ・ボーン!(後任の福尾と秋元を含む出演者全員。) **3月30日:ファミリーコンサート(北海道旭川市・[[旭川市民文化会館]] 大ホールで3月9日に行われた、小林と上原のレギュラー時代最後のファミリーコンサート。) 2019年夏特集 *7月29日 - 8月2日「ようこそ!ふしぎホテルへ」(羊の声:[[玄田哲章]]、体操は特集用の映像。エンディングは、フルバージョン(撮り直し版)。) **7月29日:ジャバ・ジャバ・ビバ・ドゥー、バナナのおやこ、うみ、ツッピンとびうお、ミライクルクル **7月30日:ラリルレロボット、おもちゃのチャチャチャ、ジャングルポケット、かたっぽちゃんとかたっぽちゃん、おさんぽマーチ **7月31日:ごめんください、めんください。、たこやきなんぼマンボ、あ・い・う・え・おにぎり、カレーライスのうた、トマト、はらぺこカマキリ **8月1日:月夜のポンチャラリン、月のうさぎルーニー、たぬきのレストラン、こぶたぬきつねこ、ワン・ツー・スリー! **8月2日:まほうのとびら、いっしょにつくったら、はしるよはしる、ゆめのかけら *8月12日 - 17日「60年スペシャル」(進行・ナレーション:かめけん<ref group="注釈">『おかあさんといっしょ』が大好きなカメのキャラクターで、若く見えるが年齢は3500歳。自身が所有する様々な玉手箱を開け、番組の歴史を紹介した。なお、番組内ではお兄さん・お姉さんとは現役・歴代どちらとも直接対面していない。</ref>(演:[[浜野謙太]])、オープニングはフルバージョンで過去のOP映像などを追加した特別仕様、エンディングもフルバージョンで最終日(17日)のみ放送) **8月12日:うたのおねえさん特集(ゲスト:[[しゅうさえこ]]、[[森みゆき]]、[[つのだりょうこ]]、[[はいだしょうこ]]、うた:ホ!ホ!ホ!、アイスクリームのうた、リクエスト:にじのむこうに) **8月13日:うたのおにいさん特集(ゲスト:[[かしわ哲]]、[[林アキラ]]、[[今井ゆうぞう]]、[[横山だいすけ]]、うた:ちょんまげマーチ、すずめがサンバ、リクエスト:ぼくのミックスジュース) **8月14日:たいそうのおにいさん特集(ゲスト:[[天野勝弘]]、[[佐藤弘道]]、[[小林よしひさ]]、うた:げんきひゃっぱい、たいそう:ぞうさんのあくび、リクエスト:タンポポ団にはいろう!!) **8月15日:体あそび特集(ゲスト:[[きよこ|タリキヨコ]]<ref group="注釈">現在(『デ・ポン!』のおねえさんを卒業直後に改名)の芸名は「きよこ」だが、この時は現役当時の芸名である「タリキヨコ」名義で出演した。</ref>、[[いとうまゆ]]、[[上原りさ]]、うた:黒ネコダンス、たいそう:ハイ・ポーズ、トライ!トライ!トライ!(新バージョン)、リクエスト:どんな色がすき) **8月16日:人形劇&お便り・リクエスト特集(リクエスト:ぼよよん行進曲、あしたははれる、ありがとうの花、[[だんご3兄弟]]) **8月17日:コーナー特集(ゲスト:かぞえてんぐ(横山だいすけ<ref group="注釈" name=credit>この日はノンクレジット。</ref>)、すりかえかめん(小林よしひさ<ref group="注釈" name=credit/>)、うた:かぞえてんぐがやってきた、かげはともだち)、ふしぎ大自然(田んぼ<ref group="注釈">[[青森県]][[田舎館村]]で番組60周年を記念して作られた、『ガラピコぷ〜』のキャラクターの田んぼアートを撮影した映像。</ref>) 2019年冬特集 *12月23日 - 25日「ふゆスペシャル」(アイちゃんの声:[[古城望]]、体操は特集用の映像、エンディングは、フルバージョン(3日目のみ)。) **12月23日:アイアイ、ほっかほかのほ、ゆき、黒ネコダンス、こねこのパンやさん **12月24日:雪だるまのたいそう、りんごみかんバナナ、すごいぞ!じゃがいも、リンゴントウ、バナナのおやこ **12月25日:あさペラ!、ひいらぎかざろう、赤鼻のトナカイ、おしょうがつ、ゆめのかけら(ゲスト:INSPi) 2019年年末特集 *12月30日「ファミリーコンサート前半ハイライト」 **歌:ミライクルクル、歩いて行こう、ふしぎはすてき(以上、太田公演)、コロンパッ、こぶたぬきつねこ、きみのこえ(以上、松山公演)、ワン・ツー・スリー!、たのしいね、とり(以上、都城公演)、シュビ・ドゥビ・パパヤ、くものしま(以上、福井公演) 2020年年始特集 *1月1日「お正月スペシャル」(普段よりも放送時間を1分拡張。) **歌:ミライクルクル、まねきネコネコ、さびしい殿様、おもちびよーん!、からだ☆ダンダン、おさんぽマーチ 2020年春特集 *3月23日 - 25日「しりとりれっしゃスペシャル」(「しりとりれっしゃ」が3日間通して放送され、この春特集をもって終了。「あ・そ・ぎゅ〜」は特集用映像。「へんてこライオン」は3日間通して放送。たいそうは2019年夏特集放送分と同じ映像が、3日間内容を変えて放送された。エンディングはフルバージョン。) **3月23日:だんご3兄弟、すごいぞ!じゃがいも、あ・そ・ぎゅ〜(宝探し)、おすしすしすし **3月24日:ツッピンとびうお、やぎさんゆうびん、くじらのとけい、あ・そ・ぎゅ〜(宇宙旅行)、かえるのおやこ **3月25日:こぶたぬきつねこ、たぬきのレストラン、黒ネコダンス、オーストラリアのどうぶつファミリー、あ・そ・ぎゅ〜(動物園)、おさんぽペンギン *3月26日 - 28日「ファミリーコンサート特集」 **3月26日:おさんぽマーチ(以上、松山公演)、はらぺこカマキリ(以上、福井公演)、線路は続くよどこまでも、げんき・元気、たいこムーン(以上、鳥栖公演)、バナナのおやこ(以上、山口公演)、あさペラ!、ウインター・ワンダーランド、赤鼻のトナカイ、ジングルベル(以上、大阪公演) **3月27日:ぱんぱかぱんぱんぱーん<ref group="注釈">花田ゆういちろうと小野あつこによる歌唱。</ref>、デビル・ビビる・ガンバる!(以上、鳥栖公演)、ぴかぴかマーチ、シェイク シェイク げんき!(以上、大阪公演)、てをたたこ、きょうはえんそく、ぼよよん行進曲 -ロングバージョン-(以上、仙台公演)、ぱんぱかぱんぱんぱーん<ref group="注釈">ガラピコぷ〜の3人による歌唱。</ref>、いっしょにつくったら(以上、横浜公演)、ちょんまげマーチ、あしたははれる(以上、山口公演) **3月28日<ref group="注釈">この日は3月のファミリーコンサート釧路公演を放送する予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大防止を考慮して公演が中止となった。同様の理由で中止となった2月・3月の豊田公演は3月21日に放送予定だった(代替放送は、2017年度と2018年度のファミリーコンサート特集)。</ref>:やさしいうた(以上、太田公演)、キッチンオーケストラ(以上、都城公演)、ミニミュージカル『がんばれ!ピザやさん』 2020年夏特集 *8月17日 - 22日「歌のおはなし」<ref group="注釈">奇数日はお兄さん・お姉さん、偶数日はガラピコぷ〜の3人によるミニミュージカル。奇数日は「ガラピコぷ〜」1話を追加して、偶数日は歌のクリップ映像を増やして放送した。</ref>&「そうぞうのへやスペシャル」(「そうぞうのへや」は、17日と22日に視聴者から寄せられた作品を紹介、18日-21日に日替わりコーナーのキャラクターが登場。「へんてこライオン」、8月の歌「ブー!スカ・パーティー!」、たいそう「すわって からだ☆ダンダン」は、いずれも6日間通して放送。) **8月17日:おかしなおかしのカーニバル、にじのいろとおほしさま **8月18日:南の島のハメハメハ大王、バナナのおやこ、ハオハオ、ママ・ムーチョ、こぶたぬきつねこ、「そうぞうのへや」青忍者 **8月19日:おつかいありさん、はらぺこカマキリ、おおきなたいこ、「そうぞうのへや」プリンセス・ミミィ **8月20日:ふたごのタンゴ、ワン・ツー・スリー!、さびしい殿様、ふしぎはすてき、ドロップスのうた、「そうぞうのへや」シルエットはかせ **8月21日:こねこのパンやさん、モグモグほっぺ、「そうぞうのへや」赤忍者 **8月22日:ともだち、じっとまったくん、カレーライスのうた、たからものみつけた *8月24日 - 29日 基本的に通常放送と同じだが、オープニング直後のスタジオの歌を休止して「ナーニくんマジックショー」を、日替わりコーナーを休止して「パクシ」(4K修復版)を、いずれも6日間通して放送した。 2020年秋特集 先述通りスタジオでの子供の参加が見合わせになったため、秋にも特別版が放送された。 *11月2日 - 7日「おまめ戦隊スペシャル」(「おまめ戦隊ビビンビ〜ン」のコスチューム姿のお兄さん・お姉さんが登場。11月の歌「あげあげドーナツ」、「パクシ」は、いずれも6日間通して放送。体操は2日のみ「すわって からだ☆ダンダン」、以降特集用の映像。エンディングはフルバージョン。) **11月2日:おまめ戦隊ビビンビ〜ン、すきすき!ナットウスキー、だんご3兄弟、パフ **11月3日:どんぐりころころ、まつぼっくり、銀ちゃんのラブレター、五匹の子ぶたとチャールストン、オーストラリアのどうぶつファミリー **11月4日:あ・い・う・え・おにぎり、あさごはんマーチ、あきがあっきた、アップルパイひとつ、あかいとりことり **11月5日:すてきなことば<ref group="注釈">花田ゆういちろうによるピアノ弾き語り</ref>、もみじ、きみイロ、おしゃれフルーツ **11月6日:おまめ戦隊ビビンビ〜ン、やきいもグーチーパー、すごいぞ!じゃがいも、おしゃれなやさい、ごめんください、めんください。 **11月7日:おまめ体操<ref group="注釈">花田ゆういちろうと小野あつこによるピアノ伴奏</ref>、あ・そ・ぎゅー(乗り物)、おさんぽペンギン、きみといっしょにいると 2020年冬特集 *12月21日 - 22日「からだスペシャル」(体を使ったクイズ、遊び、歌が主な内容。「かおたいそう」、視聴者からの「そうぞうのへや」作品紹介、体操「みんなで からだ☆ダンダン」は、いずれも両日通して放送。エンディングは22日のみ、フルバージョン。) **12月21日:おしりフリフリ、てとてとパタン **12月22日:はしるよはしる、ひげをはやしたい *12月23日 - 25日「ふゆスペシャル」(2019年放送分の再放送) *12月26日 「スタジオライブ(風)」 *12月27日 「プリンセス・ミミィと音の城」(16:30-17:00) **歌:プリンセス・ミミィのワルツ、おんまはみんな、かえるのがっしょう、もぐらトンネル、からだ☆ダンダン、ホ!ホ!ホ!、はじめてのワルツ、シュビ・デュビ・パパヤ、あげあげドーナツ 2022年春特集 *3月28日 - 3月30日 「ラララほうそうきょく」(歌の特集が主な内容。『ガラピコぷ〜』は最終章として連続したエピソードを放送。「あ・そ・ぎゅ〜」と「からだ☆ダンダン」は連日放送、エンディングは30日のみでビデオクリップ版。各日の最後では『ファンターネ!』のPRが挿入され、エンドクレジットもここで表示) ** 3月28日 1歩2歩さんぽ、やまのワルツ、もぐらトンネル、はるのかぜ ** 3月29日 ドラネコロックンロール、トトトのうた、すごいぞ!じゃがいも、トマト ** 3月30日 さびしい殿様、ブー!スカ・パーティー!、ジャバ・ジャバ・ビバ・ドゥー、ガラピコぷ〜最終話 *3月31日:ファミリーコンサート(岩手県・[[岩手県民会館]]で2月26日に行われた、小野とガラピコぷ〜のレギュラー時代最後のファミリーコンサート。) *4月1日:ファミリーコンサートからミニミュージカル『オニと忍者のモモ合戦』(前日には放送されなかった盛岡のファミリーコンサートのカーテンコール部分も放送) *4月2日:スタジオライブ「ともだち」(ビューティフルネーム、まほうのくつ、こんなこいるかな、ぼくときみ、パフ、チャオチャオまたね)、まほうのラララ、新旧うたのおねえさん引継ぎ、あおうよ!、ガラピコぷ〜のテーマ<ref group="注">曲クレジットは「ガラピコぷ〜」と表記。</ref>、ガラピコぷ〜卒業挨拶、べるがなる ** スタジオライブの「こんなこいるかな」「ぼくときみ」「パフ」では6代目うたのおにいさんの[[林アキラ]]がピアノ奏者として出演 </div></div> === 『おかあさんといっしょ』にて作られた、放送実績のある歌 === {{See also|おかあさんといっしょの今月の歌}} 番組内で初放送された歌は曲名の後に年・月が表記されている。五十音順に表記。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">あ行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * あ〜うれし * アイアイ(1967年) * アイスクリームのうた * あいたいな * あいうえ鬼がやってくる * あ・い・う・え・おにぎり(2001年4月) * あいうえおはよう(1998年10月) * 愛してマーチュ! * あ、あのこ(1980年) * 青い空を見上げて(2008年10月) * あおいにじ(1989年6月) * 青い眼の人形 * 青い森のダンス * あおうよ!(2016年4月) * 青空にうたえば * 青空にらくがき * あか・あお・きいろ * 赤鬼と青鬼のタンゴ * あかちゃん(1982年) * 赤ちゃんのお耳 * あがりめさがりめ * あかりを灯そう(2002年1月) * あきがあっきた(1994年10月) * あくびがビブベバ(2015年2月) * あげあげドーナツ(2020年11月) * あさいちばんはやいのは * あさごはんマーチ(2001年10月) * あさペラ!(2019年11月) * あしたのあしたのまたあした * あしたははれる(1999年3月) * アタラシイキモチ * あっちこっちたまご(1988年4月) * あっちこっちマーチ(2009年2・3月) * あっちっちのフライパン(1989年7・8月) * アップルパイひとつ(1994年4月) * あつまれ!笑顔(1999年2月) * あつまれ!ファンファンファン(1989年10月) * あのね、あきはね(2004年9月) * あのねママ(1998年12月) * あめのひドキドキ(2017年6月) * あめふりりんちゃん(2000年6月) * あらってわらって(1995年5月) * あらどこだ * ありがとうお母さん(2006年11・12月) * ありがとうの花(2009年10月) * アリくんひとりたび * ありさんあがつく(1980年) * 歩いていたら(1981年) * あるこう(2001年5月) * あわて床屋 * 雨の降る日に生まれた子 * 雨の遊園地 * あめあがり | style="width: 20%;"| * いえイェイ!!(2013年1月) * イカイカイルカ(1998年1月) * いちごはいちご(1997年5月) * いちごろりん りんごろりん * いち!に!のさんにん * いっこにこさんこしっこ(1995年9月) * いっしょならへいきだよ * いっしょにつくったら(2005年4月) * 1歩 2歩 さんぽ(2021年4月) * いつまでもともだち * いつもいっしょに * いちばんすきなのなあに(1984年) * いるかのジャンプ * いるよ(2018年5月) | style="width: 20%;"| * 歌うクジラ(2000年5月) * 唄おうよ!(2000年4月) * うちゅうにムチュー(2020年4月) * うちゅうはゆうえんち * うばぐるま(1985年) * うみのソンブレロ * うらら(2022年4月) * うん、いいんじゃない(2022年11月) | style="width: 20%;"| * えがおでいこう(2011年4月) * 笑顔みつけた * ええとええとのうた * えんとつをつくろう(1986年11月) | style="width: 20%;"| * オー!ことわざソング(2007年7・8月) * おうちにかえろう(2011年11・12月) * おえかきラブレター(1987年2・3月) * お〜い!(1997年) * おおきいてちいさいて(1997年9月) * おおきなかぶ * おおきなくちあけて(1980年) * おおきなわがあれば(1991年5月) * オーストラリアの動物ファミリー(1994年2・3月) * オカリナのリーナ(2017年11月) * おきゃくさま * おきゃくさまはサンタクロース(1988年12月) * おさんぽクンクン(2013年6月) * おさんぽマーチ (2019年5月) * おしえてタンゴせんせい * おしりフリフリ(2005年1月) * おしゃべりきかんしゃ(1982年) * おしゃれな木 * おしゃれなやさい(1991年11月) * おしゃれフルーツ(2016年6月) * おすしのピクニック(2003年11・12月) * おたすけ!およよマン(2021年1月) * おちばのおまつり(1986年10月) * お月さまがほしい(1980年) * おっきなちっちゃな物語(2022年6月) * おっとっとのオットセイ(2006年9月) * おてんきじどうはんばいき(2002年6月) * おどりのすきなウンパッパ * おどれ!どんぶり * おどろよタンゴ * おなべかこんで(1990年1月) * [[おにぎりの心]](1997年1月) * おニューのゴムなが(1996年6月) * おねえちゃんになりたい * おはながわらった * おはよう!(2018年2月) * おひさまーち(2015年4月) * おひさまクリーム(2007年4月) * おひるねしましょう(1996年3月) * おまかせ元気マン(2002年7・8月) * おまつりすんだ はらっぱに * おまめ戦隊ビビンビ〜ン(2017年10月) * おめでとうを100回(2013年2・3月) * おもちゃのチャチャチャ * おもちゃのブルース(2015年9月) * おもちゃのマーチ |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">か行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * かあさんカラス(1991年9月) * 海賊の歌 * カオカオカ〜オ(2014年9月) * かおたいそう * かくざとういっこ * かけぶとんしきぶとん(2004年2・3月) * 風がひいてるバイオリン * 風に吹かれてきたあの子(1999年6月) * 風のおはなし(2004年5月) * かぜのフラメンコ(1993年12月) * 風とパレード * かぜひきさん * かぞえてんぐがやってきた * かたづけチャオ * かたっぽちゃんと かたっぽちゃん(2018年10月) * ガチャゴチャガンボ!(2015年10月) * かっぱなにさま?かっぱさま!(1999年11月) * カニダンス * かにのおじさん(1987年6月) * ガマンガマン * カラスのかっくん(2013年10月) * ガリダリシュッポン!(2006年6月) * カレーになりたい * カレーの呪文 * カレーライスのうた * かわいいかくれんぼ * かんからけってあるいて(1980年) * かんづめあけたら(1980年) * ガンバラッパ☆ガンバル~ン(2020年7月) * がんばるきみはかっこいい * がんばルンバ(1983年) | style="width: 20%;"| * きいろい木馬(1979年) * きがいっぽん(1986年4月) * 北風小僧の寒太郎 * キッチンオーケストラ(2011年5月) * きみ(2014年11月) * きみイロ(2020年2月) * キミといっしょに(2016年2月) * きみといっしょにいると(2020年9月) * 君に会えたから(2008年3月) * キミにはくしゅ!(2023年2月) * きみのえがお(2023年7月) * きみのこえ(2007年2・3月) * きみのなまえ(1981年) * きめたきめた(1980年) * ぎゅーっ はかせ(2021年5月) * キュキューンがすき(2004年1月) * ギラギラギララ(1982年) * きらきらきらりん・みゅーじかる(2010年6月) * キラキラごあいさつ * きらららダンス(2018年6月) * きんぎょのひるね * 銀ちゃんのラブレター(1994年6月) | style="width: 20%;"| * くいしんぼうのパピポ(1979年) * ぐいーん・ぱっ!(2014年10月) * クシカツはいっぽん(2001年7・8月) * くじらのバス * くじらのとけい(1982年) * くだものたろう(2022年5月) * くものしま(1998年5月) * 雲の手紙(1998年9月) * くも もくもく(1982年) * くりとくり(2010年11・12月) * くるくるマンボ * クレヨンロケット(2002年2・3月) * 黒ネコダンス(1985年) * グット・バイ * グーとスーのマーチ(1992年4月) * グーのえかきうた(1991年9月) | style="width: 20%;"| * げんきおんど(1984年) * げんき・元気 * げんきタッチ! * 元気のキホン(1993年10月) * げんきひゃっぱい(1987年11月) | style="width: 20%;"| * 公園にいきましょう(1997年6月) * ゴーゴーゴー * ここがせかいのまんなかだ(1992年11月) * 心はまあるいドーナッツ * こっちとそっち(1993年6月) * こどもがいっぱいわらってる(1992年5月) * こねこねんね(2005年2・3月) * こねこのパンやさん(1987年4月) * このゆびとまれ(2003年4月) * こまったくんとこまったちゃん(1996年10月) * こまったゾウさん(2007年10月) * こまってしまうま(1987年5月) * ゴミゴミオバケ(1990年4月) * ごめんください、めんください。(2009年4月) * ごめんな・サイです(1993年9月) * ごめんね(1980年) * ごめんねピーマン * 木もれ日の歌(2005年5月) * ゴリラのおんがくかい(1994年12月) * ゴロプポジャカジャカ!(2012年10月) * コロンパッ(2010年4月) * コンコンクシャンのうた * こんなこいるかな(1986年7・8月) * こんにちは * こんやこんにゃく(2011年9月) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">さ行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * さがそっ!(2019年1月) * サッカー・サンバ * ザ・トマッキュー * さびしい殿様 * さみしくなんかないってば(2010年3月18日) * さよなら、またね(2009年3月19日) * サラダでラップ(1995年11・12月) * さるが木からおっこちた(1984年) * さるさるさ(1993年1月) * サンシャインクリスマス(1992年12月) * サンタはいまごろ(1983年) * 三人三角心が三つ | style="width: 20%;"| * シアワセ(1999年10月) * しあわせわけっこ * シェイク シェイク げんき!(2016年11月) * シール☆ハレハレ(2015年5月) * しごとはいそがしい * し・し・しのびあし * しってしまったぼく(2004年7・8月) * じっとまったくん(2012年6月) * しっぱいのせいこう(1999年9月) * しっぽのうた * じべた べったん(1983年) * しまうまグルグル(1982年) * じゃくじゃくあまのじゃく(2014年4月) * ジャバ・ジャバ・ビバ・ドゥー(2002年10月) * しゃぼんだまいっぱい(1981年) * ジャングルポケット(1980年) * ジューキーズこうじちゅう!(2010年5月) * シュビ・ドゥビ・パパヤ * 12か月のかぞえうた(1987年12月) * しゅりけんにんじゃ * じゅんびばんたんたん!(2023年5月) * ショキ ショキ チョン(2012年7・8月) * しればトモダチ~しりたガエルのけけちゃま~(2022年9月) * 白いいき(1986年12月) * 白い小人さん * しろいともだち(2006年2・3月) * しわしわしわわ(2013年7月) * 新幹線でゴー!ゴ・ゴー!(2011年6月) * シンデレラのスープ(1988年5月) * しんゆうになろう | style="width: 20%;"| * スイカをこつん * スキスキおとうさん(1990年11月) * すきすきたのしい * すきすき!ナットウスキー * すごいぞ!じゃがいも(2005年7・8月) * すずめがサンバ(1982年) * すすめ!すってんすっく!(2020年5月) * スッカラスカンク(2001年9月) * すっぱ すっぱ すっぴょ!(2016年9月) * すてきな言葉 * すてきなハッピー・バースデイ * スプーンひめはきょうもスプーン(1997年7・8月) * ずんずんあるいて(2005年11・12月) * スーのえかきうた(1991年10月) * スローモーションのうた | style="width: 20%;"| * Say!good-bye〜明日をみつめて〜(2016年スペシャルステージ)<ref group="注釈">元々は、作詞作曲を手がけた8代目うたのおにいさん速水けんたろうのライブで歌われていた持ち歌であり、2015年度の『ポコポッテイトがやってきた!』の速水出演公演でのエンディングでも歌われた他、速水自身によるバージョンが2014年にリリースしたシングルに収録されている。</ref> * せいせいどうどう * せんたくものだゆう(1998年4月) | style="width: 20%;"| * そーっと・そっと(1988年10月) * ぞうさんいるだけで(1995年7・8月) * ぞうさんのぼうし(1987年7・8月) * そうだったらいいのにな * ぞうのそうぞう(2020年1月) * ゾクゾクうんどうかい(2018年7月) * そよかぜスニーカー(2017年4月) * そよそよの木の上で(2010年7・8月) * そらそらそうめん(2021年6月) * ソリダリエタのまほうの花 * それがともだち(2011年7・8月) * そろそろもぐもぐ(1984年) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">た行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * だあれもいない海で(1987年9月) * たいこムーン(2019年9月) * だいすきモノモノランド * たからさがし * だから・ねっ!!(1995年6月) * たからもの、なあに(2002年11・12月) * たこのくるんぱ(2003年9月) * たこやきなんぼマンボ(2000年7・8月) * だじゃれだゾ〜(2008年2月) * ただいま ママ(2006年7・8月) * たぬきが…(1989年9月) * たぬきのレストラン(1988年7・8月) * たまごまごまご(2002年4月) * だれにだっておたんじょうび * [[だんご3兄弟]](1999年1月) * だんだんだんだん * タンポポ団にはいろう!!(2003年5月) * たんぽぽちゃんとつくしくん(1993年4月) | style="width: 20%;"| * ちいさなおふね(1995年10月) * [[小さな木の実]] * 小さな人魚 * ちかてつ * 地球ネコ(2003年10月) * ちきゅうにおえかき(2008年11・12月) * 地球の歌(2023年1月) * 地球ぴょんぴょん(2014年2月) * チキンダンス(2000年2・3月) * ちびっかブーン * チャオチャオまたね * チュルチュル チュルルン(2013年5月) * チ!ヨ!コ!レート! * ちょっとまって ふゆ(1993年11月) * ちょんまげマーチ * ちょー ちっちゃい話(2002年5月) | style="width: 20%;"| * 月夜のポンチャラリン(2003年7・8月) * つくしのムック(1992年2・3月) * つめ・かみ・みみ太郎 (1992年9月) * つるのワルツ(2016年1月) | style="width: 20%;"| * 手あそびかいかいかい(1991年2・3月) * てとてとパタン(2019年10月) * デビル・ビビる・ガンバる!(2018年11月) * 手ぶくろ動物園 * てをたたこ(1996年5月) * でんきの子ビリー(2009年11月・12月) * でんぐりがえしくるん * でんぱがビッ(1980年) | style="width: 20%;"| * どうしてしらんぷり(2007年6月) * 動物園へ行こう * とうめいにんげんなんだけど(1988年1月) * どこでねるの(1981年) * ドーナツどうして穴がある? * ドコノコノキノコ(2010年9月) * ドスコイマン! * トトトのうた * ド!ド!ド!ドラゴン(2009年5月) * ともだち * ともだちはアンモナイト(2001年1月) * ドラネコロックンロール(1986年5月) * とり(2017年5月) * ドレミドママ * [[ドンスカパンパンおうえんだん]](2009年1月) * トッチキくんが行く(1997年4月) * どっこいしょ(1997年12月) * どんがらどんどんどらやき!(2014年5月) * ドン・チュー! * とんでとんで * とんでもトン吉(2004年10月) * とんでもないはなし(1981年) * とんでもんしろちょう * どんな色がすき(1992年6月) * どんなかお(1982年) * どんな夢? * どんまい(1994年9月) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">な行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * ないてたらね(1997年11月) * ないないクレヨン(1980年) * ながぐっちゃん!!(2008年6月) * なかマンボ * 流れ星ひとつ * なぜ(1981年) * なないろのしゃぼんだま(2018年4月) * なんだかわかだんな(1989年1月) * なんでも あらいぐま(2015年7月) * なんなん、とかとか、なーるなる(2021年10月) * にじのいろとおほしさま(1990年10月) * 虹色かき氷 * 虹の下には宝もの * にじのむこうに(1996年4月) * にじ・そら・ほし・せかい(2002年9月) * に・て・る(1996年11・12月) * にゃあんたいそう(1992年1月) * ニャニュニョのてんきよほう * にんじゃ きりん(2017年9月) * にんじんエンジンロケット(2023年9月) * ネガイゴト(2021年2月) * ねこ ときどき らいおん(2011年10月) * ねこなでちゃった(1989年11月) * ねことめだか * ねこのひげ(1998年2月) * ねじまきジミー(2023年11月) * ねんどのうた(1981年) * のりまきペラパリおんど(2022年7月) * のりものだいすき * のんびりのびのび </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">は行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * ハートがいっぱい(2012年4月) * はしるよはしる * はしれはしれ(1988年9月) * はじめてのワルツ * はじめて はじめまして(2008年4月) * はじめまして(1983年) * はたらきものブギ(2023年10月) * はっぱっぱのハーッ!(2023年4月) * バナナのおやこ(1982年) * はぴねす特急 * はらぺこカマキリ(2019年6月) * はるかぜかくれんぼ(1995年4月) * はるかぜ電話(1999年4月) * はるなつあきふゆあいうえお(1989年5月) * はるなつあきふゆかくれんぼ(1989年4月) * はるなつあきふゆ・きせつはかぞく(1996年) * はるのかぜ(1985年) * 春の子うーら * バイキンくん * バイ!バイ!バイ!(1999年) * バスごっこ * バウワウワン(1988年6月) * ハオハオ(2001年2・3月) * パパの背広 * パパパ(2005年6月) * パパはいつもおきている(1994年1月) * ハ・ヒ・フ・ホカレー * パフ * はらぺこカマキリ(2019年6月) * バンジョーのジョー(2001年6月) * はんそでくん(1986年6月) * パンダうさぎコアラ(1990年5月) * ぱんぱかぱんぱんぱーん(2017年7月) * パンはパンでも(2020年10月) * パンパパ・パン(2012年5月) | style="width: 20%;"| * ぴかぴかじてんしゃ(2007年5月) * ぴかぴかすまいる(2019年2月) * ひかるみらい(2015年6月) * ピクニックマーチ * ぴしゃん(1998年6月) * ビックリ・タマゲタ(2001年11月) * びっくりマーク(1987年1月) * ひっつきもっつき * ぴぴハピー * ひまわりとわたあめ(1998年7・8月) * ひみつのパレード(2010年1月) * ひらひらひら(1990年6月) * ひるさがり(1989年4月) | style="width: 20%;"| * ブーブー家族 * ぶうぶうぶう(1979年) * ふうふうラーメン * ブー!スカ・パーティー!(2020年8月) * ブーツをはいた象さん(1982年) * ふしぎなあのこはすてきなこのこ(1994年5月) * ふしぎはすてき(2004年11・12月) * ふたごのタンゴ * ふたつのおうち * ふたりでひとつ(1991年6月) * ふたりのクリスマス(1991年12月) * ふたりはなかよし(1991年4月) * ふゆっていいな(1995年1月) * ふゆのあいだ(2017年1月) * 冬の音(1996年1月) * 冬の娘リッカロッカ(2014年1月) * ふゆのプレゼント(1999年12月) * 冬のないない気のいい王さまのおはなし(2001年12月) * ブラブラせいじん * フ〜ララ ホアロハ ラ〜(2008年7・8月) * ブレーメンのおんがくたい(1992年7・8月) * プールたいそう * ブンブンにじいろカー(2022年1月) * ぶんぶんブランコ(2013年9月) * ヘイ!タンブリン * ぺたぺたぺったんこ(2004年4月) * へんしんロボット☆マックス | style="width: 20%;"| * ポップンポップコーン(1993年7・8月) * ホ!ホ!ホ! * ぼくときみ(2003年6月) * ぼくのうちに(1980年) * ぼくのシャンプー(1990年7・8月) * ぼくのミックスジュース(1982年) * ぼくはあくびマン(1986年9月) * ぼくはキャプテン * ぼくらのうた(2009年7・8月) * ぼくらのロコモーション(1993年5月) * ほしぞらカーニバル(1990年9月) * ほしのうた * 星の超特急メテオ * ほしのひとしずく(2021年7月) * 星ひとつ(1993年2月) * ほっかほかのほ(1982年) * ぼよよんこうしんきょく(2006年4月) * ほめられて、メラメラめっ!(2003年1月) * ほっとけーきはすてき(2009年6月) * ほらなかなかいいちょうし * ホ・レッ!(2022年10月) * ボロボロロケット(2009年9月) * ポンヌフのたまご(2013年4月) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">ま行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| style="width: 100%;" |- style="vertical-align: top;" | style="width: 20%;"| * まあるいせかい(2016年10月) * 迷子のゆうれいホー(1999年7・8月) * マカポカヒラリン(1998年3月) * まっしろしろすけ(2006年5月) * まねきネコネコ(2000年11月・12月) * まほうのくつ(2016年7月) * まほうのとびら(2010年10月) * 魔法のピンク(2008年9月) * まほうのラララ♪(2022年2月) * ママゴリラ(2005年10月) * ママのたからもの(2010年2・3月) * ママ・ムーチョ * まゆげのうた(1988年11月) * まるかいた(1992年10月) * まるまってる・のびている(2000年9月) * まんまるスマイル(2008年5月) | style="width: 20%;"| * みつばちはどこへ * 緑っていいね * みつあみゆみちゃん(1996年7・8月) * みなみのしまのこどもたち(2005年9月) * 南のなかま * ミライクルクル(2019年4月) * みらいくんとゆめみちゃん(2000年1月) * ミルクはげんき・タマゴもげんき(1990年12月) * みんなだれかがすきになる(2012年2・3月) * みんなでクリスマス(1989年12月) * みんなでたべよう(1981年) * みんなのリズム(2014年6月) * みんなみんなみんな(2011年2・3月) | style="width: 20%;"| * むかしはえっさっさ * むぎゃむぎゃ(2021年9月) * ムギューだいすき(1996年9月) * 虫歯建設株式会社(1995年2・3月) * むしむしフェスティバル(2023年6月) * ムックリンチョ(2007年11・12月) | style="width: 20%;"| * メダルあげます(2015年11月) | style="width: 20%;"| * もうすぐようちえん(1981年) * モウモウフラダンス(1991年7・8月) * もくもくふゆーん(2018年1月) * もぐもぐもぐら(1984年) * もぐらトンネル(1999年5月) * もしも季節がいちどにきたら(1989年2・3月) * モシモシだいすき!(2014年7月) * モラモラ マンボウ(2012年9月) * 森のファミリーレストラン(1990年2・3月) * モンスタップ(2012年1月) |} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">や行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * やくそくハーイ!(2017年2月) * やさしい雨 * やさしいうた(2018年9月) * やだやだツイスト * ヤッホ・ホー * やるきまんまんマンとウーマン(2006年10月) * ヤンチャリカ * 雪だるまのたいそう * 雪だるまのまほう(2007年1月) * ゆきだるまのルー(2015年1月) * ゆきふるるん(1988年2・3月) * ゆめいっぱい * ゆめいろワルツ(2012年11・12月) * ゆめのかけら(2008年1月) * 夢のなか (1998年11月) * 夢の中のダンス(2007年9月) * 夢のパレード(2000年10月) * ゆめゆきあめ(1997年2・3月) * ゆめをひとさじ(1997年10月) * ようかいしりとり(2013年11月) * よそみをしてるとあぶないよ(1984年) </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">ら行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * らっこのこもりうた * ラリルレロボット(1982年) * リズム君・メロディーちゃん * りんご・みかん・バナナ(1994年11月・12月) * リンゴントウ(2011年1月) * レンコンさんがかぜひいた(1991年1月) * ロックンロールパン </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">わ行</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * わ!(2006年1月) * わくわくスーパーマーケット(2004年6月) * わたぼうし(2003年2・3月) * わっ!!おしゃれ(1994年7・8月) * わっ!綿アメ * わっしょい(1987年10月) * わらいごえがヨ〜デルね(2021年11月) * わらいごえっていいな(1981年) * わらいねこハッピネス(1979年) * わらうおばけ(2016年5月) * ワン・ツー・スリー!(2019年7月) </div></div> === オープニング === 基本的に[[アニメーション]]映像が用いられ、概ね人形劇交代か番組構成の変更を伴う改編ごとに変更される。テーマ曲の作曲も原則として使用時期に放送中の人形劇の劇伴担当者が兼任。 {{節スタブ}} <!--出典無しでの「初代」「2代目」などの表記はやめて下さい--> 最初期のOPは映像が残っていないため不明。 ====1967年頃==== *おもちゃ箱からタイトル文字(前述のものではなくゴシック体で書かれたもので、「おかあさん」の部分が弧を描くように配置され、2行ほど改行しておいて「と」さらに改行して「いっしょ」というもの)が登場し、その後ぬいぐるみや積み木などのおもちゃが登場する[[クレイアニメ]]。最後に、その日放送のコーナーのタイトルが出る(『ブーフーウー』では、さらに原作者などのテロップも出る)。モノクロ放送。 ====1976年4月 - 1979年3月==== *黒い板にタイトルが表示され、楽器の自動車が走るアニメーション。テーマ曲作曲は[[井上堯之]]、アニメーションは[[若井丈児]]<ref>NHK DVD「懐かしのこども番組グラフィティー ~おかあさんといっしょクロニクル~ 」[[NHKエンタープライズ]] 2004年</ref>。 ====1979年4月 - 1982年4月3日==== *前期と後期で2種類存在する。 *前期のものは、スキャニメイトを用い最後に中央のほうから白縁赤文字の「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」のタイトルが揺れてうねりながら現れるもの。 *後期のものは、黒背景にブンブンほか様々なものがシャボン玉に入っていてそれが破裂して、それぞれの輪郭の線になって消えたのち、()を4つつなげてできたような枠のなかに「お→かあ→さん→おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」の順でタイトル文字が出て下に星が出たのち、タイトル文字が枠とともに2段階にズームインするもの。 *テーマ曲作曲者は不明だが、「ワワー」というクワイアのようなものが終盤に入るのが特徴。 ====1982年4月5日 - 1983年4月1日==== *「にこにこれっしゃ」というタイトルで歌詞付きで歌われた。 *映像は歌のコーナーのスタジオをバックにしており、番組タイトルは最初に出てくる。 *テーマ曲作詞は中西一雄、作曲は[[越部信義]]。 ====1983年4月4日 - 1992年10月3日==== *人形劇「[[にこにこぷん]]」のオープニングと接続している<ref name="nhkk198908">{{Cite journal|和書|title=30歳になりました――『おかあさんといっしょ』 / 近藤康弘|journal=放送教育|volume=44|issue=5|publisher=日本放送教育協会|date=1989-08-01|pages=38 - 39|id={{NDLJP|2341090/20}}}}</ref>。 *映像は[[アニメーション]]で、宇宙空間をバックにしており、番組タイトルは最初に出てくる。 *いろいろなものが出てくる際に効果音が入るが、86年度のステレオ放送開始後に効果音の数が1回増えている。 *テーマ曲作曲は[[越部信義]]<ref name="nhkk198908"/>、アニメーションは[[ほんだゆきお]]<ref name="nhkk198908"/>。 *「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」が用いられた最後のオープニングで、ロゴは赤地の雲に白文字となっている。 ====1992年10月5日 - 1999年4月3日==== *前作同様、人形劇の「ドレミファ・どーなっつ!」のオープニングと接続しており、曲自体も「ドレミファ・どーなっつ!」のオープニングとつながっているように流れている(テーマ曲の前奏部分が番組オープニング部分となっている)ため、「ドレミファ・どーなっつ!」OPの一部のカラオケ音源ではこの番組オープニング部分の演奏が含まれることがある。 *1995年10月放送分(同年9月収録分)からのものと2バージョンある。初代は4:3SDで作られ(アニメーション:[[大井文雄]])、2代目は16:9HDで作られた。ハイビジョン化以降、現行までOP制作はアニメ・CG制作会社のスリー・ディがおこなっている。短期間で代わった理由として95年10月より[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]](当時はアナログハイビジョン実用化放送)での試験放送の開始と103スタジオの機材がハイビジョン化したことにより番組の全編においてアナログハイビジョン製作されるようになったためである。(当時のアニメ製作分の歌クリップも16:9であることが現在のオンエア分でも確かめられる)。また、HD化後のバージョンと、次代のOP映像に一部共通点がある(サッカーボールをかたどったリングつきの星、おかあさんといっしょのタイトルロゴのバックが虹色など)。なお、1995年10月以降も「ドレミファ・どーなっつ!」部分がハイビジョン化する前の回を再放送した場合は、旧バージョンのオープニングを使用することもあった他、1997年度からはアニメ版「ドレミファ・どーなっつ!」の放送時に「ドレミファ・どーなっつ!」に切り替わったところから映像がアニメ版専用のものになっていた。 *映像は今回から[[コンピュータグラフィックス|CG]]になり、番組ロゴも白い雲にカラフルな文字の「おかあさんと(改行)いっしょ」に変更された([[#番組概要|番組概要]]参照)。 *4:3SDサイズのOPの頃の映像には、中盤に出てくる塔付きの建物から様々なものが出てくるシーンがあるが、そこでギターあるいはベースのような楽器が建物前を通った直後に塔部分が消えてしまう制作上のミスとみられる箇所があった。 *テーマ曲作曲は[[乾裕樹]] ====1999年4月5日 - 2009年3月28日==== *スプーが登場するCGとアニメーションを組み合わせたもの。 *テーマ曲作曲は[[堀井勝美]] *これより人形劇のオープニングが番組のオープニングではなくなり、番組タイトルがオープニングの最後に出る。 *初日のみ、このオープニングは同日を持って卒業する[[古今亭志ん輔]]および、[[速水けんたろう]]、[[茂森あゆみ]]、[[松野ちか]]の卒業の挨拶後に流れた。 *使用期間10年で、2022年時点で最長の使用期間である。 ====2009年3月30日 - 2016年3月31日==== *テーマ曲作曲は[[斎藤ネコ]] *映像は[[遊園地]]をモチーフとしている。 *2009年秋の50周年記念コンサートでは、テーマ曲に「星空のメリーゴーランド」というタイトルが付けられ、井出隆夫が作詞した歌詞付きで歌われた。 *「[[モノランモノラン]]」が短期間で終了したため、「[[ポコポッテイト]]」に変わった後も使用されていた。両作とも劇伴作曲は斎藤ネコが担当。 *2013年4月1日放送分から、オープニングの時間が約8秒に短縮された。 ====2016年4月4日 - 2022年4月2日==== *テーマ曲作曲は[[ベアグラウンド]]<!--ベアグラウンドの公式Twitter(2016年4月3日)より--> *映像は[[宝箱]]の鍵を開けると様々の物が出てきて最後に番組タイトルが出る構成。 *約15秒と比較的尺が短い。ただし、2016年の改編前後に放送された新年度のリニューアルを告知する[[プレマップ]]では、BGMにテーマソングのフルバージョンが流された為、曲そのものは約40秒あり、先代までとほぼ同じくらいの長さがある。2019年夏の「60周年スペシャル」では、オープニングはフルバージョンでオンエアされた。ファミリーコンサートでも、オーバーチュアにフルバージョンのテーマソングが使用される事がある。 ====2022年4月4日 - ==== *テーマ曲作曲は[[増田太郎]]で、[[バイオリン]]パートの演奏も担当している。<!--増田の公式Twitter(2022年4月4日)より--> *番組タイトルは赤地の雲に白文字の「おかあさんと(改行)いっしょ」の配色に変更されている。 === アニメーション === 1986年より短編オリジナルアニメーション枠が設けられている。 {{Main|おかあさんといっしょのアニメーション}} === コーナー === * うたってあそんで(1960年9月 - 1962年3月、水・木、[[旗照夫]]、[[島田妙子]]、[[佐々木伊都子]]、アンサンブル・デリカ) * いいものつくろ(1960年9月 - 1966年3月、金→土、上田次郎、[[里見京子]]、安田章子、西村正平、円木紀久美、三浦美子、佐々木伊都子など) * なかよしおばさん(1960年9月 - 1964年3月、土→金、[[轟夕起子]]) * おはなしのもり(1962年3月 - 1964年3月、水曜のみ、旗照夫、島田妙子) * こんにちは→どうぶつさんこんにちは(1962年4月 - 1967年3月、高橋征郎、[[白坂道子]]、延原暁子、太田淑子、鳥山京子、[[加藤みどり]]など) * こんな絵もらった(1962年4月 - 1966年3月、木曜のみ、大友純、高橋和枝) * たのしいのりもの(1964年4月 - 1965年3月) * みんなあつまれ(1964年4月 - 1966年3月、土曜のみ、[[新克利]]、[[北川恭子]]、[[丸山みつ子]]、中村礼子) * うたいっぱい(1965年4月 - 1967年3月、水曜のみ、[[真理ヨシコ]]、[[高橋元太郎]]、ボーカル・ショップ) * おはなしいっぱい(1966年4月 - 1967年3月、木曜のみ、真理ヨシコ、[[牟田悌三]]) * なんにもないくに(1966年4月 - 1967年3月、金曜のみ、[[早野寿郎]]、佐藤香り、カワナ・カオル、金子皓江) * おはなしこんにちは(1967年4月 - 1976年3月、金曜のみ、[[吉行和子]]→[[神保共子]]→[[田島令子]]<ref>{{NHK人物録|D0009071583_00000|田島令子}}</ref>) * てをつなごう(1967年4月 - 1979年3月、土→金、佐久間俊直、葉村エツコ、竹内伸司、[[一城みゆ希]]、米田和正、[[大杉久美子]]、猪浦宏昌) * きみだあれ(1967年4月 - 1969年9月、木曜のみ、白坂道子) * らっぽんぽん(1967年4月 - 1971年3月、水曜のみ、旗照夫、真理ヨシコ) * これは××です(1969年10月 - 1971年3月、[[熊倉一雄]]、[[高見映]]、[[沼田爆]]、植木まり子) * どうぶつくん(1969年10月 - 1972年9月、火曜のみ、[[西尾徳]]) * これなあに?<ref group="注釈" name="na-ni">1971年度に放送された物と、2008年度から2012年度まで放送された物(『なんだっけ?!』の前身)の2種類が存在する。</ref>(1971年4月 - 1972年3月、水曜のみ、熊倉一雄、高見映、沼田爆、植木まり子) * ほあほあどん(1971年4月 - 1973年3月、水曜のみ、真理ヨシコ) * わからん島(1972年4月 - 9月、木曜のみ、[[多々良純]]、[[渡辺美知子]]) * みてごらん(1972年10月 - 1975年3月、火曜のみ) * いちにのさんにん(1972年10月 - 1975年3月、木曜のみ、一城みゆ希、[[桂菊丸]]) * ヤンヤンムウくん(1973年4月 - 1976年3月、土曜のみ、真理ヨシコ) * はい、スタート(1975年4月 - 1976年3月、火曜のみ、絵:[[馬場のぼる]]、ナレーション:[[小原乃梨子]]) * いそがしおじさん(1975年4月 - 1976年3月、木曜のみ、[[谷啓]]、一城みゆ希) * 大どろぼうホッツェンポロッツ(1976年4月 - 9月、土曜のみ、[[山田康雄]]) * ペリカンおばさん(1976年10月 - 1977年9月、土曜のみ、[[小野栄一]]) * おはなしややや(1977年10月 - 1978年3月、土曜のみ、[[犬塚弘]]、[[クニ河内]]) * カメラ小僧の大冒険(1977年12月 - 1978年9月) * 造形あそび・おはなし・クイズ(1978年4月 - 1983年3月、[[輪島直幸]]) * パジャマでおじゃま(1979年4月 - 1994年3月、1996年4月 - ) *: 作詞:[[榎木富士夫]]、作曲:[[若月明人]]、編曲:若月明人、[[大森俊之]]、[[櫻井映子]]、[[亀田誠治]] 歌:[[ボニージャックス]](1979年4月 - 1994年3月)、じゃまーず(1996年4月 - 2013年3月)、スムースエース(2013年4月 - 2019年10月、2022年11月 - )、[[Little Glee Monster]](2019年11月 - 2022年10月) *: 視聴者と同世代の幼児が自分でパジャマに着替える様子を放送するコーナー。「子供の自立・自ら衣服を整える・みだしなみ」を教育する狙いがある。 *: 「はみがきじょうずかな」と共に現在も続く最長寿コーナー<ref group="注釈">いずれも1994年3月で一旦終了したが、1996年4月に復活。</ref>。現在は日替わりで放送。 *: 放送再開時・2013年4月・2019年11月にテーマソングのアレンジ・歌手が3度変更されたが、2022年11月に2019年10月以前のアレンジ・歌手に戻った。 *: [[こおろぎ'73]]歌唱バージョンの音源も存在し、40周年記念CD、50周年記念CDに収録されている。 * はみがきじょうずかな(1979年4月 - 1994年3月、1996年4月 - ) *: 作詞:榎木富士夫、作曲:[[福田和禾子]]、編曲:[[福田和禾子]]、亀田誠治、歌:DO!(1979年4月 - 1994年3月)、ミガキッズ(1996年4月 - 2019年9月)、[[perfume]](2019年10月 -) *:視聴者と同世代の幼児が自分で歯磨きをする様子を放送するコーナー。保護者が幼児の仕上げ磨きをする場面がある。 *:こちらも放送再開時と2019年10月にテーマソングのアレンジ・歌手が2度変更されている。 * 百面相ブリッジ(1982年4月 - 1999年3月) * 四つのへや(1983年4月 - 1984年3月、伊庭隆) * 朝太ショー→[[志ん輔ショー]](1984年<!--志ん輔師匠の公式ホームページには1984年からと書いてある他、番組関連の書籍等でも1984年スタートとなっていることから、1984年度からの放送というのが正しいとみなせる-->4月 - 1999年3月) *: 1985年度より名称変更。人形劇(オープニング接続の「[[にこにこぷん]]」「[[ドレミファ・どーなっつ!]]」の2作)の直後に配置されていた。 * おとうさんもはだかんぼう(1984年4月 - 1991年3月) * あいさつコーナー(1984年4月 - 1999年3月) * すいすいスイミング(1980年代ごろ) * ふしぎ大自然(1999年4月 - ) *: たいそうの前に余剰時間に応じて挿入される自然映像。よって、先述の通り省略される回もある。 * 『たためるかな?』シリーズ ** パンツぱんくろうのたためるかな?(2008年4月 - 2011年3月) ** リンちゃんのたためるかな?(2011年4月 - 2016年3月) ** ガラピコのたためるかな?(2016年4月 - 2022年3月) ** やころのたためるかな!(2022年4月 - ) * 『いってきます!』シリーズ ** パンツぱんくろうのいってきます!(2009年4月 - 2011年3月) ** リンちゃんのいってきます!(2011年4月 - 2016年3月) ** チョロミーのいってきます!(2016年4月 - 2022年3月) * 『いただきます!』シリーズ ** パンツぱんくろうのいただきます!(2010年4月 - 2011年3月) ** リンちゃんのいただきます!(2011年4月 - 2016年3月) ** ムームーのいただきます!(2016年4月 - 2021年1月) ** みもものいただきます!(2022年4月 - ) *: 2021年1月をもって後述の『てをあらおう!』に移り変わる形で一旦終了したが、2022年4月より前述の『いってきます!』の終了に伴い再開された。 * 『てをあらおう!』シリーズ ** ムームーのてをあらおう!(2021年2月 - 2022年3月) ** ルチータのてをあらおう!(2022年4月 - ) *: 上記4コーナーのうち3コーナーが「パジャマでおじゃま」「はみがきじょうずかな」と共に曜日別に放送される。 * きょうのびっくりしんぶん(2018年4月 - 2022年3月) *: 『ガラピコぷ〜』のビービルによるコーナー。視聴者と同世代の幼児の特技を紹介している。2018年度は月に1回、金曜日に放送し、2019年度からは土曜日へ移動し毎週放送に変更。 *: 人形劇のサブキャラクターが担当する初のレギュラーコーナーである。 * ファンキーマーキーチャンネル(2022年4月 - ) *: 『ファンターネ!』のマーキーによるコーナーで、「きょうのびっくりしんぶん」の内容を引き継いでいる。毎週土曜日に放送。 ==== 日替わりコーナー ==== 以下は「[[志ん輔ショー]](1984年度<!--志ん輔師匠の公式ホームページには1984年からと書いてある他、番組関連の書籍等でも1984年スタートとなっていることから、1984年度からの放送というのが正しいとみなせる--> - 1998年度)」→「[[ぐ〜チョコランタン|スプーとガタラット]](1999年度)」に代わって2000年度に開設された枠で曜日別に放送されているコーナー。 大半はうたのコーナーと同じスタジオで子供たちも参加する形で実施され、おにいさんとおねえさんや人形劇キャラクターが進行を担当する。ただし、「やぎさんゆうびん・リクエスト」や「なんだっけ?!」の様に通常の歌や体操などとは別撮り収録で制作されるコーナーもあり、特に後者の場合は本編が新作週でも過去に放送した内容が再放送されるケースも多い。また、『イチジョウマン』に関しては唯一スタジオ以外で収録されていた。 * おえかきコーナー(2000年4月 - 2001年3月) * スプーとはなそう(2000年4月 - 2001年3月) * はてなボックス(2000年4月 - 2003年3月) *:黒地に白で「?」と書かれた箱の中に入っている物を、おにいさん・おねえさんのヒント、入っている物を使った時のジェスチャー、シルエットの3つのヒントから当てるコーナー。年を追うごとにマイナーチェンジしており、2001年度にはシルエットヒントの見せ方が変更され、2002年度には箱が縦長に大きくなって、箱の中身のバリエーションが増えた。 * やぎさんゆうびん・リクエスト (2000年4月 - ) *: 枠開設当初から続いており、2004年度までは土曜日、2005年度から金曜日に移動して放送している。元ネタの童謡「やぎさんゆうびん」同様に「白やぎさん」と「黒やぎさん」が登場し、本コーナー内では視聴者の子供達からの手紙を届ける郵便局員という設定となっている。後述のリニューアル前は白やぎさんが郵便車で視聴者の絵を届け、2通程度紹介した後、郵便バイクで視聴者の歌のリクエストを伝える黒やぎさんが登場し、リクエスト紹介・リクエスト曲放送となっていた。 *: 従来はうたのおにいさんとうたのおねえさんが進行(現在も基本的にはこのケースが多い)していたが、2000年代後半頃から、たいそうのおにいさんとたいそう(身体表現)のおねえさんの組み合わせなど、出演者のうちの2人が進行するようになり、2013年度から2015年度はムテ吉(「[[ポコポッテイト]]」)も担当していた。 *: 出演者の似顔絵のイラストが届いた場合、似顔絵を描いてもらった出演者がその放送日の担当でない場合でも合流して感想やお礼を言うケースもある。 *: イラストの宛先は基本的に告知されないが、2016年度以降は出演者・キャラクター交代を伴う改編があった4月1週目放送分のみ新しい出演者宛のイラスト募集の旨を告知する際にテロップ表示されるようになった。また、番組ホームページ内の「よくある質問」のページで常時宛先を確認する事ができる。 *: コーナー開始から2013年度までの14年間は出演者がいる所に白やぎさんと黒やぎさんが届けに来ていたが、2014年度からは出演者が白やぎさんと黒やぎさんのいる郵便局に行くようになった。この時にコーナー構成も変更され、冒頭はやぎさんゆうびんのBGMが流れる中、郵便局に出演者がやって来て、後述の紹介イラスト以外に届いたイラスト(掲示板形式で貼られている)について軽く紹介(この部分で紹介されたイラストについては、送ってきた子供の名前等は紹介されない)した後、白やぎさんと黒やぎさんそれぞれのおすすめ作品としてイラストを2通紹介する。その後、ファンファーレ調にアレンジされたやぎさんゆうびんの一節が流れると「今週のリクエストタイム」となり、リクエスト紹介・リクエスト曲放送という流れになった。2019年度からは出演者が郵便局へ行く設定を維持したまま、セットが再度変更されている。 *: 番組の特性上、通常採用されるイラスト・リクエストは本来の視聴者層である子供(未就学児)に限られているが、2019年夏特集の「60年スペシャル」5日目で本コーナーを放送した際は、番組や曲への思い出エピソードを紹介する特別版として事前に番組内・ホームページで告知の上、通常版では採用対象外である大人まで募集対象を拡大して実施した事がある。この時は、リクエスト曲も現役メンバーで録り直した映像ではなく、リクエスト曲の番組初出当時に歌っていた歴代おにいさん・おねえさん出演のクリップを放送した。 *:2021年度からは、本コーナーから事実上派生する形で平日19時台を中心に通常編成の番組を休止する形でうたのおにいさん・おねえさんと白やぎさん・黒やぎさんを進行役とした「うたのリクエストスペシャル」が年4回ペースで放送されている。こちらでは届いたリクエストの手紙やイラスト等の紹介が無い代わりに、放送日時点の現役メンバーのみならず、原則として坂田おさむ・神崎ゆう子時代(1987年度 - 1992年度)以降の歴代出演者の出演クリップや体操・身体表現コーナーを、放送時期の季節に合わせた内容で構成して放送している<ref group="注釈">2023年1月30日に放送された2022年度の「うたのリクエスト冬スペシャル」では、本編中での説明は特にされなかったものの、放送前の2022年12月に他界した2代目うたのおにいさん[[水木一郎]]がうたのおにいさんだった当時の映像として、8代目たいそうのおにいさんの[[瀬戸口清文]]と共に出演して歌唱した「ちょんまげマーチ」の映像が放送された事があり、2022年度までの放送で、オンエア映像の対象範囲が広げられたのはこれが唯一となっている。</ref>。 * フリマネだいがっせん(2001年4月 - 2002年3月) * ちぎってポン!(2001年4月 - 2002年3月) * にっぽんフリマネぽぽんのぽん(2002年4月 - 2003年3月) * はてなマント(2002年4月 - 2003年3月) *: はてなボックスの派生版で、杉田あきひろまたはつのだりょうこがはてなマントの下にある職業の衣装を着ている。杉田とつのだがヒントを言い、それを参考に子供たちがマントの下の衣装を当てる。 * ぐるぐるキッチン(2002年4月 - 2004年3月) *:3種類の料理の絵が描かれたルーレットを回して、止まった所の料理を歌に合わせて作る動作をするコーナー。行程ごとにやった後、最後に作り始めから完成まで通してやる。 * さいころあっぷっぷ(2002年4月 - 2005年3月) *: お兄さんやお姉さんがサイコロを合計3回投げる。出た目の顔の表情(ほかに「すごい!」と書かれた面もある)を掛け声と同時にみんなで作る。 * どっちどっち(2003年4月 - 2004年3月) *: 物の大きさや速さなどを比べるコーナーで、はじめに2つの物を競わせる形で比べて、より大きかったり速かったりした方を更に別のものと比べてその日の一等賞を決めていた。 * しりとりドライブ(2003年4月 - 2005年3月) *: ドライブする今井ゆうぞうとはいだしょうこが横断歩道で止まった際に何かが出てくる。これがしりとりのようにつながっている。 * イチジョウマン(2003年4月 - 2005年3月) *: 演:[[佐藤弘道]] *: イチジョウマンとともに体で遊ぶコーナー。畳1畳分のスペースでできる体遊びを紹介するコーナーだった。終了時に一緒に体操した子供は「ジョウジョウシール」が貰える。複数人が一緒にやった場合、全員が貰える。 *: 佐藤の番組卒業に伴い、2005年より土曜版「おかあさんといっしょ あそびだいすき!」に移動し、2008年3月まで放送された。また、派生番組『おとうさんといっしょ』において後継コーナー「遊び隊士 イチジョウマン7」→「イチジョウマン8」→「イチジョウマン9」が放送されており、コーナーナレーションを初代イチジョウマンの佐藤が担当している。 * 動物カメラ(2004年4月 - 2005年3月) *: 動物ごと(スプーもいる)にさまざまな視点で撮った写真をヒントに、何を撮影したのか考える。 * おはなしたまてばこ(2004年4月 - 2005年3月) *: 「ウリ坊」(声 - 今井ゆうぞう)と「めえこおばあちゃん」(声 - はいだしょうこ)のお話。コーナーとしては1年間の放送だったが、終了後の2005年夏特集にて新作が放送され、2008年に今井とはいだの番組卒業時に発売されたDVD「メモリアルベスト~さよならしても~」にも、少しだけ登場している。 * まねっこピーナッツ(2005年4月 - 2009年3月) *: コーナー進行:ピーナッツ(声:[[橘ひかり]]) *: 操り人形キャラクターであるピーナッツがとるポーズと同じポーズを、ピーナッツによる3カウントの間とり続ける。初年度は金曜日(やぎさんゆうびん・リクエスト)以外の週4日放送で開始し、それまで月曜から木曜に放送されていた曜日別コーナーが全て終了となったが、半年後に週3日、2006年度以降は週1回になり、曜日別コーナーの形式が復活することとなった。2009年3月をもって、ピーナッツが旅に出るという設定で当コーナーは終了した。 * ゆうぞう、しょうこのなんになるでショー(2005年10月 - 2008年3月) *: マジシャン風の衣装で2人が登場。物に何かをつけたして生物にした後、その生物が動き出す内容が多い。曜日別コーナーで、唯一の年度途中での開始となっている。 * すりかえ仮面(2006年4月 - 2019年3月) *: 演:[[小林よしひさ]](すりかえ仮面)、[[いとうまゆ]](初代すりかえ仮面の手下)→[[上原りさ]](すりかえお嬢(2代目すりかえ仮面の手下)) *: この枠では「やぎさんゆうびん・リクエスト」に次ぐ長寿コーナーで、13年間に渡り放送された。2006年度と2007年度は水曜日に放送し、2008年度からは火曜日に放送。[[小林よしひさ#すりかえかめん|小林の記事]]も参照のこと。当初はすりかえ仮面が単独で進行していたが、2007年度からいとうが手下に扮するようになった。また、ファミリーコンサートで[[ぐ〜チョコランタン|ジャコビ]]が扮した事がある。 *:2012年度からは、すりかえ仮面の手下が「前の手下(いとう)が一人前になったので手下をすり替えた」という名目で交代。上原が「すりかえお嬢」の名前で手下を務めるようになった。登場初期のすりかえお嬢はすりかえ仮面と同じような帽子の形をした仮面を付けていたが、途中から仮面本来の形になった。 * おとのけんきゅうじょ(2006年4月 - 2007年3月) * どっちがどっち(2007年4月 - 2008年3月) *:探偵に扮した今井ゆうぞうと助手に扮したはいだしょうことともに、よくにた2つのものの違いを考える。 * これなあに?<ref group="注釈" name="na-ni" />(2008年4月 - 2013年3月)→ なんだっけ?!(2013年4月 - ) *:オリジナルキャラクター「ナーニくん」が登場、改題後も出演している。「これなあに?」時代は、冒頭で毎回とある道具が提示され、それに対してナーニくんが思いついた使い方を2パターンやってみるがいずれも間違いであり、最後にVTRで本来の使い方と動画の名前が紹介され、ナーニくんも正しい使い方を覚えるといった内容であった。「なんだっけ?!」は、様々なコスチュームのお兄さんやお姉さんがほしいものを言うので、ナーニくんが持ってくるというもの。何回か(基本的に2回)間違えてお兄さん・お姉さんにノリツッコミを入れられるが、最終的には正しいものを持ってくる。2016年度より今までの月曜日から土曜日に移動。同時にオープニングのアニメーションもリニューアルされた。 * つぎ!どのポーズ?(2008年4月 - 2009年3月) * 対決!はりきってゲーム(2008年4月 - 2010年3月) * [[モノランモノラン#本コーナー以外への出演|おっきい、ちっちゃいゲーム]](2009年4月 - 2010年3月) *: 「[[モノランモノラン]]」の主要キャラクター3人のうち1人が週替わりで登場し、進行を担当。 * ふしぎなつぼ(2009年4月 - 2010年3月) * あっぱれ!たまてばこ(2010年4月 - 2011年3月) * かおのてんらんかい(2010年4月 - 2011年3月) * リンちゃんどうする?(2011年4月 - 2013年3月) *:「[[パッコロリン]]」のリンが登場。様々な[[シチュエーション]]で横山だいすけと三谷たくみがリンにどうすべきか言うが、片方が間違ったことを言っている。最終的に間違っていた方はリンに「ニセモノのおにいさん・おねえさん」と正体を見破られ、妖怪の着ぐるみ姿になる。 * おえかきブギウギ(2011年4月 - 2013年3月)→ [[ポコポッテイト#本コーナー以外での出演|メーコブのおえかききぶん(2013年4月 - 2014年3月)→ め〜しゃしんかん(2014年4月 - 2016年3月)]] *: 当初は横山だいすけと三谷たくみが進行していたが、2013年度からは司会の1人が横山からメーコブ(「[[ポコポッテイト]]」)に変更。2014年度にはコーナーの内容が大幅に変更され、物を極度な視点で撮った写真を見て何か当てるコーナーになった。これにより三谷もメーコブの助手という位置づけになった。 * きょうのひらがな(2011年4月 - 2012年7月) * もじロックフェスにようこそ(2011年5月 - 2012年12月、2016年7月 - 2017年3月、2019年12月) *:「きょうのひらがな」と「もじロックフェスにようこそ」は2011年度は隔月交代で放送し、2012年度は4月から7月まで「きょうのひらがな」、夏特集中の放送無し期間を経て9月から12月まで「もじロックフェスにようこそ」を放送。「リンちゃんどうする?」と「もじロックフェスにようこそ」は一時期通常編成では放送されておらず、特別編成時で放送されることがあったが、「もじロックフェスにようこそ」は2016年7月より通常編成での放送が再開された。2017年3月に通常編成での放送を終了。その後、2019年12月のふゆスペシャルの中で、3日間放送された。 * 10かぞえたら(2011年4月 - 9月) * かぞえてんぐ(2013年4月 - 2017年3月) *:演:[[横山だいすけ]]、コーナー進行:ミーニャ([[ポコポッテイト]] 2013年4月 - 2016年3月)→ チョロミー([[ガラピコぷ〜]] 2016年4月 - 2017年3月) *: コーナーの内容やコーナーキャラクター「かぞえてんぐ」については[[横山だいすけ#かぞえてんぐ|横山の記事]]を参照。 * しりとりれっしゃ(2016年4月 - 2020年3月) *: [[小野あつこ]]が運転手、横山だいすけ→[[花田ゆういちろう]]が車掌に扮して進行。列車に荷物を載せるのだがしりとりの順に乗せないといけない。選択肢の中には、ダミー(最後が「ん」で終わる物や、言葉の末尾が最後尾に乗せられているものの頭文字に繋がらない物)もいくつか含まれている。 * [[ガラピコぷ〜#本コーナー以外での出演|ガラピコパズル]](2016年4月 - 2018年3月) *: コーナー進行:[[小林よしひさ]]とガラピコ([[ガラピコぷ〜]]) *: ガラピコが「絵」を持ってくるのだが毎回絵が[[パズル]]状に分解された状態になっており、「データが壊れてしまった…」と落ち込んだり「絵がバラバラです」と慌てたりしており、小林がガラピコを落ち着かせてからスタジオの子どもたちと一緒に考えながら絵を元に戻していって、何の絵なのかを当てていく。 *シルエットはかせ(2017年4月 - ) *:演:[[花田ゆういちろう]]、コーナー進行:ムームー([[ガラピコぷ〜]]、2017年4月 - 2022年3月)→ みもも、やころ、ルチータ([[ファンターネ!]]より3名のうち1名、2022年4月 - ) *: コーナーの詳細は[[花田ゆういちろう#シルエットはかせ|こちら]]を参照。 *: 2022年度からは内容を一部改変し、卒業したムームーに代わり、『ファンターネ!』のメインキャラクター3名のうち1名が週替わりで、進行を務める。 *プリンセス・ミミィ(2018年4月 - 2022年3月) *:演:[[小野あつこ]]、コーナー進行:チョロミー([[ガラピコぷ〜]]) *: コーナーの詳細は[[小野あつこ#プリンセス・ミミィ|こちら]]を参照。 *ガラピコにんじゃしゅぎょう(2019年4月 - 2022年3月)→ ニンニンにんじゃしゅぎょう(2022年4月 - 2023年3月) *:コーナー進行:[[福尾誠]]、[[秋元杏月]]とガラピコ([[ガラピコぷ〜]]、2019年4月 - 2022年3月) *: 福尾が赤忍者、秋元が青忍者に扮し、ガラピコがガラピコ忍者と称して進行。 *: 2019年度はスタジオに出演する一般の子供から1人または2人が選ばれお兄さん、お姉さんらと共に出演する。2019年3月までの身体表現のコーナー(後述)の内容を一部踏襲していた。 *: 2020年4月7日放送分からはマイナーチェンジされ、スタジオの子供たち全員参加で行うコーナーに変更されたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響から、2020年4月14日以降はうたのおにいさん・おねえさんの花田と小野が子供の代わりに参加する形式となっており、内容も2019年度版(花田・小野はいずれか一方のみ参加)と2020年度版(花田・小野ともに出演)の両方が放送されている。 *: 2021年度は福尾、秋元が修行のお手本を見せた後、視聴者が投稿した修行のビデオを流している。 *: ガラピコの番組卒業に伴い、2022年度からはコーナー名を変更、進行役が福尾と秋元のみとなり、オープニングアニメーションとBGMを一新している。 *そうぞうのへや(2020年4月 - 2023年3月) *:コーナー進行:そうぞう(声:[[関俊彦]]) *: 2020年1月の歌「ぞうのそうぞう」からの派生コーナー。お兄さん・お姉さんから1人、入室してスタート。そうぞうからある図形(円、三角形など)を提示され、想像をふくらませて図形に絵を描き足し作品を仕上げる。パレッティーノ(声∶[[宮田幸季]])、スケッチー(声∶[[田中あいみ]])が背景や模様付けを補助することもある。図形はお兄さん・お姉さんの出番が一巡したら変更、視聴者からの作品も募集し、随時紹介される。 *: そうぞう、パレッティーノ、スケッチーはアニメキャラクターとして登場しており、スタジオでの実写映像と合成されている。 *しりたガエルのけけちゃま(2022年4月 - ) *おはなししよう!(2022年4月 - ) *おえかきクレッピー(2023年4月 - ) *:演:[[ながたまや]] *きらぴかハッケンジャー(2023年4月 - ) === 身体表現 === 通常はスタジオに出演する一般の子供から1人が選ばれ<ref group="注釈">稀に双子で出演している子供などが選ばれる場合もあり、この場合はきょうだい揃って参加する。</ref>、お姉さんと共に出演する。特別編成の時は、子供の代わりに人形劇のキャラクターが1体出演することもある。各身体表現とも数パターンが存在し、日替わりで放送される。 1981年から体操を集団で行うものに対して、1人で行うもう1つの体操として設けられた<ref name="oricon">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2129790/full/ |title=『おかあさんといっしょ』“体操のお姉さん”新設 初代の秋元杏月が意気込み「元気とパワー届ける」 |date=2019-02-18 |accessdate=2019-02-18 |work=オリコンニュース}}</ref>。2019年3月をもって、後述の体操に吸収される形で廃枠となった。 ====ハイ・ポーズ==== *1981年4月6日 - 1994年4月2日 *太極拳とヨガをテーマにした体操。出演する子供は裸足で体操を行う。期間は13年と、身体表現の中でも著しく使用期間が長かった。 *「ぞうのポーズ」では太極拳をモチーフにしており、始まりと終わりに「アチョー」という掛け声が特徴である<ref name="nhkk198908"/>。向かい合って手と手を合わせて腕を押し合った後に体操を行う。「動物のポーズ」はヨガをモチーフにしており、座禅から体操を始める。こちらは一通りのポーズの後に床に体育座りをしておねえさんと子供は仰向けに寝る。数秒後におねえさんの合図で起き上がり再び座禅を組んで締めくくる。 *冒頭では画面が暗く、また不気味なBGMが流れていたため、「子供が怖がる」という苦情が多かった<ref name="youth004">[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010667 特集 なつかしの番組 おかあさんといっしょ「ハイ・ポーズ」-NHKアーカイブス]</ref>。 *1980年春より幼稚園・保育園・学校の長期休暇期間にパイロット版が放映されており、多くの回では男性体操インストラクターの吉田貢が出演していたが、一部の回では馮智英が出演している。<!--出典については、1980年度の長期休暇期間のNHKクロニクルに保存されている番組表を参照してください--> *作曲:[[クニ河内]]<ref name="youth004"/> *担当:吉田貢(パイロット版のみ)、[[馮智英]] ====トライ!トライ!トライ!==== *1994年4月4日 - 1999年4月3日 *1995年度まで使用された旧バージョンと、1996年度にリニューアルした新バージョンの2種類ある。 *1995年度までの旧バージョンは新体操をモチーフにしたもので、「リボン」「フープ」「ボール」の3バージョンがあった。曲もバージョン毎に異なる曲を使用していた。また、この旧バージョンでは子供は最初から出演しておらず、イントロをおねえさん単独で踊った後におねえさんが子供の名前を呼び、一緒に踊る。 *1996年度からのは全てのバージョン共通でアップテンポな音楽にリニューアルすると同時に、新体操で使うものに加え、身近なものや子供にもなじみがあるものを使ったバージョンが登場。これまであった「ボール」が廃止された代わりに、新たに「マラカス」、「クッション」、「スカーフ」の3バージョンが加わり、従来からの「リボン」、「フープ」も内容をリニューアルした。おねえさんの髪型もロングヘアーからショートカットに、服装もTシャツとショートパンツでの体操に変更された。 *身体表現コーナーに分類されるコーナーで唯一道具を必要とするコーナーであり、このことから、番組公式グッズとして「リボン」や「マラカス」が販売されていた。 *松野が番組卒業後にゲスト出演したファミリーコンサート『いつまでもともだち』では、[[佐藤弘道]]とスプーと共に「スペシャルバージョン」を披露した。 *作曲:[[池毅]] *担当:[[松野ちか]] ==== デ・ポン! ==== *1999年4月5日 - 2005年4月1日 *[[バリ舞踊]]をモチーフにしたダンスのコーナー。「'''デ・ポン!'''」と[[人差し指]]2本を横に動かしてポーズを取る。 *サブタイトルは全て「'''○○'''と'''××'''」となっており、共通の[[導入部|イントロダンス]]で「'''デ・ポン!'''」のポーズを2回取った後、前半部分で「'''○○'''」の部分を表現。一旦「'''デ・ポン!'''」のポーズを取った後、お姉さんが「'''何だろう?××だ!'''」(バリエーションあり)と言い、「'''××'''」の部分を表現する。最後は「'''デ・ポン!'''」のポーズを2回取る。 *1999年度はおねえさんと子供1人に加え、スプーも一緒に踊っていた。2000年度以降スプーは登場しなくなり、お姉さんと子供1人だけのスタイルに戻った。 *一緒に出る子供は男女問わず、お姉さん同様の[[ティアラ]]や[[指輪]]、[[ブレスレット]]などをしていることがある。<!-- している時としていない時がある理由は不明。信頼できる出典があればそれを追加お願いします。 --> *作曲:[[乾裕樹]] *担当:[[きよこ|タリキヨコ]] ====ズーズーダンス==== *2005年4月4日 - 2007年3月30日 *動物の動きをモチーフにしている。実施期間は2年間で、身体表現の中では最も短い期間で終了した。 *「トライ!トライ!トライ!」の旧バージョンと同じく子供は最初から出演しておらず、イントロをおねえさん単独で踊った後におねえさんが子供の名前を呼んで一緒に踊る。 *作曲:[[赤坂東児]] *担当:[[いとうまゆ]] ====ゴッチャ!==== *2007年4月2日 - 2012年3月31日 *いとうまゆの在任中に変更。おねえさん在任中にダンスが変わるという実例は『ズーズーダンス』から同ダンスに変わった今回が唯一である。これに伴い、いとうも「ズーズーダンスのおねえさん」改め「ゴッチャ!のおねえさん」となった。 *「三時!」と腕で時計の針をチアダンスで表現。 *「くらげ!」と頭の上で指をひらひらさせる動きとフラダンスで表現。[[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]以降は廃止された<ref group="注釈">これは「ざぶーん!小さい波〜大きい波〜」という、[[津波]]を連想させるフレーズが存在する事情による。</ref>。 *「えっさっさ!」と工事現場の働く車を盆踊りで表現。 *「ちょうちょ!」と手をひらひらさせて蝶々をバレエで表現。 *2007年度は月別、2008年度〜2011年度は週別で行われていた。最終日はポコポッテイトのキャラを含む出演者全員で「時計」バージョンを踊った。 *スペシャルステージではスペシャルバージョンとして、全バージョンをメドレーで行ったことがある。いとうが卒業後に出演した『[[みんないっしょに!ファン ファン スマイル]]』でも同様の形式(『くらげ』を除く)で行った。 *作曲:赤坂東児 *担当:いとうまゆ ====パント!==== *2012年4月2日 - 2019年3月30日 *アニメーション映像が使用されている。 *[[パントマイム]]の動きを基にしており、「風船」、「バナナ」、「タオル」、「ロボット」、「ロープ」、「傘」がある。また、冬季限定で「雪」も放送される。 *2012年のクリスマススペシャルの時には、クリスマス用の特別バージョンが放送された。 *コーナー終了時もいくつかパターンがある。 **上原が子供を抱いてエスカレーターのパントマイムで壁の向こう側に下がる。当初はこのパターンのみだった。なお、特集で人形劇キャラクターと行う場合は使用されない。 **扉を閉めるパントマイムをすると、アニメーションで扉が閉まる(ノブに「パント!」のロゴが描かれた札がかかっている)。 **ボタンを押すパントマイムをすると、パネルが飛び出る。 **傘バージョンのみ、子供を抱いたあとに、傘をさして後ろを向く。 **ファミリーコンサートでは、壁を伝って歩くパントマイムの後、上手袖で部屋から出てドアを閉めるパントマイムをし、電気を消すパントマイムで照明がカットアウトする。 *作曲:[[栗原正己]] *担当:[[上原りさ]] === 親子体操 === * 親子たいそう ** 1980年4月 - 1981年3月 ** 体操:輪島直幸 * ふたりであそぼう ** 1983年4月 - 1984年3月 ** 体操:瀬戸口清文 * ジンジンジム ** 1997年4月5日 - 2003年4月5日 ** どうぶつ、のりもの等をテーマに、おにいさんとおねえさんが親子で出来る体操を紹介。その日のテーマは参加する子供がサイコロを振って決めていた。テーマ選択後はおにいさん、おねえさんとそれぞれ体操を行い、最後は3人で行う体操と進行する。<br>例1:テーマが「りょこう」→オランダの風車に見立てて、たいそうのおにいさんが子供を抱え上げて風車のように1回転する体操。<br>例2:テーマが「ウルトラC」→車のシートベルトと称し、たいそうのおねえさんが子供を抱えた状態で床に座り、寝転んで床を転がる体操。 ** 体操 *** 佐藤弘道、松野ちか(1997年4月5日 - 1999年4月3日) *** 佐藤弘道、タリキヨコ(1999年4月10日 - 2003年4月5日) * でかけよう! ** 2008年4月5日 - 2019年3月25日 ** 体操 *** 小林よしひさ、いとうまゆ(2008年4月5日 - 2012年3月31日) *** 小林よしひさ、上原りさ(2012年4月7日 - 2019年3月25日) * あ・そ・ぎゅ〜 **2019年4月6日 - **体操 *** 福尾誠、秋元杏月(2019年4月6日 - 2023年3月28日) *** 佐久本和夢、秋元杏月(2023年4月8日 - ) *** 監修:佐藤弘道 *** 音楽:[[青空 (企業)|青空]] 「ジンジンジム」以降の親子体操は毎週土曜日の放送。このうち「ジンジンジム」と「でかけよう!」は平日の放送で放送される身体表現(「パント!」など)は休止となる。2018年度は各月の最終週のみ「あそべんちゃ~」放送のため休止。 === 体操 === 一時期は中盤に行われた事もあったが、基本的に終盤に行われエンディングと接続している。そのため、体操の最後はうたのおにいさん・おねえさんが登場して一緒に体操。概ね3分前後であり、毎回フルサイズで使用される。特別編成ではたいそうのおにいさんが単独で体操するバージョンや、おにいさん・おねえさん全員(人形劇キャラクターも加わるケースあり)で体操するバージョンが放送される。 ==== 元気に一、二 ==== * [[1961年]]4月 - [[1969年]]9月 * 作詞:[[吉岡治]] * 作曲:[[越部信義]] * 歌:[[ボーカル・ショップ]] * 体操 ** 1961年4月 - 1963年9月:[[砂川啓介]] ** 1963年10月 - 1967年3月:砂川啓介、[[佐久間俊直]] ** 1967年4月 - 1969年9月:砂川啓介、[[岡田祥造]] ==== おもちゃのラッパ ==== * [[1963年]]10月 - 1969年9月 * 土曜日のみ * 作詞:[[阪田寛夫]] * 作曲:[[湯山昭]] * 歌:[[ボン・クール]] * 体操 ** 1963年10月 - 1967年3月:佐久間俊直 ** 1967年4月 - 1969年9月:岡田祥造 ==== ジャンポンポン ==== * 1969年10月 - [[1974年]]3月 * 作詞:[[グループM]] * 作曲:[[山本直純]] * 歌:[[東京マイスタージンガー]] * ドラム:[[萩原忠利]] * 体操 ** 1969年10月 - 1971年3月:[[向井忠義]]、[[小西幸男]] ** 1971年4月 - 1973年3月:向井忠義、[[輪島直幸]] ** 1973年4月 - 1974年3月:輪島直幸、[[川原洋一郎]] ==== 地球をどんどん ==== * 1974年4月 - 1979年3月(『おかあさんといっしょ』本編)、1979年4月 - [[1983年]]3月(『どんどんどん』内で土曜日のみ) * 作詞:[[阪田寛夫]] * 作曲:越部信義 * 歌:[[こおろぎ'73]]、[[コロムビアゆりかご会]] * 体操: ** 1974年4月 - 1977年3月:輪島直幸、[[瀬戸口清文]] ** 1977年4月 - 1978年3月:輪島直幸、[[米田和正]]、[[一城みゆ希]] ** 1978年4月 - 1979年3月:瀬戸口清文、[[猪浦宏昌]]、一城みゆ希 ** 1979年4月 - 1980年3月:[[三笑亭夢之助]]、[[もりみやこ]] ** 1980年4月 - 1981年3月:[[山田隆夫]]、[[小泉裕美子]] ** 1981年4月 - 1982年3月:[[木幡研二]]、小泉裕美子 ** 1982年4月 - 1983年3月:[[柴田進]] * 1977年度、78年度は後述の『ようじ体操・スイッチオン』と並行して放送されており、79年度以降は『どんどんどん』のコーナー内に移行して土曜日のみ放送され、体操のおにいさんではなく同コーナーの出演者が担当していた。 ==== ようじ体操・スイッチオン ==== * 1977年4月 - [[1979年]]3月 * 作詞:[[伊藤アキラ]] * 作曲:[[森田公一]] * 編曲:[[丸山雅仁]] * 歌:[[水木一郎]]<ref group="注釈">水木は当時うたのおにいさんを務めており、ファミリーコンサートなどの特例を除き、現役のうたのおにいさんが体操の楽曲の歌唱を担当した唯一の実例となっている。</ref>、[[杉並児童合唱団]] * 体操:瀬戸口清文、米田和正、一城みゆ希 ==== パラランたいそう ==== * 1979年4月 - [[1980年]]3月 * 放送期間は1年間で、歴代体操の中でも最短で終了した。 * 作詞:[[山本正之]] * 作曲:越部信義 * 構成振付:[[関矢幸雄]] * 歌:[[ボニージャックス]] 、[[東京放送児童合唱団]] * 体操:瀬戸口清文 ==== コケコッコたいそう part 1/part 2 ==== * 1980年4月 - [[1982年]]3月 * 1980年度にpart1が放送され、1981年度に内容を一部リニューアルしたpart2を放送した。 * 作詞:[[片岡輝]] * 作曲:[[クニ河内]] * 歌:クニ河内、[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]] * 体操:瀬戸口清文 ==== ぞうさんのあくび ==== * 1982年[[4月5日]] - [[1996年]][[3月30日]] * 放送期間は14年で、歴代体操の中で最長。 * モノラル放送時代の1986年3月以前と、ステレオ放送となった1986年4月以降では曲のアレンジが異なっている(編曲者はいずれも[[乾裕樹]])。 * 作詞:[[遠藤幸三]] * 作曲:乾裕樹 * 歌:[[ザ・ブレッスン・フォー]]、[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]] * 体操 ** 1982年4月5日 - 1987年4月4日:瀬戸口清文 ** 1987年4月6日のみ:瀬戸口清文、[[天野勝弘]]<!--たぶん--> ** 1987年4月7日 - 1993年4月3日:天野勝弘 ** 1993年4月5日のみ:天野勝弘、[[佐藤弘道]] ** 1993年4月6日 - 1996年3月30日:佐藤弘道 ==== あ・い・うー ==== * 1996年[[4月1日]] - [[2005年]]4月1日 * 1996年の開始初期は一部振付が異なっており<ref group="注釈">1996年5月開催のファミリーコンサート「音楽博士の楽しいコンサート」では、開始初期の振付で体操しており、当時発売されたVHSにも収録されている。</ref>、1996年度途中で放送終了までの振りに変更された経緯がある。 * 1999年4月のみ番組の中盤に行われていたが、1ヶ月ほどで終盤に戻っている。 * 作詞:[[日暮真三]] * 作曲:[[渋谷毅]] * 歌:[[WA・WON]]、[[ひまわりキッズ]] * 体操:佐藤弘道 ==== ぱわわぷたいそう ==== * 2005年4月4日 - 2014年3月29日 * 楽曲は'''最初から最後まで曲のテンポが全く変わらない'''という、本番組の体操では珍しい曲。 * 前半と終盤には体で表現する[[じゃんけん]]の要素が含まれており、終盤では実際にじゃんけんが行われる。 * 元[[プロ野球]]選手の[[和田一浩]]が、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]所属時の2006年から2008年まで登場曲として使用していた。 * 作詞:[[平方宏明]] * 作曲:[[堀井勝美]] * 歌:[[中西圭三]]、[[木村真紀]]、[[ひまわりキッズ]] * 監修:佐々木玲子([[慶應義塾大学]]体育研究所教授) * 振付:[[杉谷一隆]]、NAO * 体操:[[小林よしひさ]] ==== ブンバ・ボーン! ==== * 2014年3月31日 - 2019年3月30日 * 中盤では歌詞に沿ったアニメーションが画面に表示される(ファミリーコンサートの放送を除く)。 * 歌詞にある「フラミンゴ」の部分は、稀に別の言葉になることがあり<ref group="注釈">「フラダンス」、「フラフープ」、「フライパン」、「フランケンシュタイン」、「フラメンコ」など、いずれも'''「フラ」で始まる言葉'''。小林が「すりかえかめん」を受け持つ火曜日限定で変更されていた。</ref>、それに合わせてアニメーションやポーズが変更される。 * 2016年以降の特別編成では、小林が世界中<ref group="注釈">映像は実際に現地で収録したものと、合成が混合している。</ref>で体操するビデオクリップ版が放送されることがあった。 * 作詞:[[谷口國博]] * 作曲:[[赤坂東児]] * 歌:[[コング桑田]]<ref group="注釈">桑田は2015年度の冬特集にてサンタクロース役でゲスト出演し、この回の「ブンバ・ボーン!」は桑田が生で歌唱した。</ref>、[[西けいこ]]、[[スマイルキッズ]] * 監修:[[中村和彦 (発育発達学者)|中村和彦]] * 振付:team たにぞう * アニメーション:[[西内としお]] * 体操:小林よしひさ ==== からだ☆ダンダン ==== * 2019年4月1日 - * たいそうのおにいさんとおねえさんの2人体制で進行する形式に移行し、週替わりで交互に出だしの合図などのメイン進行を担当している。 * 本曲より、通常の放送において従来月曜日のみの表示となっていた作詞・作曲者や監修者、振付師、歌手のテロップが毎回表示されるようになっている。 * 後に[[座位]]<ref group="注釈">椅子やベッドに座っても、足を伸ばしても曲げても、転倒に気を付けて無理なく体操できればどのように座っても良い。</ref>の運動「すわって からだ☆ダンダン」も製作され、2020年夏特集で初披露された。2021年度以降は、新型コロナウイルス感染防止対策の観点から子供が参加しない収録回では通常版と「すわって」版を並行して放送し、ファミリーコンサートの公演及び親子が参加しての収録では2022年度までは全て一貫して「すわって」バージョンを実施。2023年度は5月開催のファミリーコンサートで3年ぶりに通常版が行われ、2023年11月10日放送分より従来の収録形式の放送再開に伴い、子供が参加する収録でも通常版が実施されるようになった。 * 作詞:[[吉田戦車]] * 作曲:[[小杉保夫]] * 歌:Fourdans * 監修:内藤久士([[順天堂大学]]大学院スポーツ健康科学研究科教授)、巣立隆宏(東郷町施設サービス取締役・健康事業部長)、渡邉貴裕(順天堂大学スポーツ健康科学部先任准教授、「すわって からだ☆ダンダン」担当) * 振付:[[MAIKO (ダンサー)|MAIKO]] *CG<ref group="注釈">ビデオクリップ版のみ。</ref>:鈴木哲、木下美月、是村哲哉 * 体操 ** 2019年4月1日 - 2023年4月1日:[[福尾誠]]、[[秋元杏月]] ** 2023年4月3日 - :[[佐久本和夢]]、秋元杏月 === エンディング === 番組の最後には人形劇のキャラクターを含めたほぼ全ての出演者が登場する。当初は体を動かして遊ぶ内容だったが、「さよならマーチ」以降「べるがなる」使用期間途中の2020年度第1週目まで、および「きんらきらぽん」使用開始2年目の2023年11月以降のエンディングでは人形劇キャラクター(『スプラッピスプラッパ』のみお兄さん・お姉さん)2名が手をつないだアーチの下を、エンディングテーマ曲が流れている間に子供たちがくぐり抜けるのが定番となった。このハンドゲート部分の長さは2004年度までは番組の余剰時間に応じて調整されていたが、2005年度からは自然映像や歌コーナーの曲数など他のコーナーによって時間調整されるようになったため、通常放送においては一定となった。終わりの合図でハンドゲートが終了し、月曜日のみ(初期は週の最終日)一週間分のスタッフロールが流れる。最後に天井から多数のカラフルな[[風船]]が降ってきて、番組は終了する(一部の地方収録を除く)。「まねっこぷん」以前は回によっては省略され、体操が終わってそのまま番組が終了したケースもあった。 <!--出典無しでの「初代」「2代目」などの表記はやめて下さい--> ==== ゴロンタ音頭 ==== *1977年10月 - 1979年3月 *作詞:[[山元護久]] *作曲:[[越部信義]] *メンバー **[[水木一郎]]、[[たいらいさお]]、[[斉藤伸子]]、[[松熊由紀]]、[[輪島直幸]]、[[瀬戸口清文]]、ゴロンタ、トムトム、チャムチャム(1977年10月 - 1979年3月) ==== ブンブンホイ ==== *1979年4月 - 1982年3月 *ブンブンホイとは、全身を使って表現する、おかあさんといっしょ版「[[あっち向いてホイ]]」である。 *作詞:[[舟崎克彦]] *作曲:越部信義 *歴代メンバー **[[宮内良]]、[[奈々瀬ひとみ]]、瀬戸口清文、輪島直幸、ブンブン、つね吉、ごじゃえもん(1979年4月 - 1981年3月) **[[かしわ哲]]、[[林アキラ]]、[[しゅうさえこ]]、瀬戸口清文、ブンブン、つね吉、ごじゃえもん(1981年4月 - 1982年3月) ==== まねっこぷん ==== *1982年4月 - 1984年3月 *体で遊ぶ内容は、同エンディングが最後となる。『ブンブンホイ』までの『あっち向いてホイ』遊びのアレンジバージョンから、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろりの3人の動きを真似する内容となった。 *作詞:[[井出隆夫]] *作曲:越部信義 *歴代メンバー **かしわ哲、林アキラ、しゅうさえこ、瀬戸口清文、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1982年4月 - 1983年3月) **林アキラ、[[森みゆき]]、瀬戸口清文、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1983年4月 - 1984年3月) ==== さよならマーチ ==== *1984年4月2日 - 1992年10月3日 *『にこにこぷん』放送期間中に同エンディングに変更された。人形劇放送期間中にエンディングが変わる事例は「まねっこぷん」から同エンディングに変わる今回が初である。 *始まりの合図は、「ゴロニャーゴ、さぁさぁさよならマーチ、行くぞー!」と基本的にじゃじゃまるのかけ声だったが、後に『にこにこぷん』のキャラクターが一週間経つごとに交代していた。コンサートでの始まりの合図は「おしまいはいつものようにこの歌!さよならマーチ!」で、担当は歌のお兄さんの坂田おさむ。 *同エンディングから、エンディングのハンドゲートが定番化した。ハンドゲートは、『にこにこぷん』のじゃじゃまるとぽろりが担当。 *終わりの合図は、「はーい!今日はここまで!」。担当は、通常放送では体操のお兄さんであり、1987年4月4日までの当初は瀬戸口清文、1987年4月6日 - 1992年10月3日は天野勝弘が担当。コンサートの時は歌のお兄さんの坂田おさむが担当していた(一部のコンサートでは天野勝弘が担当)。 *8年半歌われるうちにアレンジが若干変化しており、アウトロ部分が1986年度までと1987年度以降で異なる。また、CDバージョンではアウトロやハンドゲート部分等のアレンジがO.A版と異なり、さらにファミリーコンサートでは回ごとにアレンジが異なっていた。 *作詞:井出隆夫 *作曲:越部信義 *歴代メンバー **林アキラ、森みゆき、瀬戸口清文、馮智英<ref name=ed-chie group="注釈">一部の回のみ参加。</ref>、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1984年4月2日 - 1985年3月30日) **林アキラ、[[坂田おさむ]]、森みゆき、瀬戸口清文、馮智英、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1985年4月1日のみ) **坂田おさむ、森みゆき、瀬戸口清文、馮智英<ref name=ed-chie group="注釈"/>、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1985年4月2日 - 1987年4月4日) **坂田おさむ、森みゆき、[[神崎ゆう子]]、瀬戸口清文、[[天野勝弘]]、馮智英、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1987年4月6日のみ) **坂田おさむ、神崎ゆう子、天野勝弘、馮智英<ref name=ed-chie group="注釈"/>、じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり(1987年4月7日 - 1992年10月3日) ==== ドレミファ列車 ==== *1992年10月5日 - 1999年4月3日 *地方のNHKスタジオでの収録では、『ドレミファ・どーなっつ!』のキャラクターはみどとふぁどのみが登場していた。 *始まりの合図は、通常放送では「さぁ、体操の後は、ドレミファ列車!」などと言って始まり、『ドレミファ・どーなっつ!』のキャラクターが日替わりで担当していた<ref group="注釈">1995年10月からの一時期のみ、当時のたいそうのおにいさんである佐藤が体操からの流れで「体操の後は、ドレミファ列車!」と言って始まっていた。</ref>。コンサートの時の始まりの合図は1995年秋以前は「出発、進行!」が基本的なパターンで、担当は体操のお兄さんの佐藤弘道。1996年春以降は「おしまいはいつものようにこの歌!ドレミファ列車!」に変更され、担当は歌のお兄さんの速水けんたろう(1998年春は佐藤弘道が担当)。 *ハンドゲートの担当キャラクターは、1996年3月以前は『ドレミファ・どーなっつ!』のみどとふぁどで固定だったが、1996年4月以降はれっしーと空男も担当するようになり、一週間ごとに交代していた。 *終わりの合図は、「はーい!もうすぐしゅうてーん!」。担当は、前のエンディングと同じく体操のお兄さんであり、1993年4月3日までの当初は天野勝弘、1993年4月5日 - 1999年4月3日は佐藤弘道が担当していた<ref group="注釈">1993年4月5日は、新旧交代の日であり下記のメンバーで放送され、終わりの合図は佐藤弘道が行った。近年とは異なり週の始まりの月曜日に放送したため、スタッフロールが流れている。この回に関しては、NHKの番組公開ライブラリーで視聴することができる。</ref>。 *曲のタイトルは、同エンディングまで表示されていない(ファミリーコンサートの放送を除く)。 *作詞:井出隆夫 *作曲:[[乾裕樹]] *歴代メンバー **坂田おさむ、神崎ゆう子、天野勝弘、馮智英<ref name=ed-chie group="注釈"/>、みど、ふぁど、れっしー、空男(1992年10月5日 - 1993年4月3日) **坂田おさむ、[[速水けんたろう]]、神崎ゆう子、[[茂森あゆみ]]、天野勝弘、[[佐藤弘道]]、馮智英、みど、ふぁど、れっしー、空男(1993年4月5日のみ) **速水けんたろう、茂森あゆみ、佐藤弘道、馮智英<ref name=ed-chie group="注釈"/>、みど、ふぁど、れっしー、空男(1993年4月6日 - 1994年4月2日) **速水けんたろう、茂森あゆみ、佐藤弘道、[[松野ちか]]<ref group="注釈">就任初期(1994年)の頃は、参加していない回が存在する。</ref>、みど、ふぁど、れっしー、空男(1994年4月4日 - 1999年4月3日) ==== スプラッピ・スプラッパ ==== *1999年4月5日 - 2009年3月27日 *1999年4月の番組リニューアルに従い、同エンディングに変更。使用開始当時『スプーとガタラット』に出演していたスプーがエンディングに登場するようになったため、『ドレミファ・どーなっつ』のキャラクターはエンディングに登場しなくなった。 *始まりの合図は、「最後は、僕のラッパで踊ろーう!」という、スプーのかけ声である。コンサートの時の始まりの合図は、「お別れは、スプーのラッパで!」。担当は体操のお兄さんであり、2004年秋までの当初は佐藤弘道、2005年秋 - 2008年秋は小林よしひさが担当。2005年春は、通常放送と同じくスプーの「最後は、僕のラッパで踊ろーう!」だった。 *ハンドゲートは、スプーが「さあ行こう!」と言ってゲートくぐりが始まる。『スプーとガタラット』の頃から使用されていた関係上、人形劇キャラクターがスプー以外は登場せず<ref group="注釈">ファミリーコンサートでは『ドレミファ・どーなっつ!』や『ぐ~チョコランタン』の他のメンバーも、エンディングに登場していた。</ref>、ハンドゲートが「さよならマーチ」から前のエンディング「ドレミファ列車」まで担当していた人形劇キャラクターから、お兄さん・お姉さんに変更された。2003年4月5日までは歌のお兄さん・歌のお姉さんである杉田あきひろ・つのだりょうこ、2003年4月7日から2005年4月15日までは同じく歌のお兄さん・歌のお姉さんである今井ゆうぞう・はいだしょうこ<ref group="注釈">2005年4月1日では新旧交代の日のため、体操のお兄さん・身体表現のお姉さんとなる小林よしひさ・いとうまゆも同時に担当。</ref>、2005年4月18日から2008年3月28日までは体操のお兄さん・身体表現のお姉さんである小林よしひさ・いとうまゆ、2008年3月31日からは歌のお兄さん・歌のお姉さんである横山だいすけ・三谷たくみが担当していた。 *ゲートくぐりの最中にスプーが決まった台詞を言っていた(「虹のゲートまで」→「トンネルくぐってくぐって」→「まわってまわって」→「みんな上手上手」、2004年まで省略あり)。 *同エンディングから後述の『べるがなる』まで、歌終わりの合図が「そろそろ、おしまーい!」で定着した。それに伴い、コンサート呼びかけ部分で歌詞を一切歌わなくなる。また2005年3月31日以前は、前のエンディングと同じく体操のお兄さんである佐藤弘道が担当。2003年4月5日・2005年4月1日は、この日をもって番組を卒業する出演者が担当していた。2005年4月4日 - 4月15日は同じく体操のお兄さんである小林よしひさが担当していたが、小林がハンドゲート役に変わった同年4月18日以降はスプーが担当した(ファミリーコンサートでは、引き続き小林よしひさが担当)。 *「おかあさん(改行)と(改行)いっしょ」のロゴの使用はこのエンディングが最後となった。ロゴの最終使用日は[[2009年]][[3月28日]]だが、『[[ぐ〜チョコランタン]]』終了に伴う特別編成によりこの曲は使用されなかった(2009年春特集および[[ぐ〜チョコランタン#備考|『ぐ〜チョコランタン』の記事]]も参照)。 *2003年4月5日と2008年3月28日は特別編成のため子供は参加せず、新旧歌のお兄さん・歌のお姉さん含む出演者6名とスプーのみ出演した。 *放送期間は10年間と、番組で最も長期に渡り使用されたエンディングテーマとなっている。その間に、イントロのアレンジが数回変わっている(使用開始初期、1999年度途中〜2004年度、2005年度以降)。さらに、99年度前期と後期、2000年度以降で振付が変更されている。 *2016年には、当時インディーズで活動していたロックバンド「[[ヤバイTシャツ屋さん]]」によってカバーされ、ライブでも番組と同様の演出が行われている<ref>[http://yabaitshirtsyasan.com/discography/disco003.html Discography 「そこまでレアじゃない」] - ヤバイTシャツ屋さん 公式サイト</ref>。 ** ボーカルのこやまたくやも、3歳の頃に番組に出演した経験があり、NHKにその映像が残っている<ref>[https://www.nhk.or.jp/freshers/ ヤバT×NHK 〜公共放送のこと、知ってほしい!〜 「案外わるないNHK。」byヤバイTシャツ屋さん]</ref>。 *作詞:[[鈴木竹志]] *作曲:[[堀井勝美]] *歴代メンバー **[[杉田あきひろ]]、[[つのだりょうこ]]、佐藤弘道、[[きよこ|タリキヨコ]]、[[スプー]](1999年4月5日 - 2003年4月4日) **杉田あきひろ、つのだりょうこ、[[今井ゆうぞう]]、[[はいだしょうこ]]、佐藤弘道、タリキヨコ、スプー(2003年4月5日のみ) **今井ゆうぞう、はいだしょうこ、佐藤弘道、タリキヨコ、スプー(2003年4月7日 - 2005年3月31日) **今井ゆうぞう、はいだしょうこ、佐藤弘道、タリキヨコ、[[小林よしひさ]]、[[いとうまゆ]]、スプー (2005年4月1日のみ) **今井ゆうぞう、はいだしょうこ、小林よしひさ、いとうまゆ、スプー(2005年4月4日 - 2008年3月27日) **今井ゆうぞう、はいだしょうこ、[[横山だいすけ]]、[[三谷たくみ]]、小林よしひさ、いとうまゆ、スプー(2008年3月28日のみ) **横山だいすけ、三谷たくみ、小林よしひさ、いとうまゆ、スプー(2008年3月31日 - 2009年3月27日) ==== あしたてんきにな〜れ! ==== *2009年3月30日 - 2017年3月24日、2021年3月20日 *『[[モノランモノラン]]』より使用開始されたエンディングだが、同人形劇が短期間で終了したため『[[ポコポッテイト]]』に変わった後も使用。同人形劇が終了し、『[[ガラピコぷ〜]]』への交代と共にオープニングや番組セットが変更された後も、1年間引き続き使用されていた。 *始まりの合図は、人形劇キャラクターの掛け声「最後は、あしたてんきにな〜れ!」である。担当は、2011年3月25日以前は『モノランモノラン』のキャラクター、2011年3月28日 - 2016年3月31日は『ポコポッテイト』のキャラクターが担当。2016年4月4日 - 4月9日のみ体操のお兄さんの小林よしひさが担当していたが、同年4月11日以降は『ガラピコぷ〜』のガラピコが担当。コンサートの始まりの合図は、「それじゃあ、最後は…あしたてんきにな〜れ!」。担当は当初は歌のお兄さんの横山だいすけ、後に人形劇のキャラクターが担当するようになった。 *ゲートくぐりは人形劇の掛け声で始まる。掛け声は2011年3月25日までは『モノランモノラン』のプゥートの「それじゃあ、元気に行くぜ〜っ!」、2011年3月28日に『ポコポッテイト』に変わった当初は常にミーニャの「さあ、元気に行くニャ!」だったが、のちにキャラクターが交代して担当するようになった。『ガラピコぷ〜』に変わった2016年4月4日からはムームーの「さあ、元気に行くよ!」であった。 *ハンドゲートは、「ドレミファ列車」以前と同じく人形劇キャラクターが担当。担当は2011年3月25日以前は『モノランモノラン』のキャラクターが、2011年3月28日から2016年3月31日は『ポコポッテイト』のキャラクターが一週間経つごとに交代。2016年4月4日以降は『ガラピコぷ~』のチョロミーとムームーが担当。 *2016年4月4日から4月9日は『ガラピコぷ〜』からチョロミーとムームーのみだったが、2016年4月11日からガラピコもエンディングに登場するようになった。 *終わりの合図は、前エンディングと同じく「そろそろ、おしまーい!」。当時の歌のお兄さんの横山だいすけが一貫して担当<ref group="注釈">但し、2013年6月3日放送分から6月7日放送分までの1週間のみ横山の体調不良により、横山の担当部分を当時の歌のお姉さんだった三谷たくみが代行した。</ref>。 *前エンディング「スプラッピスプラッパ」と同じく特集などの特別編成では使用されない他、「あつまれ!土曜日」の地方収録でもラスト部分の[[インストゥルメンタル]]が流れるのみとなっている。ファミリーコンサートでも、歌わなかった事が何度かあった。 *赤地の雲に「おかあさんと(改行)いっしょ」のロゴが初めてエンディングに用いられた。また、テロップ部分が2010年度途中からHD位置に移動した際に番組で使用するテロッパーが変更されたため、「おわり」のフォントがナールから[[スーラ (書体)|スーラ]]に、番組ロゴに付いていた黒縁が無くなるといった変更が実施された。 *同エンディング途中から2013年度まで[[NHKオンデマンド]]での見逃し配信が行われていたため、基本毎週月曜日にエンドクレジットと同時に画面上に「この番組はNHKオンデマンドで配信します。」と表示されていた。 *先述通り2011年4月4日から4月30日の間はスタジオパートに一般の子供が参加しなかったためハンドゲートは行わず、コンサート時に準じて出演メンバーが呼びかけを行うスタイルになっていた。 *このエンディングは8年間使用されたが、2009年度途中より振付が変更されている。また、2013年5月より一部出演者の立ち位置や、ゲートくぐりの順番が変更になっている。 *本曲のエンディングとしての使用終了後、2021年3月20日放送回のスタジオライブ「明日」のエンディングにて久々に使用された(終わりの合図は、花田が担当)。 *作詞:[[日暮真三]] *作曲:[[赤坂東児]] *歴代メンバー **横山だいすけ、三谷たくみ、小林よしひさ、いとうまゆ、ライゴー、スイリン、プゥート(2009年3月30日 - 2011年3月25日) **横山だいすけ、三谷たくみ、小林よしひさ、いとうまゆ、ムテ吉、ミーニャ、メーコブ(2011年3月28日 - 2012年3月29日) **横山だいすけ、三谷たくみ、小林よしひさ、[[上原りさ]]、ムテ吉、ミーニャ、メーコブ(2012年4月2日 - 2016年3月31日) **横山だいすけ、[[小野あつこ]]、小林よしひさ、上原りさ、チョロミー、ムームー、ガラピコ<ref group="注釈">ガラピコのみ、先述通り4月11日から登場。</ref>(2016年4月4日 - 2017年3月24日) **花田ゆういちろう、小野あつこ、福尾誠、秋元杏月(2021年3月20日のみ)<ref group="注釈">この回は、『ガラピコぷ~』のメンバーはエンディング未登場。</ref> ====べるがなる==== *2017年4月3日 - 2022年4月2日 *『ガラピコぷ〜』の放送期間中に、エンディングが変更された。 *始まりの合図は、「さいごは、べるがなる」。『ガラピコぷ〜』のキャラクターが一週間経つごとに交代して担当していた。合図担当のキャラクターは『ガラピコぷ〜』本編で登場した「しずくハーモニー」というベルを手に持っている。コンサートでの始まりの合図は「それじゃあさいごは、べるがなる」で、うたのおにいさんと出演者全員の掛け声で始まる。 *ハンドゲートは、前のエンディングと同じく人形劇のキャラクターが担当。『ガラピコぷ〜』のキャラクターが週替わりで担当しており、前のエンディングとは異なりガラピコもハンドゲートに参加するようになった。ハンドゲート開始の掛け声は「さあ、トンネルいくよー」で、こちらも『ガラピコぷ〜』のキャラクターが週替わりで担当。 *終わりの合図は、前2代エンディングと同じく「そろそろ、おしまーい!」。うたのおにいさんである[[花田ゆういちろう]]が担当<ref group="注釈">但し、最後の使用となった2022年4月2日のみ、花田と小野の2名で担当した。</ref>。 *同エンディングから毎週月曜のスタッフロールが画面右側に縦スクロール表示から、画面下側に横スクロール表示に変更された。また、2019年度からは先述の体操と同様、従来月曜日のみの表示だった作詞作曲者のテロップ表示が毎回表示に変更されている。 *2017年4月10日放送分より演奏時間が長くなり、ラストの部分での一部出演者の立ち位置が変更になった。 *後に、歌詞がフルバージョン<ref group="注釈">通常放送でのハンドゲート部分やファミリーコンサートで出演者が挨拶を行う部分にも、歌詞が当てられている。</ref>のビデオクリップ版も製作された。エンディングテーマに専用のビデオクリップが製作されたのは、今回が初の事例となっている。ビデオクリップ版は2017年7月31日放送分の特別編成で初放送され、当初は主に番組が特別編成の時限定で使用されていたが、2020年以降は後述の事情から通常放送でも使用されるケースが多くなった。2019年7月29日放送分以降はアニメーションはそのままに、おにいさん・おねえさんらによる実写のダンスが撮りなおされた新バージョンが使用されていた<ref group="注釈">これは小林と上原が卒業し、福尾と秋元が就任したことに伴うもので、引き続き出演した花田と小野の衣装も変更されている。</ref>。 *先述通り2020年4月6日からスタジオパートに一般の子供が参加しなくなった回は、上記のビデオクリップ版を使用するか、おにいさん、おねえさん、キャラクターがスタジオで歌い踊るスタイルの2通りとなっていた。スタジオ撮影分にはフルバージョンの歌詞で歌うパターンのほか、ハンドゲート部分でおにいさん、おねえさんが呼びかけをしながら遊ぶ映像も複数パターンある。 *2021年12月20日に制限付きながらスタジオパートに一般の親子を入れるようになってからは、花田・小野と一般出演者は所定の座席に着席した状態で行われ<ref group="注釈">福尾・秋元とキャラクターはスタジオの後方に並んで踊っていた。</ref>、ハンドゲートはなくフルバージョンの歌詞で行っていた。ただし毎回行われるわけではなく、行われなかった場合は上記のビデオクリップ版が流される。 *最終使用日となった2022年4月2日では翌週からうたのおねえさんに就任する[[ながたまや]]が加わり、ハンドゲート部分では卒業する小野と『ガラピコぷ〜』のキャラクターが挨拶を行った。 *作詞:[[山村浩二]]<ref group="注釈">ビデオクリップ版のアニメーションも担当。</ref> *作曲:[[櫻井映子]] *メンバー **[[花田ゆういちろう]]、小野あつこ、小林よしひさ、上原りさ、チョロミー、ムームー、ガラピコ(2017年4月3日 - 2019年3月22日) **花田ゆういちろう、小野あつこ、[[福尾誠]]、[[秋元杏月]]、チョロミー、ムームー、ガラピコ(2019年4月1日 - 2022年3月30日) **花田ゆういちろう、小野あつこ、[[ながたまや]]、福尾誠、秋元杏月、チョロミー、ムームー、ガラピコ(2022年4月2日のみ) ==== きんらきらぽん ==== *2022年4月4日 - *『ファンターネ!』の開始に伴い、エンディングが変更された。『べるがなる』使用末期の収録形式変更に準じ、通常回では2022年度版・2023年度版共に出演者のみで収録した3パターンの映像を使用し、放送センターでの親子参加回では花田・ながた及び出演親子は所定の位置に着席、福尾(2022年度のみ)・佐久本(2023年度以降)・秋元・『ファンターネ!』のキャラクターはスタジオ後方に立って並ぶ形式で収録したものが放送されている。2023年7月7日放送分から親子収録でも最後に風船が降るようになった。 *振付の一部に歌詞に合わせた手話が用いられているが、2022年8月1日からの夏特集期間には「手話でうたおう!きんらきらぽん」として、曲全体の振付に手話を用いたバージョンが登場した。「手話でうたおう!」版では曲に入る前に、おにいさん・おねえさん達による手話についての説明パートが設けられている。2022年9月以降は通常放送でも「手話でうたおう!」版が使用されることがある。通常放送時に「手話でうたおう!」版を放送する際は、番組の余剰時間に応じて説明パートを放送する場合と割愛する場合がある。出演者の交代により2023年度に一新し、木曜日固定で放送している。「手話でうたおう!」版は2022年度版は6パターン、2023年度版は3パターンの映像があるが、掛け声のパートが異なるのみで、それ以外の映像は共通となっている。 *開始の合図は、「ファンターネ!」のキャラクターが日替わりで「最後はみんなで、きんらきら」と言った後、全員で「ぽん!」と言う。 *中盤は「ファンターネ!」のキャラクターの合図で、ソロパートを真似する部分がある。合図するキャラクターは日替わりだが、子供がいる収録ではやころ固定。ファミリーコンサートでは、このパートが出演者の挨拶パートとなる。 *使用開始時にハンドゲートが行われていなかったためか、「スプラッピ・スプラッパ」から長らく続いてきた「そろそろ、おしまーい!」の掛け声もなくなった。その代わり、ソロパート終了後、「さあ、みんなで『おーい』だよ! せーの!」という掛け声がある。通常版は2022年度は花田のみ担当し、2023年度は花田とながたが交代で担当。「手話でうたおう!」版では2022年度版・2023年度版共に花田が担当するバージョンとながたが担当するバージョンが存在する。 *2023年11月10日より、2020年4月1週目以来となる従来形式の収録の放送が再開された事に伴い、「べるがなる」まで行われていたキャラクターによるハンドゲートを潜る形式が復活した。従来版における、キャラクターの動きを真似するパート部分が置き換えられている。ハンドゲート終了時の掛け声は引き続き「さあ、みんなで『おーい』だよ! せーの!」で、花田とながたが週替わりで担当する。再開時点では同年10月まで親子収録が放送されていた金曜または土曜の放送で使用される。 *作詞:[[斎藤陽道]] *作曲:[[牧野奏海]] *メンバー **花田ゆういちろう、ながたまや、福尾誠、秋元杏月、みもも、やころ、ルチータ(2022年4月4日 - 2023年3月31日) **花田ゆういちろう、ながたまや、福尾誠、[[佐久本和夢]]、秋元杏月、みもも、やころ、ルチータ(2023年4月1日のみ) **花田ゆういちろう、ながたまや、佐久本和夢、秋元杏月、みもも、やころ、ルチータ(2023年4月3日 - ) **花田ゆういちろう、ながたまや、佐久本和夢、秋元杏月、エルモ、ジュリア、クッキーモンスター(2023年11月16日のみ) == BSおかあさんといっしょ == : [[2002年]][[4月1日]]から放送開始。衛星第2テレビにて月 - 木曜日10:00 - 10:20(再放送:12:15 - 12:35、ファミリーコンサートの放送では10分拡大されるケースがあった)に放送。 : 「[[ぐ〜チョコランタン]]」が「おかあさんといっしょ」での放送が終了し、「BSおかあさんといっしょ」のみの放送となった[[2009年]][[3月30日]]からは「BSおかあさんといっしょ スプーとあそぼ」というタイトルで放送していた。 : 主に歌、体操、人形劇のコーナーで構成され、身体表現や2000年度以降の日替わりコーナー枠は設けられていない。また、当時の「おかあさんといっしょ」とは番組構成が異なり、人形劇で始まり、歌のコーナーは後半に集中する1998年度以前に近い構成だった。 : スタジオコーナーでは、当時の「おかあさんといっしょ」では廃止されていた地方収録が行われていた。 : 番組編成により本放送の時間帯が休止となり、再放送の時間帯が本放送となるケースも多かった(後述の最終回も、これに該当する)。 : 映像サイズは当初アナログ・デジタルともに4:3であったが、現在はハイビジョン制作となっているため、デジタル放送では16:9サイズで放送されていた。 : [[2010年]][[3月18日]]をもって放送終了。「ぐ〜チョコランタン」の最終回が再放送された後に出演者全員が番組終了の告知と挨拶し、「さみしくなんかないってば」を歌唱して8年間の放送を終えた。 === 出演者 ===<!--ポジション別の箇条書きなのは不案内な閲覧者の皆さんの事を考えての事です。--> *うたのおにいさん:[[ひなたおさむ]] *うたのおねえさん:[[かまだみき]] *たいそうのおにいさん:[[恵畑ゆう]](担当体操は後述、うたのおにいさんの側面もあった)<!--正式にはたいそうのおにいさんなのでうたのおにいさんポジションには記述しない--> *人形劇:[[ぐ〜チョコランタン]] === オープニング === 「おかあさんといっしょ」で1999年4月5日 - 2009年3月28日で使用されていた、スプーが登場するCGとアニメーションを組み合わせた[[堀井勝美]]作曲のもの。 番組タイトル部分もそのまま使用し、上部に「BS」の文字が付加されている。 === アニメーション === *きょうはだれかな?(2002年4月 - 2008年3月) *[[パンツぱんくろう]](2008年3月 - 2010年3月) === 体操 === 当時、「おかあさんといっしょ」でも使用されていた2つの体操をそれぞれ「おかあさんといっしょ」と同じ時期に使用。 ==== あ・い・うー ==== *2002年4月1日放送開始時 - [[2005年]]3月 *作詞:[[日暮真三]] *作曲:[[渋谷毅]] *歌:[[WA・WON]]、[[ひまわりキッズ]] *体操:[[恵畑ゆう]] ==== ぱわわぷたいそう ==== *2005年4月 - 2010年3月17日 *作詞:[[平方宏明]] *作曲:[[堀井勝美]] *歌:[[中西圭三]]、[[木村真紀]]、ひまわりキッズ *監修:[[佐々木玲子]] *振付:[[杉谷一隆]]、[[振付稼業air:man|NAO]] *体操:恵畑ゆう === エンディング === '''スプラッピ・スプラッパ''' *初回から最終回前日の放送まで、一貫して使用。 *基本的な流れは本家と全く同じ。ハンドゲートは歌のお兄さん・お姉さんのひなたとかまだが担当し、終わりの合図は体操のお兄さんの恵畑ゆうが担当。 *本家に合わせて、2005年度より出だし部分のアレンジが変わった。 *作詞:[[鈴木竹志]] *作曲:[[堀井勝美]] *メンバー:[[ひなたおさむ]]、[[かまだみき]]、[[恵畑ゆう]]、スプー '''さみしくなんかないってば''' *最終回のみ使用。 *元々は、『星空のメリーゴーラウンド〜50周年記念コンサート〜』にて歌唱された楽曲。 *作詞:井出隆夫 *作曲:赤坂東児 *メンバー:ひなたおさむ、かまだみき、恵畑ゆう、スプー == おかあさんといっしょ あそびだいすき! == : [[2005年]][[4月9日]]から開始し、[[2008年]][[3月29日]]で終了。教育テレビにて毎週土曜日8:35 - 9:00(再放送:17:00 - 17:25。おかあさんといっしょファミリーコンサート放送の週を除く)に放送。 : 2005年4月1日をもって『おかあさんといっしょ』を卒業した体操のおにいさん[[佐藤弘道]]と身体表現のおねえさんの[[きよこ]](タリキヨコから改名)が外に飛び出し、親子とともに体を使って楽しむという内容。 : 途中アニメやミニコーナーがあり、平日版の人気コーナーだった「イチジョウマン」はこの番組に引き継がれた。 : オープニングと遊びの説明アニメーション制作は[[秋元きつね]]・井上雪子のユニット「ノラビット」による。 === 出演者 === * [[佐藤弘道]]・[[きよこ]] === 番組内容 === ==== アニメーション ==== * [[ショベルカーディグスとはたらく車たち]](2005年4月 - 2007年7月) ==== コーナー ==== * イチジョウマン : 演:[[佐藤弘道]] : 前述の通り『おかあさんといっしょ』にて2003年4月より開始し、佐藤弘道が2005年より『おかあさんといっしょ あそびだいすき!』に移動に伴い同番組にて最終回まで放送された。 ==ファミリーコンサート== 1985年に「'''おかあさんといっしょ ファミリーステージ'''」として初開催。1989年以降は春と秋の年2回行われているほか、2000年代からは[[日本放送協会|NHK]]の他番組も参加した大規模なコンサートも定期的に実施されている。 {{Main|おかあさんといっしょのコンサート一覧}} == 映画 == 2018年より、親子で楽しめる「体験型ファミリー映画」<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/movie/88658/ |title= 「映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険」|date=2018-02-15 |accessdate=2018-09-20 |work=映画.com}}</ref>として製作されている。いずれの作品も、親子での鑑賞や映画館に慣れていない子供に配慮して通常の映画に比べて照明は暗くならず、音量も控えめになっているという特徴がある。 === 映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険 === 2018年9月7日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第1作。2018年当時のレギュラー出演者とゲストの[[満島真之介]]による実写パートと、『ガラピコぷ〜』のアニメーション版の2部構成。『ガラピコぷ〜』のアニメーション版では、横山だいすけ(11代目うたのおにいさん)と[[関根麻里]]がゲスト声優として出演。 ;出演 *花田ゆういちろう *小野あつこ *小林よしひさ *上原りさ *満島真之介(ゲストお兄さん) ;アニメーション版『ガラピコぷ〜』声の出演 *チョロミー - 吉田仁美 *ムームー - 冨田泰代 *ガラピコ - 川島得愛 *スキッパー - 西川貴教 *ゴムリ - 横山だいすけ *イオ - 関根麻里 ;作品情報 *製作:『映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険』製作委員会 *配給:[[日活]] [[ライブ・ビューイング・ジャパン]] *制作:[[NHKエデュケーショナル]]/[[ダイナモピクチャーズ]] *上映時間:70分 *プロデューサー:[[古屋光昭]] / [[高橋信一]] === 映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ! === 2020年1月24日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第2作<ref>[https://eiga-okaasan.jp/2020/ 『映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!』公式サイト]</ref>。今作はおにいさん・おねえさんらの実写パートと『ガラピコぷ〜』のアニメーションパートでストーリーがリンクしており、劇中で随時両方の世界観を行き来する。2020年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、上原りさ、横山だいすけ、[[賀来賢人]]がゲストとして出演。興行収入は1億5100万円<ref>『キネマ旬報』2021年3月下旬特別号 p.53</ref>。 ;出演 *花田ゆういちろう *小野あつこ *福尾誠 *秋元杏月 *小林よしひさ(すりかえかめんも演じる) *上原りさ(すりかえお嬢も演じる){{efn|なお、上原は本人としては劇中は未登場で、エンディングテーマ「地球ぴょんぴょん」の1カットでのみ登場している。}} *横山だいすけ *賀来賢人 ;声の出演 *チョロミー - 吉田仁美 *ムームー - 冨田泰代 *ガラピコ - 川島得愛 ;作品情報 *製作:『映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ!』製作委員会 *配給:日活 ライブ・ビューイング・ジャパン *制作:NHKエデュケーショナル/ダイナモピクチャーズ *脚本:杉山王郎 *音楽:ベアグラウンド === 映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出! === 2021年9月10日に劇場公開された、『おかあさんといっしょ』の劇場版第3作<ref>[https://eiga-okaasan.jp/2021/ 『映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!』公式サイト]</ref>。2021年時点のレギュラーメンバーに加え、小林よしひさ、横山だいすけ、[[小池徹平]]がゲストとして出演。興行収入は7200万円<ref>『[[キネマ旬報]]』 2022年3月下旬特別号 p.39</ref>。 ;出演 *花田ゆういちろう *小野あつこ *福尾誠 *秋元杏月 *小林よしひさ *横山だいすけ *小池徹平 ;声の出演 *チョロミー - 吉田仁美 *ムームー - 冨田泰代 *ガラピコ - 川島得愛 *スキッパー - 西川貴教 ;作品情報 *製作:『映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出!』製作委員会 *配給:日活 ライブ・ビューイング・ジャパン *制作:NHKエデュケーショナル/ダイナモピクチャーズ *脚本:杉山王郎 *振付:振付屋かぶきもん *音楽:ベアグラウンド == 番組関連イベント == ファミリーコンサート以外にもおかあさんといっしょ関連のイベントが存在する。ファミリーコンサート開始以前の1980年代まではデパート等や各地の市民会館でのイベントが行われることもあった。 1990年代からは人形劇をメインに据えた地方巡回イベント「おかあさんといっしょ ○○がやってきた!(○○はイベント実施当時放送中の人形劇タイトル)」が開始された。(スタート当初は[[ドレミファ・どーなっつ!]])出演者は人形劇キャラクターのほか、番組の歴代おにいさん・おねえさんや他番組やイベントで活躍するおにいさん・おねえさんである。また、出演当時、おかあさんといっしょの現役おにいさん・おねえさんが出演したケース<ref group="注釈">2002年3月10日に[[埼玉県]][[草加市]]の草加市文化会館であった「[[ぐ〜チョコランタン]]がやってきた!」では当時現役のうたのおにいさんだった杉田あきひろが出演したケースなど。</ref>もあり、卒業後に現役時代コンビだったおにいさん・おねえさんがそろって登場したケースもある。(このイベントのテレビ放送はなし) このほか、「○○小劇場(○○は開催当時放送中の人形劇タイトル)」として、さらに小規模なイベントも開催されている。 いずれのイベントも、開催地のある地域のNHKの放送局で告知されており、ファミリーコンサート同様に一定の人気がある。 == 雑誌 == 1月・4月・7月・10月の各15日ごろに、『NHKのおかあさんといっしょ』が[[講談社]]から発売されている。今月の歌の歌詞や、いろいろな歌や、しつけなどが載っている。また、保護者向けに番組関連の特集コーナーや、ファミリーコンサートなどのイベント情報も掲載されている別冊ファミリースタジオがセットになっている(月刊誌時代は本誌から切り離し可能だった)。1 - 3歳児向け(創刊からしばらくは0歳児も対象であった)。 また、講談社の他の乳幼児向け雑誌にも番組関連のページが存在し、これらの雑誌と共同で1995年度(1996年1 - 3月)から2013年度まで毎年冬に「うたのビデオ(2006年度以降はDVD)」を応募者限定販売していた。 [[1985年]]9月に、同年の10月号として創刊。創刊号の表紙を飾ったのは坂田おさむ、森みゆき、瀬戸口清文と「にこにこぷん」のキャラクター(じゃじゃまる、ぴっころ、ぽろり)で、付録として2曲入りの[[ソノシート]]がついていた。 なお、創刊から2014年9月号(同年8月15日発売)までは毎月発売の月刊誌であったが、発刊30年目となる2014年10・11月号からは奇数月発刊の隔月刊となり(偶数月発売の『いないいないばあっ!』と交互)、ファミリースタジオは合冊化された。 創刊以来、発刊ペースを変更しつつも定期発刊されていたが2016年8・9月号と10・11月号、2017年8・9月号は諸般の事情により休刊となり、2019年3月15日発売の2019年春号より、3月・6月・9月・12月の年4回、3ヶ月に1回発刊の季刊誌に移行した。更に2021年冬号からは上記のように発刊月が変更された。(発刊月調整の為、本来2020年冬号として発売される予定であった2021年冬号のみ、2020年秋号発売の4ヶ月後の発売となった) == 番組関連映像・音源販売 == 50年以上の歴史があるゆえ、番組関連のソフトはレコードやVHSをはじめとした絶版になっているものを含め数多く存在する。 現在番組関連のCDおよびDVDを多く発売しているのは[[ポニーキャニオン]]であり、前身のキャニオンレコード時代からLPレコードやCD・カセットテープを販売し、1990年春のファミリーコンサート以降は各種ビデオ・DVDを2016年現在に至るまで発売している。(ファミリーコンサートに関しては当初[[VHS]]、[[コンパクトディスク|CD]]、カセットテープを発売していたが、2000年代以降DVDの販売を開始、2006年のものを持ってVHSの販売を終了している。)主にファミリーコンサートの映像/音源と、最新ベスト(CD)および最新ソングブック(DVD)を発売している。 その次に多いのが[[日本コロムビア]]である。NHKエンタープライズと関係があることからかつてはこちらからレコード・CDが多数発売されていた。主に番組内の人形劇関連のビデオ・CD・DVDをメインに販売している。近年は、上記のとおりポニーキャニオンにとってかわるようになったが、それでも番組の周年記念CDを出すなど現在もこちらから発売されるソフトは少なくない。 なお、DVDは2009年度までは画面比4:3サイズで制作されていたが、2010年度分よりアナログ放送のレターボックス放送移行に伴うテロップ類の位置移動などの関係で16:9サイズに変更された。ただし、DVDのスペック上画質は標準画質になっている。ブルーレイでリリースされた2013年版以降ののスペシャルステージは、特典映像ともどもハイビジョン画質で収録された。 === 現在の主な販売形態 === *『NHKおかあさんといっしょ 最新ベスト○○(○○には収録曲のうちの1曲のタイトルが入る)』…ポニーキャニオンから毎年10月に発売されるCDで、このタイトルでの販売は1996年度から。また、1998年度分までのVHS(現・最新ソングブック)の一部タイトルにおいても使用。 *『NHKおかあさんといっしょ 最新ソングブック○○(○○には収録曲のうちの1曲のタイトルが入る)』…2000年4月(1999年度分)以降ポニーキャニオンから毎年4月に発売されるDVDで、2020年4月(2019年度分)より[[Blu-ray Disc|ブルーレイディスク]]版を併売。(2006年度までVHS版も並行販売)なお、同様の内容で構成されるVHSビデオ自体は、タイトルこそ異なるが1994年(1993年度分)より販売されていた。当初の収録内容は歌クリップのみで構成されていたが、1996年発売の「NHKおかあさんといっしょ 最新ベスト みんなでうたおう16」からはおにいさん・おねえさんによる曲間の新録パート(1996年・1997年はうたのおにいさん・おねえさんのみの出演、1998年以降はたいそうのおにいさん・おねえさんも出演)が挿入されている。また、DVDのみの販売となって以降は、本編に加えて特典映像として夏特集・冬特集・春特集の内容が全編または抜粋の形で収録されることが多い。 *『NHKおかあさんといっしょファミリーコンサート ○○(○○には公演タイトルが入る)』…5月および11月のNHKホールのコンサートの模様を収録したDVDとCD(かつては、VHS・カセットテープでも販売)。1989年までは日本コロムビアから、1990年からポニーキャニオンから年2回販売されている。1988年のみ本編内容を一部カットしたダイジェスト版、1989年度のコンサートと1990年7月発売の「母と子のファミリーコンサート」のビデオは2巻に分割して収録している。スペシャルステージや最新ソングブックではブルーレイディスク版の併売が行われている一方で、ファミリーコンサートに関しては2021年度までは原則DVDのみの販売が継続されていた。2019年秋の「ふしぎな汽車でいこう〜60周年記念コンサート〜」及び2022年度のコンサートではブルーレイディスク版が併売されている。 この他、スペシャルステージの模様を収録したCDとDVDも販売されており、2013年度のスペシャルステージよりブルーレイディスクでも販売される。 1980年代後半以降は、番組映像が放映当時にVHSによる映像ソフト化が行われるようになった一方で、番組放送開始初期の1960年代から1980年代中盤までの番組映像は、後述の通りNHKに残る映像資料数自体が少なく、放送当時市販されていたVHS等の家庭用映像媒体の映像ソフトが無い事も多い為、一般に市販メディアでの入手は困難であるが、一部の映像は[[2004年]]にNHKエンタープライズが発売した「懐かしのこども番組グラフィティー 〜おかあさんといっしょクロニクル〜」に収録されており、比較的容易に視聴可能となっている。 == 番組の保存状況 == テレビ黎明期の時代から続く長寿番組で、開始から1年間を除き帯番組として放送されている関係上、全部保存されていれば想定上莫大な数の映像が存在するが、[[NHKアーカイブス (施設)|NHKアーカイブス]]の保存番組検索で確認される限りにおいては、放送開始から1960年代前半の映像はほとんど残っていない(当時のテレビ番組の多くは使い回しが一般的だった[[2インチVTR]]で収録されていたため、NHK・民放とも現存数は少ない)。 1960年代に放送された番組の内、残っている映像で、テレビにおいて放送された実績(または番組ライブラリーで公開された実績)があるのは、1967年3月に放送された[[ブーフーウー]]の最終回とそのひとつ前の回、うたのえほんの中で放送された当時のうたのおねえさん[[中川順子]]が歌っている「[[アイアイ (童謡)|アイアイ]]」の映像(モノクロ映像)や、初代たいそうのおにいさん[[砂川啓介]]が担当した「元気に一・二」の映像など数本である。この事から、番組開始から1970年代初頭までの出演者の一部については当時の映像が全く残っていないという結果を生み出している<ref group="注釈">うたのおにいさんと身体表現のおねえさんは、歴代全員の出演映像が現存しているが、うたのおねえさんは初代の真理ヨシコ(うたのえほん出演当時分。ただし、うたのおねえさん退任後の後述の『うたいっぱい』出演時の映像が存在する為、『おかあさんといっしょ』出演当時の映像が一切無い訳ではない)、8代目の斉藤昌子と森晴美の出演映像が、たいそうのおにいさんは4代目の向井忠義と小西幸男の出演映像が現存していないため、歴代出演者を取り上げる場合に写真のみで紹介されるケースが多い</ref>。特に「うたのえほん」以外のコーナーの多くは映像が残っておらず、当時の資料として台本や写真しかないケースもあり、その中で比較的多く残されている人形劇においても、黎明期の作品ではキネコ映像で最後の2回、及び広報番組用に撮影されたカラーフィルムが残っていた「ブーフーウー」、本編保存は無いが辛うじて広報番組用に撮影されていたカラーフィルム映像がある「ダットくん」があるのみで、「とんちんこぼうず」と「とんでけブッチー」はVTRどころかフィルムやキネコ映像も現存していない。 ビデオ映像として最も古い保存作品は、出演者の浜井都が家庭用ビデオで録画していた「うごけぼくのえ」9回分であり、続く「ゴロンタ劇場」から「ブンブンたいむ」、これらと並行して土曜日に放送されていた「ミューミューニャーニャー」までの作品は放送用VTRおよび家庭用ビデオで散発的に数回の保存がある。放送期間が長期に及び、放映期間中に放送用VTRの保管が始まった「にこにこぷん」ですら、最初の2年間の放送回に未保存回があり、1984年度以降も放送用VTRでは残っていない回がある。また、残っている映像においても、1960年代のものはほぼ全て[[キネコ]]形式での録画の為、本放送当時より映像・音声の質が低下している。2014年には、俳優の[[高橋元太郎]]がVHSにダビングして保管していた「うたいっぱい」の最終回(1967年3月放送)を提供している<ref group="注釈">高橋は「うたいっぱい」にゲンちゃんとして出演し、今の番組で言ううたのおにいさんの役を担当。なお、この回が発掘されたことによって、それまで映像が現存しない為出演当時の様子は専ら写真と音源のみでの紹介であった、初代うたのおねえさんの眞理ヨシコが「おかあさんといっしょ」レギュラー出演者として映っている映像が発見されるという事にもなった。</ref>。 その後1970年代以降になると、視聴者提供を中心とした家庭用ビデオテープに録画されたものを含め保存本数も増え<ref group="注釈">出演者提供の映像もあり、初代うたのおにいさんである田中星児からは、母親が家庭用VTRで田中出演部分を中心に録画したビデオテープ(放送自体はこの当時既にカラーだったが、デッキの仕様で提供された映像の大半がモノクロ)を提供している。</ref>、1984年度からはNHKが総合テレビの1日の放送を送出状況の確認の為家庭用VTRで録画するようになり、そこから抜粋する形でほぼすべての回<ref group="注釈">総合テレビ放送分のみが該当する為、再放送が教育テレビに移行した1985年度以降の放送回で朝の本放送が休止になった回については不明な点がある。</ref>が保存されている(放送用VTRの形での完全保存開始時期は不明<ref group="注釈">1979年から1985年までは散発的に放送用VTRで残っている回が存在しており、その一部回は番組公開ライブラリーにおいて公開されている。その一方で、NHK番組発掘プロジェクトのホームページ内にある、16代目うたのおねえさんの神崎ゆう子が[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]]在籍時に[[歌はともだち]]に出演した時の映像が発掘されたという記事で、神崎の初登場回である1987年4月6日放送分も紹介しているが、この時使用した画像が先述の放送同録のビデオテープからの抜粋映像から引用したものである為、少なくとも1987年時点ではまだ放送VTRでの完全保存が始まっていない事が判明している。</ref>)。1998年度までは、番組が二部構成に分かれていたこと、さらに地方収録では後半から映像回線を収録担当局に切り替えて放送していた経緯から、人形劇など前半分テープと歌・体操など後半分テープとが別々に分かれたVTRが1回につき2本出てくることがあるが、保存時には1回分として1本のVTRにまとめて保存されている。 また、ハイビジョン化([[ハイビジョン|MUSE方式]])した1995年10月放送分〜2004年度ごろまでは、地上波用にサイドカットしたものと2002年度まで衛星放送で実施していたハイビジョン放送用に分けて(あるいはいずれか一方が)保存されている回があり、2012年7月15日に再放送された1999年10月4日の回は、ハイビジョン化後の回であるが、当時地上波で放送した標準画質版で放送されている。この他、1回分の放送テープとは別に番組内で放送した事前収録の歌クリップも別途保管されているケースがある<ref group="注釈"> 例としては、2019年に60年スペシャル内で放送した1999年3月の歌「あしたははれる」のクリップは、今月の歌として放送されていた為、当時の放送では使用されなかった歌詞テロップ無しのバージョンかつハイビジョン収録の映像がデジタルハイビジョンサイズにリサイズの上で放送されている為、クリップ単体の収録テープが現存している事が判明している。</ref>。 == スタッフ == * 構成:枝常弘、加藤晃、宮田修、鯨岡隆、[[横山由和]]、小笠原英樹、古川順一、[[オパヤン|林龍雄]]、木村裕一、八木絋一郎、日暮美佐、八木順一朗、ふじきみつ彦、[[木庭有生子]] * 音楽:[[増田太郎]]、[[山口優]]、[[堀井勝美]]、[[荒木尚美]]、[[柴草玲]]、[[戸田有里子]] ** 過去の音楽担当:[[越部信義]]、[[福田和禾子]]、[[乾裕樹]]、[[井上堯之]]、[[斎藤ネコ]]、[[赤坂東児]]、[[冷水ひとみ]]、[[本田洋一郎 (作曲家)|本田洋一郎]]、[[磯部智子]]、[[蒲池愛]]、[[永友聖也]]、[[ササキトモコ]]、[[永田太郎]]、[[牧野奏海]]、[[五十嵐洋]]、[[ベアグラウンド]] * 演奏:東京室内楽協会 * 人形美術:[[スタジオ・ノーヴァ]] * 振付:[[大原晶子]]、[[みつばちまき]]、[[大田洋子]]、[[明羽美姫]]、[[森川次朗]]、[[堀広希]] * タイトルアニメーション:若井丈児、スリー・ディ、ポケット == 歌って踊って「おかあさんといっしょ」名シーン集 == 『[[Eテレセレクション|たくさんのEね!ありがとう「お願い!編集長」スペシャル]]』で放送された、再放送リクエスト特集。 *放送日時:2012年12月31日 月曜12:00-14:00 *ナレーション:[[渡辺智美]] {| class="wikitable" style="font-size:small;" !コーナー!!初回放送日 |- |歌「どんなかお」(坂田おさむ・神崎ゆう子) |1990年10月12日 |- |歌「かにのおじさん」(坂田おさむ) |1990年10月12日 |- |歌「ブレーメンのおんがくたい」(坂田おさむ・神崎ゆう子) |1992年{{0}}7月{{0}}1日 |- |歌「きみのなまえ」(杉田あきひろ・つのだりょうこ) |1999年{{0}}4月{{0}}5日 |- |歌「パンダうさぎコアラ」(今井ゆうぞう・はいだしょうこ) |2003年{{0}}7月15日 |- |歌「はじめまして」「たのしいね」(横山だいすけ・三谷たくみ) |2008年{{0}}3月31日 |- |人形劇「スプーとガタラット」第1回 |1999年{{0}}4月{{0}}5日 |- |歌「ジャングルポケット」 |1993年{{0}}1月20日 |- |歌「シンデレラのスープ」 |2000年{{0}}2月10日 |- |歌「ふわふわバスタオル」 |2011年10月27日 |- |歌「タンポポ団にはいろう!!」 |2008年{{0}}3月28日 |- |体操「ぞうさんのあくび」 |1990年10月12日 |- |体操「あ・い・うー」「スプラッピスプラッパ」 |2003年{{0}}7月15日<ref group="注釈">テロップでは2003年7月15日放送と表示されたものの、体操の終盤に登場したうたのおにいさん・おねえさんが杉田あきひろとつのだりょうこだったため、誤りである事が判明している(テロップの日付が正しければ、うたのおにいさん・おねえさんは今井ゆうぞうとはいだしょうこである)。</ref> |- |人形劇「[[ぐ〜チョコランタン]]」 |2008年{{0}}7月21日 |- |人形劇「ぐ〜チョコランタン」 |2008年{{0}}7月22日 |- |人形劇「ぐ〜チョコランタン」 |2008年{{0}}7月25日 |- |人形劇「ぐ〜チョコランタン」 |2008年{{0}}7月26日 |- |歌「にじのいろとおほしさま」 |1990年10月12日 |- |歌「どうやるの」 |2002年{{0}}1月10日 |- |歌「あっちこっちマーチ」 |2009年{{0}}3月19日 |- |歌「ぺた ぺた ぺったんこ」 |2004年{{0}}4月14日 |- |50周年特集 5日目 |2009年{{0}}7月24日 |- |人形劇「ぐ〜チョコランタン」 |2009年{{0}}3月19日 |- |人形劇「ぐ〜チョコランタン」最終回 |2009年{{0}}3月19日 |- |人形劇「[[モノランモノラン]]」最終回 |2011年{{0}}3月26日 |- |ダンス「ズーズーダンス」 |2006年{{0}}4月28日 |- |ダンス「ゴッチャ!」 |2012年{{0}}3月31日 |- |ダンス「ハイ・ポーズ」 |1990年10月12日 |- |ダンス「デ・ポン!」 |2004年{{0}}4月14日 |- |ダンス「トライ!トライ!トライ!」 |1998年{{0}}4月{{0}}7日 |- |人形劇「[[にこにこぷん]]」第1回 |1982年{{0}}4月{{0}}5日 |} == おかあさんといっしょ リクエストスペシャル == 「お願い! 編集長」枠で放送された、再放送リクエスト特集。 *放送日時:2017年12月17日 日曜15:30-16:00 *ナレーション:不明 {| class="wikitable" style="font-size:small;" !コーナー!!初回放送日 |- |日替わりコーナー「[[横山だいすけ#かぞえてんぐ|かぞえてんぐ]]」(横山だいすけ・三谷たくみ) |2013年{{0}}4月{{0}}3日 |- |歌「おふろじゃぶじゃぶ」(速水けんたろう・茂森あゆみ) |1999年{{0}}2月22日 |- |歌「お猿と鏡」(横山だいすけ・三谷たくみ) |2013年11月14日 |- |歌「ほっとけーきはすてき」(横山だいすけ・三谷たくみ) |2014年{{0}}9月24日 |- |コーナー「[[志ん輔ショー]]」(古今亭志ん輔) |1994年{{0}}1月{{0}}6日 |- |歌「ボログツブギ」(今井ゆうぞう・はいだしょうこ) |2004年10月{{0}}7日 |- |歌「地球ネコ」(今井ゆうぞう・はいだしょうこ) |2003年10月{{0}}6日 |- |歌「おまつりすんだはらっぱに」(つのだりょうこ) |2002年10月23日 |- |歌「おまつりすんだはらっぱに」(横山だいすけ・三谷たくみ) |2009年{{0}}7月18日 |- |歌「にじのいろとおほしさま」(坂田おさむ・神崎ゆう子) |1990年12月12日 |- |人形劇「[[ポコポッテイト]]」最終回 |2016年{{0}}3月31日 |} == やぎさんゆうびんスペシャル == 新型コロナウイルス感染拡大を受けて、特別編成にて放送された。視聴者だけでなく、おにいさん、おねえさんからのリクエストにこたえる歌・体操のコーナーと、平日通して放送の「しりとりれっしゃ」復活が主な内容。 ==関連番組== ; [[おとうさんといっしょ]] === 過去の関連番組 === ; うたのえほん {{Main|うたのえほん}} ; もっとモットおかあさんといっしょ : [[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BSハイビジョン]]で2000年から2002年まで放送されていたミニ番組。当時BSハイビジョンでも放送されていたおかあさんといっしょとセットで放送された。 : 「あ・い・うー」と「デ・ポン!」を中心とした構成で、子供たちのイラスト紹介、都内の幼稚園の園児数人で「パジャマでおじゃま」をやるといった企画も行われていた。出演は、[[佐藤弘道]]と[[きよこ|タリキヨコ]]の2人。 ; BSおかあさんといっしょ {{Main|#BSおかあさんといっしょ}} ; おかあさんといっしょ あそびだいすき! {{Main|#おかあさんといっしょ あそびだいすき!}} == 脚注 == ===注釈=== {{reflist|group="注"}} {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == * [[Eテレキッズ]] * [[みんなのうた]] * 総合テレビの音楽バラエティ番組 ** [[おげんさんといっしょ]] * 教育テレビ(Eテレ)の子供向け番組 ** [[いないいないばあっ!]] ** [[みいつけた!]] ** [[パッコロリン]] ** [[NHK全国学校音楽コンクール]] ** [[おとうさんといっしょ]] ** [[Eテレ0655&2355]] * [[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]] - 元[[競走馬]]・[[種牡馬]]、この番組の曲の1つである「ジャングルポケット」が馬名の由来になっている。 == 外部リンク == * [https://www.nhk.or.jp/kids/ NHKキッズワールド] * [https://www.nhk.jp/p/okaasan/ts/ZPW9W9XN42/ おかあさんといっしょ - NHK] * {{NHK放送史|D0009042213_00000|おかあさんといっしょ}} * {{NHK放送史|D0009020014_00000|おかあさんといっしょ ハイ・ポーズ}} * {{NHK放送史|D0009042256_00000|BSおかあさんといっしょ}} * [https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/comic/ アイデアとリサーチが生んだこども番組 - マンガで読むNHKヒストリー] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010377 特集 その時、舞台裏では…うたのおねえさん編 おかあさんといっしょ秘話 NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010556 おかあさんといっしょ 座談会|番組|NHKアーカイブス] * [https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010667 おかあさんといっしょ 「ハイ・ポーズ」|番組|NHKアーカイブス] * {{Wayback|url=http://www.tvco.tv/interview/index.php?action=detail&id=83 |title=テレビコ - 制作者インタビュー:おかあさんといっしょ |date=20160304120335}} {{おかあさんといっしょ}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header= |redirect1= 映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険 |1-1= 2018年の映画 |1-2= NHK製作の映画 |redirect2= 映画 おかあさんといっしょ すりかえかめんをつかまえろ! |2-1= 2020年の映画 |2-2= NHK製作の映画 |redirect3= 映画 おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出! |3-1= 2021年の映画 |3-2= NHK製作の映画 |redirect4=NHKのおかあさんといっしょ |4-1=講談社の雑誌 |4-2=幼年雑誌 |4-3=1985年創刊の雑誌 }} [[Category:おかあさんといっしょ|*]] [[Category:NHK教育テレビジョンの帯番組]] [[Category:NHK教育テレビジョンの子供向け番組]] [[Category:ハイビジョン試験放送の番組]] [[Category:1959年のテレビ番組 (日本)]] [[Category:継続中の作品]] [[Category:NHK教育テレビジョンの音楽番組]] [[Category:実写とアニメのコンプレックス番組]] [[Category:菊池寛賞受賞者]]
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セントラル・リーグ
セントラル・リーグ(英: Central League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。 正式名称は日本プロ野球組織 セントラル・リーグ運営部。呼称はセ・リーグ。 日本におけるプロ野球リーグの一つで、読売ジャイアンツ(巨人)、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、横浜DeNAベイスターズ、広島東洋カープの6球団から構成されている。 巨人・阪神・中日の3球団は、戦前に誕生し現在に至るまで親会社が変わらずに存在する老舗球団である。現存する6球団すべてが太平洋ベルト上(東海道・山陽新幹線沿線)に本拠地球場を置いており、うち広島以外の5球団はすべて三大都市圏(首都圏・近畿圏・中京圏)、その中でも巨人・ヤクルト・DeNAの3球団は首都圏に本拠地を置いている。 パシフィック・リーグとは異なり、指名打者制(DH制)を採用しておらず、投手を含めた9人のスタメンで構成されているのがセ・リーグの大きな特徴である。 2019年(令和元年)11月11日にJERAとタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は2020年(令和2年)から3年間。2020年シーズンより、リーグ戦では「JERA セントラル・リーグ」の名称が使用される。 1949年(昭和24年)、新チーム加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂し、加盟反対派の読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズ、松竹ロビンスを中心に、大阪タイガース、新球団の大洋ホエールズ、広島カープ、西日本パイレーツを加えた計7球団でセントラル野球連盟(セントラルやきゅうれんめい)が発足。なお、発足当時は小田急電鉄が球団を所有してセ・リーグに加盟して8球団体制とする計画があったが、これは計画倒れに終わり実現しなかった。 袂を分かった賛成派の4球団(阪急ブレーブス、南海ホークス、大映スターズ、東急フライヤーズ)は、3つの新チーム(毎日オリオンズ、近鉄パールス、西鉄クリッパース)と共に太平洋野球連盟ことパシフィック・リーグ(パ・リーグ)を結成した。 翌1950年(昭和25年)1月には球団所有が中止・消滅に終わった小田急電鉄と入れ替わる形で国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)も加盟し、当初の計画から違う形となったが、運営初年度から8球団体制となった。なお、初年度である1950年は松竹ロビンスがセ・リーグ初代優勝チームとなったが、その年の日本シリーズでは親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズに敗退した。 その後1951年から1959年にかけて、水原茂監督率いる読売ジャイアンツの第2次黄金期だった。日本シリーズでも1951年から1953年、1955年において、鶴岡一人監督率いる南海ホークスを圧倒し、4度の日本一を達成した。しかし、1956年から1958年ではかつて巨人を指揮した三原脩監督率いる西鉄ライオンズに3年連続で敗退。さらに1959年でも杉浦忠擁する南海ホークスに0勝4敗と敗退した。なお、日本シリーズでストレートでの4連勝を決めたのは南海が史上初だった。 1951年1月10日に開催が予定されたセ・リーグ代表者会議を前に、経営危機に直面していた広島と西日本を整理する構想が浮上したものの、当日の会議では問題を先送りされたが、結局シーズン開始直前に西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパース(現:埼玉西武ライオンズ)と合併し脱退。1952年シーズン終了後には大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併して「大洋松竹ロビンス」を結成し、6球団になる。1951年8月19日には中日スタヂアムが全焼、死者4名、重軽傷者多数を出す惨事となった。 以降、親会社及びチーム名の変更こそあるものの、チーム数そのものの増減は無い。大洋松竹ロビンスが1953年(昭和28年)に下関から大阪へ、さらに1955年(昭和30年)大洋ホエールズに改称して神奈川県川崎市の川崎球場へ移転して以降は、各球団の保護地域の変更も無い。同球団は、1978年に横浜市の横浜スタジアムへの移転とともに横浜大洋ホエールズに改称しており、それ以降、本拠地(球場)所在地の変更も無い。 1954年は中日ドラゴンズが杉下茂を擁して球団初のリーグ優勝、その年の日本シリーズでも球団初のパ・リーグ優勝を決めた西鉄ライオンズを破り日本一となった。 1959年6月25日の巨人×大阪戦(後楽園)で、プロ野球史上初めての天覧試合が開催された。1950年代後半から巨人の王貞治・長嶋茂雄が球界のスター選手となり、宿命のライバルである村山実・G.バッキー・金田正一らとの名勝負を繰り広げた。 1960年は、前年まで6年連続最下位に喘いでいた、この年に就任した三原脩監督率いる大洋ホエールズが球団初のリーグ優勝。そしてその年の日本シリーズでも西本幸雄監督率いる毎日大映オリオンズ(大毎)を4勝0敗で制した。 巨人は1961年から球団OBの川上哲治が監督に就任。当時の巨人は打撃陣では長嶋茂雄だけが頼りになる存在で、投手陣でも絶対的な存在がいなかった。そのため、川上は『ドジャースの戦法』をチームに導入し、後に「V9」と呼ばれるセ・リーグ9連覇・日本一という前人未到の黄金期を築き上げる。また、1960年代前半にテレビ中継(主に日本テレビ系列など)の普及も相まって、やがて巨人と阪神は爆発的な人気を得ることになる。特に巨人同様読売新聞グループである日本テレビのプロ野球中継は日テレの看板番組でもあり、巨人は爆発的な人気を獲得し、「子供の好きなものといえば『巨人・大鵬・卵焼き』」と言う言葉ができるなど、V9が始まる前から社会現象となっていた。 そんな中、巨人のライバル球団である阪神タイガースは1962年・1964年にリーグ優勝を果たすも、前者は元巨人の監督だった水原茂監督率いる東映フライヤーズに、後者は南海ホークスに敗れた。なお、1964年の日本シリーズは関西私鉄同士だったこともあり、『御堂筋シリーズ』と呼ばれた。 巨人の監督だった川上は、選手個々の実力よりも、『ドジャースの戦法』の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先した。またスタッフでも牧野茂などを招聘。選手においても、王貞治・長嶋茂雄という二人のスーパースター(いわゆるON砲)を筆頭に、森昌彦・柴田勲・黒江透修・高田繁・土井正三といった名選手や、堀内恒夫・高橋一三・城之内邦雄・金田正一といった球史に名を残す投手が揃った。様々なポジションに適した人材が揃っており、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を守備で徹底して守る、日本における「スモールベースボール」の先駆けである一方、V9の期間中、巨人はセ・リーグ最多チーム得点だった。当時の本拠地だった後楽園球場が狭くて打者有利の球場であった事もあり、V9時代の巨人は攻撃力中心のチームであったと見ることができる。 1965年11月、戦力の均衡を目的として第1回プロ野球ドラフト会議が開催された。 なお同年1965年5月シーズン中、国鉄スワローズはサンケイスワローズとなったが(1962年の産経新聞との業務提携以降、経営権は実質的に国鉄から産経に移行していた)、1970年にはヤクルトに経営権が移行、ヤクルトアトムズとなった。1973年には中日スタヂアムの経営権をめぐる恐喝事件(中日スタヂアム事件)が発生した。 1974年に与那嶺要監督の中日ドラゴンズが優勝し、巨人の10連覇を阻止、V9時代は終焉を迎えた。10月14日、戦後史に残る長嶋茂雄の引退スピーチが行われた。翌1975年は、古葉竹識監督率いる広島東洋カープが山本浩二・衣笠祥雄・外木場義郎らを擁して初優勝を果たすとプロ野球界に赤ヘル旋風を巻き起こす。その後も広島カープは高橋慶彦、北別府学、江夏豊らの活躍もあり、3度の日本一(1979年・1980年・1984年)を成し遂げる。 巨人は、V9以降、1975年に球団史上初の最下位という結果になった。但し、翌1976年・1977年は張本勲、小林繁ら新戦力の活躍によりV2を果たしている。また、1977年9月3日には王貞治がハンク・アーロンの記録を抜く756号を放ち、初の国民栄誉賞を受賞した。 1979年、5位に甘んじたシーズン直後の伊東市での秋季キャンプは『地獄の伊東キャンプ』として語り継がれ、江川卓、中畑清、松本匡史、西本聖、角三男ら後に巨人の主力となる選手もいた。 セ・リーグにおいては前掲のバッキー(阪神)や、MLB仕込みの華麗な守備を見せたC.ボイヤー(大洋)、J.シピン(大洋・巨人)らが先駆をなしたが、70年代後半からは日本経済の成長に伴い、MLBでレギュラーであった外国人選手がキャリアの後半にNPBを選ぶケースが増え、R.ホワイトやR.スミス(巨人)、赤鬼ことC.マニエル(ヤクルト)が活躍した。そこから、80年代にはR.バース(阪神)、B.ホーナー(ヤクルト)を筆頭とする圧倒的なパワーを持つ打者が各チームに出現、大人気となる。1994年からは外国人枠の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にも発展した。 逆に、日本での経験ののち、帰国後にMLBでタイトルを獲るキャリアハイの活躍をした例もあり、C.フィルダー(阪神)、B.ガリクソン(巨人)、A.ソリアーノ(広島)が良く知られている。 入団時の混乱から「ヒール」とも言われた江川卓・桑田真澄、また若大将こと原辰徳、現役メジャーであったW.クロマティらの活躍により、長嶋茂雄監督解任後のチームの建て直しに成功した読売ジャイアンツは、80年代を通じて全てAクラスという安定感を取り戻し、リーグ優勝も1981・1983・1987・1989年に達成。とくに1989年は84勝44敗と他者を寄せ付けない圧勝となった。1988年に東京ドームが開場し、のちの5大ドーム時代の先鞭をつけた。 1985年の阪神タイガースは、R.バース・掛布雅之・岡田彰布の『バックスクリーン3連発』など、ニューダイナマイト打線と呼ばれる強力打線が活躍し、21年振りのセ・リーグ優勝を達成する。 日本シリーズでは、広岡達朗監督率いる西武ライオンズを破り4勝2敗で球団史上初の日本一に輝いた。 1990年に野村克也がヤクルトの監督に就任した。この年は後にヤクルトの正捕手として活躍する古田敦也、1991年には高津臣吾などが入団し、ヤクルトの黄金期を担うことになる。他にも広沢克己・飯田哲也・池山隆寛・川崎憲次郎・J.ハウエルなどの活躍もあり、1992年・1993年にセ・リーグ連覇を果たす。さらに1993年の日本シリーズでは、パ・リーグ4連覇中の西武ライオンズを破り、1978年以来15年ぶり2度目の日本一を果たした。その後も生え抜き選手では石井一久・伊藤智仁・真中満・宮本慎也・稲葉篤紀など、移籍選手では吉井理人・田畑一也・T.オマリー・H.ミューレン・辻発彦・小早川毅彦などが活躍し、野村克也監督時代(1990年~1998年)のヤクルトは、4度のリーグ優勝(1992年・1993年・1995年・1997年)と、(左記1992年を除く)3度の日本一を成し遂げた。1998年シーズン終了をもって野村克也監督は退任し、阪神に移籍した。 一方、その頃の阪神タイガースは昭和末期・平成と2度の暗黒時代に突入。1987年~1991年にかけて、(1989年を除く)4度の最下位を喫した。しかし1992年は、新庄剛志・亀山努・T.オマリーなどが活躍し、ヤクルト・巨人と優勝争いを繰り広げ、最終的には優勝のヤクルトと僅差で2位(巨人と同率2位)と健闘を見せた。しかし、翌1993年以降はBクラスに逆戻り、1995年から2年連続の最下位に転落するなど、再び暗黒時代に突入する。1999年にヤクルト前監督の野村克也が阪神の監督に就任するが、1998年から2001年にかけて4年連続最下位となる。 読売ジャイアンツは90年代をつうじ1990年・1994年・1996年と、黄金期ヤクルトに次ぐ3回の優勝を果たした。中でも1994年の10.8決戦で同率首位の中日を下しての最終戦優勝、1996年のメークドラマ(首位広島に1996年7月6日時点で最大11.5ゲーム差をつけられながらも逆転優勝)は国民的な関心を集め、地上波TV視聴率・観客動員も高水準で推移した。また積極的な補強とドラフト戦略の成功により、1990年V2時点の主力(斎藤雅樹・桑田真澄・槙原寛己の3本柱中心)から、第2期長嶋茂雄政権での主力(松井秀喜・上原浩治・高橋由伸ら00年代優勝メンバー)への転換にも成功した。この間、落合博満・清原和博らのフリーエージェント補強にも成功し、ストーブリーグにおいても話題の中心であり続けた。 1998年、横浜大洋ホエールズからの改称後6シーズン目となった横浜ベイスターズは、5月終了時点では貯金3の3位だった。しかし、6月後半から石井琢朗・鈴木尚典・R.ローズ・駒田徳広らによる「マシンガン打線」が爆発するようになり、16日から8連勝して首位に立った。その後、オールスター戦を挟んで10連勝、アクシデント続出で失速する巨人とは対照的に首位を固めた。9月4日からの2位中日との直接対決を佐々木主浩の3連投で全勝、大洋ホエールズ以来となる38年ぶり2度目のセ・リーグ優勝を飾った。1998年の日本シリーズは4勝2敗で38年ぶり2度目の日本一を果たした。 この頃のセ・リーグは原辰徳率いる読売ジャイアンツ、岡田彰布率いる阪神タイガース、落合博満率いる中日ドラゴンズが熾烈な優勝争いを繰り広げていた。 巨人は00年代前半には前掲の松井・上原・高橋由、及び阿部慎之助・高橋尚成・仁志敏久・二岡智宏・清水隆行ら生え抜き選手が非常に強く、逆指名などのドラフト改革を追い風としたチーム強化に成功。また、清原和博・江藤智・工藤公康らの移籍組も活躍した。00年代後半は小笠原道大・A.ラミレス・S.グライシンガー・M.クルーン・李承燁らの移籍組がMVP級の活躍、さらに坂本勇人・亀井善行・内海哲也・山口鉄也といった生え抜きスター選手とのベストミックスでV3を達成。00年代の5度のリーグ優勝(2000・2002・2007・2008・2009)は最多であった。 中日は山本昌・岩瀬仁紀・立浪和義・福留孝介・中村紀洋・和田一浩・谷繁元信・荒木雅博の名球会メンバー、また川上憲伸・浅尾拓也・T.ウッズ・井端弘和・森野将彦・吉見一起らのスター選手を擁し、落合博満監督の在任8年間(2004年-2011年)で4度のリーグ優勝(2004・2006・2010・2011)、2007年にはリーグ2位からの日本一を達成した。 阪神は2003年の「血の入れ替え」に象徴されるように、金本知憲・伊良部秀輝・下柳剛・片岡篤史・矢野輝弘らを積極補強し、リストラを断行した。赤星憲広・今岡誠・井川慶・JFK(藤川球児・J.ウィリアムス・久保田智之)・鳥谷敬・能見篤史らも活躍し、星野仙一監督(2002年-2003年)~岡田彰布監督(2004年-2008年)の在任中、2度のリーグ優勝(2003・2005)を達成。2006年・2008年にもシーズン2位ながら80勝を突破した。 しかし、横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)は森祇晶・山下大輔・牛島和彦・大矢明彦(第2期)・田代富雄(代行)・尾花高夫と政権を継いだが、2001年末に筆頭株主がマルハからTBSに交代して以降は、2002年から2011年にかけて最下位が8度という暗黒時代に突入し、結果を残せなかった。(なお、2011年末から筆頭株主はDeNAに変更。) また、広島東洋カープは2002年以降は5位が指定席であり、1998年から2012年にかけての15シーズンでは5位が11度で、全てBクラスであった。その一方で、長年の本拠地だった広島市民球場の老朽化もあり、2009年に新球場への移転に成功するなど、大きなターニングポイントを迎えた。 インターネット社会の到来による娯楽・嗜好の多様化により、プロ野球のTV中継の視聴率が大きく低下した時期でもあり、プロ野球TV中継の主体は、地上波からBS・CSに移行した。 2005年からは育成選手制度がスタートした。セ・パ交流戦(2005年より導入)、クライマックスシリーズ(2007年より導入)も参照。 2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、パシフィック・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『セントラル・リーグ運営部』『審判部』『記録部』となり、リーグ会長職は廃止された。 2012年より読売ジャイアンツの3連覇(2012・2013・2014)、(2015年のヤクルト優勝を挟んで)2016年より広島東洋カープの3連覇(2016・2017・2018)、という結果となり、両チームとも2位とのゲーム差を大きく付けた「圧勝」でのV3となった。但しクライマックスシリーズの導入により、リーグ終盤の興行的好調は継続され、実際に2014年には2位、2017年には3位からの日本シリーズ進出が実現した。広島・横浜では女性ファン層の拡大もあり観客動員が大幅に増加、特に2019年は天皇即位にともなうGW10連休の特需に各チーム10連戦を打った事も奏功し、過去最大規模の年間平均入場者数を達成した。 2011年は東日本大震災の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。2012年からは予告先発を導入した。 2013年より開幕前のイベントとして東京ビッグサイトにて『セ・リーグファンミーティング』を行っている。 2015年秋に、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題が発覚。巨人は渡邉顧問、白石オーナー、桃井会長の3首脳が引責辞任した。 2019年11月11日にJERAとタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は2020年(令和2年)から3年間でリーグ戦では「JERA セントラル・リーグ」の名称が使用される。 また、セ・パ交流戦の10年連続負け越し(セの548勝671敗41分)、また2010年代をつうじて日本シリーズにおけるセの優勝が1回のみ(セの19勝38敗2分)に終るなど、セの地盤沈下が語られる事態となった。 2016年は緒方孝市監督率いる広島東洋カープは25年ぶりのセ・リーグ優勝を達成。200勝を達成した黒田博樹・2000本安打を達成した新井貴浩の復帰組ベテランと、投手陣は野村祐輔の16勝3敗の快進撃、B.エルドレッド・外国人投手2人目の沢村賞を受賞したK.ジョンソンといった助っ人外国人、生え抜きの「タナキクマル」(田中広輔・菊池涼介・丸佳浩)、若き大砲の鈴木誠也の若手を組み合わせたベストミックスの優勝であった。 2018年まで、上述の主力組が機能しリーグ戦・交流戦で圧倒的な強さを見せ、球団史上初の3連覇を達成した。(セ・リーグでは巨人以外で初である。) 2020年から2021年にかけ、新型コロナウィルスの発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は120試合のみの開催で1952年以来68年ぶりの規模縮小、入場者数(275万人、昨対比▲81%)は草創期である1951年以来の少なさとなった。また、クライマックスシリーズが2020年は中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らしてしまう事もあった。2022年7月にはオミクロン株の感染力の強さにより、巨人戦が7月22日から同31日まで6試合連続で延期となるなど大きな影響を受けた。 経営面では、横浜スタジアムが6,000席を超える増席を行い、DeNAによる球場運営会社の買収も相まって財務面を強化。マーケティング戦略も奏功し、横浜DeNAは人気球団となった。なお、東京ヤクルトの本拠地である現在の神宮球場は、2031年までの使用予定である。 翌、2022年にも村上宗隆の56本塁打と三冠王達成を原動力として、リーグ連覇を果たした。 ※ 球団表記順は野球協約の保護地域表記順 ※親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの ※球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記 1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度採用後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。 ※1:1997年 - 2000年と2015年 - 2019年、2021年 -(リーグ間の対戦)は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形式(前者は14試合、後者は13試合)である。なお1試合増加分のホームチームについては、2年単位で隔年入れ替わりである。 ※2:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりとなるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。 上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。 に変更された。(パ・リーグの場合は、1で並んだ場合は、2ではなく、3以下同文の順番である) セ・パ12球団の中でも最も人気が高い球団である読売ジャイアンツと阪神タイガースが属しているリーグであることから「人気のセ」と言われており、現実にセの観客動員数 はパの観客動員数 よりも設立以来常に多い状態で、観客動員数の1位2位を巨人と阪神で占めている。但し、2020年からの2年間は新型コロナウイルス感染拡大の影響で無観客試合や収容人数制限の試合が多く、三大都市圏では緊急事態宣言発動による無観客試合の増加により、その影響が少なかった広島が観客動員数1位となっている。 巨人以外の5球団は、その保護地域において(人口動態上)当該球団よりも巨人ファンが多く分布している場合があること、また親会社の資本力も巨人に大きく水を開けられていることもあり、観客収入を対巨人戦に頼る傾向が強い。 中日の場合は親会社である中日新聞社がブロック紙という台所事情により、西日本地域では広島、横浜DeNA、ヤクルトと比べてファンの分布で大きく水を開けられているが、発行地域である東海地方や北陸地方、関東地方では熱狂的なファンを抱えているという特徴をもつ。また、他都市間への移動が容易な地理的事情からビジターでの対戦カードは人気が高い。 以上のことから、対巨人戦や対阪神戦以外の一部の対戦カードにおいても人気カードになることがある(PayPayドームでのソフトバンク対広島戦、北陸地方開催での対中日戦、坊ちゃんスタジアムでの対ヤクルト戦等)。 ファンサービスとしては、広島がジェット風船を始めたのを皮切りに多くの球団が取り入れている。阪神はプロ野球では初めてチアリーディングチームを導入しており(但し、現在のタイガースガールズは2代目となっている)、2023年現在では広島を除く5球団がチアリーディングチームを持つ。過去にはセ・リーグオールスター東西対抗(1979-1999)が秋季に地方球場で行われていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セントラル・リーグ(英: Central League)は、日本のプロ野球リーグのひとつ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正式名称は日本プロ野球組織 セントラル・リーグ運営部。呼称はセ・リーグ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本におけるプロ野球リーグの一つで、読売ジャイアンツ(巨人)、阪神タイガース、中日ドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、横浜DeNAベイスターズ、広島東洋カープの6球団から構成されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "巨人・阪神・中日の3球団は、戦前に誕生し現在に至るまで親会社が変わらずに存在する老舗球団である。現存する6球団すべてが太平洋ベルト上(東海道・山陽新幹線沿線)に本拠地球場を置いており、うち広島以外の5球団はすべて三大都市圏(首都圏・近畿圏・中京圏)、その中でも巨人・ヤクルト・DeNAの3球団は首都圏に本拠地を置いている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "パシフィック・リーグとは異なり、指名打者制(DH制)を採用しておらず、投手を含めた9人のスタメンで構成されているのがセ・リーグの大きな特徴である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2019年(令和元年)11月11日にJERAとタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は2020年(令和2年)から3年間。2020年シーズンより、リーグ戦では「JERA セントラル・リーグ」の名称が使用される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1949年(昭和24年)、新チーム加盟の是非をめぐり日本野球連盟が分裂し、加盟反対派の読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズ、松竹ロビンスを中心に、大阪タイガース、新球団の大洋ホエールズ、広島カープ、西日本パイレーツを加えた計7球団でセントラル野球連盟(セントラルやきゅうれんめい)が発足。なお、発足当時は小田急電鉄が球団を所有してセ・リーグに加盟して8球団体制とする計画があったが、これは計画倒れに終わり実現しなかった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "袂を分かった賛成派の4球団(阪急ブレーブス、南海ホークス、大映スターズ、東急フライヤーズ)は、3つの新チーム(毎日オリオンズ、近鉄パールス、西鉄クリッパース)と共に太平洋野球連盟ことパシフィック・リーグ(パ・リーグ)を結成した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "翌1950年(昭和25年)1月には球団所有が中止・消滅に終わった小田急電鉄と入れ替わる形で国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)も加盟し、当初の計画から違う形となったが、運営初年度から8球団体制となった。なお、初年度である1950年は松竹ロビンスがセ・リーグ初代優勝チームとなったが、その年の日本シリーズでは親会社のバックアップで戦力を充実させた毎日オリオンズに敗退した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その後1951年から1959年にかけて、水原茂監督率いる読売ジャイアンツの第2次黄金期だった。日本シリーズでも1951年から1953年、1955年において、鶴岡一人監督率いる南海ホークスを圧倒し、4度の日本一を達成した。しかし、1956年から1958年ではかつて巨人を指揮した三原脩監督率いる西鉄ライオンズに3年連続で敗退。さらに1959年でも杉浦忠擁する南海ホークスに0勝4敗と敗退した。なお、日本シリーズでストレートでの4連勝を決めたのは南海が史上初だった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1951年1月10日に開催が予定されたセ・リーグ代表者会議を前に、経営危機に直面していた広島と西日本を整理する構想が浮上したものの、当日の会議では問題を先送りされたが、結局シーズン開始直前に西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパース(現:埼玉西武ライオンズ)と合併し脱退。1952年シーズン終了後には大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併して「大洋松竹ロビンス」を結成し、6球団になる。1951年8月19日には中日スタヂアムが全焼、死者4名、重軽傷者多数を出す惨事となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "以降、親会社及びチーム名の変更こそあるものの、チーム数そのものの増減は無い。大洋松竹ロビンスが1953年(昭和28年)に下関から大阪へ、さらに1955年(昭和30年)大洋ホエールズに改称して神奈川県川崎市の川崎球場へ移転して以降は、各球団の保護地域の変更も無い。同球団は、1978年に横浜市の横浜スタジアムへの移転とともに横浜大洋ホエールズに改称しており、それ以降、本拠地(球場)所在地の変更も無い。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1954年は中日ドラゴンズが杉下茂を擁して球団初のリーグ優勝、その年の日本シリーズでも球団初のパ・リーグ優勝を決めた西鉄ライオンズを破り日本一となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1959年6月25日の巨人×大阪戦(後楽園)で、プロ野球史上初めての天覧試合が開催された。1950年代後半から巨人の王貞治・長嶋茂雄が球界のスター選手となり、宿命のライバルである村山実・G.バッキー・金田正一らとの名勝負を繰り広げた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1960年は、前年まで6年連続最下位に喘いでいた、この年に就任した三原脩監督率いる大洋ホエールズが球団初のリーグ優勝。そしてその年の日本シリーズでも西本幸雄監督率いる毎日大映オリオンズ(大毎)を4勝0敗で制した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "巨人は1961年から球団OBの川上哲治が監督に就任。当時の巨人は打撃陣では長嶋茂雄だけが頼りになる存在で、投手陣でも絶対的な存在がいなかった。そのため、川上は『ドジャースの戦法』をチームに導入し、後に「V9」と呼ばれるセ・リーグ9連覇・日本一という前人未到の黄金期を築き上げる。また、1960年代前半にテレビ中継(主に日本テレビ系列など)の普及も相まって、やがて巨人と阪神は爆発的な人気を得ることになる。特に巨人同様読売新聞グループである日本テレビのプロ野球中継は日テレの看板番組でもあり、巨人は爆発的な人気を獲得し、「子供の好きなものといえば『巨人・大鵬・卵焼き』」と言う言葉ができるなど、V9が始まる前から社会現象となっていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "そんな中、巨人のライバル球団である阪神タイガースは1962年・1964年にリーグ優勝を果たすも、前者は元巨人の監督だった水原茂監督率いる東映フライヤーズに、後者は南海ホークスに敗れた。なお、1964年の日本シリーズは関西私鉄同士だったこともあり、『御堂筋シリーズ』と呼ばれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "巨人の監督だった川上は、選手個々の実力よりも、『ドジャースの戦法』の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先した。またスタッフでも牧野茂などを招聘。選手においても、王貞治・長嶋茂雄という二人のスーパースター(いわゆるON砲)を筆頭に、森昌彦・柴田勲・黒江透修・高田繁・土井正三といった名選手や、堀内恒夫・高橋一三・城之内邦雄・金田正一といった球史に名を残す投手が揃った。様々なポジションに適した人材が揃っており、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を守備で徹底して守る、日本における「スモールベースボール」の先駆けである一方、V9の期間中、巨人はセ・リーグ最多チーム得点だった。当時の本拠地だった後楽園球場が狭くて打者有利の球場であった事もあり、V9時代の巨人は攻撃力中心のチームであったと見ることができる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1965年11月、戦力の均衡を目的として第1回プロ野球ドラフト会議が開催された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "なお同年1965年5月シーズン中、国鉄スワローズはサンケイスワローズとなったが(1962年の産経新聞との業務提携以降、経営権は実質的に国鉄から産経に移行していた)、1970年にはヤクルトに経営権が移行、ヤクルトアトムズとなった。1973年には中日スタヂアムの経営権をめぐる恐喝事件(中日スタヂアム事件)が発生した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1974年に与那嶺要監督の中日ドラゴンズが優勝し、巨人の10連覇を阻止、V9時代は終焉を迎えた。10月14日、戦後史に残る長嶋茂雄の引退スピーチが行われた。翌1975年は、古葉竹識監督率いる広島東洋カープが山本浩二・衣笠祥雄・外木場義郎らを擁して初優勝を果たすとプロ野球界に赤ヘル旋風を巻き起こす。その後も広島カープは高橋慶彦、北別府学、江夏豊らの活躍もあり、3度の日本一(1979年・1980年・1984年)を成し遂げる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "巨人は、V9以降、1975年に球団史上初の最下位という結果になった。但し、翌1976年・1977年は張本勲、小林繁ら新戦力の活躍によりV2を果たしている。また、1977年9月3日には王貞治がハンク・アーロンの記録を抜く756号を放ち、初の国民栄誉賞を受賞した。 1979年、5位に甘んじたシーズン直後の伊東市での秋季キャンプは『地獄の伊東キャンプ』として語り継がれ、江川卓、中畑清、松本匡史、西本聖、角三男ら後に巨人の主力となる選手もいた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "セ・リーグにおいては前掲のバッキー(阪神)や、MLB仕込みの華麗な守備を見せたC.ボイヤー(大洋)、J.シピン(大洋・巨人)らが先駆をなしたが、70年代後半からは日本経済の成長に伴い、MLBでレギュラーであった外国人選手がキャリアの後半にNPBを選ぶケースが増え、R.ホワイトやR.スミス(巨人)、赤鬼ことC.マニエル(ヤクルト)が活躍した。そこから、80年代にはR.バース(阪神)、B.ホーナー(ヤクルト)を筆頭とする圧倒的なパワーを持つ打者が各チームに出現、大人気となる。1994年からは外国人枠の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にも発展した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "逆に、日本での経験ののち、帰国後にMLBでタイトルを獲るキャリアハイの活躍をした例もあり、C.フィルダー(阪神)、B.ガリクソン(巨人)、A.ソリアーノ(広島)が良く知られている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "入団時の混乱から「ヒール」とも言われた江川卓・桑田真澄、また若大将こと原辰徳、現役メジャーであったW.クロマティらの活躍により、長嶋茂雄監督解任後のチームの建て直しに成功した読売ジャイアンツは、80年代を通じて全てAクラスという安定感を取り戻し、リーグ優勝も1981・1983・1987・1989年に達成。とくに1989年は84勝44敗と他者を寄せ付けない圧勝となった。1988年に東京ドームが開場し、のちの5大ドーム時代の先鞭をつけた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1985年の阪神タイガースは、R.バース・掛布雅之・岡田彰布の『バックスクリーン3連発』など、ニューダイナマイト打線と呼ばれる強力打線が活躍し、21年振りのセ・リーグ優勝を達成する。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本シリーズでは、広岡達朗監督率いる西武ライオンズを破り4勝2敗で球団史上初の日本一に輝いた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1990年に野村克也がヤクルトの監督に就任した。この年は後にヤクルトの正捕手として活躍する古田敦也、1991年には高津臣吾などが入団し、ヤクルトの黄金期を担うことになる。他にも広沢克己・飯田哲也・池山隆寛・川崎憲次郎・J.ハウエルなどの活躍もあり、1992年・1993年にセ・リーグ連覇を果たす。さらに1993年の日本シリーズでは、パ・リーグ4連覇中の西武ライオンズを破り、1978年以来15年ぶり2度目の日本一を果たした。その後も生え抜き選手では石井一久・伊藤智仁・真中満・宮本慎也・稲葉篤紀など、移籍選手では吉井理人・田畑一也・T.オマリー・H.ミューレン・辻発彦・小早川毅彦などが活躍し、野村克也監督時代(1990年~1998年)のヤクルトは、4度のリーグ優勝(1992年・1993年・1995年・1997年)と、(左記1992年を除く)3度の日本一を成し遂げた。1998年シーズン終了をもって野村克也監督は退任し、阪神に移籍した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、その頃の阪神タイガースは昭和末期・平成と2度の暗黒時代に突入。1987年~1991年にかけて、(1989年を除く)4度の最下位を喫した。しかし1992年は、新庄剛志・亀山努・T.オマリーなどが活躍し、ヤクルト・巨人と優勝争いを繰り広げ、最終的には優勝のヤクルトと僅差で2位(巨人と同率2位)と健闘を見せた。しかし、翌1993年以降はBクラスに逆戻り、1995年から2年連続の最下位に転落するなど、再び暗黒時代に突入する。1999年にヤクルト前監督の野村克也が阪神の監督に就任するが、1998年から2001年にかけて4年連続最下位となる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "読売ジャイアンツは90年代をつうじ1990年・1994年・1996年と、黄金期ヤクルトに次ぐ3回の優勝を果たした。中でも1994年の10.8決戦で同率首位の中日を下しての最終戦優勝、1996年のメークドラマ(首位広島に1996年7月6日時点で最大11.5ゲーム差をつけられながらも逆転優勝)は国民的な関心を集め、地上波TV視聴率・観客動員も高水準で推移した。また積極的な補強とドラフト戦略の成功により、1990年V2時点の主力(斎藤雅樹・桑田真澄・槙原寛己の3本柱中心)から、第2期長嶋茂雄政権での主力(松井秀喜・上原浩治・高橋由伸ら00年代優勝メンバー)への転換にも成功した。この間、落合博満・清原和博らのフリーエージェント補強にも成功し、ストーブリーグにおいても話題の中心であり続けた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1998年、横浜大洋ホエールズからの改称後6シーズン目となった横浜ベイスターズは、5月終了時点では貯金3の3位だった。しかし、6月後半から石井琢朗・鈴木尚典・R.ローズ・駒田徳広らによる「マシンガン打線」が爆発するようになり、16日から8連勝して首位に立った。その後、オールスター戦を挟んで10連勝、アクシデント続出で失速する巨人とは対照的に首位を固めた。9月4日からの2位中日との直接対決を佐々木主浩の3連投で全勝、大洋ホエールズ以来となる38年ぶり2度目のセ・リーグ優勝を飾った。1998年の日本シリーズは4勝2敗で38年ぶり2度目の日本一を果たした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この頃のセ・リーグは原辰徳率いる読売ジャイアンツ、岡田彰布率いる阪神タイガース、落合博満率いる中日ドラゴンズが熾烈な優勝争いを繰り広げていた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "巨人は00年代前半には前掲の松井・上原・高橋由、及び阿部慎之助・高橋尚成・仁志敏久・二岡智宏・清水隆行ら生え抜き選手が非常に強く、逆指名などのドラフト改革を追い風としたチーム強化に成功。また、清原和博・江藤智・工藤公康らの移籍組も活躍した。00年代後半は小笠原道大・A.ラミレス・S.グライシンガー・M.クルーン・李承燁らの移籍組がMVP級の活躍、さらに坂本勇人・亀井善行・内海哲也・山口鉄也といった生え抜きスター選手とのベストミックスでV3を達成。00年代の5度のリーグ優勝(2000・2002・2007・2008・2009)は最多であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "中日は山本昌・岩瀬仁紀・立浪和義・福留孝介・中村紀洋・和田一浩・谷繁元信・荒木雅博の名球会メンバー、また川上憲伸・浅尾拓也・T.ウッズ・井端弘和・森野将彦・吉見一起らのスター選手を擁し、落合博満監督の在任8年間(2004年-2011年)で4度のリーグ優勝(2004・2006・2010・2011)、2007年にはリーグ2位からの日本一を達成した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "阪神は2003年の「血の入れ替え」に象徴されるように、金本知憲・伊良部秀輝・下柳剛・片岡篤史・矢野輝弘らを積極補強し、リストラを断行した。赤星憲広・今岡誠・井川慶・JFK(藤川球児・J.ウィリアムス・久保田智之)・鳥谷敬・能見篤史らも活躍し、星野仙一監督(2002年-2003年)~岡田彰布監督(2004年-2008年)の在任中、2度のリーグ優勝(2003・2005)を達成。2006年・2008年にもシーズン2位ながら80勝を突破した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "しかし、横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)は森祇晶・山下大輔・牛島和彦・大矢明彦(第2期)・田代富雄(代行)・尾花高夫と政権を継いだが、2001年末に筆頭株主がマルハからTBSに交代して以降は、2002年から2011年にかけて最下位が8度という暗黒時代に突入し、結果を残せなかった。(なお、2011年末から筆頭株主はDeNAに変更。)", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また、広島東洋カープは2002年以降は5位が指定席であり、1998年から2012年にかけての15シーズンでは5位が11度で、全てBクラスであった。その一方で、長年の本拠地だった広島市民球場の老朽化もあり、2009年に新球場への移転に成功するなど、大きなターニングポイントを迎えた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "インターネット社会の到来による娯楽・嗜好の多様化により、プロ野球のTV中継の視聴率が大きく低下した時期でもあり、プロ野球TV中継の主体は、地上波からBS・CSに移行した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年からは育成選手制度がスタートした。セ・パ交流戦(2005年より導入)、クライマックスシリーズ(2007年より導入)も参照。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年1月1日の改定日本プロフェッショナル野球協約発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、パシフィック・リーグ事務局と統合され、コミッショナー直属の『セントラル・リーグ運営部』『審判部』『記録部』となり、リーグ会長職は廃止された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2012年より読売ジャイアンツの3連覇(2012・2013・2014)、(2015年のヤクルト優勝を挟んで)2016年より広島東洋カープの3連覇(2016・2017・2018)、という結果となり、両チームとも2位とのゲーム差を大きく付けた「圧勝」でのV3となった。但しクライマックスシリーズの導入により、リーグ終盤の興行的好調は継続され、実際に2014年には2位、2017年には3位からの日本シリーズ進出が実現した。広島・横浜では女性ファン層の拡大もあり観客動員が大幅に増加、特に2019年は天皇即位にともなうGW10連休の特需に各チーム10連戦を打った事も奏功し、過去最大規模の年間平均入場者数を達成した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2011年は東日本大震災の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。2012年からは予告先発を導入した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2013年より開幕前のイベントとして東京ビッグサイトにて『セ・リーグファンミーティング』を行っている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2015年秋に、読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題が発覚。巨人は渡邉顧問、白石オーナー、桃井会長の3首脳が引責辞任した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2019年11月11日にJERAとタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は2020年(令和2年)から3年間でリーグ戦では「JERA セントラル・リーグ」の名称が使用される。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、セ・パ交流戦の10年連続負け越し(セの548勝671敗41分)、また2010年代をつうじて日本シリーズにおけるセの優勝が1回のみ(セの19勝38敗2分)に終るなど、セの地盤沈下が語られる事態となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2016年は緒方孝市監督率いる広島東洋カープは25年ぶりのセ・リーグ優勝を達成。200勝を達成した黒田博樹・2000本安打を達成した新井貴浩の復帰組ベテランと、投手陣は野村祐輔の16勝3敗の快進撃、B.エルドレッド・外国人投手2人目の沢村賞を受賞したK.ジョンソンといった助っ人外国人、生え抜きの「タナキクマル」(田中広輔・菊池涼介・丸佳浩)、若き大砲の鈴木誠也の若手を組み合わせたベストミックスの優勝であった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2018年まで、上述の主力組が機能しリーグ戦・交流戦で圧倒的な強さを見せ、球団史上初の3連覇を達成した。(セ・リーグでは巨人以外で初である。)", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2020年から2021年にかけ、新型コロナウィルスの発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は120試合のみの開催で1952年以来68年ぶりの規模縮小、入場者数(275万人、昨対比▲81%)は草創期である1951年以来の少なさとなった。また、クライマックスシリーズが2020年は中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らしてしまう事もあった。2022年7月にはオミクロン株の感染力の強さにより、巨人戦が7月22日から同31日まで6試合連続で延期となるなど大きな影響を受けた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "経営面では、横浜スタジアムが6,000席を超える増席を行い、DeNAによる球場運営会社の買収も相まって財務面を強化。マーケティング戦略も奏功し、横浜DeNAは人気球団となった。なお、東京ヤクルトの本拠地である現在の神宮球場は、2031年までの使用予定である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "翌、2022年にも村上宗隆の56本塁打と三冠王達成を原動力として、リーグ連覇を果たした。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "※ 球団表記順は野球協約の保護地域表記順", "title": "現存する加盟球団" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "※親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの ※球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記", "title": "現存する加盟球団" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1952年のフランチャイズ(ホームタウン)制度採用後はホーム・アンド・アウェー方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。", "title": "試合方式" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "※1:1997年 - 2000年と2015年 - 2019年、2021年 -(リーグ間の対戦)は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形式(前者は14試合、後者は13試合)である。なお1試合増加分のホームチームについては、2年単位で隔年入れ替わりである。", "title": "試合方式" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "※2:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりとなるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。", "title": "試合方式" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。", "title": "試合方式" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "に変更された。(パ・リーグの場合は、1で並んだ場合は、2ではなく、3以下同文の順番である)", "title": "試合方式" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "セ・パ12球団の中でも最も人気が高い球団である読売ジャイアンツと阪神タイガースが属しているリーグであることから「人気のセ」と言われており、現実にセの観客動員数 はパの観客動員数 よりも設立以来常に多い状態で、観客動員数の1位2位を巨人と阪神で占めている。但し、2020年からの2年間は新型コロナウイルス感染拡大の影響で無観客試合や収容人数制限の試合が多く、三大都市圏では緊急事態宣言発動による無観客試合の増加により、その影響が少なかった広島が観客動員数1位となっている。", "title": "「人気のセ」" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "巨人以外の5球団は、その保護地域において(人口動態上)当該球団よりも巨人ファンが多く分布している場合があること、また親会社の資本力も巨人に大きく水を開けられていることもあり、観客収入を対巨人戦に頼る傾向が強い。", "title": "「人気のセ」" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "中日の場合は親会社である中日新聞社がブロック紙という台所事情により、西日本地域では広島、横浜DeNA、ヤクルトと比べてファンの分布で大きく水を開けられているが、発行地域である東海地方や北陸地方、関東地方では熱狂的なファンを抱えているという特徴をもつ。また、他都市間への移動が容易な地理的事情からビジターでの対戦カードは人気が高い。", "title": "「人気のセ」" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "以上のことから、対巨人戦や対阪神戦以外の一部の対戦カードにおいても人気カードになることがある(PayPayドームでのソフトバンク対広島戦、北陸地方開催での対中日戦、坊ちゃんスタジアムでの対ヤクルト戦等)。", "title": "「人気のセ」" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ファンサービスとしては、広島がジェット風船を始めたのを皮切りに多くの球団が取り入れている。阪神はプロ野球では初めてチアリーディングチームを導入しており(但し、現在のタイガースガールズは2代目となっている)、2023年現在では広島を除く5球団がチアリーディングチームを持つ。過去にはセ・リーグオールスター東西対抗(1979-1999)が秋季に地方球場で行われていた。", "title": "「人気のセ」" } ]
セントラル・リーグは、日本のプロ野球リーグのひとつ。 正式名称は日本プロ野球組織 セントラル・リーグ運営部。呼称はセ・リーグ。
{{スポーツリーグ |種類 = [[野球]] |開始年 = 1950 |チーム = 6 |国 = {{JPN}} |優勝 = [[阪神タイガース]](18年ぶり6回目) |most_champs = [[読売ジャイアンツ]](38回) }} {{座標一覧}} {{location map+|Japan|float=right|width=400|caption=セ・リーグに加盟する各球団本拠地所在地(1978年~)|places= {{Location map~|Japan|lat=35.705833|long=139.751944|label=[[読売ジャイアンツ|巨人]]|mark=Blue pog.svg|position=right}} {{Location map~|Japan|lat=35.674556|long=139.717083|label=[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]|mark=Blue pog.svg|position=left}} {{Location map~|Japan|lat=35.443383|long=139.640028|label=[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]|mark=Blue pog.svg|position=bottom}} {{Location map~|Japan|lat=35.185972|long=136.947467|label=[[中日ドラゴンズ|中日]]|mark=Blue pog.svg|position=bottom}} {{Location map~|Japan|lat=34.721231|long=135.361642|label=[[阪神タイガース|阪神]]|mark=Blue pog.svg|position=bottom}} {{Location map~|Japan|lat=34.391878|long=132.484731|label=[[広島東洋カープ|広島]]|mark=Blue pog.svg|position=}} }} '''セントラル・リーグ'''({{lang-en-short|Central League}})は、[[日本]]の[[日本のプロ野球|プロ野球]]リーグのひとつ。 正式名称は'''[[日本プロフェッショナル野球組織|日本プロ野球組織]] セントラル・リーグ運営部'''。呼称は'''セ・リーグ'''。 == 概要 == 日本におけるプロ野球リーグの一つで、[[読売ジャイアンツ]](巨人)、[[阪神タイガース]]、[[中日ドラゴンズ]]、[[東京ヤクルトスワローズ]]、[[横浜DeNAベイスターズ]]、[[広島東洋カープ]]の6球団から構成されている。 巨人・阪神・中日の3球団は、戦前に誕生し現在に至るまで親会社が変わらずに存在する老舗球団である。現存する6球団すべてが[[太平洋ベルト]]上([[東海道・山陽新幹線]]沿線)に[[専用球場|本拠地球場]]を置いており、うち広島以外の5球団はすべて[[三大都市圏]]([[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[京阪神#近畿大都市圏|近畿圏]]・[[中京圏]])、その中でも巨人・ヤクルト・DeNAの3球団は首都圏に本拠地を置いている。 [[パシフィック・リーグ]]とは異なり、[[指名打者]]制(DH制)を採用しておらず、投手を含めた9人のスタメンで構成されているのがセ・リーグの大きな特徴である。 [[2019年]](令和元年)11月11日に[[JERA]]とタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は[[2020年]](令和2年)から3年間。2020年シーズンより、リーグ戦では「'''JERA セントラル・リーグ'''」の名称が使用される<ref name="NPBニュース">[https://npb.jp/news/detail/20191111_01.html NPBニュース]</ref>。 == 沿革 == === 誕生 === {{seealso|プロ野球再編問題 (1949年)}} [[1949年]]([[昭和]]24年)、新チーム加盟の是非をめぐり[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]が分裂し、加盟反対派の[[読売ジャイアンツ]](巨人)、[[中日ドラゴンズ]]、[[松竹ロビンス]]を中心に、[[阪神タイガース|大阪タイガース]]<ref group="注">当初は賛成派だったが巨人戦との兼ね合いで撤回し残留。それがきっかけで、毎日オリオンズは報復として大阪の主力選手だった[[若林忠志]]・[[別当薫]]・[[土井垣武]]・[[本堂保次]]・[[呉昌征]]などを引き抜いた。</ref>、新球団の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]、[[広島東洋カープ|広島カープ]]、[[西日本パイレーツ]]を加えた計7球団で'''セントラル野球連盟'''(セントラルやきゅうれんめい)が発足。なお、発足当時は[[小田急電鉄]]が球団を所有してセ・リーグに加盟して8球団体制とする計画があった<ref>[[1949年]][[11月27日]]付[[朝日新聞]]朝刊</ref>が、これは計画倒れに終わり実現しなかった。 袂を分かった賛成派の4球団([[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]、[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]])は、3つの新チーム([[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]])と共に'''太平洋野球連盟'''こと[[パシフィック・リーグ]](パ・リーグ)を結成した。 翌[[1950年]](昭和25年)1月には球団所有が中止・消滅に終わった小田急電鉄と入れ替わる形で国鉄スワローズ(現:[[東京ヤクルトスワローズ]])も加盟し、当初の計画から違う形となったが、運営初年度から8球団体制となった。なお、初年度である[[1950年]]は[[松竹ロビンス]]がセ・リーグ初代優勝チームとなったが、[[1950年の日本シリーズ|その年の日本シリーズ]]では親会社のバックアップで戦力を充実させた[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]に敗退した。 === 1950年代 === その後[[1951年]]から[[1959年]]にかけて、[[水原茂]]監督率いる[[読売ジャイアンツ]]の第2次黄金期だった。日本シリーズでも[[1951年の日本シリーズ|1951年]]から[[1953年の日本シリーズ|1953年]]、[[1955年の日本シリーズ|1955年]]において、[[鶴岡一人]]監督率いる[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]を圧倒し、4度の日本一を達成した。しかし、[[1956年の日本シリーズ|1956年]]から[[1958年の日本シリーズ|1958年]]ではかつて巨人を指揮した[[三原脩]]監督率いる[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]に3年連続で敗退。さらに[[1959年の日本シリーズ|1959年]]でも[[杉浦忠]]擁する南海ホークスに0勝4敗と敗退した。なお、日本シリーズでストレートでの4連勝を決めたのは南海が史上初だった。 [[1951年]]1月10日に開催が予定されたセ・リーグ代表者会議を前に、経営危機に直面していた広島と西日本を整理する構想が浮上したものの、当日の会議では問題を先送りされた<ref>西日本、廣島の整理問題持越し『朝日新聞』昭和26年1月11日</ref>が、結局シーズン開始直前に西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパース(現:[[埼玉西武ライオンズ]])と合併し脱退。[[1952年]]シーズン終了後には大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併して「大洋松竹ロビンス」を結成し、6球団になる{{要出典|date=2021-05}}。1951年8月19日には[[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]]が全焼、死者4名、重軽傷者多数を出す惨事となった。 以降、親会社及びチーム名の変更こそあるものの、チーム数そのものの増減は無い。大洋松竹ロビンスが1953年(昭和28年)に[[下関市|下関]]から[[大阪市|大阪]]へ、さらに1955年(昭和30年)大洋ホエールズに改称して[[神奈川県]][[川崎市]]の[[川崎球場]]へ移転して以降は、各球団の[[プロ野球地域保護権|保護地域]]の変更も無い。同球団は、1978年に[[横浜市]]の[[横浜スタジアム]]への移転とともに横浜大洋ホエールズに改称しており<ref group="注">大洋の横浜移転と引換に、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]所属の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]が[[1978年]]から[[1991年]]にかけて[[川崎球場]]を本拠地とすることになった。([[ジプシー・ロッテ]]を参照。)</ref>、それ以降、本拠地(球場)所在地の変更も無い。 [[1954年]]は[[中日ドラゴンズ]]が[[杉下茂]]を擁して球団初のリーグ優勝、[[1954年の日本シリーズ|その年の日本シリーズ]]でも球団初のパ・リーグ優勝を決めた西鉄ライオンズを破り日本一となった。 [[1959年]][[6月25日]]の巨人×大阪戦([[後楽園球場|後楽園]])で、プロ野球史上初めての[[天覧試合]]が開催された。1950年代後半から巨人の[[王貞治]]・[[長嶋茂雄]]が球界のスター選手となり、宿命のライバルである[[村山実]]・[[ジーン・バッキー|G.バッキー]]・[[金田正一]]らとの名勝負を繰り広げた。 === 1960年代~1970年代前半 === [[1960年]]は、前年まで6年連続最下位に喘いでいた、この年に就任した[[三原脩]]監督率いる[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]が球団初のリーグ優勝。そして[[1960年の日本シリーズ|その年の日本シリーズ]]でも[[西本幸雄]]監督率いる[[千葉ロッテマリーンズ|毎日大映オリオンズ]](大毎)を4勝0敗で制した。 巨人は[[1961年]]から球団OBの[[川上哲治]]が監督に就任。当時の巨人は打撃陣では[[長嶋茂雄]]だけが頼りになる存在で、投手陣でも絶対的な存在がいなかった。そのため、川上は『[[ドジャースの戦法]]』をチームに導入し、後に「[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]」と呼ばれるセ・リーグ9連覇・日本一という前人未到の黄金期を築き上げる。また、[[1960年代]]前半に[[プロ野球中継|テレビ中継]](主に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本テレビネットワーク協議会|系列]]など)の普及も相まって、やがて巨人と阪神は爆発的な人気を得ることになる。特に巨人同様読売新聞グループである[[DRAMATIC BASEBALL|日本テレビのプロ野球中継]]は日テレの看板番組でもあり、巨人は爆発的な人気を獲得し、「子供の好きなものといえば『[[巨人・大鵬・卵焼き]]』」と言う言葉ができるなど、V9が始まる前から社会現象となっていた。 そんな中、巨人のライバル球団である[[阪神タイガース]]は[[1962年]]・[[1964年]]にリーグ優勝を果たすも、[[1962年の日本シリーズ|前者]]は元巨人の監督だった水原茂監督率いる[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に、[[1964年の日本シリーズ|後者]]は南海ホークスに敗れた。なお、[[1964年の日本シリーズ]]は関西私鉄同士だったこともあり、'''『[[御堂筋]]シリーズ』'''と呼ばれた<ref group="注">その後、[[2003年の日本シリーズ]]でもタイガースとホークスの対戦が実現したが、ホークスは[[1989年]]に福岡に移転したため、このときは両軍の保護地域を結ぶ新幹線の名前を取って『[[山陽新幹線]]シリーズ』と呼ばれた。</ref><ref group="注">[[2023年の日本シリーズ]]はこのとき以来59年振りとなる関西球団同士([[阪神タイガース]] vs [[オリックス・バファローズ]])の対決となったが、両軍の本拠地が電車1本20分で結ばれていたことから、路線の名前を取って'''[[阪神なんば線]]シリーズ'''と呼ばれた。</ref>。 ==== 1965年~1973年(巨人のV9時代) ==== {{main|V9 (読売ジャイアンツ)}} 巨人の監督だった川上は、選手個々の実力よりも、『[[ドジャースの戦法]]』の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先した。またスタッフでも[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]などを招聘。選手においても、[[王貞治]]・[[長嶋茂雄]]という二人のスーパースター(いわゆる'''[[ON砲]]''')を筆頭に、[[森祇晶|森昌彦]]・[[柴田勲]]・[[黒江透修]]・[[高田繁]]・[[土井正三]]といった名選手や、[[堀内恒夫]]・[[高橋一三]]・[[城之内邦雄]]・[[金田正一]]といった球史に名を残す投手が揃った。様々なポジションに適した人材が揃っており、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を守備で徹底して守る、日本における「[[スモールベースボール]]」の先駆けである一方、V9の期間中、巨人はセ・リーグ最多チーム得点だった。当時の本拠地だった[[後楽園球場]]が狭くて打者有利の球場であった事もあり、V9時代の巨人は攻撃力中心のチームであったと見ることができる。 1965年11月、戦力の均衡を目的として第1回[[プロ野球ドラフト会議]]が開催された。 なお同年1965年5月シーズン中、国鉄スワローズはサンケイスワローズとなったが(1962年の[[産業経済新聞社|産経新聞]]との業務提携以降、経営権は実質的に[[日本国有鉄道|国鉄]]から産経に移行していた)、1970年には[[ヤクルト本社|ヤクルト]]に経営権が移行、ヤクルトアトムズとなった。1973年には中日スタヂアムの経営権をめぐる恐喝事件([[中日スタヂアム事件]])が発生した。 === 1970年代後半 V9の終焉、広島の赤ヘル旋風 === [[1974年]]に[[与那嶺要]]監督の中日ドラゴンズが優勝し、巨人の10連覇を阻止、[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]時代は終焉を迎えた。10月14日、戦後史に残る'''長嶋茂雄の引退スピーチ'''が行われた。翌1975年は、[[古葉竹識]]監督率いる[[広島東洋カープ]]が[[山本浩二]]・[[衣笠祥雄]]・[[外木場義郎]]らを擁して初優勝を果たすとプロ野球界に赤ヘル旋風を巻き起こす。その後も広島カープは[[高橋慶彦]]、[[北別府学]]、[[江夏豊]]らの活躍もあり、3度の日本一([[1979年の日本シリーズ|1979年]]・[[1980年の日本シリーズ|1980年]]・[[1984年の日本シリーズ|1984年]])を成し遂げる。 巨人は、V9以降、[[1975年の読売ジャイアンツ|1975年]]に球団史上初の最下位という結果になった。但し、翌[[1976年の読売ジャイアンツ|1976年]]・[[1977年の読売ジャイアンツ|1977年]]は[[張本勲]]、[[小林繁]]ら新戦力の活躍によりV2を果たしている。また、1977年9月3日には王貞治が[[ハンク・アーロン]]の記録を抜く756号を放ち、初の[[国民栄誉賞]]を受賞した。 [[1979年]]、5位に甘んじたシーズン直後の[[伊東市]]での秋季キャンプは『'''[[地獄の伊東キャンプ]]'''』として語り継がれ、[[江川卓 (野球)|江川卓]]、[[中畑清]]、[[松本匡史]]、[[西本聖]]、[[角盈男|角三男]]ら後に巨人の主力となる選手もいた。 ==== 1978年 ヤクルトスワローズ、球団初のリーグ優勝と日本一 ==== {{main|1978年のヤクルトスワローズ}} ==== 外国人の活躍 ==== セ・リーグにおいては前掲のバッキー(阪神)や、[[MLB]]仕込みの華麗な守備を見せた[[クリート・ボイヤー|C.ボイヤー]](大洋)、[[ジョン・シピン|J.シピン]](大洋・巨人)らが先駆をなしたが、70年代後半からは日本経済の成長に伴い、[[MLB]]でレギュラーであった外国人選手がキャリアの後半にNPBを選ぶケースが増え、[[ロイ・ホワイト|R.ホワイト]]や[[レジー・スミス|R.スミス]](巨人)、赤鬼こと[[チャーリー・マニエル|C.マニエル]](ヤクルト)が活躍した。そこから、80年代には[[ランディ・バース|R.バース]](阪神)、[[ボブ・ホーナー|B.ホーナー]](ヤクルト)を筆頭とする圧倒的なパワーを持つ打者が各チームに出現、大人気となる。1994年からは[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]]の拡大(2名⇒3名。1998年からは4名)にも発展した。 逆に、日本での経験ののち、帰国後にMLBでタイトルを獲るキャリアハイの活躍をした例もあり、[[セシル・フィルダー|C.フィルダー]](阪神)、[[ビル・ガリクソン|B.ガリクソン]](巨人)、[[アルフォンソ・ソリアーノ|A.ソリアーノ]](広島)が良く知られている。 === 1980年代 読売ジャイアンツの復活と東京ドーム開場 === 入団時の混乱から「ヒール」とも言われた[[江川卓 (野球)|江川卓]]・[[桑田真澄]]、また若大将こと[[原辰徳]]、現役メジャーであった[[ウォーレン・クロマティ|W.クロマティ]]らの活躍により、[[長嶋茂雄]]監督解任後のチームの建て直し<ref group="注">[[藤田元司]]監督・王貞治助監督・中日出身の[[牧野茂 (野球)|牧野茂]]ヘッドコーチによる政権は[[トロイカ体制]]と呼ばれ、その後の王貞治政権での優勝(1987)にもつなげた。</ref>に成功した読売ジャイアンツは、80年代を通じて全てAクラスという安定感を取り戻し、リーグ優勝も[[1981年の読売ジャイアンツ|1981]]・[[1983年の読売ジャイアンツ|1983]]・[[1987年の読売ジャイアンツ|1987]]・[[1989年の読売ジャイアンツ|1989]]年に達成。とくに1989年は84勝44敗と他者を寄せ付けない圧勝となった。1988年に[[東京ドーム]]が開場し、のちの5大ドーム時代の先鞭をつけた。 ==== 1985年 阪神タイガース、悲願の日本一 ==== {{main|1985年の阪神タイガース}} [[1985年の阪神タイガース|1985年]]の阪神タイガースは、[[ランディ・バース|R.バース]]・[[掛布雅之]]・[[岡田彰布]]の『'''[[バックスクリーン3連発]]'''』など、[[ニューダイナマイト打線]]と呼ばれる強力打線が活躍し、21年振りのセ・リーグ優勝を達成する。 [[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、[[広岡達朗]]監督率いる[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を破り4勝2敗で球団史上初の日本一に輝いた。 === 1990年代 ヤクルトの黄金期・阪神暗黒時代、フリーエージェントの導入=== [[1990年]]に[[野村克也]]が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の監督に就任した。この年は後にヤクルトの正捕手として活躍する[[古田敦也]]、[[1991年]]には[[高津臣吾]]などが入団し、ヤクルトの黄金期を担うことになる。他にも[[広澤克実|広沢克己]]・[[飯田哲也 (野球)|飯田哲也]]・[[池山隆寛]]・[[川崎憲次郎]]・[[ジャック・ハウエル|J.ハウエル]]などの活躍もあり、[[1992年]]・[[1993年]]にセ・リーグ連覇を果たす。さらに[[1993年の日本シリーズ]]では、パ・リーグ4連覇中の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を破り、[[1978年の日本シリーズ|1978年]]以来15年ぶり2度目の日本一を果たした。その後も生え抜き選手では[[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[真中満]]・[[宮本慎也]]・[[稲葉篤紀]]など、移籍選手では[[吉井理人]]・[[田畑一也]]・[[トーマス・オマリー|T.オマリー]]・[[辻発彦]]・[[小早川毅彦]]などが活躍し、野村克也監督時代(1990年~1998年)のヤクルトは、4度のリーグ優勝([[1992年のヤクルトスワローズ|1992年]]・[[1993年のヤクルトスワローズ|1993年]]・[[1995年のヤクルトスワローズ|1995年]]・[[1997年のヤクルトスワローズ|1997年]])と、(左記1992年を除く)3度の日本一を成し遂げた。[[1998年]]シーズン終了をもって野村克也監督は退任し、阪神に移籍した。 一方、その頃の[[阪神タイガース]]は昭和末期・平成と2度の[[暗黒時代 (阪神タイガース)|暗黒時代]]に突入。[[1987年]]~[[1991年]]にかけて、(1989年を除く)4度の最下位を喫した。しかし[[1992年の阪神タイガース|1992年]]は、[[新庄剛志]]・[[亀山努]]・[[トーマス・オマリー|T.オマリー]]などが活躍し、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]・[[読売ジャイアンツ|巨人]]と優勝争いを繰り広げ、最終的には優勝のヤクルトと僅差で2位(巨人と同率2位)と健闘を見せた。しかし、翌[[1993年]]以降はBクラスに逆戻り、[[1995年]]から2年連続の最下位に転落するなど、再び暗黒時代に突入する。[[1999年]]にヤクルト前監督の[[野村克也]]が阪神の監督に就任するが、[[1998年]]から[[2001年]]にかけて'''4年連続最下位'''となる。 [[読売ジャイアンツ]]は90年代をつうじ[[1990年の読売ジャイアンツ|1990年]]・[[1994年の読売ジャイアンツ|1994年]]・[[1996年の読売ジャイアンツ|1996]]年と、黄金期ヤクルトに次ぐ3回の優勝を果たした。中でも1994年の'''[[10.8決戦]]'''で同率首位の中日を下しての最終戦優勝、1996年の'''[[メークドラマ]]'''(首位広島に1996年7月6日時点で最大11.5ゲーム差をつけられながらも逆転優勝)は国民的な関心を集め、地上波TV視聴率・観客動員も高水準で推移した。また積極的な補強とドラフト戦略の成功により、1990年V2時点の主力([[斎藤雅樹]]・[[桑田真澄]]・[[槙原寛己]]の3本柱中心)から、第2期[[長嶋茂雄]]政権での主力([[松井秀喜]]・[[上原浩治]]・[[高橋由伸]]ら00年代優勝メンバー)への転換にも成功した。この間、[[落合博満]]・[[清原和博]]らの[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]補強にも成功し、[[ストーブリーグ]]においても話題の中心であり続けた。 ==== 1998年 横浜ベイスターズ、38年ぶりのリーグ優勝・日本一 ==== {{main|1998年の横浜ベイスターズ}} [[1998年]]、横浜大洋ホエールズからの改称後6シーズン目となった横浜ベイスターズは、5月終了時点では貯金3の3位だった。しかし、6月後半から[[石井琢朗]]・[[鈴木尚典]]・[[ロバート・ローズ|R.ローズ]]・[[駒田徳広]]らによる'''「[[マシンガン打線]]」'''が爆発するようになり、16日から8連勝して首位に立った。その後、オールスター戦を挟んで10連勝、アクシデント続出で失速する巨人とは対照的に首位を固めた。9月4日からの2位中日との直接対決を[[佐々木主浩]]の3連投で全勝、大洋ホエールズ以来となる38年ぶり2度目のセ・リーグ優勝を飾った。[[1998年の日本シリーズ]]は4勝2敗で38年ぶり2度目の日本一を果たした。 === 2000年代 巨人・中日・阪神の3強時代、横浜暗黒時代 === この頃のセ・リーグは[[原辰徳]]率いる[[読売ジャイアンツ]]、[[岡田彰布]]率いる[[阪神タイガース]]、[[落合博満]]率いる[[中日ドラゴンズ]]が熾烈な優勝争いを繰り広げていた。 巨人は00年代前半には前掲の松井・上原・高橋由、及び[[阿部慎之助]]・[[高橋尚成]]・[[仁志敏久]]・[[二岡智宏]]・[[清水隆行]]ら生え抜き選手が非常に強く、逆指名などの[[プロ野球ドラフト会議#ドラフト制度の変遷|ドラフト改革]]を追い風としたチーム強化に成功。また、清原和博・[[江藤智 (野球)|江藤智]]・[[工藤公康]]らの移籍組も活躍した。00年代後半は[[小笠原道大]]・[[アレックス・ラミレス|A.ラミレス]]・[[セス・グライシンガー|S.グライシンガー]]・[[マーク・クルーン|M.クルーン]]・[[李承燁 (野球)|李承燁]]らの移籍組がMVP級の活躍、さらに[[坂本勇人]]・[[亀井善行]]・[[内海哲也]]・[[山口鉄也]]といった生え抜きスター選手とのベストミックスでV3を達成。00年代の5度のリーグ優勝([[2000年の読売ジャイアンツ|2000]]・[[2002年の読売ジャイアンツ|2002]]・[[2007年の読売ジャイアンツ|2007]]・[[2008年の読売ジャイアンツ|2008]]・[[2009年の読売ジャイアンツ|2009]])は最多であった<ref group="注">原辰徳監督の第2期政権(2006-2015)でカウントすれば、6度のリーグ優勝([[2007年の読売ジャイアンツ|2007]]・[[2008年の読売ジャイアンツ|2008]]・[[2009年の読売ジャイアンツ|2009]]・[[2012年の読売ジャイアンツ|2012]]・[[2013年の読売ジャイアンツ|2013]]・[[2014年の読売ジャイアンツ|2014]])を達成している</ref>。 中日は[[山本昌]]・[[岩瀬仁紀]]・[[立浪和義]]・[[福留孝介]]・[[中村紀洋]]・[[和田一浩]]・[[谷繁元信]]・[[荒木雅博]]の名球会メンバー、また[[川上憲伸]]・[[浅尾拓也]]・[[タイロン・ウッズ|T.ウッズ]]・[[井端弘和]]・[[森野将彦]]・[[吉見一起]]らのスター選手を擁し、落合博満監督の在任8年間(2004年-2011年)で4度のリーグ優勝([[2004年の中日ドラゴンズ|2004]]・[[2006年の中日ドラゴンズ|2006]]・[[2010年の中日ドラゴンズ|2010]]・[[2011年の中日ドラゴンズ|2011]])、[[2007年の中日ドラゴンズ|2007年にはリーグ2位]]からの[[2007年の日本シリーズ|日本一]]を達成した。 阪神は2003年の「血の入れ替え」<ref>https://www.sanspo.com/article/20200429-PQOSCH5E35PBRNRY2SLUGN55PA/</ref>に象徴されるように、[[金本知憲]]・[[伊良部秀輝]]・[[下柳剛]]・[[片岡篤史]]・[[矢野燿大|矢野輝弘]]らを積極補強し、リストラを断行した。[[赤星憲広]]・[[今岡誠]]・[[井川慶]]・[[JFK (阪神タイガース)|JFK]]([[藤川球児]]・[[ジェフ・ウィリアムス|J.ウィリアムス]]・[[久保田智之]])・[[鳥谷敬]]・[[能見篤史]]らも活躍し、[[星野仙一]]監督(2002年-2003年)~[[岡田彰布]]監督(2004年-2008年)の在任中、2度のリーグ優勝([[2003年の阪神タイガース|2003]]・[[2005年の阪神タイガース|2005]])を達成。[[2006年の阪神タイガース|2006年]]・[[2008年の阪神タイガース|2008年]]にもシーズン2位ながら80勝を突破した。 しかし、横浜ベイスターズは[[森祇晶]]・[[山下大輔]]・[[牛島和彦]]・[[大矢明彦]](第2期)・[[田代富雄]](代行)・[[尾花高夫]]と政権を継いだが、2001年末に筆頭株主が[[マルハニチロ|マルハ]]から[[TBSホールディングス|TBS]]に交代して以降は、2002年から2011年にかけて最下位が8度<ref group="注">特にTBS時代の2002年-2011年並びにDeNA時代の2012年を含めた11シーズンでは最下位9回、うち4シーズンで90敗以上という大敗時期であった。</ref>という[[暗黒時代 (横浜ベイスターズ)|暗黒時代]]に突入し、結果を残せなかった。(なお、2011年末から筆頭株主は[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]に変更。) また、広島東洋カープは2002年以降は5位が指定席であり、1998年から2012年にかけての15シーズンでは5位が11度で、全てBクラスであった。その一方で、長年の本拠地だった[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]の老朽化もあり、2009年に[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|新球場]]への移転に成功するなど、大きなターニングポイントを迎えた。 インターネット社会の到来による娯楽・嗜好の多様化により、プロ野球のTV中継<ref group="注">20世紀の東日本においては[[劇空間プロ野球|巨人戦]]が[[デファクトスタンダード|デファクト]]で、ナイター視聴率が非常に高かった。</ref><ref group="注">[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]の基幹局では地元球団を応援する姿勢があった。具体的には、準キー局の[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]](ytv)は、阪神をメインにした中継体制ではあるが、過去にパ・リーグの在阪球団(南海・近鉄・阪急)の中継も行っていた他、[[広島テレビ放送|広島テレビ]](HTV)は現在も熱烈なカープ応援のスタンスを取っており、[[福岡放送]](FBS)も1989年に福岡ダイエーホークス(旧:南海ホークス。現:[[福岡ソフトバンクホークス]])が誕生してからは、ダイエーを応援するスタンスにシフトした。[[中京テレビ放送|中京テレビ]](CTV)は[[名古屋テレビ放送|メ~テレ]](テレビ朝日系列)同様、中日新聞系列ではないため、中日のホームゲームを中継できない事情もあって、DeNA・阪神・広島戦などのビジター中継(ytv・HTV制作など)を中京ローカルで放送している時もある。また[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]](STV)は日本ハムが北海道に移転する前は毎年恒例となっていた巨人主催の「北海道シリーズ」の技術協力を行っているなど巨人びいきのスタンスを取っていたが、2004年に日本ハムが北海道に移転して以降、道内の他の放送局同様、日本ハムを応援するスタンスにシフトしていった他、[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]](MMT)も2005年に楽天球団が誕生したため、他の放送局同様、楽天を応援するスタンスとなった。</ref>の視聴率が大きく低下した時期でもあり、プロ野球TV中継の主体は、地上波からBS・CSに移行した。 2005年からは[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手制度]]がスタートした。[[セ・パ交流戦]](2005年より導入)、[[クライマックスシリーズ]](2007年より導入)も参照。 [[2009年]][[1月1日]]の改定[[日本プロフェッショナル野球協約]]発効に伴い、連盟事務局と直下の審判部・記録部はコミッショナー事務局、パシフィック・リーグ事務局と統合され、[[コミッショナー (日本プロ野球)|コミッショナー]]直属の『セントラル・リーグ運営部』『審判部』『記録部』となり、リーグ会長職は廃止された<ref>[https://web.archive.org/web/20081227090131/http://www.sanspo.com/baseball/news/081227/bsr0812270501000-n1.htm セ、パ両事務局が廃局] [[サンケイスポーツ]] 2008年12月27日付・同日閲覧(リンク先は、インターネット・アーカイブ同日付保存キャッシュ)</ref>。 <!--パ・リーグと違い、ウェブサイトは運営部のみで、リーグのそれは存在しない。--> ==== 2003年 阪神タイガースの18年ぶりセ・リーグ優勝 ==== {{main|2003年の阪神タイガース}} ==== 2004年 プロ野球再編問題 ==== {{main|プロ野球再編問題 (2004年)}} === 2010年代 広島3連覇、パ・リーグとの実力差 === 2012年より'''読売ジャイアンツの3連覇'''([[2012年の読売ジャイアンツ|2012]]・[[2013年の読売ジャイアンツ|2013]]・[[2014年の読売ジャイアンツ|2014]])<ref group="注">[[阿部慎之助]]、[[内海哲也]]、[[菅野智之]]らが主要タイトルを獲得した。[[セントラル・リーグ個人タイトル獲得者一覧]]も参照。</ref>、([[2015年の東京ヤクルトスワローズ|2015年のヤクルト優勝]]を挟んで)2016年より'''広島東洋カープの3連覇'''([[2016年の広島東洋カープ|2016]]・[[2017年の広島東洋カープ|2017]]・[[2018年の広島東洋カープ|2018]])、という結果となり、両チームとも2位とのゲーム差を大きく付けた「圧勝」でのV3となった。但しクライマックスシリーズの導入により、リーグ終盤の興行的好調は継続され、実際に[[2014年の阪神タイガース|2014年]]には2位、[[2017年の横浜DeNAベイスターズ|2017年]]には3位からの日本シリーズ進出が実現した。広島・横浜では女性ファン層の拡大もあり観客動員が大幅に増加、特に2019年は[[明仁から徳仁への皇位継承|天皇即位]]にともなう[[ゴールデンウィーク#2019年の10連休|GW10連休]]の特需に各チーム10連戦を打った事も奏功し、過去最大規模の年間平均入場者数を達成した。<ref>https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf</ref> [[2011年]]は[[東日本大震災]]の発生により電力が逼迫、開幕を両リーグとも3月25日から4月12日に順延した。[[2012年]]からは予告先発を導入した。 [[2013年]]より開幕前のイベントとして[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]にて『'''セ・リーグファンミーティング'''』を行っている。 [[2015年]]秋に、[[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題]]が発覚。巨人は[[渡邉恒雄|渡邉]]顧問、[[白石興二郎|白石]]オーナー、[[桃井恒和|桃井]]会長の3首脳が引責辞任した。 [[2019年]]11月11日に[[JERA]]とタイトルパートナー(冠スポンサー)契約を締結。契約期間は[[2020年]](令和2年)から3年間でリーグ戦では「JERA セントラル・リーグ」の名称が使用される。 また、セ・パ交流戦の10年連続負け越し(セの548勝671敗41分)、また2010年代をつうじて[[日本選手権シリーズ#結果|日本シリーズ]]におけるセの優勝が[[2012年の日本シリーズ|1回のみ]](セの19勝38敗2分)に終るなど、セの地盤沈下が語られる事態となった。 ==== 2016年~2018年 広島東洋カープ球団史上初の3連覇 ==== [[2016年の広島東洋カープ|2016年]]は[[緒方孝市]]監督率いる[[広島東洋カープ]]は25年ぶりのセ・リーグ優勝を達成。200勝を達成した[[黒田博樹]]・2000本安打を達成した[[新井貴浩]]の復帰組ベテランと、投手陣は[[野村祐輔]]の16勝3敗の快進撃、[[ブラッド・エルドレッド|B.エルドレッド]]・外国人投手2人目の[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した[[クリス・ジョンソン (投手)|K.ジョンソン]]といった助っ人外国人、生え抜きの「タナキクマル」([[田中広輔]]・[[菊池涼介]]・[[丸佳浩]])、若き大砲の[[鈴木誠也]]の若手を組み合わせたベストミックスの優勝であった。 [[2018年の広島東洋カープ|2018年]]まで、上述の主力組が機能しリーグ戦・交流戦で圧倒的な強さを見せ、球団史上初の3連覇を達成した。(セ・リーグでは[[読売ジャイアンツ|巨人]]以外で初である。) === 2020年代~現在 === 2020年から2021年にかけ、[[新型コロナウィルス]]の発生に伴い、各球場とも観客動員を大きく減らした運営を強いられた。特に2020年は120試合のみの開催で1952年以来68年ぶりの規模縮小、入場者数(275万人、昨対比▲81%)は草創期である1951年以来の少なさとなった<ref name="名前なし-rK3d-1">https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_cl.pdf</ref>。また、クライマックスシリーズが2020年は中止となったほか、外国人選手の入国制限により、契約そのものが出来ない・契約できても来日や帰国が自由にできず、本人や家族のメンタルの問題で出場試合数を大きく減らしてしまう事もあった。2022年7月には[[SARSコロナウイルス2-オミクロン株|オミクロン株]]の感染力の強さにより、巨人戦が7月22日から同31日まで6試合連続で延期<ref>https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/07/30/kiji/20220730s00001173195000c.html</ref>となるなど大きな影響を受けた。 経営面では、[[横浜スタジアム#2020東京オリンピックの開催に向けた改修(2017 - 2020年度)|横浜スタジアム]]が6,000席を超える増席を行い、[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]による[[横浜スタジアム#DeNAによる「コミュニティー・ボールパーク化構想」と運営会社の買収|球場運営会社の買収]]も相まって財務面を強化。マーケティング戦略も奏功し、横浜DeNAは人気球団となった。<ref>https://forbesjapan.com/articles/detail/42470</ref>なお、東京ヤクルトの本拠地である[[明治神宮野球場#建て替え計画|現在の神宮球場]]は、2031年までの使用予定である。 ==== 2021年 ヤクルト、20年ぶり日本一 ==== {{main|2021年の東京ヤクルトスワローズ}} 翌、[[2022年の東京ヤクルトスワローズ|2022年]]にも'''[[村上宗隆]]の56本塁打'''と三冠王達成を原動力として、リーグ連覇を果たした。 ==== 2023年 阪神の18年ぶりリーグ制覇、38年ぶりの日本一 ==== {{main|2023年の阪神タイガース}} == 現存する加盟球団 == === 一覧 === {|class="wikitable" style="width:100%; text-align:center; font-size:90%;" |+ セントラル・リーグの加盟球団 |- !     ! style="white-space: nowrap;" | 球団名 ! [[プロ野球地域保護権|保護地域]] ! 創設年度 ! style="white-space: nowrap;" | 本拠地球場 ! チームカラー |- |[[File:Yomiuri Giants insignia.svg|70px]] |[[読売ジャイアンツ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Yomiuri Giants'')</span> |[[東京都]] |1934年 |[[東京ドーム]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[文京区]]、{{Coord|35|42|21|N|139|45|7|E|region:JP|name=読売ジャイアンツ(東京ドーム)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|読売ジャイアンツ|3}}; background-color:#{{BaseballColor|読売ジャイアンツ|4}}" | |- |[[File:Tokyo Yakult Swallows insignia.svg|70px]] |[[東京ヤクルトスワローズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Tokyo Yakult Swallows'')</span> |[[東京都]] |1950年 |[[明治神宮野球場]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[新宿区]]、{{Coord|35|40|28.4|N|139|43|1.5|E|region:JP|name=東京ヤクルトスワローズ(明治神宮野球場)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|東京ヤクルトスワローズ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|東京ヤクルトスワローズ|1}}" | |- |[[File:Yokohama DeNA BayStars insignia.svg|70px]] |[[横浜DeNAベイスターズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Yokohama DeNA BayStars'')</span> |style="white-space: nowrap;"|[[神奈川県]] |1950年 |[[横浜スタジアム]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]、{{Coord|35|26|36.18|N|139|38|24.1|E|region:JP|name=横浜DeNAベイスターズ(横浜スタジアム)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|横浜DeNAベイスターズ|4}}; background-color:#{{BaseballColor|横浜DeNAベイスターズ|1}}" | |- |[[File:Chunichi Dragons insignia.svg|70px]] |[[中日ドラゴンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Chunichi Dragons'')</span> |[[愛知県]] |1936年 |[[ナゴヤドーム]](バンテリンドーム ナゴヤ)<br /><span style="font-size: 90%;">([[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]、{{Coord|35|11|9.5|N|136|56|50.88|E|region:JP|name=中日ドラゴンズ(ナゴヤドーム)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|中日ドラゴンズ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|中日ドラゴンズ|1}}" | |- |[[File:Hanshin tigers insignia.PNG|70px]] |[[阪神タイガース]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hanshin Tigers'')</span> |[[兵庫県]] |1935年 |[[阪神甲子園球場]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[西宮市]]、{{Coord|34|43|16.43|N|135|21|41.91|E|region:JP|name=阪神タイガース(阪神甲子園球場)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|阪神タイガース|4}}; background-color:#{{BaseballColor|阪神タイガース|3}}" | |- |[[File:Hiroshima Toyo Carp insignia.svg|70px]] |[[広島東洋カープ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hiroshima Toyo Carp'')</span> |[[広島県]] |1950年 |広島市民球場([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])<br /><span style="font-size: 90%;">([[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]、{{Coord|34|23|30.76|N|132|29|5.03|E|region:JP|name=広島東洋カープ(広島市民球場)}})</span> |style="color:#{{BaseballColor|広島東洋カープ|2}}; background-color:#{{BaseballColor|広島東洋カープ|1}}" | |} ※ 球団表記順は野球協約の保護地域表記順 === 各球団の略年譜 === {| class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" |+ 球団名・本拠地・親会社・その他の遍歴 |- !球団名!!遍歴 |- |align="center" |[[読売ジャイアンツ]]|| [[1934年]][[12月26日]]に'''大日本東京野球倶楽部'''として結成<br /> [[1936年]]、球団名を'''東京巨人軍'''に改称<br /> [[1937年]]、[[後楽園球場]]を本拠地とする<br /> [[1947年]]、[[読売新聞社]]が経営に当たり、名称を'''読売ジャイアンツ'''に改称<br /> [[1988年]]、[[東京ドーム]]に本拠地を移転 |- |align="center" |[[阪神タイガース]]|| [[1935年]][[12月10日]]に[[阪神電気鉄道]]を親会社として'''大阪タイガース'''を結成<br /> [[1936年]]、[[阪神甲子園球場]]を本拠地とする<br /> [[1940年]]、[[敵性語]]である[[英語]]の使用禁止を受け、球団名を'''阪神軍'''に改称<br /> [[1946年]]、球団名を再び'''大阪タイガース'''に改称<br /> [[1961年]]、球団名を'''阪神タイガース'''に改称 |- |align="center" |[[中日ドラゴンズ]]|| [[1936年]][[1月15日]]に[[新愛知|新愛知新聞社]]を親会社として'''名古屋軍'''を結成<br /> [[1944年]]、理研工業の傘下に入り、球団名を'''産業軍'''に改称<br /> [[1946年]]、中部日本新聞社に経営権を譲渡。球団名を'''中部日本'''に改称<br /> [[1947年]]、球団名を'''中部日本ドラゴンズ'''に改称<br /> [[1948年]]、球団名を'''中日ドラゴンズ'''に改称。後楽園球場を本拠地とする<br /> [[1949年]]、[[ナゴヤ球場|中日スタヂアム]]に本拠地を移転<br /> [[1951年]]、[[名古屋鉄道]]が経営参加を表明。球団名を'''名古屋ドラゴンズ'''に改称<br /> [[1954年]]、名古屋鉄道の経営撤退に伴い、球団名を再び'''中日ドラゴンズ'''に改称<br /> [[1997年]]、[[ナゴヤドーム]]に本拠地を移転 |- |align="center" |[[東京ヤクルトスワローズ]]|| [[1950年]][[1月12日]]に[[鉄道弘済会]]などを親会社とした'''国鉄スワローズ'''がセントラル・リーグに加盟。[[後楽園球場]]を本拠地とする<br /> [[1964年]]、[[明治神宮野球場]]に本拠地を移転<br /> [[1965年]]、シーズン中に親会社が[[産業経済新聞社]]・[[フジテレビジョン]]・[[ニッポン放送]]・[[文化放送]]の4社となり、球団名を'''サンケイスワローズ'''に改称<br /> [[1966年]]、球団名を'''サンケイアトムズ'''に改称<br /> [[1969年]]、フジサンケイグループとヤクルト本社による共同経営となったことに伴い、球団名を'''アトムズ'''に改称<br /> [[1970年]]、フジサンケイグループの球団株式売却によりヤクルト本社が経営権を持ち、球団名を'''ヤクルトアトムズ'''に改称<br /> [[1974年]]、球団名を'''ヤクルトスワローズ'''に改称<br /> [[2006年]]、球団名を'''東京ヤクルトスワローズ'''に改称 |- |align="center" |[[横浜DeNAベイスターズ]]|| [[1949年]][[12月15日]]に[[マルハ|大洋漁業]]を親会社とした'''まるは球団'''(暫定名)がセントラル・リーグに加盟<br /> [[1950年]]、開幕後に球団名を'''大洋ホエールズ'''に改称。[[下関市営球場]]を本拠地とする<br /> [[1953年]]、[[松竹ロビンス]]との合併に伴い球団名を'''大洋松竹ロビンス'''に改称。[[大阪スタヂアム]]に本拠地を移転<br /> [[1954年]]、球団名を'''洋松ロビンス'''に改称<br /> [[1955年]]、松竹の経営撤退に伴い、球団名を再び'''大洋ホエールズ'''に改称。[[川崎球場]]に本拠地を移転<br /> [[1978年]]、球団名を'''横浜大洋ホエールズ'''に改称。[[横浜スタジアム]]に本拠地を移転<br /> [[1993年]]、大洋漁業→マルハの社名変更に伴い、球団名を'''横浜ベイスターズ'''に改称<br /> [[2002年]]、マルハの球団株式売却により東京放送が経営権を持つ<br /> [[2011年]]、東京放送ホールディングスの球団株式売却により[[ディー・エヌ・エー]]が経営権を持つ<br /> [[2012年]]、球団名を'''横浜DeNAベイスターズ'''に改称 |- |align="center" |[[広島東洋カープ]]|| [[1949年]][[12月15日]]に、広島県内の有力企業複数が出資した'''広島カープ'''がセントラル・リーグに加盟。[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]を本拠地とする<br /> [[1957年]]、シーズン中に[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場(初代)]]に本拠地を移転<br /> [[1968年]]、[[マツダ|東洋工業]]が球団筆頭株主となったことに伴い、球団名を'''広島東洋カープ'''に改称<br /> [[2009年]]、[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|広島市民球場(2代)]]に本拠地を移転 |- |} ※親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの ※球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記 == 過去に存在した加盟球団 == ; セントラル・リーグの消滅球団と成績 {| class="wikitable" style="width:60%; text-align:right; font-size:small" !球団名!!創設年度!!優勝回数!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引分]]!![[勝率]] |- ![[松竹ロビンス]]<br /><span style="font-size: smaller;">(''Shochiku Robins'')</span><br />(1950年 - 1952年) |[[1936年]]||1||372||185||176||11||.512 |- ![[西日本パイレーツ]]<br /><span style="font-size: smaller;">(''Nishinippon Pirates'')</span><br />(1950年) |[[1950年]]||0||136||50||83||3||.376 |- |} *成績はリーグが結成された1950年以降のもの ; 球団名・本拠地・親会社の遍歴 {| class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !球団名!!遍歴 |- |align="center" |[[松竹ロビンス]]|| [[1936年]][[2月15日]]に[[國民新聞|國民新聞社]]を親会社として'''大東京軍'''を結成。[[洲崎球場]]を本拠地とする<br /> [[1937年]]、8月に[[ライオン (企業)|小林商店]]が経営参加を表明。球団名を'''ライオン軍'''に改称<br /> [[1941年]]、敵性語である英語の使用禁止を受け、球団名を'''朝日軍'''に改称<br /> [[1946年]]、球団名を'''パシフィック'''に改称<br /> [[1947年]]、球団名を'''太陽ロビンス'''に改称<br /> [[1948年]]、球団名を'''大陽ロビンス'''に改称。[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]に本拠地を移転<br /> [[1950年]]、[[松竹]]が経営参加を表明し、球団名を'''松竹ロビンス'''に改称。[[衣笠球場]]に本拠地を移転<br /> [[1953年]]、シーズン開幕前に[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]と合併。合併球団名は'''大洋松竹ロビンス'''となる |- |align="center" |[[西日本パイレーツ]]|| [[1949年]][[12月15日]]に[[西日本新聞社]]を親会社とした'''西日本パイレーツ'''がセントラル・リーグに加盟。[[平和台野球場]]を本拠地とする<br /> [[1951年]]、シーズン開幕前に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]]と合併し[[パシフィック・リーグ]]へ移動脱退。合併球団名は'''西鉄ライオンズ'''となる |- |} *親会社の企業名、本拠地の球場名はいずれも当時のもの *球団名の改称年は改称後の初年度シーズンを起点に表記 == 試合方式 == === 総当り回数 === [[1952年]]の[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]([[ホームタウン]])制度採用後は[[ホーム・アンド・アウェー]]方式で、原則それぞれ半分ずつの試合を行う。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto;" |- !rowspan="2"|年度!!rowspan="2"|試合数!!colspan="2"|内訳!!備考 |- !リーグ戦!![[セ・パ交流戦|交流戦]] |- !1950 |140||20×7||rowspan="7"| - || |- !1951-1952 |120||20×6|| |- !1953-1962 |130||26×5|| |- !1963-1965 |140||28×5|| |- !1966-1996 |130||26×5|| |- !1997-2000 |135||27×5||※1 |- !2001-2004 |140||28×5|| |- !2005-2006 |146||22×5||6×6|| |- !2007-2014 |144||24×5||4×6|| |- !2015-2019 |143||25×5||3×6||※1、※2 |- !2020 |120||24×5|| - || |- !2021- |143||25×5||3×6||※1、※2 |- |} ※1:1997年 - 2000年と2015年 - 2019年、2021年 -(リーグ間の対戦)は総当りが奇数回となるため、対戦カードのどちらか一方がホームゲームを1試合多く行う形式(前者は14試合、後者は13試合)である。なお1試合増加分のホームチームについては、2年単位で隔年入れ替わりである。 ※2:2015年以降のセ・パ交流戦は3回総当たりとなるため、対戦カードごとに隔年でホームチームを入れ替える。 * 尚、[[2024年]]の[[公式戦]]は、[[2025年]]シーズンと[[ホームゲーム]]と[[ビジターゲーム]]を3チームずつ入れ替えて実施する。 ; 引き分けに関する扱い * 引き分け再試合制度実施年:1962年、1966年 - 1968年、1990年 - 2000年 * 引き分けを0.5勝0.5敗で勝率計算した年:1956年 - 1961年 上記が規定上の対戦回数であるが、諸事情により公式戦を一部中止した年度がある。 * 1950年:日本シリーズの日程関係のため一部試合を中止。 * 1951年:[[広島東洋カープ|広島カープ]]が存続問題から第一節([[3月29日]] - [[4月6日]])の参加を見送り。この期間の対広島戦中止。また、同年[[10月20日]]より予定されていた日米野球の日程関係のため同月9日でペナントレースを打ち切り。 * 1953年:読売ジャイアンツがアメリカ遠征のため第一〜第三節途中([[3月28日]] - [[4月9日]])まで不参加で、かつ日本シリーズに進出したため、また同年[[10月17日]]より開催のアメリカメジャーリーグ遠征チームとの交流試合の日程の都合上、読売ジャイアンツ対国鉄スワローズ戦5試合を残してペナントレースを打ち切り<!--1953年は読売ジャイアンツが米国遠征のため第三節途中の4月10日より公式戦参加。試合数に変更はなく、巨人は他球団より数日遅れて公式戦を終える予定であったが、夏場に雨天が続き試合予定が大幅に遅延。同年10月17日よりアメリカメジャーリーグ遠征チームとの交流試合が予定されており、公式戦打ち切りは不可避であったが、1951年に同様の理由で公式戦を打ち切った際に関係各方面から不満が噴出したことを考慮し、日程を限界まで詰めて公式戦を決行。ダブルヘッダーは勿論のこと、不良のグラウンド状態に目をつぶり、台風接近の寸前まで試合を行うなどした。読売対南海の日本シリーズは移動日無しで行われ、公式戦の消化試合も裏で行われた。シリーズは交流戦開始日の前日である10月16日に終了したが、春先の参加が遅れた巨人の未消化分5試合(対国鉄スワローズ戦)が、巨人がシリーズに進出したために消化できず、未消化のままペナントレースを打ち切った。-->。 * 2004年:[[日本プロ野球選手会|選手会]]が球団合併凍結などを求めた[[プロ野球ストライキ]]を9月18日と19日に決行したため、同日に予定されていた全試合を中止。 * 2020年:[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]感染拡大の影響で開幕が約3ヶ月延期となり、シーズン日程を再考。交流戦が中止となるなど一部日程が変更され、当初の143試合から120試合に試合数を削減。 === 回数・時間制限 === {| class="wikitable" style="width:100%; font-size:small" !width=20%|年!!内容 |- |align="center" |[[1950年]] - [[1951年]]|| シングルの場合は回数・[[時間制限]]なし(デーゲームの場合日没まで)。<br /> ダブルヘッダー第1試合は延長戦は原則として12回。ただしナイトゲーム([[薄暮]]開催含む)は9回まで。 |- |align="center" |[[1952年]] - [[1954年]][[5月24日]]まで|| シングル、ダブルヘッダーとも原則として勝敗が決するまで時間・回数無制限。<br /> ナイトゲームは深夜24時を過ぎて次のイニングに入らない。 |- |align="center" |[[1954年]][[5月25日]] - 同年の閉幕まで|| デーゲームで開催のシングルの場合は時間・回数制限なし(日没まで。以後1973年まで同じ)。<br /> ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで(回数制限は1962年まで同じ)、ナイトゲームは22:30まで。 |- |align="center" |[[1955年]] - [[1958年]]|| ナイトゲームは22:15まで。 |- |align="center" |[[1959年]] - [[1962年]]|| ナイトゲームは22:30まで(時間制限は1963年も同じ)。 |- |align="center" |[[1963年]]|| ダブルヘッダー第1試合は延長13回まで。 |- |align="center" |[[1964年]] - [[1965年]]|| ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで。<br /> ナイトゲームは22:15まで(時間制限は1967年まで同じ)。 |- |align="center" |[[1966年]] - [[1967年]]|| ダブルヘッダー第1試合は延長11回まで。 |- |align="center" |[[1968年]] - [[1970年]]|| ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで。<br /> ナイトゲームは22:20まで。 |- |align="center" |[[1971年]]|| ダブルヘッダー第1試合は延長12回まで。<br /> ナイトゲームは原則として試合開始時刻から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。<br />ただし、以下の規定がある(時間制限は1973年まで同じ)。<br /> (1):19:00以降開始の場合は経過時間に関わらず22:20を過ぎて次のイニングに入らない。<br /> (2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する。 |- |align="center" |[[1972年]] - [[1973年]]|| ダブルヘッダー第1試合は、延長11回まで。 |- |align="center" |[[1974年]] - [[1982年]]|| ダブルヘッダー第1試合については9回まで(回数制限は1987年まで同じ)。<br /> その他の試合(ダブルヘッダー第2試合含む)は試合開始から3時間を過ぎて次のイニングに入らない。ただし、以下の規定がある。<br /> (1):19:00以降は経過時間にかかわらず22:00を過ぎて次のイニングに入らない。<br /> (2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する。 |- |align="center" |[[1983年]] - [[1987年]]|| ダブルヘッダー第1試合以外は、開始時刻に関わらず試合開始から3時間20分を過ぎて次のイニングに入らない。<br /> ただし、9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する。 |- |align="center" |[[1988年]] - [[1989年]]|| 延長12回まで、時間制限なし。<br /> ただし、ダブルヘッダー第1試合については9回までで打ち切り。 |- |align="center" |[[1990年]] - [[2000年]]|| 延長15回まで、時間制限なし。引き分けの場合は再試合(降雨コールド時も含む)。 |- |align="center" |[[2001年]] - [[2010年]]|| 延長12回まで、時間制限なし。 |- |align="center" |[[2011年]] - [[2012年]]|| 延長12回まで<ref group="注">当初は「延長戦は行わず、9回終了時で打ち切り」としていた。なお、時間制限を設けるのは1987年以来24年ぶり。</ref>。ただし、[[東日本大震災]]に伴う節電対策として以下の規定がある。<br /> (1):試合開始から3時間30分(雨天等による中断時間も含む)が経過した場合は次のイニングに入らない。<br /> (2):9回を満たさずに時間制限が来た場合であっても、9回までは必ず試合する。 :※ただしクライマックスシリーズでは時限なし。 |- |align="center" |[[2013年]] - [[2019年]]|| 延長12回まで、時間制限なし<ref group="注">ただし、[[2014年]]に限り天候不順により日程消化が遅れていたため、9月5日以後シーズン最終日までのダブルヘッダー第1試合については9回までで打ち切り。</ref><ref>[http://www.npb.or.jp/news/20140905b.html セ・リーグのダブルヘッダーについて]</ref>。 |- |align="center" |[[2020年]]|| 延長10回まで、時間制限なし<ref group="注" name="corona">新型コロナウイルスの影響に伴う感染防止の特別ルール。</ref>。 |- |align="center" |[[2021年]]|| 延長なし、時間制限なし<ref group="注" name="corona"/>。<ref>延長なしのレギュレーションのため、引き分け数が多い年となり、2位の阪神は、優勝したヤクルトよりも4勝上回りながらもV逸となった。</ref> |- |align="center" |[[2022年]]|| 延長12回まで、時間制限なし。 |} === 順位の決め方 === * 2000年以前は勝率順で決めており、勝率が同率でシーズンが終了した場合のみ、プレーオフで優勝を決めることとなっていた。 * 2001年は例外的に勝ち星の多い順で順位を決定していた。ただし、勝ち星1位と勝率1位のチームが異なった場合は3戦2勝制のプレーオフを行い優勝を決定する。 * 2002年からは再び勝率順に変更された。ただし、勝率3位以内に勝ち星1位のチームが別にいた場合、3戦2勝制のプレーオフで優勝を決定する。この制度は2006年まで続いた。 *:※以上のようなケースによるプレーオフは2006年まで過去1度もなかった。 * 2007年からはクライマックスシリーズの導入により、以下の制度となった(クライマックスシリーズの結果にかかわらず、レギュラーシーズンの順位がリーグ確定順位となる)。 *# レギュラーシーズンの勝率 *# 1が同率の場合、勝利数の多いチームが上位 *# 2も同じ場合、当該球団間の直接対戦で勝率が高い順 *# 3も同率の場合、前年度順位の上位 *:※2015年度は3チーム以上が勝率で並ぶ場合があるため、その場合でも2チームが同成績で並んだ場合に従って優勝を決める方式となった。 *2022年度からは一部改正が施されており、勝率1位球団が複数あった場合、上記の3→4の間に「同一リーグの参加チーム(2022年度:6チームによる25回総当たり125試合)の勝率の高いほうを上位扱い」とするというルールが定められ、これにより順位決定方法は、 *# レギュラーシーズンの勝率 *# 1が同率の場合、勝利数の多いチームが上位 *# 2も同じ場合、当該球団間の直接対戦で勝率が高い順 *# 3も同じ場合、同一リーグの参加チーム間における総当たりにおける勝率の高い順 *# 4も同率の場合、前年度順位の上位 に変更された。(パ・リーグの場合は、1で並んだ場合は、2ではなく、3以下同文の順番である)<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC229TG0S2A320C2000000/ セ・リーグ、優勝決定方法変更 リーグ内の対戦勝率も](日本経済新聞)</ref> * [[パ・リーグ#備考|パ・リーグ]]のような、年間勝率1位球団がV逸した例は、これまで発生していない。 == 結果 == *背景桃色は日本シリーズ制覇。*は左のチームと同率順位 *2006年までは優勝チームが日本シリーズに出場。[[クライマックスシリーズ]]導入後の2007年以降の日本シリーズ出場チームは'''太字'''で示す。 {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:90%;white-space:nowrap" !年度!!優勝!!勝!!敗!!分!!2位!!勝!!敗!!分!!3位!!勝!!敗!!分!!4位!!勝!!敗!!分!!5位!!勝!!敗!!分!!6位!!勝!!敗!!分!!7位!!勝!!敗!!分!!8位!!勝!!敗!!分 |- |[[1950年の日本プロ野球|1950]]||[[1950年の松竹ロビンス|松竹]]||98||35||4 |bgcolor="#8989ff"|[[1950年の中日ドラゴンズ|中日]]||89||44||4 |bgcolor="#FF7820"|[[1950年の読売ジャイアンツ|巨人]]||82||54||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1950年の大阪タイガース|大阪]]||70||67||3 |bgcolor="#0093C9"|[[1950年の大洋ホエールズ|大洋]]||69||68||3 |[[西日本パイレーツ|西日本]]||50||83||3 |bgcolor="#c4ff89"|[[1950年の国鉄スワローズ|国鉄]]||42||94||2 |bgcolor="#E50012"|[[1950年の広島カープ|広島]]||41||96||1 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1951年の日本プロ野球|1951]] |bgcolor="#FF7820"|[[1951年の読売ジャイアンツ|巨人]]||79||29||6 |bgcolor="#8989ff"|[[1951年の名古屋ドラゴンズ|名古屋]]||62||48||3 |bgcolor="#FFE100"|[[1951年の大阪タイガース|大阪]]||62||51||3 |[[1951年の松竹ロビンス|松竹]]||53||57||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1951年の国鉄スワローズ|国鉄]]||46||59||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1951年の大洋ホエールズ|大洋]]||40||64||4 |bgcolor="#E50012"|[[1951年の広島カープ|広島]]||32||64||3 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1952年の日本プロ野球|1952]] |bgcolor="#FF7820"|[[1952年の読売ジャイアンツ|巨人]]||83||37|| |bgcolor="#FFE100"|[[1952年の大阪タイガース|大阪]]||79||40||1 |bgcolor="#8989ff"|[[1952年の名古屋ドラゴンズ|名古屋]]||75||43||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1952年の大洋ホエールズ|大洋]]||58||62|| |bgcolor="#c4ff89"|[[1952年の国鉄スワローズ|国鉄]]||50||70|| |bgcolor="#E50012"|[[1952年の広島カープ|広島]]||37||80||3 |[[1952年の松竹ロビンス|松竹]]||34||84||2 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1953年の日本プロ野球|1953]] |bgcolor="#FF7820"|[[1953年の読売ジャイアンツ|巨人]]||87||37||1 |bgcolor="#FFE100"|[[1953年の大阪タイガース|大阪]]||74||56|| |bgcolor="#8989ff"|[[1953年の名古屋ドラゴンズ|名古屋]]||70||57||3 |bgcolor="#E50012"|[[1953年の広島カープ|広島]]||53||75||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1953年の大洋松竹ロビンス|洋松]]||52||75||1 |bgcolor="#c4ff89"|[[1953年の国鉄スワローズ|国鉄]]||45||79||1 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1954年の日本プロ野球|1954]] |bgcolor="#8989ff"|[[1954年の中日ドラゴンズ|中日]]||86||40||4 |bgcolor="#FF7820"|[[1954年の読売ジャイアンツ|巨人]]||82||47||1 |bgcolor="#FFE100"|[[1954年の大阪タイガース|大阪]]||71||57||2 |bgcolor="#E50012"|[[1954年の広島カープ|広島]]||56||69||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1954年の国鉄スワローズ|国鉄]]||55||73||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1954年の洋松ロビンス|洋松]]||32||96||2 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1955年の日本プロ野球|1955]] |bgcolor="#FF7820"|[[1955年の読売ジャイアンツ|巨人]]||92||37||1 |bgcolor="#8989ff"|[[1955年の中日ドラゴンズ|中日]]||77||52||1 |bgcolor="#FFE100"|[[1955年の大阪タイガース|大阪]]||71||57||2 |bgcolor="#E50012"|[[1955年の広島カープ|広島]]||58||70||2 |bgcolor="#c4ff89"|[[1955年の国鉄スワローズ|国鉄]]||57||71||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1955年の大洋ホエールズ|大洋]]||31||99|| |- |[[1956年の日本プロ野球|1956]] |bgcolor="#FF7820"|[[1956年の読売ジャイアンツ|巨人]]||82||44||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1956年の大阪タイガース|大阪]]||79||50||1 |bgcolor="#8989ff"|[[1956年の中日ドラゴンズ|中日]]||74||56|| |bgcolor="#c4ff89"|[[1956年の国鉄スワローズ|国鉄]]||61||65||4 |bgcolor="#E50012"|[[1956年の広島カープ|広島]]||45||82||3 |bgcolor="#0093C9"|[[1956年の大洋ホエールズ|大洋]]||43||87|| |- |[[1957年の日本プロ野球|1957]] |bgcolor="#FF7820"|[[1957年の読売ジャイアンツ|巨人]]||74||53||3 |bgcolor="#FFE100"|[[1957年の大阪タイガース|大阪]]||73||54||3 |bgcolor="#8989ff"|[[1957年の中日ドラゴンズ|中日]]||70||57||3 |bgcolor="#c4ff89"|[[1957年の国鉄スワローズ|国鉄]]||58||68||4 |bgcolor="#E50012"|[[1957年の広島カープ|広島]]||54||75||1 |bgcolor="#0093C9"|[[1957年の大洋ホエールズ|大洋]]||52||74||4 |- |[[1958年の日本プロ野球|1958]] |bgcolor="#FF7820"|[[1958年の読売ジャイアンツ|巨人]]||77||52||1 |bgcolor="#FFE100"|[[1958年の大阪タイガース|大阪]]||72||58|| |bgcolor="#8989ff"|[[1958年の中日ドラゴンズ|中日]]||66||59||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1958年の国鉄スワローズ|国鉄]]||58||68||4 |bgcolor="#E50012"|[[1958年の広島カープ|広島]]||54||68||8 |bgcolor="#0093C9"|[[1958年の大洋ホエールズ|大洋]]||51||73||6 |- |[[1959年の日本プロ野球|1959]] |bgcolor="#FF7820"|[[1959年の読売ジャイアンツ|巨人]]||77||48||5 |bgcolor="#FFE100"|[[1959年の大阪タイガース|大阪]]||62||59||9 |bgcolor="#8989ff"|[[1959年の中日ドラゴンズ|中日]]*||64||61||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1959年の国鉄スワローズ|国鉄]]||63||65||2 |bgcolor="#E50012"|[[1959年の広島カープ|広島]]||59||64||7 |bgcolor="#0093C9"|[[1959年の大洋ホエールズ|大洋]]||49||77||4 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1960年の日本プロ野球|1960]] |bgcolor="#0093C9"|[[1960年の大洋ホエールズ|大洋]]||70||56||4 |bgcolor="#FF7820"|[[1960年の読売ジャイアンツ|巨人]]||66||61||3 |bgcolor="#FFE100"|[[1960年の大阪タイガース|大阪]]||64||62||4 |bgcolor="#E50012"|[[1960年の広島カープ|広島]]||62||61||7 |bgcolor="#8989ff"|[[1960年の中日ドラゴンズ|中日]]||63||67|| |bgcolor="#c4ff89"|[[1960年の国鉄スワローズ|国鉄]]||54||72||4 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1961年の日本プロ野球|1961]] |bgcolor="#FF7820"|[[1961年の読売ジャイアンツ|巨人]]||71||53||6 |bgcolor="#8989ff"|[[1961年の中日ドラゴンズ|中日]]||72||56||2 |bgcolor="#c4ff89"|[[1961年の国鉄スワローズ|国鉄]]||67||60||3 |bgcolor="#FFE100"|[[1961年の阪神タイガース|阪神]]||60||67||3 |bgcolor="#E50012"|[[1961年の広島カープ|広島]]||58||67||5 |bgcolor="#0093C9"|[[1961年の大洋ホエールズ|大洋]]||50||75||5 |- |[[1962年の日本プロ野球|1962]] |bgcolor="#FFE100"|[[1962年の阪神タイガース|阪神]]||75||55||3 |bgcolor="#0093C9"|[[1962年の大洋ホエールズ|大洋]]||71||59||4 |bgcolor="#8989ff"|[[1962年の中日ドラゴンズ|中日]]||70||60||3 |bgcolor="#FF7820"|[[1962年の読売ジャイアンツ|巨人]]||67||63||4 |bgcolor="#E50012"|[[1962年の広島カープ|広島]]||56||74||4 |bgcolor="#c4ff89"|[[1962年の国鉄スワローズ|国鉄]]||51||79||4 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1963年の日本プロ野球|1963]] |bgcolor="#FF7820"|[[1963年の読売ジャイアンツ|巨人]]||83||55||2 |bgcolor="#8989ff"|[[1963年の中日ドラゴンズ|中日]]||80||57||3 |bgcolor="#FFE100"|[[1963年の阪神タイガース|阪神]]||69||70||1 |bgcolor="#c4ff89"|[[1963年の国鉄スワローズ|国鉄]]||65||73||2 |bgcolor="#0093C9"|[[1963年の大洋ホエールズ|大洋]]||59||79||2 |bgcolor="#E50012"|[[1963年の広島カープ|広島]]||58||80||2 |- |[[1964年の日本プロ野球|1964]] |bgcolor="#FFE100"|[[1964年の阪神タイガース|阪神]]||80||56||4 |bgcolor="#0093C9"|[[1964年の大洋ホエールズ|大洋]]||80||58||2 |bgcolor="#FF7820"|[[1964年の読売ジャイアンツ|巨人]]||71||69|| |bgcolor="#E50012"|[[1964年の広島カープ|広島]]||64||73||3 |bgcolor="#c4ff89"|[[1964年の国鉄スワローズ|国鉄]]||61||74||5 |bgcolor="#8989ff"|[[1964年の中日ドラゴンズ|中日]]||57||83|| |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1965年の日本プロ野球|1965]] |bgcolor="#FF7820"|[[1965年の読売ジャイアンツ|巨人]]||91||47||2 |bgcolor="#8989ff"|[[1965年の中日ドラゴンズ|中日]]||77||59||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1965年の阪神タイガース|阪神]]||71||66||3 |bgcolor="#0093C9"|[[1965年の大洋ホエールズ|大洋]]||68||70||2 |bgcolor="#E50012"|[[1965年の広島カープ|広島]]||59||77||4 |bgcolor="#c4ff89"|[[1965年のサンケイスワローズ|サンケイ]]||44||91||5 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1966年の日本プロ野球|1966]] |bgcolor="#FF7820"|[[1966年の読売ジャイアンツ|巨人]]||89||41||4 |bgcolor="#8989ff"|[[1966年の中日ドラゴンズ|中日]]||76||54||2 |bgcolor="#FFE100"|[[1966年の阪神タイガース|阪神]]||64||66||5 |bgcolor="#E50012"|[[1966年の広島カープ|広島]]||57||73||6 |bgcolor="#0093C9"|[[1966年の大洋ホエールズ|大洋]]||52||78|| |bgcolor="#c4ff89"|[[1966年のサンケイアトムズ|サンケイ]]*||52||78||5 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1967年の日本プロ野球|1967]] |bgcolor="#FF7820"|[[1967年の読売ジャイアンツ|巨人]]||84||46||4 |bgcolor="#8989ff"|[[1967年の中日ドラゴンズ|中日]]||72||58||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1967年の阪神タイガース|阪神]]||70||60||6 |bgcolor="#0093C9"|[[1967年の大洋ホエールズ|大洋]]||59||71||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1967年のサンケイアトムズ|サンケイ]]||58||72||5 |bgcolor="#E50012"|[[1967年の広島カープ|広島]]||47||83||8 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1968年の日本プロ野球|1968]] |bgcolor="#FF7820"|[[1968年の読売ジャイアンツ|巨人]]||77||53||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1968年の阪神タイガース|阪神]]||72||58||3 |bgcolor="#E50012"|[[1968年の広島東洋カープ|広島]]||68||62||4 |bgcolor="#c4ff89"|[[1968年のサンケイアトムズ|サンケイ]]||64||66||4 |bgcolor="#0093C9"|[[1968年の大洋ホエールズ|大洋]]||59||71||3 |bgcolor="#8989ff"|[[1968年の中日ドラゴンズ|中日]]||50||80||4 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1969年の日本プロ野球|1969]] |bgcolor="#FF7820"|[[1969年の読売ジャイアンツ|巨人]]||73||51||6 |bgcolor="#FFE100"|[[1969年の阪神タイガース|阪神]]||68||59||3 |bgcolor="#0093C9"|[[1969年の大洋ホエールズ|大洋]]||61||61||8 |bgcolor="#8989ff"|[[1969年の中日ドラゴンズ|中日]]||59||65||6 |bgcolor="#c4ff89"|[[1969年のアトムズ|アトムズ]]||58||69||3 |bgcolor="#E50012"|[[1969年の広島東洋カープ|広島]]||56||70||4 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1970年の日本プロ野球|1970]] |bgcolor="#FF7820"|[[1970年の読売ジャイアンツ|巨人]]||79||47||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1970年の阪神タイガース|阪神]]||77||49||4 |bgcolor="#0093C9"|[[1970年の大洋ホエールズ|大洋]]||69||57||4 |bgcolor="#E50012"|[[1970年の広島東洋カープ|広島]]||62||60||8 |bgcolor="#8989ff"|[[1970年の中日ドラゴンズ|中日]]||55||70||5 |bgcolor="#c4ff89"|[[1970年のヤクルトアトムズ|ヤクルト]]||33||92||5 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1971年の日本プロ野球|1971]] |bgcolor="#FF7820"|[[1971年の読売ジャイアンツ|巨人]]||70||52||8 |bgcolor="#8989ff"|[[1971年の中日ドラゴンズ|中日]]||65||60||5 |bgcolor="#0093C9"|[[1971年の大洋ホエールズ|大洋]]||61||59||10 |bgcolor="#E50012"|[[1971年の広島東洋カープ|広島]]||63||61||6 |bgcolor="#FFE100"|[[1971年の阪神タイガース|阪神]]||57||64||9 |bgcolor="#c4ff89"|[[1971年のヤクルトアトムズ|ヤクルト]]||52||72||6 |- |bgcolor="#FFCCCC"|[[1972年の日本プロ野球|1972]] |bgcolor="#FF7820"|[[1972年の読売ジャイアンツ|巨人]]||74||52||4 |bgcolor="#FFE100"|[[1972年の阪神タイガース|阪神]]||71||56||3 |bgcolor="#8989ff"|[[1972年の中日ドラゴンズ|中日]]||67||59||4 |bgcolor="#c4ff89"|[[1972年のヤクルトアトムズ|ヤクルト]]||60||67||3 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|bgcolor="#FFE100"|[[2023年の阪神タイガース|'''阪神''']]||85||53||5 |bgcolor="#E50012"|[[2023年の広島東洋カープ|広島]]||74||65||4 |bgcolor="#0093C9"|[[2023年の横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]||74||66||3 |bgcolor="#FF7820"|[[2023年の読売ジャイアンツ|巨人]]||71||70||2 |bgcolor="#c4ff89"|[[2023年の東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||57||83||3 |bgcolor="#8989ff"|[[2023年の中日ドラゴンズ|中日]]||56||82||5 |} == チーム別記録 == {{Notice|公平に数値表示を行うため、全球団の順位が確定するまで最新シーズンの結果は反映しないでください。}} * 2023シーズン終了時点のデータ。データは各前身球団を含む。「Aク」はAクラス、「Bク」はBクラスを表す。 * '''太字'''の項目は最多数を表す。'''球団'''の列のソートボタンで元の順序に戻る。 * 松竹・西日本の各球団は消滅しているため参考記録として扱う。 {| class="wikitable sortable" style="line-height:1.4em; font-size:85%; white-space:nowrap; text-align: right" |-style="vertical-align:bottom; line-height:1.1em; white-space:nowrap;" !style="padding-top:5px"|球団!!1位!!2位!!3位!!Aク計!!4位!!5位!!6位!!7位<br />8位!!Bク計 |-style="line-height:1em; white-space:nowrap;" |- |align="left"|{{Display none|01/}}[[読売ジャイアンツ|巨人]]||'''38'''||13||13||'''64'''||7||2||1||0||10 |- |align="left"|{{Display none|02/}}[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]||9||6||6||21||'''20'''||15||17||1||53 |- |align="left"|{{Display none|03/}}[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]||2||6||12||20||12||17||'''25'''||0||'''54''' |- |align="left"|{{Display none|04/}}[[中日ドラゴンズ|中日]]||9||'''24'''||14||47||5||14||8||0||27 |- |align="left"|{{Display none|05/}}[[阪神タイガース|阪神]]||6||21||'''16'''||43||14||5||12||0||31 |- |align="left"|{{Display none|06/}}[[広島東洋カープ|広島]]||9||7||10||26||16||'''21'''||9||'''2'''||48 |- style="background-color:#e6e6e6;" |align="left"|{{Display none|07/}}[[松竹ロビンス|松竹]]||1||0||0||1||1||0||0||1||2 |- style="background-color:#e6e6e6;" |align="left"|{{Display none|08/}}[[西日本パイレーツ|西日本]]||0||0||0||0||0||0||1||0||1 |} == 「人気のセ」 == セ・パ12球団の中でも最も人気が高い球団である読売ジャイアンツと阪神タイガースが属しているリーグであることから「'''人気のセ'''」と言われており、現実にセの観客動員数<ref name="名前なし-rK3d-1"/> はパの観客動員数<ref>https://npb.jp/statistics/attendance_yearly_pl.pdf</ref> よりも設立以来常に多い状態で、観客動員数の1位2位を巨人と阪神で占めている。但し、2020年からの2年間は[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で無観客試合や収容人数制限の試合が多く、[[三大都市圏]]では緊急事態宣言発動による無観客試合の増加により、その影響が少なかった広島が観客動員数1位となっている<ref>https://npb.jp/statistics/2021/attendance.html</ref>。 巨人以外の5球団は、その保護地域において(人口動態上)当該球団よりも巨人ファンが多く分布している場合があること、また親会社の資本力も巨人に大きく水を開けられていることもあり、観客収入を対巨人戦に頼る傾向が強い。 中日の場合は親会社である中日新聞社がブロック紙という台所事情により、西日本地域ではファンの分布で阪神に大きく水を開けられているが、発行地域である東海地方や北陸地方、関東地方では熱狂的なファンを抱えているという特徴をもつ。また、他都市間への移動が容易な地理的事情からビジターでの対戦カードは人気が高い。 以上のことから、対巨人戦や対阪神戦以外の一部の対戦カードにおいても人気カードになることがある([[PayPayドーム]]でのソフトバンク対広島戦、北陸地方開催での対中日戦、[[松山中央公園野球場|坊ちゃんスタジアム]]での対ヤクルト戦等)。 ファンサービスとしては、広島がジェット風船を始めたのを皮切りに多くの球団が取り入れている。阪神はプロ野球では初めて[[日本のプロ野球のマスコットガール・チアリーディングチーム一覧|チアリーディングチーム]]を導入しており(但し、現在のタイガースガールズは2代目となっている)、2023年現在では広島を除く5球団がチアリーディングチームを持つ。過去には[[セ・リーグオールスター東西対抗]](1979-1999)が秋季に地方球場で行われていた。 == 各球団監督 == {{main2|歴代監督|日本のプロ野球監督一覧}} {{NPBセントラル・リーグ監督}} == 歴代リーグ代表者 == === リーグ会長 === * 初代:[[安田庄司 (新聞経営者)|安田庄司]]([[1949年]] - [[1951年]]/[[読売新聞]]副社長兼編集主幹) * 2代目:[[松島鹿夫]]([[1951年]] - [[1952年]]/元[[外務省|外務]][[事務次官]]) * 3代目:[[鈴木龍二]](1952年 - [[1984年]]/元[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]会長) * 4代目:[[川島廣守]](1984年 - [[1998年]]/元[[内閣官房副長官]]) * 5代目:[[高原須美子]](1998年 - [[2000年]]/経済評論家、元[[経済企画庁]]長官) * 6代目:[[豊蔵一]](2001年 - 2008年/元[[建設省|建設]]事務次官、元[[住宅・都市整備公団]]総裁)【リーグ会長職廃止により退任】 === リーグ運営部長 === * 初代:大越英雄([[2009年]] - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} === 参考文献 === * プロ野球ユニフォーム物語(著:[[綱島理友]]・絵:綿谷寛。2005年、[[ベースボール・マガジン社]]発行)ISBN 978-4583038070 * 各外部リンク == 関連項目 == {{commonscat|Central League}} * [[パシフィック・リーグ]] * [[セ・パ交流戦]] * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]] * [[クライマックスシリーズ]] * [[日本選手権シリーズ]] * [[セントラル・リーグ個人タイトル獲得者一覧]] == 外部リンク == * [http://npb.jp/cl/ セントラル・リーグ] - NPB.jp 日本野球機構 {{セントラル・リーグ優勝}} {{セントラル・リーグ優勝監督}} {{日本プロ野球}} {{プロ野球リーグ}} {{日本のスポーツリーグ}} {{デフォルトソート:せんとらるりいく}} [[Category:セントラル・リーグ|*]] [[Category:日本野球機構|***]] [[Category:日本のプロ野球|*1せんとらるりいく]]
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仙石線
仙石線(せんせきせん)は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、陸前山下駅 - 石巻港駅間の日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線を持つ。 名称は、起点(仙台市)と終点(石巻市)から1文字ずつ取って付けられた。仙台市東郊の通勤・通学路線であると同時に、松島などの観光地へのアクセス路線としての一面や、仙台市と多賀城市・塩竃市・石巻市間の都市間輸送の性格も兼ね備えている路線である。 仙石線は私鉄である宮城電気鉄道の路線が1944年(昭和19年)の戦時買収により国有化された路線であり、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となった。JR東日本が保有する営業路線の中では東北地方で唯一、JRグループでは日本最北の直流電化路線である。電動車による他路線への直通運転が不可能である点を活かし、2WAYシートやATACSなど開発システムのテスト路線となることが多い。 駅間距離が短く、また、開業当初より仙台口においては1時間に2 - 3本の運行が行われていた。このため、国有化後、地元では国電と呼ばれていた。あるいはほかの国鉄路線と仙石線の駅がそれぞれ立地する松島や塩竈、石巻などでは仙石線の駅を「電車駅」、ほかの国鉄路線の駅を「汽車駅」と呼ぶなどして区別していた。 2000年(平成12年)に完成した仙台トンネルに新線が開通し、あおば通駅 - 陸前原ノ町駅間の約3.5 kmが地下線となった。東塩釜駅付近 - 高城町駅間は東北本線と併走している。2015年には松島海岸駅 - 高城町駅間に連絡線が作られ、仙石東北ラインとして直通運転を開始している(保守用の渡り線はこれ以前から存在していた)。松島駅 - 高城町駅間で乗り換える場合、通しの乗車券が発券できる。 仙台駅では松島への観光には仙石線(普通列車)の利用を推奨する案内が行われている。松島観光の拠点駅である仙石線松島海岸駅には並行する仙石東北ライン・東北本線の列車は駅がなく停車しないためである。仙石東北ラインで松島海岸駅に向かう場合、高城町駅での乗り換えが必要となるが、同駅での待ち時間には20分を要することもある。なお、東北本線には「松島駅」があるが、同駅は松島の観光エリアから1 km程度離れている。仙台駅 - 松島駅間と仙台駅 - 松島海岸駅間の運賃はともに420円である。一方、塩釜方面への案内は特にされてはいないが、仙台からの場合、観光目的地であるマリンゲート塩釜や鹽竈神社は本塩釜駅が最寄りの下車駅となる。ただし、宮城県塩釜高等学校など東北本線塩釜駅の利用が至便な施設も存在する。 列車種別としては普通列車と快速列車があり、かつてはどちらも仙石線経由で運行されていたが、2015年の仙石東北ライン運行開始後は種別毎に完全に系統分離が行われており、普通列車は全て仙石線経由で運行されている。車両は205系電車が使用されている。快速列車は仙石東北ラインとして全列車とも途中の松島町内で短絡線を走行して東北本線に乗り入れ、同線経由で仙台駅発着で運行されている。 ラインカラーはスカイブルー(■)に設定されている。支線を除きIC乗車カード「Suica」の仙台エリアに含まれている。 あおば通駅 - 中野栄駅間は仙台市地下鉄との代替輸送(振替輸送)対象路線に指定されており、当該区間が運転見合わせとなった場合は、仙台市地下鉄東西線(青葉通一番町駅 − 荒井駅)への振替乗車が認められる場合がある。 支線を除き東北本部の管轄である。 仙石線は私鉄の宮城電気鉄道を出自とする鉄道路線である。宮城電気鉄道は、高田鉱山(細倉鉱山)における亜鉛の減産から生じることになった余剰電力を活用するために、鉱山の経営に関わっていた高田商会によって計画された。この計画が立案されたのは1921年(大正10年)であり、翌1922年(大正11年)に宮城電気鉄道株式会社が発足した。宮城電気鉄道は当初、宮城県庁から鉄道省の仙台駅を経て松島へ至る鉄道路線として計画されたが、後に計画が変わり、松島からさらに先の石巻までの鉄道路線として建設されることになった。また、宮城県庁から仙台駅までの区間は、仙台市電が計画されたことに影響を受けて断念された。宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会は1923年(大正12年)の関東大震災によって経営が傾き後に破産する。宮城電気鉄道は日本生命保険から資金を受け、鉄道の建設を続けることができた。 宮城電気鉄道はまず1925年(大正14年)6月5日に仙台駅から西塩釜駅の間で開業した。この後、1926年(昭和元年)に本塩釜駅まで、1927年(昭和2年)に松島公園駅(現在の松島海岸駅)まで、1928年(昭和3年)4月に陸前小野駅まで路線が延び、同年11月22日に石巻駅までの全線が開通した。この頃、仙台駅と石巻駅の間の所要時間は1時間40分だった。西塩釜駅まで開通した1925年(大正14年)の当時のダイヤでは1日に上下それぞれ29本の列車が運転されていたのが、1939年(昭和14年)になると仙台駅から塩竈まで15分間隔、松島まで30分間隔、石巻まで1時間間隔で列車が運転されるようになった。また、宮城電気鉄道では旅客列車だけでなく貨物列車も運行していた。1939年(昭和14年)に陸前山下駅から釜駅(現在の石巻港駅)までの貨物線が開通し、1942年(昭和17年)(1943年12月5日とも)には東七番丁駅(後の仙台東口駅)から陸前原ノ町駅までの区間が複線となった。 1944年(昭和19年)5月1日、宮城電気鉄道は戦時買収により国有化され、仙石線となった。この当時の宮城電気鉄道沿線には、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、多賀城海軍工廠、矢本飛行場があり、これらに関連した物資輸送や工員の通勤のための買収だったと言われる。買収金額は約2400万円だった。 宮城電気鉄道の仙台駅 - 東七番丁駅間は東北本線との交差のために地下区間として建設された。これは日本で最初に開業した営業用の地下路線である。この区間の開業は、日本初の地下鉄である東京地下鉄道(現在の東京地下鉄銀座線)の開業に先立つこと2年半であり、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄有馬線)の湊川地下線より3年早かった。 この地下区間は単線でありかつ距離が短かったこと、1952年(昭和27年)に廃止されていることなどから、ほとんど紹介されない存在となっている。2000年(平成12年)に完成した仙石線の地下区間(仙台トンネル)とは別物である。 1952年(昭和27年)、仙台駅の仙石線プラットホームが大きく変わった。宮城電気鉄道時代に建設され国有化後もそのまま使われていた仙石線地下ホームは約200メートル東側の地上に移され、同時に東口改札口が併設された。この移設には、この年に宮城県、山形県、福島県で行われた第7回国民体育大会秋季大会が関係している。それまでの仙台駅は線路の西側に駅舎を持ち、反対の東側には駅舎がなかった。第7回国民体育大会では、仙台駅の東側に位置する宮城野原公園総合運動場が主要会場の一つとされ、この運動場への交通の便を図るためにホームの移設と東口の設置が行われたのである。これによって旧来の仙石線地下ホームは、移設後の仙石線ホームと東北本線各ホームおよび仙台駅西口とを結ぶ連絡通路に変わった。この地下通路は2000年(平成12年)の仙石線ホーム再地下化まで利用されることになる。また、仙台駅仙石線ホームの移設に伴って仙台東口駅が廃止された。 1956年(昭和31年)10月、仙石線管理所が発足した。これは非採算線区の経営改善を目的に国鉄の中で試行的に行われたもので、前例のない制度だった。管理所の導入によって、仙石線は一個の独立した経営単位として扱われた。管理所の所長には大きな権限が与えられ、経営改善に取り組むことになった。この管理所制度のもとで、仙石線では踏切の自動化などによる人員削減、貨物列車の集約および縮小が行われた。また、この当時、仙台駅から東塩釜駅の間では30分に1本の頻度で列車が運行していた。仙石線管理所はこれを15分間隔に改め、「時計なしで乗れる」を謳った。また、仙石線沿線で行われる海水浴や釣り大会に併せて臨時列車を増発し、また写真コンクールを企画してやはり臨時列車を運行した。管理所が発足した1956年度(昭和31年度)の仙石線の営業係数は165だったが、1957年度(昭和32年度)には131に改善した。経営上は赤字であることに変わりなかったものの、これは国鉄内で評価されて、管理所制度は日本全国の支線区に広まることになった。1960年(昭和35年)には仙石線の営業係数は111となり、総裁賞を受賞した。仙石線管理所は1971年(昭和46年)に解散し、仙石線は仙台鉄道管理局による直轄運営に戻った。 この間、1968年(昭和43年)3月に仙石線の陸前原ノ町駅から多賀城駅までの区間が複線となり、さらに1969年(昭和44年)9月に多賀城駅から西塩釜駅までの区間が複線化された。この年の10月に行われたダイヤ改正で仙台駅と石巻駅を58分で結ぶ特別快速が設定された。 旧来の仙石線は塩竈市街地を地上または半高架で通過していた。線路が街の東西を分断し、交通渋滞の原因とも見なされるようになっていった。この問題を解決するために、塩竈地区における仙石線の高架化が計画され、あわせて複線化も行われることになった。これは宮城県の都市高速鉄道事業として行われた。都市高速鉄道は1968年(昭和43年)に施行された(新)都市計画法に規定されたものである。これにより、踏切を介して平面交差していた鉄道と道路を、渋滞や踏切事故等を減らす名目で立体交差させる都市計画がなされるようになり、既存の道路側を立体交差させるオーバーパスやアンダーパス、既存の鉄道を立体交差させる高架化や地下化、さらに高架鉄道や地下鉄等の新設が進められた。宮城県はこの法律に基いて1970年(昭和45年)に従前の5つの都市計画区域を統合して「仙塩広域都市計画区域」を指定し、1971年度(昭和46年度)に塩竈市の本塩釜駅周辺への都市高速鉄道事業の適用を見込んで高架化の調査を行った。そして、西塩釜駅から陸前浜田駅までの区間5,410メートルを「仙塩広域都市計画 都市高速鉄道事業 日本国有鉄道仙石線」として都市計画決定し、西塩釜駅から東塩釜駅を過ぎた辺りまでの区間2,770メートルを鉄道側の高架化とする嵩上式、そこから陸前浜田までの区間を道路側の立体交差とする地表式として整備することにした。新設の高架線は国鉄の貨物線用地を活用して建設された。こうして西塩釜駅 - 東塩釜駅の高架化および複線化が1981年(昭和56年)11月に完成した。 一方、仙台駅 - 苦竹駅間についても、仙台駅付近が曲線が多い蛇行線形になっていたほか、踏切による交通渋滞問題が発生していた。このため、鉄道側を地下化する形で連続立体交差事業が行われることになり、1985年(昭和60年)10月に起工式が行われた。仙台トンネルと名付けられた地下区間は2000年(平成12年)に完成し、これによって14の踏切が解消された。同時に、線路の直線化によって距離が短縮されるとともに、仙台駅以西に延伸してあおば通駅が開業した。これは事業計画当時検討されていた仙台市地下鉄東西線との直通運転を視野に入れたものだった。この直通運転案では、国鉄仙台駅と仙台市地下鉄仙台駅が離れていたために仙台駅を二分して建設することになり、連続立体交差事業の補助金対象区間を長く取るために地下鉄寄りの「仙台(西)駅」を仙石線と地下鉄との境界駅として、この駅までを国鉄線として建設することになったのである。その後、地下鉄直通運転案は断念されたが「仙台(西)駅」までは建設され、これが「あおば通駅」として開業した。また、この連続立体交差事業に関連して、1991年(平成3年)に宮城野電車区が設置された。 これらの路線改良事業に前後して、仙石線では1981年(昭和56年)に中野栄駅が、1987年(昭和62年)に東矢本駅が、2004年(平成16年)に小鶴新田駅が開業した。ダイヤについては、1983年(昭和58年)10月のダイヤ改正で平日ダイヤと休日ダイヤが設定され、休日に仙台駅と石巻駅をノンストップで結ぶ特別快速が設定された。これは、平日の通勤通学と休日の買い物を意識したものだった。また、1987年(昭和62年)に国鉄分割民営化が行われ、仙石線はJR東日本の路線となっている。 2004年(平成16年)より仙石線の多賀城駅周辺1.8キロメートルの高架化事業も進められた。2009年(平成21年)11月29日に上り線が高架に切り替えられ、2012年(平成24年)4月8日には、下り線も高架に切り替えられた。その後、駅舎を中心とした施設の構築工事も行われ、2013年(平成25年)11月17日に新駅舎が供用を開始した。 2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、当路線の約68%が海岸部に近接していたため、地震と津波双方による被害を受け、軌道変状312か所、線路流出3km強、ホーム変形19か所、橋梁・高架橋の損傷12か所、駅舎損傷14か所、電化設備については津波被害の大きさによりデータが取れないほどであった。 地震発生により、野蒜 - 東名間で上りあおば通行普通電車(1426S電車、M9編成)が停止、乗客約50人が指定避難場所だった東松島市立野蒜小学校(北緯38度22分33秒 東経141度9分11.6秒 / 北緯38.37583度 東経141.153222度 / 38.37583; 141.153222 (東松島市立野蒜小学校(震災発生当時)))に避難した後、車両は津波に押し流されて脱線、4両編成の前2両は山側に横滑りし、後ろ2両は山側に90度向きを変えて大破した。また、石巻駅では到着後のM7編成が冠水して被災した。野蒜 - 陸前小野間では石巻行き快速電車(3353S電車、M16編成)編成が松島丘陵東端の切り通し区間頂上部付近で停止(北緯38度22分43.7秒 東経141度9分55.7秒 / 北緯38.378806度 東経141.165472度 / 38.378806; 141.165472 (下り石巻行き快速電車の停止位置))、乗客約100人は指定避難場所の野蒜小への移動を開始したが、元消防団員の乗客の1人が津波を予見して運転士に進言し、乗客全員が車両に待機していたところ、襲ってきた津波は同車両を含む同地には到らず全員が無事だった。 地震直後より全線で不通となった仙石線は、震災当日から2週間以上を経た同年3月28日、仙台市内のあおば通駅 - 小鶴新田駅間でのみ運転が再開されたものの、翌月7日に発生した余震のために、再び全線で不通となった。 再度不通となったあおば通駅 - 小鶴新田駅間の営業は1週間余り後の同4月15日に再開され、次いで4月19日には小鶴新田駅から東塩釜駅までの営業も再開された。さらに、同5月28日には東塩釜駅から高城町駅までの営業も再開、これによって、仙台を起点とする区間においてはあおば通駅から高城町駅までが繋がることとなった。 一方、石巻寄りの区間については、震災発生から4か月余りを経た同年7月16日になって矢本駅 - 石巻駅間の営業が再開されたが、電化設備が復旧していないことなどから、電車ではなく気動車による運行となった。さらに陸前小野駅 - 矢本駅間が2012年3月17日に再開された。 復旧が手付かずの状態となっていた高城町駅(松島町) - 陸前小野駅(東松島市)間であったが、JR東日本仙台支社は2012年(平成24年)1月、当該区間の一部内陸移設などによって、2015年(平成27年)度までに全線復旧させる方針を発表した。この区間の復旧工事の費用は100億円超で2013年(平成25年)度中に着工、線路が流出するなど被害の大きかった東松島市内の陸前小野駅から陸前大塚駅までの約6.4キロメートルについては震災前よりも500メートル程度内陸に移設する。また、この区間にあって駅舎が被害を受けた野蒜駅、東名駅の2駅も移設される。2014年7月30日には、復旧工事の目途が立ったことから、2015年6月までに全線再開することが発表され、2015年1月29日には全線再開日が同年5月30日と発表された。 なお、陸前小野駅 - 陸前大塚駅の移設ルートは当初、下記の三つの案が作られたが、安全性や街づくり、早期復旧の観点から現位置かさ上げおよび高台移設案を採用することになった。 また、東北本線の塩釜駅 - 松島駅間と線路が並行している仙石線の松島海岸駅 - 高城町駅間に、両線を連絡する接続線(仙石線・東北本線接続線)を敷設し、仙石線が全線復旧する予定の2015年(平成27年)5月30日から「仙石東北ライン」として東北本線の塩釜以南と仙石線の高城町以北を相互直通運転する計画が発表され、予定通り運行が開始された。 2015年5月30日のダイヤ改正以降、運行形態は仙石線内のみを運行する普通列車と、この日に開業した仙石東北ライン特別快速・快速列車に大別される。あおば通駅 - 高城町駅間は、このダイヤ改正により普通列車(各駅停車)のみの運行となった。 仙石東北ラインは仙台駅 - 石巻駅・女川駅間を結ぶ列車の運転系統である。仙台駅 - 高城町駅間が東北本線経由で、高城町駅から石巻駅の間が仙石線内での運行である。おおむね1時間に1本運転しているが、仙台発11時台と石巻発7・12時台の運転はない。仙台発朝9時台と石巻発20時台の上下各1本が停車駅の少ない「特別快速」として運転されている以外は「快速」として運転されている。 快速には、種別表示色が赤(■)で表示されるもの(以下「赤快速」という。)と、緑(■)で表示されるもの(以下「緑快速」という。)がある。東北本線仙台駅 - 塩釜駅間において、赤快速は途中駅無停車、緑快速は各駅に停車し、仙石線内(高城町駅 - 石巻駅間)の停車駅はいずれも同じである。 先行列車の追い抜きはないが、原則として高城町駅であおば通駅発着の普通列車と相互接続を行っている。 1列車4両編成で運行している。かつては仙台12時台発と石巻13時台発の緑快速のみ2両編成で運行していたが、2019年3月16日のダイヤ改正からこの列車を含む全列車が4両編成運行となった。 2016年8月6日からは、「仙石東北ライン」のうち石巻発朝6時台の上り始発列車と仙台発夜20時台の下り最終列車が石巻線の石巻駅 - 女川駅間に乗り入れ、仙台駅 - 女川駅間の直通運転を開始し、2017年3月4日からは石巻あゆみ野駅に一部列車が停車するようになった。 2015年5月のダイヤ改正よりあおば通駅 - 高城町駅間を運行(多賀城駅・本塩釜駅を経由)する快速は廃止されている。 あおば通駅 - 石巻駅間を仙石線内各駅に停車する。すべての列車があおば通駅発着の4両編成となっている。 朝夕時間帯は約6 - 8分間隔で運転されている。車両基地への出入りを兼ねて、あおば通駅 - 小鶴新田駅間の区間運転列車がある。 日中は1時間に4本運転されており、あおば通駅 - 石巻駅間の直通列車と多賀城駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅を発着駅とする区間運転列車がそれぞれ1本程度運転されている。このうち、高城町駅で折り返す列車の多くは、仙石東北ラインと10分前後で接続して石巻方面の列車と乗り継げるようになっている。下りは15分等間隔で運転されているが、上りは少しずれが生じている。 上り列車の方向幕・行先表示LEDには「仙台・あおば通」と表示されている。これは仙台方面あおば通行きの列車であることを強調するために便宜上用いているもので、途中駅で編成の一部が切り離されるというわけではない。同様に、下り列車のうち、高城町行きには「松島海岸・高城町」、石巻行きには「松島海岸・石巻」と、松島観光の下車駅である松島海岸駅を表示に含めている。なお、かつては誤乗防止の観点から、2015年5月30日以降は方向幕・行先表示LEDで「仙石線経由」の表示がなされていたが、2021年3月以降は行われていない。 JRの列車番号は原則として電車には「M」が付くが、仙石線の場合はいわゆる電車ダイヤのため、電車で運行される普通列車には「S」が付与されている。また、上2桁(もしくは上1桁)は24時間制の始発駅発車時刻を、下2桁は運用番号を示す。 プロ野球チーム東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地の楽天生命パーク宮城は宮城野原駅が最寄である。この球場でプロ野球の試合がある日はあおば通駅 - 小鶴新田駅間で臨時列車が運行される。このほかに、塩竈みなと祭に合わせてあおば通駅 - 本塩釜・東塩釜駅間で、松島ハーフマラソン大会に合わせてあおば通駅 - 高城町駅間で、松島基地航空祭に合わせて小鶴新田・東塩釜駅 - 矢本駅間で、石巻川開き祭りに合わせてあおば通・矢本駅 - 石巻駅間で臨時列車の増発が行われている。 また、2017年に開催された松島基地航空祭に合わせてあおば通駅 - 矢本駅間において、東塩釜駅 - 矢本駅間で通過運転(途中停車駅は松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅)を行う臨時快速列車が運行された。 2022年12月3・4日には、高城町駅 - 石巻駅の変電設備取替工事に伴い、この区間では気動車(仙石東北ライン用のHB-E210系)による折り返し運転が実施された。また一部列車が松島海岸駅に乗り入れ、HB-E210系が初めて高城町以南に乗り入れた。 2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で、仙石線は甚大な被害を受け、全線で不通となった。3月28日のあおば通駅 - 小鶴新田駅間運転再開、4月7日の余震による再度全線不通を経て、4月19日に同区間が再開されてからは段階的に復旧範囲が拡大し、2012年3月17日の時点で、仙台側はあおば通駅 - 高城町駅間、石巻側は陸前小野駅 - 石巻駅間で列車運行を再開していた(詳細は後述「東日本大震災による影響」の節も参照)。ここでは、震災の影響で不通区間が発生していた時期について述べる。 この区間は当初から震災前と同じ205系3100番台電車で運行を再開した。 2011年3月28日にあおば通駅 - 小鶴新田駅が復旧した。このときは1時間に2 - 7本ほどの運転であった。 高城町駅まで復旧後のダイヤは、列車の大半があおば通駅 - 東塩釜駅間の区間列車であり、東塩釜駅 - 高城町駅間は1時間に2 - 3本程度であった。また、現行と同様に小鶴新田駅・多賀城駅までの区間列車が設定されていた。多賀城駅は2014年3月までは高架化工事により折り返し運転ができず、多賀城駅 - 東塩釜駅間を回送のうえ東塩釜駅で折り返していた。 高城町駅まで復旧した際に、あおば通駅 - 高城町駅間の快速列車(A快速・B快速)も設定された。A快速の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅、B快速の停車駅はあおば通駅 - 多賀城駅間の各駅および本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅であった。B快速は通過駅が3駅(下馬駅・西塩釜駅・陸前浜田駅)しかなかったため、2014年3月15日のダイヤ改正をもって各駅停車に格下げされる形で廃止され、残ったA快速が単に「快速」として運行された。この快速も、仙台市内の通過駅での停車間隔が所々で大きく広がる問題があったため、2015年5月29日を最後に、多賀城駅・本塩釜駅を経由して電車で運行される快速列車は消滅した。 高城町駅 - 陸前小野駅間は東日本大震災の影響により2015年(平成27年)5月29日まで不通となっており、2011年(平成23年)7月16日から同日まで、松島海岸駅 - 矢本駅間でバス代行輸送が行われていた。本数は2014年(平成26年)3月15日から運行終了までのダイヤでは1日上り19本、下り20本で、朝夕のラッシュ時は、1本あたり最大5台同時運行していた。松島海岸駅で快速列車に接続することが多かったが、バスが遅延した場合でも原則として接続は行わなかった。 代行バス停留所は不通区間の各駅前に設置されていたが、高城町駅のみ離れていたため、仙石線電車区間(あおば通駅 - 高城町駅間)と代行バスの乗り換えは松島海岸駅で行うよう案内されていた。 この区間は軌道の損傷・駅舎流失等、甚大な被害をうけたため、当初復旧の目途が立っていなかったが、2012年1月に、2015年度中にも全線復旧する方針が発表された。被害が大きかった陸前大塚駅 - 陸前小野駅間は、内陸側に移設されることになった。2014年7月30日には2015年6月までに全線再開することが発表された。2015年1月29日には再開日が同年5月30日と発表され、事前発表通り運行を再開した。 2011年7月16日に矢本駅 - 石巻駅間で運行を再開し、2012年3月17日には陸前小野駅 - 矢本駅間の運行を再開した。電化設備が復旧していなかったことから、全面復旧までこの区間は小牛田運輸区所属のキハ110系気動車による臨時ダイヤでの運行となっていた。陸前小野駅 - 矢本駅間は1日数本、矢本駅 - 石巻駅間では1時間に1 - 2本となっており、全列車が2両または4両編成による普通列車であった。 矢本駅 - 石巻駅間が運行再開された当初は、この区間を運行する列車には列車番号に「Y」が付けられていたが、陸前小野駅まで運行を再開した2012年3月のダイヤ改正で、原則通りの「D」に変更された。 大震災発生直前まで運転されていた快速列車は、あおば通駅 - 石巻駅間をおよそ1時間に1本運転されていた。2004年10月15日までは快速列車に「うみかぜ」の愛称が与えられており、停車駅の違いによりA快速とB快速の2種類があった。A快速の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅および矢本駅 - 石巻間駅の各駅であり、B快速はA快速の仙台 - 多賀城間を各駅停車にしたものであった。2009年3月14日のダイヤ改正以前は駅案内においては方向幕の色から、A快速は「赤快速」、B快速は「緑快速」と案内されていた。東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である宮城球場(2018年現在の名称は「楽天生命パーク宮城」)でプロ野球の試合がある日は、仙台駅 - 多賀城駅間を通過するA快速(赤快速)が球場の最寄り駅である宮城野原駅に臨時停車する場合もあった。 仙石線の快速列車の停車駅については、古くは列車により様々であったが、時代を下るにつれ停車駅がパターン化され、そのパターンも次第に整理・統合された。1972年(昭和47年)頃には通過駅が榴ケ岡駅と宮城野原駅の2駅のみというパターンもあった。 例えば、1998年 - 1999年頃の日中に快速列車が1時間に2本設定されたことがある。このうち1本は現在の速達タイプの停車パターンで、もう一方は石巻 - 本塩釜間が各駅停車となる区間的な快速列車であった。 2007年3月のダイヤ改正以前は、東塩釜駅は快速通過駅であった。 他に特筆できることとしては「特別快速」がある。当初の特別快速は石巻駅 - 仙台駅間を1時間以内で結ぶことと、仙台市内にある百貨店の10時開店を意識したダイヤで、1969年に登場した。この列車は途中、松島海岸駅と本塩釜駅に停車し、午前の上りと午後の下り計2本は矢本駅にも停車した。その後、CTC化と軌道強化、東塩釜駅 - 石巻駅間の単線区間の一部交換可能駅における一線スルー化等に伴って線内最高速度が85 km/hから95 km/hに上がり、1983年10月より休日ダイヤにおいて仙台駅 - 石巻駅間50.5キロメートルをノンストップで走る特別快速1往復が設定された。このノンストップ列車は、停車駅の見直しに伴い2000年3月11日のダイヤ改正で廃止となった。後年に再び停車駅の少ない特別快速が土曜・休日に設定されたが、2003年10月1日のダイヤ改正で再び廃止された。この列車の停車駅は仙台駅、多賀城駅、本塩釜駅、松島海岸駅、高城町駅、野蒜駅、矢本駅、石巻駅だった。 2003年3月22日から土曜・休日に石巻行きの赤快速(A快速)の1本と緑快速(B快速)の1本、そしてあおば通行きの普通列車2本を、石巻市にゆかりの深い漫画家石ノ森章太郎の作品に登場するキャラクターのラッピングが施された編成で「マンガッタンライナー号」として運行していた。 先発の列車が終着駅に先着するダイヤは、現行と変わらない。 大震災発生直前のダイヤは、すべての列車があおば通駅発着であり、そのうち大部分の列車が多賀城駅や東塩釜駅で折り返す区間列車であった。あおば通駅 - 石巻駅間を直通する普通列車は1時間に1本で、快速と普通がそれぞれ交互に運行されていた。高城町始発あおば通行は朝に1本設定されていたが、高城町行下り列車は設定がなかった。 時期により、あおば通駅 - 松島海岸駅・高城町駅間および矢本駅 - 石巻駅間の区間列車が設定されていた。また、小鶴新田駅開業前はあおば通駅(仙台駅) - 苦竹駅間の区間列車が、さらに古く陸前原ノ町電車区があった頃には仙台駅 - 陸前原ノ町駅間の区間列車が存在した。 現在、普通列車については1列車4両編成のみで運行しているが、1987年-1998年頃までは、矢本駅 - 石巻駅間の区間列車運転を主として、105系電車を用いた2両運用が全区間で存在した。 仙石線は宮城電気鉄道という私鉄を出自とするため、仙台駅の着発線および駅舎が他路線とは独立しており、仙台駅構内にあった東北本線と仙石線を結ぶ引き込み線が1970年頃に撤去されてからは、直通運転は物理的に不可能となっていた。保線用車両の行き来を目的に松島駅 - 松島海岸駅間に東北本線との渡り線が設けられていたが、営業用車両は走行できなかった(後述の仙石線・東北本線接続線の建設により撤去)。 2015年度の全線復旧後、松島海岸駅 - 高城町駅間と東北本線塩釜駅 - 松島駅間を結ぶ連絡線(仙石線・東北本線接続線。塩釜駅 - 高城町駅間を結ぶものであり前述の保線用車両の渡り線とは分岐方向が異なる)が敷設され、仙石東北ラインという愛称でHB-E210系気動車を使用した東北本線への直通運転が開始された。 石巻駅構内では、石巻港への貨物列車の入線や他線との連絡のために、石巻線と仙石線の線路が繋がっている。石巻線は非電化路線であるため、気動車の場合は仙石線・石巻線の両線を直通することが可能であり、グラシア(後のこがね)による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。なお、1992年頃には、石巻線の石巻駅 - 女川駅間の直流電化による仙石線の女川駅乗り入れが調査されたことがあった(詳細は「石巻線#過去の仙石線直通運転構想」を参照)。2016年8月6日からは仙石東北ラインの一部列車を女川駅まで延長運転している。 East i-Dによる軌道試験が行われる以前は、マヤ34形客車を用いた検測列車(マヤ検)の牽引は牽引車クモヤ145形を用いて行われていた。しかし地上線時代の仙台駅および地下化後のあおば通駅は機回し線がなく、またクモヤ145形が1両しか在籍していないため、上り列車で仙台駅(地上線時代)もしくはあおば通駅(地下化後)に入線すると車両の付け替えができないため、以前は105系を使用し、 の編成で運転されていた。 105系廃車後は103系のクモハ編成からMc+Mのみをマヤの前に連結し、 の編成で運行された。なお105系および103系による運転はあおば通駅 - 宮城野電車区間のみで運行され、宮城野電車区 - 石巻間はクモヤ145形のみの牽引で運転されていた。なお仙石線では103系は老朽化の進むMc編成から置き換えが始まったが、マヤ検の都合上、置き換え開始後しばらくはMc編成が残留していた。そのためMc編成の全廃はマヤ検終了後の2003年7月であった。 仙石線は前述の通り、東北地方のJR線では唯一の直流電化路線であり、東北地区を走る他線(交流電化路線)の車両は運用できないため、首都圏で運行されていた通勤形電車を転配して運行している。車両についての詳細は各車両の項目のほか、「仙台車両センター宮城野派出所」の項目も参照。 仙石線の前身である宮城電気鉄道の車両については同項目および「宮城電気鉄道の電車」を参照。 2000年の仙台トンネル開通以前はグラシア(後のこがね)による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。それ以外にも、多賀城駅 - 矢本駅間のビール列車(小牛田運輸区のキハ23形・40形・58形使用)、ふるさとによる野蒜駅 - 石巻駅間の「鳴瀬町町民号」といった団体専用列車での入線が時折あった。仙台トンネルの開通以後も、東塩釜駅 - 石巻駅間では団体専用列車という形で気動車の入線があった。東日本大震災後の2011年7月16日に復旧した矢本駅 - 石巻駅間、2012年3月17日に復旧した陸前小野駅 - 矢本駅間では架線の損傷や変電所が使えないため、2015年5月30日の全面復旧まではキハ110系気動車が使用されていた。 仙台駅の西側にあるあおば通駅が路線の起点である。 あおば通駅から陸前原ノ町駅を過ぎる付近までは仙台トンネルを通る地下線である。このトンネルは、地下水位の低い洪積台地の地下を通るあおば通駅から榴ケ岡駅を過ぎた辺りまでと、長町-利府線より先の地下水位が高い沖積平野の地下を通る区間で、異なる工法により施工された。あおば通駅の地下ホームは標高20mほどで、トンネルはここから榴ケ岡駅を過ぎて断層まで緩やかに下り、断層の東側の一段低い所にある宮城野原公園総合運動場の前で大きく北東へ曲がる。さらに断層の際に沿って走り、宮城野原駅を過ぎた辺りでトンネルは最も深くなる。ここから陸前原ノ町駅に向かってトンネルは上り始め、同駅を過ぎると地上に出て東北本線支線(通称、宮城野貨物線)の高架をくぐる。その後、そのまま線路は高架となり、苦竹駅を経て国道45号と梅田川を跨ぎ、その後に地上線となる。 ここからは断層の東側の地下水位の高い沖積平野であり、住宅地として不向きであったため、近年まで梅田川の南側のみが工業・流通団地として利用されていた。近年に小鶴新田駅が設置されて梅田川以北の一部が市街化したが、仙台バイパスから福田町駅の間には田園風景が残っている。福田町駅付近から先は、多賀城市や塩竈市まで市街地が続く。この付近は仙塩地区とも呼ばれる。仙石線は福田町駅の東側で七北田川と交差し、中野栄駅 - 多賀城駅間で仙台臨海鉄道臨海本線を築堤で乗り越えて、続けて砂押川を跨ぐ。本塩釜駅付近は、ルート変更により塩釜線沿いに線路を移設した関係で、海沿いを走る高架線となり眺めは良い。東塩釜駅から先は単線となる。 線路は利府町と松島町で松島丘陵をトンネルで通りながら松島湾沿いを走る。この付近で仙石線と東北本線は、並行するように線路が敷設されている。特に、利府町内においては線路が接近しており、列車の併走が見られる場合もある。松島海岸駅は、日本三景・松島の観光の中心地である。同駅を過ぎ、東北本線との線路の並行が終了し、高城町駅に向かうために当線が右カーブした先で、左手より東北本線から分岐した仙石線・東北本線接続線が合流する。また、陸前富山駅から陸前大塚駅 - 東名駅間にかけては、奥松島の海岸線に沿うように線路が敷設されており、松島湾の眺めを楽しむことができる。東日本大震災前は、東名駅から先は東名運河沿いを走っていたが、震災後は陸前大塚 - 陸前小野間で高台を通るルートに変更され、左手に災害公営住宅を見ながら移設された東名駅及び野蒜駅を通る。 吉田川と鳴瀬川に連続して架かる鳴瀬川橋梁を越えると、列車は石巻平野(仙北平野)の水田地帯の中を走る。矢本駅・陸前赤井駅を過ぎ、石巻市内に入ると沿線に住宅地が多く見られるようになる。石巻あゆみ野駅は2016年(平成28年)に開業した仙石線で最も新しい駅である。蛇田駅の先で北上運河を越え、右手より石巻港駅から来た貨物支線と合流すると陸前山下駅である。同駅を過ぎると当路線は築堤を上り、右にカーブしながら地上に降りた先で、左手から石巻線が近づくと間もなく終点石巻駅である。 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅。年度途中で無人化された駅含む)は、西塩釜駅・陸前浜田駅・手樽駅・陸前富山駅・陸前大塚駅・東名駅・野蒜駅・陸前小野駅・鹿妻駅・東矢本駅・石巻あゆみ野駅である。西塩釜駅はラッシュ時に限り改札要員の配置が常態化していたが、2020年12月1日から終日係員不在となった。 以下の各駅とも貨物駅で宮城県石巻市内に所在。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "仙石線(せんせきせん)は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、陸前山下駅 - 石巻港駅間の日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "名称は、起点(仙台市)と終点(石巻市)から1文字ずつ取って付けられた。仙台市東郊の通勤・通学路線であると同時に、松島などの観光地へのアクセス路線としての一面や、仙台市と多賀城市・塩竃市・石巻市間の都市間輸送の性格も兼ね備えている路線である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "仙石線は私鉄である宮城電気鉄道の路線が1944年(昭和19年)の戦時買収により国有化された路線であり、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化によりJR東日本の路線となった。JR東日本が保有する営業路線の中では東北地方で唯一、JRグループでは日本最北の直流電化路線である。電動車による他路線への直通運転が不可能である点を活かし、2WAYシートやATACSなど開発システムのテスト路線となることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "駅間距離が短く、また、開業当初より仙台口においては1時間に2 - 3本の運行が行われていた。このため、国有化後、地元では国電と呼ばれていた。あるいはほかの国鉄路線と仙石線の駅がそれぞれ立地する松島や塩竈、石巻などでは仙石線の駅を「電車駅」、ほかの国鉄路線の駅を「汽車駅」と呼ぶなどして区別していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2000年(平成12年)に完成した仙台トンネルに新線が開通し、あおば通駅 - 陸前原ノ町駅間の約3.5 kmが地下線となった。東塩釜駅付近 - 高城町駅間は東北本線と併走している。2015年には松島海岸駅 - 高城町駅間に連絡線が作られ、仙石東北ラインとして直通運転を開始している(保守用の渡り線はこれ以前から存在していた)。松島駅 - 高城町駅間で乗り換える場合、通しの乗車券が発券できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "仙台駅では松島への観光には仙石線(普通列車)の利用を推奨する案内が行われている。松島観光の拠点駅である仙石線松島海岸駅には並行する仙石東北ライン・東北本線の列車は駅がなく停車しないためである。仙石東北ラインで松島海岸駅に向かう場合、高城町駅での乗り換えが必要となるが、同駅での待ち時間には20分を要することもある。なお、東北本線には「松島駅」があるが、同駅は松島の観光エリアから1 km程度離れている。仙台駅 - 松島駅間と仙台駅 - 松島海岸駅間の運賃はともに420円である。一方、塩釜方面への案内は特にされてはいないが、仙台からの場合、観光目的地であるマリンゲート塩釜や鹽竈神社は本塩釜駅が最寄りの下車駅となる。ただし、宮城県塩釜高等学校など東北本線塩釜駅の利用が至便な施設も存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "列車種別としては普通列車と快速列車があり、かつてはどちらも仙石線経由で運行されていたが、2015年の仙石東北ライン運行開始後は種別毎に完全に系統分離が行われており、普通列車は全て仙石線経由で運行されている。車両は205系電車が使用されている。快速列車は仙石東北ラインとして全列車とも途中の松島町内で短絡線を走行して東北本線に乗り入れ、同線経由で仙台駅発着で運行されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ラインカラーはスカイブルー(■)に設定されている。支線を除きIC乗車カード「Suica」の仙台エリアに含まれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "あおば通駅 - 中野栄駅間は仙台市地下鉄との代替輸送(振替輸送)対象路線に指定されており、当該区間が運転見合わせとなった場合は、仙台市地下鉄東西線(青葉通一番町駅 − 荒井駅)への振替乗車が認められる場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "支線を除き東北本部の管轄である。", "title": "路線データ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "仙石線は私鉄の宮城電気鉄道を出自とする鉄道路線である。宮城電気鉄道は、高田鉱山(細倉鉱山)における亜鉛の減産から生じることになった余剰電力を活用するために、鉱山の経営に関わっていた高田商会によって計画された。この計画が立案されたのは1921年(大正10年)であり、翌1922年(大正11年)に宮城電気鉄道株式会社が発足した。宮城電気鉄道は当初、宮城県庁から鉄道省の仙台駅を経て松島へ至る鉄道路線として計画されたが、後に計画が変わり、松島からさらに先の石巻までの鉄道路線として建設されることになった。また、宮城県庁から仙台駅までの区間は、仙台市電が計画されたことに影響を受けて断念された。宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会は1923年(大正12年)の関東大震災によって経営が傾き後に破産する。宮城電気鉄道は日本生命保険から資金を受け、鉄道の建設を続けることができた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "宮城電気鉄道はまず1925年(大正14年)6月5日に仙台駅から西塩釜駅の間で開業した。この後、1926年(昭和元年)に本塩釜駅まで、1927年(昭和2年)に松島公園駅(現在の松島海岸駅)まで、1928年(昭和3年)4月に陸前小野駅まで路線が延び、同年11月22日に石巻駅までの全線が開通した。この頃、仙台駅と石巻駅の間の所要時間は1時間40分だった。西塩釜駅まで開通した1925年(大正14年)の当時のダイヤでは1日に上下それぞれ29本の列車が運転されていたのが、1939年(昭和14年)になると仙台駅から塩竈まで15分間隔、松島まで30分間隔、石巻まで1時間間隔で列車が運転されるようになった。また、宮城電気鉄道では旅客列車だけでなく貨物列車も運行していた。1939年(昭和14年)に陸前山下駅から釜駅(現在の石巻港駅)までの貨物線が開通し、1942年(昭和17年)(1943年12月5日とも)には東七番丁駅(後の仙台東口駅)から陸前原ノ町駅までの区間が複線となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1944年(昭和19年)5月1日、宮城電気鉄道は戦時買収により国有化され、仙石線となった。この当時の宮城電気鉄道沿線には、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、多賀城海軍工廠、矢本飛行場があり、これらに関連した物資輸送や工員の通勤のための買収だったと言われる。買収金額は約2400万円だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "宮城電気鉄道の仙台駅 - 東七番丁駅間は東北本線との交差のために地下区間として建設された。これは日本で最初に開業した営業用の地下路線である。この区間の開業は、日本初の地下鉄である東京地下鉄道(現在の東京地下鉄銀座線)の開業に先立つこと2年半であり、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄有馬線)の湊川地下線より3年早かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "この地下区間は単線でありかつ距離が短かったこと、1952年(昭和27年)に廃止されていることなどから、ほとんど紹介されない存在となっている。2000年(平成12年)に完成した仙石線の地下区間(仙台トンネル)とは別物である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1952年(昭和27年)、仙台駅の仙石線プラットホームが大きく変わった。宮城電気鉄道時代に建設され国有化後もそのまま使われていた仙石線地下ホームは約200メートル東側の地上に移され、同時に東口改札口が併設された。この移設には、この年に宮城県、山形県、福島県で行われた第7回国民体育大会秋季大会が関係している。それまでの仙台駅は線路の西側に駅舎を持ち、反対の東側には駅舎がなかった。第7回国民体育大会では、仙台駅の東側に位置する宮城野原公園総合運動場が主要会場の一つとされ、この運動場への交通の便を図るためにホームの移設と東口の設置が行われたのである。これによって旧来の仙石線地下ホームは、移設後の仙石線ホームと東北本線各ホームおよび仙台駅西口とを結ぶ連絡通路に変わった。この地下通路は2000年(平成12年)の仙石線ホーム再地下化まで利用されることになる。また、仙台駅仙石線ホームの移設に伴って仙台東口駅が廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)10月、仙石線管理所が発足した。これは非採算線区の経営改善を目的に国鉄の中で試行的に行われたもので、前例のない制度だった。管理所の導入によって、仙石線は一個の独立した経営単位として扱われた。管理所の所長には大きな権限が与えられ、経営改善に取り組むことになった。この管理所制度のもとで、仙石線では踏切の自動化などによる人員削減、貨物列車の集約および縮小が行われた。また、この当時、仙台駅から東塩釜駅の間では30分に1本の頻度で列車が運行していた。仙石線管理所はこれを15分間隔に改め、「時計なしで乗れる」を謳った。また、仙石線沿線で行われる海水浴や釣り大会に併せて臨時列車を増発し、また写真コンクールを企画してやはり臨時列車を運行した。管理所が発足した1956年度(昭和31年度)の仙石線の営業係数は165だったが、1957年度(昭和32年度)には131に改善した。経営上は赤字であることに変わりなかったものの、これは国鉄内で評価されて、管理所制度は日本全国の支線区に広まることになった。1960年(昭和35年)には仙石線の営業係数は111となり、総裁賞を受賞した。仙石線管理所は1971年(昭和46年)に解散し、仙石線は仙台鉄道管理局による直轄運営に戻った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この間、1968年(昭和43年)3月に仙石線の陸前原ノ町駅から多賀城駅までの区間が複線となり、さらに1969年(昭和44年)9月に多賀城駅から西塩釜駅までの区間が複線化された。この年の10月に行われたダイヤ改正で仙台駅と石巻駅を58分で結ぶ特別快速が設定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "旧来の仙石線は塩竈市街地を地上または半高架で通過していた。線路が街の東西を分断し、交通渋滞の原因とも見なされるようになっていった。この問題を解決するために、塩竈地区における仙石線の高架化が計画され、あわせて複線化も行われることになった。これは宮城県の都市高速鉄道事業として行われた。都市高速鉄道は1968年(昭和43年)に施行された(新)都市計画法に規定されたものである。これにより、踏切を介して平面交差していた鉄道と道路を、渋滞や踏切事故等を減らす名目で立体交差させる都市計画がなされるようになり、既存の道路側を立体交差させるオーバーパスやアンダーパス、既存の鉄道を立体交差させる高架化や地下化、さらに高架鉄道や地下鉄等の新設が進められた。宮城県はこの法律に基いて1970年(昭和45年)に従前の5つの都市計画区域を統合して「仙塩広域都市計画区域」を指定し、1971年度(昭和46年度)に塩竈市の本塩釜駅周辺への都市高速鉄道事業の適用を見込んで高架化の調査を行った。そして、西塩釜駅から陸前浜田駅までの区間5,410メートルを「仙塩広域都市計画 都市高速鉄道事業 日本国有鉄道仙石線」として都市計画決定し、西塩釜駅から東塩釜駅を過ぎた辺りまでの区間2,770メートルを鉄道側の高架化とする嵩上式、そこから陸前浜田までの区間を道路側の立体交差とする地表式として整備することにした。新設の高架線は国鉄の貨物線用地を活用して建設された。こうして西塩釜駅 - 東塩釜駅の高架化および複線化が1981年(昭和56年)11月に完成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、仙台駅 - 苦竹駅間についても、仙台駅付近が曲線が多い蛇行線形になっていたほか、踏切による交通渋滞問題が発生していた。このため、鉄道側を地下化する形で連続立体交差事業が行われることになり、1985年(昭和60年)10月に起工式が行われた。仙台トンネルと名付けられた地下区間は2000年(平成12年)に完成し、これによって14の踏切が解消された。同時に、線路の直線化によって距離が短縮されるとともに、仙台駅以西に延伸してあおば通駅が開業した。これは事業計画当時検討されていた仙台市地下鉄東西線との直通運転を視野に入れたものだった。この直通運転案では、国鉄仙台駅と仙台市地下鉄仙台駅が離れていたために仙台駅を二分して建設することになり、連続立体交差事業の補助金対象区間を長く取るために地下鉄寄りの「仙台(西)駅」を仙石線と地下鉄との境界駅として、この駅までを国鉄線として建設することになったのである。その後、地下鉄直通運転案は断念されたが「仙台(西)駅」までは建設され、これが「あおば通駅」として開業した。また、この連続立体交差事業に関連して、1991年(平成3年)に宮城野電車区が設置された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "これらの路線改良事業に前後して、仙石線では1981年(昭和56年)に中野栄駅が、1987年(昭和62年)に東矢本駅が、2004年(平成16年)に小鶴新田駅が開業した。ダイヤについては、1983年(昭和58年)10月のダイヤ改正で平日ダイヤと休日ダイヤが設定され、休日に仙台駅と石巻駅をノンストップで結ぶ特別快速が設定された。これは、平日の通勤通学と休日の買い物を意識したものだった。また、1987年(昭和62年)に国鉄分割民営化が行われ、仙石線はJR東日本の路線となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)より仙石線の多賀城駅周辺1.8キロメートルの高架化事業も進められた。2009年(平成21年)11月29日に上り線が高架に切り替えられ、2012年(平成24年)4月8日には、下り線も高架に切り替えられた。その後、駅舎を中心とした施設の構築工事も行われ、2013年(平成25年)11月17日に新駅舎が供用を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では、当路線の約68%が海岸部に近接していたため、地震と津波双方による被害を受け、軌道変状312か所、線路流出3km強、ホーム変形19か所、橋梁・高架橋の損傷12か所、駅舎損傷14か所、電化設備については津波被害の大きさによりデータが取れないほどであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "地震発生により、野蒜 - 東名間で上りあおば通行普通電車(1426S電車、M9編成)が停止、乗客約50人が指定避難場所だった東松島市立野蒜小学校(北緯38度22分33秒 東経141度9分11.6秒 / 北緯38.37583度 東経141.153222度 / 38.37583; 141.153222 (東松島市立野蒜小学校(震災発生当時)))に避難した後、車両は津波に押し流されて脱線、4両編成の前2両は山側に横滑りし、後ろ2両は山側に90度向きを変えて大破した。また、石巻駅では到着後のM7編成が冠水して被災した。野蒜 - 陸前小野間では石巻行き快速電車(3353S電車、M16編成)編成が松島丘陵東端の切り通し区間頂上部付近で停止(北緯38度22分43.7秒 東経141度9分55.7秒 / 北緯38.378806度 東経141.165472度 / 38.378806; 141.165472 (下り石巻行き快速電車の停止位置))、乗客約100人は指定避難場所の野蒜小への移動を開始したが、元消防団員の乗客の1人が津波を予見して運転士に進言し、乗客全員が車両に待機していたところ、襲ってきた津波は同車両を含む同地には到らず全員が無事だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "地震直後より全線で不通となった仙石線は、震災当日から2週間以上を経た同年3月28日、仙台市内のあおば通駅 - 小鶴新田駅間でのみ運転が再開されたものの、翌月7日に発生した余震のために、再び全線で不通となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "再度不通となったあおば通駅 - 小鶴新田駅間の営業は1週間余り後の同4月15日に再開され、次いで4月19日には小鶴新田駅から東塩釜駅までの営業も再開された。さらに、同5月28日には東塩釜駅から高城町駅までの営業も再開、これによって、仙台を起点とする区間においてはあおば通駅から高城町駅までが繋がることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、石巻寄りの区間については、震災発生から4か月余りを経た同年7月16日になって矢本駅 - 石巻駅間の営業が再開されたが、電化設備が復旧していないことなどから、電車ではなく気動車による運行となった。さらに陸前小野駅 - 矢本駅間が2012年3月17日に再開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "復旧が手付かずの状態となっていた高城町駅(松島町) - 陸前小野駅(東松島市)間であったが、JR東日本仙台支社は2012年(平成24年)1月、当該区間の一部内陸移設などによって、2015年(平成27年)度までに全線復旧させる方針を発表した。この区間の復旧工事の費用は100億円超で2013年(平成25年)度中に着工、線路が流出するなど被害の大きかった東松島市内の陸前小野駅から陸前大塚駅までの約6.4キロメートルについては震災前よりも500メートル程度内陸に移設する。また、この区間にあって駅舎が被害を受けた野蒜駅、東名駅の2駅も移設される。2014年7月30日には、復旧工事の目途が立ったことから、2015年6月までに全線再開することが発表され、2015年1月29日には全線再開日が同年5月30日と発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "なお、陸前小野駅 - 陸前大塚駅の移設ルートは当初、下記の三つの案が作られたが、安全性や街づくり、早期復旧の観点から現位置かさ上げおよび高台移設案を採用することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、東北本線の塩釜駅 - 松島駅間と線路が並行している仙石線の松島海岸駅 - 高城町駅間に、両線を連絡する接続線(仙石線・東北本線接続線)を敷設し、仙石線が全線復旧する予定の2015年(平成27年)5月30日から「仙石東北ライン」として東北本線の塩釜以南と仙石線の高城町以北を相互直通運転する計画が発表され、予定通り運行が開始された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2015年5月30日のダイヤ改正以降、運行形態は仙石線内のみを運行する普通列車と、この日に開業した仙石東北ライン特別快速・快速列車に大別される。あおば通駅 - 高城町駅間は、このダイヤ改正により普通列車(各駅停車)のみの運行となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "仙石東北ラインは仙台駅 - 石巻駅・女川駅間を結ぶ列車の運転系統である。仙台駅 - 高城町駅間が東北本線経由で、高城町駅から石巻駅の間が仙石線内での運行である。おおむね1時間に1本運転しているが、仙台発11時台と石巻発7・12時台の運転はない。仙台発朝9時台と石巻発20時台の上下各1本が停車駅の少ない「特別快速」として運転されている以外は「快速」として運転されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "快速には、種別表示色が赤(■)で表示されるもの(以下「赤快速」という。)と、緑(■)で表示されるもの(以下「緑快速」という。)がある。東北本線仙台駅 - 塩釜駅間において、赤快速は途中駅無停車、緑快速は各駅に停車し、仙石線内(高城町駅 - 石巻駅間)の停車駅はいずれも同じである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "先行列車の追い抜きはないが、原則として高城町駅であおば通駅発着の普通列車と相互接続を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1列車4両編成で運行している。かつては仙台12時台発と石巻13時台発の緑快速のみ2両編成で運行していたが、2019年3月16日のダイヤ改正からこの列車を含む全列車が4両編成運行となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2016年8月6日からは、「仙石東北ライン」のうち石巻発朝6時台の上り始発列車と仙台発夜20時台の下り最終列車が石巻線の石巻駅 - 女川駅間に乗り入れ、仙台駅 - 女川駅間の直通運転を開始し、2017年3月4日からは石巻あゆみ野駅に一部列車が停車するようになった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2015年5月のダイヤ改正よりあおば通駅 - 高城町駅間を運行(多賀城駅・本塩釜駅を経由)する快速は廃止されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "あおば通駅 - 石巻駅間を仙石線内各駅に停車する。すべての列車があおば通駅発着の4両編成となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "朝夕時間帯は約6 - 8分間隔で運転されている。車両基地への出入りを兼ねて、あおば通駅 - 小鶴新田駅間の区間運転列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日中は1時間に4本運転されており、あおば通駅 - 石巻駅間の直通列車と多賀城駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅を発着駅とする区間運転列車がそれぞれ1本程度運転されている。このうち、高城町駅で折り返す列車の多くは、仙石東北ラインと10分前後で接続して石巻方面の列車と乗り継げるようになっている。下りは15分等間隔で運転されているが、上りは少しずれが生じている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "上り列車の方向幕・行先表示LEDには「仙台・あおば通」と表示されている。これは仙台方面あおば通行きの列車であることを強調するために便宜上用いているもので、途中駅で編成の一部が切り離されるというわけではない。同様に、下り列車のうち、高城町行きには「松島海岸・高城町」、石巻行きには「松島海岸・石巻」と、松島観光の下車駅である松島海岸駅を表示に含めている。なお、かつては誤乗防止の観点から、2015年5月30日以降は方向幕・行先表示LEDで「仙石線経由」の表示がなされていたが、2021年3月以降は行われていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "JRの列車番号は原則として電車には「M」が付くが、仙石線の場合はいわゆる電車ダイヤのため、電車で運行される普通列車には「S」が付与されている。また、上2桁(もしくは上1桁)は24時間制の始発駅発車時刻を、下2桁は運用番号を示す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "プロ野球チーム東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地の楽天生命パーク宮城は宮城野原駅が最寄である。この球場でプロ野球の試合がある日はあおば通駅 - 小鶴新田駅間で臨時列車が運行される。このほかに、塩竈みなと祭に合わせてあおば通駅 - 本塩釜・東塩釜駅間で、松島ハーフマラソン大会に合わせてあおば通駅 - 高城町駅間で、松島基地航空祭に合わせて小鶴新田・東塩釜駅 - 矢本駅間で、石巻川開き祭りに合わせてあおば通・矢本駅 - 石巻駅間で臨時列車の増発が行われている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、2017年に開催された松島基地航空祭に合わせてあおば通駅 - 矢本駅間において、東塩釜駅 - 矢本駅間で通過運転(途中停車駅は松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅)を行う臨時快速列車が運行された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年12月3・4日には、高城町駅 - 石巻駅の変電設備取替工事に伴い、この区間では気動車(仙石東北ライン用のHB-E210系)による折り返し運転が実施された。また一部列車が松島海岸駅に乗り入れ、HB-E210系が初めて高城町以南に乗り入れた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に発生した東日本大震災の影響で、仙石線は甚大な被害を受け、全線で不通となった。3月28日のあおば通駅 - 小鶴新田駅間運転再開、4月7日の余震による再度全線不通を経て、4月19日に同区間が再開されてからは段階的に復旧範囲が拡大し、2012年3月17日の時点で、仙台側はあおば通駅 - 高城町駅間、石巻側は陸前小野駅 - 石巻駅間で列車運行を再開していた(詳細は後述「東日本大震災による影響」の節も参照)。ここでは、震災の影響で不通区間が発生していた時期について述べる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この区間は当初から震災前と同じ205系3100番台電車で運行を再開した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2011年3月28日にあおば通駅 - 小鶴新田駅が復旧した。このときは1時間に2 - 7本ほどの運転であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "高城町駅まで復旧後のダイヤは、列車の大半があおば通駅 - 東塩釜駅間の区間列車であり、東塩釜駅 - 高城町駅間は1時間に2 - 3本程度であった。また、現行と同様に小鶴新田駅・多賀城駅までの区間列車が設定されていた。多賀城駅は2014年3月までは高架化工事により折り返し運転ができず、多賀城駅 - 東塩釜駅間を回送のうえ東塩釜駅で折り返していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "高城町駅まで復旧した際に、あおば通駅 - 高城町駅間の快速列車(A快速・B快速)も設定された。A快速の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅、B快速の停車駅はあおば通駅 - 多賀城駅間の各駅および本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅であった。B快速は通過駅が3駅(下馬駅・西塩釜駅・陸前浜田駅)しかなかったため、2014年3月15日のダイヤ改正をもって各駅停車に格下げされる形で廃止され、残ったA快速が単に「快速」として運行された。この快速も、仙台市内の通過駅での停車間隔が所々で大きく広がる問題があったため、2015年5月29日を最後に、多賀城駅・本塩釜駅を経由して電車で運行される快速列車は消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "高城町駅 - 陸前小野駅間は東日本大震災の影響により2015年(平成27年)5月29日まで不通となっており、2011年(平成23年)7月16日から同日まで、松島海岸駅 - 矢本駅間でバス代行輸送が行われていた。本数は2014年(平成26年)3月15日から運行終了までのダイヤでは1日上り19本、下り20本で、朝夕のラッシュ時は、1本あたり最大5台同時運行していた。松島海岸駅で快速列車に接続することが多かったが、バスが遅延した場合でも原則として接続は行わなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "代行バス停留所は不通区間の各駅前に設置されていたが、高城町駅のみ離れていたため、仙石線電車区間(あおば通駅 - 高城町駅間)と代行バスの乗り換えは松島海岸駅で行うよう案内されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "この区間は軌道の損傷・駅舎流失等、甚大な被害をうけたため、当初復旧の目途が立っていなかったが、2012年1月に、2015年度中にも全線復旧する方針が発表された。被害が大きかった陸前大塚駅 - 陸前小野駅間は、内陸側に移設されることになった。2014年7月30日には2015年6月までに全線再開することが発表された。2015年1月29日には再開日が同年5月30日と発表され、事前発表通り運行を再開した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2011年7月16日に矢本駅 - 石巻駅間で運行を再開し、2012年3月17日には陸前小野駅 - 矢本駅間の運行を再開した。電化設備が復旧していなかったことから、全面復旧までこの区間は小牛田運輸区所属のキハ110系気動車による臨時ダイヤでの運行となっていた。陸前小野駅 - 矢本駅間は1日数本、矢本駅 - 石巻駅間では1時間に1 - 2本となっており、全列車が2両または4両編成による普通列車であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "矢本駅 - 石巻駅間が運行再開された当初は、この区間を運行する列車には列車番号に「Y」が付けられていたが、陸前小野駅まで運行を再開した2012年3月のダイヤ改正で、原則通りの「D」に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "大震災発生直前まで運転されていた快速列車は、あおば通駅 - 石巻駅間をおよそ1時間に1本運転されていた。2004年10月15日までは快速列車に「うみかぜ」の愛称が与えられており、停車駅の違いによりA快速とB快速の2種類があった。A快速の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅および矢本駅 - 石巻間駅の各駅であり、B快速はA快速の仙台 - 多賀城間を各駅停車にしたものであった。2009年3月14日のダイヤ改正以前は駅案内においては方向幕の色から、A快速は「赤快速」、B快速は「緑快速」と案内されていた。東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地である宮城球場(2018年現在の名称は「楽天生命パーク宮城」)でプロ野球の試合がある日は、仙台駅 - 多賀城駅間を通過するA快速(赤快速)が球場の最寄り駅である宮城野原駅に臨時停車する場合もあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "仙石線の快速列車の停車駅については、古くは列車により様々であったが、時代を下るにつれ停車駅がパターン化され、そのパターンも次第に整理・統合された。1972年(昭和47年)頃には通過駅が榴ケ岡駅と宮城野原駅の2駅のみというパターンもあった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "例えば、1998年 - 1999年頃の日中に快速列車が1時間に2本設定されたことがある。このうち1本は現在の速達タイプの停車パターンで、もう一方は石巻 - 本塩釜間が各駅停車となる区間的な快速列車であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2007年3月のダイヤ改正以前は、東塩釜駅は快速通過駅であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "他に特筆できることとしては「特別快速」がある。当初の特別快速は石巻駅 - 仙台駅間を1時間以内で結ぶことと、仙台市内にある百貨店の10時開店を意識したダイヤで、1969年に登場した。この列車は途中、松島海岸駅と本塩釜駅に停車し、午前の上りと午後の下り計2本は矢本駅にも停車した。その後、CTC化と軌道強化、東塩釜駅 - 石巻駅間の単線区間の一部交換可能駅における一線スルー化等に伴って線内最高速度が85 km/hから95 km/hに上がり、1983年10月より休日ダイヤにおいて仙台駅 - 石巻駅間50.5キロメートルをノンストップで走る特別快速1往復が設定された。このノンストップ列車は、停車駅の見直しに伴い2000年3月11日のダイヤ改正で廃止となった。後年に再び停車駅の少ない特別快速が土曜・休日に設定されたが、2003年10月1日のダイヤ改正で再び廃止された。この列車の停車駅は仙台駅、多賀城駅、本塩釜駅、松島海岸駅、高城町駅、野蒜駅、矢本駅、石巻駅だった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2003年3月22日から土曜・休日に石巻行きの赤快速(A快速)の1本と緑快速(B快速)の1本、そしてあおば通行きの普通列車2本を、石巻市にゆかりの深い漫画家石ノ森章太郎の作品に登場するキャラクターのラッピングが施された編成で「マンガッタンライナー号」として運行していた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "先発の列車が終着駅に先着するダイヤは、現行と変わらない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "大震災発生直前のダイヤは、すべての列車があおば通駅発着であり、そのうち大部分の列車が多賀城駅や東塩釜駅で折り返す区間列車であった。あおば通駅 - 石巻駅間を直通する普通列車は1時間に1本で、快速と普通がそれぞれ交互に運行されていた。高城町始発あおば通行は朝に1本設定されていたが、高城町行下り列車は設定がなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "時期により、あおば通駅 - 松島海岸駅・高城町駅間および矢本駅 - 石巻駅間の区間列車が設定されていた。また、小鶴新田駅開業前はあおば通駅(仙台駅) - 苦竹駅間の区間列車が、さらに古く陸前原ノ町電車区があった頃には仙台駅 - 陸前原ノ町駅間の区間列車が存在した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "現在、普通列車については1列車4両編成のみで運行しているが、1987年-1998年頃までは、矢本駅 - 石巻駅間の区間列車運転を主として、105系電車を用いた2両運用が全区間で存在した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "仙石線は宮城電気鉄道という私鉄を出自とするため、仙台駅の着発線および駅舎が他路線とは独立しており、仙台駅構内にあった東北本線と仙石線を結ぶ引き込み線が1970年頃に撤去されてからは、直通運転は物理的に不可能となっていた。保線用車両の行き来を目的に松島駅 - 松島海岸駅間に東北本線との渡り線が設けられていたが、営業用車両は走行できなかった(後述の仙石線・東北本線接続線の建設により撤去)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2015年度の全線復旧後、松島海岸駅 - 高城町駅間と東北本線塩釜駅 - 松島駅間を結ぶ連絡線(仙石線・東北本線接続線。塩釜駅 - 高城町駅間を結ぶものであり前述の保線用車両の渡り線とは分岐方向が異なる)が敷設され、仙石東北ラインという愛称でHB-E210系気動車を使用した東北本線への直通運転が開始された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "石巻駅構内では、石巻港への貨物列車の入線や他線との連絡のために、石巻線と仙石線の線路が繋がっている。石巻線は非電化路線であるため、気動車の場合は仙石線・石巻線の両線を直通することが可能であり、グラシア(後のこがね)による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。なお、1992年頃には、石巻線の石巻駅 - 女川駅間の直流電化による仙石線の女川駅乗り入れが調査されたことがあった(詳細は「石巻線#過去の仙石線直通運転構想」を参照)。2016年8月6日からは仙石東北ラインの一部列車を女川駅まで延長運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "East i-Dによる軌道試験が行われる以前は、マヤ34形客車を用いた検測列車(マヤ検)の牽引は牽引車クモヤ145形を用いて行われていた。しかし地上線時代の仙台駅および地下化後のあおば通駅は機回し線がなく、またクモヤ145形が1両しか在籍していないため、上り列車で仙台駅(地上線時代)もしくはあおば通駅(地下化後)に入線すると車両の付け替えができないため、以前は105系を使用し、", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "の編成で運転されていた。 105系廃車後は103系のクモハ編成からMc+Mのみをマヤの前に連結し、", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "の編成で運行された。なお105系および103系による運転はあおば通駅 - 宮城野電車区間のみで運行され、宮城野電車区 - 石巻間はクモヤ145形のみの牽引で運転されていた。なお仙石線では103系は老朽化の進むMc編成から置き換えが始まったが、マヤ検の都合上、置き換え開始後しばらくはMc編成が残留していた。そのためMc編成の全廃はマヤ検終了後の2003年7月であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "仙石線は前述の通り、東北地方のJR線では唯一の直流電化路線であり、東北地区を走る他線(交流電化路線)の車両は運用できないため、首都圏で運行されていた通勤形電車を転配して運行している。車両についての詳細は各車両の項目のほか、「仙台車両センター宮城野派出所」の項目も参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "仙石線の前身である宮城電気鉄道の車両については同項目および「宮城電気鉄道の電車」を参照。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2000年の仙台トンネル開通以前はグラシア(後のこがね)による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。それ以外にも、多賀城駅 - 矢本駅間のビール列車(小牛田運輸区のキハ23形・40形・58形使用)、ふるさとによる野蒜駅 - 石巻駅間の「鳴瀬町町民号」といった団体専用列車での入線が時折あった。仙台トンネルの開通以後も、東塩釜駅 - 石巻駅間では団体専用列車という形で気動車の入線があった。東日本大震災後の2011年7月16日に復旧した矢本駅 - 石巻駅間、2012年3月17日に復旧した陸前小野駅 - 矢本駅間では架線の損傷や変電所が使えないため、2015年5月30日の全面復旧まではキハ110系気動車が使用されていた。", "title": "使用車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "仙台駅の西側にあるあおば通駅が路線の起点である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "あおば通駅から陸前原ノ町駅を過ぎる付近までは仙台トンネルを通る地下線である。このトンネルは、地下水位の低い洪積台地の地下を通るあおば通駅から榴ケ岡駅を過ぎた辺りまでと、長町-利府線より先の地下水位が高い沖積平野の地下を通る区間で、異なる工法により施工された。あおば通駅の地下ホームは標高20mほどで、トンネルはここから榴ケ岡駅を過ぎて断層まで緩やかに下り、断層の東側の一段低い所にある宮城野原公園総合運動場の前で大きく北東へ曲がる。さらに断層の際に沿って走り、宮城野原駅を過ぎた辺りでトンネルは最も深くなる。ここから陸前原ノ町駅に向かってトンネルは上り始め、同駅を過ぎると地上に出て東北本線支線(通称、宮城野貨物線)の高架をくぐる。その後、そのまま線路は高架となり、苦竹駅を経て国道45号と梅田川を跨ぎ、その後に地上線となる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ここからは断層の東側の地下水位の高い沖積平野であり、住宅地として不向きであったため、近年まで梅田川の南側のみが工業・流通団地として利用されていた。近年に小鶴新田駅が設置されて梅田川以北の一部が市街化したが、仙台バイパスから福田町駅の間には田園風景が残っている。福田町駅付近から先は、多賀城市や塩竈市まで市街地が続く。この付近は仙塩地区とも呼ばれる。仙石線は福田町駅の東側で七北田川と交差し、中野栄駅 - 多賀城駅間で仙台臨海鉄道臨海本線を築堤で乗り越えて、続けて砂押川を跨ぐ。本塩釜駅付近は、ルート変更により塩釜線沿いに線路を移設した関係で、海沿いを走る高架線となり眺めは良い。東塩釜駅から先は単線となる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "線路は利府町と松島町で松島丘陵をトンネルで通りながら松島湾沿いを走る。この付近で仙石線と東北本線は、並行するように線路が敷設されている。特に、利府町内においては線路が接近しており、列車の併走が見られる場合もある。松島海岸駅は、日本三景・松島の観光の中心地である。同駅を過ぎ、東北本線との線路の並行が終了し、高城町駅に向かうために当線が右カーブした先で、左手より東北本線から分岐した仙石線・東北本線接続線が合流する。また、陸前富山駅から陸前大塚駅 - 東名駅間にかけては、奥松島の海岸線に沿うように線路が敷設されており、松島湾の眺めを楽しむことができる。東日本大震災前は、東名駅から先は東名運河沿いを走っていたが、震災後は陸前大塚 - 陸前小野間で高台を通るルートに変更され、左手に災害公営住宅を見ながら移設された東名駅及び野蒜駅を通る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "吉田川と鳴瀬川に連続して架かる鳴瀬川橋梁を越えると、列車は石巻平野(仙北平野)の水田地帯の中を走る。矢本駅・陸前赤井駅を過ぎ、石巻市内に入ると沿線に住宅地が多く見られるようになる。石巻あゆみ野駅は2016年(平成28年)に開業した仙石線で最も新しい駅である。蛇田駅の先で北上運河を越え、右手より石巻港駅から来た貨物支線と合流すると陸前山下駅である。同駅を過ぎると当路線は築堤を上り、右にカーブしながら地上に降りた先で、左手から石巻線が近づくと間もなく終点石巻駅である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計の除外対象となる駅(完全な無人駅。年度途中で無人化された駅含む)は、西塩釜駅・陸前浜田駅・手樽駅・陸前富山駅・陸前大塚駅・東名駅・野蒜駅・陸前小野駅・鹿妻駅・東矢本駅・石巻あゆみ野駅である。西塩釜駅はラッシュ時に限り改札要員の配置が常態化していたが、2020年12月1日から終日係員不在となった。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "以下の各駅とも貨物駅で宮城県石巻市内に所在。", "title": "駅一覧" } ]
仙石線(せんせきせん)は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、陸前山下駅 - 石巻港駅間の日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線を持つ。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:JR logo (east).svg|35px|link=東日本旅客鉄道]] 仙石線 |路線色=#00aaee |画像=Ishinomaki-stn-Senseki-line.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=石巻駅に停車中の普通列車(仙石線経由)用の[[国鉄205系電車|205系]]と快速列車(仙石東北ライン経由)用の[[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系]]の並び。<br/>(2019年7月9日撮影) |通称=[[仙石東北ライン]]([[高城町駅]] - 石巻駅間){{efn|[[東北本線]]直通列車のみ。}} |国={{JPN}} |所在地=[[宮城県]] |種類=[[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]]) |起点=[[あおば通駅]] |終点=[[石巻駅]] |駅数=33駅(貨物駅含む) |電報略号 = セキセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p22">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=22}}</ref> |開業=[[1925年]][[6月5日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)<br />(あおば通-石巻間)<br />[[日本貨物鉄道]](JR貨物)<br />(陸前山下-石巻港間) |運営者=上記第1種鉄道事業者および<br />日本貨物鉄道(陸前山下-石巻間 第2種鉄道事業者) |車両基地= |使用車両=[[#使用車両|使用車両]]を参照 |路線距離=49.0 [[キロメートル|km]](あおば通-石巻間)<br />1.8 km(陸前山下-石巻港間) |軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]](あおば通 - 東塩釜間)、[[単線]](左記以外) |電化区間=あおば通 - 石巻間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=[[移動閉塞|移動閉塞式]](あおば通 - 東塩釜間)<br />[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式(特殊)]](東塩釜 - 石巻間)<br />自動閉塞式(陸前山下 - 石巻港間) |保安装置=[[ATACS]](あおば通 - 東塩釜間<ref name="report2020">{{PDFlink|[https://www.jreast.co.jp/eco/report/pdf_2020/p32-47.pdf 『JR東日本グループレポート2020』]}} 38頁 - JR東日本、2020年8月</ref>)<br>[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]](東塩釜 - 石巻間<ref name="report2020" />)<br>[[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]]:石巻駅構内<ref name="report2020" /> |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]] |路線図=File:鉄道路線図_JR仙石線.svg }} {{座標一覧}} '''仙石線'''(せんせきせん)は、[[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]]の[[あおば通駅]]から[[仙台駅]]を経由し宮城県[[石巻市]]の[[石巻駅]]を結ぶ[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。このほか、[[陸前山下駅]] - [[石巻港駅]]間の[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の貨物支線を持つ。 == 概要 == {{出典の明記|date=2020年1月|section=1}} [[File:仙石線.png|300px|thumb|仙石線の路線図]] 名称は、起点(仙台市)と終点(石巻市)から1文字ずつ取って付けられた。仙台市東郊の通勤・通学路線であると同時に、[[松島]]などの観光地へのアクセス路線としての一面や、仙台市と多賀城市・塩竃市・石巻市間の都市間輸送の性格も兼ね備えている路線である<ref name="kotobank" />。 仙石線は[[私鉄]]である[[宮城電気鉄道]]の路線が[[1944年]]([[昭和]]19年)の[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化された路線であり、[[1987年]](昭和62年)の[[日本国有鉄道|国鉄]][[国鉄分割民営化|分割民営化]]によりJR東日本の路線となった<ref name="kotobank">{{Cite Kotobank|word=仙石線|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|access-date=2023-12-12}}</ref>。JR東日本が保有する営業路線の中では[[東北地方]]で唯一、[[JR|JRグループ]]では日本最北の[[直流電化]]路線である<ref group="注釈">同様に私鉄が前身で買収前に直流電化され、周囲の国鉄線が[[交流電化]]された例として富山港線(現・[[富山地方鉄道富山港線]])があった。</ref><ref group="注釈">宮城県内で直流電化の路線は、ほかに[[仙台市地下鉄]]の2路線([[仙台市地下鉄南北線|南北線]]と[[仙台市地下鉄東西線|東西線]])しかない。</ref><ref group="注釈">JRの東北地方の路線では過去に[[仙山線]]と[[奥羽本線]]でも直流電化区間が存在した。各線の項目も参照。</ref>。電動車による他路線への直通運転が不可能である点を活かし、[[デュアルシート|2WAYシート]]や[[ATACS]]など開発システムのテスト路線となることが多い。 駅間距離が短く、また、開業当初より仙台口においては1時間に2 - 3本の運行が行われていた。このため、国有化後、地元では[[国電]]と呼ばれていた。あるいはほかの国鉄路線と仙石線の駅がそれぞれ立地する松島や塩竈、石巻などでは仙石線の駅を「'''電車駅'''」、ほかの国鉄路線の駅を「'''汽車駅'''」と呼ぶなどして区別していた。 [[File:JRLinesMatsushima.svg|thumb|300px|陸前浜田 - 高城町間の路線図]] [[2000年]](平成12年)に完成した[[仙台トンネル]]に新線が開通し、あおば通駅 - 陸前原ノ町駅間の約3.5 kmが[[地下鉄|地下線]]となった<ref name="kotobank" />。東塩釜駅付近 - 高城町駅間は東北本線と併走している。[[2015年]]には松島海岸駅 - 高城町駅間に連絡線が作られ、[[仙石東北ライン]]として直通運転を開始している<ref name="kotobank" />(保守用の渡り線はこれ以前から存在していた)。松島駅 - 高城町駅間で乗り換える場合、通しの乗車券が発券できる。 仙台駅では松島への観光には仙石線(普通列車)の利用を推奨する案内が行われている。松島観光の拠点駅である仙石線[[松島海岸駅]]には並行する仙石東北ライン・東北本線の列車は駅がなく停車しないためである。仙石東北ライン<!-- ここで述べているのは東北本線で松島海岸に行く方法。仙台近郊区間自体は2014年からある。-->で松島海岸駅に向かう場合、高城町駅での乗り換えが必要となるが、同駅での待ち時間には20分を要することもある。なお、東北本線には「[[松島駅]]」があるが、同駅は松島の観光エリアから1 km程度離れている。仙台駅 - 松島駅間と仙台駅 - 松島海岸駅間の運賃はともに420円である<ref group="注釈">松島駅と松島海岸駅には[[選択乗車]]の設定がなされていたが、2002年12月に廃止された。それ以降も東北本線または仙石線の一部が工事や輸送障害などで不通になる場合やイベント時に、一時的に松島方面までの乗車券類をもう一方の路線で利用可能にする特例が適用されることがある。</ref>。一方、塩釜方面への案内は特にされてはいないが、仙台からの場合、観光目的地である[[マリンゲート塩釜]]や[[鹽竈神社]]は[[本塩釜駅]]が最寄りの下車駅となる。ただし、[[宮城県塩釜高等学校]]など東北本線[[塩釜駅]]の利用が至便な施設も存在する。 [[列車種別]]としては[[普通列車]]と[[快速列車]]があり、かつてはどちらも仙石線経由で運行されていたが、2015年の仙石東北ライン運行開始後は種別毎に完全に系統分離が行われており、普通列車は全て仙石線経由で運行されている。車両は[[国鉄205系電車|205系電車]]が使用されている。快速列車は仙石東北ラインとして全列車とも途中の[[松島町]]内で短絡線を走行して東北本線に乗り入れ、同線経由で仙台駅発着で運行されている。 [[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]はスカイブルー({{Color|#00bfff|■}})に設定されている。支線を除き[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[Suica]]」の仙台エリアに含まれている。 [[あおば通駅]] - [[中野栄駅]]間は[[仙台市地下鉄]]との代替輸送([[振替輸送]])対象路線に指定されており、当該区間が運転見合わせとなった場合は、[[仙台市地下鉄東西線]]([[青葉通一番町駅]] − [[荒井駅 (宮城県)|荒井駅]])への振替乗車が認められる場合がある。 == 路線データ == * 路線距離([[営業キロ]]):全長50.8km(第一種区間。支線含む) * 管轄(事業種別) ** [[東日本旅客鉄道]](第一種鉄道事業者) *** あおば通駅 - 石巻駅間:49.0km ** [[日本貨物鉄道]](第一種鉄道事業者・[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]) *** 陸前山下駅 - 石巻港駅間:1.8km(第一種区間) *** 陸前山下駅 - 石巻駅間 :1.4km(第二種区間) * [[軌間]]:1,067mm * 駅数:33 ** 旅客駅:32(起終点駅含む) *** 仙石線所属の旅客駅に限定する場合、東北本線所属の仙台駅<ref name="teisya">『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>と石巻線所属の石巻駅<ref name="teisya" />が除外され、30駅となる。 ** 貨物駅:1(石巻港駅) * [[複線]]区間:あおば通駅 - 東塩釜駅間(17.2km) * [[鉄道の電化|電化]]区間:あおば通駅 - 石巻駅間([[直流電化|直流]]1,500V) ** 陸前山下駅 - 石巻港駅間の支線を除き全線電化。 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]] ** [[移動閉塞]]式:あおば通駅 - 東塩釜駅間 ** [[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式(特殊)]]:東塩釜駅 - 石巻駅間 ** 自動閉塞式<ref>鉄道統計年報平成29年度版</ref>:陸前山下駅 - 石巻港駅間 * 保安装置 ** [[ATACS]]:あおば通駅 - 東塩釜駅間<ref name="report2020" /> ** [[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-S<small>N</small>]]:東塩釜駅 - 石巻駅間<ref name="report2020" /> ** [[自動列車停止装置#ATS-Ps形(変周地上子組合せパターン型)|ATS-Ps]]:石巻駅構内<ref name="report2020" /> * 最高速度:95km/h * [[運転指令所]]:宮城野[[列車集中制御装置|CTC]](宮城野総合事務所内) ** 運転取扱駅(駅が信号を制御):宮城野信号場・石巻駅 ** 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):東塩釜駅 * [[車両基地]]:[[仙台車両センター宮城野派出所]] * [[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]:全線(仙台近郊区間) * [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:全線([[Suica]]の仙台エリア) 支線を除き[[東日本旅客鉄道東北本部|東北本部]]の管轄である。 == 歴史 == [[ファイル:Sendai map circa 1930.PNG|thumb|right|1927年(昭和2年)頃の仙台市および近郊地図。仙石線の前身の宮城電気鉄道が地図の中央から右側にかけて描かれている。[[榴岡公園]]のある丘陵地<ref group="注釈">地質学の論文などで宮城野撓曲とも呼ばれる。</ref>や[[片倉工業|片倉製糸所]]を避けて蛇行した線形が形作られている。]] [[ファイル:Sendai station 2nd main building early Showa era.jpg|thumb|宮電仙台駅の地上駅舎(写真左)と、国鉄仙台駅駅舎(写真右)]] 仙石線は私鉄の[[宮城電気鉄道]]を出自とする鉄道路線である。宮城電気鉄道は、高田鉱山([[細倉鉱山]])における亜鉛の減産から生じることになった余剰電力を活用するために、鉱山の経営に関わっていた[[高田商会]]によって計画された<ref group="注釈">高田商会は余剰電力を消費するために宮城電気鉄道の他にも紡績会社の旭紡績を宮城県に設立した。</ref><ref name="仙台市史7-321-322">『仙台市史』通史編7(近代2)321-322頁。</ref><ref name="石巻の歴史下2-326-327">『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)326-327頁。</ref>。この計画が立案されたのは[[1921年]](大正10年)であり、翌1922年(大正11年)に宮城電気鉄道株式会社が発足した。宮城電気鉄道は当初、[[宮城県庁]]から鉄道省の仙台駅を経て松島へ至る鉄道路線として計画されたが、後に計画が変わり、松島からさらに先の石巻までの鉄道路線として建設されることになった<ref name="仙台市史7-321-322"/>。また、宮城県庁から仙台駅までの区間は、[[仙台市電]]が計画されたことに影響を受けて断念された<ref name="仙台市史7-321-322"/>。宮城電気鉄道の後ろ盾だった高田商会は1923年(大正12年)の[[関東大震災]]によって経営が傾き後に破産する。宮城電気鉄道は[[日本生命保険]]から資金を受け、鉄道の建設を続けることができた<ref name="仙台市史7-321-322"/><ref name="石巻の歴史下2-326-327"/>。 宮城電気鉄道はまず[[1925年]](大正14年)6月5日に仙台駅から西塩釜駅の間で開業した。この後、[[1926年]](昭和元年)に本塩釜駅まで、[[1927年]](昭和2年)に松島公園駅(現在の松島海岸駅)まで、[[1928年]](昭和3年)4月に陸前小野駅まで路線が延び、同年11月22日に石巻駅までの全線が開通した<ref name="石巻の歴史下2-326-327"/>。この頃、仙台駅と石巻駅の間の所要時間は1時間40分だった<ref name="石巻の歴史下2-333-334">『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2)333-334頁。</ref>。西塩釜駅まで開通した1925年(大正14年)の当時のダイヤでは1日に上下それぞれ29本の列車が運転されていたのが、1939年(昭和14年)になると仙台駅から塩竈まで15分間隔<!-- 出典の『石巻の歴史』に単に「塩竈」としか書いていないので何塩釜駅かは不明です。-->、松島まで30分間隔、石巻まで1時間間隔で列車が運転されるようになった<ref name="石巻の歴史下2-333-334"/>。また、宮城電気鉄道では旅客列車だけでなく貨物列車も運行していた<ref name="仙台市史7-321-322"/>。1939年(昭和14年)に陸前山下駅から釜駅(現在の石巻港駅)までの貨物線が開通し、1942年(昭和17年)(1943年12月5日とも<ref>{{PDFlink|[http://aoba-trfc.sakura.ne.jp/contents/sp/gakusaiaoba/pdf/gakusaiaoba2012.pdf 研究テーマ:仙石線]}} - [[東北大学]]鉄道研究会</ref><!-- 複線化の正しい時期がわかりましたら誤ってる方を削除してください。-->)には東七番丁駅(後の[[仙台東口駅]]<!-- 1952年に移設された仙台駅仙石線ホームと仙台東口駅は別物のようです。記事「仙台東口駅」のノートに疑義が提示されています。-->)から陸前原ノ町駅までの区間が複線となった<ref name="石巻の歴史下2-326-327"/>。 [[1944年]](昭和19年)5月1日、宮城電気鉄道は[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化され、仙石線となった。この当時の宮城電気鉄道沿線には、[[仙台駐屯地|東京第一陸軍造兵廠仙台製造所]]、[[多賀城駐屯地|多賀城海軍工廠]]、[[松島基地|矢本飛行場]]があり、これらに関連した物資輸送や工員の通勤のための買収だったと言われる<ref>『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編800頁。</ref>。買収金額は約2400万円だった<ref name="石巻の歴史下2-326-327"/>。 === 日本で最初の地下路線 === [[ファイル:Underground Platform Sendai Station 1920s.jpg|thumb|宮電仙台駅 地下ホーム(1920年代中頃)]] {{See also|仙台駅 (宮城電気鉄道)}} 宮城電気鉄道の仙台駅 - 東七番丁駅間は[[東北本線]]との交差のために地下区間として建設された。これは日本で最初に開業した営業用の地下路線である。この区間の開業は、日本初の地下鉄である[[東京地下鉄道]](現在の[[東京地下鉄]][[東京メトロ銀座線|銀座線]])の開業に先立つこと2年半であり、また郊外電車の地下乗り入れとしても神戸有馬電気鉄道(現在の[[神戸電鉄]][[神戸電鉄有馬線|有馬線]])の湊川地下線より3年早かった。 この地下区間は単線でありかつ距離が短かったこと、1952年(昭和27年)に廃止されていることなどから、ほとんど紹介されない存在となっている。2000年(平成12年)に完成した仙石線の地下区間([[仙台トンネル]])とは別物である。 === 国有化以後 === 1952年(昭和27年)、仙台駅の仙石線プラットホームが大きく変わった。宮城電気鉄道時代に建設され国有化後もそのまま使われていた仙石線地下ホームは約200メートル東側の地上に移され、同時に東口改札口が併設された。この移設には、この年に宮城県、山形県、福島県で行われた[[第7回国民体育大会]]秋季大会が関係している。それまでの仙台駅は線路の西側に駅舎を持ち、反対の東側には駅舎がなかった。第7回国民体育大会では、仙台駅の東側に位置する[[宮城野原公園総合運動場]]が主要会場の一つとされ、この運動場への交通の便を図るためにホームの移設と東口の設置が行われたのである<ref name="仙台市史8-222">『仙台市史』通史編8(現代1)222頁。</ref>。これによって旧来の仙石線地下ホームは、移設後の仙石線ホームと東北本線各ホームおよび仙台駅西口とを結ぶ連絡通路に変わった<ref name="仙台市史8-222"/><ref>『利府町誌』748頁。</ref>。この地下通路は2000年(平成12年)の仙石線ホーム再地下化まで利用されることになる。また、仙台駅仙石線ホームの移設に伴って仙台東口駅が廃止された<!-- 仙台駅仙石線ホームが仙台東口駅の場所に移ったのではなく、仙台駅仙石線ホームと近すぎるということで仙台東口駅は廃止になったようです。記事「仙台東口駅」のノートに疑義が提示されています。--><ref name="仙台市史8-222"/>。 1956年(昭和31年)10月、仙石線管理所が発足した。これは非採算線区の経営改善を目的に国鉄の中で試行的に行われたもので、前例のない制度だった。管理所の導入によって、仙石線は一個の独立した経営単位として扱われた。管理所の所長には大きな権限が与えられ、経営改善に取り組むことになった<ref name="仙台市史8-217">『仙台市史』通史編8(現代1)217頁。</ref>。この管理所制度のもとで、仙石線では踏切の自動化などによる人員削減、貨物列車の集約および縮小が行われた<ref name="石巻の歴史5-827-828">『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編827-828頁。</ref>。また、この当時、仙台駅から東塩釜駅の間では30分に1本の頻度で列車が運行していた。仙石線管理所はこれを15分間隔に改め、「時計なしで乗れる」を謳った<ref name="石巻の歴史5-827-828"/>。また、仙石線沿線で行われる海水浴や釣り大会に併せて臨時列車を増発し、また写真コンクールを企画してやはり臨時列車を運行した<ref name="石巻の歴史5-827-828"/>。管理所が発足した1956年度(昭和31年度)の仙石線の[[営業係数]]は165だったが、1957年度(昭和32年度)には131に改善した。経営上は赤字であることに変わりなかったものの、これは国鉄内で評価されて、管理所制度は日本全国の支線区に広まることになった<ref name="仙台市史8-217"/><ref group="注釈">[[国鉄分割民営化]]後も、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が「[[鉄道部]]」として類似した組織形態を導入している。</ref>。1960年(昭和35年)には仙石線の営業係数は111となり、総裁賞を受賞した。仙石線管理所は1971年(昭和46年)に解散し、仙石線は仙台鉄道管理局による直轄運営に戻った<ref name="石巻の歴史5-827-828"/>。 この間、1968年(昭和43年)3月に仙石線の陸前原ノ町駅から多賀城駅までの区間が複線となり、さらに1969年(昭和44年)9月に多賀城駅から西塩釜駅までの区間が複線化された。この年の10月に行われたダイヤ改正で仙台駅と石巻駅を58分で結ぶ特別快速が設定された<ref>『仙台市史』通史編9(現代2)242-243頁。</ref>。 === 昭和後期から平成まで === 旧来の仙石線は塩竈市街地を地上または半高架で通過していた。線路が街の東西を分断し、交通渋滞の原因とも見なされるようになっていった。この問題を解決するために、塩竈地区における仙石線の高架化が計画され、あわせて複線化も行われることになった<ref name="Pamphlet"/>。これは宮城県の[[都市高速鉄道]]事業として行われた。都市高速鉄道は1968年(昭和43年)に施行された(新)[[都市計画法]]に規定されたものである。これにより、[[踏切]]を介して平面交差していた鉄道と道路を、[[渋滞]]や[[踏切事故]]等を減らす名目で[[立体交差]]させる[[都市計画]]がなされるようになり、既存の道路側を立体交差させるオーバーパスやアンダーパス、既存の鉄道を立体交差させる高架化や地下化、さらに[[高架鉄道]]や[[地下鉄]]等の新設が進められた。宮城県はこの法律に基いて1970年(昭和45年)に従前の5つの[[都市計画区域]]を統合して「仙塩広域都市計画区域」を指定し、1971年度(昭和46年度)に塩竈市の本塩釜駅周辺への都市高速鉄道事業の適用を見込んで高架化の調査を行った<ref name="Pamphlet"/>。そして、西塩釜駅から[[陸前浜田駅]]までの区間5,410メートルを「仙塩広域都市計画 都市高速鉄道事業 日本国有鉄道仙石線」として都市計画決定し、西塩釜駅から[[東塩釜駅]]を過ぎた辺り<!--塩竈市杉の入-->までの区間2,770メートルを鉄道側の高架化とする嵩上式、そこから陸前浜田までの区間を道路側の立体交差とする地表式として整備することにした<ref>{{PDFlink|[http://www.town.rifu.miyagi.jp/www/contents/1232583885889/html/common/other/531d5150056.pdf 都市計画決定一覧 【平成25年5月末現在】]}} - 利府町</ref>。新設の高架線は国鉄の貨物線用地を活用して建設された<ref name="Pamphlet"/>。こうして西塩釜駅 - 東塩釜駅の高架化および複線化が[[1981年]](昭和56年)11月に完成した<ref name="仙台市史9-250-251">『仙台市史』通史編9(現代2)250-251頁。</ref>。 <!-- 一方、高度経済成長期に人口が急増した[[仙台都市圏]]では、[[ドーナツ化現象]]が顕著となって[[モータリゼーション]]が進んでいたが、1964年(昭和39年)に仙塩地区を含む[[仙台湾]]地区が[[新産業都市]]に指定されたことでさらなる産業発展から交通の輻輳化が見込まれた([[交通戦争]])。そのため仙台市は1966年(昭和41年)、[[仙台市都心部|都心部]]を中心とする[[同心円]]状の環状道路、および、都心部と郊外とを結ぶ放射状道路を配置した[[都市計画道路]]網を策定(→[[3環状12放射状線]]、[[仙台都市圏環状自動車専用道路]])。翌年からは、都心部を走る[[仙台市電]]の廃止を前提に、地下鉄網計画の議論が始まった([[仙台市地下鉄#歴史]]参照)。 --> 一方、仙台駅 - 苦竹駅間についても、仙台駅付近が曲線が多い[[蛇行]]線形になっていたほか、踏切による交通渋滞問題が発生していた。このため、鉄道側を地下化する形で連続立体交差事業が行われることになり、1985年(昭和60年)10月に起工式が行われた<ref name="仙台市史9-250-251"/>。[[仙台トンネル]]と名付けられた地下区間は[[2000年]](平成12年)に完成し、これによって14の踏切が解消された<ref>[http://www.fumikiri.com/overpass/s30_result/end/awd_myg01.html JR仙石線連続立体交差事業](踏切すいすい大作戦)</ref>。同時に、線路の直線化によって距離が短縮されるとともに、仙台駅以西に延伸して[[あおば通駅]]が開業した。これは事業計画当時検討されていた仙台市地下鉄東西線との[[直通運転]]を視野に入れたものだった。この直通運転案では、国鉄仙台駅と[[仙台市地下鉄]]仙台駅が離れていたために仙台駅を二分して建設することになり、連続立体交差事業の補助金対象区間を長く取るために地下鉄寄りの「仙台(西)駅」を仙石線と地下鉄との境界駅として、この駅までを国鉄線として建設することになったのである。その後、地下鉄直通運転案は断念されたが「仙台(西)駅」までは建設され、これが「あおば通駅」として開業した。また、この連続立体交差事業に関連して、1991年(平成3年)に[[仙台車両センター宮城野派出所|宮城野電車区]]が設置された。 [[ファイル:Nakano-Sakae-stn-platform.jpg|thumb|中野栄駅に停車する電車<br />(2018年2月)]] これらの路線改良事業に前後して、仙石線では1981年(昭和56年)に[[中野栄駅]]が<ref name="仙台市史9-250-251"/>、1987年(昭和62年)に[[東矢本駅]]が<ref name="交通8702">{{Cite news |和書|title=仙石線に新駅設置 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1987-02-03 |page=2 }}</ref>、2004年(平成16年)に[[小鶴新田駅]]が開業した。ダイヤについては、1983年(昭和58年)10月のダイヤ改正で平日ダイヤと休日ダイヤが設定され、休日に仙台駅と石巻駅をノンストップで結ぶ特別快速が設定された。これは、平日の通勤通学と休日の買い物を意識したものだった<ref name="仙台市史9-250-251"/>。また、1987年(昭和62年)に[[国鉄分割民営化]]が行われ、仙石線はJR東日本の路線となっている。 2004年(平成16年)より仙石線の[[多賀城駅]]周辺1.8キロメートルの高架化事業も進められた。2009年(平成21年)11月29日に上り線が高架に切り替えられ<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/121682.pdf 仙石線多賀城駅周辺において上り線が高架に切換わりました]}} 宮城県(2009年11月29日)</ref>、2012年(平成24年)4月8日には、下り線も高架に切り替えられた<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/121679.pdf 仙石線多賀城地区において,上下線が高架に切換わりました!]}} 宮城県 仙台土木事務所(2012年4月12日)</ref>。その後、駅舎を中心とした施設の構築工事<!--駅ホームの3線化等-->も行われ、2013年(平成25年)11月17日に新駅舎が供用を開始した<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/236466.pdf 仙石線多賀城地区連続立体交差事業整備完了記念式典が行われました]}} 宮城県(2013年11月17日)</ref>。 {| class="wikitable sortable" style="font-size:80%;" |+[[仙塩]]広域[[都市計画]] [[都市高速鉄道]]事業(2015年12月時点)<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/44502.pdf 宮城の都市計画]}}(宮城県土木部都市計画課 2011年2月)</ref><ref>{{XLSlink|[https://www.mlit.go.jp/common/000167970.xls (2)都市高速鉄道 都市別内訳表 平成22年3月31日現在]}} - [[国土交通省]]</ref><ref name="Pamphlet">[http://pamphlet.main.jp/CARD/M-030/CARD-M-030.html 仙塩広域都市計画都市高速鉄道 国鉄仙石線(塩釜地区) 高架事業の概要(宮城県)](パンフレットアーカイブス)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/35183.pdf 評価結果「JR仙石線 多賀城地区連続立体交差事業」]}}(宮城県)</ref><ref>[http://www.city.tagajo.miyagi.jp/sisei/keikaku/si-ke-ekisyuuhen.html 多賀城駅周辺整備計画](多賀城市)</ref> !rowspan="2" |号 !rowspan="2" |決定時の街路名称<br />(現在の路線名) !rowspan="2" |事業計画上の<br />起終点の駅<ref name="length" group="注釈">地下鉄南北線の事業上の終点は富沢駅の先にある[[富沢車両基地]]、地下鉄東西線のそれは荒井駅の先にある[[荒井車両基地]]であるため、供用されている延長より営業キロが短い。</ref> !colspan="2" |延長<ref name="length" group="注釈"/> !rowspan="2" |都市計画<br />決定 !rowspan="2" |供用<br />開始 !rowspan="2" |適要 !rowspan="2" |都市 |- !計画 !供用 |- |style="text-align:center" |第2号 |[[東日本旅客鉄道]]([[株式会社|株]])仙石線<br />([[ファイル:JR logo (east).svg|20px|link=東日本旅客鉄道]] 仙石線) |[[あおば通駅|あおば通]]<!--仙台市青葉区中央三丁目--> - [[福田町駅|福田町]]<!--仙台市宮城野区田子--><br />({{googleマップ経路図2|1=%E3%81%82%E3%81%8A%E3%81%B0%E9%80%9A%E9%A7%85|2=%E7%A6%8F%E7%94%B0%E7%94%BA%E9%A7%85|[email protected],140.8884823,19505m|data=!3m1!1e3!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8a2822c03da697:0xdacb1192d385baef!2m2!1d140.879197!2d38.260893!1m5!1m1!1s0x5f898627d2509607:0xc527aee80d2f7332!2m2!1d140.958189!2d38.27495!2m2!4e3!5e2!3e3}}) |style="text-align:center" |{{0}}7,730m |style="text-align:center" |{{0}}7,730m |[[1984年]]<br /> {{0}}[[7月27日]] |[[2000年]]<br /> {{0}}[[3月11日]] |[[連続立体交差事業]]<br />(地下/高架/地表) |[[仙台市]] |- |style="text-align:center" |第3号 |東日本旅客鉄道(株)仙石線<br />([[ファイル:JR logo (east).svg|20px|link=東日本旅客鉄道]] 仙石線) |[[中野栄駅|中野栄]]<!--仙台市宮城野区中野字出花西--> - [[下馬駅|下馬]]<!--多賀城市下馬一丁目--><br 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/>({{googleマップ経路図2|1=%E8%A5%BF%E5%A1%A9%E9%87%9C%E9%A7%85|2=%E9%99%B8%E5%89%8D%E6%B5%9C%E7%94%B0%E9%A7%85|[email protected],140.8884823,19505m|data=!3m1!1e3!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8985758669dce9:0xd1c24f6b7a6e89b7!2m2!1d141.018321!2d38.311919!1m5!1m1!1s0x5f899b254f570fe3:0x3fbac6477e27bc16!2m2!1d141.041706!2d38.350832!2m2!4e3!5e2!3e3}}) |style="text-align:center" |{{0}}5,410m |style="text-align:center" |{{0}}2,770m |[[1975年]]<br /> {{0}}[[3月14日]] |[[1981年]]<br /> [[11月1日|11月{{0}}1日]] |連続立体交差事業<br />(高架/地表) |[[塩竈市]]<br />[[利府町]] |- |style="text-align:center" |第1号 |仙台市高速鉄道南北線<br />([[ファイル:Sendai City Subway Logo.svg|20px|link=仙台市地下鉄]] [[仙台市地下鉄南北線|地下鉄南北線]]) |[[泉中央駅|泉中央]]<!--仙台市泉区泉中央二丁目--> - [[富沢駅|富沢]]<!--仙台市大野田字宿在家--><br />({{googleマップ経路図2|1=%E6%B3%89%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E9%A7%85|2=%E5%AF%8C%E6%B2%A2%E9%A7%85|[email protected],140.8108833,19517m|data=!3m1!1e3!4m17!4m16!1m5!1m1!1s0x5f8981305bfc68f9:0x337850afd7e16ea!2m2!1d140.880805!2d38.323359!1m5!1m1!1s0x5f8a264236fa2105:0x34c2b0a781e1068d!2m2!1d140.870533!2d38.214204!2m2!4e3!5e1!3e3}}) |style="text-align:center" |15,560m |style="text-align:center" |15,560m |[[1981年]]<br /> {{0}}[[3月23日]] |[[1987年]]<br /> {{0}}[[7月15日]] |[[地下鉄]]事業<br />(地下/高架) |仙台市<br />[[泉市]] |- |style="text-align:center" |第4号 |仙台市高速鉄道東西線<br />([[ファイル:Sendai City Subway Logo.svg|20px|link=仙台市地下鉄]] [[仙台市地下鉄東西線|地下鉄東西線]]) |[[八木山動物公園駅|八木山動物公園]]<!--仙台市太白区八木山山本町一丁目--> - [[荒井駅 (宮城県)|荒井]]<!--仙台市若林区荒井字沓形--><br />({{googleマップ経路図2|1=%E5%85%AB%E6%9C%A8%E5%B1%B1%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%85%AC%E5%9C%92%E9%A7%85%EF%BC%88%E5%AE%AE%E5%9F%8E%EF%BC%89|2=38.244913,140.948453|[email protected],140.8108833,19517m|data=!3m1!1e3!4m12!4m11!1m5!1m1!1s0x5f8a288c65226205:0x77402010a19fe7e6!2m2!1d140.8437008!2d38.2430055!1m0!2m2!4e3!5e1!3e3}}) |style="text-align:center" |14,380m |style="text-align:center" |14,380m |2005年<br /> 8月10日 |2015年<br /> 12月6日 |地下鉄事業<br />(地下) |仙台市 |} [[ファイル:Census Sen-En 1950-2010.jpg|thumb|[[仙塩#仙塩特定地域総合開発計画|仙台市以外の仙塩地区の自治体の国勢調査人口の変遷]]。仙台市を含め、人口が多い塩竈市、泉市(現・仙台市[[泉区 (仙台市)|泉区]])、多賀城市において都市高速鉄道事業が実施された。]] === 東日本大震災による影響 === {{座標一覧|節=東日本大震災による影響}} 2011年(平成23年)3月11日に発生した[[東日本大震災]]では、当路線の約68%が海岸部に近接していたため、[[地震]]と[[津波]]双方による被害を受け、軌道変状312か所、線路流出3km強、ホーム変形19か所、橋梁・高架橋の損傷12か所、駅舎損傷14か所、電化設備については津波被害の大きさによりデータが取れないほどであった<ref name=journalayumi>{{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ジャーナル | year = 2015 | volume = 2015年10月号 }}</ref>。 地震発生により、野蒜 - 東名間で上りあおば通行普通電車(1426S電車、M9編成)が停止、乗客約50人が指定避難場所だった[[東松島市立野蒜小学校]]({{Coord|38|22|33|N|141|9|11.6|E|region:JP|name=東松島市立野蒜小学校(震災発生当時)}})に避難<ref group="注釈">野蒜小学校に避難した乗客の少なくとも1人は、同校体育館を襲った津波で犠牲になった。</ref>した後、車両は津波に押し流されて脱線、4両編成の前2両は山側に横滑りし、後ろ2両は山側に90度向きを変えて大破した<ref name="Mainichi20150530">[http://mainichi.jp/shimen/news/20150530ddm012020020000c.html JR仙石線:きょう全線復旧 被災した乗客、万感](毎日新聞 2015年5月30日)</ref><ref name="MemoryEver">[http://memory.ever.jp/tsunami/shogen_higasi-matusima.html 東松島市を襲った大津波の証言](東日本大震災の記録 大津波の悲劇・惨劇の報道を追う)</ref>。また、石巻駅では到着後のM7編成が冠水して被災した。野蒜 - 陸前小野間では石巻行き快速電車(3353S電車、M16編成)編成が[[松島丘陵]]東端の切り通し区間頂上部付近で停止({{Coord|38|22|43.7|N|141|9|55.7|E|region:JP|name=下り石巻行き快速電車の停止位置}})、乗客約100人は指定避難場所の野蒜小への移動を開始したが、元消防団員の乗客の1人が津波を予見して運転士に進言し、乗客全員が車両に待機していたところ、襲ってきた津波は同車両を含む同地には到らず全員が無事だった<ref group="注釈">ただし、丘陵の周囲が冠水したため孤立し、乗客は翌朝に避難した。</ref><ref name="Mainichi20150530"/><ref name="MemoryEver"/><ref group="注釈">M9編成はその後現地解体、M7編成は石巻駅構内に長期留置された。M16編成は路線被災で長期に渡って搬出不能になっていたが、2011年12月に搬出・補修され、同年末に運用に復帰した。なおM16編成は「[[#使用車両|使用車両]]」の節で写真紹介されている編成である。</ref>。 地震直後より全線で不通となった仙石線は、震災当日から2週間以上を経た同年3月28日、仙台市内の[[あおば通駅]] - [[小鶴新田駅]]間でのみ運転が再開されたものの、翌月7日に発生した[[余震]]のために、再び全線で不通となった<ref name="jreast20110410">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jreast.co.jp/pdf/restore_zairai02.pdf|title=在来線の地上設備の主な被害状況(4月10日現在)|publisher=東日本旅客鉄道|date=2011-04-11|accessdate=2011-04-12}}</ref>。 再度不通となったあおば通駅 - 小鶴新田駅間の営業は1週間余り後の同4月15日に再開され、次いで4月19日には小鶴新田駅から[[東塩釜駅]]までの営業も再開された。さらに、同5月28日には東塩釜駅から[[高城町駅]]までの営業も再開、これによって、仙台を起点とする区間においてはあおば通駅から高城町駅までが繋がることとなった<ref name="RM335">{{Cite journal|和書|title=仙石線が高城町まで復旧し運転再開 |journal = [[レイルマガジン]] |date =2011年8月号(2011年8月発行) |volume = 28 |issue = 10 |publisher = [[ネコ・パブリッシング]] |location = [[東京都]] |page = 140 }}</ref>。 一方、石巻寄りの区間については、震災発生から4か月余りを経た同年7月16日になって[[矢本駅]] - [[石巻駅]]間の営業が再開されたが、電化設備が復旧していないことなどから、電車ではなく[[気動車]]による運行となった。さらに[[陸前小野駅]] - 矢本駅間が2012年3月17日に再開された。 復旧が手付かずの状態となっていた高城町駅(松島町) - 陸前小野駅(東松島市)間であったが、[[東日本旅客鉄道仙台支社|JR東日本仙台支社]]は2012年(平成24年)1月、当該区間の一部内陸移設などによって、2015年(平成27年)度までに全線復旧させる方針を発表した。この区間の復旧工事の費用は100億円超で2013年(平成25年)度中に着工、線路が流出するなど被害の大きかった東松島市内の陸前小野駅から[[陸前大塚駅]]までの約6.4キロメートルについては震災前よりも500メートル程度内陸に移設する。また、この区間にあって駅舎が被害を受けた[[野蒜駅]]、[[東名駅]]の2駅も移設される<ref name="nikkei20120127">「JR仙石線全線、15年度にも復旧、一部区間を内陸に移設」『日本経済新聞』 2012年1月27日朝刊社会面</ref>。2014年7月30日には、復旧工事の目途が立ったことから、2015年6月までに全線再開することが発表され<ref name="nikkei20140730" /><ref name="jr-sendai20140730" />、2015年1月29日には全線再開日が同年5月30日と発表された<ref name="jr-sendai20150129_1" />。 なお、陸前小野駅 - 陸前大塚駅の移設ルートは当初、下記の三つの案が作られたが、安全性や街づくり、早期復旧の観点から現位置かさ上げおよび高台移設案を採用することになった<ref>「JR仙石線 陸前大塚〜陸前小野間移設復旧計画」『[[日本鉄道施設協会|日本鉄道施設協会誌]]』 2014-1、52巻1号、70-74頁</ref>。 {| class="wikitable" style="font-size:85%;" |+陸前大塚駅 - 陸前小野駅間の復旧ルート案 |- ! ルート案 !! 概要 !! 施工延長 !! 主要構造物 !! 安全性・町づくり・早期復旧評価 !! 課題 |- | 大規模移設案 || 陸前富山駅 - 鳴瀬川橋梁:大規模移設 || 5.7 km || 盛土・切土:3.5 km<br>高架橋:0.8 km<br />トンネル:1.4 km || * 浸水域を完全に避けられる<br />* 野蒜駅のみ新しい街に近接<br />* 施工延長・施工量が多く、工期が長期化する || * 用地取得範囲が大きい<br />*工期の短縮 |- | 現位置かさ上げ+高台移設案 || 陸前富山駅 - 陸前大塚駅:既設線かさ上げ<br />陸前大塚駅 - 鳴瀬川橋梁:高台へ移設 || 5.8 km || 盛土・切土:2.6 km<br>高架橋:1.0 km<br />既設線かさ上げ:2.2 km || * 特に津波被害の大きい東名・野蒜駅周辺のみ高台となる<br />* 東名・野蒜駅共に新しい街の中に形成<br />* 街づくりに伴う造成工事の影響を受ける|| * 街づくりとの調整<br />* 各所の役割分担 |- | 現位置かさ上げ+高架化案 || 陸前富山駅 - 陸前大塚駅:既設線かさ上げ<br />陸前大塚駅 - 鳴瀬川橋梁:既設線上で高架化 || 6.7 km || 盛土・切土:0.7 km<br>高架橋:2.6 km<br />既設線かさ上げ:3.4 km || * 避難路等の緊急時対策が必要 <br />* 新市街地と大きく離れる<br />* 造成工事の影響を受けないが高架橋の延長が多く、施工量が多い|| * 街づくりとの整合性が取れない |} <!-- 震災復旧と関連した事項であり、この件でこの節にリンクしている記事があるのでここでも触れておく --> また、東北本線の塩釜駅 - 松島駅間と線路が並行している仙石線の松島海岸駅 - 高城町駅間に、両線を連絡する接続線([[仙石東北ライン|仙石線・東北本線接続線]])を敷設し、仙石線が全線復旧する予定の2015年(平成27年)5月30日から「[[仙石東北ライン]]」として東北本線の塩釜以南と仙石線の高城町以北を相互直通運転する計画が発表され<ref name="jr-sendai20121018" /><ref name="jr-sendai20150129_1" />、予定通り運行が開始された。 <gallery> Destroyed railway track.JPG|東北地方太平洋沖地震で発生した津波により流された軌道 Carried train in Senseki Line.JPG|津波に襲われ脱線したあおば通駅行きの列車 Reconstruction of Senseki Line after 2011 Tōhoku earthquake.jpg|移設・復旧工事中の仙石線(2014年7月) JRE Rikuzen-Otsuka Station platform 20170728.jpg|移設しない区間でも海沿いの区間では護岸のかさ上げが行われた(陸前大塚駅 かさ上げ後) JRSenseki-RikuzenOtsukaH.jpg|かさ上げ前の様子(陸前大塚駅 2007年) Senseki Line Ruins 20160104.jpg|野蒜駅 - 陸前小野駅間旧線跡地(2016年1月) Senseki Line NewLine HB-E210 20160104.jpg|野蒜駅 - 陸前小野駅間新線を走行するHB-E210(2016年1月) </gallery> === 年表 === ==== 宮城電気鉄道 ==== * [[1925年]](大正14年)[[6月5日]] '''宮城電気鉄道'''が仙台 - 西塩釜間を開業。宮電仙台・東七番丁・榴ケ岡・陸前原ノ町・福田町・陸前高砂・多賀城・西塩釜の各駅新設<ref>[{{NDLDC|2955988/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1925年6月12日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1926年]](大正15年) ** 1月1日 宮城野原駅を新設<ref>[{{NDLDC|2956179/10}} 「地方鉄道駅設置」『官報』1926年1月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 4月14日 西塩釜 - 本塩釜を延伸開業、本塩釜駅を新設<ref>[{{NDLDC|2956244/8}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年4月19日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1927年]](昭和2年)4月18日 本塩釜 - 松島公園(現在の松島海岸)間を延伸開業。東塩釜・浜田・松島公園の各駅を新設<ref>[{{NDLDC|2956555/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1927年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1928年]](昭和3年) ** 4月10日 松島公園 - 陸前小野間を延伸開業、小石浜遊園・新富山・高城町・手樽・陸前富山・大塚・野蒜・陸前小野の各駅を新設<ref>[{{NDLDC|2956852/6}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年4月20日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 ** 5月15日 新田駅を新設。 ** 11月22日 陸前小野 - 石巻間を延伸開業し仙台 - 石巻間全通。矢本・陸前赤井・蛇田・石巻の各駅を新設<ref name="名前なし-1">[{{NDLDC|2957043/5}} 「地方鉄道運輸開始」『官報』1928年11月30日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1929年]](昭和4年)6月1日 鹿妻駅を新設。[[File:1930s Japan Travel Poster - 02.jpg|thumb|[[鉄道省]]仙台鉄道局(現・[[東日本旅客鉄道仙台支社]])のポスター(1930年代)。[[東北本線]]と国有化前の宮城電鉄(現・仙石線)との間では、[[松島]]行き旅客の獲得競争が行われていた。]] * [[1931年]](昭和6年) ** 10月23日 野蒜を東北須磨に駅名改称。 ** 12月1日 大塚停留場を仙台方面に1 km移設。東名駅を新設。 * [[1932年]](昭和7年) ** 1月8日 石巻を宮電石巻に駅名改称。 ** 8月1日 下馬信号所を駅に変更。 * [[1939年]](昭和14年) ** 2月1日 宮電山下駅を新設。 ** 11月7日 宮電山下 - 釜(現在の石巻港)間の貨物線を開業<ref name="名前なし-1"/>。 * [[1943年]](昭和18年)2月8日 苦竹駅開業届出。 ==== 国有化以後 ==== * [[1944年]](昭和19年)[[5月1日]] 宮城電気鉄道が国有化され'''仙石線'''と線路名称制定<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第184・185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。宮電仙台を仙台に、東七番丁を仙台東口に、西塩釜を西塩竈に、本塩釜を本塩竈に、東塩釜を東塩竈に、浜田を陸前浜田に、松島公園を松島海岸に、富山を陸前富山に、大塚を陸前大塚に、東北須磨を野蒜に、宮電山下を陸前山下に、宮電石巻を石巻にそれぞれ駅名改称。新田・小石浜遊園・新富山の各駅を廃止。 * [[1945年]](昭和20年)[[6月10日]] 陸前富山・陸前大塚・鹿妻の各駅を休止。 * [[1946年]](昭和21年)6月10日 陸前富山・陸前大塚・鹿妻の各駅を再開。 * [[1952年]](昭和27年) ** 6月1日 地下区間の仙台 - 仙台東口間を休止。 ** 9月26日 仙台 - 仙台東口間を廃止。仙台東口を仙台に駅名改称。 * [[1953年]](昭和28年)7月20日 釜 - 石巻港間の貨物線を開業。 * [[1956年]](昭和31年)10月1日 仙石線管理所発足。 * [[1957年]](昭和32年) ** [[快速列車]]の設定開始。 ** 6月6日 陸前山下 - 釜間の電化廃止。 * [[1959年]](昭和34年)9月 石巻 - 仙台間快速電車運行開始。 * [[1963年]](昭和38年)5月25日 西塩竈を西塩釜に、本塩竈を本塩釜に、東塩竈を東塩釜にそれぞれ駅名改称。 * [[1965年]](昭和40年)9月30日 東塩釜駅貨物取扱廃止 * [[1966年]](昭和41年)1月20日 陸前原ノ町 - 福田町間の「苦竹高架」完成、高架化。 * [[1968年]](昭和43年) ** 2月23日 福田町 - 多賀城間を複線化。 ** 3月19日<ref>『交通年鑑』昭和44年版、財団法人交通協力会、p.236</ref> 陸前原ノ町 - 福田町間を複線化。 ** 10月11日 釜 - 石巻埠頭間の貨物線を開業。 * [[1969年]](昭和44年) ** 9月26日 多賀城 - 西塩釜間を複線化<ref name=交通1969-0927>{{Cite news |和書|title=仙石線 仙台-西塩釜間 複線開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1969-09-27 |page=1 }}</ref>。 ** 10月1日 石巻 - 仙台間50分台の特別快速電車運行開始{{R|交通1969-0927}}。 * [[1971年]](昭和46年) ** 3月31日 矢本駅貨物取扱廃止。 ** 4月1日 仙石線管理所廃止、陸前原ノ町電車区および陸前原ノ町車掌区発足。釜 - 石巻港間の貨物線廃止<ref>『交通年鑑』昭和47年版、財団法人交通協力会、p.9</ref><ref>今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』2号 東北、新潮社、2008年、p.33</ref>。 ** 9月30日 多賀城駅貨物取扱廃止、これにより仙台 - 多賀城間貨物営業廃止。 * [[1972年]](昭和47年) ** 3月15日 釜を石巻港に駅名改称。 ** 8月18日 塩竈市越ノ浦の仙石線の無人踏切で、仙台発石巻行き下り電車にダンプカーが衝突、1両目が脱線して半海水の沼に突っ込む(死者2名、重軽傷46名)。 * [[1975年]](昭和50年) ** 2月1日 「新型電車導入」記念乗車券発行。 ** 2月15日 [[国鉄72系電車|72系]][[国鉄72系電車#アコモデーション改良車|アコモデーション改良車]]導入<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.32</ref>。 ** 3月 出札合理化により榴ケ岡・宮城野原・苦竹・福田町・陸前高砂・下馬・西塩釜・東塩釜・高城町の各駅で出札窓口閉鎖。仙台・石巻両駅に乗継出札口を設置。 * [[1979年]](昭和54年)10月1日 103系導入<ref>池田光雅『鉄道総合年表1972-93』中央書院、1993年、p.61</ref>。 * [[1981年]](昭和56年) ** 4月1日 中野栄駅を新設。 ** 11月1日 西塩釜 - 東塩釜間を高架・複線化。本塩釜・東塩釜の両駅を移転。 * [[1983年]](昭和58年) ** 6月15日 陸前原ノ町車掌区を廃止し仙台車掌区に統合。 ** 10月2日 平日・休日ダイヤ実施。線内最高速度が85 km/h→95 km/hに引き上げ。仙台 - 石巻間ノンストップ特別快速新設。 * [[1987年]](昭和62年)3月31日 東矢本駅を新設{{R|交通8702}}。 ==== 民営化以後 ==== * [[1987年]](昭和62年)4月1日 国鉄分割民営化に伴い東日本旅客鉄道(第一種)・日本貨物鉄道(第二種)が承継。 * [[1988年]](昭和63年) ** 3月1日 多賀城 - 陸前山下間に[[列車集中制御装置|CTC]]を導入<ref name="交通880302">{{Cite news |和書|title=仙石線多賀城-陸前山下間 JR東北地域本社 CTCの使用開始 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1988-03-02 |page=1 }}</ref>。あわせて東塩釜駅構内にCTCセンターを設置したほか、陸前大塚駅の交換設備使用開始{{R|交通880302}}。 ** 3月13日 ダイヤ改正に際して、快速列車に「うみかぜ」の愛称を命名<ref>{{Cite news |和書|title=JR旅客6社と貨物 新列車ダイヤが確定 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1987-12-22 |page=1 }}</ref>。 * [[1990年]](平成2年)7月21日 石巻駅駅舎を石巻線の駅舎に統合。 * [[1991年]](平成3年) ** 3月9日 宮城野信号場を新設。 ** 3月16日 陸前原ノ町電車区閉所<ref name="RP544_72" />。[[仙台車両センター宮城野派出所|宮城野電車区]]へ移転<ref name="RP544_72">{{Cite journal|和書|author=編集部|title=3月のメモ帳|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1991-06-01|volume=41|issue=第6号(通巻第544号)|page=72|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年)11月1日 石巻港 - 石巻埠頭間の貨物線を廃止。 * [[2000年]](平成12年)[[ファイル:JREast-aobadori-platform.jpg|thumb|[[仙台トンネル|仙石線地下化]]に伴って延伸開業した[[あおば通駅]](2007年3月撮影)。]] ** 3月11日 仙台 - 陸前原ノ町間を地下化、あおば通 - 仙台を延伸開業。 ** 3月20日 CTCセンターを宮城野総合事務所内に移設。あおば通 - 中野栄間にもCTCを導入。 ** 6月25日 野蒜 - 陸前小野間の[[鳴瀬川橋梁]]架け替え工事完成<ref>{{Cite news |和書|title=新鉄道橋が使用開始 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2000-06-27 |page=3 }}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)11月5日 205系3100番台導入<ref name="rail fan">{{Cite journal|和書 |author = 外山勝彦 |date = 2003-02-01 |title = 鉄道記録帳2002年11月 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 20 }}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)10月1日 宮城野運輸区発足。 * [[2004年]](平成16年) ** 3月13日 小鶴新田駅を新設。 ** 7月 103系運行終了。RT235編成は予備車として郡山駅構内に留置(2007年3月に復帰)。 ** 10月16日 快速列車「うみかぜ」の愛称廃止<ref name="JRC627"/>。平日・土曜休日の時刻表を一本化。 * [[2009年]](平成21年) ** 10月21日 103系RT235編成が運行を終了。 ** 11月29日 多賀城駅上り線を高架化。 ==== 東日本大震災以後 ==== * [[2011年]](平成23年) ** 3月11日 東北地方太平洋沖地震およびそれによる津波の被害で全線不通となる。 ** 3月28日 あおば通 - 小鶴新田間で運転再開。 ** 4月5日 東北本線松島駅に接続する形で、松島 - 石巻間で仙石線経由の代行バス運転開始。 ** 4月7日 [[宮城県沖地震 (2011年)|東北地方太平洋沖地震の余震]]により再び全線で不通となる<ref name="jreast20110410" />。 ** 4月15日 余震により不通となっていた、あおば通 - 小鶴新田間の運転を再開。 ** 4月19日 小鶴新田 - 東塩釜間の運転を再開。代行バス区間を東塩釜 - 石巻間に変更。 ** 5月28日 東塩釜 - 高城町間の運転を再開<ref name="RM335"/>。代行バス区間を松島海岸 - 石巻間に変更。 ** 7月16日 矢本 - 石巻間の運転を再開。同区間は気動車が使用される。またスタフ閉塞式が施行される。代行バス区間を松島海岸 - 矢本間に変更。 ** 10月10日 あおば通 - 東塩釜間の保安装置を[[ATACS]]化。 * [[2012年]](平成24年) ** 3月17日 陸前小野 - 矢本間の運転を再開。 ** 4月8日 多賀城駅下り線を高架化し、これにより同駅周辺の上下線とも高架化を完了(多賀城駅の3番線は未供用)。 ** 9月29日 貨物支線(石巻港 - 陸前山下)の試運転開始に伴い、陸前山下 - 石巻間の自動閉塞式(特殊)の使用を再開。スタフ閉塞式が陸前小野 - 陸前山下 間に短縮される。 ** 10月9日 貨物支線(石巻港 - 陸前山下)の運転を再開。 ** 11月17日 多賀城駅付近連続立体交差化完了。多賀城駅駅舎と3番線使用開始。 ** 11月下旬 陸前小野 - 陸前山下間の自動閉塞式(特殊)の使用を再開(ただし陸前赤井駅の信号設備は使用停止)。 * [[2014年]](平成26年) ** 3月15日 B快速を各駅停車に格下げ。多賀城駅中線による折り返し開始。 ** 4月1日 全線が新設の仙台近郊区間となる。 ** 12月14日 あおば通 - 東塩釜間でATACSによる踏切制御機能使用開始<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/20141214-OYT1T50030.html 世界初、無線で踏切制御…JR仙石線でスタート] - 読売新聞、2014年12月14日</ref>。また、不通区間となっていた高城町 - 陸前小野間のレール締結式が挙行され、全線がレールで結ばれる<ref>[http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141214/k10013957961000.html 被災の仙石線 不通区間レールでつながる] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141214182716/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141214/k10013957961000.html |date=2014年12月14日 }} - NHKニュース、2014年12月14日</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** 3月14日 不通区間の運転再開に先立ち、新線へ切り替えられる陸前大塚 - 陸前小野間を改キロ (-1.2 km)<ref name="jr-sendai20150129_2">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/01/ishinomaki_senseki.pdf 石巻線および仙石線の全線運転再開と仙石東北ライン開業に伴う営業キロの変更及び運賃の適用等について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社(2015年1月29日)</ref>。 ** 4月13日 不通区間の高城町 - 陸前小野間で移設区間を含めての試運転を実施<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150414_12006.html <仙石線>全通もうすぐ 移設区間で試運転] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150705132200/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201504/20150414_12006.html |date=2015年7月5日 }} - 河北新報ONLINE NEWS、2014年4月14日</ref>。陸前小野・陸前赤井駅の信号設備使用再開。 ** 5月30日<ref name="nikkei20140730" /><ref name="jr-sendai20140730" /><ref name="jr-sendai20150129_1" /> 高城町駅 - 陸前小野駅間の新線開業に伴い、全線運転再開<ref name="nikkei20140730" /><ref name="jr-sendai20140730" /><ref name="jr-sendai20150129_1"/>。同時に[[仙石東北ライン]]開業<ref name="ASH5Z3559H5ZUTIL00B">{{Cite news |author=朝日新聞デジタル |date=2015-05-30 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH5Z3559H5ZUTIL00B.html |title=津波被災のJR仙石線、全線復旧 復興への期待膨らむ |publisher=[[朝日新聞社]] |newspaper=[[朝日新聞]] |accessdate=2015-05-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150530065439/http://www.asahi.com/articles/ASH5Z3559H5ZUTIL00B.html |archivedate=2015-05-30}}</ref>。 ** 12月1日 205系3100番台の2WAYシート車をすべてロングシートとして運行開始。 * [[2016年]](平成28年) ** 3月26日 陸前赤井 - 蛇田間に石巻あゆみ野駅を新設<ref name="jr-sendai20150205">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/02/ishinomakiayumino.pdf 仙石線に新駅を設置いたします]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2015年2月5日</ref><ref name="jr-sendai20151218">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/12/201603daiyakaisei.pdf 2016年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2015年12月18日</ref> * [[2017年]](平成29年) ** 3月4日 - 石巻あゆみ野駅へ朝の仙石東北ライン快速上下各1本が停車開始<ref name="jr-sendai20161216" />。 == 運行形態 == {{出典の明記|section=1|date=2015年7月}} === 現行 === [[2015年]][[5月30日]]のダイヤ改正以降、運行形態は仙石線内のみを運行する普通列車と、この日に開業した仙石東北ライン特別快速・快速列車に大別される。あおば通駅 - 高城町駅間は、このダイヤ改正により普通列車(各駅停車)のみの運行となった。 ==== 仙石東北ライン・特別快速・快速 ==== {{See also|仙石東北ライン}} 仙石東北ラインは[[仙台駅]] - [[石巻駅]]・[[女川駅]]間を結ぶ列車の運転系統である。仙台駅 - [[高城町駅]]間が東北本線経由で、高城町駅から石巻駅の間が仙石線内での運行である。おおむね1時間に1本運転しているが、仙台発11時台と石巻発7・12時台の運転はない。仙台発朝9時台と石巻発20時台の上下各1本が停車駅の少ない「特別快速」として運転されている以外は「快速」として運転されている。 快速には、種別表示色が赤({{Color|red|■}})で表示されるもの(以下「赤快速」という。)と、緑({{Color|green|■}})で表示されるもの(以下「緑快速」という。)がある{{Refnest|group="注釈"|駅時刻表では「快速(赤)」「快速(緑)」と表記している。これは旅客案内上、便宜的なものであり、JR東日本では快速の派生種別として他社の区間快速のように下位種別を設定したり厳密に種別を分けていない([[列車種別#区間種別と同様の運行形態をとる列車]]も参照)。同様の事例として、停車駅の違いで種別を色で区別するケースは他に[[東急大井町線]]の各駅停車などがある。}}。東北本線仙台駅 - 塩釜駅間において、赤快速は途中駅無停車、緑快速は各駅に停車し、仙石線内(高城町駅 - 石巻駅間)の停車駅はいずれも同じである。 先行列車の追い抜きはないが、原則として高城町駅であおば通駅発着の普通列車と相互接続を行っている。 1列車4両編成で運行している<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201501/20150123_12003.html <仙石東北ライン>非電化区もOK 車両公開] 河北新報(2015年1月23日)</ref>。かつては仙台12時台発と石巻13時台発の緑快速のみ2両編成で運行していた<ref>普通列車編成両数表 Vol.35 [[交通新聞社]]</ref>が、2019年3月16日のダイヤ改正からこの列車を含む全列車が4両編成運行となった<ref>{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2018/12/20181214.pdf 2019年3月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース、2018年12月14日</ref>。 2016年8月6日からは、「仙石東北ライン」のうち石巻発朝6時台の上り始発列車と仙台発夜20時台の下り最終列車が石巻線の石巻駅 - 女川駅間に乗り入れ、仙台駅 - 女川駅間の直通運転を開始し<ref name="jr-sendai20160629">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2016/06/sensekitohokuline.pdf 仙石東北ライン一部列車の女川駅直通運転の開始について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2016年6月29日</ref><ref name="kahoku160807">[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201608/20160807_13007.html <仙石東北ライン>女川乗り入れ始まる>] - 河北新報、2016年8月7日</ref>、2017年3月4日からは石巻あゆみ野駅に一部列車が停車するようになった<ref name="jr-sendai20161216">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2016/12/20161216.pdf 2017年3月ダイヤ改正および 新駅開業等について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2016年12月16日</ref>。 2015年5月のダイヤ改正よりあおば通駅 - 高城町駅間を運行(多賀城駅・本塩釜駅を経由)する快速は廃止されている。 ==== 普通列車 ==== [[あおば通駅]] - [[石巻駅]]間を仙石線内各駅に停車する。すべての列車があおば通駅発着の4両編成となっている。 朝夕時間帯は約6 - 8分間隔で運転されている。車両基地への出入りを兼ねて、あおば通駅 - [[小鶴新田駅]]間の区間運転列車がある。 日中は1時間に4本運転されており、あおば通駅 - 石巻駅間の直通列車と[[多賀城駅]]・[[東塩釜駅]]・[[松島海岸駅]]・[[高城町駅]]を発着駅とする区間運転列車がそれぞれ1本程度運転されている。このうち、高城町駅で折り返す列車の多くは、仙石東北ラインと10分前後で接続して石巻方面の列車と乗り継げるようになっている。下りは15分等間隔で運転されているが、上りは少しずれが生じている。 上り列車の[[方向幕|方向幕・行先表示LED]]には「'''仙台・あおば通'''」と表示されている。これは仙台方面あおば通行きの列車であることを強調するために便宜上用いているもので、途中駅で編成の一部が切り離されるというわけではない<ref group="注釈">同様のケースとしては、[[山形新幹線]]「[[つばさ (列車)|つばさ]]」号における「山形・新庄」行き、[[成田エクスプレス]]の「横浜・大船」行き、「[[かいじ (列車)|かいじ]]」号の「甲府・竜王」行き、[[関空快速・紀州路快速]]の「大阪・京橋」行き、他には中黒表記ではないが[[京成電鉄]]の「(東成田)芝山」(芝山千代田)行きなどが挙げられる。</ref>。同様に、下り列車のうち、高城町行きには「'''松島海岸・高城町'''」、石巻行きには「'''松島海岸・石巻'''」と、松島観光の下車駅である松島海岸駅を表示に含めている。なお、かつては誤乗防止の観点から、2015年5月30日以降は方向幕・行先表示LEDで「'''仙石線経由'''」の表示がなされていたが、2021年3月以降は行われていない。 JRの[[列車番号]]は原則として[[電車]]には「M」が付くが、仙石線の場合はいわゆる電車ダイヤのため、電車で運行される普通列車には「S」が付与されている。また、上2桁(もしくは上1桁)は24時間制の始発駅発車時刻を、下2桁は1桁目で発順、2桁目で発着駅を表す。 発着駅での付番パターンは次の通り。 * 2…石巻発着 * 3…高城町発着 * 4、5…東塩釜発着 * 6…多賀城発着 * 7…小鶴新田(宮城野信号場)発着 * 8…松島海岸発着 * 9…矢本発着(臨時列車のみ) 例:あおば通発東塩釜行きの19時台の1本目は1941Sとなる。 ==== 臨時列車 ==== プロ野球チーム[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地の[[宮城球場|楽天生命パーク宮城]]は[[宮城野原駅]]が最寄である。この球場でプロ野球の試合がある日はあおば通駅 - 小鶴新田駅間で臨時列車が運行される。このほかに、[[塩竈みなと祭]]に合わせてあおば通駅 - 本塩釜・東塩釜駅間で<ref name="jr-sendai20160620">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2016/06/rinji_natsumatsuri.pdf 夏まつりの臨時列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2016年6月20日</ref><ref name="jr-sendai20170620">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2017/06/20170620_2.pdf 夏まつりの臨時列車のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2017年6月20日</ref>、[[松島ハーフマラソン大会]]に合わせてあおば通駅 - 高城町駅間で<ref name="jr-sendai20151002">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2015/10/rinji1011.pdf 松島ハーフマラソン大会開催に伴う臨時列車運転のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2015年10月2日</ref><ref name="jr-sendai20160923">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2016/09/20160923.pdf 松島ハーフマラソン大会開催に伴う臨時列車運転のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2016年9月23日</ref>、[[松島基地|松島基地航空祭]]に合わせて小鶴新田・東塩釜駅 - 矢本駅間で<ref name="jr-sendai20170714"/>、[[石巻川開き祭り]]に合わせてあおば通・矢本駅 - 石巻駅間で<ref name="jr-sendai20160620"/><ref name="jr-sendai20170620"/>臨時列車の増発が行われている。 また、2017年に開催された[[松島基地|松島基地航空祭]]に合わせてあおば通駅 - 矢本駅間において、東塩釜駅 - 矢本駅間で通過運転(途中停車駅は松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅)を行う臨時快速列車が運行された<ref name="jr-sendai20170714">{{PDFlink|[https://jr-sendai.com/upload-images/2017/07/20170714.pdf 「松島基地航空祭」開催に伴う臨時列車運転のお知らせ]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2017年7月14日</ref>。 2022年12月3・4日には、高城町駅 - 石巻駅の変電設備取替工事に伴い、この区間では気動車(仙石東北ライン用の[[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系]]<ref name="railfjp20221204" />)による折り返し運転が実施された。また一部列車が松島海岸駅に乗り入れ<ref>{{Cite press release|和書|title=仙石線「変電設備取替工事」に伴う臨時ダイヤ運行について|publisher=JR東日本 東北本部|date=2022-10-21|url=https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20221021_s02.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-04}}(臨時ダイヤ表において列車番号末尾が D となっている)</ref>、HB-E210系が初めて高城町以南に乗り入れた<ref name="railfjp20221204">{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2022/12/04/131000.html |title=仙石線で工事にともなう臨時ダイヤ |access-date=2022-12-06 |publisher=ネコ・パブリッシング |date=2022-12-04 |website=鉄道ファン・railf.jp |work=鉄道ニュース}}</ref>。 === 東日本大震災発災から2015年5月29日までの間(震災ダイヤ) === 2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]の影響で、仙石線は甚大な被害を受け、全線で不通となった。3月28日のあおば通駅 - 小鶴新田駅間運転再開、4月7日の余震による再度全線不通を経て、4月19日に同区間が再開されてからは段階的に復旧範囲が拡大し、2012年3月17日の時点で、仙台側はあおば通駅 - 高城町駅間、石巻側は[[陸前小野駅]] - 石巻駅間で列車運行を再開していた(詳細は後述「[[#東日本大震災による影響|東日本大震災による影響]]」の節も参照)。ここでは、震災の影響で不通区間が発生していた時期について述べる。 ==== あおば通駅 - 高城町駅間 ==== この区間は当初から震災前と同じ205系3100番台電車で運行を再開した。 2011年3月28日にあおば通駅 - 小鶴新田駅が復旧した。このときは1時間に2 - 7本ほどの運転であった<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20110409062327/http://www.jr-tabi.com/eqpdf/ss-time.pdf 仙石線時刻表]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社(2011年4月9日時点のウェブアーカイブ)</ref>。 高城町駅まで復旧後のダイヤは、列車の大半があおば通駅 - 東塩釜駅間の区間列車であり、東塩釜駅 - 高城町駅間は1時間に2 - 3本程度であった。また、現行と同様に小鶴新田駅・多賀城駅までの区間列車が設定されていた。多賀城駅は2014年3月までは高架化工事により折り返し運転ができず、多賀城駅 - 東塩釜駅間を回送のうえ東塩釜駅で折り返していた。 高城町駅まで復旧した際に、あおば通駅 - 高城町駅間の快速列車(A快速・B快速)も設定された。'''A快速'''の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅、'''B快速'''の停車駅はあおば通駅 - 多賀城駅間の各駅および本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅であった。B快速は通過駅が3駅(下馬駅・西塩釜駅・陸前浜田駅)しかなかったため、2014年3月15日のダイヤ改正をもって各駅停車に格下げされる形で廃止され、残ったA快速が単に「'''快速'''」として運行された。この快速も、仙台市内の通過駅での停車間隔が所々で大きく広がる問題があったため、2015年5月29日を最後に、多賀城駅・本塩釜駅を経由して電車で運行される快速列車は消滅した{{refnest|group="注釈"|name="kaisoku"|なお、市販の時刻表では単に快速として扱われており、快速の種別を分けていなかった([[列車種別#区間種別と同様の運行形態をとる列車]]も参照)。}}。 ==== 高城町駅 - 陸前小野駅間(松島海岸駅 - 矢本駅間代行バス) ==== [[ファイル:Higashinippon-express-416.jpg|200px|thumb|right|松島海岸駅 - 矢本駅間で運行されていた列車代行バス([[東日本急行]]・[[いすゞ・ガーラ|いすゞGALA]])]] {{Main2|「[[#東日本大震災による影響|東日本大震災による影響]]」の節も}} 高城町駅 - 陸前小野駅間は東日本大震災の影響により2015年(平成27年)5月29日まで不通となっており、2011年(平成23年)7月16日から同日まで、松島海岸駅 - 矢本駅間でバス代行輸送が行われていた<ref name="tr-tips">不通区間と代行バス運行区間は異なっている({{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/eq/20120317-tr-tips.pdf 仙石線列車と代行バスを乗り継がれるお客さまへのご案内]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社)。</ref><ref>[http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/topics_news/report/article/JR%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%B7%9A%E3%83%BB%E8%87%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E8%A1%8C%E3%83%90%E3%82%B9%E3%80%8C%E7%9F%A2%E6%9C%AC%E9%A7%85%EF%BD%9E%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E6%B5%B7%E5%B2%B8%E9%A7%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%81%8B%E8%A1%8C%E6%99%82%E5%88%BB%E8%A1%A8%3C%E5%B9%B3%E6%88%9026%E5%B9%B43%E6%9C%8815%E6%97%A5%E6%94%B9%E6%AD%A3%3E JR仙石線・臨時代行バス「矢本駅〜松島海岸駅」の運行時刻表<平成26年3月15日改正>](東松島市 2014年3月15日)</ref>。本数は2014年(平成26年)3月15日から運行終了までのダイヤでは1日上り19本、下り20本で<ref name="HigashimatsushimaBus">{{PDFlink|[http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/topics_news/2014_03/20140315-ty-bus.pdf JR東日本臨時代行バス「矢本駅〜松島海岸駅(仙石線)」運行時刻表<平成26年3月15日〜>]}}(東松島市)</ref>、朝夕の[[ラッシュ時]]は、1本あたり最大5台同時運行していた<ref>[http://ishinomaki.kahoku.co.jp/news/2013/05/20130511t13002.htm JR仙石線区間代行バス玉突き 3台、乗客9人負傷 東松島・野蒜](NEWS石巻かほく 2013年5月11日)</ref>。松島海岸駅で快速列車に接続することが多かったが、バスが遅延した場合でも原則として接続は行わなかった。 代行バス停留所は不通区間の各駅前に設置されていたが、高城町駅のみ離れていた<ref name="HigashimatsushimaBusStop">{{PDFlink|[http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/topics_news/Pdf/2011_07/bus-ih-stop.pdf JR東日本臨時代行バス「石巻駅〜東塩釜駅」各バス停車場地図]}}(東松島市)</ref>ため、仙石線電車区間(あおば通駅 - 高城町駅間)と代行バスの乗り換えは松島海岸駅で行うよう案内されていた。 この区間は軌道の損傷・駅舎流失等、甚大な被害をうけたため、当初復旧の目途が立っていなかったが、2012年1月に、2015年度中にも全線復旧する方針が発表された<ref name="nikkei20120127" />。被害が大きかった陸前大塚駅 - 陸前小野駅間は、内陸側に移設されることになった<ref name="nikkei20120127" />。2014年7月30日には2015年6月までに全線再開することが発表された<ref name="nikkei20140730">[http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG30020_Q4A730C1CC0000/ 仙石線、15年6月までに全線再開 復旧工事にめど] - 日本経済新聞、2014年7月30日。</ref><ref name="jr-sendai20140730">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2014/07/sensekisen.pdf 仙石線の運転再開等について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2014年7月30日</ref>。2015年1月29日には再開日が同年5月30日と発表され<ref name="jr-sendai20150129_1">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2015/01/senseki.pdf 仙石線全線運転再開ならびに仙石東北ライン運転開始日の決定について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社プレスリリース 2015年1月29日</ref>、事前発表通り運行を再開した。 ==== 陸前小野駅 - 石巻駅間 ==== 2011年7月16日に矢本駅 - 石巻駅間で運行を再開し<ref name="sankei20110716" />、2012年3月17日には陸前小野駅 - 矢本駅間の運行を再開した<ref name="20120223saikai" >{{Cite web|和書|url=http://www.jreast.co.jp/pdf/saikaijoukyou.pdf|title=東北地方の運転見合わせ区間|publisher=東日本旅客鉄道|date=2012-02-23|accessdate=2012-02-24}}</ref>。電化設備が復旧していなかったことから、全面復旧までこの区間は[[小牛田運輸区]]所属のキハ110系気動車による臨時ダイヤでの運行となっていた。陸前小野駅 - 矢本駅間は1日数本、矢本駅 - 石巻駅間では1時間に1 - 2本となっており、全列車が2両または4両編成による普通列車であった。 矢本駅 - 石巻駅間が運行再開された当初は、この区間を運行する列車には列車番号に「Y」が付けられていたが<ref>{{PDFlink|[http://liveweb.archive.org/http://www.jr-sendai.com/eq/is5-time.pdf 7月16日(土)からの 仙石線「矢本〜石巻」運転時刻]}}(インターネットアーカイブ){{リンク切れ|date=2015年3月}}- 東日本旅客鉄道仙台支社 2011年7月13日。</ref>、陸前小野駅まで運行を再開した2012年3月のダイヤ改正で、原則通りの「D」に変更された。 === 東日本大震災以前のダイヤ === ==== 快速列車 ==== [[File:JR Senseki Line 103 Umikaze.jpg|thumb|快速「うみかぜ」<br />(1990年4月)]] 大震災発生直前まで運転されていた快速列車は、あおば通駅 - 石巻駅間をおよそ1時間に1本運転されていた。2004年10月15日までは快速列車に「'''うみかぜ'''」の愛称が与えられており<ref name="JRC627">{{Cite journal|和書 |title=鉄道記録帳 |journal = RAIL FAN |date = 2005年1月号 |issue = 1 |volume = 52 |publisher = 鉄道友の会 |page = 22 }}</ref>、停車駅の違いにより'''A快速'''と'''B快速'''の2種類があった。A快速の停車駅はあおば通駅・仙台駅・多賀城駅・本塩釜駅・東塩釜駅・松島海岸駅・高城町駅・野蒜駅・陸前小野駅および矢本駅 - 石巻間駅の各駅であり、B快速はA快速の仙台 - 多賀城間を各駅停車にしたものであった<ref name="kaisoku_1">{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20130619214444/http://www.jr-sendai.com/doc/100924-3.pdf 2010年12月ダイヤ改正について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社 2010年9月24日(2013年6月19日時点でのインターネットアーカイブ)</ref><ref name="RJ547 P65">鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』No.547 p.65</ref>。2009年3月14日のダイヤ改正以前は駅案内においては[[方向幕]]の色から、A快速は「{{Color|red|'''赤'''}}'''快速'''」、B快速は「{{Color|green|'''緑'''}}'''快速'''」と案内されていた<ref group="注釈" name="kaisoku" />。[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地である[[宮城球場]](2018年現在の名称は「楽天生命パーク宮城」)でプロ野球の試合がある日は、仙台駅 - 多賀城駅間を通過するA快速(赤快速)が球場の最寄り駅である宮城野原駅に[[停車 (鉄道)#臨時停車・特別停車|臨時停車]]する場合もあった。 仙石線の快速列車の停車駅については、古くは列車により様々であったが、時代を下るにつれ停車駅がパターン化され、そのパターンも次第に整理・統合された。1972年(昭和47年)頃には通過駅が榴ケ岡駅と宮城野原駅の2駅のみというパターンもあった。 例えば、1998年 - 1999年頃の日中に快速列車が1時間に2本設定されたことがある。このうち1本は現在の速達タイプの停車パターンで、もう一方は石巻 - 本塩釜間が各駅停車となる区間的な快速列車であった<ref>『JTB時刻表』1998年7月号、『JTB時刻表』1999年12月号で毎時2本記載確認。『JTB時刻表』1997年3月号、『JTB時刻表』2000年3月号では毎時1本。</ref>。 2007年3月のダイヤ改正以前は、東塩釜駅は快速通過駅であった。 他に特筆できることとしては「[[特別快速]]」がある。当初の特別快速は石巻駅 - 仙台駅間を1時間以内で結ぶことと、仙台市内にある[[百貨店]]の10時開店を意識したダイヤで、1969年に登場した。この列車は途中、松島海岸駅と本塩釜駅に停車し、午前の上りと午後の下り計2本は矢本駅にも停車した。その後、[[列車集中制御装置|CTC]]化と軌道強化、東塩釜駅 - 石巻駅間の単線区間の一部[[列車交換|交換]]可能駅における[[一線スルー]]化等に伴って線内最高速度が85 km/hから95 km/hに上がり、1983年10月より休日ダイヤにおいて仙台駅 - 石巻駅間50.5キロメートルを[[直行便|ノンストップ]]で走る特別快速1往復が設定された。このノンストップ列車は、停車駅の見直しに伴い2000年3月11日のダイヤ改正で廃止となった。後年に再び停車駅の少ない特別快速が土曜・休日に設定されたが、2003年10月1日のダイヤ改正で再び廃止された。この列車の停車駅は仙台駅、多賀城駅、本塩釜駅、松島海岸駅、高城町駅、野蒜駅、矢本駅、石巻駅だった。 [[ファイル:マンガッタンライナー号02.JPG|thumb|マンガッタンライナー号(2009年3月 本塩釜駅)]] 2003年3月22日から土曜・休日に石巻行きの赤快速(A快速)の1本と緑快速(B快速)の1本、そしてあおば通行きの普通列車2本を、石巻市にゆかりの深い漫画家[[石ノ森章太郎]]の作品に登場するキャラクターの[[ラッピング車両|ラッピング]]が施された編成で「マンガッタンライナー号」として運行していた。 先発の列車が[[終着駅]]に先着するダイヤは、現行と変わらない。 ; 1988年(昭和63年)3月13日改正時点での「うみかぜ」停車駅<ref>JTBパブリッシング「時刻表完全復刻版1988年3月号」</ref> : 特別快速 :: 仙台駅 - 石巻駅 ::* 休日のみ1往復運転 : 快速 :: 仙台駅 - 本塩釜駅 - 松島海岸駅 - 高城町駅 - 野蒜駅 - 陸前小野駅 - 矢本駅 - 石巻駅 ::* 平日は下り7本・上り9本、休日は下り8本・上り9本運転 ==== 普通列車 ==== 大震災発生直前のダイヤは、すべての列車があおば通駅発着であり、そのうち大部分の列車が多賀城駅や東塩釜駅で折り返す区間列車であった。あおば通駅 - 石巻駅間を直通する普通列車は1時間に1本で、快速と普通がそれぞれ交互に運行されていた。高城町始発あおば通行は朝に1本設定されていたが、高城町行下り列車は設定がなかった。 時期により、あおば通駅 - 松島海岸駅・高城町駅間および矢本駅 - 石巻駅間の区間列車が設定されていた。また、小鶴新田駅開業前はあおば通駅(仙台駅) - 苦竹駅間の区間列車が、さらに古く陸前原ノ町電車区があった頃には仙台駅 - 陸前原ノ町駅間の区間列車が存在した。 現在、普通列車については1列車4両編成のみで運行しているが、1987年-1998年頃までは、矢本駅 - 石巻駅間の区間列車運転を主として、105系電車を用いた2両運用が全区間で存在した<ref name="miyaginodenshaku"/>。 === 貨物列車 === {{Main2|[[石巻線#貨物列車]]を}} === 東北本線との直通運転 === 仙石線は[[宮城電気鉄道]]という私鉄を出自とするため、仙台駅の着発線および駅舎が他路線とは独立しており、仙台駅構内にあった東北本線と仙石線を結ぶ引き込み線が1970年頃に撤去されてからは、直通運転は物理的に不可能となっていた。保線用車両の行き来を目的に松島駅 - 松島海岸駅間に東北本線との渡り線が設けられていたが、営業用車両は走行できなかった(後述の仙石線・東北本線接続線の建設により撤去)。 2015年度の全線復旧後、[[松島海岸駅]] - [[高城町駅]]間と[[東北本線]][[塩釜駅]] - [[松島駅]]間を結ぶ連絡線([[仙石東北ライン|仙石線・東北本線接続線]]。塩釜駅 - 高城町駅間を結ぶものであり前述の保線用車両の渡り線とは分岐方向が異なる)が敷設され、仙石東北ラインという愛称で[[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系気動車]]を使用した東北本線への直通運転が開始された<ref name="jr-sendai20121018">{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/wp-content/uploads/2012/10/press_20121018-sensekisen.pdf 仙石線と東北本線との接続について]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社 2012年10月18日</ref><ref name="jr-sendai20140730"/>。 === 石巻線との直通運転 === 石巻駅構内では、石巻港への貨物列車の入線や他線との連絡のために、石巻線と仙石線の線路が繋がっている。石巻線は非電化路線であるため、[[気動車]]の場合は仙石線・石巻線の両線を直通することが可能であり、[[グラシア (鉄道車両)|グラシア(後のこがね)]]による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。なお、1992年頃には、石巻線の石巻駅 - 女川駅間の直流電化による仙石線の女川駅乗り入れが調査されたことがあった(詳細は「[[石巻線#過去の仙石線直通運転構想]]」を参照)。2016年8月6日からは仙石東北ラインの一部列車を女川駅まで延長運転している<ref name="jr-sendai20160629" /><ref name="kahoku160807" />。 === 事業用列車 === [[JR東日本キヤE193系気動車|East i-D]]による軌道試験が行われる以前は、[[国鉄マヤ34形客車|マヤ34形]]客車を用いた検測列車(マヤ検)の牽引は牽引車[[国鉄145系電車|クモヤ145形]]を用いて行われていた。しかし地上線時代の仙台駅および地下化後のあおば通駅は[[機回し線]]がなく、またクモヤ145形が1両しか在籍していないため、上り列車で仙台駅(地上線時代)もしくはあおば通駅(地下化後)に入線すると車両の付け替えができないため、以前は[[国鉄105系電車|105系]]を使用し、 * 石巻側←クモハ105+クハ105+マヤ34+クモヤ145→仙台側 の編成で運転されていた。 105系廃車後は[[国鉄103系電車|103系]]のクモハ編成からMc+Mのみをマヤの前に連結し、 * 石巻側←クモハ103+モハ102+マヤ34+クモヤ145→仙台側 の編成で運行された。なお105系および103系による運転はあおば通駅 - 宮城野電車区間のみで運行され、宮城野電車区 - 石巻間はクモヤ145形のみの牽引で運転されていた。なお仙石線では103系は老朽化の進むMc編成から置き換えが始まったが、マヤ検の都合上、置き換え開始後しばらくはMc編成が残留していた。そのためMc編成の全廃はマヤ検終了後の2003年7月であった。 == 使用車両 == 仙石線は前述の通り、[[東北地方]]のJR線では唯一の[[直流電化]]路線であり、東北地区を走る他線([[交流電化]]路線)の車両は運用できないため、[[首都圏 (日本)|首都圏]]で運行されていた[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]を転配して運行している。車両についての詳細は各車両の項目のほか、「[[仙台車両センター宮城野派出所]]」の項目も参照。 === 現在の使用車両 === * [[国鉄205系電車#仙石線向け(3100番台)|205系3100番台]]電車(仙台車両センター宮城野派出所所属):あおば通駅 - 石巻駅間で普通として運用。 *: 4両編成(M1 - M6、M8、M10 - M19編成)17本が配置されている。 *: 以前同じく首都圏から転配され仙石線で運用されていた[[国鉄103系電車|103系]]にはもともと[[列車便所|トイレ]]がなく、仙石線に転配後もトイレの設置がなかった。2002年から仙石線で運用されることになった205系は、あらかじめトイレの設置改造が行われた上で仙石線に投入され、205系の投入により103系の運転は2004年に終了した。その後、[[多賀城駅]]付近の[[連続立体交差事業|連続立体交差]]化工事に伴う予備車増加で運用に復帰していた103系RT-235編成の置き換え用として2009年に[[南武線]]([[中原電車区]])の205系1200番台1本を4両編成に短縮し、3100番台化した上で仙石線に投入し、この103系を置き換えた。 *: [[2011年]][[3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]による[[津波]]で仙石線[[野蒜駅]] - [[東名駅]]間を走行していたM9編成<ref name="Formation2011">[[交通新聞社]]『JR電車編成表 2011夏』</ref>が流され脱線<ref>{{Cite news |title=津波で脱線し、押し流されたJR仙石線の列車 |newspaper=読売新聞 |date=2011-03-12 |url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/graph/201012wind/garticle.htm?ge=863&gr=3497&id=105207 |accessdate=2011-05-02}}</ref>。同年[[5月1日]]にかけ現地にて解体作業が行われた<ref>{{Cite news |title=運命の2時46分発 駅で交差した「生と死」 |newspaper=産経新聞 |date=2011-05-01 |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/disaster/505027/ |accessdate=2011-05-02}}</ref>。当該編成は同年3月12日付で[[廃車 (鉄道)|廃車]]された<ref name="Formation2011"/>。また、[[石巻駅]]では到着後のM7編成が冠水して被災した。2012年9月5日から7日にかけて[[総合車両製作所]]へ回送され入場したが、2014年12月25日付で除籍され廃車となった<ref>[http://railf.jp/news/2012/09/08/205700.html 205系M7編成が総合車両製作所へ]、railf.jp 鉄道ニュース、2012年9月8日</ref><ref>「鉄道ダイヤ情報」2015年3月号「JR車両の動き」</ref>。 *: [[鶴見線]]に[[JR東日本E131系電車|E131系]]が投入されることになったため、当路線は南武線支線とともにJR東日本で最後の205系の運行路線となる。 * [[JR東日本HB-E210系気動車|HB-E210系]]気動車([[小牛田運輸区]]所属):高城町駅 - 石巻駅間で[[仙石東北ライン]]の快速・特別快速として運用。 *: 2015年(平成27年)の[[#東北本線との直通運転|東北本線と仙石線の接続線]]開業に伴い、JR東日本はこの接続線を経由する「仙石東北ライン」で使用される直通運転用の車両として[[鉄道車両におけるハイブリッド|ディーゼルハイブリッド車両]]HB-E210系2両編成を8編成新造した<ref>{{PDFlink|[http://www.jreast.co.jp/press/2013/20130703.pdf 通勤形車両の新造計画について]}} - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2013年7月2日</ref>。仙石線の営業車両としては初の新造車両である。 <gallery> Series205-3100-M17.jpg|205系3100番台<br>(2021年9月) Series205-3100-M3.jpg|205系(2WAYシート設置編成)<br>(2021年9月) HB-E210-C1.jpg|HB-E210系<br>(2021年9月) </gallery> === 過去の使用車両=== 仙石線の前身である[[宮城電気鉄道]]の車両については同項目および「[[宮城電気鉄道の電車]]」を参照。 * [[国鉄30系電車|30系]]・[[国鉄31系電車|31系]]・[[国鉄33系電車|33系]]・[[国鉄50系電車|50系]]・[[国鉄40系電車|40系]]電車 *: 宮城電気鉄道からの引き継ぎ車を置き換える目的で投入された、首都圏で余剰となった車体長17m級国電(但し40系のみは20m級)。72系などの20m車の投入により置き換えられた。 * [[国鉄51系電車|クモハ54形]]・ [[国鉄51系電車|クハ68形]]・[[国鉄70系電車|モハ70形]]電車 *: 17m車から20m車の置き換えの際に、一時的に使用されたセミクロスシート車。72系への統一により、他線区へ転出(一部は[[廃車 (鉄道)|廃車]])した。 * [[国鉄72系電車|72系]]電車 *: 仙石線に在籍していた17m級車両を置き換える目的で投入された。老朽化対策として[[1974年]]に、車体のみ103系後期車と同等のものに載せ替えた編成([[国鉄72系電車#アコモデーション改良車|アコモデーション改良車]])が配置され、1979年に通常車が置き換えられた後も1985年まで残存していた。これらはのちに機器類も103系のものに交換した上で正式に103系3000番台となり、[[川越線]]などに転用されている。 *[[国鉄103系電車|103系]]電車 *:[[国鉄72系電車|72・73系]]電車の置き換えを目的として[[1979年]]から投入され、編成番号はR+Mc車(制御電動車)であるクモハ103形の車号で付与されていた(クモハ103-80以下4連ならばR-80編成)。車両前面に「仙石線」と書かれた看板を掲げて走っていた。その後、[[1989年]]から首都圏への205系電車投入によって余剰となっていたものを、仙石線向けの改造・更新工事を施工した上で入線させている。1993年までに1979年から投入したグループを淘汰した。2002年から2004年7月にかけて205系の投入に伴い老朽化が進む編成から廃車を開始し、17編成が運用終了後に廃車・解体されている。その後、103系1編成4両が2年間、[[郡山総合車両センター]]に留置されていたが、多賀城駅付近の連続立体交差化工事に伴い、車両運用が賄えなくなることから、改造工事を施工した上で2006年11月に宮城野派出所に戻り、3月19日より平日の朝ラッシュ時の2往復限定で運用されていた。しかし、[[京浜東北線]]・[[根岸線]]への[[JR東日本E233系電車#1000番台|E233系1000番台]]導入により[[JR東日本209系電車#2200番台|209系2200番台]]が中原電車区(現在の[[鎌倉車両センター中原支所]])に転属したことで余剰となった205系1200番台1本が同区から転入したため、103系は2009年10月21日限りで運用から離脱し、廃車となった<ref>{{Cite journal | 和書 | journal = 鉄道ファン | year = 2009 | volume = 2009年11月号 }}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.jr-sendai.com/doc/20091009144557.pdf 運行終了に伴い「ありがとう!103系」があおば通〜石巻間を快走します!]}} - 東日本旅客鉄道仙台支社 2009年10月9日</ref>。これにより、JR東日本から103系電車が消滅した。 * [[国鉄105系電車|105系]]電車 *: 1987年に輸送量自体は低いものの都市化が進み始め区間利用者が見込める石巻駅 - [[矢本駅]]間の区間列車運転を主目的として投入された車両で、通常最低でも3両でしか走行できない103系電車を、2両編成で走行できるように改造したもの。使用区間は他の103系電車と共通のため、2両編成のまま仙台圏でも使用され、時には2編成を連結して運用についたこともあった<ref name="miyaginodenshaku">特集 JR103系電車の現状 『[[鉄道ピクトリアル]]』 No.545(1991年7月号)</ref>。在籍していた編成は京浜東北線・根岸線から捻出された103系の高運転台車編成投入との入れ替えで1998年に書類上は廃車されたが、2両編成という利便性から、[[東日本旅客鉄道八王子支社|八王子支社]]および[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]管内の訓練センターで訓練編成として転用され、2008年に京浜東北線・根岸線で使用されていた[[JR東日本209系電車|209系]]の改造車にそれぞれ置き換えられるまで使用された。なお、この置き換えにより、JR東日本から105系電車が消滅した。 * [[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]気動車(小牛田運輸区所属) *: 陸前小野駅 - 石巻駅間では東北地方太平洋沖地震により変電所が津波の被害を受けたため、2015年5月までは[[小牛田運輸区]]のキハ110系気動車が使用されていた<ref name="sankei20110716">[https://web.archive.org/web/20110716210354/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110716/dst11071614350016-n1.htm JR仙石線・矢本-石巻間の運転再開]([[インターネットアーカイブ]])- 産経新聞、2011年7月16日</ref>。 <gallery> JRE 103 SensekiLine.JPG|103系<br>(2009年8月) JNR EC Tc105-105.jpg|105系100番台<br>(1990年1月) 仙石線で暫定運用されているキハ110.jpg|キハ110系<br>(2011年7月) </gallery> === 気動車の運行 === 2000年の仙台トンネル開通以前は[[グラシア (鉄道車両)|グラシア]](後の[[グラシア (鉄道車両)|こがね]])による臨時列車(仙台駅 - 女川駅・気仙沼駅間)が運行されたことがあった。それ以外にも、多賀城駅 - 矢本駅間のビール列車([[小牛田運輸区]]の[[国鉄キハ45系気動車|キハ23形]]・[[国鉄キハ40系気動車 (2代)|40形]]・[[国鉄キハ58系気動車|58形]]使用)、[[国鉄キハ40系気動車 (2代)#漫遊 → ふるさと|ふるさと]]による野蒜駅 - 石巻駅間の「鳴瀬町町民号」<ref group="注釈">鳴瀬町は矢本町との合併により東松島市となった。</ref>といった[[団体専用列車]]での入線が時折あった。仙台トンネルの開通以後も、東塩釜駅 - 石巻駅間では団体専用列車という形で気動車の入線があった。東日本大震災後の2011年7月16日に復旧した矢本駅 - 石巻駅間、2012年3月17日に復旧した陸前小野駅 - 矢本駅間では架線の損傷や変電所が使えないため、2015年5月30日の全面復旧までは[[JR東日本キハ100系気動車|キハ110系]]気動車が使用されていた。 == 沿線概況 == {| {{Railway line header|collapse=yes}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#00aaee}} {{BS-table}} {{BS5|||||STR|||[[仙山線]]|}} {{BS5|||tKBHFa||STR|0.0|[[あおば通駅]]|[[ファイル:Sendai City Subway Logo.svg|16px|link=仙台市地下鉄南北線|仙台市地下鉄南北線]](仙台駅)|}} {{BS5||HUBrg|tSTR|O3=HUBq|extKBHFa|O4=HUBeq|STR||''[[仙台駅 (宮城電気鉄道)|仙台駅]]''| (1) -1952|}} {{BS5|STRq|BHFq|O2=HUB|tKRZ|xtKRZ|KRZu|||[[東北新幹線]]|}} {{BS5|eABZq2|BHFq|O2=exSTRc3|P2=HUB|tSTR3|O3=STRq|xtKRZ|LABZr+r|||←[[東北本線]]↓|}} {{BS5|exSTRc1|tSTR+1|O2=exSTR2+4|P2=HUBtl|tSTRc4|O3=HUBq|P3=exSTRc3|extBHFe@g|O4=HUBeq|LSTR||''仙台駅''| (2) 1952-2000 [[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=仙台市電|仙台市電]]<ref group="*">[[仙台駅前駅]]</ref>|}} {{BS3|tBHF|O1=exSTRc1|P1=HUBe|exSTRl+4|exABZg+r|0.5|[[仙台駅]]|(3) 2000- [[ファイル:Sendai City Subway Logo.svg|16px|link=仙台市地下鉄南北線|仙台市地下鉄南北線]]|}} {{BS3|tBHF||exBHF|1.3|[[榴ケ岡駅]]||}} {{BS3|tBHF||exBHF|2.4|[[宮城野原駅]]||}} {{BS3|tSTR|exKDSTa|exSTR||''陸前原ノ町電車区''||}} {{BS3|tBHF|exSTR|exBHF|3.2|[[陸前原ノ町駅]]||}} {{BS3|tSTRe|exKRWl|exKRWg+r||||}} {{BS3|KRZu|STRq|xKRZu|||東北本線(宮城野貨物線)|}} {{BS3|STR2|STRc3|O2=exSTRc2|exSTR3|O3=POINTERg@fq||旧線|-2000|}} {{BS3|STRc1|ABZ+4x1|exSTRc4||||}} {{BS|BHF|4.0|[[苦竹駅]]||}} {{BS|eBHF|4.6|''新田停留所''|-1944|}} {{BS|BHF|5.6|[[小鶴新田駅]]||}} {{BS|DST|6.8|[[宮城野信号場]]||}} {{BS3||KRWgl|KRW+r||[[仙台車両センター]]||}} {{BS3||STR|KDSTe|| [[仙台車両センター宮城野派出所|宮城野派出所]]||}} {{BS|BHF|7.7|[[福田町駅]]||}} {{BS|hKRZWae||七北田川橋梁||}} {{BS|BHF|8.6|[[陸前高砂駅]]||}} {{BS|BHF|10.3|[[中野栄駅]]||}} {{BS|KRZo|||[[仙台臨海鉄道]]:[[仙台臨海鉄道臨海本線|臨海本線]]|}} {{BS|BHF|12.6|[[多賀城駅]]||}} {{BS|BHF|14.4|[[下馬駅]]||}} {{BS3||STR|exSTR+1|||''[[塩釜線]]''|}} {{BS3||BHF|exSTR|15.2|[[西塩釜駅]]||}} {{BS5|||eABZg2|exSTR2+c3|exSTRc3||||}} {{BS5|||eSTR+c1|exSTR+4+c1|exSTR+4||||}} {{BS5||exSTR+l|eKRZo|exKRZo|exSTRr|||''[[塩釜港駅]]''|}} {{BS3|exBST|BHF|exBHF|16.0|[[本塩釜駅]]||}} {{BS3|exSTRr|O1=exSTR2|eSTR+c3|exSTR|||''塩釜線''|}} {{BS3|exSTRc1|eABZg+4|exSTR||||}} {{BS3||STR|exBHF||''東塩釜駅''|(1) -1981|}} {{BS3|exKBSTaq|eABZgr|exSTR|||''塩釜魚市場駅''|}} {{BS3|exSTR+l|eKRZo|exSTRr||||}} {{BS3|exSTR|BHF||17.2|[[東塩釜駅]](2)| 1981-|}} {{BS5||exSTRl|eABZg+r||LSTR|||東北本線|}} {{BS5|||TUNNEL1|STRc2|STR3||||}} {{BS5|||STR|STR+1|STRc4||||}} {{BS3||TUNNEL1|TUNNEL1||||}} {{BS3||TUNNEL1|TUNNEL1||||}} {{BS3||BHF|STR|20.3|[[陸前浜田駅]]||}} {{BS3||STR2u|STR3||||}} {{BS3||STR+1|STR+4u||||}} {{BS3||TUNNEL1|TUNNEL2||||}} {{BS3||tSTR2ua|STR3||||}} {{BS3||STR+1|tSTR+4u||||}} {{BS3||TUNNEL1|tSTRe||||}} {{BS3||eBHF|STR||''小石浜遊園停留所''|開業せず|}} {{BS3||TUNNEL1|TUNNEL1||||}} {{BS3||TUNNEL1|STR||||}} {{BS3||BHF|STR|23.2|[[松島海岸駅]]||}} {{BS3||TUNNEL1|TUNNEL1||||}} {{BS3||ABZg+l|ABZgr|||[[仙石東北ライン|仙石線・東北本線接続線]] 2015-|}} {{BS3||STR|HST|||[[松島駅]]|}} {{BS3||eBHF|STRl||''新富山停留所''|-1944|}} {{BS3|exBHFq|eKRZo|exSTRq|||''[[松島電車]]''|}} {{BS|hKRZWae||||}} {{BS|BHF|25.5|[[高城町駅]]||}} {{BS|TUNNEL1||||}} {{BS|BHF|27.3|[[手樽駅]]||}} {{BS|BHF|28.6|[[陸前富山駅]]||}} {{BS|BHF|30.8|[[陸前大塚駅]]||}} {{BS3|O1=POINTERf@g|exSTR+l|exSTRr|O2=STR|||旧線|-2015|}} {{BS3|exBHF|BHF||32.2|[[東名駅]]||}} {{BS3|exBHF|BHF||33.4|[[野蒜駅]]||}} {{BS3|exSTRl|eKRZ+xr|exSTR+r|O3=POINTERf@g||旧線|-2000|}} {{BS3||hKRZWa|O2=POINTERg@rfq|exhKRZWae||[[鳴瀬川橋梁]] (2)/''吉田川橋梁''|[[吉田川 (宮城県)|吉田川]]|}} {{BS3||hKRZWe|exhKRZWae|O3=POINTERg@rfq||''鳴瀬川橋梁'' (1)|[[鳴瀬川]]|}} {{BS3||eABZg+l|exSTRr||||}} {{BS|BHF|36.0|[[陸前小野駅]]||}} {{BS|BHF|37.6|[[鹿妻駅]]||}} {{BS|BHF|{{BSkm|40.2|0.0†}}|[[矢本駅]]||}} {{BS3|exnKBSTaq|eABZgnr||1.0†||''矢本飛行場専用線''|}} {{BS|BHF|41.6|[[東矢本駅]]||}} {{BS|BHF|43.1|[[陸前赤井駅]]||}} {{BS|BHF|45.2|[[石巻あゆみ野駅]]||}} {{BS3|exKDSTa|STR||2.9#|''[[石巻埠頭駅]]''||}} {{BS3|exSTR|BHF||46.6|[[蛇田駅]]||}} {{BS5|KDSTaq|eABZqr+l|ABZg+r|||{{BSkm|1.8*|0.0#}}|[[石巻港駅]]|(2)|}} {{BS3|exSTR|BHF||{{BSkm|47.6|0.0*}}|[[陸前山下駅]]||}} {{BS3|exKDSTe|STR||4.9*|''石巻港駅''|(1) -1971|}} {{BS3|BHFq|ABZqr||49.0|[[石巻駅]]|[[石巻線]]|}} {{BS-colspan}} ---- {{Reflist|group="*"}} |} |} 仙台駅の西側にあるあおば通駅が路線の起点である。 [[あおば通駅]]から[[陸前原ノ町駅]]を過ぎる付近までは[[仙台トンネル]]を通る地下線である。このトンネルは、[[地下水]]位の低い[[洪積台地]]の地下を通るあおば通駅から[[榴ケ岡駅]]を過ぎた辺りまでと、[[長町-利府線]]より先の地下水位が高い[[沖積平野]]の地下を通る区間で、異なる工法により施工された<ref name="J-Stage1991">渡邊誠司,古山章一,高木芳光、「[https://doi.org/10.11532/journalte1991.10.343 地下鉄函体建設における地下水流保持対策とその効果]」トンネル工学研究発表会論文・報告集 2000年 10巻 p.343-348, {{doi|10.11532/journalte1991.10.343}}</ref>。あおば通駅の地下ホームは標高20mほどで<ref name="J-Stage1991"/>、トンネルはここから榴ケ岡駅を過ぎて断層まで緩やかに下り<ref name="J-Stage1991"/>、断層の東側の一段低い所にある[[宮城野原公園総合運動場]]の前で大きく北東へ曲がる。さらに断層の際に沿って走り、[[宮城野原駅]]を過ぎた辺りでトンネルは最も深くなる。ここから陸前原ノ町駅に向かってトンネルは上り始め、同駅を過ぎると地上に出て<ref name="J-Stage1991"/>[[東北本線]]支線(通称、宮城野貨物線)の高架をくぐる。その後、そのまま線路は高架となり、[[苦竹駅]]を経て[[国道45号]]と[[梅田川 (宮城県)|梅田川]]を跨ぎ、その後に地上線となる。 ここからは断層の東側の地下水位の高い沖積平野であり、住宅地として不向きであったため、近年まで梅田川の南側のみが工業・流通団地として利用されていた。近年に[[小鶴新田駅]]が設置されて梅田川以北の一部が市街化したが、[[仙台バイパス]]から[[福田町駅]]の間には田園風景が残っている。[[福田町駅]]付近から先は、多賀城市や塩竈市まで市街地が続く。この付近は[[仙塩]]地区とも呼ばれる。<!-- 古くからの住宅地が形成されている地区に入る。ここからが[[陸奥国]][[国府]]・[[多賀城]]の時代から、[[七北田川]]両岸にある[[自然堤防]]上や[[松島丘陵]]上に人家が形成されている。(資料的な裏づけがなく不安なのでコメントとさせて頂きます。七北田川の流路は江戸時代前期までは岩切付近で折れて現在の砂押川にあたる流路だったと考えられていますが、その辺りも考慮されているのでしょうか。) -->仙石線は福田町駅の東側で[[七北田川]]と交差し、[[中野栄駅]] - [[多賀城駅]]間で[[仙台臨海鉄道臨海本線]]を築堤で乗り越えて、続けて[[砂押川]]を跨ぐ。[[本塩釜駅]]付近は、ルート変更により塩釜線沿いに線路を移設した関係で、海沿いを走る高架線となり眺めは良い。[[東塩釜駅]]から先は単線となる。 線路は利府町と松島町で松島丘陵をトンネルで通りながら松島湾沿いを走る。この付近で仙石線と東北本線は、並行するように線路が敷設されている。特に、利府町内においては線路が接近しており、列車の併走が見られる場合もある。[[松島海岸駅]]は、[[日本三景]]・[[松島]]の観光の中心地である。同駅を過ぎ、東北本線との線路の並行が終了し、[[高城町駅]]に向かうために当線が右カーブした先で、左手より東北本線から分岐した[[仙石東北ライン|仙石線・東北本線接続線]]が合流する。また、[[陸前富山駅]]から[[陸前大塚駅]] - [[東名駅]]間にかけては、奥松島の海岸線に沿うように線路が敷設されており、松島湾の眺めを楽しむことができる。[[東日本大震災]]前は、東名駅から先は[[東名運河]]沿いを走っていたが、震災後は陸前大塚 - 陸前小野間で高台を通るルートに変更され、左手に災害公営住宅を見ながら移設された東名駅及び[[野蒜駅]]を通る。 [[吉田川 (宮城県)|吉田川]]と[[鳴瀬川]]に連続して架かる[[鳴瀬川橋梁]]を越えると、列車は石巻平野([[仙北平野]])の水田地帯の中を走る。[[矢本駅]]・[[陸前赤井駅]]を過ぎ、石巻市内に入ると沿線に住宅地が多く見られるようになる。[[石巻あゆみ野駅]]は2016年(平成28年)に開業した仙石線で最も新しい駅である。[[蛇田駅]]の先で[[北上運河]]を越え、右手より[[石巻港駅]]から来た貨物支線と合流すると[[陸前山下駅]]である。同駅を過ぎると当路線は築堤を上り、右にカーブしながら地上に降りた先で、左手から[[石巻線]]が近づくと間もなく終点[[石巻駅]]である。 <gallery> Tōhoku access Sendai01.JPG|[[青葉通り]]地下にあるあおば通駅の出入口(右) Miyagino-dori avenue viewed from the roof top car parks of Sendai station.JPG|仙台トンネルが地下を通る[[宮城野通り]] Senseki-E8 grade site plate.jpg|かつての東八番丁踏切跡を示すプレートのある交差点 仙石線踏切跡銘板.jpg|仙石線踏切跡銘板 Matsusima Sightseeing town.JPG|松島海岸駅(左下)と松島港 JRSensekiLineSince2015.svg|東日本大震災前後のルートの比較 </gallery> {{-}} == 駅一覧 == === 営業中の区間 === ==== 本線(東日本旅客鉄道) ==== * {{JR特定都区市内|仙}}:[[特定都区市内]]制度における「仙台市内」エリアの駅 * 停車駅 ** 普通…信号場を除くすべての駅に停車 ** 仙石東北ライン…●・■:停車駅(■:東北本線ホームを使用)、○:一部列車のみ停車、|:通過駅 * 線路 … ∥:複線区間、◇・|:単線区間(◇:[[列車交換]]可能駅)、∨:これより下は単線、∧:終点(列車交換可能) * 全駅[[宮城県]]内に所在 {| class="wikitable" rules="all" |- !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:7.5em;"|駅名 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:2.5em; line-height:1.1em;"|駅間<br />営業<br />キロ !colspan="2" style="width:5em; line-height:1.1em;"|累計営業キロ !colspan="2" style="width:5em;line-height:1.1em; background:#fee;"|仙石東北<br />ライン !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee;"|接続路線・備考 !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:1em; "|{{縦書き|線路}} !rowspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:1em; line-height:1.1em;"|{{縦書き|地上/地下}} !rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:3px solid #00aaee;"|所在地 |- !style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:3em; line-height:1.1em;"|仙石線<br />経由 !style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:3em; line-height:1.1em;"|東北<br />本線<br />経由 !style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:1em; line-height:1.1em; background:#fee;"|{{縦書き|快速}} !style="border-bottom:3px solid #00aaee; width:1em; line-height:1.1em; background:#fee;"|{{縦書き|特別快速}} |- |[[あおば通駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:right;"|0.0 |colspan="2"| |[[仙台市地下鉄]]:{{Color|#317C66|■}}[[仙台市地下鉄南北線|南北線]]・{{Color|#00B1DD|■}}[[仙台市地下鉄東西線|東西線]]([[仙台駅]]・[[青葉通一番町駅]]) |style="text-align:center;"|∥ |rowspan="5" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em;"|{{縦書き|[[仙台トンネル|地下区間]]}} |rowspan="11" style="text-align:center; width:1em;"|{{縦書き|[[仙台市]]}} |[[青葉区 (仙台市)|青葉区]] |- |[[仙台駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:center; background:#fee;"|■ |style="text-align:center; background:#fee;"|■ |[[東日本旅客鉄道]]:[[File:Shinkansen jre.svg|15px|■]] [[東北新幹線]]・{{Color|mediumseagreen|■}}[[東北本線]]・{{Color|mediumseagreen|■}}{{Color|#00aaee|■}}[[仙石東北ライン]]・{{Color|#2A5CAA|■}}[[仙台空港アクセス線]]・{{Color|#3333ff|■}}[[常磐線]]<ref group="*">常磐線は路線名称上は東北本線[[岩沼駅]]が終点だが、運転系統上は全旅客列車は仙台駅に乗り入れる</ref>・{{Color|#72bc4a|■}}[[仙山線]]<br />仙台市地下鉄:{{Color|#317C66|■}}南北線・{{Color|#00B1DD|■}}東西線([[仙台駅]]・[[宮城野通駅]]) |style="text-align:center;"|∥ |rowspan="10" style="white-space:nowrap;"|[[宮城野区]] |- |[[榴ケ岡駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:center;"| - |colspan="2" rowspan="16" style="text-align:center;"|{{縦書き|[[東北本線]]・[[仙石東北ライン|接続線]]経由}} |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[宮城野原駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[陸前原ノ町駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|3.2 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[苦竹駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|4.0 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |rowspan="28" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; letter-spacing:1em;"|{{縦書き|地上区間|height=10em}} |- |[[小鶴新田駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|5.6 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[宮城野信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|6.8 |style="text-align:center;"| - |''[[仙台車両センター宮城野派出所]]への分岐'' |style="text-align:center;"|∥ |- |[[福田町駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|7.7 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[陸前高砂駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|8.6 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[中野栄駅]] {{JR特定都区市内|仙}} |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|10.3 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[多賀城駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|12.6 |style="text-align:center;"| - | <!--東日本旅客鉄道:東北本線([[国府多賀城駅]])接続駅とはいえない--> |style="text-align:center;"|∥ |colspan="2" rowspan="2"|[[多賀城市]] |- |[[下馬駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|14.4 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[西塩釜駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|15.2 |style="text-align:center;"| - |<!-- 東日本旅客鉄道:東北本線([[塩釜駅]]) 接続駅ではない--> |style="text-align:center;"|∥ |colspan="2" rowspan="3"|[[塩竈市]] |- |[[本塩釜駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|16.0 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∥ |- |[[東塩釜駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|17.2 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|∨ |- |[[陸前浜田駅]] |style="text-align:right;"|3.1 |style="text-align:right;"|20.3 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |style="text-align:center; width:1em;" rowspan="5"|{{縦書き|[[宮城郡]]}} |[[利府町]] |- |[[松島海岸駅]] |style="text-align:right;"|2.9 |style="text-align:right;"|23.2 |style="text-align:center;"| - |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |rowspan="4"|[[松島町]] |- |[[高城町駅]] |style="text-align:right;"|2.3 |style="text-align:right;"|25.5 |style="text-align:right;"|24.2 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|mediumseagreen|■}}{{Color|#00aaee|■}}仙石東北ライン(塩釜方面)<!-- 東日本旅客鉄道:東北本線(松島駅) 接続駅ではない--> |style="text-align:center;"|◇ |- |[[手樽駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|27.3 |style="text-align:right;"|26.0 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[陸前富山駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|28.6 |style="text-align:right;"|27.3 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[陸前大塚駅]] |style="text-align:right;"|2.2 |style="text-align:right;"|30.8 |style="text-align:right;"|29.5 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |colspan="2" rowspan="8"|[[東松島市]] |- |[[東名駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|32.2 |style="text-align:right;"|30.9 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[野蒜駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|33.4 |style="text-align:right;"|32.1 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[陸前小野駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|36.0 |style="text-align:right;"|34.7 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[鹿妻駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|37.6 |style="text-align:right;"|36.3 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[矢本駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|40.2 |style="text-align:right;"|38.9 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|● |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[東矢本駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|41.6 |style="text-align:right;"|40.3 |style="text-align:center; background:#fee;"|| |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[陸前赤井駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|43.1 |style="text-align:right;"|41.8 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|◇ |- |[[石巻あゆみ野駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|45.2 |style="text-align:right;"|43.9 |style="text-align:center; background:#fee;"|○ |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |colspan="2" rowspan="4"|[[石巻市]] |- |[[蛇田駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|46.6 |style="text-align:right;"|45.3 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|| |&nbsp; |style="text-align:center;"|| |- |[[陸前山下駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|47.6 |style="text-align:right;"|46.3 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|| |[[日本貨物鉄道]]:仙石線貨物支線 |style="text-align:center;"|◇ |- |[[石巻駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|49.0 |style="text-align:right;"|47.7 |style="text-align:center; background:#fee;"|● |style="text-align:center; background:#fee;"|● |東日本旅客鉄道:{{Color|#ed77a4|■}}[[石巻線]]・{{Color|mediumseagreen|■}}{{Color|#00aaee|■}}仙石東北ライン(女川方面) |style="text-align:center;"|∧ |} {{Reflist|group="*"}} 2022年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計<ref>{{Cite_web |url=https://www.jreast.co.jp/passenger/ |title=各駅の乗車人員 |publisher=東日本旅客鉄道 |accessdate=2023-10-09}}</ref>の除外対象となる駅(完全な無人駅。年度途中で無人化された駅含む)は、西塩釜駅・陸前浜田駅・手樽駅・陸前富山駅・陸前大塚駅・東名駅・野蒜駅・陸前小野駅・鹿妻駅・東矢本駅・石巻あゆみ野駅である。西塩釜駅はラッシュ時に限り改札要員の配置が常態化していたが、[[2020年]][[12月1日]]から終日係員不在となった。 ==== 貨物支線(日本貨物鉄道) ==== * (貨):貨物駅 * 両駅とも[[宮城県]][[石巻市]]内に所在 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:7.5em;"|駅名 !style="width:2.5em;"|営業<br/>キロ !接続路線 |- |[[陸前山下駅]] |style="text-align:right;"|- |東日本旅客鉄道:仙石線(本線) |- |(貨)[[石巻港駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |&nbsp; |} === 廃止区間 === 以下の各駅とも貨物駅で[[宮城県]][[石巻市]]内に所在。 ; 貨物支線(日本国有鉄道) : 釜駅(現在の石巻港駅(2代)) - [[石巻港駅 (初代)|石巻港駅(初代)]] (3.1km):1971年4月1日[[廃線|廃止]]。 ; 貨物支線(日本貨物鉄道) : 石巻港駅 - [[石巻埠頭駅]] (2.9km):1999年11月1日廃止。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[今尾恵介]]監修『[[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線』2 東北、[[新潮社]]、2006年。{{ISBN2|978-4-10-790020-3}}。 * 今尾恵介編著『新・鉄道廃線跡を歩く 2 -南東北・関東編』[[JTBパブリッシング]]、2010年。{{ISBN2|978-4-533-07859-0}}。 * 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編7(近代2) 仙台市、2009年。 * 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編8(現代1) 仙台市、2011年。 * 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編9(現代2) 仙台市、2013年。 * 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第2巻 通史編(下の2) 石巻市、1998年。 * 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第5巻 産業・交通編 石巻市、1996年。 * 利府町誌編纂委員会 『利府町誌』 利府町、1986年。 == 関連項目 == *[[宮城電気鉄道]] *[[宮城電気鉄道の電車]] *[[宮城電気鉄道キ1形電気機関車]] *[[宮城電気鉄道ED35形電気機関車]] *[[日本の鉄道路線一覧]] *[[仙石東北ライン]] *[[仙台 - 石巻線]](高速バス) *[[三陸沿岸道路]] == 外部リンク == {{Commonscat|Senseki Line}} * [https://www.jreast.co.jp/estation/result.aspx?mode=2&rosen=38=1=%90%e5%90%ce%90%fc 検索結果(仙石線の駅):JR東日本]{{リンク切れ|date=2023年4月}} {{東日本旅客鉄道の鉄道路線}} {{仙台近郊区間}} {{東日本旅客鉄道仙台支社}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せんせき}} [[Category:仙石線|*]] [[Category:東北地方の鉄道路線]] [[Category:宮城電気鉄道|路]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道路線]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道路線]] [[Category:宮城県の交通]] [[Category:仙台湾]]
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横浜DeNAベイスターズ/log20230831
横浜DeNAベイスターズ(よこはま ディー・エヌ・エー ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ベイスターズ」「横浜」「DeNA」。また、「ベイ」「ハマ」 とも呼ばれる。 神奈川県を保護地域としており、横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。 1950年のリーグ分裂時に大洋ホエールズとして発足し、松竹ロビンスの合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズと変わったのち2012年よりDeNAを親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 林兼商店(後の大洋漁業→マルハ、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に山口県下関市で創立され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では初挑戦ながら、全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し、一躍名を上げる。 1949年オフにプロ野球がリーグ拡張方針を打ち出すと、各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部から戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出すこととなった。 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。 社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた。 1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博ら、阪急ブレーブスから宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。 特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、6月21日の兼六園球場を皮切りに、8月27日の後楽園スタヂアムに至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は旭川市から西は本拠地に近い徳山市まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた。 1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は徳山市営毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館千代ヶ岱球場で開催された。 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンスと対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。 1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場と衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。 大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、1953年2月8日の京都新聞は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた田村駒治郎(松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。 1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県に移転した。球団事務所は川崎市中原区に設置される。 川崎球場を本拠地とする新生大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた。 明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。 ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録)。 前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも大毎オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うも、あと一歩及ばず、1963年は最下位・広島と1ゲーム差の5位。 1965年以降、チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず、関係していた。 開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが、7月頃から徐々に低迷し、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれ、前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。 チームは3年連続5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。 4年連続5位。 15年ぶりの最下位。川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は横浜での新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は大洋漁業55%、国土計画45%となった。 2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎が継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても、山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。 国土計画の主導で横浜市中区の横浜公園内に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など、営業体制の改革を伴った改変により、ファンが増加した。国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に2:1の割合で売却された。これにより、2002年初めまで球団株式保有率は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)55%、ニッポン放送30%、TBS(現・TBSホールディングス)15%となった。 序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している。 8年ぶりAクラスの2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。 土井淳が監督就任。初年度は4位。ドラフトでは地元東海大学の原辰徳を1位指名したが、交渉権を獲得できなかった。 キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。 長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。オフに長嶋は一時は就任に前向きな態度を見せるも、最終的には「もう少し野球を勉強してから」と固辞。関根は長嶋の就任が決まれば勇退することを決めていたが、長嶋の就任辞退により、続投。 4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。 最下位に転落。この年限りで平松政次が引退。同年限りで関根は辞任。 近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し、注目された。しかし、遠藤一彦、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は4位と振るわなかった。 年明けにレオン・リーを解雇し、カルロス・ポンセ、ダグ・ローマンを獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど、勢いがあったものの、加藤博一、田代富雄ら主力が離脱すると、選手層の薄さを露呈し、4位に終わり、近藤貞雄は2年で監督を退任。屋鋪要はこの年から3年連続盗塁王。 広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎え、広島時代のコーチやスカウトで首脳陣を固めた。他球団からもベテランの永射保、片平晋作らを獲得して積極的に起用した。また、韓国球界から復帰した新浦壽夫は11勝でカムバック賞。遠藤は10月の巨人戦で走塁中にアキレス腱断裂の負傷。打撃陣は開幕直前にメジャーで実績のあるレスカーノを前年に実績をあげたローマンを解雇してまで獲得したが、すぐに引退してしまう。外野転向のポンセは4番に定着して35本塁打、高橋雅裕は遊撃手のレギュラーとなる。5位に終わる。将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、ドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末にヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋招聘の話は無くなった。 出場機会が減っていた山下大輔が開幕直前に引退。新加入のジム・パチョレックは高木とともに3割を打って、ポンセも本塁打王、打点王の2冠。投手では中山裕章が抑えに定着し、捕手は市川和正が抜擢された。4位となる。 開幕から振るわず、屋鋪は不調でスタメン落ちすると、山崎賢一が台頭して規定打席に届かずも3割を打ってシーズン終盤には4番まで任された。パチョレックは.333の好成績を収めるが、ポンセは前年から成績を落とす。投手陣はベテランに衰えが見え始めて軸ができなかった。古葉は1984年以来5年ぶりの最下位の責任を取り、5年契約ながら3年目で監督を辞任した。このことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名が挙がっていたが、大洋で2年間二軍監督に経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した。 序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せ、その後失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。巨人の二軍監督で実績を残した須藤監督は若手を積極起用した。また、パワーのあるジョーイ・マイヤーを獲得し、ポンセは主にファームで終わり、退団。パチョレックは高木豊と首位打者を争って3年目にして念願の獲得。中山裕章は先発転向し、遠藤は抑えに回ると21セーブでカムバック賞。加藤博一が現役を引退した。 阪神以外のセ・リーグ5球団の首位争いの中、4月は首位に立つも、その後失速し、5月以降は5位に転落。野村弘樹は15勝を挙げる。パチョレックは4年連続の3割を打つも、本塁打の少なさから、解雇され、阪神に移籍。オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、神奈川県警察(捜査一課・金沢警察署)に強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕され、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された。また、この事件に伴い、川島廣守セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした。 前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した石井琢朗がレギュラーを取る。盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。新入団のラリー・シーツは打点王を獲得したが、退団。遠藤は引退。 1993年4月1日、親会社の大洋漁業がCI実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。 選手育成に定評があった球団OB近藤昭仁が監督に就任。ヘッド兼打撃コーチには近藤と西武時代一緒だった長池徳士、投手コーチには近藤の早稲田大学の後輩高橋直樹、バッテリーコーチには大矢明彦が就任。新外国人選手としてグレン・ブラッグスとロバート・ローズを獲得。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。石井、進藤達哉が初の規定打席到達。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。斉藤の引退により、川崎時代の大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の駒田徳広を獲得。長年チームを支えた市川和正、高木豊、屋鋪要、山崎賢一、松本豊、大門和彦が大量解雇された(市川と松本は現役を引退、高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)。 怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・佐々木主浩の穴を16セーブを挙げた盛田幸希の活躍が光った。 投手コーチに近藤の早稲田大学の後輩八木沢荘六が就任。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす。確かなチーム力の向上が見られた。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留敏夫がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成。鈴木尚典は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された。 バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。 権藤博を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。 権藤が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また、前年怪我のため、一軍登板がなかった斎藤隆が復活を果たし、カムバック賞を獲得。ドラフトではこの年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが、獲得できなかった。 ロバート・ローズが当時右打者シーズン最高の打率.369、153打点を記録し、二冠王に輝く活躍を見せるなど、マシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録を更新する。しかし、投手陣は川村丈夫が17勝を挙げるものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数が揃わず、3位に終わった。オフに佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。 この年よりファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず、2年連続3位に終わった。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団した。 西武を8度のリーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続Aクラスと3年連続3位に終わった(この年の順位に関しては後述)。オフにチーム最多勝投手の小宮山がメジャーリーグに挑戦するために退団した。正捕手の谷繁元信が監督の森との確執もあり、中日にFA移籍。中日から金銭トレードで中村武志を獲得。監督の森の西武時代の教え子の森繁和を投手コーチ、辻発彦を内野守備走塁コーチに招聘した。 1月26日に筆頭株主(親会社)がマルハ(現・マルハニチロ)からニッポン放送に変更される予定だったが、ニッポン放送の当時の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(現・TBSホールディングス)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。 球団オーナーは当時の東京放送社長砂原幸雄となった(詳細はマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代の節を参照)。これに際し、1978年からニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。これを境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。 開幕から記録的な低迷を続け、球団ワーストタイ目前となる1986年以来16年ぶりの13連敗を喫するなど、全日程で1994年以来8年ぶりの最下位となり、9月26日に監督の森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされ、3年契約の2年目ながらこの年限りで事実上の解任となり、翌27日からヘッド兼打撃コーチの黒江透修が監督代行として指揮を執ることを発表した。オフに監督代行の黒江が退団した。この年での最終勝率は.363だった。NPB12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラゲームは0勝6敗となった。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年の広島以来24年ぶり。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。チーム防御率・失点リーグ5位、チーム打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。西武から石井義人、細見和史との2対2トレードで中嶋聡、富岡久貴を獲得。2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。 この年から2015年にかけて14年間で10回の最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。 チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約でダイエーからFA宣言した若田部健一を獲得するなど、大型補強を試みる。だが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど、大きく苦しみ、6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分と惨憺たる成績で、シーズン90敗到達はNPBでは1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。オフに日本ハムから横山道哉とのトレードで野中信吾を獲得。中村武志の復調や相川亮二の台頭で来季構想外となった中嶋聡が金銭トレードで日本ハムに移籍。 佐々木主浩が年俸6億5,000万円の2年契約を結び、5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つも、その後投手陣の不振により、徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続ける中、最終戦に敗れ、広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で1959年以来45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方、前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど、一定の成績は残した。山下はこの年、監督を退任した。オフにオーナーの砂原幸雄が一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとって辞任し、TBS(現・TBSホールディングス)副社長の若林貴世志が新オーナーに就任。 牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも、不調だった三浦をはじめ、投手陣が復活し、2001年以来4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、巨人には東京ドームで同一カード3連勝を記録するなど、一度も負け越しがなく、16勝6敗と大きく勝ち越した。佐々木主浩が現役を引退した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど、新しいファンサービスを行った。オフに斎藤隆がロサンゼルス・ドジャースに移籍。 投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの監督退任を発表。この年チーム唯一の2桁勝利だが、年俸査定に不満を持った門倉健が巨人にFA移籍。巨人から小田嶋正邦+金銭とのトレードで仁志敏久、ソフトバンクから多村仁とのトレードで寺原隼人、巨人にFA移籍した門倉の人的保障として工藤公康を獲得。日本ハムを自由契約となった横山道哉が4年ぶりに復帰。 4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。10月、「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。 大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。前半戦は移籍組やベテラン勢の活躍で一時首位に立つなど、上位を猛追し、3位で折り返す。最終戦で敗れ、シーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年ぶりに70勝に到達し、村田が球団日本人選手としては桑田武以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど、主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。オフにマーク・クルーンが自由契約となった(巨人に移籍)。オリックスから古木克明とのトレードで大西宏明を獲得。 開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた。一方、スウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドームで行われた阪神との3連戦の1度だけで最大の連勝は3に留まった。 セ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、12球団で最少だった阪神(85被本塁打)の倍近くにあたる168本塁打を打たれ、いずれも12球団ワースト。与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりな一方で、6月10日に巨人から鶴岡一成とのトレードで真田裕貴、16日に中日から小池正晃とのトレードで石井裕也を獲得するなど、投手陣を補強したが、チーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。在籍3年間で84セーブを挙げたクルーンが巨人に移籍したことで、27セーブと9回の失点は52はいずれもセ・リーグワーストを記録した上、先発投手が5回未満で降板した試合数53と先発投手が6回以上投げて自責点3以内に抑えた割合(QS%)の31.3%はいずれも12球団では群を抜くワーストだった。 この年に飛躍し、右打者シーズン最高打率を塗り替え、首位打者と最多安打を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村とリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べなかったため、チーム打率は.2655にもかかわらず、出塁率は.31552と12球団ワーストだった。加えて盗塁は37と4年連続でリーグワーストを記録し、盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団では群を抜くワーストだった。 10月5日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に川村丈夫が現役を引退し、11日に石井琢朗、13日に鈴木尚典が自由契約となった(石井は広島に移籍、鈴木は現役を引退)。 投打ともにリーグまたは12球団のワースト記録を量産し、2006年以来2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と内川の打率(.378)よりも低く、「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事も発生する始末で、オフにヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手コーチの斉藤明夫ら4コーチが解任。 新外国人として陳瑋、王靖超と育成契約を結んだ。相川亮二がヤクルトにFA移籍。広島から金銭トレードで森笠繁、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得。 ワールド・ベースボール・クラシックでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど、序盤から低迷し、5月18日に監督の大矢が無期限休養に入り、併せて二軍監督の田代富雄が監督代行として指揮を執ることを発表した。一方、7月に新外国人としてスティーブン・ランドルフを獲得。しかし、チームを浮上させることはなく、93敗を喫し、2年連続最下位に終わる。前年と同様、貯金は一度もなく、無期限休養に入っていた監督の大矢は正式に退任、監督代行の田代はシーズン終了後に二軍監督に再任、投手コーチの杉本正は1年で解任。チーム防御率・失点・打率・得点はリーグ最下位に終わった。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。オフに仁志敏久が退団し(ランカスター・バーンストーマーズに移籍)、工藤公康、横山道哉が自由契約となった(工藤は西武に復帰、横山は現役を引退)。ロッテから那須野巧、齋藤俊雄との2対1トレードで清水直行、元ロッテの杉原洋、日本ハムから加藤武治、松家卓弘、関口雄大との3対3トレードで稲田直人、坂元弥太郎、松山傑、ソフトバンクを自由契約となった篠原貴行、ロッテからFA宣言した橋本将、ロッテから金銭トレードで早川大輔、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジ、新外国人として王溢正、クリス・ブーチェック、ホセ・カスティーヨを獲得。 当初の構想では前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、抑えに起用する予定だったブーチェックがオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから、急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。一方、4月1日に日本ハムから石井裕也とのトレードで江尻慎太郎を獲得。4月7日にキンタナロー・タイガースに入団していた大家友和が12年ぶりに復帰。4月20日にソフトバンクから吉川輝昭とのトレードで井手正太郎を獲得。しかし、5月9日に吉見祐治が金銭トレードでロッテに移籍。開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。また、6月に新外国人としてブレット・ハーパーを獲得。一度も浮上することなく、9月7日の対巨人戦、25日の対中日戦に敗れ、5年連続Bクラスと3年連続最下位が確定し、28日の対ヤクルト戦、10月6日の対阪神戦に敗れ、プロ野球史上初の3年連続90敗と130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。9月10日に佐伯貴弘が自由契約となり(中日に移籍)、10月2日に森笠繁、6日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に木塚敦志が現役を引退した。一軍ヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取って1年で辞任。 8月には2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSホールディングスとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていたが、実際の交渉は難航。結局、10月27日にTBSホールディングスが住生活グループとの交渉を打ち切り、2011年度も球団を保有することを発表するに至った。交渉決裂の理由としてはTBSホールディングスおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としているものの、翌28日に加地隆雄球団社長は秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにし、潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった。」と理由を述べた。 オフにランドルフら外国人選手3人が退団し(ブーチェックはタンパベイ・レイズ、カスティーヨはロッテに移籍)、陳瑋と王靖超の両外国人選手が自由契約となった(共に天津ライオンズに復帰)。オリックスから桑原謙太朗、野中信吾、高宮和也、寺原隼人との計4対3トレードで一輝、山本省吾、喜田剛、新外国人としてクレイトン・ハミルトン、ブランドン・マン、ブレント・リーチ、陳冠宇、楽天から金銭トレードで渡辺直人、日本ハムからFA宣言した森本稀哲、西武から坂元弥太郎とのトレードで大沼幸二を獲得。内川聖一がソフトバンクにFA移籍。 3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に東日本大震災が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している。また、4月1日にリーチがNPB史上初の制限選手となった。当初は3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響で4月12日に延期された。2007年以来4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めた。一方、4月25日に前年オフに退団したランドルフが復帰。しかし、5月以降は低迷状態に陥る一方で、23日に新外国人としてルイス・ゴンザレス、元楽天の中村紀洋を獲得。交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わる。さらに、6月28日にランドルフが解雇されたことで、7月にリーチを支配下選手に復帰させたが、またしても一度も連勝できないままオールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す。後半戦では7月29日に国吉佑樹を支配下選手に登録させたが、一度も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れ、6年連続Bクラスと4年連続最下位が確定した。最終的には47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた。チーム防御率は2005年以来6年ぶりの3点台だったが、2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。10月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に早川大輔が現役を引退した。 10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エーに譲渡することで、大筋合意がなされたことが報道され、22日の最終戦終了後、監督の尾花と6人のコーチ陣が休養に入り、11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)及びBS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)ディー・エヌ・エーに譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)。11月22日、監督の尾花と6人のコーチ陣が解任。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてディー・エヌ・エーによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された。 オフに杉原洋、稲田直人、松山傑、喜田剛、リーチら外国人選手3人、真田裕貴が自由契約となり(喜田は現役を引退、スレッジは日本ハムに復帰、稲田は楽天、松山は石川ミリオンスターズ、リーチはロサンゼルス・ドジャース、ハーパーはモンクローバ・スティーラーズ、真田は巨人に移籍)、ゴンザレスが解雇された(兄弟エレファンツに移籍)。村田修一が巨人にFA移籍。西武から武山真吾とのトレードで後藤武敏、巨人を退団したアレックス・ラミレス、他球団からFAで4年ぶりに復帰した鶴岡一成と小池正晃の両名、日本ハムを自由契約となった菊地和正と林昌範の両名、広島を自由契約となったジオ・アルバラード、新外国人としてオスカー・サラサー、巨人にFA移籍した村田の人的補償として藤井秀悟を獲得。 TBSホールディングス時代は10年間で8回の最下位という戦績を残して幕を下ろした。 2023年現在、横浜ベイスターズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は藤田一也・田中健二朗(いずれもDeNA)・梶谷隆幸(巨人)・国吉佑樹(ロッテ)の4人。 2011年12月2日、球団株式が譲渡され、商号変更により、「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がり、最終的には横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督などの人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べ、6日に当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表された。 1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行い、3月18日、これまでの球団マスコットだったホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。筆頭株主(親会社)変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。 3月30日、横浜DeNAベイスターズとしての初陣となった阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して球団名称変更後初白星を挙げるも、続く4月4日から10日、22日から5月1日にかけて2度に渡り、6連敗するなどした。一方、6月8日に元楽天のランディ・ルイーズを獲得。交流戦は9勝14敗で10位に終わる。しかし、6月22日にハミルトンとの契約を解除した。また、6月24日に楽天から藤田一也とのトレードで内村賢介を獲得(ドラフト育成選手では球団初の単独のトレード)。その後、6月25日に大沼幸二が現役を引退した。さらに、7月4日に新外国人としてボビー・クレイマーを獲得。7月6日の対中日戦に敗れ、借金20となり、自力優勝が消滅した。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初めて同一カード3連勝をしたものの、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、7年連続Bクラス、29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するも、30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続最下位が確定し、10月7日の対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり、東京ドームにおいてセ・リーグ初の記録となった。10月8日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に新沼慎二が現役を引退した。なお、この年には広島の野手コーチ兼選手だった石井琢朗が現役を引退したため、ドラフト外入団した選手が全員引退した。最終的には首位巨人とは40ゲーム差、5位の阪神にも9.5ゲーム差をつけられてしまい、セ・リーグ5球団に負け越した。 オフに大原淳也、福山博之、清水直行、ブランドンら外国人選手5人が自由契約となった(大原は香川オリーブガイナーズに復帰、福山は楽天に移籍)。日本ハムから北篤とのトレードで土屋健二、ソフトバンクから江尻慎太郎、山本省吾、吉村裕基との3対3トレードで多村仁志(7年ぶりに復帰)、吉川輝昭(3年ぶりに復帰)、神内靖、中日を自由契約となったトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサ、新外国人としてナイジャー・モーガンを獲得。阪神を自由契約となった鄭凱文、新外国人としてケビン・モスカテルと育成契約を結んだ。 2月26日に鄭凱文を支配下選手に昇格させた。5月29日に王溢正との契約を解除し(Lamigoモンキーズに復帰)、6月4日に新外国人としてティム・コーコランを獲得。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる。一方、7月7日に西武から渡辺直人とのトレードで長田秀一郎を獲得。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、8年連続Bクラスが確定したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、2007年以来6年ぶりの最下位脱出が決定し、最終的には1996年以来17年ぶりの5位が確定した。ヤクルト・阪神・中日を相手に勝ち越しが決まったが、セ・リーグ3球団に勝ち越したのは2001年以来実に12年ぶりのことであった。篠原貴行、小池正晃が現役を引退した。 オフにラミレス、森本稀哲、嶋村一輝、鄭凱文とコーコランの両外国人選手が自由契約となり(ラミレスは群馬ダイヤモンドペガサス、森本は西武、鄭凱文は中信兄弟に移籍、嶋村は現役を引退)、モーガンが退団した(クリーブランド・インディアンスに移籍)。中日を自由契約となった柳田殖生、日本ハムから佐藤祥万とのトレードで加藤政義、阪神からFA宣言した久保康友、オリックスを退団したアーロム・バルディリス、コロラド・ロッキーズを自由契約となった高橋尚成、新外国人としてギジェルモ・モスコーソを獲得。FA入団した久保の人的補償として鶴岡一成が阪神に移籍。 3・4月は7勝18敗、勝率.280と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、4月27日に萬谷康平を支配下選手に登録させ、5月13日にキューバから大砲のユリエスキ・グリエルを獲得。5月に井納翔一、6月に山口俊(9月にも獲得)、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。5月終了時点で首位広島に9.5ゲーム差、6月終了時点で首位巨人に11ゲーム差の最下位。しかし、7月以降は最下位から脱出し、9月までにクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の同月に失速し、27日にAクラス入りの可能性が消滅し、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が確定した。モスカテルが現役を引退した。ドラフトでは後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる山﨑康晃(亜細亜大学)を1位指名。 オフに藤江均、中村紀洋、菊地和正、藤井秀悟、神内靖、ソーサら外国人選手4人が自由契約となった(菊地とソトは群馬ダイヤモンドペガサス、藤江は楽天、陳冠宇はロッテ、ブランコはオリックスに移籍、中村と藤井と神内は現役を引退)。金城龍彦が巨人にFA移籍。オリックスを自由契約となった東野峻、ソフトバンクを自由契約となった岡島秀樹、巨人を自由契約となったホセ・ロペス、新外国人としてヨスラン・エレラ、キューバからグリエルの弟のグリエルJr.を獲得。 1月16日に球団オーナーが春田真から親会社・DeNAの創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した。また、ユニフォームも濃紺から青色(通称:横浜ブルー)に変わった。 4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は横浜時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、ディー・エヌ・エーが筆頭株主(親会社)となってからは初の単独首位につくなど、序盤は好調な滑り出しを見せた。一方、6月7日に砂田毅樹を支配下選手に登録させた。しかし、交流戦では全6カードを全て負け越し、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう。しかし、6月23日の巨人戦に7-2で勝利し、連敗を12で止めた。交流戦後の混戦の中、6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。一方、7月3日に新外国人としてデュアン・ビロウを獲得。前回優勝の1998年以来となる前半戦首位ターンとなった。しかし、後半戦に入ると、徐々に順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、10月3日にシーズン最終戦(巨人戦)で敗れ、10年連続Bクラスと2012年以来3年ぶりの最下位が確定した。前半戦を首位で折り返しながらシーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった。本塁打数はリーグ最多の112、得点はリーグ2位の508だったものの、チーム防御率3.80、総失点598はリーグワーストだった。黒羽根利規、髙城俊人、嶺井博希を起用するなど、固定できなかった捕手陣は11捕逸と1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68暴投を記録した。また、神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。観客動員数は好調で、球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑は低迷の責任を取る形で退任。これにより、4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた。後任に球団史上初の外国人監督となるラミレスが就任。 10月21日、ラミレスの新監督就任が正式に発表された。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表。ドラフトでは即戦力として期待された左投手の今永昇太(駒澤大学)を1位指名。課題であった捕手にも戸柱恭孝(NTT西日本)を迎えた。 オフに多村仁志、東野峻、土屋健二、加藤政義、岡島秀樹、ビロウとバルディリスの両外国人選手が自由契約となった(バルディリスはサムスン・ライオンズ、多村は中日、東野と土屋と加藤は現役を引退)。新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリック、巨人を自由契約となった久保裕也、ソフトバンクとの育成契約を拒否した白根尚貴を支配下選手として獲得。 この年で暗黒時代は一応終わり、最下位もDeNA時代では2021年まで経験しなくなる。 前年11月に開始されていた本拠地である横浜スタジアムの運営会社・株式会社横浜スタジアムの友好的TOBが一段落し、1月20日付で横浜スタジアム運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は1月28日付で名義を横浜DeNAベイスターズの子会社(ディー・エヌ・エーの孫会社)に変更。 キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発した。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望となったほか、石川雄洋、山口俊、梶谷隆幸が故障により、開幕に間に合わず、3・4月は投打にわたり、戦力不足で9勝18敗と大きく負け越し、開幕直後に日本ハムから金銭トレードで藤岡好明、広島を自由契約となったマイク・ザガースキーを獲得したが、5月に入ると、怪我で離脱していた梶谷ら主力選手も戻り、5月15日に新外国人としてエリアン・エレラを獲得。その後、石田健大、今永昇太が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど、5月3日時点で11あった負け越しを5月28日には完済した。交流戦は負け越したものの、7月11日に三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)するなど、勢いを取り戻し、1999年以来17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決めた。一方、7月14日に新外国人としてマイク・ブロードウェイを獲得。7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど、大爆発した。後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島との最終戦にて勝利し、2005年以来11年ぶりのAクラスと3位が確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分。投手陣ではルーキーの今永、2年目の石田が先発ローテーションに入り、野手陣では筒香が本塁打王と打点王のタイトルを獲得。桑原、倉本がレギュラーに定着するなど、若手の台頭が目立った。シーズン最終戦となる9月29日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に三浦大輔が現役を引退した。三浦の引退により、横浜大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。ドラフトでは1位で濱口遥大の単独指名に成功。9位に佐野恵太を指名し、これが大化けへと繋がってゆく。 クライマックスシリーズ(CS)では公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の広島と対戦し、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの、1勝4敗で敗退した。DeNAがCSに進出し、ファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にしてNPB全球団がCSに出場すると共にセ・リーグ全6球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。 オフに井手正太郎、内村賢介、長田秀一郎、柳田殖生、久保裕也、エレラら外国人選手6人が自由契約となった(ロマックはサンディエゴ・パドレス、ブロードウェイはワシントン・ナショナルズ、ペトリックはサムスン・ライオンズ、久保は楽天、ザガースキーはデトロイト・タイガース、長田は新潟アルビレックスBC、モスコーソはレオン・ブラボーズに移籍、井手と柳田は現役を引退)。山口俊が巨人にFA移籍。新外国人としてアウディ・シリアコ、ジョー・ウィーランド、スペンサー・パットン、フィル・クライン、ヤクルトを自由契約となった田中浩康、巨人にFA移籍した山口の人的補償として平良拳太郎を獲得。 広島が1991年以来26年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAはセ・リーグ全6球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった。 5月30日の交流戦初戦で3位に浮上。一方、7月6日に日本ハムから黒羽根利規とのトレードでエドウィン・エスコバーを獲得。8月22日から24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から筒香嘉智(2ラン)、ロペス、宮﨑敏郎の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏二死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から倉本寿彦の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である。9月に入り、巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり、順位が入れ替わることもあった。その最中、26日に高崎健太郎、大原慎司が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。10月1日の対広島戦で勝利し、2年連続3位が確定した。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりの勝ち越しを決めた。今永、濱口、ウィーランドの3人が二桁勝利を挙げ、宮﨑は首位打者、ロペスは最多安打と打点王のタイトルを獲得した。 クライマックスシリーズ(CS)では1stステージで2位阪神と対戦。2戦目は大雨で異例のコンディションの中、泥試合と称される戦いに勝利し、その勢いで2勝1敗で阪神を破った。ファイナルステージでは第1戦を落とした後に4連勝し、4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位の広島を破り、日本シリーズに進出した。3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。これにより、CS制度導入後11年目にしてセ・リーグ6球団が日本シリーズに進出した。また、2010年代にセ・リーグ6球団が日本シリーズに出場した。ソフトバンクとの日本シリーズでは3連敗で王手をかけられた後、2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身を含め、3度目となる日本シリーズで初めて敗退し、日本一を逃した。 オフに山崎憲晴、久保康友、クラインら外国人選手3人が自由契約となった(山崎は阪神、シリアコはサセックスカウンティー・マイナーズ、久保はゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ、エリアンはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。元ソフトバンクのエディソン・バリオス、新外国人としてネフタリ・ソト、中日を自由契約となった武藤祐太、楽天を自由契約となった中川大志、補強の目玉として阪神からFA宣言した大和を獲得。FA入団した大和の人的補償として尾仲祐哉が阪神に移籍。下園辰哉、小杉陽太、林昌範が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。 横浜時代の2011年以来球団がDeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが、試合は3-7で敗れ、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝し、4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると、4月7日から15日にかけて2001年以来17年ぶりとなる8連勝を記録した。しかし、ここから急降下し、7月4日に元ロッテの中後悠平、9日にオリックスから髙城俊人、白崎浩之との2対2トレードで伊藤光、赤間謙を獲得。7月18日にオーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーと戦略的パートナシップを締結したことを発表した。8月までに2か月連続で負け越し、最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスと4位に終わった。山﨑が初の最多セーブ、ソトは本塁打王のタイトルを獲得。加賀繁、後藤武敏が現役を引退した。 オフに荒波翔、白根尚貴、田中浩康、ウィーランドが自由契約となった(荒波はモンテレイ・サルタンズ、ウィーランドは起亜タイガースに移籍、白根と田中は現役を引退)。巨人を自由契約となった中井大介を獲得。かつてチームに所属していた古村徹が4年ぶりに復帰。 球団創設70周年を記念し、この年限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る。 1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた。3月14日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携を締結した。 3月26日に楽天から熊原健人とのトレードで濱矢廣大を獲得。4月に2015年以来4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利したことで、最下位から脱出する。一方、翌31日に新外国人としてサミー・ソリスを獲得。オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返し、一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局一度も首位に立つことなく、優勝を逃した。それでも9月24日の中日戦に勝利したことで、1997年以来22年ぶりの2位が確定し、初となるCS本拠地開催を決めたことにより、NPB全球団が本拠地でのCSの開催を経験した。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年ぶり。 CSファーストステージでは3位の阪神と対戦するも、第1戦で6点差から逆転負けしたこともあり、1勝2敗で球団初のファーストステージでの敗退となった。 ソトが43本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と打点王を獲得した。 10月29日に筒香嘉智がポスティングシステムを利用しての大リーグ挑戦を正式に発表した。 オフにバリオスとソリスの両外国人選手が自由契約となり(バリオスはメキシコシティ・レッドデビルズ、ソリスは2021年シーズン途中、モンクローバ・スティーラーズに移籍)、田中健二朗が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。新外国人としてマイケル・ピープルズ、2015年のアリゾナ・フォールリーグでローズが打撃コーチを務めていた際に教え子だったタイラー・オースティンを獲得。オリックスを自由契約となった髙城俊人が1年半ぶりに復帰。 1月25日、佐野恵太が筒香のポスティングシステムでのタンパベイ・レイズへの移籍に伴い、空席となっていたキャプテンに就任することが発表された。 春季キャンプでは過去にMLBでゴールドグラブ賞を11度受賞した守備の名手であるオマー・ビスケルを特別コーチとして招聘し、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスよりバリー・エンライトとブレイク・ラリーがコーチ研修目的で参加し、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとスティーブン・チェンバースが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた。 新型コロナウイルス感染症によるパンデミックにより、3月に開幕予定だった公式戦は3か月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の無観客での開幕だった。 開幕後は今永昇太とオースティンが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ロペスとソトの両外国人選手の不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まった。しかし、9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降、ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)、負けが込み、11日の阪神戦に敗れ、4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、25日に球団からラミレスの退任が発表され、11月5日の中日戦に敗れ、2018年以来2年ぶりのBクラスが確定し、11日に広島が中日に負けたため、4位でシーズンを終えた。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって、巨人戦6連勝を記録し、リーグで12勝12敗と唯一負け越すことなく、巨人の完全優勝を阻止した。また、佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい話題もあった。これにより、5年間に及ぶラミレス政権は幕を閉じた。後任に二軍監督の三浦大輔が昇格する形で就任。 11月17日、三浦の新監督就任が正式に発表された。 オフにロペスとパットン(テキサス・レンジャーズに移籍)の両外国人選手が退団し、赤間謙、現役続行を希望し、移籍先を探していた石川雄洋が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。梶谷隆幸、井納翔一が巨人にFA移籍。ヤクルトを自由契約となった風張蓮、巨人にFA移籍した梶谷の人的補償として田中俊太、新外国人としてフェルナンド・ロメロを獲得。新外国人としてケビン・シャッケルフォード、巨人を自由契約となった宮國椋丞と育成契約を結んだ。 新型コロナウイルス感染症の影響で外国人選手が12球団で唯一全員来日できず、戦力が揃ったのは4月15日のことであり、3、4月は2引き分けを挟んで10連敗を含む6勝21敗4分と大きく負け越した。一方、4月23日にシャッケルフォードを支配下選手に昇格させた。また、6月14日にロッテから国吉佑樹とのトレードで有吉優樹を獲得、その後翌15日に田中健二朗を支配下選手に復帰させた。さらに、8月30日に宮國椋丞を支配下選手に昇格させた。打撃陣は打率3割を記録した選手を4人(牧秀悟、桑原将志、佐野恵太、宮﨑敏郎)輩出したほか、チーム本塁打136本、チーム得点559点はいずれもリーグ2位だったが、7連敗以上を2度記録したこともあり、また勝利数が最も多かった大貫晋一でさえ6勝止まりと成績を大幅に落とし、2年連続Bクラスと2015年以来6年ぶりの最下位が確定した。牧は1年目ながら数々の新人記録を打ち立てる活躍を見せ、新人特別賞を受賞した。 オフに坪井打撃コーチ、川村投手コーチ、新沼バッテリーコーチ、牛田・藤岡両二軍投手コーチなど、首脳陣が退団した。風張蓮、ピープルズとシャッケルフォードの両外国人選手が自由契約となり(風張はケンタッキー・ワイルドヘルス・ゲノムスに移籍、ピープルズは再契約、シャッケルフォードは退団)、平良拳太郎が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。楽天を自由契約となった藤田一也が10年ぶりに復帰。新外国人としてブルックス・クリスキー、日本ハムをノンテンダーとなった大田泰示を獲得。 オリックスが1996年以来25年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAは現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」及び20世紀に創設した同11球団と2004年に消滅した近鉄を含む12球団の中で「21世紀に一度もリーグ優勝をしていない最後の球団」となった。 昨シーズンよりコーチ陣が刷新され、昨シーズンから一軍で留任したコーチは青山ら4コーチで、嶋村打撃コーチが二軍打撃コーチ、藤田ブルペン担当バッテリーコーチが二軍育成コーチに配置転換され、内野守備走塁コーチが永池から田中浩に変わり、球団OBで2年間湘南シーレックスのファームコーチを務めた鈴木尚典が打撃コーチとして復帰し、球団OBの斎藤隆がチーフ投手コーチ、球団OBの石井琢朗が野手総合コーチ、球団OBの相川亮二がバッテリーコーチに就任した。斎藤ら3コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。 今永昇太、ソトとオースティンの両外国人選手が春季キャンプ中に故障して開幕から出遅れ、4月6日にはチームに新型コロナウイルスの陽性者が続出したことから、翌7日から10日までの4試合を中止し、12日からは総勢22人の選手を入れ替え、一軍の試合を再開した。4・5月は最大借金9と下位に落ち込むも、交流戦以降はチーム成績も安定し、今永昇太が6月7日の日本ハム戦(札幌ドーム)で球団としては1970年の鬼頭洋以来52年ぶり4人目となるノーヒットノーラン達成。特に投手面では大きく改善し、今永昇太が防御率でリーグ3位に入って11勝、大貫晋一も11勝を挙げ、伊勢大夢、エスコバー、そこから割って入る入江大生、田中健二朗の勝ちパターンの確立が大きかった。一方、7月16日に新外国人としてロバート・ガゼルマン(翌々18日にピープルズが再び退団)、28日に楽天から伊藤裕季也とのトレードで森原康平を獲得。その後、7月30日に平良拳太郎を支配下選手に復帰させ、宮城滝太を支配下選手に登録させた。8月に入ると、21日の広島戦まで横浜スタジアムで開催された試合で連勝を続け、プロ野球史上3球団目となる球団新記録となる本拠地17連勝、18勝6敗と球団としては1997年8月以来の月間18勝を記録し、首位ヤクルトを追う2位まで浮上したが、26日からの首位ヤクルトとの直接対決で3連敗してしまい、ゲーム差を広げられたため、首位ヤクルトとのゲーム差を詰めることはできず、ヤクルトの優勝マジックが2になった9月25日の明治神宮球場での直接対決でまさかのサヨナラ負けを喫し、優勝争いには敗れものの、2019年以来3年ぶりのAクラスと2位が確定したことで、三浦監督は球団の生え抜き監督としては初のAクラス入りを果たした。 2019年以来3年ぶりに横浜スタジアムで実現した阪神とのクライマックスシリーズファーストステージで打率3位の.306を記録した佐野が3戦で10打数1安打と不振に陥り、最後は1点ビハインドで迎えた9回1死満塁のチャンスに藤田が4-2-3のホームゲッツーで試合終了。この年は阪神に2013年以来9年ぶりの勝ち越しを決めていたが、3年前に続き、1勝2敗でファーストステージ敗退となった。 オフに三上朋也、ロメロとクリスキーの両外国人選手が自由契約となり(三上は巨人、ロメロはロサンゼルス・エンゼルス、クリスキーはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)、ロッテを自由契約となった西巻賢二と育成契約を結んだ。中日から砂田毅樹とのトレードで京田陽太、新外国人としてJ.B.ウェンデルケン、トレイ・アンバギー、2020年にサイ・ヤング賞を受賞したトレバー・バウアーを獲得。嶺井博希がソフトバンクにFA移籍。山下幸輝、浅田将汰、田部隼人、髙城俊人、有吉優樹が戦力外通告を受け、5人ともその後現役を引退した。 青山ヘッドコーチが巡回コーチ、石井琢野手総合コーチがチーフ打撃コーチ、相川バッテリーコーチがチーフ作戦兼バッテリーコーチに配置転換された。 ワールド・ベースボール・クラシックでは今永昇太と牧秀悟が日本代表、ソトがプエルトリコ代表に選出された。 4月11日に球団OBの大原慎司が投手コーチ補佐兼スコアラー兼マネージャーに就任した。4月27日に西巻賢二を支配下選手に昇格させた。 1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。 前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。 大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが、NPBの公式サイトでは「横」でなく「ディ」あるいは「デ」との表記も使用されている。また、共同通信社、日刊スポーツ では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。 1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため、「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていた。2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs → B)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。 球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり としたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。 また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。 翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「DB.キララ」が登場した。 2015年以降、ドアラを除く関東圏球団以外のマスコット交流はセ・パ交流戦とオールスター以外ではなくなっている。 球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。 また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』 の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている。 2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクトI☆YOKOHAMAを掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。 トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。 また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。 DeNA球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。 以下の2つの団体は、現存しない応援団である。 前述の沿革にもある通り、元々大洋球団は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)の100%出資だったが、1978年の完成を目指して横浜スタジアムの改築が行われるにあたり、当時の国土計画社長・堤義明は、大洋球団の第三者割当増資を行う際、株式の約45%を取得して第2位の筆頭株主となった。 しかし、横浜スタジアムが完成した1978年10月、クラウンライターライオンズを運営する福岡野球株式会社の保有株式を、個人の中村長芳から国土計画が買収、本拠地を西武ライオンズ球場(後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)に移転した際、野球協約による、同一企業、ないしはその関連会社が複数の球団を支配することを禁じる違反規定に触れるため、この際、ニッポン放送に3割、残り15%を当時の東京放送に譲渡している。しかし、2001年のマルハ(現・マルハニチロ)からの球団経営権譲渡に際して、ニッポン放送の保有株をめぐり、ヤクルトスワローズの第2位株主であるフジテレビジョンとの関係が指摘されることになる。 2001年11月16日、経営が悪化していた当時の筆頭株主(親会社)・マルハ(現・マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビジョンがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBSに譲渡された。この際、TBS(現・TBSホールディングス)がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから、「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により、当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円の支払いは不要とされた。 それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ(現・マルハニチロ)→TBS(現・TBSホールディングス)のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところはユニホームの袖についたTBS(現・TBSホールディングス)のロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。 2005年10月、楽天がTBS(現・TBSホールディングス)の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから、野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社TBSホールディングスに移行したことから、楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。 前述の通り2002年以降は2005年・2007年を除き、8度も最下位に陥る惨状となった。結局、2011年オフにディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営から撤退した。 球団運営の荒廃も進んでおり、球団スタッフ全員がインターネットにアクセスする環境すらないなど、IT企業のディー・エヌ・エーからすれば絶句する状況にあった。 ディー・エヌ・エーが親会社となった2012年以降は上記放送のほか、各ライブ配信サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。 TBS(現・TBSホールディングス)が筆頭株主(事実上のオーナーと目される)だった時代も傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継(散発的に中国放送などビジターの地元局にもネット)は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)が保有していた時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。対巨人戦以外の試合は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独放送し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも過去の球団とニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本、対広島戦はテレビ新広島)制作中継のために使っていた。こちらもコスト削減のために球団経由でTBSテレビから主要映像の配信を受けることがあった。 CS放送については、2002年にマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)に譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、TBSテレビも資本参加)で中継していたが、解説をフジテレビまたはテレビ神奈川の解説者が、実況をTBSテレビのアナウンサーが行うという変則形態の時もあった。2008年以後、TBSニュースバードに放送チャンネルが移行し、制作も全面的にTBSテレビが行う形式となり、さらに2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された。 ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系列、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系列で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がない時に放送された。 TBSホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで自社での放送は撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみが中継している。 2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている。 親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。 なお、2020年は東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場や、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムでの代替開催も予定していたが、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった。 2021年は延期になった東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場で2試合、東京ヤクルトスワローズの本拠地明治神宮野球場で5試合の代替開催を行っている。 ※太字はリーグ優勝、◎は日本一 球団の永久欠番は次の通り。 DeNA球団では、球団在籍時に日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打・通算200勝・通算250セーブのいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2020年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。 2020年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。 ※達成順に記載。背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。 1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。 このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団した。一方、ヘッドコーチの秋山登はオークランド・アスレチックスを参考としたユニフォームを作りたいという思いがあった。そこで静岡をコンセプトに「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。先述の経緯から具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。 セ・リーグでは2000年以前まで勝率順で順位を決定していたが、2001年は勝利数順で順位を決定する方法が採用された。 2001年、横浜は69勝67敗4分け、広島は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。 しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された。 2005年にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、ヤクルトよりも勝利数の少ない横浜が(横浜69勝70敗7分け、ヤクルト71勝73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は.496、ヤクルトの勝率は.493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。 なお、セ・リーグでは2002年以降、現在に至るまで勝率順で順位を決定している。 大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、北海道、東北地方などで、1980年代後半からは神奈川県内の平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)や相模原球場(サーティーフォー相模原球場)や北関東の宇都宮清原球場、ひたちなか市民球場でも開催したことがある。 2016年以降は地方開催を新潟県立鳥屋野潟公園野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。2020年は新潟の他に前述の通り、東京オリンピック/パラリンピックで横浜スタジアムが使用できない都合による兼ね合いで、東京ドーム、ZOZOマリンスタジアムでも開催が予定されていた。2021年シーズンは実際、東京ドームと神宮球場で主権試合が開催された。 横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦 としては史上初のナイター(19時開始)となった。それ以降も同球場では2011年(対広島)、2012年(対ヤクルト)、2014年(対巨人)、2015年(対中日)に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。 2013年は阪神タイガースが同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は巨人を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。しかし、7月8日の試合については平成26年台風第8号が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったユリエスキ・グリエルは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている。 なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦はパ・リーグの球団が持ち回りで主催試合を行っているが、2022年は別途4月12・13日に巨人の主催試合も「沖縄復帰50周年記念・那覇市市制100周年記念試合」として行われ、2014年とは逆にDeNAがビジターとして帯同した。 HARD OFF ECOスタジアム新潟では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが新潟出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となるセ・パ交流戦を1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。 2013年は巨人主催のDeNA戦が1試合行われているが、これは同球場で唯一DeNAがビジター開催となった事例である。同年には別にDeNA主催の巨人戦も2試合行われた。 先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった。また2021年は土・日曜に2試合予定されていたが、1試合が雨天中止となった。 他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。 初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においては2007年を最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」 を設立し、その手始めとして2019年、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、広島東洋カープとのオープン戦を誘致、球団最初の試合日に合わせて同年3月10日にデーゲームで開催することを決めた。 しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいるが、2020年は公式戦開幕が東京オリンピックの関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階では予定されず、以後もオープン戦の開催はなされていない。 2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた。 なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、クライマックスシリーズ(CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった。実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった。2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった。 1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。 1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが、そのほかにも巨人以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある。一方で、その阪神とひっくるめて、セ・リーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(例として2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し)。 1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いものの、実際には球団と銀行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。 横浜大洋ホエールズ時代の1991年に中山裕章が少女への強制わいせつ事件を起こし、球団を解雇されて以降、彼が着用していた背番号19は欠番とされていたが、大洋は1992年オフに球団名を「横浜ベイスターズ」に変更。同年のドラフト会議で1位指名を受けた小桧山雅仁が「19」に関連する縁起の良いエピソードを複数有していたことや、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と表明したことから、19番は小桧山(1993年 - 1998年)に与えられた。しかし彼以降、戸叶尚(1999年 - 2000年)、杉本友(2001年 - 2003年)、染田賢作(2005年 - 2008年)と、背番号19を着用した投手たちが次々と期待外れに終わったことから、2007年12月には『スポーツニッポン』が「背番号19の呪い」と報じた。しかし、藤江均(2009年 - 2014年)、山﨑康晃 (2015年 - )がそのジンクスを払拭し、現在は死語となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "横浜DeNAベイスターズ(よこはま ディー・エヌ・エー ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ベイスターズ」「横浜」「DeNA」。また、「ベイ」「ハマ」 とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神奈川県を保護地域としており、横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1950年のリーグ分裂時に大洋ホエールズとして発足し、松竹ロビンスの合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズと変わったのち2012年よりDeNAを親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "林兼商店(後の大洋漁業→マルハ、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に山口県下関市で創立され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では初挑戦ながら、全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し、一躍名を上げる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1949年オフにプロ野球がリーグ拡張方針を打ち出すと、各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部から戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出すこととなった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博ら、阪急ブレーブスから宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、6月21日の兼六園球場を皮切りに、8月27日の後楽園スタヂアムに至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は旭川市から西は本拠地に近い徳山市まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は徳山市営毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館千代ヶ岱球場で開催された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンスと対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場と衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、1953年2月8日の京都新聞は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた田村駒治郎(松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し、保護地域を神奈川県に移転した。球団事務所は川崎市中原区に設置される。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "川崎球場を本拠地とする新生大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも大毎オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うも、あと一歩及ばず、1963年は最下位・広島と1ゲーム差の5位。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1965年以降、チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず、関係していた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが、7月頃から徐々に低迷し、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれ、前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "チームは3年連続5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "4年連続5位。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "15年ぶりの最下位。川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は横浜での新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は大洋漁業55%、国土計画45%となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎が継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても、山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "国土計画の主導で横浜市中区の横浜公園内に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など、営業体制の改革を伴った改変により、ファンが増加した。国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に2:1の割合で売却された。これにより、2002年初めまで球団株式保有率は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)55%、ニッポン放送30%、TBS(現・TBSホールディングス)15%となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "8年ぶりAクラスの2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "土井淳が監督就任。初年度は4位。ドラフトでは地元東海大学の原辰徳を1位指名したが、交渉権を獲得できなかった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。オフに長嶋は一時は就任に前向きな態度を見せるも、最終的には「もう少し野球を勉強してから」と固辞。関根は長嶋の就任が決まれば勇退することを決めていたが、長嶋の就任辞退により、続投。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最下位に転落。この年限りで平松政次が引退。同年限りで関根は辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し、注目された。しかし、遠藤一彦、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は4位と振るわなかった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "年明けにレオン・リーを解雇し、カルロス・ポンセ、ダグ・ローマンを獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど、勢いがあったものの、加藤博一、田代富雄ら主力が離脱すると、選手層の薄さを露呈し、4位に終わり、近藤貞雄は2年で監督を退任。屋鋪要はこの年から3年連続盗塁王。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎え、広島時代のコーチやスカウトで首脳陣を固めた。他球団からもベテランの永射保、片平晋作らを獲得して積極的に起用した。また、韓国球界から復帰した新浦壽夫は11勝でカムバック賞。遠藤は10月の巨人戦で走塁中にアキレス腱断裂の負傷。打撃陣は開幕直前にメジャーで実績のあるレスカーノを前年に実績をあげたローマンを解雇してまで獲得したが、すぐに引退してしまう。外野転向のポンセは4番に定着して35本塁打、高橋雅裕は遊撃手のレギュラーとなる。5位に終わる。将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、ドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末にヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋招聘の話は無くなった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "出場機会が減っていた山下大輔が開幕直前に引退。新加入のジム・パチョレックは高木とともに3割を打って、ポンセも本塁打王、打点王の2冠。投手では中山裕章が抑えに定着し、捕手は市川和正が抜擢された。4位となる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "開幕から振るわず、屋鋪は不調でスタメン落ちすると、山崎賢一が台頭して規定打席に届かずも3割を打ってシーズン終盤には4番まで任された。パチョレックは.333の好成績を収めるが、ポンセは前年から成績を落とす。投手陣はベテランに衰えが見え始めて軸ができなかった。古葉は1984年以来5年ぶりの最下位の責任を取り、5年契約ながら3年目で監督を辞任した。このことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名が挙がっていたが、大洋で2年間二軍監督に経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せ、その後失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。巨人の二軍監督で実績を残した須藤監督は若手を積極起用した。また、パワーのあるジョーイ・マイヤーを獲得し、ポンセは主にファームで終わり、退団。パチョレックは高木豊と首位打者を争って3年目にして念願の獲得。中山裕章は先発転向し、遠藤は抑えに回ると21セーブでカムバック賞。加藤博一が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "阪神以外のセ・リーグ5球団の首位争いの中、4月は首位に立つも、その後失速し、5月以降は5位に転落。野村弘樹は15勝を挙げる。パチョレックは4年連続の3割を打つも、本塁打の少なさから、解雇され、阪神に移籍。オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、神奈川県警察(捜査一課・金沢警察署)に強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕され、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された。また、この事件に伴い、川島廣守セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した石井琢朗がレギュラーを取る。盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。新入団のラリー・シーツは打点王を獲得したが、退団。遠藤は引退。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1993年4月1日、親会社の大洋漁業がCI実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "選手育成に定評があった球団OB近藤昭仁が監督に就任。ヘッド兼打撃コーチには近藤と西武時代一緒だった長池徳士、投手コーチには近藤の早稲田大学の後輩高橋直樹、バッテリーコーチには大矢明彦が就任。新外国人選手としてグレン・ブラッグスとロバート・ローズを獲得。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。石井、進藤達哉が初の規定打席到達。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。斉藤の引退により、川崎時代の大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の駒田徳広を獲得。長年チームを支えた市川和正、高木豊、屋鋪要、山崎賢一、松本豊、大門和彦が大量解雇された(市川と松本は現役を引退、高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・佐々木主浩の穴を16セーブを挙げた盛田幸希の活躍が光った。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "投手コーチに近藤の早稲田大学の後輩八木沢荘六が就任。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす。確かなチーム力の向上が見られた。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留敏夫がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成。鈴木尚典は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "権藤博を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "権藤が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また、前年怪我のため、一軍登板がなかった斎藤隆が復活を果たし、カムバック賞を獲得。ドラフトではこの年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが、獲得できなかった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ロバート・ローズが当時右打者シーズン最高の打率.369、153打点を記録し、二冠王に輝く活躍を見せるなど、マシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録を更新する。しかし、投手陣は川村丈夫が17勝を挙げるものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数が揃わず、3位に終わった。オフに佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この年よりファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず、2年連続3位に終わった。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "西武を8度のリーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続Aクラスと3年連続3位に終わった(この年の順位に関しては後述)。オフにチーム最多勝投手の小宮山がメジャーリーグに挑戦するために退団した。正捕手の谷繁元信が監督の森との確執もあり、中日にFA移籍。中日から金銭トレードで中村武志を獲得。監督の森の西武時代の教え子の森繁和を投手コーチ、辻発彦を内野守備走塁コーチに招聘した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1月26日に筆頭株主(親会社)がマルハ(現・マルハニチロ)からニッポン放送に変更される予定だったが、ニッポン放送の当時の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(現・TBSホールディングス)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "球団オーナーは当時の東京放送社長砂原幸雄となった(詳細はマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代の節を参照)。これに際し、1978年からニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。これを境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "開幕から記録的な低迷を続け、球団ワーストタイ目前となる1986年以来16年ぶりの13連敗を喫するなど、全日程で1994年以来8年ぶりの最下位となり、9月26日に監督の森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされ、3年契約の2年目ながらこの年限りで事実上の解任となり、翌27日からヘッド兼打撃コーチの黒江透修が監督代行として指揮を執ることを発表した。オフに監督代行の黒江が退団した。この年での最終勝率は.363だった。NPB12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラゲームは0勝6敗となった。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年の広島以来24年ぶり。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。チーム防御率・失点リーグ5位、チーム打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。西武から石井義人、細見和史との2対2トレードで中嶋聡、富岡久貴を獲得。2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この年から2015年にかけて14年間で10回の最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約でダイエーからFA宣言した若田部健一を獲得するなど、大型補強を試みる。だが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど、大きく苦しみ、6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分と惨憺たる成績で、シーズン90敗到達はNPBでは1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。オフに日本ハムから横山道哉とのトレードで野中信吾を獲得。中村武志の復調や相川亮二の台頭で来季構想外となった中嶋聡が金銭トレードで日本ハムに移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "佐々木主浩が年俸6億5,000万円の2年契約を結び、5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つも、その後投手陣の不振により、徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続ける中、最終戦に敗れ、広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で1959年以来45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方、前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど、一定の成績は残した。山下はこの年、監督を退任した。オフにオーナーの砂原幸雄が一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとって辞任し、TBS(現・TBSホールディングス)副社長の若林貴世志が新オーナーに就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも、不調だった三浦をはじめ、投手陣が復活し、2001年以来4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、巨人には東京ドームで同一カード3連勝を記録するなど、一度も負け越しがなく、16勝6敗と大きく勝ち越した。佐々木主浩が現役を引退した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど、新しいファンサービスを行った。オフに斎藤隆がロサンゼルス・ドジャースに移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの監督退任を発表。この年チーム唯一の2桁勝利だが、年俸査定に不満を持った門倉健が巨人にFA移籍。巨人から小田嶋正邦+金銭とのトレードで仁志敏久、ソフトバンクから多村仁とのトレードで寺原隼人、巨人にFA移籍した門倉の人的保障として工藤公康を獲得。日本ハムを自由契約となった横山道哉が4年ぶりに復帰。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。10月、「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。前半戦は移籍組やベテラン勢の活躍で一時首位に立つなど、上位を猛追し、3位で折り返す。最終戦で敗れ、シーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年ぶりに70勝に到達し、村田が球団日本人選手としては桑田武以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど、主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。オフにマーク・クルーンが自由契約となった(巨人に移籍)。オリックスから古木克明とのトレードで大西宏明を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた。一方、スウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドームで行われた阪神との3連戦の1度だけで最大の連勝は3に留まった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "セ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、12球団で最少だった阪神(85被本塁打)の倍近くにあたる168本塁打を打たれ、いずれも12球団ワースト。与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりな一方で、6月10日に巨人から鶴岡一成とのトレードで真田裕貴、16日に中日から小池正晃とのトレードで石井裕也を獲得するなど、投手陣を補強したが、チーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。在籍3年間で84セーブを挙げたクルーンが巨人に移籍したことで、27セーブと9回の失点は52はいずれもセ・リーグワーストを記録した上、先発投手が5回未満で降板した試合数53と先発投手が6回以上投げて自責点3以内に抑えた割合(QS%)の31.3%はいずれも12球団では群を抜くワーストだった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "この年に飛躍し、右打者シーズン最高打率を塗り替え、首位打者と最多安打を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村とリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べなかったため、チーム打率は.2655にもかかわらず、出塁率は.31552と12球団ワーストだった。加えて盗塁は37と4年連続でリーグワーストを記録し、盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団では群を抜くワーストだった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "10月5日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に川村丈夫が現役を引退し、11日に石井琢朗、13日に鈴木尚典が自由契約となった(石井は広島に移籍、鈴木は現役を引退)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "投打ともにリーグまたは12球団のワースト記録を量産し、2006年以来2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と内川の打率(.378)よりも低く、「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事も発生する始末で、オフにヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手コーチの斉藤明夫ら4コーチが解任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "新外国人として陳瑋、王靖超と育成契約を結んだ。相川亮二がヤクルトにFA移籍。広島から金銭トレードで森笠繁、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ワールド・ベースボール・クラシックでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど、序盤から低迷し、5月18日に監督の大矢が無期限休養に入り、併せて二軍監督の田代富雄が監督代行として指揮を執ることを発表した。一方、7月に新外国人としてスティーブン・ランドルフを獲得。しかし、チームを浮上させることはなく、93敗を喫し、2年連続最下位に終わる。前年と同様、貯金は一度もなく、無期限休養に入っていた監督の大矢は正式に退任、監督代行の田代はシーズン終了後に二軍監督に再任、投手コーチの杉本正は1年で解任。チーム防御率・失点・打率・得点はリーグ最下位に終わった。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。オフに仁志敏久が退団し(ランカスター・バーンストーマーズに移籍)、工藤公康、横山道哉が自由契約となった(工藤は西武に復帰、横山は現役を引退)。ロッテから那須野巧、齋藤俊雄との2対1トレードで清水直行、元ロッテの杉原洋、日本ハムから加藤武治、松家卓弘、関口雄大との3対3トレードで稲田直人、坂元弥太郎、松山傑、ソフトバンクを自由契約となった篠原貴行、ロッテからFA宣言した橋本将、ロッテから金銭トレードで早川大輔、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジ、新外国人として王溢正、クリス・ブーチェック、ホセ・カスティーヨを獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "当初の構想では前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、抑えに起用する予定だったブーチェックがオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから、急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。一方、4月1日に日本ハムから石井裕也とのトレードで江尻慎太郎を獲得。4月7日にキンタナロー・タイガースに入団していた大家友和が12年ぶりに復帰。4月20日にソフトバンクから吉川輝昭とのトレードで井手正太郎を獲得。しかし、5月9日に吉見祐治が金銭トレードでロッテに移籍。開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。また、6月に新外国人としてブレット・ハーパーを獲得。一度も浮上することなく、9月7日の対巨人戦、25日の対中日戦に敗れ、5年連続Bクラスと3年連続最下位が確定し、28日の対ヤクルト戦、10月6日の対阪神戦に敗れ、プロ野球史上初の3年連続90敗と130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。9月10日に佐伯貴弘が自由契約となり(中日に移籍)、10月2日に森笠繁、6日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に木塚敦志が現役を引退した。一軍ヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取って1年で辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "8月には2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSホールディングスとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていたが、実際の交渉は難航。結局、10月27日にTBSホールディングスが住生活グループとの交渉を打ち切り、2011年度も球団を保有することを発表するに至った。交渉決裂の理由としてはTBSホールディングスおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としているものの、翌28日に加地隆雄球団社長は秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにし、潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった。」と理由を述べた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "オフにランドルフら外国人選手3人が退団し(ブーチェックはタンパベイ・レイズ、カスティーヨはロッテに移籍)、陳瑋と王靖超の両外国人選手が自由契約となった(共に天津ライオンズに復帰)。オリックスから桑原謙太朗、野中信吾、高宮和也、寺原隼人との計4対3トレードで一輝、山本省吾、喜田剛、新外国人としてクレイトン・ハミルトン、ブランドン・マン、ブレント・リーチ、陳冠宇、楽天から金銭トレードで渡辺直人、日本ハムからFA宣言した森本稀哲、西武から坂元弥太郎とのトレードで大沼幸二を獲得。内川聖一がソフトバンクにFA移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に東日本大震災が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している。また、4月1日にリーチがNPB史上初の制限選手となった。当初は3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響で4月12日に延期された。2007年以来4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めた。一方、4月25日に前年オフに退団したランドルフが復帰。しかし、5月以降は低迷状態に陥る一方で、23日に新外国人としてルイス・ゴンザレス、元楽天の中村紀洋を獲得。交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わる。さらに、6月28日にランドルフが解雇されたことで、7月にリーチを支配下選手に復帰させたが、またしても一度も連勝できないままオールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す。後半戦では7月29日に国吉佑樹を支配下選手に登録させたが、一度も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れ、6年連続Bクラスと4年連続最下位が確定した。最終的には47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた。チーム防御率は2005年以来6年ぶりの3点台だったが、2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した。10月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に早川大輔が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エーに譲渡することで、大筋合意がなされたことが報道され、22日の最終戦終了後、監督の尾花と6人のコーチ陣が休養に入り、11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)及びBS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)ディー・エヌ・エーに譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)。11月22日、監督の尾花と6人のコーチ陣が解任。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてディー・エヌ・エーによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "オフに杉原洋、稲田直人、松山傑、喜田剛、リーチら外国人選手3人、真田裕貴が自由契約となり(喜田は現役を引退、スレッジは日本ハムに復帰、稲田は楽天、松山は石川ミリオンスターズ、リーチはロサンゼルス・ドジャース、ハーパーはモンクローバ・スティーラーズ、真田は巨人に移籍)、ゴンザレスが解雇された(兄弟エレファンツに移籍)。村田修一が巨人にFA移籍。西武から武山真吾とのトレードで後藤武敏、巨人を退団したアレックス・ラミレス、他球団からFAで4年ぶりに復帰した鶴岡一成と小池正晃の両名、日本ハムを自由契約となった菊地和正と林昌範の両名、広島を自由契約となったジオ・アルバラード、新外国人としてオスカー・サラサー、巨人にFA移籍した村田の人的補償として藤井秀悟を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "TBSホールディングス時代は10年間で8回の最下位という戦績を残して幕を下ろした。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2023年現在、横浜ベイスターズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は藤田一也・田中健二朗(いずれもDeNA)・梶谷隆幸(巨人)・国吉佑樹(ロッテ)の4人。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2011年12月2日、球団株式が譲渡され、商号変更により、「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がり、最終的には横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督などの人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べ、6日に当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行い、3月18日、これまでの球団マスコットだったホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。筆頭株主(親会社)変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "3月30日、横浜DeNAベイスターズとしての初陣となった阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して球団名称変更後初白星を挙げるも、続く4月4日から10日、22日から5月1日にかけて2度に渡り、6連敗するなどした。一方、6月8日に元楽天のランディ・ルイーズを獲得。交流戦は9勝14敗で10位に終わる。しかし、6月22日にハミルトンとの契約を解除した。また、6月24日に楽天から藤田一也とのトレードで内村賢介を獲得(ドラフト育成選手では球団初の単独のトレード)。その後、6月25日に大沼幸二が現役を引退した。さらに、7月4日に新外国人としてボビー・クレイマーを獲得。7月6日の対中日戦に敗れ、借金20となり、自力優勝が消滅した。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初めて同一カード3連勝をしたものの、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、7年連続Bクラス、29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するも、30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続最下位が確定し、10月7日の対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり、東京ドームにおいてセ・リーグ初の記録となった。10月8日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に新沼慎二が現役を引退した。なお、この年には広島の野手コーチ兼選手だった石井琢朗が現役を引退したため、ドラフト外入団した選手が全員引退した。最終的には首位巨人とは40ゲーム差、5位の阪神にも9.5ゲーム差をつけられてしまい、セ・リーグ5球団に負け越した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "オフに大原淳也、福山博之、清水直行、ブランドンら外国人選手5人が自由契約となった(大原は香川オリーブガイナーズに復帰、福山は楽天に移籍)。日本ハムから北篤とのトレードで土屋健二、ソフトバンクから江尻慎太郎、山本省吾、吉村裕基との3対3トレードで多村仁志(7年ぶりに復帰)、吉川輝昭(3年ぶりに復帰)、神内靖、中日を自由契約となったトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサ、新外国人としてナイジャー・モーガンを獲得。阪神を自由契約となった鄭凱文、新外国人としてケビン・モスカテルと育成契約を結んだ。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2月26日に鄭凱文を支配下選手に昇格させた。5月29日に王溢正との契約を解除し(Lamigoモンキーズに復帰)、6月4日に新外国人としてティム・コーコランを獲得。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる。一方、7月7日に西武から渡辺直人とのトレードで長田秀一郎を獲得。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、8年連続Bクラスが確定したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、2007年以来6年ぶりの最下位脱出が決定し、最終的には1996年以来17年ぶりの5位が確定した。ヤクルト・阪神・中日を相手に勝ち越しが決まったが、セ・リーグ3球団に勝ち越したのは2001年以来実に12年ぶりのことであった。篠原貴行、小池正晃が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "オフにラミレス、森本稀哲、嶋村一輝、鄭凱文とコーコランの両外国人選手が自由契約となり(ラミレスは群馬ダイヤモンドペガサス、森本は西武、鄭凱文は中信兄弟に移籍、嶋村は現役を引退)、モーガンが退団した(クリーブランド・インディアンスに移籍)。中日を自由契約となった柳田殖生、日本ハムから佐藤祥万とのトレードで加藤政義、阪神からFA宣言した久保康友、オリックスを退団したアーロム・バルディリス、コロラド・ロッキーズを自由契約となった高橋尚成、新外国人としてギジェルモ・モスコーソを獲得。FA入団した久保の人的補償として鶴岡一成が阪神に移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "3・4月は7勝18敗、勝率.280と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、4月27日に萬谷康平を支配下選手に登録させ、5月13日にキューバから大砲のユリエスキ・グリエルを獲得。5月に井納翔一、6月に山口俊(9月にも獲得)、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。5月終了時点で首位広島に9.5ゲーム差、6月終了時点で首位巨人に11ゲーム差の最下位。しかし、7月以降は最下位から脱出し、9月までにクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の同月に失速し、27日にAクラス入りの可能性が消滅し、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が確定した。モスカテルが現役を引退した。ドラフトでは後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる山﨑康晃(亜細亜大学)を1位指名。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "オフに藤江均、中村紀洋、菊地和正、藤井秀悟、神内靖、ソーサら外国人選手4人が自由契約となった(菊地とソトは群馬ダイヤモンドペガサス、藤江は楽天、陳冠宇はロッテ、ブランコはオリックスに移籍、中村と藤井と神内は現役を引退)。金城龍彦が巨人にFA移籍。オリックスを自由契約となった東野峻、ソフトバンクを自由契約となった岡島秀樹、巨人を自由契約となったホセ・ロペス、新外国人としてヨスラン・エレラ、キューバからグリエルの弟のグリエルJr.を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1月16日に球団オーナーが春田真から親会社・DeNAの創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した。また、ユニフォームも濃紺から青色(通称:横浜ブルー)に変わった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は横浜時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、ディー・エヌ・エーが筆頭株主(親会社)となってからは初の単独首位につくなど、序盤は好調な滑り出しを見せた。一方、6月7日に砂田毅樹を支配下選手に登録させた。しかし、交流戦では全6カードを全て負け越し、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう。しかし、6月23日の巨人戦に7-2で勝利し、連敗を12で止めた。交流戦後の混戦の中、6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。一方、7月3日に新外国人としてデュアン・ビロウを獲得。前回優勝の1998年以来となる前半戦首位ターンとなった。しかし、後半戦に入ると、徐々に順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、10月3日にシーズン最終戦(巨人戦)で敗れ、10年連続Bクラスと2012年以来3年ぶりの最下位が確定した。前半戦を首位で折り返しながらシーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった。本塁打数はリーグ最多の112、得点はリーグ2位の508だったものの、チーム防御率3.80、総失点598はリーグワーストだった。黒羽根利規、髙城俊人、嶺井博希を起用するなど、固定できなかった捕手陣は11捕逸と1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68暴投を記録した。また、神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。観客動員数は好調で、球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑は低迷の責任を取る形で退任。これにより、4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた。後任に球団史上初の外国人監督となるラミレスが就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "10月21日、ラミレスの新監督就任が正式に発表された。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表。ドラフトでは即戦力として期待された左投手の今永昇太(駒澤大学)を1位指名。課題であった捕手にも戸柱恭孝(NTT西日本)を迎えた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "オフに多村仁志、東野峻、土屋健二、加藤政義、岡島秀樹、ビロウとバルディリスの両外国人選手が自由契約となった(バルディリスはサムスン・ライオンズ、多村は中日、東野と土屋と加藤は現役を引退)。新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリック、巨人を自由契約となった久保裕也、ソフトバンクとの育成契約を拒否した白根尚貴を支配下選手として獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "この年で暗黒時代は一応終わり、最下位もDeNA時代では2021年まで経験しなくなる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "前年11月に開始されていた本拠地である横浜スタジアムの運営会社・株式会社横浜スタジアムの友好的TOBが一段落し、1月20日付で横浜スタジアム運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は1月28日付で名義を横浜DeNAベイスターズの子会社(ディー・エヌ・エーの孫会社)に変更。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発した。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望となったほか、石川雄洋、山口俊、梶谷隆幸が故障により、開幕に間に合わず、3・4月は投打にわたり、戦力不足で9勝18敗と大きく負け越し、開幕直後に日本ハムから金銭トレードで藤岡好明、広島を自由契約となったマイク・ザガースキーを獲得したが、5月に入ると、怪我で離脱していた梶谷ら主力選手も戻り、5月15日に新外国人としてエリアン・エレラを獲得。その後、石田健大、今永昇太が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど、5月3日時点で11あった負け越しを5月28日には完済した。交流戦は負け越したものの、7月11日に三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)するなど、勢いを取り戻し、1999年以来17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決めた。一方、7月14日に新外国人としてマイク・ブロードウェイを獲得。7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど、大爆発した。後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島との最終戦にて勝利し、2005年以来11年ぶりのAクラスと3位が確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分。投手陣ではルーキーの今永、2年目の石田が先発ローテーションに入り、野手陣では筒香が本塁打王と打点王のタイトルを獲得。桑原、倉本がレギュラーに定着するなど、若手の台頭が目立った。シーズン最終戦となる9月29日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に三浦大輔が現役を引退した。三浦の引退により、横浜大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。ドラフトでは1位で濱口遥大の単独指名に成功。9位に佐野恵太を指名し、これが大化けへと繋がってゆく。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "クライマックスシリーズ(CS)では公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の広島と対戦し、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの、1勝4敗で敗退した。DeNAがCSに進出し、ファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にしてNPB全球団がCSに出場すると共にセ・リーグ全6球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "オフに井手正太郎、内村賢介、長田秀一郎、柳田殖生、久保裕也、エレラら外国人選手6人が自由契約となった(ロマックはサンディエゴ・パドレス、ブロードウェイはワシントン・ナショナルズ、ペトリックはサムスン・ライオンズ、久保は楽天、ザガースキーはデトロイト・タイガース、長田は新潟アルビレックスBC、モスコーソはレオン・ブラボーズに移籍、井手と柳田は現役を引退)。山口俊が巨人にFA移籍。新外国人としてアウディ・シリアコ、ジョー・ウィーランド、スペンサー・パットン、フィル・クライン、ヤクルトを自由契約となった田中浩康、巨人にFA移籍した山口の人的補償として平良拳太郎を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "広島が1991年以来26年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAはセ・リーグ全6球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "5月30日の交流戦初戦で3位に浮上。一方、7月6日に日本ハムから黒羽根利規とのトレードでエドウィン・エスコバーを獲得。8月22日から24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から筒香嘉智(2ラン)、ロペス、宮﨑敏郎の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏二死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から倉本寿彦の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である。9月に入り、巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり、順位が入れ替わることもあった。その最中、26日に高崎健太郎、大原慎司が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。10月1日の対広島戦で勝利し、2年連続3位が確定した。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりの勝ち越しを決めた。今永、濱口、ウィーランドの3人が二桁勝利を挙げ、宮﨑は首位打者、ロペスは最多安打と打点王のタイトルを獲得した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "クライマックスシリーズ(CS)では1stステージで2位阪神と対戦。2戦目は大雨で異例のコンディションの中、泥試合と称される戦いに勝利し、その勢いで2勝1敗で阪神を破った。ファイナルステージでは第1戦を落とした後に4連勝し、4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位の広島を破り、日本シリーズに進出した。3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。これにより、CS制度導入後11年目にしてセ・リーグ6球団が日本シリーズに進出した。また、2010年代にセ・リーグ6球団が日本シリーズに出場した。ソフトバンクとの日本シリーズでは3連敗で王手をかけられた後、2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身を含め、3度目となる日本シリーズで初めて敗退し、日本一を逃した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "オフに山崎憲晴、久保康友、クラインら外国人選手3人が自由契約となった(山崎は阪神、シリアコはサセックスカウンティー・マイナーズ、久保はゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ、エリアンはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。元ソフトバンクのエディソン・バリオス、新外国人としてネフタリ・ソト、中日を自由契約となった武藤祐太、楽天を自由契約となった中川大志、補強の目玉として阪神からFA宣言した大和を獲得。FA入団した大和の人的補償として尾仲祐哉が阪神に移籍。下園辰哉、小杉陽太、林昌範が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "横浜時代の2011年以来球団がDeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが、試合は3-7で敗れ、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝し、4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると、4月7日から15日にかけて2001年以来17年ぶりとなる8連勝を記録した。しかし、ここから急降下し、7月4日に元ロッテの中後悠平、9日にオリックスから髙城俊人、白崎浩之との2対2トレードで伊藤光、赤間謙を獲得。7月18日にオーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーと戦略的パートナシップを締結したことを発表した。8月までに2か月連続で負け越し、最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスと4位に終わった。山﨑が初の最多セーブ、ソトは本塁打王のタイトルを獲得。加賀繁、後藤武敏が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "オフに荒波翔、白根尚貴、田中浩康、ウィーランドが自由契約となった(荒波はモンテレイ・サルタンズ、ウィーランドは起亜タイガースに移籍、白根と田中は現役を引退)。巨人を自由契約となった中井大介を獲得。かつてチームに所属していた古村徹が4年ぶりに復帰。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "球団創設70周年を記念し、この年限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた。3月14日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携を締結した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "3月26日に楽天から熊原健人とのトレードで濱矢廣大を獲得。4月に2015年以来4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利したことで、最下位から脱出する。一方、翌31日に新外国人としてサミー・ソリスを獲得。オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返し、一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局一度も首位に立つことなく、優勝を逃した。それでも9月24日の中日戦に勝利したことで、1997年以来22年ぶりの2位が確定し、初となるCS本拠地開催を決めたことにより、NPB全球団が本拠地でのCSの開催を経験した。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年ぶり。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "CSファーストステージでは3位の阪神と対戦するも、第1戦で6点差から逆転負けしたこともあり、1勝2敗で球団初のファーストステージでの敗退となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ソトが43本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と打点王を獲得した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "10月29日に筒香嘉智がポスティングシステムを利用しての大リーグ挑戦を正式に発表した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "オフにバリオスとソリスの両外国人選手が自由契約となり(バリオスはメキシコシティ・レッドデビルズ、ソリスは2021年シーズン途中、モンクローバ・スティーラーズに移籍)、田中健二朗が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。新外国人としてマイケル・ピープルズ、2015年のアリゾナ・フォールリーグでローズが打撃コーチを務めていた際に教え子だったタイラー・オースティンを獲得。オリックスを自由契約となった髙城俊人が1年半ぶりに復帰。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1月25日、佐野恵太が筒香のポスティングシステムでのタンパベイ・レイズへの移籍に伴い、空席となっていたキャプテンに就任することが発表された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "春季キャンプでは過去にMLBでゴールドグラブ賞を11度受賞した守備の名手であるオマー・ビスケルを特別コーチとして招聘し、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスよりバリー・エンライトとブレイク・ラリーがコーチ研修目的で参加し、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとスティーブン・チェンバースが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染症によるパンデミックにより、3月に開幕予定だった公式戦は3か月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の無観客での開幕だった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "開幕後は今永昇太とオースティンが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ロペスとソトの両外国人選手の不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まった。しかし、9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降、ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)、負けが込み、11日の阪神戦に敗れ、4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、25日に球団からラミレスの退任が発表され、11月5日の中日戦に敗れ、2018年以来2年ぶりのBクラスが確定し、11日に広島が中日に負けたため、4位でシーズンを終えた。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって、巨人戦6連勝を記録し、リーグで12勝12敗と唯一負け越すことなく、巨人の完全優勝を阻止した。また、佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい話題もあった。これにより、5年間に及ぶラミレス政権は幕を閉じた。後任に二軍監督の三浦大輔が昇格する形で就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "11月17日、三浦の新監督就任が正式に発表された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "オフにロペスとパットン(テキサス・レンジャーズに移籍)の両外国人選手が退団し、赤間謙、現役続行を希望し、移籍先を探していた石川雄洋が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。梶谷隆幸、井納翔一が巨人にFA移籍。ヤクルトを自由契約となった風張蓮、巨人にFA移籍した梶谷の人的補償として田中俊太、新外国人としてフェルナンド・ロメロを獲得。新外国人としてケビン・シャッケルフォード、巨人を自由契約となった宮國椋丞と育成契約を結んだ。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染症の影響で外国人選手が12球団で唯一全員来日できず、戦力が揃ったのは4月15日のことであり、3、4月は2引き分けを挟んで10連敗を含む6勝21敗4分と大きく負け越した。一方、4月23日にシャッケルフォードを支配下選手に昇格させた。また、6月14日にロッテから国吉佑樹とのトレードで有吉優樹を獲得、その後翌15日に田中健二朗を支配下選手に復帰させた。さらに、8月30日に宮國椋丞を支配下選手に昇格させた。打撃陣は打率3割を記録した選手を4人(牧秀悟、桑原将志、佐野恵太、宮﨑敏郎)輩出したほか、チーム本塁打136本、チーム得点559点はいずれもリーグ2位だったが、7連敗以上を2度記録したこともあり、また勝利数が最も多かった大貫晋一でさえ6勝止まりと成績を大幅に落とし、2年連続Bクラスと2015年以来6年ぶりの最下位が確定した。牧は1年目ながら数々の新人記録を打ち立てる活躍を見せ、新人特別賞を受賞した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "オフに坪井打撃コーチ、川村投手コーチ、新沼バッテリーコーチ、牛田・藤岡両二軍投手コーチなど、首脳陣が退団した。風張蓮、ピープルズとシャッケルフォードの両外国人選手が自由契約となり(風張はケンタッキー・ワイルドヘルス・ゲノムスに移籍、ピープルズは再契約、シャッケルフォードは退団)、平良拳太郎が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。楽天を自由契約となった藤田一也が10年ぶりに復帰。新外国人としてブルックス・クリスキー、日本ハムをノンテンダーとなった大田泰示を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "オリックスが1996年以来25年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAは現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」及び20世紀に創設した同11球団と2004年に消滅した近鉄を含む12球団の中で「21世紀に一度もリーグ優勝をしていない最後の球団」となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "昨シーズンよりコーチ陣が刷新され、昨シーズンから一軍で留任したコーチは青山ら4コーチで、嶋村打撃コーチが二軍打撃コーチ、藤田ブルペン担当バッテリーコーチが二軍育成コーチに配置転換され、内野守備走塁コーチが永池から田中浩に変わり、球団OBで2年間湘南シーレックスのファームコーチを務めた鈴木尚典が打撃コーチとして復帰し、球団OBの斎藤隆がチーフ投手コーチ、球団OBの石井琢朗が野手総合コーチ、球団OBの相川亮二がバッテリーコーチに就任した。斎藤ら3コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "今永昇太、ソトとオースティンの両外国人選手が春季キャンプ中に故障して開幕から出遅れ、4月6日にはチームに新型コロナウイルスの陽性者が続出したことから、翌7日から10日までの4試合を中止し、12日からは総勢22人の選手を入れ替え、一軍の試合を再開した。4・5月は最大借金9と下位に落ち込むも、交流戦以降はチーム成績も安定し、今永昇太が6月7日の日本ハム戦(札幌ドーム)で球団としては1970年の鬼頭洋以来52年ぶり4人目となるノーヒットノーラン達成。特に投手面では大きく改善し、今永昇太が防御率でリーグ3位に入って11勝、大貫晋一も11勝を挙げ、伊勢大夢、エスコバー、そこから割って入る入江大生、田中健二朗の勝ちパターンの確立が大きかった。一方、7月16日に新外国人としてロバート・ガゼルマン(翌々18日にピープルズが再び退団)、28日に楽天から伊藤裕季也とのトレードで森原康平を獲得。その後、7月30日に平良拳太郎を支配下選手に復帰させ、宮城滝太を支配下選手に登録させた。8月に入ると、21日の広島戦まで横浜スタジアムで開催された試合で連勝を続け、プロ野球史上3球団目となる球団新記録となる本拠地17連勝、18勝6敗と球団としては1997年8月以来の月間18勝を記録し、首位ヤクルトを追う2位まで浮上したが、26日からの首位ヤクルトとの直接対決で3連敗してしまい、ゲーム差を広げられたため、首位ヤクルトとのゲーム差を詰めることはできず、ヤクルトの優勝マジックが2になった9月25日の明治神宮球場での直接対決でまさかのサヨナラ負けを喫し、優勝争いには敗れものの、2019年以来3年ぶりのAクラスと2位が確定したことで、三浦監督は球団の生え抜き監督としては初のAクラス入りを果たした。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2019年以来3年ぶりに横浜スタジアムで実現した阪神とのクライマックスシリーズファーストステージで打率3位の.306を記録した佐野が3戦で10打数1安打と不振に陥り、最後は1点ビハインドで迎えた9回1死満塁のチャンスに藤田が4-2-3のホームゲッツーで試合終了。この年は阪神に2013年以来9年ぶりの勝ち越しを決めていたが、3年前に続き、1勝2敗でファーストステージ敗退となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "オフに三上朋也、ロメロとクリスキーの両外国人選手が自由契約となり(三上は巨人、ロメロはロサンゼルス・エンゼルス、クリスキーはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)、ロッテを自由契約となった西巻賢二と育成契約を結んだ。中日から砂田毅樹とのトレードで京田陽太、新外国人としてJ.B.ウェンデルケン、トレイ・アンバギー、2020年にサイ・ヤング賞を受賞したトレバー・バウアーを獲得。嶺井博希がソフトバンクにFA移籍。山下幸輝、浅田将汰、田部隼人、髙城俊人、有吉優樹が戦力外通告を受け、5人ともその後現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "青山ヘッドコーチが巡回コーチ、石井琢野手総合コーチがチーフ打撃コーチ、相川バッテリーコーチがチーフ作戦兼バッテリーコーチに配置転換された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "ワールド・ベースボール・クラシックでは今永昇太と牧秀悟が日本代表、ソトがプエルトリコ代表に選出された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "4月11日に球団OBの大原慎司が投手コーチ補佐兼スコアラー兼マネージャーに就任した。4月27日に西巻賢二を支配下選手に昇格させた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『ジャパンタイムズ』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが、NPBの公式サイトでは「横」でなく「ディ」あるいは「デ」との表記も使用されている。また、共同通信社、日刊スポーツ では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既にオリックス・ブルーウェーブ(略称・BW)と近鉄バファローズ(略称・Bu)の2球団存在していたため、「Yokohama BayStars」の「YB」を略称としていた。2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs → B)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり としたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「DB.キララ」が登場した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "2015年以降、ドアラを除く関東圏球団以外のマスコット交流はセ・パ交流戦とオールスター以外ではなくなっている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』 の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクトI☆YOKOHAMAを掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "DeNA球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "以下の2つの団体は、現存しない応援団である。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "前述の沿革にもある通り、元々大洋球団は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)の100%出資だったが、1978年の完成を目指して横浜スタジアムの改築が行われるにあたり、当時の国土計画社長・堤義明は、大洋球団の第三者割当増資を行う際、株式の約45%を取得して第2位の筆頭株主となった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "しかし、横浜スタジアムが完成した1978年10月、クラウンライターライオンズを運営する福岡野球株式会社の保有株式を、個人の中村長芳から国土計画が買収、本拠地を西武ライオンズ球場(後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)に移転した際、野球協約による、同一企業、ないしはその関連会社が複数の球団を支配することを禁じる違反規定に触れるため、この際、ニッポン放送に3割、残り15%を当時の東京放送に譲渡している。しかし、2001年のマルハ(現・マルハニチロ)からの球団経営権譲渡に際して、ニッポン放送の保有株をめぐり、ヤクルトスワローズの第2位株主であるフジテレビジョンとの関係が指摘されることになる。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2001年11月16日、経営が悪化していた当時の筆頭株主(親会社)・マルハ(現・マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビジョンがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBSに譲渡された。この際、TBS(現・TBSホールディングス)がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから、「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により、当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円の支払いは不要とされた。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ(現・マルハニチロ)→TBS(現・TBSホールディングス)のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところはユニホームの袖についたTBS(現・TBSホールディングス)のロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2005年10月、楽天がTBS(現・TBSホールディングス)の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから、野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社TBSホールディングスに移行したことから、楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "前述の通り2002年以降は2005年・2007年を除き、8度も最下位に陥る惨状となった。結局、2011年オフにディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営から撤退した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "球団運営の荒廃も進んでおり、球団スタッフ全員がインターネットにアクセスする環境すらないなど、IT企業のディー・エヌ・エーからすれば絶句する状況にあった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "ディー・エヌ・エーが親会社となった2012年以降は上記放送のほか、各ライブ配信サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "TBS(現・TBSホールディングス)が筆頭株主(事実上のオーナーと目される)だった時代も傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継(散発的に中国放送などビジターの地元局にもネット)は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)が保有していた時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。対巨人戦以外の試合は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独放送し、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも過去の球団とニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本、対広島戦はテレビ新広島)制作中継のために使っていた。こちらもコスト削減のために球団経由でTBSテレビから主要映像の配信を受けることがあった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "CS放送については、2002年にマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)に譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、TBSテレビも資本参加)で中継していたが、解説をフジテレビまたはテレビ神奈川の解説者が、実況をTBSテレビのアナウンサーが行うという変則形態の時もあった。2008年以後、TBSニュースバードに放送チャンネルが移行し、制作も全面的にTBSテレビが行う形式となり、さらに2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系列、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系列で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がない時に放送された。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "TBSホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで自社での放送は撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみが中継している。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている。", "title": "ユニフォームの変遷" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。", "title": "ユニフォームの変遷" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "", "title": "ユニフォームの変遷" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "なお、2020年は東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場や、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムでの代替開催も予定していたが、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった。", "title": "歴代本拠地" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "2021年は延期になった東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場で2試合、東京ヤクルトスワローズの本拠地明治神宮野球場で5試合の代替開催を行っている。", "title": "歴代本拠地" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "※太字はリーグ優勝、◎は日本一", "title": "歴代監督" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "球団の永久欠番は次の通り。", "title": "永久欠番" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "DeNA球団では、球団在籍時に日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打・通算200勝・通算250セーブのいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2020年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。", "title": "顕彰" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "2020年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。", "title": "顕彰" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "※達成順に記載。背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。", "title": "顕彰" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、湘南電車を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "このユニフォームが採用される契機になったのは山下大輔の入団である。当時の大洋は静岡県草薙総合運動場硬式野球場でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団した。一方、ヘッドコーチの秋山登はオークランド・アスレチックスを参考としたユニフォームを作りたいという思いがあった。そこで静岡をコンセプトに「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの中部謙吉に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。先述の経緯から具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "セ・リーグでは2000年以前まで勝率順で順位を決定していたが、2001年は勝利数順で順位を決定する方法が採用された。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "2001年、横浜は69勝67敗4分け、広島は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "2005年にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、ヤクルトよりも勝利数の少ない横浜が(横浜69勝70敗7分け、ヤクルト71勝73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は.496、ヤクルトの勝率は.493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "なお、セ・リーグでは2002年以降、現在に至るまで勝率順で順位を決定している。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、北海道、東北地方などで、1980年代後半からは神奈川県内の平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)や相模原球場(サーティーフォー相模原球場)や北関東の宇都宮清原球場、ひたちなか市民球場でも開催したことがある。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "2016年以降は地方開催を新潟県立鳥屋野潟公園野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。2020年は新潟の他に前述の通り、東京オリンピック/パラリンピックで横浜スタジアムが使用できない都合による兼ね合いで、東京ドーム、ZOZOマリンスタジアムでも開催が予定されていた。2021年シーズンは実際、東京ドームと神宮球場で主権試合が開催された。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した那覇市営奥武山野球場(沖縄セルラースタジアム那覇)で対東京ヤクルトスワローズ2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対広島東洋カープ2連戦を主催開催したが、沖縄県ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦 としては史上初のナイター(19時開始)となった。それ以降も同球場では2011年(対広島)、2012年(対ヤクルト)、2014年(対巨人)、2015年(対中日)に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "2013年は阪神タイガースが同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は巨人を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。しかし、7月8日の試合については平成26年台風第8号が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だったユリエスキ・グリエルは、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦はパ・リーグの球団が持ち回りで主催試合を行っているが、2022年は別途4月12・13日に巨人の主催試合も「沖縄復帰50周年記念・那覇市市制100周年記念試合」として行われ、2014年とは逆にDeNAがビジターとして帯同した。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "HARD OFF ECOスタジアム新潟では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが新潟出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となるセ・パ交流戦を1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "2013年は巨人主催のDeNA戦が1試合行われているが、これは同球場で唯一DeNAがビジター開催となった事例である。同年には別にDeNA主催の巨人戦も2試合行われた。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった。また2021年は土・日曜に2試合予定されていたが、1試合が雨天中止となった。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においては2007年を最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」 を設立し、その手始めとして2019年、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、広島東洋カープとのオープン戦を誘致、球団最初の試合日に合わせて同年3月10日にデーゲームで開催することを決めた。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいるが、2020年は公式戦開幕が東京オリンピックの関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階では予定されず、以後もオープン戦の開催はなされていない。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、クライマックスシリーズ(CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった。実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった。2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった。", "title": "主なエピソード" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする横浜銀行や当時存在した太陽神戸銀行(現在の三井住友銀行)をもじった「横浜大洋銀行」という呼び名が付けられていた。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが、そのほかにも巨人以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある。一方で、その阪神とひっくるめて、セ・リーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(例として2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し)。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「横浜銀行」と呼ばれるケースが多いものの、実際には球団と銀行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった。詳細は横浜銀行#その他を参照のこと。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "横浜大洋ホエールズ時代の1991年に中山裕章が少女への強制わいせつ事件を起こし、球団を解雇されて以降、彼が着用していた背番号19は欠番とされていたが、大洋は1992年オフに球団名を「横浜ベイスターズ」に変更。同年のドラフト会議で1位指名を受けた小桧山雅仁が「19」に関連する縁起の良いエピソードを複数有していたことや、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と表明したことから、19番は小桧山(1993年 - 1998年)に与えられた。しかし彼以降、戸叶尚(1999年 - 2000年)、杉本友(2001年 - 2003年)、染田賢作(2005年 - 2008年)と、背番号19を着用した投手たちが次々と期待外れに終わったことから、2007年12月には『スポーツニッポン』が「背番号19の呪い」と報じた。しかし、藤江均(2009年 - 2014年)、山﨑康晃 (2015年 - )がそのジンクスを払拭し、現在は死語となっている。", "title": "キーワード" } ]
横浜DeNAベイスターズは、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ベイスターズ」「横浜」「DeNA」。また、「ベイ」「ハマ」 とも呼ばれる。 神奈川県を保護地域としており、横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。 1950年のリーグ分裂時に大洋ホエールズとして発足し、松竹ロビンスの合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズと変わったのち2012年よりDeNAを親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
{{野球チーム | ページ名 = 横浜DeNAベイスターズ | チーム名 = 横浜DeNAベイスターズ | 英語表記 = Yokohama DeNA BayStars | 会社名 = 株式会社横浜DeNAベイスターズ | 加盟団体 = [[セントラル・リーグ]] | 創設年度 = {{start date and age|1949|11|22}} | ロゴデザイン = [[ファイル:Yokohama DeNA BayStars insignia.svg|150px|]] | チーム名の遍歴 = * 大洋ホエールズ(1950年 - 1952年) : [[松竹ロビンス]]と対等合併 * 大洋松竹ロビンス(1953年) * 洋松ロビンス(1954年) * 大洋ホエールズ(1955年 - 1977年) * 横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年) * 横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年) * 横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在) | フランチャイズの遍歴 = * [[山口県]](1952年) * [[大阪府]](1953年 - 1954年) * 神奈川県(1955年 - 現在) | 本拠地 = [[横浜スタジアム]]([[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]])[[File:YokohamaStadium view (cropped).jpg | center | 270px ]] | キャパ = 34,046 人(横浜スタジアム) | 永久欠番 = なし | オーナー = [[南場智子]](ディー・エヌ・エー代表取締役会長) | スポンサー = [[ディー・エヌ・エー|ディー・エヌ・エー(DeNA)]] | 球団社長 = [[木村洋太]] | 監督 = [[三浦大輔]] | 選手会長 = [[今永昇太]] | キャプテン = [[佐野恵太]](野手)、[[山﨑康晃]](投手) | 日本一回数 = 2 | 日本一 = * [[1960年の日本シリーズ|1960]] * [[1998年の日本シリーズ|1998]] | リーグ優勝回数 = 2 | リーグ優勝 = * [[1960年の野球|1960]] * [[1998年の野球|1998]] | 交流戦優勝回数= 1 | 交流戦優勝 = * [[2023年の野球|2023]] | シリーズ出場回数 = 3 | シリーズ出場 = 2勝1敗 * '''[[1960年の日本シリーズ|1960]]''' * '''[[1998年の日本シリーズ|1998]]''' * [[2017年の日本シリーズ|2017]] | クライマックスシリーズ回数 = 4 | クライマックスシリーズ =1勝3敗 * [[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2016]] * '''[[2017年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2017]]''' * ''[[2019年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2019]]'' * ''[[2022年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2022]]'' }} {{ウィキポータルリンク|横浜市|[[画像:Emblem of Yokohama, Kanagawa.svg|45px|Portal:横浜市]]}} {{ウィキポータルリンク|野球|[[画像:Baseball (crop).jpg|35px|Portal:野球]]}} {{Infobox YouTube personality | name = 横浜DeNAベイスターズ | logo = | logo caption = | image = | caption = | birth_name = | birth_date = | birth_place = | death_date = | death_place = | nationality = | occupation = | website = | pseudonym = | channel_name = | channel_url = UChJI9KrjSgPzv_kfX6yuqhA | channel_direct_url = | channel_display_name = YOKOHAMA DeNA BAYSTARS CHANNEL | years_active = 2013年10月10日 - | genre = 野球 | subscribers = 約27.9万人 | subscriber_date = | views = 約1億4882万回 | view_date = | network = | associated_acts = | catchphrase(s) = | silver_button = Yes | silver_year = | gold_button = | gold_year = | diamond_button = | diamond_year = | ruby_button = | ruby_year = | stats_update = {{dts|2023-8-29}} }} [[ファイル:20201025 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.jpg|サムネイル|320x320ピクセル|2020年10月25日チアリーディングチームの "diana"。横浜スタジアムにて]] '''横浜DeNAベイスターズ'''(よこはま ディー・エヌ・エー ベイスターズ、{{Lang-en|Yokohama DeNA BayStars}}<ref group="注釈">球団およびNPBでの英語表記は会社名以外を全て大文字にした「'''YOKOHAMA DeNA BAYSTARS'''」。</ref>)は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧|プロ野球球団]]。[[セントラル・リーグ]]に所属する。略称は'''「ベイスターズ」「横浜」「DeNA」'''。また、'''「ベイ」「ハマ」''' とも呼ばれる。 [[神奈川県]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]としており、[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]にある[[横浜スタジアム]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]<ref group="注釈">2000年から2010年までは、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に二軍独自の球団名として、「'''湘南シーレックス'''」という名称が使用されていた。2011年からは再び一軍と同じ球団名となっている。</ref>([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[横須賀市]]にある[[横須賀スタジアム]]である。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が[[追浜公園]]内に設けられている。 1950年のリーグ分裂時に'''大洋ホエールズ'''として発足し、[[松竹ロビンス]]の合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が'''大洋ホエールズ'''→'''横浜大洋ホエールズ'''→'''横浜ベイスターズ'''と変わったのち2012年より[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]を親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 == 球団の歴史 == {{基礎情報 会社 |社名=株式会社横浜DeNAベイスターズ |英文社名=YOKOHAMA DeNA BAYSTARS BASEBALL CLUB, INC. |ロゴ= |種類=[[株式会社 (日本)|株式会社]] |市場情報= |略称= |国籍={{JPN}} |本社郵便番号=231-0015 |本社所在地=[[神奈川県]][[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]尾上町一丁目8番<br />関内新井ビル7階 |本店郵便番号= |本店所在地= |設立=1953年12月16日<br />(株式会社大洋松竹球団) |業種=9050 |統一金融機関コード= |SWIFTコード= |事業内容=プロ野球興行事業など |代表者=[[南場智子]]([[取締役]][[オーナー]])<br />[[岡村信悟]]([[代表取締役]][[社長]]) |資本金=1億円(2015年12月31日現在)<ref name="kessan">『[[官報]]』号外第85号、2018年(平成30年)4月16日、51ページ「会社その他の公告」</ref> |発行済株式総数=130万株(2011年12月31日現在) |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = 6億4000万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/dbca3/294929 株式会社横浜DeNAベイスターズ 第70期決算公告]</ref> |純資産 = 66億9700万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |総資産 = 159億5900万円<br>(2022年12月31日時点)<ref name="fy" /> |従業員数= |決算期=12月末日 |主要株主=[[ディー・エヌ・エー]] 97.69%<ref>{{Cite web |date=2015-10-20 |url=http://ke.kabupro.jp/tsp/20151120/140120151118449923.pdf|title=当社連結子会社(株式会社横浜DeNAベイスターズ)による株式会社横浜スタジアムに対する公開買付けの開始に関するお知らせ |publisher=ディー・エヌ・エー |format=PDF |accessdate=2021-09-04 }}</ref><br />(2015年11月現在) |主要子会社=[[横浜スタジアム|株式会社横浜スタジアム]] |関係する人物= |外部リンク=https://www.baystars.co.jp/ |特記事項=1954年12月11日に株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団へ、1993年4月に株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ、2011年12月2日に株式会社横浜ベイスターズから株式会社横浜DeNAベイスターズへ商号変更。 }} === 球団創立 === [[マルハ|林兼商店]](後の大洋漁業→マルハ、現・[[マルハニチロ]])の実業団チームとして1929年5月に[[山口県]][[下関市]]で創立<ref>『東京日日新聞』1930年7月28日付。</ref>され、翌1930年の[[第4回全日本都市対抗野球大会]]では初挑戦ながら、全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、[[世界恐慌]]の影響などで1932年の[[第6回全日本都市対抗野球大会]]前に休止状態となり、[[軟式野球]]部だけが[[太平洋戦争]]開始前後まで存在していた<ref name="sateke">{{Cite book |和書 |author=佐竹敏之 |title=大洋ホエールズ誕生前! 林兼商店野球部から大洋漁業野球部まで |year=2009 |publisher=[[文芸社]] |pages={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=978-4-286-07213-5 |ref=harv }}</ref>。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には[[国民体育大会|国体]]で優勝し、一躍名を上げる<ref name="sateke" />。 1949年オフにプロ野球がリーグ拡張方針を打ち出すと、各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部から[[戸倉勝城]]・[[河内卓司]]・[[徳網茂]]ら主力選手が新球団の[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]に引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長[[中部兼市]]は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出すこととなった。 1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的に'''まるは球団'''とした。[[セントラル・リーグ]]に加盟。下関市を[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]、[[下関市営球場]]([[下関球場]]とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の[[社章]]と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている<ref>{{Cite book |和書 |author=堤哲 |title=国鉄スワローズ1950-1964 |year=2010 |publisher=[[交通新聞社]] |series=[[交通新聞社新書]] |pages={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=9784330156101 }}</ref>。 社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた<ref name="sateke" />。 === 下関時代(旧・大洋時代) === ; [[1950年の大洋ホエールズ|1950年]]-[[1952年の大洋ホエールズ|1952年]] 1950年シーズン開幕後に'''大洋ホエールズ'''(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、[[読売ジャイアンツ]]からベテランの[[中島治康]]と[[平山菊二]]、大陽ロビンスから[[藤井勇]]と[[林直明]]を譲り受け、[[宇高勲]]のスカウト活動により、[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]から[[大沢清]]や[[長持栄吉]]、[[片山博]]ら、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]から[[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]]や[[今西錬太郎]]らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。 特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、[[6月21日]]の[[兼六園球場]]を皮切りに、[[8月27日]]の[[後楽園球場|後楽園スタヂアム]]に至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は[[旭川市]]から西は本拠地に近い[[徳山市]]まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた<ref>[https://npb.jp/news/detail/20210331_01.html 【記録員コラム】ストッキングの中に米を忍ばせ遠征列車に](日本野球機構)</ref>。 1951年、不採算から経営悪化した[[広島東洋カープ|広島カープ]]を吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦([[京都市西京極総合運動公園野球場]])は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から[[プロ野球地域保護権|保護地域(フランチャイズ)]]制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は[[徳山市営毛利球場]]3試合、[[防府市設野球場]]2試合、[[門司市営老松球場]]2試合、小倉・[[豊楽園球場]]3試合、[[平和台野球場]]5試合、[[長崎市営大橋球場]]3試合のほか、佐賀市営・[[熊本市水前寺野球場]]・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、[[松江市営球場 (初代)|旧松江市営]]、[[岡山県野球場|岡山県営球場]]、[[甲子園球場]]、[[川崎球場]]、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、[[宮城球場]]、盛岡市営、[[弘前市営球場]]、[[千代台公園野球場|函館千代ヶ岱球場]]で開催された<ref>[http://2689web.com/1952/whales.html 日本プロ野球記録・1952年大洋ホエールズ] </ref>。 === 大阪時代(ロビンス時代) === ; [[1953年の大洋松竹ロビンス|1953年]]、[[1954年の洋松ロビンス|1954年]] 1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め<ref group="注釈">具体的に「解散」などの処罰内容を決めていたわけではなかったが、下位球団を整理する意図は背景に存在した。</ref>の該当球団となった[[松竹ロビンス]]<ref group="注釈">球団史では傍系扱いとなり、<br />大東京軍(社名:大日本野球連盟・東京協会、経営:[[國民新聞社]]・1936年 - 1937年)<br />→ライオン軍(経営:[[共同印刷]]→[[田村駒商店]]、スポンサー:[[ライオン (企業)|ライオン歯磨本舗]]・1937年-1940年)<br />→朝日軍(社名:朝日野球倶楽部・1941年 - 1945年)<br />→パシフィック(1946年)<br />→太陽ロビンス(スポンサー:[[帝国繊維|太陽レーヨン]]・1947年)<br />→大陽ロビンス(1948年 - 1949年)<br />→松竹ロビンス(スポンサー:[[松竹]]・1950年 - 1952年)<br />以上の球団史や結成年度・優勝回数・その他記録は'''一切カウントされない'''。このため'''本球団は初代セ・リーグ優勝球団の後身でありながら「初代セ・リーグ優勝チーム」と名乗ることができなくなっている。'''</ref>と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。'''大洋松竹ロビンス'''(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る'''洋松ロビンス'''(ようしょうロビンス)に改称した。 1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の[[京都市]]で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場と衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から[[大阪スタヂアム|大阪球場]]で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が[[合併 (企業)|新設合併]]で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。 大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、[[1953年]][[2月8日]]の[[京都新聞]]は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた[[田村駒治郎]](松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている<ref name=kyotopref>[https://www.pref.kyoto.jp/kaidai/maga-p.html メルマガコラム_京都でのプロ野球公式戦開催略史](京都府)</ref> ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した[[中日ドラゴンズ]]とは55ゲーム離され、5位の[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]に23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。 === 川崎時代(新・大洋時代) === 1954年12月11日限りで[[松竹]]は球団経営から撤退し、[[中部謙吉]]がオーナーとなる。球団名を'''大洋ホエールズ'''に戻し<ref group="注釈">合併時に創立年や各種記録を、旧大洋側の存続扱いとしていたため、球団の系譜として連続したものとなった。もしも合併時に大東京から松竹の系譜を存続扱いとしていたら、旧・大洋と新・大洋が経営者と名称が同一なだけで連続性のないものとなるところだった。</ref>、[[プロ野球地域保護権|保護地域]]を[[神奈川県]]に移転した。球団事務所は[[川崎市]]中原区に設置される。 ; [[1955年の大洋ホエールズ|1955年]] 川崎球場を本拠地とする新生大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた<ref>[https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1955.html 1955年セ・リーグ成績] - 日本野球機構</ref><ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190906-12 過去最も首位から最下位までのゲーム差がなかったシーズンは?] - 週刊ベースボールOnline、2019年9月6日</ref>。 ; [[1956年の大洋ホエールズ|1956年]] [[明治大学]]から[[秋山登]]、[[土井淳]]、[[岩岡保宏]]、[[黒木弘重]]、[[沖山光利]]の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「'''明大五人衆'''」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した[[青田昇]]が三度の[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得。 ; [[1959年の大洋ホエールズ|1959年]] ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年[[権藤正利]]、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録)。 ; [[1960年の大洋ホエールズ|1960年]] 前年まで[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]の監督だった[[三原脩]]を招聘。三原は新人の[[近藤昭仁]]と、シーズン中に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]から獲得した[[鈴木武]]で二遊間を固め、秋山や[[島田源太郎]]を中心とした投手力を前面に押し出して[[水原茂]]監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。[[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた<ref>{{Cite web |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2020/01/05/0013009363.shtml|title=【野球】子年のプロ野球 巨人&オリックスに縁起よし?|publisher=デイリースポーツ online|date=2020-01-05|accessdate=2022-06-21}}</ref>。 ; [[1962年の大洋ホエールズ|1962年]]-[[1964年の大洋ホエールズ|1964年]] 1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うも、あと一歩及ばず、1963年は最下位・広島と1ゲーム差の5位。 ; [[1965年の大洋ホエールズ|1965年]]-[[1972年の大洋ホエールズ|1972年]] 1965年以降、チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。1965年から1973年にかけての巨人の[[V9 (読売ジャイアンツ)|9連覇]]中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず、関係していた。 ; [[1973年の大洋ホエールズ|1973年]] 開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが、7月頃から徐々に低迷し、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれ、前年と同じく5位に終わった。[[青田昇]]が成績不振の責任をとって監督辞任。 ; [[1974年の大洋ホエールズ|1974年]] チームは3年連続5位。[[松原誠]]が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。 ; [[1975年の大洋ホエールズ|1975年]] 4年連続5位。 ; [[1976年の大洋ホエールズ|1976年]] 15年ぶりの最下位。川崎から[[横浜市|横浜]]への移転計画を画策していた大洋球団は横浜での新球場建設の資金を捻出するため、[[飛鳥田一雄]]横浜市長の斡旋で[[コクド|国土計画]](後のコクド、現・[[プリンスホテル]])の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の[[株式]]保有率は大洋漁業55%、国土計画45%となった。 ; [[1977年の大洋ホエールズ|1977年]] 2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の[[中部藤次郎]]、大洋球団オーナーは三男の[[中部新次郎]]が継承した。松原や[[米田慶三郎]]といった守備の名手に加え、[[クリート・ボイヤー]]、[[ジョン・シピン]]、[[フェリックス・ミヤーン]]ら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても、[[山下大輔]]、[[基満男]]、[[高木豊]]に受け継がれた。 === 横浜時代 === ==== 横浜大洋時代 ==== 国土計画の主導で横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]{{Refnest|group="注釈"|『スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜』に横浜市への球場使用料は1試合2,000万円とある。また、同著に元・球団社長の[[大堀隆]]が語ったとして「98年にベイスターズがセ・リーグで優勝し、日本シリーズも制したとき、同時期に[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]も開かれていたんです。どちらが地域=横浜市の活性化に力があったか。私はベイスターズだと思う。地下街に佐々木の大魔神神社できたくらいですから。国体には何年にもわたって何千何百億円ものお金が使われたはずです。それにくらべて、せめてベイスターズには横浜球場の使用料を安くしてもらいたいと希望するのですが、それができない。市に言わせると、もし安くしたら必ず市民から、たかが一私企業のための利益をはかり、結局は税金を使うことになるようなことは許せない、と抗議の電話が殺到するだろう、というのです」とある<ref>{{Cite book |和書 |editor=杉山茂、岡崎満義、スポーツデザイン研究所 |title=スポーツの今日を刻む〜スポーツジャーナリスト21人からのメッセージ〜 |year=2002 |publisher=創文企画 |pages={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=4-921164-11-8 }}</ref>。}}の[[横浜公園]]内に建設した[[横浜スタジアム]]に移転{{Refnest|group="注釈"|横浜スタジアム建設の際、一口250万円の市民株主800口によるオーナーズ・クラブに内野席シーズン・シートを45年間与えたため、2023年まで(株)横浜スタジアムが運営([[指定管理者]])する球場を専用球場とすることが規定されている。このオーナーズ・クラブは球団総務部内のオーナーズ・クラブ事務局が管理している<ref>{{Cite journal |和書 |author=田中祥夫 |author2=鶴岡博 |author3=堀勇良 |author4=篠崎孝子 |title=座談会 横浜公園とスタジアム〜開港から現在まで〜 |date=2001-01-01 |journal=有鄰 |issue=398 |publisher=[[有隣堂]] |pages=3 |url=http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/398_3.html |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。}}<ref group="注釈">このほかに、[[第三セクター]]である(株)横浜スタジアムとの間に契約を交わし、20年契約で入場料収入の29%、シーズン席の収入の30%と販売経費を球団から球場へ払い、球場内広告に対して5,000万円、物販協力金として350万円を球場から球団へ支払うというものだった。1978年(初年度)の横浜スタジアムは広告収入5億3,300万円、物販収入9億2000万円。1993年は球場収入13億9200万円、広告収入13億9,300万円、物販収入15億6500万円で、経常利益は13億9600億円、資産は現金・預金・有価証券で64億3800万円であった。この契約は現在も延長されているのかは不明。</ref>、都市名を入れた'''横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)'''に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置<ref group="注釈">横浜大洋友の会。球団営業部主導の横浜ベイスターズ全国ファンクラブ→B☆SPIRITとは別組織。友の会はのちに横浜ベイスターズ友の会→横浜DeNAベイスターズ友の会と名称を変更し、2013年にはB☆SPIRITと統合し、「B☆SPIRIT友の会」となった。</ref>など、営業体制の改革を伴った改変により、ファンが増加した。国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)が[[福岡野球|福岡野球株式会社]](クラウンライターライオンズ)を買収したため、[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式は[[ニッポン放送]]と[[TBSホールディングス|TBS(現・TBSホールディングス)]]に2:1の割合で売却された。これにより、2002年初めまで球団株式保有率は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)55%、ニッポン放送30%、TBS(現・TBSホールディングス)15%となった。 ===== 別当監督時代 ===== ; [[1978年の横浜大洋ホエールズ|1978年]] 序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している{{Refnest|group="注釈"|セ・リーグ既存の6球団では最後の達成<ref>{{Cite book |和書 |author=宇佐美徹也|authorlink=宇佐美徹也|title=日本プロ野球記録大鑑 |year=1993 |publisher=[[講談社]] |page=1087 |isbn=4062061082 }}</ref>。}}。 ; [[1979年の横浜大洋ホエールズ|1979年]] 8年ぶりAクラスの2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。 ===== 土井監督時代 ===== ; [[1980年の横浜大洋ホエールズ|1980年]] [[土井淳]]が監督就任。初年度は4位。ドラフトでは地元[[東海大学硬式野球部|東海大学]]の[[原辰徳]]を1位指名したが、交渉権を獲得できなかった。 ; [[1981年の横浜大洋ホエールズ|1981年]] キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に[[山下大輔]]が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。 ===== 関根監督時代 ===== ; [[1982年の横浜大洋ホエールズ|1982年]] [[長嶋茂雄]]を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある[[関根潤三]]を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた[[関根浩史]]入団について[[日産自動車硬式野球部|日産野球部]]との交渉が破談した。この年は5位に終わる。オフに長嶋は一時は就任に前向きな態度を見せるも、最終的には「もう少し野球を勉強してから」と固辞。関根は長嶋の就任が決まれば勇退することを決めていたが、長嶋の就任辞退により、続投。 ; [[1983年の横浜大洋ホエールズ|1983年]] 4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。 ; [[1984年の横浜大洋ホエールズ|1984年]] 最下位に転落。この年限りで[[平松政次]]が引退。同年限りで関根は辞任。 ===== 近藤貞雄監督時代 ===== ; [[1985年の横浜大洋ホエールズ|1985年]] [[近藤貞雄]]が監督に就任。高木豊、[[加藤博一]]、[[屋鋪要]]の'''[[スーパーカートリオ]]'''を売り出し、注目された。しかし、[[遠藤一彦]]、[[齊藤明雄|斉藤明夫]]頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は4位と振るわなかった。 ; [[1986年の横浜大洋ホエールズ|1986年]] 年明けに[[レオン・リー]]を解雇し、[[カルロス・ポンセ]]、[[ダグ・ローマン]]を獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど、勢いがあったものの、加藤博一、[[田代富雄]]ら主力が離脱すると、選手層の薄さを露呈し<ref>【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)[[ベースボール・マガジン社]]、2019年、85頁</ref>、4位に終わり、近藤貞雄は2年で監督を退任。屋鋪要はこの年から3年連続盗塁王。 ===== 古葉監督時代 ===== ; [[1987年の横浜大洋ホエールズ|1987年]] 広島を4度の優勝に導いた[[古葉竹識]]を監督に迎え、広島時代のコーチやスカウトで首脳陣を固めた。他球団からもベテランの[[永射保]]、[[片平晋作]]らを獲得して積極的に起用した。また、韓国球界から復帰した[[新浦壽夫]]は11勝でカムバック賞。遠藤は10月の巨人戦で走塁中にアキレス腱断裂の負傷。打撃陣は開幕直前にメジャーで実績のある[[シクスト・レスカーノ|レスカーノ]]を前年に実績をあげたローマンを解雇してまで獲得したが、すぐに引退してしまう。外野転向のポンセは4番に定着して35本塁打、[[高橋雅裕]]は遊撃手のレギュラーとなる。5位に終わる。将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、ドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末にヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋招聘の話は無くなった。 ; [[1988年の横浜大洋ホエールズ|1988年]] 出場機会が減っていた山下大輔が開幕直前に引退。新加入の[[ジム・パチョレック]]は高木とともに3割を打って、ポンセも本塁打王、打点王の2冠。投手では[[中山裕章]]が抑えに定着し、捕手は[[市川和正]]が抜擢された。4位となる。 ; [[1989年の横浜大洋ホエールズ|1989年]] 開幕から振るわず、屋鋪は不調でスタメン落ちすると、[[山崎賢一]]が台頭して規定打席に届かずも3割を打ってシーズン終盤には4番まで任された。パチョレックは.333の好成績を収めるが、ポンセは前年から成績を落とす。投手陣はベテランに衰えが見え始めて軸ができなかった。古葉は1984年以来5年ぶりの最下位の責任を取り、5年契約ながら3年目で監督を辞任した。このことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている<ref>[[スポーツニッポン]]、古葉竹識の我が道、2016年11月28日</ref>。しかしこの間、{{by|1998年}}の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では[[高田繁]]の名が挙がっていたが、大洋で2年間二軍監督に経験のある[[須藤豊]]が監督に就任し、投手コーチには[[小谷正勝]]が3年ぶりに復活した<ref>日刊スポーツ 1989年10月24日7版</ref>。 ===== 須藤・江尻監督時代 ===== ; [[1990年の横浜大洋ホエールズ|1990年]] 序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せ、その後失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。巨人の二軍監督で実績を残した須藤監督は若手を積極起用した。また、パワーのある[[ジョーイ・マイヤー]]を獲得し、ポンセは主にファームで終わり、退団。パチョレックは高木豊と首位打者を争って3年目にして念願の獲得。[[中山裕章]]は先発転向し、遠藤は抑えに回ると21セーブでカムバック賞。加藤博一が現役を引退した。 ; [[1991年の横浜大洋ホエールズ|1991年]] 阪神以外のセ・リーグ5球団の首位争いの中、4月は首位に立つも、その後失速し、5月以降は5位に転落。[[野村弘樹]]は15勝を挙げる。パチョレックは4年連続の3割を打つも、本塁打の少なさから、解雇され、阪神に移籍。オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、[[神奈川県警察]]([[刑事部|捜査一課]]・[[金沢警察署]])に[[強制わいせつ罪|強制わいせつ]]・[[公然わいせつ罪|公然わいせつ]]容疑で逮捕され<ref>『[[神奈川新聞]]』1991年12月26日B版第一社会面23頁「大洋・中山投手が“暴投” 金沢区で2少女にいたずら 県警逮捕 婚約中、練習帰りに 張り込み、ベンツで出没」</ref>、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された<ref>『神奈川新聞』1992年1月8日B版第一スポーツ面31頁「横浜大洋 中山投手を『解雇』 監督戒告、社長ら減俸」</ref>。また、この事件に伴い、[[川島廣守]]セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが<ref>『[[中日新聞]]』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23頁「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(記者:[[会田豊彦]])</ref>、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした<ref>『神奈川新聞』1993年12月28日A版第一スポーツ面17頁「中山元投手が再出発 中日で二軍打撃投手に」</ref>。 ; [[1992年の横浜大洋ホエールズ|1992年]] 前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの[[江尻亮]]が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した[[石井琢朗]]がレギュラーを取る。[[盛田幸妃]]と[[佐々木主浩]]のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。新入団の[[ラリー・シーツ]]は打点王を獲得したが、退団。遠藤は引退。 ==== 横浜ベイスターズ時代 ==== 1993年4月1日、親会社の大洋漁業が[[コーポレートアイデンティティ|CI]]実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を'''横浜ベイスターズ'''に改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった[[捕鯨|商業捕鯨]]の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「[[横浜ベイブリッジ]]」から取った'''ベイスターズ'''となった。球団名変更に伴い、ユニホーム・[[球団旗]]・[[ペットマーク]]・マスコットキャラクターを一新。 ===== 近藤昭仁監督時代 ===== ; [[1993年の横浜ベイスターズ|1993年]] 選手育成に定評があった球団OB[[近藤昭仁]]が監督に就任<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁">[[ベースボールマガジン]]、 2022年6月号 (横浜ベイスターズ盛衰記)、38-39頁</ref>。ヘッド兼打撃コーチには近藤と西武時代一緒だった[[長池徳士]]<ref>プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、長池徳士、[[産経新聞出版]]、P251、2015年</ref>、投手コーチには近藤の早稲田大学の後輩[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]、バッテリーコーチには[[大矢明彦]]が就任。新外国人選手として[[グレン・ブラッグス]]と[[ロバート・ローズ]]を獲得<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、[[最多勝利|最多勝]]のタイトルを獲得<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。石井、[[進藤達哉]]が初の規定打席到達<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。斉藤の引退により、川崎時代の大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。この年のオフから始まった[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の[[駒田徳広]]を獲得<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。長年チームを支えた市川和正、高木豊、屋鋪要、山崎賢一、[[松本豊]]、[[大門和彦]]が大量解雇された(市川と松本は現役を引退、高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)。 ; [[1994年の横浜ベイスターズ|1994年]] 怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・[[佐々木主浩]]の穴を16セーブを挙げた[[盛田幸希]]の活躍が光った<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。 ; [[1995年の横浜ベイスターズ|1995年]] 投手コーチに近藤の早稲田大学の後輩[[八木沢荘六]]が就任<ref>[[スポーツニッポン]]2021年11月29日、11版、八木沢荘六の我が道㉖、阪神への置き土産となった井川慶</ref>。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。確かなチーム力の向上が見られた<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留敏夫がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。[[鈴木尚典]]は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された<ref name="横浜ベイスターズ盛衰記、38-39頁" />。 ===== 第1次大矢監督時代 ===== ; [[1996年の横浜ベイスターズ|1996年]] バッテリーコーチの[[大矢明彦]]が監督に就任。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、'''「セ・リーグの台風の目」'''と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。 ; [[1997年の横浜ベイスターズ|1997年]] [[権藤博]]を一軍バッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で[[石井一久]]の前にノーヒットノーランで敗れると勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。 ===== 権藤監督時代 ===== ; [[1998年の横浜ベイスターズ|1998年]] ; シーズンスローガン:「GET THE FLAG!」 権藤が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない'''「[[マシンガン打線]]」'''がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝<ref group="注釈">37年間リーグ優勝ができなかったのは日本球界最長記録である。</ref>を果たした<ref group="注釈">首位で全日程を終えるのも1964年以来34年ぶり。同年は全日程終了後阪神に逆転され優勝を逃したのでくしくもその雪辱を果たす格好となった。</ref>。[[1998年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが<ref>[[ベースボールマガジン]]2009年3月号、91頁</ref>、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また、前年怪我のため、一軍登板がなかった[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]が復活を果たし、[[カムバック賞 (日本プロ野球)|カムバック賞]]を獲得。ドラフトではこの年の目玉選手・地元[[横浜中学校・高等学校|横浜高校]]の[[松坂大輔]]を1位指名したが、獲得できなかった。 ; [[1999年の横浜ベイスターズ|1999年]] [[ロバート・ローズ]]が当時右打者シーズン最高の打率.369、153打点を記録し、二冠王に輝く活躍を見せるなど、マシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録<ref group="注釈">2003年に[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]の.297(ただしDH制による記録)に抜かれ、現在はセ・リーグ記録。横浜の投手の打撃成績を除いた野手のみの打率は.303。</ref>を更新する。しかし、投手陣は[[川村丈夫]]が17勝<ref group="注釈">川村を最後に、15勝以上挙げた投手が途絶えている(2017年シーズン終了時点)。</ref>を挙げるものの、[[三浦大輔]]の不調や[[野村弘樹]]、佐々木主浩の故障などで頭数が揃わず、3位に終わった。オフに佐々木が大リーグ・[[シアトル・マリナーズ]]に移籍。 ; [[2000年の横浜ベイスターズ|2000年]] ; シーズンスローガン:「FIGHT FOR 20 IT!」 この年よりファーム組織を'''湘南シーレックス'''と改称し、独立採算を目指した活動を開始する。ロッテから[[小宮山悟]]が入団。[[金城龍彦]]が[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]と首位打者に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず、2年連続3位に終わった。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団した。 ===== 森監督時代 ===== ; [[2001年の横浜ベイスターズ|2001年]] ; シーズンスローガン:「FIGHT IN UNITY」 西武を8度のリーグ優勝に導いた[[森祇晶]]が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続Aクラスと3年連続3位に終わった(この年の順位に関しては[[#2001年と2005年の順位|後述]])。オフにチーム最多勝投手の小宮山がメジャーリーグに挑戦するために退団した。正捕手の[[谷繁元信]]が監督の森との確執もあり<ref>{{Cite news |title=“中日・谷繁vs西武・伊原”新監督同士をめぐる意外な「因縁」とは… |newspaper=[[夕刊フジ|ZAKZAK]] |date=2014-02-23 |author=江尻良文 |url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20140223/bbl1402230759004-n1.htm |accessdate=2015-10-07 |publisher=[[産業経済新聞社]]}}</ref>、中日に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]移籍。中日から金銭トレードで[[中村武志]]を獲得。監督の森の西武時代の教え子の[[森繁和]]を投手コーチ、[[辻発彦]]を内野守備走塁コーチに招聘した。 ; [[2002年の横浜ベイスターズ|2002年]] 1月26日に筆頭株主(親会社)がマルハ(現・マルハニチロ)からニッポン放送に変更される予定だったが、ニッポン放送の当時の関連会社だった[[フジテレビジョン]](現・[[フジ・メディア・ホールディングス]])が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト球団]]株を20%強保有していたため、一転してTBS(現・TBSホールディングス)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。 球団オーナーは当時の東京放送社長[[砂原幸雄]]となった(詳細は[[横浜DeNAベイスターズ#マルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代|マルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代の節]]を参照)<ref group="注釈">TBS(現・TBSホールディングス)がスポーツ団体の経営をするのは[[国際プロレス]]以来である。</ref>。これに際し、1978年からニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していた[[TBSラジオ]]の中継権が復活。横浜スタジアムからの[[TBSラジオ エキサイトベースボール|ナイター中継]]の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。これを境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。 開幕から記録的な低迷を続け、球団ワーストタイ目前となる1986年以来16年ぶりの13連敗を喫するなど、全日程で1994年以来8年ぶりの最下位となり<ref group="注釈">セ・リーグ全日程最下位は65年サンケイ、1980年中日、1985年ヤクルト、1991年阪神に次いで5度目。</ref>、9月26日に監督の森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされ、3年契約の2年目ながらこの年限りで事実上の解任となり、翌27日からヘッド兼打撃コーチの[[黒江透修]]が監督代行として指揮を執ることを発表した。オフに監督代行の黒江が退団した。この年での最終勝率は.363だった。NPB12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラゲームは0勝6敗となった。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年の広島以来24年ぶり。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。チーム防御率・失点リーグ5位、チーム打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。西武から[[石井義人]]、[[細見和史]]との2対2トレードで[[中嶋聡]]、[[富岡久貴]]を獲得。2つあった[[応援団]]が統合し、[[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]]が発足。 この年から2015年にかけて14年間で10回の最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。 ===== 山下監督時代 ===== ; [[2003年の横浜ベイスターズ|2003年]] チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。現役メジャーリーガーの[[スティーブ・コックス]]を移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約でダイエーからFA宣言した[[若田部健一]]を獲得するなど、大型補強を試みる。だが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人の[[タイロン・ウッズ]]や新人の[[村田修一]]、若手の[[多村仁志|多村仁]]ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど、大きく苦しみ、6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分と惨憺たる成績で、シーズン90敗到達はNPBでは1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。オフに日本ハムから[[横山道哉]]とのトレードで[[野中信吾]]を獲得。中村武志の復調や[[相川亮二]]の台頭で来季構想外となった中嶋聡が金銭トレードで日本ハムに移籍。 ; [[2004年の横浜ベイスターズ|2004年]] 佐々木主浩が年俸6億5,000万円の2年契約を結び、5年ぶりにマリナーズからチームに復帰。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つも、その後投手陣の不振により、徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続ける中、最終戦に敗れ、広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で1959年以来45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方、前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど、一定の成績は残した。山下はこの年、監督を退任した。オフにオーナーの砂原幸雄が[[一場靖弘]]への金銭授受の問題の責任をとって辞任し、TBS(現・TBSホールディングス)副社長の[[若林貴世志]]が新オーナーに就任。 ===== 牛島監督時代 ===== ; [[2005年の横浜ベイスターズ|2005年]] [[牛島和彦]]が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも、不調だった三浦をはじめ、投手陣が復活し、2001年以来4年ぶりのAクラスとなる3位に浮上した。また、巨人には[[東京ドーム]]で同一カード3連勝を記録するなど、一度も負け越しがなく、16勝6敗と大きく勝ち越した。佐々木主浩が現役を引退した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である[[石橋貴明]]([[とんねるず]])を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど、新しいファンサービスを行った。オフに斎藤隆が[[ロサンゼルス・ドジャース]]に移籍。 ; [[2006年の横浜ベイスターズ|2006年]] 投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や[[吉村裕基]]ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、シーズン途中の9月3日にこの年限りの監督退任を発表。この年チーム唯一の2桁勝利だが、年俸査定に不満を持った[[門倉健]]が巨人にFA移籍。巨人から[[小田嶋正邦]]+金銭とのトレードで[[仁志敏久]]、[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]から多村仁とのトレードで[[寺原隼人]]、巨人にFA移籍した門倉の人的保障として[[工藤公康]]を獲得。日本ハムを自由契約となった横山道哉が4年ぶりに復帰。 4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指す[[特定非営利活動法人|NPO法人]][[ベイスターズ・ベースボールアカデミー|横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ]]を、理事長を球団[[OB・OG|OB]]の[[平松政次]]として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを[[合併 (企業)|吸収合併]]する。10月、「チーム運営統括」という[[ゼネラルマネージャー]]的ポジションの幹部として[[日産自動車硬式野球部]]で監督を務めた[[村上忠則]]が就任。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。 ===== 第2次大矢監督時代 ===== ; [[2007年の横浜ベイスターズ|2007年]] 大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。前半戦は移籍組やベテラン勢の活躍で一時首位に立つなど、上位を猛追し、3位で折り返す。最終戦で敗れ、シーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年ぶりに70勝に到達し、村田が球団日本人選手としては[[桑田武]]以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど、主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。オフに[[マーク・クルーン]]が自由契約となった(巨人に移籍)。オリックスから[[古木克明]]とのトレードで[[大西宏明]]を獲得。 ; [[2008年の横浜ベイスターズ|2008年]] 開幕投手最有力で阪神キラーの三浦が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた。一方、スウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドームで行われた阪神との3連戦の1度だけで最大の連勝は3に留まった。 セ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、12球団で最少だった阪神(85被本塁打)の倍近くにあたる168本塁打を打たれ、いずれも12球団ワースト。与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりな一方で、6月10日に巨人から[[鶴岡一成]]とのトレードで[[真田裕貴]]、16日に中日から[[小池正晃]]とのトレードで[[石井裕也 (野球)|石井裕也]]を獲得するなど、投手陣を補強したが、チーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。在籍3年間で84セーブを挙げたクルーンが巨人に移籍したことで、27セーブと9回の失点は52はいずれもセ・リーグワーストを記録した上、先発投手が5回未満で降板した試合数53と先発投手が6回以上投げて自責点3以内に抑えた割合([[クオリティ・スタート|QS%]])の31.3%はいずれも12球団では群を抜くワーストだった。 この年に飛躍し、右打者シーズン最高打率を塗り替え、[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]を獲得した[[内川聖一]]、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村とリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べなかったため、チーム打率は.2655にもかかわらず、出塁率は.31552と12球団ワーストだった。加えて盗塁は37と4年連続でリーグワースト<ref group="注釈">盗塁数は2005年から37、51、42、37で2007年を除いて4年間で3回も12球団ワーストを記録している。</ref>を記録し、盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団では群を抜くワーストだった。 10月5日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に[[川村丈夫]]が現役を引退し、11日に石井琢朗、13日に鈴木尚典が自由契約となった(石井は広島に移籍、鈴木は現役を引退)。 投打ともにリーグまたは12球団のワースト記録を量産し、2006年以来2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と内川の打率(.378)よりも低く、'''「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事'''も発生する始末で、オフにヘッド兼打撃コーチの[[弘田澄男]]、投手コーチの斉藤明夫ら4コーチが解任。 新外国人として[[陳瑋]]、[[王靖超]]と育成契約を結んだ。相川亮二がヤクルトにFA移籍。広島から金銭トレードで[[森笠繁]]、阪神からFA宣言した[[野口寿浩]]を獲得。 ; [[2009年の横浜ベイスターズ|2009年]] [[ワールド・ベースボール・クラシック]]での村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど、序盤から低迷し、5月18日に監督の大矢が無期限休養に入り、併せて二軍監督の[[田代富雄]]が監督代行として指揮を執ることを発表した。一方、7月に新外国人として[[スティーブン・ランドルフ]]を獲得。しかし、チームを浮上させることはなく、93敗を喫し、2年連続最下位に終わる。前年と同様、貯金は一度もなく、無期限休養に入っていた監督の大矢は正式に退任、監督代行の田代はシーズン終了後に二軍監督に再任、投手コーチの[[杉本正 (野球)|杉本正]]は1年で解任。チーム防御率・失点<ref>[http://npb.jp/bis/2009/stats/tmp_c.html 2009年度セントラル・リーグ チーム投手成績]</ref>・打率・得点<ref>[http://npb.jp/bis/2009/stats/tmb_c.html 2009年度セントラル・リーグ チーム打撃成績]</ref>はリーグ最下位に終わった。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた[[尾花高夫]]を迎え入れ、[[横浜港]]を周遊する「[[マリーンルージュ]]」で就任記者会見を行った。オフに仁志敏久が退団し([[ランカスター・バーンストーマーズ]]に移籍)、工藤公康、横山道哉が自由契約となった(工藤は西武に復帰、横山は現役を引退)。ロッテから[[那須野巧]]、[[齋藤俊雄]]との2対1トレードで[[清水直行]]、元ロッテの[[杉原洋]]、日本ハムから[[加藤武治]]、[[松家卓弘]]、[[関口雄大]]との3対3トレードで[[稲田直人]]、[[坂元弥太郎]]、[[松山傑]]、ソフトバンクを自由契約となった[[篠原貴行]]、ロッテからFA宣言した[[橋本将]]、ロッテから金銭トレードで[[早川大輔]]、日本ハムを自由契約となった[[ターメル・スレッジ]]、新外国人として[[王溢正]]、[[クリス・ブーチェック]]、[[ホセ・カスティーヨ]]を獲得。 ===== 尾花監督時代 ===== ; [[2010年の横浜ベイスターズ|2010年]] 当初の構想では前年途中から抑えを務めた[[山口俊]]を先発に転向させ、抑えに起用する予定だったブーチェックが[[オープン戦]]で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、[[三浦大輔]]が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから、急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、この横浜の「最下位からの脱出」は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。一方、4月1日に日本ハムから石井裕也とのトレードで[[江尻慎太郎]]を獲得。4月7日に[[キンタナロー・タイガース]]に入団していた[[大家友和]]が12年ぶりに復帰。4月20日にソフトバンクから[[吉川輝昭]]とのトレードで[[井手正太郎]]を獲得。しかし、5月9日に[[吉見祐治]]が金銭トレードでロッテに移籍。開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。また、6月に新外国人として[[ブレット・ハーパー]]を獲得。一度も浮上することなく、9月7日の対巨人戦、25日の対中日戦に敗れ、5年連続Bクラスと3年連続最下位が確定し、28日の対ヤクルト戦、10月6日の対阪神戦に敗れ、プロ野球史上初の3年連続90敗と130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。9月10日に佐伯貴弘が自由契約となり(中日に移籍)、10月2日に森笠繁、6日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に[[木塚敦志]]が現役を引退した。一軍ヘッドコーチの[[島田誠]]が不振の責任を取って1年で辞任。 8月には2010年シーズン終了をもって、二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・[[LIXILグループ]])との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ<ref>[http://www.asahi.com/business/update/0930/TKY201009300525.html 横浜ベイスターズ売却を打診 TBS、住生活G軸に]{{リンク切れ|date=2015年10月}}朝日新聞2010年10月1日</ref>、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSホールディングスとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていた<ref>[http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010050010/ ベイ売却、来週にも「横浜残留」で住生活グループと合意へ] [[神奈川新聞]]2010年10月5日{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>が、実際の交渉は難航。結局、10月27日にTBSホールディングスが住生活グループとの交渉を打ち切り、2011年度も球団を保有することを発表するに至った<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20101027-OYT1T00728.htm |title=TBS、横浜ベイスターズを来季も保有 |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2010-10-27 |accessdate=2010-10-27 }}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。交渉決裂の理由としてはTBSホールディングスおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている<ref>[http://mainichi.jp/select/today/news/20101028k0000m050007000c.html 横浜ベイスターズ:TBS、住生活ともに交渉の破談認める]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 毎日.jp 2010年10月27日</ref>ものの、翌28日に加地隆雄球団社長は秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、[[新潟県立野球場|新潟]]、[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙]]([[静岡市|静岡]])、[[京都市西京極総合運動公園野球場|京都]]と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにし<ref>{{Cite news |title=横浜売却、本拠地移転が決裂要因 球団社長が公表 |newspaper=47NEWS |agency=[[共同通信社]] |date=2010-10-28 |url=http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010102801000339.html |accessdate=2015-10-07 }}</ref>、潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった。」と理由を述べた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/enterprises/manda/20101028-OYT8T00784.htm 住生活G会長「ゼロから出発したかった」]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 読売新聞 2010年10月28日</ref>。 オフにランドルフら外国人選手3人が退団し(ブーチェックは[[タンパベイ・レイズ]]、カスティーヨはロッテに移籍)、陳瑋と王靖超の両外国人選手が自由契約となった(共に[[天津ライオンズ]]に復帰)。オリックスから[[桑原謙太朗]]、野中信吾、[[高宮和也]]、寺原隼人との計4対3トレードで[[嶋村一輝|一輝]]、[[山本省吾]]、[[喜田剛]]、新外国人として[[クレイトン・ハミルトン]]、[[ブランドン・マン]]、[[ブレント・リーチ]]、[[陳冠宇]]、楽天から金銭トレードで[[渡辺直人]]、日本ハムからFA宣言した[[森本稀哲]]、西武から坂元弥太郎とのトレードで[[大沼幸二]]を獲得。内川聖一がソフトバンクにFA移籍。 ; [[2011年の横浜ベイスターズ|2011年]] 3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に[[東日本大震災]]が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している<ref>{{Cite news |title=東北・関東大地震 楽天、横浜は試合打ち切り |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2011-03-11 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/11/kiji/K20110311000407320.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref>。また、4月1日にリーチがNPB史上初の制限選手となった。当初は3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響で4月12日に延期された。2007年以来4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めた。一方、4月25日に前年オフに退団したランドルフが復帰。しかし、5月以降は低迷状態に陥る一方で、23日に新外国人として[[ルイス・ゴンザレス (1983年生の投手)|ルイス・ゴンザレス]]、元楽天の[[中村紀洋]]を獲得。交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わる<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2011/stats/std_inter.html |title=2011年度交流戦チーム勝敗表 |publisher=[[日本野球機構]] |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。さらに、6月28日にランドルフが解雇されたことで、7月にリーチを支配下選手に復帰させたが、またしても一度も連勝できないまま<ref>{{Cite news |title=横浜わずか2安打で零敗…7月は連勝なし |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-07-31 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/31/kiji/K20110731001324570.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref>オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す<ref>{{Cite news |title=借金19と低迷も…首脳会談で「後半戦も現体制」確認 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-07-21 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/07/21/kiji/K20110721001252730.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref>。後半戦では7月29日に[[国吉佑樹]]を支配下選手に登録させたが、一度も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れ、6年連続Bクラスと4年連続最下位が確定した<ref>{{Cite news |title=横浜6年連続Bクラス確定も尾花監督 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-09-27 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/27/kiji/K20110927001711420.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref><ref>{{Cite news |title=4年連続最下位…尾花監督「全部言い訳になる。言いません」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-10-09 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001789240.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref>。最終的には47勝86敗11分で首位から27.5、5位広島と11.5ゲーム差がついた<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2011/standings/ |title=【2011年度 公式戦】勝敗表 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。チーム防御率は2005年以来6年ぶりの3点台だったが、2年連続で最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷した<ref>{{Cite news |title=横浜最悪の幕切れ…尾花監督「責任は感じている」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-10-22 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/22/kiji/K20111022001874730.html |accessdate=2012-10-15 }}</ref>。10月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に早川大輔が現役を引退した。 10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半を[[ディー・エヌ・エー]]に譲渡することで、大筋合意がなされたことが報道<ref>{{Cite web |date=2011-10-19 |url=http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011101901000009.html |title=DeNAが横浜球団買収へ TBSと大筋で合意 |publisher=共同通信 |accessdate=2011-10-24}}</ref>され、22日の最終戦終了後、監督の尾花と6人のコーチ陣が休養に入り<ref>{{Cite web |date=2011-10-22 |url=http://www.47news.jp/CN/201110/CN2011102201000860.html |title=横浜、尾花監督が休養 球団売却で人事不透明に |publisher=共同通信 |accessdate=2011-10-24}}</ref>、11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)及び[[BS-TBS]]の保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)ディー・エヌ・エーに譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)<ref>{{Cite web |date=2011-11-04 |accessdate=2011-11-04 |url=http://v3.eir-parts.net/EIR/View.aspx?cat=tdnet&sid=929062 |title=(株)横浜ベイスターズ(連結子会社)株式の譲渡に関するお知らせ |format=PDF}}</ref>。11月22日、監督の尾花と6人のコーチ陣が解任<ref>{{Cite web |date=2011-11-22 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2011/11/1122_02.php |title=尾花髙夫監督解任記者会見について |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-07}}</ref>。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてディー・エヌ・エーによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された<ref>{{Cite web |date=2011-12-01 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/01/kiji/K20111201002147110.html |title=横浜DeNA誕生 組閣、補強、村田のFA流出阻止が急務 |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2011-12-01}}</ref>。 オフに杉原洋、稲田直人、松山傑、喜田剛、リーチら外国人選手3人、真田裕貴が自由契約となり(喜田は現役を引退、スレッジは日本ハムに復帰、稲田は楽天、松山は[[石川ミリオンスターズ]]、リーチは[[ロサンゼルス・ドジャース]]、ハーパーは[[モンクローバ・スティーラーズ]]、真田は巨人に移籍)、ゴンザレスが解雇された([[中信兄弟|兄弟エレファンツ]]に移籍)。村田修一が巨人にFA移籍。西武から[[武山真吾]]とのトレードで[[後藤武敏]]、巨人を退団した[[アレックス・ラミレス]]、他球団からFAで4年ぶりに復帰した鶴岡一成と小池正晃の両名、日本ハムを自由契約となった[[菊地和正]]と[[林昌範]]の両名、広島を自由契約となった[[ジャンカルロ・アルバラード|ジオ・アルバラード]]、新外国人として[[オスカー・サラサー]]、巨人にFA移籍した村田の人的補償として[[藤井秀悟]]を獲得。 TBSホールディングス時代は'''10年間で8回の最下位'''という戦績を残して幕を下ろした。 2023年現在、横浜ベイスターズに所属経験のあるNPBの現役日本人選手は[[藤田一也]]・[[田中健二朗]]<ref group="注釈">他球団への移籍を一度も挟むことなく、横浜時代から一貫してDeNAに在籍し続けている[[フランチャイズ・プレイヤー]]でもある。</ref>(いずれもDeNA)・[[梶谷隆幸]](巨人)・国吉佑樹(ロッテ)の4人。 ==== DeNA時代 ==== [[ファイル:Yokohama-stadium-2014-08-19.jpeg|thumb|改修された横浜スタジアム]] [[File:Yokohama Stadium fans 20150315.JPG|right|thumb|本拠地の横浜スタジアムでの応援の様子(2015年撮影)]] 2011年12月2日、球団株式が譲渡され、商号変更により、「'''横浜DeNAベイスターズ'''」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの[[高田繁]]が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は[[新庄剛志]]や[[工藤公康]]らの名が候補に挙がり、最終的には横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督などの人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べ、6日に当初からの候補であった[[中畑清]]の名前が挙がり、9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表された<ref>{{Cite journal |和書 |journal=週刊ベースボール |date=2011-12-16 |pages=26 - 27 }}</ref>。 ===== 中畑監督時代 ===== ; [[2012年の横浜DeNAベイスターズ|2012年]] ; シーズンスローガン:「熱いぜ!横浜DeNA」 1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において「新ユニホーム発表セレモニー」を行い、3月18日、これまでの球団マスコットだったホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。筆頭株主(親会社)変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。 3月30日、横浜DeNAベイスターズとしての初陣となった阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし<ref>{{Cite web |date=2012-03-30 |url=http://www.baystars.co.jp/game/2012/03/30/1_t/ |title=試合結果・速報 2012年3月30日(金) |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-07 }}</ref>、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して球団名称変更後初白星を挙げるも<ref>{{Cite web |date=2012-04-01 |url=http://www.baystars.co.jp/game/2012/04/01/3_t/ |title=試合結果・速報 2012年4月1日(日) |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-07 }}</ref>、続く4月4日から10日、22日から5月1日にかけて2度に渡り、6連敗するなどした。一方、6月8日に元楽天の[[ランディ・ルイーズ]]を獲得。交流戦は9勝14敗で10位に終わる。しかし、6月22日にハミルトンとの契約を解除した。また、6月24日に楽天から藤田一也とのトレードで[[内村賢介]]を獲得(ドラフト育成選手では球団初の単独のトレード)。その後、6月25日に大沼幸二が現役を引退した。さらに、7月4日に新外国人として[[ボビー・クレイマー]]を獲得。7月6日の対中日戦に敗れ、借金20となり、自力優勝が消滅した<ref>{{Cite news |title=DeNA借金20&自力V消滅 鬼門で29イニング無得点 |newspaper=スポニチアネックス |date=2012-07-07 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/07/kiji/K20120707003623650.html |accessdate=2015-11-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初めて同一カード3連勝をしたものの<ref>{{Cite news |title=高城 同一カード3連勝呼んだ!球団23年ぶり高卒新人マスク |newspaper=スポニチアネックス |date=2012-07-07 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710570.html |accessdate=2015-11-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、7年連続Bクラス、29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するも<ref>{{Cite news |title=今季初5連勝!9日間負けなし…中畑監督「最長不倒だよ」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2012-09-30 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/30/kiji/K20120930004226830.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続最下位が確定し<ref>{{Cite news |title=王溢正が乱調…大敗で最下位決定 中畑監督「先に台風来ちゃったね」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2012-09-30 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/30/kiji/K20120930004229720.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、10月7日の対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり<ref group="注釈">東京ドーム9敗1分、鹿児島1敗、宇都宮1分け。</ref>、東京ドームにおいてセ・リーグ初の記録となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/08/kiji/K20121008004280450.html 中畑監督 屈辱の東京ドーム0勝「記録と負けっぷりを忘れない」] スポーツニッポン 2012年10月8日</ref>。10月8日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に[[新沼慎二]]が現役を引退した。なお、この年には広島の野手コーチ兼選手だった石井琢朗が現役を引退した<ref>{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/npb/2012/result/10/08/01.html|title=2012年プロ野球試合結果 10月8日|publisher=スポーツニッポン|date=2012-10-08|accessdate=2014-05-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140521031323/http://www.sponichi.co.jp/baseball/npb/2012/result/10/08/01.html|archivedate=2014-05-21}}</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121008-1029725.html 【広島】石井琢、ハマスタ引退式で涙] 日刊スポーツ 2012年10月9日閲覧。</ref>ため、[[ドラフト外入団]]した選手が全員引退した。最終的には首位巨人とは40ゲーム差、5位の阪神にも9.5ゲーム差をつけられてしまい、セ・リーグ5球団に負け越した<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2012/stats/std_c.html |title=2012年度 セントラル・リーグ セントラル・リーグ チーム勝敗表 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-11-07 }}</ref>。 オフに[[大原淳也]]、[[福山博之]]、清水直行、ブランドンら外国人選手5人が自由契約となった(大原は[[香川オリーブガイナーズ]]に復帰、福山は楽天に移籍)。日本ハムから[[北篤]]とのトレードで[[土屋健二]]、ソフトバンクから江尻慎太郎、山本省吾、吉村裕基との3対3トレードで多村仁志(7年ぶりに復帰<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20121105/haw12110521230002-n1.html 古巣ベイ復帰の多村「正直驚いています」2012.11.5 21:22サンケイスポーツ]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>)、吉川輝昭(3年ぶりに復帰)、[[神内靖]]、中日を自由契約となった[[トニ・ブランコ]]、[[エンジェルベルト・ソト]]、[[ホルヘ・ソーサ]]<ref>{{Cite news |title=DeNA 守護神候補ソーサを獲得 初の3外国人同一球団移籍 |date=2012-12-26 |newspaper=スポーツニッポン |accessdate=2012-12-27 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/26/kiji/K20121226004854950.html}}</ref>、新外国人として[[ナイジャー・モーガン]]を獲得。阪神を自由契約となった[[鄭凱文]]、新外国人として[[ケビン・モスカテル]]と育成契約を結んだ。 ; [[2013年の横浜DeNAベイスターズ|2013年]] ; シーズンスローガン:「勝」 2月26日に鄭凱文を支配下選手に昇格させた。5月29日に王溢正との契約を解除し([[楽天モンキーズ|Lamigoモンキーズ]]に復帰)、6月4日に新外国人として[[ティム・コーコラン (投手)|ティム・コーコラン]]を獲得。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2013/stats/std_inter.html |title=2013年度 交流戦 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。一方、7月7日に西武から渡辺直人とのトレードで[[長田秀一郎]]を獲得。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出の可能性が消滅し、8年連続Bクラスが確定したが<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20130930002314/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130925/den13092505000000-n1.html |title=がら空き三塁へ…DeNA・加賀美が痛恨エラー |accessdate=2013年9月30日時点でのアーカイブ、2022年4月3日 |publisher=サンケイスポーツ}}</ref>、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、2007年以来6年ぶりの最下位脱出が決定し<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 6年ぶり最下位決定「申し訳ない。監督の力不足」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2013-10-01 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/01/kiji/K20131001006728150.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、最終的には1996年以来17年ぶりの5位が確定した。ヤクルト・阪神・中日を相手に勝ち越しが決まったが、セ・リーグ3球団に勝ち越したのは2001年以来実に12年ぶりのことであった<ref>{{Cite web |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20131005-OHT1T00198.htm |title=【DeNA】12年ぶり3球団に勝ち越し! |publisher=スポーツ報知 |date=2013-10-05 |accessdate=2013-10-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131005204258/http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20131005-OHT1T00198.htm |archivedate=2013-10-05}}</ref>。篠原貴行、小池正晃が現役を引退した。 オフにラミレス、森本稀哲、嶋村一輝、鄭凱文とコーコランの両外国人選手が自由契約となり(ラミレスは[[群馬ダイヤモンドペガサス]]、森本は西武、鄭凱文は中信兄弟に移籍、嶋村は現役を引退)、モーガンが退団した([[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]に移籍)。中日を自由契約となった[[柳田殖生]]、日本ハムから[[佐藤祥万]]とのトレードで[[加藤政義]]、阪神からFA宣言した[[久保康友]]、オリックスを退団した[[アーロム・バルディリス]]、[[コロラド・ロッキーズ]]を自由契約となった[[高橋尚成]]、新外国人として[[ギジェルモ・モスコーソ]]を獲得。FA入団した久保の人的補償として鶴岡一成が阪神に移籍。 ; [[2014年の横浜DeNAベイスターズ|2014年]] ; シーズンスローガン:「心」 3・4月は7勝18敗、勝率.280<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2014/calendar/index_04.html |title=公式戦 2014年度 カレンダー 【3・4月】 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=NPB(一般社団法人日本野球機構)}}</ref>と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、4月27日に[[萬谷康平]]を支配下選手に登録させ、5月13日にキューバから大砲の[[ユリ・グリエル|ユリエスキ・グリエル]]を獲得。5月に[[井納翔一]]、6月に山口俊(9月にも獲得<ref>{{Cite news |title=DeNA山口が今季2度目の月間MVP |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2014-10-07 |url=https://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2014/10/07/0007399128.shtml |accessdate=2015-10-07 }}</ref>)、8月に[[三浦大輔]]<ref>{{Cite news |title=DeNA三浦 7年ぶり月間MVP!球団史上初のシーズン3投手受賞 |newspaper=スポニチアネックス |date=2014-09-05 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/05/kiji/K20140905008876470.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。5月終了時点で首位広島に9.5ゲーム差、6月終了時点で首位巨人に11ゲーム差の最下位。しかし、7月以降は最下位から脱出し、9月までにクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、勝負の同月に失速し、27日にAクラス入りの可能性が消滅し<ref>{{Cite news |title=中畑監督 CS進出消え「まだまだ力足りなかった」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2014-09-28 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/28/kiji/K20140928009008030.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が確定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 山田 日本新記録は逆転満塁弾!DeNA 5位確定 |newspaper=スポニチアネックス |date=2014-10-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/06/kiji/K20141006009058820.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。モスカテルが現役を引退した。ドラフトでは後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる[[山﨑康晃]]([[亜細亜大学]])を1位指名。 オフに[[藤江均]]、中村紀洋、菊地和正、藤井秀悟、神内靖、ソーサら外国人選手4人が自由契約となった(菊地とソトは群馬ダイヤモンドペガサス、藤江は楽天、陳冠宇はロッテ、ブランコはオリックスに移籍、中村と藤井と神内は現役を引退)。[[金城龍彦]]が巨人にFA移籍。オリックスを自由契約となった[[東野峻]]、ソフトバンクを自由契約となった[[岡島秀樹]]、巨人を自由契約となった[[ホセ・ロペス (内野手)|ホセ・ロペス]]、新外国人として[[ヨスラン・エレラ]]、キューバからグリエルの弟の[[ルルデス・グリエル・ジュニア|グリエルJr.]]を獲得。 ; [[2015年の横浜DeNAベイスターズ|2015年]] ; シーズンスローガン:「導 TO THE GLORY TOGHTHER」 1月16日に球団オーナーが[[春田真]]から親会社・DeNAの創業者でもある[[南場智子]]に交代したことを発表、[[日本野球機構|NPB]]初の女性球団オーナーが誕生した<ref>{{Cite web |date=2015-01-16 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2015/01/0116_01.php |title=役員人事に関するお知らせ |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-07 }}</ref><ref>{{Cite news |title=プロ野球初の女性オーナー誕生 DeNA新オーナーに南場智子氏 |newspaper=スポニチアネックス |date=2015-01-16 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/16/kiji/K20150116009638830.html |accessdate=2015-01-16 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。また、ユニフォームも濃紺から青色'''(通称:横浜ブルー)'''に変わった。 4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は横浜時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、ディー・エヌ・エーが筆頭株主(親会社)となってからは初の単独首位につく<ref>{{Cite news |date=2015-04-09 |url=http://baseballking.jp/ns/28704 |title=DeNA単独首位に新垣、福浦、カラバイヨ...各地で続出した○○年ぶり |newspaper=BASEBALL KING |publisher=FromOne co.,ltd |accessdate=2015-10-07 }}</ref>など、序盤は好調な滑り出しを見せた。一方、6月7日に[[砂田毅樹]]を支配下選手に登録させた。しかし、交流戦では全6カードを全て負け越し<ref>{{Cite news |title=DeNA交流戦全カード負け越し貯金0 |newspaper=デイリースポーツ |date=2015-06-14 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2015/06/14/0008121245.shtml?pg=2 |accessdate=2015-10-07 }}</ref>、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録<ref>{{Cite news |title=キヨシDeNA、交流戦史上最低勝率…就任4年目ワースト10連敗 |newspaper=[[サンケイスポーツ]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2015-06-15 |url=https://www.sanspo.com/article/20150615-RO4KKJEKMVNIRPIJAJZ7QUDHYM/ |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう<ref>{{Cite news |title=DeNA史上初、首位から12連敗 最下位と1差 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-06-20 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1495421.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。しかし、6月23日の巨人戦に7-2で勝利し、連敗を12で止めた<ref>{{Cite news |title=DeNA勝った!連敗12でストップ!巨人 貯金ゼロに |newspaper=スポニチアネックス |date=2015-06-23 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/06/23/kiji/K20150623010596650.html |accessdate=2015-10-07 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。交流戦後の混戦の中、6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。一方、7月3日に新外国人として[[デュアン・ビロウ]]を獲得。前回優勝の1998年以来となる前半戦首位ターンとなった<ref>{{Cite news |title=セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-07-16 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。しかし、後半戦に入ると、徐々に順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ、自力でのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し<ref>{{Cite news |title=ルナV撃!荒木猛打賞!中日集中打で連敗脱出 DeNAは自力CS消滅 |newspaper=スポニチアネックス |date=2015-09-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/03/kiji/K20150903011060500.html |accessdate=2015-09-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、10月3日にシーズン最終戦(巨人戦)で敗れ、10年連続Bクラスと2012年以来3年ぶりの最下位が確定した<ref name="Saikai">{{Cite news |title=巨人ヒヤヒヤの連勝 DeNA反撃届かず最下位確定 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-10-03 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1547597.html |accessdate=2015-10-3 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。前半戦を首位で折り返しながらシーズンを最下位で終えるのはプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の記録となった<ref name="Saikai" />。本塁打数はリーグ最多の112、得点はリーグ2位の508だった<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2015/stats/tmb_c.html |title=2015年度 セントラル・リーグ チーム打撃成績 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=一般社団法人日本野球機構}}</ref>ものの、チーム防御率3.80、総失点598はリーグワーストだった<ref name=":1">{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2015/stats/tmp_c.html |title=2015年度 セントラル・リーグ チーム投手成績 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=NPB(一般社団法人日本野球機構)}}</ref>。[[黒羽根利規]]、[[髙城俊人]]、[[嶺井博希]]を起用するなど、固定できなかった捕手陣は11[[捕逸]]<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2015/stats/tmf_c.html |title=2015年度 セントラル・リーグ チーム守備成績 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=NPB(一般社団法人日本野球機構)}}</ref>と1990年の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]の日本プロ野球タイに並ぶ68[[暴投]]を記録した<ref name=":1" />。また、神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。観客動員数は好調で、球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑は低迷の責任を取る形で退任。これにより、4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた<ref>{{Cite web |date=2015-10-03 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2015/10/1003_06.php |title=中畑清監督退任のお知らせ |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-07 }}</ref>。後任に球団史上初の外国人監督となるラミレスが就任<ref>{{Cite news |title=DeNA新監督にラミレス氏=2年契約の見通し-プロ野球 |newspaper=時事ドットコム |date=2015-10-19 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=spo&k=2015101900069 |accessdate=2015-11-06 |publisher=[[時事通信社]] }}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 10月21日、ラミレスの新監督就任が正式に発表された<ref>{{Cite web |date=2015-10-21 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2015/10/1021_03.php |title=アレックス・ラミレス新監督 就任記者会見 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-11-07 }}</ref>。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表<ref>{{Cite news |title=DeNAラミレス新監督「優勝を」報道陣120人 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-10-21 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1555667.html |accessdate=2015-11-07 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。ドラフトでは即戦力として期待された左投手の[[今永昇太]]([[駒澤大学]])を1位指名。課題であった捕手にも[[戸柱恭孝]]([[NTT西日本硬式野球部|NTT西日本]])を迎えた。 オフに多村仁志、東野峻、土屋健二、加藤政義、岡島秀樹、ビロウとバルディリスの両外国人選手が自由契約となった(バルディリスは[[サムスン・ライオンズ]]、多村は中日、東野と土屋と加藤は現役を引退)。新外国人として[[ジェイミー・ロマック]]、[[ザック・ペトリック]]、巨人を自由契約となった[[久保裕也 (野球)|久保裕也]]、ソフトバンクとの育成契約を拒否した[[白根尚貴]]を支配下選手として獲得。 この年で暗黒時代は一応終わり、最下位もDeNA時代では2021年まで経験しなくなる。 ===== ラミレス監督時代 ===== ; [[2016年の横浜DeNAベイスターズ|2016年]] ; シーズンスローガン:「WE PLAY TO WIN」 前年11月に開始されていた本拠地である[[横浜スタジアム]]の運営会社・[[横浜スタジアム#管理・運用者|株式会社横浜スタジアム]]の[[株式公開買付け|友好的TOB]]が一段落し、1月20日付で[[横浜スタジアム]]運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は1月28日付で名義を横浜DeNAベイスターズの子会社(ディー・エヌ・エーの孫会社)に変更。 キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発した。[[山崎憲晴]]が左膝靱帯断裂で今季絶望<ref>{{Cite web |url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/1608322.html/ |title=DeNA山崎憲、左膝靱帯断裂で手術 復帰まで1年 |publisher=[[日刊スポーツ]] |accessdate=2016-02-24}}</ref>となったほか、[[石川雄洋]]、山口俊、梶谷隆幸が故障により、開幕に間に合わず、3・4月は投打にわたり、戦力不足で9勝18敗と大きく負け越し、開幕直後に日本ハムから金銭トレードで[[藤岡好明]]、広島を自由契約となった[[マイク・ザガースキー]]を獲得したが、5月に入ると、怪我で離脱していた梶谷ら主力選手も戻り、5月15日に新外国人として[[エリアン・エレラ]]を獲得。その後、[[石田健大]]、[[今永昇太]]が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど、5月3日時点で11あった負け越しを5月28日には完済した。交流戦は負け越したものの、7月11日に三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成([[ギネス世界記録]]に認定され、8月22日、[[横浜スタジアム]]で認定証が授与)するなど、勢いを取り戻し、1999年以来17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決めた。一方、7月14日に新外国人として[[マイク・ブロードウェイ]]を獲得。7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど、大爆発した。後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島との最終戦にて勝利し、2005年以来11年ぶりのAクラスと3位が確定し、チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分。投手陣ではルーキーの今永、2年目の石田が先発ローテーションに入り、野手陣では筒香が本塁打王と打点王のタイトルを獲得。桑原、倉本がレギュラーに定着するなど、若手の台頭が目立った。シーズン最終戦となる9月29日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に三浦大輔が現役を引退した。三浦の引退により、横浜大洋ホエールズに所属した選手が全員引退した。ドラフトでは1位で[[濱口遥大]]の単独指名に成功。9位に[[佐野恵太]]を指名し、これが大化けへと繋がってゆく。 [[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ(CS)]]では公式戦2位の巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めて公式戦1位の広島と対戦し、第3戦で借金チームとして初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの、1勝4敗で敗退した。DeNAがCSに進出し、ファイナルステージまで進んだことにより、CS制度導入後10年目にしてNPB全球団がCSに出場する<ref name="nikkei20160919">{{Cite web |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK10346_Z10C16A9000000/ |title=プロ野球 DeNA、初のCS進出決定|accessdate=2016-09-23}}</ref>と共にセ・リーグ全6球団がCSファイナルステージ(第2ステージ)に出場した。 オフに井手正太郎、内村賢介、長田秀一郎、柳田殖生、久保裕也、エレラら外国人選手6人が自由契約となった(ロマックは[[サンディエゴ・パドレス]]、ブロードウェイは[[ワシントン・ナショナルズ]]、ペトリックはサムスン・ライオンズ、久保は楽天、ザガースキーは[[デトロイト・タイガース]]、長田は[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|新潟アルビレックスBC]]、モスコーソは[[レオン・ブラボーズ]]に移籍、井手と柳田は現役を引退)。山口俊が巨人にFA移籍。新外国人として[[アウディ・シリアコ]]、[[ジョー・ウィーランド]]、[[スペンサー・パットン]]、[[フィル・クライン]]、ヤクルトを自由契約となった[[田中浩康]]、巨人にFA移籍した山口の人的補償として[[平良拳太郎]]を獲得。 広島が1991年以来26年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAはセ・リーグ全6球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」となった。 ; [[2017年の横浜DeNAベイスターズ|2017年]] ; シーズンスローガン:「THIS IS MY ERA.」 ; 新スローガン:「OUR TIME IS N.O.W.」 5月30日の交流戦初戦で3位に浮上<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/05/31/kiji/20170530s00001173251000c.html DeNA3位浮上!ドラ1浜口が新人トップ3勝「これをきっかけに」] - スポニチアネックス、2017年5月31日</ref>。一方、7月6日に日本ハムから黒羽根利規とのトレードで[[エドウィン・エスコバー]]を獲得。8月22日から24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から[[筒香嘉智]](2ラン)、ロペス、[[宮﨑敏郎]]の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏二死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から[[倉本寿彦]]の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である<ref>[https://www.sanspo.com/article/20170825-ZOP7T2SMLBIQ7LFZ2HF2CP7P2Q/ DeNAが3戦連続サヨナラ勝ち!球団57年ぶり、同一カードでは初の快挙(2017年8月25日・SANSPO.COM) ]</ref>。9月に入り、巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり、順位が入れ替わることもあった。その最中、26日に[[高崎健太郎]]、[[大原慎司]]が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。10月1日の対広島戦で勝利し、2年連続3位が確定した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710010000585.html DeNA2年連続CS進出!乱打戦制し3位確定] - 日刊スポーツ、2017年10月1日</ref>。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりの勝ち越しを決めた。今永、濱口、ウィーランドの3人が二桁勝利を挙げ、宮﨑は首位打者、ロペスは最多安打と打点王のタイトルを獲得した。 [[2017年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ(CS)]]では1stステージで2位阪神と対戦。2戦目は大雨で異例のコンディションの中、泥試合と称される戦いに勝利し、その勢いで2勝1敗で阪神を破った。ファイナルステージでは第1戦を落とした後に4連勝し、4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で1位の広島を破り、日本シリーズに進出した。3位からの日本シリーズ進出はセ・リーグとしては初。これにより、CS制度導入後11年目にしてセ・リーグ6球団が日本シリーズに進出した。また、2010年代にセ・リーグ6球団が日本シリーズに出場した。ソフトバンクとの[[2017年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では3連敗で王手をかけられた後、2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身を含め、3度目となる日本シリーズで初めて敗退し、日本一を逃した。 オフに山崎憲晴、久保康友、クラインら外国人選手3人が自由契約となった(山崎は阪神、シリアコはサセックスカウンティー・マイナーズ、久保は[[ゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ]]、エリアンは[[メキシコシティ・レッドデビルズ]]に移籍)。元ソフトバンクの[[エディソン・バリオス]]、新外国人として[[ネフタリ・ソト]]、中日を自由契約となった[[武藤祐太]]、楽天を自由契約となった[[中川大志 (野球)|中川大志]]、補強の目玉として阪神からFA宣言した[[大和 (野球)|大和]]を獲得。FA入団した大和の人的補償として[[尾仲祐哉]]が阪神に移籍。[[下園辰哉]]、[[小杉陽太]]、林昌範が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。 ; [[2018年の横浜DeNAベイスターズ|2018年]] ; シーズンスローガン:「VICTORY is within US.」 ; 新スローガン:「VICTORY is within US. 熱く、熱く、立ち上がる。」 横浜時代の2011年以来球団がDeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが、試合は3-7で敗れ<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2018/games/s2018033000106.html |title=2018年3月30日 (金) 東京ヤクルトスワローズ7 横浜DeNAベイスターズ3 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=NPB(一般社団法人日本野球機構)}}</ref>、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝し、4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると<ref>{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20180413-FKVIGO5REVOZPNCGAOIIJOPTCE/ |title=DeNA、6連勝で首位浮上! 開幕投手の石田が今季初勝利 |publisher=サンケイスポーツ |date=2018-04-13 |accessdate=2021-05-28}}</ref>、4月7日から15日にかけて2001年以来17年ぶりとなる8連勝を記録した。しかし、ここから急降下し、7月4日に元ロッテの[[中後悠平]]、9日にオリックスから髙城俊人、[[白崎浩之]]との2対2トレードで[[伊藤光]]、[[赤間謙]]を獲得。7月18日に[[オーストラリアン・ベースボールリーグ]]の[[キャンベラ・キャバルリー]]と戦略的パートナシップを締結したことを発表した<ref>{{Cite web |url=https://baseballking.jp/ns/159386 |title=DeNAが豪州の強豪・キャンベラと戦略的パートナシップを締結 |publisher=BASEBALL KING |date=2018-07-18 |accessdate=2018-07-26}}</ref>。8月までに2か月連続で負け越し、最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスと4位に終わった。山﨑が初の最多セーブ、ソトは本塁打王のタイトルを獲得。[[加賀繁]]、[[後藤武敏]]が現役を引退した。 オフに[[荒波翔]]、白根尚貴、田中浩康、ウィーランドが自由契約となった(荒波は[[モンテレイ・サルタンズ]]、ウィーランドは[[起亜タイガース]]に移籍、白根と田中は現役を引退)。巨人を自由契約となった[[中井大介]]を獲得。かつてチームに所属していた[[古村徹]]が4年ぶりに復帰。 ; [[2019年の横浜DeNAベイスターズ|2019年]] ; シーズンスローガン:「Go Beyond the Limit.」 ; 新スローガン:「一生残る、一瞬のために。 FOR THE MOMENT THAT WILL LAST A LIFETIME.」 球団創設70周年を記念し、この年<ref group="注釈">2018年11月23日から2019年11月22日まで使用された。</ref>限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る<ref group="注釈">ホームゲームでは球場にこのデザインの旗が必ず掲げられていた。また、球団公式映像や資料、各種SNSでもこのロゴが使用されていた。ビジターゲームの場合はこのデザインのものと従来(2012年にデザインされたもの)のものとが混在していた。</ref>。 1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201901240000174.html DeNAラミレス監督が日本国籍取得 日本人で開幕] 日刊スポーツ 2019年1月24日</ref>。3月14日、[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]と業務提携を締結した。 3月26日に楽天から[[熊原健人]]とのトレードで[[濱矢廣大]]を獲得。4月に2015年以来4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利したことで、最下位から脱出する。一方、翌31日に新外国人として[[サミー・ソリス]]を獲得。オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返し、一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局一度も首位に立つことなく、優勝を逃した。それでも9月24日の中日戦に勝利したことで、1997年以来22年ぶりの2位が確定し、初となるCS本拠地開催を決めたことにより、NPB全球団が本拠地でのCSの開催を経験した。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年ぶり。 [[2019年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|CS]]ファーストステージでは3位の阪神と対戦するも、第1戦で6点差から逆転負けしたこともあり、1勝2敗で球団初のファーストステージでの敗退となった。 ソトが43本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と打点王を獲得した。 10月29日に筒香嘉智が[[ポスティングシステム]]を利用しての[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]挑戦を正式に発表した<ref>{{Cite web |title=DeNA・筒香、ポスティングでメジャー挑戦「イチローさんや松井さんに憧れ」 |url=https://www.sanspo.com/article/20191030-G6L57MRXNBMA3FLQNZNKLUFTJQ/ |website=SANSPO.COM(サンスポ) |date=2019-10-30 |accessdate=2019-11-09 |language=ja-JP}}</ref>。 オフにバリオスとソリスの両外国人選手が自由契約となり(バリオスは[[メキシコシティ・レッドデビルズ]]、ソリスは2021年シーズン途中、[[モンクローバ・スティーラーズ]]に移籍)、田中健二朗が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。新外国人として[[マイケル・ピープルズ]]、2015年の[[アリゾナ・フォールリーグ]]でローズが打撃コーチを務めていた際に教え子だった[[タイラー・オースティン]]を獲得。オリックスを自由契約となった髙城俊人が1年半ぶりに復帰。 ; [[2020年の横浜DeNAベイスターズ|2020年]] ; シーズンスローガン:「NEW GENERATION IS HERE.」 1月25日、[[佐野恵太]]が筒香のポスティングシステムでの[[タンパベイ・レイズ]]への移籍に伴い、空席となっていたキャプテンに就任することが発表された<ref>{{Cite web |title=新キャプテンの決定について |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/01/0125_03.php |website=横浜DeNAベイスターズ |date=2020-01-25 |accessdate=2020-02-05 |language=ja-JP}}</ref>。 春季キャンプでは過去にMLBで[[ゴールドグラブ賞]]を11度受賞した守備の名手である[[オマー・ビスケル]]を特別コーチとして招聘し<ref>{{Cite web |title=2020年春季キャンプ 特別コーチについて |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/01/0128_05.php |website=横浜DeNAベイスターズ |date=2020-01-28 |accessdate=2020-02-10}}</ref><ref>{{Cite web |title=DeNA、ゴールドグラブ賞11度の名手ビスケル氏を招聘! キャンプ特別コーチに |url=https://full-count.jp/2020/01/28/post672669/ |website=Full-Count |date=2020-01-28 |accessdate=2020-02-10}}</ref>、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスより[[:en:Barry Enright|バリー・エンライト]]<ref group="注釈">[[マイナーリーグ|シングルA]] [[ケーンカウンティ・クーガーズ]]投手コーチ。</ref>と[[:en:Blake Lalli|ブレイク・ラリー]]<ref group="注釈">アリゾナ・ダイヤモンドバックス フィールドコーディネーター兼ダブルA[[ジャクソン・ジェネラルズ]]監督。</ref>がコーチ研修目的で参加し<ref>{{Cite web |title=2020年春季キャンプについて |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/01/0127_03.php |website=横浜DeNAベイスターズ |date=2020-01-27 |accessdate=2020-02-10}}</ref>、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーと[[スティーブン・チェンバース]]が2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた<ref>{{Cite web |title=2020年春季キャンプへの練習参加について |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/02/0205_02.php |website=横浜DeNAベイスターズ |date=2020-02-05 |accessdate=2020-02-10}}</ref>。 [[新型コロナウイルス感染症]]による[[パンデミック]]により、3月に開幕予定だった公式戦は3か月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の'''無観客'''での開幕だった。 開幕後は今永昇太とオースティンが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ロペスとソトの両外国人選手の不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まった。しかし、9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降、ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)、負けが込み、11日の阪神戦に敗れ、4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、25日に球団からラミレスの退任が発表され、11月5日の中日戦に敗れ、2018年以来2年ぶりのBクラスが確定し、11日に広島が中日に負けたため、4位でシーズンを終えた。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって、巨人戦6連勝を記録し、リーグで12勝12敗と唯一負け越すことなく、巨人の完全優勝を阻止した。また、佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい話題もあった。これにより、5年間に及ぶラミレス政権は幕を閉じた。後任に二軍監督の三浦大輔が昇格する形で就任。 11月17日、三浦の新監督就任が正式に発表された。 オフにロペスとパットン([[テキサス・レンジャーズ]]に移籍)の両外国人選手が退団し、赤間謙、現役続行を希望し、移籍先を探していた石川雄洋が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。梶谷隆幸、井納翔一が巨人にFA移籍。ヤクルトを自由契約となった[[風張蓮]]、巨人にFA移籍した梶谷の人的補償として[[田中俊太]]、新外国人として[[フェルナンド・ロメロ (野球)|フェルナンド・ロメロ]]を獲得。新外国人として[[ケビン・シャッケルフォード]]、巨人を自由契約となった[[宮國椋丞]]と育成契約を結んだ。 ===== 三浦監督時代 ===== ; [[2021年の横浜DeNAベイスターズ|2021年]] ; シーズンスローガン:「横浜一心」 新型コロナウイルス感染症の影響で外国人選手が12球団で唯一全員来日できず<ref>{{Cite web|url=https://hochi.news/articles/20211012-OHT1T51217.html?page=1|title=【DeNA】ついに12球団最速CS進出完全消滅 三浦大輔監督1年目でBクラス確定 開幕時助っ人不在響く|accessdate=2021-11-25|website=スポーツ報知}}</ref>、戦力が揃ったのは4月15日のことであり、3、4月は2引き分けを挟んで10連敗を含む<ref>{{Cite web|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/04/22/kiji/20210422s00001173530000c.html|title=DeNA、悪夢の10連敗にファン「最近10試合で14得点勝てるわけない」 他球団ファンから同情の声も|accessdate=2021-11-25|website=スポニチアネックス}}</ref>6勝21敗4分と大きく負け越した<ref>{{Cite web|url=https://full-count.jp/2021/06/02/post1092621/|title=セ最下位“独走”も交流戦では2位浮上 DeNAが強力パ球団と互角以上に戦える理由とは?|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>。一方、4月23日にシャッケルフォードを支配下選手に昇格させた。また、6月14日にロッテから国吉佑樹とのトレードで[[有吉優樹]]を獲得、その後翌15日に田中健二朗を支配下選手に復帰させた。さらに、8月30日に宮國椋丞を支配下選手に昇格させた。打撃陣は打率3割を記録した選手を4人([[牧秀悟]]、[[桑原将志]]、佐野恵太、[[宮﨑敏郎]])輩出したほか、チーム本塁打136本、チーム得点559点はいずれもリーグ2位だった<ref>{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/2021/stats/tmb_c.html |title=2021年度 セントラル・リーグ チーム打撃成績 |accessdate=2022年4月3日 |publisher=NPB(一般社団法人日本野球機構)}}</ref>が、7連敗以上を2度記録したこともあり、また勝利数が最も多かった[[大貫晋一]]でさえ6勝止まりと成績を大幅に落とし、2年連続Bクラスと2015年以来6年ぶりの最下位が確定した<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202110260000897.html|title=DeNA6年ぶり最下位、今永昇太3回8安打5失点と乱調|accessdate=2021-11-25|website=日刊スポーツ}}</ref>。牧は1年目ながら数々の新人記録を打ち立てる活躍を見せ、新人特別賞を受賞した。 オフに坪井打撃コーチ、川村投手コーチ、新沼バッテリーコーチ、牛田・藤岡両二軍投手コーチなど、首脳陣が退団した。風張蓮、ピープルズとシャッケルフォードの両外国人選手が自由契約となり(風張は[[ケンタッキー・ワイルドヘルス・ゲノムス]]に移籍、ピープルズは再契約、シャッケルフォードは退団)、平良拳太郎が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。楽天を自由契約となった藤田一也が10年ぶりに復帰<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202112100000613.html|title=10年ぶりDeNA復帰の藤田一也「ベイスターズ愛は変わらない」|accessdate=2021-12-11|website=日刊スポーツ}}</ref>。新外国人として[[ブルックス・クリスキー]]、日本ハムを[[自由契約|ノンテンダー]]となった[[大田泰示]]を獲得。 オリックスが1996年以来25年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAは現存12球団の中で「最もリーグ優勝から遠ざかっている球団」及び[[20世紀]]に創設した同11球団と2004年に消滅した近鉄を含む12球団の中で「[[21世紀]]に一度もリーグ優勝をしていない最後の球団」となった<ref group="注釈">ただし、[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#勝率1位・2位・3位によるプレーオフ(2004年 - 2006年のパ・リーグ)|プレーオフ]]を除けば、リーグ優勝から最も長く遠ざかっているのは[[千葉ロッテマリーンズ]]で、最後の優勝はロッテオリオンズ時代の1970年まで遡る。</ref><ref group="注釈">[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]のチーム創設、リーグ優勝・日本一を果たしたのは全て21世紀に入ってから。</ref>。 ; [[2022年の横浜DeNAベイスターズ|2022年]] ; シーズンスローガン:「横浜反撃」 昨シーズンよりコーチ陣が刷新され、昨シーズンから一軍で留任したコーチは青山ら4コーチで、嶋村打撃コーチが二軍打撃コーチ、藤田ブルペン担当バッテリーコーチが二軍育成コーチに配置転換され、内野守備走塁コーチが永池から田中浩に変わり、球団OBで2年間湘南シーレックスのファームコーチを務めた鈴木尚典が打撃コーチとして復帰し<ref name=":2">{{Cite web|url=https://full-count.jp/2021/11/03/post1152537/|title=DeNAが斎藤隆氏、鈴木尚典氏、小杉陽太氏と来季コーチ契約 最下位から巻き返しへ|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>、球団OBの斎藤隆がチーフ投手コーチ<ref name=":2" />、球団OBの石井琢朗が野手総合コーチ<ref>{{Cite web|url=https://full-count.jp/2021/11/13/post1156185/|title=DeNAがOB石井琢朗氏のコーチ就任を発表 来季14年ぶりの復帰、担当分野は未定 |website=Full-Count|date=2021-11-13|accessdate=2021-11-13}}</ref>、球団OBの相川亮二がバッテリーコーチ<ref>{{Cite web|url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/977451|title=14年ぶり古巣へ DeNAコーチに相川氏|website=NNN|date=2021-11-19|accessdate=2021-11-19}}</ref>に就任した。斎藤ら3コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。 今永昇太、ソトとオースティンの両外国人選手が春季キャンプ中に故障して開幕から出遅れ、4月6日にはチームに新型コロナウイルスの陽性者が続出したことから、翌7日から10日までの4試合を中止し、12日からは総勢22人の選手を入れ替え、一軍の試合を再開した。4・5月は最大借金9と下位に落ち込むも、交流戦以降はチーム成績も安定し、今永昇太が6月7日の日本ハム戦(札幌ドーム)で球団としては1970年の鬼頭洋以来52年ぶり4人目となるノーヒットノーラン達成。特に投手面では大きく改善し、今永昇太が防御率でリーグ3位に入って11勝、大貫晋一も11勝を挙げ、[[伊勢大夢]]、エスコバー、そこから割って入る入江大生、田中健二朗の勝ちパターンの確立が大きかった。一方、7月16日に新外国人として[[ロバート・ガゼルマン]](翌々18日にピープルズが再び退団)、28日に楽天から[[伊藤裕季也]]とのトレードで[[森原康平]]を獲得。その後、7月30日に平良拳太郎を支配下選手に復帰させ、[[宮城滝太]]を支配下選手に登録させた。8月に入ると、21日の広島戦まで横浜スタジアムで開催された試合で連勝を続け、プロ野球史上3球団目となる球団新記録となる本拠地17連勝、18勝6敗と球団としては1997年8月以来の月間18勝を記録し、首位ヤクルトを追う2位まで浮上したが、26日からの首位ヤクルトとの直接対決で3連敗してしまい、ゲーム差を広げられたため、首位ヤクルトとのゲーム差を詰めることはできず、ヤクルトの優勝マジックが2になった9月25日の明治神宮球場での直接対決でまさかのサヨナラ負けを喫し、優勝争いには敗れものの、2019年以来3年ぶりのAクラスと2位が確定したことで、三浦監督は球団の生え抜き監督としては初のAクラス入りを果たした。 2019年以来3年ぶりに横浜スタジアムで実現した阪神とのクライマックスシリーズファーストステージで打率3位の.306を記録した佐野が3戦で10打数1安打と不振に陥り、最後は1点ビハインドで迎えた9回1死満塁のチャンスに藤田が4-2-3のホームゲッツーで試合終了。この年は阪神に2013年以来9年ぶりの勝ち越しを決めていたが、3年前に続き、1勝2敗でファーストステージ敗退となった。 オフに[[三上朋也]]、ロメロとクリスキーの両外国人選手が自由契約となり(三上は巨人、ロメロはロサンゼルス・エンゼルス、クリスキーはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)、ロッテを自由契約となった[[西巻賢二]]と育成契約を結んだ。中日から砂田毅樹とのトレードで[[京田陽太]]、新外国人として[[J.B.ウェンデルケン]]、[[トレイ・アンバギー]]、2020年に[[サイ・ヤング賞]]を受賞した[[トレバー・バウアー]]を獲得。嶺井博希がソフトバンクにFA移籍。[[山下幸輝]]、[[浅田将汰]]、[[田部隼人]]、髙城俊人、有吉優樹が戦力外通告を受け、5人ともその後現役を引退した。 ; [[2023年の横浜DeNAベイスターズ|2023年]] ; シーズンスローガン:「横浜頂戦」 青山ヘッドコーチが巡回コーチ、石井琢野手総合コーチがチーフ打撃コーチ、相川バッテリーコーチがチーフ作戦兼バッテリーコーチに配置転換された。 ワールド・ベースボール・クラシックでは今永昇太と牧秀悟が日本代表、ソトがプエルトリコ代表に選出された。 4月11日に球団OBの大原慎司が投手コーチ補佐兼スコアラー兼マネージャーに就任した。4月27日に西巻賢二を支配下選手に昇格させた。 == 所属選手・監督・コーチ == {{See also|横浜DeNAベイスターズの選手一覧}} {{横浜DeNAベイスターズの選手・スタッフ|state=expanded}} == チーム成績・記録 == [[Image:Yokohama BayStars Ranking.svg|thumb|320px|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]] {{See also|横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の年度別成績一覧}} * リーグ優勝 2回 : (1960年、1998年) * 日本一 2回 : (1960年、1998年) * セ・パ交流戦優勝 1回 : (2023年) * クライマックスシリーズ優勝 1回 : (2017年) * Aクラス 19回 : (1960年、1962年、1964年、1969年 - 1971年、1979年、1983年、1990年、1997年 - 2001年<ref group="注釈">2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はBクラス(4位)になっていた。</ref>、2005年、2016年 - 2017年、2019年、2022年) * Bクラス 54回 : (1950年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1968年、1972年 - 1978年、1980年 - 1982年、1984年 - 1989年、1991年 - 1996年、2002年 - 2004年、2006年 - 2015年、2018年、2020年 - 2021年) * 最下位 25回 : (1954年 - 1959年、1961年、1966年<ref group="注釈">[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイ]]と同率最下位。</ref>、1976年 - 1977年、1981年、1984年、1989年、1994年、2002年 - 2004年、2006年、2008年 - 2012年、2015年、2021年) * 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年 - 2001年) * 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年) * 最多勝 80勝(1964年) * 最多敗 99敗(1955年) * 最多引分 17分(1979年) * 最高勝率 .585(1998年) * 最低勝率 .238(1955年) * 最多連勝 10 ([[1964年の大洋ホエールズ|1964年]]、[[1967年の大洋ホエールズ|1967年]]、[[1968年の大洋ホエールズ|1968年]]、[[1998年の横浜ベイスターズ|1998年]]、[[1999年の横浜ベイスターズ|1999年]])※1967年、1968年、1998年のものは引き分けを挟む。 * 最多連敗 14 (1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。 * 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦) * 連続イニング無得点 46(2012年) * 通算4500敗(2012年8月24日の対巨人戦で、2リーグ制発足後最速の記録) === その他の記録 === * 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年) * 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年) * 最多本塁打 194本(2004年) * 最少本塁打 51本(1955年) * 最高打率 .294(1999年) * 最低打率 .208(1956年) * 最高防御率 2.31(1971年) * 最低防御率 4.94(1977年) * ホーム連勝記録 17(2022年) * 68暴投(2015年、ロッテオリオンズ〈1990年〉と並びプロ野球タイ記録) == チームの特徴 == === 球団名 === 1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)<ref group="注釈">「広島東洋カープ」の「東洋」は球団の筆頭株主である[[マツダ]]の旧社名・東洋工業に由来する。</ref>、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・[[千葉ロッテマリーンズ]])の事例が存在する。 前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した[[西鉄軍|大洋軍]]は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が[[捕鯨]]を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。日本人が発案した造語であるため、英語の母語話者には通じないらしく『[[ジャパンタイムズ]]』等の国内発行の英字新聞ではしばしば「'Stars」と略して表記される。アメリカのプロスポーツチームの本拠地では[[タンパ|タンパベイ]]([[フロリダ州]])や[[グリーンベイ (ウィスコンシン州)|グリーンベイ]]([[ウィスコンシン州]])のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。 大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]や後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、'''従来通り「横」を使用することが承認された'''が<ref name="db">{{Cite news |date=2011-12-06 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/06/kiji/K20111206002180800.html |title=略称は横浜DeNAかDeNA 実行委員会で承認 |publisher=スポーツニッポン |work=スポニチANNEX |accessdate=2011-12-06 }}</ref>、NPBの公式サイトでは「横」でなく「'''ディ'''」あるいは「'''デ'''」との表記も使用されている<ref>{{Cite web |url=http://www.npb.or.jp/schedule/ |title=セ・パ公式戦試合日程 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-08 }}、{{Cite web |url=https://npb.jp/bis/teams/calendar_db_index.html |title=球団別カレンダー 横浜DeNAベイスターズ |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。また、[[共同通信社]]<ref>[http://www.47news.jp/sports/baseball/baseball_headline.html 共同通信プロ野球速報]([[47NEWS]])</ref>、[[日刊スポーツ]]<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/professional/schedule/top-schedule.html プロ野球 日程&結果](nikkansports.com)</ref> では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元[[テレビ神奈川|tvk]]が「横」、[[サンテレビジョン|サンテレビ]]が「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像の[[Tigers-ai]]が「デ」、[[J SPORTS]]の自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。 1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点でアルファベットの略称が「B」で始まる球団が既に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]](略称・BW)と[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]](略称・Bu)の2球団存在していたため、「'''Y'''okohama '''B'''ayStars」の「'''YB'''」を略称としていた。2012年シーズンより「Yokohama '''D'''eNA '''B'''ayStars」を略した「'''DB'''」へ変更された<ref name="db" />。オリックスと近鉄は2005年シーズンより合併しオリックス・バファローズ(略称・Bs → B)となっているため、アルファベットの略称が「B」で始まる球団の重複状態は現在も続いている。 === マスコット === {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} {{Infobox baseball player |選手名 = DB.スターマン |所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ |役職 = マスコット |背番号 = ☆ |選手写真ファイル名 = 20230304DBスターマン.jpg |写真のコメント = 2023年3月4日、横浜スタジアムにて |国籍 = {{JPN}} |出身地 = 神奈川県横浜市 |生年月日 = |没年月日 = |身長 = ボール5個分 |体重 = ボール10個分(理想は5個分) |利き腕 = |打席 = |守備位置 = [[マスコット]] |プロ入り年度 = |ドラフト順位 = |初出場 = 2012年3月18日(オープン戦・対ソフトバンク) |最終出場 = |経歴 = * 横浜DeNAベイスターズ |写真サイズ=240}} {{Infobox baseball player |選手名 = DB.ライダー |所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ |役職 =マスコット |背番号 = |選手写真ファイル名 = |写真のコメント = 2012年11月23日 横浜スタジアムにて |国籍 = {{JPN}} |出身地 = 非公開 |生年月日 = |没年月日 = |身長 = |体重 = |利き腕 = |打席 = |守備位置 = [[マスコット]] |プロ入り年度 = |ドラフト順位 = |初出場 = |最終出場 = |経歴 = * 横浜DeNAベイスターズ<br />(球団公認:2012年 - 2016年4月) }} {{Infobox baseball player |選手名 = DB.キララ |所属球団 = 横浜DeNAベイスターズ |役職 = マスコット |背番号 = |選手写真ファイル名 = 20230304DBキララ.jpg |写真のコメント = 2023年3月4日 横浜スタジアムにて |国籍 = {{JPN}} |出身地 = 神奈川県横浜市 |生年月日 = |没年月日 = |身長 = ポンポン5個分 |体重 = ポンポン10個分 |利き腕 = |打席 = |守備位置 = [[マスコット]] |プロ入り年度 = |ドラフト順位 = |初出場 = 2013年4月2日 |最終出場 = |経歴 = * 横浜DeNAベイスターズ }} 球団[[マスコット]]は、「'''DB.スターマン'''」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだ[[ハムスター]]がモチーフ。ずんぐりむっくり<ref group="注釈">ただ、あまりにもずんぐりした体型のおかげで、転ぶと自力で立ち上がれなくなることが多々ある。</ref> としたユニホーム姿の[[ゆるキャラ]]。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。 また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙(けいもう)活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。 翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「'''DB.キララ'''」が登場した。 2015年以降、ドアラを除く関東圏球団以外のマスコット交流はセ・パ交流戦とオールスター以外ではなくなっている。 ; DB.スターマン(通称・スターマン) : 年齢不詳。横浜市生まれ。ハムスター(モンスター)族で、性別は♂(オス)。チャームポイントは☆形の顔、肉球も☆形。性格は食いしん坊でおちゃめ。趣味はボール集めと「食っちゃ寝」。好きなものは丸いもの・美味しいもの・[[Mobage|モバゲー]]。身長はボール5個分、体重はボール10個分(理想は5個分)。横浜スタジアム在住。背番号は「☆(1スター)」だが、2016年に限りDeNAベイスターズ5周年記念として「5☆」(数字の5の右上に小さい☆・DeNAベイスターズ5周年記念ロゴと同じ)となっていた。 : 名前の「DB.」は「DeNA BayStars」のイニシャルであると同時に「大好き・ぼくらの(Daisuki・Bokurano)」の意味も込められている<ref>{{Cite news |title=趣味は「食っちゃ寝」 脱力系マスコット・横浜DeNA「スターマン」インタビュー |newspaper=[[ガジェット通信]] |date=2012-05-10 |url=http://getnews.jp/archives/208310 |accessdate=2012-05-17 |author=小浦知佳 |agency=[[ニコニコニュース]] }}</ref>。ベルトには後述の「Bibon」が付いている。 ; DB.ライダー : 性別:男、年齢:非公開、血液型:非公開、身長・体重:非公開、出身地:非公開、活動場所:横浜スタジアム内、およびその周辺 : 「球場の守り神」として横浜スタジアムの内外で活動していたキャラクター。2012年8月から球場内のスタンドやコンコースなどに出没し、ファンが快適に試合を観戦できるよう自主的にパトロールを実施し、観戦マナーの啓蒙活動を続けた。この事に敬意を払い、DeNAは球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認した。2016年4月6日、球団公認キャラクターとしての契約の終了を発表し、今後は再び「球場の守り神」に戻るという<ref>[http://sp.baystars.co.jp/news/2016/04/0406_03.php DB.ライダー 球団公認キャラクターとしての活動終了のお知らせ] - 横浜DeNAベイスターズ公式サイト、2016年4月6日</ref>。 ; DB.キララ(通称・キララ) : 年齢不詳。横浜市生まれ。性別は女の子。チャームポイントは大きなリボン。性格は明るくて元気いっぱい。趣味はキラキラしたもの集め。好きなものはキラキラしたもの・[[ポップコーン]]。身長はポンポン5個分、体重はポンポン10個分。背番号はなし。 : 「ベイスターズを応援するために横浜スタジアムへ通い、グラウンドやステージでキラキラ輝くdianaに憧れ、夢を叶えるために、ダンスを一生懸命練習したことで、2013年から横浜DeNAベイスターズを応援する仲間として加わることになった」という設定。スターマンから想いを寄せられているが、当の本人は全く興味が無い。 [[File:20140915 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.JPG|right|thumb|500px]] [[File:20151128 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.JPG|right|thumb|500px]] [[File:20180805 'diana' cheer team of the Yokohama DeNA BayStars at Yokohama Stadium.jpg|right|thumb|500px|2018年8月5日チアリーディングチームの "diana"。横浜スタジアムにて]] ==== 過去 ==== ; ホエールズ時代 * クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。 * マリン君(1978 - 1992) - 横浜に本拠地を移転した時に、[[ペットマーク]]として登場。以来、1992年までペットマークとして使用。2016年にDeNAベイスターズの5周年企画の一環として復刻<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2016/02/0205_03.php 横浜移転時に誕生したマスコットキャラクター“マリンくん”が限定復刻]</ref><ref>[http://full-count.jp/2016/02/05/post25399/ DeNA、マスコットキャラクターの“マリンくん”を限定復刻へ]</ref><ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160131-OHT1T50047.html 【DeNA】大洋時代の「マリンくん」復刻!球団5周年で“再登板”] スポーツ報知、2016年1月31日</ref>。なお、復刻版は帽子のマークが大洋時代の「W」からDeNAの「B」に、帽子横の「★(大洋時代のホームランシール)」が「5th(DeNAベイスターズ5周年記念マーク)」に変更されている。 : <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> ; ベイスターズ時代 * ホッシーファミリー(1993 - 2012) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託すことで表舞台から姿を消すことになった。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。 ** ホッシー (hosshey) - 三兄弟の長兄でリーダー的存在。[[ペットマーク]]を含め球団のシンボルとして数多くの場所で採用されている。 *** 優しげな口調で喋る良い子キャラ。 *** 登場初期は階段を昇れないほどの巨大頭であった。[[File:ホッシー (hosshey) in 2010.08.08.JPG|thumb|280px|right|ホッシーゾ:横浜スタジアムにて(2010年8月8日)]] ** ホッシーナ (hossiena) - ホッシーの妹で三兄弟の真ん中。 *** 明るい口調で喋る元気な女の子。 ** ホッシーゾ (hossiezo) - ホッシーの弟で三兄弟の末っ子。 *** 語尾に「YO!!」(あるいは本人の名前に引っ掛けて「ZO!!」)を付けた言葉を多用する[[ヒップホップ]]系キャラ。 * ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人([[スーツアクター]])は以前に[[阪神タイガース]]マスコットの「[[トラッキー]]」のアクターとして派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「[[中の人]]」が[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の「非公認」マスコット[[Mr.カラスコ]]の「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、[[佐伯貴弘]](トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や[[三浦大輔]]、若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。その後、横浜スタジアムで開催された[[2008年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|2008年のオールスター]]第2戦、公式戦では2010年3月30日の本拠地開幕戦(対巨人)、4月18日の対阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。 * ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。 球団のマスコットではないが、[[TBSテレビ|TBS]]が親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「[[BooBo]](ブーブ)」と[[TBSラジオ]]『[[TBSラジオ エキサイトベースボール|エキサイトベースボール]]』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。 また、[[カネシゲタカシ]]がスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』<ref>{{Cite web |url=http://www.plus-blog.sportsnavi.com/yakyuu_manga/ |title=ベイスたんのブログやよ!(スポナビブログ) |publisher=ワイズ・スポーツ |work=スポーツナビ+ |accessdate=2015-10-08 }}</ref> の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている<ref>{{Cite book |和書 |title=ベースボールサミット |volume=第2号 |year=2014 |publisher=カンゼン |page=164 |isbn=978-4-86255-266-2 |quote=特集:横浜DeNAベイスターズ }}</ref><ref>{{Cite web |date=2012-11-20 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2012/11/1120_01.php |title=『ファンフェスティバル2012』にて新商品発売のお知らせ |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。 2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクト[[I☆YOKOHAMA]]を掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。 === 応援スタイル === {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} {{See also|チャンステーマ}} トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいて[[ゲートフラッグ]]の掲揚が行われている。 また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある<ref group="注釈">ただしマフラータオルも引き続き販売されている。</ref>。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「[[シャボン玉]]」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時[[ジェット風船]]の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。 ; 以下は現時点(2013年以降)のもの * 横浜主催ゲームの多く(主として本拠地・[[横浜スタジアム]])では、試合前イベントの時間を確保する都合上スターティングメンバー発表時の応援団による応援歌演奏<ref group="注釈">俗に1-9と呼ばれる、当日のスタメン選手の応援歌をメドレー形式で演奏するもので、スタメン発表時や試合勝利後に行われる。</ref>は、球場アナウンスの選手発表(選手名コール)に続けて、各選手個別に演奏している(選手名→応援歌→選手名→応援歌の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行う。 * 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。 * 相手投手交代時には応援団主導のもと、タオルマフラー・フェイスタオルを広げながら[[布袋寅泰]]作の「勇者の遺伝子」を歌う。 * 代打登場時には1回だけ「代打のテーマ」が演奏される。応援歌前のファンファーレが存在する選手([[大田泰示]]やかつて在籍した[[アレックス・ラミレス]]、[[佐伯貴弘]]、[[村田修一]]、[[筒香嘉智]]など)については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。ただしコールが固有のものである選手([[乙坂智]]など)については、固有のコールが優先される。 * 投手の打席では投手用応援歌が演奏されるが、過去には[[三浦大輔]]、[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]、[[野村弘樹]]、[[ライアン・グリン]]などに対しては専用の応援歌が演奏された。この内、野村の応援歌は新たに左投げ投手用の汎用応援歌として使われている。 * 以前はプロの作詞家・作曲家により製作され、ポップス調やロック調の編曲で収録された選手別応援歌CDが発売されており、球場でのトランペット演奏でもこれらの応援歌を用いていた。しかし、2000年頃以降に新規製作された楽曲は諸々の事情により、実際に球場で使用されることは少なくなった<ref group="注釈">2000年頃以降に製作された楽曲は、製作者(作曲・作詞・編曲など)や曲調などが従来までと異なり、球場での演奏に不適なものが多くなったため、応援団側がこれらの使用を拒んだことも要因にある。</ref>ことから2003年を最後に制作されなくなった。2000年頃以降に応援歌が設定された選手では、応援団が新規に製作した楽曲や、過去に他の選手用として製作された応援歌<ref group="注釈">例として[[金城龍彦]]([[市川和正]]より流用)、[[村田修一]](大洋時代の[[谷繁元信]]より流用)、[[内川聖一]]([[高木豊]]より流用)、[[内藤雄太]]([[駒田徳広]]より流用)など</ref>を流用している。 * 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「[[横浜Boy Style|WINNING]]」が応援団により演奏される。多くの球団で行われている[[ジェット風船]]は2012年まで通常時は[[横浜スタジアム]]で使用禁止<ref group="注釈">横浜市[[ポイ捨て|ポイ捨て・喫煙禁止条例]]に違反することや、球場すぐ近隣を走行する[[東日本旅客鉄道|JR]][[京浜東北線|京浜東北]]・[[根岸線]]の架線に引っ掛かり、電車の運行を妨害する危険があるため。</ref> であったため、原則として長らく使用されることはなかった。 * 2013年から「スタージェット」(球場外へ飛び出す可能性が低く、球場周辺の[[横浜公園]]の環境面やポイ捨て禁止条例遵守、近くを走る電車への影響という安全面でも優れた風船)のみ使用可能となった<ref>{{Cite web |date=2013-03-19 |url=https://www.baystars.co.jp/news/2013/03/0319_03.php |title=『OPENING SERIES 2013 夢のクライマックスシリーズへ!』 ニュース第2弾 ロケット風船『スタージェット』をプレゼント |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。同年より横浜ファンも風船の使用を開始し、7回表終了後に青色の風船、勝利時には水色の風船を飛ばしたが、2015年より発売されているものには青色のみが入っており、水色のものは使われなくなった。 ** ただしこの以前にも他球場において、例外的に横浜ファンが大々的にジェット風船飛ばしを行った事例がある。2006年5月27日の[[神戸総合運動公園野球場|スカイマークスタジアム]]での[[オリックス・バファローズ]]戦でスポンサーの[[神戸トヨペット]]が先着2万人に配った創立50周年記念のジェット風船を横浜ファンも飛ばしていた。2011年6月12日の[[札幌ドーム]](当時同球場でジェット風船の使用は禁止されていたが、この試合のみ実験的に解禁。問題がなかったことが判明し、2012年シーズンより全面使用解禁)での[[北海道日本ハムファイターズ]]戦において、横浜ファンも青色のジェット風船を飛ばした。 * 2007年より試合時、初回先頭打者に対して「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期はビジターのみ)。 * [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地・[[宮城球場|楽天生命パーク宮城]]ではトランペットおよび笛の使用が禁止されているため、メロディー部の口ラッパを含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の[[三三七拍子]]に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。 * ヒットでの出塁の際はファンファーレ([[三三七拍子]])の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。 * 2010年、2011年に在籍した[[ターメル・スレッジ]]には、交流戦でのみ日本ハム時代の応援歌と横浜での応援歌<ref group="注釈">かつて在籍した[[デーブ・ドスター]]のCD収録版応援歌のメロディを流用したもので、歌詞は新規。ドスター在籍時には実際に演奏されることはなかった。</ref>を交互に演奏することがあった。 * 2010年7月に、当時在籍していた[[内川聖一]]の応援歌(過去1993年に[[高木豊]]の応援歌として製作し使用されたもの)をサビに使用した楽曲「[[頑張って いつだって 信じてる]]」が、同年5月にデビューしたアイドルグループ・[[東京女子流]]によりリリースされた。同曲は、内川本人の登場曲として、実際に球場で使用されたことがあった。 * 2016年以降、四球、ホームラン、勝利時のファンファーレに[[横浜市歌]]の一部のメロディが使用されている。 ==== 私設応援団 ==== DeNA球団では[[特別応援許可|NPB特別応援許可]]を受けた以下の団体が応援を指揮する。 # [[横浜DeNAベイスターズの応援団#横浜ベイスターズを愛する会|横浜ベイスターズを愛する会]] # [[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]] 以下の2つの団体は、現存しない応援団である。 # 湘南海坊主 (SHONAN SEABOSE)<ref group="注釈">球団の二軍を専門に応援する団体であった。</ref> # 横浜ベイスターズ下関ファン集いの会 === 戦いぶり === * [[1998年の日本シリーズ]]で横浜スタジアムでの胴上げ([[1960年の日本シリーズ]]は毎日大映オリオンズの本拠地・[[後楽園球場]])を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年・1998年ともに[[阪神甲子園球場]])である。 * 2017年終了時点で日本シリーズ出場は3回。現存するセ・リーグ6球団の中では最少だが、2016年まで敗退がなく、(2005年発足で敗退のない楽天を除けば)現存11球団で最も日本シリーズの敗退が遅かった。また、試合勝率.625は出場全球団のうち、最高の記録である。[[2017年の日本シリーズ]]の第3戦での黒星は日本シリーズで本拠地での初黒星となった。それまでは一度も本拠地で負けたことがなかった<ref group="注釈">[[1960年の日本シリーズ|1960年のシリーズ]]は4勝無敗で日本一、[[1998年の日本シリーズ|1998年のシリーズ]]では第3戦と第4戦で黒星を喫したが、いずれも西武ライオンズ球場(後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)だった。</ref>。 * 現存するセ・リーグ6球団の中で唯一、球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本シリーズ制覇を一度も達成していない<ref group="注釈">優勝監督の[[三原脩]]と[[権藤博]]はいずれも本球団に選手として在籍した経験はない。2017年に日本シリーズ出場した時の監督であるアレックス・ラミレスはDeNAのOBであるが、レギュラーシーズンは3位である。なお、現存するパ・リーグ球団ではオリックス・バファローズ、北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの3球団が該当する。</ref>。 * 現存するセ・リーグ5球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。現存するセ・リーグ6球団の中ではAクラス入り回数が最少(2019年終了時点で18回)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去に[[高橋ユニオンズ|トンボユニオンズ・高橋ユニオンズ]]や[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス・近鉄バファロー]]が記録)。3シーズン連続90敗はこれまで延べ5チームが喫した2シーズン連続を上回るプロ野球ワースト記録。また、この球団のシーズン90敗以上は6回。2008年から2012年まで5年連続で勝率.399以下を記録し、これは1957年から1961年までの近鉄パールス以来50年ぶりの記録である。シーズン最下位23回は、消滅した球団も含めて日本プロ野球全球団で最多。 * 2007年シーズンから導入された[[クライマックスシリーズ]]に2016年に初出場を果たしたが、これは12球団で最も遅いCS初出場であった。また、同年のファイナルステージ進出および2017年のCS初突破はセ・リーグでは一番遅い。また、2019年で初めてCSを主催ゲームで開催したが、こちらも12球団で一番遅い。 * 最後にリーグ優勝した年は1998年で、現在12球団で最もリーグ優勝から遠ざかっている(2021年シーズン終了時点)。 * セ・リーグ6球団では唯一[[最優秀選手 (日本プロ野球)|シーズンMVP]]に選ばれた野手が1人もいない球団である。 * 本拠地の[[横浜スタジアム]]は1978年の落成時には日本のプロ野球本拠地球場の中で両翼までの距離が最も広い球場であった。そのため、大洋時代後期の野手は[[スーパーカートリオ]]に代表されるように、機動力や小技、守備力を兼ね備えたチームであり、ベイスターズに変わった1998年の優勝時も、5人が[[ゴールデングラブ賞]]に輝いている。しかし、他球団の本拠地球場の移転や改修による環境の変化で現在は打者有利の球場に変わっているため、21世紀以降はバントや盗塁等の小技が苦手でヒットやホームランで打ちまくる大味な攻撃スタイルに変化している。なお、投手陣は[[平松政次]]、[[遠藤一彦]]、[[齊藤明雄]]、[[三浦大輔]]といったエースを輩出しているものの、選手層の問題からチーム防御率は大洋時代から悪い。 * 親会社がDeNAになってからはチームカラーを一新し、GMに[[高田繁]]を招聘し日本ハム時代に採用した「BOS」(ベースボール・オペレーション・システム)を元にしたチーム作成、スカウトに着手している<ref>[https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3670/index.html “常識破り”の球団改革 〜密着・DeNAベイスターズ〜] 2017年2月17日閲覧。</ref>。BOSについて詳しくは[[北海道日本ハムファイターズ]]を参照。 === 営業・ファンサービス === {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。 * 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの[[石橋貴明]]([[とんねるず]])<ref group="注釈">牛島和彦監督(当時)がテレビ番組で頼み込んでの就任</ref>の意向で、[[横浜スタジアム]]の可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。 * 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、試合以外のイベントも楽しめることができる。 * 2012年から[[読売ジャイアンツ]]・[[東京ヤクルトスワローズ]]との合同で『'''[[セントラル・リーグ首都圏3球団合同企画 GSDB〜Get Stamp&DeKA Badge!|GSDBプロジェクト]]'''』を立ち上げ、ファンクラブ会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問やファンクラブ会員に限り巨人・ヤクルト主催のDeNA戦で来場ポイントの付与を行っている。 *: ''以下は2023年時点のもの'' <!-- 2023年での実施が確認出来た時点でコメントアウトを解除 --> ** スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。[[読売新聞グループ]]各社([[読売新聞]]・[[日本テレビ放送網]]・[[スポーツ報知]])の[[記者]]に対しては、[[ブーイング]]または[[やじ|野次]]が飛ぶこともある。) ** BAYスマイルショット(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ) <!--** ベイスターズスーパーバズーカ(客席に子供向けのシャツやカラーボールを発射、試合中に2回)--> ** ズッバーン!NICE PITCHING(1名がたにしげるくんのミットにめがけて投球、成功すればベイ餃子のトッピング無料などの特典) ** ドッカーン!FLY CATCH(試合によって異なるが1名か2名がフライキャッチに挑戦、成功すればホットドッグのトッピング量2倍などの特典) ** ハマスタバトル(ファンとdianaによるリレー対決、交流戦では、ビジター応援デーでパ・リーグのチアチームと対決する。) *** アンカーは脚が早いAkiがほぼ必ず務める。 *** 2023年は、持ち込み企画として、福岡PayPayドームでハニーズとリレー対決を行ったり、オールスター戦でリレー対決を行ったことがある。この時もアンカーはAkiが務め、脚の速さを披露している。 <!-- **アップグレードシート(小中学生を含む4名までのグループをバックネット裏に招待) --> ** ハッピースターダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年が[[デサント]]提供の年間指定席ペア招待券、2016年 - 2019年、2023年が[[アットホーム]]提供のベイブルーシートペア招待券) ** サインボールの投げ入れ(ヒーローインタビューに出た選手のもの) ** 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。 === 株主構成 === : ''2016年3月31日現在'' # 株式会社[[ディー・エヌ・エー]] 127万株(97.69%)<ref>株式会社ディー・エヌ・エー2013年3月期以降の有価証券報告書【企業の概況】4【関係会社の状況】参照</ref> # 株式会社TBSホールディングス 3万株(2.31%)<ref>「横浜ベイスターズ株の譲渡完了 TBSからDeNA」[[日本経済新聞]]12月2日付 [http://www.nikkei.com/article/DGXNASDD020JL_S1A201C1TJ1000/] 2017年1月29日閲覧</ref><ref group="注釈">株式会社ディー・エヌ・エー2012年3月期の有価証券報告書記載内容には日本経済新聞12月2日付記事の記載通り持株比率が66.9%と記載されているので、少なくとも2013年3月までにディー・エヌ・エーは第二位株主だったニッポン放送より30.79%を取得し、買い増している。</ref> ==== 国土計画との資本提携とニッポン放送・TBS(現・TBSホールディングス)への譲渡 ==== 前述の沿革にもある通り、元々大洋球団は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)の100%出資だったが、[[1978年]]の完成を目指して横浜スタジアムの改築が行われるにあたり、当時の[[コクド|国土計画]]社長・[[堤義明]]は、大洋球団の第三者割当増資を行う際、株式の約45%を取得して第2位の筆頭株主となった。 しかし、横浜スタジアムが完成した[[1978年]][[10月]]、[[埼玉西武ライオンズ|クラウンライターライオンズ]]を運営する[[福岡野球]]株式会社の保有株式を、個人の[[中村長芳]]から国土計画が買収、本拠地を[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]](後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)に移転した際、[[野球協約]]による、同一企業、ないしはその関連会社が複数の球団を支配することを禁じる違反規定に触れるため、この際、ニッポン放送に3割、残り15%を当時の東京放送に譲渡している。しかし、[[2001年]]のマルハ(現・マルハニチロ)からの球団経営権譲渡に際して、ニッポン放送の保有株をめぐり、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の第2位株主である[[フジテレビジョン]]との関係が指摘されることになる。 ==== マルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代 ==== 2001年11月16日、経営が悪化していた当時の筆頭株主(親会社)・マルハ(現・マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、[[日本野球機構|NPB]]も一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで[[読売ジャイアンツ]]の[[渡邉恒雄]]オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビジョンがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBSに譲渡された。この際、TBS(現・TBSホールディングス)がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから、「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により、当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円{{Refnest|group="注釈"|当時は新規加盟(球団譲渡を伴わない全くの新チーム)の場合は60億円だった([http://www.geocities.jp/baseball_wind21/kabu3ikenn.html 株式譲渡意見書]{{信頼性要検証|date=2015-10}}参照)。現在は新規加盟・譲渡を問わず加盟料は30億円(うち25億円は預託金)である<ref>{{Cite news |title=TBS買収時は新規加盟料30億円免除 |newspaper=スポーツニッポン |date=2010-10-01 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010npb/baystars5/KFullNormal20101001156.html |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。}}の支払いは不要とされた。 それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ(現・マルハニチロ)→TBS(現・TBSホールディングス)のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところはユニホームの袖についたTBS(現・TBSホールディングス)のロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもある[[コラムニスト]]の[[綱島理友]]は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。 2005年10月、[[楽天グループ|楽天]]がTBS(現・TBSホールディングス)の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]を運営していることから、野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが[[放送持株会社|認定放送持株会社]]TBSホールディングスに移行したことから、楽天は買収を断念して反対株主の[[株式買取請求権]]を使い、TBSホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。 ==== TBSホールディングスからDeNAへの筆頭株主交代 ==== 前述の通り2002年以降は2005年・2007年を除き、8度も最下位に陥る惨状となった。結局、2011年オフにディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営から撤退した。 球団運営の荒廃も進んでおり、球団スタッフ全員がインターネットにアクセスする環境すらないなど、IT企業のディー・エヌ・エーからすれば絶句する状況にあった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/1403/11/news017.html アナログ球団からデジタル球団へ――横浜DeNAベイスターズの球団業務改革(1/2 ページ) - ITmedia エンタープライズ]</ref>。 ディー・エヌ・エーが親会社となった2012年以降は上記放送のほか、各[[ライブ配信]]サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。 * [[ニコニコ生放送]](2012年 - ) * [[SHOWROOM (ストリーミングサービス)|SHOWROOM]](2015 - 2018年)<ref group="注釈">2015年5月までは無料。以降は試合の3回終了まで無料、4回以降の視聴は有料チャンネル入会要。[https://www.showroom-live.com/campaign/baystars 横浜DeNAベイスターズ SHOWROOM PASS]</ref> * [[DAZN]](2016年途中 - )※入会有料 * [[スポナビライブ]](2017年)※入会有料 * [[AbemaTV]](2017 - 2018年)<ref>{{Cite web |url=https://times.abema.tv/articles/-/3813000 |title=横浜DeNAベイスターズ公式戦をAbemaTVで完全無料生中継 |publisher=AbemaTIMES |date=2018年3月7日 |accessdate=2018年3月26日 }}</ref> * [[Paravi]](2019年 - 2023年6月)※入会有料 * J SPORTSオンデマンド(2021年 - )※入会有料<ref>{{Cite web |url=https://www.jsports.co.jp/press_release/page?id=134 |title=横浜から発信する野球好きのための中継! 横浜DeNAベイスターズ 2021レギュラーシーズン・クライマックスシリーズ全主催試 合 試合開始から試合終了までJ SPORTSオンデマンドLIVE配信決定!! |publisher=J SPORTSプレスリリース |date=2021年2月18日 |accessdate=2021年5月9日 }}</ref> * [[U-NEXT]](2023年6月 - )※入会有料<ref>{{Cite web |title=『横浜DeNAベイスターズ2023主催公式戦』39試合をU-NEXTにてライブ配信決定!ヒーローインタビューやチームの様々な情報をお伝えする応援番組『WITH☆ベイスターズ』の配信も開始 |url=https://www.unext.co.jp/ja/press-room/baystars-live-2023-06-30 |website=U-NEXTコーポレート |access-date=2023-06-30 |date=2023-06-30}}</ref> ==== TBSホールディングス時代以降の放映権 ==== {{See also|放映権 (日本プロ野球)}} TBS(現・TBSホールディングス)が筆頭株主(事実上のオーナーと目される)だった時代も傘下([[子会社]])の放送局である[[TBSテレビ]]・[[TBSラジオ]]では週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継(散発的に[[中国放送]]などビジターの地元局にもネット)は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)が保有していた時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。対巨人戦以外の試合は[[視聴率]]と[[聴取率]]が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常[[テレビ神奈川]]が単独放送し<ref group="注釈">2000年代後半頃(2010年まで)、番組名が『[[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE|YOKOHAMAベイスターズナイター]]』であっても、TBSテレビでの地上波中継のない主催試合の場合、テレビ神奈川が自社制作せず、BS-TBS・TBSニュースバード向けにTBSテレビが制作した『[[S☆1 BASEBALL|ザ・プロ野球]]』を購入して同時放送を行う傾向にあったが、2011年からは、TBSテレビから球団配信ので公式映像扱いにより主要映像配給を受けて、一部の映像・実況・スコアテロップを自社で差し替え、形式的に自社制作扱いとするようになった。</ref>、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社か[[TXNネットワーク|テレビ東京系列]](対中日戦は[[テレビ愛知]]、対阪神戦は[[テレビ大阪]])の中継で補っていた。フジテレビも過去の球団とニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、対ソフトバンク戦は[[テレビ西日本]]、対広島戦は[[テレビ新広島]])制作中継のために使っていた。こちらもコスト削減のために球団経由でTBSテレビから主要映像の配信を受けることがあった。 CS放送については、2002年にマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)に譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみ[[TBSニュースバード]]で放送するも、当時フジテレビ系のCSであった[[J SPORTS]](のちに[[スポーツ・アイ ESPN]]との合併の際、TBSテレビも資本参加)で中継していたが、解説をフジテレビまたはテレビ神奈川の解説者が、実況をTBSテレビのアナウンサーが行うという変則形態の時もあった。2008年以後、TBSニュースバードに放送チャンネルが移行し、制作も全面的にTBSテレビが行う形式となり、さらに2014年シーズンより[[TBSチャンネル|TBSチャンネル2]]に移行された<ref group="注釈">ただし完全移行は2014年6月からで、4・5月はTBSチャンネル2が視聴できない[[ケーブルテレビ局]]への配慮を含めた視聴者保護と、円滑なチャンネル移行が行えるようにするための経過処置として、TBSテレビ・[[BS-TBS]]での放送がない16試合を対象に、ニュースバードとTBSチャンネル2の並列放送を実施した。</ref><ref>[http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/oshirase/201312091043.html お知らせ]{{リンク切れ|date=2015年10月}} TBSチャンネル公式サイト(2014年3月13日閲覧)・[http://www.tbs.co.jp/newsbird/nb_baseball_release.pdf プロ野球中継に関するプレスリリース CS放送「TBSニュースバード」と「TBSチャンネル2」で4月・5月の横浜DeNAベイスターズ主催16試合を同時完全生中継決定]{{リンク切れ|date=2015年10月}} TBSテレビ 2014年3月14日。9月6日閲覧</ref>。 ラジオ中継はTBSラジオが[[基幹局]]を務める[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN系列]]、ニッポン放送が基幹局を務める[[全国ラジオネットワーク|NRN系列]]で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がない時に放送された<ref group="注釈">他に[[フジ・メディア・ホールディングス]]の主要株主であり、ニッポン放送とともにNRN基幹局を務めるラジオ局でもある[[文化放送]]の[[文化放送ライオンズナイター]]、[[文化放送ホームランナイター]]、同社が技術協力する[[NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS]]([[エフエムナックファイブ|NACK5]])、[[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]]の[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]で主催試合を中継する場合があった。</ref>。 TBSホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで自社での放送は撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみが中継している。 === その他 === * 球団関連会社からファンマガジン『[[月刊ベイスターズ]]』を発売(毎月25日)していた。2010年12月号を持って休刊。 * 東京放送時代まで横浜スタジアム側から、選手強化費用として毎年3億円を球団に還元していた<ref>{{Cite news |title=DeNA、横浜スタジアムと7年契約=プロ野球 |newspaper=時事通信 |date=2012-03-07 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201203/2012030700412 |accessdate=2012-03-12}}{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。 * 株式会社煙草屋安兵衛が展開する食料品店チェーン「ベイスターズマート(旧名:ホエールズマート)」が神奈川県内に40店ほど存在する。 == ユニフォームの変遷 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} === 一軍 === ==== 下関時代(旧・大洋時代) ==== * 1950年 - 1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についた[[サンフランシスコ・シールズ]]型<ref>[[綱島理友]]『日本プロ野球ユニフォーム大図鑑 中』[[ベースボール・マガジン社]]、2013年、26頁。</ref>。 * 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。 * 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した[[小西得郎]]が当時の[[ピッツバーグ・パイレーツ]]のビジター用ユニフォームを参考にしたものである<ref>綱島、28頁。</ref>。このフルレターユニフォームはシーズンオフに[[松竹ロビンス]]と合併したため1年間しか使われなかったが、1959年に1年間だけ復活している。 <gallery> ファイル:20190321 Daisuke Nakai infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium.jpg|1950年 - 1951年のホームユニフォーム 2019年に球団創設70周年を記念して復刻された。 </gallery> ==== 大阪時代(ロビンス時代) ==== * 1953年 松竹ロビンスと合併し、球団名が大洋松竹ロビンスに変更。帽子は黒地にTとSの組み合わせ(Tが銀糸、Sが金糸)。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用であった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。 * 1954年 球団名が洋松ロビンスに変更。ホーム用とビジター用は同じデザイン。 ==== 川崎時代(新・大洋時代) ==== * 1955年 松竹が球団経営から撤退し、球団名が大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。 ** 左袖のマークはK・N・G・Wの4文字がAを取り囲む形となっている。この年に新しい本拠地に定めた[[神奈川県|神奈川(かながわ)]]の4文字がいずれも「あ」を[[母音]]とする点に着目したもので、神奈川に対する思いを表現したものとなっている<ref>綱島、35頁。</ref>。 * 1955年 - 1958年 [[ロサンゼルス・ドジャース|ブルックリン・ドジャース]]を参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社・大洋漁業の社章「まるはマーク」に変更。 * 1959年 - 1962年 クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から白地となり、胸番号が入る。[[1960年の日本シリーズ]]および1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。また1961年途中からはホーム用の「Whales」ロゴをと背番号・胸番号の色を反転させ、オレンジ色の縁に黒文字とたものが併用された。 * 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、線がオレンジ色から赤に変更される。 * 1964年 - 1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、[[テキサス・レンジャーズ|当時のワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)]]の帽子と同じ<ref group="注釈">2005年には[[ワシントン・ナショナルズ]]の帽子として復活した。</ref>。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホーム用は「KAWASAKI」と本拠地の[[川崎市]]を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた<ref name="ユニフォーム">綱島、40 - 41頁。</ref>。その後、ホーム用は選手名のものと併用される<ref name="ユニフォーム" />。 * 1973年 素材がニット製に変わり、オレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活(グレー地のビジター用は唯一オレンジ色ロゴを採用)。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。 ** 帽子の色は黒にオレンジ色のW。アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズの色は黒。(スパイクシューズはラインなし)ユニフォームはホーム用の地色が白でビジター用がライトグレー。ホーム用の筆記体のWhalesロゴとビジター用のTAIYOロゴ、胸背番号、背番号の上のネームがオレンジを黒で囲んだものとなり襟袖ズボンラインもオレンジを黒で囲んだものとなる。帽子のWマークはそれまでの筆記体から斜体がかったデザインに変更。左袖に「まるは」マーク。 * 1974年 - 1977年 基本色が[[湘南電車]]カラーと呼ばれたものになる(経緯については[[横浜DeNAベイスターズ#湘南電車カラーのユニフォーム|後述]])。 ** 帽子はグリーン地にツバ・天ボタン・空気穴がオレンジ。マークはオレンジに白縁の「W」(1974年前半は白縁なし)。 ** ホーム用は、オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴ(白い縁取り入り)が入ったユニフォームを使用。 ** ビジター用は緑地に橙色の「TAIYO」ロゴ(白い縁取り入り)となっている。 ** パンツはホーム用・ビジター用ともベルトレス。 *** 1977年後半から、袖の「まるは」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。また、ビジター用の胸マーク、背番号、背ネームの白縁取りがなくなり、背番号が若干小さくなる。 ==== 横浜時代 ==== ===== 横浜大洋時代 ===== * 1978年 - 1992年 本拠地が川崎から横浜へ移転し、球団名が横浜大洋ホエールズに変更され、チームカラーが紺一色になる。帽子は紺色でマークは白で「W」。 ** ホーム用は、白地にマリンブルー(紺色)のライン。胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同){{Refnest|group="注釈"|ホーム用ユニフォームにチーム名ではなく地名である「YOKOHAMA」と入れたのは横浜に移転して球団を横浜に定着させたいという思いがあっての事である<ref name="ReferenceA">[[ベースボールマガジン]]別冊新年号 1978-1992 横浜大洋ホエールズマリンブルーの記憶 [[ベースボール・マガジン社]].2020年.P49</ref>。}}。 ** ビジター用は、上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー<ref group="注釈">ビジター用のユニフォームはスリムなデザインが受けて全国の草野球チームでこれを模倣したユニフォームが使われるほどであった。</ref>。 ** スパイクは、紺地に白のラインで[[ローリングス]](日本での発売元は[[アシックス]])を使用し、当時の12球団では唯一の採用であった。 ** 1980年、ヘルメットの横に自分が打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を貼る制度を導入。 ** 1982年、関根潤三の監督就任に伴い、帽子の形が変更。単に紺の帽子に白で「W」と入れられていた物から、帽子のフロントに「W」と刺繍された台が貼り付けられた物に変更された。以降は横浜大洋ホエールズ最終年の1992年までこの帽子が使用されていた<ref name="ReferenceA">[[ベースボールマガジン]]別冊新年号 1978-1992 横浜大洋ホエールズマリンブルーの記憶 [[ベースボール・マガジン社]].2020年.P49</ref>。 <gallery> File:20171123 Kazuhiko Endo OB of whales at Yokohama stadium.jpg|1978年 - 1992年のホームユニフォーム 2017年にハマスタレジェンドマッチで遠藤一彦が着用 </gallery> ===== 横浜ベイスターズ時代 ===== * 1993年 - 2008年 球団名が横浜ベイスターズに変更され、ユニフォームも一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青<ref group="注釈">ブルーアズール=藍青色</ref>を基調とし、スパイクも同じデザインで青地に白線となる。ユニホームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めて[[カッパー・プレート・ゴシック]]と呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったが、球団史上最長の16シーズン採用されたデザインとなった。帽子は、青地に白の「β」、後ろに☆が3つ。 ** ホーム用は白地に青の[[ピンストライピング|ピンストライプ]]。青地に白の縁取りの「'''BayStars'''」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。 ** ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。胸ロゴは白の「YOKOHAMA」の文字と'''β'''の印、選手名、背番号、胸番号は白。 *** 1996年 - [[大矢明彦]]監督就任と同時に、帽子のマークの☆の数が3つから1つに変更(デザインは、☆の中にβが入る。色は白)。 *** 2001年 - スパイクの色が白地に青線になる。 *** 2003年 - パンツの2本線が細くなる。 *** 2004年 - 袖の2本線が細くなる。 *** 2006年 - ビジター用の左胸の'''''β'''''の後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMA '''''β'''''」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。 <gallery> Michiomi Yoshihara in 2007.03.21.JPG|1993年 - 2008年のホームユニフォーム </gallery> * 2009年 - 2011年 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。 ** ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。背ネームは幅狭。 ** ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジター用のみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。 *** 2010年 主催ゲームの初戦に限り、ホーム用の両肩の星マークの色を「金星をつかむ」という意味を込めて金色に変更。ただし、実際には初戦以外でも使われ、事実上「金星タイプ」がデフォルトとなった。 *** 2011年 主将の[[村田修一]]のユニフォームに「C」と「[[錨]]」を組み合わせたキャプテンマークをつけた。ホーム用は右袖、ビジター用は左胸に装着。 <gallery> Naoyuki Shimizu on May 5, 2010.jpg|2009年 - 2011年のホームユニフォーム YB-Shigeru-Morikasa.jpg|2009年 - 2011年のビジターユニフォーム </gallery> ===== DeNA時代 ===== * 2012年 - 2014年 球団名が横浜DeNAベイスターズに変更され、新しい球団としてスタートしたことに伴い、ユニフォームのデザインを一新。新しいユニフォームのデザインコンセプトは、チームロゴ、プライマリーマークと同様に、「継承と革新」。「ワクワク感」「強さ・かっこ良さ」等、ファンが球団に期待する要素をイメージしてデザイン。帽子のマークがホーム用とビジター用で違うなど、斬新なアイデアが盛り込まれた。 ** ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年から2008年まで使われたデザインを踏襲、4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時のユニホームを彷彿とさせるデザインとなった。白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。胸には新球団のロゴを据えられたほか、脇下には濃紺、袖口・首回りにはライトブルーのラインがそえられた。帽子は濃紺を地色にチームのシンボルマークの「B」。 ** ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回り、ラケットラインには薄い青。ズボンは白と濃紺の二種類を用意、上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。背番号・胸番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、白と水色のグラデーションがかかったデザインとなった。帽子には濃紺を地色にチームの象徴でもある「星」をあしらった。 *** 主将に任命された[[石川雄洋]]のユニフォーム左胸上部には、キャプテンマークの「C(ホーム用は白縁に赤、ビジター用は黒縁に金色)」の文字が入る。 *** 7月3日から5日の対巨人戦では、本拠地の横浜スタジアムでビジター用ユニフォームを着用するイベントを開催。ただし、ソックスはイベント用に作られたもの(紺色地にブルーの二本線)を使用。 * 2013年 - 現在使用しているホーム用・ビジター用ユニフォームに加えて、新たに「第3のユニフォーム(サードユニフォーム)」が登場。3月29日の中日戦から年間を通して週末のビジターゲームを中心に着用する(月曜日の試合も着用)。 ** デザインは1993年から2008年まで使用していたビジターユニフォームを彷彿とさせる「ベイスターズブルー」をメインカラーに採用、首回りと袖口に水色が据えられた。左袖にチームロゴ、胸に「'''YOKOHAMA :DeNA'''」のロゴ、:DeNAの文字の下に胸番号。ロゴ・胸番号・背番号・背ネームは、白字でネイビーと水色で縁取り。ズボンは白で、水色の線が入る。帽子は青地に白字で「''':De'''」(ネイビーと水色で縁取り)<ref>{{Cite web |date=2013-03-12 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2013/03/0312_04.php |title=伝統の“ベイスターズブルー”を継承 サードユニフォームで週末ビジターゲームも青く燃える! |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11 }}</ref>。 ** なお、現在使用しているユニフォームの背ネームに関して、[[井納翔一]] (INOH) や[[大原慎司]] (S.OHHARA) のように[[ローマ字|ヘボン式ローマ字]]表記とは別に、[[大田阿斗里]] (ŌTA) のように訓令式ローマ字(かつて、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]が採用した)表記が混在していた。 * 2014年 - 前年使用したサードユニフォームの勝率が.575のハイアベレージを記録したことで、このサードユニフォームを新ビジターユニフォームとして導入。デザインは、胸ロゴが「''':DeNA'''」に変更になり右袖に「'''YOKOHAMA'''」で、それ以外は前年のサードユニフォームと同じ<ref>{{Cite web |date=2014-01-24 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2014/01/0124_05.php |title=ビジターユニフォーム変更のお知らせ |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11 }}</ref>。 * 2015年 - 2022年 ホームユニフォーム ** デザインは前年まで使用したホームユニフォームと同じで、メインカラーを「海と港の街」横浜をイメージした鮮やかな「横浜ブルー」に変更。また、ユニフォームの首元の裏に選手自身が大事にしているスローガンや目標を言葉にした「Personal slogan」が記される。帽子は「横浜ブルー」にチームのシンボルマークの「B」。[[ヘルメット]]が星に照らされて輝く海をイメージした「横浜ブルーメタリック」。 * 2016年 - 2019年 親会社がDeNAとなって5周年を記念し、ビジターユニフォームを変更。 ** 「海と港の街、横浜」をコンセプトに、これまで、ビジターユニフォームの胸に配していた「DeNA」のロゴを「横浜に根づき、横浜と共に歩む」という想いから「YOKOHAMA」に変更。球団のメインカラー「横浜ブルー」をベースに、青色の濃淡のストライプを使って、横浜の澄み渡る青い空と海を表現したデザイン<ref>{{Cite web |date=2016-01-09 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2016/01/0109_01.php |title=2016シーズンよりビジターユニフォームをフルモデルチェンジ 〜球団創設5周年を機に、胸のロゴから「DeNA」を外し「YOKOHAMA」を配します〜 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2016-01-10 }}</ref>。 * 2018年 - ビジターゲーム用のキャップデザインを変更。”YOKOHAMA”に対する皆様の想い・誇りと共に敵地で戦うという強い意志を込め、従来の「:De」から、ビジターユニフォーム胸部の「YOKOHAMA」の「Y」と同じデザインに変更した<ref>{{Cite web |date=2018-01-18 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2018/01/0118_02.php |title=2018年シーズンよりビジターキャップのロゴが地域名に! 〜DeNAの『De』からYOKOHAMAの『Y』へ〜 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2018-01-19 }}</ref>。 * 2019年 ホームユニフォーム、ビジターユニフォームの袖についているプライマリーマークを2019年シーズン限定で70thプライマリーロゴに変更<ref>{{Cite web |date=2019-01-29 |url=https://www.baystars.co.jp/news/2019/01/0129_02.php |title=『70th ANNIVERSARY PROJECT』概要発表 70年の歴史を凝縮した特別ユニフォーム「70th ANNIVERSARYユニフォーム」を公式戦6試合で着用!〜歴代ベストナイン投票や特別コラムなど70年の歩みを振り返る企画も〜 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2019-01-29 }}</ref>。 * 2020年 - ビジターユニフォームを一新。コンセプトは、「より青く、より強く。」。カラーは、球団のメインカラーである「横浜ブルー」を中心に、港町・横浜の海のように鮮やかな4種類の青色を使い、全て青色で構成。さらに、上部へ大きく拡がる「ストライプ」の動きを加えることで、選手の力強さを引き立て、無限に広がる可能性を表現した<ref>{{Cite web |date=2020-01-25 |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/01/0125_04.php |title=「より青く、より強く。」2020年シーズンを戦う新ビジターユニフォームのデザインが決定、発売開始! |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2020-01-25 }}</ref>。 * 2023年 - 2015年以来のデザイン変更となる新たなホームユニフォームは過去の歴史や伝統を継承し、さらなる進化を遂げていきたい、という思いを込めた。2023年シーズン、チームとファンのとの一体感をより強く生み出していくべく、これまでのユニフォームの象徴的なストライプを集約し、頂点を目指す一本の道"YOKOHAMA STRIPE"へ。"YOKOHAMA STRIPE"の5本の線には選手それぞれの個性が結束し、同じ一本の道へ進んでいくことを同時に表現した<ref>{{Cite web |date=2023-01-23 |url= https://www.baystars.co.jp/homeuniform/?sptop=&utm_campaign=homeuniform&_ga=2.191014570.1041645523.1674472911-1873544731.1673608912 |title=新ホームユニフォーム、2023年シーズンスローガン発表 | 横浜DeNAベイスターズ |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2023-01-23 }}</ref>。 <gallery> ファイル:20140309 Tsutsugo Yoshitomo, infielder of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.JPG|2012年 - 2014年のホームユニフォーム ファイル:20120310 Taketosi Goto,infielder of the Yokohama BayStars, at Seibu Dome.JPG|2012年・2013年のビジターユニフォーム ファイル:20130407 kazuki Misima, pitcher of the Yokohama DeNA BayStars, at Meiji Jingu Stadium.JPG|2013年のサードユニフォーム ファイル:20140202 Masayoshi Kato, infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama DeNA BayStars Baseball Integrated training field.JPG|2014年 - 2015年のビジターユニフォーム ファイル:横浜DeNAベイスターズ投手の今永昇太。横浜スタジアムにて。.jpeg|ホームユニフォーム(2015年 - 2022年 、撮影は2016年) ファイル:180518 Edison Barrios.jpg|2016年 - 2019年のビジターユニフォーム(撮影は2018年) ファイル:20220315 Edwin Jose Escobar, pitcher of the Yokohama DeNA BayStars, at Meiji Jinguh Stadium.jpg|2020年 - 、のビジターユニフォーム(撮影は2022年) ファイル:20230305 Takuma Hayashi infielder of the Yokohama DeNA BayStars, at Yokohama Stadium(VS Seibu Lions).jpg|2023 - 、のホームユニフォーム </gallery> === 二軍 === * 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「'''湘南シーレックス'''」に変更し、ユニフォームも独自のものを使用。帽子は紺色を地色に白の「S」マーク、ツバはエメラルドグリーン。 ** ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。 ** ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Shonan」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。 * 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ野球球団に於いては唯一のケースである。 <gallery> File:Masato Sugimoto in 2010.08.15.JPG|湘南シーレックスのホームユニフォーム File:YB-Kentaro-Kuwahara20100827.jpg|湘南シーレックスのビジターユニフォーム </gallery> === 交流戦限定ユニフォーム === * 2005年 - 2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。左袖にTBSのロゴのワッペン。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。 * 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には[[横浜赤レンガ倉庫]]をイメージした臙脂色が用いられる<ref group="注釈">当時使用された楽天の交流戦ユニフォーム(ホーム用)とよく似ている。</ref>。 * 2009年以降は登場していない。 === 夏季限定ユニフォーム === [[File:20130803_Shuichirou_Osada,_pitcher_of_the_Yokohama_DeNA_BayStars,_at_Yokohama_Stadium.JPG|thumb|『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』限定ユニフォーム([[長田秀一郎]])]] ; 横浜時代 2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている<ref group="注釈">2008年は[[2008年北京オリンピック|夏季オリンピック北京大会]]開催のため8月の主催ゲームが8カード21試合中13試合と少ないため、夏季限定ユニフォームの着用はなく、2009年も登場していない。</ref>。 * 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]のデザインとよく似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれてファンにプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。 * 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。 * 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニフォームが登場した(2011年も同デザイン)。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。 ; DeNA時代 親会社がDeNAに変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。 * 2013年8月2日からの対中日3連戦にて、選手プロデュースのスペシャルユニフォームを着用<ref>{{Cite web |date=2013-06-19 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2013/06/0619_04.php |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』第1弾情報 球団初!スペシャルユニフォームを3日間連続で来場者プレゼント |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11 }}{{Cite web |date=2013-06-19 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2013/06/0619_07.php |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2013』選手着用スペシャルユニフォームを発表 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11 }}</ref>。「横浜の街もチームも星のように輝いて」という選手の思いから青を基調に空に輝く星空をイメージして肩や胸、背中などにかけて白い星がちりばめられたデザイン。胸には「YOKOHAMA」の文字が入る。帽子はサードユニフォームと同じもので、青地に白字で「''':De'''」(ネイビーと水色で縁取り)。 * 2014年8月8日からの対ヤクルト3連戦にて、夜空を彩る流れ星をイメージしたデザインのユニフォームを着用。プロ野球で一番輝く星になりたいという選手・ファンの思いを表現して青を基調にチームカラーの青や勝利の白星を意味する白で描かれた星をデザインし、キャップはビジター仕様のものを用いた。 * 2015年8月18日からの対ヤクルト3連戦にて、「海と港の街・横浜」を象徴する港の光きらめく水面をモチーフとしたデザインで、水色、青、濃紺の爽やかな迷彩柄で、小さく12選手のシルエットも描かれている。キャップには、この3試合限定で勝利を意味する「白星」が刺繍されたものを用いた。 * 2016年8月5日からの対中日3連戦にて、夜の横浜に輝く星空をモチーフとしたデザインで、横浜ブルーの夜空に煌めく星を幾何学模様のグラデーションで表現したものとなった。キャップには通常のホームゲームで着用するものの左つばにDeNA球団5周年に合わせ「5th ANNIVERSARY」と刺繍されたものを用いた。 * 2017年8月1日からの対中日3連戦にて、「“星空の煌めき”ד横浜の街並み”」をテーマとしたユニフォームを着用。夜の横浜を空から見下ろした、きらめく街明かりをモチーフとし、横浜ブルーをメインカラーに星空の煌めきをドット表現による幾何学デザインで表した。「横浜スタジアム」や2017年3月にオープンした球団の複合施設「[[THE BAYS]]」をはじめ、横浜の名所がデザインの中に隠されている。キャップはホームユニフォームと同じ物を使用<ref>{{Cite web |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2017』選手着用スペシャルユニフォーム デザイン決定! | 横浜DeNAベイスターズ |url=http://sp.baystars.co.jp/news/2017/04/0422_02.php |website=横浜DeNAベイスターズ公式ホームページ |accessdate=2020-08-21}}</ref>。 * 2018年7月31日からの対巨人3連戦では、「スパンコールのように輝く横浜の星空」をテーマとしたユニフォームを着用。きらきらとスパンコールのように輝く横浜の星空を、“横浜ブルー”を基調に濃淡をつけた青色で表した。また、レプリカユニフォームにはより輝きを表現するために、光沢感と凹凸のある素材を球団として初めて採用し凹凸を活かしたテクスチャーにこだわり、本物のスパンコールがついているような立体感のあるデザインとなった。キャップは通常のビジターゲーム時の物を使用<ref>{{Cite web |title=ニュース |  『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2018 Supported by 横浜銀行』のスペシャルユニフォームデザインが決定! | 横浜DeNAベイスターズ |url=https://www.baystars.co.jp/news/2018/05/0504_02.php |website=www.baystars.co.jp |accessdate=2020-08-21}}</ref>。 * 2019年7月30日からの対ヤクルト3連戦では、「宇宙への航海」をテーマとしたユニフォームを着用。左胸を中心に球団ロゴに含まれる様々な青色を同心円状の楕円にあしらったデザインで宇宙を表し袖は紺色とし、STAR☆NIGHTシリーズで初めてテーマデザインに合わせたマークとして楕円形のデザインを取り入れたYのマークを左胸の楕円中心部とキャップにあしらい宇宙の中心である横浜を表した<ref>{{Cite web |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2019 Supported by 横浜銀行』スペシャルユニフォームデザインが決定!レプリカ版スペシャルユニフォーム付チケット発売概要決定! | 横浜DeNAベイスターズ |url=https://www.baystars.co.jp/news/2019/05/0506_01.php |website=横浜DeNAベイスターズ オフィシャルホームページ |accessdate=2020-08-21 |language=ja}}</ref>。 * 2020年9月8日からの対阪神3連戦では、「Supernova」をテーマとしたユニフォームを着用。昨年度からのスピーシー感を踏襲し、横浜を中心に広がる宇宙を“横浜ブルー”をはじめ、球団ロゴマークに含まれる様々な青色で表現した。キャップは通常のビジターゲームの時の物を使用<ref>{{Cite web |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2020 Supported by 横浜銀行』スペシャルユニフォームデザインが決定! | 横浜DeNAベイスターズ |url=https://www.baystars.co.jp/news/2020/08/0813_02.php |website=横浜DeNAベイスターズ オフィシャルホームページ |accessdate=2020-08-21 |language=ja}}</ref>。 * 2021年9月7日からの対巨人3連戦では、「STAR NIGHT X(スターナイトテン)」をテーマとしたユニフォームを着用。黒地にDeNA球団10周年を意味する「XYDB」のロゴを4行羅列し文字は過去のSTAR☆NIGHTシリーズのユニフォームに用いられた模様を取り入れつつ左胸にビジターユニフォームと同様のYのマークを付け、襟・袖は紺色と袖口に白と水色のラインを入れた。 * 2022年8月2日からの対広島3連戦では、日本プロ野球史上初となる襟付き開襟シャツ型ユニフォームを着用。横浜の象徴的なモチーフを入れ込んだ「横浜の夏」を感じるアロハシャツ調のデザインとなっている。 * 2023年8月8日からの対中日戦3連戦では、「STAR NIGHT SIGN」をテーマとしたユニフォームを着用。星空の模様を基調に横浜スタジアムの座席図の線画や選手の姿をした星座等のデザインと左胸にYのマークををあしらい横浜の夜空をイメージしたものとした。背番号・選手名部分とキャップやユニフォームに金色を一部あしらいチーム・ファン・横浜の街の光を集め優勝への道を輝かせる思いを込めた。 === 復刻ユニフォーム === * 2010年8月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」では横浜大洋時代のホーム用ユニフォームを使用した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/100725/bbl1007251828013-n1.htm 【プロ野球】セ・リーグ6球団が復刻版ユニフォームで対戦 産経新聞 2010年7月25日]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。 * 2012年8月 - 9月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」では横浜ベイスターズ時代の1993年 - 2008年まで使用され、1998年の優勝・日本一時のビジター用ユニフォームを使用した<ref group="注釈" name="スポンサー">復刻ユニフォームには「ノジマ」や「リスト」の広告が入る。</ref>。 * 2016年、DeNA球団5周年記念の一環として5月10日 - 12日の中日戦、6月15日・20日<ref group="注釈">当初は6月16日予定だったが雨天中止のためこの日に振替となった。</ref> の北海道日本ハム戦を対象に横浜大洋ホエールズ時代のホームユニフォームを選手たちが着用して戦う「We☆YOKOHAMA DAY」を開催した<ref>{{Cite web |date=2016-04-26 |url=http://sp.baystars.co.jp/news/2016/04/0426_02_2.php |title=横浜DeNAベイスターズになって初めて、ハマスタにホエールズが帰ってくる!復刻ユニフォーム選手着用試合「We☆YOKOHAMA DAY」開催 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2016-04-28 }}</ref>。横浜DeNAベイスターズとなってからは初の大洋ホエールズ復刻ユニフォームである<ref group="注釈" name="スポンサー"/>。 * 2019年3月10日にオーヴィジョンスタジアム下関で開催される予定だった「球団創設70周年記念試合」の広島東洋カープとのオープン戦では、1950年のホーム用ユニフォームを復刻したものを着用<ref group="注釈" name="スポンサー"/>して試合をする予定だったが、試合開始直前の降雨により中止となった。この記念試合と復刻ユニフォームの着用は、改めて2019年3月21日の北海道日本ハムとのオープン戦(横浜スタジアム)にて行われた。 : この他、2006年のファン感謝デーには、大洋・横浜大洋時代の復刻ユニフォームを着用してアトラクションをこなしている。 * [[2023年]][[6月2日]]からの[[埼玉西武ライオンズ|西武]]三連戦<ref>2日のゲームは台風接近により中止になり、5日に振り返り試合が行われた。</ref>は『GET THE FLAG! SERIES 2023』と題し、1993年 - 2008年まで使用された、ユニフォームを着用した。<ref>ただし当時とは異なり、左胸にノジマ、ズボンにマルハニチロの広告が貼られている。</ref> === その他 === * 2019年4月12・13日の対広島戦、6月22・23日の対楽天戦、8月10・11日の対中日戦を対象に球団創設70周年を記念した「70th ANNIVERSARY GAME」にて、横浜ベイスターズ時代の初代ビジターユニフォームを踏襲した青色とロゴ配置、大洋ホエールズ時代の初代「W」マークを横にしたBマーク、袖とパンツ横に1959年の二本線を踏襲した上で1974年からの湘南電車カラーのオレンジと緑、右胸と背の「YOKOHAMA」を初代大洋ユニフォームをイメージしたフォント、横浜大洋時代を踏襲した背番号ロゴタイプとショルダーデザインといった歴代のユニフォームデザインをモチーフとした「70th ANNIVERSARY UNIFORM」を着用。 == ユニフォームのスポンサー == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} ; 全てホーム用。太字は現在掲出中のスポンサー。 === 左胸 === * 2008年 [[ノジマ]] === 右胸 === * 2009年 - 2011年 <ref group="注釈">2010年の「オールドユニホームシリーズ」では広告を右袖に掲示。</ref>、2023年 - '''ノジマ''' === 袖部分 === * 2005年・2006年 TBS([[TBSホールディングス|東京放送]]。[[ジ〜ン]]マーク入り) * 2007年 [[アサヒ飲料]]「アサヒ富士山のバナジウム天然水」 * 2012年 - 2022年 ノジマ * 2023年 - '''[[Hisense]]''' === ズボン === * 2007年 TBS(ジ〜ンマーク入り) * 2008年 [[マイナビ]]([[毎日コミュニケーションズ]]) * 2009年 - 2011年 TBS([[TBSテレビ]]〈2009年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〉。[[BooBo|ブーブ]]と[[ピンクリボン|ピンクリボン活動]]との[[コラボレーション]]) * 2012年、2015年、2017年 [[リスト (不動産)|リスト]]''''' * 2013年 - 2014年、2018年 [[ディー・エヌ・エー|DeNA]] * 2019年 [[プレミアム・プラットフォーム・ジャパン|Paravi]] * 2020年 - '''''[[マルハニチロ]] === ヘルメット === * 2007年 - 2008年、2010年 - 2011年 、2013年 - 2014年 リスト * 2009年 TBS、[[開国博Y150]] * 2012年 [[Mobage]] * 2015年 - 2017年 [[パロマ (企業)|Paloma]] * 2018年 - '''[[大和地所レジデンス]]''' === その他の球団スポンサー === *[https://www.baystars.co.jp/sponsor/ スポンサーキャンペーン]参照(協賛企業・団体のバナーを含むリンクアイコンが貼ってある) == 球団旗の変遷 == === 一軍 === * 1950年 - 1953年:白地に赤文字で大洋漁業の[[社章]](通称・まるはマーク)。 * 1954年:球団名が洋松ロビンスに変更され、紫地に赤字で大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。 ** 上半分がまるはマーク、下半分が松竹の社章。 * 1955年 - 1963年:球団名が大洋ホエールズに戻り、合併前のデザインに大洋の社名が入る。「大(は)洋」 * 1964年 - 1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。「TAIYO(は)WHALES」 ** 初期にはKAWASAKI(川崎)という文字が入るバージョンも存在した。「KAWA(は)SAKI」 * 1978年 - 1992年:紺色地に白文字で「W」。その下に同じく白文字で小さく「YOKOHAMA TAIYO」 * 1993年 - 2011年:中央に「YOKOHAMA BayStars」ロゴ、その下に小さく「REACH FOR THE STARS」(慣用句で“トップを目指せ”)。ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。文字の後ろには☆のグラデーション。 * 2012年 - :上下に青・青緑色のツートンカラーのライン、白地に青の横ストライプ、青いリボンが巻きついた星マークに文字が入った(☆の中央に「BAYSTARS」、巻きついたリボンの上に「DeNA」、下に「YOKOHAMA」)プライマリーマークを使用。 === 二軍 === * 2000年 - 2010年:湘南シーレックス時代のもの。白地に渦潮を模したグラデーション、中央に「SHONAN Searex」ロゴ、その下に一軍のものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。 == 歴代本拠地 == * 1950年 - 1952年 [[下関市営球場|下関球場]] * 1953年 - 1954年 [[大阪スタヂアム]] : ※本来は[[松竹ロビンス]]の本拠地であった[[衣笠球場]]と大洋ホエールズの本拠地であった下関球場のダブルフランチャイズであったが、実質的には松竹ロビンスの準本拠地とされていた大阪スタヂアムの方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。なお、大阪スタジアムが一応のメイン球場ではあるが、松竹時代の本拠地・[[西京極総合運動公園野球場]]では、1953年に18試合、1954年も15試合の主管試合を行っており、京都新聞社が主催していた<ref name=kyotopref/>が、下関での主管試合は、1953年2試合=[[9月6日]]の読売巨人軍戦の[[ダブルヘッダー]]<ref>[https://2689web.com/1953/1953R.html 日本プロ野球記録1953年洋松ロビンズ]</ref>、1954年3試合=[[4月4日]]の大阪タイガース戦のダブルヘッダー、[[4月11日]]の読売巨人軍戦シングル<ref>[https://2689web.com/1954/1954R.html 日本プロ野球記録1954年洋松ロビンズ]</ref>の2年間で合計5試合にのみにとどまってしまった。 * 1955年 - 1977年 [[川崎球場]]<ref group="注釈">川崎球場は大洋が本拠地とした当初、1954年に参入した[[高橋ユニオンズ]](1955年はトンボユニオンズ)も本拠地としていた。そのため、大洋の川崎移転初年の1955年と高橋が消滅した翌1956年の2年間は大洋と高橋が川崎球場を掛け持ちしていた。</ref> * 1978年 - [[横浜スタジアム]] なお、2020年は[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]/[[2020年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]の開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、[[東京ドーム]]で6試合、[[新潟県立野球場]]や、[[千葉ロッテマリーンズ]]の本拠地[[千葉マリンスタジアム]]での代替開催も予定していたが<ref name="sanspo1905">{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20190527/npb19052705020001-n1.html |title=ヤクルト&DeNA、東京五輪前後の期間は東京ドームで主催試合 |accessdate=2019-07-10 |date=2019-05-27 |publisher=産業経済新聞社(サンケイスポーツ)}}</ref>、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった<ref name=":0">{{Cite web |title=東京五輪延期に伴い、DeNAとヤクルトが主催試合の開催球場を変更…ハマスタ、神宮でそれぞれ11試合開催 |url=https://hochi.news/articles/20200415-OHT1T50102.html |website=スポーツ報知 |date=2020-04-15 |accessdate=2020-04-15 |publisher=}}</ref>。 2021年は延期になった[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]/[[2020年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]の開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、[[東京ドーム]]で6試合、[[新潟県立野球場]]で2試合、[[東京ヤクルトスワローズ]]の本拠地[[明治神宮野球場]]で5試合の代替開催を行っている。 == 歴代監督 == ※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一 {| class="wikitable" |- !!!代!!氏名!!就任<ref group="※">日付はシーズン途中で就任した場合のみ記載。</ref>!!退任<ref group="※">日付はシーズン途中で退任した場合のみ記載(休養は含まない)。その他は原則として年度末退任。</ref>!!備考 |- !rowspan="3"|{{縦書き|大洋}} |1||[[渡辺大陸]]||1950年||1950年||ここから'''大洋ホエールズ'''(第1次) |- |2||[[中島治康]]||1951年||1951年6月30日||[[選手兼任監督]] |- |3||[[有馬義一]]||1951年7月18日||1951年||当時の球団専務(選手・指導者歴なし) |- !rowspan="2"|{{縦書き|洋松}} |4||[[小西得郎]]||1952年||1953年||ここから'''大洋松竹ロビンス''' |- |5||[[永沢武夫]]||1954年||1954年||ここから'''洋松ロビンス''' |- !rowspan="15"|{{縦書き|大洋}} |6||[[藤井勇]]||1955年||1955年||選手兼任監督<br />ここから'''大洋ホエールズ'''(第2次) |- |7||[[迫畑正巳]]||1956年||1958年|| |- |8||[[森茂雄]]||1959年||1959年|| |- |9||'''[[三原脩]]'''◎||1960年||1967年|| |- |10||[[別当薫]](第1次)<ref group="※">1972年8月30日まで指揮、残り試合は[[青田昇]]と[[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]]が代行。</ref>||1968年||1972年8月30日|| |- |11||[[青田昇]]||1973年||1973年|| |- |12||[[宮崎剛 (1918年生の内野手)|宮崎剛]]||1974年||1974年|| |- |13||[[秋山登]]||1975年||1976年||1977年二軍監督 |- |14||別当薫(第2次)||1977年||1979年||1978年から'''横浜大洋ホエールズ''' |- |15||[[土井淳]] <ref group="※">1981年9月24日まで指揮、残り試合は[[山根俊英]]が代行。</ref>||1980年||1981年9月24日|| |- |16||[[関根潤三]]||1982年||1984年|| |- |17||[[近藤貞雄]]||1985年||1986年|| |- |18||[[古葉竹識]]||1987年||1989年|| |- |19||[[須藤豊]]||1990年||1992年5月2日|| |- |20||[[江尻亮]]||1992年5月3日||1992年|| |- !rowspan="8"|{{縦書き|横浜}} |21||[[近藤昭仁]]||1993年||1995年||ここから'''横浜ベイスターズ''' |- |22||[[大矢明彦]](第1次)||1996年||1997年|| |- |23||'''[[権藤博]]'''◎||1998年||2000年|| |- |24||[[森祇晶]] <ref group="※">2002年9月25日まで指揮、残り試合は[[黒江透修]]が代行。</ref>||2001年||2002年9月25日|| |- |25||[[山下大輔]]||2003年||2004年|| |- |26||[[牛島和彦]]||2005年||2006年|| |- |27||大矢明彦(第2次)<ref group="※">2009年5月17日まで指揮、残り試合は[[田代富雄]]が代行。</ref>||2007年||2009年5月17日|| |- |28||[[尾花高夫]]||2010年||2011年|| |- !rowspan="3"|{{縦書き|DeNA}} |29||[[中畑清]]||2012年||2015年||ここから'''横浜DeNAベイスターズ''' |- |30||[[アレックス・ラミレス]]||2016年||2020年||球団初の[[日本のプロ野球監督一覧#外国人監督|外国人監督]](2019年に日本国籍取得) |- |31||[[三浦大輔]]||2021年|||| |} {{Reflist|group="※"}} == 歴代オーナー == * [[中部兼市]](1950年 - 1953年) * [[中部謙吉]](1953年 - 1977年) * [[中部新次郎]](1977年 - 1990年) * [[中部慶次郎]](1990年 - 2001年) * [[砂原幸雄]](2001年 - 2004年) * [[若林貴世志]](2004年 - 2011年) * [[春田真]](2012年 - 2015年) * [[南場智子]](2015年 - ) == 永久欠番 == 球団の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]は次の通り。 * なし ** マルハ(現・マルハニチロ)時代の1997年より、'''100'''を'''永久欠番'''として'''球団に対して貢献のある複数の著名人'''に与えていたが、2012年に育成ドラフト1位で入団した[[今井金太]]が着用したことにより、撤廃された。 === 準永久欠番 === * '''18''':[[三浦大輔]] ** 横浜大洋ホエールズ時代の1992年から2016年にかけて横浜一筋で活躍した投手。球団は引退に際し、1998年以降<ref group="注釈">1992年から1997年までの背番号は「'''46'''」。</ref>、三浦が着用し続けた「背番号18」を「'''プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき選手がつける番号'''」(通称「'''横浜ナンバー'''」)とした。ふさわしい後継者が現れるまで「横浜ナンバー」は欠番とし、ふさわしいと思われる選手が現れた場合には三浦と球団が協議したうえで決定する、としている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/21/kiji/K20160921013395330.html 三浦の背番号18は半永久欠番「横浜ナンバー」に] - スポーツニッポン、2016年9月21日、2016年11月14日閲覧</ref>。その後、2019年からチームの投手コーチ(2020年は二軍監督)に就任した三浦が再度着用していたが、2020年オフの一軍監督就任時に数字を逆にして'''81'''に変更した。 **2022年からは[[小園健太]]が着用する<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202112030000230.html |title=DeNAドラ1小園健太「18」背負い入団会見「勝利にたくさん貢献を」 |publisher=日刊スポーツ |date=2021-12-03 |accessdate=2021-12-03}}</ref>。 * '''25''':[[筒香嘉智]] ** プロ入り3年目の2012年から2019年まで<ref group="注釈">プロ入りした2010年は「'''55'''」、2011年は「'''8'''」。</ref>着用。同年オフの[[メジャーリーグベースボール|MLB]]挑戦の際に「'''彼が帰ってくるまで空けておく。現役の間は、ほかの選手がつけることはない'''」(三原球団代表)として、準永久欠番として扱うことが決まった<ref>{{Cite web |url=https://hochi.news/articles/20200109-OHT1T50013.html |title=【DeNA】筒香の背番号25が準永久欠番に…三原球団代表「彼が帰ってくるまで空けておく」 |accessdate=2020-01-09 |date=2020-01-09 |publisher=報知新聞社(スポーツ報知)}}</ref>。 == 沢村栄治賞受賞者 == * [[平松政次]] :1回(1970年) * [[遠藤一彦]] :1回(1983年) == 顕彰 == DeNA球団では、球団在籍時に[[日本プロ野球名球会]]の入会条件である通算[[日本プロ野球名球会#野手|2000本安打]]・通算[[日本プロ野球名球会#投手|200勝]]・通算[[日本プロ野球名球会#投手|250セーブ]]のいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2020年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。 2020年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" ! 背番号 ! 選手名 ! 守備位置 ! 選手歴 ! 顕彰理由 ! 通算成績 |- | '''25''' | '''[[松原誠]]''' | 一塁手 | style="text-align:left;"| * 大洋 (1962 - 1980) * [[読売ジャイアンツ|巨人]] (1981) | 2000安打達成 | 2095安打 |- | '''27''' | '''[[平松政次]]''' | 投手 | style="text-align:left;"| * 大洋 (1967 - 1984) | 200勝達成 | 201勝 |- | '''10''' | '''[[駒田徳広]]''' | 一塁手 | style="text-align:left;"| * 巨人 (1981 - 1993) * 横浜 (1994 - 2000) | 2000安打達成 | 2006安打 |- | '''22''' | '''[[佐々木主浩]]''' | 投手 | style="text-align:left;"| * 大洋・横浜 (1990 - 1999) * [[シアトル・マリナーズ|SEA]] (2000 - 2003) * 横浜 (2004 - 2005) | 250セーブ達成 | 381セーブ<ref group="注釈">日米通算。[[日本野球機構|NPB]]では252セーブ、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]では129セーブ。</ref> |- | '''5''' | '''[[石井琢朗]]''' | 遊撃手 | style="text-align:left;"| * 大洋・横浜 (1989 - 2008) * [[広島東洋カープ|広島]] (2009 - 2012) |rowspan="3" style="text-align:center;white-space:nowrap;"|2000安打達成 | 2432安打 |- | '''3''' | '''[[アレックス・ラミレス]]''' | 左翼手 | style="text-align:left;"| * [[クリーブランド・ガーディアンズ|CLE]] (1998 - 2000) * [[ピッツバーグ・パイレーツ|PIT]] (2000) * [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]] (2001 - 2007) * 巨人 (2008 - 2011) * DeNA (2012 - 2013) * [[群馬ダイヤモンドペガサス|群馬]] (2014) | 2017安打<ref group="注釈">[[日本野球機構|NPB]]のみの通算。[[メジャーリーグベースボール|MLB]]時代の86安打を含めると米日通算2103安打となるが、NPB在籍以前のMLBの成績は名球会入会条件に該当しないため含まない。また、[[独立リーグ]]([[ベースボール・チャレンジ・リーグ|BCリーグ]])時代の通算58安打も含まない。</ref> |- | '''99''' | '''[[中村紀洋]]''' | 三塁手 | style="text-align:left;"| * [[大阪近鉄バファローズ|近鉄]] (1992 - 2004) * [[ロサンゼルス・ドジャース|LAD]] (2005) * [[オリックス・バファローズ|オリックス]] (2006) * [[中日ドラゴンズ|中日]] (2007 - 2008) * [[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]] (2009 - 2010) * 横浜・DeNA (2011 - 2014) | 2106安打<ref group="注釈">日米通算。[[日本野球機構|NPB]]では2101安打、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]は5安打。</ref> |} ※達成順に記載。背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。 == 主な歴代の球団歌・応援歌 == * [[熱き星たちよ]](球団歌) *: 1993年、球団名が「横浜ベイスターズ」となったのを機に製作。メインボーカルは、横浜出身の歌手・[[高尾直樹]]、作曲・朝倉紀幸([[朝倉紀行]])、作詞・秋谷銀四郎。 *: 本拠地横浜スタジアム周辺の駅のうち、JR[[関内駅]]では2011年6月2日から<ref group="注釈">2012年までは公式戦が実施されている期間のみの使用となっていた。</ref>現在まで[[発車メロディ]]として使用されている。過去には横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅にて2012年4月3日から2022年2月1日まで、みなとみらい線[[日本大通り駅]]でも2013年4月2日から2019年3月28日まで使用されていた。 *: DeNAベイスターズとなった2012年、歌詞のうち球団名部分が「横浜ベイスターズ」から「DeNAベイスターズ」に変更され、中畑清監督以下5選手(三浦大輔・A.ラミレス・森本稀哲・高崎健太郎・石川雄洋)がヴォーカルを担当した「熱き星たちよ・2012年ヴァージョン」を発表。曲調は以前のものとは大きく異なるものとなった。なお、ベイスターズの得点時・勝利時にも応援団によりトランペット演奏が行われるが、この際の歌詞は従来通り「横浜ベイスターズ」のままである。 *: 2014年の新バージョンでは、中畑監督、三浦、金城、久保、ブランコ、[[アーロム・バルディリス|バルディリス]]、石川、黒羽根、三嶋の9名が参加。旧バージョンで、ラミレスがアドリブでコールしたセリフは、ブランコとバルディリスによるスペイン語のコールとして継承されている。 *: 2015年以降は毎年のように新バージョンが制作されている。 **: 2015年-中畑監督、山崎憲晴、ロペス、梶谷、黒羽根、山口、三浦、筒香、[[ギジェルモ・モスコーソ|モスコーソ]]、バルディリス<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2015/03/0322_02.php 3/31(火)横浜DeNAベイスターズ球団歌CD『熱き星たちよ 〜2015〜』発売決定!(2015年3月22日)]</ref> **: 2016年-A.ラミレス監督、山口、三浦、石川、梶谷、筒香、山﨑康晃、嶺井<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0317_04.php ラミレス監督 & 筒香選手など7選手が歌う『熱き星たちよ-2016-』発売(2016年3月17日)]</ref> **: 2017年-A.ラミレス監督、筒香、石田、山﨑康晃、今永、倉本、戸柱、桑原<ref>[https://www.baystars.co.jp/news/2017/03/0317_02.php CD『熱き星たちよ-2017-』、ハマスタ限定『応援歌フェイスタオル』、NEW ERAキャップなどの新商品3/18(土)発売!!(2017年3月17日)]</ref> * 勝利の輝き(応援歌) * 横浜ベイスターズ球団テーマ(公式テーマ。[[インストゥルメンタル]]曲) *: 1998年の優勝を記念して製作。主に横浜主催ゲームでの、横浜のスタメン選手発表時にBGMとして使用されていたが、横浜DeNAとなってからは一軍戦のスタメン発表では使用されていない模様。なお、二軍戦のスタメン発表時には従来通り使用されている。 * 勇者の遺伝子 *: 2013年3月に作詞・[[森雪之丞]]、作曲・[[布袋寅泰]]によって制作された応援歌。この応援歌のレコーディングには抽選で選ばれたDeNAファン50人が参加した。2019年3月29日からは、横浜スタジアムの最寄り駅である[[日本大通り駅]]の発車メロディに使用されている<ref>[http://www.mm21railway.co.jp/info/news/uploads/press%20release_20190322_1.pdf 祝!プロ野球開幕!今年もみなとみらい線に乗って横浜DeNAベイスターズを応援しよう!]</ref>。 === 過去 === ; 大洋・横浜大洋時代 * [[行くぞ大洋]](球団歌)(歌:[[三鷹淳]]とチャッピーズ) * 勝利花(応援歌)(歌:三鷹淳とチャッピーズ) ; 横浜時代 * [[横浜Boy Style]](イメージソング)(歌:[[CoCo (アイドルグループ)|CoCo]]) * WINNING(応援歌)(歌:CoCo) *: 「横浜Boy Style」のカップリング曲。コーラスには当時現役だった[[佐々木主浩]]・[[盛田幸妃]]・[[野村弘樹]]・[[谷繁元信]]・[[進藤達哉]]・[[石井琢朗]]の6選手が参加していた。CoCoの解散や選手の退団・移籍が重なり公式ではほとんど使われなくなったが、2019年現在でも応援団により演奏されている。 * BayStarsを観にいこうよ(イメージソング)(詞・曲・歌:[[ダ・カーポ (歌手グループ)|ダ・カーポ]]) * BE A HERO(公式ソング)(歌:[[クレイジーケンバンド]] feat.小野瀬雅生)※2006年まで ; 湘南シーレックス * 若き王者たち(公式ソング) * Searex Horizon(公式テーマ。インストゥルメンタル曲) == 主なキャンプ地 == * 山口県・[[下関市営球場|下関球場]]:1950、1952 * 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951 * 兵庫県・[[兵庫県立明石公園第一野球場|明石球場]]:1953、1960 - 1961 * 長崎県・[[長崎市営大橋球場|大橋球場]]:1954 * 鹿児島県・[[鹿児島県立鴨池野球場|鴨池球場]]:1955、1957 - 1958 * 千葉県・銚子球場:1956、1962 * 岡山県・[[岡山県野球場|岡山球場]]:1956 * 静岡県・三保東海大グラウンド:1959 - 1961 * 愛媛県・[[松山市営球場|松山球場]]:1959 * 静岡県・島田球場:1972 - 1973 * [[静岡市]]・[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場|草薙球場]]:1963 - 1971、1974 - 1979、1981 - 1986の一軍キャンプ、(1981・1987 - 1989の二軍キャンプ)、他 * [[アメリカ合衆国]]・[[アリゾナ州]][[メサ (アリゾナ州)|メサ市]]・[[:en:Hohokam Stadium|ホホカム球場]]:1980 - 1981<ref group="注釈">1980年はメサ市ホホカム球場のみでのキャンプ開催であったが、1981年は第一次キャンプを静岡・草薙球場で、第二次キャンプをメサ市ホホカム球場で実施した。</ref> * 静岡県・熱海スタジアム:1980年代、秋季キャンプとして使用 * [[宜野湾市]]・[[宜野湾市立野球場]]:1987 -(春季キャンプ。2020年に全面[[人工芝]]の屋内練習場を新設<ref>{{Cite web |title=DeNAキャンプ地に新室内練習場完成 全面人工芝 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001100000652.html |work=日刊スポーツ |date=2020-01-10 |accessdate=2020-01-10}}</ref>) * [[神奈川県]]・[[横浜DeNAベイスターズ総合練習場]]:1990 - 2019 * [[横須賀市]]・[[横須賀スタジアム#DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA|DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA]]:2020 -(秋季キャンプ。2020年新設<ref name="DBY" />) * [[沖縄県]]・[[嘉手納町営球場]]:二軍キャンプ * [[鹿児島県]][[奄美市]]・名瀬運動公園野球場:2010 - 2019(秋季キャンプ。2020年、ファーム練習場の新設に伴い終了<ref name="DBY">{{Cite web |title=2020年秋季キャンプについて |url=https://baystars.co.jp/news/2020/02/0209_01.php |work=DeNAベイスターズ 公式サイト |date=2020-02-09 |accessdate=2020-02-10}}</ref>) == 歴代開幕投手 == {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;" |- !年度!!開幕投手!!勝敗!!スコア!!対戦相手 |- |1950||[[今西錬太郎]]||○||2-0||国鉄 |- |1951||[[高野裕良]]||○||4-2||名古屋 |- |1952||高野裕良||○||4-2||阪神 |- |1953||江田貢一||△||1-1||名古屋 |- |1954||[[権藤正利]]||○||9-2||阪神 |- |1955||権藤正利||●||2-8||広島 |- |1956||[[江田孝]]||●||2-11||中日 |- |1957||[[大石正彦]]||●||0-4||広島 |- |1958||大石正彦||●||6-7||阪神 |- |1959||[[鈴木隆 (投手)|鈴木隆]]||●||1-3||中日 |- |1960||[[幸田優]]||●||3-4||中日 |- |1961||[[秋山登]]||○||8-7||広島 |- |1962||[[島田源太郎]]||●||1-3||国鉄 |- |1963||[[稲川誠]]||●||1-4||広島 |- |1964||稲川誠||○||7-4||中日 |- |1965||稲川誠||○||1-0||国鉄 |- |1966||秋山登||○||6-3||巨人 |- |1967||[[森中千香良]]||○||3-2||中日 |- |1968||森中千香良||○||8-5||巨人 |- |1969||[[平岡一郎]]||○||1-0||阪神 |- |1970||[[平松政次]]||●||2-3||広島 |- |1971||平松政次||●||1-2||ヤクルト |- |1972||[[山下律夫]]||●||3-6||広島 |- |1973||平松政次||○||3-1||阪神 |- |1974||平松政次||●||1-2||阪神 |- |1975||平松政次||○||8-4||巨人 |- |1976||平松政次||●||0-1||中日 |- |1977||[[渡辺秀武]]||○||15-7||広島 |- |1978||平松政次||○||3-1||中日 |- |1979||平松政次||○||9-0||ヤクルト |- |1980||平松政次||○||4-3||巨人 |- |1981||[[斉藤明雄]]||●||1-2||巨人 |- |1982||斉藤明夫||○||3-2||阪神 |- |1983||[[遠藤一彦]]||●||2-5||巨人 |- |1984||遠藤一彦||●||3-9||ヤクルト |- |1985||遠藤一彦||○||12-6||巨人 |- |1986||遠藤一彦||○||8-7||阪神 |- |1987||遠藤一彦||○||5-1||広島 |- |1988||[[欠端光則]]||○||2-1||中日 |- |1989||斉藤明夫||○||4-3||中日 |- |1990||[[中山裕章]]||△||5-5||中日 |- |1991||中山裕章||○||4-3||阪神 |- |1992||[[野村弘樹]]||●||4-6||中日 |- |1993||[[有働克也]]||●||2-5||巨人 |- |1994||有働克也||○||4-3||中日 |- |1995||野村弘樹||●||0-4||広島 |- |1996||[[盛田幸妃|盛田幸希]]||●||1-2||ヤクルト |- |1997||盛田幸希||●||2-3||中日 |- |1998||[[川村丈夫]]||○||8-0||阪神 |- |1999||[[三浦大輔]]||●||5-10||ヤクルト |- |2000||川村丈夫||○||7-6||阪神 |- |2001||[[小宮山悟]]||●||4-6||ヤクルト |- |2002||三浦大輔||●||1-2||広島 |- |2003||[[吉見祐治]]||○||4-2||阪神 |- |2004||三浦大輔||●||1-3||ヤクルト |- |2005||三浦大輔||●||0-4||中日 |- |2006||三浦大輔||●||2-12||巨人 |- |2007||三浦大輔||●||2-3||巨人 |- |2008||[[寺原隼人]]||●||2-4||阪神 |- |2009||三浦大輔||●||1-4||中日 |- |2010||[[スティーブン・ランドルフ|ランドルフ]]||●||3-7||阪神 |- |2011||[[山本省吾]]||○||5-4||中日 |- |2012||[[高崎健太郎]]||△||5-5||阪神 |- |2013||[[藤井秀悟]]||○||4-3||中日 |- |2014||[[三嶋一輝]]||●||1-9||ヤクルト |- |2015||[[久保康友]]||●||2-3||巨人 |- |2016||[[井納翔一]]||○||2-1||広島 |- |2017||[[石田健大]]||●||2-9||ヤクルト |- |2018||石田健大||●||3-7||ヤクルト |- |2019|||[[今永昇太]]||○||8-1||中日 |- |2020|||今永昇太||●||1-5||広島 |- |2021||[[濱口遥大]]||●||7-8|||巨人 |- |2022||[[東克樹]]||●||3-11|||広島 |- |2023||石田健大||●||3-6|||阪神 |} == 主なエピソード == === 荒川事件 === {{main|荒川事件}} === 湘南電車カラーのユニフォーム === 1974年から1977年のシーズンに使われたユニフォームのこと。ホーム用は橙色、帽子とビジター用は緑色を使っていたため、[[湘南電車]]を髣髴とさせる配色から「湘南電車カラー(湘南カラー)」と言われた。 このユニフォームが採用される契機になったのは[[山下大輔]]の入団である。当時の大洋は[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]]でキャンプを行うなど、静岡県とのつながりがあった。そこに静岡県出身の山下がドラフト1位で入団した。一方、ヘッドコーチの[[秋山登]]は[[オークランド・アスレチックス]]を参考としたユニフォームを作りたいという思いがあった。そこで静岡をコンセプトに「(静岡名産の)ミカンとお茶を題材にしたユニフォームは出来ないものか」とオーナーの[[中部謙吉]]に提案したところ、中部も「食品会社としてイメージアップにつながる」と了承。その結果、橙色と緑を使ったユニフォームが完成した。先述の経緯から具体的なデザインは、オークランド・アスレチックスの当時のユニフォームを参考にしている<ref>{{cite web|author=網島理友|date=2019-05-16|title=ベイスターズ人気の復刻ユニは湘南カラー なぜ弱い時代のものが人気なのか|url=https://bunshun.jp/articles/-/11679|publisher=文春オンライン|accessdate=2022-02-06}}</ref>。 === 2001年と2005年の順位 === [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]では2000年以前まで勝率順で順位を決定していたが<ref group="注釈">2000年以前は、勝率が同率となった場合はプレーオフで順位を決定するという規定だった。</ref>、2001年は勝利数順で順位を決定する方法が採用された<ref group="注釈">勝利数の順位と勝率の順位が異なる場合は、勝利数を優先して順位を決定し、勝率1位のチームと勝利数1位のチームが異なる場合はその両チームによる[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]でリーグ優勝チームを決めるという方式であった。</ref>。 2001年、横浜は69勝67敗4分け、[[広島東洋カープ|広島]]は68勝65敗7分けでそれぞれシーズンを終えた。勝率は横浜.507、広島.511であり、前年までの順位決定方式なら広島が上位になっていたところだが、上述の通りこの年は「勝利数順」で順位を決めていたため、勝利数で広島を上回った横浜が3位となり、5年連続のAクラス入りを果たした。 しかし、この順位決定方式は、シーズン途中では試合を早く消化したチームが上位になりやすく、実態が分かりづらいという理由から、わずか1年で順位決定方式が「勝利数順」から「勝率順」に戻された<ref group="注釈">ただし、勝率1位チームと勝利数1位チームが異なる場合に優勝決定プレーオフを行うとする規定は、2006年まで存在していた。</ref>。 2005年にも勝率順位と勝利数順位が異なる事態が起こったが、今度は勝率順で順位を決定する規定になっていたため、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]よりも勝利数の少ない横浜が(横浜'''69勝'''70敗7分け、ヤクルト'''71勝'''73敗2分け)、勝率でヤクルトを上回り(横浜の勝率は.496、ヤクルトの勝率は.493)、最終順位は横浜が3位、ヤクルトが4位となった。 なお、セ・リーグでは2002年以降、現在に至るまで勝率順で順位を決定している。 ===地方球場での開催=== 大洋時代は初代本拠地の下関のほか、春季キャンプを行っていた草薙球場を始め、[[北海道]]、[[東北地方]]などで、1980年代後半からは神奈川県内の[[平塚球場|平塚球場(バッティングパレス相石スタジアムひらつか)]]や[[相模原市立相模原球場|相模原球場(サーティーフォー相模原球場)]]や北関東の[[宇都宮清原球場]]、[[ひたちなか市民球場]]でも開催したことがある。 2016年以降は地方開催を[[新潟県立野球場|新潟県立鳥屋野潟公園野球場]](HARD OFF ECOスタジアム新潟)での1試合のみに縮小し、沖縄や平塚・相模原など保護地域の神奈川県内での地方開催も中断している。2020年は新潟の他に前述の通り、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]/[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]で横浜スタジアムが使用できない都合による兼ね合いで、東京ドーム、ZOZOマリンスタジアムでも開催が予定されていた<ref name="2020スケジュール">{{Cite web |format=PDF |url=http://npb.jp/games/2020/schedule_all_cl_20190722.pdf |title=2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-22 |accessdate=2019-07-23 }}</ref>。2021年シーズンは実際、東京ドームと神宮球場で主権試合が開催された。 ==== 沖縄で公式戦 ==== 横浜時代の2010年6月29日・6月30日の2日間、同年全面改築が竣工した[[那覇市営奥武山野球場]](沖縄セルラースタジアム那覇)で対[[東京ヤクルトスワローズ]]2連戦を主催開催した。大洋ホエールズ時代の1975年5月17日・5月18日に改築前の県営奥武山野球場(当時)で対[[広島東洋カープ]]2連戦を主催開催したが、[[沖縄県]]ではこの試合以来35年ぶりのプロ野球公式戦となった。また、この2試合は沖縄県でのプロ野球一軍公式戦<ref group="注釈">これに先駆けて4月に[[読売ジャイアンツ (ファーム)|巨人]]対[[阪神タイガース (ファーム)|阪神]]の二軍公式戦が18時から同じ沖縄セルラースタジアム那覇でナイターで行われている</ref> としては史上初のナイター(19時開始)となった。それ以降も同球場では2011年(対[[広島東洋カープ|広島]])、2012年(対ヤクルト)、2014年(対巨人)、2015年(対[[中日ドラゴンズ|中日]])に横浜/横浜DeNA主催による公式戦が毎年2試合組まれ、最低でも年1試合は開催された。 2013年は[[阪神タイガース]]が同球場で公式戦を開催したため沖縄遠征は行わなかったが、2014年は[[読売ジャイアンツ|巨人]]を帯同し、2年ぶりに沖縄遠征を実施した。ただ、7月8日と7月9日の2連戦(平年より30分早い18時30分試合開始)での開催を予定していた。しかし、7月8日の試合については[[平成26年台風第8号]]が最大級の勢力を保ったまま沖縄に直撃する恐れがあり試合の開催が困難であることと、観客の来場時の安全を考慮して、前日(7日)午後の段階で開催取りやめを発表した<ref>{{Cite web |date=2014-07-07 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2014/07/0707_07.php |title=7/8(火)横浜DeNA 対 巨人(沖縄セルラースタジアム那覇)の試合は中止 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11}}</ref>。またこの影響で、当初沖縄遠征に参加する予定だった[[ユリエスキ・グリエル]]は、台風による飛行機の揺れへの不安から参加を辞退したことも判明した。グリエルは飛行機恐怖症との診断を受け、球団と協議したうえで沖縄遠征への参加を見送ったとしている<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/74160/cms_id/90128 横浜DeNA:グリエル「飛行機怖い」 沖縄遠征の帯同見送り]{{リンク切れ|date=2015年10月}}(神奈川新聞2014年7月8日)</ref>。 なお、ベイスターズ主催試合から撤退した2016年以降の沖縄での公式戦は[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の球団が持ち回りで主催試合を行っているが、2022年は別途4月12・13日に巨人の主催試合も「沖縄復帰50周年記念・那覇市市制100周年記念試合」として行われ、2014年とは逆にDeNAがビジターとして帯同した。 ==== 新潟との関係 ==== [[新潟県立野球場|HARD OFF ECOスタジアム新潟]]では開業した2009年から毎シーズン主催試合を開催している。DeNAへ親会社が代わった後は南場オーナーが[[新潟県|新潟]]出身という事もあり、一時は、集客の見込める土曜・日曜の開催や対巨人戦の開催を行ったり、2016年には日本ハムを帯同して、同球場初となる[[セ・パ交流戦]]を1試合行うなど、新潟への配慮は大きい。 2013年は巨人主催のDeNA戦が1試合行われているが、これは同球場で唯一DeNAがビジター開催となった事例である。同年には別にDeNA主催の巨人戦も2試合行われた。 先述の通り2016年以降は地方開催を縮小しており、上記沖縄、並びに神奈川県内の平塚、相模原などでの一軍公式戦開催からは撤退したものの、新潟での開催は毎年平日1試合のみであるが唯一継続している。ただし、2020年は上述の理由で、新潟では土日を含む3連戦を予定していたが<ref name="2020スケジュール"/>、いずれも横浜スタジアムでの開催に変更となった<ref name=":0" />。また2021年は土・日曜に2試合予定されていたが、1試合が雨天中止となった。 他にも新潟に関連するイベントを開催しており、関係を継続している。 * 球団公認ファンクラブ'''B☆Spirit Niigata'''の創設<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20140713153040/http://www.ohbsn.com/contents/b-spirit-niigata/index.php |title=横浜DeNAベイスターズ公認ファンクラブ B☆SpiritNiigata |publisher=BSN新潟放送 |date= |accessdate=2021-05-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140713153040/http://www.ohbsn.com/contents/b-spirit-niigata/index.php |archivedate=2014-07-13}}</ref> * 新潟県の野球少年へ5周年ロゴ入り野球帽の贈呈<ref>{{Cite web |url=https://www.baystars.co.jp/news/2016/03/0310_01.php |title=新潟県野球少年へ「5周年ロゴ入りベースボールキャップ」プレゼント |publisher=横浜DeNAベイスターズ |date=2016-03-10 |accessdate=2021-05-22}}</ref> * 「うまさぎっしり新潟」DAY in ハマスタBAYガーデンの開催<ref>{{Cite web |url=https://www.baystars.co.jp/news/2016/07/0706_01.php |title=7/23(土)・7/24(日)は「うまさぎっしり新潟」DAY in ハマスタBAYガーデンを開催! |publisher=横浜DeNAベイスターズ |date=2016-07-06 |accessdate=2021-05-22}}</ref> ==== 下関開催の復活 ==== 初代本拠地である下関市にある下関球場(現・オーヴィジョンスタジアム)においては2007年を最後として公式戦開催が途絶えており、将来的な公式戦の復活開催実現へ向けて同市が中心となって「下関プロ野球招致実行委員会」<ref>[http://www.city.shimonoseki.lg.jp/www/contents/1548131386257/index_k.html (記者発表資料)第1回下関プロ野球招致実行委員会の開催について]</ref> を設立し、その手始めとして2019年、当球団創設70周年を迎えるにあたっての記念試合として、[[広島東洋カープ]]との[[オープン戦]]を誘致、球団最初の試合日に合わせて同年3月10日にデーゲームで開催することを決めた。 しかし、試合開始直前の降雨によりこのオープン戦の開催は中止となり、下関での記念試合は幻に終わった。この試合では1950年3月10日に行われた国鉄スワローズ戦で着用した初代ユニフォームを復刻して選手が着用する予定でもあった(この復刻版ユニフォームは3月21日に横浜スタジアムで行われた北海道日本ハムファイターズ戦で改めて着用された)。将来的には公式戦開催を目指して取り組んでいる<ref>[https://www.sankei.com/article/20190311-YPAPGWSMCZI5XFRFSGBBKBRQPA/ ベイスターズ、雨うらめし 下関「帰郷」戦が中止 公式戦誘致へ期待](2019年3月11日 産経新聞)</ref>が、2020年は公式戦開幕が[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の関係により通常より早まるため、オープン戦は2019年12月の発表段階<ref>[http://npb.jp/preseason/2020/schedule_detail.html 春季非公式試合(オープン戦)]</ref>では予定されず、以後もオープン戦の開催はなされていない<ref group="注釈">2軍戦もベイスターズ主管のものは開催されていないが、近接県の福岡県を本拠地とする[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|福岡ソフトバンクホークス]]主管の[[ウェスタン・リーグ]]の開催はある([https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00005256.html 直近例・2022年4月3日の中日戦])</ref>。 === アツいぜ! チケット === 2012年5月1日から6日までの5戦で「全額返金!?アツいぜ!チケット」を1枚4000円・50席限定で販売した。このチケットは観客の満足度によって、試合内容が気に入らなければ勝ち・引き分けの場合は半額の2000円まで、負けた場合は全額の4000円を上限に返金するものであった。この企画の初日にあたる5月1日にチームが敗戦した際は全員が返金を要求。金額にして9割に及ぶ返金額となったが、勝利した試合でも半数以上の人間が返金を求め<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/team/baystars/headlines/20120508-00000015-dal-base.html DeNA「アツいぜ!チケット」勝っても半数以上が返金要求]{{リンク切れ|date=2015年10月}} -スポーツナビ</ref>、5試合での売上100万円のうち半数近い47万円が返金となってしまった。この結果に当時の監督・中畑清はショックを受け、「ひどい負け方をしたならともかく、最高のプレーをして『金返せ!』じゃ選手のモチベーションを下げるだけ」とし、同じような企画を二度と実施しないように求めた<ref>{{Cite news |title=ショックだった返金企画…中畑監督「屈辱。二度とやらないで」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-05-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/08/kiji/K20120508003206980.html |accessdate=2015-10-11 }}</ref>。 なお、2012年度のレギュラーシーズン最終戦(10月8日・広島戦)において、「新・熱いぜ!チケット」が企画・発売された。これは、内野SS席ペアチケット(通常2人分で1万1000円)に2000円分(1人1000円)を追加で負担すれば、2016年度までにDeNAがレギュラーシーズンで2位以上の成績を収め、[[クライマックスシリーズ]](CS)の主管権を確保した場合、その主管試合の内野指定席での観戦ができる権利を得るというものであったが、この期間中にCSに進出できなかったり、進出してもレギュラーシーズン3位で主管権を得られなかった場合、またはCSが廃止となって権利失効となった場合には、追加負担分は神奈川県のアマチュア野球の振興に役立てるという企画であった<ref>{{Cite web |date=2012-08-21 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2012/08/0821_02.php |title=クライマックスシリーズ主催試合観戦権付きチケットなど、9/28(金)〜10/3(水)対象の企画チケットを8/25(土)に発売 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2012-11-03 }}</ref>。実際には2016年の3位が期間内のレギュラーシーズンでの最高順位であり、DeNAはCSを主催することはできなかったため、観戦権は成立せず、全額が神奈川県の野球振興の寄附金となった<ref>{{Cite web |date=2016-09-23 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2016/09/0923_02.php |title=2012年発売『〜感謝、そして夢〜新・熱いぜ!チケット』での「2016年度 クライマックスシリーズ・セ」ご観戦について |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2016-10-15 }}</ref>。2019年にレギュラーシーズンで2位の成績を収め、CSの主管権を確保したことを受けて、球団は権利を特別に復活させた上でチケット購入者50組100人を同年10月5日のCSファーストステージ初戦に招待することとなった<ref>{{Cite web |url=https://www.sanspo.com/article/20190930-WSGHSPF7Q5OIJND3LKSGKLH5II/ |title=DeNA、幻の約束が復活!!7年前のCS観戦権付チケット購入者を特別招待 |accessdate=2019年9月30日 |publisher=サンケイスポーツ(2019年9月30日作成)}}</ref>。 == キーワード == === 明大五人衆 === 1956年に[[明治大学]]から[[秋山登]]、[[土井淳]]、[[岩岡保宏]]、[[黒木弘重]]、[[沖山光利]]の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5名も入団するのは極めて珍しく、彼らは「'''明大五人衆'''」と呼ばれて注目を集めた。 === スーパーカートリオ === {{main|スーパーカートリオ}} === マシンガン打線 === {{main|マシンガン打線}} === ハマの大魔神 === {{main|ハマの大魔神}} === クアトロK === {{main|クアトロK}} === 横浜大洋銀行 === 1980年代、横浜大洋ホエールズに対し、本拠地の横浜を主な営業エリアとする[[横浜銀行]]や当時存在した[[太陽神戸銀行]](現在の[[三井住友銀行]])をもじった'''「横浜大洋銀行」'''という呼び名が付けられていた<ref>{{Cite news |title=中畑監督ハマギンのため8・8借金完済だ |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-06-20 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140620-1320640.html |accessdate=2015-10-11 }}</ref><ref name="Syuchousya_2007">『プロ野球70年から掘り起こす迷・珍言語録』 著:山口純一 出版元:朱鳥社 </ref>。これは当時長年にわたって低迷し、毎年のように他球団に勝利を配給し続けてきた様を、勝敗数や勝率を預金や融資になぞらえて揶揄したもので、この不名誉な呼び名はいつしか定着してしまった。特に巨人ファンが「貯金をするなら横浜大洋銀行」へという合言葉とともに当球団を煽るなどしていたが<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/yakyu-jin/yutaka-sudou/KFullNormal20070511141.html 16・ラストチャンス] (スポーツニッポン 2007年5月11日)</ref>、そのほかにも巨人以外の球団のファンが大洋や大洋ファンを嘲る際のみならず、大洋ファンも自嘲の念を込めて使い、特に連敗が込んだ時やテレビでの露出機会が多い巨人戦の対戦成績が著しく悪いシーズンにはマスメディアでも頻繁に使われた<ref group="注釈">巨人に連敗し続けたあるシーズンのこと。大洋(横浜)が久々に巨人に勝った夜には、『[[ニュースステーション]]』([[テレビ朝日]]系列)で放送されていた名物企画「プロ野球1分勝負」で同カードの結果を報じるVTRの最後に「今後の融資はお断りいたします」というテロップでオチを付けたほどだった。また、同番組では大洋が巨人に負けた場合、司会の久米宏がスポーツのコーナーを「CMの後は横浜大洋銀行です」と告知することも頻繁にあったという。</ref><ref name="Syuchousya_2007"/>。また、最近では、同じく相性の悪い阪神戦においても、この名称が使用されることがある<ref group="注釈">該当例とするなら、1985年、2003年、2008年、2014年のシーズンがあり、DeNAは阪神に大きく負け越していた。</ref>。一方で、その阪神とひっくるめて、セ・リーグで特に弱い球団として、「大洋神戸銀行」と揶揄することもあったという<ref name="Syuchousya_2007"/>。巨人戦で負けが続くと「**銀行」と揶揄する事例も見られる(例として2014年に当時の監督の名前から「中畑銀行」と呼んだ見出し<ref>{{Cite news |title=DeNAに負けなし 巨人が狙う“中畑銀行”から「貯金24」 |newspaper=[[日刊ゲンダイ]] |date=2014-04-23 |url=http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/149712 |accessdate=2017-10-21}}</ref>)。 1993年から球団名が横浜ベイスターズに改称されてからは「'''横浜銀行'''」と呼ばれるケースが多いものの<ref>[http://www.kanaloco.jp/article/73275/cms_id/87159 横浜DeNA:強力援軍で借金完済?横浜銀行がイベント協賛]{{リンク切れ|date=2015年10月}} - 2014年6月20日 神奈川新聞</ref>、実際には球団と銀行の間には直接的な関係はなかったが、2014年8月に行われる「YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014 第1弾」に横浜銀行が初めて協賛することとなった<ref>{{Cite web |date=2014-06-19 |url=http://www.baystars.co.jp/news/2014/06/0619_06.php |title=『YOKOHAMA STAR☆NIGHT 2014』第1弾情報 3年目の今年、地域に根差した横浜銀行がイベントパートナーに決定 |publisher=横浜DeNAベイスターズ |accessdate=2015-10-11 }}</ref>。詳細は[[横浜銀行#その他]]を参照のこと。 === 背番号19の呪い === {{See also|ジンクス#野球}} 横浜大洋ホエールズ時代の{{by|1991年}}に[[中山裕章]]が少女への強制わいせつ事件を起こし、球団を解雇されて以降、彼が着用していた背番号19は欠番とされていたが、大洋は1992年オフに球団名を「横浜ベイスターズ」に変更。[[1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で1位指名を受けた[[小桧山雅仁]]が「19」に関連する縁起の良いエピソードを複数有していたことや、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と表明したことから、19番は小桧山({{by|1993年}} - {{by|1998年}})に与えられた<ref name="スポニチ2007-12-18">{{Cite news|title=【12月18日】1992年(平4)横浜、最初のドラ1は小桧山、背番号はあの「19」|newspaper=[[スポーツニッポン|Sponichi Aneex]]|date=2007-12-18|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211157.html|publisher=スポーツニッポン新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080117003213/https://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211157.html|archivedate=2008年1月17日}}</ref>。しかし彼以降、[[戸叶尚]]({{by|1999年}} - {{by|2000年}})、[[杉本友]]({{by|2001年}} - {{by|2003年}})、[[染田賢作]]({{by|2005年}} - {{by|2008年}})と、背番号19を着用した投手たちが次々と期待外れに終わったことから、2007年12月には『[[スポーツニッポン]]』が「背番号19の呪い」と報じた<ref name="スポニチ2007-12-18"/>。しかし、[[藤江均]]([[2009年の野球|2009年]] - [[2014年の野球|2014年]])、[[山﨑康晃]] ([[2015年の野球|2015年]] - )がそのジンクスを払拭し、現在は死語となっている。 == 関連項目 == {{関連項目過多|date=2023年8月}} === 人物(架空人物を含む)関連 === * [[横浜55年会]] * [[大堀隆]] * [[池杉昭次郎]](かつての名物応援団長) * [[清岡千穂]](かつての応援歌作曲担当) * [[石橋貴明]]([[とんねるず]])(2005年 - 2006年頃まで球団のエグゼクティブ・アドバイザーを務めた) * [[みのもんた]](2007年、TBS内でのチーム応援団長) * [[萩本欽一]](2011年、萩本と球団の合同による「欽ちゃん!!横浜ベイスターズ応援プロジェクト」を展開) * [[クレイジーケンバンド]] * [[スタジアムDJ]] ** [[栗原治久]] ** [[ケチャップ (タレント)|ケチャップ]](2003年 - 2011年) ** [[南隼人]](2012年 - 2015年) ** [[ジョージ・カックル]](2016年) ** [[MC RYU]](2016年 - 2019年) ** DJ YUI(2017年 - 2019年) ** MC TEDDY(2019年 - 、イベント進行担当) ** DJ KENNY(2020年 - 、試合進行担当) * オフィシャルリポーター ** 長澤百代(2001年 - 2003年) ** [[大矢陽子]](2003年 - 2006年) ** [[吉岡さちこ]](2006年 - 2009年) ** [[芦崎愛]](2010年 - 2011年) * [[diana]](球団の公式チアリーディングチーム、[[TBSトライメディア]]が運営)<ref group="注釈">ディー・エヌ・エー買収後は不明</ref> === 漫画・アニメ・ドラマ・ゲーム関連 === 野球中継番組については後述。 ; 作品 * 『[[ササキ様に願いを]]』([[みずしな孝之]]):佐々木主浩を主人公とする、4[[4コマ漫画|コマ漫画]]。 * 『ポテン・ヒット・ガール』(丸顔めめ):ベイスターズ女子を題材とする、野球観戦漫画。 ; 登場人物 * [[左門豊作]] - 『[[巨人の星]]』([[梶原一騎]]・[[川崎のぼる]]) - 右翼手。右投右打。背番号99。1976年から1979年までの『新・巨人の星』では最終章で球団名が横浜大洋となり、[[大リーグボール]]右1号(蜃気楼魔球)を打った場所も横浜スタジアムであり、飛雄馬と初めて会った場所も横浜である。 * [[土門剛介]] - 『[[ドカベン]]』([[水島新司]]) - 投手。右投右打。背番号01。作中では『ドカベン プロ野球編』の1995年から2003年まで在籍した。 * [[野球狂の詩#他球団のライバル|海王神人]] - 『[[野球狂の詩]]』([[水島新司]]) - 外野手。右投右打、背番号0。 * [[H2の登場人物#主要人物|橘英雄]] - 『[[H2〜君といた日々|H2]]』([[あだち充]]) - 三塁手。右投右打。2005年のドラマ版では最終回で横浜ベイスターズにドラフト指名され、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]へ進んだ。ちなみにドラマ版の制作局は当時の親会社・[[TBS]]で、[[牛島和彦]]監督と[[山中正竹]]専務取締役が出演している。 * パウラ・ドード - アニメ『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』に登場する大洋ホエールズの選手。 * 天海 - 『ミラクルA』([[貝塚ひろし]]) * 柳生宗範 - 『[[黒い秘密兵器]]』([[一峰大二]]) - 内野手兼外野手。右投右打。背番号13。 * 不二立彦 - 『[[侍ジャイアンツ]]』([[梶原一騎]]・[[井上コオ]]) - 左打。背番号55。アニメ版には登場せず。 === 記録関連 === * [[1960年の日本シリーズ]] * [[1998年の日本シリーズ]] * [[2017年の日本シリーズ]] === 試合関連 === * [[横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧]] === 放送・新聞関連 === * [[プロ野球中継]] * [[放映権 (日本プロ野球)#横浜DeNAベイスターズ]] * [[TBSテレビ|TBS]]・[[BS-TBS]]・[[TBSラジオ]]・[[東通]]・[[TBSニュースバード]](2013年まで)・[[TBSチャンネル]](2014年 - ) ** [[ハマスタWAVE]](TBS経営時代のインターネット中継) ** [[ニコニコ生放送]](2012年以降、DeNA売却後のインターネット中継。映像はTBSから配信され、実況は独自) ** [[SAMURAI BASEBALL|S☆1 BASEBALL]](2008年から2013年までは[[TBSニュースバード]]で、2014年からは[[TBSチャンネル]]にて完全放送中。TBS地上波で放送がない場合はtvkで放送される場合もある。当初tvk向けは外部所属のフリーアナウンサーの実況による同時放送だったが、2011年から独自実況になり、2012年以降はテロップも独自に) ** 教えて!EA(2005年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。同年就任の[[牛島和彦]]監督に同学年の高校球児として憧れていた[[石橋貴明]]([[とんねるず]])がエグゼクティブ・アドバイザー(EA)を務めた。) ** お願い!EA(2006年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の17時25分にTBS地上波で放送されていた。) ** [http://www.tbs.co.jp/sports/baseball/moveon/ move on ベイスターズ](2008年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝にTBS地上波で放送されていた。) ** [[Love BayStars]](2009年 - 2011年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝にTBS地上波で放送されていた) ** [[Oh!ベイスターズ]](2012年 - 2020年 シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週日曜日の早朝(2012年)、金曜日の深夜(2013年以降)にTBS地上波で放送されていた。なお2013年以降タイトルには西暦が入る。) ** [[Oh!ベイスターズ|With☆ベイスターズ]](2021年 - シーズン(4月上旬 - 9月下旬)中にのみ毎週金曜日の深夜にTBS地上波で放送。タイトルには西暦が入る。) ** [[TBSラジオ エキサイトベースボール]](1979年以降主催ゲームを中継できなかったが、1999年 - 2001年は、ヤクルトと巨人が対戦している際の裏カードのみ対広島戦を[[中国放送|RCC]]に、対中日戦を[[CBCラジオ|CBC]]に、対阪神戦を[[朝日放送ラジオ|ABC]]・[[MBSラジオ|MBS]]にネットしないという条件付で中継可能となり〔前記各局にはCBCも含めて[[ニッポン放送|LF]]が[[裏送り]]したが、RCCの土・日曜ナイターは[[文化放送|QR]]の場合もあり〕、2002年から裏送りも含め再度完全に可能となった。また、2002年は日曜デーゲームを中継し、「ベースボールベイスターズ」のタイトルで放送。2004年から2006年まではナイターでも「ベイスターマン」と称したチーム担当レポーターを配していた。プロ野球中継を廃止した2018以降は、DeNA主催試合に限りビジターチームや地方開催時の開催地の地元局への裏送りのみ継続) ** [[アッコにおまかせ!]](2002年 - 2006年 「横浜ベイスターズ応援プロジェクト」コーナー) ** [[MLB主義]](2004年 - 2006年「ベイスターズ主義」コーナー) ** [[みのもんたの朝ズバッ!]](2009年 - 2013年 毎週火曜に「週刊みのVP」を選出) ** [[サンデージャポン]](2017年 - 「サンベイジャポン」コーナー(関東ローカルで番組終了直後に隔週で放送)) * [[ニッポン放送]] ** [[ニッポン放送ショウアップナイター]](1978年に横浜大洋主催試合の独占放送権を取得し、2002年の筆頭株主交代までヤクルト主催試合と共に中継の目玉であった)。現在も、対巨人戦のNRN全国中継を中心に試合を放送することがある。 ** [[ヒーローインタビュー (映画)|ヒーローインタビュー]](映画) * [[文化放送]] ** [[文化放送ホームランナイター]](土曜に放送されるが、主催試合は対巨人戦を除き自社で放送されることは少なく、系列局向けの裏送り(主に2001年までと2012年の対広島戦のRCC、2018年以降の対阪神戦のABC)や技術協力の場合が多かった。2011年以降は巨人主催試合の週末デーゲーム増加により、年数試合程度が自社でも放送されていたが、2018年で自社でのレギュラー放送を終了し、2019年からはNRN系列局への裏送り配信と自社での日本シリーズの放送のみ継続) ** [[文化放送ライオンズナイター]](平日の交流戦・横浜DeNA対[[埼玉西武ライオンズ|西武]]戦で中継) * [[J SPORTS]] ** [[J SPORTS STADIUM]](1998年から2007年まで放送。[[ジュピターテレコム]](J:COM)・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]などが主要株主(2005年[[スポーツ・アイ ESPN]]合併後はTBSもわずかながら出資)だが、ベイスターズがTBS傘下に入ってからも引き続き放送された。TBS傘下入り後はTBSのアナウンサー・解説者の出演が多かった他、TBSのアナウンサーと大洋・横浜OBのフジテレビ・tvkの解説者の組み合わせとなる場合もあった) * [[神奈川新聞]] * [[テレビ神奈川|tvk]] ** [[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE]] ** [[ベイスターズくらぶ]] * [[イッツ・コミュニケーションズ]]・[[横浜ケーブルビジョン]]・[[YOUテレビ]]・ジュピターテレコム(J:COM) ** move on ベイスターズ!(2007年 イッツ・コミュニケーションズと横浜ケーブルビジョンで、横浜スタジアムでのナイター試合開始直前の平日17:30 - 17:45に生放送された番組) ** [http://www.itscom.net/ch/program/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%81%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA 今日から!ベイスターズ](地元少年野球チームが出演してベイスターズ選手との交流を描く) * [[月刊ベイスターズ]] * 『[[ダグアウトの向こう|ダグアウトの向こう -今を生きるということ。]]』(プロ野球球団として、初の試みである球団公式ドキュメンタリー映画であり、2012年から毎年公開している(2015年、2020年を除く)。ラミレス監督時代には『'''FOR REAL'''』、三浦監督時代には『'''BBB(BAY BLUE BLUES)'''』に改題され続編が制作されている) === 本拠地の所在地である横浜市及び神奈川県関連 === * [[横浜熱闘倶楽部]] ** [[横浜F・マリノス]] ** [[横浜FC]] ** [[横浜ビー・コルセアーズ]] * [[ベイスターズ・ベースボールアカデミー]] * [[日産自動車]] * [[神奈川大学]] * [[産業能率大学]] * [[横浜商工会議所#ベイスターズ横浜会|ベイスターズ横浜会]] * [[シミズオクト|横浜シミズ]](主催ゲームで、球場と折半で運営業務・施設管理を委託している) * [[京浜急行電鉄]](大々的に宣伝している) * [[横浜フリューゲルス]] * [[川崎ブレイブサンダース]](2018-19シーズンよりDeNAが親会社) * [[SC相模原]](2021年よりDeNAが経営参画) * [[神奈川県を本拠地にするスポーツチーム]] * [[横浜市を本拠地にするスポーツチーム]] === 応援団関連 === * [[横浜DeNAベイスターズの応援団#全国星覇会|全国星覇会]] * [[横浜DeNAベイスターズの応援団#横浜ベイスターズを愛する会|横浜ベイスターズを愛する会]](横浜・北海道・関西・九州) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Yokohama DeNA BayStars}} * {{Official website|https://www.baystars.co.jp/}} * {{Twitter|ydb_yokohama}} * {{Facebook|baystars.official}} * {{LINE公式アカウント|denabaystars}} * {{YouTube|user=BAYSTARSch}} * 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幸徳秋水
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、旧字体: 幸德 秋水、1871年11月5日〈明治4年9月23日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本のジャーナリスト、思想家、共産主義者、社会主義者、無政府主義者(アナキスト)。 本名は幸徳 伝次郎(こうとく でんじろう、旧字体: 幸德 傳次󠄁郞)で、一般的に知られている「秋水」の名は師事していた中江兆民から与えられたもの。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。 1871年11月5日(旧暦明治4年9月23日)に高知県幡多郡中村町(現:高知県四万十市中村京町)で生まれる。実家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で陰陽師の家だった。なお、のちに妻となる師岡千代子の父親は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 9歳で儒学者・木戸明の「修明舎」へ入り、四書五経を学ぶ。11歳で旧制中村中学校へ進学するも台風の影響で校舎が全壊し、再建されないまま退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)に上京し、1888年(明治21年)11月から同郷の中江兆民の自宅に学僕として住み込み、中江の門弟となる。この時に中江から「秋水」の号を授かる。秋水は新聞記者を目指して板垣退助が社長を務める「自由新聞」で勤務し、小泉策太郎と親友になる。同年12月に公布・施工された保安条例によって東京を追われた兆民は、大阪へ移ると角藤定憲と会い、芝居の公演の企画を提唱した。その企画を受け入れた角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、これがいわゆる「壮士芝居」の先駆けとなった。その時の演目の一つである「勤王美(義)談 上野曙」の執筆は、兆民が秋水に依頼したと言われている。 秋水は1898年(明治31年)2月に中央新聞を去り、1892年(明治25年)に黒岩涙香が創刊した「萬朝報」の記者となる。萬朝報は日本におけるゴシップ報道の先駆けとして知られ、ひたすら権力者のスキャンダルを追及し、蓄妾実例といった人間のプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。1899年(明治32年)末には東京で発行される新聞の中で発行部数第1位に達し、その数は最大で30万部にもなった。また、一時期は淡紅色の紙を用いたことから「赤新聞」とも呼ばれた。秋水は萬朝報の記者として勤務しながら国民英学会で学び、1900年(明治33年)8月30日に旧・自由党系の政党である憲政党が以前からの政敵である藩閥の伊藤博文と共に「立憲政友会」を結成したことを嘆き、萬朝報の同日付けの記事に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を掲載した。また、同年6月から発生した義和団の乱(北清事変)制圧の際に日本軍が清国の馬蹄銀を横領した容疑を萬朝報で追及し、陸軍中将・真鍋斌を休職に追い込んだ(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山縣有朋から恨みを買い、これがのちの大逆事件へ繋がったとする説がある。一方、同年5月には皇太子が結婚したが、これを祝福する社説を無署名であるものの萬朝報に記載した。 秋水はその後、1901年(明治34年)5月20日に結成された社会民主党に創立者として参画した。しかし活動が即日禁止され、6月3日に組織変更として社会平民党への結社を届けるも、再び即日禁止される。同年には「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行して帝国主義を批判する。これは当時では国際的に見ても先進的なもので、同年12月10日に田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した際の直訴状はまず秋水が書き、田中が手を加えたものである。ただしこの直訴状については、田中が直訴状の執筆を依頼するものの依頼された者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは断らずに書いたとも言われている。同年に「秋水」の号を授かった兆民が亡くなり、1902年(明治35年)5月28日に兆民を追悼する「兆民先生」を発表した。 日露戦争が1904年(明治37年)に勃発するが、その前年には戦争に反対する論調の新聞も存在する中で世論の空気はロシア帝国との開戦へと押されていった。秋水が記者を務める萬朝報も社論を非戦論から開戦論へ転換させたため、10月12日に堺利彦・内村鑑三・石川三四郎と共に発行元の萬朝報社を退職する。同年11月15日には堺と共に非戦論を訴え続けるために「平民社」を開業し、週刊「平民新聞」を1905年(明治38年)1月29日まで発行した。この頃、萬朝報で同僚だった斎藤緑雨が病に倒れて貧窮したため、平民新聞に緑雨のために「もゞはがき」という欄を設け、原稿料を得ることが出来るようにした。緑雨はその送金が待ちきれず自ら平民社へ受け取りに来ることも多々あり、秋水はその度に小遣い銭を加えて渡していたという。 1904年(明治37年)には与露国社会党書を発表し、堺と共に「共産党宣言」を翻訳して発表するが即日発禁され、今村恭太郎裁判官により罰金刑となる。そして1905年(明治38年)に新聞紙条例でついに投獄される。獄中でピョートル・クロポトキンを知り、秋水はこの頃から無政府主義(アナキスト)へ傾倒していく。出獄後の同年11月14日に渡米し、サンフランシスコでアメリカへ亡命していたロシア人アナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交流し、アナルコ・サンディカリスムの影響を受けた。そのまま滞在していた最中の1906年(明治39年)4月18日にはサンフランシスコ地震に遭遇し、その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る。地震の影響で同年6月23日には帰国して歓迎会が開催されたが、その席で秋水はゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱する。 その後、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもとで結党が認められた日本社会党において、「国法ノ範囲内ニ於イテ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使に対して党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜・田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。秋水はのちに社会革命党を岩佐作太郎と共に結成し、1907年(明治40年)2月5日付けの平民新聞に「余が思想の変化-普通選挙に就て」を発表して直接行動を主張した。その結果、1909年(明治42年)に「自由思想」を発刊するも即日発売禁止処分を受け、さらには赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガ(須賀子)と不倫関係を結び、同年3月に妻・千代子と離婚した。スガ自身も事件に関与したとして過酷な取り調べを受けたが、当時は肺病を患っており乱闘に加わらなかったため、釈放されるも勤務先の「毎日電報」は解雇処分となった。秋水がスガと出会ったきっかけは、「自由思想」の創刊をスガと共に行ったことでスガがアナキズムに共鳴し、秋水からの経済的援助を受けたこと、さらに秋水が開業した平民社でスガが肺病の治療も兼ねて生活していたものが次第に同棲へ発展した。しかしこの関係はすぐに発覚し、秋水に対立する各新聞・雑誌がここぞとばかりに「重婚」「スキャンダル」と大きく報じたことで2人の関係は同志の間でも評判が悪化、秋水の周りから人が遠ざかっていく原因となったとも言われる。順調だった秋水の人生にも蹉跌の色が見え始めていた。 1910年(明治43年)6月1日、秋水は神奈川県湯河原の「天野屋」へ来ていた。自由新聞での勤務時代に親友となった小泉に勧められての訪問で、内縁の妻となったスガの湯治を兼ねての宿泊中だった。そこへ警察が現れ、幸徳事件(大逆事件)によって両者は逮捕された。獄中での秋水は同年11月21日に、神格化された存在としてのイエス・キリストを君主のメタファーとして君主を排する主張を行った「基督抹殺論」を脱稿する。その内容は神智学協会のアニー・ベサントのキリスト教論に合致する部分が多く、秋水におけるベサントの影響が指摘されている。結果的にはこれが秋水の遺稿となった。 1911年(明治44年)1月18日、秋水は大審院において「大逆罪」で有罪、死刑判決を受けた。当時の大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められておらず、大逆罪を認定されれば問答無用で死刑を言い渡される時代だった。そして同年1月24日、宮下太吉・新村忠雄ら他の死刑囚11名と共に処刑された。39歳没。内縁の妻であるスガも翌日に執行、刑死した。 こうした当局の対応については国内外の知識人層から批判があった。当局は社会主義者の一掃を図ることを目的としており、この事件の発覚をきっかけに事件への関与が薄く、大逆罪に該当しない秋水らに対して警察や政府によるフレームアップ(でっち上げ)で処刑した。刑死した12名のうち、実際に明治天皇の暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があったのは内縁の妻・スガと新村、宮下、さらに同時に死刑が執行された古河力作の4名と見られたが、前述のように事件当時、首謀者の1人に名指しされたスガと同棲関係にあった秋水が暗殺計画の存在を知っていた可能性は無いとは言えないが、そもそもスガは肺病で療養中で、彼女が首謀者だったという検察の主張にはかなり無理があった。 なお、警察に逮捕された秋水のもとには元妻である千代子が面会に訪れていたが、秋水は千代子が持参した手弁当には全く手を付けなかったという。しかし、秋水の墓は高知県四万十市の正福寺で千代子の墓と隣接している。碑銘は親友だった小泉の手によるものだが、正福寺の所在地が高知地方検察庁中村支部・高知地方裁判所中村支部の裏手にあるため、戦前は墓碑に鉄格子がはまっている状態だった。 秋水らの死刑を阻止するために、徳富蘆花は自身の兄である徳富蘇峰を通じて内閣総理大臣・桂太郎へ嘆願したが果たせず、秋水らは1911年(明治44年)1月に処刑された。同年2月1日に、秋水に心酔していた第一高等学校の弁論部の河上丈太郎・森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演したが、校長である新渡戸稲造らの譴責問題に発展し、校内で騒動となった。 秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子ではないか」と発言したことが外部に漏れ、南北朝正閏論が起こった。これに対し、帝国議会衆議院において国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、議会は秋水の死後である2月4日に、南朝を正統とする決議を出した。この決議によって、教科書執筆の責任者である喜田貞吉が休職の処分を受け、これ以降の国定教科書では「大日本史」を根拠に三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられた。 1912年(明治45年)6月には上杉慎吉が天皇主権説を発表し、美濃部達吉が天皇機関説を主張する。当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のちに上杉の天皇主権説が優勢となる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋は、のちにロシア革命が勃発してから極秘に反共主義を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。また、秋水の遺稿となった「基督抹殺論」は君主制廃止の観点から書かれたものだが、神社神道を国教としていた政府は反キリスト教の観点から刊行を認めた。秋水の「基督抹殺論」は第二次世界大戦の時期までキリスト教に否定的な右翼や官僚、軍人、神職などに広く読まれたが、昭和時代中期に入るとキリスト教への圧迫のために悪用されてしまった。 大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与えた。石川啄木は事件前夜にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を独自に入手・研究し、「時代閉塞の現状」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は、1911年(明治44年)3月に戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。 秋水の新たな資料が発見された1960年代以降、大量の研究書が発表されている。その結果、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(でっち上げ)の典型例であることが確実となった。批評家の柄谷行人や浅田彰・絓秀実・鴻英良らは、大逆事件を日本の帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の福田和也が愛国者として秋水を評価するものがある。また、秋水の代表作である「帝国主義」はジョン・アトキンソン・ホブソンやウラジーミル・レーニンらの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。2008年(平成20年)にはクリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によってフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle"(Paris, CNRS editions)が行われるなど、近年は国外でも再検討されている。 藤田東湖や会沢正志斎が中枢となった水戸学が「忠君愛国」を提唱し、「攘夷」「尊王」という考え方を打ち出した。水戸学の「将軍より天皇の方が上位である」という思想戦によって明治維新が成し遂げられたが、明治維新の元勲たちからすれば水戸学を否定することは出来ない。その水戸学が教えるのが「南朝正統」説で、後醍醐天皇の南朝こそ正統の天皇であり、北朝の天皇は偽物であるという指摘だった。しかし、明治政府が担いでいる明治天皇は明らかに北朝の子孫である。水戸学が主張するように「南朝の子孫が真の正統である」とすると秋水の主張の通り、明治天皇は偽物ではないかという議論が成立する。 2000年(平成12年)、秋水の出生地である中村市議会は「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、旧字体: 幸德 秋水、1871年11月5日〈明治4年9月23日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本のジャーナリスト、思想家、共産主義者、社会主義者、無政府主義者(アナキスト)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本名は幸徳 伝次郎(こうとく でんじろう、旧字体: 幸德 傳次󠄁郞)で、一般的に知られている「秋水」の名は師事していた中江兆民から与えられたもの。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1871年11月5日(旧暦明治4年9月23日)に高知県幡多郡中村町(現:高知県四万十市中村京町)で生まれる。実家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で陰陽師の家だった。なお、のちに妻となる師岡千代子の父親は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "9歳で儒学者・木戸明の「修明舎」へ入り、四書五経を学ぶ。11歳で旧制中村中学校へ進学するも台風の影響で校舎が全壊し、再建されないまま退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)に上京し、1888年(明治21年)11月から同郷の中江兆民の自宅に学僕として住み込み、中江の門弟となる。この時に中江から「秋水」の号を授かる。秋水は新聞記者を目指して板垣退助が社長を務める「自由新聞」で勤務し、小泉策太郎と親友になる。同年12月に公布・施工された保安条例によって東京を追われた兆民は、大阪へ移ると角藤定憲と会い、芝居の公演の企画を提唱した。その企画を受け入れた角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、これがいわゆる「壮士芝居」の先駆けとなった。その時の演目の一つである「勤王美(義)談 上野曙」の執筆は、兆民が秋水に依頼したと言われている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "秋水は1898年(明治31年)2月に中央新聞を去り、1892年(明治25年)に黒岩涙香が創刊した「萬朝報」の記者となる。萬朝報は日本におけるゴシップ報道の先駆けとして知られ、ひたすら権力者のスキャンダルを追及し、蓄妾実例といった人間のプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。1899年(明治32年)末には東京で発行される新聞の中で発行部数第1位に達し、その数は最大で30万部にもなった。また、一時期は淡紅色の紙を用いたことから「赤新聞」とも呼ばれた。秋水は萬朝報の記者として勤務しながら国民英学会で学び、1900年(明治33年)8月30日に旧・自由党系の政党である憲政党が以前からの政敵である藩閥の伊藤博文と共に「立憲政友会」を結成したことを嘆き、萬朝報の同日付けの記事に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を掲載した。また、同年6月から発生した義和団の乱(北清事変)制圧の際に日本軍が清国の馬蹄銀を横領した容疑を萬朝報で追及し、陸軍中将・真鍋斌を休職に追い込んだ(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山縣有朋から恨みを買い、これがのちの大逆事件へ繋がったとする説がある。一方、同年5月には皇太子が結婚したが、これを祝福する社説を無署名であるものの萬朝報に記載した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "秋水はその後、1901年(明治34年)5月20日に結成された社会民主党に創立者として参画した。しかし活動が即日禁止され、6月3日に組織変更として社会平民党への結社を届けるも、再び即日禁止される。同年には「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行して帝国主義を批判する。これは当時では国際的に見ても先進的なもので、同年12月10日に田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した際の直訴状はまず秋水が書き、田中が手を加えたものである。ただしこの直訴状については、田中が直訴状の執筆を依頼するものの依頼された者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは断らずに書いたとも言われている。同年に「秋水」の号を授かった兆民が亡くなり、1902年(明治35年)5月28日に兆民を追悼する「兆民先生」を発表した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "日露戦争が1904年(明治37年)に勃発するが、その前年には戦争に反対する論調の新聞も存在する中で世論の空気はロシア帝国との開戦へと押されていった。秋水が記者を務める萬朝報も社論を非戦論から開戦論へ転換させたため、10月12日に堺利彦・内村鑑三・石川三四郎と共に発行元の萬朝報社を退職する。同年11月15日には堺と共に非戦論を訴え続けるために「平民社」を開業し、週刊「平民新聞」を1905年(明治38年)1月29日まで発行した。この頃、萬朝報で同僚だった斎藤緑雨が病に倒れて貧窮したため、平民新聞に緑雨のために「もゞはがき」という欄を設け、原稿料を得ることが出来るようにした。緑雨はその送金が待ちきれず自ら平民社へ受け取りに来ることも多々あり、秋水はその度に小遣い銭を加えて渡していたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": 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幸徳 秋水は、日本のジャーナリスト、思想家、共産主義者、社会主義者、無政府主義者(アナキスト)。 本名は幸徳 伝次郎で、一般的に知られている「秋水」の名は師事していた中江兆民から与えられたもの。幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人である。
{{Infobox 革命家 |名前 ={{ruby|幸徳|こうとく}} {{ruby|伝次郎|でんじろう}} <br><small>{{kyujitai|'''幸德 傳次&#xe0101;郞'''}}</small> |画像 = [[File:Modern-History-of-Women-20.png|200px]] |説明 = |通称 = 幸徳 秋水 |生年 = [[1871年]][[11月5日]] |生地 = {{JPN}} [[高知県]][[幡多郡]][[中村町 (高知県)|中村町]]<br/>(現:高知県[[四万十市]]中村京町) |没年 = {{死亡年月日と没年齢|1871|11|5|1911|1|24}} |没地 = {{JPN}} 東京府東京市牛込区市谷富久町<br/>(現:[[東京都]][[新宿区]]富久町)<br/>[[東京監獄]] |思想 = [[社会主義]]、[[アナキズム]] |活動 = [[幸徳事件|大逆事件]] |組織 = |藩 = |受賞 = |裁判 = [[死刑]] |投獄 = |刑場 = 東京監獄(市ヶ谷刑務所) |母校 = [[国民英学会]] |信教 = |影響を受けたもの = [[中江兆民]]<br/>[[ピョートル・クロポトキン]] |影響を与えたもの = |記念碑 = |墓 = [[正福寺 (四万十市)|正福寺]]([[高知県]][[四万十市]]) }} {{wikisource|作者:幸徳秋水|幸徳秋水関連文書}} {{社会主義}} {{アナキズム}} '''幸徳 秋水'''(こうとく しゅうすい、{{旧字体|'''幸德 秋水'''}}、[[1871年]][[11月5日]]<ref name=meijinp>{{Cite|和書|chapter=幸徳傅次郎等無政府主義者の大逆事件 = 判決下る 大審院の特別裁判◇二十四名死刑〔一・一九東朝〕|pages=359-364|title=新聞集成明治編年史|volume=14|publisher=林泉社|id={{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|1920445/202}}|editor=新聞集成明治編年史編纂会|date=1940-06-28|edition=3}}</ref>〈[[明治]]4年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]〉 - [[1911年]]〈明治44年〉[[1月24日]])は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]、[[思想家]]、[[共産主義|共産主義者]]、[[社会主義|社会主義者]]、[[アナキズム|無政府主義者(アナキスト)]]。 本名は'''幸徳 伝次郎'''(こうとく でんじろう、{{旧字体|'''幸德 傳次&#xe0101;郞'''}})で、一般的に知られている「秋水」の名は師事していた[[中江兆民]]から与えられたもの。[[幸徳事件]]([[大逆事件]])で[[処刑]]された12名の1人である。 == 経歴 == === 中江兆民の門弟として === [[1871年]][[11月5日]](旧暦[[明治]]4年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]])に[[高知県]][[幡多郡]][[中村町 (高知県)|中村町]](現:高知県[[四万十市]]中村京町)で生まれる。実家は[[酒造]]業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で[[陰陽師]]の家だった。なお、のちに妻となる[[師岡千代子]]の父親は[[幕末]]の[[尊王攘夷運動]]で活躍し、[[足利三代木像梟首事件]]の[[首謀者]]とされている[[国学者]]の[[師岡正胤]]である。 9歳で[[儒学|儒学者]]・木戸明の「修明舎」へ入り、[[四書五経]]を学ぶ。11歳で[[高知県立中村中学校・高等学校|旧制中村中学校]]へ進学するも[[台風]]の影響で校舎が全壊し、再建されないまま退学を余儀なくされた。[[1887年]](明治20年)に上京し、[[1888年]](明治21年)11月から同郷の[[中江兆民]]の自宅に学僕として住み込み、中江の門弟となる。この時に中江から「秋水」の号を授かる。秋水は[[新聞記者]]を目指して[[板垣退助]]が社長を務める「[[自由新聞]]」で勤務し、[[小泉策太郎]]と親友になる。同年12月に公布・施行された[[保安条例]]によって東京を追われた兆民は、[[大阪市|大阪]]へ移ると[[角藤定憲]]と会い、芝居の公演の企画を提唱した。その企画を受け入れた角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、これがいわゆる「壮士芝居」の先駆けとなった。その時の演目の一つである「勤王美(義)談 上野曙」の執筆は、兆民が秋水に依頼したと言われている<ref>[[松本克平 (俳優)|松本克平]]『日本社会主義演劇史 明治大正篇』([[筑摩書房]],1975)</ref>。 === ゴシップ紙の記者として === 秋水は[[1898年]](明治31年)2月に中央新聞を去り、[[1892年]](明治25年)に[[黒岩涙香]]が創刊した「[[萬朝報]]」の記者となる。萬朝報は日本における[[ゴシップ]]報道の先駆けとして知られ、ひたすら権力者の[[不祥事|スキャンダル]]を追及し、蓄妾実例といった人間の[[プライバシー]]を暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。[[1899年]](明治32年)末には東京で発行される新聞の中で発行部数第1位に達し、その数は最大で30万部にもなった。また、一時期は淡紅色の紙を用いたことから「赤新聞」とも呼ばれた。秋水は萬朝報の記者として勤務しながら[[国民英学会]]で学び、[[1900年]](明治33年)8月30日に旧・[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]系の政党である[[憲政党]]が以前からの政敵である藩閥の[[伊藤博文]]と共に「[[立憲政友会]]」を結成したことを嘆き、萬朝報の同日付けの記事に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を掲載した。また、同年6月から発生した[[義和団の乱]](北清事変)制圧の際に日本軍が[[清国]]の[[銀錠|馬蹄銀]]を横領した容疑を萬朝報で追及し、[[陸軍]][[中将]]・[[真鍋斌]]を休職に追い込んだ(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や[[山縣有朋]]から恨みを買い、これがのちの[[大逆事件]]へ繋がったとする説がある<ref>[[小林一美]]『義和団戦争と明治国家』汲古書院、1986、ISBN 4762923346</ref>。一方、同年5月には[[大正天皇|皇太子]]が結婚したが、これを祝福する社説を無署名であるものの萬朝報に記載した<ref>[[原武史]]『大正天皇』53頁。朝日選書663、[[朝日新聞社]]、2000年</ref>。 秋水はその後、[[1901年]](明治34年)5月20日に結成された[[社会民主党 (日本 1901年)|社会民主党]]に創立者として参画した。しかし活動が即日禁止され、6月3日に組織変更として社会平民党への結社を届けるも、再び即日禁止される。同年には「[https://www.sankei.com/article/20181008-2RSY64PBVRJ23D7425SYEBIKB4/ 廿世紀之怪物帝国主義]」を刊行して[[帝国主義]]を批判する。これは当時では国際的に見ても先進的なもので、同年12月10日に[[田中正造]]が[[足尾銅山鉱毒事件]]について[[明治天皇]]に直訴した際の直訴状はまず秋水が書き、田中が手を加えたものである。ただしこの直訴状については、田中が直訴状の執筆を依頼するものの依頼された者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは断らずに書いたとも言われている<ref>[http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/essay/tanakasyozo.html 足尾鉱毒明治天皇直訴文]</ref>。同年に「秋水」の号を授かった兆民が亡くなり、[[1902年]](明治35年)5月28日に兆民を追悼する「兆民先生」を発表した。 === 共産党宣言から渡米、無政府主義へ === [[File:Toshihiko-Sakai-2.jpg|thumb|260px|[[平民社]]の社屋。左隅で扇子を持っているのが幸徳秋水。中央で紋付を着てステッキを持っているのが[[堺利彦]](1904年8月撮影)。]] [[File:Modern-History-of-Women-19.png|thumb|260px|1909年に発刊した「自由思想」第1号]] [[日露戦争]]が[[1904年]](明治37年)に勃発するが、その[[1903年|前年]]には戦争に反対する論調の新聞も存在する中で世論の空気は[[ロシア帝国]]との開戦へと押されていった。秋水が記者を務める[[萬朝報]]も社論を[[非戦論]]から開戦論へ転換させたため、[[10月12日]]に[[堺利彦]]・[[内村鑑三]]・[[石川三四郎]]と共に発行元の萬朝報社を退職する<ref>[[坂野潤治]]・[[田原総一朗]]『大日本帝国の民主主義』[[小学館]],2006年,139頁</ref>。同年11月15日には堺と共に非戦論を訴え続けるために「[[平民社]]」を開業し、週刊「[[平民新聞]]」を[[1905年]](明治38年)1月29日まで発行した。この頃、萬朝報で同僚だった[[斎藤緑雨]]が病に倒れて貧窮したため、平民新聞に緑雨のために「もゞはがき」という欄を設け、原稿料を得ることが出来るようにした<ref name="東洋堂">師岡千代子 「夫・幸徳秋水の思い出」1946年東洋堂。</ref>。緑雨はその送金が待ちきれず自ら平民社へ受け取りに来ることも多々あり、秋水はその度に小遣い銭を加えて渡していたという<ref name="東洋堂" />。 [[1904年]](明治37年)には与露国社会党書を発表し、堺と共に「[[共産党宣言]]」を翻訳して発表するが即日発禁され、[[今村恭太郎]]裁判官により罰金刑となる<ref>[http://jshet.net/docs/conference/75th/tamaoka.pdf 玉岡敦(東北大学・院)『『共産党宣言』邦訳史 』]143頁、経済学史学会第75回大会、2011年</ref>。そして[[1905年]](明治38年)に[[新聞紙条例]]でついに投獄される。獄中で[[ピョートル・クロポトキン]]を知り、秋水はこの頃から[[無政府主義|無政府主義(アナキスト)]]へ傾倒していく。出獄後の同年11月14日に渡米し、[[サンフランシスコ]]でアメリカへ亡命していた[[ロシア]]人[[アナキスト]]のフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交流し、[[アナルコ・サンディカリスム]]の影響を受けた。そのまま滞在していた最中の[[1906年]](明治39年)4月18日には[[サンフランシスコ地震]]に遭遇し、その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る<ref>4月24日付で雑誌『光』へ秋水が寄せた一文より。</ref>。地震の影響で同年6月23日には帰国して歓迎会が開催されたが、その席で秋水は[[ゼネラル・ストライキ]]による直接行動論を提唱する。 その後、1月に成立した[[第1次西園寺内閣]]の融和政策のもとで結党が認められた[[日本社会党 (1906)|日本社会党]]において、「国法ノ範囲内ニ於イテ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使<ref>秋水は、[[1906年]](明治39年)6月28日に東京・神田の錦輝館で行われた日本社会党演説会で、議会主義か直接行動かの問題を提示していた。(幸徳秋水研究 糸屋寿雄)</ref>に対して党内は大きく揺れることになり、労働者による[[普通選挙]]運動を主張する[[片山潜]]・[[田添鉄二]]らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。秋水はのちに[[社会革命党]]を[[岩佐作太郎]]と共に結成し、[[1907年]](明治40年)2月5日付けの平民新聞に「余が思想の変化-普通選挙に就て」を発表して直接行動を主張した。その結果、[[1909年]](明治42年)に「自由思想」を発刊するも即日発売禁止処分を受け、さらには[[赤旗事件]]で入獄していた[[荒畑寒村]]の妻・[[管野スガ]](須賀子)と[[不倫]]関係を結び、同年3月に妻・千代子と[[離婚]]した<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/581-09.pdf|title=近代日本における社会運動と高知県|accessdate=2018-10-03|author=梅田俊英|format=PDF|publisher=}}</ref>。スガ自身も事件に関与したとして過酷な取り調べを受けたが、当時は肺病を患っており乱闘に加わらなかったため、釈放されるも勤務先の「毎日電報」は解雇処分となった。秋水がスガと出会ったきっかけは、「自由思想」の創刊をスガと共に行ったことでスガが[[アナキズム]]に共鳴し、秋水からの経済的援助を受けたこと、さらに秋水が開業した平民社でスガが肺病の治療も兼ねて生活していたものが次第に同棲へ発展した。しかしこの関係はすぐに発覚し、秋水に対立する各新聞・雑誌がここぞとばかりに「[[重婚]]」「スキャンダル」と大きく報じたことで2人の関係は同志の間でも評判が悪化、秋水の周りから人が遠ざかっていく原因となったとも言われる。順調だった秋水の人生にも蹉跌の色が見え始めていた。 === 大逆事件~刑死 === [[1910年]](明治43年)6月1日、秋水は[[神奈川県]][[湯河原]]の「天野屋」へ来ていた。自由新聞での勤務時代に親友となった小泉に勧められての訪問で、内縁の妻となったスガの[[湯治]]を兼ねての宿泊中だった。そこへ警察が現れ、[[幸徳事件]]([[大逆事件]])によって両者は[[逮捕]]された。獄中での秋水は同年11月21日に、神格化された存在としての[[イエス・キリスト]]を君主の[[メタファー]]として君主を排する主張を行った「基督抹殺論」を脱稿する。その内容は[[神智学協会]]の[[アニー・ベサント]]の[[キリスト教]]論に合致する部分が多く、秋水におけるベサントの影響が指摘されている。結果的にはこれが秋水の遺稿となった<ref>小森健太郎 [https://ci.nii.ac.jp/naid/120005736095 幸徳秋水『基督抹殺論』とアニー・ベサントの〈世界教師〉論] 文学・芸術・文化 : 近畿大学文芸学部論集27(1), 116-110, 2015-09 近畿大学文芸学部</ref>。 [[1911年]](明治44年)1月18日、秋水は[[大審院]]において「[[大逆罪]]」で有罪、死刑判決を受けた<ref name=meijinp/>。当時の大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められておらず、大逆罪を認定されれば問答無用で死刑を言い渡される時代だった。そして同年1月24日、[[宮下太吉]]・[[新村忠雄]]ら他の死刑囚11名と共に処刑された<ref>『官報』第8277号、明治44年1月26日、p.493. {{国立国会図書館デジタルコレクション|format=NDLJP|2951631/5}}</ref>。{{没年齢|1871|11|5|1911|1|24}}。内縁の妻であるスガも翌日に執行、刑死した。 こうした当局の対応については国内外の知識人層から批判があった。当局は[[社会主義者]]の一掃を図ることを目的としており、この事件の発覚をきっかけに事件への関与が薄く、[[大逆罪]]に該当しない秋水らに対して[[捏造|警察や政府によるフレームアップ(でっち上げ)]]で処刑した。刑死した12名のうち、実際に[[明治天皇]]の暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があったのは内縁の妻・スガと新村、宮下、さらに同時に死刑が執行された[[古河力作]]の4名と見られたが、前述のように事件当時、首謀者の1人に名指しされたスガと同棲関係にあった秋水が暗殺計画の存在を知っていた可能性は無いとは言えないが、そもそもスガは肺病で療養中で、彼女が首謀者だったという[[検察]]の主張にはかなり無理があった。 なお、警察に逮捕された秋水のもとには元妻である千代子が面会に訪れていたが、秋水は千代子が持参した手弁当には全く手を付けなかったという。しかし、秋水の墓は高知県四万十市の正福寺で千代子の墓と隣接している。碑銘は親友だった小泉の手によるもの<ref name=":0" />だが、正福寺の所在地が[[高知地方検察庁]]中村支部・[[高知地方裁判所]]中村支部の裏手にあるため、戦前は墓碑に[[鉄格子]]がはまっている状態だった。 === 死後、各方面への反響 === 秋水らの死刑を阻止するために、[[徳富蘆花]]は自身の兄である[[徳富蘇峰]]を通じて[[内閣総理大臣]]・[[桂太郎]]へ嘆願したが果たせず、秋水らは[[1911年]](明治44年)1月に処刑された。同年2月1日に、秋水に心酔していた[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]の[[第一高等学校・東京大学弁論部|弁論部]]の[[河上丈太郎]]・[[森戸辰男]]の主催で「謀叛論」を講演したが、校長である[[新渡戸稲造]]らの譴責問題に発展し、校内で騒動となった。 秋水が法廷で「いまの[[天子]]は、[[南朝 (日本)|南朝]]の天子を暗殺して[[三種の神器]]を奪い取った[[北朝 (日本)|北朝]]の天子ではないか」と発言したことが外部に漏れ、[[南北朝正閏論]]が起こった<ref>[[岩城之徳]]「啄木と南北朝正閏論問題」『石川啄木と幸徳秋水事件』([[近藤典彦]]編・吉川弘文館、平成八年)所収。[[滝川政次郎]]「誰も知らない幸徳事件の裏面」『人物往来』昭和三十一年十二月号。また[[池島信平]]編「歴史よもやま話し」、[[花田清輝]]『室町小説集』講談社pp.10-11.も参照。</ref>。これに対し、[[帝国議会]][[衆議院]]において[[国定教科書]]の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、議会は秋水の死後である2月4日に、南朝を正統とする決議を出した。この決議によって、教科書執筆の責任者である[[喜田貞吉]]が休職の処分を受け、これ以降の国定教科書では「[[大日本史]]」を根拠に三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられた。 [[1912年]](明治45年)6月には[[上杉慎吉]]が[[天皇主権説]]を発表し、[[美濃部達吉]]が[[天皇機関説]]を主張する。当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のちに上杉の天皇主権説が優勢となる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた[[山県有朋]]は、のちに[[ロシア革命]]が勃発してから極秘に[[反共主義]]を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく<ref>NHKスペシャル2009年5月3日放送「シリーズJAPAN 第二回 天皇と憲法」</ref>。また、秋水の遺稿となった「基督抹殺論」は君主制廃止の観点から書かれたものだが、[[神社神道]]を[[国教]]としていた政府は反キリスト教の観点から刊行を認めた。秋水の「基督抹殺論」は[[第二次世界大戦]]の時期までキリスト教に否定的な右翼や官僚、軍人、神職などに広く読まれたが、昭和時代中期に入るとキリスト教への圧迫のために悪用されてしまった。 [[大逆事件]]は文学者たちにも大きな影響を与えた。[[石川啄木]]は事件前夜に[[ピョートル・クロポトキン]]の著作や公判記録を独自に入手・研究し、「時代閉塞の現状」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。[[木下杢太郎]]は、[[1911年]](明治44年)3月に戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。 秋水の新たな資料が発見された[[1960年代]]以降、大量の研究書が発表されている。その結果、幸徳事件(大逆事件)は[[国家]]による[[捏造|フレームアップ(でっち上げ)]]の典型例であることが確実となった。批評家の[[柄谷行人]]や[[浅田彰]]・[[絓秀実]]・[[鴻英良]]らは、大逆事件を日本の[[帝国主義]]の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の[[福田和也]]が[[愛国心|愛国者]]として秋水を評価するものがある<ref>福田和也『余は如何にしてナショナリストになりし乎』光文社pp.92-96。また「我が鍾愛の奇人伝(1)幸徳秋水」『新潮45』2009年6月号</ref>。また、秋水の代表作である「帝国主義」は[[ジョン・アトキンソン・ホブソン]]や[[ウラジーミル・レーニン]]らの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。[[2008年]](平成20年)にはクリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によってフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle"(Paris, CNRS editions)が行われるなど、近年は国外でも再検討されている。 [[藤田東湖]]や[[会沢正志斎]]が中枢となった水戸学が「忠君愛国」を提唱し、「攘夷」「尊王」という考え方を打ち出した。水戸学の「将軍より天皇の方が上位である」という思想戦によって明治維新が成し遂げられたが、明治維新の元勲たちからすれば水戸学を否定することは出来ない。その水戸学が教えるのが「南朝正統」説で、[[後醍醐天皇]]の南朝こそ正統の天皇であり、北朝の天皇は偽物であるという指摘だった。しかし、明治政府が担いでいる[[明治天皇]]は明らかに北朝の子孫である。水戸学が主張するように「南朝の子孫が真の正統である」とすると秋水の主張の通り、明治天皇は偽物ではないかという議論が成立する<ref>本郷 和人. 軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル (朝日新書)</ref>。 [[2000年]](平成12年)、秋水の出生地である[[中村市]]議会は「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。 == 著述 == ;単著 * {{Cite book|和書|author=| translator=| title=[{{NDLDC|783518}} 帝国主義]| page=| publisher=[[警醒社]]| location =| year=1901| isbn=| ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=| translator=| title=[{{NDLDC|781802}} 兆民先生]| page=| publisher=[[博文館]]| location =| year=1902| isbn=| ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=| translator=| title=[{{NDLDC|1052381}} 社会主義神髄]| page=| publisher=[[朝報社]]| location =| year=1903| isbn=| ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=| translator=| title=[{{NDLDC|782477}} 社会民主党建設者ラサール]| page=| publisher=[[平民社]]| location =| year=1904| isbn=| ref=harv}} ;翻訳 *{{Cite book|和書|author1=カール・マルクス|authorlink1=カール・マルクス|author2=フリードリヒ・エンゲルス|authorlink2=フリードリヒ・エンゲルス| translator=幸徳秋水、堺利彥| title=[[s:共産黨宣言|共産党宣言]]| page=| publisher=社会主義発行所| location =| year=1906| isbn=| ref=harv}} ;演説 *『社会主義の必要』- {{Cite book|和書|author=| title=[{{NDLDC|900479}} 東洋雄弁会演説集]| page=5| publisher=広文堂| location =| year=1902| isbn=| ref=harv}} ;著作史料 * [[飛鳥井雅道]]編・解説『幸徳秋水集』(『[[近代日本思想大系]]』第13巻)、[[筑摩書房]]、1975年(昭和50年)11月。 * [[伊藤整]]・『幸徳秋水』(『[[日本の名著]]』第44巻)、中央公論社、1970年(昭和45年)9月。 * 大逆事件の真実をあきらかにする会編『大逆帖-堺氏蔵』、大逆事件の真実をあきらかにする会、1981年(昭和56年)1月。 * [[塩田庄兵衛]]編『幸徳秋水の日記と書簡』増補決定版、未來社、1990年(平成2年)4月。 * 中島及『幸徳秋水漢詩評釈』、高知市民図書館、1978年(昭和53年)3月。 * 山泉進編・解題『幸徳秋水』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第1巻)、[[論創社]]、2002年(平成14年)10月。ISBN 4-8460-0353-1 * 『幸徳秋水文集』(『解放群書』 第7編)、解放社、1926年(大正15年)。 * 『幸徳秋水集』(『改造文庫覆刻版』第1期)、改造図書出版販売、1977年(昭和52年)2月。 * 幸徳秋水全集編集委員会編『幸徳秋水全集』全9巻・別巻2巻・補巻、明治文献、1968年(昭和43年) - 1972年(昭和47年)。復刻:日本図書センター、1994年。 * 『帝国主義』山泉進校注([[岩波文庫]] 青版125-1)、[[岩波書店]]、2004年(平成16年)6月。ISBN 400-3312511 * 『兆民先生・兆民先生行状記』(岩波文庫 青版125-4)、岩波書店、1960年、度々復刊。ISBN 400-3312546 **改版『兆民先生 他八篇』梅森直之校注(岩波文庫)、2023年。ISBN 400-3312597 == 参考文献 == {{参照方法|date=2008年7月|section=1}} * 秋山清・大沢正道『幸徳・大杉・石川-日本アナキストの原像』、北日本出版社、1971年(昭和46年)。 * 飛鳥井雅道『幸徳秋水-直接行動論の源流』(『中公新書』193)、中央公論社、1969年(昭和44年)6月。 * 絲屋寿雄著『幸徳秋水伝』、三一書房、1950年(昭和25年)。 * 絲屋寿雄著『幸徳秋水研究』、青木書店、1967年(昭和42年)。 * 絲屋寿雄著『幸徳秋水』(『Century books』『人と思想』)、清水書院、1973年(昭和48年)。 * 絲屋寿雄『幸徳秋水研究』増訂版(吉田精一監修『近代作家研究叢書』53)、日本図書センター、1987年(昭和62年)10月。 * [[大河内一男]]『幸徳秋水と片山潜-明治の社会主義』(『講談社現代新書』)、講談社、1972年(昭和47年)。 * 大野みち代編『幸徳秋水』(『人物書誌大系』3)、日外アソシエーツ、1982年(昭和57年)6月。 * 大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』、青木書店、1977年(昭和52年)6月。 * [[神崎清]]『実録幸徳秋水』、読売新聞社、1971年(昭和46年)。 * 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義のシンボル』(『センチュリーブックス』・『人と歴史シリーズ』日本36)、清水書院、1972年(昭和47年)。 * 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義の一等星』(『清水新書』)、清水書院、1984年(昭和59年)10月。 * 塩田庄兵衛『幸徳秋水』(『新日本新書』)、新日本出版社、1993年(平成5年)6月。 * 田中惣五郎『幸徳秋水 一革命家の思想と生涯』(『人物評伝三部作』)、三一書房、1971年(昭和46年)。 * 西尾陽太郎『幸徳秋水』(日本歴史学会編『人物叢書』新装版)、吉川弘文館、1987年(昭和62年)5月 * F・G・ノートヘルファー(竹山護夫訳)『幸徳秋水-日本の急進主義者の肖像』、福村出版、1980年(昭和55年)2月。 * 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広島東洋カープ
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属している。通称は「広島」「カープ」「鯉」。 広島県を保護地域とし、広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、三大都市圏外に本拠地を置く球団である。 特定の親会社を持たない市民球団を源流としており、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とするという、他球団と比較して特異な歴史を有する 。カープはお好み焼き、マツダ、広島電鉄などと共に広島の戦後復興の象徴として語られることが多い 。地域密着型プロスポーツの先駆けである。 地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており、経営陣の派遣は行うものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する。なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。 カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。 カープで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは、北別府学、前田健太の2人である。また、クリス・ジョンソンが外国人投手として史上2人目の受賞を達成している。 カープでの投手三冠王の達成者は1人。 2022年シーズン終了時点で達成者はいない。 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。他球団での受賞も含めると江夏豊がカープ時代に1回、ファイターズ時代に1回で複数回受賞を達成している(投手としては唯一の両リーグでの受賞達成者でもある)。 カープの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。 ※太字はリーグ優勝、◎は日本一 本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。 ※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。 。以降の限定ユニフォームでは背ネームがオミットされている。背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。帽子はデニムカラーにマークが赤で入ったものだったが、ヘルメットは通常デザインのものを使用した。 球団マスコットは以下の3人。詳細はその項を参照。 球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された「海と島の博覧会」の公式マスコットであるアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。 広島は、チームスローガンではなくキャッチフレーズとして発表している。 2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、日程上の都合で実現しなかった。 2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された。 カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。 しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。 1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。 1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。さらに1970年代後半に住友銀行の管理下となった際に、松田家が球団と地元ディーラーの経営のみの担当となったことから、東洋工業→マツダは実質的にオーナー会社でなくなった。これはマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし、現在でも筆頭株主であることから(下記参照)、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。 現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からアテンザを筆頭にマツダ車に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。 経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。 ただし、この売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。 2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は一軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は二軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。 その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。 これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8,900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただし、マツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8,585万円となった。 このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。 2020年は新型コロナウイルス感染拡大により公式戦の入場者数が制限された影響などを受け29億3,487万円の当期損失となり赤字決算となったものの、経営状況は良好で、赤字決算は1974年以来46年ぶりであった。売上高は2年連続の減収かつ前年比83億4,489万円減の85億5,735万円となり、9年ぶりに100億円を下回った。入場料収入は41億3,500万円減の16億6,000万円、グッズ収入は22億8,800万円減の13億5,600万円で、それらとは別に消毒やPCR検査などコロナ対策で約1億円を投じた。同時に、資本金をそれまでの3億2,400万円から5,000万円に減資したことで、税法上では中小企業の扱いとなり、税の優遇措置を受けられるようになった。 広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には、広島を中心とした中国地方選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した。1979年~1980年シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた根本陸夫が、その後チーム作りに関わった西武ライオンズや福岡ソフトバンクホークスでも同様のプロセスで球団の改革を行っている。またホークスが1993年に導入された新ドラフト制度(逆指名制度)やFA制度をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある。またオリックス・ブルーウェーブが1995年の阪神・淡路大震災という負の遺産を背景として、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる。 1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島は「FA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めない」という方針であった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。しかし、選手にとっては他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要であるため、浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。 そんな中、2006年オフにエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定した成績を残していた黒田の流出はチームの死活問題となりかねなかったため、この時は例外的にFA残留を認める方針を掲げた(結局黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフにロサンゼルス・ドジャーズにFA移籍。その後、2015年より広島に復帰)。この影響で球団もスタンスを変更し、現在ではFA残留を基本的には認めないと、態度を軟化させている。 事実、2007年オフに新井貴浩が、2008年オフに東出輝裕が、2018年オフに丸佳浩がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井と丸はFA権を行使しそれぞれ阪神、巨人へ移籍(新井は後に広島に復帰)、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留に至った実例は2020年現在無く、中には2015年オフの木村昇吾のようにFA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)。 他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し(実際には獲得戦線に参入せず)、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得戦線に参戦していた。しかし内川はソフトバンクに入団したため、2022年現在広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。 カープ初の地方遠征は、1950年3月16日に福山三菱電機球場で行われた対中日1回戦だった。試合は2-5で敗れたが、四回裏に中日・杉下茂から白石勝巳がレフトスタンドに記念すべき球団第1号ホームランを放っている。また、19歳のルーキー・長谷川良平が先発としてマウンドに上がり、プロとしての第一歩を踏み出した。企業の敷地内にある球場でプロ野球が行われたのは、当球場の他、3ヶ所のみといわれる。 6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム・大洋対広島六回戦が現在三次市の十日市町営野球場で行われた。 開催地はこの数日前に草競馬が催された河川敷。馬糞が所々落ちている雑草茂る原っぱである。客席は三塁側が川の堤で傾斜面がスタンド。平坦な一塁側は馬車や荷車を並べて観客席を作った。座布団代わりに一束二十銭で麦の藁束を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。両軍ベンチは馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、消防団員が手押しポンプのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。スコアボードは小学校の黒板。1枚では数字が読みにくいと2枚並べた。外野柵は、所々に青竹を立てて荒縄1本を腰の高さに張り巡らせた。両翼のポールがないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いて立てた。 この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回には二死から四球1つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中で先発全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング3本塁打を記録。カープがこの試合で記録した28安打は、2022年終了時点でもセ・リーグ記録である。22得点は球団記録。日本各地に河川敷の野球場はあるが、プロ野球の一軍公式戦が行われたのはこの試合だけといわれる。 この試合を現地で取材したプレスは、朝日新聞、共同通信社、読売新聞の3社のみで、野球担当になって間もない記者はスコアブックの記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打と取り決めた。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である(#疑惑の本塁打)。 カープは、かつては積極的に地方遠征を行っていた時期があり、日本ハムの北海道移転や楽天の球団創設以前は東日本と北陸を中心に、北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地で主催試合を行ったことがある。 球団創設当時の1950年代は主に広島県のその他の球場でも開催されたが、その後は上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場、米子市民球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。 特に1980年代から1990年代にかけては北海道と東北6県全てで主催試合を行うなど広範囲で地方開催を行ったこともあり、とりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場、宮城球場、岩手県営野球場、秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。1980年代半ば〜後半のバブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。 さらに、他球団のファンが多い地域や、他球団がフランチャイズとしている自治体に程近い地域で主催試合を行うケースも多かった。1989年には群馬県前橋市の群馬県立敷島公園野球場と新潟県新潟市の鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を開催し、1990年から1997年にかけては中日のテリトリーである岐阜市の長良川球場で対中日戦を開催したほか、北陸地方(福井県営球場、石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアム、ハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催した。これら以外にも、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。 また、2000年代も半ばごろまでは東北地方のほか、長野、金沢・富山・福井の北陸3県でも主催試合を行った。このため、当時の主力選手であった金本知憲は現役時代、のち移籍した阪神タイガース時代も含めてフランチャイズ制導入以降では史上2位タイとなる33球場で本塁打を放ったというエピソードもある。 新規竣工、もしくは大規模改修が完了した地方球場で主催試合を開催するケースも多かった。広島県内では1993年に呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催したほか、2009年には当時竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また、県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟で、それぞれ球場開きを飾ったほか、2000年8月21日に長野オリンピックスタジアムではセ・リーグ初の公式戦(対ヤクルト戦)を開催している。 だが、2000年代半ば以降はセ・パ交流戦の影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は縮小されていった。地方開催は2003年頃までは概ね年間10 - 13試合程度あったものの、特に本拠地が現在のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転した2009年以降は、中部・北陸にて若干行われた以外は三次や呉といった広島県下の球場での開催にほぼ限られるようになった。2010年では4試合にまで減り、特に黒田博樹が広島に復帰した2015年以降はファンが急増したため本拠地のチケットが入手困難化したこともあり、2016年以降は三次・呉・尾道いずれかの広島県下での1 - 2試合に留められるようになった。2020年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響で開幕が6月に延期され試合数も短縮された影響で地方開催は行われず、主催試合は全60試合ともMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で開催された。2021年以降も同様に地方開催は行っていない。 なお、二軍に関しては、2021年に弘前市運動公園野球場にて二軍交流戦(対東京ヤクルト)2試合を開催予定であったなど僅かに地方開催を続けているが、この2021年の弘前市での試合は新型コロナウイルス感染症拡大への懸念から全て中止となった。一軍では上記の通りマツダスタジアム以外での主管試合は2021年以後行われてないが、二軍ではマツダスタジアムを含む広島県内各地での主管試合が組まれており、2023年は廿日市市HIROHAI佐伯総合スポーツ公園、エブリィ福山市民球場、三次きんさいスタジアムで開催予定である。 1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。 3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。 1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた洋松ロビンス三回戦で、4回広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込む本塁打となったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。そのため「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた。 当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。 そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手の本塁打をめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。この日、第一試合は2-4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の荒川昇治が走者二人を置いて、大田垣喜夫の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその左翼ポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのジェスチャーをし、荒川が二塁を回るころ、改めて本塁打のサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『週刊朝日』や『アサヒグラフ』も大きく取り上げた。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった。 尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、大竹市の自衛隊演習場で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた。 2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・田中広輔の打球が左中間フェンスのスタンド側に張られたワイヤーで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議でフェンスのグラウンド側で跳ねたボールインプレーと判定し三塁打とした。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。 試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送り、NPBは一度フェンスを越えていたと誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島はシーズンを69勝71敗3分で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差で4位となりクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。 なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。(詳細:阪神タイガース#主催ゲームの開幕戦) 市民球団として誕生したという生い立ちからファンの応援は他球団に比べ、より熱狂的といわれ、カープ可愛さの余り、時に暴走を繰り返し、全国に汚名を晒した。最も有名なのは初優勝へ驀進する1975年9月10日の対中日戦で、ファンがグラウンドに乱入して中日の主力選手に怪我を負わせた事件であるが、1964年6月30日に市民球場で行われた阪神との試合では、審判を責め立てて、審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合を起こしている。カープ攻撃中の2回裏無死一、二塁の場面。カープの阿南準郎のバントフライを阪神の石川緑が地面スレスレで捕球した。しかし主審が「土煙が上がった」とフェアの判定。このジャッジにより、走者は次の塁へ向けて走ったが、阪神は直接捕球を前提に、ボールを投手から一、二塁と転送し、三重殺をアピールした。ここから試合が中断し、VTRを見ても分からないぐらいの微妙なプレーだったが、協議の末、審判団は石川投手が捕球していたと誤審を認めた。その上でカープ側に試合続行を求めた。当然カープはこれに応じず、ここから審判団に対して2時間半の猛抗議を行う。困った審判団は今日では有り得ないが、何と折衷案として阪神側に「一死一、二塁」からの試合再開を頼み込んだ。しかし阪神もこの提案を拒否。結局、試合中止が決定し、アナウンスが流される頃には、約1,000人のカープファンがグラウンドに雪崩れ込み、球場の窓ガラスを次々に破壊し、放送室も破壊した。警官、機動隊100人が出動し、ファンの鎮圧に当たり、試合の続行は不可能な状況に陥った。阿南は「あの夜は球場を出るのが恐ろしかった。今では考えられないことだが、そういう時代だった」と話した。翌7月1日と7月2日の阪神戦も中止が決定。審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合だった。 1964年入団の安仁屋宗八は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。 1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。1957年に広島県出身者の阿川弘之、藤原弘達、木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。他球団のファンから見れば、永遠に優勝することは有り得ないという前提の元に成り立つジョークと考えていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。梶山は「優勝したらカープの選手に芸者の総揚げサービス」と悪ノリ。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。芸者サービスを確約した梶山はその5ヵ月前に急逝した。 こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。 2016年2月11日、NHK-FMラジオ『今日は一日○○三昧』が、第162回「今日は一日“セパ対抗!プロ野球ソング”三昧2016」で、プロ野球に関連した歌を10時間に渡り流す企画を放送した。各球団の応援歌やプロ野球選手自身が歌う曲などが続々と流されたが、ひと際話題となったのが、1975年のカープ初優勝時にリリースされたこの年の優勝メンバーが歌い上げる「カープ選手かぞえ唄」だった。打順に沿って一番・大下剛史以下、自身のセールスポイントを生歌で披露する。戦時中に江田島の海軍兵学校で兵士たちに歌われた「兵学校数え歌」の替え歌であるが、サビは「そぃつぁ豪気だねぇ~♪ そぃつぁ豪気だねぇ~♪」と歌われる。1975年の初優勝から1980年代にかけての古葉監督時代のカープ選手やコーチは、強面が多く、それに纏わる数々の豪気エピソードが今日でも伝説的に語られる。2023年も営業を続ける広島市中区の「ヘアーサロン十日市」で山本浩二らが球界で初めて導入したとされるパンチパーマが一時、プロ野球選手のヘアスタイルを席巻した。また球団から支給された移動用のスーツが、白の上下に白のテカテカ光るエナメルシューズ、紫の開襟シャツで、パンチ頭にグラサン、金のブレスレットやネックレスをこれに合わせる者もおり、それは迫力のある出で立ちで、新大阪駅や名古屋駅に降りると、その筋の人たちが道をあけ、丁寧にお辞儀をしたといわれる。また当時の選手は酒豪が多く、新幹線に食堂車があった時代に食堂車の酒が全部無くなったというエピソードが、芸能人の豪気エピソードとして語られるが、この元祖もカープである。カープが初優勝を決めた日にビールかけをやった後、帰広する新幹線の中でも飲み続け、新幹線のアルコールが全部無くなったという話を聞いた釜本邦茂は「我々もやったろう」と遠征帰りにヤンマーのチームメイトとそれに挑戦し、「新幹線の飲み比べでいうと、70年代のカープかヤンマーかという時代だった」と述べている。 カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。 ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:阪急 1986年・1991年:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。 なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以降日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。 MLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照) 日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。 1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペン捕手等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった。 1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からまるでクモのような動きでバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。 約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者であった。男は後日威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。 この事件については当日、NHKが試合を生中継していたため、中継内でも一部始終が放送された。 事件の顛末について、2018年3月2日に放送された『爆報! THE フライデー』(TBS系)にて、男が匿名を条件にVTR出演した。男が事件を起こした背景に、当時世間で問題になっていた巨人選手(特に桑田真澄)の裏金問題があり、それに対する不満があったという。当然、巨人ファンからバッシングされることとなり、男の家族も警察の要注意人物となり、バッシングが及んだという。番組では、当時試合に出場していた川口和久が男の元を訪れ対面。川口は、この事件でペースが狂いチームが試合に敗れ、自身の成績にも影響が及んだことを話すと、男は深々と謝罪した。 ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(プロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。 あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。 この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。 2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。 2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。 広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている。ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている。 数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだグッズを生み出し続けているのはカープであると言われている。TV放映権が下落傾向にある中、新スタジアムの建設問題に併せて、これも他球団に先駆けて、新たな収益源として、カープが考え出したのがグッズ戦略であった。かつては「文鎮にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時のマーティ・ブラウン監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には山﨑浩司内野手が対戦相手を隠し球でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している。 この他にも、ブライアン・バリントン愛用の爪磨きや、キラ・カアイフエなどの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、iPhoneケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラ本塁打を打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、九里亜蓮や大瀬良大地の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、堂林翔太のシーズン初本塁打によるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した。 丸佳浩が「千葉から広島に来て、カープという球団が広島の人にとってすごい身近な存在だということに驚いた。どこもかしこもカープで、コンビニでは普通にグッズが置いてある。広島ってこういうところなんだと新鮮なカルチャーショックでした。僕の出身の千葉はロッテのお膝元ですけど、ありえないです」と話したことがあり、地元民にとって「コンビニにカープグッズ」は当たり前である。 「赤」は伝統的に色彩マーケティングでも購買色や興奮色と言われるカラーであり、応援グッズがカワイイことも、カープ女子増加の要因の1つという見方がある。球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである。球団によってはグッズを売ってもロイヤルティーしか入らないところもあるが、カープは製作から販売まで自前。自主製作であることから、製品のアイデア出し、作成までのリードタイムが短い。サヨナラホームランが出た夜に企画会議をやって2日後にホームラン記念Tシャツを販売したこともある。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し、十数年で15倍に伸ばした。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した。他球団で、このような高い比率を持つところはない。また、地元企業を大切にしており、丸天産業とタイアップした選手の顔が入ったマスキングテープや、田中食品の「カープふりかけ」など、地元産業と提携して数々の実績を上げている。 2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた東京ドームでの巨人戦でのNHK総合テレビ広島地区の視聴率は、平均で60.3%、瞬間最高は71.0%を記録したように、「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど、広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される。 広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが、特に北海道にある北広島市は広島県人が開拓した街でもあるので、その流れで旧来からカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である日本ハムを応援する人も増えている)。他にも、広島とは縁はなくとも同期のTBSアナウンサー・林美雄に影響されてカープファンとなった久米宏などの例や、「好きだった西鉄ライオンズが身売りしたので最も西の球団を選んだ」という理由でカープファンになった筑紫哲也などもいた。筑紫はカープファンの妙味は「ファンも勝敗だけに拘泥せず、"物語"を大事にするところ」などと話していたが、久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央""反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている。 広島出身者でないカープファンのアナウンサーとしては桝太一や、親族の影響でカープファンになった堀井美香、弘中綾香、NHK広島勤務時代にファンになった井上あさひらがいる。他に育った地域では周りはみんな巨人ファンで、カープは育てた選手がFAでみんな出ていって可哀そう、自分だけでもカープを応援する、無理やり連れて行かれた球場で「#宮島さん」やスクワットなどの応援にハマったなど、様々な理由でカープファンになった人が増え、2021年では人気は全国区となっているとされる。 1993年に球界はフリーエージェント、ドラフトでの逆指名の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成してクライマックスシリーズに初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した。 カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、東京ドームでの巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの神宮球場でのヤクルト戦を中心に、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった。『中国新聞』2012年8月19日付に「関東の『コイ党』沸騰 入場者数 昨年比1試合2700人増 チーム好成績 若手活躍期待」という記事が載る。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの(2014年までの)5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている。2014年頃は首都圏で行われる対カープ戦のビジター席は3-4割が女性だった。 2012年10月から12月まで放送された木村拓哉主演のフジテレビの「月9」ドラマ『PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜』では、話のモチーフとして北別府学のサインボールが取り入れられた。また2013年1月~3月期の木10『最高の離婚』第一話では、開始20分過ぎに営業部社員濱崎光生役の瑛太が取引先と草野球をやってぎっくり腰になり、元カノでアロマテラピーのお店を経営する上原灯里(真木よう子)と再会。マッサージを受けた後、野球に無知な瑛太に真木が「あ、前に知り合いの人が言ってましたよ。野球好きの人には広島ファンと言っとけばいいって。通ぶれるらしいです」とアドバイスし、瑛太が「へ~広島?」と答えるシーンがある。当時は唐突に聞こえたが、本作の脚本、坂元裕二がシナハン中に都内にカープファンが増えていることを知り、セリフに組み入れたものと考えられる。 2013年、阪神とのクライマックスシリーズにおいては甲子園球場のレフトスタンドから三塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる。地方球場においてもカープファンの盛況はめざましい。2015年6月23日の長野オリンピックスタジアムでの阪神戦では、延長になっても大勢のファンが残り、試合終了の午後11時47分まで必死な声援を送った(試合結果は6-6の同点)。2016年7月6日の石川県立野球場での中日戦(黒田博樹が日米通算200勝まであと1勝を懸けて登板)でも、球場の半分を赤く染めた。 このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している。 2013年頃からマスメディアに盛んに取り上げられ、スポーツに於ける女性ファンブームの火付け役になった。 カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『球場ラヴァーズ』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて隙間産業では、と笑われた」と作者の石田敦子は話している。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た。"カープ本"という言葉も定着し、広島県立図書館では時折、カープ本特集の展示がある。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田勇人が内閣総理大臣に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)1冊のみといわれる。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』(古葉竹識著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。 得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」と歌われる通称「宮島さん」は、1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、明治時代に宮島の対岸である当時の地御前村(現在の廿日市市地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれ、替え歌としても100年以上の歴史がある。地御前の出身者が広島県立広島商業高等学校に入学し、応援歌として歌い出したのが広島県内で広まったきっかけ。広商野球部百年史には、1916年(大正5年)にはすでに歌われていたと記載されており、広商の生徒手帳にも歌詞の記載があり、同校に入学すると校歌とともに必ず覚えなくてはならない。広島ではその後、広島高等師範学校や、広商を始め広島代表が甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじを「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが、甲子園で広島代表と対戦した各県代表校の応援団が「これはいい」と、各地にこの応援歌を持ち返り、「宮島さん」の部分を各地の神社や山の名 前などに置き換えて(一部歌詞を変えて)歌うようになったという説もある。近年では甲子園での広島代表だけでなく、歌詞を一部変更して他県の代表校の応援歌としてもよく使われる。1988年夏の甲子園での広島商業6度目の全国制覇にあやかり、同年、山本浩二監督就任で、大下剛史、三村敏之がコーチとして入閣、広島出身の首脳陣を盛り立てようと、カープ応援団がカープの応援歌として「宮島さん」を取り入れた。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の加納ひろしのアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属している。通称は「広島」「カープ」「鯉」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広島県を保護地域とし、広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、三大都市圏外に本拠地を置く球団である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特定の親会社を持たない市民球団を源流としており、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とするという、他球団と比較して特異な歴史を有する 。カープはお好み焼き、マツダ、広島電鉄などと共に広島の戦後復興の象徴として語られることが多い 。地域密着型プロスポーツの先駆けである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており、経営陣の派遣は行うものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する。なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。", "title": "永久欠番" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カープで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは、北別府学、前田健太の2人である。また、クリス・ジョンソンが外国人投手として史上2人目の受賞を達成している。", "title": "沢村栄治賞受賞者" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "カープでの投手三冠王の達成者は1人。", "title": "三冠王(投手・打者)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年シーズン終了時点で達成者はいない。", "title": "三冠王(投手・打者)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。他球団での受賞も含めると江夏豊がカープ時代に1回、ファイターズ時代に1回で複数回受賞を達成している(投手としては唯一の両リーグでの受賞達成者でもある)。", "title": "最優秀選手受賞者(複数回)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カープの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。", "title": "最優秀選手受賞者(複数回)" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "※太字はリーグ優勝、◎は日本一", "title": "歴代監督" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。", "title": "球団施設" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。", "title": "ユニフォームの変遷" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "。以降の限定ユニフォームでは背ネームがオミットされている。背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。帽子はデニムカラーにマークが赤で入ったものだったが、ヘルメットは通常デザインのものを使用した。", "title": "ユニフォームの変遷" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "", "title": "オフィシャルスポンサー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "球団マスコットは以下の3人。詳細はその項を参照。", "title": "マスコット" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された「海と島の博覧会」の公式マスコットであるアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。", "title": "マスコット" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "広島は、チームスローガンではなくキャッチフレーズとして発表している。", "title": "キャッチフレーズ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、日程上の都合で実現しなかった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。さらに1970年代後半に住友銀行の管理下となった際に、松田家が球団と地元ディーラーの経営のみの担当となったことから、東洋工業→マツダは実質的にオーナー会社でなくなった。これはマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし、現在でも筆頭株主であることから(下記参照)、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からアテンザを筆頭にマツダ車に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ただし、この売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は一軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は二軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8,900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただし、マツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8,585万円となった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2020年は新型コロナウイルス感染拡大により公式戦の入場者数が制限された影響などを受け29億3,487万円の当期損失となり赤字決算となったものの、経営状況は良好で、赤字決算は1974年以来46年ぶりであった。売上高は2年連続の減収かつ前年比83億4,489万円減の85億5,735万円となり、9年ぶりに100億円を下回った。入場料収入は41億3,500万円減の16億6,000万円、グッズ収入は22億8,800万円減の13億5,600万円で、それらとは別に消毒やPCR検査などコロナ対策で約1億円を投じた。同時に、資本金をそれまでの3億2,400万円から5,000万円に減資したことで、税法上では中小企業の扱いとなり、税の優遇措置を受けられるようになった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には、広島を中心とした中国地方選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した。1979年~1980年シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた根本陸夫が、その後チーム作りに関わった西武ライオンズや福岡ソフトバンクホークスでも同様のプロセスで球団の改革を行っている。またホークスが1993年に導入された新ドラフト制度(逆指名制度)やFA制度をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある。またオリックス・ブルーウェーブが1995年の阪神・淡路大震災という負の遺産を背景として、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島は「FA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めない」という方針であった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。しかし、選手にとっては他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要であるため、浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "そんな中、2006年オフにエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定した成績を残していた黒田の流出はチームの死活問題となりかねなかったため、この時は例外的にFA残留を認める方針を掲げた(結局黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフにロサンゼルス・ドジャーズにFA移籍。その後、2015年より広島に復帰)。この影響で球団もスタンスを変更し、現在ではFA残留を基本的には認めないと、態度を軟化させている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "事実、2007年オフに新井貴浩が、2008年オフに東出輝裕が、2018年オフに丸佳浩がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井と丸はFA権を行使しそれぞれ阪神、巨人へ移籍(新井は後に広島に復帰)、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留に至った実例は2020年現在無く、中には2015年オフの木村昇吾のようにFA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し(実際には獲得戦線に参入せず)、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得戦線に参戦していた。しかし内川はソフトバンクに入団したため、2022年現在広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "カープ初の地方遠征は、1950年3月16日に福山三菱電機球場で行われた対中日1回戦だった。試合は2-5で敗れたが、四回裏に中日・杉下茂から白石勝巳がレフトスタンドに記念すべき球団第1号ホームランを放っている。また、19歳のルーキー・長谷川良平が先発としてマウンドに上がり、プロとしての第一歩を踏み出した。企業の敷地内にある球場でプロ野球が行われたのは、当球場の他、3ヶ所のみといわれる。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム・大洋対広島六回戦が現在三次市の十日市町営野球場で行われた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "開催地はこの数日前に草競馬が催された河川敷。馬糞が所々落ちている雑草茂る原っぱである。客席は三塁側が川の堤で傾斜面がスタンド。平坦な一塁側は馬車や荷車を並べて観客席を作った。座布団代わりに一束二十銭で麦の藁束を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。両軍ベンチは馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、消防団員が手押しポンプのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。スコアボードは小学校の黒板。1枚では数字が読みにくいと2枚並べた。外野柵は、所々に青竹を立てて荒縄1本を腰の高さに張り巡らせた。両翼のポールがないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いて立てた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回には二死から四球1つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中で先発全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング3本塁打を記録。カープがこの試合で記録した28安打は、2022年終了時点でもセ・リーグ記録である。22得点は球団記録。日本各地に河川敷の野球場はあるが、プロ野球の一軍公式戦が行われたのはこの試合だけといわれる。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この試合を現地で取材したプレスは、朝日新聞、共同通信社、読売新聞の3社のみで、野球担当になって間もない記者はスコアブックの記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打と取り決めた。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である(#疑惑の本塁打)。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "カープは、かつては積極的に地方遠征を行っていた時期があり、日本ハムの北海道移転や楽天の球団創設以前は東日本と北陸を中心に、北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地で主催試合を行ったことがある。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "球団創設当時の1950年代は主に広島県のその他の球場でも開催されたが、その後は上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場、米子市民球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "特に1980年代から1990年代にかけては北海道と東北6県全てで主催試合を行うなど広範囲で地方開催を行ったこともあり、とりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場、宮城球場、岩手県営野球場、秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。1980年代半ば〜後半のバブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "さらに、他球団のファンが多い地域や、他球団がフランチャイズとしている自治体に程近い地域で主催試合を行うケースも多かった。1989年には群馬県前橋市の群馬県立敷島公園野球場と新潟県新潟市の鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を開催し、1990年から1997年にかけては中日のテリトリーである岐阜市の長良川球場で対中日戦を開催したほか、北陸地方(福井県営球場、石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアム、ハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催した。これら以外にも、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、2000年代も半ばごろまでは東北地方のほか、長野、金沢・富山・福井の北陸3県でも主催試合を行った。このため、当時の主力選手であった金本知憲は現役時代、のち移籍した阪神タイガース時代も含めてフランチャイズ制導入以降では史上2位タイとなる33球場で本塁打を放ったというエピソードもある。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "新規竣工、もしくは大規模改修が完了した地方球場で主催試合を開催するケースも多かった。広島県内では1993年に呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催したほか、2009年には当時竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また、県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟で、それぞれ球場開きを飾ったほか、2000年8月21日に長野オリンピックスタジアムではセ・リーグ初の公式戦(対ヤクルト戦)を開催している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "だが、2000年代半ば以降はセ・パ交流戦の影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は縮小されていった。地方開催は2003年頃までは概ね年間10 - 13試合程度あったものの、特に本拠地が現在のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転した2009年以降は、中部・北陸にて若干行われた以外は三次や呉といった広島県下の球場での開催にほぼ限られるようになった。2010年では4試合にまで減り、特に黒田博樹が広島に復帰した2015年以降はファンが急増したため本拠地のチケットが入手困難化したこともあり、2016年以降は三次・呉・尾道いずれかの広島県下での1 - 2試合に留められるようになった。2020年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響で開幕が6月に延期され試合数も短縮された影響で地方開催は行われず、主催試合は全60試合ともMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で開催された。2021年以降も同様に地方開催は行っていない。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "なお、二軍に関しては、2021年に弘前市運動公園野球場にて二軍交流戦(対東京ヤクルト)2試合を開催予定であったなど僅かに地方開催を続けているが、この2021年の弘前市での試合は新型コロナウイルス感染症拡大への懸念から全て中止となった。一軍では上記の通りマツダスタジアム以外での主管試合は2021年以後行われてないが、二軍ではマツダスタジアムを含む広島県内各地での主管試合が組まれており、2023年は廿日市市HIROHAI佐伯総合スポーツ公園、エブリィ福山市民球場、三次きんさいスタジアムで開催予定である。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた洋松ロビンス三回戦で、4回広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込む本塁打となったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。そのため「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手の本塁打をめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。この日、第一試合は2-4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の荒川昇治が走者二人を置いて、大田垣喜夫の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその左翼ポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのジェスチャーをし、荒川が二塁を回るころ、改めて本塁打のサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『週刊朝日』や『アサヒグラフ』も大きく取り上げた。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、大竹市の自衛隊演習場で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・田中広輔の打球が左中間フェンスのスタンド側に張られたワイヤーで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議でフェンスのグラウンド側で跳ねたボールインプレーと判定し三塁打とした。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送り、NPBは一度フェンスを越えていたと誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島はシーズンを69勝71敗3分で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差で4位となりクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。(詳細:阪神タイガース#主催ゲームの開幕戦)", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "市民球団として誕生したという生い立ちからファンの応援は他球団に比べ、より熱狂的といわれ、カープ可愛さの余り、時に暴走を繰り返し、全国に汚名を晒した。最も有名なのは初優勝へ驀進する1975年9月10日の対中日戦で、ファンがグラウンドに乱入して中日の主力選手に怪我を負わせた事件であるが、1964年6月30日に市民球場で行われた阪神との試合では、審判を責め立てて、審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合を起こしている。カープ攻撃中の2回裏無死一、二塁の場面。カープの阿南準郎のバントフライを阪神の石川緑が地面スレスレで捕球した。しかし主審が「土煙が上がった」とフェアの判定。このジャッジにより、走者は次の塁へ向けて走ったが、阪神は直接捕球を前提に、ボールを投手から一、二塁と転送し、三重殺をアピールした。ここから試合が中断し、VTRを見ても分からないぐらいの微妙なプレーだったが、協議の末、審判団は石川投手が捕球していたと誤審を認めた。その上でカープ側に試合続行を求めた。当然カープはこれに応じず、ここから審判団に対して2時間半の猛抗議を行う。困った審判団は今日では有り得ないが、何と折衷案として阪神側に「一死一、二塁」からの試合再開を頼み込んだ。しかし阪神もこの提案を拒否。結局、試合中止が決定し、アナウンスが流される頃には、約1,000人のカープファンがグラウンドに雪崩れ込み、球場の窓ガラスを次々に破壊し、放送室も破壊した。警官、機動隊100人が出動し、ファンの鎮圧に当たり、試合の続行は不可能な状況に陥った。阿南は「あの夜は球場を出るのが恐ろしかった。今では考えられないことだが、そういう時代だった」と話した。翌7月1日と7月2日の阪神戦も中止が決定。審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合だった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1964年入団の安仁屋宗八は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。1957年に広島県出身者の阿川弘之、藤原弘達、木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。他球団のファンから見れば、永遠に優勝することは有り得ないという前提の元に成り立つジョークと考えていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。梶山は「優勝したらカープの選手に芸者の総揚げサービス」と悪ノリ。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。芸者サービスを確約した梶山はその5ヵ月前に急逝した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2016年2月11日、NHK-FMラジオ『今日は一日○○三昧』が、第162回「今日は一日“セパ対抗!プロ野球ソング”三昧2016」で、プロ野球に関連した歌を10時間に渡り流す企画を放送した。各球団の応援歌やプロ野球選手自身が歌う曲などが続々と流されたが、ひと際話題となったのが、1975年のカープ初優勝時にリリースされたこの年の優勝メンバーが歌い上げる「カープ選手かぞえ唄」だった。打順に沿って一番・大下剛史以下、自身のセールスポイントを生歌で披露する。戦時中に江田島の海軍兵学校で兵士たちに歌われた「兵学校数え歌」の替え歌であるが、サビは「そぃつぁ豪気だねぇ~♪ そぃつぁ豪気だねぇ~♪」と歌われる。1975年の初優勝から1980年代にかけての古葉監督時代のカープ選手やコーチは、強面が多く、それに纏わる数々の豪気エピソードが今日でも伝説的に語られる。2023年も営業を続ける広島市中区の「ヘアーサロン十日市」で山本浩二らが球界で初めて導入したとされるパンチパーマが一時、プロ野球選手のヘアスタイルを席巻した。また球団から支給された移動用のスーツが、白の上下に白のテカテカ光るエナメルシューズ、紫の開襟シャツで、パンチ頭にグラサン、金のブレスレットやネックレスをこれに合わせる者もおり、それは迫力のある出で立ちで、新大阪駅や名古屋駅に降りると、その筋の人たちが道をあけ、丁寧にお辞儀をしたといわれる。また当時の選手は酒豪が多く、新幹線に食堂車があった時代に食堂車の酒が全部無くなったというエピソードが、芸能人の豪気エピソードとして語られるが、この元祖もカープである。カープが初優勝を決めた日にビールかけをやった後、帰広する新幹線の中でも飲み続け、新幹線のアルコールが全部無くなったという話を聞いた釜本邦茂は「我々もやったろう」と遠征帰りにヤンマーのチームメイトとそれに挑戦し、「新幹線の飲み比べでいうと、70年代のカープかヤンマーかという時代だった」と述べている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:阪急 1986年・1991年:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以降日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "MLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペン捕手等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からまるでクモのような動きでバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者であった。男は後日威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "この事件については当日、NHKが試合を生中継していたため、中継内でも一部始終が放送された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "事件の顛末について、2018年3月2日に放送された『爆報! THE フライデー』(TBS系)にて、男が匿名を条件にVTR出演した。男が事件を起こした背景に、当時世間で問題になっていた巨人選手(特に桑田真澄)の裏金問題があり、それに対する不満があったという。当然、巨人ファンからバッシングされることとなり、男の家族も警察の要注意人物となり、バッシングが及んだという。番組では、当時試合に出場していた川口和久が男の元を訪れ対面。川口は、この事件でペースが狂いチームが試合に敗れ、自身の成績にも影響が及んだことを話すと、男は深々と謝罪した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(プロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている。ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだグッズを生み出し続けているのはカープであると言われている。TV放映権が下落傾向にある中、新スタジアムの建設問題に併せて、これも他球団に先駆けて、新たな収益源として、カープが考え出したのがグッズ戦略であった。かつては「文鎮にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時のマーティ・ブラウン監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には山﨑浩司内野手が対戦相手を隠し球でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "この他にも、ブライアン・バリントン愛用の爪磨きや、キラ・カアイフエなどの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、iPhoneケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラ本塁打を打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、九里亜蓮や大瀬良大地の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、堂林翔太のシーズン初本塁打によるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "丸佳浩が「千葉から広島に来て、カープという球団が広島の人にとってすごい身近な存在だということに驚いた。どこもかしこもカープで、コンビニでは普通にグッズが置いてある。広島ってこういうところなんだと新鮮なカルチャーショックでした。僕の出身の千葉はロッテのお膝元ですけど、ありえないです」と話したことがあり、地元民にとって「コンビニにカープグッズ」は当たり前である。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "「赤」は伝統的に色彩マーケティングでも購買色や興奮色と言われるカラーであり、応援グッズがカワイイことも、カープ女子増加の要因の1つという見方がある。球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである。球団によってはグッズを売ってもロイヤルティーしか入らないところもあるが、カープは製作から販売まで自前。自主製作であることから、製品のアイデア出し、作成までのリードタイムが短い。サヨナラホームランが出た夜に企画会議をやって2日後にホームラン記念Tシャツを販売したこともある。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し、十数年で15倍に伸ばした。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した。他球団で、このような高い比率を持つところはない。また、地元企業を大切にしており、丸天産業とタイアップした選手の顔が入ったマスキングテープや、田中食品の「カープふりかけ」など、地元産業と提携して数々の実績を上げている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた東京ドームでの巨人戦でのNHK総合テレビ広島地区の視聴率は、平均で60.3%、瞬間最高は71.0%を記録したように、「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど、広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが、特に北海道にある北広島市は広島県人が開拓した街でもあるので、その流れで旧来からカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である日本ハムを応援する人も増えている)。他にも、広島とは縁はなくとも同期のTBSアナウンサー・林美雄に影響されてカープファンとなった久米宏などの例や、「好きだった西鉄ライオンズが身売りしたので最も西の球団を選んだ」という理由でカープファンになった筑紫哲也などもいた。筑紫はカープファンの妙味は「ファンも勝敗だけに拘泥せず、\"物語\"を大事にするところ」などと話していたが、久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、\"反中央\"\"反権力\"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "広島出身者でないカープファンのアナウンサーとしては桝太一や、親族の影響でカープファンになった堀井美香、弘中綾香、NHK広島勤務時代にファンになった井上あさひらがいる。他に育った地域では周りはみんな巨人ファンで、カープは育てた選手がFAでみんな出ていって可哀そう、自分だけでもカープを応援する、無理やり連れて行かれた球場で「#宮島さん」やスクワットなどの応援にハマったなど、様々な理由でカープファンになった人が増え、2021年では人気は全国区となっているとされる。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1993年に球界はフリーエージェント、ドラフトでの逆指名の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成してクライマックスシリーズに初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、東京ドームでの巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの神宮球場でのヤクルト戦を中心に、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった。『中国新聞』2012年8月19日付に「関東の『コイ党』沸騰 入場者数 昨年比1試合2700人増 チーム好成績 若手活躍期待」という記事が載る。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの(2014年までの)5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている。2014年頃は首都圏で行われる対カープ戦のビジター席は3-4割が女性だった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2012年10月から12月まで放送された木村拓哉主演のフジテレビの「月9」ドラマ『PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜』では、話のモチーフとして北別府学のサインボールが取り入れられた。また2013年1月~3月期の木10『最高の離婚』第一話では、開始20分過ぎに営業部社員濱崎光生役の瑛太が取引先と草野球をやってぎっくり腰になり、元カノでアロマテラピーのお店を経営する上原灯里(真木よう子)と再会。マッサージを受けた後、野球に無知な瑛太に真木が「あ、前に知り合いの人が言ってましたよ。野球好きの人には広島ファンと言っとけばいいって。通ぶれるらしいです」とアドバイスし、瑛太が「へ~広島?」と答えるシーンがある。当時は唐突に聞こえたが、本作の脚本、坂元裕二がシナハン中に都内にカープファンが増えていることを知り、セリフに組み入れたものと考えられる。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2013年、阪神とのクライマックスシリーズにおいては甲子園球場のレフトスタンドから三塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる。地方球場においてもカープファンの盛況はめざましい。2015年6月23日の長野オリンピックスタジアムでの阪神戦では、延長になっても大勢のファンが残り、試合終了の午後11時47分まで必死な声援を送った(試合結果は6-6の同点)。2016年7月6日の石川県立野球場での中日戦(黒田博樹が日米通算200勝まであと1勝を懸けて登板)でも、球場の半分を赤く染めた。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2013年頃からマスメディアに盛んに取り上げられ、スポーツに於ける女性ファンブームの火付け役になった。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『球場ラヴァーズ』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて隙間産業では、と笑われた」と作者の石田敦子は話している。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た。\"カープ本\"という言葉も定着し、広島県立図書館では時折、カープ本特集の展示がある。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田勇人が内閣総理大臣に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)1冊のみといわれる。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』(古葉竹識著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。", "title": "キーワード" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」と歌われる通称「宮島さん」は、1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、明治時代に宮島の対岸である当時の地御前村(現在の廿日市市地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれ、替え歌としても100年以上の歴史がある。地御前の出身者が広島県立広島商業高等学校に入学し、応援歌として歌い出したのが広島県内で広まったきっかけ。広商野球部百年史には、1916年(大正5年)にはすでに歌われていたと記載されており、広商の生徒手帳にも歌詞の記載があり、同校に入学すると校歌とともに必ず覚えなくてはならない。広島ではその後、広島高等師範学校や、広商を始め広島代表が甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじを「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが、甲子園で広島代表と対戦した各県代表校の応援団が「これはいい」と、各地にこの応援歌を持ち返り、「宮島さん」の部分を各地の神社や山の名 前などに置き換えて(一部歌詞を変えて)歌うようになったという説もある。近年では甲子園での広島代表だけでなく、歌詞を一部変更して他県の代表校の応援歌としてもよく使われる。1988年夏の甲子園での広島商業6度目の全国制覇にあやかり、同年、山本浩二監督就任で、大下剛史、三村敏之がコーチとして入閣、広島出身の首脳陣を盛り立てようと、カープ応援団がカープの応援歌として「宮島さん」を取り入れた。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の加納ひろしのアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている。", "title": "主な歴代の球団歌・応援歌" } ]
広島東洋カープは、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属している。通称は「広島」「カープ」「鯉」。 広島県を保護地域とし、広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、三大都市圏外に本拠地を置く球団である。 特定の親会社を持たない市民球団を源流としており、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とするという、他球団と比較して特異な歴史を有する。カープはお好み焼き、マツダ、広島電鉄などと共に広島の戦後復興の象徴として語られることが多い。地域密着型プロスポーツの先駆けである。 地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており、経営陣の派遣は行うものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する。なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。
{{野球チーム | ページ名 = 広島東洋カープ | チーム名 = 広島東洋カープ | 英語表記 = Hiroshima Toyo Carp | 会社名 = 株式会社広島東洋カープ | 加盟団体 = [[セントラル・リーグ]] | 創設年度 = {{start date and age|1949|12|15}} | ロゴデザイン = [[ファイル:Hiroshima Toyo Carp insignia.svg|150px]] | チーム名の遍歴 = * 広島カープ(1950年 - 1967年) * 広島東洋カープ(1968年 - 現在) | フランチャイズの遍歴 = * 広島県(1952年 - 現在) | 本拠地 = [[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)]]<br />([[広島県]][[広島市]][[南区 (広島市)|南区]])[[ファイル:MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima(2019).jpg|300px|center]] | キャパ = 33,000人<br />(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島) | 永久欠番 = * '''[[衣笠祥雄|3:衣笠祥雄]]''' * '''[[山本浩二|8:山本浩二]]''' * '''[[黒田博樹|15:黒田博樹]]''' | オーナー = [[松田元]]<br />(代行:松田一宏) | スポンサー = 松田家([[マツダ|現・マツダ、旧・東洋工業]]の創業者一族){{R|kotobank}} | 球団社長 = [[松田元]] | 監督 = [[新井貴浩]] | 選手会長 = [[大瀬良大地]] | シリーズ優勝回数 = 3 | シリーズ優勝 = * [[1979年の日本シリーズ|1979]] * [[1980年の日本シリーズ|1980]] * [[1984年の日本シリーズ|1984]] | リーグ優勝回数 = 9 | リーグ優勝 = * [[1975年の日本プロ野球|1975]] * [[1979年の日本プロ野球|1979]] * [[1980年の日本プロ野球|1980]] * [[1984年の日本プロ野球|1984]] * [[1986年の日本プロ野球|1986]] * [[1991年の日本プロ野球|1991]] * [[2016年の日本プロ野球|2016]] * [[2017年の日本プロ野球|2017]] * [[2018年の日本プロ野球|2018]] | シリーズ出場回数 = 8 | シリーズ出場 = 3勝5敗 * [[1975年の日本シリーズ|1975]] * '''[[1979年の日本シリーズ|1979]]''' * '''[[1980年の日本シリーズ|1980]]''' * '''[[1984年の日本シリーズ|1984]]''' * [[1986年の日本シリーズ|1986]] * [[1991年の日本シリーズ|1991]] * [[2016年の日本シリーズ|2016]] * [[2018年の日本シリーズ|2018]] | クライマックスシリーズ回数 = 6 | クライマックスシリーズ =2勝4敗 * [[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2013]] * ''[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2014]]'' * '''[[2016年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2016]]''' * [[2017年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2017]] * '''[[2018年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2018]]''' * [[2023年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2023]] }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社広島東洋カープ | 英文社名 = Hiroshima Toyo Carp Co., Ltd. | ロゴ = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 732-8501 | 本社所在地 = [[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]南蟹屋二丁目3番1号<br />[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]内 | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1956年]]1月{{R|tyugoku20100101}} | 業種 = サービス業 | 事業内容 = プロ野球興行事業等 | 代表者 = [[松田元]]([[代表取締役]][[社長]]) | 資本金 = 5,000万円{{R|tyugoku20210325}} |売上高 = |営業利益 = |経常利益 = |純利益 = 12億2500万円<br>(2022年12月期){{R|fy}} |純資産 = |総資産 = 147億1500万円<br>(2022年12月期){{R|fy}} | 従業員数 = 120人(2009年12月時点) | 決算期 = 12月31日 | 主要株主 = 松田家関連(42.7%)<br />* [[松田元]] 20.4%<br />* 松田弘 12.2%<br />* 松田勢津子 10.1%<br />[[マツダ]]関連(34.2%)<br />* [[マツダ]] 34.2%<br />球団子会社(18.5%)<br />* カルピオ 18.5%<br />(2005年現在) | 主要子会社 = カルピオ(完全子会社) | 関係する人物 = [[松田恒次]]、[[松田耕平]] | 外部リンク = https://www.carp.co.jp/ | 特記事項 = [[1949年]]6月創業。勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男で[[マツダアンフィニ|アンフィニ]]広島社長。 }} {{Portal|野球}} {{Infobox YouTube personality | name = 広島東洋カープ | logo = | logo caption = | image = | caption = | birth_name = | birth_date = | birth_place = | death_date = | death_place = | nationality = | occupation = | website = | pseudonym = | channel_name = | channel_url = UC0VGvOEN22JcprH7pZrCwiw | channel_direct_url = | channel_display_name = 広島東洋カープ公式 | years_active = [[2019年]][[9月8日]] - | genre = [[野球]] | subscribers = 約6.66万人 | subscriber_date = | views = 約763万回 | view_date = | network = | associated_acts = | catchphrase(s) = | silver_button = | silver_year = | gold_button = | gold_year = | diamond_button = | diamond_year = | ruby_button = | ruby_year = | stats_update = {{dts|2023-10-25}} }} '''広島東洋カープ'''(ひろしまとうようカープ、{{Lang-en-short|Hiroshima Toyo Carp}})は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]。[[セントラル・リーグ]](セ・リーグ)に所属している。通称は「'''広島'''」「'''カープ'''」「'''鯉'''」。 [[広島県]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、[[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]にある[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[広島東洋カープ (ファーム)|二軍]]([[ウエスタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[山口県]][[岩国市]]にある[[広島東洋カープ由宇練習場]]である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、[[三大都市圏]]外に本拠地を置く球団である。 特定の親会社を持たない市民球団を源流としており{{Refnest|group="注釈"|球団設立の際に終戦からの復興という名目で[[公的資金]]が投入された。[[地方公共団体|自治体]]が[[プロフェッショナルスポーツ|プロスポーツ]]という[[企業|私企業]]に資本援助を行った例はカープ設立以外に他になかったが、1996年[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[アルビレックス新潟]]が設立される際に、同様に自治体が[[資本金]]援助を行った<ref>{{Cite book ja |author=「サッカー批評」編集部 |title=ニイガタ現象 日本海サッカー天国の誕生をめぐって |year=2004 |publisher=[[双葉社]] |page=115 |isbn=4575296724 }}</ref>。}}、[[広島市への原子爆弾投下|原爆に打ちひしがれた広島の街]]に希望の光を与えることを創設目的とする{{R|カープ}}という、他球団と比較して特異な歴史を有する {{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|hpmmuseum|樋口|STADIUM|baseball20180625|projectx|緒方|森本|野球考古学194|peace-tourism}}}}{{Refnest|group="注釈"|[[鈴木明]]と[[池井優]]は「日本のプロ野球の初期に於いて、[[新聞]]拡販や[[日本の鉄道|鉄道]]の[[沿線開発]]を目的とした野球興行というような考え方と、[[プロ野球地域保護権|都市]]を背景にした広島カープみたいなチームの発想が存在したというのは厳然たる事実」「アメリカの場合は都市対抗的な要素が非常に強く、アメリカ人に『ロッテ対日本ハム』と言ったら、アメリカ人は『菓子屋と肉屋が試合をやるのか?』とゲラゲラ笑う」などと述べている{{R|鈴木池井32}}。[[山本浩二]]は1981年の[[週刊誌]]の[[インタビュー]]で「広島で試合やると、打てないと地元ファンから[[ヤジ]]らるんですワ。市民はカープは自分の持ち物やと思うとるからヤジもエゲツない。これはツラい。他球場の方がいいね」などと話した<ref>{{Cite journal ja|author = |title = ザ・スポーツ 密着24時間 『"カープファンのエゲツない野次が怖いよ"というミスターー赤ヘルー山本浩二』 |journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] |issue = 1981年8月13日号 |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 122-123頁 }}</ref>。}}。カープは[[お好み焼き#お好み焼き(広島)|お好み焼き]]、[[マツダ]]、[[広島電鉄]]などと共に広島の[[戦後復興期#日本の戦後復興期|戦後復興]]の[[象徴]]として語られることが多い {{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|peace-tourism|momiji.hiroshima-u|reuters230518|postseven160901|中国170101}}}}。[[地域密着|地域密着型]][[プロフェッショナルスポーツ|プロスポーツ]]の先駆けである{{R|カープ}}。 地元・広島の自動車メーカーである[[マツダ]]が球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「'''東洋工業'''」に由来する{{R|toyokeizai161025}}。ただし、マツダは広島東洋カープを「[[持分法]]を適用していない[[連結子会社|非連結子会社]]」と位置づけており<ref>{{Cite web|和書|url=https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/download?uji.verb=W0EZA104CXP001003Action&uji.bean=ee.bean.parent.EECommonSearchBean&PID=W1E63011&SESSIONKEY=1458048346016&lgKbn=2&pkbn=0&skbn=1&dskb=&askb=&dflg=0&iflg=0&preId=1&mul=%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80&fls=on&cal=1&era=H&yer=&mon=&pfs=4&row=100&idx=0&str=&kbn=1&flg=&syoruiKanriNo=&s=S1004Y69#page=49 |title=第149期 (自 平成26年4月1日 至 平成27年3月31日) 有価証券報告書 マツダ株式会社 |accessdate=2021-09-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160315213931/https://disclosure.edinet-fsa.go.jp/E01EW/download?uji.verb=W0EZA104CXP001003Action&uji.bean=ee.bean.parent.EECommonSearchBean&PID=W1E63011&SESSIONKEY=1458048346016&lgKbn=2&pkbn=0&skbn=1&dskb=&askb=&dflg=0&iflg=0&preId=1&mul=%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%80&fls=on&cal=1&era=H&yer=&mon=&pfs=4&row=100&idx=0&str=&kbn=1&flg=&syoruiKanriNo=&s=S1004Y69 |archivedate=2016-03-15}}</ref>、経営陣の派遣は行う{{Efn|現在の常務取締役球団本部長である[[鈴木清明]]はマツダからの出向である。}}ものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する{{Efn|第3位株主の「カルピオ」は広島東洋カープの完全子会社であるため、議決権を有しない。}}。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による[[同族経営]]であるとの見方もある{{R|bunshun211019}}。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「'''特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている'''」という意味では今なお市民球団のイメージを有する{{Refnest|group="出典"|{{R|toyokeizai161025|bunshun211019|sankei150426|itmedia|市民球団|daily20131010}}}}。なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。 == 球団の歴史 == === 球団創設 === ; {{By|1949年}} : [[正力松太郎]]の[[プロ野球再編問題 (1949年)#発端・正力構想|2リーグ構想]]の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|野球考古学194|peace-tourism|広島カープのすべて90}}}}。広島は昔からスポーツが盛んで{{Refnest|group="出典"|{{R|スポーツ王国|energia}}}}、特に野球に熱狂的な土地柄{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|野球王国1|mainichi160527|city19628|nikkei170802|ninomiya180816}}}}。戦前から[[広島県立広島商業高等学校|広島商]]や[[広陵高等学校 (広島県)|広陵中]]、[[呉港高等学校|呉港中]]といった名門校があり、[[鶴岡一人]]や[[白石勝巳]]、[[藤村富美男]]などの名選手を輩出した[[野球王国]]という下地があった{{Refnest|group="出典"|{{R|baseball20180625|projectx|kan|野球王国2|j-town117461}}}}。 : 正力の2リーグ構想が公に出た4月から{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|baseball140331|asahi161019}}}}、4か月後の8月中旬、[[中国新聞社]]東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、[[広島電鉄]]専務・伊藤信之、[[広島銀行]]副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた{{Sfn|日本野球史|1980|pp=87-96}}。4人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の[[闇市]]時代が続き、[[青少年]]の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と4人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した{{Refnest|group="出典"|{{R|toyokeizai161025|nikkei170802|日本野球史87|sponichi2008}}}}。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり{{Refnest|group="注釈"|終戦直後、プロ野球を地方で行う場合、連絡先を務めた団体に「木曜会」というものがあり、これは[[共同通信社]]に本部を置く主な地方新聞社が集まり結成したもので、地方試合は、その土地の有力新聞社に興行を一任した。これはヤクザ関係興行団体の入る隙を与えないようにすることが狙いで、プロ野球が戦後、比較的健全な発達を遂げた理由の一つともいわれる。河口は「木曜会」の幹事で、カープ誕生以前の広島でのプロ野球開催は「木曜会」主催によるもの。[[広島大学]]設立資金の一部もここから拠出された{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|city19628|kan|日本野球史87}}}}。}}、3人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島2区選出の[[衆議院議員]]・[[谷川昇]]と元[[名古屋金鯱軍]]代表で広島県出身の山口勲が「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と訪ねてきた{{R|sponichi2008}}。谷川は当時[[公職追放]]中で公務からは外されていた{{R|野球考古学194}}。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが{{R|projectx}}、山口に助力を要請され{{R|abe2009}}、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた{{Refnest|group="出典"|{{R|野球考古学194|nhkfukkou}}}}。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した{{R|日本野球史87}}。谷川は実務は河口と山口に任せて、[[ニックネーム]]の想を練った{{R|日本野球史87}}。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、[[鯉]]は出世魚であるし、[[鯉のぼり]]は躍進の姿、[[太田川]]は鯉の名産地で[[広島城]]が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた([[#チームの特徴|詳細は後述]])。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した{{R|日本野球史87}}。 : 9月28日、中国新聞紙上に初めて「'''広島カープ (Hiroshima Carp)'''」の文字が一般にお目見得した{{R|日本野球史87}}。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた{{Refnest|group="出典"|{{R|asahi161019|日本野球史87}}}}。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球倶楽部・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏{{Refnest|group="注釈"|発起人代表。}}連名をもって正式に[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]に届け出が行われた」と書かれた{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|nikkei170802|asahi161019|日本野球史87}}}}。11月28日に谷川は[[読売ジャイアンツ|巨人軍]]代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた{{Refnest|group="注釈"|当初は[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]に加盟申請したが、2リーグ分立の混乱と、当時パ・リーグの中心であった[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]が[[阪神タイガース|大阪タイガース]]のパ・リーグ加盟に注力していた([[プロ野球再編問題 (1949年)]]参照)ことで、広島の加盟申請は放置されてしまった。そのためセ・リーグに加盟申請したところ、すぐに受理されたものであった{{R|abe2009}}。}}。原爆投下から4年と数ヵ月でプロ球団創設に漕ぎつけた{{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|peace-tourism}}}}。河口が[[早稲田大学]]出身のため、早大OBの[[伊達正男]]に監督を依頼するつもりでいたが{{R|広島カープのすべて90}}、中国新聞の記事を読んだ[[松竹ロビンス|大陽ロビンス]]の[[プロ野球監督|監督]]・[[石本秀一]]が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|日本野球史87}}}}、郷土チームにうってつけの監督として12月3日、石本の初代監督就任が決定した{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|日本野球史87|carp50y_9}}}}。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので{{R|日本野球史87}}、チーム作りを一任{{R|w-asahi75919}}。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ{{R|日本野球史87}}。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため{{R|baseball20180625}}、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる{{R|baseball20180625}}。設立資金は、広島県と広島市、[[福山市]]など県内の各市で出すことにした{{R|w-asahi75919}}。本拠地は[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]とした{{R|ninomiya180816|150th聖地_106}}。カープ発足より9年前に完成していた当時は廣島総合體錬場という名称だった同球場が、本格的な野球場だったことがカープ誕生に大きな役割を果たしたという見方もある{{R|ninomiya180816}}。 : 核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく{{Refnest|group="注釈"|同じくセ・リーグの新規球団であった[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]](親会社は[[大洋漁業]])は選手獲得資金として6,000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという<ref>{{Cite book ja |author=駒沢悟(監修) |author2=松永郁子 |title=広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡 |year=2002 |publisher=[[宝島社]] |series=[[宝島社文庫]] |page=19 |isbn=4796627278 }}</ref>。}}。正式な球団結成式は[[広島商工会議所]]に於いて1949年12月5日である{{R|読売491206}}。翌1949年12月6日付の[[読売新聞]]全国版には「広島カープス結成」と[[見出し#新聞記事の見出し|見出し]]が書かれている{{R|読売491206}}{{Refnest|group="注釈"|選手は[[中国・四国地方|中国、四国地方]]出身者を中心に交渉中だが監督には広島出身の石本秀一氏(現松竹ロビンス監督)を招く意向で近く実現するものと見られている、と書かれている{{R|読売491206}}。}}。球団関係者の中にも「カープス」と呼ぶ人が多かったという{{R|W朝日751017}}。12月5日に[[広島商工会議所]]で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが[[松竹]]から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである{{R|日本野球史87}}。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い」と呼びかけ{{R|tospo200118}}、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた[[灰山元治]]、投手では[[内藤幸三]]、野手では[[白石勝巳]]、[[岩本章]]ら23人を入団選手として発表した{{R|日本野球史87}}。 === 広島カープ時代 === ; [[1950年の広島カープ|1950年]] : 1月15日、西練兵場跡(現在の[[広島県庁]]一帯)でチーム結成披露式が行われ{{R|nhksports190805}}、ファン約1万人が押し寄せた{{R|sponichi2008}}{{Refnest|group="注釈"|結成披露式で、石本秀一監督(手前)らカープ選手が一列に並ぶ中国新聞の写真位置は{{Refnest|group="出典"|{{R|hpmmuseum|fukuya-dept80|sankei160815|mainichi200515}}}}、2017年8月30日放送『[[鯉のはなシアター]]』([[広島ホームテレビ]])第137回「特別編 鯉が歩んだあの場所は今」で{{R|koibana137}}、[[桝本壮志]]と[[長谷部稔]]が当地を訪れ、長谷部が後方の[[福屋八丁堀本店|福屋]]などとの位置関係から{{R|fukuya-dept80}}「[[広島中央警察署]]前の交差点あたりでないか」と話した{{R|koibana137}}。}}。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった{{Refnest|group="出典"|{{R|日本野球史87|mainichi200515}}}}。この日は[[辻井弘]]ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ{{Refnest|group="出典"|{{R|daily20150806|athlete210506}}}}、この中にいた[[長谷川良平]]は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる{{R|STADIUM}}。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・[[三菱重工業]]広島製作所、[[広島市]][[西区 (広島市)|西区]][[観音 (広島市)|観音新町]])の社員寮を宿舎として借りた{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|sponichi2008}}}}。暖かい[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ地]]に行けるはずもないので、合宿所近くの広島県総合球場を県の計らいで無料で2月1日から[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を張った{{R|sponichi2008}}。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、[[白石勝巳]]助監督が事実上の指揮官であった{{R|sponichi2008}}。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ{{R|野球考古学194}}、4月に合宿所は[[皆実町 (広島市)|皆実町]](現・[[南区 (広島市)|南区]])の「御幸荘」に引っ越す{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|sponichi2008|nhkfukkou}}}}。 : 3月10日に[[福岡市]]の[[平和台野球場]]でセ・リーグ開幕戦が行われ、[[西日本パイレーツ]]とのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている{{R|カープの歩み77}}。3月14日の[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄]]戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど{{読み|惨憺|さんたん}}たるチーム状況で、この年優勝した[[松竹ロビンス]]には59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ{{R|sponichi20080409}}。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が[[遊撃手]]として[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を受賞した。 : この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた{{R|daily20150806}}。そのため当初1,100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した{{R|w-asahi75919}}。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ{{R|広島カープのすべて90}}。 : こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった{{R|tateishi}}。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、二軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させたという、犯罪行為を働いたが、無罪放免となっている。{{R|広島カープのすべて90}} : 6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた二軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている{{Refnest|group="注釈"|後に二軍選手達は労働基準監督署に訴えたが、「プロ野球選手は労働者に該当せず」と受け入れてもらえなかった。球団からは音沙汰なく、彼らはそのまま解雇となった<ref>{{Cite book ja |author=西本恵 |title=広島カープ昔話・裏話 じゃけえカープが好きなんよ |year=2008 |publisher=トーク出版 |pages=57-58 |isbn=9784904014073 }}</ref>。}}。さらに7月12日に[[竹原市]]出身の[[池田勇人]][[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった{{R|広島カープのすべて90}}。 : 12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。 : ; [[1951年の広島カープ|1951年]] : 年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの[[鈴木龍二]]が、[[日刊スポーツ]]1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと[[西日本パイレーツ]]に対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した{{R|tateishi}}。 : 球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは[[サントリー|寿屋(現・サントリー)]]に相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣[[池田勇人]]に許可を求めたがもちろん「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて[[日本専売公社]]<ref group="注釈">専売公社は戦前から市街地南東部(現在の[[南区 (広島市)|南区]])の[[皆実町 (広島市)|皆実町]]に[[日本たばこ産業広島工場|広島工場]]を置き(現在の[[ゆめタウン広島]]の場所)、各種の運動部も活躍していたため、広島市民にとっては縁の深い企業だった。</ref>に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後には[[アサヒビール]]に売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった<ref>{{Cite book ja |author=西本恵 |title=広島カープ昔話・裏話 じゃけえカープが好きなんよ |year=2008 |publisher=トーク出版 |pages=86-88 |isbn=9784904014073 }}</ref>。 : こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、合宿所「御幸荘」の所有者が「御幸荘」を売却、[[段原]]の「向陽荘」に移る(1958年の三篠合宿所完成まで{{Refnest|group="出典"|{{R|中国130716|向陽荘|koibana85}}}}){{Refnest|group="注釈"|「鯉(こい)昇れ、焦土の空へ 「カープを愛した初代監督と広島市民の奇跡のドラマ」で[[富田靖子]]が演じた砂田時枝は、若手選手たちの合宿所としてアパートを提供し、10年間、一日三食300円の低料金で賄いを続けたが、この間球団からの支払いは滞ることが多く、着物や家具などを続々売って選手たちの食費に充てたのはドラマに描かれた通りである。1958年の三篠合宿所完成までこれが続き、立て替え額は当時の金で200万円にのぼり、球団からの返済は何年も後のことだった{{R|W朝日751017}}。}}。練習場の確保も難しかったことから、「向陽荘」の裏山にあたる[[比治山]]を自主練習の拠点とした{{Refnest|group="出典"|{{R|中国130716|向陽荘|koibana85}}}}。3月16日から[[阪神甲子園球場|甲子園]]で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められる。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが{{R|広島カープのすべて90}}、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、[[大平正芳]](後援会会長・[[池田勇人]]の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「'''プロ野球は金が無いものがやるものではない'''」「'''早急に身売りしてはどうか'''」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]との合併が決まり{{R|sponichi20080409}}、その日の[[NHKラジオ]]が夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|sponichi20080409}}}}が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園の[[阪神甲子園球場#スタンド|アルプススタンド]]下の薄暗い部屋で雑魚寝した{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|W朝日751017}}}}。 : 石本は3月16日の[[中国新聞]]紙上で「'''いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい'''」と労働者の権利を無視し、身勝手にも訴え{{Refnest|group="出典"|{{R|sponichi20080409|chugoku19510316|shuchi|myjcom}}}}、3月20日には広島県庁前で資金集めの[[後援会]]構想を発表した{{Refnest|group="出典"|{{R|athlete210506|sponichi20080409|chugoku071027 }}}}。 : 3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において[[鈴木龍二]]セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と[[永野重雄]]代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている{{R|名前なし-1}}。こうして3月23日、[[鈴木龍二]]セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した{{R|カープの歩み77}}。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにもかかわらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した{{R|名前なし-1}}。 : 連盟の通告を受けて、[[檜山袖四郎]]球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の[[松島鹿夫]]セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより{{R|名前なし-1}}、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した{{R|sponichi20080409}}。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]戦となった{{R|カープの歩み77}}。 : 石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した{{Refnest|group="出典"|{{R|baseball20180625|peace-tourism|sponichi20080409}}}}。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を行い、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた{{Refnest|group="出典"|{{R|STADIUM|nhkfukkou|carp50y_9}}}}。また石本や白石は試合後に選手を連れて県内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"や"カープ石鹸""カープ選手サイン入りふろしき"などを売ったりした{{Refnest|group="出典"|{{R|野球考古学194|w-asahi75919|W朝日751017|nhksports190805|daily20150806|ひろスポ150910|sasaetaru}}}}。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地の広島総合球場前での酒樽の中に募金を入れる「樽募金」{{Refnest|group="出典"|{{R|nhksports190805|150th聖地_106}}}}も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時){{R|sasaetaru}}。その結果、この年130万円の黒字を計上した{{R|sponichi20080409}}。この一件は、通称「昭和の樽募金」と呼ばれ、2001年5月1日放送の[[日本放送協会|NHK]]『[[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]]』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた{{R|projectx}}。 : しかし、前年度[[クリーンナップ]]としてチーム最多の21[[本塁打]]・72[[打点]]を記録した[[樋笠一夫]]が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの[[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]]に吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日([[日米野球]])があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった<ref>{{Cite book ja |title=定本 プロ野球40年 |year=1976 |publisher=[[報知新聞社]] |page=121 }}</ref>。 : 12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として[[中日ドラゴンズ|名古屋ドラゴンズ]]への移籍を表明する{{Efn|当時、球団は12月15日までに選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に帰郷していた長谷川には期日までに書類が届かなかったことに端を発する。}}が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により、長谷川の広島復帰が決まっている{{R|カープの歩み77}}。 : ; [[1952年の広島カープ|1952年]] : 開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|carp50siraisi}}}}。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており<ref group="注釈">具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。</ref>、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて90|carp50siraisi}}}}。 : 開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた{{Refnest|group="注釈"|この年は[[松竹ロビンス]]が最下位で、勝率は.288(34勝84敗2分)。規定通りロビンスは、[[横浜DeNAベイスターズ|旧・大洋ホエールズ]]との合併を余儀なくされた{{R|carp50siraisi}}。また、これとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている<ref>{{Cite book ja |author=中野晴行|authorlink=中野晴行 |title=球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎 |year=2000 |publisher=[[筑摩書房]] |page=208 |isbn=4480818162 }}</ref>。}}。[[長谷川良平]]と[[杉浦竜太郎]]の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。 : なお、この年から[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制]]が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。 : 10月13日のシーズン終了後から2日後の10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。松竹は勝率3割を下回って「罰則」対象となることが決まったため、チームの解散を見越しての素早い動きだった。 : ; [[1953年の広島カープ|1953年]] : 大洋に吸収合併された松竹から[[赤嶺旋風|赤嶺昌志一派]]([[小鶴誠]]・[[金山次郎]]・[[三村勲]])が集団で移籍した。後援会は外国人選手を獲得するため更に400万円を集め、その結果、[[日系人|日系二世]]選手である銭村兄弟([[銭村健三]]・[[銭村健四]])・[[光吉勉]]が入団した{{R|fukkoheiwakenkyu21}}。 : さらに[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]のファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。 : なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。 : また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは[[フマキラー|大下回春堂(フマキラー)]]から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。 : ; [[1954年の広島カープ|1954年]] : この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの[[新日本リーグ]]に、[[広島東洋カープ (ファーム)|二軍]](広島グリーンズ)が参加した。 : この頃になると球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり<ref group="注釈">白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた[[大和田明]]を獲得している。</ref>、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[週刊ベースボール]] |date=2011-11-14 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |page=80}}</ref>。 : [[広陵高等学校 (広島県)|広陵野球部]][[OB・OG|OB]]・[[松本瀧藏]][[衆議院#代議士|代議士]]の手引きにより、1月16日から31日まで初の海外遠征([[フィリピン]]){{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|fukkoheiwakenkyu21}}}}。 : 新婚旅行のため来日していた[[ジョー・ディマジオ]]と[[マリリン・モンロー]]夫妻が、2月11日広島入りし{{Refnest|group="出典"|{{R|中国990422|カープ昔話222}}}}、広島に4日間滞在{{Refnest|group="出典"|{{R|mainichi160527|佐山|don196285}}}}。宮島口(現:[[廿日市市]])の一茶苑<ref>[https://www.facebook.com/419424658092825/posts/990570620978223/ マリリン・モンローの夢 1954年(昭和29年)2月1日、アメリカ大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオと、ハリウッド女優のマリリン・モンロー夫妻が新婚旅行で日本を訪れた…]</ref>と広島市内の三瀧荘に宿泊し{{Refnest|group="出典"|{{R|中国990422|カープ昔話222|佐山|三滝荘}}}}、[[広島平和記念公園]]やABCC(現:[[放射線影響研究所]])などを訪問{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ昔話222|rerf|monroe}}}}。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビー・ブラウン、[[フランク・オドール]]が広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った{{Refnest|group="出典"|{{R|STADIUM|mainichi160527|中国990422|カープ昔話222|佐山|don196285|monroe}}}}。 : シーズンは、開幕7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。 : ; [[1955年の広島カープ|1955年]] : この年から助監督に[[門前真佐人]]、二軍監督に[[野崎泰一]]が就任する。 : 2月28日、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。 : 3月11日、日系2世の[[平山智 (野球)|平山智]]が入団。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、[[最多勝利|最多勝]]のタイトルを獲得した。 : また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった{{R|bunshun211019}}。そこで[[マツダ|東洋工業]]社長の[[松田恒次]]の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定{{R|bunshun211019}}。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する{{R|bunshun211019}}。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場(初代。以下「初代・市民球場」)]]の設計図を公表している。 : その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は[[広島電鉄]]の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。 : なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「'''会社の名称変更にすぎない'''」と押し切っている。 : ; [[1956年の広島カープ|1956年]] : 開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。 : 5月20日、広島総合球場で開催された対[[読売ジャイアンツ]]戦で[[木戸美摸投手負傷事件]]が起こる。 : 7月17日、地元政官界の六者会談を経て、初代・市民球場の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄[[原爆ドーム前停留場]]横)に正式決定する{{R|city19628}}。 : ; [[1957年の広島カープ|1957年]] : 1月14日、地元有力企業11社で構成する親睦団体「二葉会」{{Refnest|group="注釈"|山陽木材防腐(現ザイエンス)、中国新聞社、[[中国醸造]]、[[中国電力]]、中国電気工事([[中電工]])、東洋工業、[[広島ガス]]、広島銀行、広島相互銀行(現[[もみじ銀行]])、広島電鉄、フジタ工業(現[[フジタ]])(五十音順){{R|W朝日751017}}。}}が初代・市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ{{R|W朝日751017}}、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。 : 7月22日、初代・市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では初ナイターで集まった大観衆を前に1-15で大敗している。 : この年は白石監督の「'''闘志無き者は去れ'''」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。 : ; [[1958年の広島カープ|1958年]] : 初代・市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、[[古葉竹識|古葉毅]]、[[森永勝治]]、[[小坂佳隆]]、[[鵜狩道夫]]、[[拝藤宣雄]]、[[大和田明]]ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「[[立教大学硬式野球部|立教]]三羽烏」とうたわれた[[長嶋茂雄]]、[[杉浦忠]]、[[本屋敷錦吾]]の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。 : また、1950年の[[灰山元治|灰山元章]]以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに[[門前真佐人]]、コーチに[[野崎泰一]]、[[藤村隆男]])。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する{{R|向陽荘}}。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。 : この年は4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調が祟り、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、[[小鶴誠]]がチーム若返り策により、引退を表明する。 : ; [[1959年の広島カープ|1959年]] : この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また、初代・市民球場で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。 : 2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。 : 5月7日の対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍が[[ウエスタン・リーグ]]初優勝達成{{R|60年史41}}。 : この年は前年に引き続き、5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った[[大和田明]]は[[樋笠一夫]]の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。また、この年の観客動員数は862,965人と12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。 : ; [[1960年の広島カープ|1960年]] : 1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。 : この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。[[大石清]]が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、[[興津立雄]]は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。 : ; [[1962年の広島カープ|1962年]] : [[門前眞佐人]]が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。 : 前年に現役を引退した[[上田利治]]がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。 : ; [[1963年の広島カープ|1963年]] : 門前に代わる新監督として[[小鶴誠]]を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長の伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・[[マツダ]])社長の[[松田恒次]]が就任し、白石勝巳が再び監督となる。 : 初の県外[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]となる[[キャンプ (日本プロ野球)|春季キャンプ]]が[[宮崎県]][[日南市]]で始まる<ref>{{Cite web|和書|author=[[越智正典]]|date=2016-09-18|title=1963年、日南から始まったカープのVドラマ|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/baseball/npb/592857/|work=[[東京スポーツ|東スポWeb]]|publisher=東京スポーツ新聞社|accessdate=2021-06-22|archiveurl=https://archive.ph/wFmYf|archivedate=2021-06-22}}<br />{{Cite web|和書|date=2017-02-07 |url=http://j.sankeibiz.jp/article/id=736 |title=〔連載〕観光立国のフロントランナーたち 日南市 﨑田恭平市長(最終回) |work=JAPAN style 訪日ビジネスアイ |publisher=[[産業経済新聞社|産経デジタル]] |accessdate=2021-06-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170209155136/http://j.sankeibiz.jp/article/id=736 |archivedate=2017-02-09}}<br />{{Cite web|和書|author=広尾晃|date=2018-03-10|title=プロ野球「春季キャンプ」が宮崎に与えた貢献2018年の12球団のキャンプ動向を探る<上> |url=https://toyokeizai.net/articles/-/211760?page=4|work=[[東洋経済新報社#「東洋経済オンライン」|東洋経済オンライン]]|publisher=[[東洋経済新報社]]|accessdate=2021-06-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180315172434/https://toyokeizai.net/articles/-/211760?page=4|archivedate=2018-05-15}}</ref>。 : ; [[1964年の広島カープ|1964年]] : 5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の[[王貞治]]を抑え込む作戦として白石監督考案の[[王シフト]]が初めて使われる{{R|60年史41}}。 : ; [[1965年の広島カープ|1965年]] : 5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり{{Sfn|60年史|2009|p=41}}、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。 : ; [[1966年の広島カープ|1966年]] : 6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で[[山本一義]]が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。 : 1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは[[長谷川良平]]が監督を務めた。 : ; [[1967年の広島カープ|1967年]] : 東洋工業(現・[[マツダ]])社長の[[松田恒次]]が筆頭株主となりオーナーに就任{{R|カープ}}。[[松田耕平]]がオーナー代行に就任。12月17日、球団名を'''広島東洋カープ'''に改称{{R|kotobank}}。球団へ経費を渡すにあたり、税務当局から球団名に社名を入れる必要があるとの指摘があり、その上での球団名変更であった{{R|bunshun211019}}。市民球団としての体裁を保ちつつも{{R|カープ}}、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。 === 広島東洋カープ時代 === ==== 根本監督時代 ==== ; [[1968年の広島東洋カープ|1968年]] : [[根本陸夫]]が監督に就任。根本はトレードでベテランの[[山内一弘]]を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=080-20150622-01 「とにかく石頭だった」という山内一弘監督] - 週刊ベースボールオンライン</ref>。 : 阪神との開幕3連戦に連勝し、首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし、6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。[[外木場義郎]]・[[安仁屋宗八]]両投手、野手では山内の活躍もあって、3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録<ref group="注釈">現在の日本記録は1978年から1997年にかけて[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス→福岡ダイエーホークス]]が記録した19年連続。</ref>。なお、シーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。 : ; [[1969年の広島東洋カープ|1969年]] : 前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人が[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9時代]]を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で[[外木場義郎]]、打者では[[衣笠祥雄]]と[[山本浩二|山本浩司]]の[[YK砲]]に[[水谷実雄]]ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した{{R|kotobank}}。オフに監督の根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から、上田利治コーチが退団した。 : ; [[1970年の広島東洋カープ|1970年]]、[[1971年の広島東洋カープ|1971年]] : 1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に[[松田恒次]]オーナーが死去、後任にオーナー代行の[[松田耕平]]が就任{{R|60年史47}}。 : 2年連続でシーズンを勝ち越し、4位と健闘。 : ; [[1972年の広島東洋カープ|1972年]] : 開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、[[森永勝也]]打撃コーチが代行を務める。この年は最下位に終わる。 ==== 別当監督時代 ==== ; [[1973年の広島東洋カープ|1973年]] : [[別当薫]]が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し、60勝67敗3分の最下位に終わる。しかし、リーグ優勝しV9を達成した巨人とのゲーム差はNPB史上最小の6.5ゲームにとどまる大混戦だった<ref>[https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1973.html 1973年セ・リーグ成績] - 日本野球機構、[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190906-12 過去最も首位から最下位までのゲーム差がなかったシーズンは?] - 週刊ベースボールOnline、2019年9月6日</ref>。 ==== 森永監督時代 ==== ; [[1974年の広島東洋カープ|1974年]] : チームは最下位に終わるも[[金城基泰]]が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし金城は10月12日交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・[[ジョー・ルーツ]]の次期監督就任を発表。 : 1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年にユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は後にチームカラーとなった。 : カープはファンの雑音が多く、それまで思い切った[[トレード#プロ野球|トレード]]が出来なかったが{{R|W朝日751017}}、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[理性主義|合理主義]]のルーツ監督と、元[[サッカー日本代表]]・[[重松良典]]球団代表という怖いもの知らずの素人的発想が上手く噛み合い{{Refnest|group="出典"|{{R|W朝日751017|日刊0712}}}}、この年オフに[[若生智男]]、[[三輪悟]]、[[米山哲夫]]、[[宮本幸信]]、[[児玉好弘]]、[[渡辺弘基]]、[[大下剛史]]、[[佐野嘉幸]]とかつてない大胆トレードを断行した{{Refnest|group="出典"|{{R|W朝日751017|日刊0712}}}}。 ==== ルーツ・古葉監督時代 ==== ; [[1975年の広島東洋カープ|1975年]] : 球団初の外国人監督としてルーツが監督に就任{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|anotherstories180327}}}}。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|日刊0712|S40男10s}}}}、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から血のような鮮やかな赤になった{{Refnest|group="出典"|{{R|日刊0712|myjcom14}}}}。赤いヘルメットは日本プロ野球では画期的なことで{{R|myjcom14}}、移籍してきた大下は「[[北海道日本ハムファイターズ|日拓]]も[[北海道日本ハムファイターズ#7種類のユニフォーム|7色のユニフォーム]]でやっていたけど、もっと恥ずかしかったよ」と話し{{R|日刊0712}}、山本も衣笠も「恥ずかしかった」と言葉を揃えた{{Refnest|group="出典"|{{R|日刊0712|myjcom14}}}}。日南キャンプでは、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]史上最高の[[サウスポー#野球|サウスポー]]といわれた[[ウォーレン・スパーン]]を臨時コーチに招く{{R|日刊0712}}。またルーツは全力疾走しない選手に10万円の罰金と即二軍落ちの厳罰を与え、選手は震え上がったが、相手に相当な重圧を与え、[[パシフィック・リーグ|パリーグ]]では[[福本豊]]がいて目立たなかった大下が44盗塁で盗塁王を撮り、両主砲の山本が24、衣笠も18盗塁を決め、「広島には足がある」イメージを植え付けた{{R|日刊0712}}。この年はキャンプ前から早々とレギュラーを固定したことで、控え選手のモチベーションの低下が懸念されたが、それを防ぐため、ピッチャーやサードコーチのサインを見抜いたなどもプラス査定に変更した{{R|日刊0712}}。前年まで三年連続最下位で初めての外国人監督も不安視され、開幕前の[[マスメディア]]の予想は、当然ながらダントツの最下位予想だった{{R|日刊0712}}。重松球団代表も「1年目で何とかAクラス、2-3年で優勝争いが出来るチームにしてもらえたら」と考えていた{{R|日刊0712}}。 : しかしルーツは開幕早々の4月27日の対阪神戦において[[佐伯和司]]の投球判定を巡って猛抗議、試合をボイコットする騒動を起こす{{R|S40男10s}}。この時、重松球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任{{R|S40男10s}}、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日[[古葉竹識]]がコーチから監督に就任した{{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|60年史53|myjcom14}}}}。この年の[[1975年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]の第1戦(甲子園)では[[山本浩二]]と[[衣笠祥雄]]が共に1試合2本塁打を記録するなど、赤いヘルメットが塁間をかけめぐる姿から「赤ヘル旋風」を巻き起こした{{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|カープ|60年史53|nikkan130406|myjcom14}}}}。優勝を目前とした『[[週刊朝日]]』1975年10月17日号の「広島カープファン必携 『赤ヘル百科事典』」という特集記事に「赤ヘル=いまや広島カープの別称となった。カープの選手たちが今シーズンからかぶってる。この赤い帽子とヘルメット、きわめてテレビ映りがよく、広島の野球少年たちもみな愛用している。ルーツ前監督が、日本を象徴する色、闘志を表す色としてこの赤を選んだという。はるかなるアラブから、ヒロシマ赤軍に連帯のあいさつが来たという話は、真っ赤なウソである」と書かれている{{R|W朝日751017}}。優勝争いの盛り上がりと共に、この"赤ヘル"という[[キャッチコピー|キャッチフレーズ]]が定着し、また"赤ヘル"は当時は[[ヘルメット#新左翼のヘルメット|ゲバヘル]]や[[連合赤軍]]のイメージが強かったものと見られる{{R|W朝日751017}}。山本は「最初は赤が恥ずかしかったけど、勝利を重ねるにしたがって、世間から『赤ヘル軍団』と言われるようになってきた。そうなると不思議なもので愛着が沸いてきてあの赤が誇りに思えるようになった」などと述べている{{R|日刊0712}}。「赤ヘル」はカープの[[代名詞]]となった{{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|W朝日751017}}}}。[[少年野球]]や[[日本の高校野球|高校野球]]のユニフォームに赤が取り入れられるようになったのも『赤ヘル軍団』が黄金時代を築いたからである{{R|日刊0712}}。 : 中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(初代・市民球場)では乱闘事件があったものの{{Refnest|group="出典"|{{R|STADIUM|1975暴動}}}}、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝を達成した{{Refnest|group="出典"|{{R|kotobank|anotherstories180327}}}}。この時の先発は[[外木場義郎]]で、ウイニングボールを捕ったのは左翼手の[[水谷実雄]]<ref>{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=77495&comment_sub_id=0&category_id=534 |title=カープ伝説(1)悲願のリーグ初優勝(1975年10月16日付中国新聞朝刊) |website=[[中国新聞|中国新聞アルファ]] |accessdate=2016-03-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160316020222/http://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=77495&comment_sub_id=0&category_id=534 |archivedate=2016-03-16}}</ref>。この年の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となった山本浩二や衣笠祥雄、[[最多勝利|最多勝]]の[[外木場義郎]]、盗塁王の[[大下剛史]]らの活躍が目立った{{R|大下}}。優勝後、[[平和大通り]]で行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。創設時代から積み上げてきた野球が花開いた瞬間であった{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|鈴木池井38}}}}。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。長きに亘る低迷で「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで揶揄され、身売りの危機もあったがようやく「お荷物球団」を返上した{{R|nikkan130406}}。「赤ヘル悲願の初V」とまだ[[モノクローム|モノクロ]][[印刷]]だった[[スポーツ新聞|スポーツ紙]]各紙はカープの快挙を伝えた{{R|S40男10s}}。"悲願の"という言葉は後付けで、実情は万年最下位からの脱出を願う正真正銘の弱小球団だったからこそ、強烈なインパクトがあった{{R|S40男10s}}。それは硬直化したプロ野球界を開花させる引き金となった{{R|S40男10s}}。それまでの日本のプロ野球は、巨人とその他の11球団という潜在的な印象があったが{{R|S40男10s}}、天地が引っくり返るようなカープの優勝を境に12球団それぞれがカラーを発揮し始めやがて戦力を拮抗させていく{{R|S40男10s}}。[[中国地方]]の市民球団が巻き起こした旋風が後世に残した影響は計り知れない{{R|S40男10s}}。 : [[1975年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]と対戦するも4敗2分で敗退。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した{{Refnest|group="出典"|{{R|W朝日751017|宇佐見徹也1087}}}}。前年約65万人からの大幅アップ{{R|W朝日751017}}。またこの年は春に[[山陽新幹線]]が[[岡山駅]]から[[博多駅]]まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている<ref>2014年9月27日付[[中日新聞]]1面「時代の先へ 東海道新幹線50周年」第4回</ref>。経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。前年の1974年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)ドラフトで、高橋慶彦この年の1975年度新人選手選択会議(日本プロ野球)ドラフトで獲得した[[北別府学]]、[[山根和夫]]ら、若い力を加え、強豪チームへ変貌する{{R|kotobank}}。 : ; [[1976年の広島東洋カープ|1976年]] : [[池谷公二郎]]が20勝を挙げ最多勝と[[沢村栄治賞|沢村賞]]。巨人・阪神との優勝争いに加われず、当初は山本浩二の不振もあって低迷。9月は11連敗も記録し、最後は辛うじて3位につけた。 : ; [[1977年の広島東洋カープ|1977年]] : 5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、[[江夏豊]]が[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]より移籍{{Sfn|60年史|2009|p=53}}。南海の監督だった[[野村克也]](古葉は南海でプレーし、野村と親交があった)が古葉に「(江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという<ref>[[日本経済新聞]]『[[私の履歴書]]・江夏豊』2017年12月25日</ref>。[[高橋里志|高橋里]]が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。 : ; [[1978年の広島東洋カープ|1978年]] : カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本の[[エイドリアン・ギャレット|ヘンリー・ギャレット]]、33本の[[ジム・ライトル]]、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した{{R|宇佐見徹也428}}。また、[[打点]]692、[[得点]]713は[[ボール (野球)#「飛ぶボール」の問題|ラビットボール]]を使用して本塁打の増えた{{By|1948年}}から{{By|1950年}}を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし、前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝した[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]と5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。 : ; [[1979年の広島東洋カープ|1979年]] : 開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、[[高橋慶彦]]の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり、一気に首位に立つと、1975年以来4年ぶり2度目、本拠地で初のリーグ制覇。[[1979年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]を4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する{{R|kotobank}}。第7戦では江夏が無死満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け、日本一に導く('''[[江夏の21球]]'''){{Refnest|group="出典"|{{R|shashin|150th聖地_79}}}}。 : ; [[1980年の広島東洋カープ|1980年]] : この年は前年とは打って変わり、序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いのまま近鉄を4勝3敗で下し、[[1980年の日本シリーズ|日本シリーズ]]2連覇{{R|kotobank}}、本拠地で初の日本一を成し遂げた{{R|shashin}}。オフに江夏豊と[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]のエース[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]との大型トレードが成立。 : ; [[1981年の広島東洋カープ|1981年]] : この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。 : ; [[1982年の広島東洋カープ|1982年]] : 山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)が優勝した中日に11勝9敗6分と勝ち越した。オフにテコ入れとして[[福士敬章]]、[[内田順三]]、[[金田留広]]らに戦力外通告、[[水沼四郎]]を[[中日ドラゴンズ|中日]]へトレード、[[水谷実雄]]と[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[加藤秀司|加藤英司]]との大型トレードを敢行するなど、V戦士放出を敢行。[[北別府学]]が初の最多勝、[[津田恒実|津田恒美]]が活躍し、球団初の[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。 : ; [[1983年の広島東洋カープ|1983年]] : 7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。 : ; [[1984年の広島東洋カープ|1984年]] : 4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、1980年以来4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え、[[山根和夫]]、[[北別府学]]、[[大野豊 (野球)|大野豊]]ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の[[小林誠二]]が最優秀防御率。[[小早川毅彦]]が新人王。[[1984年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一になった{{R|kotobank}}。なお、広島はこの年を最後に1度も日本一になっておらず、現存12球団の中で「最も日本一から遠ざかっている球団」になっている<ref group="注釈" name=":0">ただし、[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]を介さない日本一から最も長く遠ざかっているのは[[千葉ロッテマリーンズ]]で、唯一の日本一は毎日オリオンズ時代の1950年まで遡る。</ref>。また、2009年から本拠地を[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]に移転するため、初代・市民球場および本拠地での日本一もこの年が最後となった。 : ; [[1985年の広島東洋カープ|1985年]] : サウスポーの[[高木宣宏]]がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の[[川端順]]が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し、10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を辞任。同年、[[松田元]]がオーナー代行に就任。 ==== 阿南監督時代 ==== ; [[1986年の広島東洋カープ|1986年]] : 阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが<ref>[[スポーツニッポン]]、古葉竹識の我が道、2016年11月26日。</ref><ref group="注釈">古葉は山本浩二に監督やるように言ったが山本は現役一本にこだわり監督要請を断り阿南が監督に就任した。</ref>、就任1年目にリーグ優勝を果たす<ref group="注釈">この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。</ref>。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。[[長冨浩志]]が新人王。[[1986年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった{{R|kotobank}}。 : 前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。また、この年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。 : ; [[1987年の広島東洋カープ|1987年]] : 6月13日、衣笠が[[ルー・ゲーリッグ]]の2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新。衣笠が最終戦までに2215まで記録を伸ばし、現役を引退した。衣笠の引退により、球団名に「東洋」がつく前の広島カープに所属した選手が全員引退した。4番打者は5月末までは[[リック・ランセロッティ|ランス]]、その後小早川、もしくは[[片岡光宏]]が務めた。[[正田耕三]]が首位打者、ランスが本塁打王を獲得、優勝した巨人に11勝10敗5分と勝ち越しするも3位に終わる。 : ; [[1988年の広島東洋カープ|1988年]] : 2年連続の3位に終わる。正田が2年連続の首位打者、大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞を受賞、阿南が監督を退任した。同年オフ、山本浩二が監督に就任。 ==== 第1次山本監督時代 ==== ; [[1989年の広島東洋カープ|1989年]] : 開幕からはレッズ風の新ユニフォームに変更。新外国人の[[ロッド・アレン]]、[[ウェイド・ロードン]]が加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、[[西田真二]]もしくは[[長内孝]]でクリーンナップを形成した。津田が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。[[高橋慶彦]]は2対3のトレードでロッテへ移籍。 : ; [[1990年の広島東洋カープ|1990年]] : [[野村謙二郎]]が1番・遊撃手に定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入の[[マイク・ヤング (外野手)|マイク・ヤング]]、[[高沢秀昭]]が振るわず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。新人の[[佐々岡真司]]は13連続セーブポイントの新記録樹立などフル回転した。 : ; [[1991年の広島東洋カープ|1991年]] : この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し、闘病生活に入る(津田はこの年の11月に現役を引退)。大野が津田の穴を埋めるべく、一人抑えとしてリリーフを支えた。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを{{読み|牽引|けんいん}}。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は[[規定打席]]に達していない[[江藤智 (野球)|江藤智]]の11本)の中、勝負強い[[西田真二]]や[[山崎隆造]]などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の[[前田智徳]]がレギュラーに定着、江藤も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡が[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に[[川口和久]]が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝{{R|kotobank}}。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は初代・市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。[[1991年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した{{R|kotobank}}。 : この年から2015年にかけて24年間、リーグ優勝・日本シリーズ出場から遠ざかることになる。また、2009年から本拠地をマツダスタジアムに移転するため、初代・市民球場でのリーグ優勝および日本シリーズはこの年が最後となった。 : ; [[1992年の広島東洋カープ|1992年]] : この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位<ref group="注釈">この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。</ref>となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、[[達川光男]]が引退した。 : ; [[1993年の広島東洋カープ|1993年]] : 7月20日、津田が脳腫瘍のため、32歳で死去した。[[江藤智 (野球)|江藤智]]が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。前半戦は4月11勝4敗と好スタートしたが5月に8勝15敗となったが不調の投手陣を打撃陣がカバーして6月7月と何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦は9月には25年ぶりの12連敗を喫するなど5勝19敗で急失速し、10月も6勝13敗、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には[[三村敏之]]が就任し、チーフ兼打撃コーチに[[山本一義]]を招聘した<ref>広島東洋カープ70年史 (B.B.MOOK1491)、2020年、P64、[[ベースボール・マガジン社]]</ref>。 ==== 三村監督時代 ==== ; [[1994年の広島東洋カープ|1994年]] : 新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し、主に中継ぎ投手だった[[紀藤真琴]]、[[近藤芳久]]を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった[[金本知憲]]、[[緒方孝市]]、[[音重鎮]]等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も[[西山秀二]]が[[ゴールデングラブ賞]]・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し、3位に終わった。オフに[[川口和久]]が巨人に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]移籍、北別府が引退した。 : ; [[1995年の広島東洋カープ|1995年]] : この年のドラフト1位[[山内泰幸]]とカープアカデミー出身[[ロビンソン・チェコ]]が大活躍した。しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁([[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]のタイトルも取った)の[[トリプルスリー]]を達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、一時は2.5ゲーム差に迫ったが首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。 : ; [[1996年の広島東洋カープ|1996年]] : チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した[[加藤伸一]]、5年目の[[山﨑健]]が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]、緒方が2年連続の盗塁王、[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]が打点王を獲得した。 : ; [[1997年の広島東洋カープ|1997年]] : 野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の[[澤﨑俊和]]、ドラフト2位の[[黒田博樹]]、3年目の[[横山竜士]]、8年目の[[高橋英樹 (野球)|高橋英樹]]が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。[[大野豊 (野球)|大野豊]]が42歳で史上最年長の[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]のタイトルを獲得したものの、順位は3位ながら中日以外の4球団に負け越して貯金は作れず、その後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。 : ; [[1998年の広島東洋カープ|1998年]] : 新外国人の[[ネイサン・ミンチー]]、この年のドラフト4位の[[小林幹英]]が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には5球団全てに負け越しながらも借金15で5位に終わった。また、この年は[[明治神宮野球場|神宮球場]]での試合は10戦全敗に終わった<ref>朝日新聞東京本社版1998年8月28日付朝刊19面</ref>。オフに監督の三村が辞任。後任に1992年の引退後、フジテレビや地元のテレビ新広島で野球解説者を務め、95年には[[ダイエーホークス]]にて一軍バッテリーコーチの経験を経てこの年から二軍監督となっていた[[達川光男]]が就任。この年限りで大野、正田が引退した。 ==== 達川監督時代 ==== ; [[1999年の広島東洋カープ|1999年]] : 達川新監督は黄金時代復活のため、自らの登録名を「達川晃豊」(読みはそのまま)に変更。また、チーム再建の切り札としてかつての同僚だった大下剛史をヘッドコーチ、OBの西田真二を打撃コーチ、前年引退の大野豊を投手コーチ、同じく同僚の正田耕三を内野守備走塁コーチに据えるなど、コーチ陣を一新してキャンプイン。しかし、三村監督時代のキャンプが緩かったのに対し、大下ヘッドコーチの主導で行ったキャンプがあまりにも地獄過ぎたことから、主力選手の故障者が続出。それでも開幕からの2か月は借金1で健闘したものの、6月後半からほとんど勝てなくなり、13連敗で一気に最下位に落ちると、8月も8勝17敗で苦戦。同じく主力選手の故障や不振、離脱が相次いだ阪神の12連敗に助けられ、5位に上がるのがやっとで、優勝の中日に24ゲーム差を付けられて達川監督の1年目は2年連続5位に終わった。オフに大下ヘッドコーチ(シーズン途中で休養)と大野投手コーチと正田守備走塁コーチは成績不振の責任を取って辞任。4番の江藤智が巨人へFA移籍し、チームは転換期を迎える。 : ; [[2000年の広島東洋カープ|2000年]] : 達川監督2年目を迎えてチームはOBの木下富雄をヘッドコーチに迎えてコーチ陣を若干手直ししたが、それ以外の戦力は不変だった。大下剛史前ヘッドコーチの退団もあり、地獄のキャンプから解放されたチームは絶好調で、4月を15勝9敗と勝ち越し、Aクラス入りが期待された。しかし、前田智徳や緒方孝市や野村謙二郎ら主力選手がケガに見舞われるなどのアクシデントもあり、その反動から一気に成績が低下。投手陣でも前年の不振から復活したネイサン・ミンチーや不動のエース佐々岡真司、さらに後に球界の大エースとなる黒田博樹などが勝ち星を増やしたもののリリーフ陣は相変わらず不調で、打撃陣はこの年から4番に座った金本知憲や復帰したルイス・ロペスの活躍もあったが投打のアンバランスが多少見られた。終盤までまずまずの成績を残し、ヤクルトと4位争いを演じるも投壊に喘ぎ、前年から借金は減ったものの、故障者続出もあり、3年連続5位となり、達川監督はたった2年で辞任。 ==== 第2次山本監督時代 ==== ; [[2001年の広島東洋カープ|2001年]] : 達川光男前監督の突然の辞任を受け、1993年まで監督を務めた山本浩二が8年ぶりに監督再登板。山本新監督は達川前監督が育てていた東出輝裕や新井貴浩をこの年の開幕スタメンで起用し、木村拓也を1番に据えるなど打撃陣のテコ入れを図った。しかし、開幕3番の緒方孝市が開幕戦でクロスプレーの際に負傷し、前田智徳もケガの影響で出場機会が減るなどの誤算もあった。投手陣ではエースに成長した黒田博樹が低迷するチームの中で主力となり、先発・リリーフと便利屋的な起用が多かった高橋建を開幕から先発に固定した結果10勝を上げる活躍を見せ、先発・リリーフ両方で活躍した佐々岡真司やこの年ローテーション入りの長谷川昌幸もそれなりの成績を残し、菊地原毅が140試合のうち、78試合に登板(当時の日本記録タイ記録)し、当時のするなど、明るい話題が多かった。チームは中日が脱落した8月から横浜とAクラス争いを演じるも、勝ち星の差に泣き、山本監督1年目は4位で終え、1997年以来のAクラス入りはならなかった。しかし、終わってみれば、68勝65敗7分で5年ぶりに勝ち越した。 : ; [[2002年の広島東洋カープ|2002年]] : 山本監督2年目を迎えたチームはこの年、山本監督の親友の星野仙一監督が率いる阪神にあやかるべく縦縞のデザインを採用。これが功を奏したのか4月を13勝11敗1分で勝ち越すスタート。7月には最下位独走の横浜を除く4球団で2位争いを演じるが、その後は阪神と4位争いに終始するも、毎年恒例の夏場の息切れが響き、借金8の5位に沈んだ。投手陣は7年目の長谷川昌幸がエースとして13勝を上げる活躍を見せ、それ以外ではエースの黒田博樹やベテランの佐々岡真司も奮闘し、リリーフではこの年オールスター出場の小山田保裕や広池浩司などが活躍した。打撃陣では開幕後に主力打者の前田智徳とルイス・ロペスがベンチ裏で大喧嘩するハプニングもあり、「3割5分打つ」と宣言していたロペスもモチベーションが低下。結局、かつての勝負強い打撃が鳴りを潜め通算6年間在籍したカープを去り、もう一人の外国人選手エディ・ディアスもこの年限りで退団した。それ以外では11年目でベテランの金本知憲は4番で奮闘するものの、オフにFAで阪神へ移籍し、戦力の弱体化が懸念され、翌年以降の戦いぶりに暗い影を落とすことになった。 : ; [[2003年の広島東洋カープ|2003年]] : 毎年のようにAクラス候補と言われながらも夏場で息切れするチームはこの年開幕から優勝候補の巨人が投手陣崩壊で開幕ダッシュに失敗したこともあり、8月までは巨人を含め、最下位独走の横浜を除く4球団でAクラスを争った。しかし、8月まで2位の巨人と3.5ゲーム差でAクラス復帰が目前に見えながらも終盤で息切れ。最後は阪神の1985年以来18年ぶりの優勝を許し、阪神と20.5ゲーム差の5位に終わり、山本監督の悲願であるAクラス復帰はならなかった。投手陣は球界のエースとなった黒田博樹や2番手エース高橋建や先発・抑え両方で活躍の佐々岡真司などがそれなりの成績を収め、リリーフでもこの年ルーキーの永川勝浩はチーム1位の25セーブを挙げて守護神となり、澤崎俊和・天野浩一・小山田保裕などもそれなりの成績を残した。打撃陣ではFA移籍の金本知憲に代わって新井貴浩が4番に入ったものの、わずか19本塁打に終わり打率も2割3分台に低下した。それでも夏場から4番のアンディ・シーツや前田智徳・緒方孝市・木村拓也などが打ちまくり、不振に陥った新井をカバーした。山本監督が「新井は(打率)2割8分でも行けると思ったが」と悔やむほどであったが、この年の不振をバネに新井はセ・リーグを代表する打者へと成長していく。 : ; [[2004年の広島東洋カープ|2004年]] : 前年やその前の年もチームはAクラス寸前までこぎつけるものの、夏場の息切れで失速。就任4年目の山本監督は「今年こそAクラスに入る」と宣言したが、開幕後はこの年ローテ入りの河内貴哉はじめ、ジョン・ベイルや黒田博樹がローテーションを守るもののリリーフ陣が打たれる試合が相次ぎ、チームは6月以降横浜と最下位争いを展開。その後も浮上できず、山本監督が就任した2001年以来4年連続Bクラス(カープ全体では1998年から7年連続)に終わり、辛うじて最下位を逃れるのがやっとだった。投手陣はベイル・黒田・河内といった先発陣は好調だったものの、高橋建が2ケタ敗戦の上に防御率5点台、ローテ入りが期待されたトム・デイビーは防御率6点台に終わり、リリーフでも広池浩司が2点台、大竹寛と小山田保裕が3点台前半、佐々岡真司が3点台後半と悪くなかったもののそれ以外の投手は4点台から7点台に終わるなど、投手陣が崩壊した。打撃陣ではグレッグ・ラロッカ、アンディ・シーツ、前田智徳などが打ちまくり、嶋重宣が首位打者に輝いた。 : ; [[2005年の広島東洋カープ|2005年]] : 2002年以来勝率5割から遠ざかるチームは前年崩壊の投手陣の危機を救うべく、1970年代のエースだった安仁屋宗八を投手コーチに招聘。安仁屋コーチの投げ込み指令のもと、主力投手の黒田博樹・大竹寛・佐々岡真司などがキャンプから多く投げ込んだ。これが吉となったのか、巨人との開幕3連戦を3連勝するなど、出足の悪い4月を12勝10敗1分で勝ち越すまずまずのスタートで、5月まではほぼ五分五分の成績だった。しかし、6月になると、投打のアンバランスが現れ、2番手エースの大竹やこの年先発転向の小山田保裕、トム・デイビー、リリーフ佐々岡など投手陣が打ちこまれて最下位に転落。打撃陣では4番に座った新井貴浩が過去2年間の不振から復活して本塁打を量産し、前年首位打者の嶋重宣やベテラン野村謙二郎、前田智徳、緒方孝市などがそれなりの成績を残すも、投手陣の不調をカバーできず、最終的に借金26で1993年以来12年ぶり、21世紀初の最下位が確定し、山本監督は責任を取って辞任。また、1998年まで監督を務めた三村敏之ヘッドコーチと安仁屋投手コーチも成績不振の責任を取って辞任。この年2000本安打を達成した野村も引退するなど、チームは世代交代に入る。 ==== ブラウン監督時代 ==== ; [[2006年の広島東洋カープ|2006年]] : ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となる[[マーティ・ブラウン]]が監督に就任。戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・[[前田智徳]]、投手陣・[[黒田博樹]]が就任。 : 開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられず、借金を増やし、5位に終わった。ドラフトでは後に絶対的エースとなる[[前田健太]]の単独1位指名に成功。 : ; [[2007年の広島東洋カープ|2007年]] : キャプテンは前年に引き続き黒田と前田であった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度([[クライマックスシリーズ]])が導入され、進出を目指したが、交流戦では最下位に沈み、優勝争いから脱落。最終順位は2年連続5位に終わったが、阪神には2001年以来6年ぶり、ヤクルトには2000年以来7年ぶりに勝ち越した。 : 課題の投手陣では黒田以外にも、[[大竹寛]]が先発として一定の成績を残したものの、3番手以降が続かず、守護神・[[永川勝浩]]がたびたび救援失敗するなど、中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。オフに新井と黒田が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]宣言し、新井は阪神、黒田は[[ロサンゼルス・ドジャース]]に移籍。投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。 : 中日がクライマックスシリーズで年間勝率2位から1954年以来53年ぶりの日本一を達成したことにより、広島はセ・リーグ全球団の中で「最も日本一から遠ざかっている球団」となった<ref name=":0" group="注釈" />。 : ; [[2008年の広島東洋カープ|2008年]] : 苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの、選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし、11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、[[2008年北京オリンピックの野球競技|北京五輪]]での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に2001年以来7年ぶりの4位に終わった<ref group="注釈">8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウン監督が母親の葬儀に参列するため一時帰国し、[[ジェフ・リブジー]][[監督代行]]になった。その3試合目でリブジーが退場した後は[[小早川毅彦]]コーチが監督代行代理に就いた。</ref>。延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、[[スピードアップ賞]]をチームで受賞した。オフに横浜を自由契約となった[[石井琢朗]]を獲得。 : この年までに入団した現役選手は[[會澤翼]]<ref group="注釈" name=":1">他球団への移籍を1度も挟むことなく、初代・市民球場時代から一貫して広島に在籍し続けている[[フランチャイズ・プレイヤー]]でもある。</ref>・[[松山竜平]]<ref name=":1" group="注釈" />(いずれも広島)・[[丸佳浩]](巨人)・[[前田健太]]([[デトロイト・タイガース]])の4人。 : ; [[2009年の広島東洋カープ|2009年]] : 広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「[[トップス広島]]=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も初代・市民球場からマツダスタジアムに移転した。この新スタジアムの開場が後に人気球団になる布石となった{{R|wisdom170220}}。 : オープン戦の最中に[[栗原健太]]の[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。 : シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を1950年以来59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し、5位に終わった。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったため、ブラウン監督と再契約せず、退任が決定し、ブラウンは楽天の監督に就任<ref>{{Cite news ja |title=広島が来季監督を野村謙二郎氏に要請 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2009-10-04 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20091004-551661.html |accessdate=2009-10-04 }}</ref>。[[緒方孝市]]が現役を引退した。ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。チーム勝ち頭であった[[コルビー・ルイス]]が残留目前から一転して退団した。 ==== 野村監督時代 ==== [[ファイル:Hiroshima toyo carp 2010 number 18.ogv|thumb|320px|(動画) 広島時代の[[前田健太]]]] ; [[2010年の広島東洋カープ|2010年]] : シーズンに入ると、大竹、セットアッパーの[[マイク・シュルツ]]、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き、孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また、攻撃では[[梵英心]]が盗塁王に輝くなど、チーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の[[天谷宗一郎]]や新戦力の[[ジャスティン・ヒューバー]]など、主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き、11連敗を記録するなど、8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され、1度も3位争いに加われず、2年連続5位となった。 : ; [[2011年の広島東洋カープ|2011年]] : [[東日本大震災]]の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり、新外国人の[[ブライアン・バリントン]]と[[デニス・サファテ]]に新人の[[福井優也]]、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど、2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終え、リーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、[[豊田清]]と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越し、Aクラス争いから脱落した。10月8日にはBクラスが確定し、結果は3年連続5位となった。 : ; [[2012年の広島東洋カープ|2012年]] : 中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で4月6日の対[[横浜DeNAベイスターズ]]戦で前田健が[[ノーヒットノーラン]]を達成するなど、投手陣が球団新記録となる39回無失点<ref>{{Cite news ja|title=広島39回無失点の球団新記録! |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2012-04-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/08/kiji/K20120408003006990.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し、4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原が離脱するなど、故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す<ref>{{Cite news ja|title=えっ!?広島負けて3位浮上 15年ぶりAクラスターン |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-07-19 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710740.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り、15日から25日にかけて8連敗するなど、6勝17敗1分と負け越し<ref>{{Cite news ja|title=8連敗…広島、3位と7.5差でCS絶望的に |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-09-26 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/26/kiji/K20120926004196400.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れ、Bクラスが確定した<ref>{{Cite news ja|title=広島零敗でヤクルトのCS進出&3位確定 |newspaper=スポーツニッポン |date=2012-09-29 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/29/kiji/K20120929004223530.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。最終的には首位巨人とは26ゲーム差、3位のヤクルトにも6.5ゲーム差をつけられ、2008年以来4年ぶりの4位に終わった。[[野村祐輔]]が梵以来となる新人王となり、平成生まれでは初の受賞となった。 : ; [[2013年の広島東洋カープ|2013年]] : 3月、オーナー代行に松田一宏が就任{{R|chugoku20130326}}。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め<ref>{{Cite news ja|date=2013-03-31 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/31/kiji/K20130331005518930.html |title=広島、最後に力尽きる…野村監督「よっしゃーという感じだったが」 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2013-10-19}}</ref>、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく<ref>{{Cite news ja|date=2013-04-04 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/04/kiji/K20130404005539610.html |title=広島 5年ぶり開幕4連敗 12球団唯一の未勝利 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2013-10-19}}</ref>。4月13日に前田健太が[[ナゴヤドーム]]では2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど<ref>{{Cite news ja|date=2013-04-14 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/14/kiji/K20130414005605400.html |title=マエケン 1114日ぶり白星 鬼門ナゴヤDで8回零封 |newspaper=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2013-10-19}}</ref>、必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2013/stats/std_inter.html |title=2013年度 交流戦チーム勝敗表 |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ、5位で折り返す<ref>{{Cite news ja|title=広島 救援陣が2日連続の乱調…5位に転落 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-07-17 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/17/kiji/K20130717006239310.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。後半戦は8月13日に3位に浮上<ref>{{Cite news ja|title=マエケン 4年連続2桁勝利 メジャー3球団スカウトが視察 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-08-14 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/14/kiji/K20130814006413580.html |accessdate=2016-10-24 }}</ref>してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて2009年以来4年ぶりの7連勝を記録<ref>{{Cite news ja|title=広島7連勝!石原が万年Bクラスにサヨナラ弾 4位中日と5・5差 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-18 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/18/kiji/K20130918006637870.html |accessdate=2016-10-24 }}</ref>し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位の中日の自力クライマックスシリーズの可能性が消滅した<ref>{{Cite news ja|title=中日 自力CS進出の可能性消滅…浅尾“痛恨”逆転打許す |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-16 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/16/kiji/K20130916006628970.html |accessdate=2016-10-24 }}</ref>。9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、クライマックスシリーズクリンチナンバーを2<ref>{{Cite news ja|title=広島 中日に逆転勝ちで球団史上初CS進出に王手 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-24 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006680570.html |accessdate=2016-10-24 }}</ref>として迎えた25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、1997年以来16年ぶりのAクラスと球団史上初の[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定し{{R|kotobank}}<ref>{{Cite news ja|title=広島 球団史上初CS進出決定 Aクラスは16年ぶり |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-25 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/25/kiji/K20130925006687080.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続負け越しと3位が確定した<ref>{{Cite news ja|title=広島 前田智引退試合●で12年連続負け越し&3位確定 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-10-03 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/03/kiji/K20131003006741470.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。[[前田智徳]]、[[菊地原毅]]が現役を引退した<ref>{{Cite news ja|title=前田智が引退表明 広島一筋24年、現役生活にピリオド |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-09-27 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/27/kiji/K20130927006699320.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/28/kiji/K20130928006706260.html 菊地原 今季限りで引退、のべ3球団で左のセットアッパー] スポニチアネックス(2013年9月28日)2016年3月15日閲覧。</ref>。2位の阪神とのファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた<ref>{{Cite news ja|title=3位広島が下剋上!阪神に2連勝、巨人とのファイナルS進出 |newspaper=スポーツニッポン |date=2013-10-13 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/13/kiji/K20131013006802330.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定<ref>産経新聞2013年10月18日スポーツ面</ref>した。 : ; [[2014年の広島東洋カープ|2014年]] : 前年に続き、巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが、同時に2年連続[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出も決定した<ref>{{Cite news ja|title=広島 V逸も2年連続CS決定 藤浪から3得点はCSへ収穫 |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-09-27 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/27/kiji/K20140927008999720.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した<ref>{{Cite news ja|title=広島 痛恨の逆転負けで3位転落 CS本拠地開催ならず 阪神2位確定 |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-10-06 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/06/kiji/K20141006009058060.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>(なお、貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-08 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/96641 |title=広島・野村謙二郎監督がCS直前に電撃辞任 |publisher=東スポWeb |accessdate=2016-03-15 }}</ref>。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定した<ref>{{Cite news ja|title=セCS初の同点コールド適用 0―0のまま12回表終了で打ち切り |newspaper=スポーツニッポン |date=2014-10-12 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/12/kiji/K20141012009090750.html |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。2年連続の躍進等によって観客数は大きく伸び{{R|kotobank}}、この年主催試合で190万4781人の観客を動員して、史上初となる190万人を突破した{{R|kotobank}}。この頃から球場へと足を運ぶ女性ファンの増加が注目を浴び、レプリカユニホームなどの赤色の衣装をまとってカープを応援する女性ファンのことを「[[広島東洋カープ#カープ女子|カープ女子]]」と呼ぶようになった{{R|kotobank}}。「カープ女子」という言葉は、この年の「[[新語・流行語大賞]]」でトップテンに選ばれた{{R|kotobank}}。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-15 |url=http://www.carp.co.jp/news14/s-059.html |title=緒方孝市新監督就任会見 |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923200723/http://www.carp.co.jp/news14/s-059.html |archivedate=2015-09-23 |url-status=dead }}</ref>。11月14日に阪神を自由契約となった新井貴浩<ref>{{Cite web|和書|date=2014-11-14 |url=http://www.carp.co.jp/news15/2014/s-081.html |title=新井貴浩選手入団記者会見! |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923200738/http://www.carp.co.jp/news15/2014/s-081.html |archivedate=2015-09-23 |url-status=dead }}</ref>、12月27日に[[ニューヨーク・ヤンキース]]をFAとなった黒田博樹<ref>{{Cite web|和書|date=2014-12-27 |url=http://www.carp.co.jp/news15/2014/s-097.html |title=黒田博樹選手復帰のお知らせ |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923200739/http://www.carp.co.jp/news15/2014/s-097.html |archivedate=2015-09-23 |url-status=dead }}</ref>が8年ぶりに復帰。 ==== 緒方監督時代 ==== ; [[2015年の広島東洋カープ|2015年]] : 序盤は一時最下位に沈むなど、Bクラスに低迷し、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成<ref>{{Cite news ja |title=広島、4000勝!マエケンが今季初完投でビジター連敗止める |newspaper=[[サンケイスポーツ]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |date=2015-06-20 |url=https://www.sanspo.com/article/20150620-S2EBM7ONIFISFO7MXBVAW2WLSQ/ |accessdate=2015-10-16 }}</ref>、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった<ref>{{Cite news ja |title=セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-07-16 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの<ref>{{Cite news ja |title=広島5割復帰!巨人に迫る1.5差 |newspaper=デイリースポーツ |date=2015-09-15 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/09/15/0008398475.shtml |accessdate=2016-01-08 }}</ref>、その後も貯金を作れず、9月24日の対巨人戦で敗れ、リーグ優勝の可能性が消滅した<ref>{{Cite news ja |title=広島3連敗、リーグ優勝の可能性消滅 |newspaper=デイリースポーツ |date=2015-09-24 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/09/24/0008426261.shtml |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、勝てばCS進出となる10月7日のシーズン最終戦の対中日戦に敗れ、2012年以来3年ぶりのBクラスと4位が確定した<ref>{{Cite news ja |title=広島、最終戦で競り負け逆転CSならず |newspaper=デイリースポーツ |date=2015-10-08 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/10/07/0008464515.shtml |accessdate=2016-01-08}}</ref>。しかし、カープ主催試合の年間観客動員数はカープ歴代最高の約211万人に達した{{R|energia}}。これは大都市圏の[[名古屋市|名古屋]]を本拠地とする中日ドラゴンズを抜いてセ・リーグで第3位、セ・パ12球団合わせても巨人、阪神、ソフトバンクに次いで第4位の観客動員数であった{{R|energia}}。なお、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績だった。オフに前田健太が[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した後<ref>{{Cite news ja |title=前田健太投手「2015年度 沢村賞」受賞! |publisher=広島東洋カープ公式サイト |date=2015-10-26 |url=http://www.carp.co.jp/news15/s-049.html |accessdate=2016-01-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151230155647/http://www.carp.co.jp/news15/s-049.html |archivedate=2015-12-30 |url-status=dead }}</ref>、[[ポスティングシステム]]で[[ロサンゼルス・ドジャース]]へ移籍<ref>{{Cite news ja |title=マエケン「誇りに思う」ドジャース会見 背番号18 |newspaper=日刊スポーツ |date=2016-01-08 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1587719.html |accessdate=2016-01-08 }}</ref>。外国人選手では[[ライネル・ロサリオ]]、[[デュアンテ・ヒース]]、[[マイク・ザガースキー]](DeNAに移籍)、[[ヘスス・グスマン]]、[[ネイト・シャーホルツ|ネイト・シアーホルツ]]が自由契約となった。中日を自由契約となった[[エクトル・ルナ]]を獲得<ref>{{Cite news ja|title=エクトル・ルナ選手、選手契約合意! |publisher=広島東洋カープ公式サイト |date=2015-10-07 |url=http://www.carp.co.jp/news15/s-073.html |accessdate=2016-01-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160102005432/http://www.carp.co.jp/news15/s-073.html |archivedate=2016-01-02 |url-status=dead}}</ref>。 : ; [[2016年の広島東洋カープ|2016年]] : [[ファイル:鈴木誠也20160617サヨナラホームラン.jpg|サムネイル|サヨナラ本塁打を放ちダイヤモンドを一周する鈴木誠也(2016年6月17日 マツダスタジアムにて)]]1点差負けが20度以上あった昨年から前田のメジャー移籍で戦力低下が不安視されたが、3・4月に16勝12敗と好スタートを切って上位をキープすると交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し<ref>[https://npb.jp/bis/2016/stats/std_inter.html 2016年度 交流戦 チーム勝敗表] - 日本野球機構</ref>。「1番・田中、2番・菊池、3番・丸」の「'''タナキクマル'''」と呼ばれる打順が定着すると鈴木誠也が2試合連続サヨナラ本塁打を含む3試合連続決勝本塁打を放ち、交流戦で3位に導いた。交流戦最後の6連戦から11連勝を飾って6月以降は首位を独走し、1991年以来25年ぶりのリーグ優勝を果たした。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で1991年以来25年ぶりの日本シリーズ出場権を獲得した。日本シリーズでは[[北海道日本ハムファイターズ]]と対戦し、初代・市民球場から移転後初の新本拠地・マツダスタジアムで連勝したものの、この年に交流戦では勝ち越した敵地・[[札幌ドーム]]で3戦全敗。セ・リーグ代表チームがビジターで6連敗{{Efn|2013年の日本シリーズで巨人が仙台での第7戦に敗れて以降2014年の阪神が福岡で3連敗、2015年の東京ヤクルトが同じく福岡で2連敗を喫している。}}中だった流れを止められず、第6戦では[[ジェイ・ジャクソン]]が4-4で迎えた8回に[[西川遥輝]]、[[中島卓也 (野球)|中島卓也]]、[[岡大海]]に3本の単打を浴びるとパ・リーグ打点王を獲得した[[中田翔]]に押し出しの四球、5番手投手の[[アンソニー・バス|アンソニー・バース]]にセンター前タイムリー、パ・リーグ本塁打王を獲得した[[ブランドン・レアード]]に満塁本塁打を浴びるという、一方的な展開となった。3番手以降の投手が踏ん張れずに第3戦以降全て敗戦投手となり{{Efn|第3戦が5番手の大瀬良。第4戦では3番手で、第6戦では4番手で登板したジャクソン。第5戦が4番手で登板した中崎。}}、2勝4敗で敗れ、1984年以来32年ぶりの日本一とはならず、マツダスタジアムで胴上げを見守る結末となった。黒田博樹、[[廣瀬純]]、[[倉義和]]が現役を引退した。 : ; [[2017年の広島東洋カープ|2017年]] : [[ファイル:2017.09.18広島東洋カープリーグ優勝緒方孝市監督胴上げ.jpg|代替文=リーグ優勝後の胴上げ(2017年9月18日阪神甲子園球場にて)|サムネイル|221x221ピクセル|リーグ優勝後の胴上げの様子(2017年9月18日 阪神甲子園球場にて)]]前々年の2015年がBクラス(4位)のため、当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため、開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)<ref>{{Cite news ja |title=広島が10連勝、代打・松山の同点弾から一気7点 巨人は4連敗 |publisher=デイリースポーツ |date=2017-04-13 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2017/04/13/0010093373.shtml |accessdate=2017-05-04 }}</ref>。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより、2位。公式戦は5月に2位となるものの、6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、二軍も9月26日に[[阪神鳴尾浜球場]]で阪神に勝利し、ウ・リーグ優勝を決めた<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2017/09/26/0010590621.shtml 広島2軍が優勝!26年ぶり1軍と同時V] - デイリースポーツ、2017年9月26日</ref>。 : 2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。 : ; [[2018年の広島東洋カープ|2018年]] : [[ファイル:2018.09.26広島東洋カープリーグ優勝緒方孝市監督胴上げ.jpg|サムネイル|221x221ピクセル|リーグ優勝後の胴上げの様子(2018年9月26日 マツダスタジアムにて)]] : 開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走した。5、6月の交流戦こそ負け越したが、リーグ戦再開後も好調を維持し続けた。9月5日にベテランの新井が今季限りでの引退を表明した後に6連敗するなど一時調子を落としたが優位は変わらず、9月26日に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成した{{R|chugoku-shimbun_20180906}}。セ・リーグでの3連覇は巨人に次いで史上2球団目<ref>{{cite news ja|title=「お荷物球団」からセの強豪へ 広島が巨人に続く3連覇、優勝回数でも2位|publisher=Full-Count|date=2018-09-27|url=https://full-count.jp/2018/09/27/post214227/|accessdate=2021-06-22}}</ref><ref>{{Cite news ja|url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2018/12/30/0011945450.shtml|title=【野球】カープOB墓碑銘 鉄人・衣笠さんや長嶋茂雄の幻の本塁打を打たれた鵜狩さんら|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2018-12-30|accessdate=2023-03-31}}</ref>。本拠地での優勝は[[1991年の広島東洋カープ|1991年]]以来27年ぶり、マツダスタジアムでは初となった<ref>{{Cite news ja |title=広島、初のリーグ3連覇 ヤクルト破り本拠で歓喜:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASL9V5VPYL9VPTQP018.html |accessdate=2018-09-27 |work=朝日新聞デジタル}}</ref>。 : クライマックスシリーズではシーズン3位の巨人と対戦。4勝0敗(アドバンテージ1勝を含む)で昨年の雪辱を果たし日本シリーズ出場権を獲得した。[[福岡ソフトバンク]]との日本シリーズでは[[甲斐拓也]]に6度も盗塁を阻止されるなどセ・リーグトップの95盗塁の機動力を完璧に封じられたのに加え、アウェー5連敗中(1991年当時の[[西武ドーム|西武球場]]で2連敗、2016年の札幌ドームで3連敗)の敵地・[[福岡ドーム|福岡]]でこの年も3戦全敗し、マツダスタジアムに戻った第6戦で0-2で敗れ、日本シリーズ敗退となった。2年前の日本ハム戦同様、マツダスタジアムに戻っての第6戦で相手の胴上げを見守る結末だった。新井貴浩、[[天谷宗一郎]]が現役を引退した。丸佳浩がFA宣言し、5年25億円の大型契約を用意した巨人<ref>{{Cite web|和書|title=巨人・丸、“原魂”背番号「8」継承!5年総額25億500万円 |url=https://www.sanspo.com/article/20181212-3O3LNYQY65KIJLBKOM4Q5PAQNU/ |publisher=サンケイスポーツ |date=2018-12-12 |accessdate=2018-12-12}}</ref>、[[福井優也]]が[[菊池保則]]との交換トレードで楽天に移籍。外国人選手では来日7年目となり、外国人選手在籍年数の球団記録を更新した[[ブラッド・エルドレッド]]、入団から3年間セットアッパーとして活躍したジャクソン、一軍での登板がわずか1試合に終わった来日1年目の[[レオネル・カンポス]]と契約を更新せずに退団した。 : この年は[[平成]]最後のペナントレースだったので、広島は「平成最後のセ・リーグ優勝球団」となったが、日本シリーズ敗退のため、セ・リーグ全球団の中で阪神と共に「平成時代に1度も日本一になれなかった球団」となった<ref group="注釈">[[中日ドラゴンズ]]も平成時代に1度も「'''リーグ優勝をした上で'''日本一」になれなかった。また、「'''年間勝率1位によるリーグ優勝をした上での'''日本一」にまで視野を広げれば、[[千葉ロッテマリーンズ]]も該当する。</ref>。 : ; [[2019年の広島東洋カープ|2019年]] : 1月7日、丸が移籍した巨人から人的補償で[[長野久義]]を獲得。開幕後は丸の抜けた穴や大瀬良、田中の不調で負け越す等しばらくは下位に低迷していたが、5月には20勝で球団の月間勝利記録を更新と復調し{{Refnest|group="注釈"|月間20勝はNPBでも2002年8月に[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]が記録して以来17年ぶりであった<ref>[https://www.sanspo.com/article/20190601-XWW2AYTOEFOBRHEXEEGYUV5YUA/ 広島、月間20勝!絶好調5月に笑顔でサヨナラ~2死からつないだ4連勝][[サンケイスポーツ]](2019年6月1日). 2021年4月19日閲覧。</ref>。}}、交流戦前には首位に躍り出た。しかし、6月3日から始まった交流戦に入ると2勝1敗と勝ち越した楽天以外のチームには全て負け越し<ref group="注釈">特にオリックスにはマツダスタジアムで全敗している。</ref>、5勝12敗1分けと再び負けが込み、交流戦明けにかけて引き分けを挟んで11連敗と首位から陥落し、オールスター前には3位で終える。その後は一旦持ち直し、一時は首位巨人に1ゲーム差まで詰めるも、奪回する事は出来ず、8月にはバティスタがドーピング検査で陽性反応が出た事が発覚し、9月3日から半年間の出場資格禁止を余儀無くされた。9月になると負けが増え、バティスタが出場停止以降の試合は7勝9敗と失速し、9月19日のDeNA戦で敗れた事で。4連覇の夢が潰え、同時に猛迫してきた阪神にゲーム差を縮められる。9月23日にマツダスタジアムで行われた引退試合を最後に[[永川勝浩]]が現役を引退した。レギュラーシーズンは阪神より先に3位で終えたが、9月27日に行われた最終戦のホーム・中日戦で1-4で敗れ、自力で4年連続のクライマックスシリーズ進出を決める事が出来なかったのが祟り、6連勝した阪神に抜かれ、4位に転落し、2015年以来4年ぶりのBクラスが確定した。これを受け、オフに緒方孝市が監督辞任を表明し、後任に一軍投手コーチの佐々岡真司が就任する事が決まった。マツダスタジアムの入場者数は222万3619人であった<ref name="tyugoku20210325" />。 ==== 佐々岡監督時代 ==== ; [[2020年の広島東洋カープ|2020年]] : [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス]]の影響で開幕が3か月遅れて開幕し、エースの大瀬良や[[クリス・ジョンソン (投手)|クリス・ジョンソン]]などの不調及びケガによる離脱、新守護神で獲得した[[テイラー・スコット]]が開幕から乱調など前年同様に投手陣、特にリリーフ陣の崩壊や僅差での試合を多く落として開幕から最下位を行き来するなど低迷した。10月2日のヤクルト戦に勝利したことで、最下位を脱出したものの、その後も好転せず、対巨人戦には2014年以来6年ぶりの負け越しを喫するなど、2011年以来9年ぶりの5位でシーズンを終え、2年連続Bクラスが確定した。しかしながらルーキーの[[森下暢仁]]が新人王を受賞する活躍を見せた。11月7日にマツダスタジアムで行われた引退試合を最後に[[石原慶幸]]が現役を引退した。マツダスタジアムの入場者数は53万7857人と前年比で大幅減となったが、それでも12球団としては最多であった。この年、58年間トレーナーを務めた福永富雄が12月末で勇退した。 : ; [[2021年の広島東洋カープ|2021年]] : 8選手、コーチ含む11人が新型コロナウイルス陽性と判定された。その直後に始まった[[セ・パ交流戦]]では3勝12敗3分と大きく負け越し、一時はリーグ最下位に転落した。後半戦は中日、DeNAとの最下位争いとなったが10月以降は13勝7敗1分と大きく勝ち越し、最終的には4位でシーズンを終え3年連続Bクラスが確定した。[[鈴木誠也]]が自信2度目の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトル、[[九里亜蓮]]が初めて[[最多勝利]]のタイトルを獲得した。ルーキーの[[栗林良吏]](新人最多タイ記録となる37セーブを挙げ新人王を受賞。防御率0.86)、5年目の[[坂倉将吾]](初めて規定打席に到達し、リーグ2位の打率.315をマーク)、3年目の[[小園海斗]](初めて規定打席に到達し、打率.298をマーク)、3年目の[[林晃汰]](規定打席には届かなかったものの、10本塁打をマーク)が活躍するなど、若手の活躍が目立った1年でもあった。オフに新外国人として[[ドリュー・アンダーソン (投手)|ドリュー・アンダーソン]]、[[ニック・ターリー]]、[[ライアン・マクブルーム]]を獲得、鈴木がポスティングシステムで[[シカゴ・カブス]]に移籍した。[[今村猛]]が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。 : ; [[2022年の広島東洋カープ|2022年]] : 3・4月は16勝12敗と4つの貯金を作り、一時は首位にも浮上、5月も11勝12敗と1つの負け越しと5月22日の中日戦終了時点では首位のヤクルトと1.5ゲーム差と踏ん張っていたものの、苦手としている交流戦で5勝13敗と今年も大きく負け越し、ヤクルトが14勝4敗と驚異的なペースで勝ちを積み重ねたのも重なって10.5ゲーム差に広げられた。それでも、交流戦が空けて[[秋山翔吾]]が日本球界に復帰した前半戦は46勝46敗と五分に戻したものの、8月に10勝15敗と負け越し、巨人と阪神と共にクライマックスシリーズ進出を争っていた9月以降も10勝10敗と数字上は五分だったものの、8月3日に横浜スタジアムで行われたDeNA戦で8勝を挙げていた床田が5回の打席で走塁途中に躓き負傷退場となった。床田は右足関節骨折でシーズン絶望となったのが祟ってか、9月7日にバンテリンドームで行われた中日戦ではルーキーの[[森翔平]]が勝って以降は先発投手の勝ちがなかったばかりか、8日に森下が7イニングを投げて以降は全ての試合で6イニングを投げ切れず、29日のヤクルト戦でもターリーが4-2とリードしていた7回、2アウトランナー1塁2塁のピンチで[[ホセ・オスナ]]に3ランホームランを打たれて逆転負けしたことで、クライマックスシリーズ出場から大きく遠ざかり、30日もオスナと[[パトリック・キブレハン]]のホームラン攻勢によって1-5で敗れ、クライマックスシリーズ出場権を4年連続で失った。投手陣では前述の床田が8月に故障で失い、エースの大瀬良が6月5日と8月13日の2回にわたって登録を抹消され、8勝9敗、前年に13勝と阪神の[[青柳晃洋]]と共に最多勝を獲得した九里も6勝9敗と振るわなかった。打線もチーム打率は2割5分7厘とリーグだけではなく、12球団でもトップだったものの併殺打が112と12球団ワーストだった。さらに[[2004年の読売ジャイアンツ|2004年の巨人]]に次いで2番に少ない26盗塁と30盗塁を記録した阪神の[[近本光司]]一人にも及ばず、断トツで球団史上ワースト(チーム最多は野間の7盗塁で、12球団で11位のDeNAは49盗塁)と緻密さを欠いた<ref>{{Cite web|和書|title=広島のチーム盗塁数26は異常 球団ワーストに「チャレンジしなくなった」と北別府氏/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2022/10/04/0015694321.shtml |website=デイリースポーツ online |access-date=2023-01-07 |language=ja}}</ref>。オフに佐々岡監督が記者会見を開き辞任し、後任として球団OBの新井貴浩が監督に就任することを発表した<ref>{{Cite news ja |title=【広島】新監督は新井貴浩 球団から受諾したと正式発表 |newspaper=日本テレビ |date=2022-10-07 |url=https://news.ntv.co.jp/category/sports/db90bceae52c4e36a308012dadcc7a86/ |accessdate=2022-10-17 }}</ref>。[[白濱裕太]]、[[安部友裕]]が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。 : オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初の日本一を達成したことにより、広島は現存12球団の中で「最も日本一から遠ざかっている球団」となった<ref name=":0" group="注釈" />。 ==== 新井監督時代 ==== ; [[2023年の広島東洋カープ|2023年]] : 前阪神バッテリーコーチの[[藤井彰人]]がヘッドコーチ<ref>[https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/227132 カープ、前阪神バッテリーコーチ藤井彰人氏をヘッド招聘へ 新井監督と野球観一致]</ref>、球団OBの石原慶幸がバッテリーコーチに就任した。石原コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。 : 監督の新井がキャプテン制を敷かないことを表明<ref>{{Cite web|和書|title=【広島】新井監督 来季はキャプテン制を敷かず「全員が引っ張っていってほしい」 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/246227 |website=東スポWEB |access-date=2022-12-05 |language=ja}}</ref>。なお、選手会長の大瀬良大地、副会長の堂林翔太、九里亜蓮、野間峻祥、書記の西川龍馬、会計の森下暢仁、役員は全員留任。 : 開幕4連敗と苦しい立ち上がりだったが、その直後の5連勝を飾るなど、4月は12勝12敗となった。5月は[[第49回先進国首脳会議|G7広島サミット]]開催の影響で2週間ビジターによる対戦が続いたが、これを7勝5敗で乗り切り、交流戦前は3位で折り返した。近年最下位が続いていた交流戦も9勝9敗で乗り切り、7月には10連勝を挙げた。オールスターゲーム前後では主力の西川龍馬や秋山翔吾などが怪我で離脱し、9月には6連敗を喫することもあったが、床田寛樹や九里亜蓮などの先発の好投、最優秀中継ぎ賞をとった島内颯太郎を含めた中継ぎ陣の安定、さらに栗林良吏や矢崎拓也の抑えの活躍に加え、野手陣の若手の活躍とベテランの復活により、7月27日に一時首位となり、28日以降は2位を維持し続け、9月25日に2018年以来5年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決まり、10月4日に1995年以来28年ぶりの2位が確定した(いずれも他力による決定)。 : 本拠地での初開催となったクライマックスシリーズファーストステージではDeNAに2連勝したが、甲子園でのクライマックスシリーズファイナルステージでは阪神に3連敗で敗退となった。 == 所属選手・監督・コーチ == {{See also|広島東洋カープの選手一覧}} {{広島東洋カープの選手・スタッフ|state=expanded}} == チーム成績・記録 == [[ファイル:Hiroshima Toyo Carp Ranking.svg|thumb|320px|1950年以降の順位の変遷。青い丸は日本シリーズ優勝を示す]] {{See also|広島東洋カープの年度別成績一覧}} * リーグ優勝 9回 ** (1975年、1979年 - 1980年、1984年、1986年、1991年、2016年 - 2018年) * 日本一 3回 ** (1979年、1980年、1984年) * クライマックスシリーズ優勝 2回 ** (2016年、2018年) * Aクラス 26回 ** (1968年、1975年 - 1976年、1978年 - 1981年、1983年 - 1991年、1994年 - 1997年、2013年 - 2014年、2016年 - 2018年、2023年) * Bクラス 48回 ** (1950年 - 1967年、1969年 - 1974年、1977年、1982年、1992年 - 1993年、1998年 - 2012年、2015年、2019年 - 2022年) * 最下位 10回 ** (1950年 - 1951年、1963年、1967年、1969年、1972年 - 1974年、1993年、2005年) * 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年 - 1991年) * 連続Bクラス最長記録 18年(1950年 - 1967年) * 最多勝 89勝(2016年) * 最多敗 96敗(1950年) * 最多引分 18分(1978年) * 最高勝率 .633(2017年) * 最低勝率 .299(1950年) * チーム最多連勝 12(1984年4月8日 - 4月22日) * チーム最多連敗 13(1950年11月3日 - 11月14日、1999年6月25日 - 7月13日) === その他の記録 === * 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年) * 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年) * 最多本塁打 205本(1978年) * 最少本塁打 29本(1952年) * 最高打率 .284(1978年) * 最低打率 .213(1956年) * 最少盗塁 26個 (2022年) * 最高防御率 2.62(1959年) * 最低防御率 5.20(1950年) * 1イニング最多四死球10四球(1978年7月6日、対[[読売ジャイアンツ]]戦2回表に記録)内訳:[[山本浩二]]、[[エイドリアン・ギャレット]]、[[衣笠祥雄]]各2四球、[[水沼四郎]]、[[北別府学]]、[[正垣泰祐]]、[[水谷実雄]]各1四球 * 50イニング連続無得点(2011年5月26日、対[[埼玉西武ライオンズ]]の5回 - 6月3日、対[[オリックス・バファローズ]]の6回)セ・リーグ記録<ref group="注釈">プロ野球記録は1953年に[[大映スターズ]]が記録した59イニング。</ref> * 1イニング最多失点 15得点 (2009年6月11日対[[千葉ロッテマリーンズ]]6回裏)プロ野球記録 * 1ゲーム最多失点 25得点 (1955年6月22日対読売ジャイアンツ){{Refnest|group="注釈"|同試合は[[後楽園球場]]で開催されたが、対戦相手の[[読売ジャイアンツ]]に45打数25安打で打率.556と打ち込まれた{{R|chugoku-shimbun_r02.06.22}}。}} == 永久欠番 == * '''3''' [[衣笠祥雄]](1988年 - ) * '''8''' [[山本浩二]](1987年 - )※広島球団史上初の永久欠番 * '''15''' [[黒田博樹]](2017年 - )※黒田不在期間の2008年~2014年は黒田に誠意を示すため、空き番としていた。 === 永久預かり === カープでは[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。 * '''20'''(1995年 - 2002年・2020年) 1976年から1994年まで[[北別府学]]が着用。2002年のドラフト自由枠で入団した[[永川勝浩]]に与えられた。永川が2019年シーズン限りで現役引退したため、2020年シーズンは再び空き番となり、同年オフのドラフト1巡目で入団した[[栗林良吏]]に与えられた。 * '''7'''(2006年 - 2012年) 前任者は[[野村謙二郎]]。2012年のシーズン終了後に[[堂林翔太]]に与えられた(背番号13から変更)。なお、野村は2010年シーズンからの監督就任に際し、背番号は「77」とした。 * '''9'''(2010年 - 2013年・2019年 - 2021年) 1996年から2009年まで[[緒方孝市]]が着用。2013年のシーズン終了後に[[丸佳浩]]に与えられ(背番号63から変更)、2018年まで着用した。丸が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]移籍した2019年以降は再び空き番となるが(丸の人的補償で入団した[[長野久義]]に提示されたが、辞退して5を着用)、2022年途中に日本球界に復帰した[[秋山翔吾]](西武→[[シンシナティ・レッズ]]他)が着用。 * '''1'''(2014年 - 2018年・2022年 - )前任者は[[前田智徳]]。2018年のシーズン終了後、[[鈴木誠也]]に与えられた(背番号が51から変更)<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/11/20/kiji/20181120s00001173001000c.html 誠也「ミスターカープ」継承!前田氏以来6年ぶり背番「1」復活]スポニチアネックス 2018年11月20日</ref>。2022年に鈴木がメジャーリーグに移籍して以降は再び空き番となっている。 * '''18'''(2016年 - 2019年)前任者は[[前田健太]]。黒田の「背番号15」とは状況が異なり、付けるに相応しい投手が台頭してきた、もしくはドラフトにて獲得出来た場合は与える方針としていた。それに従い、前田健太の前に背番号18を着用していた[[佐々岡真司]](広島監督・2020年 -2022年 )の意向により、2019年のドラフト1巡目で入団した[[森下暢仁]]に与えられた。 * '''25'''(2019年 - 2022年)前任者は[[新井貴浩]]。新井は背番号25の後継者について、一つだけ条件を挙げ、「一生懸命やる選手。センスがあったり、技術的に高い選手じゃなくていい。チームのことを第一に考えて行動できる、プレーできる選手につけてほしい」と希望した<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2018/12/21/0011921692.shtml 新井氏、背番25後継条件はフォア・ザ・チーム モデルデビューは大反響]デイリースポーツ 2018年12月21日</ref>。その後、2022年オフに新井が監督として復帰。再び背番号25を着けることになった。 == 沢村栄治賞受賞者 == カープで[[沢村栄治賞]]を複数回受賞しているのは、[[北別府学]]、[[前田健太]]の2人である<ref>[https://baseballking.jp/ns/column/170633 “真のエース”の証…?「沢村賞」を複数回受賞した投手たち | BASEBALL KING]</ref>。また、[[クリス・ジョンソン_(投手)|クリス・ジョンソン]]が外国人投手として史上2人目の受賞を達成している。 * [[外木場義郎]] :1回(1975年) * [[池谷公二郎]] :1回(1976年) * [[北別府学]] :2回(1982年、1986年) * [[大野豊 (野球)|大野豊]] :1回(1988年) * [[佐々岡真司]] :1回(1991年) * [[前田健太]] :2回(2010年、2015年) * [[クリス・ジョンソン_(投手)|クリス・ジョンソン]] :1回(2016年) == 三冠王(投手・打者) == === 投手三冠王 === カープでの[[三冠 (野球)|投手三冠王]]の達成者は1人<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b0916054ddac843989a696eba0ca114a71dde34e 投手三冠で沢村賞を逃したのは1人だけ。千賀滉大は2人目になる!?]</ref>。 * [[前田健太]] :1回(2010年) === 打者三冠王 === 2022年シーズン終了時点で達成者はいない<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |title=三冠王 <nowiki>|</nowiki> 各種記録達成者一覧 <nowiki>|</nowiki> 達成記録 |access-date=2022-10-05 |publisher=日本野球機構 |date=2022-10 |website=NPB.jp |archive-url=https://web.archive.org/web/20221005152919/https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |archive-date=2022-10-05}}</ref>。 == 最優秀選手受賞者(複数回) == === 投手の複数回受賞者 === 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。他球団での受賞も含めると[[江夏豊]]がカープ時代に1回、[[日本ハムファイターズ|ファイターズ]]時代に1回で複数回受賞を達成している(投手としては唯一の両リーグでの受賞達成者でもある)。 === 打者の複数回受賞者 === カープの打者で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]を複数回受賞しているのは2人<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。 * [[山本浩二]] :2回(1975年、1980年) * [[丸佳浩]] :2回(2017年、2018年) == 歴代監督 == ※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一 # 1950年 - 1953年 : [[石本秀一]]<ref group="※">1953年は5月3日まで指揮。</ref> # 1953年 - 1960年 : [[白石勝巳]] (第1次) # 1961年 - 1962年 : [[門前眞佐人]] # 1963年 - 1965年 : 白石勝巳 (第2次)<ref group="※">1965年は7月15日まで指揮、残り試合は長谷川良平が代行。</ref> # 1966年 - 1967年 : [[長谷川良平]] # 1968年 - 1972年 : [[根本陸夫]]<ref group="※">ここから広島東洋カープ</ref><ref group="※">1972年は6月30日まで指揮、残り試合は森永勝也が代行。</ref> # 1973年 : [[別当薫]] # 1974年 : [[森永勝也]] # 1975年 : [[ジョー・ルーツ]]<ref group="※">1975年は4月30日まで指揮、5月3日までは[[野崎泰一]]が代行。</ref> # 1975年 - 1985年 : '''[[古葉竹識]]'''◎ # 1986年 - 1988年 : '''[[阿南準郎]]''' # 1989年 - 1993年 : '''[[山本浩二]]''' (第1次) # 1994年 - 1998年 : [[三村敏之]] # 1999年 - 2000年 : [[達川光男]]<ref group="※">登録名は達川晃豊。</ref> # 2001年 - 2005年 : 山本浩二 (第2次) # 2006年 - 2009年 : [[マーティ・ブラウン]]<ref group="※">2008年8月19日 - 21日は[[ジェフ・リブジー]]が代行。</ref> # 2010年 - 2014年 : [[野村謙二郎]]<ref group="※">2011年6月28日 - 29日は[[高信二]]が代行。</ref> # 2015年 - 2019年 : '''[[緒方孝市]]'''<ref group="※">2019年5月21日 - 22日は高信二が代行。</ref> # 2020年 - 2022年 : [[佐々岡真司]]<ref group="※">2022年8月16日 - 26日は[[河田雄祐]]が代行。</ref> # 2023年 - : [[新井貴浩]] {{Reflist|group="※"}} == 歴代オーナー == {| class="wikitable" |+style="text-align:left; font-size:medium|オーナー |- !style="width:4em;"|世代 !style="width:6em;"|氏名 !style="width:30em;"|在任期間 ! |備考 |- |初代||[[松田恒次]]||1967年12月17日{{R|カープの歩み91}} - 1970年11月15日{{Sfn|カープの歩み|2012|p=93}}||同時期に東洋工業(現・[[マツダ]])社長を兼任 |- |2代目||[[松田耕平]]||1970年11月18日{{Sfn|カープの歩み|2012|p=93}} - 2002年7月10日{{Sfn|カープの歩み|2012|p=135}}||1977年まで東洋工業(現・マツダ)社長を兼任<br />恒次の息子 |- |3代目||[[松田元]]||2002年7月15日{{R|カープの歩み135}} - ||耕平の長男。 |} {| class="wikitable" |+style="text-align:left; font-size:medium|オーナー代行 |- !style="width:6em;"|氏名 !style="width:30em;"|在任期間 ! |備考 |- |松田耕平||1967年12月17日{{R|カープの歩み91}} - 1970年11月17日{{Sfn|カープの歩み|2012|p=93}}|| |- |松田元||1985年<ref>{{Cite news ja|title=オーナーに松田元氏 広島 |newspaper=[[47NEWS|47news]] |date=2002-07-15 |url=http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002071501000349.html |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130518045022/http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002071501000349.html |archivedate=2013年5月18日 |url-status=dead}}</ref> - 2002年7月14日{{Sfn|カープの歩み|2012|p=135}}|| |- |松田一宏||2013年3月25日<ref name="chugoku20130326" /> - ||松田元の弟・[[松田弘 (松田家)|松田弘]]([[広島エフエム放送]]元社長および[[マツダアンフィニ|アンフィニ]]広島元社長)の長男。 |} == 歴代本拠地 == {| class="wikitable" |- !球場名!!所在地!!使用期間 |- |[[広島県総合グランド野球場|広島総合球場]]||広島市[[西区 (広島市)|西区]][[観音地区 (広島市西区)|観音新町二丁目]]||1950年 - 1957年 |- |[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]||広島市[[中区 (広島市)|中区]][[基町]]||1957年7月 - 2009年3月 |- |[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]||広島市[[南区 (広島市)|南区]]南蟹屋二丁目||2009年4月 - |} == 球団施設 == * [[広島東洋カープ由宇練習場]]([[山口県]][[岩国市]][[由宇町]]) - 二軍本拠地球場、練習施設 * 広島東洋カープ屋内練習場(広島市南区南蟹屋三丁目) - マツダスタジアムに隣接する屋内練習場 * 広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮(広島県廿日市市宮島口西1丁目) - 屋内練習場・若手選手専用合宿所 * 大州寮(広島市南区大州五丁目)- レギュラー選手専用合宿所 ** 1958年から2011年まで独身選手用の寮「三省寮」(広島市西区三篠町3丁目)が存在した{{Refnest|group="出典"|{{R|47news100803|tospo_2008424_3}}}}。二軍選手寮の「大野寮」がまだないため、独身選手は主力選手でもここに入る決まりだった{{R|tospo_2008424_3}}。この大野の施設が出来るまで、二軍は専用グラウンドがなく、施設の整った[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]]のグラウンドを借りた{{R|tospo_2008424_3}}。放課後は広陵の野球部がグラウンドを使うため、生徒が授業を受けている間で、[[大下剛史]]が二軍守備・走塁コーチだった時期には、大下の怒声が広陵のグラウンドに響いた{{R|tospo_2008424_3}}。老朽化のため大州寮に機能を移し解体。跡地ではMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島用の補修用芝を栽培している。 ** 合宿所は一軍と二軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1か所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後[[佐伯郡]][[大野町 (広島県)|大野町]](現[[廿日市市]])にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に二軍の合宿所を建設。三篠寮は一軍選手専用となった。この大野の施設が出来る{{R|tospo_2008430_4}}。 * カープベースボールギャラリー(カルピオ・広島市中区八丁堀)- 入場券販売所・ギャラリー * [[カープアカデミー]]([[ドミニカ共和国]]) - [[メジャーリーグベースボール|MLB]]のアカデミーを参考に作られた施設。 本拠地の[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。 <gallery> ファイル:MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima facade(2014).jpg|MAZDA_Zoom-Zoom_スタジアム広島 ファイル:由宇練習場全景(3塁側から).jpg|広島東洋カープ由宇練習場 ファイル:Practice_facilities_of_Carp_20150308.JPG|広島東洋カープ屋内練習場 ファイル:Carp Ōno Office.JPG|広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮 ファイル:CARP Baseball Gallery 20121125-1.JPG|カープベースボールギャラリー(カルピオ) ファイル:Carp-Ōzu-Dormitory 20121125-2.JPG|大州寮 ファイル:Ex sansho-ryo 20121208-1.JPG|三省寮跡 </gallery> == チームの特徴 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * ニックネームの「カープ」は「[[コイ|鯉]]」の[[英語]]「Carp」に由来。名付け親は[[政治家]]の[[谷川昇]]([[公職追放]]指定を受けたため球団経営には参画せず)。このニックネームになった経緯は以下の通り。 ** 広島市を流れる[[太田川]]が鯉の産地であること。 ** [[広島城]]が鯉城と呼ばれていること、鯉は滝を登る出世魚であること、また当時、[[太平洋戦争]]での[[広島市への原子爆弾投下]]の後に生まれたチームであることから滝を登る鯉の姿に広島の復興の想いを込めようとしたこと{{Refnest|group="出典"|{{R|projectx|日本野球史87|sponichi2008}}}}。 ** 谷川の発言「文献によると、鯉は諸魚の長となす。形既に愛す可く又神変乃至飛越をよくす、とある。また[[己斐]]([[広島市]][[西区 (広島市)|西区]]の地名)は鯉から転化したものであり、[[恋]]にも通ずる」から ** 当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした{{R|野球考古学194}}{{Efn|ただし、チーム名として英単語を使用する場合には、文法上の複数形に関わらず語尾にsを付ける流儀があり、「カープス(Carps)」は間違いではない。実際、[[ナショナルホッケーリーグ]]には[[トロント・メープルリーフス]]というチームがある。leafにsを付けてチーム名としているが、文法上の複数形はleavesである。}}。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった{{R|広島カープのすべて90}}。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また「アトムズ」はその後1966年から1973年に[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイ→ヤクルト]]が、[[フジテレビジョン]]のアニメ『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』に由来する名称として採用していた。なお、現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsのス、ズ、ツで終わらない唯一のチームである{{R|asahi161019}}。 *** メディアなどで一文字の略称を用いる場合、漢字では「広」、アルファベットでは「C」で表記される<ref group="注釈">スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。</ref>。また、一般的な略称は「広島」であって「広島東洋」の略称を使うのは[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]などに限られている。[[渡邉恒雄]]が[[松田元]]に「広島東洋をやめて広島マツダカープに変えればいい」と言ったら、「東洋工業に愛着がある」と話していたという<ref>「カープV逸20年 私の提言 渡邉恒雄」中国新聞、2011年12月18日13面。</ref>。 *** テレビやラジオの[[プロ野球中継]]などでは単に「広島カープ」または「カープ」と呼ばれることが比較的多い{{要出典|date=2016年7月}}。 * チームをイメージさせるカラーとして[[赤]]が知られている。1958年にユニフォームのロゴ・袖口・襟周りに赤い縁取りがなされ、1975年には当時の[[ジョー・ルーツ]]監督のアイディア<ref group="注釈">ユニフォームを赤に代えようとしたが、経費の都合でヘルメットと帽子のみになった。「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より。</ref>で帽子を赤一色に変えたのがその由来で(前述)、1977年以降はホーム用ユニフォームに赤と白を基調としたデザインが用いられている。ただし、球団旗は1967年以来[[紺]]地の中央に白文字で「H」が描かれたシンプルなデザイン(5代目)であり、赤が用いられたのは創設期の「CARP」の文字(1955年まで)と1958年の鯉の絵(3代目)のみである。 * 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には[[白石勝巳]]、[[門前眞佐人]]といった、他球団から選手として移籍してきた広島県出身者を中心とした選手が(選手兼任で、あるいは引退後に)監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。基本的に広島の監督・コーチは生え抜きか、外様でも広島での選手経験者を優先し、純粋な外様(広島での選手経験無し)は少ないが<ref group="注釈">純粋な[[外様]]は、監督では日本人では[[別当薫]]が、外国人を含めると[[ジョー・ルーツ]]が最後。コーチ・二軍監督では[[芦沢真矢]](芦沢優)・[[中利夫]](中登志雄)・[[伊勢孝夫]]・[[片岡新之介]]らが在籍した。</ref>、2001年には[[松原誠]](一軍チーフ兼打撃コーチ)が、2012年オフには[[新井宏昌]](一軍打撃コーチ)が、2023年には[[藤井彰人]](一軍ヘッドコーチ)・[[新井良太]](二軍打撃コーチ)純粋な外様として入団している。 * 他球団が外国人選手を採用しても、[[平山智 (野球)|平山智]]らのような日系人や、形式的に外国人登録がなされた場合でも日本人選手と同様に扱われていた在日韓国・朝鮮人の他は、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にMLB・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのある[[ソイロ・ベルサイエス]]が日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後も、[[リッチー・シェーン]]、[[ゲイル・ホプキンス]]、[[ジム・ライトル]]、[[マイク・デュプリー]]、[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]、[[エディ・ディアス]]、[[ネイサン・ミンチー]]、[[アンディ・シーツ]]、[[コルビー・ルイス]]といった外国人選手が顕著な活躍を残している。しかしカープ在籍中に活躍したにもかかわらずシーズンオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず、外国人選手が他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年に[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]に移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、アンディ・シーツ(2005年に[[阪神タイガース|阪神]]に移籍)[[トム・デイビー]](2006年に[[オリックス・バファローズ|オリックス]]に移籍)[[グレッグ・ラロッカ]](2006年に[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]に移籍 → のち[[オリックス・バファローズ|オリックス]])などの例が見られる。 * 1963年春から、[[宮崎県]][[日南市]]で春・秋キャンプを行っているが、1966年に日南市が[[読売ジャイアンツ|巨人]]からキャンプのオファーを受けたこともあり、巨人キャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島のキャンプ地として知られる。{{See also |日南市天福球場}} * 1958年以降、シーズン前に[[広島護国神社]]へチーム全員が参拝必勝祈願することが恒例となっている。[[広島市民球場 (初代)|旧広島市民球場]]が開場した1957年、カープはオールスター戦まで32勝26敗と健闘したが、オールスター戦後は、7月22日に球場が開場したにもかかわらず22勝49敗と大幅に負け越してしまった。これについて当時の球団代表の河口豪が、知り合いの神職から「この球場の左翼あたりは原爆により多数の市民が爆死した場所だから、その霊を慰めるよう神に祈願をかけなさい」とアドバイスされたことに由来する<ref>{{Cite book ja |author=河口豪 |title=栄光の広島カープ風雪25年 |year=1975 |publisher=恒文社 |pages=115-116 }}</ref>。 * 1995年から2005年まで、広島市民球場での[[ナイター]]の試合開始時間は18時20分だった。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込むなどの方針見直しに伴い、2006年よりナイターは全試合とも18時試合開始に変更している。 * 市民球団として早くから広島地域に根付いた活動をしていたことから[[私設応援団]]が多数存在していたため、公式[[ファンクラブ]]が結成されたのは2007年で、12球団では最後の結成であった。 * 巨人(1990年 - 1992年)、西武(1992年)が撤退して以降、'''三軍'''という区分けを公式に用いたチームとしては、1996年に設立されて以降2010年まで唯一だった。ただし、カープの三軍は、若手選手の基礎体力の育成を中心とした1992年までの巨人や西武と異なり、2013年までは故障者のリハビリが専門で、2014年以降はそれに成績不振選手の強化部門が加わったもの<ref>{{Cite web|和書|date=2013-12-28 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2013/12/28/0006601203.shtml |title=広島が3軍改革 不振選手サポートも |publisher=[[デイリースポーツ]] |accessdate=2015-12-13 }}</ref>。後から設置された他球団の三軍{{Refnest|group="注釈"|[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|福岡ソフトバンクホークス]](2011年 - )、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|読売ジャイアンツ]](2016年 - )<ref>{{Cite web|和書|date=2015-10-22 |url=https://www.giants.jp/G/gnews/news_3910059.html |title=三軍の設置について |publisher=読売ジャイアンツ公式サイト |accessdate=2015-12-13 }}</ref>。}}と異なり、三軍単体での試合([[社会人野球]]や[[独立リーグ]]チームが相手)は基本的に行なっていない<ref>{{Cite web|和書|date=2015-10-11 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/87722 |title=ホークスの圧倒的強さを支える「3軍」の正体 |publisher=[[東洋経済新報社|東洋経済オンライン]] |accessdate=2015-12-13 }}</ref>。 * 2012年6月21日に[[テレビ朝日]]系『[[アメトーーク!]]』で「広島カープ芸人」が放送され<ref>{{Cite web|和書|date=2013-05-10 |url=http://www.tv-asahi.co.jp/douga/ametalk_pr/30 |title=2012年6月21日OA 広島カープ芸人|アメトーーク!【Web限定ムービー 】 |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180203145543/http://www.tv-asahi.co.jp/douga/ametalk_pr/30|archivedate=2018-02-03}}</ref>、深夜枠ながら高視聴率を記録し大きな反響を呼んだ<ref>[https://web.archive.org/web/20170603174551/http://home-tv.co.jp/company/sp/release/2015/post_38.php 『アメトーーク!』高視聴率を記録! - 広島ホームテレビ](Internet Archive){{Cite news ja|title=『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』の名プロデューサーが明かすヒットの秘密 |newspaper=[[週刊プレイボーイ]] |date=2013-1-29 |url=http://wpb.shueisha.co.jp/2013/01/29/16805/ |accessdate=2022-10-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170702190359/http://wpb.shueisha.co.jp/2013/01/29/16805/|archivedate=2017-07-02 }}{{Cite news ja |title=広島優勝ならアメトーーク再び |newspaper=[[東京スポーツ|東スポWeb]] |date=2012-06-26 |url=http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/19121/ |accessdate=2015-10-16 |publisher=東京スポーツ新聞社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130610011149/http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/19121/ |archivedate=2013年6月10日}}</ref>。以降マスメディアで取り上げられる機会が増えて、カープの特集本が多数刊行された<ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-26 |url=http://kansai.pia.co.jp/news/sports/2013-03/we-love-carp.html |title=「ぴあ」とカープ密着情報誌「Athlete」が強力コラボ!球団公認のファンブックを発売! |publisher=[[ぴあ (雑誌)|ぴあ関西版WEB]] |accessdate=2015-10-16 }}{{Cite news ja |title=あの「広島カープ芸人」に直撃インタビュー!これがカープ愛だ |newspaper=[[マイナビニュース]] |date=2012-12-02 |author=本折浩之 |url=http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/12/post_2693.html |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121205002459/http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/12/post_2693.html |archivedate=2015年12月5日}}</ref>。 * 広島に所属した日本人選手がメジャーリーグへ移籍してプレーしたのは[[高橋建]]・[[黒田博樹]]・[[前田健太]]・[[鈴木誠也]]の4名である(2021年終了時点)。 == チームの戦いぶり == * 2015年シーズン終了時点では1984年に挙げた75勝が球団史上シーズン最多勝記録であり、消滅した近鉄(2001年の78勝が最多)と共にシーズン80勝に到達したことがなく、これは現存する12球団では唯一であったが、2016年9月1日の対DeNA戦で76勝目を挙げ、32年ぶりに球団史上シーズン最多勝記録を更新。そして2016年9月7日の対中日戦に勝利したことで球団初の80勝に到達したため、この未到達記録に終止符を打った。結果的に当シーズンは従来の最多勝記録を大幅に更新する89勝を挙げ、勝率でもそれまでの最高記録だった1984年の.625を上回る.631となったため、チームの最高勝率記録も更新した<ref>[https://npb.jp/bis/teams/yearly_c.html 広島東洋カープ 年度別成績]</ref>。2017年には、88勝52敗4引き分けと前年度より勝利数は落としたものの、勝率では.633を記録し球団最高勝率を更新した。 * 球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。これは、1996年に[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に抜かれるまで日本プロ野球ワースト記録であった。 * 2022年時点で最後に日本一となったのは[[1984年の日本シリーズ|1984年]]であり、広島は現存する12球団では最も日本一から遠ざかっている。現存する12球団で[[平成]]時代に日本一になれなかったのは広島のほか、阪神だけである。しかし、2023年に阪神が日本一になったため広島は2023年現在、現存する12球団で最も日本一から遠ざかる球団となっている。 * 2016年に[[札幌ドーム]]で[[北海道日本ハムファイターズ]]と対戦するまでは日本シリーズでナイトゲームを行った経験がなく<ref group="注釈">日本シリーズのナイター開催は、[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]との兼ね合いで例外として開催された[[1964年の日本シリーズ|1964年]]を除き、[[1994年の日本シリーズ|1994年]]から導入。[[2016年の日本シリーズ|2016年]]に出場する以前は、最初の出場が[[1975年の日本シリーズ|1975年]]で最後の出場が[[1991年の日本シリーズ|1991年]]であり、全試合がデーゲーム開催であった。</ref>、名称に「ドーム」と付く球場で日本シリーズを戦ったことがなかった<ref group="注釈">2016年以前の対戦相手は、[[オリックス・バファローズ|阪急]]、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]であるが、対戦当時の本拠地はいずれもオープン球場であった</ref>。 == ユニフォームの変遷 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * 1950年 - 1952年 創設期はサンフランシスコ・シールズやニューヨーク・ヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。 * 1952年 - 1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、左袖にフマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。 * 1954年 - 1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用を[[南十字星]]がイメージし、「Hiroshima」の「i」の字の上部を「☆」にしている。帽子のマークに現在のデザインに似た「C」を採用。 * 1958年 - 1962年 当時の[[ボストン・レッドソックス]]を参考にしたユニフォームが登場。この時初めて胸文字及びラインに「赤」が取り入れられる。帽子マークは小文字の「c」と「h」を並べたデザインに変更。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、[[ロサンゼルス・ドジャース|ドジャース]]型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体ロゴの原型が登場する。(スペルは'''Hirosima''')。また、胸番号も登場。 * 1963年 - 1972年 [[白石勝巳]]監督就任時より、やや緑のかかった紺色一色になり、首、袖、ベルトループに紺色のラインが入る。帽子のマークは「HIROSHIMA」の'''H'''マークになる。日本のプロ野球チームで[[地方公共団体|自治体]]の名前を入れた唯一の例ともいわれた<ref>{{Cite news ja|title=斎藤元年!日本ハム ユニホームも刷新 |newspaper=スポーツニッポン |date=2011-01-06 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010university/saito_yuki/KFullNormal20110106077.html |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110526170829/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010university/saito_yuki/KFullNormal20110106077.html |archivedate=2011年5月26日}}</ref>。Hマークは現在の球団旗にも使われている。 ** ビジター用はグレー地で、胸ロゴは花文字書体の'''HIROSHIMA'''で、6年ぶりにこのスペルに戻った。胸番号は無く、左投手及び左打者は左袖に、右投手及び右打者は右袖に袖番号が付く。 *** 1968年より、[[根本陸夫]]監督就任に伴い、袖、ベルトループのラインが太くなり、ビジター用の番号が袖から右胸につく。この年から「広島東洋カープ」と名称変更したことにより、ビジター用の右袖に[[東洋工業]](現:[[マツダ]])の「TOYO」の文字が入る。 *** 1971年より、袖、首、パンツ、ベルトループの紺ラインをオレンジで挟むラインとなり、胸ロゴ(ホーム用のCARP、ビジター用のHIROSHIMA)、背番号、胸番号、袖襟・ズボンのラインが紺にオレンジの縁取り、帽子の'''H'''マークがオレンジになる。また、ビジターの胸番号がホーム同様左側に統一される。 * 1973年 - 1974年 [[別当薫]]監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、[[セーター|プルオーバー]]となる。背番号、胸ロゴ、胸番号が赤の縁取り、袖と首周りに紺と赤のツートンライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークが'''H'''から、[[シンシナティ・レッズ]]と同じ形状の'''C'''(赤に白の縁取り)に変わる。 ** ビジター用は、[[ブルーグレー]]地になり、1960年 - 1963年にかけて使用されていた筆記体ロゴが「'''Hiroshima'''」にスペルを変更の上で復活する。 * 1975年 - 1976年 [[ジョー・ルーツ]]監督就任に伴い、ルーツが1972年 - 1973年にコーチを務めた[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]のカラーを取り入れ帽子の色が赤に、'''C'''マークが紺に白の縁取りとなる。さらに首周りがVネックとなる。また、ズボンの縦ラインが紺・赤・紺のストライプから赤・紺・赤のストライプに変更。 * 1977年 - 1988年 背番号、胸ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ='''赤'''が完全に定着する。袖、腰ラインの紺と赤とが逆転し、外側に移動した袖の紺ラインが細くなる。また、スパイクが白地に赤のラインとなる。 ** ビジター用は、ブルーグレーから鮮やかな[[スカイブルー]]地になり、胸ロゴ、背番号、胸番号が光る素材のものになる。スパイクもスカイブルー地に赤のラインとなる。 *** 1978年より、背番号の上に選手名が入る、 *** 1988年のみ、ベルトレスからベルト式になる。 **** このデザインは12年の長きに渡り使用され、1979年、1980年、1984年の3度の日本一(1986年はリーグ優勝)を果たした。ちなみにビジターユニフォームは[[広島刑務所]]に寄贈され、受刑者がソフトボール大会で着用していた<ref group="注釈">現に[[中畑清]](当時・日本テレビ野球解説者)が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の特番『刑務所24時』の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。</ref>。 * 1989年 - 1995年 [[山本浩二]]監督就任に伴い、ユニフォームを一新。当時の[[シンシナティ・レッズ]]を意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子の'''C'''マークが白一色になり、[[シンシナティ・レッズ]]と全く同じデザインとなる。 ** ビジター用は上下グレー。ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(ただし、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。 ** なお1994年のみ、左袖に同年広島で開催された[[1994年アジア競技大会|アジア大会広島大会]]をPRするマークが入る。 * 1996年 - 2001年 胸ロゴが正面に、胸番号が左胸に戻る。赤の前立てラインがつき、袖のラインが消え、パンツのラインが赤の細ラインになる。 ** ホーム用は、「CARP」の花文字が復活。 ** ビジター用は、「HIROSHIMA」(1963年 - 1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、左袖に球団創設50周年のマークが入る。 ** この時代のユニフォームの背番号のサイズはホーム、ビジター共にそれまでのものより若干大きめだった一方、背番号の上の選手名の字幅がスマートだった。 * 2002年 - 2008年 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを花文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はブロック体に変更。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。 * この時のビジターユニフォームは両袖の部分が赤色でアナハイム・エンゼルス(当時)に似たデザインで一見ノースリーブのように見えるデザインだった。 ** 2003年より、背番号の上の選手名の書体が変わる。 ** 2005年からホーム用のみ、袖とヘルメットにスポンサー・マツダの広告が入るようになった。同年からスパイクの色が赤地に白ラインとなる。 ** 2006年、ブラウン監督の発案により、投手および野手のキャプテン選手(野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹)の右袖に黄色の「C」が入る。 ** 2007年より、ビジター用ユニフォームの胸ロゴが[[1970年代|70]] - [[1980年代|80年代]]に使われた「Hiroshima」の筆記体書体になる。また炎のボールマークからチームスローガンの「ALL-IN」のロゴに変わってそれが入る。 * 2009年 - 2022年 本拠地の[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]移転に伴い、ユニフォームを一新。縦縞が消え、創設時より採用されていた紺色が21年ぶりに復活する。帽子の'''C'''マークに紺色の縁取りが入り、パンツには赤と紺の細いラインが入る。 ** ホーム用は上下白を基調とし、赤い胸ロゴ、背番号、胸番号に紺の縁取り、袖に赤と紺の細いライン、左袖に「Hiroshima」の赤い筆記体ロゴに紺の縁取りが入る。 ** ビジター用は上着が赤、パンツは白。チーム史上初めてツートンカラーを採用。上着に紺の前立てライン、胸には「Hiroshima」の白いロゴに紺の縁取り、袖に紺の細いライン、左袖に「Carp」ロゴ、背番号と胸番号は白に紺の縁取りが入る。 ** 2013年公式戦よりヘルメットに、マツダが[[日本ペイント]]と共同開発した自動車塗装色「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別な赤色を採用<ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-19 |url=http://www2.mazda.com/ja/publicity/release/2013/201303/130319a.html |title=マツダ、日本ペイントと共同で広島東洋カープのヘルメット用に「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別色を提供 |publisher=マツダ |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。これは3代目[[マツダ・アテンザ]]の発表会を訪れた松田オーナーが展示車に使用されていた「ソウルレッドプレミアムメタリック」に興味を示し、居合わせたマツダ副社長から提案を受けて実現したもの。ちなみにヘルメットの色の配合などはマツダの車両担当が行っている<ref>[http://www.carsensor.net/contents/editor/category_1585/_31903.html カープのヘルメットとマツダのソウルレッドは同じ色!? カープとマツダにその真相を聞いてみた] - [[カーセンサー]]([[リクルートホールディングス|リクルート]])、2015年10月7日</ref>。 ** 2017年 - 2019年 前年度セントラルリーグ優勝を記念し、左袖に[[チャンピオン・エンブレム]]が入る<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20170201/car17020118000006-n1.html 広島・新井、優勝エンブレムついた袖に大感激「誇らしい」] サンケイスポーツ 2017年2月1日</ref>。 ** 2020年 - 左袖に球団創設70周年のロゴが入る。 ** 2021年 - 左袖にチームスローガン「バリバリバリ」のロゴが入る。 ** 2022年 - 左袖にチームスローガン「ガツガツGUTS!」のロゴが入る。 * 2023年 - 14年ぶりにデザインを変更。前年まで使用されていたモデルを踏襲しつつ、ロゴや背番号の文字サイズを小さくし、選手の意向を取り入れて襟を省くなどの変更が施された。 **ホーム用ユニフォームはチームロゴの赤色、縁取りの紺色をより深い色味に変更した他、背面に赤い繁吹をイメージした縦の一本線が加えられた。 **ビジター用ユニフォームは「“赤”ד赤”」をコンセプトに、従前では白色であったチームロゴ・背ネーム・背番号が赤色へ変更となり、赤地に赤文字のユニフォームとなった。同時に背番号・背ネームのフォントも変更となった<ref>{{Cite web |title=カープ新ユニホーム 新井貴浩新監督「深み増した赤、かっこいい」:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASQBH7367QBHPTQP003.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2022-10-15 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=カープが新ユニホームを発表。新井新監督の背番号は25に決定!|carp|編集部コラム|アスリートマガジンWEB |url=https://www.hiroshima-athlete.com/articles/-/3506 |website=アスリートマガジンWEB |date=2022-10-15 |access-date=2023-12-16 |language=ja}}</ref>。 <gallery> 仁部智20040218.jpg|2002年~2008年のホームユニフォーム HC-Kenta-Satake.jpg|2007年~2008年のビジターユニフォーム Ohsera-daichi14.jpg|2009年〜2022年のホームユニフォーム Eldred55.jpg|2009年〜2022年のビジターユニフォーム Yuta SAITO CARP-47 20230312.jpg|2023年〜のホームユニフォーム 2023年3月26日(マツダスタジアム).jpg|2023年〜のホームユニフォーム(背面) 2023年3月4日 河野佳.jpg|2023年〜のビジターユニフォーム </gallery> === スパイク === * かつては全12球団で唯一、公式戦での球団指定メーカー([[ミズノ]]、[[アシックス]]、[[エスエスケイ]])以外のスパイクの使用が認められていなかったが、2014年頃より各自での使用が認められるようになった。 === 期間限定ユニフォーム === ==== 復刻ユニフォーム ==== * 2008年9月23日 - 25日の3日間の対巨人戦で、1977年 - 1988年のホーム用の復刻モデルを使用。背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年モデルを採用。ただし、ヘルメットは通常デザインのものを使用。 * 2010年8月に行われたセ・リーグ主催の「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」では1989年 - 1995年のホーム用の復刻モデルを使用。 * 2011年8月23日 - 25日の対横浜戦と同月26日 - 28日の対巨人戦で、1977年 - 1988年のビジター用の復刻モデルを使用し、背ネーム付・カバー付ベルト仕様の1988年のビジター用の復刻モデルを採用。2008年と異なりヘルメットも当時のものを復刻。 * 2012年8月 - 9月に行われたセ・リーグ主催の「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」では球団史上初のリーグ優勝を飾った1975年のビジター用の復刻モデルを使用<ref group="注釈">当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。</ref>。 ※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。 ==== その他 ==== * 2013年、8月23日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)限定で「デニムデザインユニフォーム」を着用することを発表。ユニホーム上下及び帽子にデニム柄を採用。デニムのさわやかなブルーに、チームカラーである「赤」のステッチに白の縁取りを施しアクセントにすることで、強さと勝利への執念を表現した。 <ref>{{Cite web|和書|date=2013-07-27 |url=http://www.carp.co.jp/news14/2013/s-032.html |title=「デニムデザインユニフォーム」お披露目!! |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141101033736/http://www.carp.co.jp/news14/2013/s-032.html |archivedate=2014年11月1日 |url-status=dead}}</ref>。以降の限定ユニフォームでは背ネームがオミットされている。背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。帽子はデニムカラーにマークが赤で入ったものだったが、ヘルメットは通常デザインのものを使用した。 * 2014年、8月22日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズの「赤道直火」にかけて、「赤道直火ユニフォーム」を着用することを発表。全身を赤色のユニフォームとしたが、通常ビジター用と若干違う「[[モロッコ]]の赤」をモチーフにしている<ref>{{Cite web|和書|date=2014-07-25 |url=https://www.carp.co.jp/news14/s-036.html |title=「赤道直火ユニフォーム」お披露目!! |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150609012350/http://carp.co.jp/news14/s-036.html |archivedate=2015年6月9日 |url-status=dead}}</ref>。帽子の庇やアンダーシャツ、ベルト、ストッキングは黒。チームロゴは黒地に白の縁取りが、帽子のマークには白のシャドーが施された。 ** これを皮切りに、シーズンのキャッチフレーズにちなんだ限定ユニフォームが夏季に着用されるようになった。 * 2015年の「ピースナイター」(後述)試合限定で、監督、コーチ、選手全員が8月6日にちなんだ背番号'''86'''のユニホームを着用。セ・リーグ公式戦でチーム全員が統一した背番号のユニホームで戦うのは初めて。デザインは、胸に花文字で'''PEACE'''(平和)、背中に個々の名前ではなく'''HIROSHIMA'''のロゴが入り、背番号・胸番号は監督、コーチ、選手全員が'''86'''。左袖のワッペンには原爆で犠牲になった29万2325人(昨年8月6日時点)の数字を、帽子の右側頭部には平和を象徴する「白いハト」のデザインをあしらった<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-07 |url=http://www.carp.co.jp/news15/s-033.html |title=8月6日(木)ピースナイター 背番号「86」ユニフォーム着用 |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151008061553/http://www.carp.co.jp/news15/s-033.html |archivedate=2015年10月8日 |url-status=dead}}</ref>。 * 2015年、8月25日からの阪神3連戦(マツダスタジアム)限定で、赤と紺のチームカラーをメインに白のストライプ柄の「常昇魂ユニホーム」を着用することを発表。キャッチフレーズ「常昇魂」をモチーフに、頂点へ上り詰めるイメージとした。赤と紺色のチームカラーに、「セ界の頂点へ昇る」という意味を込めたストライプが特徴。なお、広島のユニホームにストライプ柄が採用されるのは、2008年までのホーム用ユニホーム以来<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-19 |url=http://www.carp.co.jp/news15/s-035.html |title=「常昇魂ユニフォーム」お披露目!! |publisher=広島東洋カープ球団公式サイト |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151021043103/http://www.carp.co.jp/news15/s-035.html |archivedate=2015年10月21日 |url-status=dead}}</ref>。赤地に白のストライプが入ったデザインで、ロゴ・背番号は赤に白の縁取り、アンダーシャツと帽子の庇は紺、帽子のマークは紺に白の縁取り。 * 2016年、8月30日からのDeNA3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズ「真赤激」にかけて、「真赤激ユニフォーム」を着用した。赤地にロゴ・帽子の庇とマーク・背番号が緑色で入り、左胸付近と帽子の左側頭部には唐辛子の刺しゅうが施されている。背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された<ref>[https://web.archive.org/web/20160719163735/http://www.carp.co.jp/news16/s-045.html 「真赤激ユニフォーム」お披露目!!](Internet Archive)</ref>。 * 2017年3月18日の日本ハムとのオープン戦(マツダスタジアム)は黒田博樹の[[引退試合|引退特別試合]]となり、この試合限定で「黒田博樹特別ユニホーム」が使用された。デザイン自体は黒田がカープに入団した1997年当時のものがベースで、文字に金色の縁取りが入り、左胸にはメモリアルマークが付けられる。試合ではカープナイン全員が黒田の背番号'''15'''と'''KURODA'''の背ネームを付けてプレーした<ref>[https://web.archive.org/web/20170319113857/http://www.carp.co.jp/news17/n-039.html 3月18日(土)オープン戦 黒田博樹特別ユニフォーム着用・チャンピオンズリング贈呈!](Internet Archive)</ref>。なおこの試合の始球式を務めた黒田はユニフォームを着用せず、スーツでこれに臨んだ。 * 2017年、8月18日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)限定で、キャッチフレーズ「カ舞吼」にかけて、武将茶人・[[上田宗箇]]が[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]の際に着用した陣羽織をモデルとしたデザインの「カ舞吼ユニフォーム」を着用。猩猩緋(しょうじょうひ)という赤を地色とし、襟・袖・ラケットライン・帽子の庇は鉄紺(てつこん)を模した黒、ロゴ・背番号・キャップのマークは白地に金の縁取りで、背番号の書体は毛筆で書いたようなデザインが取り入れられた。 * 2018年、8月21日からのヤクルト3連戦(マツダスタジアム)限定で、今季のキャッチフレーズ「℃℃℃(ドドドォー!!!)」にかけて、「℃℃℃ユニフォーム」を着用。地色は紺で、袖と帽子の庇は赤、ロゴ・背番号・帽子のマーク(従来のCではなく「℃」)は赤地に白の縁取り。背番号の下部にはキャッチフレーズにも描かれている足が、加えてロゴには走った際の砂煙が施された。 * 2019年、5月12日の横浜DeNAベイスターズ戦(マツダスタジアム)限定で着用。背番号などがピンクで彩られるほか、袖にはピンクリボンのワッペンが付いている。乳がんの早期発見と早期治療を広く呼びかけようと企画した。<ref>{{Cite web|和書|title=カープ、ピンクリボン支援 限定ユニホーム {{!}} 広島東洋カープ {{!}} 40CH.NET |url=https://blog.40ch.net/2019/04/22/carp-pink-ribbon-support-limited-uniform/ |access-date=2022-12-05 |language=ja}}</ref> * 2019年、8月30日からの横浜DeNAベイスターズ戦の3連戦(マツダスタジアム)限定で、今季のキャッチフレーズ「水金地火木ドッテンカープ」にかけて、「ドッカンカープユニフォーム」を着用。地色は昨年同様紺で、袖ラインは赤、ロゴ・背番号・帽子のマークは赤地に白の縁取り。主な特異点は背番号を横切るように、キャッチフレーズにも描かれている金のネックレスが、ロゴに重なるようにカープの帽子・サングラス・ネックレスを着用してラッパーを模したキャラクターが、マイクパフォーマンスをしているデザインがあしらわれた<ref>[https://www.carp.co.jp/news19/-226.html 「ドッカンカープユニフォーム」お披露目!!]</ref>。 * 2021年、7月3日の阪神タイガース戦(マツダスタジアム)限定でサンフレッチェ広島とのコラボユニフォームを着用。スポーツを通じて、より一層広島の街を盛り上げていくことを目的とした。「HIROSHIMA PRIDE」をテーマに、カープは赤紫(カープの赤とサンフレの紫を混ぜ合わせた色。<ref>{{Cite web|和書|title=広島カープ×サンフレ、コラボユニフォームが誕生!7月3日の試合で着用 |url=https://tabetainjya.com/archives/sanfrecce/post_3064/ |website=広島ニュース 食べタインジャー |date=2022-12-04 |access-date=2022-12-05 |language=ja}}</ref> * 2021年、9月7日の中日ドラゴンズ戦(マツダスタジアム)限定で、今季のキャッチフレーズ「バリバリバリ」にかけて、バリバリユニフォームを着用。バリバリ戦う決意と勝利に向かって突き上げていく勢いを表現している。シンプルな赤基調に『Carp』ロゴを配置。背部には背番号と突き上げられた拳が採用されている。 == ユニフォームのスポンサー == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * [[#球団の歴史|球団の歴史]]、[[#ユニフォームの変遷|ユニフォームの変遷]]の節にもあるように、1952年から1953年の2年間はユニフォームの左袖部分に[[フマキラー]]のロゴマークが入っていた。 * 2005年から、ヘルメット、ユニフォーム袖に[[マツダ]]がホームゲーム限定のスポンサーとなる<ref group="注釈">セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。</ref>。ヘルメットはマツダ製の自動車のブランドロゴを入れる。(当初はマツダの新型車発売と連動して広告の車種が変更されていたが、2015年以降はスローガンの「Be a Driver」に固定されている) ** この関係で、2009年に加入した異競技連携組織「[[トップス広島]]」のロゴマークを掲示するスペースがない(他競技のチームはロゴを掲出している)。 ==オフィシャルスポンサー== <ref>[https://web.archive.org/web/20220413180609/https://www.carp.co.jp/sponsor22/officialsponsore_list.html 広島東洋カープオフィシャルスポンサー](Internet Archive)</ref> *[[マツダ]] *[[リョービ]] *[[アサヒビール]]広島支店 *[[コカ・コーラボトラーズジャパン]]広島支店 *[[イズミ]] *[[エディオン]] *[[セブン-イレブン]]ジャパン *[[大創産業]] :その他の協賛各社・団体は[https://www.carp.co.jp/sponsor22/kanban.html#s-list 2022年度スポンサー一覧]参照 == 球団旗の変遷 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * 1950年 - 1955年:白地に12本の青ストライプと赤文字でCarpの文字。 * 1956年 - 1957年:白地に3本の横青ストライプと青文字で大きなCの中にCarpのロゴ。 * 1958年:紫地に白文字でCARP。Cの部分に鯉のイラストが覆い被さるデザイン。 * 1959年 - 1966年:白地と紫地を斜めで分け、前のデザインの鯉のイラストを大きなピンク色のCの文字で再現。 * 1967年 - :紺色地に白文字でH。 == マスコット == 球団[[マスコット]]は以下の3人。詳細はその項を参照。 * [[カープ坊や]] - 1975年デビュー。球団[[ペットマーク]]として現在も使用。 * [[スラィリー]] - 1995年デビュー。 * ムッシャー - 2021年デビュー。 球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された「[[海と島の博覧会]]」の公式マスコットであるアビ丸を[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]での「ホームランガール」として起用した。 == 主なキャンプ地 == * [[宮崎県]][[日南市]]:[[日南市天福球場]]、[[日南総合運動公園野球場|東光寺球場]] * [[沖縄県]][[沖縄市]]:[[沖縄市野球場|コザしんきんスタジアム]] == キャッチフレーズ == 広島は、チームスローガンではなくキャッチフレーズとして発表している<ref>{{Cite news ja|title=カープキャッチフレーズの変遷 |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/33484 |newspaper=中国新聞デジタル |date=2019-11-22 |accessdate=2021-11-23}}</ref>。 {{Div col}} * 1953年:闘志なき者は去れ * 1973年:スピードとスリルある野球 * 1974年:HOTTER BASEBALL! * 1975年:100%の努力(ルーツ)/ハッスルプレーでスリルあるエキサイトしたゲームを(古葉) * 1976年:CHALLENGE '76CARP BASEBALL V2 DO ONE'S BEST * 1977年:LET'S GO TO CHAMPIONSHIP * 1978年:ALL MEN DASH! * 1979年:LET'S SPARK! * 1980年:3S BASEBALL (SUSPENCE SPEED START) * 1981年:3A BASEBALL (ACTIVE ACTION APPEAL) * 1982年:BIG JUMP HOT BASEBALL * 1983年:START FROM ZERO * 1984年:BLAZING BASEBALL * 1985年:CHALLENGE TO FRESH BASEBALL * 1986年:CONSISTENT CONCENTRATION(一貫した集中力) * 1987年:3C (COMMUNICATION COMBINATION CONCENTRATION) * 1988年:RETURN TO FUNDAMENTALS(基本に帰れ) * 1989年:WINNING SMILE * 1990年:STRIKING AVNEW(新たなる爆発) * 1991年:WILL TO VICTORY * 1992年:VALUE OF VICTORY * 1993年:RED CHARGE * 1994年:TOTAL BASEBALL * 1995年:TOTAL BASEBALL II FORWARD EVER * 1996:TOTAL BASEBALL III OVER THE TOP * 1997年:TOTAL BASEBALL R S REALIZAR SUENO(夢の実現) * 1998年:TENGA CONFIANZA(己を信じて) * 1999年:YES, WE CAN * 2000年:START FROM ZERO ZERO * 2001年:レッドアタック「攻めろ!!」 * 2002年:レッドパワー「燃えろ!!」 * 2003年:ライジングハート「たかぶるハートで」 * 2004年:WILL TO VICTORY * 2005年:REBORN TO WIN「赤ヘル再生」 * 2006年:ALL-IN * 2007年:ALL-IN * 2008年:ALL-IN激 * 2009年:ALL-IN烈 * 2010年:We're Gonna Win 俺たちは勝つ * 2011年:STRIKIN'BACK 逆襲 * 2012年:GROUND BREAKERS 破天荒 * 2013年:RALLYING TO ATTACK! 剣砥挑来 * 2014年:赤道直火 RED ALL THE WAY 赤く、熱く、真直ぐに * 2015年:常昇魂 RED RISING * 2016年:真赤激! Burn it up! * 2017年:カ舞吼!−Kabuku− * 2018年:℃℃℃(ドドドォー!!!) * 2019年:水金地火木ドッテンカープ * 2020年:たった今 このAKAの子 舞いたった{{Efn|正確にはKが左右反転している。}} * 2021年:バリバリバリ * 2022年:ガツガツGUTS! * 2023年:がががが が むしゃら *2024年:しゃ! {{Div col end}} == キーワード == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} === ピースナイター === 2010年まで[[広島市への原子爆弾投下]]が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、[[岡山県倉敷スポーツ公園野球場]](マスカットスタジアム)、[[福山市民球場]]などで行っていた<ref group="注釈">旧市民球場が開業した1957年と1958年には同球場での広島主管試合が開催された例。</ref>。これは球場を保有している[[広島市]]が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は[[広島平和記念公園]]に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、日程上の都合で実現しなかった{{Refnest|group="注釈"|京セラドーム大阪で対阪神戦を開催している<ref>{{Cite web|和書|date=2008-08-06 |url=https://npb.jp/bis/2008/games/s2008080601192.html |title=2008年8月6日【公式戦】試合結果(阪神vs広島東洋) |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-15 }}</ref>。}}。 2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され<ref>{{Cite web|和書|date=2011-08-06 |url=https://npb.jp/bis/2011/games/s2011080601212.html |title=2011年8月6日【公式戦】試合結果(広島東洋vs読売) |publisher=日本野球機構 |accessdate=2015-10-15 }}</ref>、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年[[生活協同組合|生協ひろしま]]等の共催による「ピースナイター」としている<ref>{{Cite web|和書|date=2011-09-20 |url=http://hiroshima.kenren-coop.jp/kaiho/pdf/kenren34.pdf |title=ピースナイター・3万人が心を一つに |format=PDF |work=ひろしまのせいきょう |publisher=[[日本生活協同組合連合会|広島県生活協同組合連合会]] |page=1 |accessdate=2015-08-05 }}</ref>。2015年の試合では[[#期間限定ユニフォーム|限定ユニフォーム]]も着用された<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-07 |url=http://www.carp.co.jp/news15/s-033.html |title=8月6日(木)ピースナイター 背番号「86」ユニフォーム着用 |publisher=広島球団公式サイト |accessdate=2015-08-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150810153810/http://www.carp.co.jp/news15/s-033.html |archivedate=2015年8月10日 |url-status=dead}}</ref>。 === 経営事情 === カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、[[呉市]]、[[中国新聞社]]、[[日本専売公社]](広島市に主力工場があった)、[[広島電鉄]]、[[マツダ|東洋工業]]などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の[[山口県]][[下関市]]を本拠地としていた[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]との合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「[[#8人の侍]]」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは[[1960年代]]まで続いた{{R|j-town117461}}。 しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に[[広島電鉄]]の伊藤信之が就任している<ref>{{Cite book ja |author=momonga |title=広島カープ物語 |year=2013 |publisher=トーク出版 |at={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=978-4-904014-387 }}</ref>。 1965年には[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の[[松田恒次]]がそれを拒んでいる。それについては[[大阪近鉄バファローズ#過去の合併計画|当該項の記事]]を参照。 1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて[[広島市民球場 (初代)]]フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。さらに[[1970年代]]後半に住友銀行の管理下となった際に、松田家が球団と地元ディーラーの経営のみの担当となったことから、東洋工業→マツダは実質的にオーナー会社でなくなった。これはマツダが[[フォード・モーター]]傘下に入った[[1980年代]]以降も変わっていない。ただし、現在でも筆頭株主であることから(下記参照)、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。 現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており{{R|carpkeiei007}}、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更に[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]のチケットに[[マツダ]]の広告が出され、さらに2013年から[[マツダ・アテンザ|アテンザ]]を筆頭にマツダ車に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。 経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている{{R|tkc1407}}。特に2009年度は[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201003250263.html カープ売上高117億円 新球場効果で46億円増]{{リンク切れ|date=2015年10月}} - [[中国新聞]] 2010年3月25日</ref>。 ただし、この売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して<ref>[https://web.archive.org/web/20060115091342/http://www.chugoku-np.co.jp/baseballdome/go041212a.html 新球場 知恵と資金出す 松田オーナーに聞く] 中国新聞 2004年12月12日付記事より</ref>、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した{{R|tkc1407}}。これは2004年の[[プロ野球再編問題 (2004年)|球界再編]]を契機に[[セ・パ交流戦]]が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化<ref>[https://web.archive.org/web/20060218184938/http://www.chugoku-np.co.jp/baseballdome/all3.htm ALL-IN 地域密着へ試行錯誤] 中国新聞 2006年1月7日付記事より</ref>、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど<ref>[https://web.archive.org/web/20060115091312/http://www.chugoku-np.co.jp/baseballdome/go041208a.html 変わる球団-ファン重視で増収策] 中国新聞 2004年12月8日付記事より。</ref><ref group="注釈">2004年までは、当時1試合1億円とされた放映権料を支払うテレビ局への配慮からナイターを重視していたが、2005年のセパ交流戦導入を契機に、観戦客の利便性を考慮してデーゲームの主催を増やした。</ref>、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。 2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて<ref>中国新聞2009年3月28日付記事より</ref>、2010年は一軍寮の建設(2億円)<ref>『若ゴイ新生活へ大州寮が完成』中国新聞 2011年3月11日付記事より</ref>、2012年はクリーニング工場の建設<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sakan-shimono.co.jp/A0006/2012-03.htm |title=2012年3月 竣工現場 |publisher=下野工業株式会社 |accessdate=2015-10-16 }}</ref>、2014年は二軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)<ref>{{Cite news ja |title=鯉16億円で悲願の室内練習場が今秋完成 |newspaper=デイリースポーツ |date=2014-01-09 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2014/01/09/0006624063.shtml |accessdate=2015-10-16 }}</ref>等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国の[[カープアカデミー]]は、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。 その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。 これは、1993年オフに導入された[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA(フリーエージェント)]]制度、そしてドラフトにおける[[希望入団枠制度]]の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8,900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、[[江藤智 (野球)|江藤智]]、[[金本知憲]]、[[新井貴浩]]、[[アンディ・シーツ]]、[[グレッグ・ラロッカ]]と相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただし、マツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8,585万円となった{{要出典|date=2014年7月}}。 このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。 2020年は新型コロナウイルス感染拡大により公式戦の入場者数が制限された影響などを受け29億3,487万円の当期損失となり赤字決算となったものの、経営状況は良好で、赤字決算は1974年以来46年ぶりであった。売上高は2年連続の減収かつ前年比83億4,489万円減の85億5,735万円となり、9年ぶりに100億円を下回った。入場料収入は41億3,500万円減の16億6,000万円、グッズ収入は22億8,800万円減の13億5,600万円で、それらとは別に消毒やPCR検査などコロナ対策で約1億円を投じた。同時に、資本金をそれまでの3億2,400万円から5,000万円に減資したことで、税法上では中小企業の扱いとなり、税の優遇措置を受けられるようになった{{R|tyugoku20210325}}。 === スカウティングと育成 === 広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である{{Refnest|group="出典"|{{R|baseball20180625|scout|toyokeizai210312}}}}。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には{{R|橘川奈良70}}、広島を中心とした[[中国地方]]選手の育成・活躍もあり<!---{{R|橘川奈良70}}--->、広島経済の好調さなどの要因が相まって<!---{{R|橘川奈良70}}--->観客動員数を増加させた{{R|橘川奈良70}}。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した{{R|橘川奈良70}}。{{By|1979年}}~{{By|1980年}}シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる{{R|橘川奈良70}}。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた[[根本陸夫]]が、その後チーム作りに関わった[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]や[[福岡ソフトバンクホークス]]でも同様のプロセスで球団の改革を行っている{{R|橘川奈良70}}。またホークスが1993年に導入された[[プロ野球ドラフト会議#ドラフト制度の沿革|新ドラフト制度]](逆指名制度)や[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA制度]]をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある{{R|橘川奈良70}}。また[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が1995年の[[阪神・淡路大震災]]という負の遺産を背景として<!---{{R|橘川奈良70}}--->、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる{{R|橘川奈良70}}。 === FA宣言選手への対応 === {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} 1993年に日本プロ野球でも[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA制度]]が導入されたが、導入当初の広島は「'''FA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めない'''」という方針であった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『'''球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか'''』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。しかし、選手にとっては他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要であるため、[[浅井樹]](当時選手会長)や[[金本知憲]]などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。 そんな中、2006年オフにエースの[[黒田博樹]]がFA宣言を示唆する発言をした。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定した成績を残していた黒田の流出はチームの死活問題となりかねなかったため、この時は例外的にFA残留を認める方針を掲げた(結局黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフに[[ロサンゼルス・ドジャーズ]]にFA移籍。その後、2015年より広島に復帰)。この影響で球団もスタンスを変更し、現在では'''FA残留を基本的には認めない'''と、態度を軟化させている{{Refnest|group="出典"|{{R|nikkan151130|asahi181107}}}}。 事実、2007年オフに[[新井貴浩]]が、2008年オフに[[東出輝裕]]が、2018年オフに[[丸佳浩]]がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている{{R|asahi181107}}(新井と丸はFA権を行使しそれぞれ阪神、巨人へ移籍(新井は後に広島に復帰)、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留に至った実例は2020年現在無く、中には2015年オフの[[木村昇吾]]のようにFA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため{{R|nikkan151130}}、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)<ref>{{Cite news ja |title=広島木村「感謝」、海外FA宣言→西武テスト生へ |publisher=日刊スポーツ |date=2015-12-26 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1583989.html |accessdate=2016-01-07 }}</ref>。 他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した[[藤井秀悟]]について調査し(実際には獲得戦線に参入せず)<ref>{{Cite journal |和書 |journal=[[ベースボールマガジン]] |date=2010-03 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |at={{要ページ番号|date=2015年10月}} }}</ref>、2010年に横浜からFA宣言した[[内川聖一]]の獲得戦線に参戦していた。しかし内川はソフトバンクに入団したため、2022年現在広島は'''セ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団'''となっている。 === 地方開催 === ==== 初の地方遠征 ==== カープ初の地方遠征は、1950年3月16日に[[福山三菱電機球場]]で行われた対中日1回戦だった{{R|150th聖地_105}}。試合は2-5で敗れたが、四回裏に中日・[[杉下茂]]から白石勝巳がレフトスタンドに記念すべき球団第1号ホームランを放っている{{R|150th聖地_105}}。また、19歳のルーキー・長谷川良平が先発としてマウンドに上がり、プロとしての第一歩を踏み出した{{R|150th聖地_105}}。企業の敷地内にある球場でプロ野球が行われたのは、当球場の他、3ヶ所のみといわれる{{R|150th聖地_105}}。 6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム<ref group="注釈">ただし当時はまだ1リーグ時代からの名残りで「フランチャイズ制度」の概念がなく、球団事務所所在都道府県であってもビジター(アウェー)扱いとなる試合は数多くあった(フランチャイズ制が正式に採用されたのは[[1952年]]から)。</ref>・[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]対広島六回戦が現在[[三次市]]の十日市町営野球場で行われた{{R|150th聖地_104}}。 開催地はこの数日前に[[草競馬]]が催された[[河川敷]]。[[馬糞]]が所々落ちている[[雑草]]茂る原っぱである{{R|塩口}}。[[野球場#観客席(スタンド)|客席]]は三塁側が[[堤防|川の堤]]で傾斜面が[[野球場#観客席(スタンド)|スタンド]]。平坦な一塁側は[[馬車]]や[[荷車]]を並べて観客席を作った。[[座布団]]代わりに一束二十銭で[[麦]]の[[藁|藁束]]を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。[[野球場#プレーヤーズベンチ|両軍ベンチ]]は馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、[[消防団員]]が[[手押しポンプ]]のホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。[[野球場#スコアボード|スコアボード]]は小学校の[[黒板]]。1枚では数字が読みにくいと2枚並べた。[[野球場#フェンス|外野柵]]は、所々に青竹を立てて荒縄1本を腰の高さに張り巡らせた。[[野球場#ファウルポール|両翼のポール]]がないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いて立てた。 この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回には二死から四球1つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中で先発全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング3本塁打を記録{{R|塩口}}。カープがこの試合で記録した28安打は、2022年終了時点でもセ・リーグ記録である{{R|150th聖地_104}}。22得点は球団記録{{R|150th聖地_104}}。日本各地に河川敷の野球場はあるが、プロ野球の一軍公式戦が行われたのはこの試合だけといわれる{{R|150th聖地_104}}。 この試合を現地で取材した[[報道機関|プレス]]は、[[朝日新聞]]、[[共同通信社]]、[[読売新聞]]の3社のみで、野球担当になって間もない記者は[[スコアブック (野球)|スコアブック]]の記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打と取り決めた{{R|塩口}}。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である([[#疑惑の本塁打]]){{Refnest|group="出典"|{{R|塩口|偉人伝30}}}}。 ==== 全国各地での主催試合 ==== カープは、かつては積極的に地方遠征を行っていた時期があり、日本ハムの北海道移転や楽天の球団創設以前は東日本と北陸を中心に、北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地で主催試合を行ったことがある。 球団創設当時の[[1950年代]]は主に広島県のその他の球場でも開催されたが、その後は上記の倉敷、福山以外にも、[[広島県立びんご運動公園野球場|尾道しまなみ球場]]、[[米子市民球場]]、[[松山中央公園野球場]](坊っちゃんスタジアム)<ref group="注釈">現在は主催試合を開催していないが、主にヤクルト主催試合においてビジターとして対戦することがある。</ref>など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。 特に[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけては北海道と東北6県全てで主催試合を行うなど広範囲で地方開催を行ったこともあり、とりわけ[[東北地方]]への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場([[福島県営あづま球場]]、[[宮城球場]]、[[岩手県営野球場]]、[[秋田市八橋運動公園硬式野球場]]など)でデーゲームを開催していた。1980年代半ば〜後半の[[バブル経済]]全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。 さらに、他球団のファンが多い地域や、他球団が[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]としている自治体に程近い地域で主催試合を行うケースも多かった。1989年には[[群馬県]][[前橋市]]の[[群馬県立敷島公園野球場]]と[[新潟県]][[新潟市]]の[[鳥屋野運動公園野球場]]で対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦を開催し、1990年から1997年にかけては中日のテリトリーである[[岐阜市]]の[[長良川球場]]で対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦を開催したほか、[[北陸地方]]([[福井県営球場]]、[[石川県立野球場]]、[[富山市民球場アルペンスタジアム]]、[[新潟県立野球場|ハードオフ・エコスタジアム新潟]])で対[[阪神タイガース|阪神]]戦を開催した。これら以外にも、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。 また、[[2000年代]]も半ばごろまでは東北地方のほか、長野、金沢・富山・福井の北陸3県でも主催試合を行った。このため、当時の主力選手であった[[金本知憲]]は現役時代、のち移籍した阪神タイガース時代も含めて[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制]]導入以降では史上2位タイとなる33球場で本塁打を放ったというエピソードもある。 新規竣工、もしくは大規模改修が完了した地方球場で主催試合を開催するケースも多かった。広島県内では1993年に[[呉市営二河野球場|呉市二河野球場]]で改修後初のプロ公式戦を開催したほか、2009年には当時竣工したばかりの[[みよし運動公園野球場]](三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また、県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には[[秋田県立野球場]](こまちスタジアム)で、2009年には[[新潟県立野球場|ハードオフエコスタジアム新潟]]で、それぞれ球場開きを飾ったほか、2000年8月21日に[[長野オリンピックスタジアム]]ではセ・リーグ初の公式戦(対ヤクルト戦)を開催している<ref group="注釈">長野オリンピックスタジアムでの[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]初の公式戦は、2000年5月20日・21日の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]。</ref>。 だが、2000年代半ば以降は[[セ・パ交流戦]]の影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は縮小されていった。地方開催は2003年頃までは概ね年間10 - 13試合程度あったものの、特に本拠地が現在のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転した2009年以降は、中部・北陸にて若干行われた以外は[[みよし運動公園野球場|三次]]や[[呉市二河野球場|呉]]といった広島県下の球場での開催にほぼ限られるようになった。2010年では4試合にまで減り、特に[[黒田博樹]]が広島に復帰した2015年以降はファンが急増したため本拠地のチケットが入手困難化したこともあり、2016年以降は[[みよし運動公園野球場|三次]]・[[呉市二河野球場|呉]]・[[広島県立びんご運動公園野球場|尾道]]いずれかの広島県下での1 - 2試合に留められるようになった<ref>{{PDFlink|[https://npb.jp/games/2019/schedule_all_cl_20181106.pdf 2019年度セントラル・リーグ選手権試合日程]}} - セントラル・リーグ公式サイト、2018年11月6日</ref>。2020年は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大の影響で開幕が6月に延期され試合数も短縮された影響で地方開催は行われず、主催試合は全60試合ともMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で開催された{{R|npb190722}}。2021年以降も同様に地方開催は行っていない<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://npb.jp/games/2021/schedule_all_cl_20210125.pdf |title=2021年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2021-01-25 |accessdate=2021-07-14 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://npb.jp/games/2022/schedule_all_cl_20220125.pdf |title=2022年度 JERA セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2022-01-25 |accessdate=2022-03-04 }}</ref>。 : {{main|広島東洋カープ主催試合の地方球場一覧}} なお、[[広島東洋カープ (ファーム)|二軍]]に関しては、2021年に[[弘前市運動公園野球場]]にて二軍交流戦(対[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|東京ヤクルト]])2試合を開催予定であったなど僅かに地方開催を続けているが、この2021年の[[弘前市]]での試合は新型コロナウイルス感染症拡大への懸念から全て中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.hirosaki.aomori.jp/oshirase/jouhou/2021_farm_baseball.html |title=【中止】2021プロ野球ファーム交流戦「広島東洋カープ VS.東京ヤクルトスワローズ」 |publisher=[[弘前市]] |accessdate=2021-07-14 }}</ref>。一軍では上記の通りマツダスタジアム以外での主管試合は2021年以後行われてないが、二軍ではマツダスタジアムを含む広島県内各地での主管試合が組まれており、2023年は[[廿日市市]][[佐伯総合スポーツ公園野球場|HIROHAI佐伯総合スポーツ公園]]、[[福山市民球場|エブリィ福山市民球場]]、三次きんさいスタジアムで開催予定である<ref>[https://www.carp.co.jp/chihou/western.html ファーム・地方試合]</ref>。 === 8人の侍 === 1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。 3月13日、[[NHK広島放送局]]が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記された[[バット (野球)|バット]]を手に県庁、[[役所|市役所]]、広島電鉄、[[商工会議所]]、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。 === 疑惑の本塁打 === 1953年4月1日、尾道西高校(現・[[広島県立尾道商業高等学校|尾道商高]])の校庭で開かれた[[横浜DeNAベイスターズ|洋松ロビンス]]三回戦で{{R|塩口}}、4回広島・[[白石勝巳]]選手の放った打球が右中間に飛び込む本塁打となったが、このプレーをめぐり洋松・[[小西得郎]]監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した{{Refnest|group="出典"|{{R|野球考古学194|塩口|hochi080929}}}}。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。そのため「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた{{R|塩口}}。 当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。[[福山市|福山]][[三菱電機]]グラウンドや[[大竹市|大竹]][[警察学校]]グラウンドでの開催もある。 そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手の本塁打をめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった{{Refnest|group="出典"|{{R|野球考古学194|塩口}}}}。この日、第一試合は2-4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の[[荒川昇治]]が走者二人を置いて、[[備前喜夫|大田垣喜夫]]の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその[[野球場#ファウルポール|左翼ポール]]を引き抜いてしまうという珍事も起きた{{Refnest|group="出典"|{{R|野球考古学194|塩口|j-town117461}}}}。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアの[[ジェスチャー]]をし、荒川が二塁を回るころ、改めて本塁打のサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした{{R|j-town117461}}。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『[[週刊朝日]]』や『[[アサヒグラフ]]』も大きく取り上げた{{R|塩口}}。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった{{R|野球考古学194}}。 尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、[[大竹市]]の[[演習場|自衛隊演習場]]で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた{{R|塩口}}。 === 幻の本塁打 === 2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた[[阪神タイガース]]戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・[[田中広輔]]の打球が左中間フェンスのスタンド側に張られたワイヤーで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議でフェンスのグラウンド側で跳ねたボールインプレーと判定し三塁打とした。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。 試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送り、NPBは一度フェンスを越えていたと誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島はシーズンを69勝71敗3分で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差で4位となりクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。 なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。(詳細:[[阪神タイガース#主催ゲームの開幕戦]]<ref group="注釈">2017年以外にも、[[大阪ドーム]](京セラドーム大阪)が完成する以前の[[1997年]]以前にもこのようなケースは頻繁にあった。</ref>) === 史上初の中止試合 === 市民球団として誕生したという生い立ちからファンの応援は他球団に比べ、より熱狂的といわれ{{Refnest|group="出典"|{{R|1975暴動|中国200303}}}}、カープ可愛さの余り、時に暴走を繰り返し、全国に汚名を晒した{{Refnest|group="出典"|{{R|STADIUM|1975暴動|中国200303|広島東洋カープのオキテ114}}}}。最も有名なのは初優勝へ驀進する1975年9月10日の対中日戦で、ファンがグラウンドに乱入して中日の主力選手に怪我を負わせた事件であるが{{Refnest|group="出典"|{{R|STADIUM|1975暴動|広島東洋カープのオキテ114|tc-ent}}}}、1964年6月30日に市民球場で行われた阪神との試合では、審判を責め立てて、審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合を起こしている{{Refnest|group="出典"|{{R|1975暴動|tc-ent|中国080420|中国211112|athlete210205}}}}。カープ攻撃中の2回裏無死一、二塁の場面。カープの[[阿南準郎]]のバントフライを阪神の[[石川緑]]が地面スレスレで捕球した。しかし主審が「土煙が上がった」とフェアの判定。このジャッジにより、走者は次の塁へ向けて走ったが、阪神は直接捕球を前提に、ボールを投手から一、二塁と転送し、[[三重殺]]をアピールした。ここから試合が中断し、VTRを見ても分からないぐらいの微妙なプレーだったが、協議の末、審判団は石川投手が捕球していたと誤審を認めた。その上でカープ側に試合続行を求めた。当然カープはこれに応じず、ここから審判団に対して2時間半の猛抗議を行う。困った審判団は今日では有り得ないが、何と折衷案として阪神側に「一死一、二塁」からの試合再開を頼み込んだ。しかし阪神もこの提案を拒否。結局、試合中止が決定し、アナウンスが流される頃には、約1,000人のカープファンがグラウンドに雪崩れ込み、球場の窓ガラスを次々に破壊し、放送室も破壊した。警官、機動隊100人が出動し、ファンの鎮圧に当たり、試合の続行は不可能な状況に陥った{{Refnest|group="出典"|{{R|tc-ent|中国080420|中国211112|athlete210205}}}}。阿南は「あの夜は球場を出るのが恐ろしかった。今では考えられないことだが、そういう時代だった」と話した{{Refnest|group="出典"|{{R|中国080420|中国211112}}}}。翌7月1日と7月2日の阪神戦も中止が決定{{Refnest|group="出典"|{{R|中国080420|中国211112|athlete210205|tc-ent}}}}。審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合だった{{Refnest|group="出典"|{{R|tc-ent|中国080420|中国211112|athlete210205}}}}。 === 沖縄県出身初のプロ野球選手 === 1964年入団の[[安仁屋宗八]]は、当時[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカの占領下にあった沖縄県]]出身で[[沖縄尚学高等学校・附属中学校|沖縄高校(現、沖縄尚学高校)]]、琉球煙草を経てカープに入団、[[沖縄県]]初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する[[外木場義郎]]とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に[[阪神タイガース]]に移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえた[[サンタクロース]]のような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「'''安仁屋サンタ'''」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。 === 「カープを優勝させる会」 === <!--- {{出典の明記|date=2012年11月|section=1}}出典充分のため除去。---> 1966年に[[東京都]]に在住する[[広島県]]人の著名人有志が「'''カープを優勝させる会'''」という団体を発足させた{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて104|カープを優勝させる会|鈴木池井152}}}}。1957年に広島県出身者の[[阿川弘之]]、[[藤原弘達]]、[[木村功]]、[[桂芳久]]、[[杉村春子]]で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「[[賀茂鶴酒造|賀茂鶴]]」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家[[佐々木久子]]だった{{R|広島カープのすべて104}}。この発足に[[梶山季之]]、[[石本美由起]]、[[新藤兼人]]、[[藤原弘達]]、[[木村功]]、[[杉村春子]]、[[森下洋子]]ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある[[灰田勝彦]]や[[富永一朗]]、その他、[[アンチ巨人]]で有名だった[[大宅壮一]]や梶山の飲み友達だった[[田辺茂一]]らが参加した{{Refnest|group="出典"|{{R|広島カープのすべて104|number878}}}}。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた{{R|鈴木池井152}}。他球団のファンから見れば、永遠に優勝することは有り得ないという前提の元に成り立つ[[ジョーク]]と考えていた{{R|鈴木池井152}}。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。梶山は「優勝したらカープの選手に芸者の総揚げサービス」と悪ノリ{{R|広島カープのすべて104}}。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初の[[セントラル・リーグ]]優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・[[後楽園球場|後楽園]]だった{{R|カープを優勝させる会}}。芸者サービスを確約した梶山はその5ヵ月前に急逝した{{R|広島カープのすべて104}}。 こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。 === 豪気エピソード === 2016年2月11日、[[NHK-FM放送|NHK-FMラジオ]]『[[今日は一日○○三昧]]』が、第162回「今日は一日“セパ対抗!プロ野球ソング”三昧2016」で、プロ野球に関連した歌を10時間に渡り流す企画を放送した{{Refnest|group="出典"|{{R|野球太郎160219|zanmai}}}}。各球団の応援歌やプロ野球選手自身が歌う曲などが続々と流されたが、ひと際話題となったのが、1975年のカープ初優勝時にリリースされたこの年の優勝メンバーが歌い上げる「カープ選手かぞえ唄」だった{{Refnest|group="出典"|{{R|野球太郎160219|zanmai}}}}。打順に沿って一番・[[大下剛史]]以下、自身のセールスポイントを生歌で披露する{{Refnest|group="出典"|{{R|野球太郎160219|中国200503}}}}。[[戦中|戦時中]]に[[海上自衛隊幹部候補生学校|江田島の海軍兵学校]]で兵士たちに歌われた「兵学校数え歌」の替え歌であるが、[[サビ]]は「そぃつぁ豪気だねぇ~♪ そぃつぁ豪気だねぇ~♪」と歌われる{{R|野球太郎160219}}。1975年の初優勝から1980年代にかけての古葉監督時代のカープ選手やコーチは、強面が多く、それに纏わる数々の豪気エピソードが今日でも伝説的に語られる{{Refnest|group="出典"|{{R|コワモテ|大下|sankei160908|tospo210418|tospo220302}}}}。2023年も営業を続ける広島市[[中区 (広島市)|中区]]の「ヘアーサロン十日市」で[[山本浩二]]らが球界で初めて導入したとされる[[パンチパーマ]]が一時、プロ野球選手の[[ヘアスタイル]]を席巻した{{Refnest|group="出典"|{{R|bunshun180204|sankei160908|athlete210321|dradama200328|postseven141211}}}}。また球団から支給された移動用の[[スーツ]]が、白の上下に白のテカテカ光るエナメルシューズ、紫の[[開襟|開襟シャツ]]で{{R|athlete210321}}、パンチ頭に[[サングラス|グラサン]]、金の[[ブレスレット]]や[[ネックレス]]をこれに合わせる者もおり、それは迫力のある出で立ちで{{Refnest|group="出典"|{{R|コワモテ|athlete210321}}}}、[[新大阪駅]]や[[名古屋駅]]に降りると、その筋の人たちが道をあけ、丁寧に[[お辞儀]]をしたといわれる{{R|athlete210321}}。また当時の選手は[[酒豪]]が多く、[[新幹線0系電車|新幹線]]に[[食堂車]]があった時代に食堂車の酒が全部無くなったというエピソードが、芸能人の豪気エピソードとして語られるが、この元祖もカープである{{R|デイリー111118}}。カープが初優勝を決めた日にビールかけをやった後、帰広する新幹線の中でも飲み続け、新幹線のアルコールが全部無くなったという話を聞いた[[釜本邦茂]]は「我々もやったろう」と遠征帰りに[[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマー]]のチームメイトとそれに挑戦し、「新幹線の飲み比べでいうと、70年代のカープかヤンマーかという時代だった」と述べている{{R|デイリー111118}}。 === 日本シリーズMVPの自動車 === カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]に優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手には[[トヨタ自動車]]から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業である[[マツダ]]からの自動車が贈呈された。 ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:[[オリックス・バファローズ|阪急]] 1986年・1991年:[[埼玉西武ライオンズ|西武]])には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。 なお、マツダはその後[[日本野球機構|NPB]]オフィシャルスポンサーとなったが、2007年以降日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。 === 日本球界初のアカデミー === [[メジャーリーグベースボール|MLB]]では、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織として[[ドミニカ共和国]]と[[ベネズエラ]]にアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。([[マイナーリーグ|マイナーリーグ・その他の項]]参照) 日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、[[カープアカデミー]]をドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年に[[ロビンソン・チェコ|チェコ]]投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後も[[ティモニエル・ペレス|ペレス]]、[[アルフォンソ・ソリアーノ|ソリアーノ]]、[[フェリックス・ペルドモ|ペルドモ]]らが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。 === 背番号0の男 === 1983年、[[長嶋清幸]]が[[野球の背番号|背番号]]0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペン捕手等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった<ref group="注釈">[[北海道日本ハムファイターズ]]では2006年以降使用休止となり、2009年から[[永久欠番]]になった。</ref>。 === クモ男 === 1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の[[風呂敷]]で頭と顔を包み、黄色の[[忍者]]のような服装、背中に[[リュックサック]]、足に黒色の[[足袋|地下足袋]]を履いた男が出現{{R|STADIUM}}。一塁側ダグアウト付近からまるで[[クモ]]のような動きでバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の[[発煙筒]]をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。 約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた[[警察官]]によって[[威力業務妨害]]の現行犯で逮捕された。男は[[東広島市]]に住む39歳の[[農業]]経営者であった。男は後日威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。 この事件については当日、NHKが試合を[[NHKプロ野球|生中継]]していたため、中継内でも一部始終が放送された。 事件の顛末について、2018年3月2日に放送された『[[爆報! THE フライデー]]』([[TBSテレビ|TBS]]系)にて、男が匿名を条件にVTR出演した。男が事件を起こした背景に、当時世間で問題になっていた巨人選手(特に[[桑田真澄]])の裏金問題があり、それに対する不満があったという。当然、巨人ファンからバッシングされることとなり、男の家族も警察の要注意人物となり、バッシングが及んだという。番組では、当時試合に出場していた[[川口和久]]が男の元を訪れ対面。川口は、この事件でペースが狂いチームが試合に敗れ、自身の成績にも影響が及んだことを話すと、男は深々と謝罪した<ref>{{Cite web|和書|url=https://datazoo.jp/tv/%E7%88%86%E5%A0%B1%EF%BC%81THE+%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%BC/1142756 |title=爆報!THE フライデー ワイドショーを騒がせた美女 2018/03/02(金)19:00放送 TBS |website=TVでた蔵 |page=1 |publisher=富士ソフト株式会社 |date=2018-03-02 |accessdate=2018-10-13}}</ref>。 === ベースボールドッグ === ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われた[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]との[[オープン戦]]で、日本球界初の試みとして[[審判員 (野球)|審判]]にボールを渡す役目である[[ボールパーソン|ボールボーイ]]ならぬ'''ボールドッグ'''を雄の[[ゴールデン・レトリバー]]のミッキーが務めた{{R|STADIUM}}。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく[[捕手]]に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後[[カルビー]]社発行の[[ベースボールカード]]([[プロ野球チップス]]に内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。 あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったものの<ref group="注釈">ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。</ref>ミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。 この人気は他球団に波及し、2006年からは[[千葉マリンスタジアム]]でも[[テレビ東京]]の番組『[[ペット大集合!ポチたま]]』とのコラボレーションで[[ラブラドール・レトリバー]]のエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、[[オリックス・バファローズ]]は、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。 2006年7月21日に[[明治神宮野球場|神宮球場]]で開催された[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。 2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県[[北広島町]]に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。 === 応援方法の先駆者 === {{See also|チャンステーマ}} 広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている{{Refnest|group="出典"|{{R|yakyutaro|ntv180626|asahiarticles|るるぶ広島カープ2013|spaia161115}}}}。[[豊田泰光]]は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている<ref>{{Cite book ja |author=豊田泰光|authorlink=豊田泰光 |title=プロ野球を殺すのはだれだ |year=2009 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |series=ベースボール・マガジン社新書 |page=125 |isbn=9784583101620 }}</ref>。[[ベースボール・マガジン社]]も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている{{Sfn|Forever|2009|p=89}}。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎり[[イノベーター]]の称号を与えられるにふさわしい」と論じている<ref>{{Cite book ja |author1=永井良和|authorlink1=永井良和 (社会学者)|author2=橋爪紳也|authorlink2=橋爪紳也|title=南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史 |year=2003 |publisher=[[紀伊國屋書店]] |pages=233-234 |isbn=4314009470 }}</ref>。 * トランペット応援・選手別応援歌 ** 鳴り物などを使用した騒がしい応援スタイルは、[[第一高等学校 (旧制)|一高]][[第三高等学校 (旧制)|三高]]定期戦など、戦前から[[学生野球]]やアマチュア野球ではあった{{Refnest|group="出典"|{{R|spaia161115|丸谷才一}}}}。プロ野球でも戦前チームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られたが<ref group="注釈">[[阪神タイガース|大阪タイガース]]や[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]の[[ブラスバンド]]演奏は数々の文献に出ている。</ref>、戦後は手拍子や声援(野次)を中心にした応援が主流で、プロ野球の応援は比較的騒がしくはなかった<ref name="丸谷才一" />。1950年代にテレビ放送が始まると[[都市対抗野球]]が人気が出て応援が騒がしくなったが、プロ野球の応援が徐々に変化していったのは、カープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したのが大きなきっかけ{{Refnest|group="出典"|{{R|yakyutaro|ntv180626|asahiarticles|るるぶ広島カープ2013|spaia161115|読む野球|佐野|carp-memorial}}}}{{Refnest|group="注釈"|トランペット応援の発祥がカープにあるという指摘は『プロ野球ヤジ講座』(おかひろみ編・[[自由国民社]])<ref>{{Cite book ja |editor=おかひろみ |title=プロ野球ヤジ講座 熱烈マニアにおくる |year=1984 |publisher=[[自由国民社]] |at={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=4426600006 }}</ref>、『[[読売ジャイアンツ|巨人]]がプロ野球をダメにした』([[海老沢泰久]]著・[[講談社]])<ref>{{Cite book ja |author=海老沢泰久|authorlink=海老沢泰久 |title=巨人がプロ野球をダメにした |year=2001 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社+α文庫]] |at={{要ページ番号|date=2015年10月}} |isbn=4062564947 }}</ref>にも記述されている。}}。また1978年にはチームの中心選手である[[山本浩二]]を特別な形で応援するため{{Refnest|group="出典"|{{R|ntv180626|佐野}}}}、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲(通称"コージコール")を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている{{Refnest|group="出典"|{{R|ntv180626|佐野|asahiarticles|Forever89|読む野球|shinguu}}}}。最初は声を合わせて「コージ」を繰り返すだけのものだったが、やがてトランペットのマーチに乗って、「かっとばせ! コージ」に変わり、他の球場でも「コージ」「コージ」の大声援が起こるようになり{{R|shinguu}}、スポーツマスコミがこれを"コージコール"と名付けたことから{{R|shinguu}}、トランペットは他の選手たち{{R|shinguu}}、<!---最初の1コーラス目は選手別応援歌を歌い、続く2コーラス目以降はトランペット演奏に合わせて選手名をコールするという形となって--->そして他チームの選手へも広がっていった{{Refnest|group="出典"|{{R|佐野|Forever89|shinguu}}}}。1979年には「[[花咲かじいさん]]」のテーマがコンバットマーチとともにトランペット応援で使用されるようになった。その内に、個々人のマーチに歌詞がつき、応援団だけでなく、球場に詰め掛けたファンが声をそろえて、声援を送るようになる{{R|Forever89}}。プロ野球の応援に鳴り物が使われるようになったのは"コージコール"からで、この応援スタイルはこれ以降プロ野球に波及した{{Refnest|group="出典"|{{R|佐野|丸谷才一}}}}。山本浩二は当時のプロ野球選手では珍しい[[ファンクラブ]]を持っていた{{R|W朝日751017}}。 <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> * [[ジェット風船]] ** 1978年、カープの関西地区の私設応援団『近畿カープ後援会』のメンバーが、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]でジェット風船を飛ばしたのが起源という説{{Refnest|group="出典"|{{R|yakyutaro|ntv180626|asahiarticles|るるぶ広島カープ2013|読む野球|ジェット風船}}}}と1984年、[[阪神甲子園球場|甲子園]]を中心に関西地区で活動するカープ応援団「大阪河内楠公会」のメンバーが紙吹雪に代わるものとして、[[大阪市|大阪]]・[[松屋町]]の玩具問屋で購入した風船を飛ばしたのが起源とする説がある{{R|Forever89}}。以後広島だけでなく、多くのチームファンが風船飛ばしを行っている。なお、2020年以降は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大により、他球団も含めてジェット風船飛ばしは禁止となっている。 ** 広島ファンの飛ばすジェット風船の色について、以前は統一せず、カラフルであった。後に基本は赤一色となり、鯉のマークが入っている。なお7回だけでなく、勝利時にも飛ばす(勝利時も同じく赤一色)。 * スクワット応援 ** 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1993年のオープン戦から地元の高校生のグループが遊びで応援していたのが徐々に広まっていった{{Refnest|group="出典"|{{R|yakyutaro|asahiarticles|読売131220|apollon}}}}。最初はこの高校生のグループがやり始めると周りの数組が真似をしていただけだったが、数試合後には初回から誰かしらが始めるようになり、全体に広まった{{R|asahiarticles}}。始めのうちはこの応援は立ったり座ったりするのが危険だという事で警備員に止められることもあった。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(『[[ズームイン!!SUPER|ズームイン!!朝!]]』の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。 ** [[高木豊]]が数えたところ、1試合のスクワット回数は約700回(『[[伊集院光 深夜の馬鹿力]]』豆知識予備校より)。 ** 選手の応援歌を全く知らない人でも気軽に応援に参加することが可能で、新規ファンが増えやすい要因となっている。 * しゃもじ応援 ** 1975年の初優勝時、カープファンはスタンドで[[しゃもじ]]を打ち鳴らして応援していた{{R|yakyutaro}}。しゃもじは[[瀬戸内海|広島湾]]に浮かぶ[[厳島|宮島]]の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。また、[[高校野球]]において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることもある。しゃもじは1980年代半ばまで使用され、以後は危険防止のためしゃもじを打ち鳴らす応援は行っていない。 * メガホン応援 ** 応援に欠かせないアイテム、「[[メガホン]]」。デザインや用途も含め、年々進化を遂げるメガホンの起源といわれているのが、前述の「しゃもじ」といわれる{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|yakyutaro|jipa}}}}。しゃもじ応援にヒントを得た応援グッズメーカーが、12球団それぞれのチームカーラーのメガホンやメガバットを売り出したところ、飛ぶように売れて広まったとされる{{R|yakyutaro}}。前述のスクワット応援でも用いられている。 * 横断幕 ** 初優勝した年に、これもプロ野球では初めてかもしれない長さが20メートルぐらいある[[横断幕|横幕]]をファンが持ち込んだ{{R|鈴木池井67}}。途中退団したルーツの言葉「可能性があれば失敗を恐れず最後まで全力を尽せ」「走る野球名采配古葉」「ガッツの大下盗塁王」「助っ人No.1ホプキンス」などが書かれた幕をタイミングよく、10人ががりで広げて外野席を駆け巡った{{R|鈴木池井67}}。テレビサイドから見ても絵になるためよく映し、好評を得て3人で始めたものがメンバーが25人に増えて「横幕会」として有名になった{{R|鈴木池井67}}。黒田博樹の2014年のカープ復帰は、2006年のシーズン終盤に市民球場外野席に「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 」と書かれた巨大[[横断幕]]が決め手になったといわれている{{R|nikkan220720}}。また[[中野区|東京中野]]に「カープ工芸」という[[旗]]や[[幟]]を作る会社があり、経営者・百合藤等が東京のカープ私設応援団員で{{R|W朝日751017}}、自作した応援旗を1970年代から、後楽園や神宮、[[川崎球場]](当時の[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]の本拠地)で振り回していた{{R|W朝日751017}}。百合藤氏は球団に頼まれ、[[東京国際空港|羽田]]に到着する新[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人選手]]の出迎えなどもやっていた{{R|W朝日751017}}。 === 多様なカープグッズと記念Tシャツ === 数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだ[[キャラクター#キャラクターの商品展開|グッズ]]を生み出し続けているのはカープであると言われている{{Refnest|group="出典"|{{R|sankei150426|tkc1407|spa20140610|sportivaspa201545|mynavi160206}}}}。TV放映権が下落傾向にある中、新スタジアムの建設問題に併せて、これも他球団に先駆けて、新たな収益源として、カープが考え出したのがグッズ戦略であった{{R|カープ}}。かつては「[[重し|文鎮]]にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが{{R|spa20140610}}、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時の[[マーティ・ブラウン]]監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には[[山﨑浩司]]内野手が対戦相手を[[隠し球]]でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した{{R|goods}}。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している{{Refnest|group="出典"|{{R|tkc1407|sportivaspa201545}}}}。 この他にも、[[ブライアン・バリントン]]愛用の爪磨きや、[[キラ・カアイフエ]]などの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、[[iPhone]]ケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い<ref>[https://web.archive.org/web/20140327100004/http://www.jsports.co.jp/baseball/blog/cat534/post-700/ 【広島好き】独自路線を突き進む、恐るべきカープグッズ](Internet Archive)</ref>。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラ本塁打を打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている<ref>{{Cite web|和書|date=2011-05-16 |url=http://www.fukuoka-ch.com/2011/05/t.html |title=【広島カープ】これまでのサヨナラ記念Tシャツをまとめてみた |publisher=福岡ch |accessdate=2015-10-16 }}</ref>。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、[[九里亜蓮]]や[[大瀬良大地]]の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、[[堂林翔太]]のシーズン初本塁打によるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した<ref>2014年5月16日NHK総合『もうひとつのプレーボール〜カープ快進撃の舞台裏〜』</ref>。 [[丸佳浩]]が「[[千葉県|千葉]]から広島に来て、カープという球団が広島の人にとってすごい身近な存在だということに驚いた。どこもかしこもカープで、[[コンビニ]]では普通にグッズが置いてある。広島ってこういうところなんだと新鮮な[[カルチャーショック]]でした。僕の出身の千葉は[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]のお膝元ですけど、ありえないです」と話したことがあり{{Refnest|group="出典"|{{R|asahi160911|victory171106}}}}、地元民にとって「コンビニにカープグッズ」は当たり前である{{R|victory171106}}。 「赤」は伝統的に色彩マーケティングでも購買色や興奮色と言われるカラーであり、応援グッズがカワイイことも、カープ女子増加の要因の1つという見方がある{{Refnest|group="出典"|{{R|wisdom170220|myjcom14}}}}。球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|spnews}}}}。球団によってはグッズを売っても[[ロイヤルティー]]しか入らないところもあるが{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|sankei150411}}}}、カープは製作から販売まで自前{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|sankei150411}}}}。自主製作であることから、製品のアイデア出し、作成までのリードタイムが短い{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|AERA140630}}}}。[[サヨナラホームラン]]が出た夜に企画会議をやって2日後にホームラン記念[[Tシャツ]]を販売したこともある{{R|AERA140630}}。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し{{R|sankei150411}}、十数年で15倍に伸ばした{{R|asahi1758}}。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した{{Refnest|group="出典"|{{R|カープ|asahi1758}}}}。他球団で、このような高い比率を持つところはない{{R|カープ}}。また、地元企業を大切にしており、丸天産業とタイアップした選手の顔が入った[[マスキングテープ]]や、[[田中食品]]の「カープふりかけ」など、地元産業と提携して数々の実績を上げている{{R|カープ}}。 === 広島県内におけるカープの影響 === 2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた東京ドームでの巨人戦での[[NHK広島放送局|NHK総合テレビ広島地区]]の[[視聴率]]は、平均で60.3%、瞬間最高は71.0%を記録したように{{R|kotobank}}、「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど{{Refnest|group="出典"|{{R|peace-tourism|mynv150530}}}}、広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり{{Refnest|group="出典"|{{R|peace-tourism|AERA190221}}}}、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される{{R|victory171106}}。 * [[ローソン]] ** [[広島駅]]から[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]に至る「カープロード」<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-08 |url=http://www.carp.co.jp/news15/k-023.html |title=「カープロード」リニューアル! |publisher=広島東洋カープ公式サイト |accessdate=2015-10-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923200740/http://www.carp.co.jp/news15/k-023.html |archivedate=2015年9月23日 |url-status=dead}}</ref>沿いと、スタジアムに隣接するローソン2店舗の正面看板が、通常の青帯ではなく世界でもここしかない赤帯になっており{{R|mynv150530}}、通称「'''赤ローソン'''」と呼ばれ、県外からのカープファンの観光スポットになっている{{Refnest|group="出典"|{{R|daily20131010|るるぶ広島カープ}}}}。なお、「赤ローソン」の通称は臙脂色の看板を使用した[[ナチュラルローソン]]でも使用されている。 * カープ電車 ** [[広島電鉄]]および[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が、カープのロゴやカープ坊や、スライリーなどを利用した[[ラッピング車両|ラッピング電車]]を運行している。広島電鉄のカープ電車<ref>[https://web.archive.org/web/20130423221239/http://www.hiroden.co.jp/carp/cheer.html 広島電鉄 カープ応援企画!](Internet Archive)</ref>は、選手による車内アナウンスや、ファンによるメッセージが車内に掲示されている。 ** なお、カープ電車ではないが2015年にJR西日本が広島地区に導入した[[JR西日本227系電車|227系]](0番台)は赤を基調としたデザインであり、この色について同社のプレスリリースでは[[厳島神社]]の大鳥居、広島県木の[[もみじ]]と並んで「広島東洋カープをイメージした」との記載がある<ref>{{Cite web|和書|date=2014-06-20 |url=http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2014/06/20_14.html |title=JR西日本227系を発表。 |work=編集長敬白 |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |author=名取紀之 |accessdate=2015-10-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140916211853/http://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2014/06/20_14.html |archivedate=2014年9月16日}}</ref>。また、側面行先表示器にカープ坊やの表示が落成時から用意されており、2016年のリーグ優勝以降、日本シリーズや優勝時に特別表示を実施している<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-12 |url=http://railf.jp/news/2016/09/12/150000.html |title=227系に「カープ坊や」のLED表示 |work=鉄道ファン |publisher=[[交友社]] |accessdate=2016-09-12 }}[http://toyokeizai.net/articles/-/135944 227系のカープ坊や表示は製造時より用意されており、優勝を機に満を持しての登場となった]</ref>。 * [[学校教育|教育]]・[[労働]]現場 ** [[広島市]]内の小中学校には「'''カープについて考える[[授業]]'''」が存在し{{R|AERA190221}}、2015年5月30日放送の『[[ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!]]』では[[湯崎英彦]][[都道府県知事|県知事]]によってその様子が紹介された{{R|mynv150530}}。 ** 2015年3月には、[[広島労働局]]が国が進める「働き方改革」の一環として「カープの試合が地元である日をノー[[時間外労働|残業]]デーにする」という案を発表し、この時職員はカープのユニフォームを着用して会見を行なった<ref>{{Cite news ja |title=カープの試合がある日は残業なしに 広島労働局が提案 |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |date=2015-03-29 |url=http://www.asahi.com/articles/ASH3V41TCH3VPITB00K.html |accessdate=2015-10-17 |publisher=[[朝日新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150329163454/http://www.asahi.com/articles/ASH3V41TCH3VPITB00K.html |archivedate=2015年3月29日}}</ref>。 === 広島県外のカープファンの増加 === 広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが{{Refnest|group="出典"|{{R|koibana151201|wedge160916}}}}、特に[[北海道]]にある[[北広島市]]は広島県人が開拓した街でもあるので、その流れで旧来からカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]を応援する人も増えている)<ref>[https://web.archive.org/web/20170228080650/https://tvtopic.goo.ne.jp/program/cx/23018/1005466/ Mr.サンデー] - gooテレビ番組,2016年10月23日(Internet Archive)</ref>。他にも、広島とは縁はなくとも同期のTBSアナウンサー・[[林美雄]]に影響されてカープファンとなった[[久米宏]]などの例や{{Refnest|group="出典"|{{R|久米|koibana151201}}}}、「好きだった西鉄ライオンズが身売りしたので最も西の球団を選んだ」という理由でカープファンになった[[筑紫哲也]]などもいた{{R|筑紫}}。筑紫はカープファンの妙味は「ファンも勝敗だけに拘泥せず、"物語"を大事にするところ」などと話していたが{{R|筑紫}}、久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央""反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている{{R|久米}}。 広島出身者でないカープファンのアナウンサーとしては[[桝太一]]や{{R|todaishimbun}}、[[親族]]の影響でカープファンになった[[堀井美香]]<ref>[https://www.tbsradio.jp/archives/?id=p-295229 優勝目前!今年、売れに売れた“カープグッズ”は こいつらだ!]</ref>、[[弘中綾香]]<ref>[https://sportiva.shueisha.co.jp/contents/entertainment/2020/12/18/post_12/?page=3 弘中綾香アナが語る登山と好きなアスリート。ギャップ萌えした選手とは]</ref>、[[NHK広島放送局|NHK広島]]勤務時代にファンになった[[井上あさひ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/nhk_touron/status/1474862774199148551 |title=NHK日曜討論公式@nhk_touronのツイート |access-date=2023-10-16 |date=2021-12-26 |website=Twitter}}</ref>らがいる。他に育った地域では周りはみんな巨人ファンで、カープは育てた選手がFAでみんな出ていって可哀そう、自分だけでもカープを応援する、無理やり連れて行かれた球場で「[[#宮島さん]]」やスクワットなどの応援にハマった<ref>{{Cite web|和書|author=伊藤歩 |date=2016-09-16 |url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7737?page=5 |page=5 |title=なぜカープは女子にウケるのか? 東京カープ女子座談会 |accessdate=2023年5月28日 |website=[[Wedge|WedgeONLINE]] |publisher=[[ウェッジ (出版社)|ウェッジ]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161211075031/http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7737?page=5 |archivedate=2016年12月11日 }}</ref>など、様々な理由でカープファンになった人が増え{{Refnest|group="出典"|{{R|scout|home-tv220920|myjcom14}}}}、2021年では人気は全国区となっているとされる{{Refnest|group="出典"|{{R|diamond210616|tv-tokyoplus|energia}}}}。 1993年に球界は[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]]、ドラフトでの[[希望入団枠制度|逆指名]]の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成して[[クライマックスシリーズ]]に初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した<ref>[https://archive.fo/20140520064133/http://www.sankeibiz.jp/business/news/140519/bsg1405190500001-n2.htm 「カープ女子」関東にも経済効果 なぜ支持を集めているのか (2/3ページ)](Internet Archive)</ref>。 カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという{{R|chugoku2013816}}。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ{{R|chugoku2013816}}、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた{{R|chugoku2013816}}。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、[[東京ドーム]]での巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの[[明治神宮野球場|神宮球場]]でのヤクルト戦を中心に{{R|biz20160830}}、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった{{Refnest|group="出典"|{{R|wisdom170220|tkc1407|久米|asahi130326|asahi120907}}}}。『中国新聞』2012年8月19日付に「関東の『コイ党』沸騰 入場者数 昨年比1試合2700人増 チーム好成績 若手活躍期待」という記事が載る{{R|chugoku20120819}}。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの(2014年までの)5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている{{Refnest|group="出典"|{{R|AERA140630|sankeibiz140519}}}}。2014年頃は首都圏で行われる対カープ戦のビジター席は3-4割が女性だった{{R|AERA140630}}。 2012年10月から12月まで放送された[[木村拓哉]]主演の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|「月9」]][[テレビドラマ|ドラマ]]『[[PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜]]』では、話の[[モチーフ (物語)|モチーフ]]として[[北別府学]]のサインボールが取り入れられた{{R|北別府}}。また2013年1月~3月期の[[木曜劇場|木10]]『[[最高の離婚]]』第一話では、開始20分過ぎに営業部社員濱崎光生役の[[永山瑛太|瑛太]]が取引先と[[草野球]]をやって[[急性腰痛症|ぎっくり腰]]になり、元カノで[[アロマテラピー]]のお店を経営する上原灯里([[真木よう子]])と再会。マッサージを受けた後、野球に無知な瑛太に真木が「あ、前に知り合いの人が言ってましたよ。野球好きの人には広島ファンと言っとけばいいって。通ぶれるらしいです」とアドバイスし、瑛太が「へ~広島?」と答えるシーンがある。当時は唐突に聞こえたが、本作の脚本、[[坂元裕二]]が[[ロケーション・ハンティング#種類|シナハン]]中に[[都内]]にカープファンが増えていることを知り、セリフに組み入れたものと考えられる。 2013年、阪神との[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]においては[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]のレフトスタンドから三塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った<ref>{{Cite web|和書|author=森田和樹 |date=2013-10-14 |url=http://www.jsports.co.jp/press/article/N2013101420534801.html |title=【広島好き】真っ赤に染まった甲子園。次は関東のカープファンの底力を |publisher=[[J SPORTS]] |accessdate=2015-10-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131015192922/http://www.jsports.co.jp/press/article/N2013101420534801.html |archivedate=2013年10月15日}}</ref>。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため{{R|biz20160830}}、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる{{Refnest|group="出典"|{{R|number161208|nikkeibp150919}}}}。地方球場においてもカープファンの盛況はめざましい。2015年6月23日の長野オリンピックスタジアムでの阪神戦では、延長になっても大勢のファンが残り、試合終了の午後11時47分まで必死な声援を送った(試合結果は6-6の同点)。2016年7月6日の石川県立野球場での中日戦(黒田博樹が日米通算200勝まであと1勝を懸けて登板)でも、球場の半分を赤く染めた。 このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している{{Refnest|group="出典"|{{R|energia|tv-tokyoplus}}}}。 === カープ女子 === {{main|カープ女子}} [[2013年]]頃から[[マスメディア]]に盛んに取り上げられ、[[スポーツ]]に於ける女性ファンブームの火付け役になった。 === カープ本 === カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された{{R|カープ本}}。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『[[球場ラヴァーズ]]』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて[[ニッチ市場|隙間産業]]では、と笑われた」と作者の[[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]は話している{{R|spa757723}}。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た{{R|カープ本}}。"カープ本"という言葉も定着し、[[広島県立図書館]]では時折、カープ本特集の展示がある{{R|カープ本}}。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった[[池田勇人]]が[[内閣総理大臣]]に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・[[ベースボールマガジン社]])1冊のみといわれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/ct/other000000600/carplist.pdf |title=球団史 |publisher=[[広島県立図書館]] |format=PDF |accessdate=2015-10-17 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20150402130848/https://www.hplibra.pref.hiroshima.jp/ct/other000000600/carplist.pdf |archivedate=2015年4月2日 }}</ref>。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』([[古葉竹識]]著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。 == 主な歴代の球団歌・応援歌 == * 「'''[[それ行けカープ 〜若き鯉たち〜]]'''」{{R|athlete230607}}(1975年 - 現在) - 歌・塩見大治郎、南一誠、鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND ; 過去の球団歌 * 「[[我れらのカープ]]」(1950年 - 1952年) - 球団結成時に制定<ref>{{Cite web|和書|date=2009-04-10|title=「勝て勝てカープ/それ行けカープ〜若き鯉たち/燃える赤ヘル僕らのカープ」|url=http://hfm.jp/blog/shokutaku/index_568.html|work=食卓ON楽|publisher=[[広島エフエム放送]]|accessdate=2022-01-28}}</ref>。 * 「[[広島カープの歌]]」(1953年 - 1974年) - 歌・RCC合唱団。1975年に「勝て勝てカープ」へ改題・編曲し、公式応援歌として継続使用(歌・塩見大治郎)。 ; 応援歌 * 「燃える赤ヘル僕らのカープ」{{R|athlete230607}}(歌・事崎正司=現・[[加納ひろし]])ホームでビジターチーム先発投手交代時や9回裏に流れる(ビジターチームにリードされているか、タイスコアのゲーム)。マツダスタジアムのみで流される。 * 「勝鯉の女神」(歌・[[セレナ]])球団公認 * 「宮島さん」(歌・[[加納ひろし]]) * 「痛快! 赤ヘル音頭」(歌・[[柏村武昭]]){{R|athlete230607}} * 「ゴーゴーカープ」(歌・[[富永一朗]]){{R|athlete230607}} * 「Red 〜僕らの広島カープ〜」(歌・石田匠) * 「わしを市民球場に連れてって。」(歌・[[堂珍嘉邦]]〈[[CHEMISTRY]]〉) * 「[[勝利を我らに!〜Let's win!〜]]」(歌・鯉してるオールキャスターズ、Marquee Marblish BAND) * 「カープロード」(歌・[[矢野昌大]]) 球団公認 === 宮島さん === 得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」<ref group="注釈">試合途中で結果が出ていないときは「…今日'''の'''カープは…」と歌われることもある。</ref>と歌われる通称「宮島さん」は{{Refnest|group="出典"|{{R|kan|宮島さん|athlete230607|number190823}}}}、[[1901年]]([[明治]]34年)の[[唱歌]]「[[花咲か爺#唱歌|花咲爺]]」の[[替え歌]]で{{Refnest|group="出典"|{{R|kan|宮島さん|number190823}}}}、[[明治|明治時代]]に[[厳島|宮島]]の対岸である当時の[[地御前村]](現在の[[廿日市市]]地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖{{Refnest|group="出典"|{{R|joetsutj|sanspo161224}}}}。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれ{{R|joetsutj}}、替え歌としても100年以上の歴史がある{{R|kan|宮島さん}}。地御前の出身者が[[広島県立広島商業高等学校]]に入学し、応援歌として歌い出したのが広島県内で広まったきっかけ{{Refnest|group="出典"|{{R|kan|宮島さん}}}}。広商野球部百年史には、[[1916年]]([[大正]]5年)にはすでに歌われていたと記載されており{{R|nhk130725}}、広商の[[学生証#生徒手帳|生徒手帳]]にも[[歌詞]]の記載があり、同校に入学すると[[校歌]]とともに必ず覚えなくてはならない{{Refnest|group="出典"|{{R|kan|宮島さん|number190823}}}}。広島ではその後、[[広島高等師範学校]]や{{Refnest|group="出典"|{{R|kan|宮島さん}}}}、広商を始め広島代表が[[日本の高校野球|甲子園]]に出場すると宮島名産の[[しゃもじ]]を「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/08/01/kiji/20180801s00041000066000c.html 【柳沢慎吾のひとり甲子園“再現動画”】また見たい!夏の風物詩・広島県勢「しゃもじ応援」]<!---{{Cite news|title=【柳沢慎吾のひとり甲子園“再現動画”】また見たい!夏の風物詩・広島県勢「しゃもじ応援」|date=2018-08-01|author=|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/08/01/kiji/20180801s00041000066000c.html|accessdate=2023年4月16日|newspaper=[[スポーツニッポン]]|publisher=スポーツニッポン新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180801024644/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/08/01/kiji/20180801s00041000066000c.html|archivedate=2018年8月1日}}---></ref>、甲子園で広島代表と対戦した各県代表校の応援団が「これはいい」と、各地にこの応援歌を持ち返り、「宮島さん」の部分を各地の神社や山の名 前などに置き換えて(一部歌詞を変えて)歌うようになったという説もある<ref>[https://www.city.ojiya.niigata.jp/chidasyo/kouchou/20180507koutyou.pdf 花と太陽と風] - [[小千谷市]]</ref>。近年では甲子園での広島代表だけでなく、歌詞を一部変更して他県の代表校の応援歌としてもよく使われる{{R|number190823}}。[[第70回全国高等学校野球選手権大会|1988年夏の甲子園]]での広島商業6度目の全国制覇にあやかり{{R|nhk130725}}、同年、山本浩二監督就任で、大下剛史、三村敏之がコーチとして入閣、広島出身の首脳陣を盛り立てようと、カープ応援団がカープの応援歌として「宮島さん」を取り入れた{{Refnest|group="出典"|{{R|宮島さん|nhk130725}}}}。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の[[加納ひろし]]のアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている<ref> [https://web.archive.org/web/20211116005517/https://www.asahi.com/articles/ASK2M4S6YK2MPITB004.html 広島)39年ぶり「燃える赤ヘル僕らのカープ」再録音](Internet Archive)、朝日新聞デジタル、2017年2月20日。</ref>。 == 放送 == === 試合中継 === ; 地上波テレビ * 『'''[[NHKプロ野球]]'''』 : [[NHK広島放送局]] ** ローカル中継は[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]で木曜・金曜ナイターと週末デーゲームを放送(原則として[[中国地方]]向け{{Efn|name="18:00"|18時台は広島局のみ放送。[[NHK山口放送局|山口]]・[[NHK松江放送局|松江]]・[[NHK鳥取放送局|鳥取]]・[[NHK岡山放送局|岡山]]はローカルニュース終了後の18:59飛び乗り。}}だが、広島県他一部県向け{{Efn|name="18:00"}}{{Efn|name="hensei"|2019年以降に山口・松江・鳥取・岡山では、総合テレビの木曜・金曜のレギュラー番組で人気番組が増加したことから、それらを優先する編成方針により同時ネットを見送る傾向がある。}}または広島県向け{{Efn|name="hensei"}}で放送する試合もある)する他、週末デーゲームも年1試合を全国ネットで放送する。 ** [[NHK BS1|BS1]]でも放送するが、BS1と地元地上波との並列が、クライマックスシリーズなどの例外を除いて認められていないため、放送する場合は地上波放送のない試合に限定している。 ** ビジターゲームは対巨人戦・対DeNA戦・対ヤクルト戦・対中日戦・対阪神戦と交流戦の対日本ハム戦・対楽天戦・対西武戦・対ロッテ戦・対オリックス戦・対ソフトバンク戦を放送する(関東圏で開催する試合は全国ネット〈総合テレビまたはBS1のどちらか〉で放送するが、関東圏以外で開催する試合は全国ネット〈総合テレビまたはBS1のどちらか〉または中国地方向け・広島県他一部県向け・広島県向けのどちらかで放送)が、年度によっては放送がないカードもある。 * 『'''[[S☆1 BASEBALL#中国放送(広島東洋カープ戦)|Very!カープRCC カープナイター/カープデーゲーム中継]]'''』 : [[中国放送]] ** 対巨人戦は[[BS-TBS]](地上波全国放送時はトップ&リレー中継<ref group="注釈">2015年までのナイター開催時はトップ中継は別制作(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)で、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する形式だったが、2016年以降のデーゲーム開催は原則としてリレー中継のみ(13:30試合開始時はトップ&リレー中継)実施し、中国放送では16時以降も中継するが、地上波同時放送とはならず、TBSチャンネル1との同時放送となる。</ref>、広島県ローカル放送時は完全生中継)・[[TBSチャンネル|TBSチャンネル1]]で放送するが、2011年以降は制作体制が異なり、TBSテレビのアナウンサー・解説者が東京からのオフチューブで放送。年度によりクライマックスシリーズが対巨人戦で地上波が広島県ローカル、BSがNHK BS1、CSがTBSチャンネルで各々放送する際にTBSチャンネルでは地上波同時放送とする場合がある。対巨人戦以外の試合も対戦相手のネット局でも中継するが、ネット局では実況を自社で差し替える<ref group="注釈">対阪神戦は[[毎日放送]]が、交流戦の対ソフトバンク戦は[[RKB毎日放送]]が各々スタッフを現地に派遣し(何れも年度によってはネット受けの場合あり)、対中日戦は[[CBCテレビ]]が名古屋からのオフチューブで放送(2021年は広島県ではテレビ新広島が放送したため、中国放送の協力で映像の別制作を行った)。交流戦の対日本ハム戦については北海道放送が解説者やリポーターを派遣して同時ネットするか、別実況で放送するかのいずれかとなるが、後者の場合は乗り込みまたは札幌からのオフチューブのどちらかとなる。2002年には、開幕戦の対横浜戦を[[TBSテレビ]](関東ローカル)とBS-i(現:BS-TBS)が両局共通の実況で中国放送とは別制作で放送。2003年までは地方開催のデーゲームをTBSテレビ主導の中国放送や開催地地元局との共同制作で関東・広島県・開催地・ビジター地元局などの任意ネットで放送したことがあった。</ref>。 ** ビジター球団の地元局が別制作せずに解説者・リポーターを派遣して中国放送との共同制作扱いする場合は、TBS系列全国ネット時と同様に『'''S☆1 BASEBALL'''』の番組名で放送する(北海道放送にネットした2022年6月1日の対日本ハム戦など)。 ** ビジターゲームは対DeNA戦・対中日戦・対阪神戦(以上地元系列局の映像を利用)・対ヤクルト戦(映像を東通→TBSアクトの協力で独自制作)や交流戦のパ・リーグ球団主催ゲーム(球団制作映像を利用)は自社制作だが、対楽天戦は[[東北放送]]から、対日本ハム戦は[[北海道放送]]からのネット受けで各々放送。BS-TBS、TBSチャンネル2(DeNA戦のみ)ではDeNAやパ・リーグ主催の広島戦もTBSテレビ制作(球団公式映像を利用。日本ハム・ソフトバンク主催時は地元系列局での放送有無を問わず別制作)で中継。 * 『'''[[DRAMATIC BASEBALL#広島テレビ|広テレ!完全カープ主義 DRAMATIC BASEBALL]]'''』<ref group="注釈">番組タイトルの「完全カープ主義」は広島テレビ放送のステーションキャッチコピー(2015年1月 - )でもある。</ref>: [[広島テレビ放送|広島テレビ]] ** 不定期で[[ウエスタン・リーグ|二軍]]の[[広島東洋カープ (ファーム)|主催試合]]も自社制作で中継。対巨人戦は平日ナイター・週末デーゲーム、クライマックスシリーズ(巨人が出場する試合のみ)の試合も[[BS日本|BS日テレ]]・[[日テレジータス]]で地上波同時放送(一部時間帯は裏送り)かつ日本テレビも制作に加わり(日本テレビからアナウンサーを派遣する。)、週末デーゲーム時は日本テレビとの2局ネットとなる他、個別の番販購入によりネット局が増加する場合もある(日本テレビや系列局との同時ネット時間帯は、リアルタイム字幕放送と連動データ放送を実施する関係で日本テレビが送出・配信)。対巨人戦以外も対戦相手のネット局でも放送することがあるが、局によって中継体制が異なる<ref group="注釈">対阪神戦は[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]が別実況で放送。交流戦の対日本ハム戦は[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]が、対ソフトバンク戦は福岡放送が何れもネット受けで放送。対中日戦を[[中京テレビ放送|中京テレビ]]で、交流戦の対楽天戦を[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]で何れも中継する場合はネット受け・別実況のどちらかとなる。</ref>。 ** ビジターゲームはDeNA戦・交流戦の西武・ロッテ・オリックス主催試合は球団制作映像利用による自社制作で、ヤクルト戦は[[日テレ・テクニカル・リソーシズ]]の制作協力による映像も含めた自社制作で、対巨人戦は日本テレビから(ナイター中継は全国ネット、デーゲーム中継は全国ネット・日本テレビとの2局ネット・個別の番販購入による一部地域ネットの何れか)、対阪神戦は読売テレビから、交流戦の対楽天戦は[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]からの、対ソフトバンク戦は[[福岡放送]]からのネット受けで何れも放送<ref group="注釈">対巨人戦のナイター中継・デーゲーム中継は日本テレビ・広島テレビで放送開始時間が異なるため、BS日テレ・日テレジータス向けの中継(地上波とは別制作)を前者は18時台のみ、後者は14時台のみに限り何れもネット受けで放送する(2018年以降はBS日テレ・日テレジータスのみで中継する試合もそのままネット受けで放送することがある)。また、対阪神戦のナイター中継では読売テレビでは18時台にトップナイターの編成を行っていないため、18時台は読売テレビからの裏送り放送となる他、年度により広島テレビが乗り込みによる別制作を行ったことがある。また対楽天戦では宮城県内で他系列またはNHKでの放送となった場合にも、球団制作映像の利用とミヤギテレビの制作協力で乗り込み自社制作を行ったことがある。</ref>。BS日テレ・日テレジータスでは東京ドームの対巨人戦も日本テレビ制作で、BS日テレでは年度によっては交流戦の対ソフトバンク戦を福岡放送制作で何れも中継<ref group="注釈">2018年のみロッテ戦もロッテ球団制作でBS日テレで放送した。</ref>。 * 『'''[[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)#広島ホームテレビ|カープ応援中継 "勝ちグセ。"]]'''』 : [[広島ホームテレビ]] ** 対巨人戦は[[BS朝日]]・[[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル2]]で放送するが、2013年以降は制作体制が異なり<ref group="注釈">2012年までは要員の都合に応じてテレビ朝日と広島ホームテレビのどちらかが制作して、地上波広島県ローカルとの同時放送と衛星波単独放送のどちらかとしていた。</ref>、BS朝日・テレ朝チャンネル2は[[テレビ朝日]]のアナウンサー・解説者が現地乗り込みで中継する。対巨人戦以外の試合も対戦相手のネット局でも中継するが実況を自社で差し替える<ref group="注釈">対中日戦は[[名古屋テレビ放送|メ~テレ]]が、対阪神戦は[[朝日放送テレビ]]が、交流戦の対ソフトバンク戦は[[九州朝日放送]]が各々スタッフを派遣し、同じく交流戦の対日本ハム戦は[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]が札幌からのオフチューブで、対楽天戦は[[東日本放送]]が仙台からのオフチューブで各々中継。なお、2008年までは、テレビ朝日主導制作による一部地域ネットの週末デーゲーム中継(年度により広島ホームテレビが地元向けを別制作)が行われたほか、2018年は対阪神戦で朝日放送テレビとの共同制作による特別企画込みの同時ネットが企画されたが、雨天中止となった。</ref>。 ** ビジターゲームは対阪神戦を中心に、年度によっては対DeNA戦・対ヤクルト戦・交流戦のパ・リーグ球団主催試合を自社制作で中継(DeNA及びパ・リーグは、ビジター側の地元局が他系列または放送なしの場合、球団制作映像を利用)。BS朝日では甲子園球場の阪神主催、神宮球場のヤクルト主催、交流戦でのパ・リーグ球団主催の広島戦も朝日放送テレビ(阪神主催。地上波関西ローカルとは別制作)<ref group="注釈">オリックス主催も同様の制作形態となるが、対広島戦は2021年までの時点で放送実績がない。</ref>・西武球団(西武主催)<ref group="注釈">フジテレビTWO向けと実況を別制作のため、アナウンサーと解説者の両方またはどちらかがテレビ朝日からの派遣の場合あり。</ref>・テレビ朝日(その他主催)<ref group="注釈">ソフトバンク主催時は九州朝日放送(主にBS単独放送時)とテレビ朝日(主に福岡県または九州ブロックとの別制作時)のいずれかが制作するが、対広島戦は2021年までの時点で放送実績がない。</ref>とBS朝日の共同制作で中継。 * 『'''[[野球道 (フジテレビ系列)#テレビ新広島|TSS全力応援!Carp中継]]'''』 : [[テレビ新広島]] ** 対巨人戦は[[BSフジ]]・[[フジテレビONE]]または[[フジテレビTWO]]でも地上波同時放送(一部時間帯は裏送り)だが、2017年以降はスコア表示を、2018年以降はテーマソングを[[フジテレビジョン|フジテレビ]]側で各々差し替え。対巨人戦以外の試合も対戦相手のネット局でも中継するが、局によって中継体制が異なる<ref group="注釈">対阪神戦は[[関西テレビ放送|関西テレビ]]がスタッフを派遣して別実況で放送。交流戦の対日本ハム戦は[[北海道文化放送]]で中継する場合は解説者(主に[[建山義紀]])を派遣してのネット受け(年度によりリポーターも派遣)または別実況のどちらかとなる。対中日戦は2003年までに[[東海テレビ放送|東海テレビ]]が散発的に解説者・リポーター派遣の上でのネット受けまたは別実況のどちらかで行っただけだった(1991年には広島ホームテレビでの中継日に東海テレビがテレビ新広島の協力で、2021年はテレビ新広島の中継日にCBCテレビが中国放送の協力で1試合を別制作)。また、1990年代までは年度により週末のデーゲームをフジテレビ主導のテレビ新広島との共同制作でビジター地元局(対中日戦の東海テレビなど)を含む一部地域への任意ネットとして放送したことがあった。</ref>。 ** ビジターゲームは対ヤクルト戦・対中日戦・対阪神戦・対DeNA戦、パ・リーグ主催の交流戦の対楽天戦・対西武戦・対ロッテ戦・対オリックス戦は自社制作で(対中日戦は東海テレビから、対阪神戦は関西テレビからのネット受けの場合あり)、対日本ハム戦は北海道文化放送からの、対ソフトバンク戦は[[テレビ西日本]]からのネット受けまたは自社制作(ホームチーム側が他系列局または衛星波で放送の場合は、球団配給映像を使用)のどちらかで放送。衛星波ではフジテレビONEでヤクルト主催をフジテレビ制作で(年度によってはBSフジでも最低1試合放送する場合がある)、フジテレビTWOで西武主催を球団制作で各々中継。 * 『'''[[サンテレビボックス席]]'''』 : [[サンテレビジョン|サンテレビ]] ** 1973年から地方球場開催試合も含めて全て自社制作で中継。過去には広島非関与を含む阪神主催試合を在広各局がネット受けしたり(1971年はNETテレビ系列ネット番組扱いで阪神対巨人戦を広島ホームテレビが放送)、逆に広島主催のオープン戦を中国放送からサンテレビにネットしたことがあった。 ; 衛星放送 * 『'''[[J SPORTS STADIUM]]'''』 : [[J SPORTS]] ** 在広局で地上波中継する試合を地上波同時放送(スコア表示とテーマ曲は差し替え)。NHKで中継する試合、広島県での地上波放送がない試合、地上波との同時放送で不可能な放送内容が含まれる場合や、対巨人戦以外のクライマックスシリーズ中継のみを自社制作にて放送。 ** ビジターゲームも対中日戦を東海テレビ・CBCテレビ制作(何れも地上波とは別実況。[[NHK名古屋放送局]]・[[テレビ愛知]]中継時はJ SPORTSで実況差し替え)で、交流戦の対オリックス戦・対楽天戦を球団制作で何れも中継。 * 『'''[[BS12 プロ野球中継]]'''』 : [[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12トゥエルビ]] ** 年度によりオープン戦やセ・パ交流戦でパ・リーグ各球団制作のビジターゲームを放送する場合があり、ビジター応援副音声として、BS12トゥエルビが広島応援実況を独自制作している(西武・オリックス・楽天主催はホームチームの応援実況も球団公式と別制作)。 * 『'''[[ALWAYS Baseball]]'''』 : [[BSテレビ東京|BSテレ東]] ** 年度によりセ・パ交流戦でのパ・リーグ各球団主催のビジターゲームを[[テレビ東京]]制作(地元局で地上波放送がある場合、ソフトバンク主催は[[TVQ九州放送]]との、日本ハム主催は[[テレビ北海道]]との共同制作)で放送する場合がある。 ** [[広島県]]に系列局を持たないテレビ東京では2007年まで乗り込み自社制作(またはテレビ大阪およびテレビ愛知の制作)として系列局向けに対阪神戦、対中日戦を中継することがあった他、年度によっては対大洋戦・対ヤクルト戦も在広局と並列で放送した。現在はテレビ大阪・テレビ愛知・TVQ九州放送(交流戦の対ソフトバンク戦のみ)がローカル中継を自社エリア向けに制作している。 ; ラジオ * 『'''NHKプロ野球'''』 : NHK広島放送局 ** ローカル中継は[[NHKラジオ第1|ラジオ第1]]で平日ナイター(主に木曜・金曜ナイター)と週末デーゲームを中国地方向けで放送{{Efn|リーグ優勝が懸かる試合や一部クライマックスシリーズの中継は広島県向けで放送。}}。週末デーゲームでは一部試合を全国ネットで放送する。 ** ビジターゲームは対巨人戦・対DeNA戦・対ヤクルト戦・対中日戦・対阪神戦と交流戦の対日本ハム戦・対楽天戦・対西武戦・対ロッテ戦・対オリックス戦・対ソフトバンク戦を放送する(関東圏で開催する試合は全国ネットで放送するが、関東圏以外で開催する試合は全国ネットまたは中国地方向けのどちらかで放送)が、年度によっては放送がないカードもある。 * 『'''[[RCCカープナイター|RCCカープナイター/RCCカープデーゲーム中継]]'''』 : 中国放送 ** 広島戦を全試合開始から終了まで完全生中継。[[ジャパン・ラジオ・ネットワーク|JRN]]・[[全国ラジオネットワーク|NRN]]のクロスネット局のため一部系列局にも裏送り制作を行う。 ** ビジターゲームは、対ヤクルト戦・対DeNA戦・対巨人戦、交流戦の対ロッテ戦・対西武戦は平日ナイターは[[ニッポン放送]]との同時ネットまたは裏送り、週末ナイターは[[文化放送]]からの裏送りで放送。週末デーゲームは対巨人戦・交流戦の対ロッテ戦は[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]制作協力による自社制作または裏送りで放送。対ヤクルト戦はニッポン放送、対DeNA戦は[[TBSラジオ]]からの裏送りまたは制作協力による自社制作のどちらかで放送。対阪神戦は[[朝日放送ラジオ]]との同時ネット、交流戦の対オリックス戦は裏送りで放送。対中日戦はナイターは[[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]、週末デーゲームは[[CBCラジオ]]、交流戦の対ソフトバンク戦はナイターは[[KBCラジオ|九州朝日放送]]、週末デーゲームは[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]、対日本ハム戦はナイターは[[STVラジオ]](週末は裏送り)<ref group="注釈">2021年からデーゲームと週末ナイターの放送を休止しているため。</ref>、週末デーゲームは[[HBCラジオ|北海道放送]]、対楽天戦は[[東北放送]]との同時ネット(火曜日は別制作分の裏送り)で放送。年度により聴取率調査期間やナイターオフ編成時の消化試合で乗り込み自社制作することがある。 === 応援番組 === ; テレビ * [[Eタウン|E TOWN・SPORTS]] : 中国放送 * [[進め!スポーツ元気丸]] : 広島テレビ * [[ひろしま深掘りライブ フロントドア]] : 広島ホームテレビ * [[全力応援 スポーツLOVERS]] : テレビ新広島 ; ラジオ * [[それ聴け!Veryカープ!]]: 中国放送 * [[Veryカープ!バッチコイする応援団]]: 中国放送 == 取り扱う雑誌 == * [[広島アスリートマガジン]] - 選手が表紙に起用されている月刊誌。株式会社サンフィールド発行 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist|2 |refs= <ref name="tyugoku20100101">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞 |date=2010-01-01 |url=http://www.chugoku-np.co.jp/leadersclub/2010/interviews_company47.html |title=2010年新春トップインタビュー |accessdate=2010-01-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100213195011/http://www.chugoku-np.co.jp/leadersclub/2010/interviews_company47.html |archivedate=2010年2月13日}}(Internet Archive)</ref> <ref name="tyugoku20210325">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞 |date=2021-03-25 |url=https://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=738034&comment_sub_id=0&category_id=124 |title=46年ぶり赤字 20年決算、コロナで観客激減 |accessdate=2021-03-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210324215958/https://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=738034&comment_sub_id=0&category_id=124 |archivedate=2021年3月24日}}</ref> <ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/06a99/294711 株式会社広島東洋カープ 第67期決算公告](Internet Archive)</ref> <ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/広島東洋カープ-191368 広島東洋カープ(読み)ヒロシマトウヨウカープ] [[コトバンク]]</ref> <ref name="カープ">{{Cite news ja|author=玉木研二|url=https://mainichi.jp/articles/20160527/dde/012/040/005000c|title=オバマ大統領に伝えたい 広島、71年の営み|date=2016-05-27|accessdate=2021-06-17|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160528110215/https://mainichi.jp/articles/20160527/dde/012/040/005000c|archivedate=2016年5月27日}}{{Cite news ja|author=永井均|authorlink=永井均 (歴史学者)|url=https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/peace/carp.html|title=共に歩んだカープと広島|date=2020-08-07|accessdate=2021-06-17|work=平和推進プロジェクト・チーム|publisher=[[広島県庁]]|archiveurl=https://archive.ph/2021.06.16-155144/https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/peace/carp.html|archivedate=2021年6月17日}}{{Cite news|author=|url=https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-48/|title=コラム:広島カープ――市民の球団,復興の道標|date=2021|accessdate=2021-06-17|work=国際平和拠点ひろしま|publisher=[[広島県庁]]<!---| archiveurl=https://web.archive.org/web/20210423205952/https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-48/|archivedate=2021年4月23日--->}}{{Cite web|和書|author=田所龍一 |date=2022-06-21 |url=https://www.sankei.com/article/20220621-5COJ5NMXJZMGZAGS443IO26A3Q/ |title=小林繁伝 苦節25年、優勝へ燃えた「赤ヘル軍団」 虎番疾風録其の四(72) |work=[[産経デジタル|産経ニュース]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |accessdate=2022年9月30日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220621020329/https://www.sankei.com/article/20220621-5COJ5NMXJZMGZAGS443IO26A3Q/ |archivedate=2022年6月21日 }}{{Cite journal ja|author=|year=2016|title=日本スポーツマネジメント学会 第7回大会講演録・シンポジウム録|url=https://doi.org/10.5225/jjsm.2016-010|journal=スポーツマネジメント研究|volume=8|issue=1|pages=92-100|publisher=日本スポーツマネジメント学会|doi=10.5225/jjsm.2016-010|ISSN=1884-0094|naid=130006902965}}、{{Cite news ja|author=|url=https://www3.nhk.or.jp/sports/story/1163/index.html|title=カープ「戦争からの復興と平和への思い」|date=2019-08-05|accessdate=2021-06-17|work=NHKスポーツ|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210518040345/https://www3.nhk.or.jp/sports/story/1163/index.html|archivedate=2021年5月18日}}{{Cite news ja|author=|url=https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/Q6J18ZN3JQ/|title=戦後復興【前編】 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡|date=2019-08-06|accessdate=2021-06-17|work=[[先人たちの底力 知恵泉]]|publisher=[[NHK教育テレビジョン]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200805195412/https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/Q6J18ZN3JQ/|archivedate=2020年8月5日}}{{Cite web|和書|date=2016-08-15 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/08/15/kiji/K20160815013171640.html |title=平和あっての野球…終戦記念日に思い出す「はだしのゲン」作者の言葉 |work=[[スポーツニッポン]] |author= |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2021-06-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160815022908/https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/08/15/kiji/K20160815013171640.html |archivedate=2016年8月15日}}[https://www.jmrlsi.co.jp/trend/eye/carp.html プロスポーツのマネジメント~広島東洋カープの挑戦~ 広島市と共に逆境を乗り越える独自の経営戦略 JMR生活総合研究所顧問/広島経済大学スポーツ経営学科教授 林和夫 2022年10月11日- J-marketing.net produced by JMR生活総合研究所]{{Cite news 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|work=|author=小林雄二|publisher=株式会社VICTORY|accessdate=2021-06-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190210171118/https://victorysportsnews.com/articles/5651/original|archivedate=2019-02-10}}{{Cite web|和書|author= |date=2017-08-28 |url=http://www.asahi.com/articles/ASK8V3W6BK8VPTQP00H.html |title=バーチャル高校野球 ひろしまの50回大会史 広島の早慶戦こと広商―広陵 町を真っ二つ |work=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2017-08-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170828155024/http://www.asahi.com/articles/ASK8V3W6BK8VPTQP00H.html |archivedate=2017-08-28}}(オリジナル、1968年5月22・23日掲載)、{{Cite news ja |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918770.html |title=連載「内田雅也の猛虎人国記(1)〜広島県(上)〜」 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2011-11-23 |page=2 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170420051435/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918770.html |archivedate=2017-04-20}}{{Cite web|和書|author= |date=2015-07-19 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<ref name="sankei160908">{{Cite news|title=広島V目前 伝統のパンチパーマ手がけた理髪店主…「若いファンにぼくらと同じ感動を」 浩二さん、金本監督ら顧客|newspaper=産経ニュース|date=2016-09-08|author=|url=https://www.sankei.com/article/20160908-KBBTQO6YXJM6LJLV4JX726765Y/|accessdate=2023年10月28日|publisher=産業経済新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210924075108/https://www.sankei.com/article/20160908-KBBTQO6YXJM6LJLV4JX726765Y/|archivedate=2021年9月24日}}</ref> <ref name="sankeibiz140519">[https://archive.fo/20140520064132/http://www.sankeibiz.jp/business/news/140519/bsg1405190500001-n1.htm 「カープ女子」関東にも経済効果 なぜ支持を集めているのか (1/3ページ)](Internet Archive)</ref> <ref name="sponichi2008">{{Cite web|和書|author= |date= |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_january/KFullNormal20080102009.html |title=【1月15日】1950年(昭25) 金ナシ、寮ナシの広島カープ、原っぱでお披露目式 |publisher=[[スポニチ]] |accessdate=2016-9-9 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080118122837/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_january/KFullNormal20080102009.html 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|title=広島に25年ぶりのVをもたらせた魅力満載のボールパーク【二宮清純コラム プロ野球ガゼット】 |publisher=MYJCOM |date=2016-09-13 |accessdate=2020-05-20}}</ref> <ref name="myjcom14">{{Cite news ja |author=小池貴之 |url=https://www2.myjcom.jp/special/pro-baseball/tokui/ |title=プロ野球を愛する男たち カープファン代表 徳井義実インタビュー |date=August 2014 |accessdate=2023年10月28日 |work=MY J:COM |publisher=[[JCOM]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150811231845/https://www2.myjcom.jp/special/pro-baseball/tokui/ |archivedate=2015年8月11日}}{{Cite news ja |author=小池貴之 |url=https://www2.myjcom.jp/special/pro-baseball/kitabeppu/ |title=プロ野球を愛する男たち 広島カープOB 北別府学インタビュー |date=August 2014 |accessdate=2023年10月28日 |work=MY J:COM |publisher=JCOM |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150815224124/https://www2.myjcom.jp/special/pro-baseball/kitabeppu/ |archivedate=2015年8月15日}}{{Cite news ja |author=小池貴之 |url=https://www2.myjcom.jp/special/pro-baseball/ninomiya/ |title=プロ野球を愛する男たち スポーツジャーナリスト 二宮清純インタビュー |date=August 2014 |accessdate=2023年10月28日 |work=MY J:COM 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|title=カープと広島の絆。球団創設期の捕手が語る復興のシンボルVol.1 |date=2021-05-06 |accessdate=2021-06-17 |work=広島アスリートマガジン |publisher=サンフィールド |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210506223019/https://www.hiroshima-athlete.com/articles/-/1556 |archivedate=2021年5月6日}}</ref> <ref name="名前なし-1">濱保仁志「所蔵資料紹介 カープ関係寄贈資料」『広島市公文書館紀要 第30号』(2018年、広島市公文書館)pp=57</ref> <ref name="ひろスポ150910">{{Cite news ja |title=64年前のカープグッズ第1号発見!球団消滅の危機に瀕して売り出した1本5円の… |work=ひろスポ! |publisher=スポーツコミュニケーションズ・ウェスト |date=2015-09-10 |author= |url=http://hirospo.com/pickup/21192.html |accessdate=2017-06-22}}</ref> <ref name="sasaetaru">[https://archive.fo/20120730031937/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/tarubokin/050101_tokusyu02.html 新球場の夢キャッチ 今も昔も「支えたる」](archive)</ref> <ref name="carp50siraisi">[https://archive.fo/20001119080200/http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/2/990203.html#selection-265.3-228.11 中国新聞 カープ50年選手列伝 第2部 1950 ~ 52 (3) 白石勝巳 球団救った逆シングル 解散回避へ弾みつく](Internet Archive)</ref><ref name="fukkoheiwakenkyu21">{{Cite news ja |author=永井均 |url=https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-48/ |title=コラム:広島カープ――市民の球団,復興の道標 |date=2021 |accessdate=2021-06-17 |work=国際平和拠点ひろしま |publisher=[[広島県庁]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210423205952/https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-48/ |archivedate=2021年4月23日}}</ref> <ref name="カープ昔話222" >{{Cite book ja |author = 西本恵 |title = 広島カープ昔話・裏話 じゃけえカ−プが好きなんよ |chapter = 絶世の美女マリリン・モンロー、広島総合球場に現る。『スロー』『スロー』『ブーン』のアメリカ流指導に耳を傾ける。|year = 2008 |publisher = トーク出版 |pages = 222-227 |isbn = 9784904014073 }}</ref> <ref name="佐山">{{Cite book ja |author=佐山和夫|authorlink=佐山和夫 |date=December 1995 |title=ディマジオとモンロー ー運命を決めた日本での二十四日間 |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=4-309-01027-X |pages=171-190}}</ref> <ref name="don196285">{{Cite web|和書|date=2009-08-05 |url=http://www1.ntv.co.jp/don/donna/2009/08/196285.html |title=きょうはDONな日 1962年8月5日 マリリン・モンローが亡くなった日 |work=[[おもいッきりDON!]] |publisher=[[日本テレビ放送網|日本テレビ]] |accessdate=2015-10-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090828001904/https://www1.ntv.co.jp/don/donna/2009/08/196285.html |archivedate=2009年8月28日 }}</ref> <ref name="三滝荘">[https://web.archive.org/web/20171215065305/https://nakamura-build.jp/note/%E3%80%8C%E4%B8%89%E6%BB%9D%E8%8D%98%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%80%80%EF%BD%9E%E5%BB%BA%E7%89%A9%E7%B7%A8%EF%BD%9E/ 家物語 中村ノート 「三滝荘」の夜 ~建物編~](Internet Archive)</ref> <ref name="rerf">{{Cite web|和書|author=|title=スペルマン米国領事来訪 マリリン モンローの写真に驚く|url=https://www.rerf.or.jp/information/00002517-2/|date=2017-08-28|website=|publisher=[[放射線影響研究所]]|accessdate=2023年10月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221024130412/https://www.rerf.or.jp/information/00002517-2/|archivedate=2022年10月24日}}[https://web.archive.org/web/20161121103241/http://www.rerf.or.jp/history/psnacount/miller.html MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第1部](Internet Archive)</ref> <ref name="monroe">{{Cite web|和書|author=|title=生誕90年!マリリン・モンローに何があったのか? ~運命の24日間!日本でのハネムーンの真相~|url=https://www.bs-asahi.co.jp/documentary/lineup/prg_038/|date=2016-09-08|website=[[BS朝日ザ・ドキュメンタリー]]|publisher=[[BS朝日]]|accessdate=2023年10月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221025155639/https://www.bs-asahi.co.jp/documentary/lineup/prg_038/|archivedate=2022年10月25日}}{{Cite web|和書|author=|title=マリリン・モンロー、闇から浮上したSEXシンボル|url=https://www.esquire.com/jp/culture/woman/a199395/culture-woman-monroe16-0612/|date=2016-06-12|website=[[エスクァイア#日本版エスクァイア|エスクァイア]]|publisher=|accessdate=2023年10月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210423093445/https://www.esquire.com/jp/culture/woman/a199395/culture-woman-monroe16-0612/|archivedate=2021年4月23日}}{{Cite web|和書|author=|title=マリリン・モンロー、今も残る死の謎 新婚旅行で原爆資料館にも…|url=https://withnews.jp/article/f0170805003qq000000000000000W06d10501qq000015689A|date=2017-08-05|website=[[ウィズニュース|withnews]]|publisher=[[朝日新聞社]]|accessdate=2022年10月26日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170805173948/https://withnews.jp/article/f0170805003qq000000000000000W06d10501qq000015689A|archivedate=2017年8月5日}}{{Cite web|和書|author=|title=廃虚の中に立ち上がる平和記念資料館とヒロシマの歩み 語り継ぐために|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1002/exh100206.html|date=|website=|publisher=[[広島平和記念資料館]]|accessdate=2023年10月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170705163546/http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh1002/exh100206.html|archivedate=2017年7月5日}}{{Cite news|title=元カープ社長の孫 50年代の写真発見 スター来訪 復興に光|newspaper=[[中国新聞]]|date=2017-12-05|author=|url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=79919|accessdate=2022年3日10日|publisher=ヒロシマ平和メディアセンター|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201204033226/https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=79919|archivedate=2020年12月4日}}{{Cite web|和書|author=比嘉太一・山崎毅朗・比嘉展玖・副島英樹|title=核といのちを考える 怒るゲバラ、モンローはため息 広島・長崎に刻んだ思い|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7Z4J9PP7NPTIL02J.html|date=2021-08-6|website=[[朝日新聞デジタル]] |accessdate=2022年3月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210805211243/https://www.asahi.com/articles/ASP7Z4J9PP7NPTIL02J.html|archivedate=2021年8月5日}}[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/12/25/kiji/20191225s00001173104000c.html 内田雅也が行く 猛虎の地(17)料亭「いさ美」 モンローの金の産毛が揺れた幸福な夜]{{Cite web|和書|date=2002-12-25 |url=http://www.cdjournal.com/main/calendar/20140114 |title=2014年01月14日(火) - 今日は何の日? |publisher=CDJournal.com |accessdate=2015-10-15}}[http://www.cdjournal.com/main/calendar/20140114 2014年01月14日(火) - 今日は何の日? - CDJournal.com 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web|和書|date=2017-02-20|url=https://wisdom.nec.com/ja/business/2017022001/index.html?cid=wis_ob091|title=「カープ女子」現象から読み解く、新時代のスポーツビジネスのあり方|work=wisdom|publisher=[[日本電気]]|accessdate=2021-06-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170414013338/https://wisdom.nec.com/ja/business/2017022001/index.html?cid=wis_ob091|archivedate=2017-04-14}}</ref> <ref name="tkc1407">{{Cite web|和書|author=植松啓介 |date=2014-07 |url=http://www.tkc.jp/cc/senkei/201407_special02 |title=広島カープの黒字経営 |publisher=[[TKC]] |accessdate=2015-10-17 }}戦略経営者 2014年7月号の特集記事より</ref> <ref name="carpkeiei007">{{Cite web|和書|date=2005-09-30 |url=http://gikai.city.hiroshima.jp/voices/cgi/voiweb.exe?ACT=200&KENSAKU=0&SORT=0&KTYP=0,1,2,3&KGTP=1,2&FYY=2005&TYY=2005&TITL_SUBT=%95%BD%90%AC%82P%82V%94N%91%E6%81@%82T%89%F1%81@%82X%8C%8E%92%E8%97%E1%89%EF%81%7C09%8C%8E30%93%FA-02%8D%86&KGNO=1342&FINO=2212&UNID=K_H17093000021 |title=平成17年9月30日 広島市議会定例会議事録 |accessdate=2015-10-16 |page=47 }}</ref> <ref name="scout">{{Cite news ja |date=2016-10-08 |author=[[石戸諭]] |url=https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kiniwa-hiroshima?utm_term=.slOX6MJwN#.om38Z2Lbr |title=「素質を見抜く力」 広島カープの礎を築いた名スカウトが遺したもの |publisher=[[BuzzFeed Japan]] |accessdate=2017-04-20 |archiveurl=https://archive.fo/20170420033816/https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kiniwa-hiroshima?utm_term=.slOX6MJwN%23.om38Z2Lbr#.om38Z2Lbr |archivedate=2017年4月20日 |url-status=dead}}{{Cite news ja |date=2015-10-05 |author=細谷拓海 |url=http://mainichi.jp/shimen/news/20151015ddm035050075000c.html |title=情報・分析・決断:プロ野球・ドラフト50年/2 問われるスカウトの目 |publisher=[[毎日新聞]] |accessdate=2017-04-20 |archiveurl=https://archive.fo/20151118170507/http://mainichi.jp/shimen/news/20151015ddm035050075000c.html |archivedate=2015年11月18日 |url-status=dead}}[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37388 プロ野球特別読み物 人を育てる組織 広島カープのような手作りチームに幸あれ!]{{Cite news ja |title=広島、若コイ生き生き スカウトに聞く伝統の育成力 |newspaper=[[日本経済新聞]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |date=2014-07-22 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXZZO74435060Y4A710C1000000/ |accessdate=2017-03-23 }}{{Cite news ja |title=阪神金本監督が信念激白 広島の倍速で常勝軍団築く |newspaper=日刊スポーツ |date=2018-01-01 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201801010000423.html |accessdate=2018-01-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180101154812/https://www.nikkansports.com/baseball/news/201801010000423.html |archivedate=2018-01-01 }}[https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000321468 広島力]</ref> <ref name="塩口">{{Cite book ja |author=塩口喜乙 |title=朝日新聞記者の証言2 スポーツ記者の視座 |chapter=直良勇二 広島カープの苦難時代 |year=1980 |publisher=[[朝日ソノラマ]] |pages=144-153 }}</ref> <ref name="偉人伝30">{{Cite book ja |author= |title=日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち |year=2013 |publisher=ベースボール・マガジン社 |pages=30-31,102-103 }}</ref> <ref name="npb190722">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://npb.jp/games/2020/schedule_all_cl_20190722.pdf |title=2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-22 |accessdate=2019-07-23 }}</ref> <ref 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|publisher=[[グラッドキューブ]]|access-date=2023年5月27日 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190415165708/https://spaia.jp/column/baseball/npb/1619 |archive-date=2019年4月15日 }}</ref> <ref name="丸谷才一">{{Cite book ja |author=丸谷才一 ほか|authorlink=丸谷才一 |title=丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判 |year=1989 |publisher=[[青土社]] |pages=126-128 |isbn=4791750373 }}</ref> <ref name="佐野">{{Cite book ja|author=佐野正幸|authorlink=佐野正幸 (作家)|year=2009|title=1979年日本シリーズ近鉄vs広島 もうひとつの「江夏の21球」|publisher=[[主婦の友社]]|isbn=9784072694176|pages=61-63}}</ref> <ref name="carp-memorial">[https://web.archive.org/web/20101219223124/http://carp-memorial.com/interview.html インタビュー|旧広島市民球場メモリアルサイト](Internet Archive)</ref> <ref name="shinguu">[[新宮正春]]『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』、350-351頁、[[講談社]]、1999年 ISBN 4062645211</ref> <ref name="ジェット風船">{{Cite news ja |title=ラストナイン 市民球場最後の9試合 コイ流応援 大勝後押し |newspaper=中国新聞 |date=2008-09-21 |url=http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/carp/last9_8.html |accessdate=2008-10-03 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|title=今、嫁にしたいナンバーワン!神3が語るカープ女子の生き様 |publisher=[[扶桑社]] |date=2014-06-10 |pages=30-31}}</ref> <ref name="sportivaspa201545">{{Cite web|和書|date=2015-04-23 |url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2015/04/23/post_550/index3.php |title=カープ女子が牽引? 今、野球界に女性向けグッズが急増中! |author=長谷川晶一 |work=Web Sportiva |publisher=集英社 |accessdate=2015-10-16 }}、{{Cite web|和書|date=2015-05-05 |url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2015/05/05/post_556/index3.php |title=【プロ野球】球団グッズは高級志向か、独創性か? それが問題だ |author=長谷川晶一 |work=Web Sportiva |publisher=集英社 |accessdate=2015-10-16 }}</ref> <ref name="mynv150530">{{Cite web|和書|date=2015-05-30 |url=https://news.mynavi.jp/article/20150530-a076/ |title=広島県・湯崎知事、県民のカープ愛を熱弁「カープの授業」「ローソンが赤」 |work=[[マイナビニュース]] |publisher=[[マイナビ]] |accessdate=2015-10-17 }}</ref> <ref name="mynavi160206">{{Cite news ja |url=http://news.mynavi.jp/news/2016/02/06/083/ |title=地下足袋、ふんどし、ライン引き…。ファンを虜にする広島カープグッズ人気の謎に迫る |author=井上智博 |work=[[マイナビ]] |date=2016-02-06 |accessdate=2017-09-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170909135309/http://news.mynavi.jp/news/2016/02/06/083/ |archivedate=2017年9月9日}}</ref> <ref name="goods">{{Cite news ja |title=台車にギターも…ユニークグッズ続々 |newspaper=デイリースポーツ |date=2014-01-28 |url=https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2014/01/28/0006667886.shtml |accessdate=2015-10-16 }}{{Cite web|和書|date=2015-02-01 |url=http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20150201-00040378-r25 |title=下半身イス? カープグッズが凄い |work=web R25 |publisher=リクルート |accessdate=2015-10-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304203814/http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20150201-00040378-r25 |archivedate=2016年3月4日}}</ref> <ref name="victory171106">{{Cite web|和書|date=2017-11-06|url=https://victorysportsnews.com/articles/5651/original|title=広島、“野球王国”の誇り! 地元が生んだ名手の系譜と義務教育で学ぶカープ愛 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<ref name="koibana151201">{{Cite web|和書|date=2015-12-01 |url= https://www.youtube.com/watch?v=_bdk4juQO4E|title=大下容子さん アフタートーク前編 |work=[[鯉のはなシアター]] |publisher=[[よなよなテレビ|HOME ぽるぽるTV]]/[[広島ホームテレビ]] |accessdate=2021-06-22 }}[https://www.youtube.com/watch?v=je-dvGT-IzE アフタートーク後編]{{Cite web|和書|author=石田敦子|authorlink=石田敦子 (漫画家)|url=https://bunshun.jp/articles/-/57475|title=「あなたのカープはどこから?」昔からのファンも強くなってからのファンも、今こそ一緒に 文春野球コラム ペナントレース2022|work=文春オンライン|publisher=[[文藝春秋]]|date=2022年9月20日|accessdate=2022年9月30日}}</ref> <ref name="筑紫">{{Cite news ja |author= |title=物語生む球場 誇りに キャスター 筑紫哲也さん(69) |newspaper=[[中国新聞|ヒロシマ平和メディアセンター]] |date=2005-05-08 |url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/tarubokin/050508hitomoyou.html |accessdate=2023年10月16日 |publisher=[[中国新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231016022019/https://www.hiroshimapeacemedia.jp/kikaku/tarubokin/050508hitomoyou.html |archivedate=2023年10月16日 }}</ref> <ref name="todaishimbun">{{Cite 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|author=ブランド総合研究所 ダイヤモンド・セレクト編集部 |url=https://diamond.jp/articles/-/273030?page=4 |title=応援したい人物やチームがある都道府県ランキング2021【完全版】 |date=2021-06-16 |accessdate=2021-06-17 |work=DIAMOND online |publisher=[[ダイアモンド社]] }}</ref> <ref name="tv-tokyoplus">{{Cite web|和書|date=2019-07-15|url=https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2019/019815.html|title=部屋の中はグッズだらけ!愛する広島カープを全力で応援する家族|work=[[YOUは何しに日本へ?]]|publisher=[[テレビ東京]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190716150612/https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2019/019815.html|archivedate=2019-07-31|accessdate=2021年6月22日}}</ref> <ref name="chugoku2013816">{{Cite news ja |author=小笠原芳 |date=2013-08-16 |title=カープ盛り上げ隊(2) 漫才コンビ・チュートリアル徳井義美さん 『軽妙トークで愛語る』 |page=23 |newspaper=[[中国新聞]] |publisher=[[中国新聞社]]}}</ref> <ref name="biz20160830">{{Cite web|和書|url=https://biz-journal.jp/2016/08/post_16503.html |title=広島カープファンを急増させたメカニズム…プロ野球の「熱狂」から学ぶべきこと |author=水野誠 |publisher=Business Journal |date=2016-08-30 |accessdate=2021-05-29}}</ref> <ref name="number161208">{{Cite web|和書|author=阿佐智 |date=2016-12-08 |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/826999?page=2 |title=巨人は世界4位、阪神は6位…。プロ野球の観客動員数で日本は大健闘 |publisher=[[Sportiva|web Sportiva]] |accessdate=2017-06-04 }}</ref> <ref name="北別府">{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/manabu-kitabeppu/entry-11389000175.html|website=北別府学オフィシャルブログ|date=2012-1-26|title=木村拓哉さんのドラマ見ました!|accessdate=2023年10月23日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121029133028/https://ameblo.jp/manabu-kitabeppu/entry-11389000175.html|archivedate=2012年10月29日}}{{Cite news|title=【悼む】北別府学さんを救ったカープ優勝と「キムタク」|date=2023-06-17|author=中牟田康|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306170000589.html|accessdate=2023年10月23日|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230617064837/https://www.nikkansports.com/baseball/news/202306170000589.html|archivedate=2023年6月17日}}</ref> <ref name="number190823">{{Cite news|date=2019-08-23|title=オリジナル曲、独自の選曲が急増! 2019夏の甲子園、ブラバンBEST10。カープも歌う広島商発祥の1曲。1位/広島商『宮島さん』|author=梅津有希子|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/840497?page=4|website=[[Sports Graphic Number|Sports Graphic NumberWEB]]|publisher=[[文藝春秋]]|accessdate=2023年5月28日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191217080408/https://number.bunshun.jp/articles/-/840497?page=4|archivedate=2019年12月17日}}</ref> <ref name="nikkeibp150919">{{Cite web|和書|author=もりひろし |date=2015-09-19 |url=http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/216653/091600011/ |title=カープ女子的愛称は他球団に広まるのか?~セリーグ編~ |publisher=[[日経ビジネス|日経ビジネスオンライン]] |accessdate=2017-06-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923005022/http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/216653/091600011/ |archivedate=2015年9月23日}}</ref> <ref name="spa757723">{{Cite news ja |title=新語・流行語大賞「カープ女子」が年間トップテン受賞 |newspaper=日刊SPA! |date=2014-12-01 |url=http://nikkan-spa.jp/757723 |accessdate=2015-10-17 |publisher=[[扶桑社]] }}</ref> <ref name="大下">[https://www.youtube.com/watch?v=2GD2ofV4R7A 第二話 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|date=2016-12-24 |url=https://www.sanspo.com/article/20161024-5T3M5E6TG5KLRBOLIWMMV77VJQ/2/ |title=【佐藤春佳のシリーズブレーク】「宮島さんの神主」に100年以上の歴史あり |newspaper=[[サンケイスポーツ]] |publisher=[[産業経済新聞社]] |accessdate=2023年5月28日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230429220651/https://www.sanspo.com/article/20161024-5T3M5E6TG5KLRBOLIWMMV77VJQ/2/ |archivedate=2023年5月25日 }}</ref> <ref name="nhk130725">[https://megalodon.jp/2014-0915-0047-38/https://www.nhk.or.jp:443/hiroshima////////koe//blog/2013/0725.html 応援歌「宮島さん」]- 『[[お好みワイドひろしま]]』([[NHK広島放送局|NHK広島]])(Internet Archive)</ref> <ref name="S40男10s">{{Cite journal ja |author = 石井周一 |title = 昭和50年編 あの日を再検証 『プロ野球 赤ヘル大旋風と長嶋巨人惨敗』 |journal = [[昭和40年男]] |issue = 2010年春号 |publisher = クレタパブリッシング |pages = 2223 }}</ref>。 <ref name="野球考古学194">{{Harvnb|野球考古学|2008|loc= |pp=194-199 }}</ref> <ref name="広島カープのすべて90">{{Harvnb|広島カープのすべて|1975|loc= |pp=90-100 }}</ref> <ref name="広島カープのすべて104">{{Harvnb|広島カープのすべて|1975|loc= |pp=104-105 }}</ref> <ref 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}} * {{Cite book ja |title = Forever広島市民球場 51年の歴史に「ありがとう」そして「さようなら」 |year = 2009 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |series = B.B.MOOK 582 スポーツシリーズ |isbn = 9784583615738 |ref = {{SfnRef|Forever|2009}} }} * {{Cite book ja |title = 広島東洋カープ60年史 HISTORY 1950-2009 躍動!赤ヘル軍団 |year = 2009 |publisher = ベースボール・マガジン社 |series = B.B.MOOK スポーツシリーズ |isbn = 9784583616001 |ref = {{SfnRef|60年史|2009}} }} * {{Cite book ja |author1=橘川武郎|authorlink1=橘川武郎|author2=奈良堂史 |title = ファンから観たプロ野球の歴史 |year = 2009 |publisher = [[日本経済評論社]] |isbn = 9784818819337 |ref = {{SfnRef|橘川奈良|2009}} }} * {{Cite book ja |author= 中国新聞社|authorlink=中国新聞社 |title = カープの歩み 1949-2011 |year = 2012 |publisher = 中国新聞社 |isbn = 9784885173783 |ref = {{SfnRef|カープの歩み|2012}} }} * {{Cite book ja |author= 佐々岡真司|authorlink=佐々岡真司 |title = 広島東洋カープのオキテ 〜最強!?赤ヘル軍団の「あるある」100ヵ条! |year = 2015 |publisher = メイツ出版 |isbn = 9784780415803 |ref = {{SfnRef|広島東洋カープのオキテ|2015}} }} == 関連項目 == * [[トップス広島]] - [[P3 HIROSHIMA]] * [[中国新聞社]] * [[球場ラヴァーズ]] - 広島ファンが主人公の広島にまつわる物語の漫画。 * [[広島東洋カープの応援団]] * [[同族経営]] == 外部リンク == {{Commonscat|Hiroshima Toyo Carp}} * {{Official website}} * {{Twitter|CARP_koho|広島東洋カープ}} * {{Instagram|carp_official_2|広島東洋カープ}} * {{Instagram|carp_official_|たかあきグラム}} * {{YouTube|c=UC0VGvOEN22JcprH7pZrCwiw|広島東洋カープ公式}} {{日本プロ野球}} {{広島東洋カープ}} {{各年の広島東洋カープ}} {{広島東洋カープ歴代オーナー}} {{トップス広島}} {{中国新聞社}} {{猿岩石}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひろしまとうようかあふ}} [[Category:広島東洋カープ|*]] [[Category:1950年設立のスポーツチーム]] [[Category:1956年設立の企業]] [[Category:広島市南区の企業]] [[Category:ファミリー企業]] [[Category:広島県の象徴]]
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タービン
タービン(英語: turbine ターバインとも発音される)とは、流体がもっているエネルギーを有用な機械的動力に変換する回転式の原動機の総称。 水、蒸気、ガス、空気その他流体の流れによって、ホイールやローターと(典型的には)ベーン(羽根)とが組み合わされたものが回転し、連続的にパワーを生みだす機械のこと。抽象的に言えば、流体の運動エネルギーを、機械的な回転運動(回転運動のエネルギー)へと変換する装置とも言える。なお、作動させるための流体は基本的に液体や気体だが、超臨界流体で動くものもある。流体機械の一種であるが、ピストンモータの往復運動をクランクシャフトで回転運動に変換するタイプの流体機械とは異なり、流体の運動を直接的に回転運動に変換する回転機である。 こと自動車用エンジン、とりわけチューニングカーの話題において「タービン」という言葉が出てきた場合はターボチャージャーASSY全体のことを指している場合が多々あり、より高出力を狙えるターボチャージャーにアップグレードすることを「タービン交換」などと言ったりする。 「タービン」という表現はギリシア語のτύρβη, tyrbē、ラテン語の turba, turbo 「かき乱し、乱流、渦」といったような意味の言葉が語源。合成語中では「ターボ」となる。
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タービンとは、流体がもっているエネルギーを有用な機械的動力に変換する回転式の原動機の総称。
{{Pathnav|流体機械|frame=1}} [[File:Dampfturbine Laeufer01.jpg|thumb|300x300px|[[蒸気タービン]]]] '''タービン'''({{Lang-en|turbine}} ターバインとも発音される)とは、[[流体]]がもっている[[エネルギー]]を有用な機械的動力に変換する[[回転]]式の[[原動機]]の総称<ref>{{cite book |title=A Dictionary of Aviation |first=David W. |last=Wragg |isbn=9780850451634 |edition=first |publisher=Osprey |year=1973 |page=272}}</ref><ref name="britanica">ブリタニカ百科事典</ref>。 == 概説 == [[水]]、[[蒸気]]、[[気体|ガス]]、[[空気]]その他流体の[[流れ]]によって、[[ホイール]]や[[ローター]]と(典型的には)[[ベーン]]([[羽根]])とが組み合わされたものが[[回転]]し、連続的にパワーを生みだす[[機械]]のこと<ref>Oxford Dictionaries. A machine for producing continuous power in which a wheel or rotor, typically fitted with vanes, is made to revolve by a fast-moving flow of water, steam, gas, air, or other fluid.</ref>。抽象的に言えば、[[流体]]の[[運動エネルギー]]を、機械的な[[回転運動]](回転運動のエネルギー)へと変換する装置とも言える。なお、作動させるための流体は基本的に[[液体]]や[[気体]]だが、[[超臨界流体]]で動くものもある。[[流体機械]]の一種であるが、[[ピストン運動|ピストンモータの往復運動]]を[[クランクシャフト]]で回転運動に変換するタイプの流体機械とは異なり、流体の運動を直接的に回転運動に変換する回転機である。 こと自動車用エンジン、とりわけ[[チューニングカー]]の話題において「タービン」という言葉が出てきた場合は[[ターボチャージャー]]ASSY全体のことを指している場合が多々あり、より高出力を狙えるターボチャージャーにアップグレードすることを「タービン交換」などと言ったりする<ref>実際にチューニング用ターボチャージャーの商品名として「タービン」という言葉が使われた例(閲覧:すべて2020.05,19)<br> *例1:[https://www.hks-power.co.jp/product/turbo/index.html ターボ製品情報] - [[HKS]] ※複数の製品に「タービン」という単語を使用していることが確認できる。 *例2:[https://www.trust-power.com/products/turbo/turbo-kits-actuator/ GReddy タービンキット アクチュエータータイプ] - [[トラスト (自動車部品)|TRUST]] </ref>。 「タービン」という表現はギリシア語のτύρβη, tyrbē、ラテン語の turba, turbo 「かき乱し、[[乱流]]、[[渦]]」といったような意味の言葉が語源。合成語中では「[[ターボ (曖昧さ回避)|ターボ]]」となる。 === 流体の種類による分類 === * 水力タービン ** [[水車]] ** [[発電用水車]] - [[水力発電]]などで水の流れを軸に伝える。[[ペルトン水車]]、[[フランシス水車]]などがある。 * [[蒸気タービン]] - 高温高圧蒸気を利用する<ref name="britanica" />。[[船舶]]の動力を得るため、また蒸気を用いた発電([[汽力発電]]。[[火力発電#蒸気タービン|火力発電]]や[[原子力発電]])で用いられる。 * [[ガスタービン]] - 高温ガスを利用する<ref name="britanica" />。[[ジェットエンジン]]や一部の火力発電で用いられる。 ** 排気タービン過給器 - [[ターボチャージャー]]とも呼ばれ、[[内燃機関]]から捨てられる[[排気ガス]]の[[エネルギー]]を利用する[[過給器]]。 * [[風力タービン]] - [[風力]]を利用したもの。 ** [[風車]] ** 風力揚水装置 - ヨーロッパやアメリカの農業などで井戸や農業用水から水をくみ上げるためにしばしば用いられている。 ** windmill 風車(粉ひき)小屋 - 風力で粉ひき([[製粉]])をする施設で欧州では数百年前から現在まで使われ続けている。 ** 風力発電タービン - [[風力発電]]で用いられる。 * [[流速計]] - [[風速計]]、船舶の対水速度計などで用いられる。 * [[流量計]] - [[ガソリンスタンド]]や[[水道]]などで[[液体]]の分量を量る際に用いられる。 {{Gallery |title=タービンの例 |width=180 |lines=5 |File:Wind-powered-agricultural-pump-1.jpg|揚水用風力タービン |File:Vannhjul.JPG|ノルウェーの[[製材]]用水車。流水の当て方によってはかなり大きな動力が得られる。 |File:Mlyn_-_budowa.svg|風車(粉ひき)小屋。日本語では「小屋」と呼ぶが、住宅の3~4階に相当する巨大な装置となっている。 }} === 流体の作動による分類 === [[File:Turbines impulse v reaction.png|thumb|239x239px|衝動タービン(左側)と反動タービン(右側)の断面図と蒸気(ガス)の流れの図]] * 衝動タービン - ノズル(静翼)で流体の[[圧力]]を[[速度]]に変換し膨張・減圧して動翼は何も変換せず、ノズルからの流出ガスの衝動力で動翼を回転させるもの。 * 反動タービン - ノズル(静翼)と動翼で流体の[[圧力]]を[[速度]]に変換し膨張・減圧して、ノズルからの流出ガスの衝撃力と動翼内で膨張したガスの反動力で動翼を回転させるもの。 * 衝動反動タービン - 動翼において根元から先端にかけて通過するガスの速度と膨張・減圧を均一にする為(動翼の周速度は半径に比例して増加する為、先端を流れるガスの相対速度が減少し膨張・減圧が減少する)に動翼にひねりを与え根元を衝動タービンとし徐々に先端を反動タービンとしたもの、主にジェットエンジンのタービンに用いられる。 === 流体の流れの方向による分類 === * [[軸流タービン]] - 軸方向に流体が流れるもの。 * 斜流タービン - 軸から斜めに広がるように流体が流れるもの。 * 半径流タービン([[ラジアルタービン|ラジアル・タービン]]) - 軸と直交する向きに流体が流れるもの。ふく流型とも呼ばれる。 == 構成要素 == * [[ノズル]](静翼) * [[羽根車]](タービン翼) * [[インペラー]] * [[軸]] * [[軸受]] - 回転軸を支える。 * [[軸封装置]] - 軸受け部からの流体の漏れを防止する。 * [[保安装置]] - 過速度・異常振動の検出、緊急停止を行う。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 松岡増二『ジェット・エンジン』日本航空技術協会 第2版 第6刷 1989年 ISBN 4930858119 == 関連項目 == * [[熱力学サイクル]] * [[ターボチャージャー]] * [[テスラタービン]] - 通常のタービンとは異なり流体を受ける羽がなく、[[境界層効果]]によって作動するタービン。 * [[ベッツの法則]] * [[ジェットエンジン]] * [[ターボ分子ポンプ]] - タービンと構造は類似するが、動力から圧力差を生み出すという正反対の目的に用いる。 * [[ボイラー・タービン主任技術者]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{tech-stub}} {{水力}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たあひん}} [[Category:タービン|*]] [[Category:流体機械]] [[Category:ターボチャージャー]] [[Category:電力工学]] [[Category:回転機械]]
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東京ヤクルトスワローズ
東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。 東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を使用している。 1950年のリーグ分裂時に日本国有鉄道にちなんで国鉄スワローズとして発足され、その後親会社が産経新聞社→ヤクルトと変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 1949年(昭和24年)オフにリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道管理局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。同年の秋、当時の国鉄総裁加賀山之雄が「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成するということは、どんなものだろうか」という発言を行った。新事態とは国鉄がこの年に公共企業体として発足したことを指す。また、未曾有の人員整理や下山・三鷹・松川といった事件(国鉄三大ミステリー事件)も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである。加賀山が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。 交通協力会理事長の今泉秀夫(後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内のノンプロ野球の発展を刺激する。であった。 しかし、運輸業とその関連事業以外の副業を禁じた日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年(昭和25年)1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社JTB)などの企業により株式会社国鉄球団(資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり) を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行ったものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す」とされている。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし(#球団名も参照のこと)、セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。 国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。 しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのノンプロ・アマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。 3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし、序盤の3月21日から14連敗、4月26日からも10連敗で最下位に沈む。 8月に享栄商の金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。 この年、チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。オフに西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。 開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成。土屋五郎が球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得。 この年より地域フランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり、初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で、二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。 松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。国鉄は45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一。 読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。 10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録 となると共に大リーグ・ボブ・フェラー348を抜く世界新記録。町田行彦が本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。 対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフに南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。 金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利と最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。 開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日のダブルヘッダーでも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。 この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。 9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが、チームは54勝72敗4分、首位大洋から17.5ゲーム差、7年ぶりの最下位となる。1960年限りで宇野は監督を解任。後任は砂押邦信。 6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。 9月5日、金田正一がメジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3,509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)で、これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフに西鉄から豊田泰光を獲得。 年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり、相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じ、この時点で実質的な経営主体はフジサンケイグループに移る。 5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一。 翌年から本拠地を後楽園球場から明治神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#プロ野球を参照)。 7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。オフに林義一の監督更迭・留任を巡り、産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により、「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。 4月23日、国鉄は球団の経営権を産経新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ(Sankei Swallows)に改称。 サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位指名の河本和昭を始め、11名中9名が入団拒否している。 1月7日、少年野球ファン開拓のため という理由に加え、フジテレビで鉄腕アトムが放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ(Sankei Atoms)、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い、球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。 52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。 58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。武上四郎が新人王を獲得。 1月28日、神奈川県横須賀市に武山球場が完成、二軍本拠地となる。 5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーブ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。 産経新聞は本体の業績不振のため、株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名をアトムズ (Atoms) 、運営会社名を株式会社アトムズ球団とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。 ボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。 1970年1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名をヤクルトアトムズ(Yakult Atoms)、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。 序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗期間中の8月20日に別所毅彦が監督を解任され、二軍監督の小川善治がシーズン終了まで監督代行を務めた。結局、シーズン92敗を喫し、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初。東条文博が28盗塁で盗塁王。 三原脩が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している。 前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝。 元々鉄腕アトムのイラストについては「限定的に使用する」ことで、手塚治虫および虫プロダクションと合意していたが、球団後援会が作成したファンサービス用グッズ(シャツ・灰皿・トランプなど)にアトムのイラストを使用したことで、1972年12月に虫プロ側から「グッズを販売する業者から我々の著作権を侵害していると抗議が殺到した。商品化に結び付けるなら新たに版権の契約を結んでほしい」クレームが来た。その後版権料の問題で交渉がまとまらなかったことから、球団は手塚および虫プロに謝意を示した上で、1月からニックネームの変更の検討を開始した。 検討過程では「パンダ」「ベアーズ」「東京ヤクルト」「ファイアマン」などが挙がったが、「パンダース」は「売春宿の主人」を意味するスラングであることから早々に候補から外れ、一旦は「ヤクルト・ジャガース」(豹)に内定し、オールスター後から使用すると発表したが、結局シーズン中の球団名変更は見送りとなった。その後の再検討の結果、球団名は「ジャガース」を撤回し、国鉄時代の「スワローズ」を復活させることになった。 62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり、三原は監督を辞任。 前述の著作権問題の経緯と虫プロダクションが1973年11月5日付での倒産不可避となったことが重なり、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止した。1973年10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。 打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗・沼澤康一郎・小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。 日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが、結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。オフに武上四郎が引退。ちなみに、この年にはロッテに所属していた鈴木皖武が現役を引退したことにより、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。 5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、広岡達朗が13日からヘッドコーチの監督代行となり、6月17日に監督就任。 ※1976年の監督代行時代も含める。 結局、52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず、最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。 大杉がこの年多くの記録を立て、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。 前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。 マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)して辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が監督代行を務めた。結局、この年は48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。 武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局、この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。福富邦夫が現役を引退した。福富の引退により、国鉄スワローズに所属した選手が全員引退した。 マニエルが近鉄から復帰し、優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し、外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。オフに安田が現役を引退した。 優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。 ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。オフに大杉が現役引退。 4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。監督の武上がシーズン途中で休養し、西鉄・日本ハムでの監督を経験した中西太が監督代行として指揮を執るも、途中で休養し、日拓ホームでの監督を経験した投手コーチの土橋正幸がシーズン終了まで監督代行として指揮を執ることになった。 ※1984年の監督代行時代も含める。 この年は51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れた。監督代行の土橋が翌年から正式に監督として指揮を執ることになった。 明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。八重樫幸雄が捕手として球団初の3割打者、杉浦享も自己最多の34本塁打と活躍したが、チームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。オフに優勝バッテリーの松岡と大矢が共に現役を引退した。同年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。 マルカーノに代わり、大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり、土橋は辞任。 関根潤三が監督、元阪神監督の安藤統男がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。2年目の荒井幸雄が新人王を獲得。ホーナーはシーズン終了後に退団。この年のドラフト会議で、長嶋一茂との交渉権を大洋と抽選の末に獲得。 シーズン5位に終わるが、抑えの伊東昭光が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢と池山隆寛が30本塁打以上を放ち、栗山英樹が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。長嶋一茂の入団、若手の躍進で女性ファンが急増する。 ラリー・パリッシュが本塁打王、新人の笘篠賢治が新人王を獲得。高卒3年目の内藤尚行が12勝8セーブと活躍。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。55勝72敗3分けの勝率.433にてシーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。オフにヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。 ID野球を掲げる野村克也が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりにドウェイン・マーフィーを獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇ったフロイド・バニスターを獲得した。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、柳田浩一をレギュラーに抜擢、またそれまで捕手だった俊足の飯田哲也をセカンドに、開幕マスクを被った秦真司は打撃を活かして外野手にコンバート (野球)。高卒2年目の川崎憲次郎が12勝、新人の西村龍次は10勝と躍進。しかし、この年はマーフィーやバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに栗山英樹が引退。 ジョニー・レイが加入して、飯田は外野へコンバートされる。6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の首位打者となる。この年限りで尾花高夫が引退。 キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗 を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。日本シリーズは西武ライオンズと対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・金沢次男が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人石井一久を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。金沢の他に他球団で実績のある角盈男、新浦壽夫がこの年加入して(ともにシーズン終了後引退)、中継ぎで貢献するなど「野村再生工場」の発端も垣間見えた。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2021年シーズン終了現在、球団記録である。野村監督は球団をアピールするため、自らを含めて若手選手に積極的なメディア出演を進言したこともあって一躍人気球団となった。 前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は山田勉、5月からは高津臣吾が座り、先発投手陣では新人の伊藤智仁が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で新人王を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した川崎憲次郎と宮本賢治が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では6年ぶりに勝ち越した。日本シリーズでも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。野村監督が現役時代からライバル心を燃やす長嶋茂雄の監督復帰に沸いた巨人とは互いに厳しい内角攻めなどから、翌年まで乱闘騒ぎが続いた。野村監督が正力松太郎賞、古田がシーズンMVPを獲得した。オフに八重樫幸雄と杉浦享が共に現役を引退した。八重樫と杉浦の引退により、ヤクルトアトムズに所属した選手が全員引退した。 前年の日本一を機に帽子のマークが変更され、ペットマークにつば九郎が採用された。高津が最優秀救援投手を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人ジェラルド・クラークらの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった角富士夫が現役を引退した。オフに広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。 広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。土橋勝征が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇されたトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンも下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣は春季キャンプでテスト入団の新外国人テリー・ブロスが9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成、最優秀防御率を獲得する。開幕前に西村とのトレードで近鉄から移籍してきた吉井理人、2年目の山部太、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチローを中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。 ダイエーから移籍の田畑一也が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の辻発彦がリーグ2位の打率3割3分3厘を記録。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。 オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった小早川毅彦が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた斎藤雅樹から3打席連続本塁打。中日から自由契約となった野中徹博が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった廣田浩章もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人のドゥエイン・ホージーが巨人・松井秀喜を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが、高打率を記録し、「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。日本シリーズでも東尾修監督率いる西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBのニューヨーク・メッツに移籍。 開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし、一軍は巨人との開幕3連戦3連敗もあって、シーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人ライル・ムートンやマーク・エーカー、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。 先発陣(石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎)が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の高木晃次がプロ入り初の規定投球回数に到達 してチームの日本人最多の9勝を、新外国人のジェイソン・ハッカミーがチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人のロベルト・ペタジーニが44本塁打を放ち、本塁打王を獲得、オリックスからトレードで来た高橋智が復活をアピールし、主に守備要員だった佐藤真一が突然の打撃開眼でチームを牽引。また、プロ3年目の岩村明憲の成長など、明るい話題もあった。なお、長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。 石井一久がシーズン最終登板で中日の山本昌を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続の4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。 投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、高木、山部等一軍実績のあるメンバーや新外国人アラン・ニューマン、ジョナサン・ハーストらの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の入来智とオリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された島田直也がチーム2位の53試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は真中満、宮本慎也、稲葉篤紀、岩村明憲、アレックス・ラミレス、土橋勝征)が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に...あのぉ、おめでとうございます!」と言い間違え、球史に残る名言となった。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。近鉄自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。オフに石井一が大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍。 この年のセ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし、各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。 ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。 このような経緯があったのか、翌年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、プレーオフで優勝を決定する方式は勝率が最も高い球団の勝利数が勝率が2番目に高い球団を下回った場合のみ開催される規定に変更された上で2007年のクライマックスシリーズ導入まで存在した。 この年は21世紀最初のペナントレースだったので、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ優勝・日本一球団」となった。 チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ新人王に、石井弘寿が69試合に登板し最優秀中継ぎ投手に選出された。また、前年に途中入団したケビン・ホッジスが最多勝を獲得した。黄金時代を支えた池山隆寛はこの年限りで引退。オフにペタジーニが巨人に移籍した。 シーズン前に西武を自由契約となっていた鈴木健を獲得。高津臣吾が佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。また、来日3年目のアレックス・ラミレスが本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。 年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。 4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だったグレッグ・ラロッカも獲得するなど、積極補強に動いた。 この年までに入団した現役選手は石川雅規・青木宣親の2人。青木はMLBに移籍した後に復帰したため、球団名に「東京」がつく前からの生え抜き選手は石川だけである。 2005年12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」への球団名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。 前年同様、リック・ガトームソンがノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果は3位となり、2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において東京六大学選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。オフに岩村がタンパベイ・デビルレイズ(当時)へ移籍。ガトームソンがソフトバンク、ラロッカがオリックスへ移籍。 五十嵐亮太、石井弘寿の「#ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者、アレックス・ラミレスが打点王・最多安打、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から東京のUHF、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は高田繁、一軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方、選手では打点王・最多安打のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人、石井一久がFAで西武に移籍。石井の人的補償として福地寿樹を獲得。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3トレードを日本ハムと行い、押本健彦、川島慶三らを獲得した。 前年チーム勝利数1位グライシンガー(16勝)、2位石井一久(9勝)、3位藤井秀悟(7勝)が軒並み移籍し、残った選手の勝ち星が4勝以下だった事もあり不安視されたが、巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立った。しかし、石川雅規、館山昌平に続く先発が不在となる。野手では福地寿樹や飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じたアーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され、5位に終わった。しかし、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に林昌勇、押本健彦が活躍し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった松岡健一が転向し、結果を残すなど、整備が進んだ。オフに長打補強のため、ジェイミー・デントナ、中日を自由契約となった森岡良介、ソフトバンクを自由契約となった吉本亮を獲得し、オリックスを自由契約となった田中祐貴と育成契約を結び、横浜からFA宣言した相川亮二を獲得(ヤクルトでは初のFA獲得)。 序盤から2位をキープし、5月11日に田中祐貴を支配下選手に復帰させ、前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど、厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ、5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、2006年以来3年ぶりのAクラス入りで初のクライマックス・シリーズ進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて初の勝率5割未満のCS出場チームとなっている。 中日とのクライマックス・シリーズ第1ステージでは第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、新型インフルエンザにより、選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフに阪神からFA宣言した藤本敦士を獲得。五十嵐亮太がニューヨーク・メッツにFA移籍。 藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の東京ドームで勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦をもって高田が辞任、ヘッドコーチの小川淳司が監督代行として指揮をとることになった。 ※2010年の監督代行時代も含める。 6月に打線の補強としてジョシュ・ホワイトセル、トレードではリリーフ陣の補強として渡辺恒樹や山岸穣を獲得。小川体制になってからは野手陣と投手陣共に奮起し、徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月に10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対横浜ベイスターズ戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位に終わり、CS進出はならなかったが、成績は72勝68敗4分けと2004年以来6年ぶりに勝ち越した。 この年はリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越している。 東日本大震災の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後はウラディミール・バレンティンや畠山和洋などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも、9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越した。しかし、バレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し、2位に後退したため、最終的には70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で2001年以来10年ぶりのリーグ優勝を逃した。クライマックスシリーズファーストステージで巨人に2勝1敗で勝利、球団初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。石井弘寿が現役を引退した。バレンティンが本塁打王を獲得。 1月17日に青木宣親がポスティングシステムでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し首位タイとすると、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れて、チーム39年ぶりとなる10連敗を記録するなど 9勝15敗の最下位に終わり巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位確定とし2年連続のクライマックスシリーズ出場を決めている。クライマックスシリーズファーストステージでは、中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏にトニ・ブランコに満塁本塁打を打たれて逆転され、1勝2敗で敗退した。福地寿樹、宮出隆自が現役を引退し、林昌勇が退団した。5月4日に宮本慎也が通算2000本安打を達成した。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。オフに元楽天の岩村明憲が7年ぶりに復帰。 神宮球場では31勝32敗1分だったが、5月以降は最下位に低迷し、ビジターでは26勝51敗3分と大きく負け越した。特にバレンティン以外の野手で規定打席到達者が出ないなど、野手陣の不調・故障が響いた。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、2010年以来3年ぶりのBクラスが確定し、続く10月1日の対巨人戦(神宮)で1対0で敗れ、2007年以来6年ぶりの最下位が決定した。宮本慎也、藤本敦士が現役を引退した。バレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど、本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得。投手では新人の小川泰弘が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠を獲得。 終盤まで最下位に低迷し、9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明、9月29日の対広島戦(マツダスタジアム)に敗れ、2年連続最下位が決定した。打撃陣は規定打席に到達して3割2桁本塁打を達成した選手を5人(山田哲人、雄平、畠山和洋、川端慎吾、バレンティン)擁し、チーム打率・得点数はリーグトップだった反面、規定投球回に到達した投手はリーグ防御率最下位の石川雅規のみであり、チーム防御率・失点数は最下位だった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの真中満の就任が発表された。群馬ダイヤモンドペガサスに所属していたラミレスが現役を引退した。 オフに相川亮二が読売ジャイアンツにFA移籍。2年続けて最下位に陥った低迷から脱却するため、大型補強を敢行した。千葉ロッテマリーンズからFA宣言した成瀬善久、北海道日本ハムファイターズからFA宣言した大引啓次、メジャーリーガーのローガン・オンドルーセック、読売ジャイアンツにFA移籍した相川の人的補償として奥村展征を獲得。 開幕後はプロ野球記録となる14試合連続3失点以下を達成するなど、投手陣が好調だったこともあり、一時は首位に立ったが、5月に入ると9連敗を喫し、最下位に転落した。バレンティンやラスティングス・ミレッジら主軸選手の怪我もあり、5月22日にミッチ・デニング(新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ)と基本合意した。前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした。後半戦突入後は阪神・巨人とのデッドヒートの末、9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利し、2012年以来3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決め、9月27日の対巨人戦に勝利し、優勝へのマジックナンバー「3」を点灯させた。そして10月2日の対阪神戦(神宮球場)に2-1で勝利し、2001年以来14年ぶりかつ球団名が現在のものになってから7回目のリーグ優勝を果たした。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。また、巨人と中日以外のチームがリーグ優勝を果たすのは2005年の阪神以来10年ぶりである(2006年から2015年の間は中日と巨人がリーグ優勝をしていた)。バーネットが自身2度目となる最多セーブ投手、川端慎吾が首位打者と最多安打、山田哲人が本塁打王と盗塁王と最高出塁率、畠山和洋が打点王のタイトルを獲得し、山田は史上9人目となるトリプルスリーも達成した。なお打撃三部門をヤクルトの選手が独占したが、過去には三冠王や二冠王+他の同僚選手が一冠はあるものの、「同一チームの異なる3選手で打撃タイトル三部門を一冠ずつを獲得」は、今回のヤクルトが史上初である。クライマックスシリーズでも4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)にて巨人を下して14年ぶりの日本シリーズ進出が決定。日本シリーズでは福岡ソフトバンクホークスと対戦する中、第5戦で行われた引退試合を最後に松元ユウイチが現役を引退した。その後、5戦全て先発投手が5イニング持たずに1勝4敗で敗退して2001年以来の日本一を逃した。 オフにオリックス・バファローズを自由契約となった坂口智隆、北海道日本ハムファイターズを自由契約となった鵜久森淳志を獲得。バーネットがテキサス・レンジャーズに移籍。由規が肩の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。 3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝の勝利チームを予想し、賭け金を集め、予想の当たったものに分配していたことが発覚した。 チームは主砲のバレンティンを欠いたことが響き、2007年以来9年ぶりの開幕4連敗を喫した。以降もドラフト1位ルーキーの原樹理が右肩甲下筋肉離れ、エースの石川が左脹脛痛、館山も右肘の手術と投手陣だけでなく、山田が左第八肋骨骨挫傷、昨年首位打者の川端が右足舟状骨骨折、打点王の畠山も左手首痛、雄平が左脇腹痛、大引も腰痛で離脱と昨年にはなかった主軸の故障者が続出したことで、下位に低迷した。6月26日の中日戦では守護神・オンドルセクが守備固めで入っていた比屋根渉のミスで同点に追い付かれたことに対し、降板後に暴言を吐き、謹慎処分が下された事が引き金となって7月21日に退団し、更なる苦境に陥った。低迷するチーム状況の中、5月30日に新外国人としてジェフンを獲得し、7月5日に由規を支配下選手に復帰させ、17日にオリックスから八木亮祐とのトレードで近藤一樹を獲得し、テコ入れを図り、由規が24日の対中日戦で1786日ぶりの勝利を挙げた。9月19日にDeNAが勝利したことで、Bクラスと5位が確定した。山田が2年連続のトリプルスリーを獲得したものの、投手陣はチーム防御率4.73(5位DeNAと約1点差)、失点694(5位DeNAと106点差)とセ・リーグ最下位、1970年以来の2桁勝利投手ゼロと不名誉な記録を残した。森岡良介が現役を引退した。 オフに田中浩康が自由契約となった(DeNAに移籍)。 前年と同じく川端、畠山、バレンティン、中村悠平、小川、秋吉亮、雄平、大引らチームの主力級に故障が相次ぎ、交流戦から終盤にかけて最下位に低迷。5月30日のオリックス・バファローズ戦から6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦まで10連敗、7月1日の阪神戦から7月21日の阪神戦まで14連敗を喫した。前半戦だけで二度の10連敗以上の大型連敗を喫し、これは1956年の高橋ユニオンズ以来61年ぶりであった。7月26日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)で史上4度目、セントラル・リーグでは66年ぶりとなる最大10点差(延長10回)をひっくり返しての逆転勝利を収めるも、記録的な低迷は続き、最終的には球団ワースト記録を更新する96敗を喫し、2014年以来3年ぶりの最下位が決定した。また、チーム打率・得点・本塁打もリーグ最下位に終わった。真中監督が辞任し、後任監督として2014年まで指揮を執った小川淳司が復帰することになった。 2月7日に元メジャーリーガーの青木宣親が7年ぶりに復帰。序盤は苦戦したものの、交流戦開始頃から巻き返し、6月17日の日本ハム戦に勝利して初めて交流戦最高勝率を決めた。過去2年は怪我人に泣かされたが、大きな故障者も出ず、後半戦でもAクラスを維持し、10月1日に3年ぶりとなる3位以内とCS進出が決定した。2日のDeNA戦に3-2で勝利して2位が確定し、神宮球場でのCS開催権を得た。しかし、迎えたCSでは巨人に2連敗し、2015年以来3年ぶりの日本シリーズ進出はならなかった。松岡健一、武内晋一、山本哲哉、鵜久森淳志が現役を引退した。 オフに成瀬善久が自由契約となった(オリックスに移籍)。ソフトバンクを自由契約となった寺原隼人を獲得。 1月30日にソフトバンクを自由契約となった五十嵐亮太が10年ぶりに復帰。4月26日と5月26日に青木宣親、山田哲人、バレンティンによる同シーズン2度の三者連続本塁打を記録したが、5月14日から6月1日にかけてリーグワーストに並ぶ16連敗を喫する など、序盤から苦しんだ。シーズンを通しては山田哲人、村上宗隆、バレンティンの3人が30本塁打以上を記録したが、投手陣が苦しんだこともあり、前年の2位から一転して借金23の最下位に沈んだ。小川淳司監督の辞任が決定し、宮本慎也ヘッドコーチの辞任も発表され、次期監督には二軍監督を務めていた高津臣吾(2022年からは「髙津臣吾」表記)が就任することとなった。村上宗隆は高卒2年目ながら36本塁打96打点を記録し、新人王のタイトルを獲得、10代におけるシーズン最多本塁打を更新、中西太が1953年に記録した高卒2年目以内の最多本塁打に並んだ。ドラフトでは目玉であった星稜高校の奥川恭伸を3球団競合の末に交渉権を獲得した。また、メジャー通算1367安打、14年は青木と同僚で15年には遊撃手としてゴールドグラブ賞を受賞したアルシデス・エスコバー、楽天を退団した嶋基宏、今野龍太、ソフトバンクとの再契約を保留していた長谷川宙輝を支配下選手として獲得。9年間在籍して主軸を張ってきたバレンティンがソフトバンクに移籍。館山昌平、畠山和洋、三輪正義、寺原隼人が現役を引退した。 新型コロナウイルス感染拡大の影響で3月20日に予定されていたプロ野球の開幕は延期されることになり、6月19日に無観客試合で開幕した。序盤は上位争いを展開していたが、徐々に失速していった。10月14日のDeNA戦からベンチ担当の斎藤隆投手コーチとブルペン担当の石井弘寿投手コーチを入れ替えるなどしたが、2年連続最下位に終わった。五十嵐亮太、中澤雅人、井野卓が現役を引退した。 オフに風張蓮、近藤一樹が自由契約となった(風張はDeNA、近藤は香川オリーブガイナーズに移籍)。長打力不足による貧打解消のため、前パイレーツのホセ・オスナ、前インディアンスのドミンゴ・サンタナ、ソフトバンクを退団した内川聖一を獲得。 開幕からサンタナ・オスナ二人を欠いたことが響き、開幕3連敗スタート、4戦目に初勝利上げた翌日に青木・川端を中心とした主力選手のコロナウイルスの離脱など出だしは苦難のスタートだったが、サンタナ・オスナ加入後のチームは投打ともに充実した成績を残し、最大7ゲーム差をつけられた阪神を追い抜き10月26日に6年ぶりのリーグ優勝。CSは読売ジャイアンツ相手に勝利し、6年ぶりの日本シリーズに出場。シリーズはオリックス相手に全6試合2点差以内の接戦の中、4勝2敗で制し、2001年以来20年ぶりかつ球団名が現在のものになってから6回目の日本一を達成し、最高の結果でシーズンを終えた。 セ・リーグ初の交流戦完全優勝と29年ぶりとなるセ・リーグ連覇を達成。村上がシーズンを通して圧倒的な成績を残し、9月13日には日本選手最多タイとなるシーズン55本塁打を記録した。村上は最終的に日本選手単独最多56本塁打を放ち、打撃三部門すべてのタイトルを獲得し令和初の三冠王となった。 CSは阪神をスイープ(3戦全勝)して2年連続で日本シリーズに進出した。日本シリーズは前年と同様、オリックスとの顔合わせとなり、神宮での第1戦、京セラドーム大阪での第3戦は勝利し、第2戦も3点ビハインドの9回に内山が同点の3ランホームランで追いつき引き分けたが、シリーズを通して前年の日本シリーズは全て青木が務めていた2番が固定出来ず.174。村上の前を打つ3番がノーヒットだったのと抑えのマクガフが第5戦と第6戦で悪送球を犯して足を引っ張り、その村上も.192と低調で第4戦と第6戦は完封負け。第5戦はマクガフが吉田正尚にサヨナラの2ランホームランを浴び、第7戦は先発のサイスニードが1番に入った太田椋に日本シリーズ史上初の初球先頭打者本塁打を浴びると、5回2アウト満塁のピンチでは吉田正に押し出しのデッドボールを与えたのに続き、杉本裕太郎の放った打球をセンターの塩見(シーズンは2エラー)が後ろに逸らすミスを犯してしまい、走者一掃の3点タイムリーエラーとなってこれが致命傷となった。8回には村上のタイムリーとオスナのホームランで1点差に詰め寄るも4-5で4連敗を喫し、2勝4敗1分けで初の連続日本一とはならなかった。そのオスナも、2勝1分だった第3戦までは13打数8安打と当たっていたのが4連敗を喫した第4戦以降は17打数3安打とブレーキになってしまった。 いずれも名球会メンバー 名球会創設メンバーだが、その後退会状態となった 名球会メンバー 日本人シーズンホームラン記録 ・村上宗隆56本(2022年) NPBにおけるアジア人打者・左打者としてのシーズン記録 「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。球団旗には、列車のヘッドマーク等に使われていた「つばめマーク」を採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。スポーツ新聞の見出しでも「燕」あるいは「ツバメ」と書かれる事もある。 ペットマークは、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。 応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。 2013年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在さだまさし(歌手)と出川哲朗(ピン芸人)と村上春樹(作家)が芸能人枠として「SWALLOWS CREW名誉会員」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。 会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。 2012年から、東京ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で「GSDBプロジェクト」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。 本拠地の神宮球場が大学野球最優先でスケジュールを組んでいる関係で、かつては広島と並んで地方開催がセ・リーグで最も多かった。特にセ・パ交流戦導入以前は日本全国といって良いほど各地で試合を行っていたが、日本ハムの札幌移転や仙台を本拠とする楽天の新規参入といったパ・リーグ加盟チームの地方分散化、さらには交流戦開始などの影響もあり2000年代後半以降は他球団同様、地方開催を縮小する傾向にあり、現状では年間で4 - 5試合に抑えられている。 なお、2020年は、東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定で、他に松山の2試合と合わせて地方開催を13試合行う予定としていたが、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、東京ドームでの主催試合開催分は全て神宮球場での開催に変更になった。 2021年は、延期になった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を8月下旬から9月上旬にかけて6試合を行い、他に松山の2試合及び静岡での2試合と合わせて地方開催を10試合行う。 地方開催の中でも特に開催の機会が多い球場として、秋田県立野球場(こまちスタジアム)、福島県営あづま球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等が挙げられ、年次によっては同一球場で2試合が組まれることがある。このうち松山は秋季キャンプで使用している縁から、基本的に毎年2試合組まれており(2019年・2023年は1試合のみ)、特に2013年は3試合が組まれた。これらの球場では交流戦開始前にはなかった対巨人戦も行われるようになり、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合 と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合 の巨人戦が地方開催が行われている(2021年も松山で2試合を開催)。 かつてはロッテの本拠地である千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)でも東京六大学野球(早慶戦)が行われる毎年5月下旬に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は同球場を本拠地とするロッテ主催の交流戦に切り替えられて、ヤクルト主催では実施されていない。 この地方開催の多さもあってか、他チーム主催の地方開催試合で相性の良さを発揮することもある。例えば富山アルペンスタジアムで開催される巨人・中日主催試合では2016年9月現在8戦6勝2分けと負けがない。 1970年代から2002年(平成14年)までのほぼ毎年、球団オーナー松園尚巳の出身地である長崎県での公式試合が開催されていた。 1976年(昭和51年)ドラフト1位で入団した松園と同じ長崎出身の酒井圭一を当時球団最高額の契約金3,000万で契約、しかし松園は「酒井はゴールデンルーキーだ。手取りで3,000万円にできないものか」の鶴の一声で、800万円上乗せされた。さらに長崎市内のホテルで行われた酒井のためだけの入団発表には、松園オーナーも同席。その後、異例のパーティーまで開かれ、当時の長崎県知事ら県内の政財界の大物まで出席した。費用の200万円も球団が負担した。松園は翌1977年(昭和52年)、地元紙長崎新聞の社長に就任。1988年(昭和63年)に退任するが、その翌年の1989年(平成元年)、長崎県民放テレビ第3局長崎文化放送(NCC)の初代代表取締役会長に就任。長崎文化放送は長崎新聞主導で設立され、ヤクルトスワローズの放送権を持っているテレビ朝日系列フルネット局となった。 一方、長崎出身の歌手さだまさしは巨人・長嶋茂雄の大ファンだったが、1980年(昭和55年)に長嶋が巨人監督を解任されると同郷の松園と親交が深かったこともありヤクルトファンに転向。選手の長崎遠征時には名物の卓袱料理でもてなすなどしている。 1997年(平成9年)に開場した長崎県営野球場で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド負けとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、またヤクルト本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない。2009年(平成21年)、7年ぶりに長崎で試合を行ったがこの試合は巨人主催のビジターゲームだった。 神宮球場は学生野球を最優先とするため、学生がデーゲームを基本とする以上、プロの試合はナイトゲームを原則とせざるを得ない。しかし、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)直後には学生との調整を行って、神宮球場でデーゲームを行った例もある。 地震発生直後の2011年3月、セ・リーグは一旦は3月25日に開幕させる決定をした。この時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デーゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した。その後神宮を主会場とする東京六大学・東都の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日 - 4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。 国鉄の列車「つばめ号」のヘッドマークに使われていた「つばめマーク」を使用。 当時の親会社、産経新聞社の社旗(橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。 2023年シーズン現在、下記6社がトップスポンサー契約締結している。 チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている新潟県燕市と、燕市に本社を置くツインバード(家電)、和平フレイズ(調理器具)、エコー金属(日用品金属加工)、北越工業(重機械)、燕食品(食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。(詳細後述) セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。 2006年、オフィシャルスポンサーとなったユニデンがホームユニフォーム左胸、カカクコムがヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。 「TOKYO」ロゴのサードユニフォームを巨人との「TOKYOシリーズ」のビジターゲームで着用する際には、2020年は規定に配慮して広告をユニフォームと同素材の当て布で隠していたが、時折はがれることがあったため、2021年は別に広告がないものを作成した。 ※太字はリーグ優勝、◎は日本一 球団として公認された永久欠番は2015年現在ない。他に欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きまたはフリーエージェントで獲得した選手で、かつ対象者に推薦が必要とされる。 スワローズで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは金田正一のみである。また、金田が史上2人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている スワローズでの投手三冠王の達成者は1人。 スワローズでの三冠王の達成者は1人。 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。 スワローズの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。 2016年現在、球団公式サイトには応援ソングとして「We Are The Swallows」のみが掲載されている。 1962年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が、包括的な放映権契約を独占で結んでいた日本テレビ放送網しか与えられていなかった ため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。 なお、国鉄球団がフジサンケイグループの後援を受け入れるにあたっては、後楽園の放映権の絡みから、神宮球場に隣接する神宮第2球場をフジサンケイグループ主導で建て替えて専用球場とする計画をしていたが、日本学生野球協会などからの反対意見や、明治神宮も第2球場をアマチュア専用球場にしたい意向もあったためか、第2球場ではなく学生野球との日程調整をし、それを優先させる形で主球場への移転を認めたという経緯がある。 国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業である。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した。 これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなった。一方でニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(当時)(旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっていたが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示していた。その後、保有していた両球団の株式はニッポン放送とフジテレビの持株会社化でフジ・メディア・ホールディングスへと移転したが、ベイスターズの株式については2012年以降同球団の親会社となったディー・エヌ・エーに2016年までに売却したため、ようやく長年の問題が解決した。 フジテレビONE(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全試合(セ・パ交流戦含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していたスカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTSで、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である八峯テレビ(現・フジ・メディア・テクノロジー)との協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主催・主管の全試合を「スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き」にて放送していた。 また、CSが普及する前は、巨人戦をフジテレビとテレビ朝日(水・日曜を中心に、まれに金・土曜も)が放送していた。それ以外のカードは地方開催を中心とした一部のデーゲームをフジテレビとテレビ朝日を中心に、まれにテレビ東京で、巨人戦裏カードの全国中継ナイターはテレビ朝日(主に水 - 金曜日)が西武ライオンズ戦と同様の扱いで平日を中心に年度によっては相当数を放送した、一方フジテレビは優勝争いがかかった時を中心に放送し、テレビ東京も年度により放送していたが、いずれも散発的なものだった。 その一方独立局ではテレビ神奈川が随時『TVKハイアップナイター』として、特に大洋との対戦(どちらの主催を問わず)を中心に、大洋戦の放送がない時も他カードを併せる形で年数十試合を放送し、特に対阪神戦はサンテレビやKBS京都にネットすることがあった。またCSテレビが放送ではなく通信(配信)であった1990年代のごく一時期ではあるが、朝日ニュースター(当時は朝日新聞社主導経営。現テレ朝チャンネル2)でごく数試合、テレビ朝日協力によるヤクルト戦の中継をケーブルテレビ向けに配信したことがあった。 さらに1967年からごく数年間、当時独立局 で経営難にあえいでいた東京12ch(現・テレビ東京)が全日放送に復帰するにあたり、番組ソフト不足解消の一環として、フジテレビから放映権を譲渡する形(ただし、制作主体は東京12chが行い、CXは制作協力だった)を取って、巨人戦以外のヤクルト主催・主管試合を東京12chから放送したこともあった。この時も球団資本の関係で、解説者とアナウンサーはCXからの派遣で賄っていた。 1974年まではTBSが優先権を持っていた大洋主催・主管試合とフジテレビのサンケイ→ヤクルト主催・主管試合の放送権の一部とを交換する形で、大洋戦の優先権がNETテレビ(現:テレビ朝日)に移動した1975年にはNET系からネットチェンジした直後の毎日放送が保有していた阪神主催試合の権利の一部と交換する形(当時TBSが編成していなかった金曜日の対巨人戦を関西テレビと交換)で、TBSテレビもヤクルト主催・主管試合を水曜・日曜の対巨人戦を中心に放送していた。また神宮球場への移転でフジテレビに優先権が移った後も、1960年代にはフジテレビ・TBS・NETテレビのいずれも中継できない場合に限り日本テレビが対巨人戦を散発的に中継した例がある。 サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園平和野球場 で行われた対中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。 そのため公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。 1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ 初優勝!! 29年間ご支援ありがとうございました」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。それまで当時のセ・パ12球団中、唯一優勝経験がなかったため、その原因を「鉄腕アトムの呪い」という者も多かったが、圧倒的な9-0のリードで迎えた9回一死一塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。 決定の瞬間、選手らが一塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。 更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。 2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名をとどろかせた。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められたものである。 もともとリリーフエースの高津臣吾へつなぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42セーブポイントを挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。 しかし、2009年に五十嵐がFAで大リーグのニューヨーク・メッツに移籍したことに伴い、ロケットボーイズはコンビ解消となった。2011年に石井が現役を引退し、二軍コーチに就任。 2018年、五十嵐が日本球界復帰後に在籍をしていたソフトバンクから戦力外通告を受けたことで、2019年春にヤクルト復帰が決まった。当時石井は一軍投手コーチであったため、選手とコーチの関係ではあるが、ロケットボーイズは10年ぶりに復活を果たした。翌2020年をもって五十嵐が現役を引退したことで、再びコンビ解消となった。 2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。 F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、かつ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。なお、これらの企業との契約は古田退任後に解消されたものも多く、東京都民銀行に至っては巨人の本拠地である東京ドームでの広告掲載に切り替えている。 さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズの4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区、港区、渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという。 このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である東京ドームと比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。 また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。学生野球がシーズンオフになっている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。更にこれまで、暑さ対策のため自発的にデーゲームの開催を見合わせてきた8月についても2013年以後、一部の週末開催で、17時開始の薄暮デーゲーム(準ナイター)として行う試合もある(2018年は6月30日と7月1日のみ)。 この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグのFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また、同年9月にはbjリーグの東京アパッチ とも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・大井競馬場による3者共同キャンペーンも行なっている。 なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終えたが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示しており、F-Projectで行われていた日替わりのデーイベントは同年以降も継続して実施している。 2007年7月11日の対広島東洋カープ戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)の本塁打を放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラ本塁打でスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、出場した宮本慎也等が「バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響した」と後に証言している。 ヤクルトは2009年6月14日の対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。 2-2の同点で迎えたこの回、先頭の青木宣親が中前安打したのを皮切りに、アーロン・ガイエル、飯原誉士の連打で勝ち越しに成功。さらに宮本慎也の三塁線への犠打が内野安打となり、その後田中浩康まで9者連続で単打を放って計6点を挙げ、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに再び打席が回った青木の四球を挟んで、続くガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で千葉ロッテマリーンズが3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原が二塁打を放って記録を11に更新した。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。 6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメのギネス打線です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、ギネス・ワールド・レコーズ社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対読売ジャイアンツ10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。 なお前述の通り、ヤクルトはこの記録達成と同時に四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打のタイ記録も達成しているが、こちらは翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。 5回表の詳細 2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市の宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。また、ヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、あくまでも東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名などの誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発し、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事で、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。 2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年7月1日に開場した新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を得たことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げていたが、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2011年末現在)。 新潟県は毎年9月に神宮球場でのヤクルト公式戦で日替わりのデーイベント「うまさぎっしり新潟Day」を開催しており、当日は泉田裕彦新潟県知事が観光PRを行っている他、始球式にも登板している。前述の経緯から泉田は2009年以降、新潟Day開催の折にヤクルト球団幹部に新潟での公式戦開催を要請しているが、球団側は2年連続で態度を留保していた。 その一方で、新潟市に隣接する燕市は同じ「つばめ」という縁から、2011年シーズンからヤクルト球団と交流・連携協定を締結し、2012年度以後も継続して展開している。 その内容としては、燕市民(同市在住・在学・在勤者)を対象としたコメの田植・稲刈りや、少年野球教室などのイベントに、球団マスコットのつば九郎や、試合出場機会の少ない若手・育成選手、球団OBを派遣することや、神宮で行われるスワローズ主管全試合においての「燕市ヒーロー賞」(マン・オブ・ザ・マッチ相当)に選ばれた選手に対して、同市に本社などを置く上掲協賛各企業・団体からの商品の贈呈(燕市産の金属製洋食器セットや協賛企業の製品)など様々なコラボレーションを展開している。また上掲協賛各社は球団のオフィシャルスポンサーとして支援を行っている。 なお、ヤクルト球団では同球場で初の主催公式戦として、2012年9月8日・9月9日に対読売ジャイアンツ2連戦を開催した(ヤクルト球団と新潟総合テレビが共同で主催、新潟市、燕市など共催)。ヤクルトが新潟県内で主催公式戦を開催するのは1991年以来、21年ぶりのことであった。 なお、ヤクルト球団に在籍した事がある新潟県出身のプロ野球選手は、渡辺保、大滝信孝、黒坂幸夫、川村一明、青島健太、本間忠、鈴木裕太の7人である。 2022年現在二軍の本拠地となっているヤクルト戸田球場は、元々河川敷ということで大雨による浸水などの問題を抱えている上に、施設の老朽化が進んでいる。また隣接する選手寮・室内練習場などは現代の基準ではやや手狭となってきており、敷地の都合上現在地でのこれ以上の拡張も難しいことから、ヤクルトの株主からは移転を求める声があった。球団では2021年時点では、戸田での施設整備を進める方針としていたが、内々に二軍本拠地の移転も含めて検討を行っていた。 これに対し、茨城県守谷市が二軍施設を誘致する意向を表明したため、球団と守谷市では常総運動公園の敷地を実質拡大させ、新球場・サブグラウンド・選手寮等を建設し二軍本拠地を移転する方向で2022年4月に協議を開始。2023年11月には球団・ヤクルト本社・守谷市・茨城県の四者による基本協定を締結した。新しい二軍本拠地は、2027年より供用を開始する予定としている。 2015年は2001年以来、14年ぶりのセントラル・リーグ優勝を果たした。この年は破壊力ある強力打線が存在感をみせ、優勝の大きな原動力となった。なかでも、シーズン中盤から固定された2番川端慎吾、3番山田哲人、4番畠山和洋の活躍が大きく、川端は首位打者と最多安打を、山田は本塁打王と盗塁王、最高出塁率を、畠山は打点王を獲得し、プロ野球では11年ぶりに同一チームで打撃タイトルを独占した。また、打率(首位打者)打点(打点王)本塁打(本塁打王)の打撃タイトル主要3部門を同一チームの3人の選手で分け合うのはプロ野球史上初。 2019年4月26日の対読売ジャイアンツ戦で菅野智之から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティンが三者連続本塁打を放った。4月30日から翌5月1日に当時の今上天皇から皇太子への皇位継承が行われたことで、平成から令和へ改元がなされたため、これが「平成最後の三者連続本塁打」となった。その試合から1ヵ月後の2019年5月26日の対中日ドラゴンズ戦で清水達也から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティン、同シーズン2度目となる三者連続本塁打を放った。これが改元後初めての三者連続本塁打であるため、「令和最初の三者連続本塁打」となった。したがって「平成最後」と「令和最初」の両方を青木・山田・バレンティンの3人で記録した。 2022年6月26日の対読売ジャイアンツ戦に勝利し、11球団を相手に連続して同一カード勝ち越しを達成した。この記録を達成するためには交流戦で全カード勝ち越しが必要である。2011年にソフトバンクホークスが交流戦でセリーグ全チームから勝ち越しを達成しているが、交流戦明けに日本ハムファイターズに負け越して達成できなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、英語: Tokyo Yakult Swallows)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を使用している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1950年のリーグ分裂時に日本国有鉄道にちなんで国鉄スワローズとして発足され、その後親会社が産経新聞社→ヤクルトと変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1949年(昭和24年)オフにリーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立のあおりを受け、各地の国鉄鉄道管理局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。同年の秋、当時の国鉄総裁加賀山之雄が「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成するということは、どんなものだろうか」という発言を行った。新事態とは国鉄がこの年に公共企業体として発足したことを指す。また、未曾有の人員整理や下山・三鷹・松川といった事件(国鉄三大ミステリー事件)も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである。加賀山が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "交通協力会理事長の今泉秀夫(後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内のノンプロ野球の発展を刺激する。であった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかし、運輸業とその関連事業以外の副業を禁じた日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会(現:公益財団法人交通協力会・株式会社交通新聞社)が主体となり、1950年(昭和25年)1月12日に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現:公益財団法人日本交通公社・株式会社JTB)などの企業により株式会社国鉄球団(資料によっては国鉄野球株式会社となっている物もあり) を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行ったものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す」とされている。球団名を国鉄スワローズ(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし(#球団名も参照のこと)、セントラル・リーグに加盟。初代監督には西垣徳雄が就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元逓信省総裁松前重義の尽力で、武蔵境の旧中島飛行機工場跡地に新しい野球場「武蔵野グリーンパーク野球場」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのノンプロ・アマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は第二次世界大戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、松竹ロビンスの二軍監督・森谷良平と、かつて奉天満鉄倶楽部に在籍していた宇佐美一夫を追加補強してクリーンアップに据えたものの、その後も貧打に悩まされた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "3月10日の球団初公式戦の対大洋ホエールズ戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対広島カープ戦に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし、序盤の3月21日から14連敗、4月26日からも10連敗で最下位に沈む。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "8月に享栄商の金田正一が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この年、チームは42勝94敗2分で首位松竹ロビンスから57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。オフに西日本パイレーツがセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、最多奪三振を獲得するとともに、9月5日に球団初となるノーヒットノーランを達成。土屋五郎が球団初のタイトルとなる最多盗塁を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "この年より地域フランチャイズ制が導入され、国鉄は読売ジャイアンツ、毎日オリオンズ、大映スターズ、東急フライヤーズと共に後楽園球場を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり、初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で、二年連続奪三振王となった。佐藤孝夫が球団初の新人王を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。国鉄は45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は藤田宗一。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "読売ジャイアンツから移籍した宇野光雄の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と箱田弘志が球団初のベストナインを獲得する。首位中日から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、NPB新記録 となると共に大リーグ・ボブ・フェラー348を抜く世界新記録。町田行彦が本塁打王を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。大脇照夫が5月3日の対中日戦(中日)でノーヒットノーラン、宮地惟友が対広島(金沢兼六)で球団初、日本プロ野球3人目となる完全試合を達成している。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフに南海ホークスから飯田徳治を金銭トレードで獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は最多勝利と最優秀防御率を獲得、沢村賞と自身初のベストナインに選ばれている。佐藤孝夫が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー長嶋茂雄を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日のダブルヘッダーでも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする。5月24日の対阪神戦(甲子園)で飯田徳治がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門三冠王(最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー王貞治を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが、チームは54勝72敗4分、首位大洋から17.5ゲーム差、7年ぶりの最下位となる。1960年限りで宇野は監督を解任。後任は砂押邦信。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "9月5日、金田正一がメジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3,509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位阪神から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)で、これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に韓国に遠征し、親善試合を行う。砂押は監督を退任、後任は浜崎真二。オフに西鉄から豊田泰光を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり、相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン・ニッポン放送・文化放送と結び、フジサンケイグループとの関係が生じ、この時点で実質的な経営主体はフジサンケイグループに移る。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は林義一。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "翌年から本拠地を後楽園球場から明治神宮球場へ移転する(移転の経緯については後述のフジサンケイグループ及び明治神宮野球場#プロ野球を参照)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。オフに林義一の監督更迭・留任を巡り、産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞)により、「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "4月23日、国鉄は球団の経営権を産経新聞とフジテレビに譲渡することを発表し、5月10日、サンケイスワローズ(Sankei Swallows)に改称。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年からドラフト会議が行われているが、1位指名の河本和昭を始め、11名中9名が入団拒否している。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1月7日、少年野球ファン開拓のため という理由に加え、フジテレビで鉄腕アトムが放送されていたことや手塚治虫が当時球団後援会副会長(会長は徳川夢声)だったという経緯もあって鉄腕アトムをペットマークに使い、チーム名をサンケイアトムズ(Sankei Atoms)、運営会社名を株式会社サンケイアトムズに改称。ヤクルト本社が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い、球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。武上四郎が新人王を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1月28日、神奈川県横須賀市に武山球場が完成、二軍本拠地となる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目のデーブ・ロバーツが40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では石戸四六がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "産経新聞は本体の業績不振のため、株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名をアトムズ (Atoms) 、運営会社名を株式会社アトムズ球団とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ボブ・チャンスが24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1970年1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名をヤクルトアトムズ(Yakult Atoms)、運営会社名を株式会社ヤクルトアトムズに改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の大東京軍と並ぶ16連敗を喫した。この連敗期間中の8月20日に別所毅彦が監督を解任され、二軍監督の小川善治がシーズン終了まで監督代行を務めた。結局、シーズン92敗を喫し、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初。東条文博が28盗塁で盗塁王。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "三原脩が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。松岡弘は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "前年に三原とともに入団した中西太打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の若松勉が首位打者、ルーキーの安田猛も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "元々鉄腕アトムのイラストについては「限定的に使用する」ことで、手塚治虫および虫プロダクションと合意していたが、球団後援会が作成したファンサービス用グッズ(シャツ・灰皿・トランプなど)にアトムのイラストを使用したことで、1972年12月に虫プロ側から「グッズを販売する業者から我々の著作権を侵害していると抗議が殺到した。商品化に結び付けるなら新たに版権の契約を結んでほしい」クレームが来た。その後版権料の問題で交渉がまとまらなかったことから、球団は手塚および虫プロに謝意を示した上で、1月からニックネームの変更の検討を開始した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "検討過程では「パンダ」「ベアーズ」「東京ヤクルト」「ファイアマン」などが挙がったが、「パンダース」は「売春宿の主人」を意味するスラングであることから早々に候補から外れ、一旦は「ヤクルト・ジャガース」(豹)に内定し、オールスター後から使用すると発表したが、結局シーズン中の球団名変更は見送りとなった。その後の再検討の結果、球団名は「ジャガース」を撤回し、国鉄時代の「スワローズ」を復活させることになった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり、三原は監督を辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "前述の著作権問題の経緯と虫プロダクションが1973年11月5日付での倒産不可避となったことが重なり、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止した。1973年10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「ヤクルトスワローズ」に変更。キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "打撃コーチの荒川博が監督に昇格、コーチで入団した広岡達朗・沼澤康一郎・小森光生と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、浅野啓司も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本ハムとの交換トレードで大杉勝男を獲得したが、結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。オフに武上四郎が引退。ちなみに、この年にはロッテに所属していた鈴木皖武が現役を引退したことにより、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、広岡達朗が13日からヘッドコーチの監督代行となり、6月17日に監督就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "※1976年の監督代行時代も含める。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "結局、52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の1962年からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる。なお、全球団に負け越したにもかかわらず、最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "大杉がこの年多くの記録を立て、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した。若松が2度目の首位打者、入団2年目のチャーリー・マニエルが42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなるアメリカ・ユマキャンプを行う。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった森昌彦がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けたデーブ・ヒルトンも加わり打線は厚みを増した。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日のダブルヘッダー第2試合、さらに杉浦亨が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。日本シリーズではそれまで3年連続日本一だった阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で大野豊に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人ジョン・スコットがサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)して辞任。打撃コーチの佐藤孝夫が監督代行を務めた。結局、この年は48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局、この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。福富邦夫が現役を引退した。福富の引退により、国鉄スワローズに所属した選手が全員引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "マニエルが近鉄から復帰し、優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し、外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。オフに安田が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。オフに大杉が現役引退。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。監督の武上がシーズン途中で休養し、西鉄・日本ハムでの監督を経験した中西太が監督代行として指揮を執るも、途中で休養し、日拓ホームでの監督を経験した投手コーチの土橋正幸がシーズン終了まで監督代行として指揮を執ることになった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "※1984年の監督代行時代も含める。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "この年は51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れた。監督代行の土橋が翌年から正式に監督として指揮を執ることになった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。八重樫幸雄が捕手として球団初の3割打者、杉浦享も自己最多の34本塁打と活躍したが、チームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。オフに優勝バッテリーの松岡と大矢が共に現役を引退した。同年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "マルカーノに代わり、大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり、土橋は辞任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "関根潤三が監督、元阪神監督の安藤統男がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガーボブ・ホーナーが「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。2年目の荒井幸雄が新人王を獲得。ホーナーはシーズン終了後に退団。この年のドラフト会議で、長嶋一茂との交渉権を大洋と抽選の末に獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "シーズン5位に終わるが、抑えの伊東昭光が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢と池山隆寛が30本塁打以上を放ち、栗山英樹が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。長嶋一茂の入団、若手の躍進で女性ファンが急増する。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ラリー・パリッシュが本塁打王、新人の笘篠賢治が新人王を獲得。高卒3年目の内藤尚行が12勝8セーブと活躍。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。55勝72敗3分けの勝率.433にてシーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。オフにヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ID野球を掲げる野村克也が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりにドウェイン・マーフィーを獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇ったフロイド・バニスターを獲得した。野村は新人の古田敦也を正捕手に起用、柳田浩一をレギュラーに抜擢、またそれまで捕手だった俊足の飯田哲也をセカンドに、開幕マスクを被った秦真司は打撃を活かして外野手にコンバート (野球)。高卒2年目の川崎憲次郎が12勝、新人の西村龍次は10勝と躍進。しかし、この年はマーフィーやバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに栗山英樹が引退。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ジョニー・レイが加入して、飯田は外野へコンバートされる。6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が打点王、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の首位打者となる。この年限りで尾花高夫が引退。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村と岡林洋一以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打のジャック・ハウエルが本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗 を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。日本シリーズは西武ライオンズと対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・金沢次男が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人石井一久を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。金沢の他に他球団で実績のある角盈男、新浦壽夫がこの年加入して(ともにシーズン終了後引退)、中継ぎで貢献するなど「野村再生工場」の発端も垣間見えた。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2021年シーズン終了現在、球団記録である。野村監督は球団をアピールするため、自らを含めて若手選手に積極的なメディア出演を進言したこともあって一躍人気球団となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は山田勉、5月からは高津臣吾が座り、先発投手陣では新人の伊藤智仁が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で新人王を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した川崎憲次郎と宮本賢治が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では6年ぶりに勝ち越した。日本シリーズでも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。野村監督が現役時代からライバル心を燃やす長嶋茂雄の監督復帰に沸いた巨人とは互いに厳しい内角攻めなどから、翌年まで乱闘騒ぎが続いた。野村監督が正力松太郎賞、古田がシーズンMVPを獲得した。オフに八重樫幸雄と杉浦享が共に現役を引退した。八重樫と杉浦の引退により、ヤクルトアトムズに所属した選手が全員引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "前年の日本一を機に帽子のマークが変更され、ペットマークにつば九郎が採用された。高津が最優秀救援投手を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人ジェラルド・クラークらの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった角富士夫が現役を引退した。オフに広沢克がFAを宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を桑田真澄の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。土橋勝征が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇されたトーマス・オマリーが狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇されたヘンスリー・ミューレンも下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣は春季キャンプでテスト入団の新外国人テリー・ブロスが9月9日の巨人戦でノーヒットノーランを達成、最優秀防御率を獲得する。開幕前に西村とのトレードで近鉄から移籍してきた吉井理人、2年目の山部太、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。オリックス・ブルーウェーブとの対戦となった日本シリーズでもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーもイチローを中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ダイエーから移籍の田畑一也が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の辻発彦がリーグ2位の打率3割3分3厘を記録。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった小早川毅彦が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた斎藤雅樹から3打席連続本塁打。中日から自由契約となった野中徹博が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった廣田浩章もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人のドゥエイン・ホージーが巨人・松井秀喜を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが、高打率を記録し、「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、横浜ベイスターズに最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。日本シリーズでも東尾修監督率いる西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBのニューヨーク・メッツに移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "開幕直前に日本ハムとの交換トレードで野口寿浩を放出し、のちに選手会長となる城石憲之を獲得。同年、高卒新人の五十嵐亮太を擁し、球団史上初のファーム日本選手権制覇を達成した。しかし、一軍は巨人との開幕3連戦3連敗もあって、シーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人ライル・ムートンやマーク・エーカー、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "先発陣(石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎)が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の高木晃次がプロ入り初の規定投球回数に到達 してチームの日本人最多の9勝を、新外国人のジェイソン・ハッカミーがチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人のロベルト・ペタジーニが44本塁打を放ち、本塁打王を獲得、オリックスからトレードで来た高橋智が復活をアピールし、主に守備要員だった佐藤真一が突然の打撃開眼でチームを牽引。また、プロ3年目の岩村明憲の成長など、明るい話題もあった。なお、長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "石井一久がシーズン最終登板で中日の山本昌を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続の4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、高木、山部等一軍実績のあるメンバーや新外国人アラン・ニューマン、ジョナサン・ハーストらの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の入来智とオリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された島田直也がチーム2位の53試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は真中満、宮本慎也、稲葉篤紀、岩村明憲、アレックス・ラミレス、土橋勝征)が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に...あのぉ、おめでとうございます!」と言い間違え、球史に残る名言となった。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。近鉄自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。オフに石井一が大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "この年のセ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし、各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "このような経緯があったのか、翌年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、プレーオフで優勝を決定する方式は勝率が最も高い球団の勝利数が勝率が2番目に高い球団を下回った場合のみ開催される規定に変更された上で2007年のクライマックスシリーズ導入まで存在した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "この年は21世紀最初のペナントレースだったので、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ優勝・日本一球団」となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ新人王に、石井弘寿が69試合に登板し最優秀中継ぎ投手に選出された。また、前年に途中入団したケビン・ホッジスが最多勝を獲得した。黄金時代を支えた池山隆寛はこの年限りで引退。オフにペタジーニが巨人に移籍した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "シーズン前に西武を自由契約となっていた鈴木健を獲得。高津臣吾が佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。また、来日3年目のアレックス・ラミレスが本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だったグレッグ・ラロッカも獲得するなど、積極補強に動いた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "この年までに入団した現役選手は石川雅規・青木宣親の2人。青木はMLBに移籍した後に復帰したため、球団名に「東京」がつく前からの生え抜き選手は石川だけである。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2005年12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」への球団名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "前年同様、リック・ガトームソンがノーヒットノーランを達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果は3位となり、2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において東京六大学選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。オフに岩村がタンパベイ・デビルレイズ(当時)へ移籍。ガトームソンがソフトバンク、ラロッカがオリックスへ移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "五十嵐亮太、石井弘寿の「#ロケットボーイズ」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、ディッキー・ゴンザレス、アダム・リグス、高津臣吾などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が首位打者、アレックス・ラミレスが打点王・最多安打、セス・グライシンガーが最多勝投手になるが、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から東京のUHF、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、伊東昭光も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は高田繁、一軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方、選手では打点王・最多安打のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人、石井一久がFAで西武に移籍。石井の人的補償として福地寿樹を獲得。年明けには藤井秀悟を交換要員とする3対3トレードを日本ハムと行い、押本健彦、川島慶三らを獲得した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "前年チーム勝利数1位グライシンガー(16勝)、2位石井一久(9勝)、3位藤井秀悟(7勝)が軒並み移籍し、残った選手の勝ち星が4勝以下だった事もあり不安視されたが、巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立った。しかし、石川雅規、館山昌平に続く先発が不在となる。野手では福地寿樹や飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じたアーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され、5位に終わった。しかし、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に林昌勇、押本健彦が活躍し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった松岡健一が転向し、結果を残すなど、整備が進んだ。オフに長打補強のため、ジェイミー・デントナ、中日を自由契約となった森岡良介、ソフトバンクを自由契約となった吉本亮を獲得し、オリックスを自由契約となった田中祐貴と育成契約を結び、横浜からFA宣言した相川亮二を獲得(ヤクルトでは初のFA獲得)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "序盤から2位をキープし、5月11日に田中祐貴を支配下選手に復帰させ、前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた田中浩康や飯原、宮本、川島慶三といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど、厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ、5位に転落した。しかし、高木啓充や鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、2006年以来3年ぶりのAクラス入りで初のクライマックス・シリーズ進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて初の勝率5割未満のCS出場チームとなっている。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "中日とのクライマックス・シリーズ第1ステージでは第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、新型インフルエンザにより、選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフに阪神からFA宣言した藤本敦士を獲得。五十嵐亮太がニューヨーク・メッツにFA移籍。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の東京ドームで勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦をもって高田が辞任、ヘッドコーチの小川淳司が監督代行として指揮をとることになった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "※2010年の監督代行時代も含める。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "6月に打線の補強としてジョシュ・ホワイトセル、トレードではリリーフ陣の補強として渡辺恒樹や山岸穣を獲得。小川体制になってからは野手陣と投手陣共に奮起し、徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月に10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対横浜ベイスターズ戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位に終わり、CS進出はならなかったが、成績は72勝68敗4分けと2004年以来6年ぶりに勝ち越した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "この年はリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越している。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "東日本大震災の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後はウラディミール・バレンティンや畠山和洋などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも、9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越した。しかし、バレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し、2位に後退したため、最終的には70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で2001年以来10年ぶりのリーグ優勝を逃した。クライマックスシリーズファーストステージで巨人に2勝1敗で勝利、球団初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。石井弘寿が現役を引退した。バレンティンが本塁打王を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1月17日に青木宣親がポスティングシステムでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し首位タイとすると、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れて、チーム39年ぶりとなる10連敗を記録するなど 9勝15敗の最下位に終わり巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位確定とし2年連続のクライマックスシリーズ出場を決めている。クライマックスシリーズファーストステージでは、中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏にトニ・ブランコに満塁本塁打を打たれて逆転され、1勝2敗で敗退した。福地寿樹、宮出隆自が現役を引退し、林昌勇が退団した。5月4日に宮本慎也が通算2000本安打を達成した。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。オフに元楽天の岩村明憲が7年ぶりに復帰。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "神宮球場では31勝32敗1分だったが、5月以降は最下位に低迷し、ビジターでは26勝51敗3分と大きく負け越した。特にバレンティン以外の野手で規定打席到達者が出ないなど、野手陣の不調・故障が響いた。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、2010年以来3年ぶりのBクラスが確定し、続く10月1日の対巨人戦(神宮)で1対0で敗れ、2007年以来6年ぶりの最下位が決定した。宮本慎也、藤本敦士が現役を引退した。バレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど、本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得。投手では新人の小川泰弘が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "終盤まで最下位に低迷し、9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明、9月29日の対広島戦(マツダスタジアム)に敗れ、2年連続最下位が決定した。打撃陣は規定打席に到達して3割2桁本塁打を達成した選手を5人(山田哲人、雄平、畠山和洋、川端慎吾、バレンティン)擁し、チーム打率・得点数はリーグトップだった反面、規定投球回に到達した投手はリーグ防御率最下位の石川雅規のみであり、チーム防御率・失点数は最下位だった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの真中満の就任が発表された。群馬ダイヤモンドペガサスに所属していたラミレスが現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "オフに相川亮二が読売ジャイアンツにFA移籍。2年続けて最下位に陥った低迷から脱却するため、大型補強を敢行した。千葉ロッテマリーンズからFA宣言した成瀬善久、北海道日本ハムファイターズからFA宣言した大引啓次、メジャーリーガーのローガン・オンドルーセック、読売ジャイアンツにFA移籍した相川の人的補償として奥村展征を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "開幕後はプロ野球記録となる14試合連続3失点以下を達成するなど、投手陣が好調だったこともあり、一時は首位に立ったが、5月に入ると9連敗を喫し、最下位に転落した。バレンティンやラスティングス・ミレッジら主軸選手の怪我もあり、5月22日にミッチ・デニング(新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ)と基本合意した。前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした。後半戦突入後は阪神・巨人とのデッドヒートの末、9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利し、2012年以来3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決め、9月27日の対巨人戦に勝利し、優勝へのマジックナンバー「3」を点灯させた。そして10月2日の対阪神戦(神宮球場)に2-1で勝利し、2001年以来14年ぶりかつ球団名が現在のものになってから7回目のリーグ優勝を果たした。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の大阪近鉄バファローズ以来となった。また、巨人と中日以外のチームがリーグ優勝を果たすのは2005年の阪神以来10年ぶりである(2006年から2015年の間は中日と巨人がリーグ優勝をしていた)。バーネットが自身2度目となる最多セーブ投手、川端慎吾が首位打者と最多安打、山田哲人が本塁打王と盗塁王と最高出塁率、畠山和洋が打点王のタイトルを獲得し、山田は史上9人目となるトリプルスリーも達成した。なお打撃三部門をヤクルトの選手が独占したが、過去には三冠王や二冠王+他の同僚選手が一冠はあるものの、「同一チームの異なる3選手で打撃タイトル三部門を一冠ずつを獲得」は、今回のヤクルトが史上初である。クライマックスシリーズでも4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)にて巨人を下して14年ぶりの日本シリーズ進出が決定。日本シリーズでは福岡ソフトバンクホークスと対戦する中、第5戦で行われた引退試合を最後に松元ユウイチが現役を引退した。その後、5戦全て先発投手が5イニング持たずに1勝4敗で敗退して2001年以来の日本一を逃した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "オフにオリックス・バファローズを自由契約となった坂口智隆、北海道日本ハムファイターズを自由契約となった鵜久森淳志を獲得。バーネットがテキサス・レンジャーズに移籍。由規が肩の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝の勝利チームを予想し、賭け金を集め、予想の当たったものに分配していたことが発覚した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "チームは主砲のバレンティンを欠いたことが響き、2007年以来9年ぶりの開幕4連敗を喫した。以降もドラフト1位ルーキーの原樹理が右肩甲下筋肉離れ、エースの石川が左脹脛痛、館山も右肘の手術と投手陣だけでなく、山田が左第八肋骨骨挫傷、昨年首位打者の川端が右足舟状骨骨折、打点王の畠山も左手首痛、雄平が左脇腹痛、大引も腰痛で離脱と昨年にはなかった主軸の故障者が続出したことで、下位に低迷した。6月26日の中日戦では守護神・オンドルセクが守備固めで入っていた比屋根渉のミスで同点に追い付かれたことに対し、降板後に暴言を吐き、謹慎処分が下された事が引き金となって7月21日に退団し、更なる苦境に陥った。低迷するチーム状況の中、5月30日に新外国人としてジェフンを獲得し、7月5日に由規を支配下選手に復帰させ、17日にオリックスから八木亮祐とのトレードで近藤一樹を獲得し、テコ入れを図り、由規が24日の対中日戦で1786日ぶりの勝利を挙げた。9月19日にDeNAが勝利したことで、Bクラスと5位が確定した。山田が2年連続のトリプルスリーを獲得したものの、投手陣はチーム防御率4.73(5位DeNAと約1点差)、失点694(5位DeNAと106点差)とセ・リーグ最下位、1970年以来の2桁勝利投手ゼロと不名誉な記録を残した。森岡良介が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "オフに田中浩康が自由契約となった(DeNAに移籍)。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "前年と同じく川端、畠山、バレンティン、中村悠平、小川、秋吉亮、雄平、大引らチームの主力級に故障が相次ぎ、交流戦から終盤にかけて最下位に低迷。5月30日のオリックス・バファローズ戦から6月10日の千葉ロッテマリーンズ戦まで10連敗、7月1日の阪神戦から7月21日の阪神戦まで14連敗を喫した。前半戦だけで二度の10連敗以上の大型連敗を喫し、これは1956年の高橋ユニオンズ以来61年ぶりであった。7月26日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)で史上4度目、セントラル・リーグでは66年ぶりとなる最大10点差(延長10回)をひっくり返しての逆転勝利を収めるも、記録的な低迷は続き、最終的には球団ワースト記録を更新する96敗を喫し、2014年以来3年ぶりの最下位が決定した。また、チーム打率・得点・本塁打もリーグ最下位に終わった。真中監督が辞任し、後任監督として2014年まで指揮を執った小川淳司が復帰することになった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2月7日に元メジャーリーガーの青木宣親が7年ぶりに復帰。序盤は苦戦したものの、交流戦開始頃から巻き返し、6月17日の日本ハム戦に勝利して初めて交流戦最高勝率を決めた。過去2年は怪我人に泣かされたが、大きな故障者も出ず、後半戦でもAクラスを維持し、10月1日に3年ぶりとなる3位以内とCS進出が決定した。2日のDeNA戦に3-2で勝利して2位が確定し、神宮球場でのCS開催権を得た。しかし、迎えたCSでは巨人に2連敗し、2015年以来3年ぶりの日本シリーズ進出はならなかった。松岡健一、武内晋一、山本哲哉、鵜久森淳志が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "オフに成瀬善久が自由契約となった(オリックスに移籍)。ソフトバンクを自由契約となった寺原隼人を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1月30日にソフトバンクを自由契約となった五十嵐亮太が10年ぶりに復帰。4月26日と5月26日に青木宣親、山田哲人、バレンティンによる同シーズン2度の三者連続本塁打を記録したが、5月14日から6月1日にかけてリーグワーストに並ぶ16連敗を喫する など、序盤から苦しんだ。シーズンを通しては山田哲人、村上宗隆、バレンティンの3人が30本塁打以上を記録したが、投手陣が苦しんだこともあり、前年の2位から一転して借金23の最下位に沈んだ。小川淳司監督の辞任が決定し、宮本慎也ヘッドコーチの辞任も発表され、次期監督には二軍監督を務めていた高津臣吾(2022年からは「髙津臣吾」表記)が就任することとなった。村上宗隆は高卒2年目ながら36本塁打96打点を記録し、新人王のタイトルを獲得、10代におけるシーズン最多本塁打を更新、中西太が1953年に記録した高卒2年目以内の最多本塁打に並んだ。ドラフトでは目玉であった星稜高校の奥川恭伸を3球団競合の末に交渉権を獲得した。また、メジャー通算1367安打、14年は青木と同僚で15年には遊撃手としてゴールドグラブ賞を受賞したアルシデス・エスコバー、楽天を退団した嶋基宏、今野龍太、ソフトバンクとの再契約を保留していた長谷川宙輝を支配下選手として獲得。9年間在籍して主軸を張ってきたバレンティンがソフトバンクに移籍。館山昌平、畠山和洋、三輪正義、寺原隼人が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス感染拡大の影響で3月20日に予定されていたプロ野球の開幕は延期されることになり、6月19日に無観客試合で開幕した。序盤は上位争いを展開していたが、徐々に失速していった。10月14日のDeNA戦からベンチ担当の斎藤隆投手コーチとブルペン担当の石井弘寿投手コーチを入れ替えるなどしたが、2年連続最下位に終わった。五十嵐亮太、中澤雅人、井野卓が現役を引退した。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "オフに風張蓮、近藤一樹が自由契約となった(風張はDeNA、近藤は香川オリーブガイナーズに移籍)。長打力不足による貧打解消のため、前パイレーツのホセ・オスナ、前インディアンスのドミンゴ・サンタナ、ソフトバンクを退団した内川聖一を獲得。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "開幕からサンタナ・オスナ二人を欠いたことが響き、開幕3連敗スタート、4戦目に初勝利上げた翌日に青木・川端を中心とした主力選手のコロナウイルスの離脱など出だしは苦難のスタートだったが、サンタナ・オスナ加入後のチームは投打ともに充実した成績を残し、最大7ゲーム差をつけられた阪神を追い抜き10月26日に6年ぶりのリーグ優勝。CSは読売ジャイアンツ相手に勝利し、6年ぶりの日本シリーズに出場。シリーズはオリックス相手に全6試合2点差以内の接戦の中、4勝2敗で制し、2001年以来20年ぶりかつ球団名が現在のものになってから6回目の日本一を達成し、最高の結果でシーズンを終えた。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "セ・リーグ初の交流戦完全優勝と29年ぶりとなるセ・リーグ連覇を達成。村上がシーズンを通して圧倒的な成績を残し、9月13日には日本選手最多タイとなるシーズン55本塁打を記録した。村上は最終的に日本選手単独最多56本塁打を放ち、打撃三部門すべてのタイトルを獲得し令和初の三冠王となった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "CSは阪神をスイープ(3戦全勝)して2年連続で日本シリーズに進出した。日本シリーズは前年と同様、オリックスとの顔合わせとなり、神宮での第1戦、京セラドーム大阪での第3戦は勝利し、第2戦も3点ビハインドの9回に内山が同点の3ランホームランで追いつき引き分けたが、シリーズを通して前年の日本シリーズは全て青木が務めていた2番が固定出来ず.174。村上の前を打つ3番がノーヒットだったのと抑えのマクガフが第5戦と第6戦で悪送球を犯して足を引っ張り、その村上も.192と低調で第4戦と第6戦は完封負け。第5戦はマクガフが吉田正尚にサヨナラの2ランホームランを浴び、第7戦は先発のサイスニードが1番に入った太田椋に日本シリーズ史上初の初球先頭打者本塁打を浴びると、5回2アウト満塁のピンチでは吉田正に押し出しのデッドボールを与えたのに続き、杉本裕太郎の放った打球をセンターの塩見(シーズンは2エラー)が後ろに逸らすミスを犯してしまい、走者一掃の3点タイムリーエラーとなってこれが致命傷となった。8回には村上のタイムリーとオスナのホームランで1点差に詰め寄るも4-5で4連敗を喫し、2勝4敗1分けで初の連続日本一とはならなかった。そのオスナも、2勝1分だった第3戦までは13打数8安打と当たっていたのが4連敗を喫した第4戦以降は17打数3安打とブレーキになってしまった。", "title": "球団の歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "いずれも名球会メンバー", "title": "チーム成績・記録" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "名球会創設メンバーだが、その後退会状態となった", "title": "チーム成績・記録" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "名球会メンバー", "title": "チーム成績・記録" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "日本人シーズンホームラン記録", "title": "チーム成績・記録" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "・村上宗隆56本(2022年) NPBにおけるアジア人打者・左打者としてのシーズン記録", "title": "チーム成績・記録" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「つばめ」号に由来する。球団旗には、列車のヘッドマーク等に使われていた「つばめマーク」を採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。スポーツ新聞の見出しでも「燕」あるいは「ツバメ」と書かれる事もある。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ペットマークは、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2013年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在さだまさし(歌手)と出川哲朗(ピン芸人)と村上春樹(作家)が芸能人枠として「SWALLOWS CREW名誉会員」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2012年から、東京ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で「GSDBプロジェクト」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "本拠地の神宮球場が大学野球最優先でスケジュールを組んでいる関係で、かつては広島と並んで地方開催がセ・リーグで最も多かった。特にセ・パ交流戦導入以前は日本全国といって良いほど各地で試合を行っていたが、日本ハムの札幌移転や仙台を本拠とする楽天の新規参入といったパ・リーグ加盟チームの地方分散化、さらには交流戦開始などの影響もあり2000年代後半以降は他球団同様、地方開催を縮小する傾向にあり、現状では年間で4 - 5試合に抑えられている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "なお、2020年は、東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定で、他に松山の2試合と合わせて地方開催を13試合行う予定としていたが、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、東京ドームでの主催試合開催分は全て神宮球場での開催に変更になった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "2021年は、延期になった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である東京ドームで初の主催試合を8月下旬から9月上旬にかけて6試合を行い、他に松山の2試合及び静岡での2試合と合わせて地方開催を10試合行う。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "地方開催の中でも特に開催の機会が多い球場として、秋田県立野球場(こまちスタジアム)、福島県営あづま球場、静岡県草薙総合運動場硬式野球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等が挙げられ、年次によっては同一球場で2試合が組まれることがある。このうち松山は秋季キャンプで使用している縁から、基本的に毎年2試合組まれており(2019年・2023年は1試合のみ)、特に2013年は3試合が組まれた。これらの球場では交流戦開始前にはなかった対巨人戦も行われるようになり、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合 と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合 の巨人戦が地方開催が行われている(2021年も松山で2試合を開催)。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "かつてはロッテの本拠地である千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)でも東京六大学野球(早慶戦)が行われる毎年5月下旬に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は同球場を本拠地とするロッテ主催の交流戦に切り替えられて、ヤクルト主催では実施されていない。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "この地方開催の多さもあってか、他チーム主催の地方開催試合で相性の良さを発揮することもある。例えば富山アルペンスタジアムで開催される巨人・中日主催試合では2016年9月現在8戦6勝2分けと負けがない。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "1970年代から2002年(平成14年)までのほぼ毎年、球団オーナー松園尚巳の出身地である長崎県での公式試合が開催されていた。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)ドラフト1位で入団した松園と同じ長崎出身の酒井圭一を当時球団最高額の契約金3,000万で契約、しかし松園は「酒井はゴールデンルーキーだ。手取りで3,000万円にできないものか」の鶴の一声で、800万円上乗せされた。さらに長崎市内のホテルで行われた酒井のためだけの入団発表には、松園オーナーも同席。その後、異例のパーティーまで開かれ、当時の長崎県知事ら県内の政財界の大物まで出席した。費用の200万円も球団が負担した。松園は翌1977年(昭和52年)、地元紙長崎新聞の社長に就任。1988年(昭和63年)に退任するが、その翌年の1989年(平成元年)、長崎県民放テレビ第3局長崎文化放送(NCC)の初代代表取締役会長に就任。長崎文化放送は長崎新聞主導で設立され、ヤクルトスワローズの放送権を持っているテレビ朝日系列フルネット局となった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "一方、長崎出身の歌手さだまさしは巨人・長嶋茂雄の大ファンだったが、1980年(昭和55年)に長嶋が巨人監督を解任されると同郷の松園と親交が深かったこともありヤクルトファンに転向。選手の長崎遠征時には名物の卓袱料理でもてなすなどしている。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)に開場した長崎県営野球場で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド負けとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、またヤクルト本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない。2009年(平成21年)、7年ぶりに長崎で試合を行ったがこの試合は巨人主催のビジターゲームだった。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "神宮球場は学生野球を最優先とするため、学生がデーゲームを基本とする以上、プロの試合はナイトゲームを原則とせざるを得ない。しかし、東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)直後には学生との調整を行って、神宮球場でデーゲームを行った例もある。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "地震発生直後の2011年3月、セ・リーグは一旦は3月25日に開幕させる決定をした。この時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デーゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した。その後神宮を主会場とする東京六大学・東都の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日 - 4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。", "title": "チームの特徴" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "国鉄の列車「つばめ号」のヘッドマークに使われていた「つばめマーク」を使用。", "title": "球団旗の変遷" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "当時の親会社、産経新聞社の社旗(橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。", "title": "球団旗の変遷" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2023年シーズン現在、下記6社がトップスポンサー契約締結している。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている新潟県燕市と、燕市に本社を置くツインバード(家電)、和平フレイズ(調理器具)、エコー金属(日用品金属加工)、北越工業(重機械)、燕食品(食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。(詳細後述)", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2006年、オフィシャルスポンサーとなったユニデンがホームユニフォーム左胸、カカクコムがヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "「TOKYO」ロゴのサードユニフォームを巨人との「TOKYOシリーズ」のビジターゲームで着用する際には、2020年は規定に配慮して広告をユニフォームと同素材の当て布で隠していたが、時折はがれることがあったため、2021年は別に広告がないものを作成した。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "※太字はリーグ優勝、◎は日本一", "title": "歴代監督" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "球団として公認された永久欠番は2015年現在ない。他に欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きまたはフリーエージェントで獲得した選手で、かつ対象者に推薦が必要とされる。", "title": "永久欠番" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "スワローズで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは金田正一のみである。また、金田が史上2人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている", "title": "沢村栄治賞受賞者" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "スワローズでの投手三冠王の達成者は1人。", "title": "三冠王(投手・打者)" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "スワローズでの三冠王の達成者は1人。", "title": "三冠王(投手・打者)" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。", "title": "最優秀選手受賞者(複数回)" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "スワローズの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。", "title": "最優秀選手受賞者(複数回)" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "2016年現在、球団公式サイトには応援ソングとして「We Are The Swallows」のみが掲載されている。", "title": "主な歴代の球団歌・応援歌" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "1962年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が、包括的な放映権契約を独占で結んでいた日本テレビ放送網しか与えられていなかった ため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "なお、国鉄球団がフジサンケイグループの後援を受け入れるにあたっては、後楽園の放映権の絡みから、神宮球場に隣接する神宮第2球場をフジサンケイグループ主導で建て替えて専用球場とする計画をしていたが、日本学生野球協会などからの反対意見や、明治神宮も第2球場をアマチュア専用球場にしたい意向もあったためか、第2球場ではなく学生野球との日程調整をし、それを優先させる形で主球場への移転を認めたという経緯がある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業である。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなった。一方でニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(当時)(旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっていたが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示していた。その後、保有していた両球団の株式はニッポン放送とフジテレビの持株会社化でフジ・メディア・ホールディングスへと移転したが、ベイスターズの株式については2012年以降同球団の親会社となったディー・エヌ・エーに2016年までに売却したため、ようやく長年の問題が解決した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "フジテレビONE(フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全試合(セ・パ交流戦含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していたスカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTSで、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である八峯テレビ(現・フジ・メディア・テクノロジー)との協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主催・主管の全試合を「スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き」にて放送していた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "また、CSが普及する前は、巨人戦をフジテレビとテレビ朝日(水・日曜を中心に、まれに金・土曜も)が放送していた。それ以外のカードは地方開催を中心とした一部のデーゲームをフジテレビとテレビ朝日を中心に、まれにテレビ東京で、巨人戦裏カードの全国中継ナイターはテレビ朝日(主に水 - 金曜日)が西武ライオンズ戦と同様の扱いで平日を中心に年度によっては相当数を放送した、一方フジテレビは優勝争いがかかった時を中心に放送し、テレビ東京も年度により放送していたが、いずれも散発的なものだった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "その一方独立局ではテレビ神奈川が随時『TVKハイアップナイター』として、特に大洋との対戦(どちらの主催を問わず)を中心に、大洋戦の放送がない時も他カードを併せる形で年数十試合を放送し、特に対阪神戦はサンテレビやKBS京都にネットすることがあった。またCSテレビが放送ではなく通信(配信)であった1990年代のごく一時期ではあるが、朝日ニュースター(当時は朝日新聞社主導経営。現テレ朝チャンネル2)でごく数試合、テレビ朝日協力によるヤクルト戦の中継をケーブルテレビ向けに配信したことがあった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "さらに1967年からごく数年間、当時独立局 で経営難にあえいでいた東京12ch(現・テレビ東京)が全日放送に復帰するにあたり、番組ソフト不足解消の一環として、フジテレビから放映権を譲渡する形(ただし、制作主体は東京12chが行い、CXは制作協力だった)を取って、巨人戦以外のヤクルト主催・主管試合を東京12chから放送したこともあった。この時も球団資本の関係で、解説者とアナウンサーはCXからの派遣で賄っていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "1974年まではTBSが優先権を持っていた大洋主催・主管試合とフジテレビのサンケイ→ヤクルト主催・主管試合の放送権の一部とを交換する形で、大洋戦の優先権がNETテレビ(現:テレビ朝日)に移動した1975年にはNET系からネットチェンジした直後の毎日放送が保有していた阪神主催試合の権利の一部と交換する形(当時TBSが編成していなかった金曜日の対巨人戦を関西テレビと交換)で、TBSテレビもヤクルト主催・主管試合を水曜・日曜の対巨人戦を中心に放送していた。また神宮球場への移転でフジテレビに優先権が移った後も、1960年代にはフジテレビ・TBS・NETテレビのいずれも中継できない場合に限り日本テレビが対巨人戦を散発的に中継した例がある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、横浜公園平和野球場 で行われた対中日戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "そのため公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ 初優勝!! 29年間ご支援ありがとうございました」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。それまで当時のセ・パ12球団中、唯一優勝経験がなかったため、その原因を「鉄腕アトムの呪い」という者も多かったが、圧倒的な9-0のリードで迎えた9回一死一塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "決定の瞬間、選手らが一塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "2人のリリーフ投手五十嵐亮太と石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名をとどろかせた。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められたものである。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "もともとリリーフエースの高津臣吾へつなぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAでシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42セーブポイントを挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "しかし、2009年に五十嵐がFAで大リーグのニューヨーク・メッツに移籍したことに伴い、ロケットボーイズはコンビ解消となった。2011年に石井が現役を引退し、二軍コーチに就任。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "2018年、五十嵐が日本球界復帰後に在籍をしていたソフトバンクから戦力外通告を受けたことで、2019年春にヤクルト復帰が決まった。当時石井は一軍投手コーチであったため、選手とコーチの関係ではあるが、ロケットボーイズは10年ぶりに復活を果たした。翌2020年をもって五十嵐が現役を引退したことで、再びコンビ解消となった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、かつ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。なお、これらの企業との契約は古田退任後に解消されたものも多く、東京都民銀行に至っては巨人の本拠地である東京ドームでの広告掲載に切り替えている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズの4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区、港区、渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である東京ドームと比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟、東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。学生野球がシーズンオフになっている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。更にこれまで、暑さ対策のため自発的にデーゲームの開催を見合わせてきた8月についても2013年以後、一部の週末開催で、17時開始の薄暮デーゲーム(準ナイター)として行う試合もある(2018年は6月30日と7月1日のみ)。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグのFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また、同年9月にはbjリーグの東京アパッチ とも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・大井競馬場による3者共同キャンペーンも行なっている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終えたが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示しており、F-Projectで行われていた日替わりのデーイベントは同年以降も継続して実施している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "2007年7月11日の対広島東洋カープ戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)の本塁打を放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラ本塁打でスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、出場した宮本慎也等が「バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響した」と後に証言している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "ヤクルトは2009年6月14日の対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "2-2の同点で迎えたこの回、先頭の青木宣親が中前安打したのを皮切りに、アーロン・ガイエル、飯原誉士の連打で勝ち越しに成功。さらに宮本慎也の三塁線への犠打が内野安打となり、その後田中浩康まで9者連続で単打を放って計6点を挙げ、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに再び打席が回った青木の四球を挟んで、続くガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で千葉ロッテマリーンズが3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原が二塁打を放って記録を11に更新した。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦(明治神宮野球場)の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメのギネス打線です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、ギネス・ワールド・レコーズ社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対読売ジャイアンツ10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "なお前述の通り、ヤクルトはこの記録達成と同時に四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打のタイ記録も達成しているが、こちらは翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "5回表の詳細", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市の宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。また、ヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、あくまでも東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名などの誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発し、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事で、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "2009年9月から、新潟県と新潟市がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年7月1日に開場した新潟県立野球場(HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を得たことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げていたが、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2011年末現在)。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "新潟県は毎年9月に神宮球場でのヤクルト公式戦で日替わりのデーイベント「うまさぎっしり新潟Day」を開催しており、当日は泉田裕彦新潟県知事が観光PRを行っている他、始球式にも登板している。前述の経緯から泉田は2009年以降、新潟Day開催の折にヤクルト球団幹部に新潟での公式戦開催を要請しているが、球団側は2年連続で態度を留保していた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "その一方で、新潟市に隣接する燕市は同じ「つばめ」という縁から、2011年シーズンからヤクルト球団と交流・連携協定を締結し、2012年度以後も継続して展開している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "その内容としては、燕市民(同市在住・在学・在勤者)を対象としたコメの田植・稲刈りや、少年野球教室などのイベントに、球団マスコットのつば九郎や、試合出場機会の少ない若手・育成選手、球団OBを派遣することや、神宮で行われるスワローズ主管全試合においての「燕市ヒーロー賞」(マン・オブ・ザ・マッチ相当)に選ばれた選手に対して、同市に本社などを置く上掲協賛各企業・団体からの商品の贈呈(燕市産の金属製洋食器セットや協賛企業の製品)など様々なコラボレーションを展開している。また上掲協賛各社は球団のオフィシャルスポンサーとして支援を行っている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "なお、ヤクルト球団では同球場で初の主催公式戦として、2012年9月8日・9月9日に対読売ジャイアンツ2連戦を開催した(ヤクルト球団と新潟総合テレビが共同で主催、新潟市、燕市など共催)。ヤクルトが新潟県内で主催公式戦を開催するのは1991年以来、21年ぶりのことであった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "なお、ヤクルト球団に在籍した事がある新潟県出身のプロ野球選手は、渡辺保、大滝信孝、黒坂幸夫、川村一明、青島健太、本間忠、鈴木裕太の7人である。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "2022年現在二軍の本拠地となっているヤクルト戸田球場は、元々河川敷ということで大雨による浸水などの問題を抱えている上に、施設の老朽化が進んでいる。また隣接する選手寮・室内練習場などは現代の基準ではやや手狭となってきており、敷地の都合上現在地でのこれ以上の拡張も難しいことから、ヤクルトの株主からは移転を求める声があった。球団では2021年時点では、戸田での施設整備を進める方針としていたが、内々に二軍本拠地の移転も含めて検討を行っていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "これに対し、茨城県守谷市が二軍施設を誘致する意向を表明したため、球団と守谷市では常総運動公園の敷地を実質拡大させ、新球場・サブグラウンド・選手寮等を建設し二軍本拠地を移転する方向で2022年4月に協議を開始。2023年11月には球団・ヤクルト本社・守谷市・茨城県の四者による基本協定を締結した。新しい二軍本拠地は、2027年より供用を開始する予定としている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "2015年は2001年以来、14年ぶりのセントラル・リーグ優勝を果たした。この年は破壊力ある強力打線が存在感をみせ、優勝の大きな原動力となった。なかでも、シーズン中盤から固定された2番川端慎吾、3番山田哲人、4番畠山和洋の活躍が大きく、川端は首位打者と最多安打を、山田は本塁打王と盗塁王、最高出塁率を、畠山は打点王を獲得し、プロ野球では11年ぶりに同一チームで打撃タイトルを独占した。また、打率(首位打者)打点(打点王)本塁打(本塁打王)の打撃タイトル主要3部門を同一チームの3人の選手で分け合うのはプロ野球史上初。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "2019年4月26日の対読売ジャイアンツ戦で菅野智之から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティンが三者連続本塁打を放った。4月30日から翌5月1日に当時の今上天皇から皇太子への皇位継承が行われたことで、平成から令和へ改元がなされたため、これが「平成最後の三者連続本塁打」となった。その試合から1ヵ月後の2019年5月26日の対中日ドラゴンズ戦で清水達也から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティン、同シーズン2度目となる三者連続本塁打を放った。これが改元後初めての三者連続本塁打であるため、「令和最初の三者連続本塁打」となった。したがって「平成最後」と「令和最初」の両方を青木・山田・バレンティンの3人で記録した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "2022年6月26日の対読売ジャイアンツ戦に勝利し、11球団を相手に連続して同一カード勝ち越しを達成した。この記録を達成するためには交流戦で全カード勝ち越しが必要である。2011年にソフトバンクホークスが交流戦でセリーグ全チームから勝ち越しを達成しているが、交流戦明けに日本ハムファイターズに負け越して達成できなかった。", "title": "エピソード" } ]
東京ヤクルトスワローズは、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。 東京都を保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場を使用している。 1950年のリーグ分裂時に日本国有鉄道にちなんで国鉄スワローズとして発足され、その後親会社が産経新聞社→ヤクルトと変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
{{野球チーム | ページ名 = 東京ヤクルトスワローズ | チーム名 = 東京ヤクルトスワローズ | 英語表記 = Tokyo Yakult Swallows | 会社名 = 株式会社ヤクルト球団 | 加盟団体 = [[セントラル・リーグ]] | 創設年度 = {{start date and age|1950|1|12}} | ロゴデザイン = [[File:Tokyo Yakult Swallows insignia.svg|150px|]] | チーム名の遍歴 = * 国鉄スワローズ(1950年 - 1965年5月9日) * サンケイスワローズ(1965年5月10日 - 同年末) * サンケイアトムズ(1966年 - 1968年) * アトムズ(1969年) * ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年) * ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年) * 東京ヤクルトスワローズ(2006年 - 現在) | フランチャイズの遍歴 = * 東京都(1952年 - 現在) | 本拠地 = [[明治神宮野球場]]([[東京都]][[新宿区]])[[File:Meiji Jingu Stadium 20190601.jpg|center|270px]] | キャパ = 31,805人(明治神宮野球場) | 永久欠番 = なし | オーナー = [[成田裕]]<br/>(オーナー代行:[[衣笠剛]]) | スポンサー = [[ヤクルト本社]] | 球団社長 = [[林田哲哉]] | GM = [[小川淳司]] | 監督 = [[高津臣吾|髙津臣吾]] | 選手会長 = [[小川泰弘]] | キャプテン = [[山田哲人]] | マスコット=[[つば九郎]]、[[つばみ]] | リーグ優勝回数 = 9 | リーグ優勝 = * [[1978年の野球|1978]] * [[1992年の野球|1992]] * [[1993年の野球|1993]] * [[1995年の野球|1995]] * [[1997年の野球|1997]] * [[2001年の野球|2001]] * [[2015年の野球|2015]] * [[2021年の野球|2021]] * [[2022年の野球|2022]] | 日本一回数 = 6 | 日本一 = * [[1978年の日本シリーズ|1978]] * [[1993年の日本シリーズ|1993]] * [[1995年の日本シリーズ|1995]] * [[1997年の日本シリーズ|1997]] * [[2001年の日本シリーズ|2001]] * [[2021年の日本シリーズ|2021]] | 交流戦優勝回数= 2 | 交流戦優勝 = * [[2018年の野球|2018]] * [[2022年の野球|2022]] | シリーズ出場回数 = 9 | シリーズ出場 = 6勝3敗 * '''[[1978年の日本シリーズ|1978]]''' * [[1992年の日本シリーズ|1992]] * '''[[1993年の日本シリーズ|1993]]''' * '''[[1995年の日本シリーズ|1995]]''' * '''[[1997年の日本シリーズ|1997]]''' * '''[[2001年の日本シリーズ|2001]]''' * [[2015年の日本シリーズ|2015]] * '''[[2021年の日本シリーズ|2021]]''' * [[2022年の日本シリーズ|2022]] |クライマックスシリーズ回数 = 7 |クライマックスシリーズ = 3勝4敗 * ''[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2009]]'' * [[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2011]] * ''[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2012]]'' * '''[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2015]]''' * ''[[2018年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2018]]'' * '''[[2021年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2021]]''' * '''[[2022年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|2022]]''' }} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社ヤクルト球団 | 英文社名 = Tokyo Yakult Swallows | ロゴ = | 画像 = | 画像説明 = | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = | 本社所在地 = [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[北青山]]二丁目12番28号 青山ビル4階 | 国籍 = | 本社郵便番号 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{{Dts|2023-10-25}}<!-- 更新は1ヶ月に1度程度([[PJ:YOUTUBE#チャンネル登録者数・総再生回数の更新に関するガイドライン]]) --> | silver_button = yes | silver_year = 2022 | gold_button = | gold_year = }} '''東京ヤクルトスワローズ'''(とうきょうヤクルトスワローズ、{{Lang-en|Tokyo Yakult Swallows}})は、[[日本]]の[[プロ野球チーム一覧#日本|プロ野球球団]]。[[セントラル・リーグ]]に所属する。 [[東京都]]を[[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、都内[[新宿区]]にある[[明治神宮野球場]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[戸田市]]にある[[ヤクルト戸田球場]]を使用している。 1950年のリーグ分裂時に[[日本国有鉄道]]にちなんで'''国鉄スワローズ'''として発足され、その後親会社が[[産業経済新聞社|産経新聞社]]→[[ヤクルト本社|ヤクルト]]と変遷した。一時期はアトムズの呼称を使用していたが、のちに発足当初のスワローズに戻っている。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。 == 球団の歴史 == === 球団創立 === {{出典の明記|date=2013年8月|section=1}} {{by|1949年}}(昭和24年)オフに[[プロ野球再編問題 (1949年)|リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立]]のあおりを受け、各地の[[日本国有鉄道|国鉄]][[鉄道管理局]](当時)の野球部から[[プロ野球選手|選手]]が引き抜かれる事態が発生した。同年の秋、当時の国鉄総裁[[加賀山之雄]]が「国鉄の新事態に即応して、身近なプロ球団を結成するということは、どんなものだろうか」という発言を行った。新事態とは国鉄がこの年に公共企業体として発足したことを指す。また、未曾有の[[整理解雇|人員整理]]や[[下山事件|下山]]・[[三鷹事件|三鷹]]・[[松川事件|松川]]といった事件([[国鉄三大ミステリー事件]])も相次いで起こっていた。この暗い雰囲気を払拭して職員の士気を昂め、明るい職場づくりのためにスポーツ、特に人気の高い野球に取り組もうとしたものである<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通協力会50年史 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1993-04-01 |page=140 }}</ref>。加賀山が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。 交通協力会理事長の[[今泉秀夫]](後に球団の専務取締役に就任)の草案による国鉄プロ野球団の「設置の効用」は(1)国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする(2)野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し相互の密着感を強化する(3)健全な精神、身体を持つ職員を養成する(4)国鉄部内の[[社会人野球|ノンプロ野球]]の発展を刺激する。<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通協力会50年史 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1993-04-01 |page=141 }}</ref>であった。 しかし、[[運輸業]]とその関連事業以外の副業を禁じた[[日本国有鉄道|日本国有鉄道法]]に抵触するため国鉄が直接親会社になることはできず、国鉄の[[外郭団体]]である財団法人[[交通協力会]](現:公益財団法人交通協力会・株式会社[[交通新聞社]])が主体となり、{{by|1950年}}(昭和25年)1月12日に財団法人[[鉄道弘済会]]、[[日本通運]]、日本交通公社(現:[[日本交通公社 (公益財団法人)|公益財団法人日本交通公社]]・株式会社[[JTB]])などの企業により'''株式会社国鉄球団'''<ref>{{Cite book |和書 |author=徳永喜男 |title=ヤクルトスワローズ球団史 |year=1993 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |pages={{要ページ番号 |date=2015年10月}} |isbn=4583030339 |ref=harv }}</ref>(資料によっては'''国鉄野球株式会社'''となっている物もあり)<ref>{{Cite book |和書 |author=綱島理友|authorlink=綱島理友|title=プロ野球ユニフォーム物語 |year=2005 |publisher=ベースボール・マガジン社 |pages={{要ページ番号 |date=2015年10月}} |isbn=4583038070 }}</ref> を設立。なお、交通協力会が発行する鉄道業界紙である「[[交通新聞]]」では、1950年(昭和25年)1月12日に交通協力会理事長の今泉秀夫がセントラル・リーグに加入申込みを行った<ref>「国鉄でプロ野球団結成 セントラルに参加」『交通新聞』1950年1月14日.1面</ref>ものとされ、同じく交通協力会が発行する「交通年鑑」の「昭和25年交通年譜」では「5月18日 株式会社国鉄球団成立す<ref>{{Cite journal |和書 |title=交通年鑑1951 |publisher=財団法人交通協力会 |date=1951-03-10 |page=35 }}</ref>」とされている。球団名を'''国鉄スワローズ'''(こくてつスワローズ、Kokutetsu Swallows)とし([[#球団名]]も参照のこと)、[[セントラル・リーグ]]に加盟。初代監督には[[西垣徳雄]]が就任。 国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも[[大企業]]である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。本拠地は元[[逓信省]]総裁[[松前重義]]の尽力で、[[武蔵境]]の旧[[中島飛行機]]工場跡地に新しい野球場「[[武蔵野グリーンパーク野球場]]」が建設された(諸事情により1956年〈昭和31年〉閉鎖。7試合しか行われなかった)。 しかし、参入が他新球団より遅れていたため、選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の[[社会人野球|社会人]]や[[日本の大学野球|大学]]などのノンプロ・[[アマチュア野球]]に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は[[第二次世界大戦前]]の一時期[[オリックス・バファローズ|阪急]]に在籍した[[中村栄]]ただ1人という状態だった。アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは全く通用しなかったため、[[松竹ロビンス]]の二軍監督・[[森谷良平]]と、かつて[[奉天満鉄倶楽部]]に在籍していた[[宇佐美一夫]]を追加補強して[[クリーンアップ]]に据えたものの、その後も貧打に悩まされた。 === 国鉄時代 === ; [[1950年の国鉄スワローズ|1950年]]<ref name="swhis50">この年の記述の出典は特記ない場合、ヤクルト球団公式サイトの [http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1950 球団のあゆみ 1950年代] とする</ref> 3月10日の球団初公式戦の対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]戦(下関)に2対1で敗れ、続く11日の対[[広島東洋カープ|広島カープ]]戦<!-- 球団HPのヒストリーでは松山、アーカイブでは平和台となってる為、球場名表記は保留 -->に3対2で球団初勝利を挙げる。しかし、序盤の3月21日から14連敗、4月26日からも10連敗で最下位に沈む。 8月に[[享栄高等学校|享栄商]]の[[金田正一]]が高校を中退して入団し、10月1日にプロ初勝利を挙げるとこの年8勝を挙げ、チームは終盤13連敗の広島に代わって7位となった。 この年、チームは42勝94敗2分で首位[[松竹ロビンス]]から57.5ゲーム、最下位広島と1.5ゲーム差の8球団中7位に終わる。オフに[[西日本パイレーツ]]がセ・リーグを脱退したため、セ・リーグは7球団となる。 ; [[1951年の国鉄スワローズ|1951年]]<ref name="swhis50" /> 開幕から4月にかけて12勝4敗で首位に立つが、5月に入り6連敗で2位に落ちると、6月には3勝10敗として、前半戦終了時には6位となっていた。8月に入り、金田正一がこの月6勝を挙げ、チームは11勝10敗で勝ち越し5位に浮上し、そのままシーズンを終える。金田は、22勝を挙げ、[[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]]を獲得<ref group="注釈">セ・リーグで最多奪三振がタイトル制定となったのは1991年。球団公式サイトの球団のあゆみではセ・リーグ表彰で記載。</ref>するとともに、9月5日に球団初となる[[ノーヒットノーラン]]を達成<ref group="注釈">18歳35日での達成は日本プロ野球史上最年少記録。</ref>。[[土屋五郎]]が球団初のタイトルとなる[[最多盗塁 (日本プロ野球)|最多盗塁]]を獲得<ref name="swhis50" />。 ; [[1952年の国鉄スワローズ|1952年]]<ref name="swhis50" /> この年より[[プロ野球地域保護権|地域フランチャイズ制]]が導入され、国鉄は[[読売ジャイアンツ]]、[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]、[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]、[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]と共に[[後楽園球場]]を本拠地とした。開幕から2勝2敗とした後は4連敗、4月に入り4連敗と6連敗、5月に10連敗と連敗を重ねたが、松竹と広島が低迷したことで5位でシーズンを終了。この年120試合制となり、初の50勝到達となったが、このうち半分近い24勝は金田正一で、二年連続奪三振王となった。[[佐藤孝夫]]が球団初の[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。 ; [[1953年の国鉄スワローズ|1953年]] 松竹と大洋が合併したことで、この年からセ・リーグは現在の6球団制に移行。国鉄は45勝79敗1分に終わり、首位巨人から42ゲーム差、5位大洋松竹と4.5ゲーム差で球団初の最下位となる。西垣徳雄が監督を退任、後任は[[藤田宗一 (外野手)|藤田宗一]]。 ; [[1954年の国鉄スワローズ|1954年]] 読売ジャイアンツから移籍した[[宇野光雄]]の活躍で同年の対巨人戦8連勝。宇野と[[箱田弘志]]が球団初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]を獲得する。首位[[中日ドラゴンズ|中日]]から32ゲーム差、55勝73敗2分の5位に終わる。 ; [[1955年の国鉄スワローズ|1955年]] 10月19日、金田正一がシーズン350奪三振を記録、[[日本野球機構|NPB]]新記録<ref group="注釈">現在の記録は1968年に[[江夏豊]]が記録した401。</ref> となると共に[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]・[[ボブ・フェラー]]348を抜く世界新記録<ref name="swhis50" />。[[町田行彦]]が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得。57勝71敗2分で、首位巨人と34.5ゲーム、4位広島と1ゲーム差の5位に終わり、藤田が監督退任、後任は宇野光雄。 ; [[1956年の国鉄スワローズ|1956年]] 対巨人戦で11勝(13敗)と互角の試合を見せる。[[大脇照夫]]が5月3日の対中日戦([[ナゴヤ球場|中日]])でノーヒットノーラン、[[宮地惟友]]が対広島([[石川県営兼六園野球場|金沢兼六]])で球団初、日本プロ野球3人目となる[[完全試合]]を達成している<ref name="swhis50" />。チームは首位巨人と21ゲーム差、61勝65敗で4位に終わる。オフに[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]から[[飯田徳治]]を金銭トレードで獲得。 ; [[1957年の国鉄スワローズ|1957年]] 金田正一は7月15日の対中日戦(中日)で2000奪三振を記録。8月21日の対中日戦(中日)でプロ野球4人目の完全試合を達成し、この年は[[最多勝利]]と[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得、[[沢村栄治賞|沢村賞]]と自身初の[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]に選ばれている。[[佐藤孝夫]]が22本塁打で本塁打王となる。チームは58勝68敗4分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。 ; [[1958年の国鉄スワローズ|1958年]] 開幕戦の対巨人戦(後楽園)、金田正一が巨人のルーキー[[長嶋茂雄]]を4打席連続三振に抑えるなど、4対1で勝利する。翌4月6日の[[ダブルヘッダー]]でも4対2、4対3と勝利し、開幕3連勝とする<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html |title=【4月6日】1958年(昭33)デビュー4打席4三振 その後の長嶋茂雄 |publisher=[[スポーツニッポン]] |accessdate=2012-10-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130207010957/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080325154.html |archivedate=2013年2月7日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。5月24日の対阪神戦(甲子園)で[[飯田徳治]]がアキレス腱切断、日本プロ野球記録の連続試合出場記録が1246で止まる<ref name="swhis50" />。6月6日、金田が球団初の通算200勝を達成<ref group="注釈">かつ、球団史上唯一。</ref>。チームは2年連続の58勝68敗4分、首位巨人から17.5ゲーム差の4位に終わる。金田正一が投手部門[[三冠 (野球)|三冠王]](最多勝、防御率、奪三振)と沢村賞を獲得。 ; [[1959年の国鉄スワローズ|1959年]] この年も開幕戦の対巨人戦(後楽園)で金田正一が巨人のルーキー[[王貞治]]を2三振に抑えている。チームは63勝65敗2分、首位巨人から15.5ゲーム差の4位に終わる。 ; [[1960年の国鉄スワローズ|1960年]] 9月30日に金田正一が対中日戦(後楽園)で勝利して、10年連続20勝を達成するが<ref name="swhis60">{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1960 |title=球団のあゆみ 1960年代 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>、チームは54勝72敗4分、首位大洋から17.5ゲーム差、7年ぶりの最下位となる。{{by|1960年}}限りで宇野は監督を解任<ref>[https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180318-10 週刊ベースボール60周年記念企画【週ベ60周年記念企画142】『川上監督の考えた三つの人事~主将、あと一人のコーチ、トレード問題』【1960年12月28日号】][[週刊ベースボール]]</ref>。後任は[[砂押邦信]]。 ; [[1961年の国鉄スワローズ|1961年]] 6月6日、森滝義己がプロ野球史上5人目となる完全試合を達成。67勝60敗3分で3位とし、球団初、国鉄球団として最初で最後となったAクラス、シーズン通算勝ち越しを記録する。 ; [[1962年の国鉄スワローズ|1962年]] 9月5日、金田正一が[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]、[[ウォルター・ジョンソン]]の記録を抜く通算3,509奪三振を達成。51勝79敗4分、首位[[阪神タイガース|阪神]]から24ゲーム差の最下位となる。セ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンだったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)で、これは2リーグ制以降の最低の記録である。11月、東映と共に[[大韓民国|韓国]]に遠征し、親善試合を行う<ref name="swhis60" />。砂押は監督を退任、後任は[[浜崎真二]]。オフに西鉄から[[豊田泰光]]を獲得。 年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり、相当の緊縮財政だった。新人選手の[[契約金]]は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった[[三河島事故]]による批判は球団にも飛び火していた。この年の8月、球団譲渡を前提とした業務提携を[[産業経済新聞社|産経新聞社]]、[[フジテレビジョン]]・[[ニッポン放送]]・[[文化放送]]と結び、[[フジサンケイグループ]]との関係が生じ、この時点で実質的な経営主体はフジサンケイグループに移る。 ; [[1963年の国鉄スワローズ|1963年]] 5月8日の対大洋戦(後楽園)で金田正一が通算300勝を達成。チームは65勝73敗2分、首位巨人から18ゲーム差の4位。浜崎は監督を退任、後任は[[林義一]]。 翌年から本拠地を後楽園球場から[[明治神宮野球場|明治神宮球場]]へ移転する(移転の経緯については後述の[[東京ヤクルトスワローズ#フジサンケイグループ|フジサンケイグループ]]及び[[明治神宮野球場#プロ野球]]を参照)。 ; [[1964年の国鉄スワローズ|1964年]] 7月30日、金田正一が入団2年目の1951年から14年連続となるシーズン20勝を達成<ref name="swhis60" />。61勝74敗5分、首位阪神と18.5ゲーム差の5位に終わる。オフに林義一の監督更迭・留任を巡り、産経新聞と国鉄は激しく対立。エースの金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ([[読売新聞]]、[[朝日新聞]]、[[毎日新聞]])により、「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、議論は平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は[[フリーエージェント (日本プロ野球)#10年選手制度|10年選手]]の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。 === サンケイ時代 === ; [[1965年のサンケイスワローズ|1965年]] 4月23日、国鉄は球団の経営権を[[産経新聞]]と[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に譲渡することを発表し、5月10日、'''サンケイスワローズ'''(Sankei Swallows)に改称。 サンケイ初年度となったが、国鉄初年度以来の90敗以上となる、44勝91敗5分。首位巨人とは45.5ゲーム差となった。この年から[[1965年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]が行われているが、1位指名の河本和昭を始め、11名中9名が入団拒否<ref group="注釈">指名後の入団交渉不実施による失効を含む。</ref>している<ref group="注釈">ただし、この時代はサンケイに限らず、指名されても入団拒否したり、指名しても交渉を実施せずそのまま失効する者は多かった。</ref>。 ; [[1966年のサンケイアトムズ|1966年]] 1月7日、少年野球ファン開拓のため<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[綱島理友]] |title=綱島理友のユニフォーム物語(4) |journal=週刊ベースボール |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=1999-05-10 |page=161 }}</ref> という理由に加え、フジテレビで[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]が放送されていたことや[[手塚治虫]]が当時球団後援会副会長(会長は[[徳川夢声]])だったという経緯もあって[[鉄腕アトム]]をペットマークに使い、チーム名を'''サンケイアトムズ'''(Sankei Atoms)、運営会社名を'''株式会社サンケイアトムズ'''に改称。[[ヤクルト本社]]が株式を取得して球団運営に参加。これに伴い、球団旗も当時の産経新聞の社旗をアレンジしたものを使っていた。 52勝78敗で大洋と並んで5位、首位の巨人とは37ゲーム差。 ; [[1967年のサンケイアトムズ|1967年]] 58勝72敗5分で首位の巨人と26ゲーム差の5位。巨人に3勝23敗の惨敗。後楽園球場で13連敗。[[武上四郎]]が新人王を獲得。 ; [[1968年のサンケイアトムズ|1968年]] 1月28日、[[神奈川県]][[横須賀市]]に[[京浜急行武山球場|武山球場]]が完成、二軍本拠地となる。 5月26日には対広島戦に勝利し、球団通算1000勝を達成。来日2年目の[[デーブ・ロバーツ (1933年生の内野手)|デーブ・ロバーツ]]が40本塁打を打つなどして、ベストナインを獲得。投手では[[石戸四六]]がチームとしては金田正一以来となるシーズン20勝を挙げる。64勝66敗4分、首位の巨人とは13ゲーム差の4位。 === アトムズ時代 === 産経新聞は本体の業績不振のため、株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の[[水野成夫]]が病に倒れ、後を継いだ[[鹿内信隆]]がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球球団経営からの撤退、資本関係のみの継続を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった[[南喜一]]が代表者を務めていた。実質経営権はヤクルト本社が握ったが、表面上は共同経営とし球団名を'''アトムズ''' (Atoms) 、運営会社名を'''株式会社アトムズ球団'''とした。これは2リーグ分立以降でチーム名に企業名・地域名などの冠名がつかない唯一の例となった。 ; [[1969年のアトムズ|1969年]] [[ボブ・チャンス]]が24試合で12本塁打を記録し、58勝69敗3分で、首位の巨人と16.5ゲーム差の5位だった。 === ヤクルト時代 === ==== ヤクルトアトムズ時代 ==== 1970年1月7日にヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ち、球団名を'''ヤクルトアトムズ'''(Yakult Atoms)、運営会社名を'''株式会社ヤクルトアトムズ'''に改称となり、チームカラーもヤクルト本社の社色である赤・白・緑のものとなった(球団旗やユニフォームなどに使用)。 ===== 別所監督時代 ===== ; [[1970年のヤクルトアトムズ|1970年]] 序盤から大きく出遅れ、8月には1936年の[[松竹ロビンス|大東京軍]]と並ぶ16連敗を喫した<ref group="注釈">当時の日本プロ野球ワースト記録で、現在もセ・リーグワースト記録及び、間に引き分けを挟まない連敗のワースト記録である。日本プロ野球記録は[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の[[千葉ロッテマリーンズ]]が{{by|1998年}}に記録した18連敗(引き分け1を挟む)。</ref>。この連敗期間中の8月20日に[[別所毅彦]]が監督を解任され<ref name="YS4043">{{Cite book |和書 |title=東京ヤクルトスワローズ40年史―1969-2009ツバメの記憶 |year=2009 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |series=B.B.MOOK スポーツシリーズ |page=43 |isbn=9784583616018 }}</ref>、二軍監督の[[小川善治]]がシーズン終了まで監督代行を務めた。結局、シーズン92敗を喫し<ref group="注釈">セ・リーグでの90敗到達球団はその後2003年まで現れなかった([[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]、94敗)。</ref>、33勝しかできず、勝率は3割を大きく下回る.264<ref group="注釈">日本プロ野球でシーズン最終勝率が3割を下回ったのは1961年の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファロー]]以来9年ぶり。これ以後、セ・リーグで勝率が3割を下回った例はなく、パ・リーグでも[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が新規参入した1年目の2005年に.281を記録した1例のみ。</ref>で、首位の巨人に45.5ゲーム差を付けられ最下位に終わる。巨人戦、阪神戦ともに5勝21敗で後楽園球場では13戦全敗。2桁勝利投手ゼロは球団史上初{{Refnest|球団公式サイトにも1970年のみ該当者無しとある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/archive/win_10over |title=球団アーカイブ 2桁勝利投手 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。|group="注釈"}}。[[東条文博]]が28盗塁で盗塁王。 ===== 三原監督時代 ===== ; [[1971年のヤクルトアトムズ|1971年]] [[三原脩]]が監督に就任。チームは52勝72敗6分けの勝率.419と前年より盛り返すものの2年連続最下位に終わる。[[松岡弘]]は14勝を挙げた。9月27日、二軍はイースタンリーグで初優勝している<ref name="YS4043" />。 ; [[1972年のヤクルトアトムズ|1972年]] 前年に三原とともに入団した[[中西太]]打撃コーチのマンツーマン指導を受けた2年目の[[若松勉]]が首位打者、ルーキーの[[安田猛 (野球)|安田猛]]も1972年・1973年と2年連続で防御率1位となって頭角を現す。彼らの活躍もあり、この年は最下位を脱出、60勝67敗3分けの勝率.472の4位に浮上。8月12日、二軍は2年連続イースタンリーグ優勝<ref name="YS4043" />。 ; [[1973年のヤクルトアトムズ|1973年]] 元々鉄腕アトムのイラストについては「限定的に使用する」ことで、[[手塚治虫]]および[[虫プロダクション]]と合意していたが、球団後援会が作成したファンサービス用グッズ(シャツ・灰皿・トランプなど)にアトムのイラストを使用したことで、1972年12月に虫プロ側から「グッズを販売する業者から我々の著作権を侵害していると抗議が殺到した。商品化に結び付けるなら新たに版権の契約を結んでほしい」クレームが来た。その後版権料の問題で交渉がまとまらなかったことから、球団は手塚および虫プロに謝意を示した上で、1月からニックネームの変更の検討を開始した。 検討過程では「パンダ」「ベアーズ」「東京ヤクルト」「ファイアマン」などが挙がったが、「パンダース」は「売春宿の主人」を意味するスラングであることから早々に候補から外れ、一旦は「'''ヤクルト・ジャガース'''」(豹)に内定し、オールスター後から使用すると発表したが<ref>[[日刊スポーツ]]、1973年5月1日付。</ref><ref>[[サンケイスポーツ]]、1973年5月5日付。</ref>、結局シーズン中の球団名変更は見送りとなった。その後の再検討の結果、球団名は「ジャガース」を撤回し、国鉄時代の「スワローズ」を復活させることになった<ref group="注釈">ヤクルトと同じくセ・リーグに属する[[阪神タイガース]]の[[阪神タイガース (ファーム)|二軍]]が、過去に類似した名称の『'''阪神ジャガーズ'''』を名乗っていたことによる、阪神球団との権利上の問題が関係しているかは不明。</ref>。 62勝65敗3分けの勝率.488にてチームは2年連続の4位に終わり、三原は監督を辞任。 ==== ヤクルトスワローズ時代 ==== 前述の著作権問題の経緯と[[虫プロダクション]]が1973年11月5日付での倒産不可避となったことが重なり、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止した。1973年10月26日、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名を「'''ヤクルトスワローズ'''」に変更<ref name="YS4043" />。キャラクターも、[[ツバメ]]をモチーフにしたものに変更。 ===== 荒川監督時代 ===== ; [[1974年のヤクルトスワローズ|1974年]] 打撃コーチの[[荒川博]]が監督に昇格、コーチで入団した[[広岡達朗]]・[[沼澤康一郎]]・[[小森光生]]と「早大カルテット」を形成した。松岡が17勝、[[浅野啓司]]も防御率2位と活躍し、チームは60勝63敗7分けの勝率.488にて13年ぶりのAクラスとなる3位。 ; [[1975年のヤクルトスワローズ|1975年]] [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との交換トレードで[[大杉勝男]]を獲得したが、結果は57勝64敗9分けの勝率.471の4位。オフに[[武上四郎]]が引退。ちなみに、この年にはロッテに所属していた[[鈴木皖武]]が現役を引退したことにより、後楽園球場時代に在籍した選手が全員引退した。 ; [[1976年のヤクルトスワローズ|1976年]] 5月12日、荒川博監督が成績不振を理由にシーズン途中で休養し、広岡達朗が13日からヘッドコーチの監督代行となり、6月17日に監督就任<ref name="YS4043" />。 ===== 広岡監督時代 ===== ※1976年の監督代行時代も含める。 ; 1976年 結局、52勝68敗10分けの勝率.433の5位に終わり、国鉄時代の{{by|1962年}}からこの年まで15年連続シーズン負け越しを記録し、セ・リーグワースト記録となる<ref group="注釈">日本記録は[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]時代の1978年から[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]時代の1993年にかけて記録した16年連続。</ref>。なお、全球団に負け越したにもかかわらず、最下位を免れたのは、日本プロ野球史上初めてのケースだった。 ; [[1977年のヤクルトスワローズ|1977年]] 大杉がこの年多くの記録を立て<ref group="注釈">6月5日に1000打点、6月22日に1500試合出場、8月11日に350本塁打、8月25日に1500本安打。</ref>、9月14日の大洋戦では1イニング5本塁打の日本タイ記録を達成した<ref name="YS4043" />。若松が2度目の首位打者、入団2年目の[[チャーリー・マニエル]]が42本塁打を放つ。62勝58敗10分けの勝率.517により、チームは球団創設以来初の2位に躍進。 ; [[1978年のヤクルトスワローズ|1978年]] 前年の2位躍進に気をよくしたフロントは選手に対し「ブラジルへの慰安旅行」を計画したが広岡監督はこれに反対し「旅行するぐらいなら温暖な海外でキャンプを」と希望。これを受けて2月、球団史上初めて日本国外キャンプとなる[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ユマ (アリゾナ州)|ユマ]]キャンプを行う<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/history/1970 |title=球団のあゆみ 1970年代 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。広岡の参謀として巨人時代の同僚だった[[森祇晶|森昌彦]]がヘッドコーチで入団、キャンプでテストを受けた[[デーブ・ヒルトン (野球)|デーブ・ヒルトン]]も加わり打線は厚みを増した<ref>週刊ベースボールプラス6 1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡、[[ベースボール・マガジン社]]、2011年、P39</ref>。初優勝を狙うチームは前半を首位で折り返すも、後半に入り、失速、3連覇を狙う巨人に抜かれ、8月には一時4.5ゲーム差を付けられるが、8月26日からの対巨人3連戦を松岡の完封、安田の連日の好リリーフで2勝1分けと持ち直し、巨人に代わり首位に返り咲く。9月に初めてマジックが点灯すると、9月19日の[[ダブルヘッダー]]第2試合、さらに[[杉浦享|杉浦亨]]が連日のサヨナラ打を放った20日・21日と3試合連続サヨナラ勝ちを収め、下位球団相手に取りこぼす巨人を尻目に一気に加速、10月4日の対中日戦(神宮)で創立29年目で初のリーグ優勝を決める。[[1978年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではそれまで3年連続日本一だった[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]を4勝3敗で下し、初の日本一。この年は開幕から129試合目まですべて得点を挙げていたが、最終戦の広島戦で[[大野豊 (野球)|大野豊]]に完封負けを喫し、全試合得点とはならなかった。なお、広岡監督が正力松太郎賞に、若松がチーム初のセ・リーグ最優秀選手に選出された。 ; [[1979年のヤクルトスワローズ|1979年]] マニエルの近鉄への放出を軸としたオフの補強に失敗し、開幕8連敗と大きく出遅れる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/tigers/2022/04/01/0015184649.shtml|title=阪神・藤浪「いいようにやられた」 初の3被弾で4回6失点KO、開幕7戦7敗ならセ初の屈辱|publisher=デイリースポーツ online|date=2022-04-01|accessdate=2022-04-01}}</ref>。5月に盛り返し、5月27日にはマニエルに代わる新外国人[[ジョン・スコット (野球)|ジョン・スコット]]がサイクル本塁打を放つ活躍で勝率を5割まで戻すが、その後は再び最下位を独走。8月にヘッドコーチの森が解任され、これに激怒した広岡が途中休養(指揮権放棄)して辞任。打撃コーチの[[佐藤孝夫]]が監督代行を務めた。結局、この年は48勝69敗13分けで8年ぶりの最下位。日本一の翌年に最下位に転落するのは、1961年の大洋以来18年ぶり2度目の不名誉。 ===== 武上監督時代 ===== ; [[1980年のヤクルトスワローズ|1980年]] 武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局、この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わった。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得した。[[福富邦夫]]が現役を引退した。福富の引退により、国鉄スワローズに所属した選手が全員引退した。 ; [[1981年のヤクルトスワローズ|1981年]] マニエルが近鉄から復帰し、優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し、外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の[[青木実]]が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。オフに安田が現役を引退した。 ; [[1982年のヤクルトスワローズ|1982年]] 優勝当時の主力である大杉、[[大矢明彦]]、松岡らの衰えと外国人選手[[ラリー・ハーロー]]らの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。 ; [[1983年のヤクルトスワローズ|1983年]] ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した[[荒木大輔]]が入団し、近鉄とのトレードで[[井本隆]]を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、[[ボビー・マルカーノ]]らの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。オフに大杉が現役引退。 ; [[1984年のヤクルトスワローズ|1984年]] 4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの[[高野光]]が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。監督の武上がシーズン途中で休養し、西鉄・日本ハムでの監督を経験した[[中西太]]が[[監督代行]]として指揮を執るも、途中で休養し、日拓ホームでの監督を経験した投手コーチの[[土橋正幸]]がシーズン終了まで監督代行として指揮を執ることになった。 ===== 土橋監督時代 ===== ※1984年の監督代行時代も含める。 ; 1984年 この年は51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れた。監督代行の土橋が翌年から正式に監督として指揮を執ることになった。 ; [[1985年のヤクルトスワローズ|1985年]] 明治大学の主砲広沢克己(後に[[広澤克実]])を獲得。[[八重樫幸雄]]が捕手として球団初の3割打者、杉浦享も自己最多の34本塁打と活躍したが、チームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。オフに優勝バッテリーの松岡と大矢が共に現役を引退した。同年、[[日本プロ野球選手会]]は[[労働組合]]の資格を得たが、オーナーの[[松園尚巳]]は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。 ; [[1986年のヤクルトスワローズ|1986年]] マルカーノに代わり、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]を自由契約になった[[レオン・リー]]が入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり、土橋は辞任。 ===== 関根監督時代 ===== ; [[1987年のヤクルトスワローズ|1987年]] [[関根潤三]]が監督、元阪神監督の[[安藤統男]]がヘッドコーチに就任。シーズン途中に入団した現役大リーガー[[ボブ・ホーナー]]が「ホーナー旋風」を起こし、9年ぶりに広島戦に勝ち越し、チームは58勝64敗8分け勝率.475にて4位に浮上。2年目の[[荒井幸雄]]が新人王を獲得。ホーナーはシーズン終了後に退団。この年のドラフト会議で、[[長嶋一茂]]との交渉権を[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]と抽選の末に獲得。 ; [[1988年のヤクルトスワローズ|1988年]] シーズン5位に終わるが、抑えの[[伊東昭光]]が全て救援・規定投球回数未到達ながら18勝で最多勝。広沢と[[池山隆寛]]が30本塁打以上を放ち、[[栗山英樹]]が規定打席未到達ながら打率.331を記録し台頭。巨人戦も8年ぶりに勝ち越し。長嶋一茂の入団、若手の躍進で女性ファンが急増する。 ; [[1989年のヤクルトスワローズ|1989年]] [[ラリー・パリッシュ]]が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]、新人の[[笘篠賢治]]が[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。高卒3年目の[[内藤尚行]]が12勝8セーブと活躍。一方でパリッシュ・広沢・池山が共に100三振を記録。55勝72敗3分けの勝率.433にてシーズン4位に終わり、関根が監督を勇退、若松が現役を引退。オフにヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。 ===== 野村監督時代 ===== ; [[1990年のヤクルトスワローズ|1990年]] [[ID野球]]を掲げる[[野村克也]]が監督に就任。チームは前年本塁打王のパリッシュを解雇し(阪神に移籍)、代わりに[[ドウェイン・マーフィー]]を獲得、さらに当時メジャー133勝の実績を誇った[[フロイド・バニスター]]を獲得した。野村は新人の[[古田敦也]]を正捕手に起用、[[柳田浩一]]をレギュラーに抜擢、またそれまで捕手だった俊足の[[飯田哲也 (野球)|飯田哲也]]をセカンドに、開幕マスクを被った[[秦真司]]は打撃を活かして外野手に[[コンバート (野球)]]。高卒2年目の[[川崎憲次郎]]が12勝、新人の[[西村龍次]]は10勝と躍進。しかし、この年はマーフィーやバニスターの不振及び早期退団、荒木・高野・伊東らの長期離脱、内藤らの不振もあり、58勝72敗の勝率.446。中日戦で7年ぶりに勝ち越したが、優勝した巨人から30ゲーム差もつけられ、目の前で優勝を決められて5位に終わる。オフに[[栗山英樹]]が引退。 ; [[1991年のヤクルトスワローズ|1991年]] [[ジョニー・レイ]]が加入して、飯田は外野へコンバートされる。6月に球団新記録の12連勝(それまで当時の12球団で唯一、2ケタ連勝がなかった)で一時は首位に立つも、その後失速し優勝争いから脱落するが、最終戦に勝利し3位を確定。67勝63敗2分けの勝率.515にて11年ぶりのAクラスかつ5割以上を記録。広沢が[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]、古田は捕手としては野村以来26年ぶり、セ・リーグでは初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]となる。この年限りで[[尾花高夫]]が引退。 ; [[1992年のヤクルトスワローズ|1992年]] キャンプ中の怪我により前年14勝の川崎を欠く苦しいシーズンとなるも、広島・巨人・阪神との優勝争いとなる。西村と[[岡林洋一]]以外の先発陣が手薄だった投手陣は4月に高野、5月に伊東と、故障で長年離脱していたベテランが復活。開幕ダッシュに成功し首位を走るも、7月の巨人との天王山で3連敗。前半戦を3位で折り返す。後半に入ると、前半戦わずか8本塁打の[[ジャック・ハウエル]]が本塁打を量産し首位に返り咲く。一時は貯金15を数え、逃げ切れるかに見えたものの、100試合を過ぎた辺りから投手陣全体の駒不足に苦しみ始めた挙げ句大失速。チームは9月に入り9連敗<ref group="注釈">優勝チームとしてのワースト記録。セ・リーグでは1950年から1991年までの42年間、シーズン中に8連敗以上を記録したチームが優勝したことはなかった。その後、2015年にも9連敗を喫したが優勝している</ref> を喫した(この間に、阪神戦で一時抑えに回った岡林による9イニングに及ぶ救援投球という引き分け試合あり)。貯金3の3位まで転落するが、9月24日に荒木が1541日ぶりの復活登板を果たし息を吹き返す。<!--この年は混戦となったため、「[[プレーオフ制度_(日本プロ野球)#1992年のセ・リーグ☆|プレーオフ]]委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を[[阪神甲子園球場|甲子園]]、2戦目を[[明治神宮野球場|神宮]]、3戦目を(雨天中止の可能性が極めて低い)[[東京ドーム]]でおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。-->巨人、広島の脱落により、阪神との一騎打ちとなった本拠神宮球場での10月6日からの直接対決2連戦では、まず初戦は広沢の決勝ソロ、岡林の完封により勝利、ともに66勝60敗で並ぶ。翌7日は9回裏1死まで1-3と苦しい展開に追い込まれるも、広沢の四球を足がかりに、飯田の三塁内野適時打、荒井の左前適時サヨナラ打などにより奇跡的な逆転勝利を掴み、一気に優勝に近づいた。10月10日の甲子園での阪神との直接対決でハウエルが2打席連続本塁打、先発荒木の好投を受けて最後は伊東が締めくくり14年ぶりの優勝。後半戦だけで30本塁打のハウエルは首位打者と本塁打王の二冠となり、MVPも獲得した。最終成績は69勝61敗1分けの勝率.531。[[1992年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]と対戦。シーズン中同様に怪我人等の投手駒不足で、岡林が7戦中3戦先発完投(延長12回と延長10回が各1試合あり、計30回投球したことになる)、伊東・[[金沢次男]]が岡林が完投した試合以外中継ぎで全試合登板(中継ぎのみの登板はこの2名だけ)、シーズン未勝利の高卒新人[[石井一久]]を先発で起用と、総力戦で西武に食らいつき、第7戦延長10回まで行きながら3勝4敗で敗退。金沢の他に他球団で実績のある[[角盈男]]、[[新浦壽夫]]がこの年加入して(ともにシーズン終了後引退)、中継ぎで貢献するなど「野村再生工場」の発端も垣間見えた。同年オフ、長嶋一茂が巨人に移籍。この年のシーズン観客動員数247万7000人は、2021年シーズン終了現在、球団記録である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/company/archive/audience |title=球団アーカイブ 観客動員数 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。野村監督は球団をアピールするため、自らを含めて若手選手に積極的なメディア出演を進言したこともあって一躍人気球団となった。 ; [[1993年のヤクルトスワローズ|1993年]] 前年苦しんだ投手陣の底上げを図る。前年不在だったストッパーの座に開幕直後は[[山田勉 (投手)|山田勉]]、5月からは[[高津臣吾]]が座り、先発投手陣では新人の[[伊藤智仁]]が故障で離脱するまで7勝、5完投、4完封、防御率0.91の驚異的な活躍で[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得。岡林は前年の酷使の影響で不調だったが、西村、伊東、荒木、そして故障から復活した[[川崎憲次郎]]と[[宮本賢治]]が投手陣を支えた。なお、5月19日の対広島戦では、互いに凄まじい打撃戦を展開の上、延長14回17-16にて勝利を収めている。ペナントレースは夏場から中日との一騎打ちとなり、8月末から9月頭のナゴヤ球場での直接対決3連戦での敗北で1度は首位を明け渡したものの、終盤での11連勝などが効き、中日を突き放した。広沢が2度目の打点王、ハウエルがサヨナラ本塁打5本と勝負強さを発揮しリーグ2連覇。広島戦では6年ぶりに勝ち越した。[[1993年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも4勝3敗で西武に前年の雪辱を果たし15年ぶりの日本一、シリーズMVPの川崎はカムバック賞も受賞した。野村監督が現役時代からライバル心を燃やす長嶋茂雄の監督復帰に沸いた巨人とは互いに厳しい内角攻めなどから、翌年まで乱闘騒ぎが続いた。野村監督が正力松太郎賞、古田がシーズンMVPを獲得した。オフに八重樫幸雄と杉浦享が共に現役を引退した。八重樫と杉浦の引退により、ヤクルトアトムズに所属した選手が全員引退した。 ; [[1994年のヤクルトスワローズ|1994年]] 前年の日本一を機に帽子のマークが変更され、ペットマークに[[つば九郎]]が採用された。高津が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]を初受賞するが、伊東、川崎、西村、荒木ら投手陣の不調・故障離脱が相次ぐ。さらに古田が右手負傷で戦線離脱したことや池山の怪我、ハウエルや新外国人[[ジェラルド・クラーク]]らの不調も響き、2年連続リーグ制覇から一転して62勝68敗の勝率.477で阪神と同率4位。初優勝時のメンバーで最後の現役選手だった[[角富士夫]]が現役を引退した。オフに広沢克が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]を宣言し巨人へ移籍、自由契約のハウエルも巨人に入団する。 ; [[1995年のヤクルトスワローズ|1995年]] 広沢とハウエルが入団した巨人相手に不利が予想されたが、巨人との開幕第2戦を[[桑田真澄]]の危険球退場をきっかけに逆転勝ちし流れが一変。打撃陣は古田、飯田がシーズン通して活躍。[[土橋勝征]]が野村監督から影のMVPと賞賛される活躍で後半3番に定着、阪神を解雇された[[トーマス・オマリー]]が狭い神宮で本塁打を量産し自身初の30本塁打。同じくロッテを解雇された[[ヘンスリー・ミューレン]]も下位打線で29本塁打を放ち、池山と「第2のクリーンアップ」を形成した。投手陣は春季キャンプでテスト入団の新外国人[[テリー・ブロス]]が9月9日の巨人戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]を獲得する。開幕前に西村とのトレードで近鉄から移籍してきた[[吉井理人]]、2年目の[[山部太]]、4年目の石井一が揃って二桁勝利。9月30日に本拠地神宮球場にて巨人を5-0で下し2年ぶりのリーグ優勝(最終成績は82勝48敗の勝率.631)。[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]との対戦となった[[1995年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でもオマリーが活躍、古田を中心とするバッテリーも[[イチロー]]を中心とする相手打線を抑え4勝1敗、2年ぶりの日本一に輝いた。 ; [[1996年のヤクルトスワローズ|1996年]] [[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]から移籍の[[田畑一也]]が12勝、西武から戦力外通告を受け移籍の[[辻発彦]]がリーグ2位の打率3割3分3厘を記録。しかし、シーズンはブロスや山部、高津、古田、ミューレンの不調や岡林、川崎、石井一らの故障による長期離脱が相次ぎベストメンバーをそろえることができず、1度も首位戦線に絡めないまま61勝69敗、勝率.469のリーグ4位に終わる。 ; [[1997年のヤクルトスワローズ|1997年]] オマリーとミューレンが抜けたものの、この年も「野村再生工場」が冴え渡る。広島を自由契約になった[[小早川毅彦]]が入団、開幕戦の巨人戦で、それまで3年連続で開幕戦完封を続けていた[[斎藤雅樹]]から3打席連続本塁打。中日から自由契約となった[[野中徹博]]が13年目で初勝利、ダイエーから自由契約となった[[廣田浩章]]もリリーフ陣を支える。開幕前は低評価だった新外国人の[[ドゥエイン・ホージー]]が巨人・[[松井秀喜]]を抑え本塁打王を獲得。4番の座には古田が就き、本塁打こそ9本だったが、高打率を記録し、「つなぎの4番」として君臨した。投手陣では田畑が15勝、吉井が13勝、伊藤智も高津とのダブルストッパーで復活した。終盤、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]に最大10あったゲーム差を3.5まで迫られるが、9月2日の直接対決で石井一がノーヒットノーランを達成するとその後は横浜を突き放し結果的に11ゲームという大差をつけ2年ぶりの優勝(最終成績は83勝52敗2分け、勝率.615)。[[1997年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[東尾修]]監督率いる西武を4勝1敗で退け4度目の日本一。古田が4年ぶり2度目のシーズンMVPに輝いた。オフに吉井がFAでMLBの[[ニューヨーク・メッツ]]に移籍。 ; [[1998年のヤクルトスワローズ|1998年]] 開幕直前に日本ハムとの交換トレードで[[野口寿浩]]を放出し、のちに選手会長となる[[城石憲之]]を獲得。同年、高卒新人の[[五十嵐亮太]]を擁し、球団史上初の[[ファーム日本選手権]]制覇を達成した。しかし、一軍は巨人との開幕3連戦3連敗もあって、シーズン当初から波に乗れず、川崎が17勝で最多勝、石井一が最多奪三振を獲得するも、新外国人[[ライル・ムートン]]や[[マーク・エーカー]]、ホージー、古田ら投打の歯車が合わず66勝69敗、勝率.489の4位に終わる。野村は同年限りで退団し、後任には打撃コーチの若松勉が就任。 ===== 若松監督時代 ===== ; [[1999年のヤクルトスワローズ|1999年]] 先発陣([[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]])が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の[[高木晃次]]がプロ入り初の[[規定投球回|規定投球回数]]に到達<ref group="注釈">この年規定投球回数に到達したのはハッカミー、高木、川崎のみであった。</ref> してチームの日本人最多の9勝を、新外国人の[[ジェイソン・ハッカミー]]がチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人の[[ロベルト・ペタジーニ]]が44本塁打を放ち、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得、オリックスからトレードで来た[[高橋智]]が復活をアピールし、主に守備要員だった[[佐藤真一]]が突然の打撃開眼でチームを牽引。また、プロ3年目の[[岩村明憲]]の成長など、明るい話題もあった。なお、長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。 ; [[2000年のヤクルトスワローズ|2000年]] 石井一久がシーズン最終登板で中日の[[山本昌]]を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続の4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。 ; [[2001年のヤクルトスワローズ|2001年]] 投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、高木、山部等一軍実績のあるメンバーや新外国人[[アラン・ニューマン]]、[[ジョナサン・ハースト]]らの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の[[藤井秀悟]]が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の[[入来智]]とオリックスを解雇されテスト入団2年目の[[前田浩継]]の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された[[島田直也]]がチーム2位の53試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は[[真中満]]、[[宮本慎也]]、[[稲葉篤紀]]、[[岩村明憲]]、[[アレックス・ラミレス]]、[[土橋勝征]])が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に…あのぉ、'''おめでとうございます!'''」と言い間違え、球史に残る名言となった。[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[大阪近鉄バファローズ]]と対戦。近鉄自慢の「[[いてまえ打線]]」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。オフに石井一が[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]の[[ロサンゼルス・ドジャース]]に移籍。 この年のセ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし、各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。 ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。 このような経緯があったのか、翌年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、プレーオフで優勝を決定する方式は勝率が最も高い球団の勝利数が勝率が2番目に高い球団を下回った場合のみ開催される規定に変更された上で2007年の[[クライマックスシリーズ]]導入まで存在した。 この年は[[21世紀]]最初のペナントレースだったので、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ優勝・日本一球団」となった。 ; [[2002年のヤクルトスワローズ|2002年]] チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]に、[[石井弘寿]]が69試合に登板し[[最優秀中継ぎ投手]]に選出された。また、前年に途中入団した[[ケビン・ホッジス]]が最多勝を獲得した。黄金時代を支えた[[池山隆寛]]はこの年限りで引退。オフにペタジーニが巨人に移籍した。 ; [[2003年のヤクルトスワローズ|2003年]] シーズン前に西武を自由契約となっていた[[鈴木健 (内野手)|鈴木健]]を獲得。高津臣吾が[[佐々木主浩]]の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグの[[シカゴ・ホワイトソックス]]に移籍。また、来日3年目の[[アレックス・ラミレス]]が本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。 ; [[2004年のヤクルトスワローズ|2004年]] 年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに[[稲葉篤紀]]が日本ハムへFA移籍。 ; [[2005年のヤクルトスワローズ|2005年]] 4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が[[選手兼任監督]]として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している([[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)#社会人野球大会出場|詳細]])。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だった[[グレッグ・ラロッカ]]も獲得するなど、積極補強に動いた。 この年までに入団した現役選手は[[石川雅規]]<ref group="注釈">他球団への移籍を1度も挟むことなく、球団名に「東京」がつく前から一貫してヤクルトに在籍し続けている[[フランチャイズ・プレイヤー]]でもある。</ref>・[[青木宣親]]の2人。青木はMLBに移籍した後に復帰したため、球団名に「東京」がつく前からの生え抜き選手は石川だけである。 ==== 東京ヤクルトスワローズ時代 ==== 2005年12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「'''東京ヤクルトスワローズ'''」への球団名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。 ===== 古田監督時代 ===== {{Wikinews|プロ野球実行委員会「東京ヤクルト」を承認}} ; [[2006年の東京ヤクルトスワローズ|2006年]] 前年同様、[[リック・ガトームソン]]が[[ノーヒットノーラン]]を達成するなどの活躍で交流戦2位になるが、交流戦終了後はほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果は3位となり、2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。11月4日には神宮球場において[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]選抜とヤクルトによるアマ・プロ交流試合が実施され、外国人選手とFA移籍を控えた岩村を除く一軍メンバーが出場。試合は3対2でヤクルトが勝利している。オフに岩村が[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ(当時)]]へ移籍。ガトームソンが[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]、ラロッカがオリックスへ移籍。 ; [[2007年の東京ヤクルトスワローズ|2007年]] 五十嵐亮太、[[石井弘寿]]の「[[#ロケットボーイズ]]」が手術の影響でシーズンを棒に振ったのを皮切りに、[[ディッキー・ゴンザレス]]、[[アダム・リグス]]、[[高津臣吾]]などの主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。最終的に青木宣親が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]、[[アレックス・ラミレス]]が打点王・最多安打、[[セス・グライシンガー]]が最多勝投手になるが、シーズンはナゴヤドームでの開幕3連戦3連敗から1度も立ち直れず、143試合目で1986年以来21年ぶりの最下位を確定させてしまう。8月から東京の[[極超短波|UHF]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン]](TOKYO MX)で2007年度初のテレビ中継が開始<ref group="注釈">ただし、MXテレビの親会社・東京新聞の関係で対中日戦のみ。</ref>。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。9月、古田の現役引退・退団が発表された。なお、[[伊東昭光]]も辞意を表明したため、チーム最年長コーチの八重樫幸雄がヘッドコーチ代理を兼任していた。後任監督は[[高田繁]]、一軍投手コーチに荒木大輔がヤクルトに復帰した。一方、選手では打点王・最多安打のラミレスとこの年16勝を挙げたグライシンガーが巨人、[[石井一久]]がFAで西武に移籍。石井の人的補償として[[福地寿樹]]を獲得。年明けには[[藤井秀悟]]を交換要員とする3対3トレードを日本ハムと行い、[[押本健彦]]、[[川島慶三]]らを獲得した。 ===== 高田監督時代 ===== ; [[2008年の東京ヤクルトスワローズ|2008年]] 前年チーム勝利数1位グライシンガー(16勝)、2位石井一久(9勝)、3位藤井秀悟(7勝)が軒並み移籍し、残った選手の勝ち星が4勝以下だった事もあり不安視されたが、巨人に開幕3連勝をするなど4月終了時は3位に立った。しかし、石川雅規、[[館山昌平]]に続く先発が不在となる。野手では[[福地寿樹]]や[[飯原誉士]]をはじめとする俊足の選手が中心となったが、前年本塁打王争いを演じた[[アーロン・ガイエル]]の離脱などで長打力に欠けた。夏場には[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]で青木と宮本が離脱したため戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち3試合がサヨナラで7試合が1点差)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され、5位に終わった。しかし、前年まで崩壊していたリリーフ陣が怪我で苦しんでいる最中に[[林昌勇]]、押本健彦が活躍し、前年登板が無かった五十嵐が復活、先発で結果が出なかった[[松岡健一]]が転向し、結果を残すなど、整備が進んだ。オフに長打補強のため、[[ジェイミー・デントナ]]、中日を自由契約となった[[森岡良介]]、ソフトバンクを自由契約となった[[吉本亮 (内野手)|吉本亮]]を獲得し、オリックスを自由契約となった[[ユウキ (野球)|田中祐貴]]と育成契約を結び、横浜からFA宣言した[[相川亮二]]を獲得(ヤクルトでは初のFA獲得)。 ; [[2009年の東京ヤクルトスワローズ|2009年]] 序盤から2位をキープし、5月11日に田中祐貴を支配下選手に復帰させ、前半戦で貯金を最大14まで伸ばしたが、後半戦に入った途端に急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、さらにはチームを支えてきた[[田中浩康]]や飯原、宮本、[[川島慶三]]といった主力が怪我で離脱、宮本が強行出場するなど、厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ、5位に転落した。しかし、[[高木啓充]]や[[鬼崎裕司]]の登場で息を吹き返し、10月9日の対阪神戦との直接対決に勝利して3位が確定し、2006年以来3年ぶりのAクラス入りで初のクライマックス・シリーズ進出を決めたが、結果的に後半戦の大失速が響いて初の勝率5割未満のCS出場チームとなっている<ref group="注釈">CS導入以前のパ・リーグ[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]では[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|2005年]]の西武が勝率5割未満で進出している。</ref>。 中日との[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックス・シリーズ第1ステージ]]では第1戦は石川の好投とデントナの逆転本塁打で勝利したが、[[2009年新型インフルエンザの世界的流行|新型インフルエンザ]]により、選手が離脱したことも響いて、2・3戦と中日に2連敗。1勝2敗で敗退した。オフに阪神からFA宣言した[[藤本敦士]]を獲得。五十嵐亮太が[[ニューヨーク・メッツ]]にFA移籍。 ; [[2010年の東京ヤクルトスワローズ|2010年]] 藤本敦士の活躍で開幕3連戦で鬼門の[[東京ドーム]]で勝ち越すなど好調な滑り出しだったが、4月中旬以降は失速。交流戦で9連敗を喫するなど、一時は最下位に転落した。5月26日の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦をもって高田が辞任<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=12655 高田監督の休養について] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100601212046/http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=12655 |date=2010年6月1日 }} 東京ヤクルトスワローズ 2010年5月26日付</ref>、ヘッドコーチの[[小川淳司]]が監督代行として指揮をとることになった。 ===== 第1次小川監督時代 ===== ※2010年の監督代行時代も含める。 ; 2010年 6月に打線の補強として[[ジョシュ・ホワイトセル]]、トレードではリリーフ陣の補強として[[渡辺恒樹]]や[[山岸穣]]を獲得。小川体制になってからは野手陣と投手陣共に奮起し、徐々にチーム状況が好転していく。6月に14勝8敗、7月に11勝8敗、8月に10連勝を含む18勝8敗と大きく勝ち越す。8月24日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦で勝率を5割に復帰させ、その後も勝率5割前後を維持しながら3位とのゲーム差を徐々に詰め、最小で3.5ゲームまで3位との差を詰める。しかし、最終的には前半戦の不振が響いた形となり、4位に終わり、CS進出はならなかったが、成績は72勝68敗4分けと2004年以来6年ぶりに勝ち越した。 この年はリーグ優勝した中日に相性が良く、セ・リーグ他球団が苦手としたナゴヤドームでリーグ唯一の勝ち越し(シーズン通算で7勝4敗1分け。小川体制移行後に限れば5勝1敗)、シーズン対戦成績も15勝8敗1分けと唯一勝ち越し、特に小川体制移行後は12勝3敗と圧倒した。高田監督時代に非常に苦手にしていた巨人に対しても、後半戦は同一カード3連勝を含む対巨人戦5連勝などもあり、小川体制に代わってからは8勝7敗1分けと勝ち越している。 ; [[2011年の東京ヤクルトスワローズ|2011年]] [[東日本大震災]]の影響により、開幕日が当初の3月25日から4月12日に延期された。開幕直後は[[ウラディミール・バレンティン]]や[[畠山和洋]]などが好調で4月下旬にはセ・リーグの首位に立った。その後も首位をキープし続け、8月には阪神に一時詰め寄られるも、9月に9連勝して阪神の追撃をかわし、対巨人戦は12勝8敗4分と11年ぶりに勝ち越した。しかし、バレンティンや畠山ら主軸打者がシーズン終盤から相次いで打撃不振に陥ったことに加え、主力選手の離脱が相次ぎ、最大10ゲーム差をつけていた2位中日との直接対決は9月以降で1勝8敗と大きく負け越し、2位に後退したため、最終的には70勝59敗15分、首位とは2.5ゲーム差で2001年以来10年ぶりのリーグ優勝を逃した。[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズファーストステージ]]で巨人に2勝1敗で勝利、球団初のファイナルステージに進出したが、中日に2勝4敗で敗退した。石井弘寿が現役を引退した。バレンティンが本塁打王を獲得。 ; [[2012年の東京ヤクルトスワローズ|2012年]] 1月17日に青木宣親がポスティングシステムでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。3月19日には球団事務所が東京都港区の東新橋から明治神宮野球場にほど近い北青山に移転した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト】球団事務所が北青山引っ越し |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2012-03-19 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120319-919853.html |accessdate=2012-03-19 }}</ref>。3月30日の開幕・巨人戦で球団史上初の開幕戦完封勝ちを記録(対する巨人は球団史上初の開幕戦完封負け)し、4月24日に対中日戦(神宮)に勝利し首位タイとすると<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120424.html 04月24日(火)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] ヤクルト球団公式サイト {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130526135254/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120424.html |date=2013年5月26日 }}</ref>、続く26日の同カードでも勝利して単独首位に立つが<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120426.html 04月26日(木)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] ヤクルト球団公式サイト</ref>、交流戦では5月30日に対日本ハム戦(神宮)に敗れて、チーム39年ぶりとなる10連敗を記録するなど<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120530.html 05月30日(水)東京ヤクルトスワローズ-北海道日本ハムファイターズ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130526071201/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120530.html |date=2013年5月26日 }}ヤクルト球団公式サイト</ref> 9勝15敗の最下位に終わり巨人・中日の首位争いから後退、前半戦は広島と同ゲーム差の4位となり、後半戦は広島との3位争いとなる。9月29日、対中日戦(神宮)に0対4で敗れたが、この日広島も阪神に敗れたため、3位確定とし2年連続のクライマックスシリーズ出場を決めている<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120929.html 09月29日(土)東京ヤクルトスワローズ-中日ドラゴンズ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130526071137/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20120929.html |date=2013年5月26日 }}ヤクルト球団公式サイト</ref>。[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズファーストステージ]]では、中日と対戦。1勝1敗とした第3戦で1対0でリードしていた8回裏に[[トニ・ブランコ]]に満塁本塁打を打たれて逆転され、1勝2敗で敗退した<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20121015.html 10月15日(月)中日ドラゴンズ-東京ヤクルトスワローズ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20121019165432/http://www.yakult-swallows.co.jp/game/20121015.html |date=2012年10月19日 }}ヤクルト球団公式サイト</ref>。福地寿樹<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15283 福地選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20121012011243/http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15283 |date=2012年10月12日 }}ヤクルト球団公式サイト</ref>、[[宮出隆自]]<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15282 宮出選手が現役引退を表明、ファンの皆様、関係者の皆様へ] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20121025172059/http://www.yakult-swallows.co.jp/information/detail.php?article_seq=15282 |date=2012年10月25日 }}ヤクルト球団公式サイト</ref>が現役を引退し、林昌勇が退団した<ref>{{Cite news |title=【ヤクルト】林昌勇退団…5年で128S |newspaper=日刊スポーツ |date=2012-11-15 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20121115-1047261.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] }}</ref>。5月4日に宮本慎也が通算2000本安打を達成した。バレンティンが2年連続本塁打王を獲得。オフに元楽天の岩村明憲が7年ぶりに復帰<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/sports/news/20121212k0000m050022000c.html?inb=fa |title=ヤクルト:岩村が古巣復帰…7年ぶり |work=毎日.jp |publisher=毎日新聞 |date=2012年12月11日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131021150507/http://mainichi.jp/sports/news/20121212k0000m050022000c.html?inb=fa |archivedate=2013年10月21日 |deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。 ; [[2013年の東京ヤクルトスワローズ|2013年]] 神宮球場では31勝32敗1分だったが、5月以降は最下位に低迷し<ref name="週刊ベースボール、2013年12月9日号">{{Cite journal |journal=[[週刊ベースボール]] |date=2013-12-09 |page=92 }}</ref>、ビジターでは26勝51敗3分と大きく負け越した<ref name="週刊ベースボール、2013年12月9日号" />。特にバレンティン以外の野手で規定打席到達者が出ないなど、野手陣の不調・故障が響いた。9月23日の対阪神戦(甲子園)に0対2で敗れ、クライマックスシリーズ進出の可能性が消滅し、2010年以来3年ぶりのBクラスが確定し<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130924/swa13092405020000-n1.html バレ沈黙3の0…ヤクルトCS完全消滅]{{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130930002521/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130924/swa13092405020000-n1.html |date=2013年9月30日 }}スポーツニッポン2013年9月24日配信</ref>、続く10月1日の対巨人戦(神宮)で1対0で敗れ、2007年以来6年ぶりの最下位が決定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 6年ぶり最下位決定「申し訳ない。監督の力不足」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2013-10-01 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/01/kiji/K20131001006728150.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=[[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]] }}</ref>。[[宮本慎也]]、[[藤本敦士]]が現役を引退した<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130827/swa13082705060003-n1.html 宮本、5年以内にヤクルト監督! 涙なし引退会見] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140113003613/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130827/swa13082705060003-n1.html |date=2014年1月13日 }} サンケイスポーツ 2013年8月27日配信</ref><ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20130910/swa13091005020001-n1.html ヤクルト・藤本が引退会見「野球全うできて幸せ」] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140201204326/http://www.sanspo.com/baseball/news/20130910/swa13091005020001-n1.html |date=2014年2月1日 }} サンケイスポーツ 2013年9月10日配信</ref>。バレンティンが8月に日本プロ野球新記録の月間18本塁打を記録するなど<ref>{{Cite news |title=バレンティン 月間本塁打日本新!8月17本目の51号 |newspaper=スポニチアネックス |date=2013-08-28 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/28/kiji/K20130828006503890.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、本塁打を量産、9月15日の対阪神戦(神宮)で日本プロ野球新記録のシーズン56号本塁打とアジア野球新記録の57号本塁打<ref>{{Cite news |title=バレンティン プロ野球新の次は2打席連続57号弾!アジア記録も抜く |newspaper=スポニチアネックス |date=2013-09-15 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/15/kiji/K20130915006623210.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>を記録し、この年60本として3年連続本塁打王を獲得。投手では新人の[[小川泰弘]]が16勝4敗で最多勝と勝率第1位投手賞の2冠を獲得<ref>{{Cite news |title=バレ、3年連続本塁打王、ブランコ2冠、新人の小川が投手2冠 |newspaper=スポニチアネックス |date=2013-10-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006774860.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。 ; [[2014年の東京ヤクルトスワローズ|2014年]] 終盤まで最下位に低迷し、9月22日に小川淳司監督が球団に申し入れ、今季限りで監督を辞任することを会見で表明<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 小川監督が辞意 球団に伝え受理「当然のこと」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2014-09-22 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/22/kiji/K20140922008973540.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>、9月29日の対広島戦(マツダスタジアム)に敗れ、2年連続最下位が決定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト2年連続最下位「これが現状」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-09-29 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20140929-1374993.html |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。打撃陣は規定打席に到達して3割2桁本塁打を達成した選手を5人([[山田哲人]]、[[雄平]]、[[畠山和洋]]、[[川端慎吾]]、バレンティン)擁し、チーム打率・得点数はリーグトップだった反面、規定投球回に到達した投手はリーグ防御率最下位の石川雅規のみであり、チーム防御率・失点数は最下位だった。10月8日、後任にチーフ打撃コーチの[[真中満]]の就任が発表された<ref>{{Cite news |title=ヤクルト真中新監督会見「覚悟して勝負」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2014-10-08 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141008-1379064.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。[[群馬ダイヤモンドペガサス]]に所属していたラミレスが現役を引退した。 オフに相川亮二が[[読売ジャイアンツ]]にFA移籍。2年続けて最下位に陥った低迷から脱却するため、大型補強を敢行した。[[千葉ロッテマリーンズ]]からFA宣言した[[成瀬善久]]、[[北海道日本ハムファイターズ]]からFA宣言した[[大引啓次]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.npb.or.jp/players/2014fa_signed.html |title=2014年度 フリーエージェント宣言選手契約締結合意 |publisher=[[日本野球機構]] |accessdate=2014-11-25 }}</ref>、メジャーリーガーの[[ローガン・オンドルーセック]]<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201412/2014122900380]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>、読売ジャイアンツにFA移籍した相川の人的補償として[[奥村展征]]を獲得<ref name="sponichi009600460">{{Cite news|title=人的補償でヤクルト移籍の奥村が会見「最初は驚きましたが…」|newspaper=スポニチアネックス|date=2015-01-09|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/09/kiji/K20150109009600460.html|accessdate=2015-10-03|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>。 ===== 真中監督時代 ===== ; [[2015年の東京ヤクルトスワローズ|2015年]] 開幕後はプロ野球記録となる14試合連続3失点以下を達成する<ref>{{Cite news |title=ヤクルト連続3失点以下の日本記録15戦目で途切れる |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-04-13 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1460708.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>など、投手陣が好調だったこともあり、一時は首位に立ったが、5月に入ると9連敗を喫し、最下位に転落した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト9連敗 真中監督「ずっとあと一本という展開」 |newspaper=産経ニュース |date=2015-05-16 |url=https://www.sankei.com/article/20150516-UOT4OWL2ZJIX3DKXRG2DD65XPQ/ |accessdate=2015-10-03 |publisher=産業経済新聞社 }}</ref>。バレンティンや[[ラスティングス・ミレッジ]]ら主軸選手の怪我もあり、5月22日に[[ミッチ・デニング]]([[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]])と基本合意した<ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-22 |url=http://www.niigata-albirex-bc.jp/news.php/archives/id/1966/ |title=デニング選手東京ヤクルトスワローズとの移籍基本合意のお知らせ |publisher=新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ |accessdate=2015-05-22 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-22 |url=http://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/18340 |title=ミッチェル・ジョン・デニング選手と契約 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-05-22 }}</ref>。前半戦は4位ながらも首位・DeNAとは僅差の状態でターンした<ref>{{Cite news |title=セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-07-16 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html |accessdate=2015-10-03 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。後半戦突入後は阪神・巨人とのデッドヒートの末、9月24日の対DeNA戦に4-2で勝利し、2012年以来3年ぶりのAクラス入りとセ・リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決め<ref>{{Cite news |title=ヤ4-2D ヤクルトが4連勝 |newspaper=産経新聞 |date=2015-09-24 |url=http://www.sankei.com/sports/news/150924/spo1509240052-n1.html |accessdate=2015-09-24 }}</ref>、9月27日の対巨人戦に勝利し、優勝へのマジックナンバー「3」を点灯させた<ref>{{Cite news |title=ヤクルト 優勝へのマジックナンバー3が点灯 |newspaper=NHKニュース |date=2015-09-27 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150927/k10010249921000.html |accessdate=2015-10-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150929210513/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150927/k10010249921000.html |archivedate=2015年9月29日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。そして10月2日の対阪神戦([[明治神宮野球場|神宮球場]])に2-1で勝利し、2001年以来14年ぶり<ref>{{Cite news|title=ヤクルト サヨナラで下克上V! 2年連続最下位から巨人4連覇阻止|newspaper=スポニチアネックス|date=2015年10月2日|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/02/kiji/K20151002011247330.html |accessdate=2015-10-2|publisher=スポーツニッポン新聞社}}</ref>かつ球団名が現在のものになってから7回目のリーグ優勝を果たした。前年度最下位からのリーグ優勝は1976年の巨人以来<ref group="注釈">セ・リーグでは4度目、パ・リーグ(後述の近鉄)を含め、5度目の事例。</ref>となり、2年連続最下位からのリーグ優勝は2001年の[[大阪近鉄バファローズ]]以来となった。また、巨人と中日以外のチームがリーグ優勝を果たすのは2005年の阪神以来10年ぶりである(2006年から2015年の間は中日と巨人がリーグ優勝をしていた)。バーネットが自身2度目となる[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]]、川端慎吾が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]、山田哲人が[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]と[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]、畠山和洋が[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]のタイトルを獲得し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1584288.html |date=2017-10-04 |title=ヤクルト 打撃3冠部門の1、2位独占は史上初 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-11-28}}</ref>、山田は史上9人目となる[[トリプルスリー]]も達成した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK00447_U5A001C1000000/ |date=2015-10-04 |title=ヤクルト・山田、トリプルスリー達成 史上9人目 |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=2017-11-28}}</ref>。なお打撃三部門をヤクルトの選手が独占したが、過去には三冠王や二冠王+他の同僚選手が一冠はあるものの、「同一チームの異なる3選手で打撃タイトル三部門を一冠ずつを獲得」は、今回のヤクルトが史上初である。[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]でも4勝1敗(アドバンテージの1勝を含む)にて巨人を下して14年ぶりの日本シリーズ進出が決定。[[2015年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[福岡ソフトバンクホークス]]と対戦する中、第5戦で行われた引退試合を最後に[[松元ユウイチ]]が現役を引退した。その後、5戦全て先発投手<ref group="注釈">第1戦と第5戦は石川、第2戦が小川、第3戦は杉浦、第4戦は館山である。</ref>が5イニング持たずに1勝4敗で敗退して2001年以来の日本一を逃した。 オフにオリックス・バファローズを自由契約となった[[坂口智隆]]、北海道日本ハムファイターズを自由契約となった[[鵜久森淳志]]を獲得<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1565730.html ヤクルトが坂口智隆と鵜久森淳志の獲得を発表] 日刊スポーツ 2015年11月13日</ref>。バーネットが[[テキサス・レンジャーズ]]に移籍<ref>[http://www.iza.ne.jp/kiji/sports/news/151216/spo15121608440004-n1.html ヤクルト救援右腕のバーネット、レンジャーズへ「ずっと夢だった」] iza(産経新聞デジタル) 2015年12月16日</ref>。[[由規]]が肩の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。 ; [[2016年の東京ヤクルトスワローズ|2016年]] 3月23日、選手10名が去年夏の高校野球決勝の勝利チームを予想し、賭け金を集め、予想の当たったものに分配していたことが発覚した<ref>{{Cite news |title=続々と出てくる「賭け問題」 2球団が相次ぎ発表 |newspaper=テレビ朝日 |date=2016-03-22 |url=http://news.tv-asahi.co.jp/news_sports/articles/000070879.html}}</ref>。{{Main|読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題}} チームは主砲のバレンティンを欠いたことが響き、2007年以来9年ぶりの開幕4連敗を喫した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/03/30/kiji/K20160330012306830.html |title=ヤクルト9年ぶり開幕4連敗 真中監督「いつまで続くかね」 |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2017-09-01}}</ref>。以降もドラフト1位ルーキーの[[原樹理]]が右肩甲下筋肉離れ、エースの石川が左脹脛痛、館山も右肘の手術と投手陣だけでなく、山田が左第八肋骨骨挫傷、昨年首位打者の川端が右足舟状骨骨折、打点王の畠山も左手首痛、雄平が左脇腹痛、大引も腰痛で離脱と昨年にはなかった主軸の故障者が続出したことで、下位に低迷した<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20160623/bbl1606231700008-n1.htm 燕・由規復帰は“株主対策”の切り札? 総会で投壊追及され球団社長は…] zakzak(夕刊フジ) 2016年6月23日</ref>。6月26日の中日戦では守護神・オンドルセクが守備固めで入っていた[[比屋根渉]]のミスで同点に追い付かれたことに対し、降板後に暴言を吐き、謹慎処分が下された事が引き金となって7月21日に退団<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1682192.html |title=オンドルセクがヤクルト退団「心の中では葛藤が…」 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>し、更なる苦境に陥った。低迷するチーム状況の中、5月30日に新外国人として[[河載勲|ジェフン]]を獲得し、7月5日に由規を支配下選手に復帰させ、17日にオリックスから[[八木亮祐]]とのトレードで[[近藤一樹]]を獲得し、テコ入れを図り、由規が24日の対中日戦で1786日ぶりの勝利を挙げた<ref>{{Cite news |title=ヤクルト由規1786日ぶり白星「感極まってます」 |newspaper=日刊スポーツ |date=2016-07-24 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1683810.html |accessdate=2016-07-24}}</ref>。9月19日にDeNAが勝利したことで、Bクラスと5位が確定した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト Bクラス確定 真中監督「結果が全て」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2016-09-20 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/09/20/kiji/K20160920013387630.html |accessdate=2016-09-22 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。山田が2年連続のトリプルスリーを獲得した<ref>{{Cite news |title=ヤクルト・山田哲人が2年連続「トリプルスリー」&100打点達成、史上初の快挙 |newspaper=産経ニュース |date=2016-10-01 |url=https://www.sankei.com/article/20161001-4UNHBLG4RBJRJLG5J5LAUC2MRI/ |accessdate=2016-10-02 |publisher=産経新聞社 }}</ref>ものの、投手陣はチーム防御率4.73(5位DeNAと約1点差)、失点694(5位DeNAと106点差)とセ・リーグ最下位<ref>{{Cite news |title=2016年度 セントラル・リーグ チーム投手成績 |url=http://npb.jp/bis/2016/stats/tmp_c.html |accessdate=2016-11-19 |publisher=[[日本野球機構]] }}</ref>、1970年以来の2桁勝利投手ゼロ<ref>{{Cite news |title=2016年度 東京ヤクルトスワローズ 個人投手成績(セントラル・リーグ) |url=http://npb.jp/bis/2016/stats/idp1_s.html |accessdate=2016-11-19 |publisher=[[日本野球機構]] }}</ref>と不名誉な記録を残した。森岡良介が現役を引退した。 オフに田中浩康が自由契約となった(DeNAに移籍)。 ; [[2017年の東京ヤクルトスワローズ|2017年]] 前年と同じく川端<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170817-KM3IKOB7PJL7BMKBWARDPNVZUM/ |title=ヤクルト・川端がヘルニア手術決断 今季1軍復帰絶望 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、畠山<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1810379.html |title=ヤクルト畠山、長期離脱濃厚…真中監督「故障多い」 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、バレンティン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170608-QRN2OB7D5RN6FGABDNBB34U6E4/ |title=ヤクルト、大きな痛手…バレが右足の違和感訴え抹消へ |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、[[中村悠平]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170614-BYR376ZNXJJWNEMINYSVMG4TWM/ |title=ヤクルト・中村が右大腿骨の骨挫傷で抹消へ 「けがで離脱するのが一番悔しい」 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、小川<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170601-3L4LA4YKWNJVRKH6E2OKEB7THQ/ |title=ヤクルト・ライアン小川が肉離れ…復帰のめど立たず |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、[[秋吉亮]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/04/kiji/20170704s00001173297000c.html |title=ヤクルト守護神・秋吉 長期離脱か…右肩甲下筋肉離れ 最悪今季絶望も |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2017-09-01}}</ref>、雄平<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1847774.html |title=ヤクルト雄平が右手首骨折、今季絶望的「痛手」監督 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>、大引<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20170707-RSEOYVCQDRLOVOR3BVC2IUVWYQ/ |title=“ヤ戦病院”5連敗…ヤクルト、左肩負傷の大引も離脱 |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2017-09-01}}</ref>らチームの主力級に故障が相次ぎ、交流戦から終盤にかけて最下位に低迷。5月30日の[[オリックス・バファローズ]]戦から6月10日の[[千葉ロッテマリーンズ]]戦まで10連敗、7月1日の阪神戦から7月21日の阪神戦まで14連敗を喫した。前半戦だけで二度の10連敗以上の大型連敗を喫し、これは1956年の[[高橋ユニオンズ]]以来61年ぶりであった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1854423.html |date=2017-07-12 |title=ヤクルト61年ぶりの珍記録!前半で2度の10連敗 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-07-14}}</ref>。7月26日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)で史上4度目、セントラル・リーグでは66年ぶりとなる最大10点差(延長10回)をひっくり返しての逆転勝利を収める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/07/27/kiji/20170726s00001173226000c.html |date=2017-07-27 |title=ヤクルト セ66年ぶり10点差逆転勝利 大松今季2度目代打サヨナラ弾 |publisher=スポニチ |accessdate=2017-07-27}}</ref>も、記録的な低迷は続き、最終的には球団ワースト記録を更新する96敗を喫し、2014年以来3年ぶりの最下位が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710040000106.html |date=2017-10-04 |title=ヤクルト最悪更新96敗 退任真中監督涙の胴上げ |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-10-13}}</ref>。また、チーム打率・得点・本塁打もリーグ最下位に終わった。真中監督が辞任し、後任監督として2014年まで指揮を執った小川淳司が復帰することになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201710050000461.html |date=2017-10-05 |title=ヤクルト小川淳司監督復帰 チーム力の強化を |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-10-13}}</ref>。 ===== 第2次小川監督時代 ===== ; [[2018年の東京ヤクルトスワローズ|2018年]] 2月7日に元メジャーリーガーの青木宣親が7年ぶりに復帰<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201802070000041.html |date=2018-02-07 |title=青木7年ぶり復帰会見「ヤクルトを愛しています |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2018-02-15}}</ref>。序盤は苦戦したものの、交流戦開始頃から巻き返し、6月17日の日本ハム戦に勝利して初めて交流戦最高勝率を決めた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20180617/npb18061718260005-n1.html |date=2018-06-17 |title=ヤクルトが初の交流戦最高勝率、パは9年連続の勝ち越し |publisher=サンケイスポーツ |accessdate=2018-10-12}}</ref>。過去2年は怪我人に泣かされたが、大きな故障者も出ず、後半戦でもAクラスを維持し、10月1日に3年ぶりとなる3位以内とCS進出が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLSSXK10986_R01C18A0000000/ |date=2018-10-01 |title=ヤクルトのCS進出決定 セ・リーグ、3年ぶり5度目 |publisher=日本経済新聞 |accessdate=2018-10-12}}</ref>。2日のDeNA戦に3-2で勝利して2位が確定し、神宮球場でのCS開催権を得た<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/10/02/kiji/20181002s00001173417000c.html |date=2018-10-02 |title=セはヤクルトが2位、パはソフトバンクの2位と日本ハムの3位が決定 |publisher=スポーツニッポン |accessdate=2018-10-12}}</ref>。しかし、迎えた[[2018年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|CS]]では巨人に2連敗し、2015年以来3年ぶりの日本シリーズ進出はならなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/10/14/post227964/ |title=ヤクルトCS初のノーヒットノーランで終戦 小川監督「勝負に負けたということ」 |publisher=Full-Count |date=2018-10-14 |accessdate=2021-05-29}}</ref>。[[松岡健一]]、[[武内晋一]]、[[山本哲哉]]、鵜久森淳志が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2018/12/06/post261564/|title=最下位から2位に躍進したヤクルトの戦力整理…7選手に戦力外を通告|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>。 オフに成瀬善久が自由契約となった(オリックスに移籍)。ソフトバンクを自由契約となった[[寺原隼人]]を獲得。 ; [[2019年の東京ヤクルトスワローズ|2019年]] 1月30日にソフトバンクを自由契約となった五十嵐亮太が10年ぶりに復帰<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/spo/news/190125/spo1901250012-n1.html |title=五十嵐亮太、10年ぶりヤクルト復帰の"紆余曲折" 本人もビックリ「最初は間違い電話だと」 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=zakzak}}</ref>。4月26日と5月26日に青木宣親、[[山田哲人]]、[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]による同シーズン2度の三者連続本塁打を記録したが、5月14日から6月1日にかけてリーグワーストに並ぶ16連敗を喫する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/65974/ |title=ヤクルト、49年ぶりの屈辱。リーグワーストタイ16連敗 前半戦に大量失点、打線も4安打完封 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=ベースボールチャンネル}}</ref> など、序盤から苦しんだ。シーズンを通しては[[山田哲人]]、[[村上宗隆]]、[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]の3人が30本塁打以上を記録したが、投手陣が苦しんだこともあり、前年の2位から一転して借金23の最下位に沈んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/baseball/npb/9211 |title=数字で見る2019年のヤクルト、656得点はセ2位も投手成績は軒並みワーストを記録 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=SPAIA}}</ref>。[[小川淳司]]監督の辞任が決定し、[[宮本慎也]]ヘッドコーチの辞任も発表され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201909100000476.html |title=ヤクルトが小川監督の辞任了承、宮本ヘッドも辞任 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=日刊スポーツ}}</ref>、次期監督には二軍監督を務めていた[[高津臣吾]](2022年からは「髙津臣吾」表記<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinsho.kobunsha.com/n/ne2f9273bb15f|title=一軍監督になって、すぐに変えられたこととは?――髙津臣吾著『一軍監督の仕事』より本文、目次公開|date=2022-05-01|work=光文社新書 公式note|accessdate=2022-10-01}}</ref>)が就任することとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/72192/ |title=ヤクルト、高津臣吾氏の監督就任を発表 現2軍監督、2015年には投手コーチでリーグV貢献 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=ベースボールチャンネル}}</ref>。村上宗隆は高卒2年目ながら36本塁打96打点を記録し、新人王のタイトルを獲得、10代におけるシーズン最多本塁打を更新、[[中西太]]が1953年に記録した高卒2年目以内の最多本塁打に並んだ<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2019/09/21/post546638/ |title=燕村上が36号弾! 高卒2年目以内の最多本塁打記録に並ぶ |accessdate=2020年10月26日 |publisher=Full-Count}}</ref>。ドラフトでは目玉であった星稜高校の[[奥川恭伸]]を3球団競合の末に交渉権を獲得した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.baseballchannel.jp/npb/73104/ |title=【ドラフト速報】星稜・奥川泰伸は3球団競合でヤクルトが交渉権獲得! 大船渡・佐々木朗希は4球団競合でロッテ |accessdate=2020年10月26日 |publisher=ベースボールチャンネル}}</ref>。また、メジャー通算1367安打、14年は青木と同僚で15年には遊撃手として[[ゴールドグラブ賞]]を受賞した[[アルシデス・エスコバー]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/10/31/kiji/20191031s00001173071000c.html|title=ヤクルト、エスコバー獲得 メジャー1367安打の大物遊撃手、DeNAエスコバーのいとこ|accessdate=2020年10月26日|publisher=スポニチ}}</ref>、[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]を退団した[[嶋基宏]]、[[今野龍太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2019/12/04/post624729/ |title=ヤクルト、楽天退団の嶋、今野の獲得を発表 背番号は「45」、「69」に決定 |accessdate=2020年11月15日 |publisher=Full-Count}}</ref>、ソフトバンクとの再契約を保留していた[[長谷川宙輝]]を支配下選手として獲得<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/561953/ |title=ソフトバンク痛い流出「ルールなので…」 長谷川宙支配下でヤクルトへ |accessdate=2020年11月15日 |publisher=西日本スポーツ}}</ref>。9年間在籍して主軸を張ってきたバレンティンがソフトバンクに移籍<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20191216-OHT1T50254.html?page=1|title=【ソフトバンク】バレンティン、年俸5億円2年契約 背番号4「全力を尽くす」|accessdate=2021-11-25|website=スポーツ報知}}</ref>。館山昌平、畠山和洋、[[三輪正義]]、寺原隼人が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2019/12/17/post637275/|title=最下位ヤクルトの戦力整理…バレンティンが鷹移籍、館山や畠山が現役退く|accessdate=2021-11-25|website=Full-Count}}</ref>。 ===== 高津→髙津監督時代 ===== ; [[2020年の東京ヤクルトスワローズ|2020年]] [[新型コロナウイルス感染拡大]]の影響で3月20日に予定されていたプロ野球の開幕は延期される<ref>{{Cite web|和書|url=https://thedigestweb.com/baseball/detail/id=11666 |title=プロ野球の開幕延期が決定。新型コロナ感染拡大を受け、NPBが発表 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=THE DIGEST}}</ref>ことになり、6月19日に無観客試合で開幕した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN6M4RZQN6KUTQP02B.html |title=【詳報】プロ野球、異例の開幕戦 コロナで無観客試合 |accessdate=2020年10月26日 |publisher=朝日新聞DIGITAL}}</ref>。序盤は上位争いを展開していたが、徐々に失速していった。10月14日のDeNA戦からベンチ担当の[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]投手コーチとブルペン担当の石井弘寿投手コーチを入れ替えるなどしたが、2年連続最下位に終わった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010300001237.html|title=ヤクルト2年連続の最下位確定「毎日反省」高津監督|accessdate=2021-11-24|website=日刊スポーツ}}</ref>。五十嵐亮太、[[中澤雅人]]、[[井野卓]]が現役を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://full-count.jp/2020/12/15/post1001301/|title=最下位ヤクルトが行った戦力整理 14年ドラ2右腕ら戦力外、新助っ人全員が自由契約|accessdate=2021-11-24|website=Full-Count}}</ref>。 オフに[[風張蓮]]、近藤一樹が自由契約となった(風張はDeNA、近藤は[[香川オリーブガイナーズ]]に移籍)。長打力不足による貧打解消のため、前[[ピッツバーグ・パイレーツ|パイレーツ]]の[[ホセ・オスナ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20201127-G4HTJCIPMRKKBL245N5HVXIYJ4/|title=ヤクルト、新外国人選手にオスナ獲得 大リーグ24本塁打の三塁手|accessdate=2021-11-24|website=サンケイスポーツ}}</ref>、前[[クリーブランド・ガーディアンズ|インディアンス]]の[[ドミンゴ・サンタナ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20201203-YUWIYZV2VBOB3DJPUVYY4JZKCA/|title=ヤクルトがメジャー通算77発のドミンゴ・サンタナと1年契約|accessdate=2021-11-24|website=サンケイスポーツ}}</ref>、ソフトバンクを退団した[[内川聖一]]を獲得。 ; [[2021年の東京ヤクルトスワローズ|2021年]] 開幕からサンタナ・オスナ二人を欠いたことが響き、開幕3連敗スタート、4戦目に初勝利上げた翌日に青木・川端を中心とした主力選手のコロナウイルスの離脱など出だしは苦難のスタートだったが、サンタナ・オスナ加入後のチームは投打ともに充実した成績を残し、最大7ゲーム差をつけられた阪神を追い抜き10月26日に6年ぶりのリーグ優勝。CSは[[読売ジャイアンツ]]相手に勝利し、6年ぶりの[[2021年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に出場。シリーズはオリックス相手に全6試合2点差以内の接戦の中、4勝2敗で制し、2001年以来20年ぶりかつ球団名が現在のものになってから6回目の日本一を達成し、最高の結果でシーズンを終えた。 ; [[2022年の東京ヤクルトスワローズ|2022年]] セ・リーグ初の交流戦完全優勝と29年ぶりとなるセ・リーグ連覇を達成<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/09/25/0015669904.shtml|title=ヤクルトが連覇 コロナ禍乗り越え 球団では野村克也監督以来の金字塔 新人サヨナラ打の大仕事|newspaper=デイリースポーツ online |publisher= 株式会社デイリースポーツ|date=2022-09-25|accessdate=2023-04-29}}</ref>。村上がシーズンを通して圧倒的な成績を残し、[[9月13日]]には日本選手最多タイとなるシーズン55本塁打を記録した。村上は最終的に日本選手単独最多56本塁打を放ち、打撃三部門すべてのタイトルを獲得し令和初の[[三冠王]]となった。 CSは阪神をスイープ(3戦全勝)して2年連続で[[2022年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に進出した。日本シリーズは前年と同様、オリックスとの顔合わせとなり、神宮での第1戦、京セラドーム大阪での第3戦は勝利し、第2戦も3点ビハインドの9回に内山が同点の3ランホームランで追いつき引き分けたが、シリーズを通して前年の日本シリーズは全て青木が務めていた2番が固定出来ず<ref group="注釈">山崎は第1戦と第2戦と第4戦で、宮本は第3戦、青木が第5戦と第6戦、マクガフと共に東京五輪の銀メダリストとなり、4月29日に加入した[[パトリック・キブルハン|パトリック・キブレハン]]が第7戦で務めた。</ref>.174。村上の前を打つ3番がノーヒット<ref group="注釈">第3戦以外は全て山田が務め20打数ノーヒット、それまでは1番を務めた塩見がその第3戦で3打数ノーヒットだった。</ref>だったのと抑えのマクガフが第5戦と第6戦で悪送球を犯して足を引っ張り、その村上も.192と低調で第4戦と第6戦は完封負け。第5戦はマクガフが[[吉田正尚]]にサヨナラの2ランホームランを浴び、第7戦は先発のサイスニードが1番に入った[[太田椋]]に日本シリーズ史上初の初球先頭打者本塁打を浴びると、5回2アウト満塁のピンチでは吉田正に押し出しのデッドボールを与えたのに続き、[[杉本裕太郎]]の放った打球をセンターの塩見(シーズンは2エラー)が後ろに逸らすミスを犯してしまい、走者一掃の3点タイムリーエラーとなってこれが致命傷となった。8回には村上のタイムリーとオスナのホームランで1点差に詰め寄るも4-5で4連敗を喫し、2勝4敗1分けで初の連続日本一とはならなかった。そのオスナも、2勝1分だった第3戦までは13打数8安打と当たっていたのが4連敗を喫した第4戦以降は17打数3安打とブレーキになってしまった。 ; [[2023年の東京ヤクルトスワローズ|2023年]] == 所属選手・監督・コーチ == {{See also|東京ヤクルトスワローズの選手一覧}} {{東京ヤクルトスワローズの選手・スタッフ|state=expanded}} == チーム成績・記録 == * チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。 === 試合、勝敗、勝率に関する記録 === [[Image:Tokyo Yakult Swallows Ranking.svg|thumb|320px|1950年から2016年までの順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]] {{See also|東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の年度別成績一覧}} * リーグ優勝 9回 : (1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年、2015年、2021年 - 2022年) * 日本一 6回 : (1978年、1993年、1995年、1997年、2001年、2021年) * セ・パ交流戦優勝・最高勝率 2回(2015年から2018年までは最高勝率) : (2018年、2022年) * クライマックスシリーズ優勝 3回 : (2015年、2021年 - 2022年) * Aクラス 22回 : (1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年、2009年、2011年 - 2012年、2015年、2018年、2021年 - 2022年) * Bクラス 52回 : (1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年、2010年、2013年 - 2014年、2016年 - 2017年、2019年 - 2020年、2023年) * 最下位 18回 : (1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年{{Refnest|group="注釈"|1966年は[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]と同率最下位。}}、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年、2013年 - 2014年、2017年、2019年 - 2020年) * 連続Aクラス入り最長記録 4年(2001年 - 2004年) * 連続Bクラス最長記録 12年(1962年 - 1973年) * 最大連勝 12連勝(1991年) * 最大連敗 16連敗(1970年、2019年) ** いずれも間に引き分けを挟んでいない連敗としては日本プロ野球ワースト記録である(引き分けを挟んだ場合の記録は1998年におけるロッテの18連敗)。 * 同一球場同一対戦相手の連敗記録 20連敗(1分け挟む)(1965年 - 1966年、神宮球場において中日相手に喫したもの。セ・リーグ記録{{Refnest|group="注釈"|パ・リーグ記録は、1954年から1956年にかけて、大映が後楽園球場で南海に喫した21連敗<ref>{{Cite journal |和書 |journal=週刊ベースボール |date=1999-12-13 |page=20 }}</ref>。}}) * すべて3点差以内の12連敗(1分け挟む)(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初) * 前年優勝チームによる12連敗(2023年、プロ野球史上初) * 最多勝 83勝(1997年) * 最多敗 96敗(2017年) * 最多引分 18分(2021年){{Refnest|group="注釈"|2021年は新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から延長戦が無かった。延長戦がある年では1978年・1981年の16分が最多。}} * 最高勝率 .631(1995年) * 最低勝率 .264(1970年) * 最小ゲーム差 2.5ゲーム(2011年) * 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年) === その他の記録 === * 1シーズン最多併殺打 140個(1996年、セ・リーグ記録) * 1シーズン連続試合得点 129試合(当時は130試合制、1978年4月1日(開幕戦)から10月8日まで、日本プロ野球記録) * ゲーム最多得点 22(1955年7月13日・対広島) * ゲーム最多失点 22(1999年7月22日・対横浜) * 最多本塁打 181本(2004年) * 最少本塁打 36本(1951年) * 最高打率 .283(2003年) * 最低打率 .201(1962年) * 最高防御率 2.29(1961年) * 最低防御率 4.76(1984年) * 連続安打打席数 11(2009年6月14日・対オリックス、日本プロ野球記録&ギネス世界記録) * 開幕14試合連続失点3点以下(2015年、日本プロ野球記録) * 延長1イニング最多得点 12(2019年4月10日・対広島、日本プロ野球記録) * 開幕5試合 合計失点2点以下(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初、プロ野球史上80年ぶり2度目) * 開幕5試合で4度の完封勝利(2023年、プロ野球2リーグ制以降で史上初、プロ野球史上80年ぶり2度目) === チーム個人記録 === ; 完全試合達成者 * [[宮地惟友]] 1956年9月19日 対[[広島東洋カープ|広島カープ]] ([[石川県営兼六園野球場]]) 球団初、プロ野球史上3人目 * [[金田正一]] 1957年8月21日 対[[中日ドラゴンズ]]([[ナゴヤドーム#概要|中日スタヂアム]]) * [[森滝義巳]] 1961年6月20日 対中日ドラゴンズ([[後楽園球場]]) : <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> ; [[ノーヒットノーラン]]達成者 * [[金田正一]] 1951年9月5日 対[[阪神タイガース|大阪タイガース]]([[大阪スタヂアム]]) 球団初、NPB最年少記録(18歳35日) * [[大脇照夫]] 1956年5月3日 対中日ドラゴンズ(中日スタヂアム) * [[テリー・ブロス]] 1995年9月9日 対[[読売ジャイアンツ]]([[東京ドーム]]) * [[石井一久]] 1997年9月2日 対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]([[横浜スタジアム]]) * [[リック・ガトームソン]] 2006年5月25日 対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]([[明治神宮野球場]]) 交流戦では初、及び球団としては本拠地での初達成 * [[小川泰弘]] 2020年8月15日 対[[横浜DeNAベイスターズ]](横浜スタジアム) ; 通算2000本安打達成者 いずれも[[日本プロ野球名球会|名球会]]メンバー * [[大杉勝男]] 1981年7月21日 対中日ドラゴンズ([[浜松球場]]) 投手[[小松辰雄]] * [[若松勉]] 1985年10月9日 対[[阪神タイガース]]([[阪神甲子園球場]]) 投手[[リチャード・ゲイル]] * [[古田敦也]] 2005年4月24日 対[[広島東洋カープ]]([[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]) 投手[[大竹寛]] * [[宮本慎也]] 2012年5月4日 対広島東洋カープ(明治神宮野球場) 投手[[福井優也]] ; 通算200勝達成者 [[日本プロ野球名球会|名球会]]創設メンバーだが、その後退会状態となった * [[金田正一]] 1958年6月6日 対大阪タイガース(後楽園球場) NPB最年少記録(24歳10ヶ月) ; 通算250セーブ達成者 [[日本プロ野球名球会|名球会]]メンバー * [[高津臣吾]] 2003年8月16日 対中日ドラゴンズ([[ナゴヤドーム]]) NPB史上初 ; シーズン200本安打達成者 * [[青木宣親]](2005年・2010年)NPB史上2人目、複数回の達成はNPB史上初 * [[アレックス・ラミレス]](2007年)NPB史上3人目、右打者の達成はNPB史上初 ; [[トリプルスリー]]達成者 * [[山田哲人]] 打率.329 本塁打38本 盗塁34個(2015年)プロ野球史上9人目、球団史上初 * 山田哲人 打率.304 本塁打38本 盗塁30個(2016年)2年連続、かつ複数回のトリプルスリー達成はNPB史上初 * 山田哲人 打率.315 本塁打34本 盗塁33個(2018年) ; シーズンホームラン記録 * [[ウラディミール・バレンティン]]60本(2013年)日本プロ野球記録、アジア野球記録 '''日本人シーズンホームラン記録''' ・[[村上宗隆]]56本(2022年) NPBにおけるアジア人打者・左打者としてのシーズン記録 == 歴代本拠地 == * 1950年 - 1963年:[[後楽園球場]] : ([[プロ野球地域保護権|フランチャイズ制度]]の実施は1952年から) * 1951年:[[武蔵野グリーンパーク野球場]] * 1964年 - :[[明治神宮野球場]]([[日本の大学野球|大学野球]]、[[日本の高校野球|高校野球]]等で神宮球場が使えない場合は主催試合を地方球場で開催する) : ※なお、試合前の事前練習は、[[学生野球]]([[東京六大学野球連盟]]他)を優先する関係で、本球場で使うのは学生野球の試合がない時に限られるため、原則として[[明治神宮外苑軟式グラウンド]]で唯一の[[人工芝]]対応であるこぶしグランド、ないしは[[明治神宮外苑室内球技場]]を使って行われる(神宮第2球場も人工芝球場であるが、学生野球の開催時間帯以外は、[[明治神宮外苑ゴルフ練習場]]西練習場として使うため、野球の練習・試合は事実上不可だった)。 == チームの特徴 == === 球団名 === 「スワローズ」の名称は、当時の国鉄では唯一の特急列車、かつ日本最速だった「[[つばめ (列車)#太平洋戦争後の展開|つばめ]]」号に由来する。[[球団旗]]には、列車の[[ヘッドマーク]]等に使われていた「つばめマーク」を採用し、「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使っている。スポーツ新聞の見出しでも「'''燕'''」あるいは「'''ツバメ'''」と書かれる事もある。 * ニックネーム決定の際、国鉄職員を対象とした公募を行ったところ、鉄道関係では「スワロー」「アイヤンアイゼン」「ホイスル」「ホイール」「エンジン・レイルウエー」「レールロード」「エツキスプレス」「弁慶」「レツド・キャツプ(赤帽)」「大車輪」「ポツポ」「サービス」「ステーション」等が、動物名では「熊」「象」「麒麟」「ライオン」「コンドル」「かもめ」「むかで」「山猫」等が、変わったところでは「キリバース」「スリツパーズ」「ポパイ」等の応募があった<ref>「国鉄球団ニックネーム珍綺色々」『交通新聞』1950年1月26日.2-3面</ref>。最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース<ref group="注釈">国鉄の[[社章|紋章]]「[[動輪]]に[[桐]]」に由来。球団設立当初はユニフォームの袖章にも使われた。</ref>」の2つである。しかし国鉄の[[社章]]「動輪に桐」は一般にそれほど知られておらず、国鉄内部向けの印象が強かった。一方、[[ツバメ]]は古来スピードの象徴で、スピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、「スワローズ」で決定した、という経緯がある(徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』参照)。 * 元来「[[つばめ (列車)|燕]]」は国鉄の象徴的な存在だった。1950年に[[国鉄バス|国鉄自動車局]]がシンボルマークに「燕」を一般公募で採用しており、現在の[[JRバス]]各社がツバメをマスコットキャラクターとして継承しているのもその名残である。[[コスモ石油|旧・丸善石油(現・コスモ石油)]]がツバメのマークを使っていたのも、開業当初に[[鉄道省]]とのつながりが深かったからである。現在の[[九州新幹線]]でも列車の愛称に「[[つばめ (JR九州)|つばめ]]」号が使用されている。 * 英語では、燕を意味する {{lang-en-short|[[wikt:en:swallow|swallow]]}} の a はローマ字読みではなく、ショット {{lang-en-short|[[wikt:en:shot|shot]]}} の o と同じ発音であるため、スウォローズが近い。 * 「国鉄は当初『コンドルズ』にしようとしたが、本業の鉄道が『“混んどる”ず』ではマイナスイメージだから取り止めた」「『“座ろう”ず』にすれば鉄道業としては快適なイメージだから採用した」という俗説が有名だが、これは[[漫才]]のジョークが元ネタである<ref name="unihomumonogatari" />。ただし、国鉄球団の母体となった交通協力会が発行する鉄道業界紙である「交通新聞」の国鉄球団特集記事において「国鉄球団ニックネーム懸賞応募の中で多いのはスワロー(燕)だが、一方コンドル(禿鷹)も相当ある。そこで懸賞子曰く『コンドルはいかんいかん、まるで「混んどる」みたいでよくない、矢つ張りスワローは「坐ろう」に通じて感じがいゝよ』」と掲載している<ref>「”禿鷹”より”燕”」『交通新聞』1950年1月26日.2面</ref>ので、あながち俗説と断じることはできない。なお、[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]にも「コンドル」をチーム名候補とした話があるが、こちらは球団史にも記載されており、根拠のないジョークではない。 * 「アトムズ」は当時の親会社だった[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で[[アニメーション|アニメ]]が放映され、球団改名後[[産経新聞|サンケイ新聞]]の日曜版にも漫画原作が連載された[[手塚治虫]]原作の『[[鉄腕アトム]]』からとった。なお[[広島東洋カープ]]が創設された当初、アトムズも球団名の候補に挙がっていたといわれている([[広島東洋カープ#チームの特徴]]を参照。由来は異なる)。なお前述の経緯から、1969年だけは球団名・法人名を純粋にニックネームのみの「アトムズ(球団)」とした。 === マスコット === [[File:Tokyo Yakult Swallows-1.jpg|thumb|神宮球場の「つば九郎」と「つばみ」(2017年9月2日撮影)]] ; 現在 * つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。{{Main|つば九郎}} * つばみ - つば九郎の妹。1999年登場。{{Main|つばみ}} [[ペットマーク]]は、基本的につば九郎を使ったものが使用されるが、一部メディアでは燕太郎を使ったものを使用。 ; 過去 * アトム - アトムズ時代の1966年から1973年まで使用。漫画「[[鉄腕アトム]]」の主人公。[[球団旗]]や[[ペットマーク]]等に使用。 * ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。通称「ボール坊や」<!--オフィシャルグッズ販売カタログ表記より-->、正式名称はなし。<!--ヤクルトスワローズへ正式確認済み-->その後、復刻グッズでは「ボール君」表記。 * [[ヤー坊]] - 1978年から1979年頃には登場し<ref group="注釈">1978年から1979年に在籍した[[デーブ・ヒルトン (野球)|デイヴ・ヒルトン]]の本塁打を出迎える写真が[[ベースボール・マガジン社]]に残っている(参考:『[[ベースボールマガジン]]1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!』 - 23ページに写真掲載)。また、1979年12月発行の漫画単行本『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』第3巻でツバメのマスコットがホームランを打った選手を出迎えるシーンの描かれた作品が掲載されている。</ref>、つば九郎登場(1994年)の前年まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。 * スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在した女の子のツバメのキャラクター。 ** なおヤー坊、スーちゃんは、日本プロ野球初の着ぐるみキャラクターである。 ** ヤー坊、スーちゃんの着ぐるみは2003年に春季キャンプ地の[[浦添市]]に寄贈され、同市で毎年2月に行われる「てだこウォーク」に参加していた。その後、担当職員の交代で寄贈の経緯や名前が分からなくなっていたが、2014年2月に浦添警察署に貸し出され「なんちゃってつば九郎」の名前で活動したことをきっかけにヤー坊とスーちゃんであることが確認された<ref>{{Cite news |title=浦添の「なんちゃってつば九郎」、正体判明 |newspaper=[[沖縄タイムス]] |date=2014-03-20 |url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/37904 |accessdate=2020-11-20 }}</ref>。 * 燕太郎(えんたろう) - 2005年登場、2014年5月引退。スワローズのユニフォームを着たツバメ。{{Main|燕太郎}} * トルクーヤ - 2014年6月登場、2023年2月引退。[[メキシコ]]出身の[[覆面レスラー]]。{{Main|トルクーヤ}} === 応援スタイル === {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} [[画像:Meiji Jingu Stadium.JPG|thumb|right|200px|東京音頭に合せて踊るスワローズファン(神宮外野席)]] {{See also|チャンステーマ}} 応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入ると[[傘|ビニール傘]]を振りながら[[東京音頭]]を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使ったのは[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)]]であるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。 * 東京音頭の前奏・間奏部分で以前は「くたばれ○○(相手球団)」であったが現在は相手球団とは無関係に一部のファン(現在は主に対戦相手球団のファン)が「くたばれ[[読売ジャイアンツ|讀賣]]」と歌詞を付ける。これは応援団主導で行っているのではなく、2010年から応援団は「東京ヤクルト」と連呼するようにと呼びかけられている<ref>{{Cite web|和書|author=sirguiel@ツバメ軍団 |date=2009-07-17 |url=http://blog.livedoor.jp/tsubame_okada/archives/50929688.html |title=7/16 東京音頭の前奏 |work=ツバメ軍団日誌! |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。 * 近年はチャンステーマに[[JITTERIN'JINN]]の「[[夏祭り (JITTERIN'JINNの曲)|夏祭り]]」や「[[ルパン三世のテーマ]]」、2012年度途中からは[[ポケットモンスター 金・銀|ポケモン金銀]]のエンディングBGMも使われる。 * 球団イメージカラーの明るい緑色は、ヤクルトの昔の球団旗とアトムズ当時のユニフォームのアクセント色に由来する(ビジターユニフォームのyakultのフォントに使用している)。ユニフォームの配色を赤と紺に変更して以降も、メガホンなどのグッズは依然として緑色のものが継続して売られている。 * 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している小さいマスコット傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時のツバメ軍団団長だった[[岡田正泰]]が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。 * 傘応援については危ないという意見があり、[[横浜スタジアム]]では一時期傘を使った応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように露先を柔らかい素材にしているとされている。また、現在発売している応援用の傘は骨の長さが30センチメートル前後とかなり小さなものとなっており([[石突]]には別売のつば九郎やつばみのマスコットが取り付けられるようになっている)、通常の雨傘としての使用は不適であるが、急な雨等の場合は使用するファンも多数見受けられる。 * 他球団ファンは、7回や勝利時に[[ジェット風船]]を飛ばしているが、2009年6月から神宮球場がジェット風船を禁止にしたことや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから、多くのヤクルトファンは「ゴミになるだけ」「神宮外苑の自然環境が悪化する」としての理由でジェット風船を使っていない。 * 本拠地とする神宮球場では、2012年まで夜6時以降のナイトゲームでの太鼓を使っての応援は禁止されていた。詳しくは、[[明治神宮野球場]]の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場でのナイトゲームではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。なお、2009年まではデーゲームでも太鼓の使用は禁止されていた。 * 2006年より、選手紹介の場内アナウンスは2人体制となった。ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ヤクルトチームについては通常のウグイス嬢によるアナウンスの後男性DJが担当している。2019年現在、公式DJとして[[パトリック・ユウ]]を起用している。 === 営業・ファンサービス === ==== 公式ファンクラブ「SWALLOWS CREW」 ==== 2013年よりリニューアルされた公式ファンクラブで、2015年3月現在[[さだまさし]](歌手)と[[出川哲朗]]([[ピン芸人]])と[[村上春樹]](作家)が芸能人枠として「'''SWALLOWS CREW名誉会員'''」に登録している。本拠地である神宮球場で行われる試合の前売りチケット購入や常設グッズショップ(スタジアム通り・神宮軟式球場敷地内)でのショッピングでもポイントが貯められる。 会員はプラチナ・ゴールド・レギュラー・キッズ・ライト(いずれも有料)・無料の6種類となっている。 ==== セ・リーグ首都圏3球団合同企画 ==== 2012年から、東京ヤクルトスワローズ・[[読売ジャイアンツ]]・[[横浜DeNAベイスターズ]]との3球団合同で「'''[[セントラル・リーグ首都圏3球団合同企画 GSDB〜Get Stamp&DeKA Badge!|GSDBプロジェクト]]'''」を立ち上げファンクラブ会員に限り巨人・DeNA主催のヤクルト戦で来場ポイント付与や会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。 === 地方開催 === 本拠地の神宮球場が大学野球最優先でスケジュールを組んでいる関係で、かつては広島と並んで地方開催がセ・リーグで最も多かった。特にセ・パ交流戦導入以前は日本全国といって良いほど各地で試合を行っていたが、日本ハムの札幌移転や仙台を本拠とする[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]]の新規参入といったパ・リーグ加盟チームの地方分散化、さらには交流戦開始などの影響もあり2000年代後半以降は他球団同様、地方開催を縮小する傾向にあり、現状では年間で4 - 5試合に抑えられている<ref group="注釈">広島は地方開催は徐々に縮小し、現在はおこなっていない。そのため、現状セ・リーグで試合数ベースで最も多く地方開催を行っているのは阪神であるが、そのほぼ全てが[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]であるため、実質(開催球場ベース)は巨人がセ・リーグで最も多く地方開催を行っている。</ref>。 なお、2020年は、[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]で初の主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定で、他に松山の2試合と合わせて地方開催を13試合行う予定としていたが<ref group="注釈">なお、同様の理由で本拠地の[[横浜スタジアム]]が使用不可となる[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]も東京ドームでの主催試合を6試合行う予定となっていた。</ref><ref name="npb190722">{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://npb.jp/games/2020/schedule_all_cl_20190722.pdf |title=2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-22 |accessdate=2019-07-23 }}</ref>、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、東京ドームでの主催試合開催分は全て神宮球場での開催に変更になった<ref>{{Cite web|和書|title=東京五輪延期に伴い、DeNAとヤクルトが主催試合の開催球場を変更…ハマスタ、神宮でそれぞれ11試合開催 |url=https://hochi.news/articles/20200415-OHT1T50102.html |website=スポーツ報知 |date=2020-04-15 |accessdate=2020-04-15 |publisher=}}</ref>。 2021年は、延期になった[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]開催期間中とその前後は本拠地の神宮球場が資材置き場・VIP待機場所となるため使用不可となることから、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]で初の主催試合を8月下旬から9月上旬にかけて6試合を行い、他に松山の2試合及び静岡での2試合と合わせて地方開催を10試合行う。 {{main|東京ヤクルトスワローズ主催試合の地方球場一覧#一軍|明治神宮野球場#優先使用権}} {{see also|死のロード#他球団の例|読売ジャイアンツ#地方球場開催}} 地方開催の中でも特に開催の機会が多い球場として、[[秋田県立野球場|秋田県立野球場(こまちスタジアム)]]、[[福島県営あづま球場]]、[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]]、[[松山中央公園野球場|松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)]]等が挙げられ、年次によっては同一球場で2試合が組まれることがある。このうち松山は秋季キャンプで使用している縁から、基本的に毎年2試合組まれており(2019年・2023年は1試合のみ)、特に2013年は3試合が組まれた。これらの球場では交流戦開始前にはなかった対巨人戦も行われるようになり、2009年は福島県営あづま球場で1試合、2010年は坊っちゃんスタジアムで2試合、2011年はあづま球場で1試合<ref group="注釈">これとは別に、巨人主管の2試合(当初1試合だったが、[[宇都宮清原球場]]での1試合が球場施設損壊のため会場変更になった)が[[郡山総合運動場開成山野球場]]で行われ、福島県で3試合開催。</ref> と静岡県草薙総合運動場硬式野球場で4試合の計5試合<ref group="注釈">草薙の4月の3連戦のものは東日本大震災による関東地方([[東京電力エナジーパートナー|東京電力]]営業地域)のナイター開催自粛に伴う代替。</ref> の巨人戦が地方開催が行われている<ref group="注釈">本来、2009年は秋田こまちスタジアムでの2連戦開催が計画されたが、こまちスタジアムでは[[全国高等学校野球選手権秋田大会]]の開催と重複するため開催できず、その振り替えとして福島で1試合、もう1試合は神宮で開催。</ref>(2021年も松山で2試合を開催<ref name="npb190722" />)。 かつては[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の本拠地である[[千葉マリンスタジアム|千葉マリンスタジアム(現・ZOZOマリンスタジアム)]]でも東京六大学野球([[早慶戦]])が行われる毎年5月下旬に主催試合が開催されていたが、[[セ・パ交流戦]]開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は同球場を本拠地とするロッテ主催の交流戦に切り替えられて、ヤクルト主催では実施されていない。 {{main|早慶戦#硬式野球|千葉マリンスタジアム#東京ヤクルトスワローズ}} この地方開催の多さもあってか、他チーム主催の地方開催試合で相性の良さを発揮することもある。例えば[[富山市民球場|富山アルペンスタジアム]]で開催される巨人・中日主催試合では2016年9月現在8戦6勝2分けと負けがない。 ==== 長崎県との縁 ==== 1970年代から2002年(平成14年)までのほぼ毎年、球団オーナー[[松園尚巳]]の出身地である長崎県での公式試合が開催されていた。 1976年(昭和51年)ドラフト1位で入団した松園と同じ長崎出身の[[酒井圭一]]を当時球団最高額の契約金3,000万で契約、しかし松園は「酒井はゴールデンルーキーだ。手取りで3,000万円にできないものか」の鶴の一声で、800万円上乗せされた。さらに長崎市内のホテルで行われた酒井のためだけの入団発表には、松園オーナーも同席。その後、異例のパーティーまで開かれ、当時の長崎県知事ら県内の政財界の大物まで出席した。費用の200万円も球団が負担した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_november/KFullNormal20071120128.html |title=【11月29日】1976年(昭51) ヤクルト、怪物サッシーに破格の契約金 |publisher=スポーツニッポン |work=日めくりプロ野球11月 |accessdate=2015-11-29 }}</ref>。松園は翌1977年(昭和52年)、地元紙[[長崎新聞]]の社長に就任。1988年(昭和63年)に退任するが、その翌年の1989年(平成元年)、長崎県民放テレビ第3局[[長崎文化放送]](NCC)の初代代表取締役会長に就任。長崎文化放送は長崎新聞主導で設立され、ヤクルトスワローズの放送権を持っている[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]フルネット局となった。 一方、長崎出身の歌手[[さだまさし]]は巨人・長嶋茂雄の大ファンだったが、1980年(昭和55年)に長嶋が巨人監督を解任されると同郷の松園と親交が深かったこともありヤクルトファンに転向。選手の長崎遠征時には名物の[[卓袱料理]]でもてなすなどしている。{{main|さだまさし#スポーツの応援}} 1997年(平成9年)に開場した[[長崎県営野球場]]で初めて公式戦(対広島東洋カープ戦)を行った際、9月6日の1戦目が雨で中止、翌日の試合では7回途中・降雨コールド負けとなった。その後も長崎での公式戦を開催していたが、松園が1994年に死去、またヤクルト本社の事業再編による長崎工場の閉鎖もあったためか、2002年を最後にヤクルト主催の公式戦は開催されていない。2009年(平成21年)、7年ぶりに長崎で試合を行ったがこの試合は巨人主催のビジターゲームだった。 ==== 東日本大震災後の対応 ==== 神宮球場は学生野球を最優先とするため、学生がデーゲームを基本とする以上、プロの試合はナイトゲームを原則とせざるを得ない。しかし、[[東日本大震災]]([[東北地方太平洋沖地震]])直後には学生との調整を行って、神宮球場でデーゲームを行った例もある。 地震発生直後の2011年3月、セ・リーグは一旦は3月25日に開幕させる決定をした。この時、ヤクルト球団事務所にはファンからの苦情電話が殺到した。9割が25日開幕に批判的な内容であったが、多くの企業が計画停電で損失を出している中で、デーゲームやドームを使わない、東北や関東での試合開催をしないという選択肢もありながら、新球団常務は「ヤクルト本社の損失も大きい」という理由から開幕を決断をした<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/03/18/0003875713.shtml ヤクルトに抗議電話殺到 セ開幕決定一夜明け デイリー 2011年3月18日] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20110322133946/http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/03/18/0003875713.shtml |date=2011年3月22日 }}</ref>。その後、文部科学省からの要請を受けると、一転してナイターを自粛し開催地を地方球場に変更する可能性があることを示唆した<ref>{{Cite news |title=ナイター自粛…神宮のヤクルトは地方開催も |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |date=2011-03-22 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/03/22/kiji/K20110322000478710.html |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。その後神宮を主会場とする[[東京六大学野球連盟|東京六大学]]・[[東都大学野球連盟|東都]]の両大学生野球連盟の協力を得て、草薙に球場を変えた4月26日 - 4月28日の巨人戦以外の4月の主管試合については神宮でのデーゲーム開催が実現(学生野球は午前9時から1試合のみ開催)した。{{main|東日本大震災によるスポーツへの影響#日本プロ野球|2011年の日本プロ野球#3月}} === その他 === * 選手の故障が多いことで知られる(例、[[荒木大輔]]・[[伊藤智仁]]・[[由規]]など)。[[落合博満]]が中日の監督を退いた後、ヤクルトの主力級選手の相次ぐ戦線離脱について、練習量が中日に比べて少ないことが原因と話した<ref>{{Cite web|和書|date=2012-10-12 |author=日刊SPA!野球取材班 |title=落合氏「巨人、中日にとって嫌なチームはヤクルト」 |url=https://nikkan-spa.jp/310440 |publisher=日刊SPA! |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。また、[[江本孟紀]]もヤクルトの練習の少なさやアメリカ式の球数制限を取り入れていた事を批判したことがある<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20131224_232967.html]</ref>。主将を務めたことのある宮本慎也も、練習量の少なさを指摘している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20171205/swa17120508000001-n3.html |title=【なるべく週刊エモト】宮本ヘッド就任でヤクルトは変わる! (3/3ページ) |publisher=サンケイスポーツ |date=2017-12-05 |accessdate=2021-05-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171222162537/https://www.sanspo.com/baseball/news/20171205/swa17120508000001-n3.html |archivedate=2017-12-22}}</ref>。選手としてだけでなくコーチ歴もある[[角盈男]]は、野村の監督時代は練習量は少なかったが、それだけが継承されていると評している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/94874 |title=2017プロ野球「行く年来る年」座談会(2)巨人・高橋監督は岡本と心中できるか |publisher=アサ芸プラス |date=2017-12-19 |accessdate=2021-05-29}}</ref>。それに伴い二軍戦に出場できる選手が恒常的に不足気味になり、投手や捕手が内外野を守ることも珍しくなく、ついには[[打撃投手]]として契約していた元選手を現役復帰させ、二軍戦に出場させたシーズンもある<ref>[https://baseballking.jp/ns/40047 満足に試合もできない!? ヤクルト二軍が迎える危機的状況 | BASEBALL KING] 2015年7月9日</ref>。この状態を通俗の[[野外病院|野戦病院]]にたとえた「'''ヤ戦病院'''」という[[インターネットスラング]]も広く使用されている<ref>[https://baseballking.jp/ns/column/122098 繰り返す悲劇…“ヤ戦病院”の元凶 | BASEBALL KING] 2017年6月27日</ref>。 * 1994年から2012年(ホームゲームのみ。ビジターは2014年まで)に使用された帽子のマーク“Ys”の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代にさかのぼる(当時は“Ya”マーク)。ニックネームをスワローズに戻した1974年から1993年までは大フォントの小文字で「ys」だったが(2013年以降も同様)、左に大きく「'''Y'''」・右に小さく「'''s'''」に変更された。 * チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「'''S'''」としていることが多い。[[週刊ベースボール]]の二軍戦日程表では一時球団略称を'''Ys'''とし、[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|湘南シーレックス(現・横浜DeNA二軍)]]をSとしていたが、「Sが一軍と二軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。 * 広島の[[大瀬良大地]]を大の苦手としている。大瀬良がプロ入りした2014年以降一度も勝てておらず、2019年7月26日の対広島戦でも大瀬良を攻略できず、同一投手が初対戦から同一カード12連勝以上はセ・リーグ新記録(パ・リーグも含めると史上3人目)となった<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201907260001226.html |title=大瀬良、初対戦から同一カード12連勝以上は3人目 |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2019-07-27 |accessdate=2019-07-27 }}</ref>。2019年9月16日の試合で大瀬良を相手に初めて黒星を付けて、連敗を12で止めた。 == 球団旗の変遷 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} ; 国鉄時代 国鉄の列車「つばめ号」の[[ヘッドマーク]]に使われていた「つばめマーク」を使用。 * 1950年 - 1952年:紺色地に白でつばめマーク。 ** つばめマークの横に黄色の文字で「国鉄」と書かれていたものも存在。 * 1953年 - 1954年:つばめマークの翼が両翼のものから片翼のものに変更。 ** つばめマークが白のものと黄色のものが存在。 * 1955年 - 1965年:白のつばめマークの上に「K」のマークを付けたものに変更。 <!-- バグ回避のための行「Help:箇条書き#定義の箇条書き中の箇条書き」参照--> ; サンケイ→アトムズ時代 当時の親会社、産経新聞社の[[社旗]](橙色地。中央に横の白地ライン、ライン部分に水色で「サンケイ」の文字)をアレンジしたものを使用。 * 1965年:「サンケイスワローズ」時代のもの。橙色地に白のライン、白の部分には水色の文字で「サンケイ」、右下に白文字でスワローズの略称である「S」。 * 1966年 - 1969年:球団名が「サンケイアトムズ」に。橙色地に白のライン、白の部分には水色の文字で「atoms」(球団名が「アトムズ」となった1969年も使用。)。 : ; ヤクルト時代 * 1970年 - 1973年:ヤクルト本社の社色である赤・白・緑をモチーフに。白の斜線に上が青緑、下が濃いピンク。白の斜線に「鉄腕アトム」、その下に濃いピンクで「Yakult」。 * 1974年 - 1993年:球団名が「ヤクルトスワローズ」になる、デザインは1970年 - 1973年のデザインから「鉄腕アトム」を削除したもの。 * 1994年 - 2005年:白の斜線が反対になり上が青、下が赤。白の斜線に赤のストライプ、赤字で「Yakult」その下に青字で「Swallows」。 * 2006年 -:球団名が「東京ヤクルトスワローズ」になる。1994年 - 2005年のものをアレンジ、上の青の部分に赤字で「Tokyo」のロゴが入る。白の斜線の赤ストライプが消える、赤字で「Yakult」、その下に青字で「Swallows」。 == ユニフォームの変遷 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} * 1950年 - 1954年:帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着とパンツは白のものとグレーのものが存在(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。 ** ロゴは「''Swallows''」(1953年まで色は濃紺)で縁取りが白・左袖に金糸で国鉄[[社章]]「動輪に桐」のワッペンが入る。 ** 帽子は、濃紺地に白文字の「S」。 ** 1951年の途中から国鉄社章のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ツバメのシルエットに「''Swallows''」のマークが左胸に入ったものも使われた。ビジター用はTとKを重ねたマーク(濃紺・白縁取り)、「''Swallows''」を経て1953年から「''Tokyo''」となる。 ** 1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のツバとロゴと背番号、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。ただし、こげ茶色のアンダーシャツも使われた。 * 1955年 - 1960年:レターから白の縁取りが消える。袖・パンツに線が入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「''Tokyo''」の書体が変更。帽子マークは「''K''」。 * 1961年 - 1965年5月:縁取りに赤が使われてストッキングの線が廃止。1963年から「''Tokyo''」の書体を変更。1965年のみ線がW線となり、国鉄最後のユニフォームとなった。なお帽子マークはこの間、「K」と「S」の組み合わせや「S」など毎年の様に変更されていた。5月10日より、国鉄から[[産業経済新聞社|産経新聞社]]へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。 * 1965年6月 - 閉幕:先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁に色変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。帽子マークは国鉄時代最末期の「'''S'''」をそのまま使用。 * 1966年 - 1968年:球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「''atoms''」が登場。チームカラーが赤と青に変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「''sankei''」となる(それまでは「SANKEI」)。帽子は青地で飾り紐が付き、マークは赤で「''a''」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『[[鉄腕アトム]]』の[[キャラクター]]・ワッペンが付く。斜体文字フォントは[[亀倉雄策]]が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「[[ヴァンヂャケット|VAN]]」が作成。 * 1969年 - 1970年:チーム名が[[愛称|ニックネーム]]のみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年から[[ヤクルト本社]]と業務提携。翌1970年、ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・線が赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「''a''」から「''Ya''」(「''Y''」は赤、「''a''」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「''Yakult''」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。 ** ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「''Yakult''」となる(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)。 ** シーズン途中からレターが濃紺色に変更。 * 1971年 - 1973年:[[三原脩]]監督就任により、[[読売ジャイアンツ]]と同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「''atoms''」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。 ** ビジター用はグレー地になる。 * 1974年 - 1977年:スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に[[荒川博]]監督就任に伴い、ニット素材の丸首プルオーバー・ベルトレスになり、基本色が濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。 ** 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた形になる。帽子のツバは赤。 *** ホーム用は、トレードマークとなる赤ストライプを採用(一旦2005年に廃止されるが2014年に復活)、「''Swallows''」ロゴは1965年までのものをそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺の線。 *** ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺の線が入る。 **** 1975年より、ビジター用の胸ロゴ・背番号・胸番号の縁取りが濃紺から白になる。 **** 1976年より、ビジター用の首・袖・パンツの線のうち白部分が赤になる。 **** 1977年より、[[広岡達朗]]監督の要望により、ベルト式(ベルトの色は赤)になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーである[[デサント]]社の技術により、快適性・軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を[[阪神タイガース]]のホーム用と同時期に採用。また、スパイクが赤地に白線になる。 * 1978年 - 1989年 基本デザインが当時の[[アトランタ・ブレーブス]]を意識したものに変更され、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツの線が赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。 ** ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「''Yakult''」のロゴ(ビジター用胸ロゴと同じフォント)刺繍が入る。 ** ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「''Swallows''」のロゴ刺繍。 *** 1980年、[[武上四郎]]監督就任時より、スパイクが白地に赤線になり、[[ゼット]]社のスパイクとなる。 *** 1982年、ビジター用の首、袖、パンツの線が赤から赤・青・赤の3本線になる。 * 1990年 - 1998年:[[野村克也]]監督就任により、パンツの線・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。 ** ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。 *** 時期によりビジター用と同様のシャドゥ・ストライプ素材を使用したものもあるが、赤ストライプが入っていたためほとんど目立たなかった。 ** ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せて[[サッカー]]のユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「''Swallows''」ロゴが赤色になる。 *** 1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型(「Y」が赤、「s」が青)になり、ホーム用左袖・ビジター用胸に入っていた「''Yakult''」ロゴの書体が、1969年以来の亀倉雄策制作のフォントから親会社のフォントをアレンジしたものに改められ、亀倉フォントがユニフォームから完全消滅した。左袖には、ホームの''Yakult''、ビジターの''Swallows''のロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。 *** 1997年には、ビジター用の袖線も消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。 **** [[1970年代]] - [[1980年代]]、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、[[1990年代]]に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使い続けた。 * 1999年 - 2005年:[[若松勉]]監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が[[中日ドラゴンズ]]に続いて、[[メジャー・リーグ]]で採用されているタイプになる。左袖は「つば九郎」から「ボールと燕」を組み合わせたオリジナルエンブレムに変更(1999年のみ、球団創設50周年エンブレム)。 ** ホーム用は首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。 ** ビジター用は、提携していた[[クリーブランド・ガーディアンズ|クリーブランド・インディアンス]]のロード用のデザインを踏襲したものに変更される。 ** 1999年夏場からビジター用(紺ユニフォーム)のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ビジター用でまた赤が採用される。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2001年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合(白ユニフォームとの組み合わせ)で使ったのが最後である。なお最後に着た先発投手は[[入来智]]であり、対巨人戦だったが負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様<ref name="unihomumonogatari">{{Cite book |和書 |author=綱島理友|authorlink=綱島理友|year=2005 |month=3 |title=プロ野球ユニフォーム物語 |publisher=[[ベースボール・マガジン社]] |pages={{要ページ番号 |date=2015年11月}} |isbn=9784583038070 |oclc=69245565}}</ref>。 *** ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・[[野村克也]]が導入を止めさせた。 *** ビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバはもともと紺でデザインされていた。しかし完成後に着用して確認した若松が「雰囲気が大人しい、闘争本能が湧いてこない」と異論を唱えたことから急遽赤に変更されたものの最終的には定着せず終わった。 * 2006年 - 2008年:「'''東京ヤクルトスワローズ'''」への球団名変更及び[[古田敦也]]選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「[[BEAMS]]」が手がける。ホーム、ビジター共基本色は変わらないが、首周りと袖に赤線が入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太線が入る。ホーム・ビジター共に右肩に「''Tokyo''」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。 ** ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。''Tokyo''ロゴは青色で、左袖のエンブレムの下に赤色の''Yakult''ロゴが配される。 ** ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。''Tokyo''ロゴは赤色、左袖のエンブレム下には白色で''Swallows''ロゴが入る。 * 2009年 - 2012年:ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した(デザインは引き続きBEAMSによる)。選手名と背番号の書体が変更され、選手名は直線状に並ぶ。ワンポイントとして一番上のボタンのみ、赤色を使用(他はホーム用はユニホーム同色の白、ビジター用はグレー)。スパイクは白から紺に変更。左袖はエンブレムからつば九郎とは異なるツバメの顔のイラスト([[タツノコプロ]]デザイン)に変更。左右袖の「''Tokyo''」「''Yakult''(ホーム用)」「''Swallows''(ビジター用)」は赤色に統一。ホーム用は[[ゼット (企業)|ゼット]]製、ビジター用は2011年までは[[ミズノ]]製で2012年からはホーム用と同じくゼット製。 ** ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太線を赤、ロゴマークを白基調、赤と紺の縁取りに変更。 ** ビジター用はライトグレー地を基調に、太線の配置をホーム用とほぼ同じとしている。 ** 2009年のみ右胸部分にヤクルト球団設立40周年記念ロゴが入る。 *** 球団設立40周年記念ロゴは、内野のダイヤモンドを模したデザインで、各ベース部分には歴代の帽子マークをデザイン(本塁:スワローズ現行「Ys」、一塁:アトムズ「Ya」、二塁:アトムズ「YとA組み合わせ」、三塁:スワローズ「YS」)。 ** 2011年度よりホームユニフォームのみシャツ本体の切り替え、胸マーク、背番号、胸番号、袖マークを昇華プリントに変更。 * 2013年 - 2015年:2013年シーズンこそは優勝したいと言う想いを込めて、1990年代の黄金期のユニフォームデザインを蘇らせたものに変更。選手名と背番号の書体が変更となり、選手名は曲線状に並ぶ。前年まで使用していたユニフォームと同様にワンポイントとして、一番上のボタンのみ赤色を使用(他はホーム用が白、ビジター用が同色のネイビー)し、左右袖の「''Tokyo''」「''Yakult''(ホーム用)」「''Swallows''(ビジター用)」は赤色に統一。なお、デザインは前年までのBEAMSではなく、ホーム、ビジター共にゼット社が手がけている。 ** ホーム用は黄金期の象徴ともいえる「赤ストライプ」が8年ぶりに復活。白を基調に赤の縦線で、上下縦じまを採用。ロゴマークと背番号はネイビーで赤で縁取り、選手名はネイビー。肩口にネイビーと赤でツバメの優雅な飛翔を象徴したデザインを新たに施し、「伝統」と「最新」を融合させたデザインとなっている。帽子はネイビーの地に白字で「YS(1974年から1993年まで使用していたマークが復活)」。 ** ビジター用はネイビーを基調にして力強さを表現。ロゴマークと背番号は赤で白で縁取り、選手名は白。肩口に白と赤でツバメの優雅な飛翔を象徴したデザインを施し、脇の所まで赤の直線が入る。また、脇から背中を廻る鮮やかな赤のウイニングラインが入り、上昇気流に乗って勝利を目指すツバメの軌跡をイメージしている。帽子は前年まで使用していたものを使用していたが、2015年よりホーム用と同じマークに統一。 *** また、キャプテンを務める選手の右胸にはキャプテンマーク(白縁に藍色の菱形、その上に赤字で「C」)のワッペンが付けられる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/photogallery/detail.php?photo_seq=12992 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年3月1日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130315025404/http://www.yakult-swallows.co.jp/photogallery/detail.php?photo_seq=12992 |archivedate=2013年3月15日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 *** 2015年はホーム・ビジターともに左袖に「ヤクルト」80周年記念エンブレムが入る。 * 2016年 - メーカーはゼットから[[マジェスティック・アスレティック]]に変更し、ユニフォームデザインを大幅に一新<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2016_uniform |title=2016年新ユニホームサプライヤーが「マジェスティック社」に決定! |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-11-24 }}</ref>。帽子はホーム/ビジターとも前年までのものを引き続き使用。 ** ホーム用は、前年までのユニフォームと同様の赤いピンストライプを基調としたもの。1974年のヤクルトスワローズとして最初のユニフォームをモチーフに、赤のストライプは細く、間隔も広げた。首周りと袖口に配した紺・白・赤のトリコロール柄のリブが特徴。ワンポイントの赤ボタンは継承している。 ** ビジター用は、新たな「東京スタイル」をコンセプトに、サードユニフォームで使用していた「グリーン」を配色に採用。紺色とグリーンを基調にしたデザインで、「Yakult」のロゴを筆記体に変更。首周りと袖口には緑・白・紺のトリコロール柄のリブ。ワンポイントのボタンは緑色となる。 ** サードユニフォームは、独自のデザインであった2015年版のCREWユニフォームの進化系でありながらも、紺色と赤をメインカラーに使用。ホーム/ビジター同様に、首周りと袖口に採用したトリコロールリブを配した。なお、ホーム/ビジターとの相違点としては、帽子のつばが赤(1974 - 1977年仕様の復活とも言える)。 *** 2016年および2022年には前年度のセ・リーグ優勝を記念して、ホーム/ビジターとも右袖に[[チャンピオン・エンブレム]]が貼り付けられる。 *** 2019年のみ右袖にヤクルト球団設立50周年記念ロゴが入る。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Gk_ryoDSC_6809.jpg|ホームユニフォーム(2017年) |File:山中 浩史.jpg|ビジターユニフォーム(2016年) |File:20140713_Wladimir_Ramon_Balentien,_outfielder_of_the_Tokyo_Yakult_Swallows,_at_Meiji_Jingu_Stadium.JPG|2013年~2015年のホームユニフォーム |File:20120501_Shingo_Kawabata,_infielder_of_the_Tokyo_Yakult_Swallows,_at_Yokohama_Stadium.JPG|2009年~2012年のビジターユニフォーム |File:YS-Yoshinori-Sato.jpg|2006年~2008年のホームユニフォーム }} === 限定版ユニフォーム === * 2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などで、「'''ヤクルトアトムズ復活シリーズ'''」と題し、アトムズを名乗った1969年のビジターユニフォームを復刻(この時から袖に「''Yakult''」のロゴが入る)し、全選手が着用し試合に臨むことが発表され、[[手塚治虫]]の生誕80周年記念事業として、手塚の個人事務所[[手塚プロダクション]]協賛で行われた。対象となるのは神宮球場ホームゲーム3カード9試合<ref group="注釈">5月3-5日の対[[読売ジャイアンツ]]戦、9-11日の対[[広島東洋カープ]]戦、13-15日の対[[中日ドラゴンズ]]戦。</ref> と、[[セ・パ交流戦|交流戦]]開幕シリーズの5月21-22日の対[[埼玉西武ライオンズ]]戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、[[西武ドーム]]での対西武戦では、同じく手塚プロの[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|西武のマスコット・レオ]]との共演となる<ref>{{Cite news |title=ヤクルト、5・3にアトムズユニホーム |newspaper=日刊スポーツ |date=2008-03-31 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20080331-342652.html |accessdate=2008-03-31 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref>。ただし、帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。 * 2009年 ホーム用交流戦ユニホームは、国鉄が1951年、本拠地構想があったとも言われている[[武蔵野グリーンパーク野球場]]開場当初だけ使った燕ロゴのユニホームが採用されている(背番号上の選手名のローマ字表記はない)。また、帽子の「S」マークはこのユニホームでは使われず、1960年代前半のマークをモチーフとしていた。 * 2010年 8月にセ・リーグ主催のイベント「[[「GREAT CENTRAL」〜オールドユニホームシリーズ2010〜|オールド・ユニフォーム・シリーズ]]」で1994年 - 1998年仕様の復刻ユニホームを使用。なおセ・リーグ6球団中唯一、ホーム用・ビジター用それぞれを用意していた<ref group="注釈">ビジター用は、対広島戦(8月17日 - 19日・マツダスタジアム)で、ホーム用は、対横浜戦(8月24日 - 26日・神宮球場)で使用。</ref>。 * 2012年8月 - 9月にセ・リーグ主催のイベント「[[「GREAT CENTRAL」〜レジェンドユニフォームシリーズ2012〜|レジェンド・ユニフォーム・シリーズ]]」において1978年の球団史上初優勝・日本一当時のホーム用ユニフォームを復刻。ただし、復刻版には「ミルミル」などの広告が張り付けられている。 * 2013年 「TOKYO 燕(エン)プロジェクト」の一環として勝利(白星)を表現する白地の限定ユニホームを7月13日 - 9月1日の主催8試合で着用。地色は白。左胸には、赤縁に黄緑色の「YS」マーク、袖には、赤と黄緑のライン。背番号は赤縁に黄緑。背ネームは無し<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/event/tokyo_en_project/uniform_p.html#tep_header TOKYO 燕(エン)プロジェクト] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130607191953/http://www.yakult-swallows.co.jp/event/tokyo_en_project/uniform_p.html |date=2013年6月7日 }}</ref>。 * 2014年「TOKYO燕(エン)プロジェクト2014」の一環として“活気のある”“若々しい”という意味を持つ緑の限定ユニフォームを7月12日 - 9月7日の主催7試合で着用。地色は緑。左胸には、白に赤の「YS」マーク。袖には、白と赤のライン<ref>[http://yakult-swallows.mopita.com/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&mopita=1&action_mobile_info_data=true&article_seq=16816&aid= TOKYO燕(エン)プロジェクト2014] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20140815055409/http://yakult-swallows.mopita.com/index.php?uid=NULLGWDOCOMO&mopita=1&action_mobile_info_data=true&article_seq=16816&aid= |date=2014年8月15日 }}</ref>。 * 2015年「TOKYO燕(縁)プロジェクト2015」の一環として、東京ドームと神宮球場で4月に行われるVS巨人戦全6試合(4月10日 - 12日の東京ドームでの3連戦、4月24日 - 26日の神宮での3連戦)を「TOKYOシリーズ」として開催。緑と紺を基調とし、胸に「TOKYO」の文字が入った「TOKYO燕パワーユニホーム」を着用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/event/tokyo_series |title=TOKYOシリーズ 東京は、燃えているか。 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。 * 2016年、ホーム・ビジター・サードに続く第4のユニホームで、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置し、昨年よりも鮮やかなグリーンを全面に押し出したデザインが特徴の「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。4月12日の巨人戦(神宮)を皮切りに、7月の「TOKYO燕プロジェクト」や8月の「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>[http://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/19120 2016TOKYO燕パワーユニホームを発表] 東京ヤクルトスワローズ 2016年2月17日</ref>。 * 2017年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。4月28日の巨人戦(神宮)を皮切りに、7月の「TOKYO燕プロジェクト」や8月の「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-03 |url=https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/20294 |title=2017TOKYO燕パワーユニホームについて |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。 * 2018年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「燕パワーFRIDAY」、「TOKYOシリーズ」、「TOKYO燕プロジェクト」、「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2018_enpower-uniform |title=2018TOKYO燕パワーユニホーム |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。 * 2019年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「TOKYOシリーズ」、「TOKYO燕プロジェクト」、「TOKYO燕日」のイベント試合で着用<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/2019_enpower-uniform |title=2019TOKYO燕パワーユニホーム |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。 * 2020年、昨年に続き胸に「TOKYO」の文字を配置した「TOKYO燕(えん)パワーユニホーム」を発表。「TOKYO燕プロジェクト」のイベント試合で着用する予定であったが、イベントは中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/special/tokyo_en_project2020 |title=2020TOKYO燕プロジェクト |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2020-07-19 }}</ref>。 == スポンサー == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} === トップスポンサー === 2023年シーズン現在、下記6社がトップスポンサー契約締結している。 * [[オープンハウスグループ]] * [[麒麟麦酒|キリンビール]] * [[コカ・コーラボトラーズジャパン]] * [[マイナビ]] * [[ファナティクス|Fanatics Japan]] * [[ヤクルト本社]] === スワローズ・燕市交流事業 === チームの愛称「スワローズ」が日本語で燕を意味することから、それと同じ名前を地名にしている[[新潟県]][[燕市]]と、燕市に本社を置く[[ツインバード]](家電)、[[和平フレイズ]](調理器具)、[[エコー金属]](日用品金属加工)、[[北越工業]](重機械)、[[燕食品]](食品加工)の5社が協賛し、2011年から「スワローズ・燕市交流事業」の取り組みをしている。([[#新潟県・新潟市による誘致構想|詳細後述]]) === ユニフォームスポンサー === セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定してスポンサー広告を掲出できるようになったが、スワローズでは2005年まで掲出していなかった。 2006年、オフィシャルスポンサーとなった[[ユニデンホールディングス|ユニデン]]がホームユニフォーム左胸、[[カカクコム]]がヘルメットにそれぞれ掲出を開始したのを皮切りに、ユニフォーム広告を採用した。契約満了後の2008年は掲出を見送ったが、ユニフォームのデザインを変更した2009年に再開。2010年からは親会社・ヤクルト本社の商品名を記したエンブレムやステッカーを掲出している。 「TOKYO」ロゴのサードユニフォームを巨人との「TOKYOシリーズ」のビジターゲームで着用する際には、2020年は規定に配慮して広告をユニフォームと同素材の当て布で隠していたが、時折はがれることがあったため、2021年は別に広告がないものを作成した。 * ユニフォーム左胸 ** [[マジェスティック・アスレティック]](現在 オフィシャルサプライヤー契約) * ヘルメットおよび ユニフォーム腰部 ** [[タフマン]](ヤクルト本社、2011年度途中-) ==== 過去 ==== * ユニフォーム左胸 ** [[ユニデンホールディングス|ユニデン]](2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約) ** [[ゼット (企業)|ゼット]](2009年度-2015年度 オフィシャルサプライヤー契約) * ユニフォーム腰 ** [[インテル]](2007年度) * ヘルメット ** [[カカクコム|価格.com]](2006年度) ** [[レノボ|レノボ・ジャパン]](2007年度) == 歴代監督 == ※'''太字'''はリーグ優勝、◎は日本一 # 1950年 - 1953年 : [[西垣徳雄]] # 1954年 - 1955年 : [[藤田宗一 (外野手)|藤田宗一]] # 1956年 - 1960年 : [[宇野光雄]] # 1961年 - 1962年 : [[砂押邦信]] # 1963年 : [[浜崎真二]] # 1964年 - 1965年 : [[林義一]]<ref group="※">1965年は4月25日まで指揮。残り試合は砂押邦信が代行。</ref><ref group="※">ここからサンケイスワローズ</ref> # 1966年 - 1967年 : [[飯田徳治]] <ref group="※">ここからサンケイアトムズ</ref><ref group="※">1967年は5月23日から7月4日まで[[中原宏]]が代行。</ref> # 1968年 - 1970年 : [[別所毅彦]] <ref group="※">ここからアトムズ</ref><ref group="※">ここからヤクルトアトムズ</ref><ref group="※">1970年は8月18日まで指揮。残り試合は[[小川善治]]が代行。</ref> # 1971年 - 1973年 : [[三原脩]] # 1974年 - 1976年 : [[荒川博]] <ref group="※">ここからヤクルトスワローズ</ref><ref group="※">1976年は5月12日まで指揮、残り試合は広岡達朗が代行。</ref> # 1976年 - 1979年 : '''[[広岡達朗]]'''◎<ref group="※">1979年は8月17日まで指揮、残り試合は[[佐藤孝夫]]が代行。</ref> # 1980年 - 1984年 : [[武上四郎]] <ref group="※">1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは[[中西太]]が代行。</ref> # 1984年 - 1986年 : [[土橋正幸]] # 1987年 - 1989年 : [[関根潤三]] # 1990年 - 1998年 : '''[[野村克也]]'''◎ # 1999年 - 2005年 : '''[[若松勉]]'''◎ # 2006年 - 2007年 : [[古田敦也]] <ref group="※">ここから東京ヤクルトスワローズ</ref><ref group="※">選手兼任監督</ref> # 2008年 - 2010年 : [[高田繁]] <ref group="※">2010年は5月26日まで指揮、残り試合は小川淳司が代行。</ref> # 2011年 - 2014年 : [[小川淳司]](第1次) # 2015年 - 2017年 : '''[[真中満]]''' # 2018年 - 2019年 :小川淳司(第2次) # 2020年 - :'''[[高津臣吾]]◎'''<ref group="※">2022年は7月11日より7月19日まで[[松元ユウイチ]]が代行。</ref> {{Reflist|group="※"}} == 永久欠番 == {{出典の明記|date=2013年1月|section=1}} 球団として公認された[[野球界の永久欠番|永久欠番]]は2015年現在ない<ref group="注釈">[[大杉勝男]]の8番について、後年の文献では一旦永久欠番となった後[[広澤克実|広沢克己]]に禅譲したため失効したと、記述している物が見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、1983年11月9日の引退表明を1面で大きく扱った[[サンケイスポーツ]](東京版・1983年11月10日付)では、「球団は「背番号8」を'''保留欠番'''とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた。」とあり、明らかに誤りである。この発表からも、この段階で将来的には相応しい選手に与える意向があったとみられる。</ref>。他に欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きまたはフリーエージェントで獲得した選手で、かつ対象者に推薦が必要とされる。 <!-- 単なる「空き番号」は、ここに記すに値しないと考えます。どうしても賛同できない方は、ノートにご意見をお願いします。--> * '''1''':[[若松勉]] *: 1989年、若松の引退時に、背番号1番を永久欠番にとの署名などが多く集まり、球団が「生え抜きのみの選手が背負う準永久欠番」として当面欠番とすることを決定。入団当初「36」を着けていた池山が1991年オフに「1」を希望して1992年から昇番。2001年に池山が「1」を返上して「36」に戻ったのに伴って岩村に継承された。2006年限りで岩村がメジャーに移籍し、「1」を[[青木宣親]]に打診しそのときは辞退したが、3年間の欠番の後に2010年より青木が「1」を着けることになったが、2011年限りで青木がメジャーに移籍することにより、再び欠番となった。2013年には岩村が復帰したものの、「1」以前につけていた「48」を着用した。2014年オフには北海道日本ハムファイターズからフリーエージェントで移籍した[[大引啓次]]に獲得のための誠意として提示されたが、前述の経緯を考慮して本人が辞退した。2016年から[[山田哲人]]が「1」を着けることが決まり、過去に山田同様「23」から「1」に変更した青木が背番号「1」のユニフォームを山田に手渡すサプライズが行われた<ref>{{Cite news |title=ヤクルト山田 2億2000万円で更改「気持ちよくサインした」 |newspaper=スポニチアネックス |date=2015-12-08 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/12/08/kiji/K20151208011649020.html |accessdate=2015-12-08 |publisher=スポーツニッポン新聞社 }}</ref>。 * '''27''':[[古田敦也]] *: 2007年限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年10月11日に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ捕手だけが使用できる番号」で、生え抜き・移籍を問わず着用に相応しい選手が現れるまでは欠番としていたが、2022年から[[中村悠平]]が「2」から変更して着用している。なお、2009年に横浜ベイスターズからフリーエージェントで移籍した[[相川亮二]]に打診したが、辞退された。古田敦也の前には、[[根来広光]](1958年 - 1966年)→[[加藤俊夫]](1967年 - 1970年)→[[大矢明彦]](1971年 - 1985年)と、1958年から1985年まで歴代の国鉄→サンケイ→ヤクルトの正捕手が着けていた(根来の前は、外野手の[[町田行彦]]が着用。1986年から1989年の途中までは空き番だったが、1989年の途中から閉幕まで投手の[[ロン・デービス]]が着用)。 == 沢村栄治賞受賞者 == スワローズで[[沢村栄治賞]]を複数回受賞しているのは[[金田正一]]のみである<ref>[https://baseballking.jp/ns/column/170633 “真のエース”の証…?「沢村賞」を複数回受賞した投手たち | BASEBALL KING]</ref>。また、金田が史上2人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている * [[金田正一]]:3回(1956年 - 1958年)※最多タイ記録 * [[松岡弘]] :1回(1978年) * [[川崎憲次郎]] :1回(1998年) == 三冠王(投手・打者) == === 投手三冠王 === スワローズでの[[三冠 (野球)|投手三冠王]]の達成者は1人<ref>[https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/b0916054ddac843989a696eba0ca114a71dde34e 投手三冠で沢村賞を逃したのは1人だけ。千賀滉大は2人目になる!?]</ref>。 * [[金田正一]] :1回(1958年) === 打者三冠王 === スワローズでの[[三冠 (野球)|三冠王]]の達成者は1人<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |title=三冠王 <nowiki>|</nowiki> 各種記録達成者一覧 <nowiki>|</nowiki> 達成記録 |access-date=2022-10-05 |publisher=日本野球機構 |date=2022-10 |website=NPB.jp |archive-url=https://web.archive.org/web/20221005152919/https://npb.jp/history/alltime/triplecrown.html |archive-date=2022-10-05}}</ref>。 * [[村上宗隆]]:1回(2022年) == 最優秀選手受賞者(複数回) == === 投手の複数回受賞者 === 2022年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。 === 打者の複数回受賞者 === スワローズの打者で[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]を複数回受賞しているのは2人<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/professional/record/mvp/pf-mvp_cl.html 最優秀選手 - プロ野球 : 日刊スポーツ]</ref>。 * [[古田敦也]] :2回(1993年、1997年) * [[村上宗隆]] :2回(2021年、2022年) == 主な歴代の球団歌・応援歌 == {{節スタブ|国鉄・サンケイ時代の楽曲について}} 2016年現在、球団公式サイトには応援ソングとして「We Are The Swallows」のみが掲載されている。 ; アトムズ - ヤクルトアトムズ時代 * [[アトムズマーチ]](1969年製作。1970年にヤクルトアトムズとなったとき歌詞を一部変更した。歌手は1969年のものが[[ボニー・ジャックス]]、1970年の歌詞変更バージョンは[[砂川啓介]]) ; ヤクルトスワローズ時代 * [[とびだせヤクルトスワローズ]](歌:[[松岡弘]]) - 初代の球団公式応援歌。 ** 新とびだせヤクルトスワローズ(大洋ホエールズが横浜ベイスターズにチーム名を改めたのに伴い、関連する箇所の歌詞を変更したヴァージョン) * スワローズ賛歌(歌:[[坂上二郎]]) * ビクトリーロード(歌:[[ザ・ヴィーナス|ILYS]](アイリス)) - 神宮球場で勝った場合、最後に場内で流す曲。1980年代頃と、2000年前後に流されていた。現在は使われていない。1978年9月発売。 * ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。 * スワローズ音頭 - 1983年4月発売。メインボーカルは坂上二郎、[[荒木大輔]]・松岡弘・[[梶間健一]]・[[尾花高夫]]・[[大矢明彦]]・[[角富士夫]]・[[大杉勝男]]・[[若松勉]]らのスワローズ選手がコーラスを務めている。 * 君こそヒーロー - 「スワローズ・ビクトリー・マーチ」。球場では、ドリマトーンの演奏で使われたが、実際の曲は優勝セレモニーなど特別な場合以外は流されなかった。2006年以降、応援団によって四死球による出塁・盗塁成功時などのテーマとして使われていたが、2012年からは試合前、攻撃前に流される形式に変更されている。 * 青春のダイヤモンド - スワローズの球団歌。 * ラッキー・セブンの歌 - 1995年9月1日発売。 * Field Of Dreams (Beat Park Anthem) - 2005年9月21日発売。F-Projectの一環として作成。[[Zeebra]]と[[G.K.MARYAN]]によるパフォーマンス。曲はZeebraの[[Street Dreams]]と同一で歌詞だけが変更され球団応援になっている。曲中に「ヤクルト」「スワローズ」という単語が現れないが、「東京音頭」「神宮」「神宮外苑」という単語が出現し、また「とびだせヤクルトスワローズ」の冒頭の一節が使われている。 ; 東京ヤクルトスワローズ時代 * [[We Are The Swallows]] - 2009年 ヤクルト球団創設40周年を記念し(ヤクルトスワローズへの改称以降)2代目の球団公式応援歌として制作。作詞・作曲は[[林田健司]]。2009年より応援団によって安打による出塁のテーマとして使われるようになり、2012年からは攻撃中の出塁全般に使用されている。 == 主なキャンプ地 == * [[沖縄県]][[浦添市民球場]](一軍春季キャンプ) * [[愛媛県]][[松山中央公園野球場|松山坊っちゃんスタジアム]](秋季キャンプ) * [[宮崎県]][[西都原運動公園野球場]](二軍春季キャンプ) * 明治神宮野球場 == エピソード == {{複数の問題 |section=1 |雑多な内容の箇条書き=2011年10月 |出典の明記=2013年1月 }} === フジサンケイグループ === 1962年に国鉄球団と業務提携を結んだ[[フジテレビジョン]]は、当時後楽園球場のテレビ放映権が、包括的な放映権契約を独占で結んでいた[[日本テレビ放送網]]しか与えられていなかった<ref group="注釈">[[1978年の日本シリーズ]]・阪急戦のヤクルト主管(日本シリーズの場合NPB主催)4試合も学生野球の都合で後楽園だったが、この時は後楽園開催の条件として日テレに1試合だけ(第2試合)放送権を譲渡することが盛り込まれていた。それ以外の3試合はフジテレビから放送された(阪急主管の3試合も系列局の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]が事実上の独占放送権を持っていたためフジテレビでの放送となった)。なおヤクルト戦共々、後楽園を当時本拠地としていた日本ハムの主催・主管試合放映権を主に持っていた[[テレビ朝日]]はこのシリーズの放映権を得ることができなかった。</ref> ため、当時[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]がメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。 なお、国鉄球団がフジサンケイグループの後援を受け入れるにあたっては、後楽園の放映権の絡みから、神宮球場に隣接する神宮第2球場をフジサンケイグループ主導で建て替えて専用球場とする計画をしていたが、[[日本学生野球協会]]などからの反対意見や、明治神宮も第2球場をアマチュア専用球場にしたい意向もあったためか、第2球場ではなく学生野球との日程調整をし、それを優先させる形で主球場への移転を認めたという経緯がある<ref>[http://i.imgur.com/Iw51FDv.jpg 国鉄神宮進出の背景・1963年6月21日 朝日新聞 2015年11月15日閲覧)]</ref>。 国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共に[[フジサンケイグループ]]の企業である。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した。 これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・[[ニッポン放送]]も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなった。一方でニッポン放送は1979年以来[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ(当時)]](旧:大洋球団)の株式を保有し、同一企業とそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっていたが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあい[[東京放送ホールディングス|TBS]]が筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーの[[楽天グループ|楽天]]が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)のTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示していた。その後、保有していた両球団の株式はニッポン放送とフジテレビの持株会社化で[[フジ・メディア・ホールディングス]]へと移転したが、ベイスターズの株式については2012年以降同球団の親会社となった[[ディー・エヌ・エー]]に2016年までに売却したため、ようやく長年の問題が解決した。 [[フジテレビONE]](フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦の[[地上波]]との[[プロ野球トップ&amp;リレー中継|トップ&amp;リレーナイター]]に加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全試合([[セ・パ交流戦]]含む)を『[[SWALLOWS BASEBALL L!VE]]』という題で[[通信衛星|CS衛星放送]]独占中継することになった。それ以前の1998年-2004年までは、当時フジテレビが資本参加していた[[J SPORTS|スカイスポーツ→Jスカイスポーツ→J SPORTS]]で、フジテレビ・ニッポン放送とその関連法人である[[八峯テレビ]](現・[[フジ・メディア・テクノロジー]]<ref group="注釈">放送上の制作クレジットはJ SPORTS→フジテレビ単独表記であり、球団のクレジットは入っていないが、事実上、球団から公式映像制作を受託している。</ref>)との協力を得て、前述の巨人戦を除くヤクルト主催・主管の全試合を「[[J SPORTS STADIUM|スカイ・スタジアム→Jスカイ・スタジアム→J SPORTS STADIUM野球好き]]」にて放送していた。 また、CSが普及する前は、巨人戦をフジテレビと[[テレビ朝日]](水・日曜を中心に、まれに金・土曜も)が放送していた。それ以外のカードは地方開催を中心とした一部のデーゲームをフジテレビとテレビ朝日を中心に、まれに[[テレビ東京]]で、巨人戦裏カードの全国中継ナイターはテレビ朝日(主に水 - 金曜日)が[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦と同様の扱いで平日を中心に年度によっては相当数を放送した、一方フジテレビは優勝争いがかかった時を中心に放送し、テレビ東京も年度により放送していたが、いずれも散発的なものだった。 その一方独立局では[[テレビ神奈川]]が随時『[[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE|TVKハイアップナイター]]』として、特に大洋との対戦(どちらの主催を問わず)を中心に、大洋戦の放送がない時も他カードを併せる形で年数十試合を放送し、特に対阪神戦は[[サンテレビジョン|サンテレビ]]や[[京都放送|KBS京都]]にネットすることがあった。またCSテレビが放送ではなく通信(配信)であった1990年代のごく一時期ではあるが、[[朝日ニュースター]](当時は[[朝日新聞社]]主導経営。現[[テレ朝チャンネル|テレ朝チャンネル2]])でごく数試合、テレビ朝日協力によるヤクルト戦の中継を[[ケーブルテレビ]]向けに配信したことがあった。 さらに1967年からごく数年間、当時[[独立局]]<ref group="注釈">現在の[[全国独立放送協議会]]に相当するもの</ref> で経営難にあえいでいた[[テレビ東京|東京12ch(現・テレビ東京)]]が全日放送に復帰するにあたり、番組ソフト不足解消の一環として、フジテレビから放映権を譲渡する形(ただし、制作主体は東京12chが行い、CXは制作協力だった)を取って、巨人戦以外のヤクルト主催・主管試合を東京12chから放送したこともあった。この時も球団資本の関係で、解説者とアナウンサーはCXからの派遣で賄っていた<ref>[http://blogs.yahoo.co.jp/toruiwa2006/56766196.html MY BOOK 7]([[岩佐徹]])</ref>。 1974年まではTBSが優先権を持っていた大洋主催・主管試合とフジテレビのサンケイ→ヤクルト主催・主管試合の放送権の一部とを交換する形で、大洋戦の優先権がNETテレビ(現:テレビ朝日)に移動した1975年にはNET系からネットチェンジした直後の[[毎日放送]]が保有していた阪神主催試合の権利の一部と交換する形(当時TBSが編成していなかった金曜日の対巨人戦を[[関西テレビ放送|関西テレビ]]と交換)で、[[TBSテレビ]]もヤクルト主催・主管試合を水曜・日曜の対巨人戦を中心に放送していた。また神宮球場への移転でフジテレビに優先権が移った後も、1960年代にはフジテレビ・TBS・NETテレビのいずれも中継できない場合に限り[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が対巨人戦を散発的に中継した例がある。 === 試合球到着遅延事件 === サンケイアトムズ時代の1967年10月9日、[[横浜公園平和野球場]]<ref group="注釈">当時神宮球場で日中に[[日本の大学野球|大学野球]]が開催されており、それを優先させたため。当時、[[消化試合]]の多くは[[デーゲーム]]だったこともあり、アトムズ・スワローズ主催試合の一部は横浜や、[[川崎球場]](当時[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]本拠地)等を間借りして行ったことがあった。</ref> で行われた対中日戦[[ダブルヘッダー]]での出来事。試合で使う予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受け、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。 そのため公式記録員がセ・リーグの[[鈴木龍二]]会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が始まった。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の[[西沢道夫]]監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。 === 初優勝決定の日 === {{出典の明記|date=2013年3月|section=1}} 1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で対中日戦を行った。ヤクルトの応援席のライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ 初優勝!! 29年間ご支援ありがとうございました」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。それまで当時のセ・パ12球団中、唯一優勝経験がなかった<ref group="注釈">厳密には、[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]も1978年の段階では年間総合優勝を達成できなかった(年間初優勝は1979年)が、2シーズン制の[[1975年]]後期でのステージ優勝による胴上げ(年間総合優勝は[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]])はあった</ref>ため、その原因を「鉄腕アトムの呪い」という者も多かったが、圧倒的な9-0のリードで迎えた9回一死一塁から[[谷沢健一]]の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成した。 決定の瞬間、選手らが一塁ベンチから飛び出して[[広岡達朗]]監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]から全国に放送された。 更に[[バックスクリーン]]のスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れ幕が掲げられた。 * [[読売ジャイアンツ]]「セ・リーグの繁栄を今日まで導いてくれた伝統の巨人球団どうも有難う」 * [[阪神タイガース]]「熱心ななにわ気質の声援に大きな刺激を受けました 阪神球団どうも有難う」 * [[中日ドラゴンズ]]「ナゴヤ野球のしぶとさがやっと神宮に育ちました 中日球団どうも有難う」 * [[広島東洋カープ]]「赤ヘル軍団の活躍が初優勝のよき刺激となりました 広島球団どうも有難う」 * [[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]「新球場([[横浜スタジアム]])進出でセ・リーグのイメージが一段と上がりました 大洋球団どうも有難う」 === ロケットボーイズ === 2人のリリーフ投手[[五十嵐亮太]]と[[石井弘寿]]のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158[[キロメートル毎時|km/h]]の直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名をとどろかせた。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募で決められたものである。 もともとリリーフエースの[[高津臣吾]]へつなぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で[[シカゴ・ホワイトソックス]]に移籍したことで2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板して球団新記録となる42[[セーブポイント]]を挙げ、最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障と[[アテネオリンピック (2004年)|アテネオリンピック]]出場でチームを離れることが多かったが、後半戦での登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。 しかし、2009年に五十嵐がFAで大リーグのニューヨーク・メッツに移籍したことに伴い、ロケットボーイズはコンビ解消となった。2011年に石井が現役を引退し、二軍コーチに就任。 2018年、五十嵐が日本球界復帰後に在籍をしていたソフトバンクから戦力外通告を受けたことで、2019年春にヤクルト復帰が決まった。当時石井は一軍投手コーチであったため、選手とコーチの関係ではあるが、ロケットボーイズは10年ぶりに復活を果たした。翌2020年をもって五十嵐が現役を引退したことで、再びコンビ解消となった。 === F-Projectとヤクルトタウン === 2005年秋に[[古田敦也]]が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる[[選手兼任監督]]が誕生した。[[日本プロ野球選手会]]の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、2004年の[[プロ野球再編問題 (2004年)|球界再編問題]]で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「'''F-Project'''」の活動を同年11月1日に開始した。 F-Projectの「F」は'''F'''uruta(古田)の他、プロジェクトが目指す'''F'''an(ファン)、'''F'''un(楽しむ)、'''F'''ull(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、かつ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からも[[カカクコム]]社長の[[穐田誉輝]](当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLの[[QRコード]]が刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。さらに、都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結し、カカクコムの他、家電製造業の[[ユニデンホールディングス|ユニデン]]とも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また、都民参加型のチームを作るという観点から[[東京都民銀行]]ともスポンサー契約を締結した。なお、これらの企業との契約は古田退任後に解消されたものも多く、東京都民銀行に至っては巨人の本拠地である[[東京ドーム]]での広告掲載に切り替えている。 さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]、[[翼軍|東京セネタース]]、[[松竹ロビンス|大東京軍]](いずれも消滅)、戦後の[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある[[明治神宮外苑]]周辺の[[新宿区]]、[[港区 (東京都)|港区]]、[[渋谷区]]の3つの[[特別区]]をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。もっとも、ヤクルト本社や全国のヤクルトの販売会社からは「東京偏重」と反対意見が出たという<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20090910/bbl0909101622003-n2.htm ヤクルト“転地”より“人” 新潟がプロ野球の球団誘致 2009.09.10付ZAKZAK] {{webarchive |url=https://web.archive.org/web/20100328035114/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20090910/bbl0909101622003-n2.htm |date=2010年3月28日 }}</ref>。 このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方で、巨人の本拠地である[[東京ドーム]]と比較してチケットが取りやすいことからビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に対巨人戦や対阪神戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の[[宮本慎也]]は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、[[五十嵐亮太]]も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」(実際神宮球場近隣には、阪神タイガースのグッズショップが存在している)と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。 また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球([[東京六大学野球連盟]]、[[東都大学野球連盟]])公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。学生野球がシーズンオフになっている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日・5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については[[明治神宮野球場#優先使用権]]も併せて参照)<ref group="注釈">2017年度も、5月4日・5月5日の阪神戦を対象にデーゲームを開催。これに伴って本来は原則木・金曜日(と、東京六大学野球連盟の予備日に充当している火・水曜で東京六大学連盟の試合がない場合)のデーゲームを基本使用日としている東都大学野球連盟は5月1日・5月2日の月・火曜日に前倒しを行った。</ref>。更にこれまで、暑さ対策のため自発的にデーゲームの開催を見合わせてきた8月についても2013年以後、一部の週末開催で、17時開始の薄暮デーゲーム(準ナイター)として行う試合もある(2018年は6月30日と7月1日のみ)。 この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月には[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[FC東京]]と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また、同年9月には[[日本プロバスケットボールリーグ|bjリーグ]]の[[東京アパッチ]]<ref group="注釈">2011年解散。現在の[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|Bリーグ]]においてはいづれも渋谷区を本拠としたB1クラブの[[アルバルク東京]]、[[サンロッカーズ渋谷]]が実在する。</ref> とも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・[[大井競馬場]]による3者共同キャンペーンも行なっている。 なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終えたが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示しており、F-Projectで行われていた日替わりのデーイベントは同年以降も継続して実施している。 ==== 主な活動 ==== * 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。 * 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。 === セ・リーグ1試合最多タイ本塁打 === 2007年7月11日の対[[広島東洋カープ]]戦で、両チーム12本(ヤクルト8本、広島4本)の本塁打を放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラ本塁打でスワローズが12-10で勝利した。なお、この日は強い南風が吹いており、出場した[[宮本慎也]]等が「バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響した」と後に証言している。 === 11打数連続安打(ギネス世界記録に認定) === ヤクルトは2009年6月14日の対[[オリックス・バファローズ]]4回戦([[大阪ドーム|京セラドーム大阪]])の5回表、プロ野球新記録となる11打数連続安打を含む打者15人の猛攻で10点を挙げた。 2-2の同点で迎えたこの回、先頭の[[青木宣親]]が中前安打したのを皮切りに、[[アーロン・ガイエル]]、[[飯原誉士]]の連打で勝ち越しに成功。さらに[[宮本慎也]]の三塁線への犠打が内野安打となり、その後[[田中浩康]]まで9者連続で単打を放って計6点を挙げ、通算8回目となる1イニング最多連続打席安打のプロ野球タイ記録(9者連続)に並んだ。さらに再び打席が回った青木の四球を挟んで、続くガイエルが満塁本塁打を放ち、この段階で[[千葉ロッテマリーンズ]]が3日前の同年6月11日に達成するなど、過去3回記録された1イニング最多連続打数安打のタイ記録(10打数連続)に並んだ後、飯原が二塁打を放って記録を11に更新した<ref group="注釈">「1イニング連続打数安打」は、NPBでは四死球を挟む場合のみを連続記録として認めており、打数には含まれないが打者アウトとなる犠打・犠飛を挟む場合は参考記録となる。後者の例として1999年6月30日、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]が対[[広島東洋カープ]]11回戦([[富山市民球場アルペンスタジアム|富山市民]])の5回裏に11打数連続安打を達成しているが、このケースでは犠飛が含まれるため参考記録として扱われている。</ref>。試合はヤクルトが計20安打を放ち、乱打戦の末に14-10で勝利した。またヤクルトは過去、1998年4月22日の対[[中日ドラゴンズ]]戦([[明治神宮野球場]])の1回裏にも1イニング10打数連続安打を達成しており(前述のタイ記録3回のうち2回目の達成)、NPB史上初めて1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したチームとなった。 6月16日、神宮での対ロッテ戦が中止となった際に行われたチーム全体練習で、1本目を放った青木が取材を受けた折、好調の相手打線について問われ「ロッテのマリンガン打線には負けませんよ。こっちは世界一。ツバメの'''ギネス打線'''です。打ち勝ちますよ」と答えたのをきっかけに、[[ギネス・ワールド・レコーズ]]社の関係者がこれに着目し、調査した結果「MLBでも達成されていない、価値のある記録」としてヤクルト球団関係者に記録申請を勧めた。球団内部には当初「記録は破られるもの」など申請に消極的な意見もあったが、選手側から「なかなかできない記録だし、ぜひとも名前を残したい」と強い要望が寄せられたことから協議した結果、6月29日に申請を決定。7月13日付けでギネス世界記録に認定された。7月15日の対[[読売ジャイアンツ]]10回戦(神宮)の試合前に認定証の贈呈式が執り行われ、ナインはその時使ったバットを持って記念撮影に臨んだ。当日の試合は青木が不振から先発を外れたものの、ヤクルトは奇しくも記録達成時と同じ20安打を放って巨人を圧倒し、13-7で快勝した。 なお前述の通り、ヤクルトはこの記録達成と同時に四死球を挟まない1イニング最多連続打席安打のタイ記録も達成しているが、こちらは翌2010年6月7日、千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズが共に10者連続安打を放って更新している。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" !&nbsp;!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計 |- style="background-color: pink;" ! ヤクルト |2||0||0||0||'''10'''||1||1||0||0||'''14''' |- ! オリックス |1||0||1||0||1||0||5||0||2||'''10''' |} 5回表の詳細 {| class="wikitable" style="text-align: center;" |- ! 打席 !! 打者 !! 結果 !! 得点 !! 備考 |- | 1 || 青木宣親 || 中前安打 || || |- | 2 || ガイエル || 中前安打 || || |- | 3 || 飯原誉士 || 左前安打 || 1 || |- | 4 || 宮本慎也 || 投前安打 || || |- | 5 || [[ジェイミー・デントナ|デントナ]] || 左前安打 || 2 || |- | 6 || [[相川亮二]] || 左前安打 || 1 || |- | 7 || [[川島慶三]] || 左前安打 || || |- | 8 || [[武内晋一]] || 一塁安打 || 1 || |- | 9 || 田中浩康 || 中前安打 || 1 || 川島慶三は三本間で走塁死 |- | 10 || 青木宣親 || 四球 || || |- | 11 || ガイエル || 右越満塁本塁打 || 4 || |- | 12 || 飯原誉士 || 中越二塁打 || || |- | 13 ||宮本慎也 || 一邪飛 || || |- | 14 || デントナ || 四球 || || |- | 15 || 相川亮二 || 一直 || || |} === 本拠地移転に関するエピソード === ==== 後楽園から神宮移転の経緯 ==== {{main|明治神宮野球場#国鉄→サンケイ→アトムズ→ヤクルトの本拠地}} ==== 仙台移転誘致構想 ==== 2004年6月、[[宮城県]]の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県[[仙台市]]の[[宮城球場]]に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現[[千葉ロッテマリーンズ]])が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。また、ヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、あくまでも東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名などの誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する[[プロ野球再編問題 (2004年)|再編騒動]]が勃発し、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事で、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]として実現している。 ==== 新潟県・新潟市による誘致構想 ==== 2009年9月から、[[新潟県]]と[[新潟市]]がNPB球団の本拠地、もしくは年間10試合以上の主催ゲームを開催する「準本拠地」の誘致活動を水面下で開始した。同年7月1日に開場した[[新潟県立野球場]](HARD OFF ECOスタジアム新潟)が、NPB関係者から設備面で高い評価を得たことが背景にある。2010年1月には「原則として球団を特定せずにNPB12球団を対象とし、拠点の一つとして年間数試合を開催する『準フランチャイズ』としての球団招致」という方向性が決まり、3月24日に県・市・県内財界関係者などから成る「プロ野球新潟招致委員会」が発足。当面は公式戦の開催数増加を目指し、その上で準本拠地を招致し、最終的には本拠地招致を目標として段階的に誘致活動を実施することになり、NPBとセ・パ12球団に対し働きかけを進めることになった。一部報道では、ある関係者がセ球団の誘致候補としてヤクルトの名を挙げていたが<ref group="注釈">2010年1月21日付・朝日新聞新潟版より。同紙上ではヤクルトの他、[[福岡ソフトバンクホークス]]も招致候補とされている。</ref>、前述の通り現段階の方針はNPB全球団に対する活動が中心であり、県・市側からもヤクルト球団など各球団個別に対する公式な意思表示は行っていない(2011年末現在)。 新潟県は毎年9月に神宮球場でのヤクルト公式戦で日替わりのデーイベント「うまさぎっしり新潟Day」を開催しており、当日は[[泉田裕彦]]新潟県知事が観光PRを行っている他、始球式にも登板している。前述の経緯から泉田は2009年以降、新潟Day開催の折にヤクルト球団幹部に新潟での公式戦開催を要請しているが、球団側は2年連続で態度を留保していた。 その一方で、新潟市に隣接する[[燕市]]は同じ「つばめ」という縁から、2011年シーズンから[[#スワローズ・燕市交流事業|ヤクルト球団と交流・連携協定]]を締結し、2012年度以後も継続して展開している。 その内容としては、燕市民(同市在住・在学・在勤者)を対象としたコメの田植・稲刈りや、少年野球教室などのイベントに、球団マスコットの[[つば九郎]]や、試合出場機会の少ない若手・[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]、球団OBを派遣することや、神宮で行われるスワローズ主管全試合においての「燕市ヒーロー賞」(マン・オブ・ザ・マッチ相当)に選ばれた選手に対して、同市に本社などを置く上掲協賛各企業・団体からの商品の贈呈(燕市産の金属製洋食器セットや協賛企業の製品)など様々なコラボレーションを展開している。また上掲協賛各社は球団のオフィシャルスポンサーとして支援を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yakult-swallows.co.jp/pages/info/event/tsubame_city |title=新潟県燕市との交流事業 |publisher=東京ヤクルトスワローズ |accessdate=2015-10-03 }}</ref>。 なお、ヤクルト球団では同球場で初の主催公式戦として、2012年9月8日・9月9日に対[[読売ジャイアンツ]]2連戦を開催した(ヤクルト球団と[[新潟総合テレビ]]が共同で主催、新潟市、燕市など共催)。ヤクルトが新潟県内で主催公式戦を開催するのは1991年以来、21年ぶりのことであった。 なお、ヤクルト球団に在籍した事がある新潟県出身のプロ野球選手は、[[渡辺保]]<ref group="注釈">サンケイアトムズ時代に在籍。</ref>、[[大滝信孝]]<ref group="注釈">サンケイアトムズ時代に在籍。[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。</ref>、[[黒坂幸夫]]、[[川村一明]]<ref group="注釈">[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]から移籍。</ref>、[[青島健太]]、[[本間忠]]、[[鈴木裕太]]の7人である<ref group="注釈">2022年6月20日現在。</ref>。 === 二軍本拠地の移転構想 === 2022年現在二軍の本拠地となっている[[ヤクルト戸田球場]]は、元々河川敷ということで大雨による浸水などの問題を抱えている上に、施設の老朽化が進んでいる。また隣接する選手寮・室内練習場などは現代の基準ではやや手狭となってきており、敷地の都合上現在地でのこれ以上の拡張も難しいことから、ヤクルトの株主からは移転を求める声があった<ref name=nhk210623>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210623/k10013100581000.html 新しい神宮球場 使用開始は2032年に ヤクルト 衣笠球団社長] - NHK・2021年6月23日</ref>。球団では2021年時点では、戸田での施設整備を進める方針としていたが<ref name=nhk210623 />、内々に二軍本拠地の移転も含めて検討を行っていた。 これに対し、[[茨城県]][[守谷市]]が二軍施設を誘致する意向を表明したため、球団と守谷市では[[常総運動公園]]の敷地を実質拡大させ、新球場・サブグラウンド・選手寮等を建設し二軍本拠地を移転する方向で2022年4月に協議を開始<ref>[https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/27017 東京ヤクルトスワローズ二軍施設の茨城県守谷市への移転に関する協議開始のお知らせ] - 東京ヤクルトスワローズ・2022年4月15日</ref>。[[2023年]]11月には球団・ヤクルト本社・守谷市・茨城県の四者による基本協定を締結した<ref>[https://www.yakult-swallows.co.jp/news/detail/29104 東京ヤクルトスワローズファーム施設の移転に関する基本協定締結のお知らせ] - 東京ヤクルトスワローズ・2023年11月10日</ref>。新しい二軍本拠地は、2027年より供用を開始する予定としている。 === 同一チームで打撃主要3部門を分け合い(史上初) === 2015年は2001年以来、14年ぶりのセントラル・リーグ優勝を果たした。この年は破壊力ある強力打線が存在感をみせ、優勝の大きな原動力となった。なかでも、シーズン中盤から固定された2番[[川端慎吾]]、3番[[山田哲人]]、4番[[畠山和洋]]の活躍が大きく、川端は[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]と[[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]を、山田は[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]、[[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]を、畠山は[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]を獲得し、プロ野球では11年ぶりに同一チームで打撃タイトルを独占した<ref>{{Cite news |title=ヤクルトが打撃タイトル総なめ 山田は3部門制覇 |newspaper=日刊スポーツ |date=2015-10-07 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1549611.html |accessdate=2015-10-08 |publisher=日刊スポーツ新聞社 }}</ref><ref name="excitenews20151007">{{Cite news |title=ヤクルトが04年ホークス以来、11年ぶり打撃タイトル独占! 山田は3冠 |newspaper=exciteニュース |date=2015-10-07 |url=http://a.excite.co.jp/News/baseball/20151007/Full_count_19663.html |agency=Full-Count |publisher=Creative2 |accessdate=2015-10-08 }}</ref>。また、打率(首位打者)打点(打点王)本塁打(本塁打王)の打撃タイトル主要3部門を同一チームの3人の選手で分け合うのはプロ野球史上初<ref name="excitenews20151007" />。 === 「平成最後」と「令和最初」の三者連続本塁打 === 2019年4月26日の対[[読売ジャイアンツ]]戦で[[菅野智之]]から、2番[[青木宣親]]、3番[[山田哲人]]、4番[[ウラディミール・バレンティン|バレンティン]]が三者連続本塁打を放った。4月30日から翌5月1日に当時の[[明仁|今上天皇]]から[[徳仁|皇太子]]への[[明仁から徳仁への皇位継承|皇位継承]]が行われたことで、平成から令和へ改元がなされたため、これが'''「平成最後の三者連続本塁打」'''となった。その試合から1ヵ月後の2019年5月26日の対[[中日ドラゴンズ]]戦で[[清水達也 (投手)|清水達也]]から、2番青木宣親、3番山田哲人、4番バレンティン、同シーズン2度目となる三者連続本塁打を放った。これが改元後初めての三者連続本塁打であるため、'''「令和最初の三者連続本塁打」'''となった。したがって「平成最後」と「令和最初」の両方を青木・山田・バレンティンの3人で記録した。 === 全球団を相手にした連続カード勝ち越し(史上初) === 2022年6月26日の対[[読売ジャイアンツ]]戦に勝利し、11球団を相手に連続して同一カード勝ち越しを達成した。この記録を達成するためには交流戦で全カード勝ち越しが必要である。2011年に[[ソフトバンクホークス]]が交流戦でセリーグ全チームから勝ち越しを達成しているが、交流戦明けに[[日本ハムファイターズ]]に負け越して達成できなかった。 == 関連書籍 == * [[堀哲]]『国鉄スワローズ 1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』 [[交通新聞社]]〈[[交通新聞社新書]]〉 2010年 ISBN 978-4-330-15610-1 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} <!--注釈文のrefタグに group="注釈" をつけて、出典と分ける。--> === 出典 === {{Reflist|3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tokyo Yakult Swallows}} * [[ヒーローインタビュー (映画)|ヒーローインタビュー]] * [[メークミルミル]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|野球}} * {{Official website}} * {{Facebook|swallowsofficial}} * {{Twitter|swallowspr|東京ヤクルトスワローズ公式}} * {{LINE公式アカウント|swallows}} * {{YouTube channel|c/Yakult-swallowsCoJp}} * {{Instagram|goods_yakultswallows|東京ヤクルトスワローズグッズ担当}} * [https://open.spotify.com/user/ouyd9f2nmldn6lhfdkbyt35do Tokyo Yakult Swallows] - [[Spotify]] {{Normdaten}} {{日本プロ野球}} {{東京ヤクルトスワローズ}} {{各年の東京ヤクルトスワローズ}} {{東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団歴代オーナー}} {{ヤクルト}} {{フジテレビジョン}} {{日本国有鉄道}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=ヤクルト球団 |1-1=東京都港区の企業 |1-2=青山 ||-3=東京ヤクルトスワローズの選手・スタッフ |}} {{デフォルトソート:とうきようやくるとすわろおす}} [[Category:東京ヤクルトスワローズ|*]] [[Category:スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者]] [[Category:野球に関するギネス世界記録保持者]] [[Category:1950年設立のスポーツチーム]]
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一切皆苦
一切皆苦(いっさいかいく、巴: sabbe saṅkhārā dukkhā)は、一切行苦ともされ、一切のサンサーラ(有為)は無常であるために、それは苦であるという仏教の教説。 有為なる存在(=衆生)は五蘊で構成される存在であり、五蘊それぞれは無常であるために、それが壊れるとき苦に繋がる。 阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽(捨,ウペッカー)に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。 Sabbe saṅkhārā dukkhā'ti yadā paññāya passati Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā. 「一切の形成されたもの(サンサーラ)は苦である」(一切行苦)と 智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。 三者自種比相。四者成相。五者快淨語説相。 一切無常。一切行苦。一切法無我。
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一切皆苦は、一切行苦ともされ、一切のサンサーラ(有為)は無常であるために、それは苦であるという仏教の教説。 四法印のひとつ 上座部仏教における三相のひとつ 有為なる存在(=衆生)は五蘊で構成される存在であり、五蘊それぞれは無常であるために、それが壊れるとき苦に繋がる。 阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽(捨,ウペッカー)に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。
{{出典の明記|date=2015年8月2日 (日) 13:46 (UTC)}} '''一切皆苦'''(いっさいかいく、{{lang-pi-short|sabbe saṅkhārā dukkhā}})は、'''一切行苦'''ともされ、一切の[[サンカーラ]](有為)は[[無常]]であるために、それは[[苦 (仏教)|苦]]であるという[[仏教]]の教説<ref name=muroji>{{Cite journal|和書|author=室寺義仁 |date=2013 |title=「三法印」(dharmamudrā trilaksanā): 古典インドにおける三句の發端と展開の諸樣相 |journal=東方學報 |volume=88 |pages=442-423}}</ref>。 * [[四法印]]のひとつ<ref name=muroji /> * 上座部仏教における[[三相 (仏教)|三相]]のひとつ<ref name=muroji /> 有為なる存在(=[[衆生]])は[[五蘊]]で構成される存在であり、五蘊それぞれは[[無常]]であるために<ref name=muroji />、それが壊れるとき苦に繋がる。 [[阿毘達磨]](アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される{{要出典|date=2012年11月}}。「圧迫して(○○○○○に)悩まされる」という意である。この苦には二つの用法がある。一つは楽や[[不苦不楽]]([[捨 (仏教)|捨]],ウペッカー)に対する苦であり、他は「'''一切皆苦'''」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の'''三苦'''という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。 == 抜粋 == {{Quote| Sabbe saṅkhārā dukkhā'ti yadā paññāya passati<br> Atha nibbindati dukkhe esa maggo visuddhiyā. 「一切の形成されたもの([[サンサーラ]])は苦である」(一切行苦)と <br> 智慧をもって観るときに、ひとは苦から厭い離れる。これが清浄への道である。<ref name=muroji /> | {{SLTP|[[ダンマパダ]]20, Maggavaggo}} }} {{Quote| 三者自種比相。四者成相。五者快淨語説相。<br> 一切無常。一切行苦。一切法無我。<ref name=muroji /> | 相續解脱如來所作隨順處了義經<ref>{{大正新脩大蔵経|title=相續解脱如來所作隨順處了義經 求那跋陀羅譯 |no=0679 |volume=16 |pages=16.0719a15}}</ref> }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[三法印]] * [[四諦|苦諦]] * [[苦 (仏教)]] * [[四苦八苦]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:いつさいかいく}} [[Category:仏教用語]] [[en:Dukkha]]
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PiTaPa
PiTaPa(ピタパ)は、スルッとKANSAI協議会が展開する、乗車カード機能を基本に据えたサイバネ規格/非接触型ICカード(電子マネーカード)。乗車カードとしては近畿地方・東海地方・北陸地方の一部・岡山県・静岡県の鉄道・バス事業者が導入している。 関西大手私鉄を中心とした近畿圏の民鉄で導入されていた磁気式ストアードフェアシステムである「スルッとKANSAI」の次世代システムとして2004年に導入された。名称は「Postpay IC for "Touch and Pay"」の略で、株式会社スルッとKANSAIの登録商標である。キャッチフレーズは「ピタッとタッチするだけでパッとスピーディーに!」。また2009年3月からは、テレビCMなどで、「“動く”を応援するカード。PiTaPa」と言うキャッチコピーも使われている。カード裏面に記載の番号の始めの文字は「SU」であり、「スルッとKANSAI」のローマ字表記の、SURUTTO KANSAI の略称である。 技術としては、Suica・ICOCAなどと同様にソニーが開発したICカードFeliCaを採用しているが、Suicaなどで採用されている大多数のプリペイド方式ではなく、公共交通機関の乗車ICカードとしては日本初のポストペイ(後払い)方式を採用しているのが特徴となっている(詳細後述)。そのためSuicaやICOCAのように駅の自動券売機などでは即時発行は出来ず、クレジットカードのように申し込みをしてから与信審査が必要となる(審査落ちで発行されない場合もある)。交通系ICカード全国相互利用サービスにも参加しているが、基本的な決済方式が異なるため乗車券機能以外の相互利用に対応しないなど一部の機能に制約がある。 種類としては、交通利用/電子マネー利用に特化した「PiTaPaベーシックカード」と、商業施設等が発行するクレジットカードとの一体型(または同梱型)カードであるPiTaPa提携カードに大別される。 静岡鉄道や奈良交通、神姫バス、水間鉄道、大阪空港交通、江若交通、阪堺電気軌道、西日本JRバス、岡山地区のバス・鉄道事業者(岡山電気軌道・下津井電鉄・両備ホールディングス・中鉄バス)のように「スルッとKANSAI」のプリペイド磁気カードや、PiTaPa対応カードを発行せず、PiTaPaのみを導入する事業者(自社エリアでの申し込みはベーシックカードや、三井住友カード・青山キャピタルなど、鉄道系でないPiTaPa提携カードで対応)、PiTaPaに対応しつつ独自のICカード(神姫バスのNicoPa、岡山地区のHareca、奈良交通のCI-CAなど)を発行する事業者(これらのカードは制度上、回数乗車券としてプレミアムのチャージ付与などがあるため)もいる。 乗車券・電子マネー以外の利用例としては、FeliCaのメモリー分割機能を用いて、プライベート領域に個人認証機能を搭載した入退館管理機能付きPiTaPaが、大阪府の池田市役所で導入されている。また、FeliCaポケット機能を利用しているOSAKA PiTaPaの「楽楽ポケット」では、大阪市内の一部新築マンションで部屋の鍵(IC錠)として採用する例もある。 京都市北区にある私立の立命館小学校では、同校に通学する児童生徒の安全対策としてPiTaPaのシステムを活用した児童証を導入 (表面に従来のPiTaPaのデザインにこども用と記載されたもので裏面に児童証が記載されているものとなっている)在学する生徒に発行され、登下校時の校舎への出入りの際に読み取り装置に認識させるための入・退用として使われる他、登下校中の交通機関利用の際における改札の入出場時の把握、在学生徒の通学状況の所在が確認できるなど、安全を考慮した制度運用をおこなっている。 また、旧大阪市交通局(現大阪市高速電気軌道)では、職員の出退勤管理システム用のICカードとして、交通局から貸与されるICカードを使用するか、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用するかが選択できるようになっている。この場合、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用すると申告した場合には、交通局からは出退勤管理システム専用のICカードは貸与されない。 2017年7月現在、おサイフケータイには対応していない。これについては、Felicaと携帯電話を連動させたチャージや残金確認の機能はPiTaPaに必要ないため、おサイフケータイ対応する動機に乏しいが、公共交通機関利用を促進するサービスを提供する手段としてPiTaPaがおサイフケータイに対応する可能性はあるとのスルッとKANSAIのコメントがある。 前述の通り、PiTaPaは導入に当たってプリペイド方式ではなくポストペイ方式を採用している。この理由について、ITmediaが2006年にスルッとKANSAI PiTaPaビジネスサークルコアリーダー執行役員(当時)の松田圭史にインタビューした記事によると、1999年にSuicaが発表されたことを踏まえてICカードの導入を検討するに当たって、そのタイミングがスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカードシステム)の導入を開始した1996年のわずか3年後であったことから、Suicaのようにシステム全体をプリペイドICカード対応に改めるフルスペックでのシステム導入は「スルッとKANSAI」システムとの二重投資となってしまうこと、同様にIC乗車券を導入していた香港の八達通(オクトパス)がオートチャージやポストペイの仕組みを導入していたことを踏まえ、投資コストを実質「自動改札機の改修のみ」とすることでフルスペックでの導入に比べて2割程度まで抑えるべく、プリペイド方式の「スルッとKANSAI」システムと両存させることを前提にポストペイ方式による別のシステムを導入した、と説明している。また、チャージの手間や残高の管理が面倒と感じる顧客の不満や、利用頻度に応じた割引サービス導入の要望もあり、これに対応させることもPiTaPaの導入につながっているとも説明している。 ポストペイ方式を採用していることから、PiTaPaは広義のクレジットカードに分類される。2009年12月の割賦販売法の改正に伴い、以降はPiTaPaベーシックカードをはじめとするPiTaPaそのものが同法の適用対象となり、発行元であるスルッとKANSAIが信用情報機関に加盟したほか、PiTaPaの重複発行禁止、引き落とし遅延時の遅延損害金計算率の見直しが行われている。 カードの発行(入会審査)に当たっては指定信用情報機関(シー・アイ・シー)を通じて信用情報の審査が行われ、審査結果によっては発行が行われないことがある。システム開発は三井住友カードが行っており、同社が審査や与信業務に関する業務を請け負っている。なお、一定額の保証金を予納することで与信審査を必要としない「保証金預託制PiTaPaベーシックカード」も用意されていたが、(ETCパーソナルカードと同様の仕組み)2022年3月31日をもって新規の受付、ならびに家族カードの追加申込の受付を終了した為、PiTaPaは実質ポストペイ方式一択となり、既存の利用者を除きポストペイ方式以外での利用ができなくなった。保証金預託制PiTaPaの新規受付終了後はチャージ型で利用のICOCAが推奨されている。 利用限度額は全ての会員で一律固定となっており、交通サービスでの利用が1か月150,000円まで(割引を適用する前の運賃合計額)、ショッピングや施設での利用が1か月50,000円(1日に利用可能な額は30,000円まで)の計200,000円となっている。それぞれ1か月の限度額は本会員・家族会員の合算額での算出となる。利用代金の支払(引き落とし)は全て一括払いのみで、利用代金は毎月1日 - 末日の実績を集計し、翌月25日頃に請求書が郵送され(提携カードによっては手数料100円(税抜)が掛かる。PiTaPa倶楽部で解除可能)、翌々月10日に指定の口座から引き落とされる。また、1年間全く利用がない場合は維持管理料として1,000円(税抜)が請求される。尚、PiTaPa以外の別のクレジット機能(VISAなど)が付帯しているカードについては、その分に関わる手数料や限度額については、各カード会社が別途設定した額となり、それらの利用代金はPiTaPaとは別の枠であり、請求も別となる。 2017年3月31日にスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカード)の共通利用が終了となることが発表されると、「ICOCA と PiTaPa との連携サービスの拡大」として大阪市交通局(当時)や南海電気鉄道など10社局がスルッとKANSAIの共通利用終了に前後してプリペイドカードおよび定期券としてJR西日本のICOCAを導入。一方で、2018年10月1日から近畿圏のICOCAエリアでPiTaPaのポストペイサービスを開始しており、「プリペイドはICOCA、ポストペイはPiTaPa」という棲み分けが行われるようになっている。一方で2021年時点で発行枚数約2500万枚のICOCAが会員数約330万人のPiTaPaを大幅に上回っている。 なお、PiTaPaのカードそのものにもプリペイド機能は搭載されているが、交通系ICカード全国相互利用サービスによる他ICカードエリアでの利用のために用意されているのみであり、PiTaPaエリア内ではプリペイド機能の利用は原則行われていない。2007年9月に大阪市が導入したPiTaPa仕様の敬老優待乗車証、および2008年10月に神戸市が導入した敬老パスでプリペイド利用が出来るが、それ以外のPiTaPaエリア内でのプリペイド利用は行われていない。 2006年に神姫バスにてNicoPaを導入したのを先駆けに、各社オリジナルのIC乗車券(ハウスICカード)を導入し、PiTaPaを重複導入することにより、ICOCAとの相互利用、または全国ICカード相互利用に対応している事業者がある。また各ハウスICカードでIC定期券を導入している社も多い。事情には各社、プリペイド式の導入(PiTaPaはポストペイ)、顧客の囲い込み、オリジナルの割引やプレミアム、ポイントサービスなどを展開するためである。各ハウスICカードは、各カードエリアのみの利用で、PiTaPaエリアやICOCAエリアなど、他エリアでは利用できない。 2016年10月現在のPiTaPaエリア内でのハウスICカード導入は下記の通り。 2013年3月当時、全国相互利用サービスを導入した10種のICカードの中で唯一、共通の公式キャラクターが設定されていなかったため、導入記念で発行された各社の限定カードでは、ICOCA(カモノハシのイコちゃん)やSuica(ペンギン)などの各カードのオリジナルキャラクターが一つの横断幕を持って練り歩くというデザインであったが、PiTaPaのみイメージカラーの紫色の風船しか描かれなかった。なお、スルッとKANSAI協議会が発行する前払い式の磁気カード「スルッとKANSAI」には「スルットちゃん」という共通キャラクターが存在し、3月23日に東京駅で行われた相互利用開始記念セレモニーにも出席したが、こちらはスルッとKANSAI協議会の組織としてのキャラクターであり、広報誌や磁気カードを中心に使用されている。PiTaPa導入事業者が独自発行するPiTaPa機能付きカードによっては、独自のキャラクターが存在する(大阪市交通局発行の「OSAKA PiTaPaカード」の「ぴたポン!」、南海電鉄発行の「minapitaカード」の「minamo」、神戸市交通局など発行の「KOBE PiTaPaカード」の「ピットン」と「パタピー」など)。 その後、PiTaPa導入10周年の2014年に、忍者のキャラクターが制定され、同年8月1日には公募の結果、名称は「ぴたまる」に決定した。 2006年1月21日から、JR西日本のICOCAと交通機関での利用に関して相互利用を開始した。当初、ICOCAエリアで使用する場合はシステムの関係上PiTaPaのポストペイ機能の適用外となり、あらかじめPiTaPaへのチャージ(入金)が必要となる。なお、相互利用の開始に併せてオートチャージ機能(登録が必要)を搭載している。これはPiTaPaエリアの自動改札機にタッチした時点でプリペイド分の残高が1,000円以下であれば2,000円が自動的にチャージ(小児用はそれぞれ半額)されるもので、この料金は他のPiTaPaの利用と同様に後日請求される。またICOCAエリアではICOCAと同様にチャージできる。 その他の交通系ICカードとの相互利用については、Suica(JR東日本など)とは2004年度から検討していたが、2010年12月20日にKitaca(JR北海道)・PASMO(関東地方)・TOICA(JR東海)・manaca(中京圏)・SUGOCA(JR九州)・nimoca(西日本鉄道など)・はやかけん(福岡市交通局)と共に相互利用に向けた検討を行う事が発表され、2011年5月18日に2013年春の相互利用開始に合意したと発表、2013年3月23日より、交通利用(鉄道・バス)において、事前にチャージしたプリペイド部分での決済による「全国相互利用サービス」を開始した。 なお、相互利用に当たってはプリペイド方式を採用している他社との決済システムの違いから乗車券部分のプリペイド利用に限定され、ショッピングサービス(電子マネー)としての相互利用は行われていない。 JR西日本との間では、2017年9月に近畿圏のICOCAエリアでPiTaPaでのポストペイ決済導入計画が発表され、2018年10月1日より近畿圏のICOCAエリアでのポストペイサービスを開始した。 ◆印は全国相互利用サービス対応交通事業者 いずれも交通利用(鉄道・バス)でのみ可能であり(一部に対象外の事業者あり)、ショッピングサービスは対象外である。 PiTaPaおよびICOCAの使用履歴・SF残額(チャージ金額)履歴を印字・表示することができる(ただし、消去された履歴は印字・表示できない)。 PiTaPa加盟社局の駅の自動券売機などで、直近20件までの履歴を表示・印字でき、カードに履歴が残っている場合は何度でも印字できる。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない(阪急・阪神など一部の事業者では26週間を経過した履歴も印字できる)。これは、ICOCA加盟社局でも同様である。これに加えて、ICOCA加盟社局では、窓口に申し出ることで、50件までの履歴を得ることができる。 また、履歴印字は、カードの種類や、印字した事業者に関わらず、ほぼ同一の内容が印字される。内容は、利用月日・利用種別(入場・出場・バス等の利用など)・利用駅(バス利用時は社局名)・残額である。このうち、利用駅名は、PiTaPaエリアで印字した場合、社局名2文字+駅名3文字(例 : 「JR西京都」、「阪急梅田」)で印字される。一方、ICOCAエリアで印字した場合、社局名英字半角2文字+駅名2文字(例 : 「OC梅田」、「KC京都」)で印字される。最近開業した駅では、印字した事業者によって駅名の部分が「***」となって表示されない場合がある。 南海・泉北高速など一部の事業者では、自社線のみ使用駅名が表示される事業者も存在する。Osaka Metro・京阪など一部の事業者では、全国の相互利用事業者の利用駅名の表示・印字に対応している券売機がある。このように、履歴の表示・印字に関しては、PiTaPa加盟社局間での足並みが統一されていない部分が存在する。 PiTaPaはポストペイ(後払い式)のため、利用実績により割引額を決めることが可能である。これを利用して下記のように各社でいろいろな割引サービスを実施している。 これらの割引は利用した交通機関によって決まり、使用したカードの種類には関係ない。例えば、「STACIAカード」で大阪市営地下鉄を利用した時は、大阪市交通局の「利用額割引・フリースタイル(2008年3月1日に「利用額割引」から改称)」が適用される。PiTaPaと相互利用しているだけのICOCA等を使用した場合には、これらの割引サービスは適用されない。 当初設定された割引サービスは割引率の一部で問題があったが、IC定期券の登場で後者は解決しつつある(ただし大手私鉄では京阪や近鉄、また大阪市交通局などでは導入されていない)。 PiTaPaでショッピングを行うと「ショップdeポイント」が貯まる。100円につき1ポイント貯まるのが基本だが、500ポイントで50円の割引なので割引率は0.1%となり、クレジットカード会社が展開する同種のポイントサービスより割引率が低い。ただし、利用店によっては5倍(100円で5ポイント)のところがあったり、期間限定の10倍キャンペーンを実施したりしている。 上記はいずれもサービス開始から間もない時期のデータである。 奈良交通グループ、神姫バスグループ、静鉄グループ、水間鉄道、江若交通、阪堺電気軌道、三重交通、名阪近鉄バス、西日本JRバス、本四海峡バス、淡路交通および岡山地区の各社(宇野自動車と八晃運輸の2社(いずれもスルッとKANSAI協議会非加盟事業者)以外)においては、磁気式のスルッとKANSAI対応カードは導入せず、PiTaPaのみの導入となっている。 なお、スルッとKANSAI対応カードの販売は2017年3月31日で、利用は2018年1月31日で終了している。阪急バスグループ、大阪空港交通、叡山電鉄などは、それよりも早くに販売、利用が終了した。 以下の事業者がスルッとKANSAI協議会と共同で発行しているほか、協議会単体でPiTaPaベーシックカードを発行している。 スルッとKANSAI協議会加盟事業者のうち、現時点でPiTaPaを導入予定が無い(スルッとKANSAI対応カードは導入)事業者を挙げる。 PiTaPaは、ショッピングサービスの加盟店開拓を三井住友カードに委託している。同社は自社の同じFeliCa対応クレジットサービスiDとPiTaPaを並行して売り込んでおり、PiTaPaの決済端末はiDの決済に対応している。PiTaPaは三井住友カードが使える店舗にiDと共に導入される傾向があるが、加盟店側は双方別々に申し込む必要があるのでPiTaPa加盟店すべてでiDが使えるわけではない。なお、INFOX以外の信用照会端末や、NTTドコモが開拓した加盟店に多いiD単独の決済端末ではPiTaPaを使用できない。 ただし、あくまでPiTaPaとiDは別物で、単に店頭の決済端末が両方に対応しているというだけであり、他の鉄道系ICカードのような「相互利用」とは全く異なる。 ショッピングとして、主に関西地区の以下の店舗で利用可能(2013年2月末現在約24,000店舗)。他の交通系ICカードと異なり、すべての所有者が特定できる利点(他の交通系ICカードでは無記名や、記名式でも本人確認が行われていないものが含まれる)を生かした使用事例もある。グランフロント大阪(大阪市)では、2013年4月より2020年1月31日まで、クレジットカードと共に唯一の交通系ICカードとして、レンタサイクル(UMEGLE-CHARI)の自動貸出・返却に使われていた。 (注)リスト中の【5倍】は通常の5倍の ショップdeポイント がもらえる。 2004年10月1日のショッピング機能のサービス開始日に、利用対応の約200店のうち約160店で端末機が動作せずサービスを利用できないというトラブルが発生した。その影響は翌2日の午後まで続いた。 2013年3月23日からの交通系ICカード相互利用拡大後も、PiTaPaはショッピングに利用できない。これは、決済方法の異なるポストペイ利用のみならず、PiTaPaのプリペイドチャージ額をショッピングサービスに充当することが出来ない。この理由について、大阪市交通局より以下のように説明されている。 そこで、この問題を解決するための施策(代替策)として、スルッとKANSAI協議会では現在、PiTaPaのポストペイ決済でのみ利用可能な物販端末機を、順次ICOCAなどのプリペイド型交通系ICカードでも利用可能なもの(マルチマネー対応機)に切り替え、PiTaPa加盟店においては、立地する地域の各社局が導入しているプリペイド型交通系電子マネー(例:関西圏=ICOCA・関東圏=SuicaあるいはPASMO)も並行して決済可能になるよう協力していく考えであると大阪市交通局を通じて説明している。ただし、これらの施策が具体的にどのように実施されるのか(施策の実施時期)などについては、スルッとKANSAI協議会からは直接には特に発表はされていない。ただし、店舗サイドで独自に両方への対応を行っている例が関西圏を中心にみられるほか、キャッシュレス対応拡充を目的に、コード決済型電子マネーや流通系電子マネーとも同時に対応した例もある。 2007年2月16日 - 3月15日まで、公共交通機関(チャージでの利用であるJR西日本を除く)・ショッピング・宅配ロッカーをすべてPiTaPaで決済すると、後日宅配料金を条件により全額キャッシュバックする社会実験が、NEDO民生部門等地球温暖化対策実証モデル評価事業として行われた。大阪空港、阪急梅田駅構内など6か所に実験対応の宅配ロッカーが置かれ、手荷物の運搬に便利な自家用車から、利用者一人あたりのCO2排出量が少ない鉄道・バスへの利用転換を狙ったもので、その場合不便になる手荷物の運搬を、条件が揃えば無料とする試み。実験は交通・ショッピング・宅配ロッカーの決済が同一カードで行え、履歴が把握できるPiTaPaの利点を生かした形となった。実験終了後もPiTaPa対応宅配ロッカーは、(梅田駅構内の場合)有料で利用できる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "PiTaPa(ピタパ)は、スルッとKANSAI協議会が展開する、乗車カード機能を基本に据えたサイバネ規格/非接触型ICカード(電子マネーカード)。乗車カードとしては近畿地方・東海地方・北陸地方の一部・岡山県・静岡県の鉄道・バス事業者が導入している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "関西大手私鉄を中心とした近畿圏の民鉄で導入されていた磁気式ストアードフェアシステムである「スルッとKANSAI」の次世代システムとして2004年に導入された。名称は「Postpay IC for \"Touch and Pay\"」の略で、株式会社スルッとKANSAIの登録商標である。キャッチフレーズは「ピタッとタッチするだけでパッとスピーディーに!」。また2009年3月からは、テレビCMなどで、「“動く”を応援するカード。PiTaPa」と言うキャッチコピーも使われている。カード裏面に記載の番号の始めの文字は「SU」であり、「スルッとKANSAI」のローマ字表記の、SURUTTO KANSAI の略称である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "技術としては、Suica・ICOCAなどと同様にソニーが開発したICカードFeliCaを採用しているが、Suicaなどで採用されている大多数のプリペイド方式ではなく、公共交通機関の乗車ICカードとしては日本初のポストペイ(後払い)方式を採用しているのが特徴となっている(詳細後述)。そのためSuicaやICOCAのように駅の自動券売機などでは即時発行は出来ず、クレジットカードのように申し込みをしてから与信審査が必要となる(審査落ちで発行されない場合もある)。交通系ICカード全国相互利用サービスにも参加しているが、基本的な決済方式が異なるため乗車券機能以外の相互利用に対応しないなど一部の機能に制約がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "種類としては、交通利用/電子マネー利用に特化した「PiTaPaベーシックカード」と、商業施設等が発行するクレジットカードとの一体型(または同梱型)カードであるPiTaPa提携カードに大別される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "静岡鉄道や奈良交通、神姫バス、水間鉄道、大阪空港交通、江若交通、阪堺電気軌道、西日本JRバス、岡山地区のバス・鉄道事業者(岡山電気軌道・下津井電鉄・両備ホールディングス・中鉄バス)のように「スルッとKANSAI」のプリペイド磁気カードや、PiTaPa対応カードを発行せず、PiTaPaのみを導入する事業者(自社エリアでの申し込みはベーシックカードや、三井住友カード・青山キャピタルなど、鉄道系でないPiTaPa提携カードで対応)、PiTaPaに対応しつつ独自のICカード(神姫バスのNicoPa、岡山地区のHareca、奈良交通のCI-CAなど)を発行する事業者(これらのカードは制度上、回数乗車券としてプレミアムのチャージ付与などがあるため)もいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "乗車券・電子マネー以外の利用例としては、FeliCaのメモリー分割機能を用いて、プライベート領域に個人認証機能を搭載した入退館管理機能付きPiTaPaが、大阪府の池田市役所で導入されている。また、FeliCaポケット機能を利用しているOSAKA PiTaPaの「楽楽ポケット」では、大阪市内の一部新築マンションで部屋の鍵(IC錠)として採用する例もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "京都市北区にある私立の立命館小学校では、同校に通学する児童生徒の安全対策としてPiTaPaのシステムを活用した児童証を導入 (表面に従来のPiTaPaのデザインにこども用と記載されたもので裏面に児童証が記載されているものとなっている)在学する生徒に発行され、登下校時の校舎への出入りの際に読み取り装置に認識させるための入・退用として使われる他、登下校中の交通機関利用の際における改札の入出場時の把握、在学生徒の通学状況の所在が確認できるなど、安全を考慮した制度運用をおこなっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、旧大阪市交通局(現大阪市高速電気軌道)では、職員の出退勤管理システム用のICカードとして、交通局から貸与されるICカードを使用するか、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用するかが選択できるようになっている。この場合、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用すると申告した場合には、交通局からは出退勤管理システム専用のICカードは貸与されない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2017年7月現在、おサイフケータイには対応していない。これについては、Felicaと携帯電話を連動させたチャージや残金確認の機能はPiTaPaに必要ないため、おサイフケータイ対応する動機に乏しいが、公共交通機関利用を促進するサービスを提供する手段としてPiTaPaがおサイフケータイに対応する可能性はあるとのスルッとKANSAIのコメントがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "前述の通り、PiTaPaは導入に当たってプリペイド方式ではなくポストペイ方式を採用している。この理由について、ITmediaが2006年にスルッとKANSAI PiTaPaビジネスサークルコアリーダー執行役員(当時)の松田圭史にインタビューした記事によると、1999年にSuicaが発表されたことを踏まえてICカードの導入を検討するに当たって、そのタイミングがスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカードシステム)の導入を開始した1996年のわずか3年後であったことから、Suicaのようにシステム全体をプリペイドICカード対応に改めるフルスペックでのシステム導入は「スルッとKANSAI」システムとの二重投資となってしまうこと、同様にIC乗車券を導入していた香港の八達通(オクトパス)がオートチャージやポストペイの仕組みを導入していたことを踏まえ、投資コストを実質「自動改札機の改修のみ」とすることでフルスペックでの導入に比べて2割程度まで抑えるべく、プリペイド方式の「スルッとKANSAI」システムと両存させることを前提にポストペイ方式による別のシステムを導入した、と説明している。また、チャージの手間や残高の管理が面倒と感じる顧客の不満や、利用頻度に応じた割引サービス導入の要望もあり、これに対応させることもPiTaPaの導入につながっているとも説明している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ポストペイ方式を採用していることから、PiTaPaは広義のクレジットカードに分類される。2009年12月の割賦販売法の改正に伴い、以降はPiTaPaベーシックカードをはじめとするPiTaPaそのものが同法の適用対象となり、発行元であるスルッとKANSAIが信用情報機関に加盟したほか、PiTaPaの重複発行禁止、引き落とし遅延時の遅延損害金計算率の見直しが行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カードの発行(入会審査)に当たっては指定信用情報機関(シー・アイ・シー)を通じて信用情報の審査が行われ、審査結果によっては発行が行われないことがある。システム開発は三井住友カードが行っており、同社が審査や与信業務に関する業務を請け負っている。なお、一定額の保証金を予納することで与信審査を必要としない「保証金預託制PiTaPaベーシックカード」も用意されていたが、(ETCパーソナルカードと同様の仕組み)2022年3月31日をもって新規の受付、ならびに家族カードの追加申込の受付を終了した為、PiTaPaは実質ポストペイ方式一択となり、既存の利用者を除きポストペイ方式以外での利用ができなくなった。保証金預託制PiTaPaの新規受付終了後はチャージ型で利用のICOCAが推奨されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "利用限度額は全ての会員で一律固定となっており、交通サービスでの利用が1か月150,000円まで(割引を適用する前の運賃合計額)、ショッピングや施設での利用が1か月50,000円(1日に利用可能な額は30,000円まで)の計200,000円となっている。それぞれ1か月の限度額は本会員・家族会員の合算額での算出となる。利用代金の支払(引き落とし)は全て一括払いのみで、利用代金は毎月1日 - 末日の実績を集計し、翌月25日頃に請求書が郵送され(提携カードによっては手数料100円(税抜)が掛かる。PiTaPa倶楽部で解除可能)、翌々月10日に指定の口座から引き落とされる。また、1年間全く利用がない場合は維持管理料として1,000円(税抜)が請求される。尚、PiTaPa以外の別のクレジット機能(VISAなど)が付帯しているカードについては、その分に関わる手数料や限度額については、各カード会社が別途設定した額となり、それらの利用代金はPiTaPaとは別の枠であり、請求も別となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2017年3月31日にスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカード)の共通利用が終了となることが発表されると、「ICOCA と PiTaPa 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"2006年1月21日から、JR西日本のICOCAと交通機関での利用に関して相互利用を開始した。当初、ICOCAエリアで使用する場合はシステムの関係上PiTaPaのポストペイ機能の適用外となり、あらかじめPiTaPaへのチャージ(入金)が必要となる。なお、相互利用の開始に併せてオートチャージ機能(登録が必要)を搭載している。これはPiTaPaエリアの自動改札機にタッチした時点でプリペイド分の残高が1,000円以下であれば2,000円が自動的にチャージ(小児用はそれぞれ半額)されるもので、この料金は他のPiTaPaの利用と同様に後日請求される。またICOCAエリアではICOCAと同様にチャージできる。", "title": "相互利用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "その他の交通系ICカードとの相互利用については、Suica(JR東日本など)とは2004年度から検討していたが、2010年12月20日にKitaca(JR北海道)・PASMO(関東地方)・TOICA(JR東海)・manaca(中京圏)・SUGOCA(JR九州)・nimoca(西日本鉄道など)・はやかけん(福岡市交通局)と共に相互利用に向けた検討を行う事が発表され、2011年5月18日に2013年春の相互利用開始に合意したと発表、2013年3月23日より、交通利用(鉄道・バス)において、事前にチャージしたプリペイド部分での決済による「全国相互利用サービス」を開始した。", "title": "相互利用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお、相互利用に当たってはプリペイド方式を採用している他社との決済システムの違いから乗車券部分のプリペイド利用に限定され、ショッピングサービス(電子マネー)としての相互利用は行われていない。", "title": "相互利用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "JR西日本との間では、2017年9月に近畿圏のICOCAエリアでPiTaPaでのポストペイ決済導入計画が発表され、2018年10月1日より近畿圏のICOCAエリアでのポストペイサービスを開始した。", "title": "相互利用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "◆印は全国相互利用サービス対応交通事業者", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "いずれも交通利用(鉄道・バス)でのみ可能であり(一部に対象外の事業者あり)、ショッピングサービスは対象外である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "PiTaPaおよびICOCAの使用履歴・SF残額(チャージ金額)履歴を印字・表示することができる(ただし、消去された履歴は印字・表示できない)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "PiTaPa加盟社局の駅の自動券売機などで、直近20件までの履歴を表示・印字でき、カードに履歴が残っている場合は何度でも印字できる。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない(阪急・阪神など一部の事業者では26週間を経過した履歴も印字できる)。これは、ICOCA加盟社局でも同様である。これに加えて、ICOCA加盟社局では、窓口に申し出ることで、50件までの履歴を得ることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、履歴印字は、カードの種類や、印字した事業者に関わらず、ほぼ同一の内容が印字される。内容は、利用月日・利用種別(入場・出場・バス等の利用など)・利用駅(バス利用時は社局名)・残額である。このうち、利用駅名は、PiTaPaエリアで印字した場合、社局名2文字+駅名3文字(例 : 「JR西京都」、「阪急梅田」)で印字される。一方、ICOCAエリアで印字した場合、社局名英字半角2文字+駅名2文字(例 : 「OC梅田」、「KC京都」)で印字される。最近開業した駅では、印字した事業者によって駅名の部分が「***」となって表示されない場合がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南海・泉北高速など一部の事業者では、自社線のみ使用駅名が表示される事業者も存在する。Osaka Metro・京阪など一部の事業者では、全国の相互利用事業者の利用駅名の表示・印字に対応している券売機がある。このように、履歴の表示・印字に関しては、PiTaPa加盟社局間での足並みが統一されていない部分が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "PiTaPaはポストペイ(後払い式)のため、利用実績により割引額を決めることが可能である。これを利用して下記のように各社でいろいろな割引サービスを実施している。 これらの割引は利用した交通機関によって決まり、使用したカードの種類には関係ない。例えば、「STACIAカード」で大阪市営地下鉄を利用した時は、大阪市交通局の「利用額割引・フリースタイル(2008年3月1日に「利用額割引」から改称)」が適用される。PiTaPaと相互利用しているだけのICOCA等を使用した場合には、これらの割引サービスは適用されない。 当初設定された割引サービスは割引率の一部で問題があったが、IC定期券の登場で後者は解決しつつある(ただし大手私鉄では京阪や近鉄、また大阪市交通局などでは導入されていない)。", "title": "利用割引" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "PiTaPaでショッピングを行うと「ショップdeポイント」が貯まる。100円につき1ポイント貯まるのが基本だが、500ポイントで50円の割引なので割引率は0.1%となり、クレジットカード会社が展開する同種のポイントサービスより割引率が低い。ただし、利用店によっては5倍(100円で5ポイント)のところがあったり、期間限定の10倍キャンペーンを実施したりしている。", "title": "利用割引" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上記はいずれもサービス開始から間もない時期のデータである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "奈良交通グループ、神姫バスグループ、静鉄グループ、水間鉄道、江若交通、阪堺電気軌道、三重交通、名阪近鉄バス、西日本JRバス、本四海峡バス、淡路交通および岡山地区の各社(宇野自動車と八晃運輸の2社(いずれもスルッとKANSAI協議会非加盟事業者)以外)においては、磁気式のスルッとKANSAI対応カードは導入せず、PiTaPaのみの導入となっている。", "title": "PiTaPaのみ導入の事業者" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、スルッとKANSAI対応カードの販売は2017年3月31日で、利用は2018年1月31日で終了している。阪急バスグループ、大阪空港交通、叡山電鉄などは、それよりも早くに販売、利用が終了した。", "title": "PiTaPaのみ導入の事業者" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "以下の事業者がスルッとKANSAI協議会と共同で発行しているほか、協議会単体でPiTaPaベーシックカードを発行している。", "title": "導入事業者・発行カード一覧" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "スルッとKANSAI協議会加盟事業者のうち、現時点でPiTaPaを導入予定が無い(スルッとKANSAI対応カードは導入)事業者を挙げる。", "title": "非導入事業者" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "PiTaPaは、ショッピングサービスの加盟店開拓を三井住友カードに委託している。同社は自社の同じFeliCa対応クレジットサービスiDとPiTaPaを並行して売り込んでおり、PiTaPaの決済端末はiDの決済に対応している。PiTaPaは三井住友カードが使える店舗にiDと共に導入される傾向があるが、加盟店側は双方別々に申し込む必要があるのでPiTaPa加盟店すべてでiDが使えるわけではない。なお、INFOX以外の信用照会端末や、NTTドコモが開拓した加盟店に多いiD単独の決済端末ではPiTaPaを使用できない。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ただし、あくまでPiTaPaとiDは別物で、単に店頭の決済端末が両方に対応しているというだけであり、他の鉄道系ICカードのような「相互利用」とは全く異なる。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ショッピングとして、主に関西地区の以下の店舗で利用可能(2013年2月末現在約24,000店舗)。他の交通系ICカードと異なり、すべての所有者が特定できる利点(他の交通系ICカードでは無記名や、記名式でも本人確認が行われていないものが含まれる)を生かした使用事例もある。グランフロント大阪(大阪市)では、2013年4月より2020年1月31日まで、クレジットカードと共に唯一の交通系ICカードとして、レンタサイクル(UMEGLE-CHARI)の自動貸出・返却に使われていた。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "(注)リスト中の【5倍】は通常の5倍の ショップdeポイント がもらえる。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2004年10月1日のショッピング機能のサービス開始日に、利用対応の約200店のうち約160店で端末機が動作せずサービスを利用できないというトラブルが発生した。その影響は翌2日の午後まで続いた。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2013年3月23日からの交通系ICカード相互利用拡大後も、PiTaPaはショッピングに利用できない。これは、決済方法の異なるポストペイ利用のみならず、PiTaPaのプリペイドチャージ額をショッピングサービスに充当することが出来ない。この理由について、大阪市交通局より以下のように説明されている。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "そこで、この問題を解決するための施策(代替策)として、スルッとKANSAI協議会では現在、PiTaPaのポストペイ決済でのみ利用可能な物販端末機を、順次ICOCAなどのプリペイド型交通系ICカードでも利用可能なもの(マルチマネー対応機)に切り替え、PiTaPa加盟店においては、立地する地域の各社局が導入しているプリペイド型交通系電子マネー(例:関西圏=ICOCA・関東圏=SuicaあるいはPASMO)も並行して決済可能になるよう協力していく考えであると大阪市交通局を通じて説明している。ただし、これらの施策が具体的にどのように実施されるのか(施策の実施時期)などについては、スルッとKANSAI協議会からは直接には特に発表はされていない。ただし、店舗サイドで独自に両方への対応を行っている例が関西圏を中心にみられるほか、キャッシュレス対応拡充を目的に、コード決済型電子マネーや流通系電子マネーとも同時に対応した例もある。", "title": "PiTaPaショッピングサービス" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2007年2月16日 - 3月15日まで、公共交通機関(チャージでの利用であるJR西日本を除く)・ショッピング・宅配ロッカーをすべてPiTaPaで決済すると、後日宅配料金を条件により全額キャッシュバックする社会実験が、NEDO民生部門等地球温暖化対策実証モデル評価事業として行われた。大阪空港、阪急梅田駅構内など6か所に実験対応の宅配ロッカーが置かれ、手荷物の運搬に便利な自家用車から、利用者一人あたりのCO2排出量が少ない鉄道・バスへの利用転換を狙ったもので、その場合不便になる手荷物の運搬を、条件が揃えば無料とする試み。実験は交通・ショッピング・宅配ロッカーの決済が同一カードで行え、履歴が把握できるPiTaPaの利点を生かした形となった。実験終了後もPiTaPa対応宅配ロッカーは、(梅田駅構内の場合)有料で利用できる。", "title": "社会実験" } ]
PiTaPa(ピタパ)は、スルッとKANSAI協議会が展開する、乗車カード機能を基本に据えたサイバネ規格/非接触型ICカード(電子マネーカード)。乗車カードとしては近畿地方・東海地方・北陸地方の一部・岡山県・静岡県の鉄道・バス事業者が導入している。
{{出典の明記|date=2022-10-01}} {{Infobox electronic payment | name = PiTaPa | image = File:PiTaPa basic card 01.jpg | alt = | color = DDA0DD | location = [[近畿圏]]を中心とした日本全国 | sales_location_1 = 郵送、インターネットでの申込(要審査) | launched = 2004年8月1日 | technology_1 = [[FeliCa]] | technology_2 = | technology_3 = | operator = [[スルッとKANSAI]] | manager = スルッとKANSAI協議会加盟各社 | currency = [[日本円]] | maximum_credit = | minimum_credit = &yen;0 | stored_value = | credit_expiry = 契約時に指定された月の末日 | automatic_recharge = PiTaPa交通ご利用エリアの改札機等利用時に実施 | unlimited_use = | service_1 = <!-- up to | service_12 = --> | sales_location1 = <!-- up to | sales_location5 = --> | variant_1 = <!-- up to | variant_5 = --> | homepage = {{URL|https://www.pitapa.com/}} }} '''PiTaPa'''(ピタパ)は、[[スルッとKANSAI]]協議会が展開する、[[乗車カード]]機能を基本に据えた'''サイバネ規格'''/非接触型[[ICカード]]([[電子マネー]]カード)。乗車カードとしては[[近畿地方]]・[[東海地方]]・[[北陸地方]]の一部・[[岡山県]]・[[静岡県]]の[[鉄道]]・[[バス (交通機関)|バス]]事業者が導入している。 <!-- [[画像:pitapa 01.jpg|thumb|170px|PiTaPaカードの一例(表)<br>([[三井住友カード|三井住友PiTaPaカード]])]] --> [[ファイル:Pitapa 02.jpg|thumb|200px|PiTaPaカードの一例(裏)]] [[ファイル:Pitapa 03.jpg|thumb|200px|PiTaPa対応改札機(現在は右側のIC表記はない)([[阪神電気鉄道|阪神]][[三宮駅|神戸三宮駅]])]] [[ファイル:Pitapa 04.jpg|thumb|200px|PiTaPa対応IC'''専用'''改札機([[阪急電鉄|阪急]][[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]])]] == 概要 == [[ファイル:iccard.gif|thumb|200px|「タッチ&ゴー」の動き]] [[ファイル:ICOCA・PiTaPaチャージ機.jpg|thumb|150px|PiTaPaがチャージ(入金)可能なことを宣伝するJR西日本の入金機(天王寺駅にて)。PiTaPaとICOCAはこの入金機に限らず、双方の自動券売機・自動精算機・入金機で互いにチャージが可能である。]] [[関西私鉄|関西大手私鉄]]を中心とした近畿圏の民鉄で導入されていた磁気式ストアードフェアシステムである「[[スルッとKANSAI]]」の次世代システムとして2004年に導入された。名称は「{{en|'''P'''ostpay '''I'''C for "'''T'''ouch '''a'''nd '''Pa'''y"}}」の略で、[[スルッとKANSAI|株式会社スルッとKANSAI]]の[[商標|登録商標]]<ref group="注釈">日本国商標登録番号第4706410号ほか2件。</ref>である。キャッチフレーズは「'''ピ'''タッと'''タ'''ッチするだけで'''パ'''ッとスピーディーに!」。また[[2009年]]3月からは、テレビCMなどで、「'''“動く”を応援するカード。PiTaPa'''」と言う[[キャッチコピー]]も使われている。カード裏面に記載の番号の始めの文字は「{{en|'''SU'''}}」であり、「スルッとKANSAI」の[[ローマ字]]表記の、{{en|'''SU'''RUTTO KANSAI}} の略称である。 技術としては、[[Suica]]・[[ICOCA]]などと同様に[[ソニー]]が開発したICカード[[FeliCa]]を採用しているが、Suicaなどで採用されている大多数の[[プリペイドカード|プリペイド]]方式ではなく、公共交通機関の乗車ICカードとしては日本初<ref name=":0">{{Cite press release|和書|url=http://www.surutto.com/about/release/p040715.pdf |title=PiTaPa 本サービス開始について |publisher=スルッとKANSAI協議会 |date=2004年7月15日発表|format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040717193242/http://www.surutto.com/about/release/p040715.pdf|archivedate=2004年7月17日}}</ref><ref name=":1">{{Cite press release|和書|url=http://www.surutto.com/about/release/p040921.pdf |title=PiTaPaがショッピングやお食事、観光施設でもご利用いただけるようになります|publisher=スルッとKANSAI協議会|date=2004年9月21日発表|format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060626083935/http://www.surutto.com/about/release/p040921.pdf|archivedate=2006年6月26日}}</ref>の'''[[後払い決済|ポストペイ]](後払い)'''方式を採用しているのが特徴となっている(詳細後述)。そのため[[Suica]]や[[ICOCA]]のように駅の自動券売機などでは即時発行は出来ず、[[クレジットカード]]のように申し込みをしてから与信審査が必要となる(審査落ちで発行されない場合もある)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pitapa.com/faq/ |title=よくあるご質問 |access-date=2022/12/13 |publisher=スルッとKANSAI}}</ref>。[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]にも参加しているが、基本的な決済方式が異なるため乗車券機能以外の相互利用に対応しないなど一部の機能に制約がある。 種類としては、交通利用/電子マネー利用に特化した「'''[[PiTaPaベーシックカード]]'''」と、商業施設等が発行するクレジットカードとの一体型(または同梱型)カードである'''PiTaPa提携カード'''に大別される。 [[静岡鉄道]]や[[奈良交通]]、[[神姫バス]]、[[水間鉄道]]、[[大阪空港交通]]、[[江若交通]]、[[阪堺電気軌道]]、[[西日本JRバス]]、岡山地区のバス・鉄道事業者([[岡山電気軌道]]・[[下津井電鉄]]・[[両備ホールディングス]]・[[中鉄バス]])のように「スルッとKANSAI」のプリペイド磁気カードや、PiTaPa対応カードを発行せず、PiTaPaのみを導入する事業者(自社エリアでの申し込みはベーシックカードや、[[三井住友カード]]・[[青山商事|青山キャピタル]]など、鉄道系でないPiTaPa提携カードで対応)、PiTaPaに対応しつつ独自のICカード(神姫バスの[[NicoPa]]、岡山地区の[[Hareca]]、奈良交通の[[CI-CA]]など)を発行する事業者(これらのカードは制度上、回数乗車券としてプレミアムのチャージ付与などがあるため)もいる。 乗車券・電子マネー以外の利用例としては、FeliCaのメモリー分割機能を用いて、プライベート領域に個人認証機能を搭載した入退館管理機能付きPiTaPaが、[[大阪府]]の[[池田市|池田市役所]]で導入されている。また、FeliCaポケット機能を利用しているOSAKA PiTaPaの「楽楽ポケット」では、[[大阪市]]内の一部新築マンションで部屋の鍵(IC錠)として採用する例もある。 京都市北区にある私立の立命館小学校では、同校に通学する児童生徒の安全対策としてPiTaPaのシステムを活用した児童証を導入 (表面に従来のPiTaPaのデザインにこども用と記載されたもので裏面に児童証が記載されているものとなっている)在学する生徒に発行され、登下校時の校舎への出入りの際に読み取り装置に認識させるための入・退用として使われる他、登下校中の交通機関利用の際における改札の入出場時の把握、在学生徒の通学状況の所在が確認できるなど、安全を考慮した制度運用をおこなっている。 また、旧[[大阪市交通局]](現[[大阪市高速電気軌道]])では、職員の出退勤管理システム用のICカードとして、交通局から貸与されるICカードを使用するか、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用するかが選択できるようになっている。この場合、個人で利用しているOSAKA PiTaPaを使用すると申告した場合には、交通局からは出退勤管理システム専用のICカードは貸与されない。 2017年7月現在、[[おサイフケータイ]]には対応していない。これについては、[[Felica]]と携帯電話を連動させたチャージや残金確認の機能はPiTaPaに必要ないため、おサイフケータイ対応する動機に乏しいが、公共交通機関利用を促進するサービスを提供する手段としてPiTaPaがおサイフケータイに対応する可能性はある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.itmedia.co.jp/enterprise/mobile/articles/0604/12/news005_4.html |title=優れたサービスは「関西のお客さん」が育てる-スルッとKANSAIに聞く(後編) (4/5) |work=ITmediaビジネスONLINE |date=2006-04-12 |accessdate=2013-06-07}}</ref>とのスルッとKANSAIのコメントがある。 === ポストペイ方式の採用 === 前述の通り、PiTaPaは導入に当たってプリペイド方式ではなく[[後払い決済|ポストペイ]]方式を採用している。この理由について、[[ITmedia]]が2006年にスルッとKANSAI PiTaPaビジネスサークルコアリーダー執行役員(当時)の松田圭史にインタビューした記事<ref>{{Cite web|和書|url=http://bizmakoto.jp/bizmobile/articles/0604/10/news015.html|title=PiTaPaはなぜ“ポストペイ方式”なのか――スルッとKANSAIに聞く(前編)|work=ITmediaビジネスONLINE|date=2006-04-10|accessdate=2017-09-10}}</ref>によると、[[1999年]]にSuicaが発表されたことを踏まえてICカードの導入を検討するに当たって、そのタイミングがスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカードシステム)の導入を開始した[[1996年]]のわずか3年後であったことから、Suicaのようにシステム全体をプリペイドICカード対応に改めるフルスペックでのシステム導入は「スルッとKANSAI」システムとの二重投資となってしまうこと、同様にIC乗車券を導入していた[[香港]]の[[八達通|八達通(オクトパス)]]が[[オートチャージ]]やポストペイの仕組みを導入していたことを踏まえ、投資コストを実質「[[自動改札機]]の改修のみ」とすることでフルスペックでの導入に比べて2割程度まで抑えるべく、プリペイド方式の「スルッとKANSAI」システムと両存させることを前提にポストペイ方式による別のシステムを導入した、と説明している。また、チャージの手間や残高の管理が面倒と感じる顧客の不満や、利用頻度に応じた割引サービス導入の要望もあり、これに対応させることもPiTaPaの導入につながっているとも説明している。 ポストペイ方式を採用していることから、PiTaPaは広義の[[クレジットカード (日本)|クレジットカード]]に分類される。2009年12月の[[割賦販売法]]の改正に伴い、以降はPiTaPaベーシックカードをはじめとするPiTaPaそのものが同法の適用対象となり、発行元であるスルッとKANSAIが[[信用情報]]機関に加盟したほか、PiTaPaの重複発行禁止、引き落とし遅延時の遅延損害金計算率の見直しが行われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pitapa.com/faq/index.html#faq_kappu|title=よくあるご質問 割賦販売法について|work=PiTaPa.com|publisher=スルッとKANSAI|accessdate=2017-09-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170923142239/https://www.pitapa.com/faq/index.html#faq_kappu|archivedate=2017-09-23}}</ref>。 カードの発行(入会審査)に当たっては指定信用情報機関(シー・アイ・シー)を通じて信用情報の審査が行われ、審査結果によっては発行が行われないことがある。システム開発は[[三井住友カード]]が行っており、同社が審査や与信業務に関する業務を請け負っている。なお、一定額の保証金を予納することで与信審査を必要としない「保証金預託制PiTaPaベーシックカード」も用意されていたが、([[ETCパーソナルカード]]と同様の仕組み)2022年3月31日をもって新規の受付、ならびに家族カードの追加申込の受付を終了した為、PiTaPaは実質ポストペイ方式一択となり、既存の利用者を除きポストペイ方式以外での利用ができなくなった。保証金預託制PiTaPaの新規受付終了後はチャージ型で利用のICOCAが推奨されている。 利用限度額は全ての会員で一律固定となっており、交通サービスでの利用が1か月150,000円まで(割引を適用する前の運賃合計額)、ショッピングや施設での利用が1か月50,000円(1日に利用可能な額は30,000円まで)の計200,000円となっている。それぞれ1か月の限度額は本会員・家族会員の合算額での算出となる。利用代金の支払(引き落とし)は全て一括払いのみで、利用代金は毎月1日 - 末日の実績を集計し、翌月25日頃に請求書が郵送され(提携カードによっては手数料100円(税抜)が掛かる。PiTaPa倶楽部で解除可能)、翌々月10日に指定の口座から引き落とされる。また、1年間全く利用がない場合は維持管理料として1,000円(税抜)が請求される。尚、PiTaPa以外の別のクレジット機能(VISAなど)が付帯しているカードについては、その分に関わる手数料や限度額については、各カード会社が別途設定した額となり、それらの利用代金はPiTaPaとは別の枠であり、請求も別となる。 2017年3月31日にスルッとKANSAI(磁気式プリペイドカード)の共通利用が終了となることが発表されると、「[[ICOCA]] と PiTaPa との連携サービスの拡大」として[[大阪市交通局]](当時)や[[南海電気鉄道]]など10社局がスルッとKANSAIの共通利用終了に前後してプリペイドカードおよび定期券として[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]のICOCAを導入<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/01/page_6716.html|title=ICカード乗車券を活用した連携サービスの拡大について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2015-01-23|accessdate=2017-04-17}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/11/page_7964.html|title=ICカード乗車券を活用した連携サービスの拡大について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2015-11-26|accessdate=2017-04-17}}</ref>。一方で、2018年10月1日から近畿圏のICOCAエリアでPiTaPaのポストペイサービスを開始しており、「プリペイドはICOCA、ポストペイはPiTaPa」という棲み分けが行われるようになっている。一方で2021年時点で発行枚数約2500万枚のICOCAが会員数約330万人のPiTaPaを大幅に上回っている<ref>{{Cite web|和書|title=関西のICカード「ピタパ」後払いが特徴 割引充実 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF1339A0T10C21A9000000/ |website=日本経済新聞 |date=2021-10-02 |access-date=2022-12-13 |language=ja}}</ref>。 なお、PiTaPaのカードそのものにもプリペイド機能は搭載されているが、交通系ICカード全国相互利用サービスによる他ICカードエリアでの利用のために用意されているのみであり、PiTaPaエリア内ではプリペイド機能の利用は原則行われていない。2007年9月に[[大阪市]]が導入したPiTaPa仕様の敬老優待乗車証<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.osaka.lg.jp/fukushi/cmsfiles/contents/0000006/6483/keirougoriyouannnai.pdf |title=敬老優待乗車証(ICカード)のご利用案内 |publisher=大阪市 |format=PDF |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10218804/spwww.city.osaka.lg.jp/fukushi/cmsfiles/contents/0000006/6483/keirougoriyouannnai.pdf |archivedate=2016-11-09|accessdate=2023-12-15}}</ref>、および2008年10月に[[神戸市]]が導入した敬老パス<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/life/community/advanced/syakaisanka/yutai/new_keiro_pass.html |title= 新しい敬老パス制度の内容について |publisher=神戸市 |date=2008-09-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090329165549/http://www.city.kobe.lg.jp/life/community/advanced/syakaisanka/yutai/new_keiro_pass.html |archivedate=2009-03-29 |accessdate=2023-12-15}}</ref>でプリペイド利用が出来るが、それ以外のPiTaPaエリア内でのプリペイド利用は行われていない。 === ハウスICカードの導入 === 2006年に神姫バスにてNicoPaを導入したのを先駆けに、各社オリジナルのIC乗車券(ハウスICカード)を導入し、PiTaPaを重複導入することにより、ICOCAとの相互利用、または全国ICカード相互利用に対応している事業者がある。また各ハウスICカードでIC定期券を導入している社も多い。事情には各社、プリペイド式の導入(PiTaPaはポストペイ)、顧客の囲い込み、オリジナルの割引やプレミアム、ポイントサービスなどを展開するためである<ref>{{PDFlink|[https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/704/2shiryou1.pdf 尼崎市営バス事業の民間移譲に伴う ICカードシステム導入に係る取組]}} - 尼崎市地域公共交通会議部会資料 平成27年3月26日</ref>。各ハウスICカードは、各カードエリアのみの利用で、PiTaPaエリアやICOCAエリアなど、他エリアでは利用できない。 2016年10月現在のPiTaPaエリア内でのハウスICカード導入は下記の通り。 {| class="wikitable" |- ! カード名 !! 発行時期 !! エリア・事業主体 |- | [[NicoPa]] || 2006年2月 || 神姫バス |- | [[Hareca]] || 2006年10月 || 岡山地区各社<ref name="unobus" group="注釈" />([[中鉄バス]]の一部路線) |- | [[CI-CA]] || 2007年4月 || 奈良交通 |- | [[LuLuCa]] || 2007年9月 || 静岡鉄道、しずてつジャストライン |- | [[Itappy]] || 2008年4月 || 伊丹市交通局 |- | らんでんカード || 2011年4月 || 京福電気鉄道 |- | [[hanica]] || 2012年4月 || 阪急バス・阪神バス・尼崎交通事業振興 |- | [[emica]] || 2016年4月 || 三重交通グループ各社<ref name=":0" group="※" /> |- | [[なっち (IC乗車カード)|なっち]] || 2016年10月 || 南海バスグループ |- | [[Tsukica]] || 2018年10月 || 高槻市交通部 |- | [[kinoca]]|| 2020年4月 || 和歌山バスグループ |} === イメージキャラクター === [[2013年]]3月当時、全国相互利用サービスを導入した10種のICカードの中で唯一、共通の公式キャラクターが設定されていなかったため、導入記念で発行された各社の限定カードでは、ICOCA([[カモノハシのイコちゃん]])やSuica([[Suicaのペンギン|ペンギン]])などの各カードのオリジナルキャラクターが一つの横断幕を持って練り歩くというデザインであったが、PiTaPaのみイメージカラーの紫色の風船しか描かれなかった。なお、スルッとKANSAI協議会が発行する前払い式の磁気カード「スルッとKANSAI」には「スルットちゃん」という共通キャラクターが存在し、3月23日に[[東京駅]]で行われた相互利用開始記念セレモニーにも出席したが<ref>[http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2013/03/23ICcard/ IC乗車券相互利用開始 スイカ、ピタパ、ニモカ…IC乗車券、名称の由来さまざま]、MSN産経ニュース、2013年3月23日配信、2013年3月31日閲覧。</ref>、こちらはスルッとKANSAI協議会の組織としてのキャラクターであり、広報誌や磁気カードを中心に使用されている<ref>[[福岡市交通局]]の[[ちかまる]]も、元々は交通局自体のキャラクターで、[[はやかけん]]に限定したものではない。</ref>。PiTaPa導入事業者が独自発行するPiTaPa機能付きカードによっては、独自のキャラクターが存在する(大阪市交通局発行の「OSAKA PiTaPaカード」の「ぴたポン!」、南海電鉄発行の「minapitaカード」の「minamo」、神戸市交通局など発行の「[[KOBE PiTaPa]]カード」の「ピットン」と「パタピー」など)。 その後、PiTaPa導入10周年の2014年に、[[忍者]]のキャラクターが制定され、同年8月1日には公募の結果、名称は「ぴたまる」に決定した<ref>[http://www.pitapa.com/whatsnew/00526.html PiTaPaシンボルキャラクター愛称決定!]</ref>。 {| class="wikitable" !イメージキャラクター!!カード!!モチーフ!!備考 |- |ぴたまる||PiTaPa||忍者||運用開始10周年の2014年にお披露目され、交通系ICカードのマスコットとしてはかなり遅めであった。 |- |ぴたポン||OSAKA PiTaPa||タヌキ||  |- |きっぴぃ||KIPS PiTaPaカード||星||近鉄ポイントプログラム(きっぴぃポイント)のイメージキャラクターとして使用されたが、KIPSポイントサービスに移行した2011年以降使用されず。 |- |minamo||minapita||マリモ||8匹組。近年使用されず。 |- |ピットン||rowspan="2"|KOBE PiTaPa||(未詳)||  |- |パタピー||鳥||  |- |} == 相互利用 == [[ファイル:ICCard Connection.svg|thumb|300px|相互利用関係(クリックで拡大)]] {{See also|交通系ICカード全国相互利用サービス}} [[2006年]][[1月21日]]から、JR西日本の[[ICOCA]]と交通機関での利用に関して相互利用を開始した。当初、ICOCAエリアで使用する場合はシステムの関係上PiTaPaのポストペイ機能の適用外となり、あらかじめPiTaPaへのチャージ(入金)が必要となる。なお、相互利用の開始に併せて[[オートチャージ]]機能(登録が必要)を搭載している。これはPiTaPaエリアの[[自動改札機]]にタッチした時点でプリペイド分の残高が1,000円以下であれば2,000円が自動的にチャージ(小児用はそれぞれ半額)されるもので、この料金は他のPiTaPaの利用と同様に後日請求される。またICOCAエリアではICOCAと同様にチャージできる。 その他の交通系ICカードとの相互利用については、[[Suica]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]など)とは[[2004年]]度から検討していたが、2010年[[12月20日]]に[[Kitaca]]([[北海道旅客鉄道|JR北海道]])・[[PASMO]]([[関東地方]])・[[TOICA]]([[東海旅客鉄道|JR東海]])・[[manaca]]([[中京圏]])・[[SUGOCA]]([[九州旅客鉄道|JR九州]])・[[nimoca]]([[西日本鉄道]]など)・[[はやかけん]]([[福岡市交通局]])と共に相互利用に向けた検討を行う事が発表され<ref>[https://web.archive.org/web/20101220035038/http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20101218-OYT1T00882.htm 1枚あればOK…IC乗車券10種、相互利用へ] - 読売新聞、2010年12月19日</ref>、[[2011年]][[5月18日]]に[[2013年]]春の相互利用開始に合意したと発表<ref name="jre20110518">{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.jreast.co.jp/press/2011/20110512.pdf|title=交通系ICカードの相互利用サービスを実施することに合意しました|publisher=北海道旅客鉄道株式会社、PASMO協議会、東日本旅客鉄道株式会社、名古屋市交通局、名古屋鉄道株式会社、東海旅客鉄道株式会社、スルッとKANSAI協議会、西日本旅客鉄道株式会社、福岡市交通局、西日本鉄道株式会社、九州旅客鉄道株式会社|date=2011-05-18|accessdate=2011-05-18}}</ref>、2013年[[3月23日]]より、交通利用(鉄道・バス)において、事前にチャージしたプリペイド部分での決済による「全国相互利用サービス」を開始した<ref>{{Cite web|和書|format=PDF|url=http://www.surutto.com/newsrelease/release/p121218.pdf|title=交通系ICカードの全国相互利用サービスがいよいよ始まります|publisher=北海道旅客鉄道株式会社、PASMO協議会、東日本旅客鉄道株式会社、名古屋市交通局、名古屋鉄道株式会社、東海旅客鉄道株式会社、スルッとKANSAI協議会、西日本旅客鉄道株式会社、福岡市交通局、西日本鉄道株式会社、九州旅客鉄道株式会社|date=2012-12-18|accessdate=2012-12-18|deadlinkdate=2023-12-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121224125743/http://www.surutto.com/newsrelease/release/p121218.pdf|archivedate=2012-12-24}}</ref>。 なお、相互利用に当たってはプリペイド方式を採用している他社との決済システムの違いから乗車券部分のプリペイド利用に限定され、ショッピングサービス(電子マネー)としての相互利用は行われていない。 JR西日本との間では、2017年9月に近畿圏のICOCAエリアでPiTaPaでのポストペイ決済導入計画が発表され<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2017/09/page_11082.html|title=ICカード乗車券を活用した連携サービスの拡大について ~JR西日本でのPiTaPaカードによるチャージ(入金)不要のポストペイサービスの導入~|publisher=西日本旅客鉄道株式会社・スルッとKANSAI協議会|date=2017-09-01|accessdate=2017-09-10}}</ref>、2018年10月1日より近畿圏のICOCAエリアでのポストペイサービスを開始した。 == 歴史 == * [[2001年]][[7月4日]] [[スルッとKANSAI]]協議会が2003年度以降の[[ICカード]]導入を発表。 * [[2002年]][[4月18日]] ICカードの業務委託先が[[日立製作所]]および[[ジェーシービー|JCB]]に決定したと発表。 * [[2003年]] ** [[2月25日]] ICカードの名称が「PiTaPa(ピタパ)」に決定。 ** 3月 [[天神橋筋商店街]]などでショッピング実験を実施。 ** [[7月10日]] PiTaPaの業務委託先を日立製作所およびJCBから[[日本総合研究所 (株式会社)|日本総合研究所]]および[[三井住友カード]]に変更したと発表。 * [[2004年]] ** 1月 関係者限定によるテスト運用を開始。 ** [[3月27日]] 先行会員によるモニター試験開始。 ** [[8月1日]] 本サービス開始<ref name=":0" />。[[阪急電鉄]]・[[能勢電鉄]]・[[京阪電気鉄道]]で利用が可能。PiTaPaグーパスのサービス開始。 ** [[10月1日]] [[買物|ショッピング]]([[電子マネー]])機能のサービスを200店舗で開始<ref name=":1" />。 ** [[11月9日]] [[近畿コカ・コーラボトリング]](現:[[コカ・コーラボトラーズジャパン]])と提携し、PiTaPa対応の飲料[[自動販売機]]の設置開始。 * [[2005年]] ** [[4月11日]] 会員数が10万人を突破したと発表。 ** [[9月1日]] [[あんしんグーパス]]のモニター試験開始。 ** [[11月17日]] 入退館管理機能付きPiTaPaカードを大阪府[[池田市]]役所向けに発行。 * [[2006年]] ** [[1月10日]] あんしんグーパスの本格サービス開始。 ** [[1月21日]] [[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[ICOCA]]と相互利用開始、ICOCAエリアで利用が可能に(ショッピングは除く)。 ** [[2月1日]] [[大阪市交通局]]・[[阪神電気鉄道]]・[[大阪高速鉄道|大阪モノレール]]・[[北大阪急行電鉄]]・[[阪急バス]](猪名川営業所・清和台営業所)が追加導入。[[神姫バス]](NicoPaエリア)が一部エリアより導入開始。 ** [[7月1日]] [[南海電気鉄道]]・大阪府都市開発(現在の[[泉北高速鉄道]])・[[山陽電気鉄道]]・[[神戸新交通]]と[[神戸高速鉄道]]受託路線で追加導入。保証金預託制PiTaPa導入。阪急電鉄・能勢電鉄・阪神電気鉄道・北大阪急行電鉄でIC定期券サービス開始。 ** [[9月7日]] [[サントリー]]・[[サントリーフーズ]]と提携し、PiTaPa対応の飲料自動販売機の設置開始。 ** [[9月25日]] 会員数が50万人を突破したと発表。 ** 10月1日 関西エリアの[[神戸市交通局]](地下鉄のみ)・[[北神急行電鉄]]・[[大阪空港交通]](路線毎に順次)が追加導入。岡山エリアの[[岡山電気軌道]]・[[両備ホールディングス|両備バス]]・[[下津井電鉄]](いずれもHarecaエリア)と片利用サービス開始。 ** [[10月20日]] 神姫バスの全線(一部を除く)と[[神姫ゾーンバス]]でも片利用サービス開始。 * [[2007年]] ** [[4月1日]] [[近畿日本鉄道]](一部の路線を除く)・[[京都市交通局]](地下鉄のみ)・京阪電気鉄道の[[京阪大津線|大津線]]・[[神戸電鉄]]・[[奈良交通]](路線・営業所ごとに順次)・[[エヌシーバス]]がサービス開始。[[名古屋市]]大須商店街でショッピングサービス開始。 ** 9月1日 神戸市交通局(地下鉄のみ)・北神急行電鉄・山陽電気鉄道(鉄道のみ)・神戸電鉄・神戸新交通と神戸高速鉄道受託路線でIC定期券サービス開始。静岡エリアの[[静岡鉄道]]・[[しずてつジャストライン]]([[LuLuCa]]エリア)でサービス開始。 ** 10月1日 [[京阪バス]]が路線・営業所ごとに順次導入 * [[2008年]] ** 3月1日 [[阪急田園バス]]・[[京阪京都交通]]が全路線・営業所(一部を除く)で導入。 ** [[3月25日]] 会員数が100万人を突破したと発表。 ** 4月1日 [[伊丹市交通局]]・[[高槻市交通部]]で導入。 ** 7月22日 [[中鉄バス]](Harecaエリア)が岡山電気軌道との共同運行路線([[岡山空港リムジンバス]]を除く)で片利用サービス開始(システム上は岡電バス扱い。)。 ** 9月1日 [[神戸市バス|神戸市交通局]](バス)、[[神戸交通振興]](山手線バス)で導入。 ** 10月 [[大韓民国]]のロッテカードと提携し、日本国外で初めて同国でPiTaPaを発行開始<ref>{{PDFlink|[http://www.surutto.com/about/release/p080812.pdf 韓国での「PiTaPaカード」発行を開始します。]}}</ref>。 ** 10月1日 [[阪神バス|阪神電鉄バス・阪神バス]]・[[神鉄バス]](星和台営業所路線のみ)で導入。 * 2009年 ** 3月20日 阪急、阪神 - 神戸高速 - 山陽など3系統で3社連絡定期発売開始。 ** 4月1日 [[山陽バス|山陽電鉄バス]]で導入。 ** 6月1日 [[水間鉄道]](鉄道・バス)で導入<ref>{{PDFlink|[http://www.suitetsu.com/info/pitapa/img/20090514pitapa.pdf いよいよ水間鉄道にPitapaが導入されます]}}</ref>。 * 2010年 ** 3月1日 京阪バスの大阪地区の全営業所管轄の路線バスに導入。 ** 10月1日 神戸高速鉄道受託路線が第二種鉄道事業者の路線に移管され、神戸高速鉄道としての取り扱い終了。 * 2011年 ** 3月1日 京阪バスの[[京阪バス山科営業所|山科営業所]]と[[京阪バス大津営業所|大津営業所]]管内の路線バスに導入。これにより、同社管轄の全路線バスでの利用が可能になった。 ** 4月1日 [[京福電気鉄道]](嵐電)の[[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山本線]]と[[京福電気鉄道北野線|北野線]]に導入<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110118ddlk26020591000c.html |title=経済ファイル:嵐電でも「PiTaPa」 /京都 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2011-01-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110121060354/http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20110118ddlk26020591000c.html |archivedate=2011年1月21日}}</ref>。 ** 11月1日 [[江若交通]]の堅田営業所管内の路線に導入(一部路線を除く:システム上は京阪バス扱い)。 * 2012年 ** 3月1日 ポーアイキャンパス線バス([[神戸交通振興]]・[[神姫バス]]の共同運行)に導入<ref name="24.4.p.i.henkouannai">{{PDFlink|[http://www.kctp.co.jp/pdf/24.4.p.i.henkouannai.pdf 三ノ宮駅・神戸駅南口〜ポーアイキャンパス線 増便・定期券値下げ・ICカード適用のご案内]}}</ref>。 ** 3月17日 旧[[明石市営バス]]路線(神姫バス・[[山陽バス]]両社移管分)に導入。 ** 12月1日 阪神電気鉄道 - 近畿日本鉄道連絡定期発売開始(阪神はPiTaPa定期券、近鉄はICOCA定期券として発売)<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/20120709hanshinkintetsuICteiki.pdf 近鉄・阪神連絡IC定期券の発売について]}}</ref>。 * 2013年 ** 3月23日 「全国相互利用サービス」開始。Kitaca・Suica・PASMO・TOICA・manaca・SUGOCA・nimoca・はやかけん、の各カードエリアでの交通サービスの相互利用(鉄道・バス各事業者での、事前のチャージによるプリペイド利用:一部対象外の事業者あり)を開始した。ショッピングは対象外。 * 2014年 ** 3月1日 [[神戸新交通]]での「全国相互利用サービス」開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pitapa.com/whatsnew/00501.html|title=3月1日より、神戸新交通(ポートライナー・六甲ライナー)で全国相互利用サービス対応開始!|accessdate=2014年3月22日}}</ref>。 ** 3月21日 [[山陽電気鉄道]]での「全国相互利用サービス」開始<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pitapa.com/whatsnew/00509.html|title=3月21日より、山陽電車で全国相互利用サービス対応開始!|accessdate=2014年3月22日}}</ref>。 ** 4月1日 [[阪堺電気軌道]]全線<ref name="ic">{{PDFlink|[http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/kotsuseisaku/kento/toshinkoutsu/index.files/toshinkotsu_kaigi_04_03.pdf ICカードの導入]}} - 堺市 阪堺線の取組みについて</ref>と、[[南海バス]][[南海バス堺営業所|堺営業所]]・[[南海バス東山営業所|東山営業所]]管内<ref name="ic" />の路線バスに導入([[南海ウイングバス金岡]]の運行分を含む)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pitapa.com/whatsnew/00506.html|title=南海バス・阪堺電車でPiTaPaがご利用可能に!<nowiki>[4月1日(火)から]</nowiki> |accessdate=2014年3月22日}}</ref>。全国相互利用サービスも開始。 ** 12月24日 [[京都市営バス]]に導入。同日「全国相互利用サービス」も開始<ref name="kyotonp20140430">[http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20140430000160 京都市交通局などバスにICカード 2014年度中に導入] - 京都新聞2014年4月30日</ref>(システム上、京都市営バスと京都市営地下鉄が一体となった[[京都市交通局]]の扱い。) * 2015年 ** 3月1日 [[京都京阪バス]]に導入<ref name="kyotonp20140430"/><ref group="注釈">[[京阪宇治バス]]と[[京阪シティバス]]の両社が2014年4月1日に合併して発足。</ref><ref>http://kyoto-np.co.jp/local/article/20131112000041</ref>。なお、PiTaPaとICOCAを除くIC乗車カード「全国相互利用サービス」はこの時点では実施されなかった。 ** 3月3日 [[神戸電鉄]]と[[北神急行電鉄]]での「全国相互利用サービス」開始。 ** 3月14日 [[西日本ジェイアールバス|西日本JRバス]]金沢営業所([[金沢市|金沢]]地区路線バス)において、バス20台に対応機器を搭載<ref>[http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20140326301.htm IC乗車券「ピタパ」導入 西日本JRバス] 北國新聞 2014年3月26日</ref>して導入、「全国相互利用サービス」も開始。北陸では初となる。 ** 4月1日 [[近鉄バス]]に導入<ref name="kyotonp20140430"/><ref group="注釈">2013年12月に'''導入検討'''との発表があった。</ref><ref>[http://www.kintetsu-bus.co.jp/sys/dat/pdf/to_img0_20131212195352.pdf 参考リンク]</ref>。同日、南海バス[[南海バス泉北営業所|泉北]]・[[南海バス光明池営業所|光明池]]・[[南海バス河内長野営業所|河内長野]]各営業所管内の路線バスにも導入。両社とも同時に「全国相互利用サービス」も開始。 ** 4月17日 [[高槻市交通部]]での「全国相互利用サービス」開始<ref>[http://www.city.takatsuki.osaka.jp/kurashi/bus_kotsu/bus/oshirase/1424838867444.html 全国相互利用サービス対応開始について] - 高槻市 市営バス案内</ref>。 ** 9月18日 西日本JRバスの[[若江線]]において導入、「全国相互利用サービス」も開始。福井県では初となる。 ** 10月23日 西日本JRバスの高雄・京北線において導入、「全国相互利用サービス」も開始。 ** 11月1日 [[京都バス]]に導入、同日「全国相互利用サービス」も開始<ref>[http://www.kyotobus.jp/rosen/~pdf/IC271001.pdf 京都バスでICカードが使えます!]</ref>。(システム上は京都市交通局扱い<ref group="注釈">PiTaPaで京都バスを利用した場合、京都市バス、京都市営地下鉄の利用額と合算して利用額割引が受けられるため。</ref>。) * 2016年 ** 2月1日 この日より順次 近畿日本鉄道のICカード自動券売機でチャージ残額で切符の購入が可能に(ポストペイ対象外)。 ** 3月16日 [[叡山電鉄]]に導入<ref name="eiden-150708">{{PDFlink|[https://eizandensha.co.jp/wp/wp-content/uploads/news_20150708.pdf 平成28年3月(予定)から叡山電車でICカードがご利用いただけるようになります。]}} - 叡山電鉄 2015年7月8日付</ref>、同日、「全国相互利用サービス」も開始。 ** 3月20日 [[尼崎交通事業振興]]に導入。 ** 4月1日 [[三重交通]]と系列の[[三交伊勢志摩交通]]、[[三重急行自動車]]、[[八風バス]]に導入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanco.co.jp/other/release160229.pdf|title= ICカード「emica(エミカ)」ほかの利用開始について |format=PDF |publisher=三重交通|date=2016-02-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160327121703/http://www.sanco.co.jp/other/release160229.pdf|archivedate=2016-03-27|accessdate=2023-12-15}}</ref>、さらに同日より、[[南海バス]][[南海バス空港営業所|空港営業所]]、[[南海ウイングバス南部]]、[[大阪空港交通]]、[[阪急バス]]、[[阪急田園バス]]、[[阪神バス]]、[[京阪バス]]、[[京都京阪バス]]、[[京阪京都交通]]、[[江若交通]]、[[神姫バス]]、[[神姫グリーンバス]]、[[ウエスト神姫]]、[[神姫ゾーンバス]]、[[奈良交通]]、[[エヌシーバス]]、[[尼崎交通事業振興]]、[[神鉄バス]]以上各社でIC乗車カード全国相互利用サービスを開始。 ** 6月10日 [[能勢電鉄]]で全国相互利用サービス開始。 ** 10月1日 西日本JRバス、及び神姫バスが運行している、[[中国ハイウェイバス]]で利用開始。併せて「全国相互利用サービス」開始。 ** 11月30日 会員数が300万人を突破したと発表。 ** 12月1日 西日本JRバス及び[[本四海峡バス]]運行の[[淡路島]]発着高速バス(大磯号・かけはし号・くにうみライナー)で導入<ref>[http://www.nishinihonjrbus.co.jp/web/uploads/news/5a146e98a8378040519c0686ae605ba2b5d1b736.pdf 平成28年12月1日より 大阪・神戸-淡路島間の高速バスで 交通系ICカードサービスを開始いたします]</ref>。 * 2017年 ** 4月1日 京都市交通局、京都バスで同一カードを利用した場合の乗継割引サービスを導入<ref group="注釈">バス同士の乗継の場合、奇数回目の降車から偶数回目の降車が90分以内に限り大人 90円、小児 40円を割引。地下鉄とバスの乗継の場合、偶数回目の降車時に大人 60円、小児 30円を割引。(バス同士の乗継の場合、市バスと京都バスが混在しても対象。また、バス・地下鉄を3回以上連続して乗継いだ場合、偶数回目の降車時に割引される。)</ref>。 ** 4月15日 [[神戸市バス]]と[[神戸交通振興]]で「全国相互利用サービス」開始。 ** 10月1日 [[岡山電気軌道]](鉄道・バスともに)、[[両備バス]]、[[中鉄バス]](岡電バスとの共同運行で[[国道53号]]運行路線に限る)、[[下津井電鉄]]で「全国相互利用サービス」開始。 * [[2018年]] ** 3月28日 [[関西空港交通]]で「全国相互利用サービス」開始。 ** 4月1日 大阪市交通局が鉄軌道事業(地下鉄・ニュートラム)を[[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro)に、バス事業を[[大阪シティバス]]に譲渡。PiTaPaは引き続き利用可能となる。 ** 10月1日 JR西日本(近畿圏エリア)においてポストペイサービス導入およびPiTaPa割引サービス適用開始。 * [[2019年]] ** 7月1日 阪急田園バスが阪急バスに吸収合併。PiTaPaは引き続き利用可能となる。 * [[2020年]] ** 3月14日 [[南海りんかんバス]]で導入。 ** 3月23日 [[伊丹市交通局]]で「全国相互利用サービス」開始。 ** 5月31日 北神急行電鉄が第二種鉄道事業を終了し、神戸市交通局に事業譲渡。 * [[2021年]] ** 3月16日 [[山陽バス]]で「全国相互利用サービス」開始。 * [[2022年]] ** 4月1日 [[神戸交通振興]]がバス事業を神姫バスに譲渡し解散。PiTaPaは引き続き利用可能となる。 ** 7月1日 大阪空港交通と阪急観光バスが合併され、(新)阪急観光バスとなる。PiTaPaは引き続き利用可能となる。 *[[2023年]] **3月13日 [[名阪近鉄バス]]で導入<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.mkb.co.jp/wp/wp-content/uploads/iccard202303.pdf |title=交通系ICカード全国相互利用サービスを始めます!さらにPiTaPaなら面倒なチャージも不要です! |format=PDF |publisher=名阪近鉄バス |date=2023-01-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230112092416/https://www.mkb.co.jp/wp/wp-content/uploads/iccard202303.pdf |archivedate=2023-01-12 |accessdate=2023-12-15}}</ref>。 <!-- 代表的な読取部の写真 各社の読取部の写真を追加するのはご遠慮ください。 -->[[ファイル:Pitapa 06.jpg|thumb|100px|リーダー・ライターの一例<br>([[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]][[計算科学センター駅|ポートアイランド南駅]]{{smaller|(撮影時)}}にて)]] [[ファイル:PiTaPa 09.jpg|thumb|100px|リーダー・ライターの一例<br>([[淀屋橋駅|京阪淀屋橋駅]]にて)]] [[ファイル:Pitapa 07.jpg|thumb|150px|すべての改札機がPiTaPa対応になった、[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]][[三宮駅]]の改札口(2006年9月ごろの様子)。改札機の下部の "IC" 表記がなくなっている。]] === ポストペイでの利用路線 === ◆印は全国相互利用サービス対応交通事業者 ==== 近畿・東海 ==== * [[阪急電鉄]]◆ * [[能勢電鉄]]([[能勢電鉄妙見の森ケーブル|ケーブル線]]・[[妙見の森リフト|リフト]]を除く)◆ * [[京阪電気鉄道]]([[京阪鋼索線|京阪鋼索線(石清水八幡宮参道ケーブル)]]を含む)◆ * [[叡山電鉄]]◆ * [[大阪市高速電気軌道|大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) ]]([[大阪市営地下鉄|地下鉄]]・[[Osaka Metro南港ポートタウン線|ニュートラム]])◆ * [[北大阪急行電鉄]]◆ * [[大阪モノレール]]◆ * [[阪神電気鉄道]]◆ * [[近畿日本鉄道]]([[近鉄西信貴鋼索線|西信貴鋼索線]]を含むが、[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]・[[近鉄葛城索道線|葛城索道線]]を除く)◆ * [[南海電気鉄道]]◆ ** [[高野山駅]]([[南海鋼索線|南海鋼索線 (高野山ケーブル)]]を含む) * [[泉北高速鉄道]]◆ * [[阪堺電気軌道]]◆ * [[水間鉄道]]◆ * [[山陽電気鉄道]]◆ * [[神戸新交通]]◆ ** [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートライナー]]・[[神戸新交通六甲アイランド線|六甲ライナー]] * [[神戸市交通局]]◆ ** [[神戸市営地下鉄|地下鉄]]・[[神戸市バス|市バス]]の全線 * [[神戸交通振興]]◆ ** 山手線・ポーアイキャンパス線(神姫バス運行便を含む)<ref name="24.4.p.i.henkouannai" />で利用可能 * [[神戸電鉄]]◆ * [[京都市交通局]]◆ ** [[京都市営地下鉄|地下鉄]]・[[京都市営バス|市バス]] * [[大阪シティバス]]([[大阪市営バス|旧市バス]]区間のみ)◆ * [[阪急バス]]◆<sup>※7</sup> ** 路線バス全線(西谷出張所管内の路線(旧[[阪急田園バス]])を含む) * [[阪急観光バス]]◆ ** [[大阪国際空港|大阪空港]]・[[関西国際空港|関西空港]]<ref>[http://www.okkbus.co.jp/sys/whatsnew/detail/208 ICカードの全国相互利用サービス及び関西空港線での一部利用開始について]</ref>(2016年4月1日より。2016年8月現在、京都線・茨木線を除く)発着の自社と共同運行の阪神バス担当便のみ。<!--[[蛍池駅]] - 大阪空港 - [[関西国際空港|関西空港]]を含む関西空港発着は、カード読取装置搭載車であっても使用できない。--> * [[京阪バス]]◆ **路線バス全線<!-- [[京阪バス高槻営業所|高槻営業所]]・[[京阪バス男山営業所|男山営業所]]、[[京阪バス京田辺営業所|京田辺営業所]]、[[京阪バス枚方営業所|枚方営業所]]管内の路線バスから先行導入された。その後2010年3月1日には、大阪地区の全営業所管内の路線バスに、さらに2011年3月1日より[[京阪バス山科営業所|山科営業所]]と[[京阪バス大津営業所|大津営業所]]管内の路線バスにも導入されたことで、同社の全路線バスでの利用が可能になった。--> * [[京阪京都交通]]◆ ** 路線バス全線 * [[江若交通]]◆ ** 堅田営業所管内の路線(一部を除く:システム上では京阪バス扱い) * [[高槻市交通部]]◆<sup>※10</sup> * [[阪神バス]]◆<sup>※7</sup> ** リムジンバスについては、2013年9月10日より大阪空港発着<!--に限り利用可能になった-->(システム上では大阪空港交通扱い)、2016年4月1日より関西空港発着便(2016年8月現在、関空 - USJ線を除く)の自社と共同運行の大阪空港交通担当便で使用可能となった<ref>[http://www.hanshin-bus.co.jp/files/whatsnew/2016.4.1.IC.pdf]</ref>。<!--カード読取装置搭載車であっても使用できない。--> * [[南海バス]]◆<sup>※9</sup> * [[南海ウイングバス金岡]]◆<sup>※9</sup> * [[南海ウイングバス南部]]◆<sup>※9</sup> * [[南海りんかんバス]]◆<sup>※9</sup>(2020年3月14日より導入) * [[神鉄バス]]◆ ** 星和台営業所管内の路線のみ * [[山陽バス]]◆ ** 塩屋北町線、明石市コミュニティバス、高速線は利用不可 * [[奈良交通]]◆<sup>※1</sup> * [[エヌシーバス]]◆<sup>※1</sup> * [[神姫バス]]◆<sup>※2</sup> * [[神姫ゾーンバス]]◆<sup>※2</sup> * [[神姫グリーンバス]]◆(一部路線のみ)<sup>※2</sup> * [[ウエスト神姫]]◆(一部路線のみ)<sup>※2</sup> * [[伊丹市交通局]]◆<sup>※5</sup> * [[京福電気鉄道]](嵐電)◆<sup>※6</sup> * [[近鉄バス]]◆ ** 一般路線バス、及び八尾 - 京都間の高速バスに2015年4月1日より導入。 * [[京都バス]]◆(2015年11月1日より導入。システム上では京都市営バス扱い) * [[叡山電鉄]]◆(2016年3月16日より導入。) * [[尼崎交通事業振興]]◆(2016年3月20日より導入。システム上では阪神バス扱い) * [[三重交通]]◆<sup>※8</sup>(2016年4月1日より導入。) * [[本四海峡バス]]◆(2016年12月1日より導入。) ** 淡路島・有馬温泉発着高速バスのみ * [[淡路交通]]◆(2020年4月1日より導入) ** 神戸-淡路島間の高速バスのみ * [[和歌山バス]]◆<sup>※11</sup>(2020年4月1日より導入) * [[和歌山バス那賀]]◆<sup>※11</sup>(2020年4月1日より導入) * [[名阪近鉄バス]]◆(2023年3月13日より導入) ** 路線バス全線(システム上では三重交通扱い) ==== 静岡 ==== * [[静岡鉄道]]◆<sup>※4</sup> ** 電車全線([[日本平ロープウェイ]]を除く) * [[しずてつジャストライン]]◆<sup>※4</sup> ** 路線バス全線(大規模催事輸送<!--運賃箱の付かない観光車両充当の可能性があるため-->の臨時シャトルバス・竜爪山線デマンドバス「りゅうそう号」・[[定期観光バス]]・県外高速線を除く<!--運賃支払にLuLuCa≒PiTaPaを取扱わないしずてつ以外の運行受託者については書かない 掛川BS・秋葉BSも同様-->)。同社受託の自治体自主運行路線(コミュニティバス)など、詳細な取扱路線は[[LuLuCa]]の項を参照。 ==== 岡山 ==== * [[岡山電気軌道]]◆<sup>※3</sup> ** 電車・岡山空港リムジンバス、路線バス全線 * [[両備ホールディングス|両備ホールディングス(両備バス)]]◇<sup>※3</sup> ** 路線バス全線 * [[下津井電鉄]]◆<sup>※3</sup> ** 岡山空港リムジンバス、路線バス全線 * [[中鉄バス]]◆<sup>※3</sup> ** 中鉄バス、岡電バス共同運行路線(岡山空港リムジンバス、全国相互利用サービスでは[[国道53号]]運行路線に限る。システム上では岡電バス扱い。)3路線 ** 中鉄バス、下電バス共同運行路線(岡山空港リムジンバス、システム上では岡電バス扱い。) ==== JRグループ ==== * [[西日本JRバス]]◆ ** 金沢営業所管内、若江線、高雄・京北線、園福線(2016年10月1日より中国ハイウェイバス、同年12月1日より淡路島発着路線、2017年4月1日より有馬温泉発着路線)のみ * [[西日本旅客鉄道]]◆(2018年10月1日より下記の区間でポストペイ導入開始<sup>※12</sup>。2023年4月1日現在のエリアは[[ICOCA#利用可能エリア]]を参照。) ** [[大阪環状線]]:全駅 ** [[桜島線]](JRゆめ咲線):全駅 ** [[東海道本線]]([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]):[[米原駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] ** [[北陸本線]](琵琶湖線):米原駅 - [[近江塩津駅]] ** [[山陽本線]](JR神戸線):神戸駅 - [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]] ** 山陽本線支線([[和田岬線]]):[[兵庫駅]] - [[和田岬駅]] ** [[福知山線]](JR宝塚線):[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]] - [[篠山口駅]] ** [[JR東西線]]:全駅 ** [[片町線]](学研都市線):全駅 ** [[おおさか東線]]:全駅 ** [[関西本線]]([[大和路線]]):[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] - [[JR難波駅]] ** [[奈良線]]:全駅 ** [[山陰本線]]([[嵯峨野線]]):[[京都駅]] - [[園部駅]] ** [[関西空港線]]:全駅 ** [[阪和線]](羽衣線を含む):全駅 ** [[湖西線]]:全駅 ** [[赤穂線]]:相生駅 - [[播州赤穂駅]] ** [[和歌山線]]:[[王寺駅]] - [[五条駅 (奈良県)|五条駅]] ** [[桜井線]](万葉まほろば線):全駅 ** [[草津線]]:全駅 ** [[加古川線]]:加古川駅 - [[西脇市駅]] ==== 備考 ==== * ※1 : 奈良交通グループ各社が発行する[[CI-CA]]は、他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※2 : 神姫バスグループ各社が発行する[[NicoPa]]は、他のPiTaPaエリア(山陽バス明石線を除く)では利用不可。 * ※3 : 岡山電気軌道・両備ホールディングス(両備バス)・下津井電鉄・中鉄バス・[[宇野自動車]]<ref group="注釈" name="unobus">[[宇野自動車]]と[[めぐりん (八晃運輸)|八晃運輸]]の2社は[[スルッとKANSAI]]協議会に加盟していないため、PiTaPaなどの[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]対象カードは利用不可。八晃運輸はHarecaを発行しない。</ref>が発行する[[Hareca]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※4 : 静鉄グループ各社が発行する[[LuLuCa]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※5 : 伊丹市交通局が発行する[[Itappy]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※6 : 京福電気鉄道が発行する'''らんでんカード'''は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※7 : 阪急バス・阪神バス・尼崎交通事業振興が発行する[[Hanica]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※8 : 三重交通発行の[[三重交通#emica|emica]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※9 : 南海バス・南海ウイングバス金岡・南海ウイングバス南部・南海りんかんバスが発行する[[なっち (IC乗車カード)|なっち]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※10 : 高槻市交通部が発行する[[Tsukica]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※11 : 和歌山バス・和歌山バス那賀が発行する[[kinoca]]は他のPiTaPaエリアでは利用不可。 * ※12 : JR西日本のポストペイエリア相互内での利用の場合は無条件でポストペイ決済される(チャージ残額からのプリペイド決済は選択できない)。ただし、ポストペイエリアを1駅でもはみ出す場合、ポストペイエリア内でも精算機や券売機を利用した場合は全額がプリペイド決済となる。 === チャージでの利用路線 === いずれも交通利用(鉄道・バス)でのみ可能であり(一部に対象外の事業者あり)、ショッピングサービスは対象外である。 * [[西日本旅客鉄道]]・[[四国旅客鉄道]]・[[あいの風とやま鉄道]]・[[IRいしかわ鉄道]]([[ICOCA]]エリア。近畿圏エリア内の駅相互間でのチャージでの利用は2018年9月30日まで実施) ** 広島県内民鉄・バス事業者([[PASPY]]エリア。2018年3月17日から片利用) ** [[高松琴平電鉄]]ほか([[IruCa]]エリア。2018年3月3日から片利用) * [[北海道旅客鉄道]]([[Kitaca]]エリア。2013年3月23日から) * [[東日本旅客鉄道]]ほか([[Suica]]エリア。2013年3月23日から) ** [[新潟交通]]([[りゅーと]]エリア。2013年3月23日から片利用) ** [[札幌市交通局]]ほか([[SAPICA]]エリア。2013年6月22日から片利用) ** [[大船渡線]]・[[気仙沼線]][[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]区間([[odeca]]エリア。2015年3月14日から片利用) ** [[仙台市交通局]]ほか([[icsca]]エリア。2016年3月26日から片利用) * [[パスモ]](首都圏民鉄・バス事業者)([[PASMO]]エリア。2013年3月23日から) * [[東海旅客鉄道]]・[[愛知環状鉄道]]([[TOICA]]エリア。2013年3月23日から) * [[名古屋鉄道]](名鉄)・[[名古屋市交通局]]ほか([[manaca]]エリア。2013年3月23日から) * [[九州旅客鉄道]]ほか([[SUGOCA]]エリア。2013年3月23日から) ** 熊本県内民鉄・バス事業者([[熊本地域振興ICカード]]エリア。2016年3月23日から片利用) ** [[長崎自動車]]グループ([[Tポイント#エヌタスTカード|エヌタスTカード]]エリア。2020年2月16日から片利用) * [[西日本鉄道]](西鉄)ほか([[nimoca]]エリア。2013年3月23日から) * [[福岡市交通局]]([[はやかけん]]エリア。2013年3月23日から) === 履歴表示・印字について === PiTaPaおよびICOCAの使用履歴・SF残額(チャージ金額)履歴を印字・表示することができる(ただし、消去された履歴は印字・表示できない)。 PiTaPa加盟社局の駅の自動券売機などで、直近20件までの履歴を表示・印字でき、カードに履歴が残っている場合は何度でも印字できる。ただし、利用から26週間を経過した履歴は印字されない(阪急・阪神など一部の事業者では26週間を経過した履歴も印字できる)。これは、ICOCA加盟社局でも同様である。これに加えて、ICOCA加盟社局では、窓口に申し出ることで、50件までの履歴を得ることができる。 また、履歴印字は、カードの種類や、印字した事業者に関わらず、ほぼ同一の内容が印字される。内容は、利用月日・利用種別(入場・出場・バス等の利用など)・利用駅(バス利用時は社局名)・残額である。このうち、利用駅名は、PiTaPaエリアで印字した場合、社局名2文字+駅名3文字(例 : 「JR西京都」、「阪急梅田」)で印字される。一方、ICOCAエリアで印字した場合、社局名英字半角2文字+駅名2文字(例 : 「OC梅田」、「KC京都」)で印字される。最近開業した駅では、印字した事業者によって駅名の部分が「***」となって表示されない場合がある。 南海・泉北高速など一部の事業者では、自社線のみ使用駅名が表示される事業者も存在する。Osaka Metro・京阪など一部の事業者では、全国の相互利用事業者の利用駅名の表示・印字に対応している券売機がある。このように、履歴の表示・印字に関しては、PiTaPa加盟社局間での足並みが統一されていない部分が存在する。 == 利用割引 == [[ファイル:Pitapa 08.gif|thumb|150px|PiTaPa利用明細を会員サイトから[[Comma-Separated Values|CSV]]形式で保存し、[[表計算ソフト]]で読み込んだもの。割引の詳細や、入・出場時刻が正確に把握でき、交通費精算などに利用できる。]] === 交通料金割引 === PiTaPaはポストペイ(後払い式)のため、利用実績により割引額を決めることが可能である。これを利用して下記のように各社でいろいろな割引サービスを実施している。 これらの割引は利用した交通機関によって決まり、'''使用したカードの種類には関係ない'''。例えば、「[[STACIAカード]]」で大阪市営地下鉄を利用した時は、大阪市交通局の「利用額割引・フリースタイル(2008年3月1日に「利用額割引」から改称)」が適用される。PiTaPaと相互利用しているだけの[[ICOCA]]等を使用した場合には、これらの割引サービスは適用されない。 当初設定された割引サービスは割引率の一部で問題があったが、IC定期券の登場で後者は解決しつつある(ただし大手私鉄では京阪<ref group="注釈">2011年(大津線は2017年)にICOCA定期を導入(JR西日本・近鉄両社との連絡定期も)。{{PDFlink|[http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h21/2009-12-15.pdf IC連絡定期券の導入、及び京阪電車におけるICOCA定期券等の発売について]}} - 京阪電気鉄道</ref>や近鉄<ref group="注釈">ICOCA定期を導入(一部の路線・区間を除く:JR西日本・JR東海・京阪・阪神・南海・名鉄各社との連絡定期も)。</ref>、また大阪市交通局<ref group="注釈">相当するサービスとして、利用額割引・マイスタイルを導入。</ref>などでは導入されていない)。 * '''利用額割引'''(事前登録不要) ** 1か月の利用額に応じて自動的に割引が適用されるサービス。例えば大阪市交通局では1,000円を超えた利用額(2010年10月1日からは1回目の乗車)から割引が適用されるので、利用頻度がそれ程高くなくても割引が受けられる(逆に、通勤などで高い頻度で使う場合は通常定期券の方が得になる)。 ** このサービスは'''社局毎の利用額'''に対して各社局の割引率により割引が行われる<sup>※</sup>。なお、[[Hareca]]エリア、[[LuLuCa]]エリアはそれぞれ1つの社局とみなされ、「Hareca導入4社での利用額の合算」「静鉄グループ2社での利用額の合算」に対して割引が適用される。 ** 大阪市交通局では、学生向けに一般の利用額割引よりも割引率の高い「学生割引」サービスを用意している。[[天神橋筋六丁目駅]]を除く大阪市交通局定期券発売所での事前登録が必要である。2008年3月1日からは、新たに地下鉄の利用駅を指定・登録することで、対象となる利用分は6か月定期券の1か月分相当の価格を上限として、運賃を引き落とすサービスの「利用額割引・マイスタイル」も始まった。 ** ''※利用額割引が使用できる全社局の合計利用額ではなく、社局毎の利用額に対して社局毎の割引が適用される。'' * '''利用回数割引'''(事前登録不要) ** 同一運賃区間の乗車回数により自動的に割引が適用されるサービス。割引率などは交通機関によって異なるが、11回目から10%割引になる交通機関が多い。 ** 回数券と異なり、正確に同じ運賃区間でないと適用されない。回数券では、例えば500円区間5回と540円区間6回のような利用の場合、500円区間の11枚回数券と乗り越しによって割引サービスが受けられるが、PiTaPaではこれができない。 * '''区間指定割引'''(事前登録必要) ** 事前にある1区間を登録しておくと、その区間内を1か月間に何回乗り降りしても1か月定期旅客運賃を超えないサービス。その1か月間の利用料金が1か月定期旅客運賃未満の時は適用されないので、利用回数が少ない時は運賃が節約される。 ** また、1か月定期券を買うよりも3か月定期券を買う方が割安になるのと同様に、一部の事業者にはこのサービスに「連続適用割引」というサービスも同時に適用される。区間指定割引が2か月以上連続して適用された場合は、適用期間に応じて1か月あたりの基準額が割引されるものなどであるが、事業者によって内容は異なる。 * '''IC定期券'''(事前申込必要) ** 磁気定期券と同等の割引を適用。1・3・6か月の各期間で設定。磁気定期券ではできなかった紛失時の再発行が可能。2009年3月20日時点で連絡定期券は、阪急 - 能勢電、阪急 - 阪神、南海 - 泉北など8系統で利用可能。券面表示が必要になるため、単独型や分離型の場合は表面に定期券情報を印字するが、クレジットカード一体型の場合は裏面に印字するようになっており、[[OSAKA PiTaPa]]・Aoyama PiTaPaのように裏面に印字スペースのないカードはIC定期券にすることはできない。 ** 神戸地区においては、2007年9月1日から神戸市交通局(地下鉄のみ)、北神急行電鉄、山陽電気鉄道(鉄道のみ)、神戸電鉄、神戸新交通においてIC定期券サービスを開始した。 ** 2023年11月現在、IC連絡定期券は下記の区間で発行されている<ref>{{Cite web |url=https://www.pitapa.com/service/pass.html |title=PiTaPa定期サービス|PiTaPa割引サービス|PiTaPa.com |access-date=2023-11-24}}</ref>。なお、会社名の後の△はPiTaPa連絡定期券を発行していないがICOCA定期券を発行していること、×は自社でPiTaPa連絡定期券もICOCA定期券も発行していないことを表す。 *** 阪急・神戸高速・山陽・神鉄の相互間(神戸高速経由の3社連絡含む) *** 阪神・神戸高速・山陽・神鉄の相互間(神戸高速経由の3社連絡含む) *** 阪急 - 阪神 *** 阪急 - 能勢電 *** 阪急・阪神・山陽 - 神戸市営(北神線除く) *** 神鉄 - 神戸市営(湊川連絡または谷上連絡) *** 阪急・阪神・神戸市営(北神線除く) - 神戸新交通 *** 神戸市営地下鉄 - 神戸市営バス(×阪急バス、×山陽バスについても神戸市営バスとの共同運行路線、共通乗車路線にのみ導入) *** 神戸市営地下鉄 - ×神姫バス・×神姫ゾーンバス *** 阪急 - △大阪モノレール・△京阪 *** 阪神 - △近鉄 *** 阪急・阪神・山陽・神鉄・神戸新交通 - △JR西日本 *** 阪急・阪神 - ×JR西日本 - △京阪(3社連絡) *** 阪急・阪神 - △Osaka Metro *** 阪急・阪神 - ×Osaka Metro - △京阪(3社連絡) *** 北大阪急行 - △Osaka Metro・△大阪モノレール *** 南海 - 泉北高速 *** 南海 - 阪神 *** 南海 - △近鉄 *** 南海 - △JR西日本 *** 南海 - ×JR西日本 - △京阪(3社連絡) *** 南海・泉北 - △Osaka Metro *** 南海 - ×Osaka Metro - 阪急・阪神・△近鉄・△京阪(3社連絡) ** なおJR西日本では、京阪(大津線・鋼索線除く)とのICOCA連絡定期券を2010年5月8日より発売を開始した(JR西日本のICOCAエリア内の各駅で発売)。 ** あわせて京阪でも、ICOCA定期券(京阪線内用、JR西日本線連絡とも)を2011年6月1日より発売を開始した(プリペイドカードのICOCAも同日より発売開始。なお両券の発売、および定期券の利用範囲については、大津線系統の各駅を除く)。 ** さらに近鉄でも、ICOCA定期券(近鉄線内用、JR西日本・京阪・阪神各社連絡、近鉄線 - JR西日本線 - 京阪線3線連絡、近鉄線 - JR西日本線 - 近鉄線3線通過とも:一部路線・区間を除く)を2012年12月1日より発売を開始した(プリペイドカードのICOCA(近鉄グループのポイントカード機能付きの[[ICOCA#KIPS ICOCA|KIPS ICOCAカード]]も)も同日より発売開始)。2013年3月23日からは、近鉄線 - JR東海線のICOCA定期券も発売を開始した(連絡駅は名古屋駅と桑名駅の両駅のみ:JR東海ではTOICA定期券での発売)。また2014年9月21日からは、近鉄線 - 名鉄線のICOCA定期券も発売を開始した(連絡駅は近鉄・名鉄名古屋駅のみ:名鉄ではmanaca定期券での発売)。 ** 南海は2014年3月14日にJR西日本、近鉄(連絡駅は河内長野駅のみ)との連絡定期券の発売を開始した。南海ではPiTaPa定期券として、JR西日本、近鉄ではICOCA定期券として発売<ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/131101_1.pdf 南海・近鉄連絡IC定期券の発売を開始します。]}} - 南海ニュースリリース 2013年11月1日付</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/131101_2.pdf 南海・JR西日本連絡IC定期券の発売を開始します。]}} - 南海ニュースリリース 2013年11月1日付</ref>。 * '''登録型割引'''(事前登録必要) ** 事前に登録を行った上で、対象となる交通機関が指定する条件を満たす事により、1か月間(1日 - 末日)の利用額に対し、通常とは異なる割引率が適用されるサービス。支払に上限を設けるサービスや、初めから交通機関が指定する条件を満たす利用について、利用回数に関わらず毎月定額で利用できるサービスもある。 {| class="wikitable mw-collapsible" style="text-align:center;" ! colspan="6"|各交通機関と主な割引サービス |- !事業者名!!利用額割引!!利用回数割引!!区間指定割引!!IC定期券!!登録型割引 |- |style="text-align:left;"|[[阪急電鉄]]||×||○||○<ref group="※" name="連続適用割引">2009年7月31日をもって「連続適用割引」サービスについては廃止された。</ref>||○||× |- |style="text-align:left;"|[[能勢電鉄]]||×||○||○<ref group="※" name="連続適用割引" />||○||× |- |style="text-align:left;"|[[京阪電気鉄道]]||○<ref group="※">大津線のみ。</ref>||○{{Refnest|group=※|name=Otsu|[[京阪大津線|大津線]]は適用外<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keihan.co.jp/traffic/ticket/pitapa.html |title=PiTaPa|きっぷ・ICカード|電車・駅のご案内|京阪電気鉄道株式会社|accessdate=2015-06-12}}</ref>}}||○<ref group="※">大津線・鋼索線は適用外。</ref>||<ref group="※">ICOCA対応のIC定期券を導入(JR西日本・近鉄両社との連絡定期券も:大津線除く)。</ref>||× |- |style="text-align:left;"|[[大阪市高速電気軌道|大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro)]] (地下鉄・ニュートラム)||○||×||×||<ref group="※">ICOCA対応のIC定期券を導入(阪急・京阪・阪神・南海・近鉄・大阪モノレール・北大阪急行各社との連絡定期券も:一部路線・区間を除く)</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[大阪シティバス]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[阪神電気鉄道]]||×||○||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[阪神バス]]<ref group="※" name="HanshinBus">2社利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||×||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[尼崎交通事業振興]]<ref group="※" name="HanshinBus" />||×||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[大阪高速鉄道|大阪モノレール]]||×||○||○||×||× |- |style="text-align:left;"|[[北大阪急行電鉄]]||×||×||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[近畿日本鉄道]]||○||×||○<ref group="※">2009年6月1日開始、「連続利用割引」サービスはなし。</ref>||<ref group="※">ICOCA対応のIC定期券を導入(JR西日本・JR東海・京阪・阪神・南海・名鉄各社との連絡定期券も:一部路線・区間を除く)</ref>||× |- |style="text-align:left;"|[[近鉄バス]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[京都市交通局]]||×||×||×||<ref group="※">ICOCA対応のIC定期券を導入(近鉄・京阪・JR西日本・阪急各社との連絡定期券も:一部路線・区間を除く)</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[阪急バス]]<ref group="※" name="HankyuBus">2社利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||×||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[神鉄バス]]<ref group="※" name="HankyuBus" />||×||×||×||×||× |- |style="text-align:left;"|[[京阪バス]]<ref group="※" name="KeihanBus">3社利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||×||×||×||×||○<ref group="※">[[久御山町のってこバス]]および[[京阪バス京田辺営業所|ダイレクトエクスプレス直Q京都号]]では登録型割引は適用除外となる。</ref> |- |style="text-align:left;"|[[京阪京都交通]]<ref group="※" name="KeihanBus" />||×||×||×||×||× |- |style="text-align:left;"|[[江若交通]]<ref group="※" name="KeihanBus" />||×||×||×||×||× |- |style="text-align:left;"|[[南海電気鉄道]]||×||○||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[泉北高速鉄道線|泉北高速鉄道]]||×||○||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[水間鉄道水間線|水間鉄道]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[阪堺電気軌道]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[南海バス]]・[[南海ウイングバス]]・[[南海りんかんバス]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[山陽電気鉄道]]||×||○||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[山陽バス]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[神戸電鉄]]||×||○||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[神戸新交通]]||○||×||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[神戸市交通局]](地下鉄)||○||×||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[神戸市交通局]](バス)<ref group="※" name="Kobe">2社局利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||○||×||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[神姫バス]]([[神戸交通振興|山手線、CITY LOOP]])<ref group="※" name="Kobe" />||○||×||×||○||× |- |style="text-align:left;"|[[高槻市交通部]]||×||×||×||<ref group="※">PiTaPaではない専用のIC定期券を発行</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[伊丹市交通局]]||○||×||×||×||○ |- |style="text-align:left;"|[[岡山電気軌道]]<ref group="※" name="Hareca">4社利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||○||×||×||<ref group="※" name="Hareca定期">Hareca対応のIC定期券を導入。</ref>||× |- |style="text-align:left;"|[[両備ホールディングス|両備バス]]<ref group="※" name="Hareca" />||○||×||×||<ref group="※" name="Hareca定期" />||× |- |style="text-align:left;"|[[下津井電鉄]]<ref group="※" name="Hareca" />||○||×||×||<ref group="※" name="Hareca定期" />||× |- |style="text-align:left;"|[[中鉄バス]]<ref group="※" name="Hareca" />||○||×||×||<ref group="※" name="Chutetsu">Hareca対応のIC定期券の利用が可能(発行はしていない)。</ref>||× |- |style="text-align:left;"|[[静岡鉄道]]<ref group="※" name="LuLuCa">2社利用額の合算で利用額割引を適用。</ref>||×||×||×||<ref group="※" name="LuLuCa定期">LuLuCa対応のIC定期券を導入。</ref>||× |- |style="text-align:left;"|[[しずてつジャストライン]]<ref group="※" name="LuLuCa" />||×||×||×||<ref group="※" name="LuLuCa定期" />||× |- |style="text-align:left;"|[[京福電気鉄道]](嵐電)||○||×||×||<ref group="※">らんでんカード対応のIC定期券を導入。</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[叡山電鉄]]||○||×||×||<ref group="※">ICOCAによる京阪電車との連絡IC定期券を導入(叡山電車単独のIC定期券はない)。</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[三重交通]]・[[三交伊勢志摩交通]]・[[三重急行自動車]]・[[八風バス]]・[[名阪近鉄バス]]<ref group="※">この他に、乗継割引を導入している。</ref>||×||×||×||<ref group="※" name=":0">名阪近鉄バスを除き、emica対応のIC定期券を導入。</ref>||○ |- |style="text-align:left;"|[[和歌山バス]]・[[和歌山バス那賀]] |× |× |× |<ref group="※">kinoka対応のIC定期券を導入。</ref> |○ |- |style="text-align:left;"|[[西日本ジェイアールバス]]・[[本四海峡バス]] |× |× |× |× |○ |- |style="text-align:left;"|[[西日本旅客鉄道]]<ref group="※">この他に、時間帯指定割引を導入している。</ref> |× |○ |× |<ref group="※">ICOCA対応のIC定期券を導入。</ref> |× |} ==== 備考 ==== {{Reflist|group="※"}} === ショッピング割引 === PiTaPaでショッピングを行うと「ショップdeポイント」が貯まる。100円につき1ポイント貯まるのが基本だが、500ポイントで50円の割引なので割引率は0.1%となり、クレジットカード会社が展開する同種のポイントサービスより割引率が低い。ただし、利用店によっては5倍(100円で5ポイント)のところがあったり、期間限定の10倍キャンペーンを実施したりしている。 == 利用状況 == === 会員数 === {| class="wikitable" !カード名!!会員数!!備考 |- |'''PiTaPa'''(総数)||align="right"|約'''3,100,000'''||2017年7月現在<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK915CYNK91PTIL01C.html JR西の「イコカ」、利用に応じ運賃割引へ 時期は検討] - 朝日新聞デジタル(2017年9月1日付、同年9月3日閲覧)</ref> |- |[[PiTaPaベーシックカード]]||align="right"|約13,000||2005年4月11日現在 |- |[[STACIAカード|STACIA(旧・HANA PLUS)カード]]||align="right"|約200,000||2007年3月26日現在<ref name="hk20070326">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu.co.jp/ir/data/KS200703261N3.pdf 「阪急阪神ホールディングスグループ 2007中期経営計画」の策定について]}}</ref> |- |[[e-kenet PiTaPa]]カード||align="right"|約145,000||2006年2月中旬現在 |- |[[KOBE PiTaPa]]カード||align="right"|約15,000||2006年9月下旬現在 |- |[[OSAKA PiTaPa]]カード||align="right"|約520,000||2017年3月末現在<ref>{{PDFlink|[http://www.osaka-metro.co.jp/company/pdf/28jigyouhoukoku.pdf 「平成28年度事業報告]}}</ref> |- |[[CoCoNet PiTaPaカード]]||align="right"|約30,000||2007年3月26日現在<ref name="hk20070326" /> |} === 利用率 === * PiTaPa利用者数(平日) ** 約90万人/日(2007年8月20日現在)<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20070928041013/http://www.surutto.com/about/release/p070820_01.pdf スルッとKANSAI協議会 プレスリリース]}}(2007年9月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref> * 改札通過人数に対する利用比率 ** 阪急電鉄…約3.8%(2006年1月30日現在)<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/HD200601312N4.pdf 阪急ホールディングス プレスリリース]}}</ref> 上記はいずれもサービス開始から間もない時期のデータである。 == PiTaPaのみ導入の事業者 == 奈良交通グループ、神姫バスグループ、静鉄グループ、水間鉄道、江若交通、阪堺電気軌道、三重交通、名阪近鉄バス、西日本JRバス、本四海峡バス、淡路交通および岡山地区の各社([[宇野自動車]]と[[めぐりん (八晃運輸)|八晃運輸]]の2社<ref group="注釈" name="unobus" />(いずれもスルッとKANSAI協議会非加盟事業者)以外)においては、磁気式の[[スルッとKANSAI]]対応カードは導入せず、PiTaPaのみの導入となっている。 なお、スルッとKANSAI対応カードの販売は[[2017年]][[3月31日]]で、利用は[[2018年]][[1月31日]]で終了している。阪急バスグループ<ref group="注釈">スルッとKANSAI対応カードは、2012年5月31日で発売を終了、同年9月30日で利用を終了(一部営業所の路線を除く)。</ref>、大阪空港交通<ref group="注釈">2009年10月1日に廃止された川西系統でのみ、スルッとKANSAI対応カードが利用可能だった。</ref>、叡山電鉄<ref group="注釈">スルッとKANSAI対応カードは、2015年9月30日で発売を終了、2016年1月で利用を終了。</ref>などは、それよりも早くに販売、利用が終了した。 == 導入事業者・発行カード一覧 == 以下の事業者が[[スルッとKANSAI]]協議会と共同で発行しているほか、協議会単体で'''[[PiTaPaベーシックカード]]'''を発行している。 === 鉄道 === {| class="wikitable" !事業者名!!カード名!!発行元!!導入日!!カードタイプ |- |rowspan="2"|[[阪急電鉄]]||[[HANA PLUSカード]]<sup>※4</sup>||阪急阪神カード||2004年8月1日||一体型 |- ||[[STACIAカード]]||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |rowspan="2"|[[能勢電鉄]]||HANA PLUSカード<sup>※4</sup>||阪急阪神カード||2004年8月1日||一体型 |- ||STACIAカード||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |[[京阪電気鉄道]]||[[e-kenet PiTaPa]]カード||京阪カード||2004年8月1日||分離型 |- |[[大阪市高速電気軌道]]||[[OSAKA PiTaPa]]カード||大阪メトロサービス||2006年2月1日||一体型 |- |rowspan="2"|[[阪神電気鉄道]]||[[CoCoNet PiTaPaカード]]<sup>※4</sup>||阪神電気鉄道||2006年2月1日||単独型 |- ||STACIAカード||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |rowspan="2"|[[大阪高速鉄道|大阪モノレール]]||HANA PLUSカード<sup>※4</sup>||阪急阪神カード||2006年2月1日||一体型 |- ||STACIAカード||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |rowspan="2"|[[北大阪急行電鉄]]||HANA PLUSカード<sup>※4</sup>||阪急阪神カード||2006年2月1日||一体型 |- ||STACIAカード||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |[[南海電気鉄道]]||[[南海グループカード minapita|minapita]]カード||南海電気鉄道||2006年7月1日||分離型 |- |[[泉北高速鉄道線|泉北高速鉄道]]||南海グループカード minapita|minapitaカード||南海電気鉄道||2006年7月1日||分離型 |- |[[神戸新交通]]||KOBE PiTaPaカード||KOBEカード協議会||2006年7月1日||一体型 |- |[[山陽電気鉄道]]||KOBE PiTaPaカード||KOBEカード協議会||2006年7月1日||一体型 |- |[[岡山電気軌道]]<sup>※1</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年10月1日|| |- |[[神戸市交通局]]||KOBE PiTaPaカード||KOBEカード協議会||2006年10月1日||一体型 |- |[[近畿日本鉄道]]||[[KIPS PiTaPaカード]]||KIPS協議会||2007年4月1日||分離型/一体型<sup>※3</sup> |- |[[神戸電鉄]]||KOBE PiTaPaカード||KOBEカード協議会||2007年4月1日||一体型 |- |[[京都市交通局]]||[[京都ぷらすOSAKA PiTaPa]]||大阪メトロサービス||2007年4月1日||一体型 |- |[[静岡鉄道]]<sup>※2</sup>||[[LuLuCa|LuLuCa+PiTaPaカード]]||しずてつカード事務局||2007年9月1日||分離型 |- |[[水間鉄道]]||(PiTaPaカードは未発行)||||2009年6月1日||&nbsp; |- |[[京福電気鉄道]]<sup>※5</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2011年4月1日||&nbsp; |} ==== 備考 ==== * ※1 : 岡山電気軌道は、両備バス・下津井電鉄・中鉄バス(および宇野自動車と八晃運輸の2社<ref group="注釈" name="unobus" />(いずれもスルッとKANSAI協議会非加盟事業者)でも)との岡山地区の鉄道・バス事業者6社で利用可能なプリペイド式ICカード'''[[Hareca]]'''を導入している。 * ※2 : 静岡鉄道は、しずてつジャストラインと共通利用可能なICカード'''[[LuLuCa]]'''を導入している。 * ※3 : スーパーICカード KIPS+PiTaPa のみ、[[三菱UFJ銀行]]の[[ICキャッシュカード]]を含めた、一体型カードでの発行となる。 * ※4 : 現在はSTACIAカードに変更・統合されたため発行は停止している。 * ※5 : 京福電気鉄道は、自社のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''らんでんカード'''を導入している。 === バス === {| class="wikitable" !事業者名!!カード名!!発行元!!導入日!!カードタイプ |- |[[大阪シティバス]]||[[OSAKA PiTaPa]]カード||大阪メトロサービス||2006年2月1日||一体型 |- |rowspan="2"|[[阪急バス]]<sup>※8</sup>||[[HANA PLUSカード]]<sup>※1</sup>||阪急阪神カード||2006年2月1日||一体型 |- ||[[STACIAカード]]||阪急阪神カード||2007年10月1日||一体型/単独型 |- |[[神姫バス]]<sup>※2</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年2月1日|| |- |[[神姫ゾーンバス]]<sup>※2</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年2月1日|| |- |[[神戸交通振興]]||(PiTaPaカードは未発行)||||2008年9月1日|| |- |[[大阪空港交通]]||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年10月1日|| |- |[[岡山電気軌道]]<sup>※3</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年10月1日|| |- |[[下津井電鉄]]<sup>※3</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年10月1日|| |- |[[両備ホールディングス]]<sup>※3</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2006年10月1日|| |- |[[中鉄バス]]<sup>※3</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2008年7月22日|| |- |[[しずてつジャストライン]]||[[LuLuCa+PiTaPaカード]]<sup>※4</sup>||しずてつカード事務局||2007年9月1日||分離型 |- |[[奈良交通]]<sup>※5</sup>||[[KIPS PiTaPaカード]]||KIPS協議会||2007年4月1日||分離型/一体型 |- |[[エヌシーバス]]<sup>※5</sup>||[[KIPS PiTaPaカード]]||KIPS協議会||2007年4月1日||分離型/一体型 |- |[[京阪バス]]||[[e-kenet PiTaPa]]カード||京阪カード||2007年10月1日||分離型 |- |[[京阪京都交通]]||[[e-kenet PiTaPa]]カード||京阪カード||2008年3月1日||分離型 |- |京都市交通局||京都ぷらすOSAKA PiTaPa||大阪メトロサービス||2007年4月1日||一体型 |- |[[高槻市交通部]]<sup>※6</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2008年4月1日|| |- |[[伊丹市交通局]]<sup>※7</sup>||(PiTaPaカードは未発行)||||2008年4月1日|| |} ==== 備考 ==== * ※1 : 現在はSTACIAカードに変更・統合されたため発行は停止している。 * ※2 : 神姫バスと神姫ゾーンバス(および神姫グリーンバスとウエスト神姫(いずれも一部路線のみ)の2社でも)は、グループ各社のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''[[NicoPa]]'''を導入している。 * ※3 : 岡山電気軌道・下津井電鉄・両備ホールディングス・中鉄バス(および宇野自動車と八晃運輸の2社<ref group="注釈" name="unobus" />(いずれもスルッとKANSAI協議会非加盟事業者)でも)は、6社のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''[[Hareca]]'''を導入している。 * ※4 : しずてつジャストラインは、静岡鉄道静岡清水線と共通利用可能なプリペイド式ICカード'''[[LuLuCa]]'''を導入している。 * ※5 : 奈良交通とエヌシーバスは、2社のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''[[CI-CA]]'''を導入している。 * ※6 : 高槻市交通部は、自局のみで利用可能なIC定期券を導入している。 * ※7 : 伊丹市交通局は、自局のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''[[Itappy]]'''を導入している。 * ※8 : 阪急バス(および阪神バスと尼崎交通事業振興の2社でも)は、グループ各社のみで利用可能なプリペイド式ICカード'''[[hanica]]'''を導入している。 === その他のカード === {| class="wikitable" !発行元!!カード名!!事業者名!!備考 |- |[[三井住友カード]]<br>[[ジェーシービー]]||ペルソナSTACIA PiTaPaカード||[[ペルソナ (クレジットカード)|ペルソナ]]||&nbsp; |- |rowspan="2"|三井住友カード||[[宝塚歌劇団|タカラヅカレビュー]] STACIA VISAカードP||宝塚友の会||&nbsp; |- |阪急阪神第一ホテルグループ STACIA PiTaPa VISAカード||[[阪急阪神ホテルズ]]||&nbsp; |- |池田泉州JCB/VISA||スタシアサイカ ピタパカード||rowspan="2"|[[池田泉州銀行]]||阪急阪神カードとの提携カード |- |池田泉州VC<br>池田泉州JCB/VISA||minapita+sa-icaカード||南海電気鉄道との提携カード |- |三井住友カード<br>ジェーシービー||ANA PiTaPaカード||[[全日本空輸]]||三井住友カードおよびジェーシービー発行のANAカードと紐付け |- |rowspan="3"|三井住友カード||三井住友PiTaPaカード||三井住友カード||三井住友VISA/Masterカードと紐付け |- ||[[KANKU CLUBカード]]||[[関西国際空港]]||南海電気鉄道との提携カード。2011年11月15日で新規募集を停止 |- ||はぴe PiTaPaカード||関西電力||はぴe VISAカードと紐付け |- |[[三菱UFJニコス]]||[[JMB KIPSカード]]||[[日本航空インターナショナル|日本航空]]||[[近畿日本鉄道]]との提携カード |- |rowspan="4"|青山キャピタル||AOYAMA PiTaPaカード||[[青山商事]]||&nbsp; |- |Papa's saisaki PiTaPaカード||青山商事||&nbsp; |- |Mama's saisaki PiTaPaカード||青山商事||&nbsp; |- |ヴィッセル神戸クラブメンバーズPiTaPaカード||[[ヴィッセル神戸]]|| |- |[[三重銀行]]||三重銀行PiTaPaカード||三重銀行||カード発行は三重銀カードに委託 |- |[[トヨタファイナンス]]||[[TS CUBICカード|TS CUBIC]] PiTaPaカード||トヨタファイナンス||TS3 VISA/Master/JCBカードと紐付け |- |[[三菱UFJ銀行]]||[[三菱UFJ-VISA|ICクレジットカード「KIPS」]]||三菱UFJ銀行||近畿日本鉄道との提携カード。カード発行は[[三菱UFJニコス]]に委託 |- |[[百五銀行]]||105 BESTIO KIPS||百五銀行||近畿日本鉄道との提携カード。カード発行は[[百五ディーシーカード]]に委託 |- |[[但馬銀行]]||たんぎんPiTaPaカード||但馬銀行|| |- |[[ゆうちょ銀行]]||JP BANKカードPiTaPa||ゆうちょ銀行||三井住友カードが事務代行 |- |[[南都銀行]]||南都PiTaPaカード||南都銀行||カード発行は南都カードサービスに委託 |- |[[クレディセゾン]]||UC PiTaPaカード||クレディセゾン||クレディセゾン発行のUCカードと紐付け |- |[[関西アーバン銀行]]||KANSAI CARD PiTaPa||関西アーバン銀行||カード発行は関西カードサービスに委託 |- |[[みなと銀行]]||みなとカード PiTaPa||みなと銀行||カード発行はみなとカードに委託 |- |三菱UFJ銀行||[[三菱UFJ-VISA|スーパーICカード KIPS+PiTaPa]]||三菱UFJ銀行||近畿日本鉄道との提携カード。カード発行は三菱UFJニコスに委託。<br>三菱UFJ銀行のICキャッシュカード・KIPSカード・KIPS PiTaPaカードを一体化。<br>2013年4月15日に新規募集停止。 |- |ロッテカード||ロッテPiTaPaカード||ロッテカード||ロッテカードは[[ロッテグループ#韓国のロッテグループ|韓国ロッテグループ]]の法人 |} == 非導入事業者 == スルッとKANSAI協議会加盟事業者のうち、現時点でPiTaPaを導入予定が無い(スルッとKANSAI対応カードは導入)事業者を挙げる。 * [[比叡山鉄道]] == PiTaPaショッピングサービス == === 加盟店開拓とiDとの関係 === PiTaPaは、ショッピングサービスの加盟店開拓を[[三井住友カード]]に委託している。同社は自社の同じFeliCa対応クレジットサービス[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]とPiTaPaを並行して売り込んでおり、PiTaPaの決済端末はiDの決済に対応している。PiTaPaは三井住友カードが使える店舗にiDと共に導入される傾向があるが、加盟店側は双方別々に申し込む必要があるのでPiTaPa加盟店すべてでiDが使えるわけではない。なお、INFOX以外の[[信用照会端末]]や、[[NTTドコモ]]が開拓した加盟店に多いiD単独の決済端末ではPiTaPaを使用できない。 ただし、あくまでPiTaPaとiDは別物で、単に店頭の決済端末が両方に対応しているというだけであり、他の鉄道系ICカードのような「相互利用」とは全く異なる。 === 利用可能店舗 === {{更新|date=2023年4月|section=1}} [[ファイル:PiTaPa 12.JPG|thumb|150px|UMEGLE-CHARIの精算<br>ポストペイのため、本人確認が可能(大阪市北区)]] ショッピングとして、主に関西地区の以下の店舗で利用可能(2013年2月末現在約24,000店舗)。他の交通系ICカードと異なり、すべての所有者が特定できる利点(他の交通系ICカードでは無記名や、記名式でも本人確認が行われていないものが含まれる)を生かした使用事例もある。[[グランフロント大阪]](大阪市)では、2013年4月より2020年1月31日まで、クレジットカードと共に唯一の交通系ICカードとして、[[レンタサイクル]](UMEGLE-CHARI)の自動貸出・返却に使われていた。 * [[コンビニエンスストア]] **[[asnas]]/asnas exp.(阪急・阪神沿線の店舗) *** [[梅田阪急ビル]]店、[[新阪急ホテル]]前店、阪神西梅田店、asnas exp.[[阪急三番街]]店のみ、[[ICOCA電子マネー]](2013年3月23日からは、Suica・PASMOなど「全国相互利用サービス」対応の各IC乗車カードを含む)も利用可能である(2014年5月11日に閉店した[[グランフロント大阪]]店(跡地に「ファミリーマートうめきたセラー店」が出店)でも利用可能だった)。 ** [[アンスリー]](京阪・南海・泉北高速沿線の店舗(一部未対応の店舗あり)) ** Plug-in(京阪沿線の店舗) *** 京阪沿線のアンスリー・Plug-in各店舗、および南海・泉北高速沿線のアンスリーの一部店舗では、ICOCA他交通系電子マネーも利用可能。 ** RIZUMIN(能勢電鉄沿線の店舗(一部店舗のみ)) ** [[ヤマザキショップ|YSPS]](京都市営地下鉄[[北大路]]駅店のみ) ** [[ローソン]](近畿2府4県および三重県、愛知県内の全店舗、ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) ** [[デイリーヤマザキ]](大阪市内の一部店舗のみ。ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) ** [[ファミリーマート]](2014年9月30日より、関西地区全店舗と三重県、愛知県一部店舗に導入:ICOCA他交通系電子マネーも利用可能。ファミリーマートに統合される前の[[サークルKサンクス]]では三重県内では全店舗で導入していた<ref>{{PDFlink|[http://www.surutto.com/newsrelease/release/p121019.pdf 関西地区および三重県内のサークルKとサンクス (計1,141店舗) でPiTaPa のご利用が可能になります]}}</ref>が、転換後は近鉄駅近接の店舗を除き利用不可となった)  ** [[ポプラ (コンビニエンスストア)|ポプラ]](関西地区一部店舗のみ:ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) ** [[セブン-イレブン]](関西国際空港第2ターミナル店、大阪本町駅中央店、泉北高速泉ケ丘駅店、大阪モノレール各駅構内の「セブン-イレブン モノウェル」、神戸電鉄各駅構内の店舗のみ:ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) * [[鉄道駅|駅]][[売店]] ** Lagare Shop(阪急売店) ** ivy SHOP(阪神売店 : 一部未対応) *** 2014年3月1日より、一部店舗ではICOCA他交通系電子マネーも利用可能になった。 ** SECOND POCHE(京阪売店 : 一部未対応) ** nasco(南海売店 : 一部店舗のみ) * [[専門店]] ** [[上新電機]](難波店・日本橋1ばん館・J&Pテクノランド・岸和田店ほか43店舗)ICOCA他交通系電子マネーも利用可能 ** [[ヨドバシカメラ]]([[ヨドバシ梅田|梅田店]]・[[京都ヨドバシ|京都店]]の一部レジのみ。ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) ** [[ビックカメラ]](なんば店・岡山駅前店の一部レジのみ。公式webにはPiTaPa側、ビックカメラ側共に記載がなく、店頭レジカウンターの看板のみの案内となっている。ICOCA他交通系電子マネーも利用可能) ** [[ナカヌキヤ]](一部未対応) ** 【5倍】[[青山商事|洋服の青山]](関西地区、岡山・広島・三重地区の全店舗と愛知・静岡地区の一部店舗。ICOCA他交通系電子マネーも利用可能な店舗もある) * [[百貨店]] ** [[阪神百貨店]](梅田本店・西宮店の一部フロア対応) ** [[天満屋]](岡山店の一部フロア対応) * [[スーパーマーケット]] ** 【5倍】 [[成城石井]](大阪府の一部店舗のみ) ** イケチュー ** サボイ(味道館) **[[もより市]] * [[100円ショップ]] ** [[大創産業|ザ・ダイソー]](一部店舗のみ) * 惣菜店 ** [[ハークスレイ|ほっかほっか亭]](一部店舗のみ) * [[飲食店]] **[[酔虎伝]]/[[八剣伝]]/居心伝 ** [[養老乃瀧]](一部店舗のみ) ** [[がんこフードサービス|がんこ]] ** [[千房]] ** [[シアトルズベストコーヒー]] ** [[神戸屋レストラン]](阪神エリアの店舗のみ) ** [[モスバーガー]](一部店舗のみ) ** フレッズベーカリー/フレッズカフェ **[[グルメ杵屋]] * [[本|書籍]]・[[コンパクトディスク|CD]] ** [[ブックファースト]]/[[サウンドファースト]](いずれも近畿圏の店舗のみ) ** [[紀伊國屋書店]](梅田近辺の一部店舗のみ) ** [[旭屋書店]](一部店舗のみ) * [[ドラッグストア]] **[[ラブドラッグス|くすりのラブ]](一部店舗を除く) ** [[セガミメディクス|ドラッグセガミ]](一部店舗のみ) ** 【5倍】 カラーフィールド/カラーフィールドリラックス **[[コクミン]] * [[ドライクリーニング|クリーニング]] ** [[白洋舍]](関西の一部店舗のみ) ** ライフクリーナー * [[眼鏡]] ** コンタクトレンズギャラリー * [[カー用品]] ** [[モンテカルロ (カー用品店)|モンテカルロ]] * [[駐車場]] ** [[日本駐車場開発]](京阪神地区の一部のみ) ** 近鉄イージーパーキング([[近鉄奈良線|奈良線]][[東生駒駅]]・[[菖蒲池駅]]のみ) * [[ホテル]] ** [[阪急阪神ホテルズ]] ** 神戸タワーサイドホテル * [[商店街]]・[[地下街]]など ** [[なんばCITY]] ** [[なんばパークス]] ** [[名古屋市]]大須商店街 ** [[天神橋筋商店街]] ** [[道頓堀]]極楽商店街 ** [[ハービスENT]] ** [[新梅田食道街]](一部店舗のみ) ** [[アジア太平洋トレードセンター]] ** [[メトロこうべ]] ** [[神戸モザイク]] ** [[神戸新聞会館|ミント神戸]] ** [[富山県]]福光商店街 ** ひろしまお好み物語 駅前ひろば ** [[沖縄県]][[北谷町]]飲食業組合加盟店舗 ** [[阪急三番街]] ** [[ディアモール大阪]] ** [[阪急西宮ガーデンズ]] ** 山陽SC開発(一部店舗を除く) *** [[岡山一番街]] *** [[サンステーションテラス岡山]] *** [[サンステーションテラス倉敷]] *** [[サンステーションテラス福山]] * [[空港]] ** [[神戸空港]]ターミナルビル・空港駐車場事前精算機 ** 大阪空港ターミナルビル(一部店舗を除く) ** [[那覇空港]]の一部売店 ** ANA FESTA(一部店舗を除く) * [[文化 (代表的なトピック)|文化]]施設 ** [[宝塚大劇場]] ** [[東京宝塚劇場]] ** [[京都国立博物館]] ** [[奈良国立博物館]] * [[観光]]施設 ** [[空中庭園展望台]] ** [[大阪水上バス|アクアライナー]] ** [[北野町山本通|神戸北野異人館]] ** [[神戸市立須磨海浜水族園]] ** [[ひらかたパーク]] ** [[みさき公園]] ** [[安倍文殊院]] * [[スポーツ]]施設 ** [[阪神甲子園球場]](場内の売店のみ、観客席エリアのワゴン販売では利用できない) * 鉄道以外の交通 ** [[神戸・関空ベイシャトル]] ** [[ジャンボフェリー]] ** [[近鉄タクシー]] ** 大阪神鉄豊中タクシー ** [[日ノ丸自動車]]/[[日ノ丸ハイヤー]]([[鳥取空港|鳥取砂丘コナン空港]]・[[美保飛行場|米子鬼太郎空港]]券売機のみ)<ref name="tottori-sand-dunes-conan-airport">{{Cite web|和書|url=https://www.ttj-ap-bld.co.jp/news/detail/74|title=バスの券売機が新しくなりました|publisher=鳥取砂丘コナン空港|date=2020-04-24|accessdate=2022-04-15}}</ref><ref name="yonago-kitaro-airport">{{Cite web|和書|url=https://www.yonago-air.com/floor#ticket|title=バス券売機|publisher=米子鬼太郎空港|accessdate=2021-04-08}}</ref> ** [[松江一畑交通]](米子鬼太郎空港・[[出雲空港|出雲縁結び空港]]券売機のみ)<ref name="yonago-kitaro-airport" /><ref name="izumo-enmusubi-airport">{{Cite web|和書|url=http://www.izumo-airport.co.jp/facilities-info/1F_locker_bus_atm.html|title=コインロッカー・バス発券機・キャッシュコーナー(ATM)|publisher=出雲縁結び空港|accessdate=2021-04-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ichibata.co.jp/taxi-matsue/shuttle/index.html|title=空港連絡バス 出雲空港線【出雲空港(出雲縁結び空港)~松江線】|publisher=松江一畑交通|accessdate=2021-04-08}}</ref> ** [[出雲一畑交通]](出雲縁結び空港券売機のみ)<ref name="izumo-enmusubi-airport" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ichibata.co.jp/t-izumo/shuttle/index.html|title=空港連絡バス 出雲空港(出雲縁結び空港)⇔出雲市駅線|publisher=出雲一畑交通|accessdate=2021-04-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ichibata.co.jp/t-izumo/shuttle/izumo.html|title=空港連絡バス 玉造温泉⇔出雲空港(出雲縁結び空港)⇔出雲大社直通バス|publisher=出雲一畑交通|accessdate=2021-04-08}}</ref> ** [[中鉄バス]]([[岡山空港|岡山桃太郎空港]]券売機のみ)<ref name="okayama-momotaro-airport">{{Cite web|和書|url=https://www.okayama-airport.org/access/bus|title=バスで|publisher=岡山桃太郎空港|accessdate=2021-04-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chutetsu-bus.co.jp/rosen/rimujin.htm|title=中鉄バス 岡山桃太郎空港リムジンバス 岡山駅⇔岡山桃太郎空港 倉敷⇔岡山桃太郎空港|publisher=中鉄バス|accessdate=2021-04-08}}</ref> ** [[徳島バス]]([[徳島駅|徳島駅前]]・[[徳島飛行場|徳島阿波おどり空港]]券売機のみ)<ref name="tokushima-awaodori-airport-1f">{{Cite web|和書|url=https://www.tokushima-airport.co.jp/floor/1f/|title=フロアガイド:1F|publisher=徳島阿波おどり空港|date=|accessdate=2022-04-16}}</ref><ref name="tokushima-awaodori-airport-7164">{{Cite web|和書|url=https://www.tokushima-airport.co.jp/info/7164/|title=【徳島バス券売機】リニューアルいたしました|publisher=徳島阿波おどり空港|date=2021-03-26|accessdate=2022-04-16}}</ref> * [[自動販売機]] ** [[近畿コカ・コーラボトリング]]・[[コカ・コーラセントラルジャパン]]([[Cmode|シーモ2]]の一部が対応:一部にマルチマネー対応機も導入) ** [[サントリー]]・[[サントリーフーズ]] ** [[アサヒ飲料]] ** [[大塚製薬]] ** [[キリンビバレッジ]] ** [[伊藤園]] * 電子パーツショップ ** シリコンハウス共立 (注)リスト中の【5倍】は通常の5倍の [http://www.pitapa.com/shop/shopdepoint.html ショップdeポイント] がもらえる。 === トラブル === [[2004年]][[10月1日]]のショッピング機能のサービス開始日に、利用対応の約200店のうち約160店で端末機が動作せずサービスを利用できないというトラブルが発生した。その影響は翌[[10月2日|2日]]の午後まで続いた。 === 全国相互利用サービスとの関係 === 2013年3月23日からの交通系ICカード相互利用拡大後も、PiTaPaはショッピングに利用できない。これは、決済方法の異なるポストペイ利用のみならず、PiTaPaのプリペイドチャージ額をショッピングサービスに充当することが出来ない。この理由について、大阪市交通局より以下のように説明されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000153745.html |title=大阪市市政・市民の声施策反映検討会(第8回)|deadlinkdate=2013年6月|work=大阪市|archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3495400/www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000153745.html|archivedate=2012年5月27日|accessdate=2023年12月15日}}</ref>。 #他の交通系電子マネーは「プリペイドカード」であるのに対し、PiTaPaは利用後に銀行口座から引き落とす、一般的なクレジットカードと同じ決済方式に基づく「少額決済カード」である。 #そのため、PiTaPa自体に対しクレジットカードに準ずる法令が適用されており、プリペイド扱いのショッピングサービス相互利用を実現するためには、電子マネーに適用される「資金決済に関する法律」に基づき、発行保証金の供託等や、前払式証票としてカード裏面に表示を付加する必要があり、利用者に対してはすでに手元に渡っている発行済みPiTaPaカードの交換事務を要する。 #加えて、システム・物販端末の大規模改修が必要となり、莫大な費用となる事が判明した。 そこで、この問題を解決するための施策(代替策)として、スルッとKANSAI協議会では現在、PiTaPaのポストペイ決済でのみ利用可能な物販端末機を、順次ICOCAなどのプリペイド型交通系ICカードでも利用可能なもの('''マルチマネー対応機''')に切り替え、PiTaPa加盟店においては、立地する地域の各社局が導入しているプリペイド型交通系電子マネー(例:関西圏=ICOCA・関東圏=SuicaあるいはPASMO)も並行して決済可能になるよう協力していく考えであると大阪市交通局を通じて説明している。ただし、これらの施策が具体的にどのように実施されるのか(施策の実施時期)などについては、スルッとKANSAI協議会からは直接には特に発表はされていない。ただし、店舗サイドで独自に両方への対応を行っている例が関西圏を中心にみられるほか、キャッシュレス対応拡充を目的に、コード決済型電子マネーや流通系電子マネーとも同時に対応した例もある。 == 社会実験 == [[ファイル:PiTaPa 10.jpg|thumb|150px|PiTaPa対応宅配ロッカー(一部専用)<br>{{small|([[阪急電鉄|阪急]]・[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]構内)}}]] === レール&ショッピング手荷物お届けサービス === 2007年2月16日 - 3月15日まで、[[公共交通機関]](チャージでの利用である[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]を除く)・ショッピング・宅配ロッカーをすべてPiTaPaで決済すると、後日宅配料金を条件により全額キャッシュバックする[[社会実験]]が、[[新エネルギー・産業技術総合開発機構|NEDO]]民生部門等[[地球温暖化]]対策実証モデル評価事業として行われた。[[大阪国際空港|大阪空港]]、阪急梅田駅構内など6か所に実験対応の宅配ロッカーが置かれ、手荷物の運搬に便利な自家用車から、利用者一人あたりの[[二酸化炭素|CO2]]排出量が少ない鉄道・バスへの利用転換を狙ったもので、その場合不便になる手荷物の運搬を、条件が揃えば無料とする試み。実験は交通・ショッピング・宅配ロッカーの決済が同一カードで行え、履歴が把握できるPiTaPaの利点を生かした形となった。実験終了後もPiTaPa対応宅配ロッカーは、(梅田駅構内の場合)有料で利用できる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ポストペイ型電子マネー]] * 「[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用サービス]]」に対応:事前のチャージが必要(一部対象外の事業者あり)。ショッピングを除く。 ** [[ICOCA]](2006年1月21日より) ** [[Kitaca]](2013年3月23日より) ** [[Suica]](同上) *** [[りゅーと]](同上・Suica(「全国相互利用サービス」対応カードも)との片利用扱い) *** [[SAPICA]](2013年6月22日より、Suica・Kitacaなど「全国相互利用サービス」対応カードとの片利用扱い) ** [[PASMO]](2013年3月23日より) ** [[TOICA]](同上) ** [[manaca]](同上) ** [[SUGOCA]](同上) ** [[nimoca]](同上) ** [[はやかけん]](同上) *PiTaPaと別のIC乗車カードの重複導入事業者の別のIC乗車カード ** [[NicoPa]](NicoPaエリアで利用可能) ** [[CI-CA]](CI-CAエリアで利用可能) ** [[Hareca]](Harecaエリアで利用可能〈[[中鉄バス]]の一部路線〉〈[[宇野自動車|宇野バス]]を除く〉) ** [[LuLuCa]](LuLuCaエリアで利用可能) ** [[Itappy]](伊丹市交通局で利用可能) <!--** らんでんカード(京福電気鉄道(嵐電)で利用可能)--> ** [[hanica]](hanicaエリアで利用可能) ** [[なっち (IC乗車カード)|なっち]](なっちエリアで利用可能) * [[PASPY]](PASPYエリアで利用可能) * [[グーパス]] - PiTaPaで乗車時に[[電子メール|Eメール]]を受け取れるサービス * [[ハウスカード]] - [[PiTaPaベーシックカード]] * [[iD (クレジット決済サービス)|iD]] - [[NTTドコモ]]が運営するポストペイ決済サービス。[[三井住友カード]]が関連している。 * [[オレンジカード]] * [[Jスルーカード]] == 外部リンク == * [https://www.pitapa.com/ PiTaPa.com(公式サイト)] * [https://stacia.jp/ STACIAカード(阪急電鉄・阪神電気鉄道)] * [https://www.kobe-pitapa.com/ KOBE PiTaPaカード(KOBEカード協議会)] * [https://www.osaka-pitapa.com/ OSAKA PiTaPaカード(大阪メトロサービス)] * [https://minapita.jp/ minapitaカード(南海電気鉄道)] * [https://www.kintetsu.co.jp/group/Kips/ Kips PiTaPaカード(近畿日本鉄道)] * [https://www.kintetsu.co.jp/group/Kips/ ANA PiTaPaカード] * [https://www.smbc-card.com/mem/addcard/pitapa_top.jsp 三井住友PiTaPaカード(三井住友カード)] * [https://www8.ts3card.com/pitapa/index.html PiTaPaカード|TS CUBIC カード] {{スルッとKANSAI}} {{ICOCA}} {{電子マネー}} {{大手私鉄}} {{rail-stub}} {{commonscat}} {{ICカード乗車券|co=[[スルッとKANSAI|スルッとKANSAI協議会]]他|index=ひたは}} {{DEFAULTSORT:ひたは}} [[Category:PiTaPa|*]] [[Category:クレジットカード]] [[Category:阪急電鉄]] [[Category:能勢電鉄]] [[Category:京阪電気鉄道]] [[Category:大阪市交通局]] [[Category:阪神電気鉄道]] [[Category:阪急バス]] [[Category:阪神バス]] [[Category:大阪モノレール]] [[Category:北大阪急行電鉄]] [[Category:南海電気鉄道]] [[Category:泉北高速鉄道]] [[Category:水間鉄道]] [[Category:山陽電気鉄道]] [[Category:神戸高速鉄道]] [[Category:神戸新交通]] [[Category:神戸市交通局]] [[Category:北神急行電鉄]] [[Category:岡山電気軌道]] [[Category:両備グループ]] [[Category:中鉄バス]] [[Category:静岡鉄道]] [[Category:神姫バス]] [[Category:西日本ジェイアールバス]] [[Category:南海バス]] [[Category:近鉄バス]] [[Category:登録商標]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/PiTaPa
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パサールカード
パサールカードは、静鉄グループが発行していた、LuLuCaの前身の磁気式の乗車カードである。後述のように券種ごとに順次販売を終了し、2022年7月31日をもってすべての券種で取扱を終了している。 静鉄電車の全線(バス専用学生カードは不可)としずてつジャストライン(一部代替バス、予約制の高速バスを除く)と秋葉バスサービス(袋井駅・中東遠総合医療センター線を除く)で使用可能だったが、掛川バスサービスには導入されなかった。 電車では自動改札機への直接投入が可能である。また、自動改札機へ投入した場合に限って、カード裏面に乗車駅と残額が印字される。 複数人が使用する場合や、小人運賃など割引運賃適用者が使用する場合は、電車の場合は自動改札機に直接投入せず、自動券売機で乗車券に引き換えなければならない。なお、バスで同様の使い方をする場合は運賃箱リーダ挿入前に運転士に申告することで利用可能である。 名称の「パサール」([PASAL])とは、「通る」を意味するスペイン語である。
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パサールカードは、静鉄グループが発行していた、LuLuCaの前身の磁気式の乗車カードである。後述のように券種ごとに順次販売を終了し、2022年7月31日をもってすべての券種で取扱を終了している。
{{複数の問題|出典の明記=2011年5月|独自研究=2011年5月}} '''パサールカード'''は、[[静鉄グループ]]が発行していた、[[LuLuCa]]の前身の磁気式の[[乗車カード]]である。後述のように券種ごとに順次販売を終了し、2022年7月31日をもってすべての券種で取扱を終了している<ref>[https://train.shizutetsu.co.jp/news/20220329/1383 パサールカード(磁気式)お取扱い終了のお知らせ] 静岡鉄道公式ホームページサイト 2023年10月29日閲覧。</ref><ref>[https://www.justline.co.jp/ticket/pasar/ 乗車券のご案内] しずてつジャストライン公式ホームページサイト 2023年10月29日閲覧。</ref><ref>[http://www.akihabus.co.jp/20200217card.pdf パサールカードのご利用終了について] 秋葉バスサービス公式ホームページサイトPDF 2023年10月29日閲覧。</ref><ref>[https://www.city.shizuoka.lg.jp/445_000142.html 【自主運行バス】両河内線 宍原系統におけるパサールカードの取扱終了について] 静岡市公式ホームページサイト 2023年10月29日閲覧。</ref><ref>[https://www.justline.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/275c29815cb8e904b185e1ae900e335c.pdf 【パサールカード(磁気式)お取扱い終了につきまして】(全4頁)] しずてつジャストライン株式会社公式ホームページサイトPDF 2022年08月31日閲覧。</ref>。 ==概要== [[静岡鉄道|静鉄]][[静岡鉄道静岡清水線|電車]]の全線(バス専用学生カードは不可)と[[しずてつジャストライン]](一部代替バス、予約制の[[高速バス]]を除く)と[[秋葉バスサービス]]([[秋葉バスサービス#袋井駅・中東遠総合医療センター線|袋井駅・中東遠総合医療センター線]]を除く)で使用可能だったが、[[掛川バスサービス]]には導入されなかった<!--<ref>掛川バスサービスでは、当カードとは無関係である[[ジーネット]]と共通の回数券(10枚分の金額で11枚綴り)を販売している。当該記事を参照</ref>-->。 電車では[[自動改札機]]への直接投入が可能である。また、自動改札機へ投入した場合に限って、カード裏面に乗車駅と残額が印字される。 複数人が使用する場合や、小人運賃など割引運賃適用者が使用する場合は、電車の場合は自動改札機に直接投入せず、[[自動券売機]]で[[乗車券]]に引き換えなければならない。なお、バスで同様の使い方をする場合は運賃箱リーダ挿入前に運転士に申告することで利用可能である。 名称の「パサール」([''PASAL''])とは、「通る」を意味するスペイン語である<ref group="注釈">また、インドネシア語では、[[パサール]]は市場を意味する</ref>。 ==種類== [[File:PASALCARD-Automatic vending machines.JPG|thumb|パサールカード自動販売機]] ;電車・バス共通カード *静岡鉄道・しずてつジャストラインでは[[2013年]][[3月31日]]に、秋葉バスサービスでは2019年4月30日に販売を終了<ref name="akihabus">{{Cite web|和書|url= http://www.akihabus.co.jp/20190325card.pdf |title= パサールカード販売終了のお知らせ |publisher= 秋葉バスサービス株式会社 |accessdate= 2022-06-20 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20190329033824/http://www.akihabus.co.jp/20190325card.pdf |archivedate= 2019-03-29 }}</ref>。 *割引率は9.1〜14.5%である{{要出典|date=2023年10月}}。 *カードの色は5,000円券までは{{Color|RoyalBlue|'''青色'''}}、7,500円券以上(現在は10,000円券のみ)は「電車・バス共通カード(VIP)」として{{Color|#C93|'''金色'''}}。 *{{Color|RoyalBlue|'''1,000円(1,100円)'''}}、{{Color|RoyalBlue|'''3,000円(3,300円)'''}}、{{Color|RoyalBlue|'''5,000円(5,500円)'''}}、{{Color|#C93|'''10,000円(11,700円)'''}}の額面で発行されている<ref name="money" group="注釈">額面の括弧内は利用可能金額</ref>。 *かつては{{Color|#C93|'''7,500円(8,750円)'''}}の額面も発行されていた<ref name="money" group="注釈"/>。 *終日利用可能である。 *[[LuLuCa]]では、2014年2月28日までのプレミアは「全日大人カード」に同じ割引率で継承されている(現在はプレミアからポイントに変更している){{要出典|date=2023年10月}}。 *店頭・バス車内で販売のカードと静岡鉄道各駅の自動券売機で販売するカードではデザインが異なる{{要出典|date=2023年10月}}。 ;電車・バス共通昼間カード *静岡鉄道・しずてつジャストラインでは[[2014年]][[9月30日]]に、秋葉バスサービスでは2019年4月30日に販売を終了<ref name="akihabus"/>。 *割引率は23.1%である{{要出典|date=2023年10月}}。 *カードの色は{{Color|#F66|'''ピンク色'''}}。 *{{Color|#F66|'''1,000円(1,300円)'''}}、{{Color|#F66|'''3,000円(3,900円)'''}}、{{Color|#F66|'''5,000円(6,500円)'''}}の額面で発行されている<ref name="money" group="注釈"/>。 *乗車時刻が9:00〜16:00の間に利用できる{{要出典|date=2023年10月}}。 *LuLuCaには、同カードに相当する領域あるいは割引時間帯が存在しない。 ;バス専用学生カード *静岡鉄道・しずてつジャストラインでは[[2012年]]9月30日に、秋葉バスサービスでは2019年4月30日に販売を終了<ref name="akihabus"/>。 *割引率は25%と、通学[[定期乗車券|定期券]]に相当している{{要出典|date=2023年10月}}。 *カードの色は{{Color|#0C9|'''水色'''}}。 *{{Color|#0C9|'''1,500円(2,000円)'''}}、{{Color|#0C9|'''4,500円(6,000円)'''}}、{{Color|#0C9|'''7,500円(10,000円)'''}}の額面で発行されている<ref name="money"group="注釈"/>。 *このカードはバス専用であり、静鉄電車では利用できない。また、購入時に<!--[[-->通学証明書<!--]]-->又は通学証明書兼用の[[身分証明書]]が必要となる。 *「パサールカード(学生用)」より「ルルカパサール」の学生用の方が、割引率が低い{{要出典|date=2023年10月}}。 ;福祉乗車券(パサールカード) *沿線自治体が各自治体の基準のもとに発行・交付<ref name="藤枝市乗車券">[https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/soshiki/kenkofukushi/kaigofukushi/gyomu/3/1445914652357.html 藤の里ふれあい乗車券]藤枝市公式ホームページサイト 2023年10月29日閲覧。</ref><ref name="静岡市乗車券">[https://call.city.shizuoka.jp/21547 電車バス、タクシー等の運賃の高齢者への補助制度はありますか] 静岡市公式ホームページサイト 2023年10月29日閲覧。</ref>。 *通常、有効期間は1年(年度内)で、額面は3,000円<ref name="藤枝市乗車券"></ref><ref name="静岡市乗車券"></ref> **廃止までに発行・交付をしていた自治体の例 ***[[藤枝市]] - 「藤の里ふれあい乗車券」<br>4月1日現在で70歳以上の方で、前年度4月の介護保険料所得段階が1から3までの方<ref name="藤枝市乗車券"></ref> **廃止自治体の例 ***[[静岡市]] - 「ことぶき乗車券」70歳以上の市民全員に毎年無償で交付していたが、2006年度をもって制度廃止<ref name="静岡市乗車券"></ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連項目== *[[静岡鉄道]] *[[しずてつジャストライン]] *[[LuLuCa]] ==外部リンク== *[https://www.shizutetsu.co.jp/ 静鉄グループ] *[https://www.justline.co.jp/ しずてつジャストライン] {{DEFAULTSORT:はさるかと}} [[category:乗車カード]] [[category:静岡鉄道]] [[Category:しずてつジャストライン]] {{rail-stub}} {{bus-stub}} {{ICカード乗車券|co=[[静鉄グループ]]|index=パサールカード}}
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Jスルーカード
Jスルーカード(ジェイスルーカード)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)及び近畿日本鉄道(近鉄)で発売されていたストアードフェアシステムカード。2008年に発売を終了し、2009年で自動改札機、自動精算機では使用できなくなった。 1999年2月26日の発売開始当初はJR西日本のJスルー導入エリアだけで使用できたが、2001年10月14日からは近畿日本鉄道(近鉄)の一部路線(大阪線青山町駅以西のうち田原本線・吉野線・けいはんな線を除く路線)での使用開始を皮切りに2001年12月15日より伊丹市営バス、2002年には明石市営バスや近鉄バスの一部路線などでも使えるようになった。ただし、伊丹市営バスではICカード乗車券「itappy」の導入準備による運賃箱機種更新に伴い2007年10月31日をもって使用を終了した。 発売額はJR西日本での発売開始当初は3,000円、5,000円の2種類のみであった。1,000円券については、発売開始記念の特別デザインカード(2種)を除き発売されていなかったが、1999年8月11日より常時発売されるようになった。小児用のカードは発行されていなかった。 近鉄が加入する頃から発行されていたJスルーカードには裏面に「J」というマークが印字されている。それ以前のJスルーカードの一部にはこの「J」が印字されていないカードがあり、このカードでは近鉄線を利用できないという仕様があった。 JR西日本の自動改札機は、これまで日本国有鉄道(国鉄)時代から引き続き京都駅烏丸東口と片町線(学研都市線)片町駅 - 松井山手駅間(京橋駅は西口のみ)で導入されていたが、1997年3月8日からJスルーとして新しい自動改札システムが導入され、同日開業したJR東西線全駅、片町線(学研都市線)京橋駅 - 松井山手駅間と大正駅に導入した。これに引き続き、1998年度はJR京都線・JR神戸線および大阪環状線などの82駅に、1999年度は琵琶湖線および阪和線を中心に138駅に導入する計画で設置が進められた。 導入が遅かっただけあり、Jスルーの自動改札機は当初から乗車券類の2枚投入(出場のみ)に対応している。当時の関西圏で2枚投入対応機の一斉導入は前例がないため、導入当初は改札機に2枚投入できるキャッチコピーとして「1、2、スルー」でアピールしていた。ただし、初期に導入されたものは乗車券の2枚処理に時間が掛かり、その分客を待たせてしまう事になるため、他社の従来機に比べると全長がやや長めに設計されているという特徴がある。 なお、2008年3月15日に開業した島本駅・須磨海浜公園駅・はりま勝原駅とおおさか東線各駅、および同年10月18日に開業した桂川駅には岡山・広島地区と同型の機種にJスルーカードを処理する機能を追加した3枚処理が可能な全長が短い自動改札機が設置されている。 2008年9月15日最終列車をもってJスルーカードの発売を終了したが、期日前であっても在庫がなくなった駅から順次発売を終了している。そして2009年3月1日最終列車をもって自動改札機と自動精算機での対応を終了した。なお、近鉄バスや明石市営バスでの利用も同日に終了した。上記の理由が、ICOCA・PiTaPaの普及に伴う利用減少および使用済みカードの発生を止める事による環境配慮のためとしている。現在でも、自動券売機で乗車券に引き換えることができ無手数料で払い戻しができる(近鉄では、2033年1月31日をもって払い戻し対応を終了予定)。 概ね青山町駅以西でのみ使用できた。具体的な利用可能エリアは以下の通り。 なお、エリア外の一部の駅でもJスルーカードを使用して自動券売機で乗車券の購入が可能であった。 スルッとKANSAIエリアのうち、けいはんな線はJスルーカードのエリア外であった。一方、道明寺線はスルッとKANSAIのエリア外であった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "Jスルーカード(ジェイスルーカード)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)及び近畿日本鉄道(近鉄)で発売されていたストアードフェアシステムカード。2008年に発売を終了し、2009年で自動改札機、自動精算機では使用できなくなった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1999年2月26日の発売開始当初はJR西日本のJスルー導入エリアだけで使用できたが、2001年10月14日からは近畿日本鉄道(近鉄)の一部路線(大阪線青山町駅以西のうち田原本線・吉野線・けいはんな線を除く路線)での使用開始を皮切りに2001年12月15日より伊丹市営バス、2002年には明石市営バスや近鉄バスの一部路線などでも使えるようになった。ただし、伊丹市営バスではICカード乗車券「itappy」の導入準備による運賃箱機種更新に伴い2007年10月31日をもって使用を終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "発売額はJR西日本での発売開始当初は3,000円、5,000円の2種類のみであった。1,000円券については、発売開始記念の特別デザインカード(2種)を除き発売されていなかったが、1999年8月11日より常時発売されるようになった。小児用のカードは発行されていなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "近鉄が加入する頃から発行されていたJスルーカードには裏面に「J」というマークが印字されている。それ以前のJスルーカードの一部にはこの「J」が印字されていないカードがあり、このカードでは近鉄線を利用できないという仕様があった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR西日本の自動改札機は、これまで日本国有鉄道(国鉄)時代から引き続き京都駅烏丸東口と片町線(学研都市線)片町駅 - 松井山手駅間(京橋駅は西口のみ)で導入されていたが、1997年3月8日からJスルーとして新しい自動改札システムが導入され、同日開業したJR東西線全駅、片町線(学研都市線)京橋駅 - 松井山手駅間と大正駅に導入した。これに引き続き、1998年度はJR京都線・JR神戸線および大阪環状線などの82駅に、1999年度は琵琶湖線および阪和線を中心に138駅に導入する計画で設置が進められた。", "title": "Jスルー" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "導入が遅かっただけあり、Jスルーの自動改札機は当初から乗車券類の2枚投入(出場のみ)に対応している。当時の関西圏で2枚投入対応機の一斉導入は前例がないため、導入当初は改札機に2枚投入できるキャッチコピーとして「1、2、スルー」でアピールしていた。ただし、初期に導入されたものは乗車券の2枚処理に時間が掛かり、その分客を待たせてしまう事になるため、他社の従来機に比べると全長がやや長めに設計されているという特徴がある。", "title": "Jスルー" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、2008年3月15日に開業した島本駅・須磨海浜公園駅・はりま勝原駅とおおさか東線各駅、および同年10月18日に開業した桂川駅には岡山・広島地区と同型の機種にJスルーカードを処理する機能を追加した3枚処理が可能な全長が短い自動改札機が設置されている。", "title": "Jスルー" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2008年9月15日最終列車をもってJスルーカードの発売を終了したが、期日前であっても在庫がなくなった駅から順次発売を終了している。そして2009年3月1日最終列車をもって自動改札機と自動精算機での対応を終了した。なお、近鉄バスや明石市営バスでの利用も同日に終了した。上記の理由が、ICOCA・PiTaPaの普及に伴う利用減少および使用済みカードの発生を止める事による環境配慮のためとしている。現在でも、自動券売機で乗車券に引き換えることができ無手数料で払い戻しができる(近鉄では、2033年1月31日をもって払い戻し対応を終了予定)。", "title": "発売終了" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "概ね青山町駅以西でのみ使用できた。具体的な利用可能エリアは以下の通り。", "title": "Jスルーカードが利用できた鉄道・バス路線" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "なお、エリア外の一部の駅でもJスルーカードを使用して自動券売機で乗車券の購入が可能であった。 スルッとKANSAIエリアのうち、けいはんな線はJスルーカードのエリア外であった。一方、道明寺線はスルッとKANSAIのエリア外であった。", "title": "Jスルーカードが利用できた鉄道・バス路線" } ]
Jスルーカード(ジェイスルーカード)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)及び近畿日本鉄道(近鉄)で発売されていたストアードフェアシステムカード。2008年に発売を終了し、2009年で自動改札機、自動精算機では使用できなくなった。
'''Jスルーカード'''(ジェイスルーカード)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)及び[[近畿日本鉄道]](近鉄)で発売されていた[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]カード。2008年に発売を終了し、2009年で自動改札機、自動精算機では使用できなくなった。 == 概要 == [[1999年]][[2月26日]]の発売開始当初<ref name="RJ391">{{Cite journal|和書 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |date = 1999-4 |volume = 33 |issue = 5 |page = 94 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>はJR西日本の[[#Jスルー|Jスルー]]導入エリアだけで使用できたが、[[2001年]][[10月14日]]からは[[近畿日本鉄道]](近鉄)の一部路線([[近鉄大阪線|大阪線]][[青山町駅]]以西のうち[[近鉄田原本線|田原本線]]・[[近鉄吉野線|吉野線]]・[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]を除く路線)での使用開始を皮切りに2001年12月15日より[[伊丹市交通局|伊丹市営バス]]、[[2002年]]には[[明石市交通部|明石市営バス]]や[[近鉄バス]]の一部路線などでも使えるようになった。ただし、伊丹市営バスではICカード乗車券「[[itappy]]」の導入準備による[[運賃箱]]機種更新に伴い[[2007年]][[10月31日]]をもって使用を終了した。 発売額はJR西日本での発売開始当初は3,000円、5,000円の2種類のみであった。1,000円券については、発売開始記念の特別デザインカード(2種)を除き発売されていなかったが、1999年8月11日より常時発売されるようになった。小児用のカードは発行されていなかった。 近鉄が加入する頃から発行されていたJスルーカードには裏面に「J」というマークが印字されている。それ以前のJスルーカードの一部にはこの「J」が印字されていないカードがあり、このカードでは近鉄線を利用できないという仕様があった。 == Jスルー == JR西日本の[[自動改札機]]は、これまで[[日本国有鉄道]](国鉄)時代から引き続き[[京都駅]]烏丸東口と[[片町線]](学研都市線)[[片町駅]] - [[松井山手駅]]間(京橋駅は西口のみ)で導入されていた<ref>[https://web.archive.org/web/19980205234104/www.westjr.co.jp/new/1press/press11.html#1105 自動改札システムの導入について] (Internet Archive) - 西日本旅客鉄道プレスリリース 1996年11月18日</ref>が、[[1997年]][[3月8日]]から'''Jスルー'''として新しい自動改札システムが導入され、同日開業した[[JR東西線]]全駅、片町線(学研都市線)京橋駅 - [[松井山手駅]]間と[[大正駅 (大阪府)|大正駅]]に導入した<ref>[https://web.archive.org/web/19970603155830/www.westjr.co.jp/jrtozai/guide/0g_jframe.html ご利用ガイド JR東西線・学研都市線・大正駅から3月8日スタートです。] (Internet Archive) - 西日本旅客鉄道</ref>。これに引き続き、1998年度はJR京都線・JR神戸線および大阪環状線などの82駅に、1999年度は琵琶湖線および阪和線を中心に138駅に導入する計画で設置が進められた。 導入が遅かっただけあり、Jスルーの自動改札機は当初から[[乗車券]]類の2枚投入(出場のみ)に対応している<ref name="RJ391"/>。当時の関西圏で2枚投入対応機の一斉導入は前例がないため、導入当初は改札機に2枚投入できるキャッチコピーとして「1、2、スルー」でアピールしていた。ただし、初期に導入されたものは乗車券の2枚処理に時間が掛かり、その分客を待たせてしまう事になるため、他社の従来機に比べると全長がやや長めに設計されているという特徴がある。 なお、[[2008年]][[3月15日]]に開業した[[島本駅]]・[[須磨海浜公園駅]]・[[はりま勝原駅]]と[[おおさか東線]]各駅、および同年[[10月18日]]に開業した[[桂川駅 (京都府)|桂川駅]]には岡山・広島地区と同型の機種にJスルーカードを処理する機能を追加した3枚処理が可能な全長が短い自動改札機が設置されている。 == 発売終了 == [[2008年]][[9月15日]]最終列車をもってJスルーカードの発売を終了したが、期日前であっても在庫がなくなった駅から順次発売を終了している。そして[[2009年]][[3月1日]]最終列車をもって[[自動改札機]]と[[自動精算機]]での対応を終了した。なお、近鉄バスや明石市営バスでの利用も同日に終了した。上記の理由が、[[ICOCA]]・[[PiTaPa]]の普及に伴う利用減少および使用済みカードの発生を止める事による環境配慮のためとしている。現在でも、[[自動券売機]]で[[乗車券]]に引き換えることができ無手数料で払い戻しができる<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1173757_799.html Jスルーカードの発売終了について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2008年7月16日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.jp/news/files/Jcard20080716.pdf Jスルーカードの発売終了について]}} - 近畿日本鉄道プレスリリース 2008年7月16日</ref>(近鉄では、2033年1月31日をもって払い戻し対応を終了予定)。 == 導入事業者一覧 == * 導入日はその事業者の路線でJスルーカードが利用可能になった最初の日である。 * 漢字略号は乗車駅の社・局名としてカード裏面に印字される文字である。 * 英字略号は降車駅の社・局名としてカード裏面に印字される文字である。 === 鉄道事業者 === {| class="wikitable" !width="250px"|事業者名!!width="45px"|漢字略号!!width="40px"|英字略号!!導入日!!利用終了日 |- |[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)||JR西||JN||1999年2月26日<sup>※</sup>||2009年3月1日 |- |[[近畿日本鉄道]]||近鉄||KT||2001年10月14日||2009年3月1日 |} * ※ 西日本旅客鉄道(JR西日本) : 簡易改札機設置駅は2002年3月23日に使用開始(Jスルー専用処理機で対応)。 === バス事業者 === {| class="wikitable" !width="250"|事業者名!!印字!!導入日!!利用終了日 |- |[[伊丹市交通局]](伊丹市営バス)||伊市バス||2001年12月15日||2007年10月31日 |- |[[近鉄バス]]||近鉄バス||2002年3月21日||2009年3月1日 |- |[[明石市交通部]](明石市営バス)||明市バス||2002年4月16日||2009年3月1日 |} *各社・局共[[高速バス]]や[[定期観光バス]]では利用できない。 == Jスルーカードが利用できた鉄道・バス路線 == === 西日本旅客鉄道 === *[[東海道本線]]([[琵琶湖線]]・[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]):[[米原駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]] *[[山陽本線]](JR神戸線・[[和田岬線]]):神戸駅 - [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]、[[兵庫駅]] - [[和田岬駅]] *[[北陸本線]]([[琵琶湖線]]):米原駅 - [[長浜駅]] *[[山陰本線]]([[嵯峨野線]]):[[京都駅]] - [[園部駅]] *[[湖西線]]:[[山科駅]] - [[近江舞子駅]]([[近江今津駅]]でも窓口にて精算のみ利用可能) *[[草津線]]:[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - [[貴生川駅]] *[[奈良線]]:全線 *[[関西本線]]([[大和路線]]):[[加茂駅 (京都府)|加茂駅]] - [[JR難波駅]] *[[大阪環状線]]:全線 *[[桜島線]](JRゆめ咲線):全線 *[[JR東西線]]:全線 *[[片町線]](学研都市線):全線 *[[阪和線]]:全線 *[[関西空港線]]:全線 *[[福知山線]](JR宝塚線):[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]] - [[篠山口駅]] *[[和歌山線]]:[[王寺駅]] - [[高田駅 (奈良県)|高田駅]] *[[赤穂線]]:相生駅 - [[播州赤穂駅]] *[[桜井線]]:全線 *[[おおさか東線]]:[[放出駅]] - [[久宝寺駅]] === 近畿日本鉄道 === 概ね[[青山町駅]]以西でのみ使用できた。具体的な利用可能エリアは以下の通り。 *[[近鉄難波線|難波線]]:[[大阪難波駅]] - [[大阪上本町駅]] *[[近鉄大阪線|大阪線]]:大阪上本町駅 - 青山町駅 *[[近鉄信貴線|信貴線]]:[[河内山本駅]] - [[信貴山口駅]] *[[近鉄奈良線|奈良線]]:[[布施駅]] - [[近鉄奈良駅]] *[[近鉄生駒線|生駒線]]:[[生駒駅]] - 王寺駅 *[[近鉄京都線|京都線]]:京都駅 - [[大和西大寺駅]]([[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]では自動精算機と自動券売機のみ利用可能<ref>同駅は管理権が京都市交通局にあるため。</ref>) *[[近鉄橿原線|橿原線]]:[[大和西大寺駅]] - [[橿原神宮前駅]] *[[近鉄天理線|天理線]]:[[平端駅]] - [[天理駅]] *[[近鉄南大阪線|南大阪線]]:[[大阪阿部野橋駅]] - 橿原神宮前駅 *[[近鉄長野線|長野線]]:[[古市駅 (大阪府)|古市駅]] - [[河内長野駅]] *[[近鉄御所線|御所線]]:[[尺土駅]] - [[近鉄御所駅]] *[[近鉄道明寺線|道明寺線]]:[[道明寺駅]] - [[柏原駅 (大阪府)|柏原駅]]([[柏原南口駅]]では自動精算機と自動券売機のみ利用可能) なお、エリア外の一部の駅でもJスルーカードを使用して自動券売機で乗車券の購入が可能であった。 スルッとKANSAIエリアのうち、[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]]はJスルーカードのエリア外であった。一方、道明寺線はスルッとKANSAIのエリア外であった。 === 近鉄バス === *[[近鉄バス]]([[近鉄バス鳥飼営業所|茨木地区]]を除く) === 明石市交通部 === *[[明石市交通部|明石市営バス]] 2012年3月17日をもって、[[神姫バス]]・[[山陽バス]]両社に移管。 === 伊丹市交通局 === *[[伊丹市交通局|伊丹市営バス]](2007年10月31日をもって使用終了) == 歴史 == *[[1997年]]([[平成]]9年)[[3月8日]]:JR東西線・片町線(学研都市線)など一部の駅で「Jスルー」の自動改札システムの使用を開始<ref name="RJ391"/>。Jスルーのエリアは順次拡大。 *[[1999年]](平成11年)[[2月26日]]:ストアードフェアシステムを導入し、Jスルーカードの使用を開始<ref name="RJ391"/>。カードは3000円券・5000円券が発売された<ref name="RJ391"/>。 **[[8月11日]]:1000円券を発売開始<ref>[https://web.archive.org/web/20000708084725/www.westjr.co.jp/kou/press/3press/n990721a.html Jスルーカード1,000円券が8月11日から新登場] (Internet Archive) - 西日本旅客鉄道プレスリリリース 1999年7月21日</ref>。 *[[2001年]](平成13年)[[10月14日]]:近鉄と[[伊丹市交通局|伊丹市営バス]]でJスルーカードを導入。 *[[2002年]](平成14年):[[明石市交通部|明石市営バス]]・[[近鉄バス]]でJスルーカードを導入。 *[[2007年]][[10月31日]]:伊丹市営バスでJスルーカードの利用を終了。 *[[2008年]][[9月15日]]:JR西日本と近鉄でJスルーカードの発売を終了。 *[[2009年]][[3月1日]]:近鉄バス・明石市営バスでのJスルーカードの利用を終了。JR西日本・近鉄では、自動改札機・自動精算機での利用を終了。 *[[2023年]][[1月31日]]:近鉄での自動券売機での利用を終了。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オレンジカード]] * [[イオカード]] - [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の磁気式乗車カード * [[ワイワイカード]] - [[九州旅客鉄道]](JR九州)の磁気式乗車カード * [[スルッとKANSAI]] * [[ICOCA]] == 外部リンク == * [https://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/jthrough/ Jスルーカード利用終了について] - 西日本旅客鉄道 * [https://www.kintetsu.co.jp/senden/Railway/J_card/end.html Jスルーカードの終了について] - 近畿日本鉄道 {{JR西日本}} {{デフォルトソート:しええするうかあと}} [[Category:乗車カード]] [[Category:廃止されたプリペイドカード]] [[Category:西日本旅客鉄道の商品]] [[Category:近鉄グループの歴史]]
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欠史十代
欠史十代(けっしじゅうだい)は、『古事記』において、系譜のみが記され、その事績がほとんど記されていない第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までの10人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。かつては闕史十代、または缺史十代とも書いた。 欠史八代が記紀双方に事績(旧辞)を欠くのに対し、欠史十代は『古事記』に系譜(帝紀)のみが記され、継体天皇の段で磐井の乱平定の簡潔な記述があるのを除いて事績がない。正史とされる『日本書紀』にはこれらの天皇の事績が記されている。 この10人の天皇は『古事記』に記される天皇の最後の10人にあたり、推古に仕えた厩戸皇子についても系譜のみしか見られない。 この差異については様々な説が論じられているが、いまだに統一を見ていない。
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欠史十代(けっしじゅうだい)は、『古事記』において、系譜のみが記され、その事績がほとんど記されていない第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までの10人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。かつては闕史十代、または缺史十代とも書いた。 仁賢天皇 武烈天皇 継体天皇 安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 敏達天皇 用明天皇 崇峻天皇 推古天皇 欠史八代が記紀双方に事績(旧辞)を欠くのに対し、欠史十代は『古事記』に系譜(帝紀)のみが記され、継体天皇の段で磐井の乱平定の簡潔な記述があるのを除いて事績がない。正史とされる『日本書紀』にはこれらの天皇の事績が記されている。 この10人の天皇は『古事記』に記される天皇の最後の10人にあたり、推古に仕えた厩戸皇子についても系譜のみしか見られない。 この差異については様々な説が論じられているが、いまだに統一を見ていない。
'''欠史十代'''(けっしじゅうだい)は、『[[古事記]]』において、[[系譜]]のみが記され、その事績がほとんど記されていない第24代[[仁賢天皇]]から第33代[[推古天皇]]までの10人の[[天皇]]のこと、あるいはその時代を指す。かつては'''闕史十代'''、または'''缺史十代'''とも書いた。 #<li value = 24> [[仁賢天皇]] # [[武烈天皇]] # [[継体天皇]] # [[安閑天皇]] # [[宣化天皇]] # [[欽明天皇]] # [[敏達天皇]] # [[用明天皇]] # [[崇峻天皇]] # [[推古天皇]] [[欠史八代]]が記紀双方に事績([[旧辞]])を欠くのに対し、欠史十代は『古事記』に系譜([[帝紀]])のみが記され、継体天皇の段で[[磐井の乱]]平定の簡潔な記述があるのを除いて事績がない。[[正史]]とされる『[[日本書紀]]』にはこれらの天皇の事績が記されている。 この10人の天皇は『古事記』に記される天皇の最後の10人にあたり、推古に仕えた[[聖徳太子|厩戸皇子]]についても系譜のみしか見られない。 この差異については様々な説が論じられているが、いまだに統一を見ていない<ref>記紀の成立背景が異なることや、古事記の[[偽書]]説、日本書紀においては[[天武天皇|天武]]・近代の記述に改竄を疑う不自然な点があることなどから、説を展開しているものが多い。</ref>。 == 注釈 == <references /> {{デフォルトソート:けつししゆうたい}} [[Category:古墳時代以前の天皇|*けつししゆうたい]] [[Category:飛鳥時代の天皇|*けつししゆうたい]] [[Category:日本の名数10]]
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バス共通カード
バス共通カード(バスきょうつうカード)は、関東地方の東京都と神奈川・埼玉・千葉の首都圏1都3県を中心に、路線バス事業者と都電で共通利用が可能だった磁気式乗車カード(プリペイドカード)。制度上は回数乗車券の位置付けである。利用可能地域は段階的に拡大され、主な取扱地域からバス路線が乗り入れる茨城・群馬両県一部事業者、及び中部地方の静岡・山梨両県の一部地域にも利用可能路線となった。 非接触式ICカード乗車券PASMOのサービス開始と普及に伴い、2010年10月31日をもって乗車券としての利用が終了、2015年10月31日までに払い戻し対応も終了した。 カードの券面には「バス〈共通〉カード」と表記される。バス事業者によっても呼称が多少異なり「バス共通カード」とする例が多いが、「バスカード」や「共通カード」とする例もあった。また利用者は「バスカード」と略する場合が多かった。カードの発行条件や規格などは「バス共通カード規格管理委員会」が管理していた。 バス共通カードには、1,000円(利用額1,100円)・3,000円(利用額3,360円)・5,000円(利用額5,850円)の3種類のカードがある。過去に発売されていたパスネットやオレンジカードなどとは違い、購入額以上の利用額(プレミアム)が付加されている上、複数の社局で利用できるのが特徴である。 標準デザインは、1,000円券が桃色、3,000円券が青色、5,000円が黄色。カードの左上に「バス〈共通〉カード」の文字、その下にシンボルマーク、その下に「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のあるバス・都電にご利用いただけます」の文言がある。中央には青空にかかる虹のイラストが大きく描かれ、右上にはプレミアム付きの金額数字(1100,3360,5850)、右下には「(回数乗車券)」の文字と、カードを発行したバス事業者名が書かれている。 標準デザイン以外にも、各事業者ごとにさまざまな記念カードやデザインカードが発行され、当時のバスファンなどにより、趣味としてのコレクションの対象にもなっていた。 2001年度からは500円券(利用額は同額)も登場しているが、こちらは原則として一般に販売せず、景品や贈答品用の受注品扱いとなっている。 首都圏の乗合バスにおける乗車券共通化の流れは、1984年(昭和59年)10月1日に発売が開始された「東京都区内バス共通回数乗車券」に始まる。東京23区と多摩東部4市(武蔵野市・三鷹市・調布市・狛江市)からなる東京都区内均一運賃地区で事業を行う東京都交通局(都営バス)など10社局が参加し、後に川崎市の6社局、横浜市では8社局が参加して同じ規格の共通回数券を発売したが、東京都・川崎市・横浜市それぞれの共通回数券の間に互換性はなかった。 1988年(昭和63年)、神奈川中央交通(以降、神奈中とする)が多区間運賃制の路線バスとして日本初のバスカードである「神奈中バスカード」の導入を開始、1990年(平成2年)3月までに一般路線バス全車両(約2,000台)への導入を完了した。 このカード自体は現在のバス共通カードとはシステム上の関連がないが、発売額に上乗せされたプレミアム(1000円券で100円、3000円券で360円、5000円券で850円)は、バス共通カードや、後のPASMO・Suicaにおける「バス特典利用サービス」に引き継がれた。(現在も発売されている紙券の「神奈中回数券」も同額)。 このバスカードを導入した神奈中の営業エリアは、神奈川県央を中心に東京都南多摩地域まで広域に及ぶものの、エリアのほとんどは神奈中の独占地域であったため、比較的早くに神奈中バスカードが普及した。一方で横浜市内や湘南地区では、横浜市営バス・江ノ島電鉄など他社局との共管路線や競合路線も多く存在しており、当然ながら「神奈中バスカード」はそれら他社局の運行便・路線では使用ができなかった。 その後、1992年(平成4年)3月には、上述の神奈中バスカードとは別に、神奈川中央交通・横浜市営バス・川崎市バス・江ノ島電鉄の4社局が運行する横浜市・川崎市内の均一運賃路線限定で、「バス共通カード」及び「マリンカード」(横浜市交通局発行。市営地下鉄・バス共通乗車券)が初めて導入され、共通利用が図られた。導入車両には青色の「共通カード取扱車」ステッカーが貼り付けられた。 これがバス共通カードおよびマリンカードの始まりとなるが、あくまで均一運賃区間用のものであり、また神奈中バスカードとはシステムが異なっていたことから、共通利用は行われず、横浜市・川崎市内であっても神奈中・横浜市営・江ノ電に存在する多区間運賃路線では利用不可であった。 なお、この4社局以外の後に導入した社局ではマリンカードは使用できず、ステッカーも緑色の「バス共通カード取扱車」となっている。 1994年(平成6年)10月になると、それまで単独導入していた東京都交通局の都営バス・都電荒川線(「Tカード」を発売)や京浜急行バスを始め、東京都区内均一運賃区間の各社局路線へも「バス共通カード」が導入され、東京都区内バス共通回数券の発売は終了した。ただしこの時点でも、東京多摩地域での多区間運賃路線ではバス共通カードの利用不可であった。 多区間運賃区間でバス共通カードの利用が可能になるのは、さらにしばらく経ってからのこととなる。 その後、東京都多摩地域や横浜・川崎以外の神奈川県内の多区間運賃路線、また埼玉・千葉の両県にも順次バス共通カードが導入され、共通化されていった。この他に、1都3県のバス共通カード取扱地域から路線が乗り入れる事業者でも利用可能であった。朝日自動車など、茨城・群馬県は一部路線で、静岡・山梨両県では、ごく一部利用可能であった。 しかし、2007年(平成19年)3月18日にPASMOの発売を開始すると、バス共通カードの利用者は段階的にPASMOに移行されたため、川崎市交通局を除く各事業者は2010年(平成22年)3月 - 4月で販売を終了し、同年7月末で利用を終了。首都圏各社局のバス共通カードは、短命に終わった。 なお、川崎市バスのみ終了スケジュールが異なり、2010年6月末で販売を終了し、同年10月31日をもって利用終了となった。これにより、2010年11月1日以降は、全加入事業者で払い戻しのみの対応となった。 バス共通カードを使用できるのは、下記のバス事業者で車両の乗車口付近に「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)と「共通カード取扱車」(青色のステッカー)の表示のあるバス・都電であり、カードの表面左下(記念カードは記載なし)と裏面上部には「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のあるバス・都電にご利用いただけます。」と記載されている。また、2007年3月18日からのPASMO導入に伴い導入事業者は順次「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」(桃色のステッカー、但し車両前面は「PASMO」)というステッカーに張り替えられているが、その場合でも緑・青色のステッカー表示と同様に利用できる。 また、青色のステッカーのバスでは横浜市交通局が発行しているマリンカードが使用できるため表示が異なっているが、バス共通カードも使用可能。ただしピンクのステッカーの表示があるバスの中にはバス共通カードの表記がないものがあるため(バス共通カードを導入せずにPASMOのみを導入している事業者のバス)、乗車の際は注意が必要である。 バス事業者によっては、一部のコミュニティバスなどにカード設備を搭載しておらず、取り扱い表示がなく利用できない路線もあった。 電車で利用できるパスネットと違い、小児の利用や複数人で1枚のカードを直接利用が可能である。これ以外にも割引運賃の適用などで大人1人分ではない運賃を支払う場合はカードを通す前に乗務員に申告する必要がある。 また、残額が支払うべき運賃に満たない場合は別のカードか現金で精算する必要がある。但しパスネットとは違い2枚同時に投入はできない。カードの残額が不足している場合は運賃箱からカードの残額が足りない旨の表示がされ、カードは乗務員が操作しないと、排出されない。 前払い式(均一料金〈路線により対キロ制〉)の場合は、乗車時に乗車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。 路線によっては、区間によって料金が異なり、乗車時に降車停留所を申告する方式があるが、この場合はカードを通す前に降車停留所を申告する必要があり、申告がないと本来支払うべき運賃が差し引かれなかったり、乗務員がカードの挿入を止める場合がある。また、本来は後払い用のバスを前払いとして使う場合には、降車用のカード投入口にカードを通す場合がある。 路線や停留所によっては、カードリーダ・ライタを停留所にいる係員が持ち、このカードリーダ・ライタに通してから、バスに乗る方式を採用している事例もあった。 後払い式(対キロ制)の場合は、乗車時と降車時に乗・降車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。但し、事業者によっては取り扱い方法が異なり、起点から次の運賃区界の手前においては乗車時のカード挿入が省略可能のところもあった。 乗車時にカードをリーダ・ライタに通すのは乗車停留所がどこかを記録するためのものである。従って、リーダ・ライタに通さない場合は、始発停留所から乗車したとみなされる場合がある。但し、(1)乗車時にカードが見つからない場合、(2)車内でカードを購入、(3)乗車用カードリーダ・ライタの読み取り不良、などもあるため、乗客の降車時に乗務員が運賃支払機により乗車位置の設定が可能であった。そのため、事業者や乗務員によって対応が若干異なるものの、上記のケースの場合などやむを得ない場合に限り乗車時に整理券を取れば実質的な問題はほとんどない。 バス共通カードは、発行事業者の営業所・案内所、バス・都電車内や委託契約した店舗・コンビニエンスストア・駅売店などでの有人対面発売による方法や、事業者によっては、テレホンカードの自動販売機の中にバス共通カードも取り扱うといった、無人機械発売による購入方法が一般的であった。場合によっては、主要バス停において、臨時にバス案内兼販売者が立ち歩きながら発売していたり、コミックマーケットなどの大規模行事開催時(主に記念カードの発売が多い)や、金券ショップでの購入も可能であった。他に、記念カード発売の折に、事業者によっては通信販売の形式をとって購入する方法もあった。 2007年3月18日、バス共通カード事業者で非接触式ICカード乗車券「PASMO」のサービスが開始された。これは関東地方の主な私鉄や地下鉄で利用できるストアードフェアシステムであるパスネットの事業者と共同で導入され、東日本旅客鉄道(JR東日本)などが発行するSuicaと相互利用できるものである。 このPASMOの導入に伴い、今後のバス共通カードの取り扱いについてはPASMOの普及状況を見ながら検討される予定にはなっているものの、既にコンビニエンスストアのサンクスではPASMO導入開始と同時に新規発注ができなくなっており、今後販路は次第に縮小するものと見られた。しかし、バス共通カードは回数券であるため販売額以上の利用額がある点がパスネットとは異なり、PASMOでもバス利用特典サービス(バス特)を採用し、バス共通カードに近い金額分バスを利用できるようにしようとしている事業者が多いものの、バス共通カードと異なり実際にバスで利用した金額に応じて、バスポイントが還元される上(バス共通カードのように、あらかじめ特典額が付与される訳ではない)、バスポイントは1ヶ月単位で計算され、未還元のバスポイントは翌月への繰越ができないため、その月のバス利用額が最初の還元が行われる1,000円に満たない利用者は、全く還元を受けられないほか、月間のバスへの支払い金額の下4桁が、ちょうど5,000円、6,000円、7,000円、8,000円、9,000円または10,000円でない限りは、バス共通カードの方が得するため、雨天時のみなど乗車機会の少ない利用者を中心にバス共通カードの需要が根強く残っており、パスネットほど急速には利用が減っていない点から、PASMO導入からしばらくの間は、バス共通カードのサービス廃止に踏み切る事業者は少なかった。 しかしながら、バス共通カードよりも、PASMO・Suicaでのバス利用者が増加した点に加え、バス共通カードにおけるカードリーダーの保守費用の問題から、東京都交通局他20の各社(グループ)・局では、PASMO普及に対するバス共通カードの取り扱いについて見直し、2010年3月31日に発売を終了、同年7月31日に利用を終了する旨が発表された。このうち、東武バスグループ・朝日自動車グループは4月10日に発売を終了、箱根登山バスは3月5日、国際興業バスと京王電鉄バスグループ・相鉄ホールディングスは3月15日にそれぞれ先行して発売を終了。なお、川崎市交通局の終了時期については前述の各社・局とは異なり、2010年6月30日発売終了、同年10月31日利用終了であった。 なお、利用終了時点で残高を有するカードについては、カードを発行した各社・局において利用終了日の翌日より5年間に限り、運送約款にもとづいた無手数料による払戻の受付が行われ、川崎市バス以外は2015年7月31日、川崎市バスは2015年10月31日をもって、それぞれ払い戻し期間が終了した。この際の払戻額は回数乗車券の払戻額算定基準が適用され、「券面表示の運賃額(発売額)×残券片表示金額(払戻時の利用可能額)÷総券片表示金額(発売時の利用可能額)」として計算されていた。また、パスネット終了時に一部の事業者で行われたようなカード残高のPASMO等への移行は行われなかった。 凡例(インデントの状況は下記の状態を示す) 末尾に*がある社・局(5社・局)は「共通カード取扱車」(青色のステッカー、マリンカードも使える)を、ない社局は「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)を貼付している事業者を示す。また、PASMO導入済みの事業者(先述のステッカーに替わり「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」〈ピンク色のステッカー〉に変更)については、★がある社・局では全車両にてそれぞれ走らせていた事業者を示す。例外については後述。 ※福島県の新常磐交通では、緑地に上記とほぼ同じデザインの「バスカード取扱車」と書かれたステッカーが貼ってあるが、当カードとは一切関係がない。 2010年7月31日まで、一部に既存のステッカーを継続貼付した上で「PASMO Suica ご利用いただけます」もしくは「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」(乗車口付近)/「PASMO」(車両前面)のステッカーを追加貼付している事業者も存在していた。 カード裏面の丸の中にアルファベットで示されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "バス共通カード(バスきょうつうカード)は、関東地方の東京都と神奈川・埼玉・千葉の首都圏1都3県を中心に、路線バス事業者と都電で共通利用が可能だった磁気式乗車カード(プリペイドカード)。制度上は回数乗車券の位置付けである。利用可能地域は段階的に拡大され、主な取扱地域からバス路線が乗り入れる茨城・群馬両県一部事業者、及び中部地方の静岡・山梨両県の一部地域にも利用可能路線となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "非接触式ICカード乗車券PASMOのサービス開始と普及に伴い、2010年10月31日をもって乗車券としての利用が終了、2015年10月31日までに払い戻し対応も終了した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "カードの券面には「バス〈共通〉カード」と表記される。バス事業者によっても呼称が多少異なり「バス共通カード」とする例が多いが、「バスカード」や「共通カード」とする例もあった。また利用者は「バスカード」と略する場合が多かった。カードの発行条件や規格などは「バス共通カード規格管理委員会」が管理していた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "バス共通カードには、1,000円(利用額1,100円)・3,000円(利用額3,360円)・5,000円(利用額5,850円)の3種類のカードがある。過去に発売されていたパスネットやオレンジカードなどとは違い、購入額以上の利用額(プレミアム)が付加されている上、複数の社局で利用できるのが特徴である。", "title": "発行券種" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "標準デザインは、1,000円券が桃色、3,000円券が青色、5,000円が黄色。カードの左上に「バス〈共通〉カード」の文字、その下にシンボルマーク、その下に「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のあるバス・都電にご利用いただけます」の文言がある。中央には青空にかかる虹のイラストが大きく描かれ、右上にはプレミアム付きの金額数字(1100,3360,5850)、右下には「(回数乗車券)」の文字と、カードを発行したバス事業者名が書かれている。", "title": "発行券種" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "標準デザイン以外にも、各事業者ごとにさまざまな記念カードやデザインカードが発行され、当時のバスファンなどにより、趣味としてのコレクションの対象にもなっていた。", "title": "発行券種" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2001年度からは500円券(利用額は同額)も登場しているが、こちらは原則として一般に販売せず、景品や贈答品用の受注品扱いとなっている。", "title": "発行券種" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "首都圏の乗合バスにおける乗車券共通化の流れは、1984年(昭和59年)10月1日に発売が開始された「東京都区内バス共通回数乗車券」に始まる。東京23区と多摩東部4市(武蔵野市・三鷹市・調布市・狛江市)からなる東京都区内均一運賃地区で事業を行う東京都交通局(都営バス)など10社局が参加し、後に川崎市の6社局、横浜市では8社局が参加して同じ規格の共通回数券を発売したが、東京都・川崎市・横浜市それぞれの共通回数券の間に互換性はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)、神奈川中央交通(以降、神奈中とする)が多区間運賃制の路線バスとして日本初のバスカードである「神奈中バスカード」の導入を開始、1990年(平成2年)3月までに一般路線バス全車両(約2,000台)への導入を完了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このカード自体は現在のバス共通カードとはシステム上の関連がないが、発売額に上乗せされたプレミアム(1000円券で100円、3000円券で360円、5000円券で850円)は、バス共通カードや、後のPASMO・Suicaにおける「バス特典利用サービス」に引き継がれた。(現在も発売されている紙券の「神奈中回数券」も同額)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "このバスカードを導入した神奈中の営業エリアは、神奈川県央を中心に東京都南多摩地域まで広域に及ぶものの、エリアのほとんどは神奈中の独占地域であったため、比較的早くに神奈中バスカードが普及した。一方で横浜市内や湘南地区では、横浜市営バス・江ノ島電鉄など他社局との共管路線や競合路線も多く存在しており、当然ながら「神奈中バスカード」はそれら他社局の運行便・路線では使用ができなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、1992年(平成4年)3月には、上述の神奈中バスカードとは別に、神奈川中央交通・横浜市営バス・川崎市バス・江ノ島電鉄の4社局が運行する横浜市・川崎市内の均一運賃路線限定で、「バス共通カード」及び「マリンカード」(横浜市交通局発行。市営地下鉄・バス共通乗車券)が初めて導入され、共通利用が図られた。導入車両には青色の「共通カード取扱車」ステッカーが貼り付けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これがバス共通カードおよびマリンカードの始まりとなるが、あくまで均一運賃区間用のものであり、また神奈中バスカードとはシステムが異なっていたことから、共通利用は行われず、横浜市・川崎市内であっても神奈中・横浜市営・江ノ電に存在する多区間運賃路線では利用不可であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "なお、この4社局以外の後に導入した社局ではマリンカードは使用できず、ステッカーも緑色の「バス共通カード取扱車」となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)10月になると、それまで単独導入していた東京都交通局の都営バス・都電荒川線(「Tカード」を発売)や京浜急行バスを始め、東京都区内均一運賃区間の各社局路線へも「バス共通カード」が導入され、東京都区内バス共通回数券の発売は終了した。ただしこの時点でも、東京多摩地域での多区間運賃路線ではバス共通カードの利用不可であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多区間運賃区間でバス共通カードの利用が可能になるのは、さらにしばらく経ってからのこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後、東京都多摩地域や横浜・川崎以外の神奈川県内の多区間運賃路線、また埼玉・千葉の両県にも順次バス共通カードが導入され、共通化されていった。この他に、1都3県のバス共通カード取扱地域から路線が乗り入れる事業者でも利用可能であった。朝日自動車など、茨城・群馬県は一部路線で、静岡・山梨両県では、ごく一部利用可能であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、2007年(平成19年)3月18日にPASMOの発売を開始すると、バス共通カードの利用者は段階的にPASMOに移行されたため、川崎市交通局を除く各事業者は2010年(平成22年)3月 - 4月で販売を終了し、同年7月末で利用を終了。首都圏各社局のバス共通カードは、短命に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお、川崎市バスのみ終了スケジュールが異なり、2010年6月末で販売を終了し、同年10月31日をもって利用終了となった。これにより、2010年11月1日以降は、全加入事業者で払い戻しのみの対応となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "バス共通カードを使用できるのは、下記のバス事業者で車両の乗車口付近に「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)と「共通カード取扱車」(青色のステッカー)の表示のあるバス・都電であり、カードの表面左下(記念カードは記載なし)と裏面上部には「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のあるバス・都電にご利用いただけます。」と記載されている。また、2007年3月18日からのPASMO導入に伴い導入事業者は順次「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」(桃色のステッカー、但し車両前面は「PASMO」)というステッカーに張り替えられているが、その場合でも緑・青色のステッカー表示と同様に利用できる。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、青色のステッカーのバスでは横浜市交通局が発行しているマリンカードが使用できるため表示が異なっているが、バス共通カードも使用可能。ただしピンクのステッカーの表示があるバスの中にはバス共通カードの表記がないものがあるため(バス共通カードを導入せずにPASMOのみを導入している事業者のバス)、乗車の際は注意が必要である。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バス事業者によっては、一部のコミュニティバスなどにカード設備を搭載しておらず、取り扱い表示がなく利用できない路線もあった。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "電車で利用できるパスネットと違い、小児の利用や複数人で1枚のカードを直接利用が可能である。これ以外にも割引運賃の適用などで大人1人分ではない運賃を支払う場合はカードを通す前に乗務員に申告する必要がある。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、残額が支払うべき運賃に満たない場合は別のカードか現金で精算する必要がある。但しパスネットとは違い2枚同時に投入はできない。カードの残額が不足している場合は運賃箱からカードの残額が足りない旨の表示がされ、カードは乗務員が操作しないと、排出されない。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "前払い式(均一料金〈路線により対キロ制〉)の場合は、乗車時に乗車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "路線によっては、区間によって料金が異なり、乗車時に降車停留所を申告する方式があるが、この場合はカードを通す前に降車停留所を申告する必要があり、申告がないと本来支払うべき運賃が差し引かれなかったり、乗務員がカードの挿入を止める場合がある。また、本来は後払い用のバスを前払いとして使う場合には、降車用のカード投入口にカードを通す場合がある。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "路線や停留所によっては、カードリーダ・ライタを停留所にいる係員が持ち、このカードリーダ・ライタに通してから、バスに乗る方式を採用している事例もあった。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "後払い式(対キロ制)の場合は、乗車時と降車時に乗・降車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。但し、事業者によっては取り扱い方法が異なり、起点から次の運賃区界の手前においては乗車時のカード挿入が省略可能のところもあった。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "乗車時にカードをリーダ・ライタに通すのは乗車停留所がどこかを記録するためのものである。従って、リーダ・ライタに通さない場合は、始発停留所から乗車したとみなされる場合がある。但し、(1)乗車時にカードが見つからない場合、(2)車内でカードを購入、(3)乗車用カードリーダ・ライタの読み取り不良、などもあるため、乗客の降車時に乗務員が運賃支払機により乗車位置の設定が可能であった。そのため、事業者や乗務員によって対応が若干異なるものの、上記のケースの場合などやむを得ない場合に限り乗車時に整理券を取れば実質的な問題はほとんどない。", "title": "利用方法など" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "バス共通カードは、発行事業者の営業所・案内所、バス・都電車内や委託契約した店舗・コンビニエンスストア・駅売店などでの有人対面発売による方法や、事業者によっては、テレホンカードの自動販売機の中にバス共通カードも取り扱うといった、無人機械発売による購入方法が一般的であった。場合によっては、主要バス停において、臨時にバス案内兼販売者が立ち歩きながら発売していたり、コミックマーケットなどの大規模行事開催時(主に記念カードの発売が多い)や、金券ショップでの購入も可能であった。他に、記念カード発売の折に、事業者によっては通信販売の形式をとって購入する方法もあった。", "title": "購入方法" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2007年3月18日、バス共通カード事業者で非接触式ICカード乗車券「PASMO」のサービスが開始された。これは関東地方の主な私鉄や地下鉄で利用できるストアードフェアシステムであるパスネットの事業者と共同で導入され、東日本旅客鉄道(JR東日本)などが発行するSuicaと相互利用できるものである。", "title": "PASMO導入後の動向" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "このPASMOの導入に伴い、今後のバス共通カードの取り扱いについてはPASMOの普及状況を見ながら検討される予定にはなっているものの、既にコンビニエンスストアのサンクスではPASMO導入開始と同時に新規発注ができなくなっており、今後販路は次第に縮小するものと見られた。しかし、バス共通カードは回数券であるため販売額以上の利用額がある点がパスネットとは異なり、PASMOでもバス利用特典サービス(バス特)を採用し、バス共通カードに近い金額分バスを利用できるようにしようとしている事業者が多いものの、バス共通カードと異なり実際にバスで利用した金額に応じて、バスポイントが還元される上(バス共通カードのように、あらかじめ特典額が付与される訳ではない)、バスポイントは1ヶ月単位で計算され、未還元のバスポイントは翌月への繰越ができないため、その月のバス利用額が最初の還元が行われる1,000円に満たない利用者は、全く還元を受けられないほか、月間のバスへの支払い金額の下4桁が、ちょうど5,000円、6,000円、7,000円、8,000円、9,000円または10,000円でない限りは、バス共通カードの方が得するため、雨天時のみなど乗車機会の少ない利用者を中心にバス共通カードの需要が根強く残っており、パスネットほど急速には利用が減っていない点から、PASMO導入からしばらくの間は、バス共通カードのサービス廃止に踏み切る事業者は少なかった。", "title": "PASMO導入後の動向" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかしながら、バス共通カードよりも、PASMO・Suicaでのバス利用者が増加した点に加え、バス共通カードにおけるカードリーダーの保守費用の問題から、東京都交通局他20の各社(グループ)・局では、PASMO普及に対するバス共通カードの取り扱いについて見直し、2010年3月31日に発売を終了、同年7月31日に利用を終了する旨が発表された。このうち、東武バスグループ・朝日自動車グループは4月10日に発売を終了、箱根登山バスは3月5日、国際興業バスと京王電鉄バスグループ・相鉄ホールディングスは3月15日にそれぞれ先行して発売を終了。なお、川崎市交通局の終了時期については前述の各社・局とは異なり、2010年6月30日発売終了、同年10月31日利用終了であった。", "title": "PASMO導入後の動向" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なお、利用終了時点で残高を有するカードについては、カードを発行した各社・局において利用終了日の翌日より5年間に限り、運送約款にもとづいた無手数料による払戻の受付が行われ、川崎市バス以外は2015年7月31日、川崎市バスは2015年10月31日をもって、それぞれ払い戻し期間が終了した。この際の払戻額は回数乗車券の払戻額算定基準が適用され、「券面表示の運賃額(発売額)×残券片表示金額(払戻時の利用可能額)÷総券片表示金額(発売時の利用可能額)」として計算されていた。また、パスネット終了時に一部の事業者で行われたようなカード残高のPASMO等への移行は行われなかった。", "title": "PASMO導入後の動向" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "凡例(インデントの状況は下記の状態を示す)", "title": "利用可能であったバス事業者" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "末尾に*がある社・局(5社・局)は「共通カード取扱車」(青色のステッカー、マリンカードも使える)を、ない社局は「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)を貼付している事業者を示す。また、PASMO導入済みの事業者(先述のステッカーに替わり「PASMO Suica バス共通カード 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バス共通カード(バスきょうつうカード)は、関東地方の東京都と神奈川・埼玉・千葉の首都圏1都3県を中心に、路線バス事業者と都電で共通利用が可能だった磁気式乗車カード(プリペイドカード)。制度上は回数乗車券の位置付けである。利用可能地域は段階的に拡大され、主な取扱地域からバス路線が乗り入れる茨城・群馬両県一部事業者、及び中部地方の静岡・山梨両県の一部地域にも利用可能路線となった。 非接触式ICカード乗車券PASMOのサービス開始と普及に伴い、2010年10月31日をもって乗車券としての利用が終了、2015年10月31日までに払い戻し対応も終了した。 カードの券面には「バス〈共通〉カード」と表記される。バス事業者によっても呼称が多少異なり「バス共通カード」とする例が多いが、「バスカード」や「共通カード」とする例もあった。また利用者は「バスカード」と略する場合が多かった。カードの発行条件や規格などは「バス共通カード規格管理委員会」が管理していた。
{{混同|x1=他の|共通バスカード}} '''バス共通カード'''(バスきょうつうカード)は、[[関東地方]]の[[東京都]]と[[神奈川県|神奈川]]・[[埼玉県|埼玉]]・[[千葉県|千葉]]の[[首都圏 (日本)|首都圏]]1都3県を中心に、[[路線バス]]事業者と[[東京都電車|都電]]で[[共通乗車制度|共通利用]]が可能だった磁気式[[乗車カード]]([[プリペイドカード]])。制度上は[[回数乗車券]]の位置付けである。利用可能地域は段階的に拡大され、主な取扱地域からバス路線が乗り入れる[[茨城県|茨城]]・[[群馬県|群馬]]両県一部事業者、及び[[中部地方]]の[[静岡県|静岡]]・[[山梨県|山梨]]両県の一部地域にも利用可能路線となった。 非接触式ICカード乗車券[[PASMO]]のサービス開始と普及に伴い、2010年10月31日をもって乗車券としての利用が終了、2015年10月31日までに払い戻し対応も終了した。 カードの券面には'''「バス〈共通〉カード」'''と表記される。バス事業者によっても呼称が多少異なり「バス共通カード」とする例が多いが、「バスカード」や「共通カード」とする例もあった。また利用者は「バスカード」と略する場合が多かった。カードの発行条件や規格などは「バス共通カード規格管理委員会」が管理していた。 == 発行券種 == バス共通カードには、1,000円(利用額1,100円)・3,000円(利用額3,360円)・5,000円(利用額5,850円)の3種類のカードがある。過去に発売されていた[[パスネット]]や[[オレンジカード]]などとは違い、購入額以上の利用額([[プレミアム]])が付加されている上、複数の社局で利用できるのが特徴である。 標準デザインは、1,000円券が桃色、3,000円券が青色、5,000円が黄色。カードの左上に「バス〈共通〉カード」の文字、その下にシンボルマーク、その下に「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のある[[バス (交通機関)|バス]]・都電にご利用いただけます」の文言がある。中央には[[空|青空]]にかかる[[虹]]の[[イラスト]]が大きく描かれ、右上にはプレミアム付きの金額数字(1100,3360,5850)、右下には「(回数乗車券)」の文字と、カードを発行したバス事業者名が書かれている。 標準デザイン以外にも、各事業者ごとにさまざまな記念カードやデザインカードが発行され、当時の[[バスファン]]などにより、[[趣味]]としての[[コレクション]]の対象にもなっていた。 [[2001年]]度からは500円券(利用額は同額)も登場しているが、こちらは原則として一般に販売せず、景品や[[贈答品]]用の受注品扱いとなっている。 == 歴史 == === 共通回数券の時代 === 首都圏の乗合バスにおける乗車券共通化の流れは、[[1984年]](昭和59年)10月1日に発売が開始された「'''東京都区内バス共通回数乗車券'''」に始まる。[[東京23区]]と多摩東部4市([[武蔵野市]]・[[三鷹市]]・[[調布市]]・[[狛江市]])からなる東京都区内均一運賃地区で事業を行う[[東京都交通局]]([[都営バス]])など10社局が参加し、後に[[川崎市]]の6社局、[[横浜市]]では8社局が参加して同じ規格の共通回数券を発売したが、東京都・川崎市・横浜市それぞれの共通回数券の間に互換性はなかった。{{see also|回数乗車券#バス}} === 神奈中バスカード === [[1988年]](昭和63年)、[[神奈川中央交通]](以降、神奈中とする)が多区間運賃制の路線バスとして日本初のバスカードである「[[神奈川中央交通#神奈中バスカード|神奈中バスカード]]」<ref group="注釈">導入当初は車両の前面右下に「バスカード取扱車」の板が装着されていた。他の回数券などと同様に、従来通り神奈中の共通カード取扱車での利用が可能であった。</ref>の導入を開始、[[1990年]](平成2年)3月までに一般路線バス全車両(約2,000台)への導入を完了した。{{main|神奈川中央交通#多区間運賃制路線では日本初のバスカード導入}} このカード自体は現在のバス共通カードとはシステム上の関連がないが、発売額に上乗せされた[[プレミアム]](1000円券で100円、3000円券で360円、5000円券で850円)は、バス共通カードや、後のPASMO・Suicaにおける「バス特典利用サービス」に引き継がれた。(現在も発売されている紙券の「神奈中回数券」も同額)。{{main|PASMO#バス利用特典サービス}} このバスカードを導入した神奈中の営業エリアは、神奈川[[県央地域|県央]]を中心に東京都南[[多摩地域]]まで広域に及ぶものの、エリアのほとんどは神奈中の独占地域であったため、比較的早くに神奈中バスカードが普及した。一方で横浜市内や湘南地区では、横浜市営バス・江ノ島電鉄など他社局との[[共同運行|共管路線]]や競合路線も多く存在しており、当然ながら「神奈中バスカード」はそれら他社局の運行便・路線では使用ができなかった。 === 共通化の端緒 === [[ファイル:Kyoutuucardlabel.JPG|thumb|220px|青色の「共通カード取扱車」ステッカー。横浜市・川崎市内の均一運賃区間のバス共通カード・マリンカード取扱車]] その後、[[1992年]](平成4年)3月には、上述の神奈中バスカードとは別に、神奈川中央交通・[[横浜市営バス]]・[[川崎市バス]]・[[江ノ島電鉄]]の4社局が運行する横浜市・川崎市内の均一運賃路線限定で、「'''バス共通カード'''」及び「[[マリンカード]]」([[横浜市交通局]]発行。[[横浜市営地下鉄|市営地下鉄]]・バス共通乗車券)が初めて導入され、共通利用が図られた。導入車両には青色の「共通カード取扱車」ステッカーが貼り付けられた。 これがバス共通カードおよびマリンカードの始まりとなるが、あくまで均一運賃区間用のものであり、また神奈中バスカードとはシステムが異なっていたことから、共通利用は行われず、横浜市・川崎市内であっても神奈中・横浜市営・江ノ電に存在する多区間運賃路線では利用不可であった。 なお、この4社局以外の後に導入した社局ではマリンカードは使用できず、ステッカーも緑色の「バス共通カード取扱車」となっている。 === 都内への拡大 === [[ファイル:Buskyotuucardlabel.JPG|thumb|220px|緑色の「バス共通カード取扱車」ステッカー。マリンカードの取扱はできない]] [[1994年]](平成6年)10月になると、それまで単独導入していた[[東京都交通局]]の[[都営バス]]・[[都電荒川線]](「[[Tカード]]」を発売)や[[京浜急行バス]]を始め、東京都区内均一運賃区間の各社局路線へも「バス共通カード」が導入され、東京都区内バス共通回数券の発売は終了した。ただしこの時点でも、東京[[多摩地域]]での多区間運賃路線ではバス共通カードの利用不可であった。 多区間運賃区間でバス共通カード<!--およびマリンカード(青色の「共通カード取扱車」ステッカーの社局)-->の利用が可能になるのは、さらにしばらく経ってからのこととなる。 その後、東京都多摩地域や横浜・川崎以外の神奈川県内の多区間運賃路線、また埼玉・千葉の両県にも順次バス共通カードが導入され、共通化されていった。この他に、1都3県のバス共通カード取扱地域から路線が乗り入れる事業者でも利用可能であった。[[朝日自動車]]など、[[茨城県|茨城]]<ref>朝日自動車境営業所では、[[東武バス|東武鉄道]]時代から利用可能であった。北柏駅~パークシティ守谷間では、東武鉄道(西柏営業事務所)運行便に限り利用可能だったが、[[阪東自動車]]移管後は[[関東鉄道]]同様、一切利用不可となった。[[茨城急行自動車]]は、野田営業所担当の岩井車庫発着路線で利用可能であったが、古河営業所管内路線では導入されず、PASMO・Suicaも導入されていない。</ref>・[[群馬県|群馬]]県<ref>朝日自動車太田営業所で2001年12月~利用可能であった。</ref>は一部路線で、[[静岡県|静岡]]<ref>富士急湘南バス・新松田駅〜富士霊園線で利用可能であった。</ref>・[[山梨県|山梨]]両県では、ごく一部利用可能であった。 === PASMO移行による磁気式カードの終焉 === [[ファイル:Pasmo bus.jpg|thumb|220px|桃色の「PASMO・Suica・バス共通カードご利用いただけます」ステッカー。PASMO導入後に貼られたもの]] しかし、[[2007年]](平成19年)[[3月18日]]に[[PASMO]]の発売を開始すると、バス共通カードの利用者は段階的にPASMOに移行されたため、[[川崎市交通局]]を除く各事業者は[[2010年]](平成22年)3月 - 4月で販売を終了し、同年7月末で利用を終了。首都圏各社局のバス共通カードは、短命に終わった。{{see also|PASMO#バス・路面電車}} なお、川崎市バスのみ終了スケジュールが異なり、2010年6月末で販売を終了し、同年10月31日をもって利用終了となった。これにより、2010年11月1日以降は、全加入事業者で払い戻しのみの対応となった。{{main|川崎市交通局#料金}} == 利用方法など == バス共通カードを使用できるのは、下記のバス事業者で車両の乗車口付近に「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)と「共通カード取扱車」(青色のステッカー)の表示のあるバス・都電であり、カードの表面左下(記念カードは記載なし)と裏面上部には「東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県内の『バス共通カード取扱車』・『共通カード取扱車』の表示のあるバス・都電にご利用いただけます。」と記載されている。また、[[2007年]][[3月18日]]からの[[PASMO]]導入に伴い導入事業者は順次「PASMO [[Suica]] バス共通カード ご利用いただけます」(桃色のステッカー、但し車両前面は「PASMO」)というステッカーに張り替えられているが、その場合でも緑・青色のステッカー表示と同様に利用できる。 また、青色のステッカーのバスでは[[横浜市交通局]]が発行している[[マリンカード]]が使用できるため表示が異なっているが、バス共通カードも使用可能。ただしピンクのステッカーの表示があるバスの中にはバス共通カードの表記がないものがあるため(バス共通カードを導入せずにPASMOのみを導入している事業者のバス)、乗車の際は注意が必要である。 バス事業者によっては、一部の[[コミュニティバス]]などにカード設備を搭載しておらず、取り扱い表示がなく利用できない路線もあった。 電車で利用できる[[パスネット]]と違い、小児の利用や複数人で1枚のカードを直接利用が可能である<ref group="注釈">パスネットの場合は自動改札機に直接通さず、券売機で残額を利用して乗車券を購入する必要があった。</ref>。これ以外にも割引運賃の適用などで大人1人分ではない運賃を支払う場合はカードを通す前に乗務員に申告する必要がある。 また、残額が支払うべき運賃に満たない場合は別のカードか現金で精算する必要がある。但しパスネットとは違い2枚同時に投入はできない。カードの残額が不足している場合は[[運賃箱]]からカードの残額が足りない旨の表示がされ、カードは乗務員が操作しないと、排出されない。 === 前払い式の場合 === 前払い式(均一料金〈路線により対キロ制〉)の場合は、乗車時に乗車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。 路線によっては、区間によって料金が異なり、乗車時に降車停留所を申告する方式があるが、この場合はカードを通す前に降車停留所を申告する必要があり、申告がないと本来支払うべき運賃が差し引かれなかったり、乗務員がカードの挿入を止める場合がある。また、本来は後払い用のバスを前払いとして使う場合には、降車用のカード投入口にカードを通す場合がある。 路線や停留所によっては、カードリーダ・ライタを停留所にいる係員が持ち、このカードリーダ・ライタに通してから、バスに乗る方式を採用している事例もあった。 === 後払い式の場合 === 後払い式(対キロ制)の場合は、乗車時と降車時に乗・降車口付近にあるカードリーダ・ライタに通して利用する。但し、事業者によっては取り扱い方法が異なり、起点から次の運賃区界の手前においては乗車時のカード挿入が省略可能のところもあった。 乗車時にカードをリーダ・ライタに通すのは乗車停留所がどこかを記録するためのものである。従って、リーダ・ライタに通さない場合は、始発停留所から乗車したとみなされる場合がある。但し、(1)乗車時にカードが見つからない場合、(2)車内でカードを購入、(3)乗車用カードリーダ・ライタの読み取り不良、などもあるため、乗客の降車時に乗務員が運賃支払機により乗車位置の設定が可能であった。そのため、事業者や乗務員によって対応が若干異なるものの、上記のケースの場合などやむを得ない場合に限り乗車時に整理券を取れば実質的な問題はほとんどない。 == 購入方法 == バス共通カードは、発行事業者の営業所・案内所、バス・都電車内や委託契約した店舗・[[コンビニエンスストア]]・駅売店などでの有人対面発売による方法や、事業者によっては、[[テレホンカード]]の[[自動販売機]]の中にバス共通カードも取り扱うといった、無人機械発売による購入方法が一般的であった。場合によっては、主要バス停において、臨時にバス案内兼販売者が立ち歩きながら発売していたり、[[コミックマーケット]]などの大規模行事開催時(主に記念カードの発売が多い)や、[[金券ショップ]]での購入も可能であった。他に、記念カード発売の折に、事業者によっては[[通信販売]]の形式をとって購入する方法もあった。 == PASMO導入後の動向 == [[2007年]][[3月18日]]、バス共通カード事業者で非接触式ICカード乗車券「[[PASMO]]」のサービスが開始された。これは[[関東地方]]の主な私鉄や地下鉄で利用できる[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]である[[パスネット]]の事業者と共同で導入され、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)などが発行する[[Suica]]と相互利用できるものである。 このPASMOの導入に伴い、今後のバス共通カードの取り扱いについてはPASMOの普及状況を見ながら検討される予定にはなっているものの[http://www.keiseibus.co.jp/pc/news/pasmo.html ][http://www.enoden.co.jp/info/pasmo.html ]、既にコンビニエンスストアの[[サークルKサンクス#サンクス|サンクス]]ではPASMO導入開始と同時に新規発注ができなくなっており、今後販路は次第に縮小するものと見られた。しかし、バス共通カードは回数券であるため販売額以上の利用額がある点がパスネットとは異なり、PASMOでもバス利用特典サービス(バス特)を採用<ref group="注釈">バス利用特典サービスは2022年(令和4年)3月31日までに全社で終了した</ref>し、バス共通カードに近い金額分バスを利用できるようにしようとしている事業者が多いものの、バス共通カードと異なり実際にバスで利用した金額に応じて、バスポイントが還元される上(バス共通カードのように、あらかじめ特典額が付与される訳ではない)、バスポイントは1ヶ月単位で計算され、未還元のバスポイントは翌月への繰越ができないため、その月のバス利用額が最初の還元が行われる1,000円に満たない利用者は、全く還元を受けられないほか、月間のバスへの支払い金額の下4桁が、ちょうど5,000円、6,000円、7,000円、8,000円、9,000円または10,000円でない限りは、バス共通カードの方が得するため、雨天時のみなど乗車機会の少ない利用者を中心にバス共通カードの需要が根強く残っており、パスネットほど急速には利用が減っていない点から、PASMO導入からしばらくの間は、バス共通カードのサービス廃止に踏み切る事業者は少なかった。 しかしながら、バス共通カードよりも、PASMO・Suicaでのバス利用者が増加した点に加え、バス共通カードにおけるカードリーダーの保守費用の問題から、[[東京都交通局]]他20の各社(グループ)・局では、PASMO普及に対するバス共通カードの取り扱いについて見直し、[[2010年]][[3月31日]]に発売を終了、同年[[7月31日]]に利用を終了する旨が発表された。このうち、東武バスグループ・朝日自動車グループは[[4月10日]]に発売を終了、箱根登山バスは[[3月5日]]、国際興業バスと京王電鉄バスグループ・相鉄ホールディングスは[[3月15日]]にそれぞれ先行して発売を終了<ref>[http://www.keiseibus.co.jp/manager/detail/Info00000454.html 『バス共通カード』のサービス終了について](京成バスニュースリリース:2009年10月27日付け)</ref><ref>[http://www.shinkeisei.co.jp/topics/detail.html?news_id=55 新京成グループバス3社 「バス共通カード」のサービス終了について](新京成電鉄ニュースリリース:2009年11月12日付け)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.rinkobus.co.jp/091112bus-card.pdf バス共通カードの取り扱い終了について]}}(川崎鶴見臨港バスプレスリリース:2009年11月12日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.seibu-group.co.jp/bus/news20091113/20091113_2.pdf バス共通カードの販売及び利用終了のご案内]}}(西武バスプレスリリース:2009年11月13日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www2.keio-bus.com/wnews/upload/WN1258431656.pdf 「バス共通カード」のサービス終了並びにバス利用特典サービスの付与チケットの増額について]}}(京王電鉄バスグループプレスリリース:2009年11月17日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kanto-bus.co.jp/topics/%E5%9B%9E%E6%95%B0%E5%88%B8%E5%BB%83%E6%AD%A2.pdf バス共通カード・DAYカード・一部回数乗車券の廃止について]}}(関東バスプレスリリース:2009年11月18日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kanto-bus.co.jp/topics/%E3%83%90%E3%82%B9%E5%BE%97%E5%A4%89%E6%9B%B4.pdf バス利用特典サービスのサービスアップについて]}}(関東バスプレスリリース:2009年11月18日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.nisitokyobus.co.jp/data/topics/2009/lib/objects/20091118%20buscard.pdf バス共通カードのサービス終了について]}}(西東京バスプレスリリース:2009年11月18日付)</ref><ref> [http://www.tokyubus.co.jp/top/news/2009/1119_card.html 「バス共通カード」のご利用終了について](東急バスニュースリリース:2009年11月19日付け)</ref><ref>[http://www.tachikawabus.co.jp/bus_card/card.html 立川バス-バスカード]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.hakone-tozanbus.co.jp/images/info/buscard.pdff バス共通カードのサービス終了について]}}(箱根登山バスプレスリリース)</ref><ref>{{PDFlink|[http://bus.fujikyu.co.jp/news/pdf/bus_crd.pdf バス共通カードの取り扱い終了について]}}(富士急湘南バスプレスリリース:2009年11月24日付)</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.kanachu.co.jp/newsinfo/pdf/release20091125a.pdf バス共通カードの取り扱い終了について]}}(神奈川中央交通プレスリリース:2009年11月25日付)</ref><ref>[http://www.enoden.co.jp/whats_new/0911_buscard.html 『バス共通カード』発売終了のご案内](株式会社江ノ電バス横浜株式会社江ノ電バス藤沢プレスリリース:2009年11月27日付)</ref><ref> [http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/bus/2009/bus_p_200912224_h.html バス共通カードのサービス終了について](東京都交通局プレスリリース:2009年12月22日付け)</ref>。なお、[[川崎市交通局]]の終了時期については前述の各社・局とは異なり、2010年[[6月30日]]発売終了、同年[[10月31日]]利用終了であった<ref>[http://www.city.kawasaki.jp/82/82eigyo/home/report/h21/100630buscard.htm (お知らせ)バス共通カード及び磁気式1日乗車券(大人・小児)の取扱い終了について](川崎市交通局新着・更新情報:2010年3月26日付け)</ref>。 [[File:Card Reader cover.jpg|thumb|250px|使用停止となりカバーがかけられたカードリーダー(赤い矢印で示した部分)]] なお、利用終了時点で残高を有するカードについては、カードを発行した各社・局において利用終了日の翌日より5年間に限り、運送約款にもとづいた無手数料による払戻の受付が行われ、川崎市バス以外は2015年7月31日、川崎市バスは2015年10月31日をもって、それぞれ払い戻し期間が終了した。この際の払戻額は回数乗車券の払戻額算定基準が適用され、「券面表示の運賃額(発売額)×残券片表示金額(払戻時の利用可能額)÷総券片表示金額(発売時の利用可能額)」として計算されていた。また、パスネット終了時に一部の事業者で行われたようなカード残高のPASMO等への移行は行われなかった<ref group="注釈">運送約款第36条において「既に発行された乗車券を無効とする際の対応」として規定されている方法は、「現金による払戻」と「同一の効力を有する乗車券類との引換」のみである</ref>。 <!--券面には有効期限が記されておらず、原則として使用期限は制限されない<ref>{{PDFlink|[http://www.mlit.go.jp/common/000020118.pdf 国土交通省告示一般乗合旅客自動車運送事業標準運送約款]}}第14条第2項の規定による。ただし第36条の規定により乗車券の効力が無効とされる場合は除く。</ref>。--> <!-- なお、PASMOについて、都営バス・都電荒川線と川崎市バスでは、サービス開始日より、全路線で導入している。2007年7月1日には、民営バスでは初めて、関東バス・ケイビーバスが、全路線への導入が完了した。 --> <!-- ; 都営バス・都電荒川線 * 現在、[[都営バス]]と[[都電荒川線]]では料金表示を現金・カードの2段階表示にしているため、カード利用時の割引にも対応できるものと思われる。また、全車両にPASMOのカードリーダー・ライタが設置されているが、サービス開始まではマスキングが施されていた。 (これについてですが、PASMOでの運賃支払い時には残額が別の画面に切り替わって表示されているため、あまり関係ないものと思われます。おそらく、現金・バスカードを同時に処理した場合、残額が確認できるように表示されているものと思われます。) --> == 利用可能であったバス事業者 == 凡例(インデントの状況は下記の状態を示す) * '''カード発行事業者'''(現在の発行名義)〈旧名義:分社化前・分社化過程における過去の発行名義〉 ** 上記名義のカードを発売している分離子会社・グループ会社 末尾に*がある社・局(5社・局)は「共通カード取扱車」(青色のステッカー、[[マリンカード]]も使える)を、ない社局は「バス共通カード取扱車」(緑色のステッカー)を貼付している事業者を示す。また、[[PASMO]]導入済みの事業者(先述のステッカーに替わり「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」〈ピンク色のステッカー〉に変更)については、★がある社・局では全車両にて<!--、☆がある社・局は一部の営業所・車両にて(今後の導入状況によりピンク色のステッカーに貼り替えられる可能性がある)、-->それぞれ走らせていた事業者を示す。例外については[[#ステッカー貼付の例外的な事例|後述]]。 === 2010年10月31日付で取り扱い終了 === * [[川崎市交通局]]([[川崎市バス]])*★ === 2010年7月31日付で取り扱い終了 === * [[東京都交通局]]([[都営バス]]・[[東京都電車|都電]])★ * [[横浜市交通局]]([[横浜市営バス]])*★ ** [[横浜交通開発]]*★ * [[東急バス]]★ ** [[東急トランセ]]★ * [[京王電鉄バス]](旧名義:京王帝都電鉄・[[京王電鉄]]・京王バス)★ ** [[京王バス東]]★・[[京王バス中央]]★・[[京王バス南]]★・[[京王バス小金井]]★ * [[西東京バス]]★ - かつて子会社の[[多摩バス]]が一時自社発行していた時期があった。 * [[関東バス]]★ - 一時期に一部路線を[[ケイビーバス]]に移管していた。 * [[西武バス]]★ ** [[西武自動車]]・[[西武観光バス]] * [[国際興業]]★ - 一時期に埼玉県内の一部路線をさいたま国際バスに分社していた。 * [[小田急バス]]★ ** [[小田急シティバス]]★ * [[立川バス]]★ ** [[シティバス立川]]★ * [[京浜急行バス]]★(旧名義:[[京浜急行電鉄]]) ** [[羽田京急バス]]★・[[横浜京急バス]]★・[[湘南京急バス]]★ * [[京成バス]]★(旧名義:[[京成電鉄]]) ** [[ちばシティバス]]・[[京成タウンバス]]★・[[ちばフラワーバス]]★・[[ちばグリーンバス]]・[[京成トランジットバス]]・[[京成バスシステム]] ** [[千葉中央バス]]※★ ** [[千葉海浜交通]]★ ** [[千葉内陸バス]]※★ ** [[ちばレインボーバス]]※★ ** [[東京ベイシティ交通]]※★ *** ※標記の各社は2006年5月31日限りで自社発行を取りやめ、京成バス発行のカードを発売していた。 * [[東武バスセントラル]]★(カード表記:「[[東武バス]]」、旧名義:[[東武鉄道]]) ** [[東武バスウエスト]]★・[[東武バスイースト]]★・[[朝日自動車]]★・[[茨城急行自動車]]★(古河営業所を除く)・[[川越観光自動車]]★・[[国際十王交通]]★(熊谷営業所のみ) * [[神奈川中央交通]]*★ ** [[湘南神奈交バス]]・[[津久井神奈交バス]]・[[横浜神奈交バス]]・[[相模神奈交バス]]・[[藤沢神奈交バス]]☆ * [[相鉄ホールディングス]](自動車事業)★(旧名義:[[相模鉄道]]) ** [[相鉄バス]]★ * [[川崎鶴見臨港バス]]★ - 一時期に一部路線を[[臨港グリーンバス]]に移管していた。 * [[江ノ島電鉄#バス事業|江ノ電バス藤沢]]*(旧名義:[[江ノ島電鉄]]) * 江ノ電バス横浜*★ * [[箱根登山バス]]★(カード表記:「箱根登山」)(旧名義:[[箱根登山鉄道]])<!--名義は過去も「箱根登山」のはず--> * [[船橋新京成バス]](旧名義:[[新京成電鉄]]) ** [[習志野新京成バス]]・[[松戸新京成バス]] * [[富士急湘南バス]](旧名義:[[富士急行]])★ ** [[フジエクスプレス]](134系統「横浜タウンバス」のみ)*★ *** 富士急行では[[バスカード (富士急行)|自社グループ用のバスカード]]も存在したため、精算及びカード発注上では、現在でも富士急行が窓口となっていた。 [[ファイル:Kanachu PASMO BusCard Sticker Atsu105.jpg|thumb|200px|「共通カード取扱車」と「PASMO」ステッカーを両方貼付している例]] ※[[福島県]]の[[新常磐交通]]では、緑地に上記とほぼ同じデザインの「バスカード取扱車」と書かれたステッカーが貼ってあるが、当カードとは一切関係がない。 === ステッカー貼付の例外的な事例 === [[2010年]][[7月31日]]まで、一部に既存のステッカーを継続貼付した上で「PASMO Suica ご利用いただけます」もしくは「PASMO Suica バス共通カード ご利用いただけます」(乗車口付近)/「PASMO」(車両前面)のステッカーを追加貼付している事業者も存在していた。 * 東武バスグループでは、「バス共通カード取扱車」のステッカーを継続貼付していた。その後、「PASMO」(前面)・「バス特 PASMO Suica」(側面)のステッカーと共に「東京スカイツリー 2012年春誕生」のステッカーを貼付していた。 * 神奈川中央交通平塚営業所では、厚105系統に運用される車両で「共通カード取扱車」のステッカーを継続貼付していた。 == カード製造会社 == カード裏面の丸の中に[[アルファベット]]で示されている。 * K:[[共同印刷]] * T:[[巴川製紙所]] == 注釈 == {{Reflist|group="注釈"}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[パスネット]] * [[PASMO]] * [[Suica]] * [[マリンカード]] * [[乗車カード]] * [[バスカード]] * [[回数乗車券#バス]] * [[共通乗車制度]] - 乗車券の共通利用制度について * [[プリペイドカード]] * [[路線バス]] == 外部リンク == * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/fare/otoku_buscard.html 東京都交通局 バス共通カード(発売は終了しました。)] * [https://www.kanachu.co.jp/news/2010/news2010_03.html 神奈川中央交通 バス共通カードの利用終了及び払い戻しについて] - 神奈中バスカードについても記載あり。 * [https://5931bus.com/news_details/id=1916 国際興業バス バス共通カードの払戻し期間がまもなく終了します(~7月31日)] * [https://www.tachikawabus.co.jp/wp-content/uploads/2015/05/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E6%89%95%E3%81%84%E6%88%BB%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B.pdf 立川バス バス共通カード払い戻しについてのお知らせ] * [https://www.nisitokyobus.co.jp/wp/wp-content/uploads/2014/12/buscard201007.pdf 西東京バス バス共通カードのサービス終了について バス共通カードの払戻しについて] * [https://www.keikyu.co.jp/information/history/index.html PICK UP 京急「京急歴史館」京浜急行電鉄] - 「乗車券の歴史」のページにバス共通回数乗車券、バス共通カードの画像あり。 * [https://messe.nikkei.co.jp/nf/news/46331.html 日経の紙面から 首都圏の「バス共通カード」、IC乗車券普及で終点――各社、相次ぎ販売中止。] [[日本経済新聞]] 地方経済面、2009年11月18日 * [http://www.kurumi.sakura.ne.jp/~buscard/index.html バス共通カードのホームページ (個人サイト)] {{バス共通カード}} {{PASMO}} {{DEFAULTSORT:はすきようつうかあと}} [[Category:乗車カード]]
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プッチモニ
プッチモニ (Petitmoni) は、ハロー!プロジェクトに所属する女性歌手グループ、女性アイドルユニット。モーニング娘。からの2番目の「グループ内ユニット」として結成された。 この項では、『チャンプル1〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』発売を機に結成されたプッチモニVについても記述する。 1999年 2000年 2002年 2003年 2006年 2007年 2008年 2009年 2012年 2009年 2010年 2011年 2013年 2017年
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プッチモニ (Petitmoni) は、ハロー!プロジェクトに所属する女性歌手グループ、女性アイドルユニット。モーニング娘。からの2番目の「グループ内ユニット」として結成された。 この項では、『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』発売を機に結成されたプッチモニVについても記述する。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = プッチモニ | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが220ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = | Background = group | Alias = | Origin = {{JPN}} | Genre = [[J-POP]] | Years_active = [[1999年]] - [[2009年]][[3月]] (事実上の活動は1999年~2003年まで) | Label = [[アップフロントワークス|zetima]] | Production = [[アップフロントプロモーション]] | Associated_acts = [[つんく♂]] | Influences = | URL = | Current_members = [[吉澤ひとみ]]<br />[[小川麻琴]]<br />[[長手絢香|アヤカ]] | Past_members = [[市井紗耶香]]<br />[[保田圭]]<br />[[後藤真希]] | Notable_instruments = }} '''プッチモニ''' ({{lang|en|Petitmoni}}) は、[[ハロー!プロジェクト]]に所属する[[女性]][[歌手]][[音楽ユニット|グループ]]、[[女性アイドルユニット]]。[[モーニング娘。]]からの2番目の「グループ内ユニット」として結成された。 この項では、『[[チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜]]』発売を機に結成された'''プッチモニV'''についても記述する。 == メンバー == === 第1期 === * [[保田圭]] * [[市井紗耶香]] * [[後藤真希]] === 第2期 === * [[保田圭]] * [[後藤真希]] * [[吉澤ひとみ]] === 第3期 === * [[吉澤ひとみ]] * [[小川麻琴]] * [[長手絢香|アヤカ]] == 略歴 == {{出典の明記|date=2017年8月|section=1}} '''1999年''' * 10月3日、『[[ASAYAN]]』においてつんく♂の口からに新ユニットの結成が語られる。[[モーニング娘。]]のメンバー、[[保田圭]]、[[市井紗耶香]]、[[後藤真希]]によって結成<ref>[https://web.archive.org/web/20050217133233/http://www.asayan.com/vocal/morning/1999/1003.html ASAYAN モーニング娘。10/3 ON AIR]、ASAYAN.COM、1999年10月3日放送。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。 * 10月4日、ユニット名未定のまま、市井紗耶香、保田圭、後藤真希の3人によるラジオ番組『モー娘。ダイバー!』が放送開始される。 * 10月10日、『ASAYAN』内において、ユニットのリーダーは置かないこととする。(しかし、歌番組等では市井紗耶香が場を仕切り、後の『ASAYAN』ホームページ内では「リーダー的存在」とされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asayan.com/vocal/morning/2000/0806.html |title=ASAYAN モーニング娘。8/6 ON AIR |accessdate=2017-08-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110925051935/http://www.asayan.com/vocal/morning/2000/0806.html |archivedate=2011-09-25}}</ref>。) * 10月17日、『ASAYAN』内において、新ユニット名の候補を「プチモニ」、「コンモニ」、「ヤンモニ」の3つに絞られたことが発表される<ref>[https://web.archive.org/web/20050215200657/http://www.asayan.com/vocal/morning/1999/1017.html ASAYAN モーニング娘。10/17 ON AIR]、ASAYAN.COM、1999年10月17日放送。</ref>。 * 10月24日、『ASAYAN』内において、新ユニット名を「プチモニ」に「ッ」をつけた「プッチモニ」に決定<ref>[https://web.archive.org/web/20050217133036/http://www.asayan.com/vocal/morning/1999/1024.html ASAYAN モーニング娘。10/24 ON AIR]、ASAYAN.COM、1999年10月24日放送。</ref>。 * 10月31日、『ASAYAN』内において、デビュー曲「[[ちょこっとLOVE]]」のタイトルを発表<ref>[https://web.archive.org/web/20050217132855/http://www.asayan.com/vocal/morning/1999/1031.html ASAYAN モーニング娘。10/31 ON AIR]、ASAYAN.COM、1999年10月31日放送。</ref>。 * 11月25日、デビュー曲「ちょこっとLOVE」リリース。同曲は2週連続オリコン1位を獲得<ref>[https://web.archive.org/web/20050217132728/http://www.asayan.com/vocal/morning/1999/1226.html ASAYAN モーニング娘。12/26 ON AIR]、ASAYAN.COM、1999年12月26日放送。</ref>。2000年2月7日に[[ミリオンセラー]]となる。2000年2月14日にカラオケランキング1位を獲得し、モーニング娘。「LOVEマシーン」の15週連続1位の記録を止める。<br />この記録は女性三人組ユニットの売り上げ日本新記録を達成し、今でもその記録は破られていない。 '''2000年''' * 5月21日、市井がモーニング娘。及びプッチモニを卒業。 * 6月26日、[[吉澤ひとみ]]が加入。 * 7月26日、「[[青春時代1.2.3!/バイセコー大成功!]]」をリリース。[[オリコンチャート|オリコン]]1位を獲得。 '''2002年''' * 7月、保田、後藤の卒業と、[[小川麻琴]]、[[アヤカ]]([[ココナッツ娘。]])の加入が発表される。 * 9月、新曲を同年10月にリリースすると発表されるが、その後数回に渡って延期され、最終的にリリースそのものが取り止めになる。 * 9月23日、保田、後藤が卒業。 '''2003年''' * 1月、その新曲である「WOW WOW WOW」をハロー!プロジェクトのコンサートで初披露。 * 3月 - 5月、モーニング娘。のコンサートで同曲を披露。 * 12月17日、長らくCD未収録であった「WOW WOW WOW」が、アルバム『[[プッチベスト#プッチベスト4|プッチベスト4]]』に収録される。(編曲:[[鈴木Daichi秀行]])<br />以降、新曲のリリースは行われていない。 '''2006年''' * 1月28日・29日に開催されたハロー!プロジェクトのコンサート『Hello! Project 2006 Winter 〜全員集GO!〜』において「BABY!恋にKNOCK OUT!」をその時点でハロー!プロジェクトに所属する新旧全メンバー(保田・後藤・吉澤・小川・アヤカ)で披露した。 '''2007年''' * 夏に行われた『Hello! Project 2007 Summer 10th アニバーサリー大感謝祭〜ハロ☆プロ夏祭り〜』で「BABY!恋にKNOCK OUT!」を吉澤・アヤカ・[[里田まい|里田]]の3名で披露した。 '''2008年''' * 1月5日から19日に開催された『Hello! Project 2008 Winter 〜かしまし エルダークラブ〜』において「WOW WOW WOW」を保田・吉澤・アヤカの3名で披露した。 * 4月30日、アヤカがハロー!プロジェクトを卒業。5月1日に所属事務所を移籍したことにより、事実上プッチモニからも卒業となった。 '''2009年''' * 1月31日・2月1日に行われた『[[Hello! Project 2009 Winter 決定! ハロ☆プロ アワード'09 〜エルダークラブ卒業記念スペシャル〜]]』においてその時点ハロー!プロジェクトに在籍する全メンバー(保田圭・吉澤ひとみ・小川麻琴)によって「BABY! 恋に KNOCK OUT!」が歌われた。 * 3月31日、エルダークラブ全メンバーのハロー!プロジェクトからの卒業に伴いハロー!プロジェクトに在籍するメンバーがいなくなった。 * 4月、ハロー!プロジェクトの公式サイトのリニューアルに伴いアーティストリストからプッチモニのプロフィールへのリンクが消滅した(プロフィール自体は存続)。 * 4月中旬、ハロー!プロジェクトの公式サイトから詳細なプロフィールが消滅した。 '''2012年''' *3月10日に行われた「ドリームモーニング娘。スペシャルLIVE 2012 日本武道館 〜第一章 終幕『勇者タチ、集合セョ』」において保田圭・吉澤ひとみとサプライズゲストの後藤真希の第2期メンバーにより一夜限りの復活(小川麻琴は不参加)。「ちょこっとLOVE」「BABY! 恋にKNOCK OUT!」がメドレーで歌われた。 '''2023年''' * 9月10日、Hello! Project 25th ANNIVERSARY CONCERT『ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!』ACT Iにて保田圭・市井紗耶香・[[宮本佳林]]の3人で「ちょこっとLOVE」を披露した。(宮本の出演はシークレットだった) * 11月15日、テレ東60祭!ミュージックフェスティバル2023~一生聞きたい!昭和・平成・令和ヒット曲100連発~にて保田圭・市井紗耶香・宮本佳林の3人で「ちょこっとLOVE」を披露した。[https://www.tv-tokyo.co.jp/musicfestival2023/] == 作品 == === シングル === #[[ちょこっとLOVE]](1999年11月25日) #[[青春時代1.2.3!/バイセコー大成功!]](2000年7月26日) #[[BABY! 恋にKNOCK OUT!]](2001年2月28日) #[[ぴったりしたいX'mas!]](2001年11月14日) === アルバム === #[[ぜんぶ! プッチモニ]](2002年8月21日) #[[メガベスト|プッチモニ/タンポポ メガベスト]](2008年12月10日) === コンピレーションアルバム === #[[プッチベスト|プッチベスト 〜黄青あか〜]](2000年4月26日)『[[ちょこっとLOVE]]』を収録。 #[[Together! -タンポポ・プッチ・ミニ・ゆうこ-]](2001年4月18日)『[[青春時代1.2.3!/バイセコー大成功!]]』以降の楽曲、『[[ちょこっとLOVE|ちょこっとLOVE 2001 Version]]』を収録。 #[[プッチベスト|プッチベスト2 〜三・7・10〜]](2001年12月19日)『[[ぴったりしたいX'mas!]]』を収録 #[[プッチベスト|プッチベスト3]](2002年12月18日)『[[ちょこっとLOVE|ちょこっとLOVE 2003 Version]]』を収録。 #[[プッチベスト|プッチベスト4]](2003年12月17日)『WOW WOW WOW』を収録。 === DVD/VHS === #ザ・ビデオ ちょこっとLOVE(2000年1月19日) #ザ★プチモビクス(2001年8月8日) #プッチモニ シングルVクリップス1(2004年6月16日) == 書籍 == === 写真集 === * プッチモニPhoto Book (2001年5月10日 [[ワニブックス]]) ISBN 978-4847026560 == 出演 == === ラジオ === * [[それゆけ!ナイトバスターズ#放送された番組|モー娘。ダイバー!]] (1999年10月4日-18日、毎週月曜日23:25~23:55)[[エフエム東京|TOKYO FM]] :※プッチモニダイバー!の前身であるが、番組開始当初プッチモニが公表されていなかった為、このタイトルでの放送となっている。 * プッチモニダイバー! (1999年10月25日-2000年12月、毎週月曜日23:25~23:55 TOKYO FM) * [https://web.archive.org/web/20010413045010/http://www.tfm.co.jp/unlimit/pdv3/index.html プッチモニダイバーV3] (2001年1月8日-2001年9月26日、週3回(月火水)放送 TOKYO FM) == プッチモニV == {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = プッチモニV | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが220ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = | Background = group | Alias = | Origin = {{JPN}} | Genre = [[J-POP]] | Years_active = [[2009年]][[7月]] - [[2011年]][[1月]] | Label = [[アップフロントワークス|zetima]] | Production = [[アップフロントプロモーション]] | Associated_acts = [[つんく♂]] | Influences = | URL = | Current_members = [[中島早貴]]<br/>[[萩原舞 (歌手)|萩原舞]]<br/>[[真野恵里菜]] | Past_members = | Notable_instruments = }} === メンバー === * [[中島早貴]]([[℃-ute]]) * [[萩原舞 (歌手)|萩原舞]](同上) * [[真野恵里菜]] === 略歴 === '''2009年''' *6月16日、つんく♂が自身のブログで7月15日発売のカバーアルバム『[[チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜]]』に合わせて結成を発表。なお「2009年夏のハロプロコンサートでは、オリジナル曲を引っさげて登場」とも発表された<ref>[https://ameblo.jp/tsunku-blog/entry-10281247143.html カバーアルバムに関して!(つんブロ♂芸能コース)]</ref>。 *7月15日、プッチモニVが『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』に「君がいるだけで」のカバーで参加。メンバーが判明する。 *7月19日-8月9日、ハロー!プロジェクトのコンサートツアー『[[Hello! Project 2009 SUMMER 革命元年 〜Hello! チャンプル〜]]』で、オリジナル曲「ピラッ!乙女の願い」を披露。 *12月2日、『[[プッチベスト#プッチベスト10|プッチベスト10]]』発売。「ピラッ!乙女の願い」が収録された。 '''2010年''' *1月5日-24日、ハロー!プロジェクトのコンサートツアー『[[Hello! Project 2010 WINTER 歌超風月 〜シャッフルデート〜]]』に出演。「ピラッ!乙女の願い」、「[[ちょこっとLOVE]]」を披露した。 *7月18日-8月8日、ハロー!プロジェクトのコンサートツアー『[[Hello! Project 2010 SUMMER 〜ファンコラ!〜]]』に出演。「[[BABY! 恋にKNOCK OUT!]]」(名古屋夜公演)、「ピラッ!乙女の願い」(渋谷昼公演)を披露した。 '''2011年''' *1月2日-23日、ハロー!プロジェクトのコンサートツアー『Hello! Project 2011 WINTER 〜歓迎新鮮まつり〜』に出演。「[[浮気なハニーパイ]]」(A-1公演)、「WOW WOW WOW」(A-2公演)を披露した。 '''2013年''' *2月23日、真野恵里菜がハロー!プロジェクトを卒業。 '''2017年''' *6月12日、℃-ute解散、中島早貴はハロー!プロジェクトを卒業、萩原舞は同日をもって芸能界引退。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ハロー!プロジェクト]] == 外部リンク == * [http://www.up-front-works.jp/release/search/?a=putimoni プッチモニ リリース作品情報] - [[アップフロントワークス|UP-FRONT WORKS]] * {{YouTube|playlist=PLFMni9aeqKTw00DcNa2h05AdhzJCr-eiV}} * [https://www.tsunku.net/producework.php?Music_ArtistID=51 つんく♂オフィシャルウェブサイトのコメント] {{プッチモニ}} {{モーニング娘。}} {{℃-ute}} {{真野恵里菜}} {{ハロー!プロジェクト}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふつちもに}} [[Category:プッチモニ|*]] [[Category:ハロー!プロジェクトのユニット]] [[Category:日本の女性アイドルグループ]] [[Category:ハロー!プロジェクトのポップ・グループ]] [[Category:1999年に結成した音楽グループ]]
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市井紗耶香
市井 紗耶香(いちい さやか、1983年(昭和58年)12月31日 - )は、日本の政治家、タレント、モデル、歌手、女優。モーニング娘。の元メンバー。愛称は市井ちゃん、さやりん、母さん。千葉県船橋市出身。血液型A型。身長158cm。 1998年5月、保田圭、矢口真里と共に、モーニング娘。に2期メンバーとして加入、シングル「サマーナイトタウン」でデビュー。同年12月31日、モーニング娘。として、『第40回日本レコード大賞』最優秀新人賞受賞、『第49回NHK紅白歌合戦』初出場。 1999年11月、保田圭、後藤真希と共に、モーニング娘。内の2つ目のユニットとなるプッチモニを結成。デビュー曲「ちょこっとLOVE」はミリオンセラーとなる。同年12月31日、『第50回NHK紅白歌合戦』出場。 2000年5月20日、映画『ピンチランナー』公開。2000年5月21日、日本武道館にてモーニング娘。を卒業し、芸能活動を休業。2001年10月6日、復帰が発表される。2001年11月、シャ乱Qのたいせー(現・たいせい)のプロデュースで往年のフォークのカバーアルバム「FOLK SONGS」(市井紗耶香with中澤裕子)をリリース。 2002年4月、たいせー(キーボード)、吉澤直樹(ギター)と共に市井紗耶香 in CUBIC-CROSSを結成。デビュー曲は「人生がもう始まってる」。2003年9月、ソロとして、シングル「4U〜ひたすら〜」をリリース。 2003年11月9日、ホームページ上での「引退宣言」で、芸能界を引退。引退後は2007年までの4年間、地元にある当時のTOKYO-BAYららぽーと(現・ららぽーとTOKYO-BAY)で勤務していた。 2009年8月24日、所属事務所をランベスに移し、芸能活動再開を発表。2009年9月5日、モデルとして『東京ガールズコレクション』に初出演。 2010年5月25日、同日放送の『シアワセ結婚相談所』で石黒彩と共演。なお、収録日(5月6日)のお互いのブログで卒業以来の再会を報告している。2010年10月、Theatre Polyphonic第1回公演『悪魔の絵本』に出演。2010年11月、短編映画『名古屋MEN'S物語 KNIGHTS&NOODLE』で主演。 2014年5月4日、OFR48に加入、同年8月31日、卒業。2016年2月1日、所属事務所のメディアリンクス(アンダーゼットグループ)より前日付で専属契約を解消したと市井のアメーバブログで報告。同日、市井のInstagramで新オフィシャルブログの開設が発表される。 2019年7月21日執行の第25回参議院議員通常選挙で、立憲民主党の公認として比例区から立候補。5万415票を獲得するも比例候補中9番目の次点となり落選した。その後10月に立憲民主党つながる本部「子ども子育て」担当・ コーディネーターに就任した。同年11月1日、自身のInstagramで芸能事務所・アルカンシェルとマネジメント業務提携契約を報告。ところが2020年1月 アルカンシェルが市井に契約解除を申し入れ、2月5日付で契約を合意解除した。 2021年8月10日、翌年の第26回参議院議員通常選挙で、立憲民主党の比例区候補として立候補することを表明したが、 2022年1月24日、立候補辞退を表明した。 2004年5月、吉澤直樹と結婚、同年8月25日に長女出産。後に2人目次女も出産。 2011年6月14日、吉澤直樹と5月23日に離婚していたことが週刊女性に掲載される。2012年7月、5年前に知人の紹介で知り合った美容師の男性と2度目の結婚。相手は2012年9月24日の自身のブログにて公開された。2013年3月25日、第3子となる男児を出産。 2016年11月10日、第4子の妊娠を発表。2017年4月14日、第4子女児の出産を報告。
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市井 紗耶香は、日本の政治家、タレント、モデル、歌手、女優。モーニング娘。の元メンバー。愛称は市井ちゃん、さやりん、母さん。千葉県船橋市出身。血液型A型。身長158cm。
{{別人|市村紗弥香|市川紗椰}} {{Infobox HelloProject <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | Name = 市井紗耶香 | Img = | Img_capt = | Img_size = | Landscape = | Background = singer | Birth_name = 市井紗耶香 | Alias = | Nickname = さやりん、母さん | Blood = [[ABO式血液型|A型]] | School_background = | Born = {{生年月日と年齢|1983|12|31}} | Died = | Origin = {{JPN}} [[千葉県]][[船橋市]] | Instrument = | Genre = | Occupation = [[政治家]]、[[タレント]]、[[俳優|女優]]、元[[歌手]] | Years_active = [[1998年]]5月 - [[2000年]]5月 <br /> [[2001年]]10月 - [[2003年]]11月 <br /> [[2009年]]8月 - | Label = | Production = [[アップフロントプロモーション|アップフロントエージェンシー]](現:アップフロントプロモーション)<br />(1998年5月 - 2003年11月)<br />[[ランベス (芸能事務所)|ランベス]]<br />(2009年8月 - 2013年?)<br />[[アンダーゼットグループ]]<br />(2014年? - 2016年1月)<br />アルカンシェル<br />(2019年11月 - 2020年2月) | Associated_acts = [[モーニング娘。]]<br />[[プッチモニ]]<br />[[市井紗耶香 in CUBIC-CROSS]] | Influences = | URL = [https://ichiisayaka.com/ 市井紗耶香オフィシャルブログ] | Current_members = | Past_members = | Notable_instruments = }} {{政治家 |人名 = 市井 紗耶香 |各国語表記 = いちい さやか |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = |出生地 = |没年月日 = |死没地 = |出身校 = |前職 = [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]参議院全国比例区総支部長 |現職 = |所属政党 = [[立憲民主党 (日本 2017)|(旧)立憲民主党]]→ <br /> [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] |称号・勲章 = |配偶者 = |子女 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗= |職名= |内閣= |就任日= |退任日= |国旗2= |職名2= |内閣2= |就任日2= |退任日2= |国旗3= |職名3= |内閣3= |就任日3= |当選回数5 |就任日5 = |退任日5 = |その他職歴1 = }} '''市井 紗耶香'''(いちい さやか、[[1983年]](昭和58年)[[12月31日]] - )は、[[日本]]の[[政治家]]、[[タレント]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[歌手]]、[[俳優|女優]]<ref>{{Cite web|和書|title=市井紗耶香|プロフィール|HMV&BOOKS online|url=https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B8%82%E4%BA%95%E7%B4%97%E8%80%B6%E9%A6%99_200000001065403/biography/|website=HMV&BOOKS online|accessdate=2021-08-10|language=ja|last=株式会社ローソンエンタテインメント}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【市井紗耶香】プロフィール(年齢・インスタグラム)|url=https://www.excite.co.jp/news/dictionary/person/PEe24e16210b0fb3138f618903f1ab0c9ce71d987e/|website=エキサイトニュース|accessdate=2021-08-10|language=ja}}</ref>。[[モーニング娘。]]の元メンバー。[[愛称]]は'''市井ちゃん'''、'''さやりん'''、'''母さん'''<ref>1999年9月9日放送の『[[うたばん]]』出演時に[[石橋貴明]]に、お母さんみたいと言われ付いた[[愛称]]。[[飯田圭織]]の愛称「ジョンソン」と同じくこの愛称は定着し、以後『うたばん』出演時に名前で呼ばれる事はほとんど無かった。</ref>。[[千葉県]][[船橋市]]出身。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|A型]]。[[身長]]158cm<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20140618-1319990.html|title=市井紗耶香「ヤバイヤバイ…」体重増に涙|accessdate=2021-11-01}}</ref><!--<ref>[http://www.vip-times.co.jp/?talent_id=W10-0626 日本タレント名鑑(VIPタイムズ社)]</ref>-->。<!-- 戸籍名は、渡邊 紗耶香(わたなべ さやか)<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01gyosei15_02000252.html 令和元年7月21日執行参議院比例代表選出議員選挙における公職の候補者の選挙運動に関する収支報告書の概要(候補者ごとの収入及び支出の内訳の135番)…令和2年1月27日総務省報道資料]</ref>。(本人非公表かつ公的記録の個人情報のためコメントアウト) --> == 略歴 == [[1998年]]5月、[[保田圭]]、[[矢口真里]]と共に、[[モーニング娘。]]に2期メンバーとして加入、シングル「[[サマーナイトタウン]]」でデビュー。同年12月31日、モーニング娘。として、『[[第40回日本レコード大賞]]』最優秀新人賞受賞、『[[第49回NHK紅白歌合戦]]』初出場。 [[1999年]]11月、保田圭、[[後藤真希]]と共に、モーニング娘。内の2つ目のユニットとなる[[プッチモニ]]を結成。デビュー曲「[[ちょこっとLOVE]]」はミリオンセラーとなる。同年12月31日、『[[第50回NHK紅白歌合戦]]』出場。 [[2000年]]5月20日、映画『[[ピンチランナー (映画)|ピンチランナー]]』公開。2000年5月21日、[[日本武道館]]にてモーニング娘。を卒業<ref>{{Cite book|和書 | author=能地祐子 | title=モーニング娘。×つんく♂ | edition=初版 | date=2002-09-27 | publisher=ソニー・マガジンズ | isbn=978-4789719322 | pages=175 - 184 }}</ref>し、芸能活動を休業。[[2001年]]10月6日、復帰が発表される。2001年11月、[[シャ乱Q]]のたいせー(現・[[たいせい]])のプロデュースで往年のフォークのカバーアルバム「[[FOLK SONGS]]」(市井紗耶香with[[中澤裕子]])をリリース。 [[2002年]]4月、たいせー(キーボード)、[[吉澤直樹]](ギター)と共に[[市井紗耶香 in CUBIC-CROSS]]を結成。デビュー曲は「人生がもう始まってる」。[[2003年]]9月、ソロとして、シングル「4U〜ひたすら〜」をリリース。 2003年11月9日、ホームページ上での「引退宣言」で、芸能界を引退。引退後は2007年までの4年間、地元にある当時のTOKYO-BAYららぽーと(現・[[ららぽーとTOKYO-BAY]])で勤務していた<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2017/11/20/0010750745.shtml 元モー娘。市井紗耶香 最初の結婚後「ららぽーとで働いてた」と告白] - デイリースポーツ。2017年11月20日発信、2019年8月27日閲覧。</ref>。 [[2009年]]8月24日、所属事務所を[[ランベス (芸能事務所)|ランベス]]に移し、芸能活動再開を発表<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/68626/ |title= 元モー娘・市井紗耶香が約5年ぶりに芸能界復帰 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2009-08-24 |accessdate= 2017-04-14 }} [https://web.archive.org/web/20090906081845/http://www.talent-databank.co.jp/interview/2009/0901/ 市井紗耶香インタビュー - タレントデータバンク]</ref>。2009年9月5日、[[モデル (職業)|モデル]]として『[[東京ガールズコレクション]]』に初出演。 [[2010年]]5月25日、同日放送の『[[シアワセ結婚相談所]]』で[[石黒彩]]と共演。なお、収録日(5月6日)のお互いのブログで卒業以来の再会を報告している。2010年10月、Theatre Polyphonic第1回公演『悪魔の絵本』に出演。2010年11月、短編映画『名古屋MEN'S物語 KNIGHTS&NOODLE』で主演。 2014年5月4日、[[OFR48]]に加入、同年8月31日、卒業。2016年2月1日、所属事務所のメディアリンクス(アンダーゼットグループ)より前日付で専属契約を解消したと市井のアメーバブログで報告。同日、市井のInstagramで新オフィシャルブログの開設が発表される。 [[2019年]][[7月21日]]執行の[[第25回参議院議員通常選挙]]で、[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]の公認として[[参議院比例区|比例区]]から立候補。5万415票を獲得するも比例候補中9番目の次点となり落選した<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/07/23/kiji/20190723s00041000106000c.html |title= 市井紗耶香氏、落選を報告「残念で悔しい」 子育て世代の声反映願う「スピード感を持って…」 |newspaper= [[スポニチ]] |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2019-07-23 |accessdate= 2019-07-24 }}</ref>。その後10月に立憲民主党つながる本部「子ども子育て」担当・ コーディネーターに就任した。同年[[11月1日]]、自身のInstagramで芸能事務所・アルカンシェルとマネジメント業務提携契約を報告<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2147789/full/ |title= 市井紗耶香、芸能事務所との契約を報告「タレント活動の幅を広げてまいります」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2019-11-01 |accessdate= 2019-11-01 }}</ref>。ところが2020年1月 [[アルカンシェル]]が市井に契約解除を申し入れ、2月5日付で契約を合意解除した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202002060000099.html|title=市井紗耶香3カ月で事務所と契約解除「語らずとも」|work=nikkansports.com|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2020-02-06|accessdate=2020-02-06}}</ref>。 [[2021年]]8月10日、翌年の[[第26回参議院議員通常選挙]]で、[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]の比例区候補として立候補することを表明した<ref>{{Cite news |title=元モー娘市井紗耶香さん来年の参院選に再出馬 立憲民主党の比例区候補|newspaper=日刊スポーツ|date=2021-08-10|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202108100000677.html|accessdate=2021-08-10}}</ref>が、 [[2022年]]1月24日、立候補辞退を表明した<ref>{{Cite news |title=元「モーニング娘。」市井紗耶香氏、夏の参院選への出馬辞退を表明|newspaper=読売新聞|date=2022-01-24|url=https://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/20220124-OYT1T50128/}}</ref>。 == 家族 == [[2004年]]5月、吉澤直樹と結婚、同年8月25日に長女出産。後に2人目次女も出産。 [[2011年]]6月14日、吉澤直樹と5月23日に離婚していたことが[[週刊女性]]に掲載される。2012年7月、5年前に知人の紹介で知り合った美容師の男性と2度目の結婚。相手は2012年9月24日の自身のブログにて公開された。2013年3月25日、第3子となる男児を出産<ref>[https://web.archive.org/web/20130326032527/http://ameblo.jp/ichii-sayaka/entry-11497632074.html 公式ブログ「ご報告」]2013年3月25日当日閲覧</ref>。 2016年11月10日、第4子の妊娠を発表<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2081250/full/|title=市井紗耶香が第4子妊娠を報告 来春出産予定「奇跡を忘れずに家族みんなで穏やかに」|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-11-10|accessdate=2016-11-10}}</ref>。2017年4月14日、第4子女児の出産を報告<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2088980/full/ |title= 市井紗耶香が第4子女児出産 夫と協力し「1日1日をたいせつに」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2017-04-14 |accessdate= 2017-04-14 }}</ref>。 == 活動 == {{雑多な内容の箇条書き|date=2021年8月10日 (火) 15:44 (UTC)|section=1}} ===モーニング娘。時代=== * [[モーニング娘。]]では、第3期メンバー、[[後藤真希]]の教育係を担当し、その模様が『[[ASAYAN]]』で放送され、『[[うたばん]]』で[[石橋貴明]]に「母さん」という愛称を付けられた1999年初秋から人気に火が点き始め、[[プッチモニ]]で人気が急上昇する。 * シングル「[[恋のダンスサイト]]」がリリースされた当時には、[[安倍なつみ]]や後藤真希と並ぶ人気メンバーとなり、[[シャッフルユニット#2000年 色ユニット|青色7]]ではセンターポジションに抜擢、映画『[[ピンチランナー (映画)|ピンチランナー]]』では重要な配役を担当するが、2000年4月に突然、「[[シンガーソングライター]]になり、ソロ活動をしたい。」と宣言し、同年5月21日の[[日本武道館]]のコンサートを最後に卒業、一時休業した。 * ASAYAN公式本『モーニング娘。5+3-1』の編集担当者は、同じ宝島社から出版された『モーニング娘。バイブル』に収録されたインタビューの中で「後藤真希のことを中心にしたこの本(『モーニング娘。5+3-1』)の続編が計画されていたが、いろいろな理由があって駄目になった。」と語っており、理由の一つとして「市井がちょっと不幸な理由で辞めたこと」をあげている。 === ソロ活動〜引退 === * 2001年10月に復帰を果たすが、公約していたシンガーソングライターとしてではなく、[[中澤裕子]]との「[[FOLK SONGS]]」でアイドル歌手として復帰する。 * 水着写真集の発売や握手会等も行う一方、歌手としてはソロではなく、[[市井紗耶香 in CUBIC-CROSS]]として、ユニットでの再デビュー。ファーストシングルでは、プロデュースを担当したたいせー等に作って貰った曲を歌い、デビュー曲は自らの作詞ではなかったが([[カップリング曲]]を作詞)、セカンドシングル以降は作詞を担当している。 * 2003年9月、ソロとして「4U〜ひたすら〜」をリリースするが、同年11月9日にホームページで「幸せを探したい」と宣言、芸能界を引退した。 === 復帰 === * 2009年8月、[[芸能事務所|所属事務所]]をランベスに移籍して芸能界に再び復帰。その後時期は不明だが、ランベスの関連会社<ref>[https://web.archive.org/web/20120325155537/http://uzg.co.jp/company/ 会社概要] - アンダーゼットグループ</ref>であるアンダーゼットグループに籍を移している。 *市井が[[ハロー!プロジェクト]]と共演したのは復帰直後に『[[MUSIX!]]』と『後藤真希卒業特番』と『Hello! Project 2018 SUMMER』へのゲスト出演である。その他の活動はハロー!プロジェクトとは一線を画した活動を行っていた。 * [[2014年]]30代を対象としたグリコ主催のキャンペーンである「大人AKBオーディション」に応募し、4月初頭に1次選考を通過したが<ref>{{Cite news | url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/04/03/kiji/K20140403007904050.html | title = 元モー娘・市井紗耶香 大人AKB1次選考通過「やったー!」| agency = [[スポーツニッポン新聞社]] | publisher = [[スポニチアネックス]] | date = 2014-04-03 | accessdate = 2014-04-03 }}</ref>、同月の最終選考で落選した<ref>{{Cite news|title=元モー娘。市井紗耶香、大人AKB落選を報告「初心を見つめ直すことが出来た」|newspaper=[https://www.oricon.co.jp/news/ ORICON STYLE]|date=2014-04-14|url=https://www.oricon.co.jp/news/2036327/full/ |accessdate=2014-04-29|publisher=[[オリコン]]}}</ref>。 * 元モーニング娘でありながら大人AKBオーディションに応募してしまった禊として、同年5月4日放送の日本テレビ「[[有吉反省会]]」にてOFR48(おふろフォーティーエイト)のオーディションに応募し合格した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1355809858487/ |title=温泉・サウナ・銭湯…お風呂屋さんで働くアイドル |publisher=OFR48|date=2014-05-04 |accessdate=2014-05-10}}</ref>。 * 2018年8月5日、Hello! Project 2018 SUMMERにゲスト出演し18年ぶりに2期メンバーが集結した<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2116926/ モー娘。2期、18年ぶり再集結で涙 市井紗耶香「ステージに立てて幸せ」 | ORICON NEWS]オリコンニュース2018-08-05 21:00</ref>。 == 作品 == === シングル === <!--*市井紗耶香 in CUBIC-CROSS # 人生がもう始まってる (2002年4月24日) # 失恋LOVEソング (2002年7月10日) # 届け! 恋のテレパシー (2002年9月11日) # ずっとずっと (2003年5月1日)--> {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! &nbsp; ! 発売日 ! タイトル ! 収録曲 ! 備考 |- ! colspan="7"|[[アップフロントワークス#PICCOLO TOWN|PICCOLO TOWN]] |- | 1st | 2003年9月3日 | '''4U~ひたすら~''' | # 4U~ひたすら~ #:作詞:三浦徳子/作曲:たいせー/編曲:TATOO # 不器用な天使 #:作詞:三浦徳子/作曲:たいせー/編曲:朝井泰生 # 4U~ひたすら~(Instrumental) # 不器用な天使(Instrumental) | * 品番:PKCP-5024 * オリコン最高順位30位 * [[モンスターファームシリーズ|モンスターファーム4]]主題歌 * 初回盤ピクチャーレーベル仕様 |} === アルバム === * 市井紗耶香 with 中澤裕子 # FOLK SONGS (2001年11月29日) <!--* 市井紗耶香 in CUBIC-CROSS # C:BOX (2002年11月20日)--> === 配信=== * featuring 市井紗耶香+with d. # 『はじまりのカウントダウン』 #Episode 0 (2020年2月14日) === 映像作品 === * [[FOLK SONGS#DVD・VHS|FOLK DAYS〜市井紗耶香with中澤裕子〜]](2002年2月28日) == 出演 == === 映画 === * [[モーニング刑事。抱いてHOLD ON ME!]](1998年) * [[ピンチランナー (映画)|ピンチランナー]](2000年) - 林原真穂 役 * 名古屋MEN'S物語 KNIGHTS&NOODLE(2010年) - 主演:小出美和 役 * [[明日に架ける愛]](2012年) - 主演:佐伯悠子 役 * ダブルスカイ(2012年、日本赤十字社献血推進広報映画) - ヒロイン役 === Vシネマ === * パチンコクイーン・七瀬(2011年7月8日)- 主演:鮎川七瀬 役 * パチンコクイーン・七瀬2(2011年8月5日)- 主演:鮎川七瀬 役 * パチンコクイーン・七瀬3(2012年2月3日)- 主演:鮎川七瀬 役 * パチンコクイーン・七瀬4(2012年3月2日)- 主演:鮎川七瀬 役 === テレビ === * [[ASAYAN]](1998年5月 - 2000年5月、[[テレビ東京]]) - 準レギュラー * [[モーニング娘。のへそ]](2000年1月 - 5月、テレビ東京) * [[ハロー!モーニング]](2000年4月 - 5月、テレビ東京) * [[フライデーナイトはお願い!モーニング]](2000年4月 - 5月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[クイズ!先端tic]](2011年4月16日 - 9月24日、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]) - 特命リサーチャーSAYAKA として === テレビドラマ === * [[月曜ゴールデン]]「[[上条麗子の事件推理]]10」(2012年10月29日、[[TBSテレビ|TBS]]) - 木元美穂 役 === ラジオ === * プッチモニダイバー(1999年10月 - 2000年5月、[[エフエム東京|TOKYO FM]]) * 市井紗耶香 RADIO DELUXIAN(2002年4月 - 2003年11月、TOKYO FM) * [[SUPER STAR QR]](2002年4月 - 2003年7月、[[文化放送]]) === CM === * [[モンスターファームシリーズ|モンスターファーム4]] (2003年、[[テクモ]]) * POND'S ブラッククリーン(2010年、[[ユニリーバ・ジャパン]]) === ステージ === * [[東京ガールズコレクション]](2009年 - ) * 東京ガールズアワード(2010年) === 舞台 === * 悪魔の絵本(2010年10月) - 主演:川田希 役 * SmokeCompany vol.1「夏の終わりに」(2011年8月31日 - 9月4日、笹塚ファクトリー) === ライブ === * Hello! Project 20th Anniversary!! Hello! Project 2018 SUMMER 〜ALL FOR ONE〜/〜ONE FOR ALL〜(2018年8月4日・5日、[[中野サンプラザ]]、計2公演) - ゲスト出演<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-15 |url=http://www.helloproject.com/news/8741/ |title=「Hello! Project 2018 SUMMER」ハロー!プロジェクトOGのゲスト出演が決定! |work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト |accessdate=2018-06-16}}</ref> * Hello! Project 20th Anniversary!! Hello! Project 2019 WINTER 〜YOU & I〜(2019年1月12日、中野サンプラザ、昼公演) - ゲスト出演<ref>{{Cite web|和書|date=2018-11-19 |url=http://www.helloproject.com/news/9565/ |title=「Hello! Project 2019 WINTER」ハロー!プロジェクトOGのゲスト出演が決定致しました。 |work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト |accessdate=2018-11-19}}</ref> * Hello! Project 25th ANNIVERSARY CONCERT「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」ACT I(2023年9月10日、[[国立代々木競技場]] 第一体育館)<ref>{{Cite web|和書|date=2023-07-07 |url=https://www.up-fc.jp/helloproject/news_Info.php?id=21842 |title=「Hello! Project 25th ANNIVERSARY CONCERT」FC先行受付のお知らせ |work=ハロー!プロジェクトオフィシャルファンクラブWebサイト |accessdate=2023-07-07}}</ref> === イベント === * Hello! Project 25周年 モーニング娘。2期 保田圭・矢口真里Presents「2(に)」(2023年5月26日、I'M A SHOW) - ゲスト出演<ref>{{Cite web|和書|date=2023-05-14 |url=https://natalie.mu/music/news/524411 |title=ハロプロ25周年イベントで保田、矢口、市井のモー娘。2期メンが集結 |work=音楽ナタリー |accessdate=2023-07-08}}</ref> == 書籍 == === 写真集 === * SELF (2002年1月17日、[[ワニブックス]])ISBN 9784847026935 === 雑誌 === * saita (2010年1月 - 、セブン&アイ出版) - 市井紗耶香のナチュラルコスメ。 * ARE YOU HAPPY? (2018年5月号、[[幸福の科学出版]]) - 【SPECIAL INTERVIEW】市井紗耶香「ママ友関係でも夫婦関係でも、大切にしているのは「距離感」です。」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2021 |title=【SPECIAL INTERVIEW】市井紗耶香 ARE YOU HAPPY? 2018年5月号 |publisher=幸福の科学出版 |accessdate=2019-06-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200923164302/https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2021 |archivedate=2020-09-23}}</ref>    == 過去の参加グループ・ユニット == * [[モーニング娘。]](1998年 - 2000年) * [[プッチモニ]](1999年 - 2000年) * [[シャッフルユニット]] ** [[シャッフルユニット#2000年 色ユニット|青色7]](2000年) * [[市井紗耶香 in CUBIC-CROSS]](2002年 - 2003年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ハロー!プロジェクト]] * [[藤井みほな]] * [[ PATI PATI CANDY...☆]] == 外部リンク == * [https://ichiisayaka.com/ 市井紗耶香オフィシャルブログ](2016年2月1日 - ) * {{Ameba ブログ|ichii-sayaka|市井紗耶香オフィシャルブログ}}(2009年8月24日 - 2016年2月1日、2018年6月27日 - ) * {{Twitter|sayakaichii}} * {{instagram|sayakaichii}} * {{voicy|859|市井紗耶香のLove Life}} {{モーニング娘。}} {{ハロー!プロジェクト}} {{プッチモニ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いちい さやか}} [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:日本の女性ファッションモデル]] [[Category:モーニング娘。のメンバー]] [[Category:プッチモニ]] [[Category:過去のハロー!プロジェクト所属者]] [[Category:ガールズアワード出演モデル]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:立憲民主党の人物 (日本 2020)]] [[Category:立憲民主党の人物 (日本 2017)]] [[Category:参議院議員通常選挙の立候補経験者]] [[Category:1983年生]] [[Category:存命人物]]
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綏靖天皇
綏靖天皇(すいぜいてんのう、旧字体: 綏靖󠄁天皇、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。 神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子。母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)。同母兄に神八井耳命(多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。 父帝が崩御した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、崩御。 漢風諡号である「綏靖」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は中国三国時代について書かれた歴史書三国志に由来している。 神武天皇76年3月11日に父帝が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。 即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく欠史八代の1人に数えられる。 『日本書紀』による。 (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載) 『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。 宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)、『古事記』では葛城高岡宮。 宮の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、『大和志』以来現在の奈良県御所市森脇周辺と推定される。同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている(北緯34度26分56.58秒 東経135度42分43.93秒 / 北緯34.4490500度 東経135.7122028度 / 34.4490500; 135.7122028 (伝・葛城高丘宮阯))。 陵(みささぎ)の名は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」に治定されている(北緯34度30分2.71秒 東経135度47分21.65秒 / 北緯34.5007528度 東経135.7893472度 / 34.5007528; 135.7893472 (桃花鳥田丘上陵(綏靖天皇陵)))。宮内庁上の形式は円丘。直径30メートルの円墳と推測される。 陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし中世には荒廃して所在が失われた。元禄の探陵の際に諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、現陵に神武天皇陵が比定されていた。しかし幕末修陵に際して改められ、明治11年(1878年)に現陵が綏靖天皇陵に治定された。円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、平成29年度(2017年度)に初めて実施された考古・歴史学会代表者の立ち入り調査によれば古墳の可能性が高いと推測される。陵のある橿原市四条町周辺では、昭和62年(1987年)以降の調査において藤原京造営時に削平された四条古墳群の存在が明らかとなっており、この古墳群と神武陵・綏靖陵との関連が指摘される(「四条古墳群」参照)。 また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。そのほか、阿蘇神社では「金凝神」として十二宮に祀られている。 綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。 一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主・春日県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、特に綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの記述があること、在位年数が最も短く、2倍年暦、4倍年暦で考えれば実際の年数は16年または8年と現実性があることが指摘される。 和風諡号である「かん-ぬなかわみみ」のうち、「かん」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、綏靖天皇の原像は「ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。 南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。ペルシアの叙事詩シャー・ナーメに登場する暴君ザッハークとの共通性を指摘する説もある(大林太良 『神話の系譜 -日本神話の源流をさぐる-』 講談社、1991年)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "綏靖天皇(すいぜいてんのう、旧字体: 綏靖󠄁天皇、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子。母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)。同母兄に神八井耳命(多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "父帝が崩御した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、崩御。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漢風諡号である「綏靖」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は中国三国時代について書かれた歴史書三国志に由来している。", "title": "名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "神武天皇76年3月11日に父帝が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。", "title": "事績" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく欠史八代の1人に数えられる。", "title": "事績" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『日本書紀』による。", "title": "系譜" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)", "title": "后妃・皇子女" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。", "title": "年譜" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)、『古事記』では葛城高岡宮。", "title": "宮" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "宮の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、『大和志』以来現在の奈良県御所市森脇周辺と推定される。同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている(北緯34度26分56.58秒 東経135度42分43.93秒 / 北緯34.4490500度 東経135.7122028度 / 34.4490500; 135.7122028 (伝・葛城高丘宮阯))。", "title": "宮" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "陵(みささぎ)の名は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」に治定されている(北緯34度30分2.71秒 東経135度47分21.65秒 / 北緯34.5007528度 東経135.7893472度 / 34.5007528; 135.7893472 (桃花鳥田丘上陵(綏靖天皇陵)))。宮内庁上の形式は円丘。直径30メートルの円墳と推測される。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている。しかし中世には荒廃して所在が失われた。元禄の探陵の際に諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、現陵に神武天皇陵が比定されていた。しかし幕末修陵に際して改められ、明治11年(1878年)に現陵が綏靖天皇陵に治定された。円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、平成29年度(2017年度)に初めて実施された考古・歴史学会代表者の立ち入り調査によれば古墳の可能性が高いと推測される。陵のある橿原市四条町周辺では、昭和62年(1987年)以降の調査において藤原京造営時に削平された四条古墳群の存在が明らかとなっており、この古墳群と神武陵・綏靖陵との関連が指摘される(「四条古墳群」参照)。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。そのほか、阿蘇神社では「金凝神」として十二宮に祀られている。", "title": "陵・霊廟" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。", "title": "考証" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主・春日県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、特に綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの記述があること、在位年数が最も短く、2倍年暦、4倍年暦で考えれば実際の年数は16年または8年と現実性があることが指摘される。", "title": "考証" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "和風諡号である「かん-ぬなかわみみ」のうち、「かん」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、綏靖天皇の原像は「ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある。", "title": "考証" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。ペルシアの叙事詩シャー・ナーメに登場する暴君ザッハークとの共通性を指摘する説もある(大林太良 『神話の系譜 -日本神話の源流をさぐる-』 講談社、1991年)。", "title": "伝承" } ]
綏靖天皇は、日本の第2代天皇。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。
{{基礎情報 天皇 | 名 =綏靖天皇 | 代数=第2 | 画像=Suizei thumb 1.jpg | 画像説明=『御歴代百廿一天皇御尊影』より「綏靖天皇」 | 在位=綏靖天皇元年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]] - 綏靖天皇33年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]<!--[[Wikipedia:表記ガイド#年月日・時間]]に基づき、西暦表記は記載しない。以下同様。--> | 時代=神代(弥生時代後期) | 年号= | 首都= | 皇居=[[#宮|葛城高丘宮]](葛城高岡宮) | 諱 = | 幼称= | 別名= | 印 = | 生年=神武天皇29年 | 生地= | 没年=綏靖天皇33年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]] 84歳 | 没地= | 陵墓=[[#陵・霊廟|桃花鳥田丘上陵]] | 漢風諡号=綏靖天皇 | 和風諡号=神渟名川耳天皇(紀)<br />神沼河耳命(記) | 異称=建沼河耳命 | 先代=[[神武天皇]] | 次代=[[安寧天皇]] | 子 =磯城津彦玉手看尊([[安寧天皇]]) | 皇后=[[五十鈴依媛命]](紀)<br />[[河俣毘売]](記) | 父親=[[神武天皇]] | 母親=[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]](紀)<br />[[伊須気余理比売]](記) | 注釈=[[欠史八代]]の1人。 }} {{座標一覧}} '''綏靖天皇'''(すいぜいてんのう、{{旧字体|'''綏靖&#xe0101;天皇'''}}、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]])は、[[日本]]の第2代[[天皇]](在位:綏靖天皇元年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]] - 綏靖天皇33年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]])。 <!-- ※[[Wikipedia]]においては、必ず[[Wikipedia:中立的な観点]]のガイドラインにそって「対立する観点との相対的な勢力差を示す」必要があります。「各観点を1人ずつの主張として記すことによって、圧倒的な多数派の観点とごく少数の人々の観点をあたかも対等であるかのように伝えて」しまうのはナンセンスです。 [[学術]]的に主流とされる見解を記載の上で実在性の是非について編集を行ってください。 -->『[[日本書紀]]』での名は'''神渟名川耳天皇'''(かんぬなかわみみのすめらみこと)。[[欠史八代]]の一人で、実在性については諸説ある。 == 略歴 == 神日本磐余彦天皇([[神武天皇]])の第三皇子。母は[[事代主|事代主神]]の娘の[[ヒメタタライスズヒメ|媛蹈鞴五十鈴媛命]]([[日本書紀]]){{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}。同母兄に[[神八井耳命]]([[多氏|多臣]]等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に[[日子八井命]](日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。 父帝が崩御した3年後の11月、異母兄の[[手研耳命]]を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、[[事代主|事代主神]]の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる[[五十鈴依媛命]]を皇后として[[安寧天皇|磯城津彦玉手看尊]](後の[[安寧天皇]])を得た。即位33年、崩御。 == 名 == * 神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと) - 『[[日本書紀]]』 * 神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと) - 『[[古事記]]』 * 建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと) - 『古事記』手研耳命を殺したことによる名。 [[漢風諡号]]である「綏靖」は、[[8世紀]]後半に[[淡海三船]]によって撰進された名称とされる<ref>[[上田正昭]] 「諡<!--おくりな-->」『日本古代史大辞典』 [[大和書房]]、2006年。</ref>。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は[[三国時代 (中国)|中国三国時代]]について書かれた[[歴史書]][[三国志 (歴史書)|三国志]]に由来している。 {{Quote|君其茂昭明德,修乃懿績,敬服王命,'''綏靖'''四方。<ref>{{cite wikisource||wslanguage=zh|title=三國志/卷58|author=[[陳壽]]}}</ref>}} == 事績 == 神武天皇76年3月11日に父帝が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の[[手研耳命]]は皇位に就くため弟の[[神八井耳命]]と神渟名川耳尊を害そうとした([[タギシミミの反逆]])。[[己卯]]年{{efn2|己卯年は神武天皇崩御年(神武天皇76年:[[丙子]]年)の3年後、綏靖天皇即位年([[庚辰]]年)の前年にあたる。}}11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、[[弓部稚彦]]に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘([[奈良県]][[北葛城郡]][[王寺町]]・[[香芝町]]・[[上牧町]]付近か{{Sfn|手研耳命(古代氏族)|2010年}})の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった{{Sfn|手研耳命(古代氏族)|2010年}}{{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}。 即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく[[欠史八代]]の1人に数えられる。 == 系譜 == === 系図 === 『日本書紀』による。 <div style="max-width:650px;min-width:300px;margin:auto auto auto 0;"> <div style="margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; text-align: center; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align:center"> {{familytree/start}} {{familytree|border=0| | | | | | | | | |)|-|-|.| | | | | }} {{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[天照大神|{{Bgcolor|#F2CEE0|天照大神}}]]'''|002=[[素戔嗚尊]]}} {{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }} {{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[天忍穂耳尊]]'''|002=[[大己貴神]]}} {{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }} {{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | 002 | | | |001='''[[瓊瓊杵尊]]'''|002=[[事代主神]]}} {{familytree|border=0| |,|-|-|-|-|-|-|-|(| | |)|-|-|.| | }} {{familytree|border=0| 001 | | | | | | 002 | 003 | |!| |001=[[火闌降命]]|002='''[[火折尊]]'''|003=[[鴨王 (上古)|鴨王]]}} {{familytree|border=0| |!| | | | | | | |!| | |!| | |!| | }} {{familytree|border=0| |)|-|-|.| | | | 001 | 002 | |!| |001='''[[鸕鶿草葺不合尊]]'''|002=(子孫は[[賀茂朝臣氏|賀茂氏]]・[[三輪氏]])}} {{familytree|border=0| |!| | |!| | | | |!| | | | | |!| | }} {{familytree|border=0| 001 | 002 |y|~| 003 |~|y|~| 004 |001=[[天曽利命]]|002=[[吾平津媛|{{Bgcolor|#F2CEE0|吾平津媛}}]]|003={{Supra|1}} '''神武天皇'''|004=[[媛蹈鞴五十鈴媛命|{{Bgcolor|#F2CEE0|媛蹈鞴五十鈴媛命}}]]}} {{familytree|border=0| |!| | | | |!| | |,|-|-|(| | | | | }} {{familytree|border=0| 001 | | | 002 | 003 | 004 | | | |001=(子孫は[[隼人]])|002=[[手研耳命]]|003=[[神八井耳命]]|004={{Supra|2}} '''綏靖天皇'''}} {{familytree|border=0| | | | | | | | | |!| | |!| | | | | }} {{familytree|border=0| | | | | | | | | 001 | |!| | | | |001=(子孫は[[多氏]])}} {{familytree/end}} <div style="text-align:left; margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; border-collapse: collapse; font-size: 95%"> * {{Bgcolor|#F2CEE0|赤背景}}は女性。 </div> </div> </div> {{-}} {{皇室欠史八代}} == 后妃・皇子女 == {{Smaller|(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)}} * 皇后:[[五十鈴依媛命]](いすずよりひめのみこと) *: 『日本書紀』本文による。[[事代主|事代主神]]の娘で、綏靖天皇の叔母(母の妹)にあたる。 *: ただし、同書第1の一書では磯城県主の娘の[[川派媛]]、第2の一書では春日県主大日諸命の女の[[糸織媛]]とし、『古事記』では師木県主の祖の[[河俣毘売]](かわまたびめ)とする{{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}。ただし大日諸命は神武朝に活躍した[[天種子命]]([[中臣氏]]の祖)の子にあたるため、実際には大日諸命の妹の誤記であると見られる。 ** 皇子:磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと、師木津日子玉手見命) - 第3代'''[[安寧天皇]]'''。 == 年譜 == 『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである<ref name="iwanami">『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410</ref>。機械的に西暦に置き換えた年代については「[[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧]]」を参照。 * 神武天皇29年 ** 誕生 * 神武天皇42年 ** 1月、立太子 * 神武天皇76年 ** 神武天皇崩御、この時48歳 * 神武天皇76年の3年後 ** 異母兄の[[手研耳命]]を暗殺 * 綏靖天皇元年 ** 1月、即位。葛城高丘宮に遷都 ** 7月、[[五十鈴依媛命]]を立后 * 綏靖天皇21年 ** 1月、[[安寧天皇|磯城津彦玉手看尊]]を立太子 * 綏靖天皇33年 ** 12月、崩御。宝算は84歳、『古事記』では45歳という{{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}} * 安寧天皇元年 ** 10月、桃花鳥田丘上陵に葬られた == 宮 == [[File:Legendary Imperial Palace of Emperor Suizei-2.jpg|thumb|220px|right|{{center|綏靖天皇 葛城高丘宮阯碑<br />([[奈良県]][[御所市]])}}]] 宮([[皇居]])の名称は、『日本書紀』では'''葛城高丘宮'''(かずらきのたかおかのみや)、『古事記』では'''葛城高岡宮'''{{Sfn|葛城高丘宮(国史)}}。 宮の伝説地は『[[和名類聚抄]]』に見える大和国[[葛上郡]]高宮郷と見られ、『大和志』以来現在の[[奈良県]][[御所市]]森脇周辺と推定される{{Sfn|葛城高丘宮(国史)}}{{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}。同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている({{Coord|34|26|56.58|N|135|42|43.93|E|region:JP-29|name=伝・葛城高丘宮阯}})<ref>[http://ryobo.fromnara.com/palace/p002-1.html 葛城高丘宮](陵墓探訪記<個人サイト>)。</ref>。 == 陵・霊廟 == [[File:Tomb of Emperor Suizei, haisho.JPG|thumb|220px|right|{{center|綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵<br />(奈良県[[橿原市]])}}]] [[天皇陵|陵]](みささぎ)の名は'''桃花鳥田丘上陵'''(つきだのおかのえのみささぎ)。[[宮内庁]]により[[奈良県]][[橿原市]]四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」に治定されている({{Coord|34|30|2.71|N|135|47|21.65|E|region:JP-29|name=桃花鳥田丘上陵(綏靖天皇陵)}})<ref>[https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/successive_list.html 天皇陵](宮内庁)。</ref><ref>宮内省諸陵寮編[{{NDLDC|1237123/8}} 『陵墓要覧』](1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。</ref>{{Sfn|桃花鳥田丘上陵(国史)}}。宮内庁上の形式は[[円墳|円丘]]。直径30メートルの[[円墳]]と推測される<!--古墳であるかすら不明-->。 陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、『[[延喜式]]』諸陵寮では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている{{Sfn|桃花鳥田丘上陵(国史)}}。しかし中世には荒廃して所在が失われた。[[元禄]]の探陵の際に諸説が生じ、慈明寺町の[[スイセン塚古墳]](前方後円墳、墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、現陵に神武天皇陵が比定されていた。しかし幕末修陵に際して改められ、[[明治]]11年([[1878年]])に現陵が綏靖天皇陵に治定された{{Sfn|桃花鳥田丘上陵(国史)}}。円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、[[平成]]29年度([[2017年]]度)に初めて実施された考古・歴史学会代表者の立ち入り調査によれば古墳の可能性が高いと推測される<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180224/ddl/k29/040/554000c "綏靖天皇陵 初調査 考古学協会など「円形の古墳か」 橿原 /奈良"](毎日新聞、2018年2月24日記事)。<br>[https://www.sankei.com/article/20180224-PNU7CP3XV5P4ZD4PAXS5QPFO5Y/ "奈良・橿原の綏靖天皇陵に立ち入り調査 研究者ら円墳と確認"](産経新聞、2018年2月24日記事)。</ref>。陵のある橿原市四条町周辺では、[[昭和]]62年([[1987年]])以降の調査において[[藤原京]]造営時に削平された[[四条古墳群]]の存在が明らかとなっており、この古墳群と神武陵・綏靖陵との関連が指摘される(「[[四条古墳群]]」参照)。 また[[皇居]]では、[[宮中三殿]]の1つの[[皇霊殿]]において他の歴代天皇・皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。そのほか、[[阿蘇神社]]では「金凝神」として十二宮に祀られている。 == 考証 == === 実在性 === 綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「[[欠史八代]]」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。 一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主・春日県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、特に綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの記述があること、在位年数が最も短く、2倍年暦、4倍年暦で考えれば実際の年数は16年または8年と現実性があることが指摘される<ref name="欠史八代">[[上田正昭]] 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 [[大和書房]]、2006年。</ref>。 === 名称 === [[和風諡号]]である「かん-ぬなかわみみ」のうち、「かん」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、綏靖天皇の原像は「'''ぬなかわみみ'''(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある{{Sfn|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}。 == 伝承 == [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の編とされる『[[神道集]]』によれば、綏靖天皇には[[カニバリズム|食人]]の趣味があり朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという<ref>古川順弘 「古代天皇41代の履歴と業績」『ここまでわかった! 日本書紀と古代天皇の謎(新人物文庫)』 『歴史読本』編集部編、中経出版、2014年、pp. 261-262。</ref>。[[ペルシア]]の叙事詩[[シャー・ナーメ]]に登場する暴君[[ザッハーク]]との共通性を指摘する説もある([[大林太良]] 『神話の系譜 -日本神話の源流をさぐる-』 [[講談社]]、[[1991年]]{{要ページ番号|date=2018-11}})。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}} ** {{Wikicite|reference=[[関晃]]「綏靖天皇」|ref={{Harvid|綏靖天皇(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=中村一郎「桃花鳥田丘上陵」(綏靖天皇項目内)|ref={{Harvid|桃花鳥田丘上陵(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=岡田隆夫「葛城高丘宮」|ref={{Harvid|葛城高丘宮(国史)}}}} * {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=9784642014588|ref=}} ** {{Wikicite|reference=「綏靖天皇」|ref={{Harvid|綏靖天皇(古代氏族)|2010年}}}}、{{Wikicite|reference=「手研耳命」|ref={{Harvid|手研耳命(古代氏族)|2010年}}}}、{{Wikicite|reference=「神八井耳命」|ref={{Harvid|神八井耳命(古代氏族)|2010年}}}} == 関連項目 == * [[欠史八代]] == 外部リンク == {{Commonscat|Emperor Suizei}} * [https://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/002/index.html 桃花鳥田丘上陵] - 宮内庁 {{歴代天皇一覧}} {{DEFAULTSORT:すいせいてんのう}} [[Category:古墳時代以前の天皇]]
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[ "Template:皇室欠史八代", "Template:Smaller", "Template:Notelist2", "Template:Wikicite", "Template:基礎情報 天皇", "Template:Efn2", "Template:Familytree", "Template:Cite book", "Template:Commonscat", "Template:座標一覧", "Template:Familytree/start", "Template:-", "Template:Coord", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Quote", "Template:Familytree/end", "Template:Center", "Template:要ページ番号", "Template:Reflist", "Template:歴代天皇一覧", "Template:旧字体", "Template:Sfn", "Template:Bgcolor" ]
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独ソ戦
独ソ戦(どくソせん、獨蘇戰、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。 大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソ連であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(ロシア語: Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。 ソ連は首都モスクワ前面まで攻め込まれたものの、英米を主力とする西側連合国とともに反撃に転じ、ベルリンの戦いでナチス・ドイツを敗北させた。戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となり、占領した東欧諸国に社会主義政権を樹立して東側ブロックを形成して冷戦に至った。戦場はドイツ東部を含む東欧諸国とソ連西部のほか、北欧(ノルウェー北部およびフィンランド)に広がり、さらに英米からソ連への援助を断つべく通商破壊が北極海やインド洋でも行われた。 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた。 1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した 。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアによる圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど、自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また、反共産主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラヴ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人である。民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど、極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している(第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働(英語版))。また、ドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した(ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働(英語版))。 開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となった。1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がドイツの首都ベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。 ヒトラーは自伝『我が闘争』(1925年)において、ドイツ人のための生存圏の必要性、すなわち東ヨーロッパ、特にロシアにおける新しい領土の獲得の必要性について論じていた。 ヒトラーはそこにドイツ人を定住させることを構想していた。それは、ナチスの思想にもあるように、ドイツ人が「支配人種」を構成する一方で、既存住民のほとんどを根絶またはシベリアへ移送し、残りを奴隷労働者として使用する構想であった。 ヒトラーは第一次世界大戦中の1917年の時点で既にロシア人を劣等人種と呼んでおり、ボリシェヴィキ革命によって、ユダヤ人がスラヴ人の大衆を支配するようになったと考えていた。ヒトラーの見解は、スラヴ人には自存自立する能力がないから、ユダヤ人の主人たちに支配されることになったというものであった。 ハインリヒ・ヒムラーらナチスの指導層は、ソ連に対する戦争はナチズムとユダヤ人ボルシェビズムの間のイデオロギー闘争であり、なおかつ、ナチス思想によれば優等民族であるアーリア人種で超人でもあるゲルマン人が、劣等民族であるスラヴ人の犠牲の上に、その領土を拡張することを保証するための戦争と考えていた。 ドイツ軍の将校たちは、配下の兵たちに「ユダヤ人のボルシェビキの劣等民族」や「モンゴルの遊牧民ども」「アジア人の殺到」「赤い獣」と描写される人々を狙うよう指示していた。ドイツ兵の多くはナチス的な見方でこの戦争を捉えており、敵のソ連兵は劣等人種(人間以下)と見なしていた。 ヒトラーはこの戦争を急進的な見方で捉えており、この戦争を「絶滅戦争」(Vernichtungskrieg) と呼び、これはイデオロギー戦争であるとともに、人種戦争でもあると捉えていた。東欧の将来についてのナチスの見方は「東部総合計画」において、最も明瞭に成文化されている。占領した中欧およびソ連の住民は、その一部を西シベリアへ移住させ、奴隷化した上で最終的には根絶する。征服した地域にはドイツ人もしくは「ドイツ化」された住民を植民する。さらに、ナチスは彼らのユダヤ人絶滅計画の一環として、中欧と東欧のユダヤ人住民を一掃することも模索した。 1941年のキエフの戦いにおいてドイツが緒戦の成功を収めると、ヒトラーはソ連は軍事的に弱いとみて、すぐにでも征服できると考えた。10月3日のベルリン・スポーツ宮殿での演説で、ヒトラーは「我々がドアを蹴破っただけで、腐敗した建物は全体が崩れ落ちる」と述べた。したがって、ドイツは、ポーランド侵攻やフランス侵攻などで成功させた短期間の電撃戦を再度行うことを想定しており、長期戦には真剣に備えていなかった。しかしながら、スターリングラード攻防戦(1942~1943年)においてソ連軍が決定的勝利を収め、その結果としてドイツ軍が悲惨な状況に陥ると、ナチスの宣伝工作はこの戦争を、欧州になだれ込んでくる巨大な「ボルシェビキ」の遊牧民たちがもたらす破壊に対抗して、ドイツが西欧文明を防衛するための戦争と位置付けて描くようになっていった。 1930年代を通じて、ソ連はヨシフ・スターリンの指導のもとで、大きな工業化と経済成長を成し遂げた。スターリンの中心的な主義である「一国社会主義論」は、1929年以降のソ連の五カ年計画に組み込まれた。これはソ連の政策のイデオロギーが、国際的な共産主義革命(世界革命論)の方向から離れて、最終的には1943年のコミンテルン(第三インターナショナル)解散へとつながっていく方向へ転換したことを示していた。ソ連は公式に1928年から始まった第一次五か年計画で軍事力強化の過程を開始した。軍事力強化は1930年代中頃の第二次五か年計画の終わりまでとされものの、軍事力はソ連の工業化の重要な焦点となった。 1936年2月のスペイン総選挙の結果、スペイン第二共和政の人民戦線政権に多くの共産主義指導者たちが加わることとなったが、数か月も経ずして右翼の軍事クーデターが発端となりスペイン内戦 (1936~1939年) が始まった。この紛争はすぐに社会主義者・共産主義者たちが率いるスペイン第二共和国の側に立つソ連や様々な国からの左翼の志願兵たち、そしてスペインの国家主義者たち(フランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍)の側に立つナチス・ドイツ 、ファシスト政権のイタリア、ポルトガルを巻き込んだ代理戦争の性質を帯び始めた。この戦争は、ドイツ軍と赤軍にとって、新しい装備や戦術を試すための有用な試験場となった。両者ともそれを後の第二次世界大戦でより大規模に実行することになった。 ナチス・ドイツは反共主義の政権であり、そのイデオロギー的な立場を、1936年11月25日に署名された日本との防共協定において正式な国の政策とした。一年後、ファシスト政権のイタリアも防共協定に加わった。ソ連はドイツの拡大を包囲する狙いで、仏ソ相互援助条約をフランスやチェコスロバキアと議論した。1938年のドイツによる「アンシュルス」(オーストリア併合)とチェコスロバキア解体 (1938~1939) により、かねてマクシム・リトヴィノフの下でソ連外務省が主唱していた欧州の集団的自衛体制を確立することは不可能であることが示されてしまった。 このことと、イギリス・フランス政府が全面的に対ドイツの全面的な政治的・軍事的同盟をソ連と結ぶことに前向きとなったこともあって、1939年8月末頃の独ソ不可侵条約につながった。これとは別に、枢軸国を構成することになる主要三国が日独伊三国同盟を締結するのは防共協定が締結されてから約4年後のこととなる。 第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、ラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツはヴェルサイユ条約により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と領土が乏しかった。ソ連は資源と領土は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。 1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーをはじめとするナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を唱えており、ソ連はナチスを「ファシスト」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、赤軍大粛清の一因に、SD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒの謀略があったともされる。 その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避けることを目論んで、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶこととなる。 この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する軍用機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。 しかしヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ、侵攻計画の策定を命令した。この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした。 一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している。 1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の作戦準備を正式に指令した。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンをはじめとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。 6月22日、ナチス・ドイツはソビエト連邦に対して宣戦布告。直後、イタリア王国、ルーマニア王国も続いて宣戦布告を行った。 ドイツ軍はバルバロッサ作戦の発動により独ソ国境で一斉に侵攻を開始。当初、侵攻は5月を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変によりドイツはユーゴスラビア侵攻を実践しようとし、対ソ開戦は一ヶ月以上延期されていた。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令し(コミッサール指令)、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている。 開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降して捕虜となった。また、ソ連空軍はドイツ空軍の爆撃による地上撃破や空中戦による撃墜で大打撃を受け、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし南方軍集団は投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(「バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因」参照)。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった。 その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、キエフ、ハリコフなどが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。 ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロメートルの所まで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。 その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領がソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワが陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。 ドイツ軍の損害は既に投入兵力の35%、100万人に及び、この年だけで戦死者は20万人に達していた。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された。ヒトラーは陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった。ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させることに成功した。ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。 ソ連側は焦土作戦によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、さらにドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない東方へ疎開させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。 ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍およびその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られた。このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部および南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した(第二次ハリコフ攻防戦)。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。 前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になった。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が立てられた。6月28日、南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、スターリンは『ソ連国防人民委員令第227号』を発し、全戦線における抵抗を命じた。コーカサスの油田地帯に向かったドイツのA軍集団は油田のあるマイコプを占領したが、油田は既にソ連軍により火をつけられていた。次にA軍集団は油田のある東のグロズヌイに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した。 スターリングラードに向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた(スターリングラード攻防戦)。このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模な反攻作戦の準備を進めていた。反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。空軍総司令官で国家元帥のゲーリングが空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。ドイツ軍は包囲網の外から陸路での救出作戦も行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった。 1943年1月後半、スターリングラードで包囲されていた約10万人の枢軸軍は、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥の決断により投降して捕虜となった。一方、コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前に辛うじて撤退に成功した。この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。何よりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。 一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ソ連の将軍であるゲオルギー・ジューコフは「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、スターリングラードの勝利を評価している。 ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。主力戦車の交代(III号戦車→V号戦車パンター)、自走砲の出現、ブルムベアのような市街地戦闘を想定した大口径の突撃砲。これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。 1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された(クルスクの戦い)。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃を阻まれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。 時を同じくして米英により行われたシチリア上陸作戦の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。 ドイツがソ連に侵攻を開始したバルバロッサ作戦からちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢であるバグラチオン作戦を発動した。ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、ミハイル・トゥハチェフスキーらにより理論化された縦深攻撃を展開。圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すらできない部隊はもはや機動戦すらできず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅することになる。 この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。 南部ではヤッシー=キシナウ攻勢の影響によりルーマニアでクーデターが発生して枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアとフィンランドも枢軸側より離脱した。一方ハンガリーは、ドイツ軍主導のパンツァーファウスト作戦の工作により枢軸側に留まった。 1月からは赤軍がヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmに迫った。2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。 4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効することになった。 8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー英軍元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。しかし、独ソ戦全ての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。 ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうランドパワーとしての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることのできない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。 独ソ戦が始まると、それまでソ連を度々非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ち始め、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったといえる。 航空機、戦車などの正面装備、トラック、ジープ、機関車、無線機、野戦電話、電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰、靴、ブーツのような一般工業製品から銅、アルミニウムといった原材料まで様々な援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。 スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とその影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。 そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、ポーランド亡命政府とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。 連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。モスクワ会談(英語版)ではチャーチルがスターリンと「パーセンテージ協定」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。 しかし、後のポツダム会談でソ連はさらに進出の意向を示す。さらにアメリカ合衆国大統領フランクリン・ローズベルトの死去により副大統領から大統領に昇格したハリー・トルーマンも、人類初の核実験であるトリニティ実験の成功の報を受けてソ連への態度を硬化させた。そのためポツダム会談はローズベルトの融和的政策のもとでなされたヤルタ会談と全く異なるものとなった。 共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、冷戦という対立軸へと向かうことになる。 ナチズムにおいてスラヴ人は劣等民族として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという『東部総合計画』はこの時期に立てられたものである。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケは、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた(飢餓計画(英語版))。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている。 また、親衛隊によって組織されたアインザッツグルッペンは、占領地域の治安維持のためとしてユダヤ人や共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地ではホロコースト実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した(「清廉潔白な国防軍」論争を参照)。 一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。 ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、アンドレイ・ウラソフ将軍が組織したロシア解放軍やヒヴィなど、ドイツに与する対敵協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。 戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、コルィマ鉱山等のシベリア各地への追放を受けた。 また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加した者も存在した。 ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、米ソ英仏による分割占領を受けることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。その後、東西両陣営の対立により、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年のドイツ再統一まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含むオーデル・ナイセ線以東の領土を喪失し(旧ドイツ東部領土)、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された(ドイツ人追放)。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され(デモンタージュ(ドイツ語版))、ソ連軍に捕虜となったドイツ軍将兵は労務による賠償を負わされた。 独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における超大国としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンのケーニヒスベルクとその周辺地域、カーゾン線以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、冷戦への道に至ることになる。 ドイツが降伏した日はヨーロッパ戦勝記念日として現在でも各地で式典が行われている。2004年には国際連合総会において、5月8日と9日が第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日と定められている。 ドイツ政府内部では、自国が勝利できた場合の戦後構想について、複数の案があった。ヒトラー自身が好んだ構想は、バルト三国をドイツに併合し、ウラル山脈をゲルマン世界とスラブ世界の国境とし、ロシア西部、ウクライナの広大な地域にドイツ人を移住させ植民地として確立することだった。ウラル山脈の東側には、農村化された弱い国家をつくり、そこには強制労働には不要なスラブ系の人々の生き残りが住むことになっていた。ソ連の都市レニングラード(現:サンクトペテルブルク)は同盟国フィンランド、ベッサラビア地方(現:モルドバ)とウクライナの都市オデッサは同盟国ルーマニアに割譲する方針だった。 一方で、ヒトラーが東部占領地域大臣に任命したアルフレート・ローゼンベルクは、かなり異なる考えを持っていた。東方に親ドイツの国民国家をつくりたいと思い、ドイツの侵入を解放と表現した。ローゼンベルクの案では、ソ連は4つの国に分割する。第一は、モスクワ周辺のロシア北西部、北極地方からトルキスタンまで広がる地域で、昔の国名「モスクワ大公国」とする。第二はコーカサス。第三はウクライナ。第四はバルト三国・ベラルーシ周辺の「オストラント(東方地域)」だった。これらの諸国は、植民地総督の権威を持つドイツ弁務官に統治されることになっており、このうち、ウクライナ、オストラントでは実現した(東部占領地域)。クリミア半島、バトゥミ(現:ジョージア)は、ドイツ領とする予定だった。 ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、ドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーがドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。 「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。歴史学者ミヒャエル・シュテュルマー教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のエルベ河畔での邂逅は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」。 エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるベイジル・リデル=ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている。 また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時を偲び合った。 ソ連はドイツの攻撃を受ける前、東欧分割を密約し、ベッサラビア併合、バルト諸国占領、フィンランド攻撃(冬戦争)、さらにドイツにやや遅れてソビエト連邦によるポーランド侵攻が行われた。このため欧州議会が2019年に独ソ双方に第二次世界大戦の開戦責任があるとする決議を採択している。これに対してソ連の継承国であるロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは、当時のソ連の行動をナチス・ドイツと同一視することを禁止する法改正案に2021年7月1日に署名した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "独ソ戦(どくソせん、獨蘇戰、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソ連であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(ロシア語: Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ソ連は首都モスクワ前面まで攻め込まれたものの、英米を主力とする西側連合国とともに反撃に転じ、ベルリンの戦いでナチス・ドイツを敗北させた。戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となり、占領した東欧諸国に社会主義政権を樹立して東側ブロックを形成して冷戦に至った。戦場はドイツ東部を含む東欧諸国とソ連西部のほか、北欧(ノルウェー北部およびフィンランド)に広がり、さらに英米からソ連への援助を断つべく通商破壊が北極海やインド洋でも行われた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、西部戦線とは別の戦争であると認識していた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1941年6月22日3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した 。ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり、歴史的に反ソ感情が強かったバルト地方や、共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアによる圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど、自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また、反共産主義者はロシア国民解放軍やロシア解放軍として共産主義者と戦った。しかし、スラヴ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人である。民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど、極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している(第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働(英語版))。また、ドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した(ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働(英語版))。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "開戦から1943年7月のクルスクの戦いまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となった。1945年5月8日にドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がドイツの首都ベルリンで無条件降伏文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ヒトラーは自伝『我が闘争』(1925年)において、ドイツ人のための生存圏の必要性、すなわち東ヨーロッパ、特にロシアにおける新しい領土の獲得の必要性について論じていた。 ヒトラーはそこにドイツ人を定住させることを構想していた。それは、ナチスの思想にもあるように、ドイツ人が「支配人種」を構成する一方で、既存住民のほとんどを根絶またはシベリアへ移送し、残りを奴隷労働者として使用する構想であった。 ヒトラーは第一次世界大戦中の1917年の時点で既にロシア人を劣等人種と呼んでおり、ボリシェヴィキ革命によって、ユダヤ人がスラヴ人の大衆を支配するようになったと考えていた。ヒトラーの見解は、スラヴ人には自存自立する能力がないから、ユダヤ人の主人たちに支配されることになったというものであった。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ハインリヒ・ヒムラーらナチスの指導層は、ソ連に対する戦争はナチズムとユダヤ人ボルシェビズムの間のイデオロギー闘争であり、なおかつ、ナチス思想によれば優等民族であるアーリア人種で超人でもあるゲルマン人が、劣等民族であるスラヴ人の犠牲の上に、その領土を拡張することを保証するための戦争と考えていた。 ドイツ軍の将校たちは、配下の兵たちに「ユダヤ人のボルシェビキの劣等民族」や「モンゴルの遊牧民ども」「アジア人の殺到」「赤い獣」と描写される人々を狙うよう指示していた。ドイツ兵の多くはナチス的な見方でこの戦争を捉えており、敵のソ連兵は劣等人種(人間以下)と見なしていた。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ヒトラーはこの戦争を急進的な見方で捉えており、この戦争を「絶滅戦争」(Vernichtungskrieg) と呼び、これはイデオロギー戦争であるとともに、人種戦争でもあると捉えていた。東欧の将来についてのナチスの見方は「東部総合計画」において、最も明瞭に成文化されている。占領した中欧およびソ連の住民は、その一部を西シベリアへ移住させ、奴隷化した上で最終的には根絶する。征服した地域にはドイツ人もしくは「ドイツ化」された住民を植民する。さらに、ナチスは彼らのユダヤ人絶滅計画の一環として、中欧と東欧のユダヤ人住民を一掃することも模索した。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1941年のキエフの戦いにおいてドイツが緒戦の成功を収めると、ヒトラーはソ連は軍事的に弱いとみて、すぐにでも征服できると考えた。10月3日のベルリン・スポーツ宮殿での演説で、ヒトラーは「我々がドアを蹴破っただけで、腐敗した建物は全体が崩れ落ちる」と述べた。したがって、ドイツは、ポーランド侵攻やフランス侵攻などで成功させた短期間の電撃戦を再度行うことを想定しており、長期戦には真剣に備えていなかった。しかしながら、スターリングラード攻防戦(1942~1943年)においてソ連軍が決定的勝利を収め、その結果としてドイツ軍が悲惨な状況に陥ると、ナチスの宣伝工作はこの戦争を、欧州になだれ込んでくる巨大な「ボルシェビキ」の遊牧民たちがもたらす破壊に対抗して、ドイツが西欧文明を防衛するための戦争と位置付けて描くようになっていった。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1930年代を通じて、ソ連はヨシフ・スターリンの指導のもとで、大きな工業化と経済成長を成し遂げた。スターリンの中心的な主義である「一国社会主義論」は、1929年以降のソ連の五カ年計画に組み込まれた。これはソ連の政策のイデオロギーが、国際的な共産主義革命(世界革命論)の方向から離れて、最終的には1943年のコミンテルン(第三インターナショナル)解散へとつながっていく方向へ転換したことを示していた。ソ連は公式に1928年から始まった第一次五か年計画で軍事力強化の過程を開始した。軍事力強化は1930年代中頃の第二次五か年計画の終わりまでとされものの、軍事力はソ連の工業化の重要な焦点となった。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1936年2月のスペイン総選挙の結果、スペイン第二共和政の人民戦線政権に多くの共産主義指導者たちが加わることとなったが、数か月も経ずして右翼の軍事クーデターが発端となりスペイン内戦 (1936~1939年) が始まった。この紛争はすぐに社会主義者・共産主義者たちが率いるスペイン第二共和国の側に立つソ連や様々な国からの左翼の志願兵たち、そしてスペインの国家主義者たち(フランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍)の側に立つナチス・ドイツ 、ファシスト政権のイタリア、ポルトガルを巻き込んだ代理戦争の性質を帯び始めた。この戦争は、ドイツ軍と赤軍にとって、新しい装備や戦術を試すための有用な試験場となった。両者ともそれを後の第二次世界大戦でより大規模に実行することになった。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ナチス・ドイツは反共主義の政権であり、そのイデオロギー的な立場を、1936年11月25日に署名された日本との防共協定において正式な国の政策とした。一年後、ファシスト政権のイタリアも防共協定に加わった。ソ連はドイツの拡大を包囲する狙いで、仏ソ相互援助条約をフランスやチェコスロバキアと議論した。1938年のドイツによる「アンシュルス」(オーストリア併合)とチェコスロバキア解体 (1938~1939) により、かねてマクシム・リトヴィノフの下でソ連外務省が主唱していた欧州の集団的自衛体制を確立することは不可能であることが示されてしまった。 このことと、イギリス・フランス政府が全面的に対ドイツの全面的な政治的・軍事的同盟をソ連と結ぶことに前向きとなったこともあって、1939年8月末頃の独ソ不可侵条約につながった。これとは別に、枢軸国を構成することになる主要三国が日独伊三国同盟を締結するのは防共協定が締結されてから約4年後のこととなる。", "title": "イデオロギー" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "第一次世界大戦後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、ラパッロ条約により国交を回復させた。当時のドイツはヴェルサイユ条約により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、シベリア出兵など列強各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と領土が乏しかった。ソ連は資源と領土は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1933年にヒトラーが政権を握った。ヒトラーをはじめとするナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を唱えており、ソ連はナチスを「ファシスト」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、赤軍大粛清の一因に、SD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒの謀略があったともされる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する宥和政策をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは二正面作戦を避けることを目論んで、1939年8月に独ソ不可侵条約を結ぶこととなる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する軍用機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかしヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ、侵攻計画の策定を命令した。この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵20個師団を編成し、暗号系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。ヒトラーは後に「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の作戦準備を正式に指令した。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンをはじめとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "6月22日、ナチス・ドイツはソビエト連邦に対して宣戦布告。直後、イタリア王国、ルーマニア王国も続いて宣戦布告を行った。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ドイツ軍はバルバロッサ作戦の発動により独ソ国境で一斉に侵攻を開始。当初、侵攻は5月を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変によりドイツはユーゴスラビア侵攻を実践しようとし、対ソ開戦は一ヶ月以上延期されていた。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された政治委員の即時処刑を命令し(コミッサール指令)、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降して捕虜となった。また、ソ連空軍はドイツ空軍の爆撃による地上撃破や空中戦による撃墜で大打撃を受け、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし南方軍集団は投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(「バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因」参照)。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、キエフ、ハリコフなどが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にモスクワ攻略(タイフーン作戦)に乗り出す。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロメートルの所まで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その頃、ソ連側はリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領がソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワが陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ドイツ軍の損害は既に投入兵力の35%、100万人に及び、この年だけで戦死者は20万人に達していた。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された。ヒトラーは陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった。ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させることに成功した。ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ソ連側は焦土作戦によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、さらにドイツが占領した地域の住民に対しパルチザンを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない東方へ疎開させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍およびその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られた。このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部および南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した(第二次ハリコフ攻防戦)。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になった。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が立てられた。6月28日、南部戦線にて、ヴォルガ川への到達とコーカサス地方の石油資源獲得を目的としたブラウ作戦が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。7月28日、スターリンは『ソ連国防人民委員令第227号』を発し、全戦線における抵抗を命じた。コーカサスの油田地帯に向かったドイツのA軍集団は油田のあるマイコプを占領したが、油田は既にソ連軍により火をつけられていた。次にA軍集団は油田のある東のグロズヌイに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スターリングラードに向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた(スターリングラード攻防戦)。このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模な反攻作戦の準備を進めていた。反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。空軍総司令官で国家元帥のゲーリングが空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。ドイツ軍は包囲網の外から陸路での救出作戦も行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1943年1月後半、スターリングラードで包囲されていた約10万人の枢軸軍は、第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥の決断により投降して捕虜となった。一方、コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前に辛うじて撤退に成功した。この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。何よりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ソ連の将軍であるゲオルギー・ジューコフは「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、スターリングラードの勝利を評価している。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。主力戦車の交代(III号戦車→V号戦車パンター)、自走砲の出現、ブルムベアのような市街地戦闘を想定した大口径の突撃砲。これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された(クルスクの戦い)。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃を阻まれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "時を同じくして米英により行われたシチリア上陸作戦の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ドイツがソ連に侵攻を開始したバルバロッサ作戦からちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢であるバグラチオン作戦を発動した。ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、ミハイル・トゥハチェフスキーらにより理論化された縦深攻撃を展開。圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すらできない部隊はもはや機動戦すらできず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅することになる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "南部ではヤッシー=キシナウ攻勢の影響によりルーマニアでクーデターが発生して枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、ブルガリアとフィンランドも枢軸側より離脱した。一方ハンガリーは、ドイツ軍主導のパンツァーファウスト作戦の工作により枢軸側に留まった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1月からは赤軍がヴィスワ=オーデル攻勢を行い、2月2日にはベルリンまで70kmに迫った。2月14日、ハンガリーの首都ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "4月16日、ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。4月30日、ヒトラーが自殺。5月2日、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名されたカール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効することになった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー英軍元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。しかし、独ソ戦全ての戦闘が終結したのはプラハの戦いが終結する5月11日のことだった。", "title": "経過" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうランドパワーとしての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることのできない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "独ソ戦が始まると、それまでソ連を度々非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ち始め、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったといえる。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "航空機、戦車などの正面装備、トラック、ジープ、機関車、無線機、野戦電話、電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰、靴、ブーツのような一般工業製品から銅、アルミニウムといった原材料まで様々な援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とその影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、ポーランド亡命政府とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。モスクワ会談(英語版)ではチャーチルがスターリンと「パーセンテージ協定」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "しかし、後のポツダム会談でソ連はさらに進出の意向を示す。さらにアメリカ合衆国大統領フランクリン・ローズベルトの死去により副大統領から大統領に昇格したハリー・トルーマンも、人類初の核実験であるトリニティ実験の成功の報を受けてソ連への態度を硬化させた。そのためポツダム会談はローズベルトの融和的政策のもとでなされたヤルタ会談と全く異なるものとなった。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、冷戦という対立軸へと向かうことになる。", "title": "連合国における東部戦線の位置" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ナチズムにおいてスラヴ人は劣等民族として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという『東部総合計画』はこの時期に立てられたものである。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケは、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた(飢餓計画(英語版))。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、親衛隊によって組織されたアインザッツグルッペンは、占領地域の治安維持のためとしてユダヤ人や共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地ではホロコースト実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した(「清廉潔白な国防軍」論争を参照)。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。", "title": "戦争犯罪" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、アンドレイ・ウラソフ将軍が組織したロシア解放軍やヒヴィなど、ドイツに与する対敵協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。", "title": "対敵協力者" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、コルィマ鉱山等のシベリア各地への追放を受けた。", "title": "対敵協力者" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加した者も存在した。", "title": "対敵協力者" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、米ソ英仏による分割占領を受けることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。その後、東西両陣営の対立により、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年のドイツ再統一まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含むオーデル・ナイセ線以東の領土を喪失し(旧ドイツ東部領土)、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された(ドイツ人追放)。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され(デモンタージュ(ドイツ語版))、ソ連軍に捕虜となったドイツ軍将兵は労務による賠償を負わされた。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における超大国としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンのケーニヒスベルクとその周辺地域、カーゾン線以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、冷戦への道に至ることになる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ドイツが降伏した日はヨーロッパ戦勝記念日として現在でも各地で式典が行われている。2004年には国際連合総会において、5月8日と9日が第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日と定められている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ドイツ政府内部では、自国が勝利できた場合の戦後構想について、複数の案があった。ヒトラー自身が好んだ構想は、バルト三国をドイツに併合し、ウラル山脈をゲルマン世界とスラブ世界の国境とし、ロシア西部、ウクライナの広大な地域にドイツ人を移住させ植民地として確立することだった。ウラル山脈の東側には、農村化された弱い国家をつくり、そこには強制労働には不要なスラブ系の人々の生き残りが住むことになっていた。ソ連の都市レニングラード(現:サンクトペテルブルク)は同盟国フィンランド、ベッサラビア地方(現:モルドバ)とウクライナの都市オデッサは同盟国ルーマニアに割譲する方針だった。", "title": "もしドイツが勝利していた場合の戦後構想" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "一方で、ヒトラーが東部占領地域大臣に任命したアルフレート・ローゼンベルクは、かなり異なる考えを持っていた。東方に親ドイツの国民国家をつくりたいと思い、ドイツの侵入を解放と表現した。ローゼンベルクの案では、ソ連は4つの国に分割する。第一は、モスクワ周辺のロシア北西部、北極地方からトルキスタンまで広がる地域で、昔の国名「モスクワ大公国」とする。第二はコーカサス。第三はウクライナ。第四はバルト三国・ベラルーシ周辺の「オストラント(東方地域)」だった。これらの諸国は、植民地総督の権威を持つドイツ弁務官に統治されることになっており、このうち、ウクライナ、オストラントでは実現した(東部占領地域)。クリミア半島、バトゥミ(現:ジョージア)は、ドイツ領とする予定だった。", "title": "もしドイツが勝利していた場合の戦後構想" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、ドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーがドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。 「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。歴史学者ミヒャエル・シュテュルマー教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のエルベ河畔での邂逅は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "エマニュエル・トッドはその著書『帝国以後』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるベイジル・リデル=ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時を偲び合った。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ソ連はドイツの攻撃を受ける前、東欧分割を密約し、ベッサラビア併合、バルト諸国占領、フィンランド攻撃(冬戦争)、さらにドイツにやや遅れてソビエト連邦によるポーランド侵攻が行われた。このため欧州議会が2019年に独ソ双方に第二次世界大戦の開戦責任があるとする決議を採択している。これに対してソ連の継承国であるロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンは、当時のソ連の行動をナチス・ドイツと同一視することを禁止する法改正案に2021年7月1日に署名した。", "title": "評価" } ]
独ソ戦、または東部戦線は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。 大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソ連であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し(バルバロッサ作戦)、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。 ソ連は首都モスクワ前面まで攻め込まれたものの、英米を主力とする西側連合国とともに反撃に転じ、ベルリンの戦いでナチス・ドイツを敗北させた。戦後はアメリカ合衆国と並ぶ超大国となり、占領した東欧諸国に社会主義政権を樹立して東側ブロックを形成して冷戦に至った。戦場はドイツ東部を含む東欧諸国とソ連西部のほか、北欧(ノルウェー北部およびフィンランド)に広がり、さらに英米からソ連への援助を断つべく通商破壊が北極海やインド洋でも行われた。
{{脚注の不足|date=2013-02}} {{Battlebox |battle_name = 独ソ戦 |campaign = 独ソ戦 |colour_scheme=background:#ffccaa |image = [[File:EasternFrontWWIIcolage.png|300px]] |caption = 上段左:[[ベルリンの戦い]]での[[T-34]]<br />上段右:[[クルスクの戦い]]での[[ティーガーI]]<br />中段左:[[スターリングラード攻防戦]]時のソ連軍<br />中段右:1943-1944年時の[[Ju 87 (航空機)|Ju 87 シュトゥーカ]]<br />下段左:降伏文書に署名する[[ヴィルヘルム・カイテル|カイテル]][[元帥]]<br />下段右:[[ユダヤ人]]女性を[[銃殺]]する[[アインザッツグルッペン|特別行動部隊]] |conflict = [[第二次世界大戦]]/[[大祖国戦争]] |date = 1941年6月22日から1945年5月8日 |place = [[ソビエト連邦]]西部、[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国・[[ドイツ国]]東部、[[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|北極海]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]他 |result = ソ連軍の勝利 |combatant1 = <div align="center">{{Flagicon|DEU1935|size=45px}}<br /> '''[[ナチス・ドイツ]]'''</div> ---- {{ROM1881}} (〜1944年)<br />{{ITA1861}} (〜1943年)<br />{{FIN}} (〜1944年)<br />{{HUN1920}}<ref group="注釈">1944年10月18日以降は[[矢十字党]]政権の[[国民統一政府 (ハンガリー)|ハンガリー国民統一政府]]。</ref><br />{{SVK1939}}<br />{{HRV1941}}<br />{{BGR1908}}<ref group="注釈">正式な対ソ宣戦布告は行わなかった。</ref> (〜1944年)<br />{{ESP1939}}(義勇軍「[[青師団]]」を派遣)<br />[[File:Französische Legion Mod1.svg|25px|border]] [[:fr:Légion des volontaires français contre le bolchevisme|フランス国 義勇兵]]<br />[[ファイル:Naval Ensign of Russia.svg|25px|border]] [[ロシア解放軍]] |combatant2 = <div align="center">{{Flagicon|SSR1923|size=45px}}<br />'''[[ソビエト連邦]]'''</div> ---- {{POL}}<br />[[File:Flaga PPP.svg|25px|border]] [[ジェゴタ|ポーランド秘密国家]]<br />{{YUG1918}}<br />{{YUG45}} (1943年~)<br />{{ROM1881}} (1944~)<br />{{BGR1908}} (1944年~)<br />{{CSK}}<br />[[File:Flag of Free France (1940-1944).svg|25px|border]] [[自由フランス]](遠征軍<ref group="注釈">[[ノルマンディ・ニーメン]]</ref> を派遣)<br />{{GBR}}(遠征軍<ref group="注釈">[[:en:No. 151 Wing RAF]]</ref> を派遣) | commander1 = {{Flagicon|DEU1935}} '''[[アドルフ・ヒトラー]]'''<br /> {{Flagicon|DEU1935}} [[エルンスト・ブッシュ (軍人)|エルンスト・ブッシュ]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ハインツ・グデーリアン]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|エヴァルト・フォン・クライスト]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ギュンター・フォン・クルーゲ]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ゲオルク・フォン・キュヒラー]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ヴィルヘルム・フォン・レープ]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ヴィルヘルム・リスト]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ヴァルター・モーデル]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[フリードリヒ・パウルス]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[フェルディナント・シェルナー]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[エアハルト・ラウス]]<br />{{Flagicon|DEU1935}} [[ヴァルター・フォン・ライヒェナウ]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[イオン・アントネスク]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[イリエ・シュテフレア]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[ペトレ・ドゥミトレスク]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[ミハイ・ラスカル]]<br /><br />{{Flagicon|ROM1881}} [[ラドゥ・コルーネ]]<br />{{Flagicon|ITA1861}} [[ベニート・ムッソリーニ]]<br />{{Flagicon|ITA1861}} [[ジョヴァンニ・メッセ]]<br />{{Flagicon|ITA1861}} [[イータロ・ガリボルディ]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[リスト・リュティ]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[レンナルト・オシュ]]<br />{{Flagicon|FIN}} [[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]<br />{{Flagicon|HUN1918}} [[ホルティ・ミクローシュ]]<br />{{Flagicon|HUN1918}} [[サーラシ・フェレンツ]]<br />{{Flagicon|SVK1939}} [[ヨゼフ・ティソ]]<br />{{Flagicon|HRV1941}} [[アンテ・パヴェリッチ]]<br />{{Flagicon|BGR1908}} [[ドブリ・ボジロフ]] |commander2 = {{Flagicon|SSR1923}} '''[[ヨシフ・スターリン]]'''<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[アレクセイ・アントーノフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[イワン・コーネフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ロディオン・マリノフスキー]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[イワン・バグラミャン]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[レオニード・ゴヴォロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ミハイル・キルポノス]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[キリル・メレツコフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[イワン・ペトロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[アレクサンドル・ロジムツェフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[コンスタンチン・ロコソフスキー]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[パーヴェル・ロトミストロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ワシーリー・ソコロフスキー]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[セミョーン・チモシェンコ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[フョードル・トルブーヒン]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ニコライ・ヴァトゥーチン]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[クリメント・ヴォロシーロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[アンドレイ・エリョーメンコ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[マトヴェイ・ザハロフ]]<br />{{Flagicon|SSR1923}} [[ゲオルギー・ジューコフ]]<br />{{Flagicon|POL}} [[エドヴァルト・オスプカ=モラフスキ]]<br />{{Flagicon|POL}} [[ズィグムント・ベルリンク]]<br />[[File:Flaga PPP.svg|25px|border]] [[タデウシュ・コモロフスキ]]<br />{{Flagicon|YUG1945}} [[ヨシップ・ブロズ・チトー]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ1世]]<br />{{Flagicon|ROM1881}} [[コンスタンチン・サナテスク]] (1944)<br />{{Flagicon|TCH}} [[ルドヴィーク・スヴォボダ]]<br />{{Flagicon|BGR1908}} [[キモン・ゲオルギエフ]] (1944年) |strength1 ='''1941年'''<br />400万-550万人<br />'''1942年'''<br />269万7000人<br /> '''1943年'''<br />348万3000人<br /> '''1944年'''<br />252万2000人<br /> '''1945年'''<br />196万人 |strength2 ='''1941年'''<br />268万人<br />'''1942年'''<br />531万3000人<br /> '''1943年'''<br />670万人<br /> '''1944年'''<br />640万人<br /> '''1945年'''<br />640万人 |casualties1=犠牲者 1075万8000人<br />(諸説あり) |casualties2=犠牲者 2660万人<br />(現在のロシア当局の公式発表、諸説あり) }} '''独ソ戦'''(どくソせん、獨蘇戰、{{lang-en|German-Soviet War}})、または'''[[東部戦線]]'''({{lang-de|die Ostfront}})は、[[第二次世界大戦]]中の[[1941年]]から[[1945年]]にかけて、[[ナチス・ドイツ]]を中心とする[[枢軸国]]と[[ソビエト連邦]]との間で戦われた[[戦争]]を指す。 大戦の当初は[[ポーランド侵攻|ポーランドを共に占領]]していたドイツとソ連であったが、1941年[[6月22日]]に突如[[ドイツ国防軍]]がソ連に侵入し([[バルバロッサ作戦]])、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、[[ナポレオン・ボナパルト]]に勝利した[[1812年ロシア戦役|祖国戦争]]に擬えて'''[[大祖国戦争]]'''('''{{lang-ru|Великая Отечественная война}}''')と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。 ソ連は[[首都]][[モスクワ]]前面まで攻め込まれたものの、英米を主力とする西側[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]とともに反撃に転じ、[[ベルリンの戦い]]でナチス・ドイツを敗北させた。戦後は[[アメリカ合衆国]]と並ぶ[[超大国]]となり、占領した[[東ヨーロッパ|東欧]]諸国に[[社会主義]]政権を樹立して[[東側諸国|東側ブロック]]を形成して[[冷戦]]に至った。戦場はドイツ東部を含む東欧諸国とソ連西部のほか、[[北ヨーロッパ|北欧]]([[ノルウェー]]北部および[[フィンランド]])に広がり、さらに英米からソ連への援助を断つべく[[通商破壊]]が[[第二次世界大戦中の北極海における輸送船団|北極海]]や[[モンスーン戦隊|インド洋]]でも行われた。 == 概要 == ドイツ[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]は、ソ連との戦争を「[[イデオロギー]]の戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]とは別の戦争であると認識していた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=194、214}}。 [[1941年]][[6月22日]]3時15分、ドイツ軍は作戦名「[[バルバロッサ作戦|バルバロッサ]]」の下にソ連を[[奇襲]]攻撃した<ref name=russiabeyond_20210622>{{Cite web|和書|author=ボリス・エゴロフ |date=2021-06-22 |url=https://jp.rbth.com/history/85309-roshia-totte-dainijisekaitaisen-do-hajimatta |title=ロシアにとって第二次世界大戦はどう始まったか |publisher=[[ロシア新聞|ロシア・ビヨンド(日本語版)]] |accessdate=2021-07-01}}</ref> 。[[ヨーロッパ]]におけるドイツ占領地からは[[反共主義|反共主義者]]の志願者や、[[武装親衛隊]]によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。 開戦当初、[[赤軍|ソ連軍]]が大敗を喫したこともあり、歴史的に[[反露|反ソ]]感情が強かった[[バルト三国|バルト]]地方や、[[ソビエト連邦共産党|共産党]]の過酷な政策から[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ]]の住民は、ドイツ軍を当初「[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|共産主義ロシア]]による[[抑圧 (社会科学)|圧制]]からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり[[共産主義|共産主義者]]を引き渡すなど、自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。また、反共産主義者は[[ロシア国民解放軍]]や[[ロシア解放軍]]として共産主義者と戦った。しかし、[[スラヴ人]]を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの[[独立]]を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]や[[東部占領地域省]]は[[ドイツ人|ドイツ系民族]]を占領地に[[移民|移住]]させて[[植民地]]にしようと計画し、一部実行された。 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。なお、独ソ戦の犠牲者([[戦死]]、[[戦病死]])は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人である。[[民間人]]の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人である。ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。両国の[[捕虜]]・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は[[強制労働]]に従事させられるなど、極めて厳しい扱いを受けた。ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している({{仮リンク|第二次世界大戦におけるドイツによる外国人強制労働|en|Forced labour under German rule during World War II}})。また、ドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した({{仮リンク|ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働|en|Forced labor of Germans in the Soviet Union}})。 開戦から[[1943年]]7月の[[クルスクの戦い]]までは主にドイツ軍の[[攻勢作戦|攻勢]]とソビエト軍の[[防御]]という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となった。[[1945年]]5月8日に[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|ドイツ国防軍最高司令部]]総長[[ヴィルヘルム・カイテル]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]がドイツの首都[[ベルリン]]で[[無条件降伏]]文書の[[批准]]手続きを行ったことにより、戦争は終結した。 {{seealso|欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)#ドイツ|ヨーロッパ戦勝記念日#ソ連}} == イデオロギー == === ドイツのイデオロギー === {{Main|我が闘争|ナチズム}} ヒトラーは自伝『我が闘争』(1925年)において、ドイツ人のための''[[東方生存圏|生存圏]]''の必要性、すなわち東ヨーロッパ、特に[[ロシア]]における新しい領土の獲得の必要性について論じていた<ref>Charles Long, 1965: [http://www.ifz-muenchen.de/heftarchiv/1965_4_4_lange.pdf The term 'habitat' in Hitler's 'Mein Kampf'] (pdf, 12 Seiten; 695&nbsp;kB)"私たち国民社会主義者は、私たちの外交政策として行う戦争の方向をここで強調しておきます。私たちは、ここまでの6世紀をまず振り返ります。私たちは、これまで[[ヨーロッパ]]の南や西の方へ向いていたドイツの進撃をやめて、東の国へ目を向けます。そして、戦前の植民地・商業政策を打ち立てた上で、未来の領土政策に移りますが、今日ヨーロッパでの新しい領土について話すとすれば、主にロシアと、ロシアに国境を接する国の話題しか話せません。" </ref>。 ヒトラーはそこにドイツ人を定住させることを構想していた。それは、ナチスの思想にもあるように、ドイツ人が「支配人種」を構成する一方で、既存住民のほとんどを根絶または[[シベリア]]へ移送し、残りを[[奴隷制|奴隷労働者]]として使用する構想であった<ref>{{Cite journal |first=Robert |last=Gellately |title=Reviewed work(s): Vom Generalplan Ost zum Generalsiedlungsplan by Czeslaw Madajczyk; Der "Generalplan Ost." Hauptlinien der nationalsozialistischen Planungs- und Vernichtungspolitik by Mechtild Rossler and Sabine Schleiermacher |journal=[[Central European History]] |volume=29 |issue=2 |pages=270-274 |date=1996-06 |jstor=4546609 |doi=10.1017/S0008938900013170}}</ref>。 ヒトラーは[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]]の時点で既に[[ロシア人]]を劣等人種と呼んでおり、[[十月革命|ボリシェヴィキ革命]]によって、[[ユダヤ人]]がスラヴ人の大衆を支配するようになったと考えていた。ヒトラーの見解は、スラヴ人には自存自立する能力がないから、ユダヤ人の主人たちに支配されることになったというものであった<ref name="Megargee2007">{{Cite book |author=[[Geoffrey Megargee]] |title=War of Annihilation: Combat and Genocide on the Eastern Front, 1941 |url=https://books.google.com/books?id=QSpUZ6t6BPwC&pg=PA4 |year=2007 |publisher=Rowman & Littlefield|isbn=978-0-7425-4482-6 |page=4}}</ref>。 [[ハインリヒ・ヒムラー]]ら[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の指導層は、ソ連に対する戦争はナチズムとユダヤ人ボルシェビズムの間のイデオロギー闘争であり、なおかつ、ナチス思想によれば優等民族である[[アーリアン学説|アーリア人種]]で[[超人]]でもあるゲルマン人が、劣等民族であるスラヴ人の犠牲の上に、その領土を拡張することを保証するための戦争と考えていた<ref>{{Cite journal |first=John |last=Connelly |title=Nazis and Slavs: From Racial Theory to Racist Practice |journal=[[Central European History]] |volume=32 |issue=1 |pages=1-33 |year=1999 |jstor=4546842 |doi=10.1017/S0008938900020628 |pmid=20077627}}</ref>。 ドイツ軍の[[将校]]たちは、配下の兵たちに「ユダヤ人のボルシェビキの劣等民族」や「[[モンゴル高原|モンゴル]]の[[遊牧民]]ども」「[[アジア系民族|アジア人]]の殺到」「赤い獣」と描写される人々を狙うよう指示していた<ref>{{Cite book |last=Evans|first=Richard J. |title=In Hitler's Shadow: West German Historians and the Attempt to Escape from the Nazi Past |url=https://books.google.com/books?id=UZgiAQAAIAAJ&pg=PA59 |year=1989 |publisher=Pantheon Books |isbn=978-0-394-57686-2 |pages=59-60}}</ref>。ドイツ兵の多くはナチス的な見方でこの戦争を捉えており、敵のソ連兵は劣等人種(人間以下)と見なしていた<ref>{{Cite book |author=[[Jurgen Forster]] |year=2005 |title=Russia War, Peace and Diplomacy |publisher=Weidenfeld & Nicolson |page=127}}</ref>。 ヒトラーはこの戦争を急進的な見方で捉えており、この戦争を「絶滅戦争」(Vernichtungskrieg) と呼び、これはイデオロギー戦争であるとともに、人種戦争でもあると捉えていた。東欧の将来についてのナチスの見方は「[[東部総合計画]]」において、最も明瞭に成文化されている。占領した中欧およびソ連の住民は、その一部を西シベリアへ移住させ、奴隷化した上で最終的には根絶する。征服した地域にはドイツ人もしくは「ドイツ化」された住民を植民する<ref>{{Cite journal |first=Jonathan |last=Steinberg |title=The Third Reich Reflected: German Civil Administration in the Occupied Soviet Union, 1941?4 |journal=[[The English Historical Review]] |volume=110 |issue=437 |pages=620-651 |date=1995-06 |jstor=578338 |doi=10.1093/ehr/CX.437.620}}</ref>。さらに、ナチスは彼らの[[ホロコースト|ユダヤ人絶滅計画]]の一環として、中欧と東欧のユダヤ人住民を一掃することも模索した<ref>{{Cite web |url=http://www.writing.upenn.edu/~afilreis/Holocaust/wansee-transcript.html |accessdate=2009-01-05 |title=The Wannsee Protocol |work=Literature of the Holocaust |publisher=University of Pennsylvania}} citing {{Cite book |editor-first=John |editor-last=Mendelsohn |title=The Wannsee Protocol and a 1944 Report on Auschwitz by the Office of Strategic Services |volume=Volume 11 |series=The Holocaust: Selected Documents in Eighteen Volumes |location=New York |publisher=Garland |year=1982 |pages=18-32}}</ref><ref>{{Cite journal |author=[[Christian Gerlach]] |title=The Wannsee Conference, the Fate of German Jews, and Hitler's Decision in Principle to Exterminate All European Jews |journal=[[The Journal of Modern History]] |volume=70 |issue=4 |date=1998-12 |pages=759-812 |doi=10.1086/235167|s2cid=143904500 |url=http://boris.unibe.ch/74383/1/235167.pdf}}</ref>。 1941年の[[キエフの戦い (1941年)|キエフの戦い]]においてドイツが緒戦の成功を収めると、ヒトラーはソ連は軍事的に弱いとみて、すぐにでも征服できると考えた。[[10月3日]]の[[ベルリン・スポーツ宮殿]]での演説で、ヒトラーは「我々がドアを蹴破っただけで、腐敗した建物は全体が崩れ落ちる」と述べた<ref>{{Internet Archive film |youtube-KFiOi_UnX98 |Adolf Hitler's Speech on Operation Barbarossa}}</ref>。したがって、ドイツは、[[ポーランド侵攻]]や[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]などで成功させた短期間の[[電撃戦]]を再度行うことを想定しており、長期戦には真剣に備えていなかった。しかしながら、[[スターリングラード攻防戦]](1942~1943年)においてソ連軍が決定的勝利を収め、その結果としてドイツ軍が悲惨な状況に陥ると、ナチスの宣伝工作はこの戦争を、欧州になだれ込んでくる巨大な「ボルシェビキ」の遊牧民たちがもたらす破壊に対抗して、ドイツが[[西ヨーロッパ|西欧]]文明を防衛するための戦争と位置付けて描くようになっていった。 === ソビエトの状況 === {{See also|大粛清|スペイン内戦|ノモンハン事件}} [[画像:Жуков и Тимошенко, 1940 год.jpg|thumb|upright=0.7|left|[[セミョーン・チモシェンコ]]と[[ゲオルギー・ジューコフ]](1940年)]] [[1930年代]]を通じて、ソ連は[[ヨシフ・スターリン]]の指導のもとで、大きな[[工業化]]と経済成長を成し遂げた。スターリンの中心的な主義である「[[一国社会主義論]]」は、[[1929年]]以降のソ連の[[五カ年計画]]に組み込まれた。これはソ連の政策のイデオロギーが、国際的な[[共産主義革命]]([[世界革命論]])の方向から離れて、最終的には1943年の[[コミンテルン]](第三インターナショナル)解散へとつながっていく方向へ転換したことを示していた。ソ連は公式に[[1928年]]から始まった第一次五か年計画で軍事力強化の過程を開始した。軍事力強化は1930年代中頃の第二次五か年計画の終わりまでとされものの、軍事力はソ連の工業化の重要な焦点となった<ref>{{Cite book |last=Hill |first=Alexander |year=2016 |title=The Red Army and the Second World War |place=UK |publisher=[[ケンブリッジ大学]] Press |isbn=978-1107020795 |pages=34-44}}</ref>。 [[1936年]][[2月]]のスペイン総選挙の結果、[[スペイン第二共和政]]の[[スペイン人民戦線|人民戦線]]政権に多くの共産主義指導者たちが加わることとなったが、数か月も経ずして[[右翼]]の軍事クーデターが発端となり[[スペイン内戦]] (1936~[[1939年]]) が始まった。この紛争はすぐに社会主義者・共産主義者たちが率いる<ref>{{Cite book |last=Bolloten |first=Burnett |title=The Spanish Civil War: Revolution and Counterrevolution |url=https://books.google.com/books?id=0F20CAAAQBAJ&pg=PA483 |year=2015 |publisher=University of North Carolina Press |isbn=978-1-4696-2447-1 |page=483 |orig-year=1991}}</ref>スペイン第二共和国の側に立つソ連や様々な国からの[[国際旅団|左翼の志願兵たち]]、そして[[フランコ体制下のスペイン|スペインの国家主義者たち]]([[フランシスコ・フランコ]][[将軍]]が率いる反乱軍)<ref>{{Cite book |last=Lind |first=Michael |title=Vietnam: The Necessary War: A Reinterpretation of America's Most Disastrous Military Conflict |url=https://books.google.com/books?id=zvg1lr79qcEC&pg=PA59 |year=2002 |publisher=Simon and Schuster |isbn=978-0-684-87027-4 |page=59}}</ref>の側に立つナチス・ドイツ<ref name="Jurado 2006, page 5">{{Cite book |last=Jurado |first=Carlos Caballero |title=The Condor Legion: German Troops in the Spanish Civil War |url=https://books.google.com/books?id=cZKHCwAAQBAJ&pg=PA5 |year=2013 |publisher=Bloomsbury Publishing |isbn=978-1-4728-0716-8 |pages=5-6}}</ref> 、[[イタリア王国#ファシズムの台頭|ファシスト政権のイタリア]]、[[ポルトガル]]を巻き込んだ[[代理戦争]]の性質を帯び始めた。この戦争は、ドイツ軍と赤軍にとって、新しい装備や戦術を試すための有用な試験場となった。両者ともそれを後の第二次世界大戦でより大規模に実行することになった。 ナチス・ドイツは反共主義の政権であり、そのイデオロギー的な立場を、1936年[[11月25日]]に署名された[[大日本帝国|日本]]との[[防共協定]]において正式な国の政策とした<ref name="weinberg">{{Cite book |author=[[Gerhard Weinberg]] |title=The Foreign Policy of Hitler's Germany: Diplomatic Revolution in Europe, 1933?36 |url=https://books.google.com/books?id=LVgmAQAACAAJ&pg=PA346 |year=1970 |publisher=University of Chicago Press |isbn=978-0-391-03825-7 |page=346}}</ref>。一年後、ファシスト政権のイタリアも防共協定に加わった<ref name="Jurado 2006, page 5" /><ref>{{Cite book |last=Spector |first=Robert Melvin |title=World Without Civilization: Mass Murder and the Holocaust, History and Analysis |url=https://books.google.com/books?id=xZ5Ceq6l0M0C&pg=PA257 |year=2005 |publisher=University Press of America |isbn=978-0-7618-2963-8 |page=257}}</ref>。ソ連はドイツの拡大を包囲する狙いで、仏ソ相互援助条約を[[フランス第三共和政|フランス]]や[[チェコスロバキア]]と議論した<ref>{{Cite web |title=Maksim Litvinov |url=https://www.britannica.com/biography/Maksim-Litvinov |accessdate=2021-01-30 |publisher=Encyclopaedia Britannica}}</ref>。[[1938年]]のドイツによる「[[アンシュルス]]」([[オーストリア]]併合)と[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア解体]] (1938~1939) により、かねて[[マクシム・リトヴィノフ]]の下で[[ソビエト連邦外務省|ソ連外務省]]が主唱していた<ref>{{Cite journal |author=[[Albert Resis]] |title=The Fall of Litvinov: Harbinger of the German?Soviet Non-Aggression Pact |journal=[[Europe-Asia Studies]] |volume=52 |issue=1 |year=2000 |pages=33-56 |doi=10.1080/09668130098253 |s2cid=153557275}}</ref><ref>{{Cite journal |first=Teddy J. |last=Uldricks |title=Stalin and Nazi Germany |journal=[[Slavic Review]] |volume=36 |issue=4 |year=1977 |pages=599-603 |doi=10.2307/2495264|jstor=2495264 }}</ref>欧州の集団的自衛体制を確立することは不可能であることが示されてしまった<ref>{{Cite journal |first=Max |last=Beloff |title=Soviet Foreign Policy, 1929?41: Some Notes |journal=[[Soviet Studies]] |volume=2 |issue=2 |year=1950 |pages=123-137 |doi=10.1080/09668135008409773}}</ref>。 このことと、[[イギリス]]・フランス政府が全面的に対ドイツの全面的な政治的・軍事的同盟をソ連と結ぶことに前向きとなった<ref name="carley">{{Cite journal |first=Michael Jabara |last=Carley |title=End of the 'Low, Dishonest Decade': Failure of the Anglo?Franco?Soviet Alliance in 1939 |journal=Europe-Asia Studies |volume=45 |issue=2 |year=1993 |pages=303-341 |doi=10.1080/09668139308412091}}</ref>こともあって、[[1939年]][[8月]]末頃の[[独ソ不可侵条約]]につながった<ref>{{Cite journal |first=Derek |last=Watson |title=Molotov's Apprenticeship in Foreign Policy: The Triple Alliance Negotiations in 1939 |journal=Europe-Asia Studies |volume=52 |issue=4 |year=2000 |pages=695-722 |doi=10.1080/713663077|s2cid=144385167}}</ref>。これとは別に、[[枢軸国]]を構成することになる主要三国が[[日独伊三国同盟]]を締結するのは防共協定が締結されてから約4年後のこととなる。 == 経過 == === 開戦までの両国の関係 === {{See also|独ソ不可侵条約}} [[第一次世界大戦]]後、世界の孤児であったドイツとソ連は[[1922年]]、[[ラパッロ条約 (1922年)|ラパッロ条約]]により国交を回復させた。当時のドイツは[[ヴェルサイユ条約]]により、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。一方、ソ連も[[社会主義国|共産主義国家]]として孤立し、[[シベリア出兵]]など[[列強]]各国政府から軍事干渉を受けた。ドイツには資源と領土が乏しかった。ソ連は資源と領土は恵まれていたが、技術が乏しかった。互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。 [[1933年]]にヒトラーが政権を握った。ヒトラーをはじめとするナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は反共を唱えており、ソ連はナチスを「[[ファシズム|ファシスト]]」と呼んで批判していた。双方の独裁者はお互いを「人類の敵」「[[悪魔]]」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。スペイン内戦では、代理戦争という形で両国は対決した。また、[[赤軍大粛清]]の一因に、[[SD (ナチス)|SD(親衛隊情報部)]]長官[[ラインハルト・ハイドリヒ]]の謀略があったともされる。 その後、一方のスターリンは、イギリスのドイツに対する[[宥和政策]]をみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーは[[二正面作戦]]を避けることを目論んで、1939年8月に[[独ソ不可侵条約]]を結ぶこととなる。 この間にソ連は、ドイツに対してヴェルサイユ条約が禁止する[[軍用機]]・[[装甲部隊|戦車部隊]]の技術提携、[[バルト海]]沿岸の港の使用や[[バトル・オブ・ブリテン|イギリス空爆]]のための[[レーダー]]技術の提供などを行い、更にソ連に[[亡命]]してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。ドイツの[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。 しかしヒトラーはバトル・オブ・ブリテンの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし{{sfn|児島襄|第三巻|pp=333-336p}}、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。[[1940年]][[7月]]中旬には「[[ヨーロッパ大陸]]最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ{{sfn|芝健介|1995|pp=68}}、侵攻計画の策定を命令した{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=86}}。この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、[[工作機械]]のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=370-371}}{{sfn|ジョン・トーランド|1990年|pp=405}}。 一方でソ連は軍備増強も行っていた。開戦前夜の1941年の[[3月]]から[[4月]]にかけ、[[機械化歩兵]]20個[[師団]]を編成し、[[暗号]]系統を変更した。ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。また、[[欧米]]でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあると[[ドイツ空軍]]技術視察団は報告している。ヒトラーは後に「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。」と述懐している<ref>[[児島襄]]『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』([[文藝春秋]]社)ISBN 978-4167141387</ref>。 1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦バルバロッサ作戦の作戦準備を正式に指令した{{sfn|谷喬夫|2007|pp=676}}。ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。しかし、スターリンをはじめとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。 === 1941年 === [[画像:Eastern Front 1941-06 to 1941-12.png|250px|thumb|1941年6月から12月にかけての戦線]] 6月22日、ナチス・ドイツはソビエト連邦に対して[[宣戦布告]]。直後、[[イタリア王国]]、[[ルーマニア王国]]も続いて宣戦布告を行った<ref>ドイツが突如、ソ連に宣戦布告(『朝日新聞』昭和16年6月23日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p390 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。 ドイツ軍はバルバロッサ作戦の発動により独ソ国境で一斉に侵攻を開始。当初、侵攻は5月を予定していたが、[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]で発生した政変によりドイツは[[ユーゴスラビア侵攻]]を実践しようとし、対ソ開戦は一ヶ月以上延期されていた。開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属された[[政治委員]]の即時処刑を命令し([[コミッサール指令]])、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=194}}。 開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、[[北方軍集団]]では[[レニングラード包囲戦|レニングラードを包囲]]、中央軍集団は開戦1ヶ月で[[スモレンスク]]を占領する快進撃を続けた。赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降して捕虜となった。また、[[ソ連空軍]]はドイツ空軍の爆撃による地上撃破や空中戦による撃墜で大打撃を受け、[[制空権]]はドイツ軍が掌握することに成功した。しかし[[南方軍集団]]は投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(「[[バルバロッサ作戦#奇襲成功の要因]]」参照)。しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった{{sfn|児島襄|第4巻|pp=110}}。 その為、8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することにより[[ウクライナ]]地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、[[キエフ]]、[[ハリコフ]]などが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、9月に[[モスクワの戦い|モスクワ攻略(タイフーン作戦)]]に乗り出す。 ドイツ軍は[[クレムリン]]まであと十数キロメートルの所まで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。 その頃、ソ連側は[[リヒャルト・ゾルゲ]]など日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、[[日本軍]]が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、[[満州]]や[[シベリア]]地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。11月には[[モンゴル人民共和国|モンゴル]]の[[騎兵]]師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。国際面から言えば、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フランクリン・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]がソ連に対する武器・物資援助([[レンドリース法]]適用)に踏み切ったのは1941年[[11月7日]]、モスクワが陥落の危機を脱したと確認された時点である。このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる<ref>[[歴史群像]]シリーズ43『アドルフ・ヒトラー 戦略編』p.93</ref>。 ドイツ軍の損害は既に投入兵力の35%、100万人に及び、この年だけで戦死者は20万人に達していた{{sfn|芝健介|1995|pp=104}}。国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=218}}。ヒトラーは陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]ら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=200}}。ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させることに成功した。ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。 ソ連側は[[焦土作戦]]によりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、さらにドイツが占領した地域の住民に対し[[赤軍パルチザン|パルチザン]]を組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。また、軍事的に重要な工場や労働者を[[貨物列車]]によりドイツの手の届かない東方へ[[疎開]]させた。このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の[[戦車]]が生み出されることになる。 === 1942年 === [[画像:Eastern Front 1942-05 to 1942-11.png|250px|thumb|1942年5月から1942年11月にかけての戦線]] [[画像:Bundesarchiv Bild 101I-218-0501-27, Russland-Süd, rumänische Soldaten.jpg|250px|thumb|スターリングラードでの[[ルーマニア]]の兵士]] ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、[[1942年]]を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍およびその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られた<ref>『[[ライフ (雑誌)|ライフ]] 独ソの激闘』pp.188-191</ref>。このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部および南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した([[第二次ハリコフ攻防戦]])。しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。 前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になった。1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が立てられた。[[6月28日]]、南部戦線にて、[[ヴォルガ川]]への到達と[[コーカサス]]地方の[[石油]]資源獲得を目的とした[[ブラウ作戦]]が発動される。作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった{{sfn|芝健介|1995|pp=116}}。しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。[[7月28日]]、スターリンは『[[ソ連国防人民委員令第227号]]』を発し、全戦線における抵抗を命じた{{sfn|芝健介|1995|pp=117-118}}。<!--ドイツ軍のコーカサスへの攻勢は頓挫し、油田地帯を獲得することはできなかった。-->コーカサスの[[油田]]地帯に向かったドイツの[[A軍集団]]は油田のある[[マイコープ|マイコプ]]を占領したが、油田は既にソ連軍により火をつけられていた。次にA軍集団は油田のある東の[[グロズヌイ]]に向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』p.117, p.192</ref>。<!-- また[[B軍集団]]は[[ヴォルガ川]]の要衝の地[[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]を攻略しようとしていたが、市街戦での消耗戦に陥る。冬季が訪れた11月には、ソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった([[スターリングラード攻防戦]])。ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、空軍の威信をかけて行われた補給事業は失敗し、被包囲軍の衰弱と、空軍総司令官[[ヘルマン・ゲーリング]]の権威失墜を招いた。--> [[ヴォルゴグラード|スターリングラード]]に向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた([[スターリングラード攻防戦]])。このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模な[[ウラヌス作戦|反攻作戦]]の準備を進めていた。反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。空軍総司令官で[[国家元帥]]の[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]が空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。ドイツ軍は包囲網の外から陸路での[[冬の嵐作戦|救出作戦]]も行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』pp.181-184</ref>。 === 1943年 === [[画像:Eastern Front 1942-11 to 1943-03.png|250px|thumb|1942年11月から1943年3月にかけての戦線]] [[画像:Eastern Front 1943-02 to 1943-08.png|250px|thumb|1943年2月から8月にかけての戦線]] [[画像:Marasesti1918-1944.jpg|thumb|left|[[ルーマニア海軍|ルーマニア王国海軍]]の[[駆逐艦]] [[ニッビオ (軽偵察艦)|マラシェシュティ]]]] [[1943年]][[1月]]後半、スターリングラードで包囲されていた約10万人の枢軸軍は、[[第6軍 (ドイツ軍)|第6軍]]司令官[[フリードリヒ・パウルス]]元帥の決断により投降して捕虜となった。一方、コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前に辛うじて撤退に成功した<ref>『ライフ ソ連軍の大反攻』p.193</ref>。この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。何よりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。 一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。ソ連の将軍である[[ゲオルギー・ジューコフ]]は「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。我々もドイツ軍を破りうるのだ。この確信を持てたことが決定的に重要であった。スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。その効果こそが、限りなく大きかった。」と、スターリングラードの勝利を評価している<ref>『大東亜戦争ここに甦る』p.88</ref>。 ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。主力戦車の交代([[III号戦車]]→[[V号戦車パンター]])、[[自走砲]]の出現、[[ブルムベア]]のような市街地戦闘を想定した大口径の[[突撃砲]]。これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。 1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された([[クルスクの戦い]])。諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃を阻まれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。 時を同じくして米英により行われた[[ハスキー作戦|シチリア上陸作戦]]の報に作戦は決戦を待たずして中止される。以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。これにより戦線は、[[ドニエプル川|ドニエプル河]]を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。 === 1944年 === [[画像:Eastern Front 1943-08 to 1944-12.png|250px|thumb|1943年8月から1944年12月にかけての戦線]] ドイツがソ連に侵攻を開始したバルバロッサ作戦からちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢である[[バグラチオン作戦]]を発動した。ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。赤軍は、ミハイル・トゥハチェフスキーらにより理論化された[[縦深攻撃]]を展開。圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すらできない部隊はもはや機動戦すらできず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ[[中央軍集団]]は事実上壊滅することになる。 この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。 南部では[[ヤッシー=キシナウ攻勢]]の影響により[[ルーマニア王国|ルーマニア]]でクーデターが発生して枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。9月には、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]と[[フィンランド]]も枢軸側より離脱した。一方[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]は、ドイツ軍主導の[[パンツァーファウスト作戦]]の工作により枢軸側に留まった。 === 1945年 === {{See also|欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)|{{仮リンク|ドイツの降伏文書|en|German Instrument of Surrender}}}} [[画像:Eastern Front 1945-01 to 1945-05.png|thumb|250px|1945年1月から5月にかけての戦線]] 1月からは赤軍が[[ヴィスワ=オーデル攻勢]]を行い、[[2月2日]]にはベルリンまで70kmに迫った。[[2月13日|2月14日]]、ハンガリーの首都[[ブダペスト]]が陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢[[春の目覚め作戦]]を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。 [[4月16日]]、ジューコフ元帥の[[ベルリンの戦い|ベルリン総攻撃]]が開始される。[[4月30日]]、[[アドルフ・ヒトラーの死|ヒトラーが自殺]]。[[5月2日]]、ベルリンは陥落した。後継大統領に指名された[[カール・デーニッツ]]元帥の[[フレンスブルク政府]]は降伏を決断し、[[5月7日]]にフランスの[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で降伏文書の調印が行われ、[[5月8日]]午後11時1分に休戦が発効することになった。 8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥と[[連合国遠征軍最高司令部#指揮官|アーサー・テッダー]]英軍元帥、ドイツ国防軍代表[[ヴィルヘルム・カイテル]][[陸軍元帥]]が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で[[5月9日]]0時15分、[[ロンドン]]時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)<ref>井上 (2006:242)</ref>。しかし、独ソ戦全ての戦闘が終結したのは[[プラハの戦い (第二次世界大戦)|プラハの戦い]]が終結する[[5月11日]]のことだった。{{-}} == 連合国における東部戦線の位置 == {{出典の明記|date=2020-04|section=1}} [[画像:British Tanks 1939-45 H14786.jpg|250px|thumb|ソ連に輸送されるイギリスの[[マチルダII歩兵戦車]](1941年10月17日)]] {{See also|レンドリース|独米戦 (1944-45)}} ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいう[[ランドパワー]]としての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]は、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることのできない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。 独ソ戦が始まると、それまでソ連を度々非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定した[[レンドリース法]](武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ち始め、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資は[[ペルシア回廊]]を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったといえる。 [[航空機]]、[[戦車]]などの[[正面装備]]、[[貨物自動車|トラック]]、[[ジープ]]、[[機関車]]、[[無線機]]、[[野戦電話]]、[[電話線]]などの[[後方支援]]のための物資、さらに[[缶詰]]、[[靴]]、[[ブーツ]]のような一般工業製品から[[銅]]、[[アルミニウム]]といった原材料まで様々な援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が[[兵站]]と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では[[後方支援]]と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。 スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とその影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年に[[ノルマンディー上陸作戦]]が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。 そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、[[ポーランド亡命政府]]とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。 連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには[[地中海]]への進出に警戒心を見せるようになった。{{仮リンク|モスクワ会談 (1944年)|en|Moscow Conference (1944)|label=モスクワ会談}}ではチャーチルがスターリンと「[[パーセンテージ協定]]」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。 しかし、後の[[ポツダム会談]]でソ連はさらに進出の意向を示す。さらに[[アメリカ合衆国大統領]][[フランクリン・ローズベルト]]の死去により副大統領から大統領に昇格した[[ハリー・トルーマン]]も、人類初の[[核実験]]である[[トリニティ実験]]の成功の報を受けてソ連への態度を硬化させた。そのためポツダム会談はローズベルトの融和的政策のもとでなされたヤルタ会談と全く異なるものとなった。 共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、[[冷戦]]という対立軸へと向かうことになる。 == 戦争犯罪 == ナチズムにおいてスラヴ人は劣等民族として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという『[[東部総合計画]]』はこの時期に立てられたものである。[[四カ年計画]]庁と食糧次官[[ヘルベルト・バッケ]]は、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している{{sfn|谷喬夫|2007|pp=677}}。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた({{仮リンク|飢餓計画|en|Hunger Plan}})。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた{{sfn|谷喬夫|2007|pp=677}}。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている{{sfn|谷喬夫|2007|pp=678}}。 また、親衛隊によって組織された[[アインザッツグルッペン]]は、占領地域の治安維持のためとして[[ユダヤ人]]や共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地では[[ホロコースト]]実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した(「[[清廉潔白な国防軍]]」論争を参照)。 一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めた[[ジュネーブ条約]]を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。 == 対敵協力者 == ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、[[アンドレイ・ウラソフ]]将軍が組織した[[ロシア解放軍]]や[[ヒヴィ]]など、ドイツに与する[[対敵協力]]者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。 戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、[[コルィマ鉱山]]等のシベリア各地への追放を受けた。 また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥や[[ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ|フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ]]将軍など、捕虜になった後に[[反ナチ運動]]に参加した者も存在した。 == 影響 == {{See also|第二次世界大戦の影響|第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償}} ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、米ソ英仏による分割占領を受けることとなった([[連合軍軍政期 (ドイツ)]])。その後、東西両陣営の対立により、[[西ドイツ|ドイツ連邦共和国(西ドイツ)]]および[[ドイツ民主共和国]](東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年の[[ドイツ再統一]]まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含む[[オーデル・ナイセ線]]以東の領土を喪失し([[旧ドイツ東部領土]])、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された([[ドイツ人追放]])。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され({{仮リンク|デモンタージュ|de|Demontage (Reparation)}})、ソ連軍に捕虜となったドイツ軍将兵は労務による賠償を負わされた。 独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における[[超大国]]としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンの[[カリーニングラード州|ケーニヒスベルクとその周辺地域]]、[[カーゾン線]]以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、冷戦への道に至ることになる。 ドイツが降伏した日は[[ヨーロッパ戦勝記念日]]として現在でも各地で式典が行われている。2004年には[[国際連合総会]]において、5月8日と9日が[[第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日]]と定められている。 == もしドイツが勝利していた場合の戦後構想 == ドイツ政府内部では、自国が勝利できた場合の戦後構想について、複数の案があった。ヒトラー自身が好んだ構想は、[[バルト三国]]をドイツに併合し、[[ウラル山脈]]を[[ゲルマン人|ゲルマン]]世界と[[スラヴ人|スラブ]]世界の国境とし、[[ロシア]]西部、[[ウクライナ]]の広大な地域にドイツ人を移住させ植民地として確立することだった。ウラル山脈の東側には、農村化された弱い国家をつくり、そこには強制労働には不要なスラブ系の人々の生き残りが住むことになっていた。ソ連の都市レニングラード(現:[[サンクトペテルブルク]])は同盟国[[フィンランド]]、[[ベッサラビア]]地方(現:[[モルドバ]])とウクライナの都市[[オデッサ]]は同盟国[[ルーマニア]]に割譲する方針だった。 一方で、ヒトラーが[[東部占領地域省|東部占領地域大臣]]に任命した[[アルフレート・ローゼンベルク]]は、かなり異なる考えを持っていた。東方に親ドイツの国民国家をつくりたいと思い、ドイツの侵入を解放と表現した。ローゼンベルクの案では、ソ連は4つの国に分割する。第一は、[[モスクワ]]周辺のロシア北西部、[[北極]]地方から[[トルキスタン]]まで広がる地域で、昔の国名「[[モスクワ大公国]]」とする。第二は[[コーカサス]]。第三はウクライナ。第四はバルト三国・[[ベラルーシ]]周辺の「オストラント(東方地域)」だった。これらの諸国は、植民地総督の権威を持つドイツ弁務官に統治されることになっており、このうち、ウクライナ、オストラントでは実現した([[東部占領地域]])。[[クリミア半島]]、[[バトゥミ]](現:[[ジョージア (国)|ジョージア]])は、ドイツ領とする予定だった<ref>リチャード・オウヴァリー(永井清彦:訳)『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』河出書房新社、2015年新装版、p86~87</ref><ref>P.カルヴォコレッシーほか(八木勇:訳)『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と結果(上巻) 西半球編』河出書房新社、1991年、p266~268</ref>。 == 評価 == ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、[[ドイツの大統領|ドイツ連邦大統領]][[リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー]]が[[ドイツ連邦議会]]で記念の演説を行った際に次のように述べている。 「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。歴史学者[[ミヒャエル・シュテュルマー]]教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士の[[エルベの誓い|エルベ河畔での邂逅]]は、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」<ref>『荒れ野の40年』</ref>。 [[エマニュエル・トッド]]はその著書『[[帝国以後]]』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。1944年6月の[[ノルマンディ上陸作戦]]は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。イギリスの歴史家で軍事問題の専門家である[[ベイジル・リデル=ハート]]が見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている<ref>『帝国以後』pp.121-122</ref>。 また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時を偲び合った。 ソ連はドイツの攻撃を受ける前、[[独ソ不可侵条約#秘密議定書|東欧分割を密約]]し、[[ベッサラビア]]併合、[[バルト諸国占領]]、フィンランド攻撃([[冬戦争]])、さらにドイツにやや遅れて[[ソビエト連邦によるポーランド侵攻]]が行われた。このため[[欧州議会]]が2019年に独ソ双方に第二次世界大戦の[[戦争責任|開戦責任]]があるとする決議を採択している。これに対してソ連の継承国である[[ロシア連邦大統領]][[ウラジーミル・プーチン]]は、当時のソ連の行動をナチス・ドイツと同一視することを禁止する法改正案に2021年7月1日に署名した<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP726S48P72UHBI002.html 「ソ連とナチス 同一視を禁止/プーチン大統領 法改正案に署名/大戦責任論封じ 愛国心高揚狙う」]『[[朝日新聞]]』朝刊2021年7月3日(国際面)2021年8月7日閲覧</ref>。 == 文献 == ; ソ連側から * 『第二次世界大戦史―ソ独戦と対日戦』[[国民文庫社]]、1954年 * [[ヨシフ・スターリン|スターリン]]『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』清水邦生訳、国民文庫社、1953年 * N.チーホノフ 『レーニングラード』[[創元社]]、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説 * Harrison E. 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: 第二次世界大戦終結をめぐる神話と伝説(月例会発表要旨新入生歓迎記念講演) |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006426456 |format=PDF |journal=上智史學 |publisher=[[上智大学]] |issue=51 |naid=110006426456 |year=2006 |pages=241-242}} * {{Cite book|和書 |author=児島襄|authorlink=児島襄|year=1992 |title=第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume=第3巻 |publisher=[[文藝春秋社]] |isbn=978-4167141387}} * {{Cite book|和書|author=児島襄 |year=1992 |title=第二次世界大戦 ヒトラーの戦い |volume=第4巻 |publisher=文藝春秋社 |isbn=978-4167141394}} *{{Cite book|和書 |author=児島襄|title=第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻 |series=[[文春文庫]] |year=1993 |publisher=文藝春秋社|isbn=978-4167141455}} * ニコラス・ベサル著、加登川幸太郎 監修、横田恒 翻訳『ライフ 第二次世界大戦史「独ソの激闘」』タイム ライフ ブックス * ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳『ライフ 第二次世界大戦史「ソ連軍の大反攻」』タイム ライフ ブックス * {{Cite journal|和書 |author=谷喬夫 |title=東方支配と絶滅政策:G. アリー/S. ハイム『絶滅政策の立案者たち』(1991)を読む |url=https://hdl.handle.net/10191/6066 |journal=法政理論 |publisher=新潟大学法学会 |volume=39 |issue=4 |year=2007 |pages=650-686 |ncid=AN00226270 |ref=harv}} *{{Cite journal |author=ヨースト・デュルファー |year=2010 |journal=平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書 |url=http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/06.pdf |title=ドイツと三国軍事同盟}} *{{Cite book|和書 |author=芝健介 |year=1995 |title=武装SS {{small|もう一つの暴力装置}} |publisher=講談社 |isbn=4-06-258039-X}} *{{Cite book|洋書 |author=Christian Hartmann |year=2011 |title=''Unternehmen Barbarossa.''{{small|''Der deutsche Krieg im Osten 1941–1945''}} |publisher=C.H. Beck (München) |isbn=978-3-406-61226-8}} == 関連項目 == <!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク --> {{Commonscat|Great Patriotic War|大祖国戦争}} {{Commonscat|Eastern Front (World War II)|第二次世界大戦における東部戦線}} === 前史・背景 === * [[1812年ロシア戦役]] - ナポレオン軍のロシア侵攻。ロシア史上、大の付かない祖国戦争と言えばもっぱらこの戦役を指す。 * [[東部戦線 (第一次世界大戦)]] * [[東方生存圏]] * [[独ソ不可侵条約]] * [[バルト諸国占領]]、[[冬戦争]]・[[継続戦争]] * [[冬将軍]] * [[日ソ不可侵条約]]、[[関東軍特種演習]]、[[ソ連対日参戦]] * [[ゾルゲ事件]] * [[西部戦線 (第二次世界大戦)]] === 戦略・戦術や戦闘 === * [[焦土作戦]] * [[人海戦術]] * [[赤軍パルチザン]] * [[ライヒスタークの赤旗]] === 人道問題・戦後処理 === * {{仮リンク|ソビエト連邦における外国人強制労働|en|Foreign_forced_labor_in_the_Soviet_Union}} ** {{仮リンク|ソビエト連邦におけるドイツ人強制労働|en|Forced labor of Germans in the Soviet Union}} ** {{仮リンク|ソビエト連邦におけるハンガリー人強制労働|en|Forced labor of Hungarians in the Soviet Union}} ** {{仮リンク|ソビエト連邦におけるイタリア人強制労働|en|Italian prisoners of war in the Soviet Union}} * [[ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為]] * [[ソビエト連邦による戦争犯罪]] * [[ドイツ人追放]] * [[ワルシャワ条約機構]] * [[ソビエト・西ドイツ武力不行使条約]] * [[ドイツ再統一]] == 外部リンク == * {{NHK放送史|D0009180520_00000|独ソ戦線}} * {{Kotobank|独ソ戦争}} {{Campaignbox-bottom|第二次大戦ヨーロッパ戦線}} {{ナチス・ドイツ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とくそせん}} [[Category:独ソ戦|*]] [[Category:ハインツ・グデーリアン]] [[Category:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]] [[Category:ヴァルター・モーデル]] [[Category:ゲルト・フォン・ルントシュテット]] [[Category:ゲオルギー・ジューコフ]] [[Category:イワン・コーネフ]] [[Category:クリメント・ヴォロシーロフ]] [[Category:イータロ・ガリボルディ]]
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プロレス
プロレスは、リングで観客へ見せることを目的とした攻防を展開している格闘技を基本としたスポーツ、パフォーマンスアート、エンターテインメントもしくは、その試合を複数展開することにより開催されている興行のことである。プロレスリング(Pro Wrestling)とも呼ばれている。正式名称はプロフェッショナルレスリング(Professional Wrestling)。興行レスリング、職業レスリングとも呼ばれている。古くは西洋相撲(角力)と呼ばれていた。アメリカなどではレスリングとも呼ばれている。メキシコではルチャリブレ、ヨーロッパではキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれている。 試合は投げ技、打撃技、関節技、絞め技、フォール技、時には凶器などを用いて行われて試合において闘う者をプロレスラーもしくはレスラーと呼ばれている。 アメリカ、メキシコ、日本などにおいて歴史があり複数のプロレス団体が存在している。この他にカナダ、オーストラリア、イギリス、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、フィンランド、オーストリア、ニュージーランドなどで盛んとなっている。プロレス団体がない国においてもテレビとインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれている。 興行会社が試合、その他で構成される興行を開催することで観戦料などの収入を得る。プロレス業界において興行会社は「団体」と呼ばれている。女性のプロレスラーの行うプロレスは「女子プロレス」と区別されている。それ単独での興行は存在しないものの、低身長症のプロレスラーが行うプロレスは「ミゼットプロレス」と呼ばれている。 事業収入を得ないアマチュア組織も存在して、中でも学生の愛好家によるものは学生プロレスと呼ばれる。本来、メキシコを除いてはライセンス制度が無いため厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多く、「アマチュアプロレス」という表現が矛盾していることもありプロではないがプロと同じ形式という意味で「プロスタイルレスリング」、「ノンプロ」との合成語として「ノンプロレス」と表現されることもある。1つの地域に重点を置く地域密着型と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。 勝敗を競う形式を取るがアメリカのWWEはあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、筋肉増強剤などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済み経費削減に繋がることや株式上場の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。1950年代にフランスで活動したロジェ・ドラパルトは、プロレスの持つ競技牲と演劇性を「プロレスは75パーセントのスポーツと25パーセントのスペクタルがなければならない、その逆はない」 と例えている。 歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ、カナダ、日本、プエルトリコ、メキシコが挙げられる。アメリカではプロレスでもレスリングでも「レスリング」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合はショー・ビジネスのそれとして「ラスリン」と南部訛りで呼ぶことがある。 エンターテインメント産業とほぼ同じ事業形態で運営が行われている。 球場、体育館、イベントホール、屋外などを会場とし、そこにリングや周辺器材(フェンス、椅子等)を設置して有料で試合を観戦させる「興行」が主な事業である。会場の規模と観客数は団体や興行規模により様々であり、数万人を動員することもあれば、数十人程度の観客を相手にすることもある。WWEのレッスルマニア32では10万人を超える動員に成功している。1つの興行で5試合から10試合を行うことが多い。多くの団体はこのような興行を複数回実施する、シリーズと呼ばれる企画を年間複数回組み、選手と従業員、機材は全国を移動しつつこれを開催する。これを「巡業」と呼ぶ(巡業については後述)。また、経済的あるいは他の事情から巡業を行わないプロレス団体も存在して、団体が所有してリング等を設置している「常設会場」を使用するか、限られた地域にて営業している会場を使用している。 収入の柱となるものは以下の様なものである。 プロレス団体・興行会社における特徴の1つとして現役レスラーまたは引退したレスラーがプロレス団体を運営する会社を設立しその社長業を兼務するというものがある。日本でもプロレス団体運営システムの始祖である力道山からこの形式は始まっており、日本プロレスから、さらに派生した新日本プロレス、全日本プロレス(2023年3月現在はいずれも後述する「背広組」の経営)もこの形式を踏襲したほか、2023年現在もプロレスリング・ノアやDDTプロレスリングなど、この形式を取る団体は少なくなく、特に女子プロレスでは、センダイガールズプロレスリング、OZアカデミー女子プロレス、ワールド女子プロレス・ディアナ、プロレスリングWAVEが該当する。 引退したプロレスラーが社長を務めるプロレス団体としては過去には国際プロレスなど、2019年現在はPURE-Jなどがある(PURE-Jについては現役から継続)が、これは主演スターが座長も兼ねる劇団の世界に近い形態といえる。 興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(プロレスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。その一方で、ワンマン体制や血縁、同族企業になりがちとされ、また、プロレスの試合におけるセンスと経営の能力は別物であるため、経営を手助けする優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。さらに、特に主力選手が社長を務めるケースにおいて、プロレスラーとしてのコンディション維持に必要なトレーニング、休息、リハビリなどの時間の確保が困難になり、三沢光晴の死亡事故を機に問題視する声も出ている。 これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる)が社長や経営幹部を務める場合は、経営と現場を分離して安定した運営をすることができるものの、選手と経営組の間に軋轢が生まれ、活動を停止するケースも存在する。さらにプロレスラー出身のトップから交代した場合、絶対的な影響力を持つ社長プロレスラーの退陣によって(プロレスラー、背広組問わず)後任者が選手やフロントをまとめきれず瓦解するケースも少なくない。 このためJWP女子プロレスや、ジャイアント馬場が会長に退いていた時期の全日本プロレスの様に、背広組社長が会社経営に専念して、マッチメイクなどの現場にかかる業務のほとんどを選手に委ねるプロレス団体も存在する。 一方で「背広組の社長がプロレスラーになる」ケースもある。WWEでは会長であるビンス・マクマホンが(時期によるが)自ら試合に出る。彼は「背広組」であるが、これは演出の必要上もあるが、レスラーとしての出場例である。また、FMW社長の荒井昌一はプロレスラーとしての訓練は積んでいなかったが、演出としてリングでプロレスラーとの乱闘を演じたことがある。I.W.A.JAPAN社長の浅野起州も元はプロモーター出身の背広組だが、2000年の「プロレスラーデビュー」以後時折試合に出ていた。ハッスルMAN'Sワールド最高経営責任者の草間政一の場合は、レスリング経験者ということもあり、2010年に「プロレスラーデビュー」して勝利を収めた。 日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100~150試合前後と他の格闘技と比べて圧倒的に多く、スタッフはリングや周辺機材を積んだトラックで別移動するが、プロレスラーは集団でバスなどを用いて移動して同一のホテルなどに宿泊する。 競技性を売りとするUWF系の団体では、コンディション調整に時間を割くため、興行数は年間数試合から数十試合程度となっている他、対戦するプロレスラー同士が会わないよう、別のホテルに宿泊させて競技性の保持に務めた。 集客数は、試合の会場とする場所にもよるが、スタジアムなどの大会場では数万人規模、地方の体育館やイベントホール、屋外グラウンドなどの会場では数千人から少なくとも千人程度までの集客を見込んで興行を打つことが一般的である。 興行の際の会場使用料に関しても、主要アリーナや公共の体育館は入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時よりも高額(入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時の使用料より3から10倍程度)に設定されている。使用料自体も、開催曜日(土曜、休日は平日よりも高額となる会場もある)、使用時間帯(定額制の会場もある。時間帯制の会場は時間が遅くなるほど高額になる)、最高入場料(特別リングサイド料金)、観客席の使用の有無などで会場によって異なっており、設営から撤収までの時間で使用料が決まる。会場使用料には基本使用料の他にも、時間外使用料、冷暖房料金、照明料金、テレビ中継を行った際の設備料金などの付帯料金などが加わる。 使用料の支払は基本的に前払い(前払いの場合は支払期限があり、期限を過ぎれば予約は自動的にキャンセルとなる)であるが、一旦使用料を支払えば、開催中止の場合でも使用料を返還しない会場が殆どであり、その場合は巡業の収支にも大きく影響する。また、撤収が予定よりも伸びた場合の時間外使用料や会場設備を損傷した場合に生じる損害賠償は、後日会場側から団体に請求され、追加の負担となる。大日本プロレスは損害賠償のリスクを回避するため、会場によってマッチメイクを決めている。国際プロレスはジプシー・ジョーが参戦したシリーズでは損害賠償に悩まされていた他、新日本プロレスは観客が暴動を起こしたために使用料をはるかに超える損害賠償を請求されたり、使用禁止を言い渡されたことがある。一方で全日本女子プロレスは、急遽後払いに変更した会場使用料を滞納したために会場の管理者から告訴されたことがある。 会場や興行の規模によっては、使用申込後に他のスポーツイベントや行事などとの日程を調整する利用調整会議への出席が義務付けられている会場や使用申込後に団体の信用度などの事前審査を行う会場もあり、会場の事前審査によっては使用不可となる場合もある、使用料の滞納などで使用禁止となる場合がある。 海外ではプロレスラーの現地集合、現地解散の方式を取ることが大半で個別行動が基本。新人や若手レスラーは、移動経費の節約のため、自動車や先輩選手の自家用飛行機に相乗りで移動することもある。それが故に、大剛鉄之助やジョニー・バレンタインが事故でプロレスラー生命を絶たれたり、アドリアン・アドニスが移動中の交通事故で死去したケースもある。日本でもJWP時代のデビル雅美やFMW時代の大仁田厚は自家用車に後輩を乗せて移動していた。 近年では何らかの形で常設会場を設けて地方巡業を行わないプロレス団体も増えてきている。主にローカルインディーや草の根インディー或いは「どインディー」 というスラングで呼ばれる極めて小規模な団体がこの形態を取ることが多い。 こうしたプロレス団体はメジャー団体や中規模インディ団体のように集客数の採算分岐点の大きく、かつ会場使用料が高額な大会場を用意する経営体力がないため、仮に巡業を行う場合であっても小規模な公民館や体育館の一室、或いは駐車場の一角で平均百人前後、多くても数百人程度の集客で興行を成立させる運営を行っていることが多い。 リングさえ用意してしまえば何処でも興行会場になるとも言えるため、極端な場合ではプロレス団体事務所の敷地内にリングを置いたり、リングが常設されているプロレス団体の道場に客を集める形態(いわゆる道場マッチ)を取る場合もあり、数十人から数人程度の観客動員でも興行を成立させたと見なしてしまう零細団体も存在する。 海外ではプロレスラー自身が各地のインディー団体を転戦するケースも多く、この形式はインディーサーキットと呼ばれている。 2010年代以降、特に新型コロナウイルス感染症の世界的流行以降、YouTube/Ustream等の動画配信サービスを利用し、道場もしくはスタジオで行う無観客試合を配信する形で興行を行う団体も出てきており(『19時女子プロレス』、『NOAH “NEW HOPE”』等)、これらも通常巡業は行わない。 プロレスの興行は1日で5から10程度の試合が行われる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本で、1度休憩が挟まれることもある。試合の構成は以下の通り。 WWEなどのように選手名を告知してから入場してリング上では告知を行わない団体もある。 選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり入場シーンそのものをカットしているものもある。 また、タッグマッチ(詳細は後述)の入場時に用いられる曲は「格上」のプロレスラーのものであることが基本である(大物同士のタッグでは同格であることを強調するため両者のテーマ曲を混合した曲を用いることもある)。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものやタッグマッチ時に1人ずつテーマ曲に合わせて入場するといった演出が施される。 試合を行うプロレスラーの他に試合を行うために必要なスタッフとして次のようなものがある。 基本的なルールはほぼ以下の通りである。勝敗は以下の状況に至ったとレフェリーが認めて、その旨を宣告した時点で成立している。 その他に次に掲げる代表的なルールがある。 この規約は新日本プロレスと国際プロレス合意のもと制定された。両団体と日本以外のプロレス団体NWA、WWF、NWF、IWAで採用実施している競技規則を原則的方針として制定され、両団体は厳格に遵守、服従しなければならない。1980年11月20日発効。 プロレスの試合は多くは何分何本勝負、という形で行われる(ヨーロッパ及び力道山時代の日本ではボクシング同様のラウンド制の試合も行われていた)。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた3本勝負(2本先取で勝利)は過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、タイトルマッチは60分1本勝負が主流である(過去には61分3本勝負などのルールもあった)。アメリカのテレビ放送用の試合では「放送時間内1本勝負」(つまりテレビの放送時間終了までに勝負がつかなければ引き分け)という例もあった。 対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる)。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるため、リング及びロープは他競技用のものに比べて頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある(ロープを有刺鉄線に交換するなど)。 リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。 歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際にはスプリングを止めて「固く」していた。 各プロレス団体が専用のリングを所有するが小規模プロレス団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。 日本では闘龍門の闘龍門2000プロジェクトで6角形のリングが使われたことがあり、アメリカではインパクト・レスリング、メキシコではAAAなどの団体で、6角形のリングが使われている。 埼玉プロレスや黎明期のアイスリボンのようにリングを使用せずマットのみの場合もある。 リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷くプロレス団体が多く、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。 多くのプロレス団体ではプロレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ミッドヘビー級)に区分される。クルーザー級は主にアメリカのプロレス団体で用いられて、日本でもWRESTLE-1やDDTプロレスリングなどでクルーザー級と呼んでいる。ほとんどのプロレス団体の基準は概ね100 kg未満であるがヤード・ポンド法が用いられ、WWEでは2016年に復活させたクルーザー級の定義として205 lbs(約93 kg)以下、かつて存在したWRESTLE-1のクルーザー級は200 lbs(90.719 kg)以下、全日本プロレスでは231.5 lbs(105 kg)までがジュニアヘビー級として扱われる。基本的数値の基準としては海外や新日本プロレスの220 lbs(99.8 kg≒100 kg未満)が用いられている。 ボクシングと違い公式な計量は存在しないことが殆ど(メキシコを除けば必要に応じて行われるのみ)。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われて軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するプロレスラーも少なくない。近年ではシャープな肉体のプロレスラーが増えたため、105 kg以下のヘビー級戦士も多く全日本のようにヘビー級の体重制限を事実上廃止した団体も存在する。旧プロレスリングZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130 kg以上のスーパーヘビー級を置いたことがある。力道山時代の日本プロレスではジュニアヘビー級の下に190 lbs(86.28 kg)未満のライトヘビー級を置いていた。NWAはその下にさらにミドル級、ウェルター級を設置してより詳細な階級区分を行っている。ルチャリブレ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多いためミドル級、ウェルター級などで分類されることもある。DRAGONGATEの軽量級に当たるオープン・ザ・ブレイブゲート王座は180 lbs(82 kg)以下を対象としており、ウェルター級に該当する。インディー団体では体格に優れたプロレスラーが少ない傾向にあるため階級区分が行われていないプロレス団体が多い。また、みちのくプロレスの東北タッグ王座のように、個々の体重制限はないが選手2人の合計体重が200 kg以下というものもある。 女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。ただし、センダイガールズプロレスリングでは双方のカテゴリーをまとめてジュニアと表現している(キャリア3年以上の体重上限は55 kg)。全日本女子プロレスでは軽量級はスーパーライト級と呼ばれ、132 lbs(60 kg)以下を対象としていた。GAEA JAPANにおけるクルーザー級もほぼ一致する。アイスリボンのICE×60王座も存在していたが体重制限が撤廃されて現存するタイトルは無差別級となる。 試合時の服装は団体によって規定、禁止されているものを除けば特に規定はなく、様々な種類のコスチュームが存在する。男子の場合、一般的には上半身半裸で以下の種類が使用されている。近年では着ぐるみ姿のプロレスラーもいる。アンドレ・ザ・ジャイアント、ビル・ロビンソンが体重の増加でショートタイツからショルダータイツに変えたように経歴において複数のタイプを使った例も多い。 入場時に限り、専用の服装をする選プロレスラーもいる。多くは公式グッズのTシャツか、ガウンを着たりしている。ガウンに関しては様々な形があり、古くは着物タイプのものが主流であったが近年では選手のギミックに応じて色も形状も大きく異なっている。その他、真壁刀義やスタン・ハンセンのようにロープやチェーンなどの凶器を持ち込む者こともある。マスクを被ったりするものいる。代表例として桜庭和志、紫雷イオが挙げられる。珍しいものとして、スーツ着用の内藤哲也が挙げられる。 いわゆるアマチュアレスリングよりも歴史は古く、現在のプロレスの歴史は20世紀初頭に始まるが、19世紀には既にファンフェアやバラエティ番組のストロングマン(High_striker)やレスリングパフォーマンスの前任者がいた。一方で地方の伝統レスリングから19世紀に発展した現代の競技スポーツとしてのレスリングは、ルール整備された競争力のあるスポーツの2つのスタイル、「フリースタイルレスリング」と「グレコローマンレスリング」(それぞれが英国とヨーロッパ大陸の伝統に基づく)の形で出現していった。これらは 1896年の近代オリンピック開始までに「アマチュアレスリング」という用語で出現した。 近代オリンピック以降は、ルールをスポーツとして整えた際に大きく枝分かれをしている。1896年、第1回近代オリンピックアテネ大会で行われたレスリングは当時のプロレスルール(現在のグレコローマンスタイルに準じたもの)で行われていた。 競技レスリングとショーマンシップを組み合わせるレスリングの出現は1830年代のフランス、7月王政期であるとされる。そしてエドワード “ザ・スティール・イーター(“Edward, the steel eater”「鉄を食う男」)”、ガスタヴ・デアビヨン “ザ・ボーン・レッカー(“Gustave d’Avignon, the bone wrecker”「骨折魔」)”、ボネット“ザ・オックス・オブ・ジ・アルプス(“Bonnet, the ox of the low Alps”「アルプス山脈の雄牛」)” などの名前でレスラーを紹介し、観客に500フランで彼らをノックダウンするように要求したという 1848年、フランスの興行師であるジャン・エクスブロヤ(Jean Exbroyat)は、最初の近代レスラーのサーカス団を結成した。このときのレスリングで腰下のホールドを実行しないというルールをとりきめ、これが「フラットハンドレスリング」と名付けたスタイルとなる。この新しいスタイルはすぐにヨーロッパの他の地域、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア、デンマーク、ロシアにフレンチ・レスリング、クラシック・レスリング、フレンチ・クラシカル・スタイル・レスリング(French Classical Style Wrestling)の名前で広まった。 19世紀の終わりまでに、この近代的なレスリングスタイルはのちに「グレコローマン」と名づけられ、ヨーロッパで最もファッショナブルなスポーツになって、1898年にはフランス人のポール・ポン(英語版)が最初のプロの世界チャンピオンになったとしている。 19世紀後半に米国と英国で普及したプロレスの近代的なスタイルが出現する。このレスリングはキャッチと呼ばれ、グレコローマンとは異なっており、このために非正統的でグレコより緩いスタイルであるとの認識であった。グレコローマンは腰の下をつかむことを厳しく禁止しているが、キャッチレスリングはレッググリップを含め腰の上下のホールドを認めている。その後キャッチレスリングとグレコローマンの両方とも人気が上がり、これは完全に競技性のあるアマチュアとプロのスポーツであった。ここから19世紀後半以降キャッチレスリングのサブセクションが現在の「プロレス」として知られているスポーツエンターテインメントにゆっくりと変化し、その演劇性とエンターテインメント性はレスリングの能力と同等に認められていった キャッチの起源はイギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。 19世紀の初め頃にボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。 1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。 現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは "athletic show" あるいは短く "at show" と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる "all comers")をしたりレスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。 このためかつて大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論している。大仁田とは対照的な正統派のルー・テーズも、自伝においてカーニバルレスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べているほか、ロシアでもレスリングはショーとして、サーカスに組み込まれていたとしている。 1880年代には人気レスラーであり警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。と同時にマルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。 1890年代にはカーニバルレスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとのレスリング・ショーで人気を集めた。その後バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのプロレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカンレスリングの父」と呼ばれる。 20世紀はじめ、現代のプロレスの祖先である「フランス式のレスリング」が有名なレスラーの出現によってそれぞれの祖国を介する形でヨーロッパに広まっていった。例えばロシアの場合はイワン・ポドゥブニー(Ivan Poddubny)などからである。ところがフランス式のレスリングへの関心はロシアでは革命後に薄れていった。以降、ソビエト連邦・ロシアでのプロレスリングへの関心は1980年代末にまで下りプロレスラーの出現もソ連の崩壊後となる。 20世紀の変わり目に、ボディービルダーのストロングマン・アトラクションに分類される限定的アクションを盛り上げるために行われるさまざまな行為の一環としてテレビのバラエティ番組においてもプロレスリングが一般に公開されるようになった。1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く "at show" は下火となった。代わりに劇場などで行われるレスリング・ショーが増えてプロレスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことはプロレスラー間のつながりを強めて事前に試合内容を調整することを容易にした。そして競技スポーツから純粋にパフォーマンス行為が生じるレスリング("admitted fakery" または "ケーフェイ")は1920年代に出現する。その初期のスターの1人は、ジャック・カーキーク(英語版)という名のコーンウォール出身のアメリカ人の元鉱夫であったという。彼は聴衆に一緒に10分間戦うよう挑戦を促したという。 20世紀に入って英のレスリングの発展により、英国に当時のグレコローマン・グラップラーとして知られるロシア生まれのジョージ・ハッケンシュミットが英国にやって来たが、そこで彼はプロモーターであり起業家でもあるチャールズ・コクランとすぐに付き合いはじめた。コクランはハッケンシュミットをブッキングし、ハッケンシュミットがイギリスのトップレスラーであるトム・キャノンを破った試合でヨーロッパのグレコローマン王者の称号が付いた。このことはハッケンシュミットに世界王者へのふさわしさを与えたが、さらに1905年にニューヨーク市でアメリカのヘビー級チャンピオンという触れ込みのトム・ジェンキンスに勝利したことで確固たるものとなった。このときの世界ヘビー級選手権者は、世界で最高のキャッチレスラーを特定するために1905年に設立された最初のプロレス世界ヘビー級選手権であったが、ベルトという物理的な媒体表現を持っていることが知られている最初のレスリング選手権であった。ハッケンシュミットはアメリカ生まれのジェンキンスを破ったことで、初のチャンピオンシップを獲得するのである。 ハッケンシュミットはレスラーとして評判となり、マンチェスターでは当時の額で週150ポンドの価値を生んだ。ところがコクランはハッケンシュミットの正統かつ支配的なレスリングのスタイルが却って群衆の関心を削ぐ恐れがあることに気づき、ハッケンシュミットにキャノンからショーマンシップを学び、スポーツ性ではなく娯楽のために試合に取り組むように説得。このことはレスリングが将来的にスポーツ観戦/スポーツエンターテインメント要素を示しているが、人気選手のbabyfacesと嫌われている悪役選手のheelsという、両者は多くの有名なスターが英国内でのレスリングの初期の開始時に出現しはじめていた。 このためハッケンシュミットやスタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの本格派の強豪レスラーの多くはアメリカに渡り、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのプロレスラーと対戦して、レスリング・ショーを盛り上げた。ところが米国では1913年ゴッチが引退すると衰退し、一般の人々の目を魅了する新しいレスリングのスーパースターも現れなかった。結果として1914年の第一次世界大戦勃発が完全に停止する前に有名なスターが失われたため、レスリングのビジネスは衰退した。さらにレスリング人気は1915年から1920年に劇的なテールスピンを経験する。すなわちその正当性と競争力のあるスポーツとしての地位に対して広範な疑念からアメリカ国民が遠ざかることとなる。当時のレスラーは1880年代からの試合自体は大部分が偽造されたものと語っている。 1920年代になるとエド・ルイス、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が独自のプロモーションを形成し、ファンを引き付けるためにリング内の事項を変更。数百名のプロレスラーを配下にして、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った。彼らはまた、タッグチームレスリングを普及させ、レフェリーの気を散らすなどの新しい戦術を導入して、試合をよりエキサイティングにした。1920年代後半にはギミックや派手なサブミッションホールドなど、アメリカでのプロレスのより効果的な側面の成功が英国のレスリングにも導入された。アマチュアレスラーのサー・アトール・オークリーは、グラップラー仲間であるヘンリー・アーズリンガーと一緒に、オールイン・レスリングという新しいスタイルのレスリングを採用した最初のプロモーションの1つを立ち上げたのである。オークリーの元へはトミー・マン、ブラック・ブッチャー・ジョンソン、ジャック・パイなどが集まり、英国ヘビー級選手権を主宰し、ノーマン・ザ・ブッチャー、カレッジ・ボーイ、ジャック・シェリーらが選手権に名を連ね、オークリー自身が一連の対戦に勝ちのこり、最初の英国ヘビー級チャンピオンに輝いた。その後ロンドンだけでも40のレギュラー会場が設けられていくこのビジネスは当時の一大産業として発展していたがレスリングに対する大きな需要に対し、十分に熟練したアマチュアがいないことを意味し、多くのプロモーターは手続きの一部として武器と椅子攻撃を開発して、より暴力的なスタイルに切り替えていった。さらに女子プロレスや泥レス(mud-filled rings)もこの当時に当たり前のスタイルになっていった。 1920年代にはプロレスショーの仕組みは完成してメキシコ、日本、カナダなどにも伝わったのである。なおメキシコのプロレスはルチャリブレ、極技などはジャベと呼ばれる。 これらによりプロレスの人気は高まったが、一方、報道、賭博など社会的な場においてプロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。1930年代後半、英国ロンドン郡議会(London County Council)はプロレスを禁止し、第二次世界大戦直前には事業を大まかな括りに再編した。 米国でのプロレスの人気は第二次世界大戦中までに低下していくのであるが、戦後1940年代後半から1950年代に復活した。これはゴージャス・ジョージが人気を博した最初の黄金時代である。メキシコと日本でも1940年代後半から1950年代は黄金時代でもあり、エル・サントはメキシコのヒーローになり、力道山も日本で同様の名声を獲得した。 英国ではこの時期に、スポーツ性を規制し、プロモーションカルテルを形成するための委員会方式というプロモーター同盟を装っているアメリカのナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)のテリトリー・システムを参考にすることによってこのビジネスに革命を起こしたのは、プロモーター自身であった。一握りのプロモーター間でビジネスのコントロールを強化した。そして1952年に共同プロモーションの名前で設立した「ジョイントプロモーション」(Joint Promotions)は、メンバーらがライバルプロモーターをブロックすることに同意する。こうして、すぐに週40回に及ぶ大会を開催。そしてレスラー自身には交渉権限をほとんど与えなかった。ジョイントプロモーションが起こした最初の動きの1つは、選手権の確立(および管理)であった。当初これは収益性の高いベンチャーであり、タイトルの統括によりチケットの価格が上昇。ところが必然的ではあるが各テリトリーでタイトルを乱発し始める。つまりこの成功例を拡大しようとすると、露出オーバーにつながり始めた。特に各地各所で必ず一流のレスラーが数人は配置されることが多かったため、世界と英国のタイトルにはある程度の信頼性があったが、ヨーロッパ、英連邦、スコットランド、ウェールズ、および地域の王座の追加は手に負えなくなる。ある時点でおそらく、共同プロモーション内だけで追跡すれば70の異なるタイトル所有者が存在した。 後に英国レスリング連盟(British Wrestling Federation、BWF)が創設され、タイトル化はある程度の成功を収めたが、英国のプロレスリングを次のレベルに引き上げたのはテレビであった。1955年11月9日にABCとATV(ITVの週末フランチャイズホルダー)で放映された最初の大会では、フランシス・セントクレア・グレゴリー(トニー・セントクレアの父)対マイク・マリーノ、クリフ・ボーモント対バート・ロイヤルがウェストハムからライブで出演。大会は成功し、毎年秋から春にかけて毎週土曜日の午後にレスリングが注目のアトラクションと化す。1964年には「ワールド・オブ・スポート」(World of Sport)という名でフルタイムの活動に至る。テレビ放映されることによってレスラーが著名な名前になり、個性がレスラーを乗り越えることを可能にした。テレビはプロレスリングの放映でレスリングが主流文化の一部と化して、ライブイベントビジネスへの究極の後押しを証明した。1960年代半ばまでにジョイントプロモーションはライブイベントのスケジュールを2倍にして、年間約4,500回の大会を開催。主要都市すべてで少なくとも月に1回は大会が行われ、ある時点では30を超える都市では毎週開催されていた。 テレビでのレスリングの成功は、独立したグループにとってもより良い機会を生み出した。BWFの名前はライバルグループでヘビー級王者のバート・アシラティを中心に構築されたグループにも利用された。アシラティはまだチャンピオンである間にジョイントプロモーションを分割。これによってジョイントプロモーションはタイトルを空け渡していた。アシラティはBWF内で王者を主張し続けたが、BWFでは後にシャーリー・クラブトリーの新しい王座を中心に構築された。クラブトリーは1960年に負傷で引退したアシラティによって空位となった後のタイトルを獲得した若いボディビルダーであった。BWFは1960年代初頭に若いシャーリーとともに歩む。 1970年代から1980年代初頭にかけては米国でプロレスリングは国民の関心は著しく低下していたが、1980年代半ばにケーブルテレビが登場すると、全米がハルク・ホーガンなどのレスラーとともにプロレスブームが再燃、第二次黄金時代が訪れた(en:1980s_professional_wrestling_boom)。アンドレ・ザ・ジャイアント、マッチョマン・ランディ・サベージ、リック・フレアー、ローディ・ロディ・パイパーらの展開するプロレスの質は劇的に変化するがテレビにフィットし、キャラクターの特徴とストーリー性が向上していった。テレビはまた多くのレスラーのメディア進出を助け、影響力のある有名人や大衆文化のアイコンになっていった。レスリングの人気は独立した愛好家が団結してメディアの数が増えると急上昇し、また1980年代に世界レスリング連盟(WWF、現在はワールド・レスリング・エンターテインメントとして知られ、通称はWWEに)の拡大とともに国際的社会現象に発展。1990年代を通じて米国のプロレスは世界レスリング連盟とワールド・チャンピオンシップ・レスリング( World Championship Wrestling、WCW)などの競合するプロモーション間の激しい競争時代に、視聴率と経済的成功の両方で最高収益を達成している。 英国ではその後既存プロモーションへの反旗として、若いオーストラリア人プロモーター、ポール・リンカーンがけしかけていた。1975年までに共同プロモーションの束縛はほぼ崩壊し、創設メンバーの多くが引退し、会社も何度か買収され、プロレスリング業界は独自のビジネスの経験がほとんどない公開会社によって運営されるようになる。最後にプロモーションはシャーリーの兄弟であるマックス・クラブトリーの手に委ねられた。マックスは、ビジネスで最も経験豊富なブッカーとしてジョイントにヘッドハンティングされたのである。マックスは15年間失業していたシャーリーの分身である「ビッグダディ」のアングル伝説を生み出すことで、ブームを生み出した。カルテル全体を1人のパフォーマーに基づいて形成することは、テレビの視聴率向上に役立ったが、会場への集客を増やすことはなく、プロモーションは再び視聴者の興味を失い始める。1985年9月28日、ワールド・オブ・スポートはテレビ放送が打ち切りになる。代わりにプロレスリングは独自で放送枠を確保したが、放送時間枠が週ごとに変わり、通常の視聴者もゆっくりと離れていった。共同プロモーションにとってさらに追い討ちだったのは、契約が成立したためにではあるがローテーションシステムの一部としてテレビの権利をオールスター・プロモーションおよびアメリカのWWFと共有することを余儀なくされたことである。 ロシアでは1989年、日本のレスリングプロモーターでもあるアントニオ猪木と新日本プロレスは、USSR国家スポーツ委員会との合意を取り付け、ロシアのアスリートを招いてレスラーとして新日本道場レスリングスクールに1か月間のトレーニングを行った。そのうちの2人、サルマン・ハシミコフとヴィクトル・ザンギエフは、その後同団体に参戦し、1989年5月には大阪でハシミコフがビッグバン・ベイダーを破り、名誉あるIWGPヘビー級王座のタイトルを獲得している。1989年から1994年まではUWFインターナショナルに参戦した。その間彼らは1990年のWCWスターケードで、パット・オコーナー・メモリアルカップと呼ばれるタッグチームトーナメントでソビエト連邦を代表し出場した。 猪木とソ連の良好な関係のおかげで、1989年12月31日には新日本プロレスが 1989年12月31日にソ連での最初のプロレスショーがモスクワ市のレーニン運動公園内ルジュニキ・スポーツパレスで新日本プロレスの参加を得て開催された。「モスクワの特別武道フェスティバル」(Специальный фестиваль боевых искусств в Москве)という名前で開催され、約15,000人の観客が集まる。ヴィクトル・ザンギエフとサルマン・ハシミコフ、ショータ・チョチョシビリなどソ連の選手たちも大会に参加した。親日本からはアントニオ猪木、獣神サンダーライガー、蝶野正洋、バンバンビガロらの人気レスラーが参加。大会には合計9試合があり、4カ国から20人のレスラーが参加。内訳は日本から9人、ソ連から7人、アメリカから3人、イギリスから1人である。この大会の試合を映したビデオ録画が幾つか発売されている。 1994年8月27日には日本のリングスがロシア国内で大会を開催している。リングスは旗揚げした1991年にヴォルク・ハンやアンドレィ・コピィロフを発掘し、リングス・ロシアを設立していた。リングス・ロシア勢は持ち味を発揮し、ハンやコピィロフのあともニコライ・ズーエフ、イリューヒン・ミーシャらがスター選手として日本のファンに支持される。エメリヤーエンコ・ヒョードルもPRIDEに参戦するまではリングス・ロシアの一員であった。ロシア側の窓口となったウラジミール・パコージンは、国家スポーツ省の事務次官を務めており、リングスの審議員も務めていた関係で日本での大会開催の度に選手たちとともに来日していた。 1990年代にはロシア国内でもプロレスの試合がケーブルテレビで放映されたり、VHSで販売されたりすることがあった。全国テレビでプロレスリングがより広まったのは、1990年代後半から2000年代初頭にかけてである。 一方で1990年代には英国やカナダなど英連邦やドイツ語圏などの、2000年代半ば以降には日本のプロレスの人気は低下。日本ではプロレスリング・ノアのパワーアワーと新日本プロレスのワールドプロレスリングは放送局によって主に深夜番組へと追いやられている。その一方で小規模なプロレスリング団体の数は拡大を続け、専用チャンネル等が年々増加している。 米国では、WWEがテレビ番組は2018年に過去最高の年間収益を報告しているにもかかわらず、世間からは比較的低い評価を受け、2019年と2020年では視聴者数のわずかな急増にとどまるが、このことは総合格闘技の台頭に伴う競争力のある競技スポーツへの新たな関心と連動している。にもかかわらずWWEは、デジタル視聴プラットフォーム、特にYouTubeでスポーツ指向のコンテンツのトップとしての地位を確立した。なおこうしたプラットフォームでは、スポーツチャンネルのチャンネル登録者数と動画視聴回数が最も多くなっている。 英国ではローテーションシステム化から2004年までテレビ局は地元大会を放送しなかったため、同国のプロレスリングは北米のプロレスに後れを取っていった。一方でこの間小規模なプロレスリング団体は拡大を続け、ファン層も拡大していた。英国のプロレスリングスタイルは、北米のプロレスリングが示すパワームーブや、メキシコのレスリングが行う高空飛行がメインのルチャ・リブレのムーブとは対照的に、より伝統的で技術的なものであり、英国プロレスリングのスローガン/哲学は単に「"We wrestle!"(私たちはレスリングします!)」である。英国の古いスタイルのレスラーの多くはフィニッシュ前の動きや必殺の決め技を持ちあわせていないが、その代わりに試合に勝つために多数のテクニカルホールド/固め技を使用している。 2005年、英国のテレビネットワークITVは、Celebrity Wrestlingと呼ばれる有名人レスラーをフィーチャーしたスタイルで行うプロレスを土曜日の夜のプライムタイムショーとして開始することにより、復活したプロレス人気を利用しようとした。ただしレスリング自体の評価が低く、この試みは失敗した。 ロシアでは21世紀以降勃興と衰退を繰り返す。2002年には同国最初のプロレスリング連盟が現れた。同年11月、モスクワで、インディペンデント・レスリング・フェデレーション(IWF)が最初の選手権を開催。IWFは、2003年から月例大会「デンジャーゾーン ("Danger Zone")」、2005年からは外国人レスラーが参加する特別年次大会「レスレダ」("Wrestleada" )、マスエリミネーションマッチの「プレジデンツカップ」を開催している。2010年以来、毎年恒例の大会「Kingof Hardcore」がある。2006年9月から12月にかけてデンジャーゾーンの番組要約版がテレビチャンネル7TVで放送された。2007年5月から2007年の終わりまで、番組「ロシアエクストリーム」がテレビで放映された。その後、2008年5月から2010年半ばまで7TVで放送されていた。以降同国でプロレスの放送はWWEだけである。2012年4月11日、WWEはロシアで初めてハウス大会(テレビで放送されない大会)Raw WorldTourをLuzhnikiISAで初めて開催。2013年4月25日、WrestleMania Revenge Tour 2013の一環として、同国最初のWWE Raw大会がサンクトペテルブルクのアイスパレスで開催され、翌日4月26日、モスクワのルジニキISAで開催された。 2004年8月5日、世界レスリングファイト大会が、英国のプロモーションであるEuropean Wrestling Promotion(EWP)の参加を得て、ツヴェトノイ大通りのモスクワサーカスで開催された。この大会はヨーロッパのレスラー、ダグ・ウィリアムス(後のTNA)、エキ・エックスタイン、ムーラット・ボスポラスをフィーチャーし、旧WWF出場の経験を持つカナダ人ジョー・レジェンドやNFRの代表のバレンティン・プレス・マルドフの他、大会のホストはニコライ・フォメンコが務めた。2014年にはノーザンストームレスリング(NSW)がサンクトペテルブルクで大会を実施。2015年、所属レスラーは2016年にビッグフェスティバルの一環として、コミックコンフェスティバルとスターコンに出演。NSWは毎月ノーザンストーム大会を主催していた。2015年9月20日、同社最初の主要大会がレニングラード青年宮殿で開催された。「ネヴァ川での戦い」と名づけられたこの大会は、元WWEレスラーで2度のNWA世界ヘビー級王者になったコルト・カバナが参加した。 2015年9月、NSWはヨーロッパのレスリングプロモーションのUEWAアライアンスの一部になり、2016年11月にNSWのレスラーはNFRアニバーサリー大会「DangerZone100」に参加。NSWには独自の養成所があり、プロレスラーが大会に参加できるように準備している。 国内団体としては2008年、ニジニノヴゴロドに独立レスリング協会(NRO)が設立。その後組織上の問題により、2014年にプロモーションは終了したが、翌年の11月に、Gorky City Wrestling(GCW)の支援を受けて活動を再開。残念ながら2018年の春以降、大会は開催されなくなり、2019年の終わりにGCWは正式に閉鎖されたことが発表された。主要なニジニノヴゴロドプロモーションのタイトルは、2015年に組織されたVolga WrestlingAssemblyに引きつがfれる。このプロモーションの代表者はサンクトペテルブルク、チェレポベツ、カザンなど、ロシアのさまざまな都市で中小の大会を積極的に開催していたが、2020年プロモーションはついに終了した。 モスクワでもロシアプロレス(RPW、2010年 - 2012年)、ロシアレスリング連盟(RWF、2011年 - 2013年)、プロレスリーグ(LPR、2012年 - 2014年)そしてヤロスラヴリ・ロシア・エクストリームレスリング(RFEB、2004年 - 2005年)など、いくつかのプロモーションが存在していた。 2005年3月にアメリカでリアル・プロレスリング(英語版)(RPW)なる格闘技団体が発足した。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して純粋な競技スポーツとしてプロレスリングの活動を行うというものである。ルールや試合場はレスリングのフリースタイルに近く、ポイント制であり、打撃や極技などは禁止である。アマチュアレスリングとの違いとしては、リングの外に相手を押し出すと得点となることや、攻勢を維持していた選手にボーナスと呼ぶ得点機会を与えることなどがある。 最初の日本人プロレスラーはソラキチ・マツダとされている。初の世界王者は世界ジュニア・ウェルター級王者となったマティ・マツダ(1921年)。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他に数名の日本人、日系人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していたことが確認されている。 マツダと共にプロレスラーとして活躍した三国山は帰国後の1887年に東京の銀座で「西洋大角力」を開催しており、これが日本初のプロレス興行とされている。しかし観客は集まらず失敗に終わっている。 1921年にアメリカのプロレスラーであるアド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日して、講道館柔道に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたち、永田礼次郎、庄司彦雄、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家が対戦。今で言う異種格闘技戦であり、試合は東京の九段の靖国神社相撲場で3月5日と6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては「プロレス対柔道」のタイトルで週刊少年ジャンプにて漫画化されている。 日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後に力道山が1953年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後GHQにより柔道が禁止されたため、柔道家の牛島辰熊が1950年2月に国際柔道協会(プロ柔道)を設立して木村政彦、山口利夫、坂部保幸らが参加し、力道山より早くプロ柔道興行を始めた。国際柔道協会は4か月10回の興行の後、木村政彦・山口利夫・坂部保幸が日本プロレスに移籍し瓦解、最終的に日本のプロレス団体は力道山の手によって統一された。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得した。 その後、日本においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレスと国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げして、さらに力道山の死去後の日本のプロレスを支えていたアントニオ猪木が新日本プロレスを、そしてジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げして両エースを失った日本プロレスは崩壊する。しばらくの間は上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得。国際プロレスもヨーロッパ路線とデスマッチ路線を展開して独自のファン層を開拓した。 1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳、長州力らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本プロレスでは藤波らや、佐山聡がタイガーマスクとしてデビューして、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとして、その礎を築いた他、子供層の取り込みに成功して、人気を更に増した。 1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイル(のように見せかけた)のプロレスを確立して、後の総合格闘技の台頭への布石となった。 1981年に国際が消滅したため、昭和末期の段階では新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレスに1988年設立の第2次UWFが4大団体という体制になっていた。 なお、昭和後期には上記の4大団体以外に興行を行う組織はほとんど存在せず、これらのプロレス団体に入門しれ、実際にプロレスラーとして試合のリングに立つ事は大変に狭き門であった。 こうした状況の中で、1970年代の初頭から日本各地の大学にプロレスの同好会が設立されて、1978年頃より実際のプロレス形式の試合を行う学生プロレスへと発展している。同時期、学生プロレス初期のOB達が中心となり、社会人になった後も活動を継続するアマチュア・プロレス(社会人プロレス)の動きも始まっており、1978年8月には日本初の社会人プロレス団体であるJWA関西が設立、1980年代にはJWA関西の傘下団体は全国各地に広がっていき、後のインディー団体乱立時代の布石となっていった。一方、4大団体以外の小規模団体でプロレスラーとしてデビュー出来たとしても、その団体が活動を停止すると直ちに廃業に追い込まれる事例や、4大団体所属レスラーであっても人員整理に伴う解雇で引退に追い込まれる例も散見されていた。 1986年にジャパン女子プロレスが設立される。同団体は山本小鉄やグラン浜田ら男子プロレスラーをコーチとして招聘していたが、プロレス団体経営陣として参画していた新間寿は1988年に男女混合団体化(格闘技連合)を目指して浜田と大仁田厚の遺恨アングルを実行して、12月3日にジャパン女子プロレスの興行のメインイベントという形で浜田対大仁田戦が行われた。この時のジャパン女子プロレスのファンや所属プロレスラーらの反対の声により、混合団体化の計画は頓挫するが、この時の関係者が中心となり、後のFMW設立へと繋がっていく事になる。 1989年4月、全日本プロレスを解雇されて引退状態であった元国際プロレス出身プロレスラーが中心となり、パイオニア戦志が旗揚げ。日本初のインディー団体の設立事例となる。10月にはジャパン女子を追われていた大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収めてインディー団体というカテゴリーを確立。このプロレス団体は同時に「ハードコア・レスリング」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。1990年1月には大仁田と同じくジャパン女子プロレスを追われていた浜田により、ユニバーサル・プロレスリング設立。日本にメキシコのルチャリブレスタイルが導入される嚆矢となった。 1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされてプロレス団体の乱立の時代を迎えた。日本のプロレス界に特に大きな影響を残したのは、1990年にメガネスーパーが出資して、新日本プロレス、全日本プロレスから多くのプロレスラーを引き抜いて設立されたSWSである。SWSは1992年初頭に、WARをはじめ複数の派生団体に分裂する形で崩壊していく事になった。ユニバーサルを退団したザ・グレート・サスケが1992年に設立した、みちのくプロレスは東北地方を主戦域として活動する地域密着型のインディー団体として成功を納めて、1993年に設立された高杉正彦のIWA湘南と鶴見五郎のIWA格闘志塾は神奈川県内の特定市域のみを活動地域とする手法で細く長く活動を継続した。 この頃になると乱立するインディー団体への主力選手の離散と同時に、馬場、猪木が第一線を退いた事もありプロレス人気にも翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動してジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人プロレスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人プロレスラー同士の闘いに重点を置くようになった。新日本プロレスでは闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)、全日本プロレスではプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が台頭して後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次UWFはUWFインターナショナル、プロフェッショナルレスリング藤原組、リングスに分裂(藤原組はその後さらにパンクラス、格闘探偵団バトラーツに分裂)して細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭して、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが準備期間の短さなどから結果を残したプロレスラーは少なく、人気低迷に拍車をかけた。一方、UWFインターナショナル、キングダム出身の桜庭和志や新日本プロレス出身の藤田和之など、総合格闘技のリングで優秀な戦績を収めた者もいた。 1997年にはJWP女子プロレスのプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。老舗の全日本女子も、この年に最初の経営破綻を引き起こし、多くの女子プロレスラーが他団体に流出して衰退していった。 1999年、元来非営利運営を主としていた社会人プロレス出身者により、零細ながらも商業活動を行う歴としたインディー団体である YMBプロモーション が設立される。1970年代以来の社会人プロレスの伝統に則り、煎餅布団の上にブルーシートを敷いた簡易リングを用いて数十人から数人程度の観客を前に試合を行う興行形態 は当時のプロレスマスコミの間では未知のものであった。また、それまでのインディー団体はメジャー団体からスピンアウトした関係者や、より大規模なインディー団体が分裂していく過程で設立されたものが多かった事から、規模の大小はあれどもその興行領域は全国区を標榜している事が多く、単一県内など特定の地域内のみで興行を行うインディー団体は(先述のIWA格闘志塾などの先例を除けば)極めて珍しいものであった為、YMBは週刊プロレスにより、ローカルインディー団体として初めて分類される事となった。なお、ローカルインディー団体の中でも更に活動地域が狭く、道場などのリングが常設されている特定の場所でのみ興行を行うプロレス団体は「インディーの中のインディー」を意味する「どインディー」とも呼ばれている。こうしたプロレス団体の初の事例は、1993年に横浜市鶴見区の焼肉屋が主体となり、常設されたリングの周囲に様々な料理を提供する屋台街が形成され、屋台の来店客にプロレスやキックボクシング などの格闘技の試合を提供した屋台村プロレス(正式名称はプロレス屋台村15番街ヨンドン)であるとされている。屋台村プロレスは1996年頃には中心となった焼肉屋の閉店に伴い解散したが、常設リングを持つ運営主体に様々なローカルインディー団体がプロレスラーを派遣して興行を成立させる手法は、その後、ローカルインディー団体の多くに引き継がれた。 2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変した。全日本プロレスでは馬場の死後は社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立して、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団してプロレスリング・ノアを旗揚げ。新日本プロレスでも橋本真也が解雇されて新たにプロレスリングZERO-ONEを旗揚げして新たな4団体時代を迎えた。一方、所属選手の殆どを失った全日本プロレスは団体存続をかけて新日本プロレスとの交流に踏み切った。2002年に武藤敬司が新日本プロレスを退団して全日本プロレスに移籍して、10月に同団体の社長に就任している。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流も盛んに行われるようになった。この頃からWWEが日本でも人気を博して、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1、ハッスル、DDTプロレスリングなどエンターテインメント志向の興行が行われるようになった。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半はいわゆる第三世代が台頭するが、人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし、2005年に橋本が、2009年に三沢が急逝し他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり各プロレス団体の勢力図が変革されていった。女子プロレスも2005年に全日本女子プロレスが活動を完全に停止、それと入れ替わるようにアイスリボンやプロレスリングWAVEなどの新興団体が勢力を伸長させていった。 この時代に入ると、社会人プロレス団体が営利団体化してローカルインディー団体に昇格する事例 も増えていった。そうしたプロレス団体の一つが屋台村プロレスからデビューした高木三四郎が率いるDDTプロレスリングであった。 2011年には東日本大震災復興支援を目的として新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアによる合同興行ALL TOGETHERが開催されて2012年には新日本プロレス、全日本プロレスが旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなどプロレス団体同士の連携を強めている。 2000年代に低迷してゲーム会社のユークスの傘下となっていた新日本プロレスは2012年にエンターテイメント企業「ブシロード」の子会社となり同社のコンテンツビジネスとの連携を深めて、観客数と売り上げを大きく増やして、2016年にはプロレス団体史上最高額の事業利益を達成している。プロレスリング・ノアは三沢亡き後のプロレス団体をまとめきれず、主力プロレスラーの離脱が相次ぎ2016年に経営破綻し事業再編、さらに2019年にサイバーエージェントの傘下に入り同グループ傘下であるプロレスリングDDTの高木三四郎が社長に就任している。プロレスリング・ノアを離脱した秋山準らはベンチャー企業のスピードパートナーズ(後の八丁堀投資)の傘下となっていた古巣の全日本プロレスに復帰する。しかし、全日本プロレスのオーナーとなったスピードパートナーズ社長(当時)の白石伸生の運営に反発した武藤らが全日本プロレスを退団して、新たにWRESTLE-1を旗揚げ。一方、全日本プロレスは親会社の経営破綻により秋山を社長とした新体制で再出発。各プロレス団体で主力プロレスラーの退団、移籍が発生した他に、インディー団体出身プロレスラーによる地方団体旗上げが相次ぐなど、細分化も進んでいる。 また現在、日本のプロレス市場はWWEを始めとする海外団体が強く関心を寄せており中邑真輔、小林健太、戸澤陽らがWWEへ進出した他、新日本プロレスに参戦していた外国人プロレスラーが相次いでWWEへ移籍しており、WWE進出を狙うプロレスラーやWWEを解雇されたプロレスラーが相次いで日本のプロレス団体に参戦するなど、移籍市場として一定の価値を獲得している。 メジャー団体の再編の一方でインディー団体の細分化も更に進んでいき、メジャー団体を離脱したプロレスラーも、余程の事情がない限りはローカル・インディーやどインディー団体のリングに活動の場を移すことで廃業せずに現役を続行出来る程度に受け皿が広がってきている。 2020年、新型コロナウイルス感染症対策による興行開催自粛を受けて4月15日、木谷高明(新日本プロレス、スターダムのオーナー)が音頭を取る形で国内男女7団体 が馳浩衆議院議員、スポーツ庁、経済産業省に休業補償などの要望書を提出。馳は7団体にコミッション設立を要請した。 また、YouTube文化の隆盛の中において船木誠勝、長州力、谷津嘉章、前田日明、キラー・カーンら多くの元プロレスラー、現役プロレスラーが自身のチャンネルを立上げて、現役当時の昔話や裏話などに花を咲かせ人気チャンネルとなっている。 女子プロレス(じょしプロレス)は、女性が試合をするプロレス。闘う人を女子プロレスラー(じょしプロレスラー)と呼ばれている。 ミゼットプロレス(Midget Pro-wrestling)は、低身長症が試合をするプロレス。通称「小人プロレス(こびとプロレス)」。闘う人をミゼットレスラーと呼ばれている。メキシコではミニエストレージャと呼ばれている。日本では全日本女子プロレスで前座として行われていたのが有名。 かつて各新聞社やテレビ局においてスポーツとして扱うかエンターテインメントとして扱うか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントとしての扱いという形で決着した。 ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお照明、音響、撮影係等のスタッフ用の興行進行台本はこれとは別の物)。この台本を考案、作成する人間を「マッチメイカー」と呼ばれ、リング外での筋書き(アングル)及び試合展開や決着方法についての台本を考えて、提示されたプロレスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については口頭での打ち合わせであり、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われている。 試合以外にも、リング外でのプロレスラー、グループ、プロレス団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集めて継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。 アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開、消化して最終戦において(大会場で開催されてアメリカではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり連続ドラマと類似している。 特に20世紀中期以降のアメリカのプロレス団体などの場合、プロレスラーには一定のキャラクターであるギミックが要求された。それにはプロレスラーが考えたものもあればプロレス団体から提示されるものもあった。 特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北して客は溜飲を下げるが場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利、反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても次回の試合への客の関心を集める役目を果たした。これに対して正義漢、善玉の役割をベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。 特にアメリカのプロレスでは、その面が顕著で日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現して特に外国出身を名乗る選手では人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。場合によっては風貌が近い者を別の国の出身者に仕立てることもあり悲喜劇的な例として共産党の支配による社会主義体制を嫌ってユーゴスラビアからアメリカに亡命したニコライ・ボルコフが試合前にソ連の国歌を歌うなどのギミックを背負った悪役にされた例がある。 また、ギミックには世相が反映されることが多い。特にアメリカでは、その傾向が強く第二次世界大戦後には真珠湾攻撃を連想させる不意打ちを連発する「卑劣なジャップ」風のレスラーや「ナチスの残党」を名乗るレスラーが多数存在して、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり湾岸戦争時にはアラブ人のギミックでサッダーム・フセインの側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。 前述の「ブック」とは別物である。ブックはプロレスラー間の試合内容の打ち合わせを意味するが、これは裏方スタッフのイベント進行用の台本であり各種機材の使用のタイミング、順序等を示したものである。 かつてはインターネットオークションでプロレスリングZERO-ONEの興行「ZERO-ONE USA」のテレビ放送進行用台本が出品されることがあった。また、日本ではFEGと全日本プロレスが中心になって開催されたイベント「WRESTLE-1」において小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、プロレスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを暗に示したが、もっとも、小島の「いっちゃうぞバカヤロー」は殆どの試合で見られており、小島の得意のマシンガンチョップから対角線エルボーを行い、「いっちゃうぞバカヤロー」と叫んでからダイビングエルボーを対戦相手に見舞うという流れの中で出されるものであり、段取り決め等を行っていない観客も一緒に叫ぶことが通例となっている。 また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。 プロレスはワンマッチで興行をこなし、そのためトーナメントなどの完全なる真剣勝負や競技スポーツとは相違があるため、同様の技を常人が受けた場合に危険が生じる行為は意図的に避けられている。例えばKー1・キックボクシングやフルコンタクト空手などの立ち技格闘技のように蹴り技では相手選手の局部以外の急所を狙う(膝へのローキックなど)のはルール上許されても、鍛えた筋肉で守られ怪我をする恐れが少ない部分をめがけ、力を込めて蹴りをいれる場合が大半であるほか、反則行為ともされている素手でのパンチの場合も、拳骨部を当てると顔が腫れ上がったり、自身の拳も含めて骨折などの怪我を誘発する恐れがあり危険であるため、寸止めなど何らかの制御が普通である。 ジャンボ鶴田はルー・テーズに学んだバックドロップでは落下の際、右足を流すことも多かった。右足が流れる理由を後年、『そうしないと、怪我人が出ちゃうから』としていた。これはハーリー・レイスにしっかりと両足をつけて見舞ったところ、食らったレイスが試合後激怒された事からで、このときレイスは『あんなこと、この場でもう一度、俺にやれるのか』と、鶴田の控室まで乗り込んで来たという。 ただし、プロレスラーが受けてもタイミングの狂いなどから危険が生じることは時々ある。スタン・ハンセンはブルーノ・サンマルチノの首をボディスラムのかけ損ないで骨折させたことがあり、のちにハンセン自身も相手攻撃で失神してしまったことがある。このほか天龍源一郎、ミスター珍、マリオ・ミラノ、ザ・マミーなど、試合中に失神してしまった例は多い。 ハワイで行われたルー・テーズ対力道山戦でもテーズのリバース・スラムで力道山が失神したとされ、三本勝負が一本だけで終了となったが、その後テーズは大木金太郎戦で大木を、寺西勇とのエキジビションで寺西を、力道山も木村政彦戦で木村を失神させたことが知られる。 またテーズは対グレート草津戦で草津を意図的にノックアウトさせるバックドロップを仕掛け、草津を失神させたとしている。草津はその後も対モンゴリアン・ストンパー戦でストンパーのスリーパー・ホールドで失神したとされる。 一方で三沢光晴は業界一の受身の達人といわれていたがバックドロップの受け損ないで死亡しているが、他にもJWPのプラム麻里子や新日本プロレスの福田雅一などの例や、馳浩も試合での受け身の取りそこねで試合後に心肺停止したことがある。 佐山聡によれば、多くのプロレス技は「暗黙の了解」がなければかかるようなものではなく、かつ格闘技には使えないものであると断じている。一方で桜庭和志のように総合格闘技でプロレス技を繰り出す選手もいるほか、総合格闘技や他格闘技で使用されていた技がプロレス技となって知られ定着するものも多くある。また、本質は真剣勝負ではないとしても試合中に本気になってしまう場合など、それに近い試合が行われてしまうことはある。以下に例を挙げる。 小川直也対橋本真也は「シュート」(演劇的要素を無視した試合)に近いものであり試合中は本気のパンチを当てていた(相手にかけた関節技を自ら解くなど、完全な真剣勝負ではない)。特に1999年1月4日での試合は師であるアントニオ猪木から「一方的に蹴りまくって、最後は蹴って、リングから出すまでやれ」といわれていた。 タッグマッチ中にエル・サムライが大谷晋二郎による顔面への攻撃に本気で怒り大谷を追い掛け回した挙句、味方である獣神サンダー・ライガーにそれを止められている。サムライは1997年の6人タッグマッチでも今度は大谷ではなく金本浩二と延々と場外で乱闘を繰り広げているが、このときは金本がサムライのマスクの新デザインを馬鹿にしたことへの報復とされる。 前田日明はアンドレ・ザ・ジャイアントが本気で危険な技をかけてきたのに対して、関節部への危険な蹴りを多発した(無効試合)。 前田はデビュー間もないころに段々熱くなって喧嘩に限りなく近い試合になることがあったとし、実際にも1979年に対戦相手のサイレント・マクニーが、タイガー・ジェット・シンにそそのかされてシュートを仕掛けられた際に不穏試合と化したが、返り討ちにしていることが知られる(試合結果自体は10分時間切れ)。マクニー戦がセメントマッチとなってしまったことについては後年自分らがプロレスの世界に入った頃は相手が技を受けない場合はやってもいいと、当たり前に言われていたという。一方で自らも1985年のスーパータイガー戦で周囲にそそのかされて不穏マッチを敢行している。試合中の細かい点までは決めないプロレス団体も多く、気性の荒い者たちによる試合中のトラブルは時々見られる。 日本のプロレスにおいては企業経営で用いられる言葉を他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため隠語は相撲と共通するものが多い。プロレスに由来するいくつかの用語については、1990年代にThe Rock(ドウェイン・ジョンソン)とスマックダウン(SmackDown)によって普及したこの「smackdown」という用語は2007年からメリアム=ウェブスター辞書にも掲載される。 20世紀初頭にプロレスは「スポーツ」としての機能が欠けていることが明らかになると、教育を受けていない労働者階級にとっての安価な娯楽として見下されていた。ただしこれが常に当てはまるとは限らなかった。 その人気の高まりとともに、プロレスは学術研究とジャーナリズムの批判の対象として注目を集めていく。多くの研究者が論文、エッセイによってプロレスリングの慣習、内容、そして現代社会におけるその役割を分析してきた。多くの場合演劇学、社会学、パフォーマンスやメディアに関する研究の一部として取り組まれている。マサチューセッツ工科大学は、プロレスの文化的重要性に関する研究コースを開設し、人類学者のヘザー・リーヴァイはメキシコのルチャリブレの文化についての民族論文を発表した。 社会文化論としては塩見(2008年)、ボール(1993年)のほか 文化としてのプロレス、 プロレスの社会学的考察、ルチャ・リブレ : 覆面レスラーのリンクなど、多くの論が展開されていた。 医学では日本では総合病院水戸協同病院でみちのくプロレスをもじった「みとのくプロレス」という症例検討会が開催されているほか、「リハビリプロレスリング」と銘打っているシンポジウムもある。 このほかにジェンダー論 政治学 、 経営論 (例えば川田利明)、軍事、心理学、地域活性化 、映像科学、音楽学などでの言及がみられる。 フランスの理論家であるロラン・バルトは1957年に最初に出版された彼の著書『Mythologies』のエッセイ「TheWorld of Wrestling」で、レスリングはより深い分析に値することを最初に提示した。バルトは次のように主張した。血に飢えているとすれば喜んで観客のための演劇モードになり、これは無知な者の詐欺としてではなくて光景として見られるべきであるとしたが、このときレスリングは並置された意味をすぐに読むことを要求し実行される芸術として説明され、論理的な結論ではレスラーやレフェリーは演劇の演者よりその重要性は最低である。バルトによればレスラーの役割は勝つことではなく、期待される動きを正確に通り抜け、観客に劇の光景を与えることであるとしたが、この論と解釈はその後のレスリングに関する研究では基礎事項となっていく。 さらにプロレスは古典的な英雄の統合 、 コンメディア・デッラルテ、 復讐悲劇、 道徳劇、 そしてアメリカン・バーレスクなどの他、「男性向けのメロドラマ」と比喩されることも多く、過去の文学や演劇の世界の役割を果たし、今日に存続するプロモーションによって描かれたキャラクターとストーリーラインも当該社会の気分、態度および懸念を反映しているようにされ、世相の影響を与えることが可能であるとされた。プロレスリングが示す高レベルの暴力性と男らしさは、平時における攻撃性の代用手段となっているとも解釈されている。 洋の東西を問わずトッププロレスラーは社会の中で多くの名声も獲得してきたが、年月を重ねるごとに音楽や芸能、さらには執筆、ビジネス、政治、評論等の分野にまでキャリアを広げ、プロレスに興味をもたない人々にも人物として知られるようなレスラーも多く生まれてきた。逆に他のスポーツ選手や一般的なポップカルチャーの著名人も短期間ではあるがプロレスに参戦するなどの現象もある。そうした初期の典型的な例として、アメリカでの1980年代のプロレスブーム(en:1980s_professional_wrestling_boom)から端を発したプロレスとMTVを組み合わせたロックン・レスリング・コネクション(Rock 'n' Wrestling Connection)が知られる。 プロレスは一般的な素材として文化でおなじみの比喩やインターネットミームにも活用され、パロディーを使って他の作品の中で描かれることも多い。 これまでキャラクターのプロレスラーを主人公として描いた多くのテレビ番組や映画が世界各地で制作されている。たとえば、Ready to Rumble、からルチャシネマ(ムーチャ・ルーチャ!、ナチョ・リブレ 覆面の神様、そしてエル・サントの映画シリーズ=俗にサント映画という、他)など、多岐にわたる。 1950年のフィルム・ノワールであるジュールズ・ダッシン監督、リチャード・ウィドマークとジーン・ティアニー主演『街の野獣』はロンドンのプロモーターが規模を拡大しようとしているという話をして、本物のプロレスラーであるスタニスラウス・ズビシュコが出演した試合を特集している。 プロレスラーについての2008年の映画「レスラー」はヴェネツィア映画祭金獅子賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞しているほか、オスカーのいくつかの部門にもノミネートされた。ゴージャスなレスリングの女性のプロモーションに基づいた2017年のテレビシリーズ『GLOW: ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』は、第70回プライムタイム・エミー賞で傑出したコメディシリーズ部門へのノミネートなど、高い評価を得た。 プロレスの世界を舞台にした舞台劇も制作されている。たとえば『バロン』は、バロン・フォン・ラシクとして知られる実際のパフォーマーレスラーの人生を語るコメディである。『From Parts Unknown ...』は、架空のレスラーの興亡についての物語で、賞にもノミネートされたカナダのドラマである。 2009年のサウスパークのエピソード『WTF』は、プロレスメロドラマで構成されたアニメーションである。 ディズニー・チャンネルシリーズの主人公の一人キム・ポッシブルはプロレスの大ファンであり、実際にエピソードで取り上げられた(2人の元WWEレスラーがエピソードで取り上げられた)。 ドキュメンタリー映画の製作者はときにレスラーの生活と、その職業がレスラーとその家族に与える影響を提示してきた。1999年の劇場ドキュメンタリー「ビヨンド・ザ・マット(Beyond_the_Mat)」は、引退間近のレスラーであるテリー・ファンク、全盛期のミック・フォーリー、恩恵から転落した元スターのジェイク・ロバーツ、ビジネスに参入しようとしているレスリング学校の学生に焦点を当てている。 MTVのドキュメンタリーシリーズ『en:TrueLife』は、「私はプロレスラーです」と「私はプロレスラーになりたい」というタイトルの2つのエピソードを特集。その他のドキュメンタリーでは『プロレスの秘密の世界』(The Secret World of Professional Wrestling )をThe Learning Channel、『Hitman Hart:Wrestling with Shadows』をA&Eによって制作された。 2005年に発表された『en:Lipstickand Dynamite、Piss and Vinegar:The First Ladies of Wrestling』は、20世紀を通じて女性のレスリングの発展を記録したものである。他にReal_Sports_with_Bryant_Gumbel(ブライアントガンベルのリアルスポーツ)やHBOでも数回紹介されている。 ほかに『en:Bloodstained Memoirs』はクリス・ジェリコ、ロブ・ヴァン・ダム、ロディ・パイパーなどのプロレスラーのキャリアを調査したドキュメンタリーで、第22回(1991年)大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した井田真木子の『プロレス少女伝説』は長与千種、神取しのぶ、天田麗文、デブラ・ミシェリーらの足跡をたどり、1980年代に熱狂的なブームとなった女子プロレスの文化を通したルポである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "プロレスは、リングで観客へ見せることを目的とした攻防を展開している格闘技を基本としたスポーツ、パフォーマンスアート、エンターテインメントもしくは、その試合を複数展開することにより開催されている興行のことである。プロレスリング(Pro Wrestling)とも呼ばれている。正式名称はプロフェッショナルレスリング(Professional Wrestling)。興行レスリング、職業レスリングとも呼ばれている。古くは西洋相撲(角力)と呼ばれていた。アメリカなどではレスリングとも呼ばれている。メキシコではルチャリブレ、ヨーロッパではキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "試合は投げ技、打撃技、関節技、絞め技、フォール技、時には凶器などを用いて行われて試合において闘う者をプロレスラーもしくはレスラーと呼ばれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ、メキシコ、日本などにおいて歴史があり複数のプロレス団体が存在している。この他にカナダ、オーストラリア、イギリス、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、フィンランド、オーストリア、ニュージーランドなどで盛んとなっている。プロレス団体がない国においてもテレビとインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "興行会社が試合、その他で構成される興行を開催することで観戦料などの収入を得る。プロレス業界において興行会社は「団体」と呼ばれている。女性のプロレスラーの行うプロレスは「女子プロレス」と区別されている。それ単独での興行は存在しないものの、低身長症のプロレスラーが行うプロレスは「ミゼットプロレス」と呼ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "事業収入を得ないアマチュア組織も存在して、中でも学生の愛好家によるものは学生プロレスと呼ばれる。本来、メキシコを除いてはライセンス制度が無いため厳密にアマチュアとプロを分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多く、「アマチュアプロレス」という表現が矛盾していることもありプロではないがプロと同じ形式という意味で「プロスタイルレスリング」、「ノンプロ」との合成語として「ノンプロレス」と表現されることもある。1つの地域に重点を置く地域密着型と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "勝敗を競う形式を取るがアメリカのWWEはあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、筋肉増強剤などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が保険料が低く済み経費削減に繋がることや株式上場の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。1950年代にフランスで活動したロジェ・ドラパルトは、プロレスの持つ競技牲と演劇性を「プロレスは75パーセントのスポーツと25パーセントのスペクタルがなければならない、その逆はない」 と例えている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ、カナダ、日本、プエルトリコ、メキシコが挙げられる。アメリカではプロレスでもレスリングでも「レスリング」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合はショー・ビジネスのそれとして「ラスリン」と南部訛りで呼ぶことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "エンターテインメント産業とほぼ同じ事業形態で運営が行われている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "球場、体育館、イベントホール、屋外などを会場とし、そこにリングや周辺器材(フェンス、椅子等)を設置して有料で試合を観戦させる「興行」が主な事業である。会場の規模と観客数は団体や興行規模により様々であり、数万人を動員することもあれば、数十人程度の観客を相手にすることもある。WWEのレッスルマニア32では10万人を超える動員に成功している。1つの興行で5試合から10試合を行うことが多い。多くの団体はこのような興行を複数回実施する、シリーズと呼ばれる企画を年間複数回組み、選手と従業員、機材は全国を移動しつつこれを開催する。これを「巡業」と呼ぶ(巡業については後述)。また、経済的あるいは他の事情から巡業を行わないプロレス団体も存在して、団体が所有してリング等を設置している「常設会場」を使用するか、限られた地域にて営業している会場を使用している。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "収入の柱となるものは以下の様なものである。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "プロレス団体・興行会社における特徴の1つとして現役レスラーまたは引退したレスラーがプロレス団体を運営する会社を設立しその社長業を兼務するというものがある。日本でもプロレス団体運営システムの始祖である力道山からこの形式は始まっており、日本プロレスから、さらに派生した新日本プロレス、全日本プロレス(2023年3月現在はいずれも後述する「背広組」の経営)もこの形式を踏襲したほか、2023年現在もプロレスリング・ノアやDDTプロレスリングなど、この形式を取る団体は少なくなく、特に女子プロレスでは、センダイガールズプロレスリング、OZアカデミー女子プロレス、ワールド女子プロレス・ディアナ、プロレスリングWAVEが該当する。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "引退したプロレスラーが社長を務めるプロレス団体としては過去には国際プロレスなど、2019年現在はPURE-Jなどがある(PURE-Jについては現役から継続)が、これは主演スターが座長も兼ねる劇団の世界に近い形態といえる。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(プロレスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。その一方で、ワンマン体制や血縁、同族企業になりがちとされ、また、プロレスの試合におけるセンスと経営の能力は別物であるため、経営を手助けする優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。さらに、特に主力選手が社長を務めるケースにおいて、プロレスラーとしてのコンディション維持に必要なトレーニング、休息、リハビリなどの時間の確保が困難になり、三沢光晴の死亡事故を機に問題視する声も出ている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる)が社長や経営幹部を務める場合は、経営と現場を分離して安定した運営をすることができるものの、選手と経営組の間に軋轢が生まれ、活動を停止するケースも存在する。さらにプロレスラー出身のトップから交代した場合、絶対的な影響力を持つ社長プロレスラーの退陣によって(プロレスラー、背広組問わず)後任者が選手やフロントをまとめきれず瓦解するケースも少なくない。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このためJWP女子プロレスや、ジャイアント馬場が会長に退いていた時期の全日本プロレスの様に、背広組社長が会社経営に専念して、マッチメイクなどの現場にかかる業務のほとんどを選手に委ねるプロレス団体も存在する。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方で「背広組の社長がプロレスラーになる」ケースもある。WWEでは会長であるビンス・マクマホンが(時期によるが)自ら試合に出る。彼は「背広組」であるが、これは演出の必要上もあるが、レスラーとしての出場例である。また、FMW社長の荒井昌一はプロレスラーとしての訓練は積んでいなかったが、演出としてリングでプロレスラーとの乱闘を演じたことがある。I.W.A.JAPAN社長の浅野起州も元はプロモーター出身の背広組だが、2000年の「プロレスラーデビュー」以後時折試合に出ていた。ハッスルMAN'Sワールド最高経営責任者の草間政一の場合は、レスリング経験者ということもあり、2010年に「プロレスラーデビュー」して勝利を収めた。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、相撲の地方興行やサーカスと同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100~150試合前後と他の格闘技と比べて圧倒的に多く、スタッフはリングや周辺機材を積んだトラックで別移動するが、プロレスラーは集団でバスなどを用いて移動して同一のホテルなどに宿泊する。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "競技性を売りとするUWF系の団体では、コンディション調整に時間を割くため、興行数は年間数試合から数十試合程度となっている他、対戦するプロレスラー同士が会わないよう、別のホテルに宿泊させて競技性の保持に務めた。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "集客数は、試合の会場とする場所にもよるが、スタジアムなどの大会場では数万人規模、地方の体育館やイベントホール、屋外グラウンドなどの会場では数千人から少なくとも千人程度までの集客を見込んで興行を打つことが一般的である。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "興行の際の会場使用料に関しても、主要アリーナや公共の体育館は入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時よりも高額(入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時の使用料より3から10倍程度)に設定されている。使用料自体も、開催曜日(土曜、休日は平日よりも高額となる会場もある)、使用時間帯(定額制の会場もある。時間帯制の会場は時間が遅くなるほど高額になる)、最高入場料(特別リングサイド料金)、観客席の使用の有無などで会場によって異なっており、設営から撤収までの時間で使用料が決まる。会場使用料には基本使用料の他にも、時間外使用料、冷暖房料金、照明料金、テレビ中継を行った際の設備料金などの付帯料金などが加わる。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "使用料の支払は基本的に前払い(前払いの場合は支払期限があり、期限を過ぎれば予約は自動的にキャンセルとなる)であるが、一旦使用料を支払えば、開催中止の場合でも使用料を返還しない会場が殆どであり、その場合は巡業の収支にも大きく影響する。また、撤収が予定よりも伸びた場合の時間外使用料や会場設備を損傷した場合に生じる損害賠償は、後日会場側から団体に請求され、追加の負担となる。大日本プロレスは損害賠償のリスクを回避するため、会場によってマッチメイクを決めている。国際プロレスはジプシー・ジョーが参戦したシリーズでは損害賠償に悩まされていた他、新日本プロレスは観客が暴動を起こしたために使用料をはるかに超える損害賠償を請求されたり、使用禁止を言い渡されたことがある。一方で全日本女子プロレスは、急遽後払いに変更した会場使用料を滞納したために会場の管理者から告訴されたことがある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "会場や興行の規模によっては、使用申込後に他のスポーツイベントや行事などとの日程を調整する利用調整会議への出席が義務付けられている会場や使用申込後に団体の信用度などの事前審査を行う会場もあり、会場の事前審査によっては使用不可となる場合もある、使用料の滞納などで使用禁止となる場合がある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "海外ではプロレスラーの現地集合、現地解散の方式を取ることが大半で個別行動が基本。新人や若手レスラーは、移動経費の節約のため、自動車や先輩選手の自家用飛行機に相乗りで移動することもある。それが故に、大剛鉄之助やジョニー・バレンタインが事故でプロレスラー生命を絶たれたり、アドリアン・アドニスが移動中の交通事故で死去したケースもある。日本でもJWP時代のデビル雅美やFMW時代の大仁田厚は自家用車に後輩を乗せて移動していた。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近年では何らかの形で常設会場を設けて地方巡業を行わないプロレス団体も増えてきている。主にローカルインディーや草の根インディー或いは「どインディー」 というスラングで呼ばれる極めて小規模な団体がこの形態を取ることが多い。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "こうしたプロレス団体はメジャー団体や中規模インディ団体のように集客数の採算分岐点の大きく、かつ会場使用料が高額な大会場を用意する経営体力がないため、仮に巡業を行う場合であっても小規模な公民館や体育館の一室、或いは駐車場の一角で平均百人前後、多くても数百人程度の集客で興行を成立させる運営を行っていることが多い。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "リングさえ用意してしまえば何処でも興行会場になるとも言えるため、極端な場合ではプロレス団体事務所の敷地内にリングを置いたり、リングが常設されているプロレス団体の道場に客を集める形態(いわゆる道場マッチ)を取る場合もあり、数十人から数人程度の観客動員でも興行を成立させたと見なしてしまう零細団体も存在する。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "海外ではプロレスラー自身が各地のインディー団体を転戦するケースも多く、この形式はインディーサーキットと呼ばれている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年代以降、特に新型コロナウイルス感染症の世界的流行以降、YouTube/Ustream等の動画配信サービスを利用し、道場もしくはスタジオで行う無観客試合を配信する形で興行を行う団体も出てきており(『19時女子プロレス』、『NOAH “NEW HOPE”』等)、これらも通常巡業は行わない。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "プロレスの興行は1日で5から10程度の試合が行われる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本で、1度休憩が挟まれることもある。試合の構成は以下の通り。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "WWEなどのように選手名を告知してから入場してリング上では告知を行わない団体もある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり入場シーンそのものをカットしているものもある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また、タッグマッチ(詳細は後述)の入場時に用いられる曲は「格上」のプロレスラーのものであることが基本である(大物同士のタッグでは同格であることを強調するため両者のテーマ曲を混合した曲を用いることもある)。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものやタッグマッチ時に1人ずつテーマ曲に合わせて入場するといった演出が施される。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "試合を行うプロレスラーの他に試合を行うために必要なスタッフとして次のようなものがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "基本的なルールはほぼ以下の通りである。勝敗は以下の状況に至ったとレフェリーが認めて、その旨を宣告した時点で成立している。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その他に次に掲げる代表的なルールがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この規約は新日本プロレスと国際プロレス合意のもと制定された。両団体と日本以外のプロレス団体NWA、WWF、NWF、IWAで採用実施している競技規則を原則的方針として制定され、両団体は厳格に遵守、服従しなければならない。1980年11月20日発効。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "プロレスの試合は多くは何分何本勝負、という形で行われる(ヨーロッパ及び力道山時代の日本ではボクシング同様のラウンド制の試合も行われていた)。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でもタイトルマッチなどで行われた3本勝負(2本先取で勝利)は過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、タイトルマッチは60分1本勝負が主流である(過去には61分3本勝負などのルールもあった)。アメリカのテレビ放送用の試合では「放送時間内1本勝負」(つまりテレビの放送時間終了までに勝負がつかなければ引き分け)という例もあった。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで形状はボクシングなどとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる)。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるため、リング及びロープは他競技用のものに比べて頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。デスマッチと呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある(ロープを有刺鉄線に交換するなど)。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際にはスプリングを止めて「固く」していた。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "各プロレス団体が専用のリングを所有するが小規模プロレス団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本では闘龍門の闘龍門2000プロジェクトで6角形のリングが使われたことがあり、アメリカではインパクト・レスリング、メキシコではAAAなどの団体で、6角形のリングが使われている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "埼玉プロレスや黎明期のアイスリボンのようにリングを使用せずマットのみの場合もある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷くプロレス団体が多く、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "多くのプロレス団体ではプロレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ミッドヘビー級)に区分される。クルーザー級は主にアメリカのプロレス団体で用いられて、日本でもWRESTLE-1やDDTプロレスリングなどでクルーザー級と呼んでいる。ほとんどのプロレス団体の基準は概ね100 kg未満であるがヤード・ポンド法が用いられ、WWEでは2016年に復活させたクルーザー級の定義として205 lbs(約93 kg)以下、かつて存在したWRESTLE-1のクルーザー級は200 lbs(90.719 kg)以下、全日本プロレスでは231.5 lbs(105 kg)までがジュニアヘビー級として扱われる。基本的数値の基準としては海外や新日本プロレスの220 lbs(99.8 kg≒100 kg未満)が用いられている。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ボクシングと違い公式な計量は存在しないことが殆ど(メキシコを除けば必要に応じて行われるのみ)。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われて軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するプロレスラーも少なくない。近年ではシャープな肉体のプロレスラーが増えたため、105 kg以下のヘビー級戦士も多く全日本のようにヘビー級の体重制限を事実上廃止した団体も存在する。旧プロレスリングZERO-ONEは巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130 kg以上のスーパーヘビー級を置いたことがある。力道山時代の日本プロレスではジュニアヘビー級の下に190 lbs(86.28 kg)未満のライトヘビー級を置いていた。NWAはその下にさらにミドル級、ウェルター級を設置してより詳細な階級区分を行っている。ルチャリブレ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多いためミドル級、ウェルター級などで分類されることもある。DRAGONGATEの軽量級に当たるオープン・ザ・ブレイブゲート王座は180 lbs(82 kg)以下を対象としており、ウェルター級に該当する。インディー団体では体格に優れたプロレスラーが少ない傾向にあるため階級区分が行われていないプロレス団体が多い。また、みちのくプロレスの東北タッグ王座のように、個々の体重制限はないが選手2人の合計体重が200 kg以下というものもある。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。ただし、センダイガールズプロレスリングでは双方のカテゴリーをまとめてジュニアと表現している(キャリア3年以上の体重上限は55 kg)。全日本女子プロレスでは軽量級はスーパーライト級と呼ばれ、132 lbs(60 kg)以下を対象としていた。GAEA JAPANにおけるクルーザー級もほぼ一致する。アイスリボンのICE×60王座も存在していたが体重制限が撤廃されて現存するタイトルは無差別級となる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "試合時の服装は団体によって規定、禁止されているものを除けば特に規定はなく、様々な種類のコスチュームが存在する。男子の場合、一般的には上半身半裸で以下の種類が使用されている。近年では着ぐるみ姿のプロレスラーもいる。アンドレ・ザ・ジャイアント、ビル・ロビンソンが体重の増加でショートタイツからショルダータイツに変えたように経歴において複数のタイプを使った例も多い。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "入場時に限り、専用の服装をする選プロレスラーもいる。多くは公式グッズのTシャツか、ガウンを着たりしている。ガウンに関しては様々な形があり、古くは着物タイプのものが主流であったが近年では選手のギミックに応じて色も形状も大きく異なっている。その他、真壁刀義やスタン・ハンセンのようにロープやチェーンなどの凶器を持ち込む者こともある。マスクを被ったりするものいる。代表例として桜庭和志、紫雷イオが挙げられる。珍しいものとして、スーツ着用の内藤哲也が挙げられる。", "title": "ルール" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "いわゆるアマチュアレスリングよりも歴史は古く、現在のプロレスの歴史は20世紀初頭に始まるが、19世紀には既にファンフェアやバラエティ番組のストロングマン(High_striker)やレスリングパフォーマンスの前任者がいた。一方で地方の伝統レスリングから19世紀に発展した現代の競技スポーツとしてのレスリングは、ルール整備された競争力のあるスポーツの2つのスタイル、「フリースタイルレスリング」と「グレコローマンレスリング」(それぞれが英国とヨーロッパ大陸の伝統に基づく)の形で出現していった。これらは 1896年の近代オリンピック開始までに「アマチュアレスリング」という用語で出現した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "近代オリンピック以降は、ルールをスポーツとして整えた際に大きく枝分かれをしている。1896年、第1回近代オリンピックアテネ大会で行われたレスリングは当時のプロレスルール(現在のグレコローマンスタイルに準じたもの)で行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "競技レスリングとショーマンシップを組み合わせるレスリングの出現は1830年代のフランス、7月王政期であるとされる。そしてエドワード “ザ・スティール・イーター(“Edward, the steel eater”「鉄を食う男」)”、ガスタヴ・デアビヨン “ザ・ボーン・レッカー(“Gustave d’Avignon, the bone wrecker”「骨折魔」)”、ボネット“ザ・オックス・オブ・ジ・アルプス(“Bonnet, the ox of the low Alps”「アルプス山脈の雄牛」)” などの名前でレスラーを紹介し、観客に500フランで彼らをノックダウンするように要求したという", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1848年、フランスの興行師であるジャン・エクスブロヤ(Jean Exbroyat)は、最初の近代レスラーのサーカス団を結成した。このときのレスリングで腰下のホールドを実行しないというルールをとりきめ、これが「フラットハンドレスリング」と名付けたスタイルとなる。この新しいスタイルはすぐにヨーロッパの他の地域、オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア、デンマーク、ロシアにフレンチ・レスリング、クラシック・レスリング、フレンチ・クラシカル・スタイル・レスリング(French Classical Style Wrestling)の名前で広まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "19世紀の終わりまでに、この近代的なレスリングスタイルはのちに「グレコローマン」と名づけられ、ヨーロッパで最もファッショナブルなスポーツになって、1898年にはフランス人のポール・ポン(英語版)が最初のプロの世界チャンピオンになったとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "19世紀後半に米国と英国で普及したプロレスの近代的なスタイルが出現する。このレスリングはキャッチと呼ばれ、グレコローマンとは異なっており、このために非正統的でグレコより緩いスタイルであるとの認識であった。グレコローマンは腰の下をつかむことを厳しく禁止しているが、キャッチレスリングはレッググリップを含め腰の上下のホールドを認めている。その後キャッチレスリングとグレコローマンの両方とも人気が上がり、これは完全に競技性のあるアマチュアとプロのスポーツであった。ここから19世紀後半以降キャッチレスリングのサブセクションが現在の「プロレス」として知られているスポーツエンターテインメントにゆっくりと変化し、その演劇性とエンターテインメント性はレスリングの能力と同等に認められていった", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "キャッチの起源はイギリスのランカシャー地方のランカシャーレスリング(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)にあると言われている。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "19世紀の初め頃にボクシングとともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、蹴り技、投げ技、絞め技、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1830年代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられエイブラハム・リンカーンも行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる。カーニバル・レスリングは \"athletic show\" あるいは短く \"at show\" と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる \"all comers\")をしたりレスラー同士、あるいはボクサーとの模範試合を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "このためかつて大仁田厚は自身が設立したFMWへの批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論している。大仁田とは対照的な正統派のルー・テーズも、自伝においてカーニバルレスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べているほか、ロシアでもレスリングはショーとして、サーカスに組み込まれていたとしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1880年代には人気レスラーであり警察官でもあったウィリアム・マルドゥーンが警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。と同時にマルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1890年代にはカーニバルレスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとのレスリング・ショーで人気を集めた。その後バーンズはフランク・ゴッチを始めとする多くのプロレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカンレスリングの父」と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "20世紀はじめ、現代のプロレスの祖先である「フランス式のレスリング」が有名なレスラーの出現によってそれぞれの祖国を介する形でヨーロッパに広まっていった。例えばロシアの場合はイワン・ポドゥブニー(Ivan Poddubny)などからである。ところがフランス式のレスリングへの関心はロシアでは革命後に薄れていった。以降、ソビエト連邦・ロシアでのプロレスリングへの関心は1980年代末にまで下りプロレスラーの出現もソ連の崩壊後となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "20世紀の変わり目に、ボディービルダーのストロングマン・アトラクションに分類される限定的アクションを盛り上げるために行われるさまざまな行為の一環としてテレビのバラエティ番組においてもプロレスリングが一般に公開されるようになった。1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く \"at show\" は下火となった。代わりに劇場などで行われるレスリング・ショーが増えてプロレスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことはプロレスラー間のつながりを強めて事前に試合内容を調整することを容易にした。そして競技スポーツから純粋にパフォーマンス行為が生じるレスリング(\"admitted fakery\" または \"ケーフェイ\")は1920年代に出現する。その初期のスターの1人は、ジャック・カーキーク(英語版)という名のコーンウォール出身のアメリカ人の元鉱夫であったという。彼は聴衆に一緒に10分間戦うよう挑戦を促したという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "20世紀に入って英のレスリングの発展により、英国に当時のグレコローマン・グラップラーとして知られるロシア生まれのジョージ・ハッケンシュミットが英国にやって来たが、そこで彼はプロモーターであり起業家でもあるチャールズ・コクランとすぐに付き合いはじめた。コクランはハッケンシュミットをブッキングし、ハッケンシュミットがイギリスのトップレスラーであるトム・キャノンを破った試合でヨーロッパのグレコローマン王者の称号が付いた。このことはハッケンシュミットに世界王者へのふさわしさを与えたが、さらに1905年にニューヨーク市でアメリカのヘビー級チャンピオンという触れ込みのトム・ジェンキンスに勝利したことで確固たるものとなった。このときの世界ヘビー級選手権者は、世界で最高のキャッチレスラーを特定するために1905年に設立された最初のプロレス世界ヘビー級選手権であったが、ベルトという物理的な媒体表現を持っていることが知られている最初のレスリング選手権であった。ハッケンシュミットはアメリカ生まれのジェンキンスを破ったことで、初のチャンピオンシップを獲得するのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ハッケンシュミットはレスラーとして評判となり、マンチェスターでは当時の額で週150ポンドの価値を生んだ。ところがコクランはハッケンシュミットの正統かつ支配的なレスリングのスタイルが却って群衆の関心を削ぐ恐れがあることに気づき、ハッケンシュミットにキャノンからショーマンシップを学び、スポーツ性ではなく娯楽のために試合に取り組むように説得。このことはレスリングが将来的にスポーツ観戦/スポーツエンターテインメント要素を示しているが、人気選手のbabyfacesと嫌われている悪役選手のheelsという、両者は多くの有名なスターが英国内でのレスリングの初期の開始時に出現しはじめていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "このためハッケンシュミットやスタニスラウス・ズビスコといったヨーロッパの本格派の強豪レスラーの多くはアメリカに渡り、トム・ジェンキンス、フランク・ゴッチ、アドルフ・エルンスト(後のアド・サンテル)らアメリカのプロレスラーと対戦して、レスリング・ショーを盛り上げた。ところが米国では1913年ゴッチが引退すると衰退し、一般の人々の目を魅了する新しいレスリングのスーパースターも現れなかった。結果として1914年の第一次世界大戦勃発が完全に停止する前に有名なスターが失われたため、レスリングのビジネスは衰退した。さらにレスリング人気は1915年から1920年に劇的なテールスピンを経験する。すなわちその正当性と競争力のあるスポーツとしての地位に対して広範な疑念からアメリカ国民が遠ざかることとなる。当時のレスラーは1880年代からの試合自体は大部分が偽造されたものと語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1920年代になるとエド・ルイス、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が独自のプロモーションを形成し、ファンを引き付けるためにリング内の事項を変更。数百名のプロレスラーを配下にして、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った。彼らはまた、タッグチームレスリングを普及させ、レフェリーの気を散らすなどの新しい戦術を導入して、試合をよりエキサイティングにした。1920年代後半にはギミックや派手なサブミッションホールドなど、アメリカでのプロレスのより効果的な側面の成功が英国のレスリングにも導入された。アマチュアレスラーのサー・アトール・オークリーは、グラップラー仲間であるヘンリー・アーズリンガーと一緒に、オールイン・レスリングという新しいスタイルのレスリングを採用した最初のプロモーションの1つを立ち上げたのである。オークリーの元へはトミー・マン、ブラック・ブッチャー・ジョンソン、ジャック・パイなどが集まり、英国ヘビー級選手権を主宰し、ノーマン・ザ・ブッチャー、カレッジ・ボーイ、ジャック・シェリーらが選手権に名を連ね、オークリー自身が一連の対戦に勝ちのこり、最初の英国ヘビー級チャンピオンに輝いた。その後ロンドンだけでも40のレギュラー会場が設けられていくこのビジネスは当時の一大産業として発展していたがレスリングに対する大きな需要に対し、十分に熟練したアマチュアがいないことを意味し、多くのプロモーターは手続きの一部として武器と椅子攻撃を開発して、より暴力的なスタイルに切り替えていった。さらに女子プロレスや泥レス(mud-filled rings)もこの当時に当たり前のスタイルになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1920年代にはプロレスショーの仕組みは完成してメキシコ、日本、カナダなどにも伝わったのである。なおメキシコのプロレスはルチャリブレ、極技などはジャベと呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "これらによりプロレスの人気は高まったが、一方、報道、賭博など社会的な場においてプロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。1930年代後半、英国ロンドン郡議会(London County Council)はプロレスを禁止し、第二次世界大戦直前には事業を大まかな括りに再編した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "米国でのプロレスの人気は第二次世界大戦中までに低下していくのであるが、戦後1940年代後半から1950年代に復活した。これはゴージャス・ジョージが人気を博した最初の黄金時代である。メキシコと日本でも1940年代後半から1950年代は黄金時代でもあり、エル・サントはメキシコのヒーローになり、力道山も日本で同様の名声を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "英国ではこの時期に、スポーツ性を規制し、プロモーションカルテルを形成するための委員会方式というプロモーター同盟を装っているアメリカのナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)のテリトリー・システムを参考にすることによってこのビジネスに革命を起こしたのは、プロモーター自身であった。一握りのプロモーター間でビジネスのコントロールを強化した。そして1952年に共同プロモーションの名前で設立した「ジョイントプロモーション」(Joint Promotions)は、メンバーらがライバルプロモーターをブロックすることに同意する。こうして、すぐに週40回に及ぶ大会を開催。そしてレスラー自身には交渉権限をほとんど与えなかった。ジョイントプロモーションが起こした最初の動きの1つは、選手権の確立(および管理)であった。当初これは収益性の高いベンチャーであり、タイトルの統括によりチケットの価格が上昇。ところが必然的ではあるが各テリトリーでタイトルを乱発し始める。つまりこの成功例を拡大しようとすると、露出オーバーにつながり始めた。特に各地各所で必ず一流のレスラーが数人は配置されることが多かったため、世界と英国のタイトルにはある程度の信頼性があったが、ヨーロッパ、英連邦、スコットランド、ウェールズ、および地域の王座の追加は手に負えなくなる。ある時点でおそらく、共同プロモーション内だけで追跡すれば70の異なるタイトル所有者が存在した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "後に英国レスリング連盟(British Wrestling Federation、BWF)が創設され、タイトル化はある程度の成功を収めたが、英国のプロレスリングを次のレベルに引き上げたのはテレビであった。1955年11月9日にABCとATV(ITVの週末フランチャイズホルダー)で放映された最初の大会では、フランシス・セントクレア・グレゴリー(トニー・セントクレアの父)対マイク・マリーノ、クリフ・ボーモント対バート・ロイヤルがウェストハムからライブで出演。大会は成功し、毎年秋から春にかけて毎週土曜日の午後にレスリングが注目のアトラクションと化す。1964年には「ワールド・オブ・スポート」(World of Sport)という名でフルタイムの活動に至る。テレビ放映されることによってレスラーが著名な名前になり、個性がレスラーを乗り越えることを可能にした。テレビはプロレスリングの放映でレスリングが主流文化の一部と化して、ライブイベントビジネスへの究極の後押しを証明した。1960年代半ばまでにジョイントプロモーションはライブイベントのスケジュールを2倍にして、年間約4,500回の大会を開催。主要都市すべてで少なくとも月に1回は大会が行われ、ある時点では30を超える都市では毎週開催されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "テレビでのレスリングの成功は、独立したグループにとってもより良い機会を生み出した。BWFの名前はライバルグループでヘビー級王者のバート・アシラティを中心に構築されたグループにも利用された。アシラティはまだチャンピオンである間にジョイントプロモーションを分割。これによってジョイントプロモーションはタイトルを空け渡していた。アシラティはBWF内で王者を主張し続けたが、BWFでは後にシャーリー・クラブトリーの新しい王座を中心に構築された。クラブトリーは1960年に負傷で引退したアシラティによって空位となった後のタイトルを獲得した若いボディビルダーであった。BWFは1960年代初頭に若いシャーリーとともに歩む。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代初頭にかけては米国でプロレスリングは国民の関心は著しく低下していたが、1980年代半ばにケーブルテレビが登場すると、全米がハルク・ホーガンなどのレスラーとともにプロレスブームが再燃、第二次黄金時代が訪れた(en:1980s_professional_wrestling_boom)。アンドレ・ザ・ジャイアント、マッチョマン・ランディ・サベージ、リック・フレアー、ローディ・ロディ・パイパーらの展開するプロレスの質は劇的に変化するがテレビにフィットし、キャラクターの特徴とストーリー性が向上していった。テレビはまた多くのレスラーのメディア進出を助け、影響力のある有名人や大衆文化のアイコンになっていった。レスリングの人気は独立した愛好家が団結してメディアの数が増えると急上昇し、また1980年代に世界レスリング連盟(WWF、現在はワールド・レスリング・エンターテインメントとして知られ、通称はWWEに)の拡大とともに国際的社会現象に発展。1990年代を通じて米国のプロレスは世界レスリング連盟とワールド・チャンピオンシップ・レスリング( World Championship Wrestling、WCW)などの競合するプロモーション間の激しい競争時代に、視聴率と経済的成功の両方で最高収益を達成している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "英国ではその後既存プロモーションへの反旗として、若いオーストラリア人プロモーター、ポール・リンカーンがけしかけていた。1975年までに共同プロモーションの束縛はほぼ崩壊し、創設メンバーの多くが引退し、会社も何度か買収され、プロレスリング業界は独自のビジネスの経験がほとんどない公開会社によって運営されるようになる。最後にプロモーションはシャーリーの兄弟であるマックス・クラブトリーの手に委ねられた。マックスは、ビジネスで最も経験豊富なブッカーとしてジョイントにヘッドハンティングされたのである。マックスは15年間失業していたシャーリーの分身である「ビッグダディ」のアングル伝説を生み出すことで、ブームを生み出した。カルテル全体を1人のパフォーマーに基づいて形成することは、テレビの視聴率向上に役立ったが、会場への集客を増やすことはなく、プロモーションは再び視聴者の興味を失い始める。1985年9月28日、ワールド・オブ・スポートはテレビ放送が打ち切りになる。代わりにプロレスリングは独自で放送枠を確保したが、放送時間枠が週ごとに変わり、通常の視聴者もゆっくりと離れていった。共同プロモーションにとってさらに追い討ちだったのは、契約が成立したためにではあるがローテーションシステムの一部としてテレビの権利をオールスター・プロモーションおよびアメリカのWWFと共有することを余儀なくされたことである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ロシアでは1989年、日本のレスリングプロモーターでもあるアントニオ猪木と新日本プロレスは、USSR国家スポーツ委員会との合意を取り付け、ロシアのアスリートを招いてレスラーとして新日本道場レスリングスクールに1か月間のトレーニングを行った。そのうちの2人、サルマン・ハシミコフとヴィクトル・ザンギエフは、その後同団体に参戦し、1989年5月には大阪でハシミコフがビッグバン・ベイダーを破り、名誉あるIWGPヘビー級王座のタイトルを獲得している。1989年から1994年まではUWFインターナショナルに参戦した。その間彼らは1990年のWCWスターケードで、パット・オコーナー・メモリアルカップと呼ばれるタッグチームトーナメントでソビエト連邦を代表し出場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "猪木とソ連の良好な関係のおかげで、1989年12月31日には新日本プロレスが 1989年12月31日にソ連での最初のプロレスショーがモスクワ市のレーニン運動公園内ルジュニキ・スポーツパレスで新日本プロレスの参加を得て開催された。「モスクワの特別武道フェスティバル」(Специальный фестиваль боевых искусств в Москве)という名前で開催され、約15,000人の観客が集まる。ヴィクトル・ザンギエフとサルマン・ハシミコフ、ショータ・チョチョシビリなどソ連の選手たちも大会に参加した。親日本からはアントニオ猪木、獣神サンダーライガー、蝶野正洋、バンバンビガロらの人気レスラーが参加。大会には合計9試合があり、4カ国から20人のレスラーが参加。内訳は日本から9人、ソ連から7人、アメリカから3人、イギリスから1人である。この大会の試合を映したビデオ録画が幾つか発売されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1994年8月27日には日本のリングスがロシア国内で大会を開催している。リングスは旗揚げした1991年にヴォルク・ハンやアンドレィ・コピィロフを発掘し、リングス・ロシアを設立していた。リングス・ロシア勢は持ち味を発揮し、ハンやコピィロフのあともニコライ・ズーエフ、イリューヒン・ミーシャらがスター選手として日本のファンに支持される。エメリヤーエンコ・ヒョードルもPRIDEに参戦するまではリングス・ロシアの一員であった。ロシア側の窓口となったウラジミール・パコージンは、国家スポーツ省の事務次官を務めており、リングスの審議員も務めていた関係で日本での大会開催の度に選手たちとともに来日していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1990年代にはロシア国内でもプロレスの試合がケーブルテレビで放映されたり、VHSで販売されたりすることがあった。全国テレビでプロレスリングがより広まったのは、1990年代後半から2000年代初頭にかけてである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "一方で1990年代には英国やカナダなど英連邦やドイツ語圏などの、2000年代半ば以降には日本のプロレスの人気は低下。日本ではプロレスリング・ノアのパワーアワーと新日本プロレスのワールドプロレスリングは放送局によって主に深夜番組へと追いやられている。その一方で小規模なプロレスリング団体の数は拡大を続け、専用チャンネル等が年々増加している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "米国では、WWEがテレビ番組は2018年に過去最高の年間収益を報告しているにもかかわらず、世間からは比較的低い評価を受け、2019年と2020年では視聴者数のわずかな急増にとどまるが、このことは総合格闘技の台頭に伴う競争力のある競技スポーツへの新たな関心と連動している。にもかかわらずWWEは、デジタル視聴プラットフォーム、特にYouTubeでスポーツ指向のコンテンツのトップとしての地位を確立した。なおこうしたプラットフォームでは、スポーツチャンネルのチャンネル登録者数と動画視聴回数が最も多くなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "英国ではローテーションシステム化から2004年までテレビ局は地元大会を放送しなかったため、同国のプロレスリングは北米のプロレスに後れを取っていった。一方でこの間小規模なプロレスリング団体は拡大を続け、ファン層も拡大していた。英国のプロレスリングスタイルは、北米のプロレスリングが示すパワームーブや、メキシコのレスリングが行う高空飛行がメインのルチャ・リブレのムーブとは対照的に、より伝統的で技術的なものであり、英国プロレスリングのスローガン/哲学は単に「\"We wrestle!\"(私たちはレスリングします!)」である。英国の古いスタイルのレスラーの多くはフィニッシュ前の動きや必殺の決め技を持ちあわせていないが、その代わりに試合に勝つために多数のテクニカルホールド/固め技を使用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2005年、英国のテレビネットワークITVは、Celebrity Wrestlingと呼ばれる有名人レスラーをフィーチャーしたスタイルで行うプロレスを土曜日の夜のプライムタイムショーとして開始することにより、復活したプロレス人気を利用しようとした。ただしレスリング自体の評価が低く、この試みは失敗した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ロシアでは21世紀以降勃興と衰退を繰り返す。2002年には同国最初のプロレスリング連盟が現れた。同年11月、モスクワで、インディペンデント・レスリング・フェデレーション(IWF)が最初の選手権を開催。IWFは、2003年から月例大会「デンジャーゾーン (\"Danger Zone\")」、2005年からは外国人レスラーが参加する特別年次大会「レスレダ」(\"Wrestleada\" )、マスエリミネーションマッチの「プレジデンツカップ」を開催している。2010年以来、毎年恒例の大会「Kingof Hardcore」がある。2006年9月から12月にかけてデンジャーゾーンの番組要約版がテレビチャンネル7TVで放送された。2007年5月から2007年の終わりまで、番組「ロシアエクストリーム」がテレビで放映された。その後、2008年5月から2010年半ばまで7TVで放送されていた。以降同国でプロレスの放送はWWEだけである。2012年4月11日、WWEはロシアで初めてハウス大会(テレビで放送されない大会)Raw WorldTourをLuzhnikiISAで初めて開催。2013年4月25日、WrestleMania Revenge Tour 2013の一環として、同国最初のWWE Raw大会がサンクトペテルブルクのアイスパレスで開催され、翌日4月26日、モスクワのルジニキISAで開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2004年8月5日、世界レスリングファイト大会が、英国のプロモーションであるEuropean Wrestling Promotion(EWP)の参加を得て、ツヴェトノイ大通りのモスクワサーカスで開催された。この大会はヨーロッパのレスラー、ダグ・ウィリアムス(後のTNA)、エキ・エックスタイン、ムーラット・ボスポラスをフィーチャーし、旧WWF出場の経験を持つカナダ人ジョー・レジェンドやNFRの代表のバレンティン・プレス・マルドフの他、大会のホストはニコライ・フォメンコが務めた。2014年にはノーザンストームレスリング(NSW)がサンクトペテルブルクで大会を実施。2015年、所属レスラーは2016年にビッグフェスティバルの一環として、コミックコンフェスティバルとスターコンに出演。NSWは毎月ノーザンストーム大会を主催していた。2015年9月20日、同社最初の主要大会がレニングラード青年宮殿で開催された。「ネヴァ川での戦い」と名づけられたこの大会は、元WWEレスラーで2度のNWA世界ヘビー級王者になったコルト・カバナが参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2015年9月、NSWはヨーロッパのレスリングプロモーションのUEWAアライアンスの一部になり、2016年11月にNSWのレスラーはNFRアニバーサリー大会「DangerZone100」に参加。NSWには独自の養成所があり、プロレスラーが大会に参加できるように準備している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "国内団体としては2008年、ニジニノヴゴロドに独立レスリング協会(NRO)が設立。その後組織上の問題により、2014年にプロモーションは終了したが、翌年の11月に、Gorky City Wrestling(GCW)の支援を受けて活動を再開。残念ながら2018年の春以降、大会は開催されなくなり、2019年の終わりにGCWは正式に閉鎖されたことが発表された。主要なニジニノヴゴロドプロモーションのタイトルは、2015年に組織されたVolga WrestlingAssemblyに引きつがfれる。このプロモーションの代表者はサンクトペテルブルク、チェレポベツ、カザンなど、ロシアのさまざまな都市で中小の大会を積極的に開催していたが、2020年プロモーションはついに終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "モスクワでもロシアプロレス(RPW、2010年 - 2012年)、ロシアレスリング連盟(RWF、2011年 - 2013年)、プロレスリーグ(LPR、2012年 - 2014年)そしてヤロスラヴリ・ロシア・エクストリームレスリング(RFEB、2004年 - 2005年)など、いくつかのプロモーションが存在していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2005年3月にアメリカでリアル・プロレスリング(英語版)(RPW)なる格闘技団体が発足した。これは全米大学体育協会(NCAA)レスリング大会などのレスリングで活躍した選手が全米各地区のチームに所属して純粋な競技スポーツとしてプロレスリングの活動を行うというものである。ルールや試合場はレスリングのフリースタイルに近く、ポイント制であり、打撃や極技などは禁止である。アマチュアレスリングとの違いとしては、リングの外に相手を押し出すと得点となることや、攻勢を維持していた選手にボーナスと呼ぶ得点機会を与えることなどがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "最初の日本人プロレスラーはソラキチ・マツダとされている。初の世界王者は世界ジュニア・ウェルター級王者となったマティ・マツダ(1921年)。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に週刊ゴングで漫画化されている)。その他に数名の日本人、日系人が主にアメリカでプロレスラーとして活動していたことが確認されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "マツダと共にプロレスラーとして活躍した三国山は帰国後の1887年に東京の銀座で「西洋大角力」を開催しており、これが日本初のプロレス興行とされている。しかし観客は集まらず失敗に終わっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1921年にアメリカのプロレスラーであるアド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日して、講道館柔道に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたち、永田礼次郎、庄司彦雄、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家が対戦。今で言う異種格闘技戦であり、試合は東京の九段の靖国神社相撲場で3月5日と6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては「プロレス対柔道」のタイトルで週刊少年ジャンプにて漫画化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "日本の大手プロレス団体は力道山がデビューした1951年を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後に力道山が1953年に日本プロレスを旗揚げしてからのことである。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後GHQにより柔道が禁止されたため、柔道家の牛島辰熊が1950年2月に国際柔道協会(プロ柔道)を設立して木村政彦、山口利夫、坂部保幸らが参加し、力道山より早くプロ柔道興行を始めた。国際柔道協会は4か月10回の興行の後、木村政彦・山口利夫・坂部保幸が日本プロレスに移籍し瓦解、最終的に日本のプロレス団体は力道山の手によって統一された。戦後間もない頃で多くの日本人が反米感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は街頭テレビを見る群集の心を大いに掴み、プロ野球、大相撲と並び国民的な人気を獲得した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "その後、日本においては力道山の率いる日本プロレスの独占市場であったが、力道山の死去後、東京プロレスと国際プロレス(いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げして、さらに力道山の死去後の日本のプロレスを支えていたアントニオ猪木が新日本プロレスを、そしてジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げして両エースを失った日本プロレスは崩壊する。しばらくの間は上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げてウィレム・ルスカ、モハメド・アリらと異種格闘技戦を行い、馬場もNWAとのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得。国際プロレスもヨーロッパ路線とデスマッチ路線を展開して独自のファン層を開拓した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると馬場の弟子であるジャンボ鶴田、天龍源一郎、猪木の弟子である藤波辰巳、長州力らいわゆる鶴藤長天が台頭する。また、新日本プロレスでは藤波らや、佐山聡がタイガーマスクとしてデビューして、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとして、その礎を築いた他、子供層の取り込みに成功して、人気を更に増した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1984年にはUWFが旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイル(のように見せかけた)のプロレスを確立して、後の総合格闘技の台頭への布石となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "1981年に国際が消滅したため、昭和末期の段階では新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレスに1988年設立の第2次UWFが4大団体という体制になっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "なお、昭和後期には上記の4大団体以外に興行を行う組織はほとんど存在せず、これらのプロレス団体に入門しれ、実際にプロレスラーとして試合のリングに立つ事は大変に狭き門であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "こうした状況の中で、1970年代の初頭から日本各地の大学にプロレスの同好会が設立されて、1978年頃より実際のプロレス形式の試合を行う学生プロレスへと発展している。同時期、学生プロレス初期のOB達が中心となり、社会人になった後も活動を継続するアマチュア・プロレス(社会人プロレス)の動きも始まっており、1978年8月には日本初の社会人プロレス団体であるJWA関西が設立、1980年代にはJWA関西の傘下団体は全国各地に広がっていき、後のインディー団体乱立時代の布石となっていった。一方、4大団体以外の小規模団体でプロレスラーとしてデビュー出来たとしても、その団体が活動を停止すると直ちに廃業に追い込まれる事例や、4大団体所属レスラーであっても人員整理に伴う解雇で引退に追い込まれる例も散見されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1986年にジャパン女子プロレスが設立される。同団体は山本小鉄やグラン浜田ら男子プロレスラーをコーチとして招聘していたが、プロレス団体経営陣として参画していた新間寿は1988年に男女混合団体化(格闘技連合)を目指して浜田と大仁田厚の遺恨アングルを実行して、12月3日にジャパン女子プロレスの興行のメインイベントという形で浜田対大仁田戦が行われた。この時のジャパン女子プロレスのファンや所属プロレスラーらの反対の声により、混合団体化の計画は頓挫するが、この時の関係者が中心となり、後のFMW設立へと繋がっていく事になる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1989年4月、全日本プロレスを解雇されて引退状態であった元国際プロレス出身プロレスラーが中心となり、パイオニア戦志が旗揚げ。日本初のインディー団体の設立事例となる。10月にはジャパン女子を追われていた大仁田厚がFMWを旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収めてインディー団体というカテゴリーを確立。このプロレス団体は同時に「ハードコア・レスリング」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。1990年1月には大仁田と同じくジャパン女子プロレスを追われていた浜田により、ユニバーサル・プロレスリング設立。日本にメキシコのルチャリブレスタイルが導入される嚆矢となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1990年代に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされてプロレス団体の乱立の時代を迎えた。日本のプロレス界に特に大きな影響を残したのは、1990年にメガネスーパーが出資して、新日本プロレス、全日本プロレスから多くのプロレスラーを引き抜いて設立されたSWSである。SWSは1992年初頭に、WARをはじめ複数の派生団体に分裂する形で崩壊していく事になった。ユニバーサルを退団したザ・グレート・サスケが1992年に設立した、みちのくプロレスは東北地方を主戦域として活動する地域密着型のインディー団体として成功を納めて、1993年に設立された高杉正彦のIWA湘南と鶴見五郎のIWA格闘志塾は神奈川県内の特定市域のみを活動地域とする手法で細く長く活動を継続した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "この頃になると乱立するインディー団体への主力選手の離散と同時に、馬場、猪木が第一線を退いた事もありプロレス人気にも翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動してジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では東京ドームなどの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人プロレスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人プロレスラー同士の闘いに重点を置くようになった。新日本プロレスでは闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)、全日本プロレスではプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が台頭して後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次UWFはUWFインターナショナル、プロフェッショナルレスリング藤原組、リングスに分裂(藤原組はその後さらにパンクラス、格闘探偵団バトラーツに分裂)して細分化が進む。1990年代後半に入るとK-1、PRIDEなど総合格闘技が台頭して、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが準備期間の短さなどから結果を残したプロレスラーは少なく、人気低迷に拍車をかけた。一方、UWFインターナショナル、キングダム出身の桜庭和志や新日本プロレス出身の藤田和之など、総合格闘技のリングで優秀な戦績を収めた者もいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1997年にはJWP女子プロレスのプラム麻里子が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めてのリング禍であった。老舗の全日本女子も、この年に最初の経営破綻を引き起こし、多くの女子プロレスラーが他団体に流出して衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1999年、元来非営利運営を主としていた社会人プロレス出身者により、零細ながらも商業活動を行う歴としたインディー団体である YMBプロモーション が設立される。1970年代以来の社会人プロレスの伝統に則り、煎餅布団の上にブルーシートを敷いた簡易リングを用いて数十人から数人程度の観客を前に試合を行う興行形態 は当時のプロレスマスコミの間では未知のものであった。また、それまでのインディー団体はメジャー団体からスピンアウトした関係者や、より大規模なインディー団体が分裂していく過程で設立されたものが多かった事から、規模の大小はあれどもその興行領域は全国区を標榜している事が多く、単一県内など特定の地域内のみで興行を行うインディー団体は(先述のIWA格闘志塾などの先例を除けば)極めて珍しいものであった為、YMBは週刊プロレスにより、ローカルインディー団体として初めて分類される事となった。なお、ローカルインディー団体の中でも更に活動地域が狭く、道場などのリングが常設されている特定の場所でのみ興行を行うプロレス団体は「インディーの中のインディー」を意味する「どインディー」とも呼ばれている。こうしたプロレス団体の初の事例は、1993年に横浜市鶴見区の焼肉屋が主体となり、常設されたリングの周囲に様々な料理を提供する屋台街が形成され、屋台の来店客にプロレスやキックボクシング などの格闘技の試合を提供した屋台村プロレス(正式名称はプロレス屋台村15番街ヨンドン)であるとされている。屋台村プロレスは1996年頃には中心となった焼肉屋の閉店に伴い解散したが、常設リングを持つ運営主体に様々なローカルインディー団体がプロレスラーを派遣して興行を成立させる手法は、その後、ローカルインディー団体の多くに引き継がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると日本のプロレス界の勢力が一変した。全日本プロレスでは馬場の死後は社長に就いた三沢光晴と馬場の未亡人として経営の権限を持つ馬場元子が団体運営を巡って対立して、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団してプロレスリング・ノアを旗揚げ。新日本プロレスでも橋本真也が解雇されて新たにプロレスリングZERO-ONEを旗揚げして新たな4団体時代を迎えた。一方、所属選手の殆どを失った全日本プロレスは団体存続をかけて新日本プロレスとの交流に踏み切った。2002年に武藤敬司が新日本プロレスを退団して全日本プロレスに移籍して、10月に同団体の社長に就任している。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流も盛んに行われるようになった。この頃からWWEが日本でも人気を博して、その流れを受けてファンタジーファイトWRESTLE-1、ハッスル、DDTプロレスリングなどエンターテインメント志向の興行が行われるようになった。2006年には国内初のプロレス統一機構の確立を目指しグローバル・レスリング連盟が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半はいわゆる第三世代が台頭するが、人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし、2005年に橋本が、2009年に三沢が急逝し他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり各プロレス団体の勢力図が変革されていった。女子プロレスも2005年に全日本女子プロレスが活動を完全に停止、それと入れ替わるようにアイスリボンやプロレスリングWAVEなどの新興団体が勢力を伸長させていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "この時代に入ると、社会人プロレス団体が営利団体化してローカルインディー団体に昇格する事例 も増えていった。そうしたプロレス団体の一つが屋台村プロレスからデビューした高木三四郎が率いるDDTプロレスリングであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2011年には東日本大震災復興支援を目的として新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアによる合同興行ALL TOGETHERが開催されて2012年には新日本プロレス、全日本プロレスが旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなどプロレス団体同士の連携を強めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2000年代に低迷してゲーム会社のユークスの傘下となっていた新日本プロレスは2012年にエンターテイメント企業「ブシロード」の子会社となり同社のコンテンツビジネスとの連携を深めて、観客数と売り上げを大きく増やして、2016年にはプロレス団体史上最高額の事業利益を達成している。プロレスリング・ノアは三沢亡き後のプロレス団体をまとめきれず、主力プロレスラーの離脱が相次ぎ2016年に経営破綻し事業再編、さらに2019年にサイバーエージェントの傘下に入り同グループ傘下であるプロレスリングDDTの高木三四郎が社長に就任している。プロレスリング・ノアを離脱した秋山準らはベンチャー企業のスピードパートナーズ(後の八丁堀投資)の傘下となっていた古巣の全日本プロレスに復帰する。しかし、全日本プロレスのオーナーとなったスピードパートナーズ社長(当時)の白石伸生の運営に反発した武藤らが全日本プロレスを退団して、新たにWRESTLE-1を旗揚げ。一方、全日本プロレスは親会社の経営破綻により秋山を社長とした新体制で再出発。各プロレス団体で主力プロレスラーの退団、移籍が発生した他に、インディー団体出身プロレスラーによる地方団体旗上げが相次ぐなど、細分化も進んでいる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "また現在、日本のプロレス市場はWWEを始めとする海外団体が強く関心を寄せており中邑真輔、小林健太、戸澤陽らがWWEへ進出した他、新日本プロレスに参戦していた外国人プロレスラーが相次いでWWEへ移籍しており、WWE進出を狙うプロレスラーやWWEを解雇されたプロレスラーが相次いで日本のプロレス団体に参戦するなど、移籍市場として一定の価値を獲得している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "メジャー団体の再編の一方でインディー団体の細分化も更に進んでいき、メジャー団体を離脱したプロレスラーも、余程の事情がない限りはローカル・インディーやどインディー団体のリングに活動の場を移すことで廃業せずに現役を続行出来る程度に受け皿が広がってきている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "2020年、新型コロナウイルス感染症対策による興行開催自粛を受けて4月15日、木谷高明(新日本プロレス、スターダムのオーナー)が音頭を取る形で国内男女7団体 が馳浩衆議院議員、スポーツ庁、経済産業省に休業補償などの要望書を提出。馳は7団体にコミッション設立を要請した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "また、YouTube文化の隆盛の中において船木誠勝、長州力、谷津嘉章、前田日明、キラー・カーンら多くの元プロレスラー、現役プロレスラーが自身のチャンネルを立上げて、現役当時の昔話や裏話などに花を咲かせ人気チャンネルとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "女子プロレス(じょしプロレス)は、女性が試合をするプロレス。闘う人を女子プロレスラー(じょしプロレスラー)と呼ばれている。", "title": "女子プロレス" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "ミゼットプロレス(Midget Pro-wrestling)は、低身長症が試合をするプロレス。通称「小人プロレス(こびとプロレス)」。闘う人をミゼットレスラーと呼ばれている。メキシコではミニエストレージャと呼ばれている。日本では全日本女子プロレスで前座として行われていたのが有名。", "title": "ミゼットプロレス" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "かつて各新聞社やテレビ局においてスポーツとして扱うかエンターテインメントとして扱うか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントとしての扱いという形で決着した。", "title": "マスコミにおける取り扱い" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお照明、音響、撮影係等のスタッフ用の興行進行台本はこれとは別の物)。この台本を考案、作成する人間を「マッチメイカー」と呼ばれ、リング外での筋書き(アングル)及び試合展開や決着方法についての台本を考えて、提示されたプロレスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については口頭での打ち合わせであり、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われている。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "試合以外にも、リング外でのプロレスラー、グループ、プロレス団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集めて継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開、消化して最終戦において(大会場で開催されてアメリカではペイ・パー・ビューとなる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり連続ドラマと類似している。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "特に20世紀中期以降のアメリカのプロレス団体などの場合、プロレスラーには一定のキャラクターであるギミックが要求された。それにはプロレスラーが考えたものもあればプロレス団体から提示されるものもあった。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "特定の人物が悪役(ヒール)として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北して客は溜飲を下げるが場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利、反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても次回の試合への客の関心を集める役目を果たした。これに対して正義漢、善玉の役割をベビーフェイスという。やられ役が負けることをジョブという。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "特にアメリカのプロレスでは、その面が顕著で日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった。悪役は往々にしてステレオタイプな嫌われ者を体現して特に外国出身を名乗る選手では人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。場合によっては風貌が近い者を別の国の出身者に仕立てることもあり悲喜劇的な例として共産党の支配による社会主義体制を嫌ってユーゴスラビアからアメリカに亡命したニコライ・ボルコフが試合前にソ連の国歌を歌うなどのギミックを背負った悪役にされた例がある。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "また、ギミックには世相が反映されることが多い。特にアメリカでは、その傾向が強く第二次世界大戦後には真珠湾攻撃を連想させる不意打ちを連発する「卑劣なジャップ」風のレスラーや「ナチスの残党」を名乗るレスラーが多数存在して、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり湾岸戦争時にはアラブ人のギミックでサッダーム・フセインの側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "前述の「ブック」とは別物である。ブックはプロレスラー間の試合内容の打ち合わせを意味するが、これは裏方スタッフのイベント進行用の台本であり各種機材の使用のタイミング、順序等を示したものである。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "かつてはインターネットオークションでプロレスリングZERO-ONEの興行「ZERO-ONE USA」のテレビ放送進行用台本が出品されることがあった。また、日本ではFEGと全日本プロレスが中心になって開催されたイベント「WRESTLE-1」において小島聡の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が電光掲示板に表示され、プロレスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを暗に示したが、もっとも、小島の「いっちゃうぞバカヤロー」は殆どの試合で見られており、小島の得意のマシンガンチョップから対角線エルボーを行い、「いっちゃうぞバカヤロー」と叫んでからダイビングエルボーを対戦相手に見舞うという流れの中で出されるものであり、段取り決め等を行っていない観客も一緒に叫ぶことが通例となっている。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "また、日本の週刊誌(アサヒ芸能)が「ハッスル2」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "プロレスはワンマッチで興行をこなし、そのためトーナメントなどの完全なる真剣勝負や競技スポーツとは相違があるため、同様の技を常人が受けた場合に危険が生じる行為は意図的に避けられている。例えばKー1・キックボクシングやフルコンタクト空手などの立ち技格闘技のように蹴り技では相手選手の局部以外の急所を狙う(膝へのローキックなど)のはルール上許されても、鍛えた筋肉で守られ怪我をする恐れが少ない部分をめがけ、力を込めて蹴りをいれる場合が大半であるほか、反則行為ともされている素手でのパンチの場合も、拳骨部を当てると顔が腫れ上がったり、自身の拳も含めて骨折などの怪我を誘発する恐れがあり危険であるため、寸止めなど何らかの制御が普通である。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ジャンボ鶴田はルー・テーズに学んだバックドロップでは落下の際、右足を流すことも多かった。右足が流れる理由を後年、『そうしないと、怪我人が出ちゃうから』としていた。これはハーリー・レイスにしっかりと両足をつけて見舞ったところ、食らったレイスが試合後激怒された事からで、このときレイスは『あんなこと、この場でもう一度、俺にやれるのか』と、鶴田の控室まで乗り込んで来たという。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ただし、プロレスラーが受けてもタイミングの狂いなどから危険が生じることは時々ある。スタン・ハンセンはブルーノ・サンマルチノの首をボディスラムのかけ損ないで骨折させたことがあり、のちにハンセン自身も相手攻撃で失神してしまったことがある。このほか天龍源一郎、ミスター珍、マリオ・ミラノ、ザ・マミーなど、試合中に失神してしまった例は多い。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "ハワイで行われたルー・テーズ対力道山戦でもテーズのリバース・スラムで力道山が失神したとされ、三本勝負が一本だけで終了となったが、その後テーズは大木金太郎戦で大木を、寺西勇とのエキジビションで寺西を、力道山も木村政彦戦で木村を失神させたことが知られる。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "またテーズは対グレート草津戦で草津を意図的にノックアウトさせるバックドロップを仕掛け、草津を失神させたとしている。草津はその後も対モンゴリアン・ストンパー戦でストンパーのスリーパー・ホールドで失神したとされる。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "一方で三沢光晴は業界一の受身の達人といわれていたがバックドロップの受け損ないで死亡しているが、他にもJWPのプラム麻里子や新日本プロレスの福田雅一などの例や、馳浩も試合での受け身の取りそこねで試合後に心肺停止したことがある。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "佐山聡によれば、多くのプロレス技は「暗黙の了解」がなければかかるようなものではなく、かつ格闘技には使えないものであると断じている。一方で桜庭和志のように総合格闘技でプロレス技を繰り出す選手もいるほか、総合格闘技や他格闘技で使用されていた技がプロレス技となって知られ定着するものも多くある。また、本質は真剣勝負ではないとしても試合中に本気になってしまう場合など、それに近い試合が行われてしまうことはある。以下に例を挙げる。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "小川直也対橋本真也は「シュート」(演劇的要素を無視した試合)に近いものであり試合中は本気のパンチを当てていた(相手にかけた関節技を自ら解くなど、完全な真剣勝負ではない)。特に1999年1月4日での試合は師であるアントニオ猪木から「一方的に蹴りまくって、最後は蹴って、リングから出すまでやれ」といわれていた。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "タッグマッチ中にエル・サムライが大谷晋二郎による顔面への攻撃に本気で怒り大谷を追い掛け回した挙句、味方である獣神サンダー・ライガーにそれを止められている。サムライは1997年の6人タッグマッチでも今度は大谷ではなく金本浩二と延々と場外で乱闘を繰り広げているが、このときは金本がサムライのマスクの新デザインを馬鹿にしたことへの報復とされる。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "前田日明はアンドレ・ザ・ジャイアントが本気で危険な技をかけてきたのに対して、関節部への危険な蹴りを多発した(無効試合)。 前田はデビュー間もないころに段々熱くなって喧嘩に限りなく近い試合になることがあったとし、実際にも1979年に対戦相手のサイレント・マクニーが、タイガー・ジェット・シンにそそのかされてシュートを仕掛けられた際に不穏試合と化したが、返り討ちにしていることが知られる(試合結果自体は10分時間切れ)。マクニー戦がセメントマッチとなってしまったことについては後年自分らがプロレスの世界に入った頃は相手が技を受けない場合はやってもいいと、当たり前に言われていたという。一方で自らも1985年のスーパータイガー戦で周囲にそそのかされて不穏マッチを敢行している。試合中の細かい点までは決めないプロレス団体も多く、気性の荒い者たちによる試合中のトラブルは時々見られる。", "title": "基本事項" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "日本のプロレスにおいては企業経営で用いられる言葉を他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が相撲取り出身だったため隠語は相撲と共通するものが多い。プロレスに由来するいくつかの用語については、1990年代にThe Rock(ドウェイン・ジョンソン)とスマックダウン(SmackDown)によって普及したこの「smackdown」という用語は2007年からメリアム=ウェブスター辞書にも掲載される。", "title": "用語の特殊性" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "20世紀初頭にプロレスは「スポーツ」としての機能が欠けていることが明らかになると、教育を受けていない労働者階級にとっての安価な娯楽として見下されていた。ただしこれが常に当てはまるとは限らなかった。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "その人気の高まりとともに、プロレスは学術研究とジャーナリズムの批判の対象として注目を集めていく。多くの研究者が論文、エッセイによってプロレスリングの慣習、内容、そして現代社会におけるその役割を分析してきた。多くの場合演劇学、社会学、パフォーマンスやメディアに関する研究の一部として取り組まれている。マサチューセッツ工科大学は、プロレスの文化的重要性に関する研究コースを開設し、人類学者のヘザー・リーヴァイはメキシコのルチャリブレの文化についての民族論文を発表した。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "社会文化論としては塩見(2008年)、ボール(1993年)のほか 文化としてのプロレス、 プロレスの社会学的考察、ルチャ・リブレ : 覆面レスラーのリンクなど、多くの論が展開されていた。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "医学では日本では総合病院水戸協同病院でみちのくプロレスをもじった「みとのくプロレス」という症例検討会が開催されているほか、「リハビリプロレスリング」と銘打っているシンポジウムもある。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "このほかにジェンダー論 政治学 、 経営論 (例えば川田利明)、軍事、心理学、地域活性化 、映像科学、音楽学などでの言及がみられる。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "フランスの理論家であるロラン・バルトは1957年に最初に出版された彼の著書『Mythologies』のエッセイ「TheWorld of Wrestling」で、レスリングはより深い分析に値することを最初に提示した。バルトは次のように主張した。血に飢えているとすれば喜んで観客のための演劇モードになり、これは無知な者の詐欺としてではなくて光景として見られるべきであるとしたが、このときレスリングは並置された意味をすぐに読むことを要求し実行される芸術として説明され、論理的な結論ではレスラーやレフェリーは演劇の演者よりその重要性は最低である。バルトによればレスラーの役割は勝つことではなく、期待される動きを正確に通り抜け、観客に劇の光景を与えることであるとしたが、この論と解釈はその後のレスリングに関する研究では基礎事項となっていく。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "さらにプロレスは古典的な英雄の統合 、 コンメディア・デッラルテ、 復讐悲劇、 道徳劇、 そしてアメリカン・バーレスクなどの他、「男性向けのメロドラマ」と比喩されることも多く、過去の文学や演劇の世界の役割を果たし、今日に存続するプロモーションによって描かれたキャラクターとストーリーラインも当該社会の気分、態度および懸念を反映しているようにされ、世相の影響を与えることが可能であるとされた。プロレスリングが示す高レベルの暴力性と男らしさは、平時における攻撃性の代用手段となっているとも解釈されている。", "title": "研究と分析" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "洋の東西を問わずトッププロレスラーは社会の中で多くの名声も獲得してきたが、年月を重ねるごとに音楽や芸能、さらには執筆、ビジネス、政治、評論等の分野にまでキャリアを広げ、プロレスに興味をもたない人々にも人物として知られるようなレスラーも多く生まれてきた。逆に他のスポーツ選手や一般的なポップカルチャーの著名人も短期間ではあるがプロレスに参戦するなどの現象もある。そうした初期の典型的な例として、アメリカでの1980年代のプロレスブーム(en:1980s_professional_wrestling_boom)から端を発したプロレスとMTVを組み合わせたロックン・レスリング・コネクション(Rock 'n' Wrestling Connection)が知られる。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "プロレスは一般的な素材として文化でおなじみの比喩やインターネットミームにも活用され、パロディーを使って他の作品の中で描かれることも多い。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "これまでキャラクターのプロレスラーを主人公として描いた多くのテレビ番組や映画が世界各地で制作されている。たとえば、Ready to Rumble、からルチャシネマ(ムーチャ・ルーチャ!、ナチョ・リブレ 覆面の神様、そしてエル・サントの映画シリーズ=俗にサント映画という、他)など、多岐にわたる。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "1950年のフィルム・ノワールであるジュールズ・ダッシン監督、リチャード・ウィドマークとジーン・ティアニー主演『街の野獣』はロンドンのプロモーターが規模を拡大しようとしているという話をして、本物のプロレスラーであるスタニスラウス・ズビシュコが出演した試合を特集している。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "プロレスラーについての2008年の映画「レスラー」はヴェネツィア映画祭金獅子賞、ゴールデングローブ賞主演男優賞を受賞しているほか、オスカーのいくつかの部門にもノミネートされた。ゴージャスなレスリングの女性のプロモーションに基づいた2017年のテレビシリーズ『GLOW: ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』は、第70回プライムタイム・エミー賞で傑出したコメディシリーズ部門へのノミネートなど、高い評価を得た。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "プロレスの世界を舞台にした舞台劇も制作されている。たとえば『バロン』は、バロン・フォン・ラシクとして知られる実際のパフォーマーレスラーの人生を語るコメディである。『From Parts Unknown ...』は、架空のレスラーの興亡についての物語で、賞にもノミネートされたカナダのドラマである。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "2009年のサウスパークのエピソード『WTF』は、プロレスメロドラマで構成されたアニメーションである。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "ディズニー・チャンネルシリーズの主人公の一人キム・ポッシブルはプロレスの大ファンであり、実際にエピソードで取り上げられた(2人の元WWEレスラーがエピソードで取り上げられた)。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "ドキュメンタリー映画の製作者はときにレスラーの生活と、その職業がレスラーとその家族に与える影響を提示してきた。1999年の劇場ドキュメンタリー「ビヨンド・ザ・マット(Beyond_the_Mat)」は、引退間近のレスラーであるテリー・ファンク、全盛期のミック・フォーリー、恩恵から転落した元スターのジェイク・ロバーツ、ビジネスに参入しようとしているレスリング学校の学生に焦点を当てている。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "MTVのドキュメンタリーシリーズ『en:TrueLife』は、「私はプロレスラーです」と「私はプロレスラーになりたい」というタイトルの2つのエピソードを特集。その他のドキュメンタリーでは『プロレスの秘密の世界』(The Secret World of Professional Wrestling )をThe Learning Channel、『Hitman Hart:Wrestling with Shadows』をA&Eによって制作された。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "2005年に発表された『en:Lipstickand Dynamite、Piss and Vinegar:The First Ladies of Wrestling』は、20世紀を通じて女性のレスリングの発展を記録したものである。他にReal_Sports_with_Bryant_Gumbel(ブライアントガンベルのリアルスポーツ)やHBOでも数回紹介されている。", "title": "フィクションにおける作品" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "ほかに『en:Bloodstained Memoirs』はクリス・ジェリコ、ロブ・ヴァン・ダム、ロディ・パイパーなどのプロレスラーのキャリアを調査したドキュメンタリーで、第22回(1991年)大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した井田真木子の『プロレス少女伝説』は長与千種、神取しのぶ、天田麗文、デブラ・ミシェリーらの足跡をたどり、1980年代に熱狂的なブームとなった女子プロレスの文化を通したルポである。", "title": "フィクションにおける作品" } ]
プロレスは、リングで観客へ見せることを目的とした攻防を展開している格闘技を基本としたスポーツ、パフォーマンスアート、エンターテインメントもしくは、その試合を複数展開することにより開催されている興行のことである。プロレスリングとも呼ばれている。正式名称はプロフェッショナルレスリング。興行レスリング、職業レスリングとも呼ばれている。古くは西洋相撲(角力)と呼ばれていた。アメリカなどではレスリングとも呼ばれている。メキシコではルチャリブレ、ヨーロッパではキャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれている。 試合は投げ技、打撃技、関節技、絞め技、フォール技、時には凶器などを用いて行われて試合において闘う者をプロレスラーもしくはレスラーと呼ばれている。 アメリカ、メキシコ、日本などにおいて歴史があり複数のプロレス団体が存在している。この他にカナダ、オーストラリア、イギリス、ドイツ、ロシア、イタリア、スペイン、フィンランド、オーストリア、ニュージーランドなどで盛んとなっている。プロレス団体がない国においてもテレビとインターネットを通じて世界中の人にも楽しまれている。
{{Otheruses||雑誌|週刊プロレス|ゲームソフト|プロレス (任天堂)}} [[File:Christopher Daniels 1.jpg|thumb|200px|プロレスの試合(シングルマッチ)]] [[File:Jeff-Hardy-Dropkick,-RLA-Melb-10.11.2007 filtered.jpg|thumb|right|200px|プロレスの試合(タッグマッチ)]] '''プロレス'''は、[[リング (格闘技)|リング]]で観客へ見せることを目的とした攻防を展開している[[格闘技]]を基本とした[[スポーツ]]、[[パフォーマンスアート]]、[[エンターテインメント]]もしくは、その試合を複数展開することにより開催されている[[興行]]のことである。'''プロレスリング'''(Pro Wrestling)とも呼ばれている。正式名称は'''プロフェッショナルレスリング'''(Professional Wrestling)<ref>{{Cite web|和書|title=プロレスの意味 - goo国語辞書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/jn/197030/meaning/m0u/|website=goo辞書|accessdate=2019-07-10|language=ja}}</ref>。'''興行レスリング'''、'''職業レスリング'''とも呼ばれている<ref>[[松村明]]『大辞林』[[三省堂]]</ref><ref>松村明『大辞泉』[[小学館]]</ref><ref>[[新村出]]『広辞苑 第三版』[[岩波書店]](1987年)</ref><ref>[[イミダス]]編集部『imidas現代人のカタカナ語』[[集英社]](2006年)</ref>。古くは'''西洋相撲'''('''角力''')と呼ばれていた<ref>[[ベースボールマガジン社]]刊「日本プロレス全史―1854年-2013年の闘いの記録」ベースボールマガジン社編著</ref>。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]などでは'''レスリング'''とも呼ばれている。[[メキシコ]]では'''[[ルチャリブレ]]'''<ref name=":0">[[誠文堂新光社]]刊「プロレス語辞典」榎本タイキ著</ref>、[[ヨーロッパ]]では'''[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]'''と呼ばれている。 試合は[[投げ技]]、[[打撃技]]、[[関節技]]、[[絞め技]]、[[フォール技]]、時には[[凶器 (プロレス)|凶器]]などを用いて行われて試合において闘う者を[[プロレスラー]]もしくはレスラーと呼ばれている。 アメリカ、メキシコ、[[日本]]などにおいて歴史があり複数のプロレス団体が存在している。この他に[[カナダ]]、[[オーストラリア]]、[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[ロシア]]、[[イタリア]]、[[スペイン]]、[[フィンランド]]、[[オーストリア]]、[[ニュージーランド]]などで盛んとなっている。プロレス団体がない国においても[[テレビ]]と[[インターネット]]を通じて世界中の人にも楽しまれている。 == 概要 == 興行会社が試合、その他で構成される興行を開催することで観戦料などの収入を得る。プロレス業界において興行会社は「団体」と呼ばれている。女性のプロレスラーの行うプロレスは「[[女子プロレス]]」と区別されている。それ単独での興行は存在しないものの、[[低身長症]]のプロレスラーが行うプロレスは「[[ミゼットプロレス]]」と呼ばれている。 事業収入を得ない[[アマチュア]]組織も存在して、中でも学生の愛好家によるものは[[学生プロレス]]と呼ばれる。本来、[[メキシコ]]を除いては[[ライセンス]]制度が無いため厳密にアマチュアと[[プロフェッショナル|プロ]]を分類することは不可能であるが、強いて分類するなら観戦料徴収の有無で分けることが出来る。アマチュアプロレスは地域の催事ないしは祭事でプログラムの一環として行われることが多く、「アマチュアプロレス」という表現が矛盾していることもありプロではないがプロと同じ形式という意味で「プロスタイルレスリング」、「ノンプロ」との合成語として「ノンプロレス」と表現されることもある。1つの地域に重点を置く地域密着型と都市圏を中心に全国を回る巡業型がある。 勝敗を競う形式を取るがアメリカの[[WWE]]はあらかじめ作られた台本に則って行われている「エンターテインメント」であることを明らかにしている。理由としては、[[アナボリックステロイド|筋肉増強剤]]などの昨今のプロスポーツと薬物の問題が根底にあるが、その他にも、スポーツ委員会よりも興行(娯楽)として登録する方が[[保険料]]が低く済み経費削減に繋がることや[[上場|株式上場]]の際に経営透明化という観点から業務内容を公開する必要があったためである。1950年代にフランスで活動したロジェ・ドラパルトは、プロレスの持つ競技牲と演劇性を「プロレスは75パーセントのスポーツと25パーセントのスペクタルがなければならない、その逆はない」<ref>岡村正史「プロレスという文化」(2018年)ミネルヴァ書房 21頁</ref> と例えている。 歴史的に活動が盛んな地域としてはアメリカ、[[カナダ]]、日本、[[プエルトリコ]]、メキシコが挙げられる。アメリカではプロレスでもレスリングでも「レスリング」と呼ぶが、プロレスのみを指す場合は[[ショー・ビジネス]]のそれとして「ラスリン」と南部訛りで呼ぶことがある<ref group="注">なお、プロレス評論家の[[流智美]]によると「『ラスリン』は侮蔑的用語」「知ったような顔で得意げに『ラスリン』と口にしてプロレスラーに殴られた人間が何人もいる」という。</ref>。 == 運営 == === 事業内容 === [[エンターテインメント]]産業とほぼ同じ事業形態で運営が行われている。 === 事業形態 === 球場、体育館、イベントホール、屋外などを会場とし、そこにリングや周辺器材(フェンス、椅子等)を設置して有料で試合を観戦させる「興行」が主な事業である。会場の規模と観客数は団体や興行規模により様々であり、数万人を動員することもあれば、数十人程度の観客を相手にすることもある。WWEの[[レッスルマニア|レッスルマニア32]]では10万人を超える動員に成功している。1つの興行で5試合から10試合を行うことが多い。多くの団体はこのような興行を複数回実施する、シリーズと呼ばれる企画を年間複数回組み、選手と従業員、機材は全国を移動しつつこれを開催する。これを「巡業」と呼ぶ(巡業については後述)。また、経済的あるいは他の事情から巡業を行わないプロレス団体も存在して、団体が所有してリング等を設置している「常設会場」を使用するか、限られた地域にて営業している会場を使用している。 === 事業収入 === 収入の柱となるものは以下の様なものである。 ;観戦料 :観戦の際必要になる有料入場券(チケット)の売り上げ。自主興行では事業収入の重要な柱の一つである。価格は3,000円から20,000円程度と幅広く、興行の規模や席種により変動し、10万円以上の値を付けることもあり、[[WWE]]の最大[[イベント]]「[[レッスルマニア]]」では最も高額なリングサイド席で2,000ドルにもなる。地方興行などでは[[コンサート]]同様に[[スーパーマーケット|スーパー]]、[[コンビニ]]で割引優待券が配布されていることもある。 :一部団体が当日会場のみで発売される小中学生料金は、全席指定である[[新日本プロレス]]の様に前売券の残余を発売(この場合は席の指定や連番での購入は不可。前売時点でチケットが完売した場合は発売されない)する場合もあるが、ほとんどの団体は自由席もしくは立見など観戦エリアが指定されている。 :また、他のスポーツ興行と同様に、法人顧客にある程度まとまった数を販売し、法人が自身の顧客に対して販促の一環として配布したり余れば福利厚生の一環として従業員に配布することもある。なお、ビッグマッチを除き、地方興行ではプレイガイドでの販売数はそれほど見込めないため法人営業力の重要性は高い。また、選手自らチケットを販売(手売り)する事も珍しくなく、主にインディー団体においては、それが選手の収入に繋がっていることもある。 :なお、人望のあった選手などが重い病気や重度の負傷、リング内外の事故により事実上の廃業、あるいは長期欠場を余儀なくされた時、その選手やその家族のために闘病、療養費用などの一助にしようと選手有志や縁のあった団体などの協力という形で選手のための興行が行われ、観戦料などの収益がその選手に渡されることもある([[悪性腫瘍|ガン]]で引退した[[冬木弘道]]の[[引退試合]]など)。 ;グッズ販売 :プロレス団体が[[Tシャツ]]や[[タオル]]などの衣料品、[[小冊子|パンフレット]]等を製作して販売することによって得る収入。会場の売店での販売が中心だがスポーツショップや[[通信販売]]で販売を行うプロレス団体も多い。 :また、会場の特設売店やイベントで選手が購入者へサインを贈る等のファンサービス販促を行うこともある。これらは粗利が高く日銭を稼ぐことが出来るため、零細団体ほど比重が高くなる。グッズが製作できなくなるとプロレス団体は経営的に破綻寸前であることが多い。それ以外にも、[[ゲームソフト]]などのロイヤリティーも含まれる。 ;コンテンツ販売 :試合を収めた[[DVD]]の販売、[[インターネット]]での配信を行うプロレス団体もあり、アメリカのインディー団体では映像ソフトにパッケージという目的を持って試合を行う場合もある。 :近年ではネットによる動画配信からの収入が無視できない規模になっており、例として新日本プロレスは月額制動画配信サイト「[[新日本プロレスワールド]]」で10万人超の会員を抱え、大きな収入の柱の一つとなっており<ref>[https://net.keizaikai.co.jp/50988 ハロルド・ジョージ・メイ・新日本プロレス社長に聞く「新たなビジネスモデルの可能性」] - 経済界ウェブ・2020年10月13日</ref>、多くの大手団体が月額制動画配信サイトを運営している。また、[[携帯電話]]サイトの有料会員向けに待ち受け画像、着声などを配信するケースも増えている。 ;広告料 :リングやパンフレットなどの[[広告]]スペース料や冠興行での協賛金など<ref>{{Cite web |title=スポンサー募集のお知らせ |url=https://bjw.co.jp/sponcer/ |website=大日本プロレス official website |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref>。 :場合によってはスポンサーとの[[タイアップ]]広告が打たれることもある<ref>{{Cite web |title=【タイアップ企画】BLANCO・女子プロレス団体「STARDOM」のコラボ|南青山 表参道 名古屋 岐阜の美容室・美容院・ヘアサロン |url=https://www.blancohair.com/16079.html |website=南青山 表参道 名古屋 岐阜の美容室・美容院・ヘアサロン {{!}} Just another WordPress site |date=2023-05-15 |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=協賛・広告媒体のご案内 |url=https://www.njpw.co.jp/sponsor |website=www.njpw.co.jp |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref>。 ;テレビ放映料・ペイパービュー販売 :試合映像の放映権や[[ペイ・パー・ビュー]]を販売して得る収入。 :かつては地上波テレビ放送が無いプロレス団体では経営が成り立たないと言われていたが<ref>{{Cite web |title=放送50周年、テレビ朝日による新日本プロレス放送の始まりを振り返ってみる(清野茂樹) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/0529d59e4a355a6cad9ca888fec0375be86582c9 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref>、[[UWF]]がビデオ販売でヒットを飛ばしたことや[[ケーブルテレビ]]、CSで放送される有料専門チャンネルの増加などから必ずしも地上波での放送がなくとも経営ができるようになった。また、多くの団体ではビッグイベントをケーブルテレビやインターネットでの[[ペイ・パー・ビュー|PPV]]方式で販売して収入に直結させている。 :近年では[[YouTube]]などの無料動画配信サイトで動画を配信し、そのサイトから支払われる広告料を収入の柱とすることもある。 ;選手による芸能活動 :プロレス団体を所属事務所とし、出演するテレビやラジオ、映画出演や各種イベントでのトークショーなどの出演料。 :新日本プロレスなどの一部の団体では[[芸能事務所]]と提携して芸能活動のマネジメントを任せることもある<ref>{{Cite web |title=新日本プロレスが大手芸能プロダクション『アミューズ』との業務提携を発表! |url=https://www.njpw.co.jp/56617 |website=www.njpw.co.jp |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref>。 :プロレスラーが主演を務める映像作品もあり、[[ドウェイン・ジョンソン]]など、俳優業を本職としたものもいる。 ;飲食店経営 :プロレス団体が運営する[[喫茶店]]や[[レストラン]]の事業収入。[[全日本女子プロレス]]、[[大日本プロレス]]、[[DDTプロレスリング]]などでは、新人プロレスラーを中心とした所属プロレスラーや[[引退]]した元プロレスラーがスタッフとして働く店を経営する例もある。また、[[大阪プロレス]]や[[スポルティーバエンターテイメント]]のように常設会場にカフェ・バーなどの飲食店を併設しているケースもある。 ;興行権販売 :主に地方での巡業であるが、各地方のプロモータと呼ばれる興行会社(いわゆる[[勧進|勧進元]])などに一定額で興行権を販売する。地域に根ざしたプロモータが営業活動、宣伝活動などの業務を行うため、プロレス団体のスタッフの負荷が軽減できることや不入りであっても安定した収入を得られる点が利点。このような興行は「売り興行」あるいは「委託興行」と呼ばれる([[大相撲]]における地方巡業や[[プロ野球]]における地方球場での公式戦でも見られる形態)<ref>{{Cite web |title=DDT ProWrestling |url=https://www.ddtpro.com/news/599 |website=DDT ProWrestling |access-date=2023-12-03}}</ref>。逆にプロレス団体自らが興行を開催して、直接収入を得る興行を「手打ち興行」あるいは「自主興行」と言う。 :興行形態としては他にプロレス団体とプロモーターで負担を分担し合う「分興行」(いわゆる「合同興行」で採られることが多い)、団体が一部経費を負担して残りをプロモーターが負担する「乗り興行」([[ボクシング|プロボクシング]]で多く見られる形態。プロレスでは「プロレス夢のオールスター戦」「夢の懸け橋」などが該当)がある。 :元選手が引退後にプロモーターに転身することもある。現役選手でも出身地や縁の深い場所で興行を行う際、興行権を購入して取り仕切ることもある。また、一部のプロモーターが興行権を団体から購入せず自らの手で興行を打つこともある。 :祭事、催事のプログラムの一環として試合を行うこともある。代表例は[[フリーマーケット]]や[[競艇]]場など。変わり種として[[結婚式]]の[[宴会|余興]]で行うこともある<ref>{{Cite web |title=みちのくプロレス・オフィシャルサイト「イベント」 |url=http://www.michipro.jp/event/ |website=www.michipro.jp |access-date=2023-12-03}}</ref>。 === 選手兼社長 === [[File:Rikidouzan.jpg|サムネイル|150px|[[力道山]]]] プロレス団体・興行会社における特徴の1つとして現役レスラーまたは引退したレスラーがプロレス団体を運営する会社を設立しその社長業を兼務するというものがある。日本でもプロレス団体運営システムの始祖である[[力道山]]からこの形式は始まっており、[[日本プロレス]]から、さらに派生した[[新日本プロレス]]、[[全日本プロレス]](2023年3月現在はいずれも後述する「背広組」の経営)もこの形式を踏襲したほか、2023年現在も[[プロレスリング・ノア]]や[[DDTプロレスリング]]など、この形式を取る団体は少なくなく、特に女子プロレスでは、[[センダイガールズプロレスリング]]、[[OZアカデミー|OZアカデミー女子プロレス]]、[[ワールド女子プロレス・ディアナ]]、[[プロレスリングWAVE]]が該当する。 引退したプロレスラーが社長を務めるプロレス団体としては過去には[[国際プロレス]]など、2019年現在は[[PURE-J]]などがある(PURE-Jについては現役から継続)が、これは主演スターが座長も兼ねる[[劇団]]の世界に近い形態といえる。 興行の現場を知るものが社長業を行うことで、現場(プロレスラー)との乖離を避けることが出来たり、スポンサーとの営業活動などに利点がある。その一方で、ワンマン体制や血縁、同族企業になりがちとされ、また、プロレスの試合におけるセンスと経営の能力は別物であるため、経営を手助けする優秀なブレーンとなる存在が無ければ維持することは難しい。さらに、特に主力選手が社長を務めるケースにおいて、プロレスラーとしてのコンディション維持に必要なトレーニング、休息、リハビリなどの時間の確保が困難になり、[[三沢光晴]]の死亡事故を機に問題視する声も出ている<ref>http://sportsnews.blog.ocn.ne.jp/column/fight090701_1_1.html</ref>。 これに対して選手出身ではない者(「背広組」と呼ばれる)が社長や経営幹部を務める場合は、経営と現場を分離して安定した運営をすることができるものの、選手と経営組の間に軋轢が生まれ、活動を停止するケースも存在する。さらにプロレスラー出身のトップから交代した場合、絶対的な影響力を持つ社長プロレスラーの退陣によって(プロレスラー、背広組問わず)後任者が選手やフロントをまとめきれず瓦解するケースも少なくない。 このため[[JWP女子プロレス]]や、[[ジャイアント馬場]]が会長に退いていた時期の全日本プロレスの様に、背広組社長が会社経営に専念して、マッチメイクなどの現場にかかる業務のほとんどを選手に委ねるプロレス団体も存在する。 一方で「背広組の社長がプロレスラーになる」ケースもある。[[WWE]]では会長である[[ビンス・マクマホン]]が(時期によるが)自ら試合に出る。彼は「背広組」であるが、これは演出の必要上もあるが、レスラーとしての出場例である。また、[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]社長の[[荒井昌一]]はプロレスラーとしての訓練は積んでいなかったが、演出としてリングでプロレスラーとの乱闘を演じたことがある。[[IWA・JAPAN|I.W.A.JAPAN]]社長の[[浅野起州]]も元はプロモーター出身の背広組だが、[[2000年]]の「プロレスラーデビュー」以後時折試合に出ていた。[[ハッスルMAN'Sワールド]]最高経営責任者の[[草間政一]]の場合は、レスリング経験者ということもあり、2010年に「プロレスラーデビュー」して勝利を収めた。 === 巡業 === 日本のプロレス団体でツアー展開をする場合は、[[相撲]]の地方興行や[[サーカス]]と同様、巡業の形態を取ることがある。メジャーと呼ばれる大規模団体が開催する興行数は年間100~150試合前後と他の格闘技と比べて圧倒的に多く、スタッフはリングや周辺機材を積んだトラックで別移動するが、プロレスラーは集団でバスなどを用いて移動して同一のホテルなどに宿泊する。 競技性を売りとする[[UWF]]系の団体では、コンディション調整に時間を割くため、興行数は年間数試合から数十試合程度となっている他、対戦するプロレスラー同士が会わないよう、別のホテルに宿泊させて競技性の保持に務めた。 集客数は、試合の会場とする場所にもよるが、スタジアムなどの大会場では数万人規模、地方の体育館やイベントホール、屋外グラウンドなどの会場では数千人から少なくとも千人程度までの集客を見込んで興行を打つことが一般的である。 興行の際の会場使用料に関しても、主要アリーナや公共の体育館は入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時よりも高額(入場料を徴収するアマチュアスポーツ大会使用時の使用料より3から10倍程度)に設定されている。使用料自体も、開催曜日(土曜、休日は平日よりも高額となる会場もある)、使用時間帯(定額制の会場もある。時間帯制の会場は時間が遅くなるほど高額になる)、最高入場料(特別リングサイド料金)、観客席の使用の有無などで会場によって異なっており、設営から撤収までの時間で使用料が決まる。会場使用料には基本使用料の他にも、時間外使用料、冷暖房料金、照明料金、テレビ中継を行った際の設備料金などの付帯料金などが加わる。 使用料の支払は基本的に前払い(前払いの場合は支払期限があり、期限を過ぎれば予約は自動的にキャンセルとなる)であるが、一旦使用料を支払えば、開催中止の場合でも使用料を返還しない会場が殆どであり、その場合は巡業の収支にも大きく影響する。また、撤収が予定よりも伸びた場合の時間外使用料や会場設備を損傷した場合に生じる損害賠償は、後日会場側から団体に請求され、追加の負担となる。[[大日本プロレス]]は損害賠償のリスクを回避するため、会場によってマッチメイクを決めている。[[国際プロレス]]は[[ジプシー・ジョー]]が参戦したシリーズでは損害賠償に悩まされていた他、[[新日本プロレス]]は観客が暴動を起こしたために使用料をはるかに超える損害賠償を請求されたり、使用禁止を言い渡されたことがある。一方で[[全日本女子プロレス]]は、急遽後払いに変更した会場使用料を滞納したために会場の管理者から告訴されたことがある。 会場や興行の規模によっては、使用申込後に他のスポーツイベントや行事などとの日程を調整する利用調整会議への出席が義務付けられている会場や使用申込後に団体の信用度などの事前審査を行う会場もあり、会場の事前審査によっては使用不可となる場合もある、使用料の滞納などで使用禁止となる場合がある。 海外ではプロレスラーの現地集合、現地解散の方式を取ることが大半で個別行動が基本。新人や若手レスラーは、移動経費の節約のため、自動車や先輩選手の自家用飛行機に相乗りで移動することもある。それが故に、[[大剛鉄之助]]や[[ジョニー・バレンタイン]]が事故でプロレスラー生命を絶たれたり、[[アドリアン・アドニス]]が移動中の交通事故で死去したケースもある。日本でもJWP時代の[[デビル雅美]]や[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]時代の[[大仁田厚]]は自家用車に後輩を乗せて移動していた。 ==== 巡業を伴わない興行 ==== 近年では何らかの形で常設会場を設けて地方巡業を行わないプロレス団体も増えてきている。主にローカルインディーや草の根インディー或いは「どインディー」<ref>{{Cite web|和書|url=http://boku-pro.com/news/view/11572|title=「輝け!日本どインディー大賞2015」開催!【多重ロマンチック的ぼくらのプロレス】 |publisher=ぼくらのプロレス|date=2016-1-21|accessdate=2016-8-22}}</ref> というスラングで呼ばれる極めて小規模な団体がこの形態を取ることが多い。 こうしたプロレス団体はメジャー団体や中規模インディ団体のように集客数の採算分岐点の大きく、かつ会場使用料が高額な大会場を用意する経営体力がないため、仮に巡業を行う場合であっても小規模な公民館や体育館の一室、或いは駐車場の一角で平均百人前後、多くても数百人程度の集客で興行を成立させる運営を行っていることが多い。 リングさえ用意してしまえば何処でも興行会場になるとも言えるため、極端な場合ではプロレス団体事務所の敷地内にリングを置いたり、リングが常設されているプロレス団体の道場に客を集める形態(いわゆる道場マッチ)を取る場合もあり、数十人から数人程度の観客動員でも興行を成立させたと見なしてしまう零細団体も存在する。 海外ではプロレスラー自身が各地のインディー団体を転戦するケースも多く、この形式はインディーサーキットと呼ばれている。 2010年代以降、特に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]以降、[[YouTube]]/[[Ustream]]等の動画配信サービスを利用し、道場もしくはスタジオで行う[[無観客試合]]を配信する形で興行を行う団体も出てきており(『[[19時女子プロレス]]』、『[[NOAH “NEW HOPE”]]』等)、これらも通常巡業は行わない。 === 進行形式 === プロレスの興行は1日で5から10程度の試合が行われる。トータルの興行時間は平均して3時間前後が基本で、1度休憩が挟まれることもある。試合の構成は以下の通り。 * 選手入場(テーマ曲が流されて会場によってはライトアップなどの演出が取られる) * 選手名、身長や体重などの紹介 * 試合開始 * 試合終了 * 選手退場(勝利者のテーマ曲のみが流される) WWEなどのように選手名を告知してから入場してリング上では告知を行わない団体もある。 選手入場の際に用いられるテーマ曲はアーティストによる既存曲と選手個人または団体が制作を発注したオリジナル曲がある。試合をパッケージ販売する際の著作権処理の煩雑さと使用料回避のため、オリジナル曲を使う傾向が強くなっている。コスト削減のためパッケージ販売時には入場シーンに別の曲を編集で用いたり入場シーンそのものをカットしているものもある。 また、[[タッグマッチ]](詳細は後述)の入場時に用いられる曲は「格上」のプロレスラーのものであることが基本である(大物同士のタッグでは同格であることを強調するため両者のテーマ曲を混合した曲を用いることもある)。アングル上の決着戦の場合は通常と異なる前奏を付加したものやタッグマッチ時に1人ずつテーマ曲に合わせて入場するといった演出が施される。 == ルール == === スタッフ === 試合を行うプロレスラーの他に試合を行うために必要なスタッフとして次のようなものがある。 ; [[コミッショナー]] : 試合の最高責任者。 ; [[レフェリー (プロレス)|レフェリー]] : 試合の審判員。 ; [[リングアナウンサー]] : 選手、レフェリーの紹介等、試合の司会、進行役を行う。 ; タイムキーパー : 試合時間を計時し、レフェリーの合図、時間切れでゴングを鳴らして試合の開始、終了を他のスタッフ、観客に告知する他、試合結果の公式発表を行う。 ; リングドクター : 試合等で負傷したレスラーに対する処置を行う。 ; [[実況]]、[[解説]]を含む場内放送係員 : 場内放送設備を操作して実況、解説を行う傍ら観客に注意を促すなどの呼びかけを行う。リングアナウンサーが兼務することが少なくない。 ; その他に試合の運営に必要な係員 === 基本ルール === 基本的なルールはほぼ以下の通りである。勝敗は以下の状況に至ったとレフェリーが認めて、その旨を宣告した時点で成立している。 ; [[ピンフォール|フォール]] : 対戦相手の両肩をマットに押しつけ(フォールという)、レフェリーが3カウント数える。 ; [[ノックアウト]](KO) : 10カウントの間立ち上がれないでいること(レフェリーによって、またカードによって、カウントのスピードは異なる)。 ; [[リングアウト]] : 10カウント、ないし20カウントの間リングの外に出ていること(WWE、TNA、全日本プロレスなどが前者を採用、日本のプロレス団体の多くは後者を採用)。新日本プロレスや国際プロレスではリングアウトは20カウント、エプロンアウトは10カウントである。 ; [[タップアウト|ギブアップ]] : 口頭での敗北意志の提示をする。 ; [[タップアウト]] : 相手の体の一部またはマットを叩くことにより敗北意志の提示をする。 ; [[ノックアウト|レフェリーストップ]] : 関節技を受けている選手がギブアップやタップアウトせず、これ以上技を受け続けていると重傷を負うと判断した場合はレフェリー権限で強制的に試合を終わらせる。[[裸絞|スリーパーホールド]]など絞め技の場合はレフェリーが絞められている選手の腕を上げてから離して3回腕が落ちれば負けとなる。日本プロレスリング・コミッション認定プロレスリング競技規約(以下、「日本コミッション認定規約」)ではレフェリーストップは[[国際柔道連盟]]と同様、失神など実際に試合続行不可能になった時だけになっている<ref name="コミッション"/>。 ; [[反則行為|反則]]勝ち(反則負け) : レフェリーに暴行、凶器の使用、セコンドや他のプロレスラーの協力的乱入があった場合、行為を行った側が強制的に負けとなる。ただし、例外もある(詳しくは下記参照)。 ; セコンドからのタオル投入(TKO) ; オーバーザトップロープ : トップロープの上を越えて場外に落ちたら失格となるルール。主にバトルロイヤル形式の試合で採用される。またアメリカでは相手選手をトップロープの上を超えて場外に落とした場合反則負けとなるルールが過去に採用されていた。 その他に次に掲げる代表的なルールがある。 * 基本的な攻撃は[[投げ技]]、[[絞め技]]、[[関節技]]、[[蹴り技]]、[[打撃]]など。 * プロレス団体により、詳細は異なるが一般的なプロレスのルールでは反則は5カウント以内に止めなければ反則負けとなる。これは逆にいえば5カウント以内であれば反則攻撃が認められている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2012_2/5010A033.pdf|title=早稲田大学 大学院スポーツ科学研究科修士論文「プロレスの社会学的考察――『スポーツと文明化/興奮の探求』より――」斉藤文彦著 |publisher=早稲田大学|date=|accessdate=2016-8-22}}</ref> ということであり、プロレスの試合における攻撃手段や表現のバリエーションを形成する要素となっている。 ** 禁止されている攻撃として、目([[サミング]])、のど(チョーク)、急所への攻撃([[ローブロー]])、噛みつくこと、拳での[[突き技]]、つま先での蹴り技、1本のみの指を取ることなどがある。ただし打撃系の反則技は後述の5秒ルールのため相手の体に断続的に密着しない限りは注意のみで反則を取られないので事実上は反則技でないことが殆ど。(ローブローのみ例外の場合がある。)日本コミッション認定規約ではのどへのチョークは反則と書いていない。また、2本のみの指を取るのも反則である<ref name="コミッション" />。 ** 観客用のイスを始めとした武器([[凶器 (プロレス)|凶器]])での攻撃は反則とされるが、団体によっては即時に反則負けとなる場合もあれば、カウント内での使用が認められる場合もある。同じ団体の試合であってもレフェリーによって判断が異なることもある。 * ロープブレイク : 技をかけらているレスラーの体の一部分がロープ外のリングサイドエプロンに完全に出た場合は、技の解除が求められる。フォール中の場合は、カウントはストップされる。 ** 原則的に四肢の場合、手なら肘より上、足なら膝より上がロープに出ないとロープブレイクと見做されないため指先が触れただけの場合などはレフェリーがロープを叩く蹴るなどして一旦離して再度きちんとしたロープブレイクを求めることもある。またロープを利用したり、掴んでの攻撃は原則的に反則である。 ** 日本コミッション認定規約ではロープブレイクの規定がない<ref name="コミッション"/>。 * 試合時の服装規定は無い。そのため普段着で試合をしたり、ニーブレース(knee brace、金属製の強固な膝サポーター)などを着用して試合をする選手もいる。 ==== 日本プロレスリング・コミッション認定プロレスリング競技規約 ==== この規約は[[新日本プロレス]]と[[国際プロレス]]合意のもと制定された。両団体と日本以外のプロレス団体[[NWA (プロレス)|NWA]]、[[WWE|WWF]]、[[NWF]]、IWAで採用実施している競技規則を原則的方針として制定され、両団体は厳格に遵守、服従しなければならない。[[1980年]]11月20日発効<ref name="コミッション">{{Cite book|和書|last=|first=|author=山本小鉄|authorlink=山本小鉄|coauthors=|title=ザ・ストロングスタイル|edition=|publisher=[[月刊タッチダウン|タッチダウン]]|location=日本|pages=106 - 107|id=|isbn=|origdate=1982-9-10|quote=日本プロレスリング・コミッション認定プロレスリング競技規約}}</ref>。 === 試合形式 === {{seealso|{{ill2|プロレスの試合形式|en|Professional wrestling match types}}}} プロレスの試合は多くは何分何本勝負、という形で行われる(ヨーロッパ及び力道山時代の日本ではボクシング同様の[[ラウンド]]制の試合も行われていた)。1980年代以降の日本では、ほとんどが一本勝負で行われている。かつて日本でも[[タイトルマッチ]]などで行われた3本勝負(2本先取で勝利)は過去現在を通じてメキシコでは主流の試合形式である。試合時間は概ね10分から無制限まで千差万別であるが、タイトルマッチは60分1本勝負が主流である(過去には61分3本勝負などのルールもあった)。アメリカのテレビ放送用の試合では「放送時間内1本勝負」(つまりテレビの放送時間終了までに勝負がつかなければ[[引き分け]])という例もあった。 ; シングルマッチ : 2人のプロレスラーが1対1で行う形式。 ; [[タッグマッチ]] : 2対2、3対3など、複数人がチームを組んで対戦する試合の総称。各チームの構成人数が3人以上の場合は6人タッグ、8人タッグの様に合計人数を接頭に付けて呼称される。2対2の場合は人数を明示せず「タッグマッチ」と表記されることがほとんど。2対3などチーム構成人数に差がある場合は変則タッグまたはハンディキャップマッチと呼ばれる。日本ではコーナーに控えている選手とタッチしないと試合権利が移らない方式を取っている団体が多いがメキシコではタッチをしなくても試合権利が移る方式(権利者が場外へ落ちた後、控え選手がリングインすることで権利が移る)を取っている。日本でもメキシコに縁のある団体ではタッチしない方式を取っているプロレス団体もある。 ; [[トリプルスレットマッチ]] : 3WAYマッチ、3WAYダンスとも呼ばれる3人で闘う形式。バトルロイヤルと異なり誰か1名が勝利を挙げた時点で試合が終了する方式と最後まで残った者(チーム)が勝利、の2通りある。タッグマッチで行われることもある。 ; ハンディキャップマッチ : 前述の変則タッグのなかでも少人数のチーム方に圧倒的な実力がある選手がいるものを特にこう呼ぶ。巨漢レスラーや王者の怪物性を示すために採用される形式。1対2、1対3などが基本である。 ; [[デスマッチ]] : 通常とは異なる要素を加えた試合形式。これに特化したプロレスを英語で[[ハードコア・レスリング]]という。 [[File:Diva_Battle_Royal_at_WrestleMania_25_2.jpg|サムネイル|200px|アメリカで行われた女子プロレスのバトルロイヤル。]] ; [[バトルロイヤル]] : 主に10人以上で行われる形式。敗北したものから退場して最後に残った者が勝利する。参加選手が開始時に全員リング上にいる場合や時間差で入場する形式などがある。 === リング === {{main|リング (格闘技)#プロレスのリング}} 対戦の舞台となるのは3本のロープを四方に張り巡らせたリングで形状は[[ボクシング]]などとほぼ同じ(ただし、ボクシングの場合ロープ数は4本で、コーナーの形状も異なる)。大きさは団体によって異なる。プロレスの特徴として、ロープの反動を積極的に用いたり(ロープワークと呼ばれる)、コーナーに上っての技などがあるため、リング及びロープは他競技用のものに比べて頑丈に作られている(ロープの中にはワイヤーが入っている)。[[デスマッチ]]と呼ばれる試合形式の場合、特殊な加工が施されたリングを用いることがある(ロープを有刺鉄線に交換するなど)。 リング内に敷かれたマットの硬度は大差はないものの団体によって違うと言われている。柔らかい方が投げ技を受けたときにダメージが軽減される。あまりに表面が柔らかすぎると踏ん張りが効かなかったり逆に足をとられて怪我をするおそれもあるため、柔らかさに一定の限度は存在している。 歴史的な経緯は不明だが、現在のほとんどのリングには「スプリング」が入っており、投げ技や跳び技の着地時におけるケガを予防するようになっている。総合格闘技の試合がプロレスのリングで行われた際にはスプリングを止めて「固く」していた。 各プロレス団体が専用のリングを所有するが小規模プロレス団体は所有していないことが多い。この場合は他団体または「リング屋」と呼ばれる会場設営業者にレンタルする。代表的なリングレンタル会社としてジャッジサポートがある。 日本では[[闘龍門]]の[[闘龍門2000プロジェクト]]で6角形のリングが使われたことがあり、アメリカでは[[インパクト・レスリング]]、メキシコでは[[AAA (プロレス)|AAA]]などの団体で、6角形のリングが使われている。<ref group="注">この場合の6角形リングは単なる目新しさでは無くメキシコにあるルチャリブレ・クラシカという関節技とポイント制によるルールを用いた競技形式のために使われたものである。</ref> [[埼玉プロレス]]や黎明期の[[アイスリボン]]のようにリングを使用せずマットのみの場合もある。 リング外には転落時の衝撃を和らげるためのマットを敷くプロレス団体が多く、観客席とリングの間に鉄柵を設置する団体もある。 === 階級 === 多くのプロレス団体ではプロレスラーの体重を基準にヘビー級とジュニアヘビー級(クルーザー級、ミッドヘビー級)に区分される。クルーザー級は主にアメリカのプロレス団体で用いられて、日本でも[[WRESTLE-1]]や[[DDTプロレスリング]]などでクルーザー級と呼んでいる。ほとんどのプロレス団体の基準は概ね100 kg未満であるが[[ヤード・ポンド法]]が用いられ、[[WWE]]では2016年に復活させたクルーザー級の定義として205 lbs(約93 kg)以下、かつて存在したWRESTLE-1のクルーザー級は200 lbs(90.719&nbsp;kg)以下、[[全日本プロレス]]では231.5&nbsp;lbs(105&nbsp;kg)までがジュニアヘビー級として扱われる。基本的数値の基準としては海外や[[新日本プロレス]]の220 lbs(99.8&nbsp;kg≒100 kg未満)が用いられている。 ボクシングと違い公式な計量は存在しないことが殆ど(メキシコを除けば必要に応じて行われるのみ)。階級を超えたマッチメイクもしばしば行われて軽量級に在籍しながらヘビー級戦線で活躍するプロレスラーも少なくない。近年ではシャープな肉体のプロレスラーが増えたため、105 kg以下のヘビー級戦士も多く全日本のようにヘビー級の体重制限を事実上廃止した団体も存在する。旧[[プロレスリングZERO-ONE]]は巨漢レスラーが多く参戦していたためにヘビー級の上に130 kg以上のスーパーヘビー級を置いたことがある。[[力道山]]時代の[[日本プロレス]]ではジュニアヘビー級の下に190 lbs(86.28&nbsp;kg)未満の[[ライトヘビー級]]を置いていた。[[NWA (プロレス)|NWA]]はその下にさらに[[ミドル級]]、[[ウェルター級]]を設置してより詳細な階級区分を行っている。ルチャリブレ系の団体では全体的に体重の軽い選手が多いためミドル級、ウェルター級などで分類されることもある。[[DRAGONGATE]]の軽量級に当たる[[オープン・ザ・ブレイブゲート王座]]は180 lbs(82&nbsp;kg)以下を対象としており、ウェルター級に該当する。インディー団体では体格に優れたプロレスラーが少ない傾向にあるため階級区分が行われていないプロレス団体が多い。また、[[みちのくプロレス]]の[[東北タッグ王座]]のように、個々の体重制限はないが選手2人の合計体重が200 kg以下というものもある。 女子プロレスにおけるジュニアとは軽量級カテゴリーではなく経験の浅い若手選手を指すカテゴリーである。ただし、[[センダイガールズプロレスリング]]では双方のカテゴリーをまとめて[[センダイガールズワールドジュニアチャンピオン|ジュニア]]と表現している(キャリア3年以上の体重上限は55 kg)。[[全日本女子プロレス]]では軽量級は[[WWWA世界スーパーライト級王座|スーパーライト級]]と呼ばれ、132&nbsp;lbs(60&nbsp;kg)以下を対象としていた。[[GAEA JAPAN]]における[[WCW世界女子クルーザー級王座|クルーザー級]]もほぼ一致する。[[アイスリボン]]の[[ICE×∞王座|ICE×60王座]]も存在していたが体重制限が撤廃されて現存するタイトルは無差別級となる。 === 服装 === 試合時の服装は団体によって規定、禁止されているものを除けば特に規定はなく、様々な種類のコスチュームが存在する。男子の場合、一般的には上半身半裸で以下の種類が使用されている。近年では着ぐるみ姿のプロレスラーもいる。アンドレ・ザ・ジャイアント、[[ビル・ロビンソン]]が体重の増加でショートタイツからショルダータイツに変えたように経歴において複数のタイプを使った例も多い。 ==== 着衣 ==== ; ショートタイツ : ビキニ型のパンツ。最も一般的なリングコスチュームで黎明期から現在に至るまでほとんどの団体の選手で見られる。伝統的に[[新日本プロレス]]では黒、[[全日本プロレス]]では赤、青、黄、緑などカラータイツが好んで着用されて新人選手の多くは無地のこのタイプを着用している。また、馬場全日系は新日系よりも股上が深いものを使用する傾向があった。黒色無地のタイツに肘、膝のサポーター類を一切着用しないスタイルは[[ストロングスタイル]]の象徴と呼ばれ、現役では[[藤波辰爾]]、[[西村修]]らが実践している。一定のキャリアを積んだ選手の中には柄付きやロゴ付きのものを着用しオリジナリティを演出する者もいる。他のタイプのコスチュームを着用する時もアンダーウェアとして着用されるほか[[三沢光晴]]などのようにロングタイツの上から着用するパターンもある。2000年代以降、ショートスパッツの流行により、中堅クラスに上がっても継続して着用する選手は減少しており、新人とベテランに二極化されている。[[タイチ (プロレスラー)|タイチ]]のように試合中盤でオーバーコスチュームを脱いでショートタイツになる選手もいる。 ; ロングタイツ : 腰から膝下、または足首付近までを覆うタイツ。こちらも古くから使用されており、日本では[[力道山]]が使用していたコスチュームとしても有名。リングシューズ、膝サポーターをデザインの一部に組み込むことができるのが特徴。膝下までのタイプは俗に「田吾作タイツ」と呼ばれて[[上田馬之助 (プロレスラー)|上田馬之助]]、[[ドン荒川]]、[[矢野通]]などジャパニーズヒールの代名詞となっている。 ; ショルダータイツ(ハーフショルダータイツ) : [[アマチュアレスリング|レスリング]]で使用されている[[シングレット]]と基本的には同一のものだが脚部がロングタイツになっているものや肩がワンショルダーになっているものもある。レスリング出身の選手が着用するほか、[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]、[[ビッグバン・ベイダー|ベイダー]]、[[吉江豊]]、[[曙太郎|曙]]など上半身の肉が厚い超重量級の選手が体を引き締めて負荷を軽減するために着用する。 ; ショートスパッツ、ハーフタイツ : 上記のコスチュームよりも比較的新しい時期に登場したコスチューム。ショートスパッツは[[総合格闘技]]で主流のコスチュームで格闘技色の強い選手は好んで使用する傾向がある。2010年代には[[内藤哲也]]、[[飯伏幸太]]、[[オカダ・カズチカ]]、[[潮崎豪]]、[[中嶋勝彦]]など団体の主力選手の着用率が上昇しており、ショートタイツに変わって主流となっている。 [[File:Jushin_Thunder_Liger_2007_crop.jpg|サムネイル|150px|[[獣神サンダー・ライガー]]]] ; 全身タイツ : 上半身、下半身両方を覆うタイツ。体全体をデザインとするため[[獣神サンダー・ライガー]]、[[マスカラ・サグラダ]]など覆面レスラーに着用者が多い。[[モンテル・ボンタビアス・ポーター|MVP]]は上半身がロングスリーブ、下半身がハーフタイツの[[自転車競技]]用の[[スキンスーツ]]に近いデザインの変型タイツを着用している。 ; パンタロン : タイツタイプの裾だけが広がってる物と道着のような全体に絞めつけのない物とがあり膝サポーターをコスチュームの下に隠してしまえる利点がある。蹴り技を得意とする選手や軽量級の選手に着用者が多い。また日本の袴を連想し東洋的なイメージを演出するために[[ザ・グレート・カブキ]]、[[越中詩郎]](道着<ref group="注">現在でも平成維震軍で一緒だった[[空手道|空手家]]でもある[[齋藤彰俊]]から受注しているとのこと(著書『やってやるって!!』より)。</ref>)、[[武藤敬司#グレート・ムタ|グレート・ムタ]]、[[新崎人生]]、[[TAJIRI]]の他、前者のタイツタイプは[[佐山聡|タイガーマスク]](初代)、[[小林邦昭]]、[[橋本真也]]などが着用していた、現在は[[タイガーマスク (4代目)|タイガーマスク]](4代目)が着用している。 ; 道着 : 柔道や空手で使用されているものとほぼ同一で、それらの出身の選手が自身のバックボーンをアピールする目的で着用するが上衣や帯は首を絞めるための凶器にもなり得るためズボンのみ着用する選手も多い。[[平成維震軍]]はチームコスチュームとして使用していた。 ; トランクス : ボクシングや総合格闘技の出身者が着用することが多いがプロレスでは着用者の絶対数は比較的少ない傾向にある。[[トニー・ホーム]]、[[桜庭和志]]、[[杉浦貴]]が代表例。 ; 普段着 : 市販の普段着のほか普段着に似せて作られたコスチュームも存在する。傷や衰えた体を隠す目的で上半身にシャツなどを着用する選手も多い。デスマッチ系のプロレス団体では有刺鉄線や蛍光灯の破片などに対する皮膚の保護を目的として着用する選手もいる。[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]の[[大仁田厚]]が有名。 ; 袴 : 荒武者のニックネームで知られる[[後藤洋央紀]]は2011年から黒い袴を着用してリングに上がっている。 ==== その他 ==== [[File:Mil_Mascaras_1.jpg|サムネイル|150px|[[ミル・マスカラス]]]] ; マスク {{main|覆面レスラー}} : プロレスラーのキャラクター形成を行うためのアイテム。 ; ペイント {{main|ペイントレスラー}} : レスラーのキャラクター形成を行うためのアイテム。顔面ペイントの元祖は[[ザ・グレート・カブキ]]。[[ジャイアント・キマラ]]、[[サイバー・コング]]、[[ファーガル・デヴィット|フィン・ベイラー]]のようにボディペイントを施すプロレスラーも存在する。汗や衝撃によって試合時間が経過するごとに剥がれていくのが難点。そのため、2000年代以降の[[グレート・ムタ]]は、塗料に加え合成樹脂やラバー製の特殊メイクを貼り付けることによってペイントの代わりとし剥がれを防いでいる。 ; [[スポーツ用サポーター|サポーター]]、パッド : 肘や膝を保護する目的で多くのレスラーに使用されている。中には金属製など硬質のものまで存在して団体によって禁止されているものもある。 ; リングシューズ : 脹脛まで覆うボクシングタイプのもの足首までのレスリングタイプのものなどが使用されている。基本的には選手の体型に合わせて製作されている。近年の練習や試合での事故の増加に伴い、新日本プロレスがプロレスの運動に適した専用のリングシューズの開発をメーカーに要望している。[[佐山聡]]によれば(1985年頃までの)リングシューズは非常に危険なもので、材質である革自体が硬く、紐もついており、特に底のゴムは2センチメールほどもある非常に固いものであった。このリングシューズを用いて顔面を蹴れば惨事は免れず、[[トーキック]]などを放てば当たり所によっては命に関わりかねず腕でガードしても肘の方が壊れてしまうような凶器であり、競技でこれを着用してキックを放てる様なものではなかったという<ref>『ケーフェイ』新装版 pp.161-162</ref>。 ; [[レガース]] : 蹴り技による自身、相手双方のダメージを低減する目的で、1984年頃、新格闘技(後の[[修斗]])を模索中のザ・タイガー([[佐山聡]])と当時のマスク職人の豊嶋裕司によって考案、作成された。当初はシューティングレガースと呼称され、蹴りを使う選手は[[UWF]]のルールで装着が義務付けられ、革+[[発泡スチロール]]の緩衝材を筒状にしたストレッチ素材の脛箇所に縫い付けられた仕様になっている。[[UWF]]の初期の頃は足の甲の部分のガードは、[[かかと]]が紐開きで甲に薄いクッションが仕込まれたシューティングシューズ<ref>『1984年のUWF』(2017年、文藝春秋)217頁</ref> を組み合わせ履く事で請け負われ、同じタイプが[[シーザー武志]]の[[シュートボクシング]]や初期の[[修斗]]でも使用されていた。第2次UWFの頃以降では足の甲も脛からガードが延長され(脛の革箇所が一枚から二枚接ぎの型紙に改良変更)ハイカット[[スニーカー]]のような[[アマチュアレスリング|アマレスシューズ]]等と組み合わされる場合が多くなった。UWFを象徴するギアアイテムとしてUWF系団体出身選手に着用者が多かったが、2023年現在では業界全体に浸透してリングコスチュームファッションの選択肢の一つになっている。 === 入場時 === 入場時に限り、専用の服装をする選プロレスラーもいる。多くは公式グッズのTシャツか、ガウンを着たりしている。ガウンに関しては様々な形があり、古くは着物タイプのものが主流であったが近年では選手のギミックに応じて色も形状も大きく異なっている。その他、[[真壁刀義]]や[[スタン・ハンセン]]のようにロープやチェーンなどの凶器を持ち込む者こともある。マスクを被ったりするものいる。代表例として[[桜庭和志]]、[[紫雷イオ]]が挙げられる。珍しいものとして、スーツ着用の[[内藤哲也]]が挙げられる。 == 歴史 == {{出典の明記|section = 1|date = 2012年12月}} === 起源 === [[File:Burns03-05-70-sprawl.jpg|サムネイル|200px|[[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]]]] いわゆる[[アマチュアレスリング]]よりも歴史は古く<ref name=":1">{{cite news|url=https://nikkan-spa.jp/904509|title=意外!? プロレスには185年もの歴史があった|newspaper=日刊SPA!|publisher=扶桑社|date=2015-8-2|accessdate=2017-4-18}}</ref>、現在のプロレスの歴史は20世紀初頭に始まるが、19世紀には既にファン[[フェア]]や[[バラエティ番組]]のストロングマン(High_striker)やレスリングパフォーマンスの前任者がいた。一方で地方の伝統レスリングから19世紀に発展した現代の競技スポーツとしてのレスリングは、ルール整備された競争力のあるスポーツの2つのスタイル、「[[フリースタイルレスリング]]」と「[[グレコローマンレスリング]]」(それぞれが英国とヨーロッパ大陸の伝統に基づく)の形で出現していった。これらは [[1896年]]の[[近代オリンピック]]開始までに「アマチュアレスリング」という用語で出現した<ref name=":1"/>。 近代オリンピック以降は、ルールをスポーツとして整えた際に大きく枝分かれをしている。1896年、[[1896年アテネオリンピック|第1回近代オリンピックアテネ大会]]で行われた[[1896年アテネオリンピックのレスリング競技|レスリング]]は当時のプロレスルール(現在のグレコローマンスタイルに準じたもの)で行われていた<ref name=":1" />。 競技レスリングとショーマンシップを組み合わせるレスリングの出現は1830年代のフランス、[[7月王政]]期であるとされる。そしてエドワード “ザ・スティール・イーター(“Edward, the steel eater”「鉄を食う男」)”、ガスタヴ・デアビヨン “ザ・ボーン・レッカー(“Gustave d’Avignon, the bone wrecker”「骨折魔」)”、ボネット“ザ・オックス・オブ・ジ・アルプス(“Bonnet, the ox of the low Alps”「アルプス山脈の雄牛」)” などの名前でレスラーを紹介し、観客に500フランで彼らをノックダウンするように要求したという<ref name="FILA">{{cite web|url=http://www.fila-official.com/index.php?option=com_content&view=article&id=14&Itemid=100246&lang=en|archive-url=https://web.archive.org/web/20111011195312/http://fila-official.com/index.php?option=com_content&view=article&id=14&Itemid=100246&lang=en|url-status=dead|archive-date=11 October 2011|title=Roots and history of Olympic wrestling|last=Anon|work=International Federation of Associated Wrestling Styles|publisher=FILA|access-date=2 August 2013}}</ref><ref name=":1"/> 1848年、フランスの興行師であるジャン・エクスブロヤ(Jean Exbroyat)は、最初の近代レスラーのサーカス団を結成した。このときのレスリングで腰下のホールドを実行しないというルールをとりきめ、これが「フラットハンドレスリング」と名付けたスタイルとなる。この新しいスタイルはすぐにヨーロッパの他の地域、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]、[[イタリア]]、[[デンマーク]]、[[ロシア]]にフレンチ・レスリング、クラシック・レスリング、フレンチ・クラシカル・スタイル・レスリング(French Classical Style Wrestling)の名前で広まった<ref name=":1"/>。 19世紀の終わりまでに、この近代的なレスリングスタイルはのちに「グレコローマン」と名づけられ<ref name=":1"/>、ヨーロッパで最もファッショナブルなスポーツになって、1898年にはフランス人の{{仮リンク|ポール・ポン|en|Paul Pons}}が最初のプロの世界チャンピオンになったとしている<ref name="FILA"/><ref name=":1"/>。 19世紀後半に米国と英国で普及したプロレスの近代的なスタイルが出現する。このレスリングはキャッチと呼ばれ、グレコローマンとは異なっており、このために非正統的でグレコより緩いスタイルであるとの認識であった。グレコローマンは腰の下をつかむことを厳しく禁止しているが、キャッチレスリングはレッググリップを含め腰の上下のホールドを認めている。その後キャッチレスリングとグレコローマンの両方とも人気が上がり、これは完全に競技性のあるアマチュアとプロのスポーツであった。ここから19世紀後半以降キャッチレスリングのサブセクションが現在の「プロレス」として知られているスポーツエンターテインメントにゆっくりと変化し、その演劇性とエンターテインメント性はレスリングの能力と同等に認められていった<ref name=historian>{{cite news|first=Matthew |last=Lindaman|title=Wrestling's Hold on the Western World Before the Great War|publisher=Historian, The|date=June 2000}}</ref> キャッチの起源は[[イギリス]]のランカシャー地方のランカシャーレスリング([[キャッチ・アズ・キャッチ・キャン]])にあると言われている<ref>ベースボールマガジン社刊『プロレスの教科書 "人間風車" ビル・ロビンソン直伝 "蛇の穴"のレスリング キャッチ・アズ・キャッチ・キャン スキルブック ([[週刊プロレス]]SPECIAL)』[[U.W.F.スネークピットジャパン]]著</ref>。レスリングのグレコローマンスタイルを賞金マッチで行ったものがアメリカで行われていた記録もあり、もう1つのプロレスのルーツとなっている<ref name=":0"/>。 [[19世紀]]の初め頃に[[ボクシング]]とともにイギリスで興行が開始されている。有名な「プライズ・ファイター」(現在のボクサー)ジェームス・フィグはベアナックル(素手)、[[蹴り技]]、[[投げ技]]、[[絞め技]]、噛み付き、目つぶし、髪の毛つかみのある当時のボクシングのほか、レスリングも得意であった。 [[1830年]]代にはアメリカにレスリング勝者に懸賞金が与えられるという興行が伝えられ[[エイブラハム・リンカーン]]も行っていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンとグレコローマンのミックスマッチ(3本勝負で混ぜる)や更に腰から下へのキックを認めるというような変則的なルールが各地、各試合毎に行われていた。 現在のプロレスに直接つながっているのは19世紀後半のアメリカに広まったカーニバル・レスリングとされる<ref name=":0" />。カーニバル・レスリングは "athletic show" あるいは短く "at show" と呼ばれた、いわゆるサーカスの出し物の一つとして行われ、その中では、レスラーは観客の挑戦を受けて試合(いわゆる "all comers")をしたりレスラー同士、あるいは[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]との[[エキシビション|模範試合]]を披露していた。19世紀末まではレスリングのみのショーは試合数が限られていたため、レスリングを職業として生活するためには、このようなカーニバル・レスリングに参加するか1人で旅芸人として巡業する必要があった。 このためかつて[[大仁田厚]]は自身が設立した[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]への批判に対して、「プロレスの起源はサーカスの見世物」と反論している。大仁田とは対照的な正統派の[[ルー・テーズ]]も、自伝においてカーニバルレスリングと旅芸人がプロレスの起源と述べている<ref group="注">こうしたカーニバル・レスリングをプロレスの起源とする考えはアメリカでは一般的であり、kayfabe([[ケーフェイ]])、mark([[マーク (プロレス)|マーク]])、boy([[プロレスラー]])、bump(受け身)といった[[プロレス用語一覧|プロレスの隠語]]も、カーニバル・レスリングで用いられた言葉とされるが、日本のプロレス研究家、あるいは[[マーク (プロレス)|マーク]]向けライターはカーニバル・レスリングをプロレスの起源とすることに否定的である。 日本において翻訳され出版されたルー・テーズの自伝では前述のプロレスの起源に関する記述はなく、これは "at show" の内容が非常に娯楽色が強く、プロレスを真剣勝負として紹介している人たちのビジネスに都合が悪いためと思われるが、真相は不明である。</ref>ほか、ロシアでもレスリングはショーとして、サーカスに組み込まれていたとしている<ref name=":01">https://www.isshikipub.co.jp/web-book_sports_08sovietrossiya/</ref>。 1880年代には人気レスラーであり警察官でもあった[[ウィリアム・マルドゥーン]]が警察を退職、専業という意味で最初のプロレスラーとなった。と同時にマルドゥーンは劇場などの常設施設で行われるレスリング・ショーの発展に努力して後に「アメリカン・レスリングの父」とも呼ばれるようになる。 1890年代にはカーニバルレスリング出身のマーティン・ファーマー・バーンズがイバン・ストラングラー・ルイス、トム・ジェンキンスらとのレスリング・ショーで人気を集めた。その後バーンズは[[フランク・ゴッチ]]を始めとする多くのプロレスラーを育てレスリングの通信教育も行った。バーンズもまた「アメリカンレスリングの父」と呼ばれる。 === 20世紀前半 === [[File:Georg_Hackenschmidt_ca._1905.jpg|サムネイル|150px|[[ジョージ・ハッケンシュミット]]]] [[20世紀]]はじめ、現代のプロレスの祖先である「フランス式のレスリング」が有名なレスラーの出現によってそれぞれの祖国を介する形でヨーロッパに広まっていった。例えばロシアの場合はイワン・ポドゥブニー(Ivan Poddubny)などからである<ref>{{cite web|title=Жестокий спорт или дешевое шоу: вся правда о реслинге в России|url=http://fitnessguide.pro/training/3418/|date=2017-03-16|work=FitnessGuide|publisher=[[Комсомольская правда (издательский дом)|ЗАО Комсомольская правда]]|accessdate=2017-8-1}}</ref><ref name=":01"/>。ところがフランス式のレスリングへの関心はロシアでは革命後に薄れていった。以降、ソビエト連邦・ロシアでのプロレスリングへの関心は1980年代末にまで下りプロレスラーの出現もソ連の崩壊後となる。 20世紀の変わり目に、[[ボディービルダー]]のストロングマン・アトラクションに分類される限定的アクションを盛り上げるために行われるさまざまな行為の一環としてテレビのバラエティ番組においてもプロレスリングが一般に公開されるようになった。1910年代よりアメリカの人口は都市に集中し始め、その結果、町から町へ渡り歩く "at show" は下火となった。代わりに劇場などで行われるレスリング・ショーが増えてプロレスラーは都市を中心としたテリトリー内を巡業するようになった。このことはプロレスラー間のつながりを強めて事前に試合内容を調整することを容易にした。そして競技スポーツから純粋に[[パフォーマンス]]行為が生じるレスリング("admitted fakery" または "[[ケーフェイ]]")は1920年代に出現する。その初期のスターの1人は、{{仮リンク|ジャック・カーキーク|en|Jack Carkeek}}という名の[[コーンウォール]]出身のアメリカ人の元鉱夫であったという。彼は聴衆に一緒に10分間戦うよう挑戦を促したという。 20世紀に入って英のレスリングの発展により、英国に当時のグレコローマン・[[グラップラー]]として知られるロシア生まれの[[ジョージ・ハッケンシュミット]]が英国にやって来たが、そこで彼はプロモーターであり起業家でもあるチャールズ・コクランとすぐに付き合いはじめた。コクランはハッケンシュミットをブッキングし、ハッケンシュミットがイギリスのトップレスラーである[[トム・キャノン]]を破った試合でヨーロッパのグレコローマン王者の称号が付いた。このことはハッケンシュミットに世界王者へのふさわしさを与えたが、さらに1905年にニューヨーク市でアメリカのヘビー級チャンピオンという触れ込みの[[トム・ジェンキンス]]に勝利したことで確固たるものとなった。このときの[[統一世界ヘビー級王座|世界ヘビー級選手権者]]は、世界で最高のキャッチレスラーを特定するために1905年に設立された最初のプロレス世界ヘビー級選手権であったが、ベルトという物理的な媒体表現を持っていることが知られている最初のレスリング選手権であった。ハッケンシュミットはアメリカ生まれのジェンキンスを破ったことで、初のチャンピオンシップを獲得するのである<ref>https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1905/05/05/100485496.pdf</ref>。 ハッケンシュミットはレスラーとして評判となり、マンチェスターでは当時の額で週150ポンドの価値を生んだ。ところがコクランはハッケンシュミットの正統かつ支配的なレスリングのスタイルが却って群衆の関心を削ぐ恐れがあることに気づき、ハッケンシュミットにキャノンからショーマンシップを学び、スポーツ性ではなく娯楽のために試合に取り組むように説得。このことはレスリングが将来的に[[スポーツ観戦]]/スポーツエンターテインメント要素を示しているが、人気選手のbabyfacesと嫌われている悪役選手のheelsという、両者は多くの有名なスターが英国内でのレスリングの初期の開始時に出現しはじめていた。 このためハッケンシュミットや[[スタニスラウス・ズビスコ]]といったヨーロッパの本格派の強豪レスラーの多くはアメリカに渡り、トム・ジェンキンス、[[フランク・ゴッチ]]、アドルフ・エルンスト(後の[[アド・サンテル]])らアメリカのプロレスラーと対戦して、レスリング・ショーを盛り上げた。ところが米国では1913年ゴッチが引退すると衰退し、一般の人々の目を魅了する新しいレスリングのスーパースターも現れなかった<ref name=hooker-ch1>{{cite book|last=Thesz|first=Lou|title=Hooker|chapter=Chapter 1}}</ref>。結果として1914年の第一次世界大戦勃発が完全に停止する前に有名なスターが失われたため、レスリングのビジネスは衰退した。さらにレスリング人気は1915年から1920年に劇的なテールスピンを経験する。すなわちその正当性と競争力のあるスポーツとしての地位に対して広範な疑念からアメリカ国民が遠ざかることとなる。当時のレスラーは1880年代からの試合自体は大部分が偽造されたものと語っている。 1920年代になると[[エド・ルイス]]、トーツ・モント、ビリー・サンドウ(通称「ゴールドダストトリオ」)が独自のプロモーションを形成し、ファンを引き付けるためにリング内の事項を変更。数百名のプロレスラーを配下にして、プロレスラー同士で架空のストーリー(最も分かりやすいのは「善玉」と「悪玉」の闘い)を演じさせた。また、従来の試合では基本的に1回のショーでは1試合だけを行っていた。プロレスラーにほとんど動きがないまま1時間以上経過するようなことも珍しくなかったためである。これを改め事前に様々な調整することにより、複数の試合からなる興行を行った<ref name=hooker-pg45>{{cite book|last=Thesz|first=Lou|title=Hooker|page=45}}</ref>。彼らはまた、タッグチームレスリングを普及させ、レフェリーの気を散らすなどの新しい戦術を導入して、試合をよりエキサイティングにした<ref name=hooker-pg45/>。1920年代後半にはギミックや派手な[[極技|サブミッションホールド]]など、アメリカでのプロレスのより効果的な側面の成功が英国のレスリングにも導入された。アマチュアレスラーのサー・アトール・オークリーは、グラップラー仲間であるヘンリー・アーズリンガーと一緒に、オールイン・レスリングという新しいスタイルのレスリングを採用した最初のプロモーションの1つを立ち上げたのである。オークリーの元へはトミー・マン、ブラック・ブッチャー・ジョンソン、ジャック・パイなどが集まり、英国ヘビー級選手権を主宰し、ノーマン・ザ・ブッチャー、カレッジ・ボーイ、ジャック・シェリーらが選手権に名を連ね、オークリー自身が一連の対戦に勝ちのこり、最初の英国ヘビー級チャンピオンに輝いた。その後ロンドンだけでも40のレギュラー会場が設けられていくこのビジネスは当時の一大産業として発展していたがレスリングに対する大きな需要に対し、十分に熟練したアマチュアがいないことを意味し、多くのプロモーターは手続きの一部として武器と椅子攻撃を開発して、より暴力的なスタイルに切り替えていった。さらに女子プロレスや泥レス(mud-filled rings)もこの当時に当たり前のスタイルになっていった。 1920年代にはプロレスショーの仕組みは完成して[[メキシコ]]、[[日本]]、[[カナダ]]などにも伝わったのである。なおメキシコのプロレスは[[ルチャリブレ]]、[[極技]]などは[[ジャベ]]と呼ばれる。 これらによりプロレスの人気は高まったが、一方、報道、賭博など社会的な場においてプロレスが普通の意味でのスポーツとして扱われる機会は激減した。1930年代後半、英国ロンドン郡議会(London County Council)はプロレスを禁止し、第二次世界大戦直前には事業を大まかな括りに再編した。 === 20世紀後半 === 米国でのプロレスの人気は第二次世界大戦中までに低下していくのであるが、戦後1940年代後半から1950年代に復活した。これは[[ゴージャス・ジョージ]]が人気を博した最初の黄金時代である。メキシコと日本でも1940年代後半から1950年代は黄金時代でもあり、[[エル・サント]]はメキシコのヒーローになり、[[力道山]]も日本で同様の名声を獲得した。 英国ではこの時期に、スポーツ性を規制し、プロモーションカルテルを形成するための委員会方式というプロモーター同盟を装っているアメリカのナショナル・レスリング・アライアンス([[NWA]])のテリトリー・システムを参考にすることによってこのビジネスに革命を起こしたのは、プロモーター自身であった。一握りのプロモーター間でビジネスのコントロールを強化した。そして1952年に共同プロモーションの名前で設立した「ジョイントプロモーション」(Joint Promotions)は、メンバーらがライバルプロモーターをブロックすることに同意する。こうして、すぐに週40回に及ぶ大会を開催。そしてレスラー自身には交渉権限をほとんど与えなかった。ジョイントプロモーションが起こした最初の動きの1つは、選手権の確立(および管理)であった。当初これは収益性の高いベンチャーであり、タイトルの統括によりチケットの価格が上昇。ところが必然的ではあるが各テリトリーでタイトルを乱発し始める。つまりこの成功例を拡大しようとすると、露出オーバーにつながり始めた。特に各地各所で必ず一流のレスラーが数人は配置されることが多かったため、世界と英国のタイトルにはある程度の信頼性があったが、ヨーロッパ、英連邦、スコットランド、ウェールズ、および地域の王座の追加は手に負えなくなる。ある時点でおそらく、共同プロモーション内だけで追跡すれば70の異なるタイトル所有者が存在した。 後に英国レスリング連盟(British Wrestling Federation、BWF)が創設され、タイトル化はある程度の成功を収めたが、英国のプロレスリングを次のレベルに引き上げたのはテレビであった。1955年11月9日にABCとATV(ITVの週末フランチャイズホルダー)で放映された最初の大会では、フランシス・セントクレア・グレゴリー([[トニー・セントクレア]]の父)対マイク・マリーノ、クリフ・ボーモント対バート・ロイヤルがウェストハムからライブで出演。大会は成功し、毎年秋から春にかけて毎週土曜日の午後にレスリングが注目のアトラクションと化す。1964年には「ワールド・オブ・スポート」(World of Sport)という名でフルタイムの活動に至る。テレビ放映されることによってレスラーが著名な名前になり、個性がレスラーを乗り越えることを可能にした。テレビはプロレスリングの放映でレスリングが主流文化の一部と化して、ライブイベントビジネスへの究極の後押しを証明した。1960年代半ばまでにジョイントプロモーションはライブイベントのスケジュールを2倍にして、年間約4,500回の大会を開催。主要都市すべてで少なくとも月に1回は大会が行われ、ある時点では30を超える都市では毎週開催されていた。 テレビでのレスリングの成功は、独立したグループにとってもより良い機会を生み出した。BWFの名前はライバルグループでヘビー級王者のバート・アシラティを中心に構築されたグループにも利用された。アシラティはまだチャンピオンである間にジョイントプロモーションを分割。これによってジョイントプロモーションはタイトルを空け渡していた。アシラティはBWF内で王者を主張し続けたが、BWFでは後にシャーリー・クラブトリーの新しい王座を中心に構築された。クラブトリーは1960年に負傷で引退したアシラティによって空位となった後のタイトルを獲得した若いボディビルダーであった。BWFは1960年代初頭に若いシャーリーとともに歩む。 1970年代から1980年代初頭にかけては米国でプロレスリングは国民の関心は著しく低下していたが、1980年代半ばに[[ケーブルテレビ]]が登場すると、全米が[[ハルク・ホーガン]]などのレスラーとともにプロレスブームが再燃、第二次黄金時代が訪れた([[:en:1980s_professional_wrestling_boom]])。[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]、マッチョマン・[[ランディ・サベージ]]、[[リック・フレアー]]、ローディ・[[ロディ・パイパー]]らの展開するプロレスの質は劇的に変化するが[[テレビ]]にフィットし、キャラクターの特徴とストーリー性が向上していった。テレビはまた多くのレスラーのメディア進出を助け、影響力のある有名人や大衆文化のアイコンになっていった。レスリングの人気は独立した愛好家が団結してメディアの数が増えると急上昇し、また1980年代に世界レスリング連盟(WWF、現在はワールド・レスリング・エンターテインメントとして知られ、通称はWWEに)の拡大とともに国際的社会現象に発展。1990年代を通じて米国のプロレスは世界レスリング連盟とワールド・チャンピオンシップ・レスリング( World Championship Wrestling、WCW)などの競合するプロモーション間の激しい競争時代に、[[視聴率]]と[[経済]]的成功の両方で最高収益を達成している。 英国ではその後既存プロモーションへの反旗として、若いオーストラリア人プロモーター、ポール・リンカーンがけしかけていた。1975年までに共同プロモーションの束縛はほぼ崩壊し、創設メンバーの多くが引退し、会社も何度か買収され、プロレスリング業界は独自のビジネスの経験がほとんどない公開会社によって運営されるようになる。最後にプロモーションはシャーリーの兄弟であるマックス・クラブトリーの手に委ねられた。マックスは、ビジネスで最も経験豊富なブッカーとしてジョイントにヘッドハンティングされたのである。マックスは15年間失業していたシャーリーの分身である「ビッグダディ」のアングル伝説を生み出すことで、ブームを生み出した。カルテル全体を1人のパフォーマーに基づいて形成することは、テレビの視聴率向上に役立ったが、会場への集客を増やすことはなく、プロモーションは再び視聴者の興味を失い始める。1985年9月28日、ワールド・オブ・スポートはテレビ放送が打ち切りになる。代わりにプロレスリングは独自で放送枠を確保したが、放送時間枠が週ごとに変わり、通常の視聴者もゆっくりと離れていった。共同プロモーションにとってさらに追い討ちだったのは、契約が成立したためにではあるがローテーションシステムの一部としてテレビの権利をオールスター・プロモーションおよびアメリカのWWFと共有することを余儀なくされたことである。 ロシアでは1989年、日本のレスリングプロモーターでもあるアントニオ猪木と新日本プロレスは、USSR国家スポーツ委員会との合意を取り付け、ロシアのアスリートを招いてレスラーとして新日本道場レスリングスクールに1か月間のトレーニングを行った<ref>{{Cite web|url=http://wrestlinghavoc.ru/index2.php?id=10835|title=WrestlingHavoc: Российская Энциклопедия Рестлинга|publisher=wrestlinghavoc.ru|accessdate=2017-05-19}}</ref>。そのうちの2人、[[サルマン・ハシミコフ]]と[[ヴィクトル・ザンギエフ]]は、その後同団体に参戦し、1989年5月には大阪でハシミコフがビッグバン・ベイダーを破り、名誉ある[[IWGPヘビー級王座]]のタイトルを獲得している<ref>{{Cite web|url=http://checheninfo.ru/22832-1989-g-legenda-sovetskogo-sporta-s-hasimikov-1-yy-restler-iz-chechencev.html|title=1989 г. Легенда советского спорта С. Хасимиков - 1-ый рестлер из чеченцев. » ИА Чеченинфо|publisher=checheninfo.ru|accessdate=2017-4-25}}</ref>。1989年から1994年まではUWFインターナショナルに参戦した。その間彼らは1990年のWCWスターケードで、パット・オコーナー・メモリアルカップと呼ばれるタッグチームトーナメントでソビエト連邦を代表し出場した。 猪木とソ連の良好な関係のおかげで、1989年12月31日には新日本プロレスが 1989年12月31日にソ連での最初のプロレスショーがモスクワ市のレーニン運動公園内ルジュニキ・スポーツパレスで新日本プロレスの参加を得て開催された<ref>{{cite web|author=Илья Андреев|title=В СССР был рестлинг. 30 лет назад люди плакали из-за поражений советских парней|url=https://www.sport-express.ru/martial/mma/reviews/kakim-byl-restling-v-sssr-31-dekabrya-1989-goda-v-moskve-dralis-zvezdy-restlinga-kak-eto-bylo-kto-pobedil-gde-oni-seychas-1629111/|publisher=Спорт Экспресс|date=2020-1-6|accessdate=2020-1-7}}</ref>。「モスクワの特別武道フェスティバル」(Специальный фестиваль боевых искусств в Москве)という名前で開催され、約15,000人の観客が集まる。ヴィクトル・ザンギエフとサルマン・ハシミコフ、[[ショータ・チョチョシビリ]]などソ連の選手たちも大会に参加した。親日本からはアントニオ猪木、獣神サンダーライガー、蝶野正洋、バンバンビガロらの人気レスラーが参加。大会には合計9試合があり、4カ国から20人のレスラーが参加。内訳は日本から9人、ソ連から7人、アメリカから3人、イギリスから1人である。この大会の試合を映したビデオ録画が幾つか発売されている<ref>{{Cite web|url=http://www.thewrestlinginsomniac.com/2016/09/new-japan-pro-wrestling-in-soviet-union.html|title=New Japan Pro Wrestling in the Soviet Union|publisher=www.thewrestlinginsomniac.com|accessdate=2017-4-25}}</ref>。 1994年8月27日には日本の[[リングス]]がロシア国内で大会を開催している。リングスは旗揚げした1991年に[[ヴォルク・ハン]]や[[アンドレィ・コピィロフ]]を発掘し、リングス・ロシアを設立していた。リングス・ロシア勢は持ち味を発揮し、ハンやコピィロフのあとも[[ニコライ・ズーエフ]]、[[イリューヒン・ミーシャ]]らがスター選手として日本のファンに支持される。[[エメリヤーエンコ・ヒョードル]]も[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]に参戦するまではリングス・ロシアの一員であった。ロシア側の窓口となったウラジミール・パコージンは、国家スポーツ省の事務次官を務めており、リングスの審議員も務めていた関係で日本での大会開催の度に選手たちとともに来日していた。 1990年代にはロシア国内でもプロレスの試合がケーブルテレビで放映されたり、VHSで販売されたりすることがあった。全国テレビでプロレスリングがより広まったのは、1990年代後半から2000年代初頭にかけてである。 一方で1990年代には英国やカナダなど英連邦やドイツ語圏などの、2000年代半ば以降には日本のプロレスの人気は低下。日本ではプロレスリング・ノアのパワーアワーと新日本プロレスのワールドプロレスリングは放送局によって主に深夜番組へと追いやられている。その一方で小規模なプロレスリング団体の数は拡大を続け、専用チャンネル等が年々増加している。 米国では、WWEがテレビ番組は2018年に過去最高の年間収益を報告しているにもかかわらず、世間からは比較的低い評価を受け、2019年と2020年では視聴者数のわずかな急増にとどまるが、このことは総合格闘技の台頭に伴う競争力のある競技スポーツへの新たな関心と連動している<ref>{{Cite web|url=https://corporate.wwe.com/news/company-news/2019/2-7-2019|title=WWE® Reports Record Results For Fourth Quarter and Full Year 2018|website=corporate.wwe.com|language=en|access-date=2020-2-5}}</ref>。にもかかわらずWWEは、デジタル視聴[[プラットフォーム]]、特に[[YouTube]]でスポーツ指向のコンテンツのトップとしての地位を確立した。なおこうしたプラットフォームでは、スポーツチャンネルのチャンネル登録者数と動画視聴回数が最も多くなっている<ref>{{Cite web|title=WWE Surpasses 60 Million YouTube Subscribers|url=https://www.wwe.com/article/wwe-surpasses-60-million-youtube-subscribers|access-date=2020-09-06|website=WWE|language=en}}</ref><ref>{{Cite web|title=WWE's YouTube channel surpasses 40 billion views|url=https://www.foxsports.com/stories/wwe/wwes-youtube-channel-surpasses-40-billion-views|access-date=2020-09-06|website=FOX Sports|language=en-US}}</ref>。 英国ではローテーションシステム化から2004年までテレビ局は地元大会を放送しなかったため、同国のプロレスリングは北米のプロレスに後れを取っていった。一方でこの間小規模なプロレスリング団体は拡大を続け、ファン層も拡大していた。英国のプロレスリングスタイルは、北米のプロレスリングが示すパワームーブや、メキシコのレスリングが行う高空飛行がメインのルチャ・リブレのムーブとは対照的に、より伝統的で技術的なものであり、英国プロレスリングのスローガン/哲学は単に「"We wrestle!"(私たちはレスリングします!)」である。英国の古いスタイルのレスラーの多くはフィニッシュ前の動きや必殺の決め技を持ちあわせていないが、その代わりに試合に勝つために多数のテクニカルホールド/固め技を使用している。 2005年、英国のテレビネットワークITVは、Celebrity Wrestlingと呼ばれる有名人レスラーをフィーチャーしたスタイルで行うプロレスを土曜日の夜のプライムタイムショーとして開始することにより、復活したプロレス人気を利用しようとした。ただしレスリング自体の評価が低く、この試みは失敗した。 ロシアでは21世紀以降勃興と衰退を繰り返す。2002年には同国最初のプロレスリング連盟が現れた。同年11月、モスクワで、[[インディペンデント・レスリング・フェデレーション (ロシア)|インディペンデント・レスリング・フェデレーション(IWF)]]が最初の選手権を開催。IWFは、2003年から月例大会「デンジャーゾーン ("Danger Zone")」、2005年からは外国人レスラーが参加する特別年次大会「レスレダ」("Wrestleada" )、マスエリミネーションマッチの「プレジデンツカップ」を開催している。2010年以来、毎年恒例の大会「Kingof Hardcore」がある。2006年9月から12月にかけてデンジャーゾーンの番組要約版がテレビチャンネル7TVで放送された。2007年5月から2007年の終わりまで、番組「ロシアエクストリーム」がテレビで放映された。その後、2008年5月から2010年半ばまで7TVで放送されていた。以降同国でプロレスの放送はWWEだけである。2012年4月11日、WWEはロシアで初めてハウス大会(テレビで放送されない大会)Raw WorldTourをLuzhnikiISAで初めて開催<ref>{{Cite web|url=http://news.vsplanet.net/16276-wwe-v-rossii/|title=WWE в России - Пресс-релиз|publisher=VSplanet.net - Новости рестлинга|accessdate=2017-04-26}}</ref>。2013年4月25日、WrestleMania Revenge Tour 2013の一環として、同国最初のWWE Raw大会がサンクトペテルブルクのアイスパレスで開催され、翌日4月26日、モスクワのルジニキISAで開催された。 2004年8月5日、世界レスリングファイト大会が、英国のプロモーションであるEuropean Wrestling Promotion(EWP)の参加を得て、ツヴェトノイ大通りのモスクワサーカスで開催された。この大会はヨーロッパのレスラー、ダグ・ウィリアムス(後の[[TNA]])、エキ・エックスタイン、ムーラット・ボスポラスをフィーチャーし、旧WWF出場の経験を持つカナダ人ジョー・レジェンドやNFRの代表のバレンティン・プレス・マルドフの他、大会のホストはニコライ・フォメンコが務めた。2014年にはノーザンストームレスリング(NSW)<ref>{{Cite web|url=https://spb.kassir.ru/koncert/shou-professionalnogo-restlinga-northern-storm|title=Шоу профессионального рестлинга "Northern Storm"|publisher=spb.kassir.ru|accessdate=2017-10-3}}</ref>がサンクトペテルブルクで大会を実施。2015年、所属レスラーは2016年にビッグフェスティバルの一環として、コミックコンフェスティバルとスターコン<ref>{{Cite web|url=http://www.comicconspb.ru/uch/|title=Участники и карта {{!}} Saint Petersburg Comics Convention|publisher=www.comicconspb.ru|lang=ru|accessdate=2017-10-03}}</ref>に出演。NSWは毎月ノーザンストーム大会を主催していた。2015年9月20日、同社最初の主要大会がレニングラード青年宮殿で開催された。「ネヴァ川での戦い」と名づけられたこの大会は、元WWEレスラーで2度のNWA世界ヘビー級王者になったコルト・カバナが参加した<ref>{{Cite web|url=http://news.vsplanet.net/35031-colt-cabana-visits-spb/|title=Кольт Кабана приедет в Санкт-Петербург|publisher=VSplanet.net - Новости рестлинга|accessdate=2017-10-3}}</ref>。 2015年9月、NSWはヨーロッパのレスリングプロモーションのUEWAアライアンスの一部になり<ref>{{Cite web|url=https://www.facebook.com/uewawrestling/posts/1167233996636535|title=UEWA|publisher=www.facebook.com|lang=ru|accessdate=2017-10-3}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://news.vsplanet.net/35597-nsw-joins-uewa/|title=Российский промоушн стал частью Европейского Альянса|publisher=VSplanet.net - Новости рестлинга|accessdate=2017-10-03}}</ref>、2016年11月にNSWのレスラーはNFRアニバーサリー大会「DangerZone100」に参加<ref>{{cite web|url=http://nswrestling.ru/4617-dz100-nsw-wrestlers/|title=Опасная Зона 100: События с рестлерами NSW ? Northern Storm Wrestling|publisher=nswrestling.ru|lang=ru|accessdate=2017-10-3}}</ref>。NSWには独自の養成所があり、プロレスラーが大会に参加できるように準備している。 国内団体としては2008年、ニジニノヴゴロドに独立レスリング協会(NRO)が設立。その後組織上の問題により、2014年にプロモーションは終了したが、翌年の11月に、Gorky City Wrestling(GCW)の支援を受けて活動を再開。残念ながら2018年の春以降、大会は開催されなくなり、2019年の終わりにGCWは正式に閉鎖されたことが発表された<ref name="gcwclosed">{{Cite web |url=http://news.vsplanet.net/31352-gcw-closes/ |title=Нижегородский Gorky City Wrestling официально закрывается |publisher=VSplanet.net - Новости рестлинга |date=2019-12-31 |accessdate=2022-04-10}}</ref>。主要なニジニノヴゴロドプロモーションのタイトルは、2015年に組織されたVolga WrestlingAssemblyに引きつがfれる。このプロモーションの代表者はサンクトペテルブルク、チェレポベツ、カザンなど、ロシアのさまざまな都市で中小の大会を積極的に開催していたが、2020年プロモーションはついに終了した{{R|"gcwclosed"}}。 モスクワでもロシアプロレス(RPW、2010年 - 2012年)、ロシアレスリング連盟(RWF、2011年 - 2013年)、プロレスリーグ(LPR、2012年 - 2014年)そしてヤロスラヴリ・ロシア・エクストリームレスリング(RFEB、2004年 - 2005年)など、いくつかのプロモーションが存在していた。 === アマチュアスタイル興行復興の試み === [[2005年]]3月に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で{{仮リンク|リアル・プロレスリング|en|Real Pro Wrestling}}<ref>高木圭介 [http://www.tokyo-sports.co.jp/blogwriter-takagi/607/ 379:日本国内で「リアルプロレスリング」は可能か? | 高木マニア堂] 東京スポーツ(2012年11月2日)</ref>(RPW)なる格闘技団体が発足した。これは[[全米大学体育協会]](NCAA)レスリング大会などの[[アマチュアレスリング|レスリング]]で活躍した選手が全米各地区のチームに所属して純粋な競技スポーツとしてプロレスリングの活動を行うというものである<ref>[http://www.realprowrestling.com/ Real Pro Wrestling](サイト運用停止中<!-- 2016年7月10日時点 -->)</ref>。ルールや試合場はレスリングのフリースタイルに近く、ポイント制であり、打撃や[[極技]]などは禁止である。アマチュアレスリングとの違いとしては、リングの外に相手を押し出すと得点となることや、攻勢を維持していた選手にボーナスと呼ぶ得点機会を与えることなどがある。 === 日本における歴史 === ==== 戦前 ==== 最初の日本人プロレスラーは[[ソラキチ・マツダ]]とされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://blog.livedoor.jp/machan4311/archives/1053410.html|title=ソラキチ・マツダの謎(1) 力道山時代は知られていなかった?|publisher=私のプロレス研究ノート|date=2010-10-13|accessdate=2016-8-22}}</ref><ref>{{cite news|url=https://nikkan-spa.jp/918933|title=明治16年に渡米。日本最古のプロレスラーであるソラキチ・マツダは蒸発した相撲取りだった|newspaper=日刊SPA!|publisher=扶桑社|date=2015.08.22|accessdate=2017-04-18}}</ref>。初の世界王者は世界ジュニア・ウェルター級王者となったマティ・マツダ(1921年)<ref>{{cite news|url=https://nikkan-spa.jp/944874|title=日本人初のプロレス世界チャンピオンもまた行方不明者だった|newspaper=日刊SPA!|publisher=扶桑社|date=2015-9-25|accessdate=2017-4-18}}</ref>。戦前にはハワイでキラー・シクマ(志熊俊一)が日本人初の重量級プロレスラーとして活躍したことが、プロレス系の個人サイトに遺族が投稿したのを機に近年、明らかになった(後に[[週刊ゴング]]で漫画化されている)。その他に数名の日本人、[[日系人]]が主にアメリカでプロレスラーとして活動していたことが確認されている。 マツダと共にプロレスラーとして活躍した三国山は帰国後の[[1887年]]に東京の銀座で「西洋大角力」を開催しており、これが日本初のプロレス興行とされている。しかし観客は集まらず失敗に終わっている。 [[1921年]]にアメリカのプロレスラーである[[アド・サンテル]]が弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日して、[[講道館]][[柔道]]に対戦を要求。講道館は対戦を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたち、永田礼次郎、庄司彦雄、増田宗太郎、清水一の4名の柔道家が対戦。今で言う[[異種格闘技戦]]であり、試合は東京の九段の[[靖国神社]]相撲場で3月5日と6日の両日に行われている。なお、この試合に関しては「プロレス対柔道」のタイトルで[[週刊少年ジャンプ]]にて漫画化されている<ref group="注">原作・原案:[[桜井康雄]]、作画:[[竜崎遼児]]にて、週刊少年ジャンプ1976年(昭和51年)第21~26号にかけて全6話にて連載。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=『プロレス対柔道』少年ジャンプ掲載データ |url=https://www.jajanken.net/sakuhins/Xa10AWvnN9/ |website=www.jajanken.net |access-date=2023-03-13 |language=ja}}</ref>。 日本の大手プロレス団体は[[力道山]]がデビューした[[1951年]]を日本におけるプロレス元年としている。プロレス興行が根付いたのは戦後に力道山が[[1953年]]に[[日本プロレス]]を旗揚げしてからのことである<ref>{{Cite web|和書|url=https://spaia.jp/column/professional_wrestling/2139|title=知っていれば楽しさ倍増!日本のプロレスの歴史を簡単チェック|publisher=【SPAIA】スパイア|date=2016-12-16|accessdate=2020-11-15}}</ref>。しかし戦前にもいくつかのプロレス興行があったことが確認されている。また、戦後[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により[[柔道]]が禁止されたため、柔道家の[[牛島辰熊]]が1950年2月に[[国際柔道協会]](プロ柔道)を設立して[[木村政彦]]、[[山口利夫]]、坂部保幸らが参加し、力道山より早くプロ柔道興行を始めた。国際柔道協会は4か月10回の興行の後、木村政彦・山口利夫・坂部保幸が日本プロレスに移籍し瓦解、最終的に日本のプロレス団体は力道山の手によって統一された。戦後間もない頃で多くの日本人が[[反米]]感情を募らせていた背景から、力道山が外国人レスラーを空手チョップで痛快になぎ倒す姿は[[街頭テレビ]]を見る群集の心を大いに掴み、[[プロ野球]]、[[大相撲]]と並び国民的な人気を獲得した。 ==== 昭和後期 - BI砲時代 ==== [[File:Antonio_Inoki_Da_IMG_0401_20121224.JPG|サムネイル|150px|[[アントニオ猪木]]]] [[File:Giant Baba 1962 Scan10011 161022b.jpg|サムネイル|150px|[[ジャイアント馬場]]]] その後、日本においては力道山の率いる[[日本プロレス]]の独占市場であったが、力道山の死去後、[[東京プロレス]]と[[国際プロレス]](いずれも現在は消滅)が相次いで旗揚げして、さらに力道山の死去後の日本のプロレスを支えていた[[アントニオ猪木]]が新日本プロレスを、そして[[ジャイアント馬場]]が全日本プロレスを旗揚げして両エースを失った日本プロレスは崩壊する。しばらくの間は上記の2団体と当時は健在だった国際プロレス、そして女子プロレス団体である全日本女子プロレスの4団体時代が続くことになる。1970年代以降、猪木はプロレス最強を掲げて[[ウィレム・ルスカ]]、[[モハメド・アリ]]らと[[異種格闘技戦]]を行い、馬場も[[NWA (プロレス)|NWA]]とのコネクションから多くの大物外国人レスラーを招聘しそれぞれ人気を獲得。国際プロレスもヨーロッパ路線と[[デスマッチ]]路線を展開して独自のファン層を開拓した。 [[1980年代]]に入ると馬場の弟子である[[ジャンボ鶴田]]、[[天龍源一郎]]、猪木の弟子である[[藤波辰爾|藤波辰巳]]、[[長州力]]らいわゆる[[鶴藤長天]]が台頭する。また、新日本プロレスでは藤波らや、[[佐山聡]]が[[タイガーマスク (プロレスラー)|タイガーマスク]]としてデビューして、それまでヘビー級の過渡期として位置付けられていたジュニアヘビー級をヘビー級から独立した独自のカテゴリーとして、その礎を築いた他、子供層の取り込みに成功して、人気を更に増した。 [[1984年]]には[[UWF]]が旗揚げされ、ショー的要素を排除したシュートスタイル(のように見せかけた)のプロレスを確立して、後の[[総合格闘技]]の台頭への布石となった。 1981年に国際が消滅したため、昭和末期の段階では新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレスに1988年設立の第2次UWFが4大団体という体制になっていた。 なお、昭和後期には上記の4大団体以外に興行を行う組織はほとんど存在せず、これらのプロレス団体に入門しれ、実際にプロレスラーとして試合のリングに立つ事は大変に狭き門であった。 こうした状況の中で、1970年代の初頭から日本各地の[[大学]]にプロレスの[[同好会]]が設立されて、1978年頃より実際のプロレス形式の試合を行う[[学生プロレス]]へと発展している。同時期、学生プロレス初期のOB達が中心となり、社会人になった後も活動を継続するアマチュア・プロレス([[学生プロレス#社会人プロレス|社会人プロレス]])の動きも始まっており<ref>[https://sonarmc.com/wordpress/site36/2014/01/31/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%9B%AE%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%80%80%EF%BC%88%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%92%EF%BC%89/ No.36 スポーツを科学の目で見る (プロレスその2)] - Sonar Members Club</ref>、1978年8月には日本初の社会人プロレス団体である[[JWA関西]]が設立<ref>[https://miruhon.net/60617 藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』] – 週刊ファイト</ref>、1980年代にはJWA関西の傘下団体は全国各地に広がっていき<ref>[http://byw.blog31.fc2.com/blog-entry-40.html これがアマチュアだ] - 裏庭プロレス通信</ref>、後のインディー団体乱立時代の布石となっていった<ref>[http://miruhon.net/news/2008/10/post_413.html インディーの原点はレンジャー松永とブロンコ釣田の名勝負数え唄から] - ファイト!ミルホンネット お知らせ、2008年10月27日。</ref>。一方、4大団体以外の小規模団体でプロレスラーとしてデビュー出来たとしても、その団体が活動を停止すると直ちに廃業に追い込まれる事例や、4大団体所属レスラーであっても人員整理に伴う解雇で引退に追い込まれる例も散見されていた。 1986年に[[ジャパン女子プロレス]]が設立される。同団体は[[山本小鉄]]や[[グラン浜田]]ら男子プロレスラーをコーチとして招聘していたが、プロレス団体経営陣として参画していた[[新間寿]]は1988年に男女混合団体化(格闘技連合)を目指して浜田と[[大仁田厚]]の遺恨アングルを実行して、12月3日にジャパン女子プロレスの興行のメインイベントという形で浜田対大仁田戦が行われた。この時のジャパン女子プロレスのファンや所属プロレスラーらの反対の声により、混合団体化の計画は頓挫するが、この時の関係者が中心となり、後のFMW設立へと繋がっていく事になる<ref name="FMW">[http://asikapon.tripod.com/1990.htm FBATL Journal (1) FMWの歴史・1989年暮れ〜1990年(天気読み)]</ref>。 ==== 平成期 - 人気の低迷 - プロレス団体の乱立 ==== [[1989年]]4月、全日本プロレスを解雇されて引退状態であった元国際プロレス出身プロレスラーが中心となり、[[パイオニア戦志]]が旗揚げ。日本初のインディー団体の設立事例となる。10月にはジャパン女子を追われていた[[大仁田厚]]が[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]を旗揚げ。デスマッチを主体とした興行で成功を収めてインディー団体というカテゴリーを確立。このプロレス団体は同時に「[[ハードコア・レスリング]]」の世界的なパイオニアという側面を持ってもいた。1990年1月には大仁田と同じくジャパン女子プロレスを追われていた浜田により、[[ユニバーサル・プロレスリング]]設立。日本に[[メキシコ]]の[[ルチャリブレ]]スタイルが導入される嚆矢となった<ref name="FMW"/>。 [[1990年代]]に入るとFMWの成功を受けて多くのインディー団体が相次いで旗揚げされてプロレス団体の乱立の時代を迎えた。日本のプロレス界に特に大きな影響を残したのは、1990年に[[メガネスーパー]]が出資して、新日本プロレス、全日本プロレスから多くのプロレスラーを引き抜いて設立された[[SWS]]である。SWSは1992年初頭に、[[WAR (プロレス)|WAR]]をはじめ複数の派生団体に分裂する形で崩壊していく事になった。ユニバーサルを退団した[[ザ・グレート・サスケ]]が1992年に設立した、[[みちのくプロレス]]は[[東北地方]]を主戦域として活動する地域密着型のインディー団体として成功を納めて、1993年に設立された[[高杉正彦]]の[[湘南プロレス|IWA湘南]]と[[鶴見五郎]]の[[国際プロレスプロモーション|IWA格闘志塾]]は神奈川県内の特定市域のみを活動地域とする手法で細く長く活動を継続した。 この頃になると乱立するインディー団体への主力選手の離散と同時に、馬場、猪木が第一線を退いた事もありプロレス人気にも翳りが見えるようになった。それまでゴールデンタイムで中継されていたプロレス中継は深夜帯へと移動してジャンルのマニアック化が進む。一方、興行面では[[東京ドーム]]などの大会場の使用が進んだこともあって観客動員においては最高潮を迎えた。この頃からアメリカンプロレスがテレビ主導の興行に切り替えを行ったため外国人プロレスラーの招聘が困難になり、日本のプロレスは日本人プロレスラー同士の闘いに重点を置くようになった。新日本プロレスでは[[闘魂三銃士]]([[蝶野正洋]]、[[武藤敬司]]、[[橋本真也]])、全日本プロレスでは[[プロレス四天王]]([[三沢光晴]]、[[川田利明]]、[[田上明]]、[[小橋健太]])が台頭して後にまで業界を牽引してゆく。一方、第2次[[UWF]]は[[UWFインターナショナル]]、[[藤原組|プロフェッショナルレスリング藤原組]]、[[リングス]]に分裂(藤原組はその後さらに[[パンクラス]]、[[格闘探偵団バトラーツ]]に分裂)して細分化が進む。1990年代後半に入ると[[K-1]]、[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]など総合格闘技が台頭して、それまでプロレスが請け負っていた異種格闘技としての側面を奪われる形となった。古くからアントニオ猪木が「プロレス最強」を掲げていた背景から、これを受けて多くのプロレスラーが総合のリングに参戦するが準備期間の短さなどから結果を残したプロレスラーは少なく、人気低迷に拍車をかけた。一方、UWFインターナショナル、キングダム出身の[[桜庭和志]]や新日本プロレス出身の[[藤田和之]]など、総合格闘技のリングで優秀な戦績を収めた者もいた。 1997年には[[JWP女子プロレス]]の[[プラム麻里子]]が試合中の事故により死亡。日本プロレス史上、初めての[[リング禍]]であった。老舗の全日本女子も、この年に最初の経営破綻を引き起こし、多くの女子プロレスラーが他団体に流出して衰退していった。 1999年、元来非営利運営を主としていた社会人プロレス出身者により、零細ながらも商業活動を行う歴としたインディー団体である [http://propro.fc2web.com/index.html YMBプロモーション] が設立される。1970年代以来の社会人プロレスの伝統に則り、煎餅布団の上に[[ブルーシート]]を敷いた簡易リングを用いて数十人から数人程度の観客を前に試合を行う興行形態<ref>[http://www.interq.or.jp/mercedes/nwo/o-chan/kansen35/kansen35.html 観戦記35 YMBプロモーション] O-CHAN GALLERY、2001年5月7日。</ref> は当時のプロレスマスコミの間では未知のものであった。また、それまでのインディー団体はメジャー団体からスピンアウトした関係者や、より大規模なインディー団体が分裂していく過程で設立されたものが多かった事から、規模の大小はあれどもその興行領域は全国区を標榜している事が多く、単一県内など特定の地域内のみで興行を行うインディー団体は(先述の[[国際プロレスプロモーション|IWA格闘志塾]]などの先例を除けば)極めて珍しいものであった為、YMBは週刊プロレスにより、ローカルインディー団体として初めて分類される事となった<ref>[https://miruhon.net/53121 4・12『ローカルインディの祭典』JWA東海道場マッチ全カード決定] – 週刊ファイト</ref>。なお、ローカルインディー団体の中でも更に活動地域が狭く、[[道場]]などのリングが常設されている特定の場所でのみ興行を行うプロレス団体は「インディーの中のインディー」を意味する「どインディー」とも呼ばれている<ref>[https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kemuta-otsubo/2019-00030 持ち逃げ250万円、リーマンショック……DDTプロレス高木大社長の「飲食運営はつらいよ」【レスラーめし】 - メシ通] - [[ホットペッパー (フリーペーパー)|ホットペッパー]]</ref>。こうしたプロレス団体の初の事例は、1993年に横浜市鶴見区の焼肉屋が主体となり、常設されたリングの周囲に様々な料理を提供する[[屋台]]街が形成され、屋台の来店客にプロレスや[[キックボクシング]]<ref>[[ベースボール・マガジン社]]『[[格闘技通信]] [http://kotetsujuku.sports.coocan.jp/kiji/1995/1995.3.19.pdf 1995年4月9日号]』、59頁。</ref> などの格闘技の試合を提供した屋台村プロレス(正式名称はプロレス屋台村15番街ヨンドン<ref>[https://ameblo.jp/asateru/entry-12172610082.html 屋台村プロレス!!!! - インディーズデザインブランド、D.m.m 、CS,designer、asateru massiveの歪み日記]</ref>)であるとされている。屋台村プロレスは1996年頃には中心となった焼肉屋の閉店に伴い解散したが、常設リングを持つ運営主体に様々なローカルインディー団体がプロレスラーを派遣して興行を成立させる手法は、その後、ローカルインディー団体の多くに引き継がれた。 ==== 2000年代 - メジャー団体分裂による勢力再編 ==== [[2000年代]]に入ると日本のプロレス界の勢力が一変した。全日本プロレスでは馬場の死後は社長に就いた[[三沢光晴]]と馬場の[[未亡人]]として経営の権限を持つ[[馬場元子]]が団体運営を巡って対立して、三沢は殆どの所属選手と共に団体を退団して[[プロレスリング・ノア]]を旗揚げ。新日本プロレスでも[[橋本真也]]が解雇されて新たに[[プロレスリングZERO-ONE]]を旗揚げして新たな4団体時代を迎えた。一方、所属選手の殆どを失った全日本プロレスは団体存続をかけて新日本プロレスとの交流に踏み切った。[[2002年]]に[[武藤敬司]]が新日本プロレスを退団して全日本プロレスに移籍して、10月に同団体の社長に就任している。メジャー団体とインディー団体の交流は1990年代から頻繁に行われていたが、2000年代以降はメジャー団体同士の交流も盛んに行われるようになった。この頃から[[WWE]]が日本でも人気を博して、その流れを受けて[[ファンタジーファイトWRESTLE-1]]、[[ハッスル (プロレス)|ハッスル]]、[[DDTプロレスリング]]などエンターテインメント志向の興行が行われるようになった。[[2006年]]には国内初のプロレス統一機構の確立を目指し[[グローバル・レスリング連盟]]が発足したが、わずか1年で連盟としての活動は途絶えている。2000年代前半はいわゆる[[第三世代 (プロレス)|第三世代]]が台頭するが、人気面で上の世代である三銃士、四天王を凌駕することはできず依然として旧世代が興行の中心を担う形となった。しかし、2005年に橋本が、2009年に三沢が急逝し他の三銃士、四天王も退団や負傷欠場などによって定期参戦がままならない状態となり、さらに2000年代後半からは第三世代の下にあたる第四世代とも言える新世代の台頭が著しくなり各プロレス団体の勢力図が変革されていった。女子プロレスも2005年に全日本女子プロレスが活動を完全に停止、それと入れ替わるように[[アイスリボン]]や[[プロレスリングWAVE]]などの新興団体が勢力を伸長させていった。 この時代に入ると、社会人プロレス団体が営利団体化してローカルインディー団体に昇格する事例<ref>[https://www.npw1993.com/npw%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ NPWホームページ NPWの歴史] - NPW</ref> も増えていった。そうしたプロレス団体の一つが屋台村プロレスからデビューした[[高木三四郎]]が率いる[[DDTプロレスリング]]であった。 2011年には[[東日本大震災]]復興支援を目的として新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアによる合同興行[[ALL TOGETHER (プロレス興行)|ALL TOGETHER]]が開催されて2012年には新日本プロレス、全日本プロレスが旗揚げ40周年記念興行を合同で開催するなどプロレス団体同士の連携を強めている。 2000年代に低迷してゲーム会社の[[ユークス]]の傘下となっていた新日本プロレスは2012年にエンターテイメント企業「[[ブシロード]]」の子会社となり同社のコンテンツビジネスとの連携を深めて、観客数と売り上げを大きく増やして、2016年にはプロレス団体史上最高額の事業利益を達成している。プロレスリング・ノアは三沢亡き後のプロレス団体をまとめきれず、主力プロレスラーの離脱が相次ぎ2016年に経営破綻し事業再編、さらに2019年に[[サイバーエージェント]]の傘下に入り同グループ傘下であるプロレスリングDDTの[[高木三四郎]]が社長に就任している。プロレスリング・ノアを離脱した[[秋山準]]らはベンチャー企業のスピードパートナーズ(後の八丁堀投資)の傘下となっていた古巣の全日本プロレスに復帰する。しかし、全日本プロレスのオーナーとなったスピードパートナーズ社長(当時)の白石伸生の運営に反発した武藤らが全日本プロレスを退団して、新たに[[WRESTLE-1]]を旗揚げ。一方、全日本プロレスは親会社の経営破綻により秋山を社長とした新体制で再出発。各プロレス団体で主力プロレスラーの退団、移籍が発生した他に、インディー団体出身プロレスラーによる地方団体旗上げが相次ぐなど、細分化も進んでいる。 また現在、日本のプロレス市場はWWEを始めとする海外団体が強く関心を寄せており[[中邑真輔]]、[[小林健太]]、[[戸澤陽]]らがWWEへ進出した他、新日本プロレスに参戦していた外国人プロレスラーが相次いでWWEへ移籍しており、WWE進出を狙うプロレスラーやWWEを解雇されたプロレスラーが相次いで日本のプロレス団体に参戦するなど、移籍市場として一定の価値を獲得している。 メジャー団体の再編の一方でインディー団体の細分化も更に進んでいき、メジャー団体を離脱したプロレスラーも、余程の事情がない限りはローカル・インディーやどインディー団体のリングに活動の場を移すことで廃業せずに現役を続行出来る程度に受け皿が広がってきている。 2020年、[[新型コロナウイルス感染症の流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症]]対策による興行開催自粛を受けて4月15日、[[木谷高明]]([[新日本プロレス]]、[[スターダム]]のオーナー)が音頭を取る形で国内男女7団体<ref group="注">木谷高明、新日本プロレス([[棚橋弘至]]、[[菅林直樹]]会長)、[[全日本プロレス]]([[諏訪魔]]、福田剛紀社長)、[[プロレスリング・ノア]]([[丸藤正道]]副社長、石黒雅史広報)、[[DDTプロレスリング]]([[HARASHIMA]]、高橋晃執行役員)、[[ワールド女子プロレス・ディアナ]]([[井上京子 (プロレスラー)|井上京子]]代表、不破大志)、スターダム([[岩谷麻優]]、原田克彦社長)、東京女子プロレス([[坂崎ユカ]]、[[甲田哲也]]代表)</ref> が[[馳浩]]衆議院議員、スポーツ庁、経済産業省に休業補償などの要望書を提出<ref>ベースボール・マガジン社「週刊プロレス」2020年5月6日号 No.2026 22-24頁</ref>。馳は7団体にコミッション設立を要請した。 また、[[YouTube]]文化の隆盛の中において船木誠勝、長州力、谷津嘉章、前田日明、キラー・カーンら多くの元プロレスラー、現役プロレスラーが自身のチャンネルを立上げて、現役当時の昔話や裏話などに花を咲かせ人気チャンネルとなっている。 == 女子プロレス == {{リンクのみの節|date = 2012年12月}} {{main|女子プロレス}} '''女子プロレス'''(じょしプロレス)は、[[女性]]が試合をするプロレス。闘う人を'''女子プロレスラー'''(じょしプロレスラー)と呼ばれている。 == ミゼットプロレス == {{リンクのみの節|date = 2012年12月}} {{main|ミゼットプロレス}} '''ミゼットプロレス'''(''Midget Pro-wrestling''<ref group="注">英語のMidgetの発音は、日本語のミゼットより、ミジェットと言う方が近い。</ref>)は、[[低身長症]]が試合をするプロレス。通称「'''小人プロレス'''(こびとプロレス)」。闘う人を'''ミゼットレスラー'''と呼ばれている。[[メキシコ]]では'''ミニエストレージャ'''と呼ばれている。[[日本]]では[[全日本女子プロレス]]で[[前座]]として行われていたのが有名。 == マスコミにおける取り扱い == かつて各[[新聞]]社や[[テレビ局]]において[[スポーツ]]として扱うか[[エンターテインメント]]として扱うか議論となったが、新聞では一応はエンターテインメントとしての扱いという形で決着した。 {{Wikinews|日テレ、地上波でのプロレス中継3月で終了|date = 2012年12月}} ; テレビ(中継対象として) : 日本の地上波では[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]や[[テレビ朝日]]及び、その関連局が大手プロレス団体の興行を中継(主に録画)している。かつてはゴールデンまたはプライムタイムに60分の番組枠を持っていたが、日本テレビ系列は30分に縮小後2009年3月に撤退して、現在はテレビ朝日系列のみで深夜に30分と縮小されて放送されている。テレビ放送開始直後の[[1954年]]には[[日本放送協会|NHK]]がプロレス中継を行った事がある<ref>[https://www.nhk.or.jp/archives/bangumi/special/year/1954/ NHKアーカイブス1954年] – 日本放送協会 2023年9月2日閲覧</ref>。ケーブルテレビやCSといった有料放送でも放送しており、専門チャンネルも存在する。アメリカではFOX SportsやUSA Network、TNTなどが放送を行っている。 ; テレビ(報道対象として) : エンターテインメントであると同時にスポーツでもあるという認識でスポーツ番組でも取り上げる。日テレやテレ朝などプロレス中継を行う局が取り上げることが大半。芸能人が試合を行う場合はワイドショーで扱われることがある。 : 1979年に行われた「[[プロレス夢のオールスター戦]]」は、当日参加したプロレス団体と放送局の結びつきが強いことを考慮して中継という形での放送はされず、メインイベントのBI砲復活試合(ジャイアント馬場・アントニオ猪木対アブドーラ・ザ・ブッチャー・タイガー・ジェットシン)のみがスポーツニュースの枠で放送された。放送にあたり中継ではなくスポーツニュース用の報道扱いで1局につき3分まで映像を流してもよいとの許可が出されてテレビ朝日と日本テレビが、それぞれ中継を担当するレギュラーの実況アナウンサーによる解説で放送されている。 : また、政治家としても活動していたアントニオ猪木が死去した際はニュース番組で2時間以上の追悼特集が組まれたことがあった<ref>{{Cite web |title=猪木さん死去でテレ朝緊急特番 1時間50分〝闘魂づくし〟にネット「ありがとう」 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/240638 |website=東スポWEB |date=2022-10-01 |access-date=2023-12-03 |language=ja}}</ref>。 ; 一般新聞 : スポーツ面に掲載されることはほとんどなく、著名プロレスラーの死去<ref group="注">ただし「著名」というのはプロレス界的な意味での著名ではなく[[橋本真也]]や[[ブルーザー・ブロディ]]の死亡記事が掲載されなかったという事実がある。</ref>、興行会社の倒産、関係者が刑事事件を起こすといった場合に報道される程度である。 : 珍しい例として[[ジャイアント馬場]]が新聞の聞き書き欄に登場したり、死去した際に追悼コラムが掲載されたりした例はある。しかし、2007年8月下旬から10回に渡り、[[朝日新聞]]夕刊一面でプロレスの特集が組まれて、プロレスラー(現役、元)、関係者、[[古舘伊知郎]]、ファンである[[内館牧子]]など、約30名のインタビューが掲載された。一般紙でこれだけ長期に渡り、さらに一面でプロレスの特集が組まれたのは異例中の異例である。 ; スポーツ新聞 : 紙面上の扱いに新聞間で差があるものの格闘技と同様に報道される。試合結果、インタビューなどが掲載される。 : かつては、[[東京スポーツ]](とその系列)と[[デイリースポーツ]]のみが扱った(女子プロレスも掲載するのはデイリースポーツのみ)。1986年に大相撲の元横綱[[輪島大士]]のプロレス参戦と同時に各スポーツ紙が掲載するようになった。 ; 専門誌(専門紙) : 新聞と同様、試合結果(詳細な試合レポート)、選手インタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞よりも各団体のアングルの展開状況を解説する役割が強い。基本的に[[マーク (プロレス)|マーク]]層を主要購買層としてプロレスを純粋な勝負であることとして扱う。 : プロレス団体の数が増えて、その一方でテレビ、新聞報道が少なかった時期(主に1990年代)は、試合内容を早く、詳しく知るための中心的な存在でありビッグマッチの数日後に「速報」という形で増刊号を発行することも多かったが、インターネットの普及によりその優位性はほぼ失われた。そのため電子メディアとの差別化に苦しみ発行部数は減少しつつある。それに伴い、掲載広告はプロレス関連企業の比率は低下し、消費者金融や出会い系サイトなどの割合が高くなっている{{要出典|date=2016年10月}}。2007年3月に休刊した週刊ゴングはプロレスとは全く関係ない玩具やアクセサリの誌上通販、出会い系サイトの広告を行っていた。以下は専門誌の代表的なもの。 :* [[週刊プロレス]] :* [[週刊ゴング]](休刊)→2015年に[[アイビーレコード]](発売元は[[徳間書店]])から月刊誌として復刊。→2016年、アイビーレコードが出版業撤退のため、事実上の休刊。 :* [[週刊ファイト]](休刊)→2015年、ウェブサイト「ミルホンネット」が改題する形で「復刊」。 :* [[kamipro]](旧:紙のプロレス、紙のプロレスRADICAL)(休刊)後継誌として[[Dropkick]]および、[[KAMINOGE]]に移行。 ; 専門サイト(WEBサイト) : 専門誌と同様に試合結果(詳細な試合レポート)、プロレスラーへのインタビュー、その他企画記事などを掲載している。新聞、専門誌より速報性が高く、YouTube・USTREAM・Twitterなどの普及と相まって情報取得、拡散手段として重要な役割を果たしている。また、専門誌の減少によりWEBマスコミの詳細か各プロレス団体の公式サイトでしか情報が取得できないプロレス団体も多くなりプロレス文化の下支えとなっている。 :* 週刊プロレスモバイル :* [[スポーツナビ]]<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/ スポーツナビ]</ref> :* バトル・ニュース<ref>[https://battle-news.com/ バトルニュース]</ref> :* リングスターズ<ref>[https://ameblo.jp/ringstars/ リングスターズ]</ref> :* ファイト!ミルホンネット<ref>[http://miruhon.net/?main_page=products_new ファイト!ミルホンネット]</ref> :* ぼくらのプロレス<ref>[http://boku-pro.com/ ぼくらのプロレス]</ref> :* [[プロレスTIME|プロレスTODAY]]<ref>[http://proresu.jp/ プロレスTIME]</ref> :* [[ニコニコプロレスチャンネル]] ; 報道における特徴 : プロレス報道における最大の特徴は「『選手経験を持つ、専門の技術[[スポーツ解説者|解説者]]』でなくとも解説が務まる」ことである。テレビ放送時はアナウンサーと解説が付くことが通例であるが、その場合の解説者は現役レスラー、OBレスラー以外に、マスコミ関係者であることも多い。 : [[プロ野球]]や[[サッカー]]においては、解説者は必ずしも、その球団のOBではない。異なるリーグで一度も対戦経験の無かった、元選手が解説をすることも珍しくはない。しかし、プロレスの場合は、[[引退]]後にフリーの技術解説者になっても現役時に所属していなかった団体の中継で解説を行うことは珍しい。[[ファンタジーファイトWRESTLE-1|旧WRESTLE-1]]解説の蝶野正洋や、[[WRESTLE-1]]の旗揚げ戦、2015年に[[G1 CLIMAX]]で解説を行なった[[小橋建太]]、[[FIGHTING TV サムライ]]において女子全般を担当する[[ブル中野]]は極めて稀なケースと言える。 : 活字メディアにおいても同様であり、引退した選手がコラムを寄稿することはあっても、その選手が全く関係を持たなかったプロレス団体の試合分析を行うことは珍しい<ref group="注">週刊プロレスでコラムを持つ小橋建太など、ゼロではない。</ref>。プロレスラーには厳密な引退は存在せず廃業のみがあり、現役復帰が極めて多いことも理由である{{要出典|date = 2016年10月}}。 : プロレスがプロ野球やプロサッカー、[[ボクシング|プロボクシング]]と違い、スポーツとして取り扱われない理由は台本の存在にある。逆にオリンピック競技の1つであるアマチュアレスリングは、スポーツとして扱われている。マスコミ関係者による解説は「気合」、「殺伐」といった精神論的、抽象的表現に終始してしまうことが多い{{要出典|date = 2016年10月}}。 : 一時期、[[大仁田厚]]がフリーの解説者になると表明したことがあったが、結局活動は行われなかった。 ; ジャーナリズム : プロレスにはスポーツジャーナリズムは存在しないことも特徴のひとつである{{要出典|date = 2016年10月}}<!--下記、暴露本ムックの存在はプロレスジャーナリズムのひとつではないのか?-->。芸能産業、興行ビジネスであるため何らかの形で各地域の[[暴力団]]と関係を持ちトラブルが発生したりレスラーが[[マルチ商法]]の[[広告塔]]としてメディアに露出した場合は前述の専門誌やスポーツ新聞は黙殺、無視のスタンスを取り、報道を行わない。この様なトラブルを扱うのは主に一般週刊誌などである。近年では暴露本の類の[[ムック (出版)|ムック]]が多く発行される様になった。 : 日本のプロレスにおいては、しばしばプロレス団体から報道各社に対し「取材拒否」が行われることがある。これはプロレス団体に対し不利益な記事を書いたために行われることが大半である。取材拒否は、そのままそのプロレス団体のファンが買っていた分の販売部数の減少に繋がり、広告収入で成り立つマスメディアにとって致命的となるため、プロレス紙誌は各団体の機関誌、広報誌以上の内容にはならないことが大半である。 : 力道山時代からプロレスは「プロレス村」と表現される程に閉鎖的、排他的傾向を持ちマスコミもその閉鎖性を保持、維持する立場を取ることが多い。[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]が[[格闘技レボリューション・スピリッツ|KRS]]による主催であった時代「あなた達(KRS)は何者なんですか」という質問がなされたことを代表に、詳細な取材よりも団体から流されるリリースをそのまま掲載することが少なくない。 : 選手インタビューと銘打たれていても事実を述べてそれに対しての選手や考え方を訊くような質問の意図が明確な内容よりも選手の独白に記者が詩的修飾語が多用された解説・脚注を加えたものが掲載されることは少なくない。 : この傾向はプロレス雑誌での試合観戦記においても例外ではない。後述の「台本」の項の通り、ターザン山本編集長時代の週刊プロレスのように、裏金や誌面優遇などの癒着の見返りに記者自らが台本を決定していた行為が公然と行われていた時代には、他スポーツの観戦記に見られる様な試合経過を淡々と写実的に解説する文面ではなく、試合展開や背後のアングルをベースに詩的修飾語が多用された[[小説]]か[[ポエム]]に近い内容の観戦記も多々見受けられた。 : なお、ライターの斎藤文彦は上記に異を唱え、「プロレスマスコミ」という存在があることが、日本において特殊なジャーナリズムと記述している<ref>{{cite news|url=https://nikkan-spa.jp/1332320|title=プロレス・マスコミは日本にしか存在しない仕事――フミ斎藤のプロレス読本#005|newspaper=日刊SPA!|publisher=扶桑社|date=2017-5-19|accessdate=2017-5-20}}</ref>。 == 基本事項 == === ショー的側面 === ==== ブック ==== ブックとはプロレスの試合における段取りや勝敗の付け方についての台本のこと(なお照明、音響、撮影係等のスタッフ用の興行進行台本はこれとは別の物)。この台本を考案、作成する人間を「'''マッチメイカー'''」と呼ばれ、リング外での筋書き([[アングル (プロレス)|アングル]])及び試合展開や決着方法についての台本を考えて、提示されたプロレスラーはそれに合わせた試合を行う。勝敗以外の詳細な試合展開については口頭での打ち合わせであり、試合を行うもの同士の裁量に任されることが多いと言われている<!--実際に本があるわけではなく、それでも力学に変動のある様式を岡村正史は「[[ジャズ]]の[[即興演奏#ジャズにおける即興演奏|アドリブ演奏]]」に例えている--><ref>岡村正史「プロレスという文化」(2018年)ミネルヴァ書房 214頁</ref>。 {{Main|マッチメイク}} ==== アングル ==== {{Main|アングル (プロレス)}} 試合以外にも、リング外でのプロレスラー、グループ、プロレス団体間の衝突(主に抗争、と表現される)のアングルと呼ばれるストーリー展開も重要な要素であり、いかに観客の注目を集めて継続性の強いアングルを展開出来るかが、観客動員に大きく影響する。 アングルを巡業(シリーズ)を通じて展開、消化して最終戦において(大会場で開催されてアメリカでは[[ペイ・パー・ビュー]]となる場合が多い)決着を着ける。そして新しいアングルを展開する。プロレスは試合とアングルを楽しむものであり連続ドラマと類似している。 ==== ギミック ==== {{Main|ギミック (プロレス)}} 特に20世紀中期以降のアメリカのプロレス団体などの場合、プロレスラーには一定のキャラクターであるギミックが要求された。それにはプロレスラーが考えたものもあればプロレス団体から提示されるものもあった。 特定の人物が悪役([[ヒール (プロレス)|ヒール]])として振る舞う。悪役は反則するのが当たり前で審判の目を盗み、あるいはその制止をも無視して反則技を振るい、客の正義感を沸き立たせる。大半は最後に敗北して客は溜飲を下げるが場合によっては反則攻撃などの汚い手段で勝利、反則負けをする。悪役が勝っても反則負けをしても次回の試合への客の関心を集める役目を果たした。これに対して正義漢、善玉の役割を[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]という。やられ役が負けることを[[ジョブ (プロレス)|ジョブ]]という。 特にアメリカのプロレスでは、その面が顕著で日本でも昭和期のプロレスにはその色が強かった<ref group="注">なおギミックはプロレスに限った話ではなく例えばボクシングの「亀田三兄弟」など格闘技においてもギミックと理解出来るユニットが登場している。また[[叶姉妹]]のような「兄弟や姉妹を名乗って活動している他人」はプロレスでも「他人同士による兄弟タッグ」として多数の例がある</ref>。悪役は往々にして[[ステレオタイプ]]な嫌われ者を体現して特に外国出身を名乗る選手では人種的民族的偏見を明確に示す場合があった。場合によっては風貌が近い者を別の国の出身者に仕立てることもあり悲喜劇的な例として[[共産党]]の支配による[[社会主義]]体制を嫌って[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]からアメリカに[[亡命]]した[[ニコライ・ボルコフ]]が試合前にソ連の国歌を歌うなどのギミックを背負った悪役にされた例がある。 また、ギミックには世相が反映されることが多い。特にアメリカでは、その傾向が強く[[第二次世界大戦]]後には[[真珠湾攻撃]]を連想させる不意打ちを連発する「卑劣な[[ジャップ]]」風のレスラーや「[[ナチス]]の残党」を名乗るレスラーが多数存在して、米ソ冷戦時代はロシア出身を名乗るレスラーが多数いたり[[湾岸戦争]]時にはアラブ人のギミックで[[サッダーム・フセイン]]の側近を名乗ることで観客のヒート(興奮)を買う、といったことが繰り返された。 === 興行の進行用台本 === 前述の「ブック」とは別物である。ブックはプロレスラー間の試合内容の打ち合わせを意味するが、これは裏方スタッフのイベント進行用の台本であり各種機材の使用のタイミング、順序等を示したものである。 かつては[[インターネットオークション]]で[[プロレスリングZERO-ONE]]の興行「ZERO-ONE USA」のテレビ放送進行用台本が出品されることがあった。また、日本では[[FEG]]と[[全日本プロレス]]が中心になって開催されたイベント「[[WRESTLE-1]]」において[[小島聡]]の叫び声と同じ言葉「いっちゃうぞバカヤロー」が[[電光掲示板]]に表示され、プロレスラーと会場スタッフ間での段取り決めがあることを暗に示したが、もっとも、小島の「いっちゃうぞバカヤロー」は殆どの試合で見られており、小島の得意のマシンガンチョップから対角線エルボーを行い、「いっちゃうぞバカヤロー」と叫んでからダイビングエルボーを対戦相手に見舞うという流れの中で出されるものであり、段取り決め等を行っていない観客も一緒に叫ぶことが通例となっている。 また、日本の週刊誌([[アサヒ芸能]])が「[[ハッスル (プロレス)|ハッスル2]]」の会場スタッフ用台本を誌面に掲載したことがあり、それには勝者用のテーマ音楽についてなどの指示が記載されていた。 === 非ショー的側面 === {{Main|ガチンコ}} プロレスはワンマッチで興行をこなし、そのためトーナメントなどの完全なる真剣勝負や競技スポーツとは相違があるため、同様の技を常人が受けた場合に危険が生じる行為は意図的に避けられている。例えばKー1・[[キックボクシング]]や[[フルコンタクト空手]]などの立ち技格闘技のように蹴り技では相手選手の局部以外の急所を狙う(膝へのローキックなど)のはルール上許されても、鍛えた筋肉で守られ怪我をする恐れが少ない部分をめがけ、力を込めて蹴りをいれる場合が大半であるほか、反則行為ともされている素手での[[パンチング|パンチ]]の場合も、拳骨部を当てると顔が腫れ上がったり、自身の拳も含めて骨折などの怪我を誘発する恐れがあり危険であるため、[[寸止め]]など何らかの制御が普通である。 [[ジャンボ鶴田]]はルー・テーズに学んだバックドロップでは落下の際、右足を流すことも多かった。右足が流れる理由を後年、『そうしないと、怪我人が出ちゃうから』としていた。これは[[ハーリー・レイス]]にしっかりと両足をつけて見舞ったところ、食らったレイスが試合後激怒された事からで、このときレイスは『あんなこと、この場でもう一度、俺にやれるのか』と、鶴田の控室まで乗り込んで来たという。 ただし、プロレスラーが受けてもタイミングの狂いなどから危険が生じることは時々ある。[[スタン・ハンセン]]は[[ブルーノ・サンマルチノ]]の首を[[ボディスラム]]のかけ損ないで骨折させたことがあり、のちにハンセン自身も相手攻撃で失神してしまったことがある<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/42965 【プロレス蔵出し写真館】「ハンセン失神事件」から始まった潰し合い その時、天龍は笑った]</ref>。このほか[[天龍源一郎]]<ref group="注">1994年東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦時。ただしその後回復しフォール勝ちを収める</ref>、[[ミスター珍]]<ref>西花池 湖南, 2017, 猪木は馬場をなぜ潰せなかったのか 80年代プロレス暗闘史, 河出書房新社</ref>、[[マリオ・ミラノ]]、[[ザ・マミー]]<ref group="注">1996年に行われた第1回「メモリアル力道山」IWA格闘志塾の鶴見五郎 vs ザ・マミー戦</ref>など、試合中に失神してしまった例は多い。 ハワイで行われたルー・テーズ対力道山戦でもテーズのリバース・スラムで力道山が失神したとされ、三本勝負が一本だけで終了となったが、その後テーズは大木金太郎戦で大木を、[[寺西勇]]とのエキジビションで寺西を、力道山も[[木村政彦]]戦で木村を失神させたことが知られる。 またテーズは対[[グレート草津]]戦で草津を意図的にノックアウトさせるバックドロップを仕掛け、草津を失神させたとしている<ref group="注">グレート草津は「意識はあったけど東郷さんにキープ・アウト(寝てろ)」と言われたと、『悪役レスラーは笑う―「卑劣なジャップ」グレート東郷』 (岩波新書 新赤版 (982))で草津がインタビューで発言している一方、『別冊宝島179 プロレス名勝負読本』(1993年)ではTBSテレビ局の介入「TBSの力をもってすればプロレスのスター選手は1日で作ることができる」に憤慨し、意識的に急角度で落としたとしている</ref>。草津はその後も対[[モンゴリアン・ストンパー]]戦でストンパーのスリーパー・ホールドで失神したとされる。 一方で[[三沢光晴]]は業界一の受身の達人といわれていたが[[バックドロップ]]の受け損ないで死亡しているが、他にもJWPの[[プラム麻里子]]や新日本プロレスの[[福田雅一]]などの例や、[[馳浩]]も試合での受け身の取りそこねで試合後に心肺停止したことがある<ref>https://www.excite.co.jp/news/article/E1472906995541/</ref>。 [[佐山聡]]によれば、多くのプロレス技は「暗黙の了解」がなければかかるようなものではなく、かつ格闘技には使えないものであると断じている<ref>『ケーフェイ』新装版 p.131</ref>。一方で[[桜庭和志]]のように総合格闘技でプロレス技を繰り出す選手もいるほか、総合格闘技や他格闘技で使用されていた技がプロレス技となって知られ定着するものも多くある。また、本質は真剣勝負ではないとしても試合中に本気になってしまう場合など、それに近い試合が行われてしまうことはある。以下に例を挙げる。 [[小川直也]]対[[橋本真也]]は「シュート」(演劇的要素を無視した試合)に近いものであり試合中は本気のパンチを当てていた(相手にかけた関節技を自ら解くなど、完全な真剣勝負ではない)。<!--ミスター高橋の著書にことの顛末が載っています。覚えてたら後日ページ番号持ってきます。-->特に1999年1月4日での試合は師であるアントニオ猪木から「一方的に蹴りまくって、最後は蹴って、リングから出すまでやれ」といわれていた<ref>[https://sp.mainichi.jp/s/news.html?cid=20210824spp000006027000c&inb=so 小川直也氏 初めて明かす橋本真也さんとの「1・4事変」の裏側「猪木さんに、ちょっと来いと言われて」]</ref>。 タッグマッチ中に[[エル・サムライ]]が[[大谷晋二郎]]による顔面への攻撃に本気で怒り大谷を追い掛け回した挙句、味方である[[獣神サンダー・ライガー]]にそれを止められている{{要出典|date=2014-3}}。サムライは1997年の6人タッグマッチでも今度は大谷ではなく[[金本浩二]]と延々と場外で乱闘を繰り広げているが、このときは金本がサムライのマスクの新デザインを馬鹿にしたことへの報復とされる。 [[前田日明]]は[[アンドレ・ザ・ジャイアント]]が本気で危険な技をかけてきたのに対して、関節部への危険な蹴りを多発した([[無効試合]])。<!--ミスター高橋の著書にことの顛末が載っています。覚えてたら後日ページ番号持ってきます。--> 前田はデビュー間もないころに段々熱くなって喧嘩に限りなく近い試合になることがあったとし、実際にも1979年に対戦相手の[[サイレント・マクニー]]が、[[タイガー・ジェット・シン]]にそそのかされてシュートを仕掛けられた際に不穏試合と化したが、返り討ちにしていることが知られる(試合結果自体は10分時間切れ)。マクニー戦がセメントマッチとなってしまったことについては後年自分らがプロレスの世界に入った頃は相手が技を受けない場合はやってもいいと、当たり前に言われていたという。一方で自らも1985年のスーパータイガー戦で周囲にそそのかされて不穏マッチを敢行している。試合中の細かい点までは決めないプロレス団体も多く、気性の荒い者たちによる試合中のトラブルは時々見られる。 == プロレス団体と運営 == 日本のプロレスにおいては企業経営で用いられる言葉を他の表現に言い換えることが多い。以下はその代表例。また日本のプロレスのビジネスモデルの基盤を成立させた力道山が[[力士]]出身だったため、[[隠語]]は相撲と共通するものが多い。プロレスに由来するいくつかの用語については、1990年代にThe Rock([[ドウェイン・ジョンソン]])と[[スマックダウン]](SmackDown)によって普及したこの「smackdown」という用語は2007年から[[メリアム=ウェブスター]]辞書にも掲載される。 ; 団体 : プロレスラーあるいは他のスタッフと契約して興行を行う一般では興行会社と呼ばれるものをプロレスではこう称する。規模によってメジャー団体とインディー団体に分類される(詳細は後述)。 : プロレスラーが所属せず興行ごとに要員を契約する会社をプロモーションと呼ぶ場合がある<ref group="注">代表的なものとして[[ハッスル (プロレス)|ハッスル]]を開催するハッスルエンターテイメントがある。</ref>。道場(練習施設)を自社保有していれば団体と呼べると指摘されることもあるが、厳密に団体、プロモーションを分ける基準は無い。そのため、数人程度の所属プロレスラーとフロントのみで練習は他団体の道場やジムで行っている興行会社であっても「団体」を自称する興行会社も多い。 : 興行を行わないもしくは年間興行数が非常に少なく自社の保有する練習施設を利用しての所属選手育成および他団体派遣を中心行う会社<ref group="注">代表的なものとして、プロレス団体化前の[[ダイヤモンド・リング (プロレス)#健介オフィス|健介オフィス]]がある。</ref>(フリーのプロレスラーの所属事務所<ref group="注">[[高山善廣]]の[[高山堂]]や[[藤田和之]]の藤田事務所など。</ref> もこれに含まれる)は「事務所」、「オフィス」、「道場」、「ジム」などと称する場合もあり、これらも「団体」を自称していることもある。逆にこれらに所属する選手は「フリー」として扱われる場合も多い。 : しかし、団体=組織を表すのでは無いため、所属選手が1人でも団体を名乗ることが出来る<ref group="注">一例として[[セッド・ジニアス]]の[[UNW]]</ref>。 ; メジャー団体、インディー団体 : プロレス団体はメジャー団体ないしはインディー団体と表現される場合がある。規模の大きさに依存する概念である(詳しくは「[[インディーズ]]」を参照)。海外の場合[[WWE]]は株式上場しているが、現在のところ日本では上場している団体は無い(2015年7月に[[新日本プロレス]]が3年から5年後の株式上場を目指すことを表明している<ref>{{Cite news |title=新日本プロレス3年から5年後上場目指す|url=https://www.daily.co.jp/newsflash/ring/2015/07/18/0008221270.shtml|newspaper=デイリースポーツ|date=2015-7-18}}</ref>。それ以前にも2006年9月に[[大阪プロレス]]が株式を公開して将来的に上場するという予定を発表していた)。 : インディー団体は運営規模から、総じて地域密着型団体が多くプロレスラーもメジャー団体に比べて小柄なプロレスラーが多い。 : 規模や旗揚げの経緯からメジャーにもインディーにも括りきれないプロレス団体は「準メジャー」、「ボーダー」と表現されることもある。 : メジャー団体とインディー団体の区分の基準には団体規模以外にも以下のものを提唱する人間が一部いる。 :* 地上波テレビ中継の有無 :* 全国規模の巡業 :* プロレス団体または関連会社が管理する道場(寮とリング他練習用具が一体となった施設)の有無 : かつては小規模団体は自前でリングを持たないため、練習は他団体の施設を空き時間に借り興行ではリング屋から賃貸することが多かったが近年は小規模団体でも練習設備が充実しているプロレス団体が多いことから現在この条件を用いることはほとんどない。 : 一部マスコミでは新日本プロレス、[[全日本プロレス]]を「2大メジャー団体」、これに[[プロレスリング・ノア]]を加えて「3大メジャー団体」と呼称している。[[プロレスリングZERO-ONE]](現:[[ZERO1|プロレスリングZERO1]])が大規模に活動していた時期にはこれを加えて「4大メジャー団体」などと呼称していたが、プロレスリングZERO1-MAXに改称して以降は活動規模を大幅に縮小したため、上述の準メジャー団体、[[長州力]]など一部のプロレスラーからはインディー団体として扱われている。また、[[DRAGONGATE]](旧:[[闘龍門|闘龍門JAPAN]])はインディー団体発ながら興行規模においてメジャー団体に匹敵、あるいは凌駕しておりメジャー団体の一角に数える向きもある<ref>「闘龍門大百科 -ULTIMO DRAGON GYM公認」東邦出版刊</ref>。他に[[DDTプロレスリング]]も同じくインディー団体発だが今日ではメディアによってはメジャー団体として扱われることもある<ref>{{Cite news |title=プ女子や若い層にプロレスブーム再燃 背景は圧倒的ライブ感|url=https://www.news-postseven.com/archives/20150619_329567.html?DETAIL|newspaper=週刊ポスト|date=2015-6-26}}</ref>。さらに[[大日本プロレス]]も既にインディーのカテゴリーではないという意見もある<ref name="joshi">週刊プロレスEXTRAvol.5 女子プロレスエロカワ主義III p.60</ref>。一方で全日本とノアが地上波放送を失い選手層が薄くなったことなどもあり、2013年現在では新日本プロレスを唯一のメジャー団体とする見方もある<ref>[http://miruhon.net/news/2013/09/_b_wnc_wave_103.html ロウキー&ジム・ロス解雇 新日社長交代 Bバックランド列伝 (め)組どインディ詳細 WNC広島 松本都WAVE ミャンマーラウェイ 曙ラーメン 蝶野正洋〜マット界舞台裏10月3日号] ファイト!ミルホンネット マット界舞台裏10月3日号</ref>。 ;団体運営 : 日本のプロレス団体においては、嚆矢でもある日本プロレスでは力道山、[[豊登道春]]、[[芳の里淳三|芳の里(長谷川)淳三]]とプロレスラー兼任もしくはプロレスラー出身者が団体社長に就いていたが、以降も全日本プロレスの[[ジャイアント馬場]]、新日本プロレスの[[アントニオ猪木]]、[[藤波辰爾]]、全日本およびプロレスリング・ノアの[[三沢光晴]]、SWSおよびWARの[[天龍源一郎]]、ジャパンプロレスおよびWJプロレスの[[長州力]]、全日本およびWRESTLE-1の[[武藤敬司]]、ZERO-1の[[橋本真也]]、FMWの[[大仁田厚]]などのように、日本プロレス以降の団体もその団体の看板選手が実質的に経営トップに立つ「二足の草鞋」である例が多数みられる。これは、日本プロレスを創設した力道山は大相撲出身であったことから、大相撲の風習を多く日本のプロレスに持ち込んだことが影響しており、日本相撲協会のトップも力士出身者であることなどの共通項が見られる<ref>[https://miruhon.net/137500 『レスラー兼経営者』vs.『背広組』。プロレス経営に向くのは?] - 週刊ファイト 2020年2月3日</ref>。 :この傾向も昭和末期頃からUWFなどの中規模以下の団体の台頭や、SWSのような異業種からの参入も出始め、いわゆる「背広組」(プロレスラー未経験者)のフロントも徐々に現れるようになった。SWSは前述の天龍に社長の肩書が移るまでは親会社の[[メガネスーパー]]社長の田中八郎がトップであり、天龍が社長職に就いてからも実質的な経営権はメガネスーパーが握っていた。新日本も創業者の猪木の政界進出を受けて、その後継としてプロレスラー出身の[[坂口征二]]が平成初期から中期にかけて社長職に就いたが、坂口は社長就任に当たっては現役を引退して社業に専念し、経営面で手腕を発揮して前社長の猪木時代の負債を完済するなど新日本の経営の安定化に貢献するなど定評があった。 :一方で坂口退任後の新日本では、社長に就いた藤波辰爾などが実質的なオーナーでもあった猪木の様々な介入を避ける事が出来ずに団体内に混乱を来し、経営が低迷して後述の[[ユークス]]への身売りへつながる要因となり、全日本でも創業者の馬場の死去を受けて、同じく現役レスラーであった三沢光晴が社長に就任し馬場時代からの団体内の改革を目指すも、実質的なオーナーである[[馬場元子]](ジャイアント馬場夫人)との軋轢が生じて、三沢以下全日本からの選手・フロントの大量離脱を招き、経営危機に陥った。また全日本離脱後にプロレスリング・ノアを旗揚げした三沢も同社の社長を兼務する形で第一線の選手として現役を続けた結果、全日本時代からの歴戦のダメージが蓄積された影響も重なって、2009年6月の試合中に事故死する事態となり、没後の団体内での混乱に拍車がかかる形で経営が悪化するなど、この時期にかつてのプロレス団体の商慣習がもたらした様々な弊害が団体の運営面に混乱を来し、深刻な経営危機に陥るケースが散見された。 :平成から令和に入り、依然として選手が団体経営トップの座にある団体も散見されるが、新日本は平成後期に情報通信事業のユークスを経て[[ブシロード]]の子会社となり、同社出身者がフロントとして経営を担うなど異業種からの参画も目立つほか、DDTプロレスリングのように[[サイバーエージェント]]の傘下に入りつつも実質的な経営は選手の[[高木三四郎]]が担い、サイバーが設立したCyberFightの下でDDTや同グループの傘下に入ったプロレスリング・ノアなど複数の団体を運営するなど、経営業態も多角化している<ref>[https://president.jp/articles/-/22123 47歳の大社長が今でもリングに立つ理由 DDTプロレス高木三四郎:後編] - PRESIDENT Online 2017年5月21日</ref>。 : 女子プロレスにおいては、[[全日本女子プロレス]]が絶対的なメジャー団体として存在していたが、創業者の松永家一族による同族経営の弊害などもあったことや、バブル期の不動産投資などに失敗して経営難に陥った結果、2005年3月に解散した。全日本女子プロレスの解散後は女子プロレス界の縮小及びプロレス団体の細分化が進んでおり、女子プロレス団体すべて足しても男子インディー1団体のシェアにも勝てないと言われる<ref name="joshi"/>。その一方で、[[スターダム]]が新日本プロレスと同じくブシロードの傘下に入り、[[東京女子プロレス]]がDDTやノアと同じくCyberFightの傘下でそれぞれ男子プロレスとの協調体制により、(試合では男子とは一線を画すも)生き残りを図るなどの動きがみられる。 == 研究と分析 == 20世紀初頭にプロレスは「スポーツ」としての機能が欠けていることが明らかになると、教育を受けていない労働者階級にとっての安価な娯楽として見下されていた<ref name="Kreit">{{cite web|last=Kreit|first=Alex|title=Professional Wrestling and Its Fans: A Sociological Study of the Sport of Pro-Wrestling|work=Solie's Vintage Wrestling|publisher=Jump City Productions|year=1998|url=http://www.solie.org/articles/pwandfans.html|access-date=2008-03-19}}</ref><ref name="Lipscomb">{{cite web|last=Lipscomb|first=William|title=The Operational Aesthetic in the Performance of Professional Wrestling|publisher=Department of Communications Studies, Louisiana State University|date=May 2005|url=http://etd.lsu.edu/docs/available/etd-01252005-152153/unrestricted/Lipscomb__III_dis.pdf|url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20090324222906/http://etd.lsu.edu/docs/available/etd-01252005-152153/unrestricted/Lipscomb__III_dis.pdf|accessdate=|archive-date=2009-3-24|deadlinkdate=2022-4-10}}</ref>。ただしこれが常に当てはまるとは限らなかった。 その人気の高まりとともに、プロレスは[[学術研究]]と[[ジャーナリズム]]の批判の対象として注目を集めていく。多くの研究者が論文、エッセイによってプロレスリングの慣習、内容、そして現代社会におけるその役割を分析してきた。多くの場合演劇学、[[社会学]]、パフォーマンスやメディアに関する研究の一部として取り組まれている<ref>{{cite conference|first=Caceres|last=Ernesto Cruz|title=Monday Night Identity Wars: The Evolution of Performance Conventions in Professional Wrestling|year=2005|location=2005 Popular Culture Association/American Culture Association National Conference Program|url=http://www.popularculture.org/2005%20PAGES/2005%20Program.htm|access-date=2008-03-19|url-status=dead|archive-url=https://archive.today/20050613082746/http://www.popularculture.org/2005%20PAGES/2005%20Program.htm|archive-date=2005-6-13}}</ref><ref>{{cite conference|first=Brian|last=Ledford|title=Grappling with Masculinity: Representation and Reception of Televised Professional Wrestling Imagery|publisher=SIUE College of Arts and Sciences|location=2005 Spring Colloquium: Thinking About Masculinity|url=http://www.siue.edu/CAS/COLLOQUIA/MasculProgramFINAL.pdf|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080409100044/http://www.siue.edu/CAS/COLLOQUIA/MasculProgramFINAL.pdf|archive-date=2008-4-9}}</ref>。[[マサチューセッツ工科大学]]は、プロレスの文化的重要性に関する研究コースを開設し<ref>Massachusetts Institute of Technology: Comparative Media Studies course on Professional Wrestling ? [http://mitcmsprowrestling.blogspot.com/2006/12/this-class-will-explore-cultural.html Official Course weblog]</ref>、[[人類学者]]のヘザー・リーヴァイはメキシコのルチャリブレの文化についての民族論文を発表した<ref>The World of Lucha Libre: Secrets, Revelations, and Mexican National Identity ? [[The World of Lucha Libre]]</ref>。 社会文化論としては塩見(2008年)、ボール(1993年)のほか [https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas02-08.pdf 文化としてのプロレス]、 [https://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2012_2/5010A033.pdf プロレスの社会学的考察]、ルチャ・リブレ : 覆面レスラーのリンク<ref>仲野 美穂,特集 メキシコから見た日本と世界 -- 現代メキシコの社会と文化),決断科学 (2), 106-109, 2016年12月号</ref>など、多くの論が展開されていた。 医学では日本では総合病院水戸協同病院で[[みちのくプロレス]]をもじった「みとのくプロレス」という症例検討会が開催されている<ref>『ドクターズマガジン』2020年5月号 民間医局</ref><ref>長崎 一哉「悩むケースに立ち向かう! 臨床推論のススメ方 : 全国GIMカンファレンスより(第22回)歯磨きをしているときは酸素化がいい? : みとのくプロレス」『臨床雑誌』 128(4), 2021年10月号</ref>ほか、「リハビリプロレスリング」と銘打っているシンポジウムもある<ref>シンポジウム報告 次世代TRY! リハビリプロレスリング!!,日本訪問リハビリテーション協会機関誌 5(1), 5-7, 2017年3月号</ref>。 このほかにジェンダー論<ref>川野 佐江子,スポーツとジェンダー(8)大相撲とプロレスに表れる男らしさ,体育の科学 70(8), 579-583, 2020年8月号</ref> <ref>規範を超えて躍動する 女子プロレスラーの身体 (特集 私の 私による 私のための身体 -- Re:ボディ) エトセトラ : フェミマガジン 3, 53-59, 2020</ref> 政治学<ref>村田 晃嗣,トランプ再選のシナリオとプロレス外交 : 令和の日本外交が果たすべき役割とは (創刊500号記念特大号 -- 特集 アジアの火種), Voice (500), 100-107, 2019年8月号</ref> <ref>黒岩 裕市,松浦理英子と一九八〇年代の女子プロレス,人文研紀要 (94), 1-24, 2019</ref> <ref>Life/style : SPORTS プロレスの歴史から読み解くトランプとアメリカ : スポーツ,Newsweek 33(40), 61, 2018年10月23日号</ref> 、 経営論<ref>いつか 床子, 企業の活路(第110回)新日本プロレスリング 「選手のキャラクター強化」で売り上げ過去最高, プレジデント, 57(14), 86-90, 2019年8月2日号</ref> <ref>メイ ハロルド・ジョージ 関 慎夫, INTERVIEW マディソン・スクエア・ガーデンを満員にした新日本プロレスの可能性 新日本プロレスリング社長兼CEO ハロルド・ジョージ・メイ, 経済界 54(12), 132-135, 2019年11月号</ref> <ref>伊藤 元重 メイ ハロルド・ジョージ, 日本コカ・コーラ、タカラトミー、新日本プロレス、そして…… 日本企業が"3カウント"を取られないための経営術 (特集 スガノミクスを占う 経済大論戦 -- 伊藤元重がカリスマ経営者に迫る), 中央公論 134(12), 35-45, 2020年12月号</ref> <ref>名和田 竜,孫子×ランチェスターで斬る!業界動向と企業戦略(第11回)有事に強いのは自ら売り切る力! : 新日本プロレスに見る驚異の復活戦略,研究開発リーダー 17(4), 61-64, 2020年7月号</ref> <ref>職場の心理学 世界の真実はプロレスにあり! 「燃える闘魂」性格診断テスト ジャスト日本,プレジデント 59(14), 66-69, 2021年7月2日号</ref> <ref>又吉 龍吾,産業リポート 海外進出、そして株式上場へ 新日本プロレスの復活と野望,週刊東洋経済 (6835), 54-57, 2019年1月19日号</ref> <ref>宅森 昭吉,第31回大会報告 戦後70年の景気とプロレスの軌跡 : 映し鏡からみる今後30年,景気とサイクル (61), 23-35, 2016年3月号</ref>(例えば川田利明<ref>栗下 直也, 話題の本 厳選ノンフィクション 開業から3年以内に8割が潰れるラーメン屋を失敗を重ねながら10年も続けてきたプロレスラーが伝える 「してはいけない」逆説ビジネス学 川田利明著 読むと起業したくなくなる?傷だらけ試行錯誤の説得力, 週刊東洋経済 (6891), 98, 2019年11月23日号</ref>)、軍事<ref>文谷 数重,中国公船の常時展開、24時間監視体制の日本 プロレスのショーマンシップを見習え! 尖閣諸島になんら価値は存在せず,軍事研究 52(6), 73-84, 2017年6月号</ref>、心理学<ref>赤木 智彦 妹尾 武治, プロレスにおけるヒールレスラーについての心理学的検討 (知覚情報研究会・複合現実型実応用および一般), 電気学会研究会資料. PI = The papers of Technical Meeting on "Perception Information", IEE Japan, 2021(19-25・27-30), 27-29, 2021年3月</ref>、地域活性化<ref>キューティエリー・ザ・エヒメ 加藤 邦彦, トップに聞く 老若男女に支持される「ご当地プロレス」の活動を展開 キューティエリー・ザ・エヒメ 愛媛プロレス代表 「プロレス×地域活性」で愛媛の魅力を発信し、エンタメの「地産知笑」を, 愛媛ジャーナル 32(12), 34-44, 2019年6月</ref> <ref>黒木 あるじ,センダイガールズプロレスリング奮闘記 : 地域密着型女子プロ〈仙女〉と震災 (震災とスポーツ),震災学 14, 111-121, 2020</ref> 、映像科学<ref>赤木 智彦 妹尾 武治 池畑 諭,CG表現としてのバーチャル・ヒール・プロレスラーの検討 (知覚情報研究会・マルチモーダル応用及び一般),電気学会研究会資料, 2019(8-15), 27-30, 2019年3月</ref>、音楽学<ref>東谷 護,女子プロレスにみるポピュラー音楽の使われ方,Mixed muses : 愛知県立芸術大学音楽学部音楽学コース紀要 (14), 28-40, 2019</ref>などでの言及がみられる。 フランスの理論家である[[ロラン・バルト]]は1957年に最初に出版された彼の著書『Mythologies』のエッセイ「TheWorld of Wrestling」で、レスリングはより深い分析に値することを最初に提示した<ref name="Barthes">{{cite web|last=Barthes|first=Roland|title=The World Of Wrestling|work=Mythologies|year=1957|url= http://www.chass.utoronto.ca/~ikalmar/illustex/Barthes-wrestling.htm|access-date=2008-03-21}}</ref><ref name="Kreit"/>。バルトは次のように主張した。血に飢えているとすれば喜んで観客のための演劇モードになり、これは無知な者の詐欺としてではなくて光景として見られるべきであるとしたが、このときレスリングは並置された意味をすぐに読むことを要求し実行される芸術として説明され、論理的な結論ではレスラーやレフェリーは演劇の演者よりその重要性は最低である。バルトによればレスラーの役割は勝つことではなく、期待される動きを正確に通り抜け、観客に劇の光景を与えることであるとしたが、この論と解釈はその後のレスリングに関する研究では基礎事項となっていく<ref>{{cite web|last=Lagorio|first=Christine|title=Wrestling With The Margins|work= Education Supplement 2005|publisher=The Village Voice|date=2005-01-04|url=http://www.villagevoice.com/arts/0502,lagorio,59937,12.html|access-date=2008-3-21}}</ref>。 さらにプロレスは古典的な[[英雄]]の統合<ref>{{cite web|last=Plank|first=Dr. William |title=The Athlete as Buffoon: Cultural and Philosophical Considerations on Professional Wrestling |publisher=Montana State University-Billings|url=http://www.msubillings.edu/CASFaculty/Plank/THE%20ATHELETE%20AS%20BUFFOON.htm|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20080411141551/http://www.msubillings.edu/CASFaculty/Plank/THE%20ATHELETE%20AS%20BUFFOON.htm|accessdate=|archive-date=2008-4-11|deadlinkdate=2022-4-10}}</ref> 、 [[コンメディア・デッラルテ]]<ref>{{cite web|last=Adams|first=Jonathan|title=Foreign Objects Included|work=The Scope magazine|url=http://thescope.ca/?p=576|quote=There is a sense in which wrestling resembles nothing if not a kind of postmodern commedia dell'arte|date=2006-11-9|access-date=2008-3-19}}</ref>、 [[復讐悲劇]]<ref name="Mazer">{{cite book|last=Mazer|first=Sharon|title=Professional Wrestling: Sport and Spectacle|publisher=Jackson: University Press of Mississippi|year=1998}}</ref>、 [[道徳劇]]<ref name="Mazer"/>、 そして[[アメリカン・バーレスク]]<ref>{{cite web|last=Garvin|first=Diana|title=Et tu, Steve Austin?|work=The Harvard Crimson|publisher=Harvard University|year=2005|url= http://www.thecrimson.com/article.aspx?ref=508906|access-date=2008-3-19}}</ref>などの他、「男性向けの[[メロドラマ]]」と比喩されることも多く、過去の[[文学]]や[[演劇]]の世界の役割を果たし、今日に存続するプロモーションによって描かれたキャラクターとストーリーラインも当該社会の[[気分]]、[[態度]]および[[懸念]]を反映しているようにされ<ref name="Lipscomb"/><!--<ref name="Bollom"/>-->、世相の影響を与えることが可能であるとされた<ref>{{cite episode|title = Merchants of Cool|url=https://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/cool/|series= Frontline|airdate=2001-02-27|season=2001}}</ref>。プロレスリングが示す高レベルの暴力性と男らしさは、平時における攻撃性の代用手段となっている<ref>{{cite web|last=Farley|first=Frank|title=CZW: Blood, Philadelphia and Fun|work=Rat Blood Soup magazine|url=http://ratbloodsoup.com/czw.html|access-date=2008-03-22|archive-url=https://web.archive.org/web/20071208172727/http://www.ratbloodsoup.com/czw.html|url-status=dead|archive-date=2007-12-08}}</ref>とも解釈されている。 == フィクションにおける作品 == 洋の東西を問わずトッププロレスラーは社会の中で多くの名声も獲得してきたが、年月を重ねるごとに[[音楽]]や[[芸能]]、さらには[[執筆]]、[[ビジネス]]、[[政治]]、[[評論]]等の分野にまでキャリアを広げ、プロレスに興味をもたない人々にも人物として知られるようなレスラーも多く生まれてきた。逆に他のスポーツ選手や一般的なポップカルチャーの著名人も短期間ではあるがプロレスに参戦するなどの現象もある<ref>例えばC.W.ニコル:もう一つの自分史(第30回)環境保護活動家 探検家 作家 C.W.ニコルさん プロレスのリングで闘った経験も でも真の強さは空手や柔道で覚えた,週刊朝日 124(2), 54-56, 2019年1月4日号</ref>。そうした初期の典型的な例として、アメリカでの1980年代のプロレスブーム([[:en:1980s_professional_wrestling_boom]])から端を発したプロレスと[[MTV]]を組み合わせたロックン・レスリング・コネクション(Rock 'n' Wrestling Connection)が知られる。 プロレスは一般的な素材として文化でおなじみの[[比喩]]や[[インターネットミーム]]にも活用され、[[パロディー]]を使って他の作品の中で描かれることも多い。 これまでキャラクターのプロレスラーを主人公として描いた多くのテレビ番組や映画が世界各地で制作されている。たとえば、[[:en:Ready to Rumble|Ready to Rumble]]、から[[ルチャシネマ]]([[ムーチャ・ルーチャ!]]、[[ナチョ・リブレ 覆面の神様]]、そしてエル・サントの映画シリーズ=俗にサント映画という、他)など、多岐にわたる。 1950年の[[フィルム・ノワール]]である[[ジュールズ・ダッシン]]監督、[[リチャード・ウィドマーク]]と[[ジーン・ティアニー]]主演『[[街の野獣]]』はロンドンのプロモーターが規模を拡大しようとしているという話をして、本物のプロレスラーである[[スタニスラウス・ズビシュコ]]が出演した試合を特集している。 プロレスラーについての2008年の映画「[[レスラー_(映画)|レスラー]]」は[[ヴェネツィア映画祭]][[金獅子賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]主演男優賞を受賞しているほか、[[オスカー]]のいくつかの部門にもノミネートされた。ゴージャスなレスリングの女性のプロモーションに基づいた2017年のテレビシリーズ『[[GLOW: ゴージャス・レディ・オブ・レスリング]]』は、[[第70回プライムタイム・エミー賞]]で傑出したコメディシリーズ部門へのノミネートなど、高い評価を得た。 プロレスの世界を舞台にした舞台劇も制作されている。たとえば『バロン』は、[[バロン・フォン・ラシク]]として知られる実際のパフォーマーレスラーの人生を語るコメディである。『From Parts Unknown ...』は、架空のレスラーの興亡についての物語で、賞にもノミネートされたカナダのドラマである。 2009年の[[サウスパーク]]のエピソード『[[:en:W.T.F. (South Park)|WTF]]』は、プロレスメロドラマで構成されたアニメーションである。 [[ディズニー・チャンネル]]シリーズの主人公の一人[[キム・ポッシブル]]はプロレスの大ファンであり、実際にエピソードで取り上げられた(2人の元WWEレスラーがエピソードで取り上げられた)。 [[ドキュメンタリー映画]]の製作者はときにレスラーの生活と、その職業がレスラーとその家族に与える影響を提示してきた。1999年の劇場ドキュメンタリー「[[ビヨンド・ザ・マット]](Beyond_the_Mat)」は、引退間近のレスラーである[[テリー・ファンク]]、全盛期の[[ミック・フォーリー]]、恩恵から転落した元スターの[[ジェイク・ロバーツ]]、ビジネスに参入しようとしているレスリング学校の学生に焦点を当てている。 MTVのドキュメンタリーシリーズ『[[:en:TrueLife]]』は、「私はプロレスラーです」と「私はプロレスラーになりたい」というタイトルの2つのエピソードを特集。その他のドキュメンタリーでは『プロレスの秘密の世界』(The Secret World of Professional Wrestling )をThe Learning Channel、『Hitman Hart:Wrestling with Shadows』をA&Eによって制作された。 2005年に発表された『[[:en:Lipstickand Dynamite、Piss and Vinegar:The First Ladies of Wrestling]]』は、20世紀を通じて女性のレスリングの発展を記録したものである。他にReal_Sports_with_Bryant_Gumbel(ブライアントガンベルのリアルスポーツ)や[[HBO]]でも数回紹介されている。 ほかに『[[:en:Bloodstained Memoirs]]』は[[クリス・ジェリコ]]、[[ロブ・ヴァン・ダム]]、ロディ・パイパーなどのプロレスラーのキャリアを調査したドキュメンタリーで、第22回(1991年)[[大宅壮一ノンフィクション賞]]を受賞した[[井田真木子]]の『プロレス少女伝説』は[[長与千種]]、[[神取しのぶ]]、[[天田麗文]]、[[デブラ・ミシェリー]]らの足跡をたどり、1980年代に熱狂的なブームとなった女子プロレスの文化を通したルポである。 === 絵本 === * [[パパはわるものチャンピオン]] * パパのしごとはわるものです * パイルドライバー === 小説 === * [[お父さんのバックドロップ]] * [[仰天・平成元年の空手チョップ]] * [[リング・リング・リング]] * ファイアボール・ブルース * 東京デンジャラス・ボーイ * ヒッキー・カンクーントルネード * [[リングサイド]] * [[マッチメイク (小説)]] * [[立ち上がれ、何度でも]] * プロレス太平洋戦争 * 少年プロレス王 鉄腕リキヤ * 掃除屋 プロレス始末伝 * 葬儀屋 プロレス刺客伝 * マスク * 炎上チャンピオン * 乙女プロレス * ポリスマン * リング・どりいむ 女子プロレスは華やかに<ref>{{Cite book |title=リング・どりいむ 女子プロレスは華やかに |url=https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%81%A9%E3%82%8A%E3%81%84%E3%82%80-%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AF%E8%8F%AF%E3%82%84%E3%81%8B%E3%81%AB-%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E6%96%87%E5%BA%AB-%E8%97%A4%E6%9C%AC-%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%BF/dp/4086107880 |publisher=集英社 |date=1985-10-09 |isbn=978-4-08-610788-4 |others=みゆき あさくら |first=ひとみ |last=藤本}}</ref> * ガープス・リング★ドリーム―女子プロレス最強伝説<ref>{{Cite book |title=ガープス・リング★ドリーム―女子プロレス最強伝説 |url=https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E2%98%85%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E2%80%95%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E6%9C%80%E5%BC%B7%E4%BC%9D%E8%AA%AC-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%B9%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BBG%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B3%A5-%E5%A3%AB%E6%9C%97/dp/4044884013 |publisher=角川書店 |date=1994-11-01 |isbn=978-4-04-488401-7 |others=真 安西 |first=士朗 |last=泥 |first2=室 |last2=実験}}</ref> === 漫画、アニメ === {{Div col}} * [[チャンピオン太]] * [[タイガーマスク]] * [[タイガーマスク二世]] * [[タイガーマスクW]] * [[ジャイアント台風]] * [[ウォナビーズ]] * [[プロレススーパースター列伝]] * [[プロレス・スターウォーズ]] * [[キン肉マン]] * [[キン肉マンII世]] * [[キン肉マンII世~オール超人大進撃~]] * [[THE MOMOTAROH]] * [[1・2の三四郎]] * [[1・2の三四郎 2]] * [[アグネス仮面]] * 太陽のドロップキックと月のスープレックス([[落合裕介]]) * [[リッキー台風]] * [[遙かなるリング]] * 燃える!女子プロレス([[島本和彦]]) * [[まつりスペシャル]] * [[ラヴ・バズ]] * [[肉の唄]] * スーパーエンジェルズ([[わたべ淳]])<ref>{{Cite web|和書|title=スーパーエンジェルズ|url=https://www.sukima.me/book/title/BT0000550065/|website=https://www.sukima.me/|access-date=2023-05-31}}</ref> * 君だけに愛を([[金井たつお]]) * アリスがヒーロー([[ともながひでき]]、[[宮崎まさる]]) * キャット([[ほそかわ春]]) * 七月革命!(読みは「なつきレボリューション!」)([[池田多恵子]]) * [[ブリザードYuki]] * ルチャDOLL舞([[飛鳥弓樹]]) * 闘魂少女([[林崎文博]]) * [[超バージン!]] * 悪役ブルース([[峰岸とおる]]、[[梶原一騎]]) * [[爆骨少女ギリギリぷりん]] * [[世界でいちばん強くなりたい!]] * [[ファイヤーレオン]]新日本プロレス編 * [[ニコラ・ド・クレシー|プロレス狂奏曲]] * [[ロリクラ☆ほーるど!]] * [[仁侠姫レイラ]] * 格闘無制限巨娘ターミー([[やまだ浩一]]) * [[プ女と野獣 JKが悪役レスラーに恋した話]] * [[徳光康之#いきなりバックドロップ犬|いきなりバックドロップ犬]] * [[徳光康之#最狂超(スーパー)プロレスファン烈伝|最狂超(スーパー)プロレスファン烈伝]] * 俺のプロレスネタ、誰も食いつかないんだが。([[さかなこうじ]]) * プ女子日和([[早蕨たまお]]) * 下校最強タッグ([[徳光康之]]) * シャムロック([[徳光康之]]、[[竜崎遼児]]) * [[魔装番長バンガイスト]] * [[ここが噂のエル・パラシオ]] * [[APO APOワールド ジャイアント馬場90分一本勝負]] * [[エアマスター]] * [[格闘美神 武龍]] * [[キックハート]] * [[GO! 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スーパースター]] * ママはレスリング・クイーン * [[マッスルガール!]] * [[若者たち]]2014 * [[輝きたいの]] * [[恋はドロップキック!]] * セレクト女子〜優柔不断な私にドロップキック〜 * ビッグ・ショーのファミリー・ショー * [[ここが噂のエル・パラシオ]] * [[極悪女王]] * あなたにドロップキックを * GLOW:ゴージャス・レディ・オブ・レスリング {{Div col end}} === ゲーム === {{main|プロレスゲーム}} == 関連書籍 == * {{Cite book ja-jp|author=[[佐山聡]]|year=1990年|title=[[ケーフェイ (書籍)|ケーフェイ]]|edition=新装版|publisher=ナユタ出版会|isbn=978-4795220690}}(1985年の原本とはページ番号が違う可能性があるため検証者は注意された) * 塩見 俊一 2008年 『[https://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2007/43-4_02-06.pdf 戦後初期日本におけるプロレスの生成に関する一考察]』 立命館産業社会論集 第43巻第4号 * マイケル・R. ボール 山田 奈緒子(翻訳), 江夏 健一(翻訳)1993年『プロレス社会学―アメリカの大衆文化と儀礼ドラマ』(JICカルチャー選書)同文舘出版 {{ISBN2| 978-4495857813}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|プロレスラー|[[File:Logo Projet Catch (2).png|40px]]}} * [[プロレス技]] * [[プロレス用語一覧]] * [[プロレス団体一覧]] * [[プロレスの王座一覧]] * [[プロレスラー一覧]] * [[プロレスラー養成所]] == 外部リンク == {{External media|image1={{Citation|和書|title=日本のプロレスの歴史〜ファンを熱狂させたビッグネームたち|url=https://imagelink.kyodonews.jp/pick?id=336|work=共同通信イメージズ「IMAGELINK」}}}} {{Commonscat|Professional_wrestling}} * [http://www.showapuroresu.com/index.htm ミック博士の昭和プロレス研究室] * [http://www.wrestling-titles.com/jp/ プロレス選手権変遷史] * [https://imagelink.kyodonews.jp/pick?id=336 日本のプロレスの歴史〜ファンを熱狂させたビッグネームたち] {{DEFAULTSORT:ふろれす}} [[Category:プロレス|*]]
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ヒメタタライスズヒメ
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)は、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇・神武天皇の皇后(初代皇后)。『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)に相当する。 伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いで皇后となり、2代天皇の綏靖天皇を産んだとされている。 『古事記』では、はじめ「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ、ホトタタライススギヒメ)という名であったが、のちに「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改められたことが示されている。詳細は#古事記にみる誕生時の逸話参照。単に「伊須気余理比売」と書くこともある。 また、単に「五十鈴媛命」ということもある。(ただし、妹の五十鈴依媛命との混同に注意。) 『日本書紀』巻1「神代紀(上)」と『先代旧事本紀』巻4・巻5に「姫蹈韛五十鈴姫命」、『日本書紀』巻3「神武紀」・巻4「綏靖紀と」『先代旧事本紀』巻7に「媛蹈韛五十鈴媛命」として登場する。 その出自については数通りの記述がある。 『日本書紀』「神代紀」の別説や「神武紀」「綏靖紀」、『先代旧事本紀』では、事代主神が「三嶋」の「ミゾクヒ」(ミゾクイ)の娘のタマクシヒメのもとへ通って生まれたとしている。また、このとき事代主神は「八尋熊鰐」に姿を変えていたとする。 『古事記』中巻に「富登多多良伊須須岐比売命」「比売多多良伊須気余理比売命」として登場する。 勢夜陀多良比売は美女として知られていた。大物主神は丹塗り矢(赤い矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便をするところを狙って川の上流から流れていき、勢夜陀多良比売の陰部(ホト)を突いた。驚いた勢夜陀多良比売が矢を取って部屋に戻ると、矢は美男子となった。両者は結婚し、娘が生まれた。娘は「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)と名付けられた。しかしのちに娘は「ホト」という名を嫌って「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改めた。 『日本書紀』などの記述によれば、イワレヒコ(のちの神武天皇)は、「ヒムカの国」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経てヤマト地方に政権を確立するに至った(神武東征)。イワレヒコは畝傍山の麓に「カシワラの宮」(奈良県橿原市)を築き、初代天皇「神武天皇」として即位することになる。 この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年9月24日(旧暦)だったとされる。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった。 『古事記』には正妃選びや結婚にまつわるエピソードが採録されている。(詳細は#神武天皇の妻問い説話参照。) 『日本書紀』によると、神武天皇は127歳で崩御した。細部には相違点があるものの、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇の死後、子供同士の間で起きた後継者争いが描かれている(詳細は手研耳の反逆参照)。 イワレヒコ(神武天皇)は、「ヒムカ国」からの東征に出発する以前に、吾平津媛(阿比良比売)と結婚し、子をもうけていた。しかし神武天皇がヒメタタライスズヒメを正后としたことにより、この子らは庶子の身分となった。神武天皇が崩御すると、この庶子であるタギシミミは皇位を自らが継ごうと考えた。 『古事記』では、タギシミミは未亡人となったヒメタタライスズヒメを自らの妻とし、神武天皇とヒメタタライスズヒメのあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする。これを察したヒメタタライスズヒメは、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという。 これらの寓意歌によりタギシミミの反逆の意図を知った嫡子たちは、逆に先手を打ってタギシミミを討ち取った。その際に最も活躍した神沼河耳命が皇位を継ぎ、2代天皇(綏靖天皇)として即位した。『日本書紀』にしたがえば、綏靖天皇元年正月8日にヒメタタライスズヒメは「皇太后」を称するようになったという。 綏靖天皇は正妃として五十鈴依媛命を迎えた。五十鈴依媛命はヒメタタライスズヒメの実妹であり、綏靖天皇からみると叔母にあたる。ただしこれには異伝があり、綏靖天皇の妃となった人物を河俣毘売とするものや皇后を糸織媛とするものがある。 神武天皇との子は、年長から順に、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命(綏靖天皇)である。 ヒメタタライスズヒメの母である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)は、ほかに2人の子を産んだとされている。 『日本書紀』と『古事記』では、説話の細部が異なるものの、ヒメタタライスズヒメは「在地の有力者(神)の娘」を母とし、「神」を父として描かれている。初代天皇である神武天皇が正妻を迎えるにあたり、「神の娘」を娶ることが、神武天皇の政権の正当性を裏打ちするものとして利用されたのだろうと解釈する説がある。 母親は、母方が摂津(大阪府)のミシマ(三嶋、三島)、父方がヤマト(奈良県)のミワ(美和、三輪、三輪山)のものとして描かれている。これらは、近畿地方の複数の豪族の協力を示唆しており、この結婚は「ヒムカ」(日向国)からやってきた他国者であるイワレヒコ(神武天皇)を、凡河内国(大和国と摂津国)の有力者たちが支えたことを示すものだろうと解釈する説がある。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけでなく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を示すものだとも解釈する説もある。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術を確保したことを示すものだとの解釈もある。 『日本書紀』で、多少の表現の差異はあるが、母親は三嶋溝杙の娘とされる。「ミゾクヒ」には、溝樴、溝樴耳神、溝杙などの表記がある他、『古事記』では湟咋とあり、溝杭(『新撰姓氏録』)、溝咋などの字が当てられることもある。「-耳神」を付す史料があることから、神性をもつ存在として信仰の対象であったことも示唆されると見る説がある。この神は陶津耳命や加茂建角身命、八咫烏の名を持っており、賀茂氏の系図では賀茂氏や葛城国造の祖神とされている。 「三島」という地名は摂津国三島郡(現在の大阪府北部)にあたると考えられている。『延喜式神名帳』(927年成立)には三島鴨神社(高槻市三島江)や溝咋神社(茨木市)が掲載されており、「ミシマのミゾクヒ」はこのあたりで信仰されていたと推測される。 江戸時代の国学者本居宣長は、この「ミゾ(溝)」は水流の上に作られた厠を指すと解釈し、これが通説となっている。三谷栄一などはこの説を採り、厠は出産儀礼とも関連が強いとする説もある。肥後和男(東京教育大学名誉教授)はこれとは違い、「ミゾ」は水田の溝を意味するとした。次田真幸はこの説を発展させ、三島郡は稲作の適地であり「ミシマのミゾクヒ」は農耕神であるとした。 母親の名は『日本書紀』では「玉櫛媛(タマクシヒメ)」、『古事記』では「勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)」とされている。いずれも、美女として知られていたと伝える。 本居宣長は、セヤ(勢夜)を大和国平群郡勢野村(奈良県生駒郡三郷町)に比定している。 『日本書紀』『古事記』のいずれも、ヒメタタライスズヒメの誕生には異類婚が係わっている。父である神は、『日本書紀』では「八尋和邇」、『古事記』では「丹塗りの矢」に姿を変え、女性のもとを訪れている。このようにヒメタタライスズヒメは日本神話における異類婚による子の代表例として知られる。 『古事記』では大物主神の娘とされている。出身地は「美和」ないし大和地方の三輪山。 この子は「富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)」と名付けられた。これは「ホトを突かれてびっくりして生まれた子」の意とされる。。母親に似て美女であったともいう。 しかし本人は、「ホト」を嫌って「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)」に名を改めた。 当初の名前である「ホトタタラ」は、母の勢夜陀多良比売が陰部を矢で突かれたという説話に由来し、「陰元立(ほとたたら)」の意など、「立つ」の派生形とみる解釈がある。あとから、この「ホト」を嫌って「ヒメ」へ改めたという。これとは別に、「タタラ」は母の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)から名の一部を受け継いだものとする説などもある。また「イススキ」は「驚いて立ち去る」の意だとされ、これを言い換えたのが「イスケ」とされる。 一方、名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある。詳細は#たたら製鉄との関連参照。 「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説や、金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある。これらとは異なり、元の名の「イススキ」が「イスズ」に転訛したと考える説もある。 「ヨリ」は「ヨロシ(宜)」とする説や、ユリの花に通じ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)の実家である三輪山の麓の狭井川川岸に咲くササユリを指すとの解釈もある。 神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイワレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である大久米命が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く。 『古事記』には、7人の女性が狭井川の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている。 「高佐士野」は、狭井川沿いの台地を指している。狭井川は三輪山を源とする小川で、大神神社境内ちかくを流れる。大和川(初瀬川)に合流する手前では天井川となって川岸が高くなっている。 この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える。 これに対し大久米命は次のように返す。 このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河(狭井川)の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている。 この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている。 ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の名前のうち「タタラ」の部分を、たたら製鉄と結びつけて解釈し、古代日本における製鉄を示すものとする説がある。 小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」は陰部を指すとともに火床のことでもある。すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される。吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている。 本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった。彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという。「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある。 明治天皇が1890年(明治23年)に創建した橿原神宮では、主祭神として神武天皇とヒメタタライスズヒメが祀られている。 また、ヒメタタライスズヒメは、子供を救ったことから「子守明神」として崇められるようになり、率川神社(奈良県奈良市本子守町)では主神として祀られている。率川神社では例年6月に「三枝祭」(通称:ゆり祭り)があり、三輪山で栽培されたササユリを供えてヒメタタライスズヒメを祀る。 ヒメタタライスズヒメの実家があったという狭井川の上流部には狭井神社がある。ここでは大神荒魂神を主祭神としつつ、ヒメタタライスズヒメや大物主神(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの父)、勢夜陀多良比売(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの母)、事代主神(『日本書紀』によるヒメタタライスズヒメの父)を祀っている。 このほか、津森神宮(熊本県上益城郡益城町)、甲佐神社(熊本県上益城郡甲佐町)で祀られている。
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"この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える。", "title": "神武天皇の妻問い説話" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これに対し大久米命は次のように返す。", "title": "神武天皇の妻問い説話" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河(狭井川)の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている。", "title": "神武天皇の妻問い説話" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている。", "title": "神武天皇の妻問い説話" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の名前のうち「タタラ」の部分を、たたら製鉄と結びつけて解釈し、古代日本における製鉄を示すものとする説がある。", "title": "たたら製鉄との関連" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」は陰部を指すとともに火床のことでもある。すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される。吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている。", "title": "たたら製鉄との関連" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった。彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという。「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある。", "title": "たたら製鉄との関連" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "明治天皇が1890年(明治23年)に創建した橿原神宮では、主祭神として神武天皇とヒメタタライスズヒメが祀られている。", "title": "信仰の対象" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "また、ヒメタタライスズヒメは、子供を救ったことから「子守明神」として崇められるようになり、率川神社(奈良県奈良市本子守町)では主神として祀られている。率川神社では例年6月に「三枝祭」(通称:ゆり祭り)があり、三輪山で栽培されたササユリを供えてヒメタタライスズヒメを祀る。", "title": "信仰の対象" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ヒメタタライスズヒメの実家があったという狭井川の上流部には狭井神社がある。ここでは大神荒魂神を主祭神としつつ、ヒメタタライスズヒメや大物主神(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの父)、勢夜陀多良比売(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの母)、事代主神(『日本書紀』によるヒメタタライスズヒメの父)を祀っている。", "title": "信仰の対象" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このほか、津森神宮(熊本県上益城郡益城町)、甲佐神社(熊本県上益城郡甲佐町)で祀られている。", "title": "信仰の対象" } ]
ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)は、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇・神武天皇の皇后(初代皇后)。『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)に相当する。 伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いで皇后となり、2代天皇の綏靖天皇を産んだとされている。
{{基礎情報 皇后 |名 = 媛蹈鞴五十鈴媛命 |立后根拠 = 初代皇后 |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |画像代替文 = |在位期間 = 神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日 |和暦在位期間 = |皇后 = 神武天皇元年1月1日 |皇太后 = [[綏靖天皇]]元年1月8日 |出生日 = |生地 = |死亡日 = |没地 = |陵所 = |諱 = 媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)(日本書紀)<ref name="ニッポニカ-神武"/><br / > 比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)(古事記)<ref name="日本神名辞典-比売"/> |諡号 = |異称 = 富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすき(ぎ)ひめ)(古事記) |幼称 = |氏族 = |父親 = [[大物主神]]/[[事代主神]] |母親 = [[勢夜陀多良比売]]/[[玉櫛媛]] |配偶者1 = [[神武天皇]] |配偶者2 = [[手研耳命]] |結婚 = 神武天皇即位前年9月24日 |子女 = [[日子八井命]]<br />[[神八井耳命]](異説あり)<br />[[綏靖天皇]] |養子女 = |皇居 = |脚注 = }} [[画像:Emperor_family_tree0.png|thumb|right|300px|神武天皇と比売多多良伊須気余理比売命までの系譜(『古事記』による)]] '''ヒメタタライスズヒメ'''('''媛蹈鞴五十鈴媛'''<ref name="ニッポニカ-神武"/>{{refnest|group="注"|『[[日本書紀]]』では'''媛蹈鞴五十鈴媛命'''(ヒメタタライスズヒメノミコト<ref name="よみかた"/><ref name="ブリタニカ-神武"/><ref name="神道大辞典"/>)、媛蹈鞴五十鈴媛などと表記される。このほか「媛蹈鞴五十鈴媛(命)」には様々な表記ゆれがみられる。「媛」と「姫(姬)」、「蹈」と「踏」、「韛」と「鞴」、「命」と「尊」など。「姫踏鞴五十鈴媛命<ref name="朝日歴史人物事典"/>」や「媛蹈韛五十鈴姫尊<ref name="系図-61"/>」、「媛蹈韛五十鈴媛命<ref name="日本人名大辞典+"/>」、「姫蹈韛五十鈴姫命<ref name="日本神名辞典-姫"/><ref name="古代氏族"/>」・「姫踏鞴五十鈴姫命<ref name="神道大辞典"/>」など、「姫・媛」の使い分けも様々見られる<ref name="ニッポニカ-神武"/>。}})は、『[[日本書紀]]』に登場する人物・[[神 (神道)|女神]]で、初代[[天皇]]・[[神武天皇]]の[[皇后]](初代皇后)<ref name="読み解き事典"/>。『[[古事記]]』の'''ヒメタタライスケヨリヒメ'''<ref name="日本神名辞典-比売"/>('''比売多多良伊須気余理比売'''{{refnest|group="注"|『[[古事記]]』では'''比売多多良伊須気余理比売命'''<ref name="ニッポニカ-神武"/>(ヒメタタライスケヨリヒメノミコト<ref name="読み解き事典"/><ref name="神仏の辞典-比売"/>)、比売多多良伊須気余理比売('''ヒメタタライスケヨリヒメ'''<ref name="日本神名辞典-比売"/>)、伊須気余理比売などと表記される。資料により「売」と「賣」、「気」と「氣」、「余」と「餘」などの表記ゆれが見られる。}})に相当する。 伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いで[[皇后]]となり、2代天皇の[[綏靖天皇]]を産んだとされている<ref name="歴代天皇紀-神武"/><ref name="日本神名辞典-比売"/>。 == 異称 == 『[[古事記]]』では、はじめ「富登多多良伊須須岐比売<ref name="朝日歴史人物事典"/>」(ホトタタライススキヒメ<ref name="神道大辞典"/>、ホトタタライススギヒメ<ref name="読み解き事典"/><ref name="日本神名辞典-富登"/>)という名であったが、のちに「比売多多良伊須気余理比売<ref name="朝日歴史人物事典"/>」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改められたことが示されている。詳細は[[#古事記にみる誕生時の逸話]]参照。単に「伊須気余理比売」と書くこともある<ref name="日本神名辞典-比売"/>。 また、単に「五十鈴媛命」ということもある<ref name="新撰大人名辞典"/>。(ただし、妹の[[五十鈴依媛命]]との混同に注意。) ==記紀による描写== ===日本書紀・先代旧事本紀のヒメタタライスズヒメ=== 『[[日本書紀]]』巻1「神代紀(上)」と『[[先代旧事本紀]]』巻4・巻5に「姫蹈韛五十鈴姫命」{{r|古代神祇-いすず姫}}、『日本書紀』巻3「[[神武天皇|神武]]紀」・巻4「[[綏靖天皇|綏靖]]紀と」『先代旧事本紀』巻7に「媛蹈韛五十鈴媛命」{{r|古代神祇-いすず媛}}として登場する{{r|神仏の辞典-姫}}。 その出自については数通りの記述がある。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |-{{rh}} |書名||登場箇所||母||父||備考||出典 |- |style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||rowspan=2|巻1「神代紀上」<br>宝剣出現章|| ||style="white-space:nowrap" |[[三輪山|大三輪神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「大三輪之神也。此神之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姫蹈鞴五十鈴姫命」}}大三輪神は[[大己貴命]]([[大国主]])の[[幸魂]]とされる。||{{r|古代神祇-いすず姫|神仏の辞典-姫|古代氏族}} |- |style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||三嶋の{{読み仮名|溝樴姫|みぞくひひめ}}<br>または[[玉櫛姫]]||style="white-space:nowrap" |[[事代主神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「[[事代主神]]化爲八尋熊鰐 通[[三島溝杭|三嶋溝樴]]姫 或云 [[玉櫛媛|玉櫛姫]] 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲[[神日本磐余彦|神日本磐余彦火火出見天皇]]之后也」}}||{{r|古代神祇-いすず姫|神仏の辞典-姫|古代氏族}} |- |style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||巻3「神武紀」<br>神武即位前条||[[陶津耳|三嶋溝樴耳神]]の娘<br>[[玉櫛媛]]||[[事代主神]]||{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」}}||{{r|古代神祇-いすず媛|神仏の辞典-姫|古代氏族}} |- |style="white-space:nowrap" |『日本書紀』||巻4「綏靖紀」<br>綏靖即位前条|| ||[[事代主神]]||「事代主の長女」とされる{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也」}}||{{r|古代神祇-いすず媛|神仏の辞典-姫|古代氏族}} |- |『先代旧事本紀』||{{refnest|group="注"|『[[先代旧事本紀]]』巻4地祇本紀に「[[都味歯八重事代主神]] 化八尋熊鰐 通[[三島溝杭]]女 [[活玉依姫]] 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」とある。}}||三嶋{{読み仮名|溝杙|みぞくひ}}の娘<br>[[活玉依姫]]||style="white-space:nowrap" |[[事代主神]]||事代主神は[[大己貴命]]の子とされる||{{r|古代神祇-いすず姫}} |} 『日本書紀』「神代紀」の別説や「神武紀」「綏靖紀」、『先代旧事本紀』では、[[事代主神]]が「三嶋」の「ミゾクヒ」(ミゾクイ)の娘の[[玉櫛媛|タマクシヒメ]]のもとへ通って生まれたとしている{{r|古代神祇-いすず姫|古代神祇-いすず媛|女性人名辞典}}。また、このとき事代主神は「[[和邇|八尋熊鰐]]」に姿を変えていたとする{{r|古代神祇-いすず姫|女性人名辞典|古代氏族}}。 ===古事記のヒメタタライスケヨリヒメ=== 『[[古事記]]』中巻に「富登多多良伊須須岐比売命」「比売多多良伊須気余理比売命」として登場する{{r|神仏の辞典-比売|神仏の辞典-富登}}。 {|class="wikitable" style="font-size:90%" |-{{rh}} |書名||登場箇所||母||父||備考||出典 |- |style="white-space:nowrap" |『古事記』||中巻<br>神武記||[[三嶋湟咋]](みぞくひ)の娘<br>[[勢夜陀多良比売]]||style="white-space:nowrap" |[[大物主神]]||父は美和之大物主神{{refnest|group="記"|『古事記』「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比売、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而(以下略)」}}||{{r|古代神祇-いすけ|古代神祇-ほと|日本人名大辞典+}} |} [[勢夜陀多良比売]]は美女として知られていた。[[大物主神]]は丹塗り矢(赤い矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便をするところを狙って川の上流から流れていき、勢夜陀多良比売の{{読み仮名|陰部|ホト}}を突いた。驚いた勢夜陀多良比売が矢を取って部屋に戻ると、矢は美男子となった。両者は結婚し、娘が生まれた。娘は{{読み仮名|「富登多多良伊須須岐比売」|ホトタタライススキヒメ}}と名付けられた。しかしのちに娘は「ホト」という名を嫌って{{読み仮名|「比売多多良伊須気余理比売」|ヒメタタライスケヨリヒメ}}に改めた{{r|古代神祇-いすけ|朝日歴史人物事典|神道大辞典-勢夜姫}}。 ===神武天皇との結婚=== 『日本書紀』などの記述によれば、[[イワレヒコ]](のちの神武天皇)は、「ヒムカの国{{refnest|group="注"|[[日向国]]([[宮崎県]])に比定する説と、これを否定する説がある。}}」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経て[[大和|ヤマト地方]]{{refnest|group="注"|一般的には[[奈良盆地]]を指す。}}に政権を確立するに至った([[神武東征]])。イワレヒコは[[畝傍山]]の麓に「[[橿原宮|カシワラの宮]]」([[奈良県]][[橿原市]])を築き、初代天皇「神武天皇{{refnest|group="注"|厳密には、「神武天皇」という呼称は奈良時代に与えられた[[諡号]]である。『日本書紀』では「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とする<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。}}」として即位することになる<ref name="ブリタニカ-神武"/>。 この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](旧暦)だったとされる<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では、妃探しを始めたのが即位前年の[[8月16日 (旧暦)|8月16日]](「[[庚申]]年秋[[8月 (旧暦)|八月]][[癸丑]][[朔]][[戊辰]]」)<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代皇后-神武"/>、ヒメタタライスズヒメを妃と決め結婚したのが[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](「[[9月 (旧暦)|九月]][[壬午]][[朔]][[乙巳]]」)<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>である。}}。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった<ref name="新撰大人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では神武天皇の即位年を「[[辛酉]]」の年とする。中国の[[讖緯説]]・[[辛酉革命|辛酉革命説]]を考慮して明治時代に定められた計算方法に従えばこれは[[紀元前660年]]となる。かつてはこれは歴史的事実とされていたが、現代ではふつう史実とは考えられていない<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。詳細は[[神武天皇即位紀元]]参照。}}。 『古事記』には正妃選びや結婚にまつわるエピソードが採録されている。(詳細は[[#神武天皇の妻問い説話]]参照。) ===神武天皇の死後=== 『日本書紀』によると、神武天皇は127歳で崩御した<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。細部には相違点があるものの、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇の死後、子供同士の間で起きた後継者争いが描かれている(詳細は[[手研耳の反逆]]参照)。 イワレヒコ(神武天皇)は、「ヒムカ国」からの東征に出発する以前に、[[吾平津媛]](阿比良比売)と結婚し、子をもうけていた<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>{{refnest|group="注"|『古事記』には2人の子の名が記録されている。[[多芸志美美命]](タギシミミノミコト<ref name="日本神名辞典-多芸"/>)と[[岐須美美命]](キスミミノミコト<ref name="日本神名辞典-岐須"/>)である<ref name="読み解き事典-阿比良"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。一方『日本書紀』には[[手研耳命]](タギシミミノミコト)の名前だけがあり、岐須美美命に相当する人物の名は記されていない<ref name="読み解き事典-阿比良"/>。}}。しかし神武天皇がヒメタタライスズヒメを正后としたことにより、この子らは庶子の身分となった<ref name="歴代天皇紀-神武"/><ref name="読み解き事典-阿比良"/>。神武天皇が崩御すると、この庶子であるタギシミミは皇位を自らが継ごうと考えた<ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』などによれば、タギシミミは長いあいだ神武天皇のもとで政務に就いていたという。しかしその性格には難があり「仁義に背く」性質があった、と描かれている<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。こうした描写は、必ずしも史実をそのまま伝えるものではないと考えられている。神武天皇から綏靖天皇への代替わりにあたっては[[末子相続]]が行われており、古代の日本ではそれが一般的であったのだろうと考えられている。しかしのちには[[長子相続]]が一般的となったために、長子相続を正当と考える読者のために、「兄が悪人だったために排除された」とする説明が必要になったのだろうと解釈するものもある<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。}}。 『古事記』では、タギシミミは未亡人となったヒメタタライスズヒメを自らの妻とし、神武天皇とヒメタタライスズヒメのあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする<ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。これを察したヒメタタライスズヒメは、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという<ref name="学研2015"/><ref name="ヒメたち98"/>{{refnest|group="記"|『古事記』「天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須気持余理比売之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須気持余理比売之患苦而、以歌令知其御子等」}}。 {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|佐韋賀波用|さゐかはよ}} {{ruby|久毛多知和多理|くもたちわたり}} {{ruby|宇泥備夜麻|うねびやま}} {{ruby|許能波佐夜藝奴|このはさやげぬ}} {{ruby|加是布加牟登須|かぜふかむとす}} |- |[[狭井川|狭韋河]]よ 雲起ちわたり [[畝傍山|畝火山]] 木の葉さやげぬ 風吹かむとす<ref name="ヒメたち98"/> |- |(大意)狭井川の我が家の子らよ{{refnest|group="注"|『古事記』には神武天皇がヒメタタライスズヒメの家を訪れて泊まる様子が描かれている。研究者のなかには、当時は夫が妻の家へ通う[[通い婚]]が行われていたと考える者もいる。とりわけ神武天皇とヒメタタライスズヒメの場合のように、よそ者が土着の有力者の娘を娶るような場合には、結婚後も妻は実家にとどまるのが普通だったという。そして生まれた子供たちも、妻の実家で育てられたという。したがってこの事変が起きた当時も、神武天皇の嫡出子たちは実家である狭井川(狭韋河)にいたとされる。(研究者たちも、これらの記述が真正の史実であるとは認めていないが、当時の習俗を反映した物語であろうとしている。)<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。}}、タギシミミの方からそちらに向かって風が吹こうとしています(危険が迫っています)<ref name="ヒメたち98"/> |} {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|宇泥備夜麻|うねびやま}} {{ruby|比流波久毛登韋|ひるはくもとひ}} {{ruby|由布佐禮婆|ゆふされば}} {{ruby|加是布加牟登曾|かぜふかむとぞ}} {{ruby|許能波佐夜牙流|このはさやげる}} |- |[[畝傍山|畝火山]] 昼は雲と居 夕去れば 風ふかむとぞ 木の葉さやげる |- |(大意)畝傍山は昼は曇っているが、夕方が過ぎて夜になれば風が吹くだろうと木の葉が騒いでいる |} これらの寓意歌によりタギシミミの反逆の意図を知った嫡子たちは、逆に先手を打ってタギシミミを討ち取った。その際に最も活躍した神沼河耳命が皇位を継ぎ、2代天皇([[綏靖天皇]])として即位した<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/><ref name="読み解き事典-多芸志美美"/><ref name="学研2015"/><ref name="日本神名辞典-多芸"/>。『日本書紀』にしたがえば、綏靖天皇元年正月8日にヒメタタライスズヒメは「[[皇太后]]」を称するようになったという<ref name="新撰大人名辞典"/>。 綏靖天皇は正妃として[[五十鈴依媛命]]を迎えた。五十鈴依媛命はヒメタタライスズヒメの実妹であり、綏靖天皇からみると叔母にあたる<ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。ただしこれには異伝があり、綏靖天皇の妃となった人物を[[河俣毘売]]とするものや皇后を糸織媛とするものがある。 === 子供 === 神武天皇との子は、年長から順に、[[日子八井命]]、[[神八井耳命]]、[[神沼河耳命]]([[綏靖天皇]])である<ref name="女性人名辞典"/>。 {|class=wikitable |- |colspan=3|ヒメタタライスズヒメと神武天皇の子 |- |『日本書紀』||『古事記』||備考 |- | ||[[日子八井命]]||『日本書紀』には記載がない。 |- |[[神八井命]]||[[神八井耳命]]||[[多氏]]の祖となる。 |- |[[神渟名川耳尊]]||[[神沼河耳命]]||[[綏靖天皇]]として即位、2代天皇となる。 |- |} ===兄妹=== ヒメタタライスズヒメの母である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)は、ほかに2人の子を産んだとされている。 *[[天日方奇日方]] - ヒメタタライスズヒメの兄。『[[先代旧事本紀]]』では神武天皇に仕えて「申食国政大夫」(宰相)になったとされる<ref name="ヒメたち94"/>。 *[[五十鈴依媛命]] - ヒメタタライスズヒメの妹。のちに2代天皇の[[綏靖天皇]]の后になったとされる<ref name="ヒメたち94"/><ref name="歴代天皇紀-綏靖"/>。 ==出自に関する諸説== 『[[日本書紀]]』と『[[古事記]]』では、説話の細部が異なるものの、ヒメタタライスズヒメは「在地の有力者(神)の娘」を母とし、「神」を父として描かれている<ref name="ヒメたち94"/>。初代天皇である神武天皇が正妻を迎えるにあたり、「神の娘」を娶ることが、神武天皇の政権の正当性を裏打ちするものとして利用されたのだろうと解釈する説がある<ref name="ヒメたち94"/>。 母親は、母方が[[摂津国|摂津]](大阪府)のミシマ(三嶋、三島)、父方が[[大和国|ヤマト]](奈良県)のミワ(美和、三輪、[[三輪山]])のものとして描かれている。これらは、近畿地方の複数の豪族の協力を示唆しており{{refnest|group="注"|『日本書紀』が説くようにヒメタタライスズヒメの父が[[事代主神]]あるいは[[大国主]]とするならば、ヒメタタライスズヒメは近畿地方の豪族に加えて[[出雲神話|出雲地方]]にもルーツがあるということになる<ref name="ヒメたち94"/>。}}、この結婚は「ヒムカ」([[日向国]])からやってきた他国者であるイワレヒコ(神武天皇)を、[[河内国|凡河内国]](大和国と摂津国)の有力者{{refnest|group="注"|厳密には大和国や摂津国といった[[令制国]]が確立するのは古代のことである。}}たちが支えたことを示すものだろうと解釈する説がある<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけでなく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を示すものだとも解釈する説もある<ref name="ヒメたち98"/>。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術を確保したことを示すものだとの解釈もある<ref name="鈴本1979"/>。 === 祖父:ミシマのミゾクヒ === 『日本書紀』で、多少の表現の差異はあるが、母親は'''三嶋溝杙'''の娘とされる。「ミゾクヒ」には、'''溝樴'''、'''溝樴耳神'''、'''溝杙'''などの表記がある他、『古事記』では'''湟咋'''とあり、'''溝杭'''(『[[新撰姓氏録]]』)、'''溝咋'''などの字が当てられることもある<ref name="山﨑2013"/><ref name="古代氏族"/><ref name="読み解き事典"/>。「-[[ミミおよびミ|耳神]]」を付す史料があることから、神性をもつ存在として信仰の対象であったことも示唆されると見る説がある<ref name="山﨑2013"/>。この神は陶津耳命や加茂建角身命、[[八咫烏]]の名を持っており、賀茂氏の系図では[[賀茂氏]]や[[葛城国造]]の祖神とされている<ref>[[宝賀寿男]]「三輪氏の起源と動向」『古代氏族の研究⑦ 三輪氏 大物主神の祭祀者』青垣出版、2015年。</ref>。 「三島」という地名は[[摂津国]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]](現在の[[大阪府]]北部)にあたると考えられている。『延喜式神名帳』(927年成立)には[[三島鴨神社]]([[高槻市]]三島江)や[[溝咋神社]]([[茨木市]])が掲載されており、「ミシマのミゾクヒ」はこのあたりで信仰されていたと推測される<ref name="読み解き事典"/><ref name="山﨑2013"/>{{refnest|group="注"|[[溝咋神社]]では三島溝咋(三島溝杭)を神社の祖とし<ref name="読み解き事典"/>、三島氏は古代河内地方の有力豪族だっただろうとしている<ref name="ヒメたち94"/>。}}。 江戸時代の[[国学者]][[本居宣長]]は、この「ミゾ(溝)」は水流の上に作られた[[厠]]を指すと解釈し、これが通説となっている<ref name="山﨑2013"/>。[[三谷栄一]]などはこの説を採り、厠は出産儀礼とも関連が強いとする説もある<ref name="山﨑2013"/>。[[肥後和男]]([[東京教育大学]][[名誉教授]])はこれとは違い、「ミゾ」は水田の溝を意味するとした<ref name="山﨑2013"/>。[[次田真幸]]はこの説を発展させ、三島郡は稲作の適地であり「ミシマのミゾクヒ」は農耕神であるとした<ref name="山﨑2013"/>。 === 母:玉櫛媛と勢夜陀多良比売 === 母親の名は『日本書紀』では「[[玉櫛媛]](タマクシヒメ)<ref name="読み解き事典"/>」、『古事記』では「[[勢夜陀多良比売]](セヤダタラヒメ)<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>」とされている。いずれも、美女として知られていたと伝える<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="紀"|『日本書紀』「是国色之秀者」。}}{{refnest|group="記"|『古事記』「其容姿麗美」。}}。 [[本居宣長]]は、セヤ(勢夜)を[[大和国]][[平群郡]]勢野村([[奈良県]][[生駒郡]][[三郷町]])に比定している<ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。 ===異類婚による誕生=== 『日本書紀』『古事記』のいずれも、ヒメタタライスズヒメの誕生には[[異類婚]]が係わっている。父である神は、『日本書紀』では「八尋和邇」、『古事記』では「丹塗りの矢」に姿を変え、女性のもとを訪れている。このようにヒメタタライスズヒメは日本神話における異類婚による子の代表例として知られる<ref name="日本神話事典-異類婚"/>{{refnest|group="注"|神武天皇の父[[ウガヤフキアエズ]]も、母の[[トヨタマヒメ]]の正体は八尋和邇である。父の[[ホオリ]]はそのことを知らず、出産の様子をのぞき見してトヨタマヒメの真の姿を目撃してしまう。そのためトヨタマヒメは生まれた赤子を置き去りにして海へ帰ってしまう。この赤子が神武天皇の父である<ref name="日本神話事典-異類婚"/>。}}。 <!-- 『[[日本書紀]]』では[[事代主神]]の娘とされている<ref name="日本人名大辞典+"/>。 玉櫛媛は美貌で知られていた。[[事代主神]]は「[[和邇|八尋熊鰐]]」に姿を変えて玉櫛媛のもとへ通い、やがて娘が生まれる<ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|事代主神と玉櫛媛は媛蹈韛五十鈴媛命を「共生」したとある。これは、両者が男女としての通常の生殖の結果「共(あ)う(=逢う)ことで生まれた」と解釈するものと、神である事代主神が玉櫛媛と共に(協力しながら)超越的な力で造った、とする解釈がある。}}。これが媛蹈韛五十鈴媛命である<ref name="読み解き事典"/>。 --> === 古事記にみる誕生時の逸話 === 『[[古事記]]』では[[大物主神]]の娘とされている<ref name="日本人名大辞典+"/>{{refnest|group="注"|大物主神(大物主)は本来、[[三輪氏]]の[[氏神]]である<ref name="ニッポニカ-大物主"/>。一方、大物主は[[大国主]]([[スサノオ]]の子孫)の別名とする場合もあり、『日本書紀』では、大物主は大国主の[[和魂]]とする<ref name="ニッポニカ-大物主"/>。両者は元来は別の神と考えられている<ref name="大辞林-大物主"/><ref name="朝日人物-大物主"/>。}}。出身地は「[[美和]]」<ref name="日本人名大辞典+"/>ないし[[大和|大和地方]]の[[三輪山]]<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="学研2015"/>。 {|class=wikitable style='font-size:90%' |- |原文||美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。 |- |大意||美和の大物主神(大物主)は、美しい勢夜陀多良比売を見初めた。大物主は赤い矢(丹塗りの矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、ほと(陰所)を突いた<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。 |} {|class=wikitable style='font-size:90%' |- |原文||爾其美人驚而、立走伊須須岐伎、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子 |- |大意||驚いた勢夜陀多良比売が、立ち上がって、その矢を自分の部屋に持ち帰り、床に置くと、たちまち美男子の姿になった。そして(二人は結ばれ)勢夜陀多良比売は子を産んだ<ref name="朝日歴史人物事典"/><ref name="神道大辞典-勢夜姫"/>。 |} この子は「'''富登多多良伊須須岐比売'''(ホトタタライススキヒメ)」と名付けられた。これは「ホトを突かれてびっくりして生まれた子」の意とされる<ref name="朝日歴史人物事典"/>。。母親に似て美女であったともいう<ref name="日本神名辞典-比売"/>。 しかし本人は、「ホト」を嫌って「'''比売多多良伊須気余理比売'''(ヒメタタライスケヨリヒメ)」に名を改めた<ref name="朝日歴史人物事典"/>。 ===名前に関する諸説=== 当初の名前である「ホトタタラ」は、母の勢夜陀多良比売が陰部を矢で突かれたという説話に由来し、「陰元立(ほとたたら)」の意など、「立つ」の派生形とみる解釈がある<ref name="神道大辞典"/><ref name="朝日歴史人物事典"/>。あとから、この「ホト」を嫌って「ヒメ」へ改めたという<ref name="神道大辞典"/>。これとは別に、「タタラ」は母の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)から名の一部を受け継いだものとする説などもある。また「イススキ」は「驚いて立ち去る」の意だとされ、これを言い換えたのが「イスケ」とされる<ref name="神道大辞典"/>。 一方、名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある<ref name="小路田2005"/>。詳細は[[#たたら製鉄との関連]]参照。 「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説や<ref name="学研2015"/>、金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある。これらとは異なり、元の名の「イススキ」が「イスズ」に転訛したと考える説もある<ref name="神道大辞典"/>。 「ヨリ」は「ヨロシ(宜)」とする説や<ref name="神道大辞典"/>、[[ユリ]]の花に通じ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)の実家である[[三輪山]]の麓の[[狭井川]]川岸に咲く[[ササユリ]]を指すとの解釈もある<ref name="ヒメたち98"/>。 ==神武天皇の妻問い説話== 神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイワレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である[[大久米命]]が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった<ref name="読み解き事典"/><ref name="学研2015"/>。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。 『古事記』には、7人の女性が[[狭井川]]の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている<ref name="神道大辞典"/>。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="ヒメたち98"/>。 {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|夜麻登能|やまとの}} {{ruby|多加佐士怒袁|たかさじぬを}} {{ruby|那那由久|ななゆく}} {{ruby|袁登賣杼母|をとめども}} {{ruby|多禮袁志摩加牟|たれをしまかむ}} |- |[[大和|倭]]の高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ<ref name="ヒメたち98"/> |- |(大意)大和国の川の畔の高台をゆく7人の乙女のうち誰を妻とするか<ref name="ヒメたち98"/> |} 「高佐士野」は、[[狭井川]]沿いの台地を指している<ref name="ヒメたち98"/>。狭井川は[[三輪山]]を源とする小川で、[[大神神社]]境内ちかくを流れる<ref name="角川地名-狭井川"/>。[[大和川]](初瀬川)に合流する手前では[[天井川]]となって川岸が高くなっている<ref name="角川地名-狭井川"/>。 {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|加都賀都母|かつがつも}} {{ruby|伊夜佐岐陀弖流|いやさきだてる}} {{ruby|延袁斯麻加牟|えをしまかむ}} |- |かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ<ref name="ヒメたち98"/> |- |(大意)先頭をいく年長者(イスケヨリヒメ)にしよう<ref name="ヒメたち98"/> |} この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える<ref name="奈良県庁-狭井河"/>。   {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|阿米都都|あめつつ}} {{ruby|知杼理麻斯登登|ちどりましとと}} {{ruby|那杼佐祁流斗米|などさけるとめ}} |- |天地 千鳥真鵐 など[[黥]]ける利目 |- |(大意)あなたはなぜ、いろいろな鳥のように目のまわりに入れ墨をして、鋭い目つきをしているのですか。<ref name="奈良県庁-狭井河"/> |} これに対し大久米命は次のように返す。 {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|袁登賣爾|をとめに}} {{ruby|多陀爾阿波牟登|ただにあはむと}} {{ruby|和加佐祁流斗米|わがさけるとめ}} |- |媛女に 直に逢わんと 我が[[黥]]ける利目 |- |(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。<ref name="奈良県庁-狭井河"/> |} このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河([[狭井川]])の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている<ref name="奈良県庁-狭井河"/>。 {| style="background-color:WhiteSmoke;padding: 10px;" |- |{{ruby|阿斯波良能|あしはらの}} {{ruby|志祁志岐袁夜邇|しねしきをやに}} {{ruby|須賀多多美|すかたたみ}} {{ruby|伊夜佐夜斯岐弖|いやさやしきて}} {{ruby|和賀布多理泥斯|わかふたりねし}} |- |[[葦原]]の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し<ref name="ヒメたち98"/> |- |(大意)河原の草むらにあるむさ苦しい小屋に[[スゲ]]の畳をきれいに敷いて、二人で寝た<ref name="ヒメたち98"/><ref name="奈良県庁-狭井河"/> |} この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際には[[ササユリ]]のこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="角川地名-狭井川"/>。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている<ref name="角川地名-狭井川"/>。 ==たたら製鉄との関連== ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の名前のうち「タタラ」の部分を、[[たたら製鉄]]と結びつけて解釈し、古代日本における製鉄を示すものとする説がある<ref name="鈴本1979"/><ref name="小路田2005"/><ref name="学研2015"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』での名前表記に用いられている「鞴」の字は製鉄で用いる[[ふいご]]を指す<ref name="小路田2005"/>。}}{{refnest|group="注"|近代日本([[第二次世界大戦]]集結以前)には、日本における製鉄の起源は神代の時代にさかのぼるとされてきた<ref name="鈴本1979"/>。『日本書紀』や『古事記』には、[[天照大神]]が[[天岩戸]]に隠れた際に、「天香山(日本書紀)」ないし「天金山(古事記)」の鉄を用いて金属加工が行われたとのエピソードがある<ref name="鈴本1979"/><ref name="進藤1975"/>。現代では、製鉄技術は中国大陸から稲作とともに伝来したとみるのが一般的とされているものの<ref name="進藤1975"/>、考古学的な証拠研究は十分ではなく<ref name="進藤1975"/>、その起源や年代についての定説は確立されていない<ref name="鈴本1979"/>。文献史料的には、8世紀の『[[出雲国風土記]]』に製鉄が具体的に詳述されており、この時期にはすでに定着していただろうと考えられている<ref name="鈴本1979"/>。}}{{refnest|group="注"|鈴本禎一([[日本化学会]])は、5世紀初め頃のものという巨大な[[仁徳天皇陵]]は、鉄製の道具の確立によって建設可能となったものだろうとして、当時の[[大和朝廷]]が[[たたら製鉄]]の技術を確保していたのだろうとしている<ref name="鈴本1979"/>。[[東奈良遺跡]]([[大阪府]][[茨木市]])からはフイゴが出土しており、これと大和朝廷の製鉄と結びつける者もいる<ref name="吉野1975"/>。この東奈良遺跡(1971年発見)では[[銅鐸]]やその鋳型などが出土しており、銅鐸が作られていたことは確実視されている<ref name="ブリタニカ-東奈良遺跡"/>。}}。 [[小路田泰直]]([[奈良女子大学]])によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」は陰部を指すとともに火床のことでもある<ref name="小路田2005"/>{{refnest|group="注"|「ホト」は「溶鉱炉」を指すとも<ref name="吉野1975"/>。}}。すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される<ref name="小路田2005"/>。吉野裕([[日本文学協会]])は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている<ref name="吉野1975"/>。 [[本居宣長]]をはじめとする近世の[[国学者]]らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった<ref name="吉野1975"/>。彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという<ref name="吉野1975"/>。「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある<ref name="神道大辞典"/><ref name="朝日歴史人物事典"/>。 ==信仰の対象== [[明治天皇]]が1890年(明治23年)に創建した[[橿原神宮]]では、主祭神として神武天皇とヒメタタライスズヒメが祀られている<ref name="神道大辞典"/><ref name="日本神名辞典-比売"/>。 また、ヒメタタライスズヒメは、子供を救ったことから「子守明神」として崇められるようになり、[[率川神社]](奈良県奈良市本子守町)では主神として祀られている<ref name="ヒメたち98"/>{{refnest|group="注"|[[率川神社]]は、ヒメタタライスズヒメの故郷の地とされる三輪山・[[大神神社]]の摂社となっている<ref name="ヒメたち98"/>。}}。率川神社では例年6月に「三枝祭」(通称:ゆり祭り)があり、三輪山で栽培されたササユリを供えてヒメタタライスズヒメを祀る<ref name="ヒメたち98"/>。 ヒメタタライスズヒメの実家があったという[[狭井川]]の上流部には[[狭井神社]]がある。ここでは大神荒魂神を主祭神としつつ、ヒメタタライスズヒメや[[大物主神]](『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの父)、[[玉櫛媛|勢夜陀多良比売]](『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの母)、[[事代主神]](『日本書紀』によるヒメタタライスズヒメの父)を祀っている<ref name="平凡地名-狭井神社"/>。 このほか、津森神宮([[熊本県]][[上益城郡]][[益城町]])、[[甲佐神社]](熊本県上益城郡[[甲佐町]])で祀られている<ref name="神仏の辞典-姫"/>。 ==脚注== ===『日本書紀』原文=== <references group="紀"/> ===『古事記』原文=== <references group="記"/> ===注釈=== <references group="注"/> ===出典=== {{Reflist|colwidth=30em |refs= <!--神話・神道関係--> *<ref name="神道大辞典">『神道大辞典(縮刷版)』p1227「ヒメタタライスズヒメノミコト」</ref> *<ref name="神道大辞典-勢夜姫">『神道大辞典(縮刷版)』p861「セヤダタラヒメ」</ref> *<ref name="日本神名辞典-比売">『日本神名辞典』p320「比売多多良伊須気余理比売」</ref> *<ref name="日本神名辞典-姫">『日本神名辞典』p320「姫蹈韛五十鈴姫命」</ref> *<ref name="日本神名辞典-富登">『日本神名辞典』p335「富登多多良伊須須岐比売命」</ref> *<ref name="日本神名辞典-多芸">『日本神名辞典』p235「多芸志美美命」</ref> *<ref name="日本神名辞典-岐須">『日本神名辞典』p151「岐須美美命」</ref> *<ref name="日本神話事典-異類婚">『日本神話事典』p57-58「異類婚」</ref> *<ref name="神仏の辞典-比売">『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすけよりひめのみこと」</ref> *<ref name="神仏の辞典-富登">『日本の神仏の辞典』p1164「ほとたたらいすすきひめのみこと」</ref> *<ref name="神仏の辞典-姫">『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすずひめのみこと」</ref> *<ref name="古代神祇-いすけ">『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらいすけよりひめ(比売多多良伊須気餘理比売)」</ref> *<ref name="古代神祇-いすず姫">『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらすずひめのみこと(姫蹈韛五十鈴姫命)」</ref> *<ref name="古代神祇-いすず媛">『日本古代神祇事典』p702-703「ひめたたらいすけよりひめ(媛蹈韛五十鈴媛命)」</ref> *<ref name="古代神祇-ほと">『日本古代神祇事典』p730「ほとたたらいすすきひめのみこと(富登多多良伊須須岐比売命)」</ref> *<ref name="読み解き事典">『日本の神様読み解き事典』p199-200「富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売命/媛蹈鞴五十鈴媛命」</ref> *<ref name="読み解き事典-阿比良">『日本の神様読み解き事典』p40-41「阿比良比売/吾平津媛」</ref> *<ref name="読み解き事典-多芸志美美">『日本の神様読み解き事典』p152-153「多芸志美美命/手研耳命」</ref> *<ref name="学研2015">『古事記と日本の神々がわかる本』p90-91「イスケヨリヒメの物語」</ref> *<ref name="ヒメたち94">『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p94-97「初代皇后は「神の御子」」</ref> *<ref name="ヒメたち98">『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p98-101「歌で御子救った初代皇后」」</ref> *<ref name="大辞林-大物主">『[[大辞林|大辞林 第三版]]』,[[三省堂]],「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="ニッポニカ-大物主">『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』,[[小学館]],1984-1994,「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="朝日人物-大物主">『朝日日本歴史人物事典』,[[朝日新聞社]],1994,「大物主神」[https://kotobank.jp/word/大物主神-450980 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> <!--皇室関係--> *<ref name="歴代天皇紀-神武">『図説 歴代天皇紀』p37-41「神武天皇」</ref> *<ref name="歴代天皇紀-綏靖">『図説 歴代天皇紀』p42-43「綏靖天皇」</ref> *<ref name="系図-61">『系図纂要』新版 第1冊上 神皇(1),p61-63</ref> *<ref name="歴代皇后-神武">『歴代皇后人物系譜総覧』,p26-27「初代 神武天皇 皇后 媛蹈韛五十鈴媛命」</ref> <!--歴史人名関係--> *<ref name="新撰大人名辞典">『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』p262「ヒメタタライスズヒメノミコト」</ref> *<ref name="女性人名辞典">『日本女性人名辞典 普及版』p876「媛蹈鞴五十鈴媛命」</ref> *<ref name="よみかた">『日本史人名よみかた辞典』p925</ref> *<ref name="古代氏族">『日本古代氏族人名辞典 普及版』p504</ref> *<ref name="日本人名大辞典+">『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』,[[講談社]],2015,「媛蹈韛五十鈴媛命」[https://kotobank.jp/word/媛蹈韛五十鈴媛命-1122692 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="朝日歴史人物事典">『朝日日本歴史人物事典』,[[朝日新聞社]],1994,「姫踏鞴五十鈴媛命」[https://kotobank.jp/word/姫踏鞴五十鈴媛命-1137357 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="ブリタニカ-神武">『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』,2014,「神武天皇」[https://kotobank.jp/word/神武天皇-82633 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="ニッポニカ-神武">『[[日本大百科全書|日本大百科全書(ニッポニカ)]]』,[[小学館]],1984-1994,「神武天皇」[https://kotobank.jp/word/神武天皇-82633 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> <!--各種論文--> *<ref name="山﨑2013">山﨑かおり、「[https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.62.2_1 伊須気余理比売の誕生 -神武記丹塗矢伝承の背景-]」 『日本文学』 2013年 62巻 2号 p.1-11, {{doi|10.20620/nihonbungaku.62.2_1}} , 2018年7月30日閲覧。</ref> <!--製鉄--> *<ref name="吉野1975">吉野裕,[https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.24.8_75 「タタラと大田田根子の話(其蜩庵雑草 III)」] 『日本文学』 1975年 24巻 8号 p.75-83, {{doi|10.20620/nihonbungaku.24.8_75}}, 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="進藤1975">進藤義彦([[亜細亜大学]]アジア研究所),[http://id.nii.ac.jp/1385/00013673/ 「古代日本の鉄器文化の源流に関する一考察」] 1975年 『亜細亜大学教養部紀要』12, 99-118, 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="鈴本1979">鈴本禎一([[日本化学会]]),[https://doi.org/10.20665/kagakukyouiku.27.1_24 「たたら製鉄と和鋼記念館」] 1979年 『化学教育』1979年27巻1号 24-27, {{doi|10.20665/kagakukyouiku.27.1_24}}, 2018年7月30日閲覧。</ref> *<ref name="小路田2005">{{Cite journal|和書|author=小路田泰直 |date=2005-10 |url=https://hdl.handle.net/10935/433 |title=「古事記」「日本書紀」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から |journal=日本史の方法 |ISSN=1880-4985 |publisher=日本史の方法研究会 |volume=2 |pages=145-168 |id={{CRID|1050001338390927488}} |hdl=10935/433}}<!--論文情報では「日本書"記"」であるが本文では「日本書"紀"」--></ref> *<ref name="ブリタニカ-東奈良遺跡">『[[ブリタニカ国際大百科事典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]』,2014,「東奈良遺跡」[https://kotobank.jp/word/東奈良遺跡-119134 コトバンク版] 2018年7月30日閲覧。</ref> <!--地理関係--> *<ref name="角川地名-狭井川">『角川日本地名大辞典29 奈良県』p482-483「狭井川」</ref> *<ref name="平凡地名-狭井河">『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p436「狭井河」</ref> *<ref name="平凡地名-狭井神社">『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p435-436「狭井神社」</ref> *<ref name="奈良県庁-狭井河">奈良県庁 地域振興部 文化資源活用課,[http://www3.pref.nara.jp/miryoku/narakikimanyo/manabu/story/story07/ 第7話「狭井河の出会い」],2018年8月2日閲覧。</ref> }} ===書誌情報=== *『[[神道大辞典]](縮刷版)』,[[下中弥三郎]]/編,[[平凡社]],1937,1986(復刻版),ISBN 4-653-01347-0 *『日本神名辞典』,[[神社新報|神社新報社]],1994,1995(第2版),ISBN 4-915265-66-8 *『日本神話事典』,[[大林太良]]・[[吉田敦彦]]/監,[[大和書房]],1997,ISBN 4-479-84043-5 *『日本の神仏の辞典』,大島健彦・[[薗田稔]]・[[圭室文雄]]・[[山本節]]/編,[[大修館書店]],2001,ISBN 4-469-01268-8 *『日本古代神祇事典』,吉田和典/編,中日出版社,2000,ISBN 4-88519-158-0 *『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』,[[産経新聞]]取材班,[[産経新聞社]],2018,ISBN 978-4-8191-1336-6 *『日本の神様読み解き事典』,川口謙二/編著,[[柏書房]],1999,2009(第9刷),ISBN 4-7601-1824-1 *『古事記と日本の神々がわかる本』,吉田邦博/著,[[学研パブリッシング]],2015,ISBN 978-4-05-406340-2 *『図説 歴代天皇紀』,[[水戸部正男]]/編著,[[肥後和男]]・[[赤木志津子]]・[[福地重孝]]/著,[[秋田書店]],1989,ISBN 4-253-00297-8 *『系図纂要』新版 第1冊上 神皇(1),[[岩澤愿彦]]/監,名著出版,1996,ISBN 4-626-01541-7 *『歴代皇后人物系譜総覧』(別冊歴史読本24 第27巻29号・通巻618),佐藤實/編,[[新人物往来社]],2002 *『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』第五巻,下中邦彦/編,平凡社,1938,1979(復刻版) *『日本女性人名辞典 普及版』,[[芳賀登]]・[[一番ヶ瀬康子]]・[[中嶌邦]]・[[祖田浩一]]/監,[[日本図書センター]],1998,ISBN 4-8205-7881-2 *『日本史人名よみかた辞典』,[[日外アソシエーツ]],1999,ISBN 4-8169-1527-3 *『日本古代氏族人名辞典 普及版』,[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]・[[平野邦雄]],[[吉川弘文館]],1990,2010(普及版第一版),ISBN 978-4-642-01458-8 *『[[日本歴史地名大系|日本歴史地名大系30奈良県の地名]]』,平凡社,1981 *『[[角川日本地名大辞典]]29 奈良県』,角川日本地名大辞典編纂委員会・[[竹内理三]]・編,[[角川書店]],1990,ISBN 4-04-001290-9 ==関連項目== * [[五十鈴依媛命]] * [[率川神社]] {{歴代皇后一覧}} {{歴代日本の皇太后一覧}} {{DEFAULTSORT:ひめたたらいすすひめ}} [[Category:日本の皇后]] [[Category:日本の皇太后]] [[Category:古墳時代以前の女性皇族]] [[Category:生没年不詳]]
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武士
武士(ぶし、もののふ)は、日本での戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ江戸時代が終わるまで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。 奈良時代には既に存在していた武士は、その軍事力を以って急速に力を付け、平氏政権・鎌倉時代以降は、実質的に政権を主導する社会を構築した。さらに、幕末まで日本の歴史を牽引する中心的存在であった。近代に入って武士という存在そのものを廃したが、初期の明治政府の構成員は殆どが元武士であった。 古代・奈良時代には武芸に秀でた者、特に刀術と弓術に秀でた者を武士、或いは武芸之人と呼んだ。古代の武士は武芸の人であり、かつ戦士としても軍事面で活躍し、王権からも重要視された。そして特に優れた戦士に対しては武芸之士とも呼んだ。また坂上氏や小野氏のような、鎮守将軍を輩出する特定の軍事氏族のことを将種と言った。しかし将種は元慶の乱を平定することが出来ず、結果、10世紀には軍事氏族は消滅していくことになった。 武士という呼称は、王権の側に立ち反乱を鎮圧する者について呼ぶもので、地方に拠点を置き国家・王権に対して反乱を起こすものは兵(つわもの)、武夫と呼び、武士とは呼ばなかった。武士と呼ばれるか否かは、王権との関わりによって明確に区別されていた。だが10世紀ころ、天慶の乱をきっかけに、その残虐性から反乱者とともに、乱を鎮圧した王権側の武士も同様に嫌悪され、武士と兵(つわもの)との混同が起こり始め、武士も兵とも呼ばれるようになっていった。 武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。 武士の起源は私営田に在地する武装した開発領主とする。介入する受領に対抗し、配下の農奴を服属させるために武装した。 武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者・三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米史学では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」と、主張した。 この学説は広く受け容れられ、唯物史観の影響も受け、戦後も学界の主流を占めることとなった。武士とは、古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者であるとして石母田正らによって位置づけられた。だが20世紀後期には後述の職能論・国衙軍政論の研究の進展により、武士の起源は開発領主・在地領主ではなく、9世紀末の東国の乱や10世紀前半の承平・天慶の乱など、地方で起こった反乱の鎮圧の過程で中央から派遣され、勲功をあげた国家・王権の中下級官人らが中世武士となっていくと理解されるようになった。20世紀末には、武士が在地領主から発生したとする古典学説は完全に破綻したと見做され、21世紀前期の高校の日本史の教科書でも、武士の発生を在地領主と関連付ける記述は存在しない。 「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。 そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。 武士は、一般に「家族共同体あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、中国や朝鮮の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。中国の官僚登用試験では文官は科挙、武官は武科挙で登用するなど試験段階から分けられていた。 時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は国風文化の成立期にあたる平安中期に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。 では、武官と武士の違いとは何か。 簡単に言えば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。 また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理と、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。 律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」に軍事や経理、法務といった朝廷の行政機構を、アウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。 王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。 よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。 また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。 言わば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。 これとは別に中世の前期のころまでは、公卿クラスを含めて他者に対して実力による制裁権を行使できる者を「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれていることでも分かる。 武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。 しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層の側であるとする見解が提唱されている。彼らが平安後期の荘園公領制成立期から、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったと見る説である。つまり武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったとする。そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、軍事貴族と呼ぶ。 平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領達は騎馬襲撃戦を得意とする私兵として東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。 それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも、宇多天皇と醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った国政改革により、全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜形太刀を身につけ長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。 藤原秀郷・平高望・源経基らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層と同様に大規模な公田請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし、勲功への処遇の不満や、国衙側が彼らの新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。 この時点では、まだ、武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営ではなかった。しかし、11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で武力紛争が頻発するようになると、荘園および公領である郡・郷・保の徴税、警察、裁判責任者としての荘園の荘官や公領の郡司・郷司・保司に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。 これに対し、職能論では武士の発生を説明できないとして、地方と京都の二つを重視する桃崎有一郎の「武士ハイブリット論」([武士の起源を解き明かす」2018)が存在する。 武士は社会的身分であると同時に、武芸という芸能を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。つまり、馬上の射術や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。 また、中世になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在した。「源氏」および「平氏」の諸流と藤原秀郷の子孫の「秀郷流」が特に有名である。これら以外には藤原利仁を始祖とする「利仁流」や、藤原道兼の後裔とする宇都宮氏が多く、他に嵯峨源氏の渡辺氏や大江広元が有名な大江氏などがあり、有力な武士団はこれらの家系のいずれかを起源としていた。先祖の武名によって自分の家が武士として認められていたため、彼らは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。ただし、この論は周防の有力武士、大内氏には当てはまらず、大内氏は百済王の子孫を自称している。 「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、下向井龍彦らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。 「職能」起源論では、武士と見なされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」と見なされる階層が室町時代以降拡大していった。発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した郎党や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の格差が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の名主層と軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士が登場する。 このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。 江戸時代の武士の身分を以下におおまかに分類する。細かく分ければきりが無く、大名家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。 武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。 以下、特定の呼び名のものを挙げる。 武士は当初、「士分の侍」に象徴されるように天皇・皇族および公家など、貴族の警護や紛争の鎮圧を任とする階層・地下家出身の「軍事貴族」であったが、平清盛の平氏政権を経て鎌倉幕府の成立に至り、旧来の支配権力である朝廷・国司・荘園や僧綱に対して全国の政治権力を担う公権力に発展した。また、個々人の武士が国司・荘園領主として地方の政務を担う局面も拡大していった。 近世において武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、斬っても処罰されないとされる。これは当時の江戸幕府の法律である「公事方御定書」71条追加条によって明記されている。無礼は相手に対して失礼な態度を意味し、発言の場合は口下手ともいわれている。敬称を付けて「御武家さま」と呼ばれた。 初の武家政権である鎌倉幕府においては、大江広元、三善康信、二階堂行政や二階堂氏の文士御家人に代表される下級貴族を文官的存在として招聘した。 主に平安時代以降、鎌倉時代・建武政権・南北朝時代・室町時代・戦国時代・安土桃山時代と、次第に武士が公権力を担う領域は拡大し続けた。貴族を武家政権が招聘する例は続いたものの、実務を担う立場から顧問的な立場へと権限は縮小していった。そして元来軍人「武官」に相当する職務であった武士が「文官」として働くことが多くなった。 江戸時代以降は社会の全てを覆うようになり、幕府においても僧侶を顧問的立場として招聘する場合はあったが、貴族は政権から締め出された。これにより文官的な役目も全て武士が担うようになり、江戸時代以降の武士は、軍事から政治行政等へと活躍の場を移っていくことになる。また文芸や学問など、武芸とは関係無い才能を認められて新たに幕府や藩に登用された者も、武士としての身分が与えられた。このようなところにも、武士と武官の違いが現れているといえよう。江戸幕府においては文官及び行政担当に相当する武士を「役方」、武官に相当する武士を「番方」と呼んだ。 武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が武士達の上の最頂点に位置し、武家政権を樹立した。 戦国の武士の気風を受け継ぎ殉死などを行なう傾奇者を公秩序維持のため徳川家綱の代に禁止した。その後江戸時代では、義を重んじる武士としての思想が存在するようになる。このため、後世において武士道という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。 しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。そうした武士の一人、佐賀藩士・山本常朝が話した内容が『葉隠』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。 幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。 明治になり、武士の多くは士族となり、旧武士の身分は消滅した。しかし武士道という概念が後の時代に引き継がれるようになった。また一方で、美学として文学や芸能の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。 古代・中世武家社会が現代と大きく異なる点は、殺人が日常的な風景であったことである。当時の武士達は合戦や抗争の場に限らず、些細な出来事であっても、武器を手に取り友人や家臣を含めた人を殺害することに躊躇がなかった。 「弓馬の道」という言葉があるように、もともと武士は騎馬弓兵である。当然主要な武器は本来は弓矢であり、刀は武士の魂という言説は近代に生まれたという説がある。 刀剣は当初騎乗の武器ではなく、何らかの事情で下馬した際に初めて使用することが推奨されており、日常的に用いられる武器という認識が強かったとされる。これが治承・寿永の内乱以降、戦闘が拡大したことで元々非武士身分の者も参戦するようになると、以前は邪道とされる戦法が行われるようになり、馬上での太刀による白兵戦が増加した。その後、鎌倉時代末期以降に太刀や薙刀といった打物を主兵装とする騎兵も出現するようになり、南北朝時代には打物騎兵が主体となった。 さらに時代が下り、戦国時代になると騎兵の主兵装は槍に移り変わり、同時に歩兵主体になる。その過程で騎馬弓兵は衰退していったが、弓矢は戦国時代末期の刀狩りの令以降に武士の象徴が刀剣に変化していくまでは、理念上の武士のシンボルであり続けた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "武士(ぶし、もののふ)は、日本での戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ江戸時代が終わるまで存在した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "奈良時代には既に存在していた武士は、その軍事力を以って急速に力を付け、平氏政権・鎌倉時代以降は、実質的に政権を主導する社会を構築した。さらに、幕末まで日本の歴史を牽引する中心的存在であった。近代に入って武士という存在そのものを廃したが、初期の明治政府の構成員は殆どが元武士であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "古代・奈良時代には武芸に秀でた者、特に刀術と弓術に秀でた者を武士、或いは武芸之人と呼んだ。古代の武士は武芸の人であり、かつ戦士としても軍事面で活躍し、王権からも重要視された。そして特に優れた戦士に対しては武芸之士とも呼んだ。また坂上氏や小野氏のような、鎮守将軍を輩出する特定の軍事氏族のことを将種と言った。しかし将種は元慶の乱を平定することが出来ず、結果、10世紀には軍事氏族は消滅していくことになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "武士という呼称は、王権の側に立ち反乱を鎮圧する者について呼ぶもので、地方に拠点を置き国家・王権に対して反乱を起こすものは兵(つわもの)、武夫と呼び、武士とは呼ばなかった。武士と呼ばれるか否かは、王権との関わりによって明確に区別されていた。だが10世紀ころ、天慶の乱をきっかけに、その残虐性から反乱者とともに、乱を鎮圧した王権側の武士も同様に嫌悪され、武士と兵(つわもの)との混同が起こり始め、武士も兵とも呼ばれるようになっていった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "武士の起源は私営田に在地する武装した開発領主とする。介入する受領に対抗し、配下の農奴を服属させるために武装した。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "武士の起源に関する研究は中世の“発見”と密接に関わっている。明治時代の歴史学者・三浦周行らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米史学では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」と、主張した。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この学説は広く受け容れられ、唯物史観の影響も受け、戦後も学界の主流を占めることとなった。武士とは、古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者であるとして石母田正らによって位置づけられた。だが20世紀後期には後述の職能論・国衙軍政論の研究の進展により、武士の起源は開発領主・在地領主ではなく、9世紀末の東国の乱や10世紀前半の承平・天慶の乱など、地方で起こった反乱の鎮圧の過程で中央から派遣され、勲功をあげた国家・王権の中下級官人らが中世武士となっていくと理解されるようになった。20世紀末には、武士が在地領主から発生したとする古典学説は完全に破綻したと見做され、21世紀前期の高校の日本史の教科書でも、武士の発生を在地領主と関連付ける記述は存在しない。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に結びついた武士の起源を説明できない。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "武士は、一般に「家族共同体あるいは兵法家のこと」とされるが、これだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、中国や朝鮮の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。中国の官僚登用試験では文官は科挙、武官は武科挙で登用するなど試験段階から分けられていた。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は国風文化の成立期にあたる平安中期に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "では、武官と武士の違いとは何か。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "簡単に言えば、武官は「官人として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の公務員的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の家人』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理と、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」に軍事や経理、法務といった朝廷の行政機構を、アウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "言わば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これとは別に中世の前期のころまでは、公卿クラスを含めて他者に対して実力による制裁権を行使できる者を「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数含まれていることでも分かる。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された下級貴族・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの宗族出身の下級貴族が、武士団の上位にある武家の棟梁となった。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層の側であるとする見解が提唱されている。彼らが平安後期の荘園公領制成立期から、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったと見る説である。つまり武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったとする。そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、軍事貴族と呼ぶ。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領達は騎馬襲撃戦を得意とする私兵として東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。", "title": "武士起源論" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": 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"「職能」起源論では、武士と見なされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」と見なされる階層が室町時代以降拡大していった。発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した郎党や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の格差が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の名主層と軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士が登場する。", "title": "武士の身分" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。", "title": "武士の身分" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "江戸時代の武士の身分を以下におおまかに分類する。細かく分ければきりが無く、大名家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。", "title": "江戸時代" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "武士の身分を「士分」といい、士分は、大きく「侍」と「徒士(かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。", "title": "江戸時代" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "以下、特定の呼び名のものを挙げる。", "title": "江戸時代" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "武士は当初、「士分の侍」に象徴されるように天皇・皇族および公家など、貴族の警護や紛争の鎮圧を任とする階層・地下家出身の「軍事貴族」であったが、平清盛の平氏政権を経て鎌倉幕府の成立に至り、旧来の支配権力である朝廷・国司・荘園や僧綱に対して全国の政治権力を担う公権力に発展した。また、個々人の武士が国司・荘園領主として地方の政務を担う局面も拡大していった。", "title": "公権力の担い手" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "近世において武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、斬っても処罰されないとされる。これは当時の江戸幕府の法律である「公事方御定書」71条追加条によって明記されている。無礼は相手に対して失礼な態度を意味し、発言の場合は口下手ともいわれている。敬称を付けて「御武家さま」と呼ばれた。", "title": "公権力の担い手" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "初の武家政権である鎌倉幕府においては、大江広元、三善康信、二階堂行政や二階堂氏の文士御家人に代表される下級貴族を文官的存在として招聘した。", "title": "文官としての武士" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "主に平安時代以降、鎌倉時代・建武政権・南北朝時代・室町時代・戦国時代・安土桃山時代と、次第に武士が公権力を担う領域は拡大し続けた。貴族を武家政権が招聘する例は続いたものの、実務を担う立場から顧問的な立場へと権限は縮小していった。そして元来軍人「武官」に相当する職務であった武士が「文官」として働くことが多くなった。", "title": "文官としての武士" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "江戸時代以降は社会の全てを覆うようになり、幕府においても僧侶を顧問的立場として招聘する場合はあったが、貴族は政権から締め出された。これにより文官的な役目も全て武士が担うようになり、江戸時代以降の武士は、軍事から政治行政等へと活躍の場を移っていくことになる。また文芸や学問など、武芸とは関係無い才能を認められて新たに幕府や藩に登用された者も、武士としての身分が与えられた。このようなところにも、武士と武官の違いが現れているといえよう。江戸幕府においては文官及び行政担当に相当する武士を「役方」、武官に相当する武士を「番方」と呼んだ。", "title": "文官としての武士" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が武士達の上の最頂点に位置し、武家政権を樹立した。", "title": "武家の棟梁と武家政権" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "戦国の武士の気風を受け継ぎ殉死などを行なう傾奇者を公秩序維持のため徳川家綱の代に禁止した。その後江戸時代では、義を重んじる武士としての思想が存在するようになる。このため、後世において武士道という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。", "title": "武士道" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。そうした武士の一人、佐賀藩士・山本常朝が話した内容が『葉隠』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。", "title": "武士道" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "幕末の万延元年(1860年)、山岡鉄舟が『武士道』を著した。それによると「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。", "title": "武士道" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "明治になり、武士の多くは士族となり、旧武士の身分は消滅した。しかし武士道という概念が後の時代に引き継がれるようになった。また一方で、美学として文学や芸能の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。", "title": "武士道" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古代・中世武家社会が現代と大きく異なる点は、殺人が日常的な風景であったことである。当時の武士達は合戦や抗争の場に限らず、些細な出来事であっても、武器を手に取り友人や家臣を含めた人を殺害することに躊躇がなかった。", "title": "精神・文化" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "「弓馬の道」という言葉があるように、もともと武士は騎馬弓兵である。当然主要な武器は本来は弓矢であり、刀は武士の魂という言説は近代に生まれたという説がある。", "title": "精神・文化" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "刀剣は当初騎乗の武器ではなく、何らかの事情で下馬した際に初めて使用することが推奨されており、日常的に用いられる武器という認識が強かったとされる。これが治承・寿永の内乱以降、戦闘が拡大したことで元々非武士身分の者も参戦するようになると、以前は邪道とされる戦法が行われるようになり、馬上での太刀による白兵戦が増加した。その後、鎌倉時代末期以降に太刀や薙刀といった打物を主兵装とする騎兵も出現するようになり、南北朝時代には打物騎兵が主体となった。 さらに時代が下り、戦国時代になると騎兵の主兵装は槍に移り変わり、同時に歩兵主体になる。その過程で騎馬弓兵は衰退していったが、弓矢は戦国時代末期の刀狩りの令以降に武士の象徴が刀剣に変化していくまでは、理念上の武士のシンボルであり続けた。", "title": "精神・文化" } ]
武士(ぶし、もののふ)は、日本での戦闘員を指し、戦闘を家業とする家系にある者を指す。平安時代に生まれ江戸時代が終わるまで存在した。 宗家の主人を頂点とした家族共同体を作っていた特徴がある。 その上に、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)が位置し、武家政権を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。
{{Otheruses|2=|3=武士 (曖昧さ回避)}}{{出典の明記|date=2012年6月}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 武士 | header_align = center | header_background = #b79b5b | footer = | image1 = Samurai.jpg | width1 = 200 | caption1 = [[甲冑]]の一形式の[[当世具足]]を身に着けた[[侍]]<ref group="注">元の写真は[[フェリーチェ・ベアト]]による[[1860年代]]の撮影で、[[手彩色絵葉書|手彩色]]写真。</ref>。 }} '''武士'''(ぶし、もののふ)は、[[日本]]における[[戦闘員]]を指し、戦闘を[[家業]]とする[[家系]]にある者を指す。[[平安時代]]に生まれ、[[幕末期]]まで存在した。 [[宗家]]の主人を頂点とした[[家族]][[共同体]]を作っていた特徴がある。 その上に、[[武家の棟梁|武家の棟梁(ぶけのとうりょう)]]が位置し、[[武家政権]]を樹立した。武家の棟梁とは、一族や同盟関係にある者たちを統率するリーダーのことで、武士団を指導し、彼らからの信任と忠誠を受けていた。 == 概要 == {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 描かれた武士 | header_align = center | header_background = #b79b5b | footer = | image1 = NasunoYoichi.jpg | width1 = 220 | caption1 = 平安時代の武士、[[那須与一]]を描いた画/[[鳥取市]]の[[渡辺美術館]]所蔵。 | image2 = Sengoku period battle.jpg | width2 = 220 | caption2 = [[川中島の戦い]]([[天文 (日本)|天文]]22年[[[1553年]]])の様子が描かれた一図 | image3 = Samurai-Edo-Customs-1798-Shiji-no-Yukikai.png | width3 = 220 | caption3 = 町を行く江戸時代の武士たち<br />左から2人目と4人目が武士。[[山東京伝]]の風俗書『四時交加』([[1798年]]刊)内の[[挿絵]]。 }} [[奈良時代]]には既に存在していた武士は、その[[軍事力]]を以って急速に力を付け、[[平氏政権]]・[[鎌倉時代]]以降は、実質的に政権を主導する社会を構築した。さらに、[[幕末]]まで[[日本の歴史]]を牽引する中心的存在であった。[[近代#アジア|近代]]に入って武士という存在そのものを廃したが、初期の[[明治政府]]の構成員は殆どが元武士であった。 古代・[[奈良時代]]には[[武芸]]に秀でた者、特に[[刀術]]と[[弓術]]に秀でた者を'''武士'''、或いは'''武芸之人'''と呼んだ。古代の武士は武芸の人であり、かつ戦士としても軍事面で活躍し、王権からも重要視された{{Sfn|藤田|2013|p=86-87}}。そして特に優れた戦士に対しては'''武芸之士'''とも呼んだ{{Sfn|藤田|2013|p=88}}。また[[坂上氏]]や[[小野氏]]のような、[[鎮守府将軍|鎮守将軍]]を輩出する特定の軍事氏族のことを'''将種'''と言った{{Sfn|藤田|2013|pp=90-91}}。しかし将種は[[元慶の乱]]を平定することが出来ず、結果、10世紀には軍事氏族は消滅していくことになった{{Sfn|藤田|2013|p=91-93}}。 武士という呼称は、王権の側に立ち反乱を鎮圧する者について呼ぶもので、地方に拠点を置き国家・王権に対して反乱を起こすものは'''兵'''(つわもの)、'''武夫'''と呼び、武士とは呼ばなかった。武士と呼ばれるか否かは、王権との関わりによって明確に区別されていた{{Sfn|藤田|2013|p=93}}。だが10世紀ころ、[[天慶の乱]]をきっかけに、その残虐性から反乱者とともに、乱を鎮圧した王権側の武士も同様に嫌悪され、武士と兵(つわもの)との混同が起こり始め、武士も兵とも呼ばれるようになっていった{{Sfn|藤田|2013|pp=94-95}}。 == 武士起源論 == 武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。 * 古典的な、[[開発領主]]に求める説 * 近年提起された、[[職能]]に由来するという説 * [[律令制]]下での[[国衙軍制]]に起源を求める説 === 開発領主に求める説 === 武士の起源は[[私営田]]に在地する武装した[[開発領主]]とする。介入する受領に対抗し、配下の農奴を服属させるために武装した。 {{Main|[[辺境伯]]#}} 武士の起源に関する研究は[[中世]]の“発見”と密接に関わっている。[[明治]]時代の[[歴史学者]]・[[三浦周行]]らによって日本にも「中世」があったことが見出された。当時の欧米[[歴史学|史学]]では、中世は欧米に特有のもので、近代へ発展するために必須な時代とされていた。アジア・アフリカはいまだ古代社会であり、欧米のような近代社会に発展することは不可能とされていた。三浦らは、ヨーロッパの中世が、[[ゲルマン民族の大移動]]によって辺境で発生した「武装した封建領主」である[[騎士]]によって支えられていたことに着目し、日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」と、主張した。 この学説は広く受け容れられ、[[唯物史観]]の影響も受け、戦後も学界の主流を占めることとなった。武士とは、古代支配階級である[[貴族]]や[[宗教]]勢力を排除し、中世をもたらした変革者であるとして[[石母田正]]らによって位置づけられた。だが20世紀後期には後述の職能論・国衙軍政論の研究の進展により、武士の起源は開発領主・[[在地領主]]ではなく、9世紀末の東国の乱や10世紀前半の承平・天慶の乱など、地方で起こった反乱の鎮圧の過程で中央から派遣され、勲功をあげた国家・王権の中下級官人らが中世武士となっていくと理解されるようになった{{Sfn|下向井|1994|p=218}}{{Sfn|高木|2023|pp=62-63}}。20世紀末には、'''武士が在地領主から発生したとする古典学説は完全に破綻した'''と見做され{{Sfn|下向井|2000|p=1}}、21世紀前期の高校の日本史の教科書でも、武士の発生を在地領主と関連付ける記述は存在しない{{Sfn|高木|2023|pp=61-63}}。 === 職能論 === 「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、[[武士団]]の主要メンバーである[[源氏]]、[[平氏]]、[[藤原氏]]などを起源とする上級武士や[[朝廷 (日本)|朝廷]]、[[院]]など[[権門]]と密接に結びついた武士の起源を説明できない。 そこで、[[佐藤進一]]、[[上横手雅敬]]、[[戸田芳実]]、[[高橋昌明]]らによってこれら在京の武士を武士の起源とする「職能」武士起源論が提唱された。 ==== 武官と武士の違い ==== 武士は、一般に「家族共同体あるいは[[兵法家]]のこと」とされるが、これだけでは[[平安時代]]以前の[[律令制|律令]]体制下の「[[武官]]」との違いがはっきりしない。例えば、武人として名高い[[征夷大将軍]]の[[坂上田村麻呂]]は、すぐれた武官であるが、武士であるとはいえない。また、[[中国]]や[[朝鮮]]の「武人」との違いも明確でない。中国や朝鮮には「武人」は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。中国の官僚登用試験では[[文官]]は[[科挙]]、[[武官]]は武科挙で登用するなど試験段階から分けられていた。 時代的に言えば、「武士」と呼べる存在は[[国風文化]]の成立期にあたる平安中期に登場する。つまり、それ以前の武に従事した者は、武官ではあっても武士ではない。 では、武官と武士の違いとは何か。 簡単に言えば、武官は「[[官人]]として武装しており、律令官制の中で訓練を受けた常勤の[[公務員]]的存在」であるのに対して、武士は「10世紀に成立した新式の武芸を家芸とし、武装を[[朝廷 (日本)|朝廷]]や[[国府|国衙]]から公認された『下級貴族』、『下級官人』、『有力者の[[家人#中世の家人|家人]]』からなる人々」であって、律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。 また、単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。この点が[[歴史学]]において十分解明されていなかった時期には武士を国家の統制外で私的に武装する[[暴力団]]的なものと捉える見解もあった。ただし、武装集団である武士社会の行動原理と、現代社会では[[ヤクザ]]などの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。 律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の「[[家屋|家]]」に[[軍事]]や経理、法務といった朝廷の行政機構を、[[アウトソーシング]]していったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。 [[王朝国家]]体制では[[正四位|四位]]、[[正五位|五位]]どまりの受領に任命されるクラスの実務官人である下級貴族を[[諸大夫]](しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に仕える[[正六位|六位]]どまりの技能官人や家人を[[侍]](さむらい)と呼び、彼らが行政実務を担っていた。武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、在[[京都|京]]の[[清和源氏]]や[[桓武平氏]]などの[[軍事貴族]]が諸大夫身分、大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に君臨する[[受領]]が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが侍身分であった。こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る[[17世紀]]初頭の[[日葡辞書]]に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して記載されていることにもその一端が現れている。 よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うよりも、むしろ、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。 また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの英才教育で伝えられるとともに、能力を見込んだ者を弟子や[[郎党]]にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして増加していったと考えられる。 言わば、国家から[[免許]]を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。 これとは別に中世の前期のころまでは、[[公卿]]クラスを含めて他者に対して実力による制裁権を行使できる者を「武士」と言い表す呼称も存在した。このことは、[[院政]]下で活躍した[[北面武士]]などもその名簿を参照すると、侍身分以外の[[僧侶]]・[[神官]]などが多数含まれていることでも分かる。 ==== 「職能」武士の起源 ==== 武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した面を重視する説が主流であった。そうした武装集団が武士団として組織化されるにあたって、都から国司などとして派遣された[[地下人|下級貴族]]・下級官人層を棟梁として推戴し、さらに大規模な組織化が行われると、[[清和源氏]]や[[桓武平氏]]のような[[皇室]]ゆかりの[[宗族]]出身の下級貴族が、武士団の上位にある[[武家の棟梁]]となった。 しかし近年は、むしろ起源となるのは清和源氏や桓武平氏のような貴族層、下級官人層の側であるとする見解が提唱されている。彼らが平安後期の[[荘園公領制]]成立期から、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったと見る説である。つまり武士団としての組織化は、下から上へでなく、上から下へとなされていったとする。そうした武士の起源となった、軍事を専業とする貴族を、[[軍事貴族]]と呼ぶ。 平安時代、朝廷の地方支配が筆頭[[国司]]である[[受領]]に権力を集中する体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪[[百姓]]層の武装襲撃が頻発するようになった。当初、受領達は騎馬襲撃戦を得意とする私兵として東北制圧戦争に伴って各地に捕囚として抑留された[[蝦夷]]集団、すなわち[[俘囚]]を鎮圧に当たらせた。しかし俘囚と在地社会の軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。 それに替わって、俘囚を[[私兵]]として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。おりしも、[[宇多天皇]]と[[醍醐天皇]]が[[菅原道真]]や[[藤原時平]]らを登用して行った国政改革により、全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、[[大鎧]]と[[毛抜形太刀]]を身につけ[[長弓]]を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての公認を受けた。 [[藤原秀郷]]・[[平高望]]・[[源経基]]らがこの第一世代の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層と同様に大規模な[[公田]]請作を国衙と契約することで武人としての経済基盤を与えられた。しかし、勲功への処遇の不満や、国衙側が彼らの新興の武人としての誇りを踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが武人としての自負から地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、[[藤原純友]]や平高望の孫の[[平将門]]らによる反乱、[[承平天慶の乱]]であった。 この時点では、まだ、武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営ではなかった。しかし、[[11世紀]]半ばに[[荘園 (日本)|荘園]]の一円化が進み、諸国の荘園[[公領]]間で武力紛争が頻発するようになると、荘園および公領である[[郡]]・[[郷]]・[[保]]の[[徴税]]、[[警察]]、[[裁判]]責任者としての荘園の[[荘官]]や公領の[[郡司]]・[[郷司]]・[[保司]]に軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである。 <!--[[File:Takezaki suenaga ekotoba bourui.jpg|thumb|center|800px|[[博多区]]には武士がいました、[[元寇]](1293年)。『[[蒙古襲来絵詞]]』に描かれた建設当時の石築地。]]--> これに対し、職能論では武士の発生を説明できないとして、地方と京都の二つを重視する[[桃崎有一郎]]の「武士ハイブリット論」([武士の起源を解き明かす」2018)が存在する'''。''' ==== 芸能の家としての武士 ==== 武士は社会的[[身分]]であると同時に、武芸という[[芸能]]を家業とする職業的な身分であるとも規定できる。つまり、[[ウマ|馬]]上の[[騎射|射術]]や合戦の作法を継承する家に生まれ、それを継いだ人物が武士であると言える。 また、[[中世]]になり武門の家が確立した後でも、それとは別に朝廷の武官に相当する職種が一応存在した。「[[源氏]]」および「[[平氏]]」の諸流と[[藤原秀郷]]の子孫の「秀郷流」が特に有名である。これら以外には[[藤原利仁]]を始祖とする「利仁流」や、[[藤原道兼]]の後裔とする[[宇都宮氏]]が多く、他に[[嵯峨源氏]]の[[渡辺氏]]や[[大江広元]]が有名な[[大江氏]]などがあり、有力な[[武士団]]はこれらの家系のいずれかを起源としていた。[[先祖]]の武名によって自分の家が武士として認められていたため、彼らは自分の家系や高名な先祖を誇っていたとも言える。ただし、この論は[[周防国|周防]]の有力武士、[[大内氏]]には当てはまらず、大内氏は[[百済王]]の子孫を自称している。 === 国衙軍制論 === {{see also|国衙軍制}} 「職能」起源論では地方の武士を十分説明できるわけではない。確かに源平藤橘といった貴族を起源とする武士や技術としての武芸については説明ができるが、彼らの職能を支える経済的基盤としての所領や人的基盤としての主従関係への説明が弱すぎる。こうした弱点を克服する議論として主張されはじめたのが、[[下向井龍彦]]らによって主張されているように、出現期の武士が田堵負名としての経済基盤を与えられており、11世紀の後期王朝国家に国家体制が変質した時点で、荘園公領の管理者としての領主身分を獲得したとする議論である。 == 武士の身分 == 「職能」起源論では、武士と見なされる社会階層は源氏、平氏などの発生期には武芸を家業とする諸大夫、侍身分のエリート騎馬戦士に限定されていたとし、その後、中世を通じて「狭義の武士」との主従関係を通じて「広義の武士」と見なされる階層が[[室町時代]]以降拡大していった。発生期の武士の家組織の内部奉公人の中においても武士と同様に戦場では騎馬戦士として活動した[[郎党]]や、徒歩で戦った従卒がいたが、室町・戦国期になると武士身分の格差が大きくなり、狭義の武士同士の主従関係のほかに、本来は百姓身分でありながら狭義の武士の支配する所領の[[名主]]層と軍役を通じて主従関係を持つようになった広義の武士が登場する。 このように室町時代以降、武士内部に複雑な身分階層が成立していったが、これらは拡大した武士身分の範囲が一応確定された江戸時代の武士内部の身分制度に結実している。 == 江戸時代 == 江戸時代の武士の身分を以下におおまかに分類する。細かく分ければきりが無く、[[大名]]家などによっても分け方や名称が違うため、あくまで大体の目安である。 武士の身分を「[[士分]]」といい、士分は、大きく「[[侍]]」と「[[徒士]](かち)」に分けられる。これは南北朝時代以降、戦場への動員人数が激増して徒歩での集団戦が主体となり、騎馬戦闘を行う戦闘局面が比較的限定されるようになっても、本来の武士であるか否かは騎馬戦闘を家業とする層か否かという基準での線引きが後世まで保持されていったためである。 * 「侍」は狭義の、つまり本来の武士であり、所領を持ち、戦のときは馬に乗る者で「[[御目見え]]」の資格を持つ。江戸時代の記録には'''騎士'''と表記され、これは徒士との比較語である。また、上士とも呼ばれる。 ** 「侍」の内、1000石程度以上の者は[[大身]](たいしん)、人持ちと呼ばれることがあり、戦のときは[[備]]の[[侍大将]]となり、平時は[[奉行]]職等を歴任し、抜擢されて[[側用人]]や[[仕置き家老]]となることもある。それ以下の「侍」は[[平侍]](ひらざむらい)、平士、馬乗りなどと呼ばれる。 * 「徒士」は[[扶持]]米をもらい、徒歩で戦うもので、「御目見え」の資格を持たない。下士、軽輩、無足などとも呼ばれる。 以下、特定の呼び名のものを挙げる。 * [[江戸幕府|幕府]]の[[旗本]]は「侍」、[[御家人]]は「徒士」である。 * 幕府の役所の下役で一代限り雇用名目の者達のうち、[[与力]]は本来は寄騎、つまり戦のたびに臨時の主従関係を結ぶ武士に由来する騎馬戦士身分で「侍」、[[同心]]は「徒士」である。 * [[代官]]所の下役である[[代官手附|手付]]は「侍」、[[手代]]は「徒士」である。 * [[郷士]]は郷に住む武士で、少数は「侍」身分だが、多くは「徒士」身分である。 * [[足軽]]は士分格を持たない。発生期の武士の戦闘補助を行った従卒と同一の階層とみなされたわけである。但し、時代が下ると共に徒士と同じ下級武士として待遇されていった。 * [[武家奉公人]]の内、若党は士分で「徒士」身分である。 * お抱えは、一代限りの雇用の者だが、実際は世襲することも多く、軽輩の者が多いなかで、専門職で侍身分の者もいた。学者、医者等もお抱え雇用されることが多かった。 == 公権力の担い手 == 武士は当初、「[[士分]]の[[侍]]」に象徴されるように[[天皇]]・[[皇族]]および[[公家]]など、[[貴族]]の[[警護]]や紛争の鎮圧を任とする階層・[[地下家]]出身の「[[軍事貴族]]」であったが、[[平清盛]]の[[平氏政権]]を経て[[鎌倉幕府]]の成立に至り、旧来の支配権力である[[朝廷 (日本)|朝廷]]・[[国司]]・荘園や[[僧綱]]に対して全国の政治権力を担う公権力に発展した。また、個々人の武士が国司・荘園領主として地方の政務を担う局面も拡大していった。 [[近世]]において武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、斬っても処罰されないとされる。これは当時の[[江戸幕府]]の法律である「[[公事方御定書]]」71条追加条によって明記されている<ref group="注">ただし、同書成立の以前から[[慣習法]]などの形として認められていたと考えられている。</ref>。無礼は相手に対して失礼な態度を意味し、発言の場合は口下手ともいわれている<ref>goo国語辞書</ref>。敬称を付けて「'''御武家さま'''」<ref group="注">間違っても「'''お侍さま'''」とは言ってはいけなかった。必ず、無礼者として[[切捨御免]]の対象として扱われた。</ref>と呼ばれた。 {{Main|[[武家官位]]#}} == 文官としての武士 == 初の武家政権である[[鎌倉幕府]]においては、[[大江広元]]、[[三善康信]]、[[二階堂行政]]や[[二階堂氏]]の文士御家人に代表される[[下級貴族]]を文官的存在として招聘した。 主に[[平安時代]]以降、[[鎌倉時代]]・[[建武政権]]・[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]・[[室町時代]]・[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]・[[安土桃山時代]]と、次第に武士が公権力を担う領域は拡大し続けた。貴族を武家政権が招聘する例は続いたものの、実務を担う立場から顧問的な立場へと権限は縮小していった。そして元来軍人「武官」に相当する職務であった武士が「文官」として働くことが多くなった。 [[江戸時代]]以降は社会の全てを覆うようになり、幕府においても僧侶を顧問的立場として招聘する場合はあったが、貴族は政権から締め出された。これにより文官的な役目も全て武士が担うようになり、江戸時代以降の武士は、軍事から政治行政等へと活躍の場を移っていくことになる。また文芸や学問など、武芸とは関係無い才能を認められて新たに幕府や藩に登用された者も、武士としての身分が与えられた。このようなところにも、武士と武官の違いが現れているといえよう。[[江戸幕府]]においては文官及び行政担当に相当する武士を「役方」、武官に相当する武士を「番方」と呼んだ。 == 武家の棟梁と武家政権== [[武家の棟梁|武家の棟梁(ぶけのとうりょう)]]が武士達の上の最頂点に位置し、[[武家政権]]を樹立した。 * [[平氏政権]]<ref>最初期の武家政権として、[[織田政権]]と[[豊臣政権]]を除く</ref>と[[室町幕府]]は[[畿内|畿内(きない)]]に本拠地を置いていた。 * [[鎌倉幕府]] と[[江戸幕府]]は[[関東]]に本拠地を置いた。 ** [[後醍醐天皇]]の[[建武の新政|建武の新政(けんむのしんせい)]]では関東に[[鎌倉将軍府]]を、室町幕府は関東に[[鎌倉府]]を置いた。 == 武士道 == {{main|武士道}} 戦国の武士の気風を受け継ぎ[[殉死]]などを行なう[[かぶき者|傾奇者]]を公秩序維持のため[[徳川家綱]]の代に禁止した。その後江戸時代では、義を重んじる武士としての思想が存在するようになる。このため、後世において[[武士道]]という概念につながるような、武士としての理想や支配者としての価値観としての「士道」が生まれた。 しかし、安定期であった江戸時代を通じて形成された、儒教的な「士道」に反発し武士としての本来のありようを訴える人もいた。そうした武士の一人、[[佐賀藩]]士・[[山本常朝]]が話した内容が『[[葉隠]]』に「武士道」という記述としてまとめられているが、それは武士社会に広まることはなかった。 幕末の[[万延]]元年([[1860年]])、[[山岡鉄舟]]が『武士道』を著した。それによると「''神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ''」とあり、少なくとも山岡鉄舟の認識では、中世より存在したが、自分が名付けるまでは「武士道」とは呼ばれていなかったとしている。 === 武士道と近代の意識 === [[明治]]になり、武士の多くは[[士族]]となり、旧武士の身分は消滅した。しかし[[武士道]]という概念が後の時代に引き継がれるようになった。また一方で、[[美学]]として[[文学]]や[[芸能]]の世界でさまざまなかたちとなってあらわれた。 ==精神・文化== {{See also|武芸 (日本)|古武道}} 古代・中世武家社会が現代と大きく異なる点は、殺人が日常的な風景であったことである。当時の武士達は合戦や抗争の場に限らず、些細な出来事であっても、武器を手に取り友人や家臣を含めた人を殺害することに躊躇がなかった<ref>細川重男『頼朝の武士団―将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉― 』(洋泉社、2012年)153頁</ref>。 「弓馬の道」という言葉があるように、もともと武士は騎馬弓兵である。当然主要な武器は本来は弓矢であり、刀は武士の魂という言説は近代に生まれたという説がある。 刀剣は当初騎乗の武器ではなく、何らかの事情で下馬した際に初めて使用することが推奨されており、日常的に用いられる武器という認識が強かったとされる<ref>近藤好和『弓矢と刀剣』(吉川弘文館、1997年)121頁</ref>。これが[[治承・寿永の乱|治承・寿永の内乱]]以降、戦闘が拡大したことで元々非武士身分の者も参戦するようになると、以前は邪道とされる戦法が行われるようになり<ref>川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ―治承・寿永の内乱史研究―』(講談社、2010年)</ref>、馬上での太刀による白兵戦が増加した<ref>近藤好和『弓矢と刀剣』(吉川弘文館、1997年)138頁</ref>。その後、鎌倉時代末期以降に太刀や薙刀といった打物を主兵装とする騎兵も出現するようになり、南北朝時代には打物騎兵が主体となった<ref>近藤好和『武具の日本史』(平凡社、2010年)66頁。</ref><ref group="注">[[軍忠状]]や[[注文]]状に記載されている戦傷の統計から、当時の戦闘は飛び道具中心の遠戦志向だったという指摘がある(鈴木眞哉『「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場』洋泉社、)。これに対し軍忠状や注文状の戦傷は片方の軍勢の内訳であって、死因は不明で戦場の状況・地形も不明であり、受け身側のみの状況しか分からないため断定できないという反論もある(近藤好和『弓矢と刀剣』吉川弘文館、1997年)(渡邉大門『真実の戦国時代』柏書房、)。さらに軍忠状や注文状は、基本的に敗軍側は作成しないという指摘もある(笹間良彦『図説 日本戦陣作法辞典』柏書房、)</ref>。 さらに時代が下り、戦国時代になると騎兵の主兵装は槍に移り変わり、同時に歩兵主体になる<ref group="注">騎上での戦いがなくなったわけではなく、当時の「戦功書上」において騎兵が槍や刀剣で白兵戦をした例がある。個々の騎馬武者らが指揮官の指示によらず、独自に判断して騎乗したまま戦うか下馬するか判断した(渡邊大門『真実の戦国時代』柏書房、170頁。)</ref>。その過程で騎馬弓兵は衰退していったが、弓矢は戦国時代末期の[[刀狩り]]の令以降に武士の象徴が刀剣に変化していくまでは、理念上の武士のシンボルであり続けた。 == 武者・武士に関する用語 == === 武者・武士に関する言葉など === * [[武者絵]] :武者の姿や合戦を描いた[[浮世絵]]。一般的な広義では、同様の伝統的様式に則った[[日本画]]全般。 * 武者押し :武者が隊列を組んで進んでいくこと。 * 武者返し :[[武家屋敷]]で、[[長屋|表長屋]]の外溝の縁に一歩置きに立てた石。 * 武士は相身互い :武士同士は同じ立場にあるから、互いに思いやりをもって助け合うべきである。 * 武士に二言なし :武士は信義を重んじ、約束を守り、いったん言ったことを取り消すようなことはしない。 * 武士は食わねど高楊枝 :武士はたとえ貧乏でものを十分に食べられなくても、十分に食べたかのようなふりをして楊枝を使って空腹を人に見せない。武士の清貧に安んずること、気位の高く保つこと。 == 武士の武具 == {{main|武士の武具}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = 武士の武具 | header_align = center | header_background = #b79b5b | footer = | image1 = Samurai o-yoroi.jpg | width1 = 220 | caption1 = 侍の[[大鎧]]/[[東京国立博物館]]所蔵。 | image2 = MAP Expo Oitaragainari kawari kabuto XVII 02 01 2012.jpg | width2 = 200 | caption2 = 侍の[[変わり兜]]<br />17世紀、江戸時代の作。[[アメリカ合衆国|米国]]は[[ダラス]]にあるアン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館<ref group="注">Ann and Gabriel Barbier-Mueller Museum.[http://www.samuraicollection.org/Welcome.html].</ref>所蔵。 }} [[file:Old Japanese military paraphernalia.jpg|thumb|220px|日本の歴史的軍装品。]] [[ファイル:Samurai-in-Armour-by-Kusakabe-Kimbei.png|thumb|220px|[[武具]]を身に着けた侍<br />[[手彩色絵葉書|手彩色]]写真。元の写真は[[明治]]13年([[1880年]])ごろの撮影。]] [[ファイル:Kabuki actors dressed as samurai in 1880.jpg|thumb|220px|侍に[[変装|扮した]][[歌舞伎|歌舞伎役者]]<br />[[手彩色絵葉書|手彩色]]写真。元の写真は明治13年([[1880年]])ごろの撮影。]] [[ファイル:SaigoWithOfficers.jpg|thumb|220px|[[西南戦争]](明治10年[[[1877年]]])での武士の様子を描いた絵<!--絵の制作年との混同防ぐ--><br />[[フランス]]の絵入り[[週刊誌]]<ref>illustrated news magazine. cf. [[w:Newsmagazine|newsmagazine]].</ref>『ル・モンド・イリュストレ([[w:Le Monde Illustré|en]])』<ref>cf. 新聞([[夕刊紙]])『[[ル・モンド]]』</ref>の速報記事に「西南戦争における[[西郷隆盛]]とその将兵達」として掲載された[[挿絵]]。]] [[ファイル:Dog - Hata Rokurozaemon with his dog.jpg|thumb|right|160px|[[歌川国芳]]『武勇見立十二支 畑六良左エ門』<br />[[薙刀]]を身に着けた[[畑時能]]と犬「犬獅子」『[[太平記]]』による<ref>[http://www.oidenense.net/stories/hata/ 勝山物語(畑時能物語)]</ref>。]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2012年6月}} * [[石井進]]著作集刊行会編 『石井進著作集 - 5鎌倉武士の実像』 [[岩波書店]]。ISBN 400092625X。 * 石井進『鎌倉武士の実像』[[平凡社]]、2002年。ISBN 4582764495。 * [[石母田正]]『中世的世界の形成』 岩波書店、1985年。ISBN 4003343611。 * [[磯田道史]]『[[武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新]]』 [[新潮社]]〈[[新潮新書]]〉、2003年。ISBN 4106100053。 * [[竹内理三]]『日本の歴史(6)武士の登場』中央公論新社。ISBN 4122044383。 * [[笹間良彦]]『下級武士足軽の生活』生活史叢書17 雄山閣 1991年。 * 柴田純 『江戸武士の日常生活―素顔・行動・精神』 講談社、2000年。ISBN 4062581965。 *{{Cite journal ja-jp | author = 下向井龍彦 | year = 1994 | title = 捕亡令「臨時発兵」規定の適用からみた国衙軍制の形成過程 : 戦術革命と「武勇輩」の形成 | journal = 内海文化研究紀要 | issue = 22 | volume = | publisher = 広島大学文学部内海文化研究施設 | naid = 120002036723 | ref = harv }} *{{Cite journal ja-jp | author = 下向井龍彦 | year = 2000 | title = 武士形成における俘囚の役割 : 蕨手刀から日本刀への発展/国家と軍制の転換に関連させて | journal = 史学研究 | issue = 228 | volume = | publisher = 広島史学研究会 | naid = 120002260258 | ref = harv }} * 下向井龍彦『武士の成長と院政』 [[講談社]]、2001年。ISBN 4062689073。 * 進士慶幹編『江戸時代 武士の生活』生活史叢書1 [[雄山閣]]、1980年。 *{{Cite journal ja-jp | author = 高木徳郎 | year = 2023 | title = 日本中世の武士をめぐる高校生の歴史認識 | journal = 早稲田大学大学院教育学研究科紀要 | issue = 33 | volume = | publisher = 早稲田大学大学院教育学研究科 | naid = | ref = harv }} * 高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』 [[東京大学出版会]]。ISBN 4130201220。 * 野口実『武家の棟梁の条件―中世武士を見なおす』 [[中公新書]] [[中央公論社]] 1994年。ISBN 4121012178。 *{{Cite journal ja-jp | author = 藤田佳希 | year = 2013 | title = 王権から見た武士 -武士・将種・兵- | journal = 早稲田大学大学院文学研究科紀要 | issue = 59 | volume = 4 | publisher = 早稲田大学大学院文学研究科 | naid = 40020017989 | ref = harv }} * 武士生活研究会『絵図でさぐる武士の生活』(全3巻)[[柏書房]] ISBN 4760101705、ISBN 4760101713、ISBN 4760101721。 * 武士生活研究会『図録 近世武士生活史入門事典』 柏書房、1991年。ISBN 4760106049。 == 関連項目 == {{Wiktionary|武士}} {{Commonscat|Samurai|武士および侍}} * [[日本の軍事史]] * [[侍]] / [[軍事貴族]] / [[武士団]] / [[豪族]] **これらは時期により呼称が異なっている。例として豪族は中世以降には使われることが少ない。 * [[武蔵七党]] * [[武家]] / [[武家の棟梁]] / [[武家政権]] / [[幕府]] * [[将種]] / [[鎮守府将軍]] / [[征夷大将軍]] * [[幕府]] ** [[鎌倉幕府]] / [[室町幕府]] / [[江戸幕府]] * [[鎌倉殿]] / [[室町殿]] * [[守護大名]] / [[戦国大名]] / [[大名]] * [[御家人]] / [[守護]] / [[地頭]] / [[非御家人]] * [[国人]] / [[地侍]] * [[主君]] / [[家臣]] * [[浪人]] / [[士族]] * [[寺侍]] * [[武士道]] * [[見聞諸家紋]] * [[源氏]] - [[嵯峨源氏]]、[[清和源氏]] * [[平氏]] - [[桓武平氏]] * [[藤原秀郷|秀郷流藤原氏]] - 道兼流藤原氏 * [[橘氏]] * [[物部氏]] * [[大伴氏]] * [[大江氏]] * [[国風文化]] * [[王朝国家]] * [[摂関政治]] / [[院政]] * [[中世#日本|中世]] * [[国衙軍制]] * [[騎士]] * [[騎士道]] * [[刀は武士の魂]] * [[海外出身の武士の一覧]] == 外部リンク == * [http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_34.html 武士の発生と成立-下向井龍彦氏の「兵=武士」] * [http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_35.html 武士の発生と成立-髙橋昌明氏の「武士の成立 武士像の創出」] * [http://iwasebunko.com/contents/library069.html 『八盃豆腐』](武士の振る舞いに関する指南書、江戸時代後期写) - [[西尾市岩瀬文庫]] * [https://sanadada.com/3892/ 中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~] {{日本関連の項目}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふし}} [[Category:武士|!]] [[Category:平安時代]] [[Category:鎌倉時代]] [[Category:南北朝時代 (日本)]] [[Category:室町時代]] [[Category:戦国時代 (日本)]] [[Category:安土桃山時代]] [[Category:江戸時代]] {{Japanese-history-stub}}<!--※出典箇所を示す出典(=有効な出典)が皆無に近い(2012年6月時点)。-->
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65
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65(六十五、ろくじゅうご、むそいつ、むそじあまりいつつ)は自然数、また整数において、64の次で66の前の数である。
{{otheruses||映画|65/シックスティ・ファイブ}} {{整数|Decomposition=5 × 13}} '''65'''('''六十五'''、ろくじゅうご、むそいつ、むそじあまりいつつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[64]]の次で[[66]]の前の数である。 == 性質 == *65は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は [[1]], [[5]], [[13]], 65 である。 **[[約数]]の和は[[84]] 。 *23番目の[[半素数]]である。1つ前は[[62]]、次は[[69]]。 *5番目の[[八角数]]であり、5×(5 × 3 &minus; 2) = 65 。1つ前は[[40]]、次は[[96]]。 *65 = 1{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} **2つの[[平方数]]の和2通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[50]]、次は[[85]]。({{OEIS|A025285}}) ** 異なる2つの[[平方数]]の和で表せる19番目の数である。1つ前は[[61]]、次は[[68]]。({{OEIS|A004431}}) ***異なる2つの[[平方数]]の和2通りで表せる最小の数である。次は[[85]]。({{OEIS|A025303}}) ***異なる2つの[[平方数]]の和 ''n'' 通りで表せる最小の数である。1つ前の1通りは[[5]]、次の3通りは[[325]]。({{OEIS|A093195}}) ** 65 = 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} *** ''n'' = 2 のときの 4{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[11]]、次は[[407]]。({{OEIS|A074613}}) * 65 = {{sfrac|5 × (5{{sup|2}} + 1)|2}} ** ''n'' = 5 のときの {{sfrac|''n''(''n''{{sup|2}} + 1)|2}} の値とみたとき1つ前は[[34]]、次は[[111]]。 ** 5 × 5 の[[魔方陣]]の1列の和は 65 である。1 から 25 (= 5{{sup|2}}) までの整数の和は [[325]] であり、5で割ると1列あたり65になる。 ::{|class="wikitable" style="text-align:center" |17||24||1||8||15 |- |23||5||7||14||16 |- |4||6||13||20||22 |- |10||12||19||21||3 |- |11||18||25||2||9 |} *{{sfrac|1|65}} = 0.0{{underline|153846}}… (下線部は[[循環節]]で長さは6) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が6になる13番目の数である。1つ前は[[63]]、次は[[70]]。 *[[各位の和]]が11になる5番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[74]]。 * 65 = 2{{sup|6}} + 1 ** ''n'' = 6 のときの 2{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[33]]、次は[[129]]。({{OEIS|A000051}}) ** ''n'' = 2 のときの ''n''{{sup|6}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[2]]、次は[[730]]。({{OEIS|A002604}}) ** 65 = 4 × 2{{sup|4}} + 1 より4番目の[[カレン数]]である。1つ前は[[25]]、次は[[161]]。 ** 65 = 1 × 2{{sup|6}} + 1 より11番目の[[プロス数]]である。1つ前は[[57]]、次は[[81]]。 **65 = 0{{sup|6}} + 1{{sup|6}} + 2{{sup|6}} ***3連続整数の6乗和で表せる最小の数である。次は[[794]]。ただし負の数を含むと1つ前は[[2]]。 * 65 = 4{{sup|3}} + 1 ** ''n'' = 3 のときの 4{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[17]]、次は[[257]]。({{OEIS|A052539}}) ** ''n'' = 4 のときの ''n''{{sup|3}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[28]]、次は[[126]]。({{OEIS|A001093}}) ** 65 = 1{{sup|3}} + 4{{sup|3}} *** 2つの正の数の[[立方数]]の和で表せる7番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[72]]。({{OEIS|A003325}}) *** 異なる2つの正の数の[[立方数]]の和で表せる4番目の数である。1つ前は[[35]]、次は[[72]]。({{OEIS|A024670}}) * 65 = 8{{sup|2}} + 1 ** ''n'' = 2 のときの 8{{sup|''n''}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[513]]。({{OEIS|A062395}}) ** ''n'' = 8 のときの ''n''{{sup|2}} + 1 の値とみたとき1つ前は[[50]]、次は[[82]]。({{OEIS|A002522}}) *65 = 2{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 6{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和1通りで表せる30番目の数である。1つ前は[[61]]、次は[[67]]。({{OEIS|A025321}}) ** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる19番目の数である。1つ前は[[61]]、次は[[66]]。({{OEIS|A025339}}) ** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 5{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[13]]、次は[[349]]。({{OEIS|A074537}}) ** 65 = 2{{sup|2}} + 3{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 6{{sup|2}} *** ''n'' = 2 のときの 2{{sup|''n''}} + 3{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 6{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[315]]。 *** 65 = ({{sfrac|3+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|5+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|7+1|2}}){{sup|2}} + ({{sfrac|11+1|2}}){{sup|2}} * 斜辺が65の[[直角三角形]]は3辺の長さが整数になる異なる直角三角形を4個もつ最小の斜辺の値である。次は[[85]]。({{OEIS|A084648}}) ** 65{{sup|2}} = 16{{sup|2}} + 63{{sup|2}} = 25{{sup|2}} + 60{{sup|2}} = 33{{sup|2}} + 56{{sup|2}} = 39{{sup|2}} + 52{{sup|2}} ** 異なる ''n'' 個の整数の辺の直角三角形をつくる最小の斜辺の値とみたとき1つ前の3個は[[125]]、次の4個は[[3125]]。({{OEIS|A006339}}) * 65 = 3{{sup|4}} &minus; 2{{sup|4}} ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} &minus; 2{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[19]]、次は[[211]]。({{OEIS|A001047}}) == その他 65 に関すること == * [[原子番号]]65の[[元素]]は[[テルビウム]] (Tb)。 * [[年始]]から数えて65日目は[[3月6日]]、[[閏年]]は[[3月5日]]。 * 第65代[[天皇]]は[[花山天皇]]である。 * [[日本]]の65代目の[[内閣総理大臣]]は、[[田中角栄]]。 * [[大相撲]]の第65代[[横綱]]は[[貴乃花光司]]である。 * 第65代[[教皇|ローマ教皇]]は[[サビニアヌス (ローマ教皇)|サビニアヌス]](在位:[[604年]][[9月13日]]~[[606年]][[2月22日]])である。 * [[イギリス]]の[[ポストロック]]バンド [[65daysofstatic]] * [[クルアーン]]における第65番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[離婚 (クルアーン)|離婚]]である。 * 日本において、[[高齢者]]とは基本的に65歳以上のことを指す。 * [[国鉄EF65形電気機関車]]は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が製造した直流[[電気機関車]]。 * [[国鉄キハ65形気動車]]は、[[日本国有鉄道]](国鉄)が製造した急行形[[気動車]]。 == 関連項目 == {{数字2桁|6|}} {{自然数}}
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ハロー!プロジェクト
ハロー!プロジェクト(Hello! Project)は、アップフロントプロモーション(旧アップフロントエージェンシー)をはじめとするアップフロントグループ系列の芸能事務所に所属する女性アイドルグループ・女性タレントの総称、またはメンバーのファンクラブの名称。略称はハロプロ(英語圏では"H!P"と略される)。2014年までは、主につんく♂が総合プロデュースを手掛けた。 ハロー!プロジェクトと「つんくファミリー」は同義ではなく、前者はメンバーが明確に定まっている。 ハロー!プロジェクトのメンバーおよびユニットは「アップフロントグループ」系列の芸能事務所に所属している。現在は全てのメンバーがアップフロントプロモーション(旧アップフロントエージェンシー)に所属している。 CDやDVDなどのリリースの際、ハロー!プロジェクトでは「ゼティマ(zetima)」「ハチャマ(hachama)」「ピッコロタウン(PICCOLO TOWN)」「地中海レーベル」「ライスミュージック(Rice Music)」といったレーベルが使われる。結成当初は、プロダクション主体レーベルのゼティマのみだったが、その後ハチャマ、ピッコロタウンが設立された。さらに、グループの再編に伴い、2004年3月21日からアップフロントワークスという1つの会社が持つレーベルとなった。 つんく♂は2014年10月までハロー!プロジェクトの総合プロデューサーであり、大部分のハロー!プロジェクトのアーティストや楽曲についての個別のプロデュースも行っていた。2014年10月までにハロー!プロジェクトに所属しながらつんく♂プロデュースではないアーティストとそのプロデューサーは次の通りである。 ハロー!プロジェクトに在籍しているメンバーは、すべて各グループの一員として活動している。 正式メンバー以外にも「研修生」として活動しているメンバーがいる。また、モーニング娘。などの各種オーディション落選者が研修を経てデビューすることがある。なお、ハロー!プロジェクト・キッズも正式デビューまでは研修生同等の扱いだった。 ハロー!プロジェクトには、「リーダー」のポジションが存在する。また、過去には「サブリーダー」のポジションも存在した。 2023年11月30日現在、ハロー!プロジェクトのリーダーは公式には発表されていない。 リーダー サブリーダー グループの各メンバーには、それぞれをイメージするカラーが与えられる。Juice=Juiceのオリジナルメンバー(現在は植村あかりのみ)には「メンバーフルーツ」があり、そのフルーツの色が事実上のメンバーカラーに当たる。 2023年11月30日現在 モーニング娘。主演の映画『ピンチランナー』において、衣装のジャージがそれぞれ色分けされたことで、ハロー!プロジェクトにメンバーカラーを取り入れるきっかけとなる。当初、メンバーカラーは衣装やマイクの色分けが主だったが、2005年のコンサートツアーからメンバーのTシャツやグッズ等にも使われている。メンバーによっては、メンバーカラーが変更されたり、グループを兼任する場合には別のカラーが与えられることもあるが、それぞれのメンバーカラーは現在も明確である。 ハロー!プロジェクトでは、所属メンバーがハロー!プロジェクトから離脱することを通常は「卒業」と表現する。初期には「脱退」とする場合もあった。「卒業」「脱退」について不明確なメンバーについては、卒業セレモニーを行っていないメンバーを「脱退」とした。 2008年10月19日に発表された、2009年3月31日のハロー!プロジェクト改編によって卒業したメンバー。現在は多くのメンバーが新たに別のファンクラブ(「M-line club」など)を設け、そちらに移動している。「ハロー!プロジェクトから卒業・脱退すること」がすなわち事務所の脱退・移籍や廃業を意味した従来とは「卒業」が大きく異なる位置付けとなった。それに伴い、ハロー!プロジェクト自体の位置付けも変わった。 ハロー!プロジェクトでは、モーニング娘。のメンバーあるいはグループ全体の中で構成する派生グループをユニットと呼ぶ。以下には、活動を休止しているユニットも含まれる。 ハロー!プロジェクトのユニットには、結成時に期間限定で活動することが公式に発表されているものがあり、これらを「スペシャルユニット」と呼ぶ。 なお、2008年12月10日にメガベストシリーズの1つとして発売された『ハロー!プロジェクト スペシャルユニット メガベスト』には、以下のユニットの他に高木ブーとモーニング娘。・ココナッツ娘。・藤本美貴・石井リカ、おけいさんと安倍なつみ(モーニング娘。)、ZYX、ROMANS、あぁ!、H.P.オールスターズ、エコモニ。、ともいき・木を植えたい、アテナ&ロビケロッツ、安倍なつみ&矢島舞美(°C-ute)の楽曲も収録している。 ハロー!プロジェクトでは、2000年から2005年まで毎年メンバーをシャッフルしてユニットを結成し、シングルを同時リリースした。 2006年1月から2009年1月まで、ハロー!プロジェクトのグループやソロ活動メンバーは、主に未成年メンバーの若手が中心である「ワンダフルハーツ」と、主に20歳以上のメンバーが中心である「エルダークラブ」の2つに分かれて活動した。また、コンサートのパンフレットとして作成されるDVDマガジンもワンダフルハーツ、エルダークラブのものが別々にリリースされた。2007年6月の公式サイトのリニューアル時には、ハロー!プロジェクトに所属するそれぞれのグループやソロ活動メンバーのプロフィールが、ワンダフルハーツとエルダークラブに分かれて掲載されるようになった。 2009年3月までの組み分けは以下の通り なお、アイスクリー娘。と大小姐はメンバー全員が台湾出身であるためか、ワンダフルハーツ・エルダークラブとも別扱いでハロプロ台湾の所属となっている。 2009年3月31日にエルダークラブ全員がハロー!プロジェクトを卒業したため、ハロー!プロジェクトの公式サイトからワンダフルハーツとエルダークラブの組み分けはなくなった。 ハロー!プロジェクトでは、すべてのメンバーに共通のファンクラブがあり、株式会社アップフロントインターナショナルが運営する。入会のお知らせなどによっては「アップフロントFC部」と表記されることもある。2021年12月現在、モーニング娘。、アンジュルム、Juice=Juice、つばきファクトリー、BEYOOOOONDS、OCHA NORMA、ハロプロ研修生、ハロプロ研修生北海道が所属する。 平家みちよとモーニング娘。のファンクラブを1つの組織として発足させる構想は、シャ乱Qらが所属していた「すっぽんファミリー」に倣いつんく♂が発案したものであるとされ、結成当初の名称である「Hello!」は、ファンクラブ会員のアイディアであるとされる。 2009年3月31日までは1つのファンクラブだったが、エルダークラブのハロー!プロジェクト卒業に伴い、翌4月1日より新たに「M-line club」、松浦亜弥 オフィシャルファンクラブ「AYAWAY」、メロン記念日 オフィシャルファンクラブ「メロン記念部」の3つが発足した。「メロン記念部」は2010年6月30日に、「AYAWAY」は2014年3月31日に運営を終了し、現在は「ハロー!プロジェクト オフィシャルファンクラブ」と「M-line club」のみである。 2008年2月、これまで1種類の会員資格だったものを3種類となる新制度へと移行した。有効期間は1年間である。 入会すると会員証が送付され、また、以下のような特典がある。 会報のバックナンバーは、ファンクラブ会員を対象にした「商品」として販売されることがある。なお、「会報」という名称ではあるが、「ビデオ会報」(VHS)およびその後継商品である「Hello! Days」(DVD)はファンクラブ会員全員に一律に送付される会報ではなく、ファンクラブ会員限定の通信販売商品である。 ファンクラブの会員を対象にした海外ツアーは、2003年8月にモーニング娘。が初めてハワイで実施して以降、他のグループも含め数年の間隔で行っている。行先はハワイの他に香港やソウルなどの場合もある。これらの様子はファンクラブ限定で映像商品化されている。また、ファンクラブの会員を対象とした日帰り又は1泊2日での国内バスツアーも頻繁に行われている。 2005年3月よりファンクラブ限定のイベントやカジュアルディナーショーなどが実施されている。主にメンバーのバースデーイベントが多く、これらもファンクラブ限定で映像商品化されている。 ファンクラブでは会報のほかに毎月「インフォメーション」を郵送していた。これは以下のような書類と共に会員に送付されるが、ファンクラブ会報が発行される月はさらにそれも同封される。この郵送は2019年11月末をもって終了した。会報は従来通り発送される。 過去にNTT docomo・au・Yahoo! ケータイで以下のコンテンツを提供していた。 ハロー!プロジェクト関係の通信販売としては、以下のようなものがある。 かつては「えがお通販」として、ファンクラブ会員にパンフレットを送付すると共に、オフィシャルショップでも商品を受け取ることができたが、2012年1月をもってサービスを終了した。 ハロー!プロジェクトでは、フットサルとキックベースボールのチームを持っている。なお、2006年までは『ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル』(旧『大運動会』)を開催していた。
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ハロー!プロジェクトは、アップフロントプロモーション(旧アップフロントエージェンシー)をはじめとするアップフロントグループ系列の芸能事務所に所属する女性アイドルグループ・女性タレントの総称、またはメンバーのファンクラブの名称。略称はハロプロ(英語圏では"H!P"と略される)。2014年までは、主につんく♂が総合プロデュースを手掛けた。
{{ハロー!プロジェクトのサイドバー}} {{画像提供依頼|ロゴマーク|date=2022年7月|cat=音楽}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家 を参照 --> | 名前 = ハロー!プロジェクト | 画像 = {{画像募集中}} | 画像説明 = | 画像サイズ = 250px | 画像補正 = yes | 背景色 = group | 別名 = ハロプロ(略称) | 出身地 = {{JPN}} | ジャンル = [[J-POP]] | 活動期間 = [[1998年]] - <!-- 解散または活動終了の年まで --> | レーベル = [[アップフロントワークス#zetima|zetima]]<br />[[アップフロントワークス#|hachama]]<br />[[アップフロントワークス#UP-FRONT WORKS|UP-FRONT WORKS]] | 事務所 = [[アップフロントプロモーション]] | 共同作業者 = [[つんく♂]]<br />[[中島卓偉]]<br />[[児玉雨子]]<br />[[星部ショウ]]<br />など | 公式サイト = * [http://helloproject.com ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト] * [https://www.up-fc.jp/helloproject/ ハロー!プロジェクト オフィシャルファンクラブ] | メンバー = {{Plainlist| * [[モーニング娘。]] * [[アンジュルム]] * [[Juice=Juice]] * [[つばきファクトリー]] * [[BEYOOOOONDS]] * [[OCHA NORMA]] * [[ハロプロ研修生]]<br />など }} }} '''ハロー!プロジェクト'''(Hello! Project)は、[[アップフロントプロモーション]](旧アップフロントエージェンシー)をはじめとする[[アップフロントグループ]]系列の[[芸能事務所]]に所属する女性[[アイドル]]グループ・女性[[タレント]]の総称、またはメンバーの[[ファンクラブ]]の名称。略称は'''ハロプロ'''(英語圏では"'''H!P'''"と略される)。[[2014年]]までは、主に[[つんく♂]]が総合プロデュースを手掛けた{{Efn2|[[2015年]]以降は、一部グループの作詞・作曲とモーニング娘。のサウンドプロデュースを担当<ref name="sanspo20150909">{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20150909-SQQOBTN2IZIJVFGCYXNQ5BNWG4/|title=つんく♂衝撃の初告白!ハロプロのプロデューサー“卒業していた”|publisher=SANSPO.COM|date=2015-9-9|accessdate=2015-9-21}}</ref>。}}。 : ''ハロー!プロジェクトの「[[ハロー!プロジェクトの作品・出演一覧|作品・出演]]」「[[ハロー!プロジェクトの映像作品一覧|映像作品]]」「[[ハロー!プロジェクトのメンバーオーディション|オーディション]]」「[[ハロー!プロジェクトオフィシャルショップ|オフィシャルショップ]]」については、別記「子記事」のリンクを参照'' == 定義 == ハロー!プロジェクトと「つんくファミリー」は同義ではなく、前者はメンバーが明確に定まっている。 === 所属事務所について === ハロー!プロジェクトのメンバーおよびユニットは「[[アップフロントグループ]]」系列の芸能事務所に所属している。現在は全てのメンバーが[[アップフロントプロモーション]](旧アップフロントエージェンシー)に所属している。 === レーベルについて === CDやDVDなどのリリースの際、ハロー!プロジェクトでは「ゼティマ(zetima)」「ハチャマ(hachama)」「ピッコロタウン(PICCOLO TOWN)」「地中海レーベル」「ライスミュージック(Rice Music)」といった[[レコードレーベル|レーベル]]が使われる。結成当初は、プロダクション主体レーベルのゼティマのみだったが、その後ハチャマ、ピッコロタウンが設立された。さらに、グループの再編に伴い、2004年3月21日から[[アップフロントワークス]]という1つの会社が持つレーベルとなった。 === つんくファミリーについて === {{Main|つんくファミリー|つんく♂|つんく提供楽曲一覧}} つんく♂は2014年10月までハロー!プロジェクトの総合プロデューサーであり{{R|sanspo20150909}}、大部分のハロー!プロジェクトのアーティストや楽曲についての個別のプロデュースも行っていた。2014年10月までにハロー!プロジェクトに所属しながらつんく♂プロデュースではないアーティストとそのプロデューサーは次の通りである。 * [[前田有紀 (歌手)|前田有紀]]:「[[五木ひろし]]」 * [[谷ルミコ|三佳千夏]]:「真田カオル」(元[[東京JAP]]) * [[みちよ|平家みちよ]]:デビュー当初は「[[はたけ]]」 * [[ココナッツ娘。]]:デビュー当初は「[[まこと (ミュージシャン)|まこと]]」(音楽プロデューサーはデビュー当初からつんく♂) * [[カントリー娘。]]:[[北海道]]での半農半芸アイドル時代は「[[田中義剛]]」、活動拠点を北海道から[[東京]]に移動して以降のプロデューサーは「つんく♂」 * [[飯田圭織]]:3rdアルバム以後「[[たいせい|たいせー]]」 * [[安倍なつみ]]:2ndアルバムまで「つんく♂」 * [[Buono!]]:アーティストプロデューサーとして、滝川洋、持田陽司という事務所幹部の名前がCDにクレジットされている。 * [[真野恵里菜]]:個人としての総合プロデューサーはいない。サウンドプロデューサーは「たいせい」。 === ネーミングの特徴について === * ハロー!プロジェクトのメンバーは、過去には三佳千夏や北上アミなど[[芸名]]使用者もいたが、基本的に出生名で活動している。 * アルバム作品には、タイトルに何枚目であるかを示す数字が入れられている(詳細は各ユニット・メンバーのディスコグラフィーを参照のこと)。 * ハロー!プロジェクトに関係するグループ名、ユニット名、番組名などには「。」が付くものが多かった。例えば、「ココナッツ娘。」は当初名前に「。」は付いていなかったが、2000年のメンバー入れ替え時に表記が変更された。 == 現メンバー == <!-- この見出しの中の現在在籍中のメンバー、グループを太字とする。 --> ハロー!プロジェクトに在籍しているメンバーは、すべて各グループの一員として活動している。 === グループ === ; [[モーニング娘。]] : ハロープロジェクト第一号のグループ。1997年9月7日に[[テレビ東京]]のオーディション番組『[[ASAYAN]]』の『[[シャ乱Q]]女性ロックヴォーカリストオーディション』落選者の中から選抜された5名で結成が発表され、同年9月14日にグループ名が決定。同年11月3日に[[インディーズ]]デビュー、翌1998年1月28日にメジャーデビューした。当初のメンバーは[[中澤裕子]]・[[石黒彩]]・[[飯田圭織]]・[[安倍なつみ]]・[[福田明日香]]の5名。メンバーの加入・卒業・脱退などを繰り返し、2023年11月30日現在、リーダーの'''[[生田衣梨奈]]'''と'''[[石田亜佑美]]'''・'''[[小田さくら]]'''・'''[[野中美希]]'''・'''[[牧野真莉愛]]'''・'''[[羽賀朱音]]'''・'''[[横山玲奈]]'''・'''[[北川莉央]]'''・'''[[岡村ほまれ]]'''・'''[[山﨑愛生]]'''・'''[[櫻井梨央]]'''・'''[[井上春華]]'''・'''[[弓桁朱琴]]'''の計13名で活動している。なお、2014年1月1日以降、毎年「モーニング娘。」の後に西暦の下2桁('○○)を付して「モーニング娘。'○○」と表記される(例:20{{年数|2000|1|1}}年なら「モーニング娘。'{{年数|2000|1|1}}」)。 ; [[アンジュルム]](旧スマイレージ) : [[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]から選抜された4名により結成され、2009年6月7日にインディーズデビュー。2010年3月27日の『2010 ハロー!プロジェクト新人公演3月 〜横浜GOLD!〜』をもってハロプロエッグを卒業し、同年5月26日にメジャーデビューした。当初のメンバーは[[和田彩花]]・[[前田憂佳]]・[[福田花音]]・[[小川紗季]]の4名。2014年12月17日にグループ名を改称した。2011年以降、メンバーの脱退・加入・卒業があり、2023年6月22日現在、リーダーの'''[[上國料萌衣]]'''と'''[[川村文乃]]'''・'''[[佐々木莉佳子]]'''・'''[[伊勢鈴蘭]]'''・'''[[橋迫鈴]]'''・'''[[川名凜]]'''・'''[[為永幸音]]'''・'''[[松本わかな]]'''・'''[[平山遊季]]'''・'''[[下井谷幸穂]]'''・'''[[後藤花]]'''の11名で活動している。 ; [[Juice=Juice]] : 2013年2月3日に結成が発表され、同年2月25日にグループ名が決定。同年4月3日にインディーズデビュー、同年9月11日にメジャーデビューした。結成時は[[宮崎由加]]、[[金澤朋子]]、[[高木紗友希]]、[[大塚愛菜]]、[[宮本佳林]]、[[植村あかり]]の6名だったが、脱退・加入・卒業があり、2023年5月23日現在、リーダーの'''[[植村あかり]]'''と'''[[段原瑠々]]'''・'''[[井上玲音]]'''・'''[[工藤由愛]]'''・'''[[松永里愛]]'''・'''[[有澤一華]]'''・'''[[入江里咲]]'''・'''[[江端妃咲]]'''・'''[[石山咲良]]'''・'''[[遠藤彩加里]]'''・'''[[川嶋美楓]]'''の11名で活動している。 ; [[つばきファクトリー]] : 2015年4月29日に結成とグループ名が発表された。同年9月6日にインディーズデビュー、2017年2月22日にメジャーデビューした。結成時は6名だったが、メンバーの加入・離脱・卒業があり、2023年11月7日現在、リーダーの'''[[新沼希空]]'''と'''[[谷本安美]]'''・'''[[小野瑞歩]]'''・'''[[小野田紗栞]]'''・'''[[秋山眞緒]]'''・'''[[河西結心]]'''・'''[[八木栞]]'''・'''[[福田真琳]]'''・'''[[豫風瑠乃]]'''の9名で活動している。 ; [[BEYOOOOONDS]] : 2018年10月19日、グループの結成が発表される。「'''CHICA#TETSU'''」「'''雨ノ森 川海'''」「'''SeasoningS'''」の3つのユニットから構成されている。結成時は9名だったが、同年12月3日にオーディション合格者3名が加入し12名となる。2019年8月7日にメジャーデビューした。2018年12月現在、'''[[一岡伶奈]]'''・'''[[島倉りか]]'''・'''[[西田汐里]]'''・'''[[江口紗耶]]'''・'''[[高瀬くるみ]]'''・'''[[前田こころ]]'''・'''[[山﨑夢羽]]'''・'''[[岡村美波]]'''・'''[[清野桃々姫]]'''・'''[[平井美葉]]'''・'''[[小林萌花]]'''・'''[[里吉うたの]]'''の12名で活動している。 ; [[OCHA NORMA]] : 2021年12月12日、グループの結成とグループ名が発表される。2021年12月12日現在、リーダーの'''[[斉藤円香]]'''と'''[[広本瑠璃]]'''・'''[[石栗奏美]]'''・'''[[米村姫良々]]'''・'''[[窪田七海]]'''・'''[[田代すみれ]]'''・'''[[中山夏月姫]]'''・'''[[西﨑美空]]'''・'''[[北原もも]]'''・'''[[筒井澪心]]'''の10名で活動している。 === 研修生 === 正式メンバー以外にも「研修生」として活動しているメンバーがいる。また、モーニング娘。などの各種オーディション落選者が研修を経てデビューすることがある。なお、ハロー!プロジェクト・キッズも正式デビューまでは研修生同等の扱いだった。 ; [[ハロプロ研修生]](旧[[ハロプロエッグ]]) : 『アップフロント エッグオーディション』などのオーディションの合格者が所属している。かつては[[フットサル]]研修生として別枠で採用された者もいた。また、ハロプロエッグ内のユニットとして「[[ともいき・木を植えたい]]」や「[[しゅごキャラエッグ!]]」が結成されている。 ; ハロプロ研修生北海道 : 2015年に行われた、ハロー!プロジェクトの北海道限定オーディションの合格者について、2016年に北海道内で活動する研修生として開始された。 : 2021年時点で在籍数が0名となった。 === リーダー・サブリーダー === ハロー!プロジェクトには、「リーダー」のポジションが存在する。また、過去には「サブリーダー」のポジションも存在した。 2023年11月30日現在、ハロー!プロジェクトのリーダーは公式には発表されていない。 '''リーダー''' {|class="wikitable" style="font-size:small;" !nowrap|代 !nowrap|名前 !nowrap|就任日 !nowrap|退任日 !nowrap|在任期間 |- !nowrap|1 |[[中澤裕子]]<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-11|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/01/11/kiji/20170111s00041000006000c.html|title=ハロプロと野球選手の結婚 里田まい&マー君 メロン柴田&ロッテ南|work=Sponichi Annex|accessdate=2017-4-14}}</ref> |nowrap|2001年4月16日 |nowrap|2009年3月31日 |nowrap|{{Age in days|2001|4|16|2009|3|31}}日<br>(7年11か月と15日) |- !nowrap|2 |nowrap|[[高橋愛]] |nowrap|2009年4月1日 |nowrap|2011年9月30日 |nowrap|{{Age in days|2009|4|1|2011|9|30}}日<br>(2年5か月と29日) |- !nowrap|3 |nowrap|[[新垣里沙]] |nowrap|2011年10月1日 |nowrap|2012年5月18日 |nowrap|{{Age in days|2011|10|1|2012|5|18}}日<br>(7か月と17日) |- !nowrap|4 |nowrap|[[道重さゆみ]]<ref>{{Cite web|和書|date=2014-10-8|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20141008-1378909.html|title=道重さゆみ、ハロプロリーダー矢島に譲る|work=日刊スポーツ|accessdate=2017-4-14}}</ref> |nowrap|2012年5月19日 |nowrap|2014年11月26日 |nowrap|{{Age in days|2012|5|19|2014|11|26}}日<br>(2年6か月と7日) |- !nowrap|5 |nowrap|[[矢島舞美]]<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-1|url=https://natalie.mu/music/news/215437|title=アンジュルム和田がリーダー就任!ハロプロ年越しにミキティ&チャーミーも|work=ナタリー|accessdate=2017-4-9}}</ref> |nowrap|2014年11月27日 |nowrap|2017年1月1日 |nowrap|{{Age in days|2014|11|27|2017|1|1}}日<br>(2年1か月と5日) |- !nowrap|6 |nowrap|[[和田彩花]]<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-1|url=https://thetv.jp/news/detail/97131/|title=アンジュルム・あやちょ、念願のハロプロリーダーに!|work=ザテレビジョン|accessdate=2017-4-9}}</ref> |nowrap|2017年1月2日 |nowrap|2019年6月18日 |nowrap|{{Age in days|2017|1|2|2019|6|18}}日<br>(2年5か月と16日) |- !nowrap|7 |nowrap|[[譜久村聖]] |nowrap|2019年6月19日 |nowrap|2023年11月29日 |nowrap|{{Age in days|2019|6|19|2023|11|29}}日<br>(4年5か月と10日) |} '''サブリーダー''' {|class="wikitable" style="font-size:small;" !nowrap|代 !nowrap|名前 !nowrap|就任日 !nowrap|退任日 !nowrap|在任期間 |- !nowrap|1 |nowrap|[[保田圭]]<ref>{{Cite web|和書|archivedate=2003-5-7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030507201123/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200305/gt2003050601.html|date=2003-5-7|url=https://www.sanspo.com/geino/top/gt200305/gt2003050601.html|title=保田圭が涙、涙、涙のモー娘。“卒業”|work=SANSPO.COM|accessdate=2019-8-15}}</ref> |nowrap|2003年5月6日 |nowrap|2009年3月31日 |nowrap|{{Age in days|2003|5|6|2009|3|31}}日<br>(5年10か月と25日) |- !nowrap|2 |nowrap|[[譜久村聖]]<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-31|url=https://www.oricon.co.jp/news/2084002/full/|title=ハロプロ新リーダーにアンジュルム和田彩花が就任 サブリーダーはモー娘。譜久村聖|work=ORICON NEWS|accessdate=2017-5-25}}</ref> |nowrap|2017年1月2日 |nowrap|2019年6月18日 |nowrap|{{Age in days|2017|1|2|2019|6|18}}日<br>(2年5か月と16日) |- |} === メンバーカラー === グループの各メンバーには、それぞれをイメージする[[色|カラー]]が与えられる。Juice=Juiceのオリジナルメンバー(現在は植村あかりのみ)には「メンバーフルーツ」があり、そのフルーツの色が事実上のメンバーカラーに当たる。 '''2023年11月30日現在''' {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:70%" !nowrap|色系統 !nowrap|[[モーニング娘。]]'24 !nowrap|[[アンジュルム]] !nowrap|[[Juice=Juice]] !nowrap|[[つばきファクトリー]] !nowrap|[[BEYOOOOONDS]] !nowrap|[[OCHA NORMA]] |- !nowrap|赤系統 |nowrap|[[弓桁朱琴]](ピュアレッド) |nowrap|[[橋迫鈴]](ピュアレッド) |nowrap|[[川嶋美楓]](ピュアレッド) |nowrap|[[秋山眞緒]]([[弁柄|ライトレッド]]) |nowrap|[[山﨑夢羽]](イタリアンレッド) |nowrap|[[米村姫良々]](イタリアンレッド) |- !nowrap|桃系統 |nowrap|[[牧野真莉愛]]([[ピンク]]) |nowrap|[[為永幸音]](ピンク)<br />[[下井谷幸穂]](ホットピンク) |nowrap|[[工藤由愛]](ピンク) |nowrap|[[小野田紗栞]]([[桃色|ピーチ]]) |nowrap|[[西田汐里]](ホットピンク)<br />[[岡村美波]](ピンク) |nowrap|[[窪田七海]](ピンク) |- !nowrap|青系統 |nowrap|[[石田亜佑美]]([[ロイヤルブルー]])<br />[[北川莉央]](シーブルー) |nowrap|[[上國料萌衣]](アクアブルー)<br />[[後藤花]](シーブルー) |nowrap|[[松永里愛]](ロイヤルブルー)<br />[[有澤一華]]([[空色|ライトブルー]]) |nowrap|[[新沼希空]](ライトブルー)<br />[[福田真琳]](ロイヤルブルー) |nowrap|[[一岡伶奈]](ライトブルー)<br />[[前田こころ]](シーブルー)<br>[[里吉うたの]](ミディアムブルー) |nowrap|[[斉藤円香]](シーブルー)<br>[[筒井澪心]](ロイヤルブルー) |- !nowrap|緑系統 |nowrap|[[生田衣梨奈]]([[黄緑]])<br />[[山﨑愛生]](ブライトグリーン)<br />[[井上春華]]([[青緑|ミントグリーン]]) |nowrap|[[川名凜]]([[緑|グリーン]])<br />[[平山遊季]](ライトグリーン) |nowrap|[[植村あかり]]([[メロン]])<br /> [[遠藤彩加里]](ミントグリーン) |nowrap|[[小野瑞歩]]([[エメラルドグリーン]]) |nowrap|[[高瀬くるみ]](ミントグリーン)<br />[[小林萌花]](グリーン) |nowrap|[[北原もも]](ライトグリーン) |- !nowrap|黄系統 |nowrap|[[横山玲奈]]([[ゴールデンイエロー|ゴールドイエロー]])<br />[[岡村ほまれ]](デイジー) |nowrap|[[佐々木莉佳子]]([[黄色]]) |nowrap|[[江端妃咲]](デイジー) |nowrap|[[豫風瑠乃]]([[マスタード]]) |nowrap|[[江口紗耶]](デイジー) |nowrap|[[広本瑠璃]](イエロー) |- !nowrap|橙系統 |nowrap|[[羽賀朱音]]([[オレンジ色|オレンジ]]) |nowrap|[[伊勢鈴蘭]](オレンジ) |nowrap|[[段原瑠々]](オレンジ) |nowrap|[[八木栞]](オレンジ) |nowrap|[[清野桃々姫]](オレンジ) |nowrap|[[石栗奏美]](オレンジ) |- !nowrap|紫系統 |nowrap|[[小田さくら]]([[ラベンダー]])<br />[[野中美希]]([[紫|パープル]]) |nowrap|[[川村文乃]](ライトパープル) |nowrap|[[入江里咲]](ライトパープル)<br />[[石山咲良]](パープル) |nowrap|[[谷本安美]](ライトパープル)<br />[[河西結心]](パープル) |nowrap|[[島倉りか]](ラベンダー)<br />[[平井美葉]](パープル) |nowrap|[[田代すみれ]](ライトパープル)<br />[[西﨑美空]](パープル) |- !nowrap|白系統 |nowrap|[[櫻井梨央]]([[ミルクティー]]) |nowrap|[[松本わかな]]([[白|ホワイト]]) |nowrap|[[井上玲音]]([[白]]) | | |nowrap|[[中山夏月姫]](ホワイト) |} ==== ハロー!プロジェクトにおけるメンバーカラー ==== モーニング娘。主演の映画『[[ピンチランナー (映画)|ピンチランナー]]』において、衣装の[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]がそれぞれ色分けされたことで、ハロー!プロジェクトにメンバーカラーを取り入れるきっかけとなる。当初、メンバーカラーは衣装やマイクの色分けが主だったが、2005年のコンサートツアーからメンバーのTシャツやグッズ等にも使われている。メンバーによっては、メンバーカラーが変更されたり、グループを兼任する場合には別のカラーが与えられることもあるが、それぞれのメンバーカラーは現在も明確である。 == 元メンバー == === 解散・活動停止したグループ === ; [[太陽とシスコムーン|太陽とシスコムーン→T&Cボンバー]] : 1998年末、オーディション番組『ASAYAN』の『つんくプロデュース芸能人新ユニットオーディション』の合格者4名で結成され、1999年4月21日にデビューした。ただし、同年秋からの約半年間は3名で活動していた時期もあった。2000年4月からグループ名をT&Cボンバーに変更したが、同年10月9日に解散した後、稲葉貴子のみソロとして残留し、他の3名はハロー!プロジェクトから脱退して個々で芸能活動を行っていた。その後、2008年12月10日発売の『[[メガベスト|太陽とシスコムーン/T&Cボンバー メガベスト]]』を機に3名での活動が行われた。 ; [[シェキドル]] : 2000年7月11日、『第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション』の選抜メンバーで結成され、同年11月1日にインディーズデビューした。その後、メンバーの入れ替えを経て2001年12月にメジャーデビューしたが、翌2002年1月に解散した。 ; [[W (ハロー!プロジェクト)|W]] : 2004年1月3日に卒業が発表されたモーニング娘。の{{JIS90フォント|辻}}希美と加護亜依の2名により、卒業前に結成され、同年5月にCDデビューしている。しかし、加護の不祥事発覚による謹慎処分に伴い2006年2月に活動停止、契約解除により翌2007年3月をもって事実上解散した。その後、2019年3月30日の『Hello! Project 20th Anniversary!! プレミアム Hello! Project ひなフェス 2019』において、1公演限定で復活し、その年のテレ東音楽祭にも出演した。 ; [[ココナッツ娘。]] : 1999年3月に[[ハワイ]]で開催された『パシフィック・ドリーム・ポップシンガー・コンテスト』にて、[[まこと (ミュージシャン)|まこと]]による最終審査の合格者5名で結成された。同年7月に『ASAYAN』で紹介された後、同月23日にデビューした。2000年にメンバーの入れ替えが行われ、その後2001年から2004年まで脱退が相次ぎ、2008年4月30日までにメンバー全員が卒業し、事実上の解散となった。 ; [[美勇伝]] : 2004年8月10日、当時モーニング娘。に在籍していた石川梨華を中心に、『ハロー!プロジェクト 新ユニットオーディション』で合格した三好絵梨香と『ハロプロ エッグ オーディション2004』で合格した岡田唯の3名で結成され、同年9月23日にデビューした。2008年6月29日のコンサートツアー最終日をもって活動を終了(解散)し、それぞれがソロ活動へ移行した。 : その後、『[[チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜]]』の発売を機に「[[美勇伝#続・美勇伝|続・美勇伝]]」の結成が発表され、モーニング娘。の[[道重さゆみ]]、[[ジュンジュン]]およびBerryz工房の[[菅谷梨沙子]]が選ばれている。 ; [[アイスクリー娘。]] : ハロー!プロジェクト初の海外グループとして、[[台湾電視]]の主催で2008年5月〜9月に行われた『[[早安家族New Star]]』の合格者である趙國蓉(ヨウコ)・曾德萍(ペイペイ)・呉思璇(シェンシェン)・古筠(グーチャン)・鍾安琪(アンチー)・邱翠玲(レイレイ)の6名によって同年12月に結成された<ref>[http://www.helloproject.com/news/aimusume_0812261200.html ハロー!プロジェクト初海外グループアイスクリー娘。(冰淇淋少女組。)正式デビュー!] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090508042723/http://www.helloproject.com/news/aimusume_0812261200.html|date=2009年5月8日}}</ref>。同年11月に来日し、翌2009年1月の『[[Hello! Project 2009 Winter 決定! ハロ☆プロ アワード'09 〜エルダークラブ卒業記念スペシャル〜]]』に出演するなど、日本での活動経験もあったが、2010年11月に公式サイトのアーティスト一覧から削除された。 ; [[ハロプロ関西#SI☆NA|SI☆NA]] : 2006年8月から活動していたハロプロ関西の研修生である須磨愛(ai)・岩嶋雅奈未(manami)・[[山田菜々|中山菜々]](nana)・阿部麻美(asami)の4名で2008年4月12日の研修終了と同時に結成された。[[近畿地方|関西地区]]の[[ショッピングセンター]]などでイベントを展開したほか、定期的に『TANOSINA STAGE』を開催し、[[HAPPY! STYLE]]のメンバーとしても活動していた。2009年7月25日に中山菜々が卒業し、3名での活動となる。2010年7月のハロー!プロジェクトコンサートの神戸公演にも出演した。 : 2009年4月の公式サイト大幅リニューアルに伴い「ハロプロ関西」の名が復活し、アーティスト一覧に加わった。2011年3月1日に解散を発表し、同年4月17日に開催された『TANOSINA STAGE FINAL』をもって活動を終了した。 : グループ自体がHAPPY! STYLEのメンバーとして活動していたため、ハロー!プロジェクト以外にもアニメソングなどを歌唱することもあった。 ;[[メロン記念日]] :1999年8月10日に結成。2010年5月3日活動終了。 {{Main2|詳細は下記「ファンクラブを単独に移行したメンバー」の項目を}} ; [[大小姐]] : ハロー!プロジェクト唯一の海外グループで、『早安家族New Star』で特別賞を受賞した呉兆絃([[フランシス (アイドル)|フランシス]])と藍愛子([[愛子 (アイドル)|愛子]])によって結成されたユニットで、2009年1月の『Hello! Project 2009 Winter 決定! ハロ☆プロ アワード'09 〜エルダークラブ卒業記念スペシャル〜』に出演するなどしていた。当初はフランシス&愛子というユニット名だったが、同年9月にユニット名を変更し、台湾で正式デビューした。同年4月の公式サイト大幅リニューアルに伴い、アーティスト一覧に掲載されたが、2012年5月に削除された。 ; [[Berryz工房]] : 2002年3月〜6月に行われた『ハロー!プロジェクト・キッズ オーディション』の合格者の中から2004年1月14日に結成され、同年3月3日にデビューした。結成時は8名だったが、2005年10月2日に[[石村舞波]]が卒業した後は、キャプテンの[[清水佐紀]]と[[嗣永桃子]]・[[徳永千奈美]]・[[須藤茉麻]]・[[夏焼雅]]・[[熊井友理奈]]・[[菅谷梨沙子]]の7名で活動していた。2015年3月3日をもって無期限活動停止<ref>{{Cite web|和書|date=2015-3-3|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000113267|title=無期限活動停止のBerryz工房につんく♂がコメント「良い場面で人間味がめちゃ出る。ズコって。」|work=[[BARKS]]|accessdate=2015-3-4}}</ref>。 ; [[℃-ute]] : 2002年3月〜6月に行われた『ハロー!プロジェクト・キッズ オーディション』の合格者の中から2005年6月11日にBerryz工房のメンバーを除く7名で結成された。2006年1月2日に[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]の[[栞菜|有原栞菜]]が加入して8名となり、同年5月6日にインディーズデビュー、9月6日に[[DVD]]でメジャーデビューした。その後、[[村上愛]]と[[有原栞菜]]が脱退、2009年10月25日に[[梅田えりか]]が卒業した後は、リーダーの[[矢島舞美]]と[[中島早貴]]・[[鈴木愛理 (歌手)|鈴木愛理]]・[[岡井千聖]]・[[萩原舞 (歌手)|萩原舞]]の5名で活動していた。2017年6月12日に解散した<ref>{{Cite web|和書|date=2016-8-20|url=http://www.helloproject.com/news/5568/|title=℃-uteに関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-8-26}}</ref>。 ; [[カントリー娘。]]→[[カントリー・ガールズ]] : 1999年4月27日に結成され、同年7月23日に「カントリー娘。」としてインディーズデビュー、2001年4月18日にメジャーデビューした。当初はプロデュース担当の[[田中義剛]]が経営する[[花畑牧場]](北海道河西郡中札内村)で働きながら芸能活動をする「半農半芸」をコンセプトとしていたが、2003年に拠点を東京へ移した。メジャーデビューと前後して、モーニング娘。のメンバー([[石川梨華]]・[[紺野あさ美]]・[[藤本美貴]])のゲスト参加、オーディションによる加入、メンバーの卒業による入れ替わりがあった。2014年11月5日に新メンバーが加入し、同時にグループ名を改称した。その後、[[島村嬉唄]]が契約解除となり、[[稲場愛香]]・[[嗣永桃子]]・[[梁川奈々美]]が卒業した後は、[[山木梨沙]]・[[森戸知沙希]]・[[小関舞]]・[[船木結]]の4名で活動していた。また、[[里田まい]]がスーパーバイザーを務めていた。2019年12月26日をもって活動休止<ref name="countrygirls191018">{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/11156/|title=カントリー・ガールズ 活動休止のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2019-10-18|accessdate=2019-10-18}}</ref>。 ; [[こぶしファクトリー]] : 2015年1月2日に結成が発表され、同年2月25日にグループ名が決定。結成時は8名だったが、[[藤井梨央]]・[[田口夏実]]が契約解除となり、[[小川麗奈]]が卒業した後は、リーダーの[[広瀬彩海]]と[[野村みな美]]・[[浜浦彩乃]]・[[和田桜子]]・[[井上玲音]]の5名で活動していた。2020年3月30日に解散した<ref name="kobushi200108">{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/11547/|title=こぶしファクトリー活動終了のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2019-10-18|accessdate=2019-1-08}}</ref>。 === 卒業・脱退したメンバー === ハロー!プロジェクトでは、所属メンバーがハロー!プロジェクトから離脱することを通常は「卒業」と表現する。初期には「脱退」とする場合もあった。「卒業」「脱退」について不明確なメンバーについては、卒業セレモニーを行っていないメンバーを「脱退」とした。 : ハロプロ研修生(旧ハロプロエッグ)を卒業・脱退したメンバーについては、「[[ハロプロ研修生#過去のメンバー]]」を参照 ==== ワンダフルハーツ・エルダークラブ発足前 ==== {{Main2|「[[ワンダフルハーツ]]」と「[[エルダークラブ]]」の詳細はそれぞれの項目を}} ; [[福田明日香]](元モーニング娘。) : モーニング娘。結成時のメンバー。1999年4月18日、学業専念のため芸能界を一時引退。その後2010年頃より復帰。11年2月に「asuka」名義で[[PEACE$TONE]]にて本格的活動、再び芸能界に復帰している。 ; [[柳原尋美]](元カントリー娘。) : 1999年7月16日、デビュー直前に交通事故で急死(19歳没)。 ; [[小林梓]](元カントリー娘。) : 1999年8月23日、心労のため離脱した。 ; [[石黒彩]](元モーニング娘。) : モーニング娘。結成時のメンバー。2000年1月7日、服飾関係の道へ進むため一時芸能界を引退した。その後結婚・出産・育児を経て芸能界に復帰している。 ; チェルシー・エイプリル(元ココナッツ娘。) : 2000年1月30日、留学期間終了ととも卒業した。 ; [[市井紗耶香]](元モーニング娘。) : モーニング娘。2期メンバー。2000年5月21日、[[シンガーソングライター]]になるために芸能界を一時引退。2001年に芸能界に復帰したが2003年に再度引退、そして2009年8月に再び芸能活動を再開した(所属事務所はアップフロント系ではない)。 ; [[信田美帆]]・[[RuRu]]・[[小湊美和]](元太陽とシスコムーン→T&Cボンバー) : 2000年10月のグループ解散とともに離脱した。 ; [[谷ルミコ|三佳千夏]] : 1999年5月11日、『第1回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション』でグランプリとなり、同年8月4日にデビューしたが、翌2000年10月に一時芸能界を引退し、2005年2月に「谷ルミコ」という芸名で再デビューしている。 ; ダニエル(元ココナッツ娘。) : 2001年5月27日、留学期間終了とともに卒業した。 ; 大木衣吹(元シェキドル) : 2001年8月31日に離脱した。 ; 北上アミ・[[凛 (歌手)|末永真己]]・荒井紗紀(元シェキドル) : 2002年1月にグループごと解散・離脱した。 ; レフア(元ココナッツ娘。) : 2002年2月17日、留学期間終了とともに卒業した。 ; [[りんね]](元カントリー娘。) : 2002年10月13日、[[舞台]][[俳優|女優]]になるため卒業した。 ; [[みちよ|平家みちよ]] : 1997年9月7日、『[[ASAYAN]]』(テレビ東京)の『[[シャ乱Q]]女性ロックボーカリストオーディション』で優勝し、芸能界入りを果たしたが、2002年11月7日に卒業し、後に「みちよ」という芸名で再デビューしている。 ; [[石井里佳|石井リカ]] : 2001年11月、童謡シリーズ『[[童謡ポップス|ザ・童謡ポップス1 クリスマスと冬のうた集]]』に、2002年7月には[[シャッフルユニット]]にそれぞれ参加したが、同年12月31日に卒業した。 ; [[ミカ・タレッサ・トッド|ミカ]](元ココナッツ娘。・元ミニモニ。) : 2004年5月2日、音楽を学ぶことを目的とした[[ロサンゼルス]]への留学のため卒業した。 ; [[石村舞波]](元Berryz工房) : 2005年10月2日、学業に専念するため卒業した。 ==== ワンダフルハーツ・エルダークラブ発足後 ==== ; [[村上愛]](元℃-ute) : 2006年10月31日、学業優先のため離脱した。 ; [[あさみ]]・[[みうな]](元カントリー娘。) : 2007年1月28日に卒業した。あさみは[[動物]]関係の仕事を希望、みうなは興味を抱いていた仕事にチャレンジするため、が理由だった。 ; [[加護亜依]](元モーニング娘。・元W) : モーニング娘。4期メンバー。2004年8月1日にグループを卒業。2007年3月26日に契約が解除され、2008年5月に芸能界に復帰した(所属事務所はアップフロント系ではない)。 ; [[後藤真希]](元モーニング娘。) : モーニング娘。3期メンバー。2002年9月23日にグループを卒業。卒業後もアップフロントエージェンシー(現:[[アップフロントプロモーション]])に所属していたが、2007年10月28日ハロー!プロジェクトを卒業した。その後活動休止期間を経て、2008年6月1日に所属事務所を[[エイベックス]]に移籍。2011年7月、年内限りで無期限休業に入る旨を発表し、同年12月4日をもって芸能活動を休止したが、2014年6月から芸能活動を再開した。 ; [[長手絢香|アヤカ]](元ココナッツ娘。) : 2008年4月30日の卒業後、所属事務所をアップフロントエージェンシー(現:アップフロントプロモーション)から[[トライストーン・エンタテイメント]]に移籍し、「長手絢香」という芸名で活動している。 ==== 2009年3月31日に卒業したメンバー ==== 2008年10月19日に発表された、2009年3月31日のハロー!プロジェクト改編によって卒業したメンバー。現在は多くのメンバーが新たに別の[[ファンクラブ]](「[[M-line club]]」など)を設け、そちらに移動している。「ハロー!プロジェクトから卒業・脱退すること」がすなわち事務所の脱退・移籍や廃業を意味した従来とは「卒業」が大きく異なる位置付けとなった。それに伴い、ハロー!プロジェクト自体の位置付けも変わった。 ===== ファンクラブを単独に移行したメンバー ===== * [[松浦亜弥]](新ファンクラブ『AYAWAY』を2009年4月に設立、2014年3月31日に運営終了) *: 2000年8月29日の『第4回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション』に合格し、翌2001年4月11日にデビューした。2017年9月15日をもってアップフロントクリエイトとの専属契約を終了し、夫である[[橘慶太]]の個人事務所に移籍した<ref>{{Cite news|date=2017-9-16|url=https://www.oricon.co.jp/news/2097387/full/|title=松浦亜弥、夫・橘慶太の個人事務所に移籍|newspaper=ORICON NEWS|accessdate=2018-1-1}}</ref>。 * [[メロン記念日]](新ファンクラブ『メロン記念部』を2009年4月に設立、2010年6月に運営終了) *:1999年8月10日に『第2回モーニング娘。&平家みちよ妹分オーディション』で合格した4名で結成され、2000年2月19日にデビューしたグループである。リーダーは、[[斉藤瞳]]と[[ムラタメグミ|村田めぐみ]](元リーダー)・[[大谷雅恵]]・[[柴田あゆみ]]の4名。2010年2月19日にメロン記念日 10th ANNIVERSARY LIVE『生誕3654日感謝祭』にて、同年4月から行うツアーを最後に解散することを発表し、同年5月3日に開催されたメロン記念日FINAL STAGE『MELON'S NOT DEAD』をもって活動を終了した。 *: 解散後、村田めぐみはアップフロントに残留し「ムラタメグミ」と改名し活動していたが、2011年3月31日に芸能界を卒業した。柴田あゆみは事務所を移籍して活動し、大谷雅恵も他の事務所で芸能活動を続けているが、斉藤瞳はメロン記念日の解散をもって芸能界から引退し、以後新潟のFMラジオ『[[エフエムラジオ新潟|FM-NIIGATA]]』で、パーソナリティとして活動していた( - 2013年3月28日)。 ===== M-line clubへファンクラブを移動させたメンバー ===== * [[中澤裕子]] *: モーニング娘。結成時のメンバーおよび初代リーダー。2001年4月15日にグループを卒業。その後はハロー!プロジェクトのリーダーだった(同年4月16日 - 2009年3月31日)。 * [[飯田圭織]] *: モーニング娘。結成時のメンバーおよび2代目リーダー。2005年1月30日にグループを卒業。2007年7月に結婚し、同年9月以降芸能活動を休業していたが、2009年1月10日のハロー!プロジェクト正月コンサート(エルダークラブ公演)から芸能活動を再開した。 * [[安倍なつみ]] *: モーニング娘。結成時のメンバー。2004年1月25日にグループを卒業。2016年3月をもってM-line clubから離れた<ref name="M-line clubからの大切なお知らせ">{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=8233|title=M-line clubからの大切なお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2016-1-17|accessdate=2017-8-26}}</ref>。2016年4月1日、「安倍なつみメールサークル」を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=8595|title=安倍なつみメールサークル開始のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2016-4-1|accessdate=2017-8-26}}</ref>。 * [[保田圭]] *: モーニング娘。2期メンバー。2003年5月5日にグループを卒業し、その後はハロー!プロジェクトのサブリーダーだった(同月6日 - 2009年3月31日)。 * [[矢口真里]] *: モーニング娘。2期メンバーおよび3代目リーダー。2005年4月14日にグループを離脱し、ソロ活動を行う。 * [[石川梨華]] *: モーニング娘。4期メンバー。2005年5月7日にグループを卒業。2008年6月まで[[美勇伝]]としても活動していた。 * [[吉澤ひとみ]] *: モーニング娘。4期メンバーおよび4代目リーダー。2007年5月6日にグループを卒業。卒業後は10年以上にわたって芸能活動を続けていたが、2018年9月28日付をもって専属マネージメント契約解除と同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20180929-4BGCQSZAPNKU7C3M6QUKT5AWXQ/|title=吉澤ひとみ被告が電撃引退、今後は「母として恥ずかしくないよう…」|work=SANSPO.COM|date=2018-9-29|accessdate=2018-10-1}}</ref>。 * [[辻希美]] *: モーニング娘。4期メンバー。2004年8月1日にグループを卒業。2007年4月下旬以降、出産・育児のため芸能活動を休業していたが、2009年1月31日のハロー!プロジェクト合同コンサートから芸能活動を再開。2010年11月下旬以降、再び出産・育児のため芸能活動を休業。2012年4月以降、芸能活動を再開している。 * [[小川麻琴]] *: モーニング娘。5期メンバー。2006年8月27日にグループを卒業。ハロー!プロジェクトに籍を残したまま芸能活動を一時休業して海外へ語学留学していたが、2008年春に帰国。同年6月7日にジェイピィールーム(アップフロントグループ)に移籍し、ハロー!プロジェクトでの活動を再開した。2015年3月31日に芸能活動の休止を発表<ref>[http://www.jp-r.co.jp/ogawamakoto/event/3017.html 小川麻琴に関するご報告について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150402101924/http://www.jp-r.co.jp/ogawamakoto/event/3017.html|date=2015年4月2日}} 小川麻琴公式サイト 2015年3月13日閲覧</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/03/13/kiji/K20150313009974420.html 元モー娘の小川麻琴 3月いっぱいでの芸能活動の休止を発表] スポーツニッポン 2015年3月13日閲覧</ref>。所属事務所を離れたが、間を置かずに芸能活動を再開している。 * [[藤本美貴]] *: 2002年にハロー!プロジェクト内でソロデビュー後、2003年にモーニング娘。6期メンバーとなった。その後5代目リーダーに就任した。2006年から松浦亜弥とともにGAMに所属していた。2007年6月1日にモーニング娘。を離脱。以降はジェイピィールーム(アップフロントグループ)に移籍してソロ活動を再開した。2016年3月をもってM-line clubから離れた{{R|M-line clubからの大切なお知らせ}}。 ; [[音楽ガッタス]] : 2007年6月19日に[[フットサル]]チーム「[[Gatas Brilhantes H.P.]]」のメンバーの中から、吉澤ひとみ(キャプテン)・石川梨華・里田まい・紺野あさ美・是永美記・能登有沙・真野恵里菜・仙石みなみ・澤田由梨・[[むとう水華|武藤水華]]の10名での結成が発表され、同年7月15日にデビュー、9月12日にCDデビューした。2008年3月2日に真野が、同年4月30日に武藤が、2009年8月30日に澤田が卒業した。 * [[里田まい]] *: カントリー娘。メンバー。2014年11月5日に長期の[[一人バンド|ソロユニット]]状態を経て、カントリー・ガールズのスーパーバイザーに就任。 * [[紺野あさ美]] *: モーニング娘。5期メンバー。大学進学のため2006年7月23日にモーニング娘。を卒業し、ハロー!プロジェクトからも1度卒業したが、翌2007年7月15日からGatas Brilhantes H.P.とそのチーム内ユニットである音楽ガッタスを中心にハロー!プロジェクトとしての芸能活動を再開した。2011年4月1日に[[テレビ東京]]に[[アナウンサー]]として入社した。 * [[是永美記]] *: 2004年8月にハロプロエッグおよびGatas Brilhantes H.P.に加入し、2007年6月には音楽ガッタスにも加入した。2008年1月30日にハロプロエッグからの卒業が発表され、Gatas Brilhantes H.P.や音楽ガッタスを中心に活動していた。 * [[能登有沙]] *: 2004年8月にハロプロエッグに加入、2007年6月にはGatas Brilhantes H.P.にも加入した。2009年9月23日にハロプロエッグからの卒業が発表された。その後は[[アップフロントエッグ]]として活動していたが、2011年秋に[[アップフロントトレンド|アップフロントスタイル]]の社長が設立した[[スタイルキューブ]]に移籍し、HAPPY! STYLEを中心に活動。2019年、ソリッド・キューブに移籍。 * [[仙石みなみ]] *: 2004年8月にハロプロエッグに加入、2007年6月にはGatas Brilhantes H.P.にも加入した。2010年12月21日にハロプロエッグの研修課程を修了し、[[アップアップガールズ(仮)]]として活動(2017年9月25日に卒業)。 * [[澤田由梨]] *: 2004年8月にハロプロエッグに加入、2007年6月にはGatas Brilhantes H.P.にも加入した。2009年8月30日にハロプロエッグおよび音楽ガッタスを卒業した。 ===== その他のメンバー ===== * [[稲葉貴子]] *: 1999年4月25日にデビューした[[太陽とシスコムーン]](後のT&Cボンバー)のメンバーで、解散後ソロ活動を行っていたが、2009年10月30日にアップフロントエージェンシー(現アップフロントプロモーション)とのタレント契約が終了し、現在は他のアップフロント系列の事務所でスタッフとして活動している。 * [[前田有紀 (歌手)|前田有紀]] *: ハロー!プロジェクトでは唯一の[[演歌歌手|演歌専門歌手]]である。[[五木ひろし]]のプロデュースによって2000年4月21日にデビューした。2012年6月に結婚と妊娠を発表し活動を休止し、同時にアップフロントエージェンシー(現アップフロントプロモーション)との契約が終了した。 * [[三好絵梨香]] *: 2003年10月6日、『ハロー!プロジェクト 新ユニットオーディション』に合格し、2004年9月23日に[[美勇伝]]のメンバーとしてデビューした。2008年6月29日の美勇伝解散後はソロとして活動している。2012年2月に事務所の札幌支社に移籍し、活動拠点が北海道となったことで、フットサルチーム「[[サッポロチェルビーズ]]」へ加入した。 * [[岡田唯]] *: 2004年8月、『ハロプロ エッグオーディション 2004』に合格し、同年9月23日に美勇伝のメンバーとしてデビューした。2008年6月29日の美勇伝解散後はハロー!プロジェクトでソロ活動をしていたが、2009年2月にハロー!プロジェクトを卒業し、[[アップフロント関西]]に事務所を移籍して[[ジェイコムウエスト]]([[J:COM]])の帯番組『8時です!生放送!!』に火曜レギュラーとして出演するなど関西を中心に活動していたが、2010年6月30日、同社との契約終了に伴い芸能活動を休止した。 ==== エルダークラブ卒業以降 ==== ; [[栞菜|有原栞菜]](元℃-ute) : 2009年2月28日以降[[外反母趾]]のため休養。療養に努めていたが、「普通の女の子に戻りたい」と引退の意向を示し、同年7月9日をもって脱退したことが2日後の11日に発表された<ref>[http://www.helloproject.com/news/0907110000_arihara.html ℃-ute 有原栞菜に関する大事なお知らせ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091018024549/http://www.helloproject.com/news/0907110000_arihara.html|date=2009-10-18}}</ref>。その後、2010年春より[[BLUE ROSE (芸能プロダクション)|BLUE ROSE]]に所属し、「栞菜」名義で芸能活動を再開している。 ; [[山田菜々|中山菜々]](元SI☆NA) : 2009年7月25日、学業に専念するため卒業したが、2010年9月より[[NMB48]]のメンバーとなり、「山田菜々」名義で活動。その後、2015年4月にNMB48を卒業、2021年まで[[Showtitle]]所属のタレントとして活動していた。ハロー!プロジェクトと[[AKB48グループ]]の両方に在籍経験がある唯一のメンバーである。 ; [[梅田えりか]](元℃-ute) : 2009年10月25日、ファッションモデルを目指して勉強するため卒業した<ref>[http://www.helloproject.com/news/0908012000_cute.html ℃-ute 梅田えりかに関する大事なお知らせ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091003043223/http://www.helloproject.com/news/0908012000_cute.html|date=2009年10月3日}}</ref>。2010年3月より[[イリューム]]に所属し芸能活動を再開していたが、後に[[ケイダッシュ]]グループの[[アワーソングスクリエイティブ]]に所属。2014年7月末をもってアワーソングスクリエイティブとの契約が終了。 ; シェンシェン・アンチー・ペイペイ・ヨウコ・レイレイ・グーチャン(アイスクリー娘。) : 2010年11月に公式サイトのアーティスト一覧より削除され、ハロー!プロジェクトから離脱した。離脱後も台湾を拠点に活動している。 ; [[亀井絵里]]・[[ジュンジュン]]・[[リンリン (1991年生の歌手)|リンリン]](元モーニング娘。) : 亀井はモーニング娘。6期メンバー、ジュンジュンとリンリンは同8期(留学生)メンバー。2010年8月8日の『[[Hello! Project 2010 SUMMER 〜ファンコラ!〜]]』中野公演最終日に、亀井は芸能界を引退し、[[アトピー性皮膚炎|持病]]の治療に専念するため、ジュンジュンとリンリンは中国での歌手活動を含むタレント活動を続けるための準備に入るため、モーニング娘。およびハロー!プロジェクトを卒業する旨の発表があり、12月15日の『モーニング娘。コンサートツアー2010秋 〜ライバル サバイバル〜』最終日をもって卒業した。 ; 須磨愛・岩嶋雅奈未・阿部麻美(元SI☆NA) : 2011年4月17日のグループ解散とともに脱退した。脱退後、須磨愛と阿部麻美は2人での新しいスタイルで活躍することを目指すことを予定しており、一方で岩嶋雅奈未は同年9月からスタイルキューブに所属し、HAPPY! STYLEのメンバーとして活動を行っていたが、2018年1月現在、芸能活動を三人とも引退している。 ; [[小川紗季]](元スマイレージ) : 2011年8月27日に「[[有頂天LOVE]]」のCD購入者特典イベントをもって卒業し、同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/1260/|title=ハロー!プロジェクトからのお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-8-24|accessdate=2011-8-24}}</ref>。 ; [[前田憂佳]](元スマイレージ) : 2011年12月31日、「大学進学のため、受験勉強に励みたい」という理由から卒業し、同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/1179/|title=スマイレージに関する大事なお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-10-25|accessdate=2011-10-25}}</ref>。 ; [[フランシス (アイドル)|フランシス]]・[[愛子 (アイドル)|愛子]](大小姐) : 2012年5月に公式サイトのアーティスト一覧より削除され、ハロー!プロジェクトから離脱した。 ; [[徳永千奈美]](元[[Berryz工房]]) : 2015年3月3日のグループ無期限活動停止後はハロー!プロジェクト・アドバイザーに就任。 同年11月25日、英語研修のため留学。2021年2月末日をもって芸能界を引退した<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/02/22/kiji/20210222s00041000368000c.html |title= 元Berryz工房・徳永千奈美が芸能界引退 英語勉強で留学、今春就職が決定|publisher=スポニチアネックス|date= 2021-02-22 |accessdate= 2021-02-22 }}</ref>。 ; [[菅谷梨沙子]](元Berryz工房) : 2015年3月3日のグループ無期限活動停止に伴い芸能活動を休止、2023年3月末をもってアップフロントクリエイトを退所<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2273145/full/|title=『Berryz工房・菅谷梨沙子、20年所属の事務所を3月末で退所|newspaper=ORICON NEWS|accessdate=2023-3-27}}</ref>。 ; [[島村嬉唄]](元カントリー・ガールズ) : 2015年6月12日、所属事務所であるアップフロントプロモーションとの契約が解除されたと発表され、カントリー・ガールズを脱退、同時に芸能界を引退した{{R|カントリー・ガールズ 島村嬉唄に関するお知らせ}}。現在はアイドルグループ『[[きゅるりんってしてみて]]』のメンバーとして活動中。 ; [[巫まろ|福田花音]](元アンジュルム) : 2015年11月29日、日本武道館で行われたライブをもってアンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2063035/full/|title=福田花音、涙でアンジュルム卒業 今後は作詞家の道へ|work=ORICON NEWS|date=2015-11-29|accessdate=2015-12-1}}</ref>。以降は[[作詞家]]として活動。2019年12月末日をもってアップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/11568|title=福田花音に関するお知らせ|work=アップフロントプロモーション|date=2020-1-10|accessdate=2020-1-10}}</ref>。現在はアイドルグループ『[[METAMUSE|ZOC→METAMUSE]]』の'''巫 まろ(かんなぎ まろ)'''として活動中。 ; [[田村芽実]](元アンジュルム) : 2016年5月30日、日本武道館で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業{{R|mantan20160530}}。以降はミュージカル女優・歌手として活動している。2017年5月1日からビーエムアイに所属している。 ; [[鈴木香音]](元モーニング娘。) : 2016年5月31日、「将来、[[介護福祉士]]になるため学業に専念したい」という理由から、日本武道館で行われたライブをもってモーニング娘。'16およびハロー!プロジェクトを卒業し{{R|mantan20160531}}、同時に芸能界を引退した。 ; [[萩原舞 (歌手)|萩原舞]](元℃-ute) : 2017年6月12日のグループ解散とともに、芸能界を引退した。 ; [[嗣永桃子]](元Berryz工房・元カントリー・ガールズ) : 2017年6月30日、青海野外特設会場にて開催された『嗣永桃子ラストライブ ♡ありがとう おとももち♡』をもって、カントリー・ガールズおよびハロー!プロジェクトを卒業し、同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|date=2017-6-30|url=https://www.oricon.co.jp/news/2093303/full/|title=嗣永桃子「アイドルになれてよかった」 丸15年の活動に終止符|work=ORICON NEWS|accessdate=2017-7-2}}</ref>。 ; [[藤井梨央]](元こぶしファクトリー) : 2017年7月6日、本来は9月2日に卒業予定だったが 、所属事務所であるアップフロントプロモーションとの契約が解除されたと発表され、こぶしファクトリーを脱退、同時に芸能界を引退した{{R|fujii20170706}}。 ; [[小川麗奈]](元こぶしファクトリー) : 2017年7月13日より不安神経症により活動休止していたが、復帰することなく9月6日に卒業。同時にハロー!プロジェクトも卒業、同時に芸能界を引退した。 ; [[田口夏実]](元こぶしファクトリー) : 2017年12月6日、本人の行動についてメンバーとしての自覚と責任を欠くものがあったとして、所属事務所であるアップフロントプロモーションとの契約が解除されたことが発表され、こぶしファクトリーを脱退、同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/7911/|title=こぶしファクトリー 田口夏実に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2017-12-6|accessdate=2017-12-7}}</ref>。 ; [[相川茉穂]](元アンジュルム) : 2017年1月からパニック障害と診断され活動を休止していたが、同年12月31日にアンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業することが発表され、同時に芸能界を引退した{{R|aikawa20171231}}。その後、2020年10月4日から[[N・F・B]]に所属し、芸能活動を再開。 ; [[尾形春水]](元モーニング娘。) : 2018年6月20日、「短大進学になるため学業に専念したい」という理由から、日本武道館で行われたライブをもってモーニング娘。'18およびハロー!プロジェクトを卒業し{{R|mantan20180620}}、同時に芸能界を引退したが、その後、2019年8月8日より[[YouTuber]]、また、YouTubeグループ『[[カオスピピス]]』を経て、現在は音楽グループ『[[Youplus]]』のメンバーとして活動している。 ; [[光井愛佳]](元モーニング娘。) : 2012年5月4日にモーニング娘。を卒業する旨を発表し、『モーニング娘。コンサートツアー2012春 〜ウルトラスマート〜』最終日(5月18日)をもって卒業し、ソロに移行した。同年10月1日に所属事務所を[[ジェイピィールーム]]([[アップフロントグループ]])に移籍した。2013年12月31日以降長らく芸能活動を休止していたが、「ニュージーランドでの留学期間に勉強した[[調理師|料理への道]]を歩みたい」という理由から[[2018年]][[11月3日]]付をもってジェイピィールームを退社、同時に芸能界を引退した<ref name="mitsui20181103">{{Cite web|和書|title=光井愛佳に関するご報告|url=http://www.helloproject.com/news/9497/|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2018-11-3|accessdate=2018-11-3}}</ref>。 ; [[鞘師里保]](元モーニング娘。) : モーニング娘。9期メンバー。2015年10月29日にモーニング娘。'15を卒業する旨を発表し、同年12月31日をもって卒業した。以降は活動を休止しつつも、ハロー!プロジェクトには引き続き在籍していたが、2018年11月30日をもってアップフロントプロモーションとの専属契約を終了した<ref name="sayashi20181207">{{Cite web|和書|title=鞘師里保に関するお知らせ|url=http://www.helloproject.com/news/9630/|publisher=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2018-12-7|accessdate=2018-12-7}}</ref>。その後フリーランスを経て、2020年9月3日から[[ジャパン・ミュージックエンターテイメント]]に所属し、芸能活動を再開<ref name="sanspo20200903">{{Cite news |date=2020-09-03 |url=https://www.sanspo.com/geino/amp/20200903/geo20090305020006-a.html |title=鞘師里保「昔はとにかく頑張ることが美学だと思っていました」 芸能活動再開一問一答 |newspaper=サンスポ |accessdate=2020-09-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200907101105/https://www.sanspo.com/geino/amp/20200903/geo20090305020006-a.html|archivedate=2020-09-07}}</ref>。 ; [[梁川奈々美]](元カントリー・ガールズ・元Juice=Juice) : 2019年3月11日、[[Zepp Tokyo]]で行われたライブをもって、カントリー・ガールズとJuice=Juiceの両グループ、およびハロー!プロジェクトを卒業し、同時に芸能界を引退した<ref name="yanagawa20181102">{{Cite web|和書|date=2018-11-2|url=http://www.helloproject.com/news/9476/|title=梁川奈々美 卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト |accessdate=2018-11-3}}</ref>。 ; [[和田彩花]](元アンジュルム) : 2019年6月18日、日本武道館で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="wada20180405">{{Cite web|和書|date=2018-4-5|url=http://www.helloproject.com/news/8379/|title=アンジュルム 和田彩花の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-4-21}}</ref>。同年8月1日、自身が満25歳の誕生日を迎えたのに伴い、YU-Mエンターテインメントに移籍してソロ活動を開始。アップフロントプロモーションおよび[[アップフロントグループ]]と引き続き業務提携を実施。 ; [[中西香菜]](元アンジュルム) : 2019年12月10日、[[豊洲PIT]]で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業し、同時に芸能界を引退した<ref name="nakanishi190930">{{Cite web|和書|date=2019-9-30|url=http://helloproject.com/news/11044/|title=アンジュルム 中西香菜の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-9-30}}</ref>。2020年7月10日よりYouTuber、また、YouTubeグループ『カオスピピス』を経て、現在は音楽グループ『Youplus』のメンバーとして活動している。 ; [[山木梨沙]](元カントリー・ガールズ) : 2019年12月26日、[[渋谷公会堂|LINE CUBE SHIBUYA]]で行われたライブをもって、カントリー・ガールズおよびハロー!プロジェクトを卒業し、同時に芸能界を引退した{{R|countrygirls191018}}。芸能界引退後は[[ソニーグループ]]の社員として勤務している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sony.com/ja/SonyInfo/Jobs/DiscoverSony/articles/202201/RecruitingMovie/ |title=「学生が自分らしさを発揮できる面接のために何ができる?」 グループの力を集結し、採用ムービーを制作!担当者の想いと制作の裏側に迫る!|work=ソニーグループ|date=2022-1-19|accessdate=2022-1-28}}</ref>。 ; [[室田瑞希]](元アンジュルム) : 2020年3月22日、無観客で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="murofuna200122">{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/11620/|title=アンジュルム 室田瑞希の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2020-1-22|accessdate=2020-1-22}}</ref>。2020年12月末日をもってアップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/12775|title=室田瑞希に関するお知らせ|work=アップフロントプロモーション|date=2021-1-28|accessdate=2021-1-28}}</ref>。2021年3月22日からシネマクトに所属し、芸能活動を再開<ref>{{Cite web|和書|date=2021-03-22|url=http://www.cinemact.co.jp/news_cinemact/9625/ |title=室田瑞希【ニュース】|website=CINEMACT - シネマクト Official Web Site|accessdate=2021-03-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210321150735/http://www.cinemact.co.jp/news_cinemact/9625/|archivedate=2021-03-21}}</ref>。2023年現在は芸能事務所「Rare Promotion」に所属。2023年6月5日、パニック障害と診断されたことを発表し、活動休止に入る<ref>{{Cite web|和書| date=2023-06-05 | url=https://natalie.mu/music/news/527447 | title=室田瑞希、パニック障害と診断され無期限で活動休止 | work=音楽ナタリー | accessdate=2023-06-06}}</ref>。 ; [[広瀬彩海]](元こぶしファクトリー) : 2020年3月30日のグループ解散とともにアップフロントプロモーションの専属契約を終了。現在はフリーランスで芸能活動を行っている{{R|kobushi200108}}。 ; [[野村みな美]](元こぶしファクトリー) : 2020年3月30日のグループ解散とともに芸能活動を休止{{R|kobushi200108}}。2022年12月31日、アップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約は既に終了していること、また同日付で問い合わせ業務も終了することを発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/15507 |title=野村みな美に関するお知らせ|work=アップフロントプロモーション|date=2022-12-31|accessdate=2022-12-31}}</ref>。 ; [[浜浦彩乃]](元こぶしファクトリー) : 2020年3月30日のグループ解散とともにアップフロントプロモーションの専属契約を終了{{R|kobushi200108}}。2023年1月現在は株式会社CRAVEに所属<ref>{{Twitter status|hamaura_0426|1609432948696313856|浜浦彩乃(ayano hamaura)のツイート 2023年1月1日の発言}}</ref>。 ; [[和田桜子]](元こぶしファクトリー) : 2020年3月30日のグループ解散とともに、芸能界を引退した{{R|kobushi200108}}。 ; [[船木結]](元アンジュルム・元カントリー・ガールズ) : 2020年12月9日、日本武道館で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業し、アップフロントプロモーションとの専属契約を終了<ref name="funaki201209">{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20201209-KRDSDXXSIVPOHEA2FZSIBTVWWI/ |title= アンジュルム船木結、日本武道館公演でハロプロ卒業!「きょうが私、一番かわいかったので」 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2020-12-9 |accessdate= 2020-12-9 }}</ref>。 ; [[高木紗友希]](元Juice=Juice) : 2021年2月12日、ハロー!プロジェクトのメンバーとして、自覚を欠いていると総合的に判断し、同日付でハロー!プロジェクト及びJuice=Juiceの活動を終了した<ref name="takagi210212">{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/12828/|title=高木紗友希のJuice=Juiceでの活動終了に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2021-2-12|accessdate=2021-2-12}}</ref>。同年3月末日をもってアップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約を終了<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/13024|title=高木紗友希の契約終了に関するお知らせ|work=アップフロントプロモーション|date=2021-3-31|accessdate=2021-3-31}}</ref>。現在は'''さゆべえ'''名義で歌手活動を行っている。 ; [[笠原桃奈]](元アンジュルム) : 2021年11月15日、日本武道館で行われたライブをもって、アンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業し、アップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約を終了<ref name="kasahara211115">{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202109130000541_m.html |title= アンジュルム笠原桃奈、11・15卒コン以降の5公演出演せず |newspaper=日刊スポーツ |date= 2021-9-13 |accessdate= 2021-11-15 }}</ref>。2023年12月16日より[[LAPONEエンタテインメント]]に移籍し、11人組ガールズグループ『[[ME:I]]』のメンバーとして活動している。 ; [[金澤朋子]](元Juice=Juice) : 2021年11月24日、横浜アリーナで行われたライブをもって、Juice=Juiceおよびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="kanazawa211124">{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/13628/|title=Juice=Juice 金澤朋子の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2021-11-24}}</ref>。2022年5月末日、所属事務所とのマネージメント契約を終了し、同時に芸能界を引退<ref>{{cite news | date=2022-5-17 | url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/14551 | title=金澤朋子に関するお知らせ | publisher=アップフロントプロモーション | accessdate=2022-5-17}}</ref>。 ; [[太田遥香]](元アンジュルム) : 2020年2月28日、「ハロー!プロジェクトのルールに反する事案」を理由として当面の活動休止が発表されたのち、同年10月13日を以ってアンジュルムとしての活動を終了する<ref name="oota201013">{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/12467/ |title=太田遥香の今後に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2020-10-13|accessdate=2020-10-13}}</ref>。活動休止中もハロー!プロジェクトに在籍していたが<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/amp/202010130000762.html |title= アンジュルム太田遥香が脱退 今後もハロプロで活動|publisher=日刊スポーツ|date= 2020-10-13 |accessdate= 2020-10-13 }}</ref>、2022年3月末日をもってアップフロントプロモーションとの専属マネージメント契約を終了し、ハロー!プロジェクトも卒業した<ref name="oota220406">{{Cite web|和書|url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/14333|title=太田遥香に関するお知らせ|work=アップフロントプロモーション|date=2022-4-6|accessdate=2022-4-6}}</ref>。 ; [[森戸知沙希]](元モーニング娘。・元カントリー・ガールズ) : 2022年6月20日、「本格的に英語を学ぶため、海外留学を行う」という理由により、日本武道館で行われたライブをもって、モーニング娘。'22およびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="morito220620">{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/14214/|title=モーニング娘。'22 森戸知沙希の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2022-6-20}}</ref>。 ; [[加賀楓]](元モーニング娘。) : 2022年12月10日、日本武道館で行われたライブをもって、モーニング娘。'22およびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="kaga221210">{{Cite news|url= https://natalie.mu/music/news/497414 |title= モーニング娘。'22の加賀楓、卒業公演は日本武道館 |newspaper=音楽ナタリー |date= 2022-10-13 |accessdate= 2022-12-10 }}</ref>。 ; [[山岸理子]]・[[岸本ゆめの]](元つばきファクトリー) : 2023年11月6日、日本武道館で行われたライブをもって、つばきファクトリーおよびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="yamakishi231106">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2301249/full/ |title= つばきファクトリー・山岸理子&岸本ゆめの、涙あふれる卒業公演「つばきファクトリーでの活動は一生の宝物」 11人で“最初で最後”の未発表曲パフォーマンスも |newspaper= ORICON NEWS |date= 2023-11-06 |accessdate= 2023-11-06 }}</ref>。 ; [[譜久村聖]](元モーニング娘。) : 2023年11月29日、横浜アリーナで行われたライブをもって、モーニング娘。'23およびハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="fukumura231129">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2304507/full/ |title= モー娘。譜久村聖が笑顔で卒業、15年のアイドル人生に幕 歴代最長リーダー9年の功労者【セットリスト付き】 |newspaper=ORICON NEWS |date= 2023-11-29 |accessdate= 2023-11-29 }}</ref>。 ===== ファンクラブがM-line clubとなったメンバー(2010年以降) ===== * [[久住小春]] *: モーニング娘。7期メンバー。2009年12月6日のツアー最終日をもって卒業した。2016年11月30日をもって所属事務所であるジェイピィールームとの契約が終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=9642|title=「久住小春に関するご報告」|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2016-11-29|accessdate=2017-8-26}}</ref>。 * [[高橋愛]] *: モーニング娘。5期メンバーおよび6代目リーダー。ハロー!プロジェクトの2代目リーダー。2011年9月30日の日本武道館公演をもってグループを卒業した。 * [[新垣里沙]] *: モーニング娘。5期メンバーおよび7代目リーダー。ハロー!プロジェクトの3代目リーダー。2012年5月18日の日本武道館公演をもってグループを卒業した。2020年8月1日をもって所属事務所であるジェイピィールームとの契約が終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=15908|title=「新垣里沙に関するご報告」|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2020-08-01|accessdate=2020-08-01}}</ref>。以降、フリーランスで芸能活動を続けている。 * [[真野恵里菜]] *: 2006年にハロプロエッグに加入。2007年6月には[[Gatas Brilhantes H.P.]]および[[音楽ガッタス]]にも加入した。2008年3月2日、『音楽ガッタスコンサートツアー』最終日([[大阪厚生年金会館]])にて、正式メンバーへの昇格ならびにソロデビューの準備のため音楽ガッタスを卒業する旨を発表し、同月29日、ハロプロエッグの研修を修了した。同年6月29日にインディーズデビュー、2009年3月18日にメジャーデビューした。2013年2月23日、「女優業に専念したい」という理由からハロー!プロジェクトを卒業した<ref name="oricon20130223">{{Cite news|date=2013-2-23|url=https://www.oricon.co.jp/news/2021978/full/|title=真野恵里菜、ハロプロ卒業ライブで涙 4年の活動に幕|work=ORICON NEWS|accessdate=2013-2-23}}</ref>。 * [[田中れいな]] *: モーニング娘。6期メンバー。2012年11月18日、オーディションで選んだメンバーでガールズバンド「[[LoVendoЯ]]」を結成し、2013年5月21日の日本武道館公演をもってモーニング娘。を卒業した<ref name="oricon2024798">{{Cite news|title=田中れいな、笑顔でモー娘。卒業 同期・道重と熱い抱擁|url=https://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2024798/full/|work=ORICON NEWS|date=2013-5-21|accessdate=2013-5-21}}</ref><ref>[http://www.helloproject.com/news/1211181600_reina.html 田中れいなに関する大切なお知らせ] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130326122203/http://www.helloproject.com/news/1211181600_reina.html|date=2013年3月26日}}</ref>。以降、2019年7月末までLoVendoЯのリーダーとして活動し、後にソロ活動に移行。 * [[須藤茉麻]]・[[熊井友理奈]] *: 2名ともBerryz工房のメンバー。2015年5月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=7211|title=須藤茉麻・熊井友理奈 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|accessdate=2015-12-14}}</ref>。 * [[夏焼雅]] *: Berryz工房のメンバー(副キャプテン)として活動後、2016年5月に結成した[[PINK CRES.]](グループ名の公表は2016年8月、2021年6月30日解散)のリーダーとして活動し、その後ソロをメインとした活動に移行。 * [[道重さゆみ]] *: モーニング娘。6期メンバーおよび8代目リーダー。ハロー!プロジェクトの4代目リーダー。2014年11月26日の横浜アリーナ公演をもってグループを卒業<ref>{{Cite web|和書|date=2014-4-29|url=http://www.helloproject.com/news/1657/|title=モーニング娘。'14 道重さゆみに関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2014-5-1}}</ref>。その後、2年4か月の活動休止を経て、2017年3月18日より正式に芸能活動を再開した。 * [[矢島舞美]]・[[鈴木愛理 (歌手)|鈴木愛理]] *: 2名とも元℃-uteのメンバー。2017年7月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=10650|title=矢島舞美・中島早貴・鈴木愛理・岡井千聖 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|accessdate=2017-7-12}}</ref>。 * [[中島早貴]] *: 元℃-uteのメンバー。2017年7月以降M-line clubに所属し芸能活動をしていたが、海外留学及びその準備のため、2021年12月31日をもって芸能活動を一時休止<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jp-r.co.jp/saki_nakajima/news/13661/ |title=中島早貴に関するお知らせ|work=J.PROOM|date=2021-10-14|accessdate=2021-10-14}}</ref>。 * [[岡井千聖]] *: 元℃-uteのメンバー。2017年7月以降M-line clubに所属し芸能活動をしていたが、2019年4月より芸能活動を休止し、2020年4月30日をもって芸能界を引退<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jp-r.co.jp/news/12001|title=岡井千聖に関するご報告|work=J.PROOM|date=2020-05-01|accessdate=2020-05-01}}</ref>。 * [[清水佐紀]] *: Berryz工房のメンバー(キャプテン)として活動後、ハロー!プロジェクト・アドバイザーに就任。2017年8月よりM-line clubに所属していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=10816|title=清水佐紀 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2017-8-24|accessdate=2017-8-25}}</ref>。2021年11月23日、所属事務所とのマネージメント契約を終了し、同時に芸能界を引退した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jp-r.co.jp/saki_shimizu/news/12907/|title=清水佐紀入籍及び引退のご報告|work=J.P ROOM |date=2021-03-03|accessdate=2021-03-03}}</ref>。 * [[工藤遥]] *: モーニング娘。10期メンバー。2017年12月11日、「演技することに専念したい」という理由から、日本武道館で行われたライブをもってモーニング娘。'17およびハロー!プロジェクトを卒業した。 * [[飯窪春菜]] *: モーニング娘。10期メンバー。2018年8月17日にモーニング娘。'18およびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、同年12月16日に日本武道館で行われたライブをもって卒業した<ref name="iikubo180817">{{Cite web|和書|date=2018-8-17|url=http://www.helloproject.com/news/9019/|title=モーニング娘。'18 飯窪春菜の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-8-17}}</ref>。 * [[宮崎由加]] *: Juice=Juiceの初代リーダー。2018年12月21日公開のYouTube番組『ハロ!ステ』にてJuice=Juiceおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、2019年6月17日に日本武道館で行われたライブをもって卒業した<ref name="miyazaki20181221">{{Cite web|和書|date=2018-12-21|url=http://helloproject.com/news/9678/|title=宮崎由加 卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-12-21}}</ref>。 * [[勝田里奈]] *: アンジュルム2期メンバー。「(芸能活動と両立しながら)ファッション関係の仕事に従事したい」という理由から、2019年6月26日にアンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、2019年9月25日に[[パシフィコ横浜]]・国立大ホールで行われたライブをもって卒業した<ref name="katsuta190626">{{Cite web|和書|date=2019-6-26|url=http://www.helloproject.com/news/10596/|title=アンジュルム 勝田里奈の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-9-26}}</ref>。 * [[宮本佳林]] *: 元Juice=Juiceのメンバー。2020年2月10日公開のYouTube番組『ハロ!ステ』にてJuice=Juiceおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/11718/ |title=Juice=Juice 宮本佳林の卒業に関するお知らせ |work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト |date=2020-02-10 |accessdate=2020-12-11}}</ref>、12月10日に日本武道館で行われたライブをもって卒業した<ref name="miyamoto201210">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2178856/amp/|title=Juice=Juice宮本佳林が武道館で卒業 12年のハロプロ活動に幕「新しい1歩を」|work=ORICON NEWS|date=2020-12-10|accessdate=2020-12-10}}</ref>。 * [[小片リサ]] *: 元つばきファクトリーのメンバー。2020年10月8日より活動休止したのち、同年12月28日をもってハロー!プロジェクト及びつばきファクトリーの活動を終了<ref name="ogata201228">{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/12711/|title=つばきファクトリー 小片リサの今後に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2020-12-28|accessdate=2020-12-28}}</ref>。2021年6月1日より芸能活動を再開<ref>{{cite news | date=2021-06-01 | url=http://www.up-front-promotion.co.jp/information/detail/13252 | title=小片リサの活動再開に関するお知らせ | publisher=アップフロントプロモーション | accessdate=2021-06-01}}</ref>。 * [[佐藤優樹 (歌手)|佐藤優樹]] *: モーニング娘。10期メンバー。2021年9月24日にモーニング娘。'21およびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、同年12月13日に日本武道館で行われたライブをもって卒業した<ref name="satou211213">{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/13590/|title=モーニング娘。'21 佐藤優樹の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2021-9-24}}</ref>。2022年4月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=19232|title=【4/18更新】佐藤優樹 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2022-4-18|accessdate=2022-4-21}}</ref>。 * [[小関舞]] *: 元カントリー・ガールズのメンバー。2019年12月26日、LINE CUBE SHIBUYAで行われたライブをもって、カントリー・ガールズおよびハロー!プロジェクトを卒業した{{R|countrygirls191018}}。2022年4月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=19251|title=小関舞 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2022-4-21|accessdate=2022-4-21}}</ref>。 * [[稲場愛香]] *: 元Juice=Juice、元カントリー・ガールズのメンバー。2022年3月18日にJuice=Juiceおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、同年5月30日に日本武道館で行われたライブをもって卒業した<ref name="inaba220530">{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/14271/|title=Juice=Juice 稲場愛香の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2022-5-30}}</ref>。同年10月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=20289|title=稲場愛香 M-line club 加入のお知らせ|work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2022-10-18|accessdate=2022-10-29}}</ref>。 * [[浅倉樹々]] *: 元つばきファクトリーのメンバー。2022年9月7日につばきファクトリーおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、2023年4月2日に[[幕張メッセ]] 国際展示場 4ホールで行われたライブをもって卒業した<ref name="asakura230402">{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202304020001586_m.html |title= つばきファクトリー浅倉樹々が卒業「『さようなら』じゃなくて『行ってきます!』」全メンバー涙 |newspaper=日刊スポーツ |date= 2023-4-2 |accessdate= 2023-4-2 }}</ref>。同年6月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=21671|title=浅倉樹々 M-line club加入のお知らせ |work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2023-6-12|accessdate=2023-6-21}}</ref>。 * [[竹内朱莉]] *: 元アンジュルムのメンバー。2022年12月20日にアンジュルムおよびハロー!プロジェクトを卒業する旨を発表し、2023年6月21日に横浜アリーナで行われたライブをもって卒業した<ref name="takeuchi230621">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2275476/full/ |title=アンジュルム竹内朱莉、6月21日に横アリで卒コン 卒業後は書道の道へ…教授免許取得し夢は書道教室|newspaper=ORICON NEWS|date=2023-4-14|accessdate=2023-6-21}}</ref>。同年7月以降M-line clubに所属している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.up-fc.jp/m-line/news_Info.php?id=21893|title=竹内朱莉 M-line club加入のお知らせ |work=エムラインクラブオフィシャルファンクラブWebサイト|date=2023-7-14|accessdate=2023-7-17}}</ref>。 === 過去の研修生 === ; [[ハロプロ関西]] : 『ハロー!プロジェクトのメンバーオーディション#ハロプロ関西オーディション2005|ハロプロ関西オーディション2005』で合格した関西出身のメンバーが所属していたが、2008年4月12日に研修を終了し、「SI☆NA」としてデビューを目指すことが発表された。ハロプロ関西は2009年4月1日のエルダークラブ卒業と同時に公式サイトのカテゴリ名として復活し、同時にSI☆NAが正式にハロー!プロジェクトのメンバーになったが、2011年4月17日に解散した。なお、2010年5月にデビューした[[宮崎梨緒]]は、アップフロント関西の研修生であるが、イベントなどの告知などでは出演者に「ハロプロ関西」を併記することもある。 ; [[ハロプロ台湾]] : 『早安家族New Star』の合格者が所属し、その8人によって「[[アイスクリー娘。]]」と「[[フランシス&愛子]]」([[大小姐]])を結成した。研修を終え正式にハロー!プロジェクトのメンバーとなった後、アイスクリー娘。と大小姐の全メンバーはハロー!プロジェクトから離脱している。 ; チャン・ダヨン : 2009年5月〜6月に開催されたオーディション『対東京少女』で合格したメンバーである。同年6月にBerryz工房の初来韓コンサートで発表、9月のコンサートでお披露目が行われ、2011年正月のコンサートにはバックダンサーとして出演した<ref>[http://uflink-en.blogspot.com/search/label/Dayeon%20Jang UP-FRONT LINK (english): Dayeon Jang]</ref><ref>[http://uflink-fr.blogspot.com/search/label/Dayeon%20Jang UP-FRONT LINK (français): Dayeon Jang]</ref>。 === 留学生 === ; [[シンミン]] : 留学期間:2006年7月16日 - 8月31日 : 『[[お台場冒険王]]'06』の[[Gatas Brilhantes H.P.|ガッタス&MIXガッタス]]に期間限定で参加していた。 == メンバー構成推移 == {{Main2|ハロプロエッグ・ハロプロ研修生への(からの)加入・離脱については[[ハロプロ研修生]]を}} <!-- カッコ内の人数については、約1年4か月の間ノートで独自研究ではないかという疑問が示されていて、この節にも独自研究テンプレートが貼られたままとなっていたため、[[ノート:ハロー!プロジェクト#除去予告]]で除去予告を行い、除去に反対意見がなかったため除去しました。 --> ; 1998年 * 1月26日、平家みちよ・モーニング娘。合同ファンクラブ'''「Hello!」'''を開設('''平家みちよ'''・'''中澤裕子'''・'''石黒彩'''・'''飯田圭織'''・'''安倍なつみ'''・'''福田明日香''') * (1月28日、モーニング娘。がメジャーデビュー) * 5月3日、'''保田圭'''・'''矢口真里'''・'''市井紗耶香'''がモーニング娘。に加入 * 8月5日、中澤裕子がソロデビュー ; 1999年 * 4月18日、福田明日香が卒業 * 4月21日、太陽とシスコムーン('''信田美帆'''・'''稲葉貴子'''・'''RuRu'''・'''小湊美和''')がデビュー * 7月23日、ココナッツ娘('''アヤカ'''・'''チェルシー'''・'''エイプリル'''・'''ダニエル'''・'''ミカ''')がデビュー、カントリー娘。('''小林梓'''・柳原尋美〈7月16日に急死〉・'''戸田鈴音'''〈りんね〉)がインディーズデビュー * 8月4日、'''三佳千夏'''がソロデビュー * 8月22日、'''後藤真希'''がモーニング娘。に加入 * 8月23日、小林梓が離脱 ; 2000年 * 1月7日、石黒彩が卒業 * 1月30日、チェルシー・エイプリルが卒業し、'''レフア'''がココナッツ娘に加入。 * 2月19日、メロン記念日('''村田めぐみ'''・'''斉藤瞳'''・'''大谷雅恵'''・'''柴田あゆみ''')がデビュー * (3月、太陽とシスコムーンがT&Cボンバーへ改称) * 4月16日、'''石川梨華'''・'''吉澤ひとみ'''・'''辻希美'''・'''加護亜依'''がモーニング娘。に加入 * 4月21日、'''前田有紀'''がデビュー * (5月、ココナッツ娘がココナッツ娘。へ改称) * 5月21日、市井紗耶香が卒業 * 5月30日、'''あさみ'''がカントリー娘。に加入 * 10月9日、T&Cボンバー解散のため信田美帆・RuRu・小湊美和が離脱 * 10月31日、三佳千夏が離脱 * 11月1日、シェキドル('''北上アミ'''・'''大木衣吹''')がインディーズデビュー ; 2001年 * 3月、'''末永真己'''がシェキドルに加入 * 3月28日、後藤真希がソロデビュー * 4月11日、'''松浦亜弥'''がソロデビュー * (4月15日、中澤裕子がモーニング娘。を卒業) * (4月18日、カントリー娘。が、カントリー娘。に石川梨華〈モーニング娘。〉としてメジャーデビュー) * 5月27日、ダニエルが卒業 * 8月、大木衣吹が離脱、'''荒井紗紀'''がシェキドルに加入 * 8月26日、'''高橋愛'''・'''紺野あさ美'''・'''小川麻琴'''・'''新垣里沙'''がモーニング娘。に加入 * 12月5日、シェキドルがメジャーデビュー、同時に北上アミ・末永真己・荒井紗紀が離脱 ; 2002年 * 1月、'''里田まい'''がカントリー娘。に加入、'''石井リカ'''が加入 * 2月17日、レフアが卒業 * 3月13日、'''藤本美貴'''がソロデビュー * 6月30日、'''梅田えりか'''・'''清水佐紀'''・'''矢島舞美'''・'''嗣永桃子'''・'''徳永千奈美'''・'''村上愛'''・'''須藤茉麻'''・'''夏焼雅'''・'''石村舞波'''・'''熊井友理奈'''・'''中島早貴'''・'''菅谷梨沙子'''・'''鈴木愛理'''・'''岡井千聖'''・'''萩原舞'''がハロー!プロジェクト・キッズ オーディションに合格 * (7月31日、ハロプロ再編を発表) * (9月23日、後藤真希がモーニング娘。を卒業) * 10月13日、りんねが卒業 * 11月7日、平家みちよが卒業 * (11月27日、須藤茉麻・菅谷梨沙子・鈴木愛理・萩原舞が「ミニモニ。と高橋愛+4KIDS」に参加してCDデビュー) * 12月31日、石井リカが卒業 ; 2003年 * (1月7日、藤本美貴がモーニング娘。に加入) * 1月19日、'''亀井絵里'''・'''道重さゆみ'''・'''田中れいな'''がモーニング娘。に加入 * 4月27日、'''みうな'''がカントリー娘。に加入 * (5月5日、保田圭がモーニング娘。を卒業) * (8月6日、梅田えりか・清水佐紀・矢島舞美・嗣永桃子・村上愛がZYXとして矢口真里とともにCDデビュー) * 8月13日、安倍なつみがソロデビュー * (10月、三好絵梨香がハロープロジェクト新ユニットオーディションに合格) * (10月29日、田中れいな・夏焼雅・鈴木愛理があぁ!としてCDデビュー) ; 2004年 * (1月25日、安倍なつみがモーニング娘。を卒業) * (3月3日、徳永千奈美・石村舞波・熊井友理奈がBerryz工房として清水佐紀・嗣永桃子・須藤茉麻・夏焼雅・菅谷梨沙子とともにCDデビュー) * 5月2日、ミカが卒業 * 5月19日、W(辻希美・加護亜依)がメジャーデビュー * (8月1日、辻希美・加護亜依がモーニング娘。を卒業) * 9月23日、美勇伝(石川梨華・'''三好絵梨香'''・'''岡田唯''')がデビュー * (12月1日、中島早貴・岡井千聖がH.P.オールスターズに参加し、キッズの全員がCDデビュー。安倍なつみがすべての芸能活動を自粛) ; 2005年 * (1月30日、飯田圭織がモーニング娘。を卒業) * (2月7日、安倍なつみが復帰) * (4月14日、矢口真里がモーニング娘。を脱退) * 5月1日、'''久住小春'''がモーニング娘。に加入 * (5月7日、石川梨華がモーニング娘。を卒業) * (6月11日、ハロー!プロジェクト・キッズでBerryz工房無所属のメンバー7名によるグループを℃-uteと命名) * 10月2日、石村舞波が卒業 * (10月、ともいき・木を植えたいが活動開始) ; 2006年 * 1月2日、'''有原栞菜'''が℃-uteに加入 * (2月10日、加護亜依が不祥事発覚により芸能活動自粛) * (5月6日、℃-uteがインディーズデビュー) * (7月16日、韓国からの留学生シンミンを受け入れ) * 7月23日、紺野あさ美が卒業 * (8月、ハロプロ関西レッスン生5名〈うちハロプロエッグ1名〉が活動開始) * (8月27日、小川麻琴がモーニング娘。を卒業、芸能活動休止) * (8月31日、シンミンの留学期間が終了) * (9月6日、℃-uteがミュージックDVDでメジャーデビュー) * (10月22日、ハロプロエッグの6名〈諸塚香奈実・橋本愛奈・秋山ゆりか・大瀬楓・岡田ロビン翔子・後藤夕貴〉がTHE ポッシボーとしてインディーズデビュー) * 10月31日、村上愛が脱退 * 12月10日、'''光井愛佳'''がモーニング娘。に加入 ; 2007年 * 1月28日、あさみ・みうなが卒業 * 3月15日、'''ジュンジュン'''・'''リンリン'''がモーニング娘。に加入 * 3月26日、加護亜依が契約解除 * (5月6日、吉澤ひとみがモーニング娘。を卒業) * (5月11日、辻希美が出産のため芸能活動を休業) * (6月1日、藤本美貴がモーニング娘。を脱退) * 7月15日、紺野あさ美が復帰 * (8月31日、『Gatas Brilhantes H.P.新メンバーオーディション』の合格者4名〈藤咲由美・永井沙紀・菅原佳奈枝・深谷愛〉がお披露目) * (9月2日、飯田圭織が出産のため芸能活動を休業) * 9月12日、ハロプロエッグの'''是永美記'''・'''能登有沙'''・'''真野恵里菜'''・'''仙石みなみ'''・'''澤田由梨'''・'''武藤水華'''を含む10名が音楽ガッタスとしてデビュー * (10月15日、THE ポッシボーがハロプロエッグを卒業) * 10月28日、後藤真希が卒業 ; 2008年 * (1月30日、是永美記がハロプロエッグから昇格) * (3月2日、真野恵里菜がハロプロエッグから昇格) * (4月12日、ハロプロ関西の4名〈須磨愛・岩嶋雅奈未・中山菜々・阿部麻美〉が研修を終了し、SI☆NAとしてデビューを目指し活動することを発表) * 4月30日、ハロプロエッグの'''吉川友'''・'''北原沙弥香'''を含む3名がMilkyWayとしてデビュー、アヤカ・武藤水華が卒業 * (6月7日、小川麻琴が復帰) * 6月11日、ハロプロエッグの'''前田憂佳'''がHigh-Kingとしてデビュー * (6月29日、美勇伝が解散、真野恵里菜がインディーズデビュー) * (9月20日、『早安家族New Star』合格者6名と特別賞2名がハロプロ台湾のメンバーとして加入) * 12月10日、ハロプロエッグの'''和田彩花'''・'''福田花音'''・'''佐保明梨'''を含む4人がしゅごキャラエッグ!としてデビュー * 12月26日、『早安家族New Star』の合格者6名がアイスクリー娘。('''シェンシェン'''・'''アンチー'''・'''ペイペイ'''・'''ヨウコ'''・'''レイレイ'''・'''グーチャン''')として正式デビュー、その後特別賞2名もフランシス&愛子('''フランシス'''・'''愛子''')としてデビュー ; 2009年 * (1月10日、飯田圭織が復帰) * (1月31日、辻希美が芸能活動再開) * (2月26日、有原栞菜が外反母趾悪化のため休業) * (3月18日、真野恵里菜がメジャーデビュー) * 3月31日、エルダークラブ所属メンバー(中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみ・保田圭・矢口真里・石川梨華・吉澤ひとみ・辻希美・紺野あさ美・小川麻琴・藤本美貴・稲葉貴子・里田まい・メロン記念日・前田有紀・松浦亜弥・三好絵梨香・岡田唯・音楽ガッタス)が卒業 * 4月1日、SI☆NAの4名が公式サイトの全面リニューアルに伴いハロプロ関西として掲載される * 4月4日、ハロプロエッグの和田彩花・前田憂佳・福田花音・'''小川紗季'''の4名でS/mileageが結成 * (6月7日、S/mileageがインディーズデビュー) * 6月22日、『対東京少女』合格者1名が加入 * (6月、チャンプルユニットが活動開始) * 7月9日、有原栞菜が離脱 * 7月25日、中山菜々が卒業 * 8月26日、ハロプロエッグの'''譜久村聖'''・'''前田彩里'''がしゅごキャラエッグ!に加入 * (9月15日、フランシス&愛子がユニット名「大小姐」として正式デビュー) * (同、和田彩花・前田憂佳・福田花音がしゅごキャラエッグ!を卒業) * 10月25日、梅田えりかが卒業 * 11月24日、小川紗季を含むS/mileageの4名が公式サイトのリニューアルに伴い掲載される * 11月26日、しゅごキャラエッグ! アミュレットダイヤオーディションで'''田辺奈菜美'''が優勝、同時にしゅごキャラエッグ!に加入 * 12月6日、久住小春が卒業 * (12月、公式サイトのアーティスト名表記「S/mileage」を片仮名「スマイレージ」に変更) ; 2010年 * (3月27日、スマイレージがハロプロエッグから昇格) * (5月26日、スマイレージがメジャーデビュー) * 11月、アイスクリー娘。が離脱 * 12月15日、亀井絵里・ジュンジュン・リンリンが卒業 ; 2011年 * 1月2日、譜久村聖・'''生田衣梨奈'''・'''鞘師里保'''・'''鈴木香音'''がモーニング娘。に加入 * (1月7日、譜久村聖がハロプロエッグから昇格) * 4月17日、SI☆NA解散のため須磨愛・岩嶋雅奈未・阿部麻美が脱退 * 8月14日、'''中西香菜'''・'''小数賀芙由香'''・'''竹内朱莉'''・'''勝田里奈'''・'''田村芽実'''がスマイレージのサブメンバーとして加入、竹内朱莉・勝田里奈がハロプロエッグから昇格 * 8月27日、小川紗季が卒業 * (9月9日、小数賀芙由香がスマイレージより離脱)<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/1240/|title=ハロー!プロジェクトからのお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-9-9|accessdate=2011-9-9}}</ref> * 9月29日、'''飯窪春菜'''・'''石田亜佑美'''・'''佐藤優樹'''・'''工藤遥'''がモーニング娘。に加入、工藤遥がハロプロエッグから昇格 * 9月30日、高橋愛が卒業 * (10月16日、小数賀を除くスマイレージサブメンバーが正式メンバーに昇格) * 12月31日、前田憂佳が卒業 * (年末、ハロプロエッグがハロプロ研修生へ改称) ; 2012年 * 5月18日、新垣里沙が卒業 * (同、光井愛佳がモーニング娘。を卒業) * 5月、大小姐が離脱 * 9月14日、'''小田さくら'''がハロプロ研修生からモーニング娘。に昇格 ; 2013年 * 2月3日、ハロプロ研修生の5名('''宮本佳林'''・'''高木紗友希'''・'''大塚愛菜'''・'''植村あかり'''・'''金澤朋子''')と'''宮崎由加'''による新グループが結成(同年2月25日、グループ名がJuice=Juiceに決定) * 2月23日、真野恵里菜が卒業{{R|oricon20130223}} * (4月3日、Juice=Juiceがインディーズデビュー) * 5月21日、田中れいなが卒業{{R|oricon2024798}} * 7月5日、大塚愛菜がJuice=Juiceおよびハロプロ研修生を脱退 * (9月11日、Juice=Juiceがメジャーデビュー) * (12月31日、光井愛佳が留学のため休業) ; 2014年 * 9月30日、'''尾形春水'''・'''野中美希'''・'''牧野真莉愛'''・'''羽賀朱音'''がモーニング娘。に加入、牧野真莉愛・羽賀朱音がハロプロ研修生から昇格 * 10月4日、'''室田瑞希'''・'''佐々木莉佳子'''・'''相川茉穂'''がハロプロ研修生からスマイレージに昇格 * 11月5日、嗣永桃子・'''山木梨沙'''・'''稲場愛香'''・'''森戸知沙希'''・'''島村嬉唄'''・'''小関舞'''がカントリー娘。に加入、稲場愛香・山木梨沙がハロプロ研修生から昇格、カントリー娘。がカントリー・ガールズへ改称 *(同、里田まいがカントリー・ガールズのスーパーバイザーに就任) * 11月26日、道重さゆみが卒業 * (12月17日、スマイレージがアンジュルムへ改称) ; 2015年 * 1月2日、ハロプロ研修生から'''浜浦彩乃'''・'''田口夏実'''・'''小川麗奈'''・'''野村みな美'''・'''和田桜子'''・'''藤井梨央'''・'''広瀬彩海'''・'''井上玲音'''の8名による新グループを結成(2月25日に、こぶしファクトリーとなった) * 3月3日、Berryz工房の無期限活動停止により清水佐紀・徳永千奈美・須藤茉麻・夏焼雅・熊井友理奈・菅谷梨沙子が卒業<ref>{{Cite web|和書|date=2015-3-4|url=http://www.helloproject.com/og/|title=ハロー!プロジェクト卒業メンバー|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2015-3-22}}</ref>(嗣永桃子はカントリー・ガールズとして継続) * 4月29日、ハロプロ研修生から'''山岸理子'''・'''岸本ゆめの'''・'''新沼希空'''・'''浅倉樹々'''・'''小片リサ'''・'''谷本安美'''の6名による新グループつばきファクトリーが結成{{R|tsubaki}} * 6月12日、島村嬉唄が契約解除<ref name="カントリー・ガールズ 島村嬉唄に関するお知らせ">{{Cite web|和書|date=2015-6-12|url=http://www.helloproject.com/news/2980/|title=カントリー・ガールズ 島村嬉唄に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2015-6-12}}</ref> * (9月2日、こぶしファクトリーがメジャーデビュー) * (9月6日、つばきファクトリーがインディーズデビュー) * 11月5日、'''船木結'''・'''梁川奈々美'''がハロプロ研修生からカントリー・ガールズに昇格<ref name="hp20151105">{{Cite web|和書|date=2015-11-5|url=http://www.helloproject.com/news/3770/|title=カントリー・ガールズ 新メンバー加入決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2015-11-5}}</ref> * 11月11日、'''上國料萌衣'''がアンジュルムに加入 * 11月29日、福田花音が卒業 * (12月31日、鞘師里保がモーニング娘。を卒業) ; 2016年 * 5月30日、田村芽実が卒業<ref name="mantan20160530">{{Cite web|和書|date=2016-5-30|url=https://mantan-web.jp/article/20160530dog00m200026000c.html|title=アンジュルム田村芽実:武道館で笑顔で卒業「17年間で一番幸せ」 4年半の活動に終止符|work=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2016-5-30}}</ref> * 5月31日、鈴木香音が卒業<ref name="mantan20160531">{{Cite web|和書|date=2016-5-31|url=https://mantan-web.jp/article/20160531dog00m200032000c.html|title=モー娘。鈴木香音:笑顔で卒業 「私は世界一幸せもの」|work=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2016-5-31}}</ref> * 7月16日、'''笠原桃奈'''がハロプロ研修生からアンジュルムに昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2016-7-16|url=http://www.helloproject.com/news/5378/|title=アンジュルム 新メンバー加入決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-7-17}}</ref> * (8月4日、稲場愛香がカントリー・ガールズを卒業。[[気管支喘息|喘息]]の療養のため4月から活動休止中で、治療の経過を見ながら稲場愛香としての活動の可能性を探っていくと発表<ref name="inabagrad">{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/5488/|title=カントリー・ガールズ 稲場愛香に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2016-8-4|accessdate=2016-8-5}}</ref>) * 8月13日、'''小野田紗栞'''・'''小野瑞歩'''・'''秋山眞緒'''がハロプロ研修生からつばきファクトリーに昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2016-8-13| url=http://www.helloproject.com/news/5539/| title=つばきファクトリー 新メンバー加入決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-8-13}}</ref> * 12月12日、'''加賀楓'''・'''横山玲奈'''がハロプロ研修生からモーニング娘。に昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-12|url=http://www.helloproject.com/news/6173/|title=モーニング娘。'16 第13期メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-12-13}}</ref> ; 2017年 * (2月22日、つばきファクトリーがメジャーデビュー) * 5月5日、ハロプロ研修生から'''一岡伶奈'''・'''高瀬くるみ'''・'''清野桃々姫'''による新グループ(後のBEYOOOOONDS)の活動を発表 * 6月12日、℃-ute解散により矢島舞美・中島早貴・鈴木愛理・岡井千聖・萩原舞が卒業 * 6月26日、ハロプロ研修生から'''段原瑠々'''がJuice=Juice、'''川村文乃'''がアンジュルムに昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2017-6-26|url=http://www.helloproject.com/news/7272/|title=ハロー!プロジェクト 新体制について|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-6-27}}</ref>、森戸知沙希がモーニング娘。'17、梁川奈々美がJuice=Juice、船木結がアンジュルムに移籍、カントリー・ガールズと兼任。 * 6月30日、嗣永桃子が卒業<ref>{{Cite web|和書|date=2016-11-5|url=http://www.helloproject.com/news/6012/|title=嗣永桃子に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-11-6}}</ref> * 7月6日、藤井梨央が契約解除{{Efn2|本来は9月2日に卒業予定だったが、前倒しとなった。}}<ref name="fujii20170706">{{Cite web|和書|date=2017-7-6|url=http://www.helloproject.com/news/7320/|title=こぶしファクトリー 藤井梨央に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-7-7}}</ref> * 9月6日、小川麗奈が卒業<ref>{{Cite web|和書|date=2017-9-6|url=http://www.helloproject.com/news/7553/|title=こぶしファクトリー 小川麗奈に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-9-7}}</ref> * (9月8日、稲場愛香が出身地の札幌を拠点として活動再開することを発表し、ソロに移行<ref name="helloproject20170908">{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/7559/|title=稲場愛香に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2017-9-8|accessdate=2017-9-8}}</ref>) * 12月6日、田口夏実が契約解除<ref>{{Cite web|和書|date=2017-12-6|url=http://www.helloproject.com/news/7911/|title=こぶしファクトリー 田口夏実に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-12-8}}</ref> * 12月11日、工藤遥が卒業<ref>{{Cite web|和書|date=2017-4-29|url=http://www.helloproject.com/news/6849/|title=モーニング娘。'17 工藤遥に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-5-1}}</ref> * 12月31日、相川茉穂が卒業<ref name="aikawa20171231">{{Cite web|和書|date=2017-12-31|url=http://www.helloproject.com/news/7975/|title=アンジュルム 相川茉穂に関してのお知らせ(ニュース詳細)|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-12-31}}</ref> ; 2018年 * 6月9日、ハロプロ研修生から'''前田こころ'''・'''山﨑夢羽'''・'''西田汐里'''・'''島倉りか'''・'''江口紗耶'''・'''岡村美波'''が新グループ(後のBEYOOOOONDS)に昇格 *(6月13日、稲場愛香がJuice=Juiceに加入)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/8726/|title=稲場愛香 Juice=Juice加入のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2018-6-13|accessdate=2018-6-13}}</ref> * 6月20日、尾形春水が卒業<ref name="mantan20180620">{{Cite web|和書|date=2018-3-27|url=http://www.helloproject.com/news/8331/|title=モーニング娘。'18 尾形春水の卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-4-4}}</ref> * 10月19日、新グループの名称がBEYOOOOONDSに決定 * 11月3日、光井愛佳が卒業{{R|mitsui20181103}} * 11月23日、'''太田遥香'''・'''伊勢鈴蘭'''がアンジュルムに加入、太田遥香がハロプロ研修生北海道から昇格<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/9581/|title=アンジュルム 新メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2018-11-23|accessdate=2019-7-29}}</ref> * 11月30日、鞘師里保が卒業(12月7日に公式発表){{R|sayashi20181207}} * 12月3日、'''平井美葉'''・'''小林萌花'''・'''里吉うたの'''がBEYOOOOONDSに加入<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/9616/|title=BEYOOOOONDS 加入メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2018-12-3|accessdate=2018-12-3}}</ref> * 12月16日、飯窪春菜が卒業{{R|iikubo180817}} ; 2019年 * 3月11日、梁川奈々美が卒業{{R|yanagawa20181102}} * 6月14日、'''工藤由愛'''・'''松永里愛'''がJuice=Juiceに加入、工藤由愛がハロプロ研修生北海道、松永里愛がハロプロ研修生から昇格<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/10541/|title=Juice=Juice 新メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2019-6-14|accessdate=2019-6-14}}</ref> * 6月17日、宮崎由加が卒業{{R|miyazaki20181221}} * 6月18日、和田彩花が卒業{{R|wada20180405}} * 6月22日、'''北川莉央'''・'''岡村ほまれ'''・'''山﨑愛生'''がモーニング娘。に加入、山﨑愛生がハロプロ研修生北海道から昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2019-6-22|url=http://www.helloproject.com/news/10573/|title=モーニング娘。'19 第15期メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-6-22}}</ref> * 7月3日、'''橋迫鈴'''がハロプロ研修生からアンジュルムに昇格<ref>{{Cite web|和書|date=2019-7-3|url=http://helloproject.com/news/10628/|title=アンジュルム 新メンバー加入決定!| work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-7-3}}</ref> * (8月7日、BEYOOOOONDSがメジャーデビュー) * 9月25日、勝田里奈が卒業{{R|katsuta190626}} * 12月10日、中西香菜が卒業{{R|nakanishi190930}} * 12月26日、カントリー・ガールズの活動休止により、山木梨沙・小関舞が卒業{{Efn2|森戸知沙希はモーニング娘。専任となり継続。船木結はアンジュルム専任となり継続。}}{{R|countrygirls191018}} ; 2020年 * 3月22日、室田瑞希が卒業{{R|murofuna200122}} * 3月30日、こぶしファクトリーの解散により広瀬彩海・野村みな美・浜浦彩乃・和田桜子が卒業{{Efn2|井上玲音はハロー!プロジェクトでの活動を継続。}}{{R|kobushi200108}} *(4月1日、井上玲音がJuice=Juiceに加入)<ref name="oricon20200401">{{Cite news| date=2020-04-01 | url=https://www.oricon.co.jp/news/2158915/full/ | title=元こぶしファクトリー井上玲音がJuice=Juiceに加入「頑張ります!」 | newspaper=ORICON NEWS | accessdate=2020-04-01}}</ref> * (10月13日、太田遥香がアンジュルムとしての活動を終了){{R|oota201013}} * 11月2日、'''川名凜'''・'''為永幸音'''・'''松本わかな'''がアンジュルムに加入、為永幸音がハロプロ研修生から昇格<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/12513/|title=アンジュルム 新メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2020-11-2|accessdate=2020-11-2}}</ref> * 12月9日、船木結が卒業{{R|funaki201209}}{{Efn2|本来は3月に卒業予定だったが室田瑞希の卒業により6月に先送りとなり、更に新型コロナウイルス感染症による被害拡大の影響により、6月の公演が中止となり卒業時期が延期された。}} * 12月10日、宮本佳林が卒業{{R|miyamoto201210}}{{Efn2|本来は6月に卒業予定だったが、新型コロナウイルス感染症による被害拡大の影響により、6月の公演が中止となり卒業時期が延期された。}} * 12月28日、小片リサがつばきファクトリーとしての活動を終了{{R|ogata201228}} ; 2021年 * 2月12日、高木紗友希がJuice=Juiceとしての活動を終了{{R|takagi210212}} * 7月7日、'''有澤一華'''・'''入江里咲'''・'''江端妃咲'''がJuice=Juiceに、'''河西結心'''・'''八木栞'''・'''福田真琳'''・'''豫風瑠乃'''がつばきファクトリーに加入、江端妃咲・豫風瑠乃・有澤一華がハロプロ研修生から昇格<ref>{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/13363/|title=「Juice=Juice」「つばきファクトリー」 新メンバー決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2021-7-7}}</ref> * 11月15日、笠原桃奈が卒業{{R|kasahara211115}} * 11月24日、金澤朋子が卒業{{R|kanazawa211124}} * 12月12日、ハロプロ研修生の7名('''米村姫良々'''・'''中山夏月姫'''・'''窪田七海'''・'''斉藤円香'''・'''広本瑠璃'''・'''西﨑美空'''・'''北原もも''')、ハロプロ研修生北海道の'''石栗奏美'''、オーディション合格者の2名('''田代すみれ'''・'''筒井澪心''')による新グループが結成、新グループの名称がOCHA NORMAに決定<ref name="oricon20211212">{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2217286/full/ |title=ハロプロ新グループ「OCHA NORMA」結成「10人全員で一丸となって全力で」|newspaper=ORICON NEWS|date=2021-12-12|accessdate=2021-12-13}}</ref> * 12月13日、佐藤優樹が卒業{{R|satou211213}} * 12月30日、'''平山遊季'''がハロプロ研修生からアンジュルムに昇格<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/14032/ |title=アンジュルム 新メンバー加入決定!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2021-12-30|accessdate=2021-12-30}}</ref> ; 2022年 * 3月31日、太田遥香が卒業(4月6日に公式発表){{R|oota220406}} * 5月30日、稲場愛香が卒業<ref name="inaba220530"/> * 6月20日、森戸知沙希が卒業<ref name="morito220620"/> * 6月29日、'''櫻井梨央'''がモーニング娘。'22に、'''石山咲良'''・'''遠藤彩加里'''がJuice=Juiceに加入、石山咲良がハロプロ研修生から昇格<ref>{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/14778/|title=「モーニング娘。'22」「Juice=Juice」新メンバー決定のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2022-6-29}}</ref> * 12月10日、加賀楓が卒業<ref name="kaga221210"/> ; 2023年 * 4月2日、浅倉樹々が卒業<ref name="asakura230402"/> * 5月23日、'''井上春華'''・'''弓桁朱琴'''がモーニング娘。'23に、'''下井谷幸穂'''・'''後藤花'''がアンジュルムに、'''川嶋美楓'''がJuice=Juiceに加入、川嶋美楓・後藤花・下井谷幸穂がハロプロ研修生から昇格<ref>{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/15959/|title=ハロー!プロジェクト25周年を迎えて各グループへの新メンバー加入のお知らせを致します。|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2023-5-24}}</ref> * 6月21日、竹内朱莉が卒業<ref name="takeuchi230621"/> * 11月6日、山岸理子・岸本ゆめのが卒業<ref name="yamakishi231106"/> * 11月29日、譜久村聖が卒業<ref>{{Cite web|和書| author=譜久村聖 | url=https://ameblo.jp/morningmusume-9ki/entry-12822650286.html | title=卒業公演決定☆譜久村聖 | work=モーニング娘。‘23 Q期オフィシャルブログ | date=2023-09-30 | accessdate=2023-09-30}}</ref> ; 2024年 * (春、佐々木莉佳子が卒業予定)<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2307766/full/ |title= アンジュルム佐々木莉佳子、卒業を発表 最後まで「全力で愛を伝えます!」【コメント全文】 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2023-12-21 |accessdate= 2023-12-21 }}</ref> * (春、植村あかりが卒業予定)<ref>{{Cite web|和書| url=http://helloproject.com/news/16338/|title=Juice=Juice 植村あかりの卒業に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2023-8-16}}</ref> == ユニット == ハロー!プロジェクトでは、[[モーニング娘。]]のメンバーあるいはグループ全体の中で構成する派生グループをユニットと呼ぶ。以下には、活動を休止しているユニットも含まれる{{Efn2|公式サイトには、活動休止中のユニットも掲載され、[[エルダークラブ]]のメンバーと共に「ハロプロヒストリー」という項目に移されていたが、現在は活動中のユニットのみが掲載されている。}}。 ; [[タンポポ (ハロー!プロジェクト)|タンポポ]] : 初のモーニング娘。内ユニットとして1998年10月に[[石黒彩]]・[[飯田圭織]](初代リーダー)・[[矢口真里]]の3名での結成が発表され、同年11月18日にデビューした。その後、2000年1月の石黒彩の脱退、同年6月の[[石川梨華]](2代目リーダー)と[[加護亜依]]の加入を経て、2002年7月31日に石川梨華以外のメンバーの脱退と[[紺野あさ美]]・[[新垣里沙]]・[[柴田あゆみ]]の加入が発表された。2003年以降は事実上活動を停止している。2007年7月のコンサートでは歴代メンバー(矢口・石川・新垣・柴田)が「たんぽぽ」を披露した。 : 2009年7月15日発売の『[[チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜]]』を機に「[[タンポポ (ハロー!プロジェクト)#タンポポ#|タンポポ#]]」の結成が発表され、モーニング娘。の[[亀井絵里]]・[[光井愛佳]]、[[Berryz工房]]の[[熊井友理奈]]、[[℃-ute]]の[[岡井千聖]]が選ばれている。 ; [[プッチモニ]] : 1999年10月3日に[[保田圭]](初代リーダー)・[[市井紗耶香]]・[[後藤真希]]の3名での結成が発表され、同年11月25日にデビューした。その後、2000年5月21日の市井紗耶香の脱退、同年6月26日の[[吉澤ひとみ]](2代目リーダー)の加入を経て、2002年7月31日に保田圭と後藤真希の脱退および[[小川麻琴]]と[[長手絢香|アヤカ]]の加入が発表された。こちらも2003年以降は事実上活動を停止しており、2006年1月のコンサートにおいて歴代メンバー(保田・後藤・吉澤・小川・アヤカ)が「BABY! 恋にKNOCK OUT!」を披露した。 : 『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』の発売を機に「[[プッチモニ#プッチモニV|プッチモニV]]」の結成が発表され、℃-uteの[[中島早貴]]・[[萩原舞 (歌手)|萩原舞]]および[[真野恵里菜]]が選ばれている。 ; [[ミニモニ。]] : 2000年に[[テレビ東京]]系列のバラエティ番組『[[ハロー!モーニング。]]』の企画から矢口真里(初代リーダー)・{{JIS90フォント|辻}}希美・加護亜依・[[ミカ・タレッサ・トッド|ミカ]](2代目リーダー)の4名で結成され、2001年1月17日にデビューした。2003年春に矢口真里の脱退と[[高橋愛]]の加入があり、2004年5月2日にミカが卒業した後は無期限で活動を停止している。 : 2009年5月27日、つんく♂が自身のブログで'''新ミニモニ。'''の構想を明らかにしていたが、同年7月15日発売の『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』を機に「[[ミニモニ。#新ミニモニ。|新ミニモニ。]]」が結成されており、モーニング娘。の[[リンリン (1991年生の歌手)|リンリン]]と当時[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]の[[福田花音]]・[[竹内朱莉]]・[[宮本佳林]]が選ばれている。 ; [[カントリー娘。|カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)→カントリー娘。に紺野と藤本(モーニング娘。)]] : 2001年4月18日にオリジナルメンバーの[[りんね]]、追加メンバーの[[あさみ]]と、モーニング娘。の石川梨華がゲストとして加わり、3名でデビューした。あさみ・[[里田まい]]・[[みうな]]の編成となった2003年にはゲストが紺野あさ美と[[藤本美貴]]に入れ替わった。しかし、2004年秋以降はカントリー娘。単独での活動が中心となり、事実上ゲストを迎えての活動はなくなった。 ; [[ZYX]] : 2002年7月31日のグループ再編成時に当時モーニング娘。の矢口真里(リーダー)中心のキッズユニット結成が発表され、2003年8月6日に[[梅田えりか]]・[[矢島舞美]]・[[嗣永桃子]]・[[清水佐紀]]・[[村上愛]]との6名でデビューした。2004年1月に嗣永桃子と清水佐紀がBerryz工房に加入してからは事実上活動を停止していたが、2006年1月のコンサートにおいて矢口を除いた5人が「白いTOKYO」を披露した。 : 『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』の発売を機に「[[ZYX#ZYX-α|ZYX-α]]」の結成が発表され、ZYX時代からの嗣永桃子(Berryz工房)と梅田えりか (℃-ute)に加え、モーニング娘。の新垣里沙と[[久住小春]]、Berryz工房の[[徳永千奈美]]と[[須藤茉麻]]、当時ハロプロエッグの[[和田彩花]]と[[小川紗季]]が新たに選ばれている。 ; [[モーニング娘。さくら組]]・[[モーニング娘。おとめ組]] : 2003年9月に当時モーニング娘。のメンバー15名を[[安倍なつみ]](初代リーダー)・矢口真里(2代目リーダー)・吉澤ひとみ・加護亜依・高橋愛・紺野あさ美・新垣里沙・亀井絵里(以上モーニング娘。さくら組)と飯田圭織(リーダー)・石川梨華・{{JIS90フォント|辻}}希美・小川麻琴・藤本美貴・[[道重さゆみ]]・[[田中れいな]](以上モーニング娘。おとめ組)の2組に分けての活動を開始した。現在は組単位での活動を停止している。 ; [[あぁ!]] : ZYXに続くキッズユニットとして、2003年9月12日にモーニング娘。の田中れいな(リーダー)と[[夏焼雅]]・[[鈴木愛理 (歌手)|鈴木愛理]]の3名での結成が発表され、同年10月29日にデビューした。その後楽曲は発表されず、2004年1月に夏焼雅がBerryz工房加入以降は事実上活動を停止していた。ただし、2006年1月のコンサートで唯一の楽曲「FIRST KISS」を披露している。 : 『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』では、田中れいなに代わり、当時ハロプロエッグだった[[佐保明梨]]が新たに選ばれている。 ; [[Buono!]] : テレビアニメ『[[しゅごキャラ!]]』シリーズ(2007年10月 - 2010年3月放送)のテーマソングを提供するため、2007年7月21日にBerryz工房の嗣永桃子・夏焼雅と℃-uteの鈴木愛理の3名での結成が発表され、同年10月31日にデビューした。『しゅごキャラ!』シリーズ放送終了後も活動を継続、2017年5月22日のライブをもって、事実上活動を終了した。 ; [[BEYOOOOONDS#CHICA#TETSU|CHICA#TETSU]] : [[BEYOOOOONDS]]のグループ内ユニットとして、2018年6月9日に[[一岡伶奈]](リーダー)・[[島倉りか]]・[[西田汐里]]・[[江口紗耶]]の4名で結成。同年10月19日にグループ名を発表。 ; [[BEYOOOOONDS#雨ノ森 川海|雨ノ森 川海]] : BEYOOOOONDSのグループ内ユニットとして、2018年6月9日に[[高瀬くるみ]](リーダー)・[[前田こころ]]・[[山﨑夢羽]]・[[岡村美波]]・[[清野桃々姫]]の5名で結成。同年10月19日にグループ名を発表。 ; [[BEYOOOOONDS#SeasoningS|SeasoningS]] : BEYOOOOONDSのグループ内ユニットとして、2021年1月24日に[[平井美葉]](リーダー)・[[小林萌花]]・[[里吉うたの]]の3名で結成。 === 期間限定・スペシャルユニット === ハロー!プロジェクトのユニットには、結成時に期間限定で活動することが公式に発表されているものがあり、これらを「スペシャルユニット」と呼ぶ。 なお、2008年12月10日に[[メガベスト]]シリーズの1つとして発売された『ハロー!プロジェクト スペシャルユニット メガベスト』には、以下のユニットの他に[[高木ブー]]とモーニング娘。・ココナッツ娘。・藤本美貴・石井リカ、[[おけいさんと安倍なつみ(モーニング娘。)]]、ZYX、ROMANS、あぁ!、H.P.オールスターズ、[[モーニング娘。“熱っちぃ地球を冷ますんだっ。”文化祭#エコモニ。|エコモニ。]]、[[ともいき・木を植えたい]]、[[アテナ&ロビケロッツ]]、[[安倍なつみ&矢島舞美(℃-ute)]]の楽曲も収録している。 ; [[ごまっとう]] : 2002年10月に後藤真希・[[松浦亜弥]]・藤本美貴の3名で結成され、シングルCDとシングルVのDVDを各1枚ずつ発売した。 ; [[ROMANS]] : 2003年4月に放送を開始したテレビ東京のバラエティ番組『[[セクシー女塾]]』の企画から矢口真里(リーダー)・石川梨華・アヤカ・里田まい・[[斉藤瞳]]の5名で結成され、同年8月20日にデビューした。それ以降は楽曲は発表されず、同番組も同年9月で終了したため事実上活動を停止していたが、2008年1月のコンサートで唯一の楽曲「SEXY NIGHT 〜忘れられない彼〜」を披露している。 ; [[後浦なつみ]] : 2004年10月に後藤真希・松浦亜弥・安倍なつみの3名で結成され、シングルCD、シングルVのDVD、コンサートDVDを各1枚ずつ発売した。また、『後浦なつみコンサートツアー2005春トライアングルエナジー』も開催した。 ; [[DEF.DIVA]] : 2005年9月5日に安倍なつみ・後藤真希・石川梨華・松浦亜弥の4名で結成され、シングルCD2枚を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tsunku.net/officialcommentdetail.php?@DB_ID@=52|title=新ユニット『DEF.DIVA』に関して|work=つんく♂オフィシャルサイト|accessdate=2005-9-18}}</ref>。 ; [[GAM (音楽ユニット)|GAM]] : 2006年6月15日に松浦亜弥と藤本美貴の2名で結成され、これまでにシングルCDとシングルVのDVDを3枚ずつ、[[アルバム]]CDとコンサートDVDを1枚ずつ発売した。また、『GAM 1stコンサートツアー2007初夏〜グレイト亜弥&美貴〜』も開催した。 ; [[モーニング娘。誕生10年記念隊]] : モーニング娘。のデビュー10年目突入を記念して2007年1月に飯田圭織・安倍なつみ・後藤真希・新垣里沙・久住小春の5名で結成され、シングルCDとシングルVのDVDを各2枚ずつ発売した。また、『モーニング娘。誕生10年記念隊コンサートツアー2007夏 〜サンキューMy Dearest〜』も開催した。解散は発表されていないが、活動休止状態となっている。 : その後、後藤は2007年10月28日、飯田と安倍は2009年3月31日、久住は同年12月6日、新垣は2012年5月18日にハロー!プロジェクトを卒業し、ハロー!プロジェクトに所属するメンバーはいなくなった。 ; [[High-King]] : モーニング娘。と[[宝塚歌劇団]]の[[コラボレーション]]による『[[シンデレラ#ミュージカル|シンデレラ the ミュージカル]]』(2008年8月開催)を応援するユニットとして、高橋愛・田中れいな(以上モーニング娘。)・清水佐紀(Berryz工房)・矢島舞美 (℃-ute)・[[前田憂佳]](結成当時はハロプロエッグ、後にスマイレージ)の5名で結成され、シングルCDとシングルVのDVDを各1枚ずつ発売した<ref>[https://web.archive.org/web/20080518125206/http://www.helloproject.com/newslist/high-king_0805171000.html ハロー!プロジェクト 新ユニット『High-King』(ハイ・キング)結成(2008年5月18日時点のアーカイブ)]</ref>。 : 『チャンプル①〜ハッピーマリッジソングカバー集〜』では、チャンプルユニットの1つとして活動している。 ; Ex-ceed! : 2010年5月から10月まで中国・[[上海]]で開催された史上最大規模の万国博覧会『[[上海国際博覧会|上海万博]]』を応援するユニットとして、ジュンジュン・リンリン(以上モーニング娘。)・夏焼雅(Berryz工房)・久住小春の4名で結成した。同年6月に中国・上海万博日本産業館[[日本航空|JAL]]ステージで開催された産業館テーマウィーク“J-POP”ステージに出演した<ref>[http://blog.sina.com.cn/s/blog_494c00310100k9ym.html {{lang|zh|*速报* 世博会特别组合决定了~~~!! Ex-ceed!}}](中国語ブログ)</ref>。 ; リボーンイレブン : ファミリーミュージカル『[[リボーン〜命のオーディション〜]]』(2011年10月開催)のテーマソングを歌うユニットとして、出演者の中から新垣里沙・田中れいな・譜久村聖・生田衣梨奈・鞘師里保・鈴木香音(以上モーニング娘。)・三好絵梨香(元美勇伝)・仙石みなみ・[[森咲樹]](以上アップアップガールズ(仮))・宮本佳林(ハロプロエッグ)・工藤遥(ハロプロエッグ→稽古期間中にモーニング娘。加入)の11名で結成され、CDを発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.helloproject.com/news/1197/|title=ファミリーミュージカル「リボーン〜命のオーディション〜」テーマソングCD会場販売のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-10-7|accessdate=2011-10-7}}</ref>。 ; CATS EYE7 : 劇団ゲキハロ第12回公演『キャッツ♥アイ』(2012年開催)の主題歌を歌うユニットとして結成され、CDを発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/725/|title=劇団ゲキハロ第12回公演「キャッツ♥アイ」主題歌 DVD付CD キャッツ♥アイ セブン 「CAT'S EYE」会場販売のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2012-9-21|accessdate=2012-9-21}}</ref>。 ; モーニング娘。20th : 2017年11月、モーニング娘。誕生20周年を記念し、当時の現役モーニング娘。メンバー全員及びオリジナルメンバー参加によるユニット「モーニング娘。20th」が結成され、デジタルシングル2作、及びミニアルバムを発売した。 ; モーニング娘。リーダーズ : モーニング娘。の歴代リーダー8名及び2018年現在リーダーを務めている譜久村聖の9名で構成。2018年2月発売のモーニング娘。20thのミニアルバム『[[二十歳のモーニング娘。]]』に収録されている楽曲『WE ARE LEADERS! ~リーダーってのもつらいもの~』を歌唱。 ; [[L!PP (from Hello! Project Dance Team)]] : 2021年11月に石田亜佑美・加賀楓・佐々木莉佳子・稲場愛香・秋山眞緒・平井美葉の6名が選出され活動を開始。その後、稲場が離脱、段原瑠々が加入し、2022年8月にユニット名が命名される。同年9月にオリジナルの新曲『[[Sunset Summer Fever]]』を発売。同年12月に加賀が離脱し、5人で初パフォーマンスを行った。 === シャッフルユニット === ハロー!プロジェクトでは、2000年から2005年まで毎年メンバーをシャッフルしてユニットを結成し、シングルを同時リリースした。 {{Main|シャッフルユニット}} === オールスターユニット === {{Main|H.P.オールスターズ}} ; [[H.P.オールスターズ]] : 2004年、ハロー!プロジェクト所属者46名(当時)全員によるユニットが結成され、CD「[[ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!]]」をリリースした。当時の公式サイトで当ユニットはシャッフルユニットとして扱われていた。 ; [[H.P.オールスターズ#ハロー!プロジェクト モベキマス|ハロー!プロジェクト モベキマス]] : 2011年9月、ハロー!プロジェクトメンバー全員(高橋愛を除く)により結成されたオールスターユニット。同年11月16日にCD「[[ブスにならない哲学]]」を発売した。「モベキマス」とは各グループ名やソロの頭文字を片仮名にして並べたものである。 : モ=モーニング娘。、ベ=Berryz工房、キ=℃-ute、マ=真野恵里菜、ス=スマイレージ ; [[H.P.オールスターズ#ハロプロ・オールスターズ|ハロプロ・オールスターズ]] : 2018年8月、ハロー!プロジェクト誕生20周年を記念し、全員参加(光井、鞘師を除く)によるユニット「ハロプロ・オールスターズ」が結成され、同年9月26日にシングル「[[YEAH YEAH YEAH/憧れのStress-free/花、闌の時]]」を発売した<ref name="HP20">{{Cite web|和書|date=2018-8-5|url=http://www.helloproject.com/news/8957/|title=Hello! Project誕生20周年記念シングル リリース決定!!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-11-19}}</ref>。 === 企画ユニット === ; [[ポッキー#ポッキーガールズ&ビーナスムース|ポッキーガールズ&ビーナスムース]] (POCKY GIRLS & Venus Mousse) : 「[[ポッキー]]」シリーズ([[江崎グリコ]])のCM制作のために2002年夏当時のモーニング娘。のメンバー13名を2組に分けて結成されたユニットである。明るく元気な9人組ユニットのポッキーガールズ(安倍なつみ・保田圭・石川梨華・{{JIS90フォント|辻}}希美・加護亜依・高橋愛・紺野あさ美・小川麻琴・新垣里沙)とエレガントな4人組ユニットのビーナスムース(飯田圭織・矢口真里・後藤真希・吉澤ひとみ)としてCMに登場していた。 ; [[ミニハムず]] : アニメ[[映画]]『劇場版[[とっとこハム太郎]]』の劇中に登場する架空のアイドルグループ。ミニモニ。をモチーフに製作された。メンバーはぐっちゃん(矢口真里)・メリカちゃん(ミカ)・あい〜んちゃん(加護亜依)・のんのちゃん({{JIS90フォント|辻}}希美)・たかはし(高橋愛)の5名。このほかに様々なキャラクターが登場した。 : 詳細は「[[とっとこハム太郎の登場人物#劇場版のキャラクター|とっとこハム太郎の登場人物]]」を参照 ; [[モーニング娘。“熱っちぃ地球を冷ますんだっ。”文化祭#エコモニ。|エコモニ。]] : 2004年6月19日・20日に[[幕張メッセ]]で開催された『モーニング娘。"熱っちぃ地球を冷ますんだっ。"文化祭2004 〜STOP!地球温暖化〜』に合わせて結成されたユニット。メンバーは石川梨華と道重さゆみの2名。翌2005年以降も文化祭(この年から2007年まで秋にパシフィコ横浜で開催)の時に活動している。 ; [[ミニハムず#あややムwithエコハムず|あややムwithエコハムず]] : 映画「劇場版とっとこハム太郎」第4弾の劇中に登場するキャラクターユニットである。メンバーはあややム(松浦亜弥)とエコモニ。をモチーフに製作したエコハムず(リカハム〈石川梨華〉・シゲハム〈道重さゆみ〉)の3名。 ; [[月島きらり starring 久住小春 (モーニング娘。)]] : テレビ東京系列の[[テレビアニメ|アニメ]]番組『[[きらりん☆レボリューション]]』(2006年4月 - 2009年3月放送)で、モーニング娘。の久住小春が声優を務める「月島きらり」として主題歌を担当。 ; [[きら☆ぴか]] : 「月島きらり」役の久住小春と、その後輩「観月ひかる」役の℃-uteの萩原舞によるユニット。同番組の主題歌でデビュー。 ; [[MilkyWay (ハロー!プロジェクト)|MilkyWay]] : 「月島きらり」役の久住小春と、当時ハロプロエッグだった「雪野のえる」役の[[北原沙弥香]]・「花咲こべに」役の[[吉川友]]によるユニット。同番組の主題歌でデビュー。 ; アテナ : テレビ東京系列のアニメ番組『[[ロビーとケロビー]]』(2007年4月 - 2008年3月放送)で、{{JIS90フォント|辻}}希美(降板後は新垣里沙)が声優を務める「アテナ」として主題歌を担当。 ; [[アテナ&ロビケロッツ]] : 上記の「アテナ」の声優を務めるモーニング娘。の新垣里沙と、同じくモーニング娘。の光井愛佳、℃-uteの中島早貴・岡井千聖によって結成された「ロビケロッツ」が合体したユニットとして主題歌を担当。 ; [[しゅごキャラエッグ!]] : 『しゅごキャラ!!どきっ』(2008年10月 - 2009年9月放送)のオープニングテーマ曲を提供するため、2008年9月20日にハロプロエッグの前田憂佳・佐保明梨・福田花音・和田彩花の4名での結成が発表され、同年12月10日にシングル「みんなのたまご」でデビューした。同番組のオープニングテーマ曲は後述のガーディアンズ4に引き継がれたが、2009年8月の『しゅごキャラ!ミュージカル』への舞台出演、ガーディアンズ4のシングルへの「しゅごキャラエッグ!ver.」の収録、『しゅごキャラパーティー!』(2009年10月 - 2010年3月放送)のMC担当など、様々な活動を行っていた。 : 同月26日に和田・前田(憂佳)・福田が卒業したのに伴い第1期の活動が終了、代わって[[譜久村聖]]と[[前田彩里 (アイドル)|前田彩里]]が加入した。その間アミュレットダイヤオーディションを行い、同年11月26日の同オーディション優勝者の[[田辺奈菜美]]の加入をもって第2期の活動を開始したが、『しゅごキャラ!!』シリーズの終了に伴い解散した。 ; [[ガーディアンズ4]] : 『しゅごキャラ!!どきっ』の2009年4月からのオープニングテーマ曲を提供するため、2009年3月にモーニング娘。の光井愛佳、Berryz工房の熊井友理奈・[[菅谷梨沙子]]、℃-uteの中島早貴の4名での結成が発表され、同年5月27日にシングル「おまかせ♪ガーディアン」でデビューした。こちらも『しゅごキャラ!!』シリーズの終了に伴い解散した。 ; [[リルぷりっ (ハロー!プロジェクト)|リルぷりっ]] : テレビ東京系列のアニメ番組『[[ひめチェン!おとぎちっくアイドル リルぷりっ]]』(2010年4月 - )で、「雪森りんご」役の和田彩花、「高城レイラ」役の前田憂佳、「笹原名月」役の福田花音(以上スマイレージ)の3名が声優として出演し、主題歌を担当。 ; 氷室衣舞(CV 菅谷梨沙子/Berryz工房) : テレビ東京系列のアニメ番組『[[極上!!めちゃモテ委員長]]』(2009年4月 - )で、Berryz工房の菅谷梨沙子が声優を務める「氷室衣舞」として主題歌を担当。なお、このアニメには[[NICE GIRL プロジェクト!]]のメンバーがメインで出演していた。 ; DEF.DIVAと[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天イーグルス]]応援隊 : 楽天イーグルス応援隊として、DEF.DIVAの他につんく♂、カントリー娘。、メロン記念日がコーラスとして参加。 ; [[HANGRY&ANGRY]] : “グロカワ”系女性2人組ユニット。メンバーは吉澤ひとみと石川梨華の2名(当時ハロー!プロジェクトは卒業)。2011年からは「HANGRY&ANGRY-f」として活動。 ; ダンス部 : 2013年10月にハロー!プロジェクトの[[YouTube]]オリジナル番組『ハロ!ステ』にて発表されたダンス専門のユニット。初期メンバーは譜久村聖・鞘師里保・石田亜佑美・清水佐紀・夏焼雅・矢島舞美・中島早貴・和田彩花・福田花音・竹内朱莉・高木紗友希・宮本佳林の12名。その後メンバーの増減があり、2023年2月現在のメンバーは石田亜佑美・牧野真莉愛・岡村ほまれ・佐々木莉佳子・橋迫鈴・為永幸音・段原瑠々・松永里愛・山岸理子・秋山眞緒・岡村美波・平井美葉・里吉うたの・広本瑠璃・筒井澪心の15名である。 ; ミニーズ。?(ミニっ娘。) : [[横山玲奈]]、[[森戸知沙希]]、[[上國料萌衣]]、[[船木結]]の4名で結成されたユニット<ref>{{Cite web|和書|date=2019-7-3|url=https://ameblo.jp/morningm-13ki/entry-12489840968.html|title=『週刊少年サンデーみてね!』|author=森戸知沙希|work=モーニング娘。'18 13期・14期オフィシャルブログ Powered by Ameba|accessdate=2019-8-13}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20190704-853435/|title=“ハロプロ ミニっ娘。”チア姿を披露! 森戸知沙希&船木結は水着姿も|newspaper=マイナビニュース|date=2019-7-4|accessdate=2019-7-21}}</ref>。2018年10月15日、[[熊井友理奈]]とのコラボレーションで単行本「身長差悩みあるあるWorld『コンプレックスにサヨウナラ!』」を発売。同年10月20日・21日、彩の国くまがやドーム 体育館で開催された『Hello! Project 20th Anniversary!! Hello! Project ハロ!フェス 2018』にて、オリジナル楽曲「コンプレックスにサヨウナラ!」を披露<ref>{{Cite web|和書|date=2019-1-13|url=https://ameblo.jp/morningm-13ki/entry-12413494589.html|title=ありがとう|author=横山玲奈|work=モーニング娘。'18 13期・14期オフィシャルブログ Powered by Ameba|accessdate=2019-1-13}}</ref>。 ==== SATOYAMA movement ==== {{Main|SATOYAMA movement}} : ハロー!プロジェクトのメンバーが所属する[[アップフロントグループ]]の活動として「SATOYAMA movement」があり、テレビ番組『[[ハロー!SATOYAMAライフ]]』にてその活動が紹介されていた。活動の中で2012年7月20日、「ピーベリー」と「DIY&#9825;」の結成が発表され<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/831/|title=エンターテインメントを超えた、新たな活動が始動!『SATOYAMA movement』<美しい国をデザインする "SATOYAMA movement">|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2012-7-20|accessdate=2012-8-11}}</ref>、同年10月16日には「GREEN FIELDS」と「ハーベスト」の結成が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/682/|title=【SATOYAMA movement 新ユニット発表!及び CDリリースのお知らせ】|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2012-10-16|accessdate=2012-10-16}}</ref>。 :; [[ピーベリー (音楽ユニット)|ピーベリー]] :: メンバーは和田彩花(スマイレージ)・鞘師里保(モーニング娘。)の2名 :; DIY♡ :: メンバーは徳永千奈美・夏焼雅(以上Berryz工房)・矢島舞美・中島早貴(以上℃-ute)・飯窪春菜(モーニング娘。)の5名 :; GREEN FIELDS :: メンバーは清水佐紀(Berryz工房)・光井愛佳・「第2回フォレストアワードNEW.FACEオーディション 奨励賞/サマンサタバサ賞」を受賞した[[宮崎由加]]([[Juice=Juice]])の3名 :; ハーベスト :: メンバーは生田衣梨奈・石田亜佑美・佐藤優樹(以上モーニング娘。)・竹内朱莉(スマイレージ)の4名 :; ジュリン :: 2013年7月に誕生したユニット<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/303/|title=【SATOYAMA movement より 新ユニット誕生!!】|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2013-7-23|accessdate=2013-7-24}}</ref> :: メンバーは佐藤優樹(モーニング娘。)・宮本佳林 (Juice=Juice)の2名 ==== SATOUMI movement ==== {{Main|SATOYAMA movement#SATOUMI movement}} : 2013年3月2日、『Forest For Rest 〜SATOYAMAへ行こう〜』([[パシフィコ横浜]])で、新たに「SATOUMI movement」の発足と、「ダイヤレディー」「メロウクアッド」「Plumeria(読み:プルメリア)」の3組のユニットの結成が発表された<ref>{{Cite web|和書|title=ハロプロから3組の新ユニット誕生 里山・里海の魅力をアピール|date=2013-3-2|url=https://www.oricon.co.jp/news/entertainment/2022225/full/|work=ORICON NEWS|accessdate=2013-3-3}}</ref><ref>{{Cite web|和書||date=2012-3-3|url=http://www.satoyamamovement.com/news.html#20130303|title=SATOUMImovement発足!音楽ユニット結成!|work=SATOYAMA movement|accessdate=2013-3-3}}</ref>。同年6月、「Plumeria」が「HI-FIN」にユニット名を変更した<ref>{{Cite web|和書|title=HI-FIN!石田亜佑美|url=https://ameblo.jp/morningmusume-10ki/entry-11549497987.html|work=モーニング娘。天気組オフィシャルブログ|date=2013-6-10|accessdate=2013-6-10}}</ref>。 :; ダイヤレディー :: メンバーは菅谷梨沙子(Berryz工房)・鈴木愛理 (℃-ute)の2名 :; メロウクアッド :: メンバーは徳永千奈美・夏焼雅(以上Berryz工房)・矢島舞美・岡井千聖(以上℃-ute)の4名 :; HI-FIN (Plumeria) :: メンバーは中島早貴・萩原舞(以上℃-ute)・福田花音(スマイレージ)・生田衣梨奈・石田亜佑美(以上モーニング娘。)の5名 ==== SATOYAMA SATOUMI movement ==== {{Main|SATOYAMA movement#SATOYAMA SATOUMI movement}} : 2014年3月13日、「SATOYAMA movement」「SATOUMI movement」から新しいユニットが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/22/|title=SATOYAMA SATOUMI新ユニット結成!シングル発売のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2014-3-13|accessdate=2014-3-21}}</ref>。 :; さとのあかり :: メンバーは佐藤優樹(モーニング娘。'14)・勝田里奈(スマイレージ)・植村あかり (Juice=Juice)の3名 :; トリプレット :: メンバーは工藤遥(モーニング娘。'14)・岡井千聖 (℃-ute)・高木紗友希 (Juice=Juice)の3名 :; ODATOMO :: メンバーは小田さくら(モーニング娘。'14)・金澤朋子 (Juice=Juice)の2名 :; [[かみいしなか かな]] :: 2017年1月22日より[[TBS]]にて放送されている番組『[[ふるさとの夢]]』のテーマ曲を歌うユニット。メンバーは上國料萌衣(アンジュルム)・石田亜佑美(モーニング娘。'17)・中島早貴(℃-ute)・金澤朋子(Juice=Juice)の4名。同テーマ曲「ふるさとの夢」はCD化され、同年3月25日・26日に開催のSATOYAMA & SATOUMIイベントで先行販売された<ref>{{Cite web|和書|title=TBSテレビ「ふるさとの夢」テーマ曲 かみいしなか かな シングルCD「ふるさとの夢」会場先行販売のお知らせ|url=http://www.helloproject.com/news/6652/|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2017-3-24|accessdate=2017-3-31}}</ref>。 === コラボレーションユニット === ; 中澤ゆうこ&[[高山厳]] : 1998年12月2日、中澤ゆうこが高山厳と組みCDを発売。 ; バカ殿様とミニモニ姫。 : 2002年4月24日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列の[[バラエティ番組]]『[[志村けんのバカ殿様]]』のキャラクターである[[志村けん|バカ殿様(志村けん)]]と組みCDを発売。 ; おけいさんと安倍なつみ(モーニング娘。) : 2003年5月1日、[[四角佳子|おけいさん(四角佳子)]]と組みCDを発売。 ; 五木・孝雄+ハロー!プロジェクト聖歌隊。 : 2002年11月27日、ハロー!プロジェクトのメンバーが「聖歌隊。」として[[五木ひろし]]・[[堀内孝雄]]と組みCDを発売。ハロー!プロジェクト聖歌隊。のメンバーは飯田圭織・安倍なつみ・保田圭・吉澤ひとみ・紺野あさ美・小川麻琴・新垣里沙(以上当時モーニング娘。)・中澤裕子・カントリー娘。・ココナッツ娘。・メロン記念日・松浦亜弥の17名。 ; 高木ブーとモーニング娘。・ココナッツ娘。・藤本美貴・石井リカ : 高木ブーが弾くウクレレでモーニング娘。の曲をハワイアン風にアレンジした。 ; [[WaT×ハロー!プロジェクト]] : [[TBSテレビ|TBS]]系列で2006年11月から12月に放送された『[[2006年バレーボール女子世界選手権|2006世界バレー]]』のオフィシャルサポーターとしてモーニング娘。・DEF.DIVA・Berryz工房が[[WaT]]と組んで参加し、試合前にオフィシャルソングを歌った。 ; [[ギャルル]] : 2007年4月24日に「つじじ」({{JIS90フォント|辻}}希美)「ぁみみ」([[時東ぁみ]])「そねね」([[ギャル曽根]])の3名で結成されたユニットである。しかし、同年5月に{{JIS90フォント|辻}}が結婚と出産へ向けて芸能活動の休止を発表したのに伴いこのユニットから脱退し、「あべべ」として[[安倍麻美]]が代わって加入したため、ハロー!プロジェクトのメンバーは不在となった。 ; 里田まい with [[藤岡藤巻]] : 2007年5月23日、里田まいが藤岡藤巻と組みCDを発売。その後、2010年10月27日に「里田まいと藤岡藤巻」の名義でCDを再発売した。 ; [[ヘキサゴンファミリー]] : かつてフジテレビ系列で放送されていた[[クイズ番組]]『[[クイズ!ヘキサゴンII]]』のレギュラー解答者から生まれたアイドル集団である。2007年9月に[[Pabo]](里田まいら3名による女性アイドルグループ)を結成。また、2008年7月には[[羞恥心 (ユニット)|羞恥心]]と共に[[アラジン (ユニット)|アラジン]]を結成し、里田は同年11月に[[里田まい with 合田兄妹]](後に里田まい with 合田家族)を結成している。その後、2009年12月9日には矢口真里が矢口真里とストローハットを結成し、2010年6月には里田が[[ツバサ (ユニット)|ツバサ]]を結成している。 ; [[安倍なつみ&矢島舞美(℃-ute)]] : 2008年1月16日に安倍なつみと矢島舞美の2名で結成され、シングルとシングルVの各1枚ずつ発売した。 ; モーニング娘。with [[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]の仲間たち : 2008年5月6日に[[日本放送協会|NHK]]で放送された音楽番組。[[東京ディズニーランド]]の[[トゥーンタウン]]で[[ミッキーマウス]]やミニーマウスなどと一緒に「[[ミッキーマウス|ミッキーマウス・マーチ]]」を歌った。なお、ハロー!プロジェクトメンバーの松浦亜弥も同番組でミッキーと共にディズニーメドレーを歌った。 ; [[おはガール|おはガールメープル]] with スマイレージ : 2010年11月24日に、テレビ東京系列の『[[おはスタ]]』で活躍している小川紗季(さき)・[[田中絵里花]](えりか)・[[井之上史織]](しおり)の3名で結成したおはガールメープルとスマイレージ(小川を除いた3人)と共にCDを発売した。その後、2011年8月24日に小川紗季が卒業し、同月25日にモーニング娘。の[[生田衣梨奈]](えりな){{Efn2|えりかとの区別のため、2回目以降のテレビ出演時は愛称の「えりぽん」でクレジットされていた。}}が加入した。 ; Berryz工房×℃-ute : Berryz工房と℃-uteによるスペシャルコラボレーションユニットとしての名義。ユニット名は「[[ベリキュー]]」。2011年11月9日にシングル「[[甘酸っぱい春にサクラサク]]」を発売した。 ; こぶしファクトリー&つばきファクトリー : こぶしファクトリーとつばきファクトリーによるスペシャルコラボレーションユニットとしての名義。略称は「こぶつば」。2018年7月17日にデジタルシングル「[[ひょっこりひょうたん島 (曲)#こぶしファクトリー&つばきファクトリーのカヴァー|ひょっこりひょうたん島]]」を発売。 ; 乙女マンジ学園 : [[さわやか五郎]]・岸本ゆめの・小野田紗栞によるユニット。2018年7月25日、[[上々軍団]]のシングル「[[仲間 (上々軍団の曲)|仲間]]」に収録されている楽曲『感謝感激マジマンジ』を歌唱。 ; やまとなでしこセミコロン : [[上々軍団#鈴木啓太|鈴木啓太]]・新沼希空・秋山眞緒によるユニット。上々軍団のシングル「仲間」に収録されている楽曲「素直になれないサクランボ」を歌唱。 === 一時的、その他名義 === ; 中澤ゆうこ : 演歌歌手としてソロ活動していた時の名義である。 ; ミニモニ。と高橋愛+4KIDS : 映画『ミニモニ。じゃムービーお菓子な大冒険』に参加したミニモニ。のほか、当時まだ同グループのメンバーでなかった高橋愛とハロー!プロジェクト・キッズの須藤・菅谷・鈴木および萩原の9名でCDを発売した時の名義である。 ; 千(安倍なつみ) : GyaO同名ドラマ主題歌の名義である。 ; 重ピンク、こはっピンク : モーニング娘。の[[道重さゆみ]]が演じる「重ピンク(しげピンク)」と同じく[[久住小春]]が演じる「こはっピンク」というキャラクターによる架空の2人組アイドルユニット(アイドルデュオ)である。 : この名義での曲として、モーニング娘。の2006年2月15日発売のアルバム『[[レインボー7]]』に「レインボーピンク」、同年12月13日発売のミニアルバム『[[7.5冬冬モーニング娘。ミニ!]]』に「わ〜MERRYピンXmas!」、翌2007年3月21日発売のアルバム『[[SEXY 8 BEAT]]』に「宝の箱」が収録されており、モーニング娘。のコンサートツアーにおいても披露されている。 : 「レインボーピンク」は2人のデビュー曲という設定で、曲名が転じて「レインボーピンク」でこの2人組を指すこともある。 : 2006年1月23日 - 27日での『[[娘DOKYU!]]』内の追跡ドキュメント「娘DOKYU! EXTRA」において「レインボーピンク」の録音シーンが放送された。 : なお、ミニアルバム『7.5冬冬モーニング娘。ミニ!』では、「重ピンクと、こはっピンク」と表記されている。 ; ハロプロワンダフルオールスターズ(ハロー!プロジェクト10周年記念紅白スペシャル隊) : モーニング娘。・Berryz工房・℃-uteにより構成されたスペシャルユニットである。これらがワンダフルハーツのメンバーとなっていることから、「ハロプロワンダフルオールスターズ」として2007年12月25日から「[[LALALA 幸せの歌]]」をダウンロード配信、そしてハロー!プロジェクト10周年記念紅白スペシャル隊として同月31日放送の『[[第58回NHK紅白歌合戦]]』に出場して同曲を含めたスペシャルメドレー「Special LOVE Mix 〜幸せの平成20周年 Ver.〜」を歌唱した。なお、同曲は翌2008年2月27日に℃-uteの4thシングルとして発売した。また、同年12月10日に発売された『[[プッチベスト|プッチベスト9]]』にはワンダフルハーツバージョンが収録され、歌手名も「ハロプロワンダフルオールスターズ」となっている。 ; むてん娘。(モーニング娘。) : モーニング娘。が“寿司文化を世界にまき散らすため”の楽曲の名義である。2010年10月27日に[[くら寿司|くら]]のイメージソングとして「[[あっぱれ回転ずし!]]」を発売した。 ; ベキマス : Berryz工房、℃-ute、真野恵里菜、スマイレージの4組によるコラボレーションユニットとしての名義。2011年8月6日にCD「負けるな わっしょい!」を発売した<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/1321/|title=ベキマス「負けるな わっしょい!」コンサート会場先行販売のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-8-3|accessdate=2011-9-19}}</ref>。 ; モーニング娘。ロッキーズ・モーニング娘。Q期・モーニング娘。天気組 : モーニング娘。50thシングル「[[One・Two・Three/The 摩天楼ショー]]」に収録されているカップリング曲を6期メンバー(道重さゆみ・田中れいな)、9期メンバー(譜久村聖・生田衣梨奈・鞘師里保・鈴木香音)、10期メンバー(飯窪春菜・石田亜佑美・佐藤優樹・工藤遥)が歌っており、その曲にクレジットされている名義である。 === ワンダフルハーツとエルダークラブ === 2006年1月から2009年1月まで、ハロー!プロジェクトのグループやソロ活動メンバーは、主に[[未成年者|未成年]]メンバーの若手が中心である「[[ワンダフルハーツ]]」と、主に20歳以上のメンバーが中心である「[[エルダークラブ]]」の2つに分かれて活動した。また、コンサートのパンフレットとして作成される[[DVDマガジン (ハロー!プロジェクト)|DVDマガジン]]もワンダフルハーツ、エルダークラブのものが別々にリリースされた。2007年6月の公式サイトのリニューアル時には、ハロー!プロジェクトに所属するそれぞれのグループやソロ活動メンバーのプロフィールが、ワンダフルハーツとエルダークラブに分かれて掲載されるようになった。 2009年3月までの組み分けは以下の通り ; ワンダフルハーツメンバー : モーニング娘。・Berryz工房・℃-ute・真野恵里菜・ハロプロエッグ選抜 ; エルダークラブメンバー : 中澤裕子・飯田圭織・安倍なつみ・保田圭・矢口真里・石川梨華・吉澤ひとみ・辻希美・紺野あさ美・小川麻琴・藤本美貴・稲葉貴子・里田まい・メロン記念日・前田有紀・松浦亜弥・三好絵梨香・岡田唯・音楽ガッタス なお、[[アイスクリー娘。]]と[[大小姐]]はメンバー全員が台湾出身であるためか、ワンダフルハーツ・エルダークラブとも別扱いで[[ハロプロ台湾]]の所属となっている。 2009年3月31日にエルダークラブ全員がハロー!プロジェクトを卒業したため、ハロー!プロジェクトの公式サイトからワンダフルハーツとエルダークラブの組み分けはなくなった。 == 略歴 == === 1998年 - 2000年 === * 1998年1月26日、オーディション番組『[[ASAYAN]]』(テレビ東京系列、2002年3月終了)の『[[シャ乱Q]]女性ロックボーカリストオーディション』によってデビューすることとなった'''[[みちよ|平家みちよ]]'''(2002年11月7日卒業)および'''[[モーニング娘。]]'''の合同ファンクラブとして'''「Hello!」'''が設立された。 * 1998年8月、初の「Hello!」名義での平家みちよとモーニング娘。による合同ライブが[[渋谷公会堂]]にて行われた。 * 1998年10月、モーニング娘。初のグループ内ユニット「[[タンポポ (ハロー!プロジェクト)|タンポポ]]」が結成され、この後に「[[プッチモニ]]」などが続いた。 * 1998年12月31日、モーニング娘。が[[第40回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞。 * 1999年1月、オーディション番組『[[アイドルをさがせ!]]』(テレビ東京・2002年3月終了)が放送開始。同番組内で『カントリー娘。オーディション』や『第1回平家みちよ&モーニング娘。妹分オーディション』が実施され、それぞれの合格者がハロー!プロジェクトへ加入していくこととなる。 * 1999年4月1日、ファンクラブの名称が「Hello!」から'''「Hello! Project」'''に改称された。 * 1999年4月 – 7月、『ASAYAN』のオーディションで結成された「[[太陽とシスコムーン]]」と「[[ココナッツ娘。]]」、さらに「[[カントリー娘。]]」が加入した。 * 1999年7月、初の「Hello! Project」の合同コンサート『Hello! Project '99 at [[横浜アリーナ]]』が行われた。 * 2000年3月、初めて[[シャッフルユニット]]が結成された。カップリングにはハローの名前を使用した曲である「Hello!のテーマ」が収録された。 * 2000年4月から「ハロー」の名前を冠したテレビ東京系列のバラエティ番組『[[ハロー!モーニング。]]』(2007年4月から『[[ハロモニ@]]』と改題し2008年9月に終了)が始まる。以降も「ハロー」の名前を冠したテレビ番組が数本あった。 === 2001年 - 2005年 === * 2001年3月、モーニング娘。の初代リーダーである[[中澤裕子]]が同グループを卒業し、ハロー!プロジェクト全体のリーダーに就任した。同グループの卒業メンバーがハロー!プロジェクトに残留するのはこれが初めてであり、ハロー!プロジェクトの名前がマスコミで大きく取り上げられたのも初めてである。 * 2002年4月 – 6月、初の「ハロー!プロジェクト」の名前を冠にしたオーディション、『[[ハロー!プロジェクト・キッズ]] オーディション』が開催され、15名が合格した。これ以後『ハロー!プロジェクト新ユニットオーディション』『ハロー!プロジェクトエッグオーディション』『ハロー!プロジェクト関西オーディション』など、ハロー!プロジェクトの名前を冠にしたオーディションが定期的に行われた。 * 2002年7月31日、ハロー!プロジェクト内のグループ再編成改革、いわゆる「[[ハローマゲドン]]」が行われた。以降、様々な場面で「ハロー!プロジェクト」の名前が全面に押し出されるようになる。 * 2002年11月7日、平家みちよがハロー!プロジェクトを卒業した。 * 2003年9月9日、ハロー!プロジェクトフットサル宣言を行い、10月29日にはハロー!プロジェクトメンバーから選抜された12名でフットサルチームが結成された。 * 2004年1月3日、[[辻希美]]と[[加護亜依]]が同年8月にモーニング娘。を卒業すると同時に、この2名で新ユニット「[[W (ハロー!プロジェクト)|W]]」を結成する事が発表された。 * 2004年1月14日、ハロー!プロジェクト・キッズから[[清水佐紀]]・[[嗣永桃子]]・[[徳永千奈美]]・[[須藤茉麻]]・[[夏焼雅]]・[[熊井友理奈]]・[[菅谷梨沙子]]・[[石村舞波]]の8名による新グループ「[[Berryz工房]]」が結成された。 * 2004年1月20日、フットサルチームの名称が「[[Gatas Brilhantes H.P.]]」に決定した。 * 2004年4月 - 8月、『ハロプロ エッグ オーディション2004』が開催された。このオーディションで32名が合格し、初の研修生制度となる「[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]」が発足した。 * 2004年8月10日、翌年にモーニング娘。の卒業を控えている[[石川梨華]]を中心に、[[三好絵梨香]]と[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]の[[岡田唯]]による3名で「[[美勇伝]]」が結成された。 * 2004年11月、初のハロー!プロジェクト全員参加によるユニット「[[H.P.オールスターズ]]」が活動を開始した。 * 2005年6月11日、Berryz工房を除くハロー!プロジェクト・キッズのメンバー7名([[梅田えりか]]・[[矢島舞美]]・[[村上愛]]・[[中島早貴]]・[[鈴木愛理 (歌手)|鈴木愛理]]・[[岡井千聖]]・[[萩原舞 (歌手)|萩原舞]])で「[[℃-ute]]」が結成された。 === 2006年 - 2010年 === * 2006年1月、ハロー!プロジェクトを「[[ワンダフルハーツ]]」と「[[エルダークラブ]]」に分割。 * 2007年6月19日、前年に卒業した[[紺野あさ美]]の復帰が発表され、翌7月15日から活動を再開した。一度卒業して芸能界を引退したメンバーがハロー!プロジェクトに復帰するのは初めてであった。 * 2007年10月15日、ハロー!プロジェクトと同様の[[つんく♂]]プロデュースによる女性アイドル・アーティストの活動プロジェクトである「[[NICE GIRL プロジェクト!]]」を設立し、[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]内のユニットだった[[THE ポッシボー]]が、ハロー!プロジェクトを卒業し[[キャナァーリ倶楽部]]と共に所属することが発表され、2008年5月3日のソロメンバー3人の加入をもって本格始動した。 * 2007年10月28日、[[後藤真希]]がハロー!プロジェクトを卒業。芸能活動を休止していたが、翌2008年6月1日に所属事務所をエイベックスに移籍し、芸能活動を再開した。 * 2007年12月30日、℃-uteが[[第49回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞。ハロー!プロジェクトからの同賞受賞は第40回のモーニング娘。以来9年ぶり。2度目。 * 2008年4月12日、[[ハロプロ関西]]として活動していた4名が[[ハロプロ関西#SI☆NA|SI☆NA]]としてデビューを目指すことが発表された。 * 2008年9月20日、『早安家族 New Star』の合格者6名と特別賞2名が「[[ハロプロ台湾]]」の研修生となる。12月に研修を終了し、合格者がアイスクリー娘。、特別賞受賞者がフランシス&愛子(後の大小姐)を結成。 * 2008年12月10日、ハロー!プロジェクト結成10周年記念作品として、『[[メガベスト]]シリーズ』として8タイトル(中澤裕子・タンポポ/プッチモニ・太陽とシスコムーン/T&Cボンバー・カントリー娘。・メロン記念日・シャッフルユニット・スペシャルユニット・安倍なつみ)のベスト盤が同時発売された。また、『[[プッチベスト|プッチベスト9]]』もこの日に発売されたため、ベスト盤が9枚同時発売された。 * 2009年3月31日、エルダークラブに所属しているメンバー全員がハロー!プロジェクトを卒業した。 * 2009年4月、ハロプロエッグにおいて、[[和田彩花]]・[[前田憂佳]]・[[福田花音]]・[[小川紗季]]の4名で「[[アンジュルム|S/mileage]]」が結成された。 * 2009年6月、タンポポ・プッチモニ・[[ミニモニ。]]が新たなメンバーで活動を再開することが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/tsunku-blog/entry-10281247143.html|title=カバーアルバムに関して!|work=つんく♂オフィシャルブログ「つんブロ♂芸能コース」|date=2009-6-16|accessdate=2009-6-17}}</ref>。この後、[[High-King]]の活動再開や[[ZYX]]・[[あぁ!]]・[[美勇伝]]の新たなメンバーでの活動再開も発表され、7つのチャンプルユニットが誕生する。 * 2010年12月30日、スマイレージが[[第52回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞。ハロー!プロジェクトからの同賞受賞は℃-ute(第49回)以来3年ぶり、3度目。 === 2011年 - 2015年 === * 2011年4月5日、[[東日本大震災]]の被災地を支援する「[[愛は勝つ#がんばろうニッポン 愛は勝つ シンガーズによるカバーシングル|がんばろうニッポン 愛は勝つプロジェクト]]」の発足が発表された。 * 2011年9月1日、ハロー!プロジェクト全員によるユニット[[H.P.オールスターズ#ハロー!プロジェクト モベキマス|ハロー!プロジェクト モベキマス]]の結成が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/1252/|title=11月16日(水)発売 ハロー!プロジェクト モベキマス sg「ブスにならない哲学」|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2011-9-1|accessdate=2011-10-11}}</ref>。 * 2011年末、ハロプロエッグが「[[ハロプロ研修生]]」に名称を変更した<ref>{{Cite web|和書|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2009533|title=元スマイレージ・サブメン、小数賀が病気休養から復帰。「ハロプロ研修生公演」開催|work=[[De☆View|DeView]]|date=2012-4-2|accessdate=2016-1-3}}</ref>。 * 2012年7月20日、「[[SATOYAMA movement]]」の活動が発表された。 * 2013年2月3日、[[宮崎由加]]とハロプロ研修生の[[宮本佳林]]・[[高木紗友希]]・[[大塚愛菜]]・[[植村あかり]]・[[金澤朋子]]の6名による新グループ「[[Juice=Juice]]」の結成が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2013-2-3|url=http://helloproject.com/news/523/|title=ハロプロ研修生内、新ユニット結成のお知らせ。|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2013-2-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2013-2-25|url=https://ameblo.jp/tsunku-blog/entry-11478354838.html|title=ハロプロ研修生新ユニットに関して|work=つんく♂オフィシャルブログ 「つんブロ♂芸能コース」|accessdate=2013-2-26}}</ref>。 * 2013年2月23日、真野恵里菜がハロー!プロジェクトを卒業した{{R|oricon20130223}}。 * 2013年3月2日 - 3月3日、初の「SATOYAMA movement」のイベントおよび『ひな祭りフェスティバル(ひなフェス)』が開催された。 * 2013年12月31日、初のカウントダウンライブ『Hello! Project COUNTDOWN PARTY 2013』が開催された。 * 2014年10月、つんく♂がハロー!プロジェクトの総合プロデューサーから卒業(2015年9月10日発売の本人による手記『だから、生きる。』にて公表){{R|sanspo20150909}}。 * 2014年11月5日、カントリー娘。が「[[カントリー・ガールズ]]」に改名し、[[山木梨沙]]・[[稲場愛香]]・[[森戸知沙希]]・島村嬉唄・[[小関舞]]とプレイングマネージャーに就任した[[嗣永桃子]]が加入した<ref>[http://www.helloproject.com/news/2183/ 『カントリー娘。』改め『カントリー・ガールズ』について] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141105134654/http://www.helloproject.com/news/2183/|date=2014年11月5日}}</ref>。 * 2014年12月17日、スマイレージが「[[アンジュルム]]」に改名した。 * 2015年1月2日、ハロプロ研修生の[[浜浦彩乃]]・[[田口夏実]]・[[小川麗奈]]・[[野村みな美]]・[[和田桜子]]・[[藤井梨央]]・[[広瀬彩海]]・[[井上玲音]]の8名による新プループ「[[こぶしファクトリー]]」の結成が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2015-1-2|url=http://helloproject.com/special/|title=ハロプロ研修生からハロー!プロジェクト新ユニット誕生!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2015-2-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015-2-25|url=http://helloproject.com/news/2501/|title=ハロー!プロジェクト 新ユニット名決定について|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2015-2-27}}</ref>。 * 2015年3月3日、Berryz工房が無期限活動停止。 * 2015年4月29日、ハロプロ研修生の[[山岸理子]]・[[岸本ゆめの]]・[[新沼希空]]・[[浅倉樹々]]・[[小片リサ]]・[[谷本安美]]の6名によるグループ「[[つばきファクトリー]]」の結成が発表された<ref name=tsubaki>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2052260/full/|title=ハロプロ、今年2組目の研修生ユニット「つばきファクトリー」結成|work=ORICON NEWS|date=2015-4-29|accessdate=2015-4-30}}</ref>。 * 2015年12月30日、こぶしファクトリーが[[第57回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20151231-YTPIORXZJRJ7JEW44WJBTRSAZ4/|title=こぶしファクトリー、ハロプロ4組目の最優秀新人賞/レコード大賞|work=SANSPO.COM|date=2015-12-31|accessdate=2016-1-3}}</ref>。ハロー!プロジェクトからの同賞受賞はモーニング娘。、℃-ute、スマイレージに続いて4度目。 === 2016年 - 2020年 === * 2016年7月16日、「ハロプロ研修生北海道」の活動開始が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2016-7-16|url=http://www.helloproject.com/news/5383/|title=「ハロプロ研修生北海道」始動のお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-7-16}}</ref>。 * 2016年7月26日、同年8月30日より[[名古屋市|名古屋]]「ミッドランドスクエアシネマ2」にて定期公演を毎週火曜日に開催することが発表された(2021年12月22日終了)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20160726dog00m200001000c.html|title=ハロー!プロジェクト:名古屋で初の定期公演スタートへ シネコン舞台に独自演出 「ボイメン」と日替わりで|work=MANTANWEB(まんたんウェブ)|date=2016-7-26|accessdate=2016-7-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書| date=2021-11-22 | url=https://www.up-fc.jp/helloproject/news_Info.php?id=18517 | title=「ENPLEX × Hello! Project 名古屋定期イベント」 12/21「BEYOOOOONDS/SeasoningS 平井美葉バースデーイベント2021 in 名古屋」開催決定! | work=ハロー!プロジェクトオフィシャルファンクラブWebサイト | accessdate=2023-3-10}}</ref>。 * 2017年5月5日、ハロプロ研修生の[[一岡伶奈]]・[[高瀬くるみ]]・[[清野桃々姫]]による新グループの活動が発表された(後の[[BEYOOOOONDS]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2017/07/post-88794.html|title=Buono!、℃-ute、嗣永桃子の三大公演と新体制 2017年上半期ハロプロ重大ニュースを振り返る|work=Real Sound|date=2017-7-6|accessdate=2018-11-24}}</ref>。 * 2017年6月12日、℃-uteが解散した<ref>{{Cite web|和書|date=2017-6-12|url=https://www.oricon.co.jp/news/2092243/full/|title=℃-uteが涙の解散ライブ 12年の活動に幕「悔いなし!」 午後9時10分終演の粋な演出も|work=ORICON NEWS|accessdate=2017-6-13}}</ref>。 * 2017年6月26日、ハロー!プロジェクトの新体制への移行に伴い、カントリー・ガールズの森戸知沙希はモーニング娘。、[[梁川奈々美]]はJuice=Juice、[[船木結]]はアンジュルムに移籍し、カントリー・ガールズと兼任することが発表された。また、研修生の[[段原瑠々]]はJuice=Juice、[[川村文乃]]はアンジュルムに加入、[[一岡伶奈]]は新グループのリーダーに就任することも発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2017-6-26|url=http://www.helloproject.com/news/7272/|title=ハロー!プロジェクト 新体制について|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2017-10-3}}</ref>。 * 2017年12月30日、つばきファクトリーが[[第59回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2103389/full/|title=『レコ大』つばきファクトリーが最優秀新人賞 安住アナも思わず“もらい泣き”|work=ORICON NEWS|date=2017-12-30|accessdate=2018-1-1}}</ref>。ハロー!プロジェクトからの同賞受賞は2015年のこぶしファクトリーに続いて5度目。 * 2018年8月5日、ハロー!プロジェクト20周年を記念して全メンバーによるユニット「[[ハロプロ・オールスターズ]]」の結成が発表された<ref name="HP">{{Cite web|和書|date=2018-8-5|url=http://www.helloproject.com/news/8957/|title=Hello! Project誕生20周年記念シングル リリース決定!!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2018-11-24}}</ref>。 * 2018年10月20日 - 10月21日、20周年記念イベントとして『Hello! Project 20th Anniversary!! Hello! Project ハロ! フェス 2018』が開催された<ref>{{Cite web|和書|date=2018-7-13|url=https://natalie.mu/music/news/291128|title=10月にハロプロ20周年イベント「ハロ!フェス」開催、ゲストにメロン記念日|work=ナタリー|accessdate=2018-11-24}}</ref>。 * 2019年1月2日、ハロー!プロジェクトの各グループのオフィシャル[[Instagram]]の開始が発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-1-2|url=http://www.helloproject.com/news/9719/|title=ハロー!プロジェクト各グループオフィシャルInstagram・新メンバーブログスタート!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-1-24}}</ref>。 * 2019年10月24日、ハロー!プロジェクトおよび各グループの全コンサート・イベントにおいて、2020年1月2日以降ジャンプ行為を禁止することが発表された<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-24|url=http://www.helloproject.com/news/11182/|title=コンサート・イベント中の禁止行為に関して|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2019-11-12}}</ref>。 * 2019年12月26日、カントリー・ガールズが活動休止した{{R|countrygirls191018}}。 * 2019年12月30日、BEYOOOOONDSが[[第61回日本レコード大賞]]最優秀新人賞を受賞<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2152179/full/|title=『レコ大』BEYOOOOONDSが最優秀新人賞 ハロプロで6組目の快挙|newspaper=ORICON NEWS|accessdate=2019-12-30}}</ref>。ハロー!プロジェクトからの同賞受賞は2017年のつばきファクトリーに続いて6度目。 * 2020年3月30日、こぶしファクトリーが解散した{{R|kobushi200108}}。 * 2020年6月15日、[[2019新型コロナウイルス|新型コロナウイルス感染症]]の被害が拡大する中でのハロー!プロジェクトおよび各グループの全コンサート・イベントにおいて、『公演中のマスク着用、常時着席の上、ご声援は控えての観覧』という形式となることを発表し、これが2023年春まで続いた<ref>{{Cite web|和書|date=2020-6-15|url=http://helloproject.com/news/12063/|title=2020年夏のハロー!プロジェクト・コンサートについて|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2023-3-10}}</ref>。 === 2021年以降 === * 2021年3月12日、ハロー!プロジェクト独自の配信チケット販売サイト「HELLO! PROJECT STREAM ONLINE STORE」をオープンすることが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject.com/news/12945/|title=配信チケット販売サイト「HELLO! PROJECT STREAM ONLINE STORE」オープンのお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|date=2021-3-12|accessdate=2021-3-12}}</ref>。 * 2021年12月12日、ハロプロ研修生の[[米村姫良々]]・[[中山夏月姫]]・[[窪田七海]]・[[斉藤円香]]・[[広本瑠璃]]・[[西﨑美空]]・[[北原もも]]、ハロプロ研修生北海道の[[石栗奏美]]、オーディション合格者の[[田代すみれ]]・[[筒井澪心]]の10名による新グループ「[[OCHA NORMA]]」の結成が発表された{{R|oricon20211212}}。 * 2023年3月10日、ハロー!プロジェクトおよび各グループの全コンサート・イベントにおいて、新型コロナウイルスの感染予防対策に伴う前述の規制が緩和され、同年5月8日以降の公演{{Efn2|既に発売されている公演は除く。}}について『マスクを着用した上での応援・歓声可能』など、ガイドラインを一部変更することを発表<ref>{{Cite web|和書|date=2023-3-10|url=http://helloproject.com/news/15722/|title=主催公演規制緩和に関するご案内|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2023-3-10}}</ref>。5月3日、同年5月8日以降の公演{{Efn2|既に発売されている公演も含む。}}について、さらにマスク着用についても個人の判断に委ねることとし、また、応援・歓声などの観覧におけるガイドラインを変更することを発表<ref>{{Cite web|和書|date=2023-5-3|url=http://helloproject.com/news/15908/|title=主催公演のガイドライン変更に関するご案内|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2023-5-4}}</ref>。 * 2023年9月9日・10日、ハロー!プロジェクト25周年の記念公演『Hello! Project 25th ANNIVERSARY CONCERT』が国立代々木競技場第一体育館にて開催された<ref>{{Cite web|和書|date=2023-9-12|url=https://thetv.jp/news/detail/1156569/|title=中澤裕子らモーニング娘。OG、ハロプロ25周年ライブに降臨…高橋愛「至福のときでした」|work=WEBザテレビジョン|accessdate=2023-9-17}}</ref>。 == 作品 == {{Main|ハロー!プロジェクトの作品・出演一覧|ハロー!プロジェクトの映像作品一覧}} == 特徴 == === 主な特色 === * ハロー!プロジェクトは、グループの枠を超えた[[シャッフルユニット]](2005年まで)と[[正月]]および夏に開催される合同コンサートが毎年恒例の取り組みであり、それ以外の時期にも各ユニット・ソロごとのコンサートがほぼ1年中開催されている。なお、コンサートに関しては2006年1月から2009年1月まで後述の「[[ワンダフルハーツ]]」と「[[エルダークラブ]]」の枠組みで行われた。 * {{要出典|範囲=多数の在籍グループを抱え、戦略的商業方法などが組織的に似ている点などは、[[ジャニーズ事務所]]と比較される場合がある|date=2022年9月}} 。しかし、バラエティに富んだ[[ミュージシャン]]陣を起用するジャニーズに対し、ハロー!プロジェクトではつんく♂が大部分の楽曲に着手するという違いもある。なお、つんく♂がプロデューサーから退いた[[2015年]]以降は外部のミュージシャンによる楽曲提供を多用するようになった。 * 2003年4月に放送された[[バラエティ番組]]『[[エンタの神様]]』の初回放送の[[モーニング娘。]]と宝塚歌劇団との共演では、振付師の[[夏まゆみ]]が「モーニング娘。は『テレビ版宝塚』」と述べた。また、2006年8月1日〜27日に[[新宿コマ劇場]]で上演された『[[リボンの騎士]] ザ・[[ミュージカル]]』でもモーニング娘。は宝塚歌劇団の[[箙かおる]]と共演した。さらに2008年8月6日〜25日にも同じスタイルで『[[シンデレラ]] ザ・ミュージカル』を上演している。 * 音楽関係以外にも[[水着]]などのグラビア関係の[[写真集]]・[[DVD]]・ミュージカル・コンサートでの各種グッズの売り上げや、[[旅行]]会社や[[日本航空|JAL]]と提携してのファンクラブ主催海外ツアーイベント(ハワイ・韓国・香港)など、様々なビジネスを展開している。特に[[電通]]、[[小学館]]、[[講談社]]、[[KADOKAWA]]とのメディアミックス、[[キャラクターグッズ]]展開が活発である。 * ハロー!プロジェクト全体で「[[チーム・マイナス6%]]」のチーム員に選ばれている。また、ハロー!プロジェクトの2004年〜2005年の一連のコンサート・イベントおよびリリースされたCDなどにはすべて同年3月〜9月に開催された『[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]』の「パートナーシップ事業」(リリースされた商品すべてに「応援します 愛・地球博」のステッカーが貼付されていた)と言う冠が付いたり、2004年から『[[モーニング娘。“熱っちぃ地球を冷ますんだっ。”文化祭]]』といった環境問題に関わるイベントを開催するなど、政府関係の公的な仕事も多い。 * ハロー!プロジェクトは、[[アジア]]や[[ヨーロッパ]]各国など諸外国でも活動している。2006年に[[後藤真希]]が[[大韓民国|韓国]]での興業を成功させるなど、今後もハロー!プロジェクト全体でのアジア戦略を検討している。また、モーニング娘。Happy8期オーディション合格者発表時につんく♂は、2007年は「アジアの中の日本」とし、積極的にアジア展開をする旨を発表し、それに関連してモーニング娘。史上初の外国人メンバーとして中国人メンバー2名が加入した。さらに2008年12月以降は台湾出身の8名で[[アイスクリー娘。]](現在は解散)とフランシス&愛子(後の[[大小姐]]。2012年にハロプロを離脱)を結成している。その後、2010年11月にアイスクリー娘。がハロー!プロジェクトを離脱、12月15日にジュンジュンとリンリンがモーニング娘。およびハロー!プロジェクトを卒業した。 * ハロー!プロジェクトでは[[コピーコントロールCD|CCCD]]を採用していない。 * 2013年4月以降に発表されたほぼすべてのシングルが[[A面/B面#両A面シングル・両B面シングル|複数曲A面シングル]]となり、[[ミュージック・ビデオ]]には[[日本語]]と[[英語]]による歌詞[[テロップ]]が表示されるようになった。2014年頃からは、[[A面/B面#A面曲とB面曲の違い|カップリング]]曲がほぼ収録されなくなっている。 === エピソード === {{雑多な内容の箇条書き|date=2016-12|section=1}} * 2002年からシングル曲の[[プロモーションビデオ]]等を収録したDVD「シングルV」を発売したり(過去には「ザ・ビデオ ○○」などのVHS商品も発売されていた)、コンサートなどのほとんどのイベントがDVD化されるなど、DVD販売にも力を入れている。「シングルV」の中には通常のPVの他にダンスショットバージョンやクローズアップバージョンも収録されているものもある。さらに2001年から毎年12月に『[[プッチベスト]]』というオムニバスアルバムも発売されている(第1弾は2000年4月発売)他、2008年12月には『[[メガベスト]]』というベストアルバムも8タイトルが発売された。その他に2006年から発売された多くのCDの初回版特典としてDVDが付けられることもあり、ファンクラブ限定で販売されるDVDやコンサート・イベント会場限定で販売されるパンフレットに相当するとされるDVDマガジンも数多くリリースされている。 * プロ野球チームの[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]を結成時の2005年から2008年までハロー!プロジェクト全体で応援サポートしていた。最初はモーニング娘。、2006年は[[DEF.DIVA]]他、2007年は[[GAM (音楽ユニット)|GAM]]、2008年は[[℃-ute]]がそれぞれ公式応援歌に採用された。 * かつてはほぼすべてのユニット・ソロメンバーがCDをリリースしていたが、2004年以降はCDをリリースしないユニットやソロメンバーが増えている。しかし、2006年以降インディーズでのCDのリリースは多く見られる(メロン記念日、℃-ute、DEF.DIVAと楽天イーグルス応援隊、ともいき・木を植えたい、THE ポッシボー、真野恵里菜、スマイレージ)。これらのインディーズ扱いのCDはイベント・ライブ会場やハロー!プロジェクトオフィシャルショップなどで購入できるほか、[[通信販売]]も行われている。 * 2005年秋以降の傾向として、エルダークラブのメンバーが舞台などに出演し始めると共に、研修生である[[ハロプロ研修生|ハロプロエッグ]]が他のハロプロメンバーと絡まない場合も含めた舞台、ドラマ、CMなどの仕事に活躍の場を広げている。また、2007年5月13日にはハロプロエッグ等が出演して行われた「新人公演」と称されるハロプロエッグ史上初のライブを[[渋谷公会堂]](当時は渋谷C.C.Lemonホール)で開催し、以後2010年11月まで定期的に開催していた。 * 2010年4月から、年4回程度「[[ハロー!チャンネル]]」という公式ムックを刊行していた。 * [[フジテレビジョン|フジテレビ]]他主催の[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]のイベントで、選抜メンバーが[[サルティンバンコ]]、[[キダム]]、[[ドラリオン]]に続き[[コルテオ]]の公式サポーターに任命されている。なお、イメージソングには[[モーニング娘。誕生10年記念隊]]や[[音楽ガッタス]]が起用された時期があった。 * ハロー!プロジェクト(Hello! Project)は株式会社[[アップフロントグループ]]の[[登録商標]](登録4625323)で、登録呼称は「ハロープロジェクト」である。 == ファンクラブ == ハロー!プロジェクトでは、すべてのメンバーに共通のファンクラブがあり、株式会社アップフロントインターナショナルが運営する。入会のお知らせなどによっては「アップフロントFC部」と表記されることもある。2021年12月現在、[[モーニング娘。]]、[[アンジュルム]]、[[Juice=Juice]]、[[つばきファクトリー]]、[[BEYOOOOONDS]]、[[OCHA NORMA]]、[[ハロプロ研修生]]、ハロプロ研修生北海道が所属する。 [[みちよ|平家みちよ]]と[[モーニング娘。]]のファンクラブを1つの組織として発足させる構想は、[[シャ乱Q]]らが所属していた「すっぽんファミリー」に倣い[[つんく♂]]が発案したものであるとされ、結成当初の名称である「Hello!」は、ファンクラブ会員のアイディアであるとされる<ref>『ハロー!プロジェクト大百科』P.214 スタッフインタビュー</ref>。 2009年3月31日までは1つのファンクラブだったが、[[エルダークラブ]]のハロー!プロジェクト卒業に伴い、翌4月1日より新たに「[[M-line club]]」、[[松浦亜弥]] オフィシャルファンクラブ「AYAWAY」、[[メロン記念日]] オフィシャルファンクラブ「メロン記念部」の3つが発足した。「メロン記念部」は2010年6月30日に、「AYAWAY」は2014年3月31日に運営を終了し、現在は「ハロー!プロジェクト オフィシャルファンクラブ」と「M-line club」のみである。 === 種別 === 2008年2月、これまで1種類の会員資格だったものを3種類となる新制度へと移行した。有効期間は1年間である。 * 一般会員 : 年齢制限は無い。チケットの先行販売や限定イベントの参加、限定グッズの購入など様々な特典が受けられる。初回入会金と年会費が必要。 * ジュニア会員 : 小学生以下が対象、入会金は無料で年会費も一般会員より格安。特典は一般会員と同じだが先行チケットはファミリー席限定。 * スペシャル会員 : 18歳以上(高校生を除く)が対象、クレジットカードの発行やポイント制度および一般会員より多くの特典を受けられるものであり、入会金は一般会員と同額。年会費は一般会員より少し高く、別途にカードの年会費も必要となる。 === 会員特典 === 入会すると会員証が送付され、また、以下のような特典がある。 * ファンクラブ会報(原則年4回) * ファンクラブ限定の通信販売の申し込み * 番組収録の観覧申し込み * コンサートチケット・イベントチケットの先行販売の申し込み * ファンクラブツアーやバースデーイベントなどのファンクラブ限定イベント参加の申し込み * 会員限定WEBサイト(動画、ラジオ、ツアー日記など) * メール配信サービス ;スペシャル会員のみ * ポイント交換 * 継続特典 会報のバックナンバーは、ファンクラブ会員を対象にした「商品」として販売されることがある。なお、「会報」という名称ではあるが、「ビデオ会報」(VHS)およびその後継商品である「Hello! Days」(DVD)はファンクラブ会員全員に一律に送付される会報ではなく、ファンクラブ会員限定の通信販売商品である。 ==== ファンクラブツアー ==== ファンクラブの会員を対象にした海外ツアーは、2003年8月にモーニング娘。が初めて[[ハワイ]]で実施して以降、他のグループも含め数年の間隔で行っている。行先はハワイの他に[[香港]]や[[ソウル特別市|ソウル]]などの場合もある。これらの様子はファンクラブ限定で映像商品化されている。また、ファンクラブの会員を対象とした日帰り又は1泊2日での国内バスツアーも頻繁に行われている。 ==== ファンクラブイベント ==== 2005年3月よりファンクラブ限定のイベントやカジュアル[[ディナーショー]]などが実施されている。主にメンバーのバースデーイベントが多く、これらもファンクラブ限定で映像商品化されている。 ==== 過去の特典 ==== ファンクラブでは会報のほかに毎月「インフォメーション」を郵送していた。これは以下のような書類と共に会員に送付されるが、ファンクラブ会報が発行される月はさらにそれも同封される。<br>この郵送は2019年11月末をもって終了した。会報は従来通り発送される。 * 宛名ラベルを兼ねたイベント申し込み時に必要となる[[暗証番号]]の通知書類 * イベント・コンサートのファンクラブ向けチケット先行販売のお知らせ * インフォメーションなどに関連した振り込み用紙 * ファンクラブツアーなどの案内チラシ === ファンクラブ限定CD/VHS/DVD === {{Main|[[ハロー!プロジェクトの作品・出演一覧]]}} == ネット通信 == === 音楽配信サービス === * ハロー!プロジェクトの楽曲(フル音源)配信は、2005年4月29日(プレオープンでは4月1日)にオープンしたMaxMuseでの取り扱いが最初であった。その後、同年9月22日に[[mora]]、12月21日にOnGenで配信を開始し、現在では多くの音楽配信サイトが取り扱っている。当初はMaXMuseでは限定コンテンツや先行販売、OnGenでは[[Jハロプロアワー]]の楽曲が期間限定で購入できるなどの優遇措置を取ることが多かった。 * 当初はMaxMuseが一部を除く所属アーティストの全曲および限定コンテンツを配信しており、ハロー!プロジェクトの楽曲を最も多く配信していたが、2007年1月12日の音楽配信終了に伴い、同サイトのみで配信していたハロー!プロジェクトの楽曲などは後にOnGenやMoraなど他の音楽配信サイトでも配信が開始された。現在はハロー!プロジェクトの楽曲を配信しているほぼすべてのサイトで同量の楽曲が購入可能である。 * なお、ハロー!プロジェクトは[[iTunes Store]]に当初楽曲を提供していなかったが、2006年9月27日から[[松浦亜弥]]と[[GAM (音楽ユニット)|GAM]]の楽曲の配信が開始された。さらに同年11月8日には[[後藤真希]]の楽曲、同22日には松浦亜弥のシングル曲を追加配信し、以降他アーティストの配信も行っている。 === モバイルサービス === * ハロー!プロジェクトモバイル(2015年7月21日 - ) : 公式[[スマートフォン]]向けサービス。月額会員(有料)になることで、ハロー!プロジェクトメンバーの画像・動画・ラジオ・日記など様々なコンテンツを利用することが出来る<ref>{{Cite web|和書|url=http://helloproject-mobile.com/index-pc.html|title=H!M ハロ!プロモバイル|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2020-1-3}}</ref>。 ==== 過去の携帯サイト ==== 過去に[[NTTドコモ|NTT docomo]]・[[au (携帯電話)|au]]・[[ソフトバンクモバイル|Yahoo! ケータイ]]で以下のコンテンツを提供していた。 * ポケモー。:ハロプロ関連の情報提供 ** ポケモームービー:着ムービー、[[Macromedia Flash|FLASH]]待ち受け * 公認!アップフロント着信。:[[着うた]]、着ムービー * 公認!アップフロント着信。フル:着うたフル * ハロプロ検定([[検定ジャポン]]@モバイル内):ハロプロメンバーに関する問題で検定試験を行う。また、ハロー!プロジェクトはすべての問題監修を行っている。 * アップフロントビデオ。:音楽PVを配信など(NTT docomo・auのみ) === コンテンツサービス === * ハロー!プロジェクト on フレッツ(2004年9月1日 - 2007年3月29日) *: [[東日本電信電話|NTT東日本]]と[[西日本電信電話|NTT西日本]]より[[Windows Media Player]]によるコンテンツサービスが提供されている。無料および月課金による有料の2種類のコンテンツがある。 * フレッツ・スクウェア ハロプロビデオチャット(2004年12月27日 - 2005年8月26日) * ハロー!プロジェクトデジタルブックス(2004年10月 - 2021年9月) *: [[ワニブックス]]の写真集未公開カットなどを中心に[[電子透かし]]入り画像を提供する月課金サービスである。 * [[GYAO!#GyaO|GYAO]]無料動画サービス *: 2018年8月28日より「{{Wayback|url=https://gyao.yahoo.co.jp/p/11250/v00005/ |title=ハロプロのモノホン |date=20180822214214}}」が配信開始。 *:ハロー!プロジェクトのビデオクリップ集やコンサートDVDなどのコンテンツが提供されている。その他、次のようなオリジナルコンテンツも配信されている。 *:* 安倍なつみ主演ドラマ『[[たからもの (テレビドラマ)|たからもの]]』:2005年11月に配信し、翌2006年3月1日にDVD化された。 *:*[[ハロプロアワー]]:2006年3月 - 11月の隔週、全20回を配信した。 *:* 新感覚ドラマ『道徳女子短大 エコ研』:2006年7月 - 9月に月1話ずつ、全3話を配信した。 *:* 生放送アイドルバラエティ『[[○○あい☆コラ!生やぐち]]』:2007年7月 - 2008年6月の毎週木曜日に配信した。 * [[Dohhh UP!]] *: 2006年11月にサービスを開始。[[Flash Video]]形式による動画配信サイト。プロモーションビデオやライブ映像、『[[おじぎ30度]]』などのオリジナルコンテンツを公開している。2010年6月30日をもって休止したが、7月から公式[[YouTube]]チャンネルを開設した。 * e-LineUP!Mall *: アップフロントグループが管理するウェブ通信販売サイトである。通常の店舗では入手困難な商品も含まれている。期間限定販売の商品もある。 * UP-FRONT Channel(YouTube) *: 2010年2月、YouTubeにて「アップフロントグループ公式チャンネル」を開設した。 * ハロ!ステ(Hello! Project Station) *: 2013年2月5日に配信が開始されたYouTubeオリジナル番組<ref>{{Cite web|和書|date=2013-2-5|url=http://www.helloproject.com/news/518/|title=YouTubeオリジナル番組「ハロ!ステ」、今夜21:00スタート!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-1-1}}</ref>。 * GREEN ROOM *: 2015年4月30日に配信が開始されたYouTubeオリジナル番組<ref name="hp20150430">{{Cite web|和書|date=2015-4-30|url=http://www.helloproject.com/news/2824/|title=YouTubeオリジナル番組「GREEN ROOM」本日より配信!|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-1-1}}</ref>。ハロー!プロジェクト・[[チーム・負けん気]]・[[Bitter & Sweet (音楽ユニット)|Bitter & Sweet]]などのリハーサル映像等が配信されていた{{R|hp20150430}}。最終回の2016年1月21日まで計38回配信された<ref name="natsuyaki20160128">{{Cite web|和書|author=夏焼雅|date=2016-1-28|url=https://ameblo.jp/natsuyaki-miyabi-blog/entry-12122406242.html|title=♡お知らせ♡|work=夏焼雅オフィシャルブログ Powered by Ameba|accessdate=2016-1-28}}</ref>。 * Girls Night Out(GNO) *: 2016年1月28日に配信が開始されたYouTubeオリジナル番組{{R|natsuyaki20160128}}。最終回の2017年3月30日まで計61回配信された。 === ゲーム === * ハロプロタップライブ *: 2014年11月6日に[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]で、同月12日に[[iOS]]で配信された[[音楽ゲーム|リズムゲーム]]アプリ<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/279/G027971/20141107005/|title=「ハロプロタップライブ」Android版配信開始。道重カードを手に入れるチャンス|work=4Gamer.net|date=2014-11-7|accessdate=2014-11-8}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/280/G028096/20141112026/|title=「ハロプロタップライブ」iOS版の配信が本日開始。記念キャンペーンも実施予定|work=4Gamer.net|date=2014-11-12|accessdate=2014-11-13}}</ref>。配信元はASKISS。2021年6月30日にサービスを終了した<ref>{{Cite web|和書|title=アスキス、『ハロプロタップライブ』のサービスを2021年6月30日をもって終了 {{!}} gamebiz|url=https://gamebiz.jp/news/296621|website=gamebiz【ゲームビズ】|accessdate=2021-10-07|language=ja}}</ref>。 == 通信販売 == ハロー!プロジェクト関係の[[通信販売]]としては、以下のようなものがある。 * CDなどに案内が封入されている通信販売 *: 2002年頃までは、CDなどにそれぞれのアーティスト関連グッズ類の通信販売の案内が封入されていた。 * ファンクラブ対象の会報に案内が添付されている通信販売 *: ファンクラブの会報には毎号通信販売の案内と振り込み用紙が同封されており、会報使用写真やファンクラブイベントのDVDなどファンクラブ限定の各種グッズ類などが購入できる。 * コンサートなどの会場で販売されているグッズの通信販売 *: 一部の会場限定販売品を除くコンサートグッズなどを販売しており、パンフレットは会場で配布している他、郵送で申し込むこともできる。 * オフィシャルショップモール店 * e-lineup かつては「えがお通販」として、ファンクラブ会員にパンフレットを送付すると共に、オフィシャルショップでも商品を受け取ることができたが、2012年1月をもってサービスを終了した。 == スポーツ活動 == ハロー!プロジェクトでは、フットサルと[[キックベースボール]]のチームを持っている。なお、2006年までは『[[ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル]]』(旧『大運動会』)を開催していた。 ; フットサル : フットサルチームとして「[[Gatas Brilhantes H.P.]]」(ガッタス ブリリャンチス H.P.)がある。2015年3月に活動を休止した<ref>{{Cite web|和書|date=2015-2-9| url=http://www.helloproject.com/news/2434/|title=Gatas Brilhantes H.P.(ガッタスブリリャンチス エイチピー)に関するお知らせ|work=ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト|accessdate=2016-1-1}}</ref>。 ; キックベースボール : キックベースボールチームとして「[[メトロラビッツH.P.]]」がある。ただし、2006年7月以降事実上活動を停止している。 == 飲食店 == ; ベールヴティユ(Vert Bouteile) : 2000年頃から2001年頃まで営業していた喫茶店である。本店は東京都世田谷区三宿(上記花畑牧場と同所)にあり、[[テレビ東京]]系列のバラエティ番組『[[モーニング娘。のへそ]]』で放送されたドラマ「モーニング娘。の愛物語」の舞台となった。また、系列店が原宿と上野にもあった。 ; グッディークラブ(Good Dies Club) : ベールヴティユと同所で2001年頃から2002年頃まで営業していた。三宿本店と原宿店の2店があった。飲食店の営業のほか、ハロー!プロジェクト関係のグッズ類の販売やオフィシャルショップとの共同[[スタンプラリー]]などを行っていた。 ; ガッタスカフェ : 2005年から2008年までの夏に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のイベント『[[お台場冒険王]]』の一環としての冒険ランド内で[[すかいらーく]]グループ・フットサルスタジアムに併設されていた。飲食店としての営業の他、ガッタス関係の生写真の販売、[[ユニフォーム]]などのグッズの展示を行っていた。 ; [[パシフィックヘブン]] : 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[東麻布]]の[[アップフロントグループ]]が入居していたビルの1階にあるハワイアンレストラン兼ハワイアングッズショップだった。店舗としての営業は2005年3月で終了し、以降ファンクラブイベントなどアップフロントグループ各社が主催するイベントの会場や番組収録スタジオなどに使われる多目的スペースとなっていた。2020年、入居するビルの移転と共に完全に閉鎖。 ; ラ・クロシェット : 東京都[[渋谷区]][[広尾 (渋谷区)|広尾]]にあったレストラン。2007年末に閉店。ハロー!プロジェクトのメンバーの[[カジュアル]][[ディナーショー]]が開催されていた。 ; ボウルズボールBB : 東京都[[千代田区]][[外神田]]の[[秋葉原駅]]前・[[石丸電気]]DUTY FREE館1階に2006年1月17日に開店した[[たこ焼き]]屋である。キャンペーンとしてハロプロメンバーをデザインに採り入れた限定グッズなどが当たる抽選会を行っていた。しかし、テナントとして入居しているビルの改装のため、翌2007年9月23日に閉店した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[アップフロントプロモーション]] * [[アップフロントグループ]] * [[ハロー!プロジェクトの作品・出演一覧]] * [[つんく♂]] * [[つんく提供楽曲一覧]] * [[シャ乱Q]] * [[ASAYAN]] * [[OMAKE CHANNEL]] == 外部リンク == {{Commonscat|Hello! Project|Hello! Project}} * [http://www.helloproject.com/ ハロー!プロジェクト オフィシャルサイト] * [https://www.up-fc.jp/helloproject/ ハロー!プロジェクト オフィシャルファンクラブ] * {{YouTube|user=UFfanclub|UF fanclub channel}} * {{YouTube|user=upfrontchannel|アップフロントチャンネル}} * {{YouTube|user=helloprojectstation|ハロ!ステ}} * {{YouTube channel|c/upcomi|アプカミ}} * {{YouTube channel|c/tinytinytiny|tiny tiny}} * {{YouTube channel|c/omake|OMAKE CHANNEL}} * {{YouTube channel|c/kimitsuta|ハロー!プロジェクトのちょっと面白い話(君に伝えたい物語)}} * {{YouTube|c=UClWwpGtkZmZ6I82o134FmuA|ハロー!アニソン部}} * {{youTube|playlist=PLQgEkFxVU_ySiqSmExWMH3GeiOZDD3Ohn|GREEN ROOM}} * {{youTube|playlist=PLQgEkFxVU_yRUjADxZ8zSMJyxiHL-7c-s|Girls Night Out}} * {{Twitter|halomoba|ハロー!プロジェクトモバイル}} * {{LINE Add Friend|hello_project|Hello! Project}} * {{LINE LIVE|45624|Hello! Project チャンネル}} * {{TikTok|helloproject1998|Hello! Projectオフィシャルアカウント}} {{アップフロントグループ}} {{ハロー!プロジェクト}} {{おはスタ}} {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ | header = この記事は以下のカテゴリでも参照できます | redirect1 = 重ピンク、こはっピンク | 1-1 = モーニング娘。 | 1-2 = ハロー!プロジェクトのユニット | 1-3 = ハロー!プロジェクトのポップ・グループ | 1-4 = 日本の女性アイドルグループ | 1-5 = 2人組の音楽グループ }} {{DEFAULTSORT:はろおふろしえくと}} [[Category:つんくプロデュース]] [[Category:ハロー!プロジェクト|*]]
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土用
土用(どよう)とは、五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。 俗には、夏の土用(立秋直前)を指すことが多く、夏の土用の丑の日には鰻を食べる習慣がある。 各土用の最初の日を土用の入り(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は節分である。 五行では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割り当てている。残った土気は季節の変わり目に割り当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼んだ。 土用の間は、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。ただし、土用に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差し支えないとされた。また「土用の間日(まび)」には土用の障りがないとされた。 五行の性質において、木気は植物のような発育伸長する勢いある傾向、火気は勢いが頂点に達し燃え盛る性質、金気は熱や勢いが衰え凝縮・固化しつつある状態、水気は凝縮しきってエネルギーを秘めつつ静的に留まった状態であり、これらは四季、太陽、植物などの周期変化の観察から象徴化された。土気は土壌におくと種が発芽することの観察から、大きな変化を促し保護する働きと場所の象徴である。四季にはそれぞれ象徴である木火金水が順当に割り当てられたが、そのままでは季節が変わる際に性質の異なる気が接しギャップが生じる事になる。現実のスムーズな移行にはバッファ的に働き現在から次の季節の気へと変容させる期間があり、ここで土気が活発に働いているとみたのが土用(土の働き)である。この期間は、1年を五行の5等分し、さらに土を四季に配分するため4等分した長さとなる。 最終日は四立の前日、つまり節分である。ただし、平気法と定気法で四立が少し変わるのに応じ節分も変わる。節気の期間としては四立の1つ前の、穀雨・大暑・霜降・大寒に含まれる。 開始日(土用の入り)の定義は平気と定気で異なるが、それぞれ節気と同様に、平気法では冬至からの経過日で、定気法では太陽黄経で定められている。 四立(冬至の約136.97日・228.28日・319.59日・45.66日後)の18日前が土用の入りである。つまり、土用の期間は毎回18日である。 四立(太陽黄経45度・135度・225度・315度)の18度前、つまり、27度・117度・207度・297度となる日が土用の入りである。 日本の国立天文台では、暦要項の雑節(理科年表にも掲載されている)で、定気法での各土用の入りの日時を発表している。 四季を通じて平均すると、土用の期間は18.26日(=18°/360°×1年)となる。ただし地球が楕円軌道であるため季節により±3%(軌道離心率×2)程度の変動があり、春夏秋冬の順に18.49日・18.82日・18.02日・17.71日となる。つまり、土用の期間は17日〜19日に変化し、比率は上表のとおりである。夏の土用は18日よりも19日のことが多く、冬の土用は17日にもなる。 また、下表は、2011年〜2014年の定気の土用の入り・節分の日本標準時での日時である(厳密には節分に時刻はないが四立の24時間前の日時を記す)。これらの日時はおよそ4年周期(閏年の周期)で繰り返すが、1900年〜2099年の間では4年あたり約45分早くなるので、この表の範囲よりさらに±1日程度変動することがある。夏の土用の入りは1902年〜1939年には7月21日の年もあり、2092年には明治の改暦以来初めて7月18日となると予想される。 土用の行事食には、あんころ餅である「土用餅」、土用の時期に採れる栄養価が高いとされる「土用しじみ」、土用の時期にニワトリが産み落とした「土用卵」などがある。 春の土用の戌には「い」の付くものや白いもの、夏の土用の丑には「う」の付くものや黒いもの、秋の土用の辰には「た」の付くものや青いもの、冬の土用の未には「ひ」の付くものや赤いものを食べると良いとされ(土用の食い養生)、特に夏の土用の丑の日には鰻を食べる風習が江戸時代からみられる。 夏の土用入りから3日目の天候によってその年の豊凶を占う風習。快晴であれば豊作、降雨であれば凶作とする。天一太郎、八専次郎、寒四郎などとともに古くから農村部で信じられてきた。
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土用(どよう)とは、五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。 俗には、夏の土用(立秋直前)を指すことが多く、夏の土用の丑の日には鰻を食べる習慣がある。 各土用の最初の日を土用の入り(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は節分である。
{{出典の明記|date=2019年7月}} '''土用'''(どよう)とは、[[五行思想|五行]]に由来する[[暦]]の[[雑節]]である。1年のうち不連続な4つの期間で、[[二十四節気|四立]]([[立夏]]・[[立秋]]・[[立冬]]・[[立春]])の直前約18日間ずつである<ref>{{Cite web|和書|url=https://biz-journal.jp/2018/08/post_24324.html|title=土用丑の日にコンビニに並んだ「約3千円の鰻重」は売れたのか?今や味も品質も中国産で十分?|publisher=Business Journal|date=2018-08-08|accessdate=2020-11-23}}</ref>。 俗には、[[夏]]の土用(立秋直前)を指すことが多く<ref>[[西角井正慶]]編『年中行事事典』p.545 [[1958年]][[5月23日]]、東京堂出版</ref>、夏の[[土用の丑の日]]には[[ウナギ|鰻]]を食べる習慣がある。 各土用の最初の日を'''土用の入り'''(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は[[節分]]である。 == 歴史 == 五行では、[[春]]に木気、[[夏]]に火気、[[秋]]に金気、[[冬]]に水気を割り当てている。残った土気は季節の変わり目に割り当てられ、これを「土旺用事」、「土用」と呼んだ。 土用の間は、土の気が盛んになるとして、動土・穴掘り等の土を犯す作業や殺生が忌まれた。ただし、土用に入る前に着工して土用中も作業を続けることは差し支えないとされた。また「[[土用の間日]](まび)」には土用の障りがないとされた。 五行の性質において、木気は植物のような発育伸長する勢いある傾向、火気は勢いが頂点に達し燃え盛る性質、金気は熱や勢いが衰え凝縮・固化しつつある状態、水気は凝縮しきってエネルギーを秘めつつ静的に留まった状態であり、これらは四季、太陽、植物などの周期変化の観察から象徴化された。土気は土壌におくと種が発芽することの観察から、大きな変化を促し保護する働きと場所の象徴である。四季にはそれぞれ象徴である木火金水が順当に割り当てられたが、そのままでは季節が変わる際に性質の異なる気が接しギャップが生じる事になる。現実のスムーズな移行にはバッファ的に働き現在から次の季節の気へと変容させる期間があり、ここで土気が活発に働いているとみたのが土用(土の働き)である。この期間は、1年を五行の5等分し、さらに土を四季に配分するため4等分した長さとなる。 == 期間 == 最終日は[[二十四節気|四立]]の前日、つまり[[節分]]である。ただし、[[平気法]]と[[定気法]]で四立が少し変わるのに応じ節分も変わる。[[節気]]の期間としては四立の1つ前の、[[穀雨]]・[[大暑]]・[[霜降]]・[[大寒]]に含まれる。 開始日(土用の入り)の定義は平気と定気で異なるが、それぞれ節気と同様に、平気法では[[冬至]]からの経過日で、定気法では[[太陽黄経]]で定められている。 === 平気法 === 四立(冬至の約136.97日・228.28日・319.59日・45.66日後)の18日前が土用の入りである。つまり、土用の期間は毎回18日である。 === 定気法 === 四立(太陽黄経45[[度 (角度)|度]]・135度・225度・315度)の18度前、つまり、27度・117度・207度・297度となる日が土用の入りである。 日本の[[国立天文台]]では、[[暦要項]]の[[雑節]]([[理科年表]]にも掲載されている)で、定気法での各土用の入りの日時を発表している。 {| Class="wikitable" style="text-align:center; float:left" !季節!!17日!!18日!!19日!!平均 |- |春||||51%||49%||18.49日 |- style="background:pink" |夏||||18%||82%||18.82日 |- |秋||||98%||{{0}}2%||18.02日 |- |冬||29%||71%||||17.71日 |- |平均||{{0}}7%||60%||33%||18.26日 |} {{Clear}} 四季を通じて平均すると、土用の期間は18.26日(=18°/360°×1[[年]])となる。ただし[[地球]]が[[楕円軌道]]であるため季節により±3%([[軌道離心率]]×2)程度の変動があり、春夏秋冬の順に18.49日・18.82日・18.02日・17.71日となる。つまり、土用の期間は17日〜19日に変化し、比率は上表のとおりである。夏の土用は18日よりも19日のことが多く、冬の土用は17日にもなる。 また、下表は、[[2011年]]〜[[2014年]]の定気の土用の入り・節分の[[日本標準時]]での日時である(厳密には節分に時刻はないが<ref>[[理科年表]]</ref>四立の24時間前の日時を記す)。これらの日時はおよそ4年周期([[閏年]]の周期)で繰り返すが、[[1900年]]〜[[2099年]]の間では4年あたり約45分早くなるので、この表の範囲よりさらに±1日程度変動することがある。夏の土用の入りは[[1902年]]〜[[1939年]]には[[7月21日]]の年もあり、[[2092年]]には[[グレゴリオ暦|明治の改暦]]以来初めて[[7月18日]]となると予想される。 {| Class="wikitable" style="text-align:center; float:left" !年!!季節!!入りの日時!!節分の日時!!期間 |- |rowspan="4"|2011||冬||[[1月17日|{{0}}1月17日]] 14:47||[[2月3日|{{0}}2月3日]] {{0}}7:50||18日 |- |春||[[4月17日|{{0}}4月17日]] 17:36||[[5月5日|{{0}}5月5日]] {{0}}5:23||19日 |- style="background:pink" |夏||[[7月20日|{{0}}7月20日]] {{0}}9:46||[[8月7日|{{0}}8月7日]] {{0}}5:33||19日 |- |秋||[[10月21日]] {{0}}3:09||[[11月7日]] {{0}}3:35||18日 |- |rowspan="4"|2012||冬||[[1月18日|{{0}}1月18日]] {{0}}2:29||{{0}}2月3日 13:35||17日 |- |春||[[4月16日|{{0}}4月16日]] 23:33||[[5月4日|{{0}}5月4日]] 11:20||19日 |- style="background:pink" |夏||[[7月19日|{{0}}7月19日]] 15:37||[[8月6日|{{0}}8月6日]] 11:31||19日 |- |秋||[[10月20日]] {{0}}8:52||[[11月6日]] 09:26||18日 |- |rowspan="4"|2013||冬||{{0}}1月17日 20:35||{{0}}2月3日 19:24||18日 |- |春||{{0}}4月17日 {{0}}5:23||{{0}}5月4日 17:18||18日 |- style="background:pink" |夏||{{0}}7月19日 21:29||{{0}}8月6日 17:20||19日 |- |秋||10月20日 14:46||11月6日 15:14||rowspan="3"|18日 |- |rowspan="4"|2014||冬||{{0}}1月17日 {{0}}8:10||{{0}}2月3日 {{0}}1:15 |- |春||{{0}}4月17日 11:14||{{0}}5月4日 22:59 |- style="background:pink" |夏||{{0}}7月20日 {{0}}3:16||{{0}}8月6日 23:02||18日 |- |秋||10月20日 20:36||11月6日 21:06||18日<!-- |- |rowspan="4"|2015||冬||{{0}}1月17日 14:07||{{0}}2月3日 {{0}}7:04||18日--> |} {{Clear}} == 行事食 == 土用の行事食には、あんころ餅である「[[土用餅]]」、土用の時期に採れる栄養価が高いとされる「土用しじみ」、土用の時期にニワトリが産み落とした「土用卵」などがある<ref name="dia">[https://dia.or.jp/disperse/dianews/pdf/dianews_no90_07.pdf 四季と日本の食歳時] 公益財団法人ダイヤ高齢社会研究財団、2021年7月28日閲覧。</ref><ref>[http://www.ibarahp.jp/medical/pdf/eiyou_dayori_03.pdf 土用の丑の日] 井原市民病院、2021年7月28日閲覧。</ref>。 春の土用の戌には「い」の付くものや白いもの、夏の土用の丑には「う」の付くものや黒いもの、秋の土用の辰には「た」の付くものや青いもの、冬の土用の未には「ひ」の付くものや赤いものを食べると良いとされ(土用の食い養生)、特に夏の土用の丑の日には鰻を食べる風習が江戸時代からみられる<ref name="dia" />。 == 土用三郎 == 夏の土用入りから3日目の天候によってその年の豊凶を占う風習。快晴であれば豊作、降雨であれば凶作とする。天一太郎、八専次郎、寒四郎などとともに古くから農村部で信じられてきた。<ref>平凡社大百科事典 第19巻 1935年</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[土用の丑の日]] * [[土用の間日]] * [[土用波]] * [[寒の土用の丑の日]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:とよう}} [[Category:雑節]] [[Category:季節]] [[Category:夏の季語]]
2003-09-09T05:06:39Z
2023-11-16T09:59:20Z
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綱引き
綱引き(つなひき)は、2つのチームが一本の綱をお互いの陣地に向けて引き合い、その優劣を競う競技である。(その表記について、日本綱引連盟は「綱引き」ではなく「綱引」を採用している。)英語では Tug of war (sports) 。 なお、比喩的な慣用句としては組織・団体間のパワーゲーム状態を綱引きに準える場合がある(後述)。 綱引きは、複数人数からなるチームで一本の綱を両側から引き合って、その移動を競う競技である。団体戦であること、ルールが単純明快であること、またチーム分けによって力量の配分などに公正化が図りやすいこともあり、世界的にも広く親しまれている競技である。その反面、高度化したものではテクニックや戦略といった要素も多分に絡み、競技としての奥深さも存在する。 オリンピックでは1920年のアントワープ大会まで正式競技であった。2020年現在、ワールドゲームズで正式競技である。2002年には国際綱引連盟 (TWIF) が国際オリンピック委員会 (IOC) に加盟し、オリンピック競技への復帰を目指している。 多くの場合において綱引きは両チームの力量・テクニック・総重量が近接しているほど盛り上がる傾向もあり、競技を純粋に楽しむ上では様々な面からチームの平均化が図られる。 この項では、競技スポーツとしての綱引きについて説明する。 競技場はレーンと呼ばれ、平坦で水平でなければならない。室内のインドアと、屋外のアウトドアがある。インドアではカーペットのマットやウレタンゴム製の専用レーンマット等を使用する。体育館の床が使用できる場合はラインテープによるマーキングでも構わない。ラインは、競技場の中央に赤いセンターラインを引き、両側2mに白いラインを引く。ラインの幅は原則として5cm。レーンの幅は90cm。 基本的に標準的なスポーツ用の服装である。ショートパンツ、襟つきの長袖シャツなどを着用する。腰を保護するためのベルトを腰に巻く場合もある。シューズはインドアでは綱引きシューズまたは滑りにくい平らなスポーツシューズを使用し、アウトドアではピンのついた綱引きブーツを使用する。素手で競技するが、滑り止めのために炭酸マグネシウムなどの使用が認められている。 競技会によってはゼッケンの着用が必要な場合がある。また、最後尾のアンカーマンはヘルメットを付けなければならない。 長さ33.5m - 36m(小学生は28m - 30m)、外周10cm - 12.5cm(小学生は9cm - 10cm)のマニラアサでできた頑丈なロープが使われる。 ロープの中央に赤いマーキングを付け、中央から両側2m(アウトドアでは4m)の場所に白いマーキング、さらに両側0.5mの場所に青いマーキングをつける。地面にも赤と白のラインが同じ間隔で引かれている。白いマークとラインは勝敗決定に利用する。また、先頭の競技者は青いマークよりも後ろでロープを握らなければならない。各マークはロープからはがして張る位置を調整できるようになっている。 競技サイドはじゃんけんまたはコイントスで決めるが、事前に指定される場合もある。2セット目はサイドを交代し、さらに3セット目を行う場合は抽選、じゃんけん、コイントスなどでサイドを決定する。 審判による以下の号令によって競技が開始される。 以下の場合には競技が終了する。 反則を犯すと審判から指導され、直ちに改めなければならない。改めなければコーション(警告)となり、3回のコーションを宣告された場合そのチームは反則負けとなる。 など、12種類がある。 大会等で総当り戦が行われ、2チーム以上が同順位で並んだ際にはコーション数の合計において少ないチームを上位とする場合がある。 綱が切れたことによる転倒、衝突、押しつぶしなどにより幾度も多くの怪我人や死亡者が発生している。場合によっては、指や手の切断に至る重大な事故にもなっている。 また、腕に巻き付けたロープの締め付けによって、手が切断された事故も起きている。 日本では、古くはカヤや藁を使った縄を使って引き合い一年を占う神事が行われている。綱を大蛇や龍などになぞらえる例もある。現在の大綱引は小正月に行われることが多く、中国の上元の綱引がルーツとも言われているが、九州や沖縄では旧盆や夏の行事として定着しており、地域によって時期や由来は異なる。終わったあとは綱を川や海などに流すところもある。 秋田県や沖縄県の大綱引は、雄綱と雌綱の二本を中央で連結させて行う。 京都市右京区の高山寺に伝わる鳥獣戯画には、僧や子供たちが耳や腰に縄をかけて引っ張り合う様子が見られる。 近世期の軍記物『土佐物語』巻第五には、永禄年間(16世紀後半)の出来事として、「枕引き、首引き、手綱引き」などの各競技を行った記述が見られ、様々な引きもの競技が確認できる。 『北斎漫画』八編「無礼講」(19世紀)には、四つん這いになって背中に綱をかけて引き合う形態(背引き)や指に結んだ状態で引き合う指引きが見られる。 カンボジアの世界遺産であるアンコール・ワットの回廊には、ヒンドゥー教の世界創造神話である乳海撹拌の様子(山に巻き付けた大蛇を神々が引き合い、世界を構成するすべての要素をかき混ぜるという内容)がレリーフで描かれているが、これは綱引き本来の引き合うことで競い合うというものではない。 綱引きは民俗学的解釈では古来神事であったとされ、日本では注連縄との関連が示唆されている。日本の綱引きは競技色が強いものも盛んだが、各地方の伝統的な綱引き行事の多くは現在でも神事の一環として行なわれている。日本と同様に、吉凶を占う奉納伝統行事としての要素を残すとされる韓国・フィリピン・ベトナム・カンボジアは、無形文化財版の世界遺産であるユネスコの無形文化遺産に「Tugging rituals and games」の名称で共同申請し、2015年12月2日の無形文化遺産政府間委員会で登録が認可された。 日本の運動会などでの綱引きでは、「オーエス!」という掛け声がよく使われる。語源には諸説あるが、フランス語の「oh hisse」(「それ引け」という意味)からきているという説が有力とされている。「oh hisse」は旗や帆を巻き上げる際に用いられた掛け声で、明治初期に東京築地の外国人居留地でフランス人たちが綱引きをした際に掛け声としたものが「オーエス」と聞き取られ、日本で定着した、などと伝えられるが、明確な証拠はない。 運動会の綱引きでは「オーエス!」のほか、呼吸を合わせるために「よいしょ、よいしょ」「そーれ、そーれ」「わっしょい、わっしょい」「せーの、せーの」などの掛け声が使われる。これらは地域や世代によってもさまざまである。特に掛け声が無く、ピストルの音と同時に一斉に無言で引き始めることもある。 宮崎県の運動会では「えい、えい、えいやさー」「えい、やー」といった掛け声が用いられる。これは、伝統的に豊年感謝のため十五夜(旧暦8月15日)に行われた綱引き行事の掛け声が引き継がれたものという。 高知県西部では、運動会や伝統行事の綱引きにおいて「さーうん」や「やーのーうん」「さーのーうん」などの掛け声が使われる。 北海道檜山郡江差町の運動会・体育祭では、町の姥神大神宮渡御祭で山車の綱を引く際の掛け声である「エンヤ!エンヤ!」から転じて、綱引きの掛け声にも使われるのが見られる。 競技綱引きにおいては、掛け声をほとんど発せずに引き続けるのが一般的である。 慣用句としては、なんらかの利害関係により複数の組織・団体が相互に圧力を掛けたり牽制したり自陣営側に有利にことが運ぶように画策したり工作しあうことを綱引きに準える場合がある。 例えば、地域的な団体がオリンピックのようなイベントから鉄道・道路など公共事業の誘致合戦を繰り広げたり、政治家ないし政党がより多くの支持者を得て発言権の拡大を目指しあったり推進する政策に自陣営側の要望を最大限盛り込もうとしたりといったものである。 英語にも似たような比喩表現があり、「tug of love」という慣用句では、離婚した両親が各々子の親権をめぐって争うことを示しているが、これはイメージとして子の腕を綱のようにして父親と母親が左右から引っ張っている状態である。 日本綱引連盟の機関誌として、「綱引マガジン」(季刊)が1990年秋季号 (1) から2007年冬季号 (66) まで、ベースボール・マガジン社から発行されていた。 ワールドゲームズ2001では記念切手が発行されている。
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綱引き(つなひき)は、2つのチームが一本の綱をお互いの陣地に向けて引き合い、その優劣を競う競技である。(その表記について、日本綱引連盟は「綱引き」ではなく「綱引」を採用している。)英語では Tug of war (sports)。 なお、比喩的な慣用句としては組織・団体間のパワーゲーム状態を綱引きに準える場合がある(後述)。
{{出典の明記| date = 2022年5月}} [[File:Tug of war 2.jpg|300px|thumb|綱引き]] [[File:Touwtrekken om het kampioenschap van Nederland Weeknummer 35-37 - Open Beelden - 57062.ogv|thumb|綱引きの様子]] '''綱引き'''(つなひき)は、2つのチームが一本の[[ロープ|綱]]をお互いの陣地に向けて引き合い、その優劣を競う[[競技]]である。(その表記について、[[日本綱引連盟]]は「綱引き」ではなく「綱引」を採用している。)英語では Tug of war (sports) 。 なお、[[比喩]]的な[[慣用句]]としては組織・団体間のパワーゲーム状態を綱引きに準える場合がある([[#慣用句|後述]])。 <!--単なる慣用句で鉄道・道路に限定されない:尚、[[鉄道]]や[[道路]]建設において、[[鉄道と政治|我田引鉄]]と呼ばれる強引な誘致活動を指す場合もある。--> {{TOC limit|2}} == 概要 == [[File:1912 summer olympics tug of war.jpg|thumb|[[1912年ストックホルムオリンピック|ストックホルムオリンピック]]([[1912年]])]] 綱引きは、複数人数からなるチームで一本の綱を両側から引き合って、その移動を競う競技である。団体戦であること、ルールが単純明快であること、またチーム分けによって力量の配分などに公正化が図りやすいこともあり、世界的にも広く親しまれている競技である。その反面、高度化したものではテクニックや戦略といった要素も多分に絡み、競技としての奥深さも存在する。 [[夏季オリンピック|オリンピック]]では[[1920年]]の[[アントワープオリンピック|アントワープ大会]]まで正式競技であった。2020年現在、[[ワールドゲームズ]]で正式競技である。2002年には国際綱引連盟 (TWIF) が[[国際オリンピック委員会]] (IOC) に加盟し、[[オリンピック競技]]への復帰を目指している。 多くの場合において綱引きは両チームの力量・テクニック・総重量が近接しているほど盛り上がる傾向もあり、競技を純粋に楽しむ上では様々な面からチームの平均化が図られる。 == ルール == この項では、競技スポーツとしての綱引きについて説明する。 === 概要 === * 1チーム8名で行われる。補欠は2名まで。 * 男女ともチームウェイト(8人の総重量)によって階級ごとに分けられる。TWIF主催の世界選手権では、以下の階級で行われている。 *;アウトドア *:*男子 560kg 600kg 640kg 680kg 720kg U23 600kg *:*女子 520kg 560kg *;インドア *:*男子 560kg 600kg 640kg 680kg *:*女子 480kg 520kg * チームの最後尾を「アンカーマン」([[錨]]に由来)といい、アンカーマンのみロープを肩にかけることが出来る。 * 時間制限はなく、相手側チームを自分側チームに4m引き込んだ時点で勝利となる。 * 競技会により1セットマッチ、2セットマッチ(1勝1敗は引き分け)、3セットマッチがある。 === 競技場 === 競技場はレーンと呼ばれ、平坦で水平でなければならない。室内のインドアと、屋外のアウトドアがある。インドアではカーペットのマットやウレタンゴム製の専用レーンマット等を使用する。体育館の床が使用できる場合はラインテープによるマーキングでも構わない。ラインは、競技場の中央に赤いセンターラインを引き、両側2mに白いラインを引く。ラインの幅は原則として5cm。レーンの幅は90cm。 === 服装 === 基本的に標準的なスポーツ用の服装である。ショートパンツ、襟つきの長袖シャツなどを着用する。腰を保護するためのベルトを腰に巻く場合もある。シューズはインドアでは綱引きシューズまたは滑りにくい平らなスポーツシューズを使用し、アウトドアではピンのついた綱引きブーツを使用する。素手で競技するが、滑り止めのために[[炭酸マグネシウム]]などの使用が認められている。 競技会によっては[[ゼッケン]]の着用が必要な場合がある。また、最後尾のアンカーマンは[[ヘルメット]]を付けなければならない。 === ロープ === 長さ33.5m - 36m(小学生は28m - 30m)、外周10cm - 12.5cm(小学生は9cm - 10cm)の[[マニラアサ]]でできた頑丈なロープが使われる。 ロープの中央に赤いマーキングを付け、中央から両側2m(アウトドアでは4m)の場所に白いマーキング、さらに両側0.5mの場所に青いマーキングをつける。地面にも赤と白のラインが同じ間隔で引かれている。白いマークとラインは勝敗決定に利用する。また、先頭の競技者は青いマークよりも後ろでロープを握らなければならない。各マークはロープからはがして張る位置を調整できるようになっている。 === 競技の流れ === ==== 競技サイドの決定 ==== 競技サイドは[[じゃんけん]]または[[コイントス]]で決めるが、事前に指定される場合もある。2セット目はサイドを交代し、さらに3セット目を行う場合は抽選、じゃんけん、コイントスなどでサイドを決定する。 ==== 競技開始 ==== 審判による以下の号令によって競技が開始される。 #「ピック・アップ・ザ・ロープ」(Pick up the rope):地面のロープを持ち上げる。 #「テイク・ザ・ストレイン」(Take the strain):両手でロープを持ち、競技の態勢(アンカー・ポジション)になる。 #調整(Rope to center):ロープの競技開始位置の調整。 #「ステディ、プル」(Steady,Pull):競技開始の合図。「プル」の合図で競技者は一気にロープを引く。 ==== 競技終了 ==== 以下の場合には競技が終了する。 # 勝敗が決したとき。<br> お互いがロープを引き合い、先に4メートル引き込んだ側の勝利となる。具体的には、インドアではロープの相手側の白マークが自分側の白ラインに達した瞬間に、アウトドアでは相手側の白マークがセンターラインに達した瞬間に自分側の勝利となる。原則として時間制限はなく、勝敗が決定するまで続けられる。勝利決定の瞬間、審判はホイッスルを鳴らした後勝利チームを指し示す。なお、ルールブック上にはないが競技会によっては特別ルールとして時間制限が設けられることがある。その場合主に30秒 - 2分程度に設定する場合があり、時間に達した時点でより引き込んでいるチームを勝利とする。 # 同一チームに3回目のコーション(後述)が宣言されたとき(反則による失格)。 # ノー・プルが宣告されたとき(試合を続行できない状態)。 === 反則 === 反則を犯すと審判から指導され、直ちに改めなければならない。改めなければコーション(警告)となり、3回のコーションを宣告された場合そのチームは反則負けとなる。 *シッティング:故意に座る。 *リーニング:足の裏以外の部分が地面に触れたままロープを引き続ける。 *ロッキング:ロープを腕や肘を使って自由を利かなくする。 *グリップ:両手で握り拳を作ってロープを持つ。 *プロッピング:両手で握り拳を作り、身体に沿って持ち上げる。 *ポジション:屈伸しながら引く。 など、12種類がある。 大会等で総当り戦が行われ、2チーム以上が同順位で並んだ際にはコーション数の合計において少ないチームを上位とする場合がある。 == 事故 == 綱が切れたことによる転倒、衝突、押しつぶしなどにより幾度も多くの怪我人や死亡者が発生している<ref>[http://www.spokesman.com/stories/1995/jun/07/2-boy-scouts-die-when-tug-of-war-rope-snaps/ 2 Boy Scouts Die When Tug-Of-War Rope Snaps]</ref>。場合によっては、指や手の[[切断 (医学)|切断]]に至る重大な事故にもなっている<ref>{{cite news|title=Tug-of-War Ends in Multiple Injuries|url=https://news.google.com/newspapers?nid=1891&dat=19780614&id=V98pAAAAIBAJ&sjid=XNYEAAAAIBAJ&pg=2968,2439226&hl=en|accessdate=15 March 2017|work=Gadsden Times|date=14 June 1978}}</ref><ref name="yelmonline">http://www.yelmonline.com/sports/article_f7ec0326-c131-5925-a332-5242a0483b63.html</ref>。 また、腕に巻き付けたロープの締め付けによって、手が切断された事故も起きている<ref>[https://getnews.jp/archives/16193 「俺の手が! なくなった!」綱引きで手が切断された男性](ガジェット通信)</ref>。 ;安全について * 綱が捩れたキンクと呼ばれる状態で綱を引くと、強度が低下してしまう<ref>[https://www.uchida.co.jp/education/catalog/mate85ele/seo/0853.html ウチダ 教材総合カタログ]小学校 ウチダ 教材総合カタログ Vol.85 P.851</ref>。 * メーカーによって、綱の使用人数の目安が提示されていることがある。 * カビや湿気で強度が低下するため、それらを避けた保管を心掛ける。 * [[日本体育施設協会]]によると、綱引きの綱の耐用年数は2年とされている。 == 世界各地の綱引き == [[ファイル:Chouju tugwar.jpg|サムネイル|『[[鳥獣人物戯画]]』丙巻の綱引きの図(12-13世紀)。図にあるのは厳密には「首引き」と呼ばれる形態の綱引きであり、軍記物『[[土佐物語]]』巻第五の[[永禄]]年間([[16世紀]]後半)の記述にも各種の競技の中に「首引き」をする記述が見られる。]] [[ファイル:Gozutenno tsunahiki.jpg|サムネイル|『[[摂津名所図会]]』(18世紀)「牛頭天王綱引」。[[難波八阪神社]]の綱引神事として毎年1月に継続されている。]] === 日本 === 日本では、古くは[[カヤ]]や[[藁]]を使った縄を使って引き合い一年を占う[[神事]]が行われている。綱を[[大蛇]]や[[龍]]などになぞらえる例もある。現在の大綱引は[[小正月]]に行われることが多く、中国の[[三元|上元]]の綱引がルーツとも言われているが、九州や沖縄では[[旧盆]]や夏の行事として定着しており<ref> 「年中行事事典」p498 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref>、地域によって時期や由来は異なる。終わったあとは綱を川や海などに流すところもある。 [[秋田県]]や[[沖縄県]]の大綱引は、雄綱と雌綱の二本を中央で連結させて行う。 京都市右京区の高山寺に伝わる[[鳥獣戯画]]には、僧や子供たちが耳や腰に縄をかけて引っ張り合う様子が見られる。 近世期の軍記物『[[土佐物語]]』巻第五には、[[永禄]]年間([[16世紀]]後半)の出来事として、「[[枕]]引き、首引き、手綱引き」などの各競技を行った記述が見られ、様々な引きもの競技が確認できる。 『[[北斎漫画]]』八編「無礼講」([[19世紀]])には、四つん這いになって背中に綱をかけて引き合う形態(背引き)や指に結んだ状態で引き合う指引きが見られる。 [[ファイル:Naha Tug of War.jpg|サムネイル|日本最大規模の那覇大綱挽]] ==== 日本各地の綱引き ==== * 北海道[[中標津町]] *: [[なかしべつ夏祭り|東西対抗綱引き大会]]長さ403mの大綱引き * 北海道[[北見市]] *: 北見ぼんちまつりの屯田大綱引き * 秋田県[[大仙市]][[刈和野]](旧[[西仙北町]]) *: 刈和野の大綱引き - 500年以上の歴史があるといわれる伝統行事で、国の[[無形民俗文化財]]<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0004200024_00000 刈和野の大綱引き 500年以上の伝統を誇る綱引き]NHK</ref> * 静岡県[[浜松市]][[天竜区]]、長野県[[飯田市]] *: [[峠の国盗り綱引き合戦]] *:: 静岡県浜松市天竜区(旧[[磐田郡]][[水窪町]]・以下、遠州軍)と長野県飯田市(旧[[下伊那郡]][[南信濃村]]・以下、信州軍)は、毎年10月の最終日曜日に[[県境|国境]]をかけて[[兵越峠]]で[[1987年]](昭和62年)から綱引き大会をしている。遠州軍と信州軍からそれぞれ選出された選手が3本勝負の綱引きをし、勝った方が1[[メートル]]だけ[[国境]]を広げることができる。行政上の県境とは異なるが、これまでの最高記録で4メートルも移動したことがあった。 * 富山県[[小矢部市]]、石川県[[河北郡]][[津幡町]] *: くりから夢街道ウォーク大綱引き *::その昔富山県と石川県にある[[倶利伽羅峠]]で行われた源平[[倶利伽羅峠の戦い]]にあやかって、小矢部市が[[源義仲|木曽義仲]]率いる源氏軍、津幡町が平家軍とに分かれ、倶利伽羅峠山頂で毎年4月下旬に行われる大綱引き大会で、長さ120m、直径12cm、重さ約600Kgの綱を、小矢部、津幡各市町から参加のそれぞれ100名で3本勝負(1本15秒)の綱引きを行う<ref>『源氏の小矢部 競り勝つ くりから夢街道ウオーク大綱引き』[[北日本新聞]] 2019年4月22日26面</ref>。 * 福井県[[三方郡]][[美浜町 (福井県)|美浜町]] *: [[日向の綱引き行事|日向水中綱引き]]<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=103YC1hftQc 美浜で水中綱引き、漁師町に熱気]福井新聞</ref> - 約380年前から伝わるとされる国の[[選択無形民俗文化財]] * 福井県[[敦賀市]]相生町 *: 敦賀西町の綱引き<ref>[http://www.turuga.org/places/tsunahiki/tsunahiki.html 敦賀西町の綱引き]敦賀観光協会</ref> - 400年以上前から伝承されてきた冬の敦賀の民俗行事で、数百人の老若男女が「夷子(えびす」と「大黒」に分かて引き、夷子側が勝てばその年は豊漁、大黒側なら豊作。もとは、漁民と農民とで分かれて引いた。 * 滋賀県[[大津市]] *: 勢多唐橋東西大綱引合戦(2013年から始まった<ref>[http://www.seta-karahashi.com/ 勢多唐橋東西大綱引合戦]</ref>) *: 御田神社綱引き行事<ref>[http://milky.geocities.jp/kyotonosato/siga/01/tunahiki12mita.html 綱引き行事(御田神社)]</ref> * 京都府[[南丹市]] *: [[大送神社の綱引き]] * 京都府[[相楽郡]] *:[[祝園神社]]いごもり祭の綱引き<ref>田蓑健太郎, 「[https://doi.org/10.20693/jspeconf.48.0_639 綱引きの構造と変容 : 京都府相楽郡精華町について]」『日本体育学会大会号』 1997年 48巻, 第48回(1997), p.639-, {{doi|10.20693/jspeconf.48.0_639,}}</ref> * 鳥取県[[東伯郡]][[三朝町]] *: [[陣所の館|陣所の綱引き]] * 鳥取県[[鳥取市]] *: 菖蒲綱引き<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/160831 但馬久谷の菖蒲綱引き]文化遺産オンライン</ref><ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159338 因幡の菖蒲綱引き]文化遺産オンライン</ref>- 気高町宝木、気高町水尻、青谷町青谷および同県岩美郡岩美町大羽尾に伝わる民俗行事で、6月上旬に行なわれる。よもぎ・菖蒲などで作られた綱を使い、子ども組対大人組の対抗でなされる * 鳥取県[[米子市]]淀江町福岡 *: 上淀の八朔綱引き<ref>[http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/8F869FDB1CA124114925796F0008006C?OpenDocument 上淀の八朔綱引き]鳥取県文化財ナビ</ref> * 福岡県[[那珂川市]] *: 八龍神社盆綱引き * 佐賀県[[唐津市]] *: 呼子の大綱引き(よぶこのおおつなひき) * 長崎県[[五島市]] *: ヘトマトの綱引き<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=ShNR81GylcU 今年も盛大に!下崎山のヘトマト]</ref> * 鹿児島県[[薩摩川内市]](旧[[川内市]]) *: [[川内大綱引]](せんだいおおつなひき) 長さ365m、直径35cm、重さ5t * 鹿児島県[[奄美大島]] *: 西仲間悪綱引き<ref>[http://blog.yamuraland.com/program/2202 綱にさわって悪祓い!にしなかま悪綱引き]NPO法人すみようヤムラランド</ref> * 沖縄県 *: [[那覇まつり|那覇大綱挽]]、真栄里大綱引き、糸満大綱引、与那原大綱曳、屋慶名大綱引き、大山大綱引、[[綱引き (嘉陽)|嘉陽綱引き]]その他各地に多数 === カンボジア === [[カンボジア]]の[[世界遺産]]である[[アンコール・ワット]]の回廊には、[[ヒンドゥー教]]の世界創造神話である[[乳海撹拌]]の様子(山に巻き付けた大蛇を神々が引き合い、世界を構成するすべての要素をかき混ぜるという内容)がレリーフで描かれているが、これは綱引き本来の引き合うことで競い合うというものではない。 === 無形文化遺産として === 綱引きは[[民俗学]]的解釈では古来[[神事]]であったとされ、日本では[[注連縄]]との関連が示唆されている。日本の綱引きは競技色が強いものも盛んだが、各地方の伝統的な綱引き行事の多くは現在でも神事の一環として行なわれている。日本と同様に、吉凶を占う奉納伝統行事としての要素を残すとされる韓国・[[フィリピン]]・[[ベトナム]]・カンボジアは、[[無形文化財]]版の世界遺産である[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に「Tugging rituals and games」の名称で共同申請し<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/index.php?lg=en&pg=00704 Files 2015 under process Intangible Heritage] - UNESCO(英語)</ref>、2015年12月2日の無形文化遺産政府間委員会で登録が認可された<ref>[http://www.unesco.org/culture/ich/en/RL/tugging-rituals-and-games-01080 Representative List of the Intangible Cultural Heritage of Humanity - Tugging rituals and games] - UNESCO(英語)</ref><ref>[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/12/02/2015120204225.html 4カ国共同申請の「綱引き」 無形文化遺産への登録決定] - [[朝鮮日報]]</ref>。 == 掛け声 == 日本の[[運動会]]などでの綱引きでは、「オーエス!」という掛け声がよく使われる。語源には諸説あるが、フランス語の「{{lang|fr|oh hisse}}」(「それ引け」という意味)からきているという説が有力とされている<ref name="asahi_161016">{{cite news|url=http://digital.asahi.com/articles/ASJB75S70JB7TIPE034.html|title=綱引きの掛け声、独自な宮崎 そもそもオーエスって?|newspaper=朝日新聞|date=2016-10-16|accessdate=2016-10-17}}全文閲覧には要登録</ref>。「{{lang|fr|oh hisse}}」は旗や帆を巻き上げる際に用いられた掛け声で<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.web-nihongo.com/books/504178/|title=身近なことばの語源辞典|work=Web日本語|publisher=[[小学館]]|accessdate=2016-10-17}}</ref>、明治初期に東京築地の[[外国人居留地]]でフランス人たちが綱引きをした際に掛け声としたものが「オーエス」と聞き取られ、日本で定着した<ref name="asahi_161016" />、などと伝えられるが、明確な証拠はない。 運動会の綱引きでは「オーエス!」のほか、呼吸を合わせるために「よいしょ、よいしょ」<ref name="asahi_161016" />「そーれ、そーれ」<ref name="asahi_161016" />「わっしょい、わっしょい」<ref name="asahi_161016" />「せーの、せーの」<ref name="asahi_161016" />などの掛け声が使われる。これらは地域や世代によってもさまざまである<ref name="asahi_161016" />。特に掛け声が無く、ピストルの音と同時に一斉に無言で引き始めることもある<ref name="asahi_161016" />。 宮崎県の運動会では「えい、えい、えいやさー」「えい、やー」といった掛け声が用いられる<ref name="asahi_161016" />。これは、伝統的に豊年感謝のため十五夜(旧暦8月15日)に行われた綱引き行事の掛け声が引き継がれたものという<ref name="asahi_161016" />。 高知県西部では、運動会や伝統行事の綱引きにおいて「さーうん」<ref>{{Cite web|和書|url=http://40010kosha.heteml.jp/40010catv/blog/2014/11/post-37.html|title=綱引きの掛け声は「オーエス」?「サーウン」?|work=|publisher=[[四万十ケーブルテレビ]]|accessdate=2016-10-17}}</ref>や「やーのーうん」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.orquesta.org/kuroshio/Article/ArticleView.jsp?article_id=400|title=2011.1.14 柏島しめ引き(綱引き)|publisher=NPO法人黒潮実感センター|accessdate=2016-10-17}}[[幡多郡]][[大月町]]の[[柏島]]の事例が紹介されている。</ref>「さーのーうん」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.webkochi.net/kanko/sanpo54.php|title=大綱祭り|publisher=生活創造工房|accessdate=2016-10-17}}[[土佐市]]の大綱祭りの事例が紹介されている。</ref>などの掛け声が使われる。 北海道[[檜山郡]][[江差町]]の運動会・体育祭では、町の[[姥神大神宮渡御祭]]で山車の綱を引く際の掛け声である「エンヤ!エンヤ!」から転じて、綱引きの掛け声にも使われるのが見られる。 競技綱引きにおいては、掛け声をほとんど発せずに引き続けるのが一般的である<ref name="asahi_161016" />。 == 慣用句 == 慣用句としては、なんらかの利害関係により複数の組織・団体が相互に圧力を掛けたり牽制したり自陣営側に有利にことが運ぶように画策したり工作しあうことを綱引きに準える場合がある。 例えば、地域的な団体が[[近代オリンピック|オリンピック]]のようなイベントから[[鉄道]]・[[道路]]など[[公共事業]]の誘致合戦を繰り広げたり、[[政治家]]ないし[[政党]]がより多くの支持者を得て発言権の拡大を目指しあったり推進する政策に自陣営側の要望を最大限盛り込もうとしたりといったものである。 英語にも似たような比喩表現があり、「''[[:en:Wiktionary:tug of love|tug of love]]''」という慣用句では、離婚した両親が各々子の[[親権]]をめぐって争うことを示しているが、これはイメージとして子の腕を綱のようにして父親と母親が左右から引っ張っている状態である。 == 雑誌 == 日本綱引連盟の機関誌として、「綱引マガジン」(季刊)が1990年秋季号 (1) から2007年冬季号 (66) まで、[[ベースボール・マガジン社]]から発行されていた。 == 綱引きに関するテレビ番組 == * [[輝け!!人気スターチーム対抗大合戦!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列の元日特番) : [[1980年]]大会で最終的に紅白両軍が同点になったため、同点決勝として行ったのが初。翌[[1981年]]にはオープニングゲームとして冒頭で行い、その後[[1986年]]大会以降([[1989年]]まで)は最終ゲームとして行った。いずれも紅白両軍の全出演者が行う。 * [[アメリカ横断ウルトラクイズ]](日本テレビ系列) : [[1984年]]放送の第7回で、[[ハワイ州|ハワイ]]の[[ワイキキ]]ビーチで行った「空席待ちつな引きクイズ」を皮切りに、毎回様々な形式で綱引きを流用したクイズが行われていた。 {{main|アメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式#序盤戦のその他のクイズ形式|アメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式#団体戦クイズ}} * [[よろしく!すねかじり ゲーム&クイズ]]([[テレビ東京]]系列) : 後期より最終ゲームとして行った。全4チームがゲーム開始前の賞金獲得順位によって、「1位×3位」と「2位×4位」に分け、まずその対戦で「1回戦」を行い、続いて1回戦の敗者同士で「3位決定戦」を行い、最後は1回戦の勝者同士で「決勝戦」を行った。 * [[最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦]]([[TBSテレビ|TBS]]系列) : 全38大会のうち7大会で、1対1の綱引き種目「THE TUG-OF-WAR(ザ・タッグオブウォー)」が行われた。また参加者16名を8対8に分けて綱引きし、勝った側を更に半々に分けて綱引き。これを最後の1名になるまで繰り返す種目「THE BEST OF TUGGER(ザ・ベストオブタガー)」も、2大会で行われている(どちらも本戦での実施回数。本戦以外のスペシャルバトルとしても、数回行われた)。 * [[オールスター感謝祭]](TBS系列の期首特番) : [[2001年]]春から開始、「[[大分コスモレディースTC]]」が番組参加芸能人からの選抜チームやプロレスラーなどと戦ったが、[[2004年]]秋では参加芸能人からコメディアンを集め、東西対抗で行った。 == 記念切手 == [[ワールドゲームズ2001]]では[[記念切手]]が発行されている{{r|記念切手/2001}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2|refs= <ref name="記念切手/2001">{{Cite web|和書 | url = https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2001/0816/ | title = 平成13年特殊切手「秋田ワールドゲームズ2001記念郵便切手」 | publisher = [[日本郵便]] | accessdate = 2018-3-18 }}</ref> }} == 関連項目 == * [[オリンピック綱引競技]] * [[ワールドゲームズ綱引競技]] * [[運動会]] * [[GAISF]] * [[全国青年大会]] - 第43回([[1994年]])から第53回([[2004年]])まで綱引きを開催 * [[タッグ・オブ・ウォー (曲)]] * [[つなひき帝国]] * [[綱引いちゃった!]] - [[2012年]]製作の[[日本映画]]。 == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = つなひき | b = no | q = no | n = no | v = no }} * [https://www.tsunahiki-jtwf.or.jp 日本綱引連盟] * [http://tugofwar-twif.org 国際綱引連盟] * [http://www.kagakueizo.org/movie/gmst/6291/ {{読み仮名|喜屋武|チャン}}の綱引き](2002年 カラー 30分)[[科学映像館]] {{スポーツ一覧}} {{チームスポーツ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つなひき}} [[Category:綱引き|*]] [[Category:団体競技]] [[Category:運動会の競技]] [[Category:オリンピック競技|廃]] [[Category:新春の季語]]
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ミートソース
ミートソース(Meat sauce)は、ボロネーゼ(ラグー・アッラ・ボロニェーゼ、イタリア語: ragù alla bolognese、ボローニャ方言: ragò a la bulgnàisa)に類似した、日本の洋食におけるパスタソースの一種。 日本ではパスタのうち、スパゲッティに乗せることが多く、「ナポリタン」とともになじみの深いもののひとつとなっているメニューである。 日本では、ミートソースはスパゲッティ・ソースのスタンダードとして定着している(本場のボロネーゼではタリアテッレという平たい麺を使うことが多い)。 ボロネーゼはトマトペーストを使うのに対し、アメリカのミートソースはトマトケチャップを使い、砂糖やウスターソースなどで甘みを加えることで、ボロネーゼよりも甘めに仕上げる。出来上がりはソースの見た目がかなり異なり、汁気もそぼろ状に水気がなくなるまで煮込むのがボロネーゼである。 なお、完全に混ざるまで和えるのでなく、茹でたままのパスタの上に「よそう」(上に乗せる)のが日本スタイルである。あるいは、麺をナポリタンのように炒めたりすることもある。 ナス、ピーマン、キノコなどを具材に加えることも一般的である。ソースに使う肉は牛肉、あるいは牛・豚の合いびき肉がポピュラーである。 1881年(明治14年)に開業した新潟県新潟市のレストラン「イタリヤ軒」(のちのホテルイタリア軒)が、日本初のスパゲッティミートソースの提供者であるとする説があるが、いつ販売されたかは明らかではない。この説に対し、東京・銀座の「煉瓦亭」のオーナーは、遅くとも大正時代にはメニューにこれを書き加えていることを明かしている。 太平洋戦争後、兵庫県宝塚市のイタリア料理店「アモーレ・アベーラ」の初代店主オラッツィオ・アベーラ(1913年 - 1974年)が、「スパゲティミートソース」として店で出したのが日本初という説もあるが、これは「関西初」とみる資料もある。 その後アメリカ進駐軍とともに日本に伝えられたのが、それまでのイタリアンスタイルではない、現在のものに近いケチャップ味のミートソースである。これに影響を受けたキユーピーが1959年に、缶入りミートソースを発売した。この缶詰商品のヒットが、家庭にミートソースを普及させる下地を作った。これに追随する形で各社がスパゲッティ・ソースの販売を開始し、近年ではレトルト食品としての販売が主流となっている。
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ミートソースは、ボロネーゼに類似した、日本の洋食におけるパスタソースの一種。 日本ではパスタのうち、スパゲッティに乗せることが多く、「ナポリタン」とともになじみの深いもののひとつとなっているメニューである。
'''ミートソース'''(Meat sauce)は、[[ボロネーゼ]](ラグー・アッラ・ボロニェーゼ、{{Lang-it|''ragù alla bolognese''}}、[[ボローニャ]]方言: {{lang|it|''ragò a la bulgnàisa''}})に類似した、[[日本]]の[[洋食]]における[[パスタ]][[ソース (調味料)|ソース]]の一種。 日本ではパスタのうち、[[スパゲッティ]]に乗せることが多く、「[[ナポリタン]]」とともになじみの深いもののひとつとなっているメニューである。 == イタリアのボロネーゼ == {{see|ボロネーゼ}} == アメリカ、日本のミートソース == [[画像:Spaghetti_Bolognese_-_Pizzeria_Bella_Italia_(Crépieux-la-Pape)_en_février_2022.jpg|thumb|200px|right|ミートソース・スパゲッティ]] 日本では、ミートソースはスパゲッティ・ソースのスタンダードとして定着している(本場のボロネーゼでは[[タリアテッレ]]という平たい麺を使うことが多い)。 ボロネーゼはトマトペーストを使うのに対し、アメリカのミートソースは[[トマトケチャップ]]を使い、[[砂糖]]や[[ウスターソース]]などで甘みを加えることで、ボロネーゼよりも甘めに仕上げる。出来上がりはソースの見た目がかなり異なり、汁気も[[そぼろ]]状に水気がなくなるまで煮込むのがボロネーゼである<ref name="名前なし-1">[https://macaro-ni.jp/41577 「ボロネーゼ」とは?レシピで紐解くミートソースとの違い。]magaroniちあき 2019年3月4日</ref>。 なお、完全に混ざるまで和えるのでなく、茹でたままのパスタの上に「よそう」(上に乗せる)のが日本スタイルである{{要出典|date=2024年1月}}。あるいは、麺をナポリタンのように炒めたりすることもある。 [[ナス]]、[[ピーマン]]、[[キノコ]]などを具材に加えることも一般的である。ソースに使う肉は牛肉、あるいは牛・豚の合いびき肉がポピュラーである。 === 歴史 === 1881年([[明治]]14年)に開業した[[新潟県]][[新潟市]]のレストラン「イタリヤ軒」(のちの[[ホテルイタリア軒]])が、日本初のスパゲッティミートソースの提供者であるとする説がある<ref>[http://www.italiaken.com/event/ ホテルイタリア軒]レトルト食品情報</ref>が、いつ販売されたかは明らかではない。この説に対し、[[東京]]・[[銀座]]の「[[煉瓦亭]]」のオーナーは、遅くとも[[大正]]時代にはメニューにこれを書き加えていることを明かしている。 [[太平洋戦争]]後、[[兵庫県]][[宝塚市]]のイタリア料理店「アモーレ・アベーラ」の初代店主オラッツィオ・アベーラ(1913年 - 1974年)が、「スパゲティミートソース」として店で出したのが日本初という説もある<ref>[https://web.archive.org/web/20100816132347/http://www.kobe-np.co.jp/info/hyogo_jin/39.shtml 「兵庫人 挑む」第9部 われら地球人 - 神戸新聞、2007年12月23日]</ref>が、これは「関西初」とみる資料もある<ref>[http://president.jp/articles/-/16275 食の研究所] 『ニッポンのミートソースは、旨くて、楽しくて、奥深い!』小川剛 2015年10月2日</ref>。 その後アメリカ進駐軍とともに日本に伝えられたのが、それまでのイタリアンスタイルではない、現在のものに近いケチャップ味のミートソースである<ref name="名前なし-1"/>。これに影響を受けた[[キユーピー]]が1959年に、[[缶]]入りミートソースを発売した<ref>[https://www.kewpie.co.jp/pasta_sauce/history/〕 キユーピーミートソースの歴史] キユーピーweb 2021年10月10日</ref>。この缶詰商品のヒットが、家庭にミートソースを普及させる下地を作った。これに追随する形で各社がスパゲッティ・ソースの販売を開始し、近年では[[レトルト食品]]としての販売が主流となっている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[イタリア料理]] * [[トマトソース]] {{Food-stub}} {{DEFAULTSORT:みいとそおす}} [[category:肉のソース]] [[Category:野菜のソース]] [[Category:パスタ料理]] [[Category:洋食]] [[Category:トマト]] [[Category:タマネギ]]
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玉入れ
玉入れ(球入れ、たまいれ)は、一定の離れた所にある籠に球(お手玉やボールなど)を投げて、一定数量をすべて入れるまでの時間の短さ、または、時間内に入れた数量の多さを競う競技。 一般に運動会で行われる玉入れは、高さ180cmから300cm程度の垂直に立てられた玉入れカゴを用いて行われるもので、一定時間内により多くの球をカゴに入れたほうが勝ちとなる。主に運動会で行われる。 このほか5mから10m離れたカゴにボールなどを投げ入れていく遊戯を「球入れ」と呼ぶこともある。目標となる高さ数十cmの色分けされたカゴ(低床型玉入れ)を設置して離れた場所から色ごとにカラーボールを投げ入れていく玉入れもある。 公式競技としての玉入れはアジャタと呼ばれ、全日本玉入れ協会(AJTA: All Japan Tamaire Association)が競技規則を定めている。99個の玉に続いて1個のアンカーボール入れるまでの時間の短さを競う競技となっている。1投目で99個を入れ、2投目でアンカーボール1個を入れるのがパーフェクトゲーム。 背負いカゴを用いた玉入れは「追入れボール」と呼ばれる。チーム対抗戦形式で、それぞれチームのうち一人あるいは数人がカゴを背負う。開始の合図とともに相手チームのカゴにボールを投げていき一定時間内により多く入れたほうを勝ちとする。動く玉入れなどとして紹介されている。 玉入れに似たような競技として、お手玉をくす玉に当てて割る、鈴割り(すずわり)がある(こちらは早く割ったチームが勝ちとなる)。
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玉入れ(球入れ、たまいれ)は、一定の離れた所にある籠に球(お手玉やボールなど)を投げて、一定数量をすべて入れるまでの時間の短さ、または、時間内に入れた数量の多さを競う競技。
[[File:小松川第二小学校-14.JPG|thumb|<small>小学校の[[運動会]]での玉入れ、赤組と白組に分かれてそれぞれ玉を投げ入れ、その数で勝敗を決める</small>]] '''玉入れ'''(球入れ、たまいれ)は、一定の離れた所にある[[籠]]に球([[お手玉]]やボールなど)を投げて、一定数量をすべて入れるまでの時間の短さ、または、時間内に入れた数量の多さを競う競技。 == 概要 == 一般に運動会で行われる玉入れは、高さ180cmから300cm程度の垂直に立てられた玉入れカゴを用いて行われるもので、一定時間内により多くの球をカゴに入れたほうが勝ちとなる。主に[[運動会]]で行われる。 このほか5mから10m離れたカゴにボールなどを投げ入れていく遊戯を「球入れ」と呼ぶこともある<ref name="yuugidaijiten_p443">中島海編 『遊戯大事典』 p.443 1957年</ref>。目標となる高さ数十cmの色分けされたカゴ(低床型玉入れ)を設置して離れた場所から色ごとにカラーボールを投げ入れていく玉入れもある。 == 公式競技としての玉入れ == [[ファイル:第25回全日本玉入れ選手権の玉入れ(2022年9月).jpg|代替文=第25回全日本玉入れ選手権の玉入れ(2022年9月)|サムネイル|第25回全日本玉入れ選手権の玉入れ(2022年9月、DADAIS)]] 公式競技としての玉入れは'''アジャタ'''と呼ばれ、[https://ajta.jp/ 全日本玉入れ協会](AJTA: All Japan Tamaire Association)が競技規則を定めている。99個の玉に続いて1個のアンカーボール入れるまでの時間の短さを競う競技となっている。1投目で99個を入れ、2投目でアンカーボール1個を入れるのがパーフェクトゲーム。 === 歴史 === * [[1990年]]([[平成]]2年)、[[北海道]][[和寒町]]のふれあいまつりのイベントとして全日本玉入れ選手権がスタートする<ref name="kitakita">[http://www.kitakita.net/event_tama.html きたきたネット 全日本玉入れ選手権]</ref>。 * [[1996年]](平成8年)、北海道和寒町で全日本玉入れ協会が設立され、日本で初めて玉入れに公式ルールを制定し、ふれあいまつりのイベントを発展した形で第1回全日本玉入れ選手権が開催される<ref name="tokai2006">[http://www.tonichi.net/news.php?mode=view&categoryid=1&id=13195 東海日日新聞 2006/9/20]</ref>。 * [[2000年]](平成12年)、全日本玉入れ協会九州支部が設立される。 <!--初期の頃は「玉入れ」だったはずだが、いつから「[[アジャタ]]」と名づけられたか?--> * [[2003年]](平成15年)5月、[[大分市]]が全国都市緑化フェアの一環として'''第1回玉入れワールドカップ2003'''を開催。240チーム、およそ2000人が参加したが、ルールについて、100個のボールを使い決められた1つのボールを最後に入れなければならない、など、全日本玉入れ協会が制定した公式ルールに酷似している部分があり、「ルールを盗用された。」と、事前に全日本玉入れ協会から抗議もあった。大分市では盗用を否定している。 * 2014年、関西大会でDADAIS(ダデ)がパーフェクトプレーを成し、最速の6秒51を記録<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://tamaire.jp/ |title=全日本玉入れ協会関西協会 |access-date=2023-05-27 |publisher=全日本玉入れ協会関西協会}}</ref>。 * 2014年、関西協会の普及事業でパナソニック保険組合が玉入れを実施<ref name=":0" />。 * 2016年、パナソニックが「全社AJTA大会決勝戦」をパナソニックアリーナ(大阪府枚方市)で開き約50チームが集結<ref name=":0" />。 * 2018年、関西協会の主催で第1回企業交流アジャタ大会2018を大阪市内で開催。14チームが出場した。優勝チームを送り出したパナソニックグループの競技人口は十数万人。グループ内全社大会の予選には3万人以上、約4000チームが出場<ref name=":0" />。 * 2018年、車いす玉入れ「ウィルチェアーアジャタ」を町内で開催する全日本玉入れ選手権で公開、2019年には正式競技として実施<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://ajta.jp/ |title=全日本玉入れ協会 |access-date=2023-05-27 |publisher=全日本玉入れ協会}}</ref>。 * 2019年、初開催のほっかいどう大運動会でAJTA採用、約1万人が来場し、AJTAには140チーム約840人が参加。 * 2020年、コロナウイルス対応のため、第25回全日本玉入れ選手権の開催を見合わせ<ref name=":1" />。 * 2021年、コロナウイルス対応のため、第25回全日本玉入れ選手権の開催を見合わせ<ref name=":1" />。 * 2021年10月26日、袰田道悟全日本玉入れ協会会長が亡くなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.town.wassamu.hokkaido.jp/affairs/files/2021/12/p23.pdf |title=広報わっさむ 令和3年12月号 |access-date=2022-05-27 |publisher=和寒町}}</ref>。 * 2022年、第25回全日本玉入れ選手権を開催<ref name=":1" />。 *2023年5月26日、中道眞佐義会長代行が会長になることが全日本玉入れ協会の総会で決まった。 === 基本的なルール === # 竿の高さは4m12cm(和寒町で記録された最低気温-41.2℃に由来)。籠の直径は44cm、深さ44cm(いずれも和寒町の緯度、北緯44度に由来、これをアジャタバスケットと呼ぶ)。 # お手玉は、重さ約80gのアジャタボール99個と重さ約250gのアンカーボール1個を使用する。 # アジャタバスケットを中心とした直径6mの円(コート)の中で競技をする。 # 出場選手は6名。1名でも欠けると失格となる。 # 競技開始時にはフライング防止のためコートの外でアジャタバスケットを背にする。 # アンカーボールを最後に入れなければいけない。 == その他の玉入れ == <gallery> ファイル:Undoukai-10.jpg|玉入れ(2018年5月) </gallery> === 追入れボール === 背負いカゴを用いた玉入れは「追入れボール」と呼ばれる<ref name="yuugidaijiten_p70">中島海編 『遊戯大事典』 p.70 1957年</ref>。チーム対抗戦形式で、それぞれチームのうち一人あるいは数人がカゴを背負う。開始の合図とともに相手チームのカゴにボールを投げていき一定時間内により多く入れたほうを勝ちとする。動く玉入れなどとして紹介されている。 === 鈴割り === 玉入れに似たような競技として、お手玉を[[くす玉]]に当てて割る、鈴割り(すずわり)がある(こちらは早く割ったチームが勝ちとなる)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == {{Cite book}}、{{Cite journal}} --> == 関連項目 == <!-- {{Commonscat|}} --> * [[運動会]] * [[セストボール]] == 外部リンク == * [http://www.tamaire.jp/ 全日本玉入れ協会] * [http://www.vill.morotsuka.miyazaki.jp/09mura/09_20tamaire.htm 全日本玉入れ協会九州協会] {{球技}} {{デフォルトソート:たまいれ}} [[Category:運動会の競技]]
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土用の丑の日
土用の丑の日(どようのうしのひ)は、夏の土用の期間にある丑の日のこと。土用の丑や土用丑とも呼ばれる。日本において夏の暑さに対する滋養強壮としてウナギを食すという習慣があることで知られ、これを指して土用鰻ともいう。ウナギを食べる習慣は江戸時代後期に始まったものだが、もともと丑の日には「う」の付くものを食べるという習慣があり、古くは瓜やうどんが食されていた。 「土用」とは五行思想に基づく季節の変わり目を意味する雑節(ざっせつ)で、四季の四立(立春、立夏、立秋、立冬)の直前の約18日間を指す。「丑の日」は十二支(干支)に基づく日付のことである(干支紀日法)。このため、夏以外の季節にも土用の丑の日は存在するが、一般には夏のもののみを指す。また、1季節で2日生じる場合もあり、季節を問わないのであれば1年を通しての土用の丑の日は、年に平均6.09日存在する。1季節で2日存在する場合には一の丑・二の丑と呼び分けられる。夏に「う」の付くものを食べることと同様の習慣は他の季節にもあり、春は「い」、秋は「た」、冬は「ひ」とされている。 平気法と定気法で二十四節気が変わるため、土用も変わるが本項では太陰暦以来普及している定気法での土用を用いる。 土用の丑の日になることがある日は、夏の土用になることがある7月19日 - 8月7日である。毎年夏の土用となる7月19日 - 8月7日は、いずれも等しく12年に1回の割合(12年間隔という意味ではない)で土用の丑の日となる。 1900年(明治33年) - 2099年(令和81年)の間は土用の日付が少しずつ前倒しになるため、土用の丑の日になりうる日も変化する。1907年(明治40年)には、明治の改暦から現在までで唯一、8月8日が土用の丑の日(二の丑)となった。2096年(令和78年)には改暦以来初めて、7月18日が土用の丑の日(一の丑)となると予想される。 前節のように、土用の丑の日が2回となる場合が多々ある。 夏の土用は太陽黄経が117度から135度(立秋)の前日までと定義され、平均18.82日間(18日:19日=18%:82%)ある。19日の年の場合、土用の入りから7日以内に丑の日があると(すなわち土用入りの日が未から丑の間のだと)、土用のうちにもう一度丑の日が巡ってくる。これが二の丑であり、57%の年にある。 夏の土用の入りは7月19日 - 20日なので、最も早い二の丑は入りが7月19日で丑の日だった場合の7月31日となり、7月に2回土用の丑の日が来る。2009年(平成21年)、明治改暦以来初めて(改暦前も新暦で計算すれば213年ぶりに)7月の二の丑となった。ただし、7月の二の丑はこれ以降21世紀の間はそれほど珍しくなく、2025年(令和7年)・2041年(令和23年)・2057年(令和39年)・2073年(令和55年)・2089年(令和71年)と16年周期で7月31日が二の丑となり、2096年(令和78年)には7月30日が二の丑になると予想される。 日本で「暑い時期を乗り切るために、栄養価の高いウナギを食べる」という習慣は万葉集にも詠まれているように古代に端を発するとされるが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、文政5年(1822年 - 1823年)当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)によれば、安永・天明の頃(1772年 - 1788年)よりの風習であるという。 農林水産省の広報用Webマガジンでは、鰻には夏バテ予防に必要な栄養素が豊富に含まれていると紹介されている。 しかし、日本における疲労研究の第一人者である大阪市立大学大学院特任教授の梶本修身によれば、「栄養価の高いものを食することが当たり前になった現代はエネルギーやビタミン等の栄養不足が原因で夏バテになることは考えにくく、現代において夏バテ防止のためにうなぎを食べるという行為は医学的根拠に乏しいとされ、効果があまりない」としている。 鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、「讃岐国出身の平賀源内が発案した」という説が最もよく知られている。しかし、平賀源内説の出典は不明で、前述の『明和誌』にあると説明するケースもあるが、『明和誌』には記されていない。源内説は細かなバリエーション違いがあるが、要約すれば「商売がうまく行かない鰻屋(知り合いの鰻屋というパターンもある)が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴いた。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着した」というもの。丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではないが、一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には瓜、梅干、うどん、うさぎ、馬肉(うま)、牛肉(うし)などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。瓜を食べる風習はウナギの箸休めとして出される奈良漬という形で残存している。 実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できるとされているが、前述の通り、栄養価の高い食品で溢れる現代においてはあまり効果は期待できないとされる。そもそも、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期であり、夏のものは味が落ちるとされる。
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土用の丑の日(どようのうしのひ)は、夏の土用の期間にある丑の日のこと。土用の丑や土用丑とも呼ばれる。日本において夏の暑さに対する滋養強壮としてウナギを食すという習慣があることで知られ、これを指して土用鰻ともいう。ウナギを食べる習慣は江戸時代後期に始まったものだが、もともと丑の日には「う」の付くものを食べるという習慣があり、古くは瓜やうどんが食されていた。 「土用」とは五行思想に基づく季節の変わり目を意味する雑節(ざっせつ)で、四季の四立(立春、立夏、立秋、立冬)の直前の約18日間を指す。「丑の日」は十二支(干支)に基づく日付のことである(干支紀日法)。このため、夏以外の季節にも土用の丑の日は存在するが、一般には夏のもののみを指す。また、1季節で2日生じる場合もあり、季節を問わないのであれば1年を通しての土用の丑の日は、年に平均6.09日存在する。1季節で2日存在する場合には一の丑・二の丑と呼び分けられる。夏に「う」の付くものを食べることと同様の習慣は他の季節にもあり、春は「い」、秋は「た」、冬は「ひ」とされている。 平気法と定気法で二十四節気が変わるため、土用も変わるが本項では太陰暦以来普及している定気法での土用を用いる。
'''土用の丑の日'''(どようのうしのひ)は、夏の[[土用]]の期間にある[[丑|丑の日]]のこと。'''土用の丑'''や'''土用丑'''とも呼ばれる。日本において夏の暑さに対する滋養強壮として[[ウナギ]]を食すという習慣があることで知られ、これを指して'''土用鰻'''ともいう。ウナギを食べる習慣は江戸時代後期に始まったものだが、もともと丑の日には「う」の付くものを食べるという習慣があり、古くは[[瓜]]や[[うどん]]が食されていた。 「土用」とは[[五行思想]]に基づく季節の変わり目を意味する[[雑節]](ざっせつ)で、[[四季]]の四立(立春、立夏、立秋、立冬)の直前の約18日間を指す。「丑の日」は[[十二支]]([[干支]])に基づく日付のことである([[干支紀日法]])。このため、夏以外の季節にも土用の丑の日は存在するが、一般には夏のもののみを指す。また、1季節で2日生じる場合もあり、季節を問わないのであれば1年を通しての土用の丑の日は、年に平均6.09日存在する。1季節で2日存在する場合には'''一の丑'''・'''二の丑'''と呼び分けられる。夏に「う」の付くものを食べることと同様の習慣は他の季節にもあり、春は「い」、秋は「た」、冬は「ひ」とされている<ref>[https://dia.or.jp/disperse/dianews/pdf/dianews_no90_07.pdf 四季と日本の食歳時] 公益財団法人ダイヤ高齢社会研究財団、2021年7月28日閲覧。</ref>。 [[平気法]]と[[定気法]]で[[二十四節気]]が変わるため、土用も変わるが本項では[[太陰暦]]以来普及している定気法での土用を用いる。 == 日付 == {| class="wikitable" style="text-align:center; float:right; margin-left:7px;" !年!!一の丑!!二の丑 |- |[[2001年]]([[平成]]13年)||[[7月25日]]||[[8月6日]] |- |[[2002年]](平成14年)||[[7月20日]]||[[8月1日]] |- |[[2003年]](平成15年)||[[7月27日]]||なし |- |[[2004年]](平成16年)||[[7月21日]]||[[8月2日]] |- |[[2005年]](平成17年)||[[7月28日]]||なし |- |[[2006年]](平成18年)||[[7月23日]]||[[8月4日]] |- |[[2007年]](平成19年)||[[7月30日]]||なし |- |[[2008年]](平成20年)||[[7月24日]]||[[8月5日]] |- |[[2009年]](平成21年)||[[7月19日]]||[[7月31日]] |- |[[2010年]](平成22年)||[[7月26日]]||なし |- |[[2011年]](平成23年)||7月21日||8月2日 |- |[[2012年]](平成24年)||7月27日||なし |- |[[2013年]](平成25年)||[[7月22日]]||[[8月3日]] |- |[[2014年]](平成26年)||[[7月29日]]||なし |- |[[2015年]](平成27年)||7月24日||8月5日 |- |[[2016年]](平成28年)||7月30日||なし |- |[[2017年]](平成29年)||7月25日||8月6日 |- |[[2018年]](平成30年)||7月20日||8月1日 |- |[[2019年]]([[令和]]元年<ref>同年5月1日から12月31日までの和暦([[元号一覧 (日本)|元号]])。1月1日から4月30日までは「平成31年」。</ref>)||7月27日||なし |- |[[2020年]](令和{{0}}2年)||7月21日||8月2日 |- |[[2021年]](令和{{0}}3年)||[[7月28日]]||なし |- |[[2022年]](令和{{0}}4年)||[[7月23日]]||[[8月4日]] |- |[[2023年]](令和{{0}}5年)||[[7月30日]]||なし |} 土用の丑の日になることがある日は、夏の土用になることがある[[7月19日]] - [[8月7日]]である。毎年夏の土用となる7月19日 - 8月7日は、いずれも等しく12年に1回の割合(12年間隔という意味ではない)で土用の丑の日となる。 [[1900年]]([[明治]]33年) - [[2099年]](令和81年)の間は土用の日付が少しずつ前倒しになるため、土用の丑の日になりうる日も変化する。[[1907年]](明治40年)には、[[グレゴリオ暦|明治の改暦]]から現在までで唯一、[[8月8日]]が土用の丑の日(二の丑)となった。[[2096年]](令和78年)には改暦以来初めて、[[7月18日]]が土用の丑の日(一の丑)となると予想される。 == 二の丑 == 前節のように、土用の丑の日が2回となる場合が多々ある。 夏の土用は[[黄道座標|太陽黄経]]が117度から135度([[立秋]])の前日までと定義され、平均18.82日間(18日:19日=18%:82%)ある。19日の年の場合、土用の入りから7日以内に丑の日があると(すなわち土用入りの日が[[未]]から丑の間のだと)、土用のうちにもう一度丑の日が巡ってくる。これが二の丑であり、57%の年にある。 夏の土用の入りは7月19日 - 20日なので、最も早い二の丑は入りが7月19日で丑の日だった場合の[[7月31日]]となり、7月に2回土用の丑の日が来る。[[2009年]](平成21年)、[[明治改暦]]以来初めて(改暦前も[[グレゴリオ暦|新暦]]で計算すれば213年ぶりに)7月の二の丑となった。ただし、7月の二の丑はこれ以降[[21世紀]]の間はそれほど珍しくなく、[[2025年]](令和7年)・[[2041年]](令和23年)・[[2057年]](令和39年)・[[2073年]](令和55年)・[[2089年]](令和71年)と16年周期で7月31日が二の丑となり、[[2096年]](令和78年)には[[7月30日]]が二の丑になると予想される。 {{Clear}} == 土用の丑の日の鰻(うなぎ) == 日本で「暑い時期を乗り切るために、[[栄養価]]の高い[[ウナギ]]を食べる」という習慣は[[万葉集]]にも詠まれているように古代に端を発するとされるが、土用の丑の日に食べる習慣となったのは、[[文政]]5年([[1822年]] - [[1823年]])当時の話題を集めた『[[明和誌]]』([[青山白峰]]著)によれば、[[安永]]・[[天明]]の頃([[1772年]] - [[1788年]])よりの風習であるという。 [[農林水産省]]の広報用Webマガジンでは、鰻には夏バテ予防に必要な栄養素が豊富に含まれていると紹介されている<ref>{{Cite web|和書|title=特集2 鰻|url=https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1607/spe2_01.html|accessdate=2020-07-21|publisher=農林水産省|work=農林水産省Webマガジン aff(あふ)|year=2016|month=7|quote=Q.ウナギはどうして夏バテ予防に効くの? ウナギには、ビタミンA、B1、B2、E、Dのほか、カルシウム、鉄分、亜鉛、脂質(DHA、EPA)、コラーゲンなど、夏バテ予防に必要な栄養素が豊富に含まれています。特にビタミンAは、100グラム食べれば成人の一日に必要な摂取量に達します。}}</ref>。 しかし、日本における疲労研究の第一人者である<ref name="hon" /><ref>{{Cite news |title= 日常の疲れは「いびき」が原因 回復には鶏肉が効く |newspaper= [[日刊ゲンダイ]] |date= 2016-06-30 |author= |url= http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/184711 |accessdate=2016-08-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160703171929/http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/184711|archivedate=2016-07-03}}</ref><ref>{{Cite news |title= 疲労と睡眠研究の第一人者・梶本修身医師による 健康情報記事一覧 |newspaper= YUMBLE |date= |author= |url= http://www.yumble.com/kajimoto_lineup.html |accessdate=2016-08-05}}</ref>[[大阪市立大学]]大学院特任教授の梶本修身によれば、「栄養価の高いものを食することが当たり前になった現代はエネルギーやビタミン等の栄養不足が原因で[[夏バテ]]になることは考えにくく、現代において夏バテ防止のためにうなぎを食べるという行為は医学的根拠に乏しいとされ、効果があまりない」としている<ref name="hon">『[[ホンマでっか!?TV]]』([[フジテレビ]]系列、2016年8月3日放送分)「間違えだらけの夏の習慣 / 夏バテは自律神経の乱れにより脳が疲れて起こる」</ref><ref name="li">{{Cite news |title= 日常の疲れは「いびき」が原因 回復には鶏肉が効く |newspaper= Livedoor News |date= 2016-06-08 |author= 週プレNEWS |url= https://news.livedoor.com/article/detail/11617468/ |accessdate=2016-08-05}}</ref>。 === 由来 === [[画像:小川菊鰻魚飯 (49287165332).jpg|thumb|200px|鰻の蒲焼(うな重)]] ==== 通説(平賀源内説) ==== 鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、「[[讃岐国]]出身の[[平賀源内]]が発案した」という説が最もよく知られている<ref>{{Cite journal |和書|title=鰻の蒲焼考 |author=伊藤春夫 |journal=家事と衛生 |volume=12 |issue=6 |pages=82-85 |year=1936 |doi=10.11468/seikatsueisei1925.12.6_82 |url=https://doi.org/10.11468/seikatsueisei1925.12.6_82 |publisher=大阪生活衛生協会}}</ref>。しかし、平賀源内説の出典は不明で、前述の『明和誌』にあると説明するケースもあるが、『明和誌』には記されていない<ref name="石川_2017">石川博編「鰻」(皓星社、2017年)の解説268ページ以下を参照。同解説によれば源内説も南畝説も比較的新しくできた「[[伝説]]」と思われる。</ref>。源内説は細かなバリエーション違いがあるが、要約すれば「商売がうまく行かない鰻屋(知り合いの鰻屋というパターンもある)が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の元に相談に赴いた。源内は、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着した」というもの。丑の日と書かれた貼り紙が効力を奏した理由は諸説あり定かではないが、一説によれば「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という風習があったとされ、鰻以外には[[瓜]]、[[梅干]]、[[うどん]]、[[うさぎ]]、[[馬肉]](うま)、[[牛肉]](うし)などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。瓜を食べる風習はウナギの[[箸休め]]として出される[[奈良漬]]という形で残存している。 実際にも鰻には[[ビタミンA]]・[[ビタミンB|B群]]が豊富に含まれているため、[[夏バテ]]、食欲減退防止の効果が期待できるとされているが、前述の通り、栄養価の高い食品で溢れる現代においてはあまり効果は期待できないとされる<ref name="hon" /><ref name="li" />。そもそも、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期であり、夏のものは味が落ちるとされる。 ==== その他の説 ==== * 春木屋善兵衛説 - 「土用に大量の[[蒲焼#ウナギの蒲焼|蒲焼]]の注文を受けた鰻屋、[[春木屋善兵衛]]が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったから」という説。『明和誌』同じ文政年間([[1818年]] - [[1831年]])の『[[江戸買物独案内]]』によるとされるが、同書に前述の逸話は記されていない。 * 蜀山人説 - 鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと[[大田南畝]]が、「『丑の日に鰻を食べると薬になる』という内容の[[狂歌]]をキャッチコピーとして考え出したという話が[[天保]]10年([[1839年]] - [[1840年]])の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇の狂詩集)に載せられている」と説明するケースがあるが、同書にそのような記載は一切ない。また、天保8年に刊行された同名の随筆集『天保佳話』を出典にあげることもあるが、同書にも大田南畝と土用丑の日を結びつける記述は一切ない。ただし、大田南畝の作品を集めた『紅梅集』(全集第二巻所収)には、土用丑の日とは関連付けていないが、鰻屋の「高橋」を讃えた狂歌と狂詩が掲載されている{{R|石川_2017}}。 * [[丑]]=鰻二匹説 - 「[[平仮名]]で墨汁を使って毛筆で書いた『うし』と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたから」と言う説。 === 平成・令和期の動き === * 鰻の産地である[[長野県]][[岡谷市]]の岡谷商工会議所が、冬の土用の丑の日を「[[寒の土用の丑の日]]」として商標登録(出願番号:商願平11-39161号、登録番号:登録商標第4525842号)したほか、[[1998年]](平成10年)には「うなぎのまち岡谷の会」が日本記念日協会に記念日として登録した。 * 鰻の[[養殖]]業者らが中心となって、「夏以外の土用の丑の日にも、鰻を食べる習慣を普及させよう」という動きがある。[[スーパーマーケット]]や[[コンビニエンスストア]]でもこの動きが見られる。土用は季節の変わり目でもあるため、「栄養価の高いウナギを食べて、精を付けよう」という趣旨に一応の妥当性はある。 == その他の風習 == * [[平安時代|平安]]から[[室町時代]]にかけては、[[疫病除け]]に「めぐり」と呼ばれる[[杉原紙]]を混ぜ込んだ[[すいとん]]を食べる習慣や、[[アズキ]]や[[ニンニク]]を飲む習慣があった<ref>鈴木晋一 『たべもの噺』 平凡社、1986年、pp88-93</ref>。 * [[石田散薬]]:[[土方歳三]]の生家が製造、販売していた薬。土用の丑の日限定で薬草を刈り取り製造していた。 * [[湯田上温泉]] * [[きゅうり加持]] * 土用の丑の日に、寺院において、素焼きの皿([[焙烙]])に[[灸]]を置いたものを頭に据える「焙烙灸」という修法があり、[[頭痛]]などに[[験]]があるとされる<ref>角川学芸出版編『角川俳句大歳時記 夏』 角川書店、2006年、pp148</ref>。 * [[土用餅]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[寒の土用の丑の日]] * [[ニホンウナギ]] == 外部リンク == * [https://shokuiku-daijiten.com/mame/mame-1615/ 土用の丑はなぜウナギ?] - 食育大事典 * [http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7379 土用の丑の日はいらない、ウナギ密輸の実態を暴く] - [[WEDGE Infinity]] * [https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/300/200/304089.html News Up うなぎ撲滅キャンペーン!? NHKニュース] - [[NHKオンライン]]([[日本放送協会]]) * [https://www.huffingtonpost.jp/entry/doyou-no-ushinohi_jp_5c5d77c1e4b0974f75b2e4d9 「土用の丑の日」は、もうやめよう。絶滅危機のウナギを考える] ハフポスト 2018年07月20日 {{DEFAULTSORT:とようのうしのひ}} [[Category:日本の年中行事]] [[Category:日本の食文化]] [[Category:鰻料理]] [[Category:商制度・商習慣]] [[Category:夏]] [[Category:7月]] [[Category:8月]] [[Category:干支]]
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政策研究大学院大学
政策研究大学院大学(せいさくけんきゅうだいがくいんだいがく、英語: National Graduate Institute for Policy Studies)は、東京都港区六本木に本部を置く日本の国立大学院(大学院大学)である。略称は政策研究院(せいさくけんきゅういん)、GRIPS。 世界各国から未来の政策リーダーや研究者が集まる国際的な政策研究・教育の拠点であり、民主的統治を担う指導者、政策プロフェッショナルの養成を目的としている。 キャンパスは東京都心・六本木に位置し、日本を含む世界60近くの国と地域から学生が集まる(全学生の約3分の2が行政官等の留学生)。 国際的な教育研究環境の中で、現役の官僚、都道府県・政令指定都市の地方公務員等が学生として多数在籍している。 と高度学際的政策研究・教育機関を目的として大学院に特化し設置された国立大学院大学。公共政策・開発政策・地域政策・文化政策・知財などのプログラムを設置し、政策研究や専門的政策立案者養成を行っている。 21世紀COEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。 グローバルCOEプログラムとして、1件のプロジェクトが採択されている。 独自の職位として、(テニュア・トラックの)助教に相当する助教授という職位を持つ。 山下設計・リチャード・ロジャース設計共同体と文部科学省による共同設計で、文部科学省が手がける第1号PFIとして、2005年に竣工。 かつては東京都新宿区の税務大学校跡地(書類上は神奈川県三浦郡葉山町)に設置されていたが、東京大学生産技術研究所、同物性研究所跡地の整備に伴い、2005年(平成17年)に現在地に移転した。この大学の隣接地には国立新美術館があるが、この一帯には戦前には大日本帝国陸軍の歩兵第3連隊の駐屯地が置かれていた。
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政策研究大学院大学は、東京都港区六本木に本部を置く日本の国立大学院(大学院大学)である。略称は政策研究院(せいさくけんきゅういん)、GRIPS。 世界各国から未来の政策リーダーや研究者が集まる国際的な政策研究・教育の拠点であり、民主的統治を担う指導者、政策プロフェッショナルの養成を目的としている。 キャンパスは東京都心・六本木に位置し、日本を含む世界60近くの国と地域から学生が集まる(全学生の約3分の2が行政官等の留学生)。
{{日本の大学 |国 = 日本 |大学名 = 政策研究大学院大学 |ふりがな = せいさくけんきゅうだいがくいんだいがく |英称 = National Graduate Institute for Policy Studies |ロゴ=[[File:GRIPS logo.svg|230px]] |画像 = National-Graduate-Institute-for-Policy-Studies-01.jpg |pxl = 250 |画像説明 = 政策研究大学院大学 |大学設置年 = 1997年 |創立年 = 1997年 |学校種別 = 国立 |設置者 = [[国立大学法人|国立大学法人政策研究大学院大学]] |本部所在地 = [[ファイル:Flag_of_Tokyo_Metropolis.svg|border|25px]] [[東京都]]<br>[[ファイル:Flag_of_Minato,_Tokyo.svg|border|25px]] [[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]七丁目22番1号 |緯度度 = 35 |緯度分 = 39 |緯度秒 = 50.2 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 43 |経度秒 = 38.2 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |キャンパス = 六本木(東京都港区) |学部 = なし |研究科 = 政策研究科 |ウェブサイト = {{official URL}} }} '''政策研究大学院大学'''(せいさくけんきゅうだいがくいんだいがく、{{Lang-en|National Graduate Institute for Policy Studies}})は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]に本部を置く[[日本]]の[[国立大学|国立]][[大学院]]([[大学院大学]])である。略称は'''政策研究院'''(せいさくけんきゅういん)、GRIPS。 世界各国から未来の政策リーダーや研究者が集まる国際的な政策研究・教育の拠点であり、民主的統治を担う指導者、政策プロフェッショナルの養成を目的としている。 キャンパスは東京都心・六本木に位置し、日本を含む世界60近くの国と地域から学生が集まる(全学生の約3分の2が行政官等の留学生)。 == 概観 == [[画像:GRIPS logo.png|200px|thumb|校章]] 国際的な教育研究環境の中で、現役の[[官僚]]、[[都道府県]]・[[政令指定都市]]の[[地方公務員]]等が学生として多数在籍している。 *「政策における高度なプロフェッショナルの養成」 *「国際的に開かれた学際的・省際的な政策研究の高度化の推進」 *「連携機構(コンソーシアム)及び卓越した研究拠点(センター・オブ・エクセレンス)の創出」 と高度学際的政策研究・教育機関を目的として大学院に特化し設置された国立[[大学院大学]]。公共政策・開発政策・地域政策・文化政策・知財などのプログラムを設置し、政策研究や専門的政策立案者養成を行っている<ref>「意見広告の会」ニュース185調査。[[池田信夫]]ほか</ref>。 == 沿革 == *[[1973年]] 埼玉大学行動科学情報解析センター設立。 *[[1977年]] 埼玉大学大学院政策科学研究科(GSPS)設立。国内プログラム(日本人学生対象)開始。 *[[1984年]] 国際プログラム(留学生対象)開始。 *[[1991年]] 国際開発プログラム開始。 *[[1993年]] IMFプログラム(留学生対象)開始。 * [[1997年]] 租税プログラム開始。 * 1997年([[平成]]9年)[[10月1日]] - 政策研究大学院大学(GRIPS)開学<ref name="hou">同年[[3月31日]]、法律第14号「国立学校設置法の一部を改正する法律」</ref>。 * [[2000年]](平成12年)[[4月1日]] - 入学開始<ref name="hou"/>。 * [[2005年]](平成17年)六本木キャンパス(旧歩兵第三聯隊駐屯地・東京大学生産技術研究所・東京大学物性研究所)へ移転。 == 教育および研究 == === 組織 === ==== 大学院 ==== * 政策研究科<ref>プログラムは{{PDFlink|[http://www.grips.ac.jp/cms/wp-content/uploads/2014/08/grips_pamphlet_j.pdf 「大学概要2015」]}}による。</ref> ** 政策専攻 *** 修士課程 **** 日本語で行われるプログラム ***** 公共政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。[[日本の行政機関|中央省庁]]に勤務する行政官、政策に関わる研究者を志望する者、[[公共政策]]に携わることを希望する者などを対象する。 ***** 開発政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年または1年3ヶ月。技術系公務員、[[道路]]、[[鉄道]]、[[航空]]、[[電力]]、[[通信]]、[[ガス燃料|ガス]]など公共サービスを提供する企業職員、公共事業や政策立案を業務とする[[建設]]、[[コンサルタント]]、[[シンクタンク]]などの企業の職員、技術系学部で学んだ新卒者などを対象とする。 ***** 地域政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。[[地方公共団体|地方自治体]]職員らを対象とする。2013年度に医療政策コースを新設したほか、2014年度からは農業政策コースも新設。 ***** 文化政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は2年だが、1年で修了することも可能。文化政策や文化関連活動に携わる行政官や民間の関係者、専門研究者を目指す学生らを対象とする ***** 知財プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。政策立案を担当する公務員や、知財政策に関する研究教育を担うことを目指す者、[[国際機関]]職員、知財実務に携わる[[弁護士]]、[[弁理士]]、[[ビジネスマン]]、[[非営利組織]]職員らを対象とする。 ***** まちづくりプログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。まちづくり政策を担当する中央・地方公務員、まちづくりの実務に携わる[[不動産鑑定士]]、[[建築家]]、非営利組織職員らを対象とする。 ***** 教育政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。地方自治体職員、教育関係の機関・団体の職員などを対象とする。 ***** 防災・復興・危機管理プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。中央省庁、地方公共団体、その他民間企業等で、防災や復興・危機管理関連業務を担当している者などを対象とする。 ***** 科学技術イノベーション政策プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年6カ月。中央省庁、地方自治体、関連機関の職員などを対象とする。使用言語は日本語と英語。 ***** 日本語教育指導者養成プログラム *****:修了までの標準的な年数は1年。海外の日本語教育機関等の現職日本語教師、または日本語指導経験者を対象とする。使用言語は[[日本語]]。 **** 英語で行われるプログラム ***** Young Leaders Program (YLP)「修士(公共政策)、Master of Public Administration、Master of Public Policy」 *****:修了までの標準的な年数は1年。政治・行政コースと地方行政コースがある。[[アジア]]諸国、[[中央ヨーロッパ|中欧]]諸国の将来ナショナル・リーダーとして活躍が期待される若手行政官を対象とする。使用言語は[[英語]]。 ***** One-year Master Program of Public Policy (MP1)「修士(公共政策)、Master of Public Policy、Master of Public Administration」 *****:修了までの標準的な年数は1年。[[政府]]、[[国際機関]]の行政官を対象とする。使用言語は英語。 ***** Two-year Master Program of Public Policy (MP2)「修士(公共政策)、Master of Arts in Public Policy」 *****:修了までの標準的な年数は2年だが、最短1年6カ月で修了できる。4つの政策専門領域(経済政策、国際開発政策、国際関係、公共政策)から1つの分野を選択する。使用言語は英語。 ***** Macroeconomic Policy Program (MEP)〔 One year 〕「修士(公共政策)、Master of Public Policy」 ***** Macroeconomic Policy Program (MEP)〔 Two years 〕「修士(公共経済学)、Master of Arts in Public Economics」 *****:上記の1年コースと2年コースがある。[[マクロ経済学|マクロ経済]]政策の立案、実施に関わる政府関係者、およびマクロ経済変動と金融および財政政策の役割を学ぼうとする実務家などを対象とする。使用言語は英語。 ***** Public Finance Program (PF)「修士(公共経済学)、Master of Public Finance」 *****:修了までの標準的な年数は13カ月。[[開発途上国]]政府の租税および関税関係機関の若手職員らを対象とする。使用言語は英語。 ***** Economics, Planning and Public Policy Program (EPP)「修士(公共政策)、Master of Public Policy」<ref>インドネシアの有力国立大学及び政策研究大学院大学のダブル・ディグリー。</ref> *****:修了までの標準的な年数は1年。[[インドネシア]]の中央政府および地方自治体の行政官を対象とする。使用言語は英語。 ***** Disaster Management Policy Program (DMP)「修士(防災政策)、Master of Disaster Management」 *****:修了までの標準的な年数は1年。[[建築研究所]]との連携プログラムとして、地震・耐震・防災復興政策コースと津波防災コースがあるほか、[[土木研究所]]との連携プログラムとして水災害リスクマネジメントコースがある。開発途上国の[[地震]]、[[津波]]、水災害、防災分野の公務員、[[技術者]]、[[研究者]]らを対象とする。使用言語は英語。 *****Maritime Safety and Security Policy Program ( MSP )(海上保安政策プログラム)「修士(政策研究)、Master of Policy Studies」 *****:修了までの標準的な年数は1年。[[海上保安庁]]の連携プログラムであり、日本及びアジア各国の[[沿岸警備隊|海上保安組織]]での実務経験を3年以上有し、年齢45歳以下の方の受け入れを想定している。10月入学で、3月から7月までは、[[海上保安大学校]]で授業・演習などを行う。事実上の同校の[[大学院]][[修士課程]]に相当する上級課程で、[[防衛大学校]]の国際安全保障コースに相当する。 *** 博士課程 **** 公共政策プログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。修士プログラムからの進学を原則としているが、他大学で修士の学位を取得した学生については、その習得分野、学位の種別などに応じて、博士課程からの入学を認めている。使用言語は日本語と英語。 **** 安全保障・国際問題プログラム(G-cube Security and International Studies Concentration) ****:修了までの標準的な年数は3年。[[社会科学]]分野、特に国際関係、[[政治学]]、[[法学]]、[[経済学]]などの分野の修士号取得者、もしくはそれと同等と見なされる実務経験者を対象とし、国内外の政界、官界、学界などから広く学生を受け入れる方針。使用言語は日本語と英語。2021年から後掲のGRIPS Global Governance Program (G-cube)に統合され、G-cube Security and International Studies Concentrationとなった。 **** 国家建設と経済発展プログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。開発途上国や新興国における政治と経済の相互作用に知的な関心を抱き、すでに政治学、経済学、[[国際関係論]]など、社会科学分野のいずれかの修士号を取得した者を対象とする。使用言語は英語。 **** 防災学プログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。修士の学位を取得している者、もしくは同等の能力を有し、大学、研究機関、政府関係機関等での水災害リスクマネジメント分野での研究経験や実務経験を有する者。使用言語は英語。 **** 科学技術イノベーション政策プログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。主として国内外の中央省庁および関連機関の幹部候補、研究・教育職の志望者、国際機関職員、大学・研究機関・企業の運営に関わる者などを対象とする。使用言語は日本語と英語。 **** 日本言語文化研究プログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。修了までの標準的な年数は3年。海外の日本語教育機関等の現職日本語教師、または日本語教育研究者を対象とする。使用言語は日本語。 **** 政策プロフェッショナルプログラム ****:修了までの標準的な年数は3年。原則として、すでに修士の学位を持つ政策に関わる実務家で、官公庁や報道機関、NPOなどに在籍し、10年以上の経験を有している者を対象とするが、修士の学位を持たない場合や、経験年数が満たない場合でも認める場合がある。使用言語は日本語。 *** 5年一貫博士プログラム **** GRIPS Global Governance Program (G-cube) ****:2014年度に開設。修了までの年数は5年だが、最短3年で修了できる。国際機関を目指す者、企業等でグローバルに活躍することを目指す者、中央省庁の行政官を対象とする。使用言語は英語。 **** Policy Analysis Program (政策分析プログラム) ****:修了までの年数は5年だが、最短3年で修了できる。社会人、政府部門勤務者、新卒者などを対象とする。使用言語は英語。 === 附属機関 === * 政策研究センター * 政策研究院 * グローバルリーダー育成センター * 図書館 == 研究 == === 21世紀COEプログラム === [[21世紀COEプログラム]]として、1件のプロジェクトが採択されている。 * 2003年 *; 社会科学系 *: アジアの開発経験と他地域への適用可能性 === グローバルCOEプログラム === [[グローバルCOEプログラム]]として、1件のプロジェクトが採択されている。 * 2008年 *; 社会科学系 *: 東アジアの開発戦略と国家建設の適用可能性 == 大学関係者と組織 == 独自の職位として、([[テニュア|テニュア・トラック]]の)[[助教]]に相当する[[准教授|助教授]]という職位を持つ。 === 出身者・学位取得者 === * [[神津健]] - [[衆議院議員]] * [[田中秀明]] - [[明治大学]]教授 * [[岡村直子]] - [[文部科学省国際統括官]]、[[日本ユネスコ国内委員会]]事務総長 * [[廣瀬律子]] - [[防衛省]][[九州防衛局]]長 * [[フォンサムット・アンラワン]] - [[日本とラオスの関係#在日ラオス大使|駐日ラオス大使]] * [[松木正一郎]] - [[下田市]]長 * [[室田哲男]] - [[広島市]]副市長、[[危険物保安技術協会]]理事長 * [[乙武洋匡]] - 作家、タレント == 施設 == === キャンパス === [[画像:Panorama of National Graduate Institute for Policy Studies.JPG|200px|thumb|キャンパス全景]] *交通アクセス:[[都営地下鉄大江戸線]][[六本木駅]]、[[東京メトロ日比谷線]]六本木駅または[[東京メトロ千代田線]][[乃木坂駅]]下車 [[山下設計]]・[[リチャード・ロジャース (建築家)|リチャード・ロジャース]]設計共同体と[[文部科学省]]による共同設計で、文部科学省が手がける第1号[[PFI]]として、2005年に竣工。 かつては[[東京都]][[新宿区]]の[[税務大学校]]跡地(書類上は[[神奈川県]][[三浦郡]][[葉山町]])に設置されていたが、[[東京大学生産技術研究所]]、[[東京大学物性研究所|同物性研究所]]跡地の整備に伴い、2005年(平成17年)に現在地に移転した。この大学の隣接地には[[国立新美術館]]があるが、この一帯には[[戦前]]には[[大日本帝国陸軍]]の[[歩兵第3連隊]]の駐屯地が置かれていた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|National Graduate Institute for Policy Studies}} * [[専門職大学院]] * [[公共政策大学院]] * [[大学院大学]] * [[新構想大学]] * [[国立大学一覧]] == 外部リンク == * {{Official website}} * {{Twitter|GRIPS_Japan}} * {{Facebook|grips.jp}} {{大学院大学}} {{日本の国立大学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいさくけんきゆうたいかくいん}} [[Category:政策研究大学院大学|*]] [[Category:日本の国立大学]] [[Category:東京都の大学]] [[Category:学校記事]] [[Category:日本の大学院大学]]
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侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。 朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える、通常は位階六位下位の下級貴族(官人)に位置する(侍品:さむらいほん)を元来は意味した。晩年に五位まで昇進することもあった。 初期の武士身分は諸大夫身分の軍事貴族と、侍身分の一般武士の二つの階層から構成されていた。次第にその中でも武芸を仕事内容とする技能官人である「武士」を指すことが多くなった。 武士階層の裾野が広がり、貴族に連なる支配階層たる侍身分より下、本来は百姓身分である地侍や士分の徒士、卒または足軽も、武士の扱いを受けるようになると、士分の「騎士(侍)」として「騎馬戦闘の権利資格を有する階層の武士」を指すようになった。 「サムライ」は16世紀になって登場した比較的新しい語形であり、鎌倉時代から室町時代にかけては「サブライ」、平安時代には「サブラヒ」とそれぞれ発音されていた。「サブラヒ」は動詞「サブラフ」の連用形が名詞化したものである。以下、「サブラフ」の語史について述べれば、まず奈良時代には「サモラフ」という語形で登場しており、これが遡り得る最も古い語形であると考えられる。「サモラフ」は動詞「モラフ(候)」に語調を整える接頭辞「サ」が接続したもので、「モラフ」は動詞「モル(窺・守)」に存在・継続の意の助動詞(動詞性接尾辞ともいう)「フ」が接続して生まれた語であると推定されている。その語構成からも窺えるように、「サモラフ」の原義は相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた。この「サモラフ」が平安時代に母音交替を起こしていったん「サムラフ」となり、さらに子音交替を起こした結果、「サブラフ」という語形が誕生したと考えられている。「サブラフ」は「侍」の訓としても使用されていることからもわかるように、平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。「侍」という漢字には、元来 「貴族のそばで仕えて仕事をする」という意味があるが、武士に類する武芸を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである。 さて、その「サブラフ」の連用形から平安時代に「サブラヒ」という名詞が生まれたわけであるが、その原義は「主君の側近くで面倒を見ること、またその人」で、後に朝廷に仕える官人でありながら同時に上級貴族に伺候した中下級の技能官人層を指すようになり、そこからそうした技能官人の一角を構成した「武士」を指すようになった。つまり、最初は武士のみならず、明法家などの他の中下級技能官人も「侍」とされたのであり、そこに武人を意味する要素はなかったのである。前述したように、「サブラヒ」はその後「サブライ」→「サムライ」と語形変化を遂げていったが、地位に関係なく武士全般をこの種の語で呼ぶようになったのは、江戸時代近くからであり、それまでは貴族や将軍などの家臣である上級武士に限定されていた。 17世紀初頭に刊行された『日葡辞書』では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「軍人」を意味するポルトガル語の訳語が与えられているのに対して、Saburai(サブライ)は「貴人、または尊敬すべき人」と訳されており、侍が武士階層の中でも、特別な存在と見識が既に広まっていた。 "samurai"が初めて英語として確認されたのは1727年のことである。
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侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。「伺候(しこう)する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。
{{Otheruses|一般用法|その他の用法|サムライ}} {{出典の明記|date=2010年7月}} [[ファイル:Samurai with sword.jpg|サムネイル|276x276ピクセル|[[日本刀]]を振りかざす侍]] '''侍'''(さむらい、サムライ)は、[[古代]]から[[中世#日本|中世]]にかけての[[日本]]における[[官人]]の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた'''[[武士]]'''の別名である。「伺候(しこう)<ref name="shiko">[[wikt:祗|祗]][[wikt:候|候]]・[[wikt:伺|伺]]候:[しこう] [[wikt:謹|謹んで]]貴人のそば近く仕えること。</ref>する」「従う」を意味する「さぶらう」(旧仮名遣いでは「さぶらふ」〈候ふ/侍ふ〉)に由来する。 == 成立 == {{Main|武士}} [[朝廷 (日本)|朝廷]]の実務を担い有力[[貴族]]や[[諸大夫]]に仕える、通常は[[位階#律令制における位階|位階]][[正六位|六位]]下位の[[下級貴族]]([[官人]])に位置する([[侍品]]:さむらいほん)を元来は意味した。晩年に[[正五位|五位]]まで昇進することもあった。 初期の[[武士]]身分は諸大夫身分の[[軍事貴族]]と、侍身分の一般武士の二つの階層から構成されていた。次第にその中でも[[武芸 (日本)|武芸]]を仕事内容とする技能官人である「武士」を指すことが多くなった。 武士階層の裾野が広がり、貴族に連なる支配階層たる侍身分より下、本来は[[百姓#日本|百姓]]身分である[[地侍]]や[[士分]]の[[徒士]]、[[卒]]または[[足軽]]も、武士の扱いを受けるようになると、士分の「[[上士|騎士(侍)]]」として「[[騎馬隊#日本の騎馬隊|騎馬]]戦闘の権利資格を有する階層の武士」を指すようになった。 == 語源 == [[ファイル:Samurai on horseback0.jpg|thumb|left|180px|[[大鎧]]と[[弓 (武器)|弓]]で武装した[[武士]]]] [[ファイル:Samurai leaning on his sword.webp|サムネイル|220x220ピクセル|[[刀]]を携える侍]] [[ファイル:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|thumb|220px|[[戊辰戦争]]時の[[薩摩藩]][[藩士]]([[1860年代]]末、[[フェリーチェ・ベアト]]による撮影。[[着色写真]])]] [[ファイル:05 0611 UN 03.jpg|thumb|220px|right|[[後三年の役]]における[[源義家]]主従 (飛騨守惟久『後三年合戦絵巻』、国立博物館所蔵)]] 「サムライ」は[[16世紀]]になって登場した比較的新しい語形であり、[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけては「サブライ」、[[平安時代]]には「サブラヒ」とそれぞれ発音されていた。「サブラヒ」は[[動詞]]「サブラフ」の[[連用形]]が[[名詞]]化したものである。以下、「サブラフ」の語史について述べれば、まず[[奈良時代]]には「サモラフ」という語形で登場しており、これが[[wikt:遡|遡り]]得る最も古い語形であると考えられる。「サモラフ」は動詞「モラフ([[wikt:候|候]])」に語調を整える[[接頭辞]]「サ」が接続したもので、「モラフ」は動詞「モル([[wikt:窺|窺]]・[[wikt:守|守]])」に存在・継続の意の[[助動詞 (言語学)|助動詞]](動詞性[[接尾辞]]ともいう)「フ」が接続して生まれた語であると推定されている。その語構成からも窺えるように、「サモラフ」の原義は相手の様子をじっと窺うという意味であったが、奈良時代には既に貴人の傍らに控えて様子を窺いつつその命令が下るのを待つという意味でも使用されていた。この「サモラフ」が平安時代に[[母音交替]]を起こしていったん「サムラフ」となり、さらに[[子音交替]]を起こした結果、「サブラフ」という語形が誕生したと考えられている。「サブラフ」は「侍」の[[訓読み|訓]]としても使用されていることからもわかるように、平安時代にはもっぱら貴人の側にお仕えするという意味で使用されていた。「侍」という漢字には、元来 「貴族のそばで仕えて仕事をする」という意味があるが、武士に類する[[武芸 (日本)|武芸]]を家芸とする技能官人を意味するのは日本だけである。 さて、その「サブラフ」の連用形から平安時代に「サブラヒ」という名詞が生まれたわけであるが、その原義は「主君の側近くで面倒を見ること、またその人」で、後に朝廷に仕える官人でありながら同時に上級貴族に伺候<ref name="shiko"/>した中下級の技能官人層を指すようになり、そこからそうした技能官人の一角を構成した「武士」を指すようになった。つまり、最初は武士のみならず、[[明法道|明法家]]などの他の中下級技能官人も「侍」とされたのであり、そこに武人を意味する要素はなかったのである。前述したように、「サブラヒ」はその後「サブライ」→「サムライ」と語形変化を遂げていったが、地位に関係なく武士全般をこの種の語で呼ぶようになったのは、[[江戸時代]]近くからであり、それまでは貴族や[[征夷大将軍|将軍]]などの家臣である上級武士に限定されていた。 <!-- 「刀の大小二本差」はノートで表明してから1週間経っても、意見表明がありませんので削除します。そもそもなんの出典も示していませんし。 --> [[17世紀]]初頭に刊行された『[[日葡辞書]]』では、Bushi(ブシ)やMononofu(モノノフ)はそれぞれ「武人」「[[軍人]]」を意味する[[ポルトガル語]]の訳語が与えられているのに対して、Saburai(サブライ)は「[[貴人]]、または尊敬すべき人」と訳されており、侍が武士階層の中でも、特別な存在と見識が既に広まっていた。 "samurai"が初めて英語として確認されたのは1727年のことである<ref>マーク・ピーターセン『続 日本人の英語』(岩波新書、1990年)ISBN 978-4004301394 p24</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[武士]] * [[浪人]] * [[家人]] * [[青侍]] * [[騎士]] - [[西洋]]において侍と同等の存在であるが、侍とは対照的に文化による作法の違いがあり生死に関しての見解なども異なっている * [[ジンギスカン (グループ)]] - [[1970年代]]~[[1980年代]]に活躍した[[ドイツ]]の[[コーラス・グループ]]。「サムライ」という持ち歌がある。 *[[侍政]] == 外部リンク == {{Wiktionary|侍}} {{Commons&cat|Samurai|Samurai}} * {{Wayback |url=http://www.jidaigekirp.com/jidaigekirp/ja/jidaigeki/chara_samurai.html |title=時代劇ルネサンスプロジェクト:時代劇 - 登場人物【侍】 |date=20120305102327}} * [http://www.toei-eigamura.com/ 東映太秦映画村] {{Japanese-history-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さむらい}} [[Category:武士]] [[Category:日本の軍事史]]
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十三夜
十三夜(じゅうさんや)
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十三夜(じゅうさんや) 旧暦毎月13日(から14日にかけて)の夜。 旧暦9月13日(から14日にかけて)の夜。月見の風習については「月見#九月十三夜」を参照。 作品タイトル 十三夜 (漢詩) - 上杉謙信作、「霜滿軍營秋氣淸 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征」 十三夜 (小説) - 樋口一葉の短編小説。 十三夜 (鈴木雅之の曲) - 鈴木雅之の楽曲。 十三夜月 - 美川憲一の楽曲。 十三夜 霊界からの招待状 - 2001年のKBS京都、テレビ神奈川共同製作のホラードラマ。 十三の夜 - 藤田まことの楽曲。
'''十三夜'''(じゅうさんや) * 旧暦[[毎月13日]]の夜。 * 旧暦[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]の夜。月見の風習については「[[月見#九月十三夜]]」を参照。 * 作品タイトル ** 十三夜 ([[漢詩]]) - [[上杉謙信]]作、「霜滿軍營秋氣淸 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征」 ** [[十三夜 (小説)]] - [[樋口一葉]]の短編小説。 ** [[十三夜 (鈴木雅之の曲)]] - [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]の楽曲。 **[[十三夜月]] - [[美川憲一]]の楽曲。 ** [[十三夜 霊界からの招待状]] - 2001年の[[KBS京都]]、[[テレビ神奈川]]共同製作のホラードラマ。 ** [[十三の夜]] - [[藤田まこと]]の楽曲。 {{aimai}} {{デフォルトソート:しゆうさんや}}
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軍事技術
軍事技術(ぐんじぎじゅつ、英語: military technology)とは、軍事を直接的に支える科学技術の総称である。 軍事技術は軍事を支援する科学技術であり、軍需品の研究開発または生産・整備についての技術が含まれる。一説には戦略・戦術を含む定義もあるが、通常の場合は除く。 古来より科学技術は人類の生活をよりよくするために向上が続けられ、そしてその一部の技術は軍事的に利用され、また軍事目的に特化して開発された技術もある。しかしあらゆる科学技術には軍用と民用の二面性がある。科学技術と軍事は歴史においてもその関係性が重要であることが指摘されており、国家安全保障においても国家は科学技術の研究開発を維持しなければならないと考えられている。 例えば19世紀英国では優れた紡績機の技術で世界中の綿製品の半分を生産し、貿易の4分の1を支配し、ひいては世界的な覇権を保持していた。しかし技術移転が進むにつれて英国はその覇権的な地位を失うことになった。またインカ帝国は高度な文明を築いたものの軍事技術の研究開発を重視しなかったために1532年に僅か200名弱のスペイン軍部隊によって滅ぼされることになった。これら歴史事例からも科学技術の振興は国家の責務である、と考えられている。 また現代の軍事力はイージスシステム、フェーズドアレイレーダー、複合装甲、IVIS(車輌間情報共有システム)などのように高度な科学技術が利用されている場合もあり、科学技術が軍事力の質的な要素を規定している。 軍事技術の歴史は単に技術史に留まらず、戦争の歴史そのものと非常に強い関係性を持っている。ここでは軍事技術ごとに発展の歴史の概要を述べる。詳細は個別の兵器の項目を参照。 科学技術が未発達であった石器時代においては戦争における軍事技術の影響力は決定的なものではなかったと考えられる。しかしながら金属を加工する技術が造兵に応用されるようになると技術力が戦争に及ぼす影響力は拡大してきた。例えば青銅器は鉄器に比べると非常に脆く、鉄製の武器の優位性は絶対的であった。紀元前1600年、バビロン王朝は鉄器を使用していたヒッタイト軍の侵攻で滅亡した。 初期の火砲は木材・鉄材を箍を使って円筒形に組み立てた惰弱な構造であり、射程は100メートル程度で命数も数発であった。15世紀になると青銅を用いた火砲が開発され、砲弾も石材でなく鉄材が用いられるようになった。産業革命以後は工作技術の向上で鉄製砲の開発、また小銃と同様に腔線を付加し、弾帯によってガス漏れ防止が行われ、射程と安全性を発展させた。 小銃は弓矢に比べて長い間、命中精度、射程、発射速度、経済性で劣った武器であったが、16世紀に開発された火縄銃は当時の造兵技術の向上によって着実に普及していった。しかし実戦における火縄銃は発射速度が不足しているためにテルシオのように、槍兵との連携の下で運用されていた。また1670年頃に銃剣が発明されて18世紀までに槍兵はその存在意義を失っていった。 航空機はまず気球、次いで飛行船が偵察などに利用され、さらに第一次世界大戦では固定翼機が初めて偵察機として実戦で運用されるようになり、次第に偵察機の武装化とともに他の航空機への攻撃を主任務とする戦闘機が登場するようになっていった。第二次世界大戦後には航空機は主要な兵器にまで技術改良が重ねられ、航空技術は現代の戦争遂行に不可欠な産業にまで成長している。 第一次世界大戦においては陣地戦での攻勢を行うために、英仏は不整地走破能力がある履帯に着目して英国が1916年に世界初の戦車であるマークI型戦車が制式採用され、ソンムの戦いで初めて実戦に投入された。現代まで火砲・装甲・機関・履帯に改良が加えられて現代陸戦の重要な兵器となっている。 電磁波を利用して航空機や船舶を探知するレーダー技術はいくつかの国で秘密保全された上で研究開発が行われていた。英国のレーダー技術はドイツ空軍の空襲を察知するために1934年から行われるようになり、1935年5月には本格研究が、9月には航空機探知能力が90キロメートルに及んで秋に早期警戒基地が完成した。そして39年までにレーダー基地が英国東沿岸全域にレーダー網を完成させ、防空作戦に大きく寄与することとなった。米国でも40年に技術が伝えられ、米国電子工業界の技術躍進に大きく貢献した。 核反応によって生じる巨大なエネルギーが科学的に証明され、ナチス・ドイツからの亡命科学者たちはドイツの核兵器開発との技術開発競争に勝利することが第二次世界大戦の勝敗を左右すると主張されるようになった。そして1942年に原爆開発計画であるマンハッタン計画が開始され、1945年の実験で成功し、太平洋戦争において日本に対して二発の原爆が使用された。 軍事技術を民生技術の元として転用することをスピンオフと称し、その逆をスピンオンと称する場合がある。現在の先端技術はどちらにも利用可能なデュアルユースと呼ばれる内容が多くなっている。これは、民生用設備に高度な技術を用いたものが多くなったためである。 軍事技術は過酷な環境や人体の安全にかかわる場合が多く、その信頼性に対する要求は民生用のそれに比べてはるかに高い。このため軍事技術にはMIL規格などさまざまな規格が定められており、この規格に適合したものが使われる傾向にある。スピンオンの場合も同様で、特に必要が無い場合を除けば、民生技術や製品は軍用として改良改造が行われる。
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軍事技術とは、軍事を直接的に支える科学技術の総称である。
[[File:Schema Grenade-i18n.svg|thumb|1935年型[[手榴弾]]の点火装置の断面図]] '''軍事技術'''(ぐんじぎじゅつ、{{Lang-en|military technology}})とは、[[軍事]]を直接的に支える[[科学技術]]の総称である。 == 概要 == 軍事技術は軍事を支援する科学技術であり、軍需品の[[研究開発]]または生産・整備についての技術が含まれる。一説には[[戦略]]・[[戦術]]を含む定義もあるが、通常の場合は除く。<ref>眞邉正行『防衛用語辞典』(国書刊行会、平成12年)92頁</ref> 古来より科学技術は人類の生活をよりよくするために向上が続けられ、そしてその一部の技術は軍事的に利用され、また軍事目的に特化して開発された技術もある。しかしあらゆる科学技術には軍用と民用の二面性がある。科学技術と軍事は歴史においてもその関係性が重要であることが指摘されており、国家[[安全保障]]においても国家は科学技術の研究開発を維持しなければならないと考えられている。 例えば[[19世紀]][[イギリス帝国|英国]]では優れた[[紡績]]機の技術で世界中の[[綿]]製品の半分を生産し、[[貿易]]の4分の1を支配し、ひいては世界的な[[パックス・ブリタニカ|覇権]]を保持していた。しかし技術移転が進むにつれて英国はその覇権的な地位を失うことになった。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)325 - 327頁</ref>また[[インカ帝国]]は高度な文明を築いたものの軍事技術の研究開発を重視しなかったために1532年に僅か200名弱のスペイン軍部隊によって滅ぼされることになった。<ref>栗栖弘臣『安全保障概論』(ブックビジネスアソシエイツ社、1997年)32頁</ref>これら歴史事例からも科学技術の振興は国家の責務である、と考えられている。 また現代の[[軍事力]]は[[イージスシステム]]、[[フェーズドアレイレーダー]]、[[装甲#複合装甲|複合装甲]]、IVIS(車輌間情報共有システム)などのように高度な科学技術が利用されている場合もあり、科学技術が軍事力の質的な要素を規定している。 == 歴史 == 軍事技術の歴史は単に技術史に留まらず、戦争の歴史そのものと非常に強い関係性を持っている。ここでは軍事技術ごとに発展の歴史の概要を述べる。詳細は個別の兵器の項目を参照。 === 金属器 === 科学技術が未発達であった[[石器時代]]においては戦争における軍事技術の影響力は決定的なものではなかったと考えられる。しかしながら金属を加工する技術が造兵に応用されるようになると技術力が戦争に及ぼす影響力は拡大してきた。例えば[[青銅器]]は[[鉄器]]に比べると非常に脆く、鉄製の武器の優位性は絶対的であった。紀元前1600年、バビロン王朝は鉄器を使用していた[[ヒッタイト]]軍の侵攻で滅亡した。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)331頁</ref> === 火砲 === 初期の[[火砲]]は木材・鉄材を箍を使って円筒形に組み立てた惰弱な構造であり、射程は100メートル程度で命数も数発であった。15世紀になると青銅を用いた火砲が開発され、砲弾も石材でなく鉄材が用いられるようになった。[[産業革命]]以後は工作技術の向上で鉄製砲の開発、また小銃と同様に[[ライフリング|腔線]]を付加し、弾帯によってガス漏れ防止が行われ、射程と安全性を発展させた。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)327頁</ref> === 小銃 === [[小銃]]は弓矢に比べて長い間、命中精度、射程、発射速度、経済性で劣った武器であったが、16世紀に開発された火縄銃は当時の造兵技術の向上によって着実に普及していった。しかし実戦における[[火縄銃]]は発射速度が不足しているために[[テルシオ]]のように、槍兵との連携の下で運用されていた。また1670年頃に銃剣が発明されて18世紀までに槍兵はその存在意義を失っていった。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)333頁</ref> === 航空機 === [[航空機]]はまず[[気球]]、次いで[[飛行船]]が偵察などに利用され、さらに第一次世界大戦では固定翼機が初めて[[偵察機]]として実戦で運用されるようになり、次第に偵察機の武装化とともに他の航空機への攻撃を主任務とする[[戦闘機]]が登場するようになっていった。第二次世界大戦後には航空機は主要な兵器にまで技術改良が重ねられ、航空技術は現代の戦争遂行に不可欠な産業にまで成長している。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年) 333 - 334頁</ref> === 戦車 === [[第一次世界大戦]]においては[[塹壕|陣地戦]]での攻勢を行うために、英仏は不整地走破能力がある[[履帯]]に着目して英国が1916年に世界初の戦車である[[マーク I 戦車|マークⅠ型戦車]]が制式採用され、[[ソンムの戦い]]で初めて実戦に投入された。現代まで火砲・[[装甲]]・機関・履帯に改良が加えられて現代陸戦の重要な兵器となっている。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)334 - 335頁</ref> === レーダー === [[電磁波]]を利用して航空機や船舶を探知する[[レーダー]]技術はいくつかの国で秘密保全された上で研究開発が行われていた。英国のレーダー技術は[[ドイツ空軍]]の空襲を察知するために1934年から行われるようになり、1935年5月には本格研究が、9月には航空機探知能力が90キロメートルに及んで秋に早期警戒基地が完成した。そして39年までにレーダー基地が英国東沿岸全域にレーダー網を完成させ、[[バトル・オブ・ブリテン|防空作戦]]に大きく寄与することとなった。米国でも40年に技術が伝えられ、米国[[電子工業]]界の技術躍進に大きく貢献した。<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)336頁</ref> === 核兵器 === [[核分裂反応|核反応]]によって生じる巨大なエネルギーが科学的に証明され、ナチス・ドイツからの亡命科学者たちはドイツの核兵器開発との技術開発競争に勝利することが[[第二次世界大戦]]の勝敗を左右すると主張されるようになった。そして1942年に原爆開発計画である[[マンハッタン計画]]が開始され、1945年の[[トリニティ実験|実験]]で成功し、[[太平洋戦争]]において日本に対して二発の原爆が使用された。 == 民生転用 == 軍事技術を民生技術の元として転用することを[[スピンオフ]]と称し、その逆をスピンオンと称する場合がある。現在の先端技術はどちらにも利用可能な[[デュアルユース]]と呼ばれる内容が多くなっている。これは、[[民生用]]設備に高度な技術を用いたものが多くなったためである。 軍事技術は過酷な環境や人体の安全にかかわる場合が多く、その信頼性に対する要求は民生用のそれに比べてはるかに高い。このため軍事技術には[[MIL規格]]などさまざまな規格が定められており、この規格に適合したものが使われる傾向にある。スピンオンの場合も同様で、特に必要が無い場合を除けば、民生技術や製品は軍用として改良改造が行われる。 === スピンオフ === *[[コンピュータ]] - コンピュータ[[ENIAC]]は[[弾道学|弾道計算]]を目的に実用化。 *[[原子炉]] - 世界初の原子炉、[[シカゴ・パイル1号|シカゴパイル1]]は[[マンハッタン計画]]で開発。 *[[ロケット]] - [[V2ロケット]]の技術は後の[[人工衛星]]打ち上げ技術に発展。 *[[電子レンジ]] - 米[[レイセオン]]社(Raytheon)のレーダー開発の副産物として誕生した。 *[[グローバル・ポジショニング・システム]](GPS) - 軍用の[[GPS衛星]]による[[衛星測位システム]]。 *[[補償光学]] - [[偵察衛星|人工衛星]]から地表を観測する際の大気の[[ゆらぎ]]を補正するための技術。今では地上の[[望遠鏡]]には必須の装備になっている。 *[[無人航空機]] - 当初は軍で[[標的機]]や[[偵察機]]としての運用が行われ、[[農業用無人航空機]]や[[航空写真]]撮影機として民間で実用化されたのは1980年代末以降である。 *[[オペレーションズ・リサーチ]] - [[数理モデル]]や[[アルゴリズム]]を用いて[[最適化問題]]の解を導出する技法。ドイツ海軍の[[狼群戦法]]に対処すべくWW2当時のイギリスで盛んに研究され始めた。 === スピンオン === *[[鉄条網]]-当初は獣や泥棒よけであったが、軍事においても対人用の障害として[[陣地]]構築資材に利用されている。 *[[合成繊維]] - [[ナイロン]]は撥水性が良く、衣類、[[防弾チョッキ]]などに応用された。 *[[飛行機]] - 初期の飛行機は[[偵察機]]として用いられ、やがて[[戦闘機]]などに発展した。 *[[液晶ディスプレイ]] - 元々は[[電卓]]の表示用であったが、現在では多目的表示装置として軍事用でも陸海空問わず幅広く使用されている。 *[[携帯情報端末]] - [[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]の軍事転用が行われている。既に民生品のIT技術の方が高度であり、軍事用に新規開発するよりも、民生品に耐久性を付与した方が遥かに安上がりであるためである(一方で広く使用されている既製品の場合セキュリティのリスクもある)。 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == *防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、[[2000年]]) *栗栖弘臣『安全保障概論』(ブックビジネスアソシエイツ社、[[1997年]]) == 関連項目 == * [[兵器]] * [[武器]] * [[軍需産業]] * [[軍民転換]] * [[デュアルユース]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:くんしきしゆつ}} [[Category:軍事技術|*]] [[Category:軍事学]] [[Category:軍需産業]] [[Category:技術史]] [[Category:兵器の歴史]] [[Category:分野別の技術]]
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15,912
ビジネス
ビジネス(英: business)は、経済行為を表す用語であり、狭義から広義まで様々な意味を持っていて、1つの日本語に置き換えて表現することはできない。 以下に、ビジネスの代表的な意味を、簡単な表現事例とともに記す。 広義のビジネスについては次のように表現することが出来る。ビジネスとは営利や非営利を問わず、また組織形態を問わず、その事業目的を実現するための活動の総体をいう。したがって、ビジネスの主体者としては株式会社などのような営利企業だけでなく、NPOなどの非営利活動法人や住民サービス提供などを行う行政組織等を含み、個人または法人組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。学術団体については、1951年4月21日、日本商業学会が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された。 仕事向けに提供されている製品やサービスにもビジネス・・と付く物が有る。華美な装飾や装備を廃している廉価である場合や耐久性が高い、接待などに使える高価な物などがある。 古くから知られるショウ・ビズ(SHOW BIZ - 芸能)や、新しくはクール・ビズ(COOL BIZ)で広く知られるようになった英語 business の略語 biz は、英語にて3文字を取って bus 等と略すると、道路を走る「バス」の意味となってしまうため、発音に合わせてスペリングを変えてできた略語である。インターネットのドメイン名にも .bizや.bz があるが、.bizはビジネス用の正規なドメインだが、.bzは、国別ドメインでベリーズに割り当てられているドメインである。すでに、1800年代には登場していた略語でもある。
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ビジネスは、経済行為を表す用語であり、狭義から広義まで様々な意味を持っていて、1つの日本語に置き換えて表現することはできない。
{{出典の明記|date=2013年6月}} [[File:Downtownplazala.jpg|thumb|[[米国]]・[[ロサンゼルス]] [[ダウンタウン]]の[[金融街]]にある[[オフィスビル]]群]] '''ビジネス'''({{lang-en-short|business}})は、[[経済]]行為を表す用語であり、狭義から広義まで様々な意味を持っていて、1つの[[日本語]]に置き換えて表現することはできない。 ==意味== 以下に、ビジネスの代表的な意味を、簡単な表現事例とともに記す。 * 一件あたりの商談、商取引、売買、など(商売)を表すビジネス *: 例 : ビジネスが成立した。 * 仕事や職業、業務などを表すビジネス *: 例 : 私のビジネスは…… * 商業活動や経済活動全般を表すビジネス *: 例 : 昨今のビジネスは…… ビジネス界においては…… 広義の'''ビジネス'''については次のように表現することが出来る。ビジネスとは営利や非営利を問わず、また組織形態を問わず、その[[事業]]目的を実現するための活動の総体をいう。したがって、ビジネスの主体者としては[[株式会社]]などのような営利[[企業]]だけでなく、[[NPO]]などの非営利活動法人や[[住民]][[サービス]]提供などを行う[[行政組織]]等を含み、[[個人]]または[[法人]]組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。学術団体については、1951年4月21日、[[日本商業学会]]が慶應義塾大学教授向井鹿松を初代会長として設立された<ref name=hp>{{Cite web|和書|url=http://jsmd.jp/|title=学会HP|publisher=日本商業学会|date=|accessdate=2022-01-23}} 個人会員1,072名,賛助会員11社・団体,購読会員32件 (2019年7月現在)</ref>。 == 製品・サービス == 仕事向けに提供されている製品やサービスにもビジネス・・と付く物が有る。華美な装飾や装備を廃している廉価である場合や耐久性が高い、接待などに使える高価な物などがある。 *ビジネスバイク / ビジネススクーター - 新聞配達や出前の為に設計されたオートバイのこと。耐久性、最高速より加速重視、大きなキャリアなどを備え、華美な装飾が無い製品。 *[[ビジネスクラス]] - ファーストクラスとエコノミークラスの間の航空機の座席区分。出張で利用する社用客向けサービス。ファーストと比べれば廉価、エコノミーと比べれば豪華である。 *[[ビジネスホテル]] - 出張客向けのホテル。日本語としては廉価な宿、英語としては豪華な宿をしめす。 *ビジネス便 - 通常の貨物より早く到着する輸送サービス。通常商品より高価である。 *[[ビジネスジェット]] - 企業向け航空機。航空会社が使う物と比べると小型で廉価である。 == 略語 biz == 古くから知られるショウ・ビズ(SHOW BIZ - [[芸能]])や、新しくは[[クール・ビズ]](COOL BIZ)で広く知られるようになった英語 {{lang|en|business}} の略語 biz は、英語にて3文字を取って bus 等と略すると、[[道路]]を走る「[[バス (交通機関)|バス]]」の意味となってしまうため、発音に合わせてスペリングを変えてできた[[略語]]である。[[インターネット]]の[[ドメイン名]]にも [[.biz]]や[[.bz]] があるが、.bizはビジネス用の正規なドメインだが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.onamae.com/service/domain/biz/|title=.bizドメイン|ドメイン取得なら お名前.com|accessdate=2018-04-22|website=www.onamae.com}}</ref>、.bzは、国別ドメインで[[ベリーズ]]に割り当てられているドメインである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.onamae.com/service/domain/bz/|title=.bzドメイン|ドメイン取得なら お名前.com|accessdate=2018-04-22|website=www.onamae.com}}</ref>。すでに、[[1800年代]]には登場していた略語でもある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[商業]] ** [[商法]] ** [[商人]] ** [[商行為]] * [[ビジネスマン]] * [[ビジネスクラス]] * [[ビジネスホテル]] * {{prefix}} *{{intitle}} {{economy-stub}} {{DEFAULTSORT:ひしねす}} [[Category:ビジネス|*]] [[Category:経済]] [[Category:英語の語句]]
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三すくみ
三すくみ(さんすくみ、三竦みとも書く)とは、三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである。つまり、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つ、という関係。例えばAがBを倒した場合、Cに倒されるのがわかっているので動くことができない。 矢印の向く相手に勝つ、という関係を表す。 trade-offs(トレードオフズ)原文「螂蛆食蛇、蛇食蛙、蛙食螂蛆、互相食也」 螂蛆はムカデのこと。正三角形の配置構造を連鎖構造に言葉として表記した。「じゃんけん」の勝負とは異なるが、互いの影響を説明するうえで「三つ巴」や「三すくみ」と表現される説明が多くの理論で利用されている。 産業組織論(経済学)の主要なパラダイムとして構造 → 行為 → 成果(S-C-P)がある。産業構造がその産業にいる企業の行為(戦略)を決定し、行為が産業の成果を決定し、成果がその産業の構造を決定する。 同様な論理構造として が上げられている(上記は、矢印の向く方向に強い影響を与え行動を決定させる、関係を表す)。 各要素の影響の強弱は1対1の関係(部分構造)では勝ち負けが発生する。拮抗状態が全体最適(継続)である各要素が正三角形の位置に配置されている状態である。 三すくみは位置関係と互いの距離によってバランスされている。「蛇」と「蛙」が一呑みで「蛞」から余裕で逃走可能な距離(状態)では成立しないという論理構造である。この状態で、3匹が逃走するためには互いに距離を伸ばす(正三角形が相似的に拡大する)必要があると説明されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "三すくみ(さんすくみ、三竦みとも書く)とは、三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである。つまり、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つ、という関係。例えばAがBを倒した場合、Cに倒されるのがわかっているので動くことができない。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "矢印の向く相手に勝つ、という関係を表す。", "title": "三すくみの例" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "trade-offs(トレードオフズ)原文「螂蛆食蛇、蛇食蛙、蛙食螂蛆、互相食也」", "title": "三すくみの構造" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "螂蛆はムカデのこと。正三角形の配置構造を連鎖構造に言葉として表記した。「じゃんけん」の勝負とは異なるが、互いの影響を説明するうえで「三つ巴」や「三すくみ」と表現される説明が多くの理論で利用されている。", "title": "三すくみの構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "産業組織論(経済学)の主要なパラダイムとして構造 → 行為 → 成果(S-C-P)がある。産業構造がその産業にいる企業の行為(戦略)を決定し、行為が産業の成果を決定し、成果がその産業の構造を決定する。", "title": "経営理論の例" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "同様な論理構造として", "title": "経営理論の例" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "が上げられている(上記は、矢印の向く方向に強い影響を与え行動を決定させる、関係を表す)。", "title": "経営理論の例" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "各要素の影響の強弱は1対1の関係(部分構造)では勝ち負けが発生する。拮抗状態が全体最適(継続)である各要素が正三角形の位置に配置されている状態である。", "title": "経営理論の例" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "三すくみは位置関係と互いの距離によってバランスされている。「蛇」と「蛙」が一呑みで「蛞」から余裕で逃走可能な距離(状態)では成立しないという論理構造である。この状態で、3匹が逃走するためには互いに距離を伸ばす(正三角形が相似的に拡大する)必要があると説明されている。", "title": "経営理論の例" } ]
三すくみ(さんすくみ、三竦みとも書く)とは、三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである。つまり、AはBに勝ち、BはCに勝ち、CはAに勝つ、という関係。例えばAがBを倒した場合、Cに倒されるのがわかっているので動くことができない。
{{出典の明記|date=2016-4}} {{otheruses||[[絹田村子]]の[[漫画]]作品|さんすくみ}} '''三すくみ'''(さんすくみ、'''三竦み'''とも書く)とは、三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである。つまり、{{color|Green|A}}は{{color|Blue|B}}に勝ち、{{color|Blue|B}}は{{color|Red|C}}に勝ち、{{color|Red|C}}は{{color|Green|A}}に勝つ、という関係。例えば{{color|Green|A}}が{{color|Blue|B}}を倒した場合、{{color|Red|C}}に倒されるのがわかっているので動くことができない。 == 三すくみの例 == [[File:Mushi-ken (虫拳), Japanese rock-paper-scissors variant, from the Kensarae sumai zue (1809).jpg|thumb|[[虫拳]] 『拳会角力図会』 1809年]] 矢印の向く相手に勝つ、という関係を表す。{{See also|拳遊び}} ;通常の[[じゃんけん]]ではグー(石) → チョキ(はさみ) → パー(紙) → グー …… : 「石」は「はさみ」をうち砕き、「はさみ」は「紙」を切り刻み、「紙」は「石」を包み込む。下記(星拳)もじゃんけんである。 ;星拳(ほしけん)ではグー(天球)→ チョキ(手の形が通常のじゃんけんと異なる:地球)→ パー(水星)→ グー …… : 上記の[[じゃんけん]]の一種である。 ;'''[[虫拳]]''':ヘビ → カエル → ナメクジ → ヘビ …… : 日本最古の三すくみ。ヘビはカエルを一飲みにする。ヘビには負けるカエルだが、相手がナメクジならばやすやすと舌でとって食べる。しかしカエルに負けるナメクジには[[ヘビ毒]]が効かず、身体の粘液で(カエルより強いはずの)ヘビを溶かしてしまう(実際にはそのようなことはおこらないが、古い時代の日本ではそう信じられていた。ただし、[[ナミヘビ科]]にはナメクジを捕食する種もいる)。このときにカエルがナメクジを食べると、その後ヘビに食べられてしまうので、ナメクジを食べられない。ヘビ、ナメクジも同様の状態で、三者とも身動きがとれず三すくみとなる。 ;'''[[狐拳]]''':狐 → 庄屋 → 猟師 → 狐 …… : 狐は庄屋を化かし、依頼主の庄屋に猟師は頭が上がらず、猟師は狐を鉄砲で撃つ。 ; [[ゾウ|象]] → [[ヒト|人]] → [[アリ|蟻]] → 象 …… : 象は人を踏み、人は蟻を踏み、蟻は象を刺す。ちなみにインドネシア周辺の[[じゃんけん]]はこの形になっている。親指が象、人差し指が人、小指が蟻。 == ゲーム・漫画における例 == ; {{color|Red|炎}} → {{color|Green|草}} → {{color|Blue|水}} → {{color|Red|炎}} …… : [[コンピュータゲーム]]『[[ポケットモンスター (ゲームシリーズ)|ポケットモンスター]]』、『[[パズル&ドラゴンズ]]』、『[[モンスターストライク]]』などに見られる三すくみ。{{color|Red|炎}}は{{color|Green|草}}を燃やし、{{color|Green|草}}は{{color|Blue|水分}}を吸い取り、{{color|Blue|水}}は{{color|Red|炎}}を消す。 ; {{color|Red|剣}} → {{color|Green|斧}} → {{color|Blue|槍}} → {{color|Red|剣}} …… : コンピュータゲーム『[[ファイアーエムブレム]]』に見られる三すくみ。{{color|Red|剣}}は{{color|Green|斧}}に強く、{{color|Green|斧}}は{{color|Blue|槍}}に強く、{{color|Blue|槍}}は{{color|Red|剣}}に強い。ただし、これを逆転させる武器も存在する。 ; {{color|Red|こうげき}} → {{color|Green|バリア}} → {{color|Blue|まほう}} → {{color|Red|こうげき}} …… : コンピュータゲーム『[[ガラクタ名作劇場 ラクガキ王国]]』のラクガキファイト及びテレビ番組『[[天才ビットくん]]』のコーナー・グラモンバトルに見られる三すくみ。{{color|Red|こうげき}}は{{color|Green|バリア}}を破り、{{color|Green|バリア}}は{{color|Blue|まほう}}を跳ね返し、{{color|Blue|まほう}}は{{color|Red|こうげき}}に打ち勝つ。 ; {{color|Red|騎兵}} → {{color|Green|大砲}} → {{color|Blue|歩兵}} → {{color|Red|騎兵}} …… : {{color|Red|騎兵}}の突撃は{{color|Green|大砲}}の陣地を崩し({{color|Red|騎兵}}は速いため弾が当たらない)、{{color|Green|大砲}}の砲撃は{{color|Blue|歩兵}}を吹き飛ばし({{color|Blue|歩兵}}は遅い&集団でいるので弾で纏めて吹き飛ばされる)、{{color|Blue|歩兵}}の槍衾は{{color|Red|騎兵}}の突撃を止める。 : もちろん現実の戦争では、[[大砲]]や銃弓は陣地内にいたり随伴歩兵で突撃を防ぎ、[[歩兵]]は武器や装備を変え散開したり隠れて近づくことで、大砲の的になることを防ぎながら攻撃し、[[騎兵]]は機動力を生かして槍衾の横や後ろから攻撃するのでこの限りではない。 ; {{color|Red|皇帝}} → {{color|Green|市民}} → {{color|Blue|奴隷}} → {{color|Red|皇帝}} …… : [[漫画]]『[[賭博黙示録カイジ]]』に登場するギャンブルのひとつ、[[賭博黙示録カイジ#Eカード|Eカード]]に見られる三すくみ。{{color|Red|皇帝}}は{{color|Green|市民}}を支配し、{{color|Green|市民}}は{{color|Blue|奴隷}}をこき使い、{{color|Blue|奴隷}}は捨て身の行為で{{color|Red|皇帝}}に襲いかかる。{{color|Blue|奴隷}}は[[無敵の人 (インターネットスラング)|そもそも失うものがない]]ため、殺されてもともとの状態で{{color|Red|皇帝}}を討つ可能性があることから、{{color|Blue|奴隷}}は{{color|Red|皇帝}}より強いとされる。 == 三すくみの構造 == trade-offs(トレードオフズ)原文「{{color|Blue|螂蛆}}食{{color|Red|蛇}}、{{color|Red|蛇}}食{{color|Green|蛙}}、{{color|Green|蛙}}食{{color|Blue|螂蛆}}、互相食也」 {{color|Blue|螂蛆}}は[[ムカデ]]のこと。正三角形の配置構造を連鎖構造に言葉として表記した。「じゃんけん」の勝負とは異なるが、互いの影響を説明するうえで「三つ巴」や「三すくみ」と表現される説明が多くの理論で利用されている。 == 経営理論の例 == 産業組織論(経済学)の主要なパラダイムとして構造 → 行為 → 成果(S-C-P)がある。産業構造がその産業にいる企業の行為(戦略)を決定し、行為が産業の成果を決定し、成果がその産業の構造を決定する。 同様な論理構造として ; 重要制約(Core Constraints) : 利益 → 技術 → 権利(Economic-Technical-User) ; 物資(Resources)リソース : ヒト → 作用 → モノ(People-Process-Product) ; 顧客(Customers)カスタマー : 時間 → 費用 → 品質(Schedule-Budget-Performance) が上げられている(上記は、矢印の向く方向に強い影響を与え行動を決定させる、関係を表す)。 各要素の影響の強弱は1対1の関係(部分構造)では勝ち負けが発生する。拮抗状態が全体最適(継続)である各要素が正三角形の位置に配置されている状態である。 三すくみは位置関係と互いの距離によってバランスされている。「{{color|Red|蛇}}」と「{{color|Green|蛙}}」が一呑みで「{{color|Blue|蛞}}」から余裕で逃走可能な距離(状態)では成立しないという論理構造である。この状態で、3匹が逃走するためには互いに距離を伸ばす(正三角形が相似的に拡大する)必要があると説明されている。 == 参考文献 == * [[村田全]]([[立教大学]]名誉教授 - [[数学]]) 「『三すくみ』に始まる文化論の試み」 『図書』 第616号 ([[岩波書店]]、2000.08) == 関連項目 == * [[拳遊び]] * [[水雷艦長]] - 帽子のつばの向きによる三すくみを利用した屋外遊び。 {{Academia-stub}} {{DEFAULTSORT:さんすくみ}} [[Category:論理学]] [[Category:名数3|すくみ]]
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原子炉
原子炉(げんしろ、英: nuclear reactor)とは、制御された核分裂連鎖反応を維持することができるよう核燃料などを配置した装置。 制御された核融合の連鎖反応を維持する炉である核融合炉と区別するために、特に核分裂炉と呼ばれることもある。 U や Pu などの核分裂性物質が中性子を吸収することで発生する核分裂反応は、新たに中性子、すなわち即発中性子(prompt neutron)と遅発中性子(delayed neutron)を放出する。 これら中性子は平均約2MeVのエネルギーを持っているが、媒質中にまだ核分裂性物質が存在していれば、中性子はそれらとまた核分裂反応を起こしてまた新たな中性子を放出する。この過程は次々と繰り返され、いわゆる連鎖反応、すなわち核分裂連鎖反応(fission chain reaction)を起こす。 この核分裂連鎖反応を極めて短時間のうちに行わせ膨大なエネルギーを瞬時に放出させるものが原子爆弾であり、核分裂連鎖反応を制御した形で発生させることで、核分裂のエネルギーなどを安全に取り出すための装置を原子炉(nuclear reactor)と呼ぶ。 なお、制御された核融合反応を維持することで核エネルギーを取り出す核融合炉 については以下を参照。 ほか、人工の原子炉に似た特定の条件下では天然の核分裂炉ができることがある。知られている唯一の天然原子炉はガボン共和国のオートオゴウェ州オクロ に20億年前に形成されたオクロの天然原子炉がある。 原子炉の炉型は臨界状態を維持するのに、どのくらいの運動エネルギーの中性子を利用するのかという観点から分類することができる。 小型モジュール炉 米国エネルギー省 (DOE) は、2030年頃の実用化を目指して提唱する次世代の原子炉の一般的な概念を示すために、原子炉の開発世代を次とおりに定義した。
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原子炉とは、制御された核分裂連鎖反応を維持することができるよう核燃料などを配置した装置。 制御された核融合の連鎖反応を維持する炉である核融合炉と区別するために、特に核分裂炉と呼ばれることもある。
[[File:Crocus-p1020491.jpg|thumb|300px|[[スイス連邦工科大学ローザンヌ校]]の小型研究用原子炉 炉心]] [[画像:Hamaoka npp 2 mlit1975.jpg|thumb|300px|建設中の沸騰水型原子炉(浜岡原子力発電所)<ref>{{国土航空写真}}</ref>]] '''原子炉'''(げんしろ、{{lang-en-short|nuclear reactor}})とは、制御された核分裂連鎖反応を維持することができるよう核燃料などを配置した装置。 制御された[[核融合]]の連鎖反応を維持する炉である[[核融合炉]]と区別するために、特に[[核分裂炉]]と呼ばれることもある。 == 概要 == <sup>235</sup>U や <sup>239</sup>Pu などの[[核分裂性物質]]が中性子を吸収することで発生する[[核分裂反応]]は、新たに中性子、すなわち'''即発中性子'''(prompt neutron)と'''遅発中性子'''(delayed neutron)を放出する。 これら中性子は平均約2MeVのエネルギーを持っているが、媒質中にまだ核分裂性物質が存在していれば、中性子はそれらとまた核分裂反応を起こしてまた新たな中性子を放出する。この過程は次々と繰り返され、いわゆる連鎖反応、すなわち[[核分裂連鎖反応]](fission chain reaction)を起こす。 この核分裂連鎖反応を極めて短時間のうちに行わせ膨大なエネルギーを瞬時に放出させるものが[[原子爆弾]]であり、核分裂連鎖反応を制御した形で発生させることで、核分裂のエネルギーなどを安全に取り出すための装置を'''原子炉'''(nuclear reactor)と呼ぶ<ref>[[#安(1980)|安(1980)]] p.26</ref>。 なお、制御された核融合反応を維持することで核エネルギーを取り出す[[核融合炉]]<ref group="注釈">実用規模のエネルギーを生成可能な核融合炉はいまだ存在しないが、現在計画中の[[ITER]](国際熱核融合実験炉)では最大で50万kWの出力(熱出力)が期待されている。[http://www.naka.jaea.go.jp/ITER/iter/page1_6.php ITERの設計とは?(日本原子力研究開発機構)]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref> については以下を参照。 {{details |核融合炉}} ほか、人工の原子炉に似た特定の条件下では天然の核分裂炉ができることがある。知られている唯一の天然原子炉は[[ガボン]]共和国のオートオゴウェ州オクロ<ref group="注釈">現在でもウラン鉱床として稼働しているといわれる。</ref> に20億年前に形成されたオクロの天然原子炉がある。 {{details |オクロの天然原子炉}} == 基本構成 == [[File:加圧水型原子炉.JPG|thumb|300px|right|加圧水型原子炉]] ; 炉心 :* [[核燃料]]([[燃料棒]]) :** [[天然ウラン]] :** [[低濃縮ウラン燃料]] :** [[高濃縮ウラン燃料]] :** [[MOX燃料]] :* [[制御棒]] :* [[冷却材]]、[[減速材]] :* 反射体 ; 炉壁・容器 :* [[原子炉圧力容器|圧力容器]] :* [[原子炉格納容器|格納容器]] == 原子炉の分類 == === 中性子の主たるエネルギー領域による分類 === 原子炉の炉型は臨界状態を維持するのに、どのくらいの運動エネルギーの中性子を利用するのかという観点から分類することができる。 ; [[熱中性子炉]](thermal neutron reactor) : 減速材を用いることで速い中性子を[[熱中性子]]まで減速させ、その熱中性子によって核分裂連鎖反応が維持されるように設計された原子炉<ref group="注釈">熱中性子はウラン235を良く核分裂させることができる。なお、熱中性子炉という名前だが、高速中性子の寄与もそれなりにある。</ref><ref group="注釈">ほかに、[[熱中性子]]だけでなく[[高速中性子]]も積極的に利用しようという低減速炉と呼ばれるものもある。計算機の性能向上により炉心の精密なシミュレーションが可能になったことで研究がなされるようになったと言われる。[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_07-02-01-16.html ATOMICA 低減速炉の技術開発の進捗と課題]</ref>。 ; 中速中性子炉(intermediate reactor) : 主に中速中性子によって核分裂連鎖反応が維持されるように設計された原子炉。減速材はあまり使用しない<ref group="注釈">減速材をほとんど使用しないため中性子の損失を最小限にとどめることができる。[[#用語辞典(1974)|用語辞典(1974)]] p.212 『中速中性子炉』</ref>。 ; [[高速炉|高速中性子炉]](fast neutron reactor) : [[高速中性子]]によって核分裂連鎖反応が維持されるように設計された原子炉<ref group="注釈">高速中性子はウラン238に吸収されやすく、中性子を吸収したウラン238はプルトニウム239となるため燃料の増殖が容易である。反面、高速中性子はウラン235とは反応しにくく、また、ウラン238に吸収されてしまう分だけ核分裂に利用できる中性子の数が少なくなるため、中性子を効率よく利用できる原子炉とする必要が生ずる。なお、高速中性子は核燃料から発生する超ウラン物質を核分裂させる能力にも優れ、このため、高速炉を高レベル放射性廃棄物の[[原子核変換|消滅処理]]に利用することが検討されていると言われる。</ref>。減速材は用いない。 ==== [[減速材]]による細分類 ==== ; 軽水減速炉(light water moderated reactor、[[軽水炉]]) : 普通の水([[軽水]])を減速材に用いる原子炉<ref group="注釈">通常の[[水]]である軽水は中性子減速能が大きいが中性子吸収能も大きい。通常は減速材が冷却材を兼ねる。軽水は安価で大量に入手することができ、[[火力発電]]で使用されているため性状が良くわかっている。反面、吸収能が大きいため軽水冷却炉では濃縮されたウラン燃料を用いて発生する中性子の数を増やす必要がある。</ref>。[[沸騰水型原子炉]] (BWR)、[[加圧水型原子炉]] (PWR)の二方式が主に用いられている。 ; 重水減速炉(heavy water moderated reactor、[[重水炉]]) : [[重水]]を減速材に用いる原子炉<ref group="注釈">重水は軽水に次ぐ減速能を持ち、吸収能は小さい。従って重水炉では[[天然ウラン]]を始めとして多様な物質を[[核燃料]]として用いることができる。ただし、重水は高価である。</ref>。 ; 黒鉛減速炉(graphite moderated reactor、[[黒鉛炉]]) : [[黒鉛]]を減速材に用いる原子炉<ref group="注釈">[[炭素]]からなる黒鉛は水に次ぐ減速能を持ち常温で固体である。黒鉛は減速能を持たない物質を冷却材として用いる設計の原子炉で使用されており構造が比較的簡単な為、原子力開発能力の低い国でも使用されている。しかし発電効率が悪い反面プルトニウム239の生成効率が高い事から核兵器用プルトニウム製造に良く使用された。現在では主にガス炉の減速材として使用されている。</ref>。 ---- === 燃料の種類による分類 === ; 天然ウラン燃料炉(natural-uranium fuel reactor) : 天然ウランを燃料とする原子炉。減速材としては、重水または黒鉛が使用できる。 ; 濃縮ウラン燃料炉(enriched uranium fuel reactor) : <sup>235</sup>U を濃縮したウランを燃料とする原子炉<ref group="注釈">軽水を減速材とする場合は、濃縮ウランを使用しなければならない。</ref>。 ; プルトニウム燃料炉(plutonium fuel reactor) : プルトニウムを燃料とする原子炉。 ; トリウム系燃料炉(thorium series fuel reactor) : トリウムを親物質とし、トリウムから作られる <sup>233</sup>U を燃料として使用する原子炉。 ==== 燃料の形態による細分類 ==== ; 金属燃料炉(metallic fuel reactor) : ウラン等をそのまま金属あるいは、他の金属の合金として使用する原子炉。例として、ウラン・モリブデン合金等がある。 ; セラミック燃料炉(ceramic fuel reactor) : ウラン等を酸化物や炭化物として使用する。主として、動力炉の燃料として使用される。 ---- === [[冷却材]]の種類による分類 === ; 軽水冷却炉(light water cooled reactor) : 普通の水([[軽水]])を冷却材として使用する原子炉<ref group="注釈">軽水が減速材と冷却材を兼ねることもあれば、減速材は黒鉛や重水で冷却材は軽水と分けられることもある。</ref>。 ; 重水冷却炉(heavy water cooled reactor) : [[重水]]を冷却材として使用する原子炉。 ; ガス冷却炉(gas cooled reactor) : 空気や[[ヘリウム]]または炭酸ガス([[二酸化炭素]])を冷却材として使用する原子炉<ref group="注釈">水蒸気と異なりガスは圧力を高めなくとも高温にすることができるため初期の原子炉では二酸化炭素が冷却材として用いられた。反面、密度が小さく熱運搬能力に乏しいためガス炉による商用発電は経済性に劣り商用発電炉の主流は軽水炉に替わった。ヘリウムは、現在研究・開発が進められている1,000[[セルシウス度|度]]を越える高温を原子炉から得る高温ガス炉の冷却材として用いることが研究されている。また高速増殖炉の冷却材としてヘリウムガス冷却も検討されている。なお、日本に初めて導入された原子炉は英国製の[[マグノックス炉|ガス冷却炉]]である。</ref>。 ; [[液体金属冷却炉]](liquid metal cooled reactor) : [[水銀]]、[[ナトリウム]]、[[鉛]]、鉛・[[ビスマス]]合金などの液体金属を冷却材として使用する原子炉<ref group="注釈">液体金属は常圧で高温を得られる熱運搬能力に優れた流体であるため、配管を耐圧とする必要が無く原子炉全体を小型軽量化できる。このため艦船の動力として採用されていたが、金属を流体の状態に保つための高温の維持に苦労が多く、採用はごく少数に留まった。ナトリウムは初期の原子力潜水艦の原子力炉冷却材として採用されていた。しかし、ナトリウムは水と激しく反応するため、旧ソ連の[[アルファ級原子力潜水艦|アルファ級]]などでは低融点の鉛・ビスマス合金([[スプリンクラーヘッド]]などに使用されている)を冷却材とする原子炉が採用された。ナトリウムは中性子減速能を持たないため、高速増殖炉の冷却材として使用されている他、鉛・ビスマスも高速増殖炉冷却材として検討されている。</ref><ref group="注釈">ほか、金属ではないが溶融塩を冷却材として使用する[[溶融塩原子炉]]などの原子炉もある。</ref>。 === 出力による分類 === [[小型モジュール炉]] : 格納容器単位でモジュール化され、出力が30万kW以下の原子炉<ref>{{Cite journal|和書 |author=田中隆則 |title=小型モジュール炉(SMR)を巡る国際動向とそのインパクト |journal=日本原子力学会誌ATOMOΣ |issn=1882-2606 |publisher=日本原子力学会 |year=2018 |volume=60 |issue=7 |pages=382-386 |naid=130007827662 |doi=10.3327/jaesjb.60.7_382 |url=https://doi.org/10.3327/jaesjb.60.7_382}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=脱炭素社会の発電「小型原子炉」は選択肢か|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210428/k10012999661000.html|website=NHKニュース|accessdate=2021-05-03|last=日本放送協会}}</ref>。 ---- === 使用目的による分類 === ; 動力用原子炉(power reactor、動力炉) : 発電用あるいは船舶等の推進用の動力を得るための原子炉。 :[[原子力飛行機]]、[[原子力空母]]、[[原子力潜水艦]]、[[原子力船]]、[[原子力機関車]]などに利用される。 ; 材料試験炉(material test reactor) : 材料や燃料の照射実験を行う原子炉。プルトニウム生産炉など。 ; 多目的利用原子炉(multi purpose reactor) : 発電、海水脱塩、プロセスヒート等、複数の目的に使用する原子炉。 ; 生物医療用原子炉(bio-medical reactor) : 生物学や医療あるいは、医療用の[[同位体|アイソトープ]]の生産に使用される。 ---- ==== 開発中の原子炉の開発段階による分類 ==== ; 研究用原子炉(research reactor、研究炉)または実験用原子炉(experimental reactor、実験炉) : 原子炉の核特性の研究、教育目的、放射線や中性子線の照射実験などに用いられる原子炉<ref group="注釈">日本には以下の研究用原子炉がある。 原子力白書1961「[http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1961/sb3010201.htm 研究用原子炉]」 * 原研[[JRR-1]] [[日本原子力研究開発機構]]、[[濃縮ウラン]][[軽水炉]]([[水性均質炉|ウォーターボイラー型]])50kW、[[茨城県]][[東海村]]、1957年8月[[臨界状態|臨界]] - 1968年9月運転休止 - 廃炉。 * 原研[[JRR-2]] 日本原子力研究開発機構、90% (20%) 濃縮ウラン[[重水炉]](CP-5型)10MW、茨城県東海村、1962年4月17日臨界(90%燃料) - 1970年10月1日臨界(20%燃料) - 運用停止 * 原研[[JRR-3]] 日本原子力研究開発機構、[[天然ウラン]]重水炉(国産1号炉)10MW、茨城県東海村、1962年9月12日臨界。 * 原研[[JRR-4]] 日本原子力研究開発機構、濃縮ウラン軽水炉(プール型)1MW(最大3MW)、茨城県東海村、1965年1月28日臨界。 * 原研[[JPDR]] 日本原子力研究開発機構、濃縮ウラン軽水炉([[沸騰水型原子炉|BWR]]型)46.7MW(電力12.5MW)、茨城県東海村、1963年10月26日初臨界、日本初の電力発電。1976年3月18日運転終了 - 1996年3月31日解体終了。 * 原研[[JMTR]] 日本原子力研究開発機構、濃縮ウラン軽水炉(タンク型)50MW、茨城県大洗町、1968年3月30日臨界。 * 原研[[高温工学試験研究炉|HTTR]] 日本原子力研究開発機構、[[酸化ウラン(IV)|二酸化ウラン]][[黒鉛炉]]([[黒鉛減速ガス冷却炉|GCR]]型)30MW、茨城県大洗町、1998年11月10日臨界。 * [[近畿大学]]研究炉 (UTR-KINKI) 濃縮ウラン軽水炉([[アルゴノート炉|UTR]]型)0.1W(後に1Wに変更)、[[大阪府]][[東大阪市]](旧[[布施市]])、1961年11月11日臨界。日本初の大学所有の研究炉。 * [[立教大学]]研究炉 (RUR) 20%濃縮ウラン[[水素化ジルコニウム炉]]([[TRIGA]]-II型)100kW、[[神奈川県]][[横須賀市]]佐島字松越、1961年12月9日臨界 - 廃炉。 * [[五島育英会]]研究炉 (MITRR) [[東京都市大学]](旧[[武蔵工業大学]])、20%濃縮ウラン水素化ジルコニウム炉(TRIGA-II型)100kW、神奈川県[[川崎市]]王禅寺、1961年12月臨界 - 廃炉。 * [[京都大学]]研究炉 ([[京都大学原子炉実験所|KUR]]) 90%濃縮ウラン軽水炉(プール型)1MW - 5MW、大阪府[[熊取町]]、1964年6月25日臨界。 * [[日立グループ|日立]]研究炉 (HTR) 10%濃縮ウラン軽水炉(プール付タンク型)100kW、神奈川県川崎市王禅寺([[東京原子力産業研究所]](TAIC研)株式会社内)、建設費は約1.4億円。1961年12月25日臨界。1962年8月に[[日立製作所]]から[[東京原子力産業研究所]]に譲り渡された。休止 - 炉心解体。 * [[東芝]]研究炉 (TTR-1) 20%濃縮ウラン軽水炉(プール型)30kW(最大100kW)、神奈川県川崎市末広町([[日本原子力事業総合研究所]](NAIG研)内)、総工費は約1.5億円。1962年3月13日臨界 - 休止。 * [[三菱グループ|三菱]]研究炉 13%濃縮ウラン軽水炉(タンク型)30kWの研究炉を、[[三菱電機]]と[[三菱原子力工業]]が協力して、茨城県東海村字舟石川に設置する準備を進め、1962年8月に設置許可になっていたが、その後建設計画が取りやめになった。 * [[東京大学]]研究炉(弥生)濃縮ウラン空気冷却[[高速中性子源炉]]2kW、茨城県東海村、1971年4月臨界。2011年3月休止予定。 * [[動力炉・核燃料開発事業団|動燃]]高速実験炉([[常陽]])[[MOX燃料]]Na冷却高速中性子型([[高速増殖炉|FBR]]型)50MW、茨城県大洗町成田町 </ref>。 ; 原型原子炉(prototype reactor、原型炉) : ある特定の形式の動力炉を開発するために、それに先立って建設される実用規模に近い試作原子炉<ref>[[#用語辞典(1974)|用語辞典(1974)]] p.97 『原形炉』</ref>。 ; 実証原子炉(proven reactor、実証炉) : 実験の段階を経て経済性・安全性が実際に確証された段階にあると認められた原子炉<ref>[[#用語辞典(1974)|用語辞典(1974)]] p.152 『実証炉』</ref>。 ; 実用炉 : 実用段階の原子炉。この段階でその設計が完成したと見なされて、多数のプラントが建設される。 ---- === 開発世代による分類 === [[米国エネルギー省]] (DOE) は、2030年頃の実用化を目指して提唱する次世代の原子炉の一般的な概念を示すために、原子炉の開発世代を次とおりに定義した<ref>原子力百科事典「[http://www.rist.or.jp/atomica/database.php?Frame=./data/dat_detail.php?Title_No=07-02-01-10 第4世代原子炉 (07-02-01-10)]」</ref>。 ; [[第1世代原子炉|第1世代]] (GEN-I) : 1950年代から1960年代前半に運転を開始した初期の原子炉 ; [[第2世代原子炉|第2世代]] (GEN-II) : 1960年代後半から1990年代前半に建設された商業用原子炉 ; [[第3世代原子炉|第3世代]] (GEN-III) : 1990年代後半から2010年代頃に運転開始した原子炉で、第2世代の改良型として開発された原子炉<ref group="注釈">[[AP1000]]など</ref> ; [[第4世代原子炉|第4世代]] (GEN-IV) : 2007年現在研究が進んでいる原子炉で、[[火力発電|天然ガス火力発電]]とも競合できる高い熱効率、高度な安全性、[[放射性廃棄物]]の負担の最小化及び高度な核拡散抵抗性などの特徴をもつ革新的原子炉群。高温ガス炉は、中国で商用炉が建設中である<ref>原子力百科事典「[http://www.rist.or.jp/atomica/database.php?Frame=./data/dat_detail.php?Title_No=07-02-01-11 第4世代原子炉の概念 (07-02-01-11)]」</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist|2}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|原子力}} * [[原子力]] * [[原子力発電]] - 概要・歴史は、こちらを参照。 * [[原子力発電所]] - 主な[[発電所]]は、こちらを参照。 * [[原子炉の一覧]] * [[原子力工学]] * [[原子力事故]] - 主な事故は、こちらを参照。 * [[核分裂反応]] * [[プルサーマル]] * [[放射性廃棄物]] *[[原子力電池]] - 原子炉の代替として人工衛星などに利用されている。 * [[原子力エネルギー発生装置事件]] - 日本において、原子炉の仕組みが特許として認められるかが争われた裁判。 == 参考文献 == * 『最新核エネルギー論 エネルギー技術としての「核分裂」と「核融合」』(発行:学習研究社・1990年4月1日発行) * {{cite book | 和書 | author=安 成弘 | title=原子炉の理論と設計 | year=1980 | publisher=東京大学出版会 | series=原子力工学シリーズ | ref=安(1980) }} * {{cite book | 和書 | editor=原子力用語研究会(編) | title=図解 原子力用語辞典 | edition=新版 | publisher=日刊工業新聞社 | year=1974 | ref=用語辞典(1974) }} == 外部リンク == {{Commonscat|Schemata of nuclear reactors}} * [https://atomica.jaea.go.jp/ 原子力百科事典 ATOMICA トップページ] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_02-01-01-01.html 沸騰水型原子炉 ] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-01-01-01.html 高速増殖炉] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-02-02-01.html 重水減速沸騰軽水冷却型原子炉] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-03-01-01.html ガス冷却型原子炉の技術的進展] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-03-01-02.html 高温ガス炉概念の特徴] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-04-01-01.html 研究炉の概要] ** [https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_03-04-11-01.html トリウムを用いた原子炉] * {{EoE|Nuclear_power_reactor|Nuclear power reactor}} * {{PDFlink|[https://drive.google.com/file/d/1zui6mGN5fT0C34rMCQMtG0ygCAu1MEWF/view ソヴィエト連邦における宇宙用原子炉の開発とその実用]}} * {{Kotobank}} {{原子炉}} {{放射線}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けんしろ}} [[Category:原子力]] [[Category:原子炉|*]] [[Category:炉・燃焼機器]] [[Category:原子炉の形式|**けんしろ]] [[Category:圧力容器]]
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核分裂炉
核分裂炉(かくぶんれつろ)は、原子炉の一種で、核分裂反応の連鎖反応を制御し一定量の核分裂を継続的に行うことにより熱エネルギーを得るシステムである。 核燃料に使われるウラン235などの物質は中性子を吸収することで核分裂反応を起こし、その際に熱エネルギーと新たな複数の中性子を放出する。 燃料物質の量が多く、そこを飛び交う中性子の数が多いほど核分裂反応の起こる確率は高くなるため、一定量を超えると核分裂が複数の核分裂を引きおこし、指数的に核分裂が増えていく連鎖反応がおこる。 そこで、中性子を吸収する制御棒を使い、中性子を減らして核分裂の増加を制御することで、一定量の核分裂を継続的に行うことが可能になる。 この継続的な核分裂によって生まれた熱エネルギーを、水を気化させてタービンを回すなどの方法で利用する。 炉心を構成する基本要素は以下の通り。 原子炉の保安装置には以下のものがある。 軽水炉には以下の炉型がある。 重水炉には以下の炉型がある。 黒鉛炉には以下の炉型がある。
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核分裂炉(かくぶんれつろ)は、原子炉の一種で、核分裂反応の連鎖反応を制御し一定量の核分裂を継続的に行うことにより熱エネルギーを得るシステムである。
'''核分裂炉'''(かくぶんれつろ)は、[[原子炉]]の一種で、[[核分裂反応]]の連鎖反応を制御し一定量の核分裂を継続的に行うことにより[[熱]][[エネルギー]]を得る[[システム]]である。 ==基本原理== 核燃料に使われる[[ウラン235]]などの物質は[[中性子]]を吸収することで[[核分裂反応]]を起こし、その際に熱エネルギーと新たな複数の中性子を放出する。 燃料物質の量が多く、そこを飛び交う中性子の数が多いほど[[核分裂反応]]の起こる確率は高くなるため、一定量を超えると核分裂が複数の核分裂を引きおこし、指数的に核分裂が増えていく連鎖反応がおこる。 そこで、中性子を吸収する制御棒を使い、中性子を減らして核分裂の増加を制御することで、一定量の核分裂を継続的に行うことが可能になる。 この継続的な核分裂によって生まれた熱エネルギーを、水を気化させて[[タービン]]を回すなどの方法で利用する。 ==構成要素== ===炉心=== [[炉心]]を構成する基本要素は以下の通り。 *[[核燃料]] *:核分裂を起こしてエネルギーを発生する。 *[[冷却材]] *:[[原子炉]]で発生した熱量を運搬する。 *[[減速材]] *:[[高速中性子]]を[[熱中性子]]に減速する。高速炉では使用されない。 *反射材 *:原子炉外へ飛び出そうとする中性子を反射させて炉内へ戻す。 *[[制御棒]] *:中性子を吸収する素材でできていて核燃料の連鎖反応を制御する。 *[[原子炉圧力容器]] *:炉心を格納する圧力容器。圧力管型原子炉には無い。 ===付属装置=== *冷却材循環ポンプ *:冷却材の循環を行う。 *冷却材再循環ポンプ *:冷却材を原子炉内で循環させる。[[沸騰水型原子炉]]のみに設置される。 *[[蒸気発生器 (原子力)|蒸気発生器]] *:冷却材の熱量で蒸気を発生させる[[熱交換器]]。沸騰水型原子炉以外の炉形に設置される。 *燃料交換・保管設備 *:燃料プール、燃料交換機など。 ===保安装置=== 原子炉の[[保安装置]]には以下のものがある。 *[[原子炉格納容器]] *:原子炉圧力容器と付属装置を収める耐圧気密容器。原子炉事故の際、[[放射性物質]]の外部拡散をくい止める。 *[[非常用炉心冷却装置]](ECCS) *:緊急時、大量の[[冷却材]]を[[炉心]]に注入して原子炉内の温度・圧力を低減する。 ==種類== ===軽水炉=== [[軽水炉]]には以下の炉型がある。 *[[改良型沸騰水型軽水炉]](ABWR : Advanced BWR)[[MOX燃料]]実装可能 *[[沸騰水型原子炉]](BWR : Boiling Water Reactor) *[[改良型加圧水型軽水炉]](APWR : Advanced PWR) *[[加圧水型原子炉]](PWR : Pressure Water Reactor) *[[ロシア型加圧水型原子炉]](VVER) *[[韓国標準型原子炉]](KSNP) ===重水炉=== [[重水炉]]には以下の炉型がある。 *[[CANDU炉|カナダ型加圧重水炉]](CANDU) *[[重水減速軽水冷却炉]](SGHWR) [[新型転換炉]]はこれの一種。 *[[ガス冷却重水炉]](GCHWRまたはHWGCR) ===黒鉛炉=== [[黒鉛炉]]には以下の炉型がある。 *[[マグノックス炉|ガス冷却炉]]([[マグノックス炉]])(GCR)黒鉛減速二酸化炭素冷却炉 *[[改良型ガス冷却炉]](AGR : Advanced Gas-cooled Rractor) *[[高温ガス炉|高温ガス冷却炉]](HTGR) *[[黒鉛減速沸騰水冷却型原子炉]](RBMK) *[[黒鉛減速加圧軽水冷却型原子炉]] <!--(LWGR)--> ===開発中の原子炉=== *[[新型転換炉]](ATR : Advanced Thermal Reactor)重水減速沸騰軽水冷却炉(開発中止) *[[超高温原子炉]](ガスタービン複合発電・工業熱源原子炉) **[[高速増殖炉]](FBR : Fast Breeder Reactor) - 燃えないU238を燃えるPuに変換(開発中) **[[加速器駆動未臨界炉]](ADSR : Accelerator Driven Subcritical Reactor) - 核のゴミを燃やす(開発中) **[[熔融塩炉]] - ウランの3倍ある[[トリウム]]を燃やせる ==関連項目== {{ウィキポータルリンク|原子力}} *[[原子力工学]] *[[原子力発電]] {{原子炉}} {{核技術}} {{DEFAULTSORT:かくふんれつろ}} [[Category:原子炉]]
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デニス・ブレイン
デニス・ブレイン(Dennis Brain, 1921年5月17日 - 1957年9月1日)は、イギリスのホルン奏者である。死後の今日に至るも、世界中で最も卓越したホルン奏者のひとりとして知られる。 三代にわたってホルンの名手を産んだホルン一家の5人目の奏者。祖父、二人の伯(叔)もホルン奏者で、父オーブリー・ブレインは、BBC交響楽団の首席ホルン奏者としてロンドンの音楽界では著名な人物。SP時代の録音でホルンの活躍する曲はほとんどオーブリーによるほどである。 デニスはセントポールスクールと王立音楽院でホルンを学び、後者では教授をしていた父に師事し、ホルンとオルガンを修めた。デニスは父の相方の第2奏者として活動を始めた。1939年に録音されたモーツァルトのディヴェルティメント第17番の録音では、レナー弦楽四重奏団とブレイン父子の共演を聴くことができる。 デニス・ブレインのソリストとしての最初の活動は、ブリテンの『テノール、ホルンと弦楽器のためのセレナーデ』 (Serenade for Tenor, Horn and Strings) の初演と録音である。この作品はブレインとピーター・ピアーズのために書かれたもので、その中でブレインはホルンの技術と表現の幅を示すことができた。 ブレインは21歳でシドニー・ビーア率いるロンドン・ナショナル交響楽団の首席奏者に指名された。そのときの録音、チャイコフスキーの交響曲第5番やファリャの『三角帽子』、ワーグナー の『ジークフリートのラインへの旅』で、ブレインの際立った音調を聴くことができる。 第二次世界大戦中には英国空軍に徴兵され、イギリス空軍中央軍楽隊の首席ホルン奏者を勤めた。ピアニストのデニス・マシューズと競演したベートーヴェンのホルン・ソナタの有名な録音もあり、演奏家としての地位は揺がなかった。 大戦後、ブレインは2つの新しいオーケストラのホルンパートの首席奏者に招聘された。ウォルター・レッグが創立したばかりのフィルハーモニア管弦楽団と、トーマス・ビーチャムが創立したロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団である。この兼務が可能だったのは、当時ロンドンの多くのオーケストラが各演奏会で出演可能な演奏者の溜まり場を形成していたからであり、ブレインは双方の演奏会に毎回出演していたわけではなく、それぞれのオーケストラの録音時には出席するという実態であった。しかし、1954年4月には両方への所属が困難となり、ロイヤル・フィルを去った。 1957年9月、エディンバラ音楽祭からの帰路、トライアンフTR2に乗っていたブレインは、ロンドンまであと約33キロというハートフォードシャーのハットフィールドを通過中に運転を誤って樹木に車をぶつけて即死した。ブレインは車が好きで、譜面台には時々車雑誌が載っているほどだった。この音楽祭でのブレインの最終公演の一部はレコードに残されている。最後の演目は、アンコールとして演奏したマラン・マレのル・バスク(ピアノ伴奏はウィルフリッド・パリイ)であった。事故の翌日、ブレインはリヒャルト・シュトラウスのオペラ『カプリッチョ』の録音に参加することになっており、事情を知らない人はサヴァリッシュ指揮で彼の演奏を聞けるものと信じて疑わなかった。プーランクによる『ホルンとピアノのためのエレジー』は、ブレインを追悼して作曲されたものである。 独奏者としては、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲2曲とモーツァルトのホルン協奏曲4曲、同じくモーツァルトのホルン五重奏曲、ヒンデミットのホルン協奏曲、ブラームスのホルン三重奏などの録音を残した。 オーケストラメンバーとしてのブレインを含めた網羅的ディスコグラフィがブランディス大名誉教授Robert L. Marshallによって作成されており、国際ホルン協会のウェブ上で四訂版が公開されている。
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デニス・ブレインは、イギリスのホルン奏者である。死後の今日に至るも、世界中で最も卓越したホルン奏者のひとりとして知られる。
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火災
火災(かさい)は、火による災害。消防統計上は「人の意図に反して発生拡大または放火により発生して消火の必要がある燃焼現象であって、これを消火するために消火施設又はこれと同程度の効果のあるものの利用を必要とするもの、又は人の意図に反して発生し若しくは拡大した爆発現象」と定義される。火事(かじ)と呼ばれることもあるが、火災と火事は区別される。また、火難(かなん)などともいわれ、小規模な内に消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、消火の際に水等に濡れて汚損されて損失となる場合や、怪我人や死者がでることも頻繁にある。山林で起こる林野火災のことを特に山火事という。 火災の多くはタバコの不始末、焚き火などの火の使用、そして放火などの人為的な理由で起こる(#火災原因)。落雷や火山の噴火、乾燥した自然林が倒れる等の自然現象を原因とする場合もある。これらの火災の結果は、火災層(英語版)として地層に残る場合があり、歴史を知る証拠となる。 小規模な火災のうちに消し止められた場合は「小火」(ぼや)と呼ばれることが多く、この他に被害程度によって「半焼」(はんしょう)や「全焼」(ぜんしょう)と区別されることがある。これに対して街区全体が被害を受けるような大規模な火災では「大火」(たいか)と呼ばれる。 住宅火災などの場合は、消防隊の他に被害の拡大を防ぐため、ガス会社・電力会社・水道会社などに連絡して各社が遮断作業を行うよう手配する。 日本の消防庁では「火災報告取扱要領」において、次の3つの要素を満たすものを火災としている。 ただし、人の意図に反して発生(若しくは拡大)した爆発現象の場合は、2および3の有無にかかわらず火災とする。 また、火災となるには燃焼反応が継続する必要がある。 火災損害とは火災による直接的な損害をいい、消火のための経費、焼跡整理費、り災のための休業による損失等の間接的な損害を除いたものをいう。 焼損の程度は以下のようにに分けられる。 火事による損害は、火炎だけでなく放水での水濡れによるものがある。高圧で噴射される大量の水は、屋内の家財のみならず家そのものを破損しうる。 火災保険において、放水による損害がどのように扱われるかは契約内容によるが、一般的にはカバーされている。 火災はばい煙を発生させ、周囲の空気を汚染し、呼吸困難を引き起こす。 また、避難経路の確保も重要である。避難経路や非常口には物を置かず幅を広めにとり、視界も確保する。他に配慮する点としては身体的弱者、例えば高齢者や子供は逃げやすい場所を寝室にする、火災警報機や防火戸を設置することなどがある。避難経路、道具については実際の使い勝手を確かめることが肝要である。また、後述のように死因は煙を吸うことによる一酸化中毒が大半を占めるため、それに配慮した避難経路や道具の設置場所かを考える必要がある。 その他、総務省消防庁は、住宅防火対策の推進について、平成26年版消防白書の中で以下のとおり必要性を訴えている。 地面に寝転がり、そのまま体を転がして、燃えている部分を押し付ける形にして窒息消火を試みる。 木造家屋が多い日本では江戸時代より大火が多く、明暦の大火など江戸市街の相当部分を焼失する火災がしばしば発生した。近代では函館市の大火(1907年、1934年)や、1923年の関東大震災、1945年の東京大空襲、1995年の阪神・淡路大震災による大火、2016年の糸魚川大火が有名である。地震や空襲による火災は複数箇所で発生し、延焼地域が繋がって大火に至る場合が多い。プロパンガスを使用している場合や燃料など可燃物を設置している場合などは、ボンベの爆発等による危険を伴う。 基本的に火の使用が原因である。消防白書(令和3年)によると上位5つは上から、 であった。その他の原因もバーベキュー、蚊取り線香、薪風呂(薪ボイラー)、薪ストーブ、あぜ焼き、芝焼きなど、火を使うものこと全般が挙げられる。 たばこによる出火は喫煙率の低下に伴い1996年から減少傾向だが、死者の発生した建物火災の出火原因では、タバコが1位となっている。東京消防庁では、喫煙マナーの低下(特に、屋外での吸い殻の処理方法が不適、投げ捨て)が原因とされる。不適な処理方法が火災発生原因となった1,803件の理由のうち、半数以上の1,061件が「無造作に捨てた」である。特に冬場などは、枯草が増加する上に乾燥により延焼拡大の危険性があり、十分な注意が必要であると広報している。 令和3年度の火災のうち、3104件で全火災の8.9%を占めており、中でも「不適当な場所への放置」によるものが6割以上と大半を占める。たばこが原因の火災による損害額は、44億1627万円となっている。 強風に煽られて家屋に燃え移る。3月が突出して多い。 令和3年度のこんろによる火災のうちでは、ガスコンロの消し忘れによるものが2359件と最も多かった。 放火については、刑法上、殺人と同じ刑が定められているが、殺人年間件数約1,300件に対して、放火年間件数は約8,000件と数倍にのぼっている。なお、放火(現住建造物等放火)犯を殺人と同様に重く罰するのは木造の長屋が大半だった江戸時代からの流れを継いでいる。江戸時代には江戸でたびたび大火が起きた(江戸の火事)。 日本における放火火災は、かつて農村部に多く、「農村型犯罪」(田舎型犯罪)のように扱われてきた。背景には家族ないし近隣との人間関係の軋轢が存在することが共通条件となっている例が多数を占めた。だが現在では、自分自身が何らかの欲求不満の状態にあり、耐え難い緊張感を解消するために挑戦的な放火にはしる「都市型犯罪」に変化している。 国内における出火原因では、「放火及び放火の疑い」は減少を続けており、令和3年度は上から4番目、前年比9.4%減であった。 農家による作物残渣の焼却が延焼を起こすケースが目立つ。毎年春ごろになると、山火事への注意喚起と合わせて予防運動が行われている。 日本では毎年約5万件前後の火災が発生している。 月別に見てみると、2月・3月に多い。乾燥した気象条件の時に火災が発生しやすいからであり、実効湿度・風速と火災発生件数は相関関係にあることが判っている。そこで、毎年この時期に「春の全国火災予防運動」が実施されている。 火災による死者は、高齢者になるほど多くなる。年齢階層ごとに火災で死亡する確率を求めると、40歳を超えた辺りから、年齢に比例して死亡確率が高くなっている。これは、加齢するに従い、判断力や身体機能が衰えるからだと考えられている。ただし、直近の傾向として無職や独身住まいの男性熟年層(45〜64歳)の死亡者数が急増していることが、消防庁の調査で判明している。火災発生率の地域的な傾向を見ると、北陸地方では特に低く、東北地方では特に高くなっているが、その原因はよく判っていない。 日本では外国に比べて火災発生率が非常に低い。これは「火災予防意識が非常に高いからだ」とする説もあれば、「火災のような恥ずべきことは公にしたくない、という国民性によるものであり、火災の実数は、把握数の数倍にのぼるはず」とする説もある。ただし後者の説はさしたる証拠もなく陰謀論に近い。 出典: 2013年中の建物火災による死者数は1,254人で、火災による死者の総数に対する比率は77.2%となっている。 建物火災による死者1,254人について、建物用途別の発生状況をみると、住宅(一般住宅、共同住宅及び併用住宅をいう。以下、ことわりのない限り同じ)での死者は1,100人で、建物火災による死者の87.7%を占めている。 2013年中の住宅火災による死者を発火源別にみると、たばこによるものが141人(14.1%)で最も多く、次いでストーブ103人(10.3%)、電気器具77人(7.7%)の順となっている。 2013年中の住宅火災による死者を着火物(発火源から最初に着火した物)別にみると、寝具類に着火した火災による死者が112人(11.2%)で最も多く、次いで衣類66人(6.6%)、屑類47人(4.7%)の順となっている。 2013年中の住宅火災による年齢階層別の人口10万人当たりの死者発生数は、年齢が高くなるに従って著しく増加しており、特に85歳以上の階層では、全年齢階層における平均0.78人に比べ5.2倍となっている。 火災原因の究明と損害の調査(火災調査)は法に基づき消防が行うこととされているが、特に放火など不審火の場合、警察もまた捜査を行う。 火災の年表も参照。日付は1582年10月4日まではユリウス暦、1582年10月15日からはグレゴリオ暦で表記。江戸の火災については「江戸の火事」も参照。 16世紀以前 17世紀 18世紀 19世紀 1801 - 1867年 1868 - 1900年 20世紀前半 1901 - 1925年 1926 - 1940年 1941 - 1950年 20世紀後半 1951 - 1960年 1961 - 1965年 1966 - 1970年 1971 - 1975年 1976 - 1980年 1981 - 1985年 1986 - 1990年 1991 - 1995年 1996 - 2000年 21世紀 2001 - 2005年 2006 - 2010年 2011 - 2015年 2016 - 2020年 2021年以降 17世紀前期のアメリカ合衆国では木造建築が多く、暖房と調理に暖炉、照明に蝋燭や石油ランプが用いられるようになっていたが火災が続発し、特に17世紀中頃のボストンでの大規模火災を機に常設の消防が組織されるようになった。アメリカ合衆国では1979年に連邦危機管理庁が設置され、同庁の連邦消防局が消防行政を所管することになった。 2007年度の火災出動は804,100回で、うち384,600回が実際の火災であった。その76%が車両火災や草原火災などの戸外火災で、14%が住宅火災であった。 韓国では1958年に消防法が制定されるなど自然災害と人為災害に関する個別法が整備された。災害関連の個別法は1990年代後半に自然災害対策法と災難管理法に統合され、2004年には災難及び安全管理基本法が成立した。 中国における火災による年平均損失は、急速な工業化に伴い、1950年代には約0.6億元だったが、1960年代には約1.4億元、1970年代には2.4億元、1980年代には約3.2億元、1990年代には約10.6億元となり、2010年代前半には約15.5億元にまで達した。2011年度の火災発生件数は125,417件であった。 2006年の消防隊の出動件数は3,564,191回で、うち火災及び爆発による出動は187,604回であった。出動件数3,564,191回のうち、63.2%が常備消防隊、32.8%が義勇消防隊、4.0%が事業所消防隊の出動であった。 2008年の消防の出動件数は402万7900回で、大半は救急救助出動であり、火災出動は31万2100回 (8%) であった。2008年の火災による消防出動の割合は、住居火災が28%、乗り物火災が20%、公道上火災が17%、林野等火災が15%であった。
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"2016 - 2020年", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2021年以降", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "17世紀前期のアメリカ合衆国では木造建築が多く、暖房と調理に暖炉、照明に蝋燭や石油ランプが用いられるようになっていたが火災が続発し、特に17世紀中頃のボストンでの大規模火災を機に常設の消防が組織されるようになった。アメリカ合衆国では1979年に連邦危機管理庁が設置され、同庁の連邦消防局が消防行政を所管することになった。", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2007年度の火災出動は804,100回で、うち384,600回が実際の火災であった。その76%が車両火災や草原火災などの戸外火災で、14%が住宅火災であった。", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "韓国では1958年に消防法が制定されるなど自然災害と人為災害に関する個別法が整備された。災害関連の個別法は1990年代後半に自然災害対策法と災難管理法に統合され、2004年には災難及び安全管理基本法が成立した。", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "中国における火災による年平均損失は、急速な工業化に伴い、1950年代には約0.6億元だったが、1960年代には約1.4億元、1970年代には2.4億元、1980年代には約3.2億元、1990年代には約10.6億元となり、2010年代前半には約15.5億元にまで達した。2011年度の火災発生件数は125,417件であった。", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2006年の消防隊の出動件数は3,564,191回で、うち火災及び爆発による出動は187,604回であった。出動件数3,564,191回のうち、63.2%が常備消防隊、32.8%が義勇消防隊、4.0%が事業所消防隊の出動であった。", "title": "各地の火災" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2008年の消防の出動件数は402万7900回で、大半は救急救助出動であり、火災出動は31万2100回 (8%) であった。2008年の火災による消防出動の割合は、住居火災が28%、乗り物火災が20%、公道上火災が17%、林野等火災が15%であった。", "title": "各地の火災" } ]
火災(かさい)は、火による災害。消防統計上は「人の意図に反して発生拡大または放火により発生して消火の必要がある燃焼現象であって、これを消火するために消火施設又はこれと同程度の効果のあるものの利用を必要とするもの、又は人の意図に反して発生し若しくは拡大した爆発現象」と定義される。火事(かじ)と呼ばれることもあるが、火災と火事は区別される。また、火難(かなん)などともいわれ、小規模な内に消し止められたものは小火(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは大火(たいか)ともいう。被害は有形財産の焼失はもとより、消火の際に水等に濡れて汚損されて損失となる場合や、怪我人や死者がでることも頻繁にある。山林で起こる林野火災のことを特に山火事という。
{{Redirectlist|火事'''」及び「'''大火|「火事」の通称で知られる[[ハイドン]]の[[交響曲]]|交響曲第59番 (ハイドン)|その他の「大火」|大火 (曖昧さ回避)}} {{ウィキポータルリンク|災害}} [[File:ドン・キホーテ放火事件.jpg|thumb|建物火事([[日本]]・[[ディスカウント店]] [[ドン・キホーテ (企業)|ドン・キホーテ]]への[[放火]]、→[[ドン・キホーテ放火事件]]、[[埼玉県]][[さいたま市]]、[[2004年]])]] [[File:Zaca3.jpg|thumb|[[山火事]]({{仮リンク|ザカ火災|en|Zaca Fire}}、[[米国]] [[カリフォルニア州]] {{仮リンク|サン・ラファエル山脈|en|San Rafael Mountains}}、[[2007年]])]] '''火災'''(かさい)は、[[火]]による[[災害]]。消防[[統計]]上は「人の意図に反して発生拡大または放火により発生して消火の必要がある燃焼現象であって、これを消火するために消火施設又はこれと同程度の効果のあるものの利用を必要とするもの、又は人の意図に反して発生し若しくは拡大した爆発現象」と定義される<ref name="okayama">[https://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/29007_102055_misc.pdf 6.火災の実態] 岡山県、2021年4月3日閲覧。</ref>。'''火事'''(かじ)と呼ばれることもあるが、火災と火事は区別される<ref>{{Cite book|title=世界原色百科事典 2|date=1961年1月20日|year=1961|publisher=小学館|page=174ページ|quote=建造物や森林などが焼けることを火事といい、それによって受ける災難を火災という。}}</ref>。また、'''火難'''(かなん)などともいわれ、小規模な内に消し止められたものは'''小火'''(ぼや)、焼失面積が大きく被害が甚大なものは'''大火'''(たいか)ともいう。被害は[[有形財|有形財産]]の焼失はもとより、消火の際に水等に濡れて汚損されて損失となる場合や、怪我人や死者がでることも頻繁にある。山林で起こる林野火災のことを特に'''山火事'''という。 {{See also|山火事}} == 概説 == [[File:Juhannuskokko Imatra 2015 1.JPG|thumb|[[伐採]]した[[枝]]などを集めて[[火]]をつけている男性]] 火災の多くは[[喫煙|タバコ]]の不始末、[[焚き火]]などの火の使用、そして[[放火]]などの人為的な理由で起こる([[#火災原因]])。[[落雷]]や[[火山]]の[[噴火]]、[[乾燥]]した自然林が倒れる等の[[自然現象]]を原因とする場合もある。これらの火災の結果は、{{ill2|火災層|en|Burnt layer}}として地層に残る場合があり、歴史を知る証拠となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/special/backnumber/20180701.html |title=シリーズ 大江戸 第3集 不屈の復興!! 町人が闘った“大火の都” - NHKスペシャル |access-date=2023-10-09 |last=日本放送協会 |website=NHKスペシャル - NHK |language=ja}}</ref>。 小規模な火災のうちに消し止められた場合は「小火」(ぼや)と呼ばれることが多く、この他に被害程度によって「半焼」(はんしょう)や「全焼」(ぜんしょう)と区別されることがある。これに対して街区全体が被害を受けるような大規模な火災では「大火」(たいか)と呼ばれる{{Efn2|[[消防白書]]では33,000[[平方メートル]](約1万[[坪]])を超える焼失面積を生じたものを「大火」としている<ref>[https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/libr/qa/qa_42.htm ぼやと大火] 東京消防庁、2023年3月4日閲覧</ref>。}}。 住宅火災などの場合は、消防隊の他に被害の拡大を防ぐため、ガス会社・電力会社・水道会社などに連絡して各社が遮断作業を行うよう手配する<ref>[https://www.city.midori.gunma.jp/fuku/3shou/oomidashi_02/komidashi/003/komidashi_03.html 早く消すためのしくみ] 群馬県みどり市 2022年10月31日閲覧</ref>。 === 火災の3要素 === 日本の[[消防庁]]では「火災報告取扱要領」において、次の3つの要素を満たすものを火災としている。 * 人の意思に反して発生(放火も含む)。 * 消火の必要がある[[燃焼]]現象である{{refnest|group="注"| ;燃焼の3要素 :次の3つが燃焼の3要素である。 *[[可燃物]] *[[酸素]]供給源 *[[点火]]源}}。 * 消火施設の利用を必要とする。 ただし、人の意図に反して発生(若しくは拡大)した爆発現象の場合は、2および3の有無にかかわらず火災とする。 また、火災となるには燃焼反応が継続する必要がある<ref name="火災と消火の科学">中井多喜優著、『火災と消火の科学』、日刊工業新聞社、2011年1月25日初版1刷発行、ISBN 9784526066054</ref>。 == 種類 == === 被災物による一般的な分類 === {| class="wikitable" |- ! [[建物]]火災 | 建物やその内部の収容物が燃損した火災<ref name="okayama" /> |- ! 林野火災 | 森林、原野又は牧野が燃損した火災した火災<ref name="okayama" /> |- ! [[車両]]火災 | 自動車車両や鉄道車両などとその積載物が焼損した火災<ref name="okayama" /> |- ![[船舶]]火災 |船舶やその積載物が燃損した火災<ref name="okayama" /> |- ![[航空機]]火災 |航空機やその積載物が燃損した火災<ref name="okayama" /> |- !その他の火災<ref name="火災と消火の科学"/> |以上に分類されない火災。<br>空き地、田畑、道路、河川敷、ごみ集積場、屋外物品集積場、航空機やその積載物が燃損した火災<ref name="okayama" /> |} {{Gallery |File:家屋火災P6014971.jpg|家屋火災 |File:Forestfire2.jpg|森林火災 |File:MPOTY 2015 No More - car on fire.jpg|車両火災 |File:Fire accident in chinnamuttom.jpg|船舶火災 |File:Uni Air Flight 873 (B-17912) after accident2.jpg|航空機火災 |File:Controlled Burn - Flickr - aspidoscelis (2).jpg|道路脇での野焼き |File:Trash fire on the sidewalk (6369923559).jpg|燃やされているゴミ }} === 日本の消防法による分類 === [[File:家屋火災プロパンガス爆発の瞬間P6014951b.jpg|thumb|家屋火災で[[プロパンガス]]が爆発した瞬間(右横に[[炎]]が噴出)]] {| class="wikitable" |- !A火災(普通火災) |[[木材]]、[[紙]]などの[[一般可燃物]]で、普通住宅やビルなどの内部火災。 |- !B火災(油火災) |[[ガソリン]]などの[[石油]]類、[[食用油]]、[[可燃性]]液体、[[天然樹脂|樹脂]]類などの火災。 |- !C火災(電気火災) |[[電気室]]や[[発電機]]からの出火で、[[感電]]の危険性がある火災。 |- !D火災(金属火災) |[[マグネシウム]]、[[カリウム]]、[[ナトリウム]]などで引き起こされる火災。 |- !ガス火災 |[[都市ガス]]、[[プロパンガス]]などの[[可燃性ガス]]での火災。 |} == 損害 == [[File:Car on Fire.jpg|thumb|燃える車]] [[File:Mullen Fire shadow.jpg|thumb|猛烈な煙]] === 物的損害 === ==== 火災損害 ==== 火災損害とは火災による直接的な損害をいい、消火のための経費、焼跡整理費、り災のための休業による損失等の間接的な損害を除いたものをいう<ref name="okayama" />。 {| class="wikitable" |- ! 焼き損害 | 火災によって焼けた物や熱によって破損した物などの物的損害<ref name="okayama" /> |- ! 消火損害 | 火災時の消火活動で受けた水損、破乱、汚損などの物的損害<ref name="okayama" /> |- ! 爆発損害 | 爆発現象の破壊作用で発生した焼き損害や消火損害以外の損害<ref name="okayama" /> |} ==== 焼損の程度 ==== 焼損の程度は以下のようにに分けられる<ref name="okayama" />。 {| class="wikitable" |- ! 全焼 | 焼き損害額が火災前の建物評価額の70%以上または残存部分のみでは補修しても再使用できない状態<ref name="okayama" /> |- ! 半焼 | 焼き損害額が火災前の建物評価額の20%以上で全焼に至らない状態<ref name="okayama" /> |- ! 部分焼 | 焼き損害額が火災前の建物評価額の20%未満でぼやに至らない状態<ref name="okayama" /> |- ! ぼや | 焼き損害額が火災前の建物評価額の10%未満でかつ焼損床面積が1平方メートル未満、または焼き損害額が火災前の建物評価額の10%未満で焼損表面積が1平方メートル未満、または収容物のみ焼損した状態をいう<ref name="okayama" /> |} ==== 消火時の放水による損害 ==== [[File:Fire inside an abandoned convent in Massueville, Quebec, Canada.jpg|thumb|消防による放水]] 火事による損害は、火炎だけでなく放水での水濡れによるものがある。高圧で噴射される大量の水は、屋内の家財のみならず家そのものを破損しうる。 [[火災保険]]において、放水による損害がどのように扱われるかは契約内容によるが、一般的にはカバーされている<ref>[https://faq.sompo-japan.jp/sumai/faq_detail.html?id=80113 保険の対象となる建物内で火災が発生し、火災による損害と.../損保ジャパン ]</ref><ref>[https://www.sbisonpo.co.jp/kasai/column/column11.html 水漏れなどによる損害はどのように補償される? - SBI損保の火災保険 ]</ref>。 === 人的損害 === 火災は[[ばい煙]]を発生させ、周囲の空気を汚染し、呼吸困難を引き起こす。 {{See also|オーストラリア森林火災 (2019年-2020年)}} == 対策 == === 予防 === [[File:火の用心 (91386399).jpg|thumb|火の用心]] * そもそも火を使わない{{Efn2|大規模な山火事([[令和3年足利市山林火災]])が起きた栃木県足利市は、山林での火の使用を一律禁止する条例を策定、施行している<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/f3ae40f4442d1a6b0843121115c2347d7df2ec8e 禁煙・火の使用禁止 山林を火災から守る条例施行 足利市(とちぎテレビ) - Yahoo!ニュース — Mozilla Firefox]</ref>。}} * 火を扱う場合でも、炎から目を離さない * 十分な消火設備を用意しておく また、避難経路の確保も重要である。避難経路や[[非常口]]には物を置かず幅を広めにとり、視界も確保する。他に配慮する点としては身体的弱者、例えば高齢者や子供は逃げやすい場所を寝室にする、[[火災警報機]]や[[防火戸]]を設置することなどがある。避難経路、道具については実際の使い勝手を確かめることが肝要である。また、後述のように死因は煙を吸うことによる一酸化中毒が大半を占めるため、それに配慮した避難経路や道具の設置場所かを考える必要がある。 その他、[[総務省]][[消防庁]]は、'''住宅防火対策の推進'''について、[[平成26年]]版[[消防白書]]の中で以下のとおり必要性を訴えている。 * [[2006年]]の住宅用火災警報器設置義務化から、まもなく10年を迎え、既設[[住宅用火災警報器]]の機能劣化が懸念されることから、老朽化した[[住宅用火災警報器]]の取替えを推進するとともに、未設置世帯に対する普及促進を図っていく必要がある。 * 着火物が寝具類や衣類の場合に住宅火災死者が多く発生していることから、[http://www.jfra.or.jp/ 防炎品]の普及促進を推進していく必要がある。 === 発生時 === ==== 最初にすること ==== [[File:火災報知器 (12656192964).jpg|thumb|非常警報装置]] [[File:足助消防署01.jpg|thumb|消防署]] * 大声で「火事だー」と叫び周りの人に知らせる。声が出ないときは、[[鍋]]や[[釜]]を叩くなどして大きな音を出す。 * [[自動火災報知設備]]が設置されている場合は、発信機のボタンを押し、地区音響設備(非常ベル)を鳴動させる。 * [[119番]]に電話し、火災の発生、住所や目印、燃えているものや逃げ遅れの有無を通報する。 * 初期消火を試みる。ただし天井に火が燃え移った時点で消火を中断し、すぐ逃げること。 * 排煙設備を作動させ、排煙窓を開放する。 * 開けられる外部の窓を可能な限り開ける。(※廊下側などの内部の窓は避難経路への煙や一酸化炭素流入の原因となる為、開けてはならない。閉鎖室内での火災の場合は他に誰もいないことを確認し、窓をやドアを可能な限り閉め、内部を窒息させる) ==== 避難方法 ==== [[File:防火戸の付いた非常口.jpg|thumb|非常口]] * 逃げ遅れがもっとも危険であるため、貴重品は諦める。服装や持ち物にこだわらず、少しでも早く避難すること。 * 避難する時はお年寄り、子供などを優先すること。 * 避難経路が分からない場合や、慣れている[[非常口|避難口]]が使用不能の場合は、勘に頼らず、通路[[誘導灯]](白色)及び避難口[[誘導灯]](緑色)に従って避難すること。(停電した場合でも停電してから20分間は点灯している) * 火災の死者の大半は、火傷ではなく[[一酸化炭素中毒]]であるため、姿勢を低くして煙を吸い込まないようにすることを第一とすること。 * 煙は下ではなく上で向かうため、上階ではなく下階へ、屋内ではなく屋外へと逃げること。 * 延焼を少しでも遅らせるため、部屋のドアや窓を閉めてゆくこと。 * 炎の中を通らなければならないときは、頭から水をかぶったり、濡れたシーツなどで体を包みながら躊躇せず一気に走りぬける{{Efn2|ただし、化繊のものや天然繊維でも起毛処理のしてあるものは着火しやすいとされ、注意が必要。}}。 * 熱で変形した建物は倒壊の危険性があるため、避難後は決して現場に引き返すことはせず、できるだけ離れて待機することが望ましい。 ===== 注意が必要な設備 ===== [[File:Ascenceur clinique fmdm 2.jpg|thumb|備え付けの消火器]] *'''消火器''' :最も広く知られている消火方法であるが、火が自身の背丈より高い場合は消火器による消火を諦め、避難した方がよい。また、最も普及しているABC粉末消火器はてんぷら油火災の際などの場合、一度消火しても再燃する可能性があるので、その場合は強化液消火器を用いる。電気火災の場合は強化液消火器や泡消火器等の水気のある消火方法は用いないようにする。また、金属火災(ナトリウム等)の場合は二酸化炭素消火器は用いてはならない。 *'''消火栓''' :一人で操作が可能な2号消火栓と、2人以上で操作する1号消火栓がある。2号消火栓はホースを全て伸ばさなくてもよく、比較的誰でも取り扱えるが、1号消火栓はホースを全て伸ばした上でなければ使用できず、放水圧力が高いため、訓練経験がない人は取り扱わず、避難するようにする。 :また、火が天井に達したら放水をやめ、速やかに避難する。 *'''パニックオープン''' :自動火災報知設備と連動して常閉になっている非常口を火災時に自動的に開錠する装置。自動火災報知設備が作動していない場合は逃げられないので、自動火災報知設備が作動していない場合(非常ベルや非常放送が鳴っていない場合)や非火災の地震等で避難する場合は近くにある発信機のボタンを押し、開錠して避難する必要がある。 *'''割錠''' :普段は常閉の非常口でサムターンにカバーがされているもの。非常時はこぶしでカバーを割り、サムターンを回し、開錠して避難する。 * '''シャッター式防火戸''' :火災が発生すると作動して閉まろうとするが、シャッターの開口部は[[非常口|避難口]]ではない([[誘導灯]]もついていない)。降下している最中に挟まれてしまうと負傷したり、また、防火・煙を遮断するという意義を減らすため絶対にくぐってはならない。シャッター式の防火戸は必ずその横に誘導灯のついた避難用の扉があるので探すこと。落ち着くことは迅速な避難だけでなく、煙を吸わないためにも重要である。 :過去に小学校で誤作動で降下し始めたシャッターを見て焦った児童がシャッターをくぐろうとし、首を挟まれて死亡する事故が発生した。<ref>{{Cite web|和書|title=凶器と化した防火シャッタ |url=https://xtech.nikkei.com/dm/article/HONSHI/20051030/110264/ |website=日経クロステック|access-date=2022-12-06|language=ja |last=日経クロステック(xTECH)}}</ref>このことから[[建築基準法]]が改正(建築基準法施工例第112条14項)され、万が一、人が挟まれても、自動停止して数十センチ巻き上げ、約10秒後に再び降下を開始する、危害防止装置の取付が義務になった他、不特定多数の人が出入りする施設では防火シャッターに「きけん!!くぐるな!!」とひらがなで表記したり、シャッターの降下位置を明示するよう指導している消防署もある。 * '''[[エレベーター]]''' :地震の時と同様、止まったり閉じ込められる可能性があるので、使用してはならない。近年では[[自動火災報知設備]]と連動し、火災を感知すると避難階へ自動着床と扉の解放を行い、使用できないようになるエレベーターが主流となった。 :ただし、給電や配電に火事対策が取られた非常用エレベーターというものが存在する。高さ31メートル以上、もしくは11階建て以上の建築物には建築基準法で設置が義務付けられている。もっとも、これは高層建築での火災時に消防隊員が迅速に突入するためのものである。 * '''地下施設''' :[[地下街]]や[[地下鉄]]は人が集まり、煙も地上施設に比べてたまりやすいためにパニックや将棋倒しになりやすい。[[従業員]]・係員の指示に従って冷静に避難することが大事である。 :特に列車乗車中に火災に遭遇した場合、安易な[[ドアコック]]の操作は厳に慎まなければいけない。ドアコックを操作するとドアを手動であけることが出来るようになるが、これを作動させると運転士が異常を感知して列車を直ちに停止させてしまう。この場合、運転士・車掌は火災のために停車したということが分からず、迅速な対策がとれない。また停止場所がトンネル内や鉄橋上である場合には避難・消火の大きな妨げになる。列車内での火災を発見した場合、まずは運転士もしくは車掌に連絡し指示を仰ぐことが大切である。近年、最前部・最後部まで行かなくとも連絡をつけられる対話式の[[車内非常通報装置]](SOSボタン)が普及しつつある。この装置もボタンが押された場合は停止義務があるが、火災を検知するとすぐに運転を再開でき、安全な場所まで運行したうえで避難できることが大きな違いである。たとえば、[[大阪市交通局]]では地下鉄乗車中に火災に遭遇した場合には、安全な車両に移動したうえで、非常通報装置を使って乗務員に連絡を取り、車内に備え付けの消火器を用いて初期消火を行うべきだとの見解を示している<ref>[https://web.archive.org/web/20110107114153/http://www.kotsu.city.osaka.jp/eigyou/security/subway_tero_6.html 地下鉄に乗っているときに火災が起きたら、どうすれば良いのですか。](2011年1月7日時点のアーカイブ) 2015年6月6日閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130513174325/http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/useful/c_02/sub/01.html 福崎町役場 住民生活課広報 火災発生、どうする?](2013年5月13日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 2015年6月6日閲覧。</ref><ref>[https://www.city.shikokuchuo.ehime.jp/soshiki/56/2018.html 火事からの避難方法について - 四国中央市ホームページ — Mozilla Firefox]</ref><ref>[https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r1/chapter1/section1/para1/47626.html 2.火災による死者の状況 | 令和元年版 消防白書 | 総務省消防庁 — Mozilla Firefox]</ref>。 *'''[[緩降機]]''' :調速機、着用具、ロープによって構成される降下器具の一種。まず初めに支柱カバーを外し、展開した支柱に調速機を取り付け、ロープと反対側の着用具が巻かれたリールを外に向かって放り投げて地上階へ落とす。この時ただ単に下に落とすだけだと建物の照明やネオンサイン等の設備に引っ掛かったりし、使用不能になる場合がある為、注意する。その後、着用具を指示されている場所(脇下など)へしっかりと掛け、そのままゆっくりと窓や手すりから身を乗り出して降り、そのまま体を任せる。降下が完了したら着用具をいっぱいまで引き、反対側の着用具を調速機まで上昇させて次の人が避難できるようにする。 *'''避難袋''' :シュート状の降下器具の一種。おもり付きガイドロープ、避難袋、入口枠によって構成される。ここでは最も多く設置されている垂直式自由落下型について記述する。まず初めに本体カバーを外し、おもり付きガイドロープを放り投げる。この時、ガイドロープが外壁の照明などと絡まないよう、遠くへ投げるようにする。避難袋を徐々に降ろしながら避難袋本体が他店の等に絡まないよう、地上階の人がガイドロープを引いて誘導する。避難袋の投下が終わった後、入口枠を180°持ち上げて起こし、ロックする。入口枠へ足から入り、足を大きく広げてブレーキをかけながら徐々に降下する。この時下を見てはならない。また、前の人が降下しているときに降下を開始してはならない。 *'''ガス消火設備''' :主に消火に水が使用できない受変電室、サーバールーム、化学室等に設置されている消火設備。ハロン化合物と二酸化炭素の2種類がある。ガス消火設備が設置されている部屋で火災が発生した際は、まず人の避難を最優先とし、速やかに退避する。避難誘導員は、入口横に設置されている操作ボックスのふたを開け、避難放送を鳴動させなければならない。避難放送は操作ボックスのふたを開けると自動的に放送され、「火事です。火事です。消火剤を放出します。危険ですので直ちに避難してください。」という警告が流れる。人の避難が完了したのを確認した後、部屋のドアを締め切り、操作ボックスの起動ボタンを押し、消火剤を放出する。消火剤が放出されると消火剤充満灯が点灯又は点滅する。 :煙感知器などにより自動的に作動してしまい、避難が間に合わないと予想される場合には、避難誘導員が操作ボックスのふたを開け、緊急停止ボタンを押さなければならない。退避完了後は消火の為、速やかに起動ボタンを押すことを忘れないようにする。また、消火剤放出後に入口のドアは決して開けてはならない。 ==== 体に着火してしまった場合 ==== 地面に寝転がり、そのまま体を転がして、燃えている部分を押し付ける形にして窒息消火を試みる<ref>[https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/cmsfiles/contents/0000271/271405/kasaikarainotiwomamoru.pdf 火災から命を守る方法] 京都市</ref>。 <gallery> Aircraft Rescue Firefighting training.jpg|消防士による放水 Universal Fire Smoke (wide crop).jpg|大量の黒煙 TFD2-CXrear.jpg|排煙機 Smoke house training.jpg|ガスマスクを付けた消防隊員 </gallery> ==各地の火災== === 日本 === 木造家屋が多い日本では[[江戸時代]]より大火が多く、[[明暦の大火]]など[[江戸]]市街の相当部分を焼失する[[江戸の火事|火災がしばしば発生した]]。近代では[[函館大火|函館市の大火]]([[1907年]]、[[1934年]])や、[[1923年]]の[[関東大震災]]、[[1945年]]の[[東京大空襲]]、[[1995年]]の[[阪神・淡路大震災]]による大火、[[2016年]]の[[糸魚川大火]]が有名である。[[地震]]や[[空襲]]による火災は複数箇所で発生し、延焼地域が繋がって大火に至る場合が多い。[[プロパンガス]]を使用している場合や[[燃料]]など[[可燃物]]を設置している場合などは、[[ボンベ]]の爆発等による危険を伴う。 ==== 火災原因 ==== [[File:Smoking in Iran 04.jpg|thumb|火の付いたたばこ]] [[File:Bonfire in the woods.jpg|thumb|焚き火]] [[File:コンロ (8325752914).jpg|thumb|ガスコンロ]] [[File:放火 見張ってる (21976871951).jpg|thumb|放火犯への警告ポスター]] [[File:Control Burn.jpg|thumb|野焼き]] 基本的に火の使用が原因である。消防白書(令和3年)によると上位5つは上から、 *たばこ *焚き火 *コンロ(ガスコンロ) *放火 *火入れ(野焼き) であった<ref name="消防白書">[https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r3/63931.html 令和3年版 消防白書(PDF版) | 令和3年版 消防白書 | 総務省消防庁 — Mozilla Firefox]</ref>。その他の原因も[[バーベキュー]]<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/e276702836acc60fd8364fbfe9a15b823c02cc99 バーベキューの火広がり芝生焼く 火気禁止の白山河川敷(北國新聞社) - Yahoo!ニュース ]</ref>、[[蚊取り線香]]<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/764684 京都・右京で民家焼け1棟に延焼 「蚊取り線香たいていた」|社会|地域のニュース|京都新聞 ]</ref>、[[ボイラー|薪風呂(薪ボイラー)]]<ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/771030?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink]</ref>、[[薪ストーブ]]<ref>[https://www.town.kimino.wakayama.jp/sagasu/shobohonbu/yobou/2417.html 薪ストーブや暖炉による火災が発生しています!/紀美野町 ]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=ETMBaD4M9AM (256) 【騒然】“たき火のような音が” 家には薪ストーブも…住宅1棟全焼 福井・鯖江 - YouTube ]</ref><ref>[https://buffalonews.com/news/local/accident-and-incident/wood-stove-may-have-caused-fire-that-took-lives-of-5-teens/article_813d746e-bac9-11ec-9cc4-d3a6b4466ebd.html Wood stove may have caused fire that took lives of 5 teens | Local News | buffalonews.com ]</ref>、あぜ焼き<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/8bc597b6fe4af8801ea9aaeb835c48d769e62de9 野焼きの火が燃え広がる 踏み消そうとした男性が両足軽傷 神戸(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース ]</ref>、芝焼き<ref>[https://www.joetsu.ne.jp/178765 芝火災消火訓練「野焼き」と「たき火」は原則禁止 | ニュース | 上越妙高タウン情報 ]</ref>など、火を使うものこと全般が挙げられる。 =====たばこ===== たばこによる出火は喫煙率の低下に伴い[[1996年]]から減少傾向だが、死者の発生した建物火災の出火原因では、タバコが1位となっている<ref>{{PDFlink|[https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t51-4.pdf 脱タバコ社会の実現に向けて]}} 2008年3月4日 日本学術会議 3頁「タバコによる火災と環境汚染」</ref>。東京消防庁では、喫煙マナーの低下(特に、屋外での吸い殻の処理方法が不適、投げ捨て)が原因とされる。不適な処理方法が火災発生原因となった1,803件の理由のうち、半数以上の1,061件が「無造作に捨てた」である。特に冬場などは、枯草が増加する上に乾燥により延焼拡大の危険性があり、十分な注意が必要であると広報している。<ref>[https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/hp-kouhouka/pdf/291025.pdf 東京消防庁|たばこ火災に注意して!]</ref> 令和3年度の火災のうち、3104件で全火災の8.9%を占めており、中でも「不適当な場所への放置」によるものが6割以上と大半を占める。たばこが原因の火災による損害額は、44億1627万円となっている<ref name="hakusyo"/>。 ===== 焚き火 ===== 強風に煽られて家屋に燃え移る。3月が突出して多い<ref>[https://www.city.saitama.jp/001/011/014/010/004/p039017.html さいたま市/たき火による火災にご注意ください! — Mozilla Firefox]</ref>。 {{See also|焚き火}} ===== コンロ ===== 令和3年度のこんろによる火災のうちでは、ガスコンロの消し忘れによるものが2359件と最も多かった<ref name="消防白書"/>。 ===== 放火 ===== [[放火罪|放火]]については、[[刑法 (日本)|刑法]]上、[[殺人]]と同じ刑が定められている<ref group="注">[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[現住建造物等放火罪]]は、ともに[[死刑]]又は無期若しくは5年以上の[[懲役]]である。</ref>が、殺人年間件数約1,300件に対して、放火年間件数は約8,000件と数倍にのぼっている。なお、放火(現住建造物等放火)犯を殺人と同様に重く罰するのは木造の長屋が大半だった江戸時代からの流れを継いでいる。江戸時代には江戸でたびたび大火が起きた([[江戸の火事]])。 日本における放火火災は、かつて農村部に多く<ref>[http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h13/html/13t40110.htm 平成13年版 消防白書 総務省消防庁]</ref>、「農村型犯罪」(田舎型犯罪)のように扱われてきた。背景には家族ないし近隣との人間関係の軋轢が存在することが共通条件となっている例が多数を占めた。だが現在では、自分自身が何らかの欲求不満の状態にあり、耐え難い緊張感を解消するために挑戦的な放火にはしる「都市型犯罪」に変化している。 国内における出火原因では、「放火及び放火の疑い」は減少を続けており、令和3年度は上から4番目、前年比9.4%減であった。 ===== 火入れ(野焼き) ===== 農家による作物残渣の焼却が延焼を起こすケースが目立つ。毎年春ごろになると、山火事への注意喚起と合わせて予防運動が行われている<ref>[https://www.pref.nagano.lg.jp/shobo/happyou/20220303press.html 春の山火事予防運動特別強化月間について【3月8日~4月8日】/長野県 — Mozilla Firefox]</ref>。 {{See also|野焼き}} ==== 火災発生状況 ==== 日本では毎年約5万件前後の火災が発生している<ref name="hakusyo"/>。 ===== 月別 ===== 月別に見てみると、2月・3月に多い。乾燥した[[気象]]条件の時に火災が発生しやすいからであり、実効湿度・風速と火災発生件数は[[相関関係]]にあることが判っている。そこで、毎年この時期に「春の全国火災予防運動」が実施されている。 ===== 死者 ===== 火災による死者は、[[高齢者]]になるほど多くなる。年齢階層ごとに火災で死亡する確率を求めると、40歳を超えた辺りから、年齢に比例して死亡確率が高くなっている。これは、加齢するに従い、判断力や身体機能が衰えるからだと考えられている。ただし、直近の傾向として[[無職]]や[[独身]]住まいの男性熟年層(45〜64歳)の死亡者数が急増していることが、消防庁の調査で判明している<ref>{{PDFlink|[http://www.fdma.go.jp/neuter/topics/houdou/180810-1/180811houdou.pdf 熟年男性の危険が顕著に増大 住宅火災による死者急増の背景]}}</ref>。火災発生率の地域的な傾向を見ると、[[北陸地方]]では特に低く、[[東北地方]]では特に高くなっているが、その原因はよく判っていない{{要出典|date=2012年9月}}。 ===== 火災発生率 ===== 日本では外国に比べて火災発生率が非常に低い<ref group="注">欧米の数分の1程度とされる。</ref>。これは「火災予防意識が非常に高いからだ」とする説もあれば、「火災のような恥ずべきことは公にしたくない、という国民性によるものであり、火災の実数は、把握数の数倍にのぼるはず」とする説もある。ただし後者の説はさしたる証拠もなく[[陰謀論]]に近い。 ==== 住宅火災 ==== 出典:<ref name="hakusyo"/> 2013年中の建物火災による死者数は1,254人で、火災による死者の総数に対する比率は77.2%となっている。 建物火災による死者1,254人について、建物用途別の発生状況をみると、住宅(一般住宅、共同住宅及び併用住宅をいう。以下、ことわりのない限り同じ)での死者は1,100人で、建物火災による死者の87.7%を占めている。 ===== 住宅火災の発火源別死者数 ===== 2013年中の住宅火災による死者<ref name="放火自殺者" group="注">放火自殺者等を除く。</ref>を発火源別にみると、たばこによるものが141人(14.1%)で最も多く、次いでストーブ103人(10.3%)、電気器具77人(7.7%)の順<ref name="不明" group="注">不明を除く。</ref>となっている。 ===== 住宅火災の着火物別死者数 ===== 2013年中の住宅火災による死者<ref name="放火自殺者" group="注"/>を着火物(発火源から最初に着火した物)別にみると、寝具類に着火した火災による死者が112人(11.2%)で最も多く、次いで衣類66人(6.6%)、屑類47人(4.7%)の順<ref name="不明" group="注"/>となっている。 ===== 年齢階層別住宅火災の死者数 ===== 2013年中の住宅火災による年齢階層別の人口10万人当たりの死者発生数<ref name="放火自殺者" group="注"/>は、年齢が高くなるに従って著しく増加しており、特に85歳以上の階層では、全年齢階層における平均0.78人に比べ5.2倍となっている。 ==== 火災調査 ==== 火災原因の究明と損害の調査([[火災調査]])は法に基づき[[日本の消防|消防]]が行うこととされているが、特に放火など[[不審火]]の場合、[[日本の警察|警察]]もまた捜査を行う<ref group="注">1997年以降は毎年、放火が最大の出火原因であるため、不審火の疑いがあれば警察が放火の可能性を前提に捜査しているからだと思われる。また、[[第一発見者]]や通報者は放火の[[容疑者]]として疑われるケースが多く、警察や消防は[[野次馬]]の[[写真]]を撮っておき、後の[[捜査]]に使用することがある。</ref>。 ==== 日本における主な大規模火災 ==== [[ファイル:Tukiokayositosi-YaoyaOsichi.png|thumb|[[月岡芳年]] 松竹梅湯嶋掛額([[八百屋お七]])]] [[火災の年表]]も参照。日付は[[1582年]][[10月4日]]までは[[ユリウス暦]]、1582年[[10月15日]]からは[[グレゴリオ暦]]で表記。[[江戸]]の火災については「[[江戸の火事]]」も参照。 16世紀以前 * [[1177年]][[5月27日]] - [[安元の大火]](通称「太郎焼亡」。[[平安京]]の三分の一を焼失) * [[1178年]][[4月13日]] - [[治承の大火]](通称「次郎焼亡」。平安京の[[七条通|七条]][[東洞院通|東洞院]]から出火、[[朱雀大路]]に至るまでの三十数町を焼失) * [[1181年]][[1月15日]] - [[南都焼討]]([[平氏]]の攻撃により、[[奈良]]の市街地と[[東大寺]]、[[興福寺]]の大半を焼失。死者数千人) 17世紀 [[ファイル:Meireki fire.JPG|thumb|250px|[[明暦の大火]]。焼け出される者、救出に駆けつける者などで混乱した様子が見て取れる。]] * [[1601年]][[11月2日]] - [[慶長六年大火]](「江戸駿河町火有り、全市燃亡す。[[徳川家康]]入府後第一の大火也」) * [[1657年]][[3月2日]] - [[明暦の大火]]([[江戸城]]・[[武家屋敷]]・[[町屋]]を焼いた。死者3 - 10万名) * [[1683年]][[1月25日]] - [[天和の大火]] * [[1698年]][[10月9日]] - [[勅額火事]](死者3,000名以上) 18世紀 * [[1708年]][[4月28日]] - [[宝永の大火]]([[京都御所]]被災の[[京都]]での大火災) * [[1772年]][[4月1日]] - [[明和の大火]](死者・行方不明者19,000名以上) * [[1788年]][[3月7日]] - [[天明の京都大火]](死者約150名または約1,800名) 19世紀 1801 - 1867年 [[ファイル:Kawaraban-of-1855-Ansei-Edo-earthquake.png|thumb|[[安政の大地震]]絵図]] * [[1806年]][[4月22日]] - [[文化の大火]](死者1,200名以上) * [[1837年]][[3月25日]] - 大塩焼け([[大塩平八郎の乱]]による戦火で[[大阪市|大坂]]市街の5分の1を焼失。死者270人以上) * [[1855年]][[11月11日]] - [[安政の大地震]]による火災 * [[1864年]][[8月19日]] - [[どんどん焼け]]([[禁門の変]]による出火が大火に発展) 1868 - 1900年 * [[1897年]][[4月22日]] - [[八王子大火]]([[東京都|東京府]][[八王子市]]、死者42名、焼失棟数3,100棟) * [[1900年]][[1月23日]] - [[光明寺村女工焼死事件]]([[愛知県]][[一宮市]]、死者31名) 20世紀前半 1901 - 1925年 [[ファイル:Metropolitan Police Office after Kanto Earthquake.jpg|thumb|[[大正関東地震]]([[関東大震災]])で炎上中の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の日比谷赤煉瓦庁舎。1923年(大正12年)9月1日。]] * [[1921年]][[4月6日]] - 東京の[[浅草]]で大火。約1200戸が焼失<ref>下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p343 河出書房新社 2003年11月30日刊 {{全国書誌番号|20522067}}</ref>。 * [[1923年]][[9月1日]] - [[大正関東地震]]([[関東大震災]])に伴う火災。 1926 - 1940年 * [[1932年]][[12月16日]] - [[白木屋 (デパート)|白木屋]]百貨店火災([[東京都|東京府]]東京市日本橋区(現在の東京都中央区)、死者14名。日本初の高層建築火災) * [[1934年]][[3月21日]] - [[函館大火]]([[函館市]]、死者2,166名、焼損棟数11,105棟) * [[1940年]][[1月29日]] - [[西成線列車脱線火災事故]]([[大阪市]]此花区、死者189名) 1941 - 1950年 * [[1944年]]-[[1945年]] - [[日本本土空襲]]に伴う[[焼夷弾]]([[ナパーム弾]])による火災 * [[1947年]] ** [[4月20日]] - [[飯田大火]](死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟) ** [[11月27日]] - [[新潟県]][[高田市]]の精神病院が火災。死者20人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=68 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1948年]][[1月5日]] - 宮崎脳病院の保護室から出火([[宮崎県]][[宮崎市]]、死者12人) * 1948年[[6月28日]] - [[福井地震]]による火災。 * [[1950年]][[4月14日]] - 京急トレーラーバス火災([[横須賀市]]の二級国道134号、死者16名) 20世紀後半 1951 - 1960年 * [[1951年]] ** [[4月24日]] - [[桜木町事故]]([[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]、死者106名) ** [[5月19日]] - [[北海道]][[浜中村]][[映画館]][[北海道浜中村映画館火災|火災]](現・[[浜中町]]、死者39名) * [[1952年]][[4月17日]] - [[鳥取大火]]([[鳥取市]]) * [[1954年]][[9月26日]] - [[洞爺丸台風]]による[[北海道]][[岩内大火]] * [[1955年]] ** [[2月17日]] - [[聖母の園養老院火災]]([[横浜市]][[戸塚区]]、死者99名) ** [[6月18日]] - [[式場精神病院火災]]([[千葉県]][[市川市]]、死者18名) ** [[10月1日]] - [[新潟大火 (1955年)|新潟大火]]([[新潟市]]、行方不明者1名) * [[1956年]][[9月10日]] - [[魚津大火]]([[富山県]][[魚津市]]、死者5名) * [[1958年]][[12月27日]] - [[古仁屋大火]]([[鹿児島県]][[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]][[瀬戸内町]]) * [[1960年]][[10月29日]] - 香流精神病院火災([[愛知県]]守山市(現在の[[名古屋市]][[守山区]])、死者5名) 1961 - 1965年 * [[1961年]][[5月29日]] - 三陸大火、[[岩手県]]三陸沿岸一帯、死者5人<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10957290 |title=「昭和36年5月末の三陸沿岸大火による森林被災状況についての調査報告」(1965-02)|publisher=東北支場経営部経営第4研究室|accessdate=2020年12月13日}}</ref>) * [[1962年]][[1月7日]] - 佐藤病院火災(東京都[[北多摩郡]]狛江町(現在の[[狛江市]])、死者7名) * [[1963年]] ** [[4月2日]] - [[日暮里大火 (1963年)|日暮里大火]](東京都[[荒川区]]、焼失36棟) ** [[8月22日]] - [[西武百貨店火災]](東京都[[豊島区]]、死者1名) * [[1964年]] ** [[3月18日]] - 伊丹市病院火災(兵庫県[[伊丹市]]、死者9名) ** [[3月22日]] - [[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]大火(焼失棟数150棟)<ref>[[朝日新聞]]昭和39年3月22日夕刊記事</ref> ** [[4月30日]] - [[福島県]][[南会津郡]][[伊南村 (福島県)|伊南村]]大火(焼失棟数145棟) ** [[5月7日]] - [[青森県]][[下北郡]][[大畑村]]大規模火災(消防団員2名怪我、39棟全焼) ** [[5月14日]] - [[秋田県]][[北秋田郡]][[上小阿仁村]]大規模火災(80棟全焼) ** [[5月15日]] - [[北海道]][[利尻郡]][[利尻町]]大規模火災(230戸全焼) ** [[6月16日]] - [[新潟地震]]による石油コンビナート火災 ** [[7月14日]] - [[品川勝島倉庫爆発火災]](東京都[[品川区]]、死者19名) ** [[11月18日]] - 尼崎市大火([[兵庫県]][[尼崎市]]、死者7名) * [[1965年]][[1月11日]] - [[大島大火]]([[東京都]][[大島町]](伊豆大島)、島の中心・元町が全焼、壊滅、死者は無し) 1966 - 1970年 * [[1966年]] ** [[1月9日]] - [[金井ビル火災]]([[神奈川県]][[川崎市]]、死者12名) ** [[3月11日]] - [[菊富士ホテル火災]]([[群馬県]][[水上町]]、死者30名) * [[1967年]][[6月18日]] - [[山陽電鉄爆破事件]](兵庫県[[神戸市]][[垂水区]]、死者2名) * [[1968年]] ** [[6月16日]] - [[横須賀線電車爆破事件]](神奈川県[[鎌倉市]]、死者1名) ** [[11月2日]] - [[池之坊満月城火災]](兵庫県[[神戸市]][[兵庫区]](現在の北区)[[有馬温泉]]、死者30名) * [[1969年]][[2月5日]] - [[磐光ホテル火災]]([[福島県]][[郡山市]]、死者31名) * [[1970年]][[4月8日]] - [[天六ガス爆発事故]](大阪市北区・[[大淀区]](現在は両区が合併し北区)、死者79名) 1971 - 1975年 * [[1971年]] ** [[1月2日]] - [[寿司由楼火災]]([[和歌山市]]、死者16名) ** [[5月27日]] - [[呉市山林火災]]([[広島県]][[呉市]]、死者18名) * [[1972年]] ** [[5月13日]] - [[千日デパート火災]](大阪市南区(現在の中央区)、死者118名) ** [[8月2日]] - [[日本の鉄道に関する事件#近鉄奈良線爆破事件|近鉄奈良線爆破事件]]([[奈良市]]) ** [[11月6日]] - [[北陸トンネル火災事故]]([[福井県]][[敦賀市]]、死者30名) * [[1973年]] ** [[3月8日]] - 済生会八幡病院火災(福岡県[[北九州市]][[八幡区]](現在の八幡東区)、死者13名) ** [[5月28日]] - [[第6ポールスタービル火災]](東京都新宿区、死者1名) ** [[11月29日]] - [[大洋デパート火災]]([[熊本市]]、死者104名) 1976 - 1980年 * [[1976年]][[10月29日]] - [[酒田大火]]([[山形県]][[酒田市]]、死者1名) * [[1977年]][[2月6日]] - 札幌市白石区病院火災([[札幌市]][[白石区]]、死者4名) * [[1978年]][[3月10日]] - [[今町会館ビル火災]]([[新潟市]]、死者11名) * [[1979年]][[7月11日]] - [[日本坂トンネル火災事故]]([[静岡県]][[静岡市]]及び[[焼津市]]、死者7名) * [[1980年]] **[[8月16日]] - [[静岡駅前地下街爆発事故]]([[静岡市]]、死者15名、負傷者238名) ** [[8月19日]] - [[新宿西口バス放火事件]]([[東京都]][[新宿区]]、死者6名) ** [[11月20日]] - [[川治プリンスホテル火災]]([[栃木県]][[川治温泉]]、死者45名、負傷者62名) 1981 - 1985年 * [[1981年]][[10月16日]] - [[北炭夕張新炭鉱ガス突出事故]]による坑内火災([[北海道]][[夕張市]]、死者93名、負傷者140名) * [[1982年]] ** [[2月8日]] - [[ホテルニュージャパン火災]]([[東京都]][[千代田区]]、死者33名、負傷者34名) ** [[3月18日]] - [[佐世保重工業]]構内蛇島岸壁船舶火災([[長崎県]][[佐世保市]]、死者10名、負傷者2名) * [[1983年]] ** [[2月21日]] - [[蔵王観光ホテル火災]]([[山形市]]、死者11名、負傷者13名) ** [[11月22日]]- [[つま恋ガス爆発事故]]([[静岡県]][[掛川市]]、死者14名、負傷者27名) * [[1984年]][[1月18日]] - [[三井有明鉱火災事故]]([[福岡県]][[大牟田市]]、死者83名、負傷者99名) 1986 - 1990年 * [[1986年]][[2月11日]] - [[ホテル大東館火災]]([[静岡県]][[賀茂郡]][[東伊豆町]]、死者24名) * [[1987年]][[6月6日]] - [[東京都]][[東村山市]]の[[老人ホーム]]火災(死者17名) * [[1990年]][[3月18日]] - [[長崎屋火災]]([[兵庫県]][[尼崎市]]、死者15名) 1991 - 1995年 [[ファイル:Hanshin-Awaji earthquake 1995 346.jpg|thumb|[[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])での消火活動(1995年1月17日)]] * [[1993年]][[7月12日]] - [[北海道南西沖地震]]による火災([[北海道]][[奥尻島]]) * [[1994年]][[12月21日]] - [[飯坂温泉]]の旅館火災(福島県[[福島市]]、死者5名) * [[1995年]][[1月17日]] - [[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])に伴う大規模火災(兵庫県[[神戸市]]など) 1996 - 2000年 * [[2000年]] ** [[2月]] - [[長崎県]][[池島炭鉱]]の坑内火災([[長崎市]]) ** [[3月2日]] - [[テレクラ放火殺人事件]](神戸市中央区、死者4名) 21世紀 2001 - 2005年 * [[2001年]] ** [[5月8日]] - [[武富士弘前支店強盗殺人・放火事件]]([[青森県]][[弘前市]]、死者5名) ** [[9月1日]] - [[歌舞伎町ビル火災]](東京都新宿区、死者44名) * [[2003年]][[9月26日]]から[[9月28日]] - [[出光興産]][[北海道製油所]]タンク火災(死者無し) * [[2004年]][[12月13日]] - [[ドン・キホーテ放火事件]]([[さいたま市]][[緑区 (さいたま市)|緑区]]、死者3名) 2006 - 2010年 * [[2007年]][[12月21日]] - [[三菱化学]]鹿島事業所[[エチレン]]プラント火災([[茨城県]][[神栖市]]、死者4名) * [[2008年]] **[[7月29日]]から[[8月5日]] - [[新日本製鐵]][[日本製鉄九州製鉄所八幡地区|八幡製鐵所]]コークス炉設備・[[可燃性ガス]]火災(福岡県[[北九州市]][[八幡東区]]、死者無し) ** [[8月3日]] - [[熊野町ジャンクション火災事故]](東京都板橋区) ** [[10月1日]] - [[大阪個室ビデオ店放火事件]]([[大阪市]][[浪速区]]、死者16名) * [[2009年]] **[[3月20日]] - [[群馬県]][[渋川市]]の[[老人ホーム]]火災([[群馬県]][[渋川市]]、死者10名) ** [[7月5日]] - [[大阪此花区パチンコ店放火殺人事件]]([[大阪市]][[此花区]]、死者4名、負傷者19名) 2011 - 2015年 [[File:Buaning Oil refinery at Sendai port.JPG|thumb|[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴う[[仙台港]]での火災(2011年3月13日)]] * [[2011年]][[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴う[[津波火災]] * [[2012年]][[5月13日]] - [[福山ホテル火災]]([[広島県]][[福山市]]、死者7名) * [[2013年]][[10月11日]] - [[福岡市整形外科医院火災]]([[福岡県]][[福岡市]][[博多区]]、死者10名) 2016 - 2020年 * [[2016年]][[12月22日]] - [[糸魚川市大規模火災|糸魚川大火]]([[新潟県]][[糸魚川市]]、焼失144棟)<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJDQ72NSJDQUTIL05M.html 新潟・糸魚川の火災鎮圧 延焼7万5千平米に](朝日新聞デジタル、2016年12月22日閲覧)</ref> * [[2017年]][[12月17日]] - [[大宮風俗ビル火災|大宮風俗店火災]]([[さいたま市]][[大宮区]]、死者5名) * [[2019年]][[7月18日]] - [[京都アニメーション放火殺人事件]]([[京都市]][[伏見区]]、死者36名、負傷者34人) 2021年以降 * [[2021年]] ** [[2月21日]] - [[令和3年足利市山林火災]](栃木県[[足利市]]) ** [[3月14日]] - 徳島雑居ビル放火事件([[徳島市]]) ** [[11月29日]] - 舞洲日立物流倉庫放火事件([[大阪市]][[此花区]]) ** [[12月17日]] - [[北新地ビル放火殺人事件]](大阪市[[北区 (大阪市)|北区]]、死者25名、負傷者3人) * [[2022年]] ** [[2月1日]] - [[クリーンパーク茂原火災]]([[宇都宮市]]) ** [[2月11日]] - [[三幸製菓]]荒川工場火災(新潟県[[村上市]]、死者6人) ** [[6月13日]] - 草加市建材店放火事件([[埼玉県]][[草加市]]) * [[2023年]](令和5年) ** [[1月22日]] - 神戸市兵庫区アパート火災(兵庫県神戸市[[兵庫区]]、死者4人) ** [[3月7日]] - 大阪市都島区マンション火災 ** [[7月3日]] - 新橋ビル爆発事故(東京都港区) ** [[9月5日]] - [[山陽自動車道]][[尼子山トンネル]]車両火災([[兵庫県]][[相生市]]) ===アメリカ === [[File:Big Tex fire.2 retouched.jpg|thumb|テキサス州での火事]] [[ファイル:Chicago-fire1.jpg|thumb|300px|ハーパーズ・ウィークリーに掲載されたジョン・R・チェーピンの描く[[シカゴ大火]]]] 17世紀前期のアメリカ合衆国では[[木造建築]]が多く、[[暖房]]と[[調理]]に[[暖炉]]、[[照明]]に[[蝋燭]]や石油ランプが用いられるようになっていたが火災が続発し、特に17世紀中頃のボストンでの大規模火災を機に常設の[[消防]]が組織されるようになった<ref name="kaigai">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/04America.pdf アメリカの消防事情(改訂版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。[[アメリカ合衆国]]では[[1979年]]に連邦危機管理庁が設置され、同庁の連邦消防局が消防行政を所管することになった<ref name="kaigai" />。 * [[1871年]][[10月8日]] - [[シカゴ大火]] * [[1906年]][[4月18日]] - [[サンフランシスコ地震]] * [[1962年]][[5月]]〜 - [[セントラリア (ペンシルベニア州)|セントラリア]]の坑内火災 *[[2001年]][[9月11日]] - [[アメリカ同時多発テロ]]による[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター]]の火災 * [[2020年]][[カリフォルニア州]]の大規模[[山火事]]([[:en:2020 California wildfires|2020 California wildfires]]) * [[2023年]][[8月8日]]〜[[8月11日|11日]] - [[ハワイ・マウイ島山火事]] ===イギリス === [[File:Grenfell Tower fire (wider view).jpg|thumb|グレンフェルタワー火災。死者70人]] 2007年度の火災出動は804,100回で、うち384,600回が実際の火災であった<ref name="United_kingdom">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/01United_kingdom.pdf イギリスの消防事情(新版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。その76%が車両火災や[[草原]]火災などの戸外火災で、14%が[[住宅]]火災であった<ref name="United_kingdom" />。 * [[1666年]][[9月1日]] - [[ロンドン大火]] * [[1918年]][[2月26日]] - [[ハッピーバレー競馬場火災]]([[イギリス領香港]]) * [[1985年]][[5月11日]] - [[ブラッドフォード・サッカー場火災]] * [[1992年]][[11月20日]] - [[1992年ウィンザー城火災|ウィンザー城火災]] * [[2017年]][[6月14日]] - [[グレンフェル・タワー火災]] ===イタリア === * [[64年]][[7月19日]] - [[ローマ大火]] === 韓国 === [[大韓民国|韓国]]では1958年に[[消防]]法が制定されるなど自然災害と人為災害に関する個別法が整備された<ref name="Korea">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/05South_Korea.pdf 韓国の消防事情(新版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。災害関連の個別法は[[1990年代]]後半に[[自然災害]]対策法と災難管理法に統合され、[[2004年]]には災難及び安全管理基本法が成立した<ref name="Korea" />。 *[[1971年]][[12月25日]] - [[大然閣ホテル火災]]([[大韓民国|韓国]][[ソウル市]]) *[[2003年]][[2月18日]] - [[大邱地下鉄放火事件]] *[[2009年]][[11月14日]] - [[釜山射撃場火災]] ===中国 === [[File:Shanghai jiaozhou road fire.jpg|thumb|[[2010年上海マンション火災|上海のマンション火災]]。死者58人、行方不明者56人]] [[中国]]における火災による年平均損失<ref group="注">香港、マカオ、台湾を除く統計。森林、草原、軍隊及び炭坑の地下火災を除く数値。</ref>は、急速な[[工業化]]に伴い、[[1950年代]]には約0.6億[[人民元|元]]だったが、[[1960年代]]には約1.4億元、1970年代には2.4億元、1980年代には約3.2億元、1990年代には約10.6億元となり、[[2010年代]]前半には約15.5億元にまで達した<ref name="China">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/06China.pdf 中国の消防事情(新版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。2011年度の火災発生件数は125,417件であった<ref name="China" />。 * [[1874年]]〜[[2004年]] - [[新疆ウイグル自治区]]の[[リュウファンゴウ炭鉱]]([[硫黄溝炭田]])の火災。130年間燃え続けた *[[2009年]][[2月9日]] - [[中央電視台電視文化センター火災]] * [[2010年]][[11月15日]] - [[2010年上海マンション火災]] ===ドイツ === 2006年の消防隊の出動件数は3,564,191回で、うち火災及び爆発による出動は187,604回であった<ref name="Germany">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/02Germany.pdf ドイツの消防事情(新版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。出動件数3,564,191回のうち、63.2%が常備[[消防隊]]、32.8%が義勇消防隊、4.0%が事業所消防隊の出動であった<ref name="Germany" />。 * [[1842年]][[5月5日]]〜[[5月8日|8日]] - [[ハンブルク大火]] ===フランス === 2008年の[[消防]]の出動件数は402万7900回で、大半は救急救助出動であり、火災出動は31万2100回 (8%) であった<ref name="France">[http://www.kaigai-shobo.jp/pdf/03France.pdf フランスの消防事情(新版)] 海外消防情報センター、2017年8月15日閲覧。</ref>。2008年の火災による消防出動の割合は、[[住居]]火災が28%、[[乗り物]]火災が20%、[[公道]]上火災が17%、林野等火災が15%であった<ref name="France" />。 * [[1903年]][[8月10日]] - [[パリメトロ火災]] * [[2019年]][[4月15日]] - [[ノートルダム大聖堂の火災]] ===その他=== *[[1974年]][[2月1日]] - [[ジョエルマビル火災]] *[[2007年]][[6月28日]]〜[[9月3日]] - [[2007年ギリシャ山林火災]] ==慣用句== * [[地震]]、[[雷]]、火事、[[親父]] - 怖いものの代表とされたもの。 * [[火事場の馬鹿力]] - [[命]]に関わる緊急事態に際して、行為者本人も驚くような、限界を超えた力が発揮されること。また、その現象。 * [[サンマ]]焼いても[[家屋|家]]焼くな - [[防災|防火]]を呼びかける[[慣用句]]。 *[[竹]]屋の火事 - たくさん置かれた竹が燃えるとはじけてポンポン鳴ることから、言いたい事をポンポン言うこと。 *[[対岸]]の火事、隔岸観火 - 自分には[[災害]]が及ばないと、苦痛を感じないこと、親身に思わないこと。 * 星火燎原 - 小さな火元でも放っておくと野原を焼き尽くすほどに広がる。 * 焦眉の急、燃眉之急、[[眉]]に火が点く - [[眉毛]]が焦げるほど、火災や問題が目前に迫っていること、直ぐに対応しなければならないこと。 ==迷信、俗信、宗教における火災 == [[画像:火事よけのまじない.jpg|thumb|「水」と書かれた火災よけのまじない]] [[画像:鯉.jpg|thumb|火事にならないようにと[[鯉]]を配した鬼瓦]] *[[妊娠]]中に火事を見ると、赤い[[痣]]のある[[子供]]が生まれるとされる。 *[[建物]]の[[屋根]]や[[壁]]に「[[水]]」と書いておく、または、水に関連した[[魚]]、[[巴]]などを飾りとしておくと火災にならないとされる。[[日本の城]]の[[鯱]]もそのひとつ。逆に日本の[[木造建築|木造建物]]には火を連想させる装飾は少ない。 * 火除けの札として、[[京都市|京都]]の[[愛宕信仰|愛宕神社]]のものなど。 * [[ヒガンバナ]]の花を持って帰ると火事になると言われる。花の色形が炎のように見えることから。 * [[仏教]]では火災は生きとし生けるものの[[瞋|瞋恚]]が原因で発生するものであると説いている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|2}} === 出典 === {{Reflist|3|refs= <ref name="hakusyo">[http://www.fdma.go.jp/html/hakusho/h26/h26/html/1-1a-0.html 平成26年版消防白書]</ref> }} == 関連項目 == * [[火災の年表]] * [[火災保険]] * [[山火事]] * [[放火及び失火の罪]] * [[江戸の火事]] * [[消火設備]] * [[消火器]] * [[消防]] / [[日本の消防]] * [[耐燃性]] / [[可燃性]] * [[フェーン現象]] * [[バックドラフト]] * [[フラッシュオーバー]] * [[一酸化炭素]] * [[火事場泥棒]] * [[火遊び]] * [[長期使用製品安全点検制度]] * [[長期使用製品安全表示制度]] * [[電気火災]] * [[電気事故]] * [[ナパーム弾]] == 外部リンク == {{Commonscat|Fires}} {{Wikiquote|火事}} * [https://www.fdma.go.jp/pressrelease/statistics/ 消防統計(火災統計)] - [[総務省消防庁]] * [https://www.bousaihaku.com/ 消防防災博物館] * [https://www.jfra.or.jp/ 日本防炎協会] * [https://www.jafse.org/ 日本火災学会] * {{YouTube|c=UCGbON_n_oeTlScY8fhpwDnA|防炎チャンネル}} *「[https://globalnewsview.org/archives/11283 世界は燃えている:報道は的確になされているか?]」.Global News View(GNV), Yoshinao Araki, 2020年2月6日 {{Normdaten}} {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect1=火事|1-1=冬の季語|redirect2=大火|2-1=冬の季語}} {{DEFAULTSORT:かさい}} [[Category:火災|*]] [[Category:消防]]
2003-09-09T07:59:27Z
2023-12-06T11:17:15Z
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15,924
66
66(六十六、ろくじゅうろく、むそむ、むそじあまりむつ)は自然数、また整数において、65の次で67の前の数である。
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{{整数|Decomposition=2 × 3 × 11}} '''66'''('''六十六'''、ろくじゅうろく、むそむ、むそじあまりむつ)は[[自然数]]、また[[整数]]において、[[65]]の次で[[67]]の前の数である。 == 性質 == *66は[[合成数]]であり、正の[[約数]]は[[1]], [[2]], [[3]], [[6]], [[11]], [[22]], [[33]], 66である。 **約数の和は[[144]]。 ***自身を除く約数の和は[[78]]であり13番目の[[過剰数]]である。1つ前は[[60]]、次は[[70]]、 ***約数の和が[[平方数]]になる4番目の数である。1つ前は[[22]]、次は[[70]]。 *** [[約数関数]]から導き出される数列 <math>a_n=\sigma(a_{n-1})</math> はその初期値によって異なる数列になる。異なる数列になる11番目の初期値(最小の値)を表す数である。1つ前は[[52]]、次は[[81]]。(ただし1を除く)({{OEIS|A257348}}) *66 = 1 + 2 + 3 + 4 + 5 + 6 + 7 + 8 + 9 + 10 + 11 **11番目の[[三角数]]である。1つ前は[[55]]、次は[[78]]。 ***三角数ですべての桁が同じ数(ゾロ目)である5番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[666]]。({{OEIS|A045914}}) ***[[三角数]]が[[過剰数]]になる2番目の数である。1つ前は[[36]]、次は[[78]]。({{OEIS|A074315}}) *** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和で表せる5番目の[[三角数]]である。1つ前は[[55]]、次は[[136]]。({{OEIS|A119977}}) ***66 = 21 + 45 ****2つの異なる三角数の和で表せる4番目の三角数である。1つ前は[[55]]、次は[[91]]。({{OEIS|A112352}}) *** 66 = 1 + 10 + 55 = 6 + 15 + 45 ****3つの異なる[[三角数]]の和で表せる5番目の三角数である。1つ前は[[55]]、次は[[91]]。({{OEIS|A112353}}) ***5番目の[[素数]]番目の三角数である。1つ前は[[28]]、次は[[91]]。({{OEIS|A034953}}) **6番目の[[六角数]]である。1つ前は[[45]]、次は[[91]]。 *16番目の[[回文数]]である。1つ前は[[55]]、次は[[77]]。 **1桁の数を除くと6番目の[[回文数]]である。 **回文数において最小の[[過剰数]]である。次は[[88]]。({{OEIS|A098775}}) ** 3つの回文数の積で表せる3番目の回文数である。1つ前は[[44]]、次は[[88]]。({{OEIS|A078895}}) *3番目の[[楔数]]である。1つ前は[[42]]、次は[[70]]。 **三角数の楔数としては最小の数である。次は[[78]]。 **ハーシャッド数でない最小の楔数である。次は[[78]]。 *[[ハーシャッド数]]でない6の倍数のうち最小の数である。次は[[78]]。 *66 = [[5]] + [[61]] = [[7]] + [[59]] = [[13]] + [[53]] = [[19]] + [[47]] = [[23]] + [[43]] = [[29]] + [[37]] **2つの[[素数]]の和6通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[60]]、次は[[72]]。({{OEIS|A066722}}) *66{{sup|2}} + 1 = 4357 であり、''n''{{sup|2}} + 1 の形で素数を生む15番目の数である。1つ前は[[56]]、次は[[74]]。 *{{sfrac|1|66}} = 0.0{{underline|15}}… (下線部は[[循環節]]で長さは2) **[[逆数]]が[[循環小数]]になる数で[[循環節]]が2になる6番目の数である。1つ前は[[55]]、次は[[88]]。({{OEIS|A070022}}) * [[各位の和]]が12になる4番目の数である。1つ前は[[57]]、次は[[75]]。 * 各位の積が[[各位の和]]の3倍になる最小の数である。次は[[159]]。({{OEIS|A062035}}) **''k'' 倍になる最小の数とみたとき1つ前は[[36]] (2倍)、次は[[88]] (4倍)。({{OEIS|A126789}}) *各位の[[平方和]]が72になる最小の数である。次は[[228]]。({{OEIS|A003132}}) ** 各位の平方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の71は1356、次の73は[[38]]。({{OEIS|A055016}}) *各位の[[立方和]]が432になる最小の数である。次は[[606]]。({{OEIS|A055012}}) ** 各位の立方和が ''n'' になる最小の数である。1つ前の431は22247、次の433は[[166]]。({{OEIS|A165370}}) *66 = 1{{sup|2}} + 1{{sup|2}} + 8{{sup|2}} = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} = 4{{sup|2}} + 5{{sup|2}} + 5{{sup|2}} ** 3つの[[平方数]]の和3通りで表せる2番目の数である。1つ前は[[54]]、次は[[81]]。({{OEIS|A025323}}) **66 = 1{{sup|2}} + 4{{sup|2}} + 7{{sup|2}} *** 異なる3つの[[平方数]]の和1通りで表せる20番目の数である。1つ前は[[65]]、次は[[70]]。({{OEIS|A025339}}) *** ''n'' = 2 のときの 1{{sup|''n''}} + 4{{sup|''n''}} + 7{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[12]]、次は[[408]]。({{OEIS|A074513}}) ** 66 = 8{{sup|2}} + 2 *** ''n'' = 2 のときの 8{{sup|''n''}} + ''n'' の値とみたとき1つ前は[[9]]、次は[[515]]。({{OEIS|A226201}}) * 66 = 1{{sup|3}} + 1{{sup|3}} + 4{{sup|3}} ** 3つの[[正の数]]の[[立方数]]の和1通りで表せる10番目の数である。1つ前は[[62]]、次は[[73]]。({{OEIS|A025395}}) * 桁の[[調和平均]]が6になる2番目の数である。1つ前は[[6]]、次は[[488]]。({{OEIS|A062184}}) *:例.{{sfrac|2|{{sfrac|1|6}} + {{sfrac|1|6}}}} = 6 * 66 = 1{{sup|4}} &minus; 2{{sup|4}} + 3{{sup|4}} ** ''n'' = 3 のときの |1{{sup|4}} &minus; 2{{sup|4}} + … + (&minus;1){{sup|''n''+1}}''n''{{sup|4}}| の値とみたとき1つ前は[[15]]、次は[[190]]。(ただし| |は[[絶対値]]記号)({{OEIS|A062392}}) ***[[正の数]]の値とみたとき1つ前は[[1]]、次は[[435]]。 ** ''n'' = 4 のときの 3{{sup|''n''}} &minus; 2{{sup|''n''}} + 1{{sup|''n''}} の値とみたとき1つ前は[[20]]、次は[[212]]。({{OEIS|A083323}}) * 66 = 7!! &minus; 6!! + 5!! &minus; 4!! + 3!! &minus; 2!! + 1!! ** 7番目の交互[[二重階乗]]である。1つ前は[[39]]、次は[[318]]。({{OEIS|A129831}}) == その他 66 に関すること == * [[原子番号]] 66 の[[元素]]は[[ジスプロシウム]] (Dy) である。 *'''66''' は[[タイ王国]] (THA) の国際電話 国番号 * 旧・新約聖書は66の書物から為る。 * [[クルアーン]]における第66番目の[[スーラ (クルアーン)|スーラ]]は[[禁止 (クルアーン)|禁止]]である。 * 古代[[日本]]の[[令制国]]の数は66であり、「'''六十六国'''」「六十余州」と総称された。 * [[3月7日]]、[[3月6日]]は年始から数えて66日目。 * [[ヴィンセント・ギャロ]] (Vincent Gallo) 監督、脚本、主演の映画"[[バッファロー'66|バッファロー'66 (Buffalo '66)]]" (1998, USA) は、[[ニューヨーク州]][[バッファロー (ニューヨーク州)|バッファロー]]にて[[1966年]]に生まれたビリー・ブラウンを主役とすることに因む。共演は[[クリスティーナ・リッチ]] (Christina Ricci)。 * ルート66:[[アメリカ合衆国]]の[[国道66号線 (アメリカ合衆国)|国道66号線]]のこと。[[ルート66 (曲)|楽曲]]やテレビドラマの題名でもある。 * [[スター・ウォーズ世界の用語一覧#その他|オーダー66]]は、映画『[[スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐]]』で発せされた[[ジェダイ]]の粛清令である。 * 第66代[[天皇]]は[[一条天皇]]である。 * [[日本]]の第66代[[内閣総理大臣]]は[[三木武夫]]である。 * [[66プラザ]] - [[六本木ヒルズ]]。所在地の[[港区 (東京都)|東京都港区]][[六本木|'''六'''本木'''6'''丁目]]に因む。 * [[大相撲]]の第66代[[横綱]]は[[花田勝|若乃花勝]]である。 * 第66代[[教皇|ローマ教皇]]は[[ボニファティウス3世 (ローマ教皇)|ボニファティウス3世]](在位:[[607年]][[2月19日]]~[[11月12日]])である。 * [[120フィルム]]、[[620フィルム]]での画面サイズ → [[中判カメラ#66判(ロクロク)|66判]] * [[誕生日|緑寿]]とは、日本において66歳を祝う名称である。 * 「66」という名前の[[トランプ]]ゲームがある。[[シュナプセン]]を参照。 * [[旭化成]]が製造する繊維製品「レオナ66」。 * 「66」の形式を持つ[[日本国有鉄道]]の鉄道車両。 ** [[国鉄EF66形電気機関車]] ** [[国鉄キハ66系気動車]] == 関連項目 == {{数字2桁|6|}} *[[6月6日]] {{自然数}}
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日焼け
日焼け(ひやけ)は、紫外線を皮膚に浴びることにより、皮膚が赤く炎症を起こす急性症状(サンバーン sunburn)と、人体の色素のメラニンが皮膚表面に色素沈着すること(サンタン sun tanning)である。サンバーンでは日焼けから2-6時間後には赤くなり次第に痛みを増し、しばしば後日に皮剥けを起こすが、サンタンは数日後に見られやや遅い。日焼けの影響として皮膚がんが知られる。 日焼けの治療には、日焼けが軽度であれば、保湿したり、冷やしたり、脱水に注意して水分補給を行う。日焼けの防止には、日傘や帽子、衣類を用い、露出部位に日焼け止めを使う。 日焼けは、日光(や紫外線人工灯)への過剰な暴露の結果として発生し、人体の色素であるメラニンの保護能力を超えている時に起こる。紫外線の強い時間帯、地理的な高度、水、雪、砂による下からの反射は強い日焼けを起こす条件ともなる。雪の場合は「雪焼け」と呼ばれる。 メラニンの量には個人差があるが、一般に、より浅黒い肌の人々は色白の人より多くのメラニンを持っており、前者は日焼けしにくい。 紫外線は、その波長によってUVA(長波長紫外線)、UVB(中波長紫外線)、およびUVC(短波長紫外線)に分けられる。地球の大気中のオゾンを透過する間に、UVCは大気によって完全に減衰し、15分未満で日焼けが生じる程度のUVAとUVBは、十分に残っている。 近年、クロロフルオロカーボン(CFC、フロンの一種)によるオゾン層の破壊によって、世界的に、特に南半球において増大しており、オゾン層破壊と周期的なオゾンホールの発生が、紫外線を危険なほどに高いレベルまで透過してしまっていることが懸念されている。 以前は、UVBのみが皮膚ガンの原因となると考えられていたが、UVAとUVB両方が皮膚ガンを誘発する。 一部の薬は日焼けのリスクを増加させる。テトラサイクリン系などの抗生物質、抗てんかん薬や抗精神病薬及び避妊薬は副作用に光線過敏があり日焼けのリスクを増大させる。抗がん剤では種類によって黒っぽい日焼けを起こすことがある 日焼け現象には2種類ある。紫外線にあたった直後には発症せず、2~6時間後皮膚が赤くなり、痛みは6~48時間の後に最もひどくなるサンバーン(sunburn)と、24~72時間の間、色素沈着が進行するサンタン(suntan)である。日焼けが起こった3~8日後に、皮膚が剥離し始める。 サンバーンは紫外線UVBが表皮を透過し、真皮乳頭体まで達した結果、直接的DNA損傷が主因となり乳頭体内の毛細血管が炎症反応として充血を起こし、皮膚の色が赤くなった状態を指す。その際、紫外線量がメラニン色素の防御反応を超えていると、細胞組織が傷を受け、炎症の情報伝達物質である多様な炎症メディエータやサイトカインが産生 され発熱や水泡、痛みが起きる。医学的にはこれを日光皮膚炎という。 サンタンは紫外線UVAがメラノサイトに働きかけ、メラニン色素の生成を促す。メラニン色素を多く含んだ表皮細胞が基底層から角質層に達するまで新陳代謝による時間のズレがある為、紫外線を浴びてからしばらく後で皮膚が浅黒く変色するのはこのためである。UVAは発赤や炎症を伴う事はないが、真皮の深部まで到達しシワ、タルミの原因になる。 日焼けは熱傷の深度I度またはII度の熱傷である。多くは赤くなるだけのI度の熱傷であり問題なく治る。強く日焼けした場合、水膨れとなりII度の熱傷となることもある。障害部位において痛痒感、浮腫、赤変、皮膚剥離、発疹、強い灼熱感といった症状を引き起こし、その他全身症状として吐き気及び発熱と言った症状を呈する。一般に熱傷面積が広いため、熱傷深度の割には症状が重篤なものとなり、極端な日焼けでは、身体は衰弱し、入院を必要とする場合もある。 アメリカ熱傷協会では以下のような治療が紹介されている。香料やエタノールを含まないもので日焼けの部位を保湿し、石鹸で過剰に洗わない。脱水に注意し、飲酒やカフェインを避ける。1日に数度冷たいシャワーや湿布を使い、体温の低下のしすぎにも注意する。アセトアミノフェン (NSAIDs) といった鎮痛剤を使用でき、子供にはアスピリン (NSAIDs) は使わない。複数の水疱、感染の兆候がある水疱の濁りでは医師に相談する。 メルクマニュアルによれば、軽度の場合は冷水湿布や保湿剤も効果があるものの、皮膚に刺激を与える恐れがある麻酔薬や香料が含まれていないものを選択する。 日本の研究者によれば、重度の場合の第一選択はステロイド外用薬であるが、効果は極めて限定的とされている。炎症の沈静化と疼痛の緩和には非ステロイド系抗炎症薬 (NSAIDs) が有効である。なお、ステロイドの全身投与の有効性には疑問を呈する見解がある。 日焼けの危険性として皮膚がんのリスク増加が指摘される。紫外線が直接DNAを損傷することが原因となる。通常、この損傷はほとんどが修復される。しかし、色素性乾皮症のように修復機能が欠損するケースでは、紫外線暴露による皮膚ガンが極めて起こりやすいことが知られている。また、日焼けは稀に全身性エリテマトーデス発症のきっかけになるともされている。 かつては欧米諸国において、日焼けは、個人の太陽に対する防御機構を増進するものとして望ましいものと捉えられていた。北ヨーロッパのような高緯度地域では、乳幼児の間でビタミンD不足によるくる病が発生することがあった。現在では白人の間でくる病の発生は稀になっている。肌の色の濃いインド系やアフリカ系の人々がイギリスなどの高緯度地域に移住した場合、ビタミンD欠乏症を発症することが多く、イギリスでは南アジアやアフリカ系の移民の子供達の間で、くる病の多発が問題となっている。 近年、医学的に日焼けによってシミ、そばかすを増やし、皮膚を老化させ、皮膚癌や白内障を発症、誘発し皮膚の免疫力までも低下させると言われるようになった。ファッションとして日焼けする場合にも日焼け止めの使用を推奨している。 なおヒトにおいては、日焼け止めクリームを使わない場合、午前10時から午後3時の日光を少なくとも週に2回、5分から30分の間、顔、手足、背中に浴びることで十分な量のビタミンDが体内で生合成される(夏では10-20分で十分だが、冬の場合、北海道では139分、茨城県では41分が必要になる)。 紫外線を受けること(天然、人工、問わず)が皮膚を老化させたり皮膚癌や白内障を発症、誘発すると指摘されている。 紫外線のうちのUVBは、皮膚がんを引き起こす。生物のDNAは吸収スペクトルが 250 nm 近辺に存在しており、紫外線が照射されると、皮膚等の細胞中のDNAを構成する分子は励起される。このDNA分子の励起は、DNA螺旋を構成する「はしご」を切り離し、隣接する塩基で、チミン-チミン、シトシン-シトシン等の二量体を形成する。これの二量体は、通常生成することはなく、DNA配列の混乱、複製の中断、ギャップの生成、複製のミスを発生させる。これは、がん等の突然変異を引き起こす。 紫外線による突然変異は、バクテリアにおいて簡単に観察される。これは、地球環境問題でオゾンホールやオゾン層の破壊が懸念される理由の1つである。 DNA分子の損傷は1日1細胞あたり最大50万回程度発生することが知られており、その原因は、正常な代謝活動に伴うもの(DNAポリメラーゼによるDNA複製ミス)と環境要因によるもの(紫外線など)がある。それぞれに対応し、DNA修復には定常的に働いているものと、環境要因などによって誘起されるものがある。 DNA修復速度の細胞の加齢に伴う低下や、環境要因のよるDNA分子の損傷増大によりDNA修復がDNA損傷の発生に追いつかなくなると、以下のいずれかの運命をたどることになる。 なお、皮膚がんは、米国の全がん発生比率では、男性で5%、女性で4%を占めている。全がん死亡比率では、この割合はさらに低くなる。 太陽光には、リラックス効果や、気分を高揚させる神経伝達物質エンドルフィンの分泌を促すため、人は日焼けをすることによって快楽を得る。この快楽を味わいたいがために、日焼け依存症に陥る人がいる。研究者によると、これはヘロインの依存症に似ており、皮膚がんになっても日焼け用ベッドを使い続ける人や、友人や親から金を盗んで日焼けサロンに通う人などの実例もある。 紫外線にさらされると、表皮に色素沈着を助長する。しかし、どうしても小麦色に肌を焼きたい場合は、皮膚にダメージを与えないように注意する。肌に負担をかけない日焼けの方法としては、サンバーン(炎症)を決して起こさないことである。 日傘やビーチパラソルを使ったり、帽子(サンバイザー)や紫外線を通しにくい衣類を着用し、露出部位については日焼け止めを使う。 太陽光下では最初にサンスクリーン剤(日焼け止め)をムラなく肌に塗付し、サンバーン(炎症)を起こすUVBをカットしながら段階的に焼いていく。海水浴などへ行った初日から長時間、太陽光下で焼くことは非常に危険である。個人差はあるが太陽光線に対しての抵抗力つまり、慣光性を超えて日焼けしてはならない。 上記の作業を数日間のあいだ繰り返し、日数を経て、ある程度肌の色が褐色に変化したら、ようやくサンオイルに切り替える。つまりサンバーンを防ぎ、皮膚を急激な炎症から守ることで初めて、肌をムラなく黒く焼くことが可能になる。 日焼け止めをしない場合、日光に直接当たる場所と服などに覆われた場所とで焼け方が異なることになる。こういった跡を見ることにより、どれだけ日に焼けたかを日焼け後に確認することができる。通常、このような跡は服を着た場合に隠れてしまう部位なので日常生活では問題にはならない。しかしサングラスやスキーゴーグルなどを着けていて目の周りに跡ができた場合には、見た目上不恰好に見えることがある。 ファッションとして、意図的に肌に紫外線を浴びせて黒くすることを商売とする日焼けサロンもある。紫外線には大きくA波・B波・C波と分かれる。この中のA波B波が大きく日焼けに作用する。B波比率が高い紫外線ランプを極力使わないのが、むらなく綺麗に焼くコツであり、必要以上のB波は黒くなるのとは無関係で不必要である。 国際がん研究機関が2009年に行った発表で、UVAにもUVBと同じように発がん性があることが確認された。 紫外線はUVA(長波長紫外線)は目を閉じていても、瞼を通過し、水晶体に悪影響があると考えられているため 海外の日焼けサロンでは、保護グラス(水泳 ゴーグルに形状が近い物)の着用が常識である。 日焼け後に皮膚が浮き、めくれてくることがあるが無理には剥がさないようにする。自然に剥がれてきたら薬品やクリームなどで、皮膚の手入れを行う。日焼けの後のケアを継続することで、沈着しているメラニン色素は新陳代謝により垢(あか)となって剥がれ落ち、日焼けによるシミやソバカスは徐々に薄くなり、やがて消えることになる。 顔の皮膚を光損傷し、その程度が軽症から中等度の19人にランダム化比較試験を実施し、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、シワ、たるみなどを改善した。 基本的に有色人種と白人では先述のダメージを受ける度合いが大きく異なり、黒人よりは中東系、中東系よりは東アジア系、東アジア系よりは欧州系の白人が大きく影響を受ける。しかしながら白人はそのダメージが最も大きいにもかかわらず、文化的に日焼けした肌から裕福な印象を受けるために日焼けを好み、日焼けサロンに通ったりビーチで日焼けする姿が多々見られる。 13カ国の400万人以上のがん患者のデータを用いた2006年の研究では、日照の少ない国での特定のがんのリスクの顕著な増加が示され、その他の関連研究でもビタミンD濃度とがんの間の相関関係が示されている。この著者は、毎日 1,000IU (25μg) のビタミンDの追加摂取はヒトの大腸癌のリスクを50%減少させ、乳がんと卵巣がんのリスクを30%減少させると示唆している。さらに、日照不足であると、くる病や冬型の季節性情動障害に罹患するリスクが高まる。これらの日照不足によると思われる疾患を避け、健康を維持するために、高緯度に居住する白人は日光浴を好む傾向にあると考えられる。 日本でも20世紀に日焼けブームがあったが、その後紫外線の害が指摘されるなどして廃れた。詳しくは美白を参照。
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近年、クロロフルオロカーボン(CFC、フロンの一種)によるオゾン層の破壊によって、世界的に、特に南半球において増大しており、オゾン層破壊と周期的なオゾンホールの発生が、紫外線を危険なほどに高いレベルまで透過してしまっていることが懸念されている。", "title": "日焼けの発生と紫外線" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "以前は、UVBのみが皮膚ガンの原因となると考えられていたが、UVAとUVB両方が皮膚ガンを誘発する。", "title": "日焼けの発生と紫外線" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "一部の薬は日焼けのリスクを増加させる。テトラサイクリン系などの抗生物質、抗てんかん薬や抗精神病薬及び避妊薬は副作用に光線過敏があり日焼けのリスクを増大させる。抗がん剤では種類によって黒っぽい日焼けを起こすことがある", "title": "日焼けの発生と紫外線" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日焼け現象には2種類ある。紫外線にあたった直後には発症せず、2~6時間後皮膚が赤くなり、痛みは6~48時間の後に最もひどくなるサンバーン(sunburn)と、24~72時間の間、色素沈着が進行するサンタン(suntan)である。日焼けが起こった3~8日後に、皮膚が剥離し始める。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "サンバーンは紫外線UVBが表皮を透過し、真皮乳頭体まで達した結果、直接的DNA損傷が主因となり乳頭体内の毛細血管が炎症反応として充血を起こし、皮膚の色が赤くなった状態を指す。その際、紫外線量がメラニン色素の防御反応を超えていると、細胞組織が傷を受け、炎症の情報伝達物質である多様な炎症メディエータやサイトカインが産生 され発熱や水泡、痛みが起きる。医学的にはこれを日光皮膚炎という。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "サンタンは紫外線UVAがメラノサイトに働きかけ、メラニン色素の生成を促す。メラニン色素を多く含んだ表皮細胞が基底層から角質層に達するまで新陳代謝による時間のズレがある為、紫外線を浴びてからしばらく後で皮膚が浅黒く変色するのはこのためである。UVAは発赤や炎症を伴う事はないが、真皮の深部まで到達しシワ、タルミの原因になる。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日焼けは熱傷の深度I度またはII度の熱傷である。多くは赤くなるだけのI度の熱傷であり問題なく治る。強く日焼けした場合、水膨れとなりII度の熱傷となることもある。障害部位において痛痒感、浮腫、赤変、皮膚剥離、発疹、強い灼熱感といった症状を引き起こし、その他全身症状として吐き気及び発熱と言った症状を呈する。一般に熱傷面積が広いため、熱傷深度の割には症状が重篤なものとなり、極端な日焼けでは、身体は衰弱し、入院を必要とする場合もある。", "title": "症状" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アメリカ熱傷協会では以下のような治療が紹介されている。香料やエタノールを含まないもので日焼けの部位を保湿し、石鹸で過剰に洗わない。脱水に注意し、飲酒やカフェインを避ける。1日に数度冷たいシャワーや湿布を使い、体温の低下のしすぎにも注意する。アセトアミノフェン (NSAIDs) といった鎮痛剤を使用でき、子供にはアスピリン (NSAIDs) は使わない。複数の水疱、感染の兆候がある水疱の濁りでは医師に相談する。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "メルクマニュアルによれば、軽度の場合は冷水湿布や保湿剤も効果があるものの、皮膚に刺激を与える恐れがある麻酔薬や香料が含まれていないものを選択する。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本の研究者によれば、重度の場合の第一選択はステロイド外用薬であるが、効果は極めて限定的とされている。炎症の沈静化と疼痛の緩和には非ステロイド系抗炎症薬 (NSAIDs) が有効である。なお、ステロイドの全身投与の有効性には疑問を呈する見解がある。", "title": "治療" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日焼けの危険性として皮膚がんのリスク増加が指摘される。紫外線が直接DNAを損傷することが原因となる。通常、この損傷はほとんどが修復される。しかし、色素性乾皮症のように修復機能が欠損するケースでは、紫外線暴露による皮膚ガンが極めて起こりやすいことが知られている。また、日焼けは稀に全身性エリテマトーデス発症のきっかけになるともされている。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "かつては欧米諸国において、日焼けは、個人の太陽に対する防御機構を増進するものとして望ましいものと捉えられていた。北ヨーロッパのような高緯度地域では、乳幼児の間でビタミンD不足によるくる病が発生することがあった。現在では白人の間でくる病の発生は稀になっている。肌の色の濃いインド系やアフリカ系の人々がイギリスなどの高緯度地域に移住した場合、ビタミンD欠乏症を発症することが多く、イギリスでは南アジアやアフリカ系の移民の子供達の間で、くる病の多発が問題となっている。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "近年、医学的に日焼けによってシミ、そばかすを増やし、皮膚を老化させ、皮膚癌や白内障を発症、誘発し皮膚の免疫力までも低下させると言われるようになった。ファッションとして日焼けする場合にも日焼け止めの使用を推奨している。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なおヒトにおいては、日焼け止めクリームを使わない場合、午前10時から午後3時の日光を少なくとも週に2回、5分から30分の間、顔、手足、背中に浴びることで十分な量のビタミンDが体内で生合成される(夏では10-20分で十分だが、冬の場合、北海道では139分、茨城県では41分が必要になる)。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紫外線を受けること(天然、人工、問わず)が皮膚を老化させたり皮膚癌や白内障を発症、誘発すると指摘されている。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "紫外線のうちのUVBは、皮膚がんを引き起こす。生物のDNAは吸収スペクトルが 250 nm 近辺に存在しており、紫外線が照射されると、皮膚等の細胞中のDNAを構成する分子は励起される。このDNA分子の励起は、DNA螺旋を構成する「はしご」を切り離し、隣接する塩基で、チミン-チミン、シトシン-シトシン等の二量体を形成する。これの二量体は、通常生成することはなく、DNA配列の混乱、複製の中断、ギャップの生成、複製のミスを発生させる。これは、がん等の突然変異を引き起こす。 紫外線による突然変異は、バクテリアにおいて簡単に観察される。これは、地球環境問題でオゾンホールやオゾン層の破壊が懸念される理由の1つである。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "DNA分子の損傷は1日1細胞あたり最大50万回程度発生することが知られており、その原因は、正常な代謝活動に伴うもの(DNAポリメラーゼによるDNA複製ミス)と環境要因によるもの(紫外線など)がある。それぞれに対応し、DNA修復には定常的に働いているものと、環境要因などによって誘起されるものがある。 DNA修復速度の細胞の加齢に伴う低下や、環境要因のよるDNA分子の損傷増大によりDNA修復がDNA損傷の発生に追いつかなくなると、以下のいずれかの運命をたどることになる。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、皮膚がんは、米国の全がん発生比率では、男性で5%、女性で4%を占めている。全がん死亡比率では、この割合はさらに低くなる。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "太陽光には、リラックス効果や、気分を高揚させる神経伝達物質エンドルフィンの分泌を促すため、人は日焼けをすることによって快楽を得る。この快楽を味わいたいがために、日焼け依存症に陥る人がいる。研究者によると、これはヘロインの依存症に似ており、皮膚がんになっても日焼け用ベッドを使い続ける人や、友人や親から金を盗んで日焼けサロンに通う人などの実例もある。", "title": "日焼けによるリスク" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "紫外線にさらされると、表皮に色素沈着を助長する。しかし、どうしても小麦色に肌を焼きたい場合は、皮膚にダメージを与えないように注意する。肌に負担をかけない日焼けの方法としては、サンバーン(炎症)を決して起こさないことである。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日傘やビーチパラソルを使ったり、帽子(サンバイザー)や紫外線を通しにくい衣類を着用し、露出部位については日焼け止めを使う。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "太陽光下では最初にサンスクリーン剤(日焼け止め)をムラなく肌に塗付し、サンバーン(炎症)を起こすUVBをカットしながら段階的に焼いていく。海水浴などへ行った初日から長時間、太陽光下で焼くことは非常に危険である。個人差はあるが太陽光線に対しての抵抗力つまり、慣光性を超えて日焼けしてはならない。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上記の作業を数日間のあいだ繰り返し、日数を経て、ある程度肌の色が褐色に変化したら、ようやくサンオイルに切り替える。つまりサンバーンを防ぎ、皮膚を急激な炎症から守ることで初めて、肌をムラなく黒く焼くことが可能になる。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日焼け止めをしない場合、日光に直接当たる場所と服などに覆われた場所とで焼け方が異なることになる。こういった跡を見ることにより、どれだけ日に焼けたかを日焼け後に確認することができる。通常、このような跡は服を着た場合に隠れてしまう部位なので日常生活では問題にはならない。しかしサングラスやスキーゴーグルなどを着けていて目の周りに跡ができた場合には、見た目上不恰好に見えることがある。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ファッションとして、意図的に肌に紫外線を浴びせて黒くすることを商売とする日焼けサロンもある。紫外線には大きくA波・B波・C波と分かれる。この中のA波B波が大きく日焼けに作用する。B波比率が高い紫外線ランプを極力使わないのが、むらなく綺麗に焼くコツであり、必要以上のB波は黒くなるのとは無関係で不必要である。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "国際がん研究機関が2009年に行った発表で、UVAにもUVBと同じように発がん性があることが確認された。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "紫外線はUVA(長波長紫外線)は目を閉じていても、瞼を通過し、水晶体に悪影響があると考えられているため 海外の日焼けサロンでは、保護グラス(水泳 ゴーグルに形状が近い物)の着用が常識である。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日焼け後に皮膚が浮き、めくれてくることがあるが無理には剥がさないようにする。自然に剥がれてきたら薬品やクリームなどで、皮膚の手入れを行う。日焼けの後のケアを継続することで、沈着しているメラニン色素は新陳代謝により垢(あか)となって剥がれ落ち、日焼けによるシミやソバカスは徐々に薄くなり、やがて消えることになる。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "顔の皮膚を光損傷し、その程度が軽症から中等度の19人にランダム化比較試験を実施し、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、シワ、たるみなどを改善した。", "title": "上手な日焼けと対策" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "基本的に有色人種と白人では先述のダメージを受ける度合いが大きく異なり、黒人よりは中東系、中東系よりは東アジア系、東アジア系よりは欧州系の白人が大きく影響を受ける。しかしながら白人はそのダメージが最も大きいにもかかわらず、文化的に日焼けした肌から裕福な印象を受けるために日焼けを好み、日焼けサロンに通ったりビーチで日焼けする姿が多々見られる。", "title": "日焼けと人種" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "13カ国の400万人以上のがん患者のデータを用いた2006年の研究では、日照の少ない国での特定のがんのリスクの顕著な増加が示され、その他の関連研究でもビタミンD濃度とがんの間の相関関係が示されている。この著者は、毎日 1,000IU (25μg) のビタミンDの追加摂取はヒトの大腸癌のリスクを50%減少させ、乳がんと卵巣がんのリスクを30%減少させると示唆している。さらに、日照不足であると、くる病や冬型の季節性情動障害に罹患するリスクが高まる。これらの日照不足によると思われる疾患を避け、健康を維持するために、高緯度に居住する白人は日光浴を好む傾向にあると考えられる。", "title": "日焼けと人種" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本でも20世紀に日焼けブームがあったが、その後紫外線の害が指摘されるなどして廃れた。詳しくは美白を参照。", "title": "日焼けと人種" } ]
日焼け(ひやけ)は、紫外線を皮膚に浴びることにより、皮膚が赤く炎症を起こす急性症状と、人体の色素のメラニンが皮膚表面に色素沈着することである。サンバーンでは日焼けから2-6時間後には赤くなり次第に痛みを増し、しばしば後日に皮剥けを起こすが、サンタンは数日後に見られやや遅い。日焼けの影響として皮膚がんが知られる。 日焼けの治療には、日焼けが軽度であれば、保湿したり、冷やしたり、脱水に注意して水分補給を行う。日焼けの防止には、日傘や帽子、衣類を用い、露出部位に日焼け止めを使う。
{{Otheruseslist|紫外線の皮膚への影響|透明な物質の変色|ソラリゼーション (物理学)}} {{Infobox disease | Name = 日焼け | Image = Sunburn.jpg | Caption = 日焼けを被った男性。 日焼けた部分が日焼けていない部分の色と合致しないことに注目。 | DiseasesDB = | ICD10 = {{ICD10|L|55||l|55}} | ICD9 = {{ICD9|692.71}} | ICDO = | OMIM = | MedlinePlus = | eMedicineSubj = | eMedicineTopic = | MeshID = D013471 }} '''日焼け'''(ひやけ)は、[[紫外線]]を[[皮膚]]に浴びることにより、皮膚が赤く[[炎症]]を起こす急性症状('''サンバーン''' {{interlang|en|sunburn}})と、人体の色素の[[メラニン]]が皮膚表面に[[色素沈着]]すること('''サンタン''' {{interlang|en|sun tanning}})である<ref>{{Cite journal |和書|author=上出良一 |date=1996 |title=紫外線防御の皮膚科学的意義 |journal=日本化粧品技術者会誌 |volume=30 |issue=3 |pages=265-272 |doi=10.5107/sccj.30.265 |url=https://doi.org/10.5107/sccj.30.265}}</ref>。サンバーンでは日焼けから2-6時間後には赤くなり次第に痛みを増し、しばしば後日に皮剥けを起こすが、サンタンは数日後に見られやや遅い。日焼けの影響として[[皮膚がん]]が知られる。 日焼けの治療には、日焼けが軽度であれば、保湿したり、冷やしたり、脱水に注意して水分補給を行う。日焼けの防止には、[[傘#日傘|日傘]]や帽子、衣類を用い、露出部位に[[サンスクリーン剤|日焼け止め]]を使う。 == 日焼けの発生と紫外線 == {{出典の明記|date=2023年11月|section=1}} 日焼けは、日光(や紫外線人工灯)への過剰な暴露の結果として発生し、人体の色素である[[メラニン]]の保護能力を超えている時に起こる。紫外線の強い時間帯、地理的な高度、水、雪、砂による下からの反射は強い日焼けを起こす条件ともなる<ref name="ABA"/>。雪の場合は「[[雪焼け]]」と呼ばれる。 メラニンの量には個人差があるが、一般に、より浅黒い肌の人々は色白の人より多くのメラニンを持っており、前者は日焼けしにくい。 [[紫外線]]は、その[[波長]]によって[[UVA]](長波長紫外線)、[[UVB]](中波長紫外線)、および[[UVC]](短波長紫外線)に分けられる。地球の大気中の[[オゾン]]を透過する間に、UVCは大気によって完全に減衰し、15分未満で日焼けが生じる程度のUVAとUVBは、十分に残っている。 近年、[[クロロフルオロカーボン]](CFC、[[フロン]]の一種)による[[オゾン層]]の破壊によって、世界的に、特に南半球において増大しており、オゾン層破壊と周期的なオゾンホールの発生が、紫外線を危険なほどに高いレベルまで透過してしまっていることが懸念されている。 以前は、UVBのみが[[皮膚ガン]]の原因となると考えられていたが、UVAとUVB両方が皮膚ガンを誘発する。 一部の薬は日焼けのリスクを増加させる<ref name="ABA"/>。[[テトラサイクリン系]]などの[[抗生物質]]、[[抗てんかん薬]]や[[抗精神病薬]]及び[[避妊薬]]は副作用に[[光線過敏]]があり日焼けのリスクを増大させる。抗がん剤では種類によって黒っぽい日焼けを起こすことがある == 症状 == === 種類 === 日焼け現象には2種類ある。紫外線にあたった直後には発症せず、2~6時間後皮膚が赤くなり、痛みは6~48時間の後に最もひどくなる'''サンバーン'''(sunburn)と、24~72時間の間、色素沈着が進行する'''サンタン'''(suntan)である。日焼けが起こった3~8日後に、皮膚が剥離し始める。 ==== サンバーン ==== [[File:Sun Blisters.jpg|thumb|150px|日焼けによる水泡]] '''サンバーン'''は紫外線UVBが表皮を透過し、真皮乳頭体まで達した結果、直接的DNA損傷が主因となり乳頭体内の毛細血管が炎症反応として充血を起こし、皮膚の色が赤くなった状態を指す。その際、紫外線量がメラニン色素の防御反応を超えていると、細胞組織が傷を受け、炎症の情報伝達物質である多様な炎症メディエータや[[サイトカイン]]が産生<ref name="dermatol.124.1115"/> され発熱や水泡、痛みが起きる。医学的にはこれを日光皮膚炎という。 ==== サンタン ==== '''サンタン'''は紫外線UVAが[[メラノサイト]]に働きかけ、メラニン色素の生成を促す。メラニン色素を多く含んだ表皮細胞が基底層から角質層に達するまで新陳代謝による時間のズレがある為、紫外線を浴びてからしばらく後で皮膚が浅黒く変色するのはこのためである。UVAは発赤や炎症を伴う事はないが、真皮の深部まで到達しシワ、タルミの原因になる。 === 熱傷 === [[File:日焼けによる皮膚剥離.jpg|thumb|250px|日焼けにより表皮が剥離しかかっている状態。 日焼けした部分と、そうでない部分の皮膚の色が大きく違っている。]] [[File:日焼け.jpeg|thumb|250px|日焼けによる浅達性Ⅱ度熱傷の初期症状、日焼けした部分が赤く大きく腫れ上がっている。]] 日焼けは熱傷の深度I度またはII度の[[熱傷]]である。多くは赤くなるだけのI度の熱傷であり問題なく治る。強く日焼けした場合、水膨れとなりII度の熱傷となることもある。障害部位において痛痒感、浮腫、赤変、皮膚剥離、発疹、強い灼熱感といった症状を引き起こし、その他全身症状として吐き気及び発熱と言った症状を呈する。一般に熱傷面積が広いため、熱傷深度の割には症状が重篤なものとなり、極端な日焼けでは、身体は衰弱し、入院を必要とする場合もある。 == 治療 == {{See also|熱傷#I度熱傷(EB)}} アメリカ熱傷協会では以下のような治療が紹介されている。香料やエタノールを含まないもので日焼けの部位を保湿し、石鹸で過剰に洗わない<ref name="ABA"/>。脱水に注意し、飲酒やカフェインを避ける<ref name="ABA"/>。1日に数度冷たいシャワーや湿布を使い、体温の低下のしすぎにも注意する<ref name="ABA"/>。[[アセトアミノフェン]] (NSAIDs) といった鎮痛剤を使用でき、子供には[[アスピリン]] (NSAIDs) は使わない<ref name="ABA"/>。複数の水疱、感染の兆候がある水疱の濁りでは医師に相談する<ref name="ABA">{{Cite press release |title=Summer Burn Safety Educator’s Guide |publisher=American Burn Association |date= |url=http://ameriburn.org/wp-content/uploads/2017/04/summersafetyeducatorsguide.pdf |format=PDF |accessdate=2019-07-04}}</ref>。 メルクマニュアルによれば、軽度の場合は冷水湿布や保湿剤も効果があるものの、皮膚に刺激を与える恐れがある麻酔薬や香料が含まれていないものを選択する<ref>[http://merckmanuals.jp/home/皮膚の病気/日光と皮膚の障害/日焼け.html 日焼け] メルクマニュアル</ref>。 日本の研究者{{誰|date=2023年11月}}によれば、重度の場合の第一選択は[[ステロイド外用薬]]であるが、効果は極めて限定的とされている<ref name="dermatol.124.1115"/>。炎症の沈静化と疼痛の緩和には[[非ステロイド系抗炎症薬]] (NSAIDs) が有効である。なお、ステロイドの全身投与の有効性には疑問を呈する見解がある<ref name="dermatol.124.1115"/>。 == 日焼けによるリスク == 日焼けの危険性として[[皮膚がん]]のリスク増加が指摘される。紫外線が直接[[デオキシリボ核酸|DNA]]を損傷することが原因となる<ref name="dermatol.124.1115">[https://doi.org/10.14924/dermatol.124.1115 上出良一:太陽紫外線による皮膚障害―サンバーンの治療―] 日本皮膚科学会雑誌 Vol.124 (2014) No.6 p.1115-1119</ref>。通常、この損傷はほとんどが[[DNA修復|修復]]される。しかし、[[色素性乾皮症]]のように修復機能が欠損するケースでは、紫外線暴露による皮膚ガンが極めて起こりやすいことが知られている。また、日焼けは稀に[[全身性エリテマトーデス]]発症のきっかけになるともされている<ref>大西 俊造、梶原 博毅、神山 隆一 編集『スタンダード病理学 (第2版)』 p.489 (右側中央部) 文光堂 2004年3月30日発行 ISBN 4-8306-0449-2</ref>。 [[画像:Melanoma and other skin cancers world map - Death - WHO2004.svg|thumb|2004年における10万人毎の皮膚がんによる死亡者数(年齢標準化済み)<ref name="World Health Organization">{{cite web |url=http://www.who.int/healthinfo/global_burden_disease/estimates_country/en/index.html |title=WHO Disease and injury country estimates |year=2009 |work=World Health Organization |accessdate=Nov 11, 2009}}</ref><div class="references-small" style="-moz-column-count:3; column-count:3;"> {{legend|#b3b3b3|no data}} {{legend|#ffff65|0.7以下}} {{legend|#fff200|0.7-1.4}} {{legend|#ffdc00|1.4-2.1}} {{legend|#ffc600|2.1-2.8}} {{legend|#ffb000|2.8-3.5}} {{legend|#ff9a00|3.5-4.2}} {{legend|#ff8400|4.2-4.9}} {{legend|#ff6e00|4.9-5.6}} {{legend|#ff5800|5.6-6.3}} {{legend|#ff4200|6.3-7}} {{legend|#ff2c00|7-7.7}} {{legend|#cb0000|7.7以上}} </div>]] かつては{{いつ|date=2023年11月}}欧米諸国において、日焼けは、個人の太陽に対する防御機構を増進するものとして望ましいものと捉えられていた。北ヨーロッパのような高緯度地域では、乳幼児の間でビタミンD不足による[[くる病]]が発生することがあった。現在では白人の間でくる病の発生は稀になっている。[[ヒトの肌の色|肌の色]]の濃いインド系やアフリカ系の人々がイギリスなどの高緯度地域に移住した場合、ビタミンD欠乏症を発症することが多く、イギリスでは南アジアやアフリカ系の移民の子供達の間で、くる病の多発が問題となっている{{要出典|date=2023年11月}}。 近年{{いつ|date=2023年11月}}、医学的に日焼けによってシミ、そばかすを増やし、皮膚を老化させ、[[皮膚癌]]や[[白内障]]を発症、誘発し皮膚の免疫力までも低下させると言われるようになった。ファッションとして日焼けする場合にも[[サンスクリーン剤|日焼け止め]]の使用を推奨している{{要出典|date=2023年11月}}。 なおヒトにおいては、日焼け止めクリームを使わない場合、午前10時から午後3時の日光を少なくとも週に2回、5分から30分の間、顔、手足、背中に浴びることで十分な量のビタミンDが体内で生合成される(夏では10-20分で十分だが、冬の場合、北海道では139分、茨城県では41分が必要になる)<ref name="ODS-sheet-ref-10">{{cite journal |author=Holick MF |title=Vitamin D deficiency |journal=The New England Journal of Medicine |volume=357 |issue=3 |pages=266–81 |year=2007 |month=July |pmid=17634462 |doi=10.1056/NEJMra070553}}</ref><ref name="ODS-sheet-ref-33">{{cite journal |first1=Michael F. |last1=Holick |month=February |year=2002 |title=Vitamin D: the underappreciated D-lightful hormone that is important for skeletal and cellular health |journal=Current Opinion in Endocrinology & Diabetes |volume=9 |issue=1 |pages=87–98 |doi=10.1097/00060793-200202000-00011}}</ref>。 === 皮膚癌(がん)発生リスク === 紫外線を受けること(天然、人工、問わず)が皮膚を老化させたり皮膚癌や白内障を発症、誘発すると指摘されている<ref>「[http://www.mech.nias.ac.jp/biomass/murakami-book-9kou.htm フロンによるオゾン層の破壊]」『昨日今日いつかくる明日~読切り「エネルギー・環境」』2008年、ISBN 978-4434116209</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.med.oita-u.ac.jp/student/~m22nd/theme/0506.html|title=5・6班テーマ学習:日焼けについて|accessdate=2011-02-10|publisher=大分大学医学部・医学系研究科|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150307175847/http://www.med.oita-u.ac.jp/student/~m22nd/theme/0506.html|archivedate=2015年3月7日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>{{信頼性要検証|date=2012年11月}}。 [[Image:DNA UV mutation.svg|thumb|right|300px|チミン二量体の生成によるDNA損傷。]] [[Image:Photodimer.png|thumb|350px|alt=Photodimers|チミンの光二量体。左:胞子の光生成物。右:シクロブタンピリミジン二量体。]] [[紫外線]]のうちの[[UVB]]は、皮膚がんを引き起こす。生物のDNAは吸収スペクトルが 250&nbsp;nm 近辺に存在しており、紫外線が照射されると、皮膚等の細胞中のDNAを構成する分子は[[励起]]される。このDNA分子の励起は、DNA螺旋を構成する「はしご」を切り離し、隣接する塩基で、[[チミン]]-チミン、[[シトシン]]-シトシン等の[[二量体]]を形成する。これの二量体は、通常生成することはなく、[[塩基配列|DNA配列]]の混乱、[[DNA複製|複製]]の中断、ギャップの生成、複製のミスを発生させる。これは、[[悪性腫瘍|がん]]等の[[突然変異]]を引き起こす。 紫外線による突然変異は、[[バクテリア]]において簡単に観察される。これは、地球環境問題で[[オゾンホール]]や[[オゾン層]]の破壊が懸念される理由の1つである。 [[DNA]]分子の損傷は1日1細胞あたり最大50万回程度発生することが知られており、その原因は、正常な代謝活動に伴うもの([[DNAポリメラーゼ]]によるDNA複製ミス)と環境要因によるもの([[紫外線]]など)がある。それぞれに対応し、[[DNA修復]]には定常的に働いているものと、環境要因などによって誘起されるものがある。 DNA修復速度の細胞の加齢に伴う低下や、環境要因のよるDNA分子の損傷増大によりDNA修復がDNA損傷の発生に追いつかなくなると、以下のいずれかの運命をたどることになる。 * [[老化]](細胞老化)と呼ばれる、不可逆な休眠状態に陥る * [[アポトーシス]]あるいは[[プログラム細胞死]]と呼ばれる、細胞の自殺が起こる * [[悪性腫瘍|癌]]化 なお、皮膚がんは、米国の全がん発生比率では、男性で5%、女性で4%を占めている{{要出典|date=2023年11月}}。全がん死亡比率では、この割合はさらに低くなる。 <gallery widths="360px" heights="180px"> File:Most common cancers - male, by occurrence.png|がん発生比率(男性、米国、2008)<ref name=Jemal>{{cite journal |author=Jemal A, Siegel R, Ward E ''et al.'' |title=Cancer statistics, 2008 |journal=CA Cancer J Clin |year=2008 |pages=71–96 |volume=58 |issue=2 |url=http://caonline.amcancersoc.org/cgi/content/full/58/2/71 |pmid=18287387 |doi=10.3322/CA.2007.0010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110703021822/http://caonline.amcancersoc.org/cgi/content/full/58/2/71 |archivedate=2011年7月3日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref> File:Most common cancers - female, by occurrence.png|がん発生比率(女性、米国、2008)<ref name=Jemal/> </gallery> === 依存症 === [[太陽光]]には、リラックス効果や、気分を高揚させる[[神経伝達物質]][[エンドルフィン]]の分泌を促すため、人は日焼けをすることによって快楽を得る。この快楽を味わいたいがために、日焼け[[依存症]]に陥る人がいる。研究者{{誰|date=2023年11月}}によると、これは[[ヘロイン]]の依存症に似ており、[[皮膚がん]]になっても日焼け用ベッドを使い続ける人や、友人や親から金を盗んで日焼けサロンに通う人などの実例もある<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3060252 |title=がんになっても、窃盗してでも… 日焼けサロンに依存する人々 | newspaper=[[フランス通信社]]|date=2015-9-29 |accessdate=2015-10-31 }}</ref>。 == 上手な日焼けと対策 == {{独自研究|section=1|date=2023年6月}} 紫外線にさらされると、表皮に色素沈着を助長する。しかし、どうしても小麦色に肌を焼きたい場合は、皮膚にダメージを与えないように注意する。肌に負担をかけない日焼けの方法としては、サンバーン(炎症)を決して起こさないことである。 === 日焼けの方法 === {{独自研究|section=1|date=2023年11月}} [[傘#日傘|日傘]]やビーチパラソルを使ったり、帽子([[バイザー#サンバイザー(帽子)|サンバイザー]])や紫外線を通しにくい衣類を着用し、露出部位については日焼け止めを使う。 太陽光下では最初に[[サンスクリーン剤]](日焼け止め)をムラなく肌に塗付し、サンバーン(炎症)を起こすUVBをカットしながら段階的に焼いていく。海水浴などへ行った初日から長時間、太陽光下で焼くことは非常に危険である。個人差はあるが太陽光線に対しての抵抗力つまり、慣光性を超えて日焼けしてはならない。 # 午前10時から午後2時までの太陽光線の強い時間帯を避ける。 # 日光浴の時間は1日当たり合計で3時間を超えない。 # 日焼け直後は肌が乾燥した状態なので、化粧水や乳液などで保湿を行う。 # 赤みを感じる時は冷やしタオルなどでほてりを抑え、消炎ローション(カーマインローションなど)を塗る。 上記の作業を数日間のあいだ繰り返し、日数を経て、ある程度肌の色が褐色に変化したら、ようやく[[サンオイル]]に切り替える。つまりサンバーンを防ぎ、皮膚を急激な炎症から守ることで初めて、肌をムラなく黒く焼くことが可能になる。 日焼け止めをしない場合、日光に直接当たる場所と服などに覆われた場所とで焼け方が異なることになる。こういった跡を見ることにより、どれだけ日に焼けたかを日焼け後に確認することができる。通常、このような跡は服を着た場合に隠れてしまう部位なので日常生活では問題にはならない。しかしサングラスやスキーゴーグルなどを着けていて目の周りに跡ができた場合には、見た目上不恰好に見えることがある。 === 日焼けサロン使用の場合 === [[ファイル:715px-Sunbedoff large.jpg|thumb|[[日焼けマシーン]]]] [[ファッション]]として、意図的に肌に紫外線を浴びせて黒くすることを商売とする[[日焼けサロン]]もある。紫外線には大きくA波・B波・C波と分かれる。この中のA波B波が大きく日焼けに作用する。B波比率が高い紫外線ランプを極力使わないのが、むらなく綺麗に焼くコツであり、必要以上のB波は黒くなるのとは無関係で不必要である。 [[国際がん研究機関]]が2009年に行った発表で、UVAにもUVBと同じように発がん性があることが確認された{{要出典|date=2023年11月}}。 紫外線はUVA(長波長紫外線)は目を閉じていても、瞼を通過し、水晶体に悪影響があると考えられているため 海外の日焼けサロンでは、保護グラス(水泳 ゴーグルに形状が近い物)の着用が常識である。 === アフターケア === {{See also|光老化}} 日焼け後に皮膚が浮き、めくれてくることがあるが無理には剥がさないようにする。自然に剥がれてきたら薬品やクリームなどで、皮膚の手入れを行う。日焼けの後のケアを継続することで、沈着しているメラニン色素は新陳代謝により[[垢]](あか)となって剥がれ落ち、日焼けによるシミやソバカスは徐々に薄くなり、やがて消えることになる。 顔の皮膚を光損傷し、その程度が軽症から中等度の19人にランダム化比較試験を実施し、ビタミンCセラムの外用薬は偽薬よりも、シワ、たるみなどを改善した<ref name="pmid10522500">{{cite journal|author=Traikovich SS|title=Use of topical ascorbic acid and its effects on photodamaged skin topography|journal=Arch. Otolaryngol. Head Neck Surg.|issue=10|pages=1091–8|date=October 1999|pmid=10522500}}</ref>。 == 日焼けと人種 == [[Image:Colon and rectum cancers world map - Death - WHO2004.svg|thumb|2004年における10万人毎の大腸がんによる死亡者数(年齢標準化済み)<ref name="World Health Organization"/><div class="references-small" style="-moz-column-count:3; column-count:3;"> {{legend|#b3b3b3|データなし}} {{legend|#ffff65|2.5以下}} {{legend|#fff200|2.5-5}} {{legend|#ffdc00|5-7.5}} {{legend|#ffc600|7.5-10}} {{legend|#ffb000|10-12.5}} {{legend|#ff9a00|12.5-15}} {{legend|#ff8400|15-17.5}} {{legend|#ff6e00|17.5-20}} {{legend|#ff5800|20-22.5}} {{legend|#ff4200|22.5-25}} {{legend|#ff2c00|25-27.5}} {{legend|#cb0000|27.5以上}} </div>]] 基本的に有色人種と白人では先述のダメージを受ける度合いが大きく異なり、黒人よりは中東系、中東系よりは東アジア系、東アジア系よりは欧州系の白人が大きく影響を受ける{{要出典|date=2023年11月}}。しかしながら白人はそのダメージが最も大きいにもかかわらず、文化的に日焼けした肌から裕福な印象を受けるために日焼けを好み、日焼けサロンに通ったりビーチで日焼けする姿が多々見られる。 {{See also|フィッツパトリックのスキンタイプ}} 13カ国の400万人以上のがん患者のデータを用いた2006年の研究では、[[日照]]の少ない国での特定のがんのリスクの顕著な増加が示され、その他の関連研究でもビタミンD濃度とがんの間の相関関係が示されている。この著者は、毎日 1,000[[国際単位|IU]] (25μg) のビタミンDの追加摂取はヒトの[[大腸癌]]のリスクを50%減少させ、乳がんと[[卵巣がん]]のリスクを30%減少させると示唆している<ref>{{cite journal |pmid=16380576 |year=2006 |last1=Garland |first1=CF |last2=Garland |first2=FC |last3=Gorham |first3=ED |last4=Lipkin |first4=M |last5=Newmark |first5=H |last6=Mohr |first6=SB |last7=Holick |first7=MF |title=The role of vitamin D in cancer prevention |volume=96 |issue=2 |pages=252–61 |doi=10.2105/AJPH.2004.045260 |pmc=1470481 |journal=American journal of public health}}</ref><ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/4563336.stm| title= Vitamin D 'can lower cancer risk'| work=BBC News|date=28 December 2005| accessdate=2006-03-23}}</ref><ref>{{cite journal |pmid=17296473 |year=2007 |last1=Gorham |first1=ED |last2=Garland |first2=CF |last3=Garland |first3=FC |last4=Grant |first4=WB |last5=Mohr |first5=SB |last6=Lipkin |first6=M |last7=Newmark |first7=HL |last8=Giovannucci |first8=E |last9=Wei |first9=M |title=Optimal vitamin D status for colorectal cancer prevention: a quantitative meta analysis |volume=32 |issue=3 |pages=210–6 |doi=10.1016/j.amepre.2006.11.004 |journal=American journal of preventive medicine}}</ref><ref>{{cite journal |pmid=17169713 |year=2006 |last1=Garland |first1=CF |last2=Mohr |first2=SB |last3=Gorham |first3=ED |last4=Grant |first4=WB |last5=Garland |first5=FC |title=Role of ultraviolet B irradiance and vitamin D in prevention of ovarian cancer |volume=31 |issue=6 |pages=512-4 |doi=10.1016/j.amepre.2006.08.018 |journal=American journal of preventive medicine}}</ref>。さらに、日照不足であると、[[くる病]]や冬型の[[季節性情動障害]]に罹患するリスクが高まる。これらの日照不足によると思われる疾患を避け、健康を維持するために、高緯度に居住する白人は[[日光浴]]を好む傾向にあると考えられる。 日本でも[[20世紀]]に日焼けブームがあったが、その後紫外線の害が指摘されるなどして廃れた。詳しくは[[美白]]を参照。 {{clear}} == 出典 == {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Sunburn|サンバーン}} * [[ウロカニン酸]] - 紫外線に対する防御に関わる。 * [[フィッツパトリックのスキンタイプ]] - ヒトの紫外線に対する感受性。 * [[熱放射]] * [[サンレスタンニング]] == 外部リンク == * [https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/17-皮膚の病気/日光と皮膚障害/日焼け 日焼け] - MSDマニュアル * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひやけ}} [[Category:皮膚科学]] [[Category:身体装飾]] [[Category:紫外線]] [[Category:夏の季語]] [[es:Quemadura#Quemaduras solares]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%84%BC%E3%81%91
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非ステロイド性抗炎症薬
非ステロイド性抗炎症薬(ひステロイドせいこうえんしょうやく、英語: Non-Steroidal Anti-Inflammatory Drug) は、抗炎症作用、鎮痛作用、解熱作用を有する薬剤の総称。頭文字を連ねて短縮表記されることも多く、NSAID(英語発音: [ˌen.es.eɪ.aɪ.ˈdiː] エヌ・エス・エイ・アイ・ディー))や(複数種類あるのでsつきで)NSAIDs(エヌセッズ、エヌセイズ)と表記し、かっこ内の発音をされる。疼痛、発熱、炎症の治療に用いられる。代表的なNSAIDにはアセチルサリチル酸(商品名アスピリン、バファリン)、イブプロフェン(商標名ブルフェン)、ロキソプロフェン(商品名ロキソニン)、ジクロフェナク(商品名ボルタレン)がある。また外用薬もある。 NSAIDsというのは先行するステロイド系抗炎症薬の副作用が問題視された後に登場したステロイドではない抗炎症薬。ところがこのNSAIDでも、NSAID潰瘍のような、死亡につながる可能性のある副作用は2000年前後にアメリカ合衆国で毎年3,200人、あるいは過剰推計ともされるが1万6,500人が死亡しているという2つの推計がある。COX-2への選択制を高め胃腸作用を減らしたNSAIDのいくつかでは心臓の副作用が増加した。 さまざまなNSAIDsは作用には大差がなく、異なるのは用量、服用方法である。NSAIDsの胃粘膜保護に関する試みで最も成功したのは、アセチル化とpHの調整、また、胃粘膜保護作用を持つ薬剤との併用である。胃酸分泌抑制効果のあるH2ブロッカー(例:ラフチジン(プロテカジン®)、ラニチジン(ザンタック®)や、ミソプロストール(サイトテック®)が、アメリカ合衆国では最も成功した薬剤である。例えば、ジクロフェナクとミソプロストールを合剤にしたオルソテックなどもあり、非常に効果的だが、高価である。日本では、バファリン®などの合剤がある。 一般医を受診する患者の25%は変形性関節症で、その半数から全ての例がNSAIDsを処方される。65歳以上の人口の80%にX線上有意な変形性関節症が存在するとされており、そのうち60%が疼痛などの症状を訴える。2001年には、アメリカ合衆国では7,000万錠のNSAIDsが処方され、300億錠が薬局で販売された。 単語「非ステロイド」とは、糖質コルチコイド(グルココルチコイド)でないことを意味する。グルココルチコイドは抗炎症薬の主要なグループを構成するが、1950年代にはグルココルチコイドに由来する医原病と思われる症例が多数報告されるようになった(詳細についてはステロイド系抗炎症薬の副作用)。このため、1960年代に開発された新しい抗炎症薬の一群がグルココルチコイド系ではないことを知らせることが重要とされ、 NSAID という概念が一般化されるに至った経緯がある。 非ステロイド性抗炎症薬には選択性のものと非選択性のものがある。 最も一般的な非ステロイド性抗炎症薬の多くは、すべてのシクロオキシゲナーゼ(COX-1、COX-2)活性を可逆的に競合阻害する。アラキドン酸が結合するシクロオキシゲナーゼの疎水性チャネルを封鎖することでアラキドン酸が酵素活性部位に結合することを防いでいる。例外は、アスピリンで、これはシクロオキシゲナーゼ(COX-1,2両方とも)をアセチル化することで阻害する。これは不可逆的な反応であり、核を持たず蛋白合成ができない血小板にとっては不可逆的な作用をもつ。この特性からアスピリンは冠動脈疾患や脳梗塞の既往のある者に対して投与される抗血小板薬として用いられる。アスピリンの抗血小板作用は退薬後、血小板の寿命である約10日間持続する。シクロオキシゲナーゼ1(COX-1)は恒常的に発現しており、胃壁の防御作用に関与している。胃壁が自ら分泌する、胃液に含まれる胃酸(塩酸)により溶かされないよう防ぐのに必要である。COX-1が阻害されると、胃潰瘍や消化管出血の原因となる。 一方COX-2は炎症時に誘導されるプロスタグランジン合成酵素であり、NSAIDsの抗炎症作用はCOX-2阻害に基づくと近年考えられ、COX-2を選択的に阻害する新しいNSAIDsが創製されている。特に酸性NSAIDsは強いシクロオキシゲナーゼ活性阻害を有しており、COXによりアラキドン酸からプロスタグランジンが合成されるのを阻害する(最近では、COX-1、COX-2共に抑制された場合のみ消化管障害が発現し、いずれかが阻害されずに残っている場合には消化管障害は起きにくいことがCOX-1あるいはCOX-2、もしくはCOX-1とCOX-2を遺伝的に欠損させたマウスの実験から明らかとなっている)。 プロスタグランジンには、炎症、発熱作用があるため結果的にNSAIDsは抗炎症作用、鎮痛作用、解熱作用を持つ。パラセタモール(アセトアミノフェン)もシクロオキシゲナーゼ活性阻害作用を持つため、NSAIDsに分類されることがあるが、明らかな抗炎症作用は持たず、真の意味でのNSAIDsではない。近年まではっきり解明されていなかったがこの抗炎症作用の欠落は、アセトアミノフェンのシクロオキシゲナーゼ阻害作用が中枢神経系に主に作用するからと考えられている。この中枢神経に存在するシクロオキシゲナーゼは、COX-3と呼ばれる。 1829年初頭に、鎮痛効果があるとして民間療法で用いられていたヤナギの樹皮から初めてサリチル酸が分離された。非ステロイド性抗炎症薬は、少量で鎮痛効果、大量投与で抗炎症効果がある薬物として重要なものとなった。以前は処方箋が必要であったが、現在では、イブプロフェンなどは薬局で販売されるようになっている。古くはリウマチなどの重篤な疾患にのみ処方されていたが、スポーツや事故による怪我の鎮痛、腰痛や手術後の鎮痛にも処方されるようになって久しい。癌や、冠動脈疾患など他の適応についての研究も続けられている。 分娩直前(妊娠末期)では、胎児の動脈管の閉鎖を引き起こすため、絶対に服用してはならない。また、手や指で部位を塗布した場合、犬や猫などの愛玩動物が、何らかの経緯で中毒を起こし、健康を害したり死亡させる事例が確認されている。 大量に消費されているため、副作用も多く出現する。最も多いのは胃腸炎で、軽い胃部不快感から、治療に長期間を要する、重篤な出血を伴う潰瘍までが起こりうる。胃潰瘍は通常、非ステロイド性抗炎症薬を中止するとすぐに治癒し始める。 NSAIDsの注意点としては、消化管潰瘍の副作用、喘息患者に合併するアスピリン喘息、また各種アレルギー反応、腎障害というものがあげられる。ニューキノロン薬との併用、妊婦への投与は製剤を選べば副作用回避が可能ともいわれているが、用いない方が無難とされている。 イブプロフェンピコノール 他の副作用としては骨折の治癒を阻害する、心血管系では血小板機能を阻害し出血を止まりにくくする。また、腎機能障害や、腎のプロスタグランジンを阻害し、血圧調整機能を障害する。以上の理由で、慢性心疾患、腎機能障害、血圧異常の患者にNSAIDsは慎重に使用する必要がある。NSAIDsは、身体の障害によって産生されるプロスタグランジンの合成を阻害することにより効果を発揮するが、プロスタグランジンは、炎症と疼痛をもたらすだけではなく、胃内膜などの再生に関わるなど、必要な役割もある。 NSAIDsの胃腸障害作用は用量依存性であり、多くの場合致命的となる胃穿孔や、上部消化管出血を起こす。概ねNSAIDsを処方された患者の10~20%に消化器症状が現れ、アメリカでは年間に10万人以上が入院し、1万6500人が死亡している。また、薬剤が原因の救急患者の43%をNSAIDsが占めている。このような事態の多くは本当は避けられたとする研究結果もある。ある研究によると、NSAIDsを処方された患者の42%は、実際は不必要な処方であった。 毎年アメリカ人の1万6500人が死亡というのは1999年の統計を米国人口に当てはめて推計したもので、後に過大評価との指摘もあり、2004年には1990年代の死亡率データから3200人としているが、実際にはこの推計は異なる時期の異なる患者集団を元にしており、より適切な臨床試験がなければ正確な評価は困難である。 NSAIDsによるプロスタグランジン産生抑制 →腎血管収縮による腎血流量減少+ヘンレループでのナトリウム再吸収増加+抗利尿ホルモン作用亢進 →尿量減少 となり、腎血流量低下と尿量減少から腎機能低下例では腎不全に至ることがある。 連用した場合は薬物乱用頭痛を引き起こす。英国国立医療技術評価機構は、アセトアミノフェン・アスピリン・NSAIDsを単独または併用の服用が月に15日以上ある状態が3ヶ月以上続く場合、薬物乱用性頭痛の可能性が疑われるとしている。 NSAIDsはさまざまな種類が知られている。NSAIDsの選択において重要なのは、その使い分けが治療に本質的な差を生むことはなく、副作用のコントロールのためと考えて行うことである。患者のQOLを考慮した技術にすぎない。 前述のようにCOX-1/2をともに阻害すると消化管の障害が出現するため、COX-2選択性の高い薬剤が開発された。セレコキシブが選択的COX-2阻害薬であり、エトドラクやメロキシカムやナブメトンはCOX-2選択性が高いがCOX-1にも作用すると考えられている。血小板凝集抑制作用のあるプロスタサイクリンがCOX-2阻害により減り、相対的にトロンボキサンA2の働きが強まり、血栓傾向が高まり心血管事故が増えることがわかり、全米で3万件近い訴訟が起こるなど一大問題となった。メルクが開発した、rofecoxib(商品名:バイオックス)は自主回収になった。 2002年にシモンズらがアセトアミノフェン(パラセタモール、タイレノール®)に関連する新たなアイソザイムを発見したと発表した。COX-3は、主に中枢神経系に存在するCOX-1の変種(スプライシングバリアント)で、アセトアミノフェンなどの鎮痛消炎剤によって阻害されるとされ、チャンドラセクハランらにより構造が決定、発表された。 ただしその後、COX-3の存在を疑問視する研究結果も発表されている。
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"2002年にシモンズらがアセトアミノフェン(パラセタモール、タイレノール®)に関連する新たなアイソザイムを発見したと発表した。COX-3は、主に中枢神経系に存在するCOX-1の変種(スプライシングバリアント)で、アセトアミノフェンなどの鎮痛消炎剤によって阻害されるとされ、チャンドラセクハランらにより構造が決定、発表された。", "title": "NSAIDsの分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ただしその後、COX-3の存在を疑問視する研究結果も発表されている。", "title": "NSAIDsの分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "", "title": "NSAIDsの分類" } ]
非ステロイド性抗炎症薬 は、抗炎症作用、鎮痛作用、解熱作用を有する薬剤の総称。頭文字を連ねて短縮表記されることも多く、NSAID( エヌ・エス・エイ・アイ・ディー))や(複数種類あるのでsつきで)NSAIDs(エヌセッズ、エヌセイズ)と表記し、かっこ内の発音をされる。疼痛、発熱、炎症の治療に用いられる。代表的なNSAIDにはアセチルサリチル酸(商品名アスピリン、バファリン)、イブプロフェン(商標名ブルフェン)、ロキソプロフェン(商品名ロキソニン)、ジクロフェナク(商品名ボルタレン)がある。また外用薬もある。 NSAIDsというのは先行するステロイド系抗炎症薬の副作用が問題視された後に登場したステロイドではない抗炎症薬。ところがこのNSAIDでも、NSAID潰瘍のような、死亡につながる可能性のある副作用は2000年前後にアメリカ合衆国で毎年3,200人、あるいは過剰推計ともされるが1万6,500人が死亡しているという2つの推計がある。COX-2への選択制を高め胃腸作用を減らしたNSAIDのいくつかでは心臓の副作用が増加した。 さまざまなNSAIDsは作用には大差がなく、異なるのは用量、服用方法である。NSAIDsの胃粘膜保護に関する試みで最も成功したのは、アセチル化とpHの調整、また、胃粘膜保護作用を持つ薬剤との併用である。胃酸分泌抑制効果のあるH2ブロッカー(例:ラフチジン、ラニチジンや、ミソプロストールが、アメリカ合衆国では最も成功した薬剤である。例えば、ジクロフェナクとミソプロストールを合剤にしたオルソテックなどもあり、非常に効果的だが、高価である。日本では、バファリン®などの合剤がある。 一般医を受診する患者の25%は変形性関節症で、その半数から全ての例がNSAIDsを処方される。65歳以上の人口の80%にX線上有意な変形性関節症が存在するとされており、そのうち60%が疼痛などの症状を訴える。2001年には、アメリカ合衆国では7,000万錠のNSAIDsが処方され、300億錠が薬局で販売された。
{{Infobox drug class |Name = Non-steroidal anti-inflammatory drug<ref name=OED/><ref name=BNF-NICE>{{Cite |title=Non-steroidal anti-inflammatory drugs|url=https://BNF.NICE.org.uk/treatment-summary/non-steroidal-anti-inflammatory-drugs.html|website=BNF.NICE.org.uk|publisher=[[英国国民医薬品集]] (BNF), [[英国国立医療技術評価機構]] (NICE)|date=2022|access-date=4 February 2022}}</ref> |Image = 200mg ibuprofen tablets.jpg |Alt = |Caption = [[イブプロフェン]][[後発薬]](200mg) |Pronounce= {{IPAc-en|ˈ|ɛ|n|s|ɛ|d}} {{respell|EN|sed}} |Synonyms = Cyclooxygenase inhibitor,<ref name="Lipfert Seitz Arndt 1987 pp. 210–213">{{Cite journal|vauthors=Lipfert P, Seitz R, Arndt JO|date=February 1987|title=Studies of local anesthetic action on natural spike activity in the aortic nerve of cats|journal=[[Anesthesiology (journal)|Anesthesiology]]|volume=66|issue=2|pages=210–3|pmid=3813081|doi=10.1097/00000542-198702000-00016|publisher=Ovid Technologies (Wolters Kluwer Health)|quote=Non-steroidal anti-inflammatory drugs (NSAIDs) are the competitive inhibitors of cyclooxygenase (COX), the enzyme which mediates the bioconversion of arachidonic acid to inflammatory prostaglandins (PGs).}}</ref><br>Cyclooxygenase enzyme inhibitor,<ref name="Lipfert Seitz Arndt 1987 pp. 210–213"/><br>Non-steroidal anti-inflammatory agents/analgesics (NSAIAs),<br>Non-steroidal anti-inflammatory medicines (NSAIMs){{Citation needed|date=February 2022}} <!-- Class identifiers --> |Use = [[疼痛]],<ref name=OED/> [[発熱]],<ref name=OED/> [[炎症]],<ref name=OED/> |ATC_prefix = M01A |Mode_of_action = |Biological_target = [[COX-1]] および [[COX-2]] |Mechanism_of_action= [[酵素阻害剤]] |Chemical_class = <!-- Clinical data --> |Drugs.com = <!-- {{Drugs.com|drug-class|?}} --> |Consumer_Reports= |medicinenet = |rxlist = <!-- External links --> |MeshID = }} '''非ステロイド性抗炎症薬'''(ひステロイドせいこうえんしょうやく、{{lang-en|Non-Steroidal Anti-Inflammatory Drug}}<ref group="注"><small>[[アメリカ英語]]発音: </small>{{IPA-en|nɑːn stɪˌrɔɪdəl ˌæntaɪɪnˈflæməˌtɔri drʌg|}} ナ(ー)ンスティ'''ロ'''イドォー・アンタイインフ'''ラ'''(ー)マトゥリ・ドゥ'''ラ'''グ</ref>) <ref name=BNF-NICE /><ref name=OED>{{Cite web|title=non-steroidal anti-inflammatory drug|url=https://www.Lexico.com/definition/non-steroidal_anti-inflammatory_drug|website=www.Lexico.com|publisher=[[Oxford English Dictionary]]|date=2022|access-date=4 February 2022}}</ref>は、[[抗炎症剤|抗炎症作用]]、[[鎮痛剤|鎮痛作用]]、[[解熱剤|解熱作用]]を有する薬剤の[[総称]]。[[頭字語|頭文字を連ねて短縮表記]]されることも多く、'''NSAID'''({{IPA-en|ˌen.es.eɪ.aɪ.ˈdiː}} エヌ・エス・エイ・アイ・ディー<ref>[http://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/nsaid?q=NSAIDS NSAID] (Cambridge Dictionaries Online)</ref>)<ref group="注">{{IPA-en|ˈɛnˌsɛd}} '''エ'''ヌセ(ッ)ドゥ、{{IPA-en|ˈɛnˌseɪd|}} '''エ'''ヌセイドゥ</ref><ref>[http://www.collinsdictionary.com/dictionary/american/nsaid NSAID] (Collins "American English Dictionary")</ref>)や(複数種類あるのでsつきで)'''NSAIDs'''(エヌセッズ、エヌセイズ<ref>川口善治「腰痛徹底対策 ぎっくり腰」、『きょうの健康』2017年11月号、[[NHK出版]]、 60頁。</ref>)と表記し、かっこ内の発音をされる。[[疼痛]]、[[発熱]]、[[炎症]]の治療に用いられる。代表的なNSAIDには[[アセチルサリチル酸]](販売名 アスピリン、[[バファリン]]など)、[[イブプロフェン]](販売名 ブルフェン)、[[ロキソプロフェン]](販売名 ロキソニン)、[[ジクロフェナク]](販売名 ボルタレン)がある。また[[外用薬]]もある。 NSAIDsというのは先行する[[ステロイド系抗炎症薬の副作用]]が問題視された後に登場した[[ステロイド]]ではない[[抗炎症薬]]。ところがこのNSAIDでも、[[NSAID潰瘍]]のような、[[死亡]]につながる可能性のある[[副作用]]は2000年前後にアメリカ合衆国で毎年3,200人、あるいは過剰推計ともされるが1万6,500人が死亡しているという2つの推計がある<ref name="Krueger2013" />。COX-2への選択制を高め胃腸作用を減らしたNSAIDのうち、[[ロフェコキシブ]]{{efn2|Rofecoxib. 日本未承認。}}は心臓の副作用が増加したことで発売元は自主回収することとなった<ref>{{cite web2 |url=https://www.newscientist.com/article/dn6918-up-to-140000-heart-attacks-linked-to-vioxx.html |title=Up to 140,000 heart attacks linked to Vioxx. |website=[[New Scientist]] |date=2005-01-25 |access-date=2023-12-17 }}</ref>。 さまざまなNSAIDsは作用には大差がなく、異なるのは用量、服用方法である。NSAIDsの胃粘膜保護に関する試みで最も成功したのは、アセチル化とpHの調整、また、胃粘膜保護作用を持つ薬剤との併用である。胃酸分泌抑制効果のある[[ヒスタミンH2受容体拮抗薬|H2ブロッカー]](例:ラフチジン(販売名 プロテカジン)、ラニチジン(販売名 ザンタック)や、[[ミソプロストール]](販売名 サイトテック)が、アメリカ合衆国では最も成功した薬剤である。例えば、ジクロフェナクとミソプロストールを合剤にしたオルソテックなどもあり、非常に効果的だが、高価である。日本では、[[バファリン]]などの合剤がある。 [[一般医]]を受診する患者の25{{nbsp}}%は[[関節炎|変形性関節症]]で、その半数から全ての例がNSAIDsを処方される。65歳以上の人口の80{{nbsp}}%にX線上有意な変形性関節症が存在するとされており、そのうち60%が疼痛などの症状を訴える。[[2001年]]には、アメリカ合衆国では7,000万錠のNSAIDsが処方され、300億錠が薬局で販売された。 == 名称の由来 == 単語「非ステロイド」とは、[[糖質コルチコイド]](グルココルチコイド)でないことを意味する。グルココルチコイドは抗炎症薬の主要なグループを構成するが、[[1950年代]]にはグルココルチコイドに由来する[[医原病]]と思われる症例が多数報告されるようになった(詳細については[[ステロイド系抗炎症薬の副作用]])。このため、[[1960年代]]に開発された新しい抗炎症薬の一群がグルココルチコイド系ではないことを知らせることが重要とされ、 NSAID という概念が一般化されるに至った経緯がある。<ref>[https://www.researchgate.net/publication/264248818_Origins_and_impact_of_the_term_'NSAID' "Origins and impact of the term NSAID" (Buer 2014)]''Inflammopharmacology'', vol. 22, no 5, 2014, p. 263-7. ([[PubMed Identifier|PMID]] [http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25064056 25064056], [[デジタルオブジェクト識別子|DOI]] [https://doi.org/%2010.1007/s10787%20-%20014%20-%200211%20-%202 10.1007/s10787-014-0211-2]) [https://www.researchgate.net/publication/264248818_Origins_and_impact_of_the_term_'NSAID' オンライン読む](アーカイブ))</ref> == 作用機序 == 非ステロイド性抗炎症薬には選択性のものと非選択性のものがある。 最も一般的な非ステロイド性抗炎症薬の多くは、すべての[[シクロオキシゲナーゼ]](COX-1・[[COX-2]])活性を可逆的に[[競合阻害]]する。[[アラキドン酸]]が結合するシクロオキシゲナーゼの疎水性チャネルを封鎖することでアラキドン酸が酵素活性部位に結合することを防いでいる。例外は、アスピリンで、これはシクロオキシゲナーゼ(COX-1・COX-2両方とも)をアセチル化することで阻害する。これは不可逆的な反応であり、核を持たず蛋白合成ができない血小板にとっては不可逆的な作用をもつ。この特性からアスピリンは[[冠動脈疾患]]や[[脳梗塞]]の既往のある者に対して投与される[[抗血小板薬]]として用いられる。アスピリンの抗血小板作用は退薬後、血小板の寿命である約10日間持続する。シクロオキシゲナーゼ1(COX-1)は恒常的に発現しており、胃壁の防御作用に関与している。胃壁が自ら分泌する、[[胃液]]に含まれる[[胃酸]]([[塩酸]])により溶かされないよう防ぐのに必要である。COX-1が阻害されると、[[消化性潰瘍|胃潰瘍]]や[[メレナ|消化管出血]]の原因となる。 一方COX-2は炎症時に誘導される[[プロスタグランジン]]合成酵素であり、NSAIDsの抗炎症作用はCOX-2阻害に基づくと近年考えられ、COX-2を選択的に阻害する新しいNSAIDsが創製されている。特に酸性NSAIDsは強いシクロオキシゲナーゼ活性阻害を有しており、COXによりアラキドン酸からプロスタグランジンが合成されるのを阻害する(最近では、COX-1、COX-2共に抑制された場合のみ消化管障害が発現し、いずれかが阻害されずに残っている場合には消化管障害は起きにくいことがCOX-1あるいはCOX-2、もしくはCOX-1とCOX-2を遺伝的に欠損させたマウスの実験から明らかとなっている)。 プロスタグランジンには、炎症、発熱作用があるため結果的にNSAIDsは抗炎症作用、鎮痛作用、解熱作用を持つ。パラセタモール([[アセトアミノフェン]])もシクロオキシゲナーゼ活性阻害作用を持つため、NSAIDsに分類されることがあるが、明らかな抗炎症作用は持たず、真の意味でのNSAIDsではない。近年まではっきり解明されていなかったがこの抗炎症作用の欠落は、アセトアミノフェンのシクロオキシゲナーゼ阻害作用が[[神経系|中枢神経系]]に主に作用するからと考えられている。この中枢神経に存在するシクロオキシゲナーゼは、COX-3と呼ばれる。 == 歴史 == [[1829年]]初頭に、鎮痛効果があるとして民間療法で用いられていた[[ヤナギ]]の樹皮から初めて[[サリチル酸]]が分離された。非ステロイド性抗炎症薬は、少量で鎮痛効果、大量投与で抗炎症効果がある薬物として重要なものとなった。以前は[[処方箋]]が必要であったが、現在では、イブプロフェンなどは薬局で販売されるようになっている。古くは[[リウマチ]]などの重篤な疾患にのみ処方されていたが、スポーツや事故による怪我の鎮痛、腰痛や手術後の鎮痛にも処方されるようになって久しい。[[悪性腫瘍|癌]]や、[[冠動脈]]疾患など他の適応についての研究も続けられている。 == 禁忌 == [[分娩]]直前(妊娠末期)では、[[胎児]]の[[動脈管]]の閉鎖を引き起こすため、絶対に服用してはならない。また、手や指で部位を塗布した場合、犬や猫などの[[愛玩動物]]が、何らかの経緯で[[中毒]]を起こし、健康を害したり死亡させる事例が確認されている。 == 副作用 == 大量に消費されているため、[[副作用]]も多く出現する。最も多いのは[[急性胃腸炎|胃腸炎]]で、軽い胃部不快感から、治療に長期間を要する、重篤な出血を伴う潰瘍までが起こりうる。胃潰瘍は通常、非ステロイド性抗炎症薬を中止するとすぐに治癒し始める<ref>{{Cite web |title=Peptic Ulcer |url=https://www.health.harvard.edu/a_to_z/peptic-ulcer-a-to-z |website=Harvard Health |date=2018-12-10 |access-date=2022-08-09 |language=en}}</ref>。 *[[気管支喘息]](アスピリン喘息) *肝障害 *腎障害(特に降圧剤との併用には注意<ref>[http://www.tga.gov.au/adr/aadrb/aadr0610.pdf]</ref>) NSAIDsの注意点としては、消化管潰瘍の副作用、喘息患者に合併するアスピリン喘息、また各種[[アレルギー]]反応、腎障害というものがあげられる。[[ニューキノロン]]薬との併用、[[妊婦]]への投与は製剤を選べば副作用回避が可能ともいわれているが、用いない方が無難とされている。 イブプロフェンピコノール 他の副作用としては[[骨折]]の治癒を阻害する、心血管系では[[血小板]]機能を阻害し出血を止まりにくくする。また、腎機能障害や、腎のプロスタグランジンを阻害し、血圧調整機能を障害する。以上の理由で、慢性心疾患、腎機能障害、血圧異常の患者にNSAIDsは慎重に使用する必要がある。NSAIDsは、身体の障害によって産生されるプロスタグランジンの合成を阻害することにより効果を発揮するが、プロスタグランジンは、炎症と疼痛をもたらすだけではなく、胃内膜などの再生に関わるなど、必要な役割もある。 === 胃腸障害 === [[File:ロキソプロフェンナトリウムによる急性胃潰瘍.JPG|thumb|right|150px|ロキソプロフェンナトリウムによる急性胃潰瘍]] {{See also|NSAID潰瘍}} NSAIDsの胃腸障害作用は用量依存性であり、多くの場合致命的となる胃穿孔や、上部消化管出血を起こす。概ねNSAIDsを処方された患者の10〜20{{nbsp}}%に消化器症状が現れ、アメリカでは年間に10万人以上が入院し、1万6500人が死亡している。また、薬剤が原因の救急患者の43{{nbsp}}%をNSAIDsが占めている。このような事態の多くは本当は避けられたとする研究結果もある。ある研究によると、NSAIDsを処方された患者の42{{nbsp}}%は、実際は不必要な処方であった<ref>"Understanding NSAIDs:from aspirin to COX-2";Gray A. Green; Clin.Cornerstone 3(5):50-59, 2001.</ref>。 毎年アメリカ人の1万6500人が死亡というのは1999年の統計を米国人口に当てはめて推計したもので、後に過大評価との指摘もあり、2004年には1990年代の死亡率データから3200人としているが、実際にはこの推計は異なる時期の異なる患者集団を元にしており、より適切な臨床試験がなければ正確な評価は困難である<ref name="Krueger2013">{{cite journal |last=Krueger |first=Courtney |date=2013 |title=Ask the Expert: Do NSAIDs Cause More Deaths Than Opioids? |url=https://www.practicalpainmanagement.com/treatments/pharmacological/opioids/ask-expert-do-nsaids-cause-more-deaths-opioids |journal=Pain Treatments |publisher= |volume=13 |issue=10 |pages= |doi= |accessdate=2019-06-08 }}</ref>。 === 腎障害 === NSAIDsによる[[プロスタグランジン]]産生抑制<br> →腎血管収縮による腎血流量減少+[[ヘンレループ]]での[[ナトリウム]]再吸収増加+[[抗利尿ホルモン]]作用亢進 →尿量減少<br> となり、腎血流量低下と尿量減少から腎機能低下例では腎不全に至ることがある<ref>J Clin Pharm Ther. 2019 Feb;44(1):49-53.</ref>。 : RAS系阻害薬と利尿薬を併用していると腎血流量は低下する。この2剤に加え3剤目にNSAIDsを服用すると高率に急性腎障害を発症するため注意を要する。これら三剤の併用は組み合わせは「Triple Whammy(三段攻撃)」<ref>https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/pds.4866</ref>と呼ばれており、避けるようにする<ref>Nefrologia. 2015;35(2):197-206.</ref><ref>Kidney Int. 2015 Aug;88(2):396-403.</ref><ref>BMJ. 2013 Jan 8;346:e8525.</ref><ref>薬学雑誌.2019;139(11):1457-62.</ref>。 === 連用障害 === 連用した場合は[[薬物乱用頭痛]]を引き起こす。[[英国国立医療技術評価機構]]は、[[アセトアミノフェン]]・[[アスピリン]]・[[NSAIDs]]を単独または併用の服用が月に15日以上ある状態が3ヶ月以上続く場合、薬物乱用性頭痛の可能性が疑われるとしている<ref>{{Cite report|publisher=[[英国国立医療技術評価機構]]|url=http://www.nice.org.uk/CG150|title=CG150 Headaches|date=Jul 2012|at=chapt.1.2.7}}</ref>。 == NSAIDsの分類 == NSAIDsはさまざまな種類が知られている。NSAIDsの選択において重要なのは、その使い分けが治療に本質的な差を生むことはなく、副作用のコントロールのためと考えて行うことである。患者の[[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]]を考慮した技術にすぎない。 === 酸性NSAIDs === ; [[サリチル酸]]系 : [[アスピリン]]、[[エテンザミド]]、[[:en:Diflunisal|ジフルニサル]]が含まれる。不可逆的な血小板抑制作用がある。アスピリン特有の合併症には[[気管支喘息|アスピリン喘息]]と[[ライ症候群]]がある。[[喘息]]患者の10{{nbsp}}%にアスピリン過敏性があり、アスピリン過敏性がある患者は他のNSAIDsにも過敏である。 ; [[フェナム酸]]系 : [[メフェナム酸]] ; [[フェニル酢酸]]系 : [[ジクロフェナク]]、[[スリンダク]]、[[インドメタシン]]、[[フェルビナク]]、[[エトドラク]]、[[:en:Tolmetin|トルメチン]]など。[[坐剤]]があるため即効性の高いジクロフェナクやインドメタシン(塗り薬や湿布薬としても)がある。 ; [[プロピオン酸]]系 : 静注可能な[[フルルビプロフェン]]や強力な鎮痛作用を持つ[[ロキソプロフェン]]、[[イブプロフェン]]、[[ナプロキセン]]などがこれに含まれる。強力な鎮痛作用に加えて白血球抑制作用も知られ、その影響から消化管への副作用もアスピリンよりは少ない。[[イブプロフェンピコノール]]のような外用剤もある。 ; [[アントラニル酸]]系 : [[:en:Ufenamate|ウフェナマート]]が外用剤として用いられる。 ; COX-2阻害薬(コキシブ) : {{See|#COX-2}} ; [[オキシカム]]系 : [[シクロオキシゲナーゼ]]の非選択的阻害剤で、[[ピロキシカム]]およびそのプロドラッグである[[アンピロキシカム]]、[[テノキシカム]]、[[ドロキシカム]]、[[ロルノキシカム]]、[[メロキシカム]]といった薬が知られている。ピロキシカム、アンピロキシカムは血中半減期が他のNSAIDsに比べて非常に長いため1日1回投与で十分となる(多くは1日3回投与)。メロキシカムのみCOX-2を選択的に阻害する。 === 塩基性NSAIDs === : 2017年4月現在、日本で薬事承認されている塩基性NSAIDsは[[チアラミド]]のみである<ref>{{cite web2 |url=https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/di/column/sako/201704/551035.html |title=ペントイルなど、4月から薬価収載対象外に テルシガン、テラナス、ジヒデルゴット、ヒデルギンなども対象外に |website=日経DI Online |publisher=日経BP |date=2017-04-24 |access-date=2023-12-17 }}</ref>。鎮痛効果が低いがアスピリン喘息の患者にも投与可能ともいわれている。しかし喘息を誘発したという報告もあり用いない方がよいとされている。 === その他 === ; [[ピリン系]]([[ピラゾロン]]系) : 厳密にはNSAIDsではない。[[スルピリン]]や[[イソプロピルアンチピリン]]([[総合感冒薬]]や[[頭痛薬]]の一部製品に配合)などが含まれる。解熱鎮痛作用はあるが消炎作用はない。 ; [[非ピリン系]]([[アニリン]]系) : 厳密にはNSAIDsではない。[[アセトアミノフェン]]が含まれる。解熱鎮痛作用はあるが消炎作用はない。ライ症候群予防のため[[小児]]ではよく用いられる。日本では小児用[[バファリン]]、世界的には[[タイレノール]](日本では[[2000年]]に市販開始)が有名。 ; [[総合感冒薬]] : NSAIDsの他に[[抗ヒスタミン薬]]や[[カフェイン]]が含まれている。[[パイロン (風邪薬)|PL顆粒]]などが含まれる。 ; その他 : [[ナブメトン]] === COX-2 === 前述のようにCOX-1/2をともに阻害すると消化管の障害が出現するため、COX-2選択性の高い薬剤が開発された。[[セレコキシブ]]が選択的COX-2阻害薬であり、エトドラクやメロキシカムやナブメトンはCOX-2選択性が高いがCOX-1にも作用すると考えられている。血小板凝集抑制作用のある[[プロスタグランジン|プロスタサイクリン]]がCOX-2阻害により減り、相対的に[[トロンボキサン]]A2の働きが強まり、血栓傾向が高まり心血管事故が増えることがわかり、全米で3万件近い訴訟が起こるなど一大問題となった。[[メルク・アンド・カンパニー|メルク]]が開発した[[ロフェコキシブ]](商品名: Vioxx)は自主回収になった。 * [[エトドラク]](販売名 オステラック、ハイペンなど) * [[メロキシカム]](販売名 モービック) * [[セレコキシブ]](販売名 セレコックス、Celebrex, Celebra) * [[ロフェコキシブ]](日本では未発売) === COX-3 === [[2002年]]にシモンズらがアセトアミノフェン(パラセタモール、商品名 タイレノールなど多数)に関連する新たなアイソザイムを発見したと発表した。COX-3は、主に中枢神経系に存在するCOX-1の変種([[スプライシングバリアント]])で、アセトアミノフェンなどの鎮痛消炎剤によって阻害されるとされ、チャンドラセクハランらにより構造が決定、発表された。 ただしその後、COX-3の存在を疑問視する研究結果も発表されている<ref>{{Cite journal|last=Kis|first=Bela|last2=Snipes|first2=James A.|last3=Busija|first3=David W.|date=2005-10|title=Acetaminophen and the cyclooxygenase-3 puzzle: sorting out facts, fictions, and uncertainties|url=https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/15879007|journal=The Journal of Pharmacology and Experimental Therapeutics|volume=315|issue=1|pages=1–7|doi=10.1124/jpet.105.085431|issn=0022-3565|pmid=15879007}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アラキドン酸カスケード]] * [[インフルエンザ脳症]] * [[NSAID潰瘍]] * [[ステロイド系抗炎症薬]] == 外部リンク == * [http://plaza.umin.ac.jp/~beehappy/analgesia/index.html Pain Relief―痛みと鎮痛の基礎知識] {{非ステロイド性抗炎症薬}} {{Major drug groups}} {{DEFAULTSORT:ひすてろいとせいこうえんしようやく}} [[Category:非ステロイド性抗炎症薬|*]] [[Category:抗炎症薬]]
2003-09-09T08:47:47Z
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15,928
董仲舒
董 仲舒(とう ちゅうじょ、紀元前176年? - 紀元前104年?)は、前漢の儒学者・『春秋』学者。広川国の人。儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」。 『春秋』学の一派である公羊学を修め、景帝の世に博士になる。武帝の建元元年に行った賢良対策の中で、儒家以外の諸子百家を排斥して儒学を国家教学として据えるよう献策し、嘉納される。以降、政治的重要な地位を得るためには儒学的教養を身につけることが、必須となる。また、郡国に太学を置くことを上奏し、結果五経博士が置かれ、博士がそれぞれの専門とする経学を教授することとなった、と伝えられる(ただし、五経全ての専門家がそろうのは、武帝以降の時代と考えられる)。 『春秋』の内奥を探求し、陰陽説と融合させて災異思想を展開した。しかし建元6年(紀元前136年)、遼東高廟である高園便殿に起こった災異の原因を推察した未定の上奏文草稿が主父偃の手によって流出し、武帝の目に触れる。武帝は儒者を招して意見を求めた際、董仲舒の弟子の呂歩舒が師の文と知らずに痛烈に批判する。それにより董仲舒は後に許されるもののあやうく死罪に処されそうになり、以後災異は二度と口にしなかったと伝えられる。また、同じ『春秋』学者の公孫弘の讒言で、膠西国に左遷されるなど、その平生は不遇であった。「士不遇賦」という賦が現在伝わっている。晩年は官職を辞し、学究に専念して暮らした。 清廉潔白な人柄で、徳高く、ただ学問の究理にのみ人生を費やした。博士時代は部屋に帷を下ろして講義を行い、3年の間、庭に現れなかったという。弟子の数も非常に多く、新参者の弟子は、兄弟子から講義を受け、師である董仲舒の顔を知らない者までいた。司馬遷もまた、董仲舒から教えを受けているとされる。 最も早い記録によれば、著作として『董仲舒百二十三篇』、『聞挙』『玉杯』『蕃露』『清明』『竹林』複数十篇、『公羊董仲舒治獄十六篇』が挙げられている。 『董仲舒百二十三篇』は、董仲舒の上疏・教条を纏めたものである(『漢書』董仲舒伝に収録される「賢良対策」は、恐らく『董仲舒百二十三篇』の一部であった)。『聞挙』『玉杯』『蕃露』『清明』『竹林』複数十篇は、主に『春秋』の得失を述べたもの。『公羊董仲舒治獄十六篇』は、『公羊春秋』の精神に法って現実に起こった事件を断罪した、裁判記録集である。 ただし以上は、完全な形では伝わっていない。現在は『春秋繁露』という書物が、董仲舒の著作として伝えられている。『春秋繁露』は時代とともに散逸しつつあった董仲舒の著作を、六朝時代当たりに何者かが再編集したもの、と考えられる。その中、『公羊董仲舒治獄十六篇』だけは『春秋繁露』には収録されなかったらしく、現在他の書物の引用として、数条保存されているのみである。 董仲舒がある日帳を下ろして弟子に講義をしていると一人の客が訪ねてきた。舒はその客が普通の人間ではないと見て取った。しかも客が「雨になりそうだ」というので舒が「『巣居は風を予知し穴居は雨を予知する』というがさては君はキツネかタヌキ、さもなければハツカネズミだな」とからかった。するとその客は古狸に姿を変えたのであった。
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董 仲舒は、前漢の儒学者・『春秋』学者。広川国の人。儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「災異説」。
{{儒教}} [[Image:Dong zhongshu.jpg|thumb|董仲舒像]] '''董 仲舒'''(とう ちゅうじょ、[[紀元前176年]]? - [[紀元前104年]]?)は、[[前漢]]の[[儒学者]]・『[[春秋]]』学者。[[信都郡|広川国]]の人。[[儒家]]の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の最大の特徴は「[[災異説]]」。 == 生涯 == 『[[春秋]]』学の一派である[[公羊学]]を修め、[[景帝 (漢)|景帝]]の世に[[博士]]になる。[[武帝 (漢)|武帝]]の[[建元 (漢)|建元]]元年に行った賢良対策の中で、[[儒家]]以外の[[諸子百家]]を排斥して儒学を国家教学として据えるよう献策し、嘉納される。以降、政治的重要な地位を得るためには[[儒学]]的教養を身につけることが、必須となる。また、郡国に[[太学]]を置くことを上奏し、結果[[五経博士]]が置かれ、博士がそれぞれの専門とする経学を教授することとなった、と伝えられる(ただし、五経全ての専門家がそろうのは、武帝以降の時代と考えられる)。 『[[春秋]]』の内奥を探求し、[[陰陽説]]と融合させて[[災異思想]]を展開した。しかし建元6年([[紀元前136年]])、遼東高廟である高園便殿に起こった災異の原因を推察した未定の上奏文草稿が[[主父偃]]の手によって流出し、武帝の目に触れる。武帝は儒者を招して意見を求めた際、董仲舒の弟子の呂歩舒が師の文と知らずに痛烈に批判する。それにより董仲舒は後に許されるもののあやうく死罪に処されそうになり、以後災異は二度と口にしなかったと伝えられる。また、同じ『[[春秋]]』学者の[[公孫弘]]の讒言で、[[膠西郡|膠西国]]に左遷されるなど、その平生は不遇であった。「士不遇賦」という[[賦]]が現在伝わっている。晩年は官職を辞し、学究に専念して暮らした。 清廉潔白な人柄で、徳高く、ただ学問の究理にのみ人生を費やした。博士時代は部屋に帷を下ろして講義を行い、3年の間、庭に現れなかったという。弟子の数も非常に多く、新参者の弟子は、兄弟子から講義を受け、師である董仲舒の顔を知らない者までいた。[[司馬遷]]もまた、董仲舒から教えを受けているとされる。 == 著作 == 最も早い記録によれば、著作として『董仲舒百二十三篇』、『聞挙』『玉杯』『蕃露』『清明』『竹林』複数十篇、『公羊董仲舒治獄十六篇』が挙げられている。 『董仲舒百二十三篇』は、董仲舒の上疏・教条を纏めたものである(『漢書』董仲舒伝に収録される「賢良対策」は、恐らく『董仲舒百二十三篇』の一部であった)。『聞挙』『玉杯』『蕃露』『清明』『竹林』複数十篇は、主に『[[春秋]]』の得失を述べたもの。『公羊董仲舒治獄十六篇』は、『公羊春秋』の精神に法って現実に起こった事件を断罪した、裁判記録集である。 ただし以上は、完全な形では伝わっていない。現在は『[[春秋繁露]]』という書物が、董仲舒の著作として伝えられている。『春秋繁露』は時代とともに散逸しつつあった董仲舒の著作を、六朝時代当たりに何者かが再編集したもの、と考えられる。その中、『公羊董仲舒治獄十六篇』だけは『春秋繁露』には収録されなかったらしく、現在他の書物の引用として、数条保存されているのみである。 == 逸話 == 董仲舒がある日帳を下ろして弟子に講義をしていると一人の客が訪ねてきた。舒はその客が普通の人間ではないと見て取った。しかも客が「雨になりそうだ」というので舒が「『巣居は風を予知し穴居は雨を予知する』というがさては君はキツネかタヌキ、さもなければハツカネズミだな」とからかった。するとその客は古狸に姿を変えたのであった<ref>{{Cite |和書 |author =干宝著 竹田晃訳 |title = 捜神記 |date = 1992.1 |edition = 初版 |publisher =平凡社 |page = 344|isbn =9784582763225}}</ref>。 == 日本語文献 == *[[日原利国]]訳著『春秋繁露』[[明徳出版社]]「中国古典新書」、1977年 *鄧紅『董仲舒思想の研究』明徳出版社、1995年 *小林春樹『『[[漢書]]』の新研究 その董仲舒像を中心として』[[汲古書院]]、2023年 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[春秋決獄]] * [[広川董氏]] - [[朝鮮]]の氏族。始祖を董仲舒の43代目の子孫・[[董承宣]]とする。 {{Normdaten}} {{wikisourcelang|zh|作者:董仲舒|董仲舒}} {{DEFAULTSORT:とう ちゆうしよ}} [[Category:紀元前2世紀中国の儒学者]] [[Category:紀元前2世紀中国の哲学者]] [[Category:前漢武帝期の人物]] [[Category:紀元前2世紀生]] [[Category:紀元前2世紀没]] [[Category:広川董氏]]
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選日
選日(せんじつ)とは、暦注上において干支の組合せによってその日の吉凶を占う物であり、六曜・七曜・十二直(中段)・二十八宿・九星・暦注下段等を含めた総称である。擇日(たくじつ)・撰日・雑注ともいう。暦注の日取りの方法は撰日法という。古代中国から続く「萬年曆(または萬年農民暦)」の内容と重なる内容が多く見受けられるなど、農民暦が基になっているとされている。しかし一粒万倍日等は日本に農民暦が入ってきた後に独自に作られた信憑性に乏しい内容であり、農民暦には一粒万倍日は存在しない。
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選日(せんじつ)とは、暦注上において干支の組合せによってその日の吉凶を占う物であり、六曜・七曜・十二直(中段)・二十八宿・九星・暦注下段等を含めた総称である。擇日(たくじつ)・撰日・雑注ともいう。暦注の日取りの方法は撰日法という。古代中国から続く「萬年曆(または萬年農民暦)」の内容と重なる内容が多く見受けられるなど、農民暦が基になっているとされている。しかし一粒万倍日等は日本に農民暦が入ってきた後に独自に作られた信憑性に乏しい内容であり、農民暦には一粒万倍日は存在しない。
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兵家
兵家(へいか)は、中国古代の思想で、諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。 兵家の代表的な理論には「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなる書物で今でも各国で研究されている歴史的な理論である。それらは「始計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」「九変篇」「行軍篇」「地形篇」「九地変」「火攻篇」「用間篇」と呼ばれる。 1 「始計篇」 孫子の兵法の第1章のはじめは「孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の地、察せざるべからざるなり。」という文から始まる。これは戦争は国にとって深刻な問題であり、人民の死生や国家の存亡をかけた一大事であることをしっかりと認識すべきと主張し、好んで行うべきではなく、成り行きで行うべきではないことを暗示している。 下記の5つの要素について彼我の戦争遂行能力を比較してから開戦の決断をするように主張する。 これら5つの要素に鑑みて表面的な数によらない本質的な戦力を割り出し、まずは自国が優位であるかどうかの確認をするよう始計篇では主張している。 『漢書』「芸文志」は、六つの大分類のうち一つを丸ごと兵家にあて(「兵書略」)、さらに兵家を兵権謀家・兵形勢家・兵陰陽家・兵技巧家の四種に細分している 。兵権謀家は他の三種の兵法を用いつつ国家的計略を立ててから実際の戦争行為に至るまでを含む大局的戦略を扱い、兵形勢家は変幻自在の策によって素早く敵を制する局所的戦術を扱い、兵陰陽家は陰陽家の五行思想を取り入れた超自然的な兵法を扱い、兵技巧家はいわゆる武術を扱う。 権謀は、正を以て国を守り、奇を以て兵を用い、先に計して後に戦し、形勢を兼ね、陰陽を包み、技巧を用ゆる者なり。 形勢は、雷動風挙、後に発して先に至り、離合背郷(兵を散開させるも集めるも趨勢に背くも従うも自在で)・変化無常にして、軽疾を以て敵を制する者なり。 陰陽は、時に順いて発し、刑徳を推(おしはか)り、斗撃(北斗七星・南斗六星の拍)に随い、五勝(五行相剋)に因り、鬼神に仮りて助と為す者なり。 『神農兵法』一篇や『黄帝』十六篇 など、ほぼ神話上の人物への仮託。以下の人物も後世からの仮託の可能性が高い。 技巧は、手足を習い、器械(通常の武具)を便り、機関(仕掛けのある武具)を積み、以て攻守の勝を立つる者なり。 『漢書』「芸文志」に記載される書籍の著者は、伝が不明な人物が多い。以下は伝が知られる人物を載せるが、後世の仮託の可能性がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "兵家(へいか)は、中国古代の思想で、諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "兵家の代表的な理論には「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の篇からなる書物で今でも各国で研究されている歴史的な理論である。それらは「始計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」「九変篇」「行軍篇」「地形篇」「九地変」「火攻篇」「用間篇」と呼ばれる。 1 「始計篇」 孫子の兵法の第1章のはじめは「孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の地、察せざるべからざるなり。」という文から始まる。これは戦争は国にとって深刻な問題であり、人民の死生や国家の存亡をかけた一大事であることをしっかりと認識すべきと主張し、好んで行うべきではなく、成り行きで行うべきではないことを暗示している。 下記の5つの要素について彼我の戦争遂行能力を比較してから開戦の決断をするように主張する。", "title": "代表的思想" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これら5つの要素に鑑みて表面的な数によらない本質的な戦力を割り出し、まずは自国が優位であるかどうかの確認をするよう始計篇では主張している。", "title": "代表的思想" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『漢書』「芸文志」は、六つの大分類のうち一つを丸ごと兵家にあて(「兵書略」)、さらに兵家を兵権謀家・兵形勢家・兵陰陽家・兵技巧家の四種に細分している 。兵権謀家は他の三種の兵法を用いつつ国家的計略を立ててから実際の戦争行為に至るまでを含む大局的戦略を扱い、兵形勢家は変幻自在の策によって素早く敵を制する局所的戦術を扱い、兵陰陽家は陰陽家の五行思想を取り入れた超自然的な兵法を扱い、兵技巧家はいわゆる武術を扱う。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "権謀は、正を以て国を守り、奇を以て兵を用い、先に計して後に戦し、形勢を兼ね、陰陽を包み、技巧を用ゆる者なり。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "形勢は、雷動風挙、後に発して先に至り、離合背郷(兵を散開させるも集めるも趨勢に背くも従うも自在で)・変化無常にして、軽疾を以て敵を制する者なり。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "陰陽は、時に順いて発し、刑徳を推(おしはか)り、斗撃(北斗七星・南斗六星の拍)に随い、五勝(五行相剋)に因り、鬼神に仮りて助と為す者なり。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "『神農兵法』一篇や『黄帝』十六篇 など、ほぼ神話上の人物への仮託。以下の人物も後世からの仮託の可能性が高い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "技巧は、手足を習い、器械(通常の武具)を便り、機関(仕掛けのある武具)を積み、以て攻守の勝を立つる者なり。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『漢書』「芸文志」に記載される書籍の著者は、伝が不明な人物が多い。以下は伝が知られる人物を載せるが、後世の仮託の可能性がある。", "title": "分類" } ]
兵家(へいか)は、中国古代の思想で、諸子百家の一つ。軍略と政略を説く。
{{諸子百家}} '''兵家'''(へいか)は、[[中国]]古代の思想で、[[諸子百家]]の一つ。軍略と政略を説く。 == 代表的思想 == 兵家の代表的な理論には「[[孫子の兵法]]」がある。孫子の兵法は13の篇からなる書物で今でも各国で研究されている歴史的な理論である。それらは「始計篇」「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」「九変篇」「行軍篇」「地形篇」「九地変」「火攻篇」「用間篇」と呼ばれる。<br /> <br /> {{big|1 「始計篇」}}<br /> 孫子の兵法の第1章のはじめは「孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の地、察せざるべからざるなり。」という文から始まる。これは戦争は国にとって深刻な問題であり、人民の死生や国家の存亡をかけた一大事であることをしっかりと認識すべきと主張し、好んで行うべきではなく、成り行きで行うべきではないことを暗示している。<br /> 下記の5つの要素について彼我の戦争遂行能力を比較してから開戦の決断をするように主張する。 # 道(君主と国民の信頼関係) # 天(開戦の正当性、自己防衛のための大義名分等の外交的優位性) # 地(主戦場での営陣、兵站の優位性) # 将(将帥の力) # 法(信賞必罰、尚賢の徹底度) これら5つの要素に鑑みて表面的な数によらない本質的な戦力を割り出し、まずは自国が優位であるかどうかの確認をするよう始計篇では主張している。 == 分類 == 『[[漢書]]』「[[芸文志]]」は、六つの大分類のうち一つを丸ごと兵家にあて(「兵書略」)、さらに兵家を兵権謀家・兵形勢家・兵陰陽家・兵技巧家の四種に細分している<ref name="geimonshi">[http://ctext.org/han-shu/yi-wen-zhi 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」]</ref><ref name="heishoryaku">[http://ctext.org/han-shu/yi-wen-zhi 中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」]「兵家者,蓋出古司馬之職,王官之武備也。洪範八政,八曰師。孔子曰為國者「足食足兵」,「以不教民戰,是謂棄之」,明兵之重也。《易》曰「古者弦木為弧,剡木為矢,弧矢之利,以威天下」,其用上矣。後世燿金為刃,割革為甲,器械甚備。下及湯武受命,以師克亂而濟百姓,動之以仁義,行之以禮讓,司馬法是其遺事也。自春秋至於戰國,出奇設伏,變詐之兵並作。漢興,張良、韓信序次兵法,凡百八十二家,刪取要用,定著三十五家。諸呂用事而盜取之。武帝時,軍政楊僕捃摭遺逸,紀奏兵錄,猶未能備。至于孝成,命任宏論次兵書為四種。」</ref> 。兵権謀家は他の三種の兵法を用いつつ国家的計略を立ててから実際の戦争行為に至るまでを含む大局的[[戦略]]を扱い<ref name="kenbou">中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「權謀者,以正守國,以奇用兵,先計而後戰,兼形勢,包陰陽,用技巧者也。」</ref>、兵形勢家は変幻自在の策によって素早く敵を制する局所的[[戦術]]を扱い<ref name="keisei">中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「形勢者,雷動風舉,後發而先至,離合背鄉,變化無常,以輕疾制敵者也。」</ref>、兵陰陽家は[[陰陽家]]の五行思想を取り入れた超自然的な兵法を扱い<ref name="inyou">中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「陰陽者,順時而發,推刑德,隨斗擊,因五勝,假鬼神而為助者也。」</ref>、兵技巧家はいわゆる[[中国武術|武術]]を扱う<ref name="gikou">中國哲學書電子化計劃『漢書』「藝文志」「技巧者,習手足,便器械,積機關,以立攻守之勝者也。」</ref>。 === 兵権謀家 === <blockquote>権謀は、正を以て国を守り、奇を以て兵を用い、先に計して後に戦し、形勢を兼ね、陰陽を包み、技巧を用ゆる者なり。<ref name="kenbou" /></blockquote> * [[孫武]](『[[孫子 (書物)|孫子]]』、[[武経七書]]に数えられる。『漢書』「芸文志」では『呉孫子兵法』八十二篇<ref name="geimonshi" />) * [[孫臏]](『[[孫臏兵法]]』。『漢書』「芸文志」では『斉孫子兵法』八十九篇<ref name="geimonshi" />) * [[呉起]](『[[呉子]]』四十八篇<ref name="geimonshi" />、現存は六篇、武経七書に数えられる) * [[商鞅]](『公孫鞅』二十七篇<ref name="geimonshi" />) * [[范レイ|范蠡]](『范蠡』二篇<ref name="geimonshi" />) * [[文種]](『大夫種』二篇<ref name="geimonshi" />) * [[龐煖]](『龐煖』三篇<ref name="geimonshi" />) * [[李左車]](『広武君』一篇<ref name="geimonshi" />) * [[韓信]](『韓信』三篇<ref name="geimonshi" />) === 兵形勢家 === <blockquote>形勢は、雷動風挙、後に発して先に至り、離合背郷(兵を散開させるも集めるも趨勢に背くも従うも自在で)・変化無常にして、軽疾を以て敵を制する者なり。<ref name="keisei" /></blockquote> * [[蚩尤]](『蚩尤』二篇<ref name="geimonshi" />、神話上の人物への仮託) * [[尉繚]](『尉繚』三十四篇<ref name="geimonshi" />(あるいは『尉繚子』)、武経七書に数えられる) * [[信陵君]](『魏公子』二十一篇<ref name="geimonshi" />、ただし書籍は本人の著ではなく食客が献じたものという<ref>『史記』「魏公子列伝」</ref>) * [[李良]](『李良』三篇<ref name="geimonshi" />、[[楚漢戦争]]時代に趙王[[武臣]]を裏切って弑するも[[陳余]]に敗れ、秦将[[章邯]]に降った人<ref>『史記』「張耳・陳余列伝」</ref>) * [[項羽]](『項王』一篇<ref name="geimonshi" />) === 兵陰陽家 === <blockquote>陰陽は、時に順いて発し、刑徳を推(おしはか)り、斗撃([[北斗七星]]・[[南斗六星]]の拍)に随い、五勝([[五行思想|五行相剋]])に因り、鬼神に仮りて助と為す者なり。<ref name="inyou" /></blockquote> 『[[神農]]兵法』一篇や『[[黄帝]]』十六篇<ref name="geimonshi" /> など、ほぼ神話上の人物への仮託。以下の人物も後世からの仮託の可能性が高い。 * [[孟子]](『孟子』一篇<ref name="geimonshi" />、儒学者の[[孟軻]]と同一人物かは不明) * [[師曠]](『師曠』八篇<ref name="geimonshi" />) * [[萇弘]](『萇弘』十五篇<ref name="geimonshi" />、周の[[霊王 (周)|霊王]]~[[敬王]]の頃の賢臣) === 兵技巧家 === <blockquote>技巧は、手足を習い、器械(通常の武具)を便り、機関(仕掛けのある武具)を積み、以て攻守の勝を立つる者なり。<ref name="gikou" /></blockquote> 『漢書』「芸文志」に記載される書籍の著者は、伝が不明な人物が多い。以下は伝が知られる人物を載せるが、後世の仮託の可能性がある。 * [[鮑叔]] (『鮑子兵法』十篇<ref name="geimonshi" />) * [[伍子胥]](『五子胥』十篇<ref name="geimonshi" />) * [[李広]] (『李将軍射法』三篇<ref name="geimonshi" />) * 王賀(『護軍射師王賀射書』五篇<ref name="geimonshi" />、[[新]]の皇帝[[王莽]]の曽祖父で[[武帝 (漢)|武帝]]の[[御史|繡衣御史]]を一時期務めていた人物が同姓同名<ref>『漢書』「元后伝」</ref>) === その他 === * 太公望[[呂尚]](武経七書『六韜』『三略』の著者に仮託される) * [[司馬穰苴]](『[[司馬法]]』現存五篇、武経七書に数えられる。『漢書』「芸文志」では、『軍礼司馬法』百五十五篇は、聖王である[[湯王]]・[[武王 (周)|武王]]の精神を遺すものとされ、兵書略ではなく、[[六芸|六芸略]]の一つ[[礼|礼家]]の書籍と分類されている<ref name="geimonshi" /><ref name="heishoryaku" />) * [[黄石公]](呂尚の『六韜』『三略』を撰録し[[張良]]に授けたとされる半伝説的人物) == 脚注・出典 == {{Reflist}} ==関連項目== * [[兵法書]] ** [[武経七書]] == 外部リンク == *[http://ctext.org/school-of-the-military/zh 兵家著作] {{春秋戦国時代}} {{DEFAULTSORT:へいか}} [[Category:兵家|*]] [[Category:兵家の人物|*]] [[Category:諸子百家]] [[Category:兵法]] [[Category:中国の軍事史]] {{Chinese-history-stub}}
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水力発電
水力発電(すいりょくはつでん、英語: hydroelectricity)とは、水の持つ位置エネルギーを利用して、落水や流水により水力で羽根車を回し、それによる動力で発電機を回して電気エネルギーを得る(発電を行う)方式のことである。略称は「水発(すいはつ)」「水力(すいりょく)」。 水力発電は発電の一方式であり、水力で発電機を動かし電力を生む方式のことである。ダム式、水路式、揚水式などがある。 また、水力発電は、個人が小さな水力発電装置を自作・設置して行うこともでき、特に小規模の水力発電を小水力発電(マイクロ水力発電)という。私道脇の水の流れ、小川、渓流などの、比較的小さな水の流れを利用して水力発電を行う。ただし河川や湖沼、用水路などの水の利用については水利権が設定されているため、権利者との協議や許可申請を行う必要がある。発電に使用した水を元に戻しても、水流や水質の変化が発生するためである。 一般には、発電の歴史の中で果たしてきた役割の重要さ、発電量の大きさ、その設備の雄壮な外観などによって、水力発電の中でも特にダム式のものや大河を利用したものがよく知られている。 自然に流れる水の力を動力として利用するという考えは、古代より続くものである。例としては、流れる水の力を水車によって動力にし、製粉・紡績などを行っていた。 1832年にフランスのヒポライト・ピクシーにより現在の交流発電機の原型となるダイナモが発明され、1840年にはイギリスのウィリアム・アームストロングが水力を動力源とする水力発電機を発明した。 世界で最初の水力発電は、1878年に前出のアームストロングが自身の屋敷に設けた絵画展示室の照明を点灯させるために、1km離れた川に個人でダムを築き、発電機を置いたものである。 米国では1881年にナイアガラの滝の近くに水力発電所(en:Robert Moses Niagara Hydroelectric Power Station)が竣工し、1882年には当時の電流戦争(交流方式と直流方式の争い)の最中にいたエジソンによる最初の水力発電所(en:Vulcan Street Plant、直流、出力12.5kW)がウィスコンシン州アップルトンに竣工した。1886年には米国およびカナダに45の水力発電所、1889年には米国だけで200の水力発電所が稼働していた。1890年にはウェスティングハウスが交流長距離送電を開始した。 日本の最初の発電所は1887年に竣工した東京の火力発電所であった。水力発電では1888年(明治21年)7月に宮城紡績が設置した三居沢発電所(5kW)で自家用発電を開始し、その後紡績会社や鉱山会社による発電所の設置が続いた。 1891年(明治24年)に米国のコロラド州アスペンの水力発電所を参考にして琵琶湖疏水の落差を利用する蹴上発電所(水路式、直流、160kW)が、運用を開始した。これが日本で最初の一般電気事業用水力発電所である。 初期の電力の需要は主に電灯であったが、日本では1913年(大正2年)に電力の動力需要が照明用の需要を超え、1914年(大正3年)には工業用の動力で電力が蒸気力を越えた。 日本で最初の長距離送電は、猪苗代湖から福島県安積郡郡山町(現郡山市)を結ぶ安積疏水の途中にある沼上瀑布の落差を利用した沼上水力発電所(出力300kW)と、郡山絹糸紡績(現日東紡績)を送電距離22.5km、送電電圧11kVで結んだのが始まりとされる。 また、1915年(大正4年)には逼迫する首都圏の電力需要に答えるべく、鉄道技術者、経営者として知られる仙石貢が、猪苗代水力電気株式会社(東京電燈・日本発送電を経て現在の東京電力の一部)を設立し、猪苗代湖北西部の日橋川に、当時で世界第三位、東洋一の出力を誇る37,500kWの猪苗代第一発電所を完成させ、115kVの高圧を以て湖南西部の黒森峠 (福島県)を経て南の勢至堂峠を通り、白河開閉所・宇都宮開閉所・古河開閉所を通って、東京田端の変電所まで、実に228kmにも渡る送電網を構築し、日本初の長距離高圧送電を実現した 。 大正から昭和初期にかけて大規模な水力発電所が多く作られ、1950年代までは電力の大半は水力発電によるものであった。このため、1950年から1951年の冬など降水量が少ない時期には、電力の需給がひっ迫した。家庭の工夫や大口工場の操業時間をずらして「一割節電」を求めたり、週二回の輪番制で銀座など繁華街のネオンサインを消灯する取り組みが行われた。 包蔵水力とは、水資源のうち、技術的・経済的に利用可能な水力エネルギー量のこと。包蔵水力は、「既開発」「工事中」「未開発(今後の開発が有望な水力エネルギー)」の3つに区分にわけられる。 世界(2008年)の水力発電電力量は3,288TWhで、発電電力量の16%強であり、また、世界の技術的開発可能包蔵水力量は、16,400TWh/年以上と見積もられている。今後の開発により水力発電は2050年には最大電力量6,000TWhまで発電することが可能と推定される。なお、日本の開発が有望な未開発の水力電力量は約44,148,039MWhと試算されている。 1960年代以降は、日本は高度成長期に入り獲得した外貨で安価な化石燃料が確保できるようになったこと、大容量の水力発電所の建設適地が少なくなってきたことから、火力発電の比重が増大していった。1955年には水力発電は全電力の78.7%であったが、1962年には水力46.1%と、火力が逆転した。2005年は水力発電は8.3%まで落ち、火力が59%、原子力31%であった。 日本において、過去の電力利用初期には水力発電が発電の主力であり、「水主火従の時代(すいしゅかじゅうのじだい)」と呼ばれている。その後、火力発電に軸足が移ると「火主水従の時代(かしゅすいじゅうのじだい)」となった。 また、揚水発電所の建設も始まったが、この当時は豊水期に貯水し、渇水期はその水を繰り返し発電に利用することで年間を通じて発電を行うようにするという、年間調整が主たる役割であり、火力・原子力発電による夜間の余剰電力を有効利用する現在の方法とは違った目的だった。 1962年(昭和38年)からの火主水従、1963年(昭和38年)に原子力発電所の運用開始後は、高度経済成長による昼間と夜間との電力需要の格差拡大が問題となっていた。火力・原子力発電等の汽力発電はその出力を頻繁に変動させるということは困難であり、ほぼ一定の出力で運転し続けている。従って日中の高需要時に合わせて運転すると夜間は発電過剰となり、夜間の余剰電力は揚水発電所において揚水運転として消化するという考えが持ち上がった。揚水発電所は、単位出力あたりの建設費が火力・原子力発電所より安いことが注目され、夜間に揚水・貯水し、昼間のピークに備えるという目的へと移っていき、それに特化するように大規模な純揚水発電所が建設されるようになった。但し、その結果水に含まれる不純物が原因のダムの堆積物増加が問題化し始めている。 発電施設は大きく取水施設、発電施設、放水施設に分けられる。取水・放水施設は水と接するために河川沿いとなる。発電施設は水源との距離に制限は無いが、取水・放水施設と管路で接続されるためにその中間に設置されることが多い。そのため水力発電施設は山岳や森林を開発することがほとんどとなり、自然保護の観点に注意が必要である。また取水・放水によって河川の流れが変わることも問題となる。また、発電用ダムを建設する場合は大規模になることが多く、既に形成された自然の地形、地盤、河川状況を考慮すると既に人里が存在している場所が候補になりやすい。大規模ダムが完成すると「水没」する村は過去にも多く例がある。 完成後の環境負荷はほとんど無いと言われることが多いが、これは火力・原子力発電と比較した場合であり、問題とされやすいCO2排出、NOx排出、放射性物質排出は皆無となる。稼働開始直後は水流変化による環境負荷はあるが、多くの発電施設は自然と共生する様態を示す。ダムにおいては水利調節機能も含有する場合が多いので、洪水の防止、干ばつの緩和にもなる。今日までに既設のダムが取り壊された例は少なく、発電所の老朽化が自然に与える影響は不明な部分が多い。 統一された明確な定義は無く団体や機関による様々な定義がある。 流水は位置エネルギー・運動エネルギー・圧力エネルギーを持っている。流水の持つこれらのエネルギーを水力という。 流水を作用させる点を基準点とすると、高さ h (m) にある質量 m (kg) の水は、mgh (J) の位置エネルギーを有している。 質量 m (kg)、密度 ρ (kg/m3) の水が自由落下するとき、ある一点における流水の速度(流速)を v (m/s)、圧力(水圧)を p (Pa) とすると、この流水のエネルギーは以下の三形態によって表すことができる。 水管路でのエネルギー消費を考えないものとすれば、流路のどの点においても流水が持つエネルギーの総和はエネルギー保存の法則により等しい。これが、ベルヌーイの定理である。それぞれを mg (N) で除したものを「水頭(すいとう)」という。 水頭は「ヘッド (head)」 ともいい、高さの単位によって表す。 実際の水路には、流水と壁面との間の摩擦や曲がりの抵抗などによりエネルギーの消費(損失)がある。したがって、高さ h (m) にある質量 m (kg) の水が持つエネルギーのうち、損失分を減じたものが水車に作用する有効なエネルギーとなる。 損失を水頭によって示したものが損失水頭(そんしつすいとう)である。水頭の有効分である有効落差(ゆうこうらくさ)を H (m)、損失水頭を hl (m)、総落差(そうらくさ) Ha (m) には以下の関係がある。 断面積 A (m2) の水管路を、流速 v [m/s] で水が流れたとき、その流量 Q [m3/s] は次式で表せる。 1 (m3) で質量 1,000 (kg) の水が水車に作用する理論上のエネルギー、すなわち理論水力(りろんすいりょく) P0 は、流量 Q (m3/s) のとき、 となる。P0 のエネルギーは水車に作用し、水車出力 Pw が取り出され、最終的には発電機出力電力 P となる。これは水車効率 ηw と、発電機効率 ηg を乗じたものである。 水車効率と発電機効率の積 η を、総合効率(そうごうこうりつ)という。ηは水車発電機の種類や構造や経年によって変化するが、一般的にかなり高く、近似的に次式が成立する。 水力発電所の出力を表すには、一般に以下の三種類が用いられる。 取水口(しゅすいこう)は、水力発電に利用する水を得る(取水する)ため、河川や池、湖沼などに設けた設備である。 より効率よく取水するよう、えん堤(堰堤)やダムを設ける場合が多い。 また、取水口には上流より漂着したごみを取り除く、くし状のスクリーンと、スクリーンにたまったごみをかき上げる除塵機(じょじんき)が備えられている。 許可を得た以上の取水は違法行為であるため、取水口では取水量を監視する必要がある。 沈砂池(ちんさち)は、水から土砂を取り除く設備である。水への土砂混入は、水車の摩耗の原因となるため、取水口から得た水を一時的に沈砂池に蓄え、土砂を沈殿させてから水車に送る。 ダム式・ダム水路式水力発電の場合は、ダムが沈砂池を兼ねるので設置しないことが多い。 導水路(どうすいろ)は、水を発電所まで導く設備で、水圧をかけた状態で送水する圧力水路と圧力をかけずに自然流下させる無圧水路とがある。構造としてはトンネルや蓋渠(がいきょ、カルバート)があり、必要に応じ水路橋やサイフォンが設置される。 内壁は摩擦による流速低下を最小限に抑えるため、滑らかに仕上げられる。また、水棲生物の付着などにより出力の低下がみられるような発電所では、水路の清掃が定期的に実施される。 水槽(すいそう)は、発電所の出力変動による水の流量変化を吸収する設備である。 発電所より急斜面を登った上部にあり、上部水槽(じょうぶすいそう)ともいう。 水路を流れてきた水は水槽で一時的に蓄えられる。下記の調圧水槽と区別するために普通水槽と言うことがある。 水槽まで至る水路が圧力水路であった場合には、発電所の急激な出力変動によって発生した水撃作用を吸収するため、より深さに余裕をもたせた水槽が用いられる。 これをサージタンク、もしくは調圧水槽(ちょうあつすいそう)という。 発電所の上部にポットのような寸胴の塔があったとすれば、それはサージタンクである。 なお、ダム式水力発電の場合は、水路が短いので水槽やサージタンクは必要がない。 水圧管路(すいあつかんろ)は、水槽から発電所までの水の通り道となる管路である。水槽にためられた水は、これより発電所まで至る急斜面を水圧管によって導かれる。大変高い水圧が加わるため、鋼鉄など高強度の素材を用い、堅牢な構造とする。 発電所の急激な出力変動によって、水圧管路は大きな圧力変動を受ける。それを吸収し緩和する設備として、サージタンクや制圧機がある。水撃作用の大きさによって水圧管路が破裂、もしくはつぶれてしまわないように、十分な注意を払って設計・施工される。 水圧管の本数は発電所にある水車発電機の台数に等しい場合もあるが、発電所で水圧管を分岐させ、各水車発電機に接続する場合もあるので一概には言えない。水圧管路は地上に設置される例が多いが、トンネルなどにより地下に設置されることもある。 ここで言う狭義の「発電所」は、水車発電機、調速機、補機、制御装置、保護装置、変電設備などによって構成された建築物(建屋)を指す。現在、水力発電所の多くは無人であり、遠方の制御所より遠隔操作されている。 水力発電所は建屋の内部に水車発電機やその補機類、制御装置などを収めた屋内式(おくないしき)が一般的である。水車発電機の分解・組み立て作業用として建屋天井にクレーンが設けられる。 一部では水車発電機を屋外に設置した屋外式(おくがいしき)や、天井を着脱可能なふた(天蓋)とした簡易な建物の内部に収めた半屋外式(はんおくがいしき)がある。いずれも屋外に門形クレーンが設置される。なお、屋内式であっても変電設備は屋外や屋上に設けられることが多い。 以上の発電所は地上に建設された地上式発電所であるが、これらを地下空間に収めた地下式発電所もある。地下式発電所は堅固な地盤を必要とすることから、建設にあたっては建設予定地の入念な地質調査が必要である。必然的に建設費が高額なものとなるが、落差を有効利用するための機器配置に制約が少ないことや、発電所の規模が大きなものとなっても豊かな自然景観を損ねることがないなど利点は大きい。 水力発電所の規模は水車発電機の台数のほか、設置方法によっても左右される。軸を水平に寝かせた横軸形(よこじくがた)水車発電機は接地面積を広く占有するものの、建屋を一階平屋建てとすることができる。主に小容量のものに適用されている。また、軸を垂直に立てた立軸形(たてじくがた)水車発電機は構造が複雑で建屋の階層も多くなるが、接地面積が少なくて済むことと落差を有効利用できるという利点がある。主に大容量のものに適用されている。 立軸形は水車発電機を支持する基礎の設計によって多床式と単床式とに分類される。前者は発電機がある発電機室と、その一階層下に水車室を設けるもの。二階建て構造をとることが多く、その場合は特に二床式と呼ばれる。後者は発電機室の床を省略し、発電機部分を水車室に立てたバレルと呼ばれる円筒状の基礎によって支持するもので、バレル式とも呼ばれる。大容量機では大荷重を支持するためバレル式が主に用いられる。なお、バレル式でありながらも発電機室と水車室とで階層を分けた、複合的なものも存在する。 放水路(ほうすいろ)は、発電した水を放水口に導く水路で、導水路と同様の役割と区分がある。放水路にも水槽を設けることがある。水を河川に排出する設備が放水口(ほうすいこう)である。 なお、取水する河川と放流する河川とは、必ずしも一致するわけではない。 小水力発電の場合は、(装置・設備の選択にもよるが)その多くが、数万円~数百万円程度の初期投資とわずかな修繕・維持費用のみで済み、電力を大手電力会社から買い続ける場合の費用を考慮すれば、数年程度で費用を回収することも可能で、その後は金銭的メリットの享受が続く。 中型以上のものに関して言えば、一般水力発電と揚水式発電の水力発電所の費用(原価)は、(火力や原子力発電所など他の発電所と同様に)資本費・修繕費・人件費・諸税などからなる固定費(発電量に無関係なもの)と揚水動力費(揚水式の場合のみ)などからなる変動費(可変費)(発電量に比例するもの)で構成される、と説明されることがある。(ただし、事業者が複数の発電所を統括管理している場合は、必ずしも地点毎に算定されるわけではなく、複数の水力発電施設の費用が混じり合うようにして計算されてしまっている。)この内「資本費」という項目は、諸設備の建設費と耐用年数と金利などにより算出されるもので、これが全コストの大部を占める。建設費は発電所毎の場所の特性(地形、地質、既存の土地使用者の有無など)により大きく変動する。 日本では、一般水力発電所に関しては、建設費の観点から有利な地点から先に開発されてきた歴史があり、既存の事業者がコスト的に開発可能と判断するような新規地点はもう無いともされるが、再生可能エネルギーとしての合理性が注目され、新たな事業者が、政策的助成を活用しつつ、比較的小規模な水力発電所を設置する動きが進みつつある。 揚水式水力発電所の揚水動力費は、深夜など電力需要が少ない時間帯の火力や原子力発電所などの余剰電力を用いる。水を上げ下げすることなどに伴うエネルギー損失をも考慮すると、他の電源の燃料費などに比べて割高な可変費となりはするが、上記の固定費部分が他の電源と比べると安い地点が選定できれば、比較的短い時間しか継続しない電力需要のピーク部分に対応する供給力としては、十分な競争力を有する総合コストにすることが可能である。そのため、「電力系統経費を最小にする施策」として揚水発電所の一定割合の投入が合理的と、既存の事業者などでは分析される。 水力発電の放水量は発電量により変動する。これにより、下流の流量が大きく変動することを軽減するため、放水口よりも下流に設けられる貯水池を逆調整池と呼び、そのために設置されるダムを逆調整ダムと呼ぶ。逆調整池の落差を利用した発電を逆調整池式と呼ぶ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水力発電(すいりょくはつでん、英語: hydroelectricity)とは、水の持つ位置エネルギーを利用して、落水や流水により水力で羽根車を回し、それによる動力で発電機を回して電気エネルギーを得る(発電を行う)方式のことである。略称は「水発(すいはつ)」「水力(すいりょく)」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水力発電は発電の一方式であり、水力で発電機を動かし電力を生む方式のことである。ダム式、水路式、揚水式などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "また、水力発電は、個人が小さな水力発電装置を自作・設置して行うこともでき、特に小規模の水力発電を小水力発電(マイクロ水力発電)という。私道脇の水の流れ、小川、渓流などの、比較的小さな水の流れを利用して水力発電を行う。ただし河川や湖沼、用水路などの水の利用については水利権が設定されているため、権利者との協議や許可申請を行う必要がある。発電に使用した水を元に戻しても、水流や水質の変化が発生するためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一般には、発電の歴史の中で果たしてきた役割の重要さ、発電量の大きさ、その設備の雄壮な外観などによって、水力発電の中でも特にダム式のものや大河を利用したものがよく知られている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自然に流れる水の力を動力として利用するという考えは、古代より続くものである。例としては、流れる水の力を水車によって動力にし、製粉・紡績などを行っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1832年にフランスのヒポライト・ピクシーにより現在の交流発電機の原型となるダイナモが発明され、1840年にはイギリスのウィリアム・アームストロングが水力を動力源とする水力発電機を発明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "世界で最初の水力発電は、1878年に前出のアームストロングが自身の屋敷に設けた絵画展示室の照明を点灯させるために、1km離れた川に個人でダムを築き、発電機を置いたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "米国では1881年にナイアガラの滝の近くに水力発電所(en:Robert Moses Niagara Hydroelectric Power Station)が竣工し、1882年には当時の電流戦争(交流方式と直流方式の争い)の最中にいたエジソンによる最初の水力発電所(en:Vulcan Street Plant、直流、出力12.5kW)がウィスコンシン州アップルトンに竣工した。1886年には米国およびカナダに45の水力発電所、1889年には米国だけで200の水力発電所が稼働していた。1890年にはウェスティングハウスが交流長距離送電を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本の最初の発電所は1887年に竣工した東京の火力発電所であった。水力発電では1888年(明治21年)7月に宮城紡績が設置した三居沢発電所(5kW)で自家用発電を開始し、その後紡績会社や鉱山会社による発電所の設置が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1891年(明治24年)に米国のコロラド州アスペンの水力発電所を参考にして琵琶湖疏水の落差を利用する蹴上発電所(水路式、直流、160kW)が、運用を開始した。これが日本で最初の一般電気事業用水力発電所である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "初期の電力の需要は主に電灯であったが、日本では1913年(大正2年)に電力の動力需要が照明用の需要を超え、1914年(大正3年)には工業用の動力で電力が蒸気力を越えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本で最初の長距離送電は、猪苗代湖から福島県安積郡郡山町(現郡山市)を結ぶ安積疏水の途中にある沼上瀑布の落差を利用した沼上水力発電所(出力300kW)と、郡山絹糸紡績(現日東紡績)を送電距離22.5km、送電電圧11kVで結んだのが始まりとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、1915年(大正4年)には逼迫する首都圏の電力需要に答えるべく、鉄道技術者、経営者として知られる仙石貢が、猪苗代水力電気株式会社(東京電燈・日本発送電を経て現在の東京電力の一部)を設立し、猪苗代湖北西部の日橋川に、当時で世界第三位、東洋一の出力を誇る37,500kWの猪苗代第一発電所を完成させ、115kVの高圧を以て湖南西部の黒森峠 (福島県)を経て南の勢至堂峠を通り、白河開閉所・宇都宮開閉所・古河開閉所を通って、東京田端の変電所まで、実に228kmにも渡る送電網を構築し、日本初の長距離高圧送電を実現した 。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大正から昭和初期にかけて大規模な水力発電所が多く作られ、1950年代までは電力の大半は水力発電によるものであった。このため、1950年から1951年の冬など降水量が少ない時期には、電力の需給がひっ迫した。家庭の工夫や大口工場の操業時間をずらして「一割節電」を求めたり、週二回の輪番制で銀座など繁華街のネオンサインを消灯する取り組みが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "包蔵水力とは、水資源のうち、技術的・経済的に利用可能な水力エネルギー量のこと。包蔵水力は、「既開発」「工事中」「未開発(今後の開発が有望な水力エネルギー)」の3つに区分にわけられる。", "title": "水力エネルギー量" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "世界(2008年)の水力発電電力量は3,288TWhで、発電電力量の16%強であり、また、世界の技術的開発可能包蔵水力量は、16,400TWh/年以上と見積もられている。今後の開発により水力発電は2050年には最大電力量6,000TWhまで発電することが可能と推定される。なお、日本の開発が有望な未開発の水力電力量は約44,148,039MWhと試算されている。", "title": "水力エネルギー量" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "", "title": "水力エネルギー量" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1960年代以降は、日本は高度成長期に入り獲得した外貨で安価な化石燃料が確保できるようになったこと、大容量の水力発電所の建設適地が少なくなってきたことから、火力発電の比重が増大していった。1955年には水力発電は全電力の78.7%であったが、1962年には水力46.1%と、火力が逆転した。2005年は水力発電は8.3%まで落ち、火力が59%、原子力31%であった。", "title": "火力発電との比較" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "日本において、過去の電力利用初期には水力発電が発電の主力であり、「水主火従の時代(すいしゅかじゅうのじだい)」と呼ばれている。その後、火力発電に軸足が移ると「火主水従の時代(かしゅすいじゅうのじだい)」となった。", "title": "火力発電との比較" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、揚水発電所の建設も始まったが、この当時は豊水期に貯水し、渇水期はその水を繰り返し発電に利用することで年間を通じて発電を行うようにするという、年間調整が主たる役割であり、火力・原子力発電による夜間の余剰電力を有効利用する現在の方法とは違った目的だった。", "title": "火力発電との比較" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1962年(昭和38年)からの火主水従、1963年(昭和38年)に原子力発電所の運用開始後は、高度経済成長による昼間と夜間との電力需要の格差拡大が問題となっていた。火力・原子力発電等の汽力発電はその出力を頻繁に変動させるということは困難であり、ほぼ一定の出力で運転し続けている。従って日中の高需要時に合わせて運転すると夜間は発電過剰となり、夜間の余剰電力は揚水発電所において揚水運転として消化するという考えが持ち上がった。揚水発電所は、単位出力あたりの建設費が火力・原子力発電所より安いことが注目され、夜間に揚水・貯水し、昼間のピークに備えるという目的へと移っていき、それに特化するように大規模な純揚水発電所が建設されるようになった。但し、その結果水に含まれる不純物が原因のダムの堆積物増加が問題化し始めている。", "title": "火力発電との比較" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "発電施設は大きく取水施設、発電施設、放水施設に分けられる。取水・放水施設は水と接するために河川沿いとなる。発電施設は水源との距離に制限は無いが、取水・放水施設と管路で接続されるためにその中間に設置されることが多い。そのため水力発電施設は山岳や森林を開発することがほとんどとなり、自然保護の観点に注意が必要である。また取水・放水によって河川の流れが変わることも問題となる。また、発電用ダムを建設する場合は大規模になることが多く、既に形成された自然の地形、地盤、河川状況を考慮すると既に人里が存在している場所が候補になりやすい。大規模ダムが完成すると「水没」する村は過去にも多く例がある。", "title": "環境への負荷" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "完成後の環境負荷はほとんど無いと言われることが多いが、これは火力・原子力発電と比較した場合であり、問題とされやすいCO2排出、NOx排出、放射性物質排出は皆無となる。稼働開始直後は水流変化による環境負荷はあるが、多くの発電施設は自然と共生する様態を示す。ダムにおいては水利調節機能も含有する場合が多いので、洪水の防止、干ばつの緩和にもなる。今日までに既設のダムが取り壊された例は少なく、発電所の老朽化が自然に与える影響は不明な部分が多い。", "title": "環境への負荷" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "統一された明確な定義は無く団体や機関による様々な定義がある。", "title": "水力発電の分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "流水は位置エネルギー・運動エネルギー・圧力エネルギーを持っている。流水の持つこれらのエネルギーを水力という。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "流水を作用させる点を基準点とすると、高さ h (m) にある質量 m (kg) の水は、mgh (J) の位置エネルギーを有している。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "質量 m (kg)、密度 ρ (kg/m3) の水が自由落下するとき、ある一点における流水の速度(流速)を v (m/s)、圧力(水圧)を p (Pa) とすると、この流水のエネルギーは以下の三形態によって表すことができる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "水管路でのエネルギー消費を考えないものとすれば、流路のどの点においても流水が持つエネルギーの総和はエネルギー保存の法則により等しい。これが、ベルヌーイの定理である。それぞれを mg (N) で除したものを「水頭(すいとう)」という。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "水頭は「ヘッド (head)」 ともいい、高さの単位によって表す。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "実際の水路には、流水と壁面との間の摩擦や曲がりの抵抗などによりエネルギーの消費(損失)がある。したがって、高さ h (m) にある質量 m (kg) の水が持つエネルギーのうち、損失分を減じたものが水車に作用する有効なエネルギーとなる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "損失を水頭によって示したものが損失水頭(そんしつすいとう)である。水頭の有効分である有効落差(ゆうこうらくさ)を H (m)、損失水頭を hl (m)、総落差(そうらくさ) Ha (m) には以下の関係がある。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "断面積 A (m2) の水管路を、流速 v [m/s] で水が流れたとき、その流量 Q [m3/s] は次式で表せる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1 (m3) で質量 1,000 (kg) の水が水車に作用する理論上のエネルギー、すなわち理論水力(りろんすいりょく) P0 は、流量 Q (m3/s) のとき、", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "となる。P0 のエネルギーは水車に作用し、水車出力 Pw が取り出され、最終的には発電機出力電力 P となる。これは水車効率 ηw と、発電機効率 ηg を乗じたものである。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "水車効率と発電機効率の積 η を、総合効率(そうごうこうりつ)という。ηは水車発電機の種類や構造や経年によって変化するが、一般的にかなり高く、近似的に次式が成立する。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "水力発電所の出力を表すには、一般に以下の三種類が用いられる。", "title": "理論" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "取水口(しゅすいこう)は、水力発電に利用する水を得る(取水する)ため、河川や池、湖沼などに設けた設備である。 より効率よく取水するよう、えん堤(堰堤)やダムを設ける場合が多い。 また、取水口には上流より漂着したごみを取り除く、くし状のスクリーンと、スクリーンにたまったごみをかき上げる除塵機(じょじんき)が備えられている。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "許可を得た以上の取水は違法行為であるため、取水口では取水量を監視する必要がある。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "沈砂池(ちんさち)は、水から土砂を取り除く設備である。水への土砂混入は、水車の摩耗の原因となるため、取水口から得た水を一時的に沈砂池に蓄え、土砂を沈殿させてから水車に送る。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ダム式・ダム水路式水力発電の場合は、ダムが沈砂池を兼ねるので設置しないことが多い。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "導水路(どうすいろ)は、水を発電所まで導く設備で、水圧をかけた状態で送水する圧力水路と圧力をかけずに自然流下させる無圧水路とがある。構造としてはトンネルや蓋渠(がいきょ、カルバート)があり、必要に応じ水路橋やサイフォンが設置される。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "内壁は摩擦による流速低下を最小限に抑えるため、滑らかに仕上げられる。また、水棲生物の付着などにより出力の低下がみられるような発電所では、水路の清掃が定期的に実施される。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "水槽(すいそう)は、発電所の出力変動による水の流量変化を吸収する設備である。 発電所より急斜面を登った上部にあり、上部水槽(じょうぶすいそう)ともいう。 水路を流れてきた水は水槽で一時的に蓄えられる。下記の調圧水槽と区別するために普通水槽と言うことがある。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "水槽まで至る水路が圧力水路であった場合には、発電所の急激な出力変動によって発生した水撃作用を吸収するため、より深さに余裕をもたせた水槽が用いられる。 これをサージタンク、もしくは調圧水槽(ちょうあつすいそう)という。 発電所の上部にポットのような寸胴の塔があったとすれば、それはサージタンクである。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、ダム式水力発電の場合は、水路が短いので水槽やサージタンクは必要がない。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "水圧管路(すいあつかんろ)は、水槽から発電所までの水の通り道となる管路である。水槽にためられた水は、これより発電所まで至る急斜面を水圧管によって導かれる。大変高い水圧が加わるため、鋼鉄など高強度の素材を用い、堅牢な構造とする。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "発電所の急激な出力変動によって、水圧管路は大きな圧力変動を受ける。それを吸収し緩和する設備として、サージタンクや制圧機がある。水撃作用の大きさによって水圧管路が破裂、もしくはつぶれてしまわないように、十分な注意を払って設計・施工される。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "水圧管の本数は発電所にある水車発電機の台数に等しい場合もあるが、発電所で水圧管を分岐させ、各水車発電機に接続する場合もあるので一概には言えない。水圧管路は地上に設置される例が多いが、トンネルなどにより地下に設置されることもある。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ここで言う狭義の「発電所」は、水車発電機、調速機、補機、制御装置、保護装置、変電設備などによって構成された建築物(建屋)を指す。現在、水力発電所の多くは無人であり、遠方の制御所より遠隔操作されている。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "水力発電所は建屋の内部に水車発電機やその補機類、制御装置などを収めた屋内式(おくないしき)が一般的である。水車発電機の分解・組み立て作業用として建屋天井にクレーンが設けられる。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "一部では水車発電機を屋外に設置した屋外式(おくがいしき)や、天井を着脱可能なふた(天蓋)とした簡易な建物の内部に収めた半屋外式(はんおくがいしき)がある。いずれも屋外に門形クレーンが設置される。なお、屋内式であっても変電設備は屋外や屋上に設けられることが多い。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "以上の発電所は地上に建設された地上式発電所であるが、これらを地下空間に収めた地下式発電所もある。地下式発電所は堅固な地盤を必要とすることから、建設にあたっては建設予定地の入念な地質調査が必要である。必然的に建設費が高額なものとなるが、落差を有効利用するための機器配置に制約が少ないことや、発電所の規模が大きなものとなっても豊かな自然景観を損ねることがないなど利点は大きい。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "水力発電所の規模は水車発電機の台数のほか、設置方法によっても左右される。軸を水平に寝かせた横軸形(よこじくがた)水車発電機は接地面積を広く占有するものの、建屋を一階平屋建てとすることができる。主に小容量のものに適用されている。また、軸を垂直に立てた立軸形(たてじくがた)水車発電機は構造が複雑で建屋の階層も多くなるが、接地面積が少なくて済むことと落差を有効利用できるという利点がある。主に大容量のものに適用されている。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "立軸形は水車発電機を支持する基礎の設計によって多床式と単床式とに分類される。前者は発電機がある発電機室と、その一階層下に水車室を設けるもの。二階建て構造をとることが多く、その場合は特に二床式と呼ばれる。後者は発電機室の床を省略し、発電機部分を水車室に立てたバレルと呼ばれる円筒状の基礎によって支持するもので、バレル式とも呼ばれる。大容量機では大荷重を支持するためバレル式が主に用いられる。なお、バレル式でありながらも発電機室と水車室とで階層を分けた、複合的なものも存在する。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "放水路(ほうすいろ)は、発電した水を放水口に導く水路で、導水路と同様の役割と区分がある。放水路にも水槽を設けることがある。水を河川に排出する設備が放水口(ほうすいこう)である。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なお、取水する河川と放流する河川とは、必ずしも一致するわけではない。", "title": "大型の水力発電施設の構成" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "小水力発電の場合は、(装置・設備の選択にもよるが)その多くが、数万円~数百万円程度の初期投資とわずかな修繕・維持費用のみで済み、電力を大手電力会社から買い続ける場合の費用を考慮すれば、数年程度で費用を回収することも可能で、その後は金銭的メリットの享受が続く。", "title": "水力発電の費用や収益の構造" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "中型以上のものに関して言えば、一般水力発電と揚水式発電の水力発電所の費用(原価)は、(火力や原子力発電所など他の発電所と同様に)資本費・修繕費・人件費・諸税などからなる固定費(発電量に無関係なもの)と揚水動力費(揚水式の場合のみ)などからなる変動費(可変費)(発電量に比例するもの)で構成される、と説明されることがある。(ただし、事業者が複数の発電所を統括管理している場合は、必ずしも地点毎に算定されるわけではなく、複数の水力発電施設の費用が混じり合うようにして計算されてしまっている。)この内「資本費」という項目は、諸設備の建設費と耐用年数と金利などにより算出されるもので、これが全コストの大部を占める。建設費は発電所毎の場所の特性(地形、地質、既存の土地使用者の有無など)により大きく変動する。", "title": "水力発電の費用や収益の構造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本では、一般水力発電所に関しては、建設費の観点から有利な地点から先に開発されてきた歴史があり、既存の事業者がコスト的に開発可能と判断するような新規地点はもう無いともされるが、再生可能エネルギーとしての合理性が注目され、新たな事業者が、政策的助成を活用しつつ、比較的小規模な水力発電所を設置する動きが進みつつある。", "title": "水力発電の費用や収益の構造" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "揚水式水力発電所の揚水動力費は、深夜など電力需要が少ない時間帯の火力や原子力発電所などの余剰電力を用いる。水を上げ下げすることなどに伴うエネルギー損失をも考慮すると、他の電源の燃料費などに比べて割高な可変費となりはするが、上記の固定費部分が他の電源と比べると安い地点が選定できれば、比較的短い時間しか継続しない電力需要のピーク部分に対応する供給力としては、十分な競争力を有する総合コストにすることが可能である。そのため、「電力系統経費を最小にする施策」として揚水発電所の一定割合の投入が合理的と、既存の事業者などでは分析される。", "title": "水力発電の費用や収益の構造" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "水力発電の放水量は発電量により変動する。これにより、下流の流量が大きく変動することを軽減するため、放水口よりも下流に設けられる貯水池を逆調整池と呼び、そのために設置されるダムを逆調整ダムと呼ぶ。逆調整池の落差を利用した発電を逆調整池式と呼ぶ。", "title": "逆調整池" } ]
水力発電とは、水の持つ位置エネルギーを利用して、落水や流水により水力で羽根車を回し、それによる動力で発電機を回して電気エネルギーを得る(発電を行う)方式のことである。略称は「水発(すいはつ)」「水力(すいりょく)」。
{{redirect3|水力発電所|発電方式および原理|水力発電所の一覧|:Category:各国の水力発電所}} {{再生可能エネルギー}} '''水力発電'''(すいりょくはつでん、{{lang-en|hydroelectricity}})とは、水の持つ[[位置エネルギー]]を利用して、落水や流水により[[水力]]で羽根車を回し、それによる[[動力]]で[[発電機]]を回して電気エネルギーを得る([[発電]]を行う)方式のことである<ref>大辞泉「水力発電」</ref>。略称は「'''水発'''(すいはつ)」「'''水力'''(すいりょく)」。 == 概要 == 水力発電は[[発電]]の一方式であり、[[水力]]で[[発電機]]を動かし[[電力]]を生む方式のことである<ref name='koujien'>広辞苑第六版「水力発電」</ref>。[[ダム]]式、水路式、揚水式などがある<ref name='koujien' />。 また、水力発電は、個人が小さな水力発電装置を自作・設置して行うこともでき<ref>川上博『小型水力発電実践記: 手作り発電を楽しむ』パワー社、2006、ISBN 4827722870</ref>、特に小規模の水力発電を[[小水力発電]]<ref>{{cite journal |url=https://doi.org/10.3775/jie.97.245 |title=日本における小水力発電の普及に係る障壁と課題 ―事業主体の視点から― |author1=井上 博成 |author2 =KEELEY Alexander 竜太 |journal=日本エネルギー学会誌 |volume=97 |pp.245-251 |year=2018 |publisher=日本エネルギー学会 |doi=10.3775/jie.97.245 | accessdate=2022-06-27}}</ref>(マイクロ水力発電)という。私道脇の水の流れ、[[小川]]、[[渓流]]などの、比較的小さな水の[[流れ]]を利用して水力発電を行う。ただし河川や湖沼、用水路などの水の利用については[[水利権]]が設定されているため、権利者との協議や許可申請を行う必要がある。発電に使用した水を元に戻しても、水流や水質の変化が発生するためである。 一般には、発電の歴史の中で果たしてきた役割の重要さ、発電量の大きさ、その設備の雄壮な外観などによって、水力発電の中でも特にダム式のものや大河を利用したものがよく知られている。 [[File:Top_5_Hydropower-Producing_Countries.png|thumb|right|400px|水力発電の上位5カ国の近年の総出力の推移]] ==歴史== 自然に流れる水の力を動力として利用するという考えは、古代より続くものである。例としては、流れる水の力を水車によって動力にし、[[製粉]]・[[紡績]]などを行っていた。 [[1832年]]に[[フランス]]の[[ヒポライト・ピクシー]]により現在の[[交流発電機]]の原型となる[[ダイナモ]]が発明され、[[1840年]]には[[イギリス]]の[[ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)|ウィリアム・アームストロング]]が水力を動力源とする水力発電機を発明した<ref name=ChuDen>{{Cite web|和書|publisher=[[中国電力]]|url=http://www.energia.co.jp/kids/kids-ene/learn/how/history.html|title=Kidsエネルギア 電気はどうやってできるの? 電気の歴史|accessdate=2019-11-6}}</ref>。<!-- 1878年には[[米国]]の[[トーマス・エジソン|エジソン]]が[[白熱電球]]を発明し電力需要が生まれ、発電機の動力として水力を利用した水力発電が1800年代後半に始まった。--><!-- 白熱電球そのものの発明はジョゼフ・スワンの業績である。エジソンの業績は寿命の改善と大規模商用化である。--> 世界で最初の水力発電は、[[1878年]]に前出のアームストロングが自身の屋敷に設けた絵画展示室の照明を点灯させるために、1km離れた川に個人でダムを築き、発電機を置いたものである<ref>{{Cite journal|和書 |author=谷本和明 |title=小規模再生可能エネルギーの現状と可能性 |journal=新潟国際情報大学情報文化学部紀要 |issn=1343-490X |publisher=新潟国際情報大学情報文化学部 |year=2014 |month=apr |issue=17 |pages=99-110 |NCID=AA11231962 |naid=110009753157 |url=http://id.nii.ac.jp/1608/00002622/}}</ref>。 [[File:Electrical Machinery 1917 - vertical waterwheel generator.jpg|thumb|right|140px|垂直型水力発電機の図([[:en:Terrell Croft]]著、1917年刊『 Electrical Machinery』171頁掲載)]] 米国では1881年に[[ナイアガラの滝]]の近くに水力発電所([[:en:Robert Moses Niagara Hydroelectric Power Station]])が竣工し、1882年には当時の[[電流戦争]](交流方式と直流方式の争い)の最中にいたエジソンによる最初の水力発電所([[:en:Vulcan Street Plant]]、[[直流]]、出力12.5kW)が[[アップルトン (ウィスコンシン州)|ウィスコンシン州アップルトン]]に竣工した<ref>{{cite web|url=http://home.clara.net/darvill/altenerg/hydro.htm|title= Hydroelectric power - energy from falling water|publisher=Clara.net|accessdate=2013-04-16}}</ref>。1886年には米国およびカナダに45の水力発電所、1889年には米国だけで200の水力発電所が稼働していた<ref name="doehis">{{cite web|url=http://www1.eere.energy.gov/windandhydro/hydro_history.html|title=History of Hydropower|publisher=U.S. Department of Energy|accessdate=2013-04-16}}</ref>。1890年には[[ジョージ・ウェスティングハウス|ウェスティングハウス]]が交流長距離送電を開始した<ref>水力ドットコム [http://www.suiryoku.com/gallery/kyoto/keage/keage.html] </ref>。 ; 日本 日本の最初の発電所は1887年に竣工した東京の火力発電所であった<ref name=ChuDen/>。水力発電では1888年(明治21年)7月に[[宮城紡績]]が設置した[[三居沢発電所]](5kW)で自家用発電を開始し{{efn|後述する水力ドットコム他のサイトで三居沢が記録がある最古と記述されているが、薩摩島津家が1882年に磯庭園発電所の運用を開始したとの参考記述がある。}}、その後紡績会社や鉱山会社による発電所の設置が続いた<ref>水力ドットコム [http://www.suiryoku.com/history/m20.html 「日本の水力発電の歴史. 明治21年~明治30年」] </ref>。 1891年(明治24年)に米国の[[アスペン (コロラド州)|コロラド州アスペン]]の水力発電所を参考にして<ref>技術教育教材サイト [http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/biwakososui/keage/keage.htm 「蹴上発電所」] </ref>[[琵琶湖疏水]]の落差を利用する[[蹴上発電所]](水路式、直流、160kW)が、運用を開始した。これが日本で最初の一般[[電気事業]]用水力発電所である<ref>京都市情報館 [http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa073.html 「水力発電事業発祥地」] </ref>。 初期の電力の需要は主に電灯であったが、日本では1913年(大正2年)に電力の動力需要が照明用の需要を超え、1914年(大正3年)には工業用の動力で電力が蒸気力を越えた<ref name=ChuDen/>。 [[File: Fukushima-tokyo high voltage power line 4.jpg |thumb|right|200px|山王坂から御代集落、勢至堂峠方面を望む]] 日本で最初の長距離送電は、[[猪苗代湖]]から[[福島県]][[安積郡]]郡山町(現[[郡山市]])を結ぶ[[安積疏水]]の途中にある[[沼上瀑布]]の落差を利用した[[沼上水力発電所]](出力300kW)と、[[郡山絹糸紡績]](現[[日東紡績]])を送電距離22.5km、送電電圧11kVで結んだのが始まりとされる。 <ref> {{Cite web|和書|url= https://www.fepc.or.jp/enterprise/rekishi/meiji/index.html |title=明治時代 電気の歴史年表 |publisher=電気事業連合会 |accessdate=2020-09-20}} </ref> <ref> {{Cite web|和書|url=https://www.kanko-koriyama.gr.jp/asaka-sosui/cultural/cultural30.html |title=沼上発電所 |publisher=日本遺産 |accessdate=2020-09-20}} </ref> <ref> {{Cite web|和書|url= https://epower-plant.at.webry.info/201401/article_1.html |title=郡山絹糸紡績・電気部(郡山市) |publisher=電力絵葉書博物館 |accessdate=2020-09-20}} </ref> <ref name=numagami> {{Cite web|和書|url=http://www.suiryoku.com/gallery/fukusima/numagami/numagami.html |title=東京電力ホールディングス株式会社 沼上発電所 |publisher=水力ドットコム |accessdate=2020-09-20}} </ref> また、1915年(大正4年)には逼迫する首都圏の電力需要に答えるべく、鉄道技術者、経営者として知られる[[仙石貢]]が、[[猪苗代水力電気|猪苗代水力電気株式会社]]([[東京電燈]]・[[日本発送電]]を経て現在の東京電力の一部)を設立し、猪苗代湖北西部の[[日橋川]]に、当時で世界第三位、東洋一の出力を誇る37,500kWの[[猪苗代第一発電所]]を完成させ、115kVの高圧を以て湖南西部の[[黒森峠 (福島県)]]を経て南の[[勢至堂峠]]を通り、[[白河市|白河]]開閉所・[[宇都宮市|宇都宮]]開閉所・[[古河市|古河]]開閉所を通って、東京[[田端]]の変電所まで、実に228kmにも渡る送電網を構築し、日本初の長距離高圧送電を実現した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fepc.or.jp/enterprise/rekishi/taishou/index.html |title=大正から昭和へ 電気の歴史年表 |publisher=電気事業連合会 |accessdate=2020-09-20}}</ref> <ref>{{Cite web|和書|url=http://www.suiryoku.com/gallery/fukusima/inawasi1/inawasi1.html |title=東京電力ホールディングス株式会社 猪苗代第一発電所 |publisher=水力ドットコム |accessdate=2020-09-20}}</ref> <ref name=numagami/> <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanko-koriyama.gr.jp/asaka-sosui/cultural/cultural34.html |title=猪苗代第一発電所 |publisher=日本遺産 |accessdate=2020-09-20}}</ref> <ref>{{Cite journal |和書|author=宮地英敏 |authorlink=https://hyoka.ofc.kyushu-u.ac.jp/search/details/K002916/index.html |title=日本で初めて実現した長距離高圧送電 |date=2014 |publisher=朝日新聞社 |journal=週刊新発見!日本の歴史 |volume=41 |issue= |naid= |pages=27 |ref=harv }}</ref> <ref>{{Cite journal|和書|author=野村俊一 |url=https://doi.org/10.3151/coj.53.670 |title=猪苗代第三・第四発電所と近代化の諸相 |journal=コンクリート工学 |issn=0387-1061 |publisher=日本コンクリート工学会 |year=2015 |volume=53 |issue=8 |pages=670-671 |naid=130005254523 |doi=10.3151/coj.53.670 |accessdate=2021-05-10}}</ref>。 大正から昭和初期にかけて大規模な水力発電所が多く作られ、1950年代までは電力の大半は水力発電によるものであった。このため、1950年から1951年の冬など降水量が少ない時期には、電力の需給がひっ迫した<ref>「緊急停電 家庭は明日から 大口工場きょう実施」『朝日新聞』昭和26年1月9日</ref>。家庭の工夫や大口工場の操業時間をずらして「一割節電」を求めたり、週二回の輪番制で銀座など繁華街の[[ネオンサイン]]を消灯する取り組みが行われた<ref>「家庭は一割節電 週二回ネオンも消える」『朝日新聞』昭和26年1月27日3面</ref>。 ==水力エネルギー量== ===包蔵水力=== 包蔵水力とは、水資源のうち、技術的・経済的に利用可能な水力エネルギー量のこと。包蔵水力は、「既開発」「工事中」「未開発(今後の開発が有望な水力エネルギー)」の3つに区分にわけられる<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.enecho.meti.go.jp/category/electricity_and_gas/electric/hydroelectric/database/energy_japan001/ | title = 日本の水力エネルギー量 | publisher = 経済産業省 資源エネルギー庁 | accessdate = 2021-09-13 }}</ref>。 世界(2008年)の水力発電電力量は3,288TWhで、発電電力量の16%強であり、また、世界の技術的開発可能包蔵水力量は、16,400TWh/年以上と見積もられている。今後の開発により水力発電は2050年には最大電力量6,000TWhまで発電することが可能と推定される<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.nef.or.jp/ieahydro/contents/pdf/info/info201201.pdf | title = 再生可能エネルギー・エッセンシャルズ:水力発電(日本語版) | publisher = OECD/IEA, 9 rue de la Fédération, 75739 Paris Cedex 15, France. | accessdate = 2021-09-13 }}</ref>。なお、日本の開発が有望な未開発の水力電力量は約44,148,039MWhと試算されている<ref name="出力別包蔵水力" />。 {| class="wikitable" style="text-align:right" |+ 日本の水力エネルギー量・出力別包蔵水力(一般水力) ! rowspan="2" | 出力区分(kW) || colspan="3" | 既開発 || colspan="3" | 工事中 || colspan="3" | 未開発 |- ! 地点 || 出力(kW) || 電力量(MWh) || 地点 || 出力(kW) || 電力量(MWh) || 地点 || 出力(kW) || 電力量(MWh) |- ! 1,000未満 | 621 || 254,672 || 1,546,814 || 23 || 10,946 || 50,513 || 349 || 231,410 || 1,165,133 |- ! 1,000~3,000 | 425 || 753,087 || 4,186,412 || 5 || 8,900 || 48,846 || 1,204 || 2,212,600 || 8,988,634 |- ! 3,000~5,000 | 163 || 609,465 || 3,192,290 || 5 || 18,710 || 98,105 || 513 || 1,925,000 || 7,717,712 |- ! 5,000~10,000 | 282 || 1,909,628 || 9,765,728 || 8 || 57,490 || 317,116 || 336 || 2,266,300 || 9,055,750 |- ! 10,000~30,000 | 358 || 6,043,960 || 27,732,993 || 16 || 241,726 || 1,110,018 || 204 || 3,218,300 || 12,013,910 |- ! 30,000~50,000 | 87 || 3,297,400 || 14,617,629 || 1 || 40,000 || 171,950 || 21 || 801,900 || 2,610,500 |- ! 50,000~100,000 | 66 || 4,325,000 || 17,106,799 || 2 || 114,550 || 429,698 || 13 || 782,100 || 2,132,400 |- ! 100,000以上 | 26 || 4,988,400 || 13,700,152 || 1 || 120,000 || 716,034 || 2 || 236,000 || 464,000 |- ! 計 | 2,028 || 22,181,612 || 91,848,817 || 61 || 612,322 || 2,942,280 || 2,642 || 11,673,610 || 44,148,039 |- ! 平均 | - || 10,938 || 45,290 || - || 10,038 || 48,234 || - || 4,418 || 16,710 |- | colspan="10" | 2020年3月31日現在<ref name="出力別包蔵水力"> {{Cite web|和書 | url = https://www.enecho.meti.go.jp/category/electricity_and_gas/electric/hydroelectric/database/energy_japan006/ | title = 日本の水力エネルギー量・出力別包蔵水力(一般水力) | publisher = 経済産業省 資源エネルギー庁 | accessdate = 2021-09-12 }} </ref> |} ==火力発電との比較== 1960年代以降は、日本は[[高度成長期]]に入り獲得した[[外貨]]で安価な[[化石燃料]]が確保できるようになったこと、大容量の水力発電所の建設適地が少なくなってきたことから、火力発電の比重が増大していった。1955年には水力発電は全電力の78.7%であったが、1962年には水力46.1%と、火力が逆転した。2005年は水力発電は8.3%まで落ち、火力が59%、原子力31%であった<ref>パワーアカデミー [http://www.power-academy.jp/learn/glossary/id/426 「火主水従」] 原典:「電気事業辞典」株エネルギーフォーラム</ref>。 日本において、過去の電力利用初期には水力発電が発電の主力であり、「水主火従の時代(すいしゅかじゅうのじだい)」と呼ばれている。その後、火力発電に軸足が移ると「火主水従の時代(かしゅすいじゅうのじだい)」となった。 また、[[揚水発電所]]の建設も始まったが、この当時は豊水期に貯水し、渇水期はその水を繰り返し発電に利用することで年間を通じて発電を行うようにするという、年間調整が主たる役割であり、火力・原子力発電による夜間の余剰電力を有効利用する現在の方法<ref>{{Cite journal|和書 |author=向井一馬 |title=大規模電力貯蔵 揚水発電:揚水発電 電力貯蔵の現状と将来―2 |journal=電気学会誌 |issn=1340-5551 |publisher=電気学会 |year=2003 |volume=123 |issue=5 |pages=272-274 |naid=130000755328 |doi=10.1541/ieejjournal.123.272 |url=https://doi.org/10.1541/ieejjournal.123.272}}</ref>とは違った目的だった。 1962年(昭和38年)からの火主水従、1963年(昭和38年)に[[原子力発電所]]の運用開始後は、高度経済成長による昼間と夜間との電力需要の格差拡大が問題となっていた。火力・原子力発電等の[[汽力発電]]はその出力を頻繁に変動させるということは困難であり、ほぼ一定の出力で運転し続けている。従って日中の高需要時に合わせて運転すると夜間は発電過剰となり、夜間の余剰電力は揚水発電所において揚水運転として消化するという考えが持ち上がった。揚水発電所は、単位出力あたりの建設費が火力・原子力発電所より安いことが注目され、夜間に揚水・貯水し、昼間のピークに備えるという目的へと移っていき、それに特化するように大規模な純揚水発電所が建設されるようになった。但し、{{要出典範囲|その結果水に含まれる不純物が原因のダムの堆積物増加が問題化し始めている|date=2021年5月}}。 ==環境への負荷== 発電施設は大きく取水施設、発電施設、放水施設に分けられる。取水・放水施設は水と接するために河川沿いとなる。発電施設は水源との距離に制限は無いが、取水・放水施設と管路で接続されるためにその中間に設置されることが多い。そのため水力発電施設は山岳や森林を開発することがほとんどとなり、自然保護の観点に注意が必要である。また取水・放水によって河川の流れが変わることも問題となる。また、発電用ダムを建設する場合は大規模になることが多く、既に形成された自然の地形、地盤、河川状況を考慮すると既に人里が存在している場所が候補になりやすい。大規模ダムが完成すると「水没」する村は過去にも多く例がある。 完成後の環境負荷はほとんど無いと言われることが多いが、これは火力・原子力発電と比較した場合であり、問題とされやすい{{chem|CO|2}}排出、NOx排出、放射性物質排出は皆無となる。稼働開始直後は水流変化による環境負荷はあるが、多くの発電施設は自然と共生する様態を示す。ダムにおいては水利調節機能も含有する場合が多いので、洪水の防止、干ばつの緩和にもなる。今日までに既設のダムが取り壊された例は少なく、発電所の老朽化が自然に与える影響は不明な部分が多い。 == 水力発電の分類 == ===落差を得る方法による分類=== ; 水路式発電 :発電所から見て上流に位置する[[河川]]・[[湖沼]]などより取水し、緩勾配の[[水路]](開渠または暗渠)によって発電所まで導き、落差を得るもの。多くは流れ込み式で、落差の変動はほとんどない。 ; ダム式発電 :河川内にダムを設けて貯水し、そこで生ずる落差を利用して発電するもの。発電所はダム付近に建設される。ダムの水位変化によって、落差変動が大きくなる。 ; ダム水路式発電 :ダムと水路により落差をつくるもの。 {{multiple image | align = left | image1=Conduit type Hydropower Plant 01-ja.svg | width1 = 280 | caption1=水路式発電<br>([[西大滝ダム|信濃川発電所]]、[[早川第一発電所]]など) | image2=Dam type Power Plant 01-ja.svg | width2 = 233 | caption2=ダム式発電<br>([[田子倉ダム#田子倉発電所|田子倉発電所]]、[[奈川渡ダム|安曇発電所]]など) | image3=Dam and Conduit type Hydropower Plant 01-ja.svg | width3 = 254 | caption3=ダム水路式発電<br>([[奥只見ダム#奥只見発電所|奥只見発電所]]、[[黒部川第四発電所]]など) }}{{clear}} ===運用上の分類=== [[File:Water turbine.svg|right|thumb|180px|プロペラ水車と発電機の模式図<br>A : 発電機<br> 1 : 固定子<br> 2 : 回転子<br>B : 水車<br> 3 : 案内羽根<br> 4 : ランナ<br> 5 : 流水<br> 6 : 主軸]] ; 流れ込み式 :河川の流量をそのまま利用するもの。発電所の出力は河川流量に比例し、任意での出力調整は難しい。総電力需要のうちベース部分をまかなう。比較的小規模なものが多い。 ; 調整池式 :日間・週間の電力需要変動に対応するため、需要の少ない軽負荷時に出力を落として貯水し、需要の多い重負荷時の発電運転に備えるもの。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。年間流量に比較して中小規模な貯水量を有するダムを伴う。 ; 貯水池式 :豊水期に貯水し、渇水期でも安定した発電ができるだけの水量を確保するもの。調整池式が日間・週間の負荷変動であるのに対し、季節間の調整を行う。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。年間流量に比較して大規模な貯水量を有するダムを伴う。 ;<span id="逆調整池式"></span><!-- お願い。[[#逆調整池]]からのリンクを作っているのでこのアンカーは除去しないで下さい。--> 逆調整池式 :調整池式・貯水池式の下流の流量変動を平滑化するために設ける逆調整池の落差を利用し、一定の出力で運転するもの。 ; [[揚水発電|揚水式]] :上下二つの調整池を持つもので、軽負荷時に下部調整池から上部調整池へ水をくみ上げておき、重負荷時に発電するものである。総電力需要のうちピーク部分をまかなう。 :揚水発電には貯水池式水力発電をさらなる重負荷へ対応させるために揚水発電機を設置した混合揚水式と、上池を山の頂上近くなどに置いた自然流入量がほとんど無い純揚水発電がある。 :揚水発電に対して、流れ込み式・調整池式・貯水池式・逆調整池式は一般水力発電あるいは自流式水力発電という。 :揚水発電のエネルギー源は原子力発電所や大規模火力発電所の電力であり、一般水力発電の源は[[雨]]や[[雪]]を降らせる元になる[[海水]]を[[蒸発]]させた[[太陽]]エネルギーだという違いがある。つまり一般水力発電は[[再生可能エネルギー]]であるが、揚水発電は一種の[[二次電池]](蓄電池)である。 {{multiple image | align = left | image1=Pumped Storage Hydroelectric Power Plant 02-ja.svg | width1 = 300 | caption1=揚水発電(揚水過程)の模式図<br>電力需要が下がる深夜等の余剰電力で発電電動機をポンプとして回し、下部貯水池から上部貯水池へ水の汲み上げを行う。 | image2=Pumped Storage Hydroelectric Power Plant 01-ja.svg | width2 = 300 | caption2=揚水発電(発電過程)の模式図<br>昼間・夕方などの高需要時間帯に上部貯水池から下部貯水池へ水を流し、発電電動機を水車として回し発電することで需給調整を行う。 }}{{clear}} ===多く見られる組み合わせ=== ; 水路式発電で流れ込み式 :河川勾配の急な上中流部に多い。取水するためのダムはあるが、落差を得るほどの高さはなく、流量調整能力がない。 ; ダム式発電で調整池式(または貯水池式) :河川勾配の緩い中下流部に多い。水路はあってもダムと発電所を結ぶだけで落差を得るものではない。流量調整能力に応じて調整池式か貯水池式になる。 ; ダム水路式発電で調整池式(または貯水池式) :河川勾配が適度にある中流部に多い。ダムと水路の両方で落差を得る。流量調整能力に応じて調整池式か貯水池式になる。 ; ダム式発電で揚水式 :上下流に連続して二つのダムを設置し、得られる落差と容量を利用して揚水発電を行うもの。自然流量も利用する混合揚水式が多い。 ; ダム水路式発電で揚水式 :隣接する河川に二つのダムを設置して得られる容量と両者を結ぶ水路で得られる落差を利用して揚水発電を行うもの。落差が大きいほど大規模化しやすく経済的になるので、上部ダムは小河川の最上流部に設置することが多い。ほとんどが純揚水式であり、日本でも外国でも近年この形式の揚水発電所が多い。 ===出力規模による分類=== 統一された明確な定義は無く団体や機関による様々な定義がある<ref>{{Cite journal|和書 |author=清水徹朗 |title=小水力発電の現状と普及の課題 (再生可能エネルギー推進の課題) |journal=農林金融 |issn=1342-5749 |publisher=農林中央金庫 ; [1948]- |year=2012 |month=oct |volume=65 |issue=10 |pages=634-652 |naid=40019456088 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000040-I001015759-00}}</ref>。 ==理論== {{独自研究|date=2011年7月|section=1}} {{出典の明記|section=1|date=2016年4月}} ===水のエネルギー=== 流水は[[位置エネルギー]]・[[運動エネルギー]]・[[圧力エネルギー]]を持っている。流水の持つこれらのエネルギーを[[水力]]という。 流水を作用させる点を基準点とすると、[[高さ]] ''h'' ([[メートル|m]]) にある[[質量]] ''m'' ([[キログラム|kg]]) の水は、''mgh'' ([[ジュール|J]]) の位置エネルギーを有している。 質量 ''m'' (kg)、[[密度]] ''&rho;'' ([[キログラム毎立方メートル|kg/m&sup3;]]) の水が[[自由落下]]するとき、ある一点における流水の[[速度]](流速)を ''v'' ([[メートル毎秒|m/s]])、[[圧力]]([[水圧]])を ''p'' ([[パスカル (単位)|Pa]]) とすると、この流水のエネルギーは以下の三形態によって表すことができる。 * 位置エネルギー: <math> \ mgh </math> [J] * 運動エネルギー: <math> {mv^2 \over 2} </math> [J] * 圧力エネルギー: <math> {mp \over \rho} </math> [J] 水管路でのエネルギー消費を考えないものとすれば、流路のどの点においても流水が持つエネルギーの総和は[[エネルギー保存の法則]]により等しい。これが、[[ベルヌーイの定理]]である。それぞれを ''mg'' ([[ニュートン (単位)|N]]) で[[除法|除した]]ものを「'''[[水頭]]'''(すいとう)」という。 : <math> \, h </math> [m]・・・ '''位置水頭'''(いちすいとう) : <math> {v^2 \over 2g} </math> [m]・・・ '''速度水頭'''(そくどすいとう) : <math> {p \over \rho g} </math> [m]・・・ '''圧力水頭'''(あつりょくすいとう) 水頭は「ヘッド (head)」 ともいい、高さの単位によって表す。 ===理論水力=== 実際の水路には、流水と壁面との間の摩擦や曲がりの[[抗力|抵抗]]などによりエネルギーの消費(損失)がある。したがって、高さ ''h'' (m) にある質量 ''m'' (kg) の水が持つエネルギーのうち、損失分を減じたものが水車に作用する有効なエネルギーとなる。 損失を水頭によって示したものが'''損失水頭'''(そんしつすいとう)である。水頭の有効分である'''有効落差'''(ゆうこうらくさ)を {{mvar|H}} (m)、損失水頭を {{mvar|h{{sub|l}}}} (m)、'''総落差'''(そうらくさ) {{mvar|H{{sub|a}}}} (m) には以下の関係がある。 : <math>H = H_a - h_l</math> 断面積 {{math|A}} ([[平方メートル|m&sup2;]]) の水管路を、流速 {{math|v}} [m/s] で水が流れたとき、その[[流量]] {{math|Q}} [m&sup3;/s] は次式で表せる。 : <math>\rm Q = v \cdot A</math> 1 (m&sup3;) で質量 1,000 (kg) の水が水車に作用する理論上のエネルギー、すなわち'''理論水力'''(りろんすいりょく) ''P<sub>0</sub>'' は、流量 ''Q'' (m&sup3;/s) のとき、 :<math>\rm P_0 = mgh = 1000 \times Q \times 9.8 \times H = 9800 Q H [J]</math> ::<math>\rm = 9800 Q H \ [W]</math> ::<math>\rm = 9.8 Q H \ [kW]</math> となる。''P<sub>0</sub>'' のエネルギーは水車に作用し、水車出力 ''P<sub>w</sub>'' が取り出され、最終的には発電機出力電力 ''P'' となる。これは水車効率 ''&eta;<sub>w</sub>'' と、発電機効率 ''&eta;<sub>g</sub>'' を[[乗法|乗じた]]ものである。 :''P'' = ''9.8 Q H &eta;<sub>w</sub> &eta;<sub>g</sub>'' [kW] ::= ''9.8 Q H &eta;'' [kW] 水車効率と発電機効率の積 ''&eta;'' を、'''総合効率'''(そうごうこうりつ)という。''&eta;''は水車発電機の種類や構造や経年によって変化するが、一般的にかなり高く、[[近似]]的に次式が成立する。 :''P'' ≒ ''8.5 Q H '' [kW] 水力発電所の[[出力]]を表すには、一般に以下の三種類が用いられる。 ; 最大出力(さいだいしゅつりょく) : 発電所で発生できる電力の[[最大値]]。この値は、ある程度の時間連続して発生できるものでなければならない。 ; 常時出力(じょうじしゅつりょく) : (流れ込み式発電所)一年間のうち355日間以上発生することができるとされる、発電所出力の基準値。渇水期の取水量を基準として計算される。 : (貯水池式発電所)一年間のうち365日間以上発生することができるとされる、発電所出力の基準値。 ; 常時尖頭出力(じょうじせんとうしゅつりょく) : 一年間のうち355日間以上で毎日、少なくとも4時間は発生することができるとされる発電所出力。 ==大型の水力発電施設の構成== {{出典の明記|section=1|date=2016年4月}} ===取水口=== [[Image:Ikuta dam intake.jpg|thumb|180px|取水口(写真奥)]] '''取水口'''(しゅすいこう)は、水力発電に利用する水を得る(取水する)ため、[[川|河川]]や[[池]]、[[湖|湖沼]]などに設けた設備である。 より効率よく取水するよう、[[堰|えん堤]](堰堤)や[[ダム]]を設ける場合が多い。 また、取水口には上流より漂着したごみを取り除く、[[櫛|くし]]状の'''スクリーン'''と、スクリーンにたまったごみをかき上げる'''除塵機'''(じょじんき)が備えられている。 許可を得た以上の取水は違法行為であるため、取水口では取水量を監視する必要がある。 ===沈砂池=== '''[[沈砂池]]'''(ちんさち)は、水から土[[砂]]を取り除く設備である。水への土砂混入は、水車の[[摩耗]]の原因となるため、取水口から得た水を一時的に沈砂池に蓄え、土砂を沈殿させてから水車に送る。 ダム式・ダム水路式水力発電の場合は、ダムが沈砂池を兼ねるので設置しないことが多い。 ===導水路=== '''導水路'''(どうすいろ)は、水を発電所まで導く設備で、水圧をかけた状態で送水する圧力水路と圧力をかけずに自然流下させる無圧水路とがある。構造としてはトンネルや蓋渠(がいきょ、カルバート)があり、必要に応じ水路橋やサイフォンが設置される。 内壁は摩擦による流速低下を最小限に抑えるため、滑らかに仕上げられる。また、水棲生物の付着などにより出力の低下がみられるような発電所では、水路の清掃が定期的に実施される。 ===水槽=== '''水槽'''(すいそう)は、発電所の出力変動による水の流量変化を吸収する設備である。 発電所より急斜面を登った上部にあり、'''上部水槽'''(じょうぶすいそう)ともいう。 水路を流れてきた水は水槽で一時的に蓄えられる。下記の調圧水槽と区別するために普通水槽と言うことがある。 水槽まで至る水路が圧力水路であった場合には、発電所の急激な出力変動によって発生した[[水撃作用]]を吸収するため、より深さに余裕をもたせた水槽が用いられる。 これを'''[[サージタンク]]'''、もしくは'''調圧水槽'''(ちょうあつすいそう)という。 発電所の上部に[[ポット]]のような寸胴の塔があったとすれば、それはサージタンクである。 なお、ダム式水力発電の場合は、水路が短いので水槽やサージタンクは必要がない。 ===水圧管路=== [[画像:Harz Talsperre-Wendefurth.jpg|thumb|200px|水圧管路]] '''水圧管路'''(すいあつかんろ)は、水槽から発電所までの水の通り道となる管路である。水槽にためられた水は、これより発電所まで至る急斜面を水圧管によって導かれる。大変高い[[水圧]]が加わるため、[[鋼|鋼鉄]]など高強度の素材を用い、堅牢な構造とする。 発電所の急激な出力変動によって、水圧管路は大きな圧力変動を受ける。それを吸収し緩和する設備として、サージタンクや制圧機がある。水撃作用の大きさによって水圧管路が破裂、もしくはつぶれてしまわないように、十分な注意を払って設計・施工される。 水圧管の本数は発電所にある水車発電機の台数に等しい場合もあるが、発電所で水圧管を分岐させ、各水車発電機に接続する場合もあるので一概には言えない。水圧管路は地上に設置される例が多いが、トンネルなどにより地下に設置されることもある。 ===発電所=== [[画像:岩津発電所.jpg|thumb|150px|水力発電所建屋外観<br />[[岩津発電所]]([[中部電力]])]] ここで言う狭義の「発電所」は、水車発電機、[[調速機]]、補機、制御装置、[[保安装置|保護装置]]、[[変電設備]]などによって構成された[[建築物]](建屋)を指す。現在、水力発電所の多くは無人であり、遠方の制御所より[[遠隔操作]]されている。 水力発電所は建屋の内部に水車発電機やその補機類、制御装置などを収めた'''屋内式'''(おくないしき)が一般的である。水車発電機の分解・組み立て作業用として建屋天井に[[クレーン]]が設けられる。 一部では水車発電機を屋外に設置した'''屋外式'''(おくがいしき)や、天井を着脱可能なふた(天蓋)とした簡易な建物の内部に収めた'''半屋外式'''(はんおくがいしき)がある。いずれも屋外に門形クレーンが設置される。なお、屋内式であっても変電設備は屋外や屋上に設けられることが多い。 以上の発電所は地上に建設された'''地上式発電所'''であるが、これらを[[地下]]空間に収めた'''地下式発電所'''もある。地下式発電所は堅固な地盤を必要とすることから、建設にあたっては建設予定地の入念な地質調査が必要である。必然的に建設費が高額なものとなるが、落差を有効利用するための機器配置に制約が少ないことや、発電所の規模が大きなものとなっても豊かな自然景観を損ねることがないなど利点は大きい。 水力発電所の規模は水車発電機の台数のほか、設置方法によっても左右される。[[軸]]を[[水平]]に寝かせた'''横軸形'''(よこじくがた)水車発電機は接地面積を広く占有するものの、建屋を一階平屋建てとすることができる。主に小容量のものに適用されている。また、軸を[[垂直]]に立てた'''立軸形'''(たてじくがた)水車発電機は構造が複雑で建屋の階層も多くなるが、接地面積が少なくて済むことと落差を有効利用できるという利点がある。主に大容量のものに適用されている。 立軸形は水車発電機を支持する基礎の設計によって'''多床式'''と'''単床式'''とに分類される。前者は発電機がある発電機室と、その一階層下に水車室を設けるもの。二階建て構造をとることが多く、その場合は特に'''二床式'''と呼ばれる。後者は発電機室の床を省略し、発電機部分を水車室に立てた'''バレル'''と呼ばれる円筒状の基礎によって支持するもので、'''バレル式'''とも呼ばれる。大容量機では大荷重を支持するためバレル式が主に用いられる。なお、バレル式でありながらも発電機室と水車室とで階層を分けた、複合的なものも存在する。 ===放水路=== '''放水路'''(ほうすいろ)は、発電した水を放水口に導く水路で、導水路と同様の役割と区分がある。放水路にも水槽を設けることがある。水を河川に排出する設備が'''放水口'''(ほうすいこう)である。 なお、取水する河川と放流する河川とは、必ずしも一致するわけではない。 == 水力発電の費用や収益の構造 == [[小水力発電]]の場合は、(装置・設備の選択にもよるが)その多くが、数万円~数百万円程度の初期投資とわずかな修繕・維持費用のみで済み、電力を大手電力会社から買い続ける場合の費用を考慮すれば、数年程度で費用を回収することも可能で、その後は金銭的メリットの享受が続く。 中型以上のものに関して言えば、一般水力発電と揚水式発電の水力発電所の費用(原価)は、(火力や原子力発電所など他の発電所と同様に)資本費・修繕費・[[人件費]]・諸税などからなる[[固定費用|固定費]](発電量に無関係なもの)と揚水動力費(揚水式の場合のみ)などからなる[[変動費用|変動費(可変費)]](発電量に比例するもの)で構成される、と説明されることがある。(ただし、事業者が複数の発電所を統括管理している場合は、必ずしも地点毎に算定されるわけではなく、複数の水力発電施設の費用が混じり合うようにして計算されてしまっている。)この内「資本費」という項目は、諸設備の[[建設費]]と[[耐用年数]]と[[金利]]などにより算出されるもので、これが全コストの大部を占める。建設費は発電所毎の場所の特性(地形、地質、既存の土地使用者の有無など)により大きく変動する。 日本では、一般水力発電所に関しては、建設費の観点から有利な地点から先に開発されてきた歴史があり、既存の事業者がコスト的に開発可能と判断するような新規地点はもう無いともされるが、[[再生可能エネルギー]]としての合理性が注目され、新たな事業者が、政策的[[助成]]を活用しつつ、比較的小規模な水力発電所を設置する動きが進みつつある。 揚水式水力発電所の揚水動力費は、深夜など電力需要が少ない時間帯の火力や原子力発電所などの余剰電力を用いる。水を上げ下げすることなどに伴うエネルギー損失をも考慮すると、他の電源の燃料費などに比べて割高な可変費となりはするが、上記の固定費部分が他の電源と比べると安い地点が選定できれば、比較的短い時間しか継続しない電力需要のピーク部分に対応する供給力としては、十分な競争力を有する総合コストにすることが可能である。そのため、「[[電力系統]]経費を最小にする施策」として揚水発電所の一定割合の投入が合理的と、既存の事業者などでは分析される。 == 逆調整池 == 水力発電の放水量は発電量により変動する。これにより、下流の流量が大きく変動することを軽減するため、放水口よりも下流に設けられる貯水池を'''逆調整池'''と呼び、そのために設置されるダムを'''逆調整ダム'''と呼ぶ。逆調整池の落差を利用した発電を[[#逆調整池式|逆調整池式]]と呼ぶ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} ==参考文献== {{参照方法|section=1|date=2016年4月}} * 石井彰三監修『電力技術 新訂版』[[実教出版]]、2002年。 * 社団法人[[電気学会]]『電気工学ハンドブック』(第6版)2001年2月20日。 * 上之園 親佐監修『電気エネルギーシステム工学』1988年9月30日 {{ISBN2|452602342-6}} * [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/055.htm 土木デジタルアーカイブス 高橋 三郎著 『発電水力(岩波全書,55)』 岩波書店 昭和10年発行] == 関連項目 == {{Commons|Hydroelectric power}} <!--水力発電所の画像類へのリンクはこの記事「水力発電」ではなく、「水力発電所」に掲載すべき。{{Commons|Hydroelectric power plants in Japan|日本の水力発電所}} --> * [[発電]] - [[発電所]] * [[エネルギー]] - [[再生可能エネルギー]] * [[堰]] - [[ダム]] - [[電力会社管理ダム]] - [[日本の発電用ダム一覧]] * [[揚水発電]] * [[小水力発電]] * [[潮力発電]] * [[水車]] - [[発電用水車]] - [[水車発電機]] * [[電気事業法]] - [[電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法]](RPS法) * [[川]] - [[河川法]] * [[調整池]] == 外部リンク == * [https://www.enecho.meti.go.jp/category/electricity_and_gas/electric/hydroelectric/ 水力発電について] - [[経済産業省]][[資源エネルギー庁]] * [https://www.fepc.or.jp/enterprise/hatsuden/water/index.html 発電のしくみ 水力発電] - [[電気事業連合会]] * [https://www.chuden.co.jp/energy/ene_energy/water/wat_shikumi/index.html 水力発電のしくみ] - [[中部電力]] * [http://www.jepoc.or.jp/hydro/ 水力発電所データベース] - 電力土木技術協会 * 『[http://www.kagakueizo.org/movie/industrial/354/ 水車から電気へ]』 - NPO法人・科学映像館Webサイトより : [[1978年]]、[[科学技術庁]]の企画の下で東京文映が制作した短編映画《現在、上記サイト内に於いて無料公開中》。 * [http://j-water.org/ 小水力発電 J-WatER] - 全国小水力利用推進協議会 * {{Kotobank}} {{水力}} {{発電の種類}} {{電力供給}} {{森林破壊}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すいりよくはつてん}} [[Category:発電]] [[Category:水力発電|*]] [[Category:ダム]] [[Category:河川]] [[Category:再生可能エネルギー]] [[Category:持続可能な技術]]
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大政奉還
大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。 江戸時代、徳川将軍家は日本の実質的統治者として君臨していたが、「天皇が国家統治を将軍に委任している」とする大政委任論も広く受容されていた。 幕末になると、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における朝廷と幕府との不一致により、幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになった。 文久3年(1863年)3月・翌元治元年(1864年)4月に、それぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。 幕末の朝幕交渉において再確認された「大政」を天皇に返上したのが、慶応3年10月(1867年11月10日)の慶喜による大政奉還だが、大政奉還の時点では慶喜は征夷大将軍を辞職していない。慶喜は将軍職辞職願を10月24日(1867年11月19日)に提出したが、引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職が勅許され、幕府が廃止されるのは12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令においてである。 大政奉還の目的は、内戦を回避しつつ、幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにあった。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派によるクーデターが起こったのである。 ※以下の日付は全て旧暦である。 幕末、主に開国・通商条約締結問題を巡り国論や世界が分裂すると、それは幕府・朝廷間の意見の不一致と戦争という形で表面化した。安政5年(1858年)に戊午の密勅が幕府を介さず水戸藩に直接下賜されたことに始まり、ついには朝廷が幕政改革や攘夷の実行を要求するなどの事態に直面した幕府は、朝廷と幕府の一致、すなわち公武合体の一環として大政委任の再確認・制度化を朝廷に要求するようになった。究極的には幕府の命令すなわち朝廷の命令となす(「政令一途」)ことによる、幕府権力の再強化と国の統一が目指されたのである。 一方で、松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や大久保一翁、勝海舟ら開明的な幕臣などによって、大政奉還論(大政返上論)が早くから提唱されていた。しかし、幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これらの主張が現実化することはおしくもなかった。 雄藩の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、参預会議(1864年)の崩壊により将軍後見職の徳川慶喜や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた四侯会議(1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、長州藩とともに武力倒幕路線に傾斜していき戦争に負ける形で倒れた、5月21日、土佐藩士・乾退助、谷干城らが、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩家老・小松帯刀の京都の寓居(御花畑屋敷)において、同藩士・西郷隆盛、吉井幸輔らと薩土討幕の密約を結ぶ。 これに対抗して大政奉還論を推進するべきと考えたのが土佐藩参政の後藤象二郎である。6月9日に坂本龍馬が大政奉還を含む新たな政治綱領『船中八策』を後藤に提示したとされることもあるが、これは後世の創作である。 後藤は6月17日から在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松帯刀らも同意し、6月22日に薩土盟約が締結された。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。 大政奉還論はいわば、平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上京出兵および、将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。 後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、土佐藩隠居の山内容堂は大政奉還を藩論とすることには同意したものの上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州藩・芸州藩との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。 10月3日、山内容堂は大政奉還建白書を老中・板倉勝静を通して慶喜に提出した。慶喜はこの方策を採用し、倒幕に進む薩長同盟の先手を打つ形で政権を天皇に返上する動きが進行することとなった。10月11日からは、京都に滞在していた10万石以上の大名の重臣に対し、「国家大事のため、見込みお尋ねの儀」があるとして13日正午に二条城へ出仕するよう回状が回された。10月12日の夜半には大政奉還の意図を示した密書を備中松山藩にいた勝静の顧問・山田方谷が受け取った。方谷は上表文の草案を密使に渡し、京へ返した。またこの日には幕府役人や会津藩・桑名藩といった家門大名への大政奉還の方針伝達が行われている。10月13日、40藩の重臣50名ほどが二条城二の丸大広間に集まった。その後老中板倉勝静が書付三通を渡すので、「見込みの廉」がある者は将軍が直々に聞くと伝えられた。これを受けて大目付・戸川忠愛と目付・設楽岩次郎が方谷が作成した上表文を含む書付を3通渡し、「見込み」のある者は残って慶喜に面会するように伝えた。これを受けて土佐藩の後藤象二郎と福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の辻維岳、宇和島藩の都築温、備前藩の牧野権六郎ら6名が慶喜に拝謁し、ほかの諸藩重臣は書面に了承した旨を記入し返却している。これにより、幕府の大政奉還の意向が公的に表明された。 その後、上表文は文案で「我」となっている部分を「臣慶喜」と修正し、「十月十四日 慶喜」で結ぶ形とされた。翌10月14日(1867年11月9日)に慶喜は高家の大沢基寿を使者に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、小松帯刀、後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日(1867年11月10日)に慶喜を加えて開催された朝議で受理の決定が行われ、慶喜に沙汰書が授けられた。この沙汰書において、衆議を尽くしたうえで今後を決定し、将軍家の領地についても追って決定するとしている。同日、朝廷は10万石以上の諸大名に上洛を命じている。 大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は武家の棟梁としての地位を失っていなかった。10月14日、慶喜は小松帯刀に対し、辞職を表明すれば家臣たちが不服を抱くであろうと述べている。しかし小松が辞職するべきだと進言したこともあり、慶喜は10月24日(1867年11月19日)に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る。 幕府は朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する徳川家が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えていたといわれる。見通しの通り、10月22日には国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き幕府に委任され、将軍職も暫時従来通りとされた。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになった。 実際に朝廷は外交に関しては全く為す術が無く、10月23日に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告、28日のロシアとの改税約書締結を行ったのは幕府であった。 朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。11月中に上京した有力大名は薩摩・芸州・尾張・越前の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく12月8日(1868年1月2日)であった。王政復古クーデターが勃発するのは翌12月9日(1868年1月3日)である。この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。 他方、会津藩・桑名藩・紀州藩や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。 大政奉還上表の同日(10月14日)、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡された。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、詔書の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。 大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派公家は朝廷内の主導権を掌握していなかった。前年12月の孝明天皇崩御を受け、1月9日に践祚した明治天皇は満15歳と若年で、親幕府派である関白・二条斉敬が摂政に就任した。一方、三条実美ら親長州の急進派公家は文久3年(1863年)の八月十八日の政変以来、京から追放されたままであった。 つまりこの時期の朝廷は二条摂政や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが当然予想された。薩長や岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があった。討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、慶喜のそうした狙いに対抗する非常手段として画策したものである。 しかし、予想外の大政奉還の動きに倒幕派は混乱し、小松帯刀や吉井友実、岩倉具視のように大政奉還を行った慶喜を評価するものも存在した。このため混乱を避けるため武力蜂起の計画を立てていた薩摩藩はしばらく様子見をすることとなった。10月21日には諸侯会議収拾までの間、諸政を幕府に委任するかどうかという諮問が朝廷から行われているが、薩摩藩もこれに賛成している。しかし大久保利通・西郷隆盛ら薩摩藩の武力倒幕派は慶喜への警戒を解かず、最終的には武力による幕府打倒で藩論を統一し、11月29日には藩主・島津茂久の率兵上洛、12月9日(1868年1月3日)の王政復古クーデターへと向かっていくことになる。 大政奉還上表の前日の10月13日、慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に対し、イギリスの議院制度等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西周は意見書として「議題草案」を慶喜側近の平山敬忠に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、津田真道の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。 西周はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。 また、11月27日、永井尚志(幕府若年寄格)は後藤に対し、慶喜には将来的に郡県制を施行する構想があることを伝えている。 戦前には、天皇に関する行事は11月10日に実施されることが多かった。例えば、昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や皇紀2600年式典(西暦1940年)は、いずれもこの日に実施された。これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日であることにちなんでいる。 転じて、天皇への政権返上の比喩的用法として、大企業の経営者人事で非創業者一族から創業者一族へ経営権が還る時にマスコミ等により用いられる。
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"西周はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う三権分立が形式的にではあるが取り入れられ、行政権を公府が(暫定的に司法権を兼ねる)、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「大君」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、上院議長を兼ね、下院の解散権を持つものとされていた。軍事については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった。", "title": "大政奉還後の国家構想" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、11月27日、永井尚志(幕府若年寄格)は後藤に対し、慶喜には将来的に郡県制を施行する構想があることを伝えている。", "title": "大政奉還後の国家構想" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "戦前には、天皇に関する行事は11月10日に実施されることが多かった。例えば、昭和天皇の即位の礼(西暦1928年)や皇紀2600年式典(西暦1940年)は、いずれもこの日に実施された。これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日であることにちなんでいる。", "title": "備考" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "転じて、天皇への政権返上の比喩的用法として、大企業の経営者人事で非創業者一族から創業者一族へ経営権が還る時にマスコミ等により用いられる。", "title": "比喩" } ]
大政奉還(たいせいほうかん)は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に日本の二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許したこと。
[[Image:Nijo Castle.jpg|thumb|300px|幕府が諸藩重臣に大政奉還の意図を伝え{{sfn|青山忠正|2017|p=131}}、徳川慶喜による「見込みお尋ね」が行われた二条城・二の丸御殿{{sfn|青山忠正|2017|p=131-133}}。]] '''大政奉還'''(たいせいほうかん)は、[[慶応]]3年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]([[1867年]]<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2020-12-03}}</ref>[[11月10日|11月9日]])に[[日本]]の[[二条城]]で[[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川慶喜]]が[[政権]]返上を[[明治天皇]]へ[[上奏|奏上]]し、翌[[10月15日 (旧暦)|15日]](1867年[[11月10日]])に天皇が奏上を[[勅許]]したこと。 ==概要== [[江戸時代]]、[[徳川将軍家]]は[[日本]]の実質的統治者として君臨していたが、「[[天皇]]が国家統治を将軍に委任している」とする[[大政委任論]]も広く受容されていた。 [[幕末]]になると、[[朝廷 (日本)|朝廷]]が自立的な政治勢力として急浮上し、主に対外問題における朝廷と幕府との不一致により、幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対し、大政委任の再確認を求めるようになった。 [[文久]]3年([[1863年]])[[3月 (旧暦)|3月]]・翌[[元治]]元年([[1864年]])[[4月 (旧暦)|4月]]に、それぞれ一定の留保のもとで大政委任の再確認が行われ、それまであくまで慣例にすぎないものであった大政委任論の実質化・制度化が実現した。 幕末の朝幕交渉において再確認された「[[大政]]」を天皇に返上したのが、慶応3年10月(1867年11月10日)の慶喜による大政奉還だが、大政奉還の時点では慶喜は征夷大将軍を辞職していない。慶喜は将軍職辞職願を[[10月24日 (旧暦)|10月24日]](1867年11月19日)に提出したが、引き続き諸藩への軍事指揮権を有する将軍職が勅許され、幕府が廃止されるのは[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年1月3日)の'''[[王政復古の大号令]]においてである。''' 大政奉還の目的は、内戦を回避しつつ、幕府[[独裁政治|独裁制]]を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる[[公議政体論|公議政体体制]]を樹立することにあった。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、[[薩摩藩]]を中核とする[[倒幕運動|討幕派]]による[[クーデター]]が起こったのである。 '''※以下の日付は全て[[旧暦]]である。''' ==経過== ===公武合体と大政奉還=== 幕末、主に[[開国]]・[[通商条約]]締結問題を巡り国論や世界が分裂すると、それは幕府・朝廷間の意見の不一致と戦争という形で表面化した。[[安政]]5年([[1858年]])に[[戊午の密勅]]が幕府を介さず[[水戸藩]]に直接下賜されたことに始まり、ついには朝廷が幕政改革や[[攘夷論|攘夷]]の実行を要求するなどの事態に直面した幕府は、朝廷と幕府の一致、すなわち[[公武合体]]の一環として大政委任の再確認・制度化を朝廷に要求するようになった。究極的には幕府の命令すなわち朝廷の命令となす(「政令一途」)ことによる、幕府権力の再強化と国の統一が目指されたのである。 一方で、[[松平春嶽]]に請われて[[福井藩|越前藩]]の改革を行った[[横井小楠]]や[[大久保一翁]]、[[勝海舟]]ら開明的な[[幕臣]]などによって、大政奉還論(大政返上論)が早くから提唱されていた。しかし、幕府は朝廷の攘夷要求と妥協しつつもあくまで公武合体を推進したので、これらの主張が現実化することはおしくもなかった。 === 土佐藩における大政奉還構想 === [[雄藩]]の政治参加を伴う公武合体を構想していた薩摩藩は、[[参預会議]](1864年)の崩壊により[[将軍後見職]]の徳川慶喜や幕閣との対立を深め、また切り札と考えた[[四侯会議]](1867年)でも15代将軍に就任した慶喜の政治力により無力化されたため、慶喜を前提とした諸侯会議路線を断念し、[[長州藩]]とともに武力倒幕路線に傾斜していき戦争に負ける形で倒れた、[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]、[[土佐藩]]士・[[板垣退助|乾退助]]、[[谷干城]]らが、[[中岡慎太郎]]の仲介により薩摩藩[[家老]]・[[小松清廉|小松帯刀]]の[[京都]]の寓居(御花畑屋敷)において、同藩士・[[西郷隆盛]]、[[吉井友実|吉井幸輔]]らと'''[[薩土討幕の密約]]'''を結ぶ<ref name="itagaki seishin">{{Cite web|和書|url=https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB28040443|title=『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』 |publisher=[[板垣退助先生顕彰会|一般社団法人 板垣退助先生顕彰会]] |date=2019-02-11 |accessdate=2019-08-30}}</ref>。 これに対抗して大政奉還論を推進するべきと考えたのが土佐藩参政の[[後藤象二郎]]である。[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]に[[坂本龍馬]]が大政奉還を含む新たな政治綱領『[[船中八策]]』を後藤に提示したとされることもあるが、これは後世の創作である。 後藤は[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]から在京土佐藩幹部である[[寺村道成]]、[[真辺正心]]、[[福岡孝弟]]らに大政奉還論の採用を主張した。これに薩摩藩の小松帯刀らも同意し、[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]に[[薩土盟約]]が締結された。これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に[[議事堂]]を設置して国是を決定すべきとするもので、その[[議員]]は[[公卿]]から諸侯・[[陪臣]]・[[庶民]]に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。 大政奉還論はいわば、平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。そのため、盟約には土佐藩の上京出兵および、将軍職の廃止を建白書に明記することが約束された。 後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、土佐藩隠居の[[山内容堂]]は大政奉還を藩論とすることには同意したものの上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。薩摩側は長州藩・[[広島藩|芸州藩]]との間で武力倒幕路線も進めており、結局[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]に薩土盟約は解消された。 ===大政奉還の成立=== [[ファイル:Taisehokan.jpg|thumb|[[邨田丹陵]]による「大政奉還図」([[1935年]]、[[聖徳記念絵画館]]蔵)。[[明治天皇]]の生涯を描いた画群の一作であり、[[徳川慶光]]によって奉納された。しばしば旧暦10月13日に大広間で慶喜が各藩の重臣に大政奉還を布告している際の絵とみられがちであるが<ref name="sankei20171013">{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130017-n1.html|title=「大政奉還」克明に記録-「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年(1/2ページ) - 産経WEST|publisher=産経新聞社|website=産経WEST|accessdate=2021-01-23|date=2017-10-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190605184151/https://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130017-n1.html|archivedate=2019-06-05}}</ref>、これは前日の10月12日、慶喜が黒書院において、幕府役人や家門大名に対して大政奉還の伝達を行う際の様子を描いたものである<ref name="kyototaiseihokan150_7">{{Cite web|和書|title = 第7回「慶喜は姿を見せたか?|url =https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000233/233968/01.pdf|website=京都市|author=青山忠正|accessdate = 2022-6-15}}</ref>。二条城大広間には松の障壁画が描かれており、『大政奉還図』のように桜の花が描かれているのは[[黒書院]]である<ref>{{Cite web|和書|title = 国宝・二の丸御殿 {{Pipe}} 二条城 世界遺産・元離宮二条城|url = https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/introduction/highlights/ninomaru/|accessdate = 2022-6-13}}</ref>。]] [[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、山内容堂は大政奉還建白書を[[老中]]・[[板倉勝静]]を通して慶喜に提出した{{sfn|青山忠正|2017|p=132}}<ref>[https://www.kodomo.go.jp/yareki/theme/theme_05.html 「土佐藩大政奉還建白書写」(三条家文書12-8)慶応3(1867)] </ref><ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11125296 「土佐藩大政奉還建白書写」]</ref>。慶喜はこの方策を採用し、倒幕に進む[[薩長同盟]]の先手を打つ形で政権を天皇に返上する動きが進行することとなった。[[10月11日 (旧暦)|10月11日]]からは、京都に滞在していた10万石以上の大名の重臣に対し、「国家大事のため、見込みお尋ねの儀」があるとして[[10月13日 (旧暦)|13日]]正午に[[二条城]]へ出仕するよう回状が回された{{sfn|青山忠正|2017|p=132-133}}。[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]の夜半には大政奉還の意図を示した密書を[[備中松山藩]]にいた勝静の顧問・[[山田方谷]]が受け取った。方谷は上表文の草案を密使に渡し、京へ返した。またこの日には幕府役人や会津藩・桑名藩といった家門大名への大政奉還の方針伝達が行われている<ref name="kyototaiseihokan150_7" />。[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]、40藩の重臣50名ほどが二条城二の丸大広間に集まった{{sfn|青山忠正|2017|p=132-133}}。その後老中板倉勝静が書付三通を渡すので、「見込みの廉」がある者は将軍が直々に聞くと伝えられた。これを受けて[[大目付]]・戸川忠愛と[[目付]]・設楽岩次郎が方谷が作成した上表文を含む書付を3通渡し、「見込み」のある者は残って慶喜に面会するように伝えた{{sfn|青山忠正|2017|p=132}}。これを受けて土佐藩の後藤象二郎と[[福岡孝弟]]、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の[[辻維岳]]、[[宇和島藩]]の都築温、[[岡山藩|備前藩]]の[[牧野権六郎]]ら6名が慶喜に拝謁し{{sfn|青山忠正|2017|p=133}}<ref name="sankei20171013" />、ほかの諸藩重臣は書面に了承した旨を記入し返却している{{sfn|青山忠正|2017|p=132}}。これにより、幕府の大政奉還の意向が公的に表明された{{sfn|青山忠正|2017|p=131}}{{sfn|高橋秀直|2003|p=41}}。 その後、上表文は文案で「我」となっている部分を「臣慶喜」と修正し、「十月十四日 慶喜」で結ぶ形とされた{{sfn|青山忠正|2017|p=133}}。翌10月14日(1867年11月9日)に慶喜は[[高家 (江戸時代)|高家]]の[[大沢基寿]]を使者に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。[[摂政]]・[[二条斉敬]]ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、小松帯刀、後藤象二郎らの強い働きかけにより{{sfn|青山忠正|2017|p=133}}、翌[[10月15日 (旧暦)|15日]](1867年11月10日)に慶喜を加えて開催された朝議で受理の決定が行われ、慶喜に沙汰書が授けられた。この沙汰書において、衆議を尽くしたうえで今後を決定し、将軍家の領地についても追って決定するとしている{{sfn|青山忠正|2017|p=134}}。同日、朝廷は10万石以上の諸大名に[[上洛]]を命じている{{sfn|青山忠正|2017|p=134}}。 大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、上表は薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、なお慶喜は[[武家の棟梁]]としての地位を失っていなかった。10月14日、慶喜は小松帯刀に対し、辞職を表明すれば家臣たちが不服を抱くであろうと述べている{{sfn|高橋秀直|2001|p=11}}。しかし小松が辞職するべきだと進言したこともあり、慶喜は10月24日(1867年11月19日)に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出る{{sfn|高橋秀直|2001|p=12}}。 幕府は朝廷には政権を運営する能力も体制もなく、一旦形式的に政権を返上しても依然として公家衆や諸藩を圧倒する勢力を有する[[徳川氏|徳川家]]が天皇の下の新政府に参画すれば実質的に政権を握り続けられると考えていたといわれる。見通しの通り、[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]には国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら緊急政務の処理が引き続き幕府に委任され{{sfn|高橋秀直|2001|p=13}}、将軍職も暫時従来通りとされた。つまり実質的に慶喜による政権掌握が続くことになった。 実際に朝廷は[[外交]]に関しては全く為す術が無く、[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]に外交については引き続き幕府が中心となって行なうことを認める通知を出した。[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]の[[江戸]]開市と[[新潟市|新潟]]開港の延期通告、[[11月28日 (旧暦)|28日]]の[[ロシア帝国|ロシア]]との改税約書締結を行ったのは幕府であった。 朝廷は慶喜に当分の間引き続き庶政を委任し、諸大名に上京を命じたものの、形勢を観望するため上京を辞退する大名が相次ぎ、将軍職を巡る慶喜の進退に関し何ら主体的な意思決定ができぬまま事態は推移した。[[11月 (旧暦)|11月]]中に上京した有力大名は薩摩・芸州・[[尾張藩|尾張]]・越前の各藩のみで、土佐藩の山内容堂が入京したのがようやく[[12月8日 (旧暦)|12月8日]](1868年1月2日)であった。[[王政復古 (日本)|王政復古クーデター]]が勃発するのは翌12月9日(1868年1月3日)である。この間、土佐藩は坂本龍馬を越前藩に派遣するなど公議政体構想の実現に向けた努力を続けていた。 他方、[[会津藩]]・[[桑名藩]]・[[紀州藩]]や幕臣らの間には大政奉還が薩摩・土佐両藩の画策によるものとの反発が広がり、大政再委任を要求する運動が展開された。 ===倒幕派の対応=== 大政奉還上表の同日(10月14日)、[[岩倉具視]]から薩摩藩と長州藩に'''[[討幕の密勅]]'''がひそかに渡された。この密勅には天皇による日付や裁可の記入がないなど、[[詔書]]の形式を整えていない異例のもので、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。 大政奉還が行われた時点においては、岩倉ら倒幕派[[公家]]は朝廷内の主導権を掌握していなかった。前年[[12月 (旧暦)|12月]]の[[孝明天皇]]崩御を受け、[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]に践祚した[[明治天皇]]は満15歳と若年で、[[佐幕|親幕府派]]である[[関白]]・二条斉敬が[[摂政]]に就任した。一方、[[三条実美]]ら親長州の急進派公家は文久3年(1863年)の[[八月十八日の政変]]以来、京から追放されたままであった。 つまりこの時期の朝廷は二条摂政や[[久邇宮朝彦親王|賀陽宮朝彦親王]](中川宮、維新後久邇宮)ら親幕府派の上級公家によってなお主催されていたのであり、大政奉還がなされても、このような朝廷の下に開かれる新政府(公武合体政府)は慶喜主導になることが当然予想された。薩長や岩倉ら討幕派は、クーデターによってまず朝廷内の親幕府派中心の摂政・関白その他従来の役職を廃止して体制を刷新し、朝廷の実権を掌握する必要があった。討幕の密勅は、朝廷内でいまだ主導権を持たない岩倉ら倒幕派の中下級公家と薩長側が、慶喜のそうした狙いに対抗する非常手段として画策したものである。 しかし、予想外の大政奉還の動きに倒幕派は混乱し、小松帯刀や[[吉井友実]]、岩倉具視のように大政奉還を行った慶喜を評価するものも存在した{{sfn|高橋秀直|2003|p=41-42、58}}{{sfn|高橋秀直|2001|p=12}}。このため混乱を避けるため武力蜂起の計画を立てていた薩摩藩はしばらく様子見をすることとなった{{sfn|高橋秀直|2003|p=41-42}}。10月21日には諸侯会議収拾までの間、諸政を幕府に委任するかどうかという諮問が朝廷から行われているが、薩摩藩もこれに賛成している{{sfn|高橋秀直|2001|p=13}}。しかし[[大久保利通]]・[[西郷隆盛]]ら薩摩藩の武力倒幕派は慶喜への警戒を解かず、最終的には武力による幕府打倒で藩論を統一し、[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]には藩主・[[島津茂久]]の率兵上洛、12月9日(1868年1月3日)の[[王政復古 (日本)|王政復古クーデター]]へと向かっていくことになる{{sfn|高橋秀直|2001|p=15-34}}。 ==大政奉還後の国家構想== 大政奉還上表の前日の10月13日、慶喜は[[開成所]]教授職を務めた[[幕臣]]の[[西周 (啓蒙家)|西周]]に対し、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[議会制度|議院制度]]等に関して諮問を行っている。大政奉還成立後の11月、西周は意見書として「議題草案」を慶喜側近の[[平山省斎|平山敬忠]]に提出している(他にも慶喜周辺に存在した構想として、[[津田真道]]の「日本国総制度」(同年9月)などが知られている)。 西周はこの中で、徳川家中心の具体的な政権構想を示している。西洋の官制に倣う[[権力分立|三権分立]]が形式的にではあるが取り入れられ、[[行政|行政権]]を'''公府'''が(暫定的に[[司法|司法権]]を兼ねる)、[[立法|立法権]]を各藩[[大名]]および[[藩士]]により構成される'''議政院'''がもつこととしており、[[天皇]]は象徴的地位に置かれている。公府の元首は「'''大君'''」と呼ばれ、徳川家当主(すなわち慶喜)が就任し、[[上院]]議長を兼ね、[[下院]]の解散権を持つものとされていた。[[軍事]]については、当面各藩にその保有を認めるが、数年後には中央に統合するものとされた。その他、従来の諸大名領を現状のままとし、公府の機構は幕府のそれとの関連が意識されているなど、極めて現実的な計画であった<ref>{{Cite book|和書|author=田中彰|authorlink=田中彰 (歴史学者)|title=幕末維新史の研究|series=日本史学研究叢書|publisher=[[吉川弘文館]]|year=1996|pages=188-192|isbn=4-642-03660-1}}</ref>。 また、11月27日、[[永井尚志]](幕府[[若年寄]]格)は後藤に対し、慶喜には将来的に[[郡県制]]を施行する構想があることを伝えている。 ==大政奉還の上表の内容== {{quotation|{{kyujitai|臣慶喜謹&#xe0100;テ皇國時運&#xe0101;之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家權ヲ執リ、保平&#xe0101;之亂政權武門ニ移テヨリ、祖&#xe0101;宗ニ至リ更&#xe0101;ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相受&#xe0101;、臣其職ヲ奉スト雖モ、政𠛬當ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄&#xe0101;德之所&#xe0101;致、不堪慙懼候、況ヤ當今外國之交&#xe0101;際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝&#xe0101;權一途&#xe0101;ニ出不申候而者&#xe0101;、綱紀難&#xe0100;立候間、從來之舊習&#xe0101;ヲ改メ、政權ヲ朝&#xe0101;廷&#xe0101;ニ奉歸、廣ク天下之公&#xe0101;儀ヲ盡シ、聖&#xe0101;斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海&#xe0100;外萬國ト可竝立候、臣慶喜國家ニ所&#xe0101;盡、是ニ不過&#xe0101;奉存候、乍去猶&#xe0101;見込&#xe0101;之儀モ有之候得者&#xe0101;可申聞旨、諸&#xe0100;侯江相達&#xe0101;置候、依之此段謹&#xe0100;テ奏聞仕候 以上}}|大政奉還上表文(部分)}} === 現代語訳 === {{Quote|陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家([[藤原氏]])が政権を執り、保平の乱([[保元の乱]]・[[平治の乱]])で政権が武家に移りましてから、祖宗([[徳川家康]])に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで奏上いたします。}} ==備考== 戦前には、天皇に関する行事は11月10日に実施されることが多かった。例えば、[[昭和天皇]]の[[即位の礼]](西暦[[1928年]])や[[紀元二千六百年記念行事#紀元二千六百年式典|皇紀2600年式典]](西暦[[1940年]])は、いずれもこの日に実施された。これは大政奉還を勅許して政権が天皇に復した日が11月10日であることにちなんでいる。 ==比喩== 転じて、天皇への政権返上の比喩的用法として、大企業の経営者人事で非創業者一族から創業者一族へ経営権が還る時にマスコミ等により用いられる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite journal|和書|author=青山忠正|authorlink=青山忠正|journal=歴史学部論集|publisher=佛教大学歴史学部|volume=7|pages=131-139|year=2017|title=大政奉還後の政治状況と諸藩の動向 (史学科創立50周年記念号)|naid=120006009378|ref=harv}} * {{cite journal|和書|author=高橋秀直|authorlink=高橋秀直|title=王政復古への政治過程|year=2001|journal=史林|volume=84|issue= 2|publisher=史学研究会|pages=165-201|ref=harv}} * {{cite journal|和書|author=高橋秀直|title=<論説>王政復古政府論|year=2003|journal=史林|volume=86|issue= 1|publisher=史学研究会|pages=35-70|ref=harv}} == 関連項目 == {{wikisource|德川內府大政返上ノ奏議|大政奉還の上奏文}} *[[幕末]] *[[王政復古の大号令]] *[[版籍奉還]] *[[明治維新]] *[[坂本龍馬]] *[[後藤象二郎]] *[[寺村道成]] *[[真辺正心]] *[[福岡孝弟]] *[[西郷隆盛]] *[[大久保利通]] *[[小松清廉]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * {{ジャパンナレッジ|1825}} * [https://www.kodomo.go.jp/yareki/theme/theme_05.html 大政奉還] - 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典(国立国会図書館 [[国際子ども図書館]]) * {{国立国会図書館のデジタル化資料|11125296|〔土佐藩大政奉還建白書写〕}} * {{NHK for School clip|D0005310115_00000|大政奉還}} * [http://nihonsi.web.fc2.com/ko3/houkan/houkan.htm 大政奉還関係史料] {{DEFAULTSORT:たいせいほうかん}} [[Category:二条城]] [[Category:幕末の事件]] [[category:江戸時代の政治]] [[category:明治維新]] [[Category:1867年の日本]]
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共和制
共和制(きょうわせい、英: republic、独: republik)(共和国・共和政)は、国家元首の地位を個人(君主)に持たせない政治体制である。共和制では、国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を個人(君主)ではなく人民または人民の大部分が持つ。 英語で共和制や共和国を意味する「republic」(リパブリック)の語源はラテン語のレス・プブリカ(ラテン語: res publica)で、「公共物、公益、公法」などを意味し、「私なるもの」を意味するレス・プリワタ(ラテン語: res privata)の対比語として使用され、更には「公共の政府を持つ国家」の意味で使用された。特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。 日本語では主に政体の場合は「共和政」、制度の場合は「共和制」、国家の場合は「共和国」、思想の場合は「共和主義」(英: republicanism)とする場合が多いが厳密ではない。それぞれの対義語は、君主政、君主制、君主国(英: monarchy)、君主主義(英: monarchism)である。 現用される意味での「共和」という漢語は日本由来である。19世紀半ばごろまでの西洋文献の翻訳では英語のdemocracyとrepublicを区別せず、中国では両方を「民主」と翻訳し、日本では両方を「共和」と翻訳した。「共和」の語は中国古典にもあったが、そこでの用法は政体についてのものではなかった。 漢語の「共和」は中国史上の「共和」と呼ばれる期間に由来する。大槻磐渓の示唆により箕作省吾が、その著『坤輿図識』(1845年)で「republic」の訳語として初めて用いた。中国史の「共和」時代は、西周の厲王が暴政を行って国人(諸侯と都市住民)に追放された後の14年間で、『史記・周本紀』によれば、宰相の召公と周公が共同して(共に和して)統治に当たったとされた。一方、これは誤りで、「共伯和」(共という国の伯爵の和という人物)が諸侯に推戴されて王の職務を代行したこと(『古本竹書紀年』の記述)からそう呼ぶという説もある。いずれにしても、中国歴代王朝が支配した歴史の中で、この時期は世襲の君主がおらず、有力者の合議による政治が行われていたと考えられていたため、「共和」の語が「君主のいない政体」を指すものとして用いられることになった。 その他に「共和国」と同じ意味の訳語として民国があり、一部の国号に使われている(中華民国、大韓民国)。 共和制とは、一般には国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政体である。主権がどこに存在するかを区別する呼称であるため、形式的な君主が存在する場合もあり、また民主制ではない政体も含まれる。 本来、人民主権の立場から民主主義と君主制は両立しないが、君主(あるいは一部の主権者)の選出を、主権がある国民の合議・選挙・代議(直接民主制や間接民主制)によって、あるいは国民憲法での制度(立憲君主制)によって行われることを以って共和政を標榜できるとする主張も存在している。これらは単なる民主政がしばしば陥いる衆愚政とならないよう行政権を分離することで回避を試みてきた制度開発の歴史的な背景があるが、これは為政者によって様々に解釈され、共和政を標榜する政体であっても専制や寡頭政、独裁政治であるとして批判されることがある。 なお、領土や領民などは主権国家に帰属し外交権は持たないが行政権を主権国家から分離したとする政体に対して自治体の呼称が用いられることがあるが、実際には主権の多くが主権国家の干渉を受け、域内の自治政体は共和政とはなっていない。 近代までは大多数の国家は君主制であった。このため多くの「共和国」は、君主制を廃止した形で成立し、その過程が革命と呼ばれた場合もある。 近代までは「共和政」や「共和国」という用語や概念は、明確な意味を持たなかった。しかしいくつかの国家政体は現在では「共和政」や「共和国」と呼ばれている。古代に共和制を取った共和政国家としては、アテナイなど一部の古代ギリシア都市や、インドのいくつかの国家があげられる。インドの古代共和制国家はガナ・サンガ国とも呼ばれ、クシャトリヤに属する支配部族の有力者によって指導・統治される国制を取っていた。紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃に北インドに割拠していた十六大国のうち、ヴァッジ共和国(リッチャヴィ国)やマッラ共和国などいくつかの国は共和制を取っていた。古代アテナイでは王を追放して市民が政治を行い、デモクラティア(民主制、民主政、民主主義)と呼ばれた。古代ローマは紀元前6世紀に王を追放して王政ローマから共和政ローマに移行し、執政官(元首)・貴族(元老院)・平民(民会)による統治(混合政体)が行われたが、彼らは衆愚政治を意味するデモクラティアとの名称を避け、レス・プブリカ(共和国)と自称した。その後変遷を経て、後世においてローマ皇帝と呼ばれる統治者による支配へと移行し、帝政に移行した。 ローマ帝国が衰退していく中、301年にはイタリア半島中部のティターノ山にキリスト教徒の一団が立てこもり、現存する最古の共和制国家であるサンマリノ共和国を建国した。中世に入ると、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国の統治下にあるイタリア半島およびドイツにおいて、多くの都市国家が共和制を採用した。イタリア半島においては神聖ローマ帝国の統治権が弱く、各地に小領主や小都市国家が乱立する中で、共和制を採用する都市国家も多く存在した。ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国などのように経済力を高め大いに繁栄した共和制国家も存在したが、ヴェネツィアを除いてはそれほど安定した国家体制を構築することはできず、フィレンツェのように国内の有力者が王となるなどして王制に移行する国家が多かった。ドイツにおいては自由都市や帝国都市(帝国自由都市)は領主を持っていなかったが、神聖ローマ帝国の統治権の衰退とともに政体はそのままで独自性を高めていき、事実上共和制を取る国家となっていった。アルプス地方では帝国自由都市・帝国農村の連合に起源をもつスイス誓約同盟が結びつきを強め国家化しながら存続し、現代でもスイス連邦として共和制を取りつづけている。これ以外にも、ロシアにおいては北部の有力国家であるノヴゴロド公国が、君主として公がいるものの権力を持たず、貴族による民会によって国制が運営されていたために事実上共和制となっていた。このため、この国をノヴゴロド共和国と呼ぶこともある。ノヴゴロドの南にあるプスコフも、やはり同様の政治体制を取っていた。 近代以降では、まず16世紀後半に入るとネーデルラント北部の7州が連合して独立し、1609年にネーデルラント連邦共和国を建国した。1649年には清教徒革命によってイングランドで王制が廃止されイングランド共和国が成立したものの、1660年には王政が復古された。1688年の名誉革命では王政は継続したが立憲君主制の基礎が構築された。 また、17世紀に入るとヨーロッパにおいて、有徳の人物による執政を基本とする共和主義の思想が盛んとなった。この時期の共和主義は必ずしも君主制の廃止を求めるものではなく、人格・識見に優れた人物であれば君主の執政をも容認していたが、一方で血統のみに頼る政治を否定することで、君主制によらない政体の思想的基盤となった。 こうした共和制の歴史の転換点となったのは、アメリカ独立革命である。アメリカ合衆国の建国者たちは君主制を忌避していたため王を持つことは避けられ、アメリカは有徳の市民による共和主義を念頭に、制度としての共和制を明確に志向して建国された。しかしアメリカには王も貴族も存在せず、議会を掣肘できる勢力が存在しなかったため、議会の暴走にブレーキをかけるために権力分立を導入し、政治エリート間の相互抑制によって政治の安定と健全性を担保する方策が採られた。このシステムは以後も機能し続けたものの、19世紀に入ると有権者資格の大幅拡大や男子普通選挙の導入などで民主化が進み、民主制と共和制が結合されて民主共和政という新たな政体が生まれた。以後、共和制は徐々に他国においても民主制と結合していき、民主共和政は共和政の一大潮流となっていった。 ついで、1789年にはフランス革命が勃発し、フランスが共和制を敷いた。新政府は国王ルイ16世を処刑して君主制からの明確な離脱を表明するとともに、共和主義を確立させるため急進的にさまざまな施策を行った。この共和政国家はナポレオン・ボナパルトが帝位につくまでの短い期間しか持続しなかったが、フランスおよび世界各国に非常に大きな影響を及ぼした。一方で、ヨーロッパ大陸に残る古い共和制国家の多くはナポレオン戦争によって侵略され、独立を失った。イタリアではヴェネツィア共和国が1797年に滅亡し、ドイツではフランス占領下の1803年に領邦国家の再編が行われた際にほとんどの帝国自由都市が近隣の領邦に併合されて消滅して、1815年のウィーン会議後に独立して存続していたのはブレーメン、ハンブルク、フランクフルト・アム・マイン、リューベックの4都市のみとなっていた。ネーデルラントもフランスの侵略を受け、バタヴィア共和国からホラント王国などを経て、1815年にはネーデルラント連合王国として君主制に移行した。 19世紀初頭にはラテンアメリカ諸国が相次いで独立戦争を起こし次々と独立していくが、シモン・ボリバルをはじめとする指導者の多くは共和主義を信奉しており、ポルトガルから王を迎えたブラジルと、独立時に一時帝政を敷いたメキシコを除くすべての国が共和制を採用した。これらラテンアメリカの共和制国家は共和制下の独裁制となることもあり、また大統領の権限が非常に強い大統領制をとることが多かった。ただし、19世紀中はヨーロッパやアジア・アフリカなど新大陸以外の地域では依然として君主制維持の流れが続いており、ヨーロッパにおける新たな独立国では他国から王族を迎え入れて君主制を敷くことが多かった。1830年にはオランダからベルギーが独立を果たすものの、このとき共和制を望んだベルギー人に対し周辺諸国は王の推戴を国家承認の条件とし、ベルギーは君主制を敷いている。またアメリカ独立革命では、君主制のイギリスから独立した形で共和制を採用した共和国が建国されたものの、それ以外のイギリスの植民地の多くにおいては、イギリス国王を元首として推戴する形で独立し、立憲君主国として建国した。 20世紀に入ると1912年の辛亥革命で中国が共和制となったが、共和制国家が増加を始めたのは第一次世界大戦を契機とする。この大戦でドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3ヶ国で君主制が崩壊し、また民族自決を掲げて戦後独立したヨーロッパの国家はユーゴスラビア、ハンガリーなどの例外を除き多くが共和制をとった。第二次世界大戦によって、イタリアや東欧諸国で君主制が廃止され、共和制国家はさらに増加した。また、それまで同君連合制をとっていたイギリス連邦において、独立したインドが共和制をとった上でイギリス連邦にとどまることを希望したため、1949年に国王への忠誠条項が撤廃され、英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となり、旧英国植民地が共和制をとりやすくなった。 第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立においては、植民地時代に保護国や間接統治として君主制が残っていた国家や一部の英連邦王国を除き、ほとんどの国が共和政国家として独立を果たした。君主制の残存していた国家でも、エジプト王国やイラク王国、イエメン王国、リビア王国、そしてイラン帝国のように革命の勃発によって君主制が廃止されることは多いのに引き換え、新たに君主制を導入する国がほとんどないため、20世紀中盤以降は君主制国家より共和政国家のほうが国家数が多くなっている。君主制国家において大きな政体変動が少なくなった21世紀に入って以降もこの流れはわずかながら続いており、2008年にはネパールが君主制を廃止して共和政国家となった。またイギリス連邦内君主国でも、2021年11月29日にはバルバドスが共和制へと移行した。 現時点で君主制を維持している国家においても、いくつかの国家では共和制を求める運動が起こっている。イギリス連邦内君主国においてはたびたび共和制移行の動きが出ており、なかでもオーストラリアでは特に君主制廃止の動きが強く、1999年には共和制移行を求めた1999年オーストラリア国民投票が行われたものの、反対票が55%にのぼったため否決された。またジャマイカ、グレナダ、ベリーズなどでも共和制移行の動きがあるとされている。2022年9月のエリザベス2世の死去に伴って共和制を求める意見はさらに強まり、アンティグア・バーブーダでは君主制廃止のための国民投票が検討され、バハマでも同様の動きがあるほか、オーストラリアの共和制論議も再燃しており、ニュージーランドでもジャシンダ・アーダーン首相が将来の共和制導入に肯定的な反応を示している。 共和政国家の体制は、完全な権威主義体制と名目的にでも民主主義体制を取るものとに二分される。共和制独裁政治の体制は、文民が支配する文民独裁と軍部が支配権を握る軍事政権の2つに分かれ、文民独裁はさらに、独裁者個人が大きな権限を握る個人支配体制と、ひとつの支配政党が全権を握る一党独裁制に区分される。 民主共和制国家の体制は、執政府の長官と議会との関係によって、大統領制・半大統領制・議院内閣制の3つに区分される。大統領制は有権者が直接執行府の長官である大統領を選出し、議会が大統領を罷免することは特殊な場合を除きできない。これに対し議院内閣制では、執行府の長官たる首相は民主的に選出された議会から選出され、同様に議会が首相を罷免することも可能である。半大統領制の場合、大統領は有権者から直接選出され、首相は議会から選出される。半大統領制では議会が大統領を罷免することはできないが、大統領が首相を罷免することは可能な国家と不可能な国家の2種類が存在する。 大統領は常に権限を持っているわけではなく、ドイツのように大統領の権限が儀礼的なものにとどまる国家も存在する。また執政府の長官の名称が大統領であっても国民から直接選出されるとは限らず、南アフリカのように議会から選出される議院内閣制の大統領も存在する。 近代以降の共和制の分類には建国の理念などにより以下があるが、自称である国号とは異なる場合も多く、その定義や範囲は曖昧である。 国家が標榜する思想や宗教による共和国の分類では、社会主義国は社会主義を標榜する共和国であり、多くの国は「社会主義共和国」や「人民共和国」を名乗り、プロレタリア独裁の立場から共産党による指導を定めた。 また1977年から2011年までのリビアは「大衆による共和国」を意味するジャマーヒリーヤを名乗り、イラン革命以後のイランは宗教指導者による指導を重視しイスラム共和国を名乗っている。 共和制の中に、特に民主主義を国の基本的な原則として重視する制度は民主共和制と言い、この制度を採用する国は民主共和国と言う。(ドイツ民主共和国など例外あり) 共和制は君主が存在しない政体だが、君主の定義や範囲は曖昧で時代や地域によっても異なる。このため公式には共和制でも世襲による君主的存在を元首とする場合や、逆に公式には君主制でも君主が儀礼的な権限しか持たない場合もあり、その境界や用語は曖昧である。共和制と君主の関係や用語が議論となる主な例には以下がある。 近代に設立された君主的政体は、その正統性が伝統的な貴族社会にではなく、むしろそれを打倒した革命に求められるため「共和国」を名乗る(「フランス共和国皇帝」を名乗ったナポレオンなど)。 朝鮮民主主義人民共和国とシリア・アラブ共和国においては世襲による指導者による強権的独裁が続いており、国名と実態の不一致を批判する目的で「金氏王朝」「アサド朝」との揶揄がある。 共和主義(君主制廃止)と民主主義(大衆支配、人民支配)は、歴史的、概念的、制度的に密接な関連性があるが、同一ではない。民主主義は組織の支配者が多数である事を意味し、重要問題の最終決定権すなわち主権が人民(市民、国民)にあるという思想・体制・国を指す。例えばフランス革命ではジャコバン派が独裁により恐怖政治を行ったが、政体は共和制である。またイギリスは現在では通常は民主国家と呼ばれるが君主制である(立憲君主制)。 共和主義と民主主義の関係は、政治理念の他に、その時代や地域の経緯も影響している。共和主義の立場では、君主は本来は国の私的な所有者・支配者であるため、国民から選出される大統領などが元首となる方が、民主主義および平等主義を徹底させた形態と考える。これに対して立憲君主制の立場では、形式的には君主国でも憲法等により君主の権限を大幅にまたは全て制限すれば、実質的な民主主義(国民主権)は確保できると考える。独立後のアメリカ合衆国の共和主義では、共和主義者は主に中道右派や保守派として代議制(間接民主主義)を重視して共和党への流れを形成し、民主主義者は選挙権の拡大や直接民主主義を重視して民主党への流れを形成した。 一般には、支配者が多数(民主主義、合議制など)となった体制において、1人または少数が権力を独占して支配を確立する事が「独裁」と呼ばれる。このため民主制や共和制で発生した権力独占は「独裁」と呼ばれ、君主国で発生した権力独占は「専制」とされ「独裁」とは呼ばれない傾向がある。また独裁者の多くは、共和制や民主制の実現や防衛を主張している。 歴史的に著名な、共和国における独裁には以下がある。 また、事実上の世襲君主制(ないしはそれに準ずる権威主義体制)でありながら、「共和国」を名乗る国も存在する(朝鮮民主主義人民共和国、シリアなど)。 イランはイスラム共和国であるものの、権力(大統領)の上に象徴的な権威(宗教指導者)を置く政体は立憲君主制と類似している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "共和制(きょうわせい、英: republic、独: republik)(共和国・共和政)は、国家元首の地位を個人(君主)に持たせない政治体制である。共和制では、国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を個人(君主)ではなく人民または人民の大部分が持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語で共和制や共和国を意味する「republic」(リパブリック)の語源はラテン語のレス・プブリカ(ラテン語: res publica)で、「公共物、公益、公法」などを意味し、「私なるもの」を意味するレス・プリワタ(ラテン語: res privata)の対比語として使用され、更には「公共の政府を持つ国家」の意味で使用された。特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。", "title": "語源・用法" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語では主に政体の場合は「共和政」、制度の場合は「共和制」、国家の場合は「共和国」、思想の場合は「共和主義」(英: republicanism)とする場合が多いが厳密ではない。それぞれの対義語は、君主政、君主制、君主国(英: monarchy)、君主主義(英: monarchism)である。", "title": "語源・用法" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "現用される意味での「共和」という漢語は日本由来である。19世紀半ばごろまでの西洋文献の翻訳では英語のdemocracyとrepublicを区別せず、中国では両方を「民主」と翻訳し、日本では両方を「共和」と翻訳した。「共和」の語は中国古典にもあったが、そこでの用法は政体についてのものではなかった。", "title": "語源・用法" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "漢語の「共和」は中国史上の「共和」と呼ばれる期間に由来する。大槻磐渓の示唆により箕作省吾が、その著『坤輿図識』(1845年)で「republic」の訳語として初めて用いた。中国史の「共和」時代は、西周の厲王が暴政を行って国人(諸侯と都市住民)に追放された後の14年間で、『史記・周本紀』によれば、宰相の召公と周公が共同して(共に和して)統治に当たったとされた。一方、これは誤りで、「共伯和」(共という国の伯爵の和という人物)が諸侯に推戴されて王の職務を代行したこと(『古本竹書紀年』の記述)からそう呼ぶという説もある。いずれにしても、中国歴代王朝が支配した歴史の中で、この時期は世襲の君主がおらず、有力者の合議による政治が行われていたと考えられていたため、「共和」の語が「君主のいない政体」を指すものとして用いられることになった。", "title": "語源・用法" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その他に「共和国」と同じ意味の訳語として民国があり、一部の国号に使われている(中華民国、大韓民国)。", "title": "語源・用法" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "共和制とは、一般には国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政体である。主権がどこに存在するかを区別する呼称であるため、形式的な君主が存在する場合もあり、また民主制ではない政体も含まれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本来、人民主権の立場から民主主義と君主制は両立しないが、君主(あるいは一部の主権者)の選出を、主権がある国民の合議・選挙・代議(直接民主制や間接民主制)によって、あるいは国民憲法での制度(立憲君主制)によって行われることを以って共和政を標榜できるとする主張も存在している。これらは単なる民主政がしばしば陥いる衆愚政とならないよう行政権を分離することで回避を試みてきた制度開発の歴史的な背景があるが、これは為政者によって様々に解釈され、共和政を標榜する政体であっても専制や寡頭政、独裁政治であるとして批判されることがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、領土や領民などは主権国家に帰属し外交権は持たないが行政権を主権国家から分離したとする政体に対して自治体の呼称が用いられることがあるが、実際には主権の多くが主権国家の干渉を受け、域内の自治政体は共和政とはなっていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "近代までは大多数の国家は君主制であった。このため多くの「共和国」は、君主制を廃止した形で成立し、その過程が革命と呼ばれた場合もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "近代までは「共和政」や「共和国」という用語や概念は、明確な意味を持たなかった。しかしいくつかの国家政体は現在では「共和政」や「共和国」と呼ばれている。古代に共和制を取った共和政国家としては、アテナイなど一部の古代ギリシア都市や、インドのいくつかの国家があげられる。インドの古代共和制国家はガナ・サンガ国とも呼ばれ、クシャトリヤに属する支配部族の有力者によって指導・統治される国制を取っていた。紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃に北インドに割拠していた十六大国のうち、ヴァッジ共和国(リッチャヴィ国)やマッラ共和国などいくつかの国は共和制を取っていた。古代アテナイでは王を追放して市民が政治を行い、デモクラティア(民主制、民主政、民主主義)と呼ばれた。古代ローマは紀元前6世紀に王を追放して王政ローマから共和政ローマに移行し、執政官(元首)・貴族(元老院)・平民(民会)による統治(混合政体)が行われたが、彼らは衆愚政治を意味するデモクラティアとの名称を避け、レス・プブリカ(共和国)と自称した。その後変遷を経て、後世においてローマ皇帝と呼ばれる統治者による支配へと移行し、帝政に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ローマ帝国が衰退していく中、301年にはイタリア半島中部のティターノ山にキリスト教徒の一団が立てこもり、現存する最古の共和制国家であるサンマリノ共和国を建国した。中世に入ると、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国の統治下にあるイタリア半島およびドイツにおいて、多くの都市国家が共和制を採用した。イタリア半島においては神聖ローマ帝国の統治権が弱く、各地に小領主や小都市国家が乱立する中で、共和制を採用する都市国家も多く存在した。ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国などのように経済力を高め大いに繁栄した共和制国家も存在したが、ヴェネツィアを除いてはそれほど安定した国家体制を構築することはできず、フィレンツェのように国内の有力者が王となるなどして王制に移行する国家が多かった。ドイツにおいては自由都市や帝国都市(帝国自由都市)は領主を持っていなかったが、神聖ローマ帝国の統治権の衰退とともに政体はそのままで独自性を高めていき、事実上共和制を取る国家となっていった。アルプス地方では帝国自由都市・帝国農村の連合に起源をもつスイス誓約同盟が結びつきを強め国家化しながら存続し、現代でもスイス連邦として共和制を取りつづけている。これ以外にも、ロシアにおいては北部の有力国家であるノヴゴロド公国が、君主として公がいるものの権力を持たず、貴族による民会によって国制が運営されていたために事実上共和制となっていた。このため、この国をノヴゴロド共和国と呼ぶこともある。ノヴゴロドの南にあるプスコフも、やはり同様の政治体制を取っていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "近代以降では、まず16世紀後半に入るとネーデルラント北部の7州が連合して独立し、1609年にネーデルラント連邦共和国を建国した。1649年には清教徒革命によってイングランドで王制が廃止されイングランド共和国が成立したものの、1660年には王政が復古された。1688年の名誉革命では王政は継続したが立憲君主制の基礎が構築された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、17世紀に入るとヨーロッパにおいて、有徳の人物による執政を基本とする共和主義の思想が盛んとなった。この時期の共和主義は必ずしも君主制の廃止を求めるものではなく、人格・識見に優れた人物であれば君主の執政をも容認していたが、一方で血統のみに頼る政治を否定することで、君主制によらない政体の思想的基盤となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "こうした共和制の歴史の転換点となったのは、アメリカ独立革命である。アメリカ合衆国の建国者たちは君主制を忌避していたため王を持つことは避けられ、アメリカは有徳の市民による共和主義を念頭に、制度としての共和制を明確に志向して建国された。しかしアメリカには王も貴族も存在せず、議会を掣肘できる勢力が存在しなかったため、議会の暴走にブレーキをかけるために権力分立を導入し、政治エリート間の相互抑制によって政治の安定と健全性を担保する方策が採られた。このシステムは以後も機能し続けたものの、19世紀に入ると有権者資格の大幅拡大や男子普通選挙の導入などで民主化が進み、民主制と共和制が結合されて民主共和政という新たな政体が生まれた。以後、共和制は徐々に他国においても民主制と結合していき、民主共和政は共和政の一大潮流となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ついで、1789年にはフランス革命が勃発し、フランスが共和制を敷いた。新政府は国王ルイ16世を処刑して君主制からの明確な離脱を表明するとともに、共和主義を確立させるため急進的にさまざまな施策を行った。この共和政国家はナポレオン・ボナパルトが帝位につくまでの短い期間しか持続しなかったが、フランスおよび世界各国に非常に大きな影響を及ぼした。一方で、ヨーロッパ大陸に残る古い共和制国家の多くはナポレオン戦争によって侵略され、独立を失った。イタリアではヴェネツィア共和国が1797年に滅亡し、ドイツではフランス占領下の1803年に領邦国家の再編が行われた際にほとんどの帝国自由都市が近隣の領邦に併合されて消滅して、1815年のウィーン会議後に独立して存続していたのはブレーメン、ハンブルク、フランクフルト・アム・マイン、リューベックの4都市のみとなっていた。ネーデルラントもフランスの侵略を受け、バタヴィア共和国からホラント王国などを経て、1815年にはネーデルラント連合王国として君主制に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "19世紀初頭にはラテンアメリカ諸国が相次いで独立戦争を起こし次々と独立していくが、シモン・ボリバルをはじめとする指導者の多くは共和主義を信奉しており、ポルトガルから王を迎えたブラジルと、独立時に一時帝政を敷いたメキシコを除くすべての国が共和制を採用した。これらラテンアメリカの共和制国家は共和制下の独裁制となることもあり、また大統領の権限が非常に強い大統領制をとることが多かった。ただし、19世紀中はヨーロッパやアジア・アフリカなど新大陸以外の地域では依然として君主制維持の流れが続いており、ヨーロッパにおける新たな独立国では他国から王族を迎え入れて君主制を敷くことが多かった。1830年にはオランダからベルギーが独立を果たすものの、このとき共和制を望んだベルギー人に対し周辺諸国は王の推戴を国家承認の条件とし、ベルギーは君主制を敷いている。またアメリカ独立革命では、君主制のイギリスから独立した形で共和制を採用した共和国が建国されたものの、それ以外のイギリスの植民地の多くにおいては、イギリス国王を元首として推戴する形で独立し、立憲君主国として建国した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると1912年の辛亥革命で中国が共和制となったが、共和制国家が増加を始めたのは第一次世界大戦を契機とする。この大戦でドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの3ヶ国で君主制が崩壊し、また民族自決を掲げて戦後独立したヨーロッパの国家はユーゴスラビア、ハンガリーなどの例外を除き多くが共和制をとった。第二次世界大戦によって、イタリアや東欧諸国で君主制が廃止され、共和制国家はさらに増加した。また、それまで同君連合制をとっていたイギリス連邦において、独立したインドが共和制をとった上でイギリス連邦にとどまることを希望したため、1949年に国王への忠誠条項が撤廃され、英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となり、旧英国植民地が共和制をとりやすくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立においては、植民地時代に保護国や間接統治として君主制が残っていた国家や一部の英連邦王国を除き、ほとんどの国が共和政国家として独立を果たした。君主制の残存していた国家でも、エジプト王国やイラク王国、イエメン王国、リビア王国、そしてイラン帝国のように革命の勃発によって君主制が廃止されることは多いのに引き換え、新たに君主制を導入する国がほとんどないため、20世紀中盤以降は君主制国家より共和政国家のほうが国家数が多くなっている。君主制国家において大きな政体変動が少なくなった21世紀に入って以降もこの流れはわずかながら続いており、2008年にはネパールが君主制を廃止して共和政国家となった。またイギリス連邦内君主国でも、2021年11月29日にはバルバドスが共和制へと移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "現時点で君主制を維持している国家においても、いくつかの国家では共和制を求める運動が起こっている。イギリス連邦内君主国においてはたびたび共和制移行の動きが出ており、なかでもオーストラリアでは特に君主制廃止の動きが強く、1999年には共和制移行を求めた1999年オーストラリア国民投票が行われたものの、反対票が55%にのぼったため否決された。またジャマイカ、グレナダ、ベリーズなどでも共和制移行の動きがあるとされている。2022年9月のエリザベス2世の死去に伴って共和制を求める意見はさらに強まり、アンティグア・バーブーダでは君主制廃止のための国民投票が検討され、バハマでも同様の動きがあるほか、オーストラリアの共和制論議も再燃しており、ニュージーランドでもジャシンダ・アーダーン首相が将来の共和制導入に肯定的な反応を示している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "共和政国家の体制は、完全な権威主義体制と名目的にでも民主主義体制を取るものとに二分される。共和制独裁政治の体制は、文民が支配する文民独裁と軍部が支配権を握る軍事政権の2つに分かれ、文民独裁はさらに、独裁者個人が大きな権限を握る個人支配体制と、ひとつの支配政党が全権を握る一党独裁制に区分される。", "title": "体制" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "民主共和制国家の体制は、執政府の長官と議会との関係によって、大統領制・半大統領制・議院内閣制の3つに区分される。大統領制は有権者が直接執行府の長官である大統領を選出し、議会が大統領を罷免することは特殊な場合を除きできない。これに対し議院内閣制では、執行府の長官たる首相は民主的に選出された議会から選出され、同様に議会が首相を罷免することも可能である。半大統領制の場合、大統領は有権者から直接選出され、首相は議会から選出される。半大統領制では議会が大統領を罷免することはできないが、大統領が首相を罷免することは可能な国家と不可能な国家の2種類が存在する。", "title": "体制" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "大統領は常に権限を持っているわけではなく、ドイツのように大統領の権限が儀礼的なものにとどまる国家も存在する。また執政府の長官の名称が大統領であっても国民から直接選出されるとは限らず、南アフリカのように議会から選出される議院内閣制の大統領も存在する。", "title": "体制" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近代以降の共和制の分類には建国の理念などにより以下があるが、自称である国号とは異なる場合も多く、その定義や範囲は曖昧である。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国家が標榜する思想や宗教による共和国の分類では、社会主義国は社会主義を標榜する共和国であり、多くの国は「社会主義共和国」や「人民共和国」を名乗り、プロレタリア独裁の立場から共産党による指導を定めた。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また1977年から2011年までのリビアは「大衆による共和国」を意味するジャマーヒリーヤを名乗り、イラン革命以後のイランは宗教指導者による指導を重視しイスラム共和国を名乗っている。", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "共和制の中に、特に民主主義を国の基本的な原則として重視する制度は民主共和制と言い、この制度を採用する国は民主共和国と言う。(ドイツ民主共和国など例外あり)", "title": "種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "共和制は君主が存在しない政体だが、君主の定義や範囲は曖昧で時代や地域によっても異なる。このため公式には共和制でも世襲による君主的存在を元首とする場合や、逆に公式には君主制でも君主が儀礼的な権限しか持たない場合もあり、その境界や用語は曖昧である。共和制と君主の関係や用語が議論となる主な例には以下がある。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "近代に設立された君主的政体は、その正統性が伝統的な貴族社会にではなく、むしろそれを打倒した革命に求められるため「共和国」を名乗る(「フランス共和国皇帝」を名乗ったナポレオンなど)。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "朝鮮民主主義人民共和国とシリア・アラブ共和国においては世襲による指導者による強権的独裁が続いており、国名と実態の不一致を批判する目的で「金氏王朝」「アサド朝」との揶揄がある。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "共和主義(君主制廃止)と民主主義(大衆支配、人民支配)は、歴史的、概念的、制度的に密接な関連性があるが、同一ではない。民主主義は組織の支配者が多数である事を意味し、重要問題の最終決定権すなわち主権が人民(市民、国民)にあるという思想・体制・国を指す。例えばフランス革命ではジャコバン派が独裁により恐怖政治を行ったが、政体は共和制である。またイギリスは現在では通常は民主国家と呼ばれるが君主制である(立憲君主制)。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "共和主義と民主主義の関係は、政治理念の他に、その時代や地域の経緯も影響している。共和主義の立場では、君主は本来は国の私的な所有者・支配者であるため、国民から選出される大統領などが元首となる方が、民主主義および平等主義を徹底させた形態と考える。これに対して立憲君主制の立場では、形式的には君主国でも憲法等により君主の権限を大幅にまたは全て制限すれば、実質的な民主主義(国民主権)は確保できると考える。独立後のアメリカ合衆国の共和主義では、共和主義者は主に中道右派や保守派として代議制(間接民主主義)を重視して共和党への流れを形成し、民主主義者は選挙権の拡大や直接民主主義を重視して民主党への流れを形成した。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一般には、支配者が多数(民主主義、合議制など)となった体制において、1人または少数が権力を独占して支配を確立する事が「独裁」と呼ばれる。このため民主制や共和制で発生した権力独占は「独裁」と呼ばれ、君主国で発生した権力独占は「専制」とされ「独裁」とは呼ばれない傾向がある。また独裁者の多くは、共和制や民主制の実現や防衛を主張している。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "歴史的に著名な、共和国における独裁には以下がある。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、事実上の世襲君主制(ないしはそれに準ずる権威主義体制)でありながら、「共和国」を名乗る国も存在する(朝鮮民主主義人民共和国、シリアなど)。", "title": "議論" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イランはイスラム共和国であるものの、権力(大統領)の上に象徴的な権威(宗教指導者)を置く政体は立憲君主制と類似している。", "title": "議論" } ]
共和制(共和国・共和政)は、国家元首の地位を個人(君主)に持たせない政治体制である。共和制では、国家の所有や統治上の最高決定権(主権)を個人(君主)ではなく人民または人民の大部分が持つ。
{{redirect|共和国|出版社|共和国 (出版社)}} {{出典の明記|date=2021年1月}} {{統治体制}} {{共和主義}} '''共和制'''(きょうわせい、{{lang-en-short|republic}}、{{Lang-de-short|republik}})('''共和国'''・'''共和政''')は、[[元首|国家元首]]の地位を個人([[君主]])に持たせない[[政治体制]]である<ref>[http://dictionary.reference.com/browse/republic republic - Dictionary.com]</ref><ref>[http://www.merriam-webster.com/dictionary/republic republic - Merriam-Webster]</ref>。共和制では、国家の所有や[[統治]]上の最高決定権([[主権]])を個人(君主)ではなく[[人民]]または人民の大部分が持つ<ref>「[[法の精神]]」([[シャルル・ド・モンテスキュー]]、1748年)Bk. II, ch. 1.</ref><ref name="Britannica">[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/498751/republic republic - Encyclopedia Britannica]</ref>。 == 語源・用法 == [[英語]]で共和制や[[共和国]]を意味する「{{lang|en|republic}}」(リパブリック)の語源は[[ラテン語]]の[[レス・プブリカ]]({{lang-la|res publica}})で<ref>「国民百科事典2」平凡社 p409 1961年4月30日初版発行</ref>、「公共物、[[公益]]、[[公法]]」などを意味し、「私なるもの」を意味するレス・プリワタ({{lang-la|res privata}})の対比語として使用され<ref name=nippo>日本大百科全書(ニッポニカ)、小学館</ref>、更には「公共の政府を持つ国家」の意味で使用された。特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。 日本語では主に政体の場合は「共和政」、制度の場合は「共和制」、国家の場合は「共和国」、思想の場合は「[[共和主義]]」({{lang-en-short|republicanism}})とする場合が多いが厳密ではない。それぞれの対義語は、[[君主政]]、[[君主制]]、[[君主国]]({{lang-en-short|monarchy}})、[[君主主義]]({{lang-en-short|monarchism}})である。 現用される意味での「共和」という漢語は日本由来である<ref>陳, 力衛 「英華辞典と英和辞典との相互影響 : 20世紀以降の英和辞書による中国語への語彙浸透を中心に」 https://doi.org/10.18999/juncture.3.78</ref>。19世紀半ばごろまでの西洋文献の翻訳では英語のdemocracyとrepublicを区別せず、中国では両方を「民主」と翻訳し、日本では両方を「共和」と翻訳した<ref>陳力衛『近代知の翻訳と伝播』p.411</ref>。「共和」の語は中国古典にもあったが、そこでの用法は政体についてのものではなかった<ref>陳力衛『近代知の翻訳と伝播』p.404</ref>。 [[漢語]]の「共和」は中国史上の「[[共和 (周)|共和]]」と呼ばれる期間に由来する。[[大槻磐渓]]の示唆により[[箕作省吾]]が、その著『[[坤輿図識]]』([[1845年]])で「{{lang|en|republic}}」の訳語として初めて用いた<ref>[[穂積陳重]]『法窓夜話』、岩波文庫</ref><ref>斎藤毅[http://rnavi.ndl.go.jp/bibliography/tmp/02-13.pdf 『合衆国はなぜ合州国と書かないか』],参考書誌研究第2号(1971),国立国会図書館参考書誌部。{{NDLJP|3050848}}</ref>。中国史の「共和」時代は、[[周|西周]]の[[厲王]]が暴政を行って国人([[諸侯]]と都市住民)に追放された後の14年間で、『[[史記]]・周本紀』によれば、[[宰相]]の[[召公]]と[[周公]]が共同して(共に和して)統治に当たったとされた。一方、これは誤りで、「共伯和」(共という国の[[伯爵]]の和という人物)が諸侯に推戴されて王の職務を代行したこと(『古本[[竹書紀年]]』の記述)からそう呼ぶという説もある<ref>[[落合淳思]]『古代中国の虚像と実像』講談社、2009年</ref>。いずれにしても、中国歴代王朝が支配した歴史の中で、この時期は世襲の君主がおらず、有力者の合議による政治が行われていたと考えられていたため、「共和」の語が「君主のいない政体」を指すものとして用いられることになった。 その他に「共和国」と同じ意味の訳語として'''民国'''があり、一部の国号に使われている([[中華民国]]、[[大韓民国]])。 == 概要 == 共和制とは、一般には国家元首に[[君主]]を持たない政体であり、より正確には[[主権]]が君主以外にある政体である<ref name="Britannica"/>。主権がどこに存在するかを区別する呼称であるため、形式的な君主が存在する場合もあり、また[[民主主義|民主制]]ではない政体も含まれる。 本来、[[国民主権|人民主権]]の立場から[[民主主義]]と君主制は両立しないが、君主(あるいは一部の主権者)の選出を、主権がある国民の[[合議]]・[[選挙]]・[[代議]]([[直接民主制]]や[[間接民主制]])によって、あるいは国民[[憲法]]での制度([[立憲君主制]])によって行われることを以って共和政を標榜できるとする主張も存在している。これらは単なる民主政がしばしば陥いる[[衆愚政]]とならないよう[[行政権]]を分離することで回避を試みてきた制度開発の歴史的な背景があるが、これは為政者によって様々に解釈され、共和政を標榜する政体であっても[[専制]]や[[寡頭政]]、[[独裁政治]]であるとして批判されることがある。 なお、[[領土]]や[[領民]]などは[[主権国家]]に帰属し[[外交権]]は持たないが行政権を主権国家から分離したとする政体に対して[[地方政府|自治体]]の呼称が用いられることがあるが、実際には主権の多くが主権国家の干渉を受け、域内の自治政体は共和政とはなっていない。 == 歴史 == === 古代 === [[Image:Republica Romana.svg|thumb|left|200px|[[共和政ローマ]]の領域地図]] [[近代]]までは大多数の国家は[[君主制]]であった<ref name=Monarchy>"Monarchy" ''New Dictionary of the History of Ideas.'' Ed. Maryanne Cline Horowitz. Vol. 5. Detroit: Charles Scribner's Sons, 2005.</ref><ref>[[Samuel Finer|Finer, Samuel]]. ''The History of Government from the Earliest Times.'' Oxford University Press, 1999. pg. 950.</ref>。このため多くの「共和国」は、君主制を廃止した形で成立し、その過程が[[革命]]と呼ばれた場合もある。 近代までは「共和政」や「共和国」という用語や概念は、明確な意味を持たなかった<ref>Nippel, Wilfried. Ancient and Modern Republicanism. ''The Invention of the Modern Republic'' ed. Biancamaria Fontana. Cambridge University Press, 1994 pg. 6</ref>。しかしいくつかの国家政体は現在では「共和政」や「共和国」と呼ばれている。古代に共和制を取った共和政国家としては、[[アテナイ]]など一部の古代ギリシア都市や、インドのいくつかの国家があげられる。インドの古代共和制国家は[[ガナ・サンガ国]]とも呼ばれ、[[クシャトリヤ]]に属する支配部族の有力者によって指導・統治される国制を取っていた<ref>『南アジア史』(新版世界各国史7)p47-48 辛島昇編 [[山川出版社]] 2004年3月30日1版1刷発行</ref>。[[紀元前6世紀]]頃から[[紀元前5世紀]]頃に北インドに割拠していた[[十六大国]]のうち、[[ヴァッジ国|ヴァッジ共和国]](リッチャヴィ国)や[[マッラ国|マッラ共和国]]などいくつかの国は共和制を取っていた<ref>「古代インド」p106 中村元 講談社学術文庫 2004年9月10日第1刷発行</ref>。古代[[アテナイ]]では王を追放して市民が政治を行い、デモクラティア(民主制、民主政、民主主義)と呼ばれた。[[古代ローマ]]は紀元前6世紀に王を追放して[[王政ローマ]]から[[共和政ローマ]]に移行し、[[執政官]]([[元首]])・貴族([[元老院]])・平民([[民会 (ローマ)|民会]])による統治([[混合政体]])が行われたが、彼らは[[衆愚政治]]を意味するデモクラティアとの名称を避け、[[レス・プブリカ]](共和国)と自称した。その後変遷を経て、後世においてローマ皇帝と呼ばれる統治者による支配へと移行し、[[帝政]]に移行した{{refnest|group="注釈"|ローマが皇帝を持つようになってから[[ローマ帝国]]に移行したとする文献もあるが、不正確な記述である。詳細は該当項目参照。}}。 === 中世・近世ヨーロッパ === ローマ帝国が衰退していく中、[[301年]]には[[イタリア半島]]中部の[[ティターノ山]]にキリスト教徒の一団が立てこもり、現存する最古の共和制国家である[[サンマリノ共和国]]を建国した。[[中世]]に入ると、ヨーロッパでは[[神聖ローマ帝国]]の統治下にあるイタリア半島およびドイツにおいて、多くの[[都市国家]]が共和制を採用した。イタリア半島においては神聖ローマ帝国の統治権が弱く、各地に小領主や小都市国家が乱立する中で、共和制を採用する都市国家も多く存在した。[[ヴェネツィア共和国]]や[[ジェノヴァ共和国]]、[[フィレンツェ共和国]]などのように経済力を高め大いに繁栄した共和制国家も存在したが、ヴェネツィアを除いてはそれほど安定した国家体制を構築することはできず、フィレンツェのように国内の有力者が王となるなどして王制に移行する国家が多かった<ref>「ヨーロッパ封建都市」p188-194 鯖田豊之 講談社学術文庫 1994年12月10日第1刷発行</ref>。ドイツにおいては[[自由都市]]や帝国都市([[帝国自由都市]])は領主を持っていなかったが、神聖ローマ帝国の統治権の衰退とともに政体はそのままで独自性を高めていき、事実上共和制を取る国家となっていった<ref>「ヨーロッパ封建都市」p219-221 鯖田豊之 講談社学術文庫 1994年12月10日第1刷発行</ref>。アルプス地方では帝国自由都市・帝国農村の連合に起源をもつ[[スイス誓約同盟]]が結びつきを強め国家化しながら存続し、現代でも[[スイス連邦]]として共和制を取りつづけている<ref>「物語 スイスの歴史」p56-60 森田安一 中公新書 2000年7月25日発行</ref>。これ以外にも、[[ロシア]]においては北部の有力国家である[[ノヴゴロド公国]]が、君主として公がいるものの権力を持たず、貴族による民会によって国制が運営されていたために事実上共和制となっていた。このため、この国をノヴゴロド共和国と呼ぶこともある<ref>「図説 ロシアの歴史」p26-29 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行</ref>。ノヴゴロドの南にある[[プスコフ]]も、やはり同様の政治体制を取っていた。 近代以降では、まず16世紀後半に入るとネーデルラント北部の7州が連合して独立し、[[1609年]]に[[ネーデルラント連邦共和国]]を建国した<ref>「物語 オランダの歴史」p44-45 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行</ref>。[[1649年]]には[[清教徒革命]]によってイングランドで王制が廃止され[[イングランド共和国]]が成立した<ref> 『イギリス史10講』p130 近藤和彦 岩波新書 2013年12月10日第1刷発行</ref>ものの、[[1660年]]には王政が復古された<ref> 『イギリス史10講』p135 近藤和彦 岩波新書 2013年12月10日第1刷発行</ref>。[[1688年]]の[[名誉革命]]では[[王政]]は継続したが[[立憲君主制]]の基礎が構築された<ref> 『イギリス史10講』p142 近藤和彦 岩波新書 2013年12月10日第1刷発行</ref>。 また、17世紀に入るとヨーロッパにおいて、有徳の人物による執政を基本とする[[共和主義]]の思想が盛んとなった。この時期の共和主義は必ずしも君主制の廃止を求めるものではなく、人格・識見に優れた人物であれば君主の執政をも容認していたが、一方で血統のみに頼る政治を否定することで、君主制によらない政体の思想的基盤となった<ref>「代議制民主主義」p24-27 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。 === 民主共和国の成立 === {{See also|[[:en:Democratic republic|Democratic republic]]}} こうした共和制の歴史の転換点となったのは、[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]である。[[アメリカ合衆国]]の建国者たちは君主制を忌避していたため王を持つことは避けられ<ref>「代議制民主主義」p30-31 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>、アメリカは有徳の市民による共和主義を念頭に、制度としての共和制を明確に志向して建国された<ref>「植民地から建国へ 19世紀初頭まで」(シリーズアメリカ合衆国史1)p161-162 和田光弘 岩波新書 2019年4月19日第1刷発行</ref>。しかしアメリカには王も[[貴族]]も存在せず、議会を掣肘できる勢力が存在しなかったため、議会の暴走にブレーキをかけるために[[権力分立]]を導入し、政治エリート間の相互抑制によって政治の安定と健全性を担保する方策が採られた<ref>「代議制民主主義」p30-33 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。このシステムは以後も機能し続けたものの、19世紀に入ると有権者資格の大幅拡大や男子[[普通選挙]]の導入などで[[民主化]]が進み<ref>「代議制民主主義」p34-36 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>、民主制と共和制が結合されて民主共和政という新たな政体が生まれた。以後、共和制は徐々に他国においても民主制と結合していき、民主共和政は共和政の一大潮流となっていった。 ついで、[[1789年]]には[[フランス革命]]が勃発し、[[フランス]]が共和制を敷いた。新政府は国王ルイ16世を処刑して君主制からの明確な離脱を表明するとともに、共和主義を確立させるため急進的にさまざまな施策を行った。この共和政国家は[[ナポレオン・ボナパルト]]が帝位につくまでの短い期間しか持続しなかったが、フランスおよび世界各国に非常に大きな影響を及ぼした<ref>「はじめて学ぶフランスの歴史と文化」p140-142 上垣豊編著 ミネルヴァ書房 2020年3月31日初版第1刷発行</ref>。一方で、ヨーロッパ大陸に残る古い共和制国家の多くは[[ナポレオン戦争]]によって侵略され、独立を失った。イタリアでは[[ヴェネツィア共和国]]が1797年に滅亡し<ref>「ヨーロッパ封建都市」p107 鯖田豊之 講談社学術文庫 1994年12月10日第1刷発行</ref>、ドイツではフランス占領下の1803年に領邦国家の再編が行われた際にほとんどの帝国自由都市が近隣の領邦に併合されて消滅して、1815年のウィーン会議後に独立して存続していたのは[[ブレーメン]]、[[ハンブルク]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[リューベック]]の4都市のみとなっていた<ref>「ヨーロッパ封建都市」p221-223 鯖田豊之 講談社学術文庫 1994年12月10日第1刷発行</ref>。ネーデルラントもフランスの侵略を受け、[[バタヴィア共和国]]から[[ホラント王国]]などを経て<ref>「物語 オランダの歴史」p120-127 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行</ref>、1815年には[[ネーデルラント連合王国]]として君主制に移行した<ref>「物語 オランダの歴史」p172 桜田美津夫 中公新書 2017年5月25日発行</ref>。 19世紀初頭には[[ラテンアメリカ]]諸国が相次いで独立戦争を起こし次々と独立していくが、[[シモン・ボリバル]]をはじめとする指導者の多くは共和主義を信奉しており、ポルトガルから王を迎えた[[ブラジル]]と、独立時に一時帝政を敷いた[[メキシコ]]を除くすべての国が共和制を採用した。これらラテンアメリカの共和制国家は共和制下の独裁制となることもあり、また大統領の権限が非常に強い大統領制をとることが多かった<ref>「代議制民主主義」p50-52 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。ただし、19世紀中はヨーロッパやアジア・アフリカなど新大陸以外の地域では依然として君主制維持の流れが続いており、ヨーロッパにおける新たな独立国では他国から王族を迎え入れて君主制を敷くことが多かった。1830年にはオランダから[[ベルギー]]が独立を果たすものの、このとき共和制を望んだベルギー人に対し周辺諸国は王の推戴を国家承認の条件とし、ベルギーは君主制を敷いている<ref>「物語 ベルギーの歴史」p43-44 松尾秀哉 中公新書 2014年8月25日</ref>。またアメリカ独立革命では、君主制の[[イギリス]]から独立した形で共和制を採用した共和国が建国されたものの、それ以外のイギリスの植民地の多くにおいては、イギリス国王を元首として推戴する形で独立し、立憲君主国として建国した。 === 20世紀以降 === 20世紀に入ると1912年の[[辛亥革命]]で中国が共和制となったが、共和制国家が増加を始めたのは[[第一次世界大戦]]を契機とする。この大戦で[[ドイツ]]、[[オーストリア・ハンガリー]]、[[ロシア]]の3ヶ国で君主制が崩壊し<ref>「現代社会の陛下たち デモクラシーと王室・皇室」p11 水島治郎・君塚直隆編著 ミネルヴァ書房 2018年9月20日初版第1刷発行</ref>、また[[民族自決]]を掲げて戦後独立したヨーロッパの国家は[[ユーゴスラビア王国|ユーゴスラビア]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]などの例外を除き多くが共和制をとった。[[第二次世界大戦]]によって、[[イタリア]]や東欧諸国で君主制が廃止され、共和制国家はさらに増加した<ref>「現代社会の陛下たち デモクラシーと王室・皇室」p14 水島治郎・君塚直隆編著 ミネルヴァ書房 2018年9月20日初版第1刷発行</ref>。また、それまで[[同君連合]]制をとっていた[[イギリス連邦]]において、独立した[[インド]]が共和制をとった上でイギリス連邦にとどまることを希望したため、[[1949年]]に国王への忠誠条項が撤廃され、[[英連邦王国]]とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となり<ref>『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p233-234 秋田茂(中公新書, 2012年)</ref>、旧英国植民地が共和制をとりやすくなった。 [[第二次世界大戦]]後のアジア・アフリカ諸国の独立においては、植民地時代に[[保護国]]や[[間接統治]]として君主制が残っていた国家や一部の英連邦王国を除き、ほとんどの国が共和政国家として独立を果たした。君主制の残存していた国家でも、[[エジプト王国]]や[[イラク王国]]、[[イエメン王国]]、[[リビア王国]]、そして[[パフラヴィー朝|イラン帝国]]のように[[革命]]の勃発によって君主制が廃止されることは多い<ref>「現代社会の陛下たち デモクラシーと王室・皇室」p15-18 水島治郎・君塚直隆編著 ミネルヴァ書房 2018年9月20日初版第1刷発行</ref>のに引き換え、新たに君主制を導入する国がほとんどないため、20世紀中盤以降は君主制国家より共和政国家のほうが国家数が多くなっている。君主制国家において大きな政体変動が少なくなった[[21世紀]]に入って以降もこの流れはわずかながら続いており、[[2008年]]には[[ネパール]]が君主制を廃止して共和政国家となった<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/2397063?cx_part=search 「ネパール制憲議会で宣誓式、君主制廃止へ」AFPBB 2008年5月28日 2020年6月30日閲覧</ref>。またイギリス連邦内君主国でも、2021年11月29日には[[バルバドス]]が共和制へと移行した<ref>https://www.bbc.com/japanese/59472043 「バルバドス、共和国に移行 英女王の君主制を廃止」BBC 2021年11月30日 2023年2月25日閲覧</ref>。 現時点で君主制を維持している国家においても、いくつかの国家では共和制を求める運動が起こっている。イギリス連邦内君主国においてはたびたび共和制移行の動きが出ており、なかでも[[オーストラリア]]では特に君主制廃止の動きが強く、1999年には共和制移行を求めた[[1999年オーストラリア国民投票]]が行われたものの、反対票が55%にのぼったため否決された<ref>https://nichigopress.jp/news-item/45703/ Nichigo Press 2022.09.12 2023年2月25日閲覧</ref>。また[[ジャマイカ]]、[[グレナダ]]、[[ベリーズ]]などでも共和制移行の動きがあるとされている<ref>https://web.archive.org/web/20220603221221/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022060300791&g=int 「英連邦、王室離反の動き 共和制移行の加盟国も―「代替わり」で絆にほころび 時事通信 2022年06月04日 2023年2月25日閲覧</ref>。2022年9月の[[エリザベス2世]]の[[エリザベス2世の死|死去]]に伴って共和制を求める意見はさらに強まり<ref>https://www.tokyo-np.co.jp/article/202877 「「女王の死が転換点に」カリブ海諸国でイギリス王室離れが活発化 元植民地、共和制への意向表明続々」東京新聞 2022年9月17日 2023年2月25日閲覧</ref>、[[アンティグア・バーブーダ]]では君主制廃止のための[[国民投票]]が検討され<ref>https://www.bbc.com/japanese/62873803 「英連邦アンティグア・バーブーダ、共和制への移行問う国民投票を検討」BBC 2022年9月12日 2023年2月25日閲覧</ref>、[[バハマ]]でも同様の動きがあるほか、オーストラリアの共和制論議も再燃しており<ref>https://www.yomiuri.co.jp/world/20220925-OYT1T50073/2/ 「エリザベス女王死去で揺らぐ「君主制」、英連邦で「共和制」論議が活発化」読売新聞 2022/09/25 2023年2月25日閲覧</ref>、[[ニュージーランド]]でも[[ジャシンダ・アーダーン]]首相が将来の共和制導入に肯定的な反応を示している<ref>https://jp.reuters.com/article/britain-royals-queen-newzealand-idJPKBN2QE01Z 「NZ首相「将来的に共和制移行も」、早期の措置は否定」ロイター 2022年9月13日 2023年2月25日閲覧</ref>。 :{{see also|君主制廃止}} === ヨーロッパ諸国の政体変遷 === {|style="float:none; clear:none; margin: 10px; border: 1px #CCCCCC solid; background:#F9F9F9" |- | align="center" |[[File:Europe 1815 monarchies versus republics.png|180px]] | align="center" |[[File:Europe 1914 monarchies versus republics.png|180px]] | align="center" |[[File:Europe 1930 monarchies versus republics.png|180px]] | align="center" |[[File:Europe 1950 monarchies versus republics.png|180px]] | align="center" |[[File:Europe 2015 monarchies versus republics.png|180px]] |- |align=left|<small>1815年のヨーロッパ諸国の政体<ref group="注釈">[[オスマン帝国]]と[[ロシア帝国]]を[[ヨーロッパ]]に含めている。共和国には[[スイス連邦]]、[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]、[[リューベック]]と[[フランクフルト]]、[[サンマリノ]]、Cospaia共和国、[[イオニア七島連邦国]]、[[ドイツ連邦]]を数えている。ただしドイツ連邦に加盟している35の君主国は君主国として数えている。</ref><br /> {{Legend|#FF0000|君主国 (55)}} {{Legend|#0000FF|共和国 (9)}}</small> |align=left|<small>1914年のヨーロッパ諸国の政体<ref group="注釈">[[オスマン帝国]]と[[ロシア帝国]]を[[ヨーロッパ]]に含めている。</ref><br /> {{Legend|#FF0000|君主国 (22)}} {{Legend|#0000FF|共和国 (4)}}</small> |align=left|<small>1930年のヨーロッパ諸国の政体<ref group="注釈">[[トルコ共和国]]を[[ヨーロッパ]]に含めている。[[ソヴィエト連邦]]は単一の共和国、[[アイルランド自由国]]は独立君主国、[[バチカン市国]]は[[選挙王政]]、[[ハンガリー]]は君主制として数えている。</ref><br /> {{Legend|#FF0000|君主国 (20)}} {{Legend|#0000FF|共和国 (15)}}</small> |align=left|<small>1950年のヨーロッパ諸国の政体<ref group="注釈">[[トルコ共和国]]を[[ヨーロッパ]]に含めている。[[ソヴィエト連邦]]は単一の共和国、[[自由都市トリエステ]]は独立共和国、[[バチカン市国]]は[[選挙王政]]、[[スペイン]]は君主制として数えている。</ref><br /> {{Legend|#FF0000|君主国 (13)}} {{Legend|#0000FF|共和国 (21)}}</small> |align=left|<small>2015年のヨーロッパ諸国の政体<ref group="注釈">[[トルコ共和国]]を[[ヨーロッパ]]に含めている。[[ロシア連邦]]は単一の共和国、[[コソボ]]は独立共和国、[[バチカン市国]]は[[選挙王政]]として数えている。[[アゼルバイジャン]]、[[ジョージア (国)|ジョージア]]、[[アルメニア]]、[[カザフスタン]]は地図の外にあり、数えていない。[[北キプロス・トルコ共和国]]など未承認の国家は数えていない。</ref><br /> {{Legend|#FF0000|君主国 (12)}} {{Legend|#0000FF|共和国 (35)}}</small> |} == 体制 == [[File:Forms of government 2021.svg|thumb|right|350px|共和制国家は以下の色に分類されている。 {{legend|#3453E1|[[大統領]]が議会から分離された大きな権限を持つ([[大統領制]])}} {{legend|#F0E847|大統領と議会が権限を持つ([[半大統領制]])}} {{legend|#6BC268|大統領が議会に依存した権限を持つ([[議院内閣制]])}} {{legend|#FF9B2F|儀礼的な大統領を持つ、または大統領を持たない([[議院内閣制]]など)}} {{legend|#AA6F33|憲法に規定された[[一党制]]([[社会主義国]]など)}} {{legend|#6B8E23|政府の憲法規定が停止されている国 (例:[[軍事政権]])}} {{legend|#808080|上記のシステムのいずれにも適合しない国 (例: [[暫定政府]])}} 赤・薄紫・紫は君主制国家]] 共和政国家の体制は、完全な[[権威主義]]体制と名目的にでも民主主義体制を取るものとに二分される。共和制[[独裁政治]]の体制は、[[文民]]が支配する文民独裁と軍部が支配権を握る[[軍事政権]]の2つに分かれ、文民独裁はさらに、[[独裁者]]個人が大きな権限を握る個人支配体制と、ひとつの支配政党が全権を握る[[一党独裁制]]に区分される<ref>「比較政治学」p140-141 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 2014年9月30日初版第1刷</ref>。 民主共和制国家の体制は、執政府の長官と議会との関係によって、[[大統領制]]・[[半大統領制]]・[[議院内閣制]]の3つに区分される。大統領制は[[有権者]]が直接執行府の長官である[[大統領]]を選出し、議会が大統領を罷免することは特殊な場合を除きできない。これに対し議院内閣制では、執行府の長官たる[[首相]]は民主的に選出された議会から選出され、同様に議会が首相を罷免することも可能である。半大統領制の場合、大統領は有権者から直接選出され、首相は議会から選出される。半大統領制では議会が大統領を罷免することはできないが、大統領が首相を罷免することは可能な国家と不可能な国家の2種類が存在する<ref>「比較政治学」p198-201 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 2014年9月30日初版第1刷</ref>。 大統領は常に権限を持っているわけではなく、[[ドイツ]]のように大統領の権限が儀礼的なものにとどまる国家も存在する<ref>「代議制民主主義」p141 待鳥聡史 中公新書 2015年11月25日発行</ref>。また執政府の長官の名称が大統領であっても国民から直接選出されるとは限らず、[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]のように議会から選出される議院内閣制の大統領も存在する<ref>「比較政治学」p198 粕谷祐子 ミネルヴァ書房 2014年9月30日初版第1刷</ref>。 == 種類 == 近代以降の共和制の分類には建国の理念などにより以下があるが、自称である[[国号]]とは異なる場合も多く、その定義や範囲は曖昧である。 *(一般的な共和制) - [[自由主義]]、[[民主主義]]などを標榜する共和制。18世紀、[[アメリカ独立革命]]や[[フランス革命]]などにより誕生。後述の社会主義共和国等と対比させて自由主義([[ブルジョワジー|ブルジョワ]]、[[資本主義]])国などと呼ばれる場合もある。 * [[社会主義共和国|社会主義共和制]] - [[社会主義]]を標榜する共和制。通常は憲法等の基本法により[[一党制]]([[党の指導性]])を明記した共和国。1917年に[[ロシア革命]]により帝政打倒した[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]が誕生した。 * [[イスラム共和制]] - [[イスラム国家]]における共和制。1979年に[[イラン革命]]により王政打倒した[[イラン|イラン・イスラム共和国]]などで採用された。 * [[連邦共和国|連邦共和制]] - [[連邦]]を主体とした共和制。 国家が標榜する思想や宗教による共和国の分類では、[[社会主義国]]は[[社会主義]]を標榜する共和国であり、多くの国は「[[社会主義共和国]]」や「[[人民共和国]]」を名乗り、[[プロレタリア独裁]]の立場から[[共産党]]による[[党の指導性|指導]]を定めた。 また[[1977年]]から[[2011年]]までの[[リビア]]は「大衆による共和国」を意味する[[ジャマーヒリーヤ]]を名乗り、[[イラン革命]]以後の[[イラン]]は宗教指導者による指導を重視し[[イスラム共和国]]を名乗っている。 共和制の中に、特に[[民主主義]]を国の基本的な原則として重視する制度は'''民主共和制'''と言い、この制度を採用する国は'''民主共和国'''と言う。([[ドイツ民主共和国]]など例外あり) == 議論 == === 君主との関係 === {{see also|君主|君主国}} 共和制は君主が存在しない政体だが、君主の定義や範囲は曖昧で時代や地域によっても異なる。このため公式には共和制でも世襲による君主的存在を元首とする場合や、逆に公式には君主制でも君主が儀礼的な権限しか持たない場合もあり、その境界や用語は曖昧である。共和制と君主の関係や用語が議論となる主な例には以下がある。 *[[帝政ローマ]]の[[ローマ皇帝]]は、政体は共和制で皇帝は[[プリンキパトゥス]](元首)であった。 *[[ヴェネツィア共和国]]の[[ドージェ]]は、貴族の選挙で選ばれ終身であった。 *[[フランス第一帝政]]の[[フランス皇帝]]は、政体は共和制で皇帝は「フランス人民の皇帝」であった。 *[[ポーランド・リトアニア共和国]]は[[同君連合|複合君主制]]だが、[[選挙君主制]]で王に統治権は無く(君臨すれども統治せず)、貴族共和国や[[黄金の自由]]とも呼ばれる。 *[[インドネシア]]は共和制だが、各地方の首長的存在として[[スルターン]]が存在する。 *[[日本共産党]]が目指す[[民主主義|民主]]共和制は[[天皇]]の存在自体は否定していない。あくまで[[国民主権]]の立場から[[直接選挙]]で選ばれた人物を[[元首|国家元首]]とすることが目的である。 近代に設立された君主的政体は、その正統性が伝統的な貴族社会にではなく、むしろそれを打倒した革命に求められるため「共和国」を名乗る(「フランス共和国皇帝」を名乗った[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]など)。 [[朝鮮民主主義人民共和国]]と[[シリア|シリア・アラブ共和国]]においては世襲による指導者による強権的独裁が続いており、国名と実態の不一致を批判する目的で「金氏王朝<ref>{{Cite web|和書|url=https://namu.wiki/w/%EA%B9%80%EC%94%A8%20%EC%99%95%EC%A1%B0 |title=金氏王朝 |access-date=2023-04-25 |publisher=ナムウィキ |language=ko}}</ref>」「アサド朝<ref>{{Cite web|和書|title=【地図で読む】「アサド朝シリア」を支えるロシア軍基地 {{!}} 中東・イスラーム学の風姿花伝 |url=http://ikeuchisatoshi.com/【地図で読む】「アサド朝シリア」を支えるロシ/ |date=2015-09-29 |access-date=2023-04-25 |language=ja}}</ref>」との揶揄がある。 === 民主主義との関係 === {{see also|民主主義}} 共和主義([[君主制廃止]])と[[民主主義]](大衆支配、人民支配)は、歴史的、概念的、制度的に密接な関連性があるが、同一ではない。民主主義は組織の支配者が多数である事を意味し、重要問題の最終決定権すなわち[[主権]]が人民(市民、国民)にあるという思想・体制・国を指す。例えば[[フランス革命]]では[[ジャコバン派]]が[[独裁]]により[[恐怖政治]]を行ったが、政体は共和制である。また[[イギリス]]は現在では通常は民主国家と呼ばれるが[[君主制]]である([[立憲君主制]])。 共和主義と民主主義の関係は、政治理念の他に、その時代や地域の経緯も影響している。共和主義の立場では、君主は本来は国の私的な所有者・支配者であるため、国民から選出される[[大統領]]などが[[元首]]となる方が、民主主義および[[平等主義]]を徹底させた形態と考える。これに対して[[立憲君主制]]の立場では、形式的には君主国でも[[憲法]]等により君主の権限を大幅にまたは全て制限すれば、実質的な民主主義(国民主権)は確保できると考える。独立後の[[アメリカ合衆国の共和主義]]では、共和主義者は主に中道右派や保守派として代議制([[間接民主主義]])を重視して[[共和党 (アメリカ)|共和党]]への流れを形成し、民主主義者は[[普通選挙|選挙権の拡大]]や[[直接民主主義]]を重視して[[民主党 (アメリカ)|民主党]]への流れを形成した。 === 独裁との関係 === {{see also|独裁政治}} 一般には、支配者が多数(民主主義、[[合議制]]など)となった体制において、1人または少数が権力を独占して支配を確立する事が「独裁」と呼ばれる。このため民主制や共和制で発生した権力独占は「独裁」と呼ばれ、君主国で発生した権力独占は「[[専制政治|専制]]」とされ「独裁」とは呼ばれない傾向がある。また独裁者の多くは、共和制や民主制の実現や防衛を主張している。 歴史的に著名な、共和国における独裁には以下がある。 *[[共和政ローマ]]で[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が終身の[[独裁官]]に就任し、後の[[帝政ローマ]]の基礎となった。 *[[フランス革命]]で[[ジャコバン派]]が独裁的権力を確立し、[[恐怖政治]]を行った。更に[[ナポレオン・ボナパルト]]が独裁的権力を確立し、[[フランス皇帝]]に即位した。 *[[ロシア革命]]([[十月革命]])で[[ボリシェヴィキ]]([[ロシア共産党]])が[[プロレタリア独裁]]を掲げて独裁的権力を確立した。 *[[ドイツ]]の[[ヴァイマル共和政]]で[[アドルフ・ヒトラー]]が独裁的権力を確立した。 *共産党一党独裁を採用する[[中華人民共和国]]において、個人独裁の設立に成功した毛沢東と習近平について「皇帝のような専制<ref>{{Cite web|和書|title=【産経抄】「習おじさんを熱烈に愛する」と合唱 中国共産党大会に改革派長老の姿はなかった 10月25日(2/2ページ) |url=https://www.sankei.com/article/20171025-PVESKQR4URIHVACQLTVEMWUIIM/2/ |website=産経ニュース |date=2017-10-25 |access-date=2023-03-13 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>」であるとする批判がある。 また、事実上の世襲君主制(ないしはそれに準ずる権威主義体制)でありながら、「共和国」を名乗る国も存在する([[朝鮮民主主義人民共和国]]、[[シリア]]など)。 イランはイスラム共和国であるものの、権力(大統領)の上に象徴的な権威(宗教指導者)を置く政体は[[立憲君主制]]と類似している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連項目== {{Commons&cat|Republic|Republics}} * {{仮リンク|共和国の一覧|en|List of republics}} *[[人民共和国]] *[[国民主権]] *[[連邦共和国]] *{{仮リンク|民主共和国|en|Democratic republic}} *[[議会共和制]] *[[イスラム共和制]] *[[大統領制]] *[[君主制]] *[[立憲君主制]] *{{仮リンク|連邦君主制|en|Federal monarchy}} *[[君主制廃止]] *[[農民共和国]] *[[主権国家体制]] *[[レス・プブリカ]] *[[共和国記念日]] *[[ポーランド・リトアニア共和国]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:きようわせい}} [[Category:共和制|*]] [[Category:政体]] [[Category:和製漢語]] [[Category:哲学の和製漢語]]
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儒学者
儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。 周代の初めごろより、六芸を講じる者が「儒」と呼ばれており、のちに転じて学者を指す言葉となった。諸子百家の学説が興るようになると、特に孔子の門流のことを儒家と称するようになり、その学者を儒者と称した。 儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「儒学者」と呼ばずに、「儒教研究者」と呼ぶべきとする見方もある。ただし京都大学教授の吉川幸次郎や、評論家の呉智英は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。 儒教が日本に伝来した古代から中世には、紀伝・明経・明法・算道の四道を講じる者を四道儒者と呼称し、清原氏、中原氏などの博士が儒者のこの頃の儒者の代表例である。ただしこの頃は経典は漢籍の一環として博士・仏僧・神職などの各職域・身分において学ばれており、「儒者」という職業や身分は存在しなかった。儒者の職・社会的身分が成立するのは近世以降のことである。 戦国時代の末から江戸時代初期に、政治・学術的知識が儒学に求められ、中国・朝鮮の漢字文献の輸入・流通が拡大した。それによって儒学の転籍を読解・講釈する専門家が出現し、これが儒者と呼ばれるようになった。江戸幕府が林羅山を登用して以来、幕府に御儒者(おじゅしゃ、おずさ)という役職が設けられた。これは将軍に経典を講じ、文学や学問を司る職であった。林家は3代目の林信篤以降は従五位に叙され家禄3500石を受けた。また、新井白石は1000石の禄を得ている。このような林家・新井の待遇の例はあるものの、一般の御儒者の家禄は200から300石程度であり、天保以降は教授所に勤める儒者は15~30人扶持であった。諸藩においても、野中兼山が10000石、熊沢蕃山が3000石を執政・番頭の禄として得ていた例をのぞけば、200石以下が一般的であった。 これらの儒者の出身身分は江戸時代初期には浪人、中期以降には商人・医家が多く、武士以下の階層から出て精神的に武士を指導する地位に立つことができた。また中江藤樹や伊藤仁斎のような在野で儒を説く町儒者が出現し、彼らはしばしば窮乏したものの、出仕せずに大名に儒学を講じ社会的地位を得る者もあった。享保以降は儒学の研究が経学・史学・考証学などに分化し、儒者と称するものの一様ではなくなった。中国・朝鮮のように為政者が率先して儒学の担い手になることがなく、儒者の生活基盤は弱いものであり、中には漢学者として儒教以外のテキストを用いて蘭学・兵学などの諸学に転換する者もあった。
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儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。
'''儒学者'''(じゅがくしゃ)とは、[[儒教]]を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人のことである。一般的には儒者(じゅしゃ、ずさ)と称され、特に儒学を学ぶものは儒生(じゅせい)と呼ばれる。 == 概要 == [[周]]代の初めごろより、[[六芸]]を講じる者が「'''儒'''」と呼ばれており、のちに転じて学者を指す言葉となった<ref name="国史大辞典">{{harv|山本|1986}}</ref>。[[諸子百家]]の学説が興るようになると、特に孔子の門流のことを[[儒家]]と称するようになり、その学者を'''儒者'''と称した<ref name="国史大辞典" />。 儒教を宗教として信仰せずに儒教を研究する学者は、「''儒学者''」と呼ばずに、「''儒教研究者''」と呼ぶべきとする見方もある{{要出典|date=2011年11月}}。ただし京都大学教授の[[吉川幸次郎]]や、評論家の[[呉智英]]は、自らを儒者であると主張し、儒教の立場からさまざまな立論を行っている。 == 日本における儒者 == {{See|日本の儒教}} 儒教が日本に伝来した古代から中世には、[[紀伝]]・[[明経]]・[[明法]]・[[算道]]の四道を講じる者を'''四道儒者'''と呼称し<ref name="国史大辞典" />、[[清原氏 (広澄流)|清原氏]]、[[中原氏]]などの博士が儒者のこの頃の儒者の代表例である<ref name="ニッポニカ">{{harv|黒住|1986}}</ref>。ただしこの頃は経典は漢籍の一環として博士・仏僧・神職などの各職域・身分において学ばれており、「儒者」という職業や身分は存在しなかった<ref name="国史大辞典" /><ref name="ニッポニカ" />。儒者の職・社会的身分が成立するのは近世以降のことである。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の末から[[江戸時代]]初期に、政治・学術的知識が儒学に求められ、中国・朝鮮の漢字文献の輸入・流通が拡大した<ref name="ニッポニカ" />。それによって儒学の転籍を読解・講釈する専門家が出現し、これが'''儒者'''と呼ばれるようになった<ref name="ニッポニカ" />。[[江戸幕府]]が[[林羅山]]を登用して以来、幕府に'''御儒者'''(おじゅしゃ、おずさ)という役職が設けられた<ref name="国史大辞典" />。これは将軍に経典を講じ、文学や学問を司る職であった<ref name="国語大辞典">{{harv|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001}}</ref>。林家は3代目の[[林信篤]]以降は[[従五位]]に叙され家禄3500石を受けた。また、[[新井白石]]は1000石の禄を得ている。このような林家・新井の待遇の例はあるものの、一般の御儒者の家禄は200から300石程度であり、[[天保]]以降は[[教授所]]に勤める儒者は15~30人扶持であった。諸藩においても、[[野中兼山]]が10000石、[[熊沢蕃山]]が3000石を執政・番頭の禄として得ていた例をのぞけば、200石以下が一般的であった<ref name="国史大辞典" />。 これらの儒者の出身身分は江戸時代初期には浪人、中期以降には商人・医家が多く、武士以下の階層から出て精神的に武士を指導する地位に立つことができた<ref name="国史大辞典" />。また[[中江藤樹]]や[[伊藤仁斎]]のような在野で儒を説く'''町儒者'''が出現し<ref name="ニッポニカ" />、彼らはしばしば窮乏したものの、出仕せずに大名に儒学を講じ社会的地位を得る者もあった<ref name="国史大辞典" />。[[享保]]以降は儒学の研究が経学・史学・[[考証学]]などに分化し、儒者と称するものの一様ではなくなった<ref name="国史大辞典" />。中国・朝鮮のように為政者が率先して儒学の担い手になることがなく、儒者の生活基盤は弱いものであり、中には漢学者として儒教以外のテキストを用いて[[蘭学]]・[[兵学]]などの諸学に転換する者もあった<ref name="ニッポニカ" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite journal |和書 |author = 黒住真 |title = 儒者 |year = 1986 |publisher = 小学館 |journal = 日本大百科全書 |volume = 11 |accessdate = 2016-4-4 |ref = {{SfnRef|黒住|1986}} }} (ジャパンナレッジLibにて) *{{Cite journal |和書 |author = 山本武夫 |title = 儒者 |year = 1987 |publisher = 吉川弘文館 |journal = 国史大辞典 |volume = 7 |accessdate = 2016-4-4 |ref = {{SfnRef|山本|1987}} }} (ジャパンナレッジLibにて) *{{Cite journal |和書 |title = 儒者 |year = 2001 |publisher = 小学館 |journal = 日本国語大辞典 |volume = 6 |accessdate = 2016-4-4 |ref = {{SfnRef|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001}} }}(ジャパンナレッジLibにて) == 関連項目 == *[[儒学者一覧]] == 外部リンク == * {{Kotobank|儒者}} {{DEFAULTSORT:しゆかくしや}} [[Category:儒学者|*]]
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ミュージックステーション (曖昧さ回避)
ミュージックステーション(Music Station)
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ミュージックステーション ミュージックステーション - テレビ朝日系列で、1986年10月から放送されている音楽番組。 ミュージックステーションスーパーライブ - 1992年より毎年12月に放送されている上記番組の特別番組。 ミュージックステーションウルトラFES - 2015年より毎年9月に放送されている上記番組の長時間特別番組。 ミュージックステーション (KBS京都ラジオ) - 京都放送(KBS京都)で、1988年4月から1989年3月まで放送していたラジオ番組。 ミュージックステーション (文化放送) - 文化放送で、1986年4月から1997年3月まで放送していたラジオ番組、及び複数の箱番組をまとめて統一していた番組のタイトル。 ミュージックステーション (台湾国際放送) - 台湾国際放送日本語放送で放送されている、台湾の大衆音楽専門のラジオ番組。 音楽の演奏が多いFMラジオ局を俗に「ミュージックステーション」と呼ぶことがある。 音楽番組が多い専門チャンネル。
'''ミュージックステーション'''(Music Station) * [[ミュージックステーション]] - [[テレビ朝日]]系列で、[[1986年]][[10月]]から放送されている[[音楽番組]]。 ** [[ミュージックステーションスーパーライブ]] - [[1992年]]より毎年[[12月]]に放送されている上記番組の[[特別番組]]。 ** [[ミュージックステーションウルトラFES]] - [[2015年]]より毎年[[9月]]に放送されている上記番組の長時間特別番組。 * [[ミュージックステーション (KBS京都ラジオ)]] - [[京都放送]](KBS京都)で、[[1988年]][[4月]]から[[1989年]][[3月]]まで放送していた[[ラジオ番組]]。 * [[ミュージックステーション (文化放送)]] - [[文化放送]]で、[[1986年]][[4月]]から[[1997年]][[3月]]まで放送していたラジオ番組、及び複数の[[箱番組]]をまとめて統一していた番組のタイトル。 * ミュージックステーション (台湾国際放送) [https://jp.rti.org.tw/radio/programView/id/364] - [[台湾国際放送]]日本語放送で放送されている、台湾の大衆音楽専門のラジオ番組。 * [[音楽]]の演奏が多い[[ラジオ放送局|FMラジオ局]]を俗に「'''ミュージックステーション'''」と呼ぶことがある。 * [[音楽番組]]が多い[[専門チャンネル]]。 == 関連項目 == * {{prefix|ミュージックステーション}} {{Aimai}} {{デフォルトソート:みゆうしつくすてえしよん}}
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儒学者一覧
儒学者一覧(じゅがくしゃいちらん)は、儒教を研究、実践した人物の一覧である。
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儒学者一覧(じゅがくしゃいちらん)は、儒教を研究、実践した人物の一覧である。
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発電設備の運用
発電設備の運用(はつでんせつびのうんよう)とは、需要家に適切な電力を供給するため、需要に合わせた発電所の運用を行うことである。 同時同量とは、電圧・周波数を一定とするため、電力消費量と発電量とを一致させることである。 特に周波数の制御は重要であり、0.5Hzの動揺がタービンブレードの異常振動やタービン軸のねじれなどを引き起こすことになる。それゆえ日本の電力会社は、周波数の変動を±0.2Hzに抑えることを目標としており、また電気法規でも同様に定められている。 電気製品の動作に支障がでる場合があるため、発電量と電力消費量の一致はこの面からも求められている。 アンシラリーサービスとは、供給区域の配電電力会社から、バランシンググループ(複数の新電力が一つの託送契約を結ぶ)へ、託送・需要と供給の不一致の補正・力率調整(無効電力供給)などを供給するものである。 日本では、計画値同時同量と呼ぶ、配電電力会社とバランシンググループの間で、30分単位で発電量と電力消費量を一致させるシステムで運用されている。 中央給電指令所で、需要と一致するように、発電所の出力を補正する。周波数偏差・電力潮流・発電機の出力などを収集・管理するため、電力系統・制御機器の整備および運用にかなりの費用と人手をかけている。 需給調整とは、同時同量を達成するために需給調整市場・電力系統・発電設備などの運営を行うことである。 調整力とは、供給区域における周波数制御、需給バランス調整その他の系統安定化業務に必要となる発電設備(揚水発電設備を含む。)、電力貯蔵装置、ディマンドリスポンスその他の電力需給を制御するシステムその他これに準ずるもの(但し、流通設備は除く。)の能力である。 予備力とは、供給区域の調整力以外の発電機の発電余力と上げ調整力を足したものである。 需要変動とは、30分平均値からの需要の変動である。 最大電力需要とは、供給区域の電力需要を足したものである。 需給調整市場とは、調整力の調達・調整力の運用・調整力発動量の実績値による支払いを行う市場である。 容量市場とは、中長期的な供給力を確保するために、発電設備のkW価値の収益機会を与える市場である。 系統制約とは、電力系統で流通させることのできる電力の限度である。 想定潮流の合理化とは、供給信頼度や電源運用の自由度を大きく低下させることのない範囲で、実態をより反映した電源稼働を前提とすることによって想定潮流の合理化を図り、流通設備効率の向上及び電力系統利用の円滑化を図ることである。 N-1電制とは、単一設備故障時にリレーシステムで瞬時に電源制限を行うことで運用容量を拡大することである。 発電設備は、電源脱落・電力系統事故などに備えた調整力・瞬動予備力が確保されるように運用される。 ベース運用とは、ベースロード用とも呼ばれ、最低要求発電量として、点検時以外、24時間一定出力が確保されなくてはならない。建設費用等の初期投資額が高くても、連続運転能力、ガバナフリー容量が大きい、ランニングコストの低廉なものが最適とされる。 地熱発電・流れ込み式水力発電・再熱再生サイクル式大容量超臨界圧火力発電・原子力発電などで行われる。発電原価は原子力で5.3~13円程度とされている。 ミドル運用とは、ピーク時に常用最大出力、その他の時間帯は需要に合わせた出力で運用する。 石炭汽力発電などで行われる。発電原価は燃料費によって大きく変わるが、最も効率的なLNG火力の場合は数年前に7円を切っていて最も効率的であるといわれていた。 ピーク運用とは、ピーク時に、燃料費が安くなるように制御し、その他の時間は停止または最低出力で運用する。 日間起動停止(DSS)・週間起動停止(WSS)に対応した、揚水発電・調整池式水力発電・ダム式水力発電・コンバインドサイクル発電・石油汽力発電などで行われる。 揚水発電の発電原価は東京電力の試算で30円を超えている。また、関西電力が試算した火力発電所での発電原価も同じく30円を超えている。東電の揚水発電所は100万kWのものが稼働率10%で計算されているもので、これが実際に運用されている3%程度ということで再計算するなら1kWhは100円を超えるものとなる。この為、最近では電力会社は夏場のピークを落とすための電力料金体系を出してきている。 さらには一日数十分あるいは年間数十時間といった尖頭負荷に対しては、ランニングコストよりも建設費が低廉で、かつ始動から全負荷までに要する時間の短いガスタービンエンジンによる発電設備も各国で稼働中である。 夜間などの軽負荷時・太陽光発電などの調整しにくいものが多くを占める休日昼間などは、短周期の負荷変動の量はそれほど変わらないので、需給の変化に伴う周波数調整能力が低い。 夜間電力の割引・蓄電池利用など需要の開拓、昼・夜の揚水発電の揚水運転、地域外への送電、太陽光発電の受電停止などが行われている。 揚水時の消費電力を瞬時に変更できる可変速揚水機を、需給変化対応・無効電力の調整に利用している。
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発電設備の運用(はつでんせつびのうんよう)とは、需要家に適切な電力を供給するため、需要に合わせた発電所の運用を行うことである。
'''発電設備の運用'''(はつでんせつびのうんよう)とは、需要家に適切な[[電力]]を供給するため、需要に合わせた[[発電所]]の運用を行うことである<ref>{{PDFLink|[https://www.occto.or.jp/iinkai/chouseiryoku/2018/files/chousei_jukyu_35_01_02.pdf 資料1-2 調整力及び需給バランス評価等に関する委員会 定義集] [[電力広域的運営推進機関]]}}</ref>。 ==同時同量== '''同時同量'''とは、[[電圧]]・[[周波数]]を一定とするため、電力消費量と発電量とを一致させることである。 特に周波数の制御は重要であり、0.5Hzの動揺がタービンブレードの異常振動やタービン軸のねじれなどを引き起こすことになる。それゆえ日本の電力会社は、周波数の変動を±0.2Hzに抑えることを目標としており、また電気法規でも同様に定められている。 電気製品の動作に支障がでる場合があるため、発電量と電力消費量の一致はこの面からも求められている。 ===アンシラリーサービス=== '''アンシラリーサービス'''とは、供給区域の[[配電]]電力会社から、バランシンググループ(複数の新電力が一つの託送契約を結ぶ)へ、託送・需要と供給の不一致の補正・[[力率]]調整(無効電力供給)などを供給するものである。 日本では、計画値同時同量と呼ぶ、配電電力会社とバランシンググループの間で、30分単位で発電量と電力消費量を一致させるシステムで運用されている。 中央[[給電指令所]]で、需要と一致するように、発電所の出力を補正する。周波数偏差・電力潮流・発電機の出力などを収集・管理するため、[[電力系統]]・制御機器の整備および運用にかなりの費用と人手をかけている。 ==需給調整== '''需給調整'''とは、同時同量を達成するために需給調整市場・電力系統・発電設備などの運営を行うことである。 ===調整力=== '''調整力'''とは、供給区域における周波数制御、需給バランス調整その他の系統安定化業務に必要となる発電設備(揚水発電設備を含む。)、電力貯蔵装置、ディマンドリスポンスその他の電力需給を制御するシステムその他これに準ずるもの(但し、流通設備は除く。)の能力である。 ===予備力=== {{main|供給予備力}} '''予備力'''とは、供給区域の調整力以外の発電機の発電余力と上げ調整力を足したものである。 *供給予備力 : 供給計画において、供給能力合計から最大3日平均電力を差し引いたもの。 *瞬動予備力 : 負荷変動および電源脱落時の系統周波数低下に対して、即時に応動を開始し、急速(10秒程度以内)に出力を増加して、運転予備力が起動し負荷をとる時間まで、継続して発電可能な供給力をいい、部分負荷運転中のガバナフリー発電機余力がこれに当たる。 *運転予備力 : 並列運転中のものおよび短時間内(10分程度以内)で起動し負荷をとり、待機予備力が起動し負荷をとる時間まで継続して発電し得る供給力をいい、部分負荷運転中の発電機余力や停止中の水力、ガスタービンなどがこれに当たる。 *待機予備力 : 起動から並列、負荷をとるまでに数時間程度を要する供給力をいい、停止待機中の火力などがこれに当たる。 ===需要変動=== '''需要変動'''とは、30分平均値からの需要の変動である。 *短時間需要変動 : 概ね5分以内の周期の需要変動。 *時間内需要変動 : 30分コマ内の需要の最大値(需要が減少傾向の場合は最小値)と30分平均値との差。 *需要変動 : 需要想定値(30分平均値)から需要実績値(30分平均値)の誤差。 ===最大電力需要=== '''最大電力需要'''とは、供給区域の電力需要を足したものである。 *猛暑H1需要 : 夏季における厳しい気象条件(10年に1回程度の猛暑)における最大電力需要 *厳寒H1需要 : 冬季における厳しい気象条件(10年に1回程度の厳寒)における最大電力需要 *厳気象H1需要 : 厳しい気象条件における最大電力需要 ===需給調整市場=== '''需給調整市場'''とは、調整力の調達・調整力の運用・調整力発動量の実績値による支払いを行う市場である。 *ΔkW : 実需給時点で各時間帯毎に必要な能力をもった電源等を、出力を調整できる状態であらかじめ確保すること ===容量市場=== '''容量市場'''とは、中長期的な供給力を確保するために、発電設備のkW価値の収益機会を与える市場である。 *Net Cost of New Entry : 新規発電設備の固定費用から電力量取引やアンシラリーサービスによる利益を差し引いた正味固定費用 *市場分断 : 容量市場の全国単一オークションにおいて、連系線制約等が発生することにより、kW価格順での約定結果にならないことをいう。 *需要曲線 : 容量市場オークション(集中型)の開催にあたり、市場管理者が目標調達量とそれに対応する支払価格を設定し、それを基準に設定する曲線をいう。 *目標調達量 : 容量市場における需要曲線において、調達の目標とする量シミュレーションによる分析によって設定する場合、必要供給予備力とは同値とはならない可能性がある。 ==系統制約== '''系統制約'''とは、[[電力系統]]で流通させることのできる電力の限度である。 *変動面での系統制約 : 予想外の需要増減・電源脱落・電力系統事故などに備えた調整力・瞬動予備力の確保 *容量面での系統制約 **供給区域全体の需要・発電所の出力・区域外への送受電との釣り合い **電力系統の発電・変電・送電・配電の設備容量 ===想定潮流の合理化=== '''想定潮流の合理化'''とは、供給信頼度や電源運用の自由度を大きく低下させることのない範囲で、実態をより反映した電源稼働を前提とすることによって想定潮流の合理化を図り、流通設備効率の向上及び電力系統利用の円滑化を図ることである<ref>{{PDFLink|[http://www.occto.or.jp/access/oshirase/2017/files/180802_souteichoryu_gourika.pdf 電源接続や設備形成の検討における前提条件(送配電等業務指針第62条)としての想定潮流の合理化の考え方について] 電力広域的運営推進機関}}</ref>。 ===N-1電制=== '''N-1電制'''とは、単一設備故障時に[[保護継電器|リレー]]システムで瞬時に電源制限を行うことで運用容量を拡大することである<ref>{{PDFLink|[http://www.occto.or.jp/access/oshirase/2018/files/181001_n-1densei.pdf 流通設備の整備計画の策定(送配電等業務指針第55条)におけるN-1電制の先行適用の考え方について] 電力広域的運営推進機関}}</ref>。 ==運用方法== 発電設備は、電源脱落・電力系統事故などに備えた調整力・瞬動予備力が確保されるように運用される。 *ガバナフリー運転 : 発電機の回転速度を負荷の変動のいかんにかかわらず、一定の回転速度を保つように、動力である蒸気および水量を自動的に調整する装置である調速機(ガバナ)により、系統周波数の変化に追随して出力を増減させる運転をいう。 *過負荷運転 : 定格出力を超える出力での運転 *需給停止 : 電力需要に対して、供給力が十分大きい場合、効率的な需給運用のために発電機を停止することをいう。バランス停止、BSともいう。 *計画外停止 : 発電所における突発的な事故あるいは計画になかった緊急補修など予期せぬ停止(送電設備の故障による停止も含む)をいう。ただし、軽負荷時間(23時から翌朝6時までの深夜時間)内に限定された停止は除く。 ===ベース運用=== '''ベース運用'''とは、ベースロード用とも呼ばれ、最低要求発電量として、点検時以外、24時間一定出力が確保されなくてはならない。建設費用等の初期投資額が高くても、連続運転能力、ガバナフリー容量が大きい、ランニングコストの低廉なものが最適とされる。 [[地熱発電]]・流れ込み式[[水力発電]]・再熱再生サイクル式大容量超臨界圧火力発電・[[原子力発電]]などで行われる。発電原価は原子力で5.3~13円程度とされている。 ===ミドル運用=== '''ミドル運用'''とは、ピーク時に常用最大出力、その他の時間帯は需要に合わせた出力で運用する。 [[石炭]][[汽力発電]]などで行われる。発電原価は燃料費によって大きく変わるが、最も効率的なLNG火力の場合は数年前に7円を切っていて最も効率的であるといわれていた。 ===ピーク運用=== '''ピーク運用'''とは、ピーク時に、[[燃料]]費が安くなるように制御し、その他の時間は停止または最低出力で運用する。 日間起動停止(DSS)・週間起動停止(WSS)に対応した、[[揚水発電]]・調整池式水力発電・ダム式水力発電・[[コンバインドサイクル発電]]・[[石油]]汽力発電などで行われる。 揚水発電の発電原価は東京電力の試算で30円を超えている。また、関西電力が試算した火力発電所での発電原価も同じく30円を超えている。東電の揚水発電所は100万kWのものが稼働率10%で計算されているもので、これが実際に運用されている3%程度ということで再計算するなら1kWhは100円を超えるものとなる。この為、最近では電力会社は夏場のピークを落とすための電力料金体系を出してきている。 さらには一日数十分あるいは年間数十時間といった[[尖頭負荷発電所|尖頭負荷]]に対しては、ランニングコストよりも建設費が低廉で、かつ始動から全負荷までに要する時間の短い[[ガスタービンエンジン]]による発電設備も各国で稼働中である。 === 調整力の低い時間帯の周波数調整 === 夜間などの軽負荷時・[[太陽光発電]]などの調整しにくいものが多くを占める休日昼間などは、短周期の負荷変動の量はそれほど変わらないので、需給の変化に伴う周波数調整能力が低い。 夜間電力の割引・[[二次電池|蓄電池]]利用など需要の開拓、昼・夜の揚水発電の揚水運転、地域外への送電、太陽光発電の受電停止などが行われている。 揚水時の消費電力を瞬時に変更できる可変速揚水機を、需給変化対応・無効電力の調整に利用している。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==関連項目== {{電気電力}} {{DEFAULTSORT:はつてんせつひのうんよう}} [[Category:発電]] [[Category:電力インフラ]] [[Category:電力工学]]
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T34
T34
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T34 障害者スポーツの等級の一つ 富山テレビ放送の略号。基幹局のチャンネル番号が34だったことから、1993年まで使用。 凍傷のうち、中度の軽症のものを指す『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』第10版(ICD-10)における分類コードは「T34(組織壊死を伴う凍傷)」である。
'''T34''' * {{仮リンク|障害者スポーツの等級|en|Para-athletics classification}}の一つ * [[富山テレビ放送]]の略号。基幹局のチャンネル番号が34だったことから、1993年まで使用。 * [[凍傷]]のうち、中度の軽症のものを指す『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』第10版([[ICD-10_第19章:損傷、中毒およびその他の外因の影響|ICD-10]])における分類コードは「T34(組織壊死を伴う凍傷)」である。 == 兵器 == * 戦車 ** [[T-34 (試作)]] - ソ連で1930年代に試作された[[軽戦車]]。下記の中戦車とは全く別の車両である。 ** [[T-34]] - ソ連で開発され1939年に制式化された[[中戦車]]。第二次世界大戦から冷戦時代を経て半世紀以上に渡って世界各地で使われたことで有名。 ** [[T34重戦車]] - アメリカで1945年に開発された[[重戦車]]。[[T29重戦車|T29 試作重戦車]]の発展形で、同様に試作のみに終わった。 * その他の兵器 ** [[T34カリオペ]] - アメリカで1943年に開発された、戦車搭載型多連装ロケット弾発射装置。 ** [[T-34 (航空機)|T-34メンター]] - アメリカが1948年に開発した[[練習機]]。 ** T-34 - [[第二次世界大戦]]中に開発された[[M3サブマシンガン]]用[[フラッシュサプレッサー|消炎器]]。 * [[プラット・アンド・ホイットニー T34]] - アメリカが開発した[[ターボプロップエンジン]]。 == 関連項目 == * {{Prefix|T34}} * {{Intitle|T34}} * [[Wikipedia:索引 T#数字]] {{aimai}}
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ノッティング・ヒルビリーズ
ノッティング・ヒルビーズ(英:Notting Hillbillies)はイギリスで結成されたロックバンド。メンバーはダイアー・ストレイツのリーダーであるマーク・ノップラーと、同じバンドのキーボーディストのガイ・フレッチャー、そしてノップラーの友人で同じくミュージシャンのスティーブ・フィリップとブレンダン・クロッカーの4人。 当初、スティーブ・フィリップのソロアルバムのプロジェクトだったものが、プロデューサーとして関わっていたノップラーの提唱でバンド・プロジェクトに変わったことが結成のきっかけ。1990年にアルバム「Missing...Presumed Having a Good Time」をリリース。ヨーロッパを中心に好セールスを記録。その後、主に1000人規模の中ホールを中心にヨーロッパ・ツアーを敢行。いくつかのフェスティバルにゲストとして出演するも、その後は活動を一切していない。 ノップラーの趣味的な性格が強いバンドである。
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ノッティング・ヒルビーズはイギリスで結成されたロックバンド。メンバーはダイアー・ストレイツのリーダーであるマーク・ノップラーと、同じバンドのキーボーディストのガイ・フレッチャー、そしてノップラーの友人で同じくミュージシャンのスティーブ・フィリップとブレンダン・クロッカーの4人。 当初、スティーブ・フィリップのソロアルバムのプロジェクトだったものが、プロデューサーとして関わっていたノップラーの提唱でバンド・プロジェクトに変わったことが結成のきっかけ。1990年にアルバム「Missing...Presumed Having a Good Time」をリリース。ヨーロッパを中心に好セールスを記録。その後、主に1000人規模の中ホールを中心にヨーロッパ・ツアーを敢行。いくつかのフェスティバルにゲストとして出演するも、その後は活動を一切していない。 ノップラーの趣味的な性格が強いバンドである。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name =ノッティング・ヒルビーズ | Img = | Img_capt = | Landscape = | Background = band | Alias = | Origin = {{GBR}} | Genre = [[ロック (音楽)|ロック]] | Years_active = [[1990年]] - | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Current_members = [[マーク・ノップラー]]([[ボーカル]]・[[ギター]])<br />[[ガイ・フレッチャー]]([[キーボード (楽器)|キーボード]])<br />[[スティーブ・フィリップ]]([[ギター]])<br />[[ブレンダン・クロッカー]]([[ギター]]) | Past_members = }} '''ノッティング・ヒルビーズ'''([[英語|英]]:Notting Hillbillies)は[[イギリス]]で結成された[[ロックバンド]]。メンバーは[[ダイアー・ストレイツ]]のリーダーである[[マーク・ノップラー]]と、同じバンドのキーボーディストの[[ガイ・フレッチャー]]、そしてノップラーの友人で同じくミュージシャンの[[スティーブ・フィリップ]]と[[ブレンダン・クロッカー]]の4人。 当初、スティーブ・フィリップのソロアルバムのプロジェクトだったものが、プロデューサーとして関わっていたノップラーの提唱でバンド・プロジェクトに変わったことが結成のきっかけ。[[1990年]]にアルバム「Missing...Presumed Having a Good Time」をリリース。ヨーロッパを中心に好セールスを記録。その後、主に1000人規模の中ホールを中心にヨーロッパ・ツアーを敢行。いくつかのフェスティバルにゲストとして出演するも、その後は活動を一切していない。 ノップラーの趣味的な性格が強いバンドである。 == メンバー == *'''[[マーク・ノップラー]]''' ([[ボーカル]]・[[ギター]]) *'''[[ガイ・フレッチャー]]''' ([[キーボード (楽器)|キーボード]]) *'''[[スティーブ・フィリップ]]''' (ギター) *'''[[ブレンダン・クロッカー]]''' (ギター) == ディスコグラフィ == === アルバム === *Missing...Presumed Having a Good Time (1990年) {{ダイアー・ストレイツ}} {{Normdaten}} [[Category:イギリスのロック・バンド|のつていんくひるひりいす]]
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東京ドーム
東京ドーム(とうきょうドーム)は、東京都文京区後楽にあるドーム球場。プロ野球・セントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(読売巨人軍)が専用球場(本拠地)としている。 1988年(昭和63年)3月18日に開場した日本初の屋根付き球場で、株式会社東京ドームが運営する東京ドームシティの中核施設。野球のほかに、格闘技・プロレスの興行やコンサート、商品の展示会なども行われている。建築面積は46,755m。 日本初の全天候型多目的スタジアムで、後楽園球場の実質的な代替球場として後楽園競輪場の跡地に開場。1988年3月17日にオープニングセレモニーが開かれ、3月18日にこけら落としイベントとして巨人と阪神のオープン戦が行われた。 4月8日に初の公式戦「巨人 - ヤクルト」(夜に「日本ハム - ロッテ」)が行われた。その日の関東地方は4月としては珍しく大雪で同じ関東地方の西武ライオンズ球場(当時はドームではなかった)での開幕戦は中止となったが、東京ドームの開幕戦は予定通り行われ、ドームの威力を早々と発揮した形になった。 愛称は「BIG EGG(ビッグエッグ)」 であり、1998年まで東京ドームグループの旧称として「BIG EGGグループ」と言う社名が使われていたが、2000年の時点でこの呼称は公式に廃止されている。 空気膜構造屋根を持つアメリカのメトロドームをモデルとして設計された。特徴的な屋根は総重量400キロに達するもので、1987年6月28日の午前中にインフレート(空気入れ)が行われ、以後、今日まで一度もしぼんだことがない。2002年からロングパイル人工芝を日本の野球場で初めて採用した。天然芝に近い感触の特殊な繊維とクッション材を採用し、選手の負担を軽減している。ドームの広さは約216メートル四方で建築面積は46,755m、容積は約124万m(東京ドーム (単位)も参照)。 2015年度の実績では、撤去・設営も含めた稼働実績は87.4%。そのうち野球が占める割合は4割程度であり、その他はコンサートなどの各種イベントが占める。 後楽園球場から引き続き、読売ジャイアンツとパシフィック・リーグの日本ハムファイターズ(当時)の2球団が専用球場(本拠地)とした。日本ハムは2004年度に北海道の札幌ドームに移転したため、以降は読売ジャイアンツのみが専用球場としている。巨人は一軍だけでなく、二軍の公式戦でも年に数試合使用する。 開場以来、レギュラーシーズンに年間60試合強の主催試合を開催する。2019年までにクライマックスシリーズが9度、日本シリーズが11度開催されている。 日本ハムの本拠地ではなくなった2004年以降は、日本ハムも地方開催という形で継続して主催試合を開催しているほか、パシフィック・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。日本ハム以外では、2004年に初めてオリックスが2試合、ダイエーが1試合の主催試合を東京ドームで開催したのを皮切りに、2005年と2007年から2009年にかけてはオリックスが2試合を、2010年から2019年までは楽天が毎年1試合を、ソフトバンクが2012年以降毎年1試合(2018年と2019年は2試合)を、ロッテが2016年と2018年・2019年に1試合を、西武が2018年に1試合を、それぞれ東京ドームで開催した。このように、パ・リーグの現存する6球団は全球団が主催試合の開催実績を持つ。 一方、巨人以外のセ・リーグ各球団については2010年代まで開催実績はなかったが、東京オリンピック・パラリンピック開催の関係でヤクルトとDeNAが2021年に初の主催試合を行ったほか、シーズン日程消化の兼ね合いから同年の日本シリーズの第3戦から第5戦(ヤクルト主催試合)も行われた(経緯の詳細は後述)。 なお、1952年に日本プロフェッショナル野球協約第38条によって制定された「プロ野球地域保護権」により、東京都の同権利を持たない球団が主催試合を開催する場合、権利を持つ読売ジャイアンツ・東京ヤクルトスワローズの両球団に予め承諾を得ることが前提条件となっている。 移転前年の2003年11月に東京ドームで開催された東京時代最後のファンフェスティバルで、今村純二球団社長(当時)が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。東京ドームでの開催を継続する理由として、東京都にも球団事務所があること、二軍施設は隣県の千葉県鎌ケ谷市のまま継続されていることに加え、旧来の東京のファンの存在を考慮したことなどが挙げられた。 2004年は東京ドームでの主催試合が12試合行われ、2005年は10試合、2006年から2019年までは毎年7〜9試合の主催試合が組まれた。2020年は、当初の発表では東京オリンピック・東京パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで、4試合の開催予定に留まり、その4試合も新型コロナウイルスの影響で開催されなかった。2021年は同年に延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで、5試合の開催となった。2022年は3試合を開催した。2023年は全主催試合を新球場のエスコンフィールドHOKKAIDOで開催するため、東京ドームでの開催は35年で途絶えることとなった。 オリックス・バファローズは親会社であるオリックスの本店機能が東京にある関係で(大阪府が発祥のため、本社は東京と大阪の2ヶ所体制)、ブルーウェーブ時代の2004年から2009年まで年間2試合の主催試合が組まれた。2010年以降は開催していない。 福岡ダイエーホークス時代の2004年6月15日に1試合の主催試合を開催。ソフトバンクが親会社となって以降では2012年から「鷹の祭典in東京ドーム」として2017年までは主催試合を毎年1試合を開催し、2018年は7月9日と10日に、2019年も4月22日と7月8日にそれぞれ2試合ずつ開催。2020年・2021年は当初から開催日程に組まれなかったが、2022年・2023年に「鷹の祭典in東京ドーム」として6月に1試合ずつ行われた。 東北楽天ゴールデンイーグルスは2010年から「楽天グループデー」として主催試合を毎年1試合開催している。2020年から2022年までは開催していなかったが、2023年7月4日に対オリックス戦が開催された。 千葉ロッテマリーンズは2016年7月12日にマリーンズ誕生・本拠地千葉移転25周年の記念事業として39年ぶりの都内主管試合の会場として使用した(地方開催自体が11年ぶり)。2017年は開催しなかったが、2018年は8月21日に、2019年は8月22日に、それぞれ開催された。2020年から2022年までは開催していなかったが、2023年に対埼玉西武戦が開催された。 埼玉西武ライオンズは2018年4月17日に「ライオンズクラシック2018」として、初めて東京ドームでの主催試合を開催。2020年4月21日にも主催試合が開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響でプロ野球の開幕が延期となり、中止となることが決定した。2023年は4月18日に対ソフトバンク戦が開催された。 東京ヤクルトスワローズは2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である明治神宮野球場が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月6日から9月13日の2か月以上にわたり利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定であったが、新型コロナウイルスの影響で東京オリンピック・パラリンピックとも開催が延期されたため、東京ドームでの主催試合分はすべて明治神宮野球場での開催に変更になった。2021年は延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である明治神宮野球場が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月中旬から9月上旬まで利用不能になることから、東京ドームでの主催試合が8月27日から29日(対DeNA・3試合)、および9月3日から5日(対広島・3試合)の計6試合が開催されている。 また同年の日本シリーズはヤクルトが進出したが、シーズン日程消化に伴うシリーズ延期に伴い神宮球場の使用日程が第52回明治神宮野球大会と重なったことから、11月23日 - 25日に行うホームゲームはすべて東京ドームで行われた。 横浜DeNAベイスターズは2020年の東京オリンピックにおいて本拠地の横浜スタジアムが野球・ソフトボールの会場として使用することから準備を含め6月9日から8月23日までの約2か月半利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を6月下旬から7月上旬にかけて6試合行う予定としていたが、東京ヤクルトスワローズと同じく、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、すべて横浜スタジアムでの開催に変更になった。2021年は延期となった東京オリンピックの野球・ソフトボール競技の会場として横浜スタジアムが使用することから準備を含め6月中旬から8月中旬まで利用不能となることから、東京ドームでの主催試合が6月18日から20日(対広島・3試合)、および8月17日から19日(対阪神・3試合)の計6試合が開催されている。 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本戦を中心とする試合が下記の日程で開催された。 MLBの公式戦(開幕シリーズ)が、下記の日程で行われた。10試合のうち6試合がオークランド・アスレチックスのホームゲーム扱いとなっている。2003年3月25日・26日にもオークランド・アスレチックスVSシアトル・マリナーズが行われる予定だったが、米英によるイラクへの武力行使によりMLBとMLB選手会が選手などの渡航の安全を十分に確保できない恐れがあると判断し、中止となった。 東京ドームでセ・リーグ優勝決定時に胴上げされた巨人の監督は、1990年の藤田元司、2000年の長嶋茂雄、2007年・2009年・2012年 - 2013年、2020年の原辰徳の3人。1990年と2000年の優勝決定は、ともに背番号7をつけた巨人の選手(1990年-吉村禎章、2000年-二岡智宏)がサヨナラホームラン で優勝を決めている。2007年もサヨナラ勝ち(宮本慎也のサヨナラエラーによるもの)による優勝決定で、相手選手を抑えた優勝決定は2009年と2012年・2013年の3回のみ(2020年は引き分け(対戦相手はヤクルトで決定)である。日本シリーズで東京ドームで優勝を決めて胴上げされた巨人の監督は、1994年と2000年の長嶋、2012年の原の2人のみである。 巨人の監督の胴上げに比べて、巨人の対戦相手チームの胴上げは少ない。セ・リーグは2006年の中日ドラゴンズ(監督・落合博満)、2016年の広島東洋カープ(監督・緒方孝市)、日本シリーズは2008年の埼玉西武ライオンズ(監督・渡辺久信)、2019年の福岡ソフトバンクホークス(監督・工藤公康)の4例だけで、開場からこれらまでの期間が長く、その間は「巨人が東京ドームで敵将の胴上げを見ることはない」ジンクスとされていた。後楽園球場で最後に巨人が敵将の胴上げを見たのは、セ・リーグは1975年の広島東洋カープ(監督・古葉竹識)、日本シリーズは1977年の阪急ブレーブス(監督・上田利治)までさかのぼる。 対して日本ハムファイターズは、東京ドームを本拠地とする時代はリーグ優勝自体がなかった。本拠地移転後の2006年のアジアシリーズで優勝し、ようやく東京ドームでの胴上げを果たしている。 巨人以外で初めて日本シリーズの主催チームとなった東京ヤクルトスワローズは、2021年の第5戦で勝利すれば東京ドームでの優勝決定であったが、惜しくも敗戦している。 アジアシリーズ 日本シリーズ クライマックスシリーズ パシフィックリーグ セントラルリーグ WBSCプレミア12 東京ドームは野球興行以外にも多目的利用ホールとして活用されている。多目的ホールとして1990年代半ばまでは首都圏最大級の規模であり、東京都心部のランドマークとしての存在感も大きかったことから、主に関東域外の地方自治体や観光協会が開催する地方物産展などの物販催事、富士通をはじめとした大手企業の新製品展示会など、いわゆる見本市会場的な用途としてもコンスタントな需要があった。 東京ドームでコンサートをする場合、音がかなりこもるため、スピーカーの設置などには注意を要する。年々、残響音対策や騒音対策のノウハウが蓄積されていき、現在はドーム内全体を黒いカーテンで覆うようにしている(1階席のみ)。 コンサートで利用する場合、消防法と警視庁からの指導、および観客の転落防止のため、2階席と外野席の最前列(1列目)は緩衝地域となり、原則として客席としては利用できない。ただし、近年は一部の公演で客席として使用する場合がある。 演奏は近隣住民の騒音への配慮により、原則として午後9時30分(年末のカウントダウン公演は、午前0時30分)以降は音を出さない。ただし、終演が規定時刻を超過した公演もある。 東京ドームは後楽園競輪場跡地に建てられており、将来の後楽園競輪復活も視野に入れているため、グラウンド地下には一周400メートルのバンク(競走路)が格納されている。かつては「サイクルスポーツフェスティバル」と題して、模擬競輪など競輪・自転車競技に関するイベントが行われたが、同イベントは2008年を最後に開催が途絶えている。 世界選手権自転車競技大会とオリンピックは走路の周長と設備面から、現状は国際自転車競技連盟の特別承認を得ないと開催できない。東京オリンピックの自転車競技トラックレースは伊豆ベロドロームにて行われた。 フィールドは人工芝を採用。開業後は巻き取り式のショートパイル人工芝を使用していたが、2002年(平成14年)から試合会場としては日本で初めて、天然芝に近い性質を持つといわれるロングパイル人工芝「フィールドターフ」を導入した。導入の背景としては、膝痛に苦しみながら中堅手として出場を続けていた当時の巨人の主力選手松井秀喜への配慮があったとされる。このフィールドターフは2007年(平成19年)3月、2014年(平成26年)3月、2019年(平成31年)3月 と3回の張り替えが行われている。 外野フェンスは2010年(平成22年)から従来のラバーフェンス(高さ4.0m)にネットフェンス(高さ0.24m)を付け加えたものとなっている。ネットフェンスを付け加えた主目的はホームランを判定しやすくするためである。2018年(平成30年)からは、外野フェンスのクッション部分がそれまでのものよりも柔らかくなった。 ラバーフェンスのスタンド側上部に手すりがあり、開業当初はそれに打球が当たった場合はインプレーであった。しかし、1990年6月9日に落合博満がバックスクリーン手前の手すりに直撃してグラウンドに跳ね返ってくる打球を放った際、福井宏二塁塁審はフェンスを超えていたとして本塁打と判定した。これを機に、同審判が手すりの紛らわしい部分の撤去を要望するなど、判定の難しさが指摘されていた。その結果、藤田元司巨人監督と近藤貞雄日本ハム監督及び審判との協議によって、1991年から手すりに当たった場合は本塁打というルールに変更された(ほか、フェンス上端部を黄色に着色することも決定された)。 外野からは十分な高さがあるフェンスは、客席の最前列からは低く、落下の危険性や観客がホームランにならないような打球に触れることも容易であるという欠点もある。2014年(平成26年)4月19日の対中日戦で坂本勇人が大野雄大から放った左中間への大飛球は、当初は本塁打と判定されたものの、のちビデオ判定の結果、最前列にいた観客が手すりを超えてインフィールド側まで手を出して直接捕球したことが確認されたため二塁打に変更された。一方、2023年(令和5年)8月13日の対横浜DeNAベイスターズ戦で坂本勇人が上茶谷大河から放った左中間への大飛球は、2014年の事例と同様に最前列にいたファンが手すりを超えて捕球を試みたが(捕り損ねてボールはフィールドに落下した)、この時は二塁打と判定され、のちのビデオ判定による検証でも覆ることはなかった。ただ、ビデオ判定直後の審判による説明では、観客の妨害により本塁打が二塁打に変更されたとも解釈できる説明がなされたこともあり、試合翌日の14日にNPBはこの件で詫びを入れるとともにファンに対し異例の「お願い」を出した。 ホームランの出やすさの理由として、第一に、左中間・右中間の膨らみが小さく110mしかない(両翼からセンターの最深部までほぼ直線の構造である)ことが挙げられる。これは現在の12球団の本拠地球場の中で最も狭い(なお、福岡ドームもホームランテラスを設置後は同じ規格となっている)。第二に、屋内球場のため風の影響を受けない上に構造上湿度が低くなっているため打球が伸びやすいことが挙げられる。 もっとも、東京ドームは野球規則1.04に記載されている国際基準を満たすNPB初の本拠地球場であり、完成当時としては広い球場だった。 実際に後楽園球場でなされた1987年(昭和62年)の公式戦は112試合で234本の本塁打(1試合平均2.09本)が出たが、東京ドームの1988年(昭和63年)の公式戦112試合は147本(1試合平均1.31本)が出たにとどまり、約4割減少している。さらに、コンピュータ分析では、王貞治の868本塁打のうち、東京ドームなら322本減るという結果も出ていた。 他球場と比較しても、東京ドームの1試合当たりの平均本塁打数は、各球団の本拠地(巨人と日本ハムが本拠地としていたため、全12球団で全11球場)中、1988年10位、1989年10位、1990年11位であり、数字の上でも本塁打の極めて出にくい球場であった。しかし、その後は、1991年7位、1992年6位、1993年6位、1994年6位、1995年7位、1996年6位、1997年3位、1998年1位、1999年2位、2000年1位と、他球団が広い球場に本拠地を移転したり球場を拡張したりする中で、東京ドームは相対的に本塁打の出やすい球場となっていった。 それに加えて、ボールの影響が言われており、それまでのタマザワ製ボールだったのを1992年からミズノ製に変えたために、本塁打が増加したとされる。それを裏付けるように、開業した1988年の1試合当たりの本塁打数は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と2.6倍以上に増加し、統一球導入前後で、2010年は2.88本(73試合で210本)・2011年は1.42本(69試合で98本)と半数以下に激減している。 この最中、1998年(平成10年)には東京ドームで本塁打が急増したため、読売新聞で分析がなされ、左・右中間の膨らみが無いこととともに、スタンドにしか冷房が当たらない構造から、「冷房によって外野席の気温が下がれば『風』がグラウンドから吹きつけることは考えられる」という仮説を挙げている。 屋根は空気膜構造と呼ばれるもので、内部の空気圧を外部よりも 0.3%(3ヘクトパスカル)高くして膨らませている。インフレートと呼ばれ、完成時に屋根を膨らます作業が行われた(この作業はメディア等でも取り上げられている)。圧力差を維持するために送風ファンを合計36台設置しており、ドア開閉がある場合は10台から18台、ドア閉鎖時は2台を動作させて気圧を維持する。出入り口は手動式回転ドアやエアロックが設置されており、全面的なドア開放は与圧が抜けて屋根が潰れる原因になるので出来ない。多数の観客が退場する際は通常のドアも開放されるが、気圧のため外向きに強い風が起こり注意を要する。この風は回転ドアのわずかな空間でも発生している。隣接する小石川後楽園の日照に配慮するため、屋根の高さが外野方面に向かって低くなっていくように設計されている。 屋根は28本のワイヤを8.5メートル間隔で縦横に並べ、その間に二重構造の膜を張ったものとなっている。膜はガラスクロス(織物)の表面をフッ素樹脂でコーティングしたもので、耐候性・耐熱性・非粘着性に優れた不燃材料である。内膜は音を吸収する特性もある。耐用年数は20年以上。総重量は400トン。太陽光の約5%を透過する。施工は太陽工業。ワイヤからテレビカメラ(中央部)、スピーカー(中央部1個、膜屋根周辺21個)、照明(14ヶ所)が吊るされている。 中央部のテレビカメラ(通称『トップアイ』)からの映像は、野球中継だけでなくNHK・民放各局の夜のスポーツ速報番組などに使われていた。最近の巨人戦などの野球中継ではあまり頻繁に使用されないが、投手の投球練習 を上から撮影する際などに使用されている。巨人の優勝決定時に行われる胴上げの際は『トップアイ』からの映像が必ず使用される。 天井の高さ61.69mは1964年の後楽園球場開幕試合に巨人の王貞治が国鉄・金田正一から放った超特大の場外ホームラン(推定飛距離151m)から導き出された数字で、それ以上の打球が来ても屋根に当たらないように高さが設定された。完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れた長嶋茂雄は「この天井にボールをぶつけることは無理でしょう」と述べていたが、実際は打球が天井や懸垂物に当たった例は多数ある(東京ドームの特別ルールの適用例を参照)。 東京ドームは打球が天井や懸垂物に当たった場合などに備えて特別ルールの「東京ドーム特別規約」が設けている。 東京ドーム特別規約(2016年現在)の内容は以下の通り。 開場当初から1990年代までは、特にデーゲームにおいて、白い天井とボールが同化して野手がフライを見失うケースが続発した。 第66回都市対抗野球大会の決勝では、打球を見失ったためにランニング本塁打となり、それが勝敗を分けた。1998年(平成10年)の都市対抗野球大会では、東京ドームの天井で打球を見失ったためにヒットになったケースをカウントした結果、1大会(31試合)で20本との数字が出ている。2000年代以降は、経年によって天井が黒ずんできたため、このようなケースはほとんど見られなくなっている。 日本の球場としては珍しく、メインとなる内野2階コンコースから直接グラウンドが見える構造となっており、グラウンドに近いスペースを立見席として販売している。車椅子を利用する観客のために、立見席の一部を「車椅子席」としている。車椅子だけでなく、介護ベッドを利用する観客も利用できるようになっており、介護ベッドを設置し、介護ベッドで横になりながら試合を観戦している観客もいる。発売方法は通常と異なる。他に内野は1階と4階、外野は1階にコンコースがあり、グラウンド面は地下5.5mの高さである。 基本的に座席の色は青とシーズンシートのグレーで統一されている。敷地の関係上、日本の球場としては外野席の比率が低い。内野席は2層式で中間にバルコニー席があり、巨人戦は食事付き年間指定席となっている。バルコニー席の中央部分はVIP用スペースとなっており、イベントによってはバルコニー席全体が関係者用スペースにもなる。スタンドのファウルポール付近は可動席で、サッカー、アメフト等の開催時はフィールドを広げられるようになっている。かつてはスタンド下方への自動収納式のものもあったが現在は廃止されている。 巨人主催ゲームについては2009年から2010年まで、阪神戦を除く平日ナイターに限り内野C指定席の一部を学割チケットとして販売していた。また、2023年には平日ナイターに限りD指定席の一部を大学生や専門学校生向けに1000円で販売している。 左翼スタンドのセンター寄りを巨人の応援席にした「レフト巨人応援席」、残りの座席の一部を「ビジターチーム応援席」と設定したため、巨人ファンとビジターファンとの外野の座席比率はおよそ6:4(実質見た目は7:3ぐらいに見える)になっている。元来ライト側に入れない巨人ファンがレフトのライト側寄りで応援していたことと、レフト側でビジターチームを応援する客が少なかったこと、2005年(平成17年)後半戦の阪神戦以外の全ての試合で、バックスクリーン周辺のレフトスタンドの客席の空席が目立ち過ぎたことなどから、設定された席種である。なお阪神戦は、阪神ファンの集客率が他球団のファンのそれと比較すると圧倒的に高い点や巨人と阪神のファン同士での争い事の発生を避ける ことなどを理由に「レフト巨人応援席」は設定されておらず、レフト外野席全てが事実上のビジター応援席となる。ただし、クライマックスシリーズ開催時は例外であり、阪神戦の際も「レフト巨人応援席」が設定される。 都市対抗、大学選手権、プロ野球のアジアシリーズが開催される期間中は、一・三塁側スタンド最前列に応援団の特設ステージが設けられる。 2005年(平成17年)から内野一・三塁側のファウルゾーンにフィールドシート(エキサイトシート)を設置(228席)した。2009年(平成21年)からは座席列が2列から4列に増設されて420席(一塁・三塁各210席)となっている。2017年からは一塁、三塁側に合わせて154席増設され、合計574席となった。38席分に頭上まで防球ネットエリアが新設された。 2019年から東京ドーム外野のレフトスタンド下に、シークレット パーティールームが登場。外野フェンスに窓が設けられており、カウンター席から試合を観戦することが出できる。また大型モニター・ソファが設備された個室で、ホテルメイドのパーティー料理・ソフトドリンクが楽しめる。部屋数は2室で、収容定員は15-25名。 プロ野球の各球団は、2004年(平成16年)までその主催のシーズン公式戦の観客数を概数で数字で発表していた。東京ドームは収容人員を1988年から1994年まで56,000人、1995年から2004年まで55,000人とし、巨人戦の観客数を実際の入場者数に関わらず満員の55,000人(1994年まで56,000人)と発表していた。朝日新聞によると、設計段階は50,009人であり行政指導の結果46,314人に減ったが(後述)、満員で5万人と発表していた。 ただし、日本シリーズやオールスターゲームは、各球団ではなく日本野球機構の主催となり、同機構が公益法人(一般社団法人)のため実際の有料入場者数が記録されることになっている。日本野球機構主催ゲームの最多有料入場者数は、1994年日本シリーズ第2戦の46,342人である。 2005年(平成17年)からプロ野球全体で観客数発表を実数に近似させるため、通常は実際の入場者ではなくシーズンシートを含めたチケット購入者数を、プロ野球チームが本拠としている各球場でも収容人員の変更が行われているが、東京ドームは観客数発表の方法は変更したものの収容人員の変更はしばらくされていなかった。2013年現在は野球開催時の収容人数を約46,000人と公称している。しかししばしば47,000人弱の動員が記録されている。また1998年のアメリカ横断ウルトラクイズでは、5万453人と発表されている。 開場当初、小石川消防署に届けられていた定員は46,314人(そのうち立ち見2,976人)であった。2005年(平成17年)4月13日の産経新聞は、改修を経て現在の数字である45,600人に落ち着いたとある。その後、エキサイトシート新設による増員が行われた。2023年時点では公式ホームページ上では(野球開催時)、約43,500人となっている。 野球以外でのイベントは、2002年12月7日の「K-1 WORLD GP 2002 決勝戦」が主催者発表で74,500人、1998年(平成10年)4月4日の新日本プロレス他主催の「燃える闘魂アントニオ猪木引退試合」が主催者発表で70,000人などの記録がある(コンサート、格闘技などはグラウンドにも座席を設けるため、野球開催時より多数の観客を収容できる)。 1988年(昭和63年)の完成時のスコアボードは、バックスクリーン側の三菱電機製白黒2色の「スコアボード」とフルカラー表示の「オーロラビジョン」、バックスタンド上部にある白黒2色のサブボード(スコア表示のみ)だった。打順のチーム名表示は開場初年のみ「巨人」・「阪神」などの通称を使用していたが、翌年から「ジャイアンツ」・「タイガース」といったニックネームに切り替わっている(文字はどちらも明朝体)。2003年に、後述するスコアボード部改修を機に再び通称表示(パ・リーグの場合は「大阪近鉄」・「福岡ダイエー」・「千葉ロッテ」等)に変更されたが、2004年にニックネームに戻された(2003年以降の文字はどちらもゴシック体)。 オーロラビジョンは1990年(平成2年)にハイビジョンサイズへ変更、1999年(平成11年)に全面改修された。2001年(平成13年)にサブボードも三菱電機製のフルカラー表示の全面オーロラビジョンに全面改修された。 2003年(平成15年)にスコアボード部が改修され、ホームラン時の映像パフォーマンス(ホームチームのみ)が上半分の表示から全画面表示になった。各選手の打率(AV)、ホームラン(HR)表示に打点(RBI)が加わった。球速表示も単位が"km"から"km/h"に変更され、スコア部分のチーム名表示が普通のアルファベットから各球団の帽子のマークに変更された(2004年以降の西武と近鉄は帽子のマークがイラストのみのため、西武は胸マークの「L」の筆記体、近鉄は太字の「Bu」が使用された)。選手名に使用されていた文字の字体が多少変更された。2004年(平成16年)のシーズン途中からは、サブボードの球速表示部分にも打席の選手名、打率(AV)、ホームラン数(HR)が表示されるようになった。球速表示はその下に表示される。 2005年(平成17年)にバックスクリーン側のスコアボードとオーロラビジョンの全面改修が行われ、フルカラーLED表示の全面オーロラビジョンになった。フォントがCanonの角ゴシックCaに変わり、従来のものと違い両チームのメンバーを上から下へ縦表示になり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。2つの境目がなくなったことで、選手交代時に守備と選手名の部分が上から下へ回転して変わる、などさまざまな映像表現が可能となった。チーム名は最上部にチームロゴで表示される。10億7,000万色の発色が可能となり、日本の野球場では最高レベルの鮮明な画像が見られる。縦組みのメンバー表示は後楽園時代の1987年以来の復活となった。バックネット裏スタンド最上部のオーロラビジョンもバックスクリーンと同じ尺度のスクリーンになった(スコア+打者の個人成績/リプレー映像/来場者映像の表示のみ)。文字を表示しない枠にあたる部分は緑色になっている。 2006年(平成18年)から、バリアフリー対策の一環で選手名部分の字体の幅が大きくなった(それ以外はこれまで通り)。その影響でペットマークを表示していた部分がなくなり、チーム名を選手名の上部に表示するようになったため、一列に入る選手名が9人分となった。このため指名打者制の試合時は、5番打者の名前の横(3塁側のチームは右側、1塁側のチームは左側)に投手名が表示されている。 2007年(平成19年)より、スコアボードをより見やすく・わかりやすくするため、守備位置表示が英語略称から日本人になじみのある数字に戻り、投球数表示が追加され、オーロラビジョン部分がハイビジョンサイズ(16:9)になる。打率・ホームラン・打点の表示も英語から日本語に変わった。枠の色が緑から文字の部分と同じ黒に変更されており、球速やヒット、エラーなどの記録は黄色で表示される。前年開催された2006 ワールド・ベースボール・クラシックアジアラウンドで投手の投球数制限をわかりやすくするために使用された投球数表示をこのシーズンから公式戦でも使用し始めた(巨人主催試合のみ、日本ハムをはじめとするパ・リーグやアマチュアでは表示されない)。 野球の試合で使用する場合、スコアの表示は開設当時は9回まで(10回以後は9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する)だった。2003年(平成15年)の改修に際して、延長戦の表示について、プロ野球のように延長が12回までしか行われない場合は1回から9回までのスコアの幅に1回から12回までのスコアを、幅を詰めて表示するようになった。都市対抗野球大会など、延長が13回以降も行われる可能性がある場合は、従来通り9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する(現在のスコアボードも同様)。2007年(平成19年)からスコア部分のチーム名表示がアルファベット1文字になった(2011年までは横浜とオリックスは共に「B」と表示されていた)。ただし、2文字以上表示することも可能であり、2008年のアジアシリーズはSKワイバーンズが「SK」・統一セブンイレブン・ライオンズが「U・L」・天津ライオンズが「T・L」と表示され、2012年に行われたMLB開幕戦ではシアトル・マリナーズが「SEA」・オークランド・アスレチックスが「OAK」と表示された。2012年からDeNAは「DB」と表示されている(オリックスは「B」のまま)。 2011年シーズンから国際慣習に基づき、ボールカウントを「SBO」から「BSO」表示に変更した。 2017年からは一軍での巨人主催ゲームのみにおいて右下のスペースに投手成績、打者成績が表示されるようになった。投手は登板数、投球回数、奪三振、防御率が表示されており、打者は打数、安打、四死球、得点、長打率、出塁率、盗塁数、得点圏打率が表示されている。 2021年のオフシーズンより、2年かけてメインビジョンとサブビジョンの大規模改修工事が予定されていたが、予定を1年早めて2022年シーズン開幕までに完成させる方針を固めた。 当初の予定では、2021-22年のオフシーズンでは従来のオーロラビジョンが設置された箇所+レフト側で最もバックスクリーン寄りにあった広告パネルのうちの1枚+バックスクリーンの回転パネル型広告盤(プリズムビジョン)を一体化して、従来の2倍程度のサイズの大きさにする予定がなされていたが、これを1年前倒しにして、当初2022-23年のオフシーズンにかけて予定していた完成形のものにした。従来の約238m2からみて約4.4倍相当の約1050m2・横幅約125.6mのLED巨大フルカラーボードを旧来のセンターバックスクリーン付近から、広告パネル(11枚)が掲げられていた外野席のほぼ全体にかけて設置するもので、画質もプロ野球公式戦が行われる球場では最高峰のものとなった。ビジョンの拡大により、従来から看板広告を提供していた協賛各社のパネル(引き続き看板を掲示する左中間・右中間各1枚を除き、かつ初代オーロラビジョンが設置された箇所相当分を含め10枚相当)と、バックスクリーンに提供していたパネル広告は、リニューアルされた電光掲示板にも再現され、リボンビジョン(後述)と同じように様々なパターンの広告を掲示できるようになった。また、それまで常設であった時計とボールカウンターについては、ビジョン内で表示する形式に変更された。 この新メインビジョンと連動する形で、音楽や照明との一体化した映像や静止画、アニメーションなどの映像演出を展開するほか、外野席のフェンス最前列に、ポール際から左中間・右中間に向かう形で設けられるリボンビジョン(縦1.28m×横53.76m、面積68.813m2、画素ピッチ10mm×2面)を設置した。 このほかスコアボードとの連動によるDMXというシステムを使い、各種映像演出と一体化した照明パターンを展開している。 ネット裏の放送席の配置は、三塁側から順に東京ケーブルネットワーク、ニッポン放送、ラジオ日本、テレビ朝日、NHK、日本テレビ、文化放送、TBSラジオ、6局共用ブース(北海道放送、CBCラジオ、ラジオNIKKEI、RKB毎日放送、朝日放送ラジオ、MBSラジオ)となっている。 6社共同ブースは、ラジオNIKKEIは日本短波放送時代に後楽園球場からプロ野球中継を行っていた名残で使用権を持っているが、2021年現在は中継の制作を行っていない。北海道放送とRKB毎日放送は交流戦の巨人主催試合、あるいは日本ハム・ソフトバンクの主催またはビジターのパ・リーグ公式戦で(2017年以前はTBSラジオの、2018年以降の平日は文化放送の、週末はニッポン放送のブースを借りる場合もある)、CBCラジオは巨人主催試合を聴取率調査期間中や一部週末デーゲームに自社制作する時に使う程度である(後者の場合は2017年まではTBSラジオの、2018年以降はRFラジオ日本のブースを借りることもある)。 東京ケーブルネットワークの放送席は地上波のテレビ埼玉(過去に千葉テレビ放送も)、CS放送のGAORA(プロ野球・日本ハム主催試合と都市対抗社会人野球)、スカイ・エー(アメリカンフットボール社会人Xリーグ)、BS放送のJ SPORTS(プロ野球・楽天主管試合とアジアシリーズ)に使われるほか、ラジオの巨人主催試合を朝日放送ラジオとMBSラジオが並行して制作する場合に朝日放送ラジオが使用する(この場合、MBSラジオが前述の6局共用ブースを使用。2010年以降週末を挟む三連戦でRFラジオ日本や文化放送が中継を一切行わない場合、朝日放送ラジオはRFラジオ日本や文化放送のブースを使うこともある)。 TBSラジオが2017年を最後にDeNA主催試合の裏送り以外の野球中継から撤退したため、TBSラジオのブースは予備ブース扱いとなり、FM NACK5が東京ドームから西武が関与する試合を中継する時に同ブースを使用したことがある。2021年に行われた東京ドームでのDeNA主催試合におけるTBSラジオのビジター地元局への裏送りで、どのブースが使われたかは不明。 放送席に入るために一度コンコースを通らなければならず、観客が解説者などにサインをねだる光景がみられる。日本テレビの番組宣伝などで中継ゲストに有名芸能人が登場したときは試合終了後に放送席裏のコンコースが人だかりして混乱する。 21番ゲート右側に野球殿堂博物館が併設されている。この施設も後楽園球場から「野球体育博物館」の名称で受け継がれてきたが、2013年4月1日に現在の名称に変更された。 東京ドームは、野球開催時に以下のような規制を行っている。 応援幕・メッセージボード等の内容は、チームや選手を応援するものに限り、公序良俗に反する内容や誹謗中傷(球団への批判等)を含む内容のものは、持込ができない。試合中に掲げても、掲げている内容が試合中でも厳しくチェックされているため、発見され次第係員に没収される。 巨人主催試合は1993年(平成5年)まで、日本ハム主催試合は2006年(平成18年)まで太鼓を使用できなかった。理由は一説によると、東京ドームの応援規制が緩和された1994年(平成6年)に巨人・日本ハム両応援団は「トランペット(トロンボーン)持込数増加」と「太鼓持込」のいずれかを選択することになり、巨人応援団は太鼓を、日本ハム応援団はトランペット(トロンボーン)を選択したと言われる。日本ハム主催試合で2007年(平成19年)以降太鼓が認められるようになったのは、巨人主催試合のビジター戦では太鼓が認められ(パ・リーグ他球団主催試合については不明)、ホーム戦で認められないことに対する矛盾を解消する事が理由であると言われる。 2016年12月が会社創立80周年に当たることから、同年1月から2019年1月の3年間にわたり、1988年の開業以来初となる大規模改修工事を行う。総事業費は約50億円で、一部休業期間を設けるが基本的に営業を継続しながら段階的に実施する。主なリニューアル内容は以下の通り。 前述の通り2021 - 2023年のオフシーズンを利用し、2期に分けてスコアボードの大型化拡充のほか、エントランスや客席のホスピタリティーの改善を進めていく予定だったが、2021 - 2022年のオフシーズンに工期を短縮して展開することになった。 バックネットのフェンス広告は2004年(平成16年)から電動により広告パターンを複数出せるようになっている。オールスターゲームが開催される場合は、オールスターゲームの冠スポンサーの広告を掲出している。日本シリーズが開催される場合もオールスター同様に冠スポンサーの広告を出している。 外野に12枚(左翼6枚、右翼6枚〈開設当初は9枚:左翼5枚、右翼4枚〉)の巨大看板が設置されている。プロ野球開催時にこの巨大看板に直撃するホームランを打った選手に対して「東京ドーム・ビッグボードホームラン賞」として100万円の賞金 かそれに相当するスポンサー商品が贈呈される。 かつてはライト側の柱広告に直撃するホームランを打った選手に300万円の賞金が贈呈されていたが、契約終了により2006年(平成18年)に廃止されて広告が撤去された。 東京ドームは、消費者金融の会社の広告を一切出していない。以前に大阪近鉄バファローズが消費者金融のアコムとスポンサー契約を新たに結び、ヘルメットに同社名を記したことを、巨人の渡邉恒雄オーナーが「プロ野球の品位を汚す。消費者金融の広告など、子供に見せられない。東京ドームは、消費者金融の広告は一切ない」と痛罵したが、その発言時は東京ドームでも同業のプロミスの広告が出されていた。その後シーズンオフに、次年度の広告掲載の契約更新の際、東京ドームがプロミスに「来年の広告掲載の更新は見送って欲しい。状況を理解して欲しい」と更新を行なわない旨を通達し、プロミスも了承し、消費者金融の広告は一切排除された。 バックスクリーンは開場当時は両サイドの広告(同一企業のもの2枚)を貼るのみだったが、その後中央部分に「プリズマビジョン」と呼ばれる回転板が張られるようになった。 かつては室内広告として、試合約40分前、3回裏、5回裏、7回裏のグランド整備の間、ゲームセットコールの直後と客出しの間の15 - 20分間に、ビッグヴィジョンへ生中継できるカメラとサンプル商品などを投下する3つの小型気球、それぞれを装備可能な無人飛行船が飛行しており、巨人勝利の際はヒーローインタビューのTVのカメラフレームに入り込むように飛行していた。 先述の通り、2022年の映像装置の大型化により、従来の看板型のものから電光掲示板へのサイネージ表示を採用したことで様々な広告パターンを表示できるようになったが、ビジョンに打球を当てた場合の賞については原則として巨人主催の公式戦のみとなった。 東京ドームの球場使用料は、2023年4月現在は7時から24時までの1日で観客数に関係なく税抜きで平日1,980万円、休日2,200万円。(2023年3月までは1700万円)ただし、観客を入れない場合は準備日料金となり1日825万円である。この高い使用料が日本ハムの札幌移転の理由の1つとなった。 この金額は照明、アナウンス、ゴミ掃除など観客を入れるための各種オプションも含まれた金額である。オフシーズン、平日、昼間、草野球(2時間程度)、オプション無し、などの条件であれば50万程度で貸し切ることができる。使用に関しては22時以降0時20分までや23時30分から深夜5時までという深夜の使用も認められている。ただし、12月~2月までの間については草野球の貸出を行っていない。 1980年に後楽園MVP賞として制定された球場独自の表彰で、1988年の東京ドーム開場時に東京ドームMVP賞に改称された。東京ドームを本拠地とする球団に属する選手(創設当初は巨人・日本ハム、2004年以降は巨人のみ)で、同球場で最も活躍した選手1名を表彰し、記念プレートを球場内コンコースに永久展示する。賞金は300万円。年度によって「特別賞」や「新人特別賞」などが贈られる場合がある。 2022年シーズン終了時点で最多受賞者は打者は小笠原道大の6回、投手は菅野智之の4回。 ※1980年から1987年までは、「後楽園MVP賞」。1988年以降は、「東京ドームMVP賞」。 東京メトロ南北線飯田橋駅~後楽園駅間は、東京ドームのグラウンドの真下を通っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京ドーム(とうきょうドーム)は、東京都文京区後楽にあるドーム球場。プロ野球・セントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(読売巨人軍)が専用球場(本拠地)としている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)3月18日に開場した日本初の屋根付き球場で、株式会社東京ドームが運営する東京ドームシティの中核施設。野球のほかに、格闘技・プロレスの興行やコンサート、商品の展示会なども行われている。建築面積は46,755m。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本初の全天候型多目的スタジアムで、後楽園球場の実質的な代替球場として後楽園競輪場の跡地に開場。1988年3月17日にオープニングセレモニーが開かれ、3月18日にこけら落としイベントとして巨人と阪神のオープン戦が行われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "4月8日に初の公式戦「巨人 - ヤクルト」(夜に「日本ハム - ロッテ」)が行われた。その日の関東地方は4月としては珍しく大雪で同じ関東地方の西武ライオンズ球場(当時はドームではなかった)での開幕戦は中止となったが、東京ドームの開幕戦は予定通り行われ、ドームの威力を早々と発揮した形になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "愛称は「BIG EGG(ビッグエッグ)」 であり、1998年まで東京ドームグループの旧称として「BIG EGGグループ」と言う社名が使われていたが、2000年の時点でこの呼称は公式に廃止されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "空気膜構造屋根を持つアメリカのメトロドームをモデルとして設計された。特徴的な屋根は総重量400キロに達するもので、1987年6月28日の午前中にインフレート(空気入れ)が行われ、以後、今日まで一度もしぼんだことがない。2002年からロングパイル人工芝を日本の野球場で初めて採用した。天然芝に近い感触の特殊な繊維とクッション材を採用し、選手の負担を軽減している。ドームの広さは約216メートル四方で建築面積は46,755m、容積は約124万m(東京ドーム (単位)も参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2015年度の実績では、撤去・設営も含めた稼働実績は87.4%。そのうち野球が占める割合は4割程度であり、その他はコンサートなどの各種イベントが占める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後楽園球場から引き続き、読売ジャイアンツとパシフィック・リーグの日本ハムファイターズ(当時)の2球団が専用球場(本拠地)とした。日本ハムは2004年度に北海道の札幌ドームに移転したため、以降は読売ジャイアンツのみが専用球場としている。巨人は一軍だけでなく、二軍の公式戦でも年に数試合使用する。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "開場以来、レギュラーシーズンに年間60試合強の主催試合を開催する。2019年までにクライマックスシリーズが9度、日本シリーズが11度開催されている。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本ハムの本拠地ではなくなった2004年以降は、日本ハムも地方開催という形で継続して主催試合を開催しているほか、パシフィック・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。日本ハム以外では、2004年に初めてオリックスが2試合、ダイエーが1試合の主催試合を東京ドームで開催したのを皮切りに、2005年と2007年から2009年にかけてはオリックスが2試合を、2010年から2019年までは楽天が毎年1試合を、ソフトバンクが2012年以降毎年1試合(2018年と2019年は2試合)を、ロッテが2016年と2018年・2019年に1試合を、西武が2018年に1試合を、それぞれ東京ドームで開催した。このように、パ・リーグの現存する6球団は全球団が主催試合の開催実績を持つ。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一方、巨人以外のセ・リーグ各球団については2010年代まで開催実績はなかったが、東京オリンピック・パラリンピック開催の関係でヤクルトとDeNAが2021年に初の主催試合を行ったほか、シーズン日程消化の兼ね合いから同年の日本シリーズの第3戦から第5戦(ヤクルト主催試合)も行われた(経緯の詳細は後述)。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、1952年に日本プロフェッショナル野球協約第38条によって制定された「プロ野球地域保護権」により、東京都の同権利を持たない球団が主催試合を開催する場合、権利を持つ読売ジャイアンツ・東京ヤクルトスワローズの両球団に予め承諾を得ることが前提条件となっている。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "移転前年の2003年11月に東京ドームで開催された東京時代最後のファンフェスティバルで、今村純二球団社長(当時)が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。東京ドームでの開催を継続する理由として、東京都にも球団事務所があること、二軍施設は隣県の千葉県鎌ケ谷市のまま継続されていることに加え、旧来の東京のファンの存在を考慮したことなどが挙げられた。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2004年は東京ドームでの主催試合が12試合行われ、2005年は10試合、2006年から2019年までは毎年7〜9試合の主催試合が組まれた。2020年は、当初の発表では東京オリンピック・東京パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで、4試合の開催予定に留まり、その4試合も新型コロナウイルスの影響で開催されなかった。2021年は同年に延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで、5試合の開催となった。2022年は3試合を開催した。2023年は全主催試合を新球場のエスコンフィールドHOKKAIDOで開催するため、東京ドームでの開催は35年で途絶えることとなった。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "オリックス・バファローズは親会社であるオリックスの本店機能が東京にある関係で(大阪府が発祥のため、本社は東京と大阪の2ヶ所体制)、ブルーウェーブ時代の2004年から2009年まで年間2試合の主催試合が組まれた。2010年以降は開催していない。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "福岡ダイエーホークス時代の2004年6月15日に1試合の主催試合を開催。ソフトバンクが親会社となって以降では2012年から「鷹の祭典in東京ドーム」として2017年までは主催試合を毎年1試合を開催し、2018年は7月9日と10日に、2019年も4月22日と7月8日にそれぞれ2試合ずつ開催。2020年・2021年は当初から開催日程に組まれなかったが、2022年・2023年に「鷹の祭典in東京ドーム」として6月に1試合ずつ行われた。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "東北楽天ゴールデンイーグルスは2010年から「楽天グループデー」として主催試合を毎年1試合開催している。2020年から2022年までは開催していなかったが、2023年7月4日に対オリックス戦が開催された。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "千葉ロッテマリーンズは2016年7月12日にマリーンズ誕生・本拠地千葉移転25周年の記念事業として39年ぶりの都内主管試合の会場として使用した(地方開催自体が11年ぶり)。2017年は開催しなかったが、2018年は8月21日に、2019年は8月22日に、それぞれ開催された。2020年から2022年までは開催していなかったが、2023年に対埼玉西武戦が開催された。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "埼玉西武ライオンズは2018年4月17日に「ライオンズクラシック2018」として、初めて東京ドームでの主催試合を開催。2020年4月21日にも主催試合が開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響でプロ野球の開幕が延期となり、中止となることが決定した。2023年は4月18日に対ソフトバンク戦が開催された。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "東京ヤクルトスワローズは2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である明治神宮野球場が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月6日から9月13日の2か月以上にわたり利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定であったが、新型コロナウイルスの影響で東京オリンピック・パラリンピックとも開催が延期されたため、東京ドームでの主催試合分はすべて明治神宮野球場での開催に変更になった。2021年は延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である明治神宮野球場が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月中旬から9月上旬まで利用不能になることから、東京ドームでの主催試合が8月27日から29日(対DeNA・3試合)、および9月3日から5日(対広島・3試合)の計6試合が開催されている。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また同年の日本シリーズはヤクルトが進出したが、シーズン日程消化に伴うシリーズ延期に伴い神宮球場の使用日程が第52回明治神宮野球大会と重なったことから、11月23日 - 25日に行うホームゲームはすべて東京ドームで行われた。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "横浜DeNAベイスターズは2020年の東京オリンピックにおいて本拠地の横浜スタジアムが野球・ソフトボールの会場として使用することから準備を含め6月9日から8月23日までの約2か月半利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を6月下旬から7月上旬にかけて6試合行う予定としていたが、東京ヤクルトスワローズと同じく、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、すべて横浜スタジアムでの開催に変更になった。2021年は延期となった東京オリンピックの野球・ソフトボール競技の会場として横浜スタジアムが使用することから準備を含め6月中旬から8月中旬まで利用不能となることから、東京ドームでの主催試合が6月18日から20日(対広島・3試合)、および8月17日から19日(対阪神・3試合)の計6試合が開催されている。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本戦を中心とする試合が下記の日程で開催された。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "MLBの公式戦(開幕シリーズ)が、下記の日程で行われた。10試合のうち6試合がオークランド・アスレチックスのホームゲーム扱いとなっている。2003年3月25日・26日にもオークランド・アスレチックスVSシアトル・マリナーズが行われる予定だったが、米英によるイラクへの武力行使によりMLBとMLB選手会が選手などの渡航の安全を十分に確保できない恐れがあると判断し、中止となった。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "東京ドームでセ・リーグ優勝決定時に胴上げされた巨人の監督は、1990年の藤田元司、2000年の長嶋茂雄、2007年・2009年・2012年 - 2013年、2020年の原辰徳の3人。1990年と2000年の優勝決定は、ともに背番号7をつけた巨人の選手(1990年-吉村禎章、2000年-二岡智宏)がサヨナラホームラン で優勝を決めている。2007年もサヨナラ勝ち(宮本慎也のサヨナラエラーによるもの)による優勝決定で、相手選手を抑えた優勝決定は2009年と2012年・2013年の3回のみ(2020年は引き分け(対戦相手はヤクルトで決定)である。日本シリーズで東京ドームで優勝を決めて胴上げされた巨人の監督は、1994年と2000年の長嶋、2012年の原の2人のみである。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "巨人の監督の胴上げに比べて、巨人の対戦相手チームの胴上げは少ない。セ・リーグは2006年の中日ドラゴンズ(監督・落合博満)、2016年の広島東洋カープ(監督・緒方孝市)、日本シリーズは2008年の埼玉西武ライオンズ(監督・渡辺久信)、2019年の福岡ソフトバンクホークス(監督・工藤公康)の4例だけで、開場からこれらまでの期間が長く、その間は「巨人が東京ドームで敵将の胴上げを見ることはない」ジンクスとされていた。後楽園球場で最後に巨人が敵将の胴上げを見たのは、セ・リーグは1975年の広島東洋カープ(監督・古葉竹識)、日本シリーズは1977年の阪急ブレーブス(監督・上田利治)までさかのぼる。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "対して日本ハムファイターズは、東京ドームを本拠地とする時代はリーグ優勝自体がなかった。本拠地移転後の2006年のアジアシリーズで優勝し、ようやく東京ドームでの胴上げを果たしている。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "巨人以外で初めて日本シリーズの主催チームとなった東京ヤクルトスワローズは、2021年の第5戦で勝利すれば東京ドームでの優勝決定であったが、惜しくも敗戦している。", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アジアシリーズ", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本シリーズ", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "クライマックスシリーズ", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "パシフィックリーグ", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "セントラルリーグ", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "WBSCプレミア12", "title": "野球での使用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "東京ドームは野球興行以外にも多目的利用ホールとして活用されている。多目的ホールとして1990年代半ばまでは首都圏最大級の規模であり、東京都心部のランドマークとしての存在感も大きかったことから、主に関東域外の地方自治体や観光協会が開催する地方物産展などの物販催事、富士通をはじめとした大手企業の新製品展示会など、いわゆる見本市会場的な用途としてもコンスタントな需要があった。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "東京ドームでコンサートをする場合、音がかなりこもるため、スピーカーの設置などには注意を要する。年々、残響音対策や騒音対策のノウハウが蓄積されていき、現在はドーム内全体を黒いカーテンで覆うようにしている(1階席のみ)。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "コンサートで利用する場合、消防法と警視庁からの指導、および観客の転落防止のため、2階席と外野席の最前列(1列目)は緩衝地域となり、原則として客席としては利用できない。ただし、近年は一部の公演で客席として使用する場合がある。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "演奏は近隣住民の騒音への配慮により、原則として午後9時30分(年末のカウントダウン公演は、午前0時30分)以降は音を出さない。ただし、終演が規定時刻を超過した公演もある。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "東京ドームは後楽園競輪場跡地に建てられており、将来の後楽園競輪復活も視野に入れているため、グラウンド地下には一周400メートルのバンク(競走路)が格納されている。かつては「サイクルスポーツフェスティバル」と題して、模擬競輪など競輪・自転車競技に関するイベントが行われたが、同イベントは2008年を最後に開催が途絶えている。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "世界選手権自転車競技大会とオリンピックは走路の周長と設備面から、現状は国際自転車競技連盟の特別承認を得ないと開催できない。東京オリンピックの自転車競技トラックレースは伊豆ベロドロームにて行われた。", "title": "野球以外での利用" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フィールドは人工芝を採用。開業後は巻き取り式のショートパイル人工芝を使用していたが、2002年(平成14年)から試合会場としては日本で初めて、天然芝に近い性質を持つといわれるロングパイル人工芝「フィールドターフ」を導入した。導入の背景としては、膝痛に苦しみながら中堅手として出場を続けていた当時の巨人の主力選手松井秀喜への配慮があったとされる。このフィールドターフは2007年(平成19年)3月、2014年(平成26年)3月、2019年(平成31年)3月 と3回の張り替えが行われている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "外野フェンスは2010年(平成22年)から従来のラバーフェンス(高さ4.0m)にネットフェンス(高さ0.24m)を付け加えたものとなっている。ネットフェンスを付け加えた主目的はホームランを判定しやすくするためである。2018年(平成30年)からは、外野フェンスのクッション部分がそれまでのものよりも柔らかくなった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ラバーフェンスのスタンド側上部に手すりがあり、開業当初はそれに打球が当たった場合はインプレーであった。しかし、1990年6月9日に落合博満がバックスクリーン手前の手すりに直撃してグラウンドに跳ね返ってくる打球を放った際、福井宏二塁塁審はフェンスを超えていたとして本塁打と判定した。これを機に、同審判が手すりの紛らわしい部分の撤去を要望するなど、判定の難しさが指摘されていた。その結果、藤田元司巨人監督と近藤貞雄日本ハム監督及び審判との協議によって、1991年から手すりに当たった場合は本塁打というルールに変更された(ほか、フェンス上端部を黄色に着色することも決定された)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "外野からは十分な高さがあるフェンスは、客席の最前列からは低く、落下の危険性や観客がホームランにならないような打球に触れることも容易であるという欠点もある。2014年(平成26年)4月19日の対中日戦で坂本勇人が大野雄大から放った左中間への大飛球は、当初は本塁打と判定されたものの、のちビデオ判定の結果、最前列にいた観客が手すりを超えてインフィールド側まで手を出して直接捕球したことが確認されたため二塁打に変更された。一方、2023年(令和5年)8月13日の対横浜DeNAベイスターズ戦で坂本勇人が上茶谷大河から放った左中間への大飛球は、2014年の事例と同様に最前列にいたファンが手すりを超えて捕球を試みたが(捕り損ねてボールはフィールドに落下した)、この時は二塁打と判定され、のちのビデオ判定による検証でも覆ることはなかった。ただ、ビデオ判定直後の審判による説明では、観客の妨害により本塁打が二塁打に変更されたとも解釈できる説明がなされたこともあり、試合翌日の14日にNPBはこの件で詫びを入れるとともにファンに対し異例の「お願い」を出した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ホームランの出やすさの理由として、第一に、左中間・右中間の膨らみが小さく110mしかない(両翼からセンターの最深部までほぼ直線の構造である)ことが挙げられる。これは現在の12球団の本拠地球場の中で最も狭い(なお、福岡ドームもホームランテラスを設置後は同じ規格となっている)。第二に、屋内球場のため風の影響を受けない上に構造上湿度が低くなっているため打球が伸びやすいことが挙げられる。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "もっとも、東京ドームは野球規則1.04に記載されている国際基準を満たすNPB初の本拠地球場であり、完成当時としては広い球場だった。 実際に後楽園球場でなされた1987年(昭和62年)の公式戦は112試合で234本の本塁打(1試合平均2.09本)が出たが、東京ドームの1988年(昭和63年)の公式戦112試合は147本(1試合平均1.31本)が出たにとどまり、約4割減少している。さらに、コンピュータ分析では、王貞治の868本塁打のうち、東京ドームなら322本減るという結果も出ていた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "他球場と比較しても、東京ドームの1試合当たりの平均本塁打数は、各球団の本拠地(巨人と日本ハムが本拠地としていたため、全12球団で全11球場)中、1988年10位、1989年10位、1990年11位であり、数字の上でも本塁打の極めて出にくい球場であった。しかし、その後は、1991年7位、1992年6位、1993年6位、1994年6位、1995年7位、1996年6位、1997年3位、1998年1位、1999年2位、2000年1位と、他球団が広い球場に本拠地を移転したり球場を拡張したりする中で、東京ドームは相対的に本塁打の出やすい球場となっていった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "それに加えて、ボールの影響が言われており、それまでのタマザワ製ボールだったのを1992年からミズノ製に変えたために、本塁打が増加したとされる。それを裏付けるように、開業した1988年の1試合当たりの本塁打数は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と2.6倍以上に増加し、統一球導入前後で、2010年は2.88本(73試合で210本)・2011年は1.42本(69試合で98本)と半数以下に激減している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この最中、1998年(平成10年)には東京ドームで本塁打が急増したため、読売新聞で分析がなされ、左・右中間の膨らみが無いこととともに、スタンドにしか冷房が当たらない構造から、「冷房によって外野席の気温が下がれば『風』がグラウンドから吹きつけることは考えられる」という仮説を挙げている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "屋根は空気膜構造と呼ばれるもので、内部の空気圧を外部よりも 0.3%(3ヘクトパスカル)高くして膨らませている。インフレートと呼ばれ、完成時に屋根を膨らます作業が行われた(この作業はメディア等でも取り上げられている)。圧力差を維持するために送風ファンを合計36台設置しており、ドア開閉がある場合は10台から18台、ドア閉鎖時は2台を動作させて気圧を維持する。出入り口は手動式回転ドアやエアロックが設置されており、全面的なドア開放は与圧が抜けて屋根が潰れる原因になるので出来ない。多数の観客が退場する際は通常のドアも開放されるが、気圧のため外向きに強い風が起こり注意を要する。この風は回転ドアのわずかな空間でも発生している。隣接する小石川後楽園の日照に配慮するため、屋根の高さが外野方面に向かって低くなっていくように設計されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "屋根は28本のワイヤを8.5メートル間隔で縦横に並べ、その間に二重構造の膜を張ったものとなっている。膜はガラスクロス(織物)の表面をフッ素樹脂でコーティングしたもので、耐候性・耐熱性・非粘着性に優れた不燃材料である。内膜は音を吸収する特性もある。耐用年数は20年以上。総重量は400トン。太陽光の約5%を透過する。施工は太陽工業。ワイヤからテレビカメラ(中央部)、スピーカー(中央部1個、膜屋根周辺21個)、照明(14ヶ所)が吊るされている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中央部のテレビカメラ(通称『トップアイ』)からの映像は、野球中継だけでなくNHK・民放各局の夜のスポーツ速報番組などに使われていた。最近の巨人戦などの野球中継ではあまり頻繁に使用されないが、投手の投球練習 を上から撮影する際などに使用されている。巨人の優勝決定時に行われる胴上げの際は『トップアイ』からの映像が必ず使用される。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "天井の高さ61.69mは1964年の後楽園球場開幕試合に巨人の王貞治が国鉄・金田正一から放った超特大の場外ホームラン(推定飛距離151m)から導き出された数字で、それ以上の打球が来ても屋根に当たらないように高さが設定された。完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れた長嶋茂雄は「この天井にボールをぶつけることは無理でしょう」と述べていたが、実際は打球が天井や懸垂物に当たった例は多数ある(東京ドームの特別ルールの適用例を参照)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "東京ドームは打球が天井や懸垂物に当たった場合などに備えて特別ルールの「東京ドーム特別規約」が設けている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "東京ドーム特別規約(2016年現在)の内容は以下の通り。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "開場当初から1990年代までは、特にデーゲームにおいて、白い天井とボールが同化して野手がフライを見失うケースが続発した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "第66回都市対抗野球大会の決勝では、打球を見失ったためにランニング本塁打となり、それが勝敗を分けた。1998年(平成10年)の都市対抗野球大会では、東京ドームの天井で打球を見失ったためにヒットになったケースをカウントした結果、1大会(31試合)で20本との数字が出ている。2000年代以降は、経年によって天井が黒ずんできたため、このようなケースはほとんど見られなくなっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本の球場としては珍しく、メインとなる内野2階コンコースから直接グラウンドが見える構造となっており、グラウンドに近いスペースを立見席として販売している。車椅子を利用する観客のために、立見席の一部を「車椅子席」としている。車椅子だけでなく、介護ベッドを利用する観客も利用できるようになっており、介護ベッドを設置し、介護ベッドで横になりながら試合を観戦している観客もいる。発売方法は通常と異なる。他に内野は1階と4階、外野は1階にコンコースがあり、グラウンド面は地下5.5mの高さである。 基本的に座席の色は青とシーズンシートのグレーで統一されている。敷地の関係上、日本の球場としては外野席の比率が低い。内野席は2層式で中間にバルコニー席があり、巨人戦は食事付き年間指定席となっている。バルコニー席の中央部分はVIP用スペースとなっており、イベントによってはバルコニー席全体が関係者用スペースにもなる。スタンドのファウルポール付近は可動席で、サッカー、アメフト等の開催時はフィールドを広げられるようになっている。かつてはスタンド下方への自動収納式のものもあったが現在は廃止されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "巨人主催ゲームについては2009年から2010年まで、阪神戦を除く平日ナイターに限り内野C指定席の一部を学割チケットとして販売していた。また、2023年には平日ナイターに限りD指定席の一部を大学生や専門学校生向けに1000円で販売している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "左翼スタンドのセンター寄りを巨人の応援席にした「レフト巨人応援席」、残りの座席の一部を「ビジターチーム応援席」と設定したため、巨人ファンとビジターファンとの外野の座席比率はおよそ6:4(実質見た目は7:3ぐらいに見える)になっている。元来ライト側に入れない巨人ファンがレフトのライト側寄りで応援していたことと、レフト側でビジターチームを応援する客が少なかったこと、2005年(平成17年)後半戦の阪神戦以外の全ての試合で、バックスクリーン周辺のレフトスタンドの客席の空席が目立ち過ぎたことなどから、設定された席種である。なお阪神戦は、阪神ファンの集客率が他球団のファンのそれと比較すると圧倒的に高い点や巨人と阪神のファン同士での争い事の発生を避ける ことなどを理由に「レフト巨人応援席」は設定されておらず、レフト外野席全てが事実上のビジター応援席となる。ただし、クライマックスシリーズ開催時は例外であり、阪神戦の際も「レフト巨人応援席」が設定される。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "都市対抗、大学選手権、プロ野球のアジアシリーズが開催される期間中は、一・三塁側スタンド最前列に応援団の特設ステージが設けられる。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)から内野一・三塁側のファウルゾーンにフィールドシート(エキサイトシート)を設置(228席)した。2009年(平成21年)からは座席列が2列から4列に増設されて420席(一塁・三塁各210席)となっている。2017年からは一塁、三塁側に合わせて154席増設され、合計574席となった。38席分に頭上まで防球ネットエリアが新設された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2019年から東京ドーム外野のレフトスタンド下に、シークレット パーティールームが登場。外野フェンスに窓が設けられており、カウンター席から試合を観戦することが出できる。また大型モニター・ソファが設備された個室で、ホテルメイドのパーティー料理・ソフトドリンクが楽しめる。部屋数は2室で、収容定員は15-25名。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "プロ野球の各球団は、2004年(平成16年)までその主催のシーズン公式戦の観客数を概数で数字で発表していた。東京ドームは収容人員を1988年から1994年まで56,000人、1995年から2004年まで55,000人とし、巨人戦の観客数を実際の入場者数に関わらず満員の55,000人(1994年まで56,000人)と発表していた。朝日新聞によると、設計段階は50,009人であり行政指導の結果46,314人に減ったが(後述)、満員で5万人と発表していた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ただし、日本シリーズやオールスターゲームは、各球団ではなく日本野球機構の主催となり、同機構が公益法人(一般社団法人)のため実際の有料入場者数が記録されることになっている。日本野球機構主催ゲームの最多有料入場者数は、1994年日本シリーズ第2戦の46,342人である。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)からプロ野球全体で観客数発表を実数に近似させるため、通常は実際の入場者ではなくシーズンシートを含めたチケット購入者数を、プロ野球チームが本拠としている各球場でも収容人員の変更が行われているが、東京ドームは観客数発表の方法は変更したものの収容人員の変更はしばらくされていなかった。2013年現在は野球開催時の収容人数を約46,000人と公称している。しかししばしば47,000人弱の動員が記録されている。また1998年のアメリカ横断ウルトラクイズでは、5万453人と発表されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "開場当初、小石川消防署に届けられていた定員は46,314人(そのうち立ち見2,976人)であった。2005年(平成17年)4月13日の産経新聞は、改修を経て現在の数字である45,600人に落ち着いたとある。その後、エキサイトシート新設による増員が行われた。2023年時点では公式ホームページ上では(野球開催時)、約43,500人となっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "野球以外でのイベントは、2002年12月7日の「K-1 WORLD GP 2002 決勝戦」が主催者発表で74,500人、1998年(平成10年)4月4日の新日本プロレス他主催の「燃える闘魂アントニオ猪木引退試合」が主催者発表で70,000人などの記録がある(コンサート、格闘技などはグラウンドにも座席を設けるため、野球開催時より多数の観客を収容できる)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)の完成時のスコアボードは、バックスクリーン側の三菱電機製白黒2色の「スコアボード」とフルカラー表示の「オーロラビジョン」、バックスタンド上部にある白黒2色のサブボード(スコア表示のみ)だった。打順のチーム名表示は開場初年のみ「巨人」・「阪神」などの通称を使用していたが、翌年から「ジャイアンツ」・「タイガース」といったニックネームに切り替わっている(文字はどちらも明朝体)。2003年に、後述するスコアボード部改修を機に再び通称表示(パ・リーグの場合は「大阪近鉄」・「福岡ダイエー」・「千葉ロッテ」等)に変更されたが、2004年にニックネームに戻された(2003年以降の文字はどちらもゴシック体)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "オーロラビジョンは1990年(平成2年)にハイビジョンサイズへ変更、1999年(平成11年)に全面改修された。2001年(平成13年)にサブボードも三菱電機製のフルカラー表示の全面オーロラビジョンに全面改修された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)にスコアボード部が改修され、ホームラン時の映像パフォーマンス(ホームチームのみ)が上半分の表示から全画面表示になった。各選手の打率(AV)、ホームラン(HR)表示に打点(RBI)が加わった。球速表示も単位が\"km\"から\"km/h\"に変更され、スコア部分のチーム名表示が普通のアルファベットから各球団の帽子のマークに変更された(2004年以降の西武と近鉄は帽子のマークがイラストのみのため、西武は胸マークの「L」の筆記体、近鉄は太字の「Bu」が使用された)。選手名に使用されていた文字の字体が多少変更された。2004年(平成16年)のシーズン途中からは、サブボードの球速表示部分にも打席の選手名、打率(AV)、ホームラン数(HR)が表示されるようになった。球速表示はその下に表示される。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)にバックスクリーン側のスコアボードとオーロラビジョンの全面改修が行われ、フルカラーLED表示の全面オーロラビジョンになった。フォントがCanonの角ゴシックCaに変わり、従来のものと違い両チームのメンバーを上から下へ縦表示になり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。2つの境目がなくなったことで、選手交代時に守備と選手名の部分が上から下へ回転して変わる、などさまざまな映像表現が可能となった。チーム名は最上部にチームロゴで表示される。10億7,000万色の発色が可能となり、日本の野球場では最高レベルの鮮明な画像が見られる。縦組みのメンバー表示は後楽園時代の1987年以来の復活となった。バックネット裏スタンド最上部のオーロラビジョンもバックスクリーンと同じ尺度のスクリーンになった(スコア+打者の個人成績/リプレー映像/来場者映像の表示のみ)。文字を表示しない枠にあたる部分は緑色になっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)から、バリアフリー対策の一環で選手名部分の字体の幅が大きくなった(それ以外はこれまで通り)。その影響でペットマークを表示していた部分がなくなり、チーム名を選手名の上部に表示するようになったため、一列に入る選手名が9人分となった。このため指名打者制の試合時は、5番打者の名前の横(3塁側のチームは右側、1塁側のチームは左側)に投手名が表示されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)より、スコアボードをより見やすく・わかりやすくするため、守備位置表示が英語略称から日本人になじみのある数字に戻り、投球数表示が追加され、オーロラビジョン部分がハイビジョンサイズ(16:9)になる。打率・ホームラン・打点の表示も英語から日本語に変わった。枠の色が緑から文字の部分と同じ黒に変更されており、球速やヒット、エラーなどの記録は黄色で表示される。前年開催された2006 ワールド・ベースボール・クラシックアジアラウンドで投手の投球数制限をわかりやすくするために使用された投球数表示をこのシーズンから公式戦でも使用し始めた(巨人主催試合のみ、日本ハムをはじめとするパ・リーグやアマチュアでは表示されない)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "野球の試合で使用する場合、スコアの表示は開設当時は9回まで(10回以後は9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する)だった。2003年(平成15年)の改修に際して、延長戦の表示について、プロ野球のように延長が12回までしか行われない場合は1回から9回までのスコアの幅に1回から12回までのスコアを、幅を詰めて表示するようになった。都市対抗野球大会など、延長が13回以降も行われる可能性がある場合は、従来通り9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する(現在のスコアボードも同様)。2007年(平成19年)からスコア部分のチーム名表示がアルファベット1文字になった(2011年までは横浜とオリックスは共に「B」と表示されていた)。ただし、2文字以上表示することも可能であり、2008年のアジアシリーズはSKワイバーンズが「SK」・統一セブンイレブン・ライオンズが「U・L」・天津ライオンズが「T・L」と表示され、2012年に行われたMLB開幕戦ではシアトル・マリナーズが「SEA」・オークランド・アスレチックスが「OAK」と表示された。2012年からDeNAは「DB」と表示されている(オリックスは「B」のまま)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2011年シーズンから国際慣習に基づき、ボールカウントを「SBO」から「BSO」表示に変更した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "2017年からは一軍での巨人主催ゲームのみにおいて右下のスペースに投手成績、打者成績が表示されるようになった。投手は登板数、投球回数、奪三振、防御率が表示されており、打者は打数、安打、四死球、得点、長打率、出塁率、盗塁数、得点圏打率が表示されている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "2021年のオフシーズンより、2年かけてメインビジョンとサブビジョンの大規模改修工事が予定されていたが、予定を1年早めて2022年シーズン開幕までに完成させる方針を固めた。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "当初の予定では、2021-22年のオフシーズンでは従来のオーロラビジョンが設置された箇所+レフト側で最もバックスクリーン寄りにあった広告パネルのうちの1枚+バックスクリーンの回転パネル型広告盤(プリズムビジョン)を一体化して、従来の2倍程度のサイズの大きさにする予定がなされていたが、これを1年前倒しにして、当初2022-23年のオフシーズンにかけて予定していた完成形のものにした。従来の約238m2からみて約4.4倍相当の約1050m2・横幅約125.6mのLED巨大フルカラーボードを旧来のセンターバックスクリーン付近から、広告パネル(11枚)が掲げられていた外野席のほぼ全体にかけて設置するもので、画質もプロ野球公式戦が行われる球場では最高峰のものとなった。ビジョンの拡大により、従来から看板広告を提供していた協賛各社のパネル(引き続き看板を掲示する左中間・右中間各1枚を除き、かつ初代オーロラビジョンが設置された箇所相当分を含め10枚相当)と、バックスクリーンに提供していたパネル広告は、リニューアルされた電光掲示板にも再現され、リボンビジョン(後述)と同じように様々なパターンの広告を掲示できるようになった。また、それまで常設であった時計とボールカウンターについては、ビジョン内で表示する形式に変更された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "この新メインビジョンと連動する形で、音楽や照明との一体化した映像や静止画、アニメーションなどの映像演出を展開するほか、外野席のフェンス最前列に、ポール際から左中間・右中間に向かう形で設けられるリボンビジョン(縦1.28m×横53.76m、面積68.813m2、画素ピッチ10mm×2面)を設置した。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "このほかスコアボードとの連動によるDMXというシステムを使い、各種映像演出と一体化した照明パターンを展開している。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ネット裏の放送席の配置は、三塁側から順に東京ケーブルネットワーク、ニッポン放送、ラジオ日本、テレビ朝日、NHK、日本テレビ、文化放送、TBSラジオ、6局共用ブース(北海道放送、CBCラジオ、ラジオNIKKEI、RKB毎日放送、朝日放送ラジオ、MBSラジオ)となっている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "6社共同ブースは、ラジオNIKKEIは日本短波放送時代に後楽園球場からプロ野球中継を行っていた名残で使用権を持っているが、2021年現在は中継の制作を行っていない。北海道放送とRKB毎日放送は交流戦の巨人主催試合、あるいは日本ハム・ソフトバンクの主催またはビジターのパ・リーグ公式戦で(2017年以前はTBSラジオの、2018年以降の平日は文化放送の、週末はニッポン放送のブースを借りる場合もある)、CBCラジオは巨人主催試合を聴取率調査期間中や一部週末デーゲームに自社制作する時に使う程度である(後者の場合は2017年まではTBSラジオの、2018年以降はRFラジオ日本のブースを借りることもある)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "東京ケーブルネットワークの放送席は地上波のテレビ埼玉(過去に千葉テレビ放送も)、CS放送のGAORA(プロ野球・日本ハム主催試合と都市対抗社会人野球)、スカイ・エー(アメリカンフットボール社会人Xリーグ)、BS放送のJ SPORTS(プロ野球・楽天主管試合とアジアシリーズ)に使われるほか、ラジオの巨人主催試合を朝日放送ラジオとMBSラジオが並行して制作する場合に朝日放送ラジオが使用する(この場合、MBSラジオが前述の6局共用ブースを使用。2010年以降週末を挟む三連戦でRFラジオ日本や文化放送が中継を一切行わない場合、朝日放送ラジオはRFラジオ日本や文化放送のブースを使うこともある)。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "TBSラジオが2017年を最後にDeNA主催試合の裏送り以外の野球中継から撤退したため、TBSラジオのブースは予備ブース扱いとなり、FM NACK5が東京ドームから西武が関与する試合を中継する時に同ブースを使用したことがある。2021年に行われた東京ドームでのDeNA主催試合におけるTBSラジオのビジター地元局への裏送りで、どのブースが使われたかは不明。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "放送席に入るために一度コンコースを通らなければならず、観客が解説者などにサインをねだる光景がみられる。日本テレビの番組宣伝などで中継ゲストに有名芸能人が登場したときは試合終了後に放送席裏のコンコースが人だかりして混乱する。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "21番ゲート右側に野球殿堂博物館が併設されている。この施設も後楽園球場から「野球体育博物館」の名称で受け継がれてきたが、2013年4月1日に現在の名称に変更された。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "東京ドームは、野球開催時に以下のような規制を行っている。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "応援幕・メッセージボード等の内容は、チームや選手を応援するものに限り、公序良俗に反する内容や誹謗中傷(球団への批判等)を含む内容のものは、持込ができない。試合中に掲げても、掲げている内容が試合中でも厳しくチェックされているため、発見され次第係員に没収される。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "巨人主催試合は1993年(平成5年)まで、日本ハム主催試合は2006年(平成18年)まで太鼓を使用できなかった。理由は一説によると、東京ドームの応援規制が緩和された1994年(平成6年)に巨人・日本ハム両応援団は「トランペット(トロンボーン)持込数増加」と「太鼓持込」のいずれかを選択することになり、巨人応援団は太鼓を、日本ハム応援団はトランペット(トロンボーン)を選択したと言われる。日本ハム主催試合で2007年(平成19年)以降太鼓が認められるようになったのは、巨人主催試合のビジター戦では太鼓が認められ(パ・リーグ他球団主催試合については不明)、ホーム戦で認められないことに対する矛盾を解消する事が理由であると言われる。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2016年12月が会社創立80周年に当たることから、同年1月から2019年1月の3年間にわたり、1988年の開業以来初となる大規模改修工事を行う。総事業費は約50億円で、一部休業期間を設けるが基本的に営業を継続しながら段階的に実施する。主なリニューアル内容は以下の通り。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "前述の通り2021 - 2023年のオフシーズンを利用し、2期に分けてスコアボードの大型化拡充のほか、エントランスや客席のホスピタリティーの改善を進めていく予定だったが、2021 - 2022年のオフシーズンに工期を短縮して展開することになった。", "title": "施設概要" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "バックネットのフェンス広告は2004年(平成16年)から電動により広告パターンを複数出せるようになっている。オールスターゲームが開催される場合は、オールスターゲームの冠スポンサーの広告を掲出している。日本シリーズが開催される場合もオールスター同様に冠スポンサーの広告を出している。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "外野に12枚(左翼6枚、右翼6枚〈開設当初は9枚:左翼5枚、右翼4枚〉)の巨大看板が設置されている。プロ野球開催時にこの巨大看板に直撃するホームランを打った選手に対して「東京ドーム・ビッグボードホームラン賞」として100万円の賞金 かそれに相当するスポンサー商品が贈呈される。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "かつてはライト側の柱広告に直撃するホームランを打った選手に300万円の賞金が贈呈されていたが、契約終了により2006年(平成18年)に廃止されて広告が撤去された。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "東京ドームは、消費者金融の会社の広告を一切出していない。以前に大阪近鉄バファローズが消費者金融のアコムとスポンサー契約を新たに結び、ヘルメットに同社名を記したことを、巨人の渡邉恒雄オーナーが「プロ野球の品位を汚す。消費者金融の広告など、子供に見せられない。東京ドームは、消費者金融の広告は一切ない」と痛罵したが、その発言時は東京ドームでも同業のプロミスの広告が出されていた。その後シーズンオフに、次年度の広告掲載の契約更新の際、東京ドームがプロミスに「来年の広告掲載の更新は見送って欲しい。状況を理解して欲しい」と更新を行なわない旨を通達し、プロミスも了承し、消費者金融の広告は一切排除された。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "バックスクリーンは開場当時は両サイドの広告(同一企業のもの2枚)を貼るのみだったが、その後中央部分に「プリズマビジョン」と呼ばれる回転板が張られるようになった。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "かつては室内広告として、試合約40分前、3回裏、5回裏、7回裏のグランド整備の間、ゲームセットコールの直後と客出しの間の15 - 20分間に、ビッグヴィジョンへ生中継できるカメラとサンプル商品などを投下する3つの小型気球、それぞれを装備可能な無人飛行船が飛行しており、巨人勝利の際はヒーローインタビューのTVのカメラフレームに入り込むように飛行していた。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "先述の通り、2022年の映像装置の大型化により、従来の看板型のものから電光掲示板へのサイネージ表示を採用したことで様々な広告パターンを表示できるようになったが、ビジョンに打球を当てた場合の賞については原則として巨人主催の公式戦のみとなった。", "title": "看板広告" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "東京ドームの球場使用料は、2023年4月現在は7時から24時までの1日で観客数に関係なく税抜きで平日1,980万円、休日2,200万円。(2023年3月までは1700万円)ただし、観客を入れない場合は準備日料金となり1日825万円である。この高い使用料が日本ハムの札幌移転の理由の1つとなった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "この金額は照明、アナウンス、ゴミ掃除など観客を入れるための各種オプションも含まれた金額である。オフシーズン、平日、昼間、草野球(2時間程度)、オプション無し、などの条件であれば50万程度で貸し切ることができる。使用に関しては22時以降0時20分までや23時30分から深夜5時までという深夜の使用も認められている。ただし、12月~2月までの間については草野球の貸出を行っていない。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1980年に後楽園MVP賞として制定された球場独自の表彰で、1988年の東京ドーム開場時に東京ドームMVP賞に改称された。東京ドームを本拠地とする球団に属する選手(創設当初は巨人・日本ハム、2004年以降は巨人のみ)で、同球場で最も活躍した選手1名を表彰し、記念プレートを球場内コンコースに永久展示する。賞金は300万円。年度によって「特別賞」や「新人特別賞」などが贈られる場合がある。", "title": "東京ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2022年シーズン終了時点で最多受賞者は打者は小笠原道大の6回、投手は菅野智之の4回。", "title": "東京ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "※1980年から1987年までは、「後楽園MVP賞」。1988年以降は、「東京ドームMVP賞」。", "title": "東京ドームMVP賞" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "東京メトロ南北線飯田橋駅~後楽園駅間は、東京ドームのグラウンドの真下を通っている。", "title": "最寄駅" } ]
東京ドーム(とうきょうドーム)は、東京都文京区後楽にあるドーム球場。プロ野球・セントラル・リーグ(セ・リーグ)の読売ジャイアンツ(読売巨人軍)が専用球場(本拠地)としている。 1988年(昭和63年)3月18日に開場した日本初の屋根付き球場で、株式会社東京ドームが運営する東京ドームシティの中核施設。野球のほかに、格闘技・プロレスの興行やコンサート、商品の展示会なども行われている。建築面積は46,755m2。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses||運営会社|東京ドーム (企業)|面積・体積表現として用いる「東京ドーム」という表現|東京ドーム (単位)}} {{出典の明記|date=2015年2月12日 (木) 10:57 (UTC)}} {{野球場情報ボックス | スタジアム名称 = 東京ドーム | 愛称 = | 画像 = [[ファイル:Tokyo Dome 2007-12.jpg|thumb|300px|外観]] [[File:Interior of Tokyo Dome 201904b.jpg|thumb|300px|フィールド全景(外野広告部分は2021年まで)]] |ロゴ画像 = TOKYO DOME CORPORATION logo.svg | 所在地 = {{JPN}}<br>[[東京都]][[文京区]][[後楽]]1丁目3-61 | 緯度度 = 35 |緯度分 = 42 |緯度秒 = 21 | 経度度 = 139 |経度分 = 45 |経度秒 = 7 | pushpin_map = Tokyo city | 起工 = 1985年(昭和60年)5月16日 | 開場 = 1988年(昭和63年)3月18日<ref name="hokkaido-np-1988-3-18">“東京ドームが盛大に完工式”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1988年3月18日)</ref> | 所有者 = [[東京ドーム (企業)|株式会社東京ドーム]] | グラウンド = [[人工芝]](フィールドターフ) | [[ダグアウト]]=ホーム - 一塁側<br />ビジター - 三塁側 | 照明 = 照明灯 - 14ヶ所<br />照度 - バッテリー間:2800ルクス、内野:2500ルクス | 建設費 = 約350億円 | 設計者 = [[竹中工務店]]、[[日建設計]] | 建設者 = 竹中工務店 | 使用チーム、大会 = [[読売ジャイアンツ]](開場 - 現在)<br />[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]](開場 - 2003年)(札幌移転後は年間数試合程度開催)<br />[[都市対抗野球大会]](開場・第59回大会 - 現在)<br />[[全日本大学野球選手権大会]](第54回大会 - 現在) | 収容能力 = 約43,500人<ref name="施設概要">[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/about/ 東京ドームとは - 東京ドームシティ]</ref>(野球開催時、うち車椅子席12席)<br />約55,000人(コンサート開催時) | 規模 = グラウンド面積:13,000 m<sup>2</sup><br />両翼 - 100 m (約328.1 ft)<br />中堅 - 122 m (約400.3 ft)<br />左右中間 - 110 m (約360.9 ft) | フェンスの高さ = 4.24 m(約13.9 ft) }} '''東京ドーム'''(とうきょうドーム)は、[[東京都]][[文京区]][[後楽]]にある[[ドーム球場]]。[[日本野球機構|プロ野球]]・[[セントラル・リーグ]](セ・リーグ)の[[読売ジャイアンツ]](読売巨人軍)が[[専用球場]](本拠地)としている。 [[1988年]](昭和63年)3月18日に開場した[[日本]]初の屋根付き球場で<ref name="hokkaido-np-1987-7-22">“広い!高い!東京ドーム 上棟式で初公開”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1987年7月22日)</ref>、[[東京ドーム (企業)|株式会社東京ドーム]]が運営する[[東京ドームシティ]]の中核施設。[[野球]]のほかに、格闘技・[[プロレス]]の興行や[[コンサート]]、商品の展示会なども行われている。建築面積は46,755m<sup>2</sup>。 == 概要 == 日本初の全天候型多目的スタジアムで<ref name="hochi20180203">{{Cite news|title=東京ドームが開業30周年! 今や“死語”のビッグエッグ元年を振り返る|date=2018-02-03|url=https://hochi.news/articles/20180202-OHT1T50138.html?page=1|accessdate=2018-10-22|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref>、[[後楽園球場]]の実質的な代替球場として[[後楽園競輪場]]の跡地に開場<ref>{{Cite web|和書|url=http://jpri.kyodo.co.jp/203/|title=後楽園 {{!}} 写真展 東京の半世紀 -定点観測者としての通信社- 主催|公益財団法人 新聞通信調査会|accessdate=2018-10-22|website=jpri.kyodo.co.jp|language=ja}}</ref>。1988年3月17日にオープニングセレモニーが開かれ、3月18日にこけら落としイベントとして巨人と阪神のオープン戦が行われた<ref name="hochi20180203" />。 4月8日に初の公式戦「巨人 - ヤクルト」(夜に「日本ハム - ロッテ」)が行われた。その日の関東地方は[[1988年4月8日の大雪|4月としては珍しく大雪]]で同じ関東地方の[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]](当時はドームではなかった)での開幕戦は中止となったが、東京ドームの開幕戦は予定通り行われ、ドームの威力を早々と発揮した形になった。 愛称は「'''BIG EGG'''(ビッグエッグ)」<ref name="hokkaido-np-1987-7-22" /> であり、[[1998年]]まで[[東京ドーム (企業)|東京ドームグループ]]の旧称として「BIG EGGグループ」と言う社名が使われていたが、2000年の時点でこの呼称は'''公式に廃止されている'''<ref name="hochi20180203" /><ref group="注">但し、JR[[水道橋駅]]のホーム上にある出口案内板には今でも東京ドーム(ビッグエッグ)と書かれており、ビッグエッグという呼称が完全な[[死語 (言語)|死語]]になったわけではない。</ref>。 空気膜構造屋根を持つアメリカの[[ヒューバート・H・ハンフリー・メトロドーム|メトロドーム]]をモデルとして設計された<ref>{{Cite news|title=東京ドームの屋根は固い?それともやわらかい? - デザイン・設計のヒミツを広報さんに聞いてみた|date=2013-10-20|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20131020-td/|accessdate=2018-11-08|publication-date=|language=ja-JP|work=マイナビニュース}}</ref>。特徴的な屋根は総重量400キロに達するもので、1987年6月28日の午前中に[[インフレート]](空気入れ)が行われ<ref>公式ホームページでの記載より。</ref><ref group="注">1987年下半期の後楽園球場でのプロ野球中継では、すでにインフレートが終わった開場間近のドームの外観がたびたび映し出された。</ref>、以後、今日まで一度もしぼんだことがない。2002年からロングパイル[[人工芝]]を日本の野球場で初めて採用した。[[芝|天然芝]]に近い感触の特殊な繊維とクッション材を採用し、選手の負担を軽減している。ドームの広さは約216メートル四方で[[建築面積]]は46,755m<sup>2</sup>、[[体積|容積]]は約124万m<sup>3</sup>([[東京ドーム (単位)]]も参照)。 2015年度の実績では、撤去・設営も含めた稼働実績は87.4%<ref name="nikkeibp20161109">{{Cite news|title=稼ぐスポーツ施設は民間に学べ――東京ドーム、ゼビオアリーナ仙台|date=2016-11-09|url=https://project.nikkeibp.co.jp/atclppp/PPP/report/110100010/|accessdate=2018-11-08|publication-date=|language=ja|work=新・公民連携最前線 PPPまちづくり}}</ref>。そのうち野球が占める割合は4割程度であり、その他はコンサートなどの各種イベントが占める<ref name="nikkeibp20161109" />。 ; 開場から1ヶ月間の開催実績 * 3月17日 東京ドーム落成式「オープニング・セレモニー」。22番ゲート前でテープカット、場内で神事、全米高校選抜ドリルチームによるダンス * 3月18日 江川卓サヨナラ登板式。投手[[江川卓 (野球)|江川卓]](前年に引退)、打者[[掛布雅之]] * 3月18日 プロ野球オープン戦「巨人対阪神」。始球式、[[竹内壽平]]NPBコミッショナー(当時) * 3月19日・20日 東京ドーム「オープニングイベント『マーチングバンド世界選手権』」ゲスト[[THE ALFEE]] * 3月21日 ボクシング統一世界ヘビー級タイトルマッチ「王者[[マイク・タイソン]] 対 挑戦者[[トニー・タッブス]]」 * 3月22日・23日 ミック・ジャガー「Japan Tour 1988」 * 3月28日 HOUND DOG「BLOODS LIVE CONCERT TOUR 1986-88」 * 3月29日-4月3日 サッポロビールプロ野球トーナメント(東京ドーム完成記念、セ・パ全12球団による初のトーナメント) * 4月4日・5日 BOØWY「LAST GIGS」 * 4月8日 プロ野球公式戦。昼「巨人 - ヤクルト」、夜「日本ハム - ロッテ」 * 4月11日 [[美空ひばり]]「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」 == 野球での使用 == === 日本プロ野球(NPB) === 後楽園球場から引き続き、読売ジャイアンツと[[パシフィック・リーグ]]の[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ(当時)]]の2球団が専用球場(本拠地)とした。日本ハムは2004年度に[[北海道]]の[[札幌ドーム]]に移転した<ref>{{Cite news|title=北海道日本ハムファイターズ 北のV戦士が中心/球団別オールタイム・ベストオーダー - 週刊ベースボールONLINE|date=2018-06-25|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180625-10|accessdate=2018-11-08|publication-date=|work=週刊ベースボールONLINE}}</ref>ため、以降は読売ジャイアンツのみが専用球場としている。巨人は一軍だけでなく、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|二軍]]の公式戦でも年に数試合使用する。 ==== 読売ジャイアンツ ==== 開場以来、レギュラーシーズンに年間60試合強の主催試合を開催する。2019年までに[[クライマックスシリーズ]]が9度、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]が11度開催されている<ref group="注">巨人は2020年にも日本シリーズに進出しているが、[[第91回都市対抗野球大会]]の開催時期と重なったため、特例として[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]での主催試合となった。</ref>。 ==== 読売ジャイアンツ以外による主催試合 ==== <small>{{seealso|日本プロ野球公式戦開催球場一覧 (2000年-2009年)|日本プロ野球公式戦開催球場一覧 (2010年-2019年)|日本プロ野球公式戦開催球場一覧 (2020年-2029年)}}</small> 日本ハムの本拠地ではなくなった2004年以降は、日本ハムも地方開催という形で継続して主催試合を開催したほか、[[パシフィック・リーグ]]の日本ハム以外の球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。日本ハム以外では、2004年に初めてオリックスが2試合、ダイエーが1試合の主催試合を東京ドームで開催したのを皮切りに、2005年と2007年から2009年にかけてはオリックスが2試合を、2010年から2019年までは楽天が毎年1試合を、ソフトバンクが2012年以降毎年1試合(2018年と2019年は2試合)を、ロッテが2016年と2018年・2019年に1試合を、西武が2018年に1試合を、それぞれ東京ドームで開催した。このように、パ・リーグの現存する6球団は全球団が主催試合の開催実績を持つ。 一方、巨人以外のセ・リーグ各球団については2010年代まで開催実績はなかったが、東京オリンピック・パラリンピック開催の関係でヤクルトとDeNAが2021年に初の主催試合を行ったほか、シーズン日程消化の兼ね合いから同年の日本シリーズの第3戦から第5戦(ヤクルト主催試合)も行われた(経緯の詳細は後述)。 なお、1952年に日本プロフェッショナル野球協約第38条によって制定された「[[プロ野球地域保護権]]」により、東京都の同権利を持たない球団が主催試合を開催する場合、権利を持つ読売ジャイアンツと東京ヤクルトスワローズの両球団に予め承諾を得ることが前提条件となっている。 ===== 北海道日本ハムファイターズ ===== 移転前年の2003年11月に東京ドームで開催された東京時代最後のファンフェスティバルで、[[今村純二]]球団社長(当時)が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。東京ドームでの開催を継続する理由として、東京都にも球団事務所があること、[[ファイターズ鎌ケ谷スタジアム|二軍施設]]は隣県の[[千葉県]][[鎌ケ谷市]]のまま継続されていることに加え、旧来の東京のファンの存在を考慮したことなどが挙げられた。 2004年は東京ドームでの主催試合が12試合行われ、2005年は10試合、2006年から2019年までは毎年7〜9試合の主催試合が組まれた<ref group="注">2011年は当初8試合行われる予定だったが、[[東日本大震災]]による計画停電の影響を受け、3月29日 - 3月31日の日本ハム主催の3試合が中止となり、その振替試合は全て札幌ドームで行われたため、東京ドームでの主催試合は5試合となった。</ref><ref group="注">2016年は当初8試合を行う予定であったが、4月1日の対ソフトバンク戦については、当日に東京ドームで[[μ's]]のファイナルライブが開催される予定であること、また静岡県と静岡市から公式戦開催の要請を受けたことにより急遽日程を変更し、東京ドームから[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]]での開催に振り替えることになったため、東京ドームでの主催試合は7試合となった。</ref>。ただ、2020年以降は縮小され、2020年は当初の発表では東京オリンピック・東京パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで4試合の開催予定に留まり<ref name="npb190729">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://npb.jp/games/2020/schedule_all_pl_20190729.pdf |title=2020年度パシフィック・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-29 |accessdate=2019-08-21 }}</ref>、その4試合も新型コロナウイルスの影響で開催されなかった。2021年は同年に延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催に伴う他球団の主催試合との兼ね合いで5試合の開催となった。2022年は3試合のみとなり、2023年は全主催試合を新球場の[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]で開催したため、東京ドームでの開催は35年で途絶えることとなった<ref>{{Cite web|和書|title=【日本ハム】来季は東京ドームや道内地方球場などで開催せず、新球場で主催全試合 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202211210000771.html |website=日刊スポーツ |access-date=2022-12-17 |date=2022-11-21}}</ref>。2024年も前年同様に地方開催は予定されておらず、東京ドームでの開催はない。 [[ファイル:Tokyo Dome 030928a.jpg|thumb|center|500px|一塁側より撮影(日本ハムファイターズ東京本拠地最終戦)]] ===== オリックス・バファローズ ===== [[オリックス・バファローズ]]は親会社である[[オリックス (企業)|オリックス]]の本店機能が東京にある関係で(大阪府が発祥のため、本社は東京と大阪の2ヶ所体制)、ブルーウェーブ時代の2004年から2009年まで年間2試合の主催試合が組まれた<ref group="注">2006年は、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]の経営破綻の影響の余波で開催されなかった。</ref>。2010年以降は開催していない。 ===== 福岡ソフトバンクホークス ===== [[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]時代の2004年6月15日に1試合の主催試合を開催<ref group="注">この試合の一週間前となる6月7日に、当時の監督・[[王貞治]]が監督通算1000勝を達成したため、急遽通算1000勝記念試合として開催された。</ref>。ソフトバンクが親会社となって以降では2012年から「鷹の祭典in東京ドーム」として2017年までは主催試合を毎年1試合を開催し、2018年は7月9日と10日に、2019年も4月22日<ref group="注">「タカガールデーin TOKYO」として開催。</ref>と7月8日にそれぞれ2試合ずつ開催。2020年・2021年は当初から開催日程に組まれなかった<ref name="npb190729" />が、2022年以降は「鷹の祭典in東京ドーム」として6月ないし7月に1試合が行われている<ref>[https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00004988.html 2022年「鷹の祭典」「タカガール♡デー」「ファイト!九州デー」開催日決定!](「鷹の祭典in東京ドーム」としては2019年以来、3年ぶり)</ref><ref>{{Cite web|和書|title=【ソフトバンク】今年もなぜか東京ドームから「開幕」鷹の祭典で4万人ため息…「堅守」の意識を - プロ野球番記者コラム - 野球コラム : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/column/bankisha/news/202306260001110.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-07-07 |language=ja |last=佐竹英治}}</ref>。 ===== 東北楽天ゴールデンイーグルス ===== [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]は2010年から「楽天グループデー」として主催試合を毎年1試合開催している。2020年から2022年までは開催していなかったが<ref name="npb190729" />、2023年より再開している<ref>{{Cite web|和書|title=【楽天】田中将大今季ワースト11安打9失点 4年ぶり東京ドーム「楽天スーパーナイター」悲鳴 - プロ野球 : 日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202307040001044.html |website=nikkansports.com |access-date=2023-07-07 |language=ja |last=鈴木正章}}</ref>。 ===== 千葉ロッテマリーンズ ===== [[千葉ロッテマリーンズ]]<ref group="注">過去に1952年から1973年まで東京都内を保護地域としていた。うち1962年5月までは当球場の前身・[[後楽園球場]]を、1962年6月から1972年までは[[東京スタジアム (野球場)|東京球場]]を本拠としていた。1973年は東京球場の閉鎖に伴い、主管試合の球場確保ができず、[[ジプシー・ロッテ|公式に専用球場なし]]、実質的には[[宮城球場]]との併用で、後楽園・[[明治神宮野球場|神宮]]・[[川崎球場|川崎]]([[神奈川県]])で公式戦を開催した。1974年以後は、川崎を正式な本拠地にする前年の1977年までの暫定処置として[[宮城県]]をフランチャイズとしたが、首都圏開催確保の観点から、年20試合前後を関東の3球場で行っている。</ref>は2016年7月12日にマリーンズ誕生・本拠地千葉移転25周年の記念事業として39年ぶりの都内主管試合の会場として使用した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/16528.html|title=東京ドーム主催試合について|accessdate=2015-12-24|date=2015-12-11|publisher=千葉ロッテマリーンズ}}</ref><ref>{{Cite news|title=東京Dで主催試合 千葉ロッテ|newspaper=[[千葉日報]]|date=2015-12-11|url=http://www.chibanippo.co.jp/sports/lotte/293181|accessdate=2015-12-24}}</ref>(地方開催自体が11年ぶり)。2017年は開催しなかったが、2018年は8月21日に、2019年は8月22日<ref group="注">「[[ブラックブラック]]in東京ドーム」として開催。</ref>に、それぞれ開催された。2020年から2022年までは開催していなかったが、2023年に対埼玉西武戦が開催された<ref group="注">「BLACK SUMMER WEEK 2023」として開催された。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=安田尚憲がサヨナラ打! 4年ぶり東京ドーム開催の千葉ロッテが勝利【7/6 試合結果】 |url=https://sports.yahoo.co.jp/official/detail/2023070600124-spnaviow |website=スポーツナビ |date=2023-07-07 |access-date=2023-07-07 |language=ja}}</ref>。 ===== 埼玉西武ライオンズ ===== [[埼玉西武ライオンズ]]は2018年4月17日に「ライオンズクラシック2018」として、初めて東京ドームでの主催試合を開催<ref>{{Cite news|title=「東京ドーム主催試合」で西武球団が得たもの {{!}} スポーツ|date=2018-05-05|url=https://toyokeizai.net/articles/-/219099|accessdate=2018-11-08|language=ja-JP|work=東洋経済オンライン}}</ref>。2020年4月21日にも主催試合が開催される予定だったが、新型コロナウイルスの影響でプロ野球の開幕が延期となり、中止となることが決定した<ref name="npb190729" />。2023年は5年ぶりに、4月18日に対ソフトバンク戦が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=【西武】外崎修汰2打席連発…郷ひろみが試合後ライブ、満員東京ドームでアチチな活躍 |url=https://hochi.news/articles/20230418-OHT1T51252.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2023-04-19 |access-date=2023-04-21 |author=阿見俊輔}}</ref>。 ===== 東京ヤクルトスワローズ ===== [[東京ヤクルトスワローズ]]は2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である[[明治神宮野球場]]が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月6日から9月13日の2か月以上にわたり利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を7月上旬から9月上旬にかけて11試合行う予定であった<ref name="aera1906">{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/101678|title=東京五輪開催中のプロ野球、Jリーグへの余波。夏の甲子園は日程変更も?|accessdate=2019-07-10|date=2019-06-18|publisher=朝日新聞社}}</ref><ref name="npb190722">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://npb.jp/games/2020/schedule_all_cl_20190722.pdf |title=2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 |publisher=[[日本野球機構]] |date=2019-07-22 |accessdate=2019-07-23 }}</ref><ref name="sanspo1905">{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/baseball/news/20190527/npb19052705020001-n1.html|title=ヤクルト&DeNA、東京五輪前後の期間は東京ドームで主催試合|accessdate=2019-07-10|date=2019-05-27|publisher=産業経済新聞社(サンケイスポーツ)}}</ref>が、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の影響で東京オリンピック・パラリンピックとも開催が延期されたため、東京ドームでの主催試合分はすべて明治神宮野球場での開催に変更になった<ref name="hochi20200415">{{Cite web|和書|title=東京五輪延期に伴い、DeNAとヤクルトが主催試合の開催球場を変更…ハマスタ、神宮でそれぞれ11試合開催|url=https://hochi.news/articles/20200415-OHT1T50102.html?page=1|website=スポーツ報知|date=2020-04-15|accessdate=2020-04-15|publisher=}}</ref>。2021年は延期となった東京オリンピック・パラリンピック開催期間中とその前後は、本拠地である[[明治神宮野球場]]が資材置き場・VIP待機場所として使用されるため7月中旬から9月上旬まで利用不能になることから、東京ドームでの主催試合が8月27日から29日(対DeNA・3試合)、および9月3日から5日(対広島・3試合)の計6試合が開催されている。 また[[2021年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]はヤクルトが進出したが、シーズン日程消化に伴うシリーズ延期に伴い神宮球場の使用日程が[[第52回明治神宮野球大会]]と重なったことから、11月23日 - 25日に行うホームゲームはすべて東京ドームで行われた<ref>{{Cite web|和書|title=ヤクルト、日本シリーズの東京ドーム開催を発表 神宮球場はアマ野球が使用|url=https://full-count.jp/2021/10/27/post1149898/|website=Full-Count|date=2021-10-27|accessdate=2021-11-03|publisher=Creative2}}</ref>。 ===== 横浜DeNAベイスターズ ===== [[横浜DeNAベイスターズ]]は2020年の東京オリンピックにおいて本拠地の[[横浜スタジアム]]が[[2020年東京オリンピックの野球競技|野球]]・[[2020年東京オリンピックのソフトボール競技|ソフトボール]]の会場として使用することから準備を含め6月9日から8月23日までの約2か月半利用不能になることから、東京ドームでの主催試合を6月下旬から7月上旬にかけて6試合行う予定としていた<ref name="aera1906" /><ref name="sanspo1905" /><ref name="npb190722" />が、東京ヤクルトスワローズと同じく、東京オリンピックの開催が延期になったことを受けて、すべて横浜スタジアムでの開催に変更になった<ref name="hochi20200415" />。2021年は延期となった東京オリンピックの野球・ソフトボール競技の会場として横浜スタジアムが使用することから準備を含め6月中旬から8月中旬まで利用不能となることから、東京ドームでの主催試合が6月18日から20日(対広島・3試合)、および8月17日から19日(対阪神・3試合)の計6試合が開催されている。 ==== オールスターゲーム ==== * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]が1988年、1991年、1993年、1996年、2000年、2002年、2007年、2015年、2019年の計9度開催された。 * [[フレッシュオールスターゲーム]]も4度開催されている。 ==== プロ野球その他 ==== * [[オープン戦]] * 1988年の「サッポロビールプロ野球トーナメント」(東京ドーム完成記念大会)を始めとする日本野球機構主催トーナメント大会 * 読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ(東京時代)の[[ファン感謝デー]]、新入団選手発表イベント * 1990年には[[ファーム日本選手権|ジュニア日本選手権]]の再試合([[中日ドラゴンズ]]対読売ジャイアンツ、後攻ホームチームは中日)が行われた。 === 国際試合 === ==== ワールド・ベースボール・クラシック ==== [[ワールド・ベースボール・クラシック]](WBC)では、日本戦を中心とする試合が下記の日程で開催された。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller; white-space:nowrap; " |- !大会||ラウンド||日程||出場国・地域と順位<br /><small>('''太字'''は上位ラウンド進出国)</small>||合計観客数<!-- ||出典 --> |- |[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|2006年<br />(第1回)]] |[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック#A組(アジアラウンド)|第1R - A組<br />(アジアラウンド)]] |2006年3月3日<br /> - 3月5日||'''[[野球大韓民国代表|韓国]]'''、'''[[野球日本代表|日本]]'''、<br />[[野球チャイニーズタイペイ代表|チャイニーズタイペイ]]、[[野球中国代表|中国]]||100,964人 |- |[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|2009年<br />(第2回)]] |[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック A組|第1R - A組<br />(東京ラウンド)]] |2009年3月5日<br /> - 3月9日||'''韓国'''、'''日本'''、<br />中国、チャイニーズタイペイ||170,112人 |- |[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|2013年<br />(第3回)]] |[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック 1組|第2R - 1組<br />(東京ラウンド)]] |2013年3月8日<br /> - 3月12日||'''日本'''、'''[[野球オランダ代表|オランダ]]'''、<br />[[野球キューバ代表|キューバ]]、チャイニーズタイペイ||170,658人 |- |rowspan="2"|[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック|2017年<br />(第4回)]] |rowspan="1"|[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック B組|第1R - B組<br />(東京ラウンド)]] |2017年3月7日<br /> - 3月10日||'''日本'''、'''キューバ'''、<br />[[野球オーストラリア代表|オーストラリア]]、中国||206,534人 |- |[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック E組|第2R - E組<br />(東京ラウンド)]] |同年3月12日<br /> - 3月15日||'''日本'''、'''オランダ'''、<br />[[野球イスラエル代表|イスラエル]]、キューバ||209,072人 |- |rowspan="2"|[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|2023年<br />(第5回)]]||[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック B組|第1R - B組<br />(東京ラウンド)]]||2023年3月9日<br /> - 3月13日||'''日本'''、'''オーストラリア'''、<br />韓国、[[野球チェコ代表|チェコ]]、中国||180,988人※<br /><small>日本戦以外は非公表</small> |- |[[2023_ワールド・ベースボール・クラシック_決勝トーナメント#準々決勝|準々決勝]]||同年3月15日<br /> - 3月16日||'''日本'''、'''キューバ'''、<br />オーストラリア、[[野球イタリア代表|イタリア]]||76,784人 |} ==== 国際試合その他 ==== * [[アジアシリーズ]](2005 - 2008年)、[[アジア プロ野球チャンピオンシップ|アジアプロ野球チャンピオンシップ]]、[[WBSCプレミア12]]などの国際試合 * [[日米野球]]などの国際親善試合 === メジャーリーグベースボール(MLB)公式戦 === [[メジャーリーグベースボール|MLB]]の公式戦(開幕シリーズ)が、下記の日程で行われた<ref>[https://event.yomiuri.co.jp/mlb/history.htm 2012 グループス MLB開幕戦 OPENING SERIES JAPAN 2012 オークランド・アスレチックス vs シアトル・マリナーズ] 2014年10月31日閲覧。</ref>。10試合のうち6試合が[[オークランド・アスレチックス]]のホームゲーム扱いとなっている。2003年3月25日・26日にもオークランド・アスレチックスVS[[シアトル・マリナーズ]]が行われる予定だったが、米英によるイラクへの武力行使によりMLBとMLB選手会が選手などの渡航の安全を十分に確保できない恐れがあると判断し、中止となった<ref>[https://www.npb.or.jp/mlb/index_2003.html am/pm MLBオープニングシリーズ '03] 日本野球機構公式サイト 2014年10月31日閲覧。</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small; white-space:nowrap;" |- !開催日!!style="width:16em;"|ビジター球団(先攻)!!スコア!!style="width:16em;"|ホーム球団(後攻)!!観客動員!!出典 |- |2000年3月29日||'''[[シカゴ・カブス]]'''||'''5''' - 3||[[ニューヨーク・メッツ]]||55,000人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/NYN/NYN200003290.shtml Mar 29, 2000, Cubs at Mets Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2000年3月30日||'''[[ニューヨーク・メッツ]]'''||'''5''' - 1||[[シカゴ・カブス]]||55,000人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/CHN/CHN200003300.shtml Mar 30, 2000, Mets at Cubs Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2004年3月30日||[[ニューヨーク・ヤンキース]]||3 - '''8'''||'''[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]'''||55,000人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/TBA/TBA200403300.shtml Mar 30, 2004, Yankees at Devil Rays Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2004年3月31日||'''[[ニューヨーク・ヤンキース]]'''||'''12''' - 1||[[タンパベイ・レイズ|タンパベイ・デビルレイズ]]||55,000人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/TBA/TBA200403310.shtml Mar 31, 2004, Yankees at Devil Rays Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2008年3月25日||'''[[ボストン・レッドソックス]]'''||'''6''' - 5||[[オークランド・アスレチックス]]||44,628人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK200803250.shtml Mar 25, 2008, Red Sox at Athletics Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2008年3月26日||[[ボストン・レッドソックス]]||1 - '''5'''||'''[[オークランド・アスレチックス]]'''||44,735人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK200803260.shtml Mar 26, 2008, Red Sox at Athletics Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2012年3月28日||'''[[シアトル・マリナーズ]]'''||'''3''' - 1||[[オークランド・アスレチックス]]||44,227人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK201203280.shtml Mar 28, 2012, Mariners at Athletics Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2012年3月29日||[[シアトル・マリナーズ]]||1 - '''4'''||'''[[オークランド・アスレチックス]]'''||43,391人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK201203290.shtml Mar 29, 2012, Mariners at Athletics Box Score and Play by Play]," ''Baseball-Reference.com''. 2014年4月1日閲覧。</ref> |- |2019年3月20日||'''[[シアトル・マリナーズ]]'''||'''9''' - 7||[[オークランド・アスレチックス]]||45,787人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK201903200.shtml Seattle Mariners at Oakland Athletics Box Score, March 20, 2019]," ''Baseball-Reference.com''. 2019年3月28日閲覧。</ref> |- |2019年3月21日||'''[[シアトル・マリナーズ]]'''||'''5''' - 4||[[オークランド・アスレチックス]]||46,451人||<ref>"[https://www.baseball-reference.com/boxes/OAK/OAK201903210.shtml Seattle Mariners at Oakland Athletics Box Score, March 21, 2019]," ''Baseball-Reference.com''. 2019年3月28日閲覧。</ref> |- |} === アマチュア・学生野球など === * アマチュア野球では[[都市対抗野球大会]]、[[全日本大学野球選手権大会]]、[[全日本実業団野球連盟|白龍旗、紅龍旗、蒼龍旗実業団野球大会]]が毎年開催されている。 * [[モルツ球団]]を主催とするサントリードリームマッチが毎年7〜8月ごろの月曜日に1試合開催されている。 * [[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームズが本拠地として使用していた。 * 2021年に延期となった東京オリンピックが開催されるのに伴い[[明治神宮野球場]]が使えなくなったため、[[全国高等学校野球選手権東東京大会|夏の高校野球東東京大会]]・[[全国高等学校野球選手権西東京大会|西東京大会]]の準決勝、決勝が開催された。 * 2022年には[[全国高等学校女子硬式野球選抜大会]]決勝が開催された。 === 優勝決定に関する記録 === {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} 東京ドームでセ・リーグ優勝決定時に[[胴上げ]]された巨人の監督は、1990年の[[藤田元司]]、2000年の[[長嶋茂雄]]、2007年・2009年・2012年 - 2013年、2020年の[[原辰徳]]の3人。1990年と2000年の優勝決定は、ともに背番号7をつけた巨人の選手(1990年-[[吉村禎章]]、2000年-[[二岡智宏]])がサヨナラホームラン<ref group="注">2000年に優勝を決めた試合は巨人の本拠地最終戦であると同時に、対戦チーム監督・[[星野仙一]](当時中日)の監督通算700勝がかかっていた。そのためこの二岡のサヨナラ本塁打は、星野の「宿敵・巨人の本拠地での胴上げ阻止」に加えて、「監督通算700勝」を同時に消滅させることとなった。</ref> で優勝を決めている。2007年もサヨナラ勝ち([[宮本慎也]]のサヨナラエラーによるもの)による優勝決定で、相手選手を抑えた優勝決定は2009年と2012年・2013年の3回のみ(2020年は引き分け(対戦相手はヤクルト<ref group="注">マジック対象チームである2位・阪神が横浜DeNAと引き分け、3位・中日が広島に敗戦したため。</ref>で決定)である。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]で東京ドームで優勝を決めて胴上げされた巨人の監督は、[[1994年の日本シリーズ|1994年]]と[[2000年の日本シリーズ|2000年]]の長嶋、[[2012年の日本シリーズ|2012年]]の原の2人のみである。 巨人の監督の胴上げに比べて、巨人の対戦相手チームの胴上げは少ない。セ・リーグは2006年の[[中日ドラゴンズ]](監督・[[落合博満]])、2016年の[[広島東洋カープ]](監督・[[緒方孝市]])、日本シリーズは[[2008年の日本シリーズ|2008年]]の[[埼玉西武ライオンズ]](監督・[[渡辺久信]])、[[2019年の日本シリーズ|2019年]]の[[福岡ソフトバンクホークス]](監督・[[工藤公康]])の4例だけで、開場からこれらまでの期間が長く、その間は「巨人が東京ドームで敵将の胴上げを見ることはない」[[ジンクス]]とされていた。後楽園球場で最後に巨人が敵将の胴上げを見たのは、セ・リーグは1975年の[[広島東洋カープ]](監督・[[古葉竹識]])、日本シリーズは[[1977年の日本シリーズ|1977年]]の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]](監督・[[上田利治]])までさかのぼる。 対して[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]は、東京ドームを本拠地とする時代はリーグ優勝自体がなかった。本拠地移転後の[[2006年のアジアシリーズ]]で優勝し、ようやく東京ドームでの胴上げを果たしている。 巨人以外で初めて日本シリーズの主催チームとなった[[東京ヤクルトスワローズ]]は、[[2021年の日本シリーズ|2021年]]の第5戦で勝利すれば東京ドームでの優勝決定であったが、惜しくも敗戦している。 ==== 東京ドームでの優勝決定チーム一覧 ==== {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} '''アジアシリーズ''' * 2005年11月13日 '''[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]'''5-3[[三星ライオンズ|三星]] 観衆37,078人 * 2006年11月12日 '''日本ハム'''1-0[[La Newベアーズ|La New]] 観衆24,580人 * 2007年11月11日 [[SKワイバーンズ|SK]]5-6'''[[中日ドラゴンズ|中日]]''' 観衆21,091人 * 2008年11月16日 '''[[埼玉西武ライオンズ|西武]]'''1x-0[[統一ライオンズ|統一]] 観衆18,370人 '''日本シリーズ''' * 1994年10月29日 '''巨人'''3-1西武 観衆46,307人 * 2000年10月28日 '''巨人'''9-3[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]] 観衆44,033人 * 2008年11月9日 巨人2-3'''西武''' 観衆44,737人 * 2012年11月3日 '''巨人'''4-3日本ハム 観衆45,018人 * 2019年10月23日 巨人3-4'''[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]]''' 観衆44,708人 '''クライマックスシリーズ''' * 2008年10月25日 '''巨人'''6-2中日 観衆46,797人 * 2009年10月24日 '''巨人'''8-2中日 観衆46,535人 * 2012年10月22日 '''巨人'''4-2中日 観衆44,351人 * 2013年10月18日 '''巨人'''3-1[[広島東洋カープ|広島]] 観衆46,081人 * 2019年10月13日 '''巨人'''4-1[[阪神タイガース|阪神]] 観衆45,931人 '''パシフィックリーグ''' * 1992年9月30日 日本ハム5-14'''西武''' 観衆52,000人 '''セントラルリーグ''' * 1990年9月8日 '''巨人'''3x-2[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]] 観衆56,000人 * 2000年9月24日 '''巨人'''5x-4中日 観衆55,000人 * 2006年10月10日 巨人3-9'''中日''' 観衆42,030人 * 2007年10月2日 '''巨人'''5x-4ヤクルト 観衆46,260人 * 2009年9月23日 '''巨人'''5-3中日 観衆46,335人 * 2012年9月21日 '''巨人'''6-4ヤクルト 観衆46,290人 * 2013年9月22日 '''巨人'''2-1広島 観衆46,246人 * 2016年9月10日 巨人4-6'''広島''' 観衆46,643人 * 2020年10月30日 '''巨人'''3-3ヤクルト 観衆18,055人 '''WBSCプレミア12''' * 2015年11月21日 '''[[2015 WBSCプレミア12 韓国代表|韓国]]'''8-0[[2015 WBSCプレミア12 アメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国]] 観衆40,114人 * 2019年11月17日 '''[[野球日本代表|日本]]'''5-3[[野球韓国代表|韓国]] 観衆44,960人 == 野球以外での利用 == {{出典の明記| section = 1| date = 2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} 東京ドームは野球興行以外にも多目的利用ホールとして活用されている。多目的ホールとして[[1990年代]]半ばまでは[[首都圏 (日本)|首都圏]]最大級の規模であり、東京都心部の[[ランドマーク]]としての存在感も大きかったことから、主に関東域外の[[地方公共団体|地方自治体]]や観光協会が開催する地方物産展などの物販催事、[[富士通]]をはじめとした大手企業の新製品展示会など、いわゆる[[見本市]]会場的な用途としてもコンスタントな需要があった。 === コンサート会場 === 東京ドームでコンサートをする場合、音がかなりこもるため、スピーカーの設置などには注意を要する。年々、残響音対策や騒音対策のノウハウが蓄積されていき、現在はドーム内全体を黒いカーテンで覆うようにしている(1階席のみ)。 コンサートで利用する場合、[[消防法]]と[[警視庁]]からの指導、および観客の転落防止のため、2階席と外野席の最前列(1列目)は緩衝地域となり、原則として客席としては利用できない。ただし、近年は一部の公演で客席として使用する場合がある<ref group="注">2008年11月18日に行われた[[ビリー・ジョエル]]の公演は、2階席1列目を「立見禁止席」として使用。 2009年7月4日・5日に行われた[[東方神起]]の公演は、バルコニー席・2階席・外野席の1列目を「着席シート」(立見禁止)として使用。バルコニー席の1列目は立見禁止ではない。 2009年12月4日-6日と2010年11月19日・20日に行われた[[嵐 (グループ)|嵐]]の公演は、2階席・外野席の1列目を「着席シート」(立見禁止)として使用。 2009年12月19日に行われた[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]の公演では、2階席1列目が使用されたが、特に「立ち見禁止」等の規制は設けられなかった。 2010年11月3日に行われた[[Perfume]]、2010年12月5日に行われた[[倖田來未]]の公演は、2階席・外野席の1列目も使用したが、2階席1列目のみ「立ち見禁止」とした。倖田來未は、2階席1列目を「ファミリーシート」の名称で使用。</ref>。 演奏は近隣住民の騒音への配慮により、原則として午後9時30分(年末のカウントダウン公演は、午前0時30分)以降は音を出さない。ただし、終演が規定時刻を超過した公演もある。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:AKB48_Tokyo_Dome_2.jpg|AKB48のコンサートで使用している様子 |File:Tokyodome-2f.jpg|東京ドームの野球以外の利用における、2階1列目を座席として使用する時の注意書き }} ==== コンサートを開催したミュージシャン ==== {{Main|東京ドームコンサートを開催したミュージシャンの一覧}} === 自転車競技 === 東京ドームは[[後楽園競輪場]]跡地に建てられており、将来の後楽園競輪復活も視野に入れているため、グラウンド地下には一周400メートルのバンク([[競走路]])が格納されている<ref name="keirin080508" />。かつては「サイクルスポーツフェスティバル」と題して、模擬競輪など[[競輪]]・[[自転車競技]]に関するイベントが行われた<ref name="keirin080508">[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/index_news/index_news20080508_03.html 「サイクルフェスタ’08 IN TOKYO DOME」開催について] - KEIRIN.JP・2008年5月8日</ref>が、同イベントは2008年を最後に開催が途絶えている。 [[世界選手権自転車競技大会]]と[[オリンピックの自転車競技|オリンピック]]は走路の周長と設備面から、現状は[[国際自転車競技連盟]]の特別承認を得ないと開催できない<ref>{{PDFlink|[http://jcf.or.jp/wp2012/wp-content/uploads/downloads/2015/02/03_Track_150201.pdf UCI競技規則 03_トラック・レース 2015年版 p102-p112]}} - [[日本自転車競技連盟]](2015年現在は周長250mが標準となっている)</ref>。[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]の自転車競技トラックレースは[[伊豆ベロドローム]]にて行われた。 === 格闘技 === * 1988年と1990年に日本テレビ・[[電通]]・[[帝拳プロモーション]]のタイアップで[[マイク・タイソン]]の[[ボクシング|プロボクシング]]統一世界[[ヘビー級]][[タイトルマッチ]]が行われた(2度とも前座に[[新日本木村ボクシングジム]]所属の日本王者による[[チャンピオンカーニバル (ボクシング)|チャンピオンカーニバル]]の防衛戦を実施)。1988年3月21日の東京ドーム[[こけら落とし]](翌22日には[[ミック・ジャガー]]のコンサートも開催)となるマイク・タイソン 対 [[トニー・タッブス]]戦では、王者マイク・タイソンがKO勝ち。1990年2月11日の[[マイク・タイソン 対 ジェームス・ダグラス戦]]では、挑戦者の[[ジェームス・ダグラス]]がKO勝ちし、世界ヘビー級王座を獲得するという歴史に残る大番狂わせが演じられた<ref>{{Cite news2|title= 【1990年2月11日】無敵タイソンがKO負け「ボクシング史上最大の番狂わせ」|url= https://hochi.news/articles/20210209-OHT1T50174.html?page=1|newspaper= スポーツ報知|date= 2021-02-11|accessdate= 2021-08-25|agency= 報知新聞社}}</ref>(なおその際の前座試合で[[辰吉丈一郎]]のプロ2戦目も組まれた<ref>{{Cite news|title=辰吉寿以輝が今日2戦目勝利なら山中慎介の前座も|newspaper=日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/battle/news/1509880.html|date=2015-07-20|accessdate=2019-01-05}}</ref>)。 * 1989年ではじめて'''格闘衛星☆闘強導夢'''を開催してから[[新日本プロレス]]が毎年[[プロレス]]興行を行っている。1992年からは毎年1月4日に行われることが恒例となり<ref group="注">当初は1月3日を予定していたが申請した日にタッチの差でライスボウルの予定が決まってしまったため、翌4日になり以後、毎年ライスボウルの撤収が完了次第プロレスの会場準備に取り掛かっていた。</ref>、それ以外にも年3大会ほど東京ドームで興行を行っていたが、2007年からは毎年1月4日のみとなった。詳細は「[[新日本プロレスの東京ドーム興行]]」参照。 ** [[1990年代]]の新日本プロレス主催の大会は「闘強導夢」という当て字が使用されていた。また、2007年以降は「[[レッスルキングダム (プロレス興行)|レッスルキングダム]]」として行われている。 * 1994年11月20日、[[全日本女子プロレス]]「[[憧夢超女大戦]]」が開催された。 * 1995年10月9日、新日本プロレスと[[UWFインターナショナル]]の全面対抗戦「[[激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争]]」が行われ、ドーム史上空前の67,000人を集めるが、ファン同士で乱闘騒ぎが起き、問題となる。 * 1997年より2006年まで[[K-1]]グランプリ決勝戦の会場として使用していた。2002年12月7日、K-1 WORLD GP 2002 FINALでドーム史上最高の74,500人を動員。 * 総合格闘技「[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]」では1997年10月11日の[[PRIDE.1]]を始め5度開催された。 * 1998年から1999年、2001年に[[全日本プロレス]]がプロレス興行を行った。詳細は「[[全日本プロレス 東京ドーム大会]]」参照。 * 2004年、2005年、2023年に[[プロレスリング・ノア]]がプロレス興行を行った。詳細は「[[プロレスリング・ノア 東京ドーム大会]]」参照。 ** 2023年の大会は[[武藤敬司]]の[[KEIJI MUTO GRAND FINAL PRO-WRESTLING "LAST" LOVE〜HOLD OUT〜|引退興行]]として行われた。 * 2017年、2021年に[[DDTプロレスリング]]が「'''無観客'''による路上プロレス」形式による興行を開催。2017年は[[高木三四郎]]対[[鈴木みのる]]1試合のみの開催で、鈴木の勝利<ref>{{Cite news|title=「路上プロレス in 東京ドーム」大成功。DDTがブチ上げた“本気のデタラメさ”。|newspaper=Number Web|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/828193|date=2017-06-04|accessdate=2019-01-05}}</ref>。2021年は、5チームによる勝ち残り形式の8人タッグマッチという形式で行われた<ref>{{Cite news|title=【DDT】路上プロレスin東京ドーム優勝はサウナカミーナ だが…待っていたのは悲しい結末|newspaper=東スポWeb|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/118789 |date=2021-10-31|accessdate=2021-11-15}}</ref>。 * 2021年6月13日、格闘技団体・[[RIZIN FIGHTING FEDERATION|RIZIN]]の大会「[[RIZIN.28]]」が行われた。 * 2022年6月19日、[[那須川天心 対 武尊戦]]をメインとするキックボクシングの大会「[[THE MATCH 2022]]」が開催され、56,399人もの観衆を集めた<ref>{{Cite web|和書|title=【THE MATCH】東京ドーム掛け値なしの超満員札止め 観衆発表は5万6399人 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/230280 |website=東京スポーツ|date=2022-06-19|accessdate=2022-07-13}}</ref>。 === アメリカンフットボール === * [[NFL]]のプレシーズンマッチ「[[アメリカンボウル]]」は1989年の初開催以来13回開催されていた<ref>[https://nfljapan.com/guide/about/calendar/pre.html NFL JAPAN.COM|観戦ガイド]</ref>。 * 社会人アメリカンフットボールリーグの[[Xリーグ]]では、優勝決定戦である[[ライスボウル]]の試合会場となる他、春季のトーナメント戦である[[パールボウル]]の決勝戦や一部の公式戦も開催される。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:2010-7-1-football-field.jpg|アメリカンフットボールの[[Xリーグ]]で使用する際のフィールドの様子。バックネットからセンター方向にグリッドアイアンが敷かれる |File:2010-7-1-football-goalpost.jpg|アメリカンフットボールのゴールポスト |File:2010-7-1-football-scoreboard.jpg|アメリカンフットボールで使用時の電光掲示板 |File:2010-7-1-football-scoreboard-2.jpg|同、バックネット側電光掲示板 }} === フィギュアスケート === * 2023年2月26日には、[[羽生結弦]]による単独公演『GIFT』が行われた。同公演のために東京ドーム史上初となる60m×30mの[[スケートリンク]]が[[設営]]された<ref>{{Cite news2|df=ja|title=羽生結弦さん 史上初東京D単独公演で3万5000人酔わせた「GIFT」「突き進む」表現者の道 |newspaper=スポニチ |url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2023/02/27/kiji/20230227s00079000151000c.html |accessdate=2023-03-05 |date=2023-02-27 |author=}}</ref>。 === その他スポーツ === * 1993年に[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[プレシーズンマッチ]]で使われた。そのために簡易装着できる天然芝、[[ビッグエッグターフ]]が開発されている。1994年2月にも[[ジュビロ磐田]]vs[[クルゼイロEC]]の試合が行われた<ref>[https://www.jubilo-iwata.co.jp/live/1994/O940211_626.php プレシーズンマッチ ジュビロ磐田 vs クルゼイロ]</ref>。 * 1996年11月7日・8日に[[NBA]]の公式戦が行われた<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/umekichihouse/article/32 “NBA@東京ドーム”~インドアスポーツイベント不滅の観客動員] 今昌司、2008年8月31日</ref>。 * 2003年、当時来日していた[[レアル・マドリード]]が公開練習を行う。 * 2016年6月23日には初となる[[ソフトボール]]の試合『日米対抗ソフトボール』が行われた<ref>[http://www.softball.or.jp/nichibei2016softball/ 日米対抗ソフトボール2016]</ref>。 === イベント・その他 === * 1988年から1992年、1998年に「[[アメリカ横断ウルトラクイズ]]」(日本テレビ)の第一次予選に前身の[[後楽園球場]]から引き続き使用されていた。 * 1991年より、毎年2月に「[[世界らん展日本大賞]]」が開催されている。らん展をメインにした、[[はとバス]]などのパッケージツアーが多く組まれている。また同じ冬の時期に「テーブルウェア・フェスティバル」も行われており、これらは毎年冬の東京ドームの風物詩となっている<ref>[http://www.jgpweb.com/ 世界らん展公式サイト]</ref>。なお、2021年以降の「世界らん展日本大賞」、2021年・2022年の「テーブルウェア・フェスティバル」は新型コロナウイルスの影響で、東京ドーム以外での開催となっている。なお、同じく東京ドームではかつて「東京国際キルトフェスティバル」(2002年 - 2020年)も行われており、これもまた冬の風物詩であった。 * 1999年8月、[[コナミ]]が『[[遊☆戯☆王]]』の[[遊☆戯☆王デュエルモンスターズII 闇界決闘記|コンピューターゲーム]]と[[遊☆戯☆王オフィシャルカードゲーム|カードゲーム]]の合同イベントを開催。来場者数についての予測の甘さや人員誘導スタッフの絶対的な不足など、開催側の不備が原因でドーム内外で混乱が発生、マスコミにも取り上げられた<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/games/news/9908/27/news04.html 東京ドームの「遊戯王」イベント、カード販売中止で混乱] ITmedia +D(1999年8月27日)</ref>。 * 2001年には『[[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]]』、2008年にも『[[スピード・レーサー]]』試写会が行われた。 * 2003年に[[ハロー!プロジェクト]]([[モーニング娘。]]や[[松浦亜弥]]、そして、その他のハロプロメンバー)による「[[ハロー!プロジェクトスポーツフェスティバル|Hello!Project スポーツフェスティバル]]」を開催した。 * 2006年7月22・23日両日、[[スーパー戦隊シリーズ]]30作品と[[仮面ライダーシリーズ]]35周年を記念し、歴代仮面ライダーと戦隊が一堂に会した「東京ドームWヒーローフェスティバル」([[東映]]、[[テレビ朝日]]主催)が開催された<ref>[https://www.toeihero.net/archive/noa/kabuto/topics/05_2.html 東京ドームダブルヒーローフェスティバルイベントレポート] - 東映ヒーローネット内</ref>。 * 2009年9月29日・30日に、[[ペ・ヨンジュン]]出演のイベントが、2日間行われた。29日は観客の前で初めて[[チェ・ジウ]]と共にイベントを行なった。 * 1990年から1992年にかけて、[[立正大学]]が[[入学試験]]会場としてグラウンドを使用したことでも話題になった<ref>[https://mainichi.jp/graphs/20160907/hpj/00m/040/003000g/31 写真特集:狂騒のバブル時代]</ref>。ただし、これは校舎建て替えに伴うものである。 * 大手百貨店の[[三越]]が、[[入社式]]と社員大運動会を東京ドームを借り切り同日開催したことがある。入社式に続き運動会を開催したため社員全員が[[ジャージー (衣類)|ジャージー]]姿で出席した。開催年度は不明。 * 2009年より、毎年1月に日本各地の特産品や伝統行事が集結する「[[ふるさと祭り東京 〜日本のまつり・故郷の味〜|ふるさと祭り東京]]」が開催される。前述の「世界らん展日本大賞」「東京国際キルトフェスティバル」「テーブルウェア・フェスティバル」同様に、毎年冬の東京ドームの風物詩となっている。2021年は新型コロナウイルスの影響でオンライン開催、2022年は東京ドーム内改修工事のため屋外開催予定だったが中止され、2023年に東京ドームでの通常開催が復活したものの、同年で終了となった<ref>{{Cite press release|和書|title=ふるさと祭り東京 -日本のまつり・故郷の味-開催終了のお知らせ|url=https://www.event-td.com/furusato/2023/pdf/furusato_info.pdf|publisher=東京ドーム|date=2023年6月6日|accessdate=2023-08-29}}</ref>。なお、2025年を目途に新たな同種のイベントを開催する方向で検討されている。 * 2011年4月27日 - 5月1日、テレビアニメ「[[ONE PIECE (アニメ)|ONE PIECE]]」のイベント「ワンピース ドームツアー」が行われた<ref>[https://www.zakzak.co.jp/anime/article/1103/110322-1222.html ワンピースのテーマパークが東京ドームに出現!「ワンピース ドームツアー」開催決定!] zakzak</ref>。 * 2011年と2015年と2016年に[[SCRAP]]主催の体感型謎解きイベントである『[[リアル脱出ゲーム]]』が開催され、2011年はオリジナル作『あるドーム球場からの脱出』、2015年はONE PIECEとのコラボ『頂上戦争からの脱出』東京最終公演(神宮球場で東京公演と東京追加公演を実施した)、2016年はオリジナル作『東京ドームダンジョンからの脱出』が行われた。 * 2013年5月5日の巨人対広島戦開始前には、[[長嶋茂雄]]、[[松井秀喜]]の[[国民栄誉賞]]授与式が行われた。 * 2019年9月4日には、[[ジャニーズ事務所]]の創業者である[[ジャニー喜多川]]の「[[ジャニー喜多川お別れの会|お別れの会]]」が行われた。 * 2019年11月25日には、ローマ教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]の[[ミサ]]が行われた。 * 2021年8月17日から2022年5月26日まで、文京区・[[新宿区]]・[[港区 (東京都)|港区]]の合同<ref group="注">2021年10月上旬から[[板橋区]]・[[中野区]]も加わり、同月中旬からは東京都全域に拡大した。</ref>で[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|COVID-19]]ワクチン集団接種会場となった。 * 2024年2月18日には、ニッポン放送のラジオ番組「[[オードリーのオールナイトニッポン]]」のイベントが行われる予定。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:JGP International Orchid and Flower Show-1.jpg|世界らん展日本大賞(2011年2月撮影) |File:Tokyo Dome4.jpg|ふるさと祭り東京(2010年1日撮影) }} == 施設概要 == {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Tokyo-dome air.jpg|{{国土航空写真}}中央付近の白い建物(1989年撮影) |File:Tokyo dome.JPG|東京都文京区後楽一丁目付近の風景 |File:Tokyo_Dome_2015.jpg|東京ドーム(2015年撮影) |File:Tokyo Dome 201904a.jpg|東京ドームの正面(2019年4月撮影) |File:Tokyo Dome 201904b.jpg|内野席入口(2019年4月撮影) |File:Tokyo Dome 20131115.jpg|ライトアップされた東京ドーム(2013年11月) |File:Interior of Tokyo Dome 201904a.jpg|試合開始前のセレモニー(2019年4月撮影) }} === 球場データ === * 所在地 - 東京都文京区後楽一丁目 * 建築面積 - 46,755m<sup>2</sup> * 建物高さ - 56.19m * 階数 - 地上6階・地下2階 * 容積 - 1,240,000m<sup>3</sup> * 収容人数(詳細は[[#収容人数|後述]]) - 野球時約43,500人、コンサート時55,000人 * フィールド - 両翼100m、中堅122m、左右中間110m * グラウンド面積 - 13,000m<sup>2</sup> * スコアボード - 2基(メイン・サブ) ** メインスコアボード - 全面フルカラー[[発光ダイオード|LED]]([[三菱電機]]製・オーロラビジョン、7.0m x 34.0m) * 内外野 - ロングパイル人工芝「フィールドターフ」 * 外野フェンスの高さ - 4.24m(ラバー 4.0m + ネット 0.24m) ** 2009年(平成21年)まではラバーのみの4.0m * グラウンド面からの屋根の高さ - 61.69m === 落成・供用開始日 === * 落成式 1988年(昭和63年)3月17日<ref name="hokkaido-np-1988-3-18" /> * 公式戦開始日 同年4月8日 * {{要出典範囲|date=2014年6月|一般使用開始日 同年12月24日}} === フィールド === [[ファイル:FieldTurf HD.JPG|thumb|人工芝「フィールドターフHD」(2015年5月)]] フィールドは[[人工芝]]を採用。開業後は巻き取り式のショートパイル人工芝を使用していたが、2002年(平成14年)から試合会場としては日本で初めて、[[天然芝]]に近い性質を持つといわれるロングパイル人工芝「フィールドターフ」を導入した<ref name="history4">[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/fan_information/history/4/index.htm%7C]</ref>。導入の背景としては、膝痛に苦しみながら[[中堅手]]として出場を続けていた当時の巨人の主力選手[[松井秀喜]]への配慮があったとされる。このフィールドターフは2007年(平成19年)3月、2014年(平成26年)3月<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20140319-OHT1T00208.htm 総費用3億円!東京D新人工芝で初練習] スポーツ報知 2014年3月20日</ref>、2019年(平成31年)3月<ref>{{Cite web|和書|date=2019-03-17 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201903150001167.html |title=東京ドーム3億円かけ5年ぶり人工芝リニューアル |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2019-03-17}}</ref> と3回の張り替えが行われている。 ==== 外野フェンス ==== 外野フェンスは2010年(平成22年)から従来のラバーフェンス(高さ4.0m)にネットフェンス(高さ0.24m)を付け加えたものとなっている。ネットフェンスを付け加えた主目的はホームランを判定しやすくするためである<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_392337.html 東京ドームの外野フェンスを改修] 巨人球団ウェブサイト {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100123175435/http://www.giants.jp/G/gnews/news_392337.html |date=2010年1月23日 }}</ref>。2018年(平成30年)からは、外野フェンスのクッション部分がそれまでのものよりも柔らかくなった。 ラバーフェンスのスタンド側上部に手すりがあり、開業当初はそれに打球が当たった場合はインプレーであった。しかし、1990年6月9日に[[落合博満]]がバックスクリーン手前の手すりに直撃してグラウンドに跳ね返ってくる打球を放った際、[[福井宏]]二塁塁審はフェンスを超えていたとして本塁打と判定した<ref>読売新聞1990年6月10日19面</ref>。これを機に、同審判が手すりの紛らわしい部分の撤去を要望するなど、判定の難しさが指摘されていた<ref>読売新聞1990年6月11日夕刊17面</ref>。その結果、[[藤田裕司|藤田元司]]巨人監督と[[近藤貞雄]]日本ハム監督及び審判との協議によって、1991年から手すりに当たった場合は本塁打というルールに変更された(ほか、フェンス上端部を黄色に着色することも決定された)<ref>読売新聞1991年3月25日夕刊</ref>。 外野からは十分な高さがあるフェンスは、客席の最前列からは低く、落下の危険性や観客がホームランにならないような打球に触れることも容易であるという欠点もある。[[2014年]](平成26年)[[4月19日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で[[坂本勇人]]が[[大野雄大]]から放った左中間への大飛球は、当初は本塁打と判定されたものの、のち[[野球のビデオ判定|ビデオ判定]]の結果、最前列にいた観客が手すりを超えてインフィールド側まで手を出して直接捕球したことが確認されたため二塁打に変更された<ref>{{Cite news|title=観客の手が…巨人・坂本“幻弾” ビデオ判定で二塁打に|date=2014-04-20|last=株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/20/kiji/K20140420008009540.html|accessdate=2018-10-22|publication-date=|work=スポニチ Sponichi Annex}}</ref>。一方、[[2023年]](令和5年)[[8月13日]]の対[[横浜DeNAベイスターズ]]戦で坂本勇人が[[上茶谷大河]]から放った左中間への大飛球は、2014年の事例と同様に最前列にいたファンが手すりを超えて捕球を試みたが(捕り損ねてボールはフィールドに落下した)、この時は二塁打と判定され、のちのビデオ判定による検証でも覆ることはなかった<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202308130000689.html |title=【巨人】坂本勇人の”幻アーチ”神対応絶賛 観客妨害で二塁打も、力不足とばかりに腕立てポーズ |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2023-08-13 |accessdate=2023-08-13 }}</ref>。ただ、ビデオ判定直後の審判による説明では、観客の妨害により本塁打が二塁打に変更されたとも解釈できる説明がなされたこともあり、試合翌日の14日に[[日本野球機構|NPB]]はこの件で詫びを入れるとともにファンに対し異例の「お願い」を出した<ref>{{cite news |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202308140000687.html |title=坂本勇人そもそもフェンス越えずもNPB異例のお願い、手差し出し「ないよう」場内放送は改善 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2023-08-14 |accessdate=2023-08-14 }}</ref>。 ==== ホームランが出やすい理由 ==== ホームランの出やすさの理由として、第一に、左中間・右中間の膨らみが小さく110mしかない(両翼からセンターの最深部までほぼ直線の構造である)ことが挙げられる。これは'''現在の12球団の本拠地球場の中で最も狭い'''(なお、[[福岡ドーム]]も[[ラッキーゾーン|ホームランテラス]]を設置後は同じ規格となっている)。第二に、屋内球場のため風の影響を受けない上に構造上湿度が低くなっているため打球が伸びやすいことが挙げられる。 もっとも、東京ドームは野球規則1.04に記載されている国際基準を満たすNPB初の本拠地球場であり、完成当時としては広い球場だった。 実際に[[後楽園球場]]でなされた1987年(昭和62年)の公式戦は112試合で234本の本塁打(1試合平均2.09本)が出たが、東京ドームの1988年(昭和63年)の公式戦112試合は147本(1試合平均1.31本)が出たにとどまり、約4割減少している。さらに、コンピュータ分析では、王貞治の868本塁打のうち、東京ドームなら322本減るという結果も出ていた<ref>読売新聞 1988年6月7日付 19頁</ref>。 他球場と比較しても、東京ドームの1試合当たりの平均本塁打数は、各球団の本拠地(巨人と日本ハムが本拠地としていたため、全12球団で全11球場)中、1988年10位、1989年10位、1990年11位であり<ref name=usami>宇佐美徹也「プロ野球記録大鑑」</ref>、数字の上でも本塁打の極めて出にくい球場であった。しかし、その後は、1991年7位<ref name=usami/>、1992年6位<ref>'93プロ野球12球団全選手百科名鑑238頁</ref>、1993年6位<ref>'94プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1994年6位<ref>'95プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1995年7位<ref>'96プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1996年6位<ref>'97プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1997年3位<ref>'98プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1998年1位<ref>'99プロ野球12球団全選手百科名鑑240頁</ref>、1999年2位<ref>2000プロ野球12球団全選手百科名鑑252頁</ref>、2000年1位<ref>2001プロ野球12球団全選手百科名鑑250頁</ref>と、他球団が広い球場に本拠地を移転したり球場を拡張したりする中で、東京ドームは相対的に本塁打の出やすい球場となっていった。 それに加えて、ボールの影響が言われており、それまでのタマザワ製ボールだったのを1992年からミズノ製に変えたために、本塁打が増加したとされる<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20110520_20649.html?DETAIL 元巨人広澤克実氏「ドームランは都市伝説。原因はボール」] NEWSポストセブン</ref>。それを裏付けるように、開業した1988年の1試合当たりの本塁打数は1.31本(112試合で147本)だったのに対して2004年は3.43本(76試合で261本)と2.6倍以上に増加し、統一球導入前後で、2010年は2.88本(73試合で210本)・2011年は1.42本(69試合で98本)と半数以下に激減している。 この最中、1998年(平成10年)には東京ドームで本塁打が急増したため、読売新聞で分析がなされ、左・右中間の膨らみが無いこととともに、スタンドにしか冷房が当たらない構造から、「冷房によって外野席の気温が下がれば『風』がグラウンドから吹きつけることは考えられる」という仮説を挙げている<ref>読売新聞 1998年6月23日付 23頁</ref>。 === 屋根・天井 === ==== 構造 ==== [[ファイル:Tokyo Dome 2007-11.jpg|thumb|天井]] [[ファイル:Tokyo Dome 2007-3.jpg|thumb|センタースピーカー(2016年の改修工事により現在は撤去済)]] [[File:Interior of Tokyo Dome 201904e.jpg|thumb|中央部のテレビカメラ(2019年4月2日撮影)]] 屋根は空気膜構造と呼ばれるもので、内部の空気圧を外部よりも 0.3%(3[[ヘクトパスカル]])高くして膨らませている。インフレートと呼ばれ、完成時に屋根を膨らます作業が行われた(この作業はメディア等でも取り上げられている)。圧力差を維持するために送風ファンを合計36台設置しており、ドア開閉がある場合は10台から18台、ドア閉鎖時は2台を動作させて気圧を維持する。出入り口は手動式[[回転ドア]]や[[エアロック]]が設置されており、全面的なドア開放は与圧が抜けて屋根が潰れる原因になるので出来ない。多数の観客が退場する際は通常のドアも開放されるが、気圧のため外向きに強い風が起こり注意を要する。この風は[[回転ドア]]のわずかな空間でも発生している。隣接する[[小石川後楽園]]の日照に配慮するため、屋根の高さが外野方面に向かって低くなっていくように設計されている。 屋根は28本のワイヤを8.5メートル間隔で縦横に並べ、その間に二重構造の膜を張ったものとなっている。膜は[[ガラス繊維|ガラスクロス]](織物)の表面を[[フッ素]]樹脂でコーティングしたもので、耐候性・耐熱性・非粘着性に優れた不燃材料である。内膜は音を吸収する特性もある。耐用年数は20年以上。総重量は400トン。太陽光の約5%を透過する。施工は[[太陽工業]]。ワイヤからテレビカメラ(中央部)、スピーカー(中央部1個、膜屋根周辺21個)、照明(14ヶ所)が吊るされている<ref>[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/facilities/equipment.html 東京ドームシティHP野球情報設備案内]</ref>。 * 外膜は厚さ0.8ミリメートル。アメリカのケミカル・ファブリックス社製品。 * 内膜は厚さ0.35ミリメートル。[[中興化成工業]]社製品。 中央部のテレビカメラ(通称『'''トップアイ'''』)からの映像は、[[野球中継]]だけでなく[[日本放送協会|NHK]]・[[民間放送|民放]]各局の夜の[[スポーツニュース|スポーツ速報番組]]などに使われていた。最近の巨人戦などの野球中継ではあまり頻繁に使用されないが、投手の投球練習<ref group="注">プロ入り初登板の選手であったり、ノーヒットノーランや通算投球回などの記録が懸かっている時などに使用されることが多い。</ref> を上から撮影する際などに使用されている。巨人の優勝決定時に行われる[[胴上げ]]の際は『トップアイ』からの映像が必ず使用される。 天井の高さ61.69mは1964年の後楽園球場開幕試合に巨人の[[王貞治]]が国鉄・[[金田正一]]から放った超特大の場外ホームラン(推定飛距離151m)から導き出された数字で<ref>『プロ野球80周年企画 球場物語 1934-2014』ベースボール・マガジン社</ref>、それ以上の打球が来ても屋根に当たらないように高さが設定された。完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れた[[長嶋茂雄]]は「この天井にボールをぶつけることは無理でしょう」と述べていたが、実際は打球が天井や懸垂物に当たった例は多数ある(東京ドームの特別ルールの適用例を参照)。 ==== 東京ドーム特別規約(特別ルール) ==== 東京ドームは打球が天井や懸垂物に当たった場合などに備えて特別ルールの「東京ドーム特別規約」が設けている<ref name="domerule">[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/fan_information/rule/ 東京ドーム野球ファン情報 東京ドーム特別ルール] 東京ドームシティ公式サイト</ref><ref name="kiyaku2016">{{PDFlink|[https://www.jaba.or.jp/taikai/2016/toshitaikou/pdf/d_kiyaku.pdf 東京ドーム特別規約(2016)]}} 公益財団法人日本野球連盟、2016年11月13日閲覧。</ref>。 東京ドーム特別規約(2016年現在)の内容は以下の通り。 {{quotation| # 打球が、フェア地域上の天井や懸垂物に当たった場合は、ボールインプレイとする。ファウル地域上の天井や懸垂物に当たったり、穴や隙間に入り込んだ場合は、ボールデッドとする{{Refnest|group="注"|打球を天井に当てた場合、2011年までは全てボールインプレイ(プレイ続行)。落下した打球を野手がそのまま捕球すればフライアウト。落下した地点か野手が触れた地点でフェアかファウルか判断されていた。2012年にドーム球場統一ルールとして、プレイングフィールド外の天井に当たった場合はファウルと変更<ref>[https://npb.jp/npb/20120222release.html ドーム球場の特別グラウンドルールの統一について] NPB公式サイト</ref>。2015年の東京ドーム特別規約では「打球が、フェア地域とファウル地域の区別なく、プレイングフィールド上の天井に当たった場合は、ボールインプレイで、落下した地点または野手が触れた地点で、フェアボールかファウルボールかの判定をする。この打球を野手が地上に落ちる前に捕球すれば、打者アウトとなる。」となっていた<ref>{{PDFlink|[https://www.jaba.or.jp/taikai/2015/toshitaikou/pdf/d_kiyaku.pdf 東京ドーム特別規約(2015)]}} 公益財団法人日本野球連盟、2016年11月13日閲覧。</ref>。}}。 # 打球が、フェア地域内にある天井の穴または隙間に入り込んだ場合、あるいは懸垂物に挟まった場合は、ボールデッドとし、打者および走者には投球当時を基準にして二個の安全進塁権が与えられる。 # 内野から外野にかけてフェンス上にボールが留まった場合は、ボールデッドとする。ただし、バックネットの低いフェンス上にボールが留まった場合は、ボールインプレイとする。 # ボールボーイ用の椅子にボールが当たってプレイングフィールドに跳ね返った場合は、ボールインプレイとする。ただし、ダッグアウトの屋根の上に留まるか、ひさしに当たった場合は、ボールデッドとする。 # エキサイトシート内にボールが入った場合は、ボールデッドとする。ただちにプレイングフィールドに跳ね返った場合もボールデッドとする。 # ボールがカメラマン席に留まった場合は、ボールデッドとする。ただちにプレイングフィールドに跳ね返った場合もボールデッドとする。 |東京ドーム特別規約<ref name="domerule" /><ref name="kiyaku2016" />}} * 打球がフェア地域の天井や懸垂物に当たった場合(上記1関連) ** 打球がフェア地域の天井や懸垂物に当たった場合はボールインプレイで、落下地点または野手が触れた地点でフェアボールかファウルボールか判定する<ref name="domerule" />。 *** 1988年(昭和63年)7月4日 - [[北海道日本ハムファイターズ|日ハム]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]戦で、[[ダラス・ウィリアムズ]](阪急)の打球が天井に当たったが2階内野席に落ちたためファウル(特別ルール適用第1号)<ref name="dome_rule">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/rule/|title=野球観戦:東京ドーム 特別ルール {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-10-22|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref>。 *** 1990年(平成2年)6月5日 - [[ラルフ・ブライアント]]([[大阪近鉄バファローズ|近鉄]])の打球が天井に当たったが二塁手が捕球してアウト(天井に当たった打球がフェアになった第1号)。東京ドーム初の認定本塁打はこの翌日に出ている(後述)。 *** 2005年(平成17年)7月30日 - 巨人対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で、通算350号本塁打まで残り1本に迫っていた[[江藤智 (野球)|江藤智]](巨人)が本塁打性の特大飛球を放ったが、打球は屋根に当たりグラウンドに落下。中日の左翼手・[[英智]]に捕球され、350号は幻となった(通算350号は西武へ移籍した翌年4月15日に達成)。 *** 2007年(平成19年)7月20日 - [[2007年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第1戦で、オールパシフィックの[[山﨑武司]]([[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]])が天井に当てている(結果はサードのファウルフライ)。 *** 2010年(平成22年)7月3日 - 巨人対[[阪神タイガース|阪神]]戦で、[[クレイグ・ブラゼル]](阪神)の打球が天井に2度当たりグラウンドに落下することなくそのまま右中間席中段へ入りホームランとなった<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100704-649260.html ブラゼル打てば巨人に負けない!阪神2差] スポニチアネックス 2010年7月4日</ref>。 ** 打球が外野のフェア地域に設けられた懸垂物に当たった場合はホームランとなる<ref name="dome_rule" />(認定ホームラン、過去3例)。 *** 1990年(平成2年)6月6日(1例目) - [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]対近鉄戦で、ラルフ・ブライアント(近鉄)が[[角盈男]](日本ハム)から記録。打った打球をセンター守備位置上にあるメインスピーカーに直撃させた(推定飛距離160メートル)。これをきっかけに、東京ドームはメインスピーカーに当てた認定ホームランを記録した選手に対してスピーカーの提供メーカーより賞金150万円を贈呈することにした<ref group="注">2016年から開始された大規模改修工事の際にこのメインスピーカーは撤去された。</ref>。 *** 2008年(平成20年)6月7日(2例目) - 巨人対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で、[[フリオ・ズレータ]](ロッテ)が[[エイドリアン・バーンサイド]](巨人)から記録。打った打球をレフト守備位置上にある照明機器に直撃させた(推定飛距離150メートル)。 *** 2014年(平成26年)4月9日(3例目) - 巨人対[[広島東洋カープ|広島]]戦で、[[村田修一]](巨人)が[[今村猛]](広島)から記録。打った打球をレフト守備位置上にある照明機器に直撃させた(推定飛距離150メートル)<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/10/kiji/K20140410007946260.html 村田天井弾!自身最長認めた「強烈」150メートル] スポニチアネックス 2014年4月10日</ref>。 * 打球がフェア地域内にある天井の穴や隙間に入り込んだ場合あるいは懸垂物に挟まった場合(上記2関連) ** 打球がフェア地域内にある天井の穴や隙間に入り込んだ場合あるいは懸垂物に挟まった場合はボールデッドとなり、フェア地域内なら打者走者ともに2個の安全進塁権が与えられ([[エンタイトルツーベース]])、ファウル地域ならファウルボールとなる<ref name="dome_rule" />。 *** 2002年(平成14年)7月18日 - 巨人対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦で、巨人の[[松井秀喜]]が横浜の[[森中聖雄]]から記録。ボールは挟まっておらず二重構造の膜の間を通ってライトスタンドの巨大看板上の照明付近まで転がっていた。この「幻のドーム場外」ボールは2日後に取り出され、現在、当ドーム内の[[野球殿堂博物館 (日本)|野球体育博物館]]に松井本人のサイン入りで保存されている。 *** 2016年(平成28年)11月13日 - [[ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]対オランダ代表戦の強化試合で、日本の[[大谷翔平]]がオランダのフロラヌスから記録。打球はライト方向の天井の隙間に入った。ボールは二重構造の膜の間を通って一塁側2階席上段の縁まで転がっていた。このボールは翌日回収され、サイン入りで11月29日から展示されている<ref>[https://npb.jp/news/detail/20161128_04.html 侍ジャパン 大谷翔平選手 “東京ドームの天井に放ったボール” 展示](2016年11月28日)</ref>。 ==== 白い天井と守備 ==== 開場当初から1990年代までは、特にデーゲームにおいて、白い天井とボールが同化して野手がフライを見失うケースが続発した<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/7559 ときどき思い出す「しじみちゃん」こと大貝恭史の悲劇(文春野球コラム ペナントレース2018)] えのきどいちろう 文春オンライン 文藝春秋社、2021年10月8日閲覧</ref>。 第66回都市対抗野球大会の決勝では、打球を見失ったためにランニング本塁打となり、それが勝敗を分けた。1998年(平成10年)の都市対抗野球大会では、東京ドームの天井で打球を見失ったためにヒットになったケースをカウントした結果、1大会(31試合)で20本との数字が出ている<ref>1999年(平成11年)7月9日 毎日新聞大阪夕刊</ref>。2000年代以降は、経年によって天井が黒ずんできたため、このようなケースはほとんど見られなくなっている。 === スタンド === {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:25 (UTC)}} 日本の球場としては珍しく、メインとなる内野2階コンコースから直接グラウンドが見える構造となっており、グラウンドに近いスペースを立見席として販売している。[[車椅子]]を利用する観客のために、立見席の一部を「車椅子席」としている。車椅子だけでなく、[[介護ベッド]]を利用する観客も利用できるようになっており、介護ベッドを設置し、介護ベッドで横になりながら試合を観戦している観客もいる。発売方法は通常と異なる。他に内野は1階と4階、外野は1階にコンコースがあり、グラウンド面は地下5.5mの高さである。 基本的に座席の色は[[青]]とシーズンシートのグレーで統一されている。敷地の関係上、日本の球場としては外野席の比率が低い。内野席は2層式で中間にバルコニー席があり、巨人戦は食事付き年間指定席となっている。バルコニー席の中央部分はVIP用スペースとなっており、イベントによってはバルコニー席全体が関係者用スペースにもなる。スタンドのファウルポール付近は可動席で、サッカー、アメフト等の開催時はフィールドを広げられるようになっている。かつてはスタンド下方への自動収納式のものもあったが現在は廃止されている。 巨人主催ゲームについては2009年から2010年まで、阪神戦を除く平日ナイターに限り内野C指定席の一部を学割チケットとして販売していた。また、2023年には平日ナイターに限りD指定席の一部を大学生や専門学校生向けに1000円で販売している<ref>{{Cite web|和書|title=大学生など向けの「GIANTS-Campus Ticket」を販売 4~8月の平日限定、翌月に使える招待券もプレゼント {{!}} 読売ジャイアンツ公式サイト |url=https://www.giants.jp/news/6900/ |website=www.giants.jp |access-date=2023-04-12}}</ref>。 左翼スタンドのセンター寄りを巨人の応援席にした「レフト巨人応援席」、残りの座席の一部を「[[ビジター応援席|ビジターチーム応援席]]」と設定したため、巨人ファンとビジターファンとの外野の座席比率はおよそ6:4(実質見た目は7:3ぐらいに見える)になっている。元来ライト側に入れない巨人ファンがレフトのライト側寄りで応援していたことと、レフト側でビジターチームを応援する客が少なかったこと、2005年(平成17年)後半戦の[[阪神タイガース|阪神]]戦以外の全ての試合で、バックスクリーン周辺のレフトスタンドの客席の空席が目立ち過ぎたことなどから、設定された席種である。なお阪神戦は、[[阪神ファン]]の集客率が他球団のファンのそれと比較すると圧倒的に高い点や巨人と阪神のファン同士での争い事の発生を避ける<ref group="注">[[阪神ファン]]の巨人に対する対抗心もまた他の球団のファンのそれと比較すると高いため、争いごとが起こる確率が高くなる。</ref> ことなどを理由に「レフト巨人応援席」は設定されておらず、レフト外野席全てが事実上のビジター応援席となる。ただし、[[クライマックスシリーズ]]開催時は例外であり、阪神戦の際も「レフト巨人応援席」が設定される。 [[都市対抗野球大会|都市対抗]]、[[全日本大学野球選手権大会|大学選手権]]、プロ野球の[[アジアシリーズ]]が開催される期間中は、一・三塁側スタンド最前列に応援団の特設ステージが設けられる。<ref>都市対抗に関して [https://mainichi.jp/ama-baseball/graph/cheer/85k1201a/001.html 毎日新聞社会人野球写真特集]</ref><ref>大学選手権に関して {{PDFlink|[https://www.jubf.net/alljapan/doc/alljapan_cheer_attention_2014.pdf 第63回全日本大学野球選手権大会応援に関する諸注意]}}</ref> 2005年(平成17年)から内野一・三塁側のファウルゾーンに[[フィールドシート]](エキサイトシート)を設置<ref name="history4" />(228席)した。2009年(平成21年)からは座席列が2列から4列に増設されて420席(一塁・三塁各210席)となっている。2017年からは一塁、三塁側に合わせて154席増設され、合計574席となった。38席分に頭上まで防球ネットエリアが新設された。 * プロ野球を開催する場合のみ使用され、アマチュア野球や他のイベントは使用しない。ただし、アマチュア野球の試合であってもシートの撤去はしない。アメリカンフットボールやコンサートなど、特にフィールドを広く使うイベントである場合は撤去される。 * 利用する観客へは防御用のヘルメットとグローブが貸し出される。ヘルメットは必ず着用しなければならない。 * 売り子が入ることができない。入口際のネット越しに購入することが可能である。 * 巨人主催ゲームについては年間予約席(108席)と一般指定席(120席)の2種類が設定され、一般席は抽選で販売される。座席数が非常に少ないため抽選は毎回高倍率となる(2008年(平成20年)まで)。 * 2010年(平成22年)〜2018年(平成30年)の巨人主管試合は[[日本マクドナルド]]協賛「マクドナルドエキサイトシート」として運営されていた。協賛の一環として、巨人主管試合では額面1700円以上のチケット(エキサイトシート以外も含む)による入場者に漏れなく全国マクドナルド店舗で利用できる[[ビッグマック]]割引クーポンが贈呈される。巨人主催試合の一部で巨人と対戦相手双方でホームランが出た場合「BIG MAC TWIN ARCH」としてビッグマックを無料進呈。どちらか一方しか出なかったりホームランがない場合でも200円で優待<ref>[https://www.mcd-holdings.co.jp/news/2010/promotion/promo0324b.html 参考・マクドナルドニュースリリース]</ref>。 * 2019年(平成31年・令和元年)以降の巨人主催試合は「[[DAZN]]エキサイトシート」として運営されている。 * 日本ハム主催ゲームは2008年(平成20年)まで[[シーズンシート]]だけの設定だったが、2009年からは一般発売もされている。 ; パーティールーム エヌズィーケー(PARTY ROOM NZK) 2019年から東京ドーム外野のレフトスタンド下に、シークレット パーティールームが登場。外野フェンスに窓が設けられており、カウンター席から試合を観戦することが出できる。また大型モニター・ソファが設備された個室で、ホテルメイドのパーティー料理・ソフトドリンクが楽しめる。部屋数は2室で、収容定員は15-25名。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Interior of Tokyo Dome 201904g.jpg|現在の3塁側エキサイトシート(2019年4月撮影) |File:Tokyo Dome 2007-4.jpg|過去の1塁側エキサイトシート(2008年までのもの、スタンド席最前列が都市対抗・アジアシリーズ時に特設される応援団ステージ) |File:Interior of Tokyo Dome 201904f.jpg|パーティールーム エヌズィーケー(2019年4月撮影) }} === 収容人数 === プロ野球の各球団は、2004年(平成16年)までその主催のシーズン公式戦の観客数を概数で数字で発表していた。東京ドームは収容人員を1988年から1994年まで56,000人、1995年から2004年まで55,000人とし、巨人戦の観客数を実際の入場者数に関わらず満員の55,000人(1994年まで56,000人)と発表していた。朝日新聞によると、設計段階は50,009人であり行政指導の結果46,314人に減ったが(後述)、満員で5万人と発表していた。 ただし、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]や[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]は、各球団ではなく[[日本野球機構]]の主催となり、同機構が公益法人(一般社団法人)のため実際の有料入場者数が記録されることになっている。日本野球機構主催ゲームの最多有料入場者数は、1994年日本シリーズ第2戦の46,342人である<ref>{{Cite news|title=1994年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)|last=一般社団法人日本野球機構|url=https://npb.jp/bis/scores/nipponseries/boxscore1994_2.html|accessdate=2018-11-11|language=ja-JP}}</ref>。 2005年(平成17年)からプロ野球全体で観客数発表を実数に近似させるため、通常は実際の入場者ではなくシーズンシートを含めたチケット購入者数を、プロ野球チームが本拠としている各球場でも収容人員の変更が行われているが、東京ドームは観客数発表の方法は変更したものの収容人員の変更はしばらくされていなかった。2013年現在は野球開催時の収容人数を約46,000人と公称している。しかししばしば47,000人弱の動員が記録されている。また1998年のアメリカ横断ウルトラクイズでは、5万453人と発表されている<ref>毎日新聞1998年11月30日19面</ref>。 開場当初、小石川消防署に届けられていた定員は46,314人(そのうち立ち見2,976人)であった<ref>1988年(昭和63年)10月7日朝日新聞22面。</ref>。2005年(平成17年)4月13日の[[産経新聞]]は、改修を経て現在の数字である45,600人に落ち着いたとある。その後、エキサイトシート新設による増員が行われた。2023年時点では公式ホームページ上では(野球開催時)、約43,500人となっている<ref name="施設概要" />。 野球以外でのイベントは、2002年12月7日の「[[K-1]] WORLD GP 2002 決勝戦」が主催者発表で74,500人<ref>{{Cite web|和書|title=TOPICS アルゼ K-1 WORLD GP 2002 決勝戦 大会放送視聴率結果のお知らせ(12月9日) - K-1 OFFICIAL WEBSITE|accessdate=2015-07-21|url=https://www.k-1.co.jp/news/a02_12_09.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030406111603/http://www.k-1.co.jp/news/a02_12_09.htm|archivedate=2003年4月6日}} - Internet Archive</ref>、1998年(平成10年)4月4日の[[新日本プロレス]]他主催の「燃える闘魂[[アントニオ猪木]]引退試合」が主催者発表で70,000人<ref>{{Cite web|和書|title=スポーツ歴史の検証 第33回 剛胆に。燃え続ける闘魂 アントニオ猪木|accessdate= 2015-07-21|url=https://www.ssf.or.jp/history/pdf/story_33.pdf|format=PDF}} - [[笹川スポーツ財団]]</ref>などの記録がある(コンサート、格闘技などはグラウンドにも座席を設けるため、野球開催時より多数の観客を収容できる)。 === スコアボード・映像装置 === {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} ==== 初代(開場~2004年シーズンまで) ==== 1988年(昭和63年)の完成時のスコアボードは、[[バックスクリーン]]側の[[三菱電機]]製白黒2色の「スコアボード」とフルカラー表示の「[[オーロラビジョン]]」、バックスタンド上部にある白黒2色のサブボード(スコア表示のみ)だった。打順のチーム名表示は開場初年のみ「巨人」・「阪神」などの通称を使用していたが、翌年から「ジャイアンツ」・「タイガース」といったニックネームに切り替わっている(文字はどちらも[[明朝体]])。2003年に、後述するスコアボード部改修を機に再び通称表示(パ・リーグの場合は「大阪近鉄」・「福岡ダイエー」・「千葉ロッテ」等)に変更されたが、2004年にニックネームに戻された(2003年以降の文字はどちらも[[ゴシック体]])。 オーロラビジョンは1990年(平成2年)に[[ハイビジョン]]サイズへ変更<ref>[https://www.tokyo-dome.jp/corporate/1990.html 株式会社東京ドーム|会社案内] 沿革ページ(1990年代) 2014年11月1日閲覧。</ref>、1999年(平成11年)に全面改修された。2001年(平成13年)にサブボードも三菱電機製のフルカラー表示の全面オーロラビジョンに全面改修された。 2003年(平成15年)にスコアボード部が改修され、ホームラン時の映像パフォーマンス(ホームチームのみ)が上半分の表示から全画面表示になった。各選手の[[打率]](AV)、ホームラン(HR)表示に[[打点]](RBI)が加わった。球速表示も単位が"'''km'''"から"'''km/h'''"に変更され、スコア部分のチーム名表示が普通のアルファベットから各球団の帽子のマークに変更された(2004年以降の西武と近鉄は帽子のマークがイラストのみのため、西武は胸マークの「L」の筆記体、近鉄は太字の「Bu」が使用された)。選手名に使用されていた文字の字体が多少変更された。2004年(平成16年)のシーズン途中からは、サブボードの球速表示部分にも打席の選手名、打率(AV)、ホームラン数(HR)が表示されるようになった。球速表示はその下に表示される。 ==== 二代目(2005年~2021年シーズンまで) ==== 2005年(平成17年)にバックスクリーン側のスコアボードとオーロラビジョンの全面改修が行われ、フルカラー[[発光ダイオード|LED]]表示の全面オーロラビジョンになった。[[フォント]]が[[キヤノン|Canon]]の角[[ゴシック]]Caに変わり、従来のものと違い両チームのメンバーを上から下へ縦表示になり、守備位置表示が数字から英語略称になった(投手=P、捕手=C、一塁手=1B、左翼手=LF、代打=PH、代走=PRなど)。{{要出典範囲|date=2014年6月|2つの境目がなくなったことで、選手交代時に守備と選手名の部分が上から下へ回転して変わる、などさまざまな映像表現が可能となった。チーム名は最上部にチームロゴで表示される。10億7,000万色の発色が可能となり、日本の野球場では最高レベルの鮮明な画像が見られる。縦組みのメンバー表示は後楽園時代の1987年以来の復活となった。バックネット裏スタンド最上部のオーロラビジョンもバックスクリーンと同じ尺度のスクリーンになった(スコア+打者の個人成績/リプレー映像/来場者映像の表示のみ)。文字を表示しない枠にあたる部分は緑色になっている。}} 2006年(平成18年)から、[[バリアフリー]]対策の一環で選手名部分の字体の幅が大きくなった(それ以外はこれまで通り)。その影響でペットマークを表示していた部分がなくなり、チーム名を選手名の上部に表示するようになったため、一列に入る選手名が9人分となった。このため[[指名打者]]制の試合時は、5番打者の名前の横(3塁側のチームは右側、1塁側のチームは左側)に投手名が表示されている。 2007年(平成19年)より、スコアボードをより見やすく・わかりやすくするため、守備位置表示が英語略称から日本人になじみのある数字に戻り、投球数表示が追加され、オーロラビジョン部分がハイビジョンサイズ(16:9)になる。打率・ホームラン・打点の表示も英語から日本語に変わった。枠の色が緑から文字の部分と同じ黒に変更されており、球速やヒット、エラーなどの記録は黄色で表示される。前年開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック]]アジアラウンドで投手の投球数制限をわかりやすくするために使用された投球数表示をこのシーズンから公式戦でも使用し始めた(巨人主催試合のみ、日本ハムをはじめとするパ・リーグやアマチュアでは表示されない)。 野球の試合で使用する場合、スコアの表示は開設当時は9回まで(10回以後は9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する)だった。2003年(平成15年)の改修に際して、延長戦の表示について、プロ野球のように延長が12回までしか行われない場合は1回から9回までのスコアの幅に1回から12回までのスコアを、幅を詰めて表示するようになった。[[都市対抗野球大会]]など、延長が13回以降も行われる可能性がある場合は、従来通り9回までのスコアを消去して10回から18回までのスコアを表示する(現在のスコアボードも同様)。2007年(平成19年)からスコア部分のチーム名表示がアルファベット1文字になった(2011年までは[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]と[[オリックス・バファローズ|オリックス]]は共に「B」と表示されていた)。ただし、2文字以上表示することも可能であり、[[2008年のアジアシリーズ]]は[[SKワイバーンズ]]が「SK」・[[統一セブンイレブン・ライオンズ]]が「U・L」・[[天津ライオンズ]]が「T・L」と表示され、2012年に行われた[[メジャーリーグベースボール|MLB]]開幕戦では[[シアトル・マリナーズ]]が「SEA」・[[オークランド・アスレチックス]]が「OAK」と表示された。2012年からDeNAは「DB」と表示されている(オリックスは「B」のまま)。 2011年シーズンから国際慣習に基づき、[[ボールカウント]]を「SBO」から「BSO」表示に変更した。 2017年からは一軍での巨人主催ゲームのみにおいて右下のスペースに投手成績、打者成績が表示されるようになった。投手は登板数、投球回数、奪三振、防御率が表示されており、打者は打数、安打、四死球、得点、長打率、出塁率、盗塁数、得点圏打率が表示されている。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |File:Interior of Tokyo Dome 201904c.jpg|内野席より見たスコアボード(2019年4月撮影) |File:Interior of Tokyo Dome 2019.jpg|外野席より見たスコアボード(2019年3月撮影) |ファイル:Tokyo Dome 2007-6.jpg|回転パネル式の広告看板があったころのバックスクリーン(2007年夏の都市対抗野球大会時撮影。2022年の大規模改修に際して、この旧オーロラビジョンとバックスクリーンが一体化したビジョンに改築されている。) |File:Interior of Tokyo Dome 2019a.jpg|バックネット裏スコアボード(2019年3月撮影)}} ==== 三代目(2022年シーズン以降) ==== 2021年のオフシーズンより、2年かけてメインビジョンとサブビジョンの大規模改修工事が予定されていた<ref>{{Cite tweet |title=球団と読売新聞社、東京ドームは新型コロナ対策やデジタル化の促進として東京ドームの100億円規模の改修を発表。換気能力の向上やトイレの増設、メインビジョンの改修、完全キャッシュレス化への段階的移行などを明らかにした。メインビジョンは2023年までに国内最大へ|user=sanspo_giants |number=1285104494594801664 |date=2020-07-20 |accessdate=2020-07-20}}</ref>が、予定を1年早めて2022年シーズン開幕までに完成させる方針を固めた。 当初の予定では、2021-22年のオフシーズンでは従来のオーロラビジョンが設置された箇所+レフト側で最もバックスクリーン寄りにあった広告パネルのうちの1枚+バックスクリーンの回転パネル型広告盤(プリズムビジョン)を一体化して、従来の2倍程度のサイズの大きさにする予定がなされていたが、これを1年前倒しにして、当初2022-23年のオフシーズンにかけて予定していた完成形のものにした。従来の約238㎡からみて約4.4倍相当の約1050㎡・横幅約125.6mのLED巨大フルカラーボードを旧来のセンターバックスクリーン付近から、広告パネル(11枚)が掲げられていた外野席のほぼ全体にかけて設置するもので、画質もプロ野球公式戦が行われる球場では最高峰のものとなった。ビジョンの拡大により、従来から看板広告を提供していた協賛各社のパネル(引き続き看板を掲示する左中間・右中間各1枚を除き、かつ初代オーロラビジョンが設置された箇所相当分を含め10枚相当)と、バックスクリーンに提供していたパネル広告は、リニューアルされた電光掲示板にも再現され、リボンビジョン(後述)と同じように様々なパターンの広告を掲示できるようになった<ref name="nkt">[https://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news91nxq29ugjvgim73wx.html ミスターの看板が高画質に 東京ドームの新ビジョンに表示 2バージョン展開](日本海テレビジョン放送)</ref>。また、それまで常設であった時計とボールカウンターについては、ビジョン内で表示する形式に変更された。 この新メインビジョンと連動する形で、音楽や照明との一体化した映像や静止画、アニメーションなどの映像演出を展開するほか、外野席のフェンス最前列に、ポール際から左中間・右中間に向かう形で設けられるリボンビジョン(縦1.28m×横53.76m、面積68.813㎡、画素ピッチ10㎜×2面)を設置した。 このほかスコアボードとの連動によるDMXというシステムを使い、各種映像演出と一体化した照明パターンを展開している<ref name="2022改修">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000059.000077656.html 【株式会社東京ドーム】東京ドームにご来場されるすべての皆様に新しい観戦体験を・・・22年3月稼働に向け、過去最大規模のリニューアルとDX(デジタルトランスフォーメーション)を実施](2021年12月13日)</ref>。 {{Gallery |align=center |width= |height= |File:東京ドームバックスクリーン(2022年改修後、全景).jpg|2022年改修後のバックスクリーン(全景)(2022年6月3日撮影) |File:東京ドーム スコアボード.jpg|2022年改修後のスコアボード(2022年4月10日撮影) |File:WBSC U-18 Baseball World Cup 20230828a6.jpg|侍ジャパンU-18壮行試合 高校日本代表 対 大学日本代表(2023年8月28日撮影) }} === 放送席 === {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} [[File:Interior of Tokyo Dome 2019b.jpg|thumb|200px|放送席(2019年3月24日撮影)]] ネット裏の放送席の配置は、三塁側から順に[[東京ケーブルネットワーク]]、[[ニッポン放送]]、[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]、[[テレビ朝日]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[文化放送]]、[[TBSラジオ]]、6局共用ブース([[HBCラジオ|北海道放送]]、[[CBCラジオ]]、[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]、[[RKBラジオ|RKB毎日放送]]、[[朝日放送ラジオ]]、[[MBSラジオ]])となっている。 6社共同ブースは、ラジオNIKKEIは日本短波放送時代に後楽園球場からプロ野球中継を行っていた名残で使用権を持っているが、2021年現在は中継の制作を行っていない。北海道放送とRKB毎日放送は交流戦の巨人主催試合、あるいは日本ハム・ソフトバンクの主催またはビジターのパ・リーグ公式戦で(2017年以前はTBSラジオの、2018年以降の平日は文化放送の、週末はニッポン放送のブースを借りる場合もある)、CBCラジオは巨人主催試合を聴取率調査期間中や一部週末デーゲームに自社制作する時に使う程度である(後者の場合は2017年まではTBSラジオの、2018年以降はRFラジオ日本のブースを借りることもある)。 東京ケーブルネットワークの放送席は地上波の[[テレビ埼玉]](過去に[[千葉テレビ放送]]も)、[[通信衛星|CS放送]]の[[GAORA]](プロ野球・日本ハム主催試合と都市対抗社会人野球)、[[スカイ・エー]](アメリカンフットボール社会人Xリーグ)、[[衛星放送|BS放送]]の[[J SPORTS]](プロ野球・楽天主管試合と[[アジアシリーズ]])に使われるほか、ラジオの巨人主催試合を朝日放送ラジオとMBSラジオが並行して制作する場合に朝日放送ラジオが使用する(この場合、MBSラジオが前述の6局共用ブースを使用。2010年以降週末を挟む三連戦でRFラジオ日本や文化放送が中継を一切行わない場合、朝日放送ラジオはRFラジオ日本や文化放送のブースを使うこともある)。 TBSラジオが2017年を最後にDeNA主催試合の裏送り以外の野球中継から撤退したため、TBSラジオのブースは予備ブース扱いとなり、[[エフエムナックファイブ|FM NACK5]]が東京ドームから西武が関与する試合を中継する時に同ブースを使用したことがある。2021年に行われた東京ドームでのDeNA主催試合におけるTBSラジオのビジター地元局への裏送りで、どのブースが使われたかは不明。 放送席に入るために一度[[コンコース]]を通らなければならず、観客が[[野球解説者|解説者]]などにサインをねだる光景がみられる。日本テレビの番組宣伝などで中継ゲストに有名芸能人が登場したときは試合終了後に放送席裏のコンコースが人だかりして混乱する。 === 野球殿堂博物館 === 21番ゲート右側に[[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館]]が併設されている<ref name="hokkaido-np-1988-3-15">“東京ドームに新野球博物館 17日から一般公開”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1988年3月15日)</ref>。この施設も後楽園球場から「野球体育博物館」の名称で受け継がれてきたが、2013年4月1日に現在の名称に変更された<ref>[https://baseball-museum.or.jp/topics/whats/detail.html?id=514 名称変更のお知らせ] 野球殿堂博物館公式サイト『What's New』2013年4月1日より。</ref>。 {{Main|野球殿堂博物館 (日本)}} === その他 === {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:25 (UTC)}} * 球場内へは、グラウンド等への投げ込み防止のため、ビンやカン、ペットボトル(1000mlを超えるものおよび凍らせたもの)の持ち込みは禁止されており、各ゲート入り口にて中身を指定の紙コップに移し替えなければならない(水筒や紙パックのものは持込可、2013年途中まで全てペットボトルが禁止)。クーラーボックスや[[乳母車|ベビーカー]]など、観戦の妨げになる恐れのある物の持ち込みもできない(ベビーカーは入場ゲートにて預かりとなる)。1995年(平成7年)の[[地下鉄サリン事件]]と2001年(平成13年)の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降、入場時に持ち物を検査している。球場内は、1階から2階まで自由に行き来でき、各階の色々な売店にて買い物ができる。ただし、バルコニー席のチケットを持たない人は、バルコニー席へは移動できない。 * 1998年、開場10周年を記念して1番ゲートを「[[王貞治|王]]ゲート」、3番ゲートを「[[長嶋茂雄|長嶋]]ゲート」と称された。これは[[後楽園球場]]時代の名残である。2000年、二人は読売ジャイアンツVS福岡ダイエーホークス(当時)の日本シリーズで監督として対決となるが同球場は1塁側ベンチを巨人の長嶋、3塁側ベンチをダイエーの王が使用している。巨人の監督として、王は背番号1(1988年)長嶋は背番号3(2000年~2001年)と、それぞれ現役時代の背番号を付けて指揮していた。 * 東京ドーム内見学(ガイドつきツアー)と呼ばれている見学会がある。ガイドによる案内で、スタンド席やグラウンド等を見学する事ができる。 * 東京ドームは、一部のイベントは一旦東京ドームの外へ出た人も再入場ができる。イベントにより再入場の手続き方法が異なる。巨人戦は2006年(平成18年)から導入されており、21ゲート、23ゲートで手に再入場を証明するスタンプを押され再入場券が発行される。再入場時にチケットの半券とスタンプ、再入場券が確認できれば、再入場ができる。 * 1988年の開場時日本の野球場で初めて観客スタンド内が全面禁煙化され、コンコース内に喫煙ブースが設けられた。現在はコンコース内も禁煙化され、指定の喫煙室かゲート外の指定喫煙所で喫煙する事になっている<ref>[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/caution/?tabChange=baseball 東京ドームシティ|ご利用上の注意|野球観戦時のお願い] 2019年8月15日閲覧</ref>。 ==== 応援時の規制 ==== {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:25 (UTC)}} 東京ドームは、野球開催時に以下のような規制を行っている。 * [[トランペット]]([[トロンボーン]])、カネ、笛、太鼓 ** 指定・許可されたNPB公認の[[私設応援団]]のみ持込・使用可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4">{{Cite web|和書| url= https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/caution/index.html |title= 東京ドームシティ 野球情報 野球観戦時のお願い |publisher= 東京ドーム |accessdate= 2014-8-4 }}</ref> ** 拡声器、ラジカセ等、大音量を発生させる物の持込不可<ref>[https://www.npb.or.jp/npb/kansen_yakkan.html 日本野球機構試合観戦契約約款第5条(2)]</ref>。[[都市対抗野球大会]]はマイクの使用が可能<ref>[https://mainichi.jp/ama-baseball/graph/cheer/85k0702b/001.html 毎日新聞社会人野球写真特集]</ref>。 ** 騒音問題に配慮し、22時以後は使用禁止<ref>{{Cite web|和書|title=各球場での応援 {{!}} 全国ツバメ軍団のホームページ |url=http://tsubamegundan.com/schedule.html |website=tsubamegundan.com |access-date=2023-07-07}}</ref>。 *** 巨人主催試合 **: 基本的にトランペットは同時吹奏6本まで。球場から貸与する8枚の腕章を着用しているトランペット(奏者)が演奏できる。本数を超えたり、腕章なきトランペットを吹いた場合、即刻始末書の提出を求められ、NPBへルール違反の報告を行っている。これに関しては応援団担当の警備員が逐一チェックしている。 *** 日本ハム主催試合 **: 基本的にトランペットは本数制限無し。 * 応援旗 ** 一般客は、縦500mm以内、横500mm以内のものであれば持込可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。それ以上の大きさのものは、指定・許可されたNPB公認の私設応援団のみ持込・使用可。ただし、同時に振れるのは6本まで。 ** 旗竿は1本に限り、650mm以内であれば持込可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。 * 応援幕 ** 一般客は縦600mm以内、横600mm以内の大きさで、必ず一人が手で持てる仕様であるものであれば、持ちやすくするために柄を2本付けたものでも持込可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。2人以上で持つものは、[[横断幕]]とみなされ、持込不可となる<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。それ以上の大きさのものは、指定・許可されたNPB公認の私設応援団のみ持込・使用可。上記の大きさを超える「ゲートフラッグ」は、一般客・応援団共に持込禁止。 ** 手持ちのみとし、球場施設(フェンス、スタンド等)への取り付けは禁止。横断幕に旗竿等を使用したものは、一般客・応援団共に持ち込みはできない。 * 応援ボード等 ** 一般客は、大きさは縦600mm以内、横600mm以内の物で、必ず一人が手で持てる仕様であるものであれば、持込可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。ボードを支える棒などは使用できない<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。2人以上で持つものは、横断幕とみなされ、持込不可となる<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。 ** 1枚の大きさが規定以内でも、テープ等でつなげた物は持込不可。入り口にて切り離すか、没収となる。一枚ずつに分かれているものを2人以上で掲げ、選手の名前や文章にする行為は許可されている。 応援幕・メッセージボード等の内容は、チームや選手を応援するものに限り、公序良俗に反する内容や誹謗中傷(球団への批判等)を含む内容のものは、持込ができない<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />。試合中に掲げても、掲げている内容が試合中でも厳しくチェックされているため、発見され次第係員に没収される。 * [[ジェット風船]]、紙吹雪、紙テープ ** 優勝決定時の演出を除き<ref>[https://mainichi.jp/ama-baseball/graph/cheer/84k1201a/052.html 毎日新聞社会人野球写真特集]</ref>、応援団・一般客とも野球の原則使用不可<ref name="tokyo-dome-caution-2014-8-4" />(ジェット風船は、ドームが空気圧で膨らんでおり、それが基で破裂する恐れがあることから、特に使用許可が出る場合を除いて一切使うことはできない<ref group="注">口からの膨らましはもとより、一部球団が使用している膨らまし用ハンドポンプ、及び飛行距離を制限した特殊素材を使用したものも使用できない</ref>。ただし、1998年12月31日から1999年1月1日にかけて行われた[[J-FRIENDS]]のカウントダウンライブはジェット風船が飛ばされていた)。 巨人主催試合は1993年(平成5年)まで、日本ハム主催試合は2006年(平成18年)まで太鼓を使用できなかった。理由は一説によると、東京ドームの応援規制が緩和された1994年(平成6年)に巨人・日本ハム両応援団は「トランペット(トロンボーン)持込数増加」と「太鼓持込」のいずれかを選択することになり、巨人応援団は太鼓を、日本ハム応援団はトランペット(トロンボーン)を選択したと言われる。日本ハム主催試合で2007年(平成19年)以降太鼓が認められるようになったのは、巨人主催試合のビジター戦では太鼓が認められ(パ・リーグ他球団主催試合については不明)、ホーム戦で認められないことに対する矛盾を解消する事が理由であると言われる。 === 大規模改修工事 === 2016年12月が会社創立80周年に当たることから、同年1月から2019年1月の3年間にわたり、1988年の開業以来初となる大規模改修工事を行う。総事業費は約50億円で、一部休業期間を設けるが基本的に営業を継続しながら段階的に実施する。主なリニューアル内容は以下の通り<ref>{{PDFlink|[http://contents.xj-storage.jp/xcontents/AS01950/7102cf56/67e4/41ff/8cb5/219273fbb39f/20160119153619155s.pdf 開業以来初!東京ドーム大規模リニューアル計画〜唯一無二の快適なスタジアムを目指して〜]}}、株式会社東京ドーム、2016年1月22日</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASJ1Q51BVJ1QPLFA005.html 東京ドーム、初の大規模改修 照明はLED700台導入]、朝日新聞、2016年1月23日</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ22HNH_S6A120C1TI5000/ 東京ドームが大規模改装へ 開業以来初、人工皮革席を用意]、日本経済新聞、2016年1月22日</ref><ref>[https://hochi.news/articles/20160122-OHT1T50054.html 東京ドームが50億円リニューアル 巨人戦がさらに楽しくなる]、スポーツ報知、2016年1月22日</ref>。 * バックネット裏の1階内野観客席に人工皮革を使ったシート481席を新設(2016年1月〜3月) ** ダイヤモンドボックス席160席とチャンピオンシート321席を用意、いずれも黒のレザークロスを使用し、クッション性が高く座席幅が従来の約1.2〜1.3倍と広くなったシートを採用、いずれも電源コンセントを備えるほか、ダイヤモンドボックス席は取り外し可能なトレイ、肘掛け一体型のドリンクホルダー、野球中継やリプレイ、選手データを見ることができるタブレット端末、荷物用フックも備える。 ** これに合わせる形で記者席が3塁側に移動する。 * 内野観客席を全席改良(1階:2016年1月〜3月、2階:2017年1月〜3月) ** 1階席は背もたれと座面にパットを装着し、1階席・2階席ともに座席角度を調整して膝前スペースを従来の約1.5倍に拡張することで、快適性を向上させる。 * アリーナ照明の[[LED照明|LED]]化(外野側:2016年3月、内野側:2017年3月) ** メタルハライドランプ約1,200灯から[[パナソニック]]製のLED投光器約700灯に変更、これにより消費電力が約54%削減可能となるほか、演出効果の高い照明環境を実現出来る。 * 最新音響システムの導入(外野側:2016年3月、内野側:2017年3月) ** バックスクリーン側にメインスピーカーとして最新のラインアレイスピーカー22台(英 Martin Aubio製MLA)を設置するなど、ライブ会場などで使用されている最新システムに更新し、音の遅延低減や均一な音場など、快適な音響環境を提供する。 * 全てのトイレの便座を[[温水洗浄便座]]に変更(2016年3月) * 周辺環境の整備(2016年2月〜2019年1月) ** 緑地化や人工地盤の整備、エレベーターや階段の新設、公衆トイレの改修、外灯の増設やLED化などを行う。 前述の通り2021 - 2023年のオフシーズンを利用し、2期に分けてスコアボードの大型化拡充のほか、エントランスや客席のホスピタリティーの改善を進めていく予定だったが、2021 - 2022年のオフシーズンに工期を短縮して展開することになった。<ref name="2022改修"/> # 場内コンコースのLEDディスプレーやデジタルサイネージを展開し、エントランスから着席するまで、ジャイアンツの世界に没入してもらう演出を展開 # 特に巨人ファンの応援団が多数入場するライトスタンドへの入場口である第25ゲートを特にジャイアンツカラーを施して、巨人軍の象徴的なゲートへのリニューアルを図る # 客席の拡充 ## 「THE 3rd PLATINUM BOX」(ザ・サード・プラチナ・ボックス) - 3塁側の1階席にL字型ソファーによる4人定員制のグループシートを設け、カウンターテーブルや試合の映像を見ることができるモニター、USBコンセントなどを設け、高級感あふれる白を基調とした上質な試合観戦空間を提供する ## 「SKY TERRACE」(スカイテラス) - 2階席前方に設けるベンチ式ソファーシートで、グループ観戦しやすいように、木目調の仕切りで囲いを作り、食事類を楽しめるカウンターも設置している。 ## 「MASU CABANA」(マス・カバナ) - 2階のコンコース「MASU SUITE(マス・スィート)」の並びに設ける半個室型タイプのグループ席であり、前方にソファー、後方にカウンター席を設け、リゾート気分で野球観戦が楽しめる ## 「CRAFT COUNTER」 (クラフトカウンター) - 2階コンコースの外野寄りに設けるペア観戦専用のカウンター席で、座っての観戦だけでなく、カウンターのみを設けた立ち見指定席も用意。外野席の熱気を観客の好みに応じて楽しめる ## 車いすを増設(従来の22席=1塁側12・3塁側10から、30席=1・3塁側15づつに拡充するとともに、両翼寄りの場所に移設。付添い用の座席もジャイアンツのロゴ入りで、クッション性も向上させる) ## 「ダイヤモンドボックス」を増設(160席→290席。既存のバックネット裏に加え、1・3塁側にかけて2ブロックづつ拡張。試合モニターやフードデリバリーサービスの拡充を図る)これに付随して、「チャンピオンシート」もバックネット裏後方に移し、従来の321席→367席に拡張する ## 「MASU SUITE」を1塁側2部屋(7人部屋・9人部屋)増設 ## 「JCBバックスクリーンクラブ」を従来のライト側に加え、レフト側にも新設。グラウンドに面した壁をガラス張りにし、バックスクリーン付近からの特別な景色を楽しめるようにしするとともに、ビュッフェエリアも拡張する ## 「プレミアムラウンジ」も、[[2008年]]の新設以来となる大規模リニューアルを実施し、インフォメーションカウンターや大型サイネージ(100インチ)、プレミアムラウンジ利用者の専用バーを設け、従来のビュッフェコーナーを含めて食事のバリエーションを充実させるなど、高級感と機能性をより一層高めた座席へのリニューアルを図る ## グラウンドを一望できるバックネット裏3階の「スゥィート倶楽部」(全28室)が「THE SUITE TOKYO(ザ・スゥィート東京)」にリニューアルし、専用ゲート・フロアを設けて、個室でゆったりと野球観戦ができるようになる。 # 場内の売店、チケット販売などの各種物販販売を、本格的に完全[[キャッシュレス]]に移行し、各種[[クレジットカード]]、[[デビットカード]]、[[電子マネー]]での購入に対応。(野球以外でも実施)初めてキャッシュレス決済を利用する人のための「DXサポートデスク」も開設される # 顔認証入場、顔認証決済の本格的な導入 == 看板広告 == {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} バックネットのフェンス広告は2004年(平成16年)から電動により広告パターンを複数出せるようになっている。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]が開催される場合は、オールスターゲームの冠スポンサーの広告を掲出している。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]が開催される場合もオールスター同様に冠スポンサーの広告を出している。 外野に12枚(左翼6枚、右翼6枚〈開設当初は9枚:左翼5枚、右翼4枚〉)の巨大看板が設置されている。プロ野球開催時にこの巨大看板に直撃するホームランを打った選手に対して「東京ドーム・ビッグボードホームラン賞」として100万円の賞金<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/03/29/kiji/K20150329010073650.html 筒香 看板直撃弾で100万円ゲット!“主将&4番”が巨人にトドメ] スポーツニッポン</ref> かそれに相当するスポンサー商品が贈呈される<ref>[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/fan_information/rule/ 東京ドーム 特別ルール] 東京ドームシティ</ref>。 かつてはライト側の柱広告に直撃するホームランを打った選手に300万円の賞金が贈呈されていたが、契約終了により2006年(平成18年)に廃止されて広告が撤去された。 東京ドームは、[[消費者金融]]の会社の広告を一切出していない。以前に[[大阪近鉄バファローズ]]が消費者金融の[[アコム]]とスポンサー契約を新たに結び、ヘルメットに同社名を記したことを、巨人の[[渡邉恒雄]]オーナーが「プロ野球の品位を汚す。消費者金融の広告など、子供に見せられない。東京ドームは、消費者金融の広告は一切ない」と痛罵したが、その発言時は東京ドームでも同業の[[SMBCコンシューマーファイナンス|プロミス]]の広告が出されていた。その後シーズンオフに、次年度の広告掲載の契約更新の際、東京ドームがプロミスに「来年の広告掲載の更新は見送って欲しい。状況を理解して欲しい」と更新を行なわない旨を通達し、プロミスも了承し、消費者金融の広告は一切排除された。 [[バックスクリーン]]は開場当時は両サイドの広告(同一企業のもの2枚)を貼るのみだったが、その後中央部分に「プリズマビジョン」と呼ばれる回転板が張られるようになった。 かつては室内広告として、試合約40分前、3回裏、5回裏、7回裏のグランド整備の間、ゲームセットコールの直後と客出しの間の15 - 20分間に、ビッグヴィジョンへ生中継できるカメラとサンプル商品などを投下する3つの小型気球、それぞれを装備可能<ref>[http://www.skyship.jp/TokyoDome.html 飛行船に関する詳細] ワーナー・グレイ公式サイト内「東京ドーム」</ref>な無人[[飛行船]]が飛行しており、巨人勝利の際は[[ヒーローインタビュー]]のTVのカメラフレームに入り込むように飛行していた。 先述の通り、2022年の映像装置の大型化により、従来の看板型のものから電光掲示板へのサイネージ表示<ref name="nkt"/><ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202007200000557.html 巨人本拠の東京ドームが100億円改修 対コロナも] 日刊スポーツ 2020年7月20日</ref>を採用したことで様々な広告パターンを表示できるようになったが、ビジョンに打球を当てた場合の賞については原則として巨人主催の公式戦のみとなった<ref name=":1" />。 == エピソード == {{出典の明記|section=1|date=2018年4月14日 (土) 02:21 (UTC)}} * [[こけら落とし]]を名乗るものは最初の催事である巨人対[[阪神タイガース]]の[[オープン戦]]<ref name="hokkaido-np-1988-3-18-1">“5万人 巨人・阪神オープン戦でこけら落とし 東京ドーム”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1988年3月18日)</ref> の他<ref>[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/fan_information/history/4/index.html 東京ドーム野球ファン情報 東京ドームの歴史 第4期 ドーム時代] 東京ドームシティ公式サイト</ref>、[[美空ひばり]]の復活コンサートがある<ref>[https://shop.columbia.jp/shop/g/gDV415/ 不死鳥 in TOKYO DOME(DVD)] コロムビアミュージックショップウェブサイト</ref><ref>[http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090006060130091/ プロジェクトX 挑戦者たち 美空ひばり 復活コンサート〜伝説の東京ドーム・舞台裏の300人〜]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }} NHKアーカイブス</ref>。その間に東京ドームオープニングイベントとして行われた世界各国のマーチングバンドと[[THE ALFEE]]の共演によるコンサート、マイク・タイソンの世界タイトル防衛戦、[[ミック・ジャガー]]や[[HOUND DOG]]、[[BOØWY]]のコンサートが行われているがこれらの扱いは不明で、これら全てがこけら落としと表現されていることもある<ref>[https://www.musicman.co.jp/interview/19524 前例のない東京ドーム公演~BOφWYの大成] Musicman-net</ref><ref>[https://urbanlife.tokyo/post/68466/ 1988年オープンの「東京ドーム」 最初にコンサートを行ったのは誰? 巷の諸説を覆す] - Urban Life Metro</ref>。 * {{要出典範囲|date=2014年6月|公式戦での初[[本塁打]]は、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の[[ダグ・デシンセイ]]が[[桑田真澄]]から放ったものである(巨人の東京ドーム公式戦初本塁打は[[ウォーレン・クロマティ]]が[[尾花高夫]]から記録)。試合での初本塁打はオープン戦初戦の[[吉村禎章]]が初の打者となる}}。 ** {{要出典範囲|date=2014年6月|初の公式戦勝利投手は尾花、公式戦セーブは[[伊東昭光]]、公式戦敗戦投手は桑田。}} * 1990年8月10日、読売ジャイアンツ - 中日ドラゴンズ戦が行われる予定だったが、当日接近した台風の影響で[[東海道新幹線]]がストップ、名古屋から中日の選手陣が上京できなくなったため、当日の試合は中止になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_august/KFullNormal20070727146.html|title=【8月10日】1990年(平2) 台風襲来!東京ドームで初の中止試合|work=[[スポーツニッポン]]|date=2007-08-10|accessdate=2013-05-08}}</ref>。これは日本のドーム球場にて試合中止となった最初の事例である。 * [[X JAPAN]]のコンサートの際、「[[BLUE BLOOD (Xのアルバム)|X]]」のサビで両手をX字にしてジャンプする「Xジャンプ」のパフォーマンスが定番になっているが、東京ドームで5万人がジャンプすると振動が東京ドーム外へおよぼされるため、[[文京区]]は「X」に演奏を自粛要請したが、YOSHIKIは強行した。10年後の復活ライブ「[[攻撃再開 2008 I.V.〜破滅に向かって〜]]は「ジャンピング禁止」の張り紙が各所に貼られるも決行された。文京区と東京ドーム側の東京ドーム使用の条件は「Xジャンプを'''誘導しないこと'''」であったため、ファン各々が自発的に行ったとして不問となる。 * 2004年に[[ストロングリーグ]]によっておこなわれた[[全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップ]]の決勝戦では、草野球大会としてはじめて沖縄県のチームが来場し千葉県代表チームに勝利し優勝を飾り、胴上げをおこなった。 * 一部の興行や[[ジャニーズ事務所]]系の場合は、主催者の意向により、球場内の売店でのアルコール類の販売が行われない場合があるが、バーガーショップなど球場外の売店で販売されている。ただし、アルコール類の持ち込みや飲酒状態での入場が禁止になる興行もある。 * 2014年3月30日、[[日本プロ野球|プロ野球]]巨人対阪神3回戦で、試合中に[[大竹寛]]が打ったフライを追いかけた[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]が味方選手の[[福留孝介]]と激突。西岡は頭から地面に叩きつけられたため起き上がれず、その場で西岡を診察した医師の判断により、試合中<ref group="注">タイムはかかっていた。</ref> であったがグラウンド内に[[救急車]]を直接乗り入れさせ病院へ搬送させた。救急車はバックスクリーン下の車両搬入口からシャッターを開閉して出入りした<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140331-1278031.html 阪神西岡長期離脱も 搬送後そのまま入院] - [[日刊スポーツ]]、2014年3月31日付。</ref>。 * [[台湾]]ではドーム球場や大型屋内競技場のことを'''巨蛋'''と呼ぶが、これは東京ドームの愛称であるBIG EGGをそのまま直訳したものが由来となっている<ref>[http://www.ycrc.com.tw/yangchih/A8708.html 多功能巨蛋體育館之營運管理實務(2014)] 314ページ</ref>。 * 2018年3月21日、当日[[明治神宮野球場|神宮球場]]で開催予定であった東京ヤクルトスワローズ対読売ジャイアンツのオープン戦が雨天中止となったため、当初から雨天中止の場合は東京ドームでの練習を予定していた巨人がヤクルトに東京ドームでの練習試合を提案し、ヤクルト側も応じたため、場所を東京ドームに移して[[無観客試合|無観客]]での練習試合が急遽行われた<ref>{{Cite news|title=雨天中止…ドームへ移動 巨人とヤクルトが異例コラボ|newspaper=アサヒ・コム|date=2018-03-21|url=https://www.asahi.com/articles/ASL3P4FCBL3PUTQP00Q.html?iref=comtop_8_08|agency=朝日新聞社|accessdate=2018-03-21}}</ref>。なおこの試合は、巨人がビジター用のユニホームで先攻、ヤクルトがホーム用で後攻と、当日予定されていたオープン戦と同じ方式で行われた。 * 日本ハムの東京ドーム時代のマスコットキャラクター・[[北海道日本ハムファイターズ#マスコット|ファイティー]]は、当初北海道への移転とともに役目を終える予定だったが、女性を中心としたファン達の嘆願により東京ドームでの主催試合限定のマスコットキャラクターとして2005年(平成17年)まで登場し、2006年(平成18年)以降は重大イベント限定での登場となった。日本ハム戦は[[日本ハム|親会社]]の商品マスコットである[[ハムリンズ]]も2005年以降登場している。 * 東京ドームは、巨人の本拠地だけに[[読売新聞グループ本社]]の子会社であると捉えられる場合があるが、2021年3月までは同社との資本関係は無く、資本的に[[みずほ銀行]]や[[富国生命保険]]・[[竹中工務店]]などとの関係が強かった<ref>{{PDFlink|[https://www.tokyo-dome.jp/pdf/negotiable/27_4_yuuka.pdf 株式会社東京ドーム 第105期有価証券報告書]}} p.17</ref>。2020年11月から約2か月間行われた[[三井不動産]]による[[株式公開買付け]](TOB)に伴い、同社が2021年4月に株式会社東京ドームを一時的に完全子会社化した後、東京ドーム株の20%を読売新聞グループ本社に売却したため、初めて同社との資本関係が生じた<ref>{{Cite web|和書|title=三井不、レジャーで成長へ 東京ドームを1200億円で買収|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO66715960X21C20A1TJC000/|website=日本経済新聞|date=2020-11-28|accessdate=2021-11-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=東京ドーム、23日で上場廃止…三井不動産が完全子会社化|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210422-OYT1T50251/|website=読売新聞|date=2021-04-23|accessdate=2021-11-23}}</ref>。ただし、企業としての株式会社東京ドームは、株式会社[[よみうりランド (企業)|よみうりランド]]大株主の一社であり<ref>[https://www.yomiuriland.co.jp/company/ 会社概要│企業情報│株式会社よみうりランド] 2014年10月31日閲覧。</ref>、東京ドームのTOBと同時期に行われていた読売新聞グループ本社によるよみうりランドのTOBに応募していたため、よみうりランドとの連携も強化されたことになる<ref>{{Cite web|和書|title=読売新聞グループ、よみうりランドへのTOB成立|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGD227A30S0A221C2000000/|website=日本経済新聞|date=2020-12-22|accessdate=2021-11-23}}</ref>。{{main|東京ドーム (企業)}} === 球場使用料 === 東京ドームの球場使用料は、2023年4月現在は7時から24時までの1日で観客数に関係なく税抜きで平日1,980万円、休日2,200万円<ref name=":0">[https://www.tokyo-dome.co.jp/mice/pdf/mice_fee.pdf 東京ドームシティ施設料金一覧表]</ref>。(2023年3月までは1700万円)ただし、観客を入れない場合は準備日料金となり1日825万円である<ref name=":0" />。この高い使用料が日本ハムの札幌移転の理由の1つとなった<ref group="注">[[札幌ドーム]]の球場使用料は1試合あたり「基本料金800万円+観客が2万人を超えるごとに1人当たり400円追加」で、最大1600万円強となる。</ref>。 {{要出典範囲|date=2015年6月13日 (土) 10:55 (UTC)|この金額は照明、アナウンス、ゴミ掃除など観客を入れるための各種オプションも含まれた金額である}}。オフシーズン、平日、昼間、草野球(2時間程度)、オプション無し、などの条件であれば50万程度で貸し切ることができる<ref>{{Cite web|和書|title=イベントをお考えの方:東京ドームで草野球 {{!}} 東京ドーム |url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/organizer/play/ |website=東京ドームシティ |access-date=2023-04-11 |language=ja}}</ref>。使用に関しては22時以降0時20分までや23時30分から深夜5時までという深夜の使用も認められている。ただし、12月~2月までの間については草野球の貸出を行っていない<ref name="tokyo-dome-reservation-2014-8-4">{{Cite web|和書| url= https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/reservation/ |title= 東京ドームシティ 野球情報 空き状況 |publisher= 東京ドーム |accessdate= 2014-8-4 }}</ref>。 == 東京ドームMVP賞 == 1980年に後楽園MVP賞として制定された球場独自の表彰で、1988年の東京ドーム開場時に東京ドームMVP賞に改称された<ref name="hochi20171024">{{Cite news|title=【巨人】菅野、東京ドームMVP 今季9勝2敗、防御率1・45「小さい頃から憧れの球場」|date=2017-10-24|url=https://hochi.news/articles/20171024-OHT1T50099.html|accessdate=2018-10-24|language=ja-JP|work=スポーツ報知}}</ref>。東京ドームを本拠地とする球団に属する選手(創設当初は巨人・日本ハム、2004年以降は巨人のみ<ref group="注">日本ハムは、2004年に創設された「[[札幌ドーム#札幌ドームMVP賞|札幌ドームMVP賞]]」に受け継がれ、同年以降は同様に札幌ドームを本拠とするコンサドーレ札幌の選手も表彰対象となった<!--2023年の開催は不明-->。札幌ドーム西ゲート前のトンネル内に、東京ドームのものとほぼ同じ仕様のプレートが展示されている。</ref>)で、同球場で最も活躍した選手1名を表彰し、記念プレートを球場内コンコースに永久展示する<ref name="MVP">[https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/ 東京ドームシティ|野球情報|東京ドーム野球ファン情報 東京ドーム MVP賞] 2018年10月24日閲覧。</ref>。賞金は300万円<ref name="hochi20171024" />。年度によって「特別賞」や「新人特別賞」などが贈られる場合がある<ref name="mvp2015" /><ref name="mvp2018" />。 2022年シーズン終了時点で最多受賞者は打者は[[小笠原道大]]の6回、投手は[[菅野智之]]の4回<ref>{{Cite news|title=巨人菅野が東京ドームMVP賞、松井氏ら超え最多|newspaper=日刊スポーツ|date=2020-11-17|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202011170000276.html|accessdate=2020-11-17}}</ref>。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |+東京ドームMVP賞受賞者<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/|title=野球観戦:東京ドームMVP賞|work=東京ドームシティ|accessdate=2020-11-17}}</ref> |- !colspan="6"|2003年まで |- !rowspan="2" width="50"|年度!!colspan="2"|MVP賞!!rowspan="2"|MVP特別賞!!rowspan="2" width="40"|出典 |- ![[読売ジャイアンツ]]!![[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] |- |{{by2|1980}}||[[江川卓 (野球)|江川卓]]||[[木田勇]]|||| |- |{{by2|1981}}||[[角盈男|角三男]]||[[柏原純一]]|||| |- |{{by2|1982}}||[[松本匡史]]||[[工藤幹夫]]|||| |- |{{by2|1983}}||[[原辰徳]]||[[島田誠]]|||| |- |{{by2|1984}}||[[篠塚和典|篠塚利夫]]||[[トミー・クルーズ|T.クルーズ]]|||| |- |{{by2|1985}}||[[吉村禎章]]||[[古屋英夫]]|||| |- |{{by2|1986}}||[[ウォーレン・クロマティ|W.クロマティ]]||[[田村藤夫]]|||| |- |{{by2|1987}}||原辰徳<small>(2)</small>||[[白井一幸]]|||| |- |{{by2|1988}}||[[ビル・ガリクソン|B.ガリクソン]]||[[佐藤誠一]]|||| |- |{{by2|1989}}||W.クロマティ<small>(2)</small>||[[西崎幸広]]||[[藤田元司]]|| |- |{{by2|1990}}||吉村禎章<small>(2)</small>||[[松浦宏明]]|||| |- |{{by2|1991}}||[[川相昌弘]]||[[柴田保光]]|||| |- |{{by2|1992}}||[[石毛博史]]||[[五十嵐信一]]|||| |- |{{by2|1993}}||川相昌弘<small>(2)</small>||[[マット・ウインタース|M.ウインタース]]|||| |- |{{by2|1994}}||[[斎藤雅樹]]||[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]|||| |- |{{by2|1995}}||[[木田優夫]]||[[キップ・グロス|K.グロス]]||原辰徳|| |- |{{by2|1996}}||[[松井秀喜]]||[[片岡篤史]]|||| |- |{{by2|1997}}||松井秀喜<small>(2)</small>||[[金子誠]]|||| |- |{{by2|1998}}||[[高橋由伸]]||片岡篤史<small>(2)</small>|||| |- |{{by2|1999}}||[[上原浩治]]||[[小笠原道大]]|||| |- |{{by2|2000}}||[[仁志敏久]]||小笠原道大<small>(2)</small>|||| |- |{{by2|2001}}||[[清原和博]]||小笠原道大<small>(3)</small>|||| |- |{{by2|2002}}||松井秀喜<small>(3)</small>||小笠原道大<small>(4)</small>|||| |- |{{by2|2003}}||[[二岡智宏]]||小笠原道大<small>(5)</small>|||| |- !colspan="5"|2004年以降 |- !width="50"|年度!!colspan="2"|MVP賞!!MVP特別賞!!width="40"|出典 |- |{{by2|2004}}||colspan="2"|[[小久保裕紀]]|||| |- |{{by2|2005}}||colspan="2"|[[阿部慎之助]]|||| |- |{{by2|2006}}||colspan="2"|[[李承燁 (野球)|李承燁]]|||| |- |{{by2|2007}}||colspan="2"|上原浩治<small>(2)</small>|||| |- |{{by2|2008}}||colspan="2"|小笠原道大<small>(6)</small>||[[山口鉄也]]<br />[[坂本勇人]]||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2008/|title=野球観戦:東京ドーム 2008年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2009}}||colspan="2"|[[坂本勇人]]||[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]<small>(新人特別賞)</small>||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2009/|title=野球観戦:東京ドーム 2009年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2010}}||colspan="2"|[[アレックス・ラミレス]]||[[長野久義]]<small>(新人特別賞)</small>||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2010/|title=野球観戦:東京ドーム 2010年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2011}}||colspan="2"|阿部慎之助<small>(2)</small>||[[澤村拓一]]<small>(新人特別賞)</small>||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2011/|title=野球観戦:東京ドーム 2011年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2012}}||colspan="2"|阿部慎之助<small>(3)</small>||山口鉄也||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2012/|title=野球観戦:東京ドーム 2012年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2013}}||colspan="2"|[[西村健太朗]]||[[菅野智之]]<small>(新人特別賞)</small>||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2013/|title=野球観戦:東京ドーム 2013年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2014}}||colspan="2"|[[菅野智之]]||原辰徳||<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2014/|title=野球観戦:東京ドーム 2014年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2015}}||colspan="2"|[[マイルズ・マイコラス]]||[[立岡宗一郎]]<small>(敢闘賞)</small><br />[[高木勇人]]<small>(新人特別賞)</small>||<ref name="mvp2015">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2015/|title=野球観戦:東京ドーム 2015年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2016}}||colspan="2"|坂本勇人<small>(2)</small>|||| |- |{{by2|2017}}||colspan="2"|菅野智之<small>(2)</small>|||| |- |{{by2|2018}}||colspan="2"|菅野智之<small>(3)</small>||[[岡本和真]]||<ref name="mvp2018">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/mvp/2018/|title=野球観戦:東京ドーム 2018年度MVP賞 {{!}} 東京ドーム|accessdate=2018-11-12|website=東京ドームシティ|language=ja}}</ref> |- |{{by2|2019}}||colspan="2"|坂本勇人<small>(3)</small>|||| |- |{{by2|2020}}||colspan="2"|菅野智之<small>(4)</small>|||| |- |{{by2|2021}}||colspan="2"|[[岡本和真]]|||| |- |{{by2|2022}}||colspan="2"|[[翁田大勢|大勢]]|||| |} ※1980年から1987年までは、「'''後楽園MVP賞'''」。1988年以降は、「'''東京ドームMVP賞'''」。 == 最寄駅 == * [[水道橋駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[都営地下鉄]]) ** [[File:JR JB line symbol.svg|15px]] [[中央・総武緩行線]] ** [[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15px|三田線]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] * [[春日駅 (東京都)|春日駅]](都営地下鉄) ** [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px|大江戸線]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] ** [[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15px|三田線]] 三田線 * [[後楽園駅]]([[東京地下鉄|東京メトロ]]) ** [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|15px|丸ノ内線]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] ** [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|15px|南北線]] [[東京メトロ南北線|南北線]] 東京メトロ南北線[[飯田橋駅]]~[[後楽園駅]]間は、'''東京ドームのグラウンドの真下を通っている'''。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name=":1">{{Cite web|和書|title=野球観戦:ビッグボードホームラン賞 {{!}} 東京ドーム |url=https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/baseball/fan_information/big/ |website=東京ドームシティ |access-date=2023-07-07 |language=ja}}</ref> }} == 関連項目 == [[ファイル:Tokyo Dome night.jpg|thumb|right|325px|夜の東京ドームおよび東京ドームホテルを望む空中写真]] * [[東京ドームホテル]] * [[東京ドームシティ]] * [[東京ドームシティアトラクションズ]] * [[野球殿堂博物館 (日本)|野球殿堂博物館 (日本)]] * [[日本の野球場一覧]] {{-}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Tokyo Dome}} * [https://www.tokyo-dome.co.jp/dome/ 東京ドーム | 東京ドームシティ] {{S-start}} {{本拠地の変遷|[[後楽園球場]]|1937|1987|[[読売ジャイアンツ]]|1988|現在|n/a| | }} {{本拠地の変遷|後楽園球場|1964|1987|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]|1988|2003|[[札幌ドーム]]|2004|2022}} {{S-end}} {{Navboxes |list= {{東京ドーム}} {{日本プロ野球の本拠地野球場}} {{読売ジャイアンツの本拠地}} {{北海道日本ハムファイターズの本拠地}} {{2006 ワールド・ベースボール・クラシック}} {{2009 ワールド・ベースボール・クラシック}} {{2013 ワールド・ベースボール・クラシック}} {{2017 ワールド・ベースボール・クラシック}} {{2023 ワールド・ベースボール・クラシック}} {{競輪場}} {{アメリカ横断ウルトラクイズ}} }} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とうきようとおむ}} [[Category:東京ドーム|*]] [[Category:関東地方の屋内競技施設]] [[Category:日本の密閉式ドームスタジアム]] 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高崎競馬場
高崎競馬場(たかさきけいばじょう)は、群馬県高崎市で1924年(大正13年)から2004年(平成16年)まで開催されていた地方競馬の競馬場。 ここでは地方競馬の場外勝馬投票券発売所であるBAOO高崎(バオーたかさき)と、過去に運営されていた日本中央競馬会のウインズ高崎についても記述する。 1924年(大正13年)10月1日に開設された。 面積は約10ヘクタールあり、1948年(昭和23年)以前に民間が行っていた競馬場を、競馬法施行と同時期に公営競馬(地方競馬)として群馬県を中心として強制的に運営することになり、県とその関係機関が相続にかかった地権者から購入しようとしたため、土地の所有権については現在も複雑な利権関係になっている。2004年(平成16年)の廃止時には、群馬県と高崎市が設置した一部事務組合である群馬県競馬組合が主催していた。 厩舎などは競馬場に併設していたが、「足利競馬場と連携を取る」という名目で、当時の群馬県議会議員によって現在の伊勢崎市に造成された境町トレーニングセンターへ移動され、その後敷地内に場外売場の境町場外も設置された。 コースはダートのみで、1周1200メートルの右回りで直線走路は300メートル。D-Net加盟であった。 宇都宮競馬場(2005年(平成17年の3月廃止)・足利競馬場(2003年(平成15年)3月廃止)とともに「北関東Hot競馬」の名称で交流レースや北関東グレードの制定など、幅広い提携を行っていた。JRA(日本中央競馬会)との連携も深く、勝ち馬が優先的にJRAのレースに出走可能となる「JRA認定レース」の導入や、地方・中央統一重賞(ダートグレード競走)の「群馬記念」を開催するなど様々な工夫を見せていた。さらに、現在でも一部の地方競馬で行なわれている個人協賛競走の先駆けとなる「企業・団体協賛競走」を実施し、3万円を支払ってそれ相当の商品を優勝馬の関係者に贈呈することを条件(のちに1万円の費用で個人も対象に加えた)に実施した。 近年の累積赤字経営が響き、売り上げ好転の見込みがないとして2004年(平成16年)限りでの廃止が表明された。これに対しライブドアの前社長である堀江貴文が、2005年(平成17年)1月より競馬法の改正で馬券発売などの民間委託が可能になることを受けて高崎競馬への参入を検討していたが、県との話し合いが付かず、2004年(平成16年)12月31日の開催をもって廃止されることとなり、最終的に60数億円の負債を抱えて競馬場の歴史に幕を下ろした。 開催最終日にはメインレースの高崎大賞典を含めた12競走を実施する予定になっていたが、積雪の影響から第8競走終了後に高崎大賞典を含む残りの競走を中止することが決定した。代替開催も行わないことから、第8競走(勝ち馬:ファーストルーチェ、騎手:赤見千尋)が81年の歴史にピリオドを打つ競走となった。 廃止後はメインスタンドが場外馬券売場施設となったが、しばらくの間は他の施設もほとんど取り壊されず残存していた。かつての本馬場は一部が駐車場へ変わり、馬場内の敷地は「高崎競馬場運動公園」として昼間開放され、自由に出入りできる広場として活用されていた。その後、群馬県が複合一体型コンベンション施設として整備を進めることとなり、2016年(平成28年)11月末までにスタンドや事務所棟が解体された(場外馬券売場施設「BAOO高崎」はそれに先立ち移設していた)。複合一体型コンベンション施設は2017年(平成29年)度に工事が着工、2019年(平成31年)度中に完成し、2020年(令和2年)6月1日に群馬コンベンションセンターとして開所した。 2005年(平成17年)3月までは群馬県競馬組合が地方競馬他場の場外発売を行っていたが、4月1日より株式会社日本レーシングサービスが業務を引き継ぎ、「BAOO高崎」と名称を変更して引き続き場外発売を実施している。これは2005年(平成17年)1月に改正された競馬法によって新たに可能となった民間委託による場外馬券発売施設の第1号である。 また日本中央競馬会 (JRA)も、2011年12月までは「高崎場外発売所」、2012年1月からは「ウインズ高崎」の名称で同一施設内において中央競馬の場外発売を行っていた。 2015年度より、高崎競馬場跡を利用した「群馬県コンベンション施設整備基本計画」が着工することに伴い、ウインズ高崎は2014年6月1日で営業を終了した。 なお、BAOO高崎はウインズ高崎の営業終了後も引き続き営業し、2016年3月30日には同じ敷地内に新しい施設を造成して移転している。 ○...発売 ×...発売なし 発売全賭式購入可能。 この旧高崎競馬場の跡地利用については、群馬県の玄関の1つである高崎駅東口から1kmの至近距離にある10.8ヘクタールという大規模な空間を生かし、高崎市におけるコンベンションホールの需要調査や、他都道府県の同種のコンベンション施設についての現況調査を踏まえ、最も有効に機能させるための活用法が検討された。 そこで取りまとめられたことが の4点が重視された。
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高崎競馬場(たかさきけいばじょう)は、群馬県高崎市で1924年(大正13年)から2004年(平成16年)まで開催されていた地方競馬の競馬場。 ここでは地方競馬の場外勝馬投票券発売所であるBAOO高崎(バオーたかさき)と、過去に運営されていた日本中央競馬会のウインズ高崎についても記述する。
{{競馬場 |競馬場名 = 高崎競馬場 |通称・愛称 = |画像 = [[画像:Takasaki Racecourse.jpg|250px|廃止直後の入場口]]<br/>廃止直後の入場口 {{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=13|frame-align=center|frame-width=250}} |所在地 = 群馬県高崎市 |起工 = |緯度度 = 36 | 緯度分 = 19 | 緯度秒 = 10.2 | N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 1 | 経度秒 = 20.3 | E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |開場 = [[1924年]]([[大正]]13年) |閉場 = [[2004年]]([[平成]]16年)[[12月31日]] |取り壊し = |所有者 = 群馬県競馬組合 |管理・運用者 = |収容能力 = 9000人<ref name="黄金">{{Cite journal|和書|journal=地方競馬の黄金時代|year=2009|month=6|page=14-19|title=高崎競馬場}}</ref> |周回 = 右回り |馬場 = ダート }} [[ファイル:takasakikeibajoato.jpg|thumb|right|250px|バックストレッチ側より、かつてのメインスタンドを望む。ダートは整地されている。(2012年4月)]] '''高崎競馬場'''(たかさきけいばじょう)は、[[群馬県]][[高崎市]]で[[1924年]](大正13年)から[[2004年]](平成16年)まで開催されていた[[地方競馬]]の[[競馬場]]。 ここでは[[地方競馬]]の[[場外勝馬投票券発売所]]である'''BAOO高崎'''(バオーたかさき)と、過去に運営されていた[[日本中央競馬会]]の'''ウインズ高崎'''についても記述する。 == 概要 == [[1924年]](大正13年)[[10月1日]]に開設された<ref name="黄金"/><ref>{{Cite web|和書|title=地方競馬情報サイト 競馬場紹介|url=https://web.archive.org/web/20071014180924/http://www.keiba.go.jp/guide/racecourse/takasaki.html#|website=web.archive.org|date=2007-10-14|accessdate=2019-12-16}}</ref>。 面積は約10[[ヘクタール]]あり、[[1948年]](昭和23年)以前に民間が行っていた競馬場を、競馬法施行と同時期に公営競馬([[地方競馬]])として[[群馬県]]を中心として強制的に運営することになり、県とその関係機関が相続にかかった地権者から購入しようとしたため、土地の所有権については現在も複雑な利権関係になっている<ref>当時の競馬場は、国土地理院ホームページ「地図・空中写真閲覧サービス」の空中写真[http://mapps.gsi.go.jp/contentsImage.do?specificationId=41652&dispType=1 USA-R1847-A-27]で確認できる。地方競馬開始に当たって、3、4コーナーを拡張したようである。</ref>。[[2004年]](平成16年)の廃止時には、群馬県と[[高崎市]]が設置した[[一部事務組合]]である[[群馬県競馬組合]]が主催していた。 厩舎などは競馬場に併設していたが、「[[足利競馬場]]と連携を取る」という名目で、当時の群馬県議会議員によって現在の[[伊勢崎市]]に造成された[[境共同トレーニングセンター|境町トレーニングセンター]]へ移動され、その後敷地内に[[場外勝馬投票券発売所|場外売場]]の境町場外も設置された。 [[ファイル:Takasaki Racecourse Aerial photograph.1986.jpg|thumb|left|270px|高崎競馬場付近の空中写真。左上に[[高崎駅]]が見える。1986年撮影。<br />{{国土航空写真}}。]] コースは[[ダート]]のみで、1周1200[[メートル]]の右回りで直線走路は300メートル<ref name="黄金"/>。[[電話投票|D-Net]]加盟であった。 [[宇都宮競馬場]]([[2005年]](平成17年の3月廃止)・[[足利競馬場]]([[2003年]](平成15年)3月廃止)とともに「'''北関東Hot競馬'''」の名称で交流レースや北関東グレードの制定など、幅広い提携を行っていた。JRA([[日本中央競馬会]])との連携も深く、勝ち馬が優先的にJRAのレースに出走可能となる「JRA認定レース」の導入や、地方・中央統一重賞(ダートグレード競走)の「[[群馬記念]]」を開催するなど様々な工夫を見せていた。さらに、現在でも一部の地方競馬で行なわれている[[個人協賛競走]]の先駆けとなる「企業・団体協賛競走」を実施し、3万円を支払ってそれ相当の商品を優勝馬の関係者に贈呈することを条件(のちに1万円の費用で個人も対象に加えた)に実施した。 近年の累積赤字経営が響き、売り上げ好転の見込みがないとして[[2004年]](平成16年)限りでの廃止が表明された。これに対し[[ライブドア]]の前社長である[[堀江貴文]]が、[[2005年]](平成17年)1月より[[競馬法]]の改正で馬券発売などの民間委託が可能になることを受けて高崎競馬への参入を検討していたが、県との話し合いが付かず、[[2004年]](平成16年)[[12月31日]]の開催をもって廃止されることとなり、最終的に60数億円の負債を抱えて競馬場の歴史に幕を下ろした。 開催最終日にはメインレースの高崎大賞典を含めた12競走を実施する予定になっていたが、積雪の影響から第8競走終了後に高崎大賞典を含む残りの競走を中止することが決定した<ref>{{Cite web|和書|title=高崎競馬場、ラスト開催 - 田中哲実 {{!}} 競馬コラム|url=http://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=3649|website=netkeiba.com|accessdate=2019-12-11|language=ja|publisher=|date=2005年01月04日}}</ref>。代替開催も行わないことから、第8競走(勝ち馬:ファーストルーチェ、騎手:[[赤見千尋]]<ref>[http://db.netkeiba.com/race/200441123108/ 2004年12月31日 高崎8R]</ref>)が81年の歴史にピリオドを打つ競走となった。 廃止後はメインスタンドが場外馬券売場施設となったが、しばらくの間は他の施設もほとんど取り壊されず残存していた。かつての本馬場は一部が駐車場へ変わり、馬場内の敷地は「高崎競馬場運動公園」として昼間開放され、自由に出入りできる広場として活用されていた。その後、群馬県が複合一体型コンベンション施設として整備を進めることとなり、[[2016年]](平成28年)11月末までにスタンドや事務所棟が解体された(場外馬券売場施設「BAOO高崎」はそれに先立ち移設していた)。複合一体型コンベンション施設は[[2017年]](平成29年)度に工事が着工、[[2019年]](平成31年)度中に完成し、[[2020年]](令和2年)6月1日に[[群馬コンベンションセンター]]として開所した。 === コース概要 === * 右回り1周1200m、直線300m<ref name="黄金"/> * 距離設定 800m、900m、1330m、1400m、1500m、1900m、2000m、2100m、2600m(いずれもフルゲート12頭)<ref name="黄金"/> == BAOO高崎・ウインズ高崎 == {{公営競技場外発売所 | 施設名 =BAOO高崎 | 画像 = | 画像説明 = | 所在地 =[[群馬県]][[高崎市]]岩押町12-16 | 座標 = | 開設日 =[[2005年]](平成17年)[[4月1日]] | 閉場日 = | 施設設置者 =群馬県(施設所有)<br/>[[日本レーシングサービス]](BAOO運営) | 管理施行者 =[[全国公営競馬主催者協議会]]加入施行者 | 発売窓口 = 自動発売機4・自動発払機5 | 払戻窓口 = 自動発払機5・有人払戻窓口2 | 発売単位 =100円単位 | 開催日営業時間 =9:30から開催終了まで | 非開催日営業時間 = | 最寄駅 =[[高崎駅]] | 最寄IC =[[高崎インターチェンジ|高崎IC]]・[[藤岡インターチェンジ|藤岡IC]] | 駐車場 =2000台 | 駐輪場 = | 外部リンク =[http://www.nrsnet.co.jp/takasaki.html BAOO高崎] }} {{公営競技場外発売所 | 施設名 =ウインズ高崎 | 画像 = [[ファイル:baoowinstakasaki.jpg|280px|旧メインスタンド裏]] | 画像説明 = BAOO・ウインズ共同運営時の画像 | 閉場日 =[[2014年]][[6月1日]](最終発売日) | 施設設置者 =群馬県 | 管理施行者 =[[日本中央競馬会]] | 発売窓口 =自動70窓・自動発払8窓 | 払戻窓口 =自動4窓・受付2窓・自動発払8窓 | 発売単位 =100円単位 | 外部リンク =[https://www.jra.go.jp/facilities/wins/takasaki/ JRA・ウインズ高崎] }} [[2005年]](平成17年)[[3月]]までは群馬県競馬組合が地方競馬他場の場外発売を行っていたが、[[4月1日]]より株式会社[[日本レーシングサービス]]が業務を引き継ぎ、「'''BAOO高崎'''」と名称を変更して引き続き場外発売を実施している。これは2005年(平成17年)[[1月]]に改正された競馬法によって新たに可能となった民間委託による場外馬券発売施設の第1号である。 また[[日本中央競馬会]] (JRA)も、2011年12月までは「'''高崎場外発売所'''」、2012年1月からは「'''ウインズ高崎'''」の名称で同一施設内において[[中央競馬]]の場外発売を行っていた。 2015年度より、高崎競馬場跡を利用した「群馬県コンベンション施設整備基本計画」が着工することに伴い、ウインズ高崎は2014年6月1日で営業を終了した<ref>[http://www.jra.go.jp/news/201312/122402.html JRA公式サイト(2013年12月24日)]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ウインズ高崎、ウインズ新橋の営業終了が決まる {{!}} 競馬ニュース|url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=82829|website=netkeiba.com|accessdate=2019-12-11|language=ja|publisher=|date=2013年12月24日}}</ref>。 なお、BAOO高崎はウインズ高崎の営業終了後も引き続き営業し<ref>[http://www.nrsnet.co.jp/takasaki.html BAOO高崎公式サイト]</ref>、[[2016年]][[3月30日]]には同じ敷地内に新しい施設を造成して移転している<ref>[https://www.keiba.go.jp/old_topics/2016/0308.html 共同場外発売所『BAOO高崎』3/30(水)リニューアルオープン] - KEIBA.GO.JP・2016年3月8日</ref>。 == 歴史 == * [[1923年]](大正12年):高崎競馬倶楽部設立<ref name="黄金"/>。 * 1924年(大正13年):開設、群馬県畜産連合会の主催で競馬開催が始まる<ref name="黄金"/>。 * [[1943年]](昭和18年):[[第二次世界大戦]]により競馬開催中止<ref name="黄金"/>。 * [[1945年]](昭和20年):群馬県馬匹組合連合会の主催で競馬開催が再開<ref name="黄金"/>。 * [[1948年]](昭和23年):[[前橋市]]と[[伊勢崎市]]が主催者に加わり公営競馬を開催<ref>{{Cite web|和書|title=高崎競馬の歩み|url=https://web.archive.org/web/20050207074203/http://www.infoworld.co.jp/keiba/takasaki/frame.html|website=高崎けいば|date=2005-02-07|accessdate=2019-12-16|publisher=}}</ref>。 * [[1951年]](昭和26年):[[太田市]]が主催者に加わり公営競馬を開催。 * [[1968年]](昭和43年):前橋市、伊勢崎市、太田市が組合を脱退し、以降は[[群馬県]]と[[高崎市]]が主催者として公営競馬を開催<ref name="黄金"/>。 * [[1976年]](昭和51年):[[境町]]に[[境共同トレーニングセンター|トレーニングセンター]]が開設される<ref name="黄金"/>。 * [[1985年]](昭和60年):境町場外発売所設置<ref name="黄金"/>。 * [[1993年]](平成5年) :[[FNSの日]]の中の一企画として第1回[[平成GIダービー]]を開催。 * [[1995年]](平成7年) :[[日本中央競馬会|JRA]]GI競走の場外発売開始 * 2004年(平成16年):12月31日の開催をもって廃止<ref name="黄金"/>。 * [[2014年]](平成26年):[[日本中央競馬会|JRA]]WINS高崎の発売業務を6月1日に、払戻業務を7月31日をもって終了。 * [[2020年]](令和2年):[[群馬コンベンションセンター]]開所。 == 発売する馬券の種類 == ; 高崎競馬場開催時 ○…発売 ×…発売なし {| class="wikitable" !style="width: 1.5em;"|単勝 !style="width: 1.5em;"|複勝 !style="width: 1.5em;"|枠番連複 !style="width: 1.5em;"|枠番連単 !style="width: 1.5em;"|馬番連複 !style="width: 1.5em;"|馬番連単 !style="width: 1.5em;"|ワイド !style="width: 1.5em;"|3連複 !style="width: 1.5em;"|3連単 |- style="text-align: center" |○||○||○||×||○||○||×||×||× |} ; BAOO高崎 発売全賭式購入可能。 == 場外馬券売場 == *境町場外発売所(当時の[[佐波郡]][[境町 (群馬県)|境町]]。境町トレーニングセンター隣接。競馬開催終了と共に廃止) == 主な競走 == * [[群馬記念]](統一GIII、北関東G1) * [[北関東菊花賞]](北関東G1、北関東3冠の最終戦) * [[高崎大賞典]](北関東G1) * 開設記念(北関東G1) * 高崎皐月賞 * 高崎記念 * 高崎ダービー * 北関東クイーンカップ * 青峰賞 * サラブレッドカップ * スプリンターズ賞 * 新春杯 * 東国賞 * 高崎オークス == 群馬県コンベンション施設整備基本計画 == {{main|群馬コンベンションセンター}} この旧高崎競馬場の跡地利用については、群馬県の玄関の1つである[[高崎駅]]東口から1㎞の至近距離にある10.8ヘクタールという大規模な空間を生かし、高崎市におけるコンベンションホールの需要調査や、他都道府県の同種のコンベンション施設についての現況調査を踏まえ、最も有効に機能させるための活用法が検討された<ref name="prefgunma">[http://www.pref.gunma.jp/04/b1500222.html 群馬県コンベンション施設整備基本計画](2014年1月12日閲覧)</ref>。 そこで取りまとめられたことが #これからの50年の群馬県をはばたかせる都市装置としての施設 #首都圏と北関東・甲信越をつなぐハブとなる大規模なコンベンション施設 #高崎駅周辺の都市機能との連携 #災害時の防災拠点としての機能 の4点が重視された<ref name="prefgunma"/>。 === 基本的な施設戦略 === #多目的利用可能な展示施設(コンサートや展示即売会、スポーツなどに利用でき、音響などの配慮を施した多目的展示施設) #展示会に特化した付帯施設としての展示施設 #大規模な国際会議などに対応した会議施設 === 設計・建設計画 === *2016年度後半~ 実施設計<ref name="takasaki20160726">[http://www.takasakiweb.jp/news_cat/news/3133 スタンド解体。さよなら高崎競馬場](高崎新聞 2016年07月26日)</ref> *2017年度 着工予定<ref name="takasaki20160726"/> *2019年度中 完成予定<ref name="takasaki20160726"/> *2020年度中 オープン予定<ref name="takasaki20160726"/> *2020年6月1日 [[群馬コンベンションセンター]]開所 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[北関東公営競馬]] * [[ファイト (テレビドラマ)|ファイト]]([[2005年]](平成17年)度上半期[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]] 高崎市が舞台。主演・[[本仮屋ユイカ]]) * [[新高崎競馬応援団]](廃止後、高崎競馬場関係者で結成された団体) * [[サラブレッド・マーチ]](地方競馬で唯一使用されていた) * [[フランツ・フォン・スッペ]](重賞ファンファーレとして、彼の曲「[[軽騎兵 (オペレッタ)|軽騎兵]]」序曲の冒頭部分が使われた) * [[群馬コンベンションセンター]] {{Commonscat|Takasaki Racecourse}} {{日本の競馬場}} {{デフォルトソート:たかさきけいはしよう}} [[Category:現存しない日本の競馬場]] [[Category:現存しない群馬県のスポーツ施設]] [[Category:高崎市の建築物]] [[Category:高崎市の歴史]] [[Category:1924年開設のスポーツ施設]] [[Category:2004年廃止のスポーツ施設]]
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IV号戦車
IV号戦車(よんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen IV、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン フィーア)は、第二次世界大戦期におけるナチス・ドイツの戦車(25トン級)である。 ナチスが政権をとる以前から、ドイツ国防軍はヴェルサイユ条約下で密かに再軍備を見据えた新型戦車の開発を行っていた。1934年、NbFz(ノイバウファールツォイク)と呼ばれる多砲塔戦車の試作車が作られたが、大きく重いことから新たな戦車の開発が求められた。 装甲部隊の創設者ハインツ・グデーリアンにより求められた戦車の仕様は二種類で、一つがツークフューラーヴァーゲン(Zugführerwagen; Z.W.=小隊長車)と呼ばれ、37mm砲搭載の15トン級の「主力戦車」として開発された「III号戦車」、もう一つがベグライトヴァーゲン(Begleitwagen; B.W.=随伴車、歩兵を随伴支援する車両の意、英仏の歩兵戦車に相当)と呼ばれ、75mm砲搭載の20トン級の「支援戦車」として開発された「IV号戦車」である。 1935年3月のヴェルサイユ条約の破棄の決定後は、「B.W.」は「7.5 cm砲戦車」(Geschütz Kampfwagen 7.5 cm)という名称を与えられた。 1935年~1936年に、クルップ社・ラインメタル社・MAN(アウクスブルク=ニュルンベルク機械工場)の3社による、「B.W.」の競争試作が行われ、結果、1936年4月3日に、ラインメタル社の「B.W.I(Rh)」に勝った、クルップ社の「B.W.I(K)」を基に、開発が進められることになり(なお、砲塔の設計については、予めクルップ社が担当することが決まっていた)、「IV号戦車」の制式呼称を与えられた。 1937年10月~1938年3月にかけて製造された増加試作車的なA型に次いで、1937年末~1938年1月にかけてB・C型が製造され、1938年1月~6月にかけてのD型から本格的に量産が開始された。 その後も戦局に対応するため改良が加えられ、1943年4月~1944年7月にかけて長砲身の75mm砲を搭載し主量産型となったH型が製造され、最終型は1944年6月~1945年3月にかけてH型に次いで多く製造されたJ型である。 IV号は、ドイツ戦車の中で最も生産数が多く(ただし、装甲戦闘車両という大きな括りで見た場合、III号突撃砲が最多生産数となる)、大戦中期ごろには改良が限界に達していたものの、敗戦時まで主力として使用され続け、ドイツ戦車部隊のワークホースとして機能した。また、同時期に開発され、50mm砲の搭載を想定したIII号戦車に比べ、75mm砲の搭載を前提に設計されたこともあり、ターレットリング(回転式砲塔)の直径が大きいため、長砲身の75mm砲に設計変更が可能であり、既存車両でも長砲身に換装することが容易であった。そのため、戦訓による武装強化にも対応し、変化する戦況の中で様々な要求に応じるべく車体部分を流用した多種多様な派生型を生み出した。 同盟国などにも輸出され、G型以降がイタリア王国、ルーマニア王国、ハンガリー、ブルガリア、フィンランド、スペイン、トルコの各軍に配備され、戦後も暫く使用されていた。チェコスロバキアが保有していた中古、及びフランスの接収品を購入したシリア軍のIV号戦車が、中東戦争でイスラエル国防軍のセンチュリオンと交戦した記録がある。 元々は、1936年に行われた、ダイムラー・ベンツ社とクルップ社による、III号戦車の競争試作における、競争に敗れたクルップ社側の試作車を、拡大再設計したものが、IV号戦車の原型「B.W.I(K)」となった。また「B.W.II(K)」という、砲塔の無い試作車も製造されている。「B.W.I(K)」と「B.W.II(K)」のシャーシは、後に、トーションバーサスペンションと架橋装置の実験に使われた。 IV号戦車の車体構成は保守的で、リーフスプリング・ボギー式懸架装置を採用していた。この方式はIII号戦車のトーションバー式に比べストロークの移動範囲が少ないため地形追従性が低く路外機動性で劣ってはいるものの、支援戦車であることから機動性は問題視されなかった。クルップ社は、鉄道車両を製造していたことからリーフ式サスペンションの設計に長けており、信頼性が確保されていた。また、車体の底に脱出ハッチを設置可能なこと、サスペンションが外側に出ていることからターレットリングの直径を確保することができる利点がある。 当初から3人が搭乗するバスケット方式の砲塔を搭載。戦車長は砲塔後部に位置し、キューポラ(砲塔上部の司令塔)から周囲を監視しながら指揮に専念出来、装填手以外の全員はタコホーン(喉頭マイク)とヘッドセットを装着し、インターコム(車内通話装置)で騒音の中でも対話可能となっている。また、撃破された際の素早い脱出のため、乗降用ハッチは全員分の数が設置されている。 75 mmという大口径砲を装備する、IV号戦車の砲塔は、当初より電動手動両用旋回方式で、砲塔旋回モーターと、主エンジン左横に発電機用補助エンジン(APU)を搭載しており、補助エンジンの上方にはラジエーターが斜めに置かれ、主エンジン右横にはエアクリーナーがあり、それらのために機関室には燃料タンクのためのスペースが無く、戦闘室の床下に燃料タンクが設けられた。そのため、III号戦車と同じエンジンを搭載しているにもかかわらず、IV号戦車はIII号戦車より30 cm程背が高くなった。その代わり、車体長や機関室の前後長は、IV号戦車の方がIII号戦車より短い。IV号戦車のJ型になって、生産簡略化のために、砲塔旋回モーターと発電機用補助エンジンと補助エンジン用マフラーは廃止されて、手動旋回のみとなり、航続距離延長のために、発電機用補助エンジンのあった場所に燃料タンクが増設された。 なお、III号戦車には、砲塔バスケットは無く、砲塔も手動旋回方式である。 支援戦車として設計されたこともあり、当初は榴弾火力を重視して、短砲身24口径75mm砲が搭載され、戦車部隊の中では火力支援任務に当たっていた。だが、イギリス軍のマチルダII歩兵戦車など装甲の厚い戦車との対戦で、より強力な火力が必要とされ、1941年2月にヒトラーによって60口径50mm砲の搭載が命じられた。これを受けD型を元に1両が試作されたが、それよりも対戦車能力が付加できる長砲身の75mm砲への設計変更が検討された。当初は40口径で設計されていたものを、車体より前にはみ出ないよう求められたため、34.5口径の新型砲の試作が決定された。 しかし、独ソ戦の影響で、34.5口径の新型砲の完成を待てない状況となり、F型の生産途中から7.5 cm PaK 40をベースに開発された7.5 cm KwK 40 L/43(43口径)が搭載された。長砲身の75mm砲となったことにより、対戦車能力は向上し、支援戦車だったIV号戦車はIII号戦車に代わる主力戦車となった。その後、H型(厳密にはG後期型)からL/43より砲身長の長いL/48(48口径)に変更され、更なる火力の強化が図られた。 ドイツ兵器局第1科は1944年10月5日付けの報告書にて、L/48によるM4中戦車に対する有効距離とその部位に対して以下のような評価を下した。 (使用弾はPzgr.39、飛翔する砲弾に対して30度の角度が付いていると仮定されている) 同砲、同条件におけるチャーチル歩兵戦車に対する有効距離は以下のような物である。 III号戦車が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となるポーランド侵攻の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、フランス侵攻が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。 1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた。 1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。 ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。
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"1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。", "title": "運用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。", "title": "運用" } ]
IV号戦車は、第二次世界大戦期におけるナチス・ドイツの戦車(25トン級)である。
{{戦車 |名称=IV号戦車 |画像=[[File:SdKfz161-1-1.jpg|300px|]] |説明= |全長=7.02 m |車体長=5.92 m |全幅=2.88 m |全高=2.68 m |重量=25.0 t |懸架方式=[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング方式ボギー型]] |速度= |整地時速度=38 ~ 42 km/h |不整地時速度=16 km/h |行動距離=210 km(初期)-<br />320 km(中期以降) |主砲=A~F型:[[7.5 cm KwK 37|24口径75mm KwK 37]]<br />(70~122発)<br />F2~G型:[[7.5 cm KwK 40|43口径75mm KwK 40]](77発)<br />H~J型:[[7.5 cm KwK 40|48口径75mm KwK 40]](77発) |副武装=[[ラインメタル/マウザー・ヴェルケMG34機関銃|7.92mm機関銃MG34]]×2<br />(銃弾3,150発) |装甲=;[[砲塔]] *前面:50mm *駐退機前面:70mm *側面・後面:30mm *上面:16-25mm ;車体 *前面:70mm *側面:30mm *後面:20mm *上面:15mm |エンジン名=[[MTUフリードリヒスハーフェン|マイバッハ]] HL 120 TRM<br />[[V型12気筒]][[ガソリンエンジン|ガソリン]] |出力=300PS (224kW) |乗員=5名<br />(車長、砲手、装填手、操縦手、通信手) |備考= }} '''IV号戦車'''(よんごうせんしゃ、Panzerkampfwagen IV、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン フィーア)は、[[第二次世界大戦]]期における[[ナチス・ドイツ]]の[[戦車]](25トン級)である。 == 概要 == [[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権をとる以前から、[[ドイツ国防軍]]は[[ヴェルサイユ条約]]下で密かに再軍備を見据えた新型戦車の開発を行っていた。1934年、[[NbFz (戦車)|NbFz(ノイバウファールツォイク)]]と呼ばれる[[多砲塔戦車]]の試作車が作られたが、大きく重いことから新たな戦車の開発が求められた。 [[装甲部隊]]の創設者[[ハインツ・グデーリアン]]により求められた戦車の仕様は二種類で、一つがツークフューラーヴァーゲン(Zugführerwagen; Z.W.=小隊長車)と呼ばれ、37mm砲搭載の15トン級の「主力戦車」として開発された「[[III号戦車]]」、もう一つがベグライトヴァーゲン(Begleitwagen; B.W.=随伴車、歩兵を随伴支援する車両の意、英仏の[[歩兵戦車]]に相当)と呼ばれ、75mm砲搭載の20トン級の「支援戦車」として開発された「IV号戦車」である。 1935年3月のヴェルサイユ条約の破棄の決定後は、「B.W.」は「7.5 cm砲戦車」(Geschütz Kampfwagen 7.5 cm)という名称を与えられた。 [[1935年]]~[[1936年]]に、[[クルップ]]社・[[ラインメタル]]社・[[MAN (企業)|MAN(アウクスブルク=ニュルンベルク機械工場)]]の3社による、「B.W.」の競争試作が行われ、結果、1936年4月3日に、ラインメタル社の「B.W.I(Rh)」に勝った、クルップ社の「B.W.I(K)」を基に、開発が進められることになり(なお、砲塔の設計については、予めクルップ社が担当することが決まっていた)、「IV号戦車」の制式呼称を与えられた。 [[1937年]]10月~[[1938年]]3月にかけて製造された増加試作車的なA型に次いで、1937年末~1938年1月にかけてB・C型が製造され、1938年1月~6月にかけてのD型から本格的に量産が開始された。 その後も戦局に対応するため改良が加えられ、1943年4月~1944年7月にかけて長砲身の75mm砲を搭載し主量産型となったH型が製造され、最終型は1944年6月~1945年3月にかけてH型に次いで多く製造されたJ型である。 IV号は、ドイツ戦車の中で最も生産数が多く(ただし、[[装甲戦闘車両]]という大きな括りで見た場合、[[III号突撃砲]]が最多生産数となる)、大戦中期ごろには改良が限界に達していたものの、敗戦時まで主力として使用され続け、ドイツ戦車部隊のワークホースとして機能した。また、同時期に開発され、50mm砲の搭載を想定したIII号戦車に比べ、75mm砲の搭載を前提に設計されたこともあり、ターレットリング(回転式砲塔)の直径が大きいため、長砲身の75mm砲に設計変更が可能であり、既存車両でも長砲身に換装することが容易であった。そのため、戦訓による武装強化にも対応し、変化する戦況の中で様々な要求に応じるべく車体部分を流用した多種多様な派生型を生み出した。 [[ファイル:Pz-IVG-latrun-2.jpg|left|thumb|250px|シリア軍が中東戦争で使用したIV号戦車]] 同盟国などにも輸出され、G型以降が[[イタリア王国]]、[[ルーマニア王国]]、[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]、[[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア]]、[[フィンランド]]、[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]、[[トルコ]]の各軍に配備され、戦後も暫く使用されていた。[[チェコスロバキア]]が保有していた中古、及び[[フランス]]の接収品を購入した[[シリア]]軍のIV号戦車が、[[中東戦争]]で[[イスラエル国防軍]]の[[センチュリオン (戦車)|センチュリオン]]と交戦した記録がある。 {{Clearleft}} == 設計 == === 車体 === 元々は、[[1936年]]に行われた、[[ダイムラー・ベンツ|ダイムラー・ベンツ社]]とクルップ社による、Ⅲ号戦車の競争試作における、競争に敗れたクルップ社側の試作車を、拡大再設計したものが、IV号戦車の原型「B.W.I(K)」となった。また「B.W.II(K)」という、砲塔の無い試作車も製造されている。「B.W.I(K)」と「B.W.II(K)」のシャーシは、後に、トーションバーサスペンションと架橋装置の実験に使われた。 IV号戦車の車体構成は保守的で、[[リーフ式サスペンション|リーフスプリング]]・ボギー式懸架装置を採用していた。この方式はIII号戦車のトーションバー式に比べストロークの移動範囲が少ないため地形追従性が低く路外機動性で劣ってはいるものの、支援戦車であることから機動性は問題視されなかった。クルップ社は、鉄道車両を製造していたことからリーフ式サスペンションの設計に長けており、信頼性が確保されていた。また、車体の底に脱出ハッチを設置可能なこと、サスペンションが外側に出ていることからターレットリングの直径を確保することができる利点がある。 当初から3人が搭乗するバスケット方式の砲塔を搭載。戦車長は砲塔後部に位置し、キューポラ(砲塔上部の司令塔)から周囲を監視しながら指揮に専念出来、装填手以外の全員はタコホーン(喉頭マイク)と[[ヘッドセット]]を装着し、インターコム(車内通話装置)で騒音の中でも対話可能となっている。また、撃破された際の素早い脱出のため、乗降用ハッチは全員分の数が設置されている。 75 mmという大口径砲を装備する、IV号戦車の砲塔は、当初より電動手動両用旋回方式で、砲塔旋回モーターと、主エンジン左横に発電機用補助エンジン([[補助動力装置|APU]])を搭載しており、補助エンジンの上方には[[ラジエーター]]が斜めに置かれ、主エンジン右横にはエアクリーナーがあり、それらのために機関室には燃料タンクのためのスペースが無く、戦闘室の床下に燃料タンクが設けられた。そのため、III号戦車と同じエンジンを搭載しているにもかかわらず、IV号戦車はIII号戦車より30 cm程背が高くなった。その代わり、車体長や機関室の前後長は、IV号戦車の方がIII号戦車より短い。IV号戦車のJ型になって、生産簡略化のために、砲塔旋回モーターと発電機用補助エンジンと補助エンジン用マフラーは廃止されて、手動旋回のみとなり、航続距離延長のために、発電機用補助エンジンのあった場所に燃料タンクが増設された。 なお、III号戦車には、砲塔バスケットは無く、砲塔も手動旋回方式である。 === 兵装 === 支援戦車として設計されたこともあり、当初は榴弾火力を重視して、[[7.5 cm KwK 37|短砲身24口径75mm砲]]が搭載され、戦車部隊の中では火力支援任務に当たっていた。だが、[[イギリス軍]]の[[マチルダII歩兵戦車]]など装甲の厚い戦車との対戦で、より強力な火力が必要とされ、1941年2月にヒトラーによって60口径50mm砲の搭載が命じられた。これを受けD型を元に1両が試作されたが、それよりも対戦車能力が付加できる長砲身の75mm砲への設計変更が検討された。当初は40口径で設計されていたものを、車体より前にはみ出ないよう求められたため、34.5口径の新型砲の試作が決定された。 しかし、[[独ソ戦]]の影響で、34.5口径の新型砲の完成を待てない状況となり、F型の生産途中から[[7.5 cm PaK 40]]をベースに開発された[[7.5 cm KwK 40]] L/43(43口径)が搭載された。長砲身の75mm砲となったことにより、対戦車能力は向上し、支援戦車だったIV号戦車はIII号戦車に代わる主力戦車となった。その後、H型(厳密にはG後期型)からL/43より砲身長の長いL/48(48口径)に変更され、更なる火力の強化が図られた。 ドイツ兵器局第1科は1944年10月5日付けの報告書にて、L/48によるM4中戦車に対する有効距離とその部位に対して以下のような評価を下した。 (使用弾はPzgr.39、飛翔する砲弾に対して30度の角度が付いていると仮定されている) *砲塔正面・・・1000m/防楯部・・・100m/操縦手前面・・・0m/車体正面下部・・・1300m *砲塔側面・・・3000m/車体側面・・・3500m+ *砲塔後部・・・3000m/車体後面・・・3500m+ 同砲、同条件におけるチャーチル歩兵戦車に対する有効距離は以下のような物である。 *砲塔正面・・・700m/防楯部・・・500m/操縦手前面・・・100m/車体正面下部・・・100m *砲塔側面・・・3000m/車体側面・・・3000m *砲塔後面・・・1300m/車体後面・・・2800m == 運用 == [[III号戦車]]が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となる[[ポーランド侵攻]]の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった<ref name=P113-115>ドイツ戦車発達史 P.113-115</ref>。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|フランス侵攻]]が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。 1941年6月、[[独ソ戦]]が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで[[赤軍]]の[[T-34]](30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。[[北アフリカ戦線]]に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた<ref name=P113-115/>。 1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、[[V号戦車パンター]](45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。 ドイツ陸軍兵器局は、[[T-34-85]]との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが<ref>大日本絵画 世界の戦車イラストレイテッド25 IV号中戦車G/H/J型 1942-1945 P.38</ref>、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。 == バリエーション == ;A型 :プロトタイプである「B.W.I(K)」をベースにした先行量産型。当時としては強力な短砲身24口径75mm砲を搭載していたが、ニッケルを含まない圧延装甲板は車体前面が20mm、砲塔前面が16mm、その他が14.5mmと不十分で、小銃・機関銃用の7.92mm弾を防げる程度であった。最後の5両のみB型車体を流用したため、車体前面装甲板が30mmになっており、後にそれ以前の車両にも30mm厚の増加装甲が追加された。 :エンジンはマイバッハHL108TR(230hp)で最大速度は32.4km/h、車長用キューポラはIII号戦車B型と共通である。慢性的な戦車不足の状況で、[[バルバロッサ作戦]]当時にもまだ少数が配備されていた。生産期間は1936年10月から翌年3月まで、シャーシナンバーは80101 - 80135(35両)全て[[クルップ]]社で生産された。 ;B型、C型 :[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-J08365, Ausbildung, Überrollen durch Panzer.jpg|thumb|250px|B型]] :続くB型とC型では砲塔・車体装甲板が前面30mmに強化され、車体前方機銃が無くなり、ピストルポートが設置されている。また、キューポラはIII号戦車C/D型と同じ物に変更、C型の生産31号車からはIII号戦車E型と同じ物になった。両タイプは砲塔側面のクラッペ、主砲外防盾開口部の形、C型の途中からエンジンがHL120TRMに変更されるなど、各部に違いが見られる。生き残った車両は大戦後期になっても二線級部隊に配備されており、編成表ではまとめて「IV号戦車クルツ(短砲身)」と呼称されていた。 :B型は[[ノルマンディー上陸作戦]]当時フランスに配備されていたのが確認できる。これらはIII号戦車ほどではないが、まだ設計の基礎が確立していない時期でもあり、細かい変更が重ねられた。 :C型は本来、B.W.(随伴車両、後のIV号戦車)と同時期に開発されていた、それより若干軽量な15トン級のZ.W.(小隊長用車両、後のIII号戦車)との共通型シャーシに変更する予定であったものが、開発の遅れとIV号戦車増産の要求により、B型の改良型となったものであった。 :シャーシナンバーはB型80201 - 80242(42両)、C型80301 - 80400(134両・6両は架橋戦車に)で、全て[[クルップ]]社で生産された。 :{{-}} ;D型 :[[ファイル:PzKpfwIVD.Aberdeen.000a0gpe.jpeg|thumb|250px|[[ドイツアフリカ軍団]]仕様のD型]] :車体前方機銃が復活、側面と後面の装甲厚が15mm→20mmへ強化されているが防御力は不十分で、1940年7月以降から増加装甲が取り付けられるようになった。熱帯用にエンジングリルを改造されたり、残存車両の主砲は全て1942年7月以降に48口径に改修された。 :対戦車戦闘能力を高めるため5 cm KwK L/60を搭載した1両が1941年の[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の[[4月20日|誕生日]]に披露され、8月から80両生産する計画もあったが中止されている。シャーシナンバーは80501 - 80748(戦車型232両の内48両が潜水戦車、30両が熱帯仕様、16両が架橋戦車)で、生産は全てクルップ社。 :{{-}} ;E型 :D型と比較すると砲塔やハッチなどの形状に細かい変更がなされた。車体前面装甲は50mmに強化され、その他の部位にもD型の後期型と同様に増加装甲が取り付けられたため防御力は向上した。また、キューポラの前に設置されていた横長の換気用ハッチに代わり電動式の換気扇(ベンチレーター)が装備された。 :1941年3月からは製造段階で砲塔後部の雑具箱(ゲペックカステン)が装備されるようになった。生産終了後の7月には残存車輌の長砲身化、また1943年5月にはシェルツェンの追加が命じられている。 :シャーシナンバーは80801 - 81006。1940年9月から1941年4月に223両がクルップ社に発注されたが、後に206両に減らされ、内6両は架橋戦車や実験車両として完成した。 ;F型 :[[ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1979Anh.-001-10, Panzer IV, Ausf. F-1.jpg|thumb|250px|F型]] :車体の形状を変更し増加装甲を廃止した代わりに基本装甲が全体的に強化され(前面:50mm、側面:30mm)、重量増加に合わせて履帯幅が400mmに、転輪の厚みがゴム部分で90mmに増加した。砲塔上面前部装甲板の角度も微妙に変化している。生産途中から長砲身の75mm砲が搭載されたF2型に代わったため、短砲身としては最後の型になる。また、長砲身型と識別するため、短砲身型をF1型と表記されることもある。 :F2型を含むシャーシナンバーは82001 - 82613。1941年4月から1942年2月の間で当初500両が発注されたが、1941年7月からニーベルンゲンヴェルケ(13両)とフォマーク社(64両)が参加して、結局クルップ社での生産数は393両であった。 {{-}} ;F2型(後にG初期型) [[ファイル:SdKfz161-1-1.jpg|thumb|250px|[[ムンスター戦車博物館]]に展示中のアフリカ軍団仕様のG型。砲塔左右にクラッペが残る、F2型とも呼ばれた初期型である]] :1942年3月から175両だけ生産され、IV号戦車として初めて長砲身の75mm KwK 40 L/43を搭載した。ドイツ・アフリカ軍団に配備された僅か9両のF2型は対戦車戦闘に威力を発揮、10月までに送られた37両のG型([[エル・アラメインの戦い|エル・アラメイン戦]]以降の増援でもG型が更に26両追加されたに過ぎない)と併せ、イギリス軍から「マークIVスペシャル」と呼ばれ、ドイツ軍の報告書にも「IV号スペツィアル」と記述されている。 :なお本型式は当初7./B.W-Umbau(支援戦車改造第7シリーズ)と呼ばれ、1942年3月21日から6月4日の間のみF2型と呼称された。その後、生産中の長砲身型をG型に改称、7月1日には既に生産済みのF2型も正式にG型に改称する通達が出され、F2型の呼称は当時印刷された2種のマニュアルに残されるだけとなった。日本でも1990年代末にこの事実が明らかになって以降、F2型をG初期型と呼称することが多くなったが、初めて長砲身を装備した型として有名なことから、あえてF2型と表記されることもある。 :{{-}} ;G型 :F2型が改称されたもの。主砲は生産開始から1943年3月までは43口径だったが、H型の生産が始まった同年の4月(いわゆる後期生産型)から、より砲身長の長い75 mm KwK 40 L/48に変更され、更なる火力の強化が図られた。他にも砲塔側面や前面右側のクラッペ(視察口)が廃止されるなど生産途中に何度も改良が加えられている。2月には砲塔前側面左右に三連発煙弾発射機が備えられたが、被弾による破損や発煙が問題となり、5月には廃止されてしまった。また車長用ハッチが、左右分割型から円形の一枚型に変更されている。1942年5月から一部車両で車体前面に30mm増加装甲の溶接を始め、翌年4月から[[ボルト (部品)|ボルト]]留めによる装着に変更し、これは、12月から全車に装着されるようになった。5月には右フェンダー上にエアフィルターを設置するなど、最後期型は併行生産されていたH初期型に酷似した外見となった。 :なお「シュルツェン」と呼ばれる[[対戦車銃]]から側面装甲やハッチを防御する外装式の補助装甲板も1943年4月から標準装備となった。これは後に[[成形炸薬弾]]に対し有効であることも判明した。 :シャーシナンバーは82394 - 84400、(F2型が名称変更されたため、初期の番号が重複)1942年5月から翌年6月までの間にクルップ社で907両、ニーベルンゲンヴェルケで597両、フォマーク社で436両が生産された。 ;H型 [[ファイル:Pz IV turret zoomed.jpg|thumb|250px|イギリス軍に追われたドイツ輸送船がスペインの港に避難した際、押収され[[スペイン陸軍]]の装備となり、現在は博物館に展示されるH型]] :新型の変速機を搭載(最初のフォマーク社製の30両には間に合わず旧型のまま)、車体前面装甲を1943年6月から80mmの1枚装甲に、砲塔上面装甲を前部16mm、後部25mmに変更した。また、シュルツェンが邪魔で使えなくなった車体側面のクラッペを廃止、10月にはゴムタイヤ付きだった上部支持転輪を全金属製に変更、翌年2月にエアフィルターを廃止などの細かい改良が加えられ続けた。当初は砲塔旋回装置を電動から油圧に変更したBW40型に変更する予定であったが実現していない。 :また、G型と違い、生産初期から主砲は75 mm KwK 40 L/48となっている。 :シャーシナンバーは84401 - 89540、1943年4月から1944年2月までの間に、クルップ社で379両(以降、[[IV号突撃砲]]を生産)、ニーベルンゲンヴェルケで約1,250両、フォマーク社で693両が生産されたが、車台が突撃砲や対空戦車などに流用されているので、シャーシナンバーが生産数と一致しない。 :{{-}} ;J型 [[ファイル:PzIV.Saumur.000a5s6s.jpg|thumb|250px|トーマ・シールド(金網製シュルツェン)装備のJ型最後期仕様<ref>復元車両のため、車台は前期仕様、[[ソミュール戦車博物館]]</ref>]] :H型からの変更点は生産の簡略化が主で、特に最初期のタイプはH型から砲塔旋回モーターと発電機用補助エンジンを廃止しただけであり、これにより旋回装置はギア比2段切り替えの手動式に変更された。これは、乗員に不評であったとする資料が多いが、車体が傾いた状態での旋回が容易になったり、装填手が別のハンドルで旋回を手伝うことができることもあり、平地ではむしろ旋回速度が向上したとする資料もある。これにより発電機用補助エンジンのマフラーが廃止されているため、車体後部を見ることでH型との識別が可能である。 :後に、主エンジン用のマフラーも消音効果の無い単純な管2本のタイプに省略されている。1944年7月から車体上面装甲の16mmへの増厚とベンチレーターカバーの大型化、材質が表面硬化処理装甲から均質鋼に変更、シャーシナンバー91949から補助発電機のあった所への200リットル燃料タンクの増設が行われた。しかし、燃料漏れの欠陥がありすぐに廃止、9月より改良された燃料タンクが標準装備となった。 :同時期に車体のシュルツェンが金網状となった<ref>鉄筋による密度の高い金網状で対HEAT弾専用というわけではなく、軟鋼製同様に命中した対戦車ライフル弾を偏向させ本体装甲への貫通力を削ぐ効果があったが、軟鋼製のシュルツェンより製造が難しく、配備が遅れていた。</ref>「トーマ・シールド」(正しくはトーマ・シュルツェン)も生産開始され、翌月には車長キューポラのハッチが横旋回で開くタイプに変り、12月からは上部支持転輪が片側3個に減らされた。後期には車体前面下部に付く牽引具が省略され、車体側面装甲版の前方を延長して穴をあけてシャックルを通すことで代用した。T-34のように履帯の抜けかけたピンを押し戻す脱落防止板のようなものが付く車両もあるが、これは、後部の履帯がよれて、車体側面とピンの頭が擦れて摩耗するのを防止するための物であり、同様の物が突撃砲や自走砲の一部にも見られる。 :1944年2月から終戦までニーベルンゲンヴェルケにより約2,970両(以前の資料ではH型とされた2-5月の生産分がJ型に訂正されたので、IV号戦車シリーズ中最多となった)、フォマーク社でも約180両(以降、[[IV号駆逐戦車]]を生産)が生産された。 :1950年代半ば、[[シリア]]がフランス、チェコスロバキアから入手し自国軍機甲兵力に組み入れたIV号戦車はこのJ型で、オリジナルの対空機銃架が追加され、スクラップからの再生車輌には旧型のキューポラを装備した物があるなど、各部に原型との差異が見られる。 {{-}} == 派生型 == ;IV号[[水陸両用戦車|潜水戦車]] :Tauchpanzer IV :[[イギリス]]本土上陸作戦・[[アシカ作戦|ゼーレーヴェ]]用に、D型およびE型をベースに1940年に42両(48両とする資料もあり)が改造されて製作された。各ハッチ、銃器、主砲などのマウント部分、砲塔のターレットリング部などに防水シールを施し、エンジンの吸気・排気は逆流防止弁のついたチューブを水面のフロートまで伸ばして行い、水面下15mの海底を5km/hで進むことが出来た。ゼーレーヴェ作戦が中止となり、後に[[バルバロッサ作戦]]でのブーク川渡河で実戦投入された。 [[ファイル:Bundesarchiv_Bild_101I-155-2112A-38A,_Russland,_Panzer_IV.jpg|thumb|250px|被弾損傷したIV号指揮戦車]] ;IV号[[指揮戦車]] :Panzerbefehlswagen IV :中隊長以上向けの仕様。修理のため工場に戻された長砲身型に長距離用無線機やアンテナ、各種周辺機器を追加した代わりに砲弾の搭載数が15発減らされている。1944年3月から88両が改造された他、17両が新品のJ型をベースに作られた。 :{{-}} ;IV号観測戦車 :Panzerbeobachtungswagen IV :自走砲部隊の着弾観測を行うIII号観測戦車の後継車。キューポラが突撃砲用の物に代わり、閉めたままのハッチ前端の小ハッチを開けて砲兵鏡(シザースペリスコープ)を突き出し、観測任務を行うことができた。無線機は3基搭載され、砲塔同軸機銃は撤去されている。1944年7月から133両が改造または新造された。 ;[[ブルムベア|IV号突撃戦車 ブルムベア]] :Sturmpanzer IV, Brummbär :IV号戦車の車体に大型の戦闘室を設け15cm榴弾砲を備え、歩兵部隊への直接火力支援を目的として作られた。 ;[[IV号突撃砲]] :Sturmgeschütz IV :III号突撃砲の生産工場であるベルリンのアルケット社が空爆によって破壊されたことから、代用としてIV号戦車の車体にIII号突撃砲の戦闘室を据え付けたもの。 ;[[IV号駆逐戦車]] :48口径75mm砲を搭載した[[駆逐戦車]]。 ;[[IV号駆逐戦車|IV号戦車 L70(V) ラング]] :IV号駆逐戦車に70口径7.5cm砲を搭載したもの。 ;[[IV号駆逐戦車|IV号戦車 L70(A)]] :IV号戦車J型の車台にIV号戦車/70(V)の物に似た戦闘室を搭載した[[駆逐戦車]]。 ;[[ナースホルン|ホルニッセ / ナースホルン]] :Hornisse / Nashorn :III/IV号自走砲車台(III号戦車とIV号戦車の部品を組み合わせたもの)に8.8cm砲を据え付けた対戦車[[自走砲]]。 ;[[フンメル (自走砲)|フンメル]] :Hummel :III / IV号自走砲車台に15cm砲を据え付けた自走榴弾砲。 ;[[メーベルワーゲン|メーベルヴァーゲン]] :Möbelwagen :IV号戦車をベースとし3.7cm対空機関砲 (3.7cm FlaK 43/1)1門を搭載した対空戦車。後継の開発が遅れたため終戦まで主力[[対空戦車]]の地位にあった。 ;[[ヴィルベルヴィント]] :Wirbelwind :専用の砲塔に[[2cm Flakvierling38|Flakvierling38]] 2cm対空機関砲を搭載した対空戦車。専用車体で新造されたメーベルヴァーゲンとは異なり、全車が修理のために戻ってきたIV号戦車から改造された。 ;[[オストヴィント]] :Ostwind :ヴィルベルヴィントに似た設計だが、より火力の大きい3.7cm対空機関砲 (3.7cm FlaK 43/1)1門を搭載している。 ;[[クーゲルブリッツ]] :Kugelblitz :機関砲を収容した部分だけが上下する特殊構造([[揺動砲塔|揺動式]])の砲塔に強力な3cm [[MK 103 機関砲]]を連装で搭載した対空戦車。ごく少数の生産に終わった。 ;IV号c型装甲自走砲架、8.8cm高射砲搭載試作対空戦車 :Panzer Selbstfahrlafette IVc、Pz.Sfl. IVc、後に、Versuchsflakwagen(VFW) :Panzer Selbstfahrlafette(パンツァー・ゼルプストファール・ラフェッテ)は「装甲自走砲架」の意。Versuchsflakwagen(フェアズーフス・フラック・ヴァーゲン)は「試作対空車両」の意。 :1941年~1945年にかけて、砲兵用自走砲開発プログラムにより開発された。開発当初砲兵側によって提示された基本的条件は、装甲戦闘車両に匹敵する走行性能、砲撃準備時間の短縮、旋回射撃能力、機関銃射撃・砲弾片からの乗員保護など。搭載砲については7.5cmPaKから21cm臼砲まで多岐に渡る。 :その内の一つが[[マジノ線]]攻略に備えて対地支援用に開発されていた「IV号c型装甲自走砲架」である。対仏戦に間に合わなかったものの、開発は続行され、当初は主砲に「[[8.8 cm FlaK 18/36/37|クルップ 56口径 8.8 cm FlaK 18]]」を搭載する予定だったが、1942年6月に、より高初速、長射程の、「ラインメタル 74口径 8.8 cm FlaK 41」に変更、用途も機甲部隊防空用に変更され、新たに「VFW」の呼称を与えらえた。砲の周囲は装甲に囲われ、射撃時にはメーベルヴァーゲンのように装甲が展開した。変速機などの駆動系トラブルから開発が遅れ、1943年4月に試作1号車が、5月に試作2号車が、11月に試作3号車が、完成し、走行試験が行われた。高速の戦闘爆撃機に対し、8.8 cm高射砲は大口径機関砲と比べて防空任務に適さないと判断され、生産計画の見直しにより、1944年1月に開発中止、試作3両のみに止まった。 :1943年11月、2号車はスクラップとなった。1944年3月、1号車と3号車のどちらかが、「[[8.8 cm FlaK 18/36/37|クルップ 56口径 8.8 cm FlaK 37]]」に換装され、第304高射砲大隊に配属され[[イタリア戦線 (第二次世界大戦)|イタリア戦線]]に投入された外は、資料消失、消息不明である。 ;IV号戦車G型 8.8cm Flak36 高射砲搭載自走砲 :8.8cm Flak36 auf Pz.Kpfw.IV Ausf.G :少数が生産されたと言われる試作車両。80431と83279の2両が確認されている。IV号戦車G型(H型とされるのは間違い)から砲塔を撤去して、車体上部中央を下げ、そこに88mm高射砲をそのまま載せた急造車両。「Pz.Sfl. IVc」と異なり、高射砲の周囲に装甲は無い。 [[File:Karl23.jpg|thumb|250px|カール自走臼砲に砲弾を移す給弾車]] ;[[カール自走臼砲]]砲弾給弾車 :Munitionsträger fuir Karl-Gerät :IV号戦車D・E・F型の車台を利用し13両が改造された。砲塔を取り去り4発の60cm砲弾または54cm砲弾を運搬できる装備と、専用のクレーンを設置したものであった。カール自走臼砲1両につき2両のMunitionsträgerが割り当てられ、1両の予備車両があった。 :{{-}} ; IV号弾薬運搬車 : {{lang|de|Munitionsträger IV}} : 砲塔を取り外してターレットリング部分を大型のハッチのついた装甲板で塞ぎ、戦闘室内に弾薬ラックを設置した弾薬運搬車。D・F・G型の余剰車輌から改造して製作され、[[第653重戦車駆逐大隊]]や[[IV号突撃戦車]]([[ブルムベア]])を装備する第216突撃戦車大隊他で運用された。 ; IV号回収戦車 : {{lang|de|Bergepanzer IV}} : 1944年10月から12月にかけて21台(資料によっては36台とされている)がF・G型の車体を流用して製作された、砲塔を取り外した車体に組み立て式のクレーンを搭載し、各種回収機材を搭載した[[戦車回収車]]([[回収戦車]])。[[V号戦車パンター#派生型|ベルゲパンター]]とは異なり車内に[[ウィンチ]]は搭載されていない。 : 開発・試作段階では、[[III号戦車#派生型|III号回収戦車]]と同様に、大型大重量の車輌の回収作業には移動時には1軸2輪のトレーラーとして牽引する大型の[[錨]]({{lang|de|Panzerbergeanker als Anhänger (1 achs.) (Sd.Ah.40)}}<ref>[http://www.kfzderwehrmacht.de/Homepage_english/Trailers/Special_trailers/Sd__Ah__40/sd__ah__40.html Kfz der Wehrmacht>{{lang|de|Panzerbergeanker als Anhänger (1 achs.) (Sd.Ah.40)}}] ※2019年8月3日閲覧</ref>を使用する方式(これを地面に喰い込ませて牽引力を増加させる)としていたが、Sd.Ah.40は量産車には装備されず、実戦での使用例もなかった。 {{-}} ; IV号架橋戦車 : {{lang|de|Brückenleger IV b / c}} : 1940年2月から5月にかけて、クルップ社とマギウス社によって製作された[[架橋戦車]]。砲塔を外した車体に繰り出し式の展開装置と全長最大9m、最大通過重量28トンの金属製橋梁を搭載している。B型から20両が、C型から4両が製造された。 ; IV号突撃橋戦車 : {{lang|de|Brückenleger IV s(Sturmstegpanzer IV)}} : 1940年にC型から4両が製造された[[架橋戦車]]の一種。IV号架橋戦車と同じく砲塔を外した車体に歩兵用の伸縮式突撃橋を搭載した。突撃橋は最大伸長時には50mまで伸ばすことができ、架橋車輌というよりは“[[日本の消防車#はしご自動車各種|はしご車]]”というべきものである。 == 運用国 == *{{DEU1933}} *{{FIN}} *{{BGR1908}} *{{ROM1881}} *{{HUN1920}} *{{ESP1939}} *{{SSR}} - ドイツ軍より鹵獲 *{{FRA}} - ドイツ軍より鹵獲 *{{POL}} - ドイツ軍より鹵獲 *{{SYR}} == 時代を超えて? == 2023年10月17日、ウクライナ侵攻のさなかクレミンナにて同車と思しき戦車が破壊された状態で発見された。一部パーツはロシア製に換装されているようだが詳細は不明。ロシア軍が使用していた物が撃破されたのかウクライナ軍がデコイとして設置したのかは2023年10月18日時点では判明していない。 == 登場作品 == {{Main|IV号戦車に関連する作品の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 参考資料 == * 大日本絵画 世界の戦車イラストレイテッド12 IV号中戦車 1936-1945 (ディヴィッド・E・スミス、ジム・ローリエ 著) * 大日本絵画 世界の戦車イラストレイテッド25 IV号中戦車G/H/J型 1942-1945 (ヒラリー・ドイル、トム・イェンツ著) * デルタ出版 グランドパワー'99/5(No.060)、'99/6(No.061)、'02/12(No.103)、他 == 関連項目 == {{Commons|Category:Panzerkampfwagen IV |タイトル1=IV号戦車の派生型 |追加1=Category:Panzerkampfwagen_IV_variants }} *[[中戦車]] {{第二次大戦のドイツ装甲戦闘車両}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:4こうせんしや}} [[Category:IV号戦車|*]] [[Category:ドイツ国防軍の戦車]] [[Category:中戦車]]
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東武本線
東武本線(とうぶほんせん)とは、東武鉄道の鉄道路線のうち、伊勢崎線・日光線とそれらに接続する路線の総体である。 「東上線」(東上本線・越生線)を除いた東武鉄道の鉄道各線を指し、離れている2つの路線網を便宜上区別するために使用される概念の1つである。 実際に「東武本線」という名称の路線は存在せず、本線格の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の別称でもない。 東武鉄道が東上鉄道を対等合併し、互いに接続しない路線網を持つことになった。この際旧東上鉄道線を「東上線系」とした一方、当時存在していた軌道線や熊谷線などの独立路線を除く元々の東武鉄道線を「本線系」と区別したものである。 その後、軌道線が廃止され、1983年に東武最後の独立線区となっていた熊谷線が廃止されて以降は、東上本線・越生線以外の路線を「本線」として総称している。以前は「本線」のみを指して「東武線」とする場合もあったが、現在ではあまり例がない。また、伊勢崎線・日光線など東武の幹線を指す概念でもない。 東京の浅草駅・押上駅をターミナルとし、日光・鬼怒川温泉・宇都宮・桐生・伊勢崎・佐野・小泉・野田・亀戸・西新井大師方面へ路線が拡がる。その範囲は東京・埼玉・千葉・群馬・栃木の1都4県に渡る。 伊勢崎線・日光線を軸として各線が接続し、亀戸線・大師線を除く全線で複数の路線を跨ぐ直通運転が行われており、亀戸・大師線も車両の共通運用がなされている。 東日本旅客鉄道・東京地下鉄・東急電鉄・野岩鉄道・会津鉄道の各社線と直通運転(相互・片)を行っており、また、有料・座席指定の特急列車も運行されるなど、関東地方から東北地方南部にかけての広域鉄道網の一翼を担う。 駅構内や列車内に張り出される停車駅案内図は本線全線と一般列車の直通運転先を記載しており、神奈川県の東急・中央林間駅から福島県の会津鉄道・会津田島駅まで1都6県5社15路線232駅を一枚に収めた濃密なものとなっている。 なお、かつて存在していた熊谷線や伊香保軌道線、日光線と接続していた日光軌道線とその日光軌道線と接続していた日光鋼索鉄道線、及び未成線の渋川線は本線系並びに東上線系のいずれにも属さない独立路線としての位置付けであった。 また、かつては西板線が本線系と東上線系とを連絡する路線として計画されていた(西板線は本線に属する予定であった)が、実現には至らなかった。両系統路線群間での車両の転属回送経路としても計画されていた西板線が未成に終わったことから、両系統路線群を接続する路線を有していないため、本線と東上線との間で車両を輸送する場合は、秩父鉄道秩父本線が使われている。 本線の列車種別体系は東上線とは異なる。現行の定期列車種別は次の通り。この他「AIZUマウントエクスプレス」号は一応「快速」であるが、東武線内に通過駅はない。亀戸、大師、小泉、宇都宮線には現在普通列車以外の設定がない。 また、現在の伊勢崎線関係の区間急行のルーツである旧・準急は停車パターンにより「準急A」(通過タイプ)と「準急B」(停車タイプ)の2つがあった(車体表示はいずれも「準急」)。
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東武本線(とうぶほんせん)とは、東武鉄道の鉄道路線のうち、伊勢崎線・日光線とそれらに接続する路線の総体である。 「東上線」(東上本線・越生線)を除いた東武鉄道の鉄道各線を指し、離れている2つの路線網を便宜上区別するために使用される概念の1つである。 実際に「東武本線」という名称の路線は存在せず、本線格の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の別称でもない。
{{独自研究|date=2013年3月5日 (火) 02:34 (UTC)|ソートキー=鉄}} [[ファイル:Tobu Railway Linemap.svg|240px|thumb|東武本線と東武東上線]] '''東武本線'''(とうぶほんせん)とは、[[東武鉄道]]の鉄道路線のうち、[[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]・[[東武日光線|日光線]]とそれらに接続する路線の総体である。 「[[東武東上本線|東上線]]」([[東武東上本線#一般的な呼称と旅客案内上および路線系統名称|東上本線]]・[[東武越生線|越生線]])を除いた東武鉄道の鉄道各線を指し、離れている2つの路線網を便宜上区別するために使用される概念の1つである。 実際に「東武本線」という名称の路線は存在せず、本線格の伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の別称でもない。 == 概要 == [[ファイル:Tobu-Asakusa-Sta-201205.JPG|thumb|right|240px|本線の旗艦ターミナル[[浅草駅]]]] 東武鉄道が東上鉄道を対等合併し、互いに接続しない路線網を持つことになった。この際旧東上鉄道線を「'''東上線系'''」とした一方、当時存在していた軌道線や[[東武熊谷線|熊谷線]]などの独立路線を除く元々の東武鉄道線を「'''本線系'''」と区別したものである。 その後、軌道線が廃止され、1983年に東武最後の独立線区となっていた熊谷線が廃止されて以降は、[[東武東上本線|東上本線]]・[[東武越生線|越生線]]以外の路線を「本線」として総称している。以前は「本線」のみを指して「東武線」とする場合もあったが<ref>『東武鉄道百年史』、東武鉄道、1998年</ref>、現在ではあまり例がない<ref>2020年現在でも「[[東武東京メトロパス]]」のように東武本線のみ有効な切符の名称に「東武」が使用されている例はある(東上線側には「[[東上東京メトロパス]]」が別に存在する)。</ref>。また、伊勢崎線・日光線など東武の幹線を指す概念でもない。 == 路線 == 東京の[[浅草駅]]・[[押上駅]]をターミナルとし、[[東武日光駅|日光]]・[[鬼怒川温泉駅|鬼怒川温泉]]・[[東武宇都宮駅|宇都宮]]・[[新桐生駅|桐生]]・[[伊勢崎駅|伊勢崎]]・[[佐野駅|佐野]]・[[西小泉駅|小泉]]・[[野田市駅|野田]]・[[亀戸駅|亀戸]]・[[大師前駅|西新井大師]]方面へ路線が拡がる。その範囲は[[東京都|東京]]・[[埼玉県|埼玉]]・[[千葉県|千葉]]・[[群馬県|群馬]]・[[栃木県|栃木]]の1都4県に渡る。 伊勢崎線・日光線を軸として各線が接続し、[[東武亀戸線|亀戸線]]・[[東武大師線|大師線]]を除く全線で複数の路線を跨ぐ[[直通運転]]が行われており、亀戸・大師線も車両の共通運用がなされている。 [[東日本旅客鉄道]]・[[東京地下鉄]]・[[東急電鉄]]・[[野岩鉄道]]・[[会津鉄道]]の各社線と直通運転(相互・片)を行っており、また、[[座席指定席|有料・座席指定]]の[[東武鉄道#優等列車|特急列車]]も運行されるなど、関東地方から東北地方南部にかけての広域鉄道網の一翼を担う。 駅構内や列車内に張り出される停車駅案内図は本線全線と一般列車の直通運転先を記載しており、[[神奈川県]]の東急・中央林間駅から[[福島県]]の会津鉄道・会津田島駅まで1都6県5社15路線232駅を一枚に収めた濃密なものとなっている。 * 路線数:10 * 総距離:377.4キロメートル([[営業キロ]]) * 駅数:159 === 構成路線 ===<!--以下TS・TI・TN・TDのブロック毎に駅ナンバリングの番号順に配列--> * [[東武伊勢崎線|伊勢崎線]](浅草・押上 - 東武動物公園間の愛称は'''「東武スカイツリーライン」''') **[[東武亀戸線|亀戸線]] ** [[東武大師線|大師線]] ***[[東武大師線#西板線計画|西板線]](未成線。東上本線と接続する予定であったものの、同線は本線系に属する計画であった) ** [[東武佐野線|佐野線]] ** [[東武小泉線|小泉線]] ** [[東武桐生線|桐生線]] * [[東武日光線|日光線]] ** [[東武宇都宮線|宇都宮線]] ** [[東武鬼怒川線|鬼怒川線]] * [[東武野田線|野田線]](愛称'''「東武アーバンパークライン」''') === 廃止路線 === * [[東武矢板線|矢板線]] * [[東武大谷線|大谷線]] * [[東武大叶線|大叶線]] * [[東武会沢線|会沢線]] * 徳川河岸線 * 仙石河岸線 なお、かつて存在していた[[東武熊谷線|熊谷線]]や[[東武伊香保軌道線|伊香保軌道線]]、日光線と接続していた[[東武日光軌道線|日光軌道線]]とその日光軌道線と接続していた[[東武日光鋼索鉄道線|日光鋼索鉄道線]]、及び未成線の渋川線は本線系並びに東上線系のいずれにも属さない独立路線としての位置付けであった。 また、かつては[[東武大師線#西板線計画|西板線]]が本線系と東上線系とを連絡する路線として計画されていた(西板線は本線に属する予定であった)が、実現には至らなかった<ref>[[東武博物館]]館長・花上嘉成の回想によれば、[[川越線|国鉄川越線]]を買収し、[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]で野田線と接続するという構想も存在した(「[[鉄道ピクトリアル]]」2013年10号(第880号)p68-69)。</ref>。両系統路線群間での車両の転属回送経路としても計画されていた西板線が未成に終わったことから、両系統路線群を接続する路線を有していないため、本線と東上線との間で車両を輸送する場合は、[[秩父鉄道秩父本線]]が使われている<ref>その時は、秩父型ATSを搭載した[[東武8000系電車|8000系]]か、あるいは[[秩父鉄道]]の[[電気機関車]]の牽引で回送される。</ref>。 ==列車種別== 本線の列車種別体系は東上線とは異なる。現行の定期列車種別は次の通り。この他「[[AIZUマウントエクスプレス]]」号は一応「快速」であるが、東武線内に通過駅はない。亀戸、大師、小泉、宇都宮線には現在普通列車以外の設定がない。 *'''特別急行'''(特急) *:要特急料金。伊勢崎、佐野、桐生、日光、鬼怒川、野田線で運行。 *'''急行''' *:伊勢崎、日光、野田線で運行。 *'''区間急行''' *:伊勢崎、日光、野田線で運行。 *'''準急''' *:伊勢崎、日光線で運行。 *'''区間準急''' *:伊勢崎、日光線で運行。 *'''普通''' ===廃止された列車種別=== *'''急行''' *:要急行料金のもの。2006年改正で廃止。現在でいう特急の範疇だが、スペーシアよりも格下の車両([[東武300系電車|300系]]等)を使用。伊勢崎、佐野、桐生、日光、鬼怒川、宇都宮線で運行。 *'''快速急行''' *:座席指定。2002年改正で廃止。快速の上位。快速車両を使用。浅草駅 - 鬼怒川線方面。 *'''快速''' *:2017年改正で廃止。区間快速の上位。料金不要であるが中距離仕様のトイレ付きセミクロスシート車([[東武6050系電車|6050系]]等)を使用。浅草駅 - 鬼怒川線方面。 *'''区間快速''' *:2017年改正で廃止。現・急行の上位。快速車両を使用。浅草駅 - 鬼怒川線方面。 また、現在の伊勢崎線関係の区間急行のルーツである旧・準急は停車パターンにより「'''準急A'''」(通過タイプ)と「'''準急B'''」(停車タイプ)の2つがあった(車体表示はいずれも「準急」)。 == 関連項目 == *東武本線を補完・延長する存在の他社線(非直通) **[[上毛電気鉄道上毛線]](赤城) **[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線]](相老) **[[秩父鉄道秩父本線]](羽生) **JR[[両毛線]](伊勢崎、佐野、栃木) **[[東京メトロ銀座線]](浅草) * [[朝日自動車]] * [[日光交通]] *[[根津嘉一郎 (初代)]] *JR[[湘南新宿ライン]]・[[上野東京ライン]]・[[相鉄・JR直通線|相鉄線直通列車]] *[[鉄道国有法]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} {{東武鉄道の路線}} {{DEFAULTSORT:とうふほんせん}} [[Category:東武鉄道の鉄道路線|ほん]]
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行田市駅
行田市駅(ぎょうだしえき)は、埼玉県行田市中央にある秩父鉄道秩父本線(秩父線)の駅である。 のりば 太平洋戦争後から1960年代後半にかけて、行田市の地場産業の好況に比例する形で、秩父鉄道の各駅の中でも熊谷に次ぐ利用者数であったが、それ以降の利用者数は減少している。最も乗車数が多かった1965年(昭和40年)の3,620名(1日平均)と比べると2010年代には4分の1程度まで減少している。それでも2020年度の利用者数は、秩父線37駅中6位となっている。自治体名を冠する駅であり、周辺は古くからの市街地であるが、利用者数はそれほど多くはない。 年度ごとの1日平均乗車人員は以下の通り。 行田市の市街地に位置し、市役所の最寄り駅であるが、市の中心部からはやや離れている。行田市壱里山町にある高崎線行田駅とは約5 km離れており、徒歩圏内ではない。 市の中心部方面であり、足袋産業の最盛期以来の市街地が広がっている。ロータリー内にはタクシープールと市が管理する無料駐車場が存在する。 300mほど南に進むとアーケード街(新町通り商店街)がある。 市街地に面する南口とは対照的に、忍川に面した北口前は開けている。ロータリーにはバスが停留できる設備があるが、定期営業しているバス路線は2023年6月現在ない。 すべて南口方面から発着する。以下の路線バスの他、東京農業大学第三高等学校、東京成徳大学深谷高等学校のスクールバスが発着する。
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行田市駅(ぎょうだしえき)は、埼玉県行田市中央にある秩父鉄道秩父本線(秩父線)の駅である。
{{混同|行田駅}} {{駅情報 |社色 = blue |文字色 = |駅名 = 行田市駅 |画像 = Gyodashi Station South Entrance 1.JPG |pxl =300px |画像説明= 南口(2012年10月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|type=point|frame-width=300|marker=rail}} |よみがな= ぎょうだし |ローマ字= GYODA-SHI |前の駅 = CR05 [[東行田駅|東行田]] |駅間A = 1.0 |駅間B = 1.8 |次の駅 = CR07 [[持田駅|持田]] |電報略号 = ギョ |駅番号 = CR 06 |所属事業者= [[秩父鉄道]] |所属路線= <span style="color:blue">■</span>[[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]] |キロ程 = 8.3 |起点駅 = [[羽生駅|羽生]] |所在地 = [[埼玉県]][[行田市]][[中央 (行田市)|中央]]19-18<ref name="eki"/> |座標 = {{coord|36|8|36.86|N|139|27|32.79|E|type:railwaystation_region:JP-11|display=inline,title}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])<ref name="yard"/> |ホーム = 1面2線<ref name="yard"/> |開業年月日= [[1921年]]([[大正]]10年)[[4月1日]] |廃止年月日= |乗車人員= 609 |乗降人員= 1,242 |統計年度= 2021年 |乗換 = |備考 = [[無人駅]] }} [[ファイル:gyodashi_sta_north.jpg|thumb|北口(2006年3月)]] [[ファイル:Gyodashi Station Automaton Clock 1.JPG|thumb|南口ロータリーには[[からくり時計]]が設置されている]] [[File:Chichibu-railway-Gyodashi-station-platform.jpg|thumb|ホーム(2008年1月)]] '''行田市駅'''(ぎょうだしえき)は、[[埼玉県]][[行田市]][[中央 (行田市)|中央]]にある[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]](秩父線)の[[鉄道駅|駅]]である<ref name="eki">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ctk-station-guide/ctk-gyodashi.html |title = 秩父鉄道/行田市駅(ぎょうだしえき)- 埼玉県ホームページ |publisher=埼玉県企画財政部交通政策課 |accessdate=2014-07-25}}</ref>。 == 歴史 == * [[1921年]]([[大正]]10年)[[4月1日]]:[[北武鉄道]]の羽生 - 当駅間開業と同時に、'''行田駅'''として開業<ref name="enkaku">[http://www.chichibu-railway.co.jp/corporate/milestone.html 会社情報 - 沿革] - 秩父鉄道</ref>。 * [[1922年]](大正11年)8月 ** 当駅 - 熊谷間が開業<ref name="enkaku"/>。 ** 秩父鉄道との合併で秩父鉄道の駅となる。 * [[1966年]]([[昭和]]41年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]][[高崎線]]の[[行田駅]]開業に伴い、'''行田市駅'''と改称<ref>{{Cite journal|和書 |author = 行田市役所総合政策部広報広聴課 |date = 2009-01-01 |title=市制60年の歩み |journal = 市報ぎょうだ |issue = 751 |page = 2 |publisher = 行田市役所 |location = 埼玉県行田市本丸 |url = http://www.city.gyoda.lg.jp/kouhou/kouhoushi/shihou_gyoda/2009/20091/0901all.pdf |format = PDF |accessdate = 2014-07-25}}</ref>。 * [[1980年]](昭和55年):現在の駅舎が完成。橋上駅になると同時に駅北口の使用開始。一部の留置線を廃止し、駐車場等に転用した。 * [[2022年]]([[令和]]4年)[[3月12日]]:[[ICカード]]「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127093258/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/01/20220127_ICcard.pdf|format=PDF|language=日本語|title=秩父鉄道、交通系ICカード「PASMO」を導入 〜2022年3月12日(土)よりサービス開始〜|publisher=秩父鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-29|archivedate=2022-01-27}}</ref>。同時に無人化<ref name="press20220127" />。 == 駅構造 == * [[島式ホーム]]1面2線の[[地上駅]]であり、[[橋上駅|橋上駅舎]]がある<ref name="yard">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/ctk-station-guide/ctk-gyodashi-map.html |title=秩父鉄道/行田市駅(ぎょうだしえき)構内図- 埼玉県ホームページ |publisher埼玉県企画財政部交通政策課 |accessdate=2014-07-25}}</ref>。簡易[[PASMO]]改札機・PASMOチャージ機<ref name="faq20220303">{{Cite web|和書|format=PDF|title=秩父鉄道ICカード乗車券 PASMO(パスモ)導入に関するよくあるご質問|publisher=秩父鉄道|date=2022-03-03|accessdate=2022-03-15|url=https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/20220303_PASMO_faq.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220307231723/https://www.chichibu-railway.co.jp/wp-content/uploads/2022/03/20220303_PASMO_faq.pdf|archivedate=2022-03-08|deadlinkdate=2022-06-06}}</ref>設置駅。 * [[無人駅]]である。無人化までは業務委託駅(管理駅:熊谷駅。かつては直営駅だったが委託化された)であり、駅係員勤務時間は平日6:40 - 20:00、土休日7:30 - 20:00となっていた。 * 待合室はホーム上と改札横にあるが、エアコン等の空調設備はない。駅構内に旅客用のトイレは存在しない(南口階段横に公衆トイレがある)。 * 2017年10月より運行情報案内モニタが改札上部に設置されている。 * 北口・南口と改札階、および改札階とホームを行き来するには階段のみであり、[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]の設備はない。 * 売店は存在しないが、飲料の自動販売機が改札内外にある。 * 秩父鉄道の他駅(主要駅を除く)と同様に、列車接近・到着・発車時にメロディやアナウンス等は流れない。 * 急行「[[秩父路]]」の停車駅であったが、2021年3月13日ダイヤ改正以降、当駅を含む羽生 - 熊谷間の運行がなくなっていた。2023年3月18日ダイヤ改正から上記区間における秩父路の運行および当駅への停車が復活した<ref>https://www.chichibu-railway.co.jp/blog/news/20230227/ 秩父鉄道3月18日(土)ダイヤ改正</ref>。 '''のりば''' {| border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" |- |'''1''' |<span style="color:blue">■</span>秩父線 |[[熊谷駅|熊谷]]・[[寄居駅|寄居]]・[[長瀞駅|長瀞]]・[[秩父駅|秩父]]・[[三峰口駅|三峰口]]方面 |- |'''2''' |<span style="color:blue">■</span>秩父線 |[[羽生駅|羽生]]方面 |} * かつては側線が多数存在した。施設縮小後も上下線の脇に各1線ずつが残っていたが、現在は大部分のレールが外されている。 == 利用状況 == [[太平洋戦争]]後から1960年代後半にかけて、行田市の地場産業の好況に比例する形で、秩父鉄道の各駅の中でも熊谷に次ぐ利用者数であったが、それ以降の利用者数は減少している。最も乗車数が多かった1965年(昭和40年)の3,620名(1日平均)と比べると2010年代には4分の1程度まで減少している。それでも2020年度の利用者数は、秩父線37駅中6位となっている。自治体名を冠する駅であり、周辺は古くからの市街地であるが、利用者数はそれほど多くはない。 年度ごとの1日平均乗車人員は以下の通り<ref name="toukei">[http://www.pref.saitama.lg.jp/kense/toke/nenkan/index.html 埼玉県統計年鑑より算出]</ref>。 {| class="wikitable" |- !rowspan|年度 !rowspan|乗車人員<br>(1日平均) |- |[[1999年]](平成11年) |style="text-align:right;"|990 |- |[[2000年]](平成12年) |style="text-align:right;"|956 |- |[[2001年]](平成13年) |style="text-align:right;"|971 |- |[[2002年]](平成14年) |style="text-align:right;"|985 |- |[[2003年]](平成15年) |style="text-align:right;"|973 |- |[[2004年]](平成16年) |style="text-align:right;"|911 |- |[[2005年]](平成17年) |style="text-align:right;"|926 |- |[[2006年]](平成18年) |style="text-align:right;"|901 |- |[[2007年]](平成19年) |style="text-align:right;"|904 |- |[[2008年]](平成20年) |style="text-align:right;"|957 |- |[[2009年]](平成21年) |style="text-align:right;"|910 |- |[[2010年]](平成22年) |style="text-align:right;"|893 |- |[[2011年]](平成23年) |style="text-align:right;"|886 |- |[[2012年]](平成24年) |style="text-align:right;"|909 |- |[[2013年]](平成25年) |style="text-align:right;"|898 |- |[[2014年]](平成26年) |style="text-align:right;"|899 |- |[[2015年]](平成27年) |style="text-align:right;"|872 |- |[[2016年]](平成28年) |style="text-align:right;"|862 |- |[[2017年]](平成29年) |style="text-align:right;"|865 |- |[[2018年]](平成30年) |style="text-align:right;"|840 |- |[[2019年]](令和元年) |style="text-align:right;"|831 |- |[[2020年]](令和2年) |style="text-align:right;"|565 |- |[[2021年]](令和3年) |style="text-align:right;"|609 |} <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">1945年(昭和20年)から1968年(昭和43年)まで旅客乗車実績、発送手小荷物数<ref>1956年(昭和31年)以前の小荷物データは単位がキログラムのため掲載しない</ref>、発送貨物扱い量<ref>1945年から1968年までの各年度の埼玉県統計年鑑より算出。</ref></div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> {| class="wikitable" |- !rowspan|年度 !rowspan|乗車人員(人)<br>(1日平均) !rowspan|発送手小荷物扱い数(個)<br>(1日平均) !rowspan|発送貨物扱い量(トン)<br>(1日平均) |- |[[1945年]](昭和20年) |style="text-align:right;"|3,294 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|62.4 |- |[[1946年]](昭和21年) |style="text-align:right;"|3,987 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|44.4 |- |[[1947年]](昭和22年) |style="text-align:right;"|3,601 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|32.4 |- |[[1948年]](昭和23年) |style="text-align:right;"|3,298 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|32.8 |- |[[1949年]](昭和24年) |style="text-align:right;"|2,908 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|21.3 |- |[[1950年]](昭和25年) |style="text-align:right;"|2,571 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|16.3 |- |[[1951年]](昭和26年) |style="text-align:right;"|2,466 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|14.9 |- |[[1952年]](昭和27年) |style="text-align:right;"|3,457 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|14.7 |- |[[1953年]](昭和28年) |style="text-align:right;"|3,601 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|13.8 |- |[[1954年]](昭和29年) |style="text-align:right;"|3,346 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|12.7 |- |[[1955年]](昭和30年) |style="text-align:right;"|3,111 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|12.4 |- |[[1956年]](昭和31年) |style="text-align:right;"|3,153 |style="text-align:right;"| |style="text-align:right;"|20.1 |- |[[1957年]](昭和32年) |style="text-align:right;"|3,196 |style="text-align:right;"|208 |style="text-align:right;"|17.8 |- |[[1958年]](昭和33年) |style="text-align:right;"|3,136 |style="text-align:right;"|197 |style="text-align:right;"|16.8 |- |[[1959年]](昭和34年) |style="text-align:right;"|3,296 |style="text-align:right;"|204 |style="text-align:right;"|22.9 |- |[[1960年]](昭和35年) |style="text-align:right;"|3,419 |style="text-align:right;"|212 |style="text-align:right;"|23.6 |- |[[1961年]](昭和36年) |style="text-align:right;"|3,335 |style="text-align:right;"|245 |style="text-align:right;"|32.2 |- |[[1962年]](昭和37年) |style="text-align:right;"|3,419 |style="text-align:right;"|247 |style="text-align:right;"|34.7 |- |[[1963年]](昭和38年) |style="text-align:right;"|3,470 |style="text-align:right;"|249 |style="text-align:right;"|25.3 |- |[[1964年]](昭和39年) |style="text-align:right;"|3,400 |style="text-align:right;"|256 |style="text-align:right;"|21.5 |- |[[1965年]](昭和40年) |style="text-align:right;"|3,620 |style="text-align:right;"|236 |style="text-align:right;"|22.0 |- |[[1966年]](昭和41年) |style="text-align:right;"|3,363 |style="text-align:right;"|180 |style="text-align:right;"|14.7 |- |[[1967年]](昭和42年) |style="text-align:right;"|2,765 |style="text-align:right;"|157 |style="text-align:right;"|18.9 |- |[[1968年]](昭和43年) |style="text-align:right;"|2,694 |style="text-align:right;"|130 |style="text-align:right;"|16.8 |- |} </div></div> == 駅周辺 == 行田市の市街地に位置し、市役所の最寄り駅であるが、市の中心部からはやや離れている。行田市壱里山町にある[[高崎線]][[行田駅]]とは約5&nbsp;[[キロメートル|km]]離れており、徒歩圏内ではない。 === 南口 === 市の中心部方面であり、[[足袋]]産業の最盛期以来の市街地が広がっている。ロータリー内にはタクシープールと市が管理する無料駐車場が存在する。 300mほど南に進むとアーケード街(新町通り商店街)がある。 * [[行田警察署]] 行田市駅前交番 * 行田市役所 * [[行田郵便局]] * 行田市産業文化会館 * [[忍城]]址 * [[行田市郷土博物館]] * [[水城公園]] * [[行田八幡神社]] * [[武蔵野銀行]]行田支店(国登録有形文化財<ref name="行田市文化財一覧">[https://www.city.gyoda.lg.jp/soshiki/kyouikubu/bunkazaihogo/gyomu/rekishi_bunkazai/2251.html 行田市ホームページ 指定文化財等一覧]</ref>) *[[埼玉りそな銀行]]行田支店 *[[足利銀行]]行田支店 *クリダイビル(テナントビル) *埼玉県名発祥の地 行田の碑 *[[十万石ふくさや]]行田本店(国登録有形文化財<ref name="行田市文化財一覧" />) *昭和タクシー株式会社 * 市道(通称)中央通り * [[埼玉県道198号行田市停車場線]] * 埼玉県道199号行田市停車場酒巻線 * [[埼玉県道128号熊谷羽生線]] 浮き城通り(元[[国道125号]]) * [[埼玉県道77号行田蓮田線]] === 北口 === 市街地に面する南口とは対照的に、[[忍川]]に面した北口前は開けている。ロータリーにはバスが停留できる設備があるが、定期営業しているバス路線は2023年6月現在ない。 * 行田税務署 * 行田谷郷郵便局 * [[行田市総合公園]]、行田グリーンアリーナ * 忍川 * [[埼玉県道199号行田市停車場酒巻線]] === バス === すべて南口方面から発着する。以下の路線バスの他、[[東京農業大学第三高等学校]]<ref>[http://www.nodai-3-h.ed.jp/contents/09access/01_access.html 東京農業大学第三高等学校アクセスガイド]</ref>、[[東京成徳大学深谷高等学校]]<ref>[http://tsfh.jp/access/ 東京成徳大学深谷高等学校アクセス]</ref>のスクールバスが発着する。 * 行田市駅停留所:[[朝日自動車|朝日バス]]([[朝日自動車加須営業所|加須営業所]]) ** FK23 前谷経由 [[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]行き(平日は朝と夕方に数本、土日祝日は1時間に1本以下と非常に少ない) * 行田市駅前停留所:[[行田市内循環バス]] ** 北西循環 ** 北東循環 ** 東循環 * 行田本町停留所(当駅より300 m程南方の浮き城通り沿いにあり、本数が多い):朝日バス ** FK11 - FK13 佐間経由 吹上駅行き ** FK21 前谷経由 吹上駅行き ** FK11・FK21 行田折返し場行き ** FK12 総合教育センター行き ** FK13 工業団地行き === ロケ撮影 === * 2001年、[[華原朋美]]が出演した[[ローソン]]のCMでロケ地として使用された。CM内では演出の都合上、「行田駅」として表示されている。これはCM自体が「[[焼売]]弁当」のPRの為で、「でもここは行田(ぎょうだ)」と言って、[[餃子]](ぎょうざ)を連想させるようにしていた(「[[桂駅|桂]]」を「カツだ!」と掛けたCM、「安いぞ、でもここは[[高井戸駅|高井戸]]」というCMも存在)。当初はJR[[行田駅]]で撮影する企画だったが、JRより許可が下りなかったため、行田市駅の看板を差し替えて撮影した(株式会社ローソン販売促進の回答)。 * ふるカフェ系 ハルさんの休日([[日本放送協会|NHK]] [[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]) * [[陸王 (小説)|陸王]]([[TBSテレビ]]) == 隣の駅 == ; 秩父鉄道 : <span style="color:blue">■</span>秩父本線 :: 急行「[[秩父路]]」(土休日のみ) ::: [[羽生駅]](CR 01) - '''行田市駅(CR 06)''' - [[熊谷駅]](CR 09) :: 各駅停車 ::: [[東行田駅]](CR 05) - '''行田市駅(CR 06)''' - [[持田駅]](CR 07) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Gyōdashi Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[市駅]] == 外部リンク == * [http://www.chichibu-railway.co.jp/station/06_gyoda.html 駅情報 – 行田市] - 秩父鉄道 {{秩父鉄道秩父本線}} {{Eki-stub}} {{DEFAULTSORT:きようたし}} [[Category:行田市の交通|きようたしえき]] [[Category:埼玉県の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 き|ようたし]] [[Category:秩父鉄道の鉄道駅]] [[Category:1921年開業の鉄道駅]]
2003-09-09T12:36:25Z
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エニグマ (ミュージシャン)
Enigma(エニグマ)はドイツを活動拠点とするヨーロッパの音楽プロジェクトの名前。1990年にマイケル(ミヒャエル)・クレトゥと元アラベスクのサンドラ・アン・ラウアー (現・サンドラ・クレトゥ〔Sandra Cretu〕、マイケル・クレトゥの元妻)を中心に結成された。 中心人物のクレトゥは1957年にルーマニアのブカレストで生まれている。ブカレスト、パリ、フランクフルト・アム・マインでクラシック音楽を学び、1970年代後半にセッション・ミュージシャン(担当はキーボード)として活動を始めた。サンドラと出会ったのもアラベスクのツアーにクレトゥが参加したのがきっかけである。1979年にはアルバム『Moon, Light & Flowers』でソロ・デビューを果たしている。 民族音楽やグレゴリオ聖歌(グレゴリアン・チャント)、カンタータなどの古典音楽とダンスビートを緻密なサウンド・プロダクションで融合したサウンドで、世界的にヒットする。世界的に大きな影響を及ぼし、模倣とも思われる作品も続出した。一般的には、後のディープ・フォレストやアディエマスのような、いわゆる「ヒーリング・ミュージック」の先駆者として語られることが多い。膨大な音素材を劣化なく迅速に合成する必要があるため、活動当初からハードディスクレコーディングを導入している。 1990年暮れ、ヴァージン・レコードからシングル「サッドネス・パート1」でデビュー。翌1991年初頭には本国ドイツを始めヨーロッパ各国でヒットし、2月にはアメリカでも発売され、4月にはトップ5入りを果たす。また、この年に発売された1stアルバム『サッドネス・永遠の謎(MCMXC a.D.)』もヒットした。同作品の世界的なヒットにより、全面に使用されたグレゴリオ聖歌が再び脚光を浴びるという波及効果をもたらしている。 1993年、パラマウント映画『硝子の塔(Sliver)』(主演=シャロン・ストーン)のフィリップ・ノイス監督より同映画への音楽を依頼され、2曲の新曲と前作アルバムの1曲を提供した。その新曲の1曲である「カーリーの歌(Carly's song)」は、更に改訂されて「エイジ・オブ・ロンリネス(カーリーの歌)(Age Of Lonliness (Carly's song))」と改題され、翌1994年にリリースされた2ndアルバム『エニグマ2 ザ・クロス・オブ・チェンジス (The Cross of Changes)』に収録された。なお、同アルバムからは「リターン・トゥ・イノセンス(Return To Innocence)」がシングル・カットされ、エニグマの代表曲のひとつとされている。 この『リターン・トゥ・イノセンス』については、サンプリング元の音源になった台湾アミ族の歌い手であるDifang(郭英男)らに、1998年、音源の無断使用につき訴訟を提訴されたが、のち和解金の支払いと更なるリリースについてはDifangらをクレジットする(ロイヤリティ含む)ことで和解している。この件についてクレトゥは、録音の時点では、パブリックドメインに属する音源と信じていたという趣旨の弁解をしている。またこの一件を機に、それまでワールドミュージックのひとつとして認識されていた「台湾原住民」の音楽が広く知られることとなった。 1995年、3rdアルバム『エニグマ3 (Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!)』をリリースした後、サンドラの出産に伴い一時活動を休止した。2000年、カール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』をサンプリングした『ザ・スクリーン・ビハインド・ザ・ミラー(The Screen Behind the Mirror)』で活動を再開。以後『ボヤジュール(Voyageur)』、『ア・ポウステリオーリ(A Posteriori)』、『七つの命、無数の顔(Seven Lives Many Faces)』と、2~3年に1作ペースでアルバムをリリースしている。 『ア・ポウステリオーリ』と『七つの命、無数の顔』はヨーロッパではDVD版もリリースされ(後者についてはw:en:Seven Lives Many Faces#DVD release参照)、DVD版『七つの命、無数の顔』では、DVD版『ア・ポウステリオーリ』の一曲「ジ・アルケミスト(The Alchemist)」で試験的に用いられた5.1chサラウンドを導入している。 「サッドネス・永遠の謎」の時点では、エニグマという音楽プロジェクトの正体は告知されていなかったが、「ザ・クロス・オブ・チェンジス」「エニグマ3」のCDライナー・ノーツにおいて、クレトゥ(サンプリング、ボーカル。「ザ・クロス・オブ・チェンジス」では「Carly M.C.」名義)を中心に、サンドラ(メイン・ボーカル、「ザ・クロス・オブ・チェンジス」では「Sandra」名義)、ルイーザ・スタンレイ(メイン・ボーカル)、ピーター・コーネリウス(ギター)、イェンズ・ガート(ギター。サンドラのソロプロジェクトにも参加)らの参加が明らかにされた(「ザ・クロス・オブ・チェンジス」の日本版ライナーでは他にもフランク・ピーターソン、トーマス・シュワルツ、マイケル・ウェアー等が参加している(らしい)事が記載された)。「エニグマ3」からはアンドルー・ドナルズ(ボーカル)、ルース・アン(イギリスのアンビエントポップスバンド、"Olive"のボーカリスト)がゲスト扱いながら毎回参加している。「ア・ポウステリオーリ」以降はマイケル・クレトゥのソロプロジェクト色が一層強まり、ゲストの参加もかなり少なくなっている。 一度ライブを計画していたものの、準備に二年間掛かることが判り、それだけの期間があるのであればエニグマのレコーディングに費やした方が得策だとして、結局実現しなかった。 中心人物であるマイケル・クレトゥは音楽のダウンロードによる販売に対して前向きであり、「森林や石油資源等の保護にも繋がる」とコメントしている。日本におけるダウンロード販売はiTunes Storeとmoraを通して行なわれており、特に『ザ・スクリーン・ビハインド・ザ・ミラー』はmoraでしか購入できない。 日本国内では「Sadeness」はテレビ朝日で1991年頃に放送されていたドラマ「不思議な幻燈館」に、2ndアルバムの収録曲「Age of Loneliness」は三菱・ギャランのCM (1994年)、「Beyond The Invisible」はトヨタ・ランドクルーザー PRADO (J90系、1998年)など、1990年代のCMやドラマVTRのBGMに使用されていた。 海外ではアメリカ・CBSテレビで放送されていたドラマ「コールドケース」でも使用された。 2010年に「MMX(The Social Song)」をリリースした以降は大きな動きがなかったエニグマだったが、2016年夏頃に約8年ぶりに最新のアルバムが発売すると発表、2016年11月4日にヨーロッパで、 日本では11月11日に「フォール・オブ・ア・レベル・エンジェル(堕ちた反逆の天使) (The Fall Of a Rebel Angel)」がリリースされた。アルバムにはミヒャエル・クンツェやアングンらが参加している。日本ではEMIがユニバーサルの傘下になったこともあり、今作ではユニバーサルミュージックジャパンからのリリースとなった。
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Enigma(エニグマ)はドイツを活動拠点とするヨーロッパの音楽プロジェクトの名前。1990年にマイケル(ミヒャエル)・クレトゥと元アラベスクのサンドラ・アン・ラウアーを中心に結成された。 中心人物のクレトゥは1957年にルーマニアのブカレストで生まれている。ブカレスト、パリ、フランクフルト・アム・マインでクラシック音楽を学び、1970年代後半にセッション・ミュージシャン(担当はキーボード)として活動を始めた。サンドラと出会ったのもアラベスクのツアーにクレトゥが参加したのがきっかけである。1979年にはアルバム『Moon, Light & Flowers』でソロ・デビューを果たしている。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = エニグマ<br />ENIGMA | Img = <!--[[File:Latest promotional symbol of the musical project Enigma.png]]--> | Img_size = | Img_capt = <!--現在のロゴ(2005年以降)--> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = group_or_band | Alias = | Born = | Origin = {{GER}} | Instrument = | Genre = [[ニューエイジ・ミュージック|ニューエイジ]]、[[電子音楽]] | Occupation = | Years_active = [[1990年]] - | Label = [[ヴァージン・レコード]]<br>[[EMI]]<br>[[Charisma Records|Charisma]] | Production = | Associated_acts = | URL = {{URL|https://www.enigmaspace.com/}} | Current_members = [[マイケル・クレトゥ|Micheal Cretu]] | Past_members = David Fairstein<br />[[フランク・ピーターソン|Frank Peterson]]<br />[[:en:Sandra (singer)|Sandra Cretu]]<br />Louisa Stanley<br />Peter Cornelius<br />Jens Gad<br />Andreas Harde<br />Todd Alan Peleg<br />Ruth-Ann Boyle<br />Elizabeth Houghton<br />Margarita Roig<br />Nanuk<br />Sebastian Cretu<br />Nikita Cretu<br>Andru Donalds | Notable_instruments = [[コルグ・Mシリーズ|Korg M1]]<br />Alchemist<br />Merlin | Influences = }} '''Enigma'''(エニグマ)は[[ドイツ]]を活動拠点とする[[ヨーロッパ]]の[[音楽]]プロジェクトの名前。[[1990年]]に'''[[マイケル・クレトゥ|マイケル(ミヒャエル)・クレトゥ]]'''と元[[アラベスク (歌手)|アラベスク]]の'''サンドラ・アン・ラウアー''' (現・サンドラ・クレトゥ〔[[w:en:Sandra Cretu|Sandra Cretu]]〕、マイケル・クレトゥの元妻)を中心に結成された。 中心人物のクレトゥは1957年に[[ルーマニア]]の[[ブカレスト]]で生まれている。ブカレスト、[[パリ]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]で[[クラシック音楽]]を学び、1970年代後半にセッション・ミュージシャン(担当はキーボード)として活動を始めた。サンドラと出会ったのもアラベスクのツアーにクレトゥが参加したのがきっかけである。1979年にはアルバム『Moon, Light & Flowers』でソロ・デビューを果たしている。 == 概要 == [[民族音楽]]や[[グレゴリオ聖歌]](グレゴリアン・チャント)、[[カンタータ]]などの古典音楽とダンスビートを緻密なサウンド・プロダクションで融合したサウンドで、世界的にヒットする。世界的に大きな影響を及ぼし、模倣とも思われる作品も続出した。一般的には、後の[[ディープ・フォレスト]]や[[アディエマス]]のような、いわゆる「[[ヒーリング・ミュージック]]」の先駆者として語られることが多い。膨大な音素材を劣化なく迅速に合成する必要があるため、活動当初から[[ハードディスクレコーディング]]を導入している。 == 略歴 == [[1990年]]暮れ、[[ヴァージン・レコード]]からシングル「'''サッドネス・パート1'''」でデビュー。翌1991年初頭には本国ドイツを始めヨーロッパ各国でヒットし、2月にはアメリカでも発売され、4月にはトップ5入りを果たす。また、この年に発売された1stアルバム『'''サッドネス・永遠の謎'''([[w:en:MCMXC a.D.|MCMXC a.D.]])』もヒットした。同作品の世界的なヒットにより、全面に使用された[[グレゴリオ聖歌]]が再び脚光を浴びるという波及効果をもたらしている。 1993年、[[パラマウント映画|パラマウント]]映画『硝子の塔([[w:en:Sliver (film)|Sliver]])』(主演=[[シャロン・ストーン]])の[[フィリップ・ノイス]]監督より同映画への音楽を依頼され、2曲の新曲と前作アルバムの1曲を提供した。その新曲の1曲である「カーリーの歌([[w:en:Carly's Song|Carly's song]])」は、更に改訂されて「'''エイジ・オブ・ロンリネス(カーリーの歌)'''([[w:en:Age of Loneliness|Age Of Lonliness (Carly's song)]])」と改題され、翌1994年にリリースされた2ndアルバム『'''エニグマ2 ザ・クロス・オブ・チェンジス''' ([[w:en:The Cross of Changes|The Cross of Changes]])』に収録された。なお、同アルバムからは「'''リターン・トゥ・イノセンス'''([[w:en:Return To Innocence|Return To Innocence]])」がシングル・カットされ、[[1996年夏季オリンピック]]のテーマソングとして使用され、エニグマの代表曲のひとつとされている。 この『リターン・トゥ・イノセンス』については、サンプリング元の音源になった[[台湾]][[アミ族]]の歌い手である[[Difang]](郭英男)らに、1998年、音源の無断使用につき訴訟を提訴されたが、のち和解金の支払いと更なるリリースについてはDifangらをクレジットする(ロイヤリティ含む)ことで和解している。この件についてクレトゥは、録音の時点では、[[パブリックドメイン]]に属する音源と信じていたという趣旨の弁解をしている。またこの一件を機に、それまで[[ワールドミュージック]]のひとつとして認識されていた「台湾原住民」の音楽が広く知られることとなった。 1995年、3rdアルバム『'''エニグマ3''' ([[w:en:Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!|Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!]])』をリリースした後、サンドラの出産に伴い一時活動を休止した。2000年、[[カール・オルフ]]の『[[カルミナ・ブラーナ]]』をサンプリングした『'''ザ・スクリーン・ビハインド・ザ・ミラー'''([[w:en:The Screen Behind the Mirror|The Screen Behind the Mirror]])』で活動を再開。以後『'''ボヤジュール'''([[w:en:Voyageur (album)|Voyageur]])』、『'''ア・ポウステリオーリ'''([[w:en:A Posteriori|A Posteriori]])』、『'''七つの命、無数の顔'''([[w:en:Seven Lives Many Faces|Seven Lives Many Faces]])』と、2~3年に1作ペースでアルバムをリリースしている。 『ア・ポウステリオーリ』と『七つの命、無数の顔』はヨーロッパではDVD版もリリースされ(後者については[[w:en:Seven Lives Many Faces#DVD release]]参照)、DVD版『七つの命、無数の顔』では、DVD版『ア・ポウステリオーリ』の一曲「ジ・アルケミスト(The Alchemist)」で試験的に用いられた[[サラウンド#スピーカーの配置|5.1chサラウンド]]を導入している。 「サッドネス・永遠の謎」の時点では、エニグマという音楽プロジェクトの正体は告知されていなかったが、「ザ・クロス・オブ・チェンジス」「エニグマ3」のCDライナー・ノーツにおいて、クレトゥ(サンプリング、ボーカル。「ザ・クロス・オブ・チェンジス」では「Carly M.C.」名義)を中心に、サンドラ(メイン・ボーカル、「ザ・クロス・オブ・チェンジス」では「Sandra」名義)、ルイーザ・スタンレイ(メイン・ボーカル)、ピーター・コーネリウス(ギター)、イェンズ・ガート(ギター。サンドラのソロプロジェクトにも参加)らの参加が明らかにされた(「ザ・クロス・オブ・チェンジス」の日本版ライナーでは他にも[[フランク・ピーターソン]]、トーマス・シュワルツ、マイケル・ウェアー等が参加している(らしい)事が記載された)。「エニグマ3」からはアンドルー・ドナルズ(ボーカル)、ルース・アン(イギリスのアンビエントポップスバンド、"Olive"のボーカリスト)がゲスト扱いながら毎回参加している。「ア・ポウステリオーリ」以降はマイケル・クレトゥのソロプロジェクト色が一層強まり、ゲストの参加もかなり少なくなっている。 一度ライブを計画していたものの、準備に二年間掛かることが判り、それだけの期間があるのであればエニグマのレコーディングに費やした方が得策だとして、結局実現しなかった。 中心人物であるマイケル・クレトゥは音楽の[[ダウンロード]]による販売に対して前向きであり、「森林や石油資源等の保護にも繋がる」とコメントしている。日本におけるダウンロード販売は[[iTunes Store]]と[[mora]]を通して行なわれており、特に『ザ・スクリーン・ビハインド・ザ・ミラー』はmoraでしか購入できない。 日本国内では「Sadeness」は[[テレビ朝日]]で1991年頃に放送されていたドラマ「[[不思議な幻燈館]]」に、2ndアルバムの収録曲「Age of Loneliness」は[[三菱・ギャラン]]のCM (1994年)、「Beyond The Invisible」は[[トヨタ・ランドクルーザープラド|トヨタ・ランドクルーザー PRADO]] (J90系、1998年)など、1990年代のCMやドラマVTRのBGMに使用されていた。 海外ではアメリカ・CBSテレビで放送されていたドラマ「コールドケース」でも使用された<ref>Sadenessは「コールドケース」シーズン2第5話、「ブレスレット」 時代設定は1991年、 Return To Innocenceはコールドケースシーズン3第15話、「教会」時代設定は1998年</ref>。 2010年に「MMX(The Social Song)」をリリースした以降は大きな動きがなかったエニグマだったが、2016年夏頃に約8年ぶりに最新のアルバムが発売すると発表、2016年11月4日にヨーロッパで、 日本では11月11日に「フォール・オブ・ア・レベル・エンジェル(堕ちた反逆の天使) (The Fall Of a Rebel Angel)」がリリースされた。アルバムには[[ミヒャエル・クンツェ]]や[[アングン]]らが参加している。日本ではEMIがユニバーサルの傘下になったこともあり、今作ではユニバーサルミュージックジャパンからのリリースとなった。 == ディスコグラフィ == === アルバム === {|class=wikitable style=text-align:center; |- ! rowspan=2| 年 ! rowspan=2, style="width:18em;"| タイトル ! rowspan=2, style="width:18em;"| アルバム詳細 ! colspan=10| チャート最高位 ! rowspan=2, style="width:14em;"| [[ゴールド・ディスク|認定]] |- style=font-size:smaller; ! width=40| [[メーディア・コントロール・ゲーエフカー・インターナツィオナール|GER]]<br><ref name="German album-positions for Enigma">{{cite web| url=http://www.officialcharts.de/ersuche.asp?kategorie=chart&interpret_suche=enigma&titel_suche=&jahr=&cat=a| title=Charts.de: Enigma (albums)| publisher=Charts.de |work=Media Control Charts | accessdate=2012-12-28}}</ref> ! width=40| [[ARIAチャート|AUS]]<br><ref name="Australian positions for Enigma">Australian ([[ARIA Charts|ARIA Chart]]) peaks: *Top 50 peaks: {{cite web|url=http://australian-charts.com/showinterpret.asp?interpret=Enigma|title=Australian-charts.com: Enigma|publisher=Hung Medien|accessdate=2013-10-02}} *Top 100 peaks to December 2010: {{cite book|last=Ryan|first=Gavin|title=Australia's Music Charts 1988–2010|year=2011|publisher=Moonlight Publishing|location=Mt. Martha, VIC, Australia}} *"The Eyes of Truth": {{cite web|url=http://i.imgur.com/0v4cNYv.jpg|title=The ARIA Australian Top 100 Singles Chart – Week Ending 24 Jul 1994|publisher=[[Australian Recording Industry Association|ARIA]]|accessdate=2016-03-09}} *"Age of Loneliness": {{cite web|url=http://i.imgur.com/IcGFZti.jpg|title=The ARIA Australian Top 100 Singles Chart – Week Ending 02 October 1994|publisher=[[Australian Recording Industry Association|ARIA]]|accessdate=2016-03-20}} *"Out from the Deep": {{cite web|url=http://i.imgur.com/pd4F2Ze.gif|title=Response from ARIA re: chart inquiry, received 12 July 2016|publisher=Imgur.com|accessdate=2016-07-12}} *''The Fall of a Rebel Angel'': {{cite web|url=https://www.auspop.com.au/2016/11/aria-chart-watch-395/|title=ARIA CHART WATCH #395|publisher=auspOp|date=2016-11-19|accessdate=2016-11-19}}</ref> ! width=40| [[エードライ・アオストリア・トップ40|AUT]]<br><ref name="Austrian positions for Enigma">{{cite web | url=http://www.austriancharts.at/showinterpret.asp?interpret=Enigma| title=Austriancharts.at: Enigma | publisher=Hung Medien| accessdate=2013-10-02}}</ref> ! width=40| [[全国音楽出版組合 (フランス)|FRA]]<br><ref>French peak positions for albums: *For '''''MCMXC a.D.''''' and '''''The Cross of Changes''''': {{cite web|url=http://www.infodisc.fr/Album_E.php |title=Le Détail des Albums de chaque Artiste |publisher=Infodisc.fr |accessdate=2012-12-28 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120215182433/http://www.infodisc.fr/Album_E.php |archivedate=2012-02-15 |df= }} *For '''''Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!''''', '''''The Screen Behind the Mirror''''', '''''Voyageur''''', '''''A Posteriori''''', '''''Seven Lives Many Faces''''':{{cite web |url=http://lescharts.com/search.asp?cat=a&artist=Enigma&artist_search=starts&title=&title_search=starts |title=Artiste Enigma: French album-positions to Enigma |publisher=Hung Medien |accessdate=2010-08-12}}</ref> ! width=40| NLD<br><ref name="Dutch positions for Enigma">{{cite web | url=http://www.dutchcharts.nl/showinterpret.asp?interpret=Enigma | title=GfK Dutch Charts: Enigma| publisher=Hung Medien | accessdate=2013-10-02}}</ref> ! width=40| [[ヴェーゲー・リスタ|NOR]]<br><ref name="Norwegian positions for Enigma">{{cite web| url=http://www.norwegiancharts.com/showinterpret.asp?interpret=Enigma| title=Norwegiancharts.com: Enigma| publisher=Hung Medien | accessdate=2013-10-02}}</ref> ! width=40| [[スヴァリイェトプリストン|SWE]]<br><ref name="Swedish positions for Enigma">{{cite web | url=http://www.swedishcharts.com/showinterpret.asp?interpret=Enigma| title=Swedishcharts.com: Enigma| publisher=Hung Medien | accessdate=2013-10-02}}</ref> ! width=40| [[シュヴァイツァー・ヒットパラーデ|SWI]]<br><ref name="Swiss album-positions for Enigma">{{cite web | url=http://www.swisscharts.com/search.asp?cat=a&artist=Enigma&artist_search=starts&title=&title_search=starts | title=Artist Enigma: Swiss album-positions to Enigma | publisher=Hung Medien | accessdate=2010-08-12}}</ref> ! width=40| [[全英アルバムチャート|UK]]<br><ref name="UK albums/singles-positions for Enigma"> *For all albums except where noted: {{cite web | url=http://www.officialcharts.com/artist/_/enigma/| title=Official Charts Company: Enigma (Singles/Albums) | publisher=Official Charts Company| accessdate=2013-10-02}} *For ''Seven Lives Many Faces'': {{cite web|last1=Jones|first1=Alan|title=Official Charts Analysis: Olly Murs fifth album debuts at No.1|url=http://www.musicweek.com/analysis/read/official-charts-analysis-olly-murs-fifth-album-debuts-at-no-1/066613|publisher=''Music Week''|accessdate=18 November 2016}}</ref> ! width=40| [[Billboard 200|US]]<br><ref name="US album-positions for Enigma">{{cite web | url={{BillboardURLbyName|artist=enigma|chart=Billboard 200}} | title=Enigma: Billboard 200 | publisher=[[Billboard (magazine)|Billboard]] | accessdate=2010-08-12}}</ref> | | | |- | 1990 | align=left| '''''MCMXC a.D.'''''<small> | align=left| * 発売日: 1990年12月10日 * レーベル: [[ヴァージン・レコード|Virgin]] * フォーマット: [[コンパクトディスク|CD]], [[レコード|LP]], [[コンパクトカセット|cassette]] * 全米売上: 400万枚<ref>{{cite web|url=http://www.billboard.com/charts/1997-05-10/catalog-albums |title=Catalog Albums |publisher=Billboard |date=1997-04-19 |accessdate=22 August 2012}}</ref><ref>{{cite web |url= http://www.enigmaspace.com/Le-Roi-Est-Mort-Viv.75.0.html |title=Biography E3 Le Roi Est Mort, Vive Le Roi! (1996)| work=enigmaspace|accessdate=6 March 2011}}</ref></small> | 3 || 2 || 3 || 1 || 7 || 4 || 3 || 2 || 1 || 6 | *<div align="left">[[音楽産業連邦協会 (ドイツ)|GER]]: 2× プラチナ<ref name="Germany's certifications for Enigma">{{cite certification|region=Germany|artist=Enigma | accessdate=2010-08-12}}</ref></div> *<div align="left">[[オーストラリアレコード産業協会|AUS]]: 2× プラチナ<ref name=ryan>{{cite book|last=Ryan|first=Gavin|title=Australia's Music Charts 1988–2010|year=2011|publisher=Moonlight Publishing|location=Mt. 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|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140625075145/http://www.bpi.co.uk/certified-awards.aspx |archivedate=2014-06-25 |df= }}</ref></div> *<div align="left">[[アメリカレコード協会|US]]: 4× プラチナ<ref name="Enigma's US certifications">{{cite web| url=https://www.riaa.com/goldandplatinumdata.php?resultpage=1&table=SEARCH_RESULTS&action=&title=&artist=Enigma&format=&debutLP=&category=&sex=&releaseDate=&requestNo=&type=&level=&label=&company=&certificationDate=&awardDescription=&catalogNo=&aSex=&rec_id=&charField=&gold=&platinum=&multiPlat=&level2=&certDate=&album=&id=&after=&before=&startMonth=1&endMonth=1&startYear=1958&endYear=2010&sort=Artist&perPage=25| title=Search Results: Enigma| publisher=[[Recording Industry Association of America|RIAA]]| accessdate=2010-08-12}}</ref></div> |- | 1993 | align=left| '''''The Cross of Changes'''''<small> | align=left| * 発売日: 1993年12月6日 * レーベル: Virgin * フォーマット: CD, LP, cassette * 全米売上: 200万枚<ref name="Enigma's US certifications"/></small> | 5 || 2 || 5 || 9 || 7 || 5 || 3 || 4 || 1 || 9 | *<div align="left">GER: プラチナ<ref name="Germany's certifications for Enigma"/></div> *<div align="left">AUS: プラチナ<ref name=ryan/></div> *<div align="left">AUT: ゴールド<ref name="Austria's certification database"/></div> *<div align="left">FRA: ゴールド<ref name="France's certification database for albums (infodisc.fr)"/></div> *<div align="left">SWE: ゴールド<ref name="Sweden's certification-database 1987-1998"/></div> *<div align="left">SWI: プラチナ<ref name="Switzerland's certification-awards for Enigma"/></div> *<div align="left">UK: 2× プラチナ<ref name="UK's certification database"/></div> *<div align="left">US: 2× プラチナ<ref name="Enigma's US certifications"/></div> |- | 1996 | align=left| '''''Le Roi Est Mort, Vive Le Roi!'''''<small> | align=left| * 発売日: 1996年11月20日 * レーベル: Virgin * フォーマット: CD, cassette * 全米売上: 100万枚<ref name="Enigma's US certifications"/></small> | 3 || 10 || 4 || 8 || 6 || 1 || 8 || 4 || 12 || 25 | *<div align="left">GER: ゴールド<ref name="Germany's 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|title=ÅR 2000 |publisher=International Federation of the Phonographic Industry (Sweden) |accessdate=2013-10-02 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110616145748/http://www.ifpi.se/wp/wp-content/uploads/ar-20002.pdf |archivedate=June 16, 2011 }}</ref></div> *<div align="left">SWI: ゴールド<ref name="Switzerland's certification-awards for Enigma"/></div> *<div align="left">UK: シルバー<ref name="UK's certification database"/></div> *<div align="left">US: ゴールド<ref name="Enigma's US certifications"/></div> |- | 2003 | align=left| '''''Voyageur'''''<small> | align=left| * 発売日: 2003年9月30日 * レーベル: Virgin * フォーマット: CD, cassette</small> | 6 || — || 19 || 32 || 13 || — || 31 || 29 || 46 || 94 | |- | 2006 | align=left| '''''A Posteriori'''''<small> | align=left| * 発売日: 2006年9月22日 * レーベル: Virgin * フォーマット: CD</small> | 16 || — || 17 || 98 || 8 || — || — || 24 || — || 95 | |- | 2008 | align=left| '''''Seven Lives Many Faces'''''<small> | align=left| * 発売日: 2008年9月19日 * レーベル: Virgin * 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[https://www.crocodile-music.de/enigma/index.php Crocodile-Music.de] (Official Enigma management website) * {{Discogs artist|Enigma|ENIGMA}} {{Normdaten}} {{music-stub}} {{DEFAULTSORT:えにくま}} [[Category:ドイツのニューエイジ・ミュージシャン]] [[Category:ドイツの音楽グループ]] [[Category:アンビエント・ミュージシャン]] [[Category:ハウスミュージシャン]] [[Category:テクノミュージシャン]] [[Category:EMIグループのアーティスト]] [[Category:1990年に結成した音楽グループ]]
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紀元前176年
紀元前176年(きげんぜん176ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前176年(きげんぜん176ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前104年
紀元前104年(きげんぜん104ねん)は、ローマ暦の年である。
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紀元前104年(きげんぜん104ねん)は、ローマ暦の年である。
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電力系統
電力系統(でんりょくけいとう、英語: Electrical grid)とは、電力を需要家の受電設備に供給するための、発電・変電・送電・配電を統合したシステムである。 日本では、10の一般送配電事業者がそれぞれ電力系統をもち、沖縄電力を除いた9社の電力系統は近隣のいずれかの電力系統と接続されている。日本の商用電力のほとんどはこの巨大な電力系統に接続されている。50Hzと60Hzをつなぐ東京電力パワーグリッドと中部電力パワーグリッド接続など、いくつかの接続は直流を介しており、相互影響が少ないが、ある電力系統が不安定になることは、接続された他の電力系統に影響を与えうる。大陸では国境を越えた電力系統の接続も行われている。 発電所で発電される電力は交流であり、その後に送電線で3相3線式により送電される際の送電ロスを減らすため、基幹的な長距離送電の区間は出来るだけ高電圧で送電され、消費地に近い場所で何段かに分けて電圧が降圧される。柱上変圧器以降は単相2線式や単相3線式での配電も行なわれる。 送電される電力の多くは空中に渡された電線で輸送する「架空送電」や「架空配電」と呼ばれる架空送配電方式が採用されており、都市部や景観保全が特に必要な場所では例外的に「地中送電」と呼ばれる地下の送配電路が設けられることがある。 主に電線と塔によって構成される架空送配電方式の構成要素を以下に示す。 地中送配電方式の構成要素を以下に示す。 需要家に対し、適切な電圧・周波数で電力を供給するためには、電力系統システムの適切な運用を行うことが必要である。 電力の蓄積は難しいため、需給調整を実施し、需要に合わせた発電を行い、送電系統や変電所の過負荷が発生しないように需要家に届けなければならない。 この需給・系統調整の他、悪天候時の落雷等に備えた潮流の調整、降水・渇水による水力発電所の状況、突然発生する故障等の影響を最小化するための構成や、それに対応した早期の復旧や代替の確保など、常に変動する状況に応じた即応性と柔軟性が求められるため、電力会社では24時間体制で複数の人間が専門で常駐し、常に監視して対応できる体制を確保している。 東地域を担当する北海道電力ネットワーク、東北電力ネットワーク、東京電力パワーグリッドは50Hzの周波数を、中西地域を担当する北陸電力送配電、中部電力パワーグリッド、関西電力送配電、中国電力ネットワーク、四国電力送配電、九州電力送配電、沖縄電力では60Hzの周波数の交流電力を使用している。沖縄を除く、それぞれ同一の周波数の電力を使う電力会社では互いの電力網を接続しあって相互に供給しあうことで電力供給の安定化を図っており、周波数の異なる電力網同士も変換所を設けて一度、直流へ変換したあとで供給先の交流周波数に変換することで、相互に供給し合えるようにしている。また、同じ周波数の交流電力であっても同期がずれていれば接続出来ないために、やはり一度、直流に変換してから交流を作る方式のBTB(Back to back)と呼ばれる位相の変換所も設けられている。津軽海峡と紀伊水道を越えて相互に接続された送電区間では直流のままで送電されている。直流送電では電圧変換が不便であるが、交流送電のように電圧の実効値と最大値が√2倍だけの差が生じないので、耐圧設計が幾分楽になる利点がある。 「連系系統」(「連係」ではなく「連系」と記載する)とは系統制御区域を越えて送電を行う電力系統であり、日本では各地域の電力会社間の送電設備がこれに相当する。日本は長い島国をいくつかの地域に分割して各電力会社がそれぞれ電力供給を行っているが、特に太平洋側に電力の大消費地が集中していることもあり、隣り合う電力会社での互いの接続点は1箇所が多く、連系系統は概ね串形に結ばれている。自然災害への対応や、再生可能エネルギーの普及拡大のために地域間連系線の増強が必要で、2027年度完成予定で北海道本州間、東北-東京間、東京-中部間周波数変換所などの増強を予定している。 欧州と北米では多くの電力事業者が周囲の複数の事業者と相互接続している場合が一般的であり、連系系統は概ねメッシュ状になっている。 発電所内の発電機で発電した電力を、既に運用されている電力系統へ流し込むべく送電網に接続することは「並列」または「併列」と呼ばれ、これとは逆に送電網との接続を断つことは「解列」と呼ばれ、合わせて系統連系と呼ばれる。発電機は定格回転数に達することで並列が可能になる。並列にされた発電機は、系統内に存在する他の発電機と位相を合わせながら(蒸気圧などに起因する)回転エネルギーの余力がある発電機が送出する電力の位相が他よりわずかに進むことで有効電力が増す。系統内の負荷が増すと位相が遅れると同時に電圧も低下するが、並列状態にある発電機への負荷も増すことで直ちに大きな変化は生じない。ただし、発電機の負荷増大に対応して、蒸気圧や蒸気供給量などを増さないと、発電機の回転数を維持できず、系統電力の周波数と電圧は徐々に低下する。系統内の負荷が減ると、位相が進み電圧も上がると同時に発電機の負荷が減り徐々に回転数が上昇するため、蒸気量を減らす操作などが求められる。このように電力供給の安定化のためには、系統内の負荷の増減と発電機側の状況を見ながら蒸気量などの迅速な調整が必要になる。 ノルウェー・スウェーデン・フィンランド・デンマークの4カ国は、それぞれ電源構成が異なることから、1963年に北欧電力協議会が結成され、4カ国で電源ベストミックスが構築されて相互に電力の融通が行われてきた。1991年にノルウェーで新エネルギー法が制定し、翌1992年に電力自由化市場が設けられると、スウェーデン・フィンランド・デンマークが参入してノルドプールと呼ばれる電力市場が作られた。基幹系統は40万~22万ボルトで、水力発電所などが多い北部から、南部の都市部への潮流が多い傾向がある。北欧各国間および周辺国へは下記のように多数の連係線が設けられている。 東西ドイツ統一直後は旧西ドイツと東ドイツは連系していなかったが、旧東ドイツは1994年に欧州50ヘルツ同期系統(UCTE)に加盟した。これにより、ポーランド・チェコ・オーストリア・スイス・フランス・ベルギー・ルクセンブルク・オランダ・デンマーク・スウェーデンと連系する。このうちデンマーク・スウェーデンとは海底ケーブルによる直流送電であり、東西ドイツ間も、当初は東ドイツの電力事情が不安定であったため直流送電が検討された。統一後は八大電力会社(その後6社に再編)と九百社を超える小規模な発電・配電会社で構成され、六大電力会社で国内総発電量の8割を占める。基幹系統は38万ボルトおよび22万ボルトで、発電所・需要地とも分散しているため、送電線の混雑はほとんど見られない。電源構成は石炭26%、褐炭18%、原子力22%、水力9%で、風力が増加傾向にある。ドイツ全体の最大需要電力7500万kWに対し、発電設備量は1億kWを越え、供給力には余裕がある。六大電力会社と地方配電会社は15分ごとに5%の範囲内で需給調整を行うが、15分以内の速い需要変動については、六大電力会社が調整用電源などでバランスをとる。 フランスの発電事業はローヌ公社や独立発電事業者、輸入電力がそれぞれ少しずつあるが、フランス電力がほとんどを占める。送電についてはフランス電力が独占している。電源構成は、設備容量ベースで水力22%、火力23%、原子力55%で、発電電力量で見ると水力14%、火力10%、原子力76%となる。最大電力需要7240万kWに対し、設備容量は1億1510万kWである。ベルギー・ドイツ・イタリア・スペインや直流の海底ケーブルを介しイギリスなど9カ国と連系している。価格競争力のある原子力発電所を多数有しイタリアやスペインなどに電力を輸出していることから、国際連系線の一部に混雑がみられる。国内では、発電所が分散配置されているので大きな送電需要の偏在は起きていない。原子力発電所が多く存在するローヌ川北部から南部にかけて若干の送電線混雑がみられる程度である。 1990年に、国営の中央発電局が民営化され、発電事業は3社に分割、送電事業はナショナルグリッド社に移管された。イギリスの電源構成は石炭火力37%、コンバインドサイクル発電21%、原子力19%、水力(揚水発電含む)6%、石油火力4%、混焼10%で、主として新型のガス火力発電は北海に面した北東部の沿岸、石炭火力発電はマンチェスター周辺、原子力発電所はドーバー海峡沿岸に配置されている。「スーパーグリッド」と呼ばれる40万ボルトの基幹送電線を通じ、北海沿岸など北部から、ロンドンのある南部への流れがある。国内最大電力需要5700万kWに対し、設備容量は6800万kWである。イングランドとスコットランドとの間は40万ボルト2ルート、160万kWの送電容量がある。フランスとの間は200万kWの直流海底ケーブル「新英仏連系線」で結ばれ、1961年に敷設された従来の16万kWの旧英仏連系線は、1982年に廃止された。 アラスカや離島を除くアメリカ合衆国の電力系統は東部系統、西部系統、テキサス系統、およびカナダとつながるケベック系統の4つの系統から構成される。東部と西部は1967年から連系が試みられたが、安定度に難があり1973年に一度断念した。その後1977年にネブラスカ州とワイオミング州の境付近で連系したが、容量はわずか10万kWであった。テキサス系統と東部・西部系統、ケベック系統と東部系統と連係しているが、いずれも直流数十万kWと小規模である。合衆国全体での発電設備は8億4532万kW、最大電力需要は7億4852万kWである。合衆国全体の電源構成は石炭火力50%、原子力20%、ガス火力16%、水力7%、石油火力3%となっている。販売電力量は民間電力会社243社で76%を占め、地方公営企業2010団体で15%、協同組合932団体で8%などとなっている。州や地域により送電電圧が異なるなどの事情から140か所の中央給電指令所が設けられている。
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電力系統とは、電力を需要家の受電設備に供給するための、発電・変電・送電・配電を統合したシステムである。 日本では、10の一般送配電事業者がそれぞれ電力系統をもち、沖縄電力を除いた9社の電力系統は近隣のいずれかの電力系統と接続されている。日本の商用電力のほとんどはこの巨大な電力系統に接続されている。50Hzと60Hzをつなぐ東京電力パワーグリッドと中部電力パワーグリッド接続など、いくつかの接続は直流を介しており、相互影響が少ないが、ある電力系統が不安定になることは、接続された他の電力系統に影響を与えうる。大陸では国境を越えた電力系統の接続も行われている。 発電所で発電される電力は交流であり、その後に送電線で3相3線式により送電される際の送電ロスを減らすため、基幹的な長距離送電の区間は出来るだけ高電圧で送電され、消費地に近い場所で何段かに分けて電圧が降圧される。柱上変圧器以降は単相2線式や単相3線式での配電も行なわれる。
'''電力系統'''(でんりょくけいとう、{{lang-en|Electrical grid}})とは、[[電力]]を需要家の[[受電設備]]に供給するための、[[発電]]・[[変電]]・[[送電]]・[[配電]]を統合した[[システム]]である。 [[日本]]では、10の[[一般送配電事業者]]がそれぞれ電力系統をもち、[[沖縄電力]]を除いた9社の電力系統は近隣のいずれかの電力系統と接続されている。日本の[[商用電源|商用電力]]のほとんどはこの巨大な電力系統に接続されている。50[[ヘルツ (単位)|Hz]]と60Hzをつなぐ[[東京電力パワーグリッド]]と[[中部電力パワーグリッド]]接続など、いくつかの接続は[[直流]]を介しており、相互影響が少ないが、ある電力系統が不安定になることは、接続された他の電力系統に影響を与えうる。[[大陸]]では[[国境]]を越えた電力系統の接続も行われている。 [[File:Power Grid of Japan.svg|thumb|250px|right|日本の主要送電網と電力系統区分]] [[File:Electric power interconnection capacity in Japan.svg|thumb|250px|right|日本の地域間連系容量]] [[発電所]]で発電される電力は交流であり、その後に送電線で[[三相3線式|3相3線式]]により送電される際の送電ロスを減らすため、基幹的な長距離送電の区間は出来るだけ高[[電圧]]で送電され、消費地に近い場所で何段かに分けて電圧が降圧される。[[柱上変圧器]]以降は[[単相2線式]]や[[単相3線式]]での配電も行なわれる<ref name = "電気エネルギー工学"/>。 == 系統 == === 送電系統 === * [[発電所]]:交流電力を発電して、各々に付随する送電設備で超超高電圧(UHV、500kV)や超高圧(EHV、220-275kV)に昇圧されて送電網に送出される。 * 超超高圧(超高圧)[[電線路|送電線]]:超超高圧(UHV、500kV)や超高圧(EHV、220-275kV)の電力を送電する。 * 超高圧[[変電所]]:発電所からの電力を特別高圧(154-187kV)に変換する。 * 特別高圧送電線:特別高圧(154-187kV)の電力を送電する。 * 一次変電所:超高圧送電線からの電力を特別高圧(110-66kV)に変換する。 * 特別高圧送電線:特別高圧の電力を送電する。 * 二次変電所(中間変電所):特別高圧送電線からの電力を特別高圧(33-22kV)に変換する。 * 22kV級特別高圧送電線:特別高圧電力(22kV)を送電する<ref name = "電気エネルギー工学"/>。 === 配電系統 === * 配電用変電所:通常は154kVや66kV(50Hz側各社の例)、まれに20kV級送電線からの電力を[[高圧 (電気)|高圧]](6.6~3.3kV)に変換する。 * 配電線:高圧電力を配電する。 * [[柱上変圧器]]:高圧電力を[[低圧]](200~100V)に変換する。 * 引込線:各需要家に低圧電力を配電する。 == 構成要素 == 送電される電力の多くは空中に渡された電線で輸送する「架空送電」や「架空配電」と呼ばれる架空送配電方式が採用されており、都市部や景観保全が特に必要な場所では例外的に「地中送電」と呼ばれる地下の送配電路が設けられることがある。 === 架空送配電 === 主に電線と塔によって構成される架空送配電方式の構成要素を以下に示す。 ;[[電線]] :電線は、送電用の中心の鋼鉄線とそれを取り巻くアルミ線を束ねた「[[鋼心アルミより線]]」と、配電用の「[[絶縁被覆電線]]」がある。 ;[[架空地線]] :[[雷#被害と対策・回避方法|被雷]]対策として[[接地]]され、接地電位に保たれている1本または2本の「架空地線」が、最も高い位置で空中に配線されている。 ;[[碍子]] :主に[[磁器]]で作られた[[絶縁体|絶縁物]]である碍子(がいし、Insulator)によって、電線の高電位の電流が塔に漏れ流れる事を防いでいる。碍子には「沿面[[放電]]」発生時にその経路を長くなるようにすることで、その発生を抑制するための多数のヒダが設けられている。 ;塔・[[柱]] :[[鋼|鉄]]、[[コンクリート]]、[[木材]]で出来た塔や柱によって電線類を空中に保持している。鉄塔では、四角[[鉄塔]]、方形鉄塔、えぼし型鉄塔、門型鉄塔(ガントリ型鉄塔)などがある。四角鉄塔では3相3線式の回線を2組(2回線)か4組(4回線)支持するのに適しており、えぼし型鉄塔は3相3線式の1回線を支持するのに適している<ref name = "電気エネルギー工学"/>。 === 地中送配電 === 地中送配電方式の構成要素を以下に示す。 ;電線 :電線はOFケーブル(Oil filled cable)やCVケーブル(Crosslinked polyethylene vinyl sheath cable)が使用される。OFケーブルは常時加圧される油の保守の手間が掛かるために、近年ではCVケーブルの使用が好まれる。 ;管路 :直接埋設方式や管路式、共同溝方式がある<ref name = "電気エネルギー工学"/>。 == 管理 == 需要家に対し、適切な[[電圧]]・[[周波数]]で[[電力]]を供給するためには、'''電力系統'''[[システム]]の適切な運用を行うことが必要である。 電力の蓄積は難しいため、需給調整を実施し、[[需要]]に合わせた発電を行い、送電系統や変電所の過[[負荷]]が発生しないように需要家に届けなければならない。 この需給・系統調整の他、悪天候時の落雷等に備えた潮流の調整、降水・渇水による水力発電所の状況、突然発生する故障等の影響を最小化するための構成や、それに対応した早期の復旧や代替の確保など、常に変動する状況に応じた即応性と柔軟性が求められるため、電力会社では24時間体制で複数の人間が専門で常駐し、常に監視して対応できる体制を確保している。 == 周波数 == {{main|商用電源周波数}} 東地域を担当する[[北海道電力ネットワーク]]、[[東北電力ネットワーク]]、東京電力パワーグリッドは50Hzの周波数を、中西地域を担当する[[北陸電力送配電]]、中部電力パワーグリッド、[[関西電力送配電]]、[[中国電力ネットワーク]]、[[四国電力送配電]]、[[九州電力送配電]]、沖縄電力では60Hzの[[周波数]]の交流電力を使用している。沖縄を除く、それぞれ同一の周波数の電力を使う電力会社では互いの電力網を接続しあって相互に供給しあうことで電力供給の安定化を図っており、周波数の異なる電力網同士も'''変換所'''を設けて一度、直流へ変換したあとで供給先の交流周波数に変換することで、相互に供給し合えるようにしている。また、同じ周波数の交流電力であっても同期がずれていれば接続出来ないために、やはり一度、直流に変換してから交流を作る方式の'''BTB'''(Back to back)と呼ばれる[[位相]]の変換所も設けられている。津軽海峡と紀伊水道を越えて相互に接続された送電区間では直流のままで送電されている。直流送電では電圧変換が不便であるが、交流送電のように電圧の実効値と最大値が√2倍だけの差が生じないので、耐圧設計が幾分楽になる利点がある<ref name="電気エネルギー工学">八坂保能著 『電気エネルギー工学』 森北出版 2008年05月8日第1版第1刷発行 ISBN 9784627742918</ref>。 == 連系系統 == {{main|連系線}} 「連系系統」(「連係」ではなく「連系」と記載する)とは系統制御区域を越えて送電を行う電力系統であり、日本では各地域の電力会社間の送電設備がこれに相当する<ref>{{PDFlink|[http://www.meti.go.jp/press/20070417003/denryokuken-houkokusho.pdf 連系線に係わる利用・混雑処理方法について~欧州の状況~]}} - IEEJ:2005年4月号</ref>。日本は長い島国をいくつかの地域に分割して各電力会社がそれぞれ電力供給を行っているが、特に太平洋側に電力の大消費地が集中していることもあり、隣り合う電力会社での互いの接続点は1箇所が多く、連系系統は概ね串形に結ばれている。自然災害への対応や、再生可能エネルギーの普及拡大のために地域間連系線の増強が必要で、2027年度完成予定で北海道本州間、東北-東京間、東京-中部間周波数変換所などの増強を予定している。 欧州と北米では多くの電力事業者が周囲の複数の事業者と相互接続している場合が一般的であり、連系系統は概ねメッシュ状になっている<ref>{{PDFlink|[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/286890/www.meti.go.jp/press/20070417003/denryokuken-houkokusho.pdf 電力系統の構成及び運用について]}} - 経済産業省「電力系統の構成及び運用に関する研究会」平成19年4月</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.japc.co.jp/news/press/2007/pdf/200314.pdf 東海第二発電所 第23回定期検査の開始について]}} - 日本原子力発電株式会社 平成20年3月14日</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.tdgc.jp/information/docs/news_210525.pdf 地域間連系線整備のあゆみ]}} - 送配電網協議会 2021年5月20日</ref>。 == 系統連系(並列・解列) == {{main|系統連系}} 発電所内の発電機で発電した電力を、既に運用されている電力系統へ流し込むべく送電網に接続することは「並列」または「併列」と呼ばれ、これとは逆に送電網との接続を断つことは「解列」と呼ばれ、合わせて[[系統連系]]と呼ばれる。発電機は定格回転数に達することで並列が可能になる<ref>[https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_02-02-03-01.html BWRの起動・停止方法] - 原子力百科事典ATOMICA 高度情報科学技術研究機構(2012年7月5日閲覧)</ref>。並列にされた発電機は、系統内に存在する他の発電機と位相を合わせながら(蒸気圧などに起因する)回転エネルギーの余力がある発電機が送出する電力の位相が他よりわずかに進むことで有効電力が増す。系統内の負荷が増すと位相が遅れると同時に電圧も低下するが、並列状態にある発電機への負荷も増すことで直ちに大きな変化は生じない。ただし、発電機の負荷増大に対応して、蒸気圧や蒸気供給量などを増さないと、発電機の回転数を維持できず、系統電力の周波数と電圧は徐々に低下する。系統内の負荷が減ると、位相が進み電圧も上がると同時に発電機の負荷が減り徐々に回転数が上昇するため、蒸気量を減らす操作などが求められる。このように電力供給の安定化のためには、系統内の負荷の増減と発電機側の状況を見ながら蒸気量などの迅速な調整が必要になる。 == 日本国外の電力系統 == === 北欧 === [[ノルウェー]]・[[スウェーデン]]・[[フィンランド]]・[[デンマーク]]の4カ国は、それぞれ電源構成が異なることから、[[1963年]]に北欧電力協議会が結成され、4カ国で電源ベストミックスが構築されて相互に電力の融通が行われてきた。[[1991年]]にノルウェーで新エネルギー法が制定し、翌1992年に電力自由化市場が設けられると、スウェーデン・フィンランド・デンマークが参入してノルドプールと呼ばれる電力市場が作られた。基幹系統は40万~22万ボルトで、水力発電所などが多い北部から、南部の都市部への潮流が多い傾向がある<ref name="fujimori141">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、141-150ページ</ref>。北欧各国間および周辺国へは下記のように多数の連係線が設けられている<ref name="fujimori147"/>。 * スウェーデン←→フィンランド 200万kW * スウェーデン←→ノルウェー北部 90万kW * スウェーデン→ノルウェー南部 150万kW、ノルウェー南部→スウェーデン 185万kW * ノルウェー北部→ノルウェー南部 10万kW、ノルウェー南部→ノルウェー北部 20万kW * ノルウェー南部←→[[ユトランド半島]](デンマーク) 70万kW * スウェーデン←→ユトランド半島 58万kW * スウェーデン→[[シェラン島]](デンマーク) 130万kW、シェラン島→スウェーデン 160万kW * ユトランド半島→[[ドイツ]]80万kW、ドイツ→ユトランド半島 83万kW * シェラン島→ドイツ 20万kW、ドイツ→シェラン島 80万kW * フィンランド←→ロシア 25万kW * スウェーデン←→ドイツ、[[ポーランド]] {| class="wikitable" style="text-align:right" |+ 北欧諸国の電源構成比率<ref name="fujimori144">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、144ページ</ref>と電力需給<ref name="fujimori147">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、147ページ</ref> ! !! 水力 !! 原子力 !! 火力 !! 風力 !! 発電設備 !! ピーク需要 |- ! scope="row" | ノルウェー | 99% || 0% || 1% || 0% || 2520万kW || 2102万kW |- ! scope="row" | スウェーデン | 47% || 47% || 6% || 0% || 3292万kW || 2581万kW |- ! scope="row" | フィンランド | 19% || 33% || 48% || 0% || 1344万kW || 1308万kW |- ! scope="row" | デンマーク | 0% || 0% || 92% || 8% || 1132万kW || 647万kW |- ! scope="row" | 北欧4国 | 54% || 25% || 20% || 1% || 8288万kW || 6638万kW |} === ドイツ === [[ドイツ再統一|東西ドイツ統一]]直後は旧[[西ドイツ]]と[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]は連系していなかったが、旧東ドイツは1994年に欧州50ヘルツ同期系統(UCTE)に加盟した。これにより、ポーランド・[[チェコ]]・[[オーストリア]]・[[スイス]]・フランス・[[ベルギー]]・[[ルクセンブルク]]・[[オランダ]]・デンマーク・スウェーデンと連系する。このうちデンマーク・スウェーデンとは海底ケーブルによる[[直流送電]]であり、東西ドイツ間も、当初は東ドイツの電力事情が不安定であったため直流送電が検討された。統一後は八大電力会社(その後6社に再編)と九百社を超える小規模な発電・配電会社で構成され、六大電力会社で国内総発電量の8割を占める。基幹系統は38万ボルトおよび22万ボルトで、発電所・需要地とも分散しているため、送電線の混雑はほとんど見られない。電源構成は石炭26%、褐炭18%、原子力22%、水力9%で、風力が増加傾向にある。ドイツ全体の最大需要電力7500万kWに対し、発電設備量は1億kWを越え、供給力には余裕がある。六大電力会社と地方配電会社は15分ごとに5%の範囲内で需給調整を行うが、15分以内の速い需要変動については、六大電力会社が調整用電源などでバランスをとる<ref name="fujimori150">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、150-158ページ</ref>。 === フランス === [[フランス]]の発電事業はローヌ公社や独立発電事業者、輸入電力がそれぞれ少しずつあるが、[[フランス電力]]がほとんどを占める。送電についてはフランス電力が独占している。電源構成は、設備容量ベースで水力22%、火力23%、原子力55%で、発電電力量で見ると水力14%、火力10%、原子力76%となる。最大電力需要7240万kWに対し、設備容量は1億1510万kWである。ベルギー・ドイツ・イタリア・スペインや直流の海底ケーブルを介しイギリスなど9カ国と連系している。価格競争力のある原子力発電所を多数有しイタリアやスペインなどに電力を輸出していることから、国際連系線の一部に混雑がみられる。国内では、発電所が分散配置されているので大きな送電需要の偏在は起きていない。原子力発電所が多く存在する[[ローヌ川]]北部から南部にかけて若干の送電線混雑がみられる程度である<ref name="fujimori159">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、159-167ページ</ref>。 === イギリス === 1990年に、国営の中央発電局が民営化され、発電事業は3社に分割、送電事業は[[ナショナル・グリッド|ナショナルグリッド]]社に移管された。[[イギリス]]の電源構成は石炭火力37%、[[コンバインドサイクル発電]]21%、原子力19%、水力([[揚水発電]]含む)6%、石油火力4%、混焼10%で、主として新型のガス火力発電は[[北海]]に面した北東部の沿岸、石炭火力発電はマンチェスター周辺、原子力発電所は[[ドーバー海峡]]沿岸に配置されている。「スーパーグリッド」と呼ばれる40万ボルトの基幹送電線を通じ、北海沿岸など北部から、ロンドンのある南部への流れがある。国内最大電力需要5700万kWに対し、設備容量は6800万kWである。[[イングランド]]と[[スコットランド]]との間は40万ボルト2ルート、160万kWの送電容量がある。フランスとの間は200万kWの直流海底ケーブル「新英仏連系線」で結ばれ、[[1961年]]に敷設された従来の16万kWの旧英仏連系線は、[[1982年]]に廃止された<ref name="fujimori168">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、168-176ページ</ref>。 === アメリカ === アラスカや離島を除く[[アメリカ合衆国]]の電力系統は東部系統、西部系統、[[テキサス州|テキサス]]系統、および[[カナダ]]とつながる[[ケベック州|ケベック]]系統の4つの系統から構成される。東部と西部は[[1967年]]から連系が試みられたが、安定度に難があり[[1973年]]に一度断念した。その後[[1977年]]に[[ネブラスカ州]]と[[ワイオミング州]]の境付近で連系したが、容量はわずか10万kWであった。テキサス系統と東部・西部系統、ケベック系統と東部系統と連係しているが、いずれも直流数十万kWと小規模である。合衆国全体での発電設備は8億4532万kW、最大電力需要は7億4852万kWである。合衆国全体の電源構成は石炭火力50%、原子力20%、ガス火力16%、水力7%、石油火力3%となっている。販売電力量は民間電力会社243社で76%を占め、地方公営企業2010団体で15%、協同組合932団体で8%などとなっている。州や地域により送電電圧が異なるなどの事情から140か所の中央給電指令所が設けられている<ref name="fujimori177">[[#fujimori2002|藤森(2002年)]]、177-193ページ</ref>。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author = 藤森礼一郎 |year = 2002 |title = 「電力系統」をやさしく科学する |publisher = [[電気新聞|日本電気協会新聞部]] |isbn = 4-930986-80-X |ref = fujimori2002}} == 関連項目 == * [[電線路]] * [[スマートグリッド]] * [[一般送配電事業者]] * [[北海道・本州間連系設備]] * [[佐久間周波数変換所]] {{発電の種類}} {{電気電力}} {{電力供給}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんりよくけいとう}} [[Category:電力流通]] [[Category:電力工学]] [[Category:電力インフラ|*]] {{Tech-stub}} [[es:Sistema de suministro eléctrico]]
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脚本家一覧
脚本家一覧(きゃくほんかいちらん)は、脚本家の五十音順の一覧である。この一覧はウィキペディアに記事があるかを確認する便宜のためにあり、新規記事が到着したときにはここに追加される。 なお次に挙げるような人物は、ここでは扱わない。それぞれのページを参照のこと。 この一覧に追加を行う方へ。記事を作成してから追加するようお願いします。
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脚本家一覧(きゃくほんかいちらん)は、脚本家の五十音順の一覧である。この一覧はウィキペディアに記事があるかを確認する便宜のためにあり、新規記事が到着したときにはここに追加される。 なお次に挙げるような人物は、ここでは扱わない。それぞれのページを参照のこと。 アニメ作品専門の脚本家 - アニメ関係者一覧 この一覧に追加を行う方へ。記事を作成してから追加するようお願いします。
'''脚本家一覧'''(きゃくほんかいちらん)は、[[脚本家]]の五十音順の一覧である。この一覧は[[ウィキペディア]]に記事があるかを確認する便宜のためにあり、新規記事が到着したときにはここに追加される。 なお次に挙げるような人物は、ここでは扱わない。それぞれのページを参照のこと。 * アニメ作品専門の脚本家 - ''[[アニメ関係者一覧#脚本|アニメ関係者一覧]]'' ''この一覧に追加を行う方へ。記事を作成してから追加するようお願いします。'' == 日本 == === あ行 === {{columns-list|3| * [[會川昇]] * [[相沢友子]] * [[四十物光男]] * [[青木江梨花]] * [[あおしまたかし]] * [[青島幸男]] * [[三重野瞳|赤尾でこ]] * [[赤根和樹]] * [[赤星政尚]] * [[あかほりさとる]] * [[阿久根知昭]] * [[浅川美也]] * [[浅野妙子]] * [[浅野有生子]] * [[阿相クミコ]] * [[東隆明]] * [[足立紳]] * [[安達奈緒子]] * [[阿部和重]] * [[安部公房]] * [[安倍徹郎]] * [[あみやまさはる]] * [[荒井修子]] * [[荒井晴彦]] * [[荒川稔久]] * [[嵐山光三郎]] * [[石井輝男]] * [[石川美香穂]] * [[石堂淑朗]] * [[石橋大助]] * [[石森史郎]] * [[伊上勝]] * [[池田成]] * [[池田政之 (脚本家)|池田政之]] * [[池田眞美子]] * [[池端俊策]] * [[石松愛弘]] * [[板倉真琴]] * [[伊丹あき]] * [[市川森一]] * [[井出安軌]] * [[伊藤和典]] * [[いとう斗士八]] * [[伊藤康隆]] * [[犬塚稔]] * [[井上誠吾]] * [[井上敏樹]] * [[井上知幸]] * [[井上ひさし]] * [[井上美緒]] * [[井上由美子 (脚本家)|井上由美子]] * [[猪爪慎一]] * [[伊吹一 (脚本家)|伊吹一]] * [[伊福部崇]] * [[今井茂雄]] * [[今井詔二]] * [[今井雅子]] * [[入江信吾]] * [[岩間芳樹]] * [[上江洲誠]] * [[植竹須美男]] * 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[[川崎ヒロユキ]] * [[川瀬敏文]] * [[河田秀二]] * [[河原ゆうじ]] * [[川邊一外]] * [[河本瑞貴]] *[[香村純子]] * [[菅野友恵]] * [[木皿泉]] * [[岸川真]] * [[岸間信明]] * [[北川悦吏子]] * [[北川和歌子]] * [[北嶋博明]] * [[きだつよし]] * [[木村暢]] * [[木下惠介]] * [[木下半太]] * [[君塚良一]] * [[金月龍之介]] * [[楠本柊生]] * [[宮藤官九郎]] * [[久保田唱]] * [[久保田雅史]] * [[蔵元三四郎]] * [[倉本聰]] * [[倉田英之]] * [[黒田洋介]] * [[桑田健司]] * [[桑村さや香]] * [[ケラリーノ・サンドロヴィッチ]] * [[小池博史]] * [[黒土三男]] * [[高坂圭]] * [[後藤大輔]] * [[後藤法子]] * [[鴻上尚史]] * [[神波史男]] * [[神戸一彦]] * [[古沢良太]] * [[輿水泰弘]] * [[古怒田健志]] * [[小中千昭]] * [[故林広志]] * [[小林靖子]] * [[小林雄次]] * [[小山高生]] }} === さ行 === {{columns-list|3| * [[西条道彦]] * [[斉藤ひろし]] * [[齋藤貴義]] * [[佐伯俊道]] * [[酒井直行]] * [[酒井雅秋]] * [[坂本正吾]] * [[坂元裕二]] * [[阪口和久]] * [[櫻井圭記]] * [[佐々木浩久]] * [[佐々木守]] * [[笹野恵]] * [[宅間孝行|サタケミキオ]] * [[雑破業]] * [[佐藤大]] * [[佐藤卓哉]] * [[佐藤英一]] * [[佐藤博暉]] * [[佐野亨]] * [[沢村光彦]] * [[三条陸]] * [[ジェームス三木]] * [[重森孝子]] * [[篠﨑絵里子]] * [[司馬元]] * [[渋谷悠]] * [[島田満]] * [[清水東]] * [[清水有生]] * [[志茂文彦]] * [[下山健人]] * [[首藤剛志]] * [[白石まみ]] * [[白根秀樹]] * [[新上博巳|新上博巳(鳥福志恵)]] * [[新藤兼人]] * [[秦建日子]] * 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15,958
エニグマ
エニグマ (enigma) とは、西洋語で「謎」、「なぞなぞ」、「パズル」等を意味する。古代ギリシア語の αἴνιγμα(ainigma、「謎めいた言葉」「なぞなぞ」などの意)がラテン語を経て転訛したもの。この名を冠した事物に、以下のようなものがある。
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エニグマ (enigma) とは、西洋語で「謎」、「なぞなぞ」、「パズル」等を意味する。古代ギリシア語の αἴνιγμα(ainigma、「謎めいた言葉」「なぞなぞ」などの意)がラテン語を経て転訛したもの。この名を冠した事物に、以下のようなものがある。 エニグマ (暗号機) - 第二次世界大戦のときにドイツが用いていたことで有名なローター式暗号機のこと。幾つかの型がある。 エニグマ (映画) - ロバート・ハリスの小説『暗号機エニグマへの挑戦』を映画化した2001年公開の映画。 エニグマ (ミュージシャン) - 1990年に結成された、ドイツを活動拠点とするヨーロッパの音楽プロジェクト。 エニグマ (戦車) - 湾岸戦争時イラク軍が使用したT-55の独自改修型に多国籍軍が付けたコードネーム。 エニグマ変奏曲 - イギリスの作曲家、エドワード・エルガーの楽曲『創作主題による変奏曲』の通称。 エニグマ (ゲーム) - コーエーが発売したプレイステーション用ゲームソフトの名称。 Enigma (ゲーム) - Daniel Heck and contributorsが開発しているオープンソースのパズルゲーム。 エニグマ・レコード - かつてアメリカに存在したレコード・レーベル。1990年に倒産し消滅。 エニグマ - 荒木飛呂彦の漫画作品『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部「ダイヤモンドは砕けない」の登場人物、宮本輝之助のスタンド。→敵スタンド使い エニグマ錯視 - 錯視の一つ。 ǝnígmǝ【エニグマ】 - 2010年から2011年まで週刊少年ジャンプで連載された榊健滋の漫画作品。 enigma (松本孝弘のアルバム) - 日本の音楽ユニットB'zのギタリストである松本孝弘が、2016年にリリースしたアルバム。 ENIGMA (ラッパー) - 日本のラッパー。 エニグマ (タイのテレビドラマ)
'''エニグマ''' (enigma) とは、西洋語で「謎」、「[[なぞなぞ]]」、「パズル」等を意味する。[[古代ギリシア語]]の αἴνιγμα(ainigma、「謎めいた言葉」「なぞなぞ」などの意)がラテン語を経て転訛したもの。この名を冠した事物に、以下のようなものがある。 * [[エニグマ (暗号機)]] - [[第二次世界大戦]]のときに[[ドイツ]]が用いていたことで有名な[[ローター]]式[[暗号機]]のこと。幾つかの型がある。 * [[エニグマ (映画)]] - [[ロバート・ハリス (1957年生)|ロバート・ハリス]]の小説『暗号機エニグマへの挑戦』を映画化した2001年公開の映画。 * [[エニグマ (ミュージシャン)]] - [[1990年]]に結成された、[[ドイツ]]を活動拠点とする[[ヨーロッパ]]の[[音楽]]プロジェクト。 * [[T-55#派生型|エニグマ (戦車)]] - [[湾岸戦争]]時[[イラク]]軍が使用した[[T-55]]の独自改修型に多国籍軍が付けたコードネーム。 * [[エニグマ変奏曲]] - [[イギリス]]の[[作曲家]]、[[エドワード・エルガー]]の楽曲『創作主題による変奏曲』の通称。 * [[エニグマ (ゲーム)]] - [[コーエー]]が発売した[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲームソフトの名称。 * [[Enigma (ゲーム)]] - [[Daniel Heck and contributors]]が開発している[[オープンソース]]のパズルゲーム。 * [[エニグマ・レコード]] - かつて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に存在した[[レコード・レーベル]]。1990年に倒産し消滅。 * エニグマ - [[荒木飛呂彦]]の漫画作品『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の第4部「[[ダイヤモンドは砕けない]]」の登場人物、宮本輝之助のスタンド。→[[ダイヤモンドは砕けない#登場人物]] * エニグマ錯視 - [[錯視]]の一つ。 * [[エニグマ (漫画)|ǝnígmǝ【エニグマ】]] - [[2010年]]から[[2011年]]まで[[週刊少年ジャンプ]]で連載された[[榊健滋]]の漫画作品。 * [[enigma (松本孝弘のアルバム)]] - [[日本]]の[[音楽ユニット]][[B'z]]の[[ギタリスト]]である[[松本孝弘]]が、[[2016年]]にリリースしたアルバム。 * [[ENIGMA (ラッパー)]] - 日本の[[ラッパー]]。 * [[エニグマ (タイのテレビドラマ)]] == 関連項目 == * [[23エニグマ]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:えにくま}} [[Category:同名の作品]]
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天気
天気(てんき、英: weather)は、ある場所における、ある時刻もしくは一定の期間の、地表に影響をもたらす大気の状態である。 日本語において、「気象」が空に起こる現象を指すのに対して、「天気」は空の状態を指す。英語では"weather"で一括りにされる(厳密に定義すれば、気象は"weather phenomenon"である)。また、「気象」現象を表すのは主に単語であるのに対して、「天気」の状態を表す言葉は主に文であり、時には現象名を用いた単語で代用する。 そもそも、多数の現象の組み合わせの結果として表れるのが天気であり、分類して定義すること自体が難しい。「晴れ」などは特別な例だと言える。天気を説明するためには、まず「晴れ」「雨」「雪」といった大分類を用いるが、雨にさまざまな降り方があるように多種多様な「天気」がある。詳しく説明するためには、どの場所に(空間的分布)、どれくらいの期間に(時間的分布)、どれくらいの強さ・速さで(量的分布)現れたのかを示す必要がある。あるいは、比喩や感覚的な説明を用いるとより分かりやすくなる場合もある。 「天候」とは、「天気」と気候との中間的概念とされるが、ある程度の広さのある地方や、そこの季節も含めた場合については、ほぼ「天気」と同様の用いられ方をすることも多い。 定時観測の気象通報などで国際的に使用される天気の分類は96種類が定められている。日本の気象庁では、一般市民向けの気象情報には以下の15種類を用いている。また、日本式天気記号は気象庁が観測する天気とは別個に存在しており、こちらは21種類である。含まれる天気の種類についても異同がある。 これらの定義は、大気の異なる様相を捕らえているため、晴れているにもかかわらず雨が降っているという状態などが起こりうる。この場合、上記一覧のより後ろの種類を採用。
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天気は、ある場所における、ある時刻もしくは一定の期間の、地表に影響をもたらす大気の状態である。
{{Otheruses||日本気象学会の学会誌|日本気象学会#刊行物|天気予報アプリ|天気 (Apple)}} '''天気'''(てんき、{{lang-en-short|weather}})は、ある場所における、ある時刻もしくは一定の期間の、[[地表]]に影響をもたらす[[大気]]の状態である。 == 概要 == [[日本語]]において、「[[気象]]」が空に起こる[[現象]]を指すのに対して、「天気」は空の状態を指す。[[英語]]では"weather"で一括りにされる(厳密に定義すれば、気象は"weather phenomenon"である)。また、「気象」現象を表すのは主に[[単語]]であるのに対して、「天気」の状態を表す[[言葉]]は主に[[文]]であり、時には現象名を用いた単語で代用する。 そもそも、多数の現象の組み合わせの結果として表れるのが天気であり、分類して定義すること自体が難しい。「晴れ」などは特別な例だと言える。天気を[[説明]]するためには、まず「晴れ」「雨」「雪」といった大分類を用いるが、雨にさまざまな降り方があるように多種多様な「天気」がある。詳しく説明するためには、どの場所に(空間的分布)、どれくらいの期間に(時間的分布)、どれくらいの強さ・速さで(量的分布)現れたのかを示す必要がある。あるいは、[[比喩]]や感覚的な説明を用いるとより分かりやすくなる場合もある。 「天候」とは、「天気」と[[気候]]との中間的概念とされるが、ある程度の広さのある地方や、そこの[[季節]]も含めた場合については、ほぼ「天気」と同様の用いられ方をすることも多い。 == 分類 == 定時観測の[[気象通報式|気象通報]]などで国際的に使用される天気の分類は96種類が定められている。[[日本]]の[[気象庁]]では、一般市民向けの気象情報には以下の15種類を用いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/tenki.html |title=気象庁 気象等の知識 > 予報用語 > 天気 |accessdate=2008-06-02}}</ref>。また、日本式[[天気記号]]は気象庁が観測する天気とは別個に存在しており、こちらは21種類である。含まれる天気の種類についても異同がある<ref>{{Cite web|和書|title=理科年表オフィシャルサイト - FAQ - 気象部:天気の種類はいくつあるのですか。その記号も教えてください。|url=http://www.rikanenpyo.jp/FAQ/kisyo/faq_kisyo_003.html|accessdate=2008-07-08}}</ref>。 <!-- 記号については、よりふさわしい画像(できれば「気象庁が観測する天気」として新規に作成したもの)があれば、それに差し替えてください --> {| class="wikitable" |- ! 天気名 !! 記号 !! 定義 !! 画像 |- |[[快晴]]|| [[ファイル:Japanese Weather symbol (Clear).svg|20px]] || 空全体に対して、雲の占める面積が2割未満の状態。 || [[File:Flickr - Bakar 88 - Sunset over the Nile.jpg|200px]] |- |[[晴れ]]|| [[ファイル:Japanese Weather symbol (Fair).svg|20px]] || 空全体に対して、雲の占める面積が2割以上9割未満の状態。 || [[File:Cloud Kolkata 0352.JPG|200px]] |- |[[薄曇]]|| <!---[[ファイル:Japanese Weather symbol (***).svg|20px]]--> || 雲の占める面積が9割以上で、巻雲、巻積雲または巻層雲が多い状態。 || [[File:Clouds CH7.jpg|200px]] |- |[[曇り]]|| [[ファイル:Japanese Weather symbol (Overcast).svg|20px]] || 雲の占める面積が9割以上の、上記以外の状態。 || [[File:Clouds florence 13.jpg|200px]] |- |[[煙霧]]|| [[ファイル:Symbol Haze1.png|20px]] || 黄砂・煙または降灰があって、視程が1km未満になっているか、全天がおおわれている状態。 || [[File:Haze_in_Kuala_Lumpur.jpg|200px]] |- |[[砂じんあらし]](砂塵嵐)|| [[ファイル:Symbol Dust5.png|20px]] || 砂じんあらしのため、視程が1[[キロメートル|km]]未満になっている状態。 || [[File:Sand storm in Salmiya, Kuwait.jpg|200px]] |- |[[地吹雪|地ふぶき]](地吹雪)|| [[ファイル:Symbol Snow5.png|20px]] || 地ふぶきのため、視程が1km未満になっている状態。 || [[File:Whiteout_on_Ontario_Highway_404.jpg|200px]] |- |[[霧]]|| [[ファイル:Symbol Fog8.png|20px]] || 霧または氷霧のため、視程が1km未満になっている状態。 || [[File:Nebel in der Region Rhön 01386.jpg|200px]] |- |[[霧雨]]|| [[ファイル:Symbol Drizzle5.png|20px]] || 直径0.5[[ミリメートル|mm]]未満の細かい水滴だけが降っている状態。 |- |[[雨]]|| [[ファイル:Japanese Weather symbol (Rain).svg|20px]] || 直径0.5mm以上の水滴が降っている状態。 || [[File:Rain - Wagga.jpg|200px]] |- |[[霙|みぞれ]](霙)|| - || 雨と雪が混ざった降水の状態。 || [[File:Melting snow in Great Ayton.jpg|200px]] |- |[[雪]]|| [[ファイル:Symbol solid precipitation 78.svg|20px]] || 結晶状態の氷滴が降っている状態。 || [[File:Philly Blizzard.JPG|200px]] |- |[[霰]](あられ)|| - || 直径5mm未満の氷滴が降っている状態。 || [[File:Hagel in Finnland.jpg|200px]] |- |[[雹|ひょう]](雹)|| - || 直径5mm以上の氷滴が降っている状態。 || [[File:Hail Storm.jpg|200px]] |- |[[雷]]|| [[ファイル:Symbol Thunder1.png|20px]] || 過去10分以内に、雷電または雷鳴があった状態。 || [[File:Fdecomite - Lightning (by).jpg|200px]] |} これらの定義は、大気の異なる様相を捕らえているため、晴れているにもかかわらず雨が降っているという状態などが起こりうる。この場合、上記一覧のより後ろの種類を採用。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[気象]] * [[天気予報]] {{気象要素}} {{気象現象}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんき}} [[Category:気象]]
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15,961
気象
気象(きしょう、英: atmospheric phenomena)は、気温・気圧の変化などの、大気の状態のこと。また、その結果現れる雨などの現象のこと。広い意味においては大気の中で生じる様々な現象全般を指し、例えば小さなつむじ風から地球規模のジェット気流まで大小さまざまな大きさや出現時間の現象を含む。 気象とその仕組みを研究する学問を気象学、短期間の大気の総合的な状態(天気や天候)を予測することを天気予報または気象予報という。 日本において、日本語の「気象」が一般的に大気現象の意味で用いられるようになったのは、明治時代初期のことである。それまでは人物の性格や気質を指して用いられており、現在の「気性」と同じ意味であった。1873年(明治6年)発行の柴田昌吉、子安峻編『附音挿図英和字彙』においてMeteorologyを気象学と訳したのが初期の用例として挙げられ、1875年(明治8年)6月に設立された東京気象台(現在の気象庁)では行政機関の名として初めて使用された。 「気象」には類義語がある。 ただし、同じ大気中の物理現象であっても、地理的な観点から「ある土地固有の気象現象」として捉えた場合は「天候」「気候」と呼び、別の意味をもつ。 また地球を取り巻く諸現象(地球科学的現象)を考えたとき、大気の中で起こる現象を「気象」といい、大気圏外で起こる現象は「天文現象」、地面や地中で起こる現象は「地質現象」として区別される。ただ、これらは全くの無関係ではなく相互に影響しあう部分がある。 地球の大気は地表から高度数百km程度までで、地表から順に対流圏、成層圏、中間圏、熱圏と命名され、これらの層内には地球の重力に捉えられた気体が存在している。地表から熱圏と中間圏の境界である高度約80kmまでは、大気の組成は窒素約78%・酸素約21%・その他微量成分1%で一定であり、それ以上の高度では高度が上がるに従い分子量の大きな重い成分から減少する。高度約80kmまで成分が一定なのは、この範囲で空気の混合が起こっているためである。そのため、気象現象が起こる範囲はこの高度約80kmまでと考えることが多い。 地表の気圧は標準大気圧1 気圧(= 1013.25 hPa)の前後数十hPaの範囲内にある。高度が上がるに従い気圧は低くなり、また気温も低くなる。ただし、気温が低下するのは赤道付近では約16kmまで、中緯度では約11kmまで、北極・南極付近では約8kmまでである。これ以上の高度に行くと気温は一定か逆に上昇する。この気温低下の止まるところを対流圏と成層圏の境界、対流圏界面といい、ほとんどの気象現象はこの対流圏内で起こる。地上に雨を降らせる雲は対流圏内に存在する。もくもくと湧き上がる背の高い積乱雲も、対流圏界面を突き抜けることはない。一方、成層圏や中間圏にも強い風が吹いている ほか、真珠母雲や夜光雲が発生するが、対流圏に影響を与えることはほとんどない。 地球上に起こる気象は、太陽の活動により地球に供給されるエネルギー(放射エネルギー)に由来している。太陽が発している放射エネルギーを太陽放射といい、ほぼ全量が電磁波であり、そのうち47%が波長0.4 - 0.7μmの可視光線(人間の目に見える光)、46%が波長0.7 - 100μmの赤外線、7%が波長0.4μm以下の紫外線である。なお、生物に有害な波長0.2μm以下の紫外線のほとんどは散乱されたり大気上層(オゾン層)の成分により吸収されたりして、地表にほとんど到達しない。地球に入ってくる太陽放射を100とすると、30は反射によりすぐに宇宙に放出され、残りの70が地球の大気や地面、海洋などに吸収されて熱となる、 この熱が、気象の原動力となる。 なお、大気が存在することにより地表は保温されている。全地球を平均した表面温度は現在約15°Cだが、大気がない場合には約-20°Cと推定される。大気中の成分が太陽放射や地球放射 を吸収して熱に変換しているからであり、これを温室効果という。 地球の大気上端の太陽に対して垂直な面が受ける太陽放射の量を太陽定数といい、現在は平均1366W/m である。太陽放射の量は各地点の太陽の高度(水平線に対する角度)、すなわち季節と緯度により変わる。仮に大気による吸収がないとした場合、太陽高度α度における太陽光は となる。緯度が高い地点ほど太陽の高度が低く、届く太陽光は少ない。また同じ地点では夏至に最も太陽の高度が高く、冬至に最も低い。春分や秋分の赤道は太陽高度が90度であるため、約1366W/mになる。なお地上の場合、大気や雲による吸収を経て地上に到達するため、これよりも小さい値となる。 地球には、表面の7割を占める海洋のほか、氷河、湖、川、地中、植物や動物の体内など様々な場所に、水が豊富に存在する。水は地球大気で起こりうる環境下で液体(水)、気体(水蒸気)、固体(氷)の3態で存在しうるうえ、常温でも大気に対して揮発性が高く、状態変化を起こしやすい。状態変化は周囲の物質との間で転移熱(潜熱)の放出や吸収を伴う。 大気中の他の多くの気体は運動する大気の中で顕熱のみを運ぶが、水は顕熱と潜熱の両方を運ぶため、熱の移動の面からも水は重要な役割を担っていて、天気を予測する際には重要な因子となる。例えば、低気圧の多くは雲の発生により放出される凝結熱(潜熱)による加熱が発達要因の1つとなる。 さらに、水は雨や雪などの降水現象をもたらし、地上の天気にも関与している。 大気に供給される熱は、緯度、地形、季節、時間などによって異なるため温度差が生じる。大気の場合、空気が部分的に温まると膨張して密度が下がり、周囲より浮力が大きくなるため上昇する一方、逆に冷やされると収縮して密度が上がり、周囲より浮力が小さくなるので下降する。これは一例ではあるが、こうしたある空間の物理的な不均一を解消しようとする働きによって、一種の乱れが発生する。気象の根本的な原因はこの乱れであり、気象学においてはこれを擾乱(じょうらん)(気象擾乱)とよび、「大気の定常状態(平衡)からの乱れ」と定義している。 擾乱や定常状態は物理的な気象要素として方程式に記述できる現象であり、天気予報ではこの方程式を活用して擾乱を予測する。気象に関係する方程式は熱力学や流体力学などが中心で、特にこれらの分野の理解が必要となる。また、気象は複雑なシステムであり様々な外的要因、内的な不安定要因が存在する。外的なものでは地形の影響、地球の自転の影響、海洋の影響など様々なものが関係していて、総合的に考える必要がある。内的なものではカオス理論(バタフライ効果)で述べられているような初期値鋭敏性、例えば分子や原子レベルの振る舞いの違いが現象の現れ方の違いになりうるが、天気予報に用いるコンピューターの能力の限界からそれを完全に再現することは困難で、実際には近似によりある程度単純化して再現性の良いものを用いる、ということが行われている。 大気の状態や気象現象はいくつかの要素で表すことができ、これを気象要素と呼ぶ。気象要素の多くは物理的な値だが、天気分類や雲形などの例外もある。 これらの要素の中には、一定の期間やある地域内における最高値、最低値、平均値、閾値以上の回数や日数などを統計で取りまとめるものがある。例として気温では、最高気温、最低気温、平均気温を一日、1カ月、1年などの単位で算出するほか、日本の気象庁は最高気温30度以上の真夏日、最低気温0度未満の冬日などの日数を算出する。 また、気象要素を他の分野に応用したものとして、体感温度や不快指数、湿球黒球温度(WBGT)などの快適性指標や、火災の起きやすさを示す実効湿度などがある。 晴れ、曇りなどを除いた気象現象を挙げる。 ある季節にのみ生じるような気象を特に季節現象という。日本では梅雨、秋雨などがある。 なお、風を除いた主要な気象現象は、大まかに4つに分類することがある。 分類名のアルファベット表記は、ギリシャ語のmeteor(大気現象)と各現象の種類を示す語をあわせたもの。大気光象以外の分類名はあまり用いられない。 気象現象の規模は大小様々で一括りにして扱うのは困難で、規模によって現象を記述する方程式が異なる(規模の異なる現象は、単なる拡大や縮小ではなく、その現象を支配する物理法則が異なる)ことから、規模によって分類するのがふつうである。一般的には、オーランスキー(Isidoro Orlanski)が考案したものを一部修正したものを用いることが多い。 上記の区分は水平規模で区分したものであるが、継続時間とも相関性がある。下記は世界気象機関(WMO)による気象現象の継続時間ごとの分類である。 天気予報で用いる天気図は総観スケールの状態を表現するものである。総観スケールの天気図は総観スケールの現象しか表現できず、それより大きな現象や小さな現象は正確に表現できない。しかし、中緯度では総観スケールの現象が天気に関して支配的、つまり総観スケールの現象を把握しておけば大方の天気の予想ができる。また主要な先進国の多くは中緯度に位置することから、近代気象学が始まって以来最もよく使用されてきた。 気象観測とは気温などの気象要素や気象現象の発生の様子を記録することであり、現在は天気予報のために世界的に構築された観測網によって定期的にデータが収集されている。気象観測は地上だけではなく、海上の船やブイ、航空機でも行われる。またラジオゾンデなどの観測気球により地表から上空までの気象の変化も観測されるほか、気象レーダーや気象衛星により広域的に観測されるものもある。 観測データにおいて平年値とは、数十年間のデータを平均して算出される過去の気象の傾向を示す値である。極値とは、観測開始から継続して観測を行ってきた上で最も平均から外れた値である。平年値は気候を知る上で重要であり、極値はその観測地点の気象がどの程度の範囲で変動するかを知る上で重要なものである。なお、観測値が約30年に1度かそれより少ない頻度でしか発生しないような気象を異常気象といい、気象災害の目安とする。 初雪や真夏日などは、季節の変化を見る目安となることから季節現象として観測されている。また、日本では桜の開花やセミの初鳴きなど、季節性のある生物の営みを見る生物季節観測も行われている。 観測を通じて様々な気象要素をデータ化し統計としてまとめることは、気象予報や気象学において基本であり重要な事業である。さらに、気象データは気候学、建築学、環境学など、学術研究から実用まで様々な分野に応用されている。 天気予報では、気象観測のデータをさまざまな形で活用する。観測値から、大気の現在の状態を補完して出力することができるほか、将来の変化を予測して出力する。現在の天気予報は予報対象により異なるがプリミティブ方程式というものを用いて、コンピューターにより実際の大気を再現したモデル上で物理値を演算する数値予報が主流となっている。 天気図はいくつかの気象要素を地図上に表現したもの。19世紀後半に近代気象学が始まってからしばらくは手作業により記入された地上実況天気図がほとんどだったが、予報には不可欠な資料であった。数値予報が始まってからは数値予報の演算により多くの種類の予想天気図や高層天気図が作成されるようになった。現代の天気予報においては、一般的に目にする地上実況天気図だけでは予報の正確性に欠くので、高層天気図や予想天気図を活用して予報を行うのがふつうである。 また、雷雨の発生などを判断する熱力学ダイアグラムとしてエマグラムなどのグラフを用いることがある。 雨が岩石を浸食したり、風化を促進するなど、気象が自然の地形にもたらす効果は、地殻変動や海洋による効果と並んで大きなものである。V字谷は河川の浸食、カールやU字谷は氷河の浸食による典型的な谷である。河成平野は主に河川による堆積作用によってできた平野である。また大量の雨は、土砂崩れ、地滑り、土石流などの土砂災害や洪水も引き起こす。一方で、鍾乳洞や滝、石灰岩の浸食によるカルスト地形など、美しい景観に寄与する面もある。雨は様々な経路を経て、地下水から井戸により汲みあげたり、河川から取水し水道網を経たりして、生活や産業活動にも使われる重要な役割を持つ。 気象が人類の歴史に大きな影響を及ぼした例もある。1281年の弘安の役において神風と呼ばれる嵐が元軍の撤退に拍車をかけたことは日本では広く知られている。グリーンランドでヴァイキングの植民地が全滅した小氷期、冷害や大雨により発生した天明の大飢饉、高潮と大雨によってニューオーリンズが水没したハリケーン・カトリーナなど、異常気象と呼ばれるような災害も歴史上で多く発生している。 人間活動において、気象は生活に深く関わってきた。農耕においては雨の多い少ないが作物の出来に影響し、狩猟や漁では風向きを知ることが収獲の良し悪しや自身の安全に関わる。このような理由から、例えば「朝焼けがあれば雨が降る」といった経験に基づく伝承、現在でいう観天望気を通じて天気を「読む」ことが行われた。一方、雨乞いなどの信仰とも結びついた行為も行われてきた。 天気の伝承の中には、現在の気象学から考えても正しいものもある。長い間観天望気による予測が行われたが、物理学などの諸科学の発展により、ヨーロッパにおいては中世ごろから気象現象を科学的に解明することが始まった。19世紀に電報が発明されてから遠距離間で気象情報を伝達できるようになったことをきっかけに、本格的な科学的予測が始まった。20世紀初頭に数値予報が初めて考案され、当初はその計算量の多さから不可能とされていたが、1970年代の高性能コンピュータの普及によって大量計算が可能になってからは大きく科学的予測が発展した。また1960年代に登場した気象衛星は気象観測の幅を広げ、精密機械や通信機器の開発に伴って気象観測の自動化・無人化も進んでいる。 漁業においては、例えば日和山から観天望気を行い出港を判断していたものが、現代は漁業気象として提供される漁業に特化した気象情報を通じて安全が図られている。また、農業では動植物や自然の変化を季節の変化の目安として伝える、現在で言う季節学に近いことが農事暦などを通じて行われていたが、現代は天気予報に重点が移り農事暦を用いることは少なくなってきている。また、20世紀に生まれた航空の分野でも気象は非常に重要視されており、航路や離着陸地の安全のための情報などに特化した航空気象が提供されている。 人工降雨や台風(熱帯低気圧)を抑制するなど気象制御の試みがいくつか実行されたが、明確な成功には至ってない。京都大学などの研究グループでは、工場などの地上の熱源を移転させることで積乱雲の抑制しゲリラ豪雨や線状降水帯の影響を抑える研究を行っており、2040年に社会実験、2050年代に実用化を目標としている。 サイエンス・フィクションでは惑星規模で気象を改変するテラフォーミングがテーマとなっている作品もある。 地球以外の天体でも、大気がある天体には気象現象が発生する。 土星の衛星であるタイタンは窒素とメタンの大気からなり、メタンの雨らしきものが降っていることがカッシーニの探査から分かっている。また、金星は二酸化硫黄の雲から硫酸の雨が降り、上空では秒速100mもの風が吹いていることが分かっている。火星の極地では大規模な二酸化炭素の昇華によって時速400kmもの風が吹いていることも分かっている。 木星では、大赤斑と呼ばれる高気圧の渦があり、長期的に安定して存在する大気の循環によってできたのではないかと考えられている。これに対して海王星では大暗斑と呼ばれるものがあるが、こちらは短期間で消滅するものしか観測されていない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "気象(きしょう、英: atmospheric phenomena)は、気温・気圧の変化などの、大気の状態のこと。また、その結果現れる雨などの現象のこと。広い意味においては大気の中で生じる様々な現象全般を指し、例えば小さなつむじ風から地球規模のジェット気流まで大小さまざまな大きさや出現時間の現象を含む。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "気象とその仕組みを研究する学問を気象学、短期間の大気の総合的な状態(天気や天候)を予測することを天気予報または気象予報という。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本において、日本語の「気象」が一般的に大気現象の意味で用いられるようになったのは、明治時代初期のことである。それまでは人物の性格や気質を指して用いられており、現在の「気性」と同じ意味であった。1873年(明治6年)発行の柴田昌吉、子安峻編『附音挿図英和字彙』においてMeteorologyを気象学と訳したのが初期の用例として挙げられ、1875年(明治8年)6月に設立された東京気象台(現在の気象庁)では行政機関の名として初めて使用された。", "title": "定義と類義語" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「気象」には類義語がある。", "title": "定義と類義語" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ただし、同じ大気中の物理現象であっても、地理的な観点から「ある土地固有の気象現象」として捉えた場合は「天候」「気候」と呼び、別の意味をもつ。", "title": "定義と類義語" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また地球を取り巻く諸現象(地球科学的現象)を考えたとき、大気の中で起こる現象を「気象」といい、大気圏外で起こる現象は「天文現象」、地面や地中で起こる現象は「地質現象」として区別される。ただ、これらは全くの無関係ではなく相互に影響しあう部分がある。", "title": "定義と類義語" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "地球の大気は地表から高度数百km程度までで、地表から順に対流圏、成層圏、中間圏、熱圏と命名され、これらの層内には地球の重力に捉えられた気体が存在している。地表から熱圏と中間圏の境界である高度約80kmまでは、大気の組成は窒素約78%・酸素約21%・その他微量成分1%で一定であり、それ以上の高度では高度が上がるに従い分子量の大きな重い成分から減少する。高度約80kmまで成分が一定なのは、この範囲で空気の混合が起こっているためである。そのため、気象現象が起こる範囲はこの高度約80kmまでと考えることが多い。", "title": "気象の仕組み" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "地表の気圧は標準大気圧1 気圧(= 1013.25 hPa)の前後数十hPaの範囲内にある。高度が上がるに従い気圧は低くなり、また気温も低くなる。ただし、気温が低下するのは赤道付近では約16kmまで、中緯度では約11kmまで、北極・南極付近では約8kmまでである。これ以上の高度に行くと気温は一定か逆に上昇する。この気温低下の止まるところを対流圏と成層圏の境界、対流圏界面といい、ほとんどの気象現象はこの対流圏内で起こる。地上に雨を降らせる雲は対流圏内に存在する。もくもくと湧き上がる背の高い積乱雲も、対流圏界面を突き抜けることはない。一方、成層圏や中間圏にも強い風が吹いている ほか、真珠母雲や夜光雲が発生するが、対流圏に影響を与えることはほとんどない。", "title": "気象の仕組み" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"天気予報では、気象観測のデータをさまざまな形で活用する。観測値から、大気の現在の状態を補完して出力することができるほか、将来の変化を予測して出力する。現在の天気予報は予報対象により異なるがプリミティブ方程式というものを用いて、コンピューターにより実際の大気を再現したモデル上で物理値を演算する数値予報が主流となっている。", "title": "気象観測とその活用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "天気図はいくつかの気象要素を地図上に表現したもの。19世紀後半に近代気象学が始まってからしばらくは手作業により記入された地上実況天気図がほとんどだったが、予報には不可欠な資料であった。数値予報が始まってからは数値予報の演算により多くの種類の予想天気図や高層天気図が作成されるようになった。現代の天気予報においては、一般的に目にする地上実況天気図だけでは予報の正確性に欠くので、高層天気図や予想天気図を活用して予報を行うのがふつうである。", "title": "気象観測とその活用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、雷雨の発生などを判断する熱力学ダイアグラムとしてエマグラムなどのグラフを用いることがある。", "title": "気象観測とその活用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "雨が岩石を浸食したり、風化を促進するなど、気象が自然の地形にもたらす効果は、地殻変動や海洋による効果と並んで大きなものである。V字谷は河川の浸食、カールやU字谷は氷河の浸食による典型的な谷である。河成平野は主に河川による堆積作用によってできた平野である。また大量の雨は、土砂崩れ、地滑り、土石流などの土砂災害や洪水も引き起こす。一方で、鍾乳洞や滝、石灰岩の浸食によるカルスト地形など、美しい景観に寄与する面もある。雨は様々な経路を経て、地下水から井戸により汲みあげたり、河川から取水し水道網を経たりして、生活や産業活動にも使われる重要な役割を持つ。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "気象が人類の歴史に大きな影響を及ぼした例もある。1281年の弘安の役において神風と呼ばれる嵐が元軍の撤退に拍車をかけたことは日本では広く知られている。グリーンランドでヴァイキングの植民地が全滅した小氷期、冷害や大雨により発生した天明の大飢饉、高潮と大雨によってニューオーリンズが水没したハリケーン・カトリーナなど、異常気象と呼ばれるような災害も歴史上で多く発生している。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "人間活動において、気象は生活に深く関わってきた。農耕においては雨の多い少ないが作物の出来に影響し、狩猟や漁では風向きを知ることが収獲の良し悪しや自身の安全に関わる。このような理由から、例えば「朝焼けがあれば雨が降る」といった経験に基づく伝承、現在でいう観天望気を通じて天気を「読む」ことが行われた。一方、雨乞いなどの信仰とも結びついた行為も行われてきた。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "天気の伝承の中には、現在の気象学から考えても正しいものもある。長い間観天望気による予測が行われたが、物理学などの諸科学の発展により、ヨーロッパにおいては中世ごろから気象現象を科学的に解明することが始まった。19世紀に電報が発明されてから遠距離間で気象情報を伝達できるようになったことをきっかけに、本格的な科学的予測が始まった。20世紀初頭に数値予報が初めて考案され、当初はその計算量の多さから不可能とされていたが、1970年代の高性能コンピュータの普及によって大量計算が可能になってからは大きく科学的予測が発展した。また1960年代に登場した気象衛星は気象観測の幅を広げ、精密機械や通信機器の開発に伴って気象観測の自動化・無人化も進んでいる。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "漁業においては、例えば日和山から観天望気を行い出港を判断していたものが、現代は漁業気象として提供される漁業に特化した気象情報を通じて安全が図られている。また、農業では動植物や自然の変化を季節の変化の目安として伝える、現在で言う季節学に近いことが農事暦などを通じて行われていたが、現代は天気予報に重点が移り農事暦を用いることは少なくなってきている。また、20世紀に生まれた航空の分野でも気象は非常に重要視されており、航路や離着陸地の安全のための情報などに特化した航空気象が提供されている。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "人工降雨や台風(熱帯低気圧)を抑制するなど気象制御の試みがいくつか実行されたが、明確な成功には至ってない。京都大学などの研究グループでは、工場などの地上の熱源を移転させることで積乱雲の抑制しゲリラ豪雨や線状降水帯の影響を抑える研究を行っており、2040年に社会実験、2050年代に実用化を目標としている。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "サイエンス・フィクションでは惑星規模で気象を改変するテラフォーミングがテーマとなっている作品もある。", "title": "気象と自然環境・人類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "地球以外の天体でも、大気がある天体には気象現象が発生する。", "title": "地球以外の気象" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "土星の衛星であるタイタンは窒素とメタンの大気からなり、メタンの雨らしきものが降っていることがカッシーニの探査から分かっている。また、金星は二酸化硫黄の雲から硫酸の雨が降り、上空では秒速100mもの風が吹いていることが分かっている。火星の極地では大規模な二酸化炭素の昇華によって時速400kmもの風が吹いていることも分かっている。", "title": "地球以外の気象" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "木星では、大赤斑と呼ばれる高気圧の渦があり、長期的に安定して存在する大気の循環によってできたのではないかと考えられている。これに対して海王星では大暗斑と呼ばれるものがあるが、こちらは短期間で消滅するものしか観測されていない。", "title": "地球以外の気象" } ]
気象は、気温・気圧の変化などの、大気の状態のこと。また、その結果現れる雨などの現象のこと。広い意味においては大気の中で生じる様々な現象全般を指し、例えば小さなつむじ風から地球規模のジェット気流まで大小さまざまな大きさや出現時間の現象を含む。 気象とその仕組みを研究する学問を気象学、短期間の大気の総合的な状態(天気や天候)を予測することを天気予報または気象予報という。
[[ファイル:22 Regen ubt.jpeg|200px|right|thumb|[[雨]]]] [[ファイル:Waterspout near Cap de Formentor, Mallorca 2006-09-25.jpg|200px|right|thumb|[[竜巻]]]] [[ファイル:Haiyan_Nov_7_2013_1345Z.png|サムネイル|257x257ピクセル|[[台風]]([[熱帯低気圧]])]] [[ファイル:The Earth seen from Apollo 17.jpg|200px|right|thumb|[[宇宙]]から見た[[地球]]。[[大気]]中では様々な気象現象が発生している。]] '''気象'''(きしょう、{{lang-en-short|atmospheric phenomena}}{{r|kb_Brit|kb_Nipp}})は{{r|"kb_泉"|"kb_林"|kb_Brit|kb_Nipp|"kb_平百"|"kb_日国辞"}}、[[気温]]・[[気圧]]の変化などの、[[大気]]の[[状態]]のこと。また、その結果現れる[[雨]]などの[[現象]]のこと。広い意味においては大気の中で生じる様々な[[現象]]全般を指し、例えば小さな[[塵旋風|つむじ風]]から地球規模の[[ジェット気流]]まで大小さまざまな大きさや出現[[時間]]の現象を含む。 気象とその仕組みを研究する学問を[[気象学]]、短期間の大気の総合的な状態([[天気]]や[[天気|天候]])を予測することを[[天気予報]]または気象予報という。 == 定義と類義語 == 日本において、[[日本語]]の「気象」が一般的に大気現象の意味で用いられるようになったのは、[[明治時代]]初期のことである。それまでは[[人間|人物]]の[[性格]]や気質を指して用いられており、現在の「気性」と同じ意味であった{{r|kb_Nipp|"kb_泉"}}{{Sfn|八耳|2008|p=}}。[[1873年]](明治6年)発行の柴田昌吉、子安峻編『附音挿図英和字彙』において[[wikt:en:meteorology|Meteorology]]を気象学と訳したのが初期の用例として挙げられ、[[1875年]](明治8年)6月に設立された[[東京気象台]](現在の[[気象庁]])では行政機関の名として初めて使用された{{Sfn|八耳|2008|p=}}。 「気象」には[[類義語]]がある。 * 気象 (meteorological phenomena) - 大気の諸現象を指す{{r|kb_Nipp|"kb_泉"}}。大気現象{{Sfn|仁科|2014|p=1}}。 * [[天気]] (weather) - 「気象」のうち、ある時点または2 - 3日間程度の、大気の総合的な[[状態]]を指す{{Sfn|仁科|2014|p=1}}{{r|"kb_Nipp_天気"}}。日常会話では[[晴天]]のことを指して使う場合もある{{r|"kb_泉_天気"}}。 * 天候 - 数日から数ヶ月程度の大気の総合的な状態を指す{{Sfn|仁科|2014|p=1}}。ただし日常会話では「悪天候」「天候に恵まれる」のように天気と同じような意味で用いられる場合がある{{r|"kb_泉_天気"|"kb_泉_天候"}}。 * [[気候]] (climate) - 1年を周期として毎年繰り返す、大気の総合的な状態を指す{{Sfn|仁科|2014|p=2}}{{r|"kb_Nipp_気候"|"kb_泉_気候"}}。 ただし、同じ大気中の物理現象であっても、地理的な観点から「ある土地固有の気象現象」として捉えた場合は「天候」「[[気候]]」と呼び、別の意味をもつ。 また[[地球]]を取り巻く諸現象([[地球科学]]的現象)を考えたとき、大気の中で起こる現象を「気象」といい、[[大気圏]]外で起こる現象は「[[天文現象]]」、地面や地中で起こる現象は「[[地質現象]]」として区別される。ただ、これらは全くの無関係ではなく相互に影響しあう部分がある{{r|kb_Nipp}}<ref group="注">例えば、雨や風は[[地形]]の形成に大きく関与している。また、大気の温度や気圧などと海洋の温度などが影響しあう[[海洋大気相互作用]]などがある。</ref>。 == 気象の仕組み == === 気象現象が起こる範囲 === [[地球の大気]]は地表から高度数百km程度までで、地表から順に[[対流圏]]、[[成層圏]]、[[中間圏]]、[[熱圏]]と命名され、これらの層内には地球の[[重力]]に捉えられた[[気体]]が存在している。地表から[[熱圏]]と[[中間圏]]の境界である高度約80kmまでは、[[地球の大気#成分|大気の組成]]は[[窒素]]約78%・[[酸素]]約21%・その他微量成分1%で一定であり、それ以上の高度では高度が上がるに従い[[分子量]]の大きな重い成分から減少する。高度約80kmまで成分が一定なのは、この範囲で空気の混合が起こっているためである<ref group="注">80kmより上空では組成が変化し、約170km以上では[[酸素]]が主成分、約1,000km以上では[[ヘリウム]]が主成分、そのさらに外側では[[水素]]が主成分となる。</ref>。そのため、気象現象が起こる範囲はこの高度約80kmまでと考えることが多い<ref group="注">一例として、日本の[[気象業務法]]は第2条1項で「気象」を「大気(電離層を除く。)の諸現象」と定義しているが、電離層は一般に高度80 - 500km程度とされる。</ref>。 地表の[[気圧]]は[[標準大気圧]]1 気圧(= 1013.25 [[ヘクトパスカル|hPa]])の前後数十hPaの範囲内にある。高度が上がるに従い気圧は低くなり、また[[気温]]も低くなる。ただし、気温が低下するのは[[赤道]]付近では約16kmまで、中緯度では約11kmまで、[[北極]]・[[南極]]付近では約8kmまでである。これ以上の高度に行くと気温は一定か逆に上昇する<ref group="注">緯度や季節により異なるが、中緯度では高度50kmまで気温が上昇、50 - 80kmでは再び低下していく。</ref>。この気温低下の止まるところを対流圏と成層圏の境界、[[対流圏界面]]といい、ほとんどの気象現象はこの対流圏内で起こる。地上に[[雨]]を降らせる[[雲]]は対流圏内に存在する。もくもくと湧き上がる背の高い[[積乱雲]]も、対流圏界面を突き抜けることはない。一方、[[成層圏]]や[[中間圏]]にも強い風が吹いている<ref group="注">成層圏と中間圏では[[ブリューワー・ドブソン循環]]と呼ばれる循環構造を持つ風が吹いている。</ref> ほか、[[真珠母雲]]や[[夜光雲]]が発生するが、対流圏に影響を与えることはほとんどない。 === 太陽・熱と気象 === 地球上に起こる気象は、[[太陽]]の活動により地球に供給される[[エネルギー]]([[放射エネルギー]])に由来している。太陽が発している放射エネルギーを[[太陽放射]]といい、ほぼ全量が[[電磁波]]であり、そのうち47%が[[波長]]0.4 - 0.7[[マイクロメートル|μm]]の[[可視光線]](人間の目に見える光)、46%が波長0.7 - 100μmの[[赤外線]]、7%が波長0.4μm以下の[[紫外線]]である。なお、生物に有害な波長0.2μm以下の紫外線のほとんどは[[レイリー散乱|散乱]]されたり大気上層([[オゾン層]])の成分により吸収されたりして、地表にほとんど到達しない。地球に入ってくる太陽放射を100とすると、30は[[反射]]によりすぐに[[宇宙]]に放出され、残りの70が地球の大気や[[地面]]、[[海洋]]などに吸収されて[[熱]]となる、{{seealso|地球のエネルギー収支}} この熱が、気象の原動力となる。 なお、[[大気]]が存在することにより地表は保温されている。全地球を平均した表面温度は現在約15℃だが、大気がない場合には約-20℃と推定される<ref group="注">大気が存在しない場合、地球の表面温度は太陽放射と等しい[[黒体]]放射温度となると考えられている。これを平均すると-20℃となる。</ref>。大気中の成分が太陽放射や地球放射<ref group="注">地球が発している放射エネルギーを地球放射という。地球放射は主に[[赤外線]]で、波長8 - 11μm付近が最も強い。</ref> を吸収して熱に変換しているからであり、これを[[温室効果]]という。 地球の大気上端の太陽に対して垂直な面が受ける太陽放射の量を[[太陽定数]]といい、現在は平均1366[[放射照度|W/m<sup>2</sup>]]<ref group="注">[[太陽活動]]の変化や地球と太陽の距離の変化により数%の変動がある。</ref> である。太陽放射の量は各地点の太陽の高度([[水平線]]に対する[[角度]])、すなわち[[季節]]と[[緯度]]により変わる。仮に大気による吸収がないとした場合、太陽高度α度における太陽光は :''I'' = 1366 × sin α (W/m<sup>2</sup>) となる。緯度が高い地点ほど太陽の高度が低く、届く太陽光は少ない。また同じ地点では[[夏至]]に最も太陽の高度が高く、[[冬至]]に最も低い。[[春分]]や[[秋分]]の[[赤道]]は太陽高度が90度であるため、約1366W/m<sup>2</sup>になる。なお地上の場合、大気や雲による吸収を経て地上に到達するため、これよりも小さい値となる。 === 水と気象 === {{See also|水循環}} 地球には、表面の7割を占める[[海洋]]のほか、[[氷河]]、[[湖]]、[[川]]、地中、[[植物]]や[[動物]]の体内など様々な場所に、[[水]]が豊富に存在する。水は地球大気で起こりうる環境下で[[液体]](水)、[[気体]]([[水蒸気]])、[[固体]]([[氷]])の3態で存在しうるうえ、常温でも大気に対して揮発性が高く、[[状態変化]]を起こしやすい。状態変化は周囲の物質との間で転移熱([[潜熱]])の放出や吸収を伴う。 大気中の他の多くの気体は運動する大気の中で[[顕熱]]のみを運ぶが、水は顕熱と潜熱の両方を運ぶため、熱の移動の面からも水は重要な役割を担っていて、天気を予測する際には重要な因子となる。例えば、[[低気圧]]の多くは雲の発生により放出される凝結熱(潜熱)による加熱が発達要因の1つとなる。 さらに、水は[[雨]]や[[雪]]などの[[降水]]現象をもたらし、地上の天気にも関与している。 === 気象現象の本質 === 大気に供給される[[熱]]は、[[緯度]]、[[地形]]、[[季節]]、[[時間]]などによって異なるため温度差が生じる。大気の場合、空気が部分的に温まると[[膨張]]して[[密度]]が下がり、周囲より[[浮力]]が大きくなるため上昇する一方、逆に冷やされると収縮して密度が上がり、周囲より浮力が小さくなるので下降する。これは一例ではあるが、こうしたある空間の物理的な不均一を解消しようとする働きによって、一種の乱れが発生する。気象の根本的な原因はこの乱れであり、気象学においてはこれを'''[[擾乱]](じょうらん)'''(気象擾乱)とよび、「大気の[[定常状態]](平衡)からの乱れ」と定義している。 擾乱や定常状態は物理的な気象要素として[[方程式]]に記述できる現象であり、天気予報ではこの方程式を活用して擾乱を予測する。気象に関係する方程式は[[熱力学]]や[[流体力学]]などが中心で、特にこれらの分野の理解が必要となる。また、気象は[[複雑系|複雑なシステム]]であり様々な外的要因、内的な不安定要因が存在する。外的なものでは[[地形]]の影響、地球の[[自転]]の影響、海洋の影響など様々なものが関係していて、総合的に考える必要がある。内的なものでは[[カオス理論]]([[バタフライ効果]])で述べられているような初期値鋭敏性、例えば[[分子]]や[[原子]]レベルの振る舞いの違いが現象の現れ方の違いになりうるが、天気予報に用いる[[コンピューター]]の能力の限界からそれを完全に再現することは困難で、実際には[[近似]]によりある程度単純化して再現性の良いものを用いる、ということが行われている。 == 気象要素の一覧 == [[ファイル:Cairngorm radio mast and weather station. - geograph.org.uk - 1561366.jpg|thumb|right|200px|気象要素を観測する自動気象観測所(AWS)]] 大気の状態や気象現象はいくつかの要素で表すことができ、これを気象要素と呼ぶ。気象要素の多くは[[物理学|物理]]的な値だが、[[天気]]分類や[[雲形]]などの例外もある。 *[[天気]] - 地上から見た大気の状態。ある時点における[[雲]]の量、[[降水]]の種類や強さ、[[霧]]や[[砂嵐]]の状況などを総合したもの。[[快晴]]、[[晴れ]]、[[くもり]]や[[雨]]など。天気予報に供する国際的な報告で使用する[[気象通報式#国際気象通報式|国際気象通報式]]では96種類、日本の気象庁が独自に記録する天気では15種類、[[地上天気図#日本式天気図|日本式天気図]]では21種類ある。 *[[雲量]] - 空全体に占める雲の割合。日本では十分率、国際的には八分率で表される。 *[[雲形]] - 雲の形状。[[積雲]]や[[層雲]]などの基本的な十種雲形のほか、副種や変種がある。 *雲高 - 地表からの雲の高さ。 **雲の底部の高さを指す[[雲底]]高度、雲の頂部の高さを指す[[雲頂]]高度などがある。 **国際気象通報式では上層、中層、下層それぞれ10、計30のパターンが定義されている。 *[[視程]] - 大気の見通しの程度。降水や霧、砂嵐、吹雪などによって低下する。[[航空]]の分野では重要視される。 **各方位の中で最も低い視程を指す最小視程、各方位の平均の視程を指す卓越視程などがある。 *[[日射量]] - 太陽放射の量。 **太陽の方向からのみの日射を指す直達日射量、太陽以外の方向からの日射を指す散乱日射量、全ての方向からの日射を指す全天日射量などがある。 *[[日照]] - 日光の照射。120W/m<sup>2</sup>以上の[[直達日射]]があるものを「日照がある」という。 **[[日照時間]] - 一定時間当たりに日照があった時間。 *[[気圧]] - 大気の圧力。 **地上や海上のそのままの気圧を指す地上気圧(現地気圧)、[[海面更正]]をした海面気圧、気球などで測る上空の気圧を指す上空気圧などがある。 *[[気温]] - 大気の温度。 *[[湿度]] - 大気中の水蒸気量。 **一般的には[[相対湿度]]や[[露点温度]]を用いる。 **学術的には、[[絶対湿度]]、[[蒸気圧]]、[[混合比 (気象用語)|混合比]]、[[比湿]]、[[湿数]]などを用いることがある。 *[[可降水量]] - 鉛直大気中の水の総量。 *大気が持つエネルギー量の表現 - 大気の持つ顕熱、潜熱、[[位置エネルギー]]などを総合的に表現する。 **[[温位]]、[[相当温位]]、[[相当温度]]などが用いられる。 *[[風]] - 気圧差によって起こる大気の流れ。 **[[風向]] - 風の(一般的には水平方向の)向き。学術的には鉛直方向の風向(上向き・下向き)を表現するほか、発散や[[収束]]という概念を用いて表現することがある。 **[[風速]] - 風の(一般的には水平方向の)速度。風速の代わりに[[風力]]を用いることもある。学術的には鉛直方向の風速を表現する。 **[[渦度]] - 回転性のある気流の回転の程度。 *[[降水]] - 様々な形で降る水。雨や雪などの降水の種類は「天気」として表現する。 **[[降水量]] - 降った水の量。雪の場合は降雪量とも言う。 **[[積雪|積雪量]] - 積もった雪の量。 *[[海水温]] - 海水の温度。 *[[大気安定度]] - 力学的・熱力学的観点からみた大気の静的・動的な安定の度合。 **[[対流有効位置エネルギー]](CAPE)、[[対流抑制]](CIN)、[[ショワルター安定指数]](SSI)、[[リフティド指数]](LI)などがある。 これらの要素の中には、一定の期間やある地域内における最高値、最低値、平均値、閾値以上の回数や日数などを[[統計]]で取りまとめるものがある。例として気温では、最高気温、最低気温、平均気温を一日、1カ月、1年などの単位で算出するほか、日本の[[気象庁]]は最高気温30度以上の真夏日、最低気温0度未満の冬日などの日数を算出する。 また、気象要素を他の分野に応用したものとして、[[体感温度]]や[[不快指数]]、[[湿球黒球温度]](WBGT)などの[[快適性評価|快適性指標]]や、火災の起きやすさを示す[[実効湿度]]などがある。 == 気象現象の一覧 == 晴れ、曇りなどを除いた気象現象を挙げる。 *[[降水]] - 固体または液体の水が降る現象。 **[[雨]](rain) - 液体の水滴が降るもの。 ***[[着氷性の雨]](freezing rain) - [[過冷却]]の水滴が降る雨。 ***[[霧雨]](drizzle) - 直径0.5mm以下の水滴が降る雨。 **[[雪]](snow) - 白色の柔らかい氷の結晶が降るもの。 ***[[霧雪]](snow grains) - 直径1mm以下の氷の結晶が降る雪。 **[[霙]](sleet) - 雨と雪が混在しながら降るもの。 **[[霰]](graupel) - 直径5mm未満の氷の粒が降るもの。 ***雪あられ - 白色不透明の霰。内部に隙間が多く砕けやすい。 ***氷あられ - 半透明の霰。表面が滑らかな球状で砕けにくい。 **[[雹]](hail) - 直径5mm以上の氷の粒や塊が降るもの。 **[[凍雨]](ice pellet) - 透明な氷の粒が降るもの。 **[[細氷]](diamond dust) - 低温弱風の晴天時に地表付近で生じた微細な氷の結晶が降る現象。ダイヤモンドダスト。 :雨には降り方による分類もある。 :*[[小雨]] - 降水量が少ない雨。 :*[[地雨]] - 強度変化が小さく面的にまんべんなく降る雨。 :*[[驟雨]](shower) - 対流性の雲から降る強度変化が大きい雨。雪の場合は驟雪という。 :*[[にわか雨]] - 急に降りだしてすぐ止む一過性の雨。 :*[[時雨]] - 降ったり止んだりを繰り返す雨。 :*大雨 - 降水量が多い雨。 :*[[集中豪雨]] - 局地的で短時間の降水量が多い雨。 :*[[天気雨]] - 日が射しているのに降る雨。 :*[[風花]] - 日が射しているのに降る雪。 *[[露]](dew) - 大気中の水蒸気が物体の表面に凝結し、水滴が一様に付着するもの。 **[[凍露]] - 露が凍結したもの。 *[[霜]](frost) - 大気中の水蒸気が地面や物体の表面に昇華し、氷の結晶が一様に付着するもの。 *[[霧氷]](rime) - 地面や物体に氷の結晶が層状に付着するもの。 **樹氷(soft rime) - 過冷却の霧や[[雲粒]]が吹きつけられてできた、白色不透明で脆い霧氷。 **粗氷(hard rime) - 過冷却の霧や雲粒が吹きつけられてできた、半透明の霧氷。 **樹霜 - 昇華による霧氷。 *[[雨氷]](glaze ice) - 過冷却の雨が地面や物体の表面に付着して凍結し、透明な氷の層をつくるもの。 *[[着雪]] - 比較的高温で降る湿った雪が吹きつけて物体表面に付着するもの。 :霧氷、雨氷、着雪をまとめて[[着氷]]現象と呼ぶことがある。 *[[氷柱]](icicle) - 徐々に凍結しながら地面に向かって延長してできる、氷の柱。 *[[氷筍]] - 氷柱と反対に、徐々に凍結しながら空へ向かって延長してできる、氷の柱。 *[[霜柱]](needle ice) - 地中の水分が凍結してできる、氷の柱。 *[[結氷]] - 海、湖、川などの水面が凍結するもの。 **[[流氷]] - [[海氷]](sea ice)が離れた沿岸へ流れ着くもの。 **[[プレッシャー・リッジ|氷丘脈]](pressure ridge) - 湖などの結氷が膨張によりひび割れ盛り上がったもの。 *[[靄]](mist) - 大気中の水蒸気が凝結してできた微小な水滴が浮遊していて、水平視程が1km以上10km未満のもの。 *[[霧]](fog) - 大気中の水蒸気が凝結してできた微小な水滴が浮遊していて、水平視程が1km未満のもの。 **[[地霧]] - 目の高さ以下の低高度のみに広がる霧。 **[[氷霧]](ice fog) - 凍結してなおも浮遊している霧。 *[[煙霧]](haze) - 乾いた微粒子が大気中に浮遊している現象。 **[[ちり煙霧]] - 風塵によって生じたちりや砂の微粒子が、風がおさまってからも浮遊している現象。砂嵐によって生じ、遠方まで到達することがある。 **[[黄砂]] - [[東アジア]]において、中国大陸の砂嵐によって生じたちりや砂の微粒子が飛来する現象。 *[[風塵]] - 風によってちりや砂が吹き上げられるもの。 **[[砂嵐]](sandstorm) - 激しい風によって、ちりや砂が空中高く吹き上げられるもの。一般に、水平視程が1km未満のものをいう。 *[[降灰]](falling ash) - [[噴火]]による[[火山灰]]が降下する現象。遠方まで到達することがある。 *[[スモッグ]](smog) - [[煤煙]]の混じった霧(ロンドン型スモッグ)、または排気ガスが変質した煙霧([[光化学スモッグ]]、ロサンゼルス型スモッグ)。 *[[吹雪]] - 強風を伴った降雪。 *[[地吹雪]](blizzard) - 地面などの積雪が強風により吹き上げられる現象。降雪を伴うものは吹雪という。 :靄、霧、煙霧、風塵、砂嵐、吹雪、地吹雪などは[[視程]]障害現象と呼ぶことがある。 *[[風]](wind) - 大気の流れ。 **地球規模の風([[大気循環]]を参照) ***[[貿易風]] - 赤道・低緯度地方で吹く南東・北東風。 ***[[偏西風]] - 中緯度地方で吹く南西・北西風。 ***[[極東風]] - 高緯度・局地方で吹く南東・北東風。 ***[[ジェット気流]] - 対流圏上部の高速風帯。偏西風が吹く地域の上空には[[亜熱帯ジェット気流]]や[[寒帯前線ジェット気流]]などの強いジェット気流があることが知られている。 **大陸 - 地域規模の風 ***[[海陸風]]、[[川風]]、[[湖風]] - 水面と地面の[[比熱容量]](温まりやすさ)の差により、季節や日単位で風向を変える風。また、谷状の地形により風の通り道となって吹く風。 ***[[滑昇風]]、[[滑降風]]、[[山谷風]] - 地形の影響により、斜面に沿って空気が昇降するために起こる風。 ***[[フェーン現象|フェーン]](foehn) - 山越えの高温な強風。 ***[[ボーラ]](bora) - 山越えの冷涼な強風。 ***[[ハブーブ]](haboob) - 砂嵐を伴った強風。 ***ブリザード(blizzard) - 地吹雪を伴った強風。 ***[[モンスーン]](monsoon)(季節風) - 一般に、季節により風向が変わる風を指す。季節性の降雨を指す場合もある。 ***[[スコール]](squall) - 急激に風速が増加する突風。積乱雲のもとで起こることが多く、熱帯地方に多くみられる。にわか雨を伴うことが多く、雨のことを指す場合もある。 **[[突風]] ***[[塵旋風]](whirlwind) - 地表付近の上昇気流が渦巻きを伴うもの。晴天時にも起こる。 ***[[竜巻]](tornado) - 発達した積乱雲のもとで強い上昇気流を伴う気流の渦巻き。 ***[[ダウンバースト]](downburst) - 発達した積乱雲のもとで強い下降気流に伴い吹く突風。水平規模4km未満のものをマイクロバーストといい、特に強い。 :このほか、特徴のある風をその地域独自の名称で呼ぶ[[地方風]]というものがある。日本では[[春一番]]、[[木枯らし]]、[[颪|おろし]]などがある。 *[[凪]](calm) - 風が穏やかまたは全くない状態。 *[[雲]](cloud) - 大気中の水蒸気が凝結してできた微小な水滴が浮遊しているもの。一般に、地面に接していないものをいい、観測地で地面に接している場合は霧となる。 :雲にはいろいろな形状があり、その形状や高度などから[[雲形]]分類がされている。基本雲形は[[積雲]]、[[積乱雲]]、[[層雲]]、[[層積雲]]、[[高積雲]]、[[高層雲]]、[[乱層雲]]、[[巻雲]]、[[巻層雲]]、[[巻積雲]]の10種類。 *[[大気光学現象]](大気光象) - 大気中の成分や水滴、氷晶等を通して光が変化を起こすことで生じる現象。 **[[虹]](rainbow) - 雨などの水滴により色が分かれた円弧状の光が見えるもの。 **[[彩雲]](iridescent cloud) - 水滴により雲がまだらに色づいて見えるもの。 **[[光冠]](corona) - 水滴や[[微粒子]]により太陽や月の周りに円形の光の輪が見えるもの。 **[[光輪]](ブロッケン現象)(glory, Brocken spectre) - 水滴により[[対日点]]を中心とする色が分かれた円形の光の輪が見えるもの。また、これに影が写り込むもの。 **[[暈]](halo) - 氷晶により太陽や月の周りに円形の光の輪が見えるもの。主に太陽から22°(内暈)、46°(外暈)のところにできる。 **[[幻日]](sun dog) - 氷晶により太陽や月の両側の同じ高度に光が見えるもの。 **[[幻日環]](parhelic circle) - 氷晶により天頂を中心として太陽や月を通る光の輪が見えるもの。 **[[環天頂アーク]](circumzenithal arc) - 氷晶により天頂を中心とする円弧が太陽や月の上方に見えるもの。 **[[環水平アーク]](circumhorizontal arc) - 氷晶により天頂を中心とする水平に近い円弧が太陽や月の下方に見えるもの。 **[[外接ハロ|外接ハロ・タンジェントアーク]](circumscribed halo, tangent arc) - 氷晶により太陽や月の周りに楕円形の光の輪が見えるもの。また、内暈に接する開いた円弧が見えるもの。 **[[太陽柱]](sun pillar) - 氷晶により太陽や月、その他の光源などから垂直に延びる光の柱が見えるもの。 **[[夕焼け|朝焼け・夕焼け]](morning/evening glow) - 日の出や日没時に空が赤や橙色になるもの。 **[[薄明光線]](crepuscular rays) - 雲の切れ間から太陽光線が伸びるもの。 **[[蜃気楼]](mirage) - 大気の密度差に起因する屈折により、遠くの水平線付近の物体が浮き上がったり歪んだりして見えるもの。 *[[雷]] - 大気中(対流圏内)で起こる放電・発光現象。 *[[超高層雷放電]] - 成層圏以上の層で起こる放電・発光現象。対流圏の雷と対になって起こる。 *[[気圧配置]]や大気の分布に関する現象 **[[高気圧]] - 周囲よりも気圧が高い部分。 **[[低気圧]] - 周囲よりも気圧が低い部分。 **[[気団]] - 寒冷、温暖、乾燥、湿潤など、それぞれ異なる性質を持った空気の塊。 **[[前線 (気象)|前線]] - 性質の異なる空気の境界に生じる、気温差の大きい部分。[[温帯低気圧]]の発生と密接に関わっている。湿度差によって生じる[[ドライライン|乾燥線]]というものもある。 ある季節にのみ生じるような気象を特に[[季節現象]]という。日本では[[梅雨]]、[[秋雨]]などがある。 なお、風を除いた主要な気象現象は、大まかに4つに分類することがある<ref>{{Cite web|和書|title=地上気象観測 |url=https://www.jma-net.go.jp/fukuoka/kansoku/kisyo_kansoku.html |publisher=福岡管区気象台 |accessdate=2020-02-03 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=地上気象観測 |url=https://www.jma-net.go.jp/kanazawa/mame/tijou/tijou.html |publisher=金沢地方気象台 |accessdate=2020-02-03 }}</ref>。 *大気水象(たいきすいしょう, hydrometeor) - 主に[[水]]からなる水滴や[[氷]]の粒が、落下、上昇、浮遊、付着、[[相転移|状態変化]]などをする現象。 *大気塵象(たいきじんしょう, lithometeor) - 主に[[風塵|砂塵]]やその他の[[微粒子]]などからなる[[大気エアロゾル粒子|粒子]]が、落下、浮遊、上昇、付着などをする現象。 *大気光象(たいきこうしょう, photometeor) - 大気中で観測される、[[光学]]的な現象。 *大気電気象(たいきでんきしょう, electrometeor) - 大気中で観測される、[[電気]]的([[電磁気学]]的)な現象。 分類名のアルファベット表記は、ギリシャ語のmeteor(大気現象)と各現象の種類を示す語をあわせたもの。大気光象以外の分類名はあまり用いられない。 === 気象現象のスケール === 気象現象の規模は大小様々で一括りにして扱うのは困難で、規模によって現象を記述する方程式が異なる(規模の異なる現象は、単なる拡大や縮小ではなく、その現象を支配する物理法則が異なる)ことから、規模によって分類するのがふつうである。一般的には、オーランスキー(Isidoro Orlanski)が考案したものを一部修正したものを用いることが多い。 {| class="wikitable" style="float:left;align:left" |- !colspan="3"| スケール名 !! 水平規模km(m) !! 現象例 |- !rowspan="2"| マクロスケール<br />(大規模) ! マクロαスケール ! 惑星スケール | 10000km以上 | [[超長波]]、[[プラネタリー波]]、巨大高気圧 |- ! マクロβスケール !rowspan="2"| 総観スケール | 2000 – 10000&nbsp;km | [[温帯低気圧]]、[[高気圧]] |- !rowspan="4"| メソスケール<br />(中規模) !rowspan="2"| メソαスケール | 1000 – 2000&nbsp;km |rowspan="2"| [[前線 (気象)|前線]]、[[熱帯低気圧]]([[台風]]) |- |rowspan="6"| &nbsp; | 200 – 1000&nbsp;km |- ! メソβスケール | 20 – 200&nbsp;km | [[スーパーセル (気象)|スーパーセル]]、[[集中豪雨]]、[[海陸風]] |- ! メソγスケール | 2 – 20&nbsp;km | [[積乱雲]]、[[ダウンバースト]] |- !rowspan="3"| マイクロスケール<br />又はミクロスケール<br />(小規模) ! マイクロαスケール | 0.2 – 2&nbsp;km(200 - 2000m) | 積乱雲 |- ! マイクロβスケール | 0.02 - 0.2&nbsp;km(20 - 200m) | [[竜巻]]、[[塵旋風]]、ビル風 |- ! マイクロγスケール | 0.002 - 0.02&nbsp;km(2 - 20m) | 風の乱渦(風の息) |} {{-}} 上記の区分は水平規模で区分したものであるが、継続時間とも相関性がある。下記は[[世界気象機関]](WMO)による気象現象の継続時間ごとの分類である。 {| class="wikitable" style="float:left;align:left" |- ! スケール名 !! 継続時間 !! 現象例 |- !rowspan="2"| 気候スケール |rowspan="3"| 数か月 | 超長波、プラネタリー波、巨大高気圧 |- |rowspan="2"| 温帯低気圧、高気圧 |- !rowspan="3"| 総観スケール |- |rowspan="3"| 数日 | 前線、熱帯低気圧 |- |rowspan="3"| スーパーセル、集中豪雨、海陸風 |- !rowspan="3"| メソスケール |- |rowspan="3"| 数時間 |- |rowspan="2"| 積乱雲、ダウンバースト |- !rowspan="4"| マイクロスケール<br />又はミクロスケール |- | 数十分 | 積乱雲、竜巻 |- | 数分 | 積乱雲、塵旋風、ビル風 |- | 数秒-数十秒 | 風の乱渦(風の息) |} {{-}} [[天気予報]]で用いる[[天気図]]は総観スケールの状態を表現するものである。総観スケールの天気図は総観スケールの現象しか表現できず、それより大きな現象や小さな現象は正確に表現できない。しかし、中緯度では総観スケールの現象が天気に関して支配的、つまり総観スケールの現象を把握しておけば大方の天気の予想ができる。また主要な[[先進国]]の多くは中緯度に位置することから、近代[[気象学]]が始まって以来最もよく使用されてきた。 === 気象に関連する現象 === *大気海洋相互作用や[[テレコネクション|遠隔相関]]によるもの **[[エルニーニョ・南方振動]](ENSO, エルニーニョ・ラニーニャ) - 太平洋赤道域東部の海水温が異常高温・異常低温となり、その影響で天候変化が世界に及ぶもの。 **[[北大西洋振動]](NAO) - 北大西洋[[アゾレス諸島]]付近と[[アイスランド]]付近で相関する気圧変化傾向により、[[北アメリカ]]や[[ヨーロッパ]]などに天候変化が及ぶもの。 **[[北極振動]](AO) - 北極と北半球中緯度で相関する気圧変化傾向により、冬を中心に北半球に天候変化が及ぶもの。 **[[マッデン・ジュリアン振動]](MJO) - インド洋や太平洋の赤道域で対流活動が活発な領域が周期的に移動することに伴い、周辺地域に天候変化が及ぶもの。 **[[太平洋十年規模振動]](PDO) - 太平洋各地で約20年周期で相関する気圧変化傾向により、周辺地域に天候変化が及ぶもの。 **[[成層圏準2年周期振動]](QBO) - 赤道上空の成層圏で約2年-2年半の周期で風向が変化するもの。 **[[成層圏突然昇温]](SSW) - 成層圏で気温の急激な上昇が起こるもの。 **[[ダイポールモード現象]](IOD) - インド洋熱帯域の東部と西部で相関する海水温が以上となり、周辺地域に天候変化が及ぶもの。 *[[気候変動]] **[[地球温暖化]] - 人為的な[[温室効果ガス]]が主な原因と推定されている、[[19世紀]]後半からの平均気温上昇を指す。世界各地の天候の変化との関連が研究されている。 == 気象観測とその活用 == {{main|気象観測}} [[ファイル:ClimateTokyoJapan.png|thumb|right|200px|東京の[[雨温図]]]] 気象観測とは気温などの気象要素や気象現象の発生の様子を記録することであり、現在は[[天気予報]]のために世界的に構築された観測網によって定期的にデータが収集されている。気象観測は地上だけではなく、海上の[[気象観測船|船]]や[[海洋気象ブイ|ブイ]]、[[航空機]]でも行われる。また[[ラジオゾンデ]]などの観測気球により地表から上空までの気象の変化も観測されるほか、[[気象レーダー]]や[[気象衛星]]により広域的に観測されるものもある。 観測データにおいて[[平年値]]とは、数十年間のデータを平均して算出される過去の気象の傾向を示す値である。[[極値]]とは、観測開始から継続して観測を行ってきた上で最も平均から外れた値である。平年値は気候を知る上で重要であり、極値はその観測地点の気象がどの程度の範囲で変動するかを知る上で重要なものである。なお、観測値が約30年に1度かそれより少ない頻度でしか発生しないような気象を[[異常気象]]といい、気象災害の目安とする。 [[初雪]]や[[真夏日]]などは、季節の変化を見る目安となることから[[季節現象]]として観測されている。また、日本では[[サクラ|桜]]の開花や[[セミ]]の初鳴きなど、季節性のある生物の営みを見る[[生物季節観測]]も行われている。 観測を通じて様々な気象要素をデータ化し統計としてまとめることは、気象予報や気象学において基本であり重要な事業である。さらに、気象データは[[気候学]]、[[建築学]]、[[環境学]]など、学術研究から実用まで様々な分野に応用されている。 === 天気予報における活用 === [[天気予報]]では、気象観測のデータをさまざまな形で活用する。観測値から、大気の現在の状態を補完して出力することができるほか、将来の変化を予測して出力する。現在の天気予報は予報対象により異なるが[[プリミティブ方程式]]というものを用いて、[[コンピューター]]により実際の大気を再現した[[モデル (自然科学)|モデル]]上で物理値を演算する[[数値予報]]が主流となっている。 [[天気図]]はいくつかの気象要素を[[地図]]上に表現したもの。19世紀後半に近代気象学が始まってからしばらくは手作業により記入された[[地上天気図|地上実況天気図]]がほとんどだったが、予報には不可欠な資料であった。数値予報が始まってからは数値予報の演算により多くの種類の予想天気図や[[高層天気図]]が作成されるようになった。現代の天気予報においては、一般的に目にする地上実況天気図だけでは予報の正確性に欠くので、高層天気図や予想天気図を活用して予報を行うのがふつうである。 また、[[雷雨]]の発生などを判断する熱力学ダイアグラムとして[[エマグラム]]などの[[統計図表|グラフ]]を用いることがある。 == 気象と自然環境・人類 == === 気象がもたらすもの === [[雨]]が[[岩石]]を[[浸食]]したり、[[風化]]を促進するなど、気象が自然の地形にもたらす効果は、[[地殻変動]]や[[海洋]]による効果と並んで大きなものである。[[V字谷]]は河川の浸食、[[圏谷|カール]]や[[U字谷]]は氷河の浸食による典型的な谷である。[[沖積平野|河成平野]]は主に河川による堆積作用によってできた平野である。また大量の雨は、[[土砂崩れ]]、[[地滑り]]、[[土石流]]などの[[土砂災害]]や[[洪水]]も引き起こす。一方で、[[鍾乳洞]]や[[滝]]、[[石灰岩]]の浸食による[[カルスト地形]]など、美しい景観に寄与する面もある。雨は様々な経路を経て、[[地下水]]から[[井戸]]により汲みあげたり、[[河川]]から取水し[[水道]]網を経たりして、[[生活]]や[[産業]]活動にも使われる重要な役割を持つ。 === 気象と人類 === 気象が[[世界の歴史|人類の歴史]]に大きな影響を及ぼした例もある。[[1281年]]の[[弘安の役]]において[[神風]]と呼ばれる嵐が[[元 (王朝)|元]]軍の撤退に拍車をかけたことは日本では広く知られている。[[グリーンランド]]で[[ヴァイキング]]の植民地が全滅した[[小氷期]]、冷害や大雨により発生した[[天明の大飢饉]]、高潮と大雨によって[[ニューオーリンズ]]が水没した[[ハリケーン・カトリーナ]]など、[[異常気象]]と呼ばれるような[[災害]]も歴史上で多く発生している。 === 気象の予測 === :''詳細は[[天気予報]]を参照。'' 人間活動において、気象は生活に深く関わってきた。農耕においては雨の多い少ないが作物の出来に影響し、狩猟や漁では風向きを知ることが収獲の良し悪しや自身の安全に関わる。このような理由から、例えば「[[朝焼け]]があれば雨が降る」といった経験に基づく[[伝承]]、現在でいう[[観天望気]]を通じて天気を「読む」ことが行われた。一方、[[雨乞い]]などの[[信仰]]とも結びついた行為も行われてきた。 天気の伝承の中には、現在の気象学から考えても正しいものもある{{r|"kb_Nipp_天気"}}。長い間観天望気による予測が行われたが、物理学などの諸科学の発展により、[[ヨーロッパ]]においては[[中世]]ごろから気象現象を科学的に解明することが始まった。[[19世紀]]に[[電報]]が発明されてから遠距離間で気象情報を伝達できるようになったことをきっかけに、本格的な科学的予測が始まった。[[20世紀]]初頭に[[数値予報]]が初めて考案され、当初はその計算量の多さから不可能とされていたが、[[1970年代]]の高性能[[コンピュータ]]の普及によって大量計算が可能になってからは大きく科学的予測が発展した。また[[1960年代]]に登場した気象衛星は気象観測の幅を広げ、精密機械や通信機器の開発に伴って気象観測の自動化・無人化も進んでいる。 [[漁業]]においては、例えば日和山から観天望気を行い出港を判断していたものが、現代は[[漁業気象]]として提供される漁業に特化した気象情報を通じて安全が図られている。また、[[農業]]では動植物や自然の変化を季節の変化の目安として伝える、現在で言う[[季節学]]に近いことが[[農事暦]]などを通じて行われていたが、現代は天気予報に重点が移り農事暦を用いることは少なくなってきている。また、20世紀に生まれた[[航空]]の分野でも気象は非常に重要視されており、航路や離着陸地の安全のための情報などに特化した[[航空気象]]が提供されている。 === 気象の制御 === [[人工降雨]]や台風(熱帯低気圧)を抑制するなど'''[[気象制御]]'''の試みがいくつか実行されたが、明確な成功には至ってない。[[京都大学]]などの研究グループでは、工場などの地上の熱源を移転させることで[[積乱雲]]の抑制し[[ゲリラ豪雨]]や[[線状降水帯]]の影響を抑える研究を行っており、2040年に社会実験、2050年代に実用化を目標としている<ref>{{Cite web|和書|title=京都大学、豪雨の発生を人工抑制 大気中の熱や気流制御 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC0939M0Z00C23A6000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-06-19 |access-date=2023-06-19 |language=ja}}</ref>。 [[サイエンス・フィクション]]では惑星規模で気象を改変する[[テラフォーミング]]がテーマとなっている作品もある。 == 地球以外の気象 == [[ファイル:Marsdustdevil2.gif|thumb|right|250px|火星の[[塵旋風]]、火星探査機[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー|スピリット]]撮影]] 地球以外の[[天体]]でも、大気がある天体には気象現象が発生する。 [[土星]]の衛星である[[タイタン (衛星)|タイタン]]は[[窒素]]と[[メタン]]の大気からなり、メタンの雨らしきものが降っていることが[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]の探査から分かっている。また、[[金星]]は[[二酸化硫黄]]の雲から[[硫酸]]の雨が降り、上空では秒速100mもの風が吹いていることが分かっている。[[火星]]の極地では大規模な[[二酸化炭素]]の昇華によって時速400kmもの風が吹いていることも分かっている。 [[木星]]では、[[大赤斑]]と呼ばれる高気圧の渦があり、長期的に安定して存在する大気の循環によってできたのではないかと考えられている。これに対して[[海王星]]では[[大暗斑]]と呼ばれるものがあるが、こちらは短期間で消滅するものしか観測されていない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="kb_泉">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル[[大辞泉]]』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_林">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=三省堂『[[大辞林]]』第3版 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name=kb_Brit>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name=kb_Nipp>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=[[根本順吉]]、小学館『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_平百">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=[[日立デジタル平凡社]]『[[世界大百科事典]]』第2版 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_日国辞">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気象-50488 |title=気象 |publisher=コトバンク |author=小学館『精選版 [[日本国語大辞典]]』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_泉_気候">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気候-50259 |title=気候 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_Nipp_気候">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/気候-50259#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=気候 |publisher=コトバンク |author=[[吉野正敏]]、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』 |accessdate=2017-08-01 }}</ref> <ref name="kb_泉_天気">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/天気-102133 |title=天気 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> <ref name="kb_Nipp_天気">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/天気-102133#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 |title=天気 |publisher=コトバンク |author=平塚和夫 [http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/11300.html]、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』 |accessdate=2017-08-01 }}</ref> <ref name="kb_泉_天候">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/天候-577902 |title=天候 |publisher=コトバンク |author=小学館『デジタル大辞泉』 |accessdate=2020-02-03 }}</ref> |2}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2020-02-03}} {{ページ番号|section=1|date=2020-02-03}}<!--※推奨されている出典の表示の例:{{Sfn|岩槻|2012|p=ページ番号}}{{Sfn|『気象がわかる絵事典』|2007|p=ページ番号}}--> * <!--いわつき-->{{Cite book |和書 |author=岩槻秀明|authorlink=岩槻秀明 |date=2012-09-21 |title=最新気象学のキホンがよ〜くわかる本 |edition=第2版 |publisher=[[秀和システム]] |series=図解入門:How-nual Visual Guide Book |oclc=811357930 |ref={{SfnRef|岩槻|2012}} }}{{ISBN2|4-7980-3511-4}}、{{ISBN2|978-4-7980-3511-6}}。 * <!--おぐら-->{{Cite book |和書 |author=小倉義光|authorlink=小倉義光 |date=1999-04-17 |title=一般気象学 |edition=第2版 |publisher=[[東京大学出版会]] |oclc=674641621 |ref={{SfnRef|小倉|1999}} }}{{ISBN2|4-13-062706-6}}、{{ISBN2|978-4-13-062706-1}}。 * <!--たかはし-->{{Cite book |和書 |editor=高橋浩一郎|editor-link=高橋浩一郎 |date=1974 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アンドレイ・タルコフスキー
アンドレイ・タルコフスキー(ロシア語: Андре́й Арсе́ньевич Тарко́вский, アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー, 英語: Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932年4月4日 - 1986年12月29日)は、ソ連の映画監督である。 「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めてソ連から亡命し、故郷に還ることなく、パリにて54歳で客死する。 1932年4月4日、ヴォルガ川流域のイワノヴォ地区、ユリエヴェツの近郊ザブラジェで生れる。父はウクライナの詩人として著名なアルセニー・タルコフスキー。タルコフスキーの幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自伝的作品 『鏡』(1975年) に描かれている)。この幼少時にタルコフスキーは、作曲家になる事を夢見ていたと言われる。 赤貧のうちに育ち、芸術学校でまず音楽の勉強をしたが家にピアノが無いので練習不足で断念。次に絵の勉強を始めるが結核で一年間療養生活を送る。東洋大学のアラビア語に入学するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャーガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキーはその流行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ごす。 その後、映画大学への進学を決意。父親の尽力もあって1954年に全ソ国立映画大学に入学。落ちこぼれだったタルコフスキーが名門のこの学校へ入学できたのは奇跡だったと友人達は証言している。ミハイル・ロンムのもとで映画を学んで頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映画監督となるアンドレイ・コンチャロフスキーやその弟のニキータ・ミハルコフらと親交を結ぶ。アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』を製作。 タルコフスキーの世代は、スターリン体制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ込んできた雪解け期が青年期にぶつかっており、タルコフスキーもそうした文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映画評論も、ジャン=リュック・ゴダールからルイス・ブニュエル、黒澤明、ロベール・ブレッソン、アンディ・ウォホール、フェデリコ・フェリーニ、オーソン・ウェルズ、ミケランジェロ・アントニオーニ、イングマール・ベルイマンなど西側の映画への言及が多い。 卒業制作短編 の『ローラーとバイオリン』(監督)はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。1962年にウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説 『イワン』 を原作とした 『僕の村は戦場だった』に急遽代役起用され、長編映画監督としてデビューし、本作で1962年のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を史上最年少(30歳)で受賞(この記録は現在でも破られていない)。企画段階では参加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、将来のタルコフスキー作品を彩るモチーフはこの時期から現れている。 将来を嘱望されたタルコフスキーは、1962年から63年末にかけてロシアの伝説的イコン画家の生涯を描いた歴史大作映画『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を映画大学の後輩コンチャロフスキーと共同執筆。大作ゆえの予算不足と検閲で苦しみながら1967年に完成するがソ連当局より「反愛国的」と指摘されて、国内では5年間上映されなかった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞受賞。ソ連では71年12月にモスクワで公開された後、地方都市でも公開されて全国で290万人を動員した。 映画監督としての力量自体はモスフィルム関係者の中でも認められており、1972年には莫大な費用を費やした『惑星ソラリス』(スタニスワフ・レム原作)を製作。SF映画の概念を一変させたと評価された(ただし、原作者のレムには作品を批判された。詳細は惑星ソラリスを参照)。カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1975年に自伝的要素の強い 『鏡』を完成、難解な映像が国内で厳しく批判される。1979年にはストルガツキー兄弟との共同脚本で 『ストーカー』 を撮影。検閲を巡ってタルコフスキーと当局の確執は深くなる一方だったが、独自の映像芸術は世界中の映画評論家やファンを魅了し、国際的名声と評価は高まり続けた。決して娯楽作品とは言い難い『鏡』を輸出する際、ソ連映画の超大作『戦争と平和』(1965-1967)より金額は高く提示したのだが、それでも国際市場では買い手はついたという逸話が残っている。80年には『ストーカー』を含む全タルコフスキー作品でダヴィド・ドナテロ賞受賞。 その後、あくまで芸術家の自律性と表現の自由を求めるタルコフスキーは、ソ連を出国。イタリアにおいてフェデリコ・フェリーニの映画に脚本家として関わっていたトニーノ・グェッラを起用して『ノスタルジア』を撮影。1983年完成。カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞受賞。 ロンドンでオペラの演出などをした後1984年、ソ連当局からの帰国要請を撥ね付け事実上の亡命を宣言。ただ、事前に相談を受けたコンチャロフスキーが助言したように、この頃のソ連は各種の規制緩和が進んでおり(ミハイル・ゴルバチョフ書記長のペレストロイカは1985年)、わざわざ亡命を宣言する必要は無かったと言われている。事実 コンチャロフスキー、ニキータ・ミハルコフ兄弟は亡命もせずに西側で映画を撮っていたのである。ソ連当局の検閲に対するタルコフスキーの積年の嫌悪と恨みはかくも強烈だった。 その後、スウェーデンで主にイングマール・ベルイマンの映画に携わっていたスタッフのもとで、核戦争勃発を背景とした 『サクリファイス』 を監督。1986年に完成。カンヌ国際映画祭審査員特別大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞、芸術特別貢献賞受賞。映画撮影時に、末期の肺癌が判明してそのまま病床の人となる。 他方、祖国では、新たに共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが公式にタルコフスキーの名誉回復を宣言し、帰国を認める声明を出すが、1986年12月29日、パリにて客死。翌1987年1月5日、パリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀が行われ、同じく反体制亡命音楽家で、友人の、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが追悼のバッハの無伴奏チェロ組曲を捧げた。 主に「世界の救済」をテーマに、夢と空中浮遊、あるいは犬や水や馬や火などを象徴的に配して独自の映像美を追求した寡黙な作品群は、難解という評価もある一方で、全世界に熱狂的なファンを持つ。現在ではソ連/ロシアを代表する映画監督であり、その冗長とも退屈とも取られる時間感覚は「ロシア的」とも評されるが、かつての同僚コンチャロフスキーは「彼はロシア文化より非常に西洋のカトリック文化の影響をうけている」という見方をしている(ただし、コンチャロフスキー自身の作風がどちらかと言えばアメリカ映画的であり、実際に1970年代後半以降はアメリカで監督として活動もしていた)。1970年代から1980年代初頭にかけて「停滞の時代」のソ連では、宗教への回帰は「作家の映画」における一特徴をなしていた。タルコフスキーの場合には、まさにこの時期にドストエフスキーに関する映画の構想をきっかけとしてロシアの宗教思想への関心を深めつつ、19世紀ロシア・インテリゲンツィアの遺産を継承しようとしていた。 タルコフスキーを考える上で、更に見落としてはならないのがエリート芸術家という自負心である。だが、その「エリート主義」は、彼が生きた時代のソ連社会における映画産業の興隆や国家的威信の象徴としてのステータス、およびソ連の映画人達自身が形成した価値観と無関係ではない。長編デビュー作でヴェネチア映画祭の最高賞を獲得したタルコフスキーは、雪解け期のソ連の映画界のみならず芸術界全体で、実際に「エリート」として認められていたが、その後の彼の構想がソ連当局が求める公式的「社会主義リアリズム」とは相いれなかったため、絶えず当局との軋轢が起きた。タルコフスキーは国営映画会社モスフィルムの映画監督であり、創作家としては特権階級であったとはいえ、その地位は決して経済的に安定した生活を保証するものではなかった。後年には、家族を養うためにアルバイト的な脚本執筆の仕事をしたり、友人達から借金をせねばならなかった実情が、彼の日記からうかがえる。 彼の創作を評価する上で忘れてはならないことは、彼が19世紀インテリゲンツィアの精神的伝統につらなるものとしての、ロシア的な芸術文化を継承していたことである。キリスト教的であり、芸術家のメシア的な役割を常に意識するその芸術文化において、タルコフスキーの芸術家としての自負心は単なるエゴイズムや虚栄心とは異なる、特殊な意味を帯びていた。ソ連時代における当局との軋轢も、芸術の役割に対する宗教的と言ってよい信念が、無神論と唯物論に基盤をおくソ連の公式的イデオロギーと真っ向から対立したということが、多分に影響していた。 この他、1983年にモデスト・ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の舞台演出を手がけており、没後1990年のヴァレリー・ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による上演が映像で残されている。上演時間は約220分で、タルコフスキーが関わった作品では最も長い。
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"彼の創作を評価する上で忘れてはならないことは、彼が19世紀インテリゲンツィアの精神的伝統につらなるものとしての、ロシア的な芸術文化を継承していたことである。キリスト教的であり、芸術家のメシア的な役割を常に意識するその芸術文化において、タルコフスキーの芸術家としての自負心は単なるエゴイズムや虚栄心とは異なる、特殊な意味を帯びていた。ソ連時代における当局との軋轢も、芸術の役割に対する宗教的と言ってよい信念が、無神論と唯物論に基盤をおくソ連の公式的イデオロギーと真っ向から対立したということが、多分に影響していた。", "title": "作品の評価" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この他、1983年にモデスト・ムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』の舞台演出を手がけており、没後1990年のヴァレリー・ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による上演が映像で残されている。上演時間は約220分で、タルコフスキーが関わった作品では最も長い。", "title": "監督作品" } ]
アンドレイ・タルコフスキーは、ソ連の映画監督である。
<!--[[en:Image:Tarkovsky.jpg|thumb|230px|right|アンドレイ・タルコフスキー]]--> {{出典の明記|date=2015年6月11日 (木) 12:50 (UTC)}} {{ActorActress | 芸名 = {{lang|ru|Андрей Арсеньевич Тарковский}} | ふりがな = アンドレイ・タルコフスキー | 画像ファイル = Andreï Tarkovski.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = | 本名 = | 出生地 = {{SSR1923}}<br/>{{RUS1918}}、[[イヴァノヴォ州]][[ザブラジェ]] | 死没地 = {{FRA}}、[[パリ]] | 国籍 = {{SSR}} | 身長 = | 血液型 = | 生年 =1932 | 生月 =4 | 生日 =4 | 没年 =1986 | 没月 =12 | 没日 =29 | 職業 = | 活動期間 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = | 公式サイト = | 主な作品 = 『[[惑星ソラリス]]』(1972年)<br/>『[[鏡 (映画)|鏡]]』(1975年)<br/>『[[ストーカー (1979年の映画)|ストーカー]]』(1979年) | カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|審査員特別グランプリ]]'''<br />[[第25回カンヌ国際映画祭|1972年]]『[[惑星ソラリス]]』<br />[[第39回カンヌ国際映画祭|1986年]]『[[サクリファイス (1986年の映画)|サクリファイス]]』<br/>'''[[カンヌ国際映画祭 監督賞|監督創造大賞]]'''<br />[[第36回カンヌ国際映画祭|1983年]]『[[ノスタルジア (映画)|ノスタルジア]]』<br />'''[[カンヌ国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>[[第22回カンヌ国際映画祭|1969年]]『[[アンドレイ・ルブリョフ (映画)|アンドレイ・ルブリョフ]]』<br/>1972年『惑星ソラリス』<br/>1983年『ノスタルジア』<br/>1986年『サクリファイス』<br/>'''[[エキュメニカル審査員賞]]'''<br/>[[第33回カンヌ国際映画祭|1980年]]『[[ストーカー (1979年の映画)|ストーカー]]』<br/>1983年『ノスタルジア』<br/>1986年『サクリファイス』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />1962年『[[僕の村は戦場だった]]』 | 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 作品賞|外国語作品賞]]'''<br/>[[第41回英国アカデミー賞|1987年]]『サクリファイス』 | 備考 = }} '''アンドレイ・タルコフスキー'''({{lang-ru|Андре́й Арсе́ньевич Тарко́вский}}, アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキー, {{lang-en|Andrei Arsenyevich Tarkovsky}}, [[1932年]][[4月4日]] - [[1986年]][[12月29日]])は、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[映画監督]]。 == 人物 == 「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。[[表現の自由]]を求めてソ連から亡命し、故郷に還ることなく、[[パリ]]にて54歳で客死する。 == 生涯 == [[1932年]][[4月4日]]、ヴォルガ川流域の[[イワノヴォ]]地区、[[ユリエヴェツ]]の近郊[[ザブラジェ]]で生れる。父はウクライナの詩人として著名な[[アルセニー・タルコフスキー]]<ref>1907年~1989年、訳書に詩集「雪が降るまえに」(坂庭淳史訳、[[鳥影社]] 2007年)がある</ref>。タルコフスキーの幼少期に父は家を出て別の家庭を作ったために、主に母親に育てられる(この間の事情は、自伝的作品 『[[鏡 (映画)|鏡]]』(1975年) に描かれている)。この幼少時にタルコフスキーは、作曲家になる事を夢見ていたと言われる。 赤貧のうちに育ち、芸術学校でまず音楽の勉強をしたが家にピアノが無いので練習不足で断念。次に絵の勉強を始めるが結核で一年間療養生活を送る。東洋大学のアラビア語に入学するが一年半で中退。ちょうどアメリカ文化に影響を受けた「スチリャーガ」と呼ばれた若者が現れた時期であり、タルコフスキーはその流行の先端を行くジャズと女性が好きな不良少年となった。心配した母親がシベリア地質調査隊に入隊させ、1953年から1年間をシベリアのタイガの森で過ごす。 その後、映画大学への進学を決意。父親の尽力もあって[[1954年]]に全ソ国立映画大学に入学。落ちこぼれだったタルコフスキーが名門のこの学校へ入学できたのは奇跡だったと友人達は証言している。[[ミハイル・ロンム]]のもとで映画を学んで<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/アンドレイ%20タルコフスキー-1625687 |title = 20世紀西洋人名事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-06-24 }}</ref>頭角を現し、後にやはりソ連を代表する映画監督となる[[アンドレイ・コンチャロフスキー]]やその弟の[[ニキータ・ミハルコフ]]らと親交を結ぶ。アメリカかぶれは健在で3年生のときにヘミングウェイ原作の短編『殺人者』を製作。 タルコフスキーの世代は、スターリン体制が終わりを告げて西側の文化がソ連に急速に流れ込んできた[[雪解け]]期が青年期にぶつかっており、タルコフスキーもそうした文化に大きく感化されている。後に彼が書いた映画評論も、[[ジャン=リュック・ゴダール]]から[[ルイス・ブニュエル]]、[[黒澤明]]、[[ロベール・ブレッソン]]、[[アンディ・ウォホール]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]、[[オーソン・ウェルズ]]、[[ミケランジェロ・アントニオーニ]]、[[イングマール・ベルイマン]]など西側の映画への言及が多い。 卒業制作短編 の『[[ローラーとバイオリン]]』(監督)はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。1962年にウラジーミル・ボゴモーロフのベストセラー小説 『イワン』 を原作とした 『[[僕の村は戦場だった]]』に急遽代役起用され、長編映画監督としてデビューし、本作で1962年の[[ヴェネチア国際映画祭]]で金獅子賞を史上最年少(30歳)で受賞(この記録は現在でも破られていない)。企画段階では参加していなかった作品ではあるが、「水」や「夢」など、将来のタルコフスキー作品を彩るモチーフはこの時期から現れている。 将来を嘱望されたタルコフスキーは、1962年から63年末にかけてロシアの伝説的イコン画家の生涯を描いた歴史大作映画『[[アンドレイ・ルブリョフ (映画)|アンドレイ・ルブリョフ]]』の脚本を映画大学の後輩[[アンドレイ・コンチャロフスキー|コンチャロフスキー]]と共同執筆。大作ゆえの予算不足と検閲で苦しみながら1967年に完成するがソ連当局より「反愛国的」と指摘されて、国内では5年間上映されなかった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ映画祭で国際映画批評家賞受賞。ソ連では71年12月にモスクワで公開された後、地方都市でも公開されて全国で290万人を動員した<ref name="dowling">西周成著『タルコフスキーとその時代 秘められた人生の真実』、ISBN 978-4-434-15489-8、アルトアーツ/星雲社、2011年、83-85頁。</ref>。 タルコフスキーの映画監督としての力量自体は[[モスフィルム]]関係者の中でも認められており、1972年には莫大な費用を費やした『[[惑星ソラリス]]』([[スタニスワフ・レム]]原作)を製作。SF映画の概念を一変させたと評価された(ただし、原作者のレムには作品を批判された。詳細は[[惑星ソラリス]]を参照。)。カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。1975年に自伝的要素の強い 『[[鏡 (映画)|鏡]]』を完成、難解な映像が国内で厳しく批判される。1979年には[[ストルガツキー兄弟]]との共同脚本で 『[[ストーカー (1979年の映画)|ストーカー]]』 を撮影。検閲を巡ってタルコフスキーと当局の確執は深くなる一方だったが、独自の映像芸術は世界中の映画評論家やファンを魅了し、国際的名声と評価は高まり続けた。決して娯楽作品とは言い難い『[[鏡 (映画)|鏡]]』を輸出する際、ソ連映画の超大作『[[戦争と平和]]』(1965-1967)より金額は高く提示したのだが、それでも国際市場では買い手はついたという逸話が残っている。80年には『ストーカー』を含む全タルコフスキー作品でダヴィド・ドナテロ賞受賞。 [[ファイル:Andrei_tarkovsky_stamp_russia_2007.jpg|サムネイル|380x380ピクセル|<small>タルコフスキーの肖像写真を使ったロシアの切手 (2007年)</small>]] その後、あくまで芸術家の自律性と表現の自由を求めるタルコフスキーはソ連を出国、イタリアにおいて[[フェデリコ・フェリーニ]]の映画に脚本家として関わっていた[[トニーノ・グェッラ]]を起用して『[[ノスタルジア (映画)|ノスタルジア]]』を撮影。1983年完成。カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞受賞。 ロンドンでオペラの演出などをした後[[1984年]]、ソ連当局からの帰国要請を撥ね付け事実上の亡命を宣言。ただ、事前に相談を受けた[[アンドレイ・コンチャロフスキー|コンチャロフスキー]]が助言したように、この頃のソ連は各種の規制緩和が進んでおり([[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長の[[ペレストロイカ]]は1985年)、わざわざ亡命を宣言する必要は無かったと言われている。事実 [[アンドレイ・コンチャロフスキー|コンチャロフスキー]]、[[ニキータ・ミハルコフ]]兄弟は亡命もせずに西側で映画を撮っていたのである。ソ連当局の検閲に対するタルコフスキーの積年の嫌悪と恨みはかくも強烈だった。 その後、スウェーデンで主に[[イングマール・ベルイマン]]の映画に携わっていたスタッフのもとで、核戦争勃発を背景とした 『[[サクリファイス (1986年の映画)|サクリファイス]]』 を監督。1986年に完成。カンヌ国際映画祭審査員特別大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞、芸術特別貢献賞受賞。映画撮影時に、末期の肺癌が判明してそのまま病床の人となる。 他方、祖国では新たに[[ソビエト連邦共産党書記長|共産党書記長]]に就任した[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が公式にタルコフスキーの名誉回復を宣言し、帰国を認める声明を出すも[[1986年]][[12月29日]]、タルコフスキーはパリにて客死した。翌1987年1月5日、パリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院でタルコフスキーの葬儀が行われ、同じく反体制亡命音楽家で友人の[[ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ]]が追悼の[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[無伴奏チェロ組曲]]を捧げた。 == 作品の評価 == 主に「世界の救済」をテーマに、夢と空中浮遊、あるいは犬や水や馬や火などを象徴的に配して独自の映像美を追求した寡黙な作品群は、難解という評価もある一方で、全世界に熱狂的なファンを持つ。現在ではソ連/ロシアを代表する映画監督であり、その冗長とも退屈とも取られる時間感覚は「ロシア的」とも評されるが、かつての同僚[[アンドレイ・コンチャロフスキー|コンチャロフスキー]]は「彼はロシア文化より非常に西洋のカトリック文化の影響をうけている」という見方<ref>馬場朝子編『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』青土社、ISBN 4-7917-5559-6、pp.173-174</ref>をしている(ただし、コンチャロフスキー自身の作風がどちらかと言えばアメリカ映画的であり、実際に1970年代後半以降はアメリカで監督として活動もしていた)。1970年代から1980年代初頭にかけて「停滞の時代」のソ連では、宗教への回帰は「作家の映画」における一特徴をなしていた。タルコフスキーの場合には、まさにこの時期にドストエフスキーに関する映画の構想をきっかけとしてロシアの宗教思想への関心を深めつつ、19世紀ロシア・インテリゲンツィアの遺産を継承しようとしていた<ref name="dowling2">西周成『タルコフスキーとその時代 秘められた人生の真実』、アルトアーツ・星雲社、ISBN 978-4-434-15489-8、pp95-98,107-109.</ref>。 タルコフスキーを考える上で、更に見落としてはならないのがエリート芸術家という自負心である。だが、その「エリート主義」は、彼が生きた時代のソ連社会における[[映画産業]]の興隆や国家的威信の象徴としてのステータス、およびソ連の映画人達自身が形成した価値観と無関係ではない。長編デビュー作でヴェネチア映画祭の最高賞を獲得したタルコフスキーは、雪解け期のソ連の映画界のみならず芸術界全体で、実際に「エリート」として認められていたが、その後の彼の構想がソ連当局が求める公式的「社会主義リアリズム」とは相いれなかったため、絶えず当局との軋轢が起きた。タルコフスキーは国営映画会社モスフィルムの映画監督であり、創作家としては特権階級であったとはいえ、その地位は決して経済的に安定した生活を保証するものではなかった。後年には、家族を養うためにアルバイト的な脚本執筆の仕事をしたり、友人達から借金をせねばならなかった実情が、彼の日記からうかがえる。 彼の創作を評価する上で忘れてはならないことは、彼が19世紀インテリゲンツィアの精神的伝統につらなるものとしての、ロシア的な芸術文化を継承していたことである。キリスト教的であり、芸術家のメシア的な役割を常に意識するその芸術文化において、タルコフスキーの芸術家としての自負心は単なるエゴイズムや虚栄心とは異なる、特殊な意味を帯びていた。ソ連時代における当局との軋轢も、芸術の役割に対する宗教的と言ってよい信念が、無神論と唯物論に基盤をおくソ連の公式的イデオロギーと真っ向から対立したということが、多分に影響していた。  == エピソード == * 『アンドレイ・ルブリョフ』の撮影中には、どうしても必要だからと、怯えている他のスタッフを尻目に生きている牛に自ら火を放ち、『惑星ソラリス』の撮影中には、セットの一部から出火しスタジオを類焼する火災が起きたが、タルコフスキーは「芸術家は頭を下げないものだ」として関係者には決して謝罪しようとしなかったなどのエピソードも残っている。 * ソ連を出国した後も、『ノスタルジア』の撮影中には最上級ホテルのスイートルームと最上級の食事を要求し、その上で西側のプロデューサーの支払いが悪いという愚痴を日記の中に延々と書き連ねているし、「芸術が大事なんですか?お金が大事なんですか?」とプロデューサーに詰め寄ることもあったという。 * カンヌへの『ノスタルジア』の出品に際しては大賞受賞との交換条件での出品を強く運営サイドに要請。同時期に『ラルジャン』の出品で同様の要求をしていた、[[ロベール・ブレッソン]]との板挟みになった運営サイドは、『ノスタルジア』には特設賞の創造大賞を贈ることで決着を付けた。日本で翻訳されている『タルコフスキー日記』には、先にブレッソンが大賞受賞を条件にカンヌに出品したため、タルコフスキーは条件を同じにするため運営サイドに同様の要求をしたという記述もある。また、ソ連映画の大作『戦争と平和』の監督[[セルゲイ・ボンダルチュク]]が、タルコフスキーの受賞に強く反対していたとも言われる。 == 日本との関わり == {{出典の明記| date = 2022年4月| section = 1}} * 若い頃から[[俳句]]や[[日本映画]]に深い関心を抱き、特に[[黒澤明]]と[[溝口健二]]に傾倒していた。黒澤が『[[デルス・ウザーラ (1975年の映画)|デルス・ウザーラ]]』の撮影でソ連に来た際、タルコフスキーは敬意をもって歓待し、その後長く親交を結んだ。新しい映画を作る前には、必ず『[[七人の侍]]』と『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』を観る事にしていた、という言葉も残している。 * 『[[惑星ソラリス]]』制作の際には、未来都市の場面を大阪万博会場で撮影することを計画するが、当局からの許可が中々下りず、来日した際には既に万博は閉会していた。跡地を訪ねたもののイメージ通りの撮影はできず、仕方なしに東京の[[首都高速道路]]の光景を撮影して使用した。黒澤によれば、あの首都高の光景は、タルコフスキーが宿泊していたホテルから当時の黒澤の事務所までの道筋そのままだったという。黒澤も、当時の日本で「難解」という世評が支配的だったタルコフスキーを擁護して「タルコフスキーは難解ではない。彼の感性が鋭すぎるだけだ」などと書いて、タルコフスキー映画を国内に広めるのに手を貸している。 * 『[[惑星ソラリス]]』では広島の[[原爆]]についての会話が交わされるほか、『[[サクリファイス (1986年の映画)|サクリファイス]]』では、主人公の父親が自分の前世を日本人と信じており、[[核戦争|戦争]]が起きた日に日本の木を植える描写がある。 * 日本側では、作曲家の[[武満徹]](1930年-1996年)がタルコフスキーの作品に傾倒していた事は有名。タルコフスキーの死を悼んで、弦楽合奏曲『ノスタルジア--アンドレイ・タルコフスキーの追憶に』を作曲し、タルコフスキーに捧げている。 == 監督作品 == [[File:Kinema-Junpo-1963-August-late-2.jpg|thumb|250px|『[[僕の村は戦場だった]]』(1962年)]] * 『[[ローラーとバイオリン]]』 ''Katok i skripka'' ([[1960年]]) * 『[[僕の村は戦場だった]]』 ''{{Lang|rus|Иваново детство}}'' ([[1962年]])  * 『[[アンドレイの受難]]』 …… 「アンドレイ・ルブリョフ」の第一編集版。当局により残酷なシーン等の削除が要求されてタルコフスキー自身が再編集した最終版が、「アンドレイ・ルブリョフ」である。 * 『[[アンドレイ・ルブリョフ (映画)|アンドレイ・ルブリョフ]]』 ''{{Lang|rus|Андрей Рублёв}}'' ([[1967年]]) * 『[[惑星ソラリス]]』 ''{{Lang|rus|Солярис}}'' ([[1972年]])  * 『[[鏡 (映画)|鏡]]』 ''{{Lang|rus|Зеркало}}'' ([[1975年]]) * 『[[ストーカー (1979年の映画)|ストーカー]]』 ''{{Lang|rus|Сталкер}}'' ([[1979年]]) * 『[[Tempo di viaggio ]]』 ([[1983年]]) - ドキュメンタリー作品。トニーノ・グエッラと共同脚本・共同監督。 * 『[[ノスタルジア (映画)|ノスタルジア]]』 ''Nostalghia'' ([[1983年]])  * 『[[サクリファイス (1986年の映画)|サクリファイス]]』 ''Offret'' ([[1986年]])  この他、1983年に[[モデスト・ムソルグスキー]]の歌劇『[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]』の舞台演出を手がけており、没後1990年の[[ヴァレリー・ゲルギエフ]]指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による上演が映像で残されている。上演時間は約220分で、タルコフスキーが関わった作品では最も長い。 == 関連文献 == ;タルコフスキーの著作 * アンドレイ・タルコフスキー(鴻英良訳)『映像のポエジア : 刻印された時間』 (キネマ旬報社, 1988)ISBN 4-87376-030-5 **新版『映像のポエジア』([[ちくま学芸文庫]], 2022) * アンドレイ・タルコフスキー(鴻英良・佐々洋子訳)『タルコフスキー日記 : 殉教録』(キネマ旬報社、1991) * アンドレイ・タルコフスキー(武村知子訳)『タルコフスキー日記 : 殉教録 2』(キネマ旬報社 1993)ISBN 4-87376-049-6 * アンドレイ・タルコフスキー(鴻英良訳)『サクリファイス』(河出書房新社 1987)ISBN 4-309-20093-1 * アンドレイ・タルコフスキイ(扇千恵訳)『タルコフスキイの映画術』(水声社 2008) ;研究文献 * Bird, Robert. ''Andrei Tarkovsky: Elements of Cinema.'' London: Reaktion, 2008. * Chion, Michel. ''Andreï Tarkovski.'' Paris: Cahiers du cinéma, 2007. * Green, Peter. ''Andrei Tarkovsky: The Winding Quest.'' London: Macmillan, 1993. **ピーター・グリーン『アンドレイ・タルコフスキー: 映像の探究』(永田靖訳、国文社 1994) * Le Fanu, Mark. ''The Cinema of Andrei Tarkovsky.'' London: British Film Institute, 1987. * Skakov, Nariman. ''The Cinema of Tarkovsky: Labyrinths of Space and Time.'' London: I. B. Tauris, 2012. * Turovskaya, Maya. ''Tarkovsky: Cinema as Poetry.'' tr. by Natasha Ward. ed. by Ian Christie. London and Boston: Faber and Faber, 1989. * ミシェル・エスティーヴ編、『タルコフスキー』(鈴村靖爾訳、国文社 1991) * アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編『タルコフスキーの世界』 (キネマ旬報社 1995) * 『タルコフスキー、好きツ!』(ダゲレオ出版 1987) * 落合東朗『タルコフスキーとルブリョフ』 (論創社 1994) * 馬場朝子編『タルコフスキー: 若き日、亡命、そして死』 (青土社 1997)ISBN 4-7917-5559-6 * 馬場広信『タルコフスキー映画――永遠への郷愁』(2002・みすず書房) * 西周成『タルコフスキーとその時代――秘められた人生の真実』(2011・アルトアーツ)ISBN 978-4-434-15489-8 * 亀井克朗『〈死〉への/からの転回としての映画 : アンドレイ・タルコフスキーの後期作品を中心に』(致良出版社 2011) * 忍澤勉『終わりなきタルコフスキー』 (寿郎社 2022) == 出典 == {{Reflist}} == 関連文献 == * [http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/index.html アンドレイ・タルコフスキー映画祭] - 2003年の生誕70周年記念上映の公式サイト == 外部リンク == {{Commonscat|Andrej Tarkovskij|Andrej Tarkovskij}} * {{allcinema name|4514|アンドレイ・タルコフスキー}} * {{Kinejun name|52688|アンドレイ・タルコフスキー}} * {{IMDb name|0001789|Andrei Tarkovsky}} * {{Find A Grave|1584|Andrei Tarkovsky}} * {{worldcat id|lccn-n78-10232}} *[http://www.pan-dora.co.jp/?cat=114 特集上映<ソビエト時代のタルコフスキー>] {{アンドレイ・タルコフスキー監督作品}} {{カンヌ国際映画祭監督賞 1980-1999}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:たるこふすきい あんとれい}} [[Category:ソビエト連邦の映画監督]] [[Category:SF映画監督]] [[Category:ソビエト連邦の亡命者]] [[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民芸術家]] [[Category:レーニン賞受賞者]] [[Category:ウクライナ系ロシア人]] [[Category:イヴァノヴォ州出身の人物]] [[Category:結核に罹患した人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:1986年没]]
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大塚英志
大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日 - )は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。 2012年から国際日本文化研究センター研究部教授であり、2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。妻は漫画家、小説家の白倉由美。2015年より研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版)を私費で刊行している。 1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。1981年3月筑波大学第一学群人文学類卒業。 大塚は、高校生の時に漫画家をしており、大学卒業後は編集者となり、その後、漫画原作者、評論家、小説家、大学教授になった。 大塚は、徳間書店でアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、1981年から1988年まで働いていた。また、フリーの編集者として、白夜書房では1983年から1985年まで、角川メディアオフィスでは1986年から1992年まで働いていた。 大塚の著書の『「おたく」の精神史――1980年代論』『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』は大塚の編集者時代を回想した三部作である。『「おたく」の精神史』では白夜書房時代、『二階の住人とその時代』では徳間書店時代、『日本がバカだから戦争に負けた』では角川メディアオフィス時代をそれぞれ回想している。 1987年に大塚は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にて漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。漫画原作者としての仕事も多く、代表作としては『多重人格探偵サイコ』『黒鷺死体宅配便』『リヴァイアサン』『木島日記』『アンラッキーヤングメン』など。自作のノベライズや、映像化や舞台化の脚本も行っている。 また、1987年に漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家デビューした。大学でのキャリアを断念した民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。サブカルチャーに詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。大塚は1988年に評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。 『物語消費論』では、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。物語消費の概念は、東浩紀の著書『動物化するポストモダン』で参照され、同書で展開した概念である「データベース消費」に多大な影響を与えた。 評論対象は多岐にわたり、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年2月)、『更新期の文学』(2005年12月)、『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書、2007年2月)のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のようなフェミニズム論、『戦後民主主義のリハビリテーション』のような戦後民主主義論、『少女たちの「かわいい」天皇』『「おたく」の精神史』などの戦後日本論、『戦後まんがの表現空間』『アトムの命題』などの漫画論、『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』(角川選書、2006年12月)、『公民の民俗学』(作品社、2007年2月)、『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店、2007年5月)などの民俗学論、『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(2000年11月)『ストーリーメーカー』などの創作論、など多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている 1980年代末より学習院女子大学、和光大学等の私大の非常勤講師を歴任。2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。 2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」。 半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』で大塚は、漫画家のみなもと太郎、民俗学者の千葉徳爾と宮田登の3人を「師匠」と呼んでいる。また、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』では影響を受けた思想家・批評家として江藤淳、柳田國男、三島由紀夫、吉本隆明などを挙げている。また、『戦後民主主義のリハビリテーション』にて、批評の対象ではなく読書の趣味の対象として愛読している小説家として、田山花袋、川崎長太郎、嘉村磯多の3人の私小説家を挙げている。 東京都田無市(現・西東京市)生まれ。父が満州からの引揚者だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた。父は元日本共産党員だったが、60年安保が終了した頃に離党した。 父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたが、すぐに失敗した為、大塚一家は困窮した。その後、大塚の父は会社を転々としながら、経理の仕事で家族を養っていた。 中学生の時に漫画同人集団「作画グループ」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家のみなもと太郎のアシスタントを始める。 その後、高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の代理原稿に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする。大塚が描いたギャグ漫画は学研の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』(海潮社)に掲載されていた。また、『漫画ギャンブル王国』は成人雑誌だったが大塚が描いていたのはポルノではなくノーマルなギャグ漫画だった。 当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して働きながら漫画家を続ける予定だった。しかし、両親が働きながら大塚の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため、大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠のみなもと太郎から『平凡パンチ』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業頃まで、不定期のアルバイトで手伝っていた。 高校の現代国語の授業で柳田國男の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで民俗学を勉強したくて筑波大学第一学群人文学類に進学した。大学では民俗学者の千葉徳爾と宮田登の指導の下で、日本民俗学を勉強した(千葉は柳田國男の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる)。千葉徳爾は、大塚の在学中に定年退官した為、大学生時代の4年間の内、最初の3年間が千葉徳爾、最後の1年間だけ宮田登の指導を受けた。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「作画グループ」の先輩の沢田ユキオの紹介で、徳間書店の雑誌『テレビランド』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた。 1981年3月筑波大学を卒業。当初は研究者を目指したが、『キネマ旬報』の映画投稿欄に映画評を投稿していたのを、指導教官の宮田登に読まれていたのがきっかけで、口頭試問で宮田登に「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」と引導を渡されて大学院への進学を断念した。大塚は教師も志望していたが、同時期の教員採用試験に落ちてしまった為、翌年の採用試験を受けるまでの生活費を稼ぐために、大学在学中に漫画家のアシスタントのアルバイトをしていたツテで、徳間書店の雑誌『リュウ』で編集者のアルバイトを始める。当初の予定では来年の採用試験までのツナギで、1年間だけ編集者をやる筈だったが、結局教師にはならずに編集者としての人生を歩むことになっていった。大塚はアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、徳間書店では1981年から1988年まで働いていた。 大塚は最初の半年は、『リュウ』の編集長格の校条満に編集者の仕事を教えてもらった。その次に、校条満が担当していた漫画家の石ノ森章太郎と、モンキーパンチと、安彦良和の原稿の受け取りの仕事を担当した。この時に石ノ森章太郎から漫画のネームの見方について徹底的に指導された。後に石ノ森章太郎が『リュウ』に連載していた漫画『幻魔大戦』の打ち切りが決定したときは校条満の指示で大塚が石ノ森に打ち切りを宣告しに行った。その後、校条満から徳間書店に漫画の持ち込みに来た新人の対応を任せられるようになり、その一人だったかがみあきらと友人になった。 『リュウ』の編集部は、アニメ雑誌『アニメージュ』と同じ徳間書店第二編集局にあった。大塚は『アニメージュ』の創刊者であり、初代編集長の尾形英夫にフックアップされ『アニメージュ』編集部で働くことになる。この時期の『アニメージュ』副編集長は後にスタジオジブリのプロデューサーとして有名になる鈴木敏夫だった。大塚は『アニメージュ』1982年2月号より連載が開始された宮崎駿の漫画作品『風の谷のナウシカ』に、鈴木敏夫『アニメージュ』副編集長の指示で、連載第1回のみアシスタント業務に参加しており、原稿のスクリーントーン貼りを行った。また他誌に『リュウ』の交換広告を届ける過程で『ふゅーじょんぷろだくと』編集者の小形克宏と知己を得る。 1982年、大塚は徳間書店の美少女漫画雑誌『プチアップルパイ』の創刊編集長になる。この雑誌は大塚が徳間書店で最初に企画した雑誌だった。並行して大塚と小形は「ぼくらのまんが誌」を実現するため『漫画ブリッコ』の原型となるプロジェクトをスタートさせる(企画営業は小形がそれまでの活動で培った人脈をフィールドとして始められ、大塚が企画を主導する形となった)。1983年1月、大塚と小形の初コンビ仕事として『COMICキュロットDX』がセルフ出版から刊行。これが『漫画ブリッコ』のパイロット版となった。ほどなく大塚は憧れの編集者だった末井昭の下で働こうと思い、徳間書店との兼業で白夜書房(大塚が勤務した当時の社名は「セルフ出版」)のフリー編集者として働き始める。なお、大塚は白夜書房では1983年から1985年まで働いた。 1983年春、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(83年5月号~85年9月号、セルフ出版→白夜書房)の編集人となる。この時期の大塚は平日の日中は徳間書店、平日の夜間及び週末は白夜書房で編集者として兼業で働いていた。『漫画ブリッコ』の編集人となる条件は、『漫画ブリッコ』が万が一、警察から警告もしくは摘発された時に、一人で責任を被って逮捕される事だった。元々、この雑誌は経営不振から半年後に廃刊が決定しており、大塚と小形はあくまでも残務処理担当として編集者を任されていた。 ここで大塚は、どうせ廃刊だから商売度外視で好きなことをやってみようと思い、徳間書店に持ち込みに来ていたオタク系の新人漫画家を大量に動員して、『漫画ブリッコ』83年11月号より表紙を少女漫画寄りのイラストに差し替えて、美少女コミック誌としてリニューアルした。その結果、『漫画ブリッコ』リニューアル号は完売した為、廃刊は撤回され、会社から引き続き美少女コミック路線で続行する事を命じられた。特に、大塚英志は『漫画ブリッコ』にて友人でもある漫画家のかがみあきらの『ワインカラー物語』(「あぽ」名義、83年10月号~84年4月号連載)の連載を担当していた。『ワインカラー物語』は本筋のラブコメとは別に、かがみあきら本人と大塚英志がモデルの編集者キャラ「オーツカ某」の2人が毎回登場して、楽屋落ちのネタをやるのが定番のギャグだった。「オーツカ某」というネーミングを考えたのはかがみあきらであり、「オーツカ某」は大塚英志が『漫画ブリッコ』に記事を書く時のペンネームとしても使われた。その他に、編集者としては、桜沢エリカ、岡崎京子、白倉由美、藤原カムイ、などの漫画家、映画イラストライターの三留まゆみ(早坂みけ)等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。後に大塚英志の妻となる白倉由美はこの頃の担当漫画家だった。 1984年、大塚英志は白夜書房が経営する漫画専門書店『まんがの森』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加した。大塚は『リュウ』(徳間書店)のコラムで、編集していたミニコミ誌を特集した事があったおしぐちたかしを『まんがの森』の初代店長にフックアップした。大塚は同人誌系の人脈をおしぐちたかしに紹介し、『まんがの森』で岡崎京子、桜沢エリカのサイン会を実施した。また、おしぐちたかしは2018年のインタビューで『まんがの森』立ち上げについて、「あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚(英志)さんのアイデアが組み込まれている。」と発言している。この頃、白夜書房のミニコミ誌『白夜通信』で書いた文章を評価した『漫画ブリッコ』担当営業の藤脇邦夫に業界誌『新文化』を紹介され、コラムを書き始める。 同年より、大塚英志は徳間書店にて校条満と共に、少年向けマンガ雑誌『少年キャプテン』立ち上げに参加する。同紙の企画書は大塚英志が描いたとの事である。大塚の企画案では雑誌タイトルは『ZERO』であった。大塚は看板作家にかがみあきらを置く予定であり、かがみの才能があれば雑誌を成功させられると確信していた。また、同紙で大塚はかがみの他に、高屋良樹の『強殖装甲ガイバー』とあさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』の担当編集者だった。『強殖装甲ガイバー』は高屋に「仮面ライダーみたいなまんが描いて」と依頼した。 しかし、1984年8月9日にかがみあきらは自宅で急死してしまう。かがみあきらが亡くなったのは、白夜書房よりかがみの単行本『ワインカラー物語』が刊行されたのとほぼ同時期だった。大塚が白夜書房にかがみあきらの急死を連絡すると、直ちに『ワインカラー物語』の単行本を重版しようと提案されたことで、担当営業の藤脇邦夫と口論になり、大塚は白夜書房に対する忠誠心を失った。かがみあきらが亡くなった半年後、大塚は『漫画ブリッコ』紙上で会社に無許可で同紙の休刊を予告したため、社内で問題になり、『漫画ブリッコ』85年9月号にて編集人を降板した。この休刊の背景には、前述の藤脇との対立に加え、大塚が企画や原案に関与し、白夜書房から発売された18禁アニメビデオ作品『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』の売れ行き不振があった。 一方、徳間書店の『少年キャプテン』はかがみあきら不在の状態で、1985年1月22日創刊した。創刊編集長は校条満だった。創刊号は実売発行部数12万部で完売した。また、同紙連載漫画の単行本も順調に売れていた。しかし、看板作家のかがみあきらの不在や、自社で新人漫画家を育てようとしていた編集部と、大手出版社からベテラン漫画家を引き抜こうとしていた徳間書店上層部との方針の食い違い等が重なり、『少年キャプテン』は徐々に迷走していった。『少年キャプテン』は実売発行部数が20万部で頭打ちになった時点で、校条満が責任を問われて編集長を解任され、これにより大塚も失脚・干されることになった。1988年に徳間書店を正式に退職するまでの最後の2年間は、月に一回程、担当の漫画家の原稿の入稿で会社に顔を出し、ササキバラ・ゴウなどの若手社員と話すだけだった。 親友だったかがみあきらが亡くなったのと、編集者人生を賭けたマンガ雑誌『少年キャプテン』が失敗したことで、ヤケクソになった大塚英志は、86年頃から他社の中堅クラスの版元の漫画雑誌創刊に参加してはすぐに廃刊になるのを繰り返していた。この頃に大塚が創刊に参加した雑誌には『週刊少年宝島』(宝島社)や『月刊コミックNORA』(学研)等がある。しかし、同時期に漫画業界への不平不満をぶつけて書いていた、業界誌『新文化』のコラムが好評となり徐々に評論家として認められていくことになった。大塚は翌1987年に、上記の『新文化』のコラムや、80年代前半の『白夜通信』に書いていたコラムをまとめた漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家としてデビューした。大塚は同時代のニューアカブームの影響を受け、大学時代に勉強していた日本民俗学と、フランス現代思想のポスト構造主義をミックスした評論を書いていた。大塚は特に、フランスの現代思想家のジャン・ボードリヤールの、「ポストモダン社会において、商品の価値は使用価値ではなく、記号的な広告価値で決定される」という思想に影響を受けた。大塚は後年、ボードリヤールを「80年代に、自分が最も心酔していた思想家」と回想している。 1986年、大塚英志が業界誌『新文化』に書いた当時の角川書店の企画や流通の問題点を批判したコラムを読んで激怒した、角川書店幹部(専務取締役)の角川歴彦に呼び出しを受けるというトラブルが発生する。 大塚は、角川歴彦の側近の千葉孝を通してホテルのバーに呼び出され、大塚と角川と千葉の3人で話し合いになった。最初は冷静な話し合いだったが、次第に売り言葉に買い言葉で本気の口論となっていった。大塚は角川歴彦から「お前は理屈ばかりだ、悔しかったらヒット作を作ってみろ」と一喝されたのを受けて、「作ってやる」と啖呵を切って席を立った為、大塚と角川の話し合いは20分程で終了した。しかしその数日後、今度は角川歴彦の別の側近の佐藤辰男を通して、角川書店の雑誌で「ゲームをベースにしたまんが」を作らないかとヘッドハンティングの連絡がきた。この時期の徳間書店での大塚は、大塚が育てた新人漫画家全員を、徳間書店の正社員の編集者に引き渡すように編集部から圧力をかけられているありさまだったので、この角川歴彦のヘッドハンティングに乗ることにした。こうして大塚は、角川書店の子会社で、角川発行の雑誌の編集及びキャラクター商品の開発などを担当する会社であり、角川歴彦がオーナーをしていた出版社角川メディアオフィスにてフリーの編集者として働くことになった。その際、徳間書店から「徳間ではいらない」と言われていた新人漫画家の、田島昭宇、円英智、羽衣翔の3人を徳間書店から許可をもらった上で角川書店に引き抜いていった。しかし、大塚が徳間書店を正式に退職するのは1988年なので、最初の数年間は角川メディアオフィスと徳間書店でフリーの編集者として兼業で働いていた。 1987年、大塚英志は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にてファンタジー漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。この時大塚は、大学時代に勉強していた「物語論」を参考にして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。大塚は、映画監督のジョージ・ルーカスが映画『スター・ウォーズ』のシナリオ制作時にアメリカの神話学者のジョーゼフ・キャンベルの物語論『千の顔をもつ英雄』を下敷きにした逸話を参考にして、『魍魎戦記MADARA』ではロシア民俗学者のウラジーミル・プロップの物語論『昔話の形態学』と、フロイト派精神分析学者のオットー・ランクの物語論『英雄誕生の神話』と、日本民俗学者の折口信夫の物語論『貴種流離譚』を下敷きにして、さらに手塚治虫の漫画『どろろ』と三島由紀夫の小説『豊饒の海』のキャラクター設定をミックスして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。『魍魎戦記MADARA』はヒット作となり、コミックの売上が10万部に達した時点でゲーム化が決定した。同作はその後大塚英志 によって「MADARA PROJECT」という名称のメディアミックス戦略が展開され、ゲーム化以外にも、小説・OVA・ラジオドラマ等へ幅広く展開したメディアミックスの先駆け的作品となった。大塚の回想によると、『魍魎戦記MADARA』のコミックスの売上は最終的に、コミックス各巻の売上がそれぞれ40万部に達した。 1988年、大塚英志は崩御する直前だった病床の昭和天皇を題材にした評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。同評論は天皇制を擁護したともとれる内容だったため、大塚の回想によると右翼方面から歓迎されたとの事である。 以降の大塚英志は、80年代末から、90年代全般、2000年代前半にかけて『中央公論』『諸君!』『Voice』『論座』『正論』といった保守論壇系のメディアで評論家活動をしていた。 大塚は、思想的には比較的「左」の自分が保守論壇にいた理由について、当時の保守論壇は自分たちと立場・思想が異なる人間が評論を発表することに寛容であり、いい意味でゆるかったからと回想で述べている。 1989年、大塚英志は同年5月に刊行した評論『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年5月刊行)が広告業界からマーケティング理論として高く評価されたのがきっかけで、大塚は1989年から1993年頃まで広告業界のシンクタンクにてマーケティング担当の評論家として雇われていた。この時に大塚が働いていたシンクタンクの一つがぴあ総研である。 1989年7月23日に犯人が逮捕された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件には衝撃を受け、即時に『漫画ブリッコ』での連載コラムで「おたく」という言葉を発明した中森明夫との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。犯人が「おたく」だったのを事件の原因であるかのように決めつける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていた6000本のビデオテープの中で、実際には100本ほど(約1%)しかなかったホラー作品や性的ビデオに事件の原因を求めるには無理がある」と発言。実際に1990年から1997年に行われた一審では犯人の特別弁護人を務めた(二審以降は弁護団からは距離を取りつつも、一般傍聴人として裁判所に通い続け、2006年1月17日の最高裁での死刑判決時も、傍聴席で判決を直接聞いている)。 1990年、大塚英志は自分の事務所の名称を、「物語環境開発」とした。「物語環境開発」というネーミングの内、「環境開発」とはバブル時代によくあった地上げ屋の会社名であり、自分は「仮想現実の地上げ屋」であるという皮肉が込められている。一方、「物語開発」とは、ハリウッド映画にて脚本作成の前段階でのストーリーの企画開発を意味する映画用語の「Development Stage」を日本語に意訳したものであり、自分はストーリー開発の専門家であるという自負が込められている。 1992年、大塚英志は太田出版より「太田COMICS芸術漫画叢書」というレーベルを立ち上げ、吾妻ひでおの漫画『夜の魚』、『定本 不条理日記』の二冊を刊行した。これは太田出版の名義を借りただけで、大塚の自費出版だった。特に『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』は、後の吾妻ひでおの代表作『失踪日記』第一話になり、吾妻ひでおは大塚英志にこの原稿を宅配便で送ったその足で『失踪日記』で描かれた2度目の失踪に入った。 1992年9月14日、角川書店社長角川春樹が、角川書店副社長であり大塚英志の上司でもある角川歴彦を、角川書店副社長職及び角川メディアオフィス社長職から解任して、角川書店から追放した。角川歴彦は直ちに角川書店の子会社の角川メディアオフィス全社員71人の内、70人の社員を引き抜いて出版社メディアワークスを立ち上げため、角川書店の社長と副社長の対立は、後世に「角川騒動」と称される同社の分裂騒動に発展した。大塚英志はこの時点でも角川メディアオフィスの正社員ではなく、フリーの編集者の立場だったが、分裂騒動に首謀者の一人として参加しており、2017年の著作『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)にて、その内幕を詳細に語っている。 角川歴彦が解任されたその直後から、大塚英志を含む歴彦派の人間は、角川書店で仕事をしている作家やライターと、独立構想と独立後の版権移動について交渉を開始していた。大塚の回想によると、角川メディアオフィスの編集部の人間が私立探偵に尾行調査された疑いがあったため、角川メディアオフィスの秘密会議では外部に情報が漏れないように合言葉を使って、角川書店を分裂させるための謀議を行っていた。 当初は歴彦派がメディアワークスを立ち上げるのに必要な取次口座の当てがなかったため、大塚英志は評論を何冊か出版した付き合いがあり、当時経営不振に落ち込んでいた出版社弓立社の取次口座を、『魍魎戦記MADARAシリーズ』の印税をつぎ込んで購入しようとしたが、結局主婦の友社の口座が使える事になったのでこの計画は実行されなかった。 大塚英志はメディアワークスの資本金の一部の資金調達も行っており、ゲームセンター経営の企業のオーナーの「三浦さん」という人物から、数千万円単位の出資を取り付けていた。この時に大塚は「三浦さん」にメディアワークスに出資して貰うための保証として、その出資額の1割に相当する金額のメディアワークスの株を自費で購入した。そのために、この時期のメディアワークスの雑誌の一部では、大塚の原作漫画が掲載される時に大塚の肩書が「株主原作者」とクレジットされていた。また、この時に大塚が購入したメディアワークス株は2017年の時点で全部そのまま保有しているとの事である。 1992年10月に、角川メディアオフィスの全社員71人の内の70人が角川書店に事前予告なしで突然一斉に退職した。事態に気づいてパニックになった角川書店側の人間が、漫画家や小説家やライターにお詫びとご説明の電話をするが、大塚英志を含む歴彦派の人間があらかじめ根回しをしていて、「お前の会社はどうなっているんだ!そんな雑誌には、もう書けない」とわざと激怒して、強引にメディアワークスに掲載紙を移籍させた。特に角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』では、ある日突然、編集部の編集者全員と、連載していた漫画家のほとんどが、メディアワークスの新雑誌『月刊電撃コミックガオ!』に移籍したため、角川書店側に攻撃的な打撃を与えることになった。この時大塚英志は、分裂騒動の事情も知らずに突然抜擢され、編集部がほとんど誰もいなくなった状態で『月刊コミックコンプ』を立て直さなくてはいけなくなった同紙の新編集長に同情して、『月刊コミックコンプ』にて新連載漫画の原作を「雑誌のページが埋まれば内容は何でもいい」という条件で引き受けた。こうして大塚英志は、日本の天皇制を題材にしたSF漫画『JAPAN』(作画:伊藤真美)や、柳田民俗学を題材にした伝奇漫画『北神伝綺』(作画:森美夏)、巨大な壁で封鎖された都市で17歳の少年少女達が大人たちと戦争させられる『東京ミカエル』(作画:堤芳貞)といった自分が本当にやりたかった漫画を角川書店分裂の混乱のどさくさで角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』に連載させる事で、ゲームやアニメのメディアミックス狙いの漫画原作者で終わりたくないという個人的な野心を実現させた。 1993年8月29日、角川書店社長角川春樹が、コカイン密輸事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部(千葉南警察署)により逮捕されるというアクシデントが発生する。これにより角川歴彦の角川書店への復帰が決定し、同年10月角川歴彦は角川書店代表取締役社長に就任した。こうして1年に渡って続いた角川書店の分裂騒動は大塚英志の所属する歴彦派の逆転勝利で唐突に終了した。92年に角川歴彦が角川書店から追放された時、新会社の取次口座も資本金もなく、新しい編集部の受け入れ先のビルも決まっていない状態で、角川歴彦は完全に失脚する寸前まで追い込まれていた。大塚英志はこのような危機的状況で逃げずに角川歴彦を支えた部下の一人だった為、93年以降の角川歴彦支配体制下の角川書店において、評論家・漫画原作者・小説家として厚遇された。また、その後の角川書店は、大塚に評論家としては書きたいことを好きなように書かしてくれたが、これは大塚の発言によると、漫画原作者・小説家として一定以上の商業的な黒字が出せていることが絶対条件だったとの事である。 1994年、大塚は評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』(法藏館:1994年) でサントリー学芸賞を受賞した。この事について、大塚英志は半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』にて「あれは選考委員の一人が、青木雄二の「ナニワ金融道」に賞を与えようと言い出して、しかしさすがにまんがを受賞対象にはできない、ああそういえば大塚のまんが評論があった、という冗談みたいな経緯で選ばれてしまったにすぎない。実話である。」と述べている。 1995年、大塚は原作漫画『聖痕のジョカ』(作画:相川有。1993年 - 1995年連載)の読者コーナーの常連投稿者だったひらりんを大塚の事務所である「物語環境開発」にキャラクターデザイナーとしてスカウトした。ひらりんは『新・聖痕のジョカ』(1995年 - 1997年連載)以降の大塚作品のキャラクターの設定デザインを担当している。また、大塚の著書『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』にはひらりんの描いた、キャラクターの設定資料の一部が収録されている。 1997年、大塚英志は角川書店の雑誌『月刊少年エース』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画『多重人格探偵サイコ』(作画:田島昭宇、 1997年 ~2016年連載)を開始した。同作は『月刊少年エース』1997年1月号より連載スタートの予定だったが、第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写があり、これを見て本気で激怒した角川書店の役員が輪転機を止めた為、当初1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで連載をスタートした。同作は連載が10年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作は大塚英志のプロデュースで、小説・テレビドラマ・ドラマCD・新劇等へ幅広くメディアミックス展開された。 1998年4月より、大塚英志は文芸誌『文學界』(文藝春秋)にて、批評家の江藤淳の推薦で文芸評論『サブカルチャー文学論』の連載をスタートした。同連載は『文學界』2000年8月号まで連載されたが、小説家の石原慎太郎の文学作品を論じた回が編集部から掲載拒否されたのがきっかけで、連載打ち切りになった。その石原論は2002年の第1回文学フリマにて手書き原稿で発表された。また、『サブカルチャー文学論』は2004年に版元を朝日新聞社に変更して、最終回を書き下ろしで追加して単行本化された。 2000年代以降は、東浩紀と批評誌『新現実』を創刊したり、市川真人と文学作品展示即売会『文学フリマ』を主催したり、柳田民俗学と自然主義文学、社会進化論、ナチズム、オカルティズムとの関係や小泉八雲の民俗学者としての側面を論じた評論や、小説や漫画の入門書を続けて刊行している。 2000年、大塚英志は角川書店の雑誌にて、「死体が動いたらただそれだけで本当は怖い、というホラーの原点に戻ったまんが」というコンセプトのホラー漫画『黒鷺死体宅配便』(作画:山崎峰水)を開始した。同作は連載が20年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作はその後、『松岡國男妖怪退治』『アライアズキ、今宵も小豆を洗う。』のスピンオフ作品が2作制作された。 2000年、大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』(キー局:WOWOW、放送期間:2000年5月2日 ~5月7日、全六話、監督:三池崇史)を原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングした。ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は、漫画版とはキャラクターの名称や設定をある程度共有しているが、ストーリーは全く異なっている。当初はWOWOW側が用意した脚本家がいたが、原作者は脚本に口出ししない事を要求してきたので、すぐにクビにして大塚英志が自分で脚本を執筆した(脚本の一部は白倉由美、大塚ギチとの共同執筆)。出演者の内、保坂尚輝、大杉漣、中嶋朋子、裕木奈江、三浦理恵子は、大塚英志が個人的にファンだった。 大塚英志は、妻の白倉由美と共にオーディションに参加しており、登場人物の一人のロリータ°C役には当時無名の新人子役だった平野綾を抜擢した。 ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は平野綾の女優デビュー作である。平野綾の才能に惚れ込んだ大塚は、平野綾がドラマ版『多重人格探偵サイコ』で演じた役のロリータ°C名義で歌ったサウンドトラックアルバム『ロリータの温度』(作詞:白倉由美、作曲:後藤次利、レーベル:キングレコード、リリース:2001年8月29日)や、平野綾の同名のイメージ写真集『ロリータの温度』(本文:白倉由美、写真撮影:伊島薫、角川書店:2000年12月刊行)をプロデュースした。 大塚英志がドラマ版『サイコ』の監督の選択で条件にしたのは「1低予算で雇える事、2現場でどんなトラブルが起きても最後まで逃げずに作品を完成させられる事、3決してやっつけ仕事ではなく一つの作品として監督できる事」の3点であったので、全部の条件をクリアしている、当時は比較的無名であった映画監督の三池崇史が選ばれた。 大塚英志が三池崇史を選択した最大の理由は、三池崇史監督の映画『中国の鳥人』(1998年6月10日公開)を観た事である。『中国の鳥人』は実際に中国の奥地にて撮影された日本映画であるが、途中でロケ隊とはぐれてしまうというトラブルが発生して、監督以下少数の残ったクルーで、とにかく中国奥地の先へ先へと進みながら完成させた映画だった。また、『中国の鳥人』は一つの作品としても素晴らしい映画だったので、大塚英志は「この監督なら何が起きても大丈夫」と思って三池崇史にオファーした。実際にドラマ版『サイコ』では、大塚の悪い予感が当たって、撮影中に主役俳優の保坂尚輝が急病で入院してロケからリタイアするというトラブルが発生したが、三池監督は締め切りと予算をキッチリ守って完成させた。大塚は三池監督の現場対応力について感謝と称賛を回想で述べている。 また、2002年に大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』全6話を約90分に再編集してドラマ版とは違うストーリーにした劇場公開映画『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』(2002年7月6日公開)をプロデュースした。この時に 三池崇史監督が再編集版の制作に不服を唱えた為、大塚英志は喫茶店で三池崇史本人と直接2人だけで交渉して「再編集版は大塚英志が完全に自由に制作して、三池崇史は一切関わらない」ことを了承させた。『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』は大塚事務所のスタッフで、「UNDERSELL ltd.」所属の菊崎亮が再編集を行った。また、一部のシーンは大塚英志が自分で追加撮影した。 2001年、大塚英志は同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に衝撃を受け、評論家としては明確に反戦を主張した。 大塚英志は、角川書店のアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』に連載していた小説『MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話』の同紙2001年11月号にて、小説作中に作者の大塚英志本人が本筋のストーリーを中断させる形で突然登場して、読者に向かって反戦を訴えた。これは大塚の回想によると、『月刊ニュータイプ』編集部に事前の相談は一切行わずに、締め切りをギリギリまで引っ張って、これ以上入稿が遅れると雑誌の発売スケジュールが狂うというタイミングで入稿する事で、強引に掲載させたとの事である。 また、大塚は角川書店のライトノベル雑誌『ザ・スニーカー』にて連載していた、小説の書き方講座の『キャラクター小説の作り方』の同紙2001年12月号にて、書き方講座を一旦中断して、日本の戦後の歴史において手塚治虫の漫画や富野由悠季のアニメ等のサブカルチャーがいかにして現実の戦争を受け止めてそれを描いたかを論じる事で、読者に向かって反戦を訴えた。 2001年から2002年にかけて、大塚英志は論壇誌『中央公論』紙上にて、「夢の憲法前文をつくろう」と題した日本国憲法の前文を自分の言葉で書くという読者参加型投稿企画を連載していた。同企画は『中央公論』連載終了後は、主に中高生を対象にして募集を継続して、『私たちが書く憲法前文』(角川書店:2002年)『「私」であるための憲法前文』(角川書店:2003年)『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店:2004年)『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた憲法前文を読んで考えたことと憲法について考えてほしいこと』(角川書店:2005年)として書籍化された。 2004年3月、和光大学がオウム真理教教祖麻原彰晃の三女を入学拒否した事件で、大塚英志は同年3月に和光大学に抗議して同大学の非常勤講師職を辞職した。 2004年12月、大塚英志は1984年8月に急死した友人の漫画家のかがみあきらの個人選集『ワインカラー物語―かがみあきら選集』(ニュータイプ100%コミックス:2004年)を企画・編集・監修して角川書店より刊行した。大塚は選集だけではなく、いつか『かがみあきら全集』を刊行したいと2004年に述べている。 2005年7月5日、大塚英志は文学者の中上健次の未発表だった未完の長編小説『南回帰船』の所在不明になっていた原稿を発掘して角川学芸出版より自費出版で刊行した。大塚英志が初めて文芸評論を書いた時に、大塚の著書『少女民俗学』(光文社:1989年)を読んだ中上健次が「あいつに文芸評論を書かせるとおもしろい」と言って大塚の知らない所でこっそり推薦してくれていて、大塚は中上健次の死後にそれを知ったという経緯があった。大塚が中上健次の『南回帰船』を自費出版で刊行したのは、この事への個人的な恩返しという意味があったとの事である。 2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。 2007年、大塚英志は評論『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書:2006年) で第5回角川財団学芸賞を受賞した。この事について、大塚英志は「本の刊行元が関連する主催者の賞だから、『少年マガジン』連載作品に講談社漫画賞が廻ってきたのと同じ以上の意味は当然、持っていない。」と述べている。 2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」。 学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。 2012年から、海外でまんが表現を教育するネットワーク「世界まんが塾」を、神戸芸術工科大学での元教え子の浅野龍哉・中島千晴らと運営している。2016年9月の時点で、中国の北京、韓国、シンガポール、フランスのパリ・トゥールーズ・アングレーム、デンマーク、イスラエル、カナダ、メキシコ、アメリカの世界9か国11地域で、各都市の国立大学やメイドカフェ、移民居住地区の図書館で、「日本式のまんがの書き方」を教えるワークショップを開催した。 2014年5月14日の角川書店とドワンゴの経営統合発表時には、同年5月17日に星海社ウェブサイト『最前線』に評論『企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ』を投稿して、「KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。」とコメントして合併を批判した。また、同年9月30日の、角川書店とドワンゴの合併記念会見にて、大塚は川上量生による「普段からあまりいいことを言ってくれない人にお願いした」というオファーを受けて、プロモーションビデオに出演する形で記念会見に参加した。大塚英志はそのPVにて、角川書店・ドワンゴの合併を「5年後には多分この二つの会社は離婚しているか、もしくは二つ揃って沈没している」と発言して角川グループ会長角川歴彦とドワンゴ会長川上量生の二人を批判した。2010年代後半になると、実際にドワンゴが運営するニコニコ動画のユーザー減少が指摘されだした。また8年後の9月には角川歴彦は東京五輪汚職疑惑で逮捕されている。 2015年より、海外の若手まんが・アニメ研究者に研究発表の場を提供する研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版、2015年~)を私費で刊行している。 2015年4月26日、「ニコニコ超会議2015」の日本国憲法についての討論イベントに参加した大塚英志は、司会の田原総一朗の司会進行に抗議して途中退席した。 2019年〜2020年に、全国(東京、京都、札幌、静岡、松本、郡山)で巡回された画家のアルフォンス・ミュシャの展覧会『みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ─線の魔術』(2019年7月~2020年4月開催)にて大塚英志は「アドバイザー」として参加した。 2020年、大塚英志は「日文研大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として、歴史教科書『日本大衆文化史』(KADOKAWA:2020年、序、4~7章執筆)と、その副読本『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版:2021年2月5日)の執筆・編纂に参加した。 ※()内の年はその漫画の単行本が刊行された年ではなく、連載されていた年で統一されている(『贖いの聖者』は書き下ろしのため単行本の刊行年)。 ※幾つかの作品には共通のキャラクター(大江公彦、笹山徹、犬彦、スパイMなど)が登場する。 ※大塚自身は代表作として『北神伝綺』『木島日記』『八雲百怪』の三部作を挙げている。 成人向けアニメビデオ テレビドラマ 劇場公開映画 劇場公開アニメ映画
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日 - )は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2012年から国際日本文化研究センター研究部教授であり、2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。妻は漫画家、小説家の白倉由美。2015年より研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版)を私費で刊行している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。1981年3月筑波大学第一学群人文学類卒業。 大塚は、高校生の時に漫画家をしており、大学卒業後は編集者となり、その後、漫画原作者、評論家、小説家、大学教授になった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "大塚は、徳間書店でアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、1981年から1988年まで働いていた。また、フリーの編集者として、白夜書房では1983年から1985年まで、角川メディアオフィスでは1986年から1992年まで働いていた。 大塚の著書の『「おたく」の精神史――1980年代論』『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』は大塚の編集者時代を回想した三部作である。『「おたく」の精神史』では白夜書房時代、『二階の住人とその時代』では徳間書店時代、『日本がバカだから戦争に負けた』では角川メディアオフィス時代をそれぞれ回想している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1987年に大塚は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にて漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。漫画原作者としての仕事も多く、代表作としては『多重人格探偵サイコ』『黒鷺死体宅配便』『リヴァイアサン』『木島日記』『アンラッキーヤングメン』など。自作のノベライズや、映像化や舞台化の脚本も行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "また、1987年に漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家デビューした。大学でのキャリアを断念した民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。サブカルチャーに詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。大塚は1988年に評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "『物語消費論』では、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。物語消費の概念は、東浩紀の著書『動物化するポストモダン』で参照され、同書で展開した概念である「データベース消費」に多大な影響を与えた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "評論対象は多岐にわたり、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年2月)、『更新期の文学』(2005年12月)、『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書、2007年2月)のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のようなフェミニズム論、『戦後民主主義のリハビリテーション』のような戦後民主主義論、『少女たちの「かわいい」天皇』『「おたく」の精神史』などの戦後日本論、『戦後まんがの表現空間』『アトムの命題』などの漫画論、『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』(角川選書、2006年12月)、『公民の民俗学』(作品社、2007年2月)、『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店、2007年5月)などの民俗学論、『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(2000年11月)『ストーリーメーカー』などの創作論、など多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1980年代末より学習院女子大学、和光大学等の私大の非常勤講師を歴任。2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』で大塚は、漫画家のみなもと太郎、民俗学者の千葉徳爾と宮田登の3人を「師匠」と呼んでいる。また、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』では影響を受けた思想家・批評家として江藤淳、柳田國男、三島由紀夫、吉本隆明などを挙げている。また、『戦後民主主義のリハビリテーション』にて、批評の対象ではなく読書の趣味の対象として愛読している小説家として、田山花袋、川崎長太郎、嘉村磯多の3人の私小説家を挙げている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "東京都田無市(現・西東京市)生まれ。父が満州からの引揚者だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた。父は元日本共産党員だったが、60年安保が終了した頃に離党した。 父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたが、すぐに失敗した為、大塚一家は困窮した。その後、大塚の父は会社を転々としながら、経理の仕事で家族を養っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "中学生の時に漫画同人集団「作画グループ」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家のみなもと太郎のアシスタントを始める。 その後、高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の代理原稿に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする。大塚が描いたギャグ漫画は学研の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』(海潮社)に掲載されていた。また、『漫画ギャンブル王国』は成人雑誌だったが大塚が描いていたのはポルノではなくノーマルなギャグ漫画だった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して働きながら漫画家を続ける予定だった。しかし、両親が働きながら大塚の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため、大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠のみなもと太郎から『平凡パンチ』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業頃まで、不定期のアルバイトで手伝っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "高校の現代国語の授業で柳田國男の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで民俗学を勉強したくて筑波大学第一学群人文学類に進学した。大学では民俗学者の千葉徳爾と宮田登の指導の下で、日本民俗学を勉強した(千葉は柳田國男の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる)。千葉徳爾は、大塚の在学中に定年退官した為、大学生時代の4年間の内、最初の3年間が千葉徳爾、最後の1年間だけ宮田登の指導を受けた。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「作画グループ」の先輩の沢田ユキオの紹介で、徳間書店の雑誌『テレビランド』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1981年3月筑波大学を卒業。当初は研究者を目指したが、『キネマ旬報』の映画投稿欄に映画評を投稿していたのを、指導教官の宮田登に読まれていたのがきっかけで、口頭試問で宮田登に「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」と引導を渡されて大学院への進学を断念した。大塚は教師も志望していたが、同時期の教員採用試験に落ちてしまった為、翌年の採用試験を受けるまでの生活費を稼ぐために、大学在学中に漫画家のアシスタントのアルバイトをしていたツテで、徳間書店の雑誌『リュウ』で編集者のアルバイトを始める。当初の予定では来年の採用試験までのツナギで、1年間だけ編集者をやる筈だったが、結局教師にはならずに編集者としての人生を歩むことになっていった。大塚はアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、徳間書店では1981年から1988年まで働いていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "大塚は最初の半年は、『リュウ』の編集長格の校条満に編集者の仕事を教えてもらった。その次に、校条満が担当していた漫画家の石ノ森章太郎と、モンキーパンチと、安彦良和の原稿の受け取りの仕事を担当した。この時に石ノ森章太郎から漫画のネームの見方について徹底的に指導された。後に石ノ森章太郎が『リュウ』に連載していた漫画『幻魔大戦』の打ち切りが決定したときは校条満の指示で大塚が石ノ森に打ち切りを宣告しに行った。その後、校条満から徳間書店に漫画の持ち込みに来た新人の対応を任せられるようになり、その一人だったかがみあきらと友人になった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『リュウ』の編集部は、アニメ雑誌『アニメージュ』と同じ徳間書店第二編集局にあった。大塚は『アニメージュ』の創刊者であり、初代編集長の尾形英夫にフックアップされ『アニメージュ』編集部で働くことになる。この時期の『アニメージュ』副編集長は後にスタジオジブリのプロデューサーとして有名になる鈴木敏夫だった。大塚は『アニメージュ』1982年2月号より連載が開始された宮崎駿の漫画作品『風の谷のナウシカ』に、鈴木敏夫『アニメージュ』副編集長の指示で、連載第1回のみアシスタント業務に参加しており、原稿のスクリーントーン貼りを行った。また他誌に『リュウ』の交換広告を届ける過程で『ふゅーじょんぷろだくと』編集者の小形克宏と知己を得る。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1982年、大塚は徳間書店の美少女漫画雑誌『プチアップルパイ』の創刊編集長になる。この雑誌は大塚が徳間書店で最初に企画した雑誌だった。並行して大塚と小形は「ぼくらのまんが誌」を実現するため『漫画ブリッコ』の原型となるプロジェクトをスタートさせる(企画営業は小形がそれまでの活動で培った人脈をフィールドとして始められ、大塚が企画を主導する形となった)。1983年1月、大塚と小形の初コンビ仕事として『COMICキュロットDX』がセルフ出版から刊行。これが『漫画ブリッコ』のパイロット版となった。ほどなく大塚は憧れの編集者だった末井昭の下で働こうと思い、徳間書店との兼業で白夜書房(大塚が勤務した当時の社名は「セルフ出版」)のフリー編集者として働き始める。なお、大塚は白夜書房では1983年から1985年まで働いた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1983年春、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(83年5月号~85年9月号、セルフ出版→白夜書房)の編集人となる。この時期の大塚は平日の日中は徳間書店、平日の夜間及び週末は白夜書房で編集者として兼業で働いていた。『漫画ブリッコ』の編集人となる条件は、『漫画ブリッコ』が万が一、警察から警告もしくは摘発された時に、一人で責任を被って逮捕される事だった。元々、この雑誌は経営不振から半年後に廃刊が決定しており、大塚と小形はあくまでも残務処理担当として編集者を任されていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ここで大塚は、どうせ廃刊だから商売度外視で好きなことをやってみようと思い、徳間書店に持ち込みに来ていたオタク系の新人漫画家を大量に動員して、『漫画ブリッコ』83年11月号より表紙を少女漫画寄りのイラストに差し替えて、美少女コミック誌としてリニューアルした。その結果、『漫画ブリッコ』リニューアル号は完売した為、廃刊は撤回され、会社から引き続き美少女コミック路線で続行する事を命じられた。特に、大塚英志は『漫画ブリッコ』にて友人でもある漫画家のかがみあきらの『ワインカラー物語』(「あぽ」名義、83年10月号~84年4月号連載)の連載を担当していた。『ワインカラー物語』は本筋のラブコメとは別に、かがみあきら本人と大塚英志がモデルの編集者キャラ「オーツカ某」の2人が毎回登場して、楽屋落ちのネタをやるのが定番のギャグだった。「オーツカ某」というネーミングを考えたのはかがみあきらであり、「オーツカ某」は大塚英志が『漫画ブリッコ』に記事を書く時のペンネームとしても使われた。その他に、編集者としては、桜沢エリカ、岡崎京子、白倉由美、藤原カムイ、などの漫画家、映画イラストライターの三留まゆみ(早坂みけ)等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。後に大塚英志の妻となる白倉由美はこの頃の担当漫画家だった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1984年、大塚英志は白夜書房が経営する漫画専門書店『まんがの森』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加した。大塚は『リュウ』(徳間書店)のコラムで、編集していたミニコミ誌を特集した事があったおしぐちたかしを『まんがの森』の初代店長にフックアップした。大塚は同人誌系の人脈をおしぐちたかしに紹介し、『まんがの森』で岡崎京子、桜沢エリカのサイン会を実施した。また、おしぐちたかしは2018年のインタビューで『まんがの森』立ち上げについて、「あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚(英志)さんのアイデアが組み込まれている。」と発言している。この頃、白夜書房のミニコミ誌『白夜通信』で書いた文章を評価した『漫画ブリッコ』担当営業の藤脇邦夫に業界誌『新文化』を紹介され、コラムを書き始める。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "同年より、大塚英志は徳間書店にて校条満と共に、少年向けマンガ雑誌『少年キャプテン』立ち上げに参加する。同紙の企画書は大塚英志が描いたとの事である。大塚の企画案では雑誌タイトルは『ZERO』であった。大塚は看板作家にかがみあきらを置く予定であり、かがみの才能があれば雑誌を成功させられると確信していた。また、同紙で大塚はかがみの他に、高屋良樹の『強殖装甲ガイバー』とあさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』の担当編集者だった。『強殖装甲ガイバー』は高屋に「仮面ライダーみたいなまんが描いて」と依頼した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "しかし、1984年8月9日にかがみあきらは自宅で急死してしまう。かがみあきらが亡くなったのは、白夜書房よりかがみの単行本『ワインカラー物語』が刊行されたのとほぼ同時期だった。大塚が白夜書房にかがみあきらの急死を連絡すると、直ちに『ワインカラー物語』の単行本を重版しようと提案されたことで、担当営業の藤脇邦夫と口論になり、大塚は白夜書房に対する忠誠心を失った。かがみあきらが亡くなった半年後、大塚は『漫画ブリッコ』紙上で会社に無許可で同紙の休刊を予告したため、社内で問題になり、『漫画ブリッコ』85年9月号にて編集人を降板した。この休刊の背景には、前述の藤脇との対立に加え、大塚が企画や原案に関与し、白夜書房から発売された18禁アニメビデオ作品『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』の売れ行き不振があった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、徳間書店の『少年キャプテン』はかがみあきら不在の状態で、1985年1月22日創刊した。創刊編集長は校条満だった。創刊号は実売発行部数12万部で完売した。また、同紙連載漫画の単行本も順調に売れていた。しかし、看板作家のかがみあきらの不在や、自社で新人漫画家を育てようとしていた編集部と、大手出版社からベテラン漫画家を引き抜こうとしていた徳間書店上層部との方針の食い違い等が重なり、『少年キャプテン』は徐々に迷走していった。『少年キャプテン』は実売発行部数が20万部で頭打ちになった時点で、校条満が責任を問われて編集長を解任され、これにより大塚も失脚・干されることになった。1988年に徳間書店を正式に退職するまでの最後の2年間は、月に一回程、担当の漫画家の原稿の入稿で会社に顔を出し、ササキバラ・ゴウなどの若手社員と話すだけだった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "親友だったかがみあきらが亡くなったのと、編集者人生を賭けたマンガ雑誌『少年キャプテン』が失敗したことで、ヤケクソになった大塚英志は、86年頃から他社の中堅クラスの版元の漫画雑誌創刊に参加してはすぐに廃刊になるのを繰り返していた。この頃に大塚が創刊に参加した雑誌には『週刊少年宝島』(宝島社)や『月刊コミックNORA』(学研)等がある。しかし、同時期に漫画業界への不平不満をぶつけて書いていた、業界誌『新文化』のコラムが好評となり徐々に評論家として認められていくことになった。大塚は翌1987年に、上記の『新文化』のコラムや、80年代前半の『白夜通信』に書いていたコラムをまとめた漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家としてデビューした。大塚は同時代のニューアカブームの影響を受け、大学時代に勉強していた日本民俗学と、フランス現代思想のポスト構造主義をミックスした評論を書いていた。大塚は特に、フランスの現代思想家のジャン・ボードリヤールの、「ポストモダン社会において、商品の価値は使用価値ではなく、記号的な広告価値で決定される」という思想に影響を受けた。大塚は後年、ボードリヤールを「80年代に、自分が最も心酔していた思想家」と回想している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1986年、大塚英志が業界誌『新文化』に書いた当時の角川書店の企画や流通の問題点を批判したコラムを読んで激怒した、角川書店幹部(専務取締役)の角川歴彦に呼び出しを受けるというトラブルが発生する。 大塚は、角川歴彦の側近の千葉孝を通してホテルのバーに呼び出され、大塚と角川と千葉の3人で話し合いになった。最初は冷静な話し合いだったが、次第に売り言葉に買い言葉で本気の口論となっていった。大塚は角川歴彦から「お前は理屈ばかりだ、悔しかったらヒット作を作ってみろ」と一喝されたのを受けて、「作ってやる」と啖呵を切って席を立った為、大塚と角川の話し合いは20分程で終了した。しかしその数日後、今度は角川歴彦の別の側近の佐藤辰男を通して、角川書店の雑誌で「ゲームをベースにしたまんが」を作らないかとヘッドハンティングの連絡がきた。この時期の徳間書店での大塚は、大塚が育てた新人漫画家全員を、徳間書店の正社員の編集者に引き渡すように編集部から圧力をかけられているありさまだったので、この角川歴彦のヘッドハンティングに乗ることにした。こうして大塚は、角川書店の子会社で、角川発行の雑誌の編集及びキャラクター商品の開発などを担当する会社であり、角川歴彦がオーナーをしていた出版社角川メディアオフィスにてフリーの編集者として働くことになった。その際、徳間書店から「徳間ではいらない」と言われていた新人漫画家の、田島昭宇、円英智、羽衣翔の3人を徳間書店から許可をもらった上で角川書店に引き抜いていった。しかし、大塚が徳間書店を正式に退職するのは1988年なので、最初の数年間は角川メディアオフィスと徳間書店でフリーの編集者として兼業で働いていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1987年、大塚英志は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にてファンタジー漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。この時大塚は、大学時代に勉強していた「物語論」を参考にして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。大塚は、映画監督のジョージ・ルーカスが映画『スター・ウォーズ』のシナリオ制作時にアメリカの神話学者のジョーゼフ・キャンベルの物語論『千の顔をもつ英雄』を下敷きにした逸話を参考にして、『魍魎戦記MADARA』ではロシア民俗学者のウラジーミル・プロップの物語論『昔話の形態学』と、フロイト派精神分析学者のオットー・ランクの物語論『英雄誕生の神話』と、日本民俗学者の折口信夫の物語論『貴種流離譚』を下敷きにして、さらに手塚治虫の漫画『どろろ』と三島由紀夫の小説『豊饒の海』のキャラクター設定をミックスして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。『魍魎戦記MADARA』はヒット作となり、コミックの売上が10万部に達した時点でゲーム化が決定した。同作はその後大塚英志 によって「MADARA PROJECT」という名称のメディアミックス戦略が展開され、ゲーム化以外にも、小説・OVA・ラジオドラマ等へ幅広く展開したメディアミックスの先駆け的作品となった。大塚の回想によると、『魍魎戦記MADARA』のコミックスの売上は最終的に、コミックス各巻の売上がそれぞれ40万部に達した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1988年、大塚英志は崩御する直前だった病床の昭和天皇を題材にした評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした。同評論は天皇制を擁護したともとれる内容だったため、大塚の回想によると右翼方面から歓迎されたとの事である。 以降の大塚英志は、80年代末から、90年代全般、2000年代前半にかけて『中央公論』『諸君!』『Voice』『論座』『正論』といった保守論壇系のメディアで評論家活動をしていた。 大塚は、思想的には比較的「左」の自分が保守論壇にいた理由について、当時の保守論壇は自分たちと立場・思想が異なる人間が評論を発表することに寛容であり、いい意味でゆるかったからと回想で述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1989年、大塚英志は同年5月に刊行した評論『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年5月刊行)が広告業界からマーケティング理論として高く評価されたのがきっかけで、大塚は1989年から1993年頃まで広告業界のシンクタンクにてマーケティング担当の評論家として雇われていた。この時に大塚が働いていたシンクタンクの一つがぴあ総研である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1989年7月23日に犯人が逮捕された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件には衝撃を受け、即時に『漫画ブリッコ』での連載コラムで「おたく」という言葉を発明した中森明夫との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。犯人が「おたく」だったのを事件の原因であるかのように決めつける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていた6000本のビデオテープの中で、実際には100本ほど(約1%)しかなかったホラー作品や性的ビデオに事件の原因を求めるには無理がある」と発言。実際に1990年から1997年に行われた一審では犯人の特別弁護人を務めた(二審以降は弁護団からは距離を取りつつも、一般傍聴人として裁判所に通い続け、2006年1月17日の最高裁での死刑判決時も、傍聴席で判決を直接聞いている)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1990年、大塚英志は自分の事務所の名称を、「物語環境開発」とした。「物語環境開発」というネーミングの内、「環境開発」とはバブル時代によくあった地上げ屋の会社名であり、自分は「仮想現実の地上げ屋」であるという皮肉が込められている。一方、「物語開発」とは、ハリウッド映画にて脚本作成の前段階でのストーリーの企画開発を意味する映画用語の「Development Stage」を日本語に意訳したものであり、自分はストーリー開発の専門家であるという自負が込められている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1992年、大塚英志は太田出版より「太田COMICS芸術漫画叢書」というレーベルを立ち上げ、吾妻ひでおの漫画『夜の魚』、『定本 不条理日記』の二冊を刊行した。これは太田出版の名義を借りただけで、大塚の自費出版だった。特に『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』は、後の吾妻ひでおの代表作『失踪日記』第一話になり、吾妻ひでおは大塚英志にこの原稿を宅配便で送ったその足で『失踪日記』で描かれた2度目の失踪に入った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1992年9月14日、角川書店社長角川春樹が、角川書店副社長であり大塚英志の上司でもある角川歴彦を、角川書店副社長職及び角川メディアオフィス社長職から解任して、角川書店から追放した。角川歴彦は直ちに角川書店の子会社の角川メディアオフィス全社員71人の内、70人の社員を引き抜いて出版社メディアワークスを立ち上げため、角川書店の社長と副社長の対立は、後世に「角川騒動」と称される同社の分裂騒動に発展した。大塚英志はこの時点でも角川メディアオフィスの正社員ではなく、フリーの編集者の立場だったが、分裂騒動に首謀者の一人として参加しており、2017年の著作『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)にて、その内幕を詳細に語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "角川歴彦が解任されたその直後から、大塚英志を含む歴彦派の人間は、角川書店で仕事をしている作家やライターと、独立構想と独立後の版権移動について交渉を開始していた。大塚の回想によると、角川メディアオフィスの編集部の人間が私立探偵に尾行調査された疑いがあったため、角川メディアオフィスの秘密会議では外部に情報が漏れないように合言葉を使って、角川書店を分裂させるための謀議を行っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "当初は歴彦派がメディアワークスを立ち上げるのに必要な取次口座の当てがなかったため、大塚英志は評論を何冊か出版した付き合いがあり、当時経営不振に落ち込んでいた出版社弓立社の取次口座を、『魍魎戦記MADARAシリーズ』の印税をつぎ込んで購入しようとしたが、結局主婦の友社の口座が使える事になったのでこの計画は実行されなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大塚英志はメディアワークスの資本金の一部の資金調達も行っており、ゲームセンター経営の企業のオーナーの「三浦さん」という人物から、数千万円単位の出資を取り付けていた。この時に大塚は「三浦さん」にメディアワークスに出資して貰うための保証として、その出資額の1割に相当する金額のメディアワークスの株を自費で購入した。そのために、この時期のメディアワークスの雑誌の一部では、大塚の原作漫画が掲載される時に大塚の肩書が「株主原作者」とクレジットされていた。また、この時に大塚が購入したメディアワークス株は2017年の時点で全部そのまま保有しているとの事である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1992年10月に、角川メディアオフィスの全社員71人の内の70人が角川書店に事前予告なしで突然一斉に退職した。事態に気づいてパニックになった角川書店側の人間が、漫画家や小説家やライターにお詫びとご説明の電話をするが、大塚英志を含む歴彦派の人間があらかじめ根回しをしていて、「お前の会社はどうなっているんだ!そんな雑誌には、もう書けない」とわざと激怒して、強引にメディアワークスに掲載紙を移籍させた。特に角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』では、ある日突然、編集部の編集者全員と、連載していた漫画家のほとんどが、メディアワークスの新雑誌『月刊電撃コミックガオ!』に移籍したため、角川書店側に攻撃的な打撃を与えることになった。この時大塚英志は、分裂騒動の事情も知らずに突然抜擢され、編集部がほとんど誰もいなくなった状態で『月刊コミックコンプ』を立て直さなくてはいけなくなった同紙の新編集長に同情して、『月刊コミックコンプ』にて新連載漫画の原作を「雑誌のページが埋まれば内容は何でもいい」という条件で引き受けた。こうして大塚英志は、日本の天皇制を題材にしたSF漫画『JAPAN』(作画:伊藤真美)や、柳田民俗学を題材にした伝奇漫画『北神伝綺』(作画:森美夏)、巨大な壁で封鎖された都市で17歳の少年少女達が大人たちと戦争させられる『東京ミカエル』(作画:堤芳貞)といった自分が本当にやりたかった漫画を角川書店分裂の混乱のどさくさで角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』に連載させる事で、ゲームやアニメのメディアミックス狙いの漫画原作者で終わりたくないという個人的な野心を実現させた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1993年8月29日、角川書店社長角川春樹が、コカイン密輸事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部(千葉南警察署)により逮捕されるというアクシデントが発生する。これにより角川歴彦の角川書店への復帰が決定し、同年10月角川歴彦は角川書店代表取締役社長に就任した。こうして1年に渡って続いた角川書店の分裂騒動は大塚英志の所属する歴彦派の逆転勝利で唐突に終了した。92年に角川歴彦が角川書店から追放された時、新会社の取次口座も資本金もなく、新しい編集部の受け入れ先のビルも決まっていない状態で、角川歴彦は完全に失脚する寸前まで追い込まれていた。大塚英志はこのような危機的状況で逃げずに角川歴彦を支えた部下の一人だった為、93年以降の角川歴彦支配体制下の角川書店において、評論家・漫画原作者・小説家として厚遇された。また、その後の角川書店は、大塚に評論家としては書きたいことを好きなように書かしてくれたが、これは大塚の発言によると、漫画原作者・小説家として一定以上の商業的な黒字が出せていることが絶対条件だったとの事である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1994年、大塚は評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』(法藏館:1994年) でサントリー学芸賞を受賞した。この事について、大塚英志は半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』にて「あれは選考委員の一人が、青木雄二の「ナニワ金融道」に賞を与えようと言い出して、しかしさすがにまんがを受賞対象にはできない、ああそういえば大塚のまんが評論があった、という冗談みたいな経緯で選ばれてしまったにすぎない。実話である。」と述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1995年、大塚は原作漫画『聖痕のジョカ』(作画:相川有。1993年 - 1995年連載)の読者コーナーの常連投稿者だったひらりんを大塚の事務所である「物語環境開発」にキャラクターデザイナーとしてスカウトした。ひらりんは『新・聖痕のジョカ』(1995年 - 1997年連載)以降の大塚作品のキャラクターの設定デザインを担当している。また、大塚の著書『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』にはひらりんの描いた、キャラクターの設定資料の一部が収録されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1997年、大塚英志は角川書店の雑誌『月刊少年エース』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画『多重人格探偵サイコ』(作画:田島昭宇、 1997年 ~2016年連載)を開始した。同作は『月刊少年エース』1997年1月号より連載スタートの予定だったが、第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写があり、これを見て本気で激怒した角川書店の役員が輪転機を止めた為、当初1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで連載をスタートした。同作は連載が10年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作は大塚英志のプロデュースで、小説・テレビドラマ・ドラマCD・新劇等へ幅広くメディアミックス展開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1998年4月より、大塚英志は文芸誌『文學界』(文藝春秋)にて、批評家の江藤淳の推薦で文芸評論『サブカルチャー文学論』の連載をスタートした。同連載は『文學界』2000年8月号まで連載されたが、小説家の石原慎太郎の文学作品を論じた回が編集部から掲載拒否されたのがきっかけで、連載打ち切りになった。その石原論は2002年の第1回文学フリマにて手書き原稿で発表された。また、『サブカルチャー文学論』は2004年に版元を朝日新聞社に変更して、最終回を書き下ろしで追加して単行本化された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2000年代以降は、東浩紀と批評誌『新現実』を創刊したり、市川真人と文学作品展示即売会『文学フリマ』を主催したり、柳田民俗学と自然主義文学、社会進化論、ナチズム、オカルティズムとの関係や小泉八雲の民俗学者としての側面を論じた評論や、小説や漫画の入門書を続けて刊行している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2000年、大塚英志は角川書店の雑誌にて、「死体が動いたらただそれだけで本当は怖い、というホラーの原点に戻ったまんが」というコンセプトのホラー漫画『黒鷺死体宅配便』(作画:山崎峰水)を開始した。同作は連載が20年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作はその後、『松岡國男妖怪退治』『アライアズキ、今宵も小豆を洗う。』のスピンオフ作品が2作制作された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2000年、大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』(キー局:WOWOW、放送期間:2000年5月2日 ~5月7日、全六話、監督:三池崇史)を原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングした。ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は、漫画版とはキャラクターの名称や設定をある程度共有しているが、ストーリーは全く異なっている。当初はWOWOW側が用意した脚本家がいたが、原作者は脚本に口出ししない事を要求してきたので、すぐにクビにして大塚英志が自分で脚本を執筆した(脚本の一部は白倉由美、大塚ギチとの共同執筆)。出演者の内、保坂尚輝、大杉漣、中嶋朋子、裕木奈江、三浦理恵子は、大塚英志が個人的にファンだった。 大塚英志は、妻の白倉由美と共にオーディションに参加しており、登場人物の一人のロリータ°C役には当時無名の新人子役だった平野綾を抜擢した。 ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は平野綾の女優デビュー作である。平野綾の才能に惚れ込んだ大塚は、平野綾がドラマ版『多重人格探偵サイコ』で演じた役のロリータ°C名義で歌ったサウンドトラックアルバム『ロリータの温度』(作詞:白倉由美、作曲:後藤次利、レーベル:キングレコード、リリース:2001年8月29日)や、平野綾の同名のイメージ写真集『ロリータの温度』(本文:白倉由美、写真撮影:伊島薫、角川書店:2000年12月刊行)をプロデュースした。 大塚英志がドラマ版『サイコ』の監督の選択で条件にしたのは「1低予算で雇える事、2現場でどんなトラブルが起きても最後まで逃げずに作品を完成させられる事、3決してやっつけ仕事ではなく一つの作品として監督できる事」の3点であったので、全部の条件をクリアしている、当時は比較的無名であった映画監督の三池崇史が選ばれた。 大塚英志が三池崇史を選択した最大の理由は、三池崇史監督の映画『中国の鳥人』(1998年6月10日公開)を観た事である。『中国の鳥人』は実際に中国の奥地にて撮影された日本映画であるが、途中でロケ隊とはぐれてしまうというトラブルが発生して、監督以下少数の残ったクルーで、とにかく中国奥地の先へ先へと進みながら完成させた映画だった。また、『中国の鳥人』は一つの作品としても素晴らしい映画だったので、大塚英志は「この監督なら何が起きても大丈夫」と思って三池崇史にオファーした。実際にドラマ版『サイコ』では、大塚の悪い予感が当たって、撮影中に主役俳優の保坂尚輝が急病で入院してロケからリタイアするというトラブルが発生したが、三池監督は締め切りと予算をキッチリ守って完成させた。大塚は三池監督の現場対応力について感謝と称賛を回想で述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、2002年に大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』全6話を約90分に再編集してドラマ版とは違うストーリーにした劇場公開映画『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』(2002年7月6日公開)をプロデュースした。この時に 三池崇史監督が再編集版の制作に不服を唱えた為、大塚英志は喫茶店で三池崇史本人と直接2人だけで交渉して「再編集版は大塚英志が完全に自由に制作して、三池崇史は一切関わらない」ことを了承させた。『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』は大塚事務所のスタッフで、「UNDERSELL ltd.」所属の菊崎亮が再編集を行った。また、一部のシーンは大塚英志が自分で追加撮影した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2001年、大塚英志は同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に衝撃を受け、評論家としては明確に反戦を主張した。 大塚英志は、角川書店のアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』に連載していた小説『MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話』の同紙2001年11月号にて、小説作中に作者の大塚英志本人が本筋のストーリーを中断させる形で突然登場して、読者に向かって反戦を訴えた。これは大塚の回想によると、『月刊ニュータイプ』編集部に事前の相談は一切行わずに、締め切りをギリギリまで引っ張って、これ以上入稿が遅れると雑誌の発売スケジュールが狂うというタイミングで入稿する事で、強引に掲載させたとの事である。 また、大塚は角川書店のライトノベル雑誌『ザ・スニーカー』にて連載していた、小説の書き方講座の『キャラクター小説の作り方』の同紙2001年12月号にて、書き方講座を一旦中断して、日本の戦後の歴史において手塚治虫の漫画や富野由悠季のアニメ等のサブカルチャーがいかにして現実の戦争を受け止めてそれを描いたかを論じる事で、読者に向かって反戦を訴えた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2001年から2002年にかけて、大塚英志は論壇誌『中央公論』紙上にて、「夢の憲法前文をつくろう」と題した日本国憲法の前文を自分の言葉で書くという読者参加型投稿企画を連載していた。同企画は『中央公論』連載終了後は、主に中高生を対象にして募集を継続して、『私たちが書く憲法前文』(角川書店:2002年)『「私」であるための憲法前文』(角川書店:2003年)『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店:2004年)『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた憲法前文を読んで考えたことと憲法について考えてほしいこと』(角川書店:2005年)として書籍化された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2004年3月、和光大学がオウム真理教教祖麻原彰晃の三女を入学拒否した事件で、大塚英志は同年3月に和光大学に抗議して同大学の非常勤講師職を辞職した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2004年12月、大塚英志は1984年8月に急死した友人の漫画家のかがみあきらの個人選集『ワインカラー物語―かがみあきら選集』(ニュータイプ100%コミックス:2004年)を企画・編集・監修して角川書店より刊行した。大塚は選集だけではなく、いつか『かがみあきら全集』を刊行したいと2004年に述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2005年7月5日、大塚英志は文学者の中上健次の未発表だった未完の長編小説『南回帰船』の所在不明になっていた原稿を発掘して角川学芸出版より自費出版で刊行した。大塚英志が初めて文芸評論を書いた時に、大塚の著書『少女民俗学』(光文社:1989年)を読んだ中上健次が「あいつに文芸評論を書かせるとおもしろい」と言って大塚の知らない所でこっそり推薦してくれていて、大塚は中上健次の死後にそれを知ったという経緯があった。大塚が中上健次の『南回帰船』を自費出版で刊行したのは、この事への個人的な恩返しという意味があったとの事である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2007年、大塚英志は評論『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書:2006年) で第5回角川財団学芸賞を受賞した。この事について、大塚英志は「本の刊行元が関連する主催者の賞だから、『少年マガジン』連載作品に講談社漫画賞が廻ってきたのと同じ以上の意味は当然、持っていない。」と述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2012年から、海外でまんが表現を教育するネットワーク「世界まんが塾」を、神戸芸術工科大学での元教え子の浅野龍哉・中島千晴らと運営している。2016年9月の時点で、中国の北京、韓国、シンガポール、フランスのパリ・トゥールーズ・アングレーム、デンマーク、イスラエル、カナダ、メキシコ、アメリカの世界9か国11地域で、各都市の国立大学やメイドカフェ、移民居住地区の図書館で、「日本式のまんがの書き方」を教えるワークショップを開催した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2014年5月14日の角川書店とドワンゴの経営統合発表時には、同年5月17日に星海社ウェブサイト『最前線』に評論『企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ』を投稿して、「KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。」とコメントして合併を批判した。また、同年9月30日の、角川書店とドワンゴの合併記念会見にて、大塚は川上量生による「普段からあまりいいことを言ってくれない人にお願いした」というオファーを受けて、プロモーションビデオに出演する形で記念会見に参加した。大塚英志はそのPVにて、角川書店・ドワンゴの合併を「5年後には多分この二つの会社は離婚しているか、もしくは二つ揃って沈没している」と発言して角川グループ会長角川歴彦とドワンゴ会長川上量生の二人を批判した。2010年代後半になると、実際にドワンゴが運営するニコニコ動画のユーザー減少が指摘されだした。また8年後の9月には角川歴彦は東京五輪汚職疑惑で逮捕されている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2015年より、海外の若手まんが・アニメ研究者に研究発表の場を提供する研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版、2015年~)を私費で刊行している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "2015年4月26日、「ニコニコ超会議2015」の日本国憲法についての討論イベントに参加した大塚英志は、司会の田原総一朗の司会進行に抗議して途中退席した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2019年〜2020年に、全国(東京、京都、札幌、静岡、松本、郡山)で巡回された画家のアルフォンス・ミュシャの展覧会『みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ─線の魔術』(2019年7月~2020年4月開催)にて大塚英志は「アドバイザー」として参加した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2020年、大塚英志は「日文研大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として、歴史教科書『日本大衆文化史』(KADOKAWA:2020年、序、4~7章執筆)と、その副読本『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版:2021年2月5日)の執筆・編纂に参加した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "※()内の年はその漫画の単行本が刊行された年ではなく、連載されていた年で統一されている(『贖いの聖者』は書き下ろしのため単行本の刊行年)。 ※幾つかの作品には共通のキャラクター(大江公彦、笹山徹、犬彦、スパイMなど)が登場する。 ※大塚自身は代表作として『北神伝綺』『木島日記』『八雲百怪』の三部作を挙げている。", "title": "漫画原作" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "成人向けアニメビデオ", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "テレビドラマ", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "劇場公開映画", "title": "映像作品" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "劇場公開アニメ映画", "title": "映像作品" } ]
大塚 英志は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。 2012年から国際日本文化研究センター研究部教授であり、2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。妻は漫画家、小説家の白倉由美。2015年より研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版)を私費で刊行している。
{{Infobox 作家 | name = 大塚 英志<br />(おおつか えいじ) | image = File:大塚英志.jpg | image_size = 300px | caption = ([[2012年]]) | birth_date = {{生年月日と年齢|1958|8|28}} | birth_place = {{JPN}}・[[東京都]][[田無市]]([[西東京市]])<ref name="サントリー文化財団"/> | death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}}--> | death_place = <!--死亡地--> | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = [[大学教授]]<br />[[評論家]]<br />[[漫画原作者]]<br />[[小説家]]<br />[[編集者]]<br />元[[漫画家]] | language = [[日本語]] | nationality = {{JPN}} | education = [[博士(芸術工学)]]([[2007年]]・[[神戸芸術工科大学]]) | alma_mater = [[筑波大学]]第一学群人文学類卒業<br />神戸芸術工科大学博士取得 | period = [[1987年]] - | genre = [[批評]]、[[民俗学]]、[[小説]]、[[漫画原作]] | subject = [[現代思想]]、[[民俗学]]、[[戦後民主主義]]、[[サブカルチャー]]、[[おたく]]、[[物語論]] | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = 『多重人格探偵サイコ』など多数 | pseudonym = オーツカ某<br />[[S-nery Angel]]<br />[[三木・モトユキ・エリクソン]]<br />[[許月珍]] | spouse = [[白倉由美]] | partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> | children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> | notable_ideas = [[物語消費論]]、まんが・アニメ的リアズム、キャラクター小説 | influences = [[みなもと太郎]]、[[千葉徳爾]]、[[宮田登]]、[[手塚治虫]]、[[江藤淳]]、[[柳田國男]]、[[三島由紀夫]]、[[吉本隆明]]、[[石ノ森章太郎]]、[[かがみあきら]]、[[末井昭]]、[[角川歴彦]]、 [[ジャン・ボードリヤール]] 、[[ジョーゼフ・キャンベル]]、[[ウラジミール・プロップ]]、[[オットー・ランク]]、[[折口信夫]]、[[小泉八雲]]、[[吾妻ひでお]]、[[中上健次]]、[[安田均]]、[[庵野秀明]] | influenced = [[東浩紀]]、[[斎藤環]]、マーク・スタインバーグ、[[大澤信亮]] | awards = [[サントリー学芸賞]]社会・風俗部門(『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』)、[[角川財団学芸賞]](『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田国男』) | debut_works = 『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』 | signature = <!--署名・サイン--> | website = <!--本人の公式ウェブサイト--> <!--| footnotes = 脚注・小話-->}} '''大塚 英志'''(おおつか えいじ、[[1958年]][[8月28日]]<ref>『電撃摩陀羅海賊本』(電撃コミックスEX・メディアワークス、1993年3月5日発売)103ページ「マダラプロジェクト設定資料集」の「大塚英志」の経歴より</ref> - )は、[[日本]]の[[評論家]]、[[研究者]]、[[漫画原作者]]、[[小説家]]、[[編集者]]、元[[漫画家]]である。 [[2012年]]から[[国際日本文化研究センター]]研究部[[教授]]であり、[[2006年]]から[[東京藝術大学]]大学院映像研究科兼任講師も務める。[[2006年]]から[[2014年]]まで[[神戸芸術工科大学]][[教授]]及び特別教授、[[2014年]]から[[2016年]]までは[[東京大学]][[大学院]][[東京大学大学院情報学環・学際情報学府|情報学環]]特任教授も務めた。妻は漫画家、小説家の[[白倉由美]]。2015年より研究誌『TOBIO Critiques』([[太田出版]])を私費<ref name="名前なし-1">大塚英志『ミュシャから少女まんがへ 幻の画家・一条成美と明治のアール・ヌーヴォー』(角川新書:2019年)そでの著者プロフィールより</ref>で刊行している。 == 概要 == 1958年[[8月28日]]<ref>『電撃摩陀羅海賊本』(電撃コミックスEX・メディアワークス、1993年3月5日発売)103ページ「マダラプロジェクト設定資料集」の「大塚英志」の経歴より</ref>[[東京都]][[田無市]](現・[[西東京市]])生まれ<ref name="サントリー文化財団"/>。1981年3月[[筑波大学]]第一学群人文学類卒業。 大塚は、高校生の時に漫画家をしており、大学卒業後は編集者となり、その後、漫画原作者、評論家、小説家、大学教授になった。 大塚は、[[徳間書店]]でアルバイトの編集者から[[契約社員]]の編集者となり、1981年から1988年まで働いていた。また、フリーの編集者として、[[白夜書房]]では1983年から1985年まで、[[角川メディアオフィス]]では1986年から1992年まで働いていた。 大塚の著書の『「おたく」の精神史――1980年代論』『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』は大塚の編集者時代を回想した三部作である。『「おたく」の精神史』では[[白夜書房]]時代、『二階の住人とその時代』では[[徳間書店]]時代、『日本がバカだから戦争に負けた』では[[角川メディアオフィス]]時代をそれぞれ回想している。 1987年に大塚は[[角川書店]]の雑誌『[[マル勝ファミコン]]』にて漫画作品『[[魍魎戦記MADARA]]』(作画:[[田島昭宇]]、世界設定:[[阿賀伸宏]]、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。[[漫画原作者]]としての仕事も多く、代表作としては『[[多重人格探偵サイコ]]』『[[黒鷺死体宅配便]]』『[[リヴァイアサン (漫画)|リヴァイアサン]]』『[[木島日記]]』『[[アンラッキーヤングメン]]』など。自作のノベライズや、映像化や舞台化の脚本も行っている。 また、1987年に漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』([[弓立社]])で評論家デビューした。大学でのキャリアを断念した民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。[[サブカルチャー]]に詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。大塚は1988年に評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『[[中央公論]]』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした<ref name="名前なし-2">大塚英志『少女たちの「かわいい」天皇』(角川文庫:2003年)268ページ /大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)228ページ </ref>。 『物語消費論』では、[[ビックリマン (シール)|ビックリマンシール]]や[[シルバニアファミリー]]などの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「[[大きな物語]]」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に[[1980年代]]にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。物語消費の概念は、[[東浩紀]]の著書『動物化するポストモダン』で参照され、同書で展開した概念である「[[データベース消費]]」に多大な影響を与えた。 評論対象は多岐にわたり、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年2月)、『更新期の文学』(2005年12月)、『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書、2007年2月)のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のような[[フェミニズム]]論、『戦後民主主義のリハビリテーション』のような[[戦後民主主義]]論、『少女たちの「かわいい」天皇』『「おたく」の精神史』などの戦後日本論、『戦後まんがの表現空間』『アトムの命題』などの漫画論、『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』(角川選書、2006年12月)、『公民の民俗学』([[作品社]]、2007年2月)、『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店、2007年5月)などの[[民俗学]]論、『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(2000年11月)『ストーリーメーカー』などの創作論、など多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている [[1980年]]代末より[[学習院女子大学]]、[[和光大学]]等の私大の[[非常勤講師]]を歴任。[[2006年]]4月に[[神戸芸術工科大学]]先端芸術学部メディア表現学科[[教授]]に就任。また[[東京藝術大学]]大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。学科改組により[[2010年]]4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。[[2012年]][[国際日本文化研究センター]]客員教授。[[2013年]]3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から[[2014年]]3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。[[2013年]]10月から国際日本文化研究センター研究部教授<ref name="名前なし-3">[http://research.nichibun.ac.jp/ja/researcher/staff/s043/index.html 国際日本文化研究センター研究者一覧「大塚英志」]</ref>。[[2014年]]から[[2016年]]まで[[東京大学]][[大学院]][[東京大学大学院情報学環・学際情報学府|情報学環]]角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授<ref>[http://kadokawa.iii.u-tokyo.ac.jp/members.html 東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座Members]</ref>を歴任した。 [[2007年]]7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の[[学位]]を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」<ref name="名前なし-4">博士論文書誌データベース</ref>。 半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』で大塚は、漫画家の[[みなもと太郎]]、民俗学者の[[千葉徳爾]]と[[宮田登]]の3人を「師匠」と呼んでいる。また、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』では影響を受けた思想家・批評家として[[江藤淳]]、[[柳田國男]]、[[三島由紀夫]]、[[吉本隆明]]などを挙げている。また、『戦後民主主義のリハビリテーション』にて、批評の対象ではなく読書の趣味の対象として愛読している小説家として、[[田山花袋]]、[[川崎長太郎]]、[[嘉村磯多]]の3人の私小説家を挙げている<ref>大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション――論壇でぼくは何を語ったか』(角川文庫:2005年)491ページ </ref>。 == 経歴 == === 生い立ち === [[東京都]][[田無市]](現・[[西東京市]])生まれ。父が[[満州国|満州]]からの[[引揚者]]だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた<ref>大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』(ちくま学芸文庫)179ページ</ref>。父は元[[日本共産党]]員だったが、[[60年安保]]が終了した頃に離党した<ref>吉本隆明『わが「転向」』(文春文庫:1997年12月10日)巻末の大塚英志の解説『「明るさ」は敵か?』189ページ</ref>。 父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたが、すぐに失敗した為、大塚一家は困窮した<ref>吉本隆明『わが「転向」』(文春文庫:1997年12月10日)巻末の大塚英志の解説『「明るさ」は敵か?』190ページ/大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』(ちくま学芸文庫)175ページ</ref>。その後、大塚の父は会社を転々としながら、経理の仕事で家族を養っていた<ref>吉本隆明『わが「転向」』(文春文庫:1997年12月10日)巻末の大塚英志の解説『「明るさ」は敵か?』190ページ</ref>。 中学生の時に漫画同人集団「[[作画グループ]]」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家の[[みなもと太郎]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を始める。 その後、高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の[[代理原稿]]に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)70ページ/大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)227ページ</ref>。大塚が描いたギャグ漫画は[[Gakken|学研]]の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』([[海潮社]])に掲載されていた。また、『漫画ギャンブル王国』は成人雑誌だったが大塚が描いていたのはポルノではなくノーマルなギャグ漫画だった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)72ページ/『[[Comic新現実]] 問題外増刊みたいな…』(角川書店)2ページ</ref>。 当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して働きながら漫画家を続ける予定だった<ref name="名前なし-5">大塚英志『大学論』(講談社現代新書:2010年)28ページ</ref>。しかし、両親が働きながら大塚の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため、大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠の[[みなもと太郎]]から『[[平凡パンチ]]』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した<ref>『[[Comic新現実]] 問題外増刊みたいな…』(角川書店)2ページ/大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)228ページ</ref>。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業頃まで、不定期のアルバイトで手伝っていた<ref>『[[Comic新現実]] 問題外増刊みたいな…』(角川書店)3ページ</ref>。 高校の現代国語の授業で[[柳田國男]]の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで[[民俗学]]を勉強したくて[[筑波大学人文・文化学群|筑波大学第一学群人文学類]]に進学した<ref name="名前なし-5"/>。大学では民俗学者の[[千葉徳爾]]と[[宮田登]]の指導の下で、日本[[民俗学]]を勉強した(千葉は[[柳田國男]]の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる<ref>大塚英志原作・森美夏作画『[[北神伝綺]]』上巻(角川コミックス・エース)大塚英志によるあとがき(225ページ) </ref>)。[[千葉徳爾]]は、大塚の在学中に定年退官した為、大学生時代の4年間の内、最初の3年間が[[千葉徳爾]]、最後の1年間だけ[[宮田登]]の指導を受けた<ref>大塚英志『大学論』(講談社現代新書:2010年)38ページ</ref>。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「[[作画グループ]]」の先輩の[[沢田ユキオ]]の紹介で、[[徳間書店]]の雑誌『[[テレビランド]]』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)228ページ</ref>。 === 1980年代 === 1981年3月[[筑波大学]]を卒業。当初は研究者を目指したが、『[[キネマ旬報]]』の映画投稿欄に映画評を投稿していたのを、指導教官の[[宮田登]]に読まれていたのがきっかけで、口頭試問で宮田登に「'''君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない'''」と引導を渡されて大学院への進学を断念した<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)216ページ/大塚英志『木島日記』(角川文庫)330ページ/大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)228ページ</ref>。大塚は教師も志望していたが、同時期の教員採用試験に落ちてしまった為、翌年の採用試験を受けるまでの生活費を稼ぐために、大学在学中に漫画家のアシスタントのアルバイトをしていたツテで、[[徳間書店]]の雑誌『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』で編集者のアルバイトを始める<ref name="名前なし-6">大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)229ページ</ref>。当初の予定では来年の採用試験までのツナギで、1年間だけ編集者をやる筈だったが、結局教師にはならずに編集者としての人生を歩むことになっていった。大塚はアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、[[徳間書店]]では1981年から1988年まで働いていた。 大塚は最初の半年は、『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』の編集長格の[[校条満]]に編集者の仕事を教えてもらった<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)24~26ページ</ref>。その次に、校条満が担当していた漫画家の[[石ノ森章太郎]]と、[[モンキーパンチ]]と、[[安彦良和]]の原稿の受け取りの仕事を担当した<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)230ページ/大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)96ページ </ref>。この時に[[石ノ森章太郎]]から漫画の[[ネーム (漫画)|ネーム]]の見方について徹底的に指導された<ref name="名前なし-6"/>。後に[[石ノ森章太郎]]が『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』に連載していた漫画『[[幻魔大戦]]』の打ち切りが決定したときは校条満の指示で大塚が石ノ森に打ち切りを宣告しに行った<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)234ページ</ref>。その後、校条満から徳間書店に漫画の持ち込みに来た新人の対応を任せられるようになり、その一人だった[[かがみあきら]]と友人になった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)97ページ </ref>。 『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』の編集部は、アニメ雑誌『[[アニメージュ]]』と同じ徳間書店第二編集局にあった。大塚は『[[アニメージュ]]』の創刊者であり、初代編集長の[[尾形英夫]]にフックアップされ『[[アニメージュ]]』編集部で働くことになる<ref>尾形英夫『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』(オークラ出版 2004年)153ページ</ref>。この時期の『[[アニメージュ]]』副編集長は後に[[スタジオジブリ]]のプロデューサーとして有名になる[[鈴木敏夫]]だった。大塚は『アニメージュ』1982年2月号より連載が開始された[[宮崎駿]]の漫画作品『[[風の谷のナウシカ]]』に、[[鈴木敏夫]]『アニメージュ』副編集長の指示で、連載第1回のみアシスタント業務に参加しており、原稿のスクリーントーン貼りを行った<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)20ページ</ref>。また他誌に『リュウ』の交換広告を届ける過程で『[[コミックボックス|ふゅーじょんぷろだくと]]』編集者の[[小形克宏]]と知己を得る<ref name="ogwata">[[小形克宏]]「山田さんが声をかけてくれなかったら、今日の僕はなかった」『[https://twitter.com/ogwata/status/1689652428004831232 川本耕次に花束を]』迷路'23、2023年、16-30頁。</ref>。 1982年、大塚は[[徳間書店]]の美少女漫画雑誌『[[プチアップルパイ]]』の創刊編集長になる。この雑誌は大塚が徳間書店で最初に企画した雑誌だった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)98ページ </ref>。並行して大塚と小形は「'''ぼくらのまんが誌'''」を実現するため『[[漫画ブリッコ]]』の原型となるプロジェクトをスタートさせる(企画営業は小形がそれまでの活動で培った人脈をフィールドとして始められ、大塚が企画を主導する形となった)<ref name="ogwata"/>。1983年1月、大塚と小形の初コンビ仕事として『COMICキュロットDX』がセルフ出版から刊行。これが『[[漫画ブリッコ]]』のパイロット版となった。ほどなく大塚は憧れの編集者だった[[末井昭]]の下で働こうと思い、徳間書店との兼業で[[白夜書房]](大塚が勤務した当時の社名は「セルフ出版」)のフリー編集者として働き始める<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)396~399ページ</ref>。なお、大塚は[[白夜書房]]では1983年から1985年まで働いた。 1983年春、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『[[漫画ブリッコ]]』(83年5月号~85年9月号、セルフ出版→[[白夜書房]])の編集人となる<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)21ページ </ref>。この時期の大塚は平日の日中は[[徳間書店]]、平日の夜間及び週末は[[白夜書房]]で編集者として兼業で働いていた<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)22ページ </ref>。『[[漫画ブリッコ]]』の編集人となる条件は、『漫画ブリッコ』が万が一、警察から警告もしくは摘発された時に、一人で責任を被って逮捕される事だった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)23ページ/大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)398ページ </ref>。元々、この雑誌は経営不振から半年後に廃刊が決定しており、大塚と小形はあくまでも残務処理担当として編集者を任されていた<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)26ページ </ref>。 ここで大塚は、どうせ廃刊だから商売度外視で好きなことをやってみようと思い、徳間書店に持ち込みに来ていたオタク系の新人漫画家を大量に動員して、『漫画ブリッコ』83年11月号より表紙を少女漫画寄りのイラストに差し替えて、美少女コミック誌としてリニューアルした<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)45ページ/大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)398ページ </ref>。その結果、『漫画ブリッコ』リニューアル号は完売した為、廃刊は撤回され、会社から引き続き美少女コミック路線で続行する事を命じられた<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)27ページ </ref>。特に、大塚英志は『漫画ブリッコ』にて友人でもある漫画家の[[かがみあきら]]の『ワインカラー物語』(「あぽ」名義、83年10月号~84年4月号連載)の連載を担当していた。『ワインカラー物語』は本筋のラブコメとは別に、[[かがみあきら]]本人と大塚英志がモデルの編集者キャラ「'''オーツカ某'''」の2人が毎回登場して、楽屋落ちのネタをやるのが定番のギャグだった。「オーツカ某」というネーミングを考えたのは[[かがみあきら]]であり<ref>大塚英志『あぽことかがみあきらさんが亡くなったことについて。』(『[[漫画ブリッコ]]』1984年10月号掲載)</ref>、「オーツカ某」は大塚英志が『[[漫画ブリッコ]]』に記事を書く時のペンネームとしても使われた。その他に、編集者としては、[[桜沢エリカ]]、[[岡崎京子]]、[[白倉由美]]、[[藤原カムイ]]、などの[[漫画家]]、映画イラストライターの[[三留まゆみ]](早坂みけ)等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。後に大塚英志の妻となる[[白倉由美]]はこの頃の担当漫画家だった。 1984年、大塚英志は[[白夜書房]]が経営する漫画専門書店『[[まんがの森]]』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加した。大塚は『[[リュウ (雑誌)|リュウ]]』(徳間書店)のコラムで、編集していたミニコミ誌を特集した事があった[[おしぐちたかし]]を『[[まんがの森]]』の初代店長にフックアップした。大塚は同人誌系の人脈を[[おしぐちたかし]]に紹介し、『まんがの森』で[[岡崎京子]]、[[桜沢エリカ]]のサイン会を実施した。また、[[おしぐちたかし]]は2018年のインタビューで『[[まんがの森]]』立ち上げについて、「あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚(英志)さんのアイデアが組み込まれている。」<ref>[https://comicstreet.net/interview/editor/takashi-oshiguchi/ 「海外マンガの人々―おしぐちたかしさんインタビュー By 小田切 博 2018-12-17]</ref>と発言している。この頃、[[白夜書房]]のミニコミ誌『[[白夜通信]]』で書いた文章を評価した『漫画ブリッコ』担当営業の[[藤脇邦夫]]に業界誌『[[新文化]]』を紹介され、コラムを書き始める。 同年より、大塚英志は[[徳間書店]]にて[[校条満]]と共に、少年向けマンガ雑誌『[[少年キャプテン]]』立ち上げに参加する。同紙の企画書は大塚英志が描いたとの事である<ref name="名前なし-7">大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)102ページ </ref>。大塚の企画案では雑誌タイトルは『'''ZERO'''』であった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)102ページ </ref>。大塚は看板作家に[[かがみあきら]]を置く予定であり、かがみの才能があれば雑誌を成功させられると確信していた<ref name="名前なし-7"/>。また、同紙で大塚はかがみの他に、[[高屋良樹]]の『[[強殖装甲ガイバー]]』と[[あさりよしとお]]の『[[宇宙家族カールビンソン]]』の担当編集者だった<ref name="名前なし-7"/>。『[[強殖装甲ガイバー]]』は高屋に「[[仮面ライダー]]みたいなまんが描いて」と依頼した<ref>高屋良樹『強殖装甲ガイバー⑳』(角川コミックス・エース:2003年2月1日)巻末の大塚英志による解説 </ref>。 しかし、1984年8月9日に[[かがみあきら]]は自宅で急死してしまう<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)155ページ </ref>。[[かがみあきら]]が亡くなったのは、白夜書房よりかがみの単行本『ワインカラー物語』が刊行されたのとほぼ同時期だった。大塚が白夜書房にかがみあきらの急死を連絡すると、直ちに『ワインカラー物語』の単行本を重版しようと提案されたことで、担当営業の[[藤脇邦夫]]と口論になり、大塚は白夜書房に対する忠誠心を失った<ref name="名前なし-8">大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)158ページ </ref>。[[かがみあきら]]が亡くなった半年後、大塚は『[[漫画ブリッコ]]』紙上で会社に無許可で同紙の休刊を予告したため、社内で問題になり、『漫画ブリッコ』85年9月号にて編集人を降板した<ref name="名前なし-8"/>。この休刊の背景には、前述の藤脇との対立に加え、大塚が企画や原案に関与し、白夜書房から発売された[[アダルトアニメ|18禁アニメ]]ビデオ作品『[[魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく]]』の売れ行き不振があった。 一方、[[徳間書店]]の『[[少年キャプテン]]』は[[かがみあきら]]不在の状態で、1985年1月22日創刊した。創刊編集長は[[校条満]]だった。創刊号は実売発行部数12万部で完売した。また、同紙連載漫画の単行本も順調に売れていた。しかし、看板作家の[[かがみあきら]]の不在や、自社で新人漫画家を育てようとしていた編集部と、大手出版社からベテラン漫画家を引き抜こうとしていた[[徳間書店]]上層部との方針の食い違い等が重なり、『[[少年キャプテン]]』は徐々に迷走していった。『少年キャプテン』は実売発行部数が20万部で頭打ちになった時点で、[[校条満]]が責任を問われて編集長を解任され、これにより大塚も失脚・干されることになった<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)103ページ </ref>。1988年に徳間書店を正式に退職するまでの最後の2年間は、月に一回程、担当の漫画家の原稿の入稿で会社に顔を出し、[[ササキバラ・ゴウ]]などの若手社員と話すだけだった<ref>大塚英志『二階の住人とその時代』(星海社新書:2016年)131ページ、464ページ</ref>。 親友だった[[かがみあきら]]が亡くなったのと、編集者人生を賭けたマンガ雑誌『[[少年キャプテン]]』が失敗したことで、ヤケクソになった大塚英志は、86年頃から他社の中堅クラスの版元の漫画雑誌創刊に参加してはすぐに廃刊になるのを繰り返していた。この頃に大塚が創刊に参加した雑誌には『[[週刊少年宝島]]』([[宝島社]])や『[[月刊コミックNORA]]』([[Gakken|学研]])等がある<ref name="名前なし-9">大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)104ページ </ref>。しかし、同時期に漫画業界への不平不満をぶつけて書いていた、業界誌『[[新文化]]』のコラムが好評となり徐々に評論家として認められていくことになった<ref name="名前なし-9"/>。大塚は翌1987年に、上記の『[[新文化]]』のコラムや、80年代前半の『[[白夜通信]]』に書いていたコラムをまとめた漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』([[弓立社]])で評論家としてデビューした。大塚は同時代の[[ニューアカ]]ブームの影響を受け、大学時代に勉強していた日本[[民俗学]]と、フランス現代思想の[[ポスト構造主義]]をミックスした評論を書いていた。大塚は特に、フランスの現代思想家の[[ジャン・ボードリヤール]]の、「[[ポストモダン]]社会において、商品の価値は使用価値ではなく、記号的な広告価値で決定される」という思想に影響を受けた。大塚は後年、ボードリヤールを「80年代に、自分が最も心酔していた思想家」と回想している<ref>マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』(角川EPUB選書:2015年)巻末の大塚英志による解説 </ref>。 1986年、大塚英志が業界誌『[[新文化]]』に書いた当時の[[角川書店]]の企画や流通の問題点を批判したコラムを読んで激怒した、[[角川書店]]幹部(専務取締役)の[[角川歴彦]]に呼び出しを受けるというトラブルが発生する<ref>大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫:2001年)332ページ /大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)145ページ </ref>。 大塚は、[[角川歴彦]]の側近の[[千葉孝]]を通してホテルのバーに呼び出され、大塚と角川と千葉の3人で話し合いになった。最初は冷静な話し合いだったが、次第に売り言葉に買い言葉で本気の口論となっていった。大塚は[[角川歴彦]]から「'''お前は理屈ばかりだ、悔しかったらヒット作を作ってみろ'''」と一喝されたのを受けて、「'''作ってやる'''」と啖呵を切って席を立った為、大塚と角川の話し合いは20分程で終了した<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)145~146ページ </ref>。しかしその数日後、今度は[[角川歴彦]]の別の側近の[[佐藤辰男]]を通して、[[角川書店]]の雑誌で「ゲームをベースにしたまんが」を作らないかとヘッドハンティングの連絡がきた。この時期の[[徳間書店]]での大塚は、大塚が育てた新人漫画家全員を、徳間書店の正社員の編集者に引き渡すように編集部から圧力をかけられているありさまだったので、この[[角川歴彦]]のヘッドハンティングに乗ることにした<ref name="名前なし-10">大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)145~147ページ </ref>。こうして大塚は、[[角川書店]]の子会社で、角川発行の雑誌の編集及びキャラクター商品の開発などを担当する会社であり、[[角川歴彦]]がオーナーをしていた出版社[[角川メディアオフィス]]にてフリーの編集者として働くことになった。その際、[[徳間書店]]から「徳間ではいらない」と言われていた新人漫画家の、[[田島昭宇]]、[[円英智]]、[[羽衣翔]]の3人を徳間書店から許可をもらった上で角川書店に引き抜いていった<ref name="名前なし-10"/>。しかし、大塚が徳間書店を正式に退職するのは1988年なので、最初の数年間は[[角川メディアオフィス]]と[[徳間書店]]でフリーの編集者として兼業で働いていた。 1987年、大塚英志は[[角川書店]]の雑誌『[[マル勝ファミコン]]』にてファンタジー漫画作品『[[魍魎戦記MADARA]]』(作画:[[田島昭宇]]、世界設定:[[阿賀伸宏]]、 1987年 ~1990年連載)にて漫画原作者デビューした。この時大塚は、大学時代に勉強していた「[[物語論]]」を参考にして『[[魍魎戦記MADARA]]』のシナリオを作成した。大塚は、映画監督の[[ジョージ・ルーカス]]が映画『[[スター・ウォーズ]]』のシナリオ制作時にアメリカの神話学者の[[ジョーゼフ・キャンベル]]の[[物語論]]『千の顔をもつ英雄』を下敷きにした逸話を参考にして、『[[魍魎戦記MADARA]]』ではロシア民俗学者の[[ウラジーミル・プロップ]]の物語論『昔話の形態学』と、フロイト派精神分析学者の[[オットー・ランク]]の物語論『英雄誕生の神話』と、日本民俗学者の[[折口信夫]]の物語論『[[貴種流離譚]]』を下敷きにして、さらに[[手塚治虫]]の漫画『[[どろろ]]』と[[三島由紀夫]]の小説『[[豊饒の海]]』のキャラクター設定をミックスして『[[魍魎戦記MADARA]]』のシナリオを作成した<ref>クリストファー・ボグラー/デイビッド・マッケナ 『物語の法則――強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』(アスキー・メディアワークス:2013年9月26日)巻末の大塚英志による解説/大塚英志『初心者のための「文学」』(角川文庫:2008年)22ページ</ref>。『[[魍魎戦記MADARA]]』はヒット作となり、コミックの売上が10万部に達した時点でゲーム化が決定した<ref>マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』(角川EPUB選書:2015年)263ページ </ref>。同作はその後大塚英志 によって「'''MADARA PROJECT'''」という名称のメディアミックス戦略が展開され、ゲーム化以外にも、小説・OVA・ラジオドラマ等へ幅広く展開したメディアミックスの先駆け的作品となった<ref>マーク・スタインバーグ『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』(角川EPUB選書:2015年)257ページ </ref>。大塚の回想によると、『[[魍魎戦記MADARA]]』のコミックスの売上は最終的に、コミックス各巻の売上がそれぞれ40万部に達した<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)171ページ </ref>。 1988年、大塚英志は崩御する直前だった病床の[[昭和天皇]]を題材にした評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『[[中央公論]]』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした<ref name="名前なし-2"/>。同評論は天皇制を擁護したともとれる内容だったため、大塚の回想によると右翼方面から歓迎されたとの事である<ref>大塚英志『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』(太田出版:1989年)240ページ </ref>。 以降の大塚英志は、80年代末から、90年代全般、2000年代前半にかけて『[[中央公論]]』『[[諸君!]]』『[[Voice (雑誌)|Voice]]』『[[論座]]』『[[正論 (雑誌)|正論]]』といった保守論壇系のメディアで評論家活動をしていた。 大塚は、思想的には比較的「左」の自分が保守論壇にいた理由について、当時の保守論壇は自分たちと立場・思想が異なる人間が評論を発表することに寛容であり、いい意味でゆるかったからと回想で述べている<ref>大塚英志『『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店、2004年)306~308ページ </ref>。 1989年、大塚英志は同年5月に刊行した評論『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年5月刊行)が広告業界からマーケティング理論として高く評価されたのがきっかけで、大塚は1989年から1993年頃まで広告業界のシンクタンクにてマーケティング担当の評論家として雇われていた。この時に大塚が働いていたシンクタンクの一つが[[ぴあ]]総研である<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)242~247ページ </ref>。 1989年7月23日に犯人が逮捕された[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]には衝撃を受け、即時に『漫画ブリッコ』での連載コラムで「[[おたく]]」という言葉を発明した[[中森明夫]]との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。犯人が「[[おたく]]」だったのを事件の原因であるかのように決めつける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていた6000本のビデオテープの中で、実際には100本ほど(約1%)しかなかったホラー作品や性的ビデオに事件の原因を求めるには無理がある」と発言。実際に1990年から1997年に行われた一審では犯人の[[弁護人|特別弁護人]]を務めた(二審以降は弁護団からは距離を取りつつも、一般傍聴人として裁判所に通い続け、2006年1月17日の最高裁での死刑判決時も、傍聴席で判決を直接聞いている<ref>『[[週刊金曜日]]』(2006/01/27発売号)掲載の『宮崎勤被告、最高裁「死刑判決」から抜け落ちた視点 -他者におびえて「近代」を断念してはならない-』(大塚英志)より引用「最高裁の判決は開廷から閉廷まで四十五秒ほどだった。一つの事実として、その事を記しておく。」</ref>)。 === 1990年代 === 1990年、大塚英志は自分の事務所の名称を、「'''物語環境開発'''」とした。「物語環境開発」というネーミングの内、「'''環境開発'''」とはバブル時代によくあった地上げ屋の会社名であり、自分は「'''仮想現実の地上げ屋'''」であるという皮肉が込められている<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)245~246ページ </ref>。一方、「'''物語開発'''」とは、ハリウッド映画にて脚本作成の前段階でのストーリーの企画開発を意味する映画用語の「'''Development Stage'''」を日本語に意訳したものであり、自分はストーリー開発の専門家であるという自負が込められている<ref>大塚英志『宮崎吾朗とディズニー・アート展』(『[[小説トリッパー]]』2006年秋季号掲載)</ref>。 1992年、大塚英志は[[太田出版]]より「太田COMICS芸術漫画叢書」というレーベルを立ち上げ、[[吾妻ひでお]]の漫画『[[夜の魚]]』、『定本 [[不条理日記]]』の二冊を刊行した。これは太田出版の名義を借りただけで、大塚の自費出版だった<ref name="名前なし-11">『[[Comic新現実]] 』Vol.3(角川書店)巻末掲載の大塚英志による編集後記より</ref>。特に『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』は、後の[[吾妻ひでお]]の代表作『[[失踪日記]]』第一話になり、吾妻ひでおは大塚英志にこの原稿を宅配便で送ったその足で『[[失踪日記]]』で描かれた2度目の失踪に入った<ref>吾妻ひでお『逃亡日記』(日本文芸社:2007年)21ページ</ref>。 1992年9月14日、[[角川書店]]社長[[角川春樹]]が、[[角川書店]]副社長であり大塚英志の上司でもある[[角川歴彦]]を、[[角川書店]]副社長職及び[[角川メディアオフィス]]社長職から解任して、[[角川書店]]から追放した。[[角川歴彦]]は直ちに[[角川書店]]の子会社の[[角川メディアオフィス]]全社員71人の内、70人の社員を引き抜いて出版社[[メディアワークス]]を立ち上げため、[[角川書店]]の社長と副社長の対立は、後世に「[[角川騒動]]」と称される同社の分裂騒動に発展した。大塚英志はこの時点でも[[角川メディアオフィス]]の正社員ではなく、フリーの編集者の立場だったが、分裂騒動に首謀者の一人として参加しており、2017年の著作『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)にて、その内幕を詳細に語っている。 [[角川歴彦]]が解任されたその直後から、大塚英志を含む歴彦派の人間は、角川書店で仕事をしている作家やライターと、独立構想と独立後の版権移動について交渉を開始していた<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)179ページ</ref>。大塚の回想によると、[[角川メディアオフィス]]の編集部の人間が私立探偵に尾行調査された疑いがあったため、角川メディアオフィスの秘密会議では外部に情報が漏れないように合言葉を使って、角川書店を分裂させるための謀議を行っていた<ref name="名前なし-12">大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)180ページ</ref>。 当初は歴彦派が[[メディアワークス]]を立ち上げるのに必要な取次口座の当てがなかったため、大塚英志は評論を何冊か出版した付き合いがあり、当時経営不振に落ち込んでいた出版社[[弓立社]]の取次口座を、『[[魍魎戦記MADARAシリーズ]]』の印税をつぎ込んで購入しようとしたが、結局[[主婦の友社]]の口座が使える事になったのでこの計画は実行されなかった<ref name="名前なし-12"/>。 大塚英志は[[メディアワークス]]の資本金の一部の資金調達も行っており、ゲームセンター経営の企業のオーナーの「三浦さん」という人物から、数千万円単位の出資を取り付けていた。この時に大塚は「三浦さん」に[[メディアワークス]]に出資して貰うための保証として、その出資額の1割に相当する金額の[[メディアワークス]]の株を自費で購入した<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)181ページ/大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)247ページ </ref>。そのために、この時期の[[メディアワークス]]の雑誌の一部では、大塚の原作漫画が掲載される時に大塚の肩書が「'''株主原作者'''」とクレジットされていた<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)247ページ </ref>。また、この時に大塚が購入した[[メディアワークス]]株は2017年の時点で全部そのまま保有しているとの事である<ref name="名前なし-13">大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)181ページ</ref>。 1992年10月<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)178ページ</ref>に、[[角川メディアオフィス]]の全社員71人の内の70人が角川書店に事前予告なしで突然一斉に退職した。事態に気づいてパニックになった角川書店側の人間が、漫画家や小説家やライターにお詫びとご説明の電話をするが、大塚英志を含む歴彦派の人間があらかじめ根回しをしていて、「'''お前の会社はどうなっているんだ!そんな雑誌には、もう書けない'''」とわざと激怒して、強引に[[メディアワークス]]に掲載紙を移籍させた<ref name="名前なし-13"/>。特に角川書店の雑誌『[[月刊コミックコンプ]]』では、ある日突然、編集部の編集者全員と、連載していた漫画家のほとんどが、[[メディアワークス]]の新雑誌『[[月刊電撃コミックガオ!]]』に移籍したため、角川書店側に攻撃的な打撃を与えることになった。この時大塚英志は、分裂騒動の事情も知らずに突然抜擢され、編集部がほとんど誰もいなくなった状態で『[[月刊コミックコンプ]]』を立て直さなくてはいけなくなった同紙の新編集長に同情して、『[[月刊コミックコンプ]]』にて新連載漫画の原作を「'''雑誌のページが埋まれば内容は何でもいい'''」という条件で引き受けた<ref name="名前なし-14">大塚英志原作・伊藤真美作画『[[JAPAN (漫画)|JAPAN]] 』第一巻(角川コミックス・エース)大塚英志によるあとがき </ref>。こうして大塚英志は、日本の[[天皇制]]を題材にしたSF漫画『[[JAPAN (漫画)|JAPAN]]』(作画:[[伊藤真美]])や、柳田民俗学を題材にした伝奇漫画『[[北神伝綺]]』(作画:[[森美夏]])、巨大な壁で封鎖された都市で17歳の少年少女達が大人たちと戦争させられる『[[東京ミカエル]]』(作画:[[堤芳貞]])といった自分が本当にやりたかった漫画を角川書店分裂の混乱のどさくさで角川書店の雑誌『[[月刊コミックコンプ]]』に連載させる事で、ゲームやアニメのメディアミックス狙いの漫画原作者で終わりたくないという個人的な野心を実現させた<ref name="名前なし-14"/>。 [[1993年]]8月29日、[[角川書店]]社長[[角川春樹]]が、[[コカイン]]密輸事件で[[麻薬取締法]]違反・[[関税]]法違反・業務上[[横領]]被疑事件で[[千葉県警察]]本部([[千葉南警察署]])により逮捕されるというアクシデントが発生する。これにより[[角川歴彦]]の[[角川書店]]への復帰が決定し、同年10月[[角川歴彦]]は角川書店代表取締役社長に就任した。こうして1年に渡って続いた[[角川書店]]の分裂騒動は大塚英志の所属する歴彦派の逆転勝利で唐突に終了した。92年に[[角川歴彦]]が[[角川書店]]から追放された時、新会社の取次口座も資本金もなく、新しい編集部の受け入れ先のビルも決まっていない状態で、[[角川歴彦]]は完全に失脚する寸前まで追い込まれていた。大塚英志はこのような危機的状況で逃げずに[[角川歴彦]]を支えた部下の一人だった為、93年以降の[[角川歴彦]]支配体制下の[[角川書店]]において、評論家・漫画原作者・小説家として厚遇された。また、その後の角川書店は、大塚に評論家としては書きたいことを好きなように書かしてくれたが、これは大塚の発言によると、漫画原作者・小説家として一定以上の商業的な黒字が出せていることが絶対条件だったとの事である<ref>『[[Comic新現実]] 』Vol.1(角川書店)71~72ページの、大塚英志と安彦良和との対談での、大塚の発言より</ref>。 1994年、大塚は評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』(法藏館:1994年) で[[サントリー学芸賞]]を受賞した<ref name="サントリー文化財団">{{Cite web|和書| title=大塚 英志 『戦後まんがの表現空間 ―― 記号的身体の呪縛』 受賞者一覧・選評 サントリー学芸賞 サントリー文化財団 | website=サントリー | url=https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1994sf2.html | access-date=2022-09-15}}</ref>。この事について、大塚英志は半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』にて「あれは選考委員の一人が、[[青木雄二]]の「[[ナニワ金融道]]」に賞を与えようと言い出して、しかしさすがにまんがを受賞対象にはできない、ああそういえば大塚のまんが評論があった、という冗談みたいな経緯で選ばれてしまったにすぎない。実話である。」と述べている<ref>大塚英志『「おたく」の精神史』(朝日文庫)306ページ </ref>。 1995年、大塚は原作漫画『[[聖痕のジョカ]]』(作画:[[相川有]]。[[1993年]] - [[1995年]]連載)の読者コーナーの常連投稿者だった[[ひらりん]]を大塚の事務所である「物語環境開発」に[[キャラクターデザイナー]]としてスカウトした。[[ひらりん]]は『[[新・聖痕のジョカ]]』(1995年 - [[1997年]]連載)以降の大塚作品のキャラクターの設定デザインを担当している<ref>小説『[[聖痕のジョカ]]』下巻 (本文:[[関口準]]、原作・設定:[[ひらりん]]、電撃文庫:1999年3月25日刊行)のそでの「ひらりん」のプロフィール</ref>。また、大塚の著書『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』にはひらりんの描いた、キャラクターの設定資料の一部が収録されている。 1997年、大塚英志は[[角川書店]]の雑誌『[[月刊少年エース]]』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画『[[多重人格探偵サイコ]]』(作画:[[田島昭宇]]、 1997年 ~2016年連載)を開始した。同作は『[[月刊少年エース]]』1997年1月号より連載スタートの予定だったが、第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写があり、これを見て本気で激怒した角川書店の役員が輪転機を止めた為、当初1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで連載をスタートした<ref>大塚英志『物語消費論改』(アスキー新書:2012年)70~74ページ</ref>。同作は連載が10年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作は大塚英志のプロデュースで、小説・テレビドラマ・ドラマCD・新劇等へ幅広くメディアミックス展開された。 1998年4月より、大塚英志は文芸誌『[[文學界]]』([[文藝春秋]])にて、批評家の[[江藤淳]]の推薦<ref>大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日文庫)739ページ </ref>で文芸評論『サブカルチャー文学論』の連載をスタートした。同連載は『文學界』2000年8月号まで連載されたが、小説家の[[石原慎太郎]]の文学作品を論じた回が編集部から掲載拒否されたのがきっかけで、連載打ち切りになった。その石原論は2002年の第1回[[文学フリマ]]にて手書き原稿で発表された<ref>大塚英志『物語消滅論』(角川Oneテーマ21:2004年)175ページ</ref>。また、『サブカルチャー文学論』は2004年に版元を朝日新聞社に変更して、最終回を書き下ろしで追加して単行本化された。 === 2000年代 === 2000年代以降は、[[東浩紀]]と批評誌『[[新現実]]』を創刊したり<ref group="注釈">コスト削減のために[[DTP]]を使い編集者が一人で編集する雑誌である</ref>、[[市川真人]]と文学作品展示即売会『[[文学フリマ]]』を主催したり、柳田民俗学と[[自然主義文学]]、[[社会進化論]]、[[ナチズム]]、[[オカルティズム]]との関係や[[小泉八雲]]の[[民俗学者]]としての側面を論じた評論や、小説や漫画の入門書を続けて刊行している。 2000年、大塚英志は角川書店の雑誌にて、「死体が動いたらただそれだけで本当は怖い、というホラーの原点に戻ったまんが」というコンセプト<ref>『黒鷺死体宅配便』第2巻(カドカワコミックス・エース)巻末の大塚英志のあとがき</ref>のホラー漫画『[[黒鷺死体宅配便]]』(作画:[[山崎峰水]])を開始した。同作は連載が20年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作はその後、『[[松岡國男妖怪退治]]』『アライアズキ、今宵も小豆を洗う。』のスピンオフ作品が2作制作された。 2000年、大塚英志はテレビドラマ『[[多重人格探偵サイコ]]/雨宮一彦の帰還』(キー局:[[WOWOW]]、放送期間:2000年5月2日 ~5月7日、全六話、監督:[[三池崇史]])を原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングした。ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は、漫画版とはキャラクターの名称や設定をある程度共有しているが、ストーリーは全く異なっている。当初は[[WOWOW]]側が用意した脚本家がいたが、原作者は脚本に口出ししない事を要求してきたので、すぐにクビにして大塚英志が自分で脚本を執筆した(脚本の一部は[[白倉由美]]、[[大塚ギチ]]との共同執筆)<ref>大塚英志『多重人格探偵サイコ REAL』(徳間デュアル文庫:2001年)290ページ</ref>。出演者の内、[[保坂尚輝]]、[[大杉漣]]、[[中嶋朋子]]、[[裕木奈江]]、[[三浦理恵子]]は、大塚英志が個人的にファンだった<ref>大塚英志『多重人格探偵サイコ REAL』(徳間デュアル文庫:2001年)196ページ</ref>。 大塚英志は、妻の[[白倉由美]]と共にオーディションに参加しており、登場人物の一人の[[ロリータ℃]]役には当時無名の新人子役だった[[平野綾]]を抜擢した<ref>大塚英志『多重人格探偵サイコ REAL』(徳間デュアル文庫:2001年)196~199ページ</ref>。 ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は[[平野綾]]の女優デビュー作である。[[平野綾]]の才能に惚れ込んだ大塚は、[[平野綾]]がドラマ版『多重人格探偵サイコ』で演じた役の[[ロリータ℃]]名義で歌ったサウンドトラックアルバム『[[ロリータの温度]]』(作詞:[[白倉由美]]、作曲:[[後藤次利]]、レーベル:[[キングレコード]]、リリース:2001年8月29日)や、[[平野綾]]の同名のイメージ写真集『ロリータの温度』(本文:[[白倉由美]]、写真撮影:[[伊島薫]]、角川書店:2000年12月刊行)をプロデュースした。 大塚英志がドラマ版『サイコ』の監督の選択で条件にしたのは「①低予算で雇える事、②現場でどんなトラブルが起きても最後まで逃げずに作品を完成させられる事、③決してやっつけ仕事ではなく一つの作品として監督できる事」の3点であったので、全部の条件をクリアしている、当時は比較的無名であった映画監督の[[三池崇史]]が選ばれた<ref name="名前なし-15">大塚英志『多重人格探偵サイコ REAL』(徳間デュアル文庫:2001年)285~289ページ</ref>。 大塚英志が[[三池崇史]]を選択した最大の理由は、[[三池崇史]]監督の映画『中国の鳥人』(1998年6月10日公開)を観た事である。『中国の鳥人』は実際に中国の奥地にて撮影された日本映画であるが、途中でロケ隊とはぐれてしまうというトラブルが発生して、監督以下少数の残ったクルーで、とにかく中国奥地の先へ先へと進みながら完成させた映画だった。また、『中国の鳥人』は一つの作品としても素晴らしい映画だったので、大塚英志は「この監督なら何が起きても大丈夫」と思って[[三池崇史]]にオファーした。実際にドラマ版『サイコ』では、大塚の悪い予感が当たって、撮影中に主役俳優の[[保坂尚輝]]が急病で入院してロケからリタイアするというトラブルが発生したが、三池監督は締め切りと予算をキッチリ守って完成させた。大塚は三池監督の現場対応力について感謝と称賛を回想で述べている<ref name="名前なし-15"/>。 また、2002年に大塚英志はテレビドラマ『[[多重人格探偵サイコ]]/雨宮一彦の帰還』全6話を約90分に再編集してドラマ版とは違うストーリーにした劇場公開映画『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』(2002年7月6日公開)をプロデュースした。この時に [[三池崇史]]監督が再編集版の制作に不服を唱えた為、大塚英志は喫茶店で三池崇史本人と直接2人だけで交渉して「再編集版は大塚英志が完全に自由に制作して、三池崇史は一切関わらない」ことを了承させた<ref>『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』のDVD収録の大塚英志によるライナーノートより</ref>。『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』は大塚事務所のスタッフで、「UNDERSELL ltd.」所属の[[菊崎亮]]が再編集を行った。また、一部のシーンは大塚英志が自分で追加撮影した<ref>『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』のDVD収録の大塚英志によるオーディオコメンタリーより</ref>。 2001年、大塚英志は同年[[9月11日]]に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]に衝撃を受け、評論家としては明確に反戦を主張した。 大塚英志は、[[角川書店]]のアニメ雑誌『[[月刊ニュータイプ]]』に連載していた小説『[[試作品神話|MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話]]』の同紙2001年11月号にて、小説作中に作者の大塚英志本人が本筋のストーリーを中断させる形で突然登場して、読者に向かって反戦を訴えた。これは大塚の回想によると、『[[月刊ニュータイプ]]』編集部に事前の相談は一切行わずに、締め切りをギリギリまで引っ張って、これ以上入稿が遅れると雑誌の発売スケジュールが狂うというタイミングで入稿する事で、強引に掲載させたとの事である<ref>大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川文庫:2003年)40ページ</ref>。 また、大塚は[[角川書店]]のライトノベル雑誌『[[ザ・スニーカー]]』にて連載していた、小説の書き方講座の『キャラクター小説の作り方』の同紙2001年12月号にて、書き方講座を一旦中断して、日本の戦後の歴史において[[手塚治虫]]の漫画や[[富野由悠季]]のアニメ等のサブカルチャーがいかにして現実の戦争を受け止めてそれを描いたかを論じる事で、読者に向かって反戦を訴えた<ref>大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川文庫:2003年)60ページ</ref>。 2001年から2002年にかけて、大塚英志は論壇誌『[[中央公論]]』紙上にて、「夢の憲法前文をつくろう」と題した[[日本国憲法]]の前文を自分の言葉で書くという読者参加型投稿企画を連載していた<ref>『[[Comic新現実]] 』Vol.1(角川書店)95ページ</ref>。同企画は『中央公論』連載終了後は、主に中高生を対象にして募集を継続して、『私たちが書く憲法前文』(角川書店:2002年)『「私」であるための憲法前文』(角川書店:2003年)『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店:2004年)『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた憲法前文を読んで考えたことと憲法について考えてほしいこと』(角川書店:2005年)として書籍化された。 2004年3月、[[和光大学]]が[[オウム真理教]]教祖[[麻原彰晃]]の三女を入学拒否した事件で、大塚英志は同年3月に和光大学に抗議して同大学の非常勤講師職を辞職した<ref>『[[創 (雑誌)|創]] 』2005年3月号掲載「和光大学入学拒否問題をめぐる大議論」</ref>。 2004年12月、大塚英志は1984年8月に急死した友人の漫画家の[[かがみあきら]]の個人選集『ワインカラー物語―かがみあきら選集』(ニュータイプ100%コミックス:2004年)を企画・編集・監修して角川書店より刊行した。大塚は選集だけではなく、いつか『[[かがみあきら]]全集』を刊行したいと2004年に述べている<ref>『[[Comic新現実]] 』Vol.1(角川書店)巻末掲載の大塚英志による編集後記より</ref>。 2005年7月5日、大塚英志は文学者の[[中上健次]]の未発表だった未完の長編小説『南回帰船』の所在不明になっていた原稿を発掘して[[角川学芸出版]]より自費出版で刊行した<ref name="名前なし-16">『[[Comic新現実]] 』Vol.6(角川書店)巻末掲載の大塚英志による編集後記より</ref>。大塚英志が初めて文芸評論を書いた時に、大塚の著書『少女民俗学』(光文社:1989年)を読んだ[[中上健次]]が「あいつに文芸評論を書かせるとおもしろい」と言って大塚の知らない所でこっそり推薦してくれていて、大塚は[[中上健次]]の死後にそれを知ったという経緯があった<ref>『[[新現実]]』(角川書店)Vol.3巻末掲載の大塚英志による編集後記より/大塚英志『「南回帰船」劇画原作について』(『[[新現実]]』(角川書店)Vol.3掲載)</ref>。大塚が[[中上健次]]の『南回帰船』を自費出版で刊行したのは、この事への個人的な恩返しという意味があったとの事である<ref>大塚英志『「南回帰船」劇画原作について』(『[[新現実]] 』(角川書店)Vol.3掲載)</ref>。 [[2006年]]4月に[[神戸芸術工科大学]]先端芸術学部メディア表現学科[[教授]]に就任。また[[東京藝術大学]]大学院映像研究科兼任講師として物語理論及び漫画表現論の講義を担当。 2007年、大塚英志は評論『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書:2006年) で第5回[[角川財団学芸賞]]を受賞した。この事について、大塚英志は「本の刊行元が関連する主催者の賞だから、『[[少年マガジン]]』連載作品に[[講談社漫画賞]]が廻ってきたのと同じ以上の意味は当然、持っていない。」と述べている<ref>大塚英志『柳田國男の方法について』(『[[新現実]] 』(太田出版)Vol.5掲載)</ref>。 [[2007年]]7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の[[学位]]を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」<ref name="名前なし-4"/>。 === 2010年代 === 学科改組により[[2010年]]4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。[[2012年]][[国際日本文化研究センター]]客員教授。[[2013年]]3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から[[2014年]]3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。[[2013年]]10月から国際日本文化研究センター研究部教授<ref name="名前なし-3"/>。[[2014年]]から[[2016年]]まで[[東京大学]][[大学院]][[東京大学大学院情報学環・学際情報学府|情報学環]]角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。 2012年から、海外でまんが表現を教育するネットワーク「世界まんが塾」を、[[神戸芸術工科大学]]での元教え子の[[浅野龍哉]]・[[中島千晴]]らと運営している<ref name="名前なし-1"/>。2016年9月の時点で、[[中国]]の[[北京]]、[[韓国]]、[[シンガポール]]、[[フランス]]の[[パリ]]・[[トゥールーズ]]・[[アングレーム]]、[[デンマーク]]、[[イスラエル]]、[[カナダ]]、[[メキシコ]]、[[アメリカ]]の世界9か国11地域で、各都市の国立大学やメイドカフェ、移民居住地区の図書館で、「日本式のまんがの書き方」を教えるワークショップを開催した<ref>大塚英志『世界まんが塾』(角川書店:2017.3)5~6、299ページ</ref>。 2014年5月14日の[[角川書店]]と[[ドワンゴ]]の経営統合発表時には、同年5月17日に[[星海社]]ウェブサイト『最前線』に評論『企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ』を投稿して、「'''KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。'''」とコメントして合併を批判した<ref>[https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/sekaizatsuwa/otsuka-%20essay.html 「大塚英志『企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ』」]</ref>。また、同年9月30日の、[[角川書店]]と[[ドワンゴ]]の合併記念会見にて、大塚は[[川上量生]]による「普段からあまりいいことを言ってくれない人にお願いした」というオファーを受けて、プロモーションビデオに出演する形で記念会見に参加した。大塚英志はそのPVにて、[[角川書店]]・[[ドワンゴ]]の合併を「'''5年後には多分この二つの会社は離婚しているか、もしくは二つ揃って沈没している'''」と発言して[[角川グループ]]会長[[角川歴彦]]と[[ドワンゴ]]会長[[川上量生]]の二人を批判した<ref>[https://web.archive.org/web/20211214081629/https://dengekionline.com/elem/000/000/935/935552/ 「KADOKAWA ドワンゴ記念会見が開催。川上量生氏からニコ動新サービス“ニコキャス”の存在も明らかに」]</ref><ref>『週刊東洋経済』2015年5月30日号36ページ「KADOKAWA・DWANGO 漂流する「世紀の統合」」</ref>。2010年代後半になると、実際にドワンゴが運営する[[ニコニコ動画]]のユーザー減少が指摘されだした<ref>https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1802/08/news107.html</ref>。また[[2022年|8年後]]の9月には[[角川歴彦]]は東京五輪汚職疑惑で逮捕されている<ref>{{Cite web|和書|title=KADOKAWAの角川歴彦会長を逮捕 五輪汚職事件で贈賄容疑 |url=https://www.asahi.com/articles/ASQ9G4WN9Q9GUTIL01G.html|website=朝日新聞デジタル |date=2022-09-14 |access-date=2022-09-14 }}</ref>。 2015年より、海外の若手まんが・アニメ研究者に研究発表の場を提供する研究誌『TOBIO Critiques』([[太田出版]]、2015年~)を私費<ref name="名前なし-1"/>で刊行している。 2015年4月26日、「[[ニコニコ超会議]]2015」の[[日本国憲法]]についての討論イベントに参加した大塚英志は、司会の[[田原総一朗]]の司会進行に抗議して途中退席した<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/10051298/ 「田原総一朗氏が「ニコニコ超会議」で激怒 大塚英志氏が途中退席する事態」]</ref>。 2019年〜2020年に、全国(東京、京都、札幌、静岡、松本、郡山)で巡回された画家の[[アルフォンス・ミュシャ]]の展覧会『みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ─線の魔術』(2019年7月~2020年4月開催)にて大塚英志は「アドバイザー」として参加した<ref>大塚英志『ミュシャから少女まんがへ 幻の画家・一条成美と明治のアール・ヌーヴォー』(角川新書:2019年)364ページ</ref>。 === 2020年代 === 2020年、大塚英志は「[[日文研]]大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として、歴史教科書『日本大衆文化史』(KADOKAWA:2020年、序、4~7章執筆)と、その副読本『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版:2021年2月5日)の執筆・編纂に参加した。 {{節stub}} == 略年譜 == *1958年8月28日[[東京都]][[田無市]](現・[[西東京市]])生まれ。 *高校1年生より漫画家の[[みなもと太郎]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を始める。 *高校2年生の時にギャグ漫画家としてデビューするが、1年で引退した。 *1981年3月[[筑波大学]]第一学群人文学類卒業。 *1981年から1988年に[[徳間書店]]で編集者として働く。 *1982年、[[徳間書店]]で美少女マンガ雑誌『[[プチアップルパイ]]』の創刊編集長になる。 *1983年から1985年に[[白夜書房]]で編集者として働く。 *1983年から1985年に白夜書房で成人向けマンガ雑誌『[[漫画ブリッコ]]』(83年5月号~85年9月号)の編集人となる *1984年、白夜書房が経営する漫画専門書店『[[まんがの森]]』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加。 *同年より、[[徳間書店]]で少年向けマンガ雑誌『[[少年キャプテン]]』創刊に参加。 *1986年から1992年に[[角川メディアオフィス]]で編集者として働く。 *1987年、角川書店の雑誌『[[マル勝ファミコン]]』にてファンタジー漫画作品『[[魍魎戦記MADARA]]』(作画:[[田島昭宇]]、世界設定:[[阿賀伸宏]])で漫画原作者デビューする。 *同年、漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』([[弓立社]])で評論家デビューする。 *1988年、評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『[[中央公論]]』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューする。 *1990年から1997年に、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]の裁判の第一審で犯人の[[弁護人|特別弁護人]]を務めた。 *1992年に発生した[[角川書店]]分裂騒動に伴い、出版社[[メディアワークス]]立ち上げに参加。[[メディアワークス]]の株主になる。 *1994年、評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』([[法藏館]]:1994年)で、第16回[[サントリー学芸賞]]を受賞する。 *1997年、角川書店の雑誌『[[月刊少年エース]]』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画作品『[[多重人格探偵サイコ]]』(作画:[[田島昭宇]])を開始した。同作は連載が19年続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。 *2000年、テレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』(キー局:[[WOWOW]]、放送期間:2000年5月2日 ~5月7日、全六話、監督:[[三池崇史]])を原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングした。 *大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』のオーディションにて登場人物の一人の[[ロリータ℃]]役に、新人子役の[[平野綾]]を抜擢し女優デビューさせた。また、大塚は[[平野綾]]が[[ロリータ℃]]名義で歌ったサウンドトラックアルバム『[[ロリータの温度]]』(作詞:[[白倉由美]]、作曲:[[後藤次利]])や、平野綾の同名のイメージ写真集『ロリータの温度』(本文:[[白倉由美]]、写真撮影:[[伊島薫]])をプロデュースした。 *同年、角川書店の雑誌にてホラー漫画作品『[[黒鷺死体宅配便]]』(作画:[[山崎峰水]])を開始した。同作は連載が20年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。 *2005年、大塚英志は文学者の[[中上健次]]の未発表だった未完の長編小説『南回帰船』の所在不明になっていた原稿を発掘して[[角川学芸出版]]より自費出版で刊行した。 *2006年4月から2013年3月まで、[[神戸芸術工科大学]]先端芸術学部メディア表現学科教授を歴任。 *2007年、評論『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書:2006年)で、第5回[[角川財団学芸賞]]を受賞する。 *2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。 *2012年、[[国際日本文化研究センター]]客員教授就任。 *2013年4月から2014年3月まで、神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授を歴任。 *2013年10月から、国際日本文化研究センター研究部教授就任。 *2014年から2016年まで、[[東京大学]]大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任。 == 批判・論争 == <!-- ; 浅羽通明の批判 : [[浅羽通明]]は『少女民俗学』における分析と立論の杜撰さを痛烈に批判した。 --> ; 小谷野敦の批判 : 大塚は[[田山花袋]]が「小説を書くことが[[自己実現]]であった」と書いているのを非難して、「'''そのような自己実現の手段としての詩や文学を読まされても迷惑だ'''というのが、ぼくのこの国の現在にいたるまでの近代文学に対する基本的感想」としている<ref>大塚「<妹>の運命」現代詩手帖2007年3月号</ref>。この大塚の発言に対して、[[小谷野敦]]は『私小説のすすめ』(平凡社新書、2009年)において、「しかし誰も大塚にそういうものを読むことを強要しても頼んでもいないのであって、仮に頼まれても断ればいいことであり、勝手に読んでおいて迷惑だなどといわれても、こっちが迷惑である」と批判している{{Sfn|小谷野|2009|p=82}}。 : また、小谷野は「大塚の文章は非論理的で、下手というより平然と論理をすりかえる詭弁と直観だけで書いていて、それを実証的に検証しようという姿勢がない」とも評している{{Sfn|小谷野|2009|p=154}}。 ; メディアミックスについて : [[イアン・コンドリー]]などの北米系研究者や[[朝日新聞]]が「[[初音ミク]]」を論じる際に行っている、メディアミックスがユーザーの創造的消費である、という議論については一貫して懐疑的である<ref>{{Cite news|title=【第5回】角川歴彦とメディアミックスの時代 {{!}} 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント|url=http://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/5-4.html|accessdate=2018-07-18|language=ja-JP|work=最前線}}</ref>。 ; [[笙野頼子]]との論争 : 大塚が1980年代に主張した「売れない純文学は[[商品]]として劣る」との主張に対して、[[1998年]]頃、作家[[笙野頼子]]が抗議し、[[純文学論争#1990年代の論争|純文学論争]]が起きた<ref>笙野『ドン・キホーテの「論争」』『徹底抗戦!文士の森』(2005年)</ref>。 {{main|純文学論争#1990年代の論争}} <!-- 内容が[[純文学論争#1990年代の論争]]の項目と重複につき省略 さらに、[[2002年]]には、笙野は『ドン・キホーテの侃侃諤諤』<ref>『[[群像]]』2002年5月号</ref>を発表して大塚の見解を、[[文学]]に商品価値のみを認める見解であり、[[芸術]]としての文学に害を及ぼすものだと批判した。これに対して大塚は、『不良債権としての「文学」』<ref>『群像』2002年6月号、現在もweb上で読むことが出来る。</ref>で、[[漫画]]雑誌の売り上げによって文芸誌の採算の悪さが補われていると主張してそれを批判の根拠とし、対症療法として提案した「既存の流通システムの外に文学の市場を作る」ために、また文学の書き手と読者が出会うための文芸誌ではない具体的な場として「[[文学フリマ]]」を主催したが、これに関しても笙野は、第1回だけに大塚がかかわり、その後事務局体制に移行したことを批判している。笙野の立場は純文学の徹底擁護であり、大塚のような考え方が出てくる背景として、高給取りの編集者こそが「文学は駄目だ駄目だ」という声を発していると批判している<ref>『徹底抗戦!文士の森』(2005年),pp.405-8</ref>。--> == 漫画原作 == === 長編漫画原作 === ※()内の年はその漫画の単行本が刊行された年ではなく、連載されていた年で統一されている(『贖いの聖者』は書き下ろしのため単行本の刊行年)。<br> ※幾つかの作品には共通のキャラクター(大江公彦、笹山徹、犬彦、スパイMなど)が登場する。<br> ※大塚自身は代表作として『[[北神伝綺]]』『[[木島日記]]』『[[八雲百怪]]』の三部作を挙げている<ref>『偽史としての民俗学』(角川書店)の「あとがき」より</ref>。 * [[魍魎戦記MADARA]] 全5巻(作画:[[田島昭宇]]、1987年〜1990年) * [[MADARA転生編|魍魎戦記MADARA 転生編]] 全1巻(作画:[[田島昭宇]]、1990年〜1991年) ** マンガ版では未完だが、2003年に小説『僕は天使の羽根を踏まない』が刊行され、小説の形で物語は完結した。 * [[魍魎戦記MADARA摩陀羅弐]] 全3巻(作画:[[田島昭宇]]、1990年〜1992年) * [[贖いの聖者]] 全1巻(作画:[[白倉由美]]、1991年) * [[幼稚園戦記まだら]] 全5巻(作画:[[義見依久]]、1992年〜1996年)<ref group="注釈">第4巻の大塚英志による「あとがき」によると、大塚は「原案」だけでなく毎回シナリオを書いていたそうである。</ref> * [[魍魎戦記MADARA赤]] 全3巻(作画:[[田島昭宇]]、1992年〜1994年) * [[聖痕のジョカ]] 全5巻(作画:[[相川有]]、1993年〜1995年) * [[東京ミカエル]] 上下(作画:[[堤芳貞]]、1993年1月〜同年10月、2000年) * [[JAPAN (漫画)|JAPAN]] 全3巻(作画:[[伊藤真美]]、1993年4月〜1994年10月、第一部完) * [[MADARA青]] 全5巻(作画:[[花津美子]]、1993年〜1997年) * [[芙蓉姫退屈記]] 全2巻(作画:[[義見依久]]、1994年〜1996年) * [[戦国群笑伝 少年忍者バサラくん]] 全3巻(作画:[[義見依久]]、1994年〜1997年) * [[北神伝綺]] 上下(作画:[[森美夏]]、1994年〜1996年?) * [[MADARA影]] 全1巻(作画:[[高橋明 (漫画家)|高橋明]] 、1994年〜1995年、未完) * [[MADARA四神篇]] 全1巻(作画:[[星樹]]、 1994年頃) - 台湾のコミック誌『FIRST』に連載された<ref>『MADARA影』p.158の「MADARA」現代版関係図</ref>。 * [[新・聖痕のジョカ]] 全5巻(作画:[[相川有]]、1995年〜1997年) * [[機械生物都市ノーランド]] 全3巻(作画:[[高橋明 (漫画家)|高橋明]] 、1996年〜1997年) * [[イイナ 〜Feel for Love〜]] 上下(作画:[[成瀬かおり]]、1997年〜1998年) - 原作者としてのクレジット表記は「[[S-nery Angel]]」 * [[多重人格探偵サイコ]] 全24巻(作画:[[田島昭宇]]、1997年〜2016年) * [[木島日記]] 上中下(作画:[[森美夏]]、1998年〜2003年) ** マンガ版では未完だが、2017年に小説『木島日記 もどき開口』が刊行され、小説の形で物語は完結した。 * [[超鉄大帝テスラ]] 上下(作画:[[大野安之]]、1998年〜1999年、第一部完) * [[口裂け少女さっちゃん]] 全2巻(作画:[[大橋薫]]、1999年〜2000年) * [[リヴァイアサン (漫画)|リヴァイアサン]] 全12巻(作画:[[衣谷遊]]、1999年〜2005年) * [[黒鷺死体宅配便]] 1〜28巻(作画:[[山崎峰水]]、2000年〜) - 『[[ヤングエース]]』にて連載中 * [[多重人格探偵サイチョコ]] 全4巻(作画:[[ひらりん]]、2001年〜2010年) * [[くもはち#くもはち。|くもはち。]](作画:[[西島大介]]、2003年〜2005年) - 大塚は「原案」としてクレジットされている * [[探偵儀式]] 全6巻(原作:[[清涼院流水]]、作画:[[箸井地図]]、2003年〜2009年) * [[アンラッキーヤングメン]] 全2巻(作画:[[藤原カムイ]]、2004年〜2006年) * [[オクタゴニアン]] 1巻(作画:[[杉浦守]]、2004年〜2005年、未完) * [[八雲百怪]] 全5巻(作画:[[森美夏]]、2005年〜2021年) * [[くもはち]] 全1巻(作画:[[山崎峰水]]、2005年) * [[東京事件]] 1〜2巻(作画:[[菅野博之]]、2005年〜2008年、未完) * [[松岡國男妖怪退治]] 1〜4巻(作画:[[山崎峰水]]、2006年〜)- 『黒鷺死体宅配便』のスピンオフ作品 * [[逆走少女]] 全2巻(脚本:[[久保田浩康]]、作画:[[ともぞ|ともぞカヲル]]、2007年〜2008年) * [[とでんか]] 全7巻(作画:[[樹生ナト]]、2007年〜2013年) * [[三つ目の夢二]] 全2巻(作画:[[ひらりん]]、2008年〜2010年、第一部完) * [[死舞能]] 1巻(作画:[[谷岡曜子]]、2011年〜未完) * とでんか少年探偵団 全1巻(作画:[[樹生ナト]]、2011年〜2012年)- 『とでんか』のスピンオフ作品 * まんがでわかる物語の学校 全1巻(作画:[[野口克洋]]、2012年〜2013年)- 大塚は「構成」としてクレジットされている * [[恋する民俗学者]] 全2巻(作画:[[中島千晴]]、2013年〜2019年) ** 2014年5月に[[角川コミックス・エース]]より第1巻のみ刊行。その後、2016年4月から2019年9月に『[[コミックウォーカー]]』に連載され、2021年3月に[[角川コミックス・エース]]の既刊分と『[[コミックウォーカー]]』連載分をまとめた上で大幅に加筆修正して再構成し、第1巻「[[柳田國男]]編」・第2巻「[[田山花袋]]編」として全2巻で[[KADOKAWA]]より刊行された。 * [[クウデタア]] 全1巻(作画:[[西川聖蘭]]、2015年〜2016年) ** 2015年4月に前半部分が『アンラッキーヤングメン クウデタア』([[イースト・プレス]])として書き下ろしで刊行。その後、後半部分が2015年8月から2016年7月に『[[コミックウォーカー]]』に連載され、2017年10月に前半部分と後半部分をまとめて『クウデタア 完全版』([[角川書店]])として全1巻で刊行された。 * まんがでわかるまんがの歴史 全1巻(作画:[[ひらりん]]、2015年5月〜2017年9月) * [[アライアズキ、今宵も小豆を洗う。]]全3巻(作画:山崎峰水、2015年〜2017年)- 『黒鷺死体宅配便』のスピンオフ作品 * ぼくとぬえちゃんの百一鬼夜行 全3巻(作画:[[樹生ナト]]、2015年〜2017年) * [[東京オルタナティヴ]](作画:[[西川聖蘭]]、2017年9月〜) - 『[[ヤングエース]]』連載中 * まんがでわかるまんがの描き方 1巻(作画:[[砂威]]、カリキュラム構成:[[浅野龍哉]]、2017年11月〜) - 『ヤングエース』連載中 ** 2022年9月に、『ヤングエース』2019年7月号〜2022年9月号連載分を『まんがでわかる縦スクロールまんがの描き方』と改題して[[KADOKAWA]]より単行本化された。 * [[くだんのピストル]] 1〜3巻(作画:山崎峰水、2021年1月〜) - 『ヤングエース』連載中 * 文化工作者 七條特高の冒険(作画:西川聖蘭、2022年11月〜<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/500109|title=「文化工作者 七條特高の冒険」大塚英志×西川聖蘭で描く、魔都上海での映画撮影|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-11-04|accessdate=2022-11-04}}</ref>) - 『ヤングエース』連載中 * ゾンビ姫に抱っこ!(作画:浅野龍哉、2023年3月〜) - 『タテスクコミック』連載中 * 多重宇宙探偵サイチョコ(作画:ひらりん、2023年4月〜) - 『ヤングエース』連載中 {{節スタブ}} === 短編漫画原作 === * デパートのアリス(作画:[[白倉由美]]、1992年) - 『imago1992年2月号 特集=はやり神の心理学』掲載 * 幻王朝影帝編<序>(作画:[[堤芳貞]]、1992年) - 『スーパーコンプVol.1 魍魎戦記MADARA公式サイドストーリー』(1992年11月10日発売)収録。 * 白い闇の王(作画:[[黒娜さかき]]、1992年) - 『スーパーコンプVol.1 魍魎戦記MADARA公式サイドストーリー』(1992年11月10日発売)収録。 * 妖怪小戦争(作画:[[西島大介]]、2004年) - 『[[エース特濃]]』Vol.9掲載 {{節スタブ}} == 小説 == === 長編小説 === * [[摩陀羅 天使篇]] 1〜3巻(電撃文庫:1994年〜1995年、未完) * [[多重人格探偵サイコ]]1 情緒的な死と再生(角川スニーカー文庫:1998年) * 多重人格探偵サイコ2 阿呆船(角川スニーカー文庫:1998年) * MADARA MILLENNIUM 転生編 1(角川スニーカー文庫:1999年) * 冬の教室(徳間デュアル文庫:2000年) ** [[白倉由美]]演出・脚本の同名の朗読ドラマ(1997年発売)のノベライズ * 多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還(講談社ノベルス:2000年、角川文庫:2003年) * [[木島日記]](角川書店:2000年、角川文庫:2003年、角川文庫改版:2017年) - 第22回[[吉川英治文学新人賞]]候補作 * 多重人格探偵サイコ FAKE 全3巻(角川スニーカー文庫:2000年〜2001年) ** テレビドラマ版の脚本を[[許月珍]]名義でノベライズしたもの。 * 木島日記 乞丐相(角川書店:2001年、角川文庫:2004年、角川文庫改版:2017年) * 多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件(『情緒的な死と再生』を改題。講談社ノベルス:2002年、角川文庫:2003年) * 多重人格探偵サイコ 西園伸二の憂鬱(『阿呆船』を改題。講談社ノベルス:2002年、角川文庫:2003年) * [[リヴァイアサン (漫画)|リヴァイアサン]] (講談社ノベルス:2002年、電撃文庫:2004年) * 多重人格探偵サイコ・フェイク(角川書店:2002年) ** 上記の『多重人格探偵サイコ FAKE』角川スニーカー文庫全3巻を再編集して1冊にまとめて加筆したもの。 * 僕は天使の羽根を踏まない(徳間書店:2003年、徳間デュアル文庫:2005年) ** 『MADARA MILLENNIUM 転生編 1』の結末部分を大幅に加筆して改題したもの。 * [[ロリータ℃]]の素敵な冒険(徳間書店:2004年、徳間デュアル文庫:2005年、『[[ザ・スニーカー]]』1997年12月号~1999年4月号連載) * [[くもはち]](角川書店:2003年、角川文庫:2005年) * 夏の教室(徳間書店:2007年。『夏の教室』『冬の教室』『海辺の教室』を収録) * 小説 アトム大使(角川つばさ文庫:2009年。[[手塚治虫]]の同名の漫画のノベライズ) * [[零 〜ゼロ〜 女の子だけがかかる呪い]](角川ホラー文庫:2014) * 代筆屋中川恭次郎の奇っ怪なる冒険(角川ホラー文庫:2014) * [[木島日記]] もどき開口(角川書店:2017年。『[[怪 (ムック)|怪]]』vol.0026(2009年4月)~vol.0047(2016年3月)連載) * 木島日記 うつろ舟(星海社:2022年7月28日発売。『KADOKAWAミステリ』2002年4〜5、7〜11月号、2003年1、3月号連載) * [[北神伝綺]] (星海社:2022年8月31日発売。『[[メフィスト (文芸誌)|メフィスト]]』2001年1月号~2001年9月号連載) * 北神伝綺 妹の力(星海社:2022年9月28日発売、『ザ・スニーカー』2006年6月号~2007年6月号連載) * 木島日記 もどき開口 上・下巻(星海社:2023年4月26日発売。2017年 角川書店刊の再発) === 短編小説 === * 実録・都市伝説 <人面犬>の秘密(角川文庫:『定本 物語消費論』収録、1991年) * 彼女の海岸線(徳間デュアル文庫:『NOVEL21 少女の空間』収録、2001年。[[白倉由美]]の同名の漫画のノベライズ) * 渡久地菊夫の失敗 そのような題名の単行本には収録されないプロローグ(角川文庫:『雨宮一彦の帰還』収録、2003年) * 昨日はもう来ない だが明日もまた……(徳間デュアル文庫:『手塚治虫COVERエロス篇』収録、2003年。[[手塚治虫]]の漫画『[[ふしぎなメルモ]]』のノベライズ) * イージーライフ。あるいは昔ここにいてもういない(政治少年)のこと。(『ユリイカ2011年11月号 特集=やくしまるえつこ』掲載。[[白倉由美]]との合作) === 未単行本化作品 === * [[試作品神話|MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話]](ドラマ版『多重人格探偵サイコ』の続編で[[月刊ニュータイプ]]に連載された。2009年に文庫化された同名の絵本とは内容は無関係。1stシーズンは2000年9月号~2001年12月号、2ndシーズンは2002年8月号〜2003年4月号に連載。以下のものが現在入手できる) ** DSM-X.101:Learning Disorder NOS 特定不能学習障害(1stシーズン第1話。角川スニーカー文庫・『多重人格探偵サイコ FAKE』第3巻収録) ** 多重人格探偵サイコと突然の平和論(1stシーズン第15話。角川文庫・『サブカルチャー反戦論』収録) ** DSM-X-200.4 Schizoaffective Disorder 分裂感情障害(2ndシーズン第9話。角川文庫・『サブカルチャー反戦論』収録) * [[多重人格探偵サイコ]] 渡久地菊夫の失敗(講談社ノベルスにて、2002年<ref>『多重人格探偵サイコ 小林洋介の最後の事件』(講談社ノベルス:2002年)の帯文</ref>刊行予定だった) ** 小説版『多重人格探偵サイコ』のシリーズ第4作として、『雨宮一彦の帰還』(講談社ノベルス:2000年)の巻末の「自作以降の予定」でアナウンスされた。しかし、角川文庫版『雨宮一彦の帰還』(2003年)に、プロローグである『渡久地菊夫の失敗 そのような題名の単行本には収録されないプロローグ』が収録されたのみで、本編は結局刊行されなかった。 *「[[角川グループ]]会長[[角川歴彦]]の伝記小説(タイトル不明)」 **[[角川書店]]ではなく、ある大手ゲームメーカー(大塚は具体的な会社名は伏せている)から2013年頃に出版される予定だった。大塚英志は、角川歴彦が少年期をすごした阿佐ヶ谷の街、離婚協議の間預けられた父の生家、実母が晩年暮らした街での現地取材や、関係者への取材を行った。大塚は、よくあるお偉いさんの無難な伝記小説ではなく、[[角川春樹]]と[[角川歴彦]]の兄弟の対立を「'''兄弟の光と闇の確執的なラノベ'''」として描いた。小説は最後まで書き上げられたが、出版社と関係者の判断によって[[封印作品]]にされた。大塚英志はせっかく集めた資料がムダになるのが悔しかったので、それらを元にして、[[角川歴彦]]の伝記小説ではなく、角川書店の歴史について論じた評論『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』を2017年に[[星海社]]新書から刊行した。また、この時に大塚が執筆した小説の断片が、星海社ウェブサイト『最前線』に連載された評論『角川歴彦とメディアミックスの時代』【第3回】に再録されている<ref>大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年)185~186ページ /[https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/1964-1964.html 「大塚英志『角川歴彦とメディアミックスの時代』【第3回】世界を蹂躙された子どもは「日の丸プラットフォーム」の夢を見るのか」]</ref>。 == 脚本 == * 多重人格探偵サイコ REAL(徳間デュアル文庫:2001年、「多重人格探偵サイコ」のドラマ版の脚本) * 多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の消滅(角川書店:2005年、「多重人格探偵サイコ」の舞台版の脚本) == 絵本 == * [[試作品神話]] (絵:[[西島大介]]、角川書店:2006年、角川文庫:2009年) * [[きみはひとりでどこかにいく]] (絵:[[七字由布]] 、太田出版:2010年) * [[のろい屋しまい|ヨヨとネネとかいじゅうのタネ]](絵:[[ひらりん]] 、徳間書店:2013年) == 映像作品 == 成人向けアニメビデオ * 『[[魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく]]』(1985年7月10日発売、制作:[[白夜書房]]、企画:STUDIO ZAG・ART、キャラクターデザイン:[[森野うさぎ]]) ** 大塚英志は「大塚某」名義で「原案」とクレジットされている。 テレビドラマ * 『[[多重人格探偵サイコ]]/雨宮一彦の帰還』(キー局:[[WOWOW]]、放送期間:2000年5月2日 ~5月7日、全六話、監督:[[三池崇史]]、DVD全3巻) ** 大塚英志は原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングで参加した。 劇場公開映画 * 『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』(2002年7月6日公開、DVD全1巻) ** 上記のテレビドラマ『雨宮一彦の帰還』を[[菊崎亮]]([[UNDERSELL ltd.]])が再編集した大塚英志プロデュースによる劇場公開作品。 劇場公開アニメ映画 * 『[[魔女っこ姉妹のヨヨとネネ]]』(2013年12月28日公開、原作:[[ひらりん]]『[[のろい屋しまい]]』、監督:[[平尾隆之]]) ** 大塚英志は「原作プロデューサー」とクレジットされている。 == CD作品 == ===ドラマCD・朗読CD=== *『MADARA―青 ギルガメシュ・サーガ』 前編・後編(レーベル:BMGビクター、前編リリース:1995年12月26日、後編リリース:1996年2月21日) **原作:大塚英志・[[花津美子]]、制作:MADARA PROJECT、プロデューサー・脚本:大塚英志、音楽:[[伊藤信雄]] *『[[聖痕のジョカ]]』全3巻(レーベル:EMIミュージック・ジャパン、VOL.1「ブランク・ルーンの章」リリース:1996年12月18日、VOL.2 「神獣天檀」リリース:1996年8月7日、VOL.3「アル=アジフの悪夢」リリース:1996年9月11日) **原作:大塚英志・[[相川有]]、企画:物語環境開発、プロデューサー・ライナー:大塚英志、脚本:香取真理、大塚英志(『制服のジョカ』)、音楽:[[藤原いくろう]] *『Baby Baby』(レーベル:東芝EMI)、リリース:1996年12月18日) **原作:[[田島昭宇]]、プロデューサー:大塚英志、演出・脚本:[[白倉由美]]、リーディング:[[中川亜紀子]]、音楽:[[吉川清之]] *『冬の教室』(レーベル:東芝EMI、リリース:1997年3月19日) **原作・プロデューサー:大塚英志、演出・脚本:[[白倉由美]]、リーディング:[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、音楽:[[吉川清之]]、キャラクターイメージ:[[田島昭宇]] *『飛ぶ教室、その他の短編』(発売:[[マリン・エンタテインメント]]、販売:[[バンダイグループ|バンダイ・ミュージックエンタテインメント]]、リリース:1997年4月21日) **演出・脚本:[[白倉由美]]、プロデューサー:大塚英志、リーディング:[[桑島法子]]、[[飯塚雅弓]]、[[中川亜紀子]]、[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]他 *『リーディングストーリー MADARA天使編―麒麟』(レーベル:[[キングレコード]]、リリース:1997年12月3日) **原作・プロデュース:大塚英志、演出・脚本:[[白倉由美]]、朗読:[[飯塚雅弓]]、音楽:[[岸本友彦]]、イラストレーション:[[田島昭宇]] *『MPD-PSYCHO サイコ サウンド・ストーリー』(レーベル:[[ソニーレコード]]、リリース:1998年5月30日) **監督:[[白倉由美]]、脚本:[[白倉由美]]・大塚英志、音楽制作:ファースト・スマイルエンターテイメント、イラストレーション:[[田島昭宇]] *『サウンド・ストーリー ミルナの禁忌』(SPEビジュアルワークス、リリース:1998年11月21日) **原作・演出・脚本:[[白倉由美]]、プロデューサー:大塚英志、キャラクターデザイン:[[内藤泰弘]]、出演:[[成田紗矢香]]他 ===サウンドトラック=== *『[[ロリータの温度]]』(『[[多重人格探偵サイコ]]/雨宮一彦の帰還』サウンドトラック) (レーベル:[[キングレコード]]、リリース:2001年8月29日) **ボーカル:[[平野綾]]、企画:大塚英志、作詞:[[白倉由美]]、作曲:[[後藤次利]] *『MPD-PSYCHO CD/Strange New World』(レーベル:[[角川書店]]、リリース:2001年) **ヴォーカル:[[ルーシー・モノストーン]]、企画:大塚英志、プロデューサー:[[後藤次利]]、訳詞・ライナーノート:[[三木・モトユキ・エリクソン]] *『白倉由美ベストセレクションVOL.4 声優ボーカル集』(発売:モモアンドグレープス、販売:[[キングレコード]]、リリース:2004年2月25日) **企画:物語環境開発、全作詞・挿絵:[[白倉由美]]、プロデューサー:大塚英志、ジャケットデザイン:[[大塚ギチ]] *『「私」であるための憲法前文』 (レーベル:[[アブソードミュージックジャパン]]、リリース:2004年4月21日) **企画:物語環境開発、プロデューサー:大塚英志、サウンドプロデューサー:[[大川正義]]、voice:[[裕木奈江]]、[[池田香代子]]他 *『リヴァイアサン 終末を告げし獣』(『[[リヴァイアサン (漫画)|リヴァイアサン]]』イメージアルバム、レーベル:モモアンドグレープス、リリース:2005年3月2日) ** 作詞・作曲・編曲:[[Revo]]、original author:大塚英志 ** 2005年当時の大塚の発言によると、大塚は最初[[スクリーミング・マッド・ジョージ]]に発注したが、間に入った人の判断で[[Revo]]に発注されたとの事である<ref>『[[Comic新現実]]』Vol.2(角川書店)及びVol.3巻末掲載の大塚英志による編集後記より</ref>。 == 評論 == === 単著 === * 『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』([[弓立社]]:1987年) ** 『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象 増補新版』(弓立社:1988年) * 『システムと儀式』([[本の雑誌社]]:1988年、[[ちくま文庫]]:1992年) * 『[[物語消費論]]――「ビックリマン」の神話学』([[新曜社]]:1989年、『定本 物語消費論』角川文庫:2001年、星海社新書:2021年) * 『少女民俗学――世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』([[光文社]]:1989年、光文社文庫:1997年) * 『子供流離譚――さよなら〈コドモ〉たち』(新曜社:1990年) * 『見えない物語――「騙り」と消費』(弓立社:1991年) * 『たそがれ時に見つけたもの――『[[りぼん]]』のふろくとその時代』([[太田出版]]:1991年) ** 『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』(ちくま文庫:1995年) * 『物語治療論――少女はなぜ「カツ丼」を抱いて走るのか』([[講談社]]:1991年) * 『「癒し」としての消費』([[勁草書房]]:1991年) * 『仮想現実批評――消費社会は終わらない』(新曜社:1992年) * 『人身御供論――供犠と通過儀礼の物語』(新曜社:1994年) ** 『人身御供論――通過儀礼としての殺人』(角川文庫:2002年) * 『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』([[法藏館]]:1994年)、第16回[[サントリー学芸賞]]受賞 * 『戦後民主主義の黄昏――わたしたちが失おうとしているもの』([[PHP研究所]]:1994年) * 『「彼女たち」の[[連合赤軍]]――サブカルチャーと戦後民主主義』([[文藝春秋]]:1996年、角川文庫:2001年) * 『物語の体操――みるみる小説が書ける6つのレッスン』([[朝日新聞社]]:2000年、[[朝日文庫]]:2003年)、『[[小説トリッパー]]』1999年夏季号~2000年秋季号連載 ** 『物語の体操――物語るための基礎体力を身につける6つの実践的レッスン』([[星海社新書]]:2013年) * 『サブカルチャー反戦論』([[角川書店]]:2001年、角川文庫:2003年) * 『戦後民主主義のリハビリテーション――論壇でぼくは何を語ったか』(角川書店:2001年、角川文庫:2005年) ::『[[GQ]]』1999年9月号~2001年3月号、『[[Voice (雑誌)|Voice]]』2000年3月号~2001年4月号連載の時評と『[[諸君!]]』『[[論座]]』『[[中央公論]]』等の論壇誌に掲載した評論をまとめたもの * 『[[江藤淳]]と少女フェミニズム的戦後――サブカルチャー文学論序章』([[筑摩書房]]:2001年、ちくま学芸文庫:2004年) * 『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書:2003年、角川文庫:2006年、星海社新書:2013年)、『[[ザ・スニーカー]]』連載 * 『アトムの命題――手塚治虫と戦後まんがの主題』(徳間書店・アニメージュ叢書:2003年、角川文庫:2009年) * 『少女たちの「かわいい」天皇――サブカルチャー天皇論』(角川文庫:2003年) * 『「おたく」の精神史――1980年代論』(講談社現代新書:2004年、朝日文庫:2007年、星海社新書:2016年) ::『[[諸君!]]』1999年10月号~2000年10月号連載を大幅に改訂 * 『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社:2004年、朝日文庫:2007年)、『[[文學界]]』1998年4月号~2000年8月号連載 * 『物語消滅論――キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川Oneテーマ21:2004年) * 『「伝統」とは何か』(ちくま新書:2004年) **『公民の民俗学』(作品社:2007年)、上記に補論を加えた改題改訂版 * 『憲法力――いかに政治のことばを取り戻すか』([[角川oneテーマ21]]:2005年) * 『更新期の文学』([[春秋社]]:2005年)、『[[早稲田文学]]』2004年5月号~2005年5月号連載 * 『初心者のための「文学」』(角川書店:2006年、角川文庫:2008年)、『[[ザ・スニーカー]]』2004年4月号~2005年12月号連載 * 『[[村上春樹]]論――サブカルチャーと倫理』(若草書房:2006年) * 『「捨て子」たちの民俗学――[[小泉八雲]]と柳田國男』(角川選書:2006年)、第5回[[角川財団学芸賞]]受賞 ::『本』([[講談社]])2004年9月号~2005年3月号、『[[本の旅人]]』2005年5月号~2006年3月号連載 * 『怪談前後――柳田民俗学と自然主義』(角川選書:2007年)、『[[群像]]』2002年8月号~2004年2月号連載 * 『偽史としての民俗学―柳田國男と異端の思想』(角川書店:2007年<ref group="注釈">奥付の発行年が平成17年5月となっているのは誤植であり、平成19年5月が正しい</ref>) ::『[[怪 (ムック)|怪]]』角川書店 vol.0011(2001年8月)~vol.0020(2006年1月)連載 * 『護憲派の語る「改憲」論――日本国憲法の「正しい」変え方』(角川oneテーマ21:2007年) * 『キャラクターメーカー――6つの理論とワークショップで学ぶ「つくり方」』([[アスキー新書]]:2008年、星海社新書:2014年) * 『ストーリーメーカー――創作のための物語論』(アスキー新書:2008年、星海社新書:2013年) * 『物語論で読む村上春樹と[[宮崎駿]]――構造しかない日本』(角川oneテーマ21:2009年) * 『大学論――いかに教え、いかに学ぶか』(講談社現代新書:2010年) * 『映画式まんが家入門』(アスキー新書:2010年) * 『物語の命題――6つのテーマでつくるストーリー講座』(アスキー新書:2010年) * 『「妹」の運命――萌える近代文学者たち』([[思潮社]]:2011年)、『[[現代詩手帖]]』2006年9月号~2008年4月号連載 * 『[[手塚治虫]]が生きていたら 電子コミックをどう描いていただろう 大塚教授の漫画講座』(徳間書店:2011年) * 『神話の練習帳――物語作者になるためのドリル式ストーリー入門』(キネマ旬報社:2011年) * 『物語消費論改』(アスキー新書:2012年) * 『ミッキーの書式 戦後まんがの戦時下起源』(角川叢書:2013年) * 『社会を作れなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』(角川EPUB選書:2014年) * 『メディアミックス化する日本』(イースト新書:2014年) * 『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』(星海社新書:2016年)、『熱風』([[スタジオジブリ]]発行:2012年2月号~2014年6月号連載) * 『感情化する社会』(太田出版:2016年) * 『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書:2017年) * 『殺生と戦争の民俗学 柳田國男と[[千葉徳爾]]』(角川選書:2017年)、『[[怪 (ムック)|怪]]』vol.0035(2012年3月)~vol.0047(2016年3月)連載 * 『[[大政翼賛会]]のメディアミックス:「翼賛一家」と参加するファシズム』(平凡社:2018年) * 『手塚治虫と戦時下メディア理論 文化工作・記録映画・機械芸術』(星海社新書:2018年、資料協力:[[牧野守]]) * 『感情天皇論』([[ちくま新書]]:2019年) * 『[[ミュシャ]]から少女まんがへ 幻の画家・[[一条成美]]と明治のアール・ヌーヴォー』([[角川新書]]:2019年) * 『文学国語入門』([[星海社新書]]:2020年) * 『「暮し」のファシズム 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってきた』([[筑摩選書]]:2021年) * 『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』(星海社新書: 2021年) * 『大東亜共栄圏のクールジャパン 「協働」する文化工作』([[集英社新書]]:2022年) * 『シン・論 おたくとアヴァンギャルド』(太田出版:2022年) * 『まんが原作・原論 理論と実践』(星海社新書: 2023年) * 『「14歳」少女の構造 大塚英志まんが評論選集』(ちくま文庫:2023年)、[[1980年代]]から[[1990年代|90年代]]の集成 === 共著 === * ([[荷宮和子]])『クマの時代――消費社会をさまよう者の「救い」とは』(光文社:1993年) * ([[ササキバラ・ゴウ]])『教養としての「まんが・アニメ」』(講談社現代新書:2001年) * ([[大澤信亮]])『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』(角川oneテーマ:2005年) * ([[川口創]])『「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』(角川グループパブリッシング:2009年) * (川口創)『今、改めて「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』(星海社新書:2015年) * (世界まんが塾)『世界まんが塾』(角川書店:2017.3) * ([[日文研大衆文化研究プロジェクト]])『日本大衆文化史』(KADOKAWA、2020年) -「日文研大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として、序、4~7章執筆に参加 === 対談集 === * 『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』([[中森明夫]]との対談、太田出版:1989年) * 『密室―女高生監禁殺害・コンクリ詰め事件 幼女連続殺害事件』([[芹沢俊介]]との対談、春秋社:1990年) * 『中村うさぎのすきだぜっ!!ファンタジー』([[中村うさぎ]]の対談相手の一人、メディアワークス:1997年5月25日) * 『だいたいで、いいじゃない。』([[吉本隆明]]との対談、文藝春秋:2000年、文春文庫:2003年) * 『最後の対話――ナショナリズムと戦後民主主義』([[福田和也]]との対談、PHP研究所:2001年) * 『戦争と平和』([[富野由悠季]]・[[上野俊哉]]・ササキバラ・ゴウとの座談会、アニメージュ叢書:2002年) * 『「ほしのこえ」を聴け』(ササキバラ・ゴウ、大野修一、川中利満との座談会、アニメージュ叢書:2002年) * 『対談集 妖怪大談義』([[京極夏彦]]の対談相手の一人、角川書店:2005年、角川文庫:2008年、副題:民俗学は偽史だったのか?) * 『アニメ・マンガ・戦争 安彦良和対談集』([[安彦良和]]の対談相手の一人、角川書店:2005年05月23日) * 『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた憲法前文を読んで考えたことと憲法について考えてほしいこと』([[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]との対談、角川書店:2005年) * 『天皇と日本のナショナリズム』([[宮台真司]]・[[神保哲生]]の鼎談相手の一人、春秋社:2006年、副題:憲法とナショナリズム) * 『リアルのゆくえ──おたく/オタクはどう生きるか』([[東浩紀]]との対談、講談社現代新書:2008年) * 『まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史』([[みなもと太郎]]との対談、角川学芸出版:2010年) * 『愚民社会』(宮台真司との対談、太田出版:2011年) * 『史論の復権』([[與那覇潤]]の対談相手の一人、新潮新書:2013年11月16日) * 『柄谷行人発言集 対話篇』([[柄谷行人]]の対談相手の一人、 読書人:2020年11月12日) === 編著 === * 『少女雑誌論』([[東京書籍]]、1991年) * 『私たちが書く憲法前文』(角川書店、2002年) * 『「私」であるための憲法前文』(角川書店、2003年) * 『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店、2004年) * 『まんがはいかにして映画になろうとしたかー映画的手法の研究』(NTT出版、2012年) * 『柳田国男―山人論集成』([[角川ソフィア文庫]]、2013年) * 『神隠し・隠れ里―柳田国男傑作選』(角川ソフィア文庫、2014年) * 『動員のメディアミックス―〈創作する大衆〉の戦時下・戦後―』([[思文閣出版]]、2017年) * 『東大・角川レクチャーシリーズ 00 『ロードス島戦記』とその時代 黎明期角川メディアミックス証言集』(KADOKAWA、2018年) * 『[[柳田國男]] 民主主義論集』([[平凡社ライブラリー]]、2020年) * 『牧野守 在野の映画学 戦時下・戦後映画人との対話』([[太田出版]]、2021年) * 『運動としての大衆文化 協働・ファン・文化工作』([[水声社]]、2021年) * 『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版、2021年)―「日文研大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として編纂に参加 * 『まんが表現教育論 実験と実践』(山本忠宏との共編著・太田出版、2023年2月14日) === 解説執筆書籍 === * 『暗闇ライト』([[勝川克志]]、東京三世社:1983年8月10日、副題:ビー玉の<まなざし>) * 『桃色三角』([[中田雅喜]]、白夜コミックス:1984年8月1日、副題:中田雅喜論ーあるいは永遠の共犯者として) * 『スゥエード・キルシュ』([[白倉由美]]、白夜コミックス:1984年10月1日、副題:ウォーターメロンシャーベット考ー白倉由美論ー) * 『憑依』([[藤原カムイ]]、白夜コミックス:1985年8月1日) * 『サクリファイス』([[白倉由美]]、スケール:1989年11月30日) * 『リンウッド・テラスの心霊フィルム―大槻ケンヂ詩集』([[大槻ケンヂ]]、思潮社:1990年11月1日、副題:笛吹き男のいいわけについて)※巻末ではなく、リーフレットとして収録 * 『ミカドの肖像―プリンスホテルの謎』([[猪瀬直樹]]、小学館ライブラリー:1991年8月1日、副題:「消費社会論」としての『ミカドの肖像』) * 『[[魍魎戦記摩陀羅]] アガルタの真王(上)』([[阿賀伸宏]]、角川スニーカー文庫:1992年8月1日) * 『懐かしい年への手紙』([[白倉由美]]、太田COMICS:1992年7月29日、副題:置き去りにされた季節からの手紙) * 『スイマー、千年の夏。』([[田中たみい]]、太田COMICS芸術漫画叢書:1992年9月28日、副題:発行人による解説) * 『夜の魚』([[吾妻ひでお]]、太田COMICS芸術漫画叢書:1992年9月28日、副題:吾妻ひでおを再び「流通」させる理由) * 『もう一度デジャ・ヴ』(小説:[[村山由佳]]、漫画:[[志田正重]]、ジャンプジェイブックス:1993年6月9日、 副題:追体験の楽しみ) * 『[[コミュニケーション不全症候群]]』([[中島梓]]、ちくま文庫:1995年12月4日、副題:「母の崩壊」の後で) * 『田渕由美子 作品集★1 フランス窓便り』([[田渕由美子]]、集英社文庫:1996年11月20日、副題:田渕由美子さんが四畳半のアパートで夢見たもの) * 『[[アリオン (漫画)|アリオン]](1)』([[安彦良和]]、中公文庫:1997年2月18日、副題:戦後まんが史の忘れられた欲望) * 『トレヴァー・ブラウン』([[トレヴァー・ブラウン]]、トレヴィル:1997年11月5日、副題:セルロイドの身体の国への批評) * 『わが「転向」』([[吉本隆明]]、文春文庫:1997年12月10日、副題:「明るさ」は敵か?) * 『エコエコアザラク 第1巻』([[古賀新一]]、角川文庫:1998年7月7日) * 『夢のなか』([[宮崎勤]]、創出版:1998年12月10日、副題:「宮崎勤」は誰にもわからない) * 『[[地雷震]] メモリアルセレクション2』([[高橋ツトム]]、講談社:2000年1月13日) * 『セブン 1st.Live』(原作:[[S-nery Angel]]、著:[[杉浦健史]]、ケイエスエスノベルズ:2000年4月30日) * 『[[ジョーカー (小説)|ジョーカー涼]]』([[清涼院流水]]、講談社文庫:2000年5月15日) * 『文学なんかこわくない』([[高橋源一郎]]、朝日文庫:2001年6月1日、副題:タカハシさんにおける義務と責任について) * 『ハッピーエンド』([[ジョージ朝倉]]、MEPHISTO COMICS:2002年4月15日、副題:「ハッピーエンド」への意思) * 『多重人格探偵サイコ・フェイク』([[許月珍]]、角川書店:2002年7月5日) * 『[[強殖装甲ガイバー]]⑳』([[高屋良樹]]、角川コミックス・エース:2003年2月1日、副題:大塚英志はいかにして高屋良樹に敗れたか) * 『おーぷん・ハート―ロケットライダーがいた日』([[鯨晴久]]、角川スニーカー文庫:2003年6月1日) * 『[[巷説百物語]]』([[京極夏彦]]、角川文庫:2003年6月25日) * 『MADARA四神篇』(原作:[[魍魎戦記MADARAシリーズ|MADARA PROJECT]]、作画:[[星樹]]、角川コミックス・エース:2003年9月1日) * 『お楽しみはこれもなのじゃ』([[みなもと太郎]]、角川書店:2004年11月1日) * 『ワインカラー物語―かがみあきら選集』([[かがみあきら]]、ニュータイプ100%コミックス:2004年12月25日、副題:かがみあきらの「呟き」) * 『南回帰船』([[中上健次]]、角川学芸出版:2005年7月5日、副題:中上健次劇画原作『南回帰船』及び『明日』について) * 『[[非武装中立論]]』([[石橋政嗣]]、明石書店:2006年9月11日、副題:「虚勢」ではない安全保障論をいかに語るか) * 『[[千里眼シリーズ|千里眼 美由紀の正体 下]]』([[松岡圭祐]]、角川文庫:2007年9月25日) * 『[[女子大生会計士の事件簿|女子大生会計士、はじめました]]』([[山田真哉]]、角川文庫:2007年11月25日) * 『ジブリの教科書1 [[風の谷のナウシカ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2013年4月10日) * 『ジブリの教科書2 [[天空の城ラピュタ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2013年5月10日) * 『ジブリの教科書3 [[となりのトトロ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2013年6月7日) * 『先祖の話』([[柳田国男]]、角川ソフィア文庫:2013年06月21日) * 『物語の法則――強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』([[クリストファー・ボグラー]]/[[デイビッド・マッケナ ]] 、アスキー・メディアワークス:2013年9月26日) * 『ジブリの教科書4 [[火垂るの墓]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2013年10月10日) * 『ジブリの教科書5 [[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2013年12月4日) * 『ジブリの教科書6 [[おもひでぽろぽろ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2014年3月7日) * 『中上健次集 一 岬、十九歳の地図、他十三篇』([[中上健次]]、インスクリプト:2014年4月26日、副題:中上健次についての批評的なノート) * 『ジブリの教科書16 [[借りぐらしのアリエッティ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2014年6月10日) * 『ジブリの教科書7 [[紅の豚]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2014年9月2日) * 『劇画暮らし』([[辰巳ヨシヒロ]]、角川文庫:2014年10月25日) * 『ジブリの教科書8 総天然色漫画映画 [[平成狸合戦ぽんぽこ]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2015年1月5日) * 『ジブリの教科書9 [[耳をすませば]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2015年4月10日) * 『ジブリの教科書10 [[もののけ姫]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2015年7月10日) * 『ジブリの教科書11 [[ホーホケキョ となりの山田くん]]』(スタジオジブリ、文春ジブリ文庫:2015年11月10日) * 『怪物マチコミ 他 水木しげる漫画大全集』([[水木しげる]]、講談社:2017年9月1日、副題:水木しげるとアインシュタイン塔) {{節スタブ}} === その他 === * 『ルーシー・モノストーンの真実』(角川書店:2002年、角川コミック・エース:2004年) **『[[多重人格探偵サイコ]]』の登場人物の[[ルーシー・モノストーン]]が実在したという設定で[[三木・モトユキ・エリクソン]]名義で執筆した仮構の評伝 == 監修 == ;漫画 * 『ワインカラー物語―かがみあきら選集』([[かがみあきら]]著、ニュータイプ100%コミックス:2004年) * 『Biscuit―ビスケット―』([[山路亮輔]]、KADOKAWA:2018年) ;評論 * 『なぜ日本は〈メディアミックスする国〉なのか』([[マーク・スタインバーグ]]著、角川EPUB選書:2015年) * 『まんが訳 酒呑童子絵巻』(山本忠宏編、ちくま新書、2020年) * 『まんが訳 稲生物怪録』(山本忠宏編、ちくま新書、2021年) == 自費出版 == ;漫画 *『太田COMICS 芸術漫画叢書』([[太田出版]])<ref name="名前なし-11"/> **『スイマー、千年の夏。』([[田中たみい]]、太田COMICS芸術漫画叢書:1992年9月28日) **『[[夜の魚]]』([[吾妻ひでお]]、太田COMICS芸術漫画叢書:1992年9月28日) **『定本 [[不条理日記]]』([[吾妻ひでお]]、太田COMICS芸術漫画叢書:1993年3月) ;小説 *『南回帰船』([[中上健次]]、[[角川学芸出版]]:2005年7月5日)<ref name="名前なし-16"/> == 雑誌編集 == * [[漫画ブリッコ]] * [[プチアップルパイ]] * いけないcomic * [[リュウ (雑誌)|リュウ]](後期) * [[月刊少年キャプテン]] * COMIC BOX Jr.(初期) * [[新現実]](角川書店→太田出版、2002年~2008年、不定期で5号まで刊行。1号は[[東浩紀]]、4号は[[上野俊哉]]、[[中塚圭骸]]とともに編集) * Comic新現実(角川書店、2004年~2005年、不定期で6号まで刊行) * TOBIO(太田出版、2008年~2012年) * TOBIO Critiques(太田出版、2015年~) == ラジオ == * [[マダラプロジェクトアワー]] 声優育成シミュレーション学園少女([[TBSラジオ]] 1995年10月 - 1996年3月)- マダラ一郎名義、[[S-nery]]と * マダラプロジェクトアワー S-neryのジョカラジ(TBSラジオ 1996年4月 - 1996年10月) - ジョカ一郎名義、S-neryと * [[物語創作講座 どらまツクール]]([[毎日放送]] 1997年11月 - 1997年3月) - どらま一郎名義、[[菊地由美]]、[[吉本桂子]]と * [[サブカルチャー倶楽部]]([[ラジオ関西]] 1999年7月 - 1999年9月) - 菊地由美と * サブカルチャー倶楽部2(ラジオ関西 1999年10月 - 2000年12月) - 菊地由美、[[大塚ギチ]]、[[八巻千紘]]と。 * サブカルチャー倶楽部3(ラジオ関西 2000年1月 - 2000年3月) - 菊地由美、大塚ギチと。 * [[改め!ラジオ新現実]](ラジオ関西 2005年7月3日 - 2005年9月25日) - [[大野修一]]、[[橋本英治]]、[[長谷川紘子]]らと。 * それでもラジオ新現実(ラジオ関西 2005年10月2日 - 2005年12月25日) - [[杉本真理子]]、大野修一、橋本英治、長谷川紘子らと。 * 眠らない大学at神戸芸工大(ラジオ関西 2008年4月3日 - 2014年3月28日) - [[神戸芸術工科大学]]の学生らと。 == インターネット放送 == * 未来まんが研究所 物語の学校([[ニコニコ生放送]]公式番組 2011年11月5日 - 2013年2月22日) - 斉藤大地らと。 * ニコニコアカデミー 大塚英志 世界まんが塾([[ニコニコ生放送]]公式番組 2014年2月7日 - 2015年3月20日) - 浅野龍哉らと。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist|2|colwidth=30em}} == 外部リンク == * {{Official|https://www.nichibun.ac.jp/ja/research/staff/s043/}} {{魍魎戦記MADARAシリーズ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おおつか えいし}} [[Category:大塚英志|*]] [[Category:日本の文芸評論家]] [[Category:日本の文学研究者]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:日本の男性著作家]] [[Category:日本の雑誌編集者]] [[Category:20世紀日本の評論家]] [[Category:21世紀日本の評論家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:日本の漫画編集者]] [[Category:日本の漫画評論家]] [[Category:サントリー学芸賞受賞者]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:リュウ|編]] [[Category:神戸芸術工科大学の教員]] [[Category:東京芸術大学の教員]] [[Category:東京大学の教員]] 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脚本
脚本(きゃくほん、英: screenplayあるいはscript)とは、演劇・映画・テレビ放送・ラジオ放送などの台本。「いつ・どこで・誰が」(時・場所・人)を示す柱書きおよび台詞、ト書きだけで構成された設計図的役割を担うテキスト。映画のものは特にシナリオ(scenario)と呼ばれる。 小説とは形式が異なる。 脚本では文学的表現や美文は要求されず、小説などでは活用される主観描写(登場人物の心情など)は極力排除される。ラジオやテレビ、映画などのメディアによって、そのメディアの特質や慣習に従った一定のフォーマットが推奨、または必須とされる場合がある。 書き方は、よく絵画や彫刻を作る方法に例えられる。絵画では画用紙やキャンバスに絵具を付けた筆で、いきなり人物の顔を描く人はいない。また彫刻でも丸太に彫刻刀を突き立て、眼から丁寧に彫る人もいない。絵画ではまず全体を荒く素描(デッサン)し、次に完成を予測しながら下書きをし、その次にバランスを見ながら細部を徐々に仕上げていく。脚本も同様に、どこからストーリーを始めてどこに向かって進んでいくのか。そして広がったストーリーの最後はどう収束するのか。それらのバランスに配慮しつつ、まず(絵画のデッサンに相当する)プロットを書き、それから書いてゆく。 脚本は、監督・プロデューサーなどと打ち合わせをしつつ作り上げていくことが多い。(特に映画では)スポンサーとの打ち合わせが行われることもある。また出演俳優が大物俳優だったりすると、俳優からの細部の修正の要望が入ってしまう事態になることもある。 映画の場合では、打ち合わせと執筆は平行して行われることが多く、このたびに印刷・製本されることが多い。このため、準備稿、改定稿、決定稿と版を重ねることになる。改定はほぼ全て取り替える場合から些細な部分を修正するに留める場合もあり、準備稿と決定稿、さらに作られた映画とはストーリーが大幅に異なっていることもある。さらに日程・予算の都合で、実際の撮影に入っても改定が行われる場合があり、脚本家あるいは監督が現場で執筆する場合もある。これは「号外」とも呼ばれる。 執筆に関わる脚本家の数、および(脚本家とともに)監督が脚本に関わる場合では単に作品的な価値ばかりでなく、印税や二次使用料、著作権などの配分にも影響が出ることが多く、昨今では監督が脚本を執筆することも多い。一方、戯曲に関しては単独で執筆することが多い。 脚本は、小説とは異なり、複数の人によって書かれることがそれなりにある。テレビドラマシリーズでは、執筆作業の負荷の大きさや放送スケジュールを考慮して、数名交代で担当することもある。テレビドラマシリーズで視聴率が低迷すれば、途中で脚本家が交代することもある。また一話の中でも複数名が関与する場合もある。 なお戯曲を除き、脚本は単独で発表されることは基本的にない。建物や船などの設計図と同じであり、あくまで映像化・漫画化することによってようやく一つの作品とみなされることが多い。このため、どうしても脚本の存在感が弱くなり、監督やプロデューサーによる無断改変が行われてトラブルにつながる場合が時折見られる。戯曲の場合は脚本のみで発表されることも多々ある。 なお日本で脚本に用いられていた原稿用紙は基本的に200字詰め(20字×10行)で、この原稿用紙状態の脚本は「ペラ」とも呼ばれる。近年ではワープロを用いることも多い。役者に渡す前に印刷・製本するので、製本した状態にすると「台本」(ほん)と呼ぶ。 物語を簡単に紹介したもの。四百字から八百字程度にまとめ、エンディングまで書く。最初に必要なもの。スポンサーやプロデューサーによっては、あらすじがないと脚本を読まないことが多い。一般的にストーリーやプロットと呼ばれることがあるが、これらは別なものになる。企画書とは異なる。 ※「柱」「柱書」などとも呼ぶ。 「ト書き」の言葉の由来は歌舞伎の台本の「...と立ち上がりながら」などの「と」から来ている。文体は「...であった」などの過去形ではなく「...である」などの現在進行形で書くのが一般的。 以下は、時間経過を表すための撮影技術。 国語の教材として、教科書に脚本が載ることも少なくない。狂言『附子』の現代語訳や木下順二の『夕鶴』・ シェイクスピアの『リア王(の抜粋)』などがそうだが、これらは舞台脚本としてあつかわれるよりも、戯曲として文学扱いされているともいえる。 映像劇のシナリオが国語教科書に採用されるのは、倉本聡の『北の国から』が光村図書の中学教科書に載った1990年代を待たなければならない。しかし、上記のような専門用語があり、戯曲のように単独発表されるケースもほとんど無いため、戯曲ほどに普及はしていない。 また、小学校の学習発表会などで演劇を発表する際にも脚本が使用される。
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脚本とは、演劇・映画・テレビ放送・ラジオ放送などの台本。「いつ・どこで・誰が」(時・場所・人)を示す柱書きおよび台詞、ト書きだけで構成された設計図的役割を担うテキスト。映画のものは特にシナリオ(scenario)と呼ばれる。
{{Redirect|シナリオ}} {{出典の明記|date=2008年11月}} {{Otheruses|[[フィクション]]における脚本|[[テレビ番組]]や[[ラジオ番組]]の[[台本]]、およびその[[作家]]|[[放送作家]]}} {{画像提供依頼|脚本の現物(権利に抵触しないように)|date=2023年4月}} '''脚本'''(きゃくほん、{{Lang-en-short|screenplayあるいはscript}})とは、演劇・映画・テレビ放送・ラジオ放送などの[[台本]]<ref name="N_kyakuhon">『日本大百科全書』「脚本」</ref>。「いつ・どこで・誰が」(時・場所・人)を示す[[柱書き]]および[[台詞]]、[[ト書き]]だけで構成された設計図的役割を担うテキスト。映画のものは特に'''シナリオ'''(scenario)と呼ばれる。 == 概要 == [[小説]]とは形式が異なる。 脚本では文学的表現や美文は要求されず、小説などでは活用される主観描写(登場人物の心情など)は極力排除される。ラジオやテレビ、映画などのメディアによって、そのメディアの特質や慣習に従った一定のフォーマットが推奨、または必須とされる場合がある。 書き方は、よく絵画や彫刻を作る方法に例えられる。絵画では画用紙やキャンバスに[[絵具]]を付けた筆で、いきなり人物の顔を描く人はいない。また彫刻でも丸太に彫刻刀を突き立て、眼から丁寧に彫る人もいない。絵画ではまず全体を荒く素描(デッサン)し、次に完成を予測しながら下書きをし、その次にバランスを見ながら細部を徐々に仕上げていく。脚本も同様に、どこからストーリーを始めてどこに向かって進んでいくのか。そして広がったストーリーの最後はどう収束するのか。それらのバランスに配慮しつつ、まず(絵画のデッサンに相当する)[[プロット]]を書き、それから書いてゆく。 脚本は、[[監督]]・[[プロデューサー]]などと打ち合わせをしつつ作り上げていくことが多い。(特に映画では)[[スポンサー]]との打ち合わせが行われることもある。また出演[[俳優]]が大物俳優だったりすると、俳優からの細部の修正の要望が入ってしまう事態になることもある。 映画の場合では、打ち合わせと執筆は平行して行われることが多く、このたびに印刷・製本されることが多い。このため、準備稿、改定稿、決定稿と版を重ねることになる。改定はほぼ全て取り替える場合から些細な部分を修正するに留める場合もあり、準備稿と決定稿、さらに作られた映画とはストーリーが大幅に異なっていることもある。さらに日程・予算の都合で、実際の撮影に入っても改定が行われる場合があり、脚本家あるいは監督が現場で執筆する場合もある。これは「号外」とも呼ばれる。 執筆に関わる脚本家の数、および(脚本家とともに)監督が脚本に関わる場合では単に作品的な価値ばかりでなく、[[印税]]や二次使用料、[[著作権]]などの配分にも影響が出ることが多く、昨今では監督が脚本を執筆することも多い。一方、戯曲に関しては単独で執筆することが多い。 脚本は、小説とは異なり、複数の人によって書かれることがそれなりにある。テレビドラマシリーズでは、執筆作業の負荷の大きさや放送スケジュールを考慮して、数名交代で担当することもある。テレビドラマシリーズで視聴率が低迷すれば、途中で脚本家が交代することもある。また一話の中でも複数名が関与する場合もある。 なお戯曲を除き、脚本は単独で発表されることは基本的にない。建物や船などの設計図と同じであり、あくまで映像化・漫画化することによってようやく一つの作品とみなされることが多い。このため、どうしても脚本の存在感が弱くなり、監督やプロデューサーによる無断改変が行われてトラブルにつながる場合が時折見られる。戯曲の場合は脚本のみで発表されることも多々ある。 なお日本で脚本に用いられていた[[原稿用紙]]は基本的に200字詰め(20字×10行)で、この原稿用紙状態の脚本は「ペラ」とも呼ばれる。近年では[[ワープロ]]を用いることも多い。役者に渡す前に印刷・[[製本]]するので、製本した状態にすると「台本」(ほん)と呼ぶ。 == 種類 == ;'''[[台本]]''' :もともとは脚本を台本と言っていたが、現在では、演者に使われる台詞を特に中心としたものを指していることが多い。 ;'''台帳'''あるいは'''正本'''(しょうほん)、'''根本'''(ねほん)<ref name="N_kyakuhon" /> :[[歌舞伎]]の脚本の古い呼び方<ref name="N_kyakuhon" />。歌舞伎では近頃は脚本と呼ぶという<ref name="N_kyakuhon" />。 ;シナリオ。 :シナリオは映画の脚本、台本<ref name="ND_scenario">『日本大百科全書』「シナリオ」</ref>。scenarioはアメリカの[[映画用語]]である。scenarioという表現を、その[[語源]]から説明すると、もとは[[ラテン語]]のscena(舞台、場面 という意味の言葉)から派生した言葉であり<ref name="ND_scenario" />、イタリアでは[[イタリア語]]で演劇や[[オペラ]]の "場面(シエーナ)をつないだ筋書き" という意味で使われていた(もともとは[[即興劇]]用のおおまかな筋を書いたものを意味していた<ref>{{Cite web|和書| url=http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?ii=0&lp=0&sm=1&sc=&gr=ml&qt=%A5%B7%A5%CA%A5%EA%A5%AA&sv=KN&se=on | title=シナリオ | work=国語 英和 和英 カタカナ 漢字 - Infoseek マルチ辞書 | publisher=三省堂 | accessdate=2008-11-05 }}</ref>とも)、それが転じてアメリカで映画用語として使われるようになった。 :日本でアメリカの映画用語の「シナリオ」を使い始めた経緯は、[[1920年]]に[[松竹]]が[[映画]]事業に乗り出すため、アメリカから招聘した[[ヘンリー・小谷]]がアメリカの[[映画用語]]のsecenarioを使ったことに始まる。それまでは日本では「台本」という言い方をしていたという<ref>[[田中純一郎]]『日本映画史発掘』 [[冬樹社]]、1980年、160-161頁</ref>。 :「シナリオ」の辞書に載るような基本的な用法としては、映像劇の脚本を舞台の脚本から区別するために使われる。 :なお「シナリオ」という用語は今では[[コンピュータゲーム]]を制作するために時代・場所・人物(キャラクター)の設定やセリフなどを書いたテキストを指すためにも使われる。 ; 映像脚本 : 編集により撮影時から前後の不要な部分が切られた一つの動画をカットという。カットとは「屋外の昼の光のもと少女の顔が上を見上げる」などの単一の映像である。このカットが集まって「昼間の草原で。少女が空を見上げる。眩しい太陽に目を細める。母の呼ぶ声が聞こえ振り向く、母がやってくる」などの同一の場所と同じ時間の流れで一つの場面を作り、これをシーンという。シーンが集まって「少女と母の再会」などの単一のストーリー(エピソード)になり、これをシークエンスという。さらにそのシークエンスが集まり「父母の離婚で母と別れた少女が数年後にまた同居する」などの大きなストーリー(エピソード)になる。そしてさらにこのパターンが集まったものが作品である。つまりカットの集合はシーンを形成し、それの集合はシークエンスを形成し、それの集合は作品を形成する。その設計図である脚本では作品が最終的にはカットの集合で表現されることを意識しつつも同一の場所・時間ごとであるシーン毎にその場面の内容を記述する。 : 脚本は関係者全員が作品とその内容について統一されたイメージを持つための唯一の基礎になる。作品の中核となるアイデアとストーリー、登場人物達の性格付け、物語の整合性が脚本で完成していなければならない。また、脚本は作品の規模や完成までの作業期間、必要な予算を見積もるためにも必要である。 : 関係者は脚本に基づいてそれぞれの担当分野でのプランを作成する。[[役者]]は脚本に基づいて役の肉付けを考え、[[照明]]スタッフは照明プランを、[[美術]]スタッフはセットや[[衣装]]のプランを、[[音響]]スタッフは音響プランを、[[特撮]]スタッフはまた特撮カットのプランを練り上げていく。 : よって、そこには一定の文法なり、書式が存在する。かつて[[溝口健二]]が、修行時代の[[新藤兼人]]の脚本を一読し、「これは脚本ではなくストーリーだ」とコメントしたことに象徴される。ただし最近{{いつ|date=2016年10月}}では、漫画風の[[絵コンテ]]とアバウトな説明だけを用意する[[岩井俊二]]や、登場人物の台詞を全て役者のアドリブに任せる[[石川寛]]など、従来のスタイルとは異なる脚本を使用する監督も少数ながらいる。 ; 演劇(舞台作品)の脚本 : 稽古の段階で[[演出家]]の演技指導が細かく入る場合が多く、したがってト書きは極端に少なく、台詞だけで構成されることが多い。美術、[[舞台監督]]は本番に近い舞台装置を稽古場に仮設し、音響、照明スタッフは芝居が作られるにしたがって、演出家がねらった効果を作り上げていく。 ;戯曲 :[[舞台演劇]]の脚本のなかでも、テキスト(読み物)として鑑賞できるものは[[戯曲]]とも呼ばれる。通常「戯曲」と言うと、印刷されたテキスト自体を独立した作品として読んで鑑賞することができる水準の作品だということも意味する。なお[[シェークスピア]]の作品群は、すぐれた古典戯曲であり(つまり、印刷された古典文学作品として楽しめ)、同時にそのままで特上の演劇台本(演劇脚本)である<ref name="N_kyakuhon" />(つまり舞台上演用の脚本として用いても最上級のものである)。一方、作家によっては、表現したいこと(読者に伝えたいこと)と作品形式の関係を熟慮して、あえて小説ではなく戯曲形式(脚本形式)で作品を書いて、そもそもそれが未来永劫舞台で上演されることを全然期待していないという場合もあり、つまりあくまで最初から読者に "読み物" として楽しんでもらう目的で戯曲形式(脚本形式)で作品を書くこともある。 ; 漫画原作の中の脚本形式のもの :漫画作品の原作には脚本形式のものも含まれる。ただし漫画原作は脚本形式でないものもあり別概念であり、本来は当記事で説明するのが妥当か微妙なので(おそらくは本来は【漫画の原作】という別記事を立てるべきなので)、詳細は末尾の[[#漫画原作]]の節で説明。 == あらすじ == 物語を簡単に紹介したもの。四百字から八百字程度にまとめ、エンディングまで書く。最初に必要なもの。スポンサーやプロデューサーによっては、あらすじがないと脚本を読まないことが多い。一般的にストーリーやプロットと呼ばれることがあるが、これらは別なものになる。企画書とは異なる。 ; ストーリー : 物語の表面を浅くなぞったもの。深く掘り下げたものは必要なく、あらすじよりも短く、盛り上がりを誇張して企画書に添付することが多い。 ; [[プロット (物語)|プロット]] : 構成や展開を意識したもの。ストーリーやあらすじよりも掘り下げ、脚本執筆の準備に近いもの。 == 人物表 == ; 脚本・戯曲 : 脚本の中に登場する人物を主役から端役まで一覧表にしたもの。主要な人物は名前、年齢、性別、人物関係が書き込まれる。名前のつかない人物は、通行人1、若しくは店員Aなどの記号で表記する。 ; 漫画原作 : 書式は脚本と同じ。身長差や顔の特徴、またキャラクターを立てる行動を要求される。《例:両津勘吉(28)警察署・巡査》など。性別、人間関係は割愛されることが多い。 == 柱書き == ※「柱」「柱書」などとも呼ぶ。 ; 脚本・漫画原作 : シーンの最初に書かれ、その場所と時間を示している。柱の頭にはシーンナンバーを振る。シーンナンバーは打ち合わせを円滑に進め、映像の場合は撮影計画、または編集作業に必要とされる。 : 《例:○警察署・外観(夜)》など。原稿を執筆する段階では、シーンナンバーは○で示される。これはシーンが移動する場合があるため。印刷される段階で、初めてシーンナンバーを振ることがほとんどである。 :英語では、sluglineと呼ぶ。場所の名称の前に、その場所の内側なのか外側なのかを表すために、INT(内)やEXT(外)などの記号を付記するのが、アメリカ映画脚本では一般的である。たとえば、ただ「ジョージの家」と書いてあっても、家の前なのか室内なのかが区別できないからである。 ; 戯曲 : 舞台装置を転換してシーンを変えることを「場」。幕を下ろすほどの場面転換や休憩を挟む間を「幕」という。したがって戯曲の柱に当たる部分はそれにナンバーを付けたものが書かれる。《例:第一幕 第一場 下町の路上》など。 == 台詞(セリフ) == ; 脚本 : 登場人物がしゃべる言葉を「」で括って記述する。「の前に役者の役名を記述する。性別が分かりやすいように男性は名字、女性は名前で書くのが一般的。ナレーションの場合はNと書く。その場にいない(映像では画面に映っていない)人物の台詞は、冒頭に(OFF)《読み:オフ・ボーカル》と書くことで指定する。内心の台詞は(M)《読み:モノローグ》と表記する。《例:両津(OFF)「そんなことが……」》または《例:山田の声「そんなことが……」》など。 ; 戯曲 : 書式は脚本と同じ。劇場の規模によっては、役者の演技や持ち道具、小道具が見えない場合が多々あるため、または演出家の狙いで状況を台詞で説明する場合が多い。これによって、大怪獣が現れたり、数百人の機動隊に囲まれたりする芝居の世界観を作り出す。台詞の流れを印象付けるため、「倒置法」という台詞回しを使うことがある。《例:「今日はいい天気だね」→「いい天気だね! 今日は」》など。 ; 漫画原作 : 書式は脚本と同じ。台詞は吹き出しに収まるように要求される。長台詞の場合は三行台詞があって行動(ト書き)し、また三行台詞を繰り返す。基本的にはテキストなので、「強敵(ライバル)」または「友人(ライバル)」などのルビを入れて、二つの意味を持たせることもある。また擬音(オノマトペ)なども原作者の仕事である。語尾などにキャラクターを立てる台詞を要求されることもある。《例:「…だよーん」「…なのだ」》など。 ; ナレーション : 登場人物の心象や内心、人間関係の説明。状況、事情などを語るときに使われる。登場人物自らがナレーションする場合と、別にナレーターを立てる場合がある。 : 多用すると、映像作品としての意味を問われる場合があるので、あまり好まれないが、見せたいシーンの構成や、込み入ったストーリーでは物語の整理をつけ、分かりやすくするために使われる。同じような意味で、物語の冒頭でテキストされることもある。 == ト書き == 「ト書き」の言葉の由来は歌舞伎の台本の「…と立ち上がりながら」などの「と」から来ている。文体は「…であった」などの過去形ではなく「…である」などの現在進行形で書くのが一般的。 ; 脚本 : 登場人物の動作や、照明、演出の大まかな指示を記述する。目に見える具体的な動作を書くことが必須とされており、人物の心理描写や抽象的な表現を書くことは通常は行われない。また、必要ならば映像効果を指定する。最終的には監督、演出家の采配に委ねるが、これは台詞で人物の性格を浮き彫りにすると同様、映像描写に関わることは脚本家の仕事である。また、男女の絡み、いわゆる濡れ場やアクションなどはストーリーの流れだけ書き、具体的なことは書かない。この長さで全体の尺の長さが左右されることが多く、アクションは特に殺陣師の領域になるため。 ; 戯曲 : 舞台上に何があるか。役者は板付きか。上手、下手どちらから出るかが中心になる。舞台装置との絡みがあればそれも書くが、重要でなければ書かない。台詞よりも映像、作画で見せる脚本または漫画原作とはここが大きく違う。台詞だけでストーリーが分かり、役者、演出家が自由に表現できる「遊び」がある。様式が決まっている歌舞伎台本と戯曲とは、今日では大きな隔たりがある。 ; 漫画原作 : 美術、小道具、衣装などのスタッフがいないためト書きの他、必要ならば設定書を作成し全て書く(主人公はタバコを吸うか。吸うなら銘柄は何か。マッチかライターか。ライターなら〜など)。時代や年代が大きく分かれる場合は、そのストーリーの年表も作成する。また原作を書く上で収集した資料など、作画にも必要なものは揃える場合もある。濡れ場、アクション・シーンもできるだけ具体的に、なおかつ荒唐無稽に作りこむ。ストーリーの構成も起承転結ではなく、「起承転」までで、引きを作る。これは連載でも読み切りでも同じだが、ストーリーの内容によってはラスト・シーンに作画を見せる余韻を作る。1ページの大ゴマや見開きなどの指定も要求される場合もある。[[梶原一騎]]は少年小説出身なので、原作は小説式で書いていた。 == ハコ書き == ; 脚本・戯曲 : テーマの訴求。尺(時間)の制限。シーンとシークエンスの整理などの作業。例えば起承転結を四つのハコに見立てたものを、大バコと言い、さらに具体的に構成したものを小バコという。台詞まで書かない、ト書きの積み重ねが多い。この時点で制作者や演出部との打合わせをする。 ; 大バコ : 大まかな構成。ここではトーンを統一するが具体的なことは書かない。テーマを「起承転結」に落とし込んでいく作業のみに限られる。 : 「結」、落としどころ(ラスト・シーン)を決めてから、ストーリーの雰囲気を掴む「起」(ファースト・シーン)を考え、「承」でストーリーを転がして「転」でサプライズを作る場合が多い。 ; 中バコ : シークエンスの考え方。大バコで作った「起」(ファースト・シーン)の中にも「起承転結」がある。ここで主要人物をどう紹介するかなどを作る。「承」の中での起承転結は、主要人物の葛藤、絶望、新たなる希望などでドラマを作る。後半にサプライズがあれば、ここで伏線を張る。ストーリーで一番長く面白く見せる場所。「転」の中での起承転結では、今までの「起」「承」が助走であれば、ここでジャンプし高く跳躍する場所。サプライズがあれば先に作ってから「承」に伏線を張る場合が多い。高いジャンプが着地した場所が、「結」の中での「起」になり、テンポのよい「承転結」(ラスト・シーン)を作っていく。 ; 小バコ : シーンの考え方。必要ならばカット・バックやモンタージュなどを挿入し、シークエンスをさらに細かく作り込む。「起」の「起」の中での起承転結では、主要人物または主人公が暴力的ならばアクションで始めるのか、逆に優しい人物に見せるのか。誰に対してその行動を取らせるか。クセや特徴、眼鏡は掛けているか、昼か夜か、雨は降っているか、降った後かなど、決定していく。「起」の「承」の中での起承転結では、もうストーリーは始まっているのか、これから巻き込まれていくのか、主人公に相棒がいるならここで出すか、二人の相性はよいのかなどを作り、「起」の「転」の中での起承転結では、敵対する相手が出ているなら、それにどう対処するか、主人公と相棒は相対する性格ならば、ここでその性格を明確にする。「起」の「結」の中での起承転結では、主人公、または相棒の立てた方法にどちらかが引っ張られていく、または別な登場人物が助けを求めにくるならそれを決定し、「承」の「起」の中の起承転結につなげていく。 : ここまでで、「大バコの起承転結」からさらに「中バコの起承転結」、そして「小バコの起承転結」まで具体化し、必要ならば「小バコの起承転結の中の起承転結」まで具体化する。各々の人物像が浮かび上がる、または確定しているはずなので、言うべき台詞も決まることが多い。また、あえて台詞を作り込むことで人物を強調させる。 : なお、作家または作品によっては、上記のように順序を踏まえて書く。他に、大バコから小バコに移る。または小バコを書いてから、大バコに直して整理するなどの方法をとる。 == 脚本料金の目安・基本相場 == {{出典の明記|section=1|date=2008年11月}} ; テレビドラマ :基本相場は放映時間1分=1万、2時間ドラマを例にすると実質放映時間100分×1万円=100万円。ただし、拘束時間は1本につき1 - 3か月、その間何回も修正がある。 : 中堅からベテランの場合、1時間ドラマ:80万 - 100万円、2時間ドラマ:120 - 200万円契約によるが、再放送されると脚本料の半額が入る(最初の脚本料に再放送1回分が含まれている契約の場合、2回目の再放送から)。プロット:1本=1 - 10万円。 ; 映画脚本 : 新人なら1本5 - 50万円。新人以外は1分=1万円。ベテランになれば、300万円以上。大作では1000万円もある(ただし拘束期間も長い)。 ; 二次使用料(DVD等) : 著作者印税:1.75%。例)DVD(3980円)×1000本×0.0175=69650円の二次使用料。これらの収入が定期的に入るわけではない(2007年7月現在)。 == 映像作品のシナリオで用いる略語 == 以下は、時間経過を表すための撮影技術。 *F・I=フェードイン(徐々に現れる) *F・O=フェードアウト(徐々に消える) *C・I=カットイン(突然現れる) *C・O=カットアウト(突然消える) *O・L=オーバーラップ(二つのカットが重なり合って次のシーンに変わる) *W・O=ワイプ・アウト(車のワイパーを振るようにシーンが変わる、若しくは消える) == 映像作品のシナリオの描写手法 == {{出典の明記|section=1|date=2008年11月}} *フラッシュ(非常に短い回想、若しくはイメージ) *シャドウ(実態を見せずに状況を表現する) *[[モンタージュ]](異なるカットやシーンの積み重ねで状況を説明する)<!-- 『シナリオの基礎技術』P.86 --> *スライド・ショウ(一連のシークエンスをカットで積み重ねる) ==脚本と学校教育(とくに義務教育)== [[国語]]の教材として、[[教科書]]に脚本が載ることも少なくない。[[狂言]]『[[附子 (戯曲)|附子]]』の現代語訳や[[木下順二]]の『[[夕鶴]]』・ [[シェイクスピア]]の『[[リア王]](の抜粋)』などがそうだが、これらは舞台脚本としてあつかわれるよりも、戯曲として文学扱いされているともいえる。 映像劇のシナリオが国語教科書に採用されるのは、[[倉本聡]]の『[[北の国から]]』が[[光村図書]]の中学教科書に載った1990年代を待たなければならない。しかし、上記のような専門用語があり、戯曲のように単独発表されるケースもほとんど無いため、戯曲ほどに普及はしていない。 また、小学校の[[文化祭|学習発表会]]などで演劇を発表する際にも脚本が使用される。 <!--[[公立校]]であれば当然その[[コピー]]代などは税金から賄われる。 既存の作品を複写しただけで使用するならコピー代がかかるのは当たり前。記述の意図が不明である。 また文章そのまま利用する場合でも通常は冊子として起こし直すのが普通。書籍のままでは台本としては使用しづらいため。 --> == 漫画原作 == ;[[漫画原作]] :[[漫画]]作品の原作の中には脚本形式のものもある。漫画原作者が置かれる場合、基本的には編集者や作画担当と打ち合わせをして書いてゆく。つまりこの場合、[[編集者]]、[[漫画原作者]]、[[漫画家|作画者]]の三人で作業は進められる。 : ただし原作と作画を分業制で行うか、漫画家がひとりで原作執筆と作画の両方をするか、についてはさまざまスタイルがある。[[食通|グルメ]]、[[法律]]、[[技術]]などの専門性の高い作品は、漫画原作者が別途立てられることも多い。小説を原案とする漫画も、通常、いきなり小説から直接に漫画が描かれるのではなく、一旦 漫画原作(脚本)が書かれ、それをもとに作画される。漫画は1コマ1コマのカットの積み重ねによって成立するため、漫画原作は映像作品よりも具体性を要求される。 :なお、漫画原作には複数の手法がある。映像脚本同様の手法で書かれる'''脚本形式'''、通常の文体で内容を描写する'''小説形式'''、漫画家が描くネームと同様の'''絵コンテ形式'''のものの3種類である。 {{Main|漫画原作}} == 関連項目 == {{Wiktionary|脚本}} *[[脚本家]] *[[脚本家一覧]] *[[シリーズ構成]] *[[脚本集]]、[[台本]]、[[戯曲]]、[[漫画原作]] *[[あらすじ]] *[[シークエンス]] *[[プロット (物語)|プロット]] *[[メタファー]] *[[マクガフィン]] *[[レーゼドラマ]]、[[レーゼシナリオ]] *[[三幕構成]] - 脚本の標準的な構成 <!--*[[ストーリーテラー]](編者注:項目が無いです。) *[[アダルトビデオ]] - 一部の作品(ドラマ性が強く、出演者が濡れ場以外の演技を必要とする作品)に脚本が存在する。(編者注:他のジャンルを入れずAVだけを関連項目に入れる必然性が無いです。)--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[新井一 (シナリオライター)|新井一]]『シナリオの基礎技術』、[[ダヴィッド社]]、1985年新版。ISBN 9784804801759。 * 新井一『映画テレビ シナリオの技術』、ダヴィッド社、1986年。ISBN 4804801812。<!-- 戯曲・漫画原作関連の文献も不足--> ==外部リンク== * [http://kyakuhon.qzc.co.jp/top.htm 脚本データベース] - [[日本放送作家協会]]が平成17-23年度に収集した脚本・台本のデータベース。現在は、[[日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム]]へ移行。 {{Narrative}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きやくほん}} [[Category:脚本|*]] [[Category:文書]] [[Category:演劇]] [[Category:歌舞伎]] [[Category:映画]] [[Category:テレビドラマ]] [[Category:アニメーションの技法]] [[Category:フィクションの諸形式]]
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原画
原画(げんが)は、何らかの加工をほどこす前段階の、元となる絵。分野により、その具体的な意味は異なる。各節で詳説する。 複製画を作成する際に、元として使用する絵。複製方法によって原画の状態や使用結果が異なる。 版画では、「直接版面に絵が描かれるため、原画は存在しない、とも言えるし、版面が原画であるとも言える」という。 浮世絵版画では、浮世絵師が和紙に毛筆で描いた原画を、彫師が版木に裏返しに貼りつけ、摺師がそのまま彫って凸版に仕上げる。このため原画は失われる。 すでに存在する原画について、それを見ながら手描きで一からまねして描く(模写)。または撮影して印刷する(写真製版)。他の原画が通常は線画のみであるのに対し、この場合は彩色などの仕上げを済ませた完成品である点が大きく異なる。 分業制の手描きによるアニメーションの制作過程で、動きの要所(動き始め、重要な中間ポイント、動き終わり)を描いた絵で、英語では主にkey AnimationまたはKey frame などと表記される(この、キーアニメーション、もしくはキーアニメーターという言葉は、日本ではしばしば勘違いや慣例により、メインアニメーター=作画の中心となるアニメーター、という意味で使われる)。 原画を描く人(原画マン、原画家、原画担当者)を単に原画と呼ぶ場合もある。 原画を描く前に、原画マンはレイアウトを描く。レイアウトとは、背景や人物などを含めた大まかな画面設計図である。レイアウトは、専門のレイアウト担当者が描く場合もある。このレイアウトに従って、原画マンが動きのポイントとなる原画を描く。 原画を描き上げた時点ではまだアニメーション作画は完成しておらず、(演出家や作画監督のチェックを経た後)滑らかに動いて見えるように、動画マン(動画担当者、動画)が動画(中割=なかわり)を描き加える(中割り作業をする)ことで、「動く絵」としてのアニメーション作画が一応の完成となる。原画マンは、動画マンに原画を渡す前に、動画を何枚描くか(タイムシート)、どのような動かし方をするか(ゲージ)、という指示を加える。動きに関しては原画の段階でほぼ完成系が見えているのが普通であり、動画マンが独自の解釈を加えて作画することは原則としてない。 難度の高い動きのカットの場合、 原画マンが予め原画と原画の中割の下書きを描いて下流工程の動画マン(英:inbetweener)に渡すことがある。下書きなので原画より簡易に描かれることが多い。これを中割参考(なかわりさんこう、略: 中参)と呼ぶ(数字を△マークで囲んだり、ア、イ、ウなど数字以外の番号を振ったりとシート上でも区別されることが多い)。 また中割り作業を動画マンに任せず、通常なら動画に相当する部分も全て原画で描く場合や、原画で全ての動きを描いて「中割要らず」にする場合(これを「全原画」や「フル原画」と呼んだりもする)もあり、この際動画マンが行うのは原画のクリーンアップのみである。 原画マンがラフに原画を描き、別の原画マンが原画としてクリーンアップすることがあり、前者を第一原画(一原)、後者を第二原画(二原)と呼ばれ、表記されることがある。 第二原画というラフ原画と動画の中間工程(セカンド)は、海外の制作に倣って『白蛇伝』から設けられているが、クレジット上は「動画」表記であり東映動画内の制度としてはその後自然消滅。また『機動戦士ガンダム』などにおいてもラフ原画を安彦良和が担当して「作画」「アニメーター」に渡す制作が行われていた。熟練のアニメーターがラフで多くのカットを手掛けることによって、作品全体のクオリティ向上と清書作業による新人育成に繋がるシステムとして改めて自覚的に導入され、役職の「第二原画」は明記されるようになっていく。一方でどうしてもラフ原画までしか描く余裕がない、非常に厳しいスケジュール下においてもこの工程が発生する。 作画と3Dアニメが絡む場合において、ポジションや動きのガイドとしてラフ原画が描かれることがある。あるいはその逆で3Dを先に出力してそれに合わせて作画をする場合もあり、後者は3Dが動いて作画との組みが発生する場合に行われることが多い。 なお、原画マンはまず動画マンとしての下積み経験を経たあと原画マンに昇格するのが通例である。原画マンとしても経験を積めば作画監督(作監)や総作画監督へ昇格することもある。また本人の才能や、監督やプロデューサーの引き立てによってキャラクターデザイナーとなっていく人物もいるが、アニメーター全体から見れば一握りである。また演出家へと進出する原画マンも多い。副業としてイラストレーターや漫画家として活動している人物もおり、最終的にそちらを本業として活躍する例も存在する(例としていのまたむつみ、石田敦子など)。 このような作業システムは主に日本の商業アニメーション制作において慣習となっているものであり、欧米のアニメーション制作においてはまた異なった作業工程や役割分担が採られることが多い。 漫画分野において「原画」は、漫画家の直筆原稿のことを指すことが多く、「原画」と「原稿」は実質的に同義語となっている。 基本的には「原稿」の語が用いられるが、直筆原稿を展示するイベントなどの際には、「原画展」の形でこの語が用いられる(「原稿展」とは呼ばれないが、この理由は分かっていない)。 コンピューターゲームにおいては、コンピュータグラフィックスとして加工される前の段階の絵を指す。手描きの絵柄そのままがCGとして表示される場合などは限定的であり、たとえばポリゴンなどの3Dデザインの元として利用される場合には別の用語(キャラクターデザイン、イメージイラストなど)が使用されることが多い。 一枚絵と呼ばれる全画面CGが多用されるいわゆるギャルゲーやアダルトゲームで重要視されるが、ロールプレイングゲーム・シミュレーションロールプレイングゲーム・対戦型格闘ゲームなど、キャラクター性の強いゲームにおいてもカットインなどの手法で手描き原画を元にしたCGが使用されることがある。 原画をスキャナーなどでコンピュータに取り込んだだけ、ペンタブレットなどの機器で線画を描いただけではCGとして使用できない。線をクリーンアップしたり、影を入れたり、彩色などの作業を行う必要がある。これらの作業を専門に行う技術者も存在し、これを俗にグラフィッカーと呼ぶ。 アダルトゲーム業界における「原画」職の位置づけは、他のジャンルとは少々異なり、作品制作において極めて重要な役割を負うことになる。 原画担当者が大半のケースでキャラクターデザインを事実上兼ねており、原画担当者の技量、センス、知名度、そして人気がゲームの売り上げを直接左右するなど、影響は非常に大きい。その為、この業界では一般的に「原画家」「原画師」と称されることが多い。また、ゲームソフト本体のみならず、広告宣伝や関連商品などに使用される素材イラストの制作にも原画担当者は不可欠である。 人気の原画家には強固なファンが付き、たとえシナリオやゲームシステムの不出来などのネガティブな情報が発売前から表面化していても「地雷上等」「原画家のCG集と割り切って買う」などと言って購入する。そこまでは行かなくても、絵でブランドを見分けていたり、ショップなどで見たパッケージがプレイヤーの購入の決め手となることも多い。 ひとたび原画家の人気がカリスマ化するほどに沸騰すれば、これに牽引される形でブランド全体の知名度・販売実績・関連グッズ収入などが急拡大し、ひいては経営の成功にも繋がっていく。そのため、多くのメーカー・ブランドでは所属の原画家の人気が向上し、ブランドを背負って立つ大看板となることを期待している。だが一方で、この業界では大手・中堅とされるメーカー・ブランドであってもアニメやテレビゲームと比べれば開発チームの経営規模や販売規模が小さいのが一般的であり、得てして「原画家の人気=ブランドの人気」という状況にもなりやすい。だが、このような状態になると、今度は経営そのものが特定の原画家個人に極端に依存することになり、発言力が強まった原画家の意向にゲームソフトの方向性や、さらには開発チームそのものが振り回されたりするなど、このカリスマ化した人気原画家の言動が今度はメーカーにとってかえって密かな悩みの種になるという状況に陥ることがある。また、人材の流動・消長盛衰が激しい業界体質であり、それまでの作品の原画を一手に支えていた人気原画家の退職・離脱やスランプなどをきっかけとしてその原画家頼みだったブランドの人気の求心力が喪失することも往々に起きる。この場合、たとえ外注であっても代替となるだけの才能のある人物を確保できなければ、その後の作品の販売量が急減し、それまで拡大の一途を辿ってきたブランドや開発チーム、さらにはメーカーそのものが数年も経たぬうちに存続できなくなるケースもある。また、上述の理由や作風、担当するキャラクターとの相性により、特定の原画家に依存するリスクを分散させるため、複数の原画家が参加する例があるが、その場合、キャラクター間の整合性、統一感が損なわれる場合がある。また、SD原画を専門に担当する原画家もいる。 このように、アダルトゲーム業界においては「原画」の担当者個人にかかる職責が大きく、それゆえに人気が沸騰することによるメリットは本人のみならずメーカーにとっても大きく重要なものである反面、メリット一辺倒というわけでもない一面がある。
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原画(げんが)は、何らかの加工をほどこす前段階の、元となる絵。分野により、その具体的な意味は異なる。各節で詳説する。
{{otheruses|絵画・画像・映像等の制作過程で作成される原画('''げんが''')|手旗信号の基本動作である原画('''げんかく''')|手旗信号}} '''原画'''(げんが)は、何らかの加工をほどこす前段階の、元となる絵。分野により、その具体的な意味は異なる。各節で詳説する。 == 美術 == [[複製画]]を作成する際に、元として使用する絵。複製方法によって原画の状態や使用結果が異なる。 === 銅版画・リトグラフ === [[版画]]では、「{{要出典範囲|直接版面に絵が描かれるため、原画は存在しない、とも言えるし、版面が原画であるとも言える|date=2011-10}}」という{{誰|date=2011-10}}。 === 浮世絵 === [[浮世絵]]版画では、[[浮世絵師]]が[[和紙]]に[[毛筆]]で描いた原画を、[[彫師]]が[[版木]]に裏返しに貼りつけ、[[摺師]]がそのまま彫って[[版画#凸版画|凸版]]に仕上げる。このため原画は失われる。 === 模写・写真製版 === すでに存在する原画について、それを見ながら手描きで一からまねして描く([[模写]])。または[[撮影]]して[[印刷]]する([[写真]]製版)。他の原画が通常は線画のみであるのに対し、この場合は彩色などの仕上げを済ませた完成品である点が大きく異なる。 == アニメーション == {{see also|アニメ (日本のアニメーション作品)}} 分業制の手描きによる[[アニメーション]]の制作過程で、動きの要所(動き始め、重要な中間ポイント、動き終わり)を描いた絵で、英語では主に'''key Animation'''または'''Key frame'''<ref>[https://www.amazon.co.jp/%E9%9F%BF%E3%81%91%EF%BC%81%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A0-premium-Key-frame-Drawings-%E8%A4%87%E8%A3%BD%E5%8E%9F%E7%94%BB%E9%9B%8610%E6%9E%9A%E5%85%A5%E3%82%8A/dp/B00ZNKWW58 響け!ユーフォニアム premium Key frame Drawings #01 複製原画集10枚入り] 2019年3月9日に確認</ref> などと表記される(この、キーアニメーション、もしくはキーアニメーターという言葉は、日本ではしばしば勘違いや慣例により、メインアニメーター=作画の中心となるアニメーター、という意味で使われる)。 原画を描く人(原画マン、原画家、原画担当者)を単に'''原画'''と呼ぶ場合もある。 === アニメ原画の基本工程 === 原画を描く前に、原画マンは[[レイアウトシステム|レイアウト]]を描く。レイアウトとは、背景や人物などを含めた大まかな画面設計図である。レイアウトは、専門のレイアウト担当者が描く場合もある。このレイアウトに従って、原画マンが動きのポイントとなる原画を描く。 原画を描き上げた時点ではまだアニメーション作画は完成しておらず、([[演出]]家や[[作画監督]]のチェックを経た後)滑らかに動いて見えるように、動画マン(動画担当者、動画)が動画(中割=なかわり)を描き加える(中割り作業をする)ことで、「動く絵」としてのアニメーション作画が一応の完成となる。原画マンは、動画マンに原画を渡す前に、動画を何枚描くか(タイムシート)、どのような動かし方をするか(ゲージ)、という指示を加える。動きに関しては原画の段階でほぼ完成系が見えているのが普通であり、動画マンが独自の解釈を加えて作画することは原則としてない。 難度の高い動きのカットの場合、 原画マンが予め原画と原画の中割の下書きを描いて下流工程の[[動画 (アニメーション)|動画]]マン(英:inbetweener)に渡すことがある。下書きなので原画より簡易に描かれることが多い。これを'''中割参考'''(なかわりさんこう、略: 中参)と呼ぶ(数字を△マークで囲んだり、ア、イ、ウなど数字以外の番号を振ったりとシート上でも区別されることが多い)。 また中割り作業を動画マンに任せず、通常なら動画に相当する部分も全て原画で描く場合や、原画で全ての動きを描いて「中割要らず」にする場合(これを「全原画」や「フル原画」と呼んだりもする)もあり、この際動画マンが行うのは原画のクリーンアップのみである。 === 第一原画と第二原画 === 原画マンがラフに原画を描き、別の原画マンが原画としてクリーンアップすることがあり、前者を'''第一原画'''(一原)、後者を'''第二原画'''(二原)と呼ばれ、表記されることがある。 第二原画というラフ原画と動画の中間工程(セカンド)は、海外の制作に倣って『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』から設けられているが、クレジット上は「動画」表記であり[[東映動画]]内の制度としてはその後自然消滅<ref>{{Cite book|和書|author=大塚康生|year=2013|title=作画汗まみれ 改訂最新版|chapter=2章 日本初のカラー長編動画|publisher=株式会社文藝春秋|isbn=978-4-1-6812200-2}}</ref>。また『[[機動戦士ガンダム]]』などにおいてもラフ原画を[[安彦良和]]が担当して「作画」「アニメーター」に渡す制作が行われていた<ref>{{Cite web|和書|author=[[氷川竜介]]|date=2017-06-14|url=https://mine.place/page/99c61c8d-55f4-4655-8907-decf5fe6ea47|title=劇場版『機動戦士ガンダム』Last Shootingの輝くまで 第3回|website=mine|accessdate=2020-05-17}}</ref>。熟練のアニメーターがラフで多くのカットを手掛けることによって、作品全体のクオリティ向上と清書作業による新人育成に繋がるシステムとして改めて自覚的に導入され<ref>{{Cite web|和書|date=2003-08-08|url=http://www.style.fm/as/01_talk/n_yutaka03.shtml|title=アニメの作画を語ろう animator interview 中村豊(3)|publisher=WEBアニメスタイル|accessdate=2020-05-17}}</ref>、役職の「第二原画」は明記されるようになっていく。一方でどうしてもラフ原画までしか描く余裕がない、非常に厳しいスケジュール下においてもこの工程が発生する。 作画と3Dアニメが絡む場合において、ポジションや動きのガイドとしてラフ原画が描かれることがある。あるいはその逆で3Dを先に出力してそれに合わせて作画をする場合もあり、後者は3Dが動いて作画との組みが発生する場合に行われることが多い。 === 原画マンのキャリア === なお、原画マンはまず動画マンとしての下積み経験を経たあと原画マンに昇格するのが通例である。原画マンとしても経験を積めば[[作画監督]](作監)や総作画監督へ昇格することもある。また本人の才能や、監督やプロデューサーの引き立てによって[[キャラクターデザイナー]]となっていく人物もいるが、アニメーター全体から見れば一握りである。また[[演出家]]へと進出する原画マンも多い。[[副業]]として[[イラストレーター]]や[[漫画家]]として活動している人物もおり、最終的にそちらを本業として活躍する例も存在する(例として[[いのまたむつみ]]、[[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]など)。 このような作業システムは主に日本の商業アニメーション制作において[[慣習]]となっているものであり、欧米のアニメーション制作においてはまた異なった作業工程や役割分担が採られることが多い。 == 漫画 == 漫画分野において「原画」は、[[漫画家]]の直筆原稿のことを指すことが多く、「原画」と「原稿」は実質的に同義語となっている。 基本的には「原稿」の語が用いられるが、直筆原稿を展示するイベントなどの際には、「原画展」の形でこの語が用いられる(「原稿展」とは呼ばれないが、この理由は分かっていない)。 == コンピュータゲーム == [[コンピューターゲーム]]においては、[[コンピュータグラフィックス]]として加工される前の段階の絵を指す。手描きの絵柄そのままがCGとして表示される場合などは限定的であり、たとえば[[ポリゴン]]などの3Dデザインの元として利用される場合には別の用語([[キャラクターデザイン]]、イメージイラストなど)が使用されることが多い。 '''一枚絵'''と呼ばれる全画面CGが多用されるいわゆる[[ギャルゲー]]や[[アダルトゲーム]]で重要視されるが、[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]・[[シミュレーションロールプレイングゲーム]]・[[対戦型格闘ゲーム]]など、キャラクター性の強いゲームにおいても[[カットイン]]などの手法で手描き原画を元にしたCGが使用されることがある。 原画を[[スキャナー]]などでコンピュータに取り込んだだけ、[[ペンタブレット]]などの機器で線画を描いただけではCGとして使用できない。線をクリーンアップしたり、影を入れたり、彩色などの作業を行う必要がある。これらの作業を専門に行う技術者も存在し、これを俗に[[グラフィッカー]]と呼ぶ。 === アダルトゲーム === [[アダルトゲーム]]業界における「原画」職の位置づけは、他のジャンルとは少々異なり、作品制作において極めて重要な役割を負うことになる。 原画担当者が大半のケースで[[キャラクターデザイン]]を事実上兼ねており、原画担当者の技量、センス、知名度、そして人気がゲームの売り上げを直接左右するなど、影響は非常に大きい。その為、この業界では一般的に「原画家」「原画師」と称されることが多い。また、ゲームソフト本体のみならず、広告宣伝や関連商品などに使用される素材イラストの制作にも原画担当者は不可欠である。 {{要出典範囲|date=2019年3月|人気の原画家には強固な[[ファン]]が付き、たとえ[[脚本|シナリオ]]やゲームシステムの不出来などのネガティブな情報が発売前から表面化していても「'''[[地雷#単語としての「地雷」の他の用法|地雷]]上等'''」「'''原画家のCG集と割り切って買う'''」などと言って購入する。そこまでは行かなくても、絵でブランドを見分けていたり、ショップなどで見たパッケージがプレイヤーの購入の決め手となることも多い}}。 ひとたび原画家の人気が[[カリスマ]]化するほどに沸騰すれば、これに牽引される形でブランド全体の知名度・販売実績・関連グッズ収入などが急拡大し、ひいては経営の成功にも繋がっていく。そのため、多くのメーカー・ブランドでは所属の原画家の人気が向上し、ブランドを背負って立つ大看板となることを期待している。だが一方で、この業界では大手・中堅とされるメーカー・ブランドであってもアニメやテレビゲームと比べれば開発チームの経営規模や販売規模が小さいのが一般的であり、得てして「原画家の人気=ブランドの人気」という状況にもなりやすい。だが、このような状態になると、今度は経営そのものが特定の原画家個人に極端に依存することになり、発言力が強まった原画家の意向にゲームソフトの方向性や、さらには開発チームそのものが振り回されたりするなど、このカリスマ化した人気原画家の言動が今度はメーカーにとってかえって密かな悩みの種になるという状況に陥ることがある。また、人材の流動・消長盛衰が激しい業界体質であり、それまでの作品の原画を一手に支えていた人気原画家の退職・離脱やスランプなどをきっかけとしてその原画家頼みだったブランドの人気の[[求心力]]が喪失することも往々に起きる。この場合、たとえ外注であっても代替となるだけの才能のある人物を確保できなければ、その後の作品の販売量が急減し、それまで拡大の一途を辿ってきたブランドや開発チーム、さらにはメーカーそのものが数年も経たぬうちに存続できなくなるケースもある。また、上述の理由や作風、担当するキャラクターとの相性により、特定の原画家に依存するリスクを分散させるため、複数の原画家が参加する例があるが、その場合、キャラクター間の整合性、統一感が損なわれる場合がある。また、[[スーパーデフォルメ|SD]]原画を専門に担当する原画家もいる。 このように、アダルトゲーム業界においては「原画」の担当者個人にかかる職責が大きく、それゆえに人気が沸騰することによるメリットは本人のみならずメーカーにとっても大きく重要なものである反面、メリット一辺倒というわけでもない一面がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アニメ]] * [[アニメーター]] * [[コンピュータゲーム]] * [[ギャルゲー]] * [[アダルトゲーム]] {{Anime-stub}} {{Video-game-stub}} {{DEFAULTSORT:けんか}} [[Category:版画]] [[Category:アニメ製作の手法と役職]] [[Category:コンピュータゲーム用語]] [[Category:キャラクターデザイン]]
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ラジオパーソナリティ
ラジオパーソナリティ(英: radio personality)とは、一部の英語圏および日本において、ラジオ番組を司会進行する者のことを指す言葉である。 日本のラジオパーソナリティの人名については、日本のラジオパーソナリティ一覧を参照。 1950年代のアメリカで、ポピュラー音楽をかけながら、トークをするラジオ司会者を指す呼称としてできたとされるディスクジョッキーに対し、トークを得意とし、番組の司会進行を行い、各種の情報をアナウンスする者のことを指すとされるが、明確な定義はなく、音楽を中心とした番組を対象にした場合、両者に明確な相違はない。 1967年時点の日本においては、「パーソナリティーによる番組は、はっきりと若者を対象に、ラジオを通じて、話題を伝え、レコードをかけながら若者に語りかける」と、のちの時代に比べてやや狭く定義されている。 「パーソナリティ」という英語は「人格」や「個性」を意味し、和製英語におけるタレントと同義である。英語圏には「テレビ・パーソナリティ」という言葉も存在する。米国では、このような出演者の個性によって運営される番組の多くは「パーソナリティ番組」と呼ばれる。パーソナリティ名のみを番組名とすることが多い。 NHK編『放送の五十年 昭和とともに』によれば、日本において放送用語としての「パーソナリティ」が公式に紹介されたのは、1965年3月、日本民間放送連盟の招待で訪日したラジオ広告機構(英語版)の会長、エドモンド・バンカーの講演によって、とされている。バンカーは講演において「アメリカのラジオには“番組”は見当たらず、“パーソナリティー”が売り物になっている」と述べた。 日本において「パーソナリティ」を最初に名乗った人物および事例については諸説あるが、アメリカのラジオ番組に倣ったという点では共通している。またすべてバンカーの訪日と前後している。 各放送局によってさまざまな社内呼称がある。J-WAVEにおいてのナビゲーター、南海放送のプレゼンターなど。
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ラジオパーソナリティとは、一部の英語圏および日本において、ラジオ番組を司会進行する者のことを指す言葉である。 日本のラジオパーソナリティの人名については、日本のラジオパーソナリティ一覧を参照。
[[File:WKZV_studio.jpg|thumb|[[アメリカ]]・[[ペンシルベニア州]]の[[ラジオ局]]で働くラジオパーソナリティ(1997年)]] {{Infobox Occupation | name= ラジオパーソナリティ | official_names= <!-- 名称 --> | type= [[エンターテインメント]] | activity_sector= [[司会]][[進行]] | competencies= <!-- 適性能力 --> | formation= <!-- 必須試験 --> | employment_field= <!-- 就業分野 --> | related_occupation= [[ディスクジョッキー#ラジオDJ|ラジオDJ]]<br />[[アナウンサー]]<br />[[ニュースキャスター]] | average_salary= }} '''ラジオパーソナリティ'''({{lang-en-short|radio personality}})とは、一部の英語圏および日本<ref name="hoso227">{{Cite book|和書|editor=NHK|date=1977-03-30|title=放送の五十年 昭和とともに|url={{NDLDC|12275859}}|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|pages=227 - 228|id={{NDLJP|12275859/116}}}}</ref>において、[[ラジオ番組]]を[[司会]]進行する者のことを指す言葉である。 日本のラジオパーソナリティの人名については、[[日本のラジオパーソナリティ一覧]]を参照。 {{see also|ディスクジョッキー#ラジオDJ}} == 概要 == 1950年代のアメリカで、[[ポピュラー音楽]]をかけながら、トークをするラジオ司会者を指す呼称としてできたとされる<ref>Field, Shelly. 2010. "Career Opportunities in Radio". Infobase Publishing. pp.2. ISBN 978-1-4381-1084-4 .</ref>[[ディスクジョッキー]]に対し、トークを得意とし、番組の司会進行を行い、各種の情報を[[アナウンス]]する者のことを指すとされるが、明確な定義はなく、音楽を中心とした番組を対象にした場合、両者に明確な相違はない。 1967年時点の日本においては、「パーソナリティーによる番組は、はっきりと若者を対象に、ラジオを通じて、話題を伝え、レコードをかけながら若者に語りかける」と、のちの時代に比べてやや狭く定義されている<ref name="hoso227" />。 「パーソナリティ」という英語は「人格」や「個性」を意味し、和製英語における[[タレント]]と同義である。英語圏には「テレビ・パーソナリティ」という言葉も存在する。米国では、このような出演者の個性によって運営される番組の多くは「パーソナリティ番組」と呼ばれる。パーソナリティ名のみを番組名とすることが多い<ref>『朝日放送の50年』(2000年(平成12年))</ref>。 == 日本のラジオパーソナリティ == === 発祥 === [[日本放送協会|NHK]]編『放送の五十年 昭和とともに』によれば、日本において放送用語としての「パーソナリティ」が公式に紹介されたのは、1965年3月、[[日本民間放送連盟]]の招待で訪日した{{仮リンク|ラジオ広告機構|en|Radio Advertising Bureau (US)}}の会長、エドモンド・バンカーの講演によって、とされている。バンカーは講演において「アメリカのラジオには“番組”は見当たらず、“パーソナリティー”が売り物になっている<ref name="hoso227" />」と述べた。 日本において「パーソナリティ」を最初に名乗った人物および事例については諸説あるが、アメリカのラジオ番組に倣ったという点では共通している。またすべてバンカーの訪日と前後している。 ; オーナー説 : 1964年に放送開始した[[TBSラジオ]]の番組『[[オーナー (ラジオ番組)|オーナー]]』における、3人の日替わり出演者([[芥川也寸志]]、[[小島正雄]]、[[三國一朗]])は、従来のディスクジョッキーや司会以上に個性があるという意味で、「パーソナリティ」と呼称された。社史によると、米国の事例から導入したという<ref>東京放送編『TBS50年史』 [[TBSホールディングス|東京放送]]、2002年(平成14年)1月 p.212</ref>。 ; 山谷親平説 : 1965年に『[[テレフォン人生相談]]』([[ニッポン放送]])で[[山谷親平]]が、毎回の放送開始時に他者のアナウンスによって「パーソナリティは山谷親平さんです」と紹介された<ref name=toshiba>『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』([[ニッポン放送]]、1989年1月1日){{要高次出典|date=2016-09}}</ref>のが最初だという。このときの山谷は自らパーソナリティを名乗ってはいない<ref name=toshiba />とする説もある。 : 一方、[[福井放送]]アナウンサーの[[重盛政史]]によると、同局で1956年から1963年まで担当した『お早う皆さん』の時点で「すでにパーソナリティーと名乗っていた<ref name=fbc>[https://web.archive.org/web/20090625162807/http://www2.fbc.jp/personarity/sigemori/20070525.html 重盛政史のべしゃり寿司 2007年05月25日のネタ「山谷親平さん(その2)」(キャッシュ)] 福井放送、2007年5月25日</ref>」としている。重盛によれば、福井放送の当時の社長と山谷が米国の放送業界を視察した際に仕入れた言葉だという<ref name=fbc />。いずれにせよ、山谷は「実質的な意味での日本初のパーソナリティであったのは確かだ<ref name=toshiba />」と高く評価されている。 ; オールナイトニッポン説 : ニッポン放送の深夜番組『[[オールナイトニッポン]]』の喋り手は、1967年の番組開始当初、ディスクジョッキーの略称の「DJ」と称していたが([[オールナイトニッポン#番組黎明期]]参照)、1969年頃には「パーソナリティ」を名乗るようになったという<ref>[[村野まさよし]]『深夜放送がボクらの先生だった』([[実業之日本社]])</ref>。 ; 中村鋭一説 : [[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]]の社史『朝日放送の50年』によれば、1971年に開始した『[[おはようパーソナリティ中村鋭一です]]』([[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]])で、[[中村鋭一]]が名乗ったのが最初とされる。 : 中村は、当時米国で「パーソナリティ・プログラム」が人気を博していたことを知った朝日放送の上司が「日本でもパーソナリティ・プログラムといえるような番組をやりたい」と同番組を企画し、当時[[朝日新聞]]への出向から戻ったばかりの自身に白羽の矢を立てた、とインタビューに答えている<ref name=toshiba />。 === 役割 === * [[リスナー]](聴取者)が番組宛てに寄せた投稿を放送の中で紹介する * 様々な話題のフリートークを行う * 番組内に独立したコーナーがある場合に、その案内を行う * 番組に登場したゲストの話を聞く === 別の呼称 === 各放送局によってさまざまな社内呼称がある。[[J-WAVE]]においての'''ナビゲーター'''、[[南海放送]]の'''プレゼンター'''など。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アナウンサー]] * [[音楽評論家]] * [[ラジオ情報誌]] * [[ディスクジョッキー]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らしおはあそなりてい}} [[Category:放送関連の職業]] [[Category:芸能人]] [[Category:ラジオ番組のパーソナリティ・DJ|*]] [[Category:ラジオ用語]] [[Category:インターネットラジオ]]
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建築
建築(けんちく)とは、人間が活動するための空間を内部に持った構造物を、計画、設計、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。 建築の原語である"Architecture"は、個々の建物ではなく、建物を造る行為(過程、技術)を指す。 個々の建物(Building)を示す場合は「建築物」と呼ぶべきところであるが、実際には混同されて使われることも多い。また、芸術的な作品を建築と呼ぶべきだと考える人もいるが、これも"Architecture" - "Building"の区別とは関係ない。 共和政ローマ時代の建築家、ウィトルウィウスが著した、現存する最古の建築理論書「建築書(建築論、建築十書とも)」によると、用(utilitas)・強(firmitas)・美(venustas)を兼ね備えることが求められるものであり、これを実現する為に、芸術的かつ科学的見地に立たねばならないとされる。 建築の対象を大きく捉えると地域計画・都市計画・景観デザインなどの総合的な環境デザイン構築、コミュニティ形成までに関わり、外壁や開口部、小さくは室内の家具、小物といった室内装飾に至る物作り全般までに関わる。しかし、通常は一定の敷地を単位にして捉えられる。 日本の建築関連の法令の一つである建築基準法では同法第2条13号により「建築物を新築し、増築し、改築し、又は移転することをいう」と定義されている。 建築は建築学#名称の変更にあるとおり、"Architecture"の訳語であるが明治初期には「造家」(ぞうか)という訳語が当てられ、明治時代の英和辞典で「建築の術なり」と解説されているのは"construction"であり、「建設」の意味で使用されていたようであるがただし建築という言葉自体はすでに存在しており、北海道開拓使では「建築」を今日の"Architecture"の意味で使用していた。造家学会(現社団法人日本建築学会)の機関誌は「建築雑誌」(1887年創刊)であった。 伊東忠太は、1894年(明治27年)の論文において、工学ではなく総合芸術としての属性を表す語として「建築」という訳語がふさわしいと主張した。伊東の提案により、造家学会は建築学会と改称(1897年)、東京帝国大学工科大学造家学科は建築学科に改称した(1898年)。 住宅、事務所、店舗、公共施設などの建物の用途や、利用者、立地条件などから求められる機能を満たし、換気や採光、音響、及び動線や避難経路などを考慮した上で、法律や条例に則り、建物のレイアウトや間取りを決定してゆく。 建築計画にて設定されたアウトラインに従い、建築物の形状・材質を決定していく。意匠、構造、設備、積算が専門分化している。 建築における意匠設計とは、建築物の形状・材質を、主として芸術的観点から決定していく分野であり、構造・設備などにおいて求められる機能を考慮した上で、全体の構成・形状の方針決定を主導し、建築物が社会や施主から求められた美観と機能を兼ね備えるべく設計を行い、設計図書(建築図面)を作成する。 近年では建築意匠を完成後に建築写真という形で保存する傾向もある。 建築構造設計とは、基礎伏図、構造計算書その他の建築物の構造に関する設計図書で、国土交通省令で定めるものの設計をいう。建築物が自重、積載荷重、地震、風、積雪、その他の外力によって倒壊することの無いよう、設計を行う分野。意匠担当者と協同の上で、設計物件が構造上必要な耐力を備えるよう構造計画を立てたり、実際に構造計算を行い検証する立場であるが、超高層ビルや体育館など大規模な空間を要する建築物や、複雑な形状の建築物においては、全体の設計に支配的となることもある。 設備設計とは、建築設備(建築基準法第2条第三号に規定する建築設備)の各階平面図、および構造詳詳細その他の設計図書で、設計を行うことをいう。建築法規と建築環境工学、空気調和工学等に基づき電気、空調、換気、衛生、通信、排煙設備などの配置、バリアフリーを考慮した昇降設備の仕様など、建築設備に関する事項の計画と設計を実施し決定する。 建築物の利用者の安全を確保するための防災計画、避難計画を行う分野。特に建築基準法上の避難規定や消防法等との関係が大きい。 設計業務段階で工事予算金額を把握するため、過去のデータを基にまずは概算金額を出すが、概算金額を基に、設計条件の設定や収益計算などを行う。実施設計が完了するまではその建物についての精度の高い工事金額がつかめない等のために概算で算出する場合が多い。精度の高い工事予算書を作成するためには実施設計が完了した時点で積算を行う。このために 工事を発注する場合はこの作業にかかる時間(日数)を考慮して工事の入札·発注日を決めておく必要がある。 概算予算の出し方は、同種、同様の過去の実績データと実勢単価の変動を考慮して、建物の坪単価を利用して計算することが多い。ただし、特殊な機器、設備、家具等は専門業者に見積もりを依頼するとより正確になる。これに対して、実施設計をもとに厳密に所要数量を拾い、現場経費(現場運営費、人件費、保険等も含)まで計算した工事予算を積算設計し算出することを精算ともいい、入札や見積り提出時の基準となる。この時拾い出した数量は実行予算の作成や下請け業者との契約の資料にもなる。 また、同様の工事の過去のデータ、標準的工法、地下の有無、地質条件等を基に工期を決定するが、設計段階や積算段階では全体の調整が行いやすく短時間で作成可能な棒線工程表を用いる場合が多い。 建設業者に見積りを依頼し、施主と業者の双方で概要を確認した上で請負契約を交わし、その後、施工にかかることが一般的である。設計図書を元に複数の建設業者に見積(見積もり)を依頼して、業者選定を行うことが一般的であるが、信頼できる建設業者1社に直接依頼することも行われる。 施主になり代わり、施工が設計図書通りに行われているかどうかを工事現場で監督する業務を監理(工事監理)といい、通常は設計者(建築士)が担当する。設計図通りの施工が進んでいるかチェック、図面だけでは伝わらない内容の伝達、建築主の代理となって、工事現場との打合せや指示、建築主への報告など。(建築士法第2条、建築基準法第5条の4第2項参照) 建設現場の施工計画を立て、適正な施工をチェックする(現場管理)。施工会社の現場代理人(現場監督)のことを指す。通常は建築士、建築施工管理技士の役割である。工程や施工順序の検討、大工などの職人の手配、材料管理、原価管理、作業員と周辺住民等の安全管理など。 現場事務所、仮設水道や電気の設置から重機が必要であればその搬入、基礎工事、躯体工事、仕上げ工事と作業員による施工が行われる。資材搬入、楊重、仮置きや現場内の移動運搬をした上で工事が進められる。 従来行われてきた一括請負契約と異なり、建築構造(躯体)と建築設備(電気、空調、衛生設備)などを区分ごとに分割して複数の業者に発注することを分離発注と呼ぶ。 一括発注に比べ建設費の低減や質の向上といった利点がうたわれ、官公庁の発注する建築物や比較的大規模な建物では一般的になっている。しかし中小規模の建物では、これまでの日本の建設現場の慣習と相容れない部分もあり、うまく活用しなければ必ずしも利点ばかりではないため、施工業者の選定時に施工業者・設計者と相談すべきである。 一般住宅では、施主が施工業者に材料を支給する「施主支給」システムも徐々に浸透してきている。 (1及び2がイニシャル) ライフサイクルコスト・環境負荷を考えた際、最大のものは期間の長い「3」の「運用管理・維持保全」である。 省エネ機器導入は運用費用が「安くなる」ため、「3」の数値向上はアピールしやすい。しかし「4」は施主にとって費用負担のメリットが薄く、適正廃棄のインセンティブに欠ける。 建築に関する賞には、建てられた建築物に対して贈られる賞と建築物を創作した建築家、団体に贈られる賞がある。
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建築(けんちく)とは、人間が活動するための空間を内部に持った構造物を、計画、設計、施工そして使用するに至るまでの行為の過程全体、あるいは一部のこと。
{{出典の明記| date = 2021年4月}} [[File:Interno guggenheim.JPG|thumb|right|upright|[[フランク・ロイド・ライト]]による[[ソロモン・R・グッゲンハイム美術館]]のアトリウム。「建築」は内部に空間を持つ構造物についての行為である。]] '''建築'''(けんちく)とは、[[人間]]が活動するための[[空間]]を[[内部]]に持った[[構造物]]を、[[計画]]、[[設計]]、[[施工]]そして使用するに至るまでの[[行為]]の過程全体、あるいは一部のこと。 ==定義== === 建築物と建築 === {{独自研究|date=2021年12月25日 (土) 05:03 (UTC)|section=1}} 建築の[[原語]]である"Architecture"は、個々の[[建物]]ではなく、'''建物を造る行為'''(過程、技術)を指す。 個々の建物(Building)を示す場合は「[[建築物]]」と呼ぶべきところであるが、実際には混同されて使われることも多い。また、[[芸術]]的な作品を建築と呼ぶべきだと考える人{{誰|date=2021年12月25日 (土) 05:03 (UTC)}}もいるが、これも"Architecture" - "Building"の区別とは関係ない。 [[共和政ローマ]]時代の建築家、[[ウィトルウィウス]]が著した、現存する最古の建築理論書「[[デ・アーキテクチュラ|建築書]](建築論、建築十書とも)」によると、'''用'''(utilitas)・'''強'''(firmitas)・'''美'''(venustas)を兼ね備えることが求められるものであり、これを実現する為に、芸術的かつ[[科学]]的見地に立たねばならないとされる。 建築の[[対象]]を大きく捉えると[[地域計画]]・[[都市計画]]・[[景観デザイン]]などの総合的な[[環境]]デザイン構築、[[コミュニティ]]形成までに関わり、外壁や開口部、小さくは室内の[[家具]]、小物といった[[インテリア|室内装飾]]に至る物作り全般までに関わる。しかし、通常は一定の[[敷地]]を単位にして捉えられる。 [[日本]]の建築関連の法令の一つである[[建築基準法]]では同法第2条13号により「建築物を[[建築行為#新築|新築]]し、[[増築]]し、[[改築]]し、又は[[引越し|移転]]することをいう」と定義されている。 === Architectureの訳語 === 建築は[[建築学#名称の変更]]にあるとおり、"Architecture"の訳語であるが明治初期には「造家」(ぞうか)という訳語が当てられ、明治時代の英和辞典で「建築の術なり」と解説されているのは"construction"であり、「[[建設]]」の意味で使用されていたようであるがただし建築という言葉自体はすでに存在しており、北海道[[開拓使]]では「建築」を今日の"Architecture"の意味で使用していた。造家学会(現社団法人[[日本建築学会]])の機関誌は「[[建築雑誌]]」(1887年創刊)であった。 [[伊東忠太]]は、[[1894年]](明治27年)の論文において、[[工学]]ではなく[[芸術#総合芸術ジャンル|総合芸術]]としての属性を表す語として「建築」という訳語がふさわしいと主張した<ref>「アーキテクチュールの本義を論じて其の訳字を撰定し我が造家学会の改名を望む」論文。「世のいわゆる"Fine Art"に属すべきものにして、"Industrial Art"に属すべきものに非ざるなり」とした。</ref>。伊東の提案により、造家学会は[[日本建築学会|建築学会]]と改称(1897年)、東京帝国大学工科大学造家学科は建築学科に改称した(1898年)。 == 建築計画 == {{also|建築計画学}} [[住宅]]、[[事務所]]、[[店|店舗]]、[[公共]]施設などの建物の用途や、利用者、立地条件などから求められる機能を満たし、[[換気]]や[[採光]]、音響、及び[[動線]]や[[避難経路]]などを考慮した上で、[[法律]]や[[条例]]に則り、建物の[[レイアウト]]や[[間取り]]を決定してゆく。 == 建築設計 == 建築計画にて設定されたアウトラインに従い、建築物の形状・材質を決定していく。[[意匠]]、[[構造]]、[[設備]]、[[積算]]が専門[[分化]]している。 === 建築意匠設計 === 建築における[[意匠設計]]とは、建築物の形状・材質を、主として芸術的観点から決定していく分野であり、構造・設備などにおいて求められる機能を考慮した上で、全体の構成・形状の方針決定を主導し、建築物が社会や施主から求められた美観と機能を兼ね備えるべく設計を行い、[[設計図書]]([[建築図面]])を作成する。 近年では建築意匠を完成後に[[建築写真]]という形で保存する傾向もある。 === 建築構造設計 === [[建築構造設計]]とは、基礎伏図、構造計算書その他の建築物の構造に関する設計図書で、[[国土交通省令]]で定めるものの設計をいう。建築物が自重、積載[[荷重]]、[[地震]]、[[風]]、[[積雪]]、その他の外力によって倒壊することの無いよう、設計を行う分野。意匠担当者と協同の上で、設計物件が構造上必要な耐力を備えるよう構造計画を立てたり、実際に構造計算を行い検証する立場であるが、[[超高層ビル]]や[[体育館]]など大規模な空間を要する建築物や、複雑な形状の建築物においては、全体の設計に支配的となることもある。 === 建築設備設計 === 設備設計とは、建築設備(建築基準法第2条第三号に規定する建築設備)の各階平面図、および構造詳詳細その他の設計図書で、設計を行うことをいう。[[建築法規]]と[[建築環境工学]]、[[空気調和工学]]等に基づき[[電気]]、[[空気調和|空調]]、[[換気]]、[[衛生]]、[[通信]]、[[排煙]]設備などの配置、[[バリアフリー]]を考慮した[[昇降設備]]の仕様など、[[建築設備]]に関する事項の[[計画]]と設計を実施し決定する。 === 建築防災設計 === 建築物の利用者の安全を確保するための[[防災]]計画、避難計画を行う分野。特に[[建築基準法]]上の避難規定や[[消防法]]等との関係が大きい。 === 建築積算設計 === 設計業務段階で工事予算金額を把握するため、過去のデータを基にまずは概算金額を出すが、概算金額を基に、設計条件の設定や収益計算などを行う。実施設計が完了するまではその建物についての精度の高い工事金額がつかめない等のために概算で算出する場合が多い。精度の高い工事予算書を作成するためには実施設計が完了した時点で[[積算]]を行う。このために 工事を発注する場合はこの作業にかかる時間(日数)を考慮して工事の入札·発注日を決めておく必要がある。 概算予算の出し方は、同種、同様の過去の実績データと[[実勢単価]]の変動を考慮して、建物の[[坪単価]]を利用して計算することが多い。ただし、特殊な機器、設備、家具等は専門業者に見積もりを依頼するとより正確になる。これに対して、実施設計をもとに厳密に所要数量を拾い、現場経費(現場運営費、人件費、保険等も含)まで計算した工事予算を積算設計し算出することを精算ともいい、入札や見積り提出時の基準となる。この時拾い出した数量は実行予算の作成や下請け業者との契約の資料にもなる。 また、同様の工事の過去のデータ、標準的工法、地下の有無、地質条件等を基に工期を決定するが、設計段階や積算段階では全体の調整が行いやすく短時間で作成可能な棒線工程表を用いる場合が多い。 == 契約・施工 == === 契約 === [[建設業]]者に見積りを依頼し、施主と業者の双方で概要を確認した上で[[請負]]契約を交わし、その後、施工にかかることが一般的である。[[設計図書]]を元に複数の建設業者に[[見積]](見積もり)を依頼して、業者選定を行うことが一般的であるが、信頼できる建設業者1社に直接依頼することも行われる。 === 監理 === 施主になり代わり、施工が設計図書通りに行われているかどうかを工事現場で監督する業務を'''監理'''(工事監理)といい、通常は'''設計者'''(建築士)が担当する。設計図通りの施工が進んでいるかチェック、図面だけでは伝わらない内容の伝達、建築主の代理となって、工事現場との打合せや指示、建築主への報告など。(建築士法第2条、建築基準法第5条の4第2項参照) === 管理 === 建設現場の施工計画を立て、適正な施工をチェックする(現場管理)。施工会社の現場代理人(現場監督)のことを指す。通常は[[建築士]]、[[建築施工管理技士]]の役割である。工程や施工順序の検討、大工などの職人の手配、材料管理、原価管理、作業員と周辺住民等の安全管理など。 === 施工 === 現場事務所、仮設水道や電気の設置から[[建設機械|重機]]が必要であればその搬入、[[基礎|基礎工事]]、躯体工事、仕上げ工事と作業員による施工が行われる。資材搬入、楊重、仮置きや現場内の移動運搬をした上で工事が進められる。 === 分離発注 === 従来行われてきた一括請負契約と異なり、建築構造(躯体)と[[建築設備]](電気、空調、衛生設備)などを区分ごとに分割して複数の業者に発注することを'''分離発注'''と呼ぶ。 一括発注に比べ建設費の低減や質の向上といった利点がうたわれ、官公庁の発注する建築物や比較的大規模な建物では一般的になっている。しかし中小規模の建物では、これまでの日本の建設現場の慣習と相容れない部分もあり、うまく活用しなければ必ずしも利点ばかりではないため、施工業者の選定時に施工業者・設計者と相談すべきである。 一般住宅では、施主が施工業者に材料を支給する「[[施主支給]]」システムも徐々に浸透してきている。 == 建築のライフサイクル == # 企画・設計 # 建設 # 運用管理・維持保全 # 廃棄処分 (1及び2がイニシャル) ライフサイクルコスト・環境負荷を考えた際、最大のものは期間の長い「3」の「運用管理・維持保全」である。 省エネ機器導入は運用費用が「安くなる」ため、「3」の数値向上はアピールしやすい。しかし「4」は施主にとって費用負担のメリットが薄く、適正廃棄の[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]]に欠ける。 == 建築に関する賞 == 建築に関する賞には、建てられた建築物に対して贈られる賞と建築物を創作した建築家、団体に贈られる賞がある。 === 建築家・建築設計者・建築物に与えられる賞 === * [[日本建築学会賞]]([[日本建築学会]]) ** [[日本建築学会作品選集新人賞]](日本建築学会) ** [[日本建築学会作品選奨]](日本建築学会) * [[日本建築大賞]]([[日本建築家協会]]) ** [[JIA新人賞]](日本建築家協会) ** [[JIA東海住宅建築賞]](日本建築家協会東海支部) * [[村野藤吾賞]](村野藤吾記念会) * [[吉田五十八賞]](吉田五十八記念芸術振興財団) * [[アーガー・ハーン建築賞]](Aga Khan Trust for Culture) * [[吉岡賞]](吉岡文庫育英会) * [[公共建築賞]]([[公共建築協会]]) * アルカシア建築作品賞([[アジア建築家評議会]]. Architects Regional Council Asia) * [[BCS賞]]([[日本建設業連合会]] Building Contractors Society) * [[SDレビュー]]([[鹿島出版会]]) * [[赤レンガ建築賞]]([[北海道]]) * [[東京建築士会住宅建築賞]](東京建築士会) * [[AACA賞]]・芦原義信賞(日本建築美術工芸協会) * [[銀の定規賞]] === 建築構造家・建築物に与えられる賞 === * [[JSCA賞]](日本建築構造技術者協会) * [[構造デザイン賞]](日本構造家倶楽部) === 建築家・団体に与えられる賞 === * [[日本建築学会賞]](日本建築学会) * [[AIAゴールドメダル]](AIA Gold Medal)([[アメリカ建築家協会]](American Institute of Architects)) * [[プリツカー賞]](Pritzker Architecture Prize, プリツカー建築賞)(ハイアット財団(Hyatt Foundation)) * [[RIBAゴールドメダル]](Royal Gold Medal)([[王立英国建築家協会]](Royal Institute of British Architects)) * [[スターリング賞]](王立英国建築家協会) * [[リーフ賞]](ヨーロッパ主要建築家フォーラム(Leading European Architects Forum、LEAF) * [[ウルフ賞芸術部門]]建築分野([[ウルフ財団]]) * [[UIAゴールドメダル]]([[国際建築家連合]]) * [[日本芸術院賞#建築]]([[日本芸術院]]) * [[高松宮殿下記念世界文化賞]](Praemium Imperiale)建築部門([[日本美術協会]](Japan Art Association)) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|建築}} {{ウィキポータルリンク|建築}} {{Sisterlinks|commons=architecture}} * [[特別:検索/intitle:建築|「建築」を含む記事名の一覧]] * [[アーキテクチャ]] * [[建築基準法]] * [[建築写真]] * [[建築学]](学問分類や、参考書物をあげている。) - [[土木工学]] * [[建築家]] - [[建築士]] - [[大工]] * [[建築施工管理技士]] * [[建築学科]] * [[都市計画]] | [[美術]] | [[デザイン]] | [[環境デザイン]] * [[建築史]] - [[日本建築史]] - [[日本近代建築史]] * [[建築様式]] * [[1960年代の建築]] - [[1970年代の建築]] - [[1980年代の建築]] - [[1990年代の建築]] - [[2000年代の建築]] * [[建築物]] - [[教会建築]] | [[擬洋風建築]] | [[住宅]] | [[神社建築]] | [[超高層ビル]] | [[歴史主義建築]] * [[公共建築百選]] * [[リフォーム]]・[[解体]] == 外部リンク == * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/link_architecture.html 建築|リサーチ・ナビ|国立国会図書館] * {{Kotobank}} * [http://www.kamit.jp/16_essay/bunka.htm 文化の翻訳(伊東忠太の失敗)] - 「建築」という翻訳語についての建築家[[神谷武夫]]の考察 {{navboxes | title = 建築に関連する記事 | state = expanded | list = {{美術}} {{西洋の芸術運動}} {{建築}} {{建築史}} {{Revivals}} {{Modernarch}} {{住宅と居住}} {{小屋}} {{宿泊施設}} {{城と要塞}} {{部屋}} {{屋根}} {{橋-footer}} {{庭と庭園、園芸とガーデニング}} {{Architecture_of_the_world}} {{ヨーロッパのファームハウス}} {{アメリカ合衆国の建築}} {{ギリシャの建築}} {{イスラーム建築}} {{インドの建築}} {{インドネシアの建築}} {{日本の建築}} {{日本の城 関連用語}} <!--{{都市}}--> <!--{{都市計画}}--> <!--{{不動産開発}}--> <!--{{都市社会学}}--> <!--{{不動産}}--> <!--{{観光}}--> }} {{Normdaten}} {{Architecture-stub}} {{DEFAULTSORT:けんちく}} [[Category:分野別の技術]] [[Category:建築|*]] [[Category:産業]] [[Category:芸術のジャンル]] [[Category:美術のジャンル]] [[Category:和製漢語]]
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写真家
写真家(しゃしんか)またはフォトグラファー(英: photographer)とは、主に写真を撮影もしくは製作している人。カメラマンと区別して写真家と呼ぶ場合、動画ではない写真を撮影する人をさす場合や、特に芸術的な写真を撮影し発表する人(芸術写真家)を指す場合がある。 新聞などの報道写真を撮影する人(フォトジャーナリスト)、風景を専門に撮っている人や人物を専門に撮っている人、商品撮影(ブツ撮り)専門の人などもいる。ジャンルにより、戦争写真家、動物写真家、建築写真家などとも呼ばれる。 ありとあらゆる分野の写真家がいる。 現代ではデジタルカメラで撮影する写真家が圧倒的に多いが、主に写真作家など芸術性の高い写真を撮影する人では、今でもフィルム(銀塩写真)で撮影をする人もいる。 報道写真家、広告写真家、ファッション写真家といった、クライアントである企業から仕事を受けて写真撮影をするタイプの職業写真家を特にカメラマンと呼ぶ場合がある。しかし、報道カメラマン、広告・ファッションカメラマン、アマチュアカメラマンなど、すべての写真家をカメラマンと呼ぶ場合もあり、特に両者の定義や違いなどは無い。 日本においては、作家性の強い写真を撮る人を「写真家」と表現し、そうではない人を(プロとアマチュアを含めて)「カメラマン」と呼ぶ事が多い。 「フォトグラファー」と呼ばれるのは、主にファッション撮影をするプロに多く、それは単に語呂的にカッコいいという理由から業界ではそう呼ぶ事が多い。 英語では、芸術性の如何やプロ・アマチュアを問わず、写真の撮影者をフォトグラファー(英: photographer)と呼び、ビデオカメラの撮影者をキャメラマン(英: cameraman)と呼んで差別化を図っている場合もあるが、一般的には写真撮影者も「カメラマン」と表現される事も多い。昨今ではフォトグラファーに対し動画撮影者のことをビデオグラファー(英: videographer)と呼ぶ場合がある。 日本でも男女雇用機会均等などで性差別ととらえられないよう、男性を示す「マン」(man)を使用せずフォトグラファーの表記を使う場合もあり、日本写真家協会では英訳を「Japan Professional Photographers Society」としている。 写真を撮ることで生計を立てていても、町の営業写真館(フォトスタジオ)を経営して写真撮影をしている場合は「写真家」と呼ぶことに違和感を覚え、フリーの写真家のみ、もしくは広告業界や出版・放送関連業界の企業に属している者を加えて写真家と呼ぶ傾向がある。その理由についてはいくつか考えられる。 インターネットの普及にともない、オンラインマガジンの発展とデジタル一眼レフカメラの動画撮影機能の発展が重なり、オンラインマガジンの動画の需要が増え、カメラスタビライザー(英: Steadicam、ステディカム)などカメラサポート機材やヘッドフォンやマイク/ICレコーダーなどのオーディオ機器や外部モニタ/液晶ファインダーなど動画撮影用の機材が必要になるが照明機材等は写真撮影を同じ物が使用できるため、フォトグラファーの分野とビデオグラファー(英: Videographer)の分野を複合して活動している者も多い。シネマトグラフィ(英: Cinematography)とフォトグラフィの技術が応用されビデオグラフィ(英: Videography)に使用される。
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写真家(しゃしんか)またはフォトグラファーとは、主に写真を撮影もしくは製作している人。カメラマンと区別して写真家と呼ぶ場合、動画ではない写真を撮影する人をさす場合や、特に芸術的な写真を撮影し発表する人(芸術写真家)を指す場合がある。
{{出典の明記|date=2023年1月2日 (月) 04:27 (UTC)}} [[File:Beckenbauer_Pressefotografen2.jpg|thumb|300px|[[ドイツ]]の元[[サッカー選手]] [[フランツ・ベッケンバウアー]]を撮影する[[パパラッチ]]([[有名人]]を[[撮影]]する人)たち]] '''写真家'''(しゃしんか)または'''フォトグラファー'''({{Lang-en-short|photographer}})とは、主に[[写真]]を[[撮影]]もしくは製作している人<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%AE%B6-525233 写真家] - [[コトバンク]]</ref>。[[カメラマン]]と区別して写真家と呼ぶ場合、[[動画]]ではない写真を撮影する人をさす場合や、特に[[芸術]]的な[[写真]]を撮影し発表する人([[芸術写真家]])を指す場合がある。 == 概説 == [[新聞]]などの[[報道]]写真を[[撮影]]する人([[フォトジャーナリスト]])、[[風景]]を専門に撮っている[[人]]や人物を専門に撮っている人、[[商品]]撮影([[ブツ撮り]])専門の人などもいる。ジャンルにより、[[戦争写真|戦争写真家]]、[[動物]]写真家、[[建築写真家]]などとも呼ばれる。 ありとあらゆる分野の写真家がいる。 現代では[[デジタルカメラ]]で撮影する写真家が圧倒的に多いが、主に[[写真作家]]など芸術性の高い写真を撮影する人では、今でもフィルム([[銀塩写真]])で撮影をする人もいる。 == 関連語 == [[画像:雨竜沼カメラマンP7020099.JPG|thumbnail|200px|アマチュア写真家([[北海道]][[雨竜沼湿原]])]] === カメラマンと写真家の違い === [[報道写真家]]、[[広告]]写真家、[[ファッション]]写真家といった、[[顧客|クライアント]]である[[企業]]から仕事を受けて写真撮影をするタイプの[[職業]]写真家を特に[[カメラマン]]と呼ぶ場合がある{{要出典|date=2021年4月}}。しかし、[[報道]]カメラマン、広告・ファッションカメラマン、アマチュアカメラマンなど、すべての写真家をカメラマンと呼ぶ場合もあり、特に両者の定義や違いなどは無い。 日本においては、作家性の強い写真を撮る人を「写真家」と表現し、そうではない人を(プロとアマチュアを含めて)「カメラマン」と呼ぶ事が多い。 「フォトグラファー」と呼ばれるのは、主にファッション撮影をするプロに多く、それは単に語呂的にカッコいいという理由から業界ではそう呼ぶ事が多い。 英語では、[[芸術]]性の如何や[[プロ]]・[[アマチュア]]を問わず、写真の撮影者を[[フォトグラファー]]({{lang-en-short|[[w:photographer|photographer]]}})と呼び、ビデオカメラの撮影者をキャメラマン({{lang-en-short|[[w:cameraman|cameraman]]}})と呼んで差別化を図っている場合もあるが、一般的には写真撮影者も「カメラマン」と表現される事も多い。昨今ではフォトグラファーに対し[[動画]]撮影者のことをビデオグラファー({{lang-en-short|[[w:videographer|videographer]]}})と呼ぶ場合がある。 日本でも[[男女雇用機会均等法|男女雇用機会均等]]などで[[性差別]]ととらえられないよう、[[男性]]を示す「[[マン]]」({{lang|en|man}})を使用せずフォトグラファーの表記を使う場合もあり、[[日本写真家協会]]では英訳を「Japan Professional Photographers Society」としている。 === 町の写真館 === {{独自研究|section=1|date=2011年10月}} 写真を撮ることで生計を立てていても、町の[[営業写真館]]([[スタジオ (写真撮影)|フォトスタジオ]])を経営して写真撮影をしている場合は「写真家」と呼ぶことに違和感を覚え、フリーの写真家のみ、もしくは[[広告]]業界や[[出版]]・[[放送]]関連業界の企業に属している者を加えて写真家と呼ぶ傾向がある。その理由については<!---本格的な研究はされていないようであるが--->いくつか考えられる。 #「町の写真屋」に対する蔑視が原因という説(被写体から言われた通り記念写真やお見合い写真を撮っている人は、[[芸術家]]たる写真家の名に値しない、そのような作品には芸術性や報道性がなく撮影者の主体性がない、というような蔑視。映画の看板を描く「看板屋」はあくまでも看板屋であって画家ではない、というような蔑視と同じタイプのもの) #逆に「町の写真屋」からアマチュアに対する蔑視が原因という説(もともと「町の写真屋」は、明治以降[[写真師]]と呼ばれて尊敬を受けており、「写真家」という呼び方は写真師がアマチュアを蔑視した言い方で、それゆえ写真師の方が蔑称である写真家と呼ばれることを拒否していた。ところが写真師という言葉がなくなり、「写真家」という呼び方が[[プロ]]まで飲み込んでしまったという説) === ビデオグラファー === [[インターネット]]の普及にともない、[[オンラインマガジン]]の発展と[[デジタル一眼レフカメラ]]の[[動画撮影]]機能の発展が重なり、オンラインマガジンの[[動画]]の需要が増え、[[カメラ]][[スタビライザー]]({{lang-en-short|[[w:Steadicam|Steadicam]]}}、[[ステディカム]])などカメラサポート機材や[[ヘッドフォン]]や[[マイク]]/[[ICレコーダー]]などのオーディオ機器や[[モニタ|外部モニタ]]/[[ファインダー|液晶ファインダー]]など動画撮影用の機材が必要になるが照明機材等は[[写真撮影]]を同じ物が使用できるため、フォトグラファーの分野と[[ビデオグラファー]]({{lang-en-short|[[w:Videographer|Videographer]]}})の分野を複合して活動している者も多い。[[シネマトグラフィ]]({{lang-en-short|[[w:Cinematography|Cinematography]]}})と[[フォトグラフィ]]の技術が応用され[[ビデオグラフィ]]({{lang-en-short|[[w:Videography|Videography]]}})に使用される。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[カメラマン]] * [[カメラ小僧]] * [[写真作家]] * [[写真家一覧]] * [[日本の写真家一覧]] * [[Earth Factgrapher]] * [[日本写真家協会]](JPS) * [[日本広告写真家協会]](APA) * [[報道写真]] * [[建築写真]] == 外部リンク == {{Commonscat|Photographers}} * [http://www.jps.gr.jp/ 日本写真家協会] * [https://shashinshi.biz/ 『幕末・明治の写真師』総覧] {{写真||state =collapsed}} {{Camera-stub}} {{Artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやしんか}} [[Category:写真家|*]] [[Category:芸術家]] [[Category:写真家集団]] [[Category:メディア関連の職業]] [[Category:美術関連の職業]]
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花見
花見(はなみ)は、樹木に咲いている花、主にサクラの花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。副称は観桜(かんおう)である。 サクラは、日本全国に広く見られる樹木である。花見で話題になる代表的な品種のソメイヨシノはクローンであるため、各地で「休眠打破」がなされてから各地の春の一時期において、おおむね地域毎に一斉に咲き競い、日本人の季節感を形成する重要な春の風物詩となっている。 サクラは開花から散るまでの期間は2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は、人の命の儚さになぞらえられたり、または古来、「サクラは人を狂わせる」と言われたりしてきた。 独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見弁当や酒を愉しむ宴会を開くことが伝統的である。花を見ながら飲む花見酒は風流なものではあるが、団体などの場合、乱痴気騒ぎとなることも珍しくない(「諸問題」の項を参照)。陰陽道では、サクラの陰と宴会の陽が対になっていると解釈する。 花見は、訪日外国人旅行の来日目的になったり、風習としてアジアや欧米に伝わったりしている。北半球と南半球は季節が逆転しているため、地域毎に年中行事としての花見の時期は異なる。 日本の花見は奈良時代の貴族の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりのウメが鑑賞されていたが、平安時代にサクラに代わってきた。また『万葉集』にはサクラを詠んだ歌が43首、ウメを詠んだ歌が110首程度みられ、梅花の宴のようにウメを観賞しながらの歌会も開かれていた。これが10世紀初期の『古今和歌集』では、サクラが70首に対しウメが18首と逆転している。「花」がサクラの別称として使われ、女性の美貌がサクラに例えられるようになるのもこの頃からである。 『日本後紀』には、嵯峨天皇が812年3月28日(弘仁3年2月12日)に神泉苑にて「花宴の節(せち)」を催したとある。時期的に花はサクラが主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は地主神社のサクラを非常に気に入り、以降神社から毎年サクラを献上させたといい、当時花見の花として梅が一般的だったが、サクラの花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人のサクラ好きの原点と見られる。831年(天長8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『源氏物語』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『作庭記』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代においてサクラは庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・東山もこの頃に誕生したと考えられている。 鎌倉・室町時代には貴族の花見の風習が武士階級にも広がった。兼好法師は『徒然草』第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、ともあれ『徒然草』が書かれた鎌倉末期から室町初期の頃には既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。 織豊期には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される。この時期の大規模な花見は、豊臣秀吉が行った吉野の花見(1594年(文禄3年))や醍醐の花見(1598年4月20日(慶長3年3月15日))がある。 花見の風習が広く庶民に広まっていったのは江戸時代といわれる。サクラの品種改良もこの頃盛んに行なわれた。江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、天海大僧正(1536年(天文5年)? - 1643年(寛永20年))によって植えられた上野恩賜公園のサクラである。しかし格式の高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、1720年(享保5年)に徳川吉宗が浅草(墨田川堤)や飛鳥山にサクラを植えさせ、庶民の行楽を奨励した。吉宗は生類憐れみの令以降途絶えていた鷹狩を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場にサクラの木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。江戸の城下・近郊の花見の名所は上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤の他にも、御殿山、愛宕山、玉川上水など少なからずあった。この時期の花見を題材にした落語としては、『長屋の花見』や『あたま山』、飛鳥山の花見を想定して作られた『花見の仇討(あだうち)』などがある。 明治に入ると、サクラが植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されてサクラも焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。東京・駒込の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り、1886年には荒川堤のサクラ並木造成に協力し、1910年には花見の新名所として定着。78種が植栽された荒川のサクラは各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれ、全国へ広がった(1912年には、日米友好の印として荒川のサクラの苗木3000本がアメリカ合衆国の首都ワシントンに贈られ、ポトマック川畔に植栽された)。 サクラは品種によって開花・満開時期が異なる。各地域でのサクラの開花予想日は、毎年2月から4月にかけて各民間気象会社から発表され、同じ日に開花予想された地域を結んだ線は桜前線と呼ばれる。この前線は各地のソメイヨシノ種の標本木を基準にしているため、気候や地形によっても開花の時期が前後する。ただし北海道では道南や札幌ではソメイヨシノを用いるが、それが育たない他の地域ではエゾヤマザクラ、さらに開花の遅い根室などではチシマザクラが用いられる。逆に開花の早い沖縄では標本木にカンヒザクラを用いる。緯度の違いや気候や品種の違いから、日本全国の開花時期は1月から5月までの長期にわたる。 気象庁では、サクラの開花日とは「標本木で5〜6輪以上の花が開いた状態となった最初の日」を指し、満開日とは「標本木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日」を指す。開花から満開までの間は、咲き具合によって「五分咲き」などと表現される。 このように花見の適期は地域によって異なる。年度末の3月が適期の地域では卒業式や送別会、年度初めの4月が適期の地域では、入学式や始業式、歓迎会などとのイメージと重なり合い、それらを祝う宴会として花見をする場合もある。 北海道では4月-5月の開花である蝦夷霞桜もみられる。秋の紅葉シーズンに「観楓会」と呼ばれる宴会が実施される習慣がある。 花見では食品・酒類が多く消費され、宿泊を伴って多数の観光客が訪れる「サクラの名所」もある。このため春には日本各地で、経済効果を期待して「サクラまつり」等の名称でイベントやキャンペーンが開かれる。例えば、青森県弘前市は弘前城でのサクラの満開が、関東地方でサクラの多くが散った後のゴールデンウイークの重なることが多いため花見目的の旅行先として人気が高い。近年は連休に合わせた「弘前桜さくらまつり」より満開が早まる傾向があり、サクラの樹の根元に雪を積み上げて連休に重なるよう開花・満開時期を遅らせる調整が試みられたこともある。 桜吹雪とは桜林やサクラ並木のある所で風などにより数多くの花弁が舞い散るさまであり、その美しさも愛でられる。全て散った後には葉桜と呼ばれる状態になる。 夜に花見をすることは夜桜(よざくら)または夜桜見物(よざくらけんぶつ)と呼ばれる。東京では上野公園や靖国神社など一部のサクラの名所では夜桜のために、ぼんぼりを設置することがある。 東京国立博物館などのように普段は一般公開されていないが花見の季節に特別公開されたり、六義園などのように幻想的にライトアップし夜間特別公開される。こうした機会は秋の紅葉でも持たれることが多い。 花見には団子がつきものといわれている。「花見団子」などともいい、庶民の花見の供として江戸時代から定番となっており、桜色(薄い赤色)・白色・緑色などの色で華やかな色彩を付ける。この3色の組み合わせが一般的でサクラ色はサクラを表して春の息吹を、白は雪で冬の名残を、緑はヨモギで夏への予兆を表現している。 「花より団子」という諺は花見団子に由来し、花の観賞という審美的な行為より団子という実質を選ぶ行動を揶揄したもの。天然記念物クラスの枝振りが見事なサクラやウメ、歴史のあるサクラやウメなどの下では茶席が設けられる事が多い。 江戸時代から花見には花見弁当が欠かせないものとしてあり、日本酒も持ち運べる構造の段重ねの重箱などが使われた。現在でも、日本料理店などが趣向を凝らした花見弁当の注文に応じている。 花見シーズンは、気温の面で三寒四温とも呼ばれる不安定さがあり、日較差も大きい(最低気温と最高気温の差が大きい)傾向もあるため、花見当日の気温に見合った防寒対策をしないと体調を崩してしまう。また、予定していた花見の日に風雨に見舞われることもあるし、花見会場での混雑やトラブルを嫌う人も多い。さらに、花見シーズンはスギ花粉の飛散時期とも重なり、スギ花粉症患者にとって野外での花見は症状悪化を来す。 このように、野外での花見は様々な困難を乗り越えて実施されるため、それらを回避できる屋内で、疑似的な花見が出来るサービスが生れている。サクラの生花や造花をオーナメントとして飾り付ける店舗はしばしば見られるが、これを有料の宴会パッケージとした飲食のサービスにした場合、「エア花見」と呼ばれる。 なお、従前には無かったサクラのバーチャルリアリティー(VR)画像配信(ウェザーニューズ社などが提供)も、「エア花見」と称される。 花見は人気が高い行事で、酒宴を伴うことが多いため、集団心理や酒酔いの影響などでトラブルが起きやすい。夜桜見物を目的に、まだ明るいうちから陣取り用に広げられたビニールシートは景観を損なう。 花見が始まった後も、大音量でのカラオケを歌ったり音楽を流したりする、火気の使用、立小便、酔った勢いでサクラの枝を折ったり樹を傷つけたりする等してサクラに悪影響を与える等、他の花見客や近隣住民に対する迷惑行為を行う集団・団体が増えたり、帰路に飲酒運転を行うなど、大きな社会問題となっている。 特にコンビニエンスストアの増加により、弁当やペットボトルなどをレジ袋に入れて容易に入手可能になった半面、花見で出るゴミの量が急増。ゴミを放置して帰ったり、帰路に所構わず捨てたりする花見客が増え、各地で花見客によるゴミ散乱が問題になっている。 これらへの対処のため、警察官がパトロールしたり、自治体や観光団体が警備員を雇ったりすることもある。福岡市は天神中央公園で、場所取り合戦への対策として予約制を導入したことに加えて、2018年には有料制(1区画2時間で500円)を施行した。 同じようなゴミ問題対策として、近年では神奈川県川崎市高津区瀬田の多摩川河川敷のバーベキュー問題があり、こちらも有料化や条例制定を行うことで、問題の緩和にある程度成功している。 現代日本でサクラの8割程度をソメイヨシノが占めるようになったのは、明治以降の植樹による人為的なものである。中世以前に和歌に詠まれたサクラの多くは山桜であった。江戸時代の花見は、様々な種類のサクラが次々と咲く「群桜」(むれざくら)を楽しんでいた。 現在、全国に多数植えられたソメイヨシノは寿命を迎えつつあり、病虫害も起きている。このため多くの公園などでサクラの植え替えが行われており、これにより開花時期が大きく異なっている。例えば、三重県のともやま公園ではソメイヨシノの他に河津桜、吉野桜などを交互に植えるなどしてサクラ並木の延命作業を行っている。 このため開花時期の異なる木が混在するなど、僅かながら花見の時期も異なり始めている。 日本統治時代がある台湾や韓国でも花見をする習慣がある。沖縄県より南に位置する中華民国では、1月下旬から4月頃まで様々な品種のサクラが咲き、特に旧正月明けから陽明山や阿里山といった名所に多数の花見客が押し寄せる。新潟県とほぼ同緯度にある韓国のソウルでは、4月初旬頃からサクラが咲き始める。漢江沿いの1600本以上のソメイヨシノのサクラ並木周辺では「永登浦 汝矣島 春の花祭り」が開催され、数百万人が訪れる。 中華人民共和国には、日本人が直接植えたり贈ったりしたサクラがある大連市旅順口区(龍王塘桜花園、203高地)、武漢市(東湖桜花園、武漢大学)などが有名である。 個人・企業・各種団体の民間国際交流、あるいは姉妹都市交流を通じて、日本庭園が造られたり、街路樹としてサクラ並木が造られたり、公園内にサクラ並木が造られたりし、花見および日本文化祭が始まる例も見られる。 アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔には、1912年に東京市から寄贈されたサクラが植えられており、全米桜祭りが毎年行われている。同祭ではパレードやステージショーも開催され、アメリカ最大の日本文化祭となっている。ニューヨーク州ニューヨーク市のブルックリン植物園園内のサクラの遊歩道も、第一次世界大戦後に大日本帝国から贈られ、現在はサクラ祭りが開催されている。アメリカ合衆国では他に、ジョージア州メイコンでは多数のサクラが植えられており、「世界のサクラの都」を自称しており、「国際桜祭り」が開かれる。ハワイ州は熱帯なので大規模なサクラ並木はなく、ハワイ島のワイメアは高地にサクラが育っていて、「ワイメア桜伝統祭り」(Waimea Cherry Blossom Herirage Festival)が2月初旬に開かれる。 札幌市より緯度が高い北ヨーロッパでも、フィンランドの首都ヘルシンキのサクラ公園(フィンランド語版)は2007年に造られたばかりだが、既に花見と日本文化祭が開催されている。スウェーデンのストックホルムの王立公園(Royal National City Park)にも、日本から寄贈を受けたサクラが多数植えられていて、サクラ祭りも行われる。デンマーク・コペンハーゲンの人魚姫の像がある埠頭近くのランゲリニエ公園(Langelinie Park)の噴水池の両側には、広島市のアンデルセンが寄贈した二列のサクラ並木があり、ここでもサクラ祭りが行われる。 ブラジルでは日系人移民がサクラの植樹をする例が見られ、特にサンパウロのカルモ公園には約4000本のサクラがある。南半球にある同市では8月初旬の見頃の時期に合わせてさくら祭りが開催されており、多くの人々が集まる。なお、同じ日本文化である「七夕祭り」の時期でもあるため、七夕の「短冊」が満開のサクラの枝にくくりつけられるという独特の風習も生まれている。 ショッピングモールの飾りつけの1つとして花見をモチーフにする場合には、日本文化を象徴する様々なアイテムを混ぜ込む例も見られる。 イタリアのシチリア島にある世界遺産都市アグリジェントでは、同じサクラ属の花であるアーモンド花祭(Festa del mandorlo in fiore)が開かれる。ポルトガルでも各所でアーモンド花祭(Festa da Amendoeira em Flor)が開催される。 以下は、サクラや花見に関連した作品である。 その他、サクラ (曖昧さ回避)も参照。
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"花見は人気が高い行事で、酒宴を伴うことが多いため、集団心理や酒酔いの影響などでトラブルが起きやすい。夜桜見物を目的に、まだ明るいうちから陣取り用に広げられたビニールシートは景観を損なう。", "title": "現在の花見" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "花見が始まった後も、大音量でのカラオケを歌ったり音楽を流したりする、火気の使用、立小便、酔った勢いでサクラの枝を折ったり樹を傷つけたりする等してサクラに悪影響を与える等、他の花見客や近隣住民に対する迷惑行為を行う集団・団体が増えたり、帰路に飲酒運転を行うなど、大きな社会問題となっている。", "title": "現在の花見" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "特にコンビニエンスストアの増加により、弁当やペットボトルなどをレジ袋に入れて容易に入手可能になった半面、花見で出るゴミの量が急増。ゴミを放置して帰ったり、帰路に所構わず捨てたりする花見客が増え、各地で花見客によるゴミ散乱が問題になっている。", "title": "現在の花見" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これらへの対処のため、警察官がパトロールしたり、自治体や観光団体が警備員を雇ったりすることもある。福岡市は天神中央公園で、場所取り合戦への対策として予約制を導入したことに加えて、2018年には有料制(1区画2時間で500円)を施行した。", "title": "現在の花見" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同じようなゴミ問題対策として、近年では神奈川県川崎市高津区瀬田の多摩川河川敷のバーベキュー問題があり、こちらも有料化や条例制定を行うことで、問題の緩和にある程度成功している。", "title": "現在の花見" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現代日本でサクラの8割程度をソメイヨシノが占めるようになったのは、明治以降の植樹による人為的なものである。中世以前に和歌に詠まれたサクラの多くは山桜であった。江戸時代の花見は、様々な種類のサクラが次々と咲く「群桜」(むれざくら)を楽しんでいた。", "title": "花見の樹種" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "現在、全国に多数植えられたソメイヨシノは寿命を迎えつつあり、病虫害も起きている。このため多くの公園などでサクラの植え替えが行われており、これにより開花時期が大きく異なっている。例えば、三重県のともやま公園ではソメイヨシノの他に河津桜、吉野桜などを交互に植えるなどしてサクラ並木の延命作業を行っている。", "title": "花見の樹種" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このため開花時期の異なる木が混在するなど、僅かながら花見の時期も異なり始めている。", "title": "花見の樹種" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本統治時代がある台湾や韓国でも花見をする習慣がある。沖縄県より南に位置する中華民国では、1月下旬から4月頃まで様々な品種のサクラが咲き、特に旧正月明けから陽明山や阿里山といった名所に多数の花見客が押し寄せる。新潟県とほぼ同緯度にある韓国のソウルでは、4月初旬頃からサクラが咲き始める。漢江沿いの1600本以上のソメイヨシノのサクラ並木周辺では「永登浦 汝矣島 春の花祭り」が開催され、数百万人が訪れる。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "中華人民共和国には、日本人が直接植えたり贈ったりしたサクラがある大連市旅順口区(龍王塘桜花園、203高地)、武漢市(東湖桜花園、武漢大学)などが有名である。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "個人・企業・各種団体の民間国際交流、あるいは姉妹都市交流を通じて、日本庭園が造られたり、街路樹としてサクラ並木が造られたり、公園内にサクラ並木が造られたりし、花見および日本文化祭が始まる例も見られる。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.のポトマック河畔には、1912年に東京市から寄贈されたサクラが植えられており、全米桜祭りが毎年行われている。同祭ではパレードやステージショーも開催され、アメリカ最大の日本文化祭となっている。ニューヨーク州ニューヨーク市のブルックリン植物園園内のサクラの遊歩道も、第一次世界大戦後に大日本帝国から贈られ、現在はサクラ祭りが開催されている。アメリカ合衆国では他に、ジョージア州メイコンでは多数のサクラが植えられており、「世界のサクラの都」を自称しており、「国際桜祭り」が開かれる。ハワイ州は熱帯なので大規模なサクラ並木はなく、ハワイ島のワイメアは高地にサクラが育っていて、「ワイメア桜伝統祭り」(Waimea Cherry Blossom Herirage Festival)が2月初旬に開かれる。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "札幌市より緯度が高い北ヨーロッパでも、フィンランドの首都ヘルシンキのサクラ公園(フィンランド語版)は2007年に造られたばかりだが、既に花見と日本文化祭が開催されている。スウェーデンのストックホルムの王立公園(Royal National City Park)にも、日本から寄贈を受けたサクラが多数植えられていて、サクラ祭りも行われる。デンマーク・コペンハーゲンの人魚姫の像がある埠頭近くのランゲリニエ公園(Langelinie Park)の噴水池の両側には、広島市のアンデルセンが寄贈した二列のサクラ並木があり、ここでもサクラ祭りが行われる。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ブラジルでは日系人移民がサクラの植樹をする例が見られ、特にサンパウロのカルモ公園には約4000本のサクラがある。南半球にある同市では8月初旬の見頃の時期に合わせてさくら祭りが開催されており、多くの人々が集まる。なお、同じ日本文化である「七夕祭り」の時期でもあるため、七夕の「短冊」が満開のサクラの枝にくくりつけられるという独特の風習も生まれている。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ショッピングモールの飾りつけの1つとして花見をモチーフにする場合には、日本文化を象徴する様々なアイテムを混ぜ込む例も見られる。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イタリアのシチリア島にある世界遺産都市アグリジェントでは、同じサクラ属の花であるアーモンド花祭(Festa del mandorlo in fiore)が開かれる。ポルトガルでも各所でアーモンド花祭(Festa da Amendoeira em Flor)が開催される。", "title": "日本国外の花見" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "以下は、サクラや花見に関連した作品である。", "title": "関連作品" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その他、サクラ (曖昧さ回避)も参照。", "title": "関連作品" } ]
花見(はなみ)は、樹木に咲いている花、主にサクラの花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。副称は観桜(かんおう)である。
{{Otheruses}} [[ファイル:Yoshitsune with benkei.jpg|thumb|right|220px|花見をする[[源義経|義経]](奥)と[[武蔵坊弁慶|弁慶]](手前)。『芳年武者無類』の内「九郎判官源義経 武蔵坊弁慶」。[[1885年]](明治18年)刊。[[月岡芳年]]作。]] '''花見'''(はなみ)は、樹木に咲いている花、主に[[サクラ]]の[[花]]を鑑賞し、[[春]]の訪れを寿ぐ[[日本]]古来の[[風習]]である。[[副称]]は'''観桜'''(かんおう)である。 == 概要 == サクラは、日本全国に広く見られる[[樹木]]である。花見で話題になる代表的な[[品種]]の[[ソメイヨシノ]]は[[クローン]]であるため、各地で「[[休眠打破]]」がなされてから各地の[[春]]の一時期において、おおむね地域毎に一斉に咲き競い、[[日本人]]の季節感を形成する重要な春の[[風物詩]]となっている。 サクラは開花から散るまでの期間は2週間足らずであり、「花吹雪」となって散り行くその姿は、人の[[命]]の儚さになぞらえられたり、または古来、「サクラは人を狂わせる」と言われたりしてきた<ref>[[坂口安吾]]『[[桜の森の満開の下]]』など。</ref>。 独りで花を眺めるだけでなく、多人数で花見[[弁当]]や[[酒]]を愉しむ[[宴会]]を開くことが伝統的である。花を見ながら飲む'''花見酒'''は風流なものではあるが、[[団体]]などの場合、乱痴気騒ぎとなることも珍しくない(「諸問題」の項を参照)。[[陰陽道]]では、サクラの陰と宴会の陽が対になっていると解釈する。 花見は、[[訪日外国人旅行]]の来日目的になったり、風習として[[アジア]]や[[欧米]]に伝わったりしている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180328/k00/00m/030/015000c 桜・中国でも人気/各地で植樹 偽物トラブル]『毎日新聞』朝刊2018年3月28日(国際面)</ref>。[[北半球]]と[[南半球]]は[[季節]]が逆転しているため、地域毎に[[年中行事]]としての花見の時期は異なる。 <gallery widths="160px" heights="160px"> Maruyama Koen hanami.jpg|飲食型の花見 Hanami Sewaritei.jpg|[[ピクニック]]型の花見 Hanami cycling.jpg|[[サイクリング]]と花見 "TORINUKE" in 201604 003.JPG|[[ウォーキング]]と花見([[桜の通り抜け (大阪造幣局)|大阪造幣局]]) Bunkyo-tokyo-japan-hanami-april2015.ogv|(動画)文京区の花見 </gallery> == 歴史 == 日本の花見は[[奈良時代]]の[[貴族]]の行事が起源だといわれる。奈良時代には中国から伝来したばかりのウメが鑑賞されていたが、[[平安時代]]にサクラに代わってきた。また『[[万葉集]]』にはサクラを詠んだ歌が43首、ウメを詠んだ歌が110首程度みられ、[[梅花の宴]]のようにウメを観賞しながらの歌会も開かれていた。これが[[10世紀]]初期の『[[古今和歌集]]』では、サクラが70首に対しウメが18首と逆転している。「花」がサクラの別称として使われ、女性の美貌がサクラに例えられるようになるのもこの頃からである。 『[[日本後紀]]』には、[[嵯峨天皇]]が[[812年]][[3月28日]]([[弘仁]]3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]])に[[神泉苑]]にて「花宴の節(せち)」を催した<ref name="jiten">「年中行事事典」p656 1958年(昭和33年)5月23日初版発行 [[西角井正慶]]編 東京堂出版</ref><ref>『日本後紀』 弘仁3年2月条</ref>とある。時期的に花はサクラが主役であったと思われ、これが記録に残る花見の初出と考えられている。前年に嵯峨天皇は[[地主神社]]のサクラを非常に気に入り、以降神社から毎年サクラを献上させたといい、当時花見の花として梅が一般的だったが、サクラの花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人のサクラ好きの原点と見られる<ref name=nhk>『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語、NHK, 2015年3月25日</ref>。[[831年]]([[天長]]8年)からは宮中で天皇主催の定例行事として取り入れられた。その様子は『[[源氏物語]]』「花宴(はなのえん)」にも描かれている。また、『[[作庭記]]』にも「庭には花(桜)の木を植えるべし」とあり、平安時代においてサクラは庭作りの必需品となり、花見の名所である京都・[[東山 (京都府)|東山]]もこの頃に誕生したと考えられている<ref name=nhk/>。 [[鎌倉時代|鎌倉]]・[[室町時代]]には貴族の花見の風習が武士階級にも広がった<ref>[https://web.archive.org/web/20150305184741/http://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/foodculture/03.html 日本の食文化と偉人たち豊臣秀吉 太閤秀吉が演出した空前絶後の醍醐の花見] キリン食生活文化研究所</ref>。[[卜部兼好|兼好法師]]は『[[徒然草]]』第137段で、身分のある人の花見と「片田舎の人」の花見の違いを説いている。わざとらしい風流振りや騒がしい祝宴に対して冷ややかな視線であるが、ともあれ『徒然草』が書かれた[[鎌倉時代|鎌倉]]末期から[[室町時代|室町]]初期の頃には既に地方でも花見の宴が催されていたことが窺える。 [[安土桃山時代|織豊期]]には野外に出て花見をしたことが、絵画資料から確認される<ref group="注">豊公吉野花見図屏風など。</ref>。この時期の大規模な花見は、[[豊臣秀吉]]が行った[[吉野山#歴史に登場する吉野山|吉野の花見]]([[1594年]]([[文禄]]3年))や[[醍醐の花見]]([[1598年]][[4月20日]]([[慶長]]3年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]))がある<ref name="jiten" />。 花見の風習が広く庶民に広まっていったのは[[江戸時代]]といわれる。サクラの品種改良もこの頃盛んに行なわれた。江戸で最も名高かった花見の名所が忍岡(しのぶがおか)で、[[天海|天海大僧正]]([[1536年]]([[天文 (元号)|天文]]5年)? - [[1643年]]([[寛永]]20年))によって植えられた[[上野恩賜公園]]のサクラである。しかし格式の高い[[寛永寺]]で人々が浮かれ騒ぐことは許されていなかったため、[[1720年]]([[享保]]5年)に[[徳川吉宗]]が[[隅田公園|浅草(墨田川堤)]]や[[飛鳥山公園|飛鳥山]]にサクラを植えさせ<ref>[[山田孝雄]] <small>[[山田忠雄]] 校訳</small> 『櫻史』 [[講談社学術文庫]] ISBN 4061589164、303-304p</ref>、庶民の行楽を奨励した。吉宗は[[生類憐れみの令]]以降途絶えていた[[鷹狩]]を復興させた際、鷹狩が農民の田畑を荒す事への対応策として、鷹狩の場にサクラの木を植えることで花見客が農民たちに収入をもたらす方策をとったとされている。江戸の城下・近郊の花見の名所は上野寛永寺、飛鳥山、隅田川堤の他にも、[[御殿山 (品川区)|御殿山]]、[[愛宕山 (港区)|愛宕山]]、[[玉川上水]]など少なからずあった。この時期の花見を題材にした[[落語]]としては、『[[長屋の花見]]』や『[[あたま山]]』、飛鳥山の花見を想定して作られた『[[花見の仇討|花見の仇討(あだうち)]]』などがある。 [[明治]]に入ると、サクラが植えられていた江戸の庭園や大名屋敷は次々と取り壊されてサクラも焚き木とされ、江戸時代に改良された多くの品種も絶滅の危機に瀕した。[[東京]]・[[駒込 (豊島区)|駒込]]の植木職人・高木孫右衛門はこれを集めて自宅の庭に移植して84の品種を守り<ref name=nhk/>、[[1886年]]には[[荒川堤]]のサクラ並木造成に協力し、[[1910年]]には花見の新名所として定着<ref name=nhk/><ref name=adachi>[http://www.adachisakura.com/monogatari.html 五色桜ものがたり] あだち・荒川土手に桜を植える会</ref>。78種が植栽された荒川のサクラは各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれ、全国へ広がった([[1912年]]には、日米友好の印として荒川のサクラの苗木3000本が[[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に贈られ、[[ポトマック川]]畔に植栽された)<ref name=nhk/><ref name=adachi/>。 <gallery widths="160px" heights="160px"> Gezelschap onder een kersenboom-Rijksmuseum AK-MAK-933.jpeg|[[勝川春亭]]による花見の図。1820年頃 Yasui tenjinyama hanami.jpg|[[歌川広重]]「浪花名所図会 安井天神山花見」([[1834年]]頃制作<ref>{{PDFlink|[http://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/exhibition/140415_ukiyoe_leaflet.pdf 浮世絵展示 諸国名所風景画]}}([[山口県立萩美術館・浦上記念館]])</ref>)<ref>[{{NDLDC|1303490}} 浪花名所図会 安井天神山花見]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>。踊りに興じる花見客。花見弁当に酒、三味線も見える。 Rukujogosho hanami.jpg|[[歌川国貞]]「六条御所花之夕宴」([[1855年]]制作)<ref>[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_b0068/index.html 六条御所花之夕宴 / 豊国 画]([[早稲田大学図書館]])</ref> Hiroshige III - Bokusui tsutsumi hanazakari.jpg|墨堤(隅田川の堤)の花見客を描いた三代広重の「東京名所第一の勝景墨水堤花盛の図」1881年。 Chiyoda ooku.jpg|[[楊洲周延]]「千代田大奥 御花見」([[1894年]]制作)<ref>[{{NDLDC|1302650}} 千代田大奥 御花見](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。大奥の女性たちの花見。 Edogawa-cherryblossoms-fullbloom.jpg|[[江戸川]]桜花満開(「東京名所写真帖」 1910年7月発刊)<ref>[https://www.ndl.go.jp/scenery/data/554/index.html 江戸川桜花満開]([[国立国会図書館]]、写真の中の明治・大正「東京名所写真帖」 1910年7月発刊)</ref> </gallery> == 現在の花見 == === 開花・満開時期の地域差 === サクラは品種によって開花・満開時期が異なる。各地域でのサクラの開花予想日は、毎年[[2月]]から[[4月]]にかけて各民間気象会社から発表され、同じ日に開花予想された地域を結んだ線は'''[[桜前線]]'''と呼ばれる。この前線は各地の[[ソメイヨシノ]]種の標本木を基準にしているため、[[気候]]や地形によっても開花の時期が前後する。ただし北海道では道南や札幌ではソメイヨシノを用いるが、それが育たない他の地域では[[オオヤマザクラ|エゾヤマザクラ]]、さらに開花の遅い根室などでは[[チシマザクラ]]が用いられる。逆に開花の早い沖縄では標本木に[[カンヒザクラ|カンヒザクラを用いる。]]緯度の違いや気候や品種の違いから、日本全国の開花時期は1月から5月までの長期にわたる。 気象庁では、サクラの開花日とは「標本木で5〜6輪以上の花が開いた状態となった最初の日」を指し、満開日とは「標本木で80%以上の[[蕾|つぼみ]]が開いた状態となった最初の日」を指す<ref>{{PDFlink|[https://www.data.jma.go.jp/sakura/data/sakura2012.pdf さくらの開花日と満開日]}}(気象庁)</ref>。開花から満開までの間は、咲き具合によって「五分咲き」などと表現される<ref>[http://www.hirosakipark.jp/florescent.html 「○分咲き」が決まるのは、標本木の「樹冠の開いている花の数」の割合] 弘前公園ホームページ(2018年4月7日閲覧)。</ref>。 このように花見の適期は地域によって異なる。[[年度]]末の[[3月]]が適期の地域では[[卒業式]]や送別会、年度初めの[[4月]]が適期の地域では、[[入学式]]や始業式、歓迎会などとのイメージと重なり合い、それらを祝う宴会として花見をする場合もある。 [[北海道]]では[[4月]]-[[5月]]の開花である[[蝦夷霞桜]]もみられる。秋の[[紅葉]]シーズンに「[[観楓会]]」と呼ばれる宴会が実施される習慣がある。 花見では食品・酒類が多く消費され、宿泊を伴って多数の観光客が訪れる「サクラの名所」もある。このため春には日本各地で、経済効果を期待して「サクラまつり」等の名称でイベントやキャンペーンが開かれる。例えば、[[青森県]][[弘前市]]は[[弘前城]]でのサクラの満開が、[[関東地方]]でサクラの多くが散った後の[[ゴールデンウイーク]]の重なることが多いため花見目的の旅行先として人気が高い。近年は連休に合わせた「弘前桜さくらまつり」より満開が早まる傾向があり、サクラの樹の根元に[[雪]]を積み上げて連休に重なるよう開花・満開時期を遅らせる調整が試みられたこともある<ref>[https://web.archive.org/web/20180407182819/https://www.tbsradio.jp/23582 花の咲く時期をコントロールできる「フロリゲン」ってなに?] TBSラジオ『[[森本毅郎]]・スタンバイ!』(2016年4月11日)2018年4月7日閲覧。</ref>。 '''[[桜吹雪]]'''とは桜林やサクラ並木のある所で風などにより数多くの花弁が舞い散るさまであり、その美しさも愛でられる。全て散った後には'''[[葉桜]]'''と呼ばれる状態になる。 === 夜桜見物 === {{Redirect|夜桜|[[SEKAI NO OWARI]]の楽曲|Eye (SEKAI NO OWARIのアルバム)}} 夜に花見をすることは'''夜桜'''(よざくら)または'''夜桜見物'''(よざくらけんぶつ)と呼ばれる。東京では[[上野恩賜公園|上野公園]]や[[靖国神社]]など一部のサクラの名所では夜桜のために、[[ぼんぼり]]を設置することがある。 [[東京国立博物館]]などのように普段は一般公開されていないが花見の季節に特別公開されたり、[[六義園]]などのように幻想的にライトアップし夜間特別公開される。こうした機会は秋の紅葉でも持たれることが多い。 <gallery widths="160px" heights="160px"> 新町廓中九軒夜桜 (浪花百景).jpg|幕末の夜桜見物 Kurashki city at night during Hanami (Sakura blooming season). Okayama Prefecture. Japan-2.jpg|色味の異なる光源による夜桜<!-- ([[倉敷市]] )←正しいか不明 --> Rikugien-1.jpg|東京都文京区の[[六義園]] 夜の枝垂桜(2010年4月1日撮影) Yozakura20190324.jpg|東京都千代田区の潮見坂のサクラ(2019年3月24日撮影) </gallery> === 花見団子 === {{right| <gallery widths="160px" heights="160px" perrow="2"> Hanami Dango.jpg|[[団子|花見団子]](下)と[[茶]](上) Hanami bento by Blue Lotus.jpg|花見弁当 </gallery> }} 花見には[[団子]]がつきものといわれている。「'''花見団子'''」などともいい、庶民の花見の供として江戸時代から定番となっており、'''[[桜色]]'''(薄い赤色)・白色・緑色などの色で華やかな色彩を付ける。この3色の組み合わせが一般的で<ref group="注">ただし[[福島県]][[郡山市]]や[[秋田県]][[横手市]]のように、3色以外の団子が花見団子として定着している地域もある。詳しくは[[団子]]を参照。</ref>サクラ色はサクラを表して春の息吹を、白は[[雪]]で冬の名残を、緑は[[ヨモギ]]で夏への予兆を表現している。<!--対照的とは? [[月見]]で食べる月見団子と対照的に--> 「花より団子」という[[諺]]は花見団子に由来し、花の観賞という審美的な行為より団子という実質を選ぶ行動を揶揄したもの。[[天然記念物]]クラスの枝振りが見事なサクラやウメ、歴史のあるサクラやウメなどの下では茶席が設けられる事が多い。 === 花見弁当 === 江戸時代から花見には花見弁当が欠かせないものとしてあり、日本酒も持ち運べる構造の段重ねの重箱などが使われた<ref>[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=576 花見弁当] 三重県環境生活部文化振興課県史編さん班</ref><ref>[http://cultural-assets.fujinaka-kousan.co.jp/date/gallery/sikkouhin/ 柳橋蒔絵花見弁当(江戸時代)] 藤仲興産</ref><ref>[http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h26/05/obj02.html 八橋蒔絵提重] 徳川美術館</ref><ref>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no58.html 東叡山の花見と花見弁当] 歌舞伎座</ref><ref>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no9.html 飛鳥山と花見弁当] 歌舞伎座</ref><ref>[http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no59.html 御殿山と花見弁当] 歌舞伎座</ref><ref>[http://www.kyotodeasobo.com/art/column/museum_kikou/11.html#.VRPeOmH-uSo 京都MUSEUM紀行。第十一回【半兵衛麩・弁当箱博物館】] 京都で遊ぼう ART</ref>。現在でも、日本料理店などが趣向を凝らした花見弁当の注文に応じている。 === エア花見 === 花見シーズンは、気温の面で[[三寒四温]]とも呼ばれる不安定さがあり、[[日較差]]も大きい(最低気温と最高気温の差が大きい)傾向もあるため、花見当日の気温に見合った防寒対策をしないと体調を崩してしまう。また、予定していた花見の日に風雨に見舞われることもあるし、花見会場での混雑やトラブルを嫌う人も多い。さらに、花見シーズンは[[スギ]][[花粉]]の飛散時期とも重なり、[[スギ花粉症]]患者にとって野外での花見は症状悪化を来す。 このように、野外での花見は様々な困難を乗り越えて実施されるため、それらを回避できる屋内で、疑似的な花見が出来るサービスが生れている。サクラの[[生花]]や[[造花]]を[[デコレーション|オーナメント]]として飾り付ける店舗はしばしば見られるが、これを有料の宴会パッケージとした飲食のサービスにした場合、「エア花見」と呼ばれる。 なお、従前には無かったサクラの[[仮想現実|バーチャルリアリティー]](VR)画像配信([[ウェザーニューズ]]社などが提供)も、「エア花見」と称される<ref>「エア花見会場は飲食店内/リアルな増加風雨や混雑の心配無用」『[[読売新聞]]』朝刊2018年3月23日(くらし面)</ref>。 === 諸問題 === 花見は人気が高い行事で、酒宴を伴うことが多いため、[[集団心理]]や酒[[酔い]]の影響などでトラブルが起きやすい。夜桜見物を目的に、まだ明るいうちから陣取り用に広げられたビニールシートは景観を損なう。 花見が始まった後も、大音量での[[カラオケ]]を歌ったり音楽を流したりする、火気の使用、立[[小便]]、酔った勢いでサクラの枝を折ったり樹を傷つけたりする等してサクラに悪影響を与える等、他の花見客や近隣住民に対する[[迷惑行為]]を行う集団・団体が増えたり、帰路に[[飲酒運転]]を行うなど、大きな[[社会問題]]となっている。 特に[[コンビニエンスストア]]の増加により、弁当や[[ペットボトル]]などを[[レジ袋]]に入れて容易に入手可能になった半面、花見で出るゴミの量が急増。[[ゴミ]]を放置して帰ったり、帰路に所構わず捨てたりする花見客が増え、各地で花見客によるゴミ散乱が問題になっている。 これらへの対処のため、[[日本の警察官|警察官]]がパトロールしたり、自治体や観光団体が[[警備員]]を雇ったりすることもある。[[福岡市]]は[[天神中央公園]]で、場所取り合戦への対策として[[予約]]制を導入したことに加えて、2018年には有料制(1区画2時間で500円)を施行した<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2018032201001116.html 福岡市天神中央公園お花見するのに有料?警備などの経費1区画500円「市民の公園なのに…」]『東京新聞』朝刊2018年3月14日(特報面)</ref>。 同じような[[ゴミ問題]]対策として、近年では[[神奈川県]][[川崎市]][[高津区]]瀬田の[[多摩川]]河川敷の[[バーベキュー]]問題があり、こちらも有料化や[[条例]]制定を行うことで、問題の緩和にある程度成功している。 == 花見の樹種 == 現代日本でサクラの8割程度をソメイヨシノが占めるようになったのは、明治以降の植樹による人為的なものである。中世以前に和歌に詠まれたサクラの多くは[[ヤマザクラ|山桜]]であった<ref>[https://www.sankei.com/article/20180304-DELMMSILMZPKXHZNIIKZCE3P5Y/ 桜の王者「ソメイヨシノ」見えてきた起源 クローンの弱点も]『産経新聞』朝刊2018年3月5日(Science)</ref>。江戸時代の花見は、様々な種類のサクラが次々と咲く「群桜」(むれざくら)を楽しんでいた<ref>[https://www.sankei.com/article/20180319-TANHQW6BSFKCDJNQFMZJ62VHY4/ 藤井青銅『「日本の伝統」の正体』(柏書房)紹介記事。『産経新聞』朝刊3月19日(文化面)]</ref>。 現在、全国に多数植えられたソメイヨシノは寿命を迎えつつあり、病虫害も起きている。このため多くの公園などでサクラの植え替えが行われており、これにより開花時期が大きく異なっている。例えば、三重県の[[登茂山|ともやま公園]]ではソメイヨシノの他に[[カワヅザクラ|河津桜]]、[[吉野桜]]などを交互に植えるなどしてサクラ並木の延命作業を行っている。 このため開花時期の異なる木が混在するなど、僅かながら花見の時期も異なり始めている。 == 日本国外の花見 == {{right| <gallery widths="160px" heights="160px" perrow="2"> Glattzentrum - Innenansicht - Hanami 2012-04-05 16-53-14 (P7000) ShiftN.jpg|[[チューリッヒ]]近郊の[[:en:Glattzentrum|ショッピングモール]]の飾り付け University of Washington Quad cherry blossoms 2014 - 21 (13347650423).jpg|[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]([[アメリカ合衆国]][[シアトル]]) </gallery> }} [[日本統治時代]]がある[[台湾]]や[[大韓民国|韓国]]でも花見をする[[習慣]]がある。[[沖縄県]]より南に位置する[[中華民国]]では、1月下旬から4月頃まで様々な品種のサクラが咲き、特に[[旧正月]]明けから[[陽明山]]や[[阿里山]]といった名所に多数の花見客が押し寄せる。[[新潟県]]とほぼ同緯度にある韓国の[[ソウル特別市|ソウル]]では、4月初旬頃からサクラが咲き始める。[[漢江]]沿いの1600本以上のソメイヨシノのサクラ並木周辺では「[[永登浦区|永登浦]] [[汝矣島]] 春の花祭り<!--2014年より「漢江・汝矣島 春の花祭り」から現在の名称に変更された-->」が開催され、数百万人が訪れる。 [[中華人民共和国]]には、[[日本人]]が直接植えたり贈ったりしたサクラがある[[大連市]][[旅順口区]]([[龍王塘桜花園]]、[[203高地]])、[[武漢市]]([[東湖桜花園]]、[[武漢大学]])などが有名である。 個人・企業・各種団体の民間国際交流、あるいは[[姉妹都市]]交流を通じて、[[日本庭園]]が造られたり、街路樹としてサクラ並木が造られたり、公園内にサクラ並木が造られたりし、花見および日本文化祭が始まる例も見られる。 [[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.]]の[[ポトマック川|ポトマック河畔]]には、[[1912年]]に[[東京市]]から寄贈されたサクラが植えられており、[[全米桜祭り]]が毎年行われている。同祭ではパレードやステージショーも開催され、アメリカ最大の日本文化祭となっている。[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]市の[[ブルックリン植物園]]園内のサクラの遊歩道も、[[第一次世界大戦]]後に[[大日本帝国]]から贈られ、現在はサクラ祭りが開催されている。アメリカ合衆国では他に、[[ジョージア州]][[メイコン (ジョージア州)|メイコン]]では多数のサクラが植えられており、「世界のサクラの都」を自称しており、「国際桜祭り」が開かれる。[[ハワイ州]]は熱帯なので大規模なサクラ並木はなく、[[ハワイ島]]の[[ワイメア (ハワイ島)|ワイメア]]は高地にサクラが育っていて、「ワイメア桜伝統祭り」([[:en:Waimea, Hawaii County, Hawaii#Festivals|Waimea Cherry Blossom Herirage Festival]])が2月初旬に開かれる。 [[札幌市]]より[[緯度]]が高い[[北ヨーロッパ]]でも、[[フィンランド]]の首都[[ヘルシンキ]]の{{仮リンク|サクラ公園|fi|Kirsikkapuisto (Helsinki)}}は2007年に造られたばかりだが、既に花見と日本文化祭が開催されている。[[スウェーデン]]の[[ストックホルム]]の王立公園([[:en:Royal National City Park|Royal National City Park]])にも、日本から寄贈を受けたサクラが多数植えられていて、サクラ祭りも行われる。[[デンマーク]]・[[コペンハーゲン]]の[[人魚姫の像]]がある埠頭近くのランゲリニエ公園([[:en:Langelinie#Langelinie Park|Langelinie Park]])の噴水池の両側には、[[広島市]]の[[アンデルセン (製パン)|アンデルセン]]が寄贈した二列のサクラ並木があり、ここでもサクラ祭りが行われる<ref>『[[家庭画報]]』2019年2月号の写真記事「デンマーク、スエーデンの桜物語:王国に微笑むSakura」</ref>。 [[ブラジル]]では[[日系人]][[移民]]がサクラの植樹をする例が見られ、特に[[サンパウロ]]のカルモ公園には約4000本のサクラがある。[[南半球]]にある同市では8月初旬の見頃の時期に合わせてさくら祭りが開催されており、多くの人々が集まる。なお、同じ日本文化である「[[七夕]]祭り」の時期でもあるため、七夕の「短冊」が満開のサクラの枝にくくりつけられるという独特の風習も生まれている。 ショッピングモールの飾りつけの1つとして花見をモチーフにする場合には、日本文化を象徴する様々なアイテムを混ぜ込む例も見られる。 === アーモンド === [[イタリア]]の[[シチリア島]]にある世界遺産都市[[アグリジェント]]では、同じ[[サクラ属]]の花である[[アーモンド]]花祭([[:it:Festa del mandorlo in fiore|Festa del mandorlo in fiore]])が開かれる。[[ポルトガル]]でも各所でアーモンド花祭(Festa da Amendoeira em Flor)が開催される。 === ギャラリー === ; アメリカ合衆国の花見 <gallery widths="160px" heights="160px"> Chblossomfest.JPG|{{仮リンク|国際さくら祭り|en|International Cherry Blossom Festival}}<br/>([[ジョージア州]][[メイコン (ジョージア州)|メイコン]]) Cherry Blossom Festival Washington DC.JPG|[[全米桜祭り]]<br/>([[ワシントンD.C.]]) 2008-Subaru-Cherry-Blossom-Festival-of-Greater-Philadelphia-1.jpg|{{仮リンク|松風荘サクラ祭り|en|Subaru Cherry Blossom Festival of Greater Philadelphia}}([[フィラデルフィア]]) Waimea Cherry Blossom Heritage Festival 2.jpg|[[ワイメア (ハワイ州)|ワイメア]]桜と伝統祭り([[ハワイ州]][[ハワイ島]]) </gallery> ; アジアの花見 <gallery widths="160px" heights="160px"> Longwangtang Cherry Blossom Park with Viewers 1.jpg|[[大連市]][[龍王塘桜花園]]では日本と似た花見が行われる Wuxi Taihu lake Changchun bridge.jpg|[[太湖]]・{{仮リンク|黿頭渚|en|Yuantouzhu}}<br/>江蘇省([[無錫市]]) 2016 Shanghai Cherry Blossom Festival in Gucun Park.JPG|[[上海市]][[顧村公園]]では「上海サクラ祭り」がある Hangang Yeouido Spring Flower Festival - 4402809591.jpg|永登浦 汝矣島 春の花祭り<br/>([[ソウル特別市]]) </gallery> ; ヨーロッパおよびブラジルの花見 <gallery widths="160px" heights="160px"> Cerisiers en fleurs au parc de Sceaux.JPG|[[ソー公園]]([[パリ]]郊外) Foto Hanami parco del Lago dell'EUR.jpg|[[エウローパ|EUR]]の[[:it:Parco Centrale del Lago|湖水中央公園]]([[ローマ]]) Kirsikkapuisto during cherry blossom in Roihuvuori, Helsinki, 2022 May - 2.jpg|{{ill|サクラ公園|en|Kirsikkapuisto}}([[ヘルシンキ]]) CherryBlossomCuritiba1.JPG|[[:en:Botanical Garden of Curitiba|クリチバ植物園]]([[クリチバ]]) </gallery> == 日本の花見の名所の例 == {{See also|日本さくら名所100選|飛騨・美濃さくら三十三選}} ; 旧跡とサクラ <gallery widths="160px" heights="160px"> Goryoukakusakurarr.jpg|[[五稜郭公園]]([[北海道]]) Hirosaki castle.jpg|[[弘前公園]]([[青森県]]) Castle Himeji sakura02.jpg|[[姫路城|姫路城公園]]([[兵庫県]]) Cherry blossoms at Yoshinoyama 01.jpg|[[吉野山]]の中千本([[奈良県]]) </gallery> ; サクラ並木 <gallery widths="160px" heights="160px"> Mount Zaō and Sakura 01.jpg|[[一目千本桜]]と逆さ[[蔵王連峰|蔵王]]([[宮城県]]) Fujireien.jpg|[[冨士霊園]]([[静岡県]]) Sinsakariv.JPG|[[新境川]]の[[百十郎桜]]([[岐阜県]]) </gallery> ; 交通とサクラ並木 <gallery widths="160px" heights="160px"> HeiwaDohri.jpg|[[茨城県道293号日立停車場線|平和通り]]([[茨城県]])<br />車道のサクラ並木 Randen PICT0032.JPG|[[京福電気鉄道北野線]]([[京都府]])<br />鉄道のサクラ並木 Yodogawa river park (Sewaritei district) Kyoto,JAPAN.jpg|[[淀川河川公園]](京都府)<br />遊歩道のサクラ並木 </gallery> ; 夜桜 <gallery widths="160px" heights="160px"> Cherry Blossoms on Eboshiyama, Nanyo Japan.jpg|[[烏帽子山公園]]([[山形県]])<br />[[街灯]]と[[提灯]] Osaka-jo Yozakura.JPG|[[大坂城|大阪城]]([[大阪府]])<br />複数色の[[ライトアップ]] Night cherry bloosom on river 01.JPG|宇美川([[福岡県]])<br />白色のライトアップ </gallery> ; 品種 <gallery widths="160px" heights="160px"> Ishiwari Zakura.jpg|[[石割桜]]([[岩手県]]) Miharu Miharu-Takizakura Front 1.jpg|[[三春滝桜]]([[福島県]]) 20100418花見山.jpg|[[花見山公園]](福島県) </gallery> ; 梅林 <gallery widths="160px" heights="160px"> Kairaku-en Kobuntei view form extension ground.jpg|[[偕楽園]](茨城県) Dômyô-ji-tenman-gû Shrine - Plum Garden.jpg|[[道明寺天満宮]](大阪府) Korakuen Okayama50n4000.jpg|[[後楽園]]([[岡山県]]) </gallery> == 関連作品 == {{See also|桜に関連する作品一覧}} 以下は、サクラや花見に関連した作品である。 * 落語 ** [[百年目]] ** [[頭山]] ** 長屋の花見([[貧乏花見]]) ** 花見の仇討ち(桜の宮) ** [[花見酒 (落語)|花見酒]] * [[能]] ** [[西行桜]](さいぎょうざくら) ** 小塩(おしお) * [[狂言]] ** 花盗人 * [[小説]] ** [[井上靖]]『化石』角川文庫 - 高遠城址公園のサクラ ** [[梶井基次郎]]『[[櫻の樹の下には]]』 ** [[坂口安吾]]『[[桜の森の満開の下]]』 講談社文芸文庫 ** [[柴田よしき]]『桜さがし』 集英社文庫 ** [[乃南アサ]]『花盗人』 新潮文庫 * [[映画]] ** 『[[櫻の園 (漫画)|櫻の園]]』([[吉田秋生]]原作、[[中原俊]]監督、[[1990年]]) ** 『[[HANAMI]]』(ドリス・デリエ監督、[[2008年]]) * [[音楽]] ** [[箏曲]]『雪月花』 三橋[[検校]]作曲 ** [[地歌]]『桜尽し』(箏曲) 佐山検校作曲 ** 地歌『[[西行桜]]』(箏曲) 菊崎検校作曲 ** 地歌『長等の春』(箏曲) 菊岡検校作曲 ** 地歌『桜川』(箏曲) 光崎検校作曲 ** 地歌『花の縁』(箏曲) [[吉沢検校]]作曲 ** 箏曲『春の曲』 吉沢検校作曲 ** 箏曲『山桜』 吉沢検校擦曲 ** 箏曲『新雪月花』 吉沢検校作曲 ** 箏曲『稚児桜』 菊武検校作曲 ** 『さくら変奏曲』 [[宮城道雄]]編曲 ** 『花紅葉』 宮城道雄作曲 ** 山田流箏曲『桜狩』 山田検校作曲 ** 山田流箏曲『花の雲』 山勢検校作曲 ** 端唄・小唄『桜見よとて』 ** 薩摩琵琶『桜狩』 ** 『[[花 (瀧廉太郎)|花]]』([[瀧廉太郎]]) ** 『[[さくらさくら]]』(日本古謡) その他、[[サクラ (曖昧さ回避)]]も参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[葉桜]] * [[月見]] * [[雪見]] * [[酒乱]] * [[花祭り]]([[:en:Category:Flower festivals|Category:Flower festivals]]) * [[宴会]] * [[歓送迎会]] == 外部リンク == {{Commonscat|Hanami}} {{Wikiquote|花見}} * [https://www.sakuranokai.or.jp/about/ 公益財団法人 日本さくらの会] {{DEFAULTSORT:はなみ}} [[Category:日本の年中行事]] [[Category:桜に関する文化]] [[Category:花に関する文化]] [[Category:酒]] [[Category:パーティ]]
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リレー
リレー (英語 relay)
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リレー
'''リレー'''([[英語]]:relay) == 一般概念 == * 長距離にわたり[[荷物]](や[[手紙]])を運ぶ場合に、複数の[[馬]]や[[人]]がひとつのグループになってその任に当たり、かわるがわる、交代で運ぶこと。⇒ '''[[伝馬]]'''、 '''[[駅伝制]]''' 、([[聖火リレー]]もそれの類似例) **(上記の運び方から派生した競技){{仮リンク|リレーレース|en|Relay race}} - 複数の競技者がひとつのチームになって、それぞれ担当の区間(や距離)を、かわるがわる交代に進み、最終的にゴールまでにかかった時間の短さを、複数のチームの間で競う競技。 ***[[リレー走]](継走) - ひとつのバトンを、複数のランナーのチームで順番に運んでゆく競技。 ***[[駅伝競走]] - ひとつのたすきを、長距離、複数のランナーのチームで順番に運んでゆく競技。 ***{{仮リンク|継泳|en|Relay race#Swimming relays}} -  ある距離を、複数のスイマーのチームで交代しつつ進み、そのタイムの短さを競う水泳競技。 ****[[フリーリレー]] - リレー水泳の中で、特に泳法が[[自由形|自由(自由形)]]であるもの。 ****[[メドレーリレー]] - リレー水泳の中で、特に、背泳ぎ→平泳ぎ→バタフライ→自由形の順で各スイマーが泳がなければならないと決められている競技。 *([[通信]]用語。上述の概念同様に) 信号や情報を、複数の通信機器が かわるがわる交代で伝達・伝送すること、その方式。 ⇒'''[[中継方式]]'''。 **リレー衛星 - (地球規模の)信号のリレーの経路の一部を荷う[[人工衛星]] ⇒ '''[[通信衛星]]''' ***[[リレー (人工衛星)]] - 1962年と1964年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]が[[太平洋]]に打ち上げた2つの[[通信衛星]]。1962年のリレー1号は、翌年の初の日米間テレビ中継に使われ、[[ジョン・F・ケネディ]]米国大統領暗殺事件を伝えた。 ***[[かぐや#リレー衛星(おきな)]] - [[月探査機]]かぐやが搭載した通信用の子衛星。 *比較的弱い電流(あるいは電気信号)を受け取り、[[電気回路]]の開閉(スイッチング)を行い、その先の回路に(比較的大きな)電流という形で伝える装置。⇒'''[[継電器]]'''(リレー装置) **[[半導体リレー]] - 上述のリレー装置の中でも、特に[[半導体素子]]でできたもの。 **[[保護継電器|保護リレー]] - リレー装置の中でも、電流や電圧の急激な変化から保護するしくみを備えたもの。 *[[リレー列車]] - (一番上で説明した概念とほぼ同じ。荷物ではなく乗客を運ぶ、という点が異なるだけ)長距離を移動する乗客を、複数の種類の列車で、順番に担当する形で目的地まで運ぶために用意された[[列車]]。特に[[新幹線]]、あるいは[[特別急行列車|特急列車]]との連携、接続の良さ(乗客の乗り換え時の利便性)に留意された[[列車]]。具体例(愛称)としては「[[つばめ (列車)#リバイバルトレイン|リレーつばめ]]」、「[[新幹線リレー号]]」、「[[こまち (列車)#沿革|秋田リレー]]」、「[[こうのとり (列車)|北近畿]]リレー」などがある。 *[[リレー放送]] **[[リレー中継]] - かなりの長時間におよぶイベントのライブ放送を行う場合に、(ひとつのチャンネルだけでやろうとして途中で放送に途切れが生じるのを防ぐためにも)複数の[[チャンネル]]でその任に当たり、交代交代に、途中で途切れが生じないように放送してゆくこと、その放送手法。前の部分を「トップ中継」、後ろの部分を「リレー中継」と呼ぶことがある。[[日本プロ野球]]、[[大相撲]]、[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]、[[日本競馬]]などの[[スポーツ中継]]で使われる手法。「[[プロ野球トップ&リレー中継]]」も参照可。 == 特定の製品名 == *リレー(計算尺) - かつて、[[リコー三愛グループ]]が製造していた[[計算尺]]のブランド名。 == 関連項目 == *[[中継 (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:りれえ}} [[Category:英語の語句]]
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第二量子化
第二量子化(だいにりょうしか、英: second quantization)とは場の正準量子化のことである。 量子力学は、粒子の位置と運動量を基本変数に選んだ量子論である。 古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。スピンが関わるような物理系がその典型である。「位置と運動量」を基本変数としてもスピンを記述することができないため、量子力学でスピンが関わるような状況では、スピンを新たな基本変数としてつけ加えることをする。しかし「位置と運動量」ではなく「場」を基本変数として電子を扱うとスピンを自然に記述できる。 場を基本変数とする量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った場合の近似理論である。 また量子論をフォック空間で考えることを第二量子化と呼ぶこともある。 量子場を導入する方法として2つの方法がある。 1つ目は、古典場を量子化する方法。このとき波動場を関数ではなく、正準交換関係や正準反交換関係といった「ある種の代数的関係」を満たす演算子に読み替える。 2つ目は、量子力学における同種粒子の統計性や不可弁別性に注目し、真空から粒子が生成したり、粒子が消滅する空間(フォック空間)から出発する方法である。 場の量子化は、決して「二度目の」量子化ではない。「第二量子化」という言葉は、場の量子論が作られていく歴史的過程において、量子化の本質が見えず、「一度目の量子化が有限自由度の量子力学で、これをもう一度量子化したものが場の量子論である」という誤解に由来するものである。 「古典的には粒子であるもの(例えば電子)に対して、場を基本変数にしてみよう」という動機が、「座標表示の波動関数が場のようにも見えたから」だった。しかし言うまでもなく、「基本変数である場」と「状態ベクトルの座標表示である波動関数」とは全くの別物である。 例としてスカラー場の量子化を考える。 スカラー場 φ ( r ) {\displaystyle \phi ({\boldsymbol {r}})} と、それに共役な運動量 π ( r ) {\displaystyle \pi ({\boldsymbol {r}})} を基本変数に選ぶと、これは正準変数である。系の物理量(オブザーバブル)は と表せる。 場の正準量子化では、 φ {\displaystyle \phi } , π {\displaystyle \pi } を以下の正準交換関係を満たすエルミート演算子 φ ^ , π ^ {\displaystyle {\hat {\phi }},{\hat {\pi }}} に置き換える。量子化された場は演算子となり、場の演算子と呼ばれる。 ここで δ {\displaystyle \delta } はデルタ関数である。なお、基本変数の場がオブザーバブルでない場合は、場についての交換関係は、必ずしもこのような交換関係でなくてもよくなる。実際、粒子はボース粒子とフェルミ粒子に大別されるが、フェルミ粒子の場合は、この交換関係を全て反交換関係に置き換えて正準量子化する。 時間発展については、ハイゼンベルク描像を採用して場の演算子が引き受けることで、ローレンツ共変性などが自然な形で現れる。 量子論では同種の粒子は全く区別がつかない。N個の同種粒子から成る系は、等価であるが一見異なった2つの方法で記述できる。 第一の方法では、N粒子系のヒルベルト空間を構成するために、1粒子ヒルベルト空間のN個のテンソル積を考え、それを粒子の入れ替えに対しボゾン系では完全対称なもの、フェルミオン系では非対称なものへ制限する。このような多体系の取り扱いを第一量子化とよぶ。 同種粒子の不可弁別性のため、同種粒子を含む系の状態ベクトルや物理量は一定の対称性を持つものに限られる。その対称性は、基本変数を粒子の「位置と運動量」にとった量子論では少し不自然にも見える形で現れる(波動関数の対称性、反対称性など)。この不自然さは、個々の粒子に別々の「位置と運動量」を割り当てるのは粒子が区別できることが大前提であるのに、区別ができない粒子にそれをやってしまったことによる。 N粒子系を記述する多体波動関数は、系の粒子がフェルミ粒子なら任意に選んだ 2 粒子の交換により多体波動関数の符号が変わる(反対称)。一方、系の粒子がボース粒子なら 2 粒子の交換に対し符号は変わらない(対称)。 第二の方法では、粒子の生成消滅演算子を考え、粒子が1つもない状態に生成演算子をN個作用させた状態としてN体系を記述する。このような多体系の取り扱いを第二量子化と呼ぶ。 第二量子化では基本変数を「場」とその共役運動量にとることで、同種粒子の区別がつかないことや状態ベクトルや物理量の対称性なども自動的に理論に組み込まれ、すっきりしたものになる。 相互作用のないN 個の同種粒子系を考え、それぞれの粒子に k = 1 , 2 , ... , N {\displaystyle k=1,2,\dots ,N} というように番号k を付ける。k 番目の粒子の1粒子エネルギー固有状態を α , β , ⋯ {\displaystyle \alpha ,\beta ,\cdots } というようにラベル付けし、その集まりを { ψ k α , ψ k β , ... } {\displaystyle \{\psi _{k_{\alpha }},\psi _{k_{\beta }},\dots \}} と表す。N 個すべての粒子について書き下すと、 第一量子化では、どの番号の粒子がどの1粒子エネルギー固有状態にあるかを考える。しかしそれでは、本来区別できない粒子がk という粒子の番号で区別されている。最初から粒子が区別できないことを取り入れるなら、粒子を中心に考えるのではなく1粒子エネルギー固有状態を中心に考えて、「各エネルギー状態に占有している粒子の個数」でN 粒子系の状態を考えるほうが自然である。このような方法を占有数表示という。そこで改めて全ての1粒子エネルギー固有状態に i = 1 , 2 , ... {\displaystyle i=1,2,\dots } と名前を付けなおし、それぞれの状態を占有している粒子の個数(占有数)を n i {\displaystyle n_{i}} とする。 占有数 n i {\displaystyle n_{i}} の値は、ボース粒子の場合は 0 以上の任意の整数をとれるが、フェルミ粒子の場合は 0 または 1 に限られる。これはパウリの排他原理を反映している。すべての占有数の和をとれば、全粒子数が得られる。 それぞれの状態の占有数 n i {\displaystyle n_{i}} で指定された状態 をフォック状態と呼ぶ。 占有数表示を記述するために、状態 ψ i {\displaystyle \psi _{i}} の占有数を 1 増やすような生成演算子 a ^ i † {\displaystyle {\hat {a}}_{i}^{\dagger }} 、 1 減らすような消滅演算子 a ^ i {\displaystyle {\hat {a}}_{i}} を導入する。ボース粒子の生成消滅演算子は交換関係を満たすものとして、フェルミ粒子の生成消滅演算子は反交換関係を満たすものとして、それぞれ定義される。 ただし [ A , B ] ∓ = A B ∓ B A {\displaystyle [A,B]_{\mp }=AB\mp BA} である。数演算子 n i ^ {\displaystyle {\hat {n_{i}}}} は生成消滅演算子を用いて以下のように定義される。 数演算子 n i ^ {\displaystyle {\hat {n_{i}}}} の固有値 n i {\displaystyle n_{i}} は、状態 ψ i {\displaystyle \psi _{i}} の占有数である。数演算子の規格直交化された固有ベクトルで張られる空間をフォック空間という。 占有数表示の場合、場の演算子は生成消滅演算子の線形結合で表される。つまり場の演算子は場の状態に作用し、粒子数を増減させる。 ここで係数は1粒子ハミルトニアンの固有状態(1粒子波動関数)である。この場の演算子は次の交換関係を満たす。 第二量子化での物理量も、場の演算子や生成消滅演算子で表される。粒子密度演算子は場の演算子を用いて次のように与えられる。 これを全体積で積分すれば全粒子数になる。 1粒子ハミルトニアン H ^ ( r ) = − ħ 2 2 m ∇ 2 + V ( r ) {\displaystyle {\hat {H}}({\boldsymbol {r}})={\frac {-\hbar ^{2}}{2m}}\nabla ^{2}+V({\boldsymbol {r}})} などの1体の物理量は次のように表せる。 2体相互作用 V ( r 1 , r 2 ) {\displaystyle V({\boldsymbol {r}}_{1},{\boldsymbol {r}}_{2})} などの2体の物理量は次のように表せる。 この2体の相互作用は粒子 k , m {\displaystyle k,m} が衝突して粒子 i , j {\displaystyle i,j} になることを表している。
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第二量子化とは場の正準量子化のことである。 量子力学は、粒子の位置と運動量を基本変数に選んだ量子論である。 古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。スピンが関わるような物理系がその典型である。「位置と運動量」を基本変数としてもスピンを記述することができないため、量子力学でスピンが関わるような状況では、スピンを新たな基本変数としてつけ加えることをする。しかし「位置と運動量」ではなく「場」を基本変数として電子を扱うとスピンを自然に記述できる。 場を基本変数とする量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った場合の近似理論である。 また量子論をフォック空間で考えることを第二量子化と呼ぶこともある。
'''第二量子化'''(だいにりょうしか、{{lang-en-short|second quantization}})とは[[場]]の[[正準量子化]]のことである。 '''[[量子力学]]'''は、粒子の[[位置]]と[[運動量]]を基本変数に選んだ量子論である。 古典的に場であったもの([[電磁場]]など)だけでなく、古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[[スピン角運動量|スピン]]が関わるような物理系がその典型である。「位置と運動量」を基本変数としてもスピンを記述することができないため、量子力学でスピンが関わるような状況では、スピンを新たな基本変数としてつけ加えることをする。しかし「位置と運動量」ではなく「場」を基本変数として電子を扱うとスピンを自然に記述できる。 場を基本変数とする量子論を'''[[場の量子論]]'''と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った場合の近似理論である。 また量子論を[[フォック空間]]で考えることを第二量子化と呼ぶこともある。 == 量子場を導入する2つの方法 == 量子場を導入する方法として2つの方法がある。<ref>{{Cite book|和書|author=新井 朝雄|year=2002|title=多量子系と量子場|publisher=[[岩波書店]]|id=ISBN 4000111132}} </ref> 1つ目は、[[古典場]]を量子化する方法。このとき波動場を関数ではなく、正準交換関係や正準反交換関係といった「ある種の代数的関係」を満たす演算子に読み替える。 2つ目は、量子力学における[[同種粒子]]の統計性や[[不可弁別性]]に注目し、真空から粒子が生成したり、粒子が消滅する空間(フォック空間)から出発する方法である。 == 名前の由来について == 場の量子化は、決して「二度目の」量子化ではない。「第二量子化」という言葉は、場の量子論が作られていく歴史的過程において、量子化の本質が見えず、「一度目の量子化が有限[[自由度]]の量子力学で、これをもう一度量子化したものが場の量子論である」という誤解に由来するものである。<ref> {{Cite book|和書|author=新井 朝雄|year=2000|title=フォック空間と量子場〈上〉|publisher=[[日本評論社]]|id=ISBN 978-4535783171}} </ref> 「古典的には粒子であるもの(例えば電子)に対して、場を基本変数にしてみよう」という動機が、「座標表示の[[波動関数]]が場のようにも見えたから」だった。しかし言うまでもなく、「基本変数である場」と「状態ベクトルの座標表示である波動関数」とは全くの別物である。<ref> {{Cite book|和書|author=清水明|year=2004|title=新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―|publisher=[[サイエンス社]]|id=ISBN 4-7819-1062-9}}</ref> ==スカラー場の量子化== {{main|スカラー場の理論}} 例としてスカラー場の量子化を考える。 スカラー場<math>\phi(\boldsymbol{r})</math>と、それに共役な運動量<math>\pi(\boldsymbol{r})</math>を基本変数に選ぶと、これは[[正準変数]]である。系の物理量([[オブザーバブル]])は :<math>A = A(\{\phi(\boldsymbol{r}), \pi(\boldsymbol{r})\})</math> と表せる。 場の[[正準量子化]]では、<math>\phi</math>, <math>\pi</math>を以下の[[正準交換関係]]を満たす[[エルミート演算子]]<math>\hat{\phi},\hat{\pi}</math>に置き換える。量子化された場は演算子となり、'''場の演算子'''と呼ばれる。 :<math>\begin{align} \big[ \hat{\phi}(\boldsymbol{r}), \hat{\pi}(\boldsymbol{r'}) \big] &= i\hbar\delta^{(3)}(\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r'}), \\ \big[ \hat{\pi}(\boldsymbol{r}), \hat{\pi}(\boldsymbol{r'}) \big] &= \big[ \hat{\phi}(\boldsymbol{r}), \hat{\phi}(\boldsymbol{r'}) \big] = 0 \end{align}</math> ここで <math>\delta</math> は[[デルタ関数]]である。なお、基本変数の場がオブザーバブルでない場合は、場についての交換関係は、必ずしもこのような交換関係でなくてもよくなる。実際、粒子は[[ボース粒子]]と[[フェルミ粒子]]に大別されるが、フェルミ粒子の場合は、この交換関係を全て[[反交換関係]]に置き換えて正準量子化する。 [[時間発展]]については、[[ハイゼンベルク描像]]を採用して場の演算子が引き受けることで、[[ローレンツ共変性]]などが自然な形で現れる。 ==複数の同種粒子の量子論== === 第一量子化と第二量子化 === 量子論では[[同種粒子|同種の粒子]]は全く区別がつかない。''N''個の同種粒子から成る系は、等価であるが一見異なった2つの方法で記述できる。 第一の方法では、''N''粒子系の[[ヒルベルト空間]]を構成するために、1粒子ヒルベルト空間の''N''個のテンソル積を考え、それを粒子の入れ替えに対しボゾン系では完全対称なもの、フェルミオン系では非対称なものへ制限する。このような多体系の取り扱いを'''[[第一量子化]]'''とよぶ。 同種粒子の不可弁別性のため、同種粒子を含む系の状態ベクトルや物理量は一定の対称性を持つものに限られる。その対称性は、基本変数を粒子の「位置と運動量」にとった量子論では少し不自然にも見える形で現れる(波動関数の対称性、反対称性など)。この不自然さは、個々の粒子に別々の「位置と運動量」を割り当てるのは粒子が区別できることが大前提であるのに、区別ができない粒子にそれをやってしまったことによる。 ''N''粒子系を記述する[[多体波動関数]]は、系の粒子が[[フェルミ粒子]]なら任意に選んだ 2 粒子の交換により多体波動関数の符号が変わる(反対称)。一方、系の粒子が[[ボース粒子]]なら 2 粒子の交換に対し符号は変わらない(対称)。 第二の方法では、粒子の生成消滅演算子を考え、粒子が1つもない状態に生成演算子をN個作用させた状態としてN体系を記述する。このような多体系の取り扱いを'''第二量子化'''と呼ぶ。<ref>[[猪木慶治]], [[川合光]] 『量子力学Ⅱ』 講談社 (1994) ISBN 978-4061532090</ref> 第二量子化では基本変数を「場」とその共役運動量にとることで、同種粒子の区別がつかないことや状態ベクトルや物理量の対称性なども自動的に理論に組み込まれ、すっきりしたものになる。 === 占有数表示 === 相互作用のない''N'' 個の同種粒子系を考え、それぞれの粒子に<math>k=1, 2, \dots, N</math>というように番号''k'' を付ける。''k'' 番目の粒子の1粒子エネルギー固有状態を<math>\alpha,\beta,\cdots</math>というようにラベル付けし、その集まりを<math>\{\psi_{k_\alpha}, \psi_{k_\beta},\dots\}</math>と表す。''N'' 個すべての粒子について書き下すと、 :<math>\{\psi_{1_\alpha}, \psi_{1_\beta},\dots\} </math> :<math>\{\psi_{2_\alpha}, \psi_{2_\beta}, \dots\} </math> :<math>\quad\vdots </math> :<math>\{\psi_{N_\alpha}, \psi_{N_\beta},\dots\}</math> 第一量子化では、どの番号の粒子がどの1粒子エネルギー固有状態にあるかを考える。しかしそれでは、本来区別できない粒子が''k'' という粒子の番号で区別されている。最初から粒子が区別できないことを取り入れるなら、粒子を中心に考えるのではなく1粒子エネルギー固有状態を中心に考えて、「各エネルギー状態に占有している粒子の個数」で''N'' 粒子系の状態を考えるほうが自然である<ref>田崎晴明『統計力学 II』培風館(新物理学シリーズ 38)、2008年。ISBN 4563024384</ref>。このような方法を'''占有数表示'''という。そこで改めて全ての1粒子エネルギー固有状態に<math>i=1, 2, \dots </math>と名前を付けなおし、それぞれの状態を占有している粒子の個数('''占有数''')を<math>n_i</math>とする。 :<math>\{\psi_1,\psi_2,\dots,\psi_i,\dots\}</math> :<math>\quad n_1,n_2,\dots,n_i,\dots</math> 占有数<math>n_i</math>の値は、ボース粒子の場合は 0 以上の任意の整数をとれるが、フェルミ粒子の場合は 0 または 1 に限られる。これは[[パウリの排他原理]]を反映している。すべての占有数の和をとれば、全粒子数が得られる。 :<math>\sum_{i=1}^\infty n_i=N</math> それぞれの状態の占有数<math>n_i</math>で指定された状態 :<math>| n_{1}, n_{2}, \dots, n_{i}, \dots \rangle</math> を[[フォック状態]]と呼ぶ。 === 粒子の生成・消滅 === 占有数表示を記述するために、状態<math>\psi_i</math>の占有数を 1 増やすような'''[[生成演算子]]'''<math>\hat{a}_i^\dagger</math>、 1 減らすような'''[[消滅演算子]]'''<math>\hat{a}_i</math>を導入する。ボース粒子の生成消滅演算子は[[交換関係]]を満たすものとして、フェルミ粒子の生成消滅演算子は[[反交換関係]]を満たすものとして、それぞれ定義される。 :<math>[\hat{a}_i, \hat{a}^\dagger_j]_\mp = \delta_{i j}</math> :<math>[\hat{a}^\dagger_i, \hat{a}^\dagger_j]_\mp = [\hat{a}_i, \hat{a}_j]_\mp = 0</math> ただし<math>[A,B]_\mp=AB \mp BA</math>である。'''[[数演算子]]'''<math>\hat{n_i}</math>は生成消滅演算子を用いて以下のように定義される。 :<math>\hat{n_i} \equiv \hat{a}_i^\dagger \hat{a}_i</math> 数演算子<math>\hat{n_i}</math>の固有値<math>n_i</math>は、状態<math>\psi_i</math>の占有数である。数演算子の規格直交化された固有ベクトルで張られる空間を'''[[フォック空間]]'''という。<ref>高橋康『物性研究者のための場の量子論 1 (1) (新物理学シリーズ 16)』1974年</ref> === 場の演算子 === 占有数表示の場合、場の演算子は生成消滅演算子の線形結合で表される。つまり場の演算子は場の状態に作用し、粒子数を増減させる<ref>{{Cite book|和書|author=フェッター/ワレッカ|year=1987|title=多粒子系の量子論 理論編|publisher=マグロウヒル出版|id = ISBN 4895013642}}</ref><ref>{{cite book|和書|author=A.M.ザゴスキン|title=多体系の量子論|year=2012|publisher=丸善プラネット|isbn=978-4-86345-144-5|date=|translator=樺沢宇紀|ASIN=486345144X}}</ref><ref>{{cite book | 和書 | author=江澤潤一 | title=量子場の理論 素粒子物理から凝縮系物理まで | year=2008| publisher=朝倉書店 | isbn=978-4-254-13775-0 }}</ref>。 :<math>\begin{align} \hat{\psi}(\boldsymbol{r}) &= \sum_i \psi_i(\boldsymbol{r})\hat{a}_i \\ \hat{\psi}^{\dagger}(\boldsymbol{r}) &= \sum_i \psi^*_i(\boldsymbol{r})\hat{a}^{\dagger}_i \end{align}</math> ここで係数は1粒子ハミルトニアンの固有状態(1粒子波動関数)である。この場の演算子は次の交換関係を満たす。 :<math>[\hat{\psi}(\boldsymbol{r}), \hat{\psi}^\dagger(\boldsymbol{r}')]_\mp = \delta(\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}')</math> :<math>[\hat{\psi}^\dagger(\boldsymbol{r}), \hat{\psi}^\dagger(\boldsymbol{r}')]_\mp = [\hat{\psi}(\boldsymbol{r}), \hat{\psi}(\boldsymbol{r}')]_\mp = 0</math> === 物理量 === 第二量子化での物理量も、場の演算子や生成消滅演算子で表される。粒子密度演算子は場の演算子を用いて次のように与えられる。 :<math>\hat{\rho}(\boldsymbol{r})=\hat{\psi}^{\dagger}(\boldsymbol{r})\hat{\psi}(\boldsymbol{r})</math> これを全体積で積分すれば全粒子数になる。 :<math>\int\hat{\rho}(\boldsymbol{r})d\boldsymbol{r} =\int\hat{\psi}^{\dagger}(\boldsymbol{r})\hat{\psi}(\boldsymbol{r})d\boldsymbol{r} =\sum_i\hat{a}^{\dagger}_i\hat{a}_i =\sum_i\hat{n}_i =\hat{N}</math> 1粒子ハミルトニアン<math>\hat{H}(\boldsymbol{r})=\frac{-\hbar^2}{2m}\nabla^2+V(\boldsymbol{r})</math>などの1体の物理量は次のように表せる<ref>{{Cite book|和書|author = 山田耕作|title = 凝縮系における場の理論|year = 2002|publisher = 岩波書店|series = 岩波講座 物理の世界|isbn = 4-00-011121-3}}</ref>。 :<math>\hat{F_1} =\int\hat{\rho}(\boldsymbol{r})\hat{f}_1(\boldsymbol{r})d\boldsymbol{r} =\int\hat{\psi}^{\dagger}(\boldsymbol{r})\hat{f}_1(\boldsymbol{r})\hat{\psi}(\boldsymbol{r})d\boldsymbol{r} =\sum_{i,j}\bigg[\int\psi^*_i(\boldsymbol{r})\hat{f}_1(\boldsymbol{r})\psi_j(\boldsymbol{r})d\boldsymbol{r}\bigg]\hat{a}^\dagger_i\hat{a}_j</math> 2体相互作用<math>V(\boldsymbol{r}_1,\boldsymbol{r}_2)</math>などの2体の物理量は次のように表せる。 :<math>\begin{align}\hat{F}_2 =\frac{1}{2}\int\hat{\rho}(\boldsymbol{r}_1)\hat{f}_2(\boldsymbol{r}_1,\boldsymbol{r}_2)\hat{\rho}(\boldsymbol{r}_2)d\boldsymbol{r}_1d\boldsymbol{r}_2 &=\frac{1}{2}\int\hat{\psi}^\dagger(\boldsymbol{r}_1)\hat{\psi}^\dagger(\boldsymbol{r}_2)\hat{f}_2(\boldsymbol{r}_1,\boldsymbol{r}_2)\hat{\psi}(\boldsymbol{r}_2)\hat{\psi}(\boldsymbol{r}_1)d\boldsymbol{r}_1d\boldsymbol{r}_2 \\ &=\frac{1}{2}\sum_{i,j,k,m}\bigg[\int\psi^*_i(\boldsymbol{r}_1)\psi^*_j(\boldsymbol{r}_2)\hat{f}_2(\boldsymbol{r})\psi_m(\boldsymbol{r}_2)\psi_k(\boldsymbol{r}_1)d\boldsymbol{r}\bigg]\hat{a}^\dagger_i\hat{a}^\dagger_j\hat{a}_m\hat{a}_k\end{align}</math> この2体の相互作用は粒子<math>k,m</math>が衝突して粒子<math>i,j</math>になることを表している。 ==参考文献== * {{Cite book|和書|author=清水明|authorlink=清水明|year=2004|title=新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―|publisher=[[サイエンス社]]|id=ISBN 4-7819-1062-9}} === 引用 === <references/> ==関連項目== *[[量子力学]] *[[物性物理学]] *[[場の量子論]] *[[調和振動子]] *[[ブラケット記法]] ==外部リンク== * {{Spedia|Second_quantization|Second quantization}} {{Physics-stub|たいにりようしか}} {{DEFAULTSORT:たいにりようしか}} [[Category:量子力学]] [[Category:数学的量子化]]
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水道管
水道管(すいどうかん)は、飲料水や洗濯、入浴、炊事などに必要な水を、家庭、学校、企業など、人々が生活・活動する場所に送る管または配管のこと。 水道管は主に以下のような用途に使用される。 日本においては、主に以下のような管種が使用される。 鉛管は鉛が水中に溶け出し、摂取者が鉛中毒に罹患する危険があるため、現在新規には使われない。 鉛管は取替が進められているが、費用の問題などで工事が進まず、宅内配管ではいまだ使われている場合が多い。なお、未だ鉛管を使っている場合は、朝最初に蛇口をひねった場合は最初にある程度水を流して、水道管内に蓄積した溶出した鉛を出すことが推奨されている。現時点において、鉛管による健康被害は確認されていない。 古代ローマ帝国では鉛管を使用していたが、これを帝国滅亡の原因とする説が一部に存在した。ただし古代ローマの水道管には蛇口が存在せず(工事の際の止水栓はある)、水は常時流されていたので、現代よりもむしろ溶出した鉛を摂取する危険は小さく、俗説扱いされている。 ガソリンスタンド近傍や化学工場の周辺、跡地などで、万が一埋設管周辺に有機溶剤が漏れ出した場合、水道管に悪影響が及ぶ場合がある。原則としては環境基準を超える土壌汚染の場合には土を入れ替えるのが法的な処置であるため、汚染発見までの一時的な状態への対応の検討となる。 水道事業ガイドライン(日本水道協会)において、「管路の耐震化率」=(耐震管延長/管路総延長)×100 である。 変数の定義として、「耐震管路延長」は、導・送・配水管における、 の総延長 とされている。 管路の耐震性能については、阪神・淡路大震災の被害状況を踏まえて、「水道施設耐震工法指針」で定めるレベル2の地震動を前提に定めている。 耐震管の定義は、地盤条件によらず、レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管種である。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、東日本大震災においても、これらの「耐震管」は地震動における事故が無かった事が報告されている。 また、「耐震適合率」は、レベル2地震動において「地盤条件によっては耐震性を有する」管種を含めた耐震性能を表したものであり、前記の「耐震管」に加え、 の延長を加えたもので算定する。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、どちらの管種も「液状化可能性ありの地区を除き耐震適合性あり」となっている。 水道管は現在、更新布設替え時代に突入しており、各水道事業者では、耐震性に富み、長寿命な配管へのリニューアルを進めている。 ダクタイル鋳鉄管は100年という寿命を目指した製品を市場投入している。高い耐震性と、従来品より外塗装が長持ちする特性等により、採用が進んでいる。一方、ポリエチレン管(ISO規格のPE100仕様)は欧州で100年以上問題なく使えると言われており、埋設管の場合、物性的にも100年以上十分に使用できる。検証については配水用ポリエチレンパイプシステム協会より検証結果が公表されている。「100年で更新」の管材という内容ではなく、諸条件下において100年経過した状態でも十分に性能を維持しているという検証内容になっている(それ以上の使用も実用可能と読み取れる)。このようにダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管ともに耐震性に優れたこれらの管種による布設替えが進んでいる。基幹管路では大口径での経済性を備えたダクタイル鋳鉄管(耐震管)が主で、配水支管では経済性と耐震性に優れたポリエチレン管の採用が急激に伸びている。(※東日本大震災で耐震実績が検証された事も要因として挙げられる) また、東日本大震災・熊本地震・大阪府北部地震を経て、さらに管路の耐震化への流れは強まっている。耐震管材の定義は、「水道事業ガイドライン」によると前述の通り、1.離脱防止機能付継手のダクタイル鋳鉄管、2.溶接継手の鋼管、3.水道配水用ポリエチレン管(高密度、融着継手)とされている。また、K形継手のダクタイル鋳鉄管は、岩盤・洪積層などの良い地盤において低い被害率を示していることから、基幹管路が備えるべきレベル2地震動に対する耐震性能を満たすものとされており、各水道事業者の判断により「耐震適合管」として採用することが可能であるとなっていた。これは東日本大震災前、平成18年の検討会において検討されたもの であり、現在は東日本大震災の経験によるデータ(悪い地盤での耐震適合性が低い検証結果となった)を基に、新たな判断基準となっている。。熊本地震においても、K形の事故は幾つか確認されている模様である。しかし、「平成28年(2016年)熊本地震水道施設被害等現地調査団報告書」では、ダクタイル鋳鉄管、ポリエチレン管のそれぞれについて「耐震管」と「その他」区分による区別しか行っていなかった。今回、耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管に事故はなく、溶接鋼管の一部に事故が見られた事が報告されている。ただし、一般に耐震性の達成度で多く用いられる「耐震適合管」(良い地盤における耐震性を有する、ダクタイル鋳鉄管K形、塩化ビニル管 RR継手)については、耐震適合外とまとめられており、K形の事故事例などは写真付きで紹介されたものの、被害状況の数値は明示されなかった。また、熊本地震発生後に大きく報道された一部の耐震管で発生した事故事例(施工責)については、今回の報告書の中では報告されなかった。 厚生労働省が平成25年3月に策定した「新水道ビジョン」では、「耐震化の一層の推進が急務」とされており、基幹管路を優先しつつも、将来すべての管路が耐震化されることをビジョンとして掲げている。50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。危機管理対策項目の中、「施設耐震化対策」では、「耐震化対策には、優先的に実施する必要性の高いものを10年程度で実施し、次に断水エリア、断水日数の影響が大きい施設・管路を優先して耐震化を推進し、最終的には耐震化が必要な施設の全てをクリアすることで、50年から100年先には水道施設全体が完全に耐震化できているよう、水道事業の耐震化計画策定に盛り込むことが求められます。」としている。 水道運営が財政的に厳しい現実の側面からは、「施設の全てを耐震化するには長期間を要する場合もありますが、給水区域内の重要な給水施設への給水ライン(管路)の優先的な着手により、早期の耐震化を図るなど、施設の必要性に応じた適切な対応が必要です。」としている。 また、「強靱の観点からみた水道の理想像」として以下に示す状況が実現していることが理想であるとしている。(抜粋) 現在、各事業体は従来の「耐震適合性」を基に(「耐震化率(A,B)」などで耐震化状況が公表されている)この数値「上昇」により耐震化の進捗が判断できるようになっている。そのため、耐震適合性の判断基準は事業体の耐震度に大きく影響を与えることになる。H19.3「管路の耐震化に関する検討会」で管路の満たすべき基準を定めているが、中には耐震性能を判断する被災経験がないことから、明確な評価が出来ていない管路・管種があった。H25.10管路の耐震化に関する検討会の設置は、その後、東日本大震災等の大規模地震が発生し「被災状況が明確となった」ことから、改めて管路・管種の耐震評価をする必要があるとの判断から検討を行ったものである。ただし、「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、審議の結果、さらに調査・検討が必要であることが明らかとなり、管路の再評価までは行わず、管種・継手別の管路被害率・管路延長の算出に留めて、地震被害が多いレベル2地震相当地域を中心に被害状況分析を報告書としてまとめた。被害状況分析は、厚生労働省による「水道事業における耐震化の状況」において分類上「耐震管」に区分されているダクタイル鋳鉄管(NS形継手等)、鋼管(溶接継手)、配水用ポリエチレン管(融着継手)とそれ以外の管種・継手に分けて行っている。報告書によれば、少なくとも前記「耐震管」に関しては、鋼管(溶接継手)の腐食、過去の溶接技術の不十分さに起因するものを除くと、管路被害は基本的に生じておらず、管路被害率は0.000箇所/kmとなっている。ゆえに、耐震管路の既定管種に関しては初期の目的であった、従来の耐震管定義における実際の震災地区での検証はされたといえる。このあたりの分析は、最終稿前の「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」において詳細に評価案が記されている。それ以外の管種についても以下のような評価案がまとめられており、今後、事業体の取組判断の参考になると思われる。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」において「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」との大きな違いの1つに、「耐震管」の定義がある。従来の耐震管の基準については「レベル2地震動において、耐震性を有する管。」であったが、今回の報告書では となっている。より具体的かつレベルの高い条件となったと言えるが、今後はこの条件に合った管種が新たな「耐震管」の既定となっていくもの思われる。いずれにせよ、今回の報告書に記載された内容から、「現行の耐震管の基準」(レベル2地震動において、耐震性を有する管)については、現在の耐震管に規定されているすべての管種が「管路の満たすべき基準を満たす」ことが立証された。一方で、従来の「耐震管」以外の管種については、より厳しいものとなったと言える。 今回の報告書に使用したデータはGISデータを有効活用したもの(東日本大震災により、水道施設被害が発生し査定を行った事業体は116事業体あるが、マッピングシステムが整備されていない等の理由から、本検討で対象とした水道事業体は16事業体に留まっている)であり、検証に十分なデータ数を有してはいるが、全体からすると限定されたデータによる検証となっている。東日本大震災において水道施設被害を受けた事業体の大部分を対象とした調査としては「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」がある。同調査では災害定資料等を基に管路被状況が調査され(管路の耐震化に関する検討報告書2014.6 P13)ており、各事業体においては前記の限定されたデータ以外にも東日本大震災の被災データを確認することが可能である。 また、本検討においては前記「液状化地帯での被害状況確認」が不十分であった。本検討においては、液状化に関する調査等の確認を、関東地方を調査対象とした「東北地方太平洋沖地震による関東地方の地盤液状化現象の実態解明報告書 平成23年8月」のみにより検証している。この資料は関東地方のみを対象とし、調査範囲も限られており、これ以外にも調査はされているものの、精査中等の状況から現時点でデータを入手することは困難である、との注記を付け引用している。理由としては液状化地域において、従来の地盤区分では「耐震適合性あり」とされていたダクタイル鋳鉄管K形継手や塩化ビニル管RR継手等の被害が多く、耐震適合性の基準を再度整合する必要性が生じてた、という事もあり、液状化地帯での検証も「限定的なデータ」ではあるが掲載したものといえる。 このように、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」ではダクタイル鋳鉄管K形が盛土地区での被害率が著しく高かったため、「地震動幅が小さいエリアにおいて耐震適合性を有する」という記述に修正(18年度の検証に対して)されている。以上、東日本大震災での検証は結果としてダクタイル鋳鉄管K形、耐衝撃性硬質塩化ビニル管RRについては従来よりも「耐震適合性」の評価が下がった。今後は業務指標も改定され、地盤条件によっては「管路の耐震適合率」の値が、それ以前の基準で算定されたものよりも下がってしまう事となる。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、「管路の耐震化に向けて」「管路の耐震化に向けた必要な取り組み」で、「H18年度検討会の報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある」とされている。 また、新しい管種等についての見解として「管路の技術開発とその利用」では、「近年、高い耐震性能などを有する新たな管製品が供給されており、今後もこのような傾向は続くと想定される。耐震性能が高いと判断できる製品については水道事業者が導入の適否を適切に判断し採用することが望ましい。これにより水道管路の耐震化を効率的に進めることができるとともに、発生する地震などに対して管路の被害状況分析を行って耐震性能を評価し、その結果を広く共有することにより、我が国の水道全体として管路の耐震化を一層効率的かつ計画的に推進することができる」としている。(2014.3(案)と多少の記述の差がついている) H18年度検討会の報告書の中で耐震性評価が限定されていた「検証必要事項」については、今回の調査で十分な検証がされた(確認が取れた)ため、今後は新しく検討を要するとされた「液状化地区」における耐震性の検証が耐震管路全般に求められていくことになろう。特に配水支管に関しては、新水道ビジョンの理念に基づき、給水管も含めた水道施設全体としての耐震性の向上が望まれて来る。 [平成25年度管路の耐震化に関する検討会報告書で確認された事項のまとめ (対 18年度報告書)] (補足)以上のように、前回H19.3「管路の耐震化に関する検討会」における「評価」結果の見直しにおいて、今回H26.6「管路の耐震化に関する検討報告書」で「再評価」まで行わなかった最も大きな理由は、「耐震管」の定義を「液状化等による地盤変動」に対しても「レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管、と同等の耐震性能を有する」事を定義づけたためである。従って、管種によらず、新しい定義に基づく「評価」をしなかった、という事である。また、この「耐震管の定義」については、H27.3「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」においても、同じ定義で取り扱いをされている。 ただし、仮にH19.3「管路の耐震化に関する検討会」までの定義で、前回と条件をそろえて「評価」をした場合、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」や、管路の耐震化に関する検討会 第2回検討会資料 P50において提示された「表」のとおりの結果であるといえる。また、今回の検討会の解説において「ポリエチレン管は液状化地域における検証データがほとんど無かった=耐震管として評価されなかった」との説明をされる場合があるが、これは間違った認識である。確かに、前記「限られた条件」のデータの中では、ポリエチレン管の敷設されていた距離が少なかった訳であるが、本文にも「このような状況から、液状化地区は広範囲に生じているものの、その全体を調査することは困難であるため、本検討では上記の国土交通省資料により関東地方において液状化が確認できた地区(液状化確認地区)のみを対象として分析するが、限定的なデータであることに注意する必要がある。」とある通り、本検討における液状化の検証データは、あくまで「例示」であるに過ぎない。本文の実績記載が少ない事を「部分的」に取り上げ曲解する話をしてはならない。こうした説明は日本水道協会の見解ではない事にも注意を要したい。本検討の参照する液状化地域の限定的なデータにおいて、耐震管に区分されているダクタイル鋳鉄管の事例は適度に記載されており、本管における耐震性の妥当性は示されていると言える。今後は本管のみならず、サドル分岐、給水管を含めた管路システムとして、液状化地域における耐震性を検証していく事も重要な課題となる。誤解されやすい部分を整理すると、以下の通りである。 ※ポリエチレン管の液状化地域におけるデータは水団連ホームページにて公開されている「管路の耐震化に関する検討会」平成25年度 第2回の資料6にて確認ができる。東日本大震災における調査対象事業体5県69か所の調査対象事業体(総延長995.7km)において地震動によるポリエチレン管の被害はなく、液状化に関しては中越地震時に柏崎市で被災した事例として2.6kmの敷設延長に被害が無かった報告となっている(POLITEC)。また、ダクタイル鋳鉄管(NS形など)においてもにて浦安市の液状化エリアで被害が無かった(約27km)事が報告されている。 [水道耐震工法指針・解説 2022年版] 改定された水道耐震工法指針・解説 2022年版において、水道配水用ポリエチレン管は「設計事例編」での参考扱いから、一般扱いとなり正式な事例紹介となっている(CD版データのみ)。耐震管に区分されている3管種共に説明がリニューアルされた。 ここで、II参考資料編「管路」の「4)管種・継手ごとの耐震適合性」において、「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」における管種・継手ごとの耐震適合性を参考にできる(表-参2-1.9)、と紹介されているが、この表は、前記「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」 P11~12を確認するとすぐにわかるが、平成18年度検討会報告書より整理されたものを「引用」した部分となる。すなわち平成25年の検討会においてはこの表で検証が必要であると指摘されたデータを集めて報告書にしたものであり、P63には「本検討では、東日本大震災における管路の被害状況分析を行った。水道事業者等においては、平成18年度検討会報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある。」と記載されており、表-参2-1.9 の検証不足分を補ったデータを考慮することが肝要である。このデータは前述の通り、水道配水用ポリエチレン管の東日本震災による被災経験に基づく被災経験(被害なし)などが示されている。平成18年度検討会報告書で「被災経験が十分でないことから、十分に耐震性が検証され目には、なお時間を要する」と注記されている表のみが掲載されているが、この部分については検証され「耐震性を有する」と判断できる材料が示されている。 大阪市の水道局経営戦略(2018-2027)【改訂版】におけるパブリックコメントの回答に「水道配水用ポリエチレン管につきましては、耐震工法指針において、実績面から耐震性が完全に検証されていないことや...」という記載などが公表されているが、ここに書かれている実績不足は平成18年度の検討会段階のものであるといえる。 「新水道ビジョン」では、50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。水道におけるアセットマネジメントについて、厚生労働省では、平成21年7月に「水道事業におけるアセットマネジメント(資産管理)に関する手引き」を公表し、全国の水道事業者等にアセットマネジメントの実践を促している。令和元年の全国水道関係担当者会議資料(資料編)2020.3には「全国の水道施設の更新費・修繕費の試算結果」の中で近々からの更新費増加、平準化をシミュレーションしており、アセットマネジメント後の予算化実施を事業体に示唆している。この時点では40年スパンの最初20年に約2000億円の「予算の前倒し計上」を乗せ、20年後からは毎年更なる増額をするシミュレーションとなっていたが、2021年3月の同資料以降は約5000億円の「予算の前倒し計上」としほぼ40年間「平準化」予算となるシミュレーションに変更されている。2022年3月の同資料では前倒しを一括するのではなく更新率を段階的に上げるパターンをいくつか紹介しながら検討例を示すようになっている。 また、「新水道ビジョン」においては、当面の目標点の1つとして、全ての水道事業者が資産管理(アセットマネジメント)を実施し、将来の更新計画や財政収支を明らかにすることとしている。 中長期的財政収支に基づき施設の更新等を計画的に実行し、持続可能な水道を実現していくためには、各水道事業者等において、長期的な視点に立ち水道施設のライフサイクル全体にわたって効率的かつ効果的に水道施設を管理運営することが必要不可欠であり、これらを組織的に実践する活動がアセットマネジメント(資産管理)である。 厚生労働省は、「水道施設の計画的な更新等について(法第22条の4、施行規則第17条の4)」水道施設 の計画的な更新に努め、厚生労働省令で定めるところにより、水道施設の更新に要する費用を含 むその事業に係る収支の見通しを作成し、これを公表するよう指導をしており、その推進として、アセットマネジメントの実施率の引き上げとともに、精度の低い簡略型から精度の高い型への移行 が必要としている。全国水道関係担当者会議資料(令和2年3月)の内容によれば、アセットマネジメント結果の公表率は約19%であり、水道法改正を踏まえ、公表率の引き上げが必要としている。 ※アセットマネジメント「簡易支援ツール」'では「管路の更新基準の設定の一案の考え方」が示されており、管種ごとに「実使用年数の数値例」が記載されている。 [以下、2020年3月までのものについての記載] ただしここでは、"客観的な正しい数値が示されているわけでは無い"ので特に注意が必要である。文中にも「一案である」とされている通り「標準的な更新基準を示しているものではない」事を念頭に、各事業者にて更新基準を設定した上で実施する必要がある。各管種の協会資料やメーカー技術資料などを参考に各々設定をし、「実使用年数の設定例」に記載の数値のままで検討を行わないよう、注意をして運用したい。特に「ダクタイル鋳鉄管 耐震継手を有する」については旧来のNS形(1種、3種)、薄肉のNS形E種、外面耐食仕様のGX形(1種、S種)など肉厚や塗装種類、ポリエチレンスリーブの有無などにより様々な品種があり、区分けをする必要があるにもかかわらず「耐震継手を有する」の欄で一括りにされている。アセットマネジメントを実施するコンサルタント、事業者においては管種の特性により実耐用年数の設定を設定する必要がある。(政令指定都市では東京都、大阪市、横浜市、(鋳鉄管の設定値)、新潟市(ダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管の設定値)、のように独自の検証に基づいて実耐用年数の設定を行っている事業体がある一方、大規模事業体においてもこの「簡易支援ツールの数値」をそのまま使用しアセットマネジメントを行われている場合も散見される。注意をしたいところである。) [2020年4月 バージョンup] 2020年度にはツールが見直しされ、上記の注意事項についても改善されている。主に操作性が改善されており、マクロや関数で必要となるパラメータ(設定値)を「初期設定」シートで一元管理出来るようになり、使い勝手が大幅に向上している。内容についても、企業債(新債)発行額と水道料金に改定率の自動算出処理ができるようになっているほか、「水道管」については更新基準についての設定例について参考資料が大幅に改新されている。 参考資料 更新基準の設定事例について、老朽化する既設管路については全国の事業体の設定例を2例示し、今後の更新に使用する管種については「耐震管」に区分されている3管種について、第三者の評価が得られている管材の耐用年数等関連情報として例示されている。前回までの設定例では耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管の参考値として80年が示されていたが、管厚、塗装などの違いが混在しており、今回の資料は耐久性について業界団体からきちんとしたデータが示されているGX形のみが、耐用年数の参考値として掲載されている。この表によれば、小口径から大口径までの耐震管に区分される新設管(ダクタイル鋳鉄管GX形管、長寿命形水道鋼管、水道配水用ポリエチレン管)については、アセットマネジメントにおける更新基準の設定値は、一律で100年を設定値として参考使用することができる。以前の設定例に比べると根拠が明確になっており、事業体として参考としやすいものになった。もちろん、「あくまでも設定例ですので目安と考え、水道事業者等の実情(施設の重要度、 劣化状況、維持管理状況、管路の布設環境等)を踏まえた設定を心がけてください。」とあるように、事業体ごとの判断により運用をすることが必要である。 ※ 簡易支援ツールマニュアルはHPの直リンクでは「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.2.1」となっているが、資料の一括ダウンロードファイル内では「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.3.0」になっている。(どちらもほぼ同じ内容でVer.2.0からは大きく変更されている) 基幹管路に於いては、ダクタイル鋳鉄管(NS形、GX形)、配水用ポリエチレン管(融着継手)、溶接鋼管など「耐震管」に定義される管種により更新、耐震化が進みつつあるが、現状、給水管路では大地震の毎に大きな被害が発生している。しかし、その耐震化と具体策に関しては、東日本大震災後までは、あまり言及されて来なかった。 給水管で現状使用されている、塩ビ管(TS継手)、鉛管、ポリエチレン二層管(冷間継手)は、ともに配水管分野では、H18年度検討会の報告書および、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」で「耐震適合性はなし」と評価されている。給水分野で一部採用されている管種としては、水道用高密度ポリエチレン管-融着継手-(青ポリ)のみが「耐震管」の扱いである。東京都など大都市部で採用されている給水用のステンレス管についても東京都の資料では漏水の改善が確認されており(従来管種との比較)、耐震適合性にも優れていると言われているが、耐震管である「溶接鋼管」ではない。※ステンレス鋼管の継手はプレス継手などの耐震性のないものもあり、伸縮継手も抜け止め構造ではない。また、本報告書において、あまり詳しい記載はない(データは一部は鋼管に含まれている)。 H18年度検討会の報告書では、比較的新しい管種についての扱いに苦慮しており、「被災経験が十分ではないことから、十分に耐震性能が検証されるには未だ時間を要すると考えられる」等の付記を付けられるケースがあった(前回の検証でのポリエチレン管(融着継手)の場合)が、 また厚生労働省では、「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」で、新水道ビジョン・平成25年度管路の耐震化に関する検討報告書を踏まえ、水道の耐震化計画等策定指針の改定作業を進め、「水道の耐震化計画等策定指針」(H27.6)を策定した。 この中で給水装置の耐震化に関しては、旧指針(平成20年発行)と比べ大幅な記載事項の修正が行われている。新指針では配水本管と同様の表記で「管種、継手の耐震化」について記載しており、 ことについて検討する、としている。 過去の大地震において給水装置は毎回多くの被災が確認されており、公益財団法人給水工事技術振興財団より「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」および、「熊本地震 給水装置被害状況調査報告書 平成30年8月」では、塩ビ管(TS継手)、鉛管、古いタイプの低密度ポリエチレン一層管(黒ポリ)、低密度ポリエチレン二層管の冷間継手部位などに多くの被害が報告されている。また、黒ポリには年代毎に色々な改良を経ているが同じ「黒色」のために被災時に新旧見分けがつきにくい事を問題視している。 サドル分水栓の被害も極めて高く、構造上の問題と材料の劣化(腐食)が事故の主な要因として指摘されており、地震時には腐食した部位に応力が集中することで破損が発生しやすいとしている。また、サドル分水栓部は「配水管」の耐震性能に因らず単体として事故が発生している。本管がたとえ耐震管であっても「分岐部」を含めた給水管路まで安心とは言えない。 熊本地震のエリアでは、東日本大震災の調査結果と比較すると、給水管部の鋼管と水道メーター部の被害の増加、塩ビ管の被害件数の減少(塩ビ管の使用割合が低いため)が挙げられている。これについては2021年3月、「埋設給水用ポリエチレン管の経時変化と健全性評価に関する検討報告書について」が同財団から刊行されている。ここでは熊本市の給水管堀上試験結果から、漏水した管が破損した原因は、下記の2点の複合要因によるものとの推定されている。 さらにこのことを踏まえ、「今回提供された供試体を試験した結果によれば、経年給水PE管の更新対象としては、PE管の長期性能規定をJISで定めた1998年より以前の規格で生産された製品とすることが望ましいと考えられました。」とし、1998年以前のPE材料を使用した管路については更新を促すとともに、今回の結果の精度を上げるための追加研究を行うとし、継続した調査研究を続ける意向とみられる。 また、塩化ビニル管に比べて、新しいタイプの低密度ポリエチレン二層管の比率が高く、この二層管にも被害(17件)が確認されており、管体破損被害(14件)も確認された事から、被害原因の究明を求めている。 塩ビ管の被害では、材料劣化による被害は発生しておらず、TS継手の接続における「施工の確実性が確認できない」ものと、「地震動に追従できなかった」もの、特にエルボなどの異形管部に集中する応力とひずみに対し、塩ビ管の可撓性不足が被害原因とされている。 厚生労働省による「重要給水施設管路の耐震化計画策定の手引」(H29.5)では、重要給水装置における給水装置などについて、この水道の耐震化計画等策定指針に従って耐震化計画を策定するものとしている。 また、給水工事技術振興財団からH28年度に発行された「東日本大震災給水装置被害状況調査報告書」によれば、東日本震災での事故の多くは硬質塩化ビニル管のTS接合方式のものであるとされている。こちらは前述した水道の耐震化計画等策定指針の改定においても既に更新対象とされている。 次にサドル分岐部の事故について、それぞれの報告書では次のように報告されている。 これに対し、「求められる性能」として次のような提言がなされている。 また、地震対策としては、 としている。 こうした報告内容をふまえ、給水装置の耐震性向上と望ましい維持管理として、次のようにまとめられている。 水道事業者におかれては、先回の東日本大震災の被害調査結果および今回の熊本地震の被害調査結果を踏まえ、長期寿命、高耐震性、施工の確実性、経済性発揮の観点から適切な構造・材質を選択し、また、新たな技術開発を積極的に評価し、耐震性の向上と漏水事故の縮減、有収率の向上を目指していただきたいと考える。 「水道配水用ポリエチレン管の耐震設計の手引き」H30.8ではレベル2地震動に対する配水用ポリエチレン管の高い耐震性を報告しているほか、異形管や給水分岐も含めた管路全体の耐震性を検証している。特に、十分に耐震性が現地検証されつつも、強靭性のある管種(ダクタイル鋳鉄管)と可とう性のある管種(配水用ポリエチレン管)という「全く異なる」特性により地震に耐える事が示されているパイプラインの挙動をそれぞれに解析している。配水用ポリエチレン管の場合、地盤変状時において、地盤と境界での「すべり」が発生しない(地震時の地盤のひずみを直管部で受け持つ)事により、異形管や付帯設備への応力集中が軽減し、管路全体として耐震性を有するに至る事が報告されている。 また、下記【参考】のガス分野においては宅地内までの一体管路構造が地震、「液状化に対する設備対策として有効である」ことが確認、報告されている。 このように、今後は本管の耐震性だけではなく、給水管やサドル分水栓も含めた給水装置システム全体の「耐震性向上」と「さらなる長寿命化」が望まれる時代になってくる。水道での参考事例は、埼玉県、坂戸、鶴ヶ島水道企業団の広報に紹介されているような事例がある。 [水道耐震工法指針・解説 2022年版] 改定された水道耐震工法指針・解説 2022年版において、参考資料編に「給水装置の耐震化・長寿命化」に関する最新情報が掲載されている。給水工事技術振興財団の各種資料からまとめられている。 【参考】ガス管の場合(給水装置耐震化の参考となる前例) 「東日本大震災を踏まえた都市ガス供給の災害対策検討報告書 H24.3」によれば、都市ガスの管路においても、阪神・淡路大震災以降、耐震化が進んでおり、東日本大震災においてはその「管路の耐震化促進等」の設備投資効果により過去の地震被害と比較して「相当程度」被害率が低くなっていることが報告されている。一方で、東日本大震災の「液状化地区」では、中低圧ガス導管耐震設計指針に規定する標準設計地盤変位の5cmを超える大きな地盤変位が生じたものと推測され、耐震性の高い機械的接合・抜け出し防止有りの継手に相当数の被害が生じた。「従って、今後、液状化による著しい地盤変位が生じる可能性の高い地区に導管を新設する際には、継手部において耐震性の高いPE管および溶接鋼管を使用することが液状化に対する設備対策として有効である。」との記載がある。ガス用管材において、水道における給水管に相当する「供給管」は、サドル分岐を含めポリエチレン管による一体化構造による耐震化を行っており、一体構造のPE管および溶接鋼管は、阪神・淡路大震災以降の震災において、製品起因による被災は発生していない。 因みに、本報告書における東日本大震災において、供給区域内に震度5弱以上の震度を記録した事業者の低圧ガス導管(本支管)の総延長は約83,000kmであるが、地震による被害は773箇所であった。また、供内管本支管の被害において、液状化を除く地震による被害は670箇所であり、このうち、地盤変状によるものが45箇所、斜面崩壊によるものが7箇所であった。液状化の被害は103箇所であった。PE管および溶接鋼管は、製品起因による被災は発生していない。また、熊本地震でも「平成 28 年熊本地震を踏まえた都市ガス供給の地震対策検討報告 H29.3」にて同様の報告がなされている。 水道ビジョン推進のためのロードマップ(案)によれば、今後は「耐震設計の手引き」策定の後、水道施設の耐震化に関する検討、耐震化計画策定指針の改定を2014年度中に行い、「水道事業ガイドライン(JWWAQ100)-日水協-」の改正を2015年度末までに行う事で「新水道ビジョン」との整合性を図るとのことであった。耐震化計画策定指針については2015年6月に改訂されており、水道事業ガイドラインは2016年度に改訂された。 また、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」において、管路の耐震化に向けて(提言)として、以下のように記載されている。 管路の耐震化(更新・新規整備)の計画策定にあたっては、管路の耐震性能結果に基づき、基幹管路の耐震化を基本的に優先して、管路更新の優先順位の設定などを行う。また実施にあたっては、基幹管路は耐震管を用いて更新・新規整備する事が適当である。配水支管も耐震管を用いることを基本とするが、耐震適合管の使用を含め、水道事業者等の総合的な判断により使用する管種・継手を選定する。 本文は「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、管路の再評価まで行わなかったため本記述がみられないが、こうした考え方は各事業体における判断の参考にできる。 水道施設に関しては、昨今の大地震における「地震動」での振動、地盤変状、液状化などによる被害に対して「耐震化」を進めている。水道管に関しては厚生労働省により「耐震管」や「耐震適合管」が規定され、耐震化に向けた取り組みの可視化にも努めている。こうした「地震」による被災のほかの天災として、地震の二次的な被害である「津波被害」と、大雨による河川の氾濫などに伴う管路の被災もみられる。ただし、これらの被害は「地震動」による被害ではないため、これとは区別する必要がある。 津波の場合、津波で流された瓦礫により、橋梁などに添架された管路が被災する場合がある。東日本震災の例では、家屋や船舶なども濁流と一緒に流れている。また、大雨による河川の氾濫時も、大きな岩や瓦礫などが濁流により高速で管路にぶつかる場合もある。橋梁添架だけでなく埋設している管路が、地盤の洗掘により露出し、被災する場合もある。平成 30 年(2018 年)7月豪雨 水道施設被害状況調査報告書(厚生労働省・日本水道協会)では管路被害も報告されている。 このような場合には、「耐震管」であっても被害を被る場合がある。 例えばダクタイル鋳鉄管の場合、継手部に3DkNを超える応力がかかった場合には抜けの発生もありえるし、想定外の非常に大きな応力(瓦礫の衝突など)がかかった場合には、管が曲がる場合も想定される。また、強靭な材料であるため局部的な破断には至らないと思われるが、内外面に腐食があった場合には、肉薄となった部分への過度の応力集中で破断に至る場合(中越沖地震で発生した事例など)もある。 一方、配水用ポリエチレン管の場合にも、降伏応力(30MPa程度)を大きく超える力が加わった場合には樹脂の特性上、当然ながら破断する。「局所部位」に「急激な外力」がかかった場合には、降伏応力を超え高速引張り試験を極端なレベルで行ったのと同様、一瞬で伸び、切れる形となる。一般的な引張試験で見られるチューインガムのような「伸び」の状況には至らないが、地震動による影響とは全く異なる外力のかかり方である事に注意が必要である。「令和2年7月豪雨による水道配水用ポリエチレン管の被災事例」、「平成 30 年 7 月豪雨(西日本豪雨)被害調査報告書」(POLITEC)などが公開されている。 こうした瓦礫などによる被災は管材料の種類にかかわらず、耐震管路にとっても「想定以上」の自然災害といえる。非常に限定された地域や場所ではあるが、被害が想定される地域や地形においては、こうした地震動以外での自然災害にもさらされる可能性がある。どの程度までこうした箇所における防災措置を施すかについては、各事業体において、必要に応じて検討しておくとよい。 実際の被災状況については、「2017 九州北部豪雨による水道施設・道路の被害写真集」(水道産業新聞社)にも被害状況が示されている。 水道管内部や継手の腐食により錆が水内に溶け出す現象。亜鉛めっき鋼管を使用した建物に多い。亜鉛めっき鋼管は内部が亜鉛めっきされており、これにより腐食を防ぐが、水内の酸素・塩素の作用によりめっきがなくなり、腐食する。 水道水として硬水が供給されている地域では水道管内でカルシウムが析出して膜を作るため、鉄管を使用していても赤水が出ることはほとんどない(ただし大量のカルシウムの付着により詰まる場合がある)。 送水管・配水管・配水本管の場合、ダクタイル鋳鉄管は内面塗装(モルタルライニング、エポキシ粉体塗装)により防錆をしているものが多い。他管工事などでバックホーなどによる大きな衝撃を加えると、管の破損に至らないまでも内面塗装が損傷し、ここから鉄こぶや赤さびが発生する場合がある。 水道管の補修時に老朽化したバルブを開閉する場合、そこで発生していた錆が飲み水に混入し蛇口から流出する場合もある。 防食処理のなされた塩ビライニング鋼管を使用している場合でも、管の切断端部や接続ねじ部におけるコーティングの切れや不備によって金属が露出したり、接続されるバルブが異種金属であったりすることなどにより錆が出る場合がある。 近年、こうした腐食を防止するため、継手やバルブの内部にプラスチック製のコアを取付け、接続部周辺を内側から完全に覆うような防食対策を施した継手やバルブが製造・販売されるようになっている(コア継手、コア付バルブなどと呼ぶ)。 寒冷地などでは水道管等の装置が凍結しないよう対策を施す必要がある。気温がおよそ4度以下にまで下がると水道管の凍結や破裂が発生するおそれがある。 水道管にも耐用年数がある。従来は補修を始めとした予防的なメンテナンスは、事業規模の問題から後回しになることが多かったといえる。しかしながら、平成16年6月に策定された「水道ビジョン」では持続可能な水道を目指した運営・管理強化の中で老朽化施設の更新、再編・再構築の方向が示された。こうした中、管路としては石綿管と老朽管路の更新を計画的に推進するようになるとともに、基幹管路の耐震化がすすめられた。一方、平成25年3月に策定された「新水道ビジョン」では、強靱の観点からみた水道の理想像として、老朽化した施設の計画的な更新を進めており、管路の耐震化にあわせた老朽管路の更新を進めていく方向性が示されている。 老朽化の問題として、時折、大規模な破裂事故が話題となる。アメリカ合衆国の例では、2008年12月23日にワシントンD.C.にて直径約170センチの水道管が破裂。発生した激流により自動車が押し流されたため、ヘリコプターにより女性と子供らを救出するという事故が生じている。日本でも、全国の水道管の総延長約61万kmのうち、約3万800kmが法定耐用年数(40年)を過ぎており、事故等が懸念されている。既に腐食性が高い土壌では漏水事故や破裂事故が起きはじめており、赤水・濁水や断水の他、車が傷ついたり窓ガラスが破損するなどの被害も出ている。 所有者が不明な水道管が、日本全国に点在していることが確認されているが、各自治体とも、その全容がどれくらいになるかは不明としている。 2017年から兵庫県西宮市に居住するようになった男性が、不明管の存在が原因で高額な水道料金を支払わされている可能性があるとして、2019年4月に上下水道の管理者である同市を相手取り損害賠償請求訴訟を神戸地方裁判所に提起し係争中である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水道管(すいどうかん)は、飲料水や洗濯、入浴、炊事などに必要な水を、家庭、学校、企業など、人々が生活・活動する場所に送る管または配管のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水道管は主に以下のような用途に使用される。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本においては、主に以下のような管種が使用される。", "title": "管種" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "鉛管は鉛が水中に溶け出し、摂取者が鉛中毒に罹患する危険があるため、現在新規には使われない。 鉛管は取替が進められているが、費用の問題などで工事が進まず、宅内配管ではいまだ使われている場合が多い。なお、未だ鉛管を使っている場合は、朝最初に蛇口をひねった場合は最初にある程度水を流して、水道管内に蓄積した溶出した鉛を出すことが推奨されている。現時点において、鉛管による健康被害は確認されていない。 古代ローマ帝国では鉛管を使用していたが、これを帝国滅亡の原因とする説が一部に存在した。ただし古代ローマの水道管には蛇口が存在せず(工事の際の止水栓はある)、水は常時流されていたので、現代よりもむしろ溶出した鉛を摂取する危険は小さく、俗説扱いされている。", "title": "管種" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ガソリンスタンド近傍や化学工場の周辺、跡地などで、万が一埋設管周辺に有機溶剤が漏れ出した場合、水道管に悪影響が及ぶ場合がある。原則としては環境基準を超える土壌汚染の場合には土を入れ替えるのが法的な処置であるため、汚染発見までの一時的な状態への対応の検討となる。", "title": "管種" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "水道事業ガイドライン(日本水道協会)において、「管路の耐震化率」=(耐震管延長/管路総延長)×100 である。 変数の定義として、「耐震管路延長」は、導・送・配水管における、", "title": "耐震管・耐震適合管" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "の総延長 とされている。 管路の耐震性能については、阪神・淡路大震災の被害状況を踏まえて、「水道施設耐震工法指針」で定めるレベル2の地震動を前提に定めている。 耐震管の定義は、地盤条件によらず、レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管種である。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、東日本大震災においても、これらの「耐震管」は地震動における事故が無かった事が報告されている。", "title": "耐震管・耐震適合管" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、「耐震適合率」は、レベル2地震動において「地盤条件によっては耐震性を有する」管種を含めた耐震性能を表したものであり、前記の「耐震管」に加え、", "title": "耐震管・耐震適合管" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "の延長を加えたもので算定する。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、どちらの管種も「液状化可能性ありの地区を除き耐震適合性あり」となっている。", "title": "耐震管・耐震適合管" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "水道管は現在、更新布設替え時代に突入しており、各水道事業者では、耐震性に富み、長寿命な配管へのリニューアルを進めている。 ダクタイル鋳鉄管は100年という寿命を目指した製品を市場投入している。高い耐震性と、従来品より外塗装が長持ちする特性等により、採用が進んでいる。一方、ポリエチレン管(ISO規格のPE100仕様)は欧州で100年以上問題なく使えると言われており、埋設管の場合、物性的にも100年以上十分に使用できる。検証については配水用ポリエチレンパイプシステム協会より検証結果が公表されている。「100年で更新」の管材という内容ではなく、諸条件下において100年経過した状態でも十分に性能を維持しているという検証内容になっている(それ以上の使用も実用可能と読み取れる)。このようにダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管ともに耐震性に優れたこれらの管種による布設替えが進んでいる。基幹管路では大口径での経済性を備えたダクタイル鋳鉄管(耐震管)が主で、配水支管では経済性と耐震性に優れたポリエチレン管の採用が急激に伸びている。(※東日本大震災で耐震実績が検証された事も要因として挙げられる)", "title": "水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "また、東日本大震災・熊本地震・大阪府北部地震を経て、さらに管路の耐震化への流れは強まっている。耐震管材の定義は、「水道事業ガイドライン」によると前述の通り、1.離脱防止機能付継手のダクタイル鋳鉄管、2.溶接継手の鋼管、3.水道配水用ポリエチレン管(高密度、融着継手)とされている。また、K形継手のダクタイル鋳鉄管は、岩盤・洪積層などの良い地盤において低い被害率を示していることから、基幹管路が備えるべきレベル2地震動に対する耐震性能を満たすものとされており、各水道事業者の判断により「耐震適合管」として採用することが可能であるとなっていた。これは東日本大震災前、平成18年の検討会において検討されたもの であり、現在は東日本大震災の経験によるデータ(悪い地盤での耐震適合性が低い検証結果となった)を基に、新たな判断基準となっている。。熊本地震においても、K形の事故は幾つか確認されている模様である。しかし、「平成28年(2016年)熊本地震水道施設被害等現地調査団報告書」では、ダクタイル鋳鉄管、ポリエチレン管のそれぞれについて「耐震管」と「その他」区分による区別しか行っていなかった。今回、耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管に事故はなく、溶接鋼管の一部に事故が見られた事が報告されている。ただし、一般に耐震性の達成度で多く用いられる「耐震適合管」(良い地盤における耐震性を有する、ダクタイル鋳鉄管K形、塩化ビニル管 RR継手)については、耐震適合外とまとめられており、K形の事故事例などは写真付きで紹介されたものの、被害状況の数値は明示されなかった。また、熊本地震発生後に大きく報道された一部の耐震管で発生した事故事例(施工責)については、今回の報告書の中では報告されなかった。", "title": "水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "厚生労働省が平成25年3月に策定した「新水道ビジョン」では、「耐震化の一層の推進が急務」とされており、基幹管路を優先しつつも、将来すべての管路が耐震化されることをビジョンとして掲げている。50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。危機管理対策項目の中、「施設耐震化対策」では、「耐震化対策には、優先的に実施する必要性の高いものを10年程度で実施し、次に断水エリア、断水日数の影響が大きい施設・管路を優先して耐震化を推進し、最終的には耐震化が必要な施設の全てをクリアすることで、50年から100年先には水道施設全体が完全に耐震化できているよう、水道事業の耐震化計画策定に盛り込むことが求められます。」としている。", "title": "水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "水道運営が財政的に厳しい現実の側面からは、「施設の全てを耐震化するには長期間を要する場合もありますが、給水区域内の重要な給水施設への給水ライン(管路)の優先的な着手により、早期の耐震化を図るなど、施設の必要性に応じた適切な対応が必要です。」としている。", "title": "水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "また、「強靱の観点からみた水道の理想像」として以下に示す状況が実現していることが理想であるとしている。(抜粋)", "title": "水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "現在、各事業体は従来の「耐震適合性」を基に(「耐震化率(A,B)」などで耐震化状況が公表されている)この数値「上昇」により耐震化の進捗が判断できるようになっている。そのため、耐震適合性の判断基準は事業体の耐震度に大きく影響を与えることになる。H19.3「管路の耐震化に関する検討会」で管路の満たすべき基準を定めているが、中には耐震性能を判断する被災経験がないことから、明確な評価が出来ていない管路・管種があった。H25.10管路の耐震化に関する検討会の設置は、その後、東日本大震災等の大規模地震が発生し「被災状況が明確となった」ことから、改めて管路・管種の耐震評価をする必要があるとの判断から検討を行ったものである。ただし、「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、審議の結果、さらに調査・検討が必要であることが明らかとなり、管路の再評価までは行わず、管種・継手別の管路被害率・管路延長の算出に留めて、地震被害が多いレベル2地震相当地域を中心に被害状況分析を報告書としてまとめた。被害状況分析は、厚生労働省による「水道事業における耐震化の状況」において分類上「耐震管」に区分されているダクタイル鋳鉄管(NS形継手等)、鋼管(溶接継手)、配水用ポリエチレン管(融着継手)とそれ以外の管種・継手に分けて行っている。報告書によれば、少なくとも前記「耐震管」に関しては、鋼管(溶接継手)の腐食、過去の溶接技術の不十分さに起因するものを除くと、管路被害は基本的に生じておらず、管路被害率は0.000箇所/kmとなっている。ゆえに、耐震管路の既定管種に関しては初期の目的であった、従来の耐震管定義における実際の震災地区での検証はされたといえる。このあたりの分析は、最終稿前の「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」において詳細に評価案が記されている。それ以外の管種についても以下のような評価案がまとめられており、今後、事業体の取組判断の参考になると思われる。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」において「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」との大きな違いの1つに、「耐震管」の定義がある。従来の耐震管の基準については「レベル2地震動において、耐震性を有する管。」であったが、今回の報告書では", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "となっている。より具体的かつレベルの高い条件となったと言えるが、今後はこの条件に合った管種が新たな「耐震管」の既定となっていくもの思われる。いずれにせよ、今回の報告書に記載された内容から、「現行の耐震管の基準」(レベル2地震動において、耐震性を有する管)については、現在の耐震管に規定されているすべての管種が「管路の満たすべき基準を満たす」ことが立証された。一方で、従来の「耐震管」以外の管種については、より厳しいものとなったと言える。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "今回の報告書に使用したデータはGISデータを有効活用したもの(東日本大震災により、水道施設被害が発生し査定を行った事業体は116事業体あるが、マッピングシステムが整備されていない等の理由から、本検討で対象とした水道事業体は16事業体に留まっている)であり、検証に十分なデータ数を有してはいるが、全体からすると限定されたデータによる検証となっている。東日本大震災において水道施設被害を受けた事業体の大部分を対象とした調査としては「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」がある。同調査では災害定資料等を基に管路被状況が調査され(管路の耐震化に関する検討報告書2014.6 P13)ており、各事業体においては前記の限定されたデータ以外にも東日本大震災の被災データを確認することが可能である。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、本検討においては前記「液状化地帯での被害状況確認」が不十分であった。本検討においては、液状化に関する調査等の確認を、関東地方を調査対象とした「東北地方太平洋沖地震による関東地方の地盤液状化現象の実態解明報告書 平成23年8月」のみにより検証している。この資料は関東地方のみを対象とし、調査範囲も限られており、これ以外にも調査はされているものの、精査中等の状況から現時点でデータを入手することは困難である、との注記を付け引用している。理由としては液状化地域において、従来の地盤区分では「耐震適合性あり」とされていたダクタイル鋳鉄管K形継手や塩化ビニル管RR継手等の被害が多く、耐震適合性の基準を再度整合する必要性が生じてた、という事もあり、液状化地帯での検証も「限定的なデータ」ではあるが掲載したものといえる。 このように、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」ではダクタイル鋳鉄管K形が盛土地区での被害率が著しく高かったため、「地震動幅が小さいエリアにおいて耐震適合性を有する」という記述に修正(18年度の検証に対して)されている。以上、東日本大震災での検証は結果としてダクタイル鋳鉄管K形、耐衝撃性硬質塩化ビニル管RRについては従来よりも「耐震適合性」の評価が下がった。今後は業務指標も改定され、地盤条件によっては「管路の耐震適合率」の値が、それ以前の基準で算定されたものよりも下がってしまう事となる。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、「管路の耐震化に向けて」「管路の耐震化に向けた必要な取り組み」で、「H18年度検討会の報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある」とされている。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また、新しい管種等についての見解として「管路の技術開発とその利用」では、「近年、高い耐震性能などを有する新たな管製品が供給されており、今後もこのような傾向は続くと想定される。耐震性能が高いと判断できる製品については水道事業者が導入の適否を適切に判断し採用することが望ましい。これにより水道管路の耐震化を効率的に進めることができるとともに、発生する地震などに対して管路の被害状況分析を行って耐震性能を評価し、その結果を広く共有することにより、我が国の水道全体として管路の耐震化を一層効率的かつ計画的に推進することができる」としている。(2014.3(案)と多少の記述の差がついている) H18年度検討会の報告書の中で耐震性評価が限定されていた「検証必要事項」については、今回の調査で十分な検証がされた(確認が取れた)ため、今後は新しく検討を要するとされた「液状化地区」における耐震性の検証が耐震管路全般に求められていくことになろう。特に配水支管に関しては、新水道ビジョンの理念に基づき、給水管も含めた水道施設全体としての耐震性の向上が望まれて来る。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "[平成25年度管路の耐震化に関する検討会報告書で確認された事項のまとめ (対 18年度報告書)]", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "(補足)以上のように、前回H19.3「管路の耐震化に関する検討会」における「評価」結果の見直しにおいて、今回H26.6「管路の耐震化に関する検討報告書」で「再評価」まで行わなかった最も大きな理由は、「耐震管」の定義を「液状化等による地盤変動」に対しても「レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管、と同等の耐震性能を有する」事を定義づけたためである。従って、管種によらず、新しい定義に基づく「評価」をしなかった、という事である。また、この「耐震管の定義」については、H27.3「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」においても、同じ定義で取り扱いをされている。 ただし、仮にH19.3「管路の耐震化に関する検討会」までの定義で、前回と条件をそろえて「評価」をした場合、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」や、管路の耐震化に関する検討会 第2回検討会資料 P50において提示された「表」のとおりの結果であるといえる。また、今回の検討会の解説において「ポリエチレン管は液状化地域における検証データがほとんど無かった=耐震管として評価されなかった」との説明をされる場合があるが、これは間違った認識である。確かに、前記「限られた条件」のデータの中では、ポリエチレン管の敷設されていた距離が少なかった訳であるが、本文にも「このような状況から、液状化地区は広範囲に生じているものの、その全体を調査することは困難であるため、本検討では上記の国土交通省資料により関東地方において液状化が確認できた地区(液状化確認地区)のみを対象として分析するが、限定的なデータであることに注意する必要がある。」とある通り、本検討における液状化の検証データは、あくまで「例示」であるに過ぎない。本文の実績記載が少ない事を「部分的」に取り上げ曲解する話をしてはならない。こうした説明は日本水道協会の見解ではない事にも注意を要したい。本検討の参照する液状化地域の限定的なデータにおいて、耐震管に区分されているダクタイル鋳鉄管の事例は適度に記載されており、本管における耐震性の妥当性は示されていると言える。今後は本管のみならず、サドル分岐、給水管を含めた管路システムとして、液状化地域における耐震性を検証していく事も重要な課題となる。誤解されやすい部分を整理すると、以下の通りである。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "※ポリエチレン管の液状化地域におけるデータは水団連ホームページにて公開されている「管路の耐震化に関する検討会」平成25年度 第2回の資料6にて確認ができる。東日本大震災における調査対象事業体5県69か所の調査対象事業体(総延長995.7km)において地震動によるポリエチレン管の被害はなく、液状化に関しては中越地震時に柏崎市で被災した事例として2.6kmの敷設延長に被害が無かった報告となっている(POLITEC)。また、ダクタイル鋳鉄管(NS形など)においてもにて浦安市の液状化エリアで被害が無かった(約27km)事が報告されている。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "[水道耐震工法指針・解説 2022年版]", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "改定された水道耐震工法指針・解説 2022年版において、水道配水用ポリエチレン管は「設計事例編」での参考扱いから、一般扱いとなり正式な事例紹介となっている(CD版データのみ)。耐震管に区分されている3管種共に説明がリニューアルされた。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ここで、II参考資料編「管路」の「4)管種・継手ごとの耐震適合性」において、「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」における管種・継手ごとの耐震適合性を参考にできる(表-参2-1.9)、と紹介されているが、この表は、前記「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」 P11~12を確認するとすぐにわかるが、平成18年度検討会報告書より整理されたものを「引用」した部分となる。すなわち平成25年の検討会においてはこの表で検証が必要であると指摘されたデータを集めて報告書にしたものであり、P63には「本検討では、東日本大震災における管路の被害状況分析を行った。水道事業者等においては、平成18年度検討会報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある。」と記載されており、表-参2-1.9 の検証不足分を補ったデータを考慮することが肝要である。このデータは前述の通り、水道配水用ポリエチレン管の東日本震災による被災経験に基づく被災経験(被害なし)などが示されている。平成18年度検討会報告書で「被災経験が十分でないことから、十分に耐震性が検証され目には、なお時間を要する」と注記されている表のみが掲載されているが、この部分については検証され「耐震性を有する」と判断できる材料が示されている。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大阪市の水道局経営戦略(2018-2027)【改訂版】におけるパブリックコメントの回答に「水道配水用ポリエチレン管につきましては、耐震工法指針において、実績面から耐震性が完全に検証されていないことや...」という記載などが公表されているが、ここに書かれている実績不足は平成18年度の検討会段階のものであるといえる。", "title": "水道管種(導送水管・配水管)選定について" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "「新水道ビジョン」では、50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。水道におけるアセットマネジメントについて、厚生労働省では、平成21年7月に「水道事業におけるアセットマネジメント(資産管理)に関する手引き」を公表し、全国の水道事業者等にアセットマネジメントの実践を促している。令和元年の全国水道関係担当者会議資料(資料編)2020.3には「全国の水道施設の更新費・修繕費の試算結果」の中で近々からの更新費増加、平準化をシミュレーションしており、アセットマネジメント後の予算化実施を事業体に示唆している。この時点では40年スパンの最初20年に約2000億円の「予算の前倒し計上」を乗せ、20年後からは毎年更なる増額をするシミュレーションとなっていたが、2021年3月の同資料以降は約5000億円の「予算の前倒し計上」としほぼ40年間「平準化」予算となるシミュレーションに変更されている。2022年3月の同資料では前倒しを一括するのではなく更新率を段階的に上げるパターンをいくつか紹介しながら検討例を示すようになっている。", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また、「新水道ビジョン」においては、当面の目標点の1つとして、全ての水道事業者が資産管理(アセットマネジメント)を実施し、将来の更新計画や財政収支を明らかにすることとしている。 中長期的財政収支に基づき施設の更新等を計画的に実行し、持続可能な水道を実現していくためには、各水道事業者等において、長期的な視点に立ち水道施設のライフサイクル全体にわたって効率的かつ効果的に水道施設を管理運営することが必要不可欠であり、これらを組織的に実践する活動がアセットマネジメント(資産管理)である。", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "厚生労働省は、「水道施設の計画的な更新等について(法第22条の4、施行規則第17条の4)」水道施設 の計画的な更新に努め、厚生労働省令で定めるところにより、水道施設の更新に要する費用を含 むその事業に係る収支の見通しを作成し、これを公表するよう指導をしており、その推進として、アセットマネジメントの実施率の引き上げとともに、精度の低い簡略型から精度の高い型への移行 が必要としている。全国水道関係担当者会議資料(令和2年3月)の内容によれば、アセットマネジメント結果の公表率は約19%であり、水道法改正を踏まえ、公表率の引き上げが必要としている。", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "※アセットマネジメント「簡易支援ツール」'では「管路の更新基準の設定の一案の考え方」が示されており、管種ごとに「実使用年数の数値例」が記載されている。", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "[以下、2020年3月までのものについての記載]", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ただしここでは、\"客観的な正しい数値が示されているわけでは無い\"ので特に注意が必要である。文中にも「一案である」とされている通り「標準的な更新基準を示しているものではない」事を念頭に、各事業者にて更新基準を設定した上で実施する必要がある。各管種の協会資料やメーカー技術資料などを参考に各々設定をし、「実使用年数の設定例」に記載の数値のままで検討を行わないよう、注意をして運用したい。特に「ダクタイル鋳鉄管 耐震継手を有する」については旧来のNS形(1種、3種)、薄肉のNS形E種、外面耐食仕様のGX形(1種、S種)など肉厚や塗装種類、ポリエチレンスリーブの有無などにより様々な品種があり、区分けをする必要があるにもかかわらず「耐震継手を有する」の欄で一括りにされている。アセットマネジメントを実施するコンサルタント、事業者においては管種の特性により実耐用年数の設定を設定する必要がある。(政令指定都市では東京都、大阪市、横浜市、(鋳鉄管の設定値)、新潟市(ダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管の設定値)、のように独自の検証に基づいて実耐用年数の設定を行っている事業体がある一方、大規模事業体においてもこの「簡易支援ツールの数値」をそのまま使用しアセットマネジメントを行われている場合も散見される。注意をしたいところである。)", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "[2020年4月 バージョンup]", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2020年度にはツールが見直しされ、上記の注意事項についても改善されている。主に操作性が改善されており、マクロや関数で必要となるパラメータ(設定値)を「初期設定」シートで一元管理出来るようになり、使い勝手が大幅に向上している。内容についても、企業債(新債)発行額と水道料金に改定率の自動算出処理ができるようになっているほか、「水道管」については更新基準についての設定例について参考資料が大幅に改新されている。 参考資料 更新基準の設定事例について、老朽化する既設管路については全国の事業体の設定例を2例示し、今後の更新に使用する管種については「耐震管」に区分されている3管種について、第三者の評価が得られている管材の耐用年数等関連情報として例示されている。前回までの設定例では耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管の参考値として80年が示されていたが、管厚、塗装などの違いが混在しており、今回の資料は耐久性について業界団体からきちんとしたデータが示されているGX形のみが、耐用年数の参考値として掲載されている。この表によれば、小口径から大口径までの耐震管に区分される新設管(ダクタイル鋳鉄管GX形管、長寿命形水道鋼管、水道配水用ポリエチレン管)については、アセットマネジメントにおける更新基準の設定値は、一律で100年を設定値として参考使用することができる。以前の設定例に比べると根拠が明確になっており、事業体として参考としやすいものになった。もちろん、「あくまでも設定例ですので目安と考え、水道事業者等の実情(施設の重要度、 劣化状況、維持管理状況、管路の布設環境等)を踏まえた設定を心がけてください。」とあるように、事業体ごとの判断により運用をすることが必要である。", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "※ 簡易支援ツールマニュアルはHPの直リンクでは「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.2.1」となっているが、資料の一括ダウンロードファイル内では「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.3.0」になっている。(どちらもほぼ同じ内容でVer.2.0からは大きく変更されている)", "title": "アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "基幹管路に於いては、ダクタイル鋳鉄管(NS形、GX形)、配水用ポリエチレン管(融着継手)、溶接鋼管など「耐震管」に定義される管種により更新、耐震化が進みつつあるが、現状、給水管路では大地震の毎に大きな被害が発生している。しかし、その耐震化と具体策に関しては、東日本大震災後までは、あまり言及されて来なかった。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "給水管で現状使用されている、塩ビ管(TS継手)、鉛管、ポリエチレン二層管(冷間継手)は、ともに配水管分野では、H18年度検討会の報告書および、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」で「耐震適合性はなし」と評価されている。給水分野で一部採用されている管種としては、水道用高密度ポリエチレン管-融着継手-(青ポリ)のみが「耐震管」の扱いである。東京都など大都市部で採用されている給水用のステンレス管についても東京都の資料では漏水の改善が確認されており(従来管種との比較)、耐震適合性にも優れていると言われているが、耐震管である「溶接鋼管」ではない。※ステンレス鋼管の継手はプレス継手などの耐震性のないものもあり、伸縮継手も抜け止め構造ではない。また、本報告書において、あまり詳しい記載はない(データは一部は鋼管に含まれている)。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "H18年度検討会の報告書では、比較的新しい管種についての扱いに苦慮しており、「被災経験が十分ではないことから、十分に耐震性能が検証されるには未だ時間を要すると考えられる」等の付記を付けられるケースがあった(前回の検証でのポリエチレン管(融着継手)の場合)が、", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また厚生労働省では、「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」で、新水道ビジョン・平成25年度管路の耐震化に関する検討報告書を踏まえ、水道の耐震化計画等策定指針の改定作業を進め、「水道の耐震化計画等策定指針」(H27.6)を策定した。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この中で給水装置の耐震化に関しては、旧指針(平成20年発行)と比べ大幅な記載事項の修正が行われている。新指針では配水本管と同様の表記で「管種、継手の耐震化」について記載しており、", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ことについて検討する、としている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "過去の大地震において給水装置は毎回多くの被災が確認されており、公益財団法人給水工事技術振興財団より「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」および、「熊本地震 給水装置被害状況調査報告書 平成30年8月」では、塩ビ管(TS継手)、鉛管、古いタイプの低密度ポリエチレン一層管(黒ポリ)、低密度ポリエチレン二層管の冷間継手部位などに多くの被害が報告されている。また、黒ポリには年代毎に色々な改良を経ているが同じ「黒色」のために被災時に新旧見分けがつきにくい事を問題視している。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "サドル分水栓の被害も極めて高く、構造上の問題と材料の劣化(腐食)が事故の主な要因として指摘されており、地震時には腐食した部位に応力が集中することで破損が発生しやすいとしている。また、サドル分水栓部は「配水管」の耐震性能に因らず単体として事故が発生している。本管がたとえ耐震管であっても「分岐部」を含めた給水管路まで安心とは言えない。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "熊本地震のエリアでは、東日本大震災の調査結果と比較すると、給水管部の鋼管と水道メーター部の被害の増加、塩ビ管の被害件数の減少(塩ビ管の使用割合が低いため)が挙げられている。これについては2021年3月、「埋設給水用ポリエチレン管の経時変化と健全性評価に関する検討報告書について」が同財団から刊行されている。ここでは熊本市の給水管堀上試験結果から、漏水した管が破損した原因は、下記の2点の複合要因によるものとの推定されている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "さらにこのことを踏まえ、「今回提供された供試体を試験した結果によれば、経年給水PE管の更新対象としては、PE管の長期性能規定をJISで定めた1998年より以前の規格で生産された製品とすることが望ましいと考えられました。」とし、1998年以前のPE材料を使用した管路については更新を促すとともに、今回の結果の精度を上げるための追加研究を行うとし、継続した調査研究を続ける意向とみられる。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また、塩化ビニル管に比べて、新しいタイプの低密度ポリエチレン二層管の比率が高く、この二層管にも被害(17件)が確認されており、管体破損被害(14件)も確認された事から、被害原因の究明を求めている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "塩ビ管の被害では、材料劣化による被害は発生しておらず、TS継手の接続における「施工の確実性が確認できない」ものと、「地震動に追従できなかった」もの、特にエルボなどの異形管部に集中する応力とひずみに対し、塩ビ管の可撓性不足が被害原因とされている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "厚生労働省による「重要給水施設管路の耐震化計画策定の手引」(H29.5)では、重要給水装置における給水装置などについて、この水道の耐震化計画等策定指針に従って耐震化計画を策定するものとしている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "また、給水工事技術振興財団からH28年度に発行された「東日本大震災給水装置被害状況調査報告書」によれば、東日本震災での事故の多くは硬質塩化ビニル管のTS接合方式のものであるとされている。こちらは前述した水道の耐震化計画等策定指針の改定においても既に更新対象とされている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "次にサドル分岐部の事故について、それぞれの報告書では次のように報告されている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "これに対し、「求められる性能」として次のような提言がなされている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、地震対策としては、", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "としている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "こうした報告内容をふまえ、給水装置の耐震性向上と望ましい維持管理として、次のようにまとめられている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "水道事業者におかれては、先回の東日本大震災の被害調査結果および今回の熊本地震の被害調査結果を踏まえ、長期寿命、高耐震性、施工の確実性、経済性発揮の観点から適切な構造・材質を選択し、また、新たな技術開発を積極的に評価し、耐震性の向上と漏水事故の縮減、有収率の向上を目指していただきたいと考える。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「水道配水用ポリエチレン管の耐震設計の手引き」H30.8ではレベル2地震動に対する配水用ポリエチレン管の高い耐震性を報告しているほか、異形管や給水分岐も含めた管路全体の耐震性を検証している。特に、十分に耐震性が現地検証されつつも、強靭性のある管種(ダクタイル鋳鉄管)と可とう性のある管種(配水用ポリエチレン管)という「全く異なる」特性により地震に耐える事が示されているパイプラインの挙動をそれぞれに解析している。配水用ポリエチレン管の場合、地盤変状時において、地盤と境界での「すべり」が発生しない(地震時の地盤のひずみを直管部で受け持つ)事により、異形管や付帯設備への応力集中が軽減し、管路全体として耐震性を有するに至る事が報告されている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、下記【参考】のガス分野においては宅地内までの一体管路構造が地震、「液状化に対する設備対策として有効である」ことが確認、報告されている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "このように、今後は本管の耐震性だけではなく、給水管やサドル分水栓も含めた給水装置システム全体の「耐震性向上」と「さらなる長寿命化」が望まれる時代になってくる。水道での参考事例は、埼玉県、坂戸、鶴ヶ島水道企業団の広報に紹介されているような事例がある。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "[水道耐震工法指針・解説 2022年版]", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "改定された水道耐震工法指針・解説 2022年版において、参考資料編に「給水装置の耐震化・長寿命化」に関する最新情報が掲載されている。給水工事技術振興財団の各種資料からまとめられている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "【参考】ガス管の場合(給水装置耐震化の参考となる前例)", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "「東日本大震災を踏まえた都市ガス供給の災害対策検討報告書 H24.3」によれば、都市ガスの管路においても、阪神・淡路大震災以降、耐震化が進んでおり、東日本大震災においてはその「管路の耐震化促進等」の設備投資効果により過去の地震被害と比較して「相当程度」被害率が低くなっていることが報告されている。一方で、東日本大震災の「液状化地区」では、中低圧ガス導管耐震設計指針に規定する標準設計地盤変位の5cmを超える大きな地盤変位が生じたものと推測され、耐震性の高い機械的接合・抜け出し防止有りの継手に相当数の被害が生じた。「従って、今後、液状化による著しい地盤変位が生じる可能性の高い地区に導管を新設する際には、継手部において耐震性の高いPE管および溶接鋼管を使用することが液状化に対する設備対策として有効である。」との記載がある。ガス用管材において、水道における給水管に相当する「供給管」は、サドル分岐を含めポリエチレン管による一体化構造による耐震化を行っており、一体構造のPE管および溶接鋼管は、阪神・淡路大震災以降の震災において、製品起因による被災は発生していない。 因みに、本報告書における東日本大震災において、供給区域内に震度5弱以上の震度を記録した事業者の低圧ガス導管(本支管)の総延長は約83,000kmであるが、地震による被害は773箇所であった。また、供内管本支管の被害において、液状化を除く地震による被害は670箇所であり、このうち、地盤変状によるものが45箇所、斜面崩壊によるものが7箇所であった。液状化の被害は103箇所であった。PE管および溶接鋼管は、製品起因による被災は発生していない。また、熊本地震でも「平成 28 年熊本地震を踏まえた都市ガス供給の地震対策検討報告 H29.3」にて同様の報告がなされている。", "title": "給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化)" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "水道ビジョン推進のためのロードマップ(案)によれば、今後は「耐震設計の手引き」策定の後、水道施設の耐震化に関する検討、耐震化計画策定指針の改定を2014年度中に行い、「水道事業ガイドライン(JWWAQ100)-日水協-」の改正を2015年度末までに行う事で「新水道ビジョン」との整合性を図るとのことであった。耐震化計画策定指針については2015年6月に改訂されており、水道事業ガイドラインは2016年度に改訂された。 また、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」において、管路の耐震化に向けて(提言)として、以下のように記載されている。", "title": "耐震化促進への提言" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "管路の耐震化(更新・新規整備)の計画策定にあたっては、管路の耐震性能結果に基づき、基幹管路の耐震化を基本的に優先して、管路更新の優先順位の設定などを行う。また実施にあたっては、基幹管路は耐震管を用いて更新・新規整備する事が適当である。配水支管も耐震管を用いることを基本とするが、耐震適合管の使用を含め、水道事業者等の総合的な判断により使用する管種・継手を選定する。", "title": "耐震化促進への提言" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "本文は「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、管路の再評価まで行わなかったため本記述がみられないが、こうした考え方は各事業体における判断の参考にできる。", "title": "耐震化促進への提言" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "水道施設に関しては、昨今の大地震における「地震動」での振動、地盤変状、液状化などによる被害に対して「耐震化」を進めている。水道管に関しては厚生労働省により「耐震管」や「耐震適合管」が規定され、耐震化に向けた取り組みの可視化にも努めている。こうした「地震」による被災のほかの天災として、地震の二次的な被害である「津波被害」と、大雨による河川の氾濫などに伴う管路の被災もみられる。ただし、これらの被害は「地震動」による被害ではないため、これとは区別する必要がある。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "津波の場合、津波で流された瓦礫により、橋梁などに添架された管路が被災する場合がある。東日本震災の例では、家屋や船舶なども濁流と一緒に流れている。また、大雨による河川の氾濫時も、大きな岩や瓦礫などが濁流により高速で管路にぶつかる場合もある。橋梁添架だけでなく埋設している管路が、地盤の洗掘により露出し、被災する場合もある。平成 30 年(2018 年)7月豪雨 水道施設被害状況調査報告書(厚生労働省・日本水道協会)では管路被害も報告されている。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "このような場合には、「耐震管」であっても被害を被る場合がある。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "例えばダクタイル鋳鉄管の場合、継手部に3DkNを超える応力がかかった場合には抜けの発生もありえるし、想定外の非常に大きな応力(瓦礫の衝突など)がかかった場合には、管が曲がる場合も想定される。また、強靭な材料であるため局部的な破断には至らないと思われるが、内外面に腐食があった場合には、肉薄となった部分への過度の応力集中で破断に至る場合(中越沖地震で発生した事例など)もある。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "一方、配水用ポリエチレン管の場合にも、降伏応力(30MPa程度)を大きく超える力が加わった場合には樹脂の特性上、当然ながら破断する。「局所部位」に「急激な外力」がかかった場合には、降伏応力を超え高速引張り試験を極端なレベルで行ったのと同様、一瞬で伸び、切れる形となる。一般的な引張試験で見られるチューインガムのような「伸び」の状況には至らないが、地震動による影響とは全く異なる外力のかかり方である事に注意が必要である。「令和2年7月豪雨による水道配水用ポリエチレン管の被災事例」、「平成 30 年 7 月豪雨(西日本豪雨)被害調査報告書」(POLITEC)などが公開されている。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "こうした瓦礫などによる被災は管材料の種類にかかわらず、耐震管路にとっても「想定以上」の自然災害といえる。非常に限定された地域や場所ではあるが、被害が想定される地域や地形においては、こうした地震動以外での自然災害にもさらされる可能性がある。どの程度までこうした箇所における防災措置を施すかについては、各事業体において、必要に応じて検討しておくとよい。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "実際の被災状況については、「2017 九州北部豪雨による水道施設・道路の被害写真集」(水道産業新聞社)にも被害状況が示されている。", "title": "津波や濁流(大雨など)による被害" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "水道管内部や継手の腐食により錆が水内に溶け出す現象。亜鉛めっき鋼管を使用した建物に多い。亜鉛めっき鋼管は内部が亜鉛めっきされており、これにより腐食を防ぐが、水内の酸素・塩素の作用によりめっきがなくなり、腐食する。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "水道水として硬水が供給されている地域では水道管内でカルシウムが析出して膜を作るため、鉄管を使用していても赤水が出ることはほとんどない(ただし大量のカルシウムの付着により詰まる場合がある)。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "送水管・配水管・配水本管の場合、ダクタイル鋳鉄管は内面塗装(モルタルライニング、エポキシ粉体塗装)により防錆をしているものが多い。他管工事などでバックホーなどによる大きな衝撃を加えると、管の破損に至らないまでも内面塗装が損傷し、ここから鉄こぶや赤さびが発生する場合がある。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "水道管の補修時に老朽化したバルブを開閉する場合、そこで発生していた錆が飲み水に混入し蛇口から流出する場合もある。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "防食処理のなされた塩ビライニング鋼管を使用している場合でも、管の切断端部や接続ねじ部におけるコーティングの切れや不備によって金属が露出したり、接続されるバルブが異種金属であったりすることなどにより錆が出る場合がある。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "近年、こうした腐食を防止するため、継手やバルブの内部にプラスチック製のコアを取付け、接続部周辺を内側から完全に覆うような防食対策を施した継手やバルブが製造・販売されるようになっている(コア継手、コア付バルブなどと呼ぶ)。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "寒冷地などでは水道管等の装置が凍結しないよう対策を施す必要がある。気温がおよそ4度以下にまで下がると水道管の凍結や破裂が発生するおそれがある。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "水道管にも耐用年数がある。従来は補修を始めとした予防的なメンテナンスは、事業規模の問題から後回しになることが多かったといえる。しかしながら、平成16年6月に策定された「水道ビジョン」では持続可能な水道を目指した運営・管理強化の中で老朽化施設の更新、再編・再構築の方向が示された。こうした中、管路としては石綿管と老朽管路の更新を計画的に推進するようになるとともに、基幹管路の耐震化がすすめられた。一方、平成25年3月に策定された「新水道ビジョン」では、強靱の観点からみた水道の理想像として、老朽化した施設の計画的な更新を進めており、管路の耐震化にあわせた老朽管路の更新を進めていく方向性が示されている。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "老朽化の問題として、時折、大規模な破裂事故が話題となる。アメリカ合衆国の例では、2008年12月23日にワシントンD.C.にて直径約170センチの水道管が破裂。発生した激流により自動車が押し流されたため、ヘリコプターにより女性と子供らを救出するという事故が生じている。日本でも、全国の水道管の総延長約61万kmのうち、約3万800kmが法定耐用年数(40年)を過ぎており、事故等が懸念されている。既に腐食性が高い土壌では漏水事故や破裂事故が起きはじめており、赤水・濁水や断水の他、車が傷ついたり窓ガラスが破損するなどの被害も出ている。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "所有者が不明な水道管が、日本全国に点在していることが確認されているが、各自治体とも、その全容がどれくらいになるかは不明としている。", "title": "水道管をめぐる問題" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2017年から兵庫県西宮市に居住するようになった男性が、不明管の存在が原因で高額な水道料金を支払わされている可能性があるとして、2019年4月に上下水道の管理者である同市を相手取り損害賠償請求訴訟を神戸地方裁判所に提起し係争中である。", "title": "水道管をめぐる問題" } ]
水道管(すいどうかん)は、飲料水や洗濯、入浴、炊事などに必要な水を、家庭、学校、企業など、人々が生活・活動する場所に送る管または配管のこと。
{{otheruses|配管|同名のゲームのルール説明|ゴルビーのパイプライン大作戦}} '''水道管'''(すいどうかん)は、[[飲料水]]や[[洗濯]]、[[入浴]]、[[炊事]]などに必要な[[水]]を、[[家庭]]、[[学校]]、[[企業]]など、人々が生活・活動する場所に送る[[管]]または[[配管]]のこと。 == 用途 == 水道管は主に以下のような用途に使用される。 ;導水管 : [[取水施設]]から取り入れた水(原水)を、[[浄水場]]まで送る管のこと。管ではなく開渠・暗渠・トンネルにより水を流すこともある。 ;送水管 : [[浄水場]]で処理された水を、[[配水場]]まで送る管のこと。 ;配水管 : [[配水場]]から、給水区域まで水を送る管のこと。幹線となり、直接給水管を分岐しない「配水本管」と、配水本管から分岐して直接給水管を取り付ける「配水支管」(配水小管ともいう)からなる。配水本管は一般に200㎜以上の中大口径が多いが、事業体により異なる。水圧を均等に保ち、管内の水が滞留しないように、道路に沿って網目状に布設されている。 ;給水管 : 配水管から分岐して、各家庭など需要者に水を供給する管のこと。日本の上水道の給水装置の新設や改修工事等は、[[水道法]]に基づいて指定された'''指定給水装置工事事業者'''が行う。 == 管種 == === 主な管種 === [[日本]]においては、主に以下のような管種が使用される。 *[[金属管]] **[[ダクタイル鋳鉄管]] - 水道の基幹管路において、最も多く採用されている。従来のA形K形に対し、耐震性に優れたNS形の評価が高く、次世代型のGX形が普及ている。従来からのNS形、S形、SⅡ形等、継手部に離脱防止機能を持つ種類は、耐震管材に区分される。(※ K形は「耐震管材」には区分されない。従来、良い地盤においては「耐震適合性を有する」と言われたが、[[東日本大震災]]により被害が確認されたため、現在の検証結果では「地震動増幅が小さい地盤」において耐震適合性を有する、とされている。)[[File:DCP_GX.jpg|right|200px|thumb|GX形ダクタイル鋳鉄管]] **水輸送用塗覆装鋼管 - 主に大口径の水道本管に用いられる。JIS G 3443 として規格化されている。強度・延性・靱性に優れ、溶接継手により高い加工性・耐震性を持つ。<ref>[http://www.wsp.gr.jp/qanda/taikei-a-1.html 水輸送用鋼管の特徴について教えてください。]日本水道鋼管協会</ref><ref>[http://www.wsp.gr.jp/qanda/taikei-a-2.html 鋼管が耐震管とされている理由を教えてください。]日本水道鋼管協会</ref> 耐震管に区分されるのは溶接タイプとなり、[https://www.eng.nipponsteel.com/english/whoweare/r_and_d/reports/pdf/vol06_18.pdf 長寿命形水道用鋼管]という括りも紹介されている。 **[[亜鉛めっき]]鋼管([[白管]]) - 鋼管の一種。赤水(後述)の原因となるため、現在はあまり使用されない。 **塩ビライニング鋼管 - 耐久性に優れる。曲げ加工はできない。 **ポリエチレン粉体ライニング鋼管 - 塩ビライニング鋼管に近い特性を持つ。耐熱性に劣り、給湯には使用できない。 **[[ステンレス]]鋼管 - [[ステンレス鋼]]を使用した管のこと。錆びにくい(電蝕の問題はある)が、[[加工]]性および[[経済性]]に難がある。 **波状ステンレス鋼管 - ステンレス鋼管に波状部を施した製品で、波状部において任意の角度を形成でき、継手が少なく済むなど施工が容易。直管部に使用すると地震・不等沈下が生じても継手部などの損傷を防止出来る。継手には伸縮継手とプレス式式継手とがあり、耐震性を必要とする部位にはプレス式継手は向いていない。(伸縮継手にはダクタイル鋳鉄管の離脱防止機構ほどの抜け止め力は無いが、伸縮効果と一定の離脱防止機能がある。構造上、配水管における耐震適合管レベルの耐震性が期待できると考えられる)。東京都やその周辺事業体を中心に口径50mm以下の給水管において採用されている。<ref>[http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/kouhou/magazine/vol_04.html 東京都水道技術マガジン(ステンレス給水管記載あり)] 東京都水道局</ref> **[[鉛管]] - 鉛を使用した管のこと。接合は、はんだ付けによって行う。給水管に広く使用されていたが後述の理由で現在は使われない。 **[[銅管]] - [[抗菌]]性能を持ち、曲げや[[カット|切断]]といった[[加工]]がしやすい。[[耐食性]]に難があり、[[ピンホール]]が比較的生じやすい。以前は[[給湯]]配管でよく用いられた。 *[[樹脂管]] **[[ポリエチレン]]管(青ポリ) - 耐震性・耐久性に優れ、比較的熱に強く、[[薬品]]にも強い。柔軟性があり融着式継手による一体化で漏水の心配がない。材質にはPE100の第3世代、高密度ポリエチレン(HDPE)を使用している。配水・給水の埋設管、建築物内の配管などに用いられ、配水小管では主流となりつつある(※直近の日本水道協会の検査実績より)。黒ポリ(1998年のJIS規格改定より前のタイプ)に比べると次世代タイプであり、短期、長期の特性(クリープ強度、短期破壊水圧、引張降伏強さ)にも優れる。配水管用に使用される材料については「水道配水用ポリエチレン管」、埋設部の給水装置に使用される給水管については「水道給水用ポリエチレン管」<ref>[https://www.kyuukou.or.jp/books/kyuukou-shishin-2020.html 給水装置工事技術指針2020 2020.4月] 公益財団法人 給水工事技術振興財団</ref>と呼ばれる。水道配水用ポリエチレン管は水道ビジョンにおける「耐震管材」に区分されている。※過去のポリエチレン管の事故に対しては、水道配水用ポリエチレン管の規格制定にあたり、理論と実験の両面から長期性能に優れることを比較・確認している。<ref>[http://www.jwwa.or.jp/upfile/upload_file_20140331001.pdf 水道配水用ポリエチレン管・継手に関する調査報告書 H10.9] 日本水道協会</ref>[[ファイル:HPPE PE100.jpg|サムネイル|ポリエチレン管を敷設している造成現場|200x200ピクセル]] **[[ポリエチレン]]管(黒ポリ) - ステンレス管に比べると経済性に優れ、[[薬品]]に強く、管体は非常に柔軟性がある。金属継手での接続が主流で、熱には弱い傾向にある。給水管に多く用いられている。現在の仕様(JIS K 6762)は第2世代のPE80グレードのポリエチレン管(2種管)と、PE50グレードの鎖状低密度ポリエチレン管(1種管)、PE100グレードの高密度ポリエチレン管(3種管)で構成され、接水部にカーボンブラックを用いない2層管構造であり、耐塩素水性能を向上させている。普及している1種二層管について、公的資料では(冷間)継手構造も含めると「耐震適合性なし」とされる。現存する第一世代の古い単層管(PP管)は耐塩素水性能や環境応力破壊性能が悪いため、[https://www.kyuukou.or.jp/materials/file/file-r04.04_report_2.pdf 更新の対象となっている]。令和4年3月に発行された「[https://www.kyuukou.or.jp/materials/file/file-r04.04_report_3.pdf 給水用ポリエチレン管の経年劣化に関する調査検討報告書]」(給水工事技術振興財団)では、1998年以前の黒ポリについての耐用年数が公表された。またここでは樹脂の性能だけでなく、JIS K 6762 の肉厚設計が昔設定された厚肉管(SDRが小さい)事が寿命を縮める要因となっている事が指摘されている。1998年の樹脂変更の前後でも外観は同じ黒いポリエチレン管で見た目は変わらない。ただし性能が大きく異なるので注意が必要である。 **[[ポリ塩化ビニル]]管(VP管・HIVP管 排水用途はVU管・VP管) - 耐久性・加工性・経済性に優れる。[[耐候性]]・[[耐熱性]]には難があり、それぞれ特化した種類もあるが、金属管に劣る。耐震管材の区分ではない。(RRロング継手の塩ビ管も「耐震管材」ではない。従来、良い地盤においては「耐震適合性を有する」と言われたが、東日本大震災により被害が確認されたため、現在の検証結果では「地震動増幅が小さい地盤」において耐震適合性を有する、とされている。離脱防止継手付RRロング継手は、東日本大震災においても十分な検証データが得られなかった) **[[架橋ポリエチレン]]管 - ポリエチレン管と比べ耐薬品性・耐熱性が高い。宅内の給水・給湯に用いる。「さや管ヘッダー方式」で新設すれば、管材の交換・更新が容易となる。保温材[[被覆]]されているものを一般的に用いる。 **[[ポリブテン]]管<ref>[http://www.j-p-b-p-a.com/contents01/contents_frm01_03.html ポリブテン管の特徴と用途] ポリブテンパイプ工業会</ref> - 架橋ポリエチレン管に近い特性を持つ。 **強化プラスチック複合管(FRPM) - [[FRP]]を主原料とした管で、後述の[[石綿セメント管]]の後継として開発された経緯を持つ為、製造法・耐薬品性などで類似した特性を持つが、経年劣化に対する耐性は大幅に向上している。 *[[コンクリート]]管 **[[ヒューム管]] - [[鉄筋コンクリート]]を使用した水道管。 **[[石綿]]セメント管 - [[アスベスト]]とセメントを配合した水道管。経年劣化により脆くなるという欠陥から[[昭和40年代]]には公共工事では新規の敷設が行われなくなり、後に[[平成10年代]]に大規模な[[アスベスト問題]]が発覚する一因ともなった。 ===鉛管の人体への影響=== 鉛管は鉛が水中に溶け出し、摂取者が[[鉛中毒]]に罹患する危険があるため、現在新規には使われない。 鉛管は取替が進められているが、費用の問題などで工事が進まず、宅内配管ではいまだ使われている場合が多い。なお、未だ鉛管を使っている場合は、朝最初に蛇口をひねった場合は最初にある程度水を流して、水道管内に蓄積した溶出した鉛を出すことが推奨されている。現時点において、鉛管による健康被害は確認されていない。 [[古代ローマ帝国]]では鉛管を使用していたが、これを帝国滅亡の原因とする説が一部に存在した。ただし古代ローマの水道管には蛇口が存在せず(工事の際の止水栓はある)、水は常時流されていたので、現代よりもむしろ溶出した鉛を摂取する危険は小さく、[[俗説]]扱いされている。<ref>[http://www.fitc.pref.fukuoka.jp/kenkyu/report/h9/p108-111.htm 古代ローマの水道] チューリヒ大学ポスドク研究員 藤井 崇</ref> ===土壌に浸透した環境基準値を超える有機溶剤の影響について=== ガソリンスタンド近傍や化学工場の周辺、跡地などで、万が一埋設管周辺に有機溶剤が漏れ出した場合、水道管に悪影響が及ぶ場合がある。原則としては環境基準を超える土壌汚染の場合には土を入れ替えるのが法的な処置であるため、汚染発見までの一時的な状態への対応の検討となる。 *鋳鉄管、鋼管 - ダクタイル鋳鉄管や鋼管は管本体の溶剤による影響は無いと言える。ただし接続部のゴム輪、パッキン類の「ゴム」は有機溶剤によって侵され膨潤、破損する場合も想定されるので必要に応じて受口部を溶剤浸透防止フィルム処理などの処置を検討する必要がある。 *硬質塩化ビニル管 - 有機溶剤によって侵される性質がある。浸透防止フィルムでは少量の侵入に対しても材料が侵される可能性もあるため、溶剤浸透の可能性のある場所での敷設には注意が必要。 *ポリエチレン1種二層管 - 有機溶剤には侵されないが、環境基準を超えるような高濃度の溶剤に浸る場合には溶剤浸透防止フィルムなどによる措置が有効である。浸透による水道水へのによる「におい」付着の事故例がある。 *水道配水用ポリエチレン管 - 有機溶剤には侵されないが、環境基準を超える高濃度の溶剤に浸る場合には溶剤浸透防止フィルムなどによる措置が有効である。1種二層管に比べると高密度であり浸透度合いは小さく、日本水道協会規格の審議資料の中でも、溶剤濃度が環境基準以下であれば敷設に問題ない事が明記されている。水道給水用ポリエチレン管についても同材質のため同様。 == 耐震管・耐震適合管 == [[水道事業ガイドライン]](日本水道協会)において、「管路の耐震化率」=(耐震管延長/管路総延長)×100 である。 変数の定義として、「耐震管路延長」は、導・送・配水管における、 *離脱防止機能付き継手を有するダクタイル鋳鉄管 *鋼管(溶接継手) *水道配水用ポリエチレン管(高密度, 熱融着継手) の総延長 とされている。 管路の耐震性能については、[[阪神・淡路大震災]]の被害状況を踏まえて、「水道施設耐震工法指針」で定めるレベル2の地震動を前提に定めている。 耐震管の定義は、地盤条件によらず、レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管種である。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」<ref name="houkoku1">[https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/taisinkahoukokusyo6_27.pdf 管路の耐震化に関する検討報告書2014.6] 平成25年度管路の耐震化に関する検討会(厚生労働省他)</ref>では、東日本大震災においても、これらの「耐震管」は地震動における事故が無かった事が報告されている。 また、「耐震適合率」は、レベル2地震動において「地盤条件によっては耐震性を有する」管種を含めた耐震性能を表したものであり、前記の「耐震管」に加え、 *ダクタイル鋳鉄管(K形継手) *硬質塩化ビニル管RRロング ※ただし「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」においても、検証にはいまだ時間を要する管種とされている。 の延長を加えたもので算定する。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、どちらの管種も「液状化可能性ありの地区を除き耐震適合性あり」となっている。 == 水道管(導送水管・配水管)の更新と耐震化 == 水道管は現在、更新布設替え時代に突入しており、各水道事業者では、耐震性に富み、長寿命な配管へのリニューアルを進めている。 [[ダクタイル鋳鉄管]]は100年という寿命を目指した製品を市場投入している<ref>[http://www.jdpa.gr.jp/q_bosyoku.htm#13 GX形ダクタイル鉄管はどうして長期耐久性が期待できるのでしょうか?][[日本ダクタイル鉄管協会]]</ref>。高い耐震性と、従来品より外塗装が長持ちする特性等により、採用が進んでいる。一方、ポリエチレン管(ISO規格のPE100仕様)は欧州で100年以上問題なく使えると言われており、埋設管の場合、物性的にも100年以上十分に使用できる。検証については配水用ポリエチレンパイプシステム協会より検証結果が公表されている。「100年で更新」の管材という内容ではなく、諸条件下において100年経過した状態でも十分に性能を維持しているという検証内容になっている(それ以上の使用も実用可能と読み取れる)<ref>[http://politec.gr.jp/technical 100年寿命の検証] 配水用ポリエチレンパイプシステム協会(通称POLITEC)</ref>。このようにダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管ともに耐震性に優れたこれらの管種による布設替えが進んでいる。基幹管路では大口径での経済性を備えたダクタイル鋳鉄管(耐震管)が主で、配水支管では経済性と耐震性に優れたポリエチレン管の採用が急激に伸びている。(※東日本大震災で耐震実績が検証された事も要因として挙げられる) また、東日本大震災・熊本地震・大阪府北部地震を経て、さらに管路の耐震化への流れは強まっている。耐震管材の定義は、「水道事業ガイドライン」によると前述の通り、1.離脱防止機能付継手のダクタイル鋳鉄管、2.溶接継手の鋼管、3.水道配水用ポリエチレン管(高密度、融着継手)とされている。また、K形継手のダクタイル鋳鉄管は、岩盤・洪積層などの良い地盤において低い被害率を示していることから、基幹管路が備えるべきレベル2地震動に対する耐震性能を満たすものとされており、各水道事業者の判断により「耐震適合管」として採用することが可能であるとなっていた。これは東日本大震災前、平成18年の検討会において検討されたもの<ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/hourei/suidouhou/tuuchi/dl/08.pdf 平成18年度 管路の耐震化に関する検討会報告書]管路の耐震化に関する検討会</ref> であり、現在は東日本大震災の経験によるデータ(悪い地盤での耐震適合性が低い検証結果となった)を基に、新たな判断基準となっている。<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000027424.html 管路の耐震化に関する検討会]厚生労働省 管路の耐震化に関する検討会</ref>。熊本地震においても、K形の事故は幾つか確認されている模様である。しかし、「平成28年(2016年)熊本地震水道施設被害等現地調査団報告書」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/houkoku/suidou/140421-1.html 平成28年(2016年)熊本地震水道施設被害等現地調査団報告書] 熊本地震水道施設被害等現地調査団 H29.3</ref>では、ダクタイル鋳鉄管、ポリエチレン管のそれぞれについて「耐震管」と「その他」区分による区別しか行っていなかった。今回、耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管に事故はなく、溶接鋼管の一部に事故が見られた事が報告されている。ただし、一般に耐震性の達成度で多く用いられる「耐震適合管」(良い地盤における耐震性を有する、ダクタイル鋳鉄管K形、塩化ビニル管 RR継手)については、耐震適合外とまとめられており、K形の事故事例などは写真付きで紹介されたものの、被害状況の数値は明示されなかった。また、熊本地震発生後に大きく報道された一部の耐震管で発生した事故事例(施工責)については、今回の報告書の中では報告されなかった。 [[厚生労働省]]が平成25年3月に策定した「新水道ビジョン」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/topics/bukyoku/kenkou/suido/newvision/newvision/newvision-all.pdf 新水道ビジョン]厚生労働省健康局</ref>では、「耐震化の一層の推進が急務」とされており、基幹管路を優先しつつも、将来すべての管路が耐震化されることをビジョンとして掲げている。50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。危機管理対策項目の中、「施設耐震化対策」では、「耐震化対策には、優先的に実施する必要性の高いものを10年程度で実施し、次に断水エリア、断水日数の影響が大きい施設・管路を優先して耐震化を推進し、最終的には耐震化が必要な施設の全てをクリアすることで、50年から100年先には水道施設全体が完全に耐震化できているよう、水道事業の耐震化計画策定に盛り込むことが求められます。」としている。 水道運営が財政的に厳しい現実の側面からは、「施設の全てを耐震化するには長期間を要する場合もありますが、給水区域内の重要な給水施設への給水ライン(管路)の優先的な着手により、早期の耐震化を図るなど、施設の必要性に応じた適切な対応が必要です。」としている。 また、「強靱の観点からみた水道の理想像」として以下に示す状況が実現していることが理想であるとしている。(抜粋) *基幹管路以外の管路や給水管についても、適切な材質や仕様が採用され耐震性が向上している。 *水道管路が適切に更新されていることにより、配水管などの損傷がほとんど発生せず、断水や濁水が発生しない水道が構築されている。 == 水道管種(導送水管・配水管)選定について == 現在、各事業体は従来の「耐震適合性」を基に(「耐震化率(A,B)」などで耐震化状況が公表<ref>[http://www.jwrc-net.or.jp/hotnews/pdf/HotNews437.pdf 水道ホットニュース] 水道技術研究センター</ref>されている)この数値「上昇」により耐震化の進捗が判断できるようになっている。そのため、耐震適合性の判断基準は事業体の耐震度に大きく影響を与えることになる。H19.3「管路の耐震化に関する検討会」で管路の満たすべき基準を定めているが、中には耐震性能を判断する被災経験がないことから、明確な評価が出来ていない管路・管種があった。H25.10管路の耐震化に関する検討会の設置は、その後、東日本大震災等の大規模地震が発生し「被災状況が明確となった」ことから、改めて管路・管種の耐震評価をする必要があるとの判断から検討を行ったものである。ただし、「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」<ref name="houkoku1" />では、審議の結果、さらに調査・検討が必要であることが明らかとなり、管路の再評価までは行わず、管種・継手別の管路被害率・管路延長の算出に留めて、地震被害が多いレベル2地震相当地域を中心に被害状況分析を報告書としてまとめた。被害状況分析は、厚生労働省による「水道事業における耐震化の状況」において分類上「耐震管」に区分されているダクタイル鋳鉄管(NS形継手等)、鋼管(溶接継手)、配水用ポリエチレン管(融着継手)とそれ以外の管種・継手に分けて行っている。報告書によれば、少なくとも前記「耐震管」に関しては、鋼管(溶接継手)の腐食、過去の溶接技術の不十分さに起因するものを除くと、管路被害は基本的に生じておらず、管路被害率は0.000箇所/kmとなっている。ゆえに、耐震管路の既定管種に関しては初期の目的であった、従来の耐震管定義における実際の震災地区での検証はされたといえる。このあたりの分析は、最終稿前の「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」<ref>{{Cite web|和書|title=■3-2 管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014030 第3回.pdf |url=https://drive.google.com/file/d/17S5sjjPpOFNhJZJ5yuE-_2dXv8G8mgKM/view?usp=sharing&usp=embed_facebook |website=Google Docs |access-date=2022-08-17}}</ref>において詳細に評価案が記されている。それ以外の管種についても以下のような評価案がまとめられており、今後、事業体の取組判断の参考になると思われる。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」において「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」との大きな違いの1つに、「耐震管」の定義がある。従来の耐震管の基準については「レベル2地震動において、耐震性を有する管。」であったが、今回の報告書では *レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管。 *液状化等による地盤変対しても、上記と同等の耐震性能を有する管。 となっている。より具体的かつレベルの高い条件となったと言えるが、今後はこの条件に合った管種が新たな「耐震管」の既定となっていくもの思われる。いずれにせよ、今回の報告書に記載された内容から、「現行の耐震管の基準」(レベル2地震動において、耐震性を有する管)については、現在の耐震管に規定されているすべての管種が「管路の満たすべき基準を満たす」ことが立証された。一方で、従来の「耐震管」以外の管種については、より厳しいものとなったと言える。 今回の報告書に使用したデータはGISデータを有効活用したもの(東日本大震災により、水道施設被害が発生し査定を行った事業体は116事業体あるが、マッピングシステムが整備されていない等の理由から、本検討で対象とした水道事業体は16事業体に留まっている)であり、検証に十分なデータ数を有してはいるが、全体からすると限定されたデータによる検証となっている。東日本大震災において水道施設被害を受けた事業体の大部分を対象とした調査としては「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」<ref name="houkoku2">[https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/houkoku/suidou/130801-1.html 東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書H25.3] 厚生労働省健康局水道課</ref>がある。同調査では災害定資料等を基に管路被状況が調査され(管路の耐震化に関する検討報告書2014.6 P13)ており、各事業体においては前記の限定されたデータ以外にも東日本大震災の被災データを確認することが可能である。 また、本検討においては前記「液状化地帯での被害状況確認」が不十分であった。本検討においては、液状化に関する調査等の確認を、関東地方を調査対象とした「東北地方太平洋沖地震による関東地方の地盤液状化現象の実態解明報告書 平成23年8月」<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000043569.pdf 東北地方太平洋沖地震による関東地方の地盤液状化現象の実態解明報告書H23.8] 国土交通省関東地方整備局 公益社団法人地盤工学会</ref>のみにより検証している。この資料は関東地方のみを対象とし、調査範囲も限られており、これ以外にも調査はされているものの、精査中等の状況から現時点でデータを入手することは困難である、との注記を付け引用している。理由としては液状化地域において、従来の地盤区分では「耐震適合性あり」とされていたダクタイル鋳鉄管K形継手や塩化ビニル管RR継手等の被害が多く、耐震適合性の基準を再度整合する必要性が生じてた、という事もあり、液状化地帯での検証も「限定的なデータ」ではあるが掲載したものといえる。 このように、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」ではダクタイル鋳鉄管K形が盛土地区での被害率が著しく高かったため、「地震動幅が小さいエリアにおいて耐震適合性を有する」という記述に修正(18年度の検証に対して)されている。以上、東日本大震災での検証は結果としてダクタイル鋳鉄管K形、耐衝撃性硬質塩化ビニル管RRについては従来よりも「耐震適合性」の評価が下がった。今後は業務指標も改定され、地盤条件によっては「管路の耐震適合率」の値が、それ以前の基準で算定されたものよりも下がってしまう事となる。 「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、「管路の耐震化に向けて」「管路の耐震化に向けた必要な取り組み」で、「H18年度検討会の報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある」とされている。 また、新しい管種等についての見解として「管路の技術開発とその利用」では、「近年、高い耐震性能などを有する新たな管製品が供給されており、今後もこのような傾向は続くと想定される。耐震性能が高いと判断できる製品については水道事業者が導入の適否を適切に判断し採用することが望ましい。これにより水道管路の耐震化を効率的に進めることができるとともに、発生する地震などに対して管路の被害状況分析を行って耐震性能を評価し、その結果を広く共有することにより、我が国の水道全体として管路の耐震化を一層効率的かつ計画的に推進することができる」としている。(2014.3(案)と多少の記述の差がついている) H18年度検討会の報告書の中で耐震性評価が限定されていた「検証必要事項」については、今回の調査で十分な検証がされた(確認が取れた)ため、今後は新しく検討を要するとされた「液状化地区」における耐震性の検証が耐震管路全般に求められていくことになろう。特に配水支管に関しては、新水道ビジョンの理念に基づき、給水管も含めた水道施設全体としての耐震性の向上が望まれて来る。 [平成25年度管路の耐震化に関する検討会報告書で確認された事項のまとめ (対 18年度報告書)] #地盤区分について、レベル2地震動相当において、地震動幅が小さい地盤(良い地盤)と、大きい地盤(悪い地盤)の規定を新たにした。 #ダクタイル鋳鉄管(K形継手等)の耐震適合性は地震動増幅が大きい地盤での被害が確認された(盛土地区での被害率が高い)ため、H18年度検討会の報告書時点よりも厳しくなった。 #硬質塩化ビニル管(RRロング継手)の耐震適合性は1.同様、地震動増幅が大きい地盤での被害が確認されたため、H18年度検討会の報告書時点よりも厳しくなったといえる。 #硬質塩化ビニル管(RRロング継手)は継手離脱防止機能を付け耐震性能を高くする事ができると想定されるが、今回の調査対象管路ではデータを得ることが出来なかった。 #硬質塩化ビニル管(RR継手)、ダクタイル鋳鉄管(A形継手)の耐震適合性は、レベル1地震動に対しても地盤条件により被害を生じたため、H18年度検討会の報告書時点よりも厳しくなった。 #水道用ポリエチレン管(融着継手)は東日本大震災において被災がなかった。(被災経験が十分でない、とされたH18年度検討報告書における注釈については、限定された調査対象の中でも被災経験にもとづく耐震検証データを得た事が報告書(案)、議事録からも確認できる。最終報告書は評価までは行わず表は記載されていないが、検証はされており、H18年度の検証不足を見直せるデータが得られている) ---------------------------------------- (補足)以上のように、前回H19.3「管路の耐震化に関する検討会」における「評価」結果の見直しにおいて、今回H26.6「管路の耐震化に関する検討報告書」で「再評価」まで行わなかった最も大きな理由は、「耐震管」の定義を「液状化等による地盤変動」に対しても「レベル2地震動において、管路の破損や継手離脱等被害が軽微な管、と同等の耐震性能を有する」事を定義づけたためである。従って、管種によらず、新しい定義に基づく「評価」をしなかった、という事である。また、この「耐震管の定義」については、H27.3「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000071517.html 平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会資料 H27.3]水道の耐震化計画等策定指針検討会</ref>においても、同じ定義で取り扱いをされている。 ただし、仮にH19.3「管路の耐震化に関する検討会」までの定義で、前回と条件をそろえて「評価」をした場合、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」や、管路の耐震化に関する検討会 第2回検討会資料<ref>{{Cite web|和書|title=■2-8 管路の耐震化に関する検討会(第2回 検討会資料)20140205.pdf |url=https://drive.google.com/file/d/164Lj2sspo0HaVV4l-_LqzG_JCjvpRTEi/view?usp=sharing&usp=embed_facebook |website=Google Docs |access-date=2022-08-17}}</ref> P50において提示された「表」のとおりの結果であるといえる。また、今回の検討会の解説において「ポリエチレン管は液状化地域における検証データがほとんど無かった=耐震管として評価されなかった」との説明をされる場合があるが、これは間違った認識である。確かに、前記「限られた条件」のデータの中では、ポリエチレン管の敷設されていた距離が少なかった訳であるが、本文にも「このような状況から、液状化地区は広範囲に生じているものの、その全体を調査することは困難であるため、本検討では上記の国土交通省資料により関東地方において液状化が確認できた地区(液状化確認地区)のみを対象として分析するが、限定的なデータであることに注意する必要がある。」とある通り、本検討における液状化の検証データは、あくまで「例示」であるに過ぎない。本文の実績記載が少ない事を「部分的」に取り上げ曲解する話をしてはならない。こうした説明は日本水道協会の見解ではない事にも注意を要したい。本検討の参照する液状化地域の限定的なデータにおいて、耐震管に区分されているダクタイル鋳鉄管の事例は適度に記載されており、本管における耐震性の妥当性は示されていると言える。今後は本管のみならず、サドル分岐、給水管を含めた管路システムとして、液状化地域における耐震性を検証していく事も重要な課題となる。誤解されやすい部分を整理すると、以下の通りである。 *「ポリエチレン管(高密度・融着継手)」は従来より水道ビジョンや水道事業ガイドラインにおいて「耐震管」と定義されている *H26.6「管路の耐震化に関する検討報告書」では全管種において再評価までは行わなかった。ただし東日本大震災による被災状況の十分な「検証」データを明示し、3種類の耐震管は地震動による事故が無かったことを示した。 *液状化等による地盤変動に対する耐震性の検証が今後必要となるものの、今回は「限られた条件」のデータではあるが、耐震管には事故が無かった事が報告書に記載された。 ※ポリエチレン管の液状化地域におけるデータは水団連ホームページにて公開されている「管路の耐震化に関する検討会」平成25年度 第2回の資料6<ref>{{Cite web|和書|title=2-6 配水用ポリエチレンパイプシステム協会説明用資料.pdf |url=https://drive.google.com/file/d/1AYoVvMb1n6P-hmq7vQH3DetQgxWKMBK6/view?usp=sharing&usp=embed_facebook |website=Google Docs |access-date=2022-08-18}}</ref>にて確認ができる。東日本大震災における調査対象事業体5県69か所の調査対象事業体(総延長995.7km)において地震動によるポリエチレン管の被害はなく、液状化に関しては中越地震時に柏崎市で被災した事例として2.6kmの敷設延長に被害が無かった報告となっている(POLITEC)。また、ダクタイル鋳鉄管(NS形など)においても<ref>{{Cite web|和書|title=2-4 ダクタイル鉄管協会説明用資料.pdf |url=https://drive.google.com/file/d/1yRmg3oazQmRuL0HySxp0CT2TngQBke7x/view?usp=sharing&usp=embed_facebook |website=Google Docs |access-date=2022-08-18}}</ref>にて浦安市の液状化エリアで被害が無かった(約27km)事が報告されている。 [水道耐震工法指針・解説 2022年版] 改定された水道耐震工法指針・解説 2022年版において、水道配水用ポリエチレン管は「設計事例編」での参考扱いから、一般扱いとなり正式な事例紹介となっている(CD版データのみ)。耐震管に区分されている3管種共に説明がリニューアルされた。 ここで、Ⅱ参考資料編「管路」の「4)管種・継手ごとの耐震適合性」において、「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」における管種・継手ごとの耐震適合性を参考にできる(表-参2-1.9)、と紹介されているが、この表は、前記「管路の耐震化に関する検討報告書(平成26年6月)」<ref name="houkoku1" /> P11~12を確認するとすぐにわかるが、平成18年度検討会報告書より整理されたものを「引用」した部分となる。すなわち平成25年の検討会においてはこの表で検証が必要であると指摘されたデータを集めて報告書にしたものであり、P63には「本検討では、東日本大震災における管路の被害状況分析を行った。水道事業者等においては、平成18年度検討会報告書における管路の耐震性評価に加え、本検討結果を参考にして、今後、管路の耐震化を推進する必要がある。」と記載されており、表-参2-1.9 の検証不足分を補ったデータを考慮することが肝要である。このデータは前述の通り、水道配水用ポリエチレン管の東日本震災による被災経験に基づく被災経験(被害なし)などが示されている。平成18年度検討会報告書で「被災経験が十分でないことから、十分に耐震性が検証され目には、なお時間を要する」と注記されている表のみが掲載されているが、この部分については検証され「耐震性を有する」と判断できる材料が示されている。 [https://www.city.osaka.lg.jp/suido/page/0000563630.html 大阪市の水道局経営戦略(2018-2027)【改訂版】]における[https://www.city.osaka.lg.jp/templates/jorei_kohyo/cmsfiles/contents/0000563/563428/kangaekata.pdf パブリックコメントの回答]に「水道配水用ポリエチレン管につきましては、耐震工法指針において、実績面から耐震性が完全に検証されていないことや…」という記載などが公表されているが、ここに書かれている実績不足は平成18年度の検討会段階のものであるといえる。 == アセットマネジメントの実施を推進(厚生労働省) == 「新水道ビジョン」では、50年後、100年後の将来を見据え、水道の理想像を明示している。水道におけるアセットマネジメントについて、厚生労働省では、平成21年7月に「水道事業におけるアセットマネジメント(資産管理)に関する手引き」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/za/0723/c02/c02-01.html 「水道事業におけるアセットマネジメント(資産管理)に関する手引き」について]厚生労働省健康局水道課</ref>を公表し、全国の水道事業者等にアセットマネジメントの実践を促している。令和元年の全国水道関係担当者会議資料(資料編)2020.3<ref>[https://www.mhlw.go.jp/content/000607019.pdf 全国水道関係担当者会議資料(資料編)2020.3月] 厚生労働省</ref>には「全国の水道施設の更新費・修繕費の試算結果」の中で近々からの更新費増加、平準化をシミュレーションしており、アセットマネジメント後の予算化実施を事業体に示唆している。この時点では40年スパンの最初20年に約2000億円の「予算の前倒し計上」を乗せ、20年後からは毎年更なる増額をするシミュレーションとなっていたが、2021年3月の同資料以降は約5000億円の「予算の前倒し計上」としほぼ40年間「平準化」予算となるシミュレーションに変更されている。2022年3月の同資料では前倒しを一括するのではなく更新率を段階的に上げるパターンをいくつか紹介しながら検討例を示すようになっている。 また、「新水道ビジョン」においては、当面の目標点の1つとして、全ての水道事業者が資産管理(アセットマネジメント)を実施し、将来の更新計画や財政収支を明らかにすることとしている。 中長期的財政収支に基づき施設の更新等を計画的に実行し、持続可能な水道を実現していくためには、各水道事業者等において、長期的な視点に立ち水道施設のライフサイクル全体にわたって効率的かつ効果的に水道施設を管理運営することが必要不可欠であり、これらを組織的に実践する活動がアセットマネジメント(資産管理)である。 厚生労働省は、「水道施設の計画的な更新等について(法第22条の4、施行規則第17条の4)」水道施設 の計画的な更新に努め、厚生労働省令で定めるところにより、水道施設の更新に要する費用を含 むその事業に係る収支の見通しを作成し、これを公表するよう指導をしており、その推進として、アセットマネジメントの実施率の引き上げとともに、精度の低い簡略型から精度の高い型への移行 が必要としている。全国水道関係担当者会議資料(令和2年3月)[https://www.mhlw.go.jp/content/000645603.pdf の]内容によれば、アセットマネジメント結果の公表率は約19%であり、水道法改正を踏まえ、公表率の引き上げが必要としている。 *厚生労働省では「アセットマネジメント「簡易支援ツール」」<ref>[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/topics/bukyoku/kenkou/suido/am/tool.html アセットマネジメント「簡易支援ツール」]厚生労働省健康局</ref>を提供し、こうした取組を支援している。※2020年度に[https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/topics/bukyoku/kenkou/suido/am/tool_001.html リニューアル更新] *水道事業のアセットマネジメント記事(北海道石狩市)<ref>[http://www.jamp.gr.jp/academia/pdf/114/114_07.pdf 水道事業のアセットマネジメント記事(北海道石狩市)] アカデミア 平成27年夏号</ref>では、アセットマネジメントの視点に立った事業体(北海道石狩市)における、管路のベストミックス取組の手法が、一例として紹介されている。 ※アセットマネジメント「簡易支援ツール」'では「管路の更新基準の設定の一案の考え方」が示されており、管種ごとに「実使用年数の数値例」が記載されている。 [以下、2020年3月までのものについての記載] ただしここでは、"客観的な正しい数値が示されているわけでは無い"ので特に注意が必要である。文中にも「一案である」とされている通り「標準的な更新基準を示しているものではない」事を念頭に、各事業者にて更新基準を設定した上で実施する必要がある。各管種の協会資料やメーカー技術資料などを参考に各々設定をし、「実使用年数の設定例」に記載の数値のままで検討を行わないよう、注意をして運用したい。特に「ダクタイル鋳鉄管 耐震継手を有する」については旧来のNS形(1種、3種)、薄肉のNS形E種、外面耐食仕様のGX形(1種、S種)など肉厚や塗装種類、ポリエチレンスリーブの有無などにより様々な品種があり、区分けをする必要があるにもかかわらず「耐震継手を有する」の欄で一括りにされている。アセットマネジメントを実施するコンサルタント、事業者においては管種の特性により実耐用年数の設定を設定する必要がある。(政令指定都市では東京都、大阪市、横浜市、(鋳鉄管の設定値)、新潟市(ダクタイル鋳鉄管、配水用ポリエチレン管の設定値)、のように独自の検証に基づいて実耐用年数の設定を行っている事業体がある一方、大規模事業体においてもこの「簡易支援ツールの数値」をそのまま使用しアセットマネジメントを行われている場合も散見される。注意をしたいところである。) [2020年4月 バージョンup] 2020年度にはツールが見直しされ、上記の注意事項についても改善されている。主に操作性が改善されており、マクロや関数で必要となるパラメータ(設定値)を「初期設定」シートで一元管理出来るようになり、使い勝手が大幅に向上している。内容についても、企業債(新債)発行額と水道料金に改定率の自動算出処理ができるようになっているほか、「水道管」については更新基準についての設定例について参考資料が大幅に改新されている。 参考資料 更新基準の設定事[https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000617077.pdf 例]について、老朽化する既設管路については全国の事業体の設定例を2例示し、今後の更新に使用する管種については「耐震管」に区分されている3管種について、第三者の評価が得られている管材の耐用年数等関連情報として例示されている。前回までの設定例では耐震管に区分されるダクタイル鋳鉄管の参考値として80年が示されていたが、管厚、塗装などの違いが混在しており、今回の資料は耐久性について業界団体からきちんとしたデータが示されているGX形のみが、耐用年数の参考値として掲載されている。この表によれば、小口径から大口径までの耐震管に区分される新設管(ダクタイル鋳鉄管GX形管、長寿命形水道鋼管、水道配水用ポリエチレン管)については、アセットマネジメントにおける更新基準の設定値は、一律で100年を設定値として参考使用することができる。以前の設定例に比べると根拠が明確になっており、事業体として参考としやすいものになった。もちろん、「あくまでも設定例ですので目安と考え、水道事業者等の実情(施設の重要度、 劣化状況、維持管理状況、管路の布設環境等)を踏まえた設定を心がけてください。」とあるように、事業体ごとの判断により運用をすることが必要である。 ※ 簡易支援ツールマニュアルはHPの直リンクでは「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.2.1」となっているが、資料の一括ダウンロードファイル内では「簡易支援ツールを使用したアセットマネジメントの実施マニュアル Ver.3.0」になっている。(どちらもほぼ同じ内容でVer.2.0からは大きく変更されている) == 給水装置の耐震化・長寿命化 (給水管・給水システムの耐震化・長寿命化) == 基幹管路に於いては、ダクタイル鋳鉄管(NS形、GX形)、配水用ポリエチレン管(融着継手)、溶接鋼管など「耐震管」に定義される管種により更新、耐震化が進みつつあるが、現状、給水管路では大地震の毎に大きな被害が発生している。しかし、その耐震化と具体策に関しては、東日本大震災後までは、あまり言及されて来なかった。 給水管で現状使用されている、塩ビ管(TS継手)、鉛管、ポリエチレン二層管(冷間継手)は、ともに配水管分野では、H18年度検討会の報告書および、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」で「耐震適合性はなし」と評価されている。給水分野で一部採用されている管種としては、水道用高密度ポリエチレン管-融着継手-(青ポリ)のみが「耐震管」の扱いである。東京都など大都市部で採用されている給水用のステンレス管についても東京都の資料では漏水の改善が確認されており(従来管種との比較)、耐震適合性にも優れていると言われているが、耐震管である「溶接鋼管」ではない。※ステンレス鋼管の継手はプレス継手などの耐震性のないものもあり、伸縮継手も抜け止め構造ではない。また、本報告書において、あまり詳しい記載はない(データは一部は鋼管に含まれている)。 H18年度検討会の報告書では、比較的新しい管種についての扱いに苦慮しており、「被災経験が十分ではないことから、十分に耐震性能が検証されるには未だ時間を要すると考えられる」等の付記を付けられるケースがあった(前回の検証でのポリエチレン管(融着継手)の場合)が、 *東日本大震災の被災地においては「各水道事業者の判断により」採用されていたポリエチレン管(融着継手)の採用地区における被災事例が多数出来、今回の震災において事故が発生していない。 *新水道ビジョンやH25年度の報告書「管路の技術開発とその利用」においては、前記の通り「高い耐震性能などを有する新たな管製品」の採用検討を促している。 また厚生労働省では、「平成26年度 水道の耐震化計画等策定指針検討会」で、新水道ビジョン・平成25年度管路の耐震化に関する検討報告書を踏まえ、水道の耐震化計画等策定指針の改定作業を進め、「水道の耐震化計画等策定指針」(H27.6)<ref>[https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000089462.pdf 水道の耐震化計画等策定指針 H27.6] 厚生労働省健康局水道課</ref>を策定した。 この中で給水装置の耐震化に関しては、旧指針(平成20年発行)と比べ大幅な記載事項の修正が行われている。新指針では配水本管と同様の表記で「管種、継手の耐震化」について記載しており、 *「耐震性の低い管種・継手」を耐震性の高いものに更新する * 公道下等の給水装置は配水管更新工事に合わせて、耐震性の高いものに更新する(解説文中) ことについて検討する、としている。 過去の大地震において給水装置は毎回多くの被災が確認されており、公益財団法人給水工事技術振興財団より「東日本大震災水道施設被害状況調最終報告書 平成25年3月」<ref name="houkoku2" />および、「熊本地震 給水装置被害状況調査報告書 平成30年8月」<ref>[http://www.kyuukou.or.jp/materials/file/file-h30.08_kumamoto_report_v2.pdf 熊本地震 給水装置被害状況調査報告書 H30.8] 給水工事技術振興財団</ref>では、塩ビ管(TS継手)、鉛管、古いタイプの低密度ポリエチレン一層管(黒ポリ)、低密度ポリエチレン二層管の冷間継手部位などに多くの被害が報告されている。また、黒ポリには年代毎に色々な改良を経ているが同じ「黒色」のために被災時に新旧見分けがつきにくい事を問題視している。 サドル分水栓の被害も極めて高く、構造上の問題と材料の劣化(腐食)が事故の主な要因として指摘されており、地震時には腐食した部位に応力が集中することで破損が発生しやすいとしている。また、サドル分水栓部は「配水管」の耐震性能に因らず単体として事故が発生している。本管がたとえ耐震管であっても「分岐部」を含めた給水管路まで安心とは言えない。 熊本地震のエリアでは、東日本大震災の調査結果と比較すると、給水管部の鋼管と水道メーター部の被害の増加、塩ビ管の被害件数の減少(塩ビ管の使用割合が低いため)が挙げられている。これについては2021年3月、「埋設給水用ポリエチレン管の経時変化と健全性評価に関する検討報告書について」[https://www.kyuukou.or.jp/materials/file/file-r03.03_report_1.pdf]が同財団から刊行されている。ここでは熊本市の給水管堀上試験結果から、漏水した管が破損した原因は、下記の2点の複合要因によるものとの推定されている。 : ①製造時点の樹脂長期性能及び管設計により、使用限界に近い管が存在すること。 : ②埋設環境により使用限界を早める影響があること。 さらにこのことを踏まえ、「今回提供された供試体を試験した結果によれば、経年給水PE管の更新対象としては、PE管の長期性能規定をJISで定めた1998年より以前の規格で生産された製品とすることが望ましいと考えられました。」とし、1998年以前のPE材料を使用した管路については更新を促すとともに、今回の結果の精度を上げるための追加研究を行うとし、継続した調査研究を続ける意向とみられる。 また、塩化ビニル管に比べて、新しいタイプの低密度ポリエチレン二層管の比率が高く、この二層管にも被害(17件)が確認されており、管体破損被害(14件)も確認された事から、被害原因の究明を求めている。 塩ビ管の被害では、材料劣化による被害は発生しておらず、TS継手の接続における「施工の確実性が確認できない」ものと、「地震動に追従できなかった」もの、特にエルボなどの異形管部に集中する応力とひずみに対し、塩ビ管の可撓性不足が被害原因とされている。 厚生労働省による「重要給水施設管路の耐震化計画策定の手引」(H29.5)<ref>[https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000166060.pdf 重要給水施設管路の耐震化計画策定の手引 H29.5] 厚生労働省</ref>では、重要給水装置における給水装置などについて、この水道の耐震化計画等策定指針に従って耐震化計画を策定するものとしている。 また、給水工事技術振興財団からH28年度に発行された「東日本大震災給水装置被害状況調査報告書」<ref>[http://www.kyuukou.or.jp/books/houkoku-gejeq.html 東日本大震災給水装置被害状況調査報告書 H28] 給水工事技術振興財団</ref>によれば、東日本震災での事故の多くは硬質塩化ビニル管のTS接合方式のものであるとされている。こちらは前述した水道の耐震化計画等策定指針の改定においても既に更新対象とされている。 次にサドル分岐部の事故について、それぞれの報告書では次のように報告されている。 *ボルトをはじめとする本体部の破損と給水管接続部の被害を報告。(東日本大震災) *金属部の腐食が事故原因の多くを占め、サドル分水栓本体の損壊は、この部分に応力と歪みが集中し被害につながった。 これに対し、「求められる性能」として次のような提言がなされている。 *材料劣化対策としては、ボルトをはじめ本体腐食対策が重要 (東日本大震災) *サドル分水栓を新たに使用する際には耐久性の高い構造・材質を選択する事が重要 また、地震対策としては、 * 配水管とサドル分水栓の接合部のずれ防止対策 (熊本地震) *地震動に追従出来る柔軟な管材の採用 *給水管接合部の可撓性の向上が重要 としている。 こうした報告内容をふまえ、給水装置の耐震性向上と望ましい維持管理として、次のようにまとめられている。 水道事業者におかれては、先回の東日本大震災の被害調査結果および今回の熊本地震の被害調査結果を踏まえ、長期寿命、高耐震性、施工の確実性、経済性発揮の観点から適切な構造・材質を選択し、また、新たな技術開発を積極的に評価し、耐震性の向上と漏水事故の縮減、有収率の向上を目指していただきたいと考える。 [http://politec.gr.jp/ad/wordpress/wp-content/uploads/2019/04/水道配水用ポリエチレン管の耐震設計の手引き概要版_Web用.pdf 「水道配水用ポリエチレン管の耐震設計の手引き」H30.8]ではレベル2地震動に対する配水用ポリエチレン管の高い耐震性を報告しているほか、異形管や給水分岐も含めた管路全体の耐震性を検証している。特に、十分に耐震性が現地検証されつつも、強靭性のある管種(ダクタイル鋳鉄管)と可とう性のある管種(配水用ポリエチレン管)という「全く異なる」特性により地震に耐える事が示されているパイプラインの挙動をそれぞれに解析している。配水用ポリエチレン管の場合、地盤変状時において、地盤と境界での「すべり」が発生しない(地震時の地盤のひずみを直管部で受け持つ)事により、異形管や付帯設備への応力集中が軽減し、管路全体として耐震性を有するに至る事が報告されている。 また、下記【参考】のガス分野においては宅地内までの一体管路構造が地震、「液状化に対する設備対策として有効である」ことが確認、報告されている。 このように、今後は本管の耐震性だけではなく、給水管やサドル分水栓も含めた給水装置システム全体の「耐震性向上」と「さらなる長寿命化」が望まれる時代になってくる。水道での参考事例は、埼玉県、坂戸、鶴ヶ島水道企業団の広報に紹介されているような事例がある。<ref>[https://www.sakatsuru-suido.or.jp/koho/pdf/mizudayori_12.pdf 給水管路の耐震化] 埼玉県、坂戸、鶴ヶ島水道企業団 さかつる水だより第12号</ref> [水道耐震工法指針・解説 2022年版] 改定された[http://www.jwwa.or.jp/syuppan/pdf/shinkan_202206.pdf 水道耐震工法指針・解説 2022年版]において、参考資料編に「給水装置の耐震化・長寿命化」に関する最新情報が掲載されている。給水工事技術振興財団の各種資料からまとめられている。 ------------------------------------------ 【参考】ガス管の場合(給水装置耐震化の参考となる前例) 「東日本大震災を踏まえた都市ガス供給の災害対策検討報告書 H24.3」<ref>[http://www.meti.go.jp/committee/sougouenergy/toshinetsu/saigai_taisaku_wg/report_001_02.pdf 東日本大震災を踏まえた都市ガス供給の災害対策検討報告書 H24.3] 総合資源エネルギー調査会都市熱エネルギー部会ガス安全小委員会災害対策ワーキンググループ</ref>によれば、都市ガスの管路においても、阪神・淡路大震災以降、耐震化が進んでおり、東日本大震災においてはその「管路の耐震化促進等」の設備投資効果により過去の地震被害と比較して「相当程度」被害率が低くなっていることが報告されている。一方で、東日本大震災の「液状化地区」では、中低圧ガス導管耐震設計指針に規定する標準設計地盤変位の5cmを超える大きな地盤変位が生じたものと推測され、耐震性の高い機械的接合・抜け出し防止有りの継手に相当数の被害が生じた。「従って、今後、液状化による著しい地盤変位が生じる可能性の高い地区に導管を新設する際には、継手部において耐震性の高いPE管および溶接鋼管を使用することが液状化に対する設備対策として有効である。」との記載がある。ガス用管材において、水道における給水管に相当する「供給管」は、サドル分岐を含めポリエチレン管による一体化構造による耐震化を行っており、一体構造のPE管および溶接鋼管は、阪神・淡路大震災以降の震災において、製品起因による被災は発生していない。 因みに、本報告書における東日本大震災において、供給区域内に震度5弱以上の震度を記録した事業者の低圧ガス導管(本支管)の総延長は約83,000kmであるが、地震による被害は773箇所であった。また、供内管本支管の被害において、液状化を除く地震による被害は670箇所であり、このうち、地盤変状によるものが45箇所、斜面崩壊によるものが7箇所であった。液状化の被害は103箇所であった。PE管および溶接鋼管は、製品起因による被災は発生していない。また、熊本地震でも「平成 28 年熊本地震を踏まえた都市ガス供給の地震対策検討報告 H29.3」<ref>[https://www.meti.go.jp/committee/sankoushin/hoan/gas_anzen/pdf/report_02_01.pdf 平成 28 年熊本地震を踏まえた都市ガス供給の地震対策検討報告 H29.3]</ref>にて同様の報告がなされている。 == 耐震化促進への提言 == 水道ビジョン推進のためのロードマップ(案)<ref>[http://www.suidanren.or.jp/action/pdf/new_vision-cnf-3-5_140328.pdf 水道ビジョン推進のためのロードマップ(案)] 新水道ビジョン推進協議会</ref>によれば、今後は「耐震設計の手引き」策定の後、水道施設の耐震化に関する検討、耐震化計画策定指針の改定を2014年度中に行い、「水道事業ガイドライン(JWWAQ100)-日水協-」の改正を2015年度末までに行う事で「新水道ビジョン」との整合性を図るとのことであった。耐震化計画策定指針については2015年6月に改訂<ref>[https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000089462.pdf 水道の耐震化計画等策定指針 2015.6]</ref>されており、水道事業ガイドラインは2016年度に改訂<ref>[http://www.jwwa.or.jp/upfile/upload_file_20160308001.pdf 水道事業ガイドラインの改定 2016]</ref>された。 また、「管路の耐震化に関する検討報告書(案)2014.3」において、管路の耐震化に向けて(提言)として、以下のように記載されている。 管路の耐震化(更新・新規整備)の計画策定にあたっては、管路の耐震性能結果に基づき、基幹管路の耐震化を基本的に優先して、管路更新の優先順位の設定などを行う。また実施にあたっては、基幹管路は耐震管を用いて更新・新規整備する事が適当である。配水支管も耐震管を用いることを基本とするが、耐震適合管の使用を含め、水道事業者等の総合的な判断により使用する管種・継手を選定する。 本文は「管路の耐震化に関する検討報告書2014.6」では、管路の再評価まで行わなかったため本記述がみられないが、こうした考え方は各事業体における判断の参考にできる。 == 津波や濁流(大雨など)による被害 == {{複数の問題}} 水道施設に関しては、昨今の大地震における「地震動」での振動、地盤変状、液状化などによる被害に対して「耐震化」を進めている。水道管に関しては厚生労働省により「耐震管」や「耐震適合管」が規定され、耐震化に向けた取り組みの可視化にも努めている。こうした「地震」による被災のほかの天災として、地震の二次的な被害である「津波被害」と、大雨による河川の氾濫などに伴う管路の被災もみられる。ただし、これらの被害は「地震動」による被害ではないため、これとは区別する必要がある。 津波の場合、津波で流された瓦礫により、橋梁などに添架された管路が被災する場合があ[http://politec.gr.jp/images/technical/201263pori-higai.pdf る]。東日本震災の例では、家屋や船舶なども濁流と一緒に流れている。また、大雨による河川の氾濫時も、大きな岩や瓦礫などが濁流により高速で管路にぶつかる場合もある。橋梁添架だけでなく埋設している管路が、地盤の洗掘により露出し、被災する場合もある。[https://drive.google.com/file/d/1wixDZWsjRa2RMnnILikdQbrTGkfbRYfo/view?usp=sharing 平成 30 年(2018 年)7月豪雨 水道施設被害状況調査報告書](厚生労働省・日本水道協会)では管路被害も報告されている。 このような場合には、「耐震管」であっても被害を被る場合がある。 例えばダクタイル鋳鉄管の場合、継手部に3DkNを超える応力がかかった場合には抜けの発生もありえるし、想定外の非常に大きな応力(瓦礫の衝突など)がかかった場合には、管が曲がる場合も想定される。また、強靭な材料であるため局部的な破断には至らないと思われるが、内外面に腐食があった場合には、肉薄となった部分への過度の応力集中で破断に至る場合(中越沖地震で発生した[https://www.eslontimes.com/system/page/13/220/ 事例]など)もある。 一方、配水用ポリエチレン管の場合にも、降伏応力(30MPa程度)を大きく超える力が加わった場合には樹脂の特性上、当然ながら破断する。「局所部位」に「急激な外力」がかかった場合には、降伏応力を超え高速引張り試験を極端なレベルで行ったのと同様、一瞬で伸び、切れる形となる<ref>{{Cite book|和書|title=2017 九州北部豪雨による水道施設・道路の被害写真集|date=201701|year=2017|publisher=水道産業新聞社|page=p12 P13}}</ref>。[https://www.tokyo-gas.co.jp/anzen/precaution.html 一般的な引張試験で見られるチューインガムのような「伸び」の状況]には至らないが、地震動による影響とは全く異なる外力のかかり方である事に注意が必要である。「[http://politec.gr.jp/ad/wordpress/wp-content/uploads/2022/05/令和2年7月豪雨による水道配水用ポリエチレン管の被災事例1.pdf 令和2年7月豪雨による水道配水用ポリエチレン管の被災事例]」、「[https://drive.google.com/file/d/1RtIvVbeYve8yqNpdDxva1fZhGV1KYJJO/view?usp=sharing 平成 30 年 7 月豪雨(西日本豪雨)被害調査報告書]」(POLITEC)などが公開されている。 こうした瓦礫などによる被災は管材料の種類にかかわらず、耐震管路にとっても「想定以上」の自然災害といえる。非常に限定された地域や場所ではあるが、被害が想定される地域や地形においては、こうした地震動以外での自然災害にもさらされる可能性がある。どの程度までこうした箇所における防災措置を施すかについては、各事業体において、必要に応じて検討しておくとよい。 実際の被災状況については、「2017 九州北部豪雨による水道施設・道路の被害写真集」(水道産業新聞社)にも被害状況が示されている。 == 水道管をめぐる問題 == === 赤水 === ==== 原因 ==== 水道管内部や[[継手]]の[[腐食]]により[[錆]]が水内に溶け出す現象。亜鉛めっき鋼管を使用した建物に多い。亜鉛めっき鋼管は内部が亜鉛めっきされており、これにより腐食を防ぐが、水内の[[酸素]]・[[塩素]]の作用によりめっきがなくなり、腐食する。 水道水として[[硬水]]が供給されている地域では水道管内で[[カルシウム]]が析出して膜を作るため、鉄管を使用していても赤水が出ることはほとんどない(ただし大量のカルシウムの付着により詰まる場合がある)。 送水管・配水管・配水本管の場合、ダクタイル鋳鉄管は内面塗装(モルタルライニング、エポキシ粉体塗装)により防錆をしているものが多い。他管工事などでバックホーなどによる大きな衝撃を加えると、管の破損に至らないまでも内面塗装が損傷し、ここから鉄こぶや赤さびが発生する場合がある。 水道管の補修時に老朽化したバルブを開閉する場合、そこで発生していた錆が飲み水に混入し蛇口から流出する場合もある。 ==== ライニング鋼管の対策 ==== 防食処理のなされた塩ビライニング鋼管を使用している場合でも、管の切断端部や接続ねじ部におけるコーティングの切れや不備によって金属が露出したり、接続される[[バルブ]]が異種金属であったりすることなどにより錆が出る場合がある。 近年、こうした腐食を防止するため、継手やバルブの内部に[[プラスチック]]製のコアを取付け、接続部周辺を内側から完全に覆うような防食対策を施した継手やバルブが製造・販売されるようになっている(コア継手、コア付バルブなどと呼ぶ)<ref>[http://www.fitc.pref.fukuoka.jp/kenkyu/report/h9/p108-111.htm ねじ込み式管端防食継手の耐食性に関する研究] 福岡県工業技術センター</ref>。 === 水道管の凍結 === 寒冷地などでは水道管等の装置が凍結しないよう対策を施す必要がある<ref name="thr">{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/B00093/K00490/eizen/gihyou/pdf/snow.pdf |title=東北地方多雪・寒冷地設備設計要領 |publisher=国土交通省東北地方整備局|accessdate=2017-09-09}}</ref>。気温がおよそ4度以下にまで下がると水道管の凍結や破裂が発生するおそれがある<ref name="kutchan">{{Cite web|和書|url=http://www.town.kutchan.hokkaido.jp/Living_Information/suidou/josuido/trouble/touektu/ |title=水道の凍結 |publisher=倶知安町|accessdate=2017-09-09}}</ref>。 * 水抜法 *: 管路に設置した水抜管や弁(不凍栓など)を使って水自体を抜いておく方法(水抜き、水落とし)<ref name="thr" /><ref name="kutchan" />。 * 加熱法 *: 管路に電熱ヒーター(凍結防止ヒーターや自己温度制御形凍結防止ヒーター)を巻いておく方法<ref name="thr" /><ref name="kutchan" />。電気代や点検・部品交換等のコストがかかる<ref name="kutchan" />。 * 保温法 *: 管路に保温材を巻いておく方法<ref name="kutchan" />。短時間の外出等には有効だが、保温には限界があり気候条件にも左右されるため特に厳寒時の対策としては効果を期待できない場合がある<ref name="thr" /><ref name="kutchan" />。 * 流動法 *: 管路に水がとどまらないよう水を出したまま流れる状態にしておく方法<ref name="kutchan" />。水道代がかかる方法で特に水圧の高い地域では水道使用量が多くなるという欠点がある<ref name="kutchan" />。気候条件にも左右されるため効果を期待できない場合があるほか<ref name="thr" />、厳寒時には水を流した排水溝が凍結して溢れ出すおそれもある<ref name="kutchan" />。 === 老朽化の問題 === 水道管にも耐用年数がある。従来は補修を始めとした予防的なメンテナンスは、事業規模の問題から後回しになることが多かったといえる。しかしながら、平成16年6月に策定された「水道ビジョン」では持続可能な水道を目指した運営・管理強化の中で老朽化施設の更新、再編・再構築の方向が示された。こうした中、管路としては石綿管と老朽管路の更新を計画的に推進するようになるとともに、基幹管路の耐震化がすすめられた。一方、平成25年3月に策定された「新水道ビジョン」では、強靱の観点からみた水道の理想像として、老朽化した施設の計画的な更新を進めており、管路の耐震化にあわせた老朽管路の更新を進めていく方向性が示されている。 老朽化の問題として、時折、大規模な破裂事故が話題となる。[[アメリカ合衆国]]の例では、[[2008年]]12月23日に[[ワシントンD.C.]]にて直径約170センチの水道管が破裂。発生した激流により自動車が押し流されたため、ヘリコプターにより女性と子供らを救出するという事故が生じている<ref>[http://www.news24.jp/articles/2008/12/24/10125669.html 水道管破裂で激流に!レスキュー隊も出動] 日テレNews24(2008年12月24日)</ref>。日本でも、全国の水道管の総延長約61万kmのうち、約3万800kmが法定耐用年数(40年)を過ぎており、事故等が懸念されている<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100507ddm041040005000c.html 水道管:3万8000キロ、耐用年数超え 財政難、更新進まず] 毎日新聞(2010年5月7日)</ref>。既に腐食性が高い土壌では漏水事故や破裂事故が起きはじめており、赤水・濁水や断水の他、車が傷ついたり窓ガラスが破損するなどの被害も出ている<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/suidou/press/press-20120808.html 水道管の漏水事故発生について] 横浜市水道局 2012年8月8日</ref><ref>[http://water.city.sakai.lg.jp/osirase/240723-0.html 南区若松台3丁における水道管漏水事故について(復旧作業完了のお知らせ)] [[堺市上下水道局]] 2012年7月23日</ref>。 === 「不明管」の問題 === 所有者が不明な水道管が、日本全国に点在していることが確認されているが、各自治体とも、その全容がどれくらいになるかは不明としている。 [[2017年]]から[[兵庫県]][[西宮市]]に居住するようになった男性が、不明管の存在が原因で高額な水道料金を支払わされている可能性があるとして、[[2019年]][[4月]]に上下水道の管理者である同市を相手取り[[損害賠償]]請求訴訟を[[神戸地方裁判所]]に提起し係争中である<ref>[https://mainichi.jp/articles/20190525/dde/041/040/024000c?pid=14542 不明水道管 「過大請求」 水流出の疑い、西宮の男性提訴] 毎日新聞 2019年5月25日</ref>。 == 脚注 == <references/> == 関連項目 == *[[水道]] *[[腐食]] *[[錆]] *工具 **[[パイプレンチ]] **[[エンビカッタ]] == 外部リンク == *[http://www.jwwa.or.jp/ 公益社団法人日本水道協会] *[http://www.jiwa-web.jp/ 一般社団法人日本工業用水協会] *[http://www.tsugite.jp/ 日本金属継手協会] *[https://www.jdpa.gr.jp/ 一般社団法人日本ダクタイル鉄管協会] *[http://www.wsp.gr.jp/ 日本水道鋼管協会] *[http://www.politec.gr.jp/ 配水用ポリエチレンパイプシステム協会] *[https://www.pwa-hp.com/ 建築設備用ポリエチレンパイプシステム研究会] *[http://www.jppe.org/ 日本ポリエチレンパイプシステム協会] *[https://www.ppfa.gr.jp/ 塩化ビニル管・継手協会] *[http://www.jwrc-net.or.jp 公益財団法人水道技術研究センター] *[https://www.kyuukou.or.jp/ 公益財団法人給水工事技術振興財団] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すいとうかん}} [[Category:水道施設]] [[Category:配管]] [[Category:給水設備]]
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大覚寺統
大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。 正嘉2年(1258年)、後嵯峨上皇は後深草天皇(当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の伏見天皇、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。 その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は鎌倉幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。 しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。 後二条天皇の崩御後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。 これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。 建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。吉野に逃れた大覚寺統の天皇(南朝)と、足利尊氏に擁立された持明院統の天皇(北朝)の対立時代=南北朝時代となる。 観応の擾乱の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平一統)が、半年で崩壊する。後に足利義満の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は終わった(明徳の和約(1392年)による南北朝合一)。 しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を15世紀半ばまで続けた(後南朝)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正嘉2年(1258年)、後嵯峨上皇は後深草天皇(当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の伏見天皇、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は鎌倉幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "後二条天皇の崩御後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。吉野に逃れた大覚寺統の天皇(南朝)と、足利尊氏に擁立された持明院統の天皇(北朝)の対立時代=南北朝時代となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "観応の擾乱の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平一統)が、半年で崩壊する。後に足利義満の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の分裂は終わった(明徳の和約(1392年)による南北朝合一)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を15世紀半ばまで続けた(後南朝)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "", "title": "血筋" } ]
大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて(南北朝時代には南朝として)皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。名の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の外れの嵯峨野(京都市右京区)の大覚寺の再興に尽力したこと、及び、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったことによる。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2017年12月 | 独自研究 = 2017年12月 | 脚注の不足 = 2017年12月 | 参照方法 = 2017年12月 }} '''大覚寺統'''(だいかくじとう)は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて(南北朝時代には'''[[南朝 (日本)|南朝]]'''として)皇位に即いた皇室の系統で、'''[[持明院統]]'''と対立していた。名の由来は、第88代[[後嵯峨天皇]]の皇子であり第89代[[後深草天皇]]の実弟にあたる第90代[[亀山天皇]]の子<!--孫である-->、<!--亀山天皇の子である-->[[後宇多天皇]]が京都の外れの[[嵯峨野]]([[京都市]][[右京区]])の'''[[大覚寺]]'''の再興に尽力したこと、及び、[[出家]]後は大覚寺に住んで[[院政]]を行ったことによる。 == 概要 == === 両統迭立まで === 正嘉2年([[1258年]])、後嵯峨上皇は[[後深草天皇]](当時16歳)の同母弟恒仁親王(後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王(後の[[伏見天皇]]、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王(後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。 その後、後嵯峨上皇は文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。このため、後深草上皇と亀山天皇はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は[[鎌倉幕府]]に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇の正妻であり後深草上皇と亀山天皇の生母でもある大宮院に後嵯峨上皇の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇を次の治天に指名した。その結果、亀山天皇はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)に皇太子の世仁親王(当時8歳)に譲位した。 しかし、幕府が後深草上皇の不満を受けて、建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子に指名し、将来後深草上皇が次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草と亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承([[両統迭立]])し、院政を行うよう裁定された。 === 両統迭立後 === [[後二条天皇]]の崩御後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)[[邦良親王]]が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である[[後醍醐天皇|尊治親王]]に皇位を継がせようとする。だが、尊治親王は後醍醐天皇として即位すると皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。 これに後宇多法皇や[[皇太子]]邦良親王が反発すると後醍醐天皇は[[院政]]を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策する。このため、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。持明院統や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の[[康仁親王]]を持明院統の[[光厳天皇]]の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せるが、[[元弘]]3年([[1333年]])に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇復位によって[[木寺宮|木寺宮家]](後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。 [[建武の新政]]により、一時は皇統が大覚寺統(後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊。[[吉野]]に逃れた大覚寺統の天皇(南朝)と、[[足利尊氏]]に擁立された[[持明院統]]の天皇([[北朝 (日本)|北朝]])の対立時代=南北朝時代となる。{{main|[[南朝 (日本)]]|南北朝時代 (日本)}} [[観応の擾乱]]の際、京都を奪回して一時的に元号を統一した('''[[正平一統]]''')が、半年で崩壊する。後に[[足利義満]]の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の[[後亀山天皇]]が三種の神器を持明院統の[[後小松天皇]]に引き渡し、南北朝の分裂は終わった([[明徳の和約]](1392年)による南北朝合一)。 しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。そして以後の皇位が持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き、南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を[[15世紀]]半ばまで続けた([[後南朝]])。 == 大覚寺統の天皇 == * [[亀山天皇]](90代) * [[後宇多天皇]](91代) * [[後二条天皇]](94代) * [[後醍醐天皇]](96代、南朝初代) * [[後村上天皇]](97代、南朝2代) * [[長慶天皇]](98代、南朝3代) * [[後亀山天皇]](99代、南朝4代) == 血筋 == * [[亀山天皇]]の皇女は[[近衛家基]]に嫁ぎ、[[近衛経平]]を生み、その子孫は現在の皇室に血脈を伝えている。 *:亀山天皇―皇女(近衛家基室)―近衛経平……[[近衛前久|前久]]―[[近衛前子|前子]]([[後陽成天皇]][[女御]])―[[後水尾天皇]] === 系図 === {{皇室鎌倉後期|next=1}} {{皇室南北朝}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== {{参照方法|date=2017年12月|section=1}} * 森 茂暁『南朝全史 <small>大覚寺統から後南朝へ</small>』([[講談社]]選書メチエ、2004年/講談社学術文庫、2020年) ISBN 4065187745 == 関連項目 == * [[文保の和談]] * [[吉野朝廷]] * [[明徳の和約]] * [[常盤井宮家]] * [[木寺宮家]] * [[住吉行宮]] * [[八条院領]] {{DEFAULTSORT:たいかくしとう}} [[Category:皇位]] [[Category:近畿地方の歴史]]
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持明院統
持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の皇子である第89代後深草天皇の子孫で、大覚寺統に対比する。この持明院統が、のちの北朝に繋がる。 鎮守府将軍藤原基頼が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ(邸宅は持明院殿と称される)、基頼の子孫は持明院家と呼ばれるようになった。その邸宅を持明院家を外戚に持つ後堀河天皇を通じて伏見上皇が継承し、その子孫が持明院殿に住むようになる。これが、持明院統の名前の由来である。 後嵯峨天皇は、息子の後深草天皇に譲位し、後深草天皇が病にかかると、その弟の亀山天皇が即位した。その後、亀山天皇の皇子世仁親王が皇太子となった。しかし、皇位継承者を指名するべき治天の君である後嵯峨上皇は、鎌倉幕府に託す形ではっきりとした意思を伝えないまま、崩御した。困惑した幕府は、後嵯峨院の中宮で、後深草上皇と亀山天皇の母である大宮院に後嵯峨院の胸中を尋ね、それが亀山天皇にあったと知らされると、亀山天皇が治天の君となり、程なくして世仁に譲位し(後宇多天皇)、亀山は院政を開始する。 しかし、事実上の長男にあたるのに自身の子孫に皇位を継承できなくなって、不満を持った後深草上皇は、太上天皇号を返上し出家する意思を表明した。これに同情した幕府は、亀山に対し後深草に配慮するように求め、後深草の皇子熙仁親王を皇太子にすることになり、皇太子となった熙仁は、霜月騒動の余波を受けて即位した(伏見天皇)。その後、伏見の皇子胤仁親王までもが立太子すると(後伏見天皇)、状況は一変し、後深草の系統が有利となった。この後深草の系統を、持明院統という。 しかし、これに不満を持った亀山上皇は出家し、その不満を幕府に訴えかけた。そして、伏見の側近である京極為兼が流罪になり伏見が胤仁に譲位すると、今度は後宇多の皇子である邦治親王が皇太子となり、やがて即位した(後二条天皇)。亀山の系統を大覚寺統という。この際、持明院統側は、後伏見天皇にまだ皇子が誕生していないため、伏見上皇の皇子である富仁親王を皇太子とすることに成功した。これによって、持明院統と大覚寺統がおおよそ交互に即位する、両統迭立がはじまった。(もっとも、状況によっては両統迭立とは言い難いところもあり、あくまで結果論的な呼称である) かくして、皇位の奪還に成功した大覚寺統であったが、亀山上皇が後宇多天皇でなく、末子の恒明親王への皇位継承を望んだことで、大覚寺統は2つに分裂した。なんとか自統から皇太子を立てた持明院統であったが、持明院統でも分裂の危機が生じていた。将来的に、後伏見上皇と富仁親王の二つに、持明院統が分裂する可能性が生じた。そこで、家長である伏見は、富仁親王の立太子にあたって、富仁を後伏見の猶子とし、後伏見に将来生まれる皇子を富仁の猶子とするように定めた。そしてその皇子が持明院統の正嫡として家督を継ぐように定め、もし富仁の子孫と後伏見の子孫が皇位継承を争うならば、富仁を義絶するとした。さらに、成長した花園は学問に秀でていたこともあって、伏見より後伏見の皇子を教育し扶助するよう命じられた。こうして、伏見は持明院統の分裂を防ごうとした。事実、大覚寺統はその後3つ以上に分裂して皇位継承を争っているが、持明院統は結束を図り、後光厳天皇の代までは分裂を防ぐことができた。また、大覚寺統の分裂に乗じて、自統を有利にしようとすることもあった。 後二条天皇が崩御した後、富仁が即位したが、この際に後宇多上皇の幕府への工作によって、大覚寺統の尊治親王が皇太子となる。尊治が即位すると、大覚寺統の邦良親王が皇太子となり、後宇多上皇、後醍醐天皇(尊治)、邦良親王と、治天の君・天皇・皇太子がすべて大覚寺統に占められてしまう。しかし、邦良親王が薨去すると、持明院統の量仁親王(後伏見の皇子)が皇太子となり、後醍醐天皇が倒幕運動に失敗すると即位した。皇太子は、大覚寺統で後二条天皇の孫である木寺宮康仁親王。 しかし、後醍醐天皇が倒幕に成功すると、光厳天皇(量仁)は廃位され(特例として上皇となる)、木寺宮康仁親王は廃太子のみならず親王号を剥奪された。この際、後伏見上皇は出家し、光厳らにも出家を勧めたが、拒絶されている。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇による建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統の後醍醐天皇流に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。 足利尊氏に院宣を発給して手を組み、建武の新政を崩壊させ見事治天の君に返り咲いた光厳上皇は、足利尊氏の要請によって弟の光明天皇を即位させる。後醍醐天皇は吉野に逃れ、皇位の回復を宣言し、南北朝時代が始まった。吉野の朝廷を南朝 (日本)、京にある持明院統の朝廷を北朝 (日本)という。 もっとも、持明院統の朝廷である北朝が京都を制圧したため、後醍醐天皇流以外の大覚寺統の皇族も北朝を支持するなど、北朝が終始優勢を誇った。 北朝の治天の君で持明院統の当主であった光厳上皇は、かねてより本来持明院統の傍系にあたる直仁親王を持明院統の正嫡と定め、既に即位していた光厳の第一皇子崇光天皇の皇太弟に定めた。しかし、光厳上皇(治天の君)、光明上皇(上皇)、崇光上皇(廃帝)、直仁親王(廃太子)ら北朝の皇族は、正平一統の際、南朝軍に連行されてしまった。その後、室町幕府や旧北朝の貴族らは、僧侶になる予定で妙法院に預けられていた崇光天皇の弟宮・弥仁王を即位させた。これが後光厳天皇である。後光厳天皇は、三種の神器も、当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」も欠いた状態での即位を余儀なくされた上、度々京都を侵攻した南朝軍によって京都を追われ、足利氏とともに美濃や近江を転々する経験をした。このため、後光厳天皇の権威は失墜したが、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。 しかし、光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、長講堂領など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、法皇は改めて崇光上皇を持明院統の正嫡とした。後光厳天皇と光厳法皇は不仲であったという。 光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、室町幕府にその意向を示した。管領として足利義満を庇護していた細川頼之は、幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。これに従って後光厳天皇は実子の後円融天皇に譲位。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立した。ここに、伏見院以来当主のもとに結束していた持明院統は、崇光天皇の崇光院流皇統、後光厳天皇の後光厳院流皇統の二つに分裂したのである。 更に11年後に後円融天皇は実子の後小松天皇に譲位した。この際、既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた栄仁親王は、祖父の光厳法皇から伝えられていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに出家した。親王の子孫は、光厳の配慮のおかげでなんとか残った伏見御領の「伏見殿」に住み、「伏見殿」や「伏見宮」と呼ばれるようになった。 南北朝は、足利義満によって、北朝のもとに統一され、足利義満の死後、後小松天皇は長男の称光天皇に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の治仁王が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の小川宮も兄に先だって没した。後光厳院流皇統には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々(後南朝)はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。 そして、正長元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。後小松はかねてより伏見宮の彦仁王を後継者にしようと考えていたが、将軍足利義教は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが後花園天皇である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も立太子もなく即位することとなった。貞成は、これを「幸運」として喜んだ。 新天皇の元でも後小松上皇が院政を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流皇統の継続を意図して新天皇を崇光院流皇統・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。これに、新天皇の即位によって皇統が崇光院流皇統に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇が崩御した際、後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「諒闇」の儀式を行うべきと主張した。貞成ら一派は、諒闇の回避を主張し、激論がかわされたが、結局くじ引きをして決めることとなり、諒闇が実施されることとなった。 後花園天皇は、伏見宮出身であったものの、後光厳院流皇統の後継者であるという意識を持ち、父の貞成親王の反感を買った。文安2年(1445年)3月16日、貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった広橋兼郷と白川雅兼王が追放されたのである。その内容は不明であるが、後花園天皇を貞成が退位させようとしているというものとも推測されている。この騒動に関しては、皇統の崇光院流皇統への交代を成し遂げようとする伏見宮側と、後光厳院流皇統を存続させようとする天皇側で、不協和音が生じていた影響とも考えられている。騒動の後、6月27日に貞常王への親王宣下が行われた。 続いて文安4年3月になると、貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。同年11月27日、貞成親王は後花園天皇から、「傍親(=兄)」として太上天皇の尊号を贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、後花園天皇より永代にわたって「伏見殿」を名乗ることを許され、世襲親王家としての地位を認められることとなった。こうした二面性のある措置は、後花園が後光厳院流皇統の存続と崇光院流皇統の温存を遂げるためであったとされる。 こうして伏見宮が確立。また、後花園天皇の子孫は今日までの皇室へと繋がることとなり、持明院統は皇統を独占するようになった。 持明院統では、伏見天皇が京極為兼とともに革新的な歌風を生み出して以降、京極派の和歌が詠まれるようになった。自らの心を自由な詞で表現するというのが特徴である。伏見上皇のもと、京極為兼によって『玉葉和歌集』が編纂され、光厳上皇は『風雅和歌集』を編纂しており、ともに高く評価されている。南北朝期も、北朝において京極派歌壇が活動していたが、後光厳天皇が墨守的な歌風である二条派に切り替えたことで、初期の伏見宮家以外ではほとんど詠まれなくなった。 後深草が極めて以降、持明院統の正嫡は琵琶を極めるようになった。流派は「西流」であり、「楊真操」・「石上流泉」・「上原石上流泉」といった秘曲を受け、一人前になると最秘曲である「啄木」が伝授されていたようである。琵琶は、伏見宮の家芸となる。 持明院統の所領としては、以下の所領群が挙げられる。 (持明院統は後花園天皇以降も皇統を独占し、現在の天皇に繋がるため、厳密にどこで区切れるということはない。)
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しかし、これに不満を持った亀山上皇は出家し、その不満を幕府に訴えかけた。そして、伏見の側近である京極為兼が流罪になり伏見が胤仁に譲位すると、今度は後宇多の皇子である邦治親王が皇太子となり、やがて即位した(後二条天皇)。亀山の系統を大覚寺統という。この際、持明院統側は、後伏見天皇にまだ皇子が誕生していないため、伏見上皇の皇子である富仁親王を皇太子とすることに成功した。これによって、持明院統と大覚寺統がおおよそ交互に即位する、両統迭立がはじまった。(もっとも、状況によっては両統迭立とは言い難いところもあり、あくまで結果論的な呼称である)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "かくして、皇位の奪還に成功した大覚寺統であったが、亀山上皇が後宇多天皇でなく、末子の恒明親王への皇位継承を望んだことで、大覚寺統は2つに分裂した。なんとか自統から皇太子を立てた持明院統であったが、持明院統でも分裂の危機が生じていた。将来的に、後伏見上皇と富仁親王の二つに、持明院統が分裂する可能性が生じた。そこで、家長である伏見は、富仁親王の立太子にあたって、富仁を後伏見の猶子とし、後伏見に将来生まれる皇子を富仁の猶子とするように定めた。そしてその皇子が持明院統の正嫡として家督を継ぐように定め、もし富仁の子孫と後伏見の子孫が皇位継承を争うならば、富仁を義絶するとした。さらに、成長した花園は学問に秀でていたこともあって、伏見より後伏見の皇子を教育し扶助するよう命じられた。こうして、伏見は持明院統の分裂を防ごうとした。事実、大覚寺統はその後3つ以上に分裂して皇位継承を争っているが、持明院統は結束を図り、後光厳天皇の代までは分裂を防ぐことができた。また、大覚寺統の分裂に乗じて、自統を有利にしようとすることもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": 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持明院統(じみょういんとう)とは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた日本の皇室の系統で、第88代後嵯峨天皇の皇子である第89代後深草天皇の子孫で、大覚寺統に対比する。この持明院統が、のちの北朝に繋がる。
'''持明院統'''(じみょういんとう)とは、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて皇位に即いた[[日本]]の皇室の系統で、第88代[[後嵯峨天皇]]の皇子である第89代[[後深草天皇]]の子孫で、[[大覚寺統]]に対比する。この持明院統が、のちの[[北朝 (日本)|北朝]]に繋がる。 == 名称 == [[鎮守府将軍]][[藤原基頼]]が邸内に持仏堂を創設し、これを'''[[持明院]]'''と名づけ(邸宅は持明院殿と称される)、基頼の子孫は持明院家と呼ばれるようになった。その邸宅を持明院家を外戚に持つ[[後堀河天皇]]を通じて[[伏見上皇]]が継承し<ref>基頼の孫[[持明院基家]]の娘[[持明院陳子|陳子]]が[[守貞親王]]の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。[[承久の乱]]で幕府により三上皇([[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]・[[土御門天皇|土御門上皇]]・[[順徳天皇|順徳上皇]])が[[配流]]、そして[[仲恭天皇]]が廃位になった為、守貞親王の子である茂仁親王([[後堀河天皇]])が天皇となった(守貞親王には[[太上天皇]]の尊号が贈られ、後高倉院と称した)。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を[[仙洞御所]]として居住した。後堀河天皇の系統が途絶えると、その皇女[[暉子内親王|室町院]]の遺領(室町院領)とともに、伏見上皇がこの邸宅を継承した。そして、[[伏見院]]の子孫も持明院殿を仙洞にするようになる。</ref>、その子孫が持明院殿に住むようになる。これが、持明院統の名前の由来である。 == 概要 == === 成立 === [[後嵯峨天皇]]は、息子の[[後深草天皇]]に譲位し、後深草天皇が病にかかると、その弟の[[亀山天皇]]が即位した。その後、亀山天皇の皇子[[後宇多天皇|世仁親王]]が皇太子となった。しかし、皇位継承者を指名するべき[[治天の君]]である[[後嵯峨上皇]]は、鎌倉幕府に託す形ではっきりとした意思を伝えないまま、崩御した{{Sfn|河内・新田|2018|p=160}}。困惑した幕府は、後嵯峨院の中宮で、後深草上皇と亀山天皇の母である[[大宮院]]に後嵯峨院の胸中を尋ね、それが亀山天皇にあったと知らされると、亀山天皇が治天の君となり、程なくして世仁に譲位し([[後宇多天皇]])、亀山は[[院政]]を開始する。<br> しかし、事実上の長男にあたるのに自身の子孫に皇位を継承できなくなって、不満を持った後深草上皇は、太上天皇号を返上し出家する意思を表明した{{Sfn|野口・長村・坂口|2022|p=177}}。これに同情した幕府は、亀山に対し後深草に配慮するように求め、後深草の皇子[[伏見天皇|熙仁親王]]を皇太子にすることになり、皇太子となった熙仁は、[[霜月騒動]]の余波を受けて即位した([[伏見天皇]]){{Sfn|河内・新田|2018|p=166}}。その後、伏見の皇子[[後伏見天皇|胤仁親王]]までもが立太子すると([[後伏見天皇]])、状況は一変し、後深草の系統が有利となった。この後深草の系統を、持明院統という。<br> しかし、これに不満を持った亀山上皇は出家し、その不満を幕府に訴えかけた。そして、伏見の側近である[[京極為兼]]が流罪になり伏見が胤仁に譲位すると、今度は後宇多の皇子である邦治親王が皇太子となり、やがて即位した([[後二条天皇]]){{Sfn|野口・長村・坂口|2022|pp=202,203}}。亀山の系統を[[大覚寺統]]という。この際、持明院統側は、後伏見天皇にまだ皇子が誕生していないため、伏見上皇の皇子である[[花園天皇|富仁親王]]を皇太子とすることに成功した。これによって、持明院統と大覚寺統がおおよそ交互に即位する、両統迭立がはじまった。(もっとも、状況によっては両統迭立とは言い難いところもあり、あくまで結果論的な呼称である) === 分裂の危機 === かくして、皇位の奪還に成功した大覚寺統であったが、亀山上皇が後宇多天皇でなく、末子の[[恒明親王]]への皇位継承を望んだことで、大覚寺統は2つに分裂した。なんとか自統から皇太子を立てた持明院統であったが、持明院統でも分裂の危機が生じていた。将来的に、[[後伏見上皇]]と[[花園天皇|富仁親王]]の二つに、持明院統が分裂する可能性が生じた。そこで、家長である伏見は、富仁親王の立太子にあたって、富仁を後伏見の猶子とし、後伏見に将来生まれる皇子を富仁の猶子とするように定めた{{Sfn|深津|2014|p=6}}。そしてその皇子が持明院統の正嫡として家督を継ぐように定め、もし富仁の子孫と後伏見の子孫が皇位継承を争うならば、富仁を義絶するとした{{Sfn|飯倉|2015|p=13}}。さらに、成長した花園は学問に秀でていたこともあって、伏見より後伏見の皇子を教育し扶助するよう命じられた{{Sfn|深津|2014|p=34}}。こうして、伏見は持明院統の分裂を防ごうとした。事実、大覚寺統はその後3つ以上に分裂して皇位継承を争っているが、持明院統は結束を図り、後光厳天皇の代までは分裂を防ぐことができた。また、大覚寺統の分裂に乗じて、自統を有利にしようとすることもあった{{Sfn|野口・長村・坂口|2022|p=212}}。 === 北朝の成立 === 後二条天皇が崩御した後、富仁が即位したが、この際に[[後宇多上皇]]の幕府への工作によって、大覚寺統の[[尊治親王]]が皇太子となる。尊治が即位すると、大覚寺統の邦良親王が皇太子となり、後宇多上皇、後醍醐天皇(尊治)、邦良親王と、治天の君・天皇・皇太子がすべて大覚寺統に占められてしまう。しかし、邦良親王が薨去すると、持明院統の量仁親王(後伏見の皇子)が皇太子となり、後醍醐天皇が倒幕運動に失敗すると即位した。皇太子は、大覚寺統で後二条天皇の孫である[[木寺宮康仁親王]]。 しかし、後醍醐天皇が倒幕に成功すると、[[光厳天皇]](量仁)は廃位され(特例として上皇となる)、[[木寺宮康仁親王]]は廃太子のみならず親王号を剥奪された。この際、後伏見上皇は出家し、光厳らにも出家を勧めたが、拒絶されている{{Sfn|深津|2014|p=89}}。[[元弘]]3年([[1333年]])、[[後醍醐天皇]]による[[建武の新政]]により、一時は皇統が大覚寺統の後醍醐天皇流に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。 足利尊氏に院宣を発給して手を組み、建武の新政を崩壊させ見事治天の君に返り咲いた[[光厳上皇]]は、足利尊氏の要請によって弟の[[光明天皇]]を即位させる。後醍醐天皇は吉野に逃れ、皇位の回復を宣言し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]が始まった。吉野の朝廷を[[南朝 (日本)]]、京にある持明院統の朝廷を[[北朝 (日本)]]という。 もっとも、持明院統の朝廷である[[北朝 (日本)|北朝]]が京都を制圧したため、後醍醐天皇流以外の大覚寺統の皇族も北朝を支持するなど、北朝が終始優勢を誇った。 === 持明院統の分裂 === 北朝の治天の君で持明院統の当主であった光厳上皇は、かねてより本来持明院統の傍系にあたる[[直仁親王]]を持明院統の正嫡と定め、既に即位していた光厳の第一皇子[[崇光天皇]]の[[皇太弟]]に定めた。しかし、[[光厳天皇|光厳上皇]](治天の君)、[[光明天皇|光明上皇]](上皇)、[[崇光上皇]](廃帝)、[[直仁親王]](廃太子)ら北朝の皇族は、[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]の際、南朝軍に連行されてしまった。その後、室町幕府や旧北朝の貴族らは、僧侶になる予定で[[妙法院]]に預けられていた崇光天皇の弟宮・弥仁王を即位させた。これが[[後光厳天皇]]である。後光厳天皇は、[[三種の神器]]も、当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」も欠いた状態での即位を余儀なくされた上、度々京都を侵攻した南朝軍によって[[京都]]を追われ、足利氏とともに[[美濃国|美濃]]や[[近江国|近江]]を転々する経験をした。このため、後光厳天皇の権威は失墜したが、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。<br> しかし、光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、[[長講堂領]]など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、法皇は改めて崇光上皇を持明院統の正嫡とした{{Sfn|秦野|2020|p=68}}。後光厳天皇と光厳法皇は不仲であったという{{Sfn|深津|2014|pp=219}}。 光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、[[室町幕府]]にその意向を示した。[[管領]]として[[足利義満]]を庇護していた[[細川頼之]]は、幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。これに従って後光厳天皇は実子の[[後円融天皇]]に[[譲位]]。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立した。ここに、伏見院以来当主のもとに結束していた持明院統は、崇光天皇の'''崇光院流皇統'''、後光厳天皇の'''後光厳院流皇統'''の二つに分裂したのである。<br> 更に11年後に後円融天皇は実子の[[後小松天皇]]に譲位した。この際、既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた[[栄仁親王]]は、祖父の光厳法皇から伝えられていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに[[出家]]した。親王の子孫は、光厳の配慮のおかげでなんとか残った伏見御領の「伏見殿」に住み、「伏見殿」や「[[伏見宮]]」と呼ばれるようになった。 === 崇光院流皇統の浮上 === 南北朝は、足利義満によって、北朝のもとに統一され、足利義満の死後、後小松天皇は長男の[[称光天皇]]に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の[[治仁王]]が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の[[小川宮]]も兄に先だって没した。後光厳院流皇統には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々([[後南朝]])はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。<br> そして、[[正長]]元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。後小松はかねてより伏見宮の[[後花園天皇|彦仁王]]を後継者にしようと考えていたが{{Sfn|秦野|2020|p=112}}、将軍[[足利義教]]は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが[[後花園天皇]]である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も[[立太子]]もなく即位することとなった。貞成は、これを「幸運」として喜んだ<ref>浅見雅男『伏見宮 もうひとつの天皇家』(講談社、2012年)ISBN 978-4-06-218005-4。ちくま文庫、2020年、p.32</ref>。 === 分裂の余波 === 新天皇の元でも後小松上皇が[[院政]]を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流皇統の継続を意図して新天皇を崇光院流皇統・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。これに、新天皇の即位によって皇統が崇光院流皇統に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇が崩御した際、後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「[[諒闇]]」の儀式を行うべきと主張した。貞成ら一派は、諒闇の回避を主張し、激論がかわされたが、結局くじ引きをして決めることとなり、諒闇が実施されることとなった。 === 伏見宮の確立とその後 === 後花園天皇は、伏見宮出身であったものの、後光厳院流皇統の後継者であるという意識を持ち{{Sfn|秦野|2020|p=222}}、父の貞成親王の反感を買った{{Sfn|秦野|2020|p=176}}。文安2年([[1445年]])3月16日、貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった[[広橋兼郷]]と[[白川雅兼王]]が追放されたのである。その内容は不明であるが、後花園天皇を貞成が退位させようとしているというものとも推測されている{{Sfn|秦野|2020|p=222}}。この騒動に関しては、皇統の崇光院流皇統への交代を成し遂げようとする伏見宮側と、後光厳院流皇統を存続させようとする天皇側で、不協和音が生じていた影響とも考えられている{{Sfn|秦野|2020|p=221}}。騒動の後、6月27日に貞常王への親王宣下が行われた。<br> 続いて文安4年3月になると、貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。同年11月27日、貞成親王は後花園天皇から、「傍親(=兄)」として[[太上天皇]]の尊号を贈られて{{Sfn|田村|2018|p=4(1672)}}、後に「後崇光院」と称されることとなった。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、後花園天皇より永代にわたって「伏見殿」を名乗ることを許され、[[世襲親王家]]としての地位を認められることとなった。こうした二面性のある措置は、後花園が後光厳院流皇統の存続と崇光院流皇統の温存を遂げるためであったとされる{{Sfn|田村|2018|p=15(1683)}}。<br> こうして伏見宮が確立。また、後花園天皇の子孫は今日までの皇室へと繋がることとなり、持明院統は皇統を独占するようになった。 == 文化 == === 和歌 === 持明院統では、伏見天皇が京極為兼とともに革新的な歌風を生み出して以降、[[京極派]]の[[和歌]]が詠まれるようになった{{Sfn|深津|2014|p=39}}。自らの心を自由な詞で表現するというのが特徴である{{Sfn|深津|2014|p=39}}。伏見上皇のもと、京極為兼によって『[[玉葉和歌集]]』が編纂され、光厳上皇は『[[風雅和歌集]]』を編纂しており、ともに高く評価されている。南北朝期も、北朝において京極派歌壇が活動していたが、後光厳天皇が墨守的な歌風である[[二条派]]に切り替えたことで、初期の伏見宮家以外ではほとんど詠まれなくなった。 === 琵琶 === 後深草が極めて以降、持明院統の正嫡は[[琵琶]]を極めるようになった。流派は「西流」であり、「楊真操」・「石上流泉」・「上原石上流泉」といった秘曲を受け、一人前になると最秘曲である「啄木」が伝授されていたようである<ref>池和田有紀「崇光天皇」『室町・戦国天皇列伝 後醍醐天皇から後陽成天皇まで(久水俊和・石原比伊呂編)』、戎光祥出版、2020年、pp.162-164。</ref>。琵琶は、伏見宮の家芸となる。 == 所領 == 持明院統の所領としては、以下の所領群が挙げられる。 * [[長講堂領]] - 最大180か所だったが、応永14年の目録では112か所。同目録によれば、米5384[[石]]、砂金100[[両]]、糸4274両、絹1216[[疋]]、鉄10000廷などの年貢が納められ、相当の収入であったと考えられる<ref name="名前なし-20231105131143">三木太郎「『椿葉記』より見たる持明院統分裂の原因 ‐長講堂領以下の所領を中心として‐」1953。</ref>。 * [[法金剛院|法金剛院領]] - 詳細は不明であるが、これも相当な収入であったと考えられる<ref name="名前なし-20231105131143"/>。 * [[室町院|室町院領]] - 大覚寺統との折半。75か所。[[直仁親王]]に渡った後、伏見宮に継承された。 * [[熱田社領]] - 25か所、526町8段110歩、年貢1291[[貫]]文<ref name="名前なし-20231105131143"/>。 * [[播磨国衙領]] - 年貢3000疋(30貫文)<ref name="名前なし-20231105131143"/>。 == 持明院統の天皇 == * [[後深草天皇]](89代) * [[伏見天皇]](92代) * [[後伏見天皇]](93代) * [[花園天皇]](95代) * [[光厳天皇]](北朝1代) * [[光明天皇]](北朝2代) * [[崇光天皇]](北朝3代) * [[後光厳天皇]](北朝4代) * [[後円融天皇]](北朝5代) * [[後小松天皇]](100代・北朝6代) * [[称光天皇]](101代) * [[後花園天皇]](102代) (持明院統は後花園天皇以降も皇統を独占し、現在の天皇に繋がるため、厳密にどこで区切れるということはない。) === 系図 === {{皇室鎌倉後期|next=1}} {{皇室南北朝}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==参考文献== * {{Citation|和書|author=[[飯倉晴武]]|date=2002,2015|title=地獄を二度も見た天皇 光厳院|publisher=吉川弘文館|series=歴史文化ライブラリー|isbn=4642055479|ref={{SfnRef|飯倉|2015}} }} * [[今谷明]]『室町の王権 <small>足利義満の王権簒奪計画</small>』([[中公新書]]、1990年) ISBN 4-12-100978-9 * 横井清『室町時代の一皇族の生涯 <small>『看聞日記』の世界</small>』([[講談社学術文庫]]、2002年) ISBN 4-06-159572-5 * 近藤成一 「内裏と院御所」(初出:五味文彦 編『都市の中世』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9) * [[小川剛生]]「伏見宮家の成立 -貞成親王と貞常親王-」(所収:松岡心平 編『看聞日記と中世文化』(森話社、2009年) ISBN 978-4-916087-94-2) * {{Citation|和書|author=[[河内祥輔]]・[[新田一郎 (法学者)|新田一郎]]|date=2018|title=天皇と中世の武家|publisher=講談社|series=天皇の歴史4|isbn=9784062924849|ref={{SfnRef|河内・新田|2018}} }} * {{Cite journal|和書|author=[[田村航]]|date=2018|title=伏見宮貞成親王の尊号宣下|journal=『史学雑誌』(127編11号)|ref={{SfnRef|田村|2018}} }} * {{Citation|和書|author=[[野口実]]・[[長村祥知]]・[[坂口太郎]]|date=2022|title=公武政権の競合と協調|publisher=吉川弘文館|series=京都の中世史(3)|ref={{SfnRef|野口・長村・坂口|2022}} }} * {{Citation|和書|author=[[秦野裕介]]|date=2020|title=乱世の天皇―観応の擾乱から応仁の乱まで|publisher=東京堂出版|isbn=9784490210354|ref={{SfnRef|秦野|2020}} }} * {{Citation|和書|author=[[深津睦夫]]|date=2014|title=光厳天皇 をさまらぬ世のための身ぞうれはしき|publisher=ミネルヴァ書房|series=日本評伝選|isbn=9784623070060|ref={{SfnRef|深津|2014}} }} * [[村田正志]]「後小松天皇の御遺詔」(初出:『国史学』47・48号(1944年2月)、所収:『村田正志著作集 第2巻続南北朝史論』(思文閣出版、1983年) ISBN 978-4-7842-0344-4) * 松薗斉『日記の家 <small>中世国家の記録組織</small>』([[吉川弘文館]]、1997年) ISBN 4-642-02757-2 : 第七章 持明院統天皇家の分裂 p178~p201 * 久水俊和「改元と仏事からみる皇統意識」(初出:『国史学』199号(2009年)、所収:『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2) == 関連項目 == * [[文保の和談]] * [[明徳の和約]] * [[長講堂領]] {{DEFAULTSORT:しみよういんとう}} [[Category:皇位]] [[Category:鎌倉時代の京都]] [[Category:室町時代の京都]]
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レプトケファルス
レプトケファルス(羅: Leptocephalus、「レプトセファルス」とも)は、カライワシ上目(ウナギ目、フウセンウナギ目、カライワシ目、ソトイワシ目)の魚類に見られる、平たく細長く透明な幼生。大きさは、5cm前後かそれ以下から1mを超すこともある。ウナギやアナゴ、ハモなどのウナギ目のものが有名であり、ウナギは成長後にはレプトケファルス期の約18倍、アナゴは約30倍の大きさになる。 Leptocephalusの語源はラテン語で Lepto (小さい)+ cephalus(頭)、つまり「小さい頭」という意味である。 ウナギの場合、孵化した仔魚は、レプトケファルスに成長し、さらに変態してシラスウナギと呼ばれる稚魚に成長し、河川などの淡水に上って成魚になる。変態時にゼラチン質の体が脱水収縮して体組織の濃縮が起こるので、変態の前後で体は小さくなる。 食性は、謎に包まれていた。多くの魚類では口の奥に向いている歯が、レプトケファルスでは前方に向いており、様々な動物プランクトンを与えてもほとんど捕食しないので、食性が分からなかった。その後、海で採集したレプトケファルスの胃の中からオタマボヤ類が植物プランクトンを採食するために分泌する、ゼラチン質の使い捨て式フィルターである包巣の残骸が見つかった。これをきっかけに、オタマボヤ類の廃棄された包巣などに由来するマリンスノーを摂食していることが判明し、それを模した人工飼料で飼育できることも明らかになった。ハモのレプトケファルスではエビのすり身、ウナギのレプトケファルスではサメの卵黄を原料とした人工飼料による餌付けが成功している。 マアナゴのレプトケファルスは、高知県などでのれそれと呼ばれ、食用にされる。生きたまま土佐酢、三杯酢などにくぐらせて、踊り食いにされることが多い。大阪などの消費地でものれそれと呼ばれることが多いが、兵庫県淡路島では洟垂れ(はなたれ)、岡山県では「ベラタ」と呼ばれている。 1928年から1930年にかけてデンマークの調査船ダナ号による海洋調査が行われ、1930年1月31日にセント・ヘレナ島付近で1.8mという非常に大きなレプトケファルスが捕獲されて大きな反響を呼んだ。それまで知られていたウナギ類のレプトケファルスは成長後には数十倍の大きさになるので、この巨大なレプトケファルスが成体になった場合には体長が数十メートルにもなると予想され、「伝説のシーサーペント(大海蛇)の正体がこれで判明した」と報じる新聞もあった。その後も巨大なレプトケファルスの標本はたびたび採取されたが、成体の姿は謎のままだった。 事態が進展したのは最初の発見からおよそ30年後のことだった。1960年代半ばになって、偶然にも変態途中の巨大レプトケファルスが採取された。その身体の特徴は、この幼生がソコギス亜目魚類の仔魚である可能性を強く示唆していた。あらためて詳細な調査と研究が行われた結果、次の事実が判明した。 それまで見つかった巨大レプトケファルスの標本も、再調査の結果ソコギス亜目魚類の幼体であることが明らかになり、シーサーペントは再び伝説上の存在となった。その後、同じくレプトケファルス期をもつことが分かったカライワシ類などとともに、これらの仲間はレプトケファルス期をもつことを共通形質とするカライワシ上目という分類群にまとめられた。
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レプトケファルスは、カライワシ上目(ウナギ目、フウセンウナギ目、カライワシ目、ソトイワシ目)の魚類に見られる、平たく細長く透明な幼生。大きさは、5cm前後かそれ以下から1mを超すこともある。ウナギやアナゴ、ハモなどのウナギ目のものが有名であり、ウナギは成長後にはレプトケファルス期の約18倍、アナゴは約30倍の大きさになる。
{{出典の明記|date=2019年3月}} [[画像:LeptocephalusConger.jpg|300px|thumb|レプトケファルス]] '''レプトケファルス'''({{lang-la-short|Leptocephalus}}、「'''レプトセファルス'''」とも)は、[[カライワシ上目]]([[ウナギ目]]、[[フウセンウナギ目]]、[[カライワシ目]]、[[ソトイワシ目]])の[[魚類]]に見られる、平たく細長く[[透明]]な[[幼生]]。大きさは、5cm前後かそれ以下から1mを超すこともある。[[ウナギ]]や[[アナゴ]]、[[ハモ]]などのウナギ目のものが有名であり、ウナギは成長後にはレプトケファルス期の約18倍、アナゴは約30倍の大きさになる。 == 概要 == Leptocephalusの語源は[[ラテン語]]で Lepto (小さい)+ cephalus(頭)、つまり「小さい頭」という意味である<ref>{{Cite web|和書|url=https://repun-app.fish.hokudai.ac.jp/mod/page/view.php?id=1646 |accessdate=2023-01-08 |title=レプトセファルス |work=ウナギの生活史 |website=LASBOS Moodle |date=2020-07-16 |publisher=[[北海道大学]] }}</ref>。 ウナギの場合、[[孵化]]した仔魚は、レプトケファルスに成長し、さらに[[変態]]して[[シラスウナギ]]と呼ばれる稚魚に成長し、[[河川]]などの[[淡水]]に上って成魚になる。変態時に[[ゼラチン]]質の体が脱水収縮して[[組織 (生物学)|体組織]]の濃縮が起こるので、変態の前後で体は小さくなる。 食性は、謎に包まれていた。多くの[[魚類]]では口の奥に向いている[[歯]]が、レプトケファルスでは前方に向いており、様々な[[動物]][[プランクトン]]を与えてもほとんど[[捕食]]しないので、食性が分からなかった。{{いつ範囲|date=2023-01-08|その後}}、海で採集したレプトケファルスの[[胃]]の中から[[オタマボヤ]]類が[[植物]]プランクトンを採食するために[[分泌]]する、ゼラチン質の使い捨て式[[フィルター]]である包巣の残骸が見つかった。これをきっかけに、オタマボヤ類の廃棄された包巣などに由来する[[マリンスノー]]を摂食していることが判明し、それを模した[[飼料|人工飼料]]で飼育できることも明らかになった。ハモのレプトケファルスでは[[エビ]]のすり身、ウナギのレプトケファルスでは[[サメ]]の[[卵黄]]を原料とした人工飼料による[[餌付け]]が成功している。 == のれそれ == [[マアナゴ]]のレプトケファルスは、[[高知県]]などで'''のれそれ'''と呼ばれ、食用にされる。生きたまま[[土佐酢]]、[[三杯酢]]などにくぐらせて、[[踊り食い]]にされることが多い。[[大阪市|大阪]]などの消費地でものれそれと呼ばれることが多いが、[[兵庫県]][[淡路島]]では'''洟垂れ'''(はなたれ)、岡山県では「ベラタ」と呼ばれている。 == 巨大なレプトケファルス == [[1928年]]から[[1930年]]にかけて[[デンマーク]]の調査船ダナ号による海洋調査が行われ、[[1930年]][[1月31日]]に[[セントヘレナ|セント・ヘレナ島]]付近で1.8mという非常に大きなレプトケファルスが捕獲されて大きな反響を呼んだ。それまで知られていたウナギ類のレプトケファルスは成長後には数十倍の大きさになるので、この巨大なレプトケファルスが成体になった場合には体長が数十メートルにもなると予想され、「伝説の[[シーサーペント]](大海蛇)の正体がこれで判明した」と報じる新聞もあった。その後も巨大なレプトケファルスの標本はたびたび採取されたが、成体の姿は謎のままだった。 事態が進展したのは最初の発見からおよそ30年後のことだった。[[1960年代]]半ばになって、偶然にも変態途中の巨大レプトケファルスが採取された。その身体の特徴は、この幼生が[[ソコギス亜目]]魚類の仔魚である可能性を強く示唆していた。あらためて詳細な調査と研究が行われた結果、次の事実が判明した。 * ソコギス亜目魚類もレプトケファルス期を経て成長する。 * したがって、ウナギ目とソコギス亜目には近い類縁関係が認められる。 * ウナギ類はレプトケファルス幼体からの変態後に大きく成長するが、ソコギス類はレプトケファルス期に成体サイズまでの成長を遂げ、変態後はほとんど成長しない。 それまで見つかった巨大レプトケファルスの標本も、再調査の結果ソコギス亜目魚類の幼体であることが明らかになり、シーサーペントは再び伝説上の存在となった。その後、同じくレプトケファルス期をもつことが分かった[[カライワシ目|カライワシ類]]などとともに、これらの仲間はレプトケファルス期をもつことを共通形質とする[[カライワシ上目]]という分類群にまとめられた。 == 関連項目 == * [[養殖]] * [[躍り食い]] * [[仔魚]]‐[[稚魚]]‐[[未成魚]]([[幼魚]])‐[[成魚]] == 脚注 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:れふとけふあるす}} [[Category:ウナギ目]] [[Category:カライワシ上目]] [[Category:幼生]]
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宇宙の年表
宇宙の年表()は我々の住む宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。 宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものであるが、他の宇宙では冷却速度や対称性の破れ方の違いなどによって違った過程をとる可能性もあるので注意が必要である。 観測によれば、宇宙はおよそ138億年前に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。 次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。 そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。 宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。 最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。 宇宙誕生から10秒(プランク時間)後まで 超対称性が存在するなら、この時期に4つの基本相互作用—電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用、重力相互作用—は、分離しておらず統一の相互作用(統一場理論)である。この時代についてわかっていることは少ないが、シナリオによりいくつかの理論が提示されている。このような状況では量子効果のために一般相対性理論は破綻すると推測されている。超弦理論、ループ量子重力理論といった量子重力理論が確立すれば、この時代の理解が進むと期待する物理学者もいる。 宇宙誕生から10から10秒後 プランク時代から宇宙の膨張と冷却がはじまり、重力相互作用とゲージ理論で示される基本相互作用は分離する。この時代の物理法則は大統一理論で記述される。大統一時代は電弱相互作用と強い相互作用に分離することにより終了する。この終了はインフレーションと同時期である。いくつかの理論は大統一時代に磁気単極子が生成されるとしている。 宇宙誕生から10から10秒後 宇宙のインフレーションが生じた温度そして時間についてはよくわかっていない。インフレーションの間宇宙は閉じた宇宙であり、一様・等方に急速に拡大する段階に突入する。光子のエネルギーはクォークとハイペロンとなるが、それらの粒子はすぐに崩壊する。あるシナリオによれば、宇宙のインフレーションに先立ち宇宙は冷たく空虚となっていた。 宇宙誕生から10から10秒後 この時代の宇宙の温度は10ケルビンと冷たく、強い相互作用と電弱相互作用(ワインバーグ=サラム理論)は分離している。この電弱時代は、インフレーションにより粒子が引き離されたことも、関連していると考えられている。粒子の相互作用は活発であり、ウィークボソン(WボソンとZボソン)、ヒッグス粒子といった大量のエキゾチック粒子が生成される。 再加熱時代ではインフレーションの間に生じていた指数関数的な膨張は止まり、インフラトン場の潜在エネルギーは熱く、相対的にクォークグルーオンプラズマな粒子に変換される。大統一理論が正しければ宇宙のインフレーションは大統一理論の破綻の最中あるいは後に生じるか、さもなければ磁気単極子が確認できるはずである。この時代では、宇宙はクォーク、電子、ニュートリノが支配し、放射優勢である。 この宇宙において、反物質よりバリオンの方が多い理由には不明な部分が多い。この理由を説明するには、インフレーションの後にサハロフ状況が満たされなければいけない。既知の物理学と研究中である大統一理論はヒントになるが、やはり多くは不明である。 宇宙のインフレーションの後、宇宙はクォークグルーオンプラズマで満たされる。この時点から後である初期宇宙の物理学は比較的よく理解されており、また推測も減ってくる。 超対称性があるとすれば電弱超対称性の基準である1TeV程度の低いエネルギーで超対称性は破れ、粒子と超対称性パートナーの質量は等しくなくなると考えられる。これにより、既知の粒子の超対称性パートナーはなぜ観察されないのかが説明される。 宇宙誕生から10秒後から10秒後 電弱時代の終わりに電弱超対称性が破れると、ヒッグス粒子は真空期待値を獲得し、あらゆる粒子はヒッグス機構により質量を獲得すると考えられる。重力相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用からなる基本相互作用は、現在のように分離するものの、宇宙の温度は高いためクォークの結合によるハドロンの生成は生じない。 宇宙誕生から10秒後から1秒後 宇宙を構成するクォークグルーオンプラズマが冷えることにより、陽子、中性子といったバリオンからなるハドロンが形成される(クォーク・ハドロン相転移を参照)。宇宙誕生からおおよそ0.1秒後、ニュートリノは分離して時空を自由に移動するようになる。この宇宙ニュートリノ背景は、詳細は不明であるが後に放射される宇宙マイクロ波背景に似ている。 宇宙誕生から1秒から10秒後 ハドロンと反ハドロンはハドロン時代の終わりに対消滅し、宇宙の質量はレプトンと反レプトンが占めるようになる。宇宙誕生からおおよそ10秒後宇宙の温度は、レプトンと反レプトンの新たなる対はもう作られず、レプトンと反レプトンのほとんどが対消滅し、レプトンがわずかに残る。 宇宙誕生から10秒後から38万年後 ほとんどのレプトンと反レプトンはレプトン時代の終わりに対消滅し、宇宙のエネルギーは光子に支配される。この光子は荷電した陽子、電子、原子核と干渉し、この状態は30万年続く。 宇宙誕生から3分から20分後 光子時代、宇宙の温度は原子核が生成されるまでに低下する。(水素イオンである)陽子と中性子は核融合により結合し、原子核を生成する。核合成は、宇宙の温度と密度が核融合を継続できない程度まで下がるまでのおよそ17分で終わる。この時代、中性水素(H)の全質量はヘリウム4(He)の全質量3倍であり、その他の核種の量はわずかである。 宇宙誕生から7万年後 この時代、非相対的物質(原子核)と相対的放射(光子)の密度は等しい。(重力と圧効果の競合から)生成可能な最小の構造を決定するジーンズ長(en:Jeans length)が小さくなりはじめ、それにより放射自由ストリーミングが一掃され、摂動の振幅が大きくなり始める。 宇宙誕生から24万年から31万年後 水素とヘリウムの原子核が電子と結合して原子が形成され、また宇宙の密度は低下する。再結合には分離が生じ、光子は物質に干渉されることなく伝播できるようになる。これにより光子は宇宙マイクロ波背景を形成し、光子時代の宇宙が現代でも観測できる。 分離が生じるまで、宇宙の光子のほとんどは光子バリオン流動体の電子や陽子と相互作用している。宇宙は不透明で霧がかかっている。光といっても私たちが望遠鏡でのぞいて観測できるような光でない。宇宙におけるバリオン様の物質はイオン化プラズマから構成されていたが、再結合期に自由電子を獲得すると電気的に中性となった。それにより光子は束縛を解かれ、宇宙マイクロ波背景を形成した。光子が(分離され)自由になると、宇宙は透明になった。 この時代の放射線は中性水素(H)の放射する21cm線のみである。現在、このかすかな放射を検出する研究が行われているが、これは、初期宇宙の解明において宇宙マイクロ波背景放射よりも多くの情報を含んでいると考えられている。 ビッグバン理論における構造形成は階層的に、つまり小さい構造が作られてから大きい構造が作られる、というように進んでいる。最初の構造は、クエーサーと呼ばれる、明るく輝く活動銀河で、種族IIIの恒星(星の種族)であると考えられている。この時代より前では、宇宙の展開はすべての構造は完全に均一ではなくそこからわずかに逸脱しているという線形宇宙論的摂動理論により理解されている。これはコンピューターにより比較的簡単に研究される。この時からは非線形構造が形成されはじめ、コンピュータによる研究には大きな課題が現れる。例えば10億の粒子をあつかうN体シミュレーションなど。 プラズマ宇宙論は、宇宙の大規模構造となる巨大なガスのかたまりが最初に生まれ、そこから超銀河団、銀河団、銀河群へと分裂を繰り返し、銀河の構造が形成されたと説明している。プラズマ宇宙論#宇宙構造体の成り立ちを参照されたい。 最初のクエーサは重力崩壊により形成される。クエーサーの放つ強い放射は周囲の宇宙を電離させる。この時点から宇宙の大部分はプラズマにより構成されることになる。 最初の恒星、おそらく種族IIIの恒星(第1世代の恒星とも)は、ビッグバンにより形成された軽い元素(水素、ヘリウム、リチウム)からより重い元素が生成されることにより始まる。ただし、種族IIIの恒星はまだ観測されていない。宇宙のミステリーである。種族IIIの星は極端に大きく高温で寿命が短かったと考えられている。恒星内部で核融合反応が起こり、ヘリウム4から鉄56までの原子核が作られる。 巨大な恒星がその寿命を終える時、超新星爆発を起こす。その際の膨大な圧力や熱といったエネルギーによってウラン238以上の重い核種までを一度に大量に合成する。このプロセスにより合成された原子核は、種族IIの恒星(第2世代の恒星とも)を構成する原子核となる。種族IIの恒星の周囲には惑星の材料となる物質もあまり多量には存在しないだろうと考えられている 太陽は、種族IIの恒星による生成物のかけらの集まった種族Iの恒星(第3世代の恒星)である。太陽系の形成は約50億年前、つまり宇宙誕生から80億から90億年後である。 大きな体積の物質の崩壊は銀河を形成する。種族IIの恒星はこの初期に形成され、種族Iの恒星はその後形成される。最近の研究では銀河は地球からみて反時計回りの回転をともなうパリティ対称性の破れを有していることが示唆されている。 2007年9月6日、ヨハン・シェーデラーの企画は127億光年の位置にクエーサーCFHQS 1641+3755を発見した。これは、138億年の宇宙の歴史の7%地点にあたる。 2004年3月9日、ハッブル・ディープ・フィールドは130億光年の位置でたくさんの小さな銀河から大きな一つの銀河が誕生する様子を観測した。これは宇宙の歴史の5%地点である。 2007年7月11日、マウナ・ケア山のW・M・ケック天文台にある口径10mのケックII望遠鏡を利用してパサディナのカリフォルニア工科大学のリチャード・エリスとその一派は、132億光年の位置に恒星で形成された6つの銀河を発見した。それは宇宙誕生から5億年の時点である。現在までにおおよそ10のこのような初期の物体が知られている。 2011年1月26日、ハッブル宇宙望遠鏡が2009年~2010年に撮影した「ハッブル・ウルトラ・ディープフィールド」に、最も遠い天体である「UDFj-39546284」を発見した。132億3800万光年先にあるこの天体は銀河であると考えられている。 核宇宙年代学(en:Nucleocosmochronology)によると、銀河系(天の川)の円盤は83±18億年前に形成したと推定されている。 重力相互作用は銀河を互いに引き寄せ、銀河群、銀河団、超銀河団を形成する。 宇宙の年齢についての最新資料は、今日が宇宙誕生から137.72±0.59億年後であると推定している。宇宙の膨張は加速しており、超銀河団はこの宇宙で形成される最大の構造であると考えられている。現在の膨張はすべての構造が事象の地平面の彼方に去ることを防いでおり、また、重力による新たなる構造の形成を妨げている。 加速膨張しているが、それが発見される前は、減速していると考えられていた。 宇宙の最終段階を知るには、最初期宇宙で生じることの推察の場合と同様に基礎物理を応用することとなる。以下に可能性の数例を挙げてみる。 宇宙の膨張が続けば最も可能性の高いと考えられているのが、熱的死と呼ばれる状態である。 10年という時間尺では現存する恒星は燃え尽き宇宙は暗くなる。宇宙はエントロピーの高い状態に近づく。 熱的死以降の時代は銀河はブラックホールに崩壊し、またブラック・ホールはホーキング放射を通じて蒸散する。 ある大統一理論では、陽子欠損は残りの星間ガスを陽電子と電子に変換し光子の再結合が生じる。 この場合、宇宙は際限なくただ一様な放射がある容器として存在し、また次第に低いエネルギーへと赤方偏移してその放射も冷えきってしまう。 ダークエネルギーのエネルギー密度が負であるかあるいは宇宙の時空の曲率が正で開いた宇宙であるならば、宇宙の膨張はいずれ反転し宇宙は高温高密度な状態に向かって収縮する。これはビッグバンへの逆戻りに似ている。これはしばしばサイクリック宇宙論(en:Cyclic model)といった振動宇宙(en:oscillatory universe)のシナリオの一部をなしている。現在の観測によると、この模型は正しくはなく、また宇宙の膨張は継続している。しかし、ダークエネルギーが消失することがあれば、このかぎりではない。 このシナリオは、ダークエネルギーのエネルギー密度が時間的な制限なしに増加する場合に限り見込まれる。そのようなダークエネルギーはファントムエネルギー(en:phantom energy)と呼ばれ、今まで知られている(仮想粒子のエネルギーをのぞく)どのエネルギーとも似つかぬものである。この場合、宇宙の膨張速度は制限なく加速する。銀河団、銀河、あるいは太陽系といった重力束縛系は引き裂かれる。膨張は、最終的には分子や原子を維持する電磁力を振り切る。そして原子核は引き裂かれ、宇宙は重力の特異点(en:gravitational singularity)の例外として終わりを迎える。言葉をかえれば、宇宙は膨張し続けるあまり4つの基本相互作用をとりこみすべての物質を引き裂く。 宇宙が寿命の長い偽の真空(en:False vacuum)であるなら、宇宙はトンネル効果により低エネルギーの状態になる可能性がある。そのようなことになれば膨大なエネルギーを持ち、光速で宇宙全体へと拡大する泡が発生し、泡に触れた全ての物理的構造は一瞬で破壊される。宇宙内部に存在する物理的構造にとって、この泡は巨大な爆発と同等とみなせる。この泡は光速で拡大するため、事前に観測してから接触を回避することは一切不可能である。従って、光速を超えられない文明はこの泡を回避することは出来ない。
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"tag": "p", "text": "宇宙のインフレーションが生じた温度そして時間についてはよくわかっていない。インフレーションの間宇宙は閉じた宇宙であり、一様・等方に急速に拡大する段階に突入する。光子のエネルギーはクォークとハイペロンとなるが、それらの粒子はすぐに崩壊する。あるシナリオによれば、宇宙のインフレーションに先立ち宇宙は冷たく空虚となっていた。", "title": "最初期宇宙" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から10から10秒後", "title": "最初期宇宙" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この時代の宇宙の温度は10ケルビンと冷たく、強い相互作用と電弱相互作用(ワインバーグ=サラム理論)は分離している。この電弱時代は、インフレーションにより粒子が引き離されたことも、関連していると考えられている。粒子の相互作用は活発であり、ウィークボソン(WボソンとZボソン)、ヒッグス粒子といった大量のエキゾチック粒子が生成される。", "title": "最初期宇宙" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "再加熱時代ではインフレーションの間に生じていた指数関数的な膨張は止まり、インフラトン場の潜在エネルギーは熱く、相対的にクォークグルーオンプラズマな粒子に変換される。大統一理論が正しければ宇宙のインフレーションは大統一理論の破綻の最中あるいは後に生じるか、さもなければ磁気単極子が確認できるはずである。この時代では、宇宙はクォーク、電子、ニュートリノが支配し、放射優勢である。", "title": "最初期宇宙" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この宇宙において、反物質よりバリオンの方が多い理由には不明な部分が多い。この理由を説明するには、インフレーションの後にサハロフ状況が満たされなければいけない。既知の物理学と研究中である大統一理論はヒントになるが、やはり多くは不明である。", "title": "最初期宇宙" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "宇宙のインフレーションの後、宇宙はクォークグルーオンプラズマで満たされる。この時点から後である初期宇宙の物理学は比較的よく理解されており、また推測も減ってくる。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "超対称性があるとすれば電弱超対称性の基準である1TeV程度の低いエネルギーで超対称性は破れ、粒子と超対称性パートナーの質量は等しくなくなると考えられる。これにより、既知の粒子の超対称性パートナーはなぜ観察されないのかが説明される。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から10秒後から10秒後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "電弱時代の終わりに電弱超対称性が破れると、ヒッグス粒子は真空期待値を獲得し、あらゆる粒子はヒッグス機構により質量を獲得すると考えられる。重力相互作用、電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用からなる基本相互作用は、現在のように分離するものの、宇宙の温度は高いためクォークの結合によるハドロンの生成は生じない。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から10秒後から1秒後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "宇宙を構成するクォークグルーオンプラズマが冷えることにより、陽子、中性子といったバリオンからなるハドロンが形成される(クォーク・ハドロン相転移を参照)。宇宙誕生からおおよそ0.1秒後、ニュートリノは分離して時空を自由に移動するようになる。この宇宙ニュートリノ背景は、詳細は不明であるが後に放射される宇宙マイクロ波背景に似ている。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から1秒から10秒後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ハドロンと反ハドロンはハドロン時代の終わりに対消滅し、宇宙の質量はレプトンと反レプトンが占めるようになる。宇宙誕生からおおよそ10秒後宇宙の温度は、レプトンと反レプトンの新たなる対はもう作られず、レプトンと反レプトンのほとんどが対消滅し、レプトンがわずかに残る。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から10秒後から38万年後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ほとんどのレプトンと反レプトンはレプトン時代の終わりに対消滅し、宇宙のエネルギーは光子に支配される。この光子は荷電した陽子、電子、原子核と干渉し、この状態は30万年続く。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から3分から20分後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "光子時代、宇宙の温度は原子核が生成されるまでに低下する。(水素イオンである)陽子と中性子は核融合により結合し、原子核を生成する。核合成は、宇宙の温度と密度が核融合を継続できない程度まで下がるまでのおよそ17分で終わる。この時代、中性水素(H)の全質量はヘリウム4(He)の全質量3倍であり、その他の核種の量はわずかである。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から7万年後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "この時代、非相対的物質(原子核)と相対的放射(光子)の密度は等しい。(重力と圧効果の競合から)生成可能な最小の構造を決定するジーンズ長(en:Jeans length)が小さくなりはじめ、それにより放射自由ストリーミングが一掃され、摂動の振幅が大きくなり始める。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "宇宙誕生から24万年から31万年後", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "水素とヘリウムの原子核が電子と結合して原子が形成され、また宇宙の密度は低下する。再結合には分離が生じ、光子は物質に干渉されることなく伝播できるようになる。これにより光子は宇宙マイクロ波背景を形成し、光子時代の宇宙が現代でも観測できる。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "分離が生じるまで、宇宙の光子のほとんどは光子バリオン流動体の電子や陽子と相互作用している。宇宙は不透明で霧がかかっている。光といっても私たちが望遠鏡でのぞいて観測できるような光でない。宇宙におけるバリオン様の物質はイオン化プラズマから構成されていたが、再結合期に自由電子を獲得すると電気的に中性となった。それにより光子は束縛を解かれ、宇宙マイクロ波背景を形成した。光子が(分離され)自由になると、宇宙は透明になった。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この時代の放射線は中性水素(H)の放射する21cm線のみである。現在、このかすかな放射を検出する研究が行われているが、これは、初期宇宙の解明において宇宙マイクロ波背景放射よりも多くの情報を含んでいると考えられている。", "title": "初期宇宙" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ビッグバン理論における構造形成は階層的に、つまり小さい構造が作られてから大きい構造が作られる、というように進んでいる。最初の構造は、クエーサーと呼ばれる、明るく輝く活動銀河で、種族IIIの恒星(星の種族)であると考えられている。この時代より前では、宇宙の展開はすべての構造は完全に均一ではなくそこからわずかに逸脱しているという線形宇宙論的摂動理論により理解されている。これはコンピューターにより比較的簡単に研究される。この時からは非線形構造が形成されはじめ、コンピュータによる研究には大きな課題が現れる。例えば10億の粒子をあつかうN体シミュレーションなど。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "プラズマ宇宙論は、宇宙の大規模構造となる巨大なガスのかたまりが最初に生まれ、そこから超銀河団、銀河団、銀河群へと分裂を繰り返し、銀河の構造が形成されたと説明している。プラズマ宇宙論#宇宙構造体の成り立ちを参照されたい。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最初のクエーサは重力崩壊により形成される。クエーサーの放つ強い放射は周囲の宇宙を電離させる。この時点から宇宙の大部分はプラズマにより構成されることになる。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "最初の恒星、おそらく種族IIIの恒星(第1世代の恒星とも)は、ビッグバンにより形成された軽い元素(水素、ヘリウム、リチウム)からより重い元素が生成されることにより始まる。ただし、種族IIIの恒星はまだ観測されていない。宇宙のミステリーである。種族IIIの星は極端に大きく高温で寿命が短かったと考えられている。恒星内部で核融合反応が起こり、ヘリウム4から鉄56までの原子核が作られる。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "巨大な恒星がその寿命を終える時、超新星爆発を起こす。その際の膨大な圧力や熱といったエネルギーによってウラン238以上の重い核種までを一度に大量に合成する。このプロセスにより合成された原子核は、種族IIの恒星(第2世代の恒星とも)を構成する原子核となる。種族IIの恒星の周囲には惑星の材料となる物質もあまり多量には存在しないだろうと考えられている", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "太陽は、種族IIの恒星による生成物のかけらの集まった種族Iの恒星(第3世代の恒星)である。太陽系の形成は約50億年前、つまり宇宙誕生から80億から90億年後である。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "大きな体積の物質の崩壊は銀河を形成する。種族IIの恒星はこの初期に形成され、種族Iの恒星はその後形成される。最近の研究では銀河は地球からみて反時計回りの回転をともなうパリティ対称性の破れを有していることが示唆されている。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2007年9月6日、ヨハン・シェーデラーの企画は127億光年の位置にクエーサーCFHQS 1641+3755を発見した。これは、138億年の宇宙の歴史の7%地点にあたる。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2004年3月9日、ハッブル・ディープ・フィールドは130億光年の位置でたくさんの小さな銀河から大きな一つの銀河が誕生する様子を観測した。これは宇宙の歴史の5%地点である。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2007年7月11日、マウナ・ケア山のW・M・ケック天文台にある口径10mのケックII望遠鏡を利用してパサディナのカリフォルニア工科大学のリチャード・エリスとその一派は、132億光年の位置に恒星で形成された6つの銀河を発見した。それは宇宙誕生から5億年の時点である。現在までにおおよそ10のこのような初期の物体が知られている。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2011年1月26日、ハッブル宇宙望遠鏡が2009年~2010年に撮影した「ハッブル・ウルトラ・ディープフィールド」に、最も遠い天体である「UDFj-39546284」を発見した。132億3800万光年先にあるこの天体は銀河であると考えられている。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "核宇宙年代学(en:Nucleocosmochronology)によると、銀河系(天の川)の円盤は83±18億年前に形成したと推定されている。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "重力相互作用は銀河を互いに引き寄せ、銀河群、銀河団、超銀河団を形成する。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "宇宙の年齢についての最新資料は、今日が宇宙誕生から137.72±0.59億年後であると推定している。宇宙の膨張は加速しており、超銀河団はこの宇宙で形成される最大の構造であると考えられている。現在の膨張はすべての構造が事象の地平面の彼方に去ることを防いでおり、また、重力による新たなる構造の形成を妨げている。 加速膨張しているが、それが発見される前は、減速していると考えられていた。", "title": "宇宙の大規模構造の形成" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "宇宙の最終段階を知るには、最初期宇宙で生じることの推察の場合と同様に基礎物理を応用することとなる。以下に可能性の数例を挙げてみる。", "title": "宇宙の最終段階" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "宇宙の膨張が続けば最も可能性の高いと考えられているのが、熱的死と呼ばれる状態である。 10年という時間尺では現存する恒星は燃え尽き宇宙は暗くなる。宇宙はエントロピーの高い状態に近づく。 熱的死以降の時代は銀河はブラックホールに崩壊し、またブラック・ホールはホーキング放射を通じて蒸散する。 ある大統一理論では、陽子欠損は残りの星間ガスを陽電子と電子に変換し光子の再結合が生じる。 この場合、宇宙は際限なくただ一様な放射がある容器として存在し、また次第に低いエネルギーへと赤方偏移してその放射も冷えきってしまう。", "title": "宇宙の最終段階" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ダークエネルギーのエネルギー密度が負であるかあるいは宇宙の時空の曲率が正で開いた宇宙であるならば、宇宙の膨張はいずれ反転し宇宙は高温高密度な状態に向かって収縮する。これはビッグバンへの逆戻りに似ている。これはしばしばサイクリック宇宙論(en:Cyclic model)といった振動宇宙(en:oscillatory universe)のシナリオの一部をなしている。現在の観測によると、この模型は正しくはなく、また宇宙の膨張は継続している。しかし、ダークエネルギーが消失することがあれば、このかぎりではない。", "title": "宇宙の最終段階" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このシナリオは、ダークエネルギーのエネルギー密度が時間的な制限なしに増加する場合に限り見込まれる。そのようなダークエネルギーはファントムエネルギー(en:phantom energy)と呼ばれ、今まで知られている(仮想粒子のエネルギーをのぞく)どのエネルギーとも似つかぬものである。この場合、宇宙の膨張速度は制限なく加速する。銀河団、銀河、あるいは太陽系といった重力束縛系は引き裂かれる。膨張は、最終的には分子や原子を維持する電磁力を振り切る。そして原子核は引き裂かれ、宇宙は重力の特異点(en:gravitational singularity)の例外として終わりを迎える。言葉をかえれば、宇宙は膨張し続けるあまり4つの基本相互作用をとりこみすべての物質を引き裂く。", "title": "宇宙の最終段階" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "宇宙が寿命の長い偽の真空(en:False vacuum)であるなら、宇宙はトンネル効果により低エネルギーの状態になる可能性がある。そのようなことになれば膨大なエネルギーを持ち、光速で宇宙全体へと拡大する泡が発生し、泡に触れた全ての物理的構造は一瞬で破壊される。宇宙内部に存在する物理的構造にとって、この泡は巨大な爆発と同等とみなせる。この泡は光速で拡大するため、事前に観測してから接触を回避することは一切不可能である。従って、光速を超えられない文明はこの泡を回避することは出来ない。", "title": "宇宙の最終段階" } ]
宇宙の年表は我々の住む宇宙で起きた出来事の年表であり、ビッグバン理論を中心に他の科学理論も交えてまとめたものである。 宇宙の歴史、宇宙の展開、宇宙の進化などとも表現されるものであるが、他の宇宙では冷却速度や対称性の破れ方の違いなどによって違った過程をとる可能性もあるので注意が必要である。 観測によれば、宇宙はおよそ138億年前に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない最初期宇宙は今日地上にある加速器で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴はインフレーション理論などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。 次の段階は初期宇宙と呼ばれ、高エネルギー物理学により解明されてきている。これによれば、はじめに陽子、電子、中性子そして原子核、原子が生成された。中性水素の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。 そのような段階を経て、最初の恒星とクエーサー、銀河、銀河団、超銀河団は形成された。 宇宙の終焉については、さまざまな理論がある。
{{出典の明記|date=2008年3月}} {{Physical cosmology}} {{読み仮名|'''宇宙の年表'''|うちゅうのねんぴょう}}は我々の住む[[宇宙]]で起きた出来事の年表であり、[[ビッグバン]]理論を中心に他の[[科学理論]]も交えてまとめたものである。 [[File:Image-CMB Timeline300 (ja).png|thumb|upright=2.0|ビッグバン(左)からの宇宙の発展の実例。この図形では、宇宙は二次元の中で表わされる。また、第三の(水平)次元は時間であり、右に向かって増加する。]] '''宇宙の歴史'''、'''宇宙の展開'''、'''宇宙の進化'''などとも表現されるものであるが、他の宇宙では冷却速度や対称性の破れ方の違いなどによって違った過程をとる可能性もあるので注意が必要である。 観測によれば、宇宙はおよそ138億年前<ref name="2012s128y">[http://arxiv.org/abs/1212.5225 Nine-Year Wilkinson Microwave Anisotropy Probe (WMAP) Observations: Final Maps and Results ''arXiv'']</ref><ref group="注釈">これは標準的な[[宇宙モデル]]に対して[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の[[WMAP]]のデータを適用した結果である。なお、WMAPのもの以外にも地上[[望遠鏡]]による可視・[[赤外線]]観測結果なども用いられている。<!--[[1990年代]]途中までは、宇宙の膨張([[ハッブル定数]]と減速膨張)から算出される宇宙の年齢が約80億年、[[球状星団]]の年齢が140億年以上(したがって宇宙の年齢はそれ以上)と推定方法により結果が大きく異なり、[[宇宙論]]の大きな課題であった。 宇宙の膨張からの算出に[[ダークエネルギー]]による加速膨張を考慮すると、球状星団の年齢も観測結果の解釈の見直しにより120~130億年となることが示唆された。2012年現在では、WMAPのデータ以外から算出される宇宙の年齢も138億年に近い値になっており、以前に比べれば正確になってきていると考えられる。 しかし、宇宙の最初期に関しては[[物理法則]]と現在の宇宙の状態からの推定であり、直接的実験もしくは直接的観測で確かめられたわけではない。そして、今後新たな現象が発見され現時点では予測不能な物理法則があることが分かったり、現在予測されてはいるものの未解明の[[統一場理論|力の統一理論]]などの詳細が分かったりすることなどにより宇宙モデルが修正されるかもしれない。そのようなことが起こった場合、上記の宇宙の年齢や宇宙の最初期の状態は見直されることになるかもしれない。 なお、現在の主流として、「宇宙が誕生した直後にインフレーションが起き、物質が生成され、インフレーションの終了直後に熱的膨張([[ビッグバン]])がおこった」とされている。--> </ref>に誕生した。それ以来宇宙は3つの段階を経過してきている。未だに解明の進んでいない'''最初期宇宙'''は今日地上にある[[加速器]]で生じさせられるよりも高エネルギーの素粒子からなる高温の状態であり、またほんの一瞬であったとされている。そのためこの段階の基礎的特徴は[[宇宙のインフレーション|インフレーション理論]]などにおいて分析されているが、大部分は推測からなりたっている。 次の段階は'''初期宇宙'''と呼ばれ、[[高エネルギー物理学]]により解明されてきている。これによれば、はじめに[[陽子]]、[[電子]]、[[中性子]]そして[[原子核]]、[[原子]]が生成された。[[中性水素]]<ref group="注釈">軽水素とも。原子1個と電子1個からなる[[水素]]原子。宇宙空間で最もありふれた電磁波の1つである[[21cm線]]を放射する。</ref>の生成にともない、宇宙マイクロ波背景が放射された。 そのような段階を経て、最初の[[恒星]]と[[クエーサー]]、[[銀河]]、[[銀河団]]、[[超銀河団]]は形成された。 [[宇宙の終焉]]については、さまざまな理論がある。 == 最初期宇宙 == 最初期の宇宙に関係する概念はいきおい推論がちになる。現在のところこの時代に新たなる知見をもたらすのに十分な規模の加速器による実験は行われていない。多くのシナリオ案は根本の部分に意見のあわない部分がある。例えば *[[ハートル=ホーキングの境界条件]] *{{仮リンク|弦風景|en|String theory landscape}} *[[ブレーンワールド|ブレーン宇宙論]] *[[弦ガス宇宙論]] (String gas cosmology) *[[エキピロティック宇宙論]] など。補完し合う理論もあるがそうではない理論もある。 === プランク時代 === {{main|プランク時代}} 宇宙誕生から10<sup>-43</sup>秒([[プランク時間]])後まで [[超対称性]]が存在するなら、この時期に4つの[[基本相互作用]]&mdash;[[電磁相互作用]]、[[弱い相互作用]]、[[強い相互作用]]、[[重力相互作用]]&mdash;は、分離しておらず統一の相互作用([[統一場理論]])である。この時代についてわかっていることは少ないが、シナリオによりいくつかの理論が提示されている。このような状況では[[量子効果]]のために[[一般相対性理論]]は破綻すると推測されている。[[超弦理論]]、[[ループ量子重力理論]]といった[[量子重力理論]]が確立すれば、この時代の理解が進むと期待する物理学者もいる。 === 大統一時代 === {{main|大統一時代}} [[File:Location Large Hadron Collider.PNG|thumb|right|200px|スイス・ジュネーブ郊外にフランスとの国境をまたいで設置されている[[大型ハドロン衝突型加速器]]は、[[大統一理論]]についての知見をもたらす可能性が指摘されている]] 宇宙誕生から10<sup>-43</sup>から10<sup>-36</sup>秒後 <ref>Ryden B: "Introduction to Cosmology", pg. 196 Addison Welsley 2003 ISBN 0805389121</ref> プランク時代から宇宙の膨張と冷却がはじまり、重力相互作用と[[ゲージ理論]]で示される基本相互作用は分離する。この時代の物理法則は[[大統一理論]]で記述される。大統一時代は[[電弱相互作用]]と強い相互作用に分離することにより終了する。この終了はインフレーションと同時期である。いくつかの理論は大統一時代に[[磁気単極子]]が生成されるとしている。 === インフレーション時代 === {{main|インフレーション時代}} 宇宙誕生から10<sup>-36</sup>から10<sup>-32</sup>秒後 [[宇宙のインフレーション]]が生じた温度そして時間についてはよくわかっていない。インフレーションの間宇宙は[[閉じた宇宙]]であり、一様・等方に急速に拡大する段階に突入する。[[光子]]のエネルギーは[[クォーク]]と[[ハイペロン]]となるが、それらの粒子はすぐに崩壊する。あるシナリオによれば、宇宙のインフレーションに先立ち宇宙は冷たく空虚となっていた。 === 電弱時代 === {{main|電弱時代}} 宇宙誕生から10<sup>-32</sup>から10<sup>-12</sup>秒後<ref> Ryden B: "Introduction to Cosmology", pg. 196 Addison Welsley 2003 </ref> この時代の宇宙の温度は10<sup>28</sup>[[ケルビン]]と冷たく、強い相互作用と電弱相互作用([[ワインバーグ=サラム理論]])は分離している。この電弱時代は、インフレーションにより粒子が引き離されたことも、関連していると考えられている。粒子の相互作用は活発であり、[[ウィークボソン]]([[Wボソン]]と[[Zボソン]])、[[ヒッグス粒子]]といった大量の[[エキゾチック粒子]]が生成される。 ==== 再加熱 ==== {{main|再加熱}} 再加熱時代ではインフレーションの間に生じていた指数関数的な膨張は止まり、[[インフラトン]]場の潜在エネルギーは熱く、相対的に[[クォークグルーオンプラズマ]]な粒子に変換される。大統一理論が正しければ宇宙のインフレーションは大統一理論の破綻の最中あるいは後に生じるか、さもなければ[[磁気単極子]]が確認できるはずである。この時代では、宇宙はクォーク、電子、[[ニュートリノ]]が支配し、[[放射優勢]]である。 ==== バリオン数生成 ==== {{main|バリオン数生成}} この宇宙において、[[反物質]]より[[バリオン]]の方が多い理由には不明な部分が多い。この理由を説明するには、インフレーションの後に[[サハロフ状況]]<ref group="注釈">サハロフの3条件とも。バリオン数を変化させる相互作用の存在、[[CP対称性の破れ]]、[[非熱平衡反応]]の3条件からなる</ref>が満たされなければいけない。既知の物理学と研究中である大統一理論はヒントになるが、やはり多くは不明である。 == 初期宇宙 == 宇宙のインフレーションの後、宇宙は[[クォークグルーオンプラズマ]]で満たされる。この時点から後である初期宇宙の物理学は比較的よく理解されており、また推測も減ってくる。 === 超対称性の破れ === {{main|超対称性の破れ}} [[超対称性]]があるとすれば電弱超対称性の基準である1[[TeV]]程度の低いエネルギーで超対称性は破れ、粒子と[[超対称性パートナー]]の質量は等しくなくなると考えられる。これにより、既知の粒子の超対称性パートナーはなぜ観察されないのかが説明される。 === クォーク時代 === {{main|クォーク時代}} 宇宙誕生から10<sup>-12</sup>秒後から10<sup>-6</sup>秒後 電弱時代の終わりに電弱超対称性が破れると、[[ヒッグス粒子]]は[[真空期待値]]を獲得し、あらゆる粒子は[[ヒッグス機構]]により質量を獲得すると考えられる。[[重力相互作用]]、[[電磁相互作用]]、[[弱い相互作用]]、[[強い相互作用]]からなる[[基本相互作用]]は、現在のように分離するものの、宇宙の温度は高いためクォークの結合によるハドロンの生成は生じない。 === ハドロン時代 === {{main|ハドロン時代}} 宇宙誕生から10<sup>-6</sup>秒後から1秒後 宇宙を構成するクォークグルーオンプラズマが冷えることにより、[[陽子]]、[[中性子]]といった[[バリオン]]からなる[[ハドロン]]が形成される([[クォーク・ハドロン相転移]]を参照)。宇宙誕生からおおよそ0.1秒後、[[ニュートリノ]]は分離して時空を自由に移動するようになる<ref>日本評論社『私達は暗黒宇宙から生まれた』24頁、福井康雄 ISBN 4-535-78426-4</ref>。この'''[[宇宙ニュートリノ背景]]'''は、詳細は不明であるが後に放射される'''宇宙マイクロ波背景'''に似ている。 === レプトン時代 === {{main|レプトン時代}} 宇宙誕生から1秒から10秒後 ハドロンと反ハドロンはハドロン時代の終わりに対消滅し、宇宙の質量は[[レプトン (素粒子)|レプトン]]と反レプトンが占めるようになる。宇宙誕生からおおよそ10秒後宇宙の温度は、レプトンと反レプトンの新たなる対はもう作られず、レプトンと反レプトンのほとんどが[[対消滅]]し、レプトンがわずかに残る。 === 光子時代 === {{main|光子時代}} 宇宙誕生から10秒後から38万年後 ほとんどのレプトンと反レプトンはレプトン時代の終わりに対消滅し、宇宙のエネルギーは[[光子]]に支配される。この光子は荷電した陽子、電子、原子核と干渉し、この状態は30万年続く。 ==== 原子核合成 ==== 宇宙誕生から3分から20分後<ref>[http://www.astro.ucla.edu/~wright/BBNS.html Detailed timeline of Big Bang nucleosynthesis processes]</ref> {{main|原子核合成}} 光子時代、宇宙の温度は原子核が生成されるまでに低下する。([[水素イオン]]である)陽子と中性子は[[核融合]]により結合し、原子核を生成する。核合成は、宇宙の温度と密度が核融合を継続できない程度まで下がるまでのおよそ17分で終わる。この時代、中性水素(<sup>1</sup>H)の全質量は[[ヘリウム]]4(<sup>4</sup>He)の全質量3倍であり、その他の[[核種]]の量はわずかである。 ==== 物質優勢 ==== {{main|物質優勢}} 宇宙誕生から7万年後 この時代、[[非相対的物質]](原子核)と[[相対的放射]](光子)の密度は等しい。(重力と圧効果の競合から)生成可能な最小の構造を決定する[[ジーンズ長]]([[:en:Jeans length]])が小さくなりはじめ、それにより[[放射自由ストリーミング]]が一掃され、摂動の振幅が大きくなり始める。 ==== 再結合 ==== 宇宙誕生から24万年から31万年後<ref> Ryden B: "Introduction to Cosmology", pg. 158 Addison Welsley 2003 </ref> {{main|宇宙の晴れ上がり}} 水素とヘリウムの原子核が電子と結合して原子が形成され、また宇宙の密度は低下する。再結合には分離が生じ、光子は物質に干渉されることなく伝播できるようになる。これにより光子は'''宇宙マイクロ波背景'''を形成し、光子時代の宇宙が現代でも観測できる。 === 暗黒時代 === {{seealso|21cm線}} 分離が生じるまで、宇宙の光子のほとんどは光子バリオン流動体の電子や陽子と相互作用している。宇宙は不透明で霧がかかっている。光といっても私たちが望遠鏡でのぞいて観測できるような光でない。宇宙におけるバリオン様の物質はイオン化プラズマから構成されていたが、再結合期に自由電子を獲得すると電気的に中性となった。それにより光子は束縛を解かれ、宇宙マイクロ波背景を形成した。光子が(分離され)自由になると、宇宙は透明になった。 この時代の放射線は中性水素(<sup>1</sup>H)の放射する21cm線のみである。現在、このかすかな放射を検出する研究が行われているが、これは、初期宇宙の解明において宇宙マイクロ波背景放射よりも多くの情報を含んでいると考えられている。 == 宇宙の大規模構造の形成 == {{main|構造形成}} <!--*宇宙誕生から約1~8億年後 : 最初の[[銀河]]が形成される。<ref>WMAPによる結果からは最初の銀河の形成がいつだったかは分からない。WMAPの偏光観測によると赤方偏移17付近(宇宙誕生から約2億年後)で宇宙が再電離されたという可能性が示唆されているが、これが銀河の最初の形成とどう結びついているか自明ではない。2005年現在において、銀河を含む初代天体形成の正確な時期は分かっていない。</ref> *宇宙誕生から約2~10億年後 : 天体から出される[[紫外線]]により、宇宙を満たす中性水素ガスが[[電離]]する([[宇宙の再電離]])。 *宇宙誕生から約70億年後 : [[ダークエネルギー]]により宇宙の膨張の仕方が減速膨張から加速膨張に変わる。 *現在 : ビッグバンのなごりとして2.7[[ケルビン|K]]の[[宇宙背景放射]]が観測される。--> {{seealso|宇宙の大規模構造}} [[ファイル:Hubble ultra deep field.jpg|thumb|right|245px|[[ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド]]は、初期の恒星がどのようであったのかを見せてくれる、ショー・ケースみたいなものである。]] [[ファイル:Hubble - infant galaxy.jpg|thumb|right|245px|[[ハッブル宇宙望遠鏡|ハッブル天体望遠鏡]]は、最近形成された初期の銀河を捉えた。これは、宇宙論的な時間尺では銀河の形成は最近でも生じていることを意味している。これは、宇宙や銀河はまだ形成途中であることを示している。]] ビッグバン理論における構造形成は階層的に、つまり小さい構造が作られてから大きい構造が作られる、というように進んでいる。最初の構造は、[[クエーサー]]と呼ばれる、明るく輝く[[活動銀河]]で、'''種族IIIの恒星'''([[星の種族]])であると考えられている。この時代より前では、宇宙の展開はすべての構造は完全に均一ではなくそこからわずかに逸脱しているという線形宇宙論的摂動理論により理解されている。これはコンピューターにより比較的簡単に研究される。この時からは非線形構造が形成されはじめ、コンピュータによる研究には大きな課題が現れる。例えば10億の粒子をあつかう[[N体シミュレーション]]など。 [[プラズマ宇宙論]]は、宇宙の大規模構造となる巨大なガスのかたまりが最初に生まれ、そこから超銀河団、銀河団、銀河群へと分裂を繰り返し、銀河の構造が形成されたと説明している。''[[プラズマ宇宙論#宇宙構造体の成り立ち]]を参照されたい。'' === 再電離 === {{main|宇宙の再電離}} {{seealso|21cm線}} 最初のクエーサは[[重力崩壊]]により形成される。クエーサーの放つ強い放射は周囲の宇宙を電離させる。この時点から宇宙の大部分は[[プラズマ]]により構成されることになる。 === 恒星の形成 === {{main|星の種族}} {{seealso|元素合成}} 最初の恒星、おそらく種族IIIの恒星(第1世代の恒星とも)は、ビッグバンにより形成された軽い元素(水素、ヘリウム、[[リチウム]])からより重い元素が生成されることにより始まる。ただし、種族IIIの恒星はまだ観測されていない。宇宙の[[ミステリー]]である<ref>[http://www.physorg.com/news6689.html Ferreting Out The First Stars] (physorg.com)</ref><ref>第一世代の星を初めて発見 https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v12/n9/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E4%B8%96%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%98%9F%E3%82%92%E5%88%9D%E3%82%81%E3%81%A6%E7%99%BA%E8%A6%8B/66820</ref>。種族IIIの星は極端に大きく高温で寿命が短かったと考えられている。恒星内部で核融合反応が起こり、[[ヘリウム4]]から[[鉄56]]までの原子核が作られる。 巨大な恒星がその寿命を終える時、超新星爆発を起こす。その際の膨大な圧力や熱といったエネルギーによって[[ウラン238]]以上の重い核種までを一度に大量に合成する。このプロセスにより合成された原子核は、種族IIの恒星(第2世代の恒星とも)を構成する原子核となる。種族IIの恒星の周囲には惑星の材料となる物質もあまり多量には存在しないだろうと考えられている {{main|太陽系の形成と進化}} {{seealso|太陽系}} [[太陽]]は、種族IIの恒星による生成物のかけらの集まった種族Iの恒星(第3世代の恒星)である。太陽系の形成は約50億年前、つまり宇宙誕生から80億から90億年後である。 <!--太陽、地球のことを書くのは本稿の主旨にそわないと考えます。 もし書くとしても、誕生まででしょう。 *50億年前 [[太陽]]の誕生。 *45億年前 [[地球]]の誕生。([[地質時代]]参照。) *35億年前 地球に生命が誕生。 *6-5億年前 多細胞生物の出現。 ==人類の時代== *200万年前 人類出現。 *1万年前 人類が農耕を始め、文明を築き始める。([[年表]]参照。) *[[1961年]] 人類が初めて[[大気圏外]]の[[宇宙空間]]に飛び出す。--> === 銀河の形成 === {{main|銀河の形成と進化}} 大きな体積の物質の崩壊は銀河を形成する。種族IIの恒星はこの初期に形成され、種族Iの恒星はその後形成される。最近の研究では銀河は地球からみて反時計回りの回転をともなう[[パリティ対称性の破れ]]を有していることが示唆されている<ref>Highfield, Roger (2007) "[http://www.telegraph.co.uk/earth/main.jhtml?view=DETAILS&grid=&xml=/earth/2007/10/15/scistars115.xml Amateur stargazers map a lopsided universe]" (Telegraph) </ref>。 2007年9月6日、ヨハン・シェーデラーの企画は127億光年の位置にクエーサーCFHQS 1641+3755を発見した<ref>[https://apod.nasa.gov/apod/ap070906.html 2007 September 6] (Astronomy Picture of the Day)</ref>。これは、138億年の宇宙の歴史の7%地点にあたる。 2004年3月9日、[[ハッブル・ディープ・フィールド]]は130億光年の位置でたくさんの小さな銀河から大きな一つの銀河が誕生する様子を観測した。これは宇宙の歴史の5%地点である<ref>[https://apod.nasa.gov/apod/ap040309.html 2004 March 9] (Astronomy Picture of the Day)</ref>。 2007年7月11日、[[マウナ・ケア山]]の[[W・M・ケック天文台]]にある口径10mのケックII望遠鏡を利用して[[パサデナ (カリフォルニア州)|パサディナ]]の[[カリフォルニア工科大学]]のリチャード・エリスとその一派は、132億光年の位置に恒星で形成された6つの銀河を発見した。それは宇宙誕生から5億年の時点である<ref> "New Scientist" 14th July 2007</ref>。現在までにおおよそ10のこのような初期の物体が知られている<ref>[http://mcdonaldobservatory.org/news/releases/2007/0608a.html Hobby-Eberly Telescope Helps Astronomers Learn Secrets of One of Universe's Most Distant Objects] (The University of Texas McDonald Observatory)</ref>。 2011年1月26日、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]が2009年~2010年に撮影した「[[ハッブル・ウルトラ・ディープフィールド]]」に、最も遠い天体である「[[UDFj-39546284]]」を発見した。132億3800万光年先にあるこの天体は銀河であると考えられている。 [[核宇宙年代学]]([[:en:Nucleocosmochronology]])によると、[[銀河系]]([[天の川]])の円盤は83±18億年前に形成したと推定されている<ref>Eduardo F. del Peloso a1a, Licio da Silva a1, Gustavo F. Porto de Mello and Lilia I. Arany-Prado (2005), "The age of the Galactic thin disk from Th/Eu nucleocosmochronology: extended sample" (Proceedings of the International Astronomical Union (2005), 1: 485-486 Cambridge University Press)</ref>。 === 銀河群、銀河団、超銀河団の形成 === {{seealso|宇宙の大規模構造}} 重力相互作用は銀河を互いに引き寄せ、銀河群、銀河団、超銀河団を形成する。 === 宇宙誕生から138億年後 === 宇宙の年齢についての最新資料は、今日が宇宙誕生から137.72±0.59億年後<ref name="2012s128y"/>であると推定している。宇宙の膨張は加速しており、超銀河団はこの宇宙で形成される最大の構造であると考えられている。現在の膨張はすべての構造が[[事象の地平面]]の彼方に去ることを防いでおり、また、重力による新たなる構造の形成を妨げている。 加速膨張しているが、それが発見される前は、減速していると考えられていた。 == 宇宙の最終段階 == {{Main|宇宙の終焉}} 宇宙の最終段階を知るには、最初期宇宙で生じることの推察の場合と同様に基礎物理を応用することとなる。以下に可能性の数例を挙げてみる。 === 熱的死: 10<sup>18</sup>から10<sup>25</sup>年 === {{seealso|熱的死}} 宇宙の膨張が続けば最も可能性の高いと考えられているのが、熱的死と呼ばれる状態である。 10<sup>12</sup>年という時間尺では現存する恒星は燃え尽き宇宙は暗くなる。宇宙は[[エントロピー]]の高い状態に近づく。 熱的死以降の時代は銀河は[[ブラックホール]]に崩壊し、またブラック・ホールは[[ホーキング放射]]を通じて蒸散する。 ある大統一理論では、陽子欠損は残りの星間ガスを[[陽電子]]と電子に変換し光子の再結合が生じる。 この場合、宇宙は際限なくただ一様な放射がある容器として存在し、また次第に低いエネルギーへと[[赤方偏移]]してその放射も冷えきってしまう。 === ビッグ・クランチ: 10<sup>27</sup>年 === {{seealso|ビッグクランチ}} [[ダークエネルギー]]のエネルギー密度が負であるかあるいは宇宙の[[時空]]の[[曲率]]が正で開いた宇宙であるならば、宇宙の膨張はいずれ反転し宇宙は高温高密度な状態に向かって収縮する。これはビッグバンへの逆戻りに似ている。これはしばしば[[サイクリック宇宙論]]([[:en:Cyclic model]])といった[[振動宇宙]]([[:en:oscillatory universe]])のシナリオの一部をなしている。現在の観測によると、この模型は正しくはなく、また宇宙の膨張は継続している。しかし、ダークエネルギーが消失することがあれば、このかぎりではない。 === ビッグ・リップ === {{seealso|ビッグリップ}} このシナリオは、[[ダークエネルギー]]のエネルギー密度が時間的な制限なしに増加する場合に限り見込まれる。そのようなダークエネルギーは[[ファントムエネルギー]]([[:en:phantom energy]])と呼ばれ、今まで知られている([[仮想粒子]]のエネルギーをのぞく)どのエネルギーとも似つかぬものである。この場合、宇宙の膨張速度は制限なく加速する。銀河団、銀河、あるいは太陽系といった重力束縛系は引き裂かれる。膨張は、最終的には分子や原子を維持する電磁力を振り切る。そして原子核は引き裂かれ、宇宙は[[重力の特異点]]([[:en:gravitational singularity]])の例外として終わりを迎える。言葉をかえれば、宇宙は膨張し続けるあまり4つの[[基本相互作用]]をとりこみすべての物質を引き裂く。 === 真空準安定事象 === {{seealso|偽の真空}} 宇宙が寿命の長い[[偽の真空]]([[:en:False vacuum]])であるなら、宇宙は[[トンネル効果]]により低エネルギーの状態になる可能性がある。そのようなことになれば膨大なエネルギーを持ち、光速で宇宙全体へと拡大する泡が発生し、泡に触れた全ての物理的構造は一瞬で破壊される。宇宙内部に存在する物理的構造にとって、この泡は巨大な爆発と同等とみなせる。この泡は光速で拡大するため、事前に観測してから接触を回避することは一切不可能である。従って、[[光速]]を超えられない[[文明]]はこの泡を回避することは出来ない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == *[[宇宙論]] *[[ビッグバン]] *[[元素合成|宇宙の元素合成]] *[[地球史年表]]、[[地質時代]]、[[年表]] *『[[宇宙のエンドゲーム]]』 *[[宇宙カレンダー]] == 外部リンク == {{DEFAULTSORT:うちゆうのねんひよう}} [[Category:宇宙の年表|*]] [[Category:ビッグバン]] [[Category:宇宙論]] [[Category:天文学に関する記事]] [[Category:歴史の一覧|*うちゆうのねんひよう]]
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素粒子物理学
素粒子物理学(そりゅうしぶつりがく、英: particle physics)は、物質の最も基本的な構成要素である素粒子とその運動法則を研究対象とする物理学の一分野である。1950年代以降次々と建設された粒子加速器のおかげで、陽子や中性子と非常に性質の似た素粒子が多く発見され、素粒子物理学は急速に進歩した。 大別して素粒子論(素粒子理論)と素粒子実験からなる。また実証主義、還元主義に則って実験的に素粒子を研究する体系を高エネルギー物理学と呼ぶ。粒子加速器を用い、高エネルギー粒子の衝突反応を観測することで、主に研究が進められることから、そう命名された。現在、実験で必要とされる衝突エネルギーはテラ電子ボルトの領域となり、加速器の規模が非常に大きくなってきている。将来的に建設が検討されている国際リニアコライダーも建設費用は一兆円程度になることが予想されている。また、近年においても、伝統的に非加速器による素粒子物理学の実験的研究が模索されている。 何をもって素粒子とするのかは時代とともに変化してきており、立場によっても違い得るが現在の標準理論の枠組みにおいては、物質粒子として6種類のクォークと6種類のレプトン、力を媒介する粒子としてグルーオン、光子、ウィークボソン、重力子(グラビトン)、さらにヒッグス粒子等が素粒子だと考えられている。超弦理論においては素粒子はすべて弦(ひも)の振動として扱われる。 現代の素粒子物理学は場の理論の枠組みの中で定式化されている。場の理論の中でもっとも重要な役割を果たしているのが、ゲージ場対称性や繰り込み理論の概念である。これらの概念を用いると、素粒子間に働く力である相互作用の構造を明らかにできるとともに、素粒子の崩壊率や散乱振幅などが正確に計算できることが知られている。実際、現在の素粒子物理学の理論である素粒子の標準理論は、場の理論の枠組みの中で構成されている。 これまでに知られている素粒子間に働く力、つまり相互作用には、重力相互作用、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用の4つがある。電磁相互作用とは電気力と磁力のことで、これら2つの力は、1864年にマックスウェルによって実は1つの力であることが証明され、今では電磁相互作用と呼ばれている。強い相互作用とは物質を構成する素粒子(クォーク)間に働く力で、弱い相互作用とはベータ崩壊等に関係する弱い結合の力のことである。どちらの相互作用も原子核の大きさ程度の非常に短距離で働く力であるので、人間のサイズでは見かけることはない。重力以外の3つの相互作用は人間の世界とはかけ離れた大きなエネルギースケールで統一されるとする仮説がある(大統一理論)。
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素粒子物理学は、物質の最も基本的な構成要素である素粒子とその運動法則を研究対象とする物理学の一分野である。1950年代以降次々と建設された粒子加速器のおかげで、陽子や中性子と非常に性質の似た素粒子が多く発見され、素粒子物理学は急速に進歩した。
'''素粒子物理学'''(そりゅうしぶつりがく、{{lang-en-short|particle physics}})は、[[物質]]の最も基本的な構成要素である'''[[素粒子]]'''とその運動法則を研究対象とする[[物理学]]の一分野である。1950年代以降次々と建設された[[加速器|粒子加速器]]のおかげで、[[陽子]]や[[中性子]]と非常に性質の似た素粒子が多く発見され、素粒子物理学は急速に進歩した。 == 概要 == 大別して'''素粒子論'''(素粒子理論)と'''素粒子実験'''からなる。また[[実証主義]]、[[還元主義]]に則って実験的に素粒子を研究する体系を'''[[高エネルギー物理学]]'''と呼ぶ。粒子加速器を用い、高エネルギー粒子の衝突反応を観測することで、主に研究が進められることから、そう命名された。現在、実験で必要とされる衝突エネルギーはテラ[[電子ボルト]]の領域となり、加速器の規模が非常に大きくなってきている。将来的に建設が検討されている[[国際リニアコライダー]]も建設費用は一兆円程度になることが予想されている。また、近年においても、伝統的に非加速器による素粒子物理学の実験的研究が模索されている。 何をもって素粒子とするのかは時代とともに変化してきており、立場によっても違い得るが現在の[[標準模型|標準理論]]の枠組みにおいては、物質粒子として6種類の[[クォーク]]と6種類の[[レプトン (素粒子)|レプトン]]、力を媒介する粒子として[[グルーオン]]、[[光子]]、[[ウィークボソン]]、[[重力子]](グラビトン)、さらに[[ヒッグス粒子]]等が素粒子だと考えられている。[[超弦理論]]においては素粒子はすべて弦(ひも)の振動として扱われる。 現代の素粒子物理学は'''[[場の量子論|場の理論]]'''の枠組みの中で定式化されている。場の理論の中でもっとも重要な役割を果たしているのが、[[ゲージ理論|ゲージ場対称性]]や[[繰り込み|繰り込み理論]]の概念である。これらの概念を用いると、素粒子間に働く力である'''[[基本相互作用|相互作用]]'''の構造を明らかにできるとともに、素粒子の崩壊率や[[散乱振幅]]などが正確に計算できることが知られている。実際、現在の素粒子物理学の理論である素粒子の標準理論は、場の理論の枠組みの中で構成されている。 これまでに知られている素粒子間に働く力、つまり相互作用には、[[重力相互作用]]、[[電磁相互作用]]、[[強い相互作用]]、[[弱い相互作用]]の4つがある。電磁相互作用とは[[電気力]]と[[磁力]]のことで、これら2つの力は、1864年に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル|マックスウェル]]によって実は1つの力であることが証明され、今では電磁相互作用と呼ばれている。強い相互作用とは物質を構成する素粒子(クォーク)間に働く力で、弱い相互作用とは[[ベータ崩壊]]等に関係する弱い結合の力のことである。どちらの相互作用も[[原子核]]の大きさ程度の非常に短距離で働く力であるので、人間のサイズでは見かけることはない。[[重力]]以外の3つの相互作用は人間の世界とはかけ離れた大きなエネルギースケールで統一されるとする仮説がある('''[[大統一理論]]''')。 == 理論 == * [[ゲージ理論]] * [[標準模型|標準理論]] * [[統一場理論|統一理論]] * [[超対称性理論]] * [[超弦理論]] * [[量子重力理論]] * [[大統一理論]] * [[現代宇宙論|素粒子論的宇宙論]] == 参考文献 == * {{cite book | 和書 | author=W. N. コッティンガム, D. A. グリーンウッド | title=素粒子標準模型入門 | editor=樺沢 宇紀(訳) }} == 関連項目 == * [[ポール・ディラック]] * [[湯川秀樹]] * [[高エネルギー物理学]] * [[カミオカンデ]] * [[スーパーカミオカンデ]] * [[高エネルギー加速器研究機構]] * [[欧州原子核研究機構|欧州原子核研究機構(CERN)]] == 外部リンク == * [http://www.phys.u-ryukyu.ac.jp/~ioda/physics.html 素粒子物理学とは] * [https://www.icepp.s.u-tokyo.ac.jp/~asai/Lecture/ 素粒子物理学概論] * [https://www-he.scphys.kyoto-u.ac.jp/gakubu/P2/P2-LS/particlephys0113.pdf 素粒子物理学とは] * [http://osksn2.hep.sci.osaka-u.ac.jp/~naga/kogi/handai-honor08/ 素粒子と宇宙] * [http://www2.kobe-u.ac.jp/~lim/kougi-note11-pdf/soryuushi-note-saisyu.pdf 素粒子と宇宙] * [http://www.hepl.phys.nagoya-u.ac.jp/~makoto.nagoya/lectures/ParticlePhysics_3_2017/01_20171006.pdf 素粒子物理学] {{Physics-footer}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そりゆうしふつりかく}} [[Category:素粒子物理学|*]] [[Category:物理学の分野]]
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軍事
軍事(、英: military affairs、羅: res militaris)とは、戦争・軍人・軍隊などに関する事柄の総称である。 軍事は、公共的利益と政治的な重要性を伴うものである。軍事は民事と共に国際関係を扱う分野の一つであり、外交や経済などと並ぶ政府の主要な行政機能の一つに位置づけられる。軍事がなぜ公益と重要性を伴っているかを理解する上で、フィレンツェの政治思想家であるニッコロ・マキアヴェリの見解が参考となる。彼は『政略論』において「戦いに訴えねばならない場合に、自国民からなる軍隊をもっていない指導者は国家は恥じてしかるべきだと思う」と論じている。なぜならば、自らの安全を自力で確保する意志がなければ、国家の独立と平和を期待することはできないからである。戦争が勃発することは不可避であり、それに対処するために軍備が必要であるという現実主義の政治思想は軍事の基本的な考え方となっている。 軍事の基本的な問題とは軍隊の根本的な任務である戦争における戦闘に勝利することにあると要約することができる。ただしこの基本的な問題に関しても幅広い視角が存在している。例えば自然科学の視角から軍事問題を観察すれば、戦場の地理学的特性、戦闘で使用される武器や兵器などの工学的性能、戦闘力や戦闘行動の数学的な性質などの側面が認められる。これに社会科学の視点を導入すれば、戦闘行動をより大局的な観点から指導している国家の安全保障政策や国際法との関係、軍隊を支える国家の行政機能、戦闘を組織化する戦略と戦術、そして作戦計画を具体化するための補給や輸送、通信などの兵站活動などの多くの側面があることが分かる。さらに人文科学の視座を持ち込めば、戦争に関する文学的記述、戦闘の様相に関する歴史的観察、戦闘における兵士の心理的反応などの着眼点も指摘することができる。つまり軍事とは軍隊の活動である戦争と戦闘において勝利するための諸々の問題であるが、広義においては上記で述べたような複雑な諸問題を含んでいる。 複雑さに加えて軍事という問題は時代に応じて流動的である。軍隊の使命は歴史を経て変化しつつあり、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが『歴史』で叙述したペルシア戦争において軍隊は敵の軍隊を殲滅することのみを使命としていた。しかし近代においてポーランドの戦争研究者イヴァン・ブロッホは『将来の戦争』では戦争が軍事技術の進歩によって大量の損害を伴う長期戦に発展すると論じ、第一次世界大戦、第二次世界大戦の様相を予測した。また冷戦後ではイギリスの軍人ルパート・スミスが『軍事力の有用性』で戦争の歴史的変容を指摘しており、戦争は国家の武力衝突や敵軍の殲滅、領土の占領に特徴付けられるものではなく、人々の間で生じる戦争、前線と後方の混在などに特徴付けられる戦争に変化していると論じた。三者は一様に戦争について論じているものの、その問題意識はそれぞれ異なっている。ヘロドトスが描いた戦争では戦場で刀剣などで武装した両軍が機動や打撃を行っていたが、ブロッホが予測した戦争においては高度な火力戦闘を行う両軍が決定的戦果を挙げることができることなく全ての国力を動員した長期戦となり、スミスの戦争観では敵の存在が不明確な混乱地帯において軍隊が行動するというものである。このように軍事において問題意識の力点が変化し続けており、現在において新しい課題が出現し続けている。 軍事の全般的な理解のために、ここでは主に社会科学の見地から述べており、そのため本項目では軍事に関する基本的な主題を戦争、軍事システム、戦争能力、軍事ドクトリンとまとめている。これら四つの主題に沿って、戦争の理論的枠組み、戦争の一つの形態である総力戦、制限戦争、ゲリラ戦の特性、戦争の政治理論としての国際政治の問題、戦争法の枠組み、国防の基本概念、軍隊の制度的成り立ち、指揮統制の基本システム、軍事教育のあり方、政府と軍隊の関係、軍事能力の機能と種類、陸上戦力、海上戦力、航空戦力の概念、軍事力を支える経済的基盤、そして軍事行動を指導する安全保障政策、軍事戦略、戦術、兵站、そして戦争以外の作戦について説明する。詳細については個別の記事で述べている。また本項目では取り上げられなかった戦争や軍隊、戦闘の歴史的説明については軍事史を、工学的見地に基づく諸々の装備については兵器を、各国の軍事情勢については各国の軍事や各国の軍隊の一覧から該当する記事を参照されたい。 戦争が国家の存亡を決定する極めて重大な出来事であることは古来から『孫子』が論じてきたことである。戦争において国家は敵の軍事力によって安全を脅かされる事態に直面するのであり、それは領土や都市の破壊と占領、国民の生存とその財産所有権の侵害、政治的自由や独立の制限などの方法で行われる。同時に戦争は社会現象の中でも特に分析が難しい複雑な主題の一つであり、戦闘などの軍事的な出来事だけで生じるのではなく、対外政策や国内での政治過程などの政治的文脈に基づいて生起するものである。しかもその展開においては戦時特有の動員や生産などの経済的要素、国民心理などの社会的要素と関連するものである。しかも戦争は敵国と自国の相互作用によって生じた結果であるため、戦争において最適な意思決定が何であるかを明確に理論化することはできない。つまり重大な戦争の原因とその実態を理解するためには、その複雑性を概観できる理論的な把握が必要となる。 プロイセンの軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』において戦争の一般理論を構築した戦略家である。彼は二人の間での決闘に戦争をなぞらえた上で、戦争とは「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と説明しようとした。そして戦争において生じる暴力は相互作用によって無制限に極大化する法則があることを明らかにした上で、そのような戦争を絶対戦争として定式化した。絶対戦争では軍事的な合理性の下であらゆる事柄が徹底的に合理化され、最大限の軍事力が敵を殲滅するために使用されることになる。ただし戦争は単に軍事において完結する現象ではないことにクラウゼヴィッツは注意を払っており、この絶対戦争のような形式が現実に起こっている戦争とは異なることを認識していた。つまり戦争は固有の法則に従って無制限に暴力性を高めるだけではなく、その戦争行為を制限することができる政治的目的を伴うものである。戦争の発生には必ず外交的または経済的、心理的な情勢が起因しており、あらゆる戦争は政治的目的を究極的には達成しようと指導されるものである。このクラウゼヴィッツの戦争理論は「戦争は他の手段を以ってする政治の継続である」と理解されており、戦略研究では広く参照されている。 しかし現代の戦略研究ではクラウゼヴィッツが前提としていた主権国家による戦争が戦争の全てではないことが分かっている。非国家主体によって戦争が遂行される可能性を提唱したのは社会主義の政治イデオロギーを掲げて革命戦争を指導したマルクス主義者たちであった。レーニンはクラウゼヴィッツが定式化した戦争と政治の関係を再解釈し、政治を武力によらない戦争、戦争を武力による政治であると捉えて革命戦争の理論に適用した。このことでパルチザン部隊による戦争の形態が成立することになり、国家と国家の戦争という図式は陳腐化することになった。またクラウゼヴィッツに対する批判を展開する戦略研究者のマーチン・ファン・クレフェルトは『戦争の変遷』において戦争の歴史的事例に基づいて理論を構築している。クラウゼヴィッツの戦争理論での国家の前提は政府、軍隊、国民から成立している三位一体の戦争モデルであったが、クレフェルトは非三位一体の戦争が存在することを指摘しており、したがってクラウゼヴィッツの理論が主権国家による戦争に限定されたモデルであると論じている。つまり必ずしも戦争は理性的な政治の延長ではなく、むしろ宗教や正義などの価値観を実現するための手段として行われているものと考える。 総力戦 (Total war) とは戦争が採りうる形態の一つであり、軍事力の行使だけでなく、軍事力を支える経済的基盤を構成する工業生産力や労働力の総動員、民間人の全国的な戦争協力、そして戦争遂行を正当化するためのイデオロギーや思想の宣伝活動などを伴うような、国家の総力を挙げる戦争遂行の形式である。このような概念を提唱したのは第一次世界大戦で敗北したドイツ軍を指導した軍人エーリッヒ・ルーデンドルフであった。ルーデンドルフは著作『総力戦』の中で第一次世界大戦を契機に戦争の主体が政府と軍隊だけではなく民衆を巻き込んで遂行される形式へと変化したことを指摘し、これを総力戦と命名した。総力戦の概念の画期性とは従来の戦争が戦場での軍事行動で完結していたものから、銃後の経済活動や生活までもが軍事行動と結び付けられたことである。したがって、総力戦においては海上封鎖や戦略爆撃のように敵の経済活動を破壊するための行動が継続的に行われ、また敵の抗戦意志を減耗させるためにラジオやビラなどのマスメディアを利用した思想宣伝を実施する。これらに対抗するために経済活動は政府により統制され、人員や物資、情報などは軍事作戦を支援するために配分、管理される。ルーデンドルフは特にドイツ敗戦を招いた原因として革命運動を指示するような思想的要因を重要視しており、国民士気の低下はドイツ軍の士気そのものに悪影響を及ぼしていたと述べている。そのために総力戦を遂行するためには総力政治が不可欠であると主張している。総力政治は総力戦に関わるあらゆる要素を統制する機能を担っており、単独の指導者によって総力政治は実践されなければならない。つまり総力戦とは従来の武力紛争だけではなく、経済紛争や情報紛争が結合した複合的な戦争のあり方であり、核兵器が存在する現代においては核戦争を意味するものである。 制限戦争 (Limited war) とは軍事力を抑制的に行使することで、戦争のエスカレーションを制御することを可能とする戦争の形態の一種である。アメリカの外交官ヘンリー・キッシンジャーは『核兵器と外交政策』このような戦争を「特定の政治目的のため(中略)相手の意志を押しつぶすのではなく、影響を及ぼし、課せられる条件で抵抗するより魅力的であると思わせ、特定の目標を達成せんとする」戦争と描写した。つまり限定戦争の主眼とは、軍事力だけで敵に我の意志を全面的に強制するのではなく、外交交渉を交えながら軍事作戦を遂行することで、目標を達成する手段として戦争の規模や程度を抑制することにある。キッシンジャーは核兵器の登場によって戦争そのものが遂行不可能になるという見解を退け、この限定戦争に基づいた限定核戦争という戦争方式を提唱した。事実、核兵器が登場してからも朝鮮戦争やインドシナ戦争などの戦争が勃発しており、これらは限定戦争の形式に則って遂行されている。限定戦争を成り立たせている外交は通常の外交と区別されており、アメリカの政治学者アレキサンダー・ジョージなどの研究者たちによって強制外交と呼ばれている。強制外交が敵との間で成立するためには、彼我双方にとって軍事行動に伴う損害を抑制する意図を共有しなければならず、戦略防勢の立場を採るために作戦の主導権を喪失する危険が伴うが、総力戦と比べて最小限の費用と危険で目的を達成する選択肢とされている。 ゲリラ戦争(Guerrilla Warfare)または革命戦争とは本質的に国家に対する非国家主体により遂行される戦争の形態である。このような戦争の形態が成立した背景にはマルクス主義を指向する政治運動があり、ロシア革命、キューバ革命、国共内戦などの革命が勃発したことで、ゲリラ戦争のあり方が研究されてきた。革命家でありながらゲリラ戦争の理論を確立した毛沢東はゲリラ戦争には正規軍によって遂行される在来戦争とは異なる背景を持った固有の領域があることを指摘し、『遊撃戦論』でこの問題を論考している。ゲリラ戦争の特徴とは戦略防勢の立場に置かれながらも、分散された小規模な部隊による急襲で敵に連続的に損害を強いることで戦争そのものを主導することにある。したがって、ゲリラ戦争において短期決戦は発生せず、決戦を想定した戦闘部隊は必ずしも優位ではなくなる。革命家チェ・ゲバラは『ゲリラ戦争』においてゲリラ戦争を成立させるための戦略と戦術について論じている。そこでは負ける戦いを避け、常に遊撃し、敵から武器を略取し、行動は秘匿し、奇襲を活用するというゲリラ戦の原則が示されている。ゲリラ戦争は戦略的には防勢に置かれるが、しかし一撃離脱を繰り返すゲリラ戦士は決して包囲殲滅されることはないために、戦争の主導権を維持することができる。 戦争法とは戦争行為を規制する戦時における国際法である。これは今日では武力紛争法や人道国際法とも呼ばれる場合がある。現実主義の立場に立つならば、戦争は本質的には道徳や法律によって規制することはできるものではない。したがって戦争法が存在する価値を認めることはできないものである。しかしながら、国際政治学におけるもう一つの立場である理想主義に立脚するならば、戦争は決して許容できないものである。このような考え方は人文主義者エラスムスが『平和の訴え』において「およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです」と論じたことで表現される。戦争を回避するためにあらゆる戦争行為は禁じられなければならない。しかしこの現実主義と理想主義のような全面的な肯定と否定の間に立つもう一つの立場がある。それは国際法学者フーゴー・グロティウスが「二つの極端な説に治療を施し、なにも許されないとか、すべてが許される、などと信じ込むことがないようにしなければならない」と表現した、条件付きで戦争行為を許容する立場である。その条件を法的理論として発展させたものが戦争法であると言える。 戦争法には開戦法規と交戦法規という二つの基本的な部門がある。開戦法規とはどのような場合において戦争を開始することができるのかを定めた法であり、交戦法規はどのような手段によって戦争を遂行することができるのかを定める法である。開戦法規に関しては主権国家は政策の手段として戦争に訴える権利を持っていたが、1929年の「戦争放棄ニ関スル条約」によって武力行使の違法化が進み、現在では国連憲章の下で他国の領土保全や政治的独立に対する武力行使や国連の国際平和の維持するという目的と相反する武力行使を違法化した。もし国家が侵略を受けた場合には個別的、集団的自衛権を行使して防衛することができるが、同時に国連は侵略国に対して集団安全保障に基づいて武力制裁を含めた制裁措置が可能である。ただし自衛権を行使する判断は国家が判断することができるが、国連が制裁措置を行う場合には安全保障理事会による決議が必要であり、常任理事国の全員の同意が必要である。 交戦法規に関しては、もともとは騎士道の規範に基づいて非人道的な殺戮・破壊活動を規制していたが、近代の軍事技術の発達によって戦闘の様相が変化すると新しく交戦法規を確立しなければならなくなった。交戦法規の一般的な原則は効率性と人道性の均衡ある両立であり、これは攻撃目標を選定する場合において、任務の達成のために市街地と軍事基地の二つが選択可能であるならば、不必要な犠牲が出る可能性がより少ない軍事基地を攻撃するべきであるという原則である。交戦法規の大系においては攻撃目標や攻撃禁止目標、合法的な戦闘手段や方法、非戦闘員の保護、中立国の権利保護などの細目があり、これらの規則は作戦行動において指揮官の責任を以って遵守しなければならない。この戦時国際法に対する違反があり、その行為の責任者がいる場合には、戦争犯罪として裁かれなければならない。1990年代に戦争犯罪への措置は強化され、ボスニア・ヘルツェゴビナで非人道的な紛争が発生した際には国連安全保障理事会は国際裁判所を設立して戦犯を裁き、1998年には常設の国際刑事裁判所既定が国連の外交会議で採択された。 国防とは脅威に対して国家の安全を確保することであり、幅広い範囲で捉えられる国家安全保障の意味で用いられる場合と軍事力による防衛の意味で用いられる場合がある。ここでの国家とは領域、国民、主権の三要素から成り立っている政治的な共同体である。領域は国家の排他的な支配権が及ぶ地理的範囲であり、領土、領海、領空に区別される。領域において生活する国家の構成員とは国民であり、国民はその国家の主権に服従する。国家の主権とは国家のあり方を国家の構成員が政治決定する権利であり、その具体的な構成は国家体制によって国ごとに異なっている。このように成立している国家の内部的構成を概観すれば、国家は物理的な手段によって打撃を与えることができることが分かる。国家は領域の奪取や国民の殺傷によってその統治能力を低下させる可能性がありうるのであり、そのような事態に対処するために国防の準備が必要となる。 国防は国家を単に守ることではなく、脅威から国家を守ることである。国防において脅威とは国家の存続や利益を脅かす他者の存在や能力、行動を指す。それは武力による威嚇、領空侵犯、領海侵犯、海上交通路での通商破壊、ミサイルや航空機による攻撃、全面的な武力行使、などの軍事的脅威が主なものである。ただし、海上封鎖などによる経済制裁は経済的脅威、大規模な内乱などの政治的脅威などの存在を指摘することもできるが、ここでは軍事的脅威について述べる。軍事的脅威の程度を判断する基礎は軍事力とそれを行使する意志である。軍事力は現有兵力と動員兵力、装備と兵員の配備状況などから定量的に評価することが可能である。しかし意志については相手国の政策決定者の思考から評価するしかなく、そのために国家政策や作戦計画などから定性的に推測することになり、判断が難しい。また環境条件が相手国にとって有利かどうかも重要な判断材料となる。国際環境の不安定化や国家の内部分裂による外部勢力の介入などは進攻を決定する際に有利な一般情勢である。 国防は脅威から国家を守ることであるが、そのためには手段が必要である。その手段として軍事力が中心であると考えられているが、非軍事的要素についても注目されている。政治学者モーゲンソーは国家の国力の構成要素として軍備以外に地理、人口、工業力、資源、国民性、国民士気、政府や外交の性質を上げており、また政治学者クラインも領土、人口、経済力、国家戦略を遂行する意志、戦略目的という構成要素を列挙している。このような幅広い国力要素が出現した背景には総力戦や革命戦争、核戦争に特徴付けられるように、戦争の範囲が戦闘だけでない社会全体に及ぶように変化したことが理由として挙げられる。このような国防能力を使用する国防政策として単独による国防だけではなく、同盟による共同防衛や集団的安全保障、中立政策などがある。 軍隊は一定の規律・組織に基づいて編制された武装組織である。しかし今日の軍隊はそれ自体で独立した組織ではなく、国家の枠組みに基づいて政府組織の権力の下で組織されている。したがってその組織のあり方は国によってさまざまであり、その社会事情に関連して社会階層が部隊編制に反映されている場合や、政治権力と一体化している場合もある。アケメネス朝の軍隊は貴族である騎兵部隊が主力となり、農奴から構成される歩兵部隊が補助的役割を任せられていたが、始皇帝は一般公募に応募した人々で編制された軍隊で中国を統一した。中世ヨーロッパでは封建制を背景とした騎士階級が軍事的義務を果たし、名誉を認められていた。しかし近代において新しい軍事技術である小銃や火砲が戦闘に導入され、フランスの軍人ギベールが『戦術一般論』が述べたような国民軍がフランス革命を契機に成立すると、その後ヨーロッパ諸国もその軍制へ移行していく。近代ヨーロッパの情勢を背景とした軍事制度についてスイスの軍人ジョミニは軍隊の構成要素を列挙している。それは徴募組織、部隊編成、予備役、行政管理、軍紀、報酬制度、砲兵や工兵などの特技兵科、攻防両面における装備、戦術教育の機能を備えた参謀本部、兵站組織、指揮系統の制度、国民の戦闘精神を喚起することである。これら要素を備えていることが、ジョミニが強調しているように近代軍として不可欠の要素であると考えられる。 軍隊組織の理論の観点から見るならば、軍隊は組織としてはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが定式化した官僚制のモデルの典型例である。つまり規則による職務権限の配分、階級制度に基づいた指揮系統、文章による事務処理、専門性を備えた職員の公平な選抜などの合理的な組織運営が行われている組織である。同時に軍隊は専門的な職業団体でもあり、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは軍隊が暴力の管理に関する専門知識と責任、団体性を備えた職業集団であることを将校団の分析から論証した。独自の行動様式や参加手続、共通経験を持つ職業集団であるために軍事問題に特化した組織的能力を派発揮することが可能であり、このような軍隊の職業的性格こそが近代軍の基礎となった。プロイセンが創設した軍事学の研究機関である陸軍大学と参謀本部は職業軍人を育成するための機関であり、ドイツの軍人モルトケとシュリーフェンの職業軍人としての立場は政治野心を持つべきではないという軍人の職業倫理の模範を示した。 軍隊の組織構造は地域や時代によってそれぞれ異なるが、軍隊は他の文民組織とは異なる固有の組織構造を形成している。軍隊の体制は軍事作戦の部門、軍事行政の部門、そして軍事司法の部門に大別することができる。軍隊において軍事作戦は最も基本的な部門であり、幕僚によって補佐された指揮官が任務を達成するために部隊を指揮する。各部隊にはさらに下級部隊が組織されていることによって指揮系統が形成されている。軍事行政の部門においては、部隊に予算や兵員、装備を提供することは軍隊ではなく国防省や防衛省などの行政機関によって実施される。軍事行政は政府の一員である大臣が指導する官僚によって軍事力を開発、維持、管理する。加えて軍事司法の部門においては立法府によって制定された軍法に部隊は服従しなければならない。フランスの軍人マルモンは軍隊で起こった犯罪は国家の司法権と軍隊の指揮権を調整しながら法に基づいて裁かなければならないと『軍制要論』で論じている。軍法は任務の放棄や敵前逃亡、利敵行為などの行為を軍事犯罪と定めており、軽微な犯罪であればその部隊の指揮官が決裁によって処罰することができるが、重大な軍事犯罪であると見なされれば軍法会議が召集され、その判決に基づいて刑が執行されることになる。 軍事システムにおいて指揮統制とは指揮官が任務を達成するために隷下の部隊の作戦運用を指導するために必要な施設、通信、人員、そして手順の総体であり、軍隊の神経系と言うべき機能を果たしている。この指揮統制の複合的機能を整理すると、それは指揮、統制、通信、コンピュータそして諜報の機能から成り立っており、英語の頭文字からC4Iシステムと要約される。このシステムに基づいて情報資料を諜報により獲得し、コンピュータにより情報処理を行った上で指揮官はそれを通信で知らされる。そして意思決定が下った後には再び通信によって各部隊に対して指揮権に基づいて命令が各部隊に発せられる。これは必ずしも近代以後の軍事技術だけに合致する概念ではなく、古代の軍事組織においても指揮官は歩哨や間諜がもたらす報告を、伝令や狼煙、音響によって通信伝達され、幕僚や軍師による状況分析を参考にしながら状況判断を行って命令を発していた。現代ではこの情報のやり取りをさらに発展させ、国防体制において指揮統制の体系は早期警戒衛星システムや長距離レーダーなどの諜報活動の手段を活用し、専門化された情報分析官から成る情報機関が情報資料を分析し、幕僚本部や安全保障会議が指揮官を補佐し、しかも無線中継システムにより通信網を確保しているために、より迅速で詳細な意思決定と大量の情報伝達が可能となっている。 軍事教育とは軍人に必要な能力を付与するための教育、訓練、演習の体系である。軍事教育の重要性は古代ギリシアから認識されており、体力と戦闘技術を練成し、部隊の団結と規律を高めることで戦闘力を改善することが軍隊で行われていた。マキアヴェッリは国民軍の創設にあたって軍事教育の重要性を指摘し、部隊の錬度に応じて教育水準を段階的に高めることを示している。オランダ軍のマウリッツ公は基本教練を教範類としてまとめたことで、規律正しく部隊に行動させる操典が各国軍で確立されていった。またプロイセン軍ではシャルンホルストなどの功績により高級指揮官を育成する陸軍大学校が創設され、高級将校教育の原型を確立している。このような軍事教育の整備がなされるようになった背景には18世紀における軍事科学の成立があり、ビューロー、ロイド、ギベールなどが展開した科学的方法を重要視した軍事思想によって、それまで断片的であった経験や知識が概念、モデル、理論に基づいて体系化されていった。軍隊で行われている教育体系はまず陸海空軍に設置された教育部隊で基本教練、基礎的な歩兵としての戦闘訓練などを新兵教育の課程で受けることになる。しかし陸海空軍の軍種、そして兵卒、下士官、将校という階級によってその後の訓練内容は細分化されており、小銃射撃の能力を付与する射撃訓練から大規模な戦力を運用する能力を付与する図上戦術まで分かれている。これら教育訓練で付与された能力を評価する方法として閲兵や想定された状況で実際に行動する軍事演習を実施することが行われている。 政軍関係とは政府と軍隊の関係のあり方であり、政治はあらゆる軍事行動の上位に位置して目標を規定するべきであると考えられている。その理由としてクラウゼヴィッツの「戦争は他の手段を以ってする政治の延長である」という命題が引用できる。軍事力は侵略・防衛のために運用されるものであるが、それは政治の意志に従属するものであり、このことは文民統制の理念として知られている。ハンチントンは『軍人と国家』において軍隊の本来的なあり方について職業主義の概念を使用して分析している。そして軍隊は軍事的な職業主義を最大限に発揮することで軍隊は軍事に専門化し、政治に介入する動機や機会は失われると論じた。このような職掌主義を最大化する政軍関係をもたらすための文民統制を客体的文民統制と呼んでおり、これは主体的に政府が軍隊に介入するのではなく、政府と軍隊を分離した上で客体として統制する方式である。 ただしこのハンチントンの客体的文民統制とそれによりもたらされる職業主義の概念は批判を受けている。社会学者ジャノヴィッツはそもそも軍人が政治化することは不可避的な事態であり、軍人は国益の保護者である以上、政治決定に対して国益を保護するように介入する権利を持っていると考える。そのため、軍人が文民の価値観を持つことで文民統制が実現されると主張した。そして具体的には軍隊に対して行政や立法府の監視を強め、軍隊の職業訓練に文民が介入すること有効性を述べている。またファイナーはさまざまな軍によるクーデタの事例を示しながら軍隊の政治介入を防止するために文民の絶対的な優位性に軍人が従属しなければならないと論じた。ファイナーも『馬上の人』において軍人が政治に介入することは軍人の宿命であり、特に政治文化が未熟な国家においては文民政治家にはそれほど正統性が認められないために政治介入に至る傾向があると考えた。 軍事力とは平時、戦時において国家の政策の目標を達成または支援するために活用される能力であり、これは政治的、経済的、社会的、軍事的な資源から構成されている。根本的に軍事力とは人間や装備から組織化された暴力であり、この組織的、技術的な組合せや計画的運用によって平時での抑止、危機管理、戦争での攻撃や防御などの能力が左右される。軍事力の機能は基本的には安全保障に関する、抑止、強制および抵抗の三種類にまとめることができる。抑止とは敵の軍事行動を思いとどまらせる機能であり、これは敵に対抗可能な軍事力を準備することで果たすことができる機能である。一方で強制や抵抗はより直接的な機能である。強制は自分の意志を相手に強制する機能であり、威嚇的な軍事力から全面的な攻撃など幅広い軍事行動の機能に該当する。逆に抵抗は相手の強制を退ける機能であり、威嚇的な軍事行動への対処や徹底抗戦にわたる軍事行動の機能が該当する。 軍事力の構成要素を理解するためには物質的要素だけではなく精神的要素を考慮することが重要であることが論じられている。フランスの軍人モーリス・ド・サックスは軍隊の精神的要素を発見した軍人であり、著作『我が瞑想』の中で「戦争にまつわる、あらゆる事柄は人間の「こころ」に端を発する」と述べている。サックスは自らの軍務経験から軍隊の士気が重要な働きを持つことを軍事思想として展開した。したがって軍事力の構成要素には軍用車両、軍艦、軍用機などの有形の戦力だけではなく、指揮統制能力、兵站能力、錬度や士気などの無形の戦力から成り立っていると考えられている。さらに軍事力の潜在的な構成要素である政府の指導力や外交力などの政治力、軍需産業や備蓄資源などの経済力、技術革新を進めるための科学技術力、軍隊に対する国民的支持などを考慮することも可能である。 軍事力の構成要素は単に集合しているのではなく、戦闘教義の下で有機的に統合された能力である。戦闘教義は軍事史において装備の革新や部隊編成を伴いながら変革されてきた。古代ローマの軍事学者ヴェゲティウスは古代ローマの軍制についての研究を通じてレギオンと呼ばれた戦闘教義を記している。レギオンは120名の中隊を三列で間隔を保って横隊に戦闘展開して作戦するものであり、必要に応じた疎開や密集、機動が可能となっている。レギオンは古代ローマの戦闘教義であっただけでなく、近世における軍事思想史でマキアヴェリの『戦術論』によって模範として参照されている。現代のアメリカの軍事学者ビドルは『軍事力 (ビドル)』の中で軍事力の運用方法に注目して近代的軍事力の特徴を近代システムであると主張する。近代システムとは射撃と運動の組織的な連携であり、第一次世界大戦でドイツ軍により本格的に導入されて戦果を挙げた。現在では、軍事力はDOTMLPF(ドクトリン、オーガニゼーション、トレーニング、軍需品、ロジスティックス、リーダーシップ、人事、施設の略)の総合力としてのケイパビリティとして把握するのが、アメリカを中心とした西側先進国で常識化しており、望ましい軍事ケイパビリティを達成するための軍事能力の分野別の軍事能力の不足(ケイパビリティギャップ)の数量的把握とそれに対する合理的な対処が制度化されている。 陸上戦力とは陸上において作戦行動する能力を持つ戦力である。陸上戦力の役割とは人間の本来的な生活領域である陸上において軍事作戦を展開することであり、陸上戦力を代表する軍事組織としては陸軍がある。ただし治安部隊や国境警備隊、また場合によっては海兵隊や陸戦隊も陸上戦力として機能することができる。陸上戦力が活動する陸上には土地、資源、そして住民の三つの基本的要素が存在するが、陸上戦力はそれらを統制下に置くことが可能である。これら三つの要素はいずれも密接に関連しており、土地を支配することはその地域の交通を管制することになるため、天然資源の使用を制約することが可能となり、同時にそれは住民生活に必要な物資を統制することをも可能とする。陸上戦力はその特性から地形と密接に関係するものであり、運用によって地形を戦力化することが可能である一方で、森林、市街、砂漠、山岳などの地形によって弱体化される可能性もある。 陸上戦力の戦略的役割を表現するランドパワーと呼ばれる概念がある。イギリスの地政学者ハルフォード・マッキンダーは『デモクラシーの理想と現実』においてランドパワーとは海洋に対して大陸に根拠地を持つ勢力を指す地政学の概念である。マッキンダーによれば世界の覇権を獲得するためにはユーラシア大陸の内陸部に位置するハートランドを支配することが重要であると論じた。つまりハートランドから投射されるランドパワーは全世界的な支配権を確立することができる。加えてこの大陸に基づいた戦略思想を展開したドイツの地政学者には『太平洋地政学』の著者であるカール・ハウスホーファーがいる。ハウスホーファーは第一次世界大戦で敗北したドイツが自給自足するために必要な生存圏をユーラシアからアフリカに至る地域と定め、アメリカ、日本、ロシアとともに世界を分割する統合地域理論を主張した。 陸上戦力の具体的な組成について観察すれば、その最小単位の部隊である分隊から出発し、小隊、中隊、大隊、連隊そして師団という部隊編制が採用されている。これは師団制度と呼ばれる部隊編制であり、この師団制度に基づいて歩兵、砲兵、機構などの戦闘兵科を担う各部隊が師団の中で組織されている。近代的な師団制度は歴史的にはスウェーデンの国王グスタフ・アドルフによって確立されたものであり、今日の陸軍の部隊編制でも広く採用されている。また近代以後では火器の破壊力が向上したために要塞を使用する効率性が失われ、機動力を活用することが重視されるようになっている。ドイツの軍人ハインツ・グデーリアンによって実践された電撃戦は近代陸上作戦において戦車の最大限に活用した戦闘教義であり、現在でも陸上戦力にとって機甲部隊の重要性は変わっていない。 海上戦力とは海洋において戦闘力を発揮する戦力の形態であり、海軍によって海上戦力は造成、運用されている。しかし海軍だけでなく沿岸警備隊も海上戦力として把握することは可能である。人間の生活にとって海洋という地理的環境は陸地の住民にとっては障害となるが、船舶や港湾などの交通手段が確立されれば広大な交通路となるものである。海上交通によって大量の物資の輸送やその輸送を通じた沿岸地域または海外地域との交易で得られる経済的便益がもたらされる。海上戦力とはこの海上交通路を保持して管制する意義があり、さらに敵の海上交通を防止する意味もある。海洋の環境は気象や海象によって変化するが、それを戦力として活用することは困難であり、戦力の優劣がそのまま戦闘結果に反映されやすい。 海上戦力の戦略家として代表的な人物にアメリカの戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンがいる。マハンは『海上権力史論』や『海軍戦略』などの著作があり、海洋が巨大な公道であり、海上交通の防衛が海軍の最重要目的であると指摘した。そして生産、海運、植民地を連環として繋ぐ能力としてシーパワーの概念を提起する。シーパワーは海上戦力だけでなく、地理的位置や自然的形態、領土範囲、人口、国民性、政府の性格など海洋に関する総合能力である。マハンと同じく海上戦力の戦略的意義を論じたイギリスの戦略家にジュリアン・コーベットがいる。コーベットは『海洋戦略の諸原則』で海軍だけでなく陸軍との連携を位置づける制限戦争の戦略を研究しており、僅かな陸上戦力でも戦争目的を制限し、敵を海上戦力で孤立化できる地域に派遣するならば、勝利することが可能であると論じた。 海上戦力は基本的に洋上展開能力を持つ艦艇、航空機を単位として組織される戦力である。艦艇は船舶工学の発達にともなってさまざまな艦種が開発されてきたが、現代においては潜水艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、フリゲート、掃海艇、給油艦などの艦種がある。これらの艦種は排水量が異なるだけでなく、それに応じて火砲やミサイルなどの兵装も異なる。しかも航空母艦の航空戦力を運用する能力や潜水艦の潜水能力は他の水上艦艇とは異なる能力として特別に設計されている。これら艦艇は艦隊として編制され、艦隊は各艦艇が保有する水上戦闘、対戦戦闘、対空戦闘などの戦闘機能を組み合わせて総合的戦闘力を発揮できなければならない。海軍の航空機は哨戒機が哨戒任務に就き、機動力を駆使して広大な海域のパトロールを行なう。海軍はその水域の制海権を確保するために艦隊決戦や航空打撃戦、海上封鎖などによって敵の艦隊を妨げ、自国のシーレーンを保護し、敵のシーレーンを封殺する。 航空戦力は空中で戦闘力を発揮することが可能な戦力であり、空軍がこの航空戦力を組織している。航空戦力が経由する空中には陸地や海洋とは異なる地理的特性があり、地球上あらゆる地点に直接的に接触することが可能な唯一の空間である。また航空機は陸上や海上の交通手段と比較して短時間で広範囲に及ぶ移動・輸送能力を発揮することが可能である。さらに現代社会において飛行場と航空機などによって形成されている航空路は海上交通路と並ぶ重要な交通手段である。ただし航空戦力は迅速に機動することが可能であるものの、その戦闘力は他の戦力と比べて短時間で消耗してしまう。なぜならば、航空戦力の本質的要素は航空機であるために、滞空するだけでも燃料を消費し、また搭載可能な兵装も制約されている。したがって地上また空中での燃料や弾薬の補給、航空要員の交替を行う必要が出てくるのである。 航空戦力の戦略的効果について論じたイタリアの軍人ジュリオ・ドゥーエは第一次世界大戦で航空機の軍事的な可能性を発見し、『制空』において独立空軍の効率性を主張した。その理由として航空機が持つ飛距離が拡大したことで敵の前線を超えて後方地域に戦略爆撃を行うことが可能になったためであり、そのため制空権の争奪がこれからの戦争の主要な基軸となるためであった。同様にアメリカの軍人ウィリアム・ミッチェルも『空軍による防衛』においてこれからの戦争の主力は航空戦力であり、独立空軍の創設を主張している。彼らの主張は当初は支持されなかったが、第二次世界大戦で航空戦力の有効性は認識されるようになる。イギリスの軍人ウィリアム・テッダーは第二次世界大戦での航空戦力の働きを踏まえて、『戦争における空軍力』で航空優勢が陸海空いずれの作戦にとっても不可欠であると述べて航空戦力の普遍的な重要性を論じた。 航空戦力の本質にあるものは航空機であるが、この航空機もその偵察、戦闘、爆撃などの目的からさまざまな設計が施される。軍用機の種類としては偵察機、戦闘機、攻撃機、爆撃機、電子戦機、空中給油機などの種類がある。しかし航空機の航空能力を継続的に発揮するために必要な航空基地も不可欠な要素である。航空基地での航空管制や後方支援の機能により航空機は航行が可能となる。航空機は戦術的機能を統合した航空団などに編制され、航空偵察、対航空作戦、航空阻止、近接航空支援、戦略爆撃などの航空作戦で運用される。 戦争能力は軍事力だけでなく経済的要素は国力の重要な構成要素である。なぜならば、経済が成長していれば政府は増加する税収から財政における軍事費の割合を拡大することが容易となるからである。ただし財政における軍事費の問題はいわゆる大砲とバターの支出がトレードオフの関係にある問題として把握されており、したがって自由主義の観点からしばしば軍備は民生を圧迫する危険性が指摘される。一方でケインズ主義の立場に立てば軍拡は公共事業の一環として考えることも可能であり、このように拡大する軍需で成長した軍需産業の構造は軍産複合体と呼ばれる。戦争能力における経済力とは軍事力の要素である兵器を供給するための労働力や資源、生産設備、資本などから判断できる。戦争に必要な経済力を獲得するために社会主義的な経済統制が実施される場合があり、戦時動員や配給制が具体的な施策として導入することができる。逆に敵の経済力を低下させるための政府や軍隊の経済対策として、経済制裁、通商破壊、海上封鎖、航空封鎖、市場価格への介入などが実施することが可能である。 経済と軍備の関係について検討した経済学者にイギリスの経済学者アダム・スミスがいる。スミスは『国富論』で市場経済の自由放任が財を適切に配分する原理を論じた。そして経済の自然な成長や植民地の運営のためには軍事力や行政能力が必要であり、またこれらは政府の財政状況に応じた規模に調整することを主張している。軍事力の造成のために必要な産業政策を論じたアメリカの政治家アレクサンダー・ハミルトンは軍務経験に基づいてアメリカの工業の保護を主張する『製造業に関する報告』を著している。この考えた方は後にドイツの経済学者フリードリヒ・リストに受け継がれ、ドイツが自給自足をするために必要な産業を育成しなければ、戦争には対応できない危険性を指摘している。このような戦争に必要な産業を育成する経済政策は世界大戦中に各国で総動員体制の導入に伴って遂行されることになる。 安全保障の概念とは、これはある主体が自らにとってかけがえのない何らかの価値を、何らかの脅威から何らかの手段によって守る、と定義できる。安全保障政策には大別して三つの主要な学派があり、それは軍備の維持増進によって敵対勢力との勢力均衡を維持する重要性を強調する現実主義の学派、経済的な交流を通じて彼我の相互依存を高めることを重要視する自由主義の学派、そして地球全体を統合された国際共同体と見なし、紛争予防と平和維持のシステムを準備し、人間と地球の安全を保障することの意義を主張するグローバリズムの学派の三つがある。つまり安全保障政策は何の価値を重要視するのか、またどの方法が適切であるかに関して論争的でありうる複雑な問題である。したがって、安全保障政策は軍事戦略の政治的コンテクストを形成するものであり、その方針によって兵員や兵器の定数、指揮系統や部隊編制の内容、また戦争における軍事戦略や作戦計画などが決定される。 戦略とは戦争において目的を達成するためにどのように行動すべきかを指し示した準備、運用、計画であり、またそれを策定するための理論または技術を言う。しかしながら、戦略の概念は軍事思想史において論争的であったために画一的な定義が定まっているわけではない。その時代や地域の情勢によって戦略の概念はさまざまな文脈で用いられてきており、論者によってその内容は異なっている。しかしながら、戦略に基づいた思考は単に局地的な戦闘に勝利するだけでなく、より幅広い視野から戦争に勝利する意義があることは戦略家によって認められている。戦略という用語が普及する以前からそのような思考法の重要性は指摘されてきた。古代中国の戦略家孫武が著した『孫子』では、戦争がもたらすさまざまな弊害を認識した上で、可能な限り非軍事的手段によって目的を達成することを優先すべきであり、もし開戦したとしても不敗の態勢を確立した後に短期決戦で勝利すべきであると論じた。このような戦略的思考は現代の研究者によって戦略の原点として参照されている。 軍事思想史において近代の戦略理論を体系化した戦略家として挙げられる人物は『戦争論』を著したクラウゼヴィッツである。クラウゼヴィッツが残した戦略学の業績とは政治に対する戦争の従属的関係を明らかにしたことである。理論的観点から見れば、戦争とは暴力行為であり、敵対関係の結果として戦争の暴力性は無制限に増大し続ける法則がある。つまり戦争の本来の目標とは敵の戦闘力を破壊することに他ならないと考えられる。しかし現実の戦争を観察すれば、戦争には常に政治的目的が与えられており、戦争の暴力性を合理的に調整することができることが分かる。しかも戦争計画を実施に移す際に直面するさまざまな不測事態や不確実性などの摩擦によって戦争行為は妨げられる。このようにクラウゼヴィッツが論じた戦略理論とは戦争の本質に立脚した理論であり、現代においても戦争の本性と政治目的に合致した軍事戦略の在り方を示している。 現代の戦略家として知られているイギリスの戦略家リデル=ハートはそれまでの戦略の概念をより包括的な概念として発展させた。彼の著作『戦略論』では大戦略の概念と間接アプローチ戦略の概念が提唱されている。大戦略とは政治目的を達成するために軍事的手段を適用する技術であり、軍事戦略の上位に立った包括的な戦略の概念として整理される。大戦略の概念によって戦争を軍事作戦の成否だけではなく、より総合的な観点に基づいて戦争を指導することの意義が戦略理論に表現されることになった。さらに間接アプローチ戦略は敵軍に対して直接対決することを回避し、敵の弱点に対して接近する戦略の理念である。ここでの敵軍の弱点とは物理的な戦力が希薄な方面であるだけでなく、心理的な警戒が希薄な方面を指す用語である。リデル=ハートは優勢な戦力を以って正面から敵を圧倒するのではなく、このような戦略的な機動を重要視していた。リデル=ハートの戦略理論には導入された大戦略の概念や間接アプローチの軍事思想は最小限の戦力で戦争に勝利することの可能性を示している。 戦術 (Tactics) とは戦闘において戦闘力を効果的に運用するための科学、または技術であると考えられている。その作戦の形態の相違から戦術学では陸軍の戦術、海軍の海戦術、空軍の航空戦術に分類されて研究される。どれほど優れた戦略であっても、その実行には優れた戦術をも必要とする。戦闘を効率的に指導するためには優勢な戦力を投入するだけではなく、それら戦力を状況に応じて適切に運用することの重要性が知られている。戦術の黎明期においては戦闘隊形の重要性や戦場機動の方式が研究されていなかった。しかし古代ギリシアのファランクスと呼ばれる歩兵の密集隊形を活用した戦闘法が導入され、また騎兵部隊が決定的な打撃力として戦場に登場すると戦闘陣形の選定や防御戦闘と攻撃戦闘の連携などの戦術的な選択肢が広がることになった。 劣勢でありながらも優れた戦術家の力量によって勝利した有名な戦史がある。マケドニアの国王アレクサンドロス3世(大王)はその戦術家の一人であり、ペルシア遠征でのガウガメラの戦いにおいてはペルシア軍に対して劣勢でありながらも敵部隊を誘致することで敵中央の戦力を希薄化させ、その地点に対して突破を実施したことで勝利することができた。またポエニ戦争においてはカルタゴの将軍ハンニバルがカンナエの戦いで采配を発揮し、優勢なローマ軍に対して歩兵部隊の防御戦闘と騎兵部隊の包囲機動を組み合わせて模範的な包囲殲滅を実践してみせた。またプロイセンの国王フリードリヒ2世は七年戦争のロイテンの戦いで優勢なオーストリア軍の横陣に対し、地形で部隊を隠匿しながら迅速に側面に接近し、側面攻撃をしかけることで勝利することができた。ナポレオン戦争ではフランスの国王ナポレオン1世は優勢なオーストリア軍とアウステルリッツの戦いで衝突したが、意図的な防御と後退行動を組み合わせて敵部隊を誘致した後にその中央を突破することで勝利を収めた。これらの戦史はいずれも戦力の劣勢を運用によって補っており、またその実施が成功したことから戦術的に高く評価されている。 スイスの軍人アントワーヌ・アンリ・ジョミニが『戦争概論』で示した戦術理論の体系は近代における戦術学の起源として示すことができる。なぜならば、ジョミニは戦場での勝利にとって不可欠な行動の原則が戦術には存在すると捉えることで、その原則をさまざまな戦闘状況に適用する方法を理論化した。ジョミニの学説は世界各地の士官学校の教範類で採用されており、戦力の集中や戦場での機動などの原則に関しては戦術学の基礎知識として普及した。このような原則はイギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーによってさらに発展させられ、目的、主導、統一、集中、機動、節約、警戒、奇襲、簡明から成る戦いの諸原則として整理された。戦術的な戦闘行動である攻撃と防御についても、攻撃が主導的で能動的な戦闘行動である一方で戦力の消耗が激しく、逆に防御は従属的で受動的な戦闘行動でありながらも、消耗が少ないなどの特性が明らかにされていった。そして戦術研究が進むにつれてさらに戦闘陣形や戦闘行動を表す戦術用語や戦術的決心に求められる状況判断の思考法が確立されていった。 兵站とは作戦中の部隊の活動を後方から支援する方法であり、具体的には物資の補給、兵器の整備、輸送の管理、衛生業務などの業務を指す。兵站は古来から戦争の勝敗を左右する重大な考慮事項であり、その基本的問題とは後方における根拠地の補給物資により、後方連絡線の輸送力を通じて、前線における部隊の補給所要を充足させることである。しかし根拠地での補給物資の不足、敵による後方連絡線の遮断、戦闘での戦力の消耗の増加などによって兵站の現実はより複雑である。したがって兵站とは単なる輸送計画ではなく、融通性、継続性、強靭性、効率性、創造性が求められる活動であると捉えなければならない。戦争において生じる不測事態に兵站は臨機応変に対処しなければならず、敵の妨害に直面してもその活動を維持しなければならない。さらに兵站問題として有限な物資を部隊にどのように配分するかという効率化の問題もある。しかも兵站は戦場の突発的な障害に即応するために創造的な問題解決が迫られる場合もある。 軍隊において兵站が体系化された背景には作戦や装備の複雑化がある。ジョミニは軍が行軍する際に兵站監が考慮しなければならない事項を列挙しており、それは交通路の選定、補給処の警戒、行軍の管制、輸送手段の確保、宿営の計画など細部に渡っている。図上での軍事作戦を具体化するためにはこのような緻密な兵站活動が必要であり、ジョミニは兵站学をあらゆる軍事知識を応用する科学であると捉えている。兵站の重要性については戦略、戦術との関係性からも検討することができる。アメリカの軍人ジョージ・C・ソープは『純粋兵站学』において戦争を演劇に例えて論じており、戦略が演技を指導する脚本であり、戦術が役者の役割であるならば、兵站とは舞台や備品、小道具を準備することであると位置づけた。つまり卓越した戦略や優れた戦術は兵站によって根拠付けられていると考えることができる。しかし兵站が重要であることがわかったとしても、軍事史において現実の兵站が計画通りいかなかった事例は数多い。この歴史的事実はマーチン・ファン・クレフェルトは『補給戦』において明らかにしており、つまり知性を活用したどれほど綿密な兵站の計画であったとしても、クラウゼヴィッツが提起した戦争での摩擦の力で常に破壊されるのである。兵站の使命とはそのような障害を克服して部隊を支援することであり、軍事にとって末端の研究領域ではなく、むしろ本質的な研究領域と見なすことができる。 兵站の活動を機能別で分類すると補給、輸送、整備、衛生に大別することができる。後方地域で遂行される支援はさらに多種多様であるが、これら四種類の業務は部隊の戦闘力を維持する上で特に緊要なものであると言える。補給とは部隊に対して行われる食糧、燃料、弾薬、医薬品等の消耗を提供することであり、補給所要の算定、補給物資の入手、補給物資の配分などの段階を踏んで行われる。また整備は車両や航空機、艦艇の状態を使用可能な状態に維持することであり、装備の破損状況によって使用部隊の整備、整備部隊の整備、外部委託の整備が行われる。輸送は人員や装備、物資の位置を適時において適所に移動させることであり、その地形や敵情に応じて陸海空の交通手段が選定され、安全性と秘匿性、迅速性と輸送力などの観点から判断されることになる。衛生は戦闘などで生じた人的戦闘力の消耗を回復するための活動であり、前線の部隊での処置、または後方の野戦病院での処置などが行われ、回復した兵員を復帰させる機能がある。このような兵站の複合的な業務は陸軍、海軍、空軍によってそれぞれ別個に体系化されている。例えば陸軍の兵站は基地の外部においても兵站機能を維持しなければならないが、海軍や空軍の兵站機能は根拠地に集約されており、また兵器体系が異なるため必要な補給物資も異なるものである。 軍事作戦は基本的に戦争において実施されるものである。しかし、戦争以外でも軍事作戦を実施することはあり得るものだと現在では考えられている。これは冷戦が終結してから地域紛争や人道危機に軍隊が対処する情勢が出現したことに呼応して、アメリカの統合参謀本部により1995年に提唱された概念である。この概念について詳説した書籍に統合教義教範3-07『戦争以外の軍事作戦のための統合教義』があり、ここでは戦争以外の軍事作戦は政治的考慮を踏まえて遂行される戦争に至らない軍事力の使用として定義される。その具体的な内容には戦争の抑止や解決のための平和創造活動、対テロ作戦、部隊の予防的展開、平和維持活動、非戦闘員避難作戦、対暴動作戦が含まれる。さらに平和を促進するための海上交通の確保、対麻薬作戦、人道支援、海上護衛、文民支援などもその概念に含まれている。このような軍隊の新しい任務について国連事務総長のダグ・ハマーショルドは平和維持を取り上げながら「平和維持活動は兵士の仕事ではないが、それをできるのは兵士しかいない」と述べている。戦争以外の軍事作戦を遂行するためには従来のように計画性や安全性、戦闘の効率性などを高めるだけではなく、政治・社会的影響に配慮しながら人道性や公平性の重視、民事作戦の円滑な実施、文民機関の支援の確保を行う必要がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "軍事(、英: military affairs、羅: res militaris)とは、戦争・軍人・軍隊などに関する事柄の総称である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "軍事は、公共的利益と政治的な重要性を伴うものである。軍事は民事と共に国際関係を扱う分野の一つであり、外交や経済などと並ぶ政府の主要な行政機能の一つに位置づけられる。軍事がなぜ公益と重要性を伴っているかを理解する上で、フィレンツェの政治思想家であるニッコロ・マキアヴェリの見解が参考となる。彼は『政略論』において「戦いに訴えねばならない場合に、自国民からなる軍隊をもっていない指導者は国家は恥じてしかるべきだと思う」と論じている。なぜならば、自らの安全を自力で確保する意志がなければ、国家の独立と平和を期待することはできないからである。戦争が勃発することは不可避であり、それに対処するために軍備が必要であるという現実主義の政治思想は軍事の基本的な考え方となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "軍事の基本的な問題とは軍隊の根本的な任務である戦争における戦闘に勝利することにあると要約することができる。ただしこの基本的な問題に関しても幅広い視角が存在している。例えば自然科学の視角から軍事問題を観察すれば、戦場の地理学的特性、戦闘で使用される武器や兵器などの工学的性能、戦闘力や戦闘行動の数学的な性質などの側面が認められる。これに社会科学の視点を導入すれば、戦闘行動をより大局的な観点から指導している国家の安全保障政策や国際法との関係、軍隊を支える国家の行政機能、戦闘を組織化する戦略と戦術、そして作戦計画を具体化するための補給や輸送、通信などの兵站活動などの多くの側面があることが分かる。さらに人文科学の視座を持ち込めば、戦争に関する文学的記述、戦闘の様相に関する歴史的観察、戦闘における兵士の心理的反応などの着眼点も指摘することができる。つまり軍事とは軍隊の活動である戦争と戦闘において勝利するための諸々の問題であるが、広義においては上記で述べたような複雑な諸問題を含んでいる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "複雑さに加えて軍事という問題は時代に応じて流動的である。軍隊の使命は歴史を経て変化しつつあり、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが『歴史』で叙述したペルシア戦争において軍隊は敵の軍隊を殲滅することのみを使命としていた。しかし近代においてポーランドの戦争研究者イヴァン・ブロッホは『将来の戦争』では戦争が軍事技術の進歩によって大量の損害を伴う長期戦に発展すると論じ、第一次世界大戦、第二次世界大戦の様相を予測した。また冷戦後ではイギリスの軍人ルパート・スミスが『軍事力の有用性』で戦争の歴史的変容を指摘しており、戦争は国家の武力衝突や敵軍の殲滅、領土の占領に特徴付けられるものではなく、人々の間で生じる戦争、前線と後方の混在などに特徴付けられる戦争に変化していると論じた。三者は一様に戦争について論じているものの、その問題意識はそれぞれ異なっている。ヘロドトスが描いた戦争では戦場で刀剣などで武装した両軍が機動や打撃を行っていたが、ブロッホが予測した戦争においては高度な火力戦闘を行う両軍が決定的戦果を挙げることができることなく全ての国力を動員した長期戦となり、スミスの戦争観では敵の存在が不明確な混乱地帯において軍隊が行動するというものである。このように軍事において問題意識の力点が変化し続けており、現在において新しい課題が出現し続けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "軍事の全般的な理解のために、ここでは主に社会科学の見地から述べており、そのため本項目では軍事に関する基本的な主題を戦争、軍事システム、戦争能力、軍事ドクトリンとまとめている。これら四つの主題に沿って、戦争の理論的枠組み、戦争の一つの形態である総力戦、制限戦争、ゲリラ戦の特性、戦争の政治理論としての国際政治の問題、戦争法の枠組み、国防の基本概念、軍隊の制度的成り立ち、指揮統制の基本システム、軍事教育のあり方、政府と軍隊の関係、軍事能力の機能と種類、陸上戦力、海上戦力、航空戦力の概念、軍事力を支える経済的基盤、そして軍事行動を指導する安全保障政策、軍事戦略、戦術、兵站、そして戦争以外の作戦について説明する。詳細については個別の記事で述べている。また本項目では取り上げられなかった戦争や軍隊、戦闘の歴史的説明については軍事史を、工学的見地に基づく諸々の装備については兵器を、各国の軍事情勢については各国の軍事や各国の軍隊の一覧から該当する記事を参照されたい。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦争が国家の存亡を決定する極めて重大な出来事であることは古来から『孫子』が論じてきたことである。戦争において国家は敵の軍事力によって安全を脅かされる事態に直面するのであり、それは領土や都市の破壊と占領、国民の生存とその財産所有権の侵害、政治的自由や独立の制限などの方法で行われる。同時に戦争は社会現象の中でも特に分析が難しい複雑な主題の一つであり、戦闘などの軍事的な出来事だけで生じるのではなく、対外政策や国内での政治過程などの政治的文脈に基づいて生起するものである。しかもその展開においては戦時特有の動員や生産などの経済的要素、国民心理などの社会的要素と関連するものである。しかも戦争は敵国と自国の相互作用によって生じた結果であるため、戦争において最適な意思決定が何であるかを明確に理論化することはできない。つまり重大な戦争の原因とその実態を理解するためには、その複雑性を概観できる理論的な把握が必要となる。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "プロイセンの軍事学者カール・フォン・クラウゼヴィッツは『戦争論』において戦争の一般理論を構築した戦略家である。彼は二人の間での決闘に戦争をなぞらえた上で、戦争とは「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と説明しようとした。そして戦争において生じる暴力は相互作用によって無制限に極大化する法則があることを明らかにした上で、そのような戦争を絶対戦争として定式化した。絶対戦争では軍事的な合理性の下であらゆる事柄が徹底的に合理化され、最大限の軍事力が敵を殲滅するために使用されることになる。ただし戦争は単に軍事において完結する現象ではないことにクラウゼヴィッツは注意を払っており、この絶対戦争のような形式が現実に起こっている戦争とは異なることを認識していた。つまり戦争は固有の法則に従って無制限に暴力性を高めるだけではなく、その戦争行為を制限することができる政治的目的を伴うものである。戦争の発生には必ず外交的または経済的、心理的な情勢が起因しており、あらゆる戦争は政治的目的を究極的には達成しようと指導されるものである。このクラウゼヴィッツの戦争理論は「戦争は他の手段を以ってする政治の継続である」と理解されており、戦略研究では広く参照されている。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "しかし現代の戦略研究ではクラウゼヴィッツが前提としていた主権国家による戦争が戦争の全てではないことが分かっている。非国家主体によって戦争が遂行される可能性を提唱したのは社会主義の政治イデオロギーを掲げて革命戦争を指導したマルクス主義者たちであった。レーニンはクラウゼヴィッツが定式化した戦争と政治の関係を再解釈し、政治を武力によらない戦争、戦争を武力による政治であると捉えて革命戦争の理論に適用した。このことでパルチザン部隊による戦争の形態が成立することになり、国家と国家の戦争という図式は陳腐化することになった。またクラウゼヴィッツに対する批判を展開する戦略研究者のマーチン・ファン・クレフェルトは『戦争の変遷』において戦争の歴史的事例に基づいて理論を構築している。クラウゼヴィッツの戦争理論での国家の前提は政府、軍隊、国民から成立している三位一体の戦争モデルであったが、クレフェルトは非三位一体の戦争が存在することを指摘しており、したがってクラウゼヴィッツの理論が主権国家による戦争に限定されたモデルであると論じている。つまり必ずしも戦争は理性的な政治の延長ではなく、むしろ宗教や正義などの価値観を実現するための手段として行われているものと考える。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "総力戦 (Total war) とは戦争が採りうる形態の一つであり、軍事力の行使だけでなく、軍事力を支える経済的基盤を構成する工業生産力や労働力の総動員、民間人の全国的な戦争協力、そして戦争遂行を正当化するためのイデオロギーや思想の宣伝活動などを伴うような、国家の総力を挙げる戦争遂行の形式である。このような概念を提唱したのは第一次世界大戦で敗北したドイツ軍を指導した軍人エーリッヒ・ルーデンドルフであった。ルーデンドルフは著作『総力戦』の中で第一次世界大戦を契機に戦争の主体が政府と軍隊だけではなく民衆を巻き込んで遂行される形式へと変化したことを指摘し、これを総力戦と命名した。総力戦の概念の画期性とは従来の戦争が戦場での軍事行動で完結していたものから、銃後の経済活動や生活までもが軍事行動と結び付けられたことである。したがって、総力戦においては海上封鎖や戦略爆撃のように敵の経済活動を破壊するための行動が継続的に行われ、また敵の抗戦意志を減耗させるためにラジオやビラなどのマスメディアを利用した思想宣伝を実施する。これらに対抗するために経済活動は政府により統制され、人員や物資、情報などは軍事作戦を支援するために配分、管理される。ルーデンドルフは特にドイツ敗戦を招いた原因として革命運動を指示するような思想的要因を重要視しており、国民士気の低下はドイツ軍の士気そのものに悪影響を及ぼしていたと述べている。そのために総力戦を遂行するためには総力政治が不可欠であると主張している。総力政治は総力戦に関わるあらゆる要素を統制する機能を担っており、単独の指導者によって総力政治は実践されなければならない。つまり総力戦とは従来の武力紛争だけではなく、経済紛争や情報紛争が結合した複合的な戦争のあり方であり、核兵器が存在する現代においては核戦争を意味するものである。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "制限戦争 (Limited war) とは軍事力を抑制的に行使することで、戦争のエスカレーションを制御することを可能とする戦争の形態の一種である。アメリカの外交官ヘンリー・キッシンジャーは『核兵器と外交政策』このような戦争を「特定の政治目的のため(中略)相手の意志を押しつぶすのではなく、影響を及ぼし、課せられる条件で抵抗するより魅力的であると思わせ、特定の目標を達成せんとする」戦争と描写した。つまり限定戦争の主眼とは、軍事力だけで敵に我の意志を全面的に強制するのではなく、外交交渉を交えながら軍事作戦を遂行することで、目標を達成する手段として戦争の規模や程度を抑制することにある。キッシンジャーは核兵器の登場によって戦争そのものが遂行不可能になるという見解を退け、この限定戦争に基づいた限定核戦争という戦争方式を提唱した。事実、核兵器が登場してからも朝鮮戦争やインドシナ戦争などの戦争が勃発しており、これらは限定戦争の形式に則って遂行されている。限定戦争を成り立たせている外交は通常の外交と区別されており、アメリカの政治学者アレキサンダー・ジョージなどの研究者たちによって強制外交と呼ばれている。強制外交が敵との間で成立するためには、彼我双方にとって軍事行動に伴う損害を抑制する意図を共有しなければならず、戦略防勢の立場を採るために作戦の主導権を喪失する危険が伴うが、総力戦と比べて最小限の費用と危険で目的を達成する選択肢とされている。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ゲリラ戦争(Guerrilla Warfare)または革命戦争とは本質的に国家に対する非国家主体により遂行される戦争の形態である。このような戦争の形態が成立した背景にはマルクス主義を指向する政治運動があり、ロシア革命、キューバ革命、国共内戦などの革命が勃発したことで、ゲリラ戦争のあり方が研究されてきた。革命家でありながらゲリラ戦争の理論を確立した毛沢東はゲリラ戦争には正規軍によって遂行される在来戦争とは異なる背景を持った固有の領域があることを指摘し、『遊撃戦論』でこの問題を論考している。ゲリラ戦争の特徴とは戦略防勢の立場に置かれながらも、分散された小規模な部隊による急襲で敵に連続的に損害を強いることで戦争そのものを主導することにある。したがって、ゲリラ戦争において短期決戦は発生せず、決戦を想定した戦闘部隊は必ずしも優位ではなくなる。革命家チェ・ゲバラは『ゲリラ戦争』においてゲリラ戦争を成立させるための戦略と戦術について論じている。そこでは負ける戦いを避け、常に遊撃し、敵から武器を略取し、行動は秘匿し、奇襲を活用するというゲリラ戦の原則が示されている。ゲリラ戦争は戦略的には防勢に置かれるが、しかし一撃離脱を繰り返すゲリラ戦士は決して包囲殲滅されることはないために、戦争の主導権を維持することができる。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "戦争法とは戦争行為を規制する戦時における国際法である。これは今日では武力紛争法や人道国際法とも呼ばれる場合がある。現実主義の立場に立つならば、戦争は本質的には道徳や法律によって規制することはできるものではない。したがって戦争法が存在する価値を認めることはできないものである。しかしながら、国際政治学におけるもう一つの立場である理想主義に立脚するならば、戦争は決して許容できないものである。このような考え方は人文主義者エラスムスが『平和の訴え』において「およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです」と論じたことで表現される。戦争を回避するためにあらゆる戦争行為は禁じられなければならない。しかしこの現実主義と理想主義のような全面的な肯定と否定の間に立つもう一つの立場がある。それは国際法学者フーゴー・グロティウスが「二つの極端な説に治療を施し、なにも許されないとか、すべてが許される、などと信じ込むことがないようにしなければならない」と表現した、条件付きで戦争行為を許容する立場である。その条件を法的理論として発展させたものが戦争法であると言える。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "戦争法には開戦法規と交戦法規という二つの基本的な部門がある。開戦法規とはどのような場合において戦争を開始することができるのかを定めた法であり、交戦法規はどのような手段によって戦争を遂行することができるのかを定める法である。開戦法規に関しては主権国家は政策の手段として戦争に訴える権利を持っていたが、1929年の「戦争放棄ニ関スル条約」によって武力行使の違法化が進み、現在では国連憲章の下で他国の領土保全や政治的独立に対する武力行使や国連の国際平和の維持するという目的と相反する武力行使を違法化した。もし国家が侵略を受けた場合には個別的、集団的自衛権を行使して防衛することができるが、同時に国連は侵略国に対して集団安全保障に基づいて武力制裁を含めた制裁措置が可能である。ただし自衛権を行使する判断は国家が判断することができるが、国連が制裁措置を行う場合には安全保障理事会による決議が必要であり、常任理事国の全員の同意が必要である。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "交戦法規に関しては、もともとは騎士道の規範に基づいて非人道的な殺戮・破壊活動を規制していたが、近代の軍事技術の発達によって戦闘の様相が変化すると新しく交戦法規を確立しなければならなくなった。交戦法規の一般的な原則は効率性と人道性の均衡ある両立であり、これは攻撃目標を選定する場合において、任務の達成のために市街地と軍事基地の二つが選択可能であるならば、不必要な犠牲が出る可能性がより少ない軍事基地を攻撃するべきであるという原則である。交戦法規の大系においては攻撃目標や攻撃禁止目標、合法的な戦闘手段や方法、非戦闘員の保護、中立国の権利保護などの細目があり、これらの規則は作戦行動において指揮官の責任を以って遵守しなければならない。この戦時国際法に対する違反があり、その行為の責任者がいる場合には、戦争犯罪として裁かれなければならない。1990年代に戦争犯罪への措置は強化され、ボスニア・ヘルツェゴビナで非人道的な紛争が発生した際には国連安全保障理事会は国際裁判所を設立して戦犯を裁き、1998年には常設の国際刑事裁判所既定が国連の外交会議で採択された。", "title": "戦争" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "国防とは脅威に対して国家の安全を確保することであり、幅広い範囲で捉えられる国家安全保障の意味で用いられる場合と軍事力による防衛の意味で用いられる場合がある。ここでの国家とは領域、国民、主権の三要素から成り立っている政治的な共同体である。領域は国家の排他的な支配権が及ぶ地理的範囲であり、領土、領海、領空に区別される。領域において生活する国家の構成員とは国民であり、国民はその国家の主権に服従する。国家の主権とは国家のあり方を国家の構成員が政治決定する権利であり、その具体的な構成は国家体制によって国ごとに異なっている。このように成立している国家の内部的構成を概観すれば、国家は物理的な手段によって打撃を与えることができることが分かる。国家は領域の奪取や国民の殺傷によってその統治能力を低下させる可能性がありうるのであり、そのような事態に対処するために国防の準備が必要となる。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "国防は国家を単に守ることではなく、脅威から国家を守ることである。国防において脅威とは国家の存続や利益を脅かす他者の存在や能力、行動を指す。それは武力による威嚇、領空侵犯、領海侵犯、海上交通路での通商破壊、ミサイルや航空機による攻撃、全面的な武力行使、などの軍事的脅威が主なものである。ただし、海上封鎖などによる経済制裁は経済的脅威、大規模な内乱などの政治的脅威などの存在を指摘することもできるが、ここでは軍事的脅威について述べる。軍事的脅威の程度を判断する基礎は軍事力とそれを行使する意志である。軍事力は現有兵力と動員兵力、装備と兵員の配備状況などから定量的に評価することが可能である。しかし意志については相手国の政策決定者の思考から評価するしかなく、そのために国家政策や作戦計画などから定性的に推測することになり、判断が難しい。また環境条件が相手国にとって有利かどうかも重要な判断材料となる。国際環境の不安定化や国家の内部分裂による外部勢力の介入などは進攻を決定する際に有利な一般情勢である。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "国防は脅威から国家を守ることであるが、そのためには手段が必要である。その手段として軍事力が中心であると考えられているが、非軍事的要素についても注目されている。政治学者モーゲンソーは国家の国力の構成要素として軍備以外に地理、人口、工業力、資源、国民性、国民士気、政府や外交の性質を上げており、また政治学者クラインも領土、人口、経済力、国家戦略を遂行する意志、戦略目的という構成要素を列挙している。このような幅広い国力要素が出現した背景には総力戦や革命戦争、核戦争に特徴付けられるように、戦争の範囲が戦闘だけでない社会全体に及ぶように変化したことが理由として挙げられる。このような国防能力を使用する国防政策として単独による国防だけではなく、同盟による共同防衛や集団的安全保障、中立政策などがある。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "軍隊は一定の規律・組織に基づいて編制された武装組織である。しかし今日の軍隊はそれ自体で独立した組織ではなく、国家の枠組みに基づいて政府組織の権力の下で組織されている。したがってその組織のあり方は国によってさまざまであり、その社会事情に関連して社会階層が部隊編制に反映されている場合や、政治権力と一体化している場合もある。アケメネス朝の軍隊は貴族である騎兵部隊が主力となり、農奴から構成される歩兵部隊が補助的役割を任せられていたが、始皇帝は一般公募に応募した人々で編制された軍隊で中国を統一した。中世ヨーロッパでは封建制を背景とした騎士階級が軍事的義務を果たし、名誉を認められていた。しかし近代において新しい軍事技術である小銃や火砲が戦闘に導入され、フランスの軍人ギベールが『戦術一般論』が述べたような国民軍がフランス革命を契機に成立すると、その後ヨーロッパ諸国もその軍制へ移行していく。近代ヨーロッパの情勢を背景とした軍事制度についてスイスの軍人ジョミニは軍隊の構成要素を列挙している。それは徴募組織、部隊編成、予備役、行政管理、軍紀、報酬制度、砲兵や工兵などの特技兵科、攻防両面における装備、戦術教育の機能を備えた参謀本部、兵站組織、指揮系統の制度、国民の戦闘精神を喚起することである。これら要素を備えていることが、ジョミニが強調しているように近代軍として不可欠の要素であると考えられる。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "軍隊組織の理論の観点から見るならば、軍隊は組織としてはドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが定式化した官僚制のモデルの典型例である。つまり規則による職務権限の配分、階級制度に基づいた指揮系統、文章による事務処理、専門性を備えた職員の公平な選抜などの合理的な組織運営が行われている組織である。同時に軍隊は専門的な職業団体でもあり、アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは軍隊が暴力の管理に関する専門知識と責任、団体性を備えた職業集団であることを将校団の分析から論証した。独自の行動様式や参加手続、共通経験を持つ職業集団であるために軍事問題に特化した組織的能力を派発揮することが可能であり、このような軍隊の職業的性格こそが近代軍の基礎となった。プロイセンが創設した軍事学の研究機関である陸軍大学と参謀本部は職業軍人を育成するための機関であり、ドイツの軍人モルトケとシュリーフェンの職業軍人としての立場は政治野心を持つべきではないという軍人の職業倫理の模範を示した。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "軍隊の組織構造は地域や時代によってそれぞれ異なるが、軍隊は他の文民組織とは異なる固有の組織構造を形成している。軍隊の体制は軍事作戦の部門、軍事行政の部門、そして軍事司法の部門に大別することができる。軍隊において軍事作戦は最も基本的な部門であり、幕僚によって補佐された指揮官が任務を達成するために部隊を指揮する。各部隊にはさらに下級部隊が組織されていることによって指揮系統が形成されている。軍事行政の部門においては、部隊に予算や兵員、装備を提供することは軍隊ではなく国防省や防衛省などの行政機関によって実施される。軍事行政は政府の一員である大臣が指導する官僚によって軍事力を開発、維持、管理する。加えて軍事司法の部門においては立法府によって制定された軍法に部隊は服従しなければならない。フランスの軍人マルモンは軍隊で起こった犯罪は国家の司法権と軍隊の指揮権を調整しながら法に基づいて裁かなければならないと『軍制要論』で論じている。軍法は任務の放棄や敵前逃亡、利敵行為などの行為を軍事犯罪と定めており、軽微な犯罪であればその部隊の指揮官が決裁によって処罰することができるが、重大な軍事犯罪であると見なされれば軍法会議が召集され、その判決に基づいて刑が執行されることになる。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "軍事システムにおいて指揮統制とは指揮官が任務を達成するために隷下の部隊の作戦運用を指導するために必要な施設、通信、人員、そして手順の総体であり、軍隊の神経系と言うべき機能を果たしている。この指揮統制の複合的機能を整理すると、それは指揮、統制、通信、コンピュータそして諜報の機能から成り立っており、英語の頭文字からC4Iシステムと要約される。このシステムに基づいて情報資料を諜報により獲得し、コンピュータにより情報処理を行った上で指揮官はそれを通信で知らされる。そして意思決定が下った後には再び通信によって各部隊に対して指揮権に基づいて命令が各部隊に発せられる。これは必ずしも近代以後の軍事技術だけに合致する概念ではなく、古代の軍事組織においても指揮官は歩哨や間諜がもたらす報告を、伝令や狼煙、音響によって通信伝達され、幕僚や軍師による状況分析を参考にしながら状況判断を行って命令を発していた。現代ではこの情報のやり取りをさらに発展させ、国防体制において指揮統制の体系は早期警戒衛星システムや長距離レーダーなどの諜報活動の手段を活用し、専門化された情報分析官から成る情報機関が情報資料を分析し、幕僚本部や安全保障会議が指揮官を補佐し、しかも無線中継システムにより通信網を確保しているために、より迅速で詳細な意思決定と大量の情報伝達が可能となっている。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "軍事教育とは軍人に必要な能力を付与するための教育、訓練、演習の体系である。軍事教育の重要性は古代ギリシアから認識されており、体力と戦闘技術を練成し、部隊の団結と規律を高めることで戦闘力を改善することが軍隊で行われていた。マキアヴェッリは国民軍の創設にあたって軍事教育の重要性を指摘し、部隊の錬度に応じて教育水準を段階的に高めることを示している。オランダ軍のマウリッツ公は基本教練を教範類としてまとめたことで、規律正しく部隊に行動させる操典が各国軍で確立されていった。またプロイセン軍ではシャルンホルストなどの功績により高級指揮官を育成する陸軍大学校が創設され、高級将校教育の原型を確立している。このような軍事教育の整備がなされるようになった背景には18世紀における軍事科学の成立があり、ビューロー、ロイド、ギベールなどが展開した科学的方法を重要視した軍事思想によって、それまで断片的であった経験や知識が概念、モデル、理論に基づいて体系化されていった。軍隊で行われている教育体系はまず陸海空軍に設置された教育部隊で基本教練、基礎的な歩兵としての戦闘訓練などを新兵教育の課程で受けることになる。しかし陸海空軍の軍種、そして兵卒、下士官、将校という階級によってその後の訓練内容は細分化されており、小銃射撃の能力を付与する射撃訓練から大規模な戦力を運用する能力を付与する図上戦術まで分かれている。これら教育訓練で付与された能力を評価する方法として閲兵や想定された状況で実際に行動する軍事演習を実施することが行われている。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "政軍関係とは政府と軍隊の関係のあり方であり、政治はあらゆる軍事行動の上位に位置して目標を規定するべきであると考えられている。その理由としてクラウゼヴィッツの「戦争は他の手段を以ってする政治の延長である」という命題が引用できる。軍事力は侵略・防衛のために運用されるものであるが、それは政治の意志に従属するものであり、このことは文民統制の理念として知られている。ハンチントンは『軍人と国家』において軍隊の本来的なあり方について職業主義の概念を使用して分析している。そして軍隊は軍事的な職業主義を最大限に発揮することで軍隊は軍事に専門化し、政治に介入する動機や機会は失われると論じた。このような職掌主義を最大化する政軍関係をもたらすための文民統制を客体的文民統制と呼んでおり、これは主体的に政府が軍隊に介入するのではなく、政府と軍隊を分離した上で客体として統制する方式である。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ただしこのハンチントンの客体的文民統制とそれによりもたらされる職業主義の概念は批判を受けている。社会学者ジャノヴィッツはそもそも軍人が政治化することは不可避的な事態であり、軍人は国益の保護者である以上、政治決定に対して国益を保護するように介入する権利を持っていると考える。そのため、軍人が文民の価値観を持つことで文民統制が実現されると主張した。そして具体的には軍隊に対して行政や立法府の監視を強め、軍隊の職業訓練に文民が介入すること有効性を述べている。またファイナーはさまざまな軍によるクーデタの事例を示しながら軍隊の政治介入を防止するために文民の絶対的な優位性に軍人が従属しなければならないと論じた。ファイナーも『馬上の人』において軍人が政治に介入することは軍人の宿命であり、特に政治文化が未熟な国家においては文民政治家にはそれほど正統性が認められないために政治介入に至る傾向があると考えた。", "title": "軍事システム" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "軍事力とは平時、戦時において国家の政策の目標を達成または支援するために活用される能力であり、これは政治的、経済的、社会的、軍事的な資源から構成されている。根本的に軍事力とは人間や装備から組織化された暴力であり、この組織的、技術的な組合せや計画的運用によって平時での抑止、危機管理、戦争での攻撃や防御などの能力が左右される。軍事力の機能は基本的には安全保障に関する、抑止、強制および抵抗の三種類にまとめることができる。抑止とは敵の軍事行動を思いとどまらせる機能であり、これは敵に対抗可能な軍事力を準備することで果たすことができる機能である。一方で強制や抵抗はより直接的な機能である。強制は自分の意志を相手に強制する機能であり、威嚇的な軍事力から全面的な攻撃など幅広い軍事行動の機能に該当する。逆に抵抗は相手の強制を退ける機能であり、威嚇的な軍事行動への対処や徹底抗戦にわたる軍事行動の機能が該当する。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "軍事力の構成要素を理解するためには物質的要素だけではなく精神的要素を考慮することが重要であることが論じられている。フランスの軍人モーリス・ド・サックスは軍隊の精神的要素を発見した軍人であり、著作『我が瞑想』の中で「戦争にまつわる、あらゆる事柄は人間の「こころ」に端を発する」と述べている。サックスは自らの軍務経験から軍隊の士気が重要な働きを持つことを軍事思想として展開した。したがって軍事力の構成要素には軍用車両、軍艦、軍用機などの有形の戦力だけではなく、指揮統制能力、兵站能力、錬度や士気などの無形の戦力から成り立っていると考えられている。さらに軍事力の潜在的な構成要素である政府の指導力や外交力などの政治力、軍需産業や備蓄資源などの経済力、技術革新を進めるための科学技術力、軍隊に対する国民的支持などを考慮することも可能である。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "軍事力の構成要素は単に集合しているのではなく、戦闘教義の下で有機的に統合された能力である。戦闘教義は軍事史において装備の革新や部隊編成を伴いながら変革されてきた。古代ローマの軍事学者ヴェゲティウスは古代ローマの軍制についての研究を通じてレギオンと呼ばれた戦闘教義を記している。レギオンは120名の中隊を三列で間隔を保って横隊に戦闘展開して作戦するものであり、必要に応じた疎開や密集、機動が可能となっている。レギオンは古代ローマの戦闘教義であっただけでなく、近世における軍事思想史でマキアヴェリの『戦術論』によって模範として参照されている。現代のアメリカの軍事学者ビドルは『軍事力 (ビドル)』の中で軍事力の運用方法に注目して近代的軍事力の特徴を近代システムであると主張する。近代システムとは射撃と運動の組織的な連携であり、第一次世界大戦でドイツ軍により本格的に導入されて戦果を挙げた。現在では、軍事力はDOTMLPF(ドクトリン、オーガニゼーション、トレーニング、軍需品、ロジスティックス、リーダーシップ、人事、施設の略)の総合力としてのケイパビリティとして把握するのが、アメリカを中心とした西側先進国で常識化しており、望ましい軍事ケイパビリティを達成するための軍事能力の分野別の軍事能力の不足(ケイパビリティギャップ)の数量的把握とそれに対する合理的な対処が制度化されている。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "陸上戦力とは陸上において作戦行動する能力を持つ戦力である。陸上戦力の役割とは人間の本来的な生活領域である陸上において軍事作戦を展開することであり、陸上戦力を代表する軍事組織としては陸軍がある。ただし治安部隊や国境警備隊、また場合によっては海兵隊や陸戦隊も陸上戦力として機能することができる。陸上戦力が活動する陸上には土地、資源、そして住民の三つの基本的要素が存在するが、陸上戦力はそれらを統制下に置くことが可能である。これら三つの要素はいずれも密接に関連しており、土地を支配することはその地域の交通を管制することになるため、天然資源の使用を制約することが可能となり、同時にそれは住民生活に必要な物資を統制することをも可能とする。陸上戦力はその特性から地形と密接に関係するものであり、運用によって地形を戦力化することが可能である一方で、森林、市街、砂漠、山岳などの地形によって弱体化される可能性もある。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "陸上戦力の戦略的役割を表現するランドパワーと呼ばれる概念がある。イギリスの地政学者ハルフォード・マッキンダーは『デモクラシーの理想と現実』においてランドパワーとは海洋に対して大陸に根拠地を持つ勢力を指す地政学の概念である。マッキンダーによれば世界の覇権を獲得するためにはユーラシア大陸の内陸部に位置するハートランドを支配することが重要であると論じた。つまりハートランドから投射されるランドパワーは全世界的な支配権を確立することができる。加えてこの大陸に基づいた戦略思想を展開したドイツの地政学者には『太平洋地政学』の著者であるカール・ハウスホーファーがいる。ハウスホーファーは第一次世界大戦で敗北したドイツが自給自足するために必要な生存圏をユーラシアからアフリカに至る地域と定め、アメリカ、日本、ロシアとともに世界を分割する統合地域理論を主張した。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "陸上戦力の具体的な組成について観察すれば、その最小単位の部隊である分隊から出発し、小隊、中隊、大隊、連隊そして師団という部隊編制が採用されている。これは師団制度と呼ばれる部隊編制であり、この師団制度に基づいて歩兵、砲兵、機構などの戦闘兵科を担う各部隊が師団の中で組織されている。近代的な師団制度は歴史的にはスウェーデンの国王グスタフ・アドルフによって確立されたものであり、今日の陸軍の部隊編制でも広く採用されている。また近代以後では火器の破壊力が向上したために要塞を使用する効率性が失われ、機動力を活用することが重視されるようになっている。ドイツの軍人ハインツ・グデーリアンによって実践された電撃戦は近代陸上作戦において戦車の最大限に活用した戦闘教義であり、現在でも陸上戦力にとって機甲部隊の重要性は変わっていない。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "海上戦力とは海洋において戦闘力を発揮する戦力の形態であり、海軍によって海上戦力は造成、運用されている。しかし海軍だけでなく沿岸警備隊も海上戦力として把握することは可能である。人間の生活にとって海洋という地理的環境は陸地の住民にとっては障害となるが、船舶や港湾などの交通手段が確立されれば広大な交通路となるものである。海上交通によって大量の物資の輸送やその輸送を通じた沿岸地域または海外地域との交易で得られる経済的便益がもたらされる。海上戦力とはこの海上交通路を保持して管制する意義があり、さらに敵の海上交通を防止する意味もある。海洋の環境は気象や海象によって変化するが、それを戦力として活用することは困難であり、戦力の優劣がそのまま戦闘結果に反映されやすい。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "海上戦力の戦略家として代表的な人物にアメリカの戦略家アルフレッド・セイヤー・マハンがいる。マハンは『海上権力史論』や『海軍戦略』などの著作があり、海洋が巨大な公道であり、海上交通の防衛が海軍の最重要目的であると指摘した。そして生産、海運、植民地を連環として繋ぐ能力としてシーパワーの概念を提起する。シーパワーは海上戦力だけでなく、地理的位置や自然的形態、領土範囲、人口、国民性、政府の性格など海洋に関する総合能力である。マハンと同じく海上戦力の戦略的意義を論じたイギリスの戦略家にジュリアン・コーベットがいる。コーベットは『海洋戦略の諸原則』で海軍だけでなく陸軍との連携を位置づける制限戦争の戦略を研究しており、僅かな陸上戦力でも戦争目的を制限し、敵を海上戦力で孤立化できる地域に派遣するならば、勝利することが可能であると論じた。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "海上戦力は基本的に洋上展開能力を持つ艦艇、航空機を単位として組織される戦力である。艦艇は船舶工学の発達にともなってさまざまな艦種が開発されてきたが、現代においては潜水艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、フリゲート、掃海艇、給油艦などの艦種がある。これらの艦種は排水量が異なるだけでなく、それに応じて火砲やミサイルなどの兵装も異なる。しかも航空母艦の航空戦力を運用する能力や潜水艦の潜水能力は他の水上艦艇とは異なる能力として特別に設計されている。これら艦艇は艦隊として編制され、艦隊は各艦艇が保有する水上戦闘、対戦戦闘、対空戦闘などの戦闘機能を組み合わせて総合的戦闘力を発揮できなければならない。海軍の航空機は哨戒機が哨戒任務に就き、機動力を駆使して広大な海域のパトロールを行なう。海軍はその水域の制海権を確保するために艦隊決戦や航空打撃戦、海上封鎖などによって敵の艦隊を妨げ、自国のシーレーンを保護し、敵のシーレーンを封殺する。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "航空戦力は空中で戦闘力を発揮することが可能な戦力であり、空軍がこの航空戦力を組織している。航空戦力が経由する空中には陸地や海洋とは異なる地理的特性があり、地球上あらゆる地点に直接的に接触することが可能な唯一の空間である。また航空機は陸上や海上の交通手段と比較して短時間で広範囲に及ぶ移動・輸送能力を発揮することが可能である。さらに現代社会において飛行場と航空機などによって形成されている航空路は海上交通路と並ぶ重要な交通手段である。ただし航空戦力は迅速に機動することが可能であるものの、その戦闘力は他の戦力と比べて短時間で消耗してしまう。なぜならば、航空戦力の本質的要素は航空機であるために、滞空するだけでも燃料を消費し、また搭載可能な兵装も制約されている。したがって地上また空中での燃料や弾薬の補給、航空要員の交替を行う必要が出てくるのである。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "航空戦力の戦略的効果について論じたイタリアの軍人ジュリオ・ドゥーエは第一次世界大戦で航空機の軍事的な可能性を発見し、『制空』において独立空軍の効率性を主張した。その理由として航空機が持つ飛距離が拡大したことで敵の前線を超えて後方地域に戦略爆撃を行うことが可能になったためであり、そのため制空権の争奪がこれからの戦争の主要な基軸となるためであった。同様にアメリカの軍人ウィリアム・ミッチェルも『空軍による防衛』においてこれからの戦争の主力は航空戦力であり、独立空軍の創設を主張している。彼らの主張は当初は支持されなかったが、第二次世界大戦で航空戦力の有効性は認識されるようになる。イギリスの軍人ウィリアム・テッダーは第二次世界大戦での航空戦力の働きを踏まえて、『戦争における空軍力』で航空優勢が陸海空いずれの作戦にとっても不可欠であると述べて航空戦力の普遍的な重要性を論じた。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "航空戦力の本質にあるものは航空機であるが、この航空機もその偵察、戦闘、爆撃などの目的からさまざまな設計が施される。軍用機の種類としては偵察機、戦闘機、攻撃機、爆撃機、電子戦機、空中給油機などの種類がある。しかし航空機の航空能力を継続的に発揮するために必要な航空基地も不可欠な要素である。航空基地での航空管制や後方支援の機能により航空機は航行が可能となる。航空機は戦術的機能を統合した航空団などに編制され、航空偵察、対航空作戦、航空阻止、近接航空支援、戦略爆撃などの航空作戦で運用される。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "戦争能力は軍事力だけでなく経済的要素は国力の重要な構成要素である。なぜならば、経済が成長していれば政府は増加する税収から財政における軍事費の割合を拡大することが容易となるからである。ただし財政における軍事費の問題はいわゆる大砲とバターの支出がトレードオフの関係にある問題として把握されており、したがって自由主義の観点からしばしば軍備は民生を圧迫する危険性が指摘される。一方でケインズ主義の立場に立てば軍拡は公共事業の一環として考えることも可能であり、このように拡大する軍需で成長した軍需産業の構造は軍産複合体と呼ばれる。戦争能力における経済力とは軍事力の要素である兵器を供給するための労働力や資源、生産設備、資本などから判断できる。戦争に必要な経済力を獲得するために社会主義的な経済統制が実施される場合があり、戦時動員や配給制が具体的な施策として導入することができる。逆に敵の経済力を低下させるための政府や軍隊の経済対策として、経済制裁、通商破壊、海上封鎖、航空封鎖、市場価格への介入などが実施することが可能である。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "経済と軍備の関係について検討した経済学者にイギリスの経済学者アダム・スミスがいる。スミスは『国富論』で市場経済の自由放任が財を適切に配分する原理を論じた。そして経済の自然な成長や植民地の運営のためには軍事力や行政能力が必要であり、またこれらは政府の財政状況に応じた規模に調整することを主張している。軍事力の造成のために必要な産業政策を論じたアメリカの政治家アレクサンダー・ハミルトンは軍務経験に基づいてアメリカの工業の保護を主張する『製造業に関する報告』を著している。この考えた方は後にドイツの経済学者フリードリヒ・リストに受け継がれ、ドイツが自給自足をするために必要な産業を育成しなければ、戦争には対応できない危険性を指摘している。このような戦争に必要な産業を育成する経済政策は世界大戦中に各国で総動員体制の導入に伴って遂行されることになる。", "title": "戦争能力" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "安全保障の概念とは、これはある主体が自らにとってかけがえのない何らかの価値を、何らかの脅威から何らかの手段によって守る、と定義できる。安全保障政策には大別して三つの主要な学派があり、それは軍備の維持増進によって敵対勢力との勢力均衡を維持する重要性を強調する現実主義の学派、経済的な交流を通じて彼我の相互依存を高めることを重要視する自由主義の学派、そして地球全体を統合された国際共同体と見なし、紛争予防と平和維持のシステムを準備し、人間と地球の安全を保障することの意義を主張するグローバリズムの学派の三つがある。つまり安全保障政策は何の価値を重要視するのか、またどの方法が適切であるかに関して論争的でありうる複雑な問題である。したがって、安全保障政策は軍事戦略の政治的コンテクストを形成するものであり、その方針によって兵員や兵器の定数、指揮系統や部隊編制の内容、また戦争における軍事戦略や作戦計画などが決定される。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "戦略とは戦争において目的を達成するためにどのように行動すべきかを指し示した準備、運用、計画であり、またそれを策定するための理論または技術を言う。しかしながら、戦略の概念は軍事思想史において論争的であったために画一的な定義が定まっているわけではない。その時代や地域の情勢によって戦略の概念はさまざまな文脈で用いられてきており、論者によってその内容は異なっている。しかしながら、戦略に基づいた思考は単に局地的な戦闘に勝利するだけでなく、より幅広い視野から戦争に勝利する意義があることは戦略家によって認められている。戦略という用語が普及する以前からそのような思考法の重要性は指摘されてきた。古代中国の戦略家孫武が著した『孫子』では、戦争がもたらすさまざまな弊害を認識した上で、可能な限り非軍事的手段によって目的を達成することを優先すべきであり、もし開戦したとしても不敗の態勢を確立した後に短期決戦で勝利すべきであると論じた。このような戦略的思考は現代の研究者によって戦略の原点として参照されている。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "軍事思想史において近代の戦略理論を体系化した戦略家として挙げられる人物は『戦争論』を著したクラウゼヴィッツである。クラウゼヴィッツが残した戦略学の業績とは政治に対する戦争の従属的関係を明らかにしたことである。理論的観点から見れば、戦争とは暴力行為であり、敵対関係の結果として戦争の暴力性は無制限に増大し続ける法則がある。つまり戦争の本来の目標とは敵の戦闘力を破壊することに他ならないと考えられる。しかし現実の戦争を観察すれば、戦争には常に政治的目的が与えられており、戦争の暴力性を合理的に調整することができることが分かる。しかも戦争計画を実施に移す際に直面するさまざまな不測事態や不確実性などの摩擦によって戦争行為は妨げられる。このようにクラウゼヴィッツが論じた戦略理論とは戦争の本質に立脚した理論であり、現代においても戦争の本性と政治目的に合致した軍事戦略の在り方を示している。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "現代の戦略家として知られているイギリスの戦略家リデル=ハートはそれまでの戦略の概念をより包括的な概念として発展させた。彼の著作『戦略論』では大戦略の概念と間接アプローチ戦略の概念が提唱されている。大戦略とは政治目的を達成するために軍事的手段を適用する技術であり、軍事戦略の上位に立った包括的な戦略の概念として整理される。大戦略の概念によって戦争を軍事作戦の成否だけではなく、より総合的な観点に基づいて戦争を指導することの意義が戦略理論に表現されることになった。さらに間接アプローチ戦略は敵軍に対して直接対決することを回避し、敵の弱点に対して接近する戦略の理念である。ここでの敵軍の弱点とは物理的な戦力が希薄な方面であるだけでなく、心理的な警戒が希薄な方面を指す用語である。リデル=ハートは優勢な戦力を以って正面から敵を圧倒するのではなく、このような戦略的な機動を重要視していた。リデル=ハートの戦略理論には導入された大戦略の概念や間接アプローチの軍事思想は最小限の戦力で戦争に勝利することの可能性を示している。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "戦術 (Tactics) とは戦闘において戦闘力を効果的に運用するための科学、または技術であると考えられている。その作戦の形態の相違から戦術学では陸軍の戦術、海軍の海戦術、空軍の航空戦術に分類されて研究される。どれほど優れた戦略であっても、その実行には優れた戦術をも必要とする。戦闘を効率的に指導するためには優勢な戦力を投入するだけではなく、それら戦力を状況に応じて適切に運用することの重要性が知られている。戦術の黎明期においては戦闘隊形の重要性や戦場機動の方式が研究されていなかった。しかし古代ギリシアのファランクスと呼ばれる歩兵の密集隊形を活用した戦闘法が導入され、また騎兵部隊が決定的な打撃力として戦場に登場すると戦闘陣形の選定や防御戦闘と攻撃戦闘の連携などの戦術的な選択肢が広がることになった。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "劣勢でありながらも優れた戦術家の力量によって勝利した有名な戦史がある。マケドニアの国王アレクサンドロス3世(大王)はその戦術家の一人であり、ペルシア遠征でのガウガメラの戦いにおいてはペルシア軍に対して劣勢でありながらも敵部隊を誘致することで敵中央の戦力を希薄化させ、その地点に対して突破を実施したことで勝利することができた。またポエニ戦争においてはカルタゴの将軍ハンニバルがカンナエの戦いで采配を発揮し、優勢なローマ軍に対して歩兵部隊の防御戦闘と騎兵部隊の包囲機動を組み合わせて模範的な包囲殲滅を実践してみせた。またプロイセンの国王フリードリヒ2世は七年戦争のロイテンの戦いで優勢なオーストリア軍の横陣に対し、地形で部隊を隠匿しながら迅速に側面に接近し、側面攻撃をしかけることで勝利することができた。ナポレオン戦争ではフランスの国王ナポレオン1世は優勢なオーストリア軍とアウステルリッツの戦いで衝突したが、意図的な防御と後退行動を組み合わせて敵部隊を誘致した後にその中央を突破することで勝利を収めた。これらの戦史はいずれも戦力の劣勢を運用によって補っており、またその実施が成功したことから戦術的に高く評価されている。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "スイスの軍人アントワーヌ・アンリ・ジョミニが『戦争概論』で示した戦術理論の体系は近代における戦術学の起源として示すことができる。なぜならば、ジョミニは戦場での勝利にとって不可欠な行動の原則が戦術には存在すると捉えることで、その原則をさまざまな戦闘状況に適用する方法を理論化した。ジョミニの学説は世界各地の士官学校の教範類で採用されており、戦力の集中や戦場での機動などの原則に関しては戦術学の基礎知識として普及した。このような原則はイギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーによってさらに発展させられ、目的、主導、統一、集中、機動、節約、警戒、奇襲、簡明から成る戦いの諸原則として整理された。戦術的な戦闘行動である攻撃と防御についても、攻撃が主導的で能動的な戦闘行動である一方で戦力の消耗が激しく、逆に防御は従属的で受動的な戦闘行動でありながらも、消耗が少ないなどの特性が明らかにされていった。そして戦術研究が進むにつれてさらに戦闘陣形や戦闘行動を表す戦術用語や戦術的決心に求められる状況判断の思考法が確立されていった。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "兵站とは作戦中の部隊の活動を後方から支援する方法であり、具体的には物資の補給、兵器の整備、輸送の管理、衛生業務などの業務を指す。兵站は古来から戦争の勝敗を左右する重大な考慮事項であり、その基本的問題とは後方における根拠地の補給物資により、後方連絡線の輸送力を通じて、前線における部隊の補給所要を充足させることである。しかし根拠地での補給物資の不足、敵による後方連絡線の遮断、戦闘での戦力の消耗の増加などによって兵站の現実はより複雑である。したがって兵站とは単なる輸送計画ではなく、融通性、継続性、強靭性、効率性、創造性が求められる活動であると捉えなければならない。戦争において生じる不測事態に兵站は臨機応変に対処しなければならず、敵の妨害に直面してもその活動を維持しなければならない。さらに兵站問題として有限な物資を部隊にどのように配分するかという効率化の問題もある。しかも兵站は戦場の突発的な障害に即応するために創造的な問題解決が迫られる場合もある。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "軍隊において兵站が体系化された背景には作戦や装備の複雑化がある。ジョミニは軍が行軍する際に兵站監が考慮しなければならない事項を列挙しており、それは交通路の選定、補給処の警戒、行軍の管制、輸送手段の確保、宿営の計画など細部に渡っている。図上での軍事作戦を具体化するためにはこのような緻密な兵站活動が必要であり、ジョミニは兵站学をあらゆる軍事知識を応用する科学であると捉えている。兵站の重要性については戦略、戦術との関係性からも検討することができる。アメリカの軍人ジョージ・C・ソープは『純粋兵站学』において戦争を演劇に例えて論じており、戦略が演技を指導する脚本であり、戦術が役者の役割であるならば、兵站とは舞台や備品、小道具を準備することであると位置づけた。つまり卓越した戦略や優れた戦術は兵站によって根拠付けられていると考えることができる。しかし兵站が重要であることがわかったとしても、軍事史において現実の兵站が計画通りいかなかった事例は数多い。この歴史的事実はマーチン・ファン・クレフェルトは『補給戦』において明らかにしており、つまり知性を活用したどれほど綿密な兵站の計画であったとしても、クラウゼヴィッツが提起した戦争での摩擦の力で常に破壊されるのである。兵站の使命とはそのような障害を克服して部隊を支援することであり、軍事にとって末端の研究領域ではなく、むしろ本質的な研究領域と見なすことができる。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "兵站の活動を機能別で分類すると補給、輸送、整備、衛生に大別することができる。後方地域で遂行される支援はさらに多種多様であるが、これら四種類の業務は部隊の戦闘力を維持する上で特に緊要なものであると言える。補給とは部隊に対して行われる食糧、燃料、弾薬、医薬品等の消耗を提供することであり、補給所要の算定、補給物資の入手、補給物資の配分などの段階を踏んで行われる。また整備は車両や航空機、艦艇の状態を使用可能な状態に維持することであり、装備の破損状況によって使用部隊の整備、整備部隊の整備、外部委託の整備が行われる。輸送は人員や装備、物資の位置を適時において適所に移動させることであり、その地形や敵情に応じて陸海空の交通手段が選定され、安全性と秘匿性、迅速性と輸送力などの観点から判断されることになる。衛生は戦闘などで生じた人的戦闘力の消耗を回復するための活動であり、前線の部隊での処置、または後方の野戦病院での処置などが行われ、回復した兵員を復帰させる機能がある。このような兵站の複合的な業務は陸軍、海軍、空軍によってそれぞれ別個に体系化されている。例えば陸軍の兵站は基地の外部においても兵站機能を維持しなければならないが、海軍や空軍の兵站機能は根拠地に集約されており、また兵器体系が異なるため必要な補給物資も異なるものである。", "title": "軍事ドクトリン" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "軍事作戦は基本的に戦争において実施されるものである。しかし、戦争以外でも軍事作戦を実施することはあり得るものだと現在では考えられている。これは冷戦が終結してから地域紛争や人道危機に軍隊が対処する情勢が出現したことに呼応して、アメリカの統合参謀本部により1995年に提唱された概念である。この概念について詳説した書籍に統合教義教範3-07『戦争以外の軍事作戦のための統合教義』があり、ここでは戦争以外の軍事作戦は政治的考慮を踏まえて遂行される戦争に至らない軍事力の使用として定義される。その具体的な内容には戦争の抑止や解決のための平和創造活動、対テロ作戦、部隊の予防的展開、平和維持活動、非戦闘員避難作戦、対暴動作戦が含まれる。さらに平和を促進するための海上交通の確保、対麻薬作戦、人道支援、海上護衛、文民支援などもその概念に含まれている。このような軍隊の新しい任務について国連事務総長のダグ・ハマーショルドは平和維持を取り上げながら「平和維持活動は兵士の仕事ではないが、それをできるのは兵士しかいない」と述べている。戦争以外の軍事作戦を遂行するためには従来のように計画性や安全性、戦闘の効率性などを高めるだけではなく、政治・社会的影響に配慮しながら人道性や公平性の重視、民事作戦の円滑な実施、文民機関の支援の確保を行う必要がある。", "title": "軍事ドクトリン" } ]
軍事(ぐんじ、とは、戦争・軍人・軍隊などに関する事柄の総称である。
{{独自研究|date=2022年2月16日 (水) 01:43 (UTC)}} {{読み仮名|'''軍事'''|ぐんじ|{{lang-en-short|military affairs}}、{{lang-la-short|res militaris}}}}とは、[[戦争]]・[[軍人]]・[[軍隊]]などに関する事柄の総称である<ref>{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BB%8D%E4%BA%8B/|title=軍事(ぐんじ)の意味 - goo国語辞書 |publisher=goo国語辞書|accessdate=2020-11-05}}</ref>{{Efn|この定義は決して厳密なものではない。}}。 == 概要 == {{独自研究|date=2022年2月|section=1}} 軍事は、公共的利益と[[政治]]的な重要性を伴うものである。軍事は[[民事]]{{Efn|{{lang-en-short|civil affairs}}}}と共に国際関係を扱う分野の一つであり、[[外交]]や[[経済]]などと並ぶ[[政府]]の主要な[[行政]]機能の一つに位置づけられる<ref>防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)</ref>。軍事がなぜ公益と重要性を伴っているかを理解する上で、フィレンツェの政治思想家である[[ニッコロ・マキアヴェリ]]の見解が参考となる。彼は『[[政略論]]』において「戦いに訴えねばならない場合に、自国民からなる軍隊をもっていない指導者は国家は恥じてしかるべきだと思う」と論じている。なぜならば、自らの安全を自力で確保する意志がなければ、[[国家]]の独立と[[平和]]を期待することはできないからである{{Efn|マキアヴェリは『[[君主論]]』でも良い法律を良い軍備によって基礎付けており、政治指導者は軍事に精通することを主張している。}}。戦争が勃発することは不可避であり、それに対処するために軍備が必要であるという[[現実主義]]の[[政治哲学|政治思想]]は軍事の基本的な考え方となっている。 軍事の基本的な問題とは軍隊の根本的な任務である[[戦争]]における[[戦闘]]に勝利することにあると要約することができる{{Efn|軍事の基本的問題が戦争における戦闘の勝利であると限定することは初歩的な理解に過ぎない。軍事思想史において勝利の方法を追究することは古来より重要な検討課題であったが、後述するように戦争の変化にともなって軍事問題は複雑化、多様化している。}}。ただしこの基本的な問題に関しても幅広い視角が存在している。例えば[[自然科学]]の視角から軍事問題を観察すれば、戦場の[[地理学]]的特性、戦闘で使用される[[武器]]や[[兵器]]などの[[工学]]的性能、[[戦闘力]]や戦闘行動の[[数学]]的な性質などの側面が認められる{{Efn|ここで示した諸問題については、それぞれ[[軍事地理学]]、[[軍事工学]]、そして[[オペレーションズ・リサーチ]]などの研究を参照されたい。}}。これに[[社会科学]]の視点を導入すれば、戦闘行動をより大局的な観点から指導している国家の[[安全保障政策]]や[[国際法]]との関係、軍隊を支える国家の行政機能、戦闘を組織化する[[戦略]]と[[戦術]]、そして作戦計画を具体化するための補給や輸送、通信などの[[兵站]]活動などの多くの側面があることが分かる{{Efn|これらの諸問題は[[国際政治学]]、[[戦時国際法]]、軍事行政学、戦略学、戦術学、兵站学などの研究で取り扱われている。その一部は本項目で論じている。}}。さらに[[人文科学]]の視座を持ち込めば、戦争に関する文学的記述、戦闘の様相に関する歴史的観察、戦闘における兵士の心理的反応などの着眼点も指摘することができる{{Efn|戦争文学、[[軍事史]]、[[軍事心理学]]などの学問で研究の対象とされる問題群である。}}。つまり軍事とは軍隊の活動である戦争と戦闘において勝利するための諸々の問題であるが、広義においては上記で述べたような複雑な諸問題を含んでいる。 複雑さに加えて軍事という問題は時代に応じて流動的である。軍隊の使命は歴史を経て変化しつつあり、古代ギリシアの歴史家[[ヘロドトス]]が『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』で叙述した[[ペルシア戦争]]において軍隊は敵の軍隊を殲滅することのみを使命としていた<ref>ヘロドトス、 松平千秋訳、『歴史』(岩波文庫)</ref>。しかし近代においてポーランドの戦争研究者[[イヴァン・ブロッホ (銀行家)|イヴァン・ブロッホ]]は『[[将来の戦争]]』では戦争が軍事技術の進歩によって大量の損害を伴う長期戦に発展すると論じ、[[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]の様相を予測した{{Efn|著作の英訳はIs War Now Impossible?: Being an Abridgment of the War of the Future in Its Technical, Economic, and Political Relations(Kessinger Pub Co)で読むことができる。ブロッホの戦略思想はピーター・パレット編、防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』で取り上げられており参考になる。}}。また[[冷戦]]後ではイギリスの軍人[[ルパート・スミス]]が『[[軍事力の有用性]]』で戦争の歴史的変容を指摘しており、戦争は国家の武力衝突や敵軍の殲滅、領土の占領に特徴付けられるものではなく、人々の間で生じる戦争、前線と後方の混在などに特徴付けられる戦争に変化していると論じた{{Efn|スミスの著作はRupert Smith, The Utility of Force: The Art of War in the Modern World(London, ALLen lane,2005)で読むことができる。}}。三者は一様に戦争について論じているものの、その問題意識はそれぞれ異なっている。ヘロドトスが描いた戦争では戦場で刀剣などで武装した両軍が機動や打撃を行っていたが、ブロッホが予測した戦争においては高度な火力戦闘を行う両軍が決定的戦果を挙げることができることなく全ての国力を動員した長期戦となり、スミスの戦争観では敵の存在が不明確な混乱地帯において軍隊が行動するというものである。このように軍事において問題意識の力点が変化し続けており、現在において新しい課題が出現し続けている。 軍事の全般的な理解のために、ここでは主に社会科学の見地から述べており、そのため本項目では軍事に関する基本的な主題を戦争、軍事システム、戦争能力、軍事ドクトリンとまとめている。これら四つの主題に沿って、戦争の理論的枠組み、戦争の一つの形態である総力戦、制限戦争、ゲリラ戦の特性、戦争の政治理論としての国際政治の問題、戦争法の枠組み、国防の基本概念、軍隊の制度的成り立ち、指揮統制の基本システム、軍事教育のあり方、政府と軍隊の関係、軍事能力の機能と種類、陸上戦力、海上戦力、航空戦力の概念、軍事力を支える経済的基盤、そして軍事行動を指導する安全保障政策、軍事戦略、戦術、兵站、そして戦争以外の作戦について説明する。詳細については個別の記事で述べている。また本項目では取り上げられなかった戦争や軍隊、戦闘の歴史的説明については[[軍事史]]を、工学的見地に基づく諸々の装備については[[兵器]]を、各国の軍事情勢については[[:Category:各国の軍事|各国の軍事]]や[[各国の軍隊の一覧]]から該当する記事を参照されたい。 == 戦争 == === 戦争理論 === {{Main|戦争|戦争哲学}} 戦争が[[国家]]の存亡を決定する極めて重大な出来事であることは古来から『[[孫子 (書物)|孫子]]』が論じてきたことである。戦争において国家は敵の軍事力によって安全を脅かされる事態に直面するのであり、それは領土や都市の破壊と占領、国民の生存とその財産所有権の侵害、政治的自由や独立の制限などの方法で行われる{{Efn|『孫子』計篇によれば「兵とは国の大事なり、死生の道、存亡の道、察せざるべからざるなり」とされている<ref>金谷治訳『孫子』(岩波書店、2000年)</ref>。}}。同時に戦争は社会現象の中でも特に分析が難しい複雑な主題の一つであり、戦闘などの軍事的な出来事だけで生じるのではなく、対外政策や国内での政治過程などの政治的文脈に基づいて生起するものである。しかもその展開においては戦時特有の動員や生産などの経済的要素、国民心理などの社会的要素と関連するものである。しかも戦争は敵国と自国の相互作用によって生じた結果であるため、戦争において最適な意思決定が何であるかを明確に理論化することはできない{{Efn|戦争の複雑性については後述するようにクラウゼヴィッツが『戦争論』で論考している問題であり、ここで取り上げた戦争の複雑性は暴力の相互作用、戦争の霧、摩擦として概念化されている。}}。つまり重大な戦争の原因とその実態を理解するためには、その複雑性を概観できる理論的な把握が必要となる。 プロイセンの軍事学者[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ]]は『[[戦争論]]』において戦争の一般理論を構築した戦略家である。彼は二人の間での決闘に戦争をなぞらえた上で、戦争とは「敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」と説明しようとした。そして戦争において生じる[[暴力]]は相互作用によって無制限に極大化する法則があることを明らかにした上で、そのような戦争を[[絶対戦争]]として定式化した。絶対戦争では軍事的な合理性の下であらゆる事柄が徹底的に合理化され、最大限の軍事力が敵を殲滅するために使用されることになる。ただし戦争は単に軍事において完結する現象ではないことにクラウゼヴィッツは注意を払っており、この絶対戦争のような形式が現実に起こっている戦争とは異なることを認識していた。つまり戦争は固有の法則に従って無制限に暴力性を高めるだけではなく、その戦争行為を制限することができる政治的目的を伴うものである。戦争の発生には必ず外交的または経済的、心理的な情勢が起因しており、あらゆる戦争は政治的目的を究極的には達成しようと指導されるものである<ref>クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳 『戦争論』(上・下) 中公文庫</ref>。このクラウゼヴィッツの戦争理論は「戦争は他の手段を以ってする政治の継続である」と理解されており、戦略研究では広く参照されている。 しかし現代の戦略研究ではクラウゼヴィッツが前提としていた主権国家による戦争が戦争の全てではないことが分かっている。非国家主体によって戦争が遂行される可能性を提唱したのは社会主義の政治イデオロギーを掲げて革命戦争を指導した[[マルクス主義]]者たちであった。[[レーニン]]はクラウゼヴィッツが定式化した戦争と政治の関係を再解釈し、政治を武力によらない戦争、戦争を武力による政治であると捉えて革命戦争の理論に適用した。このことでパルチザン部隊による戦争の形態が成立することになり、国家と国家の戦争という図式は陳腐化することになった{{Efn|政治学者カール・シュミットは『パルチザンの理論』(ちくま学芸文庫、2005年)でマルクス主義者たちに与えたクラウゼヴィッツの思想的影響を論じている。}}。またクラウゼヴィッツに対する批判を展開する戦略研究者の[[マーチン・ファン・クレフェルト]]は『[[戦争の変遷]]』において戦争の歴史的事例に基づいて理論を構築している。クラウゼヴィッツの戦争理論での国家の前提は[[政府]]、[[軍隊]]、[[国民]]から成立している三位一体の戦争モデルであったが、クレフェルトは非三位一体の戦争が存在することを指摘しており、したがってクラウゼヴィッツの理論が主権国家による戦争に限定されたモデルであると論じている。つまり必ずしも戦争は理性的な政治の延長ではなく、むしろ[[宗教]]や[[正義]]などの価値観を実現するための手段として行われているものと考える{{Efn|クラウゼヴィッツ批判として位置づけられるこの著作はMatin van Creveld, The Transformation of War: The Most Radical Reinterpretation of Armed Conflict since Clausewitz(New York: The Free Press, 1991)で読むことができる。}}。 ===総力戦=== {{Main|国家総力戦}} 総力戦 (Total war) とは戦争が採りうる形態の一つであり、軍事力の行使だけでなく、軍事力を支える経済的基盤を構成する工業生産力や労働力の総動員、民間人の全国的な戦争協力、そして戦争遂行を正当化するための[[イデオロギー]]や思想の宣伝活動などを伴うような、国家の総力を挙げる戦争遂行の形式である。このような概念を提唱したのは[[第一次世界大戦]]で敗北したドイツ軍を指導した軍人[[エーリッヒ・ルーデンドルフ]]であった。ルーデンドルフは著作『[[総力戦 (ルーデンドルフ)|総力戦]]』の中で第一次世界大戦を契機に戦争の主体が政府と軍隊だけではなく民衆を巻き込んで遂行される形式へと変化したことを指摘し、これを総力戦と命名した{{Efn|この翻訳にはエーリヒ・ルーデンドルフ著、間野俊夫訳『国家総力戦』(三笠書房)がある。}}。総力戦の概念の画期性とは従来の戦争が戦場での軍事行動で完結していたものから、銃後の経済活動や生活までもが軍事行動と結び付けられたことである。したがって、総力戦においては[[海上封鎖]]や[[戦略爆撃]]のように敵の経済活動を破壊するための行動が継続的に行われ、また敵の抗戦意志を減耗させるために[[ラジオ]]や[[チラシ|ビラ]]などの[[マスメディア]]を利用した思想宣伝を実施する。これらに対抗するために経済活動は政府により統制され、人員や物資、情報などは軍事作戦を支援するために配分、管理される。ルーデンドルフは特にドイツ敗戦を招いた原因として革命運動を指示するような思想的要因を重要視しており、国民士気の低下はドイツ軍の士気そのものに悪影響を及ぼしていたと述べている。そのために総力戦を遂行するためには総力政治が不可欠であると主張している。総力政治は総力戦に関わるあらゆる要素を統制する機能を担っており、単独の指導者によって総力政治は実践されなければならない。つまり総力戦とは従来の武力紛争だけではなく、経済紛争や情報紛争が結合した複合的な戦争のあり方であり、核兵器が存在する現代においては[[核戦争]]を意味するものである。 ===制限戦争=== {{Main|限定戦争}} 制限戦争 (Limited war) とは軍事力を抑制的に行使することで、戦争のエスカレーションを制御することを可能とする戦争の形態の一種である。アメリカの外交官[[ヘンリー・キッシンジャー]]は『[[核兵器と外交政策]]』このような戦争を「特定の政治目的のため(中略)相手の意志を押しつぶすのではなく、影響を及ぼし、課せられる条件で抵抗するより魅力的であると思わせ、特定の目標を達成せんとする」戦争と描写した。つまり限定戦争の主眼とは、軍事力だけで敵に我の意志を全面的に強制するのではなく、外交交渉を交えながら軍事作戦を遂行することで、目標を達成する手段として戦争の規模や程度を抑制することにある。キッシンジャーは核兵器の登場によって戦争そのものが遂行不可能になるという見解を退け、この限定戦争に基づいた限定核戦争という戦争方式を提唱した<ref>キッシンジャー著、田中武克・桃井真訳『核兵器と外交政策』(日本外政学会, 1958年/抄訳版)</ref>。事実、核兵器が登場してからも[[朝鮮戦争]]や[[インドシナ戦争]]などの戦争が勃発しており、これらは限定戦争の形式に則って遂行されている。限定戦争を成り立たせている外交は通常の外交と区別されており、アメリカの政治学者[[アレキサンダー・ジョージ]]などの研究者たちによって[[強制外交]]と呼ばれている{{Efn|強制外交の理論と事例についてはゴードン・A・クレイグ/アレキサンダー・L・ジョージ著『軍事力と現代外交 歴史と理論で学ぶ平和の条件』(有斐閣)などが参考となる。}}。強制外交が敵との間で成立するためには、彼我双方にとって軍事行動に伴う損害を抑制する意図を共有しなければならず、戦略防勢の立場を採るために作戦の主導権を喪失する危険が伴うが、総力戦と比べて最小限の費用と危険で目的を達成する選択肢とされている。 <!-- 「軍事」と題した記事に適合する内容ではないでしょう。コメントアウトします。 戦争の項に移動させます。削除してください。 === 代理戦争 === {{Main|代理戦争|内戦}}代理戦争(proxy war)とは、現地の勢力(もしくはが直接的に[[戦争]]に関与することなく、その他の大国などを当事者として戦わせる戦争の形態である。 代理戦争の多くは、大国(アメリカ、ロシア(旧ソ連)、中国)が現地勢力支援している場合が多く、例は7つに分けられる。 # A国とB国双方が直接介入し、C国が現地勢力を支援する形式 #* [[朝鮮戦争]] # A国が直接介入し、B国とC国が現地勢力を支援する形式 #* [[ベトナム戦争]]、[[ラオス内戦]] # B国が直接介入し、C国が現地勢力を支援する形式 #* [[中越戦争]] # C国が直接介入し、A国B国双方が現地勢力を支援 #* [[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻|アフガニスタン侵攻]] # A国B国双方が現地勢力を支援 #* [[コンゴ動乱]]、[[アンゴラ内戦]]、[[カンボジア内戦]] # A国かB国が現地勢力を支援 #* [[グレナダ侵攻]]、[[ニカラグア内戦]]、[[グアテマラ内戦]] # 国家間紛争でそれぞれの国家に支援 #* [[中東戦争]]、[[ビアフラ戦争]]、[[エチオピア・エリトリア国境紛争]] --> ===ゲリラ戦争=== {{Main|ゲリラ|革命}} {{独自研究|date=2022年2月|section=1}} ゲリラ戦争(Guerrilla Warfare){{Efn|{{lang-en-short|guerrilla war}}}}または革命戦争とは本質的に[[国家]]に対する非国家主体により遂行される戦争の形態である。このような戦争の形態が成立した背景には[[マルクス主義]]を指向する政治運動があり、[[ロシア革命]]、[[キューバ革命]]、[[国共内戦]]などの革命が勃発したことで、ゲリラ戦争のあり方が研究されてきた。革命家でありながらゲリラ戦争の理論を確立した[[毛沢東]]はゲリラ戦争には正規軍によって遂行される在来戦争とは異なる背景を持った固有の領域があることを指摘し、『[[遊撃戦論]]』でこの問題を論考している。ゲリラ戦争の特徴とは戦略防勢の立場に置かれながらも、分散された小規模な部隊による急襲で敵に連続的に損害を強いることで戦争そのものを主導することにある。したがって、ゲリラ戦争において短期決戦は発生せず、決戦を想定した戦闘部隊は必ずしも優位ではなくなる{{Efn|この理論の詳細については[[遊撃戦論]]の項目か、原書の翻訳である毛沢東著、藤田敬一、吉田富夫訳『遊撃戦論』(中央公論新社、2001年)を参照されたい。}}。革命家[[チェ・ゲバラ]]は『[[ゲリラ戦争]]』においてゲリラ戦争を成立させるための戦略と戦術について論じている。そこでは負ける戦いを避け、常に遊撃し、敵から武器を略取し、行動は秘匿し、[[奇襲]]を活用するというゲリラ戦の原則が示されている。ゲリラ戦争は戦略的には防勢に置かれるが、しかし一撃離脱を繰り返すゲリラ戦士は決して包囲殲滅されることはないために、戦争の主導権を維持することができる{{Efn|甲斐美都里訳『新訳 ゲリラ戦争 キューバ革命軍の戦略・戦術』(中央公論新社)を参照されたい。}}。 <!-- 軍事と題した記事の内容から離れすぎで単に戦争の考察になっている。コメントアウトします。 ===国際政治=== {{Main|国際政治}} クラウゼヴィッツが論じたように、戦争はそれ自体で孤立した事象ではなく、より広い社会の文脈に従って政治的、外交的な過程から生じるものである。戦争の政治的文脈について論じた歴史家には古代ギリシアの歴史家[[トゥキディデス]]がいる。彼は『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』で[[ペロポネソス戦争]]を叙述することを通じて現実主義のパラダイムを示した歴史家として知られている。トゥキディデスはそのペロポネソス戦争の勃発に先立って生じていた都市国家間の紛争の背景にまで遡り、開戦に至るまでの経緯を政治家たちの議論を交えながら説明している。戦争を引き起こす原因として名誉、恐怖、利益の三種類が述べられている。つまり権威の保持や権力の争奪、敵の軍事力への恐怖感、そして経済的利権を巡る競争、これら三つの要因が作用することになるため戦争は勃発するものと考えることができる{{Efn|石津朋之編著『戦争の本質と軍事力の諸相』(彩流社)に収録されている論文「戦争の起源と本質をめぐる試論」でトゥキディデスの議論が参照されている。}}。ただしより体系化された政治学の立場に基づけばより詳細な因果性や対応策について論じている。 戦争を研究する政治学の立場には大別して権力理論に依拠する[[現実主義]]と道徳的な規範理論に依拠する[[理想主義]]の立場がある。理想主義が把握する戦争は抑制すべき対象であり、それはドイツの哲学者[[イマヌエル・カント]]の『[[永遠平和のために]]』で示されている[[平和]]理論で示されている。カントは国際平和を確立するためにどのような規制が必要であるかを考察している。その考察によれば、戦争を引き起こす好戦的な国家の政治体制が問題であり、政治体制は社会の構成員が自由で平等な市民である共和制でなければならない。なぜなら、そのような国家体制においては戦争の決定に国民の同意が必要であれば、国民は自らの労苦を考えて戦争を行うことに同意しないためである。さらに国際法に関しては同様に自由国家の連合制度に基づくべきであり、つまり全ての国家が従うことができる世界市民法を確立しなければならないと考えた{{Efn|詳細は[[永遠平和のために]]の項目か、翻訳のカント著、宇都宮芳明訳『永遠平和のために』(岩波書店)を参照されたい。}}。この世界政府の樹立によって戦争の発生を抑制する構想は国際連合の設立によって現実の国際政治で進められている。 一方で現実主義の立場から把握する戦争とは不可避的な事態であり、[[ドイツ]]出身の政治学者[[ハンス・モーゲンソウ]]は『[[国際政治学 (モーゲンソウ)|国際政治]]』において戦争が発生する政治力学をモデル化して研究している。そもそも人間の政治行動は利益を追求して行われるものであり、しかも国際関係は本質的にアナーキーであることを理論的前提としなければならないとモーゲンソーは考える。したがって主権国家もまた[[国益]]を追求するために自らの[[権力]]を最大化して相手国に自らの意志を強制しようとする。現実主義の理論と実践の中核にある概念には[[勢力均衡]]があり、これは相手の勢力の程度に対して均衡できるように自国の勢力を同盟によって同程度に高めることである。この勢力均衡が実現されている政治情勢において政治的安定性がもたらされるものであり、したがって戦争は勢力の不均衡によって生じるものだと論じる{{Efn|この理論はモーゲンソー著、現代平和研究会訳『国際政治 権力と平和』(福村出版株式会社、1987年)で詳細に説明されている。}}。モーゲンソーが体系化した現実主義の理論は近代の国際秩序における[[外交政策]]の基本的発想として使用されていたものでもあり、現代の国際社会においても国際システムを構造的に理解するための学説として採用されている。 --> === 戦争法 === {{Main|戦時国際法}} {{独自研究|date=2022年2月|section=1}} 戦争法とは戦争行為を規制する戦時における[[国際法]]である。これは今日では武力紛争法や人道国際法とも呼ばれる場合がある。現実主義の立場に立つならば、戦争は本質的には[[道徳]]や[[法律]]によって規制することはできるものではない。したがって戦争法が存在する価値を認めることはできないものである。しかしながら、[[国際政治学]]におけるもう一つの立場である[[理想主義]]に立脚するならば、戦争は決して許容できないものである。このような考え方は[[人文主義]]者[[エラスムス]]が『平和の訴え』において「およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです」と論じたことで表現される<ref>『平和の訴え』(岩波書店、1961年)66</ref>。戦争を回避するためにあらゆる戦争行為は禁じられなければならない。しかしこの現実主義と理想主義のような全面的な肯定と否定の間に立つもう一つの立場がある。それは国際法学者[[フーゴー・グロティウス]]が「二つの極端な説に治療を施し、なにも許されないとか、すべてが許される、などと信じ込むことがないようにしなければならない」と表現した、条件付きで戦争行為を許容する立場である<ref>『戦争と平和の法』プロレゴメナ29</ref>。その条件を法的理論として発展させたものが戦争法であると言える。 戦争法には開戦法規と交戦法規という二つの基本的な部門がある。開戦法規とはどのような場合において戦争を開始することができるのかを定めた法であり、交戦法規はどのような手段によって戦争を遂行することができるのかを定める法である。開戦法規に関しては[[主権]]国家は政策の手段として戦争に訴える権利を持っていたが、1929年の「戦争放棄ニ関スル条約」によって武力行使の違法化が進み、現在では[[国連憲章]]の下で他国の領土保全や政治的独立に対する武力行使や国連の国際平和の維持するという目的と相反する武力行使を違法化した。もし国家が侵略を受けた場合には個別的、集団的[[自衛権]]を行使して防衛することができるが、同時に国連は侵略国に対して[[集団安全保障]]に基づいて武力制裁を含めた制裁措置が可能である。ただし自衛権を行使する判断は国家が判断することができるが、国連が制裁措置を行う場合には[[国際連合安全保障理事会|安全保障理事会]]による決議が必要であり、常任理事国の全員の同意が必要である。 交戦法規に関しては、もともとは[[騎士道]]の規範に基づいて非人道的な殺戮・破壊活動を規制していたが、近代の軍事技術の発達によって戦闘の様相が変化すると新しく交戦法規を確立しなければならなくなった。交戦法規の一般的な原則は効率性と人道性の均衡ある両立であり、これは攻撃目標を選定する場合において、任務の達成のために市街地と軍事基地の二つが選択可能であるならば、不必要な犠牲が出る可能性がより少ない軍事基地を攻撃するべきであるという原則である。交戦法規の大系においては攻撃目標や攻撃禁止目標、合法的な戦闘手段や方法、非戦闘員の保護、中立国の権利保護などの細目があり、これらの規則は作戦行動において指揮官の責任を以って遵守しなければならない。この戦時国際法に対する違反があり、その行為の責任者がいる場合には、[[戦争犯罪]]として裁かれなければならない。1990年代に戦争犯罪への措置は強化され、ボスニア・ヘルツェゴビナで非人道的な紛争が発生した際には国連安全保障理事会は[[国際裁判所]]を設立して戦犯を裁き、1998年には常設の[[国際刑事裁判所]]既定が国連の外交会議で採択された。 == 軍事システム == === 国防 === {{Main|国防}} {{独自研究|date=2022年2月|section=1}} 国防とは脅威に対して[[国家]]の安全を確保することであり、幅広い範囲で捉えられる国家[[安全保障]]の意味で用いられる場合と軍事力による[[防衛]]の意味で用いられる場合がある。ここでの国家とは[[領域 (国家)|領域]]、[[国民]]、[[主権]]の三要素から成り立っている政治的な共同体である。領域は国家の排他的な支配権が及ぶ[[地理]]的範囲であり、領土、[[領海]]、[[領空]]に区別される。領域において生活する国家の構成員とは国民であり、国民はその国家の主権に服従する。国家の主権とは国家のあり方を国家の構成員が政治決定する権利であり、その具体的な構成は国家体制によって国ごとに異なっている。このように成立している国家の内部的構成を概観すれば、国家は物理的な手段によって打撃を与えることができることが分かる。国家は領域の奪取や国民の殺傷によってその統治能力を低下させる可能性がありうるのであり、そのような事態に対処するために国防の準備が必要となる{{Efn|国防の概念を概観した研究に服部実『防衛学概論』(原書房、1980年)などがある。}}。 国防は国家を単に守ることではなく、脅威から国家を守ることである。国防において脅威とは国家の存続や利益を脅かす他者の存在や能力、行動を指す。それは武力による威嚇、[[領空侵犯]]、[[領海侵犯]]、海上交通路での[[通商破壊]]、[[ミサイル]]や[[航空機]]による攻撃、全面的な武力行使、などの軍事的脅威が主なものである。ただし、[[海上封鎖]]などによる経済制裁は経済的脅威、大規模な[[内乱]]などの政治的脅威などの存在を指摘することもできるが{{Efn|対外的安全保障だけでなく、対内的安全保障や状況的安全保障の視角も考えることができる。}}、ここでは軍事的脅威について述べる。軍事的脅威の程度を判断する基礎は軍事力とそれを行使する意志である。軍事力は現有兵力と動員兵力、装備と兵員の配備状況などから定量的に評価することが可能である。しかし意志については相手国の政策決定者の思考から評価するしかなく、そのために国家政策や作戦計画などから定性的に推測することになり、判断が難しい。また環境条件が相手国にとって有利かどうかも重要な判断材料となる。国際環境の不安定化や国家の内部分裂による外部勢力の介入などは進攻を決定する際に有利な一般情勢である。 国防は脅威から国家を守ることであるが、そのためには手段が必要である。その手段として軍事力が中心であると考えられているが、非軍事的要素についても注目されている。政治学者モーゲンソーは国家の国力の構成要素として軍備以外に[[地理]]、[[人口]]、[[工業]]力、資源、国民性、国民士気、政府や外交の性質を上げており、また政治学者クラインも領土、人口、[[経済力]]、[[国家戦略]]を遂行する意志、戦略目的という構成要素を列挙している。このような幅広い国力要素が出現した背景には総力戦や革命戦争、核戦争に特徴付けられるように、戦争の範囲が戦闘だけでない社会全体に及ぶように変化したことが理由として挙げられる。このような国防能力を使用する国防政策として単独による国防だけではなく、[[同盟]]による共同防衛や集団的安全保障、[[中立]]政策などがある。 === 軍隊 === {{Main|軍隊}} {{独自研究|date=2022年2月|section=1}} [[軍隊]]は一定の規律・組織に基づいて編制された武装組織である。しかし今日の軍隊はそれ自体で独立した組織ではなく、国家の枠組みに基づいて政府組織の権力の下で組織されている。したがってその組織のあり方は国によってさまざまであり、その社会事情に関連して社会階層が部隊編制に反映されている場合や、政治権力と一体化している場合もある。[[アケメネス朝]]の軍隊は貴族である騎兵部隊が主力となり、農奴から構成される歩兵部隊が補助的役割を任せられていたが、[[始皇帝]]は一般公募に応募した人々で編制された軍隊で中国を統一した。中世ヨーロッパでは[[封建制]]を背景とした[[騎士]]階級が軍事的義務を果たし、名誉を認められていた。しかし近代において新しい軍事技術である[[小銃]]や[[火砲]]が戦闘に導入され、フランスの軍人ギベールが『[[戦術一般論]]』が述べたような国民軍が[[フランス革命]]を契機に成立すると、その後ヨーロッパ諸国もその軍制へ移行していく{{Efn|ギベールの著作はGatt, The Origins of Military Thought, (Oxford, 1989).で読むことができる。}}。近代ヨーロッパの情勢を背景とした軍事制度についてスイスの軍人[[ジョミニ]]は軍隊の構成要素を列挙している。それは徴募組織、部隊編成、予備役、行政管理、軍紀、報酬制度、[[砲兵]]や[[工兵]]などの特技兵科、攻防両面における装備、戦術教育の機能を備えた[[参謀本部]]、[[兵站]]組織、指揮系統の制度、国民の戦闘精神を喚起することである{{Efn|佐藤徳太郎訳『戦争概論』(中央公論新社、2001年)の軍事政策の章を参照されたい。}}。これら要素を備えていることが、ジョミニが強調しているように近代軍として不可欠の要素であると考えられる。 軍隊組織の理論の観点から見るならば、軍隊は組織としてはドイツの社会学者[[マックス・ヴェーバー]]が定式化した[[官僚制]]のモデルの典型例である。つまり規則による職務権限の配分、階級制度に基づいた指揮系統、文章による事務処理、専門性を備えた職員の公平な選抜などの合理的な組織運営が行われている組織である。同時に軍隊は専門的な職業団体でもあり、アメリカの政治学者[[サミュエル・P・ハンティントン|サミュエル・ハンチントン]]は軍隊が暴力の管理に関する専門知識と責任、団体性を備えた職業集団であることを将校団の分析から論証した。独自の行動様式や参加手続、共通経験を持つ職業集団であるために軍事問題に特化した組織的能力を派発揮することが可能であり、このような軍隊の職業的性格こそが近代軍の基礎となった。プロイセンが創設した軍事学の研究機関である陸軍大学と参謀本部は職業軍人を育成するための機関であり、ドイツの軍人[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|モルトケ]]と[[シュリーフェン]]の職業軍人としての立場は政治野心を持つべきではないという軍人の職業倫理の模範を示した{{Efn|近代軍のこのような成立ちとモルトケやシュリーフェンの位置づけはサミュエル・ハンチントン著、市川良一『新装版 ハンチントン 軍人と国家 上・下』(原書房、2008年)で示されている。}}。 軍隊の組織構造は地域や時代によってそれぞれ異なるが、軍隊は他の文民組織とは異なる固有の組織構造を形成している。軍隊の体制は軍事作戦の部門、軍事行政の部門、そして軍事司法の部門に大別することができる{{Efn|この軍事制度の分類は大学教育社編『現代政治学事典』(ブレーン社)の「軍制」の項目を参考にしている。}}。軍隊において軍事作戦は最も基本的な部門であり、幕僚によって補佐された指揮官が任務を達成するために部隊を指揮する。各部隊にはさらに下級部隊が組織されていることによって指揮系統が形成されている。軍事行政の部門においては、部隊に[[予算]]や兵員、装備を提供することは軍隊ではなく国防省や防衛省などの行政機関によって実施される。軍事行政は政府の一員である大臣が指導する官僚によって軍事力を開発、維持、管理する。加えて軍事司法の部門においては立法府によって制定された[[軍法]]に部隊は服従しなければならない。フランスの軍人マルモンは軍隊で起こった犯罪は国家の司法権と軍隊の指揮権を調整しながら法に基づいて裁かなければならないと『軍制要論』で論じている。軍法は任務の放棄や敵前逃亡、利敵行為などの行為を軍事犯罪と定めており、軽微な犯罪であればその部隊の指揮官が決裁によって処罰することができるが、重大な軍事犯罪であると見なされれば[[軍法会議]]が召集され、その判決に基づいて刑が執行されることになる{{Efn|軍制全般については旧日本軍の軍制を概説した三浦裕史による『軍制講義』(信山社出版、1996年)が参考になる。}}。 ===指揮統制=== {{出典の明記| date = 2020年11月| section = 1}} {{Main|C4Iシステム}} 軍事システムにおいて指揮統制とは指揮官が任務を達成するために隷下の部隊の作戦運用を指導するために必要な施設、通信、人員、そして手順の総体であり、軍隊の[[神経系]]と言うべき機能を果たしている。この指揮統制の複合的機能を整理すると、それは指揮、統制、[[通信]]、[[コンピュータ]]そして[[諜報]]の機能から成り立っており、英語の頭文字から[[C4Iシステム]]と要約される。このシステムに基づいて情報資料を諜報により獲得し、コンピュータにより[[情報処理]]を行った上で指揮官はそれを通信で知らされる。そして意思決定が下った後には再び通信によって各部隊に対して指揮権に基づいて命令が各部隊に発せられる。これは必ずしも近代以後の軍事技術だけに合致する概念ではなく、古代の軍事組織においても指揮官は歩哨や間諜がもたらす報告を、伝令や狼煙、音響によって通信伝達され、幕僚や軍師による状況分析を参考にしながら状況判断を行って命令を発していた。現代ではこの情報のやり取りをさらに発展させ、国防体制において指揮統制の体系は早期警戒衛星システムや長距離レーダーなどの諜報活動の手段を活用し、専門化された情報分析官から成る[[情報機関]]が情報資料を分析し、幕僚本部や安全保障会議が指揮官を補佐し、しかも無線中継システムにより通信網を確保しているために、より迅速で詳細な意思決定と大量の情報伝達が可能となっている。 ===軍事教育=== {{出典の明記| date = 2020年11月| section = 1}} 軍事教育とは軍人に必要な能力を付与するための[[教育]]、[[訓練]]、[[演習]]の体系である。軍事教育の重要性は古代ギリシアから認識されており、体力と[[戦闘技術]]を練成し、部隊の団結と規律を高めることで戦闘力を改善することが軍隊で行われていた。マキアヴェッリは国民軍の創設にあたって軍事教育の重要性を指摘し、部隊の錬度に応じて教育水準を段階的に高めることを示している。オランダ軍の[[マウリッツ (オラニエ公)|マウリッツ]]公は[[基本教練]]を教範類としてまとめたことで、規律正しく部隊に行動させる操典が各国軍で確立されていった。またプロイセン軍では[[ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト|シャルンホルスト]]などの功績により高級指揮官を育成する[[陸軍大学校 (プロイセン)|陸軍大学校]]が創設され、高級将校教育の原型を確立している。このような軍事教育の整備がなされるようになった背景には18世紀における[[軍事学|軍事科学]]の成立があり、[[アダム・ハインリッヒ・ディートリッヒ・フォン・ビューロー|ビューロー]]、[[ヘンリー・ロイド|ロイド]]、[[コント・ド・ギベール|ギベール]]などが展開した[[科学]]的方法を重要視した軍事思想によって、それまで断片的であった経験や知識が[[概念]]、[[モデル (人文科学)|モデル]]、[[理論]]に基づいて体系化されていった。軍隊で行われている教育体系はまず陸海空軍に設置された教育部隊で[[基本教練]]、基礎的な歩兵としての戦闘訓練などを新兵教育の課程で受けることになる。しかし陸海空軍の軍種、そして[[兵卒]]、[[下士官]]、[[将校]]という階級によってその後の訓練内容は細分化されており、小銃射撃の能力を付与する射撃訓練から大規模な戦力を運用する能力を付与する[[兵棋演習|図上戦術]]まで分かれている。これら教育訓練で付与された能力を評価する方法として閲兵や想定された状況で実際に行動する[[軍事演習]]を実施することが行われている。 ===政軍関係=== {{Main|政軍関係}} 政軍関係とは[[政府]]と[[軍隊]]の関係のあり方であり、[[政治]]はあらゆる軍事行動の上位に位置して目標を規定するべきであると考えられている。その理由として[[カール・フォン・クラウゼヴィッツ|クラウゼヴィッツ]]の「戦争は他の手段を以ってする政治の延長である」という[[命題]]が引用できる。軍事力は[[侵略]]・[[防衛]]のために運用されるものであるが、それは政治の意志に従属するものであり、このことは[[文民統制]]の理念として知られている。ハンチントンは『[[軍人と国家]]』において軍隊の本来的なあり方について職業主義の概念を使用して分析している。そして軍隊は軍事的な職業主義を最大限に発揮することで軍隊は軍事に専門化し、政治に介入する動機や機会は失われると論じた。このような職掌主義を最大化する政軍関係をもたらすための文民統制を客体的文民統制と呼んでおり、これは主体的に政府が軍隊に介入するのではなく、政府と軍隊を分離した上で客体として統制する方式である<ref>サミュエル・ハンチントン著、市川良一『新装版 ハンチントン 軍人と国家 上・下』(原書房、2008年)</ref>。 ただしこのハンチントンの客体的文民統制とそれによりもたらされる職業主義の概念は批判を受けている。社会学者ジャノヴィッツはそもそも軍人が政治化することは不可避的な事態であり、軍人は国益の保護者である以上、政治決定に対して国益を保護するように介入する権利を持っていると考える。そのため、軍人が文民の価値観を持つことで文民統制が実現されると主張した。そして具体的には軍隊に対して行政や立法府の監視を強め、軍隊の職業訓練に文民が介入すること有効性を述べている。また[[ファイナー]]はさまざまな軍による[[クーデタ]]の事例を示しながら軍隊の政治介入を防止するために文民の絶対的な優位性に軍人が従属しなければならないと論じた。ファイナーも『[[馬上の人]]』において軍人が政治に介入することは軍人の宿命であり、特に[[政治文化]]が未熟な国家においては文民政治家にはそれほど正統性が認められないために政治介入に至る傾向があると考えた<ref>Samuel E. Finer, The Man Horseback: The Role of the military in Politics, Second enlarged edition, first published by Pall mall Press 1962, Revised and published in Peregrine Books (Middlesex: Penguin Books, 1976).</ref>。 == 戦争能力 == === 軍事力 === {{Main|軍事力}} 軍事力とは平時、戦時において国家の政策の目標を達成または支援するために活用される能力であり、これは政治的、経済的、社会的、軍事的な資源から構成されている。根本的に軍事力とは人間や装備から組織化された[[暴力]]であり、この組織的、技術的な組合せや計画的運用によって平時での抑止、危機管理、戦争での攻撃や防御などの能力が左右される。軍事力の機能は基本的には安全保障に関する、抑止、強制および抵抗の三種類にまとめることができる。抑止とは敵の軍事行動を思いとどまらせる機能であり、これは敵に対抗可能な軍事力を準備することで果たすことができる機能である。一方で強制や抵抗はより直接的な機能である。強制は自分の意志を相手に強制する機能であり、威嚇的な軍事力から全面的な攻撃など幅広い軍事行動の機能に該当する。逆に抵抗は相手の強制を退ける機能であり、威嚇的な軍事行動への対処や徹底抗戦にわたる軍事行動の機能が該当する{{Efn|防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)で軍事力の諸機能について詳細に論じられている。}}。 軍事力の構成要素を理解するためには物質的要素だけではなく精神的要素を考慮することが重要であることが論じられている。フランスの軍人[[モーリス・ド・サックス]]は軍隊の精神的要素を発見した軍人であり、著作『[[我が瞑想]]』の中で「戦争にまつわる、あらゆる事柄は人間の「こころ」に端を発する」と述べている。サックスは自らの軍務経験から軍隊の[[士気]]が重要な働きを持つことを軍事思想として展開した。したがって軍事力の構成要素には[[軍用車両]]、[[軍艦]]、[[軍用機]]などの有形の戦力だけではなく、指揮統制能力、兵站能力、錬度や士気などの無形の戦力から成り立っていると考えられている<ref>T.R.Philips. Roots of Strategy(London, 1943)</ref>。さらに軍事力の潜在的な構成要素である政府の指導力や外交力などの政治力、[[軍需産業]]や備蓄資源などの経済力、[[技術革新]]を進めるための科学技術力、軍隊に対する国民的支持などを考慮することも可能である。 軍事力の構成要素は単に集合しているのではなく、[[戦闘教義]]の下で有機的に統合された能力である。戦闘教義は軍事史において装備の革新や部隊編成を伴いながら変革されてきた。古代ローマの軍事学者[[ヴェゲティウス]]は[[古代ローマ]]の軍制についての研究を通じて[[ローマ軍団|レギオン]]と呼ばれた戦闘教義を記している。レギオンは120名の中隊を三列で間隔を保って横隊に戦闘展開して作戦するものであり、必要に応じた疎開や密集、機動が可能となっている。レギオンは古代ローマの戦闘教義であっただけでなく、近世における軍事思想史でマキアヴェリの『[[戦術論]]』によって模範として参照されている。現代のアメリカの軍事学者ビドルは『[[軍事力 (ビドル)]]』の中で軍事力の運用方法に注目して近代的軍事力の特徴を近代システムであると主張する。近代システムとは射撃と運動の組織的な連携であり、第一次世界大戦でドイツ軍により本格的に導入されて戦果を挙げた<ref>Stephen Biddle, Military Power: Explaining Victory and defeat in Modern Battle, Princeton, NJ: Princeton University Press, 2004.</ref>。現在では、軍事力はDOTMLPF(ドクトリン、オーガニゼーション、トレーニング、軍需品、ロジスティックス、リーダーシップ、人事、施設の略)の総合力としてのケイパビリティとして把握するのが、アメリカを中心とした西側先進国で常識化しており、望ましい軍事ケイパビリティを達成するための軍事能力の分野別の軍事能力の不足(ケイパビリティギャップ)の数量的把握とそれに対する合理的な対処が制度化されている。 ===陸上戦力=== {{Main|陸軍力}} 陸上戦力とは陸上において作戦行動する能力を持つ戦力である。陸上戦力の役割とは人間の本来的な生活領域である陸上において軍事作戦を展開することであり、陸上戦力を代表する軍事組織としては[[陸軍]]がある。ただし治安部隊や国境警備隊、また場合によっては[[海兵隊]]や[[陸戦隊]]も陸上戦力として機能することができる。陸上戦力が活動する陸上には土地、資源、そして住民の三つの基本的要素が存在するが、陸上戦力はそれらを統制下に置くことが可能である。これら三つの要素はいずれも密接に関連しており、土地を支配することはその地域の交通を管制することになるため、天然資源の使用を制約することが可能となり、同時にそれは住民生活に必要な物資を統制することをも可能とする。陸上戦力はその特性から地形と密接に関係するものであり、運用によって地形を戦力化することが可能である一方で、森林、市街、砂漠、山岳などの地形によって弱体化される可能性もある{{Efn|ここの記述は防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)の陸上戦力の章を参考としている。}}。 陸上戦力の戦略的役割を表現する[[ランドパワー]]と呼ばれる概念がある。イギリスの地政学者[[ハルフォード・マッキンダー]]は『[[デモクラシーの理想と現実]]』においてランドパワーとは海洋に対して大陸に根拠地を持つ勢力を指す地政学の概念である。マッキンダーによれば世界の覇権を獲得するためには[[ユーラシア大陸]]の内陸部に位置する[[ハートランド]]を支配することが重要であると論じた。つまりハートランドから投射されるランドパワーは全世界的な支配権を確立することができる{{Efn|この著作は曽村保信訳『デモクラシーの理想と現実』(原書房、1985年)で全訳されている。}}。加えてこの大陸に基づいた戦略思想を展開したドイツの地政学者には『[[太平洋地政学]]』の著者である[[カール・ハウスホーファー]]がいる。ハウスホーファーは[[第一次世界大戦]]で敗北したドイツが自給自足するために必要な[[生存圏]]をユーラシアからアフリカに至る地域と定め、アメリカ、日本、ロシアとともに世界を分割する統合地域理論を主張した<ref>ハウスホーファー著、太平洋協会編『太平洋地政学』(岩波書店、1942年)</ref>。 陸上戦力の具体的な組成について観察すれば、その最小単位の部隊である分隊から出発し、小隊、中隊、大隊、連隊そして師団という部隊編制が採用されている。これは[[師団]]制度と呼ばれる部隊編制であり、この師団制度に基づいて歩兵、砲兵、機構などの戦闘兵科を担う各部隊が師団の中で組織されている。{{独自研究範囲|近代的な師団制度は歴史的には[[スウェーデン]]の国王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]によって確立されたものであり|date=2020年11月}}、今日の陸軍の部隊編制でも広く採用されている{{Efn|一般的には師団divisionとは、言葉通り「(軍を)分割したもの」であり、[[モーリス・ド・サックス]]の理論を[[ヴィクトル=フランソワ (第2代ブロイ公爵)]]が実践したことに始まるとされる。}}。また近代以後では火器の破壊力が向上したために要塞を使用する効率性が失われ、機動力を活用することが重視されるようになっている。ドイツの軍人[[ハインツ・グデーリアン]]によって実践された[[電撃戦]]は近代陸上作戦において[[戦車]]の最大限に活用した戦闘教義であり{{Efn|正確にはグデーリアンの前にイギリスの軍人フラーによる機甲戦研究が存在したが、グデーリアンは実戦においてその有効性を実証したことからも評価されている。電撃戦の参考となる彼の著作に本郷健訳『電撃戦-グデーリアン回想録』(中央公論新社、1999年)などがある。}}、現在でも陸上戦力にとって機甲部隊の重要性は変わっていない。 ===海上戦力=== {{Main|海軍力}} 海上戦力とは海洋において戦闘力を発揮する戦力の形態であり、[[海軍]]によって海上戦力は造成、運用されている。しかし海軍だけでなく[[沿岸警備隊]]も海上戦力として把握することは可能である。人間の生活にとって海洋という地理的環境は陸地の住民にとっては障害となるが、[[船舶]]や[[港湾]]などの交通手段が確立されれば広大な交通路となるものである。海上交通によって大量の物資の輸送やその輸送を通じた沿岸地域または海外地域との交易で得られる経済的便益がもたらされる。海上戦力とはこの[[シーレーン|海上交通路]]を保持して管制する意義があり、さらに敵の海上交通を防止する意味もある。海洋の環境は気象や海象によって変化するが、それを戦力として活用することは困難であり、戦力の優劣がそのまま戦闘結果に反映されやすい{{Efn|ここの記述は防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)の海上戦略の章を参照している。}}。 海上戦力の戦略家として代表的な人物にアメリカの戦略家[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]がいる。マハンは『[[海上権力史論]]』や『[[海軍戦略 (マハン)|海軍戦略]]』などの著作があり、海洋が巨大な公道であり、海上交通の防衛が海軍の最重要目的であると指摘した。そして生産、[[海運]]、[[植民地]]を連環として繋ぐ能力として[[シーパワー]]の概念を提起する。シーパワーは海上戦力だけでなく、地理的位置や自然的形態、領土範囲、人口、国民性、政府の性格など海洋に関する総合能力である{{Efn|これはマハンの著作で論じられており、北村謙一訳の『マハン海上権力史論』(原書房、2008年新装版)を参照されたい。}}。マハンと同じく海上戦力の戦略的意義を論じたイギリスの戦略家にジュリアン・コーベットがいる。コーベットは『[[海洋戦略の諸原則]]』で海軍だけでなく陸軍との連携を位置づける制限戦争の戦略を研究しており、僅かな陸上戦力でも戦争目的を制限し、敵を海上戦力で孤立化できる地域に派遣するならば、勝利することが可能であると論じた{{Efn|彼の著作では陸上戦力と海上戦力の相補性がより詳細に論じられている。著作の全訳は戦略研究学会編、高橋弘道編著『戦略論大系8 コーベット』(芙蓉書房出版、2006年)で読むことができる。}}。 海上戦力は基本的に洋上展開能力を持つ艦艇、航空機を単位として組織される戦力である。艦艇は[[船舶工学]]の発達にともなってさまざまな艦種が開発されてきたが、現代においては[[潜水艦]]、[[航空母艦]]、[[巡洋艦]]、[[駆逐艦]]、[[フリゲート]]、[[掃海艇]]、[[給油艦]]などの艦種がある。これらの艦種は[[排水量]]が異なるだけでなく、それに応じて[[火砲]]や[[ミサイル]]などの兵装も異なる。しかも航空母艦の航空戦力を運用する能力や潜水艦の潜水能力は他の水上艦艇とは異なる能力として特別に設計されている。これら艦艇は[[艦隊]]として編制され、艦隊は各艦艇が保有する水上戦闘、対戦戦闘、対空戦闘などの戦闘機能を組み合わせて総合的戦闘力を発揮できなければならない。海軍の航空機は[[哨戒機]]が哨戒任務に就き、機動力を駆使して広大な海域のパトロールを行なう。海軍はその水域の制海権を確保するために艦隊決戦や航空打撃戦、海上封鎖などによって敵の艦隊を妨げ、自国の[[シーレーン]]を保護し、敵のシーレーンを封殺する。 ===航空戦力=== {{Main|空軍力}} 航空戦力は空中で戦闘力を発揮することが可能な戦力であり、[[空軍]]がこの航空戦力を組織している。航空戦力が経由する空中には陸地や海洋とは異なる地理的特性があり、地球上あらゆる地点に直接的に接触することが可能な唯一の空間である。また[[航空機]]は陸上や海上の交通手段と比較して短時間で広範囲に及ぶ移動・輸送能力を発揮することが可能である。さらに現代社会において飛行場と航空機などによって形成されている[[航空路]]は海上交通路と並ぶ重要な交通手段である。ただし航空戦力は迅速に機動することが可能であるものの、その戦闘力は他の戦力と比べて短時間で消耗してしまう。なぜならば、航空戦力の本質的要素は航空機であるために、滞空するだけでも燃料を消費し、また搭載可能な兵装も制約されている。したがって地上また空中での燃料や弾薬の補給、航空要員の交替を行う必要が出てくるのである{{Efn|防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)の航空戦力の章を参照されたい。}}。 航空戦力の戦略的効果について論じたイタリアの軍人[[ジュリオ・ドゥーエ]]は第一次世界大戦で航空機の軍事的な可能性を発見し、『[[制空]]』において独立空軍の効率性を主張した。その理由として航空機が持つ飛距離が拡大したことで敵の前線を超えて後方地域に戦略爆撃を行うことが可能になったためであり、そのため制空権の争奪がこれからの戦争の主要な基軸となるためであった<ref>Giulio Douhet, Command of the Air, (Office of Air Force History, United States Government Printing Office, 1983).</ref>。同様にアメリカの軍人[[ウィリアム・ミッチェル]]も『[[空軍による防衛]]』においてこれからの戦争の主力は航空戦力であり、独立空軍の創設を主張している。彼らの主張は当初は支持されなかったが、第二次世界大戦で航空戦力の有効性は認識されるようになる<ref>William Mitchell, Winged Defense: The Development and Possibilities of Modern Air Power-Economic and Military, New york and London, G.P. Putnam's Sons, 1925.和訳されたものは戦略研究学会、[[源田孝]]編『戦略論大系11 ミッチェル』(芙蓉書房出版、2006年)がある。</ref>。イギリスの軍人[[ウィリアム・テッダー]]は第二次世界大戦での航空戦力の働きを踏まえて、『戦争における空軍力』で航空優勢が陸海空いずれの作戦にとっても不可欠であると述べて航空戦力の普遍的な重要性を論じた。 航空戦力の本質にあるものは航空機であるが、この航空機もその偵察、戦闘、爆撃などの目的からさまざまな設計が施される。軍用機の種類としては[[偵察機]]、[[戦闘機]]、[[攻撃機]]、[[爆撃機]]、[[電子戦機]]、[[空中給油機]]などの種類がある。しかし航空機の航空能力を継続的に発揮するために必要な航空基地も不可欠な要素である。航空基地での[[航空管制]]や後方支援の機能により航空機は航行が可能となる。航空機は戦術的機能を統合した航空団などに編制され、航空偵察、対航空作戦、航空阻止、近接航空支援、[[戦略爆撃]]などの[[航空作戦]]で運用される。 === 経済基盤 === {{Main|経済力}} 戦争能力は軍事力だけでなく[[経済]]的要素は[[国力]]の重要な構成要素である。なぜならば、経済が成長していれば政府は増加する税収から財政における[[軍事費]]の割合を拡大することが容易となるからである。ただし[[財政]]における軍事費の問題はいわゆる大砲とバターの支出が[[トレードオフ]]の関係にある問題として把握されており、したがって[[自由主義]]の観点からしばしば軍備は民生を圧迫する危険性が指摘される。一方で[[ケインズ主義]]の立場に立てば軍拡は公共事業の一環として考えることも可能であり、このように拡大する軍需で成長した[[軍需産業]]の構造は[[軍産複合体]]と呼ばれる。戦争能力における経済力とは軍事力の要素である兵器を供給するための[[労働力]]や資源、生産設備、[[資本]]などから判断できる。戦争に必要な経済力を獲得するために[[社会主義]]的な経済統制が実施される場合があり、戦時動員や配給制が具体的な施策として導入することができる。逆に敵の経済力を低下させるための政府や軍隊の経済対策として、[[経済制裁]]、[[通商破壊]]、[[海上封鎖]]、航空封鎖、市場価格への介入などが実施することが可能である{{Efn|経済力が軍事力に与える影響について論じた戦略思想家はピーター・パレット編、防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』(ダイヤモンド社、1989年)で取り上げられており、以下の記述も同書に依拠している。}}。 経済と軍備の関係について検討した経済学者にイギリスの経済学者[[アダム・スミス]]がいる。スミスは『[[国富論]]』で市場経済の自由放任が財を適切に配分する原理を論じた。そして経済の自然な成長や植民地の運営のためには軍事力や行政能力が必要であり、またこれらは政府の財政状況に応じた規模に調整することを主張している。軍事力の造成のために必要な産業政策を論じたアメリカの政治家[[アレクサンダー・ハミルトン]]は軍務経験に基づいてアメリカの[[工業]]の保護を主張する『製造業に関する報告』を著している。この考えた方は後にドイツの経済学者[[フリードリヒ・リスト]]に受け継がれ、ドイツが自給自足をするために必要な産業を育成しなければ、戦争には対応できない危険性を指摘している。このような戦争に必要な産業を育成する経済政策は世界大戦中に各国で総動員体制の導入に伴って遂行されることになる。 == 軍事ドクトリン == ===安全保障政策=== {{Main|安全保障}} [[安全保障]]の概念とは、これはある主体が自らにとってかけがえのない何らかの価値を、何らかの脅威から何らかの手段によって守る、と定義できる{{Efn|この定義は防衛大学校安全保障学研究会編著『最新版 安全保障学入門』(亜紀書房、2003年)で示されたものである。}}。[[安全保障政策]]には大別して三つの主要な学派があり、それは軍備の維持増進によって敵対勢力との[[勢力均衡]]を維持する重要性を強調する[[現実主義]]の学派、経済的な交流を通じて彼我の相互依存を高めることを重要視する[[自由主義]]の学派、そして地球全体を統合された国際共同体と見なし、紛争予防と平和維持のシステムを準備し、人間と地球の安全を保障することの意義を主張するグローバリズムの学派の三つがある。つまり安全保障政策は何の価値を重要視するのか、またどの方法が適切であるかに関して論争的でありうる複雑な問題である。したがって、安全保障政策は軍事戦略の政治的コンテクストを形成するものであり、その方針によって兵員や兵器の定数、指揮系統や部隊編制の内容、また戦争における軍事戦略や作戦計画などが決定される。 ===戦略=== {{Main|戦略}} 戦略とは戦争において目的を達成するためにどのように行動すべきかを指し示した準備、運用、計画であり、またそれを策定するための理論または技術を言う{{Efn|戦略学を概説したものにJohn Baylis, James Wirtz, Colin S. Gray, and Eliot Cohen, Strategy in the Comtemprary World, (Oxford: Oxford University Press, 2007).や西村繁樹編著『「戦略」の教化書』(芙蓉書房出版、2009年)などがある。}}。しかしながら、戦略の概念は軍事思想史において論争的であったために画一的な定義が定まっているわけではない。その時代や地域の情勢によって戦略の概念はさまざまな文脈で用いられてきており、論者によってその内容は異なっている。しかしながら、戦略に基づいた思考は単に局地的な戦闘に勝利するだけでなく、より幅広い視野から戦争に勝利する意義があることは戦略家によって認められている。戦略という用語が普及する以前からそのような思考法の重要性は指摘されてきた。古代中国の戦略家[[孫武]]が著した『[[孫子 (書物)|孫子]]』では、戦争がもたらすさまざまな弊害を認識した上で、可能な限り非軍事的手段によって目的を達成することを優先すべきであり、もし開戦したとしても不敗の態勢を確立した後に短期決戦で勝利すべきであると論じた{{Efn|この問題に関する孫子の戦略思想については金谷治訳『新訂孫子』(岩波書店、2000年)の作戦篇を参照されたい。}}。このような戦略的思考は現代の研究者によって戦略の原点として参照されている。 軍事思想史において近代の戦略理論を体系化した戦略家として挙げられる人物は『戦争論』を著したクラウゼヴィッツである。クラウゼヴィッツが残した戦略学の業績とは政治に対する戦争の従属的関係を明らかにしたことである。理論的観点から見れば、戦争とは暴力行為であり、敵対関係の結果として戦争の暴力性は無制限に増大し続ける法則がある。つまり戦争の本来の目標とは敵の戦闘力を破壊することに他ならないと考えられる。しかし現実の戦争を観察すれば、戦争には常に政治的目的が与えられており、戦争の暴力性を合理的に調整することができることが分かる。しかも戦争計画を実施に移す際に直面するさまざまな不測事態や不確実性などの[[摩擦]]によって戦争行為は妨げられる。このようにクラウゼヴィッツが論じた戦略理論とは戦争の本質に立脚した理論であり、現代においても戦争の本性と政治目的に合致した軍事戦略の在り方を示している。 現代の戦略家として知られているイギリスの戦略家[[ベイジル・リデル=ハート|リデル=ハート]]はそれまでの戦略の概念をより包括的な概念として発展させた。彼の著作『[[戦略論 (リデル=ハート)|戦略論]]』では[[大戦略]]の概念と[[間接アプローチ戦略]]の概念が提唱されている。大戦略とは政治目的を達成するために軍事的手段を適用する技術であり、軍事戦略の上位に立った包括的な戦略の概念として整理される。大戦略の概念によって戦争を軍事作戦の成否だけではなく、より総合的な観点に基づいて戦争を指導することの意義が戦略理論に表現されることになった。さらに間接アプローチ戦略は敵軍に対して直接対決することを回避し、敵の弱点に対して接近する戦略の理念である。ここでの敵軍の弱点とは物理的な戦力が希薄な方面であるだけでなく、心理的な警戒が希薄な方面を指す用語である。リデル=ハートは優勢な戦力を以って正面から敵を圧倒するのではなく、このような戦略的な機動を重要視していた<ref>リデル・ハート著、森沢亀鶴訳『戦略論 間接的アプローチ』(原書房、1986年)</ref>。リデル=ハートの戦略理論には導入された大戦略の概念や間接アプローチの軍事思想は最小限の戦力で戦争に勝利することの可能性を示している。 ===戦術=== {{出典の明記| date = 2020年11月| section = 1}} {{Main|戦術|作戦}} [[戦術]] (Tactics) とは[[戦闘]]において[[戦闘力]]を効果的に運用するための科学、または技術であると考えられている{{Efn|戦術学を概説した書籍で一般に入手できるものにHeadquarters Department of the Army, Field Manual 3-90(Department of the Army, 2001)や松村劭『バトル・シミュレーション 戦術と指揮 命令の与え方・集団の動かし方』(文藝春秋、2005年)などがある。}}。その作戦の形態の相違から戦術学では陸軍の[[戦術]]、海軍の[[海戦術]]、空軍の[[航空戦術]]に分類されて研究される。どれほど優れた戦略であっても、その実行には優れた戦術をも必要とする。戦闘を効率的に指導するためには優勢な戦力を投入するだけではなく、それら戦力を状況に応じて適切に運用することの重要性が知られている。戦術の黎明期においては戦闘隊形の重要性や戦場機動の方式が研究されていなかった。しかし古代ギリシアの[[ファランクス]]と呼ばれる歩兵の密集隊形を活用した戦闘法が導入され、また騎兵部隊が決定的な打撃力として戦場に登場すると戦闘陣形の選定や防御戦闘と攻撃戦闘の連携などの戦術的な選択肢が広がることになった。 劣勢でありながらも優れた戦術家の力量によって勝利した有名な戦史がある。マケドニアの国王[[アレクサンドロス3世]](大王)はその戦術家の一人であり、ペルシア遠征での[[ガウガメラの戦い]]においてはペルシア軍に対して劣勢でありながらも敵部隊を誘致することで敵中央の戦力を希薄化させ、その地点に対して突破を実施したことで勝利することができた。また[[ポエニ戦争]]においてはカルタゴの将軍[[ハンニバル]]が[[カンナエの戦い]]で采配を発揮し、優勢なローマ軍に対して歩兵部隊の防御戦闘と騎兵部隊の包囲機動を組み合わせて模範的な包囲殲滅を実践してみせた。またプロイセンの国王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]は[[七年戦争]]の[[ロイテンの戦い]]で優勢なオーストリア軍の横陣に対し、地形で部隊を隠匿しながら迅速に側面に接近し、側面攻撃をしかけることで勝利することができた。[[ナポレオン戦争]]ではフランスの国王[[ナポレオン1世]]は優勢なオーストリア軍と[[アウステルリッツの戦い]]で衝突したが、意図的な防御と後退行動を組み合わせて敵部隊を誘致した後にその中央を突破することで勝利を収めた。これらの戦史はいずれも戦力の劣勢を運用によって補っており、またその実施が成功したことから戦術的に高く評価されている。 スイスの軍人[[アントワーヌ・アンリ・ジョミニ]]が『[[戦争概論]]』で示した戦術理論の体系は近代における戦術学の起源として示すことができる。なぜならば、ジョミニは戦場での勝利にとって不可欠な行動の原則が戦術には存在すると捉えることで、その原則をさまざまな戦闘状況に適用する方法を理論化した。ジョミニの学説は世界各地の士官学校の教範類で採用されており、戦力の集中や戦場での機動などの原則に関しては戦術学の基礎知識として普及した。このような原則はイギリスの軍人[[ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー]]によってさらに発展させられ、目的、主導、統一、集中、機動、節約、警戒、奇襲、簡明から成る戦いの諸原則として整理された。戦術的な戦闘行動である[[攻撃 (軍事)|攻撃]]と[[防御]]についても、攻撃が主導的で能動的な戦闘行動である一方で戦力の消耗が激しく、逆に防御は従属的で受動的な戦闘行動でありながらも、消耗が少ないなどの特性が明らかにされていった。そして戦術研究が進むにつれてさらに戦闘陣形や戦闘行動を表す戦術用語や戦術的決心に求められる[[状況判断]]の思考法が確立されていった。 === 兵站 === {{Main|兵站|後方支援}} [[兵站]]とは作戦中の部隊の活動を後方から支援する方法であり、具体的には物資の補給、兵器の整備、輸送の管理、衛生業務などの業務を指す。兵站は古来から戦争の勝敗を左右する重大な考慮事項であり、その基本的問題とは後方における根拠地の補給物資により、[[後方連絡線]]の輸送力を通じて、前線における部隊の補給所要を充足させることである。しかし根拠地での補給物資の不足、敵による後方連絡線の遮断、戦闘での戦力の消耗の増加などによって兵站の現実はより複雑である。したがって兵站とは単なる輸送計画ではなく、融通性、継続性、強靭性、効率性、創造性が求められる活動であると捉えなければならない。戦争において生じる不測事態に兵站は臨機応変に対処しなければならず、敵の妨害に直面してもその活動を維持しなければならない。さらに兵站問題として有限な物資を部隊にどのように配分するかという効率化の問題もある。しかも兵站は戦場の突発的な障害に即応するために創造的な[[問題解決]]が迫られる場合もある{{Efn|防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年)の後方支援の章を参照している。}}。 軍隊において兵站が体系化された背景には作戦や装備の複雑化がある。ジョミニは軍が行軍する際に兵站監が考慮しなければならない事項を列挙しており、それは交通路の選定、補給処の警戒、行軍の管制、輸送手段の確保、宿営の計画など細部に渡っている。図上での軍事作戦を具体化するためにはこのような緻密な兵站活動が必要であり、ジョミニは兵站学をあらゆる軍事知識を応用する科学であると捉えている。兵站の重要性については戦略、戦術との関係性からも検討することができる。アメリカの軍人ジョージ・C・ソープは『[[純粋兵站学]]』において戦争を演劇に例えて論じており、戦略が演技を指導する脚本であり、戦術が役者の役割であるならば、兵站とは舞台や備品、小道具を準備することであると位置づけた。つまり卓越した戦略や優れた戦術は兵站によって根拠付けられていると考えることができる。しかし兵站が重要であることがわかったとしても、軍事史において現実の兵站が計画通りいかなかった事例は数多い。この歴史的事実は[[マーチン・ファン・クレフェルト]]は『[[補給戦]]』において明らかにしており、つまり知性を活用したどれほど綿密な兵站の計画であったとしても、クラウゼヴィッツが提起した戦争での摩擦の力で常に破壊されるのである。兵站の使命とはそのような障害を克服して部隊を支援することであり、軍事にとって末端の研究領域ではなく、むしろ本質的な研究領域と見なすことができる。 兵站の活動を機能別で分類すると補給、輸送、整備、衛生に大別することができる。後方地域で遂行される支援はさらに多種多様であるが、これら四種類の業務は部隊の戦闘力を維持する上で特に緊要なものであると言える。補給とは部隊に対して行われる食糧、燃料、弾薬、医薬品等の消耗を提供することであり、補給所要の算定、補給物資の入手、補給物資の配分などの段階を踏んで行われる。また整備は車両や航空機、艦艇の状態を使用可能な状態に維持することであり、装備の破損状況によって使用部隊の整備、整備部隊の整備、外部委託の整備が行われる。輸送は人員や装備、物資の位置を適時において適所に移動させることであり、その地形や敵情に応じて陸海空の交通手段が選定され、安全性と秘匿性、迅速性と輸送力などの観点から判断されることになる。衛生は戦闘などで生じた人的戦闘力の消耗を回復するための活動であり、前線の部隊での処置、または後方の野戦病院での処置などが行われ、回復した兵員を復帰させる機能がある。このような兵站の複合的な業務は陸軍、海軍、空軍によってそれぞれ別個に体系化されている。例えば陸軍の兵站は基地の外部においても兵站機能を維持しなければならないが、海軍や空軍の兵站機能は根拠地に集約されており、また兵器体系が異なるため必要な補給物資も異なるものである。 ===戦争以外の軍事作戦=== {{出典の明記| date = 2020年11月| section = 1}} {{Main|戦争以外の軍事作戦}} 軍事作戦は基本的に戦争において実施されるものである。しかし、戦争以外でも軍事作戦を実施することはあり得るものだと現在では考えられている。これは[[冷戦]]が終結してから地域紛争や人道危機に軍隊が対処する情勢が出現したことに呼応して、アメリカの統合参謀本部により1995年に提唱された概念である。この概念について詳説した書籍に統合教義教範3-07『[[戦争以外の軍事作戦のための統合教義]]』があり、ここでは戦争以外の軍事作戦は政治的考慮を踏まえて遂行される戦争に至らない軍事力の使用として定義される。その具体的な内容には戦争の抑止や解決のための平和創造活動、対テロ作戦、部隊の予防的展開、平和維持活動、非戦闘員避難作戦、対暴動作戦が含まれる。さらに平和を促進するための海上交通の確保、対麻薬作戦、人道支援、海上護衛、文民支援などもその概念に含まれている。このような軍隊の新しい任務について国連事務総長の[[ダグ・ハマーショルド]]は平和維持を取り上げながら「平和維持活動は兵士の仕事ではないが、それをできるのは兵士しかいない」と述べている。戦争以外の軍事作戦を遂行するためには従来のように計画性や安全性、戦闘の効率性などを高めるだけではなく、政治・社会的影響に配慮しながら人道性や公平性の重視、民事作戦の円滑な実施、文民機関の支援の確保を行う必要がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|2}} === 出典 === {{ページ番号|date=2022年2月|section=1}} {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == *防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房、2000年) *防衛大学校・安全保障学研究会編『新訂第4版 安全保障学入門』([[亜紀書房]]、2009年) *服部実『防衛学概論』([[原書房]]、1980年) * [[ピーター・パレット]]編、防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳『現代戦略思想の系譜 [[マキャヴェリ]]から核時代まで』([[ダイヤモンド社]]、1989年) * [[ベイジル・リデル=ハート|リデル・ハート]]著、森沢亀鶴訳『[[戦略論 (リデル=ハート)|戦略論 間接的アプローチ]] 』(原書房、1986年) * [[金谷治]]訳『新訂[[孫子 (書物)|孫子]]』([[岩波書店]]、2000年) * [[ジョミニ]]著、佐藤徳太郎訳『[[戦争概論]]』(原書房、1997年) *日本クラウゼヴィッツ学会訳『[[戦争論]] レクラム版』(芙蓉書房出版、2001年) * [[マハン]]著、北村謙一訳『[[マハン]][[海上権力史論]]』(原書房、2008年新装版) * [[ジュリアン・コーベット]]著、矢吹啓訳『[[海洋戦略の諸原則]]』(原書房、2016年) *戦略研究学会編集・瀬井勝公編著『戦略論大系6 [[ジュリオ・ドゥーエ|ドゥーエ]]』(芙蓉書房出版、2002年) * [[サミュエル・P・ハンティントン|ハンチントン]]著、市川良一訳『[[軍人と国家]](上・下)』(原書房, 1978年) * [[マーチン・ファン・クレフェルト]]著、佐藤佐三郎訳『補給戦』([[中公文庫]]、2006年) * [[毛沢東]]著、藤田敬一、吉田富夫訳『[[遊撃戦論]]』([[中央公論新社]]、2001年) * [[ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー|フラー]]著、[[中村好寿]]訳『[[制限戦争指導論]]』(原書房、1992年) == その他の文献 == {{参照方法|date=2021年2月|section=1}} * [[栗栖弘臣]]『安全保障概論』(BBA社、1997) *ジェイムズ・F・ダニガン著、岡芳輝訳『新・戦争のテクノロジー』([[河出書房新社]]、1992年) *防衛法学会『新訂 世界の国防制度』([[第一法規|第一法規出版]]、平成3年) *眞邉正行『防衛用語辞典』([[国書刊行会]]、平成12年) *前原透監修、片岡徹也編集『戦略思想家辞典』(芙蓉書房出版、2003年) * [[ジョセフ・カルドウェル・ワイリー|J.C.ワイリー]]著、[[奥山真司 (戦略学者)|奥山真司]]訳『[[軍事戦略 (ワイリー)|戦略論の原点 軍事戦略入門]]』(芙蓉書房出版、2007年) * [[マイケル・ハワード (歴史学者)|マイケル・ハワード]]著、岡村房夫訳『ヨーロッパ史と戦争』([[学陽書房]]、1981年) *上田修一郎『西欧近世軍事思想史』(甲陽書房、1977年) * [[ウィリアムソン・マーレー]]、[[マクレガー・ノックス]]、[[アルヴィン・バーンスタイン]]編著、[[石津朋之]]、[[永末聡]]監訳『戦略の形成 支配者、国家、戦争 上下』(中央公論新社、2007年) * [[コリン・グレイ]]著、[[奥山真司 (戦略学者)|奥山真司]]訳『[[現代戦略|現代の戦略]]』(中央公論新社、2015年) * [[エドワード・ルトワック]]著、[[武田康裕]]、[[塚本勝也]]訳『[[戦略 (ルトワック)|エドワード・ルトワックの戦略論]]』([[毎日新聞社]]、2014年) * [[ジョン・ベイリス]]、[[ジェームズ・ウィルツ]]、[[コリン・グレイ]]編、[[石津朋之]] 監訳『戦争論 現代世界の軍事と戦争(抄訳)』([[勁草書房]]、2012年) * [[石津朋之]]、[[永末聡]]、[[塚本勝也]]編著『戦略原論 軍事と平和のグランド・ストラテジー』([[日本経済新聞出版社]]、2010年) * [[石津朋之]]編『名著で学ぶ戦争論』([[日本経済新聞出版社#主な出版物|日経ビジネス人文庫]]、2009年) * [[野中郁次郎]] 編著『戦略論の名著 [[孫子 (書物)|孫子]]、[[マキアヴェリ]]から現代まで』([[中公新書]]、2013年) ==関連項目== {{ウィキプロジェクトリンク|軍事}} {{ウィキポータルリンク|軍事}} {{Wiktionary|軍事}} {{Wikibooks|軍事入門}} * [[列強]] * [[戦争]] - [[紛争]] * [[戦略]] - [[戦術]] * [[軍事費]] * [[戦時国際法]] - [[有事法制]] * [[軍事教育]] - [[軍事訓練]] * [[核兵器]] - [[核戦略]] - [[核武装論]] * [[武器]] - [[兵器]] * [[軍事技術]] - [[軍需産業]] * [[各国の軍隊の一覧]] * [[徴兵制度]] * [[世界各国の国防大臣一覧]] ==外部リンク== * [http://www.globalsecurity.org/ グローバル・セキュリティ](英文) <!--* [http://okigunnji.com/ 軍事情報] 流石にメルマガの宣伝貼るのは違うのでは…--> {{DEFAULTSORT:くんし}} [[Category:軍事|*]] [[Category:軍事用語|*]] [[Category:行政]]
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小琉球
小琉球(しょうりゅうきゅう)
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小琉球(しょうりゅうきゅう) 中国大陸から見た台湾の歴史的な呼称。大琉球(琉球王国)に対して使われた。 台湾本島の西方約14kmに位置する離島、琉球嶼(中華民国屏東県琉球郷)の別名。
'''小琉球'''(しょうりゅうきゅう) {{seealso|台湾の名称の一覧}} * [[中国大陸]]から見た[[台湾]]の歴史的な呼称。大琉球([[琉球王国]])に対して使われた。 * 台湾本島の西方約14kmに位置する離島、琉球嶼([[中華民国]][[屏東県]][[琉球郷]])の別名。 {{地名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:しようりゆうきゆう}} [[Category:台湾の別名]]
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水道
水道(すいどう)は、生活のために水を供給・処理する事業・施設のこと。 水道は英語では、水の供給を water supply(または water service)、その設備を waterworks と呼ぶ。水道は大別して、上水道、中水道、下水道、簡易水道、工業用水道がある。 より一般的には上水道(水)を指して水道と呼ぶことが多く、日本の水道法においても「水道」を「導管及びその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体」と定義している(水道法3条1項本文)。臨時に施設されたものについては水道法上の「水道」からは除外される(水道法3条1項ただし書き)。 水質汚染に対応する水処理は、下水だけでなく上水でも行われている。取水や排水の際には、濾過や沈殿凝集、消毒などの処理が行われており、浄水の水質を保ち、排水によって環境を汚染しないように考慮されている。水質の維持や、異臭などに対応するため、高度浄水処理も行われるようになり、活性炭やオゾンなどが用いられている。 20世紀末から機関投資家などが水道民営化(Water privatization)を世界潮流へ昇華させた。この記事で何度も登場するヴェオリア・ウォーターは相当機関化されており、各機関投資家の保有率は2018年現在0.5%未満にとどまっている。 歴史を通じて人々は、より便利に水を取得して利用する装置・機関を考案してきた。水路を使用した水道の発祥地はバビロニアといわれる。 衛生学の未熟もあって上水道が十分に整備されていなかった時代、コレラや赤痢、チフスなどの病気が流行した。また、特に体力の弱い乳幼児は、不浄な水の摂取による下痢による脱水症状で、毎年多数が死亡している。 2004年には、世界の約35億人(全人口の54%)が家庭で水道の配管を通して水を利用した。別の13億人(同20%)が家庭以外の水道で安全な水を利用した。さらに別の10億人(同16%)以上は安全な水を利用できなかった。 水道先進国のフランスは、国土に小規模の都市が分散しており、19世紀以前より都市ごとに民間企業が水道を建設、運営してきた。20世紀に入ると、民間企業の統合が繰り返し行われ、後に世界を代表する水企業となるスエズやヴェオリア・ウォーターが生まれる土壌となった。国の法制度は、1962年、1992年に水法が制定され、上・下水道は地方自治体が直接または間接的に手がけることとなった。2010年時点で上水道の71%、下水道の55%が民間で運営(コンセッション方式=公設民営)されている。 2010年、フランスの首都パリは、ヴェオリアとスエズへ委託していた水道事業の再公営化に踏み切った。1980年代、ジャック・シラク大統領が二つの運営体制を導入した。取水から浄水までを担う第三セクターと、民間の給水サービスである。前者を「パリの水管理会社(SAGEP)」といった。パリ市とヴェオリアとスエズの共同出資によるコンセッションであった。給水サービスは住み分けがなされた。セーヌ川の右岸をヴェオリアが、左岸をスエズが担当した。給水サービスの施設建設は自治体が行っていた(アフェルマージュ)。1990年代以降、水道料金は2倍以上となって市民の不満が高まった。世界金融危機の2008年、水道事業の再公営化を公約の一つに掲げたベルトラン・ドラノエが市長に再選された。市長は2009年コンセッション契約を打ち切り、SAGEPの株式を買い取った。こうして5月に「パリの水公社(Eau de Paris)」を設立した。2010年1月からは同公社が給水サービスも行うことに決まった。再公営化により、ヴェオリアとスエズ両社の子会社およびSAGEPが留保していた利益や、株主への配当金のほか、各種納税の必要がなくなったため3500万ユーロが節約できた。公社に対するガバナンスには広範なステークホルダーが参加している。なお、イル・ド・フランス水道組合はヴェオリアへの委託を継続している。 イギリスのマーガレット・サッチャー首相は1987年の総選挙後から水道管理公社(Water Authorities)の民営化に本腰を入れた。1989年、国民の八割が民営化に反対した(OBSERVE, 1989.7.2.)。それでもサッチャーは7月に新水法(Water Act 1989)を成立させた。議会法で設立された法定水道会社は五分割されて、そのうち三つがゼネラル・デゾー(現ヴィヴェンディ)とリヨン水道(1997年からスエズ)とサウアー(Groupe Saur)の傘下となった。12月に売却された事業規模はBP(73億ポンド)とブリティッシュ・ガス(British Gas)に次ぐものとなった。,ベクテルの絡んだコチャバンバ水紛争で水道民営化は未遂に終わった。世界金融危機の前後では、メガバンクや大金持ちが水道支配のあり方を統合しつつある。メガバンクとは例えばゴールドマン・サックス、JPモルガン・チェース、シティグループ、UBS、ドイツ銀行、クレディ・スイス、マッコーリー銀行、バークレイズ、ブラックストーン・グループ、アリアンツ、HSBC、その他を指す。大金持ちとはトーマス・ピケンズやジョージ・H・W・ブッシュである。彼らの投資先とは、まずゴールドマンの例だけで、子会社に水道事業をもつNalco Holding Company、イギリスの水道設備会社Kelda Group、コカコーラ等に水を供給するChina Water and Drinks Inc、真正の公共事業であるTruckee Meadows Water Authority。ナルコにはランベールもアポロという名前で関係し、ケルダにはシティグループやHSBC も関係している。クレディ・スイスはゼネラル・エレクトリックやCleantech Group と組んでインフラ投資を予定している。JPモルガンはロックフェラー系のUBS などと組んでイギリスのSouthern Water を買収した。そしてミューチュアル・ファンドやヘッジファンド、各国の公的年金までが水道事業へ投資をしている。「水道貴族」による水支配は留まるところを知らない。 イギリスは後述の日本と異なり、コンセッションではなく、完全民営化で行った。自治体の代わりに政府機関が民間事業者の水道料金をチェックし、事業者間の比較を通じてその妥当性を判断して決定される。 室町時代後期(戦国時代)相模の戦国大名北条氏康によって小田原城城下町に小田原早川上水が建設されたのが最古の記録である。さらに1583年(天正11年)には豊臣秀吉によって大坂城の城下町に日本初の下水道太閤下水(背割下水)が建設された。その後、1590年(天正18年)の小田原征伐において水道を目の当たりにした徳川家康など諸大名により、江戸に神田上水や玉川上水・千川上水などの水道が建設された。これは幕府が置かれた江戸の発展に伴い、市中沿岸に埋立地の造成が必要となり、この造成地の真水が不十分となったためであった。各戸まで給水をするものではなかったが、神田上水・玉川上水・千川上水等の疎水工事によって、江戸市中は水の至らないところはないと言われるほどになった。しかし、その隙をつくように長崎へはコレラが上陸し、長崎海軍伝習所が日程を中断しなければならなくなるほどであった。横浜も状況は類似していた。 明治初期の水道史は惨憺たるものであった。西南戦争の起きた1877年には長崎から来たコレラが大阪で蔓延し、罹患者およそ1600人、うち死亡者およそ1200人を数えた。ここに西洋の近代的水道を導入する強い動機があった。オランダなどからお雇い外国人を招いたり、民間事業者を募集して空振りに終わったりしながら、公衆衛生の確保のため三府・五港などの主要都市や衛戍地、鎮守府の設置された軍都を中心に上水道を敷設、1888年に簡易水道こみで普及率2%を確保した。一般には近代化の相当進んだ時期とされる大正末期ですら普及率は20%にとどまった。 その後第二次世界大戦期は地下断水によるザル給水に甘んじた。戦後復興と高度経済成長期を経ては公社債の大量発行によって飛躍的に普及し(50%台)、おおむね1975年ごろには一部を除き日本全国に上水道網が完成した。一方で時代がさらなる生活用水と工業用水を需要したので、各地でダム建設など水源の確保が図られた。1957年、水道条例は廃止され、水道法が公布、施行された。 水道への投資は概して不況対策であった。オイルショック時の公共投資で(8000億円超)、1978年に水道普及率が90%を超えた。貿易摩擦の時代は投資額が1.2兆円をなかなか超えられない状態が続いた。金融ビッグバン期の公共投資は1.6兆円を超えたが、2000年代初頭に投資額が1.2兆円を下回った。不況対策は財源が尽きていった。各自治体の財政が独立採算制に傾くにつれ、水道法の改正が進み第三者委託および登録検査機関が制度として設けられた。 2006年、ヴェオリア・ウォーター・ジャパンが広島市と埼玉県の下水処理場における運転維持管理事業を相次いで受託した(ヴェオリアショック)。2009年、千葉県手賀沼や印旛沼の浄化処理事業も落札した。2012年3月、松山市の浄水場運転管理事業を受託した。 さらに、多数の自治体が水道料金徴収とシステム開発をヴェオリアへ委託している。日本では完全民営化ではなく、民間企業が自治体の管轄下に置かれるコンセッション方式が主流となっている。
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水道(すいどう)は、生活のために水を供給・処理する事業・施設のこと。
{{Otheruseslist|[[インフラ]]としての水道|地理的用語としての水道|水道 (地理)|その他の水道|水道 (曖昧さ回避)|「'''水どう'''」の通称を持つテレビ番組のシリーズ|水曜どうでしょう}} {{複数の問題|出典の明記=2021年10月|観点=2021年10月}} [[画像:Drinking water.jpg|right|thumb|[[蛇口]]から出る清潔な[[水]]]] '''水道'''(すいどう)は、[[生活]]のために[[水]]を供給・処理する[[事業]]・[[施設]]のこと。 == 概要 == 水道は[[英語]]では、[[水]]の供給を water supply(または water service)、その設備を waterworks と呼ぶ。水道は大別して、[[上水道]]、[[中水道]]、[[下水道]]、[[簡易水道]]、[[工業用水道]]がある。 より一般的には、[[飲用]]の水を提供する上水道(水)を指して水道と呼ぶことが多く、[[日本]]の[[水道法]]においても「水道」を「導管及びその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体」と定義している(水道法3条1項本文)<ref group="注釈">もちろん、清浄な水は洗濯や入浴、食品や食器の洗浄などにも使われる。</ref>。臨時に施設されたものについては水道法上の「水道」からは除外される(水道法3条1項ただし書き)。 [[水質汚染]]に対応する[[水処理]]は、下水だけでなく上水でも行われている。取水や排水の際には、濾過や沈殿凝集、消毒などの処理が行われており、浄水の水質を保ち、排水によって環境を汚染しないように考慮されている。水質の維持や、異臭などに対応するため、[[高度浄水処理]]も行われるようになり、[[活性炭]]や[[オゾン]]などが用いられている。 20世紀末から[[機関投資家]]などが水道民営化([[:en:Water privatization|Water privatization]])を世界潮流へ昇華させた。この記事で何度も登場するヴェオリア・ウォーターは相当機関化されており、各機関投資家の保有率は2018年現在0.5%未満にとどまっている。 == 世界の水道 == [[画像:Pont du gard.jpg|right|thumb|250px|古代ローマの水道橋である[[フランス]]の[[ポン・デュ・ガール]]。パリ方面は19世紀に[[ロスチャイルド]]らが総合水道会社ゼネラル・デゾーを設立してフランスの水道事業をリードした。この会社は現在のヴィヴェンディとヴェオリアの前身である。]] 歴史を通じて人々は、より便利に水を取得して利用する装置・機関を考案してきた。水路を使用した水道の発祥地は[[バビロニア]]といわれる。 {{see also|ローマ水道橋公園|ヴィルゴ水道}} 衛生学の未熟もあって上水道が十分に整備されていなかった時代、'''[[コレラ]]'''や[[赤痢]]、[[チフス]]などの病気が流行した。また、特に体力の弱い乳幼児は、不浄な水の摂取による[[下痢]]による[[脱水 (医療)|脱水症状]]で、毎年多数が死亡している。 [[2004年]]には、[[世界]]の約35億人(全人口の54%)が[[家庭]]で水道の[[配管]]を通して水を利用した。別の13億人(同20%)が家庭以外の水道で[[安全性|安全]]な水を利用した。さらに別の10億人(同16%)以上は安全な水を利用できなかった。 === フランス === 水道先進国の[[フランス]]は、国土に小規模の都市が分散しており、[[19世紀]]以前より都市ごとに民間企業が水道を建設、運営してきた。[[20世紀]]に入ると、民間企業の統合が繰り返し行われ、後に世界を代表する水企業となる[[スエズ (2008年設立の企業)|スエズ]]や[[ヴェオリア・ウォーター]]が生まれる土壌となった。国の法制度は、[[1962年]]、[[1992年]]に水法が制定され、上・下水道は[[フランスの地方行政区画|地方自治体]]が直接または間接的に手がけることとなった。2010年時点で上水道の71%、下水道の55%が民間で運営(コンセッション方式=公設民営)されている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-04-16|url= https://web.archive.org/web/20180713141403/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/180416/mcb1804160500007-n1.htm|title= 【水と共生(とも)に】水道事業の再公営化 世界で加速|publisher= Sankei Biz|accessdate=2018-07-13}}</ref>。 2010年、フランスの首都[[パリ]]は、ヴェオリアとスエズへ委託していた水道事業の再公営化に踏み切った。1980年代、[[ジャック・シラク]]大統領が二つの運営体制を導入した。取水から浄水までを担う第三セクターと、民間の給水サービスである。前者を「パリの水管理会社(SAGEP)」といった。パリ市とヴェオリアとスエズの共同出資によるコンセッションであった。給水サービスは住み分けがなされた。セーヌ川の右岸をヴェオリアが、左岸をスエズが担当した。給水サービスの施設建設は自治体が行っていた(アフェルマージュ)。1990年代以降、水道料金は2倍以上となって市民の不満が高まった。[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]の2008年、水道事業の再公営化を公約の一つに掲げた[[ベルトラン・ドラノエ]]が市長に再選された。市長は2009年コンセッション契約を打ち切り、SAGEPの株式を買い取った。こうして5月に「パリの水公社(Eau de Paris)」を設立した。2010年1月からは同公社が給水サービスも行うことに決まった。再公営化により、ヴェオリアとスエズ両社の子会社およびSAGEPが留保していた利益や、株主への配当金のほか、各種納税の必要がなくなったため3500万ユーロが節約できた。公社に対するガバナンスには広範なステークホルダーが参加している。なお、イル・ド・フランス水道組合はヴェオリアへの委託を継続している<ref name=":0" />。 === イギリス === イギリスの[[マーガレット・サッチャー]]首相は1987年の総選挙後から水道管理公社(Water Authorities)の民営化に本腰を入れた。1989年、国民の八割が民営化に反対した(''OBSERVE'', 1989.7.2.)。それでもサッチャーは7月に新水法([[:en:Water Act 1989|Water Act 1989]])を成立させた。議会法で設立された法定水道会社は五分割されて、そのうち三つがゼネラル・デゾー(現[[ヴィヴェンディ]])とリヨン水道(1997年から[[スエズ (1997年設立の企業)|スエズ]])とサウアー([[:fr:Groupe Saur|Groupe Saur]])の傘下となった。12月に売却された事業規模は[[BP (企業)|BP]](73億ポンド)とブリティッシュ・ガス([[:en:British Gas|British Gas]])に次ぐものとなった。<ref>山本哲三 「英水道民営化に仏企業のM&A攻勢」 エコノミスト 1990年11月27日号 98-101頁</ref>,[[ベクテル]]の絡んだ[[コチャバンバ水紛争]]で水道民営化は未遂に終わった。[[世界金融危機 (2007年-2010年)|世界金融危機]]の前後では、[[メガバンク]]や大金持ちが水道支配のあり方を統合しつつある。メガバンクとは例えば[[ゴールドマン・サックス]]、[[JPモルガン・チェース]]<ref group="注釈">思えばチェース・マンハッタン・バンクそのものも水道事業から始まった。</ref>、[[シティグループ]]、[[UBS]]、[[ドイツ銀行]]、[[クレディ・スイス]]、[[マッコーリー銀行]]、[[バークレイズ]]、[[ブラックストーン・グループ]]、[[アリアンツ]]、[[HSBC]]、その他を指す。大金持ちとは[[:en:T. Boone Pickens|トーマス・ピケンズ]]や[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]である。彼らの投資先とは、まずゴールドマンの例だけで、子会社に水道事業をもつ''[[:en:Nalco Holding Company|Nalco Holding Company]]''、イギリスの水道設備会社''[[:en:Kelda Group|Kelda Group]]''、[[コカコーラ]]等に水を供給する''China Water and Drinks Inc''、真正の公共事業である''[[:en:Truckee Meadows Water Authority|Truckee Meadows Water Authority]]''。ナルコには[[グループ・ブリュッセル・ランバート|ランベール]]もアポロという名前で関係し、ケルダにはシティグループやHSBC も関係している。クレディ・スイスは[[ゼネラル・エレクトリック]]や''[[:en:Cleantech Group|Cleantech Group]]'' と組んでインフラ投資を予定している。JPモルガンは[[ロックフェラー]]系のUBS などと組んでイギリスの''[[:en:Southern Water|Southern Water]]'' を買収した。そして[[ミューチュアル・ファンド]]や[[ヘッジファンド]]、各国の公的年金までが水道事業へ投資をしている。「水道貴族」による水支配は留まるところを知らない<ref>GrobalResearch [http://www.globalresearch.ca/the-new-water-barons-wall-street-mega-banks-are-buying-up-the-worlds-water/5383274 The New “Water Barons”: Wall Street Mega-Banks are Buying up the World’s Water] May 15, 2016</ref>。 イギリスは後述の日本と異なり、コンセッションではなく、完全民営化で行った。自治体の代わりに政府機関が民間事業者の水道料金をチェックし、事業者間の比較を通じてその妥当性を判断して決定される<ref name=":0">https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/suidow-s/suidou/kanmin/e_qa.html</ref>。 === 日本 === {{Expand English|Water supply and sanitation in Japan|date= 2022年9月|section=1}} <!--世界の水道へ→ 水道管を使用した物としては[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]後期中国の各地大都市に敷かれた上水道が発見されている中で最も古い。--> [[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])[[相模国|相模]]の[[戦国大名]][[北条氏康]]によって[[小田原城]][[城下町]]に[[小田原早川上水]]が建設されたのが最古の記録である。さらに[[1583年]](天正11年)には[[豊臣秀吉]]によって[[大坂城]]の[[城下町]]に日本初の下水道[[太閤下水]](背割下水)が建設された。その後、[[1590年]](天正18年)の[[小田原征伐]]において水道を目の当たりにした[[徳川家康]]など諸[[大名]]により、[[江戸#範囲|江戸]]に[[神田上水]]や[[玉川上水]]・[[千川上水]]などの水道が建設された。これは[[江戸幕府|幕府]]が置かれた江戸の発展に伴い、市中沿岸に[[埋立地]]の造成が必要となり、この造成地の真水が不十分となったためであった。各戸まで給水をするものではなかったが、神田上水・玉川上水・千川上水等の疎水工事によって、江戸市中は水の至らないところはないと言われるほどになった。しかし、その隙をつくように[[長崎市|長崎]]へはコレラが上陸し、[[長崎海軍伝習所]]が日程を中断しなければならなくなるほどであった。[[横浜市|横浜]]も状況は類似していた。 [[明治]]初期の水道史は惨憺たるものであった。[[西南戦争]]の起きた1877年には長崎から来たコレラが大阪で蔓延し、罹患者およそ1600人、うち死亡者およそ1200人を数えた。ここに西洋の近代的水道を導入する強い動機があった。オランダなどから[[お雇い外国人]]を招いたり、民間事業者を募集して空振りに終わったりしながら、公衆衛生の確保のため三府・五港などの主要都市や[[衛戍地]]、[[鎮守府 (日本海軍)|鎮守府]]の設置された[[軍都]]を中心に上水道を敷設<ref>松下孝昭『軍隊を誘致せよ:陸海軍と都市形成』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉2013年 ISBN 9784642057707 pp.154-170.</ref>、1888年に簡易水道こみで普及率2%を確保した。一般には近代化の相当進んだ時期とされる大正末期ですら普及率は20%にとどまった<ref>近代水道整備事業は財源7割以上が地方債により調達され、そのおよそ半分は[[外債]]であった。{{Cite journal|和書 |author=坂本大祐 |title=我が国の近代水道創設事業とそ財源について |url=https://hdl.handle.net/10965/1036 |journal=京都産業大学経済学レビュー |publisher=京都産業大学通信制大学院経済学研究会 |year=2014 |month=mar |issue=1 |pages=80-104 |naid=120005408003 |issn=2188-0697}}</ref>。 その後[[第二次世界大戦]]期は地下断水によるザル給水に甘んじた。戦後復興と[[高度経済成長#日本の高度経済成長期|高度経済成長]]期を経ては公社債の大量発行によって飛躍的に普及し(50%台)、おおむね[[1975年]]ごろには一部を除き日本全国に上水道網が完成した。一方で時代がさらなる生活用水と工業用水を需要したので、各地で[[ダム]]建設など[[水源]]の確保が図られた。1957年、水道条例は廃止され、[[水道法]]が公布、施行された。 水道への投資は概して不況対策であった。[[オイルショック]]時の公共投資で(8000億円超)、1978年に水道普及率が90%を超えた。[[貿易摩擦]]の時代は投資額が1.2兆円をなかなか超えられない状態が続いた。[[金融ビッグバン]]期の公共投資は1.6兆円を超えたが、2000年代初頭に投資額が1.2兆円を下回った。不況対策は財源が尽きていった。各自治体の財政が独立採算制に傾くにつれ、水道法の改正が進み第三者委託および登録検査機関が制度として設けられた。<ref>水道ビジョンフォローアップ検討会 [https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/vision2/dl/siryou07.pdf 水道を取り巻く状況及び水道の現状と将来の見通し] 厚生労働省健康局水道課 平成19年4月 2、50頁</ref> 2006年、ヴェオリア・ウォーター・ジャパンが広島市と埼玉県の下水処理場における運転維持管理事業を相次いで受託した(ヴェオリアショック)。2009年、千葉県手賀沼や印旛沼の浄化処理事業も落札した。2012年3月、松山市の浄水場運転管理事業を受託した。 さらに、多数の自治体が水道料金徴収とシステム開発をヴェオリアへ委託している<ref>[https://www.veolia.jp/ja/veolia-jenets/cs-business-results 料金徴収業務・システム開発受託実績]</ref>。日本では完全民営化ではなく、民間企業が自治体の管轄下に置かれるコンセッション方式が主流となっている<ref name=":0" />。 ==管理・インフラ== *[[水路橋|水道橋]] *[[水道道路]] *[[水道管]] *[[水道局]] * [[水道メーター]] *[[宮古島の上水道]] *[[上水道]] *[[下水道]] ==博物館== {{main|Category:日本の水道博物館}} *[[水道記念館]] *[[台北水道水源地]] - 台湾 *{{ill2|テッサロニキ水道博物館|en|Water Supply Museum}} - ギリシア *{{ill2|Metropolitan Waterworks Museum|en|Metropolitan Waterworks Museum}} - アメリカ *{{ill2|Louisville WaterWorks Museum|en|Louisville WaterWorks Museum}} - アメリカ *{{ill2|Waterworks Museum (Cape Town)|en|Waterworks Museum (Cape Town)}} - 南アフリカ ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== {| |style="vertical-align:top;padding-right:20px;"| *[[中島鋭治]] *[[水道メーカー一覧]] *[[水資源]] *[[井戸]] |style="vertical-align:top;"| *[[コチャバンバ水紛争]] *[[ヘンリー・S・パーマー]] *[[テムズ・ウォーター]] *[[茂原下痢症]] |} {{公衆衛生}} {{DEFAULTSORT:すいとう}} [[Category:水道|*]] [[Category:配管]] [[en:Water supply]]
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上水道
上水道(じょうすいどう)とは、一般に飲用可能な水の公共的な供給設備一般を指す。上水道には単に「水道」という呼び方もあり、下水道や中水道などとの区別を強調する場合に上水道と呼ばれることが多い。水道水の用途には、飲用、洗濯、調理、トイレの水洗などがある。屋内水道水は、古くから存在していたが、19世紀後半に現在の先進国で普及し始めるまで、ごく少数の人々しか利用できなかった「屋内配管」を通じて配水されている。水道水は20世紀に多くの地域で一般的になり、現在では主に貧困層で不足している。 水道のルーツは古代地中海沿岸諸国とされる。当初は、深いところにある井戸の水を遠くに運ぶための水路であったと考えられている。古代ローマ人は後世「ローマ水道」と呼ばれることになる巨大なネットワークを構築したが、中世以後衰微する。 水道の近代化は1787年のパリで蒸気式揚水用ポンプが使われ、1829年にロンドンで砂濾過池による浄水設備の設置以降のことであり、鉄製パイプによる水道管の開発など19世紀のヨーロッパで急速に発達した。 日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支配時に早川から水を引き、小田原城下に飲用として供した小田原早川上水が最古の水道と考えられている。 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている。 徳川家康もその一人で、1600年頃の江戸の都市建設のために井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に青山・亀有(本所)・三田の3つを加えて「六上水」と称した)。 現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。 元和2年(1616年)年、赤穂藩の池田氏は埋設式かつ各戸給水の都市型上水道を敷設した。 海から近く、井戸に海水が混じるため、都市開発のために真水が必須であった赤穂では、郡代垂水半左衛門指揮の下に、城中だけではなく城下の世帯にまで行き届く水道を整備した。埋設管部分には備前焼の土管を用い、堀を越える際は地中でサイホンを用いていた。 次いで、讃岐高松藩と言われている。藩主松平頼重は、玉川上水より9年早い寛永21年(1644年)、矢延平六に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。 また、日本で現在も使われている中で最古の水道は、熊本県宇土市に在る轟水源を水源とする轟泉水道で宇土藩初代藩主細川行孝が造り、寛文3年(1663年)に完成したものである。始めは丸い土管の水道管で造られていたが、完成後100年程して6代目藩主細川興文のとき丈夫で長持ちする石の水道管に改修され今日に至る。 日本の近代的水道は、1887年(明治20年)10月17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の神奈川県知事沖守固は、英国陸軍工兵大佐の技師ヘンリー・S・パーマーを顧問に招き、資材も英国からの輸入に頼る形で、相模川の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。 1885年(明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。 旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成した。 日本に近代上水道が導入されたきっかけとしてはコレラなどの伝染病への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての利潤という面も無視できなかった。東京府水道の建設などは当時の政府/内務省と当時の野党である改進党の思惑に、条約改正を目論む外務省が関わる東京改造計画が絡んだ。 日本では上水道網の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた。 アメリカ国内の水道事業は個人の井戸から発展したもので、1652年にマサチューセッツ州ボストンに最初の水道事業体が発足した。1832年にはバージニア州リッチモンドに最初の近代的な浄水場が建設された。 アメリカでは植民地時代から1850年頃まで民間による水道経営が主流となっていた。しかし、富裕層が多く住む地域での給水に優先的に投資が行われていたこと、水道会社の利益が最大になるよう水道料金が設定されていたこと、水質への配慮が不十分であったことなどから公営の水道事業が徐々に増えていった。また、19世紀に入って都市化が急速に発展するとともにコレラやチフスなどの水系伝染病が大流行したが、水道が未整備の地域で汚染された井戸水や河川表流水を人力で汲んで用いていたことが原因であることが明らかとなってからは、近代的な浄水場の建設や配水管・給水管の整備が進んだ。 欧州や米国では水道事業を民間に開放しているところもあり、必ずしも自治体が提供する公営事業とは限らない。イギリスやフランス、オランダ等のように水道事業を民間会社が行っているのが一般的な国もあり、これらの国の水道運営会社は世界各国にも進出している。水道世界3大企業はフランスのスエズとヴェオリア・ウォーター、イギリスのテムズ・ウォーターである。このほかにもベクテルのような建設関連企業が海外での水資源開発や水道事業の受託を行っている。 歴史的には、リヨン市の水道事業が民間委託化されたのが1853年であるが、欧米で民営化が広く行われるようになったのは20世紀に入ってからであった。2008年現在、全世界の水道供給人口50億人のうち、民営化された水道企業が水を供給しているのは4億人である。パリでは1985年から2009年まで約25年間に民間が運営をしていた間に料金が2倍になったが、水道の漏水率が22%から4%と改善した。フランスでは他の自治体も民営化したが、9割は民間管理を更新した。 日本の法律では水道法による水道のことを指し、この定義では「導管およびその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体をいう」とされている。日本中に張り巡らされている水道管の全長は約66万キロメートル、地球16周分の長さになるが、水道管の耐用年数は約40年で60年以上たっているため、約2000か所毎日破裂している。水道管をすべて更新するには130年以上かかると計算されている。 なお日本でも水道法が2001年に改正され、水道事業の包括的な民間委託が可能となった。 2025年には世界全体で100兆円の市場となると言われている水道事業には、商社やメーカーだけでなく水道事業のノウハウを持つ日本の自治体の水道局も参入へ向けた行動を起こしている。 日本国内でも水道の民営化や包括的な委託の受け皿となるべく企業が設立されるとともに、一部の地方都市で実際に包括的な委託を受託した例もある。しかし、日本国内では大規模な水道事業を民営化したり、運営全てを民間企業に委託(包括的委託)した例は無い。なお、浄水場の運転操作や保守点検等の一部分や、料金徴収など周辺事業を民間委託している例は多数あるが、これらは水道事業に関わる経営判断を含め多くの部分を民間に任せている欧米の方式とは異なっている。日本国内では経済的合理性や海外進出を考える商社やメーカー等の企業育成を考えて、水道企業を民営化したほうがよいとする意見や、水資源の公共性や水道の安定供給・安全性を考えて公営事業のままでよいとする意見など種々ある。しかし、国連テクニカルアドバイザー曰く、どのみち現行の水道料金は老朽化した水道管を維持するのに足りず、「水と安全はタダ」という日本的発想を料金を上げて赤字の現在を変えないといけないと警鐘を鳴らしている。 一般の需要に応じて、水道により飲用に適する水を供給する事業のうち給水人口が100人を超えるものを水道事業という。 水道事業を経営しようとする場合は、厚生労働大臣または都道府県知事の認可を受けなければならない。認可を受けた水道事業者は、事業計画に定める給水区域内の需要者から給水契約の申込みを受けたときは、正当な理由がなければ拒むことができず、原則として、水道により給水を受ける者に対し、常時水を供給しなければならない。また、施設を変更したり、料金を変更するときは、厚生労働大臣等の認可を受けなければならないなど、水道法の規制を受ける。 現在、水道事業はそのほとんどが地方公共団体により経営される企業(地方公営企業)によって行われ独立採算制で運営されている。多くの地域で、個々の需用者と直接契約して給水する「水の小売り」は各市町村の水道事業が担当している。都府県営水道がある地域でも「水の問屋」として各市町村に対して給水するのが普通だが、例外として、東京都(23区全域と多摩地区の一部)・千葉県(北西部の大部分)・神奈川県(中央部の大部分)などでは、都県営水道が直接利用者と契約して給水している。また、主に上水道に従事する公務員は、地方公営企業の職員として、水道事業による収入から給与・手当が支給される。一方、主に簡易水道に従事する公務員は、首長部局の職員として、簡易水道事業を所管する特別会計から給与・手当が支給される。 水道事業を行なう主体は、都道府県では水道局あるいは企業庁・企業局の水道部門である。市町村では、水道局・水道部・水道課と呼ばれているほか、上下水道局・建設部などの一部門となっている自治体も多い。複数の市町村にまたがる企業団や組合が水道事業を行なう地域もある。近年、水道料金の値上げが多く、その理由として水源地の水利権の高コストや老朽施設の更新、建設時の借入金負担や市町村合併に伴う価格見直しや節水へ意識誘導する目的で単価を上げると言った理由がある。 アメリカ合衆国の水道事業体は、環境保護庁(EPA)により、市町村水道、専用水道、季節専用水道の3つに分類されている。 水道水(家庭用炭酸化の有無にかかわらず)には、ボトル入りの水には含まれていないフッ化物が含まれている。フッ化物は虫歯の予防に大きな影響を及ぼし、口腔の健康を維持する上で不可欠であると考えられているため、これは重要である。ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていない。ただし、2012年の時点では、アイルランド以外の西ヨーロッパ諸国には水道水フッ化物添加はほとんど行っていない。 世界で水道水が飲める国は少なく、以下の16カ国が安全に水道水が飲めると言われている。 世界保健機関(WHO)では、各国が水質基準を設定する際の参考となるよう飲料水についての水質ガイドラインを定め勧告している。 日本における水道法(昭和32年6月15日法律第177号)が定める水質基準は、同法4条2項を受けて制定された水質基準に関する省令(平成15年5月30日厚生労働省令第101号)および平成20年4月1日から施行されたその一部改正(平成19年11月14日厚生労働省令第135号)により、51項目の検査項目・検査方法及び基準値が定められている。同水質基準においては、たとえばカドミウムや水銀などについてそれぞれ許容値が定められており、大腸菌(平成15年4月1日より従前の「大腸菌群数」から変更)は検出が許されない。これに適合しないと日本国内において「水道水」として供給できない。 水道法に基づく水質基準は日本国内に一律に適用され条例で変更することはできない。 また、上記「水質基準」とは別に、水質基準に準じて検出状況を把握し、管理すべき項目として「水質管理目標設定項目」があり、農薬などの目標値が定められている。 なお、1980年代後半までは鉛製給水管が使用されたものの、水道水中への鉛の溶出が問題視されたため、近年は他の材質の給水管への取替えが進んでいる。しかし、2009年(平成21年)度の調査では、未だに約7,500kmの鉛製給水管が残っていると報告されている。 米国では安全飲料水法(SDWA)で健康に関わる項目からなる第一種飲料水規則(NPDWR:National Primary DrinkingWater Regulations)と水道利用に関わる項目からなる第二種飲料水規則(NSDWR:National Secondary Drinking Water Regulations)が規定されている。ただし、第二種飲料水規則には法的拘束力は無い。 欧州委員会の定めたEU飲料水指令の基準を遵守しなければならず、さらに各国はそれより厳しい上乗せ基準を設定することができる。 連邦政府の水質基準はガイドラインとされており、各州政府がその基準を義務とするか、目標とするか、それよりも厳しい基準にするか決定する権限をもつ。 日本の上水道では、蛇口地点で塩素が0.1 mg/L以上含まれていなければならず、これによって大腸菌等のバクテリアの発生を防いでいる。水道の元となる取水した原水が十分に清浄であればこれだけで十分清潔な水道水が供給できるが、原水そのものが汚れたものであれば、多くの次亜塩素酸ナトリウムや次亜塩素酸カルシウムを加えてバクテリアを塩素殺菌する必要がある。 この塩素は、原水中のフミン質と呼ばれる主にバクテリアの腐敗によって生じた、多様な有機化合物群と反応してトリハロメタンと呼ばれるヒトの発ガン性物質が出来るので、塩素臭による不快感と共に、あまり水道中に加えることは出来ない。また、塩素に耐性を持つ特定の原虫が混入したりすることもあり、こういった汚れた原水で飲用の上水道を作る技術として、水の高度処理技術が生まれた。 高度浄水処理では、微細な穴の開いた膜を通したり、活性炭を使用する、オゾンを吹き込むなどのコストの掛かる方法をとる。シンガポールでは2003年から、下水を逆浸透膜で浄化する高度濾過技術を使った「ニューウォーター」(NEWater)計画を進めている。(日本の東京都では、既に行われている) 上水の元となる原水がミネラルを多く含めば、上水道で供給される水もそのままミネラル分の高いものとなる。ミネラル分の内でもカルシウムイオンとマグネシウムイオンの割合が高いものが硬水と呼ばれ、低いものが軟水と呼ばれる。通常はこの2つイオンの量を炭酸カルシウムに換算して、1リッター中に200 mg以上含まれるものが硬水で100 mg以下のものが軟水と呼ばれる。 欧州や中国の大部分は一般に硬水が多く、それに適した蒸し料理や油炒め料理、長時間煮込む料理が発達した。日本や米国は一般に軟水が多く、日本ではうまみを引き出した料理や緑茶が発達し、米国では欧州由来のコーヒーが本来の味を引き出せるために薄くなった。 1933年、米国のシカゴ万博会場のホテルで浴槽と便器の水が給水管内に逆流し、1,409名がアメーバ赤痢に罹患し、98名が死亡した 。1948年に日本でも逆流事故によって腸チフス患者が550名発生し、3名が死亡した。これらの事故をはじめ多くの水道による事故の経験から、日本では「水道法」と「建築基準法」が、水槽、プール、流しその他水を入れ、又は受ける器具、施設等に給水する給水装置にあつては逆流を防止するための適当な措置を講じることを求めている。 逆流を防止するためには、水道蛇口を浴槽や台所シンク等の容器の縁より十分上方に離して設置して「エアギャップ」を確保することが有効である。これは、エアギャップによって、水道管内の圧力が断水などによって負圧となった時に管内に汚水が取り込まれる「逆サイフォン現象」を防ぐことが出来るからである。 集合住宅などでシャワーヘッドを湯水の入った浴槽内に漬けていると、万が一、断水などで管内が負圧になり、この時シャワーのコックを開けると、逆サイフォン現象によって不衛生な水が上水道管内に取り込まれてしまうので注意が必要である。 構造的に水道の吐出口が容器内に開口するフラッシュバルブ式大便器のような水回り器具ではエアギャップを確保することが不可能なために、「バキュームブレーカー」という逆サイフォン現象を防止するための仕組みを備えるものがある。大気圧式バキュームブレーカーでは大気圧と管内との差圧によって逆流を防止する仕組みとなっているため、逆流防止弁より確実に機能する。 日本において、「水道法」と「建築基準法」は、上水配管とその他の用途の配管を直接接続することを禁じている。これは、上水側の圧力が何かの理由でなくなった場合やその他の配管の圧力が上昇した場合、上水側に逆流する恐れがあるからである。これを「クロスコネクションの禁止」という。 アメリカにおいては、多くのクロスコネクションが存在し、事故を防ぐために逆流防止弁が開発され、逆流を阻止するように設計されているが、劣化やゴミが挟まるなどの機能喪失は完全には防ぎきれない。そのため、多くの逆流事故が起きている。 1993年に米国ミルウォーキーで原虫のクリプトスポリジウムによる上水道の汚染があり、40万人の感染者と400名の死者を出した。また、日本においても1996年に埼玉県越生町で8812名の感染があった。この5μm程の大きさの微生物は上水道の通常の消毒に用いられる程度の塩素濃度では死滅しないため、日本を含めた多くの国の上水道ではこの原虫の混入がないように随時注意が払われている。コストを掛けて濾過フィルターを設置している水道事業者もある。 カシン・ベック病は19世紀にカシンおよびベックによりシベリアにみられる地方病として報告された骨変形などを主症状とする疾患である。水道水に含まれるフェルラ酸、パラドキシ桂皮酸、カフェイン酸等の有機物質が原因と考えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "上水道(じょうすいどう)とは、一般に飲用可能な水の公共的な供給設備一般を指す。上水道には単に「水道」という呼び方もあり、下水道や中水道などとの区別を強調する場合に上水道と呼ばれることが多い。水道水の用途には、飲用、洗濯、調理、トイレの水洗などがある。屋内水道水は、古くから存在していたが、19世紀後半に現在の先進国で普及し始めるまで、ごく少数の人々しか利用できなかった「屋内配管」を通じて配水されている。水道水は20世紀に多くの地域で一般的になり、現在では主に貧困層で不足している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水道のルーツは古代地中海沿岸諸国とされる。当初は、深いところにある井戸の水を遠くに運ぶための水路であったと考えられている。古代ローマ人は後世「ローマ水道」と呼ばれることになる巨大なネットワークを構築したが、中世以後衰微する。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "水道の近代化は1787年のパリで蒸気式揚水用ポンプが使われ、1829年にロンドンで砂濾過池による浄水設備の設置以降のことであり、鉄製パイプによる水道管の開発など19世紀のヨーロッパで急速に発達した。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支配時に早川から水を引き、小田原城下に飲用として供した小田原早川上水が最古の水道と考えられている。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "徳川家康もその一人で、1600年頃の江戸の都市建設のために井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に青山・亀有(本所)・三田の3つを加えて「六上水」と称した)。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "元和2年(1616年)年、赤穂藩の池田氏は埋設式かつ各戸給水の都市型上水道を敷設した。 海から近く、井戸に海水が混じるため、都市開発のために真水が必須であった赤穂では、郡代垂水半左衛門指揮の下に、城中だけではなく城下の世帯にまで行き届く水道を整備した。埋設管部分には備前焼の土管を用い、堀を越える際は地中でサイホンを用いていた。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "次いで、讃岐高松藩と言われている。藩主松平頼重は、玉川上水より9年早い寛永21年(1644年)、矢延平六に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また、日本で現在も使われている中で最古の水道は、熊本県宇土市に在る轟水源を水源とする轟泉水道で宇土藩初代藩主細川行孝が造り、寛文3年(1663年)に完成したものである。始めは丸い土管の水道管で造られていたが、完成後100年程して6代目藩主細川興文のとき丈夫で長持ちする石の水道管に改修され今日に至る。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本の近代的水道は、1887年(明治20年)10月17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の神奈川県知事沖守固は、英国陸軍工兵大佐の技師ヘンリー・S・パーマーを顧問に招き、資材も英国からの輸入に頼る形で、相模川の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1885年(明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成した。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本に近代上水道が導入されたきっかけとしてはコレラなどの伝染病への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての利潤という面も無視できなかった。東京府水道の建設などは当時の政府/内務省と当時の野党である改進党の思惑に、条約改正を目論む外務省が関わる東京改造計画が絡んだ。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本では上水道網の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アメリカ国内の水道事業は個人の井戸から発展したもので、1652年にマサチューセッツ州ボストンに最初の水道事業体が発足した。1832年にはバージニア州リッチモンドに最初の近代的な浄水場が建設された。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アメリカでは植民地時代から1850年頃まで民間による水道経営が主流となっていた。しかし、富裕層が多く住む地域での給水に優先的に投資が行われていたこと、水道会社の利益が最大になるよう水道料金が設定されていたこと、水質への配慮が不十分であったことなどから公営の水道事業が徐々に増えていった。また、19世紀に入って都市化が急速に発展するとともにコレラやチフスなどの水系伝染病が大流行したが、水道が未整備の地域で汚染された井戸水や河川表流水を人力で汲んで用いていたことが原因であることが明らかとなってからは、近代的な浄水場の建設や配水管・給水管の整備が進んだ。", "title": "上水道の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "欧州や米国では水道事業を民間に開放しているところもあり、必ずしも自治体が提供する公営事業とは限らない。イギリスやフランス、オランダ等のように水道事業を民間会社が行っているのが一般的な国もあり、これらの国の水道運営会社は世界各国にも進出している。水道世界3大企業はフランスのスエズとヴェオリア・ウォーター、イギリスのテムズ・ウォーターである。このほかにもベクテルのような建設関連企業が海外での水資源開発や水道事業の受託を行っている。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "歴史的には、リヨン市の水道事業が民間委託化されたのが1853年であるが、欧米で民営化が広く行われるようになったのは20世紀に入ってからであった。2008年現在、全世界の水道供給人口50億人のうち、民営化された水道企業が水を供給しているのは4億人である。パリでは1985年から2009年まで約25年間に民間が運営をしていた間に料金が2倍になったが、水道の漏水率が22%から4%と改善した。フランスでは他の自治体も民営化したが、9割は民間管理を更新した。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "日本の法律では水道法による水道のことを指し、この定義では「導管およびその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する施設の総体をいう」とされている。日本中に張り巡らされている水道管の全長は約66万キロメートル、地球16周分の長さになるが、水道管の耐用年数は約40年で60年以上たっているため、約2000か所毎日破裂している。水道管をすべて更新するには130年以上かかると計算されている。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "なお日本でも水道法が2001年に改正され、水道事業の包括的な民間委託が可能となった。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2025年には世界全体で100兆円の市場となると言われている水道事業には、商社やメーカーだけでなく水道事業のノウハウを持つ日本の自治体の水道局も参入へ向けた行動を起こしている。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本国内でも水道の民営化や包括的な委託の受け皿となるべく企業が設立されるとともに、一部の地方都市で実際に包括的な委託を受託した例もある。しかし、日本国内では大規模な水道事業を民営化したり、運営全てを民間企業に委託(包括的委託)した例は無い。なお、浄水場の運転操作や保守点検等の一部分や、料金徴収など周辺事業を民間委託している例は多数あるが、これらは水道事業に関わる経営判断を含め多くの部分を民間に任せている欧米の方式とは異なっている。日本国内では経済的合理性や海外進出を考える商社やメーカー等の企業育成を考えて、水道企業を民営化したほうがよいとする意見や、水資源の公共性や水道の安定供給・安全性を考えて公営事業のままでよいとする意見など種々ある。しかし、国連テクニカルアドバイザー曰く、どのみち現行の水道料金は老朽化した水道管を維持するのに足りず、「水と安全はタダ」という日本的発想を料金を上げて赤字の現在を変えないといけないと警鐘を鳴らしている。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "一般の需要に応じて、水道により飲用に適する水を供給する事業のうち給水人口が100人を超えるものを水道事業という。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "水道事業を経営しようとする場合は、厚生労働大臣または都道府県知事の認可を受けなければならない。認可を受けた水道事業者は、事業計画に定める給水区域内の需要者から給水契約の申込みを受けたときは、正当な理由がなければ拒むことができず、原則として、水道により給水を受ける者に対し、常時水を供給しなければならない。また、施設を変更したり、料金を変更するときは、厚生労働大臣等の認可を受けなければならないなど、水道法の規制を受ける。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "現在、水道事業はそのほとんどが地方公共団体により経営される企業(地方公営企業)によって行われ独立採算制で運営されている。多くの地域で、個々の需用者と直接契約して給水する「水の小売り」は各市町村の水道事業が担当している。都府県営水道がある地域でも「水の問屋」として各市町村に対して給水するのが普通だが、例外として、東京都(23区全域と多摩地区の一部)・千葉県(北西部の大部分)・神奈川県(中央部の大部分)などでは、都県営水道が直接利用者と契約して給水している。また、主に上水道に従事する公務員は、地方公営企業の職員として、水道事業による収入から給与・手当が支給される。一方、主に簡易水道に従事する公務員は、首長部局の職員として、簡易水道事業を所管する特別会計から給与・手当が支給される。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "水道事業を行なう主体は、都道府県では水道局あるいは企業庁・企業局の水道部門である。市町村では、水道局・水道部・水道課と呼ばれているほか、上下水道局・建設部などの一部門となっている自治体も多い。複数の市町村にまたがる企業団や組合が水道事業を行なう地域もある。近年、水道料金の値上げが多く、その理由として水源地の水利権の高コストや老朽施設の更新、建設時の借入金負担や市町村合併に伴う価格見直しや節水へ意識誘導する目的で単価を上げると言った理由がある。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の水道事業体は、環境保護庁(EPA)により、市町村水道、専用水道、季節専用水道の3つに分類されている。", "title": "世界の水道業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "水道水(家庭用炭酸化の有無にかかわらず)には、ボトル入りの水には含まれていないフッ化物が含まれている。フッ化物は虫歯の予防に大きな影響を及ぼし、口腔の健康を維持する上で不可欠であると考えられているため、これは重要である。ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていない。ただし、2012年の時点では、アイルランド以外の西ヨーロッパ諸国には水道水フッ化物添加はほとんど行っていない。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "世界で水道水が飲める国は少なく、以下の16カ国が安全に水道水が飲めると言われている。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "世界保健機関(WHO)では、各国が水質基準を設定する際の参考となるよう飲料水についての水質ガイドラインを定め勧告している。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "日本における水道法(昭和32年6月15日法律第177号)が定める水質基準は、同法4条2項を受けて制定された水質基準に関する省令(平成15年5月30日厚生労働省令第101号)および平成20年4月1日から施行されたその一部改正(平成19年11月14日厚生労働省令第135号)により、51項目の検査項目・検査方法及び基準値が定められている。同水質基準においては、たとえばカドミウムや水銀などについてそれぞれ許容値が定められており、大腸菌(平成15年4月1日より従前の「大腸菌群数」から変更)は検出が許されない。これに適合しないと日本国内において「水道水」として供給できない。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "水道法に基づく水質基準は日本国内に一律に適用され条例で変更することはできない。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、上記「水質基準」とは別に、水質基準に準じて検出状況を把握し、管理すべき項目として「水質管理目標設定項目」があり、農薬などの目標値が定められている。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、1980年代後半までは鉛製給水管が使用されたものの、水道水中への鉛の溶出が問題視されたため、近年は他の材質の給水管への取替えが進んでいる。しかし、2009年(平成21年)度の調査では、未だに約7,500kmの鉛製給水管が残っていると報告されている。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "米国では安全飲料水法(SDWA)で健康に関わる項目からなる第一種飲料水規則(NPDWR:National Primary DrinkingWater Regulations)と水道利用に関わる項目からなる第二種飲料水規則(NSDWR:National Secondary Drinking Water Regulations)が規定されている。ただし、第二種飲料水規則には法的拘束力は無い。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "欧州委員会の定めたEU飲料水指令の基準を遵守しなければならず、さらに各国はそれより厳しい上乗せ基準を設定することができる。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "連邦政府の水質基準はガイドラインとされており、各州政府がその基準を義務とするか、目標とするか、それよりも厳しい基準にするか決定する権限をもつ。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本の上水道では、蛇口地点で塩素が0.1 mg/L以上含まれていなければならず、これによって大腸菌等のバクテリアの発生を防いでいる。水道の元となる取水した原水が十分に清浄であればこれだけで十分清潔な水道水が供給できるが、原水そのものが汚れたものであれば、多くの次亜塩素酸ナトリウムや次亜塩素酸カルシウムを加えてバクテリアを塩素殺菌する必要がある。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "この塩素は、原水中のフミン質と呼ばれる主にバクテリアの腐敗によって生じた、多様な有機化合物群と反応してトリハロメタンと呼ばれるヒトの発ガン性物質が出来るので、塩素臭による不快感と共に、あまり水道中に加えることは出来ない。また、塩素に耐性を持つ特定の原虫が混入したりすることもあり、こういった汚れた原水で飲用の上水道を作る技術として、水の高度処理技術が生まれた。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "高度浄水処理では、微細な穴の開いた膜を通したり、活性炭を使用する、オゾンを吹き込むなどのコストの掛かる方法をとる。シンガポールでは2003年から、下水を逆浸透膜で浄化する高度濾過技術を使った「ニューウォーター」(NEWater)計画を進めている。(日本の東京都では、既に行われている)", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "上水の元となる原水がミネラルを多く含めば、上水道で供給される水もそのままミネラル分の高いものとなる。ミネラル分の内でもカルシウムイオンとマグネシウムイオンの割合が高いものが硬水と呼ばれ、低いものが軟水と呼ばれる。通常はこの2つイオンの量を炭酸カルシウムに換算して、1リッター中に200 mg以上含まれるものが硬水で100 mg以下のものが軟水と呼ばれる。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "欧州や中国の大部分は一般に硬水が多く、それに適した蒸し料理や油炒め料理、長時間煮込む料理が発達した。日本や米国は一般に軟水が多く、日本ではうまみを引き出した料理や緑茶が発達し、米国では欧州由来のコーヒーが本来の味を引き出せるために薄くなった。", "title": "水道水の水質" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1933年、米国のシカゴ万博会場のホテルで浴槽と便器の水が給水管内に逆流し、1,409名がアメーバ赤痢に罹患し、98名が死亡した 。1948年に日本でも逆流事故によって腸チフス患者が550名発生し、3名が死亡した。これらの事故をはじめ多くの水道による事故の経験から、日本では「水道法」と「建築基準法」が、水槽、プール、流しその他水を入れ、又は受ける器具、施設等に給水する給水装置にあつては逆流を防止するための適当な措置を講じることを求めている。 逆流を防止するためには、水道蛇口を浴槽や台所シンク等の容器の縁より十分上方に離して設置して「エアギャップ」を確保することが有効である。これは、エアギャップによって、水道管内の圧力が断水などによって負圧となった時に管内に汚水が取り込まれる「逆サイフォン現象」を防ぐことが出来るからである。 集合住宅などでシャワーヘッドを湯水の入った浴槽内に漬けていると、万が一、断水などで管内が負圧になり、この時シャワーのコックを開けると、逆サイフォン現象によって不衛生な水が上水道管内に取り込まれてしまうので注意が必要である。", "title": "上水道の逆流事故" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "構造的に水道の吐出口が容器内に開口するフラッシュバルブ式大便器のような水回り器具ではエアギャップを確保することが不可能なために、「バキュームブレーカー」という逆サイフォン現象を防止するための仕組みを備えるものがある。大気圧式バキュームブレーカーでは大気圧と管内との差圧によって逆流を防止する仕組みとなっているため、逆流防止弁より確実に機能する。", "title": "上水道の逆流事故" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本において、「水道法」と「建築基準法」は、上水配管とその他の用途の配管を直接接続することを禁じている。これは、上水側の圧力が何かの理由でなくなった場合やその他の配管の圧力が上昇した場合、上水側に逆流する恐れがあるからである。これを「クロスコネクションの禁止」という。", "title": "上水道の逆流事故" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アメリカにおいては、多くのクロスコネクションが存在し、事故を防ぐために逆流防止弁が開発され、逆流を阻止するように設計されているが、劣化やゴミが挟まるなどの機能喪失は完全には防ぎきれない。そのため、多くの逆流事故が起きている。", "title": "上水道の逆流事故" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1993年に米国ミルウォーキーで原虫のクリプトスポリジウムによる上水道の汚染があり、40万人の感染者と400名の死者を出した。また、日本においても1996年に埼玉県越生町で8812名の感染があった。この5μm程の大きさの微生物は上水道の通常の消毒に用いられる程度の塩素濃度では死滅しないため、日本を含めた多くの国の上水道ではこの原虫の混入がないように随時注意が払われている。コストを掛けて濾過フィルターを設置している水道事業者もある。", "title": "上水道の汚染事故" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "カシン・ベック病は19世紀にカシンおよびベックによりシベリアにみられる地方病として報告された骨変形などを主症状とする疾患である。水道水に含まれるフェルラ酸、パラドキシ桂皮酸、カフェイン酸等の有機物質が原因と考えられている。", "title": "上水道の汚染事故" } ]
上水道(じょうすいどう)とは、一般に飲用可能な水の公共的な供給設備一般を指す。上水道には単に「水道」という呼び方もあり、下水道や中水道などとの区別を強調する場合に上水道と呼ばれることが多い。水道水の用途には、飲用、洗濯、調理、トイレの水洗などがある。屋内水道水は、古くから存在していたが、19世紀後半に現在の先進国で普及し始めるまで、ごく少数の人々しか利用できなかった「屋内配管」を通じて配水されている。水道水は20世紀に多くの地域で一般的になり、現在では主に貧困層で不足している。
'''上水道'''(じょうすいどう)とは、一般に飲用可能な[[水]]の公共的な供給設備一般を指す。上水道には単に「'''水道'''」という呼び方もあり、[[下水道]]や[[中水道]]などとの区別を強調する場合に上水道と呼ばれることが多い。'''水道水'''の用途には、飲用、洗濯、調理、[[便器|トイレ]]の水洗などがある。屋内水道水は、古くから存在していたが、19世紀後半に現在の[[先進国]]で普及し始めるまで、ごく少数の人々しか利用できなかった「屋内[[配管]]」を通じて配水されている。水道水は20世紀に多くの地域で一般的になり、現在では主に貧困層で不足している。 == 上水道の構成 == === 水源 === *[[表流水]]([[川|河川]]・ダム) *[[伏流水]] *[[地下水]] **浅[[井戸]] **深井戸 **[[湧水]] *[[海水淡水化|海水]] === 構成要素 === *取水施設 *浄水施設 *貯水施設 *配水施設 *送水ポンプ *導管 *水量計 == 上水道の歴史 == === 世界の上水道の歴史 === 水道のルーツは[[古代]][[地中海]]沿岸諸国とされる。当初は、深いところにある[[井戸]]の水を遠くに運ぶための[[水路]]であったと考えられている。[[古代ローマ|古代ローマ人]]は後世「[[ローマ水道]]」と呼ばれることになる巨大なネットワークを構築したが、[[中世]]以後衰微する。 水道の近代化は[[1787年]]の[[パリ]]で蒸気式揚水用ポンプが使われ、[[1829年]]に[[ロンドン]]で[[砂濾過池]]による浄水設備の設置以降のことであり、鉄製パイプによる[[水道管]]の開発など[[19世紀]]の[[ヨーロッパ]]で急速に発達した。 === 日本の上水道の歴史 === [[File:Sluiceway of Gosen Aqueduct 4 (masu).JPG|thumb|200px|right|日本現役最古の上水道である轟泉水道]] 日本では、[[16世紀]]半ば、[[北条氏康]]の小田原支配時に[[早川 (神奈川県)|早川]]から水を引き、[[小田原城]]下に飲用として供した[[小田原早川上水]]が最古の水道と考えられている。 [[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている<ref>{{Cite book |和書 |author=石井啓文 |year=2001 |title=小田原の郷土史再発見 |publisher=夢工房 |NCID=BA75977282}}</ref>。 [[徳川家康]]もその一人で、[[1600年]]頃の[[江戸]]の都市建設のために[[井之頭池]]から引いた[[神田上水]]をはじめ、その後、[[玉川上水]]、[[千川上水]]などが江戸の町に引かれていった(後に[[青山上水|青山]]・[[本所上水|亀有]](本所)・[[三田用水|三田]]の3つを加えて[[江戸の六上水|「六上水」]]と称した)。 現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。 元和2年(1616年)年、赤穂藩の池田氏は埋設式かつ各戸給水の都市型上水道を敷設した。 海から近く、井戸に海水が混じるため、都市開発のために真水が必須であった赤穂では、郡代垂水半左衛門指揮の下に、城中だけではなく城下の世帯にまで行き届く水道を整備した。埋設管部分には備前焼の土管を用い、堀を越える際は地中でサイホンを用いていた。 <!---日本で最初に本格的都市型、埋設式上水道を敷設したのは、--->次いで、讃岐[[高松藩]]と言われている。藩主[[松平頼重]]は、[[玉川上水]]より9年早い[[寛永]]21年(1644年)、[[矢延平六]]に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。 また、日本で現在も使われている中で最古の水道は、[[熊本県]][[宇土市]]に在る[[轟水源]]を水源とする[[轟泉自然公園#轟泉水道|轟泉水道]]で[[宇土藩]]初代藩主[[細川行孝]]が造り、[[寛文]]3年([[1663年]])に完成したものである。始めは丸い[[土管]]の[[水道管]]で造られていたが、完成後100年程して6代目藩主[[細川興文]]のとき丈夫で長持ちする石の水道管に改修され今日に至る。 日本の近代的水道は、[[1887年]](明治20年)[[10月17日]]に、[[横浜市|横浜]]の[[外国人居留地]]で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の[[神奈川県]]知事[[沖守固]]は、英国陸軍工兵大佐の技師[[ヘンリー・S・パーマー]]を顧問に招き、資材も英国からの輸入に頼る形で、[[相模川]]の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。 [[1885年]](明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする[[水道条例]]が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。 旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた[[東京]]でも、[[1898年]](明治31年)には[[多摩川]]から[[淀橋浄水場]]を経由して、市内へと配水する設備が完成した。 日本に近代上水道が導入されたきっかけとしては[[コレラ]]などの[[伝染病]]への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての[[利潤]]という面も無視できなかった。東京府水道の建設などは当時の[[政府]]/[[内務省 (日本)|内務省]]と当時の[[野党]]である[[改進党]]の思惑に、条約改正を目論む[[外務省]]が関わる東京改造計画が絡んだ{{Sfn|小野芳朗|2001|p=177}}。 日本では上水道網の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた{{Sfn|小野芳朗|2001|p=144}}。 === アメリカでの歴史 === アメリカ国内の水道事業は個人の井戸から発展したもので、[[1652年]]に[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]に最初の水道事業体が発足した<ref name="jwrc-first">{{Cite journal |和書 |author=竹中勝信 |date=2011-01 |title=アメリカ合衆国の上下水道の概要(前編) |journal=水道 |volume=56 |issue=1 |publisher=水道技術研究センター |url=http://www.jwrc-net.or.jp/aswin/projects-activities/pdf_Usa_Ca/usa-outline_first.pdf |format=PDF |accessdate=2017-02-12}}</ref>。[[1832年]]には[[バージニア州]][[リッチモンド (バージニア州)|リッチモンド]]に最初の近代的な浄水場が建設された<ref name="jwrc-first" />。 アメリカでは植民地時代から[[1850年]]頃まで民間による水道経営が主流となっていた<ref name="jwrc-first" />。しかし、富裕層が多く住む地域での給水に優先的に投資が行われていたこと、水道会社の利益が最大になるよう水道料金が設定されていたこと、水質への配慮が不十分であったことなどから公営の水道事業が徐々に増えていった<ref name="jwrc-first" />。また、19世紀に入って都市化が急速に発展するとともに[[コレラ]]や[[チフス]]などの水系伝染病が大流行したが、水道が未整備の地域で汚染された井戸水や河川表流水を人力で汲んで用いていたことが原因であることが明らかとなってからは、近代的な浄水場の建設や配水管・給水管の整備が進んだ<ref name="jwrc-first" />。 == 世界の水道業 == === 世界の水道企業 === 欧州や米国では水道事業を民間に開放しているところもあり、必ずしも自治体が提供する公営事業とは限らない。[[イギリス]]や[[フランス]]、[[オランダ]]等のように水道事業を民間会社が行っているのが一般的な国もあり、これらの国の水道運営会社は世界各国にも進出している。水道世界3大企業はフランスの[[スエズ (2008年設立の企業)|スエズ]]と[[ヴェオリア・ウォーター]]、イギリスの[[テムズ・ウォーター]]である。このほかにも[[ベクテル]]のような建設関連企業が海外での水資源開発や水道事業の受託を行っている。 歴史的には、[[リヨン]]市の水道事業が民間委託化されたのが[[1853年]]であるが、欧米で民営化が広く行われるようになったのは20世紀に入ってからであった。2008年現在、全世界の水道供給人口50億人のうち、民営化された水道企業が水を供給しているのは4億人である<ref>{{Cite journal |和書 |author=猪本有紀 |date=2008-02 |title=寄稿 世界の水問題に取り組む商社 |journal=日本貿易会 月報 |issue=656 |url=http://www.jftc.or.jp/shoshaeye/contribute/contrib2008_02a.pdf |publisher=日本貿易会 |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304073622/http://www.jftc.or.jp/shoshaeye/contribute/contrib2008_02a.pdf |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112009042304 |title=100兆円の市場を争奪する世界の「水メジャー」って何者? |accessdate=2009-04-25 |date=2009-04-23 |work=R×R(ランキンレビュー) |website=R25.jp |publisher=リクルート |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090426083359/http://r25.jp/b/honshi/a/ranking_review_details/id/1112009042304 |archivedate=2009-04-26 |deadlinkdate=2016-07}}</ref>。パリでは1985年から2009年まで約25年間に民間が運営をしていた間に料金が2倍になったが、水道の漏水率が22%から4%と改善した。フランスでは他の自治体も民営化したが、9割は民間管理を更新した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=寿命超えボロボロ…日本の水道の悲惨な実態 {{!}} 週刊女性PRIME|url=https://toyokeizai.net/articles/-/255167|website=東洋経済オンライン|date=2018-12-20|accessdate=2020-04-27|language=ja}}</ref>。 {| class="wikitable" |+ 世界市場での水道企業シェア |- ! 国 !! 企業名 !! 給水人口 |- | {{FRA}} || [[スエズ (2008年設立の企業)|スエズ]] | style="text-align:right" | 1億2500万人 |- | {{FRA}} || [[ヴェオリア・エンバイロメント|ヴェオリア]] | style="text-align:right" | 1億{{0}}800万人 |- | {{UK}} || [[テムズ・ウォーター]] | style="text-align:right" | 7000万人 |- | {{FRA}} || SAUR | style="text-align:right" | 3700万人 |- | {{UK}} || [[w:en:United Utilities|ユナイテッド・ユーティリティーズ]] | style="text-align:right" | 2000万人 |} === 日本の上水道 === 日本の法律では[[水道法]]による水道のことを指し、この定義では「導管およびその他の工作物により、水を人の飲用に適する水として供給する[[施設]]の総体をいう」とされている。日本中に張り巡らされている水道管の全長は約66万キロメートル、地球16周分の長さになるが、水道管の耐用年数は約40年で60年以上たっているため、約2000か所毎日破裂している。水道管をすべて更新するには130年以上かかると計算されている<ref name=":0" />。 なお日本でも[[水道法]]が[[2001年]]に改正され、水道事業の包括的な[[民間委託]]が可能となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/kaisei/gaiyo/index.html |title=改正水道法の概要 |accessdate=2009-04-25 |publisher=厚生労働省}}</ref>。 2025年には世界全体で100兆円の市場となると言われている水道事業には、商社やメーカーだけでなく水道事業のノウハウを持つ日本の自治体の[[水道局]]も参入へ向けた行動を起こしている<ref>{{Cite news |title=関西の水処理技術アピール 財界訪中団がフォーラム |newspaper=日経Ecolomy |date=2013-04-20 |url=http://eco.nikkei.co.jp/news/today/article.aspx?id=NN002Y005+13042009}}{{リンク切れ|date=2016-07}}</ref>。 日本国内でも水道の民営化や包括的な委託の受け皿となるべく企業が設立されるとともに、一部の地方都市で実際に包括的な委託を受託した例もある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.japanwater.co.jp/business/operation_management/ |title=O&M事業の実績(抜粋) |accessdate=2016-07-06 |publisher=ジャパンウォーター |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161116005347/http://www.japanwater.co.jp/business/operation_management/ |archivedate=2016-11-16 |deadlinkdate=2018-11-08}}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=三次市から浄水場を全面受託 |publisher=ジャパンウォーター |date=2002-11-11 |url=http://www.japanwater.co.jp/newsrelease/press/2002-1111.html |archiveurl=https://archive.is/3NtG |archivedate=2012-08-02 |deadlinkdate=2016-07}}</ref>。しかし、日本国内では大規模な水道事業を民営化したり、運営全てを民間企業に委託(包括的委託)した例は無い。なお、浄水場の運転操作や保守点検等の一部分や、料金徴収など周辺事業を民間委託している例は多数あるが、これらは水道事業に関わる経営判断を含め多くの部分を民間に任せている欧米の方式とは異なっている。日本国内では経済的合理性や海外進出を考える商社やメーカー等の企業育成を考えて、水道企業を民営化したほうがよいとする意見や、水資源の公共性や水道の安定供給・安全性を考えて公営事業のままでよいとする意見など種々ある。しかし、国連テクニカルアドバイザー曰く、どのみち現行の水道料金は老朽化した水道管を維持するのに足りず、「水と安全はタダ」という日本的発想を料金を上げて赤字の現在を変えないといけないと警鐘を鳴らしている<ref name=":0" />。 ==== 水道事業 ==== 一般の需要に応じて、[[水道]]により飲用に適する[[水]]を供給する事業のうち給水人口が100人を超えるものを水道事業という。 * [[簡易水道]]事業 - 水道事業のうち給水人口が5,000人以下であるもの(水道法) * 水道用水供給事業 - 水道により水道事業者に対してその用水を供給する事業(水道法) * 上水道(事業) - 水道事業のうち簡易水道を除いた給水人口が5,000人を越えるものを、上水道(事業)ということがあるが、厳密には水道法で定義された概念ではない。 ==== 水道事業者 ==== 水道事業を経営しようとする場合は、[[厚生労働大臣]]または都道府県知事の[[認可]]を受けなければならない。認可を受けた水道事業者は、事業計画に定める給水区域内の需要者から給水契約の申込みを受けたときは、正当な理由がなければ拒むことができず、原則として、水道により給水を受ける者に対し、常時水を供給しなければならない。また、施設を変更したり、料金を変更するときは、厚生労働大臣等の認可を受けなければならないなど、水道法の規制を受ける。 現在、水道事業はそのほとんどが[[地方公共団体]]により経営される企業([[地方公営企業]])によって行われ[[独立採算制]]で運営されている。多くの地域で、個々の需用者と直接契約して給水する「水の小売り」は各市町村の水道事業が担当している。都府県営水道がある地域でも「水の問屋」として各市町村に対して給水するのが普通だが、例外として、東京都(23区全域と多摩地区の一部)・千葉県(北西部の大部分)・神奈川県(中央部の大部分)などでは、都県営水道が直接利用者と契約して給水している。また、主に上水道に従事する公務員は、地方公営企業の職員として、水道事業による収入から給与・手当が支給される。一方、主に簡易水道に従事する公務員は、首長部局の職員として、簡易水道事業を所管する特別会計から給与・手当が支給される。 水道事業を行なう主体は、都道府県では[[水道局]]あるいは企業庁・[[企業局]]の水道部門である。市町村では、水道局・水道部・水道課と呼ばれているほか、上下水道局・建設部などの一部門となっている自治体も多い。複数の市町村にまたがる[[企業団]]や[[組合]]が水道事業を行なう地域もある。近年、水道料金の値上げが多く、その理由として水源地の水利権の高コストや老朽施設の更新、建設時の借入金負担や市町村合併に伴う価格見直しや節水へ意識誘導する目的で単価を上げると言った理由がある。 === アメリカの上水道 === ==== 水道事業 ==== アメリカ合衆国の水道事業体は、[[アメリカ合衆国環境保護庁|環境保護庁]](EPA)により、市町村水道、専用水道、季節専用水道の3つに分類されている<ref name="jwrc-second">{{Cite journal |和書 |author=竹中勝信 |year=2011-02 |title=アメリカ合衆国の上下水道の概要(中編) |journal=水道 |volume=56 |issue=2 |publisher=水道技術研究センター |url=http://www.jwrc-net.or.jp/aswin/projects-activities/pdf_Usa_Ca/usa-outline_second.pdf |format=PDF |accessdate=2017-02-12}}</ref>。 * 市町村水道(Community Water System(CWSs) - 1年を通じて定住人口に対し給水している水道事業体<ref name="jwrc-second" /> * 専用水道(Non-Transient Non-Community Water Systems(NTNCWSs) - 25人以上の定住人口に対して6か月以上給水している自家用水道(学校・工場等)の水道事業体<ref name="jwrc-second" /> * 季節専用水道(Transient Non-Community Water System(TNCWSs)) - 住居地域以外において移動人口に対して給水している自家用水道(ガソリンスタンド・キャンプ場等)の水道事業体<ref name="jwrc-second" /> == 水道水の水質 == 水道水(家庭用炭酸化の有無にかかわらず)には、ボトル入りの水には含まれていない[[フッ化物]]が含まれている。フッ化物は[[虫歯]]の予防に大きな影響を及ぼし、口腔の健康を維持する上で不可欠であると考えられているため、これは重要である。ほとんどのボトル入り飲料水にはフッ化物が含まれていない<ref>{{Cite web|title=Water, water everywhere|url=https://www.health.harvard.edu/blog/water-water-everywhere-2016110310577|website=Harvard Health Blog|date=2016-11-03|accessdate=2020-11-10|language=en-US|first=Robert H. Shmerling|last=MD}}</ref>。ただし、2012年の時点では、[[アイルランド]]以外の西[[ヨーロッパ]]諸国には水道水フッ化物添加はほとんど行っていない<ref>{{Cite web|title=Water Fluoridation Status in Western Europe|url=https://fluoridealert.org/content/water_europe/|website=Fluoride Action Network|date=2012-08-08|accessdate=2020-11-10|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|title=Statements from European Health, Water, & Environment Authorities on Water Fluoridation|url=http://fluoridealert.org/content/europe-statements/|website=Fluoride Action Network|date=2012-06-11|accessdate=2020-11-10|language=en-US}}</ref>。 === 水道水が飲める国 === 世界で水道水が飲める国は少なく、以下の16カ国が安全に水道水が飲めると言われている<ref>『水に流せない「水」の話』 ISBN 978-4041003831</ref>。 {{indent| {{flatlist}} * 日本 * アラブ首長国連邦 * オーストラリア * ニュージーランド * アイスランド * アイルランド * スウェーデン * フィンランド * ドイツ * オーストリア * クロアチア * スロベニア * モザンビーク * レソト * 南アフリカ * カナダ * フランス {{endflatlist}} }} === 水質基準 === ==== WHO ==== [[世界保健機関]](WHO)では、各国が水質基準を設定する際の参考となるよう飲料水についての水質ガイドラインを定め勧告している<ref name="abroad04_02">{{Cite web|和書|url=http://www.jwrc-net.or.jp/chousa-kenkyuu/comparison/abroad04_02.pdf |title=日本と先進国との水質基準の比較に関する考察 |publisher=公益財団法人 水道技術研究センター |accessdate=2020-07-20}}</ref>。 ==== 日本 ==== 日本における[[水道法]](昭和32年6月15日法律第177号)が定める水質基準は、同法4条2項を受けて制定された[[水質基準に関する省令]](平成15年5月30日[[厚生労働省]]令第101号)および平成20年4月1日から施行されたその一部改正(平成19年11月14日厚生労働省令第135号)により、51項目の検査項目・検査方法及び基準値が定められている。同水質基準においては、たとえば[[カドミウム]]や[[水銀]]などについてそれぞれ許容値が定められており、[[大腸菌]](平成15年4月1日より従前の「大腸菌群数」から変更)は検出が許されない。これに適合しないと日本国内において「水道水」として供給できない。 水道法に基づく水質基準は日本国内に一律に適用され条例で変更することはできない<ref name="abroad04_02" />。 また、上記「水質基準」とは別に、水質基準に準じて検出状況を把握し、管理すべき項目として「水質管理目標設定項目」があり、農薬などの目標値が定められている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/kijun/index.html |title=水質基準 |accessdate=2007-04-04 |publisher=東京都水道局}}</ref>。 なお、1980年代後半までは鉛製給水管が使用されたものの、水道水中への鉛の溶出が問題視されたため、近年は他の材質の給水管への取替えが進んでいる。しかし、[[2009年]](平成21年)度の調査では、未だに約7,500kmの鉛製給水管が残っていると報告されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/suido/kyusui/dl/h24_03tebiki_shiryou.pdf |title=鉛製給水管布設替えに関する手引き 資料編(平成24年3月) |accessdate=2014-07-20 |format=PDF |publisher=厚生労働省}}</ref>。 ==== 米国 ==== 米国では安全飲料水法(SDWA)で健康に関わる項目からなる第一種飲料水規則(NPDWR:National Primary DrinkingWater Regulations)と水道利用に関わる項目からなる第二種飲料水規則(NSDWR:National Secondary Drinking Water Regulations)が規定されている<ref name="abroad04_02" />。ただし、第二種飲料水規則には法的拘束力は無い<ref name="abroad04_02" />。 ==== EU ==== 欧州委員会の定めたEU飲料水指令の基準を遵守しなければならず、さらに各国はそれより厳しい上乗せ基準を設定することができる<ref name="abroad04_02" />。 ==== オーストラリア ==== 連邦政府の水質基準はガイドラインとされており、各州政府がその基準を義務とするか、目標とするか、それよりも厳しい基準にするか決定する権限をもつ<ref name="abroad04_02" />。 === 高度浄水処理 === 日本の上水道では、蛇口地点で塩素が0.1&nbsp;mg/L以上含まれていなければならず、これによって大腸菌等のバクテリアの発生を防いでいる。水道の元となる取水した原水が十分に清浄であればこれだけで十分清潔な水道水が供給できるが、原水そのものが汚れたものであれば、多くの[[次亜塩素酸ナトリウム]]や[[次亜塩素酸カルシウム]]を加えて[[バクテリア]]を[[塩素殺菌]]する必要がある。 この[[塩素]]は、原水中の[[フミン質]]と呼ばれる主にバクテリアの腐敗によって生じた、多様な有機化合物群と反応して[[トリハロメタン]]と呼ばれるヒトの[[発ガン性物質]]が出来るので、塩素臭による不快感と共に、あまり水道中に加えることは出来ない。また、塩素に耐性を持つ特定の原虫が混入したりすることもあり、こういった汚れた原水で飲用の上水道を作る技術として、水の高度処理技術が生まれた。 [[高度浄水処理]]では、微細な穴の開いた膜を通したり、活性炭を使用する、[[オゾン]]を吹き込むなどのコストの掛かる方法をとる{{Sfn|建築設備技術者協会|2002}}。[[シンガポール]]では2003年から、下水を逆浸透膜で浄化する高度濾過技術を使った「ニューウォーター」(NEWater)計画を進めている。([[日本]]の[[東京都]]では、既に行われている) === [[硬水]]と[[軟水]] === 上水の元となる原水がミネラルを多く含めば、上水道で供給される水もそのままミネラル分の高いものとなる。ミネラル分の内でもカルシウムイオンとマグネシウムイオンの割合が高いものが硬水と呼ばれ、低いものが軟水と呼ばれる。通常はこの2つイオンの量を炭酸カルシウムに換算して、1リッター中に200&nbsp;mg以上含まれるものが硬水で100&nbsp;mg以下のものが軟水と呼ばれる。 欧州や中国の大部分は一般に硬水が多く、それに適した蒸し料理や油炒め料理、長時間煮込む料理が発達した。日本や米国は一般に軟水が多く、日本ではうまみを引き出した料理や緑茶が発達し、米国では欧州由来のコーヒーが本来の味を引き出せるために薄くなった{{Sfn|建築設備技術者協会|2002}}。 == 上水道の逆流事故 == [[1933年]]、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[シカゴ万国博覧会 (1933年)|シカゴ万博]]会場の[[ホテル]]で浴槽と便器の水が給水管内に逆流し、1,409名が[[アメーバ赤痢]]に罹患し、98名が死亡した<ref>[[アメリカ合衆国環境保護庁]] Cross-Connection Control Manual</ref> 。[[1948年]]に日本でも逆流事故によって腸[[チフス]]患者が550名発生し、3名が死亡した。これらの事故をはじめ多くの水道による事故の経験から、日本では「水道法」と「建築基準法」が、'''水槽、プール、流しその他水を入れ、又は受ける器具、施設等に給水する給水装置にあつては逆流を防止するための適当な措置を講じること'''を求めている。 逆流を防止するためには、水道蛇口を浴槽や台所シンク等の容器の縁より十分上方に離して設置して「エアギャップ」を確保することが有効である。これは、エアギャップによって、水道管内の圧力が断水などによって負圧となった時に管内に汚水が取り込まれる「逆サイフォン現象」を防ぐことが出来るからである。 [[集合住宅]]などでシャワーヘッドを湯水の入った浴槽内に漬けていると、万が一、断水などで管内が負圧になり、この時シャワーのコックを開けると、逆サイフォン現象によって不衛生な水が上水道管内に取り込まれてしまうので注意が必要である。 === 逆流防止に対応する器具 === 構造的に水道の吐出口が容器内に開口するフラッシュバルブ式大便器のような水回り器具ではエアギャップを確保することが不可能なために、「バキュームブレーカー」という逆サイフォン現象を防止するための仕組みを備えるものがある。大気圧式バキュームブレーカーでは大気圧と管内との差圧によって逆流を防止する仕組みとなっているため、逆流防止弁より確実に機能する。 === クロスコネクション === 日本において、「水道法」と「建築基準法」は、上水配管とその他の用途の配管を直接接続することを禁じている。これは、上水側の圧力が何かの理由でなくなった場合やその他の配管の圧力が上昇した場合、上水側に逆流する恐れがあるからである。これを「[[クロスコネクション]]の禁止」という。 アメリカにおいては、多くのクロスコネクションが存在し、事故を防ぐために逆流防止弁が開発され、逆流を阻止するように設計されているが、劣化やゴミが挟まるなどの機能喪失は完全には防ぎきれない。そのため、多くの逆流事故が起きている。 == 上水道の汚染事故 == === クリプトスポリジウム === [[1993年]]に米国[[ミルウォーキー]]で原虫の[[クリプトスポリジウム]]による上水道の汚染があり、40万人の感染者と400名の死者を出した。また、日本においても1996年に埼玉県越生町で8812名の感染があった。この5μm程の大きさの微生物は上水道の通常の消毒に用いられる程度の塩素濃度では死滅しないため、日本を含めた多くの国の上水道ではこの原虫の混入がないように随時注意が払われている。コストを掛けて濾過フィルターを設置している水道事業者もある{{Sfn|建築設備技術者協会|2002}}。 === カシン・ベック病 === [[カシン・ベック病]]は19世紀にカシンおよびベックによりシベリアにみられる地方病として報告された骨変形などを主症状とする疾患である<ref name="No.802">{{Cite web|和書|url=https://h-crisis.niph.go.jp/?p=83615 |title=No.802 水道水とカシンベック病 |publisher=国立保健医療科学院|accessdate=2020-07-20}}</ref>。水道水に含まれるフェルラ酸、パラドキシ桂皮酸、カフェイン酸等の有機物質が原因と考えられている<ref name="No.802" />。 ===取水施設への汚水混入=== *[[川崎市の赤痢 (1935年)|川崎市の赤痢]]([[1935年]]1月) *[[大牟田爆発赤痢事件]]([[1937年]]9月) *[[茂原下痢症]]([[1953年]]6月) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 関連項目 == *[[簡易水道]]、[[工業用水道]]、[[用水路]] *[[飲料水供給施設]] *[[水道水フッ化物添加]] *[[横浜水道記念館]]([[陣ヶ下渓谷]]) - [[1987年]](昭和62年)開設。[[1887年]](明治20年)に出来た[[日本]]最初の近代的水道「横浜水道」の[[博物館]]。 *[[指定工事店]] *[[キッコーマン]] - [[1922年]]から[[1975年]]まで、[[野田市]]内で一般家庭に対し上水道の供給を行っていた。 * {{ill2|ユーティリティの場所|en|Utility location}} - ガス・電線・電話線・上水道・下水道など埋設物についての場所。アメリカ、オーストラリア等では地上でも分かるようにカラーコードが示されている。 == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=小野芳朗 |year=2001 | title=水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか |series=PHP新書 |publisher=PHP研究所 |ISBN=978-4-5696-1618-6 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=建築設備技術者協会(編) |year=2002 | date=2002-08-20 |title=小事典 暮らしの水 |edition=第1版 |publisher=講談社 |ISBN=4-062-57379-2 |ref={{SfnRef|建築設備技術者協会|2002}}}} * {{Cite book |和書 |author=給排水設備研究会20周年事業出版委員会(編) |year=2003 | title=水とあゆむ 給排水衛生設備30年の軌跡と未来 |publisher=給排水設備研究会}} * [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/029.htm 土木デジタルアーカイブ 森 慶三郎著 『最近上水道』 丸善 大正12年発行] * [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/036.htm 土木デジタルアーカイブ 草間 偉著 『上下水道(萬有科学大系、続篇12巻、第21編)』 誠文堂 昭和4年発行] * [http://library.jsce.or.jp/Image_DB/s_book/jsce100/htm/070.htm 土木デジタルアーカイブ 広瀬 孝六郎著 『上下水道』 山海堂 昭和17年発行] == 外部リンク == * [http://www.jwwa.or.jp/ 公益社団法人日本水道協会] ** [http://www.jwwa.or.jp/mizu/ 水道水質データベース] * {{Egov law|332AC0000000177|水道法}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようすいとう}} [[category:水道|*しようすいとう]] [[Category:飲料水]] [[category:公衆衛生]] [[Category:都市計画]]
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台湾の人物一覧
この項は著名な台湾の人物一覧である。
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この項は著名な台湾の人物一覧である。 台湾人とは台湾で生まれ育った人、もしくは中華民国へ帰化した人の事を指す。 現在中華民国の国籍を持っていない人は現在の国籍について可能な限り注記する。 ここでは実在の人物のみを挙げる。
{{Pathnav|出身別の人名記事一覧の一覧|frame=1}} この項は著名な'''台湾の人物一覧'''である。 * [[台湾人]]とは[[台湾]]で生まれ育った人、もしくは[[中華民国]]へ[[帰化]]した人の事を指す。 * 現在[[中華民国]]の[[国籍]]を持っていない人は現在の国籍について可能な限り注記する。 * ここでは実在の人物のみを挙げる。 == あ行 == * [[安威分]]:あん いぶん(競泳選手) * [[愛子 (アイドル)|愛子]]:アイズ(歌手) * [[艾莉絲]]:アイリス(タレント) * [[彩音ちか]]:あやね ちか(ジュニアアイドル) * [[安以軒]]:アン・イーシュアン(女優) * [[ショーン・アン]](歌手・俳優) * [[安藤百福]]:あんどう ももふく(実業家)※[[日本]]国籍取得 * [[イー・ツーイェン]](映画監督) * [[易水翔麟]]:イーシュイ・シャンリン(漫画家) * [[葉公超]]:イェ・ゴンチャオ(外交官) * [[(G)I-DLE|葉舒華]](シュファ):イェ・シューホア (韓国女性アイドル:[[(G)I-DLE]]) * [[葉菊蘭]]:イェ・ジューラン(政治家) * [[葉君璋]]:イェ・ジュンジャン(野球選手) * [[葉秋木]]:イェ・チュウムー(政治家) * [[葉聡明]]:イェ・ツォンミン(経営学者) * [[ドリス・イエ]]/葉湘怡(ミュージシャン) * [[閻錫山]]:イェン・シーシャン(政治家) * [[言承旭]]:ジェリー・イェン(歌手・俳優) * [[厳家淦]]:イェン・ジャアガン(政治家) * [[顔少博]]:イェン・シャオボ(フィギュアスケート選手) * [[顔恵民]]:イェン・フイミン(実業家) * [[炎亞綸]]:イェン・ヤールン(歌手・俳優) * [[サリー・イップ]](歌手・女優) * [[今久留主功]]:いまくるす いさお(野球選手) * [[今久留主淳]]:いまくるす すなお(野球選手) * [[印順]]:インシュン(僧侶・仏教学者) * [[インテツ]](ベーシスト) * [[垠凌]]:インリン(タレント・歌手) * [[応昌期]]:イン・チャンチー(囲碁研究家) * [[于冠華]]:ウ・クヮンファ(シンガーソングライター) * [[呉建豪]]:ヴァネス・ウー(歌手・俳優)※[[アメリカ合衆国|アメリカ]]国籍 * [[呉克泰]]:ウー・クータイ(政治家) * [[呉慷仁]]:クリス・ウー(俳優) * [[呉克群]]:ケンジ・ウー(歌手・俳優) * [[呉宗憲]]:ジャッキー・ウー(タレント) * [[呉偲佑]]:ウー・スヨ(野球選手) * [[呉尊]]:ウー・ズン(歌手・俳優) * [[呉青峰]]:ウー・チンフォン(歌手・俳優) * [[呉倩蓮]]:ウー・チェンリン(女優) * [[呉忠信]]:ウー・ヂョンシン(軍人) * [[呉鉄城]]:ウー・ティエチョン(政治家) * [[デヴィッド・ウー]](タレント) * [[呉念庭]]:ウーニェンティン(野球選手) * [[ニッキー・ウー]](歌手) * [[伍佰]]:ウー・パイ(ロックシンガー) * [[ウー・ハンチュン]]/峮峮(タレント) * [[ペース・ウー]](女優・モデル・歌手) * [[呉伯雄]]:ウー・ボーション(政治家) * [[魏道明]]:ウェイ・ダオミン(政治家) * [[韋宗成]]:ウェイ・ヅォンチェン(漫画家) * [[ウェイ・ユンジェ]](プロゴルファー) * [[VOFAN]]:ヴォーハン(イラストレーター) * [[アンディ・ウォン]](総合格闘家) * [[王宗堯]]:グレゴリー・ウォン(俳優) * [[温昇豪]]:ウェン・シェンハオ(俳優) * [[王祖賢]]:ジョイ・ウォン(女優) * [[光良]]:マイケル・ウォン(歌手)※中華民国永久居留権のみ所持 * [[歐定興]]:エドワード・オウ(俳優) * [[王韋文]]:おう いぶん(競泳選手) * [[王貞治]]:おう さだはる(野球選手) * [[王心宜]]:おう しんぎ(ピアニスト) * [[欧龍雲]]:おう りゅううん(法学者) * [[欧陽菲菲]]:オーヤンフィーフィー(歌手) * [[岡田吉弘 (教育家)|岡田吉弘]]:おかだ よしひろ(教育家) * [[岡村俊昭]]:おかむら としあき(野球選手) * [[ジュディ・オング]](歌手)※日本国籍取得 * [[恩砂上]]:おん さじょう(射撃選手) == か行 == * [[柯子彰]]:か ししょう(ラグビー選手) * [[高國慶]]:ガオ・グォーチン(野球選手) * [[高國輝]]:ガオ・グォーフェイ(野球選手) * [[高嘉瑜]]:ガオ・ジァーユィ(政治家) * [[高志綱]]:ガオ・ジーガン(野球選手) * [[高金素梅]]:ガオジン・スーメイ(歌手・政治家) * [[高宇杰]]:ガオ・ユージェ(野球選手) * [[郭源治]]:かく げんじ(野球選手)※日本国籍取得 * [[郭建成]]:かく けんせい(野球選手) * [[郭芝苑]]:かく しえん(作曲家) * [[郭進興]]:かく しんこう(野球選手) * [[郭泰源]]:かく たいげん(野球選手) * [[郭茂林]]:かく もりん(建築家) * [[郭采潔 (台湾)|郭采潔]]:アンバー・クオ(俳優) * [[金城武]]:かねしろ たけし(俳優)※日本国籍 * [[甘乃光]]:ガン・ナイグワン(政治家) * [[江蕙]]:カン・フイ(歌手) * [[寒雲]]:カンウン(歌手) * [[紀政]]:き せい(陸上選手) * [[江玟玟]]:クリスタル・キャン(フィギュアスケート選手) * [[邱永漢]]:きゅう えいかん(評論家)※日本国籍取得 * [[邱妙津]]:きゅう みゅうしん(作家) * [[許恵祐]]:きょ けいゆう(政治家) * [[金美齢]]:きん びれい(評論家)※日本国籍取得 * [[關穎]]:テリー・クァン(歌手・女優・モデル) * [[顧維鈞]]:グー・ウェイジュン(政治家) * [[辜寛敏]]:グー・クアンミン(企業家) * [[谷正綱]]:グー・ジョンガン(政治家) * [[谷正鼎]]:グー・ジョンディン(政治家) * [[谷正倫]]:グー・ジョンルン(軍人) * [[辜振甫]]:グー・ヂェンフー(政治家) * [[顧祝同]]:グー・ヂュートン(政治家) * [[顧孟余]]:グー・モンユー(政治家) * [[リチャード・クー]](エコノミスト) * [[グイ・ルンメイ]](女優) * [[古龍]]:グーロン(作家) * [[郭嚴文]]:グォ・イェンウェン(野球選手) * [[郭静 (台湾)|郭静]]:クレア・グォ(歌手) * [[郭書瑤]]:グォ・シューヤオ(タレント) * [[郭俊麟]]:グォ・ジュンリン(野球選手) * [[郭美美]]:ジョシー・グォ(歌手) * [[郭泰祺]]:グォ・タイチー(政治家) * 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テレサ・テン
テレサ・テン(1953年1月29日 - 1995年5月8日、中華圏で使用された名前は鄧麗君〈デン・リージュン〉)は、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。 父親は中国河北省邯鄲市、母親は中国山東省出身で共に外省人で、また父親は元国民党軍の職業軍人であり、彼女自身、軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、「軍人の恋人」(中国語:軍中情人)というニックネームでも有名。 身長165cm、血液型はO型。 テレサ・テンの活動年次は、主に「平野久美子著『テレサ・テンが見た夢』晶文社」に基づく 両親は、1949年に中国本土での内戦に敗れた蔣介石とともに中華民国(台湾)に移った外省人の中の一組だった。父親は軍人で、三人の兄と弟一人という男兄弟に囲まれて育った。 10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする。 16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす。その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる。 1973年、香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちの彼女の所属レコード会社トーラスレコード社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。 1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。すでにアジアのスターだった彼女は、アイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る。 1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなくインドネシアのパスポートで来日しようとしたため、旅券法違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の日中国交正常化の影響で、日本は中華人民共和国と国家の承認をし、中華民国とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。 そこで彼女は、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して偽造パスポートではなかった。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。 この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女をアメリカ合衆国に渡らせることにした。事件から一年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、中華民国国軍の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた。 そして、台湾での歌手活動も再開した。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃『酔拳』を大ヒットさせていたジャッキー・チェンと米国で再会し、互いに思いを寄せるが、人気に溺れ取り巻きの前で侮辱行為を働いたため、失望しジャッキーから離れてしまう。ジャッキーは激しいショックを受けて目を覚ました。その後は親友となった。 1980年代初めには、中華人民共和国でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。中でも特に人気だったのは、1930年代に中国で流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」(作詞:貝林 作曲劉雪庵)のカバー。やがて彼女は、冗談交じりに「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。1983年には、香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、10万人を動員。しかしその影響力を嫌がった中国共産党政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止にした。それでも人々は、ダビングしたカセットテープを回したり台湾の放送をキャッチしたりして、その後も彼女の歌を密かに聴いていたという。中華圏のCDショップでは、現在でも1982-1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。 1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす。 「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした「愛人」も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。1986年には、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に2年連続出場する。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚、『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなる。 1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして評価を得ている。 1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた。 1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。 1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。当時、その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている。 同1989年、失意の中アジアを離れて、フランスのパリに単身移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし、搬送先のチエンマイラム病院で死去した。部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員が発見し、救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかってしまい、病院到着時には既に死亡していたという。42歳の若さだった。 テレサの遺体は、同月12日未明に同チェンマイ国際空港からタイ国際航空機(TG636便)で台北の中正(現・桃園)国際空港に搬送され、このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀仗兵らが出迎えた。そしてこの日、テレサの葬儀を行うための台湾政府葬儀委員会が発足した。翌13日に中華テレビ局内に設置された霊堂に安置され、棺にはテレサの好んだ色である紫の布がかけられていた。そこにはテレサの肖像が掲げられ、堂内には彼女の歌声が途切れることなく流されていた。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人が足を運んだ。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。遺体には実弟が持っていたチャイナドレスが着せられ、また、彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。 墓所は台北市の北東に位置する新北市金山区西勢湖の金宝山(中国語版)にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園(中国語版)」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングなどを施されて土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蔣介石、蔣経国、テレサ・テンの3人である。 1995年の春にレコーディングする予定で作られた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い、彼女を追悼した。のちに「忘れないで - time to say good-bye -」として、彼女の七回忌に当たる2001年に、アグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。 日本における発売元であるユニバーサルミュージックは、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている。 2009年8月、中華人民共和国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された。 2013年5月、中国・北京でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った。 2015年5月23日「テレサ・テン(鄧麗君)メモリアルコンサート〜 没20年追悼チャリティ音楽会〜」が渋谷公会堂で行われた。3Dホログラム映像でテレサ・テンの中国語版「時の流れに身をまかせ」「月はわが心」の2曲が再現された。 同年9月15日に台湾の郵政当局が没20周年を記念とした切手冊子を発売。 テレサ・テンは、台湾を代表する歌手の一人である。1970年代から1990年代にかけて、母国中華民国のみならず香港・マカオを含む中華文化圏全域ないし日本なども含めた東アジア文化圏ならびにその他の地域において広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。 作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。 日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。1980年代後半以降のテレサは演歌・ムード歌謡というよりもJ-POP寄りで、ASKAや桑田佳祐、ZARDの坂井泉水らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。 外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。 英語名のテレサ (Teresa) は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際はカトリック信徒だった彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。 父親は中国河北省、母親は山東省出身の共に外省人で、両親が生まれた中国大陸で歌うことが夢だったという。また父親は元国民党軍(国府軍)の職業軍人であり、彼女自身、生前は軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。 1990年代にアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流布している。一度目は1990年5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけとした病死説、二度目は翌1991年4 - 5月に病死説・暗殺説が流れ、それを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた。1995年5月の死亡時にも暗殺説が流れ、多くの人を魅了した歌声を偲んだ特別番組の放映及び追悼公演等の催しが、台湾、中国、日本で行われている。 日本において、テレサ・テンと有線放送は切っても切れない関係にある。1985年に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。なお、『日本有線大賞』では、1984年の『つぐない』・1985年の『愛人』・1986年の『時の流れに身をまかせ』で大賞3連覇を達成。また、『全日本有線放送大賞』でも、やはり1984年の『つぐない』・1985年の『愛人』・1986年の『時の流れに身をまかせ』でグランプリ3連覇を達成して、浜崎あゆみが2003年に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。そして東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は、誰にも破られていない。 テレサ・テンの歌は、1974年頃から音楽テープによって、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた中華人民共和国に入り始めた。 彼女が歌う「何日君再来」は、1980年代初頭に日中戦争中の抗日歌として解釈され、中国大陸で爆発的にブームとなった。中華民国は、中国大陸に隣接する金門島から彼女の歌声を敵対関係にある中華人民共和国の統治区域に向けて大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反中国共産党政府感情を駆り立てる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため中国共産党当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは1983年末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年に両政府の関係改善がおこなわれ、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。 1989年6月4日に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である天安門事件の際には、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党政府による一党独裁を否定したテレサは、イギリスから中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、フランスのパリへ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。 以上の行動から、テレサ・テンを「中華民国(台湾)の広告塔」ととらえる見方もあったが、中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。 2009年中華人民共和国建国60周年を迎えるにあたり、中共国務院報道主催の「中国ネット」は7月24日から8月31日までの間、「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出を行った。192人の候補者から、彼女が854万票の獲得で、第一位にランクインし、2400万人の投票者の35.7%を占めた。 ※中国語アルバム (注意点)
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"1984年、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコードに移籍、荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲の「つぐない」で日本再デビューを果たす。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞する。翌1985年にリリースした「愛人」も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で第36回NHK紅白歌合戦に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。1986年には、荒木・三木コンビによる三曲目となる「時の流れに身をまかせ」をリリース。これも大ヒットとなり、紅白に2年連続出場する。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚、『時の流れに身をまかせ』は200万枚を売る大ヒットとなる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1984年から1986年にかけ、『日本有線大賞』および『全日本有線放送大賞』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして評価を得ている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。しかし彼女の願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった。当時、その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同1989年、失意の中アジアを離れて、フランスのパリに単身移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「夜来香(イェライシャン)」を新たにレコーディングする。この頃、喘息を悪化させ、次第に体調を崩していく。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作を起こし、搬送先のチエンマイラム病院で死去した。部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員が発見し、救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかってしまい、病院到着時には既に死亡していたという。42歳の若さだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "テレサの遺体は、同月12日未明に同チェンマイ国際空港からタイ国際航空機(TG636便)で台北の中正(現・桃園)国際空港に搬送され、このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀仗兵らが出迎えた。そしてこの日、テレサの葬儀を行うための台湾政府葬儀委員会が発足した。翌13日に中華テレビ局内に設置された霊堂に安置され、棺にはテレサの好んだ色である紫の布がかけられていた。そこにはテレサの肖像が掲げられ、堂内には彼女の歌声が途切れることなく流されていた。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人が足を運んだ。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。遺体には実弟が持っていたチャイナドレスが着せられ、また、彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄ぶりがうかがえた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "墓所は台北市の北東に位置する新北市金山区西勢湖の金宝山(中国語版)にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園(中国語版)」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず、エンバーミングなどを施されて土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、蔣介石、蔣経国、テレサ・テンの3人である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1995年の春にレコーディングする予定で作られた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い、彼女を追悼した。のちに「忘れないで - time to say good-bye -」として、彼女の七回忌に当たる2001年に、アグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "日本における発売元であるユニバーサルミュージックは、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2009年8月、中華人民共和国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2013年5月、中国・北京でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2015年5月23日「テレサ・テン(鄧麗君)メモリアルコンサート〜 没20年追悼チャリティ音楽会〜」が渋谷公会堂で行われた。3Dホログラム映像でテレサ・テンの中国語版「時の流れに身をまかせ」「月はわが心」の2曲が再現された。 同年9月15日に台湾の郵政当局が没20周年を記念とした切手冊子を発売。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "テレサ・テンは、台湾を代表する歌手の一人である。1970年代から1990年代にかけて、母国中華民国のみならず香港・マカオを含む中華文化圏全域ないし日本なども含めた東アジア文化圏ならびにその他の地域において広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。1980年代後半以降のテレサは演歌・ムード歌謡というよりもJ-POP寄りで、ASKAや桑田佳祐、ZARDの坂井泉水らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "外国語にも堪能であり、北京語に加えて台湾語、広東語、日本語、英語に堪能で、山東語、マレー語、フランス語などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "英語名のテレサ (Teresa) は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際はカトリック信徒だった彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音をウェード式表記し、英語読みしたものである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "父親は中国河北省、母親は山東省出身の共に外省人で、両親が生まれた中国大陸で歌うことが夢だったという。また父親は元国民党軍(国府軍)の職業軍人であり、彼女自身、生前は軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1990年代にアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流布している。一度目は1990年5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけとした病死説、二度目は翌1991年4 - 5月に病死説・暗殺説が流れ、それを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた。1995年5月の死亡時にも暗殺説が流れ、多くの人を魅了した歌声を偲んだ特別番組の放映及び追悼公演等の催しが、台湾、中国、日本で行われている。", "title": "テレサ・テン死亡説" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本において、テレサ・テンと有線放送は切っても切れない関係にある。1985年に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。なお、『日本有線大賞』では、1984年の『つぐない』・1985年の『愛人』・1986年の『時の流れに身をまかせ』で大賞3連覇を達成。また、『全日本有線放送大賞』でも、やはり1984年の『つぐない』・1985年の『愛人』・1986年の『時の流れに身をまかせ』でグランプリ3連覇を達成して、浜崎あゆみが2003年に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。そして東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は、誰にも破られていない。", "title": "テレサ・テンと有線放送" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "テレサ・テンの歌は、1974年頃から音楽テープによって、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた中華人民共和国に入り始めた。", "title": "テレサ・テンと中華人民共和国" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "彼女が歌う「何日君再来」は、1980年代初頭に日中戦争中の抗日歌として解釈され、中国大陸で爆発的にブームとなった。中華民国は、中国大陸に隣接する金門島から彼女の歌声を敵対関係にある中華人民共和国の統治区域に向けて大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反中国共産党政府感情を駆り立てる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため中国共産党当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは1983年末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には海賊版の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。1987年に両政府の関係改善がおこなわれ、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。", "title": "テレサ・テンと中華人民共和国" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1989年6月4日に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である天安門事件の際には、香港で行われた民主化デモ弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党政府による一党独裁を否定したテレサは、イギリスから中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、フランスのパリへ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。", "title": "テレサ・テンと中華人民共和国" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "以上の行動から、テレサ・テンを「中華民国(台湾)の広告塔」ととらえる見方もあったが、中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。", "title": "テレサ・テンと中華人民共和国" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2009年中華人民共和国建国60周年を迎えるにあたり、中共国務院報道主催の「中国ネット」は7月24日から8月31日までの間、「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出を行った。192人の候補者から、彼女が854万票の獲得で、第一位にランクインし、2400万人の投票者の35.7%を占めた。", "title": "テレサ・テンと中華人民共和国" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "※中国語アルバム", "title": "ディスコグラフィー" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(注意点)", "title": "NHK紅白歌合戦出場歴" } ]
テレサ・テンは、台湾出身の歌手。1970年代から1990年代にかけて、中華文化圏全域ないし日本、タイ、マレーシアなども含めたアジアにおいて広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。 父親は中国河北省邯鄲市、母親は中国山東省出身で共に外省人で、また父親は元国民党軍の職業軍人であり、彼女自身、軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、「軍人の恋人」というニックネームでも有名。 身長165cm、血液型はO型。
{{Redirect|鄧麗君|台湾の女性政治家「{{big|鄭}}麗君」|鄭麗君}} {{半保護}} {{ページ番号|date=2016年2月21日 (日) 00:47 (UTC)}} {{出典の明記|date=2016年2月21日 (日) 00:47 (UTC)}} {{Infobox Chinese-language singer and actor | name = テレサ・テン | image = Teresa Teng la.jpg | imagesize = | caption = 1979年 [[ロサンゼルス]] | tradchinesename = 鄧麗君 | simpchinesename = 邓丽君 | pinyinchinesename = Dèng Lìjūn | jyutpingchinesename = | birthname = 鄧麗筠 | origin = | birthdate = {{生年月日と年齢|1953|1|29|no}} | birthplace = {{ROC}}[[台湾省]][[雲林県]][[褒忠郷]]田洋村 | deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1953|1|29|1995|5|8}} | deathplace = {{THA}}[[チエンマイ県]][[チェンマイ]] | restingplace = 金宝山 | othername = 小鄧<br>アジアの歌姫 | occupation = [[歌手]] | genre = [[演歌]]、[[C-POP]]、[[J-POP]] | instrument = | voicetype = | label = [[ポリドール・レコード|Polydor]]/[[ポリグラム|PolyGram]]、[[EMI]]、Taurus Record | yearsactive = 1967年 - 1995年 | associatedact = | influences = | influenced = | website = | goldenmelodyawards = '''特別賞'''<br>1996年 | awards = }} {{中華圏の人物 |画像= |繁体字=鄧麗君 |簡体字=邓丽君 |ピン音=Dèng Lìjūn([[普通話]])<br>Tēng 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(テレビ番組)|SONGS]]」2013年6月15日放送より。</ref>。父親は軍人で、三人の兄と弟一人という男兄弟に囲まれて育った<ref name="songs"/>。 === 少女スターとして === [[File:Teresa Teng's first performance.png|thumb|7歳 (1960).]] 10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。天才少女として注目を集め、14歳の時にプロ歌手としてデビューする<ref name="songs"/>。 16歳の時、主演映画が製作され、女優デビューを果たす<ref name="songs"/>。その後、[[シンガポール]]や[[タイ王国|タイ]]、[[マレーシア]]でも人気に火が付き、18歳で香港でもレコードをリリース、アジアのトップスターとなる<ref name="songs"/>。 === 日本進出と国外退去処分 === [[1973年]]、[[香港]]で「日本の[[父]]さん」と呼ばれる[[舟木稔]](のちの彼女の所属レコード会社[[トーラスレコード]]社長)は、アジアでのテレサ・テンの人気に目を付け、足繁く台湾や香港に通ってテレサと両親を説得。当時勤めていた「[[ポリドール・レコード|日本ポリドール]]」(現[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]])との契約を実現させる<ref name="songs"/>。 1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する<ref name="songs"/>。すでに[[アジア]]のスターだった彼女は、[[アイドル歌謡曲]]路線の「今夜かしら明日かしら」により鳴り物入りで日本デビューを果たすが、売れ行きは思わしくなく、不発に終わった。そこで[[演歌]]歌謡曲路線に転向したところ、日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒットする。[[第16回日本レコード大賞]]新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。その後も香港を拠点に、台湾や日本などアジア各地を行き来する多忙な日々を送る<ref name="songs"/>。 1979年2月、本来の中華民国のパスポートではなく[[インドネシア]]の[[パスポート]]で来日しようとしたため、[[旅券法]]違反で国外退去処分を受ける。当時、1972年の[[日中国交正常化]]の影響で、日本は[[中華人民共和国]]と[[国家の承認]]をし、[[中華民国]]とは国交断絶していたため、台湾のパスポートでは入国の際に非常に煩雑な手続きが必要だった。 そこで彼女は、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していた。舟木稔によると、「当時の台湾の著名人(歌手や芸能人を含む)は、皆インドネシアのパスポートを所有していた」という<ref name="水トク!">[[水トク!]]「甦る昭和の歌姫伝説4 新春限りの豪華保存版」2013年1月9日放送より。</ref>。パスポート自体はインドネシア政府筋による正式なもので、決して[[偽造パスポート]]ではなかった<ref name="水トク!"/>。そのため、事件としては白黒はっきりしないグレー決着となり、彼女は1年間の国外退去処分となった。 この事件で、日本だけでなく台湾からも非難の声が上がり、台湾当局は彼女の身柄の引き渡しを強く要求した。しかし舟木は、その要求に従えば数年間は歌手活動が出来なくなるだろうと考え、彼女を[[アメリカ合衆国]]に渡らせることにした<ref name="songs"/><ref name="水トク!"/>。事件から一年後の1980年、台湾政府への協力を条件に帰国を許された彼女は、[[中華民国国軍]]の広告塔として活動し、「愛國藝人」と呼ばれた<ref name="水トク!"/>。 そして、台湾での歌手活動も再開した。その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。この頃『[[ドランクモンキー 酔拳|酔拳]]』を大ヒットさせていた[[ジャッキー・チェン]]と米国で再会し、互いに思いを寄せるが、人気に溺れ取り巻きの前で侮辱行為を働いたため、失望しジャッキーから離れてしまう。ジャッキーは激しいショックを受けて目を覚ました。その後は親友となった。 === 中国本土・香港での人気拡大 === [[File:Teresa Teng US1.jpg|thumb|1979)]] [[1980年代]]初めには、[[中華人民共和国]]でもコピーされた彼女のカセットテープが出回るようになり、人々の心をつかんでいた。中でも特に人気だったのは、1930年代に中国で流行した「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」(作詞:貝林 作曲劉雪庵)の[[カバー]]。やがて彼女は、冗談交じりに「昼は[[鄧小平]]、夜は鄧麗君(テレサの中国語の芸名)が支配する」とまで言われるようになった。1983年には、香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、10万人を動員<ref name="songs"/>。しかしその影響力を嫌がった[[中国共産党]]政府は、1983年頃にテレサの歌を放送禁止にした<ref name="songs"/><ref name="水トク!"/>。それでも人々は、[[ダビング]]した[[カセットテープ]]を回したり台湾の放送をキャッチしたりして、その後も彼女の歌を密かに聴いていたという<ref name="songs"/>。中華圏のCDショップでは、現在でも1982-1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めた[[DVD]]がよく売られている。 === 日本再デビューと大ヒット === [[1984年]]、日本の音楽ファンの強い要望もあって、再来日が許可される。レコード会社もポリドールからトーラスレコード<ref group="注>当時は[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]が流通を担当。後にユニバーサルミュージックの再編でニュートーラスを経てユニバーサル本体に併合。</ref>に移籍、[[荒木とよひさ]]作詞・[[三木たかし]]作曲の「[[つぐない (テレサ・テンの曲)|つぐない]]」で日本再デビューを果たす。 「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火が付いて大ヒット、[[日本有線大賞]]など数々の賞を受賞する<ref name="songs"/>。翌1985年にリリースした「[[愛人 (テレサ・テンの曲)|愛人]]」も再び荒木・三木コンビが手掛け、大ヒット。この曲で[[第36回NHK紅白歌合戦]]に初出場を果たす。「愛人」は有線放送のリクエストチャートで14週連続1位。1986年には、荒木・三木コンビによる三曲目となる「[[時の流れに身をまかせ]]」をリリース。これも大ヒットとなり、[[第37回NHK紅白歌合戦|紅白]]に2年連続出場する<ref name="songs"/>。「つぐない」と「愛人」は、それぞれ日本で150万枚<ref>[[長田暁二]]『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、p.296。ISBN 4390116495</ref>、『[[時の流れに身をまかせ]]』は200万枚<ref>長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』p.297。</ref>を売る大ヒットとなる。 [[1984年]]から[[1986年]]にかけ、『[[日本有線大賞]]』および『[[全日本有線放送大賞]]』の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞。[[1985年]]12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらした[[NHKホール]]コンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして評価を得ている。 === 中国民主化支援と挫折 === [[ファイル:Teresa_Teng_NY.jpg|thumb|250px|ニューヨークでのコンサートに出演するテレサ・テン(1980)]] 1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで人気が再燃。コンサートのオファーも届くようになり<ref name="songs"/>、同時期に米タイム誌によって世界7大女性歌手の1人に選ばれた<ref>{{Cite web|和書 | url =https://web.archive.org/web/20140407093331/http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201301190004.aspx | title = テレサ・テン生誕60年、26日から台北で特別展 {{!}} 社会 {{!}} 中央社フォーカス台湾 | date = 2013-1-19 | accessdate = 2018-1-29 | publisher = [[中央通訊社]] }}</ref>。 [[1987年]]、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動をほとんど休止するようになった。 1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた[[中国民主化運動|民主化要求デモ]]を支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。しかし彼女の願いはかなわず、[[北京市|北京]]で[[六四天安門事件|天安門事件]]が起きてしまった。1990年に予定されていた、彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった<ref name="songs"/>。当時、その心境を「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」と語っている<ref name="songs"/>。 === 死去 === [[ファイル:Teresa Teng game.jpg|thumb|250px|アメリカ合衆国のテレサ・テン(1980年代)]] 同1989年、失意の中アジアを離れて、[[フランス]]の[[パリ]]に単身移り住む。中国への思いをさらに深めるようになり、1992年に中国で広く愛されている「[[夜来香]](イェライシャン)」を新たにレコーディングする<ref name="songs"/>。この頃、[[喘息]]を悪化させ、次第に体調を崩していく<ref name="songs"/>。1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることも稀になった。日本での最後のテレビ出演は、[[1994年]]11月に放送された[[日本放送協会|NHK]]『[[歌謡チャリティーコンサート]]』([[仙台市]]にて公開録画)だった。 [[1995年]][[5月8日]]、静養のためたびたび訪れていた[[タイ王国|タイ]]・[[チェンマイ]]のメイピンホテルで[[気管支喘息]]による発作を起こし、搬送先のチエンマイラム病院で死去した。部屋から出てきたテレサが倒れていたところをホテルの従業員が発見し、救急搬送されたが、普段は10分で着くところが道路事情の悪さで30分かかってしまい、病院到着時には既に死亡していたという。42歳の若さだった。 テレサの遺体は、同月12日未明に同[[チェンマイ国際空港]]から[[タイ国際航空]]機(TG636便)で[[台北]]の[[台湾桃園国際空港|中正(現・桃園)国際空港]]に搬送され、このとき、空港には200人を超える報道陣と、陸海空三軍の儀仗兵らが出迎えた。そしてこの日、テレサの葬儀を行うための台湾政府葬儀委員会が発足した。翌13日に中華テレビ局内に設置された霊堂に安置され、棺にはテレサの好んだ色である紫の布がかけられていた。そこにはテレサの肖像が掲げられ、堂内には彼女の歌声が途切れることなく流されていた。この礼拝所にはその日だけで2000人を超える人が足を運んだ。同月28日に台北で公葬([[国葬]]に準ずる)が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。遺体には実弟が持っていた[[チャイナドレス]]が着せられ、また、彼女の棺は[[中華民国の国旗]]と[[中国国民党|国民党]]党旗で覆われ、台湾での国民的[[英雄]]ぶりがうかがえた。 === 死去後 === [[ファイル:Wongwt 筠園 (16609020913).jpg|thumb|300px|筠園]] [[ファイル:鄧麗君墓園足奏鋼琴 Pedal Piano at Teresa Deng's Ceremony - panoramio.jpg|thumb|200px|right|園内のピアノのモニュメント]] 墓所は[[台北市]]の北東に位置する[[新北市]][[金山区 (新北市)|金山区]]西勢湖の{{ill2|金宝山|zh|金寶山}}にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「{{ill2|筠園|zh|筠園}}」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる[[2005年]]5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は[[火葬]]されず、[[エンバーミング]]などを施されて[[土葬]]された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこのような形で眠っているのは、[[蔣介石]]、[[蔣経国]]、テレサ・テンの3人である。 [[1995年]]の春にレコーディングする予定で作られた新曲「泣かないで」は、テレサが亡くなった翌年に新人歌手が歌い、彼女を追悼した。のちに「忘れないで - time to say good-bye -」として、彼女の七回忌に当たる[[2001年]]に、[[アグネス・チャン]]と[[北原ミレイ]]によって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。 日本における発売元である[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]は、テレサの死後もCDやDVDを発表し、2008年5月時点で計200万枚を売り上げている<ref>「あすは何の日 『アジアの歌姫』死去」[[朝日新聞]] 2008年5月7日付夕刊、p.16。</ref>。 2009年8月、中華人民共和国政府系の総合インターネットサイト「中国網」が新中国建国60周年を前に行ったアンケート調査で、彼女は新中国で最も影響力のあった文化人に選出された<ref>{{Cite web|和書 | url = http://jp.ntdtv.com/news/23/{{urlencode:中国で最も影響力のある文化人にテレサ・テン}} | title = 中国で最も影響力のある文化人にテレサ・テン | date = 2010-2-18 | accessdate = 2018-1-29 | publisher = [[新唐人電視台]] }}</ref>。 2013年5月、中国・[[北京]]でテレサ・テン生誕60周年記念コンサート「追夢」が行われ、中国や台湾から集まった人気歌手たちが彼女の歌を歌った<ref name="songs"/>。 2015年5月23日「テレサ・テン(鄧麗君)メモリアルコンサート〜 没20年追悼チャリティ音楽会〜」が[[渋谷公会堂]]で行われた。3Dホログラム映像でテレサ・テンの中国語版「[[時の流れに身をまかせ]]」「[[月亮代表我的心|月はわが心]]」の2曲が再現された。 <!--ゲストに[[荒木とよひさ]]、出演は[[五木ひろし]]、[[内田あかり]]、[[エンレイ]]、[[伍代夏子]]、[[田川寿美]]、[[長山洋子]]、[[夏川りみ]]、[[王靜]]、[[陳佳]]。それぞれがゆかりの曲を日本語や中国語で歌った。--> 同年9月15日に台湾の郵政当局が没20周年を記念とした切手冊子を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/09/10/kiji/K20150910011105530.html|title=「アジアの歌姫」テレサさん切手冊子発売 台湾、没後20年で|publisher=[[スポニチ]]|date=2015-09-10|accessdate=2015-09-11}}</ref>。 == 人物 == テレサ・テンは、[[台湾]]を代表する[[歌手]]の一人である。[[1970年代]]から[[1990年代]]にかけて、母国[[中華民国]]のみならず[[香港]]・[[マカオ]]を含む[[中華圏|中華文化圏]]全域ないし[[日本]]なども含めた東アジア文化圏ならびにその他の地域において広く人気を博したその業績から、生前から没後も「アジアの歌姫」と呼ばれている。 作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという<ref>{{cite web|url= http://yule.sohu.com/66/06/article209080666.shtml |title=邓丽君的生前身后幕后事--专访邓丽君大弟邓长禧先生|date= 2003-05-06 |accessdate=2013-01-10|language= Chinese |publisher= SOHU.com }}</ref>。 日本ではどちらかというと[[演歌]]歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて[[台湾民謡]]や英語の[[ポピュラー音楽|ポップス]]、[[J-POP|日本語ポップス]]の[[カバー]]曲なども多数含まれている。1980年代後半以降のテレサは演歌・[[ムード歌謡]]というよりも[[J-POP]]寄りで、[[ASKA]]や[[桑田佳祐]]、[[ZARD]]の[[坂井泉水]]らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。 外国語にも堪能であり、[[北京語]]に加えて[[台湾語]]、[[広東語]]、[[日本語]]、[[英語]]に堪能で、[[山東語]]、[[マレー語]]、[[フランス語]]などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。 英語名のテレサ (Teresa) は、彼女自身が尊敬する[[マザー・テレサ]]に因んでつけたものと言われてきたが、実際は[[カトリック教会|カトリック]]信徒だった彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『{{lang|zh-tw|鄧}}』の中国語音を[[ウェード式]]表記し、[[英語]]読みしたものである。 父親は[[中華人民共和国|中国]][[河北省]]、母親は[[山東省]]出身の共に[[外省人]]で、両親が生まれた中国大陸で歌うことが夢だったという。また父親は元[[国民党軍]]([[国府軍]])の職業軍人であり、彼女自身、生前は軍隊への慰問活動を熱心に行っていたこともあり、台湾では「軍人の恋人」というニックネームでも有名。 == テレサ・テン死亡説 == [[1990年代]]に[[アジア]]各国で二回ほど彼女の[[死亡説]]が流布している。一度目は[[1990年]]5 - 6月に父親の葬儀への欠席をきっかけとした病死説、二度目は翌[[1991年]]4 - 5月に病死説・暗殺説が流れ、それを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた。[[1995年]]5月の死亡時にも暗殺説が流れ、多くの人を魅了した歌声を偲んだ特別番組の放映及び追悼公演等の催しが、台湾、中国、日本で行われている。 == テレサ・テンと有線放送 == 日本において、テレサ・テンと[[有線ラジオ放送|有線放送]]は切っても切れない関係にある。[[1985年]]に大ヒットした『愛人』は、有線放送のリクエストチャートで14週連続1位を記録。なお、『[[日本有線大賞]]』では、[[1984年]]の『つぐない』・1985年の『愛人』・[[1986年]]の『時の流れに身をまかせ』で大賞3連覇を達成。また、『[[全日本有線放送大賞]]』でも、やはり1984年の『つぐない』・1985年の『愛人』・1986年の『時の流れに身をまかせ』でグランプリ3連覇を達成して、[[浜崎あゆみ]]が[[2003年]]に4連覇を達成するまでは誰も破ることが出来なかった。そして東西有線大賞3年連続同時大賞・グランプリ達成という記録は、誰にも破られていない。 == テレサ・テンと中華人民共和国 == [[ファイル:Stamp of Abkhazia (1996) - Teresa Teng 01.jpg|thumb|テレサ・テンを称える [[アブハジア]] の 1996 年の切手]] テレサ・テンの歌は、[[1974年]]頃から[[磁気テープ|音楽テープ]]によって、表現の自由だけでなく、諸外国の音楽の流入も制限されていた[[中華人民共和国]]に入り始めた。 彼女が歌う「[[何日君再来]]」は、1980年代初頭に[[日中戦争]]中の[[抗日歌]]として解釈され、中国大陸で爆発的にブームとなった。中華民国は、[[中国大陸]]に隣接する[[金門島]]から彼女の歌声を敵対関係にある中華人民共和国の統治区域に向けて大音量で大陸に向けて流したり、音楽テープを付けた風船を大陸に向けて飛ばしたりすることで、中華人民共和国における反中国共産党政府感情を駆り立てる宣伝の道具として彼女の歌を利用した。そのため[[中国共産党]]当局は、彼女の歌を不健全な「黄色歌曲」(ピンク歌曲)と位置づけて音楽テープの販売・所持等を禁止する措置を取り、これは[[1983年]]末まで続けられた。中華人民共和国で彼女の歌が禁止されていた時期でも実際には[[海賊版]]の音楽テープなどがかなり流布しており、それらを通して彼女の歌声を聞いていた人も多かった。[[1987年]]に両政府の関係改善がおこなわれ、台湾の商品を大陸で販売できるようになったことから、オリジナルの音楽テープが入るようになった。 [[1989年]][[6月4日]]に発生した中国共産党政権による反政府活動弾圧・虐殺事件である[[六四天安門事件|天安門事件]]の際には、香港で行われた[[民主化デモ]]弾圧に対する抗議集会に参加、民衆の前で歌を披露し、自ら中華人民共和国の民主化実現を訴えた。中国共産党政府による一党独裁を否定したテレサは、[[イギリス]]から中華人民共和国に返還・譲渡されることが決まっていた香港を発ち、[[フランス]]の[[パリ]]へ移住した。生前、彼女は中華人民共和国でのコンサートを熱望していたものの、天安門事件で中国共産党政府に失望し、実際にそれが実現することはなかった。 以上の行動から、テレサ・テンを「中華民国(台湾)の広告塔」ととらえる見方もあったが、中華人民共和国での彼女の人気の高さを物語るエピソードとして、当時、中華人民共和国の国民の間で「昼は老鄧([[鄧小平]])のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」、「中華人民共和国は二人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」といったようなジョークが流行っていたことなどを挙げることができる。 [[2009年]]中華人民共和国建国60周年を迎えるにあたり、中共国務院報道主催の「中国ネット」は7月24日から8月31日までの間、「新中国で最も影響力のある文化人物」のネット選出を行った。192人の候補者から、彼女が854万票の獲得で、第一位にランクインし、2400万人の投票者の35.7%を占めた。 == ディスコグラフィー == {{節スタブ}} === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" ! # ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! レコード品番 |- ! colspan="5" | [[ポリドール・レコード]] |- ! 1st | [[1974年]][[3月1日]] | '''[[今夜かしら明日かしら]]''' | 雨にぬれた花 | DR 1835 |- ! 2nd | [[1974年]][[7月1日]] | '''[[空港 (テレサ・テンの曲)|空港]]''' | はぐれた小鳩 | DR 1865 |- ! 3rd | [[1974年]][[10月21日]] | '''[[雪化粧]]''' | 遠くから愛をこめて | DR 1900 |- ! 4th | [[1975年]][[3月21日]] | '''[[女の生きがい]]''' | 夜霧 | DR 1920 |- ! 5th | [[1975年]][[7月1日]] | '''[[夜の乗客]]''' | 暗くなるまで | DR 1944 |- ! 6th | [[1975年]][[10月21日]] | '''[[アカシアの夢]]''' | 満ち潮 | DR 1985 |- ! 7th | [[1976年]][[6月1日]] | '''[[夜のフェリーボート]]''' | 赤坂たそがれ | DR 6009 |- ! 8th | [[1977年]][[2月1日]] | '''[[ふるさとはどこですか]]''' | あなたに帰りたい | DR 6073 |- ! 9th | [[1977年]][[8月1日]] | '''[[あなたと生きる]]''' | 海辺のホテル | DR 6132 |- ! 10th | [[1978年]][[5月10日]] | '''[[東京夜景]]''' | 手紙 | DR 6203 |- ! 11th | [[1980年]][[7月21日]] | '''[[你 (あなた)]]''' | まごころ | DR 6430 |- ! 12th | [[1981年]][[2月28日]] | '''[[ジェルソミーナの歩いた道]]''' | 西海岸から | 7DX 1048 |- ! colspan="5" | [[トーラスレコード]] |- ! 13th | [[1983年]][[10月21日]] | '''[[ふたたびの]]''' | 旅人 | 07TR-1043 |- ! 14th | [[1984年]][[1月21日]] | '''[[つぐない (テレサ・テンの曲)|つぐない]]''' | 笑って乾杯 | 07TR-1056 |- ! 15th | [[1985年]][[2月21日]] | '''[[愛人 (テレサ・テンの曲)|愛人]]''' | 雨に濡れて | 07TR-1086 |- ! rowspan="4"|16th | [[1986年]][[2月21日]] | rowspan="4"|'''[[時の流れに身をまかせ]]''' | 黄昏 | 07TR-1115 |- | [[1988年]][[4月24日]] | [[別れの予感]] | 10TX-5008 |- | [[1989年]][[8月30日]] | 女の生きがい | 10AX-2006 |- | [[1994年]][[3月2日]] | 雪化粧 | TADL-7903 |- ! 17th | [[1986年]][[11月21日]] | '''[[スキャンダル (テレサ・テンの曲)|スキャンダル]]''' | 傷心 | 07TR-1136 |- ! 18th | [[1987年]][[6月21日]] | '''[[別れの予感]]''' | 酒醉的探戈 | 07TR-1150 |- ! 19th | [[1988年]][[1月25日]] | '''[[恋人たちの神話]]''' | 硝子の摩天楼 | 07TR-1175 |- ! 20th | [[1989年]][[3月8日]] | '''[[香港〜Hong Kong〜]]''' | 星のしずくに濡れて | 10TX-7208 |- ! 21st | [[1989年]][[7月26日]] | '''[[悲しい自由 (テレサ・テンの曲)|悲しい自由]]''' (ニュー・ミックス・バージョン) | 香港〜Hong Kong〜 (ニュー・ミックス・バージョン) | 10TX-7221 |- ! 22nd | [[1990年]][[3月28日]] | '''[[涙の条件]]''' | Yes, 愛につつまれ | TADL-7307 |- ! 23rd | [[1991年]][[2月27日]] | '''[[悲しみと踊らせて]]''' | 寝物語を聴かせて | TADL-7321 |- ! 24th | [[1992年]][[5月27日]] | '''[[愛の陽差し〜アモーレ・ミオ〜]]''' | 夢立ちぬ | TADL-7332 |- ! 25th | [[1992年]][[11月18日]] | '''[[夕凪 (テレサ・テンの曲)|夕凪]]''' | 晩秋 | TADL-7350 |- ! 26th | [[1993年]][[4月28日]] | '''[[何日君再来]]〜中国語バージョン〜''' | 何日君再来〜日本語バージョン〜 | TADL-7359 |- ! 27th | [[1993年]][[5月12日]] | '''[[あなたと共に生きてゆく]]''' | 愛し愛されて | TADL-7357 |- ! 28th | [[1994年]][[11月9日]] | '''[[夜来香]]〜日本語バージョン〜''' | 夜来香〜中国語バージョン〜 | TADL-7385 |- ! 29th | [[1996年]][[1月25日]] | '''悲しい自由''' (リメイクシングル) | 冬のひまわり | TADL-7413 |- ! 30th | [[1997年]][[10月25日]] | '''夢立ちぬ''' | 我只在乎你 (時の流れに身をまかせ/中国語ヴァージョン) | TADL-7501 |} ==== 特別企画シングルレコード ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! # ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! レコード品番 |- ! colspan="5" | [[ポリドール・レコード]] |- ! 1st | rowspan="3"|[[1986年]][[8月1日]] | '''春を待つ花''' | 香港の夜 | 7DX-1442 |- ! 2nd | '''逢う時はいつも他人''' | 東京夜景 | 7DX-1443 |- ! 3rd | '''情人的關懷 (空港)''' | 你在我心中 (夜のフェリーボート) | 7DX-1444 |- |} ==== ベスト・カップリングシリーズ ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! # ! 発売日 ! タイトル ! c/w ! 規格品番 |- ! colspan="5" | [[トーラスレコード]] |- ! 1st | rowspan="3"|[[1988年]][[4月24日]] | '''つぐない''' | '''愛人''' | 10TX-5007 |- ! 2nd | '''時の流れに身をまかせ''' | '''別れの予感''' | 10TX-5008 |- ! 3rd | '''恋人たちの神話''' | '''硝子の摩天楼''' | 10TX-5009 |- ! 4th | rowspan="3"|[[1994年]][[3月2日]] | '''つぐない''' | '''空港''' | TADL-7901 |- ! 5th | '''愛人''' | '''アカシアの夢''' | TADL-7902 |- ! 6th | '''時の流れに身をまかせ''' | '''雪化粧''' | TADL-7903 |- ! 7th | rowspan="3"|[[1996年]][[4月25日]] | '''つぐない''' | '''何日君再來 (日本語ヴァージョン)''' | TADL-7920 |- ! 8th | '''愛人''' | '''空港''' | TADL-7921 |- ! 9th | '''時の流れに身をまかせ''' | '''夜來香 (日本語ヴァージョン)''' | TADL-7922 |- |} ==== デュエットシングル ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" ! # ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 ! c/w |- ! colspan="5" | [[トーラスレコード]] |- ! rowspan="3"|テレサ・テン & [[五木ひろし]] | rowspan="3"|[[1996年]][[11月4日]] | rowspan="3"|'''[[そして…めぐり逢い]]''' | rowspan="3"|TADL-7434 | そして…めぐり逢い (オリジナル・純カラオケ) |- | そして…めぐり逢い (男性用カラオケ) テレサ・テン歌入り |- | そして…めぐり逢い (女性用カラオケ) 五木ひろし歌入り |- |} === アルバム === ==== オリジナル・アルバム ==== ※中国語アルバム {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # ! 発売日 ! タイトル ! レコード品番 |- ! colspan="4" | [[ポリドール・レコード]] |- ! 1st | [[1974年]][[10月21日]] | '''[[空港/雪化粧]]''' | MR 2259<br/>CD:UPCY-6126 |- ! 2nd | [[1975年]][[8月1日]] | '''[[夜の乗客/女の生きがい]]''' | MR 2267<br/>CD:UPCY-6127 |- ! 3rd | [[1975年]][[11月21日]] | '''[[アカシアの夢 (テレサ・テンのアルバム)|アカシアの夢]]''' | MR 2276<br/>CD:UPCY-6128 |- ! 4th | [[1977年]][[2月21日]] | '''[[ふるさとはどこですか (テレサ・テンのアルバム)|ふるさとはどこですか]]''' | MR 3048<br/>CD:UPCY-6129 |- ! 5th | [[1977年]][[12月1日]] | '''[[あなたと生きる (テレサ・テンのアルバム)|あなたと生きる]]''' | MR 3091<br/>CD:UPCY-6131 |- ! 6th | [[1978年]][[6月21日]] | '''[[熱唱!テレサ・テン 東京夜景]]''' | MR 3124<br/>CD:UPCY-6132 |- ! ※ | [[1979年]][[4月1日]] | '''[[華麗なる熱唱]] (中国語)''' | MR 3166<br/>CD:UPCY-9475 |- ! 7th | [[1980年]][[9月28日]] | '''[[你(あなた)/まごころ]]''' | 28MX 1007<br/>CD:UPCY-6136 |- ! 8th | [[1981年]][[2月28日]] | '''[[ジェルソミーナの歩いた道 (テレサ・テンのアルバム)|ジェルソミーナの歩いた道]]''' | 28MX 1026<br/>CD:UPCY-6137 |- ! colspan="4" | [[トーラスレコード]] |- ! 9th | [[1983年]][[6月1日]] | '''[[旅人 (テレサ・テンのアルバム)|旅人]]''' | 28TR-2018<br/>CD:TACL-2401 |- ! 10th | [[1984年]][[1月21日]] | '''[[つぐない (テレサ・テンのアルバム)|つぐない]]''' | 28TR-2032<br/>CD:35TX-1002 |- ! ※ | [[1984年]][[12月1日]] | '''[[償還]]''' | 28TR-2057<br/>CD:32TX-1016 |- ! 11th | [[1985年]][[3月1日]] | '''[[愛人 (テレサ・テンのアルバム)|愛人]]''' | 28TR-2062<br/>CD:TACL-2402 |- ! 12th | [[1986年]][[7月31日]] | '''[[時の流れに身をまかせ (テレサ・テンのアルバム)|時の流れに身をまかせ]]''' | 28TR-2112<br/>CD:35TX-1039<br/>CD:TACL-2403 |- ! ※ | [[1986年]][[12月25日]] | '''[[酒醉的探戈]]''' | 28TR-2134<br/>CD:34TX-1054 |- ! 13th | [[1987年]][[7月5日]] | '''[[別れの予感 (テレサ・テンのアルバム)|別れの予感]]''' | 28TR-2145<br/>CD:34TX-1066 |- ! 14th | [[1989年]][[3月8日]] | '''[[浪漫主義 (テレサ・テンのアルバム)|浪漫主義]]''' | CD:32TX-2204<br/>LP:PROT-7006 |- ! 15th | [[1991年]][[3月27日]] | '''[[テレサ・テン '91悲しみと踊らせて 〜ニュー・オリジナル・ソングス〜|'91悲しみと踊らせて〜ニュー・オリジナル・ソングス〜]]''' | CD:TACL-2330<br/>LP:PROT-7009 |- |} ==== カバー・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 |- ! 1st | [[1976年]][[4月1日]] | '''[[愛の世界]]''' | カセット:CR 8531<br/>CD:UPCY-9469<br/>生産限定盤:UPCY-9834 |- ! 2nd | [[1978年]][[11月21日]] | '''[[心にのこる夜の唄]]''' | LP:MR 3151<br/>CD:UPCY-6133<br/>アナログ盤:UPJY-9098 |- ! 3rd | [[1980年]][[7月1日]] | '''[[演歌のメッセージ]]''' | LP:MX 1004<br/>CD:UPCY-6135<br/>アナログ盤:UPJY-9099 |- ! 4th | [[1999年]][[2月10日]] | '''テレサ・テン カバー・ベスト・コレクション''' | POCH-1762 |- ! 5th | [[2006年]][[12月15日]] | '''ベリーベストシリーズ テレサ・テン 〜魅惑のカヴァー集〜''' | EJS-2 |- ! 6th | [[2008年]][[7月22日]]配信開始 | '''テレサ・テン カヴァー・ベスト・セレクション''' | ※デジタルアルバム |- ! 7th | [[2009年]] | '''テレサ・テン 涙の昭和歌謡 〜舟唄・津軽海峡冬景色〜''' | CDU-114S |- ! 8th | [[2009年]] | '''テレサ・テン The Best 〜襟裳岬〜''' | EJS-6179 |- ! 9th | [[2009年]] | '''テレサ・テン The Best 〜津軽海峡・冬景色〜''' | EJS-6181 |- ! 10th | [[2010年]][[1月1日]] | '''テレサ・テン ベスト・セレクションII 演歌カヴァー曲集''' | TRUE-1006 |- ! 11th | [[2015年]] | '''テレサ・テンが唄う 昭和の名曲集''' | DCT-2901/2 |- ! 12th | rowspan="3"|[[2015年]][[10月21日]] | '''テレサ・テン 愛とその人生''' | UPCY-7061 |- ! 13th | '''テレサ・テン あの日 あの街で''' | UPCY-7062 |- ! 14th | '''テレサ・テン ラブ&ポップス''' | UPCY-7063 |- ! 15th | [[2016年]][[12月21日]] | '''忘れられぬ人 テレサ・テン カバー・ベスト・アルバム''' | UPCY-7214 |- |} ==== ライブ・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 |- ! colspan="4" | [[ポリドール・レコード]] |- ! 1st | [[1977年]][[7月10日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) ファースト・コンサート''' | LP:MR 3065<br/>CD:UPCY-6130<br/>復刻版CD:UPCY-9471<br/>限定版CD:UPCY-9836<br/>アナログ盤:UPJY-9095 |- ! 2nd | [[1995年]][[6月25日]] | '''追悼盤 テレサ・テン(鄧麗君) ファースト・コンサート 歌声は想い出にふちどられ''' | POCH-1511 |- ! 3rd | [[1999年]][[12月1日]] | '''テレサ・テン ラスト・コンサート/完全版''' | POCH-1892/3 |- ! colspan="4" | [[トーラスレコード]] |- ! 4th | [[1986年]][[1月22日]] | '''テレサ・テン コンサート・ライブ''' | LP:28TR-2095<br/>CD:32TX-1030<br/>復刻版CD:TACL-2513 |- ! 5th | [[1997年]][[4月9日]] | '''テレサ・テン〈鄧麗君〉 at ルイード''' | TACL-2436<br/>UPCY-7578 |- ! 6th | [[1998年]][[5月8日]] | '''テレサ・テン CONCERT LIVE NHKホール コンサート・ライブ 鄧麗君演唱會現塲録音版''' | TACL-2513 |- ! colspan="4" | [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]] |- ! 7th | [[2003年]] | '''テレサ・テン 生誕50周年フィルムコンサート『会場特別盤』〜今でも…〜''' | KNC-1001 |- ! 8th | [[2008年]][[11月7日]] | '''テレサ・テン ライブ ベスト・セレクション''' | TRUE-1036 |- ! 9th | [[2015年]][[4月1日]] | '''テレサ・テン ファースト・コンサート 愛をあなたに ふるさとはどこですか''' | UPCY-6988 |} ==== ベスト・アルバム ==== {| class="wikitable" style="font-size:small" |- ! # ! 発売日 ! タイトル ! 規格品番 |- ! colspan="4" | [[ポリドール・レコード]] |- ! 1st | [[1975年]] | '''ビッグ12 テレサ・テン''' | カセット:CR 1302 |- ! 2nd | [[1975年]][[5月21日]] | '''テレサ・テン ゴールデン4''' | KR 1115 |- ! 3rd | [[1975年]][[11月21日]] | '''テレサ・テン ベスト4''' | KR 1123 |- ! 4th | [[1975年]][[11月25日]] | '''テレサ・テン全曲集 夜のフェリーボート''' | カセット:CR 8524 |- ! 5th | [[1976年]][[11月1日]] | '''テレサ・テン パーフェクト24''' | MR 9949/50 |- ! 6th | [[1976年]][[11月21日]] | '''テレサ・テン ビッグ・ヒット4''' | KRS 3002 |- ! 7th | [[1976年]][[12月21日]] | '''テレサ・テン ベスト・ヒット・アルバム''' | MR 3037 |- ! 8th | [[1977年]][[7月21日]] | '''テレサ・テン ビッグ・ヒット4''' | KRS 3012 |- ! 9th | [[1977年]][[8月21日]] | '''テレサ・テン ゴールデン・ダブル・デラックス''' | MRZ 9229/30 |- ! 10th | [[1977年]][[11月21日]] | '''テレサ・テン ビッグ・ヒット4''' | KRS 3021 |- ! 11th | [[1978年]][[6月21日]] | '''テレサ・テン ビッグ・ヒット4''' | KRS 3031 |- ! 12th | [[1978年]][[12月1日]] | '''テレサ・テン ベスト カラオケ集''' | MRY 6026 |- ! 13th | [[1980年]][[1月1日]] | '''テレサ・テン BEST & BEST''' | MR 3908 |- ! 14th | [[1983年]][[11月1日]] | '''テレサ・テン全曲集''' | カセット:30CX-1220 |- ! 15th | [[1985年]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) 愛を唄う''' | 非売品CD:31-30002<br/>H32P-30002 |- ! 16th | [[1985年]][[7月10日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) 全曲集''' | H32P-20030 |- ! 17th | [[1986年]][[12月21日]] | '''鄧麗君(テレサ・テン) 中国語【全曲集】''' | H32P-20134 |- ! 18th | [[1987年]][[12月1日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) ベスト・セレクション''' | H50P-20205/6 |- ! 19th | [[1988年]][[11月25日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) 全曲集''' | H32P-20293 |- ! 20th | rowspan="2"|[[1992年]][[4月1日]] | '''テレサ・テン ベスト2000''' | POCH-1204 |- ! 21st | '''テレサ・テン(鄧麗君) ベスト2000(中国語)''' | POCH-1205 |- ! 22nd | rowspan="2"|[[1993年]][[11月26日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君)/空港 ベスト2500''' | POCH-1286 |- ! 23rd | '''テレサ・テン(鄧麗君) 情人的關懐 中国語ヒット曲集''' | POCH-1287 |- ! 24th | [[1993年]][[12月20日]] | '''スーパー・ベスト3 テレサ・テン(鄧麗君) 空港''' | POCH-1314 |- ! 25th | [[1994年]][[12月1日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) 全曲集''' | POCH-1439 |- ! 26th | [[1995年]][[10月1日]] | '''永遠の歌声〜テレサ・テン VOL.1 オリジナル曲のすべて''' | POCH-1531/3 |- ! 27th | [[1995年]][[11月1日]] | '''永遠の歌声〜テレサ・テン VOL.2 中国語曲のすべて''' | POCH-1534/6 |- ! 28th | [[1995年]][[12月1日]] | '''永遠の歌声〜テレサ・テン VOL.3 日本の心を歌う''' | POCH-1537/8 |- ! 29th | [[1996年]][[5月2日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) ベスト&ベスト''' | POCH-1565/6 |- ! 30th | [[1999年]][[2月10日]] | '''テレサ・テン スーパー・ベスト・コレクション''' | POCH-1761 |- ! 31st | rowspan="2"|[[1999年]][[6月30日]] | '''テレサ・テン・トリビュート 〜Re Make, Re-model〜''' | POCH-1799 |- ! 32nd | '''TREASURE COLLECTION テレサ・テン BEST''' | POCH-9017 |- ! 33rd | [[1999年]][[9月1日]] | '''テレサ・テン 全曲集 〜つぐない〜''' | POCH-1835 |- ! colspan="4" | [[トーラスレコード]] |- ! 34th | [[1984年]]9月 | '''ベスト・ヒット つぐない''' | カセット:28TT-1050 |- ! 35th | [[1984年]][[11月1日]] | '''テレサ・テン全曲集''' | カセット:38TT-1054 |- ! 36th | [[1985年]]1月 | '''テレサ・テン・ベスト20''' | 18TR-2059/2060 |- ! 37th | [[1985年]][[3月30日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) ベスト・セレクション''' | 32TX-1008 |- ! 38th | [[1985年]][[6月1日]] | '''テレサ・テン全曲集''' | カセット:38TT-1070 |- ! 39th | [[1985年]][[11月1日]] | '''テレサ・テン ゴールデン・ヒット''' | カセット:38TT-1085 |- ! 40th | [[1985年]][[11月21日]] | '''テレサ・テン オリジナル・ベスト・セレクション''' | 38TX-1023 |- ! 41st | [[1986年]]1月 | '''テレサ・テン オリジナル・ベスト・ヒット''' | 28TR-2092 |- ! 42nd | [[1986年]][[4月23日]] | '''テレサ・テン ベスト・ヒット'86''' | LP:28TR-2092<br/>CD:38TT-1101 |- ! 43rd | [[1986年]][[8月21日]] | '''テレサ・テン 時の流れに身をまかせ ニューオリジナル集''' | 35TX-1039 |- ! 44th | [[1986年]][[11月21日]] | '''テレサ・テン 全曲集''' | 29TX-1042/43 |- ! 45th | [[1987年]][[2月4日]] | '''テレサ・テン オリジナル・カラオケ全曲集''' | 34TX-1063 |- ! 46th | [[1987年]][[7月2日]] | '''テレサ・テン 時の流れに身をまかせ ベスト・セレクション''' | 32TX-1037 |- ! 47th | rowspan="2"|[[1987年]][[7月5日]] | '''テレサ・テン 別れの予感''' | 34TX-1066 |- ! 48th | '''テレサ・テン全曲集''' | カセット:38TT-1145 |- ! 49th | rowspan="2"|[[1987年]][[11月25日]] | '''テレサ・テン トップ・テン''' | 30TX-1076 |- ! 50th | '''テレサ・テン大全集''' | カセット:25TT-1170/1 |- ! 51st | [[1988年]][[3月25日]] | '''テレサ・テン ベスト・ヒット'88''' | 34TX-1080 |- ! 52nd | [[1988年]][[10月26日]] | '''テレサ・テン オリジナル・カラオケ・ベスト・ヒット10''' | 18TX-1094 |- ! 53rd | [[1988年]][[11月26日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) オリジナル カラオケ ヒット コレクション4''' | 10AX-2001<br/>カセット:08AT-2001 |- ! 54th | [[1988年]][[12月21日]] | '''テレサ・テン 最新オリジナル ベスト15''' | 35TX-2202 |- ! 55th | [[1989年]][[4月8日]] | '''テレサ・テン 全曲集''' | 35TX-2207 |- ! 56th | [[1989年]][[11月22日]] | '''テレサ・テン全曲集''' | TACL-2301 |- ! 57th | [[1990年]][[3月28日]] | '''テレサ・テン '90ベスト・コレクション 〜涙の条件〜''' | TACL-2308 |- ! 58th | [[1990年]][[6月6日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君)全曲集 全32曲''' | TACL-2314/5 |- ! 59th | [[1990年]][[11月28日]] | '''テレサ・テン 歌道場''' | TACL-2320 |- ! 60th | [[1991年]][[3月27日]] | '''[[テレサ・テン '91悲しみと踊らせて 〜ニュー・オリジナル・ソングス〜]]''' | TACL-2330 |- ! 61st | [[1991年]][[6月7日]] | '''テレサ・テン全曲集''' | TACL-2333 |- ! 62nd | [[1991年]][[10月23日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) オリジナルベストカラオケ''' | TACK-105 |- ! 63rd | [[1991年]][[11月13日]] | '''テレサ・テン全曲集'92''' | TACL-2338 |- ! 64th | [[1992年]][[6月3日]] | '''テレサ・テン ベスト・セレクション'92''' | TACL-2342 |- ! 65th | [[1992年]][[10月28日]] | '''莫忘今宵''' | TACL-2347 |- ! 66th | [[1992年]][[11月4日]] | '''テレサ・テン リクエスト''' | TACL-2348 |- ! 67th | [[1992年]][[11月11日]] | '''テレサ・テン全曲集'93''' | TACL-2344 |- ! 68th | rowspan="2"|[[1993年]][[1月13日]] | '''テレサ・テン リクエストII 〜荒木とよひさ作品集〜''' | TACL-2354 |- ! 69th | '''テレサ・テン リクエストIII 〜三木たかし作品集〜''' | TACL-2355 |- ! 70th | [[1993年]][[2月24日]] | '''中国語名唱選シリーズ1 璨麗的鄧麗君(テレサ・テン) -1977年〜1980年-''' | TACL-2358<br/>UPCY-7266 |- ! 71st | [[1993年]][[3月24日]] | '''中国語名唱選シリーズ2 璨麗的鄧麗君(テレサ・テン) -1981年〜1986年-''' | TACL-2359<br/>UPCY-7267 |- ! 72nd | [[1993年]][[3月31日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) ベストソングス〜シングル・コレクション〜''' | TACL-2360 |- ! 73rd | [[1993年]][[6月9日]] | '''テレサ・テン 全曲集 〜あなたと共に生きてゆく〜''' | TACL-2365 |- ! 74th | [[1993年]][[7月14日]] | '''中国語名唱選シリーズ3 美麗的鄧麗君(テレサ・テン)''' | TACL-2361 |- ! 75th | [[1993年]][[8月18日]] | '''中国語名唱選シリーズ4 美麗的鄧麗君(テレサ・テン)''' | TACL-2362 |- ! 76th | [[1993年]][[11月10日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) '94ベスト・セレクション''' | TACL-2375 |- ! 77th | [[1993年]][[12月22日]] | '''中国語名唱選シリーズ5 少年愛姑娘(テレサ・テン)''' | TACL-2376 |- ! 78th | [[1994年]] | '''別れの予感/テレサ・テン(鄧麗君) オリジナル・ソングス''' | FQCL-30328 |- ! 79th | rowspan="2"|[[1994年]][[1月1日]] | '''テレサ・テン〈鄧麗君〉I 〜つぐない・別れの予感〜''' | TBD-5001 |- ! 80th | '''テレサ・テン〈鄧麗君〉II 〜時の流れに身をまかせ・愛人〜''' | TBD-5002 |- ! 81st | [[1994年]][[1月12日]] | '''中国語名唱選シリーズ6 鄧麗君之歌 愛你一萬倍(テレサ・テン)''' | TACL-2377 |- ! 82nd | [[1994年]][[6月29日]] | '''テレサ・テン 全曲集''' | TACL-2380 |- ! 83rd | [[1994年]][[10月5日]] | '''夜來香 〜テレサ・テン日本デビュー20周年記念〜''' | TACL-2378 |- ! 84th | [[1994年]][[11月16日]] | '''テレサ・テン〈鄧麗君〉 全曲集'95〜夜來香〜''' | TACL-2385 |- ! 85th | rowspan="2"|[[1995年]][[6月7日]] | '''追悼盤 テレサ・テン〈鄧麗君〉 スーパーセレクション''' | TACL-2395/6 |- ! 86th | '''鄧麗君〈テレサ・テン〉全曲集''' | TACL-2397 |- ! 87th | rowspan="3"|[[1995年]][[9月1日]] | '''テレサ・テン オリジナル名盤シリーズ1 旅人''' | TACL-2401 |- ! 88th | '''テレサ・テン オリジナル名盤シリーズ2 愛人''' | TACL-2402 |- ! 89th | '''テレサ・テン オリジナル名盤シリーズ3 時の流れに身をまかせ''' | TACL-2403 |- ! 90th | [[1995年]][[10月1日]] | '''鄧麗君 テレサ・テン 何日君再來''' | TACL-2404 |- ! 91st | [[1995年]][[11月25日]] | '''テレサ・テン ベストセレクション 〜星願〜''' | TACL-2410 |- ! 92nd | rowspan="2"|[[1995年]][[12月21日]] | '''中国語名唱選シリーズ7 可愛的鄧麗君 テレサ・テンI -1967年〜1968年-''' | TACL-2411 |- ! 93rd | '''中国語名唱選シリーズ8 可愛的鄧麗君 テレサ・テンII -1968年〜1971年-''' | TACL-2412 |- ! 94th | [[1995年]][[7月26日]] | '''淡淡幽情''' | TACL-2400 |- ! 95th | [[1996年]][[2月25日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君) 演花集''' | TACL-2413 |- ! 96th | [[1996年]][[5月8日]] | '''テレサ・テン Recollection〜追憶〜''' | TACL-2414 |- ! 97th | [[1996年]][[8月1日]] | '''Go! Go! TERESA'''<br/>'''テレサ・テン/ゴー! ゴー! テレサ''' | TACL-2421 |- ! 98th | [[1996年]][[10月25日]] | '''テレサ・テン〈鄧麗君〉シングルズ''' | TACL-2427/8 |- ! 99th | [[1996年]][[11月25日]] | '''テレサ・テン 憧れの旋律〜響往的旋律〜''' | TACL-2429/30 |- ! 100th | [[1997年]][[2月5日]] | '''MORE GO! GO! TERESA'''<br/>'''テレサ・テン/モア ゴー! ゴー! テレサ''' | TACL-2433 |- ! 101st | [[1997年]][[4月25日]] | '''テレサ・テン(鄧麗君)*ベスト・セレクション''' | TACL-2437 |- ! colspan="4" | [[トーラスレコード|ニュートーラス]] |- ! 102nd | [[1997年]][[10月25日]] | '''テレサ・テン 全曲集'98〜夢立ちぬ〜''' | TACL-2501 |- ! 103rd | [[1997年]][[11月24日]] | '''テレサ・テン オリジナル・カラオケ Best Ten''' | TACL-2507 |- ! 104th | [[1998年]][[1月1日]] | '''テレサ・テン 鄧麗君/甜蜜蜜(テンミミ) スクリーン・テーマ集''' | TACA-1003 |- ! 105th | rowspan="3"|[[1998年]][[3月1日]] | '''テレサ・テン トップ・テン 〜カヴァー集〜''' | TACL-2508 |- ! 106th | '''テレサ・テン トップ・テン 〜中国語編〜''' | TACL-2509 |- ! 107th | '''テレサ・テン トップ・テン 〜英語編〜''' | TACL-2510 |- ! colspan="4" | [[インディーズ|インディペンデント]] |- ! 108th | [[2001年]] | '''テレサ・テン ベスト&ベスト''' | CDU-104 |- ! 109th | [[2001年]] | '''テレサ・テン ベスト&ベスト ポリドール編''' | PBB-01(DCT-771) |- ! 110th | [[2001年]] | '''テレサ・テン ベスト&ベスト トーラス編''' | PBB-02(DCT-772) |- ! 111th | [[2002年]] | '''夢歌 21世紀のテレサ・テン あなたを感じていたい''' | DCT-778・9 |- ! 112th | [[2003年]] | '''テレサ・テン 香港〜Hong Kong〜編 ベスト&ベスト''' | PBB-03(DCT-1140) |- ! 113th | [[2004年]] | '''テレサ・テン ベスト&ベスト 日本の心を歌う''' | PBB-22(DCT-1282) |- ! 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楽曲 ! タイアップ ! 収録作品 |- | 涙の条件 | [[テレビ朝日]]系『[[火曜ミステリー劇場]]』テーマ・ソング | シングル「涙の条件」 |- | あなたと共に生きてゆく | [[日本メナード化粧品|メナード COSMETICS]]'93イメージ・ソング | シングル「[[あなたと共に生きてゆく]]」 |} == 映像作品 == ;DVD {|class="wikitable" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- ! 1st | 2000年9月20日 || '''テレサ・テン コンサート・ライブ''' || UPBH-1010 |- ! 2nd | 2001年9月1日 || '''テレサ・テン デビュー15周年香港コンサート''' || COBA-4101 |- ! 3rd | 2004年12月22日 || '''テレサ・テン メモリアルTV〜今、甦るテレサ・テン〜''' || UIBZ-5025 |- ! 4th | 2005年4月22日 || '''テレサ・テン 歌姫伝説''' || GNBP-7001 |- ! 5th | 2006年3月29日 || '''歌伝説 テレサ・テンの世界〜アジアが生んだ歌姫〜''' || UIBZ-5038 |- ! 6th | 2009年5月13日 || '''テレサ・テン DVD BOX -アジアの歌姫-''' || UPBY-5001 |- ! 7th | 2019年5月29日 || '''テレサ・テン 永遠のステージ〜NHK 1977-1994〜''' || POBD-25085 |- |} ;LD {|class="wikitable" |- ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 |- ! 1st | 1987年10月25日 || '''テレサ・テン ベスト・ヒット''' || SM048-3152<br/>追悼盤(1995年11月25日):PILL-5121 |- ! 2nd | 1990年7月25日 || '''オリジナル・アーティスト・シリーズ SING TO GETHER 鄧麗君〈テレサ・テン〉BEST 4''' || TAMX-1010 |- ! 3rd | 1991年10月25日 || '''鄧麗君 MTV 卡拉OK''' || TALX-1015 |- |} ;VHS {|class="wikitable" |- ! 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酸化レニウム(VI)
酸化レニウム(VI)(さんかレニウム ろく、英: rhenium(VI) oxide)は、化学式が ReO3 と表されるレニウムの酸化物で、金属光沢を持つ赤い固体である。第7族元素 (Mn, Tc, Re) の三酸化物の中で唯一安定に存在する。 酸化レニウム(VI)は単純立方格子構造を単位格子とする結晶を形成する。その格子定数は 3.742 Å (374.2 pm) である。酸化レニウム(VI)の構造はペロブスカイト構造 (ABO3) から単位格子の中心にあるカチオン A を取り去った残りの構造に似ている。各レニウム原子は6個の酸素原子に取り囲まれ、頂点を共有した八面体形構造を形成している。 ReO3 の単位格子を見ると、1/8レニウム原子が8個と1/4酸素原子が12個あることが分かる。合計してレニウム原子は1個、酸素原子は3個あるため、化学式は ReO3 となる。それぞれのレニウム原子は反対の電荷をもつ酸素原子6個と隣接しているため、レニウムの配位数は6である。 酸化レニウム(VI)は、通常の金属酸化物では見られないような非常に小さい電気抵抗を示す。温度が下がるにつれて抵抗が下がる点も、金属に似ている。300 Kではその電気抵抗率は1.0 × 10 Ωm(1.0 × 10 S cm) 、100 Kではそれが6.0 × 10 Ωm(1.7 × 10 S cm)まで下がる。78 K付近では、金属として最も大きい電気伝導度を誇る銀と同程度の伝導性を示す。さらに興味深い点として、295 Kでレニウム単体金属の電気伝導度は、0.54 × 10 S cmであり、酸化レニウム(VI)の方がより電気伝導度が高い。 ReO3 は酸化レニウム(VII)を一酸化炭素で還元すると得られる。
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酸化レニウム(VI)(さんかレニウム ろく、英: rhenium(VI) oxide)は、化学式が ReO3 と表されるレニウムの酸化物で、金属光沢を持つ赤い固体である。第7族元素 (Mn, Tc, Re) の三酸化物の中で唯一安定に存在する。
{{chembox | verifiedrevid = 408475059 | ImageFileL1 = Rhenium-trioxide-3D-vdW.png | ImageSizeL1 = 150px | ImageFileR1 = REO3.JPG | ImageSizeR1 = 100px | IUPACName = rhenium oxide(VI) | OtherNames = 三酸化レニウム<br />レニア | Section1 = {{Chembox Identifiers | 略称= | CAS番号=1314-28-9 | JGlobalID= | SMILES = O=[Re](=O)=O | InChI = 1S/3O.Re | DrugBank= | EINECS= | EC-number= | PubChem= | RTECS= | 日化辞番号= | KEGG= | MeSHName= | ATC分類= | ATCCode_prefix= | ATCCode_suffix= | ATC_Supplemental= | ChEBI= | IUPHAR_ligand= | Beilstein= | Gmelin= | 3DMet= | UNNumber= | LipidMaps }} | Section2 = {{Chembox Properties | Formula = ReO<sub>3</sub> | MolarMass = 234.205 | Appearance = 濃赤色結晶 | Density = 6.92 g/cm<sup>3</sup> | MeltingPt = 400 {{℃}}(分解) | BoilingPt = | Solubility = | RefractIndex = 1.68 }} | Section3 = {{Chembox Structure | CrystalStruct = [[立方晶系]], [[Pearson symbol|cP4]] | SpaceGroup = P''m<span style="text-decoration: overline">3</span>m'', SpaceGroup = 221 }} | Section7 = {{Chembox Hazards | MainHazards = | FlashPt = | Autoignition = }} }} '''酸化レニウム(VI)'''(さんかレニウム ろく、{{lang-en-short|rhenium(VI) oxide}})は、[[化学式]]が ReO<sub>3</sub> と表される[[レニウム]]の[[酸化物]]で、[[金属光沢]]を持つ赤い固体である。[[第7族元素]] (Mn, Tc, Re) の三酸化物の中で唯一安定に存在する。 == 構造 == [[File:Rhenium-trioxide-unit-cell-vdW.png|thumb|left|150px|ReO<sub>3</sub> の単位格子]] 酸化レニウム(VI)は[[単純立方格子構造]]を単位格子とする結晶を形成する。その[[格子定数]]は 3.742 [[オングストローム|Å]] (374.2 [[ピコメートル|pm]]) である。酸化レニウム(VI)の構造は[[ペロブスカイト構造]] (ABO<sub>3</sub>) から単位格子の中心にあるカチオン A を取り去った残りの構造に似ている。各レニウム原子は6個の酸素原子に取り囲まれ、頂点を共有した[[八面体形]]構造を形成している<ref>S.J. Heyes (2000) [http://www.ncl.ox.ac.uk/icl/heyes/structure_of_solids/Lecture4/Lec4.html#anchor3 ''Structures of Simple Inorganic Solids''], Department of Chemistry, University of Oxford.</ref>。 ReO<sub>3</sub> の単位格子を見ると、1/8レニウム原子が8個と1/4酸素原子が12個あることが分かる。合計してレニウム原子は1個、酸素原子は3個あるため、化学式は ReO<sub>3</sub> となる。それぞれのレニウム原子は反対の[[電荷]]をもつ酸素原子6個と隣接しているため、レニウムの[[配位数]]は6である。 == 性質 == <!--ここの節は、日本語版の前の版と英語版との記述を融合させました-->酸化レニウム(VI)は、通常の金属酸化物では見られないような非常に小さい[[電気抵抗]]を示す。温度が下がるにつれて抵抗が下がる点も、金属に似ている。300 [[ケルビン|K]]ではその[[電気抵抗率]]は1.0 × 10<sup>-7</sup> Ωm(1.0 × 10<sup>5</sup> S cm) 、100 Kではそれが6.0 × 10<sup>-9</sup> Ωm(1.7 × 10<sup>6</sup> S cm)まで下がる<ref name="G&E1047">{{Greenwood&Earnshaw}}, p. 1047.</ref>。78 K付近では、金属として最も大きい[[電気伝導]]度を誇る銀と同程度の伝導性を示す。さらに興味深い点として、295 Kでレニウム単体金属の電気伝導度は、0.54 × 10<sup>5</sup> S cmであり、酸化レニウム(VI)の方がより電気伝導度が高い。 == 合成 == ReO<sub>3</sub> は[[酸化レニウム(VII)]]を[[一酸化炭素]]で[[還元]]すると得られる<ref name="G&E1047"/>。 : <chem>Re2O7 + CO -> 2ReO3 + CO2</chem> == 脚注 == {{Reflist}} {{レニウムの化合物}} {{DEFAULTSORT:さんかれにうむ6}} [[Category:酸化物]] [[Category:レニウムの化合物]]
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タンデム自転車
タンデム自転車(タンデムじてんしゃ、英: tandem bicycle、繁: 協力車)は、複数のサドルとペダルを装備し、複数人が前後に並んで乗り同時に駆動することができる自転車。タンデム(tandem)とは英語で「座席が前後に二つ(以上)並んだ」という意味の形容詞で、オートバイの二人乗りや小型航空機の座席配置を指す際にもこの語が使われる。通常2人乗りだが、3人、4人、5人乗りのためのものもある。日本産業規格 JIS D 9111:2010(自転車—分類及び諸元)や道路標識などではタンデム車と表記される。タンデム自転車に複数人が乗るサイクリングを特にタンデムサイクリングと呼ぶ。それぞれがペダルを踏むため、1人乗りよりも強い力が出る。2人以上でペダルを回すことで合計の出力は倍になり、かつ後ろ側に乗車した人は空気抵抗を受けにくいために、2人で別々に1人乗りの自転車に乗るより相乗効果が発揮され高速走行に有利である。 サドルが左右に並んだサイド・バイ・サイドの自転車はSociableと呼ばれる。 19世紀に一時爆発的に流行したことがあったが、第一次及び第二次世界大戦をはさんで、すたれていった。しかし技術の進歩により、構成部品の性能が著しく向上したこともあり、さまざまな車種で登場している。ランドナー、マウンテンバイク、ロードバイクはもとよりリカンベントなどにも存在する。 最前部に乗車する人はキャプテンまたはパイロット、それ以外の後部に乗車する人はストーカー(英: Stoker)またはコパイロット(英: co-pilot)と呼ばれる。キャプテン・コパイの呼称関係は飛行機と同じ(機長・副操縦士。機長が主導権を握り、副操縦士は支援に回る)。 2人乗りのタンデム自転車は、2人で漕ぐことにより出力が2倍になる一方で空気抵抗はあまり増えないので、1人乗り自転車と比較して高速での走行が可能となる。一方、2人分の体重や脚力に対応するために丈夫な構造が求められるために車重は重く、登坂などは軽量な素材が使われた1人用自転車に劣る。また長いホイルベースにより高速での安定性に優れるが、低速走行や小回りは不安定で苦手である。 クランクは搭乗者の数と同じ数だけ取り付けられており、2人乗りのタンデムでは2組のクランクが用いられている。クランク間を結合するチェーンのかけ方によって2種類に分けられている。 クロスオーバードライブ用のクランクは、ストロングライトなどのメーカーより製造販売がされている。 一般の自転車ではチェーンのゆるみを取るために、後輪軸の位置を移動できるようにし、チェーン引きというねじで張力を調整する。タンデムの場合もストーカー側のチェーンの張りはこの方法で調整できるが、キャプテン―ストーカー間のチェーンの張りの調整ができない。そのためチェーンテンショナーというばねの付いた部品で張力を調整するか、キャプテン側のクランク取り付け部にエキセントリックハンガーという位置調整のできる特殊な部品を使って張力を調整する。 一般の自転車より重いタンデム車ではブレーキも特殊であり、搭乗者分の積載重量を考慮したタンデム専用ブレーキを用いる。例えば、前後二つのブレーキを一つのブレーキレバーで操作できるようにした2本引きのブレーキレバーと、前輪用のブレーキレバーと組み合わせて使った3本ワイヤー式のものや、ドラッグブレーキといったものを使うことがある。タンデムに適した強力な制動力を得る用に設計された、専用ブレーキ(かつてはマファック(英語版)社タンデムブレーキ、マキシカ(Maxi~Car)社タンデム用大径内拡式ブレーキ)が利用される。 ホイールは2人分の体重と脚力に対応するために、40本または48本(場合によっては56本)のスポークを使い、後輪のオーバーロックナット寸法は145〜160mmと一般の自転車より幅の広いものが利用される。ハブには、一般の自転車よりも太いハブ軸が用いられる。 自転車競技のトラックレースには、タンデムスプリントという種目がある。オリンピックでは1972年のミュンヘンオリンピックまで、世界選手権自転車競技大会では1994年のイタリア・パレルモ大会まで実施種目であった。日本では今日でも全日本学生選手権自転車競技大会、全日本大学対抗選手権自転車競技大会といった大学生の大会において実施されている。 障害者スポーツとしてのパラサイクリングでは、視覚障害クラスの競技としてロード、トラックともタンデム自転車を使用したレースが実施されている。この場合、健常者がパイロット(前乗り選手)として前席に乗り、視力障害者のサイクリストはストーカーとして後席に乗り競技を行う。タンデム自転車を使用したパラサイクリング競技が行われる代表的な大会として、国際的なものではパラリンピックのほかUCIパラサイクリング世界選手権、日本国内のものでは日本障害者自転車競技大会・日本パラサイクリング選手権などが挙げられる。 公道走行については後述のように地域ごとに規制がある。タンデム自転車はレジャー用に利用されるほか、視覚障害者でもサイクリングを楽しめる手段として活用されている。公園や特設コースなど、一般に開放されないコースでレンタサイクルとして貸し出されていることが多い。 日本の道路交通法では、乗車装置(幼児用を除く)が一つ、全長190センチメートルまでのもののみを普通自転車として定めている。道路標識・道路標示の補助標識などにおいて、単に「自転車」とある場合は普通自転車のみのことを指す。 よってタンデム自転車はその範囲に含まれないため、歩道通行などは認められない。 なお補助標識に「自転車を除く」とある場合は、法令的に「普通自転車を除く」の意味となり、タンデム自転車はその規制除外対象とはならない。 いっぽう、補助標識に「軽車両を除く」とある場合には、字義通り「軽車両を除く」の意味となり、軽車両はタンデム自転車含む全ての自転車を含むので、タンデム自転車はその規制除外対象となる。 かつては各都道府県公安委員会が設定する道路交通法施行細則または道路交通規則などといった規則により、自転車専用道路等を除く一般公道でのタンデムサイクリングが禁止されている場合があったが2023年7月の東京都での公道走行解禁で全国で公道を走行可能となった。 タンデム自転車は、冒険の要素を含んだ自転車旅行に使用されることがある。日本人では1997年6月から2007年11月の10年5カ月、タンデム自転車で世界88カ国、約10万5000キロを走破した宇都宮一成・トモ子夫妻や、2004年7月から2005年1月、2007年4月から2009年6月の2回に分けて、タンデム自転車で世界43カ国、約2万6000キロを走行した青木史也・直美夫妻がいる。 2021年から2022年にかけてタンデム自転車で日本全国47都道府県、約1万キロを走破したトレートペリピという2人がいる。長年タンデム自転車の走行が禁止されていたため、日本で初めてタンデム自転車で日本一周したことになる。
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タンデム自転車は、複数のサドルとペダルを装備し、複数人が前後に並んで乗り同時に駆動することができる自転車。タンデム(tandem)とは英語で「座席が前後に二つ(以上)並んだ」という意味の形容詞で、オートバイの二人乗りや小型航空機の座席配置を指す際にもこの語が使われる。通常2人乗りだが、3人、4人、5人乗りのためのものもある。日本産業規格 JIS D 9111:2010(自転車—分類及び諸元)や道路標識などではタンデム車と表記される。タンデム自転車に複数人が乗るサイクリングを特にタンデムサイクリングと呼ぶ。それぞれがペダルを踏むため、1人乗りよりも強い力が出る。2人以上でペダルを回すことで合計の出力は倍になり、かつ後ろ側に乗車した人は空気抵抗を受けにくいために、2人で別々に1人乗りの自転車に乗るより相乗効果が発揮され高速走行に有利である。 サドルが左右に並んだサイド・バイ・サイドの自転車はSociableと呼ばれる。
{{参照方法|date=2014年6月19日 (木) 13:30 (UTC)}} [[ファイル:Tandem (PSF).svg|thumb|250px|タンデム自転車]] [[ファイル:Barcroft Columbia.jpg|thumb|250px|タンデム形式の[[リカンベント]]]] [[ファイル:TANDEM HAND&FOOT BICYCLE.jpg|thumb|250px|[[二輪駆動]]式([[二輪駆動自転車]])]] [[ファイル:Rower wieloosobowy by Zureks.jpg|thumb|250px|10人乗りのタンデム自転車]] [[ファイル:2009-11-28-fahrradmesse-by-RalfR-04.jpg|thumb|250px|タンデム三輪車]] '''タンデム自転車'''(タンデムじてんしゃ、{{Lang-en-short|tandem bicycle}}、{{Lang-zh-tw-short|協力車}})は、複数の[[サドル (自転車)|サドル]]と[[ペダル (自転車)|ペダル]]を装備し、複数人が前後に並んで乗り同時に駆動することができる[[自転車]]。タンデム(tandem)とは英語で「座席が前後に二つ(以上)並んだ」という意味の[[形容詞]]で、オートバイの二人乗りや小型航空機の座席配置を指す際にもこの語が使われる。通常2人乗りだが、3人、4人、5人乗りのためのものもある。[[日本産業規格]] JIS D 9111:2010(自転車—分類及び諸元)や[[道路標識]]などでは'''タンデム車'''と表記される。タンデム自転車に複数人が乗る[[サイクリング]]を特に'''タンデムサイクリング'''と呼ぶ。それぞれがペダルを踏むため、1人乗りよりも強い力が出る。2人以上でペダルを回すことで合計の出力は倍になり、かつ後ろ側に乗車した人は空気抵抗を受けにくいために、2人で別々に1人乗りの自転車に乗るより[[相乗効果]]が発揮され高速走行に有利である。 サドルが左右に並んだ[[サイド・バイ・サイド]]の自転車は[[:en:Sociable|Sociable]]と呼ばれる。 == 歴史 == [[19世紀]]に一時爆発的に流行したことがあったが、[[第一次世界大戦|第一次]]及び[[第二次世界大戦]]をはさんで、すたれていった。しかし技術の進歩により、構成部品の性能が著しく向上したこともあり、さまざまな車種で登場している。[[ランドナー]]、[[マウンテンバイク]]、[[ロードバイク]]はもとより[[リカンベント]]などにも存在する。 == 一般の自転車との相違点 == 最前部に乗車する人は'''キャプテン'''または'''パイロット'''、それ以外の後部に乗車する人は'''[[ストーカー (曖昧さ回避)|ストーカー]]'''({{Lang-en-short|Stoker}}<ref>[[wikt:en:stoker]] [[蒸気船]]や[[蒸気機関車]]で石炭を焚く[[火夫]]のこと。×[[wikt:stalker]]</ref>)または'''[[コパイロット]]'''({{Lang-en-short|co-pilot}})と呼ばれる。キャプテン・コパイの呼称関係は飛行機と同じ([[機長]]・副操縦士。機長が主導権を握り、副操縦士は支援に回る)。 2人乗りのタンデム自転車は、2人で漕ぐことにより出力が2倍になる一方で空気抵抗はあまり増えないので、1人乗り自転車と比較して高速での走行が可能となる。一方、2人分の体重や脚力に対応するために丈夫な構造が求められるために車重は重く、登坂などは軽量な素材が使われた1人用自転車に劣る。また長いホイルベースにより高速での安定性に優れるが、低速走行や小回りは不安定で苦手である。 === クランクセット === [[クランク]]は搭乗者の数と同じ数だけ取り付けられており、2人乗りのタンデムでは2組のクランクが用いられている。クランク間を結合するチェーンのかけ方によって2種類に分けられている。 * パラレル(シングルサイド)ドライブ - キャプテン、ストーカーのクランク間が車体右側で連動する構造。 * クロスオーバードライブ - キャプテン、ストーカーのクランク間が車体左側で連動する構造。左右両側に歯車があるクランクと、片側に歯車があるクランクを、組み合わせて用いる。 クロスオーバードライブ用のクランクは、[[ストロングライト]]などのメーカーより製造販売がされている。 === チェーン === 一般の自転車では[[ローラーチェーン|チェーン]]のゆるみを取るために、後輪軸の位置を移動できるようにし、チェーン引きという[[ねじ]]で張力を調整する。タンデムの場合もストーカー側のチェーンの張りはこの方法で調整できるが、キャプテン―ストーカー間のチェーンの張りの調整ができない。そのためチェーンテンショナーという[[ばね]]の付いた部品で張力を調整するか、キャプテン側のクランク取り付け部にエキセントリックハンガーという位置調整のできる特殊な部品を使って張力を調整する。 === ブレーキ === 一般の自転車より重いタンデム車ではブレーキも特殊であり、搭乗者分の積載重量を考慮したタンデム専用ブレーキを用いる。例えば、前後二つのブレーキを一つのブレーキレバーで操作できるようにした2本引きのブレーキレバーと、前輪用のブレーキレバーと組み合わせて使った3本ワイヤー式のもの<ref>2本引きのブレーキレバーでブレーキの負担が前後に分散される。加えて左右のブレーキレバーを同時に握ると3本のワイヤーが引かれ、前輪用ブレーキにおいては二つのレバーを通じて両手で把握することから、2本ワイヤー式よりも制動力が高まる。</ref>や、[[ドラッグブレーキ]]といったものを使うことがある。<!--また2人用で一般の自転車より重いため、-->タンデムに適した強力な制動力を得る用に設計された、専用ブレーキ(かつては{{仮リンク|マファック|en|Mafac}}社タンデムブレーキ、[[マキシカ]]({{Lang|fr|Maxi~Car}})社タンデム用大径内拡式ブレーキ)が利用される。 === ホイール === [[ホイール]]は2人分の体重と脚力に対応するために、40本または48本(場合によっては56本)の[[スポーク]]を使い、後輪の[[オーバーロックナット寸法]]は145〜160[[ミリメートル|mm]]と一般の自転車より幅の広いものが利用される。[[ハブ (機械)|ハブ]]には、一般の自転車よりも太いハブ軸が用いられる。 == 競技 == [[ファイル:Tandem_de_pista.jpg|thumb|250px|トラックを走るタンデム自転車]] [[自転車競技]]の[[トラックレース]]には、'''タンデムスプリント'''という種目がある。[[オリンピックの自転車競技|オリンピック]]では[[1972年]]の[[1972年ミュンヘンオリンピックの自転車競技|ミュンヘンオリンピック]]まで、[[世界選手権自転車競技大会]]では[[1994年]]の[[世界選手権自転車競技大会トラックレース1994|イタリア・パレルモ大会]]まで実施種目であった。日本では今日でも[[全日本学生選手権自転車競技大会]]、[[全日本大学対抗選手権自転車競技大会]]といった大学生の大会において実施されている。 [[障害者スポーツ]]としての[[パラサイクリング]]では、視覚障害クラスの競技として[[ロードレース (自転車競技)|ロード]]、[[トラックレース|トラック]]ともタンデム自転車を使用したレースが実施されている。この場合、健常者がパイロット(前乗り選手)として前席に乗り、[[視力障害者]]のサイクリストはストーカーとして後席に乗り競技を行う。タンデム自転車を使用したパラサイクリング競技が行われる代表的な大会として、国際的なものでは[[パラリンピック]]のほか[[国際自転車競技連合|UCI]]パラサイクリング世界選手権、日本国内のものでは日本障害者自転車競技大会・日本パラサイクリング選手権などが挙げられる。 == 日本国内での扱い == [[File:Japanese road sign only bicycles.JPG|thumb|「自転車専用(325の2)」の道路標識(東京都千代田区)<br/>この本標識は一定の時機<ref>「日曜日の10時から16時までの間(悪天候または行事日を除く)」</ref>に限り「'''普通自転車'''以外の[[車両]]の通行を禁止する」効果があるが、補助標識の「タンデム車を除く」があるので、タンデム自転車を本標識の規制から除外<ref>ただし[[道路標識、区画線及び道路標示に関する命令]]に「タンデム車」の定義は無いため、当該除外は[[類推解釈]]による</ref>しており、結局として通行可能としている。規則<ref>東京都道路交通規則第10条第1項アの(ウ)</ref>に基づき、前掲「一定の時機」以外の時機においては<ref>(本標識の効力がないため)</ref>タンデム乗車は禁止される<ref>タンデム自転車に1人乗りは常時可能</ref>。]] 公道走行については後述のように地域ごとに規制がある。タンデム自転車はレジャー用に利用されるほか、視覚障害者でもサイクリングを楽しめる手段として活用されている。公園や特設コースなど、一般に開放されないコースで[[レンタサイクル]]として貸し出されていることが多い。 [[ファイル:2人乗りのタンデム自転車.jpg|サムネイル|2人乗りのタンデム自転車(秩父ミューズパーク)]] === 法令上の扱い === 日本の[[道路交通法]]では、乗車装置(幼児用を除く)が一つ、全長190センチメートルまでのもののみを'''[[普通自転車]]'''として定めている<ref>道交法第63条の3、道路交通法施行規則第9条の2</ref><ref>なお、タンデム自転車に1人で乗ったとしても依然として普通自転車には該当しない</ref>。'''[[道路標識]]・[[道路標示]]の[[日本の道路標識#補助標識|補助標識]]などにおいて、単に「自転車」とある場合は普通自転車のみのことを指す'''<ref>道路標識、区画線及び道路標示に関する命令 別表第2備考一の(六)</ref>。 よってタンデム自転車はその範囲に含まれないため、歩道通行などは認められない<ref>そもそも、車道通行の例外([[普通自転車#歩道通行の要件]]参照)として歩道通行が認められる自転車は、少なくとも[[普通自転車]]に該当する自転車だけである。</ref>。 なお補助標識に「自転車を除く」とある場合は、法令的に「''普通自転車を除く''」の意味となり、タンデム自転車はその規制除外'''対象とはならない'''。 いっぽう、補助標識に「軽車両を除く」とある場合には、字義通り「''軽車両を除く''」の意味となり、軽車両はタンデム自転車含む全ての自転車を含むので、タンデム自転車はその規制除外'''対象となる'''。 かつては各都道府県[[公安委員会]]が設定する'''[[道路交通法]]施行細則'''または'''道路交通規則'''などといった規則により、[[自転車専用道路]]等を除く一般公道でのタンデムサイクリングが禁止されている場合があったが2023年7月の東京都での公道走行解禁で全国で公道を走行可能となった<ref>{{Cite web|和書|title=タンデム自転車、東京も7月から解禁…全国で公道走行可能に |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230628-OYT1T50090/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-06-28 |access-date=2023-06-28 |language=ja}}</ref>。 === 都道府県別の状況 === {| class="wikitable" !style="white-space:nowrap"|都道府県名!!タンデム自転車の取扱い<small>(色付きは2人乗りの2輪タンデム自転車による一般公道走行可)</small> |- !style="background-color:#dfd"|北海道 |style="background-color:#dfd"|2020年4月1日 一般道での走行解禁 |- !style="background-color:#dfd"|青森県 |style="background-color:#dfd"|2019年11月29日 一般道での走行解禁[http://reiki.pref.aomori.lg.jp/reiki_honbun/c0012194001.html#j11] |- !style="background-color:#dfd"|岩手県 |style="background-color:#dfd"|2021年8月1日 一般道での走行解禁[http://www.pref.iwate.jp/~hp0103/houki/d1w_reiki/33595010001000000000/41995010000400000000/41995010000400000000.html] |- !style="background-color:#dfd"|宮城県 |style="background-color:#dfd"|2020年4月1日 一般道での走行解禁 |- !style="background-color:#dfd"|秋田県 |style="background-color:#dfd"|2021年8月1日 一般道での走行解禁[http://www1.g-reiki.net/pref_akita/reiki_honbun/u6000918001.html#j9] |- !style="background-color:#dfd"|山形県 |style="background-color:#dfd"|2009年7月17日一般公道走行解禁。タンデム車の乗車装置に応じた人員を乗車させることが可能[http://www2.pref.yamagata.jp/Reiki/34998010000100000000/34998010000100000000/34998010000100000000_j.html]。幼児2人同乗用自転車の解禁と同時にタンデム自転車の公道通行が認められるようになった<ref>{{Cite news|title=3人乗り自転車、県内解禁 業界団体は助成創設陳情も|author=|newspaper=[[山形新聞]]|date=2009-07-17|url=http://yamagata-np.jp/news/200907/17/kj_2009071700309.php|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090719201222/http://yamagata-np.jp/news/200907/17/kj_2009071700309.php|archivedate=2009年7月19日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。山形県でも兵庫県同様、以前からサイクリングロードで視覚障害者タンデム自転車サイクリング大会が行われていた<ref>{{Cite news |title=目が不自由でも風切って走ろう 山形・26日にタンデム自転車の大会 |author= |newspaper=山形新聞 |date=2010年9月3日 |url=http://yamagata-np.jp/news/201009/03/kj_2010090300039.php |accessdate= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100908140452/http://yamagata-np.jp/news/201009/03/kj_2010090300039.php |archivedate=2010年9月8日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|福島県 |style="background-color:#dfd"|2019年11月1日一般公道走行解禁[https://www.47news.jp/4162069.html]。 |- !style="background-color:#dfd"|茨城県 |style="background-color:#dfd"|2019年4月1日一般公道走行解禁{{PDFlink|[https://www.pref.ibaraki.jp/kenkei/a02_traffic/archives/law/pdf/tandem-bicycle.pdf]}}。 |- !style="background-color:#dfd"|栃木県 |style="background-color:#dfd"|2019年12月1日一般公道走行解禁{{PDFlink|[http://www.pref.tochigi.lg.jp/keisatu/jikobousi/tandem.pdf]}} |- !style="background-color:#dfd"|群馬県 |style="background-color:#dfd"|2015年8月一般公道走行解禁。二人までならば利用可能{{PDFlink|[https://www.police.pref.gunma.jp/koutuubu/01kouki/data/kouki03.pdf]}}。 |- !style="background-color:#dfd"|埼玉県 |style="background-color:#dfd"|2021年7月1日 一般道での走行解禁 |- !style="background-color:#dfd"|千葉県 |style="background-color:#dfd"|2018年4月1日一般公道走行解禁<ref>[http://www.police.pref.chiba.jp/content/common/000020152.pdf 二輪タンデム車] 千葉県・千葉県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|東京都 |style="background-color:#dfd"|2023年7月一般公道走行解禁<ref>{{Cite web|和書|title=タンデム自転車、東京も7月から解禁…全国で公道走行可能に |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20230628-OYT1T50090/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-06-28 |access-date=2023-06-28 |language=ja}}</ref> |- !style="background-color:#dfd"|神奈川県 |style="background-color:#dfd"|2023年4月1日一般公道走行解禁<ref>{{Cite web|和書|title=神奈川県警察/神奈川県道路交通法施行細則の一部改正について |url=https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesf0210.htm |website=www.police.pref.kanagawa.jp |access-date=2023-06-28}}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|新潟県 |style="background-color:#dfd"|2014年4月1日一般公道走行解禁<ref>{{Cite news |title= 2人乗りタンデム自転車12月から公道通行OK(インターネット・アーカイブ:2014年1月8日) |author= |newspaper=[[西日本新聞]] |date=2014年3月21日 |url=http://www.cyclesports.jp/depot/detail/40388 |accessdate=2015年12月17日}}</ref>。タンデム車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた自転車に運転者以外の者1人を乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="niigata">[http://www1.g-reiki.net/niigataken/reiki_honbun/ae40111121.html 新潟県道路交通法施行細則] 新潟県、2016年12月4日閲覧。</ref>。運転者以外の者を並列に乗車させる構造を有する乗車装置に1人又は2人を乗車させている場合にも一般公道を走行できる<ref name="niigata" />(並列に乗車する構造であれば運転者及び運転者以外の者2人の計3人まで利用可能)。 |- !style="background-color:#dfd"|富山県 |style="background-color:#dfd" | 2016年4月1日公道走行解禁<ref>[http://police.pref.toyama.jp/cms_cat_police/102040/kj00016263.html 富山県内でタンデム自転車(2人用)の公道走行が可能になります。] 富山県警察、2016年12月4日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|石川県 |style="background-color:#dfd"|2020年11月13日 一般道での走行解禁[http://www1.g-reiki.net/ishikawa/reiki_honbun/i1010976001.html#j10-2] |- !style="background-color:#dfd"|福井県 |style="background-color:#dfd"|2020年12月15日 一般道での走行解禁<ref name="fukui">[http://www.pref.fukui.lg.jp/jyoureikisoku/H343992100001/H343992100001_j.html 福井県道路交通法施行細則] 福井県、2016年12月4日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|山梨県 |style="background-color:#dfd"|2018年4月1日一般公道走行解禁<ref>[https://www.pref.yamanashi.jp/police/p_soumu/kouhoudayori/3005tandemu.html タンデム自転車の公道走行が可能になりました] 山梨県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|長野県 |style="background-color:#dfd"|1978年11月一般公道走行解禁。2人乗り用としての構造を有する自転車に運転者以外の者1人を乗車させる場合には一般公道を走行できる<ref name="nagano">[http://www.pref.nagano.lg.jp/police/koukai/jouhou/koutsu/documents/dokho.pdf 長野県道路交通法施行細則] 長野県、2016年12月4日閲覧。</ref>。また、三輪の自転車に、その乗車装置に応じた人員を乗車させ利用することができる<ref name="nagano" />。タンデム自転車に関する規定は日本で最も古く、当時から[[軽井沢]]で行われていたタンデム自転車のレンタルを後追いするように設定されたものである<ref>{{Cite news |title=(ニュースQ3)2人乗りタンデム自転車、公道OKの地域増加中|author= |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2015年12月17日 |url=http://digital.asahi.com/articles/DA3S12120490.html?_requesturl=articles%2FDA3S12120490.html&rm=150|accessdate=2015/12/17}}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|岐阜県 |style="background-color:#dfd"|2021年1月1日 一般道での走行解禁[https://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11124/houkishu/33595010001300000000/33595010001300000000/33595010001300000000_j.html#MOKUJI_56] |- !style="background-color:#dfd"|静岡県 |style="background-color:#dfd"|2016年12月1日公道走行解禁<ref>[http://www.pref.shizuoka.jp/police/anzen/jiko/documents/norikata.pdf 平成28年12月1日から静岡県内で二輪のタンデム自転車の走行が可能になります!] 静岡県警察、2016年12月4日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|愛知県 |style="background-color:#dfd"|2015年4月公道走行解禁。運転者のための乗車装置及び一の運転者以外の者のための乗車装置を有する二輪の自転車の運転者が運転者以外の者のための乗車装置に一人を乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="aichi">[http://www.som.pref.aichi.jp/d2w_reiki/33597510000600000000/33597510000600000000/33597510000600000000.html 愛知県道路交通法施行細則] 愛知県、2016年12月4日閲覧。</ref>。また、三輪の自転車であれば運転者はその乗車装置に応じた人員を乗車させ一般公道を走行することができる<ref name="aichi" />。 |- !style="background-color:#dfd"|三重県 |style="background-color:#dfd"|2020年8月1日公道走行解禁。同日以降2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた自転車は一般道路を通行できる<ref name="mie">[http://www.police.pref.mie.jp/information/R2_tanndemu.pdf 令和2年8月から、タンデム自転車で一般道路運転できます!] 三重県警察、2020年7月18日閲覧</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|滋賀県 |style="background-color:#dfd"|2018年4月1日一般公道走行解禁<ref>[http://www.pref.shiga.lg.jp/police/seikatu/kotsu/files/dokoho300401.pdf 平成30年4月1日からタンデム車の2人乗りが規制緩和されます] 滋賀県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|京都府 |style="background-color:#dfd"|2015年11月20日一般公道走行解禁<ref>{{Cite news |title= 京都府内でタンデム自転車に2人乗りをすることができるようになりました |author=京都府警 |newspaper= |date= |url=http://www.pref.kyoto.jp/fukei/kotu/koki_k_t/jitensha/tandemu.html |accessdate=2015年12月17日}}</ref>。タンデム車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた自転車に運転者以外の者1人を乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="kyoto">[http://www.pref.kyoto.jp/reiki/reiki_honbun/a3000913001.html 京都府道路交通規則] 京都府、2016年12月4日閲覧。</ref>。3輪の自転車にその乗車装置に応じた人員を乗車させている場合にも一般公道を走行できる<ref name="kyoto" />。なお、自転車専用道路であれば、その乗車装置に応じた人員を乗車させることができる<ref name="kyoto" />。 |- !style="background-color:#dfd"|大阪府 |style="background-color:#dfd"|2016年8月1日一般公道走行解禁<ref>[http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/e-koho/Kohobunsyo/2016072246079/opn/1/280729%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E9%81%93%E8%B7%AF%E4%BA%A4%E9%80%9A%E8%A6%8F%E5%89%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%82%92%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%99%E3%82%8B%E8%A6%8F%E5%89%87%EF%BC%88%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E6%9C%AC%E9%83%A8%E4%BA%A4%E9%80%9A%E7%B7%8F%E5%8B%99%E8%AA%B2%EF%BC%89.pdf 大阪府道路交通規則の一部を改正する規則(警察本部交通総務課)]</ref>。三輪であれば利用可能[http://www.pref.osaka.jp/houbun/reiki/reiki_honbun/k2011084001.html#j11]だったが、2016年8月1日より二輪の公道通行が解禁された。 |- !style="background-color:#dfd"|兵庫県 |style="background-color:#dfd"|2008年7月1日一般公道走行解禁。運転者以外の者の用に供する一の乗車装置を備える自転車の運転者が、その乗車装置に1人を乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="hyogo">[http://www.police.pref.hyogo.lg.jp/kunrei/data/B60011.pdf 兵庫県道路交通法施行細則] 兵庫県、2016年12月4日閲覧。</ref>(2人までならば利用可能)。なお、他人の需要に応じ、有償で、自転車を使用して旅客を運送する事業の業務に関し、当該業務に従事する者が、2人以下の人員をその乗車装置に応じて乗車させている場合にも一般公道を走行できる<ref name="hyogo" />(つまり有償運送の場合は運転者のほか旅客2人を乗せて3人乗りまで利用可能)。[[武庫川サイクリングロード]]で18年続いている[[視覚障害者]]など自転車に1人では乗れない人達を交えたイベント「兵庫タンデムサイクリングを楽しむ会」(兵庫県障害者タンデムサイクリング協会主催)による成果といわれる。 |- !style="background-color:#dfd"|奈良県 |style="background-color:#dfd"|2020年4月1日 一般道での走行解禁[http://www.pref.nara.jp/somu-so/jourei/reiki_honbun/k401RG00000954.html#e000001098] |- !style="background-color:#dfd"|和歌山県 |style="background-color:#dfd"|2020年12月20日タンデム自転車(2人乗り用としての構造があり、ペダル装置が縦列に設けられた自転車)の一般公道走行を解禁<ref>[https://www.police.pref.wakayama.lg.jp/02_koutsu/tandem/documents/01.pdf タンデム自転車の2人乗り一般道路走行を解禁] 和歌山県警察、2020年12月24日閲覧</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|鳥取県 |style="background-color:#dfd"|2021年4月1日 一般道での走行解禁[http://www1.g-reiki.net/tottori/reiki_honbun/k500RG00000957.html] |- !style="background-color:#dfd"|島根県 |style="background-color:#dfd"|2017年4月1日一般公道走行解禁<ref>[https://www.pref.shimane.lg.jp/police/02_traffic_safety/bicycle/tandem_bicycle.html タンデム自転車で公道が走れます!] 島根県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|岡山県 |style="background-color:#dfd"|2020年4月1日一般公道走行解禁<ref name="okayama">[https://www.pref.okayama.jp/uploaded/life/671990_5898592_misc.pdf タンデム自転車 走行解禁のお知らせ] 岡山県警察、2020年7月18日閲覧</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|広島県 |style="background-color:#dfd"|2010年10月1日一般公道走行解禁。タンデム車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた自転車に乗車させる場合には2人まで利用可能<ref name="hiroshima">[http://www3.e-reikinet.jp/hiroshima-ken/d1w_reiki/335930100015000000mh/335930100015000000mh/335930100015000000mh_j.html 広島県道路交通法施行細則] 広島県、2016年12月4日閲覧。</ref>。なお、自転車専用道路であれば乗車装置に応じた人員を乗車させることができる<ref name="hiroshima" />。[[加戸守行]]愛媛県知事は7月23日に[[湯崎英彦]]広島県知事にも解禁を提案し、[[広島県]]でも道路交通法施行細則を改正して2010年10月1日からタンデムの公道通行が認められることとなった<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soumu/soumu/kenpo/pdf22/09gatsu/069/20100902280015.pdf 広島県道路交通法施行細則の一部を改正する規則]}}</ref>。これにより両県を結ぶ[[しまなみ海道サイクリングロード]]全線でのタンデムサイクリングが可能となった<ref>{{Cite news|title=タンデム走行可能に 広島県|author=|newspaper=[[中国新聞]]|date=2010-08-11|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008110036.html|accessdate=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100831044654/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008110036.html|archivedate=2010年8月31日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|山口県 |style="background-color:#dfd"|2018年4月1日一般公道走行解禁<ref>[http://www.police.pref.yamaguchi.jp/koutsu/page_d001_000092.html タンデム自転車で県内の一般道路が走れます] 山口県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|徳島県 |style="background-color:#dfd"|2020年10月6日一般公道走行解禁。 |- !style="background-color:#dfd"|香川県 |style="background-color:#dfd"|2021年3月16日 一般道での走行解禁[http://www.pref.kagawa.jp/USERS/s13710/somugakuji/hoki/d1w_reiki/41292510000300000000/41292510000300000000/41292510000300000000_j.html#MOKUJI_111] |- !style="background-color:#dfd"|愛媛県 |style="background-color:#dfd"|2010年8月1日一般公道走行解禁。タンデム車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた二輪又は三輪の自転車に運転者以外の者1人を乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="ehime">[https://www.police.pref.ehime.jp/kitei/reiki_honbun/u227RG00000519.html 愛媛県道路交通規則] 愛媛県、2016年12月4日閲覧。</ref>。なお、自転車専用道路又は自転車歩行者専用道路であれば乗車装置に応じた人員を乗車させることができる<ref name="ehime" />。また、他人の需要に応じ有償で自転車を使用して旅客を運送する事業の業務に従事する者が1人又は2人の者をその乗車装置に応じて乗車させている場合には一般公道を走行できる<ref name="ehime" />(つまり有償運送の場合は運転者のほか旅客2人を乗せて3人乗りまで利用可能)。[[愛媛県]]では[[今治市]]の[[特定非営利活動法人]][http://www.cyclo-shimanami.com/ 「シクロツーリズムしまなみ」]の働き掛けで道路交通規則が改正され、2010年8月1日より県内全域で2人乗りタンデム自転車が解禁された<ref>[http://www.police.pref.ehime.jp/kotsukikaku/tandem/newpage1.html 2人乗りタンデム自転車の一般道路通行について「愛媛県道路交通規則」の一部改正] 2010年8月21日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|高知県 |style="background-color:#dfd"|2018年9月1日一般公道走行解禁<ref>[http://www.police.pref.kochi.lg.jp/_files/00160353/tandemujitensyatirashi-1.pdf タンデム自転車で高知県内の公道が走れます!] 高知県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|福岡県 |style="background-color:#dfd"|2018年9月4日 一般道での走行解禁 |- !style="background-color:#dfd"|佐賀県 |style="background-color:#dfd"|2013年12月1日一般公道走行解禁。タンデム車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダルが縦列に設けられた自転車は一般公道を走行できる<ref name="saga">[https://www.pref.saga.lg.jp/sy-contents/kenseijoho/jorei/reiki_int/reiki_honbun/q201RG00001121.html 佐賀県道路交通法施行細則] 佐賀県、2016年12月4日閲覧。</ref>。なお、他人の需要に応じ、有償で、自転車を使用して旅客を運送する事業の業務に関し、当該業務に従事する者が1人又は2人の者をその乗車装置に応じて乗車させるときも一般公道を走行できる<ref name="saga" />(つまり有償運送の場合は運転者のほか旅客2人を乗せて3人乗りまで利用可能)。2013年6月、[[佐賀市]]出身で[[トライアスロン]]世界選手権の視覚障害者部門で優勝した[[柳川春己]]氏よりタンデム自転車に関する提案を受けた県警は、その後の試走により公道走行に問題がないと判断、同年11月12日の道交法施行細則改正を経て翌月よりタンデム自転車の公道走行が可能となった<ref>{{Cite news|title=2人乗りタンデム自転車12月から公道通行OK(インターネット・アーカイブ:2014年1月8日)|author=|newspaper=[[西日本新聞]]|date=2013年11月13日|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/saga/article/52020|accessdate=2015年12月17日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140108141037/http://www.nishinippon.co.jp/nnp/saga/article/52020|archivedate=2014年1月8日}}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|長崎県 |style="background-color:#dfd"|2021年10月8日 一般道での走行解禁 |- !style="background-color:#dfd"|熊本県 |style="background-color:#dfd"|2020年4月1日 一般道での走行解禁[http://reiki.pref.kumamoto.jp/reiki/Li05_Hon_Dsp.exe?PAGE=1&UTDIR=D:\EFServ2\ss00006317\H00000001&SYSID=860&FNM=q4011235042404011.html#J13] |- !style="background-color:#dfd"|大分県 |style="background-color:#dfd"|2017年3月14日一般公道走行解禁。 |- !style="background-color:#dfd"|宮崎県 |style="background-color:#dfd"|2012年11月12日一般公道走行解禁。タンデム自転車のうち、2人乗り用としての構造を有し、かつ、ペダル装置が縦列に設けられた自転車は一般公道を走行できる<ref>[http://www.pref.miyazaki.lg.jp/police//reiki/33593010000800000000/33593010000800000000/33593010000800000000.html 宮崎県道路交通法施行細則] 宮崎県、2016年12月4日閲覧。</ref>。一般公道の走行を認めていた他県でタンデム自転車による事故がないことや、5回の試験走行で安全性が確認できたことから、県公安委員会が道路交通法施行細則を改正、2012年11月12日にタンデム自転車の一般道路での通行が解禁された<ref>{{Cite news|title=視覚障害者もサイクリング…宮崎でタンデム自転車解禁 : 健康ニュース : yomiDr./ヨミドクター(インターネット・アーカイブ:2013年11月30日)|author=|newspaper=読売新聞|date=2012-11-12|url=http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=67967|accessdate=2015年12月17日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121130194554/http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=67967|archivedate=2012年11月30日}}</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|鹿児島県 |style="background-color:#dfd"|2018年11月1日一般公道走行解禁<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/ja23/documents/68506_20181022163933-1.pdf 平成30年11月1日からタンデム自転車で一般道路が走れます!!] 鹿児島県警察、2019年2月28日閲覧。</ref>。 |- !style="background-color:#dfd"|沖縄県 |style="background-color:#dfd"|2020年9月25日 一般道での走行解禁[https://www.pref.okinawa.jp/reiki/34798010001000000000/34798010001000000000/34798010001000000000.html] |} == タンデム自転車で世界一周した夫妻 == タンデム自転車は、冒険の要素を含んだ[[自転車旅行]]に使用されることがある。日本人では1997年6月から2007年11月の10年5カ月、タンデム自転車で世界88カ国、約10万5000キロを走破した[http://www.pedalian.net/tandem/ 宇都宮一成・トモ子夫妻]<ref>{{Cite news |title=(ニッポン人脈記)自転車でいこうよ:1 |author= |newspaper=朝日新聞 |date=2013-02-25 |url=http://www.asahi.com/culture/articles/TKY201302250077.html|page=1 |accessdate=2013-02-25}}</ref>{{Sfn|宇都宮一成|2010}}や、2004年7月から2005年1月、2007年4月から2009年6月の2回に分けて、タンデム自転車で世界43カ国、約2万6000キロを走行した[http://tandemtravelers.com/ 青木史也・直美夫妻]がいる。 == タンデム自転車で日本一周 == 2021年から2022年にかけてタンデム自転車で日本全国47都道府県、約1万キロを走破したトレートペリピという2人がいる。長年タンデム自転車の走行が禁止されていたため、日本で初めてタンデム自転車で日本一周したことになる。 == 関連書籍 == * {{Cite book |和書|coauthors=トモ子 |author=宇都宮一成 |authorlink= |year=2010 |title=世界でいちばん長いハネムーン : 10年間、88ヶ国をめぐるタンデム自転車の旅 |publisher=風濤社 |page= |id= |isbn=9784892193286|ref=harv }} * {{Cite book |和書|author=青木史也 |authorlink= |year=2010 |title=ちゃんと漕げ! |publisher=彩図社 |page= |id= |isbn=9784883927661|ref=harv }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tandem bicycles}} * [[サイクルトレーラー]] - 通常の車両をタンデム車にすることができる「トレーラーバイク」という形式のものがある。 * [[二輪駆動自転車]] * [[ヤッターマン]] - 悪役の3人が敗北に逃走するときに3人乗り自転車(通称「タンデム自転車」「おしおき三輪車」)を利用するのがお約束となっている。作中の三人乗り自転車は一輪車を三つ連結した形状で、現実のタンデム自転車には見られない構造である。 * [[麒麟戦隊アミノンジャー]] - 「ディザー」と呼ばれる5人乗りタンデム自転車に乗って登場する。 == 外部リンク == * [http://www.cyclo-shimanami.com/ シクロツーリズムしまなみ] * [http://www.markag.co.jp/reiki.htm タンデム自転車 法的な根拠]([http://www.markag.co.jp/ 株式会社紀洋産業]) {{デフォルトソート:たんてむしてんしや}} [[Category:自転車の形態]]
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環境
環境(かんきょう、英語: environment)は、広義においては人、生物を取り巻く家庭・社会・自然などの外的な事の総体であり、狭義ではその中で人や生物に何らかの影響を与えるものだけを指す場合もある。特に限定しない場合、人間を中心とする生物・生態系を取り巻く環境のことである場合が多い。 生物物理学的環境は、生物または個体群を取り巻く生物的および非生物的環境であり、その結果それらの生存、発達および進化に影響を与える要因を含む 。生物物理学的環境は、微視的から地球規模の規模で規模が異なり得る。その属性に応じて細分化することもできる。例としては、海洋環境、大気環境、地球環境などがある 。各生物がそれ自身の環境を持っていることを考えると、生物物理学的環境の数は無数にある。 環境という用語は、人類に関連した単一の地球環境、または英国の環境庁などの地域の生物物理学的環境を指すことがある。 環境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と係わって、安息や仕事の条件として成り立つ。また狭義の環境については、人間が生産と消費の活動によって汚染し、破壊するという関係性の中で大きな環境問題になってきた。 環境保護主義は広い範囲の社会的および哲学的運動であり、それは大部分、生物物理学的環境に対する人間の活動の悪影響を最小限に抑え、補償することを目的としている。環境保護主義者にとっての関心事は通常自然環境に関連しており、より重要なものは気候変動、種の 絶滅、汚染、そして太古からの森林の喪失である。 日本では1971年に環境省の前身である環境庁が発足し、政治課題として環境問題が本格的に取り組まれるようになる。 コトバンクによると、元は中国の11世紀からの用語で、和製漢語になる。 研究者の早田(2003)は、環境は「environment」の訳語として、全国高女協会理事長で大日本優生会の創始者でもある市川源三が、1900年に「パーカー氏統合教授の原理」初出でそれ以前は、「environment」の訳語として「環象」「外界」などが使用されたとしている。 また、研究者の長沼(2008)は『「環境」をめぐる言語的「メタ環境」 : 翻訳語と文法的比喩』の中で、大正11年(1922年)に初版が出された『齋藤英和辭典』には environment の訳語として「環境」が登場してくる。レイチェル・カーソン(Rachel Carson)が Silent Spring を世に問うたのが1962年である。そして、その邦訳が2年後に日本で出版されている。この翻訳書は、1964年に刊行された青樹簗一訳『生と死の妙薬』である。その後、文庫本としてタイトルが『沈黙の春』と改題され、この短い段落で、surrounding が2回、environment が1回使用されているが、すべて「環境」と訳出されている。 1961年設立の環境開発センターにすぐに入所した田村明は「浅田孝の戦略」《都市計画家 Planners No.14》 1997 p.7で「単に建物をつくる、道路をつくるのではなく、より良い環境を創るといった意味で当時としては 極めてユニークだった『環境』という言葉を使っています。環境という言葉は当時は環境衛生程度の理解しか一般的にはなかった頃のことです。『随分、し尿処理会社と間違えられたよ』と浅田さんは言っていました。」と答えている。 小林治人「環境デザインと設景」(『設景 その発想と展開』1996年、マルモ出版所収)にも「私の記憶では「環境」という言葉が日本で、計画設計の対象として用いられたのは、東京都によって実施された「代々木公園計画設計懸賞募集」(1964年)に端を発していると思う。当時、環境という言葉に触れた多くの人々が、環境衛生というとらえ方をするのが普通の状況下にあった。私たち環境計画研究グループのメンバーの集合場所に「環境計画研究室」と貼り紙をしておいたら、衛生器材のセールスマンが訪れて来たという時代であった。」とある。 生き残ったすべての生命はその環境の条件に順応したに違いない。温度、光、湿度、土壌栄養素などはすべて、あらゆる環境内のあらゆる種に影響を与える。しかし、人生は今度はその状態をさまざまな形で修正する。大気中への酸素の混入など、私たちの惑星の歴史に沿ったいくつかの長期的な修正は重要である。このプロセスは、その代謝に炭素を使用して大気中に酸素を放出する嫌気性微生物による二酸化炭素の分解で構成されていた。これは酸素ベースの植物と動物の生命、大きな酸素化現象の存在につながった。 環境科学は生物物理学的環境内の相互作用の研究である。この科学分野の一部は、環境に対する人間の活動の影響の調査である。生態学、生物学の下位分野、および環境科学の一部は、人間の環境への影響の研究として誤っていることがよくあります。環境研究は、人間と彼らの環境との相互作用の体系的な研究である、より広い学問分野である。それは自然環境、造られた環境および社会的環境を含む広い研究分野である。 関連する研究の一つは、生物物理学的環境を研究するために地理情報科学を採用することを含む。 環境の中でも主に自然に関する諸問題を環境問題という。生物とそれを取り巻く環境との学問を生態学という。 自然とは山や川、木々や草花、動物、気象などであり、それと区別して人為的に作られた造形物、例えば、建物、道路、家具などは物的な環境として挙げられる。 エコロジー、食文化と関係した環境の問題については、各記事を参考のこと。 より厳密に考えると、環境とは、あるものを主体にとった場合における、それを取り巻き、直接間接に関係を持つものすべてを指すものである。したがって、主体をどう取るかによってその内容が変化する。 たとえば動物の種を主体に考えた場合、その種を取り巻く他種の生物との関係(食物連鎖や競争関係など)、それにその周囲の物理的・化学的条件が環境として挙げられる。しかし、その種の中の一個体を取り上げた場合、これに加えて種内の個体間の関係(個体群密度や家族など)を環境条件として考えなければならない。たとえばある個体群の増加率はその密度に依存する場合があり、これを密度効果と呼ぶ。 例えば、公害病として有名な水俣病を例に挙げる。 この病気の原因は、チッソ水俣工場の廃液に含まれた水銀が水俣湾の生態系に取り込まれ、食物連鎖を通じて変化、濃縮された上で地域住民がそれを摂取し、その毒性によって発病するものである。いわゆる公害病というのは、このように人間が原因物質等を作り、それが直接に人間に来るのではなく、その地域の生物群集に取り込まれ、生態系の循環を通じて再び人間に取り込まれたときに、そこではじめて結果が表れるものである。公害というのは、公の害、つまり人間の働きで環境に働きかけたしっぺ返しが人間に戻ってきた、という把握に基づく。つまり、環境の主体を人間ととらえ、人間がそれを取り巻く環境を汚染したため、その悪影響を人間自身が受けた、と見るわけである。 しかし、この病気の被害者を主体に見れば、話は大きく食い違うことになる。その場合、チッソ水俣工場という一部の人間(企業)の活動が、海を汚した結果、その環境汚染の影響で有毒となった魚を食べた食物連鎖を通してネコや漁民が被害を受けた、という風になる。この場合、明らかにチッソ水俣工場側が加害者、漁民が被害者の立場となる。この結果の差は、人間集団内の差異を視野に入れるかどうかに関わっている。 ただ、いずれの立場を取るにせよ、人間を取り巻く環境を含めて考えなければならない問題ではあるので、それを環境問題というのは間違いではない。しかし、環境という言葉が内容を曖昧にするのに役立っている側面を忘れてはならない。 2006年は水俣病公式認定50周年にあたり、時の環境大臣の小池百合子が政府として公式謝罪した。 人間集団を主体にとった場合には、以下のようなものが環境として取り上げられるであろう。 集団内の個人を取り上げた場合、さらに次のようなものが取り上げられる。 依然課題として残る環境問題として以下のようなものが挙げられる。
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環境は、広義においては人、生物を取り巻く家庭・社会・自然などの外的な事の総体であり、狭義ではその中で人や生物に何らかの影響を与えるものだけを指す場合もある。特に限定しない場合、人間を中心とする生物・生態系を取り巻く環境のことである場合が多い。 生物物理学的環境は、生物または個体群を取り巻く生物的および非生物的環境であり、その結果それらの生存、発達および進化に影響を与える要因を含む。生物物理学的環境は、微視的から地球規模の規模で規模が異なり得る。その属性に応じて細分化することもできる。例としては、海洋環境、大気環境、地球環境などがある。各生物がそれ自身の環境を持っていることを考えると、生物物理学的環境の数は無数にある。 環境という用語は、人類に関連した単一の地球環境、または英国の環境庁などの地域の生物物理学的環境を指すことがある。 環境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と係わって、安息や仕事の条件として成り立つ。また狭義の環境については、人間が生産と消費の活動によって汚染し、破壊するという関係性の中で大きな環境問題になってきた。 環境保護主義は広い範囲の社会的および哲学的運動であり、それは大部分、生物物理学的環境に対する人間の活動の悪影響を最小限に抑え、補償することを目的としている。環境保護主義者にとっての関心事は通常自然環境に関連しており、より重要なものは気候変動、種の 絶滅、汚染、そして太古からの森林の喪失である。 日本では1971年に環境省の前身である環境庁が発足し、政治課題として環境問題が本格的に取り組まれるようになる。
{{出典の明記|date=2018年9月}} {{otheruses}} '''環境'''(かんきょう、{{lang-en|'''environment'''}})は、広義においては[[人間|人]]、[[生物]]を取り巻く[[家庭]]・[[社会]]・[[自然]]などの外的な事の総体であり、狭義ではその中で人や生物に何らかの影響を与えるものだけを指す場合もある。特に限定しない場合、人間を中心とする生物・[[生態系]]を取り巻く環境のことである場合が多い。 '''生物物理学的環境'''は、生物または[[個体群]]を取り巻く[[生命|生物的]]および非生物的'''環境'''であり、その結果それらの生存、発達および[[進化]]に影響を与える要因を含む <ref>{{Cite web|author=Biology online|title=''Environment. Definition''|url=http://www.biology-online.org/dictionary/Environment|accessdate=2012-03-15}}</ref>。生物物理学的環境は、[[微視的]]から地球規模の規模で規模が異なり得る。その属性に応じて細分化することもできる。例としては、[[大洋|海洋環境]]、[[大気圏|大気環境]]、[[大気圏|地球環境]]などがある <ref>{{Cite book|last=Kemp|first=David Walker|author-link=|title=Environment Dictionary|publisher=[[Routledge]]|year=1998|location=London, UK|pages=|url=|doi=|id=|isbn=}}</ref>。各生物がそれ自身の環境を持っていることを考えると、生物物理学的環境の数は無数にある。 環境という用語は、[[ヒト|人類]]に関連した単一の地球環境、または英国の環境庁などの地域の生物物理学的環境''を指すことがある。 環境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と係わって、安息や仕事の条件として成り立つ。また狭義の環境については、人間が生産と消費の活動によって[[汚染]]し、[[破壊]]するという関係性の中で大きな環境問題になってきた。 環境保護主義は広い範囲の社会的および哲学的運動であり、それは大部分、生物物理学的環境に対する人間の活動の悪影響を最小限に抑え、補償することを目的としている。[[環境保護]]主義者にとっての関心事は通常自然環境に関連しており、より重要なものは[[気候変動]]、[[種 (分類学)|種]]の [[絶滅]]、[[汚染]]、そして太古からの[[森林]]の[[喪失]]である。 日本では[[1971年]]に[[環境省]]の前身である[[環境庁]]が発足し、政治課題として環境問題が本格的に取り組まれるようになる。 == 「環境」という用語 == コトバンクによると<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%92%B0%E5%A2%83-2488 環境] コトバンク</ref>、元は中国の11世紀からの用語で、和製漢語になる。 研究者の早田(2003)は、環境は「environment」の訳語として、全国高女協会理事長で大日本優生会の創始者でもある市川源三が、1900年に「パーカー氏統合教授の原理<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/810643 パーカー氏統合教授の原理]</ref>」初出でそれ以前は、「environment」の訳語として「環象」「外界」などが使用されたとしている<ref>{{Cite journal|和書 |author=早田宰 |title=日本における用語「環境」の導入過程 |journal=早稲田社会科学総合研究 |issn=13457640 |publisher=早稲田大学社会科学学会 |year=2003 |month=mar |volume=3 |issue=3 |pages=65-72 |naid=110000975599 |url=https://hdl.handle.net/2065/10011}}</ref>。 また、研究者の長沼(2008)は『「環境」をめぐる言語的「メタ環境」 : 翻訳語と文法的比喩』の中で、大正11年(1922年)に初版が出された『齋藤英和辭典』には environment の訳語として「環境」が登場してくる。[[レイチェル・カーソン]](Rachel Carson)が Silent Spring を世に問うたのが1962年である。そして、その邦訳が2年後に日本で出版されている。この翻訳書は、1964年に刊行された青樹簗一訳『生と死の妙薬』である。その後、文庫本としてタイトルが『[[沈黙の春]]』と改題され、この短い段落で、surrounding が2回、environment が1回使用されているが、すべて「環境」と訳出されている。<ref>{{Cite journal|和書 |author=長沼美香子 |title= 「環境」をめぐる言語的「メタ環境」 : 翻訳語と文法的比喩 |journal=異文化コミュニケーション論集 |issn=13488422 |publisher=立教大学 |year=2008 |issue=6 |pages=33-45 |naid=110007704248 |url=http://id.nii.ac.jp/1062/00005181/}}</ref> 1961年設立の環境開発センターにすぐに入所した[[田村明]]は「浅田孝の戦略」《都市計画家 Planners No.14》 1997 p.7で「単に建物をつくる、道路をつくるのではなく、より良い環境を創るといった意味で当時としては 極めてユニークだった『環境』という言葉を使っています。環境という言葉は当時は環境衛生程度の理解しか一般的にはなかった頃のことです。『随分、し尿処理会社と間違えられたよ』と浅田さんは言っていました。」と答えている。 小林治人「環境デザインと設景」(『設景 その発想と展開』1996年、マルモ出版所収)にも「私の記憶では「環境」という言葉が日本で、計画設計の対象として用いられたのは、東京都によって実施された「[[代々木公園]]計画設計懸賞募集」(1964年)に端を発していると思う。当時、環境という言葉に触れた多くの人々が、環境衛生というとらえ方をするのが普通の状況下にあった。私たち環境計画研究グループのメンバーの集合場所に「環境計画研究室」と貼り紙をしておいたら、衛生器材のセールスマンが訪れて来たという時代であった。」とある。 == 生活環境の相互作用 == 生き残ったすべての生命はその環境の条件に順応したに違いない。温度、光、湿度、土壌栄養素などはすべて、あらゆる環境内のあらゆる種に影響を与える。しかし、人生は今度はその状態をさまざまな形で修正する。[[地球の大気|大気中]]への[[酸素]]の混入など、私たちの惑星の歴史に沿ったいくつかの長期的な修正は重要である。このプロセスは、その[[代謝]]に炭素を使用して大気中に酸素を放出する[[嫌気性生物|嫌気性微生物]]による[[二酸化炭素]]の分解で構成されていた。これは酸素ベースの植物と動物の生命、大きな酸素化現象の存在につながった。 == 関連する研究 == [[ファイル:20120623_Sqwiki_the_Squirrel_at_Wiknic.JPG|サムネイル|公共公園の生態系には、野生生物に餌をやる人間が含まれることがよくある。]] [[環境学|環境科学]]は生物物理学的環境内の相互作用の研究である。この科学分野の一部は、環境に対する人間の活動の影響の調査である。[[生態学]]、生物学の下位分野、および環境科学の一部は、人間の環境への影響の研究として誤っていることがよくあります。環境研究は、人間と彼らの環境との相互作用の体系的な研究である、より広い[[学問]]分野である。それは[[自然環境]]、[[建造環境|造られた環境]]および[[社会環境|社会的環境]]を含む広い研究分野である。 関連する研究の一つは、生物物理学的環境を研究するために地理情報科学を採用することを含む。<ref>Deng, Y. X., and J. P. Wilson. 2006. “The Role of Attribute Selection in GIS Representations of the Biophysical Environment”. ''Annals of the Association of American Geographers'' 96 (1). [Association of American Geographers, Taylor & Francis, Ltd.]: 47-63. {{JSTOR|3694144}}.</ref> == 様々な用法 == *[[精神医学]]や[[心理学]]では、人に関わる[[家族]]、[[友人]]、[[顧客]]を人的環境という。 *[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]においては、[[オペレーティングシステム]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の設定を環境設定などと呼ぶことがある。 *[[言語学]]では、語や文のもつ[[音声]]、[[形態素]]、意義素などから構成される特定の条件であり、語形、[[統語論|統辞]]、[[意味]]の形成や、通時的な音韻変化などを左右するもののこと。 環境の中でも主に[[自然]]に関する諸問題を[[環境問題]]という。[[生物]]とそれを取り巻く環境との学問を[[生態学]]という。 自然とは[[山]]や[[川]]、[[木]]々や[[草花]]、[[動物]]、[[気象]]などであり、それと区別して人為的に作られた造形物、例えば、[[建物]]、[[道路]]、[[家具]]などは[[物的]]な環境として挙げられる。 [[エコロジー]]、[[食文化]]と関係した環境の問題については、各記事を参考のこと。 == 主体をどうとらえるか == より厳密に考えると、環境とは、あるものを主体にとった場合における、それを取り巻き、直接間接に関係を持つものすべてを指すものである。したがって、主体をどう取るかによってその内容が変化する。 たとえば[[動物]]の[[種 (分類学)|種]]を主体に考えた場合、その種を取り巻く他種の生物との関係([[食物連鎖]]や競争関係など)、それにその周囲の[[物理]]的・[[化学]]的条件が環境として挙げられる。しかし、その種の中の一個体を取り上げた場合、これに加えて種内の[[個体]]間の関係(個体群密度や[[家族]]など)を環境条件として考えなければならない。たとえばある個体群の増加率はその密度に依存する場合があり、これを[[密度効果]]と呼ぶ。 === 公害病 === 例えば、[[公害病]]として有名な[[水俣病]]を例に挙げる。 この病気の原因は、[[チッソ]]水俣工場の[[排水|廃液]]に含まれた[[水銀]]が[[水俣湾]]の[[生態系]]に取り込まれ、[[食物連鎖]]を通じて変化、濃縮された上で地域住民がそれを[[摂取]]し、その[[毒性]]によって[[発病]]するものである。いわゆる[[公害病]]というのは、このように人間が原因物質等を作り、それが直接に人間に来るのではなく、その地域の[[生物群集]]に取り込まれ、生態系の[[循環]]を通じて再び人間に取り込まれたときに、そこではじめて結果が表れるものである。公害というのは、公の害、つまり人間の働きで環境に働きかけたしっぺ返しが人間に戻ってきた、という把握に基づく。つまり、環境の主体を人間ととらえ、人間がそれを取り巻く環境を汚染したため、その悪影響を人間自身が受けた、と見るわけである。 しかし、この病気の被害者を主体に見れば、話は大きく食い違うことになる。その場合、チッソ水俣工場という一部の人間(企業)の活動が、[[海]]を汚した結果、その環境汚染の影響で[[有毒]]となった[[魚]]を食べた食物連鎖を通して[[ネコ]]や[[漁民]]が被害を受けた、という風になる。この場合、明らかにチッソ水俣工場側が加害者、漁民が被害者の立場となる。この結果の差は、人間集団内の差異を視野に入れるかどうかに関わっている。 ただ、いずれの立場を取るにせよ、人間を取り巻く環境を含めて考えなければならない問題ではあるので、それを環境問題というのは間違いではない。しかし、環境という言葉が内容を曖昧にするのに役立っている側面を忘れてはならない。 [[2006年]]は水俣病公式認定50周年にあたり、時の[[環境大臣]]の[[小池百合子]]が政府として公式謝罪した。 == 具体的内容 == 人間集団を主体にとった場合には、以下のようなものが環境として取り上げられるであろう。 * [[気候]]・[[日照]]・[[温度]]条件など * 雨量・水環境 * 化学物質・[[環境汚染]] * 植生帯・[[生物群集]] * 農産物・収穫可能な生物 * 外敵・[[害虫]]・[[病気]]・[[寄生虫]] * [[政治]][[経済]]の状況 * [[民族]]問題・周辺諸国との関係 集団内の個人を取り上げた場合、さらに次のようなものが取り上げられる。 * [[生活環境]] * 教育環境 * 家庭環境 * [[情報環境]] * [[騒音問題]] * [[景観]] == 課題 == 依然課題として残る環境問題として以下のようなものが挙げられる。 *[[生物多様性]]保護 *[[地球温暖化]] *[[オゾン層]]保護 *[[大気]]環境の保全 *[[水]]環境 *[[土壌]]環境 *[[森林]]保全・[[植林]] *[[地盤]]環境の保全 *[[廃棄物]]対策 *[[リサイクル]]などによる[[物質]][[循環資源|循環]]の推進 *[[化学物質]]対策 *[[海岸浸食]]対策([[流砂]]・[[漂砂]]) *[[自然環境]]の保全と[[自然]]とのふれあいの推進 *環境施策/[[環境政策]] *各主体の参加 *[[国際協力]]に係る施策 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 門脇仁 [https://books.google.co.jp/books?id=1KDbRm1KM-AC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false ポケット図解最新環境問題の基本がわかる本] 秀和システム * 才木義夫 [https://books.google.co.jp/books?id=54x7pTXVhG8C&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false 地球環境を守るために] Kanagawa-shimbun * {{Cite book|last=Miller|first=G. Tyler|author-link=|title=Environmental science|publisher=[[Cengage Learning#Brands.2Fimprints|Wadsworth]]|year=1995|location=California|pages=|url=|doi=|id=|isbn=0-534-21588-2}} <bdi> {{Cite book|last=Miller|first=G. Tyler|author-link=|title=Environmental science|publisher=[[Cengage Learning#Brands.2Fimprints|Wadsworth]]|year=1995|location=California|pages=|url=|doi=|id=|isbn=0-534-21588-2}} </bdi> {{Cite book|last=Miller|first=G. Tyler|author-link=|title=Environmental science|publisher=[[Cengage Learning#Brands.2Fimprints|Wadsworth]]|year=1995|location=California|pages=|url=|doi=|id=|isbn=0-534-21588-2}} * {{Cite journal|last=McCallum|first=Malcolm L.|last2=Gwendolynn W. Bury|title=Google search patterns suggest declining interest in the environment.|journal=Biodiversity and Conservation|doi=10.1007/s10531-013-0476-6}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|環境|[[Image:Gnome-globe.svg|32px|ウィキポータル 環境]]}} {{Sisterlinks|環境 |commons=Category:Environment |wikinews=Category:環境 |wikiquote=自然 |wiktionary=環境 |wikiversity=Category:環境 }} * [[公害]] * [[環境権]] * [[環境運動]] * [[環境負荷]] * 状況に応じた[[生物物理学]] * 保全トピックス一覧 * [[環境問題|環境問題一覧]] * [[環境問題関連の記事一覧|環境トピック一覧]] *[[環境デザイン]] {{DEFAULTSORT:かんきよう}} [[Category:環境|*]] [[Category:資源]] [[Category:生態系]] [[Category:生物学用語]] * {{Commonscat-inline|Environment}} {{公衆衛生}}
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ライフゲーム
ライフゲーム (Conway's Game of Life) は1970年にイギリスの数学者ジョン・ホートン・コンウェイ (John Horton Conway) が考案した生命の誕生、進化、淘汰などのプロセスを簡易的なモデルで再現したシミュレーションゲームである。単純なルールでその模様の変化を楽しめるため、パズルの要素を持っている。 生物集団においては、過疎でも過密でも個体の生存に適さないという個体群生態学的な側面を背景に持つ。セル・オートマトンのもっともよく知られた例でもある。 我々が暮らす空間、さらには時間が連続的なものであるか、それとも非連続的なものであるのか、という問いはギリシア時代から思索の対象となってきた。セル・オートマトンはその問いに答えるものではないが、空間、時間が不連続であった場合、どのような世界が形成されるのかを示してくれる。 セル・オートマトンは、四角形などのセルによって分割された空間において、時間に最小単位が存在する場合の計算モデルである。1940年代にジョン・フォン・ノイマンとスタニスワフ・ウラムによって考案された。当時はコンピュータが発明された直後であり、セル・オートマトンの研究は、方眼紙と筆記具によるものである。フォン・ノイマンの関心は自己複製機械にあり、2次元セル・オートマトンによる自己複製機械の例を1952年に示している。 セル・オートマトンが研究者以外の興味をひくきっかけとなったのが、ライフゲームである。1970年10月の『サイエンティフィック・アメリカン』誌のマーチン・ガードナーのコラム上で紹介されたところ多くの反響を呼んだ。サイエンティフィック・アメリカン誌が読者からの手紙を中心とした記事を何度も組んだほどである。 ライフゲームの考案後すぐに、移動物体であるグライダーパターンと、長寿型のR-ペントミノパターンが発見された。当時は、このようなゲームの研究を目的として、コンピュータを利用できたのは限られた人々であったが、それらの人々の間にライフゲームは流行した。夜間あるいは未使用のコンピュータ上でライフゲームのプログラムが動かされることとなり、興味深いパターンが多数発見された。後にマイクロコンピュータの普及により、一定の人気を持つアプリケーションとして現在に至っている。 その後、セル・オートマトンの研究はライフゲームのような2次元のタイプではなく、1次元を中心に進んだ。1980年には、スティーブン・ウルフラムによって1次元セル・オートマトンの4分類が完成し、クリストファー・ラングトンによって「カオスの縁」と呼ばれる概念が確立した。3次元以上のセル・オートマトンも研究対象となっている。 ライフゲームでは初期状態のみでその後の状態が決定される。碁盤のような格子があり、一つの格子はセル(細胞)と呼ばれる。各セルには8つの近傍のセルがある (ムーア近傍) 。各セルには「生」と「死」の2つの状態があり、あるセルの次のステップ(世代)の状態は周囲の8つのセルの今の世代における状態により決定される。 セルの生死は次のルールに従う。 下に中央のセルにおける次のステップでの生死の例を示す。生きているセルは■、死んでいるセルは□で表す。 ライフゲームでは世代を経ることで最終的に死滅する図形もある。 生き延びる場合の変化は4パターンに分類することができる。 コンウェイは「生きたセルの数が無限に増えつづけるパターンはありうるか」という問題に50ドルの懸賞金をかけた。コンウェイ自身は、そのようなパターンとして「周期的だが次々にグライダーを打ち出すもの」や「移動しながら通過した後に破片を残すもの」の存在を予想し、前者を「グライダー銃」、後者を「シュシュポッポ列車」と呼んだ。1970年11月、ビル・ゴスパー(英語版)らは、初めてグライダー銃の具体例を挙げて賞金を獲得した。後にシュシュポッポ列車の具体例も与えられている。繁殖型としては、移動しながらグライダーを打ち出す「宇宙の熊手」(space rake) と呼ばれるものや、四方に向かって成長する「マックス」と呼ばれるものなど、様々なパターンが見付かっている。 4つの分類における単純な例を以下に示す。 (GIFアニメ) 周期が2で発生しやすい振動子には以下のようなものがある。 周期が3以上のものでは、以下のようなものがある。 繁殖型の中には時間の2乗に比例した増加を示すパターンがありそれらは「ブリーダー」と呼ばれる。これもゴスパーにより発見された。 繁殖型には後にもっと単純なものが見つかっている。次の3つはいずれも、無限に増え続けるパターンに成長する初期配置である。1つ目のパターンは初期配置ではわずか10個のセルしか生きておらず(これが最少であることが証明されている)、2つ目のパターンは5×5に収まっている。3つ目のパターンはわずか1列である。(いずれも「スイッチ機関車」をベースとしたパターンになる。初期配置は小さいが、成長過程は単純ではない) 成長過程が単純なものとしては、以下のようなシュシュポッポ列車がある。 このパターンは、後方にブリンカーを残してゆく(図では2列が既に現れている)。 非常に長い間変化を続ける長寿型(メトセラ)と呼ばれるパターンがある。「ダイハード」は130世代後に死滅するパターンであり、「どんぐり」(acorn) は13個のグライダーを生み出すのに5206世代かかるパターンである。 オリジナルのライフゲーム以外にも様々な新しいルールを考えることができる。 周囲に3つの隣人がいれば生命が誕生し、周囲に2つか3つの隣人がいれば生き残り、それ以外の場合では死ぬというルールである標準のライフゲームを23/3と表す。最初の数 (2,3) は生き残るために必要な数を表し、次の数 (3) は生命の誕生に必要な数を表す。従って16/6は、「1つあるいは6つの隣人がいれば生き残り、6つの隣人がいればセルが誕生する」ことを意味する。 バリエーションの中では、23/36が有名である。HighLifeと呼ばれ、オリジナルのルールに加えて、6つの隣人がいれば誕生するというルールを付け加えたものである。 また、一般的なライフゲームでうまくいかない点を研究するために、3-4Life (34/34) などの変則ルールが多数作られている。 また、「2次元平面とムーア近傍」以外の空間における、類似したルールによるセル・オートマトン、といったものも考えることができる。 ライフゲームはチューリング完全であり、チューリングマシンと同等の計算能力を持つ。これは、ライフゲームのパターンで計算機を形成し、その上でプログラムを実行する事が可能である事を示している。 計算機を構成するために必要な要素として、グライダーなどのパターンの組み合わせでAND、OR、NOTなどの論理ゲートを構築できる。グライダーを利用することで他のオブジェクトとの相互作用を得られる。例えばブロックを近くに運んできたり遠くへ移動させたりすることができる。この移動機構はカウンタとして利用できる。 他にも様々な計算能力を持つパターンが発見されている。素数/乱数生成器や、ライフゲームを用いてライフゲームを計算する "Unit cell" などは、実際に動作する計算機としてのライフゲームの例である。
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ライフゲーム は1970年にイギリスの数学者ジョン・ホートン・コンウェイ が考案した生命の誕生、進化、淘汰などのプロセスを簡易的なモデルで再現したシミュレーションゲームである。単純なルールでその模様の変化を楽しめるため、パズルの要素を持っている。 生物集団においては、過疎でも過密でも個体の生存に適さないという個体群生態学的な側面を背景に持つ。セル・オートマトンのもっともよく知られた例でもある。
{{Otheruseslist|簡易的な生物のシミュレーションゲーム|ゲーム上での残り機体数などの表示|ライフ (コンピュータゲーム)|ライブ中継のカジノゲーム|ライブゲーム|ボードゲーム|人生ゲーム}} {{脚注の不足|date=2018年8月}} [[ファイル:Pulsator.gif|thumb|[[ペンタデカスロン]]と呼ばれる循環パターン([[振動子 (ライフゲーム)|振動子]])のひとつ([[GIFアニメ]])]] '''ライフゲーム''' ({{Lang|en|Conway's Game of Life}}<ref>英語で単に {{Lang|en|"The Game of Life"}} とした場合、[[ハズブロ]]が販売している[[ボードゲーム]]と同名(日本では「[[人生ゲーム]]」)だが、これとは全く無関係である。これと区別するため、ライフゲームを {{Lang|en|"Conway's Game of Life"}} 、人生ゲームを {{Lang|en|"Hasbro's Game of Life"}} とも呼ぶ。</ref>) は[[1970年]]に[[イギリス]]の[[数学者]][[ジョン・ホートン・コンウェイ]] ({{Lang|en|John Horton Conway}}) が考案した[[数理モデル]]である。単純なルールから複雑な結果が生成され、[[パズル]]や[[ミニスケープ]]の要素を持っている。[[生命]]の誕生、[[進化]]、[[選択 (進化)|淘汰]]などのプロセスを連想させるパターンも存在し、[[シミュレーションゲーム]]と分類される場合がある。 生物集団においては、過疎でも過密でも個体の生存に適さないという[[個体群生態学]]的な側面を背景に持つ。[[セル・オートマトン]]のもっともよく知られた例でもある。 == 概要 == 我々が暮らす空間、さらには時間が連続的なものであるか、それとも非連続的なものであるのか、という問いはギリシア時代から思索の対象となってきた。[[セル・オートマトン]]はその問いに答えるものではないが、空間、時間が不連続であった場合、どのような世界が形成されるのかを示してくれる。 セル・オートマトンは、四角形などのセルによって分割された空間において、時間に最小単位が存在する場合の[[計算模型|計算モデル]]である。1940年代に[[ジョン・フォン・ノイマン]]と[[スタニスワフ・ウラム]]によって考案された。当時は[[コンピュータ]]が発明された直後であり、セル・オートマトンの研究は、方眼紙と筆記具によるものである。フォン・ノイマンの関心は[[自己複製]]機械にあり、2次元セル・オートマトンによる自己複製機械の例を[[1952年]]に示している。 セル・オートマトンが研究者以外の興味をひくきっかけとなったのが、ライフゲームである。1970年10月の『[[サイエンティフィック・アメリカン]]』誌の[[マーチン・ガードナー]]のコラム上で紹介されたところ多くの反響を呼んだ。サイエンティフィック・アメリカン誌が読者からの手紙を中心とした記事を何度も組んだほどである。 ライフゲームの考案後すぐに、[[移動物体 (ライフゲーム)|移動物体]]であるグライダーパターンと、[[長寿型 (ライフゲーム)|長寿型]]のR-ペントミノパターンが発見された。当時は、このようなゲームの研究を目的として、コンピュータを利用できたのは限られた人々であったが、それらの人々の間にライフゲームは流行した。夜間あるいは未使用のコンピュータ上でライフゲームの[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]が動かされることとなり、興味深いパターンが多数発見された。後に[[マイクロコンピュータ]]の普及により、一定の人気を持つアプリケーションとして現在に至っている。 その後、セル・オートマトンの研究はライフゲームのような2次元のタイプではなく、1次元を中心に進んだ。[[1980年]]には、[[スティーブン・ウルフラム]]によって1次元セル・オートマトンの4分類が完成し、[[クリストファー・ラングトン]]によって「[[カオスの縁]]」と呼ばれる概念が確立した。3次元以上のセル・オートマトンも研究対象となっている。 == ライフゲームのルール == ライフゲームでは初期状態のみでその後の状態が決定される。[[碁盤]]のような格子があり、一つの格子はセル(細胞)と呼ばれる。各セルには8つの近傍のセルがある (ムーア近傍) 。各セルには「生」と「死」の2つの状態があり、あるセルの次のステップ(世代)の状態は周囲の8つのセルの今の世代における状態により決定される。 セルの生死は次のルールに従う。 ;誕生 :死んでいるセルに隣接する生きたセルがちょうど3つあれば、次の世代が誕生する。 ;生存 :生きているセルに隣接する生きたセルが2つか3つならば、次の世代でも生存する。 ;過疎 :生きているセルに隣接する生きたセルが1つ以下ならば、過疎により死滅する。 ;過密 :生きているセルに隣接する生きたセルが4つ以上ならば、過密により死滅する。 下に中央のセルにおける次のステップでの生死の例を示す。生きているセルは■、死んでいるセルは□で表す。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |+ライフゲームの基本ルール !誕生!!生存(維持)!!死(過疎)!!死(過密) |- |[[ファイル:Game of life 3x3 cell arises.svg]] |[[ファイル:Game_of_life_block_with_border.svg]] |[[ファイル:Game of life 3x3 cell dies2.svg]] |[[ファイル:Game of life 3x3 cell dies1.svg]] |} == パターンの例 == ライフゲームでは世代を経ることで最終的に死滅する図形もある。 生き延びる場合の変化は4パターンに分類することができる。 *[[固定物体 (ライフゲーム)|固定物体]]は世代が進んでも同じ場所で形が変わらないものを指す。 *[[振動子 (ライフゲーム)|振動子]]はある周期で同じ図形に戻るものを指す。 *[[移動物体 (ライフゲーム)|移動物体]]は一定のパターンを繰り返しながら移動していくものを指す。 *[[繁殖型 (ライフゲーム)|繁殖型]]はマス目が無限であれば無限に増え続けるパターンである。 コンウェイは「生きたセルの数が無限に増えつづけるパターンはありうるか」という問題に50ドルの懸賞金をかけた。コンウェイ自身は、そのようなパターンとして「周期的だが次々にグライダーを打ち出すもの」や「移動しながら通過した後に破片を残すもの」の存在を予想し、前者を「[[グライダー銃]]」、後者を「[[シュシュポッポ列車]]」と呼んだ。1970年11月、{{仮リンク|ビル・ゴスパー|en|Bill Gosper}}らは、初めてグライダー銃の具体例を挙げて賞金を獲得した。後にシュシュポッポ列車の具体例も与えられている。繁殖型としては、移動しながらグライダーを打ち出す「宇宙の熊手」(space rake) と呼ばれるものや、四方に向かって成長する「[[マックス (ライフゲーム)|マックス]]」と呼ばれるものなど、様々なパターンが見付かっている。 4つの分類における単純な例を以下に示す。 {{See also|ライフゲームの物体一覧}} === 固定物体の例 === {| class="wikitable" style="text-align:center" ![[ブロック (ライフゲーム)|ブロック]]!![[蜂の巣 (ライフゲーム)|蜂の巣]]!![[ボート (ライフゲーム)|ボート]]!![[船 (ライフゲーム)|船]]!![[池 (ライフゲーム)|池]] |- |[[ファイル:Game of life block with border.svg]] |[[ファイル:Game of life beehive.svg]] |[[ファイル:Game of life boat.svg]] |[[ファイル:Game of life 5x5 ship.svg]] |[[ファイル:Game of life 6x6 pond.svg]] |} === 振動子の例 === ([[GIFアニメ]]) 周期が2で発生しやすい振動子には以下のようなものがある。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ![[ブリンカー (ライフゲーム)|ブリンカー]]!![[ヒキガエル (ライフゲーム)|ヒキガエル]]!![[ビーコン (ライフゲーム)|ビーコン]]!![[時計 (ライフゲーム)|時計]] |- |[[ファイル:2-3 O1.gif]] |[[ファイル:2-3 unruhe.gif]] |[[ファイル:2g3 blinker.gif]] |[[ファイル:G3 unruhe.gif]] |} 周期が3以上のものでは、以下のようなものがある。 {| class="wikitable" style="text-align:center" ![[パルサー (ライフゲーム)|パルサー]]!!八角形!![[銀河 (ライフゲーム)|銀河]]!![[ペンタデカスロン]] |- |[[ファイル:JdlV osc 3.225.gif]] |[[ファイル:JdlV osc 5.64.gif]] |[[ファイル:Oscilador8periodos.gif]] |[[ファイル:JdlV osc 15.144.gif]] |} === 移動物体の例 === {| class="wikitable" style="text-align:center" ![[グライダー (ライフゲーム)|グライダー]]!!軽量級[[宇宙船 (ライフゲーム)|宇宙船]]!!中量級宇宙船!!重量級宇宙船 |- |[[ファイル:Game of life glider.svg]] |[[ファイル:Game of life lwss.svg]] | {{Textcell |⬜️⬜️⬜️⬛️⬜️⬜️ |⬜️⬛️⬜️⬜️⬜️⬛️ |⬛️⬜️⬜️⬜️⬜️⬜️ |⬛️⬜️⬜️⬜️⬜️⬛️ |⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬜️ }} | {{Textcell |⬜️⬜️⬜️⬛️⬛️⬜️⬜️ |⬜️⬛️⬜️⬜️⬜️⬜️⬛️ |⬛️⬜️⬜️⬜️⬜️⬜️⬜️ |⬛️⬜️⬜️⬜️⬜️⬜️⬛️ |⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬛️⬜️ }} |} === 繁殖型の例 === {| class="wikitable" style="text-align:center" |+[[グライダー銃]] |- |[[ファイル:Game of life glider gun.svg]] |} [[ファイル:Gospers_glider_gun.gif|thumb|ゴスパーのグライダー銃。30世代毎にグライダーを打ち出す。]] {| class="wikitable" style="width:11em; text-align:center" |+[[シュシュポッポ列車]] |- | {{Textcell |□□□□□■□□□ |□□□□□□■□□ |□□■□□□■□□ |□□□■■■■□□ |□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□ |□□■□□□□□□ |□□□■■□□□□ |□□□□■□□□□ |□□□□■□□□□ |□□□■□□□□□ |□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□ |□□□□□■□□□ |□□□□□□■□□ |□□■□□□■□□ |□□□■■■■□□ }} |} 繁殖型の中には時間の2乗に比例した増加を示すパターンがありそれらは「[[ブリーダー (ライフゲーム)|ブリーダー]]」と呼ばれる。これもゴスパーにより発見された。 繁殖型には後にもっと単純なものが見つかっている。次の3つはいずれも、無限に増え続けるパターンに成長する初期配置である。1つ目のパターンは初期配置ではわずか10個のセルしか生きておらず(これが最少であることが証明されている)、2つ目のパターンは5×5に収まっている。3つ目のパターンはわずか1列である。(いずれも[[スイッチ機関車_(ライフゲーム)#シュシュポッポ列車|「スイッチ機関車」をベースとしたパターン]]になる。初期配置は小さいが、成長過程は単純ではない) {| class="wikitable" style="text-align:center" |[[ファイル:Game of life infinite1.svg]] |[[ファイル:Game of life infinite2.svg]] |- |colspan="2"|[[ファイル:Game of life infinite3.svg]] |} 成長過程が単純なものとしては、以下のようなシュシュポッポ列車がある。 {{Textcell |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□□□■■□□□□ |□□□□□□□□■■■□■■□□□ |□□□□□□□□■■■■■□□□□ |□□□□□□□□□■■■□□□□□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□□□□□□□□■■■■■■■■□ |□■□□□■□□□□□□□□□■□ |□■□□□■□□□□□□□□□■□ |□■□□□■□□□□□□□□■□□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□■□□□■□□□□□□□□■□□ |□■□□□■□□□□□□□□□■□ |□■□□□■□□□□□□□□□■□ |□□□□□□□□■■■■■■■■□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ |□□□□□□□□□■■■□□□□□ |□□□□□□□□■■■■■□□□□ |□□□□□□□□■■■□■■□□□ |□□□□□□□□□□□■■□□□□ |□□□□□□□□□□□□□□□□□ }} このパターンは、後方にブリンカーを残してゆく(図では2列が既に現れている)。 === 長寿型の例 === 非常に長い間変化を続ける[[長寿型 (ライフゲーム)|長寿型]](メトセラ)と呼ばれるパターンがある。「[[ダイハード (ライフゲーム)|ダイハード]]」は130世代後に死滅するパターンであり、「[[どんぐり (ライフゲーム)|どんぐり]]」(acorn) は13個のグライダーを生み出すのに5206世代かかるパターンである。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !ダイハード!!どんぐり |- |[[ファイル:Game of life diehard.svg]] |[[ファイル:Game of life methuselah.svg]] |} == バリエーション == オリジナルのライフゲーム以外にも様々な新しいルールを考えることができる。 周囲に3つの隣人がいれば生命が誕生し、周囲に2つか3つの隣人がいれば生き残り、それ以外の場合では死ぬというルールである標準のライフゲームを23/3と表す。最初の数 (2,3) は生き残るために必要な数を表し、次の数 (3) は生命の誕生に必要な数を表す。従って16/6は、「1つあるいは6つの隣人がいれば生き残り、6つの隣人がいればセルが誕生する」ことを意味する。 バリエーションの中では、23/36が有名である。{{Lang|en|HighLife}}と呼ばれ、オリジナルのルールに加えて、6つの隣人がいれば誕生するというルールを付け加えたものである。 また、一般的なライフゲームでうまくいかない点を研究するために、3-4Life (34/34) などの変則ルールが多数作られている。 また、「2次元平面とムーア近傍」以外の空間における、類似したルールによるセル・オートマトン、といったものも考えることができる。<ref>いくつかの例が{{NAID|40000002718}}にある。</ref> == ライフゲームを用いた計算機 == ライフゲームは[[チューリング完全]]であり、[[チューリングマシン]]と同等の計算能力を持つ。これは、ライフゲームのパターンで計算機を形成し、その上でプログラムを実行する事が可能である事を示している。 計算機を構成するために必要な要素として、グライダーなどのパターンの組み合わせで[[論理積|AND]]、[[論理和|OR]]、[[否定|NOT]]などの[[論理ゲート]]を構築できる。グライダーを利用することで他のオブジェクトとの相互作用を得られる。例えばブロックを近くに運んできたり遠くへ移動させたりすることができる。この移動機構は[[カウンタ]]として利用できる。 他にも様々な計算能力を持つパターンが発見されている。素数/乱数生成器や、ライフゲームを用いてライフゲームを計算する "Unit cell" などは、実際に動作する計算機としてのライフゲームの例である。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == *{{Cite book|和書|author=A・K・デュードニー|authorlink=A・K・デュードニー|year=1995|month=6|title=遊びの展開 コンピューターレクリエーション4|series=別冊日経サイエンス 113|publisher=日経サイエンス|isbn=4-532-51113-5}} *{{Cite book|和書|author=ウィリアム・パウンドストーン|authorlink=ウィリアム・パウンドストーン|others=[[有沢誠]]訳|year=1990|month=6|title=ライフゲイムの宇宙|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78174-5}} **{{Cite book|和書|author=ウィリアム・パウンドストーン|authorlink=ウィリアム・パウンドストーン|others=[[有沢誠]]訳|year=2003|month=6|title=ライフゲイムの宇宙|edition=新装版|publisher=日本評論社|isbn=4-535-78383-7}} *{{Cite book|和書|author=上岡義雄|authorlink=上岡義雄|year=1999|month=12|title=神になる科学者たち 21世紀科学文明の危機|publisher=日本経済新聞社|isbn=4-532-14798-0}} *{{Cite book|和書|author=ピーター・W・アトキンス|others=[[米沢富美子]]・[[森弘之]]訳|year=1992|month=6|title=エントロピーと秩序 熱力学第二法則への招待|publisher=日経サイエンス社|isbn=4-532-52014-2}} *{{Cite journal|first=Mertin|last=Gardner|authorlink=マーティン・ガードナー|title=Mathematical games|journal=Scientific American|volume=223|year=1970|month=October|publisher=Nature Publishing Group|pages=pp. 120-123}} *{{Cite journal|first=Mertin|last=Gardner|authorlink=マーティン・ガードナー|title=Mathematical games|journal=Scientific American|volume=224|year=1971|month=February|publisher=Nature Publishing Group|pages=pp. 112-117}} == 関連項目 == {{Commonscat|Game of Life}} *[[人工生命]] *[[セル・オートマトン]] *[[カオス理論]] *[[エデンの園配置]] *[[ライフゲームの物体一覧]] *[[ハッシュライフ]] == 外部リンク == *[https://www.conwaylife.com/wiki/Main_Page LifeWiki] - ライフゲームに関するウィキサイト **[https://www.conwaylife.com/wiki/Conway's_Game_of_Life https://www.conwaylife.com/wiki/Conway's_Game_of_Life] LifeWikiのConway's Game of Lifeの記事 <!-- * [http://www.mars.dti.ne.jp/~khnum/life/index.html ライフゲーム保存会日本関西支部] --><!-- リンク切れ、移動しているが個人のブログ --> <!--*[http://www.argentum.freeserve.co.uk/lex.htm Life Lexicon(英語)]--> *[http://www.bitstorm.org/gameoflife/lexicon/ Life Lexicon]{{en icon}} **[http://www.bitstorm.org/gameoflife/lexicon/#pl http://www.bitstorm.org/gameoflife/lexicon/#pl] Life LexiconのLifeの項目 <!-- * [http://hensel.lifepatterns.net/ Conway's Game of Life applet software home page(英語)] --><!-- リンク切れ --> *[http://www.ericweisstein.com/encyclopedias/life/ Eric Weisstein's Treasure Trove of the Life C.A.]{{en icon}} *[https://search.vector.co.jp/vsearch/vsearch.php?query=%25A5%25E9%25A5%25A4%25A5%25D5%25A5%25B2%25A1%25BC%25A5%25E0 Vector: ライフゲーム(Windows上で動作するライフゲームのプログラムがある)] *[http://golly.sourceforge.net/ Golly(オープンソースのライフゲームシミュレータ、例が豊富)] *[http://www7b.biglobe.ne.jp/~izushi/LifeGame/index.html ライフゲーム入門 for Mac OS X] *{{Wayback|url=http://homepage3.nifty.com/puzzlehouse/kg12/kg12.html |title=ライフゲーム(Java) |date=20030118113625}} *[http://soybean.la.coocan.jp/gol.html 2次元のセル・オートマトン(Java)] {{ライフゲームのパターン}} {{DEFAULTSORT:らいふけえむ}} [[Category:ライフゲーム|*]] [[Category:セル・オートマトン]] [[Category:数学に関する記事]]
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石見国
石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。 東西に長いため、大田市を中心とする東部を「石東」、江津市や浜田市を中心とする中部を「石央」、益田市を中心とする西部を「石西」と呼び、三分される。 また、中国山地を唯一越える江の川が流れており、安芸国との結びつきも強い。 明治維新の直前の領域は、浜田市、益田市、江津市、邑智郡、鹿足郡および大田市の大部分(山口町山口・山口町佐津目を除く)、出雲市の一部(多伎町神原)、飯石郡の一部(飯南町塩谷・井戸谷・畑田)、広島県山県郡の一部(北広島町西八幡原の一部)にあたる。 該当区域の面積は3,585.41km2、人口は21万1940人(2010年国勢調査)。(1) 古墳時代(崇神天皇朝)の大和王権による出雲国の攻略と同時に石見国造が設置され、その支配領域は7世紀の律令制石見国に引き継がれた。 『延喜式』に石見国の駅として、波祢・託農・樟道・江東・江西・伊甘がみえる。駅は郷と同じ行政単位でもあった。 『和名抄』によれば、国府は那賀郡にあった。現在の浜田市の伊甘(いかみ)脇遺跡付近や上府(かみこう)遺跡・古市遺跡辺りなど諸説あるが、遺構が発見されていない。また、浜田市下府町(しもこう)へ移転したとする説もある。 石見国の国分寺・国分尼寺は浜田市国分町にある。現在の曹洞宗の国分寺が国分尼寺跡と推定されている。その近くの金蔵寺(こんぞうじ)境内が国分寺と考えられている。部分的な発掘であるが、当時の山門・金堂・講堂・塔跡などの礎石と推定されるものが検出されている。
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石見国(いわみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
{{基礎情報 令制国 |国名 = 石見国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|石見国}} |別称 = 石州(せきしゅう) |所属 = [[山陰道]] |領域 = [[島根県]]西部([[石見地方]]) |国力 = [[中国 (令制国)|中国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 6郡37郷 |国府 = 島根県[[浜田市]] |国分寺 = 島根県浜田市(石見国分寺跡) |国分尼寺 = 島根県浜田市(石見国分尼寺跡) |一宮 = [[物部神社 (大田市)|物部神社]](島根県[[大田市]]) }} '''石見国'''(いわみのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[山陰道]]に属する。 == 概要 == 東西に長いため、[[大田市]]を中心とする東部を「石東」、[[江津市]]や[[浜田市]]を中心とする中部を「石央」、[[益田市]]を中心とする西部を「石西」と呼び、三分される。 また、[[中国山地]]を唯一越える[[江の川]]が流れており、[[安芸国]]との結びつきも強い。 == 領域 == [[明治維新]]の直前の領域は、[[浜田市]]、[[益田市]]、[[江津市]]、[[邑智郡]]、[[鹿足郡]]および[[大田市]]の大部分(山口町山口・山口町佐津目を除く)、[[出雲市]]の一部(多伎町神原)、[[飯石郡]]の一部([[飯南町]]塩谷・井戸谷・畑田)、[[広島県]][[山県郡]]の一部([[北広島町]]西八幡原の一部)にあたる。 該当区域の面積は3,585.41k㎡、人口は21万1940人(2010年国勢調査)。[http://toukei-labo.com/2010/?tdfk=32&city=32201 (1)] == 沿革 == [[古墳時代]]([[崇神天皇]]朝)の[[ヤマト王権|大和王権]]による[[出雲国]]の攻略と同時に[[石見国造]]が設置され、その支配領域は[[7世紀]]の律令制石見国に引き継がれた。 『[[延喜式]]』に石見国の駅として、{{Ruby|波祢|はね}}・{{Ruby|託農|たくの}}・{{Ruby|樟道|くすち}}・江東・江西・{{Ruby|伊甘|いかみ}}がみえる。駅は郷と同じ行政単位でもあった。 === 近世以降の沿革 === * 「[https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り<ref group="注釈">「[[旧高旧領取調帳]]」は石見国分が欠けているため、[[木村礎]]の手により「天保郷帳」をもとに作成され、「日本史料選書16 旧高旧領取調帳 中国四国編」(近藤出版社、[[1978年]])に掲載されたデータが[[国立歴史民俗博物館]]によりデータベース化されている。</ref>(451村・172,209石余)。'''太字'''は当該郡内に[[藩庁]]が所在。[[天領|幕府領]]は[[大森代官所]]が管轄。 ** [[安濃郡 (島根県)|安濃郡]](30村・14,510石余) - [[天領|幕府領]] ** [[邇摩郡]](46村・16,647石余) - 幕府領 ** [[邑智郡]](102村・36,781石余) - 幕府領、津和野藩、浜田藩 ** [[那賀郡 (島根県)|那賀郡]](116村・48,549石余) - 幕府領、津和野藩、'''[[浜田藩]]''' ** [[美濃郡]](96村・33,108石余) - 幕府領、津和野藩、浜田藩 ** [[鹿足郡]](61村・22,613石余) - 幕府領、'''[[津和野藩]]''' * [[慶応]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]([[1866年]][[3月31日]]) - [[長州征討|長州戦争]]により浜田藩が移転して[[美作国|美作]][[鶴田藩]]となり、領地が[[周防国|周防]][[長州藩|山口藩]][[預地]]となる。 * [[明治]]2年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[1869年]][[9月7日]]) - 幕府領・山口藩預地が'''[[大森県]]'''の管轄となる。 * 明治3年[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]([[1870年]][[2月9日]]) - 大森県の管轄地域が'''[[浜田県]]'''の管轄となる。 * 明治4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]]([[1871年]][[8月11日]]) - 津和野藩が廃藩。全域が浜田県の管轄となる。 * 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[島根県]]'''の管轄となる。 * [[昭和]]28年([[1953年]])[[12月1日]] - 那賀郡[[波佐村]]の一部(波佐字滝平の一部)が[[広島県]][[山県郡]][[八幡村 (広島県山県郡)|八幡村]](現・[[北広島町]])に編入。 == 国内の施設 == === 国府 === 『[[和名抄]]』によれば、[[国府]]は那賀郡にあった。現在の[[浜田市]]の伊甘(いかみ)脇遺跡付近や上府(かみこう)遺跡・古市遺跡辺りなど諸説あるが、遺構が発見されていない。また、浜田市下府町(しもこう)へ移転したとする説もある。 === 国分寺・国分尼寺 === 石見国の国分寺・国分尼寺は[[浜田市]][[国分町 (浜田市)|国分町]]にある。現在の[[曹洞宗]]の国分寺が国分尼寺跡と推定されている。その近くの金蔵寺(こんぞうじ)境内が国分寺と考えられている。部分的な発掘であるが、当時の山門・金堂・講堂・塔跡などの礎石と推定されるものが検出されている。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、小社34座34社が記載されている。大社はない。[[石見国の式内社一覧]]を参照。 ; [[総社]]・[[一宮]]以下 :* 総社 庄社 - 伊甘神社(浜田市下府町)境内社。 :* 一宮 '''[[物部神社 (大田市)|物部神社]]''' ([[大田市]]川合町) :* 二宮 多鳩神社 ([[江津市]]二宮町) :* 三宮 大祭天石門彦神社 (浜田市相生町) == 地域 == === 郡 === *[[安濃郡 (島根県)|安濃郡]] *[[邇摩郡]] *[[那賀郡 (島根県)|那賀郡]] *[[邑智郡]](邑知郡) *[[美濃郡]] *[[鹿足郡]] - [[承和 (日本)|承和]]10年5月8日(843年6月9日)、美濃郡から鹿足・能濃2郷を分割して設置。 === 江戸時代の藩 === *[[吉永藩]]、[[加藤氏#利仁流加藤氏|加藤家]](1万石)→[[水口藩]]に転封 *[[浜田藩]]、古田家(5.4万石)→[[三河松井氏|松井松平家]](5万石)→[[本多氏#平八郎家 (忠勝の家系)|本多家]](5万石、10万石格)→松井松平家(5.5万石→6.5万石)→[[越智松平家]](6.1万石) *[[津和野藩]]、[[坂崎氏|坂崎家]](3万石→4万3468石)→[[亀井氏|亀井家]](4.3万石) == 人物 == === 国司 === {{節スタブ}} ==== 石見守 ==== *[[三園千桂]]:[[天暦]]2年([[948年]])任官 *[[安倍衆与]]:[[天徳 (日本)|天徳]]元年([[957年]])任官 *[[安倍良明]]:[[応和]]元年([[961年]])任官 *[[坂上望城]]:[[天延]]3年([[975年]])任官 *[[藤原在国]]:[[天元 (日本)|天元]]2年([[979年]])任官 *[[大原忠亮]]:天元5年([[982年]])任官 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[1193年]]~[[1200年]] - [[佐々木定綱]] *?~[[1275年]]頃 - [[伊東氏]] *1275年頃~? - [[北条氏]] ==== 室町幕府 ==== *[[1336年]]~[[1349年]] - [[上野頼兼]] *[[1350年]]~[[1351年]] - [[高師泰]] *[[1352年]]~[[1364年]] - [[荒川詮頼]] *[[1366年]]~[[1376年]] - [[大内弘世]] *1376年~[[1379年]] - 荒川詮頼 *1379年~[[1399年]] - [[大内義弘]] *1399年~[[1401年]] - [[京極高詮]] *1401年~? - [[山名氏利]] *[[1429年]]~? - [[山名教清]] *[[1437年]]~[[1440年]] - [[山名熙貴]] *[[1441年]]~[[1455年]] - [[山名教清]] *[[1465年]]~[[1467年]] - [[山名成清]] *1467年~[[1477年]] - [[山名政清]] *[[1481年]]~[[1495年]] - [[大内政弘]] *1495年~[[1528年]] - [[大内義興]] *1528年~[[1551年]] - [[大内義隆]] === 戦国大名 === *[[尼子氏]] *[[毛利氏]] *[[小笠原氏]] === 武家官位としての石見守 === ==== 江戸時代以前 ==== *[[服部正成]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将、初代[[服部半蔵]] *[[松下之綱]]:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。[[豊臣秀吉|木下藤吉郎]]の元主君 ==== 江戸時代 ==== *[[大和国|大和]][[小泉藩]][[片桐氏|片桐家]] **[[片桐貞昌]]:第2代藩主。茶道[[石州流]]の祖、片桐石州 **[[片桐貞起]]:第4代藩主 **[[片桐貞芳]]:第6代藩主 **[[片桐貞信]]:第8代藩主 **[[片桐貞照]]:第10代藩主 *[[出羽国|出羽]][[庄内藩#出羽松山藩|松山藩]][[酒井氏#左衛門尉酒井家|左衛門尉酒井家]]分家 **[[酒井忠予]]:第2代藩主 **[[酒井忠休]]:第3代藩主 **[[酒井忠崇]]:第4代藩主 **[[酒井忠方]]:第6代藩主 *[[三河国|三河]][[奥殿藩]][[大給松平家]] **[[松平乗成]]:第2代藩主 **[[松平乗穏]]:第3代藩主 **[[松平乗利]]:第7代藩主 *その他 **[[井上正棠]]:[[常陸国|常陸]][[下妻藩]]第5代藩主 **[[大久保長安]]:戦国時代武田氏の家臣、江戸幕府[[勘定奉行]]、[[老中]] **[[木下利恭]]:[[備中国|備中]][[足守藩]]第12代藩主 **[[近藤秀用]]:戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。[[遠江国|遠江]][[井伊谷藩]]藩主 **[[徳永寿昌]]:戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。[[美濃国|美濃]][[高須藩]]初代藩主 **[[平岡頼資]]:美濃[[徳野藩]]第2代藩主 **[[堀親賢]]:[[信濃国|信濃]][[信濃飯田藩|飯田藩]]第4代藩主 **[[松下長綱]]:[[陸奥国|陸奥]][[二本松藩]]第2代藩主、陸奥[[三春藩]]主 **[[松平定長]]:[[伊予国|伊予]][[伊予松山藩|松山藩]]第3代藩主 **[[松平忠喬]]:信濃[[飯山藩]]第2代藩主、遠江[[掛川藩]]主、[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]初代藩主 **[[松平康英]]:陸奥[[棚倉藩]]第4代藩主、[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]初代藩主・老中 == 名産 == *[[石州瓦]] *[[銀|石見銀]] *[[石州紙]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 参考文献 == * [[角川日本地名大辞典]] 32 島根県 * [https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース] == 関連項目 == {{Commonscat|Iwami Province}} * [[石見 (戦艦)]]‐[[大日本帝国海軍|旧日本海軍]]の[[戦艦]]。元は[[ロシア海軍|ロシア帝国海軍]]の戦艦[[オリョール (戦艦)|オリョール]]。艦名は石見国に因む。 * [[令制国一覧]] * [[山陰地方]] * [[柿本人麻呂]] * {{Prefix|石見}} {{令制国一覧}} {{石見国の郡}} {{japanese-history-stub}} {{DEFAULTSORT:いわみのくに}} [[Category:日本の旧国名]] [[Category:山陰道|国いわみ]] [[Category:島根県の歴史]] [[Category:広島県の歴史]] [[Category:石見国|*]]
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サブカルチャー
サブカルチャー(英: subculture)とは、メインカルチャーと対比される概念である。1960年代から70年代前半までは反体制的なカウンターカルチャーが主流だったが、70年代後半以降、形骸化・商業主義化し、サブカルチャーに変質していったとの見方もある。サブカルチャーは「サブカル」と略されることも多い。 主流文化に対し、一部の集団を担い手とする文化を指す用語で、副次文化ないし下位文化とも訳される。用語の起源は1950年に社会学者のデイヴィッド・リースマンが使用したのが最初である。意味は「主流文化に反する個人のグループ」というもの。アメリカではこの場合の「サブ」とは、社会的マジョリティの文化・価値観から逸脱した、エスニック・マイノリティやLGBTといった「少数派集団」のことを指している。また、サブカルチャーは、「マス・メディアの商業主義文化」とは異なる文化財、アート、価値観、行動様式など、本来の「文化」に近いものを指す。 ハイカルチャーが受け手側にある程度の素養・教養を要求するのに対し、サブカルチャーは受け手を選別しない。サブカルチャーのサブは補う、第二のといった意味もある。つまり、映画、漫画、アニメ、タレント、アイドル、声優、特撮、ライトノベル、ポップミュージック、商業主義に走ったロック、娯楽映画などは大量生産・大量消費される商品だった。そのため、低く見られる傾向が強かった。しかし、1990年代以降か21世紀にはサブカルチャーは、ハイカルチャーやメインカルチャーと同程度の影響力を持つようになってきた。 日本では「ハイカルチャー対サブカルチャー」という文脈においてサブカルチャーという言説が用いられているが、欧米ではむしろ、社会の支配的な文化(メインカルチャー)に対する、マイノリティの文化事象を指す言葉として使われている。 日本では特撮、アニメ、アイドルといった趣味を指す場合にサブカルチャーという用語が使用されることも多い。それらは1980年代に一般化しており、サブカルチャーとして定義するのは当初、拡大解釈だった。現在では大衆文化の一つとしてあげられる。「欧米の研究」では日本のサブカルチャーは、サブカルチャー研究の領域というよりも、むしろ「メディア文化研究」に含まれる。 かつて文化と考えられたものは、ハイカルチャー(学問、文学、伝統的美術、クラシック音楽など)であり、ブルジョア階級や知識人、教養ある人々に支持されるものであった。文化を享受するには一定の教養が必要であり、少数者のものであった。 20世紀になって、大衆文化の時代になると、こうした文化観は次第に変化していった。大衆の一部はハイカルチャーを身に付けようと努力し、例えば文学全集を応接間に並べることが流行する、といった現象が見られた。第二次世界大戦後には知識人と呼ばれる人たちも次第に大衆文化(映画、マンガ)に注目するようになった。例えば映画のジャンルも分化し、大衆向けの娯楽に徹するものと、芸術性を主張し表現するものが並存するようになった。 1960年代には、アメリカのベトナム反戦運動や公民権運動、ヒッピームーヴメントを始め、各国で既成の体制や文化に対する「異議申立て」が行われた。これはカウンターカルチャーとも呼ばれた。しかし文化の意味付けが変化してきた結果、カウンターカルチャーが衰退し、それに代わるサブカルチャーが注目されるようになった。かつての学生運動のようなカウンターカルチャーは諦めつつも、大衆文化への同化も拒否した若者たちの文化ともいえる。 上述のように日本におけるサブカルチャーと海外、特に英米におけるサブカルチャーはその意味する所が大きく異なった。これは80年代の保守化に対し警告をするためのカルチュラル・スタディーズが、重要な課題であったアメリカやイギリスとは異なり、日本では社会学や民俗学の分野で、国内のマイノリティが研究対象となることが少なかったことが大きい。 1980年代に入ると、ニュー・アカデミズムが流行し、専門家以外の人間が学問領域、特に社会学や哲学、精神分析などの言葉を用い学際的に物事を語るようになった。サブカルチャーという言葉もこの頃日本に輸入され、既存の体制、価値観、伝統にあい対するものとして使われた。これらの流れは多くの若い知識人や学生を魅了し、「80年代サブカルチャーブーム」と呼ばれる流行を作り出した。この頃のサブカルチャーは現在よりも多くの領域を包含し、漫画、アニメ、オタク、コンピューター・ゲーム以外にも、声優、アイドル、ハードロック、ヘヴィメタル、パンクなどのロックミュージック、芸能人、サイバーパンク、オカルト、鉄道マニアなどもサブカルチャーと見なされることがあった。 しかし、1980年代サブカルチャーに共通していえることは「マイナーな趣味」であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、学生運動経験者のクリエイターなどを除けば1960年代のカウンターカルチャーの政治的ベクトルとは関係は希薄になった。 西側の学生運動の中では異様な規模の内ゲバの頻発や、各セクトによる大学支配によって一般学生の間に政治運動への忌避感が強まり、日本では1970年代から1980年代にかけて政治と思想・文化の関係が断絶していた。サブカルチャーの政治回帰はセクトの力が弱まった1990年代以降で、左側では血みどろの新左翼の時代を意図的に飛ばして戦後民主主義への回帰、右側では戦前における音楽界同様にナショナリズム消費に回収されて、愛国排外運動へ向かうという形で現れた。戦後民主主義とリベラルの教条主義(別しては日教組)が久しく権威をもっている日本では、反権威の文化であるサブカルチャーは右傾化した。アカデミズムの場ではサブカルチャー評論がポリティカル・コレクトネスに囲い込まれていき、オタク的な知が排除され批評シーンが衰退する。 この変化には、日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: dilettante。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。 1980年代には、かつて吉本隆明が予言したように、ハイカルチャーとの上下関係が消失していく。この頃のサブカルチャーは複数の要素を内包しつつも、ジャンル間に横の繋がりは希薄で、場合によっては複数の分野を掛け持ちすることはあったものの、基本的に愛好者たちは別々の集団を形成していた。しかし1990年代に入ると転機が訪れる。メディアミックスの名の下に漫画、アニメといったジャンルの統合が進んだのである。漫画がアニメ化され、アニメが小説化されるという現象によってこれらのジャンルは急速に接近し、俗に「おたく文化」と呼ばれる、その他サブカルチャーから突出した同質性を持つ集団を形成するようになる。パソコン通信やインターネットの時代になると、おたく文化とサイバーカルチャー・アングラカルチャー・カウンターカルチャーが融合し、「アンダーグランドさ」と「内輪意識」が確立された。 おたく業界は、特化した雑誌メディアが囲い込んだ特定のファンにのみ情報発信するので、巨額の宣伝費は要らず、同時にそうやって囲い込まれたファンは集中的かつ高価格の商品に対し極端な購入の仕方をするという、売る側からすれば大変効率の良いものであった。しかし、かつてはおたく=秋葉原=ダサい、サブカル=渋谷=カッコいいという極論が唱えられ、おたく文化の地位はサブカルチャー内においても低いもので、おたく文化との同一視を嫌う人が「サブカル」の語を使用した。また研究者の側からすれば未知の分野であるおたく文化の形成等に興味が無く、漫画、アニメをサブカルチャーから切り離すこともあった。 ようやく2000年代後半になり、アニメの海賊版などが動画サイトやSNSを通じて世界的に有名になり、これら文化とともに育った世代も成人を迎え、世界規模のOTAKU文化を生んでいる。以降はおたく文化が、日本サブカルチャーの最大与党であり、サブカルチャーそのものという見方すらされている。 その一方でインターネットの大衆的普及は「アンダーグランドさ」と「内輪」を薄めていき、2010年代にはSNSを通じた一般的で大衆的な商業コンテンツとなった。それがサブカルチャーといえるのかは異論も多いところで、松永天馬は「これ以上サブカルにこだわろうとすれば、それは懐古趣味になりかねない」と述べている。 おたく文化とサブカルチャーの境界は曖昧である。上記の秋葉原・渋谷二元論など、サブカルチャー同士が対立した場合もある。そのため、同じサブカルチャーという言葉を用いているにもかかわらず、まったく別の事柄について論じている場合が多々見られる。 日本ではサブカルチャーという言説が一人歩きしている。特にカルチュラル・スタディーズの専門家からは1980年代サブカルチャーブームを、日本において独自進化を遂げたものとして、その意義を認めようとする動きが出ている。しかし、それもストリート・カルチャーやテクノ、ヒップホップなど、カルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャー研究で既に経験済みであった要素までである。 1980年代サブカルチャーの側は、そもそもカルチュラル・スタディーズの概念に無関心である。もともと正規の学問の場を離れることを特徴の一つとしたニューアカデミズムの影響もあり、彼らのサブカルチャーは、起源を切り捨て独自進化を遂げたサブカルチャーの概念からメインカルチャーをも規定した。文化・メディア研究に詳しい上野俊哉は宮台真司らによるメインカルチャーの定義は、むしろハイカルチャーの概念に近いものであることを指摘している。
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サブカルチャーとは、メインカルチャーと対比される概念である。1960年代から70年代前半までは反体制的なカウンターカルチャーが主流だったが、70年代後半以降、形骸化・商業主義化し、サブカルチャーに変質していったとの見方もある。サブカルチャーは「サブカル」と略されることも多い。 主流文化に対し、一部の集団を担い手とする文化を指す用語で、副次文化ないし下位文化とも訳される。用語の起源は1950年に社会学者のデイヴィッド・リースマンが使用したのが最初である。意味は「主流文化に反する個人のグループ」というもの。アメリカではこの場合の「サブ」とは、社会的マジョリティの文化・価値観から逸脱した、エスニック・マイノリティやLGBTといった「少数派集団」のことを指している。また、サブカルチャーは、「マス・メディアの商業主義文化」とは異なる文化財、アート、価値観、行動様式など、本来の「文化」に近いものを指す。
{{Otheruses|社会の文化|イギリスのバンド、ニュー・オーダーの楽曲|サブ・カルチャー}} '''サブカルチャー'''({{lang-en-short|subculture}})とは、[[メインカルチャー]]と対比される概念である。1960年代から70年代前半までは反体制的な[[カウンターカルチャー]]が主流だったが、70年代後半以降、形骸化・商業主義化し、サブカルチャーに変質していったとの見方もある<ref>"Contraculture and Subculture" by J. Milton Yinger, ''American Sociological Review'', Vol. 25, No. 5 (Oct., 1960) https://www.jstor.org/stable/2090136</ref>。サブカルチャーは「'''サブカル'''」と略されることも多い。 [[メインカルチャー|主流文化]]に対し、一部の集団を担い手とする文化を指す用語で、副次文化ないし下位文化とも訳される。用語の起源は[[1950年]]に社会学者の[[デイヴィッド・リースマン]]<ref>http://subculture.askdefine.com/</ref>が使用したのが最初である。意味は「主流文化に反する個人のグループ」というもの。<!--例えば、1990年代の米国でマスコミが挙げたサブカルチャーは、若者の[[ヒップホップ]]だった。-->アメリカではこの場合の「サブ」とは、社会的[[マジョリティ]]の文化・価値観から逸脱した、[[少数民族|エスニック・マイノリティ]]や[[LGBT]]といった「少数派集団」のことを指している。また、サブカルチャーは、「マス・メディアの商業主義文化」とは異なる[[文化財]]、[[芸術|アート]]、[[価値観]]、[[行動様式]]など、本来の「文化」に近いものを指す。 ==概要== [[ハイカルチャー]]<ref group="注">ハイカルチャーにはクラシック音楽やクラシック・バレエなどがある。</ref>が受け手側にある程度の素養・教養を要求するのに対し、サブカルチャーは受け手を選別しない。サブカルチャーのサブは補う、第二のといった意味もある。つまり、映画、漫画、アニメ、タレント、アイドル、声優、特撮、[[ライトノベル]]、[[ポップ・ミュージック|ポップミュージック]]、商業主義に走った[[ロック (音楽)|ロック]]<ref>{{cite web|url= http://www.allmusic.com/style/arena-rock-ma0000012329|title= Pop/Rock » Hard Rock » Arena Rock|accessdate=17 March 2020}}</ref>、娯楽映画などは大量生産・大量消費される商品だった。そのため、低く見られる傾向が強かった。しかし、1990年代以降か21世紀にはサブカルチャーは、ハイカルチャーやメインカルチャーと同程度の影響力を持つようになってきた。 日本では「ハイカルチャー対サブカルチャー」という[[文脈]]においてサブカルチャーという言説が用いられているが、欧米ではむしろ、社会の支配的な[[文化_(代表的なトピック)|文化]]('''メインカルチャー''')に対する、[[マイノリティ]]の文化事象を指す言葉として使われている<ref group="注">この用語としてはTheodore Roszakが1968年''The Making of a Counter Culture''において用いたのが早い用法である。</ref>。 日本では特撮、アニメ、アイドルといった趣味を指す場合にサブカルチャーという用語が使用されることも多い。それらは1980年代に一般化しており、サブカルチャーとして定義するのは当初、[[拡大解釈]]だった。現在では[[大衆文化]]の一つとしてあげられる。「欧米の研究」では日本のサブカルチャーは、サブカルチャー研究の領域というよりも、むしろ「メディア文化研究」に含まれる。 ==西洋のサブカルチャー== かつて文化と考えられたものは、ハイカルチャー([[学問]]、[[文学]]、伝統的[[美術]]、[[クラシック音楽]]など)であり、[[ブルジョワジー|ブルジョア階級]]や知識人、[[教養]]ある人々に支持されるものであった。文化を享受するには一定の教養が必要であり、少数者のものであった。 20世紀になって、[[大衆文化]]の時代になると、こうした文化観は次第に変化していった。大衆の一部はハイカルチャーを身に付けようと努力し、例えば文学全集を応接間に並べることが流行する、といった現象が見られた。第二次世界大戦後には知識人と呼ばれる人たちも次第に大衆文化(映画、マンガ)に注目するようになった。例えば映画のジャンルも分化し、大衆向けの娯楽に徹するものと、芸術性を主張し表現するものが並存するようになった。 [[1960年代]]には、アメリカの[[ベトナム戦争#反戦運動|ベトナム反戦運動]]や公民権運動、[[ヒッピー]]ムーヴメントを始め、各国で既成の体制や文化に対する「異議申立て」が行われた。これはカウンターカルチャーとも呼ばれた。しかし文化の意味付けが変化してきた結果、カウンターカルチャーが衰退し、それに代わるサブカルチャーが注目されるようになった。かつての学生運動のようなカウンターカルチャーは諦めつつも、大衆文化への同化も拒否した若者たちの文化ともいえる<ref name="tenma">松永天馬「[https://note.com/urbangarde/n/nc04682a884ca 私はサブカルが嫌いだ|松永天馬(アーバンギャルド)|note]」</ref>。 == 日本のサブカルチャー == 上述のように日本におけるサブカルチャーと海外、特に英米におけるサブカルチャーはその意味する所が大きく異なった。これは80年代の保守化に対し警告をするための[[カルチュラル・スタディーズ]]が、重要な課題であったアメリカやイギリスとは異なり、日本では社会学や民俗学の分野で、国内のマイノリティが研究対象となることが少なかったことが大きい。 1980年代に入ると、[[ニュー・アカデミズム]]が流行し、専門家以外の人間が学問領域、特に[[社会学]]や[[哲学]]、精神分析などの言葉を用い学際的に物事を語るようになった。サブカルチャーという言葉もこの頃日本に輸入され、既存の体制、価値観、伝統にあい対するものとして使われた。これらの流れは多くの若い知識人や学生を魅了し、「80年代サブカルチャーブーム」と呼ばれる流行を作り出した。この頃のサブカルチャーは現在よりも多くの領域を包含し、[[漫画]]、アニメ、オタク、コンピューター・ゲーム以外にも、声優、アイドル、ハードロック、ヘヴィメタル、パンクなどのロックミュージック、[[芸能人]]、[[サイバーパンク]]、[[オカルト]]、[[鉄道]]マニアなどもサブカルチャーと見なされることがあった。 しかし、1980年代サブカルチャーに共通していえることは「マイナーな趣味」であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、学生運動経験者のクリエイターなどを除けば[[1960年代のカウンターカルチャー]]の政治的ベクトルとは関係は希薄になった。 西側の学生運動の中では異様な規模の[[内ゲバ]]の頻発や、各セクトによる大学支配によって一般学生の間に政治運動への忌避感が強まり、日本では1970年代から1980年代にかけて政治と思想・文化の関係が断絶していた<ref>[https://note.com/toyamakoichi/n/nf4d8fb9e10b6 川口事件と現在 3.川口事件の影響|外山恒一|note]</ref>。サブカルチャーの政治回帰はセクトの力が弱まった1990年代以降で、左側では血みどろの[[新左翼]]の時代を意図的に飛ばして[[戦後民主主義]]への回帰<ref>[https://note.com/toyamakoichi/n/n21f3503cfd6a 川口事件と現在 1.内ゲバの歴史|外山恒一|note]</ref>、右側では戦前における音楽界同様に[[ナショナリズム]]消費に回収されて、愛国排外運動へ向かうという形で現れた<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/124369?page=5 サブカルチャーは反権力って本当?――文化と政治の新たな潮流(5/5)〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット)]</ref><ref>[https://gendai.media/articles/56379?imp=0 ゆずと椎名林檎に学ぶべき「愛国ソング」の作法(増田 聡) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)]</ref>。戦後民主主義とリベラルの[[教条主義]](別しては[[日教組]])が久しく権威をもっている日本では、反権威の文化であるサブカルチャーは右傾化した<ref>[https://synodos.jp/opinion/society/23151/ 「不自由展」をめぐるネット右派の論理と背理――アートとサブカルとの対立をめぐって/伊藤昌亮 - SYNODOS]</ref>。アカデミズムの場ではサブカルチャー評論が[[ポリティカル・コレクトネス]]に囲い込まれていき、オタク的な知が排除され批評シーンが衰退する<ref>[https://note.com/toyamakoichi/n/n48eba978985a 『ゲンロン2』 「平成批評の諸問題 1989-2001」を読む|外山恒一|note]</ref>。 この変化には、日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: [[:en:wikt:dilettante|dilettante]]。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、[[差異]]化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。 === おたくの台頭 === 1980年代には、かつて[[吉本隆明]]が予言したように、ハイカルチャーとの上下関係が消失していく<ref name="kado1"></ref>。この頃のサブカルチャーは複数の要素を内包しつつも、ジャンル間に横の繋がりは希薄で、場合によっては複数の分野を掛け持ちすることはあったものの、基本的に愛好者たちは別々の集団を形成していた。しかし[[1990年代]]に入ると転機が訪れる。[[メディアミックス]]の名の下に漫画、アニメといったジャンルの統合が進んだのである。漫画がアニメ化され、アニメが小説化されるという現象によってこれらのジャンルは急速に接近し、俗に「[[おたく]]文化」と呼ばれる、その他サブカルチャーから突出した同質性を持つ集団を形成するようになる<ref>[[ササキバラ・ゴウ]] 『<美少女>の現代史』 [[講談社]]、2004年、31-33頁。</ref>。[[パソコン通信]]や[[インターネット]]の時代になると、[[おたく]]文化とサイバーカルチャー・[[アンダーグラウンド (文化)|アングラカルチャー]]・[[カウンターカルチャー]]が融合し、「アンダーグランドさ」と「内輪意識」が確立された<ref name="data-max"/>。 おたく業界は、特化した雑誌メディアが囲い込んだ特定のファンにのみ情報発信するので、巨額の宣伝費は要らず、同時にそうやって囲い込まれたファンは集中的かつ高価格の商品に対し極端な購入の仕方をするという、売る側からすれば大変効率の良いものであった<ref name="kado1">[https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/works/post-877.html 【第1回】角川歴彦とメディアミックスの時代 | 最前線 - フィクション・コミック・Webエンターテイメント]</ref>。しかし、かつてはおたく=[[アキバ系|秋葉原]]=ダサい、サブカル=[[渋谷系|渋谷]]=カッコいいという極論が唱えられ、おたく文化の地位はサブカルチャー内においても低いもので、おたく文化との同一視を嫌う人が「サブカル」の語を使用した<ref>[https://urbanlife.tokyo/post/38606/ 入門「オタク」と「サブカル」はどう違うのか? 90年代の源流をたどる | アーバン ライフ メトロ - URBAN LIFE METRO - ULM]</ref>。また研究者{{誰|date=2022年2月}}の側からすれば未知の分野である[[おたく]]文化の形成等に興味が無く、漫画、アニメをサブカルチャーから切り離すこともあった<ref>成実弘至 「サブカルチャー」[[吉見俊哉]]編 『カルチュラル・スタディーズ』 講談社、2001年。</ref>。 ようやく2000年代後半になり、アニメの海賊版などが動画サイトや[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]を通じて世界的に有名になり、これら文化とともに育った世代も成人を迎え、世界規模のOTAKU文化を生んでいる<ref name="data-max">[https://www.data-max.co.jp/article/9443 文化論としての「アキバカルチャー」!(4)|NetIB-News]</ref>。以降はおたく文化が、日本サブカルチャーの最大与党であり、サブカルチャーそのものという見方すらされている<ref group="注">例えば評論家の[[大塚英志]]は特に定義を明言はしないが、(彼の言葉でいえば「キャラクター小説」)などに対してサブカルチャーと用いている。</ref><ref group="注">ヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展日本館カタログ『OTAKU:人格=空間=都市』所収の宣政佑「おたくの越境」(52頁)など。ただしこのヴェネツィア・ビエンナーレにおける展示自体はおたく文化の空間的特徴や文化的背景に言及したものであり、本来の意味でのサブカルチャーに近いニュアンスである。</ref>。 その一方でインターネットの大衆的普及は「アンダーグランドさ」と「内輪」を薄めていき、2010年代にはSNSを通じた一般的で大衆的な商業コンテンツとなった。それがサブカルチャーといえるのかは異論も多いところで、[[松永天馬]]は「これ以上サブカルにこだわろうとすれば、それは懐古趣味になりかねない」と述べている<ref name="tenma"/>。 おたく文化とサブカルチャーの境界は曖昧である。上記の秋葉原・渋谷二元論など、サブカルチャー同士が対立した場合もある。そのため、同じサブカルチャーという言葉を用いているにもかかわらず、まったく別の事柄について論じている場合が多々見られる<ref group="注">解説・[[川村湊]]は『日本の異端文学』(集英社、2001年)において「サブカルチャー文学」という語を用いている。ここではサブカルチャーという語はカルチュラル・スタディーズにおけるそれとほぼ同じ意味合いで使われている。[[大塚英志]]が『サブカルチャー反戦論』(角川書店、2003年)などで用いる場合はおたく文化のそれを意味している。</ref>。 == サブカルチャーとカルチュラル・スタディーズ == 日本ではサブカルチャーという言説が一人歩きしている。特にカルチュラル・スタディーズの専門家{{誰|date=2022年2月}}からは1980年代サブカルチャーブームを、日本において独自進化を遂げたものとして、その意義を認めようとする動きが出ている<ref>[[上野俊哉]]・[[毛利嘉孝]]『実践カルチュラル・スタディーズ』[[筑摩書房|ちくま書房]]、2002年。</ref>。しかし、それもストリート・カルチャーやテクノ、ヒップホップなど、カルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャー研究で既に経験済みであった要素までである。 1980年代サブカルチャーの側は、そもそも[[カルチュラル・スタディーズ]]の概念に無関心である。もともと正規の学問の場を離れることを特徴の一つとした[[ニュー・アカデミズム|ニューアカデミズム]]の影響もあり、彼らのサブカルチャーは、起源を切り捨て独自進化を遂げたサブカルチャーの概念からメインカルチャーをも規定した<ref>加野瀬未友・[[ばるぼら (ライター)|ばるぼら]]「オタク×サブカル15年戦争」『ユリイカ8月臨時増刊号 オタクvsサブカル』([[青土社]]、2005年</ref>。文化・メディア研究に詳しい上野俊哉は[[宮台真司]]らによるメインカルチャーの定義は、むしろハイカルチャーの概念に近いものであることを指摘している<ref>上野俊哉・毛利嘉孝 『カルチュラル・スタディーズ入門』 ちくま書房、2000年、106-109頁</ref>。 == 同義語/反対語 == * ポップカルチャー、オタク文化はときには同義語として使用されることもある。「オタク文化」とサブカルチャーが同一視される場合もあるが、両者の微妙な差異にこだわる向きもある(例: 「[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]」2005年8月増刊号 オタクvsサブカル!)。また、オタク文化は、お坊ちゃん文化という面もある。 * [[ハイカルチャー]]や[[メインカルチャー]]が反対語である。ただしサブカルチャーの台頭によりメインカルチャーとは何たるかが曖昧になっている。 <!-- 不足 ==関連人物・団体 == *[[糸井重里]] *ミュージシャン *[[電気グルーヴ]] *[[篠原ともえ]] *[[平沢進]] *[[大槻ケンヂ]] *[[ガロ系]] **[[山野一]] **[[花輪和一]] **[[つげ義春]] **[[ねこぢる]] *[[鬼畜系]] **[[根本敬]] **[[村崎百郎]] **[[青山正明]] *舞台・俳優 *[[寺山修司]] *[[戸川純]] *[[横尾忠則]] *オタク論 **[[中森明夫]] **[[大塚英志]] **[[宮台真司]] **[[東浩紀]] **[[宇野常寛]] *海外 **[[デヴィッド・リンチ]] **[[ケラリーノ・サンドロヴィッチ]] --> == 関連出版社・メディア == <!-- あかさたな --> *[[ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店)|ヴィレッジヴァンガード]] *[[太田出版]] *[[角川書店]] *[[講談社]] *[[光文社]] *[[コアマガジン]] *[[彩図社]] *[[集英社]] *[[小学館]] *[[新宿ロフトプラスワン]] *[[青林堂]] - 月刊漫画[[ガロ (雑誌)|ガロ]] **[[青林工藝舎]] - 青林堂退社組が新たに設立 *[[大洋図書]] *[[宝島社]] == 関連概念・ジャンルなど== *[[現代アート]] *[[ガロ系]] *[[鬼畜系]] *[[アキバ系]] *[[渋谷系]] *[[アキシブ系]] *[[原宿系]] *[[エログロナンセンス]] *[[ヘタウマ]] == 書籍 == * マーティン A.リー、ブルース・シュレイン 越智道雄訳『アシッド・ドリームズ―CIA,LSD,ヒッピー革命』([[第三書館]]) * [[宮沢章夫]]編著・「ニッポン戦後サブカルチャー史」制作班『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』([[NHK出版]] [[2014年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references/> == 関連項目 == *[[ベトナム戦争]] *[[ヒッピー]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さふかるちやあ}} [[Category:サブカルチャー|*]] [[Category:大衆文化]] [[Category:文化用語]]
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凡夫
凡夫(ぼんぷ、ぼんぶ、梵: pṛthagjana、蔵: so sor skye bo)とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。未だ悟りを得ていない者、すなわち部派仏教においては初果としての預流果を得ていない者、大乗仏教においては初地である歓喜地に至っていない者のこと。音写は必栗託仡那であり、異生とも訳される。 「凡夫は〔有〕身見をもって性となす」(『釈氏要覧』)といわれて、我見にとらわれている人をいう。 凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。 『玄応音義』には「凡夫というは義訳なり」といって、婆羅必栗託仡那(bāla-pṛthag-jana)と解釈している。 菩提流支(ぼだいるし)訳の『金剛般若経』には「毛道凡夫」という表現があらわれるが、これは(原典となる写本で)bāla-pṛthag-jana(嬰愚凡夫)の前半が誤ってvāla-pathaとなったものが「毛道」と訳されたものである。
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凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。未だ悟りを得ていない者、すなわち部派仏教においては初果としての預流果を得ていない者、大乗仏教においては初地である歓喜地に至っていない者のこと。音写は必栗託仡那であり、異生とも訳される。 「凡夫は〔有〕身見をもって性となす」(『釈氏要覧』)といわれて、我見にとらわれている人をいう。 凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。 『玄応音義』には「凡夫というは義訳なり」といって、婆羅必栗託仡那(bāla-pṛthag-jana)と解釈している。 菩提流支(ぼだいるし)訳の『金剛般若経』には「毛道凡夫」という表現があらわれるが、これは(原典となる写本で)bāla-pṛthag-jana(嬰愚凡夫)の前半が誤ってvāla-pathaとなったものが「毛道」と訳されたものである。
'''凡夫'''(ぼんぷ、ぼんぶ、{{lang-sa-short|pṛthagjana}}、[[チベット語|蔵]]: {{ラテン翻字|bo|so sor skye bo}})とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に[[四諦]]の道理を知らない人をいう{{refnest|name="ニッポニカ_凡夫"|池田練太郎[https://kotobank.jp/word/%E5%87%A1%E5%A4%AB-135247#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 「凡夫」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}}。未だ悟りを得ていない者、すなわち[[部派仏教]]においては初果としての[[四向四果|預流果]]を得ていない者{{efn2|[[説一切有部]]においては見所断の煩悩を断ち切った「見道位」に達していない者{{refnest|name="新纂浄土宗_凡夫"|工藤量導[http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%87%A1%E5%A4%AB 「凡夫」 - 新纂浄土宗大辞典]}}。}}、[[大乗仏教]]においては初地である歓喜地に至っていない者のこと{{refnest|name="精選版_凡夫"|[https://kotobank.jp/word/%E5%87%A1%E5%A4%AB-135247#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「凡夫」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}}。音写は'''必栗託仡那'''であり、'''異生'''とも訳される{{refnest|name="ブリタニカ_凡夫"|[https://kotobank.jp/word/%E5%87%A1%E5%A4%AB-135247#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 「凡夫」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]、2014 Britannica Japan。}}。 「凡夫は〔有〕身見をもって性となす{{efn2|凡夫以身見為性。}}」(『[[釈氏要覧]]』)といわれて、我見にとらわれている人をいう。 凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。'''内凡'''とは見道に直前する[[四善根]]の位にある人、'''外凡'''とはその前の三賢の位にある人、'''底下の凡夫'''とは外凡以前の人々をいうのである。[[六道]]に[[輪廻]]するものを[[声聞]]、[[縁覚]]、[[菩薩]]、[[仏]]の[[四聖]]に対して六凡という。 『[[玄応音義]]』には「凡夫というは義訳なり」といって、婆羅必栗託仡那(bāla-pṛthag-jana)と解釈している。 [[菩提流支]](ぼだいるし)訳の『[[金剛般若経]]』には「毛道凡夫」という表現があらわれるが、これは(原典となる写本で){{IAST|bāla-pṛthag-jana}}(嬰愚凡夫)の前半が誤って{{IAST|vāla-patha}}となったものが「毛道」と訳されたものである{{refnest|name="佛光大辭_毛道"|[http://buddhaspace.org/dict/fk/data/%25E6%25AF%259B%25E9%2581%2593.html 「毛道」 - 佛光大辭典 (慈怡法師主編)]、p.1484}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == *[[衆生]] *[[聖者_(仏教)]] {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ほんふ}} [[Category:仏教用語]]
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兵器
兵器(へいき、英: weaponやarm, あるいはmilitary weaponsやmilitary armsなど)は、狭義には殺傷・破壊力をもつ軍用の器具のことであり、広義には重要な軍用の器具装置類の総称。 この記事では、狭義の兵器と、広義の兵器の両方について解説する。 狭義の兵器は、「殺傷・破壊力を持つ、軍用の、器具」「軍用の、殺傷・破壊力を持つ器具」のことである。狭義の兵器は、「軍用の武器」のことであり、武器(=殺傷・破壊力を持つ器具)の一種である。 たとえば、通常の小銃の場合を考えてみると、それを個人が保有して使用するなら(普通の)「武器」であるが、全く同じ型の銃が、軍隊で多人数によって使用されるならば「兵器」として扱われる(なお、銃と銃弾を戦場まで運ぶ労役を補給なしですべての兵士が徒歩のみで行なうことは考えられないので、たとえ小さな銃であっても軍事用途では自ずと、システムとして多人数で運用される)。また例えば核兵器でも、軍隊が保有すると「兵器」扱いである。だが1人や数人のテロリストがスーツケース大の核兵器を保有したなら、それは(軍用ではないので)「兵器」ではなく「武器」である。(なお、英語ではweaponやarmの前に「military =軍用の」という形容詞をつけて組み合わせた用語でしかなく、つまり武器の中で使用者(使用組織)が軍のものを呼び分けている用語で、武器の中の軍が使用しているものを特に「兵器」と呼んでいる、ということなのである。そして実際には(最初は軍隊用に開発されても、古くなるなどすると)軍隊から放出されて民間で流通したり自警団や一般人によっても使用されるようになるわけで、同一型の器具・物体が、同時期に軍隊でも使われつつ(「兵器」でもあり)、民間でも使われる(普通の「武器」でもある)、ということも起きる。) 広義には、重要な軍用の器具装置類の総称である。広義には各種の電子戦兵器やC4I(=指揮・管制・通信・コンピュータおよび情報システム)など、直接の加害力をもたない器材も含む。広義には、軍隊が軍事目的で使用しなければならない重要な車両、航空機、船舶、さまざまな設備・機器 等々を広く指すための用語である。この広義の兵器のほうは、(武器でないものも含むので)「武器」とは呼ばない。 様々な分類方法がある。使用目的、利用する物理・化学現象やエネルギーの種類などを基準にしてさまざまに分類することができる。現代の兵器体系は複雑で、すっきりと分類することは不可能である。その種類は膨大な数に上る。 なお、ざっくりと大量破壊兵器 / 通常兵器に分類する方法がある。 (現代では)兵器はシステムとして運用されるために以下の4つの要素から構成され、下位の要素は上位の要素が有効に機能するために存在する。この(現代では)「兵器がシステムである」という特徴は、単体で機能する武器とは異なる点である。 兵器の開発には多くの資金と人材が使われ、生み出された軍事技術が軍事以外の民生用途にも広がる場合が多いが、逆に軍事以外の民間で開発された技術が兵器に転用される場合もある。 兵器は民間で使用される製品に比べて、過酷な環境での使用が避けられず、長期間保管後に激しく使用される傾向があり、生産数も限られる、なによりその機能不全は人命や戦争の勝敗に直接関わるために、信頼性(Reliability)や可用性(Availability)が強く求められる。 性能向上を求めて新たな兵器が開発された場合でも、戦場での実戦使用を経なければ兵器としての完成度は不十分として扱われるのが通常であり、最新軍事技術が量産兵器となって現れるまでには5年や10年といった長い年月を必要とする。民生品での新製品開発では1年や2年といった短期間で量産へ移されるので、これと比べれば軍事技術は保守的であり、特にコンピュータ技術や無線通信技術に代表される電子装置ではこの傾向が強く、兵器の配備後十年以上経過して、民間製品としては陳腐化したようなものであっても、これに代わる新たな兵器を開発して検証・量産・訓練・配備する大きなコストやリスクを避けて、枯れた技術に基づく兵器が使用され続ける場合がある。 兵器の開発や製造は、兵器企業や軍需企業などと呼ばれる企業が行う。 運営形態としては国営企業の場合も、民間企業の場合も、それらの中間的な性質の企業の場合もありうる。兵器を開発・生産する企業といっても、兵器ばかりを開発・製造している企業もありはするが、一方で、民生品を開発・製造している会社がその一部門で兵器製造を行っている場合もある(生産の品目数では民生品が多いが、利益の大部分は兵器製造で得ている、という企業もある)。 まず大前提として、自国生産するか、輸入するか、中間的な方法を選ぶか、という選択肢がある。求める兵器の開発が自国単独の技術力で可能か否かが重要な要素であり、自国単独で開発できない場合は、そもそも他の選択肢を選ばざるを得ない。また自国で開発・生産できる場合でも、それで得られる兵器の性能も考慮される。兵器を自国生産できることは他国への依存度を減らし政治的な強みにはなるが、その自国生産の兵器の性能が低いのなら、軍事力が低下することになる。仮想敵国の兵器よりも強力な兵器を得るためには、自国生産をあきらめ、性能の良い兵器を輸入せざるを得ない場合もある。兵器を輸入する場合は、その輸入先の国や企業に依存することになるのでそれの負の面も考慮されることになるが、輸入によって二国間の経済関係が強化される政治面なども含めて、総合的に判断されることは多い。また近年の兵器はシステム化されているので、システム全体の整合性や相性なども考慮しなければならない。 国内での独自開発が難しい場合、次のような選択肢がある。 国内メーカーの技術育成を重視する場合、兵器そのもの(完成品)の購入を避け、他の選択肢を選ぶ努力をすることになる。 兵器を他国から購入する場合、その国に依存する立場になる、ということも考慮しなければならない。兵器の主要部品を他国から輸入する場合、何らかの事情でその入手が困難になった場合に、製造不能になってしまったり、保守整備や修理などに支障が出るリスクの大きさを見積もる必要がある。近年では集積回路を多用しており、ひとつひとつの兵器に焦点を当てるとその部品として使われる特定の(特定の型番の)集積回路が入手不能になるだけで、その兵器が製造不能、保守・整備不能 という状況に陥りかねず、安全保障上の大きな懸念材料になっている。 近年は電子機器類の多用などから、兵器の開発・製造コストが高騰する傾向にある。この為、F-35の開発の様に、ほぼ同一の機体構造を用いながら様々な派生タイプの機体を開発する統合打撃戦闘機(JSF:Joint Strike 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ただし、ワシントン会議後の1920年代から1930年代の戦間期には、確かに主力艦の保有数の制限があったものの、技術開発は続けられた。また、それら条約を批准しない国があるなどの問題もある。近年ではクラスター爆弾の使用を規制する「クラスター弾に関する条約」などが有名であるが、やはり批准を拒否する国が存在する。 新たな兵器が採用されるに伴い、老朽化や旧式化した兵器は退役を迎える。兵器の寿命はその兵器の耐久年数のみならず、新たな技術革新や技術の進歩に合わせて異なる。また、新兵器の更新が進まず、老朽化した兵器の延命改修を行う場合もある。 顕著な例としては、アメリカ空軍の戦略爆撃機B-52がある。1952年の初飛行後、B-1/B-2などが登場してもなお、その「枯れた技術」を基礎とした信頼性の高さから、最終量産型であるH型は2045年までの運用が予定されている。 また、第二次世界大戦時に建造されたアイオワ級戦艦「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」の4隻は、1980年代の600隻艦隊構想に基づいて近代化改修が施され、冷戦が終結する1990年代前半まで運用された。 世界初の攻撃ヘリコプターとして有名なAH-1(原型のモデル209は1965年に初飛行)は、元々AH-56の開発に時間がかかる事が予想されたため、開発が完了するまでの繋ぎの暫定攻撃ヘリコプターとして採用された経緯がある。しかし、AH-56は技術面・コスト面の問題を解決することができず最終的にキャンセルされ、AH-1は主力攻撃ヘリコプターとして現在でも派生型が運用されている。 第一線から退いた兵器は、様々な余生を送ることになる。 状態の良いものはモスボール化され、有事の際に前線で兵器や物資が不足した際に再利用される。また、他国への輸出商品となる場合もある。太平洋戦争終結後、海上自衛隊にアメリカ海軍から供与された、のちにあさひ型護衛艦と呼ばれる事になるアミック(USS Amick, DE-168)とアザートン(USS Atherton, DE-169)は、元々大戦終結後に予備艦となっていたものであったし、中華民国では自国のF-104の維持のため、航空自衛隊やドイツ空軍などで退役したF-104を導入し、機体数維持や部品取りに用いた。 これらに加え、博物館などで余生を送る場合もある。しかし、アメリカ海軍のF-14艦上戦闘機などの様に、退役した兵器が他国では現役で運用されている場合は、完全な形で展示されない事もある。 上記の2つは保管や維持にコストが掛るため、不必要となった兵器は最終的に解体・スクラップとなる。ただし、兵器はその運用・設計思想から頑丈にできているため、解体自体にも多くのコストを必要とする。 ベルリンの壁崩壊によるドイツ再統一に伴い、ドイツ連邦軍は東ドイツの東側の兵器を多数保有するに至った。MiG-29などの一部の兵器はドイツ連邦空軍で引き続き運用されるかインドネシアなど他国へ売却されたが、西側との規格の違いや運用コストの高さなどから多くの兵器が解体された。 映画や漫画、アニメーションといったフィクション作品、テレビゲーム、果ては伝説や神話などにも兵器は登場する。実在する兵器や実在する兵器を基としたオリジナルの兵器、実際に確立された技術を用いた架空の兵器、まったく空想の技術・素材・世界観を基とした架空の兵器など、いろいろなものが登場している。 実在の兵器の性能を忠実に再現しリアリティを高めた作品がある一方、製作者側が意図した、もしくは資料・知識不足から誤った描写がされている作品も散見される。特に兵器を所有する軍隊などからの協力が得られれば、実車や実機を登場させることができる。一方で日米共同制作の「トラ・トラ・トラ!」などの様に、既に実物が存在しないため、形状が似ているものを改造し撮影に用いた例もある。この作品では練習機の「T-6 テキサン」をベースに零式艦上戦闘機や九九式艦上爆撃機が用意され、大日本帝国海軍の空母「赤城」にはアメリカ海軍の「レキシントン」が代用された。赤城の艦橋は左舷側にあるがレキシントンは右舷側にあるため、作中レキシントンのパネルを登場させ、役者に赤城であると言わせる念の入れようであった。 SF、空想科学作品等では物語を盛り上げる小道具として、実在の兵器からまったくの空想の兵器まで多数が描かれている。リアルロボット作品では、架空の素材や技術を用いた架空の兵器である巨大ロボットに、兵器としての性格(研究開発、量産、壊れれば修理・交換・破棄、破壊、新兵器の登場で退役する)を与えることで「実在感(リアリティ)」を持たせることに成功した。例えばテレビアニメ「装甲騎兵ボトムズ」に登場する「アーマードトルーパー」は、同型機同士で戦い、破壊されれば乗り捨てるなど、徹底的に消耗品として描かれている。 歴史改変ものの架空戦記などでは、大日本帝国陸軍の四式中戦車や富嶽、ドイツ海軍の「グラーフ・ツェッペリン」など、試作のみに終わった兵器や量産が間に合わなかった兵器、計画のみの兵器の登場が多くみられる。それらは時として戦局を左右することもある。 実在する軍用機が多数登場する、ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)の「エースコンバットシリーズ」は、それまでのフライトシミュレーションゲームとは異なり、物理法則や操作性などに関するリアリティの多くを限界まで簡略化することによりプレイのしやすさ(プレイアビリティー)の大幅な向上に成功した。結果として、一般的なフライトシミュレーションゲームの様なミサイルや弾丸の残弾制限や航空機の物理法則にしたがった機動や運動といったリアリティ要素は低下したが、手軽にシューティングゲームが楽しめることから2021年時点でシリーズ累計出荷本数が1,600万本を超える人気タイトルとなった。
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"歴史改変ものの架空戦記などでは、大日本帝国陸軍の四式中戦車や富嶽、ドイツ海軍の「グラーフ・ツェッペリン」など、試作のみに終わった兵器や量産が間に合わなかった兵器、計画のみの兵器の登場が多くみられる。それらは時として戦局を左右することもある。", "title": "フィクションにおける兵器" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "実在する軍用機が多数登場する、ナムコ(後のバンダイナムコゲームス)の「エースコンバットシリーズ」は、それまでのフライトシミュレーションゲームとは異なり、物理法則や操作性などに関するリアリティの多くを限界まで簡略化することによりプレイのしやすさ(プレイアビリティー)の大幅な向上に成功した。結果として、一般的なフライトシミュレーションゲームの様なミサイルや弾丸の残弾制限や航空機の物理法則にしたがった機動や運動といったリアリティ要素は低下したが、手軽にシューティングゲームが楽しめることから2021年時点でシリーズ累計出荷本数が1,600万本を超える人気タイトルとなった。", "title": "フィクションにおける兵器" } ]
兵器は、狭義には殺傷・破壊力をもつ軍用の器具のことであり、広義には重要な軍用の器具装置類の総称。 この記事では、狭義の兵器と、広義の兵器の両方について解説する。
'''兵器'''(へいき、{{Lang-en-short|weaponやarm, あるいはmilitary weaponsやmilitary armsなど}})は、狭義には殺傷・破壊力をもつ[[軍隊|軍]]用の器具のこと<ref name="brit">ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「兵器」</ref>であり、広義には重要な軍用の器具装置類の総称<ref name="brit" />。 この記事では、狭義の兵器と、広義の兵器の両方について解説する。 == 概説 == ;狭義 狭義の兵器は、「殺傷・破壊力を持つ、<u>軍用の</u>、器具」「<u>軍用の</u>、殺傷・破壊力を持つ器具」のことである。狭義の兵器は、「軍用の武器」のことであり、[[武器]](=殺傷・破壊力を持つ器具)の一種である。 たとえば、通常の[[小銃]]の場合を考えてみると、それを個人が保有して使用するなら(普通の)「武器」であるが、全く同じ型の銃が、軍隊で多人数によって使用されるならば「兵器」として扱われる(なお、銃と銃弾を戦場まで運ぶ労役を補給なしですべての兵士が徒歩のみで行なうことは考えられないので、たとえ小さな銃であっても軍事用途では自ずと、システムとして多人数で運用される)。また例えば[[核兵器]]でも、軍隊が保有すると「兵器」扱いである。だが1人や数人のテロリストがスーツケース大の核兵器を保有したなら、それは(軍用ではないので)「兵器」ではなく「武器」である<ref name="兵器の歴史">出典:加藤朗著 『兵器の歴史』 芙蓉書房出版 2008年1月25日第一刷発行 ISBN 9784829504130</ref>。(なお、英語ではweaponやarmの前に「military =軍用の」という形容詞をつけて組み合わせた用語でしかなく、つまり武器の中で使用者(使用組織)が軍のものを呼び分けている用語で、武器の中の軍が使用しているものを特に「兵器」と呼んでいる、ということなのである。そして実際には(最初は軍隊用に開発されても、古くなるなどすると)軍隊から放出されて民間で流通したり自警団や一般人によっても使用されるようになるわけで、同一型の器具・物体が、同時期に軍隊でも使われつつ(「兵器」でもあり)、民間でも使われる(普通の「武器」でもある)、ということも起きる。)<ref group="注">さらに言うと、戦車や戦闘機ですら、米国では個人が趣味で所有して乗り回したり飛ばしたりすることもあるわけで、個人が趣味で所有したら戦車や戦闘機ですら「兵器」扱いではなくなる。</ref> {{gallery|height=300px |Image:M27_Infantry_Automatic_Rifle.jpg|軍用の小火器(写真はアメリカ海兵隊で採用されている[[M27 IAR]]) |ファイル:HIMARS - missile launched.jpg|狭義の兵器、'''[[ロケット砲]]'''システム。写真はアメリカの[[HIMARS]](ハイマース)。 |Image:M-1978_Koksan.jpg|狭義の兵器の一例、'''[[自走砲]]'''(写真は、[[北朝鮮]]製の[[コクサン (自走砲)|koksan]](が中東のパレードに登場したもの)) |File:An artist's impression of Shahed-136 drones swarming an airport.jpg|狭義の兵器、'''攻撃ドローン'''。近年では多用されるようになってきた。爆弾を落とすタイプと、爆薬を内蔵し "カミカゼ攻撃" をするタイプがある。(写真はイランのShahed-136。) |File:Tomahawk Land Attack Missile ( Cruise Missile) (TLAM) flying through the air. 12-04-2000 MOD 45138116.jpg|狭義の兵器、'''[[巡航ミサイル]]'''。(写真はアメリカ製の[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク]]。) |ファイル:LAAD stinger.jpg|狭義の兵器、'''[[携帯式防空ミサイルシステム|携帯式対空ミサイル]]'''(写真はアメリカの[[FIM-92 スティンガー]]) |ファイル:Army-fgm148.jpg|狭義の兵器、'''携行式対戦車ミサイル'''や'''携行式多目的ミサイル'''(写真はアメリカの[[FGM-148 ジャベリン]]) |Image:M1A Abrams im Taunus.jpg|狭義の兵器の一例、'''[[戦車]]'''([[M1エイブラムス|M1A1エイブラムス]]) |Image:F-15, 71st Fighter Squadron, in flight.JPG|狭義の兵器の一例、'''[[戦闘機]]'''(写真は米軍の[[F-15 (戦闘機)|F-15 イーグル]]) |Image:B-1B_Lancer_in_April_2010.jpg|狭義の兵器の一例、'''[[爆撃機]]'''(写真は米軍の[[B-1 (航空機)|B-1]]) |Image:USS Wisconsin (BB-64) preps.JPG|狭義の兵器の一例、'''[[戦艦]]'''(写真は[[アイオワ級戦艦]]「[[ウィスコンシン (戦艦)|ウィスコンシン]]」) |Image:Defense.gov_News_Photo_960703-N-00000-001.jpg|狭義の兵器の一例、'''[[潜水艦]]'''(写真は[[シーウルフ級原子力潜水艦]]) |Image:Dnepr_rocket_lift-off_1.jpg|狭義の兵器の一例、'''[[大陸間弾道ミサイル]]'''(写真はロシアの[[R-36 (ミサイル)|R-36]]) }} ;広義 広義には、重要な軍用の器具装置類の総称である<ref name="brit" />。広義には各種の電子戦兵器や[[C4I]](=指揮・管制・通信・コンピュータおよび情報システム)など、直接の加害力をもたない器材も含む<ref name="nipponica">小学館『日本大百科全書』「兵器」</ref>。広義には、軍隊が軍事目的で使用しなければならない重要な[[車両]]、[[航空機]]、[[船舶]]、さまざまな設備・機器 等々を広く指すための用語である。この広義の兵器のほうは、(武器でないものも含むので)「武器」とは呼ばない<ref name="nipponica" /><ref group="注">なお、念のために言っておくと、軍隊が所有するありとあらゆるものが「兵器」というわけではない。「兵器」はあくまで軍事目的で重要な装置や設備のことである。軍隊が保有・使用しているものでも、軍隊の施設内に、たとえば寝台・運動用器具(ランニングマシン、ベンチプレス器具)やカラオケ装置などを保有していても、その寝台・運動用器具 等までが「兵器」というわけではない。攻撃や防御などの目的に使用されるわけでもなく、軍事的に重要な器具・装置類ではないからである。</ref>。 {{gallery|height=300px |ファイル:PEO_ANAVS-6_NVG.jpg|広義の兵器の一例、'''軍用の[[暗視装置]]''' |ファイル:Global Hawk 1.jpg|広義の兵器の一例、'''[[偵察機]]'''(写真は[[RQ-4]]) |ファイル:Military Radar Salé.jpg|広義の兵器の一例、'''軍の[[レーダー]]設備''' |ファイル:USNS_Big_Horn.jpg|広義の兵器の一例、'''[[補給艦]]'''(写真は米軍の[[:en:USNS Big Horn (T-AO-198)|USNS Big Horn]]) }} == 歴史 == {{節スタブ|date=2020年5月}} == 兵器の種類 == <!--;種類・分類 兵器は様々に分類され、--> 様々な分類方法がある。使用目的、利用する物理・化学現象やエネルギーの種類などを基準にしてさまざまに[[分類]]することができる<ref name="nipponica" />。現代の兵器体系は複雑で、すっきりと分類することは不可能である<ref name="nipponica" />。その種類は膨大な数に上る。 なお、ざっくりと[[大量破壊兵器]] / [[通常兵器]]に分類する方法がある<ref name="nipponica" />。 {{main2|網羅的な一覧については[[兵器一覧]]を}} === 大分類 === *用途別 **攻撃兵器 **防衛兵器 **(上記以外の補助的兵器)<!--通信や補給等に使用される非攻撃的なものを兵器に含めるかどうかといった点に関しては、出典を伴う記述が出来ないため、現状ではほとんど触れていません。おそらくは広義と狭義があるのでしょうが、しばらくは書籍等を捜してみます。--> *運用場所別 **陸上兵器 **航空兵器 **海上兵器 **宇宙兵器 *破壊規模別 **大量破壊兵器 ***核兵器 ***生物兵器 ***化学兵器 **通常兵器 *加害対象別 **対人兵器 **対物兵器 *殺害目的の有無別 **[[非致死性兵器]] **(通常の兵器) === その他の分類 === [[Image:Castle Romeo.jpg|thumb|250px|[[核実験]]による[[核爆発]]<br/>現在、[[核兵器]]を上回る爆発力を有する単独の兵器は存在しない]] *特殊な兵器 **[[核兵器]] **[[生物兵器]] **[[化学兵器]] **[[光学兵器]] **[[音響兵器]] *設備 **[[基地]] ***[[駐屯地]] ***[[軍港]] ***[[飛行場]]および[[空港]] **[[防空壕]] **[[要塞]] ***[[トーチカ]] ***[[堡塁]] == 兵器の特徴 == === 兵器システム === (現代では)兵器はシステムとして運用されるために以下の4つの要素から構成され、下位の要素は上位の要素が有効に機能するために存在する。この(現代では)「兵器がシステムである」という特徴は、単体で機能する武器とは異なる点である。 # 破壊体:[[弾丸|銃弾]]、[[砲弾]]、[[ミサイル]]の[[弾頭]]など<ref group="注">本記事では銃弾、砲弾、ミサイルの弾頭などを破壊体としたが、これらを発射体と呼ぶこともある</ref> # 発射体:[[銃]]、[[大砲|砲]]、[[ミサイル]]など<!--ミサイルは破壊体で、その発射機が発射体ではないかと思うがここでは出典に従う。--> # 運搬体:[[車両]]、[[航空機]]、[[軍艦|艦艇]]など<ref group="注">兵器システムにおける運搬体は、プラットフォームと呼ばれることが多い</ref> # 運用体:[[レーダー]]、[[偵察衛星]]、[[コンピュータシステム]]など<ref name = "兵器の歴史"/> === 最新技術と枯れた技術 === 兵器の開発には多くの資金と人材が使われ、生み出された[[軍事技術]]が軍事以外の民生用途にも広がる場合が多いが、逆に軍事以外の民間で開発された技術が兵器に転用される場合もある。 兵器は民間で使用される製品に比べて、過酷な環境での使用が避けられず、長期間保管後に激しく使用される傾向があり、生産数も限られる、なによりその機能不全は人命や戦争の勝敗に直接関わるために、信頼性(Reliability)や可用性(Availability)が強く求められる。 性能向上を求めて新たな兵器が開発された場合でも、戦場での実戦使用を経なければ兵器としての完成度は不十分として扱われるのが通常であり、最新軍事技術が量産兵器となって現れるまでには5年や10年といった長い年月を必要とする。民生品での新製品開発では1年や2年といった短期間で量産へ移されるので、これと比べれば軍事技術は保守的であり、特にコンピュータ技術や無線通信技術に代表される電子装置ではこの傾向が強く、兵器の配備後十年以上経過して、民間製品としては陳腐化したようなものであっても、これに代わる新たな兵器を開発して検証・量産・訓練・配備する大きなコストやリスクを避けて、枯れた技術に基づく兵器が使用され続ける場合がある。 <!-- === 性能 === 兵器の性能についての説明を書くべき 「性能」の節で他の話題に話をそらすことを書いても意味が無い。 --> == 開発・量産・調達 == 兵器の開発や製造は、兵器企業や[[軍需企業の一覧|軍需企業]]などと呼ばれる企業が行う。 :{{Seealso|軍需産業|世界の軍事企業の売上高ランキング}} 運営形態としては[[国営企業]]の場合も、[[民間企業]]の場合も、それらの中間的な性質の企業の場合もありうる。兵器を開発・生産する企業といっても、兵器ばかりを開発・製造している企業もありはするが、一方で、民生品を開発・製造している会社がその一部門で兵器製造を行っている場合もある(生産の品目数では民生品が多いが、利益の大部分は兵器製造で得ている、という企業もある)。 まず大前提として、自国生産するか、輸入するか、中間的な方法を選ぶか、という選択肢がある。求める兵器の開発が自国単独の技術力で可能か否かが重要な要素であり、自国単独で開発できない場合は、そもそも他の選択肢を選ばざるを得ない。また自国で開発・生産できる場合でも、それで得られる兵器の性能も考慮される。兵器を自国生産できることは他国への依存度を減らし政治的な強みにはなるが、その自国生産の兵器の性能が低いのなら、軍事力が低下することになる。仮想敵国の兵器よりも強力な兵器を得るためには、自国生産をあきらめ、性能の良い兵器を輸入せざるを得ない場合もある。兵器を輸入する場合は、その輸入先の国や企業に依存することになるのでそれの負の面も考慮されることになるが、輸入によって二国間の経済関係が強化される政治面なども含めて、総合的に判断されることは多い。また近年の兵器はシステム化されているので、システム全体の整合性や相性なども考慮しなければならない。 国内での独自開発が難しい場合、次のような選択肢がある。 *外国から兵器そのもの(完成品)を購入 *他国との共同開発 *製造技術の購入<ref>宮園道明著 『発展する中国のミサイル産業』 軍事研究2008年9月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー2008年9月1日発行 ISSN 0533-6716</ref> *[[ノックダウン生産]]や[[ライセンス生産]] *他国の技術を購入してこれを改良<ref>清谷信一著 『実需要の高い新型ジープ』 軍事研究2008年10月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー2008年10月1日発行 ISSN 0533-6716 Page73</ref> *外国製兵器の模造(一部の国) 国内メーカーの技術育成を重視する場合、兵器そのもの(完成品)の購入を避け、他の選択肢を選ぶ努力をすることになる。 兵器を他国から購入する場合、その国に依存する立場になる、ということも考慮しなければならない。兵器の主要部品を他国から輸入する場合、何らかの事情でその入手が困難になった場合に、製造不能になってしまったり、保守整備や修理などに支障が出るリスクの大きさを見積もる必要がある。近年では[[集積回路]]を多用しており、ひとつひとつの兵器に焦点を当てるとその部品として使われる特定の(特定の型番の)集積回路が入手不能になるだけで、その兵器が製造不能、保守・整備不能 という状況に陥りかねず、安全保障上の大きな懸念材料になっている。 ;総コスト削減のための工夫 近年は電子機器類の多用などから、兵器の開発・製造コストが高騰する傾向にある。この為、[[F-35 (戦闘機)|F-35]]の開発の様に、ほぼ同一の機体構造を用いながら様々な派生タイプの機体を開発する統合打撃戦闘機(JSF:Joint Strike Fighter)計画や、[[北大西洋条約機構|NATO]]のように軍事同盟を結び、一国では賄いきれない兵器コストを相互に補完しあう<ref group="注">欧州各国で[[エアバス A400M]]を共同開発した例や、NATOで輸送機を共同保有する例がある</ref>ことで削減する試みも行なわれている<ref>菊池雅之著 『DLO:空中機動作戦師団』 軍事研究2008年10月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー2008年10月1日発行 ISSN 0533-6716 Page78</ref>。陸軍・海軍・空軍に分かれていた兵器も、[[20世紀]]末からは[[ミサイル]]や[[レーダー]]といった技術から相互の共通化が顕著になり、21世紀には当初から2軍で共通する兵器開発が行なわれることが珍しくなくなっている<ref name = "兵器の歴史"/>。 たとえば、戦闘機の[[ユーロファイター タイフーン]]はイギリス、ドイツ(計画開始当時は西ドイツ)、イタリア、スペインの4ヶ国が共同開発し、組み立てについても各国の分業体制で行っている。 たとえば[[F-35 (戦闘機)|F-35]]は、アメリカ合衆国の航空機メーカー、[[ロッキード・マーティン]]が中心となって開発されたが、その後[[統合打撃戦闘機計画]]に基づき、アメリカやイギリスなどが共同で[[F-35 ライトニング|F-35ライトニング]]を開発。[[F/A-18ホーネット]]の後継として、基本型の通常離着陸機([[航空機の離着陸方法#CTOL|CTOL]])、[[艦載機]](CV)、短距離離陸・垂直着陸([[航空機の離着陸方法#STOVL|STOVL]])という3つの派生型を開発、製造を目指している。 たとえば[[大韓民国陸軍]]の[[K1 (戦車)|K1戦車]]については、[[戦車]]開発の経験が無かったため、クライスラー・ディフェンス社(後の[[ジェネラル・ダイナミクス]]社)が設計・開発を担当し、生産を韓国の現代車輌社(現代精密、後の[[現代ロテム]])が担当した。 === 開発の考慮点 === 自国の技術レベルを正しく認識しながら段階を踏んだ開発が求められ、あまり急激な技術を国内開発に求めても失敗するリスクが高くなる<ref>岩狭源清著 『中国原潜技術&漢級侵犯事件』 [[軍事研究 (雑誌)|軍事研究]]2005年4月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー2005年4月1日発行 ISSN 0533-6716 Page195</ref>。敵国や仮想敵国の兵器性能や兵器体系も考慮されねばならない。敵国に対して過剰な性能の兵器を作る余力があれば、他の戦力の充実に振り向ける方が得策である<ref>三鷹聡著 『2010年アジア欧州の陸戦主力兵器』 軍事研究2005年2月号 ジャパン・ミリタリー・レビュー2005年2月1日発行 ISSN 0533-6716 Page75</ref>。また、敵国や仮想敵国が類似兵器の開発や、技術漏洩によって開発に成功してしまった場合、その対抗手段の有無が考慮される。例えば[[レーダー]]に対する[[チャフ]]などである。 [[File:Utah Beach 2006-Sherman.jpg|thumb|250px|[[第二次世界大戦]]で活躍した[[M4中戦車|M4シャーマン中戦車]](写真のシャーマンは[[76mm砲]]搭載型。威力や射程は従来の[[75mm砲]]より向上したが、[[ドイツ軍]]の戦車に対抗するには威力不足だった)<br />性能こそ[[ナチス・ドイツ]]の[[V号戦車パンター|パンター中戦車]]や[[VI号戦車|ティーガー重戦車]]に劣っていたが、構成部品の[[規格化]]に伴う[[大量生産]]と車体構成部品に高い互換性を持たせた事による信頼性の保持により、数で[[ドイツ国防軍]]、[[武装親衛隊]]を圧倒した]] 兵器開発では以下の点が考慮される。 *目的 *実現可能性(Feasibility) *開発期間 *[[ライフサイクルコスト]](調達費や維持費など全て合算したもの) *性能・能力・特性など **命中精度、速度、燃費といった主要な性能 **小型・軽量といった運搬性や可搬性 **耐久性 **整備性・保守性 **習熟容易性 **使い易さ([[人間工学]]からの配慮も含む) *製造の容易性 **加工工程 **材料調達の容易性 *他の兵器との相互運用性 *国内や周辺国への政治的配慮 ただし[[原子爆弾]]のように特殊な例外もある。 == 兵器に対する規制 == 一方で兵器の開発・製造を規制する動きもある。[[第一次世界大戦]]後の「[[ワシントン海軍軍縮条約]]」や、「[[対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約]]」などがある。 ただし、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]後の[[1920年代]]から[[1930年代]]の[[戦間期]]には、確かに[[主力艦]]の保有数の制限があったものの、技術開発は続けられた。また、それら条約を批准しない国があるなどの問題もある。近年では[[クラスター爆弾]]の使用を規制する「[[クラスター弾に関する条約]]」などが有名であるが、やはり批准を拒否する国が存在する。 {{main|軍縮|規制が議論されている兵器}} == 兵器の寿命 == 新たな兵器が採用されるに伴い、老朽化や旧式化した兵器は[[退役]]を迎える。兵器の寿命はその兵器の耐久年数のみならず、新たな技術革新や技術の進歩に合わせて異なる。また、新兵器の更新が進まず、老朽化した兵器の延命改修を行う場合もある。 顕著な例としては、[[アメリカ空軍]]の[[戦略爆撃機]][[B-52 (航空機)|B-52]]がある。[[1952年]]の初飛行後、[[B-1 (航空機)|B-1]]/[[B-2 (航空機)|B-2]]などが登場してもなお、その「枯れた技術」を基礎とした信頼性の高さから、最終量産型であるH型は[[2045年]]までの運用が予定されている<ref group="注">つまり、初期型の初飛行からほぼ1世紀運用される可能性を有している</ref>。 {{main|B-52 (航空機)#今後の運用}} また、[[第二次世界大戦]]時に建造された[[アイオワ級戦艦]]「[[アイオワ (戦艦)|アイオワ]]」「[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]」「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」「[[ウィスコンシン (戦艦)|ウィスコンシン]]」の4隻は、[[1980年代]]の[[600隻艦隊構想]]に基づいて近代化改修が施され、[[冷戦]]が終結する[[1990年代]]前半まで運用された。 世界初の[[攻撃ヘリコプター]]として有名な[[AH-1 コブラ|AH-1]](原型のモデル209は[[1965年]]に初飛行)は、元々[[AH-56 シャイアン|AH-56]]の開発に時間がかかる事が予想されたため、開発が完了するまでの繋ぎの暫定攻撃ヘリコプターとして採用された経緯がある。しかし、AH-56は技術面・コスト面の問題を解決することができず最終的にキャンセルされ、AH-1は主力攻撃ヘリコプターとして現在でも派生型が運用されている。 == 退役後の兵器 == [[File:Tucson05 AMARCHelicoptersFightersMountain.jpg|thumb|250px|[[アメリカ合衆国]][[アリゾナ州]][[デビスモンサン空軍基地]]の[[:en:309th Aerospace Maintenance and Regeneration Group|AMARG]]でモスボールされ、保管される兵器たち<br />手前に[[UH-1 (航空機)|UH-1]]、奥に[[F-4 (戦闘機)|F-4]]が並ぶ]] 第一線から退いた兵器は、様々な余生を送ることになる。 状態の良いものは[[モスボール (軍事)|モスボール]]化され、[[有事]]の際に前線で兵器や物資が不足した際に再利用される。また、他国への輸出商品となる場合もある。[[太平洋戦争]]終結後、[[海上自衛隊]]に[[アメリカ海軍]]から供与された、のちに[[あさひ型護衛艦 (初代)|あさひ型護衛艦]]と呼ばれる事になる[[アミック (護衛駆逐艦)|アミック]]('''[[:en:USS Amick (DE-168)|USS Amick, DE-168]]''')と[[アザートン (護衛駆逐艦)|アザートン]]('''[[:en:USS Atherton (DE-169)|USS Atherton, DE-169]]''')は、元々大戦終結後に予備艦となっていたものであったし、[[中華民国]]では自国の[[F-104 (戦闘機)|F-104]]の維持のため、[[航空自衛隊]]や[[ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)|ドイツ空軍]]などで退役したF-104を導入し、機体数維持や部品取りに用いた。 これらに加え、[[博物館]]などで余生を送る場合もある。しかし、[[アメリカ海軍]]の[[F-14 (戦闘機)|F-14]][[艦上戦闘機]]などの様に<ref group="注">政治的に対立する[[イラン]]への部品流出を防ぐため、レーダーやエンジン等の重要備品は完全に撤去されてから引き渡されている</ref>、退役した兵器が他国では現役で運用されている場合は、完全な形で展示されない事もある。 上記の2つは保管や維持にコストが掛るため、不必要となった兵器は最終的に[[解体]]・[[スクラップ]]となる。ただし、兵器はその運用・設計思想から頑丈にできているため、解体自体にも多くのコストを必要とする。 [[ベルリンの壁崩壊]]による[[ドイツ再統一]]に伴い、[[ドイツ連邦軍]]は[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の東側の兵器を多数保有するに至った。[[MiG-29 (航空機)|MiG-29]]などの一部の兵器はドイツ連邦空軍で引き続き運用<ref group="注">ドイツ空軍のMiG-29は西側の有する数少ない東側戦闘機として他国との共同訓練に頻繁に参加していたが、部品供給や[[稼働率]]の低さなど問題を抱え、[[2005年]]に[[ユーロファイター タイフーン]]の導入により全機が退役した。しかし、その多くが[[ポーランド]]に売却され、第二(第三)の人生を送っている</ref>されるか[[インドネシア]]など他国へ売却されたが、西側との規格の違いや運用コストの高さなどから多くの兵器が解体された。 == フィクションにおける兵器 == [[File:Correa-Martians vs. Thunder Child.jpg|thumb|250px|[[H.G.ウェルズ]]の『[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]』の[[イラストレーション|挿絵]]<br>架空の兵器である、火星人の戦闘機械([[三脚|トライポッド]])と実在した[[水雷衝角艦]]などをモデルとした[[イギリス海軍]]艦艇「[[サンダーチャイルド]]」]] [[映画]]や[[漫画]]、[[アニメーション]]といったフィクション作品、[[テレビゲーム]]、果ては[[伝説]]や[[神話]]などにも兵器は登場する。実在する兵器や実在する兵器を基としたオリジナルの兵器、実際に確立された技術を用いた架空の兵器、まったく空想の技術・素材・世界観を基とした架空の兵器など、いろいろなものが登場している。 実在の兵器の性能を忠実に再現しリアリティを高めた作品がある一方、製作者側が意図した、もしくは資料・知識不足から誤った描写がされている作品も散見される。特に兵器を所有する軍隊などからの協力が得られれば、実車や実機を登場させることができる<ref group="注">アメリカ海軍の協力が得られた「[[トップガン (映画)|トップガン]]」、[[自衛隊]]の協力を得られた[[ゴジラ|ゴジラシリーズ]]、[[ガメラ|ガメラシリーズ]]、「[[戦国自衛隊1549]]」など</ref>。一方で日米共同制作の「[[トラ・トラ・トラ!]]」などの様に、既に実物が存在しないため、形状が似ているものを改造し撮影に用いた例もある。この作品では[[練習機]]の「[[T-6 (航空機・初代)|T-6 テキサン]]」をベースに[[零式艦上戦闘機]]や[[九九式艦上爆撃機]]が用意され、[[大日本帝国海軍]]の[[航空母艦|空母]]「[[赤城 (空母)|赤城]]」には[[アメリカ海軍]]の「[[レキシントン (CV-16)|レキシントン]]」が代用された。赤城の艦橋は左舷側にあるがレキシントンは右舷側にあるため、作中レキシントンのパネルを登場させ、役者に赤城であると言わせる念の入れようであった。 [[サイエンス・フィクション|SF]]、[[空想科学]]作品等では物語を盛り上げる小道具として、実在の兵器からまったくの空想の兵器まで多数が描かれている。[[リアルロボット]]作品では、架空の素材や技術を用いた架空の兵器である巨大ロボットに、兵器としての性格(研究開発、量産、壊れれば修理・交換・破棄、破壊、新兵器の登場で退役する)を与えることで「実在感(リアリティ)」を持たせることに成功した。例えば[[テレビアニメ]]「[[装甲騎兵ボトムズ]]」に登場する「[[アーマードトルーパー]]」は、同型機同士で戦い、破壊されれば乗り捨てるなど、徹底的に消耗品として描かれている。 歴史改変ものの[[架空戦記]]などでは、[[大日本帝国陸軍]]の[[四式中戦車]]や[[富嶽]]、[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の「[[グラーフ・ツェッペリン (空母)|グラーフ・ツェッペリン]]」など、試作のみに終わった兵器や量産が間に合わなかった兵器、計画のみの兵器の登場が多くみられる。それらは時として戦局を左右することもある。 実在する[[軍用機]]が多数登場する、[[ナムコ]](後の[[バンダイナムコゲームス]])の「[[エースコンバットシリーズ]]」は、それまでの[[シューティングゲーム#3Dシューティングゲーム|フライトシミュレーションゲーム]]とは異なり、物理法則や操作性などに関するリアリティの多くを限界まで簡略化することによりプレイのしやすさ(プレイアビリティー)の大幅な向上に成功した。結果として、一般的なフライトシミュレーションゲームの様な[[ミサイル]]や[[弾丸]]の残弾制限や[[航空機]]の物理法則にしたがった機動や運動といったリアリティ要素は低下したが、手軽にシューティングゲームが楽しめることから2021年時点でシリーズ累計出荷本数が1,600万本を超える人気タイトルとなった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{wiktionary}} * [[武器]] * [[軍事]] * [[軍隊]] * [[軍需産業]] * [[軍縮]] * [[規制が議論されている兵器]] * [[計画のみに終わった兵器]] 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16,015
知恵
知恵(ちえ、希: φρόνησις プロネーシス, 羅: prudentia, sapientia, 英: prudence, wisdom, 梵: ज्ञान , jñāna)は、道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。知慮(ちりょ)、思慮(しりょ)とも。 古代ギリシャの哲学において、知恵もひとつの重要なテーマとして論じられた。例えば「徳」と日本語では訳されているものの中に、これに合致する部分も多い。 プラトンは、『国家』第4巻において、プロネーシス(知慮・知恵)を、アンドレイア(勇気)、ソープロシュネー(節制)、ディカイオシュネー(正義)と共に、国家にも個人にも共通して求められる徳性として言及している(枢要徳・四元徳)。 アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』第6巻第7章で述べられているように、実践的な知慮・知恵を「プロネーシス」(phronesis, フロネシス)、完成・完結した智慧を「ソピア」(sophia, ソフィア)として、両者を区別している。 老子の第十八章には「知恵出でて大偽あり」という表現が見られ、かつて人々が素朴であった時代には、人々は自然に従って生きており平和だったが、後に人間の知恵が進んで、不自然なこと人為的なことが行われたので、大きな偽り(大偽)が生じ、世の中が乱れてしまった、と述べられている。 旧約聖書には、アダムとイブが、「知恵の実」(知識の実)を食べて性的羞恥心が芽生えた、との描写が見られる。その一方でその「知恵の実」が原因でアダムとイブは楽園を追われた、という描写も見られる。 仏教用語における智慧は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「智」は相対世界に向かう働き、「慧」は悟りを導く精神作用の意。 大乗仏教では、「論書」(アビダルマ)に表現されているような分析的議論に明け暮れる説一切有部を中心とする部派仏教を批判する形で、『般若経』や龍樹・中観派によって、分別的な知恵(ジュニャーナ, jñāna, 若那, 智)を超えた無分別の智慧(プラジュニャー, prajñā, 般若, 慧)が釈迦の悟りの境地として賞揚され、普及された。したがって、大乗仏教では両者を区別するのが一般的である。 ポール・バルテス(英語版)は、知識・教養・論理的思考・判断といった認知的側面から知恵のモデル化を行い、知恵を「重大、かつ、人生の根本に影響を与えるような実践場面における熟達した知識」と定義した。同じく実践場面での問題解決に関連する能力に日常知能があるが、知恵は対人的・社会的・歴史的要素を含む、より長期の能力として区別される。バルテスはモデル化にあたり、知恵に必要な5つの知識として、(1)宣言的知識(人生に関わる深く広い知識)、(2)手続き的知識(問題解決のための情報収集・分析の知識)、(3)文脈理解(問題の背後にある文脈の理解)、(4)価値相対性の理解(価値観や目標によって解決の方向性が変わることの理解)、(5)不確実性の理解(人生の予測不可能性・不確実性の理解)を仮定している。 また、ロバート・スタンバーグ(英語版)は知能との比較において、洞察力・判断力・アドバイスする能力を含み、経験と年齢を重ねたことで人生の問題を大きな文脈の中で把握できる能力が、知恵のもつ特有の能力であると論じている。
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知恵は、道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。知慮(ちりょ)、思慮(しりょ)とも。
{{Redirect|知性|ギリシャ哲学における神・人の高度な知的能力|ヌース|知的能力全般|知能}} {{Otheruses|主にギリシャ語の「[[プロネーシス]]」や仏教用語の「[[ジュニャーナ]]/[[ニャーナ]]」に相当する語彙としての「知恵」|ギリシャ語の「[[ソピア]]([[ソフィア]])」|ソピア|仏教用語の「[[プラジュニャー]]/[[パンニャー]]」に相当する語彙|智慧}} '''知恵'''(ちえ、{{lang-el-short|φρόνησις}} [[プロネーシス]], {{lang-la-short|prudentia, sapientia}}, {{lang-en-short|prudence, wisdom}}, {{lang-sa-short|ज्ञान , jñāna}})は、道理を判断し[[処理]]していく[[心]]の働き<ref name="コトバンク知恵" />。筋道を立て、[[計画]]し、正しく処理していく[[能力]]<ref name="コトバンク知恵">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%9F%A5%E6%81%B5-95630|title=知恵(ちえ)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-16}}</ref>。'''知慮'''(ちりょ)、'''思慮'''(しりょ)とも。 == 各分野における知恵 == {{出典の明記|date=2017年10月16日 (月) 10:34 (UTC)|section=1}} === 古代ギリシャ哲学 === [[古代ギリシャ]]の[[哲学]]において、知恵もひとつの重要なテーマとして論じられた。例えば「[[徳]]」と日本語では訳されているものの中に、これに合致する部分も多い。 [[プラトン]]は、『[[国家 (対話篇)|国家]]』第4巻において、プロネーシス(知慮・知恵)を、[[アンドレイア]]([[勇気]])、[[ソープロシュネー]]([[節制]])、[[ディカイオシュネー]]([[正義]])と共に、国家にも個人にも共通して求められる徳性として言及している([[枢要徳]]・[[四元徳]])。 [[アリストテレス]]は、『[[ニコマコス倫理学]]』第6巻第7章で述べられているように、実践的な知慮・知恵を「[[プロネーシス]]」(phronesis, [[フロネシス]])、完成・完結した智慧を「[[ソピア]]」(sophia, [[ソフィア]])として、両者を区別している。 === 道教 === [[老子]]の第十八章には「知恵出でて大偽あり」という表現が見られ、かつて人々が素朴であった時代には、人々は自然に従って生きており平和だったが、後に人間の知恵が進んで、不自然なこと人為的なことが行われたので、大きな偽り(大偽)が生じ、世の中が乱れてしまった、と述べられている。 === 旧約聖書 === [[旧約聖書]]には、[[アダム]]と[[イブ]]が、「[[知恵の実]]」(知識の実)を食べて性的羞恥心が芽生えた、との描写が見られる。その一方でその「知恵の実」が原因でアダムとイブは楽園を追われた、という描写も見られる。 === 仏教 === {{Main|智慧}} 仏教用語における'''智慧'''は、物事をありのままに把握し、[[真理]]を見極める認識力<ref name="コトバンク知恵" />。「智」は[[相対]][[世界]]に向かう働き、「慧」は[[悟り]]を導く[[精神]]作用の意<ref name="コトバンク知恵" />。 [[大乗仏教]]では、「[[論 (仏教)|論書]]」([[アビダルマ]])に表現されているような分析的議論に明け暮れる[[説一切有部]]を中心とする[[部派仏教]]を批判する形で、『[[般若経]]』や[[龍樹]]・[[中観派]]によって、分別的な知恵([[ジュニャーナ]], jñāna, 若那, 智)を超えた[[分別 (仏教)|無分別]]の[[智慧]]([[プラジュニャー]], prajñā, [[般若]], 慧)が[[釈迦]]の[[悟り]]の境地として賞揚され、普及された。したがって、大乗仏教では両者を区別するのが一般的である<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%BC-1407472 プラジュニャーとは] - [[コトバンク]]/[[世界大百科事典]]</ref>。 === 心理学 === {{仮リンク|ポール・バルテス|en|Paul Baltes}}は、知識・教養・論理的思考・判断といった[[認知]]的側面から知恵のモデル化を行い、知恵を「重大、かつ、人生の根本に影響を与えるような実践場面における熟達した知識」と定義した<ref name="Inagaki">稲垣宏樹 [[佐藤眞一]] ・[[権藤恭之]](編)「知恵」『よくわかる高齢者心理学』 ミネルヴァ書房 <やわらかアカデミズム<わかる>シリーズ> 2016年、ISBN 978-4-623-07655-0 pp.88-89.</ref>。同じく実践場面での問題解決に関連する能力に[[知能|日常知能]]があるが、知恵は対人的・社会的・歴史的要素を含む、より長期の能力として区別される。バルテスはモデル化にあたり、知恵に必要な5つの[[知識]]として、(1)宣言的知識(人生に関わる深く広い知識)、(2)手続き的知識(問題解決のための情報収集・分析の知識)、(3)文脈理解(問題の背後にある文脈の理解)、(4)価値相対性の理解(価値観や目標によって解決の方向性が変わることの理解)、(5)不確実性の理解(人生の予測不可能性・不確実性の理解)を仮定している<ref name="Inagaki"/>。 また、{{仮リンク|ロバート・スタンバーグ|en|Robert Sternberg}}は知能との比較において、洞察力・判断力・アドバイスする能力を含み、経験と年齢を重ねたことで人生の問題を大きな文脈の中で把握できる能力が、知恵のもつ特有の能力であると論じている<ref name="Inagaki"/>。 ==「知恵」の語が含まれる表現や事物== {{出典の明記|date=2017年10月16日 (月) 10:34 (UTC)|section=1}} * 互いに知恵を競い合うことを、「知恵競(くら)べ」(賢(かしこ)争い)という<ref>{{疑問点範囲|『広辞苑』 第六版 [[岩波新書]] 一部参考。|date=2017-10-16|title=出版社を示すなら、岩波新書ではなく岩波書店では?}}</ref>。 * [[知恵熱]](乳幼児に知恵が付き始めるころに突然起きる発熱の俗称。母親由来の免疫が減少することによって起きる発熱で、「知恵」は時期をあらわすだけで直接の関係は無いとされる。英語ではteething fever。歯が生え始めることから。) * [[知恵の輪]] * [[親知らず|知恵歯]] * 知恵の駒(正方形の枠の中に16個駒を配置、一駒だけとり除き、その空き地を利用し、1~15の駒を番号順に並べるゲーム) * 悪知恵 - [[猿知恵]] - [[知恵袋]] == 脚注 == <!--=== 注釈 === {{notelist}}--> === 出典 === {{reflist}} == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[オモイカネ]] * [[ヌース]] {{Philos-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちえ}} [[Category:知恵|*]] [[Category:哲学の主題]] [[Category:仏教用語]] [[Category:キリスト教用語]] [[Category:キリスト教神学]] [[Category:徳]]
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堺利彦
堺 利彦(さかい としひこ、1871年〈明治3年〉1月15日(旧暦11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。 堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。 その後、日本初のゴシップ紙とされる「萬朝報」の記者として活躍し、社会改良主義を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香や同僚の内村鑑三・幸徳秋水らと理想団を結成して社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし、萬朝報が日露戦争に際して非戦論から主戦論に路線転換したために内村・幸徳と共に退社して「平民社」を開業し、週刊「平民新聞を発行して非戦論・社会主義の運動を開始する。 堺はその後、週刊「平民新聞」第53号(1904年(明治37年)11月13日)に幸徳との共訳で「共産党宣言」を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーアが訳した英語訳からの重訳であったが、これが日本における最初の共産党宣言の翻訳であった。 1905年(明治38年)、堺は社会主義機関誌「直言」にエスペラントに関する記事を掲載し、その翌年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。同年には日本社会党を結成して評議員・幹事となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍を開始した。 1908年(明治41年)の赤旗事件で2年の重禁固刑を受けるが、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が発生し、萬朝報で同僚だった幸徳が処刑される。堺は獄中にいたため難を逃れたが、出獄後は社会主義のいわゆる「冬の時代」を売文社を設立して過ごし、雑誌「へちまの花」(1914年1月27日 - 1915年8月、19号で終刊)や後継誌「新社会」の編集・発行をはじめとする事業を行って生活の糧とすると共に、全国の社会主義者との連絡を維持した。 1918年(大正7年)の黎明会の立ち上げに関わり、会で親しくなった高畠素之とは黎明会のライバル・老荘会の会員でもあった。1920年(大正9年)には日本社会主義同盟を結成するが、翌年には活動が禁止されてしまう。 堺は1922年(大正11年)に、山川均・荒畑寒村らと第一次共産党の結成に参加するものの、山川らに同調して離脱し、後に労農派に与する。その後、東京無産党を結成して活動を続け、1929年(昭和4年)に東京市会議員に当選した。この間には数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。 1931年(昭和6年)2月11日に福岡県行橋町の簔干精米所で寺子屋式農民学校を開校したが、同年12月に脳出血で倒れてからは療養生活に入った。翌年7月に入ると病状が悪化し、治療などの影響から時に凶暴となったため青山脳病院に入院(朝日新聞は発狂して入院と報道したが、荒畑寒村らの抗議を受けて訂正したという)し、翌月には退院した。しかし1933年(昭和8年)1月に容体が悪化し、東京・麹町の自宅で死去、62歳没。戒名は枯川庵利彦帰道居士。
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堺 利彦は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。
{{Infobox 人物 |氏名 = 堺 利彦 |ふりがな = さかい としひこ |画像 = Toshihiko-Sakai-1.jpg |画像サイズ = 200px |画像説明 = |生年月日 = [[1871年]][[1月15日]]([[明治]]3年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]) |生誕地 = {{JPN}} [[豊前国]][[仲津郡]]長井手永大坂村松坂<br/>(現:[[福岡県]][[京都郡]][[みやこ町]]犀川大坂字松坂) |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1871|1|15|1933|1|23}} |死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[麹町区]]<br/>(現:[[東京都]][[千代田区]]麹町) |職業 = [[東京市会]]議員 |国籍 = {{JPN}} |民族 = |出身校 = [[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]] |受賞 = |肩書き = |配偶者 = |子供 = |親 = |墓地=[[横浜市]]の[[總持寺]]}} '''堺 利彦'''(さかい としひこ、[[1871年]]〈[[明治]]3年〉[[1月15日]](旧暦[[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<ref name="pubyb">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870708/47 東京堂年鑑編輯部編『出版年鑑 昭和9年版』東京堂、1934年6月、pp.56-57]</ref>) - [[1933年]]〈[[昭和]]8年〉[[1月23日]]<ref name="pubyb"/>)は、[[日本]]の[[社会主義|社会主義者]]・[[思想家]]・[[歴史家]]・[[共産主義|共産主義者]]・[[著作家|著述家]]・[[小説家]]。号は'''枯川'''、別名は、'''貝塚 渋六'''。 == 生涯 == === 新聞記者として === [[File:Toshihiko-Sakai-2.jpg|thumb|240px|[[平民社]]の社屋。左隅で扇子を持っているのが[[幸徳秋水]]。中央で紋付を着てステッキを持っているのが堺(1904年8月撮影)。]] 堺は没落[[士族]]の三男として、[[豊前国]][[仲津郡]]長井手永大坂村松坂(現:[[福岡県]][[京都郡]][[みやこ町]]犀川大坂字松坂)に生まれる。[[福岡県立育徳館中学校・高等学校|旧制豊津中学校]]を首席で卒業して上京後、進学予備校であった[[開成中学校・高等学校|共立学校]]にて受験英語を学んだのちに[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は[[大阪市|大阪]]や[[福岡市|福岡]]で新聞記者や教員として勤めながら[[文学]]の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の[[末松謙澄]]の招待で東京に設けられた[[毛利家]]編輯所で「[[防長回天史]]」の編纂に従事し、同僚の[[山路愛山]]らと親交を深める。 その後、日本初のゴシップ紙とされる「[[萬朝報]]」の記者として活躍し、[[社会改良主義]]を主張する論説や[[言文一致|言文一致体]]の普及を図る一方で、社主の[[黒岩涙香]]や同僚の[[内村鑑三]]・[[幸徳秋水]]らと理想団を結成して[[社会主義]]思想に共鳴し、[[非戦論]]を唱える。しかし、萬朝報が[[日露戦争]]に際して非戦論から主戦論に路線転換したために内村・幸徳と共に退社して「[[平民社]]」を開業し、週刊「[[平民新聞]]を発行して非戦論・社会主義の運動を開始する。 堺はその後、週刊「平民新聞」第53号([[1904年]](明治37年)11月13日)に幸徳との共訳で「[[共産党宣言]]」を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーアが訳した英語訳からの重訳であったが、これが日本における最初の共産党宣言の翻訳であった。 === 社会主義活動 === [[1905年]](明治38年)、堺は社会主義機関誌「直言」に[[エスペラント]]に関する記事を掲載し、その翌年に発足した[[日本エスペラント協会]]の評議員に就任した。同年には[[日本社会党 (1906)|日本社会党]]を結成して評議員・幹事となり<ref>『光』第1巻第8号, 光雑誌社, 1906年3月5日6頁</ref>、日本の社会主義運動の指導者として活躍を開始した。 [[1908年]](明治41年)の[[赤旗事件]]で2年の重禁固刑を受けるが、その入獄中に「[[大逆事件]]([[幸徳事件]])」が発生し、萬朝報で同僚だった幸徳が処刑される。堺は獄中にいたため難を逃れたが、出獄後は社会主義のいわゆる「冬の時代」を[[売文社]]を設立して過ごし、雑誌「へちまの花」(1914年1月27日 - 1915年8月、19号で終刊)や後継誌「新社会」の編集・発行をはじめとする事業を行って生活の糧とすると共に、全国の社会主義者との連絡を維持した。 === 政界へ === [[File:Toshihiko-Sakai-3.jpg|thumb|210px|堺利彦、妻の爲子、子の[[近藤真柄|堺真柄]](1919年頃)]] [[File:Toshihiko Sakai 1929.jpg|thumb|170px|1929年]] [[1918年]]([[大正]]7年)の[[黎明会]]の立ち上げに関わり<ref>黒岩比佐子『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「[[売文社]]」の闘い』講談社, 2010年</ref>、会で親しくなった[[高畠素之]]とは黎明会のライバル・[[老荘会]]の会員でもあった。[[1920年]](大正9年)には[[日本社会主義同盟]]を結成するが、翌年には活動が禁止されてしまう。 堺は[[1922年]](大正11年)に、[[山川均]]・[[荒畑寒村]]らと[[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]]の結成に参加するものの、山川らに同調して離脱し、後に[[労農派]]に与する。その後、東京無産党を結成して活動を続け、[[1929年]](昭和4年)に[[東京市会]]議員に当選した<ref>{{Cite|和書|title=東京市会史|volume=7|page=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446174/250 466]|editor=東京市会事務局|publisher=東京市会事務局|year=1938}}</ref>。この間には数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動や[[ロシア革命]]の動向、[[ユートピア]]文学をはじめとする[[西洋]]文学の紹介につとめた。 === 晩年 === [[1931年]](昭和6年)2月11日に福岡県行橋町の簔干精米所で寺子屋式農民学校を開校した<ref>東京朝日新聞</ref>が、同年12月に脳出血で倒れてからは療養生活に入った。翌年7月に入ると病状が悪化し、治療などの影響から時に凶暴となったため[[青山脳病院]]に入院(朝日新聞は発狂して入院と報道したが、[[荒畑寒村]]らの抗議を受けて訂正したという)<ref>荒畑『寒村自伝』下(岩波文庫、1975年)p288-291。</ref>し、翌月には退院した。しかし[[1933年]](昭和8年)1月に容体が悪化し、東京・[[麹町]]の自宅で死去、{{没年齢|1871|1|15|1933|1|23}}。戒名は枯川庵利彦帰道居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)151頁</ref>。 ==著作== {{colbegin|2}} *継母根性 堺枯川 図書出版 1893.8 *はだか男 堺利彦 (枯川) 博文堂 1893.10 *はだかの剛三 堺枯川 藤谷長吾 1895.9 *破れ羽織 堺枯川 駸々堂 1896.1 *周布政之助 堺利彦 博文館 1900.8(のち1915年にも、馬屋原仙一を出版人として「堺枯川」名義で出版) *普通文 言文一致 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1901.7 *家庭夜話 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1902、1903 *枯川随筆 内外出版協会 1903 (家庭文学) *家庭の新風味 堺利彦 (枯川) 内外出版協会 1904.12 *半生の墓 堺枯川 平民書房 1905.8 *婦人問題 金尾文淵堂 1907.8 *社会主義綱要 堺利彦 (枯川)、[[森近運平]] 鶏声堂 1907.11 *人間発生の歴史 有楽社 1907 (平民科学) *文章速達法 実業之世界社 1915 のち講談社学術文庫 *猫のあくび 松本商会出版部 1919 *猫の百日咳 アルス 1919 *唯物史觀の立場から 三田書房 1919.8 *マルクス伝 [[山川均]]共著 大鐙閣 1920 (レツド・カヴア叢書) *男女争闘史 栄川堂書店 1920 *恐怖・闘争・歓喜 聚英閣 1920 (社会問題批判叢書) *火事と半鐘 三徳社 1921 *楽天囚人 丙午出版社 1921 *米泥棒 三徳社 1922 *社会主義学説の大要 建設者同盟出版部 1922 (建設者パンフレット) *男女関係の発達 三徳社 1922 (民衆科学叢書) *一休和尚 東雲堂書店 1922 *労農ロシアの資源及貿易 上田茂樹共著 実業之世界社 1925 *現代社会生活の不安と疑問 文化学会出版部 1925 (社会問題叢書) *社会主義学説大要 無産社 1925 (無産社パンフレット) *弁証法的唯物論 無産社 1926 (無産社パンフレット) *社会主義の婦人観 [[山川菊栄]]共著 上西書店 1926 *ロシヤ革命十一月七日 無産社 1926 (無産社パンフレット) *監獄学校 白揚社 1926 *堺利彦伝 改造社 1926 のち中公文庫 *天文・地文 南宋書院 1927 (無産者自由大学) *当なし行脚 改造社 1928 *桜の国・地震の国 現代ユウモア全集刊行会 1928 *猫の首つり 白星社 1929 *社会主義とは何か 労農出版社 1930 (労農パンフレツト) *貧富戦と男女戦 中央公論社 1930 *無産党全合同 共同戦線党 (単一無産党)の真意義 労農出版社 1931.1 (労農パンフレット) *荒畑寒村・[[白柳秀湖]]・[[大森義太郎]]・山川均編『堺利彦全集』全6巻、[[中央公論社]]、1933年5月-10月。 *『堺利彦全集』全6巻、[[川口武彦]]編、法律文化社、1970年9月-1971年8月。 **『堺利彦伝』[[中公文庫]] 1978年4月、改装版2010年10月 自伝 **『文章速達法』 [[講談社学術文庫]]、1982年12月 *鈴木裕子編『堺利彦女性論集』、三一書房、1983年5月。 *堀切利高編・解題『堺利彦』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第2巻)、論創社、2002年12月。ISBN 4-8460-0354-X {{colend}} ==翻訳== {{colbegin|2}} *百年後の新社会 [[エドワード・ベラミー|ベラミー]] 平民社 1904 *労働問題 [[エミール・ゾラ]] 春陽堂 1904.4 *理想郷 [[ウィリアム・モリス|ヰリアム・モリス]] 平民社 1904.12 *小説 小桜新吉([[オリバー・ツイスト|オリヴァー・トウィスト]])[[チャールズ・ディケンズ|ヂッケンス]] 公文書院 1912.5 *人と超人 [[ジョージ・バーナード・ショー|シヨー]] 丙午出版社 1913 *自由社會の男女關係 カアペンター 東雲堂書店 1915.12 *女性中心説 レスター・ウオード [[山川菊栄]]共訳 牧民社 1916 *社会主義の世になったら エドワード・ベラミー 文化学会 1920 *唯物史観解説 ヘルマン・ゴルテル 大鐙閣 1920 (レツド・カヴア叢書) *木の芽立(ジェルミナール) エミイル・ゾラ アルス 1921 *人間発生の跡 ヰルヘルム・ベルシエ 三徳社書店 1921 (民衆科学叢書) *空想的及科学的社会主義 [[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]] 大鐙閣 1921 *労働と資本 [[カール・マルクス|マルクス]] 無産社 1922 (無産社パンフレット) *世界社会主義運動の現勢 レードラ アルス 1922 *スパイ [[アプトン・シンクレア]] 志津野又郎共訳 天佑社 1923 *社會主義倫理學 [[カール・カウツキー|カルル・カウツキー]] 丙午出版社 1923.6 *空想から科学へ 空想的及科学的社会主義 エンゲルス 白揚社 1924 *国際労働組合運動 革命主義的潮流と改良主義的潮流 ロソヴスキー 白揚社 1925 *石炭王 シンクレヤ 白揚社 1925 *ホワイト・フアング [[白牙]] [[ジャック・ロンドン|ジヤツク・ロンドン]] 叢文閣 1925 *共産制より資本制まで 生産方法の歴史的小観察 ハインドマン 共生閣 1926 *左翼小児病 [[ウラジーミル・レーニン|レーニン]] 無産社 1926 (無産社パンフレット) *利潤の出処 マルクス 無産社 1926 (無産社パンフレツト) *底に動く アプトン・シンクレヤ 白揚社 1926 *唯物論と宗教思想 エンゲルス 白揚社 1927 *[[野性の呼び声|野性の呼声]] Jack London 叢文閣 1928 *経済学入門 賃労働と資本、価値と価格と利潤 マルクス 白揚社 1930 *共産主義とは何ぞや マルクス、エンゲルス 白揚社 1931.6 *社会主義と進化論 マルクス説とダアヰン説との関係 パンネコック 彰考書院 1947 {{colend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{colbegin|2}} *大田英昭「堺利彦の「家庭」論-親密性の社会主義」、『倫理学年報』第53集、2004年3月。 *大田英昭「堺利彦における非戦論の形成―その平和的秩序観と暴力批判」、『初期社会主義研究』第17号、2004年11月。 *大森かほる『捨石埋草を生きて-堺利彦と娘近藤真柄』、第一書林、1992年6月。 *岡本宏「幸徳秋水・堺利彦」、田中浩編『近代日本のジャーナリスト』、[[御茶の水書房]]、1987年2月。 *荻野富士夫「社会主義運動の展開-堺利彦とボルシェビズム」、鹿野政直・由井正臣編『近代日本の統合と抵抗』第3巻(1911年から1931年まで)、[[日本評論社]]、1982年4月。 *尾原宏之「堺利彦の「ユートピア」-明治社会主義における「理想」の一断面」、『初期社会主義研究』第18号、2005年11月。 *川上哲正「堺利彦と山川均がみた中国」、『初期社会主義研究』第14号、2001年。 *[[川口武彦]]『日本マルクス主義の源流-堺利彦と山川均』、ありえす書房、1983年4月。 *川口武彦『堺利彦の生涯』上・下、社会主義協会出版局、1992年6月 / 1993年2月。 *木下比呂美「近代的婦人・家庭論の展開-堺利彦を中心として」、『歴史評論』第446号、1987年6月。 *[[黒岩比佐子]]『パンとペン―社会主義者・堺利彦と「[[売文社]]」の闘い』、[[講談社]]、2010年。 *小正路淑泰「堺利彦、真の出生地とその原風景」、『西日本文化』第326号、1996年11月。 *小正路淑泰「堺利彦農民労働学校(一)-農村社会運動の諸相」、『部落解放史・ふくおか』第105号、2002年3月。 *小正路淑泰「堺利彦農民労働学校の周辺(そのニ)―『ツバメ館』=常設校舎建設運動」、『初期社会主義研究』第17号、2004年11月。 *小正路淑泰「堺利彦農民労働学校(四)-第三期講義内容の検討」、『部落解放史・ふくおか』第121号、2006年3月。 *小正路淑泰「『堺利彦伝』-豊前人の心情を代弁」、『ふるほん九州』第4号、2007年1月。 *近藤真柄『わたしの回想-父堺利彦と同時代と人びと』上、ドメス出版、1981年11月。 *志村正昭「堺利彦-週刊『平民新聞』」、[[土屋礼子]]編著『近代日本メディア人物誌―創始者・経営者編』、[[ミネルヴァ書房]]、2009年6月。 *銭昕怡「大正期社会主義思想における「階級」とナショナリズムの問題-堺利彦と雑誌『新社会』を中心に」、『同志社法学』第294号(第55巻3号)、2003年9月。 *林尚男『評伝《堺利彦》-その人と思想』、オリジン出版センター、1987年4月。 *久井英輔「明治後期における社会改良・家庭改良と「中等社会」-『万朝報』『家庭雑誌』等における堺利彦を中心に」、『日本社会教育学会紀要』第45号、2009年。 *山泉進「堺利彦と佐竹音次郎のことなど-堺利彦の社会主義者としての出発」、『初期社会主義研究』第11号、1998年12月。 *山泉進『平民社の時代―非戦の源流』、論創社、2003年。 *山田眞實「堺利彦のモリス評価」、『同志社大学英語英文学研究』第39号、1985年12月。 *「堺枯川」『近代文学研究叢書』第34巻、[[昭和女子大学]]近代文学研究室、1971年7月。 *『初期社会主義研究』第10号(特集=堺利彦)、初期社会主義研究会、1997年9月。 *『初期社会主義研究』第11号(小特集=堺利彦)、初期社会主義研究会、1998年12月。 {{colend}} == 外部リンク == {{commonscat|Toshihiko Sakai}} * [https://web.archive.org/web/20110806074409/http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sakaitosihiko.html 堺利彦]([http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html 文学者掃苔録] - 堺利彦の墓碑: [[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]]の[[總持寺]]) *[https://www.fukkoku.net/%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E9%9B%91%E8%AA%8C 雑誌「家庭生活」全5巻 デジタル復刻出版]([https://www.fukkoku.net/ryukei 龍溪書舎]) * {{青空文庫著作者|164}} * {{Kotobank}} {{戦前の日本共産党}} {{日本共産党委員長}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さかい としひこ}} [[Category:19世紀日本の歴史家]] 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南多摩駅
南多摩駅(みなみたまえき)は、東京都稲城市大丸にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線の駅である。駅番号はJN 19。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅舎は高架下にある。 高架化工事中は、2008年6月29日から2番線が、2009年10月4日から1番線が北側の仮線に切り替わった。これにより駅舎とホームが広く離れる事となり、1番線(下り・立川方面)へは仮設の通路を、2番線(上り・川崎方面)のホーム途中にある階段を登って連絡路(跨線橋)を2011年12月23日まで渡っていた。 2011年12月24日に下り線が高架化、これにより改札口からの通路も変更された。上下線ともに仮通路を介して高架ホームに行き、下り(立川方面)はそのまま高架ホームだが、上り(川崎方面)は連絡路(跨線橋)を2011年12月23日までと逆に渡るようになった。 2013年12月23日に上り線が高架化し、これにより上り線を跨いでいた連絡路(跨線橋)は閉鎖、線路上にある部分は撤去された。 高架化工事前は相対式ホーム2面2線を持つ地上駅であった。 JR中央線コミュニティデザインが駅業務を受託している立川営業統括センター管理の業務委託駅(2021年3月31日までJR東日本ステーションサービスが受託)。指定席券売機、自動改札機設置。かつてはみどりの窓口も設置されていたが、2009年5月31日をもって営業を終了した。 日に数回、駅員が不在となる時間帯がある(その際はインターホンでの対応となり改札脇の通路を利用する)。 (出典:JR東日本:駅構内図) 2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は5,709人であり、南武線の本線の26駅の中では津田山駅に次いで2番目に少ない。 2005年に駅南側に存在した富士通南多摩工場が閉鎖されたため利用客がおよそ1千人減少したが、徐々に閉鎖前の水準へ回復している。 近年の1日平均乗車人員の推移は下記の通り。 京王バス、稲城市コミュニティバス「iバス」(小田急バスにより運行)の路線が発着する。 京王バス南、小田急バス、稲城市コミュニティバス「iバス」の路線が発着する。 南武線は、矢野口駅から当駅までの高架化工事が行われ、2013年12月に上り線の高架付け替えに伴って当駅付近は終了した。工事完了後は当駅が稲城長沼駅と共に高架駅となり、駅東端にある府中街道との踏切が解消された。 付近では稲城市施工の区画整理事業が行われている。また、これと並行して東京都が府中街道を是政橋から南へ川崎街道と直行するように多摩都市計画道路3・3・7号線を整備し、2011年4月26日に付け替えをした。
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南多摩駅(みなみたまえき)は、東京都稲城市大丸にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)南武線の駅である。駅番号はJN 19。
{{駅情報 |社色 = Green |文字色 = |駅名 = 南多摩駅 |画像 = Minamitama-Sta-N.JPG |pxl = 300 |画像説明 = 北口(2016年8月) |地図= {{Infobox mapframe|zoom=15|frame-width=300|type=point|marker=rail|coord={{coord|35|38|56.7|N|139|29|21.4|E}}}} |よみがな = みなみたま |ローマ字 = Minami-Tama |副駅名 = |前の駅 = JN 18 [[稲城長沼駅|稲城長沼]] |駅間A = 1.4 |駅間B = 2.4 |次の駅 = [[府中本町駅|府中本町]] JN 20 |電報略号 = ミミ |駅番号 = {{駅番号r|JN|19|#ffd400|1}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所属路線 = {{color|#ffd400|■}}[[南武線]] |キロ程 = 25.5 |起点駅 = [[川崎駅|川崎]] |所在地 = [[東京都]][[稲城市]][[大丸 (稲城市)|大丸]]字八号1043 |座標 = {{coord|35|38|56.7|N|139|29|21.4|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}} |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 1面2線 |開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月1日]]<ref name="sone38">{{Cite book|和書 |author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟 |title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線 |date=2010-04-11 |pages=20-21}}</ref> |廃止年月日 = |乗車人員 = 5,709 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅<ref name="StationCd=1490_231230" />}} }} [[File:Minamitama-Sta-S.JPG|thumb|南口(2016年8月)]] '''南多摩駅'''(みなみたまえき)は、[[東京都]][[稲城市]][[大丸 (稲城市)|大丸]]にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[南武線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''JN 19'''。 == 歴史 == * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[11月11日]]:南武鉄道線が[[登戸駅]]から開業、[[終着駅]]として'''大丸[[停車場#停車場の定義|停留場]]'''開業<ref name="sone38"/>。 ** この大丸停留場は現在の南多摩駅からおよそ300&nbsp;[[メートル|m]][[川崎駅]]寄りの位置にあった。 * [[1928年]](昭和3年)[[12月11日]]:屋敷分駅(現・[[分倍河原駅]])まで延伸開業<ref name="sone38"/>。 * [[1931年]](昭和6年):'''多摩聖蹟口停留場'''に改称。 * [[1934年]](昭和9年)[[10月21日]]:(貨)'''南多摩川駅'''が開業<ref name="sone38"/>。 * [[1939年]](昭和14年)[[9月14日]]:南多摩川駅が多摩聖蹟口停留場を併合して現在地に移転、'''南多摩駅'''に改称<ref name="sone38"/>。当時の住所は[[南多摩郡]]稲城村だったので、郡名を駅名にしたともいえる。 * [[1944年]](昭和19年)[[4月1日]]:南武鉄道線の国有化により[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]南武線の駅となる<ref name="sone38"/>。 * [[1956年]](昭和31年)[[12月1日]]:貨物の取り扱いを廃止。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone38"/>。 * [[1993年]]([[平成]]5年)[[10月14日]]:自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1994-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '94年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-115-5}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-29|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[5月31日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2011年]](平成23年)[[12月24日]]:下り線を高架線に切替<ref group="報道" name="JR-20111013">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20111013/20111013_info.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304122527/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20111013/20111013_info.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南武線高架化工事に伴う列車の運休について|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2011-10-13|accessdate=2020-04-29|archivedate=2016-03-04}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[12月23日]]:上り線を高架線に切替<ref group="報道" name="JR-20131018">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20131018/20131018_info_02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019120741/http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20131018/20131018_info_02.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南武線高架化工事に伴う列車の運休等について|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2013-10-18|accessdate=2020-04-29|archivedate=2013-10-18}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)4月1日:北口を開設。 * [[2023年]](令和5年)度:[[ホームドア]]の使用を開始(予定)<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|title=バリアフリー設備に関する整備を推進します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2023-07-21|accessdate=2023-07-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230721083009/https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230721_ho03.pdf|archivedate=2023-07-21}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]1面2線を有する[[高架駅]]。駅舎は高架下にある。 高架化工事前は[[相対式ホーム]]2面2線を持つ[[地上駅]]であった。高架化工事中は、[[2008年]][[6月29日]]から2番線が、2009年[[10月4日]]から1番線が北側の仮線に切り替わった。これにより駅舎とホームが広く離れる事となり、1番線(下り・立川方面)へは仮設の通路を、2番線(上り・川崎方面)のホーム途中にある階段を登って連絡路(跨線橋)を[[2011年]][[12月23日]]まで渡っていた。 [[2011年]][[12月24日]]に下り線が高架化、これにより改札口からの通路も変更された。上下線ともに仮通路を介して高架ホームに行き、下り(立川方面)はそのまま高架ホームだが、上り(川崎方面)は連絡路(跨線橋)を2011年12月23日までと逆に渡るようになった。 [[2013年]][[12月23日]]に上り線が高架化し、これにより上り線を跨いでいた連絡路(跨線橋)は閉鎖、線路上にある部分は撤去された。 [[JR中央線コミュニティデザイン]]が駅業務を受託している立川営業統括センター管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]](2021年3月31日まで[[JR東日本ステーションサービス]]が受託)<ref group="報道" name="pr20201208">{{Cite press release|和書|url=http://www.nonowa.co.jp/company/release/a0e40b807f1900893b156ab8743c34c5c59bab53.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201227165108/http://www.nonowa.co.jp/company/release/a0e40b807f1900893b156ab8743c34c5c59bab53.pdf|format=PDF|language=日本語|title=沿線くらしづくり構想の推進について|publisher=JR中央ラインモール/JR東京西駅ビル開発|date=2020-12-08|accessdate=2021-04-04|archivedate=2020-12-27}}</ref>。ただし、[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる<ref name="StationCd=1490_231230">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1490|title=駅の情報(南多摩駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231230112808/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1490|archivedate=2023-12-30}}</ref>。また、多機能券売機<ref name="StationCd=1490_231230" />・[[指定席券売機]]<ref name="StationCd=1490_231230" />・[[自動改札機]]が設置されている。 <gallery> minamitamastation.JPG|かつての駅の様子(2007年5月) Minamitama-Station-Platform20080525.jpg|旧ホーム(2008年5月) Minami-Tama Sta concourse.jpg|かつてのコンコース(2012年7月) Minamitama-Station-Platform20110618.jpg|仮設ホーム(2011年6月) JRE-Minamitama Entrance.JPG|コンコース(2013年12月) JR Nambu-Line Minami-Tama Station Gates.jpg|改札口(2019年9月) JR Nambu-Line Minami-Tama Station Platform.jpg|ホーム(2019年9月) JRE-Minamitama 001.jpg|かつての仮上りホームへの連絡通路(2013年12月) </gallery> === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- !1 |rowspan=2|[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 |style="text-align:center"|下り |[[府中本町駅|府中本町]]・[[立川駅|立川]]方面 |- !2 |style="text-align:center"|上り |[[登戸駅|登戸]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]・[[川崎駅|川崎]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1490.html JR東日本:駅構内図]) *[[2015年]][[3月13日]]までは快速が停車していたが、翌[[3月14日|14日]]に行われたダイヤ改正で快速列車の運転区間の拡大により快速通過駅に格下げとなった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200203125122/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20141222.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2015年3月ダイヤ改正について|publisher=東日本旅客鉄道|page=7|date=2014-12-19|accessdate=2020-04-29|archivedate=2020-02-03}}</ref>。 == 利用状況 == [[2022年]](令和4年)度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''5,709人'''であり、南武線の本線の26駅の中では[[津田山駅]]に次いで2番目に少ない。 2005年に駅南側に存在した富士通南多摩工場が閉鎖されたため利用客がおよそ1千人減少したが、徐々に閉鎖前の水準へ回復している。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="統計">[https://www.city.inagi.tokyo.jp/shisei/toukei/index.html 統計いなぎ] - 稲城市</ref> !年度 !1日平均<br />乗車人員 !出典 |- |1990年(平成{{0}}2年) |6,310 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |6,355 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |6,236 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |6,414 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |6,334 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |6,139 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |6,449 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |7,341 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) |7,268 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |7,194 |<ref group="*">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000_02.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>7,101 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001_02.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>7,059 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002_02.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>6,882 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003_02.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>6,770 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004_02.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>6,731 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005_02.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>5,836 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006_02.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>5,609 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007_02.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>5,938 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008_02.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>6,099 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009_02.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>6,081 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010_02.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>6,274 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011_02.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>6,461 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_03.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>6,566 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_03.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>6,718 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_03.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>6,702 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_03.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>6,831 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_03.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>7,045 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_03.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>7,109 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_03.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>6,784 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_03.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>6,814 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_03.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>5,071 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_03.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>5,265 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_03.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>5,709 | |} == 駅周辺 == [[File:minamitama_sakura_06a8233ss.jpg|thumb|南多摩駅のそばを流れる大丸用水と桜(2006年4月、[[:画像:minamitama_sakura_06a8233s.jpg|拡大版]])]] {{columns-list|2| * [[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|東京都道9号川崎府中線]](府中街道) * [[東京都道41号稲城日野線]](川崎街道) * 稲城天然温泉 季乃彩 * [[サントリープロダクツ]]多摩川工場 * [[日本フイルコン]](本社・東京事業所) * [[ジェーシー・コムサ]](ジェーシー事業本部・東日本支店・多摩工場) * [[東横イン|東横INN]]府中南武線南多摩駅前 * [[稲城市立病院]] * [[稲城市立図書館|稲城市立中央図書館]] * 大丸公園 * [[城山公園 (稲城市)|城山公園]] * [[多摩サービス補助施設]](多摩レクリエーションセンター) - 米軍施設、元多摩弾薬庫、旧陸軍多摩火薬製造所 * [[是政駅]]([[西武多摩川線]]) - 府中街道の[[是政橋]](多摩川)を渡り徒歩約10分。 * [[東京都下水道局]] [[南多摩水再生センター]] * [[国土交通省]]京浜河川事務所 多摩出張所 * [[大丸用水]] - 駅のすぐそばを流れている。周囲は[[サクラ|桜]]が植えられていて、毎年春には沿線風景に彩りを添えていたが、高架化工事のために伐採された。 * 谷戸川 - 大丸の米軍施設周辺の[[森林]]を水源とし、当駅のそばで大丸用水と交差し、押立地先で[[多摩川]]に合流する[[河川]]。当駅の立川寄りにある「谷戸川踏切」にもその名が見られた。付近の区画整理に伴って、大丸用水とともに暗渠になり、交差も見られなくなった。踏み切りは高架化に伴って消滅した。 |}} == バス路線 == <!-- [[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、経由地については省略して記載しています。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !colspan="4"|南多摩駅 |- !1 |rowspan="2" style="text-align:center;"|[[京王バス]] |{{Unbulleted list|[[京王バス調布営業所#大丸線|'''調21''']]:稲城市立病院|[[京王バス府中営業所#稲城線|'''府61''']]:[[府中駅 (東京都)|府中駅]]|[[京王バス多摩営業所#向陽台線|'''稲22''']]:[[聖蹟桜ヶ丘駅]]}} |{{Unbulleted list|「調21」は平日・休日運休|「府61」は土曜・休日運休}} |- !rowspan="2"|2 |{{Unbulleted list|'''稲22''':[[稲城駅]]|'''若02''':[[若葉台駅]]}} |「若02」は平日朝夕のみ運行(土曜・休日運休) |- |style="text-align:center;"|稲城市コミュニティバス<br />「[[iバス]]」 |{{Unbulleted list|[[iバス#市内循環路線(Aコース・Bコース)|'''Aコース''']]:[[矢野口駅]] - 稲城市立病院 循環|'''Bコース''':稲城市立病院 - よみうりランド丘の湯 循環|[[iバス#平尾・南多摩駅路線(Cコース)|'''Cコース''']]:[[はるひ野駅]] - 南多摩駅前 往復|[[iバス#南多摩駅・よみうりランド路線(Dコース・Eコース)|'''Dコース''']]:平尾団地 - 南多摩駅前 循環|'''Eコース''':平尾団地 - 矢野口駅 循環}} |&nbsp; |- !川崎街道側 |style="text-align:center;"|京王バス |'''調21''':[[調布駅]]南口 |土曜1日1本のみ運行(平日・休日運休) |- !colspan="4"|南多摩駅入口 |- !rowspan="3"|- |style="text-align:center;"|京王バス |{{Unbulleted list|'''稲22''':[[聖蹟桜ヶ丘駅]] / [[稲城駅]]|'''若02''':南多摩駅 / 若葉台駅}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[小田急バス]] |[[小田急バス町田営業所#平尾線|'''新05''']]:稲城市立病院 / [[新百合ヶ丘駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|稲城市コミュニティバス<br />「iバス」 |{{Unbulleted list|'''Aコース''':矢野口駅 - 稲城市立病院 循環|'''Bコース''':稲城市立病院 - よみうりランド丘の湯 循環|'''Cコース''':はるひ野駅 - 南多摩駅前 往復|'''Dコース''':平尾団地 - 南多摩駅前 循環|'''Eコース''':平尾団地 - [[矢野口駅]] 循環}} |&nbsp; |} == 高架化工事 == 南武線は、[[矢野口駅]]から当駅までの高架化工事が行われ、2013年12月に上り線の高架付け替えに伴って当駅付近は終了した。工事完了後は当駅が[[稲城長沼駅]]と共に[[高架駅]]となり、駅東端にある[[神奈川県道・東京都道9号川崎府中線|府中街道]]との[[踏切]]が解消された。 付近では[[稲城市]]施工の区画整理事業が行われている。また、これと並行して東京都が府中街道を[[是政橋]]から南へ[[川崎街道]]と直行するように多摩都市計画道路3・3・7号線を整備し、[[2011年]][[4月26日]]に付け替えをした。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速 :::; 通過 :: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車 ::: [[稲城長沼駅]] (JN 18) - '''南多摩駅 (JN 19)''' - [[府中本町駅]] (JN 20) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> ==== 出典 ==== {{Reflist}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"}} === 利用状況 === {{Reflist|group="統計"}} ; JR東日本の2000年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} == 関連項目 == {{commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1490|name=南多摩}} {{南武線}} {{DEFAULTSORT:みなみたま}} [[Category:東京都の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 み|なみたま]] [[Category:南武鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:1927年開業の鉄道駅]] [[Category:南武線]] [[Category:稲城市の交通|みなみたまえき]] [[Category:稲城市の建築物|みなみたまえき]]
2003-09-10T01:55:14Z
2023-12-30T11:38:20Z
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